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8,953 | 泉区 (仙台市) | 泉区(いずみく)は、仙台市を構成する5行政区のひとつ。
1988年(昭和63年)に仙台市へ編入された泉市の市域が泉区の区域となった。名前は、泉区の北西に位置する泉ヶ岳に由来する。
仙台市の北部にある。区の西半分が山地で西北に泉ヶ岳を擁し、そこから流れる七北田川(ななきたがわ)が区の中心を西から東に貫く。東半分は低い丘陵で、七北田川の北側は松島丘陵、南側は七北田丘陵と呼ばれる。この両丘陵の間を七北田川に沿って河岸段丘による平地が東西に広がる。
気候は西部仙台に区分され、仙台市宮城野区にある仙台管区気象台の観測値よりも内陸性気候の特色が強く冷涼、寒冷である。冬季は日本海側からの雪雲が流れ込みやすく積雪となることも少なくなく、冷え込みも厳しい。山間部は豪雪地帯(青葉区旧宮城町や太白区旧秋保町のような豪雪地帯には指定されていない)となっておりスキー場がある。
七北田川沿いの平地において市街化区域に指定されているのは、泉中央副都心周辺(仙台市地下鉄南北線・泉中央駅 - 八乙女駅)から国道4号・仙台バイパス沿いの間くらいで、それ以外は田圃などとなっている。用途地域指定されている面積は、七北田川沿いの平地より両岸の丘陵上が数倍広く、泉区の市街地は「工」の字型となっている。
中心部は、江戸時代の奥州街道(仙台・松前道)の宿場町である七北田宿を基礎に発展した。泉市時代にその西側の田圃を造成し、泉市役所や仙台市泉文化創造センター(イズミティ21)などの施設が建設された。
泉市は、高度成長期から丘陵部の宅地開発が徐々に進められ、仙台市のベッドタウンとして発展し、市の人口は石巻市を抜いて県内第2位まで到達した。1988年(昭和63年)、仙台市に編入合併され、1989年(平成元年)に仙台市の政令指定都市移行に伴い泉区となった。
仙台市との合併に際しその是非を問う会議が泉市内の各地域で開催され、マスメディアはその過熱ぶりを報道し、最終的には住民投票を行うほど市民の世論が二分した。初期の対立軸は、マイホームを求めて主に仙台市から移住してきた新住民と、地元商店街の商店主・旧奥州街道沿いの住民・営農者などの旧住民で、新住民は泉市への帰属意識は薄く通勤通学する仙台市との合併賛成、旧住民は泉市への帰属意識(地域コミュニティ)が強いために併合され泉市らしさが無くなることへの抵抗感による合併反対という対立構図であった。
しかし、その単純な対立構図はより理由が鮮明になり熱を帯びていった。当時、仙台市においてもバブル景気によって地価が上昇しており、泉市が合併で仙台市となればネームバリューで、さらに政令指定都市ともなればもっと地価が高騰するであろうという予見から不動産業のみならず利益を得たい企業側関係者は合併の強力推進派となった。他方、合併によって泉市よりも高い旧仙台市の基準の地方税や水道使用料金などを課せられると知った旧住民は、合併によるメリットよりもデメリットが大きいと町内会やビラで訴え新住民への浸透を図った。マスメディアの事前調査では、住民投票の行方は合併派と反対派は拮抗してまったく分からなくなった。
旧仙台市は東北の中心的役割を内外ともに誇示するため、政令指定都市の名目は絶対に必要な条件であった。これについては、仙台市のみがそれを欲していたわけでなく、21世紀を目前に東北各市からも関西・中部・九州の大都市圏に匹敵する東北都市圏を仙台市が牽引して作るべきだという意見が多かった。時節柄、首都機能移転構想にも多大な影響を受けている。しかし、当時の政令都市化の要件である人口80万人には満たなかったため、このままでは単独での政令指定都市化は難しいと判断され、隣接の泉市や宮城町、秋保町との合併を模索していた。
泉市は急激な人口増加により交通や下水道などの生活インフラが立ち遅れていた。仙台市は、当時水田が広がっていた現在の泉中央副都心を中心に、仙台市地下鉄南北線の泉中央駅延伸、将監トンネル(県道仙台泉線)や都市計画道路・北四番丁大和町線(宮城県道264号大衡仙台線)の早期建設、七北田公園(仙台スタジアム)や泉運動公園(シェルコムせんだい)の整備、上下水道整備、コミュニティセンターの建設などのインフラ整備、さらに泉市で初の地方博覧会(グリーンフェア仙台)の開催を提案した。
熱を帯びた議論やビラ合戦の末、住民投票条例制定の直接請求において泉市の有権者の43%にあたる37,775人の署名が集まり、「市民投票に関する条例案」が泉市議会に議員提案されたが、1987年(昭和62年)11月4日の昭和62年11月臨時会で否決された。しかし、僅差だったことを理由に泉市長の職権で「市民意向投票実施規則」が制定され、同年11月29日に住民投票が実施された。投票結果、投票率74%、賛成33,331票(得票率52.6%)、反対29,703票(同46.9%)、無効・その他354票(同0.6%)となった。合併反対派は、市民の世論が半々であるのに拙速に合併協議を進めているとしてリコール運動を始めた。両市は3月末日としていた当初予定を前倒しし1988年(昭和63年)3月1日に泉市を仙台市に編入合併した。そして1989年(平成元年)4月1日、仙台市の政令指定都市移行と同時に旧泉市が泉区となった。泉市が名称や範囲をそのままに泉区に変更されることは合併時の取り決めであり、新たな区名の公募や審議はなかった。このため、既存の政令市の区名称と重複しない名称を方針としていた他区とは異なり、既存の横浜市泉区と区名が重複することが確定していた。
なお、この公共事業をバーターにした当時の仙台市長石井亨はゼネコン汚職事件で逮捕・起訴されて実刑判決を受けた。
2007年2月、区のシンボルマークが制定された。
合併経緯からか泉区は仙台市の他区と比べて特別的扱いが多いと見られている。
仙台市と合併後の1992年(平成4年)、仙台市地下鉄南北線が泉中央駅まで延伸されたことで発展し、泉中央副都心計画によって商業施設が集約した。当初はロードサイド店舗の集積であったが、富谷市などさらなる郊外とのバスが発着する泉中央駅バスターミナルの存在によりターミナル化が進み、中小オフィスビルも建設されて、小都市圏を構成するに至っている。Jリーグのベガルタ仙台のホームスタジアムである仙台スタジアム(ユアテックスタジアム仙台)があり、試合開催日には観客が小都市圏外からも流入する。区内にある商業施設や企業の営業所などの名称では、商圏や企業体が大きい場合に「仙台泉」と「仙台」を付加する傾向がある。
泉区内では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。
南光台、黒松地区などは、青葉区にある仙台北郵便局の集配区となる。
県内の金融機関だけでなく山形や岩手などの銀行も泉区内に進出している。
イオン銀行と東北労働金庫(及びゆうちょ銀行)は、銀行代理店制度による有人窓口を区内に展開している。
昭和30年代前半から黒松団地が造成される。以後、国道4号仙台バイパス開通、東北自動車道開通、都市計画道路整備などによって住宅団地開発が促進された。大規模な団地は、黒松団地、南光台団地、将監団地(県住宅供給公社)、向陽台団地、鶴が丘ニュータウン、松森団地、泉パークタウン(三菱地所)、長命ケ丘ニュータウン(大和ハウス工業)、加茂団地、住吉台ニュータウン(オリックス不動産)、泉ビレジ(東急不動産)、いずみ中山ニュータウン(泉中山)、みずほ台などがある。人口も団地開発に伴い年々増加し、仙台市のベッドタウンとして発展する。
現在も泉パークタウン朝日、将監ニュータウン(将監殿一 - 五丁目)などの団地が造成されている。
市民センター・コミュニティセンターが多数設置されている。
以下のとおり、児童館や児童センター、コミュニティセンター、集会所、学校などが多く充実している。
私立
中心となる駅:泉中央駅
南東部および南西部で運行されている。
区内の大部分で運行されている。仙台市営バスからの移譲路線もある。元来、区内の大部分は前身企業の一つである仙台鉄道線(軽便鉄道)の沿線だった。
泉インターチェンジ - 仙台宮城インターチェンジ(距離約13.7km)の中間地点(長命ヶ丘団地付近)に、一般道路の混雑緩和および仙台都市圏環状自動車専用道路(東北自動車道、仙台北部道路、仙台東部道路、仙台南部道路によって形成される外側環状道路)の利便性向上のため、従来よりIC設置を望む声があった。2006年4月より旧泉検札所を利用した泉パーキングエリア接続のスマートインターチェンジ社会実験がスタートし、2007年4月1日より恒久化された。
国道4号仙台バイパスの苦竹インターチェンジ(宮城野区)以北は4車線(片側2車線)であるが、特に将監トンネル入口(泉区七北田) - 苦竹インターチェンジは朝夕の慢性的な渋滞発生区間である。そのため渋滞の緩和・バイパス機能の回復のため片側3車線への拡幅を望む声があり、1989年に苦竹インターチェンジ - 鶴ヶ谷交差点間(4.6km)は事業化された。その後2007年3月20日には苦竹インターチェンジ - 山崎交差点間(2.2km)が3車線化され開通したが、2010年現在、鶴ヶ谷交差点までの3車線化工事は未完成である。それ以北についても事業化されていない。 | [
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"text": "昭和30年代前半から黒松団地が造成される。以後、国道4号仙台バイパス開通、東北自動車道開通、都市計画道路整備などによって住宅団地開発が促進された。大規模な団地は、黒松団地、南光台団地、将監団地(県住宅供給公社)、向陽台団地、鶴が丘ニュータウン、松森団地、泉パークタウン(三菱地所)、長命ケ丘ニュータウン(大和ハウス工業)、加茂団地、住吉台ニュータウン(オリックス不動産)、泉ビレジ(東急不動産)、いずみ中山ニュータウン(泉中山)、みずほ台などがある。人口も団地開発に伴い年々増加し、仙台市のベッドタウンとして発展する。",
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"text": "国道4号仙台バイパスの苦竹インターチェンジ(宮城野区)以北は4車線(片側2車線)であるが、特に将監トンネル入口(泉区七北田) - 苦竹インターチェンジは朝夕の慢性的な渋滞発生区間である。そのため渋滞の緩和・バイパス機能の回復のため片側3車線への拡幅を望む声があり、1989年に苦竹インターチェンジ - 鶴ヶ谷交差点間(4.6km)は事業化された。その後2007年3月20日には苦竹インターチェンジ - 山崎交差点間(2.2km)が3車線化され開通したが、2010年現在、鶴ヶ谷交差点までの3車線化工事は未完成である。それ以北についても事業化されていない。",
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] | 泉区(いずみく)は、仙台市を構成する5行政区のひとつ。 1988年(昭和63年)に仙台市へ編入された泉市の市域が泉区の区域となった。名前は、泉区の北西に位置する泉ヶ岳に由来する。 | {{日本の行政区
|自治体名 = 泉区
|画像 = ファイル:Mt.Izumigatake_(on_R457).JPG
|画像の説明 = [[泉ヶ岳]]
|都道府県 = 宮城県
|支庁 =
|市 = 仙台市
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|隣接自治体・行政区 = ''仙台市''([[青葉区 (仙台市)|青葉区]]、[[宮城野区]])<br/>[[富谷市]]、[[黒川郡]][[大和町]]
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|シンボル名 = 区の鳥
|鳥など = [[キジ]]
|郵便番号 = 981-3189
|所在地 = 泉区泉中央二丁目1番地の1<br /><small>{{ウィキ座標度分秒|38|19|34.9|N|140|52|53.6|E|region:JP}}</small><br/>[[ファイル:SendaiShiIzumiKuyakusho2005-6 cropped.jpg|center|220px]]
|外部リンク = [https://www.city.sendai.jp/izumiku/ 仙台市泉区]
|位置画像 = [[ファイル:Izumi-ku in Sendai City.svg|320x320px|泉区 (仙台市)位置図]]
|特記事項 =
}}
'''泉区'''(いずみく)は、[[仙台市]]を構成する5[[行政区]]のひとつ。
1988年(昭和63年)に仙台市へ編入された[[泉市]]の市域が泉区の区域となった。名前は、泉区の[[北西]]に位置する[[泉ヶ岳]]に由来する。
== 地理 ==
[[ファイル:Izumi-chuo viewed from the multi-story parking garage of Izumi-chuo Sta..JPG|thumb|泉中央駅前の様子。]]
仙台市の北部にある。区の西半分が山地で西北に[[泉ヶ岳]]を擁し、そこから流れる[[七北田川]](ななきたがわ)が区の中心を西から東に貫く。東半分は低い丘陵で、七北田川の北側は[[松島丘陵]]、南側は[[七北田丘陵]]と呼ばれる。この両丘陵の間を七北田川に沿って[[河岸段丘]]による平地が東西に広がる。
気候は西部仙台に区分され、仙台市[[宮城野区]]にある[[仙台管区気象台]]の観測値よりも内陸性気候の特色が強く冷涼、寒冷である。冬季は日本海側からの雪雲が流れ込みやすく積雪となることも少なくなく、冷え込みも厳しい。山間部は豪雪地帯([[青葉区 (仙台市)|青葉区]]旧[[宮城町]]や[[太白区]]旧[[秋保町]]のような[[豪雪地帯]]には指定されていない)となっておりスキー場がある。
七北田川沿いの平地において[[市街化区域]]に指定されているのは、[[泉中央副都心]]周辺([[仙台市地下鉄南北線]]・[[泉中央駅]] - [[八乙女駅]])から[[国道4号]]・[[仙台バイパス]]沿いの間くらいで、それ以外は[[田圃]]などとなっている。[[用途地域]]指定されている面積は、七北田川沿いの平地より両岸の丘陵上が数倍広く、泉区の[[市街地]]は「工」の字型となっている。
中心部は、[[江戸時代]]の[[奥州街道]](仙台・松前道)の[[宿場町]]である七北田宿を基礎に発展した。泉市時代にその西側の田圃を造成し、泉市役所や[[仙台市泉文化創造センター]](イズミティ21)などの施設が建設された。
=== 山岳 ===
* [[泉ヶ岳]](1,172[[メートル|m]])
* 黒森 (857m)
* 黒鼻山 (842.9m)
* 蘭山 (760.8m)
* 長倉山 (497.8m)
* 小屋森山 (386.0m)
* 座禅堂山 (370.1m)
* 屏風岳 (290.3m)
* 杭城山 (256m)
* 堂城山 (252.3m)
=== 河川 ===
* [[七北田川]]
* [[要害川]]
* [[仙台川]]
* 高柳川
* 萱場川
* 西田中川
== 歴史 ==
[[ファイル:Census Sen-En 1950-2010.jpg|thumb|仙台市以外の[[仙塩]]地区の自治体の[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]人口の変遷。1975年までに泉市が[[塩竈市]]を抜いた。]]
{{seealso|泉市}}
泉市は、[[高度経済成長|高度成長期]]から丘陵部の宅地開発が徐々に進められ、仙台市の[[ベッドタウン]]として発展し、市の人口は[[石巻市]]を抜いて県内第2位まで到達した。[[1988年]](昭和63年)、仙台市に[[市町村合併|編入合併]]され、[[1989年]]([[平成]]元年)に仙台市の[[政令指定都市]]移行に伴い泉区となった。
仙台市との合併に際しその是非を問う会議が泉市内の各地域で開催され、マスメディアはその過熱ぶりを報道し、最終的には[[住民投票]]を行うほど市民の世論が二分した。初期の対立軸は、マイホームを求めて主に仙台市から移住してきた新住民と、地元商店街の商店主・旧[[奥州街道]]沿いの住民・営農者などの旧住民で、新住民は泉市への帰属意識は薄く通勤通学する仙台市との合併賛成、旧住民は泉市への帰属意識(地域コミュニティ)が強いために併合され泉市らしさが無くなることへの抵抗感による合併反対という対立構図であった。
しかし、その単純な対立構図はより理由が鮮明になり熱を帯びていった。当時、仙台市においても[[バブル景気]]によって地価が上昇しており、泉市が合併で仙台市となればネームバリューで、さらに[[政令指定都市]]ともなればもっと地価が高騰するであろうという予見から不動産業のみならず利益を得たい企業側関係者は合併の強力推進派となった。他方、合併によって泉市よりも高い旧仙台市の基準の地方税や水道使用料金などを課せられると知った旧住民は、合併によるメリットよりもデメリットが大きいと町内会やビラで訴え新住民への浸透を図った。マスメディアの事前調査では、住民投票の行方は合併派と反対派は拮抗してまったく分からなくなった。
旧仙台市は東北の中心的役割を内外ともに誇示するため、政令指定都市の名目は絶対に必要な条件であった。これについては、仙台市のみがそれを欲していたわけでなく、21世紀を目前に東北各市からも関西・中部・九州の大都市圏に匹敵する東北都市圏を仙台市が牽引して作るべきだという意見が多かった。時節柄、[[首都機能移転]]構想にも多大な影響を受けている。しかし、当時の政令都市化の要件である人口80万人には満たなかったため、このままでは単独での政令指定都市化は難しいと判断され、隣接の泉市や宮城町、秋保町との合併を模索していた。
泉市は急激な人口増加により交通や下水道などの生活インフラが立ち遅れていた。仙台市は、当時[[水田]]が広がっていた現在の[[泉中央副都心]]を中心に、[[仙台市地下鉄南北線]]の[[泉中央駅]]延伸、[[将監トンネル]]([[宮城県道22号仙台泉線|県道仙台泉線]])や[[都市計画道路]]・北四番丁大和町線([[宮城県道264号大衡仙台線]])の早期建設、[[七北田公園]]([[仙台スタジアム]])や[[仙台市泉総合運動場|泉運動公園]]([[シェルコムせんだい]])の整備、上下水道整備、コミュニティセンターの建設などのインフラ整備、さらに泉市で初の[[地方博覧会]]([[全国都市緑化フェア|グリーンフェア]]仙台)の開催を提案した。
熱を帯びた議論や[[ビラ]]{{要曖昧さ回避|date=2023年1月}}合戦の末、[[住民投票]]条例制定の[[直接請求]]において泉市の[[有権者]]の43%にあたる37,775人の[[署名]]が集まり<ref name="Goro">第225回宮城県議会(昭和63年2月臨時会)会議録 2月5日-02号 四番 雫石五郎議員の発言より([http://www.pref.miyagi.jp/kengikai/ 宮城県議会])</ref>、「市民投票に関する条例案」が泉市議会に議員提案されたが、[[1987年]](昭和62年)[[11月4日]]の昭和62年11月臨時会で否決された<ref name="disclosure">{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/soumu/bunsyo/houkoku/img/01.pdf 公文書開示請求の内容及び処理状況(平成17年度)]}}(仙台市)</ref>。しかし、僅差だったことを理由に泉市長の職権で「市民意向投票実施規則」が制定され、同年[[11月29日]]に住民投票が実施された<ref name="is-no30">{{PDFlink|[http://www.jilg.jp/iservice/is/is-no30.pdf ヤマ場を迎える「平成の大合併」と住民投票]}}([[日本自治体労働組合総連合|自治労連]]・地方自治問題研究機構 Information Service No.30 2002年9月25日)</ref><ref name="disclosure"/>。投票結果、投票率74%、賛成33,331票(得票率52.6%)、反対29,703票(同46.9%)、無効・その他354票(同0.6%)となった<ref name="is-no30"/>。合併反対派は、市民の[[世論]]が半々であるのに拙速に合併協議を進めているとして[[リコール (地方公共団体)|リコール]]運動を始めた。両市は3月末日としていた当初予定を前倒しし[[1988年]](昭和63年)[[3月1日]]に泉市を仙台市に[[編入合併]]した<ref name="Goro"/>。そして[[1989年]]([[平成]]元年)[[4月1日]]、仙台市の[[政令指定都市]]移行と同時に旧泉市が泉区となった。泉市が名称や範囲をそのままに泉区に変更されることは合併時の取り決めであり、新たな区名の公募や審議はなかった。このため、既存の政令市の区名称と重複しない名称を方針としていた他区とは異なり、既存の横浜市[[泉区 (横浜市)|泉区]]と区名が重複することが確定していた。
なお、この[[公共事業]]をバーターにした当時の仙台市長[[石井亨]]は[[ゼネコン汚職事件]]で逮捕・起訴されて実刑判決を受けた。
[[2007年]]2月、区のシンボルマークが制定された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sendai.jp/izumi-kuse/izumiku/shokai/profile/shinborumark.html |title=泉区のシンボルマーク |website=仙台市公式ホームページ |accessdate=2018-04-14}}</ref>。
=== 泉区の特例 ===
合併経緯からか泉区は仙台市の他区と比べて特別的扱いが多いと見られている。
* 泉市時代からの引き継ぎで、他の区では制定されていない「区の木・花・鳥」が唯一制定されている。
* 泉区役所(本庁舎)は、旧泉市役所をそのまま活用しているため、敷地面積が他の区役所よりも広い。現在は、旧泉市役所庁舎であった、区役所本庁舎の東側に区役所東庁舎が設置されている。
* 泉区役所は、泉中央駅から徒歩数分の立地にあり、これまでは区役所前~泉中央駅を結ぶ「歩行者専用道路」(途中から広場になり、さらにペデストリアンデッキに変化する)でしか接続されていなかったが、泉中央駅の改築により、区役所の敷地内に地下鉄入り口が新設された。
* 泉市時代から[[仙台市地下鉄]]が[[八乙女駅]]まで通っていた。
* 街区表示板は合併後2回更新されている(泉市→泉区〔ローマ字併記無し〕→泉区〔ローマ字付き〕)。{{要出典範囲|板の色は、他区のほとんどの地域のように青ではなく、|date=2008年10月}}泉市の時代からの緑色をそのまま使っている。
** 住所は、泉市○○→仙台市○○→仙台市泉区○○と変更されている。<!--ただし、現在の泉中央のみ、泉市中央→仙台市泉中央→仙台市泉区泉中央と変更されている。政令市化に当たり、[[さいたま市]][[浦和区]]・[[大宮区]]や[[静岡市]][[清水区]]で行われた、泉中央から旧市名である「泉」の文字が削除される措置は取らなかった。実際には、「泉中央」という住所表記は平成6年(1994年)に誕生したもので、すなわち、泉区の設置後の話であり、「泉市中央」「仙台市泉中央」という住所表記は存在したことがなく、最初から「仙台市泉区泉中央」であった。上記の逸話は、都市伝説の類ではないだろうかと思われる。なお、泉中央駅の開業は、それより2年早い平成4年(1992年)である。-->
== 人口 ==
*1990年 156,356
*1995年 182,601
*2000年 200,429
*2005年 208,813
*2010年 211,183
*2015年 216,798
== 経済 ==
仙台市と合併後の[[1992年]](平成4年)、[[仙台市地下鉄南北線]]が[[泉中央駅]]まで延伸されたことで発展し、[[泉中央副都心]]計画によって商業施設が集約した。当初は[[ロードサイド店舗]]の集積であったが、[[富谷市]]などさらなる郊外とのバスが発着する[[泉中央駅]][[バスターミナル]]の存在により[[ターミナル]]化が進み、中小[[オフィスビル]]も建設されて、小[[都市圏]]を構成するに至っている。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[ベガルタ仙台]]のホームスタジアムである[[仙台スタジアム]](ユアテックスタジアム仙台)があり、試合開催日には観客が小都市圏外からも流入する。区内にある商業施設や企業の営業所などの名称では、[[商圏]]や企業体が大きい場合に「仙台泉」と「仙台」を付加する傾向がある。
* 工業団地
** [[泉パークタウン]]インダストリアルパーク(明通地区)
** 泉パークタウンソフトパーク(紫山地区・泉パークタウン第5住区内)
** 仙台泉インターシティ
* 商業施設
** 泉パークタウンタピオ
** [[仙台泉プレミアム・アウトレット]]
== 町名 ==
泉区内では、一部の区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。
<!-- 町名の順序は、仙台市統計書等公的資料の順序による。 -->
{{hidden begin
|title = 泉区役所管内(64町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small;"
|-
!style="width:12%;"|町名
!style="width:12%;"|町名の読み
!style="width:12%;"|町区域設定年月日
!style="width:12%;"|住居表示実施年月日
!style="width:26%;"|町区域設定前の町名等
!style="width:26%;"|住居表示実施前の町名等
|-
|'''[[明石南|明石南1丁目]]'''
|rowspan="6"|あかいしみなみ
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[明石南|明石南2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[明石南|明石南3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[明石南|明石南4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[明石南|明石南5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[明石南|明石南6丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[明通 (仙台市)|明通1丁目]]'''
|rowspan="4"|あけどおり
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[明通 (仙台市)|明通2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[明通 (仙台市)|明通3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[明通 (仙台市)|明通4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[旭丘堤|旭丘堤1丁目]]'''
|rowspan="2"|あさひがおかつつみ
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[旭丘堤|旭丘堤2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[泉ケ丘 (仙台市)|泉ケ丘1丁目]]'''
|rowspan="5"|いずみがおか
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[泉ケ丘 (仙台市)|泉ケ丘2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[泉ケ丘 (仙台市)|泉ケ丘3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[泉ケ丘 (仙台市)|泉ケ丘4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[泉ケ丘 (仙台市)|泉ケ丘5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[泉中央|泉中央1丁目]]'''
|rowspan="4"|いずみちゅうおう
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[泉中央|泉中央2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[泉中央|泉中央3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[泉中央|泉中央4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[市名坂]]'''
|いちなざか
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[永和台]]'''
|えいわだい
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[大沢 (仙台市泉区)|大沢1丁目]]'''
|rowspan="3"|おおさわ
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[大沢 (仙台市泉区)|大沢2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[大沢 (仙台市泉区)|大沢3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[小角]]'''
|おがく
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[桂 (仙台市)|桂1丁目]]'''
|rowspan="4"|かつら
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[桂 (仙台市)|桂2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[桂 (仙台市)|桂3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[桂 (仙台市)|桂4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[上谷刈|上谷刈1丁目]]'''
|rowspan="6"|かみやかり
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[上谷刈|上谷刈2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[上谷刈|上谷刈3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[上谷刈|上谷刈4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[上谷刈|上谷刈5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[上谷刈|上谷刈6丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[加茂 (仙台市)|加茂1丁目]]'''
|rowspan="5"|かも
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[加茂 (仙台市)|加茂2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[加茂 (仙台市)|加茂3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[加茂 (仙台市)|加茂4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[加茂 (仙台市)|加茂5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[北高森]]'''
|きたたかもり
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[北中山|北中山1丁目]]'''
|rowspan="4"|きたなかやま
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[北中山|北中山2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[北中山|北中山3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[北中山|北中山4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[黒松 (仙台市)|黒松1丁目]]'''
|rowspan="3"|くろまつ
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[黒松 (仙台市)|黒松2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[黒松 (仙台市)|黒松3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[向陽台 (仙台市)|向陽台1丁目]]'''
|rowspan="5"|こうようだい
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[向陽台 (仙台市)|向陽台2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[向陽台 (仙台市)|向陽台3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[向陽台 (仙台市)|向陽台4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[向陽台 (仙台市)|向陽台5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監1丁目]]'''
|rowspan="13"|しょうげん
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監6丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監7丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監8丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監9丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監10丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監11丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監12丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監 (仙台市)|将監13丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監殿|将監殿1丁目]]'''
|rowspan="5"|しょうげんとの
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監殿|将監殿2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監殿|将監殿3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監殿|将監殿4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[将監殿|将監殿5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[松陵|松陵1丁目]]'''
|rowspan="5"|しょうりょう
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[松陵|松陵2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[松陵|松陵3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[松陵|松陵4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[松陵|松陵5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[住吉台 (仙台市)|住吉台西1丁目]]'''
|rowspan="4"|すみよしだいにし
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[住吉台 (仙台市)|住吉台西2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[住吉台 (仙台市)|住吉台西3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[住吉台 (仙台市)|住吉台西4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[住吉台 (仙台市)|住吉台東1丁目]]'''
|rowspan="5"|すみよしだいひがし
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[住吉台 (仙台市)|住吉台東2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[住吉台 (仙台市)|住吉台東3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[住吉台 (仙台市)|住吉台東4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[住吉台 (仙台市)|住吉台東5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[高玉町]]'''
|たかだまちょう
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[高森 (仙台市)|高森1丁目]]'''
|rowspan="8"|たかもり
|rowspan="8"|昭和49年7月9日
|rowspan="8"| 未実施
|
|
|-
|'''[[高森 (仙台市)|高森2丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[高森 (仙台市)|高森3丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[高森 (仙台市)|高森4丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[高森 (仙台市)|高森5丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[高森 (仙台市)|高森6丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[高森 (仙台市)|高森7丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[高森 (仙台市)|高森8丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[長命ケ丘|長命ケ丘1丁目]]'''
|rowspan="6"|ちょうめいがおか
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[長命ケ丘|長命ケ丘2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[長命ケ丘|長命ケ丘3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[長命ケ丘|長命ケ丘4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[長命ケ丘|長命ケ丘5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[長命ケ丘|長命ケ丘6丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[長命ケ丘東]]'''
|ちょうめいがおかひがし
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[鶴が丘|鶴が丘1丁目]]'''
|rowspan="4"|つるがおか
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[鶴が丘|鶴が丘2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[鶴が丘|鶴が丘3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[鶴が丘|鶴が丘4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[寺岡|寺岡1丁目]]'''
|rowspan="6"|てらおか
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[寺岡|寺岡2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[寺岡|寺岡3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[寺岡|寺岡4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[寺岡|寺岡5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[寺岡|寺岡6丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[天神沢|天神沢1丁目]]'''
|rowspan="2"|てんじんざわ
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[天神沢|天神沢2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[七北田]]'''
|ななきた
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台|南光台1丁目]]'''
|rowspan="7"|なんこうだい
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台|南光台2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台|南光台3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台|南光台4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台|南光台5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台|南光台6丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台|南光台7丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台東|南光台東1丁目]]'''
|rowspan="3"|なんこうだいひがし
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台東|南光台東2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台東|南光台東3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台南|南光台南1丁目]]'''
|rowspan="3"|なんこうだいみなみ
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台南|南光台南2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南光台南|南光台南3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[虹の丘|虹の丘1丁目]]'''
|rowspan="4"|にじのおか
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[虹の丘|虹の丘2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[虹の丘|虹の丘3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[虹の丘|虹の丘4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南中山|南中山1丁目]]'''
|rowspan="6"|みなみなかやま
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南中山|南中山2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南中山|南中山3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南中山|南中山4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南中山|南中山5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[南中山|南中山6丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[紫山|紫山1丁目]]'''
|rowspan="5"|むらさきやま
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[紫山|紫山2丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[紫山|紫山3丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[紫山|紫山4丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[紫山|紫山5丁目]]'''
|年月日
| 年月日
|
|
|-
|'''[[八乙女 (仙台市)|八乙女1丁目]]'''
|rowspan="4"|やおとめ
|年月日
| 年月日
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|'''[[八乙女中央|八乙女中央1丁目]]'''
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|'''[[館 (仙台市)|館7丁目]]'''
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|'''[[山の寺|山の寺3丁目]]'''
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|'''[[友愛町]]'''
|ゆうあいちょう
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== 郵便 ==
* [[泉郵便局]](集配局・[[ゆうゆう窓口]]設置局)
* [[泉西郵便局]](集配局・ゆうゆう窓口設置局)
* 泉加茂郵便局
* 泉黒松郵便局
* 泉向陽台郵便局
* 泉松陵郵便局
* 泉住吉台郵便局
* 泉高森郵便局
* 泉中央駅内郵便局
* 泉長命ケ丘郵便局
* 泉鶴が丘郵便局
* 泉七北田郵便局
* 泉南光台南三郵便局
* 泉南光台郵便局
* 泉根白石郵便局
* 泉南中山郵便局
* 泉八乙女駅前郵便局
* 泉館郵便局
* 泉市名坂簡易郵便局
[[南光台]]、黒松地区などは、青葉区にある[[仙台北郵便局]]の集配区となる。
== 金融機関 ==
県内の金融機関だけでなく山形や岩手などの銀行も泉区内に進出している。
* [[七十七銀行]]
* [[仙台銀行]]
* [[杜の都信用金庫]]
* [[宮城第一信用金庫]]
* [[秋田銀行]]
* [[荘内銀行]]
* [[山形銀行]]
* [[東邦銀行]]
* [[きらやか銀行]]
* [[北日本銀行]]
* [[古川信用組合]] - 2016年に仙台市初出店として、泉中央地区に支店を設置。
* [[東洋証券]]仙台支店 - 泉中央に設置。
[[イオン銀行]]と[[東北労働金庫]](及び[[ゆうちょ銀行]])は、[[銀行代理店]]制度による有人窓口を区内に展開している。
== 地域 ==
昭和30年代前半から黒松団地が造成される。以後、[[国道4号]][[仙台バイパス]]開通、[[東北自動車道]]開通、[[都市計画道路]]整備などによって住宅団地開発が促進された。大規模な団地は、黒松団地、南光台団地、将監団地(県住宅供給公社)、向陽台団地、鶴が丘ニュータウン、松森団地、[[泉パークタウン]]([[三菱地所]])、[[長命ケ丘|長命ケ丘ニュータウン]]([[大和ハウス工業]])、加茂団地、[[住吉台ニュータウン]]([[オリックス不動産]])、[[館 (仙台市)|泉ビレジ]]([[東急不動産]])、いずみ中山ニュータウン([[泉中山]])、みずほ台などがある。人口も団地開発に伴い年々増加し、仙台市のベッドタウンとして発展する。
現在も泉パークタウン朝日、将監ニュータウン(将監殿一 - 五丁目)などの団地が造成されている。
=== コミュニティセンター ===
市民センター・[[コミュニティセンター]]が多数設置されている。
* 市民センター数13館(市民の自主活動および生涯学習の拠点施設)
* コミュニティセンター数15館(地域の各種活動のための拠点施設)
== 主な医療機関 ==
* 松田病院
* [[仙台徳洲会病院]]
* [[泉病院]]
* 仙台循環器病センター
* [[地域医療機能推進機構仙台病院]]
== 教育 ==
以下のとおり、児童館や児童センター、コミュニティセンター、集会所、学校などが多く充実している。
=== 児童館・児童センター・保育所園 ===
* 児童館数:7館
* 児童センター数:17館
* 保育所園数:20園(公立9 私立11)
=== 小学校 ===
{{main2|公立小学校一覧は、[[宮城県小学校一覧#泉区]] を}}
* [[ホライゾン学園仙台小学校]]
=== 中学校 ===
{{main2|高等学校を併設しない中学校一覧は、[[宮城県中学校一覧#泉区]] を}}
* [[仙台白百合学園中学校・高等学校|仙台白百合学園中学校]](中高併設)
=== 高等学校 ===
{{main2|中学校を併設しない高等学校一覧は、[[宮城県高等学校一覧#泉区]] を}}
* [[仙台白百合学園中学校・高等学校|仙台白百合学園高等学校]](中高併設)
* [[東北生活文化大学高等学校]]
=== 大学・短期大学 ===
'''私立'''
{{Multicol}}
* [[東北学院大学]](泉キャンパス)
* [[仙台白百合女子大学]]
* [[東北生活文化大学]]
{{Multicol-break}}
* [[仙台白百合短期大学]]
* [[東北生活文化大学短期大学部]]
* [[聖和学園短期大学]]
{{Multicol-end}}
=== 特別支援学校 ===
* [[宮城県立光明支援学校]]
== 交通 ==
[[ファイル:Izumi Chuo Station Swing 2020.jpg|thumb|泉中央駅の駅ビル。]]
=== 鉄道 ===
中心となる駅:[[泉中央駅]]
* [[仙台市地下鉄]]([[仙台市交通局]])
** [[仙台市地下鉄南北線|南北線]]:泉中央駅 - [[八乙女駅]] - [[黒松駅 (宮城県)|黒松駅]]
=== バス ===
* [[仙台市営バス]](仙台市交通局)
南東部および南西部で運行されている。
* [[宮城交通]]
区内の大部分で運行されている。仙台市営バスからの移譲路線もある。元来、区内の大部分は前身企業の一つである[[仙台鉄道]]線([[軽便鉄道]])の沿線だった。
* [[ミヤコーバス]]
** [[仙台 - 古川線 (ミヤコーバス)|特急仙台古川線]]
* [[JRバス東北]]
** [[ドリームササニシキ号]]
* [[東日本急行]]
** [[仙台 - 金成線]]
=== 道路 ===
[[ファイル:Sendai Izumi.jpg|thumb|将監トンネル付近の国道4号。]]
* 高速道路
** {{Ja Exp Route Sign|E4}} [[東北自動車道]]: - [[泉パーキングエリア]] - [[泉インターチェンジ]] -
泉インターチェンジ - [[仙台宮城インターチェンジ]](距離約13.7km)の中間地点(長命ヶ丘団地付近)に、一般道路の混雑緩和および[[仙台都市圏環状自動車専用道路]](東北自動車道、[[仙台北部道路]]、[[仙台東部道路]]、[[仙台南部道路]]によって形成される外側[[放射線・環状線|環状道路]])の利便性向上のため、従来よりIC設置を望む声があった。2006年4月より旧泉検札所を利用した[[泉パーキングエリア]]接続の[[スマートインターチェンジ]][[社会実験]]がスタートし、2007年4月1日より恒久化された。
* 一般国道
** [[国道4号]]
** [[国道457号]]
国道4号[[仙台バイパス]]の苦竹インターチェンジ([[宮城野区]])以北は4車線(片側2車線)であるが、特に将監トンネル入口(泉区七北田) - 苦竹インターチェンジは朝夕の慢性的な渋滞発生区間である。そのため渋滞の緩和・バイパス機能の回復のため片側3車線への拡幅を望む声があり、1989年に苦竹インターチェンジ - 鶴ヶ谷交差点間(4.6km)は事業化された。その後2007年3月20日には苦竹インターチェンジ - 山崎交差点間(2.2km)が3車線化され開通したが、2010年現在、鶴ヶ谷交差点までの3車線化工事は未完成である。それ以北についても事業化されていない。
* 県道
** [[宮城県道22号仙台泉線]]
** [[宮城県道35号泉塩釜線]]
** [[宮城県道56号仙台三本木線]]
** [[宮城県道37号仙台北環状線]]
** [[宮城県道223号泉ヶ岳公園線]]
** [[宮城県道264号大衡仙台線]]
== マスメディア ==
* [[FMいずみ]](仙台市泉区 79.7MHz [[コミュニティFM]])
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
[[ファイル:泉ヶ岳エリア前景.jpg|thumb|泉ヶ岳スキー場]]
[[File:Sendai-Stadion 2019 Inside.jpg|thumb|ユアテックスタジアム仙台]]
* レジャー・温泉
** 温泉(福岡・根白石付近)
** [[竜泉寺の湯|スパメッツァ仙台 竜泉寺の湯]] 仙台泉店([[スーパー銭湯]])
** 憩の森キャンプ場
** 仙台市泉ヶ岳キャンプ場
** 水の森公園キャンプ場
* スキー場
** [[泉ヶ岳スキー場]]
** [[スプリングバレー泉高原スキー場]]
* ゴルフ場
** 泉国際ゴルフ倶楽部
** [[泉パークタウン]]ゴルフ倶楽部
** ニューワールドゴルフクラブ
* 観光
** 光明の滝
** 水神の碑
** 赤穂浪士[[寺坂信行]](寺坂吉右衛門)の墓
** [[仙台藩]]刑場跡
** 白石城址
** [[松森城]]址
** [[金玉神社 (仙台市)|金玉神社]]
* 公共施設
** [[仙台スタジアム]](ユアテックスタジアム仙台。[[ベガルタ仙台]]、[[マイナビ仙台レディース]]本拠地)
** [[スポパーク松森]]
** [[宮城県図書館]]
** [[七北田公園]]
** ミルポートS
*** 仙台市泉図書館
*** のびすく泉中央
** [[仙台市屋内グラウンド]](シェルコムせんだい)
** [[仙台市泉文化創造センター]](イズミティ21)
** [[泉サッカー場]]
** 仙台市健康増進センター
** 仙台市発達相談支援センター・北部アーチル
** 仙台市北中山コミュニティグラウンド
** 仙台市泉海洋センター
** 仙台市根白石温水プール
* 祭り
** 泉区民ふるさと祭
** [[天空のゆりガーデン]]
== 出身人物 ==
{{main|仙台の著名人一覧}}
* [[大友愛]] ([[バレーボール]]選手)
* [[岡田純子 (声優)|岡田純子]] ([[声優]]) - 親が転勤族だったため、短期間ではあるが子供の頃に住んでいたことがある(居住当時は[[泉市]])。
* [[かっつー]]([[YouTuber]])
* [[狩野英孝]]([[お笑い芸人]])
* [[佐々木主浩]] (元[[プロ野球]] [[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]選手)
* [[サンドウィッチマン (お笑いコンビ)|サンドウィッチマン]] ([[お笑いコンビ]])
** [[伊達みきお]]
** [[富澤たけし]]
* [[志村雄彦]] (プロ[[バスケットボール]]選手、[[仙台89ers]]所属)
* [[鈴木京香]] ([[俳優#性別での分類|女優]])
* [[羽生結弦]] ([[フィギュアスケート]]選手)
* [[堀田大暉 (サッカー選手)|堀田大暉]]([[サッカー]]選手)
* [[松田大地]] (プロバスケットボール選手、仙台89ers所属)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[泉区 (横浜市)]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Izumi-ku, Sendai}}
* [https://www.city.sendai.jp/izumiku/ 仙台市泉区役所 公式サイト]
{{宮城県の自治体}}
{{仙台市泉区の町・字}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いすみく}}
[[Category:仙台市の区]]
[[Category:日本の計画都市]]
[[Category:泉区 (仙台市)|*]]
[[Category:1989年に成立した行政区画]] | 2003-05-21T17:00:45Z | 2023-12-10T08:43:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%8C%BA_(%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82) |
8,954 | 宮城野区 | 宮城野区(みやぎのく)は、仙台市を構成する5行政区のうちのひとつ。
宮城野区は仙台市の北東部にあり、同市の青葉区、若林区、泉区、多賀城市、七ヶ浜町、利府町、富谷市と隣り合っている。宮城野区内の大半は平野であり、そのうち西側は洪積台地で、東側は沖積平野である。北西部の丘陵地は台原・小田原丘陵と呼ばれ、標高が高い。この丘陵には与兵衛沼などいくつかの用水池が点在する。また、区の北側の岩切地区には松島丘陵の南端が迫っている。ここには岩切城跡や古い寺社などの歴史的施設が集中し、また丘陵の一部が県民の森として整備されている。
区の南西部はかつての仙台城の城下町の範囲であり、現在では仙台駅の東口に当たる。城下町の範囲からは外れるが、仙台駅から東方向には宮城野原公園総合運動場がある。この辺りは、古来より歌に詠まれ、区の名称の由来ともなった宮城野と比定されるところであり、プロ野球チームの東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地である宮城球場(楽天モバイルパーク宮城)がここにある。また、仙台を南西から北東にかけて横断する長町-利府線断層帯は、榴岡公園と宮城野原の間の地形に見ることができる。宮城野原の北側の原町地域は、江戸時代に宿場として発展したところであり、宮城野区役所はここに置かれている。
区の東側は太平洋の仙台湾に面している。ここに仙台港があり、その後背地には仙台うみの杜水族館などがある。区内の主な川として七北田川と、その支流である梅田川がある。七北田川の河口には南側から貞山運河が接続し、また河口北側の蒲生干潟は鳥類や植物群落が集まる場所である。七北田川の周囲には自然堤防が形作られていて、ここには古い時期から集落が存在した。同様に、海岸付近に発達した浜堤にも古くから人々が住んでいた。
国道4号仙台バイパスと国道45号の沿道には流通団地、工業団地がある。ここは高度経済成長の時代に水田からひらかれたが、地下水のくみ上げと盛り土の重量が地盤沈下を引き起こし、宮城県沖地震の際には液状化が起こった。
宮城野区が設けられる以前にこの地域が一つのまとまりとされたことはなかった。1989年(平成元年)、仙台市が政令指定都市になるに際し、北東部を分割して設けたのが宮城野区である。区名は水田開発以前にこのあたり一帯の原野を指して呼んだ名称であり、また古来よりの歌枕でもある「宮城野」に由来する。区名選定の公募1位が港区、3位が東区、4位が萩区であった。他都市にある区名や方位をとらないことを方針とした仙台市区名選定委員会により、宮城野が選ばれた。
江戸時代、現在の宮城野区に当たる地域の西端は仙台城の城下町で、この外には南目村、苦竹村、小田原村、小鶴村、燕沢村、鶴ケ谷村、岩切村、蒲生村、中野村、福室村、田子村、岡田村があった。明治時代には、町村制のもとで、南目村、苦竹村、小田原村の合併で原町が、小鶴村、燕沢村、鶴ケ谷村、岩切村の合併で岩切村が、蒲生村、中野村、福室村、田子村、岡田村の合併で高砂村がそれぞれ誕生した。原町は1928年(昭和3年)に、岩切村と高砂村は1941年(昭和16年)に仙台市に吸収合併された。これらの地区が宮城野区となるが、旧原町地域の一部は青葉区、若林区となった。
現在の宮城野区の地域で見つかっている最古の遺跡は縄文時代のものである。鶴ケ谷の菖蒲沢遺跡、燕沢の燕沢遺跡、岩切の山崎囲遺跡、仙台港近くの沼向遺跡などがそれである。縄文時代には縄文海進と呼ばれる海水面の上昇があり、当時の海岸線は現在のそれより内陸側にあったと見られている。燕沢遺跡と沼向遺跡には、弥生時代の人々の活動も認められる。古墳時代には多数の横穴墓が造られた。その例として、燕沢の善応寺横穴墓群、岩切の東光寺横穴墓群などが知られる。また、東仙台付近の丘陵地に須恵器を生産した窯跡群が発見されている。これは台原・小田原窯跡群と呼ばれている。中でも大連寺窯跡は早い時期に須恵器を生産していた窯跡として注目された。これらの窯跡群は古墳時代から奈良時代、平安時代にかけて利用された。
平安時代の869年(貞観11年)に起こった貞観地震では、津波によって沿岸部が広く浸水した。沼向遺跡の人々の活動痕跡はこの時に一度途絶えている。また、『和名類聚抄』には、宮城郡余戸郷、宮城郷が見られる。余戸郷は現在の岩切字余目に比定される。宮城郷については、後の鎌倉時代に苦竹を宮城本郷としたという記録があることから、苦竹が宮城郷の中心地だったのかもしれないと推察されている。現在の蒲生、中野から多賀城市八幡にかけての地域には、八幡荘(やわたのしょう)と呼ばれる荘園があった。
古代の陸奥国府は多賀城だが、その行政府は10世紀以降に多賀国府として移ったとされる。多賀城から岩切にかけての地域が多賀国府と称されたと考えられているが、その中心地ははっきりとはわかっていない。ただ、この多賀国府は府中と称される都市的な広がりを持っていたとされる。七北田川と幹線道路の奥大道が交わる岩切は交通の要衝であり、現在の岩切大橋付近に河原宿市場があったと考えられている。岩切では中世前期の遺構や遺物が多く見つかっている。陸奥国留守職に任じられ、岩切一帯に所領を持ったのが伊沢家景で、その子孫が留守氏を名乗るようになった。
南北朝時代の1351年(観応2年・正平6年)には、足利尊氏とその弟直義が争った観応の擾乱の影響から、それぞれに与した二人の奥州管領の畠山国氏と吉良貞家が争って、岩切城合戦が起こった。吉良勢に押し込まれた畠山側は岩切城などに立て籠もっていたが、最終的には岩切城は吉良勢によって落とされた。その後、奥州管領の斯波氏が奥州探題に任命され、斯波氏が加美郡や志田郡に本拠を置いたことにより、多賀国府は政治的な中心地ではなくなった。
留守氏は、岩切城合戦で敗者となり、その動静が一時不明となるものの、その後も存続した。留守氏は岩切城を居城としていたが、留守政景の時に利府城へ移った。岩切城の他に、現在の宮城野区内に当たる地域の中世期の城館として東光寺城、化粧坂城、小鶴城、南目城、笹森城などがあった。このうち、東光寺城、化粧坂城、小鶴城は留守氏の城館で、南目城と笹森城は国分氏の城館だった。留守氏と国分氏は共に伊達氏の影響を受けるようになり、留守氏が伊達氏の家臣として所領を移りながら存続した一方、国分盛重とその家臣の内紛の影響から国分領は伊達氏の直轄領とされ、領主としての国分氏は滅んだ。
戦国時代までは、幹線道路である東山道(奥大道、東街道)がこの地域を南北に通っていた。しかし、江戸時代になって仙台城とその城下町が建設されると、奥州街道は仙台城下を通るようになった。その一方で、仙台城下から塩竈や石巻方面に向かう道がつくられた。この街道につくられた宿場が原町宿である。原町宿は苦竹村と南目村にまたがる町場だった。寛文(1661年から1673年)の頃には、塩竈湾の牛生と七北田川河口の蒲生を結ぶ舟入堀と、鶴巻と苦竹を結ぶ舟曳堀がつくられた。これにより、舟入堀、七北田川、舟曳堀を経由することで、船荷が苦竹まで運ばれるようになった。米や木材がこの経路で城下まで運ばれたと考えられている。なおこの頃、七北田川は現在のそれに相当する河道に作り変えられたと考えられている。
岩切村と田子村には足軽町が形成された。岩切の足軽町は今市で、田子村のそれは福田町である。福田町については、もともと野谷地や荒廃地を開墾するために入植した農民が、悪地の開墾に難儀したために、その救済として藩直属の足軽に取り立てられたものである。福田町は、福室村と田子村それぞれから一文字ずつ取られて名付けられた。今市と福田町の足軽は共に、仙台城下で出火した際に消火に従事したという。また、船荷の流通経路になった蒲生にも町場が形成された。新田開発は、平野部の村々で特に行われた。また、七北田川では川漁が、海浜地域では沿岸漁業が行われていた。
明治時代になると、町村制に基づき、1889年(明治22年)に自治体としての原町、岩切村、高砂村が成立した。この時、宮城郡内で町として成立したのは塩竈町と原町のみである。町役場のみならず宮城郡の郡役所や郵便局、小学校などの公的施設が置かれた原町は行政の拠点だった。岩切村の村役場は今市に、高砂村の村役場は福田町に置かれた。なお、仙台城城下町の範囲は仙台区を経て1889年(明治22年)に仙台市となった。
現在の東北本線の前身である日本鉄道は1887年(明治20年)に塩竈まで開通し、この翌年に岩切駅が開業した。現在の仙台市域内においては、仙台駅に次いで2番目の鉄道駅だった。東北本線の東仙台駅は信号所から昇格する形で1933年(昭和7年)に開業した。東仙台駅の開設に合わせて、駅周辺で土地区画整理事業が行われた。これは都市計画法に基づくものとしては、仙台市で初の事例だった。仙石線の前身である宮城電気鉄道は1925年(大正14年)に仙台駅から西塩釜駅まで開通した。以後に設置されたものを含めて、東七番丁駅、榴ケ岡駅、宮城野原駅、陸前原ノ町駅、新田駅、福田町駅、陸前高砂駅があった。
日中戦争のさ中の1941年(昭和16年)、原町苦竹に東京第一陸軍造兵廠仙台製造所が設置された。また、原町小田原にはその分工場がつくられた。これには、国策としての強制的な土地区画整理が伴った。仙台市東部の秩序ある発展のために、仙台市は「仙台市都市計画原町工業都市建設土地区画整理事業」を策定した。現在の宮城野区東仙台5丁目や平成1、2丁目は、この頃にそれぞれ案内住宅や原町住宅としてつくられた区画である。また、燕沢住宅も東京第一陸軍造兵廠の工員のためにつくられた。造兵廠の工員輸送のため、宮城電気鉄道で新田駅の廃止と苦竹駅の新設が行われた。
戦後、東京第一陸軍造兵廠仙台製造所跡はアメリカ軍に接収され、アメリカ軍の第11空挺師団や第1騎兵師団がここに駐留した。このキャンプ地は1957年(昭和32年)にアメリカから日本へ返還された後、陸上自衛隊の仙台駐屯地となった。小田原にあった造兵廠の分工場跡地は工業用地となり、大蔵省専売局(専売公社を経て後に日本たばこ産業)の工場や、仙台市ガス局、その他企業の工場がここに進出した。
1964年(昭和39年)に仙台湾地域が国から新産業都市として指定されると、中野地区にその中心的な事業として仙台港が建設されることになった。仙台港は1967年(昭和42年)に着工され、1971年(昭和46年)に開港した。仙台港の建設により、赤松、北新田、沼向、追分の各集落は、原町小田原の安養寺や多賀城市笠神、利府町神谷沢などへ移転した。仙台港の周辺には、東北石油製油所や新仙台火力発電所、キリンビール仙台工場、その他企業の工場が進出して工業地帯となった。また、この仙台湾地域の新産業都市指定にあわせて、仙台市は市東部の苦竹、南目に流通団地や内陸工業地帯を整備することとし、土地区画整理事業に着手した。1969年(昭和44年)に自動車団地が完成し、その後に卸商団地やトラック団地、倉庫団地などができていった。田子と岡田にまたがる地域には東部工業団地が整備された。
住宅地の開発もいくつか行われた。鶴ケ谷団地は、1964年(昭和39年)に仙台市が事業の基本計画を決め、1967年(昭和42年)に造成開始、1968年(昭和43年)から分譲を開始したものである。当時としては、鶴ケ谷団地は大規模な開発団地だった。高砂地域では土地整理組合や民間の不動産業者により団地開発が行われた。昭和40年代から昭和50年代にかけて、福田町、中野、田子、出花、福室、白鳥で住宅団地が造成された。
仙台駅の東側は、戦中の仙台空襲の災禍を免れたため戦災復興の対象地域とならなかった。ここには戦前から残る古い建築物が建ち並び、「駅裏」とも呼ばれていた。しかし、東北新幹線の建設にあわせて、仙台駅東側の整備が行われることになり、仙台市による仙台駅東第一土地整理区画整理事業が1973年(昭和48年)に始まった。36メートルから50メートルの幅員を持つ都市計画道路の仙台駅宮城野原線が1982年(昭和57年)にほぼ完成し、これが宮城野通と名付けられた。また、鉄砲町と二十人町を中心とする地域では、1985年(昭和60年)より仙台駅東第二土地整理区画整理事業が行われた。こうした事業により、仙台駅東側には高層ビルが建設されるようになり、仙石線の地下化も行われて、街並みが一新した。
2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震では、宮城野区の海岸地区が大津波によって特に被災した。蒲生干潟が破壊され、日本で最も低い山に認定されていた日和山が消滅し、人的被害もあった。なお日和山に関しては2014年(平成26年)に山として認定され、再び日本で最も低い山となった。
宮城野区内に存在する仙台港(仙台塩釜港仙台港区)、宮城野貨物駅、国道4号、国道45号や、隣接する若林区の中央卸売市場などによって物流の条件に恵まれており、扇町一帯は若林区卸町とともに流通業が集積している。なお、2005年に宮城野原公園総合運動場内にある宮城球場を本拠地とするプロ野球球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生したので プロ野球の興行に関連した経済効果が期待されている。
宮城野区のうち、国道4号から西側の地区には、工場敷地やJR東日本の社宅群があったため、これらの跡地利用によって郊外型大型店や公共施設の整備が進められている。
東北本線と仙石線が通っており交通の便が他の区より良い。それに伴って駅前が発展してきており、小鶴新田駅前や岩切駅前はここ数年で目覚しい発展がある。
中心となる駅:陸前原ノ町駅、 仙台駅
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"text": "区の南西部はかつての仙台城の城下町の範囲であり、現在では仙台駅の東口に当たる。城下町の範囲からは外れるが、仙台駅から東方向には宮城野原公園総合運動場がある。この辺りは、古来より歌に詠まれ、区の名称の由来ともなった宮城野と比定されるところであり、プロ野球チームの東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地である宮城球場(楽天モバイルパーク宮城)がここにある。また、仙台を南西から北東にかけて横断する長町-利府線断層帯は、榴岡公園と宮城野原の間の地形に見ることができる。宮城野原の北側の原町地域は、江戸時代に宿場として発展したところであり、宮城野区役所はここに置かれている。",
"title": "地理"
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"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "区の東側は太平洋の仙台湾に面している。ここに仙台港があり、その後背地には仙台うみの杜水族館などがある。区内の主な川として七北田川と、その支流である梅田川がある。七北田川の河口には南側から貞山運河が接続し、また河口北側の蒲生干潟は鳥類や植物群落が集まる場所である。七北田川の周囲には自然堤防が形作られていて、ここには古い時期から集落が存在した。同様に、海岸付近に発達した浜堤にも古くから人々が住んでいた。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "国道4号仙台バイパスと国道45号の沿道には流通団地、工業団地がある。ここは高度経済成長の時代に水田からひらかれたが、地下水のくみ上げと盛り土の重量が地盤沈下を引き起こし、宮城県沖地震の際には液状化が起こった。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 5,
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"text": "宮城野区が設けられる以前にこの地域が一つのまとまりとされたことはなかった。1989年(平成元年)、仙台市が政令指定都市になるに際し、北東部を分割して設けたのが宮城野区である。区名は水田開発以前にこのあたり一帯の原野を指して呼んだ名称であり、また古来よりの歌枕でもある「宮城野」に由来する。区名選定の公募1位が港区、3位が東区、4位が萩区であった。他都市にある区名や方位をとらないことを方針とした仙台市区名選定委員会により、宮城野が選ばれた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "江戸時代、現在の宮城野区に当たる地域の西端は仙台城の城下町で、この外には南目村、苦竹村、小田原村、小鶴村、燕沢村、鶴ケ谷村、岩切村、蒲生村、中野村、福室村、田子村、岡田村があった。明治時代には、町村制のもとで、南目村、苦竹村、小田原村の合併で原町が、小鶴村、燕沢村、鶴ケ谷村、岩切村の合併で岩切村が、蒲生村、中野村、福室村、田子村、岡田村の合併で高砂村がそれぞれ誕生した。原町は1928年(昭和3年)に、岩切村と高砂村は1941年(昭和16年)に仙台市に吸収合併された。これらの地区が宮城野区となるが、旧原町地域の一部は青葉区、若林区となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 7,
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"text": "現在の宮城野区の地域で見つかっている最古の遺跡は縄文時代のものである。鶴ケ谷の菖蒲沢遺跡、燕沢の燕沢遺跡、岩切の山崎囲遺跡、仙台港近くの沼向遺跡などがそれである。縄文時代には縄文海進と呼ばれる海水面の上昇があり、当時の海岸線は現在のそれより内陸側にあったと見られている。燕沢遺跡と沼向遺跡には、弥生時代の人々の活動も認められる。古墳時代には多数の横穴墓が造られた。その例として、燕沢の善応寺横穴墓群、岩切の東光寺横穴墓群などが知られる。また、東仙台付近の丘陵地に須恵器を生産した窯跡群が発見されている。これは台原・小田原窯跡群と呼ばれている。中でも大連寺窯跡は早い時期に須恵器を生産していた窯跡として注目された。これらの窯跡群は古墳時代から奈良時代、平安時代にかけて利用された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "平安時代の869年(貞観11年)に起こった貞観地震では、津波によって沿岸部が広く浸水した。沼向遺跡の人々の活動痕跡はこの時に一度途絶えている。また、『和名類聚抄』には、宮城郡余戸郷、宮城郷が見られる。余戸郷は現在の岩切字余目に比定される。宮城郷については、後の鎌倉時代に苦竹を宮城本郷としたという記録があることから、苦竹が宮城郷の中心地だったのかもしれないと推察されている。現在の蒲生、中野から多賀城市八幡にかけての地域には、八幡荘(やわたのしょう)と呼ばれる荘園があった。",
"title": "歴史"
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"text": "古代の陸奥国府は多賀城だが、その行政府は10世紀以降に多賀国府として移ったとされる。多賀城から岩切にかけての地域が多賀国府と称されたと考えられているが、その中心地ははっきりとはわかっていない。ただ、この多賀国府は府中と称される都市的な広がりを持っていたとされる。七北田川と幹線道路の奥大道が交わる岩切は交通の要衝であり、現在の岩切大橋付近に河原宿市場があったと考えられている。岩切では中世前期の遺構や遺物が多く見つかっている。陸奥国留守職に任じられ、岩切一帯に所領を持ったのが伊沢家景で、その子孫が留守氏を名乗るようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 10,
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"text": "南北朝時代の1351年(観応2年・正平6年)には、足利尊氏とその弟直義が争った観応の擾乱の影響から、それぞれに与した二人の奥州管領の畠山国氏と吉良貞家が争って、岩切城合戦が起こった。吉良勢に押し込まれた畠山側は岩切城などに立て籠もっていたが、最終的には岩切城は吉良勢によって落とされた。その後、奥州管領の斯波氏が奥州探題に任命され、斯波氏が加美郡や志田郡に本拠を置いたことにより、多賀国府は政治的な中心地ではなくなった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "留守氏は、岩切城合戦で敗者となり、その動静が一時不明となるものの、その後も存続した。留守氏は岩切城を居城としていたが、留守政景の時に利府城へ移った。岩切城の他に、現在の宮城野区内に当たる地域の中世期の城館として東光寺城、化粧坂城、小鶴城、南目城、笹森城などがあった。このうち、東光寺城、化粧坂城、小鶴城は留守氏の城館で、南目城と笹森城は国分氏の城館だった。留守氏と国分氏は共に伊達氏の影響を受けるようになり、留守氏が伊達氏の家臣として所領を移りながら存続した一方、国分盛重とその家臣の内紛の影響から国分領は伊達氏の直轄領とされ、領主としての国分氏は滅んだ。",
"title": "歴史"
},
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"text": "戦国時代までは、幹線道路である東山道(奥大道、東街道)がこの地域を南北に通っていた。しかし、江戸時代になって仙台城とその城下町が建設されると、奥州街道は仙台城下を通るようになった。その一方で、仙台城下から塩竈や石巻方面に向かう道がつくられた。この街道につくられた宿場が原町宿である。原町宿は苦竹村と南目村にまたがる町場だった。寛文(1661年から1673年)の頃には、塩竈湾の牛生と七北田川河口の蒲生を結ぶ舟入堀と、鶴巻と苦竹を結ぶ舟曳堀がつくられた。これにより、舟入堀、七北田川、舟曳堀を経由することで、船荷が苦竹まで運ばれるようになった。米や木材がこの経路で城下まで運ばれたと考えられている。なおこの頃、七北田川は現在のそれに相当する河道に作り変えられたと考えられている。",
"title": "歴史"
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"text": "岩切村と田子村には足軽町が形成された。岩切の足軽町は今市で、田子村のそれは福田町である。福田町については、もともと野谷地や荒廃地を開墾するために入植した農民が、悪地の開墾に難儀したために、その救済として藩直属の足軽に取り立てられたものである。福田町は、福室村と田子村それぞれから一文字ずつ取られて名付けられた。今市と福田町の足軽は共に、仙台城下で出火した際に消火に従事したという。また、船荷の流通経路になった蒲生にも町場が形成された。新田開発は、平野部の村々で特に行われた。また、七北田川では川漁が、海浜地域では沿岸漁業が行われていた。",
"title": "歴史"
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"text": "明治時代になると、町村制に基づき、1889年(明治22年)に自治体としての原町、岩切村、高砂村が成立した。この時、宮城郡内で町として成立したのは塩竈町と原町のみである。町役場のみならず宮城郡の郡役所や郵便局、小学校などの公的施設が置かれた原町は行政の拠点だった。岩切村の村役場は今市に、高砂村の村役場は福田町に置かれた。なお、仙台城城下町の範囲は仙台区を経て1889年(明治22年)に仙台市となった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "現在の東北本線の前身である日本鉄道は1887年(明治20年)に塩竈まで開通し、この翌年に岩切駅が開業した。現在の仙台市域内においては、仙台駅に次いで2番目の鉄道駅だった。東北本線の東仙台駅は信号所から昇格する形で1933年(昭和7年)に開業した。東仙台駅の開設に合わせて、駅周辺で土地区画整理事業が行われた。これは都市計画法に基づくものとしては、仙台市で初の事例だった。仙石線の前身である宮城電気鉄道は1925年(大正14年)に仙台駅から西塩釜駅まで開通した。以後に設置されたものを含めて、東七番丁駅、榴ケ岡駅、宮城野原駅、陸前原ノ町駅、新田駅、福田町駅、陸前高砂駅があった。",
"title": "歴史"
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"text": "日中戦争のさ中の1941年(昭和16年)、原町苦竹に東京第一陸軍造兵廠仙台製造所が設置された。また、原町小田原にはその分工場がつくられた。これには、国策としての強制的な土地区画整理が伴った。仙台市東部の秩序ある発展のために、仙台市は「仙台市都市計画原町工業都市建設土地区画整理事業」を策定した。現在の宮城野区東仙台5丁目や平成1、2丁目は、この頃にそれぞれ案内住宅や原町住宅としてつくられた区画である。また、燕沢住宅も東京第一陸軍造兵廠の工員のためにつくられた。造兵廠の工員輸送のため、宮城電気鉄道で新田駅の廃止と苦竹駅の新設が行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "戦後、東京第一陸軍造兵廠仙台製造所跡はアメリカ軍に接収され、アメリカ軍の第11空挺師団や第1騎兵師団がここに駐留した。このキャンプ地は1957年(昭和32年)にアメリカから日本へ返還された後、陸上自衛隊の仙台駐屯地となった。小田原にあった造兵廠の分工場跡地は工業用地となり、大蔵省専売局(専売公社を経て後に日本たばこ産業)の工場や、仙台市ガス局、その他企業の工場がここに進出した。",
"title": "歴史"
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"text": "1964年(昭和39年)に仙台湾地域が国から新産業都市として指定されると、中野地区にその中心的な事業として仙台港が建設されることになった。仙台港は1967年(昭和42年)に着工され、1971年(昭和46年)に開港した。仙台港の建設により、赤松、北新田、沼向、追分の各集落は、原町小田原の安養寺や多賀城市笠神、利府町神谷沢などへ移転した。仙台港の周辺には、東北石油製油所や新仙台火力発電所、キリンビール仙台工場、その他企業の工場が進出して工業地帯となった。また、この仙台湾地域の新産業都市指定にあわせて、仙台市は市東部の苦竹、南目に流通団地や内陸工業地帯を整備することとし、土地区画整理事業に着手した。1969年(昭和44年)に自動車団地が完成し、その後に卸商団地やトラック団地、倉庫団地などができていった。田子と岡田にまたがる地域には東部工業団地が整備された。",
"title": "歴史"
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"text": "住宅地の開発もいくつか行われた。鶴ケ谷団地は、1964年(昭和39年)に仙台市が事業の基本計画を決め、1967年(昭和42年)に造成開始、1968年(昭和43年)から分譲を開始したものである。当時としては、鶴ケ谷団地は大規模な開発団地だった。高砂地域では土地整理組合や民間の不動産業者により団地開発が行われた。昭和40年代から昭和50年代にかけて、福田町、中野、田子、出花、福室、白鳥で住宅団地が造成された。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "仙台駅の東側は、戦中の仙台空襲の災禍を免れたため戦災復興の対象地域とならなかった。ここには戦前から残る古い建築物が建ち並び、「駅裏」とも呼ばれていた。しかし、東北新幹線の建設にあわせて、仙台駅東側の整備が行われることになり、仙台市による仙台駅東第一土地整理区画整理事業が1973年(昭和48年)に始まった。36メートルから50メートルの幅員を持つ都市計画道路の仙台駅宮城野原線が1982年(昭和57年)にほぼ完成し、これが宮城野通と名付けられた。また、鉄砲町と二十人町を中心とする地域では、1985年(昭和60年)より仙台駅東第二土地整理区画整理事業が行われた。こうした事業により、仙台駅東側には高層ビルが建設されるようになり、仙石線の地下化も行われて、街並みが一新した。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震では、宮城野区の海岸地区が大津波によって特に被災した。蒲生干潟が破壊され、日本で最も低い山に認定されていた日和山が消滅し、人的被害もあった。なお日和山に関しては2014年(平成26年)に山として認定され、再び日本で最も低い山となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "宮城野区内に存在する仙台港(仙台塩釜港仙台港区)、宮城野貨物駅、国道4号、国道45号や、隣接する若林区の中央卸売市場などによって物流の条件に恵まれており、扇町一帯は若林区卸町とともに流通業が集積している。なお、2005年に宮城野原公園総合運動場内にある宮城球場を本拠地とするプロ野球球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生したので プロ野球の興行に関連した経済効果が期待されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "宮城野区のうち、国道4号から西側の地区には、工場敷地やJR東日本の社宅群があったため、これらの跡地利用によって郊外型大型店や公共施設の整備が進められている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "東北本線と仙石線が通っており交通の便が他の区より良い。それに伴って駅前が発展してきており、小鶴新田駅前や岩切駅前はここ数年で目覚しい発展がある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "中心となる駅:陸前原ノ町駅、 仙台駅",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "このほか、JRバス東北を中心とした高速バスが仙台駅東口バスプールから発着するほか、旧ツアーバスも宮城野区内から発着する。",
"title": "交通"
}
] | 宮城野区(みやぎのく)は、仙台市を構成する5行政区のうちのひとつ。 | {{日本の行政区
|自治体名 = 宮城野区
|画像=File:Tsutsujigaoka_Park_in_the_cherry_blossom_season.jpg
|画像の説明=[[榴岡公園]]
|都道府県 = 宮城県
|支庁 =
|市 = 仙台市
|コード = 04102-5
|隣接自治体・行政区 = ''仙台市''([[青葉区 (仙台市)|青葉区]]、[[若林区]]、[[泉区 (仙台市)|泉区]])<br/>[[多賀城市]]、[[富谷市]]、[[宮城郡]][[七ヶ浜町]]、[[利府町]]
|木 =
|花 =
|シンボル名 = 他のシンボル
|鳥など =
|郵便番号 = 983-8601
|所在地 = 宮城野区五輪二丁目12番35号<br /><small>{{ウィキ座標度分秒|38|15|58|N|140|54|35.4|E|region:JP}}</small><br/>[[ファイル:MiyaginoKuyakusho2005-12 cropped.jpg|220px|center]]
|外部リンク = [https://www.city.sendai.jp/miyaginoku/ 仙台市宮城野区]
|位置画像 = [[ファイル:Miyagino-ku in Sendai City.svg|320x320px|宮城野区位置図]]
|特記事項 =
}}
'''宮城野区'''(みやぎのく)は、[[仙台市]]を構成する5[[行政区]]のうちのひとつ。
== 地理 ==
[[ファイル:Miyagino-dori avenue viewed from the rotary of Sendai station east exit.JPG|thumb|仙台駅東側の宮城野通。]]
宮城野区は仙台市の北東部にあり、同市の[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]、[[若林区]]、[[泉区 (仙台市)|泉区]]、[[多賀城市]]、[[七ヶ浜町]]、[[利府町]]、[[富谷市]]と隣り合っている。宮城野区内の大半は平野であり、そのうち西側は[[洪積台地]]で、東側は[[沖積平野]]である。北西部の丘陵地は台原・小田原丘陵と呼ばれ、標高が高い。この丘陵には与兵衛沼などいくつかの用水池が点在する<ref name="仙台市史特9-274-275">『仙台市史』特別編9(地域史)274-275頁。</ref>。また、区の北側の岩切地区には松島丘陵の南端が迫っている。ここには[[岩切城]]跡や古い寺社などの歴史的施設が集中し、また丘陵の一部が県民の森として整備されている<ref name="仙台市史特9-124-126">『仙台市史』特別編9(地域史)124-126頁。</ref>。
区の南西部はかつての[[仙台城]]の城下町の範囲であり、現在では[[仙台駅]]の東口に当たる。城下町の範囲からは外れるが、仙台駅から東方向には[[宮城野原公園総合運動場]]がある。この辺りは、古来より歌に詠まれ、区の名称の由来ともなった[[宮城野]]と比定されるところであり、プロ野球チームの[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の本拠地である[[宮城球場]](楽天モバイルパーク宮城)がここにある<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)277・295頁。</ref>。また、仙台を南西から北東にかけて横断する長町-利府線断層帯は、[[榴岡公園]]と宮城野原の間の地形に見ることができる<ref name="仙台市史特9-274-275"/>。宮城野原の北側の[[原町 (仙台市)|原町]]地域は、江戸時代に宿場として発展したところであり<ref name="仙台市史特9-274-275"/>、宮城野区役所はここに置かれている<ref group="注">区役所の所在地は五輪。</ref>。
区の東側は[[太平洋]]の[[仙台湾]]に面している。ここに[[仙台港]]があり、その後背地には[[仙台うみの杜水族館]]などがある。区内の主な川として[[七北田川]]と、その支流である[[梅田川 (宮城県)|梅田川]]がある。七北田川の河口には南側から[[貞山運河]]が接続し、また河口北側の蒲生干潟は鳥類や植物群落が集まる場所である<ref name="仙台市史特9-164-166">『仙台市史』特別編9(地域史)164-166頁。</ref><ref>“[https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/sizenhogo/sizen.html 蒲生干潟の自然]”(宮城県)2020年4月12日閲覧。</ref>。七北田川の周囲には[[自然堤防]]が形作られていて、ここには古い時期から集落が存在した<ref name="仙台市史特9-124-126"/>。同様に、海岸付近に発達した[[浜堤]]にも古くから人々が住んでいた<ref name="仙台市史特9-164-166"/>。
[[国道4号]][[仙台バイパス]]と[[国道45号]]の沿道には流通団地、工業団地がある<ref name="仙台市史特9-274-275"/>。ここは[[高度経済成長]]の時代に水田からひらかれたが、[[地下水]]のくみ上げと盛り土の重量が[[地盤沈下]]を引き起こし、[[宮城県沖地震 (1978年)|宮城県沖地震]]の際には[[液状化]]が起こった。
== 歴史 ==
=== 行政区域の変遷 ===
宮城野区が設けられる以前にこの地域が一つのまとまりとされたことはなかった。1989年(平成元年)、仙台市が政令指定都市になるに際し、北東部を分割して設けたのが宮城野区である。区名は水田開発以前にこのあたり一帯の原野を指して呼んだ名称であり、また古来よりの歌枕でもある「[[宮城野]]」に由来する。区名選定の公募1位が港区、3位が東区、4位が萩区であった。他都市にある区名や方位をとらないことを方針とした仙台市区名選定委員会により、宮城野が選ばれた。<ref>難波信雄「政令指定都市仙台の区名選定に関する資料」、『市史せんだい』、第15巻、2005年9月。</ref>
江戸時代、現在の宮城野区に当たる地域の西端は仙台城の城下町で、この外には南目村、[[苦竹|苦竹村]]、小田原村、小鶴村、燕沢村、鶴ケ谷村、岩切村、蒲生村、中野村、福室村、田子村、岡田村があった。明治時代には、[[町村制]]のもとで、南目村、苦竹村、小田原村の合併で[[原町 (宮城県)|原町]]が、小鶴村、燕沢村、鶴ケ谷村、岩切村の合併で[[岩切村]]が、蒲生村、中野村、福室村、田子村、岡田村の合併で[[高砂村]]がそれぞれ誕生した。原町は1928年(昭和3年)に、岩切村と高砂村は1941年(昭和16年)に仙台市に吸収合併された。これらの地区が宮城野区となるが、旧原町地域の一部は青葉区、若林区となった<ref name="仙台市史特9-274-275"/><ref name="仙台市史特9-124-126"/><ref name="仙台市史特9-164-166"/>。
=== 先史時代から中世まで ===
現在の宮城野区の地域で見つかっている最古の遺跡は[[縄文時代]]のものである。鶴ケ谷の菖蒲沢遺跡、燕沢の燕沢遺跡、岩切の山崎囲遺跡、仙台港近くの沼向遺跡などがそれである。縄文時代には[[縄文海進]]と呼ばれる海水面の上昇があり、当時の海岸線は現在のそれより内陸側にあったと見られている。燕沢遺跡と沼向遺跡には、[[弥生時代]]の人々の活動も認められる。[[古墳時代]]には多数の[[横穴墓]]が造られた。その例として、燕沢の善応寺横穴墓群、岩切の東光寺横穴墓群などが知られる<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)126・166頁。</ref>。また、東仙台付近の丘陵地に[[須恵器]]を生産した窯跡群が発見されている。これは台原・小田原窯跡群と呼ばれている。中でも大連寺窯跡は早い時期に須恵器を生産していた窯跡として注目された。これらの窯跡群は古墳時代から[[奈良時代]]、[[平安時代]]にかけて利用された<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)275-276頁。</ref>。
平安時代の869年(貞観11年)に起こった[[貞観地震]]では、津波によって沿岸部が広く浸水した。沼向遺跡の人々の活動痕跡はこの時に一度途絶えている<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)167頁。</ref>。また、『[[和名類聚抄]]』には、宮城郡[[余戸郷 (宮城郡)|余戸郷]]、[[宮城郷]]が見られる。余戸郷は現在の岩切字余目に比定される。宮城郷については、後の鎌倉時代に苦竹を宮城本郷としたという記録があることから、苦竹が宮城郷の中心地だったのかもしれないと推察されている<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)126・276-277頁。</ref>。現在の蒲生、中野から多賀城市八幡にかけての地域には、八幡荘(やわたのしょう)と呼ばれる[[荘園 (日本)|荘園]]があった<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)167-168頁。</ref>。
古代の陸奥[[国府]]は[[多賀城]]だが、その行政府は10世紀以降に多賀国府として移ったとされる。多賀城から岩切にかけての地域が多賀国府と称されたと考えられているが、その中心地ははっきりとはわかっていない。ただ、この多賀国府は府中と称される都市的な広がりを持っていたとされる。七北田川と幹線道路の奥大道が交わる岩切は交通の要衝であり、現在の岩切大橋付近に河原宿市場があったと考えられている。岩切では中世前期の遺構や遺物が多く見つかっている。陸奥国留守職に任じられ、岩切一帯に所領を持ったのが[[伊沢家景]]で、その子孫が[[留守氏]]を名乗るようになった<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)127-129頁。</ref>。
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の1351年(観応2年・正平6年)には、[[足利尊氏]]とその弟[[足利直義|直義]]が争った[[観応の擾乱]]の影響から、それぞれに与した二人の[[奥州管領]]の[[畠山国氏 (奥州管領)|畠山国氏]]と[[吉良貞家]]が争って、岩切城合戦が起こった。吉良勢に押し込まれた畠山側は岩切城などに立て籠もっていたが、最終的には岩切城は吉良勢によって落とされた<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)131頁。</ref>。その後、奥州管領の[[斯波氏]]が[[奥州探題]]に任命され、斯波氏が加美郡や志田郡に本拠を置いたことにより、多賀国府は政治的な中心地ではなくなった<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)132頁。</ref>。
留守氏は、岩切城合戦で敗者となり、その動静が一時不明となるものの、その後も存続した。留守氏は岩切城を居城としていたが<ref group="注">洞ノ口遺跡も留守氏の居館だったと考えられている。</ref>、[[留守政景]]の時に[[利府城]]へ移った。岩切城の他に、現在の宮城野区内に当たる地域の中世期の城館として東光寺城、化粧坂城、小鶴城、南目城、[[笹森城]]などがあった。このうち、東光寺城、化粧坂城、小鶴城は留守氏の城館で、南目城と笹森城は[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]の城館だった<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)133-134・274-275頁。</ref>。留守氏と国分氏は共に[[伊達氏]]の影響を受けるようになり、留守氏が伊達氏の家臣として所領を移りながら存続した一方、[[国分盛重]]とその家臣の内紛の影響から国分領は伊達氏の直轄領とされ、領主としての国分氏は滅んだ<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)134・310頁。</ref>。
=== 近世から近代まで ===
戦国時代までは、幹線道路である[[東山道]](奥大道、東街道)がこの地域を南北に通っていた。しかし、江戸時代になって仙台城とその城下町が建設されると、[[奥州街道]]は仙台城下を通るようになった。その一方で、仙台城下から塩竈や石巻方面に向かう道がつくられた。この街道につくられた[[宿場]]が原町宿である<ref name="仙台市史特9-283">『仙台市史』特別編9(地域史)283頁。</ref>。原町宿は苦竹村と南目村にまたがる町場だった<ref name="仙台市史特9-279">『仙台市史』特別編9(地域史)279頁。</ref>。寛文(1661年から1673年)の頃には、塩竈湾の牛生と七北田川河口の蒲生を結ぶ舟入堀と、鶴巻と苦竹を結ぶ舟曳堀がつくられた。これにより、舟入堀、七北田川、舟曳堀を経由することで、船荷が苦竹まで運ばれるようになった。米や木材がこの経路で城下まで運ばれたと考えられている<ref name="仙台市史特9-283"/><ref name="仙台市史特9-195-197">『仙台市史』特別編9(地域史)195-197頁。</ref>。なおこの頃、七北田川は現在のそれに相当する河道に作り変えられたと考えられている<ref group="注">それまでの七北田川は、岩切付近で東に折れて、現在の砂押川に当たる河道で流れていた。</ref><ref>『仙台市史』特別編9(地域史)171頁。</ref>。
岩切村と田子村には足軽町が形成された。岩切の足軽町は今市で、田子村のそれは福田町である。福田町については、もともと野谷地や荒廃地を開墾するために入植した農民が、悪地の開墾に難儀したために、その救済として藩直属の[[足軽]]に取り立てられたものである。福田町は、福室村と田子村それぞれから一文字ずつ取られて名付けられた。今市と福田町の足軽は共に、仙台城下で出火した際に消火に従事したという<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)139・175-176頁。</ref>。また、船荷の流通経路になった蒲生にも町場が形成された<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)173頁。</ref>。[[新田|新田開発]]は、平野部の村々で特に行われた<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)140-141・171-176・284頁。</ref>。また、七北田川では川漁が、海浜地域では沿岸漁業が行われていた<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)177頁。</ref>。
明治時代になると、町村制に基づき、1889年(明治22年)に自治体としての原町、岩切村、高砂村が成立した。この時、[[宮城郡]]内で町として成立したのは塩竈町と原町のみである。町役場のみならず宮城郡の郡役所や郵便局、小学校などの公的施設が置かれた原町は行政の拠点だった<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)284-285頁。</ref>。岩切村の村役場は今市に<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)144頁。</ref>、高砂村の村役場は福田町に置かれた<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)179頁。</ref>。なお、仙台城城下町の範囲は[[仙台区]]を経て1889年(明治22年)に仙台市となった。
現在の東北本線の前身である[[日本鉄道]]は1887年(明治20年)に塩竈まで開通し、この翌年に岩切駅が開業した。現在の仙台市域内においては、仙台駅に次いで2番目の鉄道駅だった<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)147-148頁。</ref>。東北本線の東仙台駅は信号所から昇格する形で1933年(昭和7年)に開業した<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)291頁。</ref>。東仙台駅の開設に合わせて、駅周辺で土地区画整理事業が行われた。これは都市計画法に基づくものとしては、仙台市で初の事例だった<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)292頁。</ref>。仙石線の前身である[[宮城電気鉄道]]は1925年(大正14年)に仙台駅から西塩釜駅まで開通した。以後に設置されたものを含めて、[[仙台東口駅|東七番丁駅]]、榴ケ岡駅、宮城野原駅、陸前原ノ町駅、[[新田駅 (宮城電気鉄道)|新田駅]]、福田町駅、陸前高砂駅があった<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)186・291頁。</ref>。
日中戦争のさ中の1941年(昭和16年)、原町苦竹に東京第一陸軍造兵廠仙台製造所が設置された<ref name="仙台市史特9-286">『仙台市史』特別編9(地域史)286頁。</ref>。また、原町小田原にはその分工場がつくられた。これには、国策としての強制的な土地区画整理が伴った。仙台市東部の秩序ある発展のために、仙台市は「仙台市都市計画原町工業都市建設土地区画整理事業」を策定した。現在の宮城野区東仙台5丁目や平成1、2丁目は、この頃にそれぞれ案内住宅や原町住宅としてつくられた区画である<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)292-293頁。</ref>。また、燕沢住宅も東京第一陸軍造兵廠の工員のためにつくられた<ref name="仙台市史特9-152">『仙台市史』特別編9(地域史)152頁。</ref>。造兵廠の工員輸送のため、宮城電気鉄道で新田駅の廃止と苦竹駅の新設が行われた<ref name="仙台市史特9-286"/>。
=== 現代 ===
戦後、東京第一陸軍造兵廠仙台製造所跡はアメリカ軍に接収され、アメリカ軍の第11空挺師団や第1騎兵師団がここに駐留した。このキャンプ地は1957年(昭和32年)にアメリカから日本へ返還された後、[[陸上自衛隊]]の[[仙台駐屯地]]となった<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)293頁。</ref>。小田原にあった造兵廠の分工場跡地は工業用地となり、[[大蔵省専売局]]([[専売公社]]を経て後に[[日本たばこ産業]])の工場や、[[仙台市ガス局]]、その他企業の工場がここに進出した<ref name="仙台市史特9-294">『仙台市史』特別編9(地域史)294頁。</ref>。
1964年(昭和39年)に仙台湾地域が国から[[新産業都市]]として指定されると、中野地区にその中心的な事業として仙台港が建設されることになった。仙台港は1967年(昭和42年)に着工され、1971年(昭和46年)に開港した。仙台港の建設により、赤松、北新田、沼向、追分の各集落は、原町小田原の安養寺や多賀城市笠神、利府町神谷沢などへ移転した。仙台港の周辺には、[[JXTGエネルギー仙台製油所|東北石油製油所]]や[[新仙台火力発電所]]、[[麒麟麦酒|キリンビール]]仙台工場、その他企業の工場が進出して工業地帯となった<ref name="仙台市史特9-190">『仙台市史』特別編9(地域史)190頁。</ref>。また、この仙台湾地域の新産業都市指定にあわせて、仙台市は市東部の苦竹、南目に流通団地や内陸工業地帯を整備することとし、土地区画整理事業に着手した。1969年(昭和44年)に自動車団地が完成し、その後に卸商団地やトラック団地、倉庫団地などができていった<ref name="仙台市史特9-294"/>。田子と岡田にまたがる地域には東部工業団地が整備された<ref name="仙台市史特9-190"/>。
住宅地の開発もいくつか行われた。鶴ケ谷団地は、1964年(昭和39年)に仙台市が事業の基本計画を決め、1967年(昭和42年)に造成開始、1968年(昭和43年)から分譲を開始したものである。当時としては、鶴ケ谷団地は大規模な開発団地だった<ref name="仙台市史特9-152"/>。高砂地域では土地整理組合や民間の不動産業者により団地開発が行われた。昭和40年代から昭和50年代にかけて、福田町、中野、田子、出花、福室、白鳥で住宅団地が造成された<ref>『仙台市史』特別編9(地域史)191頁。</ref>。
仙台駅の東側は、戦中の[[仙台空襲]]の災禍を免れたため戦災復興の対象地域とならなかった。ここには戦前から残る古い建築物が建ち並び、「駅裏」とも呼ばれていた。しかし、[[東北新幹線]]の建設にあわせて、仙台駅東側の整備が行われることになり、仙台市による仙台駅東第一土地整理区画整理事業が1973年(昭和48年)に始まった。36メートルから50メートルの幅員を持つ都市計画道路の仙台駅宮城野原線が1982年(昭和57年)にほぼ完成し、これが宮城野通と名付けられた。また、鉄砲町と二十人町を中心とする地域では、1985年(昭和60年)より仙台駅東第二土地整理区画整理事業が行われた。こうした事業により、仙台駅東側には高層ビルが建設されるようになり、仙石線の地下化も行われて、街並みが一新した<ref>『仙台市史』通史編9(現代2)141-142頁。</ref>。
[[ファイル:SH-60B helicopter flies over Sendai.jpg|thumb|東北地方太平洋沖地震の津波で浸水した仙台港付近。]]
2011年(平成23年)3月11日の[[東北地方太平洋沖地震]]では、宮城野区の海岸地区が大津波によって特に被災した。蒲生干潟が破壊され、日本で最も低い山に認定されていた[[日和山 (仙台市)|日和山]]が消滅し、人的被害もあった<ref>[http://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2011/04/20110401t13076.htm 野鳥の楽園、見る影なく 一帯に砂、復元不能か 蒲生干潟](河北新報 2011年4月1日)</ref>。なお日和山に関しては2014年(平成26年)に山として認定され、再び日本で最も低い山となった。
== 人口 ==
*1990年 172,718
*1995年 176,827
*2000年 178,780
*2005年 182,678
*2010年 190,473
*2015年 194,825
== 経済 ==
[[ファイル:Rakuten Seimei Park Miyagi 2019.jpg|thumb|宮城球場(楽天生命パーク宮城)。]]
宮城野区内に存在する[[仙台港]]([[仙台塩釜港]]仙台港区)、[[仙台貨物ターミナル駅|宮城野貨物駅]]、[[国道4号]]、[[国道45号]]や、隣接する[[若林区]]の中央卸売市場などによって物流の条件に恵まれており、扇町一帯は若林区卸町とともに流通業が集積している。なお、2005年に宮城野原公園総合運動場内にある[[宮城球場]]を本拠地とする[[プロ野球]]球団の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]が誕生したので<ref>{{Cite web|和書|author=礒部公一|authorlink=礒部公一|title=楽天イーグルスはいかにして誕生したのか|publisher=東洋経済|url= https://toyokeizai.net/articles/amp/253562?display=b|date=2018年12月8日|accessdate=2020年3月9日}}</ref> プロ野球の興行に関連した経済効果が期待されている。
宮城野区のうち、国道4号から西側の地区には、工場敷地やJR東日本の社宅群があったため、これらの跡地利用によって郊外型大型店や公共施設の整備が進められている。
[[東北本線]]と[[仙石線]]が通っており交通の便が他の区より良い。それに伴って駅前が発展してきており、[[小鶴新田駅]]前や[[岩切駅]]前はここ数年で目覚しい発展がある。
=== 郵便 ===
* [[仙台東郵便局]](集配局・[[ゆうゆう窓口]]設置局、[[ゆうちょ銀行]]仙台東店併設) - 港五丁目を除く区内全域の集配を担当。港五丁目は[[塩釜郵便局]]が担当する。
{{col|
* 仙台岩切郵便局
* 仙台岡田郵便局
* 仙台小田原郵便局
* 仙台蒲生郵便局
* 仙台国立病院前郵便局
* 仙台幸町郵便局|
* 仙台栄郵便局
* 仙台新田郵便局
* 仙台自由ケ丘郵便局
* 仙台田子郵便局
* 仙台第三合同庁舎内郵便局
* 仙台榴ケ岡郵便局|
* 仙台燕沢郵便局
* 仙台鶴ケ谷郵便局
* 仙台苦竹郵便局
* 仙台二十人町郵便局
* 仙台原町郵便局
* 仙台福田町郵便局|
* 仙台福室郵便局
* 仙台宮城野郵便局
* 東仙台四郵便局
* メルパルク仙台郵便局
* JR仙台イーストゲートビル郵便局
* 今市簡易郵便局}}
=== 金融機関 ===
* [[七十七銀行]]
* [[仙台銀行]]
* [[杜の都信用金庫]]
* [[宮城第一信用金庫]]
* [[仙台農業協同組合]]…当区内に本店を置く。
* [[東邦銀行]]仙台東支店
* [[きらやか銀行]]弓の町支店
* [[北日本銀行]]原町支店
* [[仙南信用金庫]]原町支店(本店は[[白石市]])
* [[ゆうちょ銀行]]仙台東店
== 教育 ==
=== 大学 ===
* [[東北医科薬科大学]]福住キャンパス
* [[東北福祉大学]]仙台駅東口キャンパス
=== 高等学校 ===
{{main2|中学校を併設しない高等学校一覧は、[[宮城県高等学校一覧#宮城野区]] を}}
* [[東北学院中学校・高等学校|東北学院高等学校]](中高併設)
=== 中学校 ===
{{main2|高等学校を併設しない中学校一覧は、[[宮城県中学校一覧#宮城野区]] を}}
* [[東北学院中学校・高等学校|東北学院中学校]](中高併設)
=== 小学校 ===
{{main2|学校一覧は、[[宮城県小学校一覧#宮城野区]] を}}
=== 幼稚園 ===
{{Multicol}}
* あけぼの幼稚園
* 岩切東光幼稚園
* 岩切東光第二幼稚園
* お人形社第二幼稚園
* 上田子幼稚園
* みやぎ幼稚園
* さいわい幼稚園
* 清水幼稚園
{{Multicol-break}}
* しらとり幼稚園
* 志波幼稚園
* 立華幼稚園
* 鶴ケ谷幼稚園
* 東岡幼稚園
* 東盛幼稚園
* 東陽幼稚園
{{Multicol-break}}
* なかの幼稚園
* 仲よし幼稚園
* ナザレト幼稚園
* はなぶさ幼稚園
* 東仙台幼稚園
* ふくだまち幼稚園
* ふくむろ幼稚園
{{Multicol-end}}
=== 特別支援学校 ===
* [[仙台市立鶴谷特別支援学校]]
* [[いずみ高等支援学校]]
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
[[ファイル:Sendai City Museum of History and Folklore 20090910.JPG|thumb|榴岡公園内に建つ[[仙台市歴史民俗資料館]]]]
* 苦竹のイチョウ([[天然記念物]])<ref>“[http://www.city.sendai.jp/ryokuchihozen/mesho100sen/ichiran/043.html 苦竹のイチョウ]”(仙台市)2020年4月12日閲覧。</ref><ref>“[http://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/shiteidb/c00570.html 苦竹のイチョウ]”(仙台市教育委員会文化財課)2020年4月12日閲覧。</ref>
* [[燕沢碑]]
* [[岩切城]](高森城)跡
* [[榴岡公園]]
* 県民の森
* [[仙台市歴史民俗資料館]]<ref>“[http://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/~rekimin/ 仙台市歴史民俗資料館]”(仙台市)2020年4月12日閲覧。</ref>
* [[仙台うみの杜水族館]]
* 仙台市新田東総合運動場(元気フィールド仙台)
** [[仙台市民球場]]
* [[宮城野原公園総合運動場]]
** [[宮城球場]](楽天モバイルパーク宮城。[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]本拠地)
** [[仙台市陸上競技場]](弘進ゴム アスリートパーク仙台、旧宮城陸上競技場)
* [[仙台サンプラザ]]
== 交通 ==
[[ファイル:Rikuzen-Haranomachi-stn cropped.jpg|thumb|陸前原ノ町駅の駅舎。]]
=== 鉄道 ===
中心となる駅:'''[[陸前原ノ町駅]]'''、 '''[[仙台駅]]'''<ref group="注" name="Sendai sta.">駅所在地は青葉区であるが、仙石線及び東口バスプールは宮城野区内に所在する。</ref>
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
** {{Color|seagreen|■}} [[東北本線]]<small>( - [[東仙台駅]] - [[岩切駅]] - )</small>
** {{Color|skyblue|■}} [[仙石線]]<small>( - [[仙台駅]] - [[榴ケ岡駅]] - [[宮城野原駅]] - [[陸前原ノ町駅]] - [[苦竹駅]] - [[小鶴新田駅]] - [[福田町駅]] - [[陸前高砂駅]] - [[中野栄駅]] - )</small>
:: その他、[[東北新幹線]]が仙台駅 - [[古川駅]]間で、[[仙山線]]が仙台駅 - [[東照宮駅]]間でそれぞれ当区内を通過する。
* [[仙台市地下鉄]]([[仙台市交通局]])
** {{Color|#90d7ec|■}} [[仙台市地下鉄東西線|東西線]]<small>( - [[宮城野通駅]] - )</small>
* [[日本貨物鉄道]](JR貨物)
** 東北本線宮城野貨物支線<small>( - [[仙台貨物ターミナル駅]] - 東仙台駅)</small>
* [[仙台臨海鉄道]]
** [[仙台臨海鉄道臨海本線|臨海本線]]<small>( - [[仙台港駅]] - [[仙台北港駅]])</small>
** [[仙台臨海鉄道仙台埠頭線|仙台埠頭線]]<small>(仙台港駅 - [[仙台埠頭駅]])</small>
** [[仙台臨海鉄道仙台西港線|仙台西港線]]<small>(仙台港駅 - [[仙台西港駅]])</small>
=== バス ===
* [[仙台市営バス]]([[仙台市交通局]])
* [[宮城交通]]
* [[利府町民バス]]
* [[ミヤコーバス]](荒井多賀城線のみ)
* [[多賀城西部線]]<ref>[https://www.city.tagajo.miyagi.jp/kurasi/koutuu/ku-ko-bus.html 市内を走るバス] 多賀城市</ref>
このほか、[[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]を中心とした高速バスが[[仙台駅のバス乗り場#仙台駅東口|仙台駅東口バスプール]]<ref group="注" name="Sendai sta."/>から発着するほか、旧[[ツアーバス]]も宮城野区内から発着する。
=== 乗り合いタクシー ===
* 「のりあい・つばめ」 燕沢地区を運行
=== 港湾 ===
[[ファイル:Sendaikou.JPG|thumb|仙台港。]]
* [[仙台港]]([[仙台塩釜港]]仙台港区):苫小牧航路および名古屋航路の長距離[[フェリー]]が発着する。
=== 道路 ===
* [[高速道路]]
** {{Ja Exp Route Sign|E6}} [[仙台東部道路]]<ref group="注" name="ぐるっ都">[[仙台都市圏環状自動車専用道路]](「ぐるっ都・仙台」)内</ref>: - [[仙台港インターチェンジ|仙台港IC]] - [[仙台港北インターチェンジ|仙台港北IC]]
** {{Ja Exp Route Sign|E45}} [[三陸沿岸道路|三陸自動車道]]<ref group="注" name="ぐるっ都"/>:仙台港北IC -
* [[一般国道]]
** [[国道4号]]([[仙台バイパス]])
** [[国道45号]]
* [[都道府県道|県道]]
** [[宮城県道8号仙台松島線]]
** [[宮城県道10号塩釜亘理線]]
** [[宮城県道23号仙台塩釜線]]
** [[宮城県道35号泉塩釜線]]
** [[宮城県道138号原町停車場線]]
** [[宮城県道270号利府岩切停車場線]]
== 出身人物 ==
{{main|仙台の著名人一覧}}
* [[あうら聖児]] - 漫画家
* [[稲垣潤一]] - 歌手
* [[清貴]] - 歌手
* [[榊原光裕]] - ピアニスト
* [[佐藤真哉]] - プロ[[バスケットボール選手]]([[仙台89ers]]所属)
* [[たこ八郎]] - コメディアン、俳優
* [[大戸平廣吉]] - 大相撲力士
* [[澤蘭子]] - 女優
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編9(現代2) 仙台市、2013年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』特別編9(地域史) 仙台市、2014年。
== 外部リンク ==
* [https://www.city.sendai.jp/miyaginoku/index.html 宮城野区トップページ]
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[[Category:仙台市の区]]
[[Category:宮城野区|*]]
[[Category:1989年に成立した行政区画]]
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8,956 | カリフォルニア州 | 座標: 北緯37度 西経120度 / 北緯37度 西経120度 / 37; -120
カリフォルニア州(カリフォルニアしゅう、英: State of California)は、アメリカ合衆国西部、太平洋岸の州。アメリカ西海岸の大部分を占める。
アメリカ合衆国の州のうちでは最大の人口を誇り、アメリカ大統領選の選挙人数も最多である。ブラジルのサンパウロ州に続いて南北アメリカ大陸で2番目に人口の多い行政区画であり、大都市は人口の多い順にロサンゼルス(約390万人)、サンディエゴ(約140万人)、サンノゼ(約100万人)、サンフランシスコ(約87万人)となっている。ロサンゼルスはニューヨーク市に次ぐ人口規模を誇る。州内には全国で2位(ロサンゼルス)と6位(サンフランシスコとサンノゼを含む「ベイエリア」)の都市圏があり、市域人口の多い全米の都市上位50位以内に9市が入っている。州都はサクラメント(約52万人)である。
かつて日本では漢字で「加利福尼亜」と表記されることもあったが、現在ではあまり用いられない。この略である「加州」は、新聞の見出しのように字数制限のある場合など、今でも用いられることがある。
カリフォルニア州には多様な気候と地形があり、また多くの民族が住んでいる。合衆国の州としてはアラスカ州とテキサス州に次いで3番目に大きな面積を持つ。北はオレゴン州、北東はネバダ州、南東はアリゾナ州に接し、南はメキシコのバハ・カリフォルニア州に接している。地理的には太平洋岸から東のシエラネバダ山脈まで、南東はモハーヴェ砂漠、北西にはセコイアやベイマツの森林がある。州の中央には世界でも最高水準の生産性の高さを誇る農業地帯、セントラル・バレーがある。アメリカ合衆国本土として、標高が最高の地点(ホイットニー山)と最低の地点(デスバレー)がある。面積のおよそ40%は森林であり、乾燥した地域としては森林が比較的多い。
18世紀の後半から「アルタ・カリフォルニア」と呼ばれた地域はスペイン帝国の植民地となった。1821年にアルタ・カリフォルニアを含みメキシコが第一メキシコ帝国となって帝政を布いた後に共和国に変わった。1846年、ソノマにいたアメリカ人開拓者の集団がカリフォルニア共和国の独立を宣言した。その直後の米墨戦争の結果、メキシコはカリフォルニアをアメリカ合衆国に割譲した。カリフォルニアは1850年9月9日にアメリカ合衆国第31番目の州となった。
19世紀半ばの「ゴールドラッシュ」によって、カリフォルニアでは社会、経済および人口に劇的な変化が起こった。人々が流入し好景気が訪れたことでサンフランシスコはテントの集まった小村から世界にも知られたブームの街に成長した。20世紀初期の重要な発展としては、娯楽産業の中心としてのロサンゼルスの勃興と州全体に広がる巨大な観光産業があった。豊かな農業に加えて航空宇宙産業、石油産業および情報技術産業が経済発展に貢献した。特にサンフランシスコ近郊のシリコンバレーは、AppleやGoogle(Alphabet)、Facebook(Meta)などの世界トップクラスのIT企業が多数集積している。
カリフォルニア州が1つの国家であるとすると、GDPではイタリアに匹敵する第10位である。人口でも第35位、国土では第59位になる。
カリフォルニア州では、歴史的に一部地域で分離・独立を繰り返し目指す動きが見られる。1800年代から2011年までに少なくとも27回独立が試みられ、すべて失敗に終わっている。
サンフランシスコ・ベイエリアを中心とする北部と、農業が盛んな中部、ロサンゼルス〜サンディエゴ帯を中心とする南部に分かれる。ベイエリアにはシリコンバレーが含まれ、全米で最も経済的に進んだ地域のひとつである。ロサンゼルスはハリウッドを抱えるなど、エンターテイメント産業の世界的中心である。
アジアやメキシコに近いため、移民が多い。移民はそれぞれの居住区に固まる傾向が強く、「民族のサラダボウル」という形容が当てはまる。チャイナタウン、コリアンタウン、リトルトーキョー、リトルサイゴン(英語版)、リトルインディア(英語版)などが有名である。なかでも隣接したメキシコからの移民が多く、スペイン語は州準公用語となっている。
南部の多くはかつてメキシコの領土で、元々はスペイン人によって開拓されたが、1848年の米墨戦争の結果、ニューメキシコとともにメキシコからアメリカに1,500万ドルで割譲され、アメリカ領となった(同時にテキサスのアメリカ領有も確定した)。そのため、カリフォルニア州にはスペイン語由来の地名が非常に多い。
後にアメリカ合衆国大統領となった、ロナルド・レーガンはカリフォルニア州知事を経験している。2003年10月には、俳優でオーストリア生まれのアーノルド・シュワルツェネッガーが州知事に当選し、2011年1月まで務めた。
「カリフォルニア」という名称は当初、今日のカリフォルニア州に加えてネバダ州、ユタ州、アリゾナ州およびワイオミング州の一部とメキシコのバハ・カリフォルニア半島からなる地域を指していた。
カリフォルニアの語源は黒人のアマゾン族の人々が住み、女王カリフィア(恐らくはカリフが語源)が支配する空想上の天国から派生したというのが最も普通に信じられている。カリフィアの神話は、スペイン人作家のガルシ・ロドリゲス・デ・モンタルボによって騎士道物語『アマディス・デ・ガウラ』の続編として書かれた1510年の作品『エスプランディアンの武勲』に記録されている。モンタルボに拠れば、女王カリフィアの王国はグリフォンなど奇妙な怪獣が住み、金が豊富な遠隔の土地であるとされていた。
カリフォルニアという地名はアメリカ合衆国でヨーロッパ人が付けた地名としては5番目に古く、また今も使われているものである。エルナン・コルテスの命令で1533年にバハ・カリフォルニアの南端に上陸したディエゴ・デ・バセラとフォルトゥン・ヒメネスが率いたスペイン遠征隊によって「カリフォルニア島」と命名された が、のちにそれは半島であることが判明した。
アメリカ大陸の西部、シエラネバダ山脈の西側の太平洋に面した地域である。面積は3番目に大きな州で、日本の1.1倍の広さである。南北に長い形状で、北部はオレゴン州に、東側はネバダ州・アリゾナ州に隣接している。最南端の都市サンディエゴにはメキシコとの国境があり、不法移民の入国が社会問題となっている。太平洋の沿岸にはサンフランシスコ・ベイエリア、ロサンゼルス大都市圏、サンディエゴなどのアメリカを代表する大都市圏が位置している。
州の中央にはセントラル・バレーがあり、西の海岸山脈(英語版)と東のシエラネバダ山脈に、北はカスケード山脈、南はテハチャピ山地に囲まれている。セントラル・バレーはカリフォルニアの農業中心であり、国内食糧生産高の約3分の1を生産している。セントラル・バレーはサクラメント=サンホアキン・デルタによって2つに分かれており、北側のサクラメント・バレーにはサクラメント川が流れ、南側のサンホアキン・バレーにはサンワーキン川が流れている。どちらのバレーもそこを横切る川の名前が採られている。サクラメント川とサンワーキン川を浚渫することで両川は十分な深さが保たれ、内陸の都市幾つかでも海港になっている。そのデルタは州内の重要な水の供給源にもなっている。水はデルタ地域から汲み上げられ、セントラルバレー・プロジェクトや州水道プロジェクトなどを含み、州の長さに相当するような広範な運河網を使って運ばれる。デルタ地帯からの水は州人口の3分の2にあたる2,300万人近い住人の飲料水になり、サンホアキン・バレーの西では農業用水になっている。南部海岸にはチャンネル諸島が浮かんでいる。
シエラネバダ山脈(スペイン語で雪の山脈)にはアメリカ合衆国本土では最高峰であるホイットニー山(標高14,505フィート、4,421 m)がある。この山脈には、氷河が削ったことで有名なヨセミテ渓谷や、地球上最大の生物セコイアの木で覆われたセコイア国立公園、貯水量で州内最大の淡水湖であるタホ湖がある。
シエラネバダ山脈の東には渡り鳥の生息地オーエンズヴァレーとモノ湖がある。州西部には水面積で州内最大のクリア湖がある。タホ湖の方が大きいがカリフォルニア州とネバダ州の州境で分けられている。シエラネバダ山脈は冬季に北極並みの気温まで下がり、アメリカ合衆国では一番南にあるパリセイド氷河(英語版)など、多くの小さな氷河も残っている。
州内陸地表面積の約45 %は森林で覆われており、アラスカ州を除けばアメリカ合衆国の州で最も森林の多い州である。松類の多様さは他の州に無いものである。ホワイト山地(英語版)の樹木の多くは世界最古のものである。ブリストルコーン松の場合は樹齢4,700年のものがある。
南部には大きな内陸塩湖であるソルトン湖がある。中南部の砂漠はモハーヴェ砂漠と呼ばれている。その北東にデスバレーがあり、北アメリカでは最も低く最も暑い地点、バッドウォーター盆地を含んでいる。デスバレーの最低地点からホイットニー山の最高地点までの距離は200マイル (320 km) に満たない。南東部の大半は乾燥して暑い砂漠であり、夏季には極端に高い温度を記録することが多い。
カリフォルニア州は環太平洋火山帯の一部であり、津波、洪水、旱魃、サンタアナ風(偏西風)、山火事、地すべりおよび幾つかの火山活動など自然災害が多い。南部から西部にかけてのサンアンドレアス断層など幾つかの断層のために比較的震源が浅い地震(直下型地震)が多い。過去にマグニチュード8クラスの地震を経験している。
気候は主にまばゆい太陽が輝き乾燥した夏と冷涼で雨の多い冬の地中海性気候の地域が多く、また亜寒帯気候に入る地域まである。冷たいカリフォルニア海流のために海岸近くで霧が発生することが多い。降水量は多くなく、シエラネバダ山脈に降った雪解け水の伏流水を井戸で汲み上げているところが多い。しかし急激な人口増加で新たな水源の確保が課題となっている。
州の形状や長い海岸線、高低差などのために、州の南端と北端または海岸部と内陸部ではかなり気温や気候が異なることがある。内陸部では寒い冬と暑い夏がある。そのため、南部の海岸でサーフィンをする人がいる一方、内陸の山地帯ではスキーをする人がいたりもする。
州北部は南部よりも年間降水量が多い。山岳部も気候に影響する。州内で雨の多い場所は山岳の西側斜面である。北西部は温暖な気候であり、セントラル・バレーは地中海性気候だが海岸部よりも温暖差が激しい。シエラネバダ山脈など高山では、冬は雪の多い山岳気候であり、夏は比較的過ごしやすい暑さになる。
山岳部の東側は雨蔭となり、広大な砂漠を生んでいる。東部の高度が高い砂漠では夏に暑く冬は寒いが、南部山岳の東にある低地砂漠では夏は暑く、冬は霜がほとんど降りず比較的温暖である。海面より低い所が広がるデスバレーは北アメリカで最も暑い場所と考えられている。1913年7月10日に西半球での最高温度 134°F(57 °C) を記録した。
カリフォルニアは世界でも最も豊かで最も多様な地域の1つであり、最も絶滅が危惧される生態系も幾つかある。生物地理区では新北区に属し、多くの生物地理学的地域に跨っている。
カリフォルニアには数多い固有種がおり、カタリーナ・アイアンウッド (Lyonothamnus floribundus) のような、他所では死に絶えた遺存種が残っている。カリフォルニア・ライラック (Ceanothus) のように多様な生息条件を利点にして、共通の祖先から多くの種が派生した分化あるいは適応放散によって発生した固有種が多い。カリフォルニアの固有種の多くは、都市化、伐採、過放牧および外来種の導入がその生息地に侵入することで絶滅が危惧されている。
カリフォルニアの植物相の集合には幾つか最上級のものがある。最大の樹木(セコイアデンドロン)、最高の樹木(セコイア)および最古の樹木(ブリストルコーン松)である。野草は多年生植物である。ヨーロッパ人が到来して以降、これらは概してヨーロッパの一年草外来種に置き換わってきた。現代ではカリフォルニアの丘陵は夏に特徴ある金茶色に変わる。
カリフォルニア州内の最も著名な河川はサクラメント川、ピット川およびサンワーキン川である。どれもシエラネバダ山脈の西斜面からセントラル・バレーを流れ、サンフランシスコ湾を通って太平洋に流れ入る。その他重要な河川は北部のクラマス川とトリニティ川、南東部州境のコロラド川である。オーエンズ川はシエラネバダ山脈の南東斜面から流れ出てオーエンズ湖に流れ込んでいる。イール川とサリナス川はそれぞれサンフランシスコ湾の北と南で海岸に注いでいる。モハーヴェ川はモハーヴェ砂漠の主要水路であり、サンタアナ川はトランスバース山脈から流れ出て州南部を横切っている。
2009年現在、その人口は36,961,664人と推計され、国内で13番目に増加率の高い州である。前回2000年の国勢調査から3,090,016人増えており、自然増(出生5,058,440、死亡2,179,958)ならびに州内への移住者純増306,925人が含まれている。アメリカ合衆国外からの移住で1,816,633人増加し、合衆国内部への移住で1,509,708人減少した。2020年の国勢調査では、人口は39,538,223人に増加した。
カリフォルニア州は最も人口の多い州であり、アメリカ合衆国人口の12%を占める。市域人口において全米の上位50都市の9都市を有している。ロサンゼルスは人口3,898,747人と合衆国内で2番目の大都市である。以下、サンディエゴ(8位)、サンノゼ(10位)、サンフランシスコ(17位)、フレズノ(34位)、サクラメント(35位)、ロングビーチ(42位)、オークランド(45位)、ベーカーズフィールド(48位)と続く。ロサンゼルス郡の人口は10,014,009人とアメリカ合衆国の郡では最大であり、国内40の州よりも多い(以上、すべて2020年国勢調査)。州の人口重心はバトンウィロウ(国勢調査指定地域)があるカーン郡となっている。
アメリカ合衆国統計局は、自分や先祖が中南米のスペイン語圏出身であるという意識を持つヒスパニック系を2つのカテゴリーに分けている。ヒスパニック系は「ヒスパニック」だけではなく、白人またはアジア系に分類される場合、単純に「その他の人種」と分類される場合がある。そのために国勢調査データが分かりにくいと言われている。
下記は「ヒスパニック系」を明確に分類し、各グループのヒスパニック系以外の数値(ヒスパニック系以外の白人、ヒスパニック系以外のエスキモー、ヒスパニック系以外の混血など)を掲載した。人種および国勢調査上のもっと多くの情報につい詳しくは米国国勢調査における人種と民族(英語版)を参照
白人の数では22,189,514人と国内最大の州であり、アフリカ系アメリカ人は2,250,630人と国内5位である。アジア系アメリカ人は440万人と推計され、国内のアジア系人口1,310万人の約3分の1がカリフォルニア州に住んでいることになる。インディアン人口は285,162人でこれも国内最高である。
出自はメキシコ系 (25 %) が最多であり、次にアジア系、イギリス系、ドイツ系、およびアイルランド系と続く。メキシコ系特にチカーノの多くは、カリフォルニア州南部、セントラル・バレー、サリナス、およびサンフランシスコ湾地域に居住している。アングロサクソン民族の多くは、シエラネバダ東部、北縁、および北部海岸に居住している。カリフォルニアはもとより、北アメリカでアジア系が最も集中しているのが、サンフランシスコ近辺である。
2020年の国勢調査では、非ヒスパニック系白人比率が35%と2010年の国勢調査から約5ポイント下がり39%のヒスパニックが初めて多数派になった。
同州にはかつて、60を数えるインディアン民族が先住していた。温暖な気候と豊富な漁業・狩猟資源に恵まれ、農業は発展しなかった。
18世紀にやってきたスペイン人は、さまざまな民族を捕えて強制的にキリスト教化し、農場の労務や他のインディアン民族の監督に使役し、これを「ミッション・インディアン(英語版)(伝道インディアン)」と呼んだ。現在、カリフォルニア独自のインディアン集団となっている。
1849年を中心とするゴールド・ラッシュでは、金目当てにやってきた白人(フォーティーナイナー)が北部のインディアン民族の土地を蹂躙した。ヤヒ族のように根絶やしにされた民族もあった。
同州は、インディアンによる初の完全自治運営による短期大学「DQ大学(英語版)」が開校された記念すべき州でもある。この学校は、朝鮮戦争時に連邦政府に没収され、ミサイルレーダー基地にされていたインディアン保留地が以後放置されていたものを返還させ跡地利用したものである。現在、州はこの大学の認定を取り消して廃校処分としており、インディアン学生による抗議運動が続けられている。
1960年代に巻き起こったインディアンの権利回復要求運動「レッド・パワー運動(英語版)」では、全米でインディアンによる占拠抗議が行われた。同州で決行されたアルカトラズ島占拠事件は、中でも最大級のものであった。
1969年の11月20日、モホーク族のリチャード・オークス、サンテ・スー族のジョン・トラデルら老若男女79人のインディアンの人たちがアルカトラズ島に上陸、条約に基づく権利として「アルカトラズ島をインディアンの文化センターとする」と宣言、数百人のインディアンが全米から集まった。リチャード・ニクソン大統領が調停に入り、「レッド・パワー運動」は全世界に轟いた。占拠は1971年6月11日まで続いた。
小規模民族が多く、同州では「保留地 (Reservation)」は主に「集落 (Rancheria)」と呼ばれている。温暖な気候を利用し、果樹園を営む人々もある。リゾート観光事業に特化した人々も多いが、ほとんどの民族は産業を持てず貧困にあえぐ状況である。
絶滅扱いされ、民族認定されていないサンフランシスコの「オーロネ族・ムウェクマ・バンド」は、伝統の墓地と貝塚を破壊されて、ショッピングセンター「ベイ・ストリート・モール(英語版)」を建てられた。民族の反対を押し切って行われた墓暴きでは、首長ローズマリー・ギャンブラが妨害行為を行ったとして逮捕された。発掘されたオーロネ族の数万個に上る遺骨片は、バークレー大学のインディアン博物館に押収展示されており、この民族はこの返還を求め係争中である。
同州を流れるクラマス川には、上流に鮭の遡上を遮る四つのダムがあり、伝統的な鮭漁が営めないとして、クラマス族(英語版)、ユロク族(英語版)はダムの撤廃を訴え、2004年と2005年にダムを所有する実業家の住むスコットランドへ赴き、現地で熱狂的に迎えられた。この際に魚道の確保や一部ダムの撤廃などを約束されたが、2006年にダムの所有者が移ったため、運動は振り出しに戻っている。また、カルク族(英語版)はクラマス川で行われている砂金採りのレクリエーションイベントが河床を荒らし、鮭漁に有害であると抗議している。2009年1月、カリフォルニア漁業狩猟庁はこれが特別「非常事態」でもないとして却下した。カルク族のクレイグ・タッカーは「我々の漁場が非常事態でないと思うんなら、そいつらは頭のスイッチがいかれてるんだろう」とコメントした。
同州には19世紀に東部や南部から強制移住させられた民族もおり、多数の民族が現在、連邦政府の公式認定を要求し、係争中である。
1987年、「ミッション・インディアン・カバゾン・バンド」が民族の命運をかけて開設した高額賭け率のビンゴ場の「ファンタジー・スプリングス・リゾート・カジノ」は、これを違法とする州政府と「ミッション・インディアン・カバゾン・バンド訴訟(英語版)」で争った末に最高裁で合法判決を勝ち取った。この判例は全米のインディアン民族に民族カジノ開設を競わせ、「インディアン・カジノ」は「現代のバッファロー」と呼ばれる民族のビジネス・モデルとなった。
1988年、連邦政府は「インディアン賭博規制法」を制定し、インディアン民族による賭博を三等級に分け、最上級のカジノ運営に関し、連邦認定された(つまり、保留地を所有する)インディアン民族に限って内務省管轄でこれを認めることとした。一方、同じインディアン民族でありながら連邦政府から「絶滅民族」とされ、連邦との条約規定を解消されて保留地や福利厚生の権利を没収された多数のバンドは、カジノを持つことも出来ず、自立の機会を奪われている。
現在、同州全体で58のカジノと、90のポーカー場を運営している。「宮殿」を名乗るカジノもあるが、実際に宮殿並みの外観を備え、ホテル、温泉や保養施設、レストランなどを揃えた一大リゾート施設となったものも多い。
同州のインディアン民族の人が経営するカジノ・賭博施設についてはカリフォルニア州のインディアン・カジノ一覧を参照。
2005年現在、5歳以上のカリフォルニア州民の57.59 %は家庭で英語を話し、28.21 %はスペイン語を話している。以下、タガログ語2.04 %、中国語1.59 %、ベトナム語1.4 %、および朝鮮語1.05 %と続く。全体で42.4 %は英語以外を話している。
選挙公報、確定申告など公的文書にもスペイン語表記があるため、連邦や州の公用語だと誤解されがちであるが、アメリカ合衆国に公用語はない。一方、約30州が州の公用語を定めており、カリフォルニア州では1986年の州法改定で、共通語であり公用語であるのは英語である旨を明文化している。
2009年10月24日、知事シュワルツェネッガーは、チュマシュ族インディアン・サンタイネス・バンドを筆頭とするカリフォルニア・インディアン民族が提唱したインディアン部族語の保存援助を目的とする新しい州法案に署名した。州のこの新法は、同州のインディアン民族に、民族語再教育のためのライセンスや各種基準を認めるものである。同州にはかつて100以上の民族語が存在したが、「インディアン寄宿学校」による合衆国の民族浄化政策によって、半数以上が絶滅言語となってしまっている。
カリフォルニア州の住民の宗教は以下の通り。
多くの他の西部の州と同じく、カリフォルニア州でも無宗教の比率が合衆国の他の地域に比して高い。
カリフォルニア州の人口の68%は、ロサンゼルス大都市圏、サンフランシスコ湾岸地域およびリバーサイド・サンバーナーディーノの3大都市圏に住んでいる。その他に規模は小さくなるがサンディエゴとサクラメントの都市圏にもそこそこの人口が集まっている。
サクラメントが1850年に市政を布いたのが最初の市になった サンノゼ、サンディエゴおよびベニシアが同年3月27日に続いた。 2011年7月1日に市制を施行したフルパバレーが最も新しい市である。
カリフォルニア州はチャーターと一般法の2種の市を認めている。一般法の市は州法でその存在を認められ、州の管轄を受ける。チャーター市は市自体のチャーターで統治される。19世紀に市政を布いた市はチャーター市が多かった。人口の多い10都市もすべてチャーター市である。以下、州内の人口の多い10都市、および10郡をそれぞれ挙げる。
なお、上表の人口は2020年4月1日付けで行われた国勢調査による数値である。
上の地域内の重要な郊外の一覧、参照:en:List of urbanized areas in California (by population)。
以下のリストは住人の平均個人所得による順位である:
カリフォルニア州の場所の所得ランキング(英語版)
カリフォルニア州は共和制の三権分立制を採っている。すなわち知事とその他選挙で選ばれる憲法で定めた行政官からなる執行府、下院と上院からなる立法府および最高裁判所と下級裁判所からなる司法府である。また直接請求、住民投票、リコールおよび批准という手段で有権者が直接政治に参加できる仕組みがある。政党は閉鎖的予備選挙あるいは党員と無所属の者のみが投票できる予備選挙のどちらかを選択できる。
現在の州知事は民主党出身のギャビン・ニューサムである。知事とその他選挙で選ばれる憲法で定めた行政官の任期は4年間であり、再選は1回のみ可能である。州議会は上院が定数40人、下院が80人である。上院は4年任期、下院は2年任期である。下院議員は3期まで、上院議員は2期までという上限がある。2021年現在上院は民主党所属の議員が31名、共和党所属の議員が9名おり、下院は民主党所属の議員が59名、共和党所属の議員が19名となっている。
カリフォルニアの法体系は明確にイギリスのコモン・ローに基づいている が、夫婦共有財産のようにスペインの大陸法から継承したものもある。死刑は合法であり、現在国内最多の「処刑待ち」死刑囚を抱えている。死刑囚監房はサンフランシスコの北、マリン郡にあるサン・クエンティン州立刑務所にある。人権問題が提起されているので、死刑執行は現在無期限に止められている。州内の刑務所に居る受刑者の数は1980年の25,000人から2007年の17万人以上にまで膨れ上がっている。 カリフォルニア州の司法府は合衆国の州の中で最大であり、判事が1,600人居る(連邦司法府は約840人に過ぎない)。最高裁判所の判事は7人である。最高裁判所と控訴裁判所の判事は知事によって指名されるが、12年ごとに有権者の審査を受けることになっている。
全米10大都市にランクされるロサンゼルスやサンフランシスコなどの大都市圏をかかえるカリフォルニア州は、かつての大気汚染などの問題もあり、メーカーなどの産業廃棄物処理・排水規制などの法人対象の法や、ベルモント市(英語版)の2009年より個人所有のアパートなどを含む共有空間での喫煙を禁じる条例など、早期から取り締まられた排気ガス規制など環境関連の規制が全米で最も厳しい。
1970年代はアメリカでもっともすばらしい政治運営がなされている場所と評価されていたが、重要な法案を州民投票で直接選択する方針を採ってからは行政運営が上手くいっておらず、かつては全米一と言われていた教育水準も年々低下している。
カリフォルニア州には特有の政治文化がある。妊娠中絶を認めた2番目の州であり、同性の結婚を認めたのも2番目だった(同性の結婚は司法判断であり、後に住民請求による投票で撤回された。しかし2013年6月26日、連邦最高裁が、同性婚を否定する住民投票「プロップ8」を違憲と判断した州裁判所の判決を支持したため、再び同性婚は合法化されるはこびである)。
1990年代以降の国政選挙では概して民主党候補を支持してきた一方で、知事には共和党候補を選んできた。ただし、それら共和党知事の多くは党内でも中道寄りであると見なされる傾向がある。
地域的には、共和党は北東部で優勢であるが、ロサンゼルス郡やサンフランシスコ・ベイエリアなどの海岸地域は民主党の強固な地盤となっている。
2000年代以降、カリフォルニアの政治傾向は民主党寄りとなっている。この傾向は大統領選挙で特に顕著である。さらに、民主党は1992年以降の連邦上院議員選挙をすべて制しており、州議会の上下両院でも多数党である。アメリカ合衆国下院では、第110会期で民主党議員34人、共和党議員19人となっている。州内の各選挙区はどちらかの政党が優位となっており、接戦になる選挙区は少ない。政治評論家に拠れば、下院議員および大統領選挙人の数は現在の55人よりも3人多い58人であるべきとしている。
2007年時点で州の総生産は約1兆8,120億ドルであり、国内の州では最大で、アメリカ合衆国のGDPの13 %を占めている。世界の国と比較してもGDPで9位、購買力平価説購買力平価で12位になる。しかし、2009年 - 2010年会計年度では263億ドルの赤字だった。2008年後半の経済減退と世界金融危機への対応が緊急課題となったために州予算の成立が3か月も遅れたが、単に赤字を2009年に繰り越したに過ぎない。1つの問題は州の歳入のかなりの部分が、少数の富裕な州民から上がる所得税に依存していることである。例えば2004年の場合、納税者の3 %が収税全体のうちの60 %を払っていた。課税できる収入はキャピタルゲインに頼っているために、証券市場の減退が大きく影響してきた。州知事は歳出の大幅なカットと増税を提案してきたが、議会との間で続くこじれのために法案の通過は困難な状況にある。
州の歳出は1998年の560億ドルから2008年の1,310億ドルまで増加し、2008年には400億ドルの赤字になった。2010年には720億ドル とさらに赤字が増加する可能性がある。
雇用数を比較すると貿易・交通および公共事業の分野、地方自治体、専門職と事業経営分野、教育と健康分野および観光娯楽分野が3つの大きな分野である。最大の雇用主はUniversity of Californiaである。生産高でみると、金融が大きく、続いて貿易・交通および公共事業の分野、教育と健康分野、地方自治体、製造分野の順になる。2010年1月の失業率は12.5 %と国内では5番目に高く、2007年の5.9 %からかなり上昇した。
カリフォルニア州の経済は貿易と国際商取引への依存率が高く、およそ州経済の4分の1に相当している。2008年の輸出額は1,440億ドルであり、2006年の1,270億ドル、2007年の1,340億ドルから増加してきている。中でもコンピュータと電子製品が2008年の輸出額の42 %と飛びぬけて高い 。 農業はカリフォルニア州経済の大変重要な分野であり続けている。過去30年間の農業関連売上高は、1974年の73億ドルから2004年の310億ドルと約4倍になった。この期間、農業用地は15 %減り、農業用水供給量は慢性的不安定な状態だったが、これだけ売上高は上がった。これは農業適地を集中的に使ったことと、技術的改善で収量を上げたことが貢献している。
2007年のカリフォルニア州1人当たり所得は38,956ドルであり、国内の州では8位になっている。これは地域や職業で幅広く異なっている。例えば、セントラル・バレーでは、移民農場労働者が最低賃金以下で働いているので、最も貧しい地域になっている。近年サンホアキン・バレー地域がアパラチア地域と並んで、合衆国で最も経済的に落ち込んだ地域の1つになってきた。一方海岸にある多くの都市の中には、一人当たりの所得で合衆国の中でも、最も裕福な地域がある。北部のハイテク産業が集積したシリコンバレー、サンタクララ郡とサンマテオ郡はインターネット・バブルによる不況から立ち直ってきた。
カリフォルニア州は6等級で変わる所得累進課税方式を採っており、最高税率は9.3 %である。所得税総額は年400億ドルになる。消費税率は8.25 %であり、地方消費税を含むと10.75 %になる。固定資産税は購入時の適正市場価格に基づいて課税され、実勢市場価格に合わせて増税されることはない。
2009年の経済危機でカリフォルニア州は破産状態になっている。6月にアーノルド・シュワルツェネッガー知事は「我々の財布は空であり、銀行は閉じ、信用は無くなった」と語った。現在240億ドルの歳出カットを提案している。
カリフォルニア州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。
カリフォルニアの広大な領域はフリーウェイ、イクスプレスウェイおよびハイウェイ(公道)で繋がれている。車社会であり、都市部は交通渋滞が激しい。州道の建設と保守、および州全体の交通計画は州交通局が担当している。人口の急増で交通網に歪みを来たしており、積極的にフリーウェイの交通網拡張を継続すべきか、都会における大量交通手段の改良に集中すべきかというのが州政の課題で有り続けている。
州内でも有名なランドマークの1つが1937年に完工したゴールデン・ゲート・ブリッジである。オレンジ色に塗られ湾を見下ろすパノラマのような景色が観光客に人気であり、歩行者や自転車も通ることができる。エル・カミノ・レアル(スペイン語で「王の道」)や太平洋岸ハイウェイとも呼ばれる州道1号線の一部であるアメリカ国道101号線として同時に指定された。サンフランシスコ・ベイエリアに架かる7つの橋の中で、1936年に完工したサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジも有名である。二階建てのこの橋は1日28万台の交通量があり、イエルバ・ブエナ島で2つの部分に分かれている。
太平洋および合衆国本土内との交通はロサンゼルス国際空港とサンフランシスコ国際空港が大きな中継点になっている。州内には他にも約12の商業空港と多くの一般用と空港がある。
重要な海港も幾つかある。南部のロサンゼルス港とロングビーチ港で作られる巨大な海港は国内でも最大であり、コンテナ取扱量では国内の約4分の1となっている。オークランド港は国内4位であり、環太平洋地域との貿易を扱い、北カリフォルニアから全米に入る海上コンテナの大半を送り出している。
都市間鉄道はアムトラックが運行しており、合衆国の北東回廊の次に運行本数の多い路線が3線ある。これらの州内完結の路線にはアムトラック・カリフォルニアという独自のブランド名がつけられ、他のアムトラック列車とは違った塗装・仕様の車両が用いられる。このほかにもアムトラックは州西海岸の都市を起点に東部・北部方面への大陸横断・縦断列車を運行している。ロサンゼルス(ロサンゼルス郡都市圏交通局)やサンフランシスコ(サンフランシスコ市営鉄道)の都市圏には地下鉄やライトレールのネットワークがある。ライトレールはサンノゼ、サンディエゴ、サクラメントおよびサンディエゴ郡北部でも運行されている。さらに通勤列車としては、サンフランシスコ・ベイエリアのアルタモント通勤急行、バート、カルトレイン、ソノマ・マリンエリア鉄道、ロサンゼルス大都市圏のメトロリンク、サンディエゴ郡のコースターがある。カリフォルニア高速鉄道局が1996年に創設され、サンフランシスコとロサンゼルス間を2時間半で結ぶ計画である。総延長は700マイル (1127 km) になる可能性がある。100億ドル近い資金(州債)が投入される建設は2008年11月の住民投票で承認された。ほとんど全郡でバス路線を運行しており、多くの都市にもバス便がある。都市間のバス路線はグレイハウンドとアムトラックのスルーウェイコーチ(鉄道連絡バス)が運行している。ただし、後者についてはカリフォルニア州法の規定によりバス区間単独での乗車券の発売が認められておらず、鉄道との乗り継ぎで利用することが前提となっている。
公立の中等教育には貿易、言語および教養科目で選択コースを教えている高校があり、天分に恵まれた者、カレッジを指向する者および工業系を指向する生徒のためのものである。カリフォルニア州の公共教育システムは特徴ある憲法修正条項で支持されており、幼稚園生から12年生までとコミュニティ・カレッジの最低予算を手当てしている。コミュニティ・カレッジは経済の発展と共に成長し入学者が増えている。
2005年-2006年学校年では620万人の生徒がいた。カリフォルニアは他州にくらべて予算や教師のレベルで遅れを取っている。生徒一人当たり費用はワシントンD.C.を含めて51州のうち29番目であり、生徒一人当たり教職員の数は49番目である。生徒対教師の比率も49番目であり、教師1人あたり生徒21人となっている。
カリフォルニア州の公共高等教育は、カリフォルニア大学機構、カリフォルニア州立大学機構およびカリフォルニア・コミュニティ・カレッジ機構の特徴ある3階層のシステムである。
カリフォルニア大学機構は世界で最も多くのノーベル賞受賞者を雇用している世界でも有数の公立大学機構である。多くの研究型大学を擁する。以下の13のキャンパスを持つ。略称はUC。
また、カリフォルニア大学機構には含まれないが、法科大学院であるカリフォルニア大学ヘイスティングス校ロースクール がサンフランシスコにある。
カリフォルニア大学機構はアメリカ合衆国エネルギー省・ローレンス・リバモア国立研究所、ローレンス・バークレー国立研究所、および ロスアラモス国立研究所の国立研究所の管理を行っている。
カリフォルニア州立大学機構も世界の中でも有数の教育機構の1つだと考えられている。45万人以上の学生を抱えるカリフォルニア州立大学機構はアメリカ合衆国最大の大学機構で、高校生の上位3分の1を受け入れる事を目的としている。主に学部生の教育が意図されている。以下の23の大学、分校などを含む。略称はCSU。
カリフォルニア・コミュニティ・カレッジ機構は低い次元の教科学習を提供し、基本技能や職業訓練に重きを置いている。アメリカ合衆国の中でも最大の高等教育網であり110のカレッジに290万人以上の学生がいる。
以下の私立大学が有名である。他にも数百の私立カレッジや大学があり、この中には宗教系や特殊目的の学校もある。
北米4大プロスポーツリーグのうち、15チームが州内を本拠地としている。サンフランシスコ・ベイエリアの主要3都市(サンフランシスコ、サンノゼ、オークランド)には合わせて5つのチームがあり、ロサンゼルス大都市圏には8チームが本拠を構える。ほか、サンディエゴとサクラメントに1チームずつが存在する。
また、メジャーリーグサッカー(MLS)、WNBA(女子バスケット)、メジャーリーグラグビー(MLR)、メジャーリーグクリケット(MLC)にも本拠を置いているチームがある。
NFLのスーパーボウルはこれまでに州内で10度以上開催されており、2016年には第50回スーパーボウルがサンタクララのリーバイス・スタジアムで開催された。
大学スポーツも盛んであり、最古のボウル・ゲームとして知られる毎年恒例のローズボウルなどが行われる。
米国の州で唯一、夏季オリンピックと冬季オリンピックの両方を開催した経験を持つ(1932年ロサンゼルス夏季オリンピック、1960年スコーバレー冬季オリンピック、1984年ロサンゼルス夏季オリンピック)。ロサンゼルスでは2028年ロサンゼルス夏季オリンピックの開催が決定しており、通算で4度目となる。
1994年FIFAワールドカップ・アメリカ大会では、決勝戦を含む8試合がローズボウルスタジアムで、6試合がスタンフォード・スタジアムで開催された。
インディアンの他、世界各国からの移民によって構成されているため、都市部では世界各国の料理(またはそれらをアメリカ風にアレンジしたもの)を気軽に楽しむことが可能である。特にもともとメキシコの領土であったことや、メキシコからの移民が多いこともありメキシコ料理が非常に一般的であるほか、イタリア料理や中華料理、ベトナム料理などが日常的に楽しまれている。
21世紀初頭の現在、アメリカの大都市はもちろん、全米各地で寿司や照り焼きをはじめとする日本料理が人気を博しており、一般のスーパーマーケットでも豆腐、醤油、麺類などの食材を調達することが可能であるが、カリフォルニアでは既に1970年代からその兆しがあった。アジア系住民が多く気候も温暖であることから、大根、白菜などのアジア系野菜、カリフォルニア米と呼ばれる中粒や日本のあきたこまちなどの短粒ジャポニカ種の北米における主要生産地となっており、新鮮なアジア系食材が入手しやすい地域である。カリフォルニアロールやフォーチュン・クッキーなど既存のアジア食を西洋風にアレンジしたものを全米に浸透させる発信地となることも多い。
地中海性気候のため、名産品としてオレンジや、オリーブそして、カリフォルニアワインが有名である。
カリフォルニアはハワイと並んで、日本人と関係の深い米国の州のひとつである。古くはジョン万次郎、福澤諭吉、勝海舟から、この地を訪れた日本人は多い。意外なところでは、竹久夢二もこの地を訪れている。
明治以降は日本人の移民が相次ぎ、1924年(大正13年)に日本人の移民を禁じる排日移民法が制定される。この差別的待遇は1941年(昭和16年)12月7日 の日米開戦・太平洋戦争(大東亜戦争)勃発によってさらに悪化し、敵性外国人となった日系アメリカ人は土地や財産を没収され、10か所の強制収容所に収容されることになる。これら大戦前の移民の出身地は、圧倒的に山陽地方(山口県・広島県・岡山県)および九州地方北部が多く、その理由として、かつては「山陽道は旅人の往来が多く、他所への移住に抵抗感が少ない地域であるから。」とされたが、「この地方は中世以来水軍(西洋的・近代日本の軍事、旧日本海軍、現在の海上自衛隊)の活動が顕著で、鎖国が解かれ(開国してから)再び出国ラッシュとなったから。」と云う説もある。このためか、かつては「アメリカ日系人の標準語は広島弁である。」とまで言われた。
戦後、日系人は戦時中に活躍した日系アメリカ人部隊(陸軍第442連隊戦闘団・第100歩兵大隊)の存在や、日系アメリカ人議員の輩出などで、その地位と名誉を回復する。1988年には強制収容所での不当な扱いに対して補償法案を通過させ、生存者への金銭的補償を勝ち取った。一般に、日系人は経済的には平均より恵まれているといえるが、依然としてグラス・シーリング「見えない天井」という社会問題が残されている(そもそも日系アメリカ人は大都市に多く住み、ゆえに所得も平均以上となるのは当然と言われている)。米国の農場主は圧倒的に白人が多い中、カリフォルニアでは、サクラメント近郊などにかなりの割合で日系農場主が存在している。
日系人社会はおよそ1世と2世、そして戦後から1980年代までの戦後移民、バブル以降の新移民に大別することができる。1世は、資源に乏しく貧しい日本で生活苦にあった貧困層がやむを得ず移住せざるを得なかったような経済難民的で、苦労して現在の地位を築き上げてきた功労者といえるが、アメリカ社会には同化しにくく、他の移民集団と同様にリトル・トーキョーに代表されるエスニック・タウンを形成する傾向がある。戦前・戦中の迫害経験から社会に対する猜疑心が強い、とも言われるが、とりわけ強制収容所での経験は1世の父権主義を心理的に崩壊させ、2世リーダーの台頭によって完全にその権威が失われてしまった。
2世以降は父祖の地としての日本に興味はあるものの、それ以上の感情は持たず、思考や行動はアメリカ人的である。ただ2世は1世の親と生地という2つの文化に自己を引き裂かれるというアイデンティティ・クライシスを経験することが多く、日系アメリカ人文学のテーマとして描かれることが多い。2世以降でアメリカで生まれ、幼少時より日本で教育を受けた後、再びアメリカに戻った人を「帰米」という。この場合は、心情的にも日本人とほとんどかわらないが、彼らのアメリカでの苦労もまた2世と同様に苦難を伴う場合が多かった。
戦後移民は米軍人妻(戦争花嫁)や、成功を目指して渡米した人が多い。ロッキー青木やショー・コスギが代表例である。この集団は個々に分散して、1つのエスニック・グループとしては形成されていない。しかし高齢化するにつれ、日本回帰の現象も見られる。
新移民はバブル景気以降の日本の「国際化」(=英米化)を受けて、アメリカで生活することを選んだ人たちである。脱サラ者や定年退職者、留学生などが多いが、彼らの生活は日本との関係に依存している面が多く、近年の不況から、帰国を選択するものも増えてきている。
1951年(昭和26年)にサンフランシスコを中心とするカリフォルニア州北部にある日系企業、北加日本商工会議所 (JCCNC) が設立された。2007年(平成19年)現在、約300社が加盟している。1960年代(昭和35-44年)には、ロサンゼルスやサンディエゴを中心とする南カリフォルニア日系企業協会 (JBA) が設立され、2007年(平成19年)現在の加盟社数は約500に達する。両団体とも、州の認可を受けた非営利団体である。他州にある日系企業団体や日本人会同様、会員対象のセミナーや親睦行事、日系企業実態の調査、地元地域への日本文化紹介や奉仕活動などを行っている。
2000年(平成12年)にJBAが行った調査『南カリフォルニア日系企業実態』によると、調査対象企業の70 %がロサンゼルス郡に集中しており、ロサンゼルス(108社)とトーランス(94社)が突出している。次いで20 %がオレンジ郡に拠点があり、アーバインとサイプレスに多い。また、メキシコ国境に近いサンディエゴ郡にも20社存在する。ただし製造業は過密状態のロサンゼルスよりも、オレンジ郡やサンディエゴ郡のメキシコ国境沿いの工業地帯(マキドーラ Maquidora)に多い。日系企業の南カリフォルニアへの進出数は1980年代(昭和55-64/平成元年)をピークに減ってはいるものの、新規設立は続いている。62.4 %が米国の法人本社、24.3 %が支店として設立しており、アメリカ進出への足掛け地点となっている。雇用者は72.8 %の現地採用者が占め、その多くが金融・保険業、製造業に就いている。日本からの派遣社員は不動産業と建設業に多いが、全体の3.1 %程度で減少傾向にある。従業員100人以上の中・大規模レベルの企業数と雇用数は減少しており、逆に全体の70 %が小規模な企業(日本でいう中小企業)であり、雇用を増やしている。対象企業の80 %が増収、あるいは前年と同程度の利益を見込んでいる。不動産、卸・小売、製造、金融・保険といった業界が好調である。
2002年(平成14年)にはJCCNCが『ベイエリア日系企業実態調査』を行っている。2000年度(平成12年度)の調査と比較して、ベイエリアの企業が減少、1社あたりの平均雇用数も49人と大幅に減少している。日本からの派遣社員は平均4人で変化はない。80 %が日本企業の現地法人である。拠点は80 %がサンタクララ、サンフランシスコ、サンマテオ郡にある。60 %がサービス業または製造業である。売上が過去2年間に増加した企業が36 %、減少は46 %であり、営業利益は赤字が約34 %、今後1、2年の見通しが改善あるいは横ばいと答えた企業が約90 %であった。全体の25 %が何らかのボランティア活動を行い、アメリカの団体などに対する寄付は総額1940万ドルにのぼっている。
毎年、JCCNCとJBAの代表者が合同でサクラメントの州議会を表敬訪問している。2007年度(平成19年度)はアーノルド・シュワルツェネッガー州知事に面会する機会があり、日系企業の投資(1739社による290億ドル)および雇用(15万人)に対する感謝を受けた。州議員には、医療保険や運転免許証といった個人生活レベルから、海上コンテナ課税、施設に対する消費税、環境法案など企業レベルでの問題に対する改善を要請すると同時に、州の企業誘致に対するアドバイスを与えた。アジア系議員とのパイプ作りに昼食会もおこなった。
日本人が多く、日本と係わり合いの深い地域のため、カリフォルニア州には全日制私立在外教育施設の西大和学園や、州内各地に文部科学省認可の補習授業校が6校ある。2002年(平成14年)の文科省の発表では、ロサンゼルス補習校(通称:あさひ学園)、サンフランシスコ補習校、サンディエゴ補習校(通称:みなと学園)の3校は生徒数において、世界187校のうち上位10校に入る規模である。なかでも上位1、2位を占めるロサンゼルスとサンフランシスコの補習校は、ともに複数校舎を持ち、在籍生徒数が1000名を超えるマンモス校である。
非認可の補習校も2校あるほか、日本語イマージョンや日本語が教科にある公立校もあり、州内のカリキュラムに沿った日本語教師を対象にした研修が行われるなど、(第二言語・外国語教育としての)日本語教育が盛んである。
サブカルチャーに対して積極的な風土がある。
2004年(平成16年)、アーノルド・シュワルツェネッガー知事が日本を訪問し産業・観光をアピール。2008年(平成22年)から2009年(平成21年)には「なんでもアリフォルニア カリフォルニア」のコピーで州政府観光局が広告活動をしている。
最近ではフジテレビ系列「ワンナイR&R」のキャラクター「松浦ゴリエ」がカリフォルニア州政府公認の親善大使を務める。
( 日本・都道府県市町村) - (州内都市など) | [
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"text": "カリフォルニア州(カリフォルニアしゅう、英: State of California)は、アメリカ合衆国西部、太平洋岸の州。アメリカ西海岸の大部分を占める。",
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"text": "アメリカ合衆国の州のうちでは最大の人口を誇り、アメリカ大統領選の選挙人数も最多である。ブラジルのサンパウロ州に続いて南北アメリカ大陸で2番目に人口の多い行政区画であり、大都市は人口の多い順にロサンゼルス(約390万人)、サンディエゴ(約140万人)、サンノゼ(約100万人)、サンフランシスコ(約87万人)となっている。ロサンゼルスはニューヨーク市に次ぐ人口規模を誇る。州内には全国で2位(ロサンゼルス)と6位(サンフランシスコとサンノゼを含む「ベイエリア」)の都市圏があり、市域人口の多い全米の都市上位50位以内に9市が入っている。州都はサクラメント(約52万人)である。",
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"text": "かつて日本では漢字で「加利福尼亜」と表記されることもあったが、現在ではあまり用いられない。この略である「加州」は、新聞の見出しのように字数制限のある場合など、今でも用いられることがある。",
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"text": "カリフォルニア州には多様な気候と地形があり、また多くの民族が住んでいる。合衆国の州としてはアラスカ州とテキサス州に次いで3番目に大きな面積を持つ。北はオレゴン州、北東はネバダ州、南東はアリゾナ州に接し、南はメキシコのバハ・カリフォルニア州に接している。地理的には太平洋岸から東のシエラネバダ山脈まで、南東はモハーヴェ砂漠、北西にはセコイアやベイマツの森林がある。州の中央には世界でも最高水準の生産性の高さを誇る農業地帯、セントラル・バレーがある。アメリカ合衆国本土として、標高が最高の地点(ホイットニー山)と最低の地点(デスバレー)がある。面積のおよそ40%は森林であり、乾燥した地域としては森林が比較的多い。",
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"text": "18世紀の後半から「アルタ・カリフォルニア」と呼ばれた地域はスペイン帝国の植民地となった。1821年にアルタ・カリフォルニアを含みメキシコが第一メキシコ帝国となって帝政を布いた後に共和国に変わった。1846年、ソノマにいたアメリカ人開拓者の集団がカリフォルニア共和国の独立を宣言した。その直後の米墨戦争の結果、メキシコはカリフォルニアをアメリカ合衆国に割譲した。カリフォルニアは1850年9月9日にアメリカ合衆国第31番目の州となった。",
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"text": "19世紀半ばの「ゴールドラッシュ」によって、カリフォルニアでは社会、経済および人口に劇的な変化が起こった。人々が流入し好景気が訪れたことでサンフランシスコはテントの集まった小村から世界にも知られたブームの街に成長した。20世紀初期の重要な発展としては、娯楽産業の中心としてのロサンゼルスの勃興と州全体に広がる巨大な観光産業があった。豊かな農業に加えて航空宇宙産業、石油産業および情報技術産業が経済発展に貢献した。特にサンフランシスコ近郊のシリコンバレーは、AppleやGoogle(Alphabet)、Facebook(Meta)などの世界トップクラスのIT企業が多数集積している。",
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"text": "カリフォルニア州が1つの国家であるとすると、GDPではイタリアに匹敵する第10位である。人口でも第35位、国土では第59位になる。",
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"text": "カリフォルニア州では、歴史的に一部地域で分離・独立を繰り返し目指す動きが見られる。1800年代から2011年までに少なくとも27回独立が試みられ、すべて失敗に終わっている。",
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"text": "サンフランシスコ・ベイエリアを中心とする北部と、農業が盛んな中部、ロサンゼルス〜サンディエゴ帯を中心とする南部に分かれる。ベイエリアにはシリコンバレーが含まれ、全米で最も経済的に進んだ地域のひとつである。ロサンゼルスはハリウッドを抱えるなど、エンターテイメント産業の世界的中心である。",
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"text": "アジアやメキシコに近いため、移民が多い。移民はそれぞれの居住区に固まる傾向が強く、「民族のサラダボウル」という形容が当てはまる。チャイナタウン、コリアンタウン、リトルトーキョー、リトルサイゴン(英語版)、リトルインディア(英語版)などが有名である。なかでも隣接したメキシコからの移民が多く、スペイン語は州準公用語となっている。",
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"text": "南部の多くはかつてメキシコの領土で、元々はスペイン人によって開拓されたが、1848年の米墨戦争の結果、ニューメキシコとともにメキシコからアメリカに1,500万ドルで割譲され、アメリカ領となった(同時にテキサスのアメリカ領有も確定した)。そのため、カリフォルニア州にはスペイン語由来の地名が非常に多い。",
"title": "歴史"
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"text": "後にアメリカ合衆国大統領となった、ロナルド・レーガンはカリフォルニア州知事を経験している。2003年10月には、俳優でオーストリア生まれのアーノルド・シュワルツェネッガーが州知事に当選し、2011年1月まで務めた。",
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"text": "「カリフォルニア」という名称は当初、今日のカリフォルニア州に加えてネバダ州、ユタ州、アリゾナ州およびワイオミング州の一部とメキシコのバハ・カリフォルニア半島からなる地域を指していた。",
"title": "歴史"
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"text": "カリフォルニアの語源は黒人のアマゾン族の人々が住み、女王カリフィア(恐らくはカリフが語源)が支配する空想上の天国から派生したというのが最も普通に信じられている。カリフィアの神話は、スペイン人作家のガルシ・ロドリゲス・デ・モンタルボによって騎士道物語『アマディス・デ・ガウラ』の続編として書かれた1510年の作品『エスプランディアンの武勲』に記録されている。モンタルボに拠れば、女王カリフィアの王国はグリフォンなど奇妙な怪獣が住み、金が豊富な遠隔の土地であるとされていた。",
"title": "歴史"
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"text": "カリフォルニアという地名はアメリカ合衆国でヨーロッパ人が付けた地名としては5番目に古く、また今も使われているものである。エルナン・コルテスの命令で1533年にバハ・カリフォルニアの南端に上陸したディエゴ・デ・バセラとフォルトゥン・ヒメネスが率いたスペイン遠征隊によって「カリフォルニア島」と命名された が、のちにそれは半島であることが判明した。",
"title": "歴史"
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"text": "アメリカ大陸の西部、シエラネバダ山脈の西側の太平洋に面した地域である。面積は3番目に大きな州で、日本の1.1倍の広さである。南北に長い形状で、北部はオレゴン州に、東側はネバダ州・アリゾナ州に隣接している。最南端の都市サンディエゴにはメキシコとの国境があり、不法移民の入国が社会問題となっている。太平洋の沿岸にはサンフランシスコ・ベイエリア、ロサンゼルス大都市圏、サンディエゴなどのアメリカを代表する大都市圏が位置している。",
"title": "地理"
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"text": "州の中央にはセントラル・バレーがあり、西の海岸山脈(英語版)と東のシエラネバダ山脈に、北はカスケード山脈、南はテハチャピ山地に囲まれている。セントラル・バレーはカリフォルニアの農業中心であり、国内食糧生産高の約3分の1を生産している。セントラル・バレーはサクラメント=サンホアキン・デルタによって2つに分かれており、北側のサクラメント・バレーにはサクラメント川が流れ、南側のサンホアキン・バレーにはサンワーキン川が流れている。どちらのバレーもそこを横切る川の名前が採られている。サクラメント川とサンワーキン川を浚渫することで両川は十分な深さが保たれ、内陸の都市幾つかでも海港になっている。そのデルタは州内の重要な水の供給源にもなっている。水はデルタ地域から汲み上げられ、セントラルバレー・プロジェクトや州水道プロジェクトなどを含み、州の長さに相当するような広範な運河網を使って運ばれる。デルタ地帯からの水は州人口の3分の2にあたる2,300万人近い住人の飲料水になり、サンホアキン・バレーの西では農業用水になっている。南部海岸にはチャンネル諸島が浮かんでいる。",
"title": "地理"
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"text": "シエラネバダ山脈(スペイン語で雪の山脈)にはアメリカ合衆国本土では最高峰であるホイットニー山(標高14,505フィート、4,421 m)がある。この山脈には、氷河が削ったことで有名なヨセミテ渓谷や、地球上最大の生物セコイアの木で覆われたセコイア国立公園、貯水量で州内最大の淡水湖であるタホ湖がある。",
"title": "地理"
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"text": "シエラネバダ山脈の東には渡り鳥の生息地オーエンズヴァレーとモノ湖がある。州西部には水面積で州内最大のクリア湖がある。タホ湖の方が大きいがカリフォルニア州とネバダ州の州境で分けられている。シエラネバダ山脈は冬季に北極並みの気温まで下がり、アメリカ合衆国では一番南にあるパリセイド氷河(英語版)など、多くの小さな氷河も残っている。",
"title": "地理"
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"text": "州内陸地表面積の約45 %は森林で覆われており、アラスカ州を除けばアメリカ合衆国の州で最も森林の多い州である。松類の多様さは他の州に無いものである。ホワイト山地(英語版)の樹木の多くは世界最古のものである。ブリストルコーン松の場合は樹齢4,700年のものがある。",
"title": "地理"
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"text": "南部には大きな内陸塩湖であるソルトン湖がある。中南部の砂漠はモハーヴェ砂漠と呼ばれている。その北東にデスバレーがあり、北アメリカでは最も低く最も暑い地点、バッドウォーター盆地を含んでいる。デスバレーの最低地点からホイットニー山の最高地点までの距離は200マイル (320 km) に満たない。南東部の大半は乾燥して暑い砂漠であり、夏季には極端に高い温度を記録することが多い。",
"title": "地理"
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"text": "カリフォルニア州は環太平洋火山帯の一部であり、津波、洪水、旱魃、サンタアナ風(偏西風)、山火事、地すべりおよび幾つかの火山活動など自然災害が多い。南部から西部にかけてのサンアンドレアス断層など幾つかの断層のために比較的震源が浅い地震(直下型地震)が多い。過去にマグニチュード8クラスの地震を経験している。",
"title": "地理"
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"text": "気候は主にまばゆい太陽が輝き乾燥した夏と冷涼で雨の多い冬の地中海性気候の地域が多く、また亜寒帯気候に入る地域まである。冷たいカリフォルニア海流のために海岸近くで霧が発生することが多い。降水量は多くなく、シエラネバダ山脈に降った雪解け水の伏流水を井戸で汲み上げているところが多い。しかし急激な人口増加で新たな水源の確保が課題となっている。",
"title": "地理"
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"text": "州の形状や長い海岸線、高低差などのために、州の南端と北端または海岸部と内陸部ではかなり気温や気候が異なることがある。内陸部では寒い冬と暑い夏がある。そのため、南部の海岸でサーフィンをする人がいる一方、内陸の山地帯ではスキーをする人がいたりもする。",
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"text": "州北部は南部よりも年間降水量が多い。山岳部も気候に影響する。州内で雨の多い場所は山岳の西側斜面である。北西部は温暖な気候であり、セントラル・バレーは地中海性気候だが海岸部よりも温暖差が激しい。シエラネバダ山脈など高山では、冬は雪の多い山岳気候であり、夏は比較的過ごしやすい暑さになる。",
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"text": "山岳部の東側は雨蔭となり、広大な砂漠を生んでいる。東部の高度が高い砂漠では夏に暑く冬は寒いが、南部山岳の東にある低地砂漠では夏は暑く、冬は霜がほとんど降りず比較的温暖である。海面より低い所が広がるデスバレーは北アメリカで最も暑い場所と考えられている。1913年7月10日に西半球での最高温度 134°F(57 °C) を記録した。",
"title": "地理"
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"text": "カリフォルニアは世界でも最も豊かで最も多様な地域の1つであり、最も絶滅が危惧される生態系も幾つかある。生物地理区では新北区に属し、多くの生物地理学的地域に跨っている。",
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"text": "カリフォルニアには数多い固有種がおり、カタリーナ・アイアンウッド (Lyonothamnus floribundus) のような、他所では死に絶えた遺存種が残っている。カリフォルニア・ライラック (Ceanothus) のように多様な生息条件を利点にして、共通の祖先から多くの種が派生した分化あるいは適応放散によって発生した固有種が多い。カリフォルニアの固有種の多くは、都市化、伐採、過放牧および外来種の導入がその生息地に侵入することで絶滅が危惧されている。",
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"text": "カリフォルニアの植物相の集合には幾つか最上級のものがある。最大の樹木(セコイアデンドロン)、最高の樹木(セコイア)および最古の樹木(ブリストルコーン松)である。野草は多年生植物である。ヨーロッパ人が到来して以降、これらは概してヨーロッパの一年草外来種に置き換わってきた。現代ではカリフォルニアの丘陵は夏に特徴ある金茶色に変わる。",
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"text": "カリフォルニア州内の最も著名な河川はサクラメント川、ピット川およびサンワーキン川である。どれもシエラネバダ山脈の西斜面からセントラル・バレーを流れ、サンフランシスコ湾を通って太平洋に流れ入る。その他重要な河川は北部のクラマス川とトリニティ川、南東部州境のコロラド川である。オーエンズ川はシエラネバダ山脈の南東斜面から流れ出てオーエンズ湖に流れ込んでいる。イール川とサリナス川はそれぞれサンフランシスコ湾の北と南で海岸に注いでいる。モハーヴェ川はモハーヴェ砂漠の主要水路であり、サンタアナ川はトランスバース山脈から流れ出て州南部を横切っている。",
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"text": "2009年現在、その人口は36,961,664人と推計され、国内で13番目に増加率の高い州である。前回2000年の国勢調査から3,090,016人増えており、自然増(出生5,058,440、死亡2,179,958)ならびに州内への移住者純増306,925人が含まれている。アメリカ合衆国外からの移住で1,816,633人増加し、合衆国内部への移住で1,509,708人減少した。2020年の国勢調査では、人口は39,538,223人に増加した。",
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"text": "カリフォルニア州は最も人口の多い州であり、アメリカ合衆国人口の12%を占める。市域人口において全米の上位50都市の9都市を有している。ロサンゼルスは人口3,898,747人と合衆国内で2番目の大都市である。以下、サンディエゴ(8位)、サンノゼ(10位)、サンフランシスコ(17位)、フレズノ(34位)、サクラメント(35位)、ロングビーチ(42位)、オークランド(45位)、ベーカーズフィールド(48位)と続く。ロサンゼルス郡の人口は10,014,009人とアメリカ合衆国の郡では最大であり、国内40の州よりも多い(以上、すべて2020年国勢調査)。州の人口重心はバトンウィロウ(国勢調査指定地域)があるカーン郡となっている。",
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"text": "アメリカ合衆国統計局は、自分や先祖が中南米のスペイン語圏出身であるという意識を持つヒスパニック系を2つのカテゴリーに分けている。ヒスパニック系は「ヒスパニック」だけではなく、白人またはアジア系に分類される場合、単純に「その他の人種」と分類される場合がある。そのために国勢調査データが分かりにくいと言われている。",
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "下記は「ヒスパニック系」を明確に分類し、各グループのヒスパニック系以外の数値(ヒスパニック系以外の白人、ヒスパニック系以外のエスキモー、ヒスパニック系以外の混血など)を掲載した。人種および国勢調査上のもっと多くの情報につい詳しくは米国国勢調査における人種と民族(英語版)を参照",
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},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "白人の数では22,189,514人と国内最大の州であり、アフリカ系アメリカ人は2,250,630人と国内5位である。アジア系アメリカ人は440万人と推計され、国内のアジア系人口1,310万人の約3分の1がカリフォルニア州に住んでいることになる。インディアン人口は285,162人でこれも国内最高である。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "出自はメキシコ系 (25 %) が最多であり、次にアジア系、イギリス系、ドイツ系、およびアイルランド系と続く。メキシコ系特にチカーノの多くは、カリフォルニア州南部、セントラル・バレー、サリナス、およびサンフランシスコ湾地域に居住している。アングロサクソン民族の多くは、シエラネバダ東部、北縁、および北部海岸に居住している。カリフォルニアはもとより、北アメリカでアジア系が最も集中しているのが、サンフランシスコ近辺である。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2020年の国勢調査では、非ヒスパニック系白人比率が35%と2010年の国勢調査から約5ポイント下がり39%のヒスパニックが初めて多数派になった。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "同州にはかつて、60を数えるインディアン民族が先住していた。温暖な気候と豊富な漁業・狩猟資源に恵まれ、農業は発展しなかった。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "18世紀にやってきたスペイン人は、さまざまな民族を捕えて強制的にキリスト教化し、農場の労務や他のインディアン民族の監督に使役し、これを「ミッション・インディアン(英語版)(伝道インディアン)」と呼んだ。現在、カリフォルニア独自のインディアン集団となっている。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1849年を中心とするゴールド・ラッシュでは、金目当てにやってきた白人(フォーティーナイナー)が北部のインディアン民族の土地を蹂躙した。ヤヒ族のように根絶やしにされた民族もあった。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "同州は、インディアンによる初の完全自治運営による短期大学「DQ大学(英語版)」が開校された記念すべき州でもある。この学校は、朝鮮戦争時に連邦政府に没収され、ミサイルレーダー基地にされていたインディアン保留地が以後放置されていたものを返還させ跡地利用したものである。現在、州はこの大学の認定を取り消して廃校処分としており、インディアン学生による抗議運動が続けられている。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1960年代に巻き起こったインディアンの権利回復要求運動「レッド・パワー運動(英語版)」では、全米でインディアンによる占拠抗議が行われた。同州で決行されたアルカトラズ島占拠事件は、中でも最大級のものであった。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1969年の11月20日、モホーク族のリチャード・オークス、サンテ・スー族のジョン・トラデルら老若男女79人のインディアンの人たちがアルカトラズ島に上陸、条約に基づく権利として「アルカトラズ島をインディアンの文化センターとする」と宣言、数百人のインディアンが全米から集まった。リチャード・ニクソン大統領が調停に入り、「レッド・パワー運動」は全世界に轟いた。占拠は1971年6月11日まで続いた。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "小規模民族が多く、同州では「保留地 (Reservation)」は主に「集落 (Rancheria)」と呼ばれている。温暖な気候を利用し、果樹園を営む人々もある。リゾート観光事業に特化した人々も多いが、ほとんどの民族は産業を持てず貧困にあえぐ状況である。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "絶滅扱いされ、民族認定されていないサンフランシスコの「オーロネ族・ムウェクマ・バンド」は、伝統の墓地と貝塚を破壊されて、ショッピングセンター「ベイ・ストリート・モール(英語版)」を建てられた。民族の反対を押し切って行われた墓暴きでは、首長ローズマリー・ギャンブラが妨害行為を行ったとして逮捕された。発掘されたオーロネ族の数万個に上る遺骨片は、バークレー大学のインディアン博物館に押収展示されており、この民族はこの返還を求め係争中である。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "同州を流れるクラマス川には、上流に鮭の遡上を遮る四つのダムがあり、伝統的な鮭漁が営めないとして、クラマス族(英語版)、ユロク族(英語版)はダムの撤廃を訴え、2004年と2005年にダムを所有する実業家の住むスコットランドへ赴き、現地で熱狂的に迎えられた。この際に魚道の確保や一部ダムの撤廃などを約束されたが、2006年にダムの所有者が移ったため、運動は振り出しに戻っている。また、カルク族(英語版)はクラマス川で行われている砂金採りのレクリエーションイベントが河床を荒らし、鮭漁に有害であると抗議している。2009年1月、カリフォルニア漁業狩猟庁はこれが特別「非常事態」でもないとして却下した。カルク族のクレイグ・タッカーは「我々の漁場が非常事態でないと思うんなら、そいつらは頭のスイッチがいかれてるんだろう」とコメントした。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "同州には19世紀に東部や南部から強制移住させられた民族もおり、多数の民族が現在、連邦政府の公式認定を要求し、係争中である。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1987年、「ミッション・インディアン・カバゾン・バンド」が民族の命運をかけて開設した高額賭け率のビンゴ場の「ファンタジー・スプリングス・リゾート・カジノ」は、これを違法とする州政府と「ミッション・インディアン・カバゾン・バンド訴訟(英語版)」で争った末に最高裁で合法判決を勝ち取った。この判例は全米のインディアン民族に民族カジノ開設を競わせ、「インディアン・カジノ」は「現代のバッファロー」と呼ばれる民族のビジネス・モデルとなった。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1988年、連邦政府は「インディアン賭博規制法」を制定し、インディアン民族による賭博を三等級に分け、最上級のカジノ運営に関し、連邦認定された(つまり、保留地を所有する)インディアン民族に限って内務省管轄でこれを認めることとした。一方、同じインディアン民族でありながら連邦政府から「絶滅民族」とされ、連邦との条約規定を解消されて保留地や福利厚生の権利を没収された多数のバンドは、カジノを持つことも出来ず、自立の機会を奪われている。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "現在、同州全体で58のカジノと、90のポーカー場を運営している。「宮殿」を名乗るカジノもあるが、実際に宮殿並みの外観を備え、ホテル、温泉や保養施設、レストランなどを揃えた一大リゾート施設となったものも多い。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "同州のインディアン民族の人が経営するカジノ・賭博施設についてはカリフォルニア州のインディアン・カジノ一覧を参照。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2005年現在、5歳以上のカリフォルニア州民の57.59 %は家庭で英語を話し、28.21 %はスペイン語を話している。以下、タガログ語2.04 %、中国語1.59 %、ベトナム語1.4 %、および朝鮮語1.05 %と続く。全体で42.4 %は英語以外を話している。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "選挙公報、確定申告など公的文書にもスペイン語表記があるため、連邦や州の公用語だと誤解されがちであるが、アメリカ合衆国に公用語はない。一方、約30州が州の公用語を定めており、カリフォルニア州では1986年の州法改定で、共通語であり公用語であるのは英語である旨を明文化している。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2009年10月24日、知事シュワルツェネッガーは、チュマシュ族インディアン・サンタイネス・バンドを筆頭とするカリフォルニア・インディアン民族が提唱したインディアン部族語の保存援助を目的とする新しい州法案に署名した。州のこの新法は、同州のインディアン民族に、民族語再教育のためのライセンスや各種基準を認めるものである。同州にはかつて100以上の民族語が存在したが、「インディアン寄宿学校」による合衆国の民族浄化政策によって、半数以上が絶滅言語となってしまっている。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州の住民の宗教は以下の通り。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "多くの他の西部の州と同じく、カリフォルニア州でも無宗教の比率が合衆国の他の地域に比して高い。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州の人口の68%は、ロサンゼルス大都市圏、サンフランシスコ湾岸地域およびリバーサイド・サンバーナーディーノの3大都市圏に住んでいる。その他に規模は小さくなるがサンディエゴとサクラメントの都市圏にもそこそこの人口が集まっている。",
"title": "重要な都市および町"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "サクラメントが1850年に市政を布いたのが最初の市になった サンノゼ、サンディエゴおよびベニシアが同年3月27日に続いた。 2011年7月1日に市制を施行したフルパバレーが最も新しい市である。",
"title": "重要な都市および町"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州はチャーターと一般法の2種の市を認めている。一般法の市は州法でその存在を認められ、州の管轄を受ける。チャーター市は市自体のチャーターで統治される。19世紀に市政を布いた市はチャーター市が多かった。人口の多い10都市もすべてチャーター市である。以下、州内の人口の多い10都市、および10郡をそれぞれ挙げる。",
"title": "重要な都市および町"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "なお、上表の人口は2020年4月1日付けで行われた国勢調査による数値である。",
"title": "重要な都市および町"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "上の地域内の重要な郊外の一覧、参照:en:List of urbanized areas in California (by population)。",
"title": "重要な都市および町"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "以下のリストは住人の平均個人所得による順位である:",
"title": "重要な都市および町"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州の場所の所得ランキング(英語版)",
"title": "重要な都市および町"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州は共和制の三権分立制を採っている。すなわち知事とその他選挙で選ばれる憲法で定めた行政官からなる執行府、下院と上院からなる立法府および最高裁判所と下級裁判所からなる司法府である。また直接請求、住民投票、リコールおよび批准という手段で有権者が直接政治に参加できる仕組みがある。政党は閉鎖的予備選挙あるいは党員と無所属の者のみが投票できる予備選挙のどちらかを選択できる。",
"title": "法律および行政"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "現在の州知事は民主党出身のギャビン・ニューサムである。知事とその他選挙で選ばれる憲法で定めた行政官の任期は4年間であり、再選は1回のみ可能である。州議会は上院が定数40人、下院が80人である。上院は4年任期、下院は2年任期である。下院議員は3期まで、上院議員は2期までという上限がある。2021年現在上院は民主党所属の議員が31名、共和党所属の議員が9名おり、下院は民主党所属の議員が59名、共和党所属の議員が19名となっている。",
"title": "法律および行政"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニアの法体系は明確にイギリスのコモン・ローに基づいている が、夫婦共有財産のようにスペインの大陸法から継承したものもある。死刑は合法であり、現在国内最多の「処刑待ち」死刑囚を抱えている。死刑囚監房はサンフランシスコの北、マリン郡にあるサン・クエンティン州立刑務所にある。人権問題が提起されているので、死刑執行は現在無期限に止められている。州内の刑務所に居る受刑者の数は1980年の25,000人から2007年の17万人以上にまで膨れ上がっている。 カリフォルニア州の司法府は合衆国の州の中で最大であり、判事が1,600人居る(連邦司法府は約840人に過ぎない)。最高裁判所の判事は7人である。最高裁判所と控訴裁判所の判事は知事によって指名されるが、12年ごとに有権者の審査を受けることになっている。",
"title": "法律および行政"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "全米10大都市にランクされるロサンゼルスやサンフランシスコなどの大都市圏をかかえるカリフォルニア州は、かつての大気汚染などの問題もあり、メーカーなどの産業廃棄物処理・排水規制などの法人対象の法や、ベルモント市(英語版)の2009年より個人所有のアパートなどを含む共有空間での喫煙を禁じる条例など、早期から取り締まられた排気ガス規制など環境関連の規制が全米で最も厳しい。",
"title": "法律および行政"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1970年代はアメリカでもっともすばらしい政治運営がなされている場所と評価されていたが、重要な法案を州民投票で直接選択する方針を採ってからは行政運営が上手くいっておらず、かつては全米一と言われていた教育水準も年々低下している。",
"title": "法律および行政"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州には特有の政治文化がある。妊娠中絶を認めた2番目の州であり、同性の結婚を認めたのも2番目だった(同性の結婚は司法判断であり、後に住民請求による投票で撤回された。しかし2013年6月26日、連邦最高裁が、同性婚を否定する住民投票「プロップ8」を違憲と判断した州裁判所の判決を支持したため、再び同性婚は合法化されるはこびである)。",
"title": "法律および行政"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降の国政選挙では概して民主党候補を支持してきた一方で、知事には共和党候補を選んできた。ただし、それら共和党知事の多くは党内でも中道寄りであると見なされる傾向がある。",
"title": "法律および行政"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "地域的には、共和党は北東部で優勢であるが、ロサンゼルス郡やサンフランシスコ・ベイエリアなどの海岸地域は民主党の強固な地盤となっている。",
"title": "法律および行政"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2000年代以降、カリフォルニアの政治傾向は民主党寄りとなっている。この傾向は大統領選挙で特に顕著である。さらに、民主党は1992年以降の連邦上院議員選挙をすべて制しており、州議会の上下両院でも多数党である。アメリカ合衆国下院では、第110会期で民主党議員34人、共和党議員19人となっている。州内の各選挙区はどちらかの政党が優位となっており、接戦になる選挙区は少ない。政治評論家に拠れば、下院議員および大統領選挙人の数は現在の55人よりも3人多い58人であるべきとしている。",
"title": "法律および行政"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2007年時点で州の総生産は約1兆8,120億ドルであり、国内の州では最大で、アメリカ合衆国のGDPの13 %を占めている。世界の国と比較してもGDPで9位、購買力平価説購買力平価で12位になる。しかし、2009年 - 2010年会計年度では263億ドルの赤字だった。2008年後半の経済減退と世界金融危機への対応が緊急課題となったために州予算の成立が3か月も遅れたが、単に赤字を2009年に繰り越したに過ぎない。1つの問題は州の歳入のかなりの部分が、少数の富裕な州民から上がる所得税に依存していることである。例えば2004年の場合、納税者の3 %が収税全体のうちの60 %を払っていた。課税できる収入はキャピタルゲインに頼っているために、証券市場の減退が大きく影響してきた。州知事は歳出の大幅なカットと増税を提案してきたが、議会との間で続くこじれのために法案の通過は困難な状況にある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "州の歳出は1998年の560億ドルから2008年の1,310億ドルまで増加し、2008年には400億ドルの赤字になった。2010年には720億ドル とさらに赤字が増加する可能性がある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "雇用数を比較すると貿易・交通および公共事業の分野、地方自治体、専門職と事業経営分野、教育と健康分野および観光娯楽分野が3つの大きな分野である。最大の雇用主はUniversity of Californiaである。生産高でみると、金融が大きく、続いて貿易・交通および公共事業の分野、教育と健康分野、地方自治体、製造分野の順になる。2010年1月の失業率は12.5 %と国内では5番目に高く、2007年の5.9 %からかなり上昇した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州の経済は貿易と国際商取引への依存率が高く、およそ州経済の4分の1に相当している。2008年の輸出額は1,440億ドルであり、2006年の1,270億ドル、2007年の1,340億ドルから増加してきている。中でもコンピュータと電子製品が2008年の輸出額の42 %と飛びぬけて高い 。 農業はカリフォルニア州経済の大変重要な分野であり続けている。過去30年間の農業関連売上高は、1974年の73億ドルから2004年の310億ドルと約4倍になった。この期間、農業用地は15 %減り、農業用水供給量は慢性的不安定な状態だったが、これだけ売上高は上がった。これは農業適地を集中的に使ったことと、技術的改善で収量を上げたことが貢献している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2007年のカリフォルニア州1人当たり所得は38,956ドルであり、国内の州では8位になっている。これは地域や職業で幅広く異なっている。例えば、セントラル・バレーでは、移民農場労働者が最低賃金以下で働いているので、最も貧しい地域になっている。近年サンホアキン・バレー地域がアパラチア地域と並んで、合衆国で最も経済的に落ち込んだ地域の1つになってきた。一方海岸にある多くの都市の中には、一人当たりの所得で合衆国の中でも、最も裕福な地域がある。北部のハイテク産業が集積したシリコンバレー、サンタクララ郡とサンマテオ郡はインターネット・バブルによる不況から立ち直ってきた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州は6等級で変わる所得累進課税方式を採っており、最高税率は9.3 %である。所得税総額は年400億ドルになる。消費税率は8.25 %であり、地方消費税を含むと10.75 %になる。固定資産税は購入時の適正市場価格に基づいて課税され、実勢市場価格に合わせて増税されることはない。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2009年の経済危機でカリフォルニア州は破産状態になっている。6月にアーノルド・シュワルツェネッガー知事は「我々の財布は空であり、銀行は閉じ、信用は無くなった」と語った。現在240億ドルの歳出カットを提案している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニアの広大な領域はフリーウェイ、イクスプレスウェイおよびハイウェイ(公道)で繋がれている。車社会であり、都市部は交通渋滞が激しい。州道の建設と保守、および州全体の交通計画は州交通局が担当している。人口の急増で交通網に歪みを来たしており、積極的にフリーウェイの交通網拡張を継続すべきか、都会における大量交通手段の改良に集中すべきかというのが州政の課題で有り続けている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "州内でも有名なランドマークの1つが1937年に完工したゴールデン・ゲート・ブリッジである。オレンジ色に塗られ湾を見下ろすパノラマのような景色が観光客に人気であり、歩行者や自転車も通ることができる。エル・カミノ・レアル(スペイン語で「王の道」)や太平洋岸ハイウェイとも呼ばれる州道1号線の一部であるアメリカ国道101号線として同時に指定された。サンフランシスコ・ベイエリアに架かる7つの橋の中で、1936年に完工したサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジも有名である。二階建てのこの橋は1日28万台の交通量があり、イエルバ・ブエナ島で2つの部分に分かれている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "太平洋および合衆国本土内との交通はロサンゼルス国際空港とサンフランシスコ国際空港が大きな中継点になっている。州内には他にも約12の商業空港と多くの一般用と空港がある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "重要な海港も幾つかある。南部のロサンゼルス港とロングビーチ港で作られる巨大な海港は国内でも最大であり、コンテナ取扱量では国内の約4分の1となっている。オークランド港は国内4位であり、環太平洋地域との貿易を扱い、北カリフォルニアから全米に入る海上コンテナの大半を送り出している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "都市間鉄道はアムトラックが運行しており、合衆国の北東回廊の次に運行本数の多い路線が3線ある。これらの州内完結の路線にはアムトラック・カリフォルニアという独自のブランド名がつけられ、他のアムトラック列車とは違った塗装・仕様の車両が用いられる。このほかにもアムトラックは州西海岸の都市を起点に東部・北部方面への大陸横断・縦断列車を運行している。ロサンゼルス(ロサンゼルス郡都市圏交通局)やサンフランシスコ(サンフランシスコ市営鉄道)の都市圏には地下鉄やライトレールのネットワークがある。ライトレールはサンノゼ、サンディエゴ、サクラメントおよびサンディエゴ郡北部でも運行されている。さらに通勤列車としては、サンフランシスコ・ベイエリアのアルタモント通勤急行、バート、カルトレイン、ソノマ・マリンエリア鉄道、ロサンゼルス大都市圏のメトロリンク、サンディエゴ郡のコースターがある。カリフォルニア高速鉄道局が1996年に創設され、サンフランシスコとロサンゼルス間を2時間半で結ぶ計画である。総延長は700マイル (1127 km) になる可能性がある。100億ドル近い資金(州債)が投入される建設は2008年11月の住民投票で承認された。ほとんど全郡でバス路線を運行しており、多くの都市にもバス便がある。都市間のバス路線はグレイハウンドとアムトラックのスルーウェイコーチ(鉄道連絡バス)が運行している。ただし、後者についてはカリフォルニア州法の規定によりバス区間単独での乗車券の発売が認められておらず、鉄道との乗り継ぎで利用することが前提となっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "公立の中等教育には貿易、言語および教養科目で選択コースを教えている高校があり、天分に恵まれた者、カレッジを指向する者および工業系を指向する生徒のためのものである。カリフォルニア州の公共教育システムは特徴ある憲法修正条項で支持されており、幼稚園生から12年生までとコミュニティ・カレッジの最低予算を手当てしている。コミュニティ・カレッジは経済の発展と共に成長し入学者が増えている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2005年-2006年学校年では620万人の生徒がいた。カリフォルニアは他州にくらべて予算や教師のレベルで遅れを取っている。生徒一人当たり費用はワシントンD.C.を含めて51州のうち29番目であり、生徒一人当たり教職員の数は49番目である。生徒対教師の比率も49番目であり、教師1人あたり生徒21人となっている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州の公共高等教育は、カリフォルニア大学機構、カリフォルニア州立大学機構およびカリフォルニア・コミュニティ・カレッジ機構の特徴ある3階層のシステムである。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア大学機構は世界で最も多くのノーベル賞受賞者を雇用している世界でも有数の公立大学機構である。多くの研究型大学を擁する。以下の13のキャンパスを持つ。略称はUC。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "また、カリフォルニア大学機構には含まれないが、法科大学院であるカリフォルニア大学ヘイスティングス校ロースクール がサンフランシスコにある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア大学機構はアメリカ合衆国エネルギー省・ローレンス・リバモア国立研究所、ローレンス・バークレー国立研究所、および ロスアラモス国立研究所の国立研究所の管理を行っている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州立大学機構も世界の中でも有数の教育機構の1つだと考えられている。45万人以上の学生を抱えるカリフォルニア州立大学機構はアメリカ合衆国最大の大学機構で、高校生の上位3分の1を受け入れる事を目的としている。主に学部生の教育が意図されている。以下の23の大学、分校などを含む。略称はCSU。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア・コミュニティ・カレッジ機構は低い次元の教科学習を提供し、基本技能や職業訓練に重きを置いている。アメリカ合衆国の中でも最大の高等教育網であり110のカレッジに290万人以上の学生がいる。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "以下の私立大学が有名である。他にも数百の私立カレッジや大学があり、この中には宗教系や特殊目的の学校もある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "北米4大プロスポーツリーグのうち、15チームが州内を本拠地としている。サンフランシスコ・ベイエリアの主要3都市(サンフランシスコ、サンノゼ、オークランド)には合わせて5つのチームがあり、ロサンゼルス大都市圏には8チームが本拠を構える。ほか、サンディエゴとサクラメントに1チームずつが存在する。",
"title": "芸術・文化"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "また、メジャーリーグサッカー(MLS)、WNBA(女子バスケット)、メジャーリーグラグビー(MLR)、メジャーリーグクリケット(MLC)にも本拠を置いているチームがある。",
"title": "芸術・文化"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "NFLのスーパーボウルはこれまでに州内で10度以上開催されており、2016年には第50回スーパーボウルがサンタクララのリーバイス・スタジアムで開催された。",
"title": "芸術・文化"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "大学スポーツも盛んであり、最古のボウル・ゲームとして知られる毎年恒例のローズボウルなどが行われる。",
"title": "芸術・文化"
},
{
"paragraph_id": 99,
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"text": "米国の州で唯一、夏季オリンピックと冬季オリンピックの両方を開催した経験を持つ(1932年ロサンゼルス夏季オリンピック、1960年スコーバレー冬季オリンピック、1984年ロサンゼルス夏季オリンピック)。ロサンゼルスでは2028年ロサンゼルス夏季オリンピックの開催が決定しており、通算で4度目となる。",
"title": "芸術・文化"
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{
"paragraph_id": 100,
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"text": "1994年FIFAワールドカップ・アメリカ大会では、決勝戦を含む8試合がローズボウルスタジアムで、6試合がスタンフォード・スタジアムで開催された。",
"title": "芸術・文化"
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{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "インディアンの他、世界各国からの移民によって構成されているため、都市部では世界各国の料理(またはそれらをアメリカ風にアレンジしたもの)を気軽に楽しむことが可能である。特にもともとメキシコの領土であったことや、メキシコからの移民が多いこともありメキシコ料理が非常に一般的であるほか、イタリア料理や中華料理、ベトナム料理などが日常的に楽しまれている。",
"title": "芸術・文化"
},
{
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"text": "21世紀初頭の現在、アメリカの大都市はもちろん、全米各地で寿司や照り焼きをはじめとする日本料理が人気を博しており、一般のスーパーマーケットでも豆腐、醤油、麺類などの食材を調達することが可能であるが、カリフォルニアでは既に1970年代からその兆しがあった。アジア系住民が多く気候も温暖であることから、大根、白菜などのアジア系野菜、カリフォルニア米と呼ばれる中粒や日本のあきたこまちなどの短粒ジャポニカ種の北米における主要生産地となっており、新鮮なアジア系食材が入手しやすい地域である。カリフォルニアロールやフォーチュン・クッキーなど既存のアジア食を西洋風にアレンジしたものを全米に浸透させる発信地となることも多い。",
"title": "芸術・文化"
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"text": "地中海性気候のため、名産品としてオレンジや、オリーブそして、カリフォルニアワインが有名である。",
"title": "芸術・文化"
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{
"paragraph_id": 104,
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"text": "カリフォルニアはハワイと並んで、日本人と関係の深い米国の州のひとつである。古くはジョン万次郎、福澤諭吉、勝海舟から、この地を訪れた日本人は多い。意外なところでは、竹久夢二もこの地を訪れている。",
"title": "日本との関係"
},
{
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"text": "明治以降は日本人の移民が相次ぎ、1924年(大正13年)に日本人の移民を禁じる排日移民法が制定される。この差別的待遇は1941年(昭和16年)12月7日 の日米開戦・太平洋戦争(大東亜戦争)勃発によってさらに悪化し、敵性外国人となった日系アメリカ人は土地や財産を没収され、10か所の強制収容所に収容されることになる。これら大戦前の移民の出身地は、圧倒的に山陽地方(山口県・広島県・岡山県)および九州地方北部が多く、その理由として、かつては「山陽道は旅人の往来が多く、他所への移住に抵抗感が少ない地域であるから。」とされたが、「この地方は中世以来水軍(西洋的・近代日本の軍事、旧日本海軍、現在の海上自衛隊)の活動が顕著で、鎖国が解かれ(開国してから)再び出国ラッシュとなったから。」と云う説もある。このためか、かつては「アメリカ日系人の標準語は広島弁である。」とまで言われた。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 106,
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"text": "戦後、日系人は戦時中に活躍した日系アメリカ人部隊(陸軍第442連隊戦闘団・第100歩兵大隊)の存在や、日系アメリカ人議員の輩出などで、その地位と名誉を回復する。1988年には強制収容所での不当な扱いに対して補償法案を通過させ、生存者への金銭的補償を勝ち取った。一般に、日系人は経済的には平均より恵まれているといえるが、依然としてグラス・シーリング「見えない天井」という社会問題が残されている(そもそも日系アメリカ人は大都市に多く住み、ゆえに所得も平均以上となるのは当然と言われている)。米国の農場主は圧倒的に白人が多い中、カリフォルニアでは、サクラメント近郊などにかなりの割合で日系農場主が存在している。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "日系人社会はおよそ1世と2世、そして戦後から1980年代までの戦後移民、バブル以降の新移民に大別することができる。1世は、資源に乏しく貧しい日本で生活苦にあった貧困層がやむを得ず移住せざるを得なかったような経済難民的で、苦労して現在の地位を築き上げてきた功労者といえるが、アメリカ社会には同化しにくく、他の移民集団と同様にリトル・トーキョーに代表されるエスニック・タウンを形成する傾向がある。戦前・戦中の迫害経験から社会に対する猜疑心が強い、とも言われるが、とりわけ強制収容所での経験は1世の父権主義を心理的に崩壊させ、2世リーダーの台頭によって完全にその権威が失われてしまった。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 108,
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"text": "2世以降は父祖の地としての日本に興味はあるものの、それ以上の感情は持たず、思考や行動はアメリカ人的である。ただ2世は1世の親と生地という2つの文化に自己を引き裂かれるというアイデンティティ・クライシスを経験することが多く、日系アメリカ人文学のテーマとして描かれることが多い。2世以降でアメリカで生まれ、幼少時より日本で教育を受けた後、再びアメリカに戻った人を「帰米」という。この場合は、心情的にも日本人とほとんどかわらないが、彼らのアメリカでの苦労もまた2世と同様に苦難を伴う場合が多かった。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "戦後移民は米軍人妻(戦争花嫁)や、成功を目指して渡米した人が多い。ロッキー青木やショー・コスギが代表例である。この集団は個々に分散して、1つのエスニック・グループとしては形成されていない。しかし高齢化するにつれ、日本回帰の現象も見られる。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "新移民はバブル景気以降の日本の「国際化」(=英米化)を受けて、アメリカで生活することを選んだ人たちである。脱サラ者や定年退職者、留学生などが多いが、彼らの生活は日本との関係に依存している面が多く、近年の不況から、帰国を選択するものも増えてきている。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "1951年(昭和26年)にサンフランシスコを中心とするカリフォルニア州北部にある日系企業、北加日本商工会議所 (JCCNC) が設立された。2007年(平成19年)現在、約300社が加盟している。1960年代(昭和35-44年)には、ロサンゼルスやサンディエゴを中心とする南カリフォルニア日系企業協会 (JBA) が設立され、2007年(平成19年)現在の加盟社数は約500に達する。両団体とも、州の認可を受けた非営利団体である。他州にある日系企業団体や日本人会同様、会員対象のセミナーや親睦行事、日系企業実態の調査、地元地域への日本文化紹介や奉仕活動などを行っている。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)にJBAが行った調査『南カリフォルニア日系企業実態』によると、調査対象企業の70 %がロサンゼルス郡に集中しており、ロサンゼルス(108社)とトーランス(94社)が突出している。次いで20 %がオレンジ郡に拠点があり、アーバインとサイプレスに多い。また、メキシコ国境に近いサンディエゴ郡にも20社存在する。ただし製造業は過密状態のロサンゼルスよりも、オレンジ郡やサンディエゴ郡のメキシコ国境沿いの工業地帯(マキドーラ Maquidora)に多い。日系企業の南カリフォルニアへの進出数は1980年代(昭和55-64/平成元年)をピークに減ってはいるものの、新規設立は続いている。62.4 %が米国の法人本社、24.3 %が支店として設立しており、アメリカ進出への足掛け地点となっている。雇用者は72.8 %の現地採用者が占め、その多くが金融・保険業、製造業に就いている。日本からの派遣社員は不動産業と建設業に多いが、全体の3.1 %程度で減少傾向にある。従業員100人以上の中・大規模レベルの企業数と雇用数は減少しており、逆に全体の70 %が小規模な企業(日本でいう中小企業)であり、雇用を増やしている。対象企業の80 %が増収、あるいは前年と同程度の利益を見込んでいる。不動産、卸・小売、製造、金融・保険といった業界が好調である。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "2002年(平成14年)にはJCCNCが『ベイエリア日系企業実態調査』を行っている。2000年度(平成12年度)の調査と比較して、ベイエリアの企業が減少、1社あたりの平均雇用数も49人と大幅に減少している。日本からの派遣社員は平均4人で変化はない。80 %が日本企業の現地法人である。拠点は80 %がサンタクララ、サンフランシスコ、サンマテオ郡にある。60 %がサービス業または製造業である。売上が過去2年間に増加した企業が36 %、減少は46 %であり、営業利益は赤字が約34 %、今後1、2年の見通しが改善あるいは横ばいと答えた企業が約90 %であった。全体の25 %が何らかのボランティア活動を行い、アメリカの団体などに対する寄付は総額1940万ドルにのぼっている。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 114,
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"text": "毎年、JCCNCとJBAの代表者が合同でサクラメントの州議会を表敬訪問している。2007年度(平成19年度)はアーノルド・シュワルツェネッガー州知事に面会する機会があり、日系企業の投資(1739社による290億ドル)および雇用(15万人)に対する感謝を受けた。州議員には、医療保険や運転免許証といった個人生活レベルから、海上コンテナ課税、施設に対する消費税、環境法案など企業レベルでの問題に対する改善を要請すると同時に、州の企業誘致に対するアドバイスを与えた。アジア系議員とのパイプ作りに昼食会もおこなった。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "日本人が多く、日本と係わり合いの深い地域のため、カリフォルニア州には全日制私立在外教育施設の西大和学園や、州内各地に文部科学省認可の補習授業校が6校ある。2002年(平成14年)の文科省の発表では、ロサンゼルス補習校(通称:あさひ学園)、サンフランシスコ補習校、サンディエゴ補習校(通称:みなと学園)の3校は生徒数において、世界187校のうち上位10校に入る規模である。なかでも上位1、2位を占めるロサンゼルスとサンフランシスコの補習校は、ともに複数校舎を持ち、在籍生徒数が1000名を超えるマンモス校である。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 116,
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"text": "非認可の補習校も2校あるほか、日本語イマージョンや日本語が教科にある公立校もあり、州内のカリキュラムに沿った日本語教師を対象にした研修が行われるなど、(第二言語・外国語教育としての)日本語教育が盛んである。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "サブカルチャーに対して積極的な風土がある。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "2004年(平成16年)、アーノルド・シュワルツェネッガー知事が日本を訪問し産業・観光をアピール。2008年(平成22年)から2009年(平成21年)には「なんでもアリフォルニア カリフォルニア」のコピーで州政府観光局が広告活動をしている。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "最近ではフジテレビ系列「ワンナイR&R」のキャラクター「松浦ゴリエ」がカリフォルニア州政府公認の親善大使を務める。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "( 日本・都道府県市町村) - (州内都市など)",
"title": "日本との関係"
}
] | カリフォルニア州は、アメリカ合衆国西部、太平洋岸の州。アメリカ西海岸の大部分を占める。 | {{redirect|カリフォルニア}}
{{Coord|37|N|120|W|region:US-CA_type:adm1st_scale:10000000|display=title}}
{{基礎情報 アメリカ合衆国の州
|公式名称 = State of California
|州旗 = Flag of California.svg
|州章 = Seal of California.svg
|地図 = California in United States.svg
|愛称 = ゴールデンステート<br />The Golden State
|モットー = [[Eureka]]
|州都 = [[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]
|最大都市 = [[ロサンゼルス]]
|州知事 = [[ギャビン・ニューサム]]
|公用語 = [[アメリカ英語|英語]] <!--1986年-->
|面積順位 = 3
|総面積 = 423,970
|面積大きさ = 1 E11
|陸地面積 = 403,932
|水域面積 = 20,047
|水面積率 = 4.7
|人口統計年 = 2020
|人口順位 = 1
|人口値 = 39,538,223
|人口大きさ = 1 E7
|人口密度 = 97.9
|加入順 = 31
|加入日 = [[1850年]][[9月9日]]
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|夏時間 = -7
|緯度 = 32°32' - 42°
|経度 = 114°8' - 124°26'
|幅 = 402.5
|長さ = 1,240
|最高標高 = 4,418
|平均標高 = 884
|最低標高 = -86
|ISOコード = US-CA
|Website = www.ca.gov
|上院議員 = [[:en:Alex Padilla|アレックス・パディヤ]]<br />[[:en:Laphonza Butler|ラフォンザ・バトラー]]}}
'''カリフォルニア州'''(カリフォルニアしゅう、{{lang-en-short|State of California}})は、[[アメリカ合衆国]]西部、[[太平洋]]岸の[[アメリカ合衆国の州|州]]。[[アメリカ合衆国西海岸|アメリカ西海岸]]の大部分を占める。
{{bar box
|title=家庭で話される言語(カリフォルニア州) 2010
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{{bar percent|[[英語]]|red|57.02}}
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}}
{{bar box
|title=人種構成(カリフォルニア州) 2010
|titlebar=#ddd
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{{bar percent|[[白人]]|blue|40.1}}
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}}
== 概要 ==
[[アメリカ合衆国の州]]のうちでは最大の[[人口]]を誇り<ref name="QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年</ref>、[[アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選の選挙]]人数も最多である。[[ブラジル]]の[[サンパウロ州]]に続いて[[アメリカ州|南北アメリカ大陸]]で2番目に人口の多い[[行政区画]]であり、大都市は人口の多い順に[[ロサンゼルス]](約390万人)、[[サンディエゴ]](約140万人)、[[サンノゼ]](約100万人)、[[サンフランシスコ]](約87万人)となっている<ref name="CA popEst">{{Cite web
| title = E-4 Population Estimates for Cities, Counties and the State, 2001?2009, with 2000 Benchmark.
| location = Sacramento, California
| publisher = State of California, Department of Finance
| year = 2009 | month = May
| url = http://www.dof.ca.gov/research/demographic/reports/estimates/e-4/2001-09/
| accessdate = December 24, 2009}}</ref>。ロサンゼルスは[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]に次ぐ人口規模を誇る。州内には全国で2位(ロサンゼルス)と6位(サンフランシスコとサンノゼを含む「[[サンフランシスコ・ベイエリア|ベイエリア]]」)の[[都市圏]]があり、市域人口の多い全米の都市上位50位以内に9市が入っている。州都は[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]](約52万人)である。
かつて日本では漢字で「加利福尼亜」と表記されることもあったが、現在ではあまり用いられない。この略である「'''加州'''」は、[[日本の新聞|新聞]]の見出しのように字数制限のある場合など、今でも用いられることがある<ref group="注">なお、「州」がない「加」一文字は、一般にはカリフォルニア州ではなく「[[カナダ]](加拿大)」の略称である。</ref>。
カリフォルニア州には多様な[[気候]]と[[地形]]があり、また多くの[[民族]]が住んでいる。合衆国の州としては[[アラスカ州]]と[[テキサス州]]に次いで3番目に大きな面積を持つ<ref name="2000 population and housing">{{cite web|url=http://www.census.gov/prod/cen2000/phc3-us-pt1.pdf |format=PDF |title=2000 Census of Population and Housing|year=2004 |month=April |publisher=US Census Bureau |page=29|accessdate=December 25, 2009}}</ref>。北はオレゴン州、北東は[[ネバダ州]]、南東は[[アリゾナ州]]に接し、南は[[メキシコ]]の[[バハ・カリフォルニア州]]に接している。地理的には太平洋岸から東の[[シエラネバダ山脈 (アメリカ合衆国)|シエラネバダ山脈]]まで、南東は[[モハーヴェ砂漠]]、北西には[[セコイア]]や[[ベイマツ]]の森林がある。州の中央には世界でも最高水準の生産性の高さを誇る農業地帯、[[セントラル・バレー (カリフォルニア)|セントラル・バレー]]がある。[[アメリカ合衆国本土]]として、標高が最高の地点([[ホイットニー山]])と最低の地点([[デスヴァレー (カリフォルニア州)|デスバレー]])がある。面積のおよそ40%は森林であり<ref name="Forestry 2003">{{Cite book
| last = Laaksonen-Craig | first = Susanna
| last2 = Goldman | first2 = George
| last3 = McKillop | first3 = William
| title = Forestry, Forest Products, and Forest Products Consumption in California
| publisher = University of California ? Division of Agriculture and Natural Resources
| year = 2003 | location = Davis, California | page = 1
| url = http://anrcatalog.ucdavis.edu/pdf/8070.pdf | format = PDF
| isbn = 978-1-60107-248-1}}</ref>、乾燥した地域としては森林が比較的多い<ref group="注">このような気候および地勢により、カリフォルニア州では[[山火事]]が頻繁に発生し問題となっている。詳しくは、[[カリフォルニア州#気候]]を参照。</ref>。
18世紀の後半から「[[アルタ・カリフォルニア]]」と呼ばれた地域は[[スペイン帝国]]の植民地となった。[[1821年]]にアルタ・カリフォルニアを含み[[メキシコ]]が[[メキシコ帝国|第一メキシコ帝国]]となって帝政を布いた後に共和国に変わった。[[1846年]]、[[ソノマ郡 (カリフォルニア州)|ソノマ]]にいたアメリカ人開拓者の集団が[[カリフォルニア共和国]]の独立を宣言した。その直後の[[米墨戦争]]の結果、メキシコはカリフォルニアをアメリカ合衆国に割譲した。カリフォルニアは[[1850年]][[9月9日]]にアメリカ合衆国第31番目の州となった。
19世紀半ばの「[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ|ゴールドラッシュ]]」によって、カリフォルニアでは社会、経済および人口に劇的な変化が起こった。人々が流入し好景気が訪れたことで[[サンフランシスコ]]はテントの集まった小村から世界にも知られたブームの街に成長した。20世紀初期の重要な発展としては、娯楽産業の中心としての[[ロサンゼルス]]の勃興と州全体に広がる巨大な[[観光産業]]があった。豊かな農業に加えて[[航空宇宙産業]]、[[石油産業]]および[[情報技術]]産業が経済発展に貢献した。特に[[サンフランシスコ]]近郊の'''[[シリコンバレー]]'''は、[[Apple]]や[[Google]]([[Alphabet]])、[[Facebook]]([[Meta (企業)|Meta]])などの世界トップクラスのIT企業が多数集積している。
カリフォルニア州が1つの国家であるとすると、[[国内総生産|GDP]]では[[イタリア]]に匹敵する[[国の国内総生産順リスト (為替レート)|第10位]]である。[[国の人口順リスト|人口]]でも第35位、[[国の面積順リスト|国土]]では第59位になる。
カリフォルニア州では、歴史的に一部地域で分離・独立を繰り返し目指す動きが見られる。1800年代から2011年までに少なくとも27回独立が試みられ、すべて失敗に終わっている<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.cnn.co.jp/usa/30003391.html | title = 米加州で分離・独立の動き、51番目の州の誕生なるか?| publisher =| date= 2011-07-16 | accessdate =2011-07-16}}</ref>。
== 歴史 ==
{{Main|カリフォルニア州の歴史}}
{{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化|メキシコ独立革命|}}
[[サンフランシスコ・ベイエリア]]を中心とする北部と、[[農業]]が盛んな中部、[[ロサンゼルス]]〜[[サンディエゴ]]帯を中心とする南部に分かれる。ベイエリアには[[シリコンバレー]]が含まれ、全米で最も経済的に進んだ地域のひとつである。[[ロサンゼルス]]は[[ハリウッド]]を抱えるなど、[[エンターテイメント]]産業の世界的中心である。
[[アジア]]や[[メキシコ]]に近いため、[[移民]]が多い。[[移民]]はそれぞれの居住区に固まる傾向が強く、「[[人種のるつぼ|民族のサラダボウル]]」という形容が当てはまる。[[中華街|チャイナタウン]]、[[コリア・タウン|コリアンタウン]]、[[リトルトーキョー]]、{{仮リンク|リトルサイゴン|en|Little Saigon}}、{{仮リンク|リトルインディアの一覧|label=リトルインディア|en|Little India (location)#California}}などが有名である。なかでも隣接した[[メキシコ]]からの移民が多く、[[スペイン語]]は州準公用語となっている。
南部の多くはかつて[[メキシコ]]の領土で、元々は[[スペイン人]]によって開拓されたが、[[1848年]]の[[米墨戦争]]の結果、[[ニューメキシコ州|ニューメキシコ]]とともにメキシコからアメリカに1,500万ドルで割譲され、アメリカ領となった(同時に[[テキサス州|テキサス]]のアメリカ領有も確定した)。そのため、カリフォルニア州には[[スペイン語]]由来の[[地名]]が非常に多い。
後に[[アメリカ合衆国大統領]]となった、[[ロナルド・レーガン]]は[[カリフォルニア州知事]]を経験している。[[2003年]][[10月]]には、[[俳優]]で[[オーストリア]]生まれの[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]が州知事に当選し、2011年1月まで務めた。
=== 名称の由来 ===
「カリフォルニア」という名称は当初、今日のカリフォルニア州に加えてネバダ州、ユタ州、アリゾナ州およびワイオミング州の一部とメキシコの[[バハ・カリフォルニア半島]]からなる地域を指していた。
カリフォルニアの語源は黒人の[[アマゾーン|アマゾン族]]の人々が住み、女王カリフィア(恐らくは[[カリフ]]が語源<ref name=cpn/>)が支配する[[空想]]上の[[天国]]から派生したというのが最も普通に信じられている。カリフィアの神話は、スペイン人作家のガルシ・ロドリゲス・デ・モンタルボによって[[騎士道]]物語『[[アマディス・デ・ガウラ]]』の続編として書かれた1510年の作品『エスプランディアンの武勲』に記録されている<ref name=cpn>Gudde, Erwin G. and William Bright. 2004. California Place Names: The Origin and Etymology of Current Geographical Names. P.59-60</ref><ref name="Lavender 1987">{{cite book |last=Lavender |first=David |title=California: Land of New Beginnings |publisher=University of Nebraska Press |year=1987 |pages=27 |isbn=0803279248 |oclc=15315566}}</ref><ref>http://www.etymonline.com/index.php?search=california&searchmode=none</ref>。モンタルボに拠れば、女王カリフィアの王国は[[グリフォン]]など奇妙な怪獣が住み、金が豊富な遠隔の土地であるとされていた。
{{Quotation|ご存知のようにインド<ref group="注">南アジアの[[インド]]ではなく、[[インディアス]]を指す。</ref>の右手にはカリフォルニアという名前の島があり、地球上の天国の一部に大変近い。黒人の女性が住んでおり、一人も男は居ない。アマゾン族の様式で生活している。彼女達は頑健な体をしており、強く情熱的な心と偉大な美徳がある。この島自体は目立つゴツゴツした岩のために世界でも最も荒々しい島の1つである。その武器はすべて金で作られている。島のどこにも金や高価な石で溢れ、その上に他の金属は見つからない<ref>Person-Lynn, 2004.</ref>。}}
カリフォルニアという地名はアメリカ合衆国で[[ヨーロッパ人]]が付けた[[地名]]としては5番目に古く、また今も使われているものである。エルナン・コルテスの命令で1533年に[[バハ・カリフォルニア]]の南端に上陸したディエゴ・デ・バセラとフォルトゥン・ヒメネスが率いたスペイン遠征隊によって「[[カリフォルニア島]]」と命名された<ref group="注">スペイン人歴史家アントニオ・デ・ヘレラ・イ・トルデシラスが1601年に出版した史料に拠れば、[[フロリダ]]、[[ドライ・トートガス]]、[[ケープ・カナベラル]]および[[アパラチア山脈|アパラチアン]]がそれ以前に名付けられた地名である。</ref><ref name="Stewart 1945">{{cite book |title=Names on the Land: A Historical Account of Place-Naming in the United States |last= Stewart|first=George |authorlink=|year=1945 |publisher= Random House|location=New York |pages= 11-17}}</ref> が、のちにそれは[[半島]]であることが判明した。
== 地理 ==
{{Main|カリフォルニア州の地理}}
アメリカ大陸の西部、[[シエラネバダ山脈 (アメリカ合衆国)|シエラネバダ山脈]]の西側の[[太平洋]]に面した地域である。面積は3番目に大きな州で、日本の1.1倍の広さである。南北に長い形状で、北部は[[オレゴン州]]に、東側は[[ネバダ州]]・[[アリゾナ州]]に隣接している。最南端の都市[[サンディエゴ]]には[[アメリカ=メキシコ国境|メキシコとの国境]]があり、不法移民の入国が社会問題となっている。太平洋の沿岸には[[サンフランシスコ・ベイエリア]]、[[ロサンゼルス大都市圏]]、[[サンディエゴ]]などのアメリカを代表する大都市圏が位置している。
[[ファイル:USA Mt Shasta pano CA.jpg|thumb|400px|right|[[シャスタ山]]の麓にあるマウントシャスタの町並み]]
州の中央には[[セントラル・バレー (カリフォルニア)|セントラル・バレー]]があり、西の{{仮リンク|カリフォルニア・コースト山脈|en|California Coast Ranges|label=海岸山脈}}と東のシエラネバダ山脈に、北は[[カスケード山脈]]、南は[[テハチャピ山地]]に囲まれている。セントラル・バレーはカリフォルニアの農業中心であり、国内食糧生産高の約3分の1を生産している<ref name="Peak Oil">{{cite web |url=http://www.culturechange.org/cms/index.php?option=com_content&task=view&id=56&Itemid=32 |title=Lessons for California and the U.S. from movie "How Cuba survived Peak Oil" |publisher=Culture Change |author=Alice Friedemann |accessdate=June 30, 2007}}</ref>。セントラル・バレーはサクラメント=サンホアキン・デルタによって2つに分かれており、北側の[[サクラメント・バレー]]には[[サクラメント川]]が流れ、南側の[[サンホアキン・バレー]]には[[サンワーキン川]]が流れている。どちらのバレーもそこを横切る川の名前が採られている。サクラメント川とサンワーキン川を浚渫することで両川は十分な深さが保たれ、内陸の都市幾つかでも海港になっている。そのデルタは州内の重要な水の供給源にもなっている。水はデルタ地域から汲み上げられ、セントラルバレー・プロジェクトや州水道プロジェクトなどを含み、州の長さに相当するような広範な運河網を使って運ばれる。デルタ地帯からの水は州人口の3分の2にあたる2,300万人近い住人の飲料水になり、サンホアキン・バレーの西では農業用水になっている。南部海岸には[[チャンネル諸島 (カリフォルニア州)|チャンネル諸島]]が浮かんでいる。
[[ファイル:A rainbow over Bridalveil Fall seen from Tunnel View in Yosemite NP.jpg|thumb|left|200px|氷河の支脈で造られたU字形渓谷から流れ出るブライダルベールの滝(ヨセミテ国立公園)]]
シエラネバダ山脈(スペイン語で雪の山脈)にはアメリカ合衆国本土では最高峰である[[ホイットニー山]](標高14,505フィート、4,421 m)がある<ref name="usgs">{{cite web |date=April 29, 2005 |url=http://erg.usgs.gov/isb/pubs/booklets/elvadist/elvadist.html#Highest |title=Elevations and Distances in the United States |publisher=U.S Geological Survey |accessdate= December 24, 2009}}</ref>。この山脈には、氷河が削ったことで有名な[[ヨセミテ国立公園|ヨセミテ渓谷]]や、地球上最大の生物[[セコイアデンドロン|セコイア]]の木で覆われた[[セコイア国立公園]]、貯水量で州内最大の淡水湖である[[タホ湖]]がある。
シエラネバダ山脈の東には渡り鳥の生息地[[オーエンズヴァレー]]と[[モノ湖]]がある。州西部には水面積で州内最大のクリア湖がある。タホ湖の方が大きいがカリフォルニア州とネバダ州の州境で分けられている。シエラネバダ山脈は冬季に北極並みの気温まで下がり、アメリカ合衆国では一番南にある{{仮リンク|パリセイド氷河|en|Palisade Glacier}}など、多くの小さな氷河も残っている。
州内陸地表面積の約45 %は森林で覆われており、アラスカ州を除けばアメリカ合衆国の州で最も森林の多い州である。松類の多様さは他の州に無いものである。{{仮リンク|ホワイト山地 (カリフォルニア州)|label=ホワイト山地|en|White Mountains (California)}}の樹木の多くは世界最古のものである。ブリストルコーン松の場合は樹齢4,700年のものがある。
[[南カリフォルニア|南部]]には大きな内陸塩湖である[[ソルトン湖]]がある。中南部の砂漠は[[モハーヴェ砂漠]]と呼ばれている。その北東に[[デスヴァレー (カリフォルニア州)|デスバレー]]があり、北アメリカでは最も低く最も暑い地点、[[バッドウォーター]]盆地を含んでいる。デスバレーの最低地点からホイットニー山の最高地点までの距離は200マイル (320 km) に満たない。南東部の大半は乾燥して暑い砂漠であり、夏季には極端に高い温度を記録することが多い。
カリフォルニア州は[[環太平洋火山帯]]の一部であり、[[津波]]、[[洪水]]、[[旱魃]]、サンタアナ風(偏西風)、[[山火事]]、[[地すべり]]および幾つかの[[火山]]活動など自然災害が多い。南部から西部にかけての[[サンアンドレアス断層]]など幾つかの[[断層]]のために比較的震源が浅い地震(直下型地震)が多い。過去に[[マグニチュード]]8クラスの[[地震]]を経験している。
=== 気候 ===
{{Main|カリフォルニア州の気候|カリフォルニア山火事の一覧}}
[[ファイル:BIGSUR CA9.jpg|thumb|right|[[ビッグサー]]の海岸線]]
気候は主にまばゆい太陽が輝き乾燥した夏と冷涼で雨の多い冬の[[地中海性気候]]の地域が多く、また[[亜寒帯気候]]に入る地域まである。冷たい[[カリフォルニア海流]]のために海岸近くで霧が発生することが多い。降水量は多くなく、[[シエラネバダ山脈 (アメリカ合衆国)|シエラネバダ山脈]]に降った雪解け水の[[伏流水]]を井戸で汲み上げているところが多い。しかし急激な人口増加で新たな水源の確保が課題となっている。
州の形状や長い海岸線、高低差などのために、州の南端と北端または海岸部と内陸部ではかなり気温や気候が異なることがある。内陸部では寒い冬と暑い夏がある。そのため、南部の海岸で[[サーフィン]]をする人がいる一方、内陸の山地帯では[[スキー]]をする人がいたりもする。
州北部は南部よりも年間降水量が多い。山岳部も気候に影響する。州内で雨の多い場所は山岳の西側斜面である。北西部は温暖な気候であり、セントラル・バレーは地中海性気候だが海岸部よりも温暖差が激しい。シエラネバダ山脈など高山では、冬は雪の多い山岳気候であり、夏は比較的過ごしやすい暑さになる。
山岳部の東側は[[雨蔭]]となり、広大な砂漠を生んでいる。東部の高度が高い砂漠では夏に暑く冬は寒いが、南部山岳の東にある低地砂漠では夏は暑く、冬は霜がほとんど降りず比較的温暖である。海面より低い所が広がるデスバレーは北アメリカで最も暑い場所と考えられている。1913年7月10日に西半球での[[世界の最高気温記録|最高温度]] 134{{°F}}(57 ℃) を記録した。
[[ファイル:CalaverasBigTrees2.jpg|thumb|right|180px|カラベラス大木州立公園]]
=== 生態 ===
カリフォルニアは世界でも最も豊かで最も多様な地域の1つであり、最も絶滅が危惧される生態系も幾つかある。[[生物地理区]]では[[新北区]]に属し、多くの[[エコリージョン|生物地理学的地域]]に跨っている。
カリフォルニアには数多い[[固有種]]がおり、カタリーナ・アイアンウッド (''Lyonothamnus floribundus'') のような、他所では死に絶えた遺存種が残っている。カリフォルニア・ライラック (''Ceanothus'') のように多様な生息条件を利点にして、共通の祖先から多くの種が派生した[[分化]]あるいは[[適応放散]]によって発生した固有種が多い。カリフォルニアの固有種の多くは、[[都市化]]、[[伐採]]、[[放牧|過放牧]]および[[外来種]]の導入がその生息地に侵入することで絶滅が危惧されている。
カリフォルニアの植物相の集合には幾つか最上級のものがある。最大の樹木(セコイアデンドロン)、最高の樹木(セコイア)および最古の樹木(ブリストルコーン松)である。野草は多年生植物である<ref name="Restoring Native Grasses">{{cite journal |url=http://www.ars.usda.gov/is/AR/archive/may04/grass0504.htm |title=Restoring California's Native Grasses |journal=Agricultural Research magazine |author=David Elstein |month=May |year=2004 |volume= 52 |issue= 5 |pages=17 |accessdate=December 25, 2009}}</ref>。ヨーロッパ人が到来して以降、これらは概してヨーロッパの一年草外来種に置き換わってきた。現代ではカリフォルニアの丘陵は夏に特徴ある金茶色に変わる。
=== 河川 ===
カリフォルニア州内の最も著名な河川は[[サクラメント川]]、ピット川および[[サンワーキン川]]である。どれもシエラネバダ山脈の西斜面からセントラル・バレーを流れ、[[サンフランシスコ湾]]を通って[[太平洋]]に流れ入る。その他重要な河川は北部の[[クラマス川]]とトリニティ川、南東部州境の[[コロラド川]]である。[[オーエンズ川]]はシエラネバダ山脈の南東斜面から流れ出て[[オーエンズ湖]]に流れ込んでいる。イール川とサリナス川はそれぞれサンフランシスコ湾の北と南で海岸に注いでいる。モハーヴェ川はモハーヴェ砂漠の主要水路であり、[[サンタアナ川]]はトランスバース山脈から流れ出て州南部を横切っている。
== 人口 ==
{{Main|カリフォルニア州の人口動態}}
=== 人口概況 ===
[[ファイル:California population map.png|thumb|left|カリフォルニア州の人口密度分布図]]
{{歴史的人口
|1850|92597
|1860|379994
|1870|560247
|1880|864694
|1890|1213398
|1900|1485053
|1910|2377549
|1920|3426861
|1930|5677251
|1940|6907387
|1950|10586223
|1960|15717204
|1970|19953134
|1980|23667902
|1990|29760021
|2000|33871648
|2010|37253956
|2020|39538223
}}
[[2009年]]現在、その人口は36,961,664人と推計され、国内で13番目に増加率の高い州である。前回2000年の国勢調査から3,090,016人増えており、自然増(出生5,058,440、死亡2,179,958<ref name="popEstChanges">{{Cite web | url = http://www.census.gov/popest/states/tables/NST-EST2009-04.csv | format = CSV | title = Table 4. Cumulative Estimates of the Components of Resident Population Change for the United States, Regions, States, and Puerto Rico: April 1, 2000 to July 1, 2009 | publisher = United States Census Bureau|
| date = December 22, 2009 | accessdate = December 26, 2009}}</ref>)ならびに州内への移住者純増306,925人が含まれている。アメリカ合衆国外からの移住で1,816,633人増加し、合衆国内部への移住で1,509,708人減少した<ref name="popEstChanges"/>。2020年の国勢調査では、人口は39,538,223人に増加した<ref>{{Cite web|title=2020 Population and Housing State Data|url=https://www.census.gov/library/visualizations/interactive/2020-population-and-housing-state-data.html|website=The United States Census Bureau|accessdate=2021-08-14|language=EN-US|first=US Census|last=Bureau}}</ref>。
カリフォルニア州は最も人口の多い州であり、アメリカ合衆国人口の12%を占める。市域人口において全米の上位50都市の9都市を有している。ロサンゼルスは人口3,898,747人と合衆国内で2番目の大都市である。以下、サンディエゴ(8位)、サンノゼ(10位)、サンフランシスコ(17位)、フレズノ(34位)、サクラメント(35位)、ロングビーチ(42位)、オークランド(45位)、ベーカーズフィールド(48位)と続く。[[ロサンゼルス郡 (カリフォルニア州)|ロサンゼルス郡]]の人口は10,014,009人とアメリカ合衆国の郡では最大であり、国内40の州よりも多い(以上、すべて2020年国勢調査)<ref name="QuickFacts" />。州の[[人口重心]]はバトンウィロウ(国勢調査指定地域)がある[[カーン郡 (カリフォルニア州)|カーン郡]]となっている<ref>座標でいえば、{{Coord|35.458606|-119.355165|display=inline}}</ref><ref name="popCentersByState">{{Cite web
| title = Population and Population Centers by State: 2000
| work = United States Census 2000
| publisher = US Census Bureau Geography Division
| date = May 20, 2002
| url = http://www.census.gov/geo/www/cenpop/statecenters.txt
| format = TXT
| accessdate = December 26, 2009}}</ref>。
=== 人種構成 ===
{{bar box
|title=人種構成(カリフォルニア州) 2020<ref name="QuickFacts" />
|titlebar=#ddd
|float=right
|bars=
{{bar percent|[[白人]](非ヒスパニック)|blue|36.5}}
{{bar percent|[[ヒスパニック]]|pink|39.4}}
{{bar percent|[[アジア系アメリカ人|アジア系]]|brown|15.5}}
{{bar percent|[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]|Purple|6.5}}
{{bar percent|[[インディアン]]|orange|1.6}}
{{bar percent|[[混血]]|yellow|4.0}}
}}
アメリカ合衆国統計局は、自分や先祖が中南米のスペイン語圏出身であるという意識を持つ[[ヒスパニック|ヒスパニック系]]を2つのカテゴリーに分けている。ヒスパニック系は「ヒスパニック」だけではなく、[[白人]]または[[アジア系民族|アジア系]]に分類される場合、単純に「その他の人種」と分類される場合がある。そのために[[国勢調査]]データが分かりにくいと言われている。
下記は「ヒスパニック系」を明確に分類し、各グループのヒスパニック系以外の数値(ヒスパニック系以外の白人、ヒスパニック系以外の[[エスキモー]]、ヒスパニック系以外の[[混血]]など)を掲載した。''人種および国勢調査上のもっと多くの情報につい詳しくは{{仮リンク|米国国勢調査における人種と民族|en|Race and ethnicity in the United States Census}}を参照''
{| class="wikitable"
|-
!
!2020年国勢調査<ref name="QuickFacts" />
|-
|[[ラティーノ]](人種を問わない[[ヒスパニック]])
|39.4%
|-
|ヒスパニック以外の白人
|36.5%
|-
|アジア系アメリカ人
|15.5%
|-
|[[アフリカン・アメリカン|黒人]]
|6.5%
|-
|2つまたはそれ以上の[[人種]]
|4.0%
|-
|[[インディアン]]および [[エスキモー]]
|1.6%
|-
|[[ハワイ諸島]]および[[太平洋諸島]]系[[先住民族]]
|0.5%
|}
白人の数では22,189,514人と国内最大の州であり、アフリカ系アメリカ人は2,250,630人と国内5位である。アジア系アメリカ人は440万人と推計され、国内のアジア系人口1,310万人の約3分の1がカリフォルニア州に住んでいることになる。インディアン人口は285,162人でこれも国内最高である<ref name="US Census Cal Race and Ethnicity">{{Cite web
| title = California - ACS Demographic and Housing Estimates: 2006-2008
| work = American Fact Finder
| publisher = US Census Bureau
| url = http://factfinder.census.gov/servlet/ADPTable?_bm=y&-geo_id=04000US06&-qr_name=ACS_2008_3YR_G00_DP3YR5&-ds_name=ACS_2008_3YR_G00_&-_lang=en&-_sse=on
| accessdate = December 26, 2009}}</ref>。
出自はメキシコ系 (25 %) が最多であり、次にアジア系、[[イギリス]]系、[[ドイツ]]系、および[[アイルランド]]系と続く。メキシコ系特に[[チカーノ]]の多くは、カリフォルニア州南部、セントラル・バレー、サリナス、およびサンフランシスコ湾地域に居住している。[[アングロ・サクソン人|アングロサクソン民族]]の多くは、シエラネバダ東部、北縁、および[[北部海岸 (カリフォルニア州)|北部海岸]]に居住している。カリフォルニアはもとより、[[北アメリカ]]でアジア系が最も集中しているのが、サンフランシスコ近辺である。
2020年の国勢調査では、非ヒスパニック系白人比率が35%と2010年の国勢調査から約5ポイント下がり39%のヒスパニックが初めて多数派になった<ref>{{Cite web|和書|title=有料会員向けサービス 朝刊・夕刊:日経電子版|url=https://www.nikkei.com/pr/paper/|website=www.nikkei.com|accessdate=2021-08-14|language=ja}}</ref>。
==== インディアン ====
{{Main|ネイティブ・アメリカン}}
[[ファイル:Americanindiansmapcensusbureau.gif|250px|left|thumb|カリフォルニア州のインディアン保留地]]
同州にはかつて、60を数える[[インディアン]]民族が先住していた。温暖な気候と豊富な漁業・狩猟資源に恵まれ、農業は発展しなかった。
18世紀にやってきたスペイン人は、さまざまな民族を捕えて強制的にキリスト教化し、農場の労務や他のインディアン民族の監督に使役し、これを「{{仮リンク|ミッション・インディアン|en|Mission Indians}}(伝道インディアン)」と呼んだ。現在、カリフォルニア独自のインディアン集団となっている。
1849年を中心とする[[ゴールド・ラッシュ]]では、金目当てにやってきた白人(フォーティーナイナー)が北部のインディアン民族の土地を蹂躙した。[[ヤヒ|ヤヒ族]]のように根絶やしにされた民族もあった。
同州は、インディアンによる初の完全自治運営による短期大学「{{仮リンク|DQ大学|en|D-Q University}}」が開校された記念すべき州でもある。この学校は、朝鮮戦争時に連邦政府に没収され、ミサイルレーダー基地にされていたインディアン保留地が以後放置されていたものを返還させ跡地利用したものである。現在、州はこの大学の認定を取り消して廃校処分としており、インディアン学生による抗議運動が続けられている。
1960年代に巻き起こったインディアンの権利回復要求運動「{{仮リンク|レッド・パワー運動|en|Red Power movement}}」では、全米でインディアンによる占拠抗議が行われた。同州で決行された[[アルカトラズ島占拠事件]]は、中でも最大級のものであった。
[[ファイル:Alcatraz Island 01 Prison sign.jpg|right|thumb|インディアンによるアルカトラズ島占拠の記念碑]]
1969年の11月20日、[[モホーク族]]の[[リチャード・オークス]]、サンテ・[[スー族]]の[[ジョン・トラデル]]ら老若男女79人のインディアンの人たちが[[アルカトラズ島]]に上陸、条約に基づく権利として「アルカトラズ島をインディアンの文化センターとする」と宣言、数百人のインディアンが全米から集まった。[[リチャード・ニクソン]]大統領が調停に入り、「レッド・パワー運動」は全世界に轟いた。占拠は1971年6月11日まで続いた。
小規模民族が多く、同州では「[[インディアン居留地|保留地]] (Reservation)」は主に「集落 ([[w:Rancheria|Rancheria]])」と呼ばれている。温暖な気候を利用し、果樹園を営む人々もある。リゾート観光事業に特化した人々も多いが、ほとんどの民族は産業を持てず貧困にあえぐ状況である。
[[ファイル:Emeryfromhilton.jpg|left|thumb|[[エメリービル]]の観光名所であるショッピング・センター「ベイ・ストリート・モール」は、ムウェクマ・オーロネ族の伝統墓地と貝塚を破壊して建てられた]]
絶滅扱いされ、民族認定されていない[[サンフランシスコ]]の「[[オローニ族|オーロネ族]]・ムウェクマ・バンド」は、伝統の墓地と[[貝塚]]を破壊されて、ショッピングセンター「{{仮リンク|ベイ・ストリート・モール|en|Bay Street Emeryville}}」を建てられた。民族の反対を押し切って行われた墓暴きでは、首長ローズマリー・ギャンブラが妨害行為を行ったとして逮捕された。発掘されたオーロネ族の数万個に上る遺骨片は、バークレー大学のインディアン博物館に押収展示されており、この民族はこの返還を求め係争中である。
[[ファイル:Klamath tribes dam removal demo.jpg|thumb|right|クラマス族による水利漁業権回復要求デモ(2006年)]]
同州を流れる[[クラマス川]]には、上流に鮭の遡上を遮る四つのダムがあり、伝統的な鮭漁が営めないとして、{{仮リンク|クラマス族|en|Klamath people}}、{{仮リンク|ユロク族|en|Yurok people}}はダムの撤廃を訴え、2004年と2005年にダムを所有する実業家の住む[[スコットランド]]へ赴き、現地で熱狂的に迎えられた。この際に魚道の確保や一部ダムの撤廃などを約束されたが、2006年にダムの所有者が移ったため、運動は振り出しに戻っている。また、{{仮リンク|カルク|label=カルク族|en|Karuk}}はクラマス川で行われている砂金採りのレクリエーションイベントが河床を荒らし、鮭漁に有害であると抗議している。2009年1月、カリフォルニア漁業狩猟庁はこれが特別「非常事態」でもないとして却下した。カルク族のクレイグ・タッカーは「我々の漁場が非常事態でないと思うんなら、そいつらは頭のスイッチがいかれてるんだろう」とコメントした。
同州には19世紀に東部や南部から強制移住させられた民族もおり、多数の民族が現在、連邦政府の公式認定を要求し、係争中である。
{{Main|カリフォルニア州のインディアン部族一覧}}
=====インディアン・カジノ=====
1987年、「ミッション・インディアン・カバゾン・バンド」が民族の命運をかけて開設した高額賭け率の[[ビンゴ#ビンゴホール|ビンゴ場]]の「ファンタジー・スプリングス・リゾート・カジノ」は、これを違法とする州政府と「{{仮リンク|ミッション・インディアン・カバゾン・バンド訴訟|en|California v. Cabazon Band}}」で争った末に最高裁で合法判決を勝ち取った。この判例は全米のインディアン民族に民族カジノ開設を競わせ、「[[インディアン・カジノ]]」は「現代のバッファロー」と呼ばれる民族のビジネス・モデルとなった。
1988年、連邦政府は「インディアン賭博規制法」を制定し、インディアン民族による賭博を三等級に分け、最上級のカジノ運営に関し、連邦認定された(つまり、保留地を所有する)インディアン民族に限って内務省管轄でこれを認めることとした。一方、同じインディアン民族でありながら連邦政府から「絶滅民族」とされ、連邦との条約規定を解消されて保留地や福利厚生の権利を没収された多数のバンドは、カジノを持つことも出来ず、自立の機会を奪われている。
現在、同州全体で58のカジノと、90のポーカー場を運営している。「宮殿」を名乗るカジノもあるが、実際に宮殿並みの外観を備え、ホテル、温泉や保養施設、レストランなどを揃えた一大リゾート施設となったものも多い。
同州のインディアン民族の人が経営するカジノ・賭博施設については[[カリフォルニア州のインディアン・カジノ一覧]]を参照。
=== 言語 ===
{{bar box
|title=家庭で話される言語(カリフォルニア州) 2010
|titlebar=#ddd
|float=right
|bars=
{{bar percent|[[英語]]|red|57.02}}
{{bar percent|[[スペイン語]]|Purple|28.46}}
{{bar percent|[[中国語]]|yellow|2.80}}
{{bar percent|[[タガログ語]]|silver|2.20}}
}}
[[2005年]]現在、5歳以上のカリフォルニア州民の57.59 %は家庭で[[英語]]を話し、28.21 %は[[スペイン語]]を話している。以下、[[タガログ語]]2.04 %、[[中国語]]1.59 %、[[ベトナム語]]1.4 %、および[[朝鮮語]]1.05 %と続く。全体で42.4 %は英語以外を話している<ref name="MLA Languages">{{Cite web
| title = Most spoken languages in California in 2005
| publisher = Modern Language Association
| url = http://www.mla.org/map_data_results&state_id=6&county_id=&mode=state_tops&zip=&place_id=&cty_id=&ll=&a=&ea=&order=r
| accessdate = December 27, 2009}}</ref><ref name="Languages at Home US Census">{{Cite web
| title = Table 5. Detailed List of Languages Spoken at Home for the Population 5 Years and Over by State: 2000
| work = Census 2000 | publisher = US Census Bureau | date = February 27, 2003
| url = http://www.census.gov/population/cen2000/phc-t20/tab05.pdf | format = PDF | accessdate = December 27, 2009}}</ref>。
選挙公報、確定申告など公的文書にもスペイン語表記があるため、連邦や州の[[公用語]]だと誤解されがちであるが、アメリカ合衆国に公用語はない。一方、約30州が州の公用語を定めており、カリフォルニア州では[[1986年]]の州法改定で、共通語であり公用語であるのは英語である旨を明文化している<ref>[http://www.leginfo.ca.gov/.const/.article_3 California Constitution article 3 sec.6] カリフォルニア州法 (原文)</ref><ref>[[:en:English-only movement|English-only movement]] 英語版記事 2007年9月19日 17:48UTC版</ref>。
2009年10月24日、知事シュワルツェネッガーは、チュマシュ族インディアン・サンタイネス・バンドを筆頭とするカリフォルニア・インディアン民族が提唱したインディアン部族語の保存援助を目的とする新しい州法案に署名した。州のこの新法は、同州のインディアン民族に、民族語再教育のためのライセンスや各種基準を認めるものである。同州にはかつて100以上の民族語が存在したが、「[[インディアン寄宿学校]]」による合衆国の[[民族浄化]]政策によって、半数以上が[[死語 (言語)|絶滅言語]]となってしまっている。
=== 宗教 ===
[[ファイル:San Jose Basilica.jpg|thumb|[[サンノゼ]]のセントジョセフ・バシリカ]]
カリフォルニア州の住民の宗教は以下の通り。
* [[キリスト教]] - 75 %
** [[プロテスタント]] - 38 %
*** [[バプテスト教会|バプテスト]] - 8 %
*** [[長老派教会]] - 3 %
*** [[メソジスト]] - 2 %
*** [[ルーテル教会]] - 2 %
*** 他のプロテスタントまたは一般的なプロテスタント - 23 %
** [[カトリック教会|ローマ・カトリック]] - 34 %
** 他のキリスト教 - 3 %
* [[ユダヤ教]] - 2 %
* その他の宗教 - 3 %
* 無宗教 - 20 %
多くの他の西部の州と同じく、カリフォルニア州でも[[無宗教]]の比率が合衆国の他の地域に比して高い。
== 重要な都市および町 ==
[[File:Downtown La At Sunrise (250094139).jpeg|thumb|200px|州内最大都市である[[ロサンゼルス]]]]
カリフォルニア州の人口の68%は、[[ロサンゼルス大都市圏]]、[[サンフランシスコ・ベイエリア|サンフランシスコ湾岸地域]]およびリバーサイド・サンバーナーディーノの3大都市圏に住んでいる。その他に規模は小さくなるがサンディエゴとサクラメントの都市圏にもそこそこの人口が集まっている。
サクラメントが1850年に市政を布いたのが最初の市になった<ref name="Sacramento Charter">{{cite web|url=http://www.library.ca.gov/goldrush/sec08.html|title=Instant City: Sacramento|publisher=California State Library|accessdate=January 29, 2010}}</ref> サンノゼ、サンディエゴおよびベニシアが同年3月27日に続いた<ref name="San Jose Inc">{{cite web|url=http://www.sanjoseca.gov/about.asp |title=San Jose at a Glance |publisher=City of San Jose |accessdate= January 29, 2010}}</ref><ref name="History of San Diego">{{cite web |title=A History of San Diego Government |url=http://www.sandiego.gov/city-clerk/geninfo/history.shtml |publisher=City of San Diego |accessdate=January 29, 2010}}</ref><ref name="Benicia Inc">{{Cite web | title = California State Parks: 1846 to 1854 | publisher = California State Parks
| date = May 23, 2007 | url = http://www.parks.ca.gov/?page_id=1096 | accessdate = January 29, 2010}}</ref>。 2011年7月1日に市制を施行した[[フルパバレー (カリフォルニア州)|フルパバレー]]が最も新しい市である。
カリフォルニア州はチャーターと一般法の2種の市を認めている<ref name="Cal Gov Code 34502"/>。一般法の市は州法でその存在を認められ、州の管轄を受ける。チャーター市は市自体のチャーターで統治される。19世紀に市政を布いた市はチャーター市が多かった。人口の多い10都市もすべてチャーター市である。以下、州内の人口の多い10都市、および10郡をそれぞれ挙げる。
{| class="wikitable" style="text-align:right; margin-right:1ex; float:left"
|-
! 順位 !! 都市 !! 人口<br /><small> within<br />city limits</small> !! 面積<br /><small> sq. miles</small> !! 人口<br />密度<br /><small> per sq mi</small> !! 郡
|-
| 1 ||align=left | [[ロサンゼルス]] || '''3,898,747''' || 469.1 || 8,311.1 || [[ロサンゼルス郡 (カリフォルニア州)|ロサンゼルス郡]]
|-
| 2 ||align=left | [[サンディエゴ]] || '''1,386,932''' || 324.3 || 4,276.7 || [[サンディエゴ郡 (カリフォルニア州)|サンディエゴ郡]]
|-
| 3 ||align=left | [[サンノゼ]] || '''1,013,240''' || 174.9 || 5,793.3 || [[サンタクララ郡 (カリフォルニア州)|サンタクララ郡]]
|-
| 4 ||align=left | [[サンフランシスコ]] || '''873,965''' || 46.7 || 18,714.5 || [[サンフランシスコ郡 (カリフォルニア州)|サンフランシスコ郡]]
|-
| 5 ||align=left | [[フレズノ]] || '''542,107''' || 104.4 || 5,192.6 || [[フレズノ郡 (カリフォルニア州)|フレズノ郡]]
|-
| 6 ||align=left | [[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]] || '''524,943''' || 97.2 || 5,400.6 || [[サクラメント郡 (カリフォルニア州)|サクラメント郡]]
|-
| 7 ||align=left | [[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]] || '''466,742''' || 50.5 || 9,242.4 || ロサンゼルス郡
|-
| 8 ||align=left | [[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]] || '''440,646''' || 56.1 || 7,854.7 || [[アラメダ郡]]
|-
| 9 ||align=left | [[ベーカーズフィールド (カリフォルニア州)|ベーカーズフィールド]] || '''403,455''' || 140.5 || 2,871.6 || [[カーン郡 (カリフォルニア州)|カーン郡]]
|-
|10 ||align=left | [[アナハイム]] || '''346,824''' || 48.9 || 7,092.5 || [[オレンジ郡 (カリフォルニア州)|オレンジ郡]]
|}
{| class="wikitable" style="text-align:right; float:left"
|-
! 順位 !! 郡 !! 人口<br /><small> within<br />county limits</small> !! 面積<br /><small> sq. miles</small> !! 人口<br />密度<br /><small> per sq mi</small> !! 最大都市
|-
| 1 ||align=left | ロサンゼルス郡 || '''10,014,009''' || 4,061 || 2,466 || ロサンゼルス
|-
| 2 ||align=left | サンディエゴ郡 || '''3,298,634''' || 4,200 || 785 || サンディエゴ
|-
| 3 ||align=left | オレンジ郡 || '''3,186,989''' || 789 || 4,037 || アナハイム
|-
| 4 ||align=left | [[リバーサイド郡 (カリフォルニア州)|リバーサイド郡]] || '''2,418,185''' || 7,207 || 336 || [[リバーサイド (カリフォルニア州)|リバーサイド]]
|-
| 5 ||align=left | [[サンバーナーディーノ郡 (カリフォルニア州)|サンバーナーディーノ郡]] || '''2,181,654''' || 20,052 || 109 || [[サンバーナーディーノ (カリフォルニア州)|サンバーナーディーノ]]
|-
| 6 ||align=left | サンタクララ郡 || '''1,936,259''' || 1,291 || 1,500 || サンノゼ
|-
| 7 ||align=left | アラメダ郡 || '''1,682,353''' || 738 || 2,280 || オークランド
|-
| 8 ||align=left | サクラメント郡 || '''1,585,055''' || 966 || 1,641 || サクラメント
|-
| 9 ||align=left | [[コントラコスタ郡 (カリフォルニア州)|コントラコスタ郡]] || '''1,165,927''' || 720 || 1,619 || [[コンコード (カリフォルニア州)|コンコード]]
|-
|10 ||align=left | フレズノ郡 || '''1,008,654''' || 5,963 || 169 || フレズノ
|}
{{clear|left}}
<gallery>
File:Sacramento from Riverwalk.jpg|サクラメント([[州都]])
File:City-1031706 1920.jpg|ロサンゼルス
File:Coronado, CA, USA - San Diego viewed from Coronado - panoramio (4).jpg|サンディエゴ
File:SAN JOSE CALIFORNIA BAYAREA01.jpg|サンノゼ
File:San Francisco At Night (140020365).jpeg|サンフランシスコ
File:Chukchansi.jpg|フレズノ
</gallery>
なお、上表の人口は2020年4月1日付けで行われた国勢調査による数値である<ref name="QuickFacts" />。
上の地域内の重要な郊外の一覧、参照:[[:en:List of urbanized areas in California (by population)]]。
: 参照:[[:en:List of cities and towns in California]] および [[:en:List of cities in California (by population)]]
: 参照:[[カリフォルニア州の郡一覧]]
=== カリフォルニア州内の25の豊かな場所 ===
以下のリストは住人の平均個人所得による順位である:
# [[ポートラーバレー (カリフォルニア州)]] - [[サンマテオ郡 (カリフォルニア州)|サンマテオ郡]] - $152,128
# [[アサートン (カリフォルニア州)]] - サンマテオ郡 - $144,197
# [[リッチベール (カリフォルニア州)]] - [[ビュート郡 (カリフォルニア州)|ビュート郡]] - $131,735
# [[ヒルズボロ (カリフォルニア州)]] - サンマテオ郡 - $127,868
# [[ヒドゥンヒルズ (カリフォルニア州)]] - [[ロサンゼルス郡 (カリフォルニア州)|ロサンゼルス郡]] - $126,620
# [[ウッドサイド (カリフォルニア州)]] - サンマテオ郡 - $125,559
# [[ロスアルトスヒルズ (カリフォルニア州)]] - [[サンタクララ郡 (カリフォルニア州)|サンタクララ郡]] - $123,127
# [[レイクシャーウッド (カリフォルニア州)]] - [[ベンチュラ郡]] - $120,676
# [[ベルヴェディア (カリフォルニア州)]] - [[マリン郡 (カリフォルニア州)|マリン郡]] - $119,798
# [[ローリングヒルズ (カリフォルニア州)]] - ロサンゼルス郡 - $117,241
# [[ディアブロ (カリフォルニア州)]] - [[コントラコスタ郡 (カリフォルニア州)|コントラコスタ郡]] - $113,989
# [[ランチョサンタフェ (カリフォルニア州)]] - [[サンディエゴ郡 (カリフォルニア州)|サンディエゴ郡]] - $113,132
# [[ケンフィールド (カリフォルニア州)]] - マリン郡 - $109,976
# [[モンテセラーノ (カリフォルニア州)]] - サンタクララ郡 - $105,597
# [[ピードモント (カリフォルニア州)]] - [[アラメダ郡 (カリフォルニア州)|アラメダ郡]] - $101,794
# [[ハクンバ (カリフォルニア州)]] - [[サンディエゴ郡 (カリフォルニア州)|サンディエゴ郡]] - $99,860
# [[ティブロン (カリフォルニア州)]] - マリン郡 - $99,710
# [[パサティエンポ (カリフォルニア州)]] - [[サンタクルーズ郡 (カリフォルニア州)|サンタクルーズ郡]] - $98,473
# [[ロヨーラ (カリフォルニア州)]] - サンタクララ郡 - $98,398
# [[ロス (カリフォルニア州)]] - マリン郡 - $95,706
# [[ラデラ (カリフォルニア州)]] - サンマテオ郡 - $95,386
# [[マリブ (カリフォルニア州)]] - ロサンゼルス郡 - $95,212
# [[マギークリーク (カリフォルニア州)]] - [[モノ郡 (カリフォルニア州)|モノ郡]] - $93,233
# [[シルヴェラードリゾート (カリフォルニア州)]] - [[ナパ郡 (カリフォルニア州)|ナパ郡]] - $89,910
# [[サウサリート (カリフォルニア州)]] - マリン郡 - $89,751
{{仮リンク|カリフォルニア州の場所の所得ランキング|en|List of California locations by income}}
== 法律および行政 ==
{{Main|カリフォルニア州の政治|カリフォルニア州議会}}
=== 州政府 ===
[[ファイル:Sacramento Capitol.jpg|thumb|right|200px|サクラメントにあるカリフォルニア州議会議事堂]]
カリフォルニア州は[[共和制]]の[[権力分立|三権分立制]]を採っている。すなわち知事とその他選挙で選ばれる憲法で定めた行政官からなる執行府、下院と上院からなる立法府および[[カリフォルニア州最高裁判所|最高裁判所]]と下級裁判所からなる司法府である。また直接請求、[[住民投票]]、[[国民解職#アメリカ合衆国|リコール]]および[[批准]]という手段で有権者が直接政治に参加できる仕組みがある。政党は閉鎖的[[予備選挙]]あるいは党員と無所属の者のみが投票できる予備選挙のどちらかを選択できる。
[[File:Gavin Newsom official photo (cropped 2).jpg|thumb|right|200px|[[ギャビン・ニューサム]]]]
{{Main|カリフォルニア州知事の一覧}}
現在の州知事は[[民主党 (アメリカ)|民主党]]出身のギャビン・ニューサムである。知事とその他選挙で選ばれる憲法で定めた行政官の任期は4年間であり、再選は1回のみ可能である。州議会は上院が定数40人、下院が80人である。上院は4年任期、下院は2年任期である。下院議員は3期まで、上院議員は2期までという上限がある。2021年現在上院は民主党所属の議員が31名、共和党所属の議員が9名おり、下院は民主党所属の議員が59名、共和党所属の議員が19名となっている。
カリフォルニアの法体系は明確にイギリスの[[コモン・ロー]]に基づいている<ref name="Cal Civil Code 22.2">{{Cite web
| title = California Codes, Civil Code Section 22-22.2
| work = California Civil Codes
| publisher = Legislative Counsel of the State of California
| url = http://www.leginfo.ca.gov/cgi-bin/waisgate?WAISdocID=81815814163+15+0+0&WAISaction=retrieve
| accessdate = January 29, 2010}}</ref> が、夫婦共有財産のようにスペインの[[大陸法]]から継承したものもある。死刑は合法であり、現在国内最多の「処刑待ち」死刑囚を抱えている。死刑囚監房はサンフランシスコの北、[[マリン郡 (カリフォルニア州)|マリン郡]]にある[[サン・クエンティン州立刑務所]]にある。人権問題が提起されているので、死刑執行は現在無期限に止められている<ref name="Sarhaddi 2006">{{Cite news
| last = Sarhaddi Nelson | first = Soraya
| title = Morales execution on hold indefinitely
| newspaper = Orange County Register
| publisher = Freedom Communications
| date = February 21, 2006
| url = http://www.ocregister.com/ocregister/news/homepage/article_1008434.php
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。州内の刑務所に居る受刑者の数は1980年の25,000人から2007年の17万人以上にまで膨れ上がっている<ref name="Thompson 2007">{{Cite news
| last = Thompson | first = Don
| title = Calif. Struggles with sentencing reform
| newspaper = USA Today | publisher = Gannett Company
| date = December 8, 2007 | url = http://www.usatoday.com/news/nation/2007-12-08-2244622424_x.htm
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。
カリフォルニア州の司法府は合衆国の州の中で最大であり、判事が1,600人居る(連邦司法府は約840人に過ぎない)。最高裁判所の判事は7人である。最高裁判所と控訴裁判所の判事は知事によって指名されるが、12年ごとに有権者の審査を受けることになっている。
全米10大都市にランクされるロサンゼルスやサンフランシスコなどの大都市圏をかかえるカリフォルニア州は、かつての[[大気汚染]]などの問題もあり、[[製造業|メーカー]]などの[[産業廃棄物]]処理・排水規制などの[[法人]]対象の法や、{{仮リンク|ベルモント (カリフォルニア州)|label=ベルモント市|en|Belmont, California}}の[[2009年]]より個人所有のアパートなどを含む共有空間での[[喫煙]]を禁じる条例など、早期から取り締まられた[[排気ガス]]規制など環境関連の規制が全米で最も厳しい。
1970年代はアメリカでもっともすばらしい政治運営がなされている場所と評価されていたが、重要な法案を州民投票で直接選択する方針を採ってからは行政運営が上手くいっておらず、かつては全米一と言われていた教育水準も年々低下している。
==== 参考文献 ====
* [[東海大学]]教授[[牧田義輝]]、「{{PDFlink|[http://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/h18-1.pdf カリフォルニア州の地方自治体について]}}」、(財)自治体国際化協会 比較地方自治研究会、2006年
=== 国政 ===
{| align="right" border="2" cellpadding="4" cellspacing="0" style="margin: 1em 1em 1em 0; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 90%;"
|+ '''大統領選挙の結果'''
|- bgcolor = lightgrey
! 年
! [[共和党 (アメリカ)|共和党]]
! [[民主党 (アメリカ)|民主党]]
|-
| bgcolor="#f0f0ff"|[[2020年アメリカ合衆国大統領選挙|2020]]
| bgcolor="#fff3f3"| 34.3 % ''6,006,429''
| bgcolor="#f0f0ff"|'''63.5 %''' ''11,110,250''
|-
| bgcolor="#f0f0ff"|[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|2016]]
| bgcolor="#fff3f3"| 31.62 % ''4,483,810''
| bgcolor="#f0f0ff"|'''61.73 %''' ''8,753,788''
|-
| bgcolor="#f0f0ff"|[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙|2012]]
| bgcolor="#fff3f3"| 37.12 % ''4,839,958''
| bgcolor="#f0f0ff"|'''60.24 %''' ''7,854,285''
|-
| bgcolor="#f0f0ff"|[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008]]
| bgcolor="#fff3f3"| 36.91 % ''5,011,781''
| bgcolor="#f0f0ff"|'''60.94 %''' ''8,274,473''
|-
| bgcolor="#f0f0ff"|[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004]]
| bgcolor="#fff3f3"| 44.36 % ''5,509,826''
| bgcolor="#f0f0ff"|'''54.40 %''' ''6,745,485''
|-
| bgcolor="#f0f0ff"|[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000]]
| bgcolor="#fff3f3"| 41.65 % ''4,567,429''
| bgcolor="#f0f0ff"|'''53.45 %''' ''5,861,203''
|-
| bgcolor="#f0f0ff"|[[1996年アメリカ合衆国大統領選挙|1996]]
| bgcolor="#fff3f3"| 38.21 % ''3,828,380''
| bgcolor="#f0f0ff"|'''51.10 %''' ''5,119,835''
|-
| bgcolor="#f0f0ff"|[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|1992]]
| bgcolor="#fff3f3"| 32.61 % ''3,630,574''
| bgcolor="#f0f0ff"|'''46.01 %''' ''5,121,325''
|-
| bgcolor="#fff3f3"|[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙|1988]]
| bgcolor="#fff3f3"|'''51.13 %''' ''5,054,917''
| bgcolor="#f0f0ff"| 47.56 % ''4,702,233''
|-
| bgcolor="#fff3f3"|[[1984年アメリカ合衆国大統領選挙|1984]]
| bgcolor="#fff3f3"|'''57.51 %''' ''5,467,009''
| bgcolor="#f0f0ff"| 41.27 % ''3,922,519''
|-
| bgcolor="#fff3f3"|[[1980年アメリカ合衆国大統領選挙|1980]]
| bgcolor="#fff3f3"|'''52.69 %''' ''4,524,858''
| bgcolor="#f0f0ff"| 35.91 % ''3,083,661''
|-
| bgcolor="#fff3f3"|[[1976年アメリカ合衆国大統領選挙|1976]]
| bgcolor="#fff3f3"|'''49.35 %''' ''3,882,244''
| bgcolor="#f0f0ff"| 47.57 % ''3,742,284''
|-
| bgcolor="#fff3f3"|[[1972年アメリカ合衆国大統領選挙|1972]]
| bgcolor="#fff3f3"|'''55.01 %''' ''4,602,096''
| bgcolor="#f0f0ff"| 41.54 % ''3,475,847''
|-
| bgcolor="#fff3f3"|[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙|1968]]
| bgcolor="#fff3f3"|'''47.82 %''' ''3,467,664''
| bgcolor="#f0f0ff"| 44.74 % ''3,244,318''
|-
| bgcolor="#f0f0ff"|[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙|1964]]
| bgcolor="#fff3f3"| 40.79 % ''2,879,108''
| bgcolor="#f0f0ff"|'''59.11 %''' ''4,171,877''
|-
| bgcolor="#fff3f3"|[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|1960]]
| bgcolor="#fff3f3"|'''50.10 %''' ''3,259,722''
| bgcolor="#f0f0ff"| 49.55 % ''3,224,099''
|}
カリフォルニア州には特有の政治文化がある。妊娠中絶を認めた2番目の州であり、同性の結婚を認めたのも2番目だった(同性の結婚は司法判断であり、後に住民請求による投票で撤回された。しかし2013年6月26日、連邦最高裁が、同性婚を否定する住民投票「プロップ8」を違憲と判断した州裁判所の判決を支持したため、再び同性婚は合法化されるはこびである)。
1990年代以降の国政選挙では概して民主党候補を支持してきた一方で、知事には共和党候補を選んできた。ただし、それら共和党知事の多くは党内でも中道寄りであると見なされる傾向がある。
地域的には、共和党は北東部で優勢であるが、ロサンゼルス郡やサンフランシスコ・ベイエリアなどの海岸地域は民主党の強固な地盤となっている。
2000年代以降、カリフォルニアの政治傾向は民主党寄りとなっている。この傾向は大統領選挙で特に顕著である。さらに、民主党は1992年以降の連邦上院議員選挙をすべて制しており、州議会の上下両院でも多数党である。アメリカ合衆国下院では、第110会期で民主党議員34人、共和党議員19人となっている。州内の各選挙区はどちらかの政党が優位となっており、接戦になる選挙区は少ない。政治評論家に拠れば、下院議員および大統領選挙人の数は現在の55人よりも3人多い58人であるべきとしている<ref>{{cite web
| last = Sabato | first = Larry J.
| title = Electoral Trends Warm Sunbelt, Freeze Frostbelt | work = Sabato's Crystal Ball
| publisher = University of Virginia Center for Politics
| date = March 22, 2007 | url = http://www.centerforpolitics.org/crystalball/articles/ljs2007032201/
| accessdate = January 29, 2010}}
</ref>。
== 経済 ==
{{Main|カリフォルニア州の経済}}
[[ファイル:USA-World Nominal GDP.PNG|thumb|400px|カリフォルニア州が1つの国であれば、国内総生産は7位から10位の間に入る<ref name="CIA Country Comparison GDP">{{Cite web
| title = Country Comparison :: GDP (purchasing power parity)
| work = The World Factbook
| publisher = Central Intelligence Agency
| url = https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2001rank.html
| accessdate = January 31, 2010}}</ref><ref name="Cal Facts 2004 State Economy">{{Cite web
| title = Cal Facts 2004 State Economy
| publisher = Legislative Analyst's Office of California
| date = December 3, 2004
| url = http://www.lao.ca.gov/2004/cal_facts/2004_calfacts_econ.htm
| accessdate = January 31, 2010}}</ref><ref name="Cal Finance World Ranking 2003">{{Cite web
| title = California's World Ranking ? 2003 Gross Product
| publisher = California Department of Finance
| url = http://www.dof.ca.gov/HTML/FS_DATA/LatestEconData/Data/Miscellaneous/Bbrank.xls
| format = XLS
| accessdate = January 31, 2010}}</ref>。]]
[[ファイル:Gross Domestic Product of California 2008 (millions of current dollars).svg|thumb|right|350px|カリフォルニア州のGDP産業別内訳、2008年<ref name="BEA">{{cite web | title=Regional Economic Accounts (interactive tables) | work=Bureau of Economic Analysis | url=http://www.bea.gov/bea/regional/gsp/ | accessdate=January 31, 2010}}</ref>
]]
2007年時点で州の総生産は約1兆8,120億ドルであり、国内の州では最大で、アメリカ合衆国のGDPの13 %を占めている。世界の国と比較してもGDPで9位、購買力平価説購買力平価で12位になる。しかし、2009年 - 2010年会計年度では263億ドルの赤字だった<ref name="Yi 2009">{{Cite news
| last = Yi | first = Matthew
| title = State's budget gap deepens $2 billion overnight
| newspaper = San Francisco Chronicle | page = A-1
| publisher = Hearst Communications
| date = July 2, 2009 | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/07/01/MNV118HCO8.DTL
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。[[2008年]]後半の経済減退と[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]への対応が緊急課題となったために州予算の成立が3か月も遅れたが、単に赤字を2009年に繰り越したに過ぎない。1つの問題は州の歳入のかなりの部分が、少数の富裕な州民から上がる所得税に依存していることである。例えば2004年の場合、納税者の3 %が収税全体のうちの60 %を払っていた<ref name="Pender 2006">{{Cite news
| last = Pender
| first = Kathleen
| title = Google's April surprise for state
| newspaper = San Francisco Chronicle
| page = A-1
| publisher = Hearst Communications
| date = May 9, 2006
| url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/c/a/2006/05/09/MNGSVIO7NG1.DTL
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。課税できる収入はキャピタルゲインに頼っているために、証券市場の減退が大きく影響してきた。州知事は歳出の大幅なカットと増税を提案してきたが、議会との間で続くこじれのために法案の通過は困難な状況にある。
州の歳出は1998年の560億ドルから2008年の1,310億ドルまで増加し、2008年には400億ドルの赤字になった<ref name="Nunes 2009">{{Cite news
| last = Nunes | first = Devin
| title = California's Gold Rush Has Been Reversed
| newspaper = The Wall Street Journal | page = A9
| publisher = Dow Jones & Company | date = January 10, 2009
| url = http://online.wsj.com/article/SB123154816733469917.html
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。2010年には720億ドル<ref name="Moody's Warning">{{Cite news
| last = Christie | first = Jim | last2 = Linnane |first2 = Ciara |last3 = Parry |first3 = John |editor= Editing by Leslie Adler
| title = Moody's warning on California debt stuns state
| agency = Reuters | location = San Francisco
| publisher = Thomson Reuters
| date = June 19, 2009
| url = https://www.reuters.com/article/idUSTRE55I52L20090619
| accessdate = February 7, 2010}}</ref> とさらに赤字が増加する可能性がある<ref name="California plea for Aid">{{Cite news |title = California Makes Plea for U.S. Aid |newspaper = The New York Times |page = A21
| agency = Associated Press | publisher = The New York Times Company | date = February 6, 2010
| url = http://www.nytimes.com/2010/02/07/us/07calif.html
| accessdate = February 7, 2010}}</ref>。
雇用数を比較すると貿易・交通および公共事業の分野、地方自治体、専門職と事業経営分野、教育と健康分野および観光娯楽分野が3つの大きな分野である。最大の雇用主はUniversity of Californiaである。生産高でみると、金融が大きく、続いて貿易・交通および公共事業の分野、教育と健康分野、地方自治体、製造分野の順になる。2010年1月の失業率は12.5 %と国内では5番目に高く、2007年の5.9 %からかなり上昇した<ref name="Welch 2009">{{Cite news
| last = Welch | first = William
| title = In California's meltdown, misery has long reach
| newspaper = USA Today | publisher = Gannett Co
| date = February 20, 2009
| url = http://www.usatoday.com/news/nation/2009-02-19-california-hurting_N.htm
| accessdate = January 29, 2010}}</ref><ref>[http://www.bls.gov/lau/ Bls.gov]; Local Area Unemployment Statistics</ref>。
カリフォルニア州の経済は貿易と国際商取引への依存率が高く、およそ州経済の4分の1に相当している。2008年の輸出額は1,440億ドルであり、2006年の1,270億ドル、2007年の1,340億ドルから増加してきている<ref name="Cal Trade Statistics 2008">{{Cite web
| title = Trade Statistics
| publisher = California Chamber of Commerce
| url = http://www.calchamber.com/international/trade/pages/tradestatistics.aspx
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。中でもコンピュータと電子製品が2008年の輸出額の42 %と飛びぬけて高い
<ref name="Cal Trade Statistics 2008"/>。
農業はカリフォルニア州経済の大変重要な分野であり続けている。過去30年間の農業関連売上高は、1974年の73億ドルから2004年の310億ドルと約4倍になった<ref name="Cal Facts 2006 State Economy">{{Cite web
| title = Cal Facts 2006 State Economy
| publisher = Legislative Analyst's Office of California
| date = August 6, 2007
| url = http://www.lao.ca.gov/2006/cal_facts/2006_calfacts_econ.htm
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。この期間、農業用地は15 %減り、農業用水供給量は慢性的不安定な状態だったが、これだけ売上高は上がった。これは農業適地を集中的に使ったことと、技術的改善で収量を上げたことが貢献している<ref name="Cal Facts 2006 State Economy"/>。
2007年のカリフォルニア州1人当たり所得は38,956ドルであり、国内の州では8位になっている<ref name="BEA State Personal Income 2006">{{Cite press release
| title = State Personal Income 2006
| publisher = Bureau of Economic Analysis
| date = March 27, 2007
| url = http://www.bea.gov/newsreleases/regional/spi/2007/spi0307.htm
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。これは地域や職業で幅広く異なっている。例えば、セントラル・バレーでは、移民農場労働者が最低賃金以下で働いているので、最も貧しい地域になっている。近年サンホアキン・バレー地域が[[アパラチア]]地域と並んで、合衆国で最も経済的に落ち込んだ地域の1つになってきた<ref name="CRS San Joaquin Valley">{{Cite web
| last = Cowan | first = Tadlock
| title = California's San Joaquin Valley: A Region in Transition
| publisher = Congressional Research Service, Library of Congress
| date = December 12, 2005 | page = 2
| url = http://www.centralvalleybusinesstimes.com/links/CRS%20San%20Joaquin%20Valley%20Report.pdf
| format = PDF | accessdate = January 29, 2010}}</ref>。一方海岸にある多くの都市の中には、一人当たりの所得で合衆国の中でも、最も裕福な地域がある。北部のハイテク産業が集積した[[シリコンバレー]]、[[サンタクララ郡]]と[[サンマテオ郡]]は[[インターネット・バブル]]による不況から立ち直ってきた。
カリフォルニア州は6等級で変わる所得累進課税方式を採っており、最高税率は9.3 %である。所得税総額は年400億ドルになる。消費税率は8.25 %であり、地方消費税を含むと10.75 %になる<ref name="CAEqualization">{{cite web |url=http://www.boe.ca.gov/pdf/pub71.pdf |title=Publication 71, California City and County Sales and Use Tax Rates, April 1, 2009 Edition |accessdate=2009-09-26 |author=Equalization California Board of |format=PDF |year=2009 |month=July}}</ref>。固定資産税は購入時の適正市場価格に基づいて課税され、実勢市場価格に合わせて増税されることはない。
2009年の経済危機でカリフォルニア州は破産状態になっている<ref name="Cal at Budget Impasse 2009">{{Cite news | title = California at Budget Impasse as State Nears Insolvency
| newspaper = Fox News Channel | publisher = News Corp.
| date = February 15, 2009 | url = http://www.foxnews.com/politics/2009/02/15/california-budget-impasse-state-nears-insolvency
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。6月にアーノルド・シュワルツェネッガー知事は「我々の財布は空であり、銀行は閉じ、信用は無くなった」と語った<ref Name ="California's time is running out">{{Cite news
| title = California's time is running out | newspaper = San Francisco Chronicle
| page = A-12 | publisher = Hearst Communications | date = June 4, 2009
| url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/06/03/ED3T180828.DTL
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。現在240億ドルの歳出カットを提案している<ref Name ="California's time is running out"/>。
=== 主な企業など ===
カリフォルニア州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。
{{col-begin}}
{{col-3}}
* [[アクティビジョン]]
* [[Apple]]
* [[アドビ]]
* [[EBay]]
* [[インテル]]
* [[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]
* [[ユニバーサル・スタジオ]]
* [[オラクル (企業)|オラクル]]
* [[ギャップ (企業)|GAP]]
* [[キャロウェイゴルフ]]
* [[クアルコム]]
* [[Google]]
* [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]
* [[GLOBALFOUNDRIES|グローバルファウンドリーズ]]
* [[シェブロン]]
* [[シスコシステムズ]]
{{col-3}}
* [[シマンテック]]
* [[スカイウォーカー・サウンド]]
* [[スペースX]]
* [[スペースシップ・カンパニー]]
* [[タコベル]]
* [[テスラ (会社)|テスラ]]
* [[Twitter]]
* [[ネットアップ]]
* [[Netflix]]
* [[ヒューレット・パッカード]]
* [[Facebook]]
* [[マカフィー]]
* [[Yahoo!]]
* [[ユノカル]]
* [[リーバイス]]
* [[マーベル・テクノロジー・グループ]]
{{col-3}}
[[ファイル:PB050006.JPG|thumb|right|200px|[[:ja:ハリウッドサイン]]はカリフォルニア州の巨大な娯楽産業の象徴として最もよく知られている。]]
{{col-end}}
== 交通 ==
[[ファイル:GoldenGateBridge.jpg|thumb|サンフランシスコの[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ|金門橋]]、カリフォルニアでも最も有名なランドマークになっている。]]
カリフォルニアの広大な領域は[[高速道路|フリーウェイ]]、[[自動車専用道路|イクスプレスウェイ]]およびハイウェイ(公道)で繋がれている。車社会であり、都市部は交通渋滞が激しい。州道の建設と保守、および州全体の交通計画は州交通局が担当している。人口の急増で交通網に歪みを来たしており、積極的にフリーウェイの交通網拡張を継続すべきか、都会における大量交通手段の改良に集中すべきかというのが州政の課題で有り続けている。
州内でも有名なランドマークの1つが1937年に完工した[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]]である。オレンジ色に塗られ湾を見下ろすパノラマのような景色が観光客に人気であり、歩行者や自転車も通ることができる。エル・カミノ・レアル(スペイン語で「王の道」)や太平洋岸ハイウェイとも呼ばれる州道1号線の一部であるアメリカ国道101号線として同時に指定された。サンフランシスコ・ベイエリアに架かる7つの橋の中で、1936年に完工した[[サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ]]も有名である。二階建てのこの橋は1日28万台の交通量があり、イエルバ・ブエナ島で2つの部分に分かれている。
太平洋および合衆国本土内との交通は[[ロサンゼルス国際空港]]と[[サンフランシスコ国際空港]]が大きな中継点になっている。州内には他にも約12の商業空港と多くの一般用と空港がある。
重要な海港も幾つかある。南部のロサンゼルス港とロングビーチ港で作られる巨大な海港は国内でも最大であり、コンテナ取扱量では国内の約4分の1となっている。オークランド港は国内4位であり、環太平洋地域との貿易を扱い、[[北カリフォルニア]]から全米に入る[[海上コンテナ]]の大半を送り出している。
[[ファイル:Glendalefreeway.jpg|thumb|left|高規格道路のインターチェンジ]]
都市間鉄道は[[アムトラック]]が運行しており、合衆国の[[北東回廊]]の次に運行本数の多い路線が3線ある。これらの州内完結の路線には[[アムトラック・カリフォルニア]]という独自のブランド名がつけられ、他のアムトラック列車とは違った塗装・仕様の車両が用いられる。このほかにもアムトラックは州西海岸の都市を起点に東部・北部方面への大陸横断・縦断列車を運行している。ロサンゼルス([[ロサンゼルス郡都市圏交通局]])やサンフランシスコ([[サンフランシスコ市営鉄道]])の都市圏には[[地下鉄]]や[[ライトレール]]のネットワークがある。ライトレールはサンノゼ、サンディエゴ、サクラメントおよび[[サンディエゴ郡 (カリフォルニア州)|サンディエゴ郡]]北部でも運行されている。さらに通勤列車としては、サンフランシスコ・ベイエリアの[[アルタモント通勤急行]]、[[バート (鉄道)|バート]]、[[カルトレイン]]、[[ソノマ・マリンエリア鉄道]]、ロサンゼルス大都市圏の[[メトロリンク (南カリフォルニア)|メトロリンク]]、サンディエゴ郡の[[コースター (南カリフォルニア)|コースター]]がある。[[カリフォルニア高速鉄道]]局が1996年に創設され、サンフランシスコとロサンゼルス間を2時間半で結ぶ計画である。総延長は700マイル (1127 km) になる可能性がある。100億ドル近い資金(州債)が投入される建設は2008年11月の住民投票で承認された。ほとんど全郡でバス路線を運行しており、多くの都市にもバス便がある。都市間のバス路線は[[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド]]とアムトラックのスルーウェイコーチ(鉄道連絡バス)が運行している。ただし、後者についてはカリフォルニア州法の規定によりバス区間単独での乗車券の発売が認められておらず、鉄道との乗り継ぎで利用することが前提となっている<ref>{{cite web|url=https://www.amtrak.com/california-thruway-buses-reach-hot-vacation-spots |title=Reach Hot California Travel Spots by Amtrak Thruway Bus Connections |accessdate=2016-12-23 |publisher=アムトラック公式ウェブサイト}}</ref>。
{{col-begin}}
{{col-2}}
* 主要な[[州間高速道路]]:
** [[I-5]]
** [[I-8]]
** [[I-10]]
** [[州間高速道路15号線|I-15]]
** [[州間高速道路40号線|I-40]]
** [[I-80]]
{{col-2}}
* 州内の[[空港]]
** [[サンディエゴ国際空港]] (SAN)
** [[ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港]] (SJC)
** [[サンフランシスコ国際空港]] (SFO)
** [[ロサンゼルス国際空港]] (LAX)
** [[サクラメント国際空港]] (SMF)
** [[サンタバーバラ空港]] (SBA)
** [[サンタモニカ空港]] (SMO)
** [[オークランド国際空港 (カリフォルニア州)|オークランド国際空港]] (OAK)
** [[パームスプリングス国際空港]] (PSP)
** {{仮リンク|サンバーナディーノ国際空港|en|San Bernardino International Airport}} (SBD)
** [[フレズノ・ヨセミテ国際空港]] (FAT)
** {{仮リンク|カレキシコ国際空港|en|Calexico International Airport}} (CXL)
** [[オンタリオ国際空港]] (ONT)
** [[サンタ・アナ・オレンジ・カウンティー空港]] (SNA)
{{col-end}}
== 教育 ==
[[ファイル:THS facade.jpg|thumb|トランス高校はカリフォルニア州で開校を続けている最古の高校であり、テレビや映画の撮影で人気がある。]]
公立の[[アメリカ合衆国の中等教育|中等教育]]には貿易、言語および教養科目で選択コースを教えている高校があり、天分に恵まれた者、カレッジを指向する者および工業系を指向する生徒のためのものである。カリフォルニア州の公共教育システムは特徴ある憲法修正条項で支持されており、幼稚園生から12年生までと[[コミュニティ・カレッジ]]の最低予算を手当てしている。コミュニティ・カレッジは経済の発展と共に成長し入学者が増えている<ref name="Prop 98">{{Cite web
| title = Proposition 98 Primer
| publisher = Legislative Analyst's Office of California
| year = 2005 | month = February
| url = http://www.lao.ca.gov/2005/prop_98_primer/prop_98_primer_020805.htm
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。
2005年-2006年学校年では620万人の生徒がいた。カリフォルニアは他州にくらべて予算や教師のレベルで遅れを取っている。生徒一人当たり費用は[[ワシントンD.C.]]を含めて51州のうち29番目であり、生徒一人当たり教職員の数は49番目である。生徒対教師の比率も49番目であり、教師1人あたり生徒21人となっている<ref name="How">{{Cite web
| title = California Comparison
| publisher = Education Data Partnership
| url = http://www.ed-data.k12.ca.us/Articles/article.asp?title=California%20comparison
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>。
カリフォルニア州の公共高等教育は、カリフォルニア大学機構、カリフォルニア州立大学機構およびカリフォルニア・コミュニティ・カレッジ機構の特徴ある3階層のシステムである。
<gallery>
ファイル:Berkeley glade afternoon.jpg|カリフォルニア大学バークレー校 (Cal)
ファイル:RHall.JPG|カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA)
ファイル:Stanford University campus from above.jpg|スタンフォード大学
ファイル:USC_Bovard_Auditorium.jpg|南カリフォルニア大学 (USC)
</gallery>
=== カリフォルニア大学機構 ===
[[カリフォルニア大学]]機構は世界で最も多くの[[ノーベル賞]]受賞者を雇用している世界でも有数の公立大学機構である。多くの研究型大学を擁する。以下の13のキャンパスを持つ。略称はUC。
* [[カリフォルニア大学バークレー校]] (Cal)
* [[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]] (UCLA)
* [[カリフォルニア大学サンディエゴ校]] (UCSD)
* [[カリフォルニア大学デービス校]] (UCD)
* [[カリフォルニア大学サンタクルーズ校]] (UCSC)
* [[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]] (UCSB)
* [[カリフォルニア大学アーバイン校]] (UCI)
* [[カリフォルニア大学リバーサイド校]] (UCR)
* {{仮リンク|カリフォルニア大学マーセド校|en|University of California, Merced}} (UCM)
* [[カリフォルニア大学サンフランシスコ校]] (UCSF):医学系大学院大学。
また、カリフォルニア大学機構には含まれないが、法科大学院である[[カリフォルニア大学ヘイスティングス校ロースクール]]
がサンフランシスコにある。
カリフォルニア大学機構は[[アメリカ合衆国エネルギー省]]・[[ローレンス・リバモア国立研究所]]、[[ローレンス・バークレー国立研究所]]、および [[ロスアラモス国立研究所]]の国立研究所の管理を行っている。
=== カリフォルニア州立大学機構 ===
[[カリフォルニア州立大学]]機構も世界の中でも有数の教育機構の1つだと考えられている。45万人以上の学生を抱えるカリフォルニア州立大学機構はアメリカ合衆国最大の大学機構で、高校生の上位3分の1を受け入れる事を目的としている。主に学部生の教育が意図されている<ref name="CSU Facts 2008">{{Cite web | title = CSU Facts 2008
| publisher = California State University Office of Public Affairs | date = January 21, 2009
| url = http://www.calstate.edu/PA/2008Facts/ | accessdate = January 29, 2010}}</ref>。以下の23の大学、分校などを含む。略称はCSU。
{{col-begin}}
{{col-2}}
* {{仮リンク|ハンボルト州立大学|en|Humboldt State University}}
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学チコ校|en|California State University, Chico}}
* {{仮リンク|ソノマ州立大学|en|Sonoma State University}}
* {{仮リンク|サクラメント州立大学|en|California State University, Sacramento}}
* [[サンフランシスコ州立大学]]
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学イーストベイ校|en|California State University, East Bay}}
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学ベーカーズフィールド校|en|California State University, Bakersfield}}
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学チャンネルアイランド校|en|California State University Channel Islands}}
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学ドミンゲスヒルズ校|en|California State University, Dominguez Hills}}
* [[カリフォルニア州立大学フレズノ校]]
* [[カリフォルニア州立大学フラートン校]]
* [[カリフォルニア州立大学ロングビーチ校]]
{{col-2}}
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校|en|California State University, Los Angeles}}
* [[カリフォルニア海事大学]]
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学モントレーベイ校|en|California State University, Monterey Bay}}
* [[カリフォルニア州立大学ノースリッジ校]]
* [[カリフォルニア州立理工大学ポモナ校]]
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学サンバーナーディーノ校|en|California State University, San Bernardino}}
* [[サンディエゴ州立大学]]
* [[サンノゼ州立大学]]
* [[カリフォルニア・ポリテクニック州立大学サンルイスオビスポ校]]
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学サンマルコス校|en|California State University San Marcos}}
* {{仮リンク|カリフォルニア州立大学スタニスラウス校|en|California State University, Stanislaus}}
{{col-end}}
=== カリフォルニア・コミュニティ・カレッジ機構 ===
カリフォルニア・コミュニティ・カレッジ機構は低い次元の教科学習を提供し、基本技能や職業訓練に重きを置いている。アメリカ合衆国の中でも最大の高等教育網であり110のカレッジに290万人以上の学生がいる<ref name="California Community College Office">{{Cite web
| title = Community Colleges | publisher = California Community Colleges Chancellor's Office
| year = 2009 | url = http://www.cccco.edu/CommunityColleges/tabid/830/Default.aspx | accessdate = January 29, 2010}}</ref>。
=== 私立大学 ===
以下の私立大学が有名である。他にも数百の私立カレッジや大学があり、この中には宗教系や特殊目的の学校もある。
* [[スタンフォード大学]]
* [[南カリフォルニア大学]] (USC)
* [[クレアモント大学]](ハーベイ・マッド・カレッジとポモナ・カレッジを含む)
* [[カリフォルニア工科大学]] (Caltech):[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[ジェット推進研究所]]の管理
* [[カリフォルニア芸術大学]] (CalArts)
== 芸術・文化 ==
{{Main|カリフォルニア州の文化}}
<!--
=== 劇場 ===
-->
=== 美術館・博物館 ===
* {{仮リンク|サンタバーバラ自然史博物館|en|Santa Barbara Museum of Natural History}}
* [[カリフォルニア大学バークレー校古生物博物館]]
* [[サンフランシスコ近代美術館]]
* [[ハンティントン・ライブラリー]] - 図書館、美術館、植物園
=== オーケストラなど ===
* [[サンフランシスコ交響楽団]]
* [[ロサンジェルス・フィルハーモニック]]
=== スポーツ ===
[[北米4大プロスポーツリーグ]]のうち、15チームが州内を本拠地としている。[[サンフランシスコ・ベイエリア]]の主要3都市([[サンフランシスコ]]、[[サンノゼ]]、[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]])には合わせて5つのチームがあり、[[ロサンゼルス大都市圏]]には8チームが本拠を構える。ほか、[[サンディエゴ]]と[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]に1チームずつが存在する。
また、[[メジャーリーグサッカー]](MLS)、[[WNBA]](女子バスケット)、[[メジャーリーグラグビー]](MLR)、[[メジャーリーグクリケット]](MLC)にも本拠を置いているチームがある。
NFLの[[スーパーボウル]]はこれまでに州内で10度以上開催されており、2016年には[[第50回スーパーボウル]]が[[サンタクララ (カリフォルニア州)|サンタクララ]]の[[リーバイス・スタジアム]]で開催された。
大学スポーツも盛んであり、最古の[[ボウル・ゲーム]]として知られる毎年恒例の[[ローズボウル]]などが行われる。
米国の州で唯一、[[夏季オリンピック]]と[[冬季オリンピック]]の両方を開催した経験を持つ([[1932年ロサンゼルスオリンピック|1932年ロサンゼルス夏季オリンピック]]、[[1960年スコーバレーオリンピック|1960年スコーバレー冬季オリンピック]]、[[1984年ロサンゼルスオリンピック|1984年ロサンゼルス夏季オリンピック]])。ロサンゼルスでは[[2028年ロサンゼルスオリンピック|2028年ロサンゼルス夏季オリンピック]]の開催が決定しており、通算で4度目となる。
[[1994 FIFAワールドカップ|1994年FIFAワールドカップ・アメリカ大会]]では、決勝戦を含む8試合が[[ローズボウル (競技場)|ローズボウルスタジアム]]で、6試合が[[スタンフォード・スタジアム]]で開催された。
{|class="wikitable sortable"
|+カリフォルニア州の北米4大プロスポーツリーグ所属チーム
|-
! チーム
! 競技
! リーグ
|-
|[[ロサンゼルス・ラムズ]]
|[[アメリカンフットボール]]
|[[NFL]]
|-
|[[ロサンゼルス・チャージャーズ]]
|アメリカンフットボール
|NFL
|-
|[[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ]]
|アメリカンフットボール
|NFL
|-
|[[ロサンゼルス・ドジャース]]
|[[野球]]
|[[MLB]]
|-
|[[ロサンゼルス・エンゼルス]]
|野球
|MLB
|-
|[[オークランド・アスレチックス]]
|野球
|MLB
|-
|[[サンディエゴ・パドレス]]
|野球
|MLB
|-
|[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]
|野球
|MLB
|-
|[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]
|[[バスケットボール]]
|[[NBA]]
|-
|[[ロサンゼルス・クリッパーズ]]
|バスケットボール
|NBA
|-
|[[ロサンゼルス・レイカーズ]]
|バスケットボール
|NBA
|-
|[[サクラメント・キングス]]
|バスケットボール
|NBA
|-
|[[アナハイム・ダックス]]
|[[アイスホッケー]]
|[[NHL]]
|-
|[[ロサンゼルス・キングス]]
|アイスホッケー
|NHL
|-
|[[サンノゼ・シャークス]]
|アイスホッケー
|NHL
|}
{|class="wikitable sortable"
|+その他のプロスポーツチーム
|-
! チーム
! 競技
! リーグ
|-
|[[ロサンゼルス・スパークス]]
|バスケットボール
|[[WNBA]]
|-
|[[ロサンゼルス・ギャラクシー]]
|[[サッカー]]
|[[メジャーリーグサッカー|MLS]]
|-
|[[サンノゼ・アースクエイクス]]
|サッカー
|MLS
|-
|[[ロサンゼルスFC]]
|サッカー
|MLS
|-
|[[LAギルティニス]]
|[[ラグビーユニオン]]
|[[メジャーリーグラグビー|MLR]]
|-
|[[サンディエゴ・リージョン]]
|ラグビーユニオン
|MLR
|-
|[[ロサンゼルス・ナイトライダーズ]]
|[[クリケット]]
|[[メジャーリーグクリケット|MLC]]
|-
|[[サンフランシスコ・ユニコーンズ]]
|クリケット
|MLC
|}
=== 食文化 ===
[[インディアン]]の他、世界各国からの移民によって構成されているため、都市部では世界各国の料理(またはそれらをアメリカ風にアレンジしたもの)を気軽に楽しむことが可能である。特にもともとメキシコの領土であったことや、メキシコからの移民が多いこともあり[[メキシコ料理]]が非常に一般的であるほか、[[イタリア料理]]や[[中華料理]]、[[ベトナム料理]]などが日常的に楽しまれている。
21世紀初頭の現在、アメリカの大都市はもちろん、全米各地で[[寿司]]や[[照り焼き]]をはじめとする[[日本料理]]が人気を博しており、一般の[[スーパーマーケット]]でも[[豆腐]]、[[醤油]]、[[麺類]]などの食材を調達することが可能であるが、カリフォルニアでは既に[[1970年代]]からその兆しがあった。アジア系住民が多く気候も温暖であることから、[[ダイコン|大根]]、[[ハクサイ|白菜]]などのアジア系野菜、カリフォルニア米と呼ばれる中粒や日本の[[あきたこまち]]などの短粒[[ジャポニカ米|ジャポニカ種]]の北米における主要生産地となっており、新鮮なアジア系食材が入手しやすい地域である。[[カリフォルニアロール]]や[[フォーチュン・クッキー]]など既存のアジア食を西洋風にアレンジしたものを全米に浸透させる発信地となることも多い。
[[地中海性気候]]のため、名産品として[[オレンジ]]や、[[オリーブ]]そして、[[カリフォルニアワイン]]が有名である。
== 日本との関係 ==
=== 日系人 ===
カリフォルニアは[[ハワイ州|ハワイ]]と並んで、[[日本人]]と関係の深い米国の州のひとつである。古くは[[ジョン万次郎]]、[[福澤諭吉]]、[[勝海舟]]から、この地を訪れた日本人は多い。意外なところでは、[[竹久夢二]]もこの地を訪れている。
[[明治]]以降は[[日本人]]の[[移民]]が相次ぎ、[[1924年]]([[大正]]13年)に[[日本人]]の移民を禁じる[[排日移民法]]が制定される。この差別的待遇は[[1941年]](昭和16年)[[12月7日]]<ref group="注">[[日本標準時間|日本時間]]:[[12月8日]]</ref> の日米開戦・[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])勃発によってさらに悪化し、敵性外国人となった[[日系アメリカ人]]は[[土地]]や[[財産]]を没収され、[[日系人収容所所在地|10か所]]の[[日系人の強制収容|強制収容所]]に収容されることになる<ref group="注">キャンプは[[アメリカ合衆国陸軍省|陸軍省]]下のWRAによって管理されたものと、[[アメリカ合衆国司法省|司法省]]によって管理されるキャンプがあった。日系アメリカ人強制収容所と言われる場合、一般には前者のことをさす場合が多い。</ref>。これら大戦前の[[移民]]の出身地は、圧倒的に[[山陽地方]]([[山口県]]・[[広島県]]・[[岡山県]])および[[九州]]地方北部が多く、その理由として、かつては「[[山陽道]]は旅人の往来が多く、他所への移住に抵抗感が少ない地域であるから。」とされたが、「この地方は中世以来水軍(西洋的・近代日本の軍事、[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]、現在の[[海上自衛隊]])の活動が顕著で、[[鎖国]]が解かれ([[開国]]してから)再び出国ラッシュとなったから。」と云う説もある。このためか、かつては「アメリカ日系人の標準語は[[広島弁]]である。」とまで言われた。
戦後、[[日系人]]は戦時中に活躍した日系アメリカ人部隊([[アメリカ陸軍|陸軍]][[第442連隊戦闘団]]・第100歩兵大隊)の存在や、日系アメリカ人[[アメリカ合衆国議会|議員]]の輩出などで、その地位と名誉を回復する。[[1988年]]には強制収容所での不当な扱いに対して[[補償法案]]を通過させ、生存者への金銭的補償を勝ち取った。一般に、日系人は経済的には平均より恵まれているといえるが、依然としてグラス・シーリング「見えない天井」という社会問題が残されている(そもそも日系アメリカ人は大都市に多く住み、ゆえに所得も平均以上となるのは当然と言われている)。米国の農場主は圧倒的に白人が多い中、カリフォルニアでは、[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]近郊などにかなりの割合で日系農場主が存在している。
日系人社会はおよそ1世と2世、そして戦後から1980年代までの戦後移民、[[バブル景気|バブル]]以降の新移民に大別することができる。1世は、資源に乏しく貧しい日本で生活苦にあった貧困層がやむを得ず移住せざるを得なかったような[[経済難民]]的で、苦労して現在の地位を築き上げてきた功労者といえるが、アメリカ社会には同化しにくく、他の移民集団と同様に[[リトル・トーキョー]]に代表されるエスニック・タウンを形成する傾向がある。[[戦前]]・戦中の迫害経験から社会に対する猜疑心が強い、とも言われるが、とりわけ強制収容所での経験は1世の[[父権主義]]を心理的に崩壊させ、2世リーダーの台頭によって完全にその権威が失われてしまった。
2世以降は父祖の地としての日本に興味はあるものの、それ以上の感情は持たず、思考や行動はアメリカ人的である。ただ2世は[[日本の文化|1世の親]]と[[アメリカ合衆国#文化|生地]]という2つの文化に自己を引き裂かれるというアイデンティティ・クライシスを経験することが多く、[[日系アメリカ人文学]]のテーマとして描かれることが多い。2世以降でアメリカで生まれ、幼少時より日本で[[日本の教育|教育]]を受けた後、再びアメリカに戻った人を「[[帰米]]」という。この場合は、心情的にも日本人とほとんどかわらないが、彼らのアメリカでの苦労もまた2世と同様に苦難を伴う場合が多かった。
戦後移民は米軍人妻([[戦争花嫁]])や、成功を目指して渡米した人が多い。[[ロッキー青木]]や[[ショー・コスギ]]が代表例である。この集団は個々に分散して、1つのエスニック・グループとしては形成されていない。しかし[[高齢化]]するにつれ、日本回帰の現象も見られる。
新移民はバブル景気以降の日本の「国際化」(=[[アングロ・サクソン人|英米]]化)を受けて、アメリカで生活することを選んだ人たちである。脱サラ者や定年退職者、留学生などが多いが、彼らの生活は日本との関係に依存している面が多く、近年の不況から、帰国を選択するものも増えてきている。
=== 日本の企業進出 ===
[[1951年]](昭和26年)に[[サンフランシスコ]]を中心とするカリフォルニア州北部にある[[日系企業]]、'''北加日本商工会議所 (JCCNC)''' が設立された。[[2007年]](平成19年)現在、約300社が加盟している。[[1960年代]](昭和35-44年)には、[[ロサンゼルス]]や[[サンディエゴ]]を中心とする'''南カリフォルニア日系企業協会 (JBA)''' が設立され、2007年(平成19年)現在の加盟社数は約500に達する。両団体とも、州の認可を受けた[[非営利団体]]である。他州にある日系企業団体や日本人会同様、会員対象のセミナーや親睦行事、日系企業実態の調査、地元地域への[[日本の文化|日本文化]]紹介や[[奉仕]]活動などを行っている。
[[2000年]](平成12年)にJBAが行った調査『南カリフォルニア日系企業実態』<ref>[http://www.hiwave.or.jp/HAPEE/los_report/16.html ひろしま産業振興機構国際部 ロサンゼルスレポート 2001(平成13)年9月『南カリフォルニア日系企業実態』]</ref>によると、調査対象企業の70 %がロサンゼルス郡に集中しており、ロサンゼルス(108社)とトーランス(94社)が突出している。次いで20 %が[[オレンジ郡 (カリフォルニア州)|オレンジ郡]]に拠点があり、アーバインとサイプレスに多い。また、[[アメリカ=メキシコ国境|メキシコ国境]]に近いサンディエゴ郡にも20社存在する。ただし製造業は過密状態のロサンゼルスよりも、オレンジ郡やサンディエゴ郡のメキシコ国境沿いの工業地帯(マキドーラ Maquidora)に多い。日系企業の南カリフォルニアへの進出数は[[1980年代]](昭和55-64/平成元年)をピークに減ってはいるものの、新規設立は続いている。62.4 %が米国の法人本社、24.3 %が支店として設立しており、アメリカ進出への足掛け地点となっている。雇用者は72.8 %の現地採用者が占め、その多くが[[金融]]・[[保険]]業、[[製造業]]に就いている。日本からの派遣社員は[[不動産]]業と[[建設業]]に多いが、全体の3.1 %程度で減少傾向にある。従業員100人以上の中・大規模レベルの[[企業]]数と[[雇用]]数は減少しており、逆に全体の70 %が小規模な企業(日本でいう[[中小企業]])であり、雇用を増やしている。対象企業の80 %が増収、あるいは前年と同程度の利益を見込んでいる。不動産、[[卸業|卸]]・[[小売業|小売]]、製造、金融・保険といった業界が好調である。
[[2002年]](平成14年)にはJCCNCが『ベイエリア日系企業実態調査』を行っている。2000年度(平成12年度)の調査と比較して、ベイエリアの企業が減少、1社あたりの平均雇用数も49人と大幅に減少している。日本からの派遣社員は平均4人で変化はない。80 %が日本企業の現地法人である。拠点は80 %がサンタクララ、サンフランシスコ、サンマテオ郡にある。60 %が[[サービス業]]または製造業である。売上が過去2年間に増加した企業が36 %、減少は46 %であり、営業利益は赤字が約34 %、今後1、2年の見通しが改善あるいは横ばいと答えた企業が約90 %であった。全体の25 %が何らかの[[ボランティア]]活動を行い、アメリカの団体などに対する寄付は総額1940万ドルにのぼっている。
毎年、JCCNCとJBAの代表者が合同で[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]の州議会を表敬訪問している<ref>[http://www.jba.org/letter/information/index.html 南カリフォルニア日系企業協会 部会からのお知らせ『州知事との面談かなった2007(平成19)年度サクラメント訪問』]</ref><ref>[http://www.jccnc.org/new.php?cid=137 北加日本商工会議所 2006(平成18)年 サクラメント表敬訪問]</ref>。[[2007年]]度(平成19年度)は[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]州知事に面会する機会があり、日系企業の投資(1739社による290億ドル)および雇用(15万人)に対する感謝を受けた。州議員には、[[医療保険]]や[[運転免許|運転免許証]]といった個人生活レベルから、[[海上コンテナ]]課税、施設に対する[[消費税]]、環境法案など企業レベルでの問題に対する改善を要請すると同時に、州の企業誘致に対するアドバイスを与えた。[[アジア系アメリカ人|アジア系]]議員とのパイプ作りに昼食会もおこなった。
=== 日本語教育 ===
日本人が多く、日本と係わり合いの深い地域のため、カリフォルニア州には全日制私立在外教育施設の[[学校法人西大和学園|西大和学園]]や、州内各地に[[文部科学省]]認可の[[補習授業校]]が6校ある。2002年(平成14年)の文科省の発表では、ロサンゼルス補習校(通称:あさひ学園)、サンフランシスコ補習校、サンディエゴ補習校(通称:みなと学園)の3校は生徒数において、世界187校のうち上位10校に入る規模である。なかでも上位1、2位を占めるロサンゼルスとサンフランシスコの補習校は、ともに複数校舎を持ち、在籍生徒数が1000名を超えるマンモス校である。
非認可の補習校も2校あるほか、日本語[[イマージョン・プログラム|イマージョン]]や[[日本語]]が[[教科]]にある[[公立学校|公立校]]もあり、州内のカリキュラムに沿った日本語教師を対象にした研修<ref>[http://www.jpf.go.jp/j/japan_j/oversea/kunibetsu/2005/usa.html 国際交流基金 事業内容 海外における日本語教育 『日本語教育国別情報』]</ref>が行われるなど、([[第二言語]]・[[外国語教育]]としての)[[日本語教育]]が盛んである。
[[サブカルチャー]]に対して積極的な風土がある。
=== 誘致・親善 ===
[[2004年]](平成16年)、アーノルド・シュワルツェネッガー知事が日本を訪問し産業・観光をアピール。2008年(平成22年)から2009年(平成21年)には「なんでもアリフォルニア カリフォルニア」のコピーで州政府観光局が広告活動をしている<ref>[http://www.visitcalifornia.jp/ カリフォルニア州政府観光局-なんでもアルフォルニア]</ref>。
最近では[[フジテレビ系列]]「[[ワンナイR&R]]」のキャラクター「[[松浦ゴリエ]]」がカリフォルニア州政府公認の親善大使を務める。
<!--ドラマ『[[白バイ野郎ジョン&パンチ]](「CHiPs」)』の舞台になった、[[カリフォルニア・ハイウェイ・パトロール]]が置かれている事で有名。(州警察はM&Aでハイウェイパトロールに吸収されてしまった)
↑書いていることが意味不明なので、コメントアウトします。-->
===日本との姉妹都市・提携都市===
;姉妹自治体
* ({{Flagicon|大阪府}}[[大阪府]]) - (カリフォルニア州)
;姉妹都市
({{JPN}}・[[都道府県]][[市町村]]) - (州内都市など)
{{colbegin|3}}
*{{Flagicon|北海道}}[[北海道]][[せたな町]]/旧 [[瀬棚町]] - [[ハンフォード (カリフォルニア州)|ハンフォード市]]
*{{Flagicon|北海道}}北海道[[芽室町]] - {{仮リンク|トレーシー (カリフォルニア州)|label=トレーシー市|en|Tracy, California}}
*{{Flagicon|青森県}}[[青森県]][[田子町]] - [[ギルロイ (カリフォルニア州)|ギルロイ市]]
*{{Flagicon|岩手県}}[[岩手県]][[北上市]] - [[コンコード (カリフォルニア州)|コンコード市]]
*{{Flagicon|宮城県}}[[宮城県]][[仙台市]] - [[リバーサイド (カリフォルニア州)|リバーサイド市]]
*{{Flagicon|宮城県}}宮城県[[岩沼市]] - [[ナパ (カリフォルニア州)|ナパ市]]
*{{Flagicon|宮城県}}宮城県[[丸森町]] - {{仮リンク|ヘメット (カリフォルニア州)|label=ヘメット市|en|Hemet, California}}
*{{Flagicon|秋田県}}[[秋田県]][[男鹿市]] - {{仮リンク|リビングストン (カリフォルニア州)|label=リビングストン市|en|Livingston, California}}
*{{Flagicon|茨城県}}[[茨城県]][[水戸市]] - [[アナハイム|アナハイム市]]
*{{Flagicon|茨城県}}茨城県[[つくば市]] - [[ミルピタス (カリフォルニア州)|ミルピタス市]]
*{{Flagicon|茨城県}}茨城県つくば市 - [[アーバイン (カリフォルニア州)|アーバイン市]]
*{{Flagicon|茨城県}}茨城県[[神栖市]] - [[ユーレカ (カリフォルニア州)|ユーレカ市]]
*{{Flagicon|茨城県}}茨城県[[取手市]]/旧 [[藤代町]] - [[ユバシティ (カリフォルニア州)|ユバシティ市]]
*{{Flagicon|茨城県}}茨城県[[土浦市]] - [[パロアルト (カリフォルニア州)|パロアルト市]]
*{{Flagicon|栃木県}}[[栃木県]][[日光市]] - [[パームスプリングス (カリフォルニア州)|パームスプリングス市]]
*{{Flagicon|栃木県}}栃木県[[真岡市]] - [[グレンドーラ (カリフォルニア州)|グレンドーラ市]]
*{{Flagicon|栃木県}}栃木県[[さくら市]] - [[ランチョパロスベルデス|ランチョパロスベルデス市]]
*{{Flagicon|群馬県}}[[群馬県]][[太田市]] - [[バーバンク (カリフォルニア州)|バーバンク市]]
*{{Flagicon|埼玉県}}[[埼玉県]][[秩父市]] - [[アンティオック (カリフォルニア州)|アンティオック市]]
*{{Flagicon|埼玉県}}埼玉県[[飯能市]] - {{仮リンク|ブレア (カリフォルニア州)|label=ブレア市|en|Brea, California}}
*{{Flagicon|埼玉県}}埼玉県[[春日部市]] - [[パサデナ (カリフォルニア州)|パサディナ市]]
*{{Flagicon|埼玉県}}埼玉県[[深谷市]] - [[フリーモント (カリフォルニア州)|フリーモント市]]
*{{Flagicon|埼玉県}}埼玉県[[草加市]] - [[カーソン (カリフォルニア州)|カーソン市]]
*{{Flagicon|埼玉県}}埼玉県[[蕨市]] - [[エルドラド (カリフォルニア州)|エルドラド市]]
*{{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]][[市川市]] - [[ガーデナ (カリフォルニア州)|ガーデナ市]]
*{{Flagicon|千葉県}}千葉県[[船橋市]] - [[ヘイワード (カリフォルニア州)|ヘイワード市]]
*{{Flagicon|千葉県}}千葉県[[木更津市]] - [[オーシャンサイド (カリフォルニア州)|オーシャンサイド市]]
*{{Flagicon|千葉県}}千葉県[[成田市]] - [[サンブルーノ|サンブルーノ市]]
*{{Flagicon|千葉県}}千葉県[[柏市]] - [[トーランス (カリフォルニア州)|トーランス市]]
*{{Flagicon|千葉県}}千葉県[[富津市]] - [[カールスバッド (カリフォルニア州)|カールスバッド市]]
*{{Flagicon|千葉県}}千葉県[[四街道市]] - [[リバモア (カリフォルニア州)|リバモア市]]
*{{Flagicon|東京都}}[[東京都]][[立川市]] - [[サンバーナーディーノ (カリフォルニア州)|サンバーナーディーノ市]]
*{{Flagicon|東京都}}東京都[[日野市]] - [[レッドランズ|レッドランズ市]]
*{{Flagicon|東京都}}東京都[[稲城市]] - [[フォスターシティ|フォスターシティ市]]
*{{Flagicon|東京都}}東京都[[瑞穂町]] - [[モーガンヒル (カリフォルニア州)|モーガンヒル市]]
*{{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]][[小田原市]] - [[チュラビスタ (カリフォルニア州)|チュラビスタ市]]
*{{Flagicon|神奈川県}}神奈川県[[伊勢原市]] - [[ラミラダ (カリフォルニア州)|ラミラダ市]]
*{{Flagicon|神奈川県}}神奈川県[[横浜市]] - [[サンディエゴ|サンディエゴ市]]
*{{Flagicon|新潟県}}[[新潟県]][[刈羽村]] - [[ハーフムーンベイ (カリフォルニア州)|ハーフムーンベイ市]]
*{{Flagicon|石川県}}[[石川県]][[七尾市]] - [[モントレー (カリフォルニア州)|モントレー市]]
*{{Flagicon|福井県}}[[福井県]][[福井市]] - [[フラトン (カリフォルニア州)|フラトン市]]
*{{Flagicon|山梨県}}[[山梨県]][[甲府市]] - [[ローダイ (カリフォルニア州)|ローダイ市]]
*{{Flagicon|山梨県}}山梨県[[韮崎市]] - [[フェアフィールド (カリフォルニア州)|フェアフィールド市]]
*{{Flagicon|長野県}}[[長野県]][[大町市]]/旧 [[美麻村]] - [[メンドシーノ (カリフォルニア州)|メンドシーノ市]]
*{{Flagicon|静岡県}}[[静岡県]][[静岡市]] - [[ストックトン (カリフォルニア州)|ストックトン市]]
*{{Flagicon|静岡県}}静岡県[[三島市]] - [[パサデナ (カリフォルニア州)|パサディナ市]]
*{{Flagicon|静岡県}}静岡県[[富士宮市]] - [[サンタモニカ|サンタモニカ市]]
*{{Flagicon|静岡県}}静岡県[[島田市]] - [[リッチモンド (カリフォルニア州)|リッチモンド市]]
*{{Flagicon|静岡県}}静岡県[[富士市]] - [[オーシャンサイド (カリフォルニア州)|オーシャンサイド市]]
*{{Flagicon|静岡県}}静岡県[[磐田市]] - [[マウンテンビュー (カリフォルニア州)|マウンテンビュー市]]
*{{Flagicon|静岡県}}静岡県[[函南町]] - [[カーマン (カリフォルニア州)|カーマン市]]
*{{Flagicon|静岡県}}静岡県[[浜松市]]/旧 [[三ケ日町]] - [[ポータービル (カリフォルニア州)|ポータービル市]]
*{{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]][[名古屋市]] - [[ロサンゼルス|ロサンゼルス市]]
*{{Flagicon|愛知県}}愛知県[[岡崎市]] - [[ニューポートビーチ (カリフォルニア州)|ニューポートビーチ市]]
*{{Flagicon|愛知県}}愛知県[[豊川市]] - [[クパチーノ (カリフォルニア州)|クパティーノ市]]
*{{Flagicon|愛知県}}愛知県[[津島市]] - [[ハーキュリーズ (カリフォルニア州)|ハーキュリーズ 市]]
*{{Flagicon|愛知県}}愛知県[[安城市]] - [[ハンティントンビーチ (カリフォルニア州)|ハンティントンビーチ市]]
*{{Flagicon|愛知県}}愛知県[[犬山市]] - [[デイビス (カリフォルニア州)|デイビス市]]
*{{Flagicon|三重県}}[[三重県]][[四日市市]] - [[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ市]]
*{{Flagicon|三重県}}三重県[[鳥羽市]] - [[サンタバーバラ (カリフォルニア州)|サンタバーバラ市]]
*{{Flagicon|京都府}}[[京都府]][[向日市]] - [[サラトガ (カリフォルニア州)|サラトガ市]]
*{{Flagicon|大阪府}}[[大阪府]][[大阪市]] - [[サンフランシスコ|サンフランシスコ市]]
*{{Flagicon|大阪府}}大阪府[[堺市]] - [[バークリー (カリフォルニア州)|バークレー市]]
*{{Flagicon|大阪府}}大阪府[[岸和田市]] - [[サウスサンフランシスコ (カリフォルニア州)|サウスサンフランシスコ市]]
*{{Flagicon|大阪府}}大阪府[[豊中市]] - [[サンマテオ (カリフォルニア州)|サンマテオ市]]
*{{Flagicon|大阪府}}大阪府[[貝塚市]] - [[カルバーシティ (カリフォルニア州)|カルバーシティ市]]
*{{Flagicon|大阪府}}大阪府[[高石市]] - [[ロミタ (カリフォルニア州)|ロミタ市]]
*{{Flagicon|大阪府}}大阪府[[東大阪市]] - [[グレンデール (カリフォルニア州)|グレンデール市]]
*{{Flagicon|兵庫県}}[[兵庫県]][[明石市]] - [[バレホ (カリフォルニア州)|バレホ市]]
*{{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[芦屋市]] - [[モンテベロ (カリフォルニア州)|モンテベロ市]]
*{{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[三木市]] - [[バイセイリア (カリフォルニア州)|バイセイリア市]]
*{{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[小野市]] - [[リンゼイ (カリフォルニア州)|リンゼイ市]]
*{{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[加東市]]/旧 [[滝野町]] - [[ホリスター (カリフォルニア州)|ホリスター市]]
*{{Flagicon|和歌山県}}[[和歌山県]][[和歌山市]] - [[ベイカースフィールド (カリフォルニア州)|ベイカースフィールド市]]
*{{Flagicon|和歌山県}}和歌山県[[橋本市]] - [[ロナ・パーク (カリフォルニア州)|ロナ・パーク市]]
*{{Flagicon|和歌山県}}和歌山県[[有田市]] - [[デレノ (カリフォルニア州)|デレノ市]]
*{{Flagicon|和歌山県}}和歌山県[[新宮市]] - [[サンタクルーズ (カリフォルニア州)|サンタクルーズ市]]
*{{Flagicon|和歌山県}}和歌山県[[串本町]] - {{仮リンク|ヘメット (カリフォルニア州)|label=ヘメット市|en|Hemet, California}}
*{{Flagicon|和歌山県}}和歌山県[[那智勝浦町]] - [[モントレーパーク (カリフォルニア州)|モントレーパーク市]]
*{{Flagicon|鳥取県}}[[鳥取県]][[大山町]]/旧 [[中山町 (鳥取県)|中山町]] - [[テメキュラ (カリフォルニア州)|テメキュラ市]]
*{{Flagicon|鳥取県}}鳥取県[[日南町]] - [[スコッツバレー (カリフォルニア州)|スコッツバレー市]]
*{{Flagicon|島根県}}[[島根県]][[出雲市]] - [[サンタクララ (カリフォルニア州)|サンタクララ市]]
*{{Flagicon|島根県}}島根県[[江津市]] - [[コロナ (カリフォルニア州)|コロナ市]]
*{{Flagicon|岡山県}}[[岡山県]][[岡山市]] - [[サンノゼ|サンノゼ市]]
*{{Flagicon|山口県}}[[山口県]][[下関市]] - [[ピッツバーグ (カリフォルニア州)|ピッツバーグ市]]
*{{Flagicon|香川県}}[[香川県]][[坂出市]] - [[サウサリート|サウサリート市]]
*{{Flagicon|愛媛県}}[[愛媛県]][[松山市]] - [[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント市]]
*{{Flagicon|高知県}}[[高知県]][[高知市]] - [[フレズノ|フレズノ市]]
*{{Flagicon|福岡県}}[[福岡県]][[福岡市]] - [[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド市]]
*{{Flagicon|福岡県}}福岡県[[久留米市]] - [[モデスト (カリフォルニア州)|モデスト市]]
*{{Flagicon|福岡県}}福岡県[[糸島市]]/旧[[前原市]] - [[エスコンディード (カリフォルニア州)|エスコンディード市]]
*{{Flagicon|佐賀県}}[[佐賀県]][[武雄市]]/旧 [[山内町]] - {{仮リンク|セバストポール (カリフォルニア州)|label=セバストポール市|en| Sebastopol, California}}
*{{Flagicon|熊本県}}[[熊本県]][[天草市]]/旧 [[本渡市]] - [[エンシニタス (カリフォルニア州)|エンシニタス市]]
*{{Flagicon|鹿児島県}}[[鹿児島県]][[いちき串木野市]]/旧 [[串木野市]] - [[サリナス (カリフォルニア州)|サリナス市]]
*{{Flagicon|鹿児島県}}鹿児島県[[霧島市]]/旧 [[霧島町]] - [[ソノラ (カリフォルニア州)|ソノラ市]]
{{colend}}
== その他 ==
=== 同州出身の有名人 ===
* [[カリフォルニア州出身の人物一覧]]を参照。
<!--
=== 州の象徴など ===
* 州の鳥 -
* 州の花 -
* 州の木 -
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="Cal Gov Code 34502">{{Cite web
| title = CA Codes (gov:34500-34504)
| publisher = California State Senate
| url = http://info.sen.ca.gov/cgi-bin/displaycode?section=gov&group=34001-35000&file=34500-34504
| accessdate = January 29, 2010}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[カリフォルニア州の都市圏の一覧]]
* [[カリフォルニア電力危機]]
* [[カリホルニウム]]
* [[カリフォルニア (戦艦)]]
* [[カリフォルニアロール]]
* [[在ロサンゼルス日本国総領事館]]、[[在サンフランシスコ日本国総領事館]]
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks|commons=California}}
; 公式
* [https://www.ca.gov/ カリフォルニア州政府] {{en icon}}
; 日本政府
* [https://www.la.us.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ロサンゼルス日本国総領事館] {{ja icon}}
* [https://www.sf.us.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在サンフランシスコ日本国総領事館] {{ja icon}}
; 日本独立行政法人
* [https://www.jflalc.org/ 在ロサンゼルス国際交流基金] {{en icon}}
* [https://www.jnto.go.jp/jpn/about_us/overseas_network/losangeles/index.html 在ロサンゼルス日本政府観光局] {{ja icon}}
* [https://www.jetro.go.jp/jetro/overseas/us_losangeles/ 在ロサンゼルス日本貿易振興機構(ジェトロ)] {{ja icon}}
; 観光
* [https://www.visitcalifornia.com/jp カリフォルニア観光局] {{ja icon}}
; その他
* [https://www.usajapan.org/ 北カリフォルニア日米協会]
* [https://jas-socal.org/ 南カリフォルニア日米協会]
* [http://www.worldcity.sakura.ne.jp/irvine/ カリフォルニア州アーバイン市]
* {{Kotobank|カリフォルニア}}
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8,973 | レオポルト・クロネッカー | レオポルト・クロネッカー(Leopold Kronecker, 1823年12月7日 - 1891年12月29日)はドイツの数学者である。リーグニッツ(現在のポーランド・レグニツァ)生まれ。ユダヤ系。
裕福な家庭に生まれ、満ち足りた教育を受けた彼は、ヤコビ、ディリクレ、アイゼンシュタイン、クンマーといったドイツの先達の後に立って、また、パリ滞在中にエルミートなどの影響によって、群論、モジュラー方程式、代数的整数論、楕円関数、また行列式の理論において大きな業績を残した。クロネッカーの名前は現在でも、クロネッカーのデルタ、クロネッカー積、クロネッカーの極限公式、クロネッカー=ウェーバーの定理、クロネッカーの青春の夢などに見ることができる。
主な業績に有限生成アーベル群の基本定理、クロネッカー・ウェーバーの定理、クロネッカーの青春の夢がある。
ベルリン大学では、同僚のワイエルシュトラスと長期にわたって反目しあっていた。また、クロネッカー自身の研究分野の近かったデーデキントの研究を雑誌に掲載しないこともあった。この他、数学基礎論の分野では、ゲオルク・カントールの集合論を攻撃したことで知られている。彼の、
という言葉は有名である。また、クロネッカーの青春の夢を解決することで、高木貞治は類体論を発展させることになった。
彼はもともと、既存の理論を単純化し、より洗練したものにすることに関心を抱いていたが、次第に先鋭化して、構成的で、有限の操作しか行わないような証明でなければ疑わしく感じるようになった。従って、彼にはボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理(有界な実数列は収束する部分列を持つ)は認め難かった。さらには、整数から有限の演算を施して得られるような数でないものは、存在しないものとまでみなすようになる。彼は、リンデマンによる円周率 (π) の超越性の証明(1882年)を「美しいが、しかし意味のないものだ。何故なら超越数は存在しないのだから」と評している。カントールは、超越数が無限に存在することを証明したが、彼の立場からいえば、この結果は全く意味のないものだった。彼は自分の考えを行動に移す人物で、カントールらの論文を自分の雑誌に掲載することを拒否し、カントールやデーデキントらの実数に関する理論、更にはカントールの人格まで公然と非難した。カントールはこれにひどく傷付き、このことはカントールが後に精神的に不安定になる要因にもなった。
クロネッカーの見方は、決して全く独断的なものではなく、後にアンリ・ポアンカレやブラウアーが、数学をより直観に基づいて組み立てるべきだとする直観主義を発展させる基盤となった。アンドレ・ヴェイユの研究書では、晩年のクロネッカーがアイゼンシュタインの楕円関数論に着想を得て、独自の楕円関数論を展開しようとしていたことが指摘されている。
経済的には、学位取得後に、亡くなった伯父の銀行と農場を引き継いで経営に成功し、財政的にも成功させていた。
1853年の論文ではガロア理論を再整理して、五次方程式が代数的に解けないことの簡単な証明を与えており、五次方程式が代数的に解けない証明としてはこれが最も簡単なものとされているが、現在の数学史では忘れられている。
代数的整数論においてクロネッカーは哲学的な理由から受け入れられなかったリヒャルト・デーデキントのイデアル (環論)の理論の代替として、因子 (代数幾何学)の理論を導入した。デデキントのアプローチが一般的に採用されたことで、クロネッカーの理論は長い間無視されることになったが、彼の因子の理論は有用であることがわかり、20世紀に何人かの数学者によって復活させられた。。
クロネッカーはまた、連続性の概念にも貢献し、無理数の形を実数で再構成した。解析学において、クロネッカーは同僚のカール・ワイエルシュトラスによる連続的でどこにも微分できない関数の定式化を否定した。 | [
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] | レオポルト・クロネッカーはドイツの数学者である。リーグニッツ(現在のポーランド・レグニツァ)生まれ。ユダヤ系。 裕福な家庭に生まれ、満ち足りた教育を受けた彼は、ヤコビ、ディリクレ、アイゼンシュタイン、クンマーといったドイツの先達の後に立って、また、パリ滞在中にエルミートなどの影響によって、群論、モジュラー方程式、代数的整数論、楕円関数、また行列式の理論において大きな業績を残した。クロネッカーの名前は現在でも、クロネッカーのデルタ、クロネッカー積、クロネッカーの極限公式、クロネッカー=ウェーバーの定理、クロネッカーの青春の夢などに見ることができる。 | [[File:Leopold Kronecker.jpg|right|レオポルト・クロネッカー]]
'''レオポルト・クロネッカー'''('''Leopold Kronecker''', [[1823年]][[12月7日]] - [[1891年]][[12月29日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Leopold-Kronecker Leopold Kronecker German mathematician] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は[[ドイツ]]の[[数学者]]である。[[レグニツァ|リーグニッツ]](現在の[[ポーランド]]・レグニツァ)生まれ。[[ユダヤ系]]。
裕福な家庭に生まれ、満ち足りた教育を受けた彼は、[[カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ|ヤコビ]]、[[ディリクレ]]、[[フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン|アイゼンシュタイン]]、[[クンマー]]といったドイツの先達の後に立って、また、[[パリ]]滞在中に[[エルミート]]などの影響によって、[[群論]]、[[モジュラー形式|モジュラー]]方程式、[[代数的整数論]]、[[楕円関数]]、また[[行列式]]の理論において大きな業績を残した。クロネッカーの名前は現在でも、[[クロネッカーのデルタ]]、[[クロネッカー積]]、[[クロネッカーの極限公式]]、[[クロネッカー=ウェーバーの定理]]、[[クロネッカーの青春の夢]]などに見ることができる。
== 業績 ==
主な業績に[[有限生成アーベル群|有限生成アーベル群の基本定理]]、[[クロネッカー・ウェーバーの定理]]、[[ヒルベルトの第12問題|クロネッカーの青春の夢]]がある。
[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]では、同僚の[[ワイエルシュトラス]]と長期にわたって反目しあっていた。また、クロネッカー自身の研究分野の近かった[[リヒャルト・デーデキント|デーデキント]]の研究を雑誌に掲載しないこともあった。この他、数学基礎論の分野では、[[ゲオルク・カントール]]の集合論を攻撃したことで知られている。彼の、
:「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」(Die ganzen Zahlen hat der liebe Gott gemacht, alles andere ist Menschenwerk.)
という言葉は有名である。また、[[クロネッカーの青春の夢]]を解決することで、[[高木貞治]]は[[類体論]]を発展させることになった。
彼はもともと、既存の理論を単純化し、より洗練したものにすることに関心を抱いていたが、次第に先鋭化して、構成的で、有限の操作しか行わないような証明でなければ疑わしく感じるようになった。従って、彼には[[ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理]]([[有界]]な[[実数]]列は収束する部分列を持つ)は認め難かった。さらには、整数から有限の演算を施して得られるような数でないものは、存在しないものとまでみなすようになる。彼は、[[フェルディナント・フォン・リンデマン|リンデマン]]による[[円周率]] ({{math|π}}) の[[超越数|超越性]]の証明([[1882年]])を「美しいが、しかし意味のないものだ。何故なら超越数は存在しないのだから」と評している。カントールは、超越数が無限に存在することを証明したが、彼の立場からいえば、この結果は全く意味のないものだった。彼は自分の考えを行動に移す人物で、カントールらの論文を自分の雑誌に掲載することを拒否し、カントールやデーデキントらの実数に関する理論、更にはカントールの人格まで公然と非難した。カントールはこれにひどく傷付き、このことはカントールが後に精神的に不安定になる要因にもなった<ref>{{Cite book|和書
| author= ジェイムズ・D・スタイン
| translator = 熊谷 玲美/田沢 恭子/松井 信彦
|title= 不可能、不確定、不完全 「できない」を証明する数学の力
| year=2011
| date=2011-1-25
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|publisher=[[早川書房]]|isbn =978-4-15-209187-1 }}</ref>。<!-- {{要出典|date=2009年9月}} -->
クロネッカーの見方は、決して全く独断的なものではなく、後に[[アンリ・ポアンカレ]]やブラウアーが、数学をより直観に基づいて組み立てるべきだとする[[直観主義 (数学の哲学)|直観主義]]を発展させる基盤となった。[[アンドレ・ヴェイユ]]の研究書では、晩年のクロネッカーがアイゼンシュタインの楕円関数論に着想を得て、独自の楕円関数論を展開しようとしていたことが指摘されている。
経済的には、学位取得後に、亡くなった伯父の銀行と農場を引き継いで経営に成功し、財政的にも成功させていた。
[[1853年]]の論文では[[ガロア理論]]を再整理して、[[五次方程式]]が代数的に解けないことの簡単な証明を与えており、五次方程式が代数的に解けない証明としてはこれが最も簡単なものとされているが、現在の数学史では忘れられている<ref>{{Harvtxt|志賀|1994}}</ref>。
[[代数的整数論]]においてクロネッカーは哲学的な理由から受け入れられなかった[[リヒャルト・デーデキント]]の[[イデアル (環論)]]の理論の代替として、[[因子 (代数幾何学)]]の理論を導入した。デデキントのアプローチが一般的に採用されたことで、クロネッカーの理論は長い間無視されることになったが、彼の因子の理論は有用であることがわかり、20世紀に何人かの数学者によって復活させられた。<ref name="MA">{{cite book| last = Corry| first = Leo| title = Modern Algebra and the Rise of Mathematical Structures| url = https://archive.org/details/modernalgebraris00corr| url-access = limited| year = 2004| publisher = Birkhäuser| isbn = 978-3-7643-7002-2| pages = [https://archive.org/details/modernalgebraris00corr/page/n132 120] }}</ref>。
クロネッカーはまた、[[連続性 (数学)|連続性]]の概念にも貢献し、[[無理数]]の形を[[実数]]で再構成した。解析学において、クロネッカーは同僚の[[カール・ワイエルシュトラス]]による[[連続的でどこにも微分できない関数]]の定式化を否定した。
==関連記事==
* [[クロネッカー・ウェーバーの定理]]
* [[クロネッカーの極限公式]]
* [[クロネッカー積]]
* [[クロネッカーの定理]]
* [[クロネッカーのデルタ]]
* [[:en:Kronecker's lemma|クロネッカーの補題]]
* [[:en:Kronecker's congruence|クロネッカーの合同関係式]]
* [[:en:Eisenstein–Kronecker number]]
* [[:en:Kronecker symbol|クロネッカー記号]]
*[[:en:Kronecker substitution|クロネッカーの代入]]
* [[多項式の因数分解#クロネッカーの方法|クロネッカーの方法]]
== 脚注 ==
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book |和書 |author=志賀浩二|authorlink=志賀浩二 |date=1994-08 |title=数学が育っていく物語 第5週 |volume=方程式-解ける鎖,解けない鎖- |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-007915-8 |ref={{Harvid|志賀|1994}} }}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Leopold Kronecker}}
* [http://www-gap.dcs.st-and.ac.uk/~history/Mathematicians/Kronecker.html クロネッカーの伝記]
*{{Kotobank|クロネッカー|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
*{{MacTutor|id=Kronecker|title=Leopold Kronecker}}
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[[Category:数学に関する記事]] | 2003-05-21T22:23:50Z | 2023-12-25T15:14:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC |
8,989 | コンスタンティノープル | コンスタンティノープル(英: Constantinople、ラテン語: Constantinopolis、古代ギリシア語: Κωνσταντινούπολις / Kōnstantinoúpolis、現代ギリシア語: Κωνσταντινούπολη / Konstantinoúpoli)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。
強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンティノープル総主教庁が置かれている。
コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオン (古希: Βυζάντιον) の地に建設した都市である。この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。都市名は「コンスタンティヌスの町」を意味する(ラテン語:Constantinopolis)。
330年より東ローマ帝国の行政首都として建設された。西ローマ帝国において西方正帝が消失した後には同地で「新ローマ」「第2のローマ」とする意識が育ち、遅くとも6世紀中頃までには定着した。東ローマ帝国の隆盛と共に、30万~40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。また古代の建造物が残る大都市としてその偉容を誇った。正教会の首長であるコンスタンティノープル総主教庁が置かれ、正教会の中心ともなり、ビザンティン文化の中心でもあった。都市の守護聖人は聖母マリアである。
コンスタンティノープルは強固な城壁の守りでも知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返した。しかし1204年に第4回十字軍の攻撃を受けると衰退が加速した。1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となった。日本ではこれ以後をトルコ語によるイスタンブールの名で呼ぶことが多い。ただし、公式にイスタンブールと改称されるのはトルコ革命後の1930年である。
日本語では、一般的に英語名 Constantinople の音訳である「コンスタンティノープル」がよく用いられているが、古典ラテン語では「コンスタンティノポリス(Constantinopolis)」、1453年にオスマン帝国に占領されてからは、オスマン語で 「コスタンティーニーイェ(قسطنطينيه Ḳusṭanṭīniyye)」と呼ばれた。現在の都市名としては、トルコ語の「イスタンブル(İstanbul)」である。
このほかの自称としては、「新ローマ(古ラ:Nova Roma ノウァ・ローマ、古ギ:Νέα Ῥώμη ネア・ローメー)」「その町(古ギ:ἡ Πόλις イー・ポリス)」などがある。現在でもギリシアにおいてはこの都市を言い表すのにイスタンブルという呼称は使わず、専らΚωνσταντινούπολη(コンスタンディヌーポリ)や η Πόλη(イ・ポーリ)と呼び習わしている。外名としては、ロシア語などのスラヴ系の史料の中で「皇帝の町(Царьгра́д ツァリグラート)」という呼び名が使われているほか、ヴァイキングから「偉大な町(古ノルド語: Miklagarð ミクラガルズ)」と呼ばれることもあった。漢字では「君府」或いは「帝都」という当て字も用いられる。
ビュザンティオンは、古代ギリシアの植民都市に起源を持ち、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。コンスタンティヌス1世(大帝)は、リキニウスとの内戦の中で324年にビュザンティオンを攻略すると、この地に着目し、都市計画を一新して「コンスタンティノポリス」を建設した。落成式は330年5月11日に執り行われた。しかし、コンスタンティノポリスの建設は単に過去の皇帝たちが行ってきたのと同様な戦勝記念の恒例行事であって、「新ローマの建設」とか「ローマからの遷都」といったような大それた出来事ではなかった。当時、コンスタンティヌス1世がローマに代わる「新しいローマ」を建設したという考えは存在しなかったようである。
建設当初のコンスタンティノープルは一地方都市の域を出ておらず、属州知事の管理下に置かれていた。東方で皇帝府が置かれていたのはアンティオキアであり、コンスタンティヌスの後の皇帝達もコンスタンティノープルを訪れることは希であった。この都市には首都ローマに倣って元老院が設置されることになるが、執政官、法務官、護民官、財務官、首都長官などの重要な首都機能は設けられなかった(ただし財務官と法務官はディオクレティアヌス時代に既に重要な職種ではなくなっていたと考えられ、コンスタンティノープル長官は358年12月11日又は9月11日に設置されたとされる)。また元老院も首都ローマの元老院と比べると規模や法的権限が小さく、ローマの元老院議員がクラリッシムスとされていたのに対し、同地の議員達は格下のクラリとみなされていた。市域もビュザンティオン時代と比べれば大幅に拡大されたが、後代より狭かった。おそらくはコンスタンティヌス1世にしても、コンスタンティノープルを首都ローマと対等の都市にしようとまでは考えていなかったであろうことが様々な要素から示されている。今日では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている。
しかし、コンスタンティノープルは徐々にその重要性を増していくことになる。コンスタンティウス2世は、359年にコンスタンティノープルを地方自治都市へと昇格させた。テオドシウス1世は、380年にコンスタンティノープルへと入城すると、治世の多くをこの街で過ごす最初の皇帝となった。テオドシウス1世の死後にローマ帝国の東西分裂が深刻化した後は、コンスタンティノープルは東ローマ帝国における皇帝府の所在地として定着した。410年に首都ローマが西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族がドナウ川の北に迫ってくると、テオドシウス2世は防衛体制を強化するため、現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」の建設を開始し、413年に完成させた。テオドシウスの城壁により市域はそれまでの約2倍に拡大され、首都ローマに倣って7つの丘も設定された。以後ローマが急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノープルの人口は増加し続けた。市内には、宮殿やハギア・ソフィア大聖堂を始めとする教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られた。410年にローマ市が陥落すると、東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノープルは第2のローマ」という意識が芽生えていった。
6世紀になると毎年5月11日が東ローマ帝国の重要な記念日として盛大な開都祭が行われるようになり、「コンスタンティヌスが新しいローマを建設した」という意識が定着した。時の皇帝ユスティニアヌス1世のもとで、東ローマ帝国は最初の隆盛を迎え、コンスタンティノープルはアンティオキアやアレクサンドリアにも匹敵する世界的に見ても最大級の大都市にまで成長した。市民にはパンが無料で支給される一方、競馬場では戦車競走が連日開催され市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「パンとサーカス」はこの時代でも帝国の東方では維持されていたのである。
ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。7世紀になるとサーサーン朝、次いでイスラムのウマイヤ朝によってシリア、エジプトなどの穀倉地帯を奪われ、皇帝ヘラクレイオスはコンスタンティノープル市民へのパンの支給を廃止した。674年から678年にはコンスタンティノープルはウマイヤ朝の海軍によって毎年包囲された。この際は秘密兵器であるギリシアの火を用いてイスラム海軍を撃退することに成功したが、相次ぐ戦乱などから市民の人口も激減し、水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになった。
717年から718年にはウマイヤ朝の大遠征軍がコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオーン3世によって撃退された。徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノープルにも再び活気が戻ってきた。766年には人口増加に対応するために水道が修復された。コンスタンティノープルは戦車競走に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。
東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万~40万人を擁する大都会となった。当時の西ローマ帝国にはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。
11世紀後半になると、東ローマ帝国はセルジューク朝の攻撃などを受けて弱体化するようになり、コンスタンティノープルの繁栄はいったん衰えるが、11世紀末から12世紀のコムネノス王朝の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市としての繁栄を取り戻した。
11世紀以降、イタリアの都市国家が東地中海に勢力を伸ばしてきた。特にヴェネツィア共和国は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、1204年の第4回十字軍を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。海側の城壁は高さも低く、コンスタンティノープルの弱点だった。4月13日、コンスタンティノープルは陥落し、十字軍兵士による暴行・虐殺・掠奪が行われた。
十字軍はコンスタンティノープルを首都としてラテン帝国を建てたが、存立基盤が弱く、ヴェネツィアの海軍力・経済力に依存していた。このためコンスタンティノープルにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネツィアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、奪回した。これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4万~7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。
14世紀になるとコンスタンティノープルはオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。ただ、文化だけは最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。この文化の繁栄は、当時の皇室の姓(パレオロゴス王朝)を取って「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれ、西欧のルネサンスに非常に大きな影響を与えた。
1453年4月、コンスタンティノープルの奪取に並々ならぬ意欲を燃やすメフメト2世が、10万のオスマン帝国軍を率いてコンスタンティノープルを包囲した。オスマン側は大型の大砲(ウルバン砲)を用いたり、艦隊を陸越えさせて金角湾に入れるなど、大規模な攻囲作戦を行なった。コンスタンティノープルの堅固な防壁は健在であり、東ローマ帝国軍とイタリア人傭兵部隊はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2か月に渡って抵抗を続けた。しかし5月29日未明、オスマン軍は総攻撃を行い、閉め忘れた城門からついに城内へと侵入した。コンスタンティノープルは陥落し、最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは乱戦の中で戦死、東ローマ帝国は滅亡した。 メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して軍の行動を阻止するように命じた。 その後ハギア・ソフィア大聖堂などはモスクへ改修された。 | [
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"text": "建設当初のコンスタンティノープルは一地方都市の域を出ておらず、属州知事の管理下に置かれていた。東方で皇帝府が置かれていたのはアンティオキアであり、コンスタンティヌスの後の皇帝達もコンスタンティノープルを訪れることは希であった。この都市には首都ローマに倣って元老院が設置されることになるが、執政官、法務官、護民官、財務官、首都長官などの重要な首都機能は設けられなかった(ただし財務官と法務官はディオクレティアヌス時代に既に重要な職種ではなくなっていたと考えられ、コンスタンティノープル長官は358年12月11日又は9月11日に設置されたとされる)。また元老院も首都ローマの元老院と比べると規模や法的権限が小さく、ローマの元老院議員がクラリッシムスとされていたのに対し、同地の議員達は格下のクラリとみなされていた。市域もビュザンティオン時代と比べれば大幅に拡大されたが、後代より狭かった。おそらくはコンスタンティヌス1世にしても、コンスタンティノープルを首都ローマと対等の都市にしようとまでは考えていなかったであろうことが様々な要素から示されている。今日では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている。",
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"text": "しかし、コンスタンティノープルは徐々にその重要性を増していくことになる。コンスタンティウス2世は、359年にコンスタンティノープルを地方自治都市へと昇格させた。テオドシウス1世は、380年にコンスタンティノープルへと入城すると、治世の多くをこの街で過ごす最初の皇帝となった。テオドシウス1世の死後にローマ帝国の東西分裂が深刻化した後は、コンスタンティノープルは東ローマ帝国における皇帝府の所在地として定着した。410年に首都ローマが西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族がドナウ川の北に迫ってくると、テオドシウス2世は防衛体制を強化するため、現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」の建設を開始し、413年に完成させた。テオドシウスの城壁により市域はそれまでの約2倍に拡大され、首都ローマに倣って7つの丘も設定された。以後ローマが急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノープルの人口は増加し続けた。市内には、宮殿やハギア・ソフィア大聖堂を始めとする教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られた。410年にローマ市が陥落すると、東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノープルは第2のローマ」という意識が芽生えていった。",
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"text": "6世紀になると毎年5月11日が東ローマ帝国の重要な記念日として盛大な開都祭が行われるようになり、「コンスタンティヌスが新しいローマを建設した」という意識が定着した。時の皇帝ユスティニアヌス1世のもとで、東ローマ帝国は最初の隆盛を迎え、コンスタンティノープルはアンティオキアやアレクサンドリアにも匹敵する世界的に見ても最大級の大都市にまで成長した。市民にはパンが無料で支給される一方、競馬場では戦車競走が連日開催され市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「パンとサーカス」はこの時代でも帝国の東方では維持されていたのである。",
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"text": "ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。7世紀になるとサーサーン朝、次いでイスラムのウマイヤ朝によってシリア、エジプトなどの穀倉地帯を奪われ、皇帝ヘラクレイオスはコンスタンティノープル市民へのパンの支給を廃止した。674年から678年にはコンスタンティノープルはウマイヤ朝の海軍によって毎年包囲された。この際は秘密兵器であるギリシアの火を用いてイスラム海軍を撃退することに成功したが、相次ぐ戦乱などから市民の人口も激減し、水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになった。",
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"text": "717年から718年にはウマイヤ朝の大遠征軍がコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオーン3世によって撃退された。徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノープルにも再び活気が戻ってきた。766年には人口増加に対応するために水道が修復された。コンスタンティノープルは戦車競走に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。",
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"text": "東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万~40万人を擁する大都会となった。当時の西ローマ帝国にはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。",
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"text": "11世紀後半になると、東ローマ帝国はセルジューク朝の攻撃などを受けて弱体化するようになり、コンスタンティノープルの繁栄はいったん衰えるが、11世紀末から12世紀のコムネノス王朝の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市としての繁栄を取り戻した。",
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"text": "11世紀以降、イタリアの都市国家が東地中海に勢力を伸ばしてきた。特にヴェネツィア共和国は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、1204年の第4回十字軍を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。海側の城壁は高さも低く、コンスタンティノープルの弱点だった。4月13日、コンスタンティノープルは陥落し、十字軍兵士による暴行・虐殺・掠奪が行われた。",
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"text": "十字軍はコンスタンティノープルを首都としてラテン帝国を建てたが、存立基盤が弱く、ヴェネツィアの海軍力・経済力に依存していた。このためコンスタンティノープルにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネツィアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、奪回した。これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4万~7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。",
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"text": "14世紀になるとコンスタンティノープルはオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。ただ、文化だけは最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。この文化の繁栄は、当時の皇室の姓(パレオロゴス王朝)を取って「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれ、西欧のルネサンスに非常に大きな影響を与えた。",
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"text": "1453年4月、コンスタンティノープルの奪取に並々ならぬ意欲を燃やすメフメト2世が、10万のオスマン帝国軍を率いてコンスタンティノープルを包囲した。オスマン側は大型の大砲(ウルバン砲)を用いたり、艦隊を陸越えさせて金角湾に入れるなど、大規模な攻囲作戦を行なった。コンスタンティノープルの堅固な防壁は健在であり、東ローマ帝国軍とイタリア人傭兵部隊はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2か月に渡って抵抗を続けた。しかし5月29日未明、オスマン軍は総攻撃を行い、閉め忘れた城門からついに城内へと侵入した。コンスタンティノープルは陥落し、最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは乱戦の中で戦死、東ローマ帝国は滅亡した。 メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して軍の行動を阻止するように命じた。 その後ハギア・ソフィア大聖堂などはモスクへ改修された。",
"title": "歴史"
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] | コンスタンティノープルは、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンティノープル総主教庁が置かれている。 | '''コンスタンティノープル'''({{lang-en-short|Constantinople}}、{{lang-la|Constantinopolis}}、{{lang-grc|Κωνσταντινούπολις}} / {{transl|grc|''Kōnstantinoúpolis''}}、現代{{lang-el|Κωνσταντινούπολη}} / {{transl|el|''Konstantinoúpoli''}})は、[[東ローマ帝国]]の[[首都]]であった都市で、現在の[[トルコ]]の都市'''[[イスタンブール]]'''の前身である。
強固な城壁の守りで知られ、[[330年]]の建設以来、[[1453年]]の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。[[正教会]]の中心地ともなり、現在も[[コンスタンティノープル総主教庁]]が置かれている。
[[Image:Bizansist touchup.jpg|thumb|500px|東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル]]
== 概要 ==
コンスタンティノープルは、330年に[[ローマ皇帝]][[コンスタンティヌス1世]]が、[[古代ギリシア]]の植民都市'''[[ビュザンティオン]]''' ({{lang-grc-short|Βυζάντιον}}) の地に建設した都市である。この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である[[金角湾]]を擁していた。都市名は「コンスタンティヌスの町」を意味する(ラテン語:'''Constantinopolis''')。
[[330年]]より[[東ローマ帝国]]の行政首都として建設された<ref>『日本大百科全書』小学館、コンスタンティノープル</ref>。[[西ローマ帝国]]において西方正帝が消失した後には同地で「新ローマ」「第2のローマ」とする意識が育ち、遅くとも[[6世紀]]中頃までには定着した。東ローマ帝国の隆盛と共に、30万~40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。また古代の建造物が残る大都市としてその偉容を誇った。正教会の首長である[[コンスタンティノープル総主教庁]]が置かれ、正教会の中心ともなり、[[ビザンティン文化]]の中心でもあった。都市の[[守護聖人]]は[[聖母マリア]]である。
コンスタンティノープルは強固な城壁の守りでも知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返した。しかし1204年に[[第4回十字軍]]の攻撃を受けると衰退が加速した。1453年に[[オスマン帝国]]により[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープルが陥落]]し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街は[[オスマン帝国]]の首都となった。日本ではこれ以後を[[トルコ語]]による[[イスタンブール]]の名で呼ぶことが多い。ただし、公式にイスタンブールと改称されるのは[[トルコ革命]]後の[[1930年]]である。
== 名称 ==
日本語では、一般的に[[英語]]名 {{lang|en|Constantinople}} の音訳である「コンスタンティノープル」がよく用いられているが、古典ラテン語では「'''コンスタンティノポリス'''({{lang|la|Constantinopolis}})」、[[1453年]]にオスマン帝国に占領されてからは、[[オスマン語]]で 「'''コスタンティーニーイェ'''({{lang|ota|قسطنطينيه}} {{transl|ota|Ḳusṭanṭīniyye}})」と呼ばれた。現在の都市名としては、[[トルコ語]]の「'''イスタンブル'''({{lang|tr|İstanbul}})」である。
このほかの自称としては、「新ローマ(<small>古ラ</small>:{{lang|la|Nova Roma|[[ノウァ・ローマ]]}}、<small>古ギ</small>:{{lang|grc|Νέα Ῥώμη|ネア・ローメー}})」「その町(<small>古ギ</small>:{{lang|grc|ἡ Πόλις|イー・ポリス}}<ref group="注釈">英語でいう the City に相当する。</ref>)」などがある。現在でもギリシアにおいてはこの都市を言い表すのにイスタンブルという呼称は使わず、専ら{{lang|el|Κωνσταντινούπολη}}('''コンスタンディヌーポリ''')や {{lang|el|η Πόλη}}('''イ・ポーリ''')と呼び習わしている。[[外名]]としては、[[ロシア語]]などのスラヴ系の史料の中で「皇帝の町({{lang|ru|Царьгра́д|ツァリグラート}})」という呼び名が使われているほか、[[ヴァイキング]]から「偉大な町({{lang-non|Miklagarð}} <small>ミクラガルズ</small>)」と呼ばれることもあった。漢字では「'''君府'''」或いは「'''帝都'''」という当て字も用いられる。
== 歴史 ==
=== 古代末期の繁栄(4世紀~6世紀) ===
[[File:Byzantine Constantinople-en.png|thumb|right|300px|東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル]]
ビュザンティオンは、古代ギリシアの植民都市に起源を持ち、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。コンスタンティヌス1世(大帝)は、[[リキニウス]]との内戦の中で324年にビュザンティオンを攻略すると、この地に着目し、都市計画を一新して「コンスタンティノポリス」を建設した。落成式は330年[[5月11日]]に執り行われた<ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p27。</ref>。しかし、コンスタンティノポリスの建設は単に過去の皇帝たちが行ってきたのと同様な戦勝記念の恒例行事であって、「新ローマの建設」とか「ローマからの[[遷都]]」といったような大それた出来事ではなかった<ref>[[#ジョーンズ2008|ジョーンズ2008]]、p.226。</ref>。当時、コンスタンティヌス1世がローマに代わる「新しいローマ」を建設したという考えは存在しなかったようである<ref name="名前なし-1">[[#井上2008|井上2008]]、pp.62-73</ref>。
建設当初のコンスタンティノープルは一地方都市の域を出ておらず、属州知事の管理下に置かれていた<ref>[コンスタンチノープル]『ブリタニカ国際大百科事典』第2版、TBSブリタニカ、1993年。</ref>。東方で皇帝府が置かれていたのは[[アンティオキア]]であり<ref name="南川2015p13">[[#南川2015|南川2015]]、p.13</ref>、コンスタンティヌスの後の皇帝達もコンスタンティノープルを訪れることは希であった<ref name="南川2015p13" /><ref name="井上2008p63">[[#井上2008|井上2008]]、p.63</ref>。この都市には首都ローマに倣って[[元老院 (ローマ)#コンスタンティノポリス元老院|元老院]]が設置されることになるが、[[執政官]]、[[プラエトル|法務官]]、[[護民官]]、[[クァエストル|財務官]]、首都長官などの重要な首都機能は設けられなかった(ただし財務官と法務官はディオクレティアヌス時代に既に重要な職種ではなくなっていたと考えられ<ref group="注釈">ベルナール・レミィ([[#レミィ2010]]>p67)によると、ディオクレティアヌス以来財務官は「元老院の息子が二十五歳(?)で就任するだけのものとなり、もはや元老院への加入を認めるものではなくなったように思われる」とし、法務官は、「首都担当法務官と後見担当法務官の二つのポストだけしか残されなかった」としている</ref>、コンスタンティノープル長官は358年12月11日又は9月11日に設置されたとされる{{要出典|date=2020年3月}}<ref group="注釈">英語版[[:en:Praefectus urbi]]の記事に出典なしで記載されているため、要出典。なお、5世紀初頭の史料[[ノティティア・ディグニタートゥム]]にはコンスタンティノープル長官(Praefectus urbis Constantinopolitanae)が登場し、ローマ市長官と同格の順位に記載されている</ref>)。また元老院も首都ローマの元老院と比べると規模や法的権限が小さく、ローマの元老院議員がクラリッシムス<ref group="注釈">「最も光輝ある者」を意味する称号。後述するクラリの最上級。</ref>とされていたのに対し、同地の議員達は格下のクラリ<ref group="注釈">「光り輝いた」という意味の形容詞。クラリッシムスの原級。</ref>とみなされていた<ref name="ランソン2012p138">[[#ランソン2012|ランソン2012]]、p.138。</ref>。市域もビュザンティオン時代と比べれば大幅に拡大されたが、後代より狭かった。おそらくはコンスタンティヌス1世にしても、コンスタンティノープルを首都ローマと対等の都市にしようとまでは考えていなかったであろうことが様々な要素から示されている<ref name="ランソン2012p138" />。今日では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている<ref>[[#南川2015|南川2015]]、pp.15-16</ref><ref name="名前なし-1"/><ref>[[#根津2008|根津2008]]、p.7。</ref>。
しかし、コンスタンティノープルは徐々にその重要性を増していくことになる。[[コンスタンティウス2世]]は、[[359年]]にコンスタンティノープルを地方自治都市へと昇格させた<ref>[ローマ史]『ブリタニカ国際大百科事典』第2版、TBSブリタニカ、1993年。</ref>。[[テオドシウス1世]]は、[[380年]]にコンスタンティノープルへと入城すると、治世の多くをこの街で過ごす最初の皇帝となった<ref name="井上2008p63" />。テオドシウス1世の死後にローマ帝国の東西分裂が深刻化した後は、コンスタンティノープルは[[東ローマ帝国]]における皇帝府の所在地として定着した。[[410年]]に首都[[ローマ]]が[[西ゴート人]]により掠奪を受け、帝国の東方でも[[フン族]]が[[ドナウ川]]の北に迫ってくると、[[テオドシウス2世]]は防衛体制を強化するため、現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」の建設を開始し、[[413年]]に完成させた<ref>[[#井上2008|井上2008]]、p.64</ref>。テオドシウスの城壁により市域はそれまでの約2倍に拡大され<ref name="井上1998p111">[[#井上1998|井上1998]]、p111。</ref>、首都ローマに倣って[[ローマの七丘|7つの丘]]も設定された<ref>[[#南雲2018|南雲2018]]、p.150。</ref>。以後ローマが急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノープルの人口は増加し続けた。市内には、宮殿や[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]を始めとする教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られた。410年にローマ市が陥落すると、東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノープルは第2のローマ」という意識が芽生えていった<ref group="注釈">五世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と記している(井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』1990年p71)</ref>。
6世紀になると毎年5月11日が東ローマ帝国の重要な記念日として盛大な開都祭が行われるようになり、「コンスタンティヌスが新しいローマを建設した」という意識が定着した<ref>[[#井上2008|井上2008]]、pp.72-73</ref>。時の皇帝[[ユスティニアヌス1世]]のもとで、東ローマ帝国は最初の隆盛を迎え、コンスタンティノープルは[[アンティオキア]]や[[アレクサンドリア]]にも匹敵する世界的に見ても最大級の大都市<ref>{{cite web|url=http://geography.about.com/library/weekly/aa011201a.htm|title=Largest Cities Through History|author=Matt T. Rosenberg|publisher=About.com|accessdate=2009.1.30}}</ref>にまで成長した<ref>[[#世界の歴史4|世界の歴史4]]、p.382。</ref>。市民にはパンが無料で支給される一方、競馬場では[[戦車競走]]が連日開催され市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「[[パンとサーカス]]」はこの時代でも帝国の東方では維持されていた。
=== 暗黒時代から再興へ(7世紀~8世紀) ===
ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。7世紀になると[[サーサーン朝]]、次いでイスラムの[[ウマイヤ朝]]によって[[シリア]]、[[エジプト]]などの穀倉地帯を奪われ、皇帝[[ヘラクレイオス]]はコンスタンティノープル市民へのパンの支給を廃止した。[[コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)|674年から678年にはコンスタンティノープルはウマイヤ朝の海軍によって毎年包囲された]]。この際は秘密兵器である[[ギリシア火薬|ギリシアの火]]を用いてイスラム海軍を撃退することに成功したが、相次ぐ戦乱などから市民の人口も激減し、水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになった。
[[コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)|717年から718年にはウマイヤ朝の大遠征軍がコンスタンティノープルを包囲した]]が、皇帝[[レオーン3世]]によって撃退された。徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノープルにも再び活気が戻ってきた。[[766年]]には人口増加に対応するために水道が修復された。コンスタンティノープルは戦車競走に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。
=== 黄金時代(9世紀~11世紀) ===
東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、[[孤児院]]や[[病院]]のような慈善施設も建てられた。古代ギリシア文化の復活とそれを受けた[[ビザンティン文化]]の振興も進み([[マケドニア朝ルネサンス]])、コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、また[[ロシア]]・[[ブルガリア]]・イスラム帝国・[[イタリア]]・[[エジプト]]などの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万~40万人を擁する大都会となった。[[神聖ローマ帝国|当時の西ローマ帝国]]にはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず<ref group="注釈">[[スペイン]]の[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]はコンスタンティノープルに匹敵する大都市であったが、当時のコルドバは[[イスラム王朝]]・[[後ウマイヤ朝]]の支配下にあって、ローマ帝国の都市ではなかった。</ref>、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。
11世紀後半になると、東ローマ帝国は[[セルジューク朝]]の攻撃などを受けて弱体化するようになり、コンスタンティノープルの繁栄はいったん衰えるが、11世紀末から12世紀の[[コムネノス王朝]]の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市としての繁栄を取り戻した。
=== 帝都陥落と荒廃(12世紀~13世紀) ===
[[ファイル:Gustave dore crusades entry of the crusaders into constantinople.jpg|thumb|right|240px|[[ギュスターヴ・ドレ]](1832-1883), 『コンスタンティノープルに入城する十字軍』]]
11世紀以降、[[イタリア]]の[[都市国家]]が東地中海に勢力を伸ばしてきた。特に[[ヴェネツィア共和国]]は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、[[1204年]]の[[第4回十字軍]]を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。海側の城壁は高さも低く、コンスタンティノープルの弱点だった。[[4月13日]]、コンスタンティノープルは陥落し、十字軍兵士による暴行・虐殺・掠奪が行われた。
十字軍はコンスタンティノープルを首都として[[ラテン帝国]]を建てたが、存立基盤が弱く、ヴェネツィアの海軍力・経済力に依存していた。このためコンスタンティノープルにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネツィアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。[[1261年]]7月に東ローマの亡命政権[[ニカイア帝国]]は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、[[コンスタンティノープルの回復 (1261年)|奪回]]した。これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4万~7万人に減少し、貿易もヴェネツィアや[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]といったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。
=== 終焉(14世紀~15世紀) ===
{{see also|コンスタンティノープルの陥落}}
14世紀になるとコンスタンティノープルは[[オスマン帝国]]軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。ただ、文化だけは最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。この文化の繁栄は、当時の皇室の姓([[パレオロゴス王朝]])を取って「[[パレオロゴス朝ルネサンス]]」と呼ばれ、西欧の[[ルネサンス]]に非常に大きな影響を与えた。
[[1453年]]4月、コンスタンティノープルの奪取に並々ならぬ意欲を燃やす[[メフメト2世]]が、10万のオスマン帝国軍を率いてコンスタンティノープルを包囲した。オスマン側は大型の[[大砲]]([[ウルバン砲]])を用いたり、艦隊を陸越えさせて[[金角湾]]に入れるなど、大規模な攻囲作戦を行なった。コンスタンティノープルの堅固な防壁は健在であり、東ローマ帝国軍とイタリア人傭兵部隊はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2か月に渡って抵抗を続けた。しかし[[5月29日]]未明、オスマン軍は総攻撃を行い、閉め忘れた城門からついに城内へと侵入した。コンスタンティノープルは陥落し、最後の皇帝[[コンスタンティノス11世パレオロゴス]]は乱戦の中で戦死、東ローマ帝国は滅亡した。
メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して軍の行動を阻止するように命じた。
その後ハギア・ソフィア大聖堂などはモスクへ改修された。
== 古代ローマ帝国・東ローマ帝国時代の主な建造物 ==
[[画像:HagiaSophiaelevationS.jpg |thumb|200px|right|ハギア・ソフィア大聖堂]]
[[画像:TheodosiusWallsConstantinople.jpg|200px|thumb|right|テオドシウスの城壁]]
[[画像:Valens aquädukt02.jpg|thumb|200px|right|ヴァレンス水道橋]]
[[画像:Tekfursarayi.jpg|right|200px|thumb|コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿]]
[[File:Bucoleon March 2008.JPG|right|200px|thumb|ブーコレオン宮殿]]
[[File:Image-ZeyrekCamii20061230 02.jpg|right|200px|thumb|ゼイレク・モスク(旧パントクラトール修道院付属教会)]]
; [[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]{{nobold|(アギア・ソフィア大聖堂、アヤソフィア)}}
: 初期[[ビザンティン建築]]の最高傑作。帝国最大の教会で、東ローマ帝国期には総主教座が置かれていた。コンスタンティノープルの陥落後、[[モスク]]に改修され、近代に[[政教分離]]政策で無宗教の博物館になったあと、2020年に再びモスクとなった(「アギア・ソフィア」は中世以降のギリシア語読み。古典ギリシア語では「ハギア・ソピアー」)。
; {{仮リンク|ハギア・イレネ教会|en|Hagia Irene}}{{nobold|(アギア・イリニ大聖堂)}}
: 初期の総主教座所在地。オスマン帝国期には[[トプカプ宮殿]]の倉庫に改修され、建物としては現存している。
; {{仮リンク|聖諸使徒聖堂|en|Church of the Holy Apostles}}
: 歴代皇帝の多くが埋葬された教会で、[[ヴェネツィア]]の[[聖マルコ教会]]のモデルとして知られる。現存せず、跡地にはファーティフ・モスクが建てられている。
; [[テオドシウスの城壁]]
: 5世紀の皇帝[[テオドシウス2世]]の命によって建設された三重構造の大城壁。難攻不落を誇り、コンスタンティノープルへと攻め寄せた敵を度々撃退した。オスマン帝国期にある程度の修復が行われ、一部が現存している。
; [[コンスタンティノープル大宮殿|大宮殿]]
: 現在の[[ブルー・モスク]]近辺にあった[[宮殿]]。「聖なる宮殿」とも呼ばれた。歴代の東ローマ皇帝が住んだ宮殿で、盛時には絢爛豪華さを誇った。現在では一部の床モザイクが残存し、博物館で展示されているほか、近年では発掘調査が進められている。
; [[アト・メイダヌ|競馬場]]{{nobold|(ヒッポドローム)}}
: 首都となる以前、[[ビュザンティオン]]時代に建てられたといわれている。大宮殿に隣接しており、宮殿と競馬場の貴賓席は通路で結ばれていた。ここは、競馬([[戦車競走]])のほか、7世紀頃までは皇帝即位式、それ以降も[[凱旋式]]などの国家的行事の会場に使用された。オスマン帝国期にも祝祭のパレードに用いられ、競馬場としての施設は消失したが、競馬場中央に置かれていた[[オベリスク]]と[[デルポイ]]から運ばれた青銅製の蛇の柱が現存している。また[[青銅]]製の4頭の馬の像があったが、第4回十字軍の時に[[ヴェネツィア]]によって掠奪され、いまではヴェネツィアの聖マルコ教会にある。
; {{仮リンク|ゼウクシッポス浴場|en|Baths of Zeuxippus}}
: 競馬場の隣りにあった、[[ローマ浴場|古代ローマ式の大浴場]]。7世紀後半の暗黒時代に打ち棄てられてしまい、後には兵舎や監獄、絹織物の国営工場などに転用されてしまった。
; [[カーリエ博物館|コーラ修道院]]
: 東ローマ帝国末期の[[フレスコ]]画で有名な教会。のちにモスクに転用され、現在は博物館として公開されている。
; {{仮リンク|生神女・パンマカリストス教会|en|Pammakaristos Church}}
: コーラ修道院に似た構図の「パントクラトール」のモザイク画などが残されている。のちにモスクに転用され、現在は一部が博物館として公開されている。
; {{仮リンク|パントクラトール修道院付属教会|en|Zeyrek Mosque}}
: 12世紀に[[コムネノス王朝]]が建てた修道院の付属教会。モスク(ゼイレク・モスク)に転用され、現存。
; [[ヴァレンス水道橋|ウァレンス水道橋]]
: 4世紀の[[ウァレンス]]の治世にコンスタンティノープル市長{{仮リンク|クレアルコス (執政官)|en|Clearchus (consul)|label=クレアルコス}}によって建設された古代ローマ時代の[[水路橋|水道橋]]<ref>[[#南雲2018|南雲2018]]、pp.164-166。</ref>。補修が繰り返されて[[19世紀]]まで使われ、現在は遺跡として整備保存されている。
; [[コンスタンティヌスのフォルム]]{{nobold|(広場)}}
: [[元老院 (ローマ)#コンスタンティノポリス元老院|コンスタンティノープル元老院]]の議事堂などがあった[[フォルム]]。現在では、コンスタンティヌスの銅像が乗っていた円柱の一部のみが残っている。
; [[イスタンブール地下宮殿|地下宮殿]]
: ハギア・ソフィア大聖堂そばに設けられた地下貯水池。現存。
; {{仮リンク|聖セルギオス=バッコス教会|en|Little Hagia Sophia}}
: ユスティニアヌス1世時代に建てられた教会。モスク(キュチュック・アヤソフィア・モスク)に転用され、現存。
; {{仮リンク|ブルケラナエ宮殿|en|Palace of Blachernae}}
: 市内北東部にあった、12世紀以降の皇帝が主に居住した宮殿。現存しない。
; [[コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿]]{{nobold|(テクフール・サライ宮殿)}}
: 帝国末期の宮殿で市の北東部にあった。一部遺構が現存している。
;[[ブーコレオン宮殿]]
:大宮殿の南、マルマラ海沿いにあった宮殿。一部の遺構が現存している。
;{{仮リンク|アスパルの貯水池|en|Cistern of Aspar}}
:[[459年]]に[[ゲルマン人]][[アスパル]]によって建造された露天[[貯水池]]<ref name="井上1998p111" /><ref name="南雲2018p171">[[#南雲2018|南雲2018]]、p.171。</ref>。コンスタンティノープルに建造された貯水池の中でも深さ10メートル、一辺152メートルの[[正方形]]と特に巨大<ref name="南雲2018p171" />。現在は貯水池としてではなく[[運動公園]]として利用されている。
== コンスタンティノープルを取り上げた文学作品 ==
* [[ウンベルト・エーコ]]『バウドリーノ 上・下』 堤康徳訳、[[岩波書店]]、2010年、ISBN 9784000244275&ISBN 9784000244282
* ジェイソン・グッドウィン『イスタンブールの群狼』 和爾桃子訳、[[早川書房]]〈[[ハヤカワ・ミステリ文庫]]〉、2008年、ISBN 9784151775017
* ジェイソン・グッドウィン『イスタンブールの毒蛇』 和爾桃子訳、早川書房〈ハヤカワ・ミステリ文庫〉、2009年、ISBN 9784151775024
* [[香山滋]]『月ぞ悪魔』 出版芸術社〈ミステリ名作館〉、1993年、ISBN 9784882930686
* [[塩野七生]]『コンスタンティノープルの陥落』 [[新潮社]]のち[[新潮文庫]]、1991年、ISBN 9784101181035
* [[橘外男]]『コンスタンチノープル』 中央公論社〈[[中公文庫]]〉、ISBN 9784122014046
* [[ピエール・ロティ]]『アジヤデ』 [[工藤庸子]]訳、[[新書館]]、2000年、ISBN 9784403270017
* [[ロバート・シルヴァーバーグ]] 『[[時間線を遡って]]』 [[中村保男]]訳、[[東京創元社]]〈[[創元SF文庫]]〉、1974年、ISBN 9784488649012
* [[ジャン・プシハリ]] 『嫉妬 -パリ、イスタンブルのギリシア人』 神条広希訳、京緑社、2021年、ISBN 978-4909727268
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=A.H.M.ジョーンズ|authorlink=A.H.M.ジョーンズ|translator=[[戸田聡]]|year=2008|title=ヨーロッパの改宗 コンスタンティヌス〈大帝〉の生涯|publisher=[[教文館]]|isbn=9784764272842|ref=ジョーンズ2008}}
* {{Cite book|和書|author=ベルトラン・ランソン|authorlink=:fr:Bertrand Lançon|translator=[[大清水裕]]|year=2012|title=コンスタンティヌス -その生涯と治世|publisher=白水社|isbn=9784560509678|ref=ランソン2012}}
* {{Cite book|和書|author=井上浩一|authorlink=井上浩一 (歴史学者)|year=2008|title=生き残った帝国ビザンティン|publisher=[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉|isbn=9784061598669|ref=井上2008}}
* {{Cite book|和書|author=井上浩一|editor=樺山紘一|editor-link=樺山紘一|year=1998|chapter=都市コンスタンティノープル|title=世界歴史7 ヨーロッパの誕生|series=[[岩波講座]]|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4000108271|ref=井上1998}}
* {{Cite book|和書|author1=小川英雄|authorlink1=小川英雄|author2=山本由美子|authorlink2=山本由美子 (歴史学者)||year=2009|title=世界の歴史4 オリエント世界の発展|publisher=[[中央公論社]]|isbn=9784122052536|ref=世界の歴史4}}
* {{Cite book|和書|author=尚樹啓太郎|authorlink=尚樹啓太郎|title=ビザンツ帝国史|publisher=東海大学出版会|date=1999年|isbn=9784486014317|ref=尚樹1999}}
* {{Cite book|和書|author=南雲泰輔|authorlink=南雲泰輔|editor=南川高志|year=2018|chapter=ビザンツ的世界秩序の形成|title=378年 失われた古代帝国の秩序|publisher=[[山川出版社]]|isbn=9784634445024|ref=南雲2018}}
* {{Cite book|和書|author=根津由喜夫|authorlink=根津由喜夫|title=ビザンツの国家と社会|publisher=[[山川出版社]]|year=2008|isbn=9784634349421|ref=根津2008}}
* {{Cite book|和書|author=南川高志|authorlink=南川高志|year=2015|title=ユリアヌス 逸脱のローマ皇帝|publisher=[[山川出版社]]|isbn=9784634350083|ref=南川2015}}
{{参照方法|date=2016年10月|section=1}}
* [[ジョナサン・フィリップス]]『第四の十字軍 コンスタンティノポリス略奪の真実』野中邦子・中島由華訳、中央公論新社〈INSIDE HISTORIES〉、2007年、ISBN 9784120037917
* [[ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン]]『コンスタンチノープル征服記 第四回十字軍』伊藤敏樹訳、講談社〈講談社学術文庫〉2003年、ISBN 9784061596092
* ジョン・フリーリ『イスタンブール 三つの顔をもつ帝都』鈴木薫監修、長縄忠訳、NTT出版、2005年、ISBN 9784757140660
* [[スティーヴン・ランシマン]]『[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープル陥落す]]』新装版、[[護雅夫]]訳、[[みすず書房]]、1998年、ISBN 9784622049302
* ロベール・ド・クラリ『コンスタンチノープル遠征記 第四回十字軍』伊藤敏樹訳、[[筑摩書房]]、1995年、ISBN 9784480857071
* [[浅野和生 (考古学者)|浅野和生]]『イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国』[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2003年、ISBN 9784121016843
* 井上浩一・粟生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』[[中央公論社]]〈世界の歴史〉、1998年、ISBN 9784124034110
* [[今谷明]]『「王権と都市」を歩く 京都からコンスタンティノープルへ』[[NTT出版]]、2004年、ISBN 9784757140615
* [[陳舜臣]]『イスタンブール 世界の都市の物語』[[文藝春秋]]〈[[文春文庫]]〉、1998年、ISBN 9784167150167
* [[尚樹啓太郎]]『コンスタンティノープルを歩く』[[東海大学出版会]]、1988年、ISBN 9784486010203
* 長場紘『イスタンブール 歴史と現代の光と影』[[慶應義塾大学出版会]]、2005年、ISBN 9784766411959
* 野中恵子『寛容なる都 コンスタンティノープルとイスタンブール』[[春秋社]]、2008年、ISBN 9784393332870
* 橋口倫介『中世のコンスタンティノープル』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年、ISBN 9784061591806
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Constantinople}}
* [[イスタンブール歴史地域]]
* [[コンスタンティノープルの陥落]]
* [[コンスタンティノポリス公会議]]
* [[聖ゲオルギオス大聖堂]] - ハギア・ソフィア大聖堂がモスクに改修されたのちの17世紀に、[[コンスタンティノープル総主教庁]]の座所となった[[大聖堂]]。
* [[第4回十字軍]]
* [[ニカの乱]]
* [[東ローマ帝国]]
== 外部リンク ==
* [http://www.byzantium1200.com/ Byzantium1200]{{en icon}} - 1200年頃のコンスタンティノープルの建造物をCGで再現している。
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:こんすたんていのおふる}}
[[Category:コンスタンティノープル|*]]
[[Category:古代ギリシア都市]]
[[Category:トルコのローマ都市]]
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[[Category:イスタンブールの歴史]]
[[Category:コンスタンティヌス1世]] | 2003-05-21T23:37:54Z | 2023-11-22T06:57:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB |
8,992 | 東ローマ帝国 | 東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には西暦395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。
5世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようになり、西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。
同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった。
ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく、正式な国名および国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων, ラテン文字転写: Politeia tōn Rhōmaiōn; ポリティア・トン・ロメオン)」であった。中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地(Ῥωμανία, Rhōmania, ロマニア)」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人(Ἕλληνες, Hellēnes, エリネス)」ではなく「ローマ人(Ῥωμαίοι, Rhōmaioi, ロメイ)」を称していた。
西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一された。帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシア化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシア人」へと変化していった。
初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、ユスティニアヌス一世代には旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有し、ローマ時代の「我らの海」こと地中海の再支配すら成し遂げている。しかし、その没後には破綻した国家財政、征服と疫病で荒廃した国土だけが残され、長大な国境線を維持できず、ランゴバルド人、サーサーン朝ペルシア、アヴァール人、スラヴ人、イスラム帝国により国土を侵食された。これらの外圧に対抗するため軍事費、特にテマへの俸給が国家支出の大部分を占め、そのテマも費用削減のため農民兵士が主体であったため士気が高い代わりに自立化していき、ビザンツはテマの連合国家と化した。
西欧に対する影響力は減衰の一途を辿った。8世紀末には偶像崇拝に関する問題でローマ教皇と対立し、800年のカールの戴冠で東ローマによる宗主権すらも否認された。
領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。住民の多くがギリシア系となり、620年には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。
9世紀にはアッバース朝との戦争も落ち着いて、ニケフォロス一世による徴税強化や商業活性化で回復させた財政を背景に、テマ長官から皇帝に権力を取り返す試みが功を奏してくる。高級官僚やテマの高官は貴族化していたが、「皇帝の奴隷」と称されるように皇帝はそれを抑え込み、バシレイオス2世に代表されるビザンツ専制君主となった。11世紀前半にバシレイオス2世はブルガール人を打ち破り、バルカン半島やアナトリア半島東部、南イタリアを奪還し、東地中海の大帝国として栄えた。
バシレイオス2世の死後、ビザンツ帝国は徐々に衰退していった。バシレイオス2世の後継者問題に続く内乱期とそれにかこつけたプロノイアを保持する貴族の自立は、国家財政を一気に破綻に追い込んだ。ノルマン人によって南イタリアを、セルジューク朝によって東部アナトリアを失った。
12世紀にはブルガリア、セルビアなどバルカン半島のスラヴ人農民たちは、プロノイアを保持していた貴族反乱らに迎合して独立していく。さらに第4回十字軍がとどめを刺し、東ローマ帝位はラテン帝国に奪われ、ビザンツ帝国は一旦滅亡する。
第4回十字軍以後、ラテン帝国も崩壊し、ビザンツ亡命政権と十字軍国家とルーム・セルジューク朝で旧ビザンツ世界はバラバラとなった。その後、モンゴル帝国の圧迫に乗じ、亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還し十字軍勢力を駆逐するが、スラヴ国家の侵略と帝位請求の内乱に悩まされ続けた。パライオロゴス朝ルネサンスなど文化的な興隆を見ながら、領土は次々と縮小し、隣国のオスマン帝国の保護下に落ちていった。この頃のビザンツ帝国の自称はローマ人から移り変わり、古代ギリシャ人の末裔としてヘレネスを名乗り出している。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。
古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシアだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。
この帝国(およびその類似概念)は、いくつかの名称で呼ばれている。
東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。ただし、いつからいつまでを東ローマ帝国あるいはビザンツ帝国の歴史として扱うかについては何通りもの考え方があり定説はない。本記事で東ローマ帝国の歴史として扱っている歴史の範囲ですら、単一の帝国史であるのか異なる複数の帝国史の合成であるのかについては、連続説と断絶説とに分かれて長らく議論が続けられている。
いつからを東ローマ帝国の歴史とするかについては、たとえば主なものとして下記に挙げる考え方がある。
第一には、ディオクレティアヌスが皇帝権を分割し、東方にもローマ皇帝(東ローマ皇帝)が誕生して以降の東ローマ皇帝の歴史を東ローマ帝国の歴史と同一視する考え方がある。例えば歴史家の尚樹啓太郎は、著書『ビザンツ帝国史』の序説をディオクレティアヌス期の解説にあて、『ビザンツ帝国史年表』をディオクレティアヌスが即位した284年より始めている。ただし、ディオクレティアヌスのテトラルキアは、首都ローマを防衛するために4人の皇帝が首都ローマを離れて4か所の前線に留まるという職務の分担体制であり、地理的な分割は想定されていなかった。
次に、コンスタンティヌス1世がコンスタンティノポリスを建設した330年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。コンスタンティヌス1世は、古代ローマの元老院とは異なる元老院をコンスタンティノポリスに建設することでローマ帝国から政治的に独立し、東方の地にオリエント的な「ローマ皇帝の帝国」(東ローマ帝国)を建国したと解釈され、6世紀以降の東ローマ帝国の人々も、この330年を自分たちの国の建国年と考えていた。著名なビザンツ史学者ゲオルク・オストロゴルスキーは、ビザンツ帝国とは7世紀に誕生した新興帝国であって7世紀初頭に滅亡した東ローマ帝国とは異なる帝国であるとする断絶説を唱えているが、その著書『ビザンツ帝国史』はテトラルキアの内戦(英語版)が終結した324年から書き始めている。ただし、建設された当時のコンスタンティノポリスには執政官、法務官、護民官、財務官、首都長官といった首都機能は整備されておらず、帝国の首都機能は依然としてローマに集中しており、コンスタンティヌス1世の後継者達もコンスタンティノポリスに常住したわけではなかった。330年の時点ではコンスタンティノポリスは帝国の一地方都市の域を出ておらず、コンスタンティノポリスが新帝国の首都となるという認識は同時代にはなかったようである。今日の歴史学では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている。
次に、ウァレンティニアヌス1世が皇帝権の東西分割を行った364年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。唯一の正帝となったウァレンティニアヌス1世は、364年に弟ウァレンスを東方正帝として指名し、帝国の東西分担統治を開始した。東方正帝とされたウァレンスの即位10周年式典は、首都ローマではなくウァレンスが拠点としていたアンティオキア市で開催された。後述するテオドシウス朝の分担統治も制度上はウァレンティニアヌスが開始した分担統治をそのまま引き継いだものであり、帝権分割の視点から言えば364年こそが帝国にとって重要な転換点であったとされる。フランスの古代史家アンドレ・ピガニオル(フランス語版)は、この時代に初めて「帝国のあらゆる資源」が分割され、帝国東部がローマ帝国本土から明瞭に切り離されたのだとしている。しかしウァレンティニアヌス朝の時代には、テトラルキアやコンスタンティヌス朝の時代あるいは後のテオドシウス朝の時代と比べると東西宮廷の関係は極めて良好であり、全帝国に跨がるような軍事行動も活発だった。例えば378年にハドリアノポリスの戦いで東帝ウァレンスが戦死した後に東方領土を再興したのも、西帝グラティアヌスによって派遣されたテオドシウス、リコメル、バウト、アルボガストといった西側の将軍たちだった。
次に、テオドシウス1世が自身の死に際して彼の二人の息子達(アルカディウスとホノリウス)に帝国の半分ずつを分担統治させた395年をもって東ローマ帝国の始まりとする考え方があり、本記事もこの考え方に基づいて執筆されている。ただしテオドシウスは前述のコンスタンティヌス1世やウァレンティニアヌス1世のように「唯一の正帝」になったことはなく、制度上はテオドシウスの代に何らかの統一や分割が行われたわけではなかった。テオドシウスの死後も帝国の東西は同一の執政官の下で運営され、法律は東西皇帝の連名で発布された。また、アルカディウスとホノリウスの地位あるいはテオドシウス自身の地位もウァレンティニアヌスが開始した分治制度によったものであり、東西いずれかの皇帝が没した際には、その後継者が指名されるまでは残り一方の存命の皇帝が東西の両地域を統治することとされていた。これらの理由から20世紀以降の歴史学では、アルカディウスとホノリウスによる分割相続には何ら新しい意味合いはなく、それは過去に幾度となく行われてきた単なる分治の一つにすぎないとの評価をされることが多い。一方で、結果としてみるならば、テオドシウスからアルカディウスへの帝位継承による王朝理念の具現が、東地域に西地域とは異なる歴史を歩ませることになったのだとする評価もある。特に、テオドシウス1世が東方領土を次男ホノリウスにではなく長男アルカディウスに担当させたことは幾分かは帝国の未来を象徴する出来事でもあった。なぜならそれまでは、たとえ法的には東西両帝が同格とされていたにしても意識の上では西方の皇帝が東方の皇帝よりも格上であるという認識が依然として強かったからである。コンスタンティヌス1世は二人の妻の長男をともに西方の副帝として指名していたし、東方担当とされたコンスタンティウス2世も唯一の正帝となった後には西方のメディオラヌムを拠点とした。ウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟でも西方を確保したのは兄のウァレンティニアヌスであったし、テオドシウスに仕えた将軍アルボガストもテオドシウス1世の二人の息子のうち西方の皇帝になるのは長男のアルカディウスであろうと考えていた。そのような時代にあって西方領土の最も辺境の地から登場してきたテオドシウス1世は、長男アルカディウスを東方担当の皇帝とすることによって疑うべくもなく東方領土に優位を与えているのである。
より遅い年代としては602年から610年にかけてのローマ帝国による東方支配の終焉や800年のカール大帝の戴冠による帝国の「分裂」を始点とする説もある。特に前者の年代は古代末期論との親和性が高く、古代末期を扱う多くの書籍で採用されている。少なくとも当時の人々にとって、帝国が東西に分裂しているという認識は800年のカール戴冠以前には存在しなかったようである。
上記いずれの年代も何らかの意味では歴史の転換点とみなすことができ、またそれが他の年代を帝国史の始点とすることに対する反対論拠ともなっている。
378年、皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)で敗死。
390年、ゴート族Buthericusの逮捕のために、テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。en:List of massacres in Greeceを参照。)
本項では、ローマ帝国の東西両地域を実質的に単独支配した最後の皇帝となったテオドシウス1世が、395年の死に際し、長男アルカディウスに帝国の東半分を、次男ホノリウスに西半分を分担させた時点をもって「東ローマ帝国」の始まりとする。
皇帝テオドシウス2世(401年 - 450年)は、パンノニアに本拠地を置いたフン族の王アッティラにたびたび貢納を強いられた。それに対抗する手段の一つとして、首都コンスタンティノポリスを囲うコンスタンティヌスの城壁を拡張し(テオドシウスの城壁)て堅固な防備を敷いた。また431年にはエフェソス公会議を開き、コンスタンティノポリス総主教であったネストリウスを筆頭に主張するネストリウス派を異端としてキリスト教解釈の論争の解決を試みた。政治面では、312年以降のローマ皇帝の発した勅法集であるテオドシウス法典を編纂し帝国全土(西ローマ帝国内含む)に発布した。
皇帝マルキアヌス(450年 - 457年)は、451年にカルケドン公会議を開催し、449年のエフェソス強盗会議以来問題となっていたエウテュケス(英語版)の唱えるエウテュケス主義(英語版)を、当時教皇であったレオ1世の意見を考慮して異端とするとともに、単性説やネストリウス派を改めて異端としてニカイア信条を強調し、ローマ教会との対立を避けた。453年にアッティラが急死するとフン族は急速に弱体化し、フン族への献金を打ち切った。
マルキアヌスが急死すると、皇帝にはトラキア人のレオ1世(457年 - 474年)が据えられたが、アラン人のパトリキでマギステル・ミリトゥムだったアスパルの傀儡であった。しかし、471年にアスパル父子を殺害して実権を得ることに成功した。
西ローマ帝国での皇帝権はゲルマン人の侵入で急速に弱体化していく。476年に東ゲルマン族(英語版)のスキリア族のオドアケルは西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝ゼノン(474年 - 491年)に帝位を返上した。東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて古代後期時点でのローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝となった。オドアケルは東ローマ皇帝の宗主権を認めてローマ帝国内のイタリ領主として任命され、皇帝の代官としてローマ帝国の本土であるイタリア半島を支配した。
西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は
ことなどが挙げられる。
しかし488年にイタリアの統治方針についてゼノンとイタリア領主オドアケルが対立したことがきっかけとなり、東ローマ皇帝ゼノンがオドアケル追討を命じた。489年に東ゴート族のテオドリックがイタリア侵攻を開始した。491年、皇帝ゼノンが急死し、皇后アリアドネはアナスタシウス1世(491年 - 518年)と結婚して皇帝に据え、混乱を防いだ。493年にオドアケルは暗殺され、テオドリックがイタリアの総督および道長官に任命された。テオドリックは497年にアナスタシウス1世よりイタリア王を名乗ることが許され、ここに東ゴート王国(497年-553年)が成立した。ただし東ゴート王国の宗主権はものとされ、民政は引き続き西ローマ帝国政府が運営し、立法権は東ローマ皇帝が行使した。
アナスタシウス1世の下で東ローマ帝国は力を蓄えたが、その一方で、単性論寄りの宗教政策によってカトリック教会と対立が再び表面化した。502年のアナスタシア戦争が長きに渡るサーサーン朝とのビザンチン・サーサーン戦争(英語版)の発端となった。アナスタシウス1世が急死すると、次のユスティヌス1世(518年 - 527年)はローマ教皇との関係修復に腐心することになった。
6世紀のユスティニアヌス1世(527年 - 565年)の時代には、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊した。一方、名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、533年のアド・デキムムの戦いでヴァンダル族を破ってカルタゴを奪還すると、ヴァンダル戦争(533年 - 534年)で地中海沿岸の大半を再統一することに成功した。特にこの時期、442年(455年)以来東ゴート人に占領されていた旧都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。528年にトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、後世に残る文化事業も成したが、529年にはギリシアの多神教を弾圧し、プラトン以来続いていたアテネのアカデメイアを閉鎖に追い込み、数多くの学者がサーサーン朝に移住していった。
535年のインドネシアのクラカタウ大噴火の影響で535年から536年の異常気象現象(英語版)に見舞われた。イタリア半島においてはゴート戦争(535年 – 554年)が始まる。543年、黒死病(ユスティニアヌスのペスト(英語版))。ラジカ王国(英語版)をめぐるサーサーン朝ペルシアとの抗争(ラジカ戦争(英語版))で手がまわらなくなると、スラヴ人(542年)・アヴァール(557年)などの侵入に悩まされた。546年に東ゴート軍は、イサウリア人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時のローマ略奪と重税によって、いわゆる「ローマの元老院と市民」(SPQR)が崩壊し、古代ローマはこの時滅亡したのだと主張する学者もいる。552年にナルセス将軍が派遣され、ブスタ・ガロールムの戦い(ギリシア語: Μάχη των Βουσταγαλλώρων、Battle of Busta Gallorum、タギナエの戦い/イタリア語: Battaglia di Tagina, 英語: Battle of Taginae)でトーティラを敗死させ、東ゴートは滅亡した。翌年、イタリア半島は平定された。
565年にユスティニアヌス1世が没すると、568年にはアルプス山脈を越えて南下したゲルマン系ランゴバルド人によってランゴバルド王国が北イタリアに建国された。558年、突厥の西面(現イリ)の室点蜜はサーサーン朝のホスロー1世との連合軍でエフタルを攻撃し、567年頃に室点蜜はエフタルを滅ぼした。その後、室点蜜とホスロー1世の関係が悪化し、568年に室点蜜からの使者が東ローマ帝国を訪れた。572年から始まったビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)(英語版)で、東ローマ帝国もサーサーン朝に対抗する同盟相手を求めていたため、576年に達頭可汗にサーサーン朝を挟撃することを提案した。588年、第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版)でサーサーン朝を挟撃した。598年、達頭可汗がエフタルとアヴァール征服を東ローマ帝国の皇帝マウリキウスに報告した。602年に軍閥フォカスが政変が引き起こし、首都に入城して皇帝マウリキウスとその一族を皆殺しにした上で帝位についた。
東ローマ帝国の内乱に際して、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った(サーサーン朝のエジプト征服(英語版))。フォカスは、簒奪の汚名を打ち消す目的も兼ねてサーサーン朝ペルシアへ侵攻した(東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年))。
608年にカルタゴのアフリカ総督(英語版)大ヘラクレイオス(英語版)が反乱を起こし、610年にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子のヘラクレイオス(イラクリオス/在位:610年 - 641年)が皇帝に即位した。ヘラクレイオスは、西突厥の二度にわたる戦争(第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)、第三次ペルソ・テュルク戦争)に助けられ、シリア・エジプトへ侵攻した(英語版)サーサーン朝ペルシアをニネヴェの戦い (627年)で破るなどして東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)に勝利し、領土を奪回することに成功した。627年にハザールを主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、628年に統葉護可汗が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。
東ローマ領内では既に4世紀からラテン語の重要性は次第に低下しつつあり、ギリシア語が徐々に事実上の公用語へと変わっていた。それでもなおラテン語は「ローマ人の言語」としてその重要性の維持が試みられもしたが、5世紀中には文官たちにとってラテン語の習得はもはや必要なものではなくなっていた。軍はラテン語の伝統を最も長く保持し、6世紀に至るまで公式の行政文書をラテン語で書いたが、全体として東ローマ帝国領内におけるラテン語使用が時間と共に低迷する潮流は変わらなかった。ヘラクレイオスはこの変化を公式に認め、620年にはギリシア語が公用語であることを承認した。また、ヘラクレイオスはサーサーン朝に対する勝利の後、古くから蛮族の王を指す通用的な用語であった「バシレウス(Βασιλεύς, ヴァシレフス)」を公式儀礼用語として使用するようになった。この言葉はラテン語の"rex"に対応し、以降帝国の滅亡まで用いられた。古くからのローマ的称号であるアウグストゥス(アウグストス)も公式儀礼用語として使用され続けたが、その場合でも「信者ヴァシレフス」が必ず付された。
サーサーン朝への攻撃を開始したイスラム帝国(正統カリフ)は、カーディスィーヤの戦いでメソポタミアからサーサーン朝を駆逐して間もなく、東ローマ領のシリア地方へも侵攻した。636年にヤルムークの戦いで東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失った。641年、ヘラクレイオスが死亡すると、コンスタンティノス3世とヘラクロナスとの間で後継者問題が起き、コンスタンス2世が即位して落ち着いた。東ローマ軍は、655年にアナトリア南岸のリュキア沖での海戦(マストの戦い(英語版))でイスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海の制海権も失った。
656年、イスラム帝国内で第三代カリフのウスマーンが暗殺され、第一次内乱(英語版)(656年 - 661年)が始まる。661年、ウマイヤ朝が成立。
674年から678年までのコンスタンティノポリス包囲戦では、連年イスラム海軍(ウマイヤ朝)に包囲され、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされたが、難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功した。680年にはオングロスの戦いでテュルク系ブルガール人に破れ、681年の講和で北方に第一次ブルガリア帝国が建国された(ブルガリア・東ローマ戦争、680年 - 1355年)。698年、カルタゴの戦い(英語版)ではイスラム軍(ウマイヤ朝)に敗れ、カルタゴを占領されてカイラワーンに拠点を構築された。その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部、南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)に縮小した。
717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年にイスラム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退(第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。しかし、宗教的には726年にレオーン3世が始めた聖像破壊運動などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は後にフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化した。
女帝エイレーネー(イリニ)治下の800年、ローマ教皇がフランク王カール1世(カール大帝)に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、802年10月31日のクーデターでニケフォロス1世が即位し、803年にパクス・ニケフォリ(英語版)を締結したが、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。
イスラム軍(アッバース朝)とは、804年のクラソスの戦い、806年のアッバース朝軍の小アジアへの侵攻で戦火を交えたが敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んだ。811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻したが、撤退時のプリスカの戦い(英: Battle of Pliska、ブルガリア語:Битка при Върбишкия проход - バルビツィア峠の戦い)で皇帝ニケフォロス1世が戦死し、後継者問題が起こった。ミカエル1世ランガベーが皇帝に即位し、対立していたフランク王国と妥協し、カール大帝の皇帝就任を承認。813年にヴェルシニキアの戦いで再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、レオーン5世への譲位を余儀なくされた。814年に第一次ブルガリア帝国のクルムが死去すると、オムルタグと30年不戦条約を結んだ。827年にアラブ人(アッバース朝支配下のアグラブ朝)がシチリア島へ侵攻し(ムスリムのシチリア征服(イタリア語版、英語版)、827年-902年)、シチリア首長国(831年 - 1072年)が成立。902年にイブラーヒーム2世がタオルミーナを攻略してシチリア島の征服が完了した。
こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、バルカン半島沿岸部とアナトリアを支配し、ギリシア人・正教会・ギリシア文化を中心とする国家となった。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。
9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(867年 - 1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。一方、東ローマ皇帝とローマ教皇の対立はフィリオクェ問題をきっかけとして再び顕在化した。867年、アモリア王朝最後の皇帝となるミカエル3世(在位:838年-867年)主宰の教会会議がローマ教皇ニコラウス1世を破門するに至った「フォティオスの分離(英語版)」などによって、東西両教会の亀裂が深まり、事実上分裂する事となった。。
政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともある。
10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。
1011年、西からノルマン人の攻撃を受けた(ノルマン・東ローマ戦争、1011年 - 1185年)。 しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると、その後は政治的混乱が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発した。1040年にはブルガリア (テマ制)(英語版)でen:Peter Delyanの反乱が起こり、ピレウスも呼応して蜂起した。
1055年、セルジューク・東ローマ戦争が始まり、1071年にはマラズギルト(マンジケルト)の戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたため、東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小した。小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、ノルマン人のルッジェーロ2世には南イタリアを奪われた。
1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年 - 1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請し、トルコ人からの領土奪回を図った。
アレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。
ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年 - 1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。特にイタリア遠征、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗した。犠牲者のほとんどはアンティオキア公国の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。
1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世を廃して帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:1185年 - 1195年)も、セルビア王国(1171年)・第二次ブルガリア帝国(1185年)といったスラヴ諸民族が帝国に反旗を翻して独立し、また地方に対する中央政府の統制力が低下する中で、有効な対策は打てずにいた。
十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権を建てて抵抗することとなった。
第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)だった。ニカイア帝国は初代のテオドロス1世ラスカリス(在位:1205年 - 1222年)、2代目のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス(在位:1222年 - 1254年)の賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。
周辺国では、1223年のカルカ河畔の戦い以来、モンゴル帝国による東欧侵蝕(チンギス・カンの西征、モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版))が始まり、1242年にはジョチ・ウルスがキプチャク草原に成立し、1243年のキョセ・ダグの戦いでルーム・セルジューク朝がモンゴル帝国(1258年にイルハン朝に分裂)の属国化し、1245年のヤロスラヴの戦い(ウクライナ語版、ロシア語版、ポーランド語版)ではハールィチ・ヴォルィーニ大公国がジョチ・ウルスの属国化した。
3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリス(在位:1254年 - 1258年)の死後、摂政、ついで共同皇帝としてミカエル8世パレオロゴス(在位:1261年 - 1282年)が実権を握った。1259年9月、ペラゴニアの戦いで、アカイア公国・エピロス専制侯国・シチリア王国の連合国軍をニカイア帝国(東ローマ亡命政権)軍が破り、1261年にはコンスタンティノポリスを奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、最後にして最長の王朝パレオロゴス王朝(1261年 - 1453年)を開いた。
フレグの西征で1258年にはイルハン朝がイラン高原に成立していた。さらに1260年にモンケが没して帝位継承戦争が勃発し、1262年11月にはベルケ・フレグ戦争(英語版)でジョチ・ウルスとイルハン朝の争いが始まる中、東ローマ帝国はジョチ・ウルスと直接接触することになった。
1265年に、ノガイ・ハーン率いるジョチ・ウルス軍がトラキアに侵攻し、ミカエル8世パレオロゴスの軍は敗北し、ジョチ・ウルスと同盟することになった。その後も1271年、1274年、1282年、1285年にモンゴル軍はヴォルガ・ブルガールに侵攻していた。
1277年に第二次ブルガリア帝国でイヴァイロの蜂起が起こり、ミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し、1285年に第二次ブルガリア帝国はジョチ・ウルスに従属した。この間の1282年に、テッサリアで反乱が起こり、ノガイ・ハーンはトラキアへミカエル8世への援軍を送ったが、ミカエル8世は病気になり急死した。ミカエル8世の息子・アンドロニコス2世パレオロゴスは、援軍をブルガリアと同盟するセルビア王国攻撃に用いた。1286年に、セルビア王国のステファン・ウロシュ2世ミルティンが講和を申し入れた。
アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:1282年 - 1328年)の時代以降、軍事的な圧力が強まる中で1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無く、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済もヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなくなった。そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に攻撃された。
1352年に東からオスマン帝国のオルハンに攻撃されてブルサを奪取され(東ローマ内戦 (1352年 - 1357年))、1352年には領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の共同皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年 - 1391年)とヨハネス6世カンタクゼノス(在位:1347年 - 1354年)は、1354年のガリポリ陥落でオスマン帝国スルタンのオルハンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。
1380年のクリコヴォの戦いで急速に国力を増大したモスクワ大公国がジョチ・ウルスを破り、周辺国でも激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡後に、モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになる。
14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)は、窮状を打開しようとフランスやイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1449年 - 1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。
この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネサンスに多大な影響を与えた。
1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。ハンガリー人のウルバン (Orban) が開発したオスマン帝国の新兵器「ウルバン砲」による砲撃に曝され、絶対的に不利な状況下、東ローマ側は守備兵7千で2か月近くにわたり抵抗を続けた。5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落、皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになる。通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり・近世の始まりとする学説が多い。同年には百年戦争が終結し、この戦いを通じてイギリス(イングランド王国)とフランス(フランス王国)は王権伸長による中央集権化および絶対君主制への移行が進むなど、西ヨーロッパでも大きな体制の変化があった。
1460年にはペロポネソス半島の自治領土モレアス専制公領が、1461年には黒海沿岸のトレビゾンド帝国がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。
なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世やスレイマン1世などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。また、1467年にイヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾイ・パレオロギナを妻とし、ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、モスクワ大公国のイヴァン4世などや歴代のロシア(ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国)指導者はローマ帝国の継承性を主張している。
6世紀になると330年5月11日が特別な記念日とされ、「ローマを嫌ったコンスタンティヌスがローマの支配から独立した新しい帝国を創った」とする建国神話が創造された。9世紀になるとそれまで勅令等で使われていなかった「ローマ皇帝」といった称号が法令等の文書でも年代記等の編纂文献でも頻繁に用いるようになった。自らがローマ帝国であることを示すために形式的にではあるが古代ローマ時代の伝統の復興も試みられ、例えば9世紀末までには「市民」を意味するデーモスという名の官職が創り出され、「市民」という官職名の「役人」による「市民による歓呼」の模倣という奇妙な儀式が行われるようになった。10世紀には皇帝コンスタンティノス7世の下で『儀式の書』が記され、ビザンツ帝国の宮廷儀式が整備された。他にも帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わったことを「父祖の言葉を棄てた」と批判した『テマについて』や、「皇帝の権力は民衆・元老院・軍隊の三つの要素に拠る」と記したミカエル・プセルロスの『年代記』など、古代ローマとの連続性をほのめかす著作の多くが10世紀から12世紀の間に作成された。ところが13世紀になると今度は自分たちの起源を古代ギリシアに求めるようになり、住民の自称も「ローマ人」から「イリネス(ギリシア人)」へと変化していった。このように、この帝国では全てが流動的であった。こうした変化に対応する柔軟性を持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる。
西方領土と東方領土とでは「ローマ帝国」に対する認識は微妙に異なるものであった。政治的・法的・文化的それぞれの側面で異なっていた。法的にはローマ法を受け継ぎ、「コンスタンティノープルの皇帝は、ローマ皇帝の唯一の法的に正統な継承者であると自任し」、「『ローマ法大全』は、九世紀にはギリシア語版『バシリカ法典』として再編されて、ずっと国家の基本法であり続け」、「哲学・歴史学・文学の重要な作品はビザンツ帝国において書き継がれ」、「自分たちはギリシア古典、ローマ法の世界に生きているとビザンツ人は考えていた」。一方、政治体制についての認識はこれとは大分異なっていた。西ヨーロッパではローマ帝国はロームルスのローマ建設神話から王政・共和政と変化してきたローマ共同体の政治史の一部だったが、一方の東ローマ帝国においてはカエサル以前のローマ共同体を自分たちの歴史の一部であるとする意識は薄かった。東ローマ帝国におけるローマ帝国とは旧約聖書の『ダニエル書』に見られる帝国交替史に基づいたもので、それはバビロニア帝国・ペルシア帝国・アレクサンドロス帝国から受け継いだ「文明世界を支配する帝国」「キリストによる最後の審判まで続く地上最後の帝国」としての存在だった。ビザンツ人にとってみれば、カエサル以前のローマ帝国よりはペルシア帝国の方が自分たちとつながりのある世界だったのである。自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、世界創造紀元の使用にも現れている。
ビザンツ皇帝はローマ皇帝に起源を持ちつつもローマ皇帝とは異なる存在(専制君主)である。「すべての人間は皇帝の奴隷である」という言葉に象徴されるように、ビザンツ皇帝は絶対的な主権者だった。ビザンツ帝国では、市民は国家に奉仕するのではなく、皇帝に奉仕するものとなった。古代ローマでは市民の果たす役割は財産に応じた階級に託されていた(エヴェルジェティスムや公職者就任の財産制限)が、今や役割がそれを果たす人の階級を決めることになった。それは古代ローマとは反対の制度だった。
ビザンツ皇帝理念が形成されたのは主に5世紀半ばから7世紀初頭にかけてである。「「軍人皇帝時代」もちろん、330年のコンスタンティノープル遷都以降も、皇帝歓呼の中心は軍隊で」「皇帝歓呼は軍隊の駐屯地で行われることが多く、コンスタンティノープル西方のヘブドモン軍事基地などが、即位式の主要な舞台であった」が、「五世紀の後半になると、元老院・民衆の歓呼が重要性を増し、即位式の舞台もコンスタンティノープル競馬場に移った」。一方同じ5世紀の半ばにコンスタンティノープル総主教による戴冠の儀式が行われるようになり、「徐々にローマ時代から伝わる戴冠の方法を完全に押しのけ、中世では、これが最終的に戴冠式の本質的部分となった」。就任に際してコンスタンティノープル総主教によって戴冠された最初の皇帝は5世紀のレオ1世であると考えられている。そこにはローマから正当なローマ皇帝として承認されなかったレオ1世の即位を神の意志による選択として正当化しようとする思惑があったと考えられるが、その結果として皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった。7世紀になると皇帝歓呼の場所は競馬場から宮殿・聖ソフィア教会へ移るが、並行して皇帝自らが後継者を共同皇帝として戴冠するようになった。 6世紀のユスティニアヌス1世は専制君主制へと大きな一歩を踏み出した。ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、「自らの地位を諸法に超越するものとし」、「その結果、皇帝は、諸法を超越しながらも、自発的に諸法に従うことになった」。。ユスティニアヌス1世は自らを「主人」と呼ばせ、元老院議員へも跪拝(プロスキュネーシス(英語版))を要求した。かつては市民によって信任された公職者であった皇帝が3万人の市民を虐殺したニカの乱の惨たらしい結末がユスティニアヌス1世という皇帝を象徴している。ユスティニアヌス1世によって古代の民主政治の伝統は最終的に否定され、ビザンティン専制国家への道が開かれた。古代民主政治の中から産まれたローマ皇帝権力は、その母斑をついに消し去ったのである。血塗られた彼の帝衣は、まさに古代ローマ皇帝の死装束であった。
7世紀には、もう一つ皇帝像の変化があった。「戦う皇帝」から「平和の皇帝」への転換である。古代ローマや中世西欧では、ローマ皇帝は武装した軍人として描かれ、軍司令官としての性質が強調された。一方の東ローマ帝国では、7世紀の皇帝ヘラクレイオスを最後に古代ローマ式の征服称号が用いられなくなった。ヘラクレイオスは皇帝称号に「平和者」という語を含めたが、このキーワードが9世紀までにはビザンツ皇帝称号の重要な部分となり、皇帝とは平和を好む敬虔な人物であるべきという考えが定着することになる。
東ローマ帝国は、古代ローマ帝国の帝政後期以降の皇帝(ドミヌス)による専制君主制(ドミナートゥス)を受け継いだ 7世紀以降の皇帝(バシレウス/ヴァシレフス)は「神の恩寵によって」帝位に就いた「地上における神の代理人」「諸王の王」とされ、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。
しかし、皇帝の地位自体は不安定で、たびたびクーデターが起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。
このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、宦官の役割が非常に大きく、コンスタンティノポリス総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあったフォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。
地方では、初期は古代ローマ後期の属州制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握るテマ制(軍管区制)と呼ばれる体制になった。
テマ制は、自弁で武装を用意できるストラティオティスと呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができた。ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、定着したスラヴ人なども積極的に編成された。ストラティオティスは屯田兵でもあり、バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれている。彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われる。
テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、スラヴ人やペルシア人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。
8世紀後半以降、外敵の大規模な侵入が減り、次第に商業が活性化していくと、それにつれてテマ農民兵士の貧富の格差が増大し、中小自由農民層の没落・貧困化が進行した。安定期となったマケドニア朝の時代に大土地所有の傾向がはっきりと現れるようになり、10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的な大土地所有者が確認できる。
ストラティオティス層は法律により土地の譲渡が禁じられていたため、まだ影響は少なかったが、レオーン6世の態度が大土地所有の傾向を確実なものとした。晩年の「新勅法」によって、それまで土地を売った者の近隣者が6ヶ月以内に売った価格の同額を支払えば買い戻せるとした先買権を無効とした。ロマノス1世レカペノスの時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国に弊害をもたらしており、彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者の先買権を復活させ、さらに農村共同体に優先的に土地の譲渡をうける権利を定めた。また、不当な価格で取り引きされた土地については無償で返還されるものとされ、正当な取引であっても3年以内に売却価格の同額を支払えば土地を取り戻せるとした。しかしこれらの法律は守られなかった。なぜなら不当な購入をしていたのは地方のテマ長官や有力役人、その親族たちであったからだ。彼らによってロマノス1世の努力は骨抜きにされたのである。
同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向を助長した。マケドニア朝末期のバシレイオス2世は過去の不法な土地譲渡や皇帝の直筆でない有力者への土地贈与文書を無効とし、教会財産の制限をおこなった。これはかなりの効果を上げ、彼の軍事的成功もこの政策に恩恵によるところが大きかった。
この時代にストラティオティスを基盤とした軍制は崩壊した。帝国は計画的に軍事力を削減し、ストラティオティス層からは軍役を免除する代わりに納税を義務づけた。これにより帝国はノルマン人などの傭兵に軍事力を大きく依存することになった。以後テマは単なる行政単位となったが帝国滅亡まで存続した。テマ長官としてのドメスティコスは文官職に変化し急速に地位が低下した。
コムネノス朝の時代にはプロノイア制が実施された。かつては貴族に大土地所有や徴税権を認める代わりに軍務を提供させる制度であると考えられ、これが西欧のレーエン制に擬され、ゲオルク・オストロゴルスキーなどが主張したいわゆる「ビザンツ封建制」の要素と考えられていたが、今日ではこの説は基本的に否定されている。プロノイアは国家に功績のあった臣下に恩賜として基本的に一代限りで授与されるものであり、またプロノイアの設定された地域をその受領者が実際に統治したかどうか明確でない。したがって荘園のように囲い込まれて不輸不入の領主権が設定されたわけではない。
ニカイア帝国ではプロノイアは限定された地域に限られていて、ヨハネス3世はプロノイアの土地は国家の管理下にあるものとして、売買を固く禁じている。ミカエル8世はプロノイアの世襲を大規模に認めているが、これは例外措置であり世襲財産と同一視することを厳しく注意している。とはいえ、これらの事実は逆にプロノイアが帝国の意図に反して売買されたり世襲されたりすることがあったという証明であるともいえる。
軍制との関連性も明確でない。軍事奉仕を暗示するようなプロノイア贈与もおこなわれなかったわけではないが一般的ではない。プロノイア自体は必ずしも土地と結びつくわけではなく、漁業権であったり貧困農民層であるパリコスの労働使役権だったりするが、パリコスは法的には完全な自由民であった。
プロノイアは女性や教会や一団の兵士などの団体に贈与されることもあった。そのためプロノイアを税収の一部を賜与したものとする見方もある。また、コムネノス朝時代のプロノイアは非常に限定的で従来のテマ制度と代替可能なほど徹底されてはいない。そのためテマ制の崩壊とプロノイア制出現の因果関係は明確ではない。
自由農民層による軍隊編成が試みられなかったわけではないが、帝国が末期まで傭兵に軍事力を頼っていることを考慮すると、プロノイア制度が国家の防衛に果たした役割はそれほど大きいものではないと判断できよう。むしろビザンツ封建制があったとしてそれを用意するものがあるとすれば、旧ラテン帝国の封建諸侯である。彼らはビザンツ貴族とは別個に服従契約を結び、それは西欧封建制に影響を受けたものであった。末期に顕著となる皇族への領土分配はデスポテースという地位と西欧封建制との関係で論じられるべきであろう。
東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語が公用語であった。しかし東ローマ帝国の住民をギリシア人によって代表することは一面的な物の見方に過ぎない。東ローマ帝国は初めにはアルメニア人・シリア人・コプト人・ユダヤ人のような多数の非ギリシア人を内包する多民族国家だった。公用語はギリシア語だったが日常会話にはスキタイ語・ペルシア語・ラテン語・アラン語(ロシア語版)・アラビア語・ロシア語・ヘブライ語なども存在した。それが12世紀までに領土が限定されるにつれてギリシア語を話す人々が数的に優勢になっていったにすぎないのである。7世紀のバルカン半島においては、その割合は不明だが、ギリシア人は国民全体の一部に過ぎずマイノリティであったとする研究者もいる。むしろ東ローマ帝国の軍事・行政・教会機構の中で特に大きな役割を演じていたのは6世紀以前にはゴート人であり、7世紀から11世紀にかけてはアルメニア人であり、12世紀以降においてはフランク人だった。帝国の著名な貴族や官僚にはグルジア人やトルコ人らもいた。中でもアルメニア人とのハーフ、もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシア人の間からはコンスタンティノポリス総主教や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいる。7世紀のヘラクレイオス王朝や、9世紀~11世紀の黄金時代を現出したマケドニア王朝はアルメニア系の王朝である。
帝国内の自由民は、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」以降ローマ市民権を持っていたため、言語・血統にかかわらず、自らを「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi)」と称していた。東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は古代末期には既に形骸化していた。
一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「蛮族」(エトネーあるいはバルバロイ)と見なしており、10世紀の皇帝コンスタンティノス7世が息子のロマノス2世のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている。
東ローマ帝国は、古代ギリシア・ヘレニズム・古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化(ビザンティン文化)を発展させた。
国の国教と定められた正教会が広く崇拝され、後世にも影響を与えている。また、11世紀の年代史家ヨアニス・ゾナラス(英語版)によると、伝統的なギリシア神話の神々に対する信仰は当時まだ行われており、15世紀には多神教の復活を説いたゲオルギオス・ゲミストス・プレトンが現れた。
帝国の国教であった正教会はセルビア・ブルガリア・ロシアといった東欧の国々に広まり、今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。
カノッサの屈辱に象徴される中世西欧の強力な教皇権力に比して、東ローマ帝国のキリスト教会いわゆるビザンティン教会はいわば皇帝権力の内あるいは下の位置に甘んじていた。正教会のトップである総主教の交代さえ皇帝の意のままだった。このような関係を歴史学の用語で皇帝教皇主義と言い、東ローマ帝国はその典型である。
しかしこの通説には大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、コンスタンティノポリス総主教等の任免権を有していた。しかし、正教会において教義の最終決定権はあくまでも教会会議にある。聖像破壊運動を終結させた第七全地公会も、主催はエイレーネーによるものの、決定したのはあくまで公会議である。ローマ教皇のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、皇帝がローマ教皇のように振舞える道理は無かった。実際、9世紀の皇帝バシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴゲー』では、国家と教会は統一体であるが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。
東ローマ帝国では単性論・聖像破壊運動・静寂主義論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったためギリシア人の一般民衆でも『聖書』を読むことができたという証左でもある。『新約聖書』は原典がギリシア語(コイネー/キニ)であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。この宗教論争に関しては、一般民衆がラテン語の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができたカトリック教会との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。
帝国の法制度の多くは古代ローマ帝国より引き継いだものだったが、古代ローマの法律は極めて複雑なものであり全く整理されていなかった。5世紀の皇帝テオドシウス2世は、438年にローマ法史上では初となる官撰勅法集『テオドシウス法典』を発布し、この問題を解決しようとした。この法典は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国が東西一体であることを強調するものであったが、結果としてローマ法は『テオドシウス法典』を最後にして帝国の東と西とで異なる発展を遂げることになった。
6世紀半ばにはユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『勅法彙纂(ユスティニアヌス法典)』、『学説彙纂』、『法学提要』が編纂された。これら法典は後に西欧へも伝わり『ローマ法大全』と名付けられることになる。ユスティニアヌス1世が編纂させた法典は、その後も幾多の改訂を経ながらも帝国の基本法典として用いられた。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝レオーン3世による『エクロゲー法典』発布、9世紀後半のバシレイオス1世による『法学提要』のギリシア語による手引書『プロキロン』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、そしてバシレイオス1世の息子レオーン6世による『勅法彙纂』のギリシア語改訂版である『バシリカ法典(英語版)』(帝国法)編纂である。
またユスティニアヌス1世の時代は、法と皇帝との関係が専制的なものへと大きく変化した時期でもあった。例えばユスティニアヌス1世の以前には、皇帝アルカディウスによって、皇帝へ問い合わせた際の皇帝の回答は「判例」としては利用できないと宣言されていた。これは権力者が自らの裁判に都合が良いように法を変えてしまうことを防ぐ目的であったのだが、ユスティニアヌス1世の時代には「皇帝が好むところが法である」とされ、皇帝の回答は「判例」となった。ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、自らの地位を「諸法に超越するもの」であると宣言した。これによって皇帝は、ヘレニズム的な「生ける法」となったのである。
東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の貨幣経済制度が機能し続けた。帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した。特に首都コンスタンティノポリスでは、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された絹織物(東ローマ帝国の養蚕伝来)や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄した。
だが12世紀以降、北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行ったヴェネツィア共和国などの北イタリア諸都市国家への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。
主要産業の農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩がなかった。それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。
初期の東ローマ帝国は、2世紀末にディオクレティアヌス帝が採用した後期ローマ帝国の軍事制度を継承した。軍隊は、リミタネイ(辺境部隊)とコミタテンセス(野戦部隊)に大別された。リミタネイは辺境属州を担任するドゥクス(軍司令官)の指揮下で国境防衛にあたった。コミタテンセスははるかに広い地域を担当するマギステル・ミリトゥム(方面軍司令官)の指揮下で大都市に駐屯し、帝国軍の主力として戦地に出撃した。野戦部隊は辺境部隊に比べ精鋭であり、給与等は優先されていた。
歩兵は依然ローマ軍の主力ではあったものの、騎兵の重要性が拡大していた。例えば478年には、東方野戦軍は8000の騎兵と30000の歩兵から編成され、357年のユリアヌス帝はストラスブルグの会戦において10000の歩兵と3000の騎兵を率いていた。
騎兵部隊は細分化され、ローマ軍の4分の1は騎兵部隊で構成されるようになった。騎兵の約半数は鎧・槍・剣を装備する重装騎兵からなる。("スタブレシアニ")。弓を装備していた者もいたが、散兵としてではなく突撃の援護の為に用いられた。
野戦部隊には「カタフラクタリイ(英語版)」や「クリバナリイ」等の重装騎兵も編成されていた。弓騎兵(エクイテス・サジタリイ(英語版))も含む軽騎兵(スクタリイ(英語版)、プロモティ)は有用な斥候・偵察兵としてリミタネイ(英語版)で多く用いられた。「コミタテンセス(英語版)」の歩兵はレギオン、アウクシリア、ヌメリ(英語版)等と呼称される500から1200人の部隊に編成されていた。これらの重装歩兵は槍・剣・盾・鎧・兜を装備し、軽歩兵隊の援護を受けていた。
ユスティニアヌス1世の軍隊はペルシア帝国の脅威を受けた5世紀の危機に応じて再編された。レギオン・コホルス・アラエといった以前の帝国軍の編成は消え、代わりにタグマやヌメルスと呼ばれるより小規模な歩兵部隊や騎兵隊が取って代わった。タグマは300から400人で編成され、2つ以上のタグマでモイラ(英語版)、2つ以上のモイラでメロスが編成された。
ユスティニアヌス帝時代には以下の様な軍に分かれていた。
7世紀にアラブ人に敗れて帝国の版図が著しく縮小したとき、帝国の軍制もまた根本的な変化を余儀なくされた。小アジアに退却した野戦部隊は、残存領土に分かれて駐屯し、テマ(軍団)となった。テマは敵と決戦して打ち破ろうとはせず、拠点防衛とゲリラ戦を組み合わせて受け身の抗戦に徹した。かつての辺境部隊の役割を担ったわけだが、この時代のテマには敵を国境線で防ぎ止めることができず、中央から主力軍が来て敵を撃破してくれるという希望もない。敵の侵入を許しながら征服されずに戦いぬく戦略であった。テマの兵士は平時は農民で、諸税を免除される代わりに武器を自弁した。
8世紀後半に帝国が存亡の危機を脱すると、テマの細分化とともに、テマに地方行政を担わせる改革が進み、地方制度としてのテマ制が作られた。テマ制では、テマ(軍団)の長官(ストラテーゴイ)が地方行政の長官を兼ね、軍管区であり行政区でもあるその管轄地をもテマと呼ぶ。
また8世紀後半にはコンスタンティノス5世がテマから選抜した兵士をもとに首都に常備軍(タグマと呼ばれる)を整備したことで、地方軍と中央軍の二本立ての体制が復活した。外国人傭兵を部隊に編成したタグマ、地方国境に駐屯したタグマも作られた。
10世紀にはタグマが増設・強化されて領土拡大戦争の主力となった。。その一方でテマ兵士を含む自由農民が没落し、有力者が土地を広げて農民を隷属させる社会変化が進んでいた。有力者は帝国の最強兵科である重装騎兵を供給したが、貴族化して帝国の軍隊を私物化し、反乱を頻発させた。
1081年に有力貴族から出て即位したアレクシオス1世は、有力貴族を軍の主力に据えることで軍事制度を立て直した。貴族の私兵だけでなく、皇帝自らの私兵というべき直属軍の育成に意を用い、外国人傭兵も依然として大きな比重を保った。
軍隊の規模は論争となっている。Warren Treadgoldによる算定値を参考に以下に示す(300年から1453年の間の軍隊構成員数の変遷は東ローマ帝国の軍隊(英語版を参照)。
日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。主に東海大学教授の尚樹啓太郎の著作のように、実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、中世ギリシア語形を用いている例も見られる。もっとも中世ギリシア語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、論争中である。
このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、注意が必要である。 | [
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"text": "東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には西暦395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。",
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"text": "5世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようになり、西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。",
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"text": "同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった。",
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"text": "ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく、正式な国名および国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων, ラテン文字転写: Politeia tōn Rhōmaiōn; ポリティア・トン・ロメオン)」であった。中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地(Ῥωμανία, Rhōmania, ロマニア)」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人(Ἕλληνες, Hellēnes, エリネス)」ではなく「ローマ人(Ῥωμαίοι, Rhōmaioi, ロメイ)」を称していた。",
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"text": "西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一された。帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシア化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシア人」へと変化していった。",
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"text": "初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、ユスティニアヌス一世代には旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有し、ローマ時代の「我らの海」こと地中海の再支配すら成し遂げている。しかし、その没後には破綻した国家財政、征服と疫病で荒廃した国土だけが残され、長大な国境線を維持できず、ランゴバルド人、サーサーン朝ペルシア、アヴァール人、スラヴ人、イスラム帝国により国土を侵食された。これらの外圧に対抗するため軍事費、特にテマへの俸給が国家支出の大部分を占め、そのテマも費用削減のため農民兵士が主体であったため士気が高い代わりに自立化していき、ビザンツはテマの連合国家と化した。",
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"text": "西欧に対する影響力は減衰の一途を辿った。8世紀末には偶像崇拝に関する問題でローマ教皇と対立し、800年のカールの戴冠で東ローマによる宗主権すらも否認された。",
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"text": "9世紀にはアッバース朝との戦争も落ち着いて、ニケフォロス一世による徴税強化や商業活性化で回復させた財政を背景に、テマ長官から皇帝に権力を取り返す試みが功を奏してくる。高級官僚やテマの高官は貴族化していたが、「皇帝の奴隷」と称されるように皇帝はそれを抑え込み、バシレイオス2世に代表されるビザンツ専制君主となった。11世紀前半にバシレイオス2世はブルガール人を打ち破り、バルカン半島やアナトリア半島東部、南イタリアを奪還し、東地中海の大帝国として栄えた。",
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"text": "バシレイオス2世の死後、ビザンツ帝国は徐々に衰退していった。バシレイオス2世の後継者問題に続く内乱期とそれにかこつけたプロノイアを保持する貴族の自立は、国家財政を一気に破綻に追い込んだ。ノルマン人によって南イタリアを、セルジューク朝によって東部アナトリアを失った。",
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"text": "第4回十字軍以後、ラテン帝国も崩壊し、ビザンツ亡命政権と十字軍国家とルーム・セルジューク朝で旧ビザンツ世界はバラバラとなった。その後、モンゴル帝国の圧迫に乗じ、亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還し十字軍勢力を駆逐するが、スラヴ国家の侵略と帝位請求の内乱に悩まされ続けた。パライオロゴス朝ルネサンスなど文化的な興隆を見ながら、領土は次々と縮小し、隣国のオスマン帝国の保護下に落ちていった。この頃のビザンツ帝国の自称はローマ人から移り変わり、古代ギリシャ人の末裔としてヘレネスを名乗り出している。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシアだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。",
"title": "概要"
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"text": "この帝国(およびその類似概念)は、いくつかの名称で呼ばれている。",
"title": "名称"
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。ただし、いつからいつまでを東ローマ帝国あるいはビザンツ帝国の歴史として扱うかについては何通りもの考え方があり定説はない。本記事で東ローマ帝国の歴史として扱っている歴史の範囲ですら、単一の帝国史であるのか異なる複数の帝国史の合成であるのかについては、連続説と断絶説とに分かれて長らく議論が続けられている。",
"title": "歴史"
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"text": "いつからを東ローマ帝国の歴史とするかについては、たとえば主なものとして下記に挙げる考え方がある。",
"title": "歴史"
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"text": "第一には、ディオクレティアヌスが皇帝権を分割し、東方にもローマ皇帝(東ローマ皇帝)が誕生して以降の東ローマ皇帝の歴史を東ローマ帝国の歴史と同一視する考え方がある。例えば歴史家の尚樹啓太郎は、著書『ビザンツ帝国史』の序説をディオクレティアヌス期の解説にあて、『ビザンツ帝国史年表』をディオクレティアヌスが即位した284年より始めている。ただし、ディオクレティアヌスのテトラルキアは、首都ローマを防衛するために4人の皇帝が首都ローマを離れて4か所の前線に留まるという職務の分担体制であり、地理的な分割は想定されていなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "次に、コンスタンティヌス1世がコンスタンティノポリスを建設した330年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。コンスタンティヌス1世は、古代ローマの元老院とは異なる元老院をコンスタンティノポリスに建設することでローマ帝国から政治的に独立し、東方の地にオリエント的な「ローマ皇帝の帝国」(東ローマ帝国)を建国したと解釈され、6世紀以降の東ローマ帝国の人々も、この330年を自分たちの国の建国年と考えていた。著名なビザンツ史学者ゲオルク・オストロゴルスキーは、ビザンツ帝国とは7世紀に誕生した新興帝国であって7世紀初頭に滅亡した東ローマ帝国とは異なる帝国であるとする断絶説を唱えているが、その著書『ビザンツ帝国史』はテトラルキアの内戦(英語版)が終結した324年から書き始めている。ただし、建設された当時のコンスタンティノポリスには執政官、法務官、護民官、財務官、首都長官といった首都機能は整備されておらず、帝国の首都機能は依然としてローマに集中しており、コンスタンティヌス1世の後継者達もコンスタンティノポリスに常住したわけではなかった。330年の時点ではコンスタンティノポリスは帝国の一地方都市の域を出ておらず、コンスタンティノポリスが新帝国の首都となるという認識は同時代にはなかったようである。今日の歴史学では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "次に、ウァレンティニアヌス1世が皇帝権の東西分割を行った364年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。唯一の正帝となったウァレンティニアヌス1世は、364年に弟ウァレンスを東方正帝として指名し、帝国の東西分担統治を開始した。東方正帝とされたウァレンスの即位10周年式典は、首都ローマではなくウァレンスが拠点としていたアンティオキア市で開催された。後述するテオドシウス朝の分担統治も制度上はウァレンティニアヌスが開始した分担統治をそのまま引き継いだものであり、帝権分割の視点から言えば364年こそが帝国にとって重要な転換点であったとされる。フランスの古代史家アンドレ・ピガニオル(フランス語版)は、この時代に初めて「帝国のあらゆる資源」が分割され、帝国東部がローマ帝国本土から明瞭に切り離されたのだとしている。しかしウァレンティニアヌス朝の時代には、テトラルキアやコンスタンティヌス朝の時代あるいは後のテオドシウス朝の時代と比べると東西宮廷の関係は極めて良好であり、全帝国に跨がるような軍事行動も活発だった。例えば378年にハドリアノポリスの戦いで東帝ウァレンスが戦死した後に東方領土を再興したのも、西帝グラティアヌスによって派遣されたテオドシウス、リコメル、バウト、アルボガストといった西側の将軍たちだった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "次に、テオドシウス1世が自身の死に際して彼の二人の息子達(アルカディウスとホノリウス)に帝国の半分ずつを分担統治させた395年をもって東ローマ帝国の始まりとする考え方があり、本記事もこの考え方に基づいて執筆されている。ただしテオドシウスは前述のコンスタンティヌス1世やウァレンティニアヌス1世のように「唯一の正帝」になったことはなく、制度上はテオドシウスの代に何らかの統一や分割が行われたわけではなかった。テオドシウスの死後も帝国の東西は同一の執政官の下で運営され、法律は東西皇帝の連名で発布された。また、アルカディウスとホノリウスの地位あるいはテオドシウス自身の地位もウァレンティニアヌスが開始した分治制度によったものであり、東西いずれかの皇帝が没した際には、その後継者が指名されるまでは残り一方の存命の皇帝が東西の両地域を統治することとされていた。これらの理由から20世紀以降の歴史学では、アルカディウスとホノリウスによる分割相続には何ら新しい意味合いはなく、それは過去に幾度となく行われてきた単なる分治の一つにすぎないとの評価をされることが多い。一方で、結果としてみるならば、テオドシウスからアルカディウスへの帝位継承による王朝理念の具現が、東地域に西地域とは異なる歴史を歩ませることになったのだとする評価もある。特に、テオドシウス1世が東方領土を次男ホノリウスにではなく長男アルカディウスに担当させたことは幾分かは帝国の未来を象徴する出来事でもあった。なぜならそれまでは、たとえ法的には東西両帝が同格とされていたにしても意識の上では西方の皇帝が東方の皇帝よりも格上であるという認識が依然として強かったからである。コンスタンティヌス1世は二人の妻の長男をともに西方の副帝として指名していたし、東方担当とされたコンスタンティウス2世も唯一の正帝となった後には西方のメディオラヌムを拠点とした。ウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟でも西方を確保したのは兄のウァレンティニアヌスであったし、テオドシウスに仕えた将軍アルボガストもテオドシウス1世の二人の息子のうち西方の皇帝になるのは長男のアルカディウスであろうと考えていた。そのような時代にあって西方領土の最も辺境の地から登場してきたテオドシウス1世は、長男アルカディウスを東方担当の皇帝とすることによって疑うべくもなく東方領土に優位を与えているのである。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "より遅い年代としては602年から610年にかけてのローマ帝国による東方支配の終焉や800年のカール大帝の戴冠による帝国の「分裂」を始点とする説もある。特に前者の年代は古代末期論との親和性が高く、古代末期を扱う多くの書籍で採用されている。少なくとも当時の人々にとって、帝国が東西に分裂しているという認識は800年のカール戴冠以前には存在しなかったようである。",
"title": "歴史"
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"text": "上記いずれの年代も何らかの意味では歴史の転換点とみなすことができ、またそれが他の年代を帝国史の始点とすることに対する反対論拠ともなっている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "378年、皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)で敗死。",
"title": "歴史"
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"text": "390年、ゴート族Buthericusの逮捕のために、テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。en:List of massacres in Greeceを参照。)",
"title": "歴史"
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{
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"text": "本項では、ローマ帝国の東西両地域を実質的に単独支配した最後の皇帝となったテオドシウス1世が、395年の死に際し、長男アルカディウスに帝国の東半分を、次男ホノリウスに西半分を分担させた時点をもって「東ローマ帝国」の始まりとする。",
"title": "歴史"
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"text": "皇帝テオドシウス2世(401年 - 450年)は、パンノニアに本拠地を置いたフン族の王アッティラにたびたび貢納を強いられた。それに対抗する手段の一つとして、首都コンスタンティノポリスを囲うコンスタンティヌスの城壁を拡張し(テオドシウスの城壁)て堅固な防備を敷いた。また431年にはエフェソス公会議を開き、コンスタンティノポリス総主教であったネストリウスを筆頭に主張するネストリウス派を異端としてキリスト教解釈の論争の解決を試みた。政治面では、312年以降のローマ皇帝の発した勅法集であるテオドシウス法典を編纂し帝国全土(西ローマ帝国内含む)に発布した。",
"title": "歴史"
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"text": "皇帝マルキアヌス(450年 - 457年)は、451年にカルケドン公会議を開催し、449年のエフェソス強盗会議以来問題となっていたエウテュケス(英語版)の唱えるエウテュケス主義(英語版)を、当時教皇であったレオ1世の意見を考慮して異端とするとともに、単性説やネストリウス派を改めて異端としてニカイア信条を強調し、ローマ教会との対立を避けた。453年にアッティラが急死するとフン族は急速に弱体化し、フン族への献金を打ち切った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "マルキアヌスが急死すると、皇帝にはトラキア人のレオ1世(457年 - 474年)が据えられたが、アラン人のパトリキでマギステル・ミリトゥムだったアスパルの傀儡であった。しかし、471年にアスパル父子を殺害して実権を得ることに成功した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "西ローマ帝国での皇帝権はゲルマン人の侵入で急速に弱体化していく。476年に東ゲルマン族(英語版)のスキリア族のオドアケルは西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝ゼノン(474年 - 491年)に帝位を返上した。東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて古代後期時点でのローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝となった。オドアケルは東ローマ皇帝の宗主権を認めてローマ帝国内のイタリ領主として任命され、皇帝の代官としてローマ帝国の本土であるイタリア半島を支配した。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は",
"title": "歴史"
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"text": "ことなどが挙げられる。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし488年にイタリアの統治方針についてゼノンとイタリア領主オドアケルが対立したことがきっかけとなり、東ローマ皇帝ゼノンがオドアケル追討を命じた。489年に東ゴート族のテオドリックがイタリア侵攻を開始した。491年、皇帝ゼノンが急死し、皇后アリアドネはアナスタシウス1世(491年 - 518年)と結婚して皇帝に据え、混乱を防いだ。493年にオドアケルは暗殺され、テオドリックがイタリアの総督および道長官に任命された。テオドリックは497年にアナスタシウス1世よりイタリア王を名乗ることが許され、ここに東ゴート王国(497年-553年)が成立した。ただし東ゴート王国の宗主権はものとされ、民政は引き続き西ローマ帝国政府が運営し、立法権は東ローマ皇帝が行使した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アナスタシウス1世の下で東ローマ帝国は力を蓄えたが、その一方で、単性論寄りの宗教政策によってカトリック教会と対立が再び表面化した。502年のアナスタシア戦争が長きに渡るサーサーン朝とのビザンチン・サーサーン戦争(英語版)の発端となった。アナスタシウス1世が急死すると、次のユスティヌス1世(518年 - 527年)はローマ教皇との関係修復に腐心することになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "6世紀のユスティニアヌス1世(527年 - 565年)の時代には、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊した。一方、名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、533年のアド・デキムムの戦いでヴァンダル族を破ってカルタゴを奪還すると、ヴァンダル戦争(533年 - 534年)で地中海沿岸の大半を再統一することに成功した。特にこの時期、442年(455年)以来東ゴート人に占領されていた旧都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。528年にトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、後世に残る文化事業も成したが、529年にはギリシアの多神教を弾圧し、プラトン以来続いていたアテネのアカデメイアを閉鎖に追い込み、数多くの学者がサーサーン朝に移住していった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "535年のインドネシアのクラカタウ大噴火の影響で535年から536年の異常気象現象(英語版)に見舞われた。イタリア半島においてはゴート戦争(535年 – 554年)が始まる。543年、黒死病(ユスティニアヌスのペスト(英語版))。ラジカ王国(英語版)をめぐるサーサーン朝ペルシアとの抗争(ラジカ戦争(英語版))で手がまわらなくなると、スラヴ人(542年)・アヴァール(557年)などの侵入に悩まされた。546年に東ゴート軍は、イサウリア人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時のローマ略奪と重税によって、いわゆる「ローマの元老院と市民」(SPQR)が崩壊し、古代ローマはこの時滅亡したのだと主張する学者もいる。552年にナルセス将軍が派遣され、ブスタ・ガロールムの戦い(ギリシア語: Μάχη των Βουσταγαλλώρων、Battle of Busta Gallorum、タギナエの戦い/イタリア語: Battaglia di Tagina, 英語: Battle of Taginae)でトーティラを敗死させ、東ゴートは滅亡した。翌年、イタリア半島は平定された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "565年にユスティニアヌス1世が没すると、568年にはアルプス山脈を越えて南下したゲルマン系ランゴバルド人によってランゴバルド王国が北イタリアに建国された。558年、突厥の西面(現イリ)の室点蜜はサーサーン朝のホスロー1世との連合軍でエフタルを攻撃し、567年頃に室点蜜はエフタルを滅ぼした。その後、室点蜜とホスロー1世の関係が悪化し、568年に室点蜜からの使者が東ローマ帝国を訪れた。572年から始まったビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)(英語版)で、東ローマ帝国もサーサーン朝に対抗する同盟相手を求めていたため、576年に達頭可汗にサーサーン朝を挟撃することを提案した。588年、第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版)でサーサーン朝を挟撃した。598年、達頭可汗がエフタルとアヴァール征服を東ローマ帝国の皇帝マウリキウスに報告した。602年に軍閥フォカスが政変が引き起こし、首都に入城して皇帝マウリキウスとその一族を皆殺しにした上で帝位についた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "東ローマ帝国の内乱に際して、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った(サーサーン朝のエジプト征服(英語版))。フォカスは、簒奪の汚名を打ち消す目的も兼ねてサーサーン朝ペルシアへ侵攻した(東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年))。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "608年にカルタゴのアフリカ総督(英語版)大ヘラクレイオス(英語版)が反乱を起こし、610年にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子のヘラクレイオス(イラクリオス/在位:610年 - 641年)が皇帝に即位した。ヘラクレイオスは、西突厥の二度にわたる戦争(第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)、第三次ペルソ・テュルク戦争)に助けられ、シリア・エジプトへ侵攻した(英語版)サーサーン朝ペルシアをニネヴェの戦い (627年)で破るなどして東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)に勝利し、領土を奪回することに成功した。627年にハザールを主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、628年に統葉護可汗が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "東ローマ領内では既に4世紀からラテン語の重要性は次第に低下しつつあり、ギリシア語が徐々に事実上の公用語へと変わっていた。それでもなおラテン語は「ローマ人の言語」としてその重要性の維持が試みられもしたが、5世紀中には文官たちにとってラテン語の習得はもはや必要なものではなくなっていた。軍はラテン語の伝統を最も長く保持し、6世紀に至るまで公式の行政文書をラテン語で書いたが、全体として東ローマ帝国領内におけるラテン語使用が時間と共に低迷する潮流は変わらなかった。ヘラクレイオスはこの変化を公式に認め、620年にはギリシア語が公用語であることを承認した。また、ヘラクレイオスはサーサーン朝に対する勝利の後、古くから蛮族の王を指す通用的な用語であった「バシレウス(Βασιλεύς, ヴァシレフス)」を公式儀礼用語として使用するようになった。この言葉はラテン語の\"rex\"に対応し、以降帝国の滅亡まで用いられた。古くからのローマ的称号であるアウグストゥス(アウグストス)も公式儀礼用語として使用され続けたが、その場合でも「信者ヴァシレフス」が必ず付された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "サーサーン朝への攻撃を開始したイスラム帝国(正統カリフ)は、カーディスィーヤの戦いでメソポタミアからサーサーン朝を駆逐して間もなく、東ローマ領のシリア地方へも侵攻した。636年にヤルムークの戦いで東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失った。641年、ヘラクレイオスが死亡すると、コンスタンティノス3世とヘラクロナスとの間で後継者問題が起き、コンスタンス2世が即位して落ち着いた。東ローマ軍は、655年にアナトリア南岸のリュキア沖での海戦(マストの戦い(英語版))でイスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海の制海権も失った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "656年、イスラム帝国内で第三代カリフのウスマーンが暗殺され、第一次内乱(英語版)(656年 - 661年)が始まる。661年、ウマイヤ朝が成立。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "674年から678年までのコンスタンティノポリス包囲戦では、連年イスラム海軍(ウマイヤ朝)に包囲され、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされたが、難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功した。680年にはオングロスの戦いでテュルク系ブルガール人に破れ、681年の講和で北方に第一次ブルガリア帝国が建国された(ブルガリア・東ローマ戦争、680年 - 1355年)。698年、カルタゴの戦い(英語版)ではイスラム軍(ウマイヤ朝)に敗れ、カルタゴを占領されてカイラワーンに拠点を構築された。その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部、南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)に縮小した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年にイスラム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退(第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。しかし、宗教的には726年にレオーン3世が始めた聖像破壊運動などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は後にフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "女帝エイレーネー(イリニ)治下の800年、ローマ教皇がフランク王カール1世(カール大帝)に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、802年10月31日のクーデターでニケフォロス1世が即位し、803年にパクス・ニケフォリ(英語版)を締結したが、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "イスラム軍(アッバース朝)とは、804年のクラソスの戦い、806年のアッバース朝軍の小アジアへの侵攻で戦火を交えたが敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んだ。811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻したが、撤退時のプリスカの戦い(英: Battle of Pliska、ブルガリア語:Битка при Върбишкия проход - バルビツィア峠の戦い)で皇帝ニケフォロス1世が戦死し、後継者問題が起こった。ミカエル1世ランガベーが皇帝に即位し、対立していたフランク王国と妥協し、カール大帝の皇帝就任を承認。813年にヴェルシニキアの戦いで再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、レオーン5世への譲位を余儀なくされた。814年に第一次ブルガリア帝国のクルムが死去すると、オムルタグと30年不戦条約を結んだ。827年にアラブ人(アッバース朝支配下のアグラブ朝)がシチリア島へ侵攻し(ムスリムのシチリア征服(イタリア語版、英語版)、827年-902年)、シチリア首長国(831年 - 1072年)が成立。902年にイブラーヒーム2世がタオルミーナを攻略してシチリア島の征服が完了した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、バルカン半島沿岸部とアナトリアを支配し、ギリシア人・正教会・ギリシア文化を中心とする国家となった。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(867年 - 1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。一方、東ローマ皇帝とローマ教皇の対立はフィリオクェ問題をきっかけとして再び顕在化した。867年、アモリア王朝最後の皇帝となるミカエル3世(在位:838年-867年)主宰の教会会議がローマ教皇ニコラウス1世を破門するに至った「フォティオスの分離(英語版)」などによって、東西両教会の亀裂が深まり、事実上分裂する事となった。。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1011年、西からノルマン人の攻撃を受けた(ノルマン・東ローマ戦争、1011年 - 1185年)。 しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると、その後は政治的混乱が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発した。1040年にはブルガリア (テマ制)(英語版)でen:Peter Delyanの反乱が起こり、ピレウスも呼応して蜂起した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1055年、セルジューク・東ローマ戦争が始まり、1071年にはマラズギルト(マンジケルト)の戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたため、東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小した。小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、ノルマン人のルッジェーロ2世には南イタリアを奪われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年 - 1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請し、トルコ人からの領土奪回を図った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "アレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年 - 1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。特にイタリア遠征、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗した。犠牲者のほとんどはアンティオキア公国の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世を廃して帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:1185年 - 1195年)も、セルビア王国(1171年)・第二次ブルガリア帝国(1185年)といったスラヴ諸民族が帝国に反旗を翻して独立し、また地方に対する中央政府の統制力が低下する中で、有効な対策は打てずにいた。",
"title": "歴史"
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"text": "十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権を建てて抵抗することとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)だった。ニカイア帝国は初代のテオドロス1世ラスカリス(在位:1205年 - 1222年)、2代目のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス(在位:1222年 - 1254年)の賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "周辺国では、1223年のカルカ河畔の戦い以来、モンゴル帝国による東欧侵蝕(チンギス・カンの西征、モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版))が始まり、1242年にはジョチ・ウルスがキプチャク草原に成立し、1243年のキョセ・ダグの戦いでルーム・セルジューク朝がモンゴル帝国(1258年にイルハン朝に分裂)の属国化し、1245年のヤロスラヴの戦い(ウクライナ語版、ロシア語版、ポーランド語版)ではハールィチ・ヴォルィーニ大公国がジョチ・ウルスの属国化した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリス(在位:1254年 - 1258年)の死後、摂政、ついで共同皇帝としてミカエル8世パレオロゴス(在位:1261年 - 1282年)が実権を握った。1259年9月、ペラゴニアの戦いで、アカイア公国・エピロス専制侯国・シチリア王国の連合国軍をニカイア帝国(東ローマ亡命政権)軍が破り、1261年にはコンスタンティノポリスを奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、最後にして最長の王朝パレオロゴス王朝(1261年 - 1453年)を開いた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "フレグの西征で1258年にはイルハン朝がイラン高原に成立していた。さらに1260年にモンケが没して帝位継承戦争が勃発し、1262年11月にはベルケ・フレグ戦争(英語版)でジョチ・ウルスとイルハン朝の争いが始まる中、東ローマ帝国はジョチ・ウルスと直接接触することになった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 60,
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"text": "1265年に、ノガイ・ハーン率いるジョチ・ウルス軍がトラキアに侵攻し、ミカエル8世パレオロゴスの軍は敗北し、ジョチ・ウルスと同盟することになった。その後も1271年、1274年、1282年、1285年にモンゴル軍はヴォルガ・ブルガールに侵攻していた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1277年に第二次ブルガリア帝国でイヴァイロの蜂起が起こり、ミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し、1285年に第二次ブルガリア帝国はジョチ・ウルスに従属した。この間の1282年に、テッサリアで反乱が起こり、ノガイ・ハーンはトラキアへミカエル8世への援軍を送ったが、ミカエル8世は病気になり急死した。ミカエル8世の息子・アンドロニコス2世パレオロゴスは、援軍をブルガリアと同盟するセルビア王国攻撃に用いた。1286年に、セルビア王国のステファン・ウロシュ2世ミルティンが講和を申し入れた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:1282年 - 1328年)の時代以降、軍事的な圧力が強まる中で1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無く、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済もヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなくなった。そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に攻撃された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "1352年に東からオスマン帝国のオルハンに攻撃されてブルサを奪取され(東ローマ内戦 (1352年 - 1357年))、1352年には領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の共同皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年 - 1391年)とヨハネス6世カンタクゼノス(在位:1347年 - 1354年)は、1354年のガリポリ陥落でオスマン帝国スルタンのオルハンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1380年のクリコヴォの戦いで急速に国力を増大したモスクワ大公国がジョチ・ウルスを破り、周辺国でも激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡後に、モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになる。",
"title": "歴史"
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"text": "14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)は、窮状を打開しようとフランスやイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1449年 - 1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 66,
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"text": "この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネサンスに多大な影響を与えた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 67,
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"text": "1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。ハンガリー人のウルバン (Orban) が開発したオスマン帝国の新兵器「ウルバン砲」による砲撃に曝され、絶対的に不利な状況下、東ローマ側は守備兵7千で2か月近くにわたり抵抗を続けた。5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落、皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになる。通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり・近世の始まりとする学説が多い。同年には百年戦争が終結し、この戦いを通じてイギリス(イングランド王国)とフランス(フランス王国)は王権伸長による中央集権化および絶対君主制への移行が進むなど、西ヨーロッパでも大きな体制の変化があった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1460年にはペロポネソス半島の自治領土モレアス専制公領が、1461年には黒海沿岸のトレビゾンド帝国がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世やスレイマン1世などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。また、1467年にイヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾイ・パレオロギナを妻とし、ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、モスクワ大公国のイヴァン4世などや歴代のロシア(ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国)指導者はローマ帝国の継承性を主張している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 70,
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"text": "6世紀になると330年5月11日が特別な記念日とされ、「ローマを嫌ったコンスタンティヌスがローマの支配から独立した新しい帝国を創った」とする建国神話が創造された。9世紀になるとそれまで勅令等で使われていなかった「ローマ皇帝」といった称号が法令等の文書でも年代記等の編纂文献でも頻繁に用いるようになった。自らがローマ帝国であることを示すために形式的にではあるが古代ローマ時代の伝統の復興も試みられ、例えば9世紀末までには「市民」を意味するデーモスという名の官職が創り出され、「市民」という官職名の「役人」による「市民による歓呼」の模倣という奇妙な儀式が行われるようになった。10世紀には皇帝コンスタンティノス7世の下で『儀式の書』が記され、ビザンツ帝国の宮廷儀式が整備された。他にも帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わったことを「父祖の言葉を棄てた」と批判した『テマについて』や、「皇帝の権力は民衆・元老院・軍隊の三つの要素に拠る」と記したミカエル・プセルロスの『年代記』など、古代ローマとの連続性をほのめかす著作の多くが10世紀から12世紀の間に作成された。ところが13世紀になると今度は自分たちの起源を古代ギリシアに求めるようになり、住民の自称も「ローマ人」から「イリネス(ギリシア人)」へと変化していった。このように、この帝国では全てが流動的であった。こうした変化に対応する柔軟性を持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "西方領土と東方領土とでは「ローマ帝国」に対する認識は微妙に異なるものであった。政治的・法的・文化的それぞれの側面で異なっていた。法的にはローマ法を受け継ぎ、「コンスタンティノープルの皇帝は、ローマ皇帝の唯一の法的に正統な継承者であると自任し」、「『ローマ法大全』は、九世紀にはギリシア語版『バシリカ法典』として再編されて、ずっと国家の基本法であり続け」、「哲学・歴史学・文学の重要な作品はビザンツ帝国において書き継がれ」、「自分たちはギリシア古典、ローマ法の世界に生きているとビザンツ人は考えていた」。一方、政治体制についての認識はこれとは大分異なっていた。西ヨーロッパではローマ帝国はロームルスのローマ建設神話から王政・共和政と変化してきたローマ共同体の政治史の一部だったが、一方の東ローマ帝国においてはカエサル以前のローマ共同体を自分たちの歴史の一部であるとする意識は薄かった。東ローマ帝国におけるローマ帝国とは旧約聖書の『ダニエル書』に見られる帝国交替史に基づいたもので、それはバビロニア帝国・ペルシア帝国・アレクサンドロス帝国から受け継いだ「文明世界を支配する帝国」「キリストによる最後の審判まで続く地上最後の帝国」としての存在だった。ビザンツ人にとってみれば、カエサル以前のローマ帝国よりはペルシア帝国の方が自分たちとつながりのある世界だったのである。自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、世界創造紀元の使用にも現れている。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 72,
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"text": "ビザンツ皇帝はローマ皇帝に起源を持ちつつもローマ皇帝とは異なる存在(専制君主)である。「すべての人間は皇帝の奴隷である」という言葉に象徴されるように、ビザンツ皇帝は絶対的な主権者だった。ビザンツ帝国では、市民は国家に奉仕するのではなく、皇帝に奉仕するものとなった。古代ローマでは市民の果たす役割は財産に応じた階級に託されていた(エヴェルジェティスムや公職者就任の財産制限)が、今や役割がそれを果たす人の階級を決めることになった。それは古代ローマとは反対の制度だった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 73,
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"text": "ビザンツ皇帝理念が形成されたのは主に5世紀半ばから7世紀初頭にかけてである。「「軍人皇帝時代」もちろん、330年のコンスタンティノープル遷都以降も、皇帝歓呼の中心は軍隊で」「皇帝歓呼は軍隊の駐屯地で行われることが多く、コンスタンティノープル西方のヘブドモン軍事基地などが、即位式の主要な舞台であった」が、「五世紀の後半になると、元老院・民衆の歓呼が重要性を増し、即位式の舞台もコンスタンティノープル競馬場に移った」。一方同じ5世紀の半ばにコンスタンティノープル総主教による戴冠の儀式が行われるようになり、「徐々にローマ時代から伝わる戴冠の方法を完全に押しのけ、中世では、これが最終的に戴冠式の本質的部分となった」。就任に際してコンスタンティノープル総主教によって戴冠された最初の皇帝は5世紀のレオ1世であると考えられている。そこにはローマから正当なローマ皇帝として承認されなかったレオ1世の即位を神の意志による選択として正当化しようとする思惑があったと考えられるが、その結果として皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった。7世紀になると皇帝歓呼の場所は競馬場から宮殿・聖ソフィア教会へ移るが、並行して皇帝自らが後継者を共同皇帝として戴冠するようになった。 6世紀のユスティニアヌス1世は専制君主制へと大きな一歩を踏み出した。ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、「自らの地位を諸法に超越するものとし」、「その結果、皇帝は、諸法を超越しながらも、自発的に諸法に従うことになった」。。ユスティニアヌス1世は自らを「主人」と呼ばせ、元老院議員へも跪拝(プロスキュネーシス(英語版))を要求した。かつては市民によって信任された公職者であった皇帝が3万人の市民を虐殺したニカの乱の惨たらしい結末がユスティニアヌス1世という皇帝を象徴している。ユスティニアヌス1世によって古代の民主政治の伝統は最終的に否定され、ビザンティン専制国家への道が開かれた。古代民主政治の中から産まれたローマ皇帝権力は、その母斑をついに消し去ったのである。血塗られた彼の帝衣は、まさに古代ローマ皇帝の死装束であった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "7世紀には、もう一つ皇帝像の変化があった。「戦う皇帝」から「平和の皇帝」への転換である。古代ローマや中世西欧では、ローマ皇帝は武装した軍人として描かれ、軍司令官としての性質が強調された。一方の東ローマ帝国では、7世紀の皇帝ヘラクレイオスを最後に古代ローマ式の征服称号が用いられなくなった。ヘラクレイオスは皇帝称号に「平和者」という語を含めたが、このキーワードが9世紀までにはビザンツ皇帝称号の重要な部分となり、皇帝とは平和を好む敬虔な人物であるべきという考えが定着することになる。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "東ローマ帝国は、古代ローマ帝国の帝政後期以降の皇帝(ドミヌス)による専制君主制(ドミナートゥス)を受け継いだ 7世紀以降の皇帝(バシレウス/ヴァシレフス)は「神の恩寵によって」帝位に就いた「地上における神の代理人」「諸王の王」とされ、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 76,
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"text": "しかし、皇帝の地位自体は不安定で、たびたびクーデターが起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、宦官の役割が非常に大きく、コンスタンティノポリス総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあったフォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 78,
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"text": "地方では、初期は古代ローマ後期の属州制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握るテマ制(軍管区制)と呼ばれる体制になった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "テマ制は、自弁で武装を用意できるストラティオティスと呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができた。ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、定着したスラヴ人なども積極的に編成された。ストラティオティスは屯田兵でもあり、バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれている。彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われる。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、スラヴ人やペルシア人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "8世紀後半以降、外敵の大規模な侵入が減り、次第に商業が活性化していくと、それにつれてテマ農民兵士の貧富の格差が増大し、中小自由農民層の没落・貧困化が進行した。安定期となったマケドニア朝の時代に大土地所有の傾向がはっきりと現れるようになり、10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的な大土地所有者が確認できる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ストラティオティス層は法律により土地の譲渡が禁じられていたため、まだ影響は少なかったが、レオーン6世の態度が大土地所有の傾向を確実なものとした。晩年の「新勅法」によって、それまで土地を売った者の近隣者が6ヶ月以内に売った価格の同額を支払えば買い戻せるとした先買権を無効とした。ロマノス1世レカペノスの時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国に弊害をもたらしており、彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者の先買権を復活させ、さらに農村共同体に優先的に土地の譲渡をうける権利を定めた。また、不当な価格で取り引きされた土地については無償で返還されるものとされ、正当な取引であっても3年以内に売却価格の同額を支払えば土地を取り戻せるとした。しかしこれらの法律は守られなかった。なぜなら不当な購入をしていたのは地方のテマ長官や有力役人、その親族たちであったからだ。彼らによってロマノス1世の努力は骨抜きにされたのである。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向を助長した。マケドニア朝末期のバシレイオス2世は過去の不法な土地譲渡や皇帝の直筆でない有力者への土地贈与文書を無効とし、教会財産の制限をおこなった。これはかなりの効果を上げ、彼の軍事的成功もこの政策に恩恵によるところが大きかった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "この時代にストラティオティスを基盤とした軍制は崩壊した。帝国は計画的に軍事力を削減し、ストラティオティス層からは軍役を免除する代わりに納税を義務づけた。これにより帝国はノルマン人などの傭兵に軍事力を大きく依存することになった。以後テマは単なる行政単位となったが帝国滅亡まで存続した。テマ長官としてのドメスティコスは文官職に変化し急速に地位が低下した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "コムネノス朝の時代にはプロノイア制が実施された。かつては貴族に大土地所有や徴税権を認める代わりに軍務を提供させる制度であると考えられ、これが西欧のレーエン制に擬され、ゲオルク・オストロゴルスキーなどが主張したいわゆる「ビザンツ封建制」の要素と考えられていたが、今日ではこの説は基本的に否定されている。プロノイアは国家に功績のあった臣下に恩賜として基本的に一代限りで授与されるものであり、またプロノイアの設定された地域をその受領者が実際に統治したかどうか明確でない。したがって荘園のように囲い込まれて不輸不入の領主権が設定されたわけではない。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "ニカイア帝国ではプロノイアは限定された地域に限られていて、ヨハネス3世はプロノイアの土地は国家の管理下にあるものとして、売買を固く禁じている。ミカエル8世はプロノイアの世襲を大規模に認めているが、これは例外措置であり世襲財産と同一視することを厳しく注意している。とはいえ、これらの事実は逆にプロノイアが帝国の意図に反して売買されたり世襲されたりすることがあったという証明であるともいえる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "軍制との関連性も明確でない。軍事奉仕を暗示するようなプロノイア贈与もおこなわれなかったわけではないが一般的ではない。プロノイア自体は必ずしも土地と結びつくわけではなく、漁業権であったり貧困農民層であるパリコスの労働使役権だったりするが、パリコスは法的には完全な自由民であった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "プロノイアは女性や教会や一団の兵士などの団体に贈与されることもあった。そのためプロノイアを税収の一部を賜与したものとする見方もある。また、コムネノス朝時代のプロノイアは非常に限定的で従来のテマ制度と代替可能なほど徹底されてはいない。そのためテマ制の崩壊とプロノイア制出現の因果関係は明確ではない。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "自由農民層による軍隊編成が試みられなかったわけではないが、帝国が末期まで傭兵に軍事力を頼っていることを考慮すると、プロノイア制度が国家の防衛に果たした役割はそれほど大きいものではないと判断できよう。むしろビザンツ封建制があったとしてそれを用意するものがあるとすれば、旧ラテン帝国の封建諸侯である。彼らはビザンツ貴族とは別個に服従契約を結び、それは西欧封建制に影響を受けたものであった。末期に顕著となる皇族への領土分配はデスポテースという地位と西欧封建制との関係で論じられるべきであろう。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語が公用語であった。しかし東ローマ帝国の住民をギリシア人によって代表することは一面的な物の見方に過ぎない。東ローマ帝国は初めにはアルメニア人・シリア人・コプト人・ユダヤ人のような多数の非ギリシア人を内包する多民族国家だった。公用語はギリシア語だったが日常会話にはスキタイ語・ペルシア語・ラテン語・アラン語(ロシア語版)・アラビア語・ロシア語・ヘブライ語なども存在した。それが12世紀までに領土が限定されるにつれてギリシア語を話す人々が数的に優勢になっていったにすぎないのである。7世紀のバルカン半島においては、その割合は不明だが、ギリシア人は国民全体の一部に過ぎずマイノリティであったとする研究者もいる。むしろ東ローマ帝国の軍事・行政・教会機構の中で特に大きな役割を演じていたのは6世紀以前にはゴート人であり、7世紀から11世紀にかけてはアルメニア人であり、12世紀以降においてはフランク人だった。帝国の著名な貴族や官僚にはグルジア人やトルコ人らもいた。中でもアルメニア人とのハーフ、もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシア人の間からはコンスタンティノポリス総主教や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいる。7世紀のヘラクレイオス王朝や、9世紀~11世紀の黄金時代を現出したマケドニア王朝はアルメニア系の王朝である。",
"title": "住民"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "帝国内の自由民は、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」以降ローマ市民権を持っていたため、言語・血統にかかわらず、自らを「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi)」と称していた。東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は古代末期には既に形骸化していた。",
"title": "住民"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「蛮族」(エトネーあるいはバルバロイ)と見なしており、10世紀の皇帝コンスタンティノス7世が息子のロマノス2世のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている。",
"title": "住民"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "東ローマ帝国は、古代ギリシア・ヘレニズム・古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化(ビザンティン文化)を発展させた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "国の国教と定められた正教会が広く崇拝され、後世にも影響を与えている。また、11世紀の年代史家ヨアニス・ゾナラス(英語版)によると、伝統的なギリシア神話の神々に対する信仰は当時まだ行われており、15世紀には多神教の復活を説いたゲオルギオス・ゲミストス・プレトンが現れた。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "帝国の国教であった正教会はセルビア・ブルガリア・ロシアといった東欧の国々に広まり、今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "カノッサの屈辱に象徴される中世西欧の強力な教皇権力に比して、東ローマ帝国のキリスト教会いわゆるビザンティン教会はいわば皇帝権力の内あるいは下の位置に甘んじていた。正教会のトップである総主教の交代さえ皇帝の意のままだった。このような関係を歴史学の用語で皇帝教皇主義と言い、東ローマ帝国はその典型である。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "しかしこの通説には大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、コンスタンティノポリス総主教等の任免権を有していた。しかし、正教会において教義の最終決定権はあくまでも教会会議にある。聖像破壊運動を終結させた第七全地公会も、主催はエイレーネーによるものの、決定したのはあくまで公会議である。ローマ教皇のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、皇帝がローマ教皇のように振舞える道理は無かった。実際、9世紀の皇帝バシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴゲー』では、国家と教会は統一体であるが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "東ローマ帝国では単性論・聖像破壊運動・静寂主義論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったためギリシア人の一般民衆でも『聖書』を読むことができたという証左でもある。『新約聖書』は原典がギリシア語(コイネー/キニ)であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。この宗教論争に関しては、一般民衆がラテン語の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができたカトリック教会との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。",
"title": "宗教"
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{
"paragraph_id": 99,
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"text": "帝国の法制度の多くは古代ローマ帝国より引き継いだものだったが、古代ローマの法律は極めて複雑なものであり全く整理されていなかった。5世紀の皇帝テオドシウス2世は、438年にローマ法史上では初となる官撰勅法集『テオドシウス法典』を発布し、この問題を解決しようとした。この法典は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国が東西一体であることを強調するものであったが、結果としてローマ法は『テオドシウス法典』を最後にして帝国の東と西とで異なる発展を遂げることになった。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 100,
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"text": "6世紀半ばにはユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『勅法彙纂(ユスティニアヌス法典)』、『学説彙纂』、『法学提要』が編纂された。これら法典は後に西欧へも伝わり『ローマ法大全』と名付けられることになる。ユスティニアヌス1世が編纂させた法典は、その後も幾多の改訂を経ながらも帝国の基本法典として用いられた。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝レオーン3世による『エクロゲー法典』発布、9世紀後半のバシレイオス1世による『法学提要』のギリシア語による手引書『プロキロン』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、そしてバシレイオス1世の息子レオーン6世による『勅法彙纂』のギリシア語改訂版である『バシリカ法典(英語版)』(帝国法)編纂である。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "またユスティニアヌス1世の時代は、法と皇帝との関係が専制的なものへと大きく変化した時期でもあった。例えばユスティニアヌス1世の以前には、皇帝アルカディウスによって、皇帝へ問い合わせた際の皇帝の回答は「判例」としては利用できないと宣言されていた。これは権力者が自らの裁判に都合が良いように法を変えてしまうことを防ぐ目的であったのだが、ユスティニアヌス1世の時代には「皇帝が好むところが法である」とされ、皇帝の回答は「判例」となった。ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、自らの地位を「諸法に超越するもの」であると宣言した。これによって皇帝は、ヘレニズム的な「生ける法」となったのである。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 102,
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"text": "東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の貨幣経済制度が機能し続けた。帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した。特に首都コンスタンティノポリスでは、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された絹織物(東ローマ帝国の養蚕伝来)や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 103,
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"text": "だが12世紀以降、北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行ったヴェネツィア共和国などの北イタリア諸都市国家への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "主要産業の農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩がなかった。それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "初期の東ローマ帝国は、2世紀末にディオクレティアヌス帝が採用した後期ローマ帝国の軍事制度を継承した。軍隊は、リミタネイ(辺境部隊)とコミタテンセス(野戦部隊)に大別された。リミタネイは辺境属州を担任するドゥクス(軍司令官)の指揮下で国境防衛にあたった。コミタテンセスははるかに広い地域を担当するマギステル・ミリトゥム(方面軍司令官)の指揮下で大都市に駐屯し、帝国軍の主力として戦地に出撃した。野戦部隊は辺境部隊に比べ精鋭であり、給与等は優先されていた。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "歩兵は依然ローマ軍の主力ではあったものの、騎兵の重要性が拡大していた。例えば478年には、東方野戦軍は8000の騎兵と30000の歩兵から編成され、357年のユリアヌス帝はストラスブルグの会戦において10000の歩兵と3000の騎兵を率いていた。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "騎兵部隊は細分化され、ローマ軍の4分の1は騎兵部隊で構成されるようになった。騎兵の約半数は鎧・槍・剣を装備する重装騎兵からなる。(\"スタブレシアニ\")。弓を装備していた者もいたが、散兵としてではなく突撃の援護の為に用いられた。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "野戦部隊には「カタフラクタリイ(英語版)」や「クリバナリイ」等の重装騎兵も編成されていた。弓騎兵(エクイテス・サジタリイ(英語版))も含む軽騎兵(スクタリイ(英語版)、プロモティ)は有用な斥候・偵察兵としてリミタネイ(英語版)で多く用いられた。「コミタテンセス(英語版)」の歩兵はレギオン、アウクシリア、ヌメリ(英語版)等と呼称される500から1200人の部隊に編成されていた。これらの重装歩兵は槍・剣・盾・鎧・兜を装備し、軽歩兵隊の援護を受けていた。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "ユスティニアヌス1世の軍隊はペルシア帝国の脅威を受けた5世紀の危機に応じて再編された。レギオン・コホルス・アラエといった以前の帝国軍の編成は消え、代わりにタグマやヌメルスと呼ばれるより小規模な歩兵部隊や騎兵隊が取って代わった。タグマは300から400人で編成され、2つ以上のタグマでモイラ(英語版)、2つ以上のモイラでメロスが編成された。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 110,
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"text": "ユスティニアヌス帝時代には以下の様な軍に分かれていた。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "7世紀にアラブ人に敗れて帝国の版図が著しく縮小したとき、帝国の軍制もまた根本的な変化を余儀なくされた。小アジアに退却した野戦部隊は、残存領土に分かれて駐屯し、テマ(軍団)となった。テマは敵と決戦して打ち破ろうとはせず、拠点防衛とゲリラ戦を組み合わせて受け身の抗戦に徹した。かつての辺境部隊の役割を担ったわけだが、この時代のテマには敵を国境線で防ぎ止めることができず、中央から主力軍が来て敵を撃破してくれるという希望もない。敵の侵入を許しながら征服されずに戦いぬく戦略であった。テマの兵士は平時は農民で、諸税を免除される代わりに武器を自弁した。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "8世紀後半に帝国が存亡の危機を脱すると、テマの細分化とともに、テマに地方行政を担わせる改革が進み、地方制度としてのテマ制が作られた。テマ制では、テマ(軍団)の長官(ストラテーゴイ)が地方行政の長官を兼ね、軍管区であり行政区でもあるその管轄地をもテマと呼ぶ。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "また8世紀後半にはコンスタンティノス5世がテマから選抜した兵士をもとに首都に常備軍(タグマと呼ばれる)を整備したことで、地方軍と中央軍の二本立ての体制が復活した。外国人傭兵を部隊に編成したタグマ、地方国境に駐屯したタグマも作られた。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "10世紀にはタグマが増設・強化されて領土拡大戦争の主力となった。。その一方でテマ兵士を含む自由農民が没落し、有力者が土地を広げて農民を隷属させる社会変化が進んでいた。有力者は帝国の最強兵科である重装騎兵を供給したが、貴族化して帝国の軍隊を私物化し、反乱を頻発させた。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "1081年に有力貴族から出て即位したアレクシオス1世は、有力貴族を軍の主力に据えることで軍事制度を立て直した。貴族の私兵だけでなく、皇帝自らの私兵というべき直属軍の育成に意を用い、外国人傭兵も依然として大きな比重を保った。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "軍隊の規模は論争となっている。Warren Treadgoldによる算定値を参考に以下に示す(300年から1453年の間の軍隊構成員数の変遷は東ローマ帝国の軍隊(英語版を参照)。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。主に東海大学教授の尚樹啓太郎の著作のように、実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、中世ギリシア語形を用いている例も見られる。もっとも中世ギリシア語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、論争中である。",
"title": "用語の表記方法について"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、注意が必要である。",
"title": "用語の表記方法について"
}
] | 東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には西暦395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。 5世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようになり、西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。 同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった。 ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく、正式な国名および国家の自己了解は「ローマ帝国」であった。中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人」ではなく「ローマ人」を称していた。 西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一された。帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシア化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシア人」へと変化していった。 | <!--{{参照方法}}-->
{{基礎情報 過去の国
| 略名 = 東ローマ帝国
| 日本語国名 = 東ローマ帝国
| 公式国名 = {{native name|la|Res Publica Romana|italic=no}}<ref name="sekai">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD-863212#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版 - ビザンティンていこく【ビザンティン帝国】] [[コトバンク]]. 2019年1月3日閲覧。</ref><br>{{native name|el|Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων|italic=no}}<ref name="sekai"/>
| 建国時期 = [[395年]]
| 亡国時期 = [[1453年]]
| 先代1 = ローマ帝国
| 先旗1 = Vexilloid of the Roman Empire.svg
| 先旗1縁 = no
| 先代2 = ヴァンダル王国
| 先旗2 =
| 先代3 = 東ゴート王国
| 先旗3 =
| 先代4 = ニカイア帝国
| 次代1 = オスマン帝国
| 次旗1 = Ottoman Flag.svg
| 次代2 = モスクワ大公国
| 次旗2 = Banner of the Most Merciful Savior, 1552.svg
| 次旗2縁 = no
| 次代3 = セルビア王国 (中世)
| 次代3略 = セルビア王国
| 次旗3 = Flag of Serbia (1281).svg
| 次代4 = 第二次ブルガリア帝国
| 次旗4 = Flag of the Second Bulgarian Empire.svg
| 次代5 = キプロス王国
| 次旗5 = Royal banner of Janus of Cyprus.svg
| 次代6 = ヴェネツィア共和国
| 次旗6 = Flag of Most Serene Republic of Venice.svg
| 次代7 = テオドロ公国
| 次旗7 = Coat of arms of Gothia.svg
| 次旗7縁 = no
| 次代8 =
| 次旗8 = blank.png
| 次代9 = 教皇領
| 次旗9 = Flag of the Vatican City.svg
| 次代10 = シチリア王国
| 次旗10 = Bandiera del Regno di Sicilia 4.svg
| 次代11 = フランク王国
| 次旗11 = Oriflamme_of_Constantine_VI_(version_2).png
| 次代12 = ランゴバルド王国
| 次代13 = ウマイヤ朝
| 次旗13 = Umayyad_Flag.svg
| 次代14 = ラテン帝国
| 国旗画像 = Byzantine imperial flag, 14th century according to portolan charts.png
| 国旗リンク =
| 国旗幅 =
| 国旗縁 =
| 国章画像 = Byzantine Palaiologos Eagle.svg
| 国章リンク =
| 国章幅 = 85px
| 標語 =
| 国歌名 =
| 国歌追記 =
| 位置画像 = Byzantine Empire animated.gif
| 位置画像説明 = 東ローマ帝国の版図の変遷
| 位置画像幅 = 290px
| 公用語 = [[ラテン語]]、[[ギリシア語]]<sup>([[620年]]以降<ref name="Davis p. 260">[[#refDavis1990|Davis 1990]], p. 260.</ref>)</sup>
| 首都 = [[コンスタンティノープル]]
| 元首等肩書 = [[東ローマ帝国の皇帝一覧|皇帝]]
| 元首等年代始1 = 383年
| 元首等年代終1 = 408年
| 元首等氏名1 = [[アルカディウス]]
| 元首等年代始2 = 474年
| 元首等年代終2 = 491年
| 元首等氏名2 = [[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]
| 元首等年代始3 = 527年
| 元首等年代終3 = 565年
| 元首等氏名3 = [[ユスティニアヌス1世]]
| 元首等年代始4 = 610年
| 元首等年代終4 = 641年
| 元首等氏名4 = [[ヘラクレイオス1世]]
| 元首等年代始5 = 870年
| 元首等年代終5 = 912年
| 元首等氏名5 = [[レオーン6世]]
| 元首等年代始6 = 976年
| 元首等年代終6 = 1025年
| 元首等氏名6 = [[バシレイオス2世]]
| 元首等年代始7 = 1448年
| 元首等年代終7 = 1453年
| 元首等氏名7 = [[コンスタンティノス11世パレオロゴス|コンスタンティノス11世]]
| 首相等肩書 = [[執政官]]
| 首相等年代始1 = 405年
| 首相等年代終1 = 405年
| 首相等氏名1 = [[フラウィウス・アンテミウス|アンテミウス]]
| 首相等年代始2 = 434年
| 首相等年代終2 = 434年
| 首相等氏名2 = [[アスパル]]
| 首相等年代始3 = 484年
| 首相等年代終3 = 484年
| 首相等氏名3 = [[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]
| 面積測定時期1 = 555年
| 面積値1 = 3,560,000
| 面積測定時期2 =
| 面積値2 =
| 人口測定時期1 = 457年
| 人口値1 = 16,000,000
| 人口測定時期2 = 565年
| 人口値2 = 19,000,000
| 人口測定時期3 = 775年
| 人口値3 = 7,000,000
| 人口測定時期4 = 1025年
| 人口値4 = 12,000,000
| 人口測定時期5 = 1320年
| 人口値5 = 2,000,000
| 変遷1 = [[ローマ帝国#混乱と分裂|ローマ帝国東西分割]]
| 変遷年月日1 = 395年
| 変遷2 = [[イスラム帝国]]の勢力拡大
| 変遷年月日2 = 7世紀
| 変遷3 = [[第4回十字軍]]により一旦[[コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)|滅亡]]
| 変遷年月日3 = 1204年
| 変遷4 = [[ニカイア帝国]]によって[[コンスタンティノープルの回復 (1261年)|再興]]
| 変遷年月日4 = 1261年
| 変遷5 = [[オスマン帝国]]によって[[コンスタンティノープルの陥落|滅亡]]
| 変遷年月日5 = 1453年5月29日
| 通貨 = [[ソリドゥス金貨|ノミスマ]]
| 現在 = {{GRC}}<br>{{TUR}}<br>{{MKD}}<br>{{ALB}}<br>{{MNE}}<br>{{SRB}}<br>{{BGR}}<br>{{RUS}}<br>{{UKR}}<br>{{BIH}}<br>{{HRV}}<br>{{SVN}}<br>{{ITA}}<br>{{VAT}}<br>{{FRA}}<br>{{SMR}}<br>{{ESP}}<br>{{PRT}}<br>{{MLT}}<br>{{CYP}}<br>{{LBN}}<br>{{SYR}}<br>{{PSE}}<br>{{ISR}}<br>{{JOR}}<br>{{EGY}}<br>{{LBY}}<br> {{TUN}}<br>{{DZA}}<br>{{ROU}}<br>{{MAR}}<br>{{SAU}}<br>{{GEO}}<br>{{AZE}}<br>{{ARM}}
| 注記 = * 公式な国号は「ローマ帝国」。
* 正式な成立時期はない。
}}
{{ローマの政治体制}}
{{ギリシャの歴史}}
'''東ローマ帝国'''(ひがしローマていこく)または'''ビザンツ帝国'''<ref group="注" name="Byzanz">ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名[[ビュザンティオン]]は {{lang|de|Byzantion}},帝国の呼称としては {{lang|de|Byzantinisches Reich}}(ビュツァンティニッシェス・ライヒ) が用いられるのが一般的である。</ref>、'''ビザンティン帝国'''、'''ギリシア帝国'''、'''ギリシャ帝国'''は、東西に分割統治されて以降の[[ローマ帝国]]の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は[[3世紀]]以降断続的に存在したが、一般的には西暦[[395年]]以降の東の皇帝の統治領域を指す<ref group="注">なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と[[西ローマ帝国]]とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた{{要出典|date=2023年5月}}。</ref>。皇帝府は主として[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]<ref group="注">現在の[[トルコ共和国]]の都市である[[イスタンブール]]。</ref>に置かれた<ref group="注">[[380年]]以前の皇帝府は東方では主に[[ニコメディア]]や[[アンティオキア]]に置かれた。</ref>。
5世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都[[ローマ]]に等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようになり、西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている<ref>井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』1990年p71</ref>。
同地の人々は遅くとも[[6世紀]]中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった<ref>{{cite book|和書|author=井上浩一|title=生き残った帝国ビザンティン|publisher=講談社|series=〈講談社学術文庫〉|year=2008|isbn=978-4061598669}}</ref><ref group="注">550年頃に書かれたプロコピオス『秘史』の日本語訳(2015、京都大学出版会、和田廣訳)では、「ローマ帝国」という日本語用語は60回登場しているが、原典では、それぞれ「{{lang|el|Ῥωμαίων ἀρχῆς}}」が28回(更に「全帝国」の訳で2回、「ローマ皇帝」の訳で1回)、「{{lang|el|Ῥωμαίων}}」が16回、「{{lang|el|Ῥωμαίοις}}」が9回、「{{lang|el|Ῥωμαίους}}」が2回と、原典に相当する用語がないのに日本語訳で「ローマ帝国」となっている箇所5回となっている。「{{lang|el|Ῥωμαίων ἀρχῆς}}」は、「ローマ帝国全土」のニュアンスが強いが、「ローマ帝国」以外の意味で用いられているのは二度だけ((23-1,p169)と18-20(p139))で、それには「ローマ皇帝」「ローマ帝国の支配者」の訳語が当てられている。「{{lang|el|Ῥωμαίων}}」と「{{lang|el|Ῥωμαίοις}}」「{{lang|el|Ῥωμαίους}}」は、「ローマ帝国」の意味よりも、「ローマ人」の意味の方で利用されている場合が多い(p169、23-1)</ref>。9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった<ref name="尚樹1999pp403-404">[[東ローマ帝国#尚樹 1999|尚樹1999]]、pp.403-404。</ref><ref name="オストロゴルスキー2001p257">[[東ローマ帝国#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.257。</ref><!--確認済--><ref name="井上2009p20">[[東ローマ帝国#井上2009|井上2009]]、p.20。</ref>。
ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく<ref name="尚樹1999p1">[[東ローマ帝国#尚樹 1999|尚樹1999]]、p.1。</ref>、正式な国名および国家の自己了解は「[[ローマ帝国]](<small>[[ラテン語]]</small>:{{lang|la|Res Publica Romana}}; {{Rtl翻字併記|el|[[:en:wikt:πολιτεία|Πολῑτείᾱ]] [[:en:wikt:τῶν|τῶν]] [[:en:wikt:Ῥωμαῖος|Ῥωμαίων]]|Politeia tōn Rhōmaiōn}}; ポリティア・トン・ロメオン)」であった<ref name="sekai" /><ref group="注">「我々はローマ人、この国はローマ帝国である。これがビザンツ帝国のいわば憲法であった」(井上浩一・[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』([[中公文庫]]版 P23))</ref><!--確認済-->。中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「[[ローマ人]]の土地({{lang|el|Ῥωμανία,}} {{lang|el-latn|Rhōmania,}} ロマニア)」と呼んでおり<ref group="注">もっとも初期の史料のひとつは[[アレクサンドリアのアタナシオス]]で373年の著作(杉村貞臣『ヘラクレイオス王朝時代の研究』p109)、ラテン語の最古の用例は『ローマ帝政の歴史』16巻11-7(日本語版第一巻p169註7) {{lang|la|Romaniae}} であるが、転写の際に {{lang|la|Romanae rei}} の表記が変わったとする研究者もいる(同書注)。なお、ロマニアは中世西欧では小アジアの旧ビザンツ領だと認識していたようで、第一回十字軍を提唱した1095年[[クレルモン教会会議]]における[[ウルバヌス2世]]の演説では、「トルコ人やペルシア人がロマニア(Romaniae)の土地の境界にまで押し寄せた」との文言がある([https://archive.org/stream/historiahierosol00foucuoft#page/132/mode/2up Fulcheri Carnotensis著『Historia Hierosolymitana』1-3-3,p133](フーシェ・ド・シャルトル『エルサレムへの巡礼者の事績』)なお、丑田弘忍訳[https://irdb.nii.ac.jp/01444/0000815097 「エルサレムへの巡礼者の事績」(序+第一巻)]では当該部分は「トルコ人とアラブ人が地中海にまで、即ちルームの境界の」(p7)と訳されている)が、その他の箇所では、「ニコメディアに至るまでルーム全土を手中に収めていた」(p15、『Historia Hierosolymitana』1-9-5,p180)、「ニケアを支配していたルーム(Romaniam)のスレイマン」(p17)(『Historia Hierosolymitana』1-11-4,p192)と登場するなど、小アジア側の旧ビザンツ領を示している。なお、丑田訳p14では「ギリシアのその他の市」とあり、バルカン半島を意味するように受け取れるが、原文(1-8-8,p174-5)ではバルカン半島の諸都市の名前が逐一挙げられていて、「ギリシア」という用語は登場していないなど注意を要する </ref>、また彼ら自身も[[12世紀]]頃まで{{Refnest|group="注"|13世紀以降、東ローマ帝国の民衆は「ギリシア人」を自称するようになった<ref>[[#井上2009|井上2009]]、pp.23-24。</ref><!--確認済-->。}}は「[[ギリシャ人|ギリシア人]]({{lang|el|Ἕλληνες,}} {{lang|el-latn|Hellēnes,}} エリネス)」{{Refnest|group="注"|ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる<ref>尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1999年、p.1</ref>。}}ではなく「[[ローマ人]]({{lang|el|Ῥωμαίοι,}} {{lang|el-latn|Rhōmaioi}}, ロメイ)」を称していた。
西暦[[476年]]に[[西ローマ皇帝]][[ロムルス・アウグストゥス]]が[[ゲルマン人]]の傭兵隊長[[オドアケル]]によって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]に帝位を返上して東西の皇帝権が再統一{{Refnest|group="注"|オドアケルは東ローマ皇帝によって任命されたイタリア領主として帝国の西半分を統治するという体裁をとった。ローマ人にせよ「蛮族」と呼ばれた人々にせよ、これによって帝国がローマ人と蛮族の領域とに区別されたなどという認識は持っていなかった<ref>[[#ルメルル2003|ルメルル2003]]、p.42。</ref>。}}された。帝国は一時期は[[地中海]]の広範な地域を支配したものの、[[8世紀]]以降は[[バルカン半島]]、[[アナトリア半島]]を中心とした国家となった。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシア化が進んでいったことから、同時代の西欧や[[ルーシ]]からは「ギリシア帝国」と呼ばれ、[[13世紀]]以降には住民の自称も「[[ギリシャ人|ギリシア人]]」へと変化していった<ref name="井上2009pp23-24" />。
== 概要 ==
初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、[[キリスト教]]([[正教会]])を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、ユスティニアヌス一世代には旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有し、ローマ時代の「我らの海」こと地中海の再支配すら成し遂げている。しかし、その没後には破綻した国家財政、征服と疫病で荒廃した国土だけが残され、長大な国境線を維持できず、ランゴバルド人、[[サーサーン朝]][[ペルシア]]、アヴァール人、スラヴ人、[[イスラム帝国]]により国土を侵食された。これらの外圧に対抗するため軍事費、特にテマへの俸給が国家支出の大部分を占め、そのテマも費用削減のため農民兵士が主体であったため士気が高い代わりに自立化していき、ビザンツはテマの連合国家と化した。
西欧に対する影響力は減衰の一途を辿った。[[8世紀]]末には偶像崇拝に関する問題で[[ローマ教皇]]と対立し、800年のカールの戴冠で東ローマによる宗主権すらも否認された。
領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。住民の多くが[[ギリシャ人|ギリシア系]]となり、[[620年]]には[[公用語]]も[[ラテン語]]から[[ギリシア語]]に変わった<ref name="Davis p. 260">[[#refDavis1990|Davis 1990]], p. 260.</ref>。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる<ref>[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]([[大阪市立大学]]教授)など。</ref>。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。
[[9世紀]]にはアッバース朝との戦争も落ち着いて、ニケフォロス一世による徴税強化や商業活性化で回復させた財政を背景に、テマ長官から皇帝に権力を取り返す試みが功を奏してくる。高級官僚やテマの高官は貴族化していたが、「皇帝の奴隷」と称されるように皇帝はそれを抑え込み、バシレイオス2世に代表されるビザンツ専制君主となった。[[11世紀]]前半にバシレイオス2世はブルガール人を打ち破り、[[バルカン半島]]や[[アナトリア半島]]東部、南イタリアを奪還し、東地中海の大帝国として栄えた。
バシレイオス2世の死後、ビザンツ帝国は徐々に衰退していった。バシレイオス2世の後継者問題に続く内乱期とそれにかこつけたプロノイアを保持する貴族の自立は、国家財政を一気に破綻に追い込んだ。ノルマン人によって南イタリアを、セルジューク朝によって東部アナトリアを失った。
12世紀にはブルガリア、セルビアなどバルカン半島のスラヴ人農民たちは、プロノイアを保持していた貴族反乱らに迎合して独立していく。さらに[[第4回十字軍]]がとどめを刺し、東ローマ帝位はラテン帝国に奪われ、ビザンツ帝国は一旦滅亡する。
第4回十字軍以後、ラテン帝国も崩壊し、ビザンツ亡命政権と十字軍国家とルーム・セルジューク朝で旧ビザンツ世界はバラバラとなった。その後、モンゴル帝国の圧迫に乗じ、亡命政権のひとつ[[ニカイア帝国]]がコンスタンティノポリスを奪還し十字軍勢力を駆逐するが、スラヴ国家の侵略と帝位請求の内乱に悩まされ続けた。パライオロゴス朝ルネサンスなど文化的な興隆を見ながら、領土は次々と縮小し、隣国のオスマン帝国の保護下に落ちていった。この頃のビザンツ帝国の自称はローマ人から移り変わり、古代ギリシャ人の末裔としてヘレネスを名乗り出している。そして[[1453年]]、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、[[オスマン帝国]]の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。
[[古代ギリシア]]文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧の[[ルネサンス]]に多大な影響を与え、「[[ビザンティン文化]]」として高く評価されている。また、近年はギリシアだけでなく、イスラム圏であった[[トルコ]]でもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。
{{Clearleft}}
== 名称 ==
[[ファイル:Follis-Leo VI-sb1729.jpg|thumb|皇帝[[レオーン6世]](在位:886年 - 912年)の[[銅貨]]。裏面には "{{lang|el|+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn}}"(レオーン、神に(忠実なる)[[ローマ人]]の[[バシレウス]])と書かれている。]]
この帝国(およびその類似概念)は、いくつかの名称で呼ばれている。
; 東ローマ帝国
:古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀の[[テトラルキア]]以降には、帝国をいくつかの領域に分けて複数の皇帝によって分担統治するという体制がとられることとなった。[[395年]]の[[テオドシウス1世]]の死後に、長男[[アルカディウス]]が東方領土を、次男[[ホノリウス]]が西方領土を担当するようになって以降、帝国の「西の部分」と「東の部分」とはそれぞれ別個の途を歩むこととなった{{Refnest|group="注"|なお、当初はあくまでもそれまでの分担統治同様、一つの帝国を二人で分担統治する体制と捉えられていた。例えば、443年に地震で破損したローマ市の[[コロッセオ]]の修復が行われているが、その際にコロッセオに設置されたラテン語碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス([[テオドシウス2世]])とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス([[ウァレンティニアヌス3世]])のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている<ref>[[本村凌二]]編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』(研究社 2011年)P232-233</ref>。}}。帝国の東西分担統治が常態化して以降の帝国の「東の部分」を指して「東ローマ帝国」<ref group="注">「東のローマ帝国」ではなく「ローマ帝国の東の部分」という意味である。</ref>という通称が使われている。
; ローマ帝国
:[[3世紀]]末から[[4世紀]]前半にかけてローマ帝国の中心は[[オリエント|東方世界]]へと移行した。当時「皇帝」は世界に一人しかおらず、「皇帝」とは「ローマ皇帝」であることが自明であったため、わざわざ「ローマ皇帝」と名乗る必要もなかった<ref group="注">井上浩一は「ユスティニアノス一世は皇帝Imperator,Augstusとだけ名乗った。[[7世紀]]の[[ヘラクレイオス]](在位[[610年]]‐[[641年]])や[[8世紀]]の[[レオーン3世]](在位[[717年]] - [[741年]])も同様である。彼らはわざわざ「ローマ皇帝」と名乗っていないし、名乗る必要もなかったのである」([[#井上2009|井上2009]]p20)と記載している。これはユスティニアヌス以前も同様で、例えば当時の皇帝からペルシア王への書簡がアンミアヌス・マルケリヌス『ローマ帝政の歴史Ⅰ』p216に引用されているが、皇帝は「陸海の勝者コンスタンティウス、永劫のアウグストゥス」と名乗っているだけで、「ローマ皇帝」とは名乗っていない。550年頃著されたプロコピオス『秘史』(以下、引用箇所は京都大学学術出版会和田廣訳)でも、無数に登場する「皇帝」は、わずかな例外以外「皇帝{{lang|el|αὐτοκράτωρ/βασιλεὺς}}」単独で用いられている。「ローマ皇帝」そのものは、四つの用語で登場している。即ち、{{lang|el|Ῥωμαίων ἄρχοντος}},(ローマ人のアルコン、13-23(p107))、{{lang|el|Ἰουστινιανὸς Ῥωμαίων αὐτοκράτωρ}}(ローマ皇帝ユスティニアヌス、26-30(p198))、{{lang|el|Ῥωμαίων ἀρχὴν}}(23-1,p169)、{{lang|el|Ῥωμαίων αὐτοκράτορες}}(30-2,p218)である({{lang|el|Ῥωμαίων ἀρχὴν}}は18-20(p139)では「ローマ帝国の支配者」と訳されていて、事実上「ローマ皇帝」を意味する箇所となっている。これを加えれば五か所)。{{lang|el|Ῥωμαίων ἀρχὴν}}はこの箇所以外は総て「ローマ帝国」を表す用語として用いられている。なお、『秘史』(2015)では{{lang|el| Ῥωμαίοις}}6-11(p51)や、{{lang|el|βασιλέα}}24-27(p182)とだけあるところを、日本語訳では「ローマ皇帝」と訳しているので注意が必要である({{lang|el|Ῥωμαίοις}} は通常は「ローマ人」を意味する用語)。このように、『秘史』に登場する「ローマ皇帝」という用語は登場回数も少ない上に表記にゆれがあり、称号として定着していた用語とは言い難いが、これはタキトゥスからアンミアヌス・マルケリヌスに至るまでの古代ローマの文学作品と共通している。なお、ディオクレティアヌスについても、26-41(p202)で{{lang|el|Διοκλητιανὸς Ῥωμαίων}} と登場しており、直訳すれば「ローマ人のディオクレティアヌス」となってしまうが、ここでの{{lang|el|Ῥωμαίων}}は「ローマ皇帝」の意味で用いられている。『秘史』では都市ローマは4回言及されているが、いずれも、{{lang|el|Ῥώμης}}となっていて、「ローマ帝国」とは異なった用語となっている)。{{lang|el|Ῥωμαίων ἄρχοντος}}は、principem Romanumの訳語である可能性がある(ケンタッキオー大学作成の文書[https://uknowledge.uky.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1063&context=history_etds ALL THAT GLITTERS IS NOT GOLD: THEORIES OF NOBLESSE OBLIGEIN CAROLINGIAN FRANCIA] のp32に、"Society of Biblical Literature Greek New Testament"というギリシア語聖書における{{lang|el|ἄρχων}}がヒエロニムスのウルガタ聖書のprincepsに対応しているとの記載がある。これが正しいとすれば、{{lang|el|Ῥωμαίων ἄρχοντος}}は「ローマの元首」ということになる。</ref>。また、「ローマ人」の概念も、都市ローマとの結びつきが薄れ、ローマ帝国全土の住民の意味に変貌していた<ref group="注">「212年のカラカラ帝の立法<<Constitutio Antoniniana>>をもって、<<deditici>>を除くローマ帝国の全住人にローマ市民権が与えられて以来、「ローマ人」概念はもはや都市ローマとの結びつきを失って、ローマ帝国に居住するすべての市民を意味する言葉に変じていたのである」(渡辺金一著『ビザンツ経済社会史研究』p83、「三世紀以降「ローマ人」は、単なる都市の名称とは関係なく、「ローマ帝国の臣民」の意味で理解されることになった。なればこそローマ帝国の首府がローマ市を離れ、ニコメディアを経てコンスタンティノポリスへ移った後にも、「ローマ人」の名辞は帝国臣民の意味を保ちつつ、全帝国の自由民を対象に適用された」[[#杉村 1981|杉村1981]]pp139-140。杉村1981の第三章二節第一項の「「ローマ人」の概念」(pp138-146)は、後期ローマ帝国期における「ローマ人」概念を論じている。なお、東西分裂期の用語法については、註25(pp145-46)で解説されている。以下註25の全文「なお国民として「ローマ人」を論ずる際に、三九五年におけるローマ帝国東西二分問題にも注意しなければならない。三九五年以後、ローマを中心とする帝国の「西の部分 pars occidentalis」の住民は「西ローマ人{{lang|el|οι έσπέριοι Ρωμαίοι}}」と呼ばれたのに対し、帝国の「東の部分 pars orientalis」の住民は「東ローマ人{{lang|el|οι έώοι Ρωμαίοι}}」と呼ばれた。この限りでは一応「西ローマ」と「東ローマ」という概念は用いられたが、「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスに君臨した皇帝を指し、ローマで君臨した皇帝に対しては「ローマにおける皇帝{{lang|el|ό βασιλευς έν Ρώμη}}」と呼ばれた。この二種類の帝位号は四七六年まで適用されたに過ぎず、ローマ帝国がその領域を西の部分で失った後は、もはや「ローマ人」を東西に分けて考える必要がなくなり、その意味でかれらはふたたび「ローマ人」の名で統一して呼ばれた」</ref>。更に、コンスタンティノープルが建設されたからといって直ちにコンスタンティノープルの権威が都市ローマを上回ったわけではないため、「コンスタンティノープル帝国」などという用語は発生しなかった<ref>ローマへの対抗意識は既に4世紀末には[[テミスティオス]]の演説にも見て取ることができる[[#井上1990|井上1990]]、p.71。</ref>。しかし410年にローマが陥落すると、次第にコンスタンティノープルでは「新しいローマ」という自意識が育ち始めた。
; ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国
:この帝国の7世紀頃以降は文化や領土等の点で[[ローマ帝国|古代ローマ帝国]]との違いが顕著であるため、[[16世紀]]になると<ref name="井上2009pp24-25">[[#井上2009|井上2009]]、pp.24-25。</ref><ref name="オストロゴルスキー2001pp12-13">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、pp.12-13。</ref><!--確認済-->、便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになった。16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、[[神聖ローマ帝国]]の[[人文主義者]][[メランヒトン]]の弟子{{仮リンク|ヒエロニムス・ヴォルフ|en|Hieronymus Wolf}}([[1516年]]~[[1580年]])の功績とされる<ref name="オストロゴルスキー2001pp12-13" /><!--確認済--><ref name="井上2009pp24-25" /><!--確認済--><ref>[[#南雲2018|南雲2018]]、pp.135-136。</ref><!--確認済-->。ヴォルフはビザンツ史が単純なギリシア史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、[[ヴィルヘルム・クシランダー|ヴィルヘルム・ホルツマン]]、{{仮リンク|ダヴィッド・ヘッシェル|en|David Hoeschel}}、{{仮リンク|ヨハネス・レウンクラヴィウス|de|Johannes Löwenklau}}、{{仮リンク|ドゥニー・プトー|en|Denis Pétau}}、{{仮リンク|ヴルカニウス|en|Bonaventura Vulcanius}}、{{仮リンク|メウルシウス|en|Johannes Meursius}}、{{仮リンク|レオ・アラティウス|en|Leo Allatius}}ら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従った<ref name="オストロゴルスキー2001pp12-13" /><!--確認済-->。これ以降、学問領域においては[[近代]]を経て現代に至るまで一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けている。これらの名称は[[コンスタンティノポリス]]の旧称[[ビュザンティオン]]<ref group="注">中世・現代ギリシア語ではビザンティオン。</ref>に由来し、「ビザンツ」は[[ドイツ語]]の名詞 {{lang|de|Byzanz}}<ref group="注" name="Byzanz" />、「ビザンティン」は[[英語]]の形容詞 {{lang|en|Byzantine}}、「ビザンティオン」は[[ギリシア語]]の名詞をもとにした表記である。日本においては、[[歴史学]]では「ビザンツ」が、[[美術]]・[[建築]]などの分野では「ビザンティン」が使われることが多く、「ビザンティオン」は英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている<ref group="注">例えば、清水睦夫『ビザンティオンの光芒―東欧にみるその文化の遺蹤—』(晃洋書房、1992年)。</ref>。ただし、これらの呼称は帝国が「古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提として」おり<ref group="注" name="井上2009p5" /><!--確認済-->、7世紀頃以降の帝国を[[古代末期]]のローマ帝国(後期ローマ帝国)と区別するために使われることが多い。例えば{{仮リンク|オックスフォード・ビザンツ事典|en|Oxford Dictionary of Byzantium}}や人気のある通史である[[ゲオルク・オストロゴルスキー]]の『ビザンツ帝国史』や[[A.H.M.ジョーンズ]]の『後期ローマ帝国』では<!-- 「古代ローマ帝国の東方領土は602年から610年の間に消失したとされ」の文言は、南雲論文に登場していないため、コメントアウト。オストロゴルスキーとジョーンズの著作の出典が明記されるのであれば復活する-->7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われている<ref name="西洋古代史研究2012南雲">南雲泰輔[ローマ帝国の東西分裂をめぐって]『西洋古代史研究 第12号』p30,2012年</ref><ref group="注">日本では、一部の学者で「中世ローマ帝国」という用語が利用されている。[[梅田良忠]]が1958年の『東欧史』(山川出版社)で提唱し、渡辺金一が1980年に『中世ローマ帝国』(岩波新書)を出版、大月康弘が2018年に[http://id.nii.ac.jp/1109/00005198/ 「中世ローマ帝国の社会経済システム」]を書いているが、いずれも一般化はしていない。なお、中世ドイツ史研究者の三佐川亮宏は神聖ローマ帝国を中世ローマ帝国と書いていることがある(『ドイツ史のはじまり』あとがきp445(創文社、2013年)</ref>。
; ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国
:古代ローマの人々は同地の人々を指して「ギリシア人」と呼んでおり、それは同地の人々が「ローマ人」を自称するようになった6世紀以降にも変わりはない。[[カール大帝]]の戴冠によって[[西ローマ帝国]]にローマ皇帝が復活して以降には、中世の西欧は一貫してビザンツを「ギリシア」と呼んだが、そこには「西欧こそが古代ローマ帝国の継承者であり、コンスタンティノープルの皇帝は僭称者である」という主張が込められていた<ref name="井上2009pp19-22">[[#井上2009|井上2009]]、pp.19-22。</ref>{{Refnest|group="注"|しかしたとえば、カールの伝記を記した[[アインハルト|エインハルドゥス]]は、東の皇帝を呼ぶのに「コンスタンティノープルの皇帝」「ローマ人の皇帝」「ギリシア人の皇帝」とまちまちであった<ref name="井上2009pp19-22" />。}}。東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「[[ローマ皇帝]]」だったのである。13世紀の[[パレオロゴス朝ルネサンス]]以降には、東ローマ帝国の人々も自らを指して「{{lang|el|Έλληνες}}, ヘレーネス, イリネス(ギリシア人)」と呼ぶようになっていった<ref name="井上2009pp23-24">[[#井上2009|井上2009]]、pp.23-24。</ref><!--確認済-->。また、東ローマ帝国は[[ルーシ]]の記録でも「グレキ(ギリシア)」と呼ばれており、東ローマ帝国の継承者を自称した[[ロシア帝国]]においても東ローマ帝国はギリシア人の帝国だと認識されていた。例えば[[桂川甫周]]は著書『[[北槎聞略]]』において、[[蘭学|蘭書]]『魯西亜国誌』({{lang|nl|''Beschrijving van Russland''}} ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。
== 歴史 ==
[[ファイル:Imperium Romanum mapa.png|thumb|ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分は[[トラヤヌス]]帝時代の[[ローマ帝国]]最大版図。赤線は東西ローマの分割線]]
{{main2|歴代の皇帝|東ローマ帝国の皇帝一覧}}
東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、[[4世紀]]から[[15世紀]]までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った<ref group="注">[[日本の歴史|日本史]]でいうと[[古墳時代]]から[[室町時代]]に相当する。</ref>。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]断絶([[1057年]])後を後期とする説がある。ただし、いつからいつまでを東ローマ帝国あるいはビザンツ帝国の歴史として扱うかについては何通りもの考え方があり定説はない<ref name="hidemura2006">[[秀村欣二]]「古代・中世境界論」『秀村欣二選集 第4巻』、2006年</ref><ref>[[#南雲2018|南雲2018]]、p.134。<!--確認済 代表的な開始年6つの他に「終焉は1204年か、それとも1453年か」ともあり--></ref><ref name="井上・栗生澤2009pp31-32">[[#井上・栗生澤2009|井上・栗生澤2009]]、pp.31-32。</ref><!--確認済-->。本記事で東ローマ帝国の歴史として扱っている歴史の範囲ですら、単一の帝国史であるのか異なる複数の帝国史<ref group="注">例えばローマ帝国、ビザンツ帝国、[[ラテン帝国]]、[[ニカイア帝国]]など。</ref>の合成であるのかについては、連続説と断絶説とに分かれて長らく議論が続けられている<ref>[[#井上2009|井上2009]]<!--井上が指摘しているのはローマ帝国とビザンツ帝国に関する断絶/連続節だけである(ラテン帝国、ニカイア帝国については言及していない)-->、p.363。</ref><ref name="オストロゴルスキー2001pp109-112">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、pp.109-112。</ref><ref name="ルメルル2003pp84-85">[[#ルメルル2003|ルメルル2003]]、pp.84-85。</ref><ref name="井上・栗生澤2009pp31-32" /><ref group="注" name="井上2009p5">「ビザンツ帝国とは古代のローマ帝国とはまったく異なる国家であり、その文明や社会も[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ|ローマ]]時代とは性格を替えていたとする見解も有力である。そもそも『ビザンツ』という呼び方自体、古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提としていた」([[#井上2009|井上2009]]、p.5)</ref><!--確認済--><ref group="注"><!--確認済-->「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝国は滅び、半独立政権の[[テマ制|テマ]]が各地に成立した。そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する。」([[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]・[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』([[中公文庫]]版 P71-72))</ref><!--確認済-->。
=== 前史 ===
{{Seealso|[[ローマ帝国#混乱と分裂|ローマ帝国の混乱と分裂]]|テトラルキア|ウァレンティニアヌス朝}}
いつからを東ローマ帝国の歴史とするかについては、たとえば主なものとして下記に挙げる考え方がある。
第一には、[[ディオクレティアヌス]]が皇帝権を分割し、[[オリエント|東方]]にもローマ皇帝(東ローマ皇帝)が誕生して以降の東ローマ皇帝の歴史を東ローマ帝国の歴史と同一視する考え方がある。例えば歴史家の[[尚樹啓太郎]]は、著書『ビザンツ帝国史』の序説をディオクレティアヌス期の解説にあて<ref>[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、pp.4-20。</ref>、『ビザンツ帝国史年表』をディオクレティアヌスが即位した[[284年]]より始めている<ref>[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、p.1043。</ref>。ただし、ディオクレティアヌスの[[テトラルキア]]は、首都[[ローマ]]を防衛するために4人の皇帝が首都ローマを離れて4か所の前線に留まるという職務の分担体制であり、地理的な分割は想定されていなかった<ref name="レミィ2010pp47-48">[[#レミィ2010|レミィ2010]]、pp.47-48。</ref>。
次に、[[コンスタンティヌス1世]]が[[コンスタンティノポリス]]を建設した[[330年]]を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある<ref>[[#ルメルル2003|ルメルル2003]]、p.5。</ref>。コンスタンティヌス1世は、[[古代ローマ]]の[[元老院 (ローマ)|元老院]]とは異なる元老院をコンスタンティノポリスに建設することでローマ帝国から政治的に独立し、東方の地にオリエント的な「ローマ皇帝の帝国」(東ローマ帝国)を建国したと解釈され、[[6世紀]]以降の東ローマ帝国の人々も、この330年を自分たちの国の建国年と考えていた。著名なビザンツ史学者[[ゲオルク・オストロゴルスキー]]は、ビザンツ帝国とは[[7世紀]]に誕生した新興帝国であって7世紀初頭に滅亡した東ローマ帝国とは異なる帝国であるとする断絶説を唱えているが<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、pp.110-112。</ref><!--確認済--><ref name="西洋古代史研究2012南雲" />、その著書『ビザンツ帝国史』は{{仮リンク|テトラルキアの内戦|en|Civil wars of the Tetrarchy}}が終結した[[324年]]から書き始めている。ただし、建設された当時のコンスタンティノポリスには[[執政官]]、[[プラエトル|法務官]]、[[護民官]]、[[クァエストル|財務官]]、首都長官といった首都機能は整備されておらず、帝国の首都機能は依然としてローマに集中しており、コンスタンティヌス1世の後継者達もコンスタンティノポリスに常住したわけではなかった。330年の時点ではコンスタンティノポリスは帝国の一地方都市の域を出ておらず、コンスタンティノポリスが新帝国の首都となるという認識は同時代にはなかったようである<ref>[[井上浩一]]『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書、1990年,p69</ref><!--確認済-->。今日の歴史学では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている<ref>[[#南川2018|南川2015]]<!--リンク先がない-->、pp.15-16</ref><ref>[[#井上2009|井上2008]]、pp.62-73</ref><ref>[[#根津2008|根津2008]]、p.7。</ref>。
次に、[[ウァレンティニアヌス1世]]が皇帝権の東西分割を行った[[364年]]を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある<ref>『The Oxford Classical Dictionary 4th ed.』Rome(History)、2012年</ref><ref>[[米田利浩]]「古代末期のギリシア文化」『ギリシア文化の遺産』南窓社、1993年</ref><ref>[[根津由喜夫]]『ビザンツの国家と社会』山川出版社、2008年</ref>。唯一の正帝となった[[ウァレンティニアヌス1世]]は、[[364年]]に弟[[ウァレンス]]を東方正帝として指名し、帝国の東西分担統治を開始した。東方正帝とされたウァレンスの即位10周年式典は、首都ローマではなくウァレンスが拠点としていた[[アンティオキア]]市で開催された<ref>[[#南雲2018|南雲2018]]、p.156。</ref><!--確認済-->。後述する[[テオドシウス朝]]の分担統治も制度上はウァレンティニアヌスが開始した分担統治をそのまま引き継いだものであり、帝権分割の視点から言えば[[364年]]こそが帝国にとって重要な転換点であった<ref>[[小田謙爾]]「解体前夜のローマ帝国」『古代地中海世界の統一と変容』青木書店、2000年</ref>とされる。フランスの古代史家{{仮リンク|アンドレ・ピガニオル|fr|André Piganiol}}は、この時代に初めて「帝国のあらゆる資源」が分割され、帝国東部がローマ帝国本土から明瞭に切り離されたのだとしている。しかし[[ウァレンティニアヌス朝]]の時代には、テトラルキアや[[コンスタンティヌス朝]]の時代あるいは後の[[テオドシウス朝]]の時代と比べると東西宮廷の関係は極めて良好であり、全帝国に跨がるような軍事行動も活発だった。例えば[[378年]]に[[ハドリアノポリスの戦い]]で東帝ウァレンスが戦死した後に東方領土を再興したのも、西帝[[グラティアヌス]]によって派遣されたテオドシウス、[[リコメル]]、[[フラウィウス・バウト|バウト]]、[[アルボガスト (軍人)|アルボガスト]]といった西側の将軍たちだった。
次に、[[テオドシウス1世]]が自身の死に際して彼の二人の息子達([[アルカディウス]]と[[ホノリウス]])に帝国の半分ずつを分担統治させた[[395年]]をもって東ローマ帝国の始まりとする考え方があり、本記事もこの考え方に基づいて執筆されている。ただしテオドシウスは前述のコンスタンティヌス1世やウァレンティニアヌス1世のように「唯一の正帝」になったことはなく、制度上はテオドシウスの代に何らかの統一や分割が行われたわけではなかった。テオドシウスの死後も帝国の東西は同一の[[執政官]]の下で運営され、法律は東西皇帝の連名で発布された。また、アルカディウスとホノリウスの地位あるいはテオドシウス自身の地位もウァレンティニアヌスが開始した分治制度によったものであり、東西いずれかの皇帝が没した際には、その後継者が指名されるまでは残り一方の存命の皇帝が東西の両地域を統治することとされていた。これらの理由から[[20世紀]]以降の[[歴史学]]では、アルカディウスとホノリウスによる分割相続には何ら新しい意味合いはなく<ref>ゲオルク・オストロゴルスキー著、訳)[[和田廣]]『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年</ref>、それは過去に幾度となく行われてきた単なる分治の一つにすぎない<ref>[[弓削達]]『永遠のローマ』講談社学術文庫、1991年</ref>との評価をされることが多い。一方で、結果としてみるならば、テオドシウスからアルカディウスへの帝位継承による王朝理念の具現が、東地域に西地域とは異なる歴史を歩ませることになった<ref group="注">古代ローマにおいて皇帝とは、その職務に相応しいとみなされた実力者が指名されるもので、無能とみなされた皇帝は暗殺などの手段によって帝位を剥奪されるのが伝統であったが、帝国東部においてはアルカディウスが実に20年以上にも渡り帝位を維持し、その死を待って[[テオドシウス2世]]に帝位が継承された。一方で古代ローマの伝統を色濃く残した帝国西部においては、ホノリウスの帝位は元老院によって否定され、対立皇帝や短命皇帝が相次ぎ、5世紀末には西方正帝の地位そのものが廃止された。</ref>のだとする評価もある{{Refnest|group="注"|ただし井上浩一は6世紀以前には王朝という観念は薄かったとしている<ref>[[#井上2009|井上2009]]、p.372<!--確認済-->。</ref>。}}。特に、テオドシウス1世が東方領土を次男ホノリウスにではなく長男[[アルカディウス]]に担当させたことは幾分かは帝国の未来を象徴する出来事でもあった<ref name="オストロゴルスキー2001pp76-77">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、pp.76-77。</ref><!--確認済-->。なぜならそれまでは、たとえ法的には東西両帝が同格とされていたにしても意識の上では西方の皇帝が東方の皇帝よりも格上であるという認識が依然として強かったからである。[[コンスタンティヌス1世]]は二人の妻の長男をともに西方の副帝として指名していたし<ref name="オストロゴルスキー2001pp76-77" /><!--確認済-->、東方担当とされた[[コンスタンティウス2世]]も唯一の正帝となった後には西方の[[メディオラヌム]]を拠点とした。[[ウァレンティニアヌス1世]]と[[ウァレンス]]の兄弟でも西方を確保したのは兄のウァレンティニアヌスであったし<ref name="オストロゴルスキー2001pp76-77" /><!--確認済-->、テオドシウスに仕えた将軍[[アルボガスト (軍人)|アルボガスト]]もテオドシウス1世の二人の息子のうち西方の皇帝になるのは長男のアルカディウスであろうと考えていた。そのような時代にあって西方領土の最も辺境の地から登場してきたテオドシウス1世は、長男アルカディウスを東方担当の皇帝とすることによって疑うべくもなく東方領土に優位を与えているのである<ref name="オストロゴルスキー2001pp76-77" /><!--確認済-->。
より遅い年代としては602年から610年にかけてのローマ帝国による東方支配の終焉や[[800年]]の[[カール大帝]]の戴冠による帝国の「分裂」を始点とする説もある<ref>[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、p.3。</ref><ref>[ヘラクレイオス王朝とローマ帝国の終焉]([[#ルメルル2003|ルメルル2003]])</ref>。特に前者の年代は[[古代末期]]論との親和性が高く、古代末期を扱う多くの書籍で採用されている。少なくとも当時の人々にとって、帝国が東西に分裂しているという認識は800年のカール戴冠以前には存在しなかったようである<ref>[[#渡辺1980|渡辺1980]]、pp.43-44。</ref>。
上記いずれの年代も何らかの意味では歴史の転換点とみなすことができ、またそれが他の年代を帝国史の始点とすることに対する反対論拠ともなっている<ref name="hidemura2006" />。
==== 年表 ====
[[378年]]、皇帝[[ウァレンス]]が[[ハドリアノポリスの戦い]]([[ゴート戦争 (376年–382年)|ゴート戦争]])で敗死。
[[390年]]、[[ゴート族]][[:de:Butherich|Buthericus]]の逮捕のために、[[テオドシウス1世]]が派遣した軍による[[テッサロニカの虐殺]]が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。[[:en:List of massacres in Greece]]を参照。)
=== 前期(395年 - 610年頃) ===
==== 再興と挫折 ====
[[ファイル:Meister von San Vitale in Ravenna 004.jpg|thumb|180px|ユスティニアヌス1世]]
{{see_also|ユスティニアヌス王朝|民族移動時代}}
本項では、ローマ帝国の[[オリエント|東]][[オクシデント|西]]両地域を実質的に単独支配した最後の皇帝となった[[テオドシウス1世]]が、[[395年]]の死に際し、長男[[アルカディウス]]に帝国の東半分を、次男[[ホノリウス]]に西半分を分担させた時点をもって「東ローマ帝国」の始まりとする。
皇帝[[テオドシウス2世]]([[401年]] - [[450年]])は、[[パンノニア]]に本拠地を置いた[[フン族]]の王[[アッティラ]]にたびたび貢納を強いられた。それに対抗する手段の一つとして、首都コンスタンティノポリスを囲うコンスタンティヌスの城壁を拡張し([[テオドシウスの城壁]])て堅固な防備を敷いた。また431年には[[エフェソス公会議]]を開き、コンスタンティノポリス総主教であった[[ネストリウス]]を筆頭に主張する[[ネストリウス派]]を異端としてキリスト教解釈の論争の解決を試みた。政治面では、312年以降のローマ皇帝の発した勅法集である[[テオドシウス法典]]を編纂し帝国全土(西ローマ帝国内含む)に発布した。
皇帝[[マルキアヌス]]([[450年]] - [[457年]])は、[[451年]]に[[カルケドン公会議]]を開催し、449年の[[エフェソス強盗会議]]以来問題となっていた{{仮リンク|エウテュケス|en|Eutyches}}の唱える{{仮リンク|エウテュケス主義|en|Eutychianism}}を、当時教皇であったレオ1世の意見を考慮して異端とするとともに、[[単性説]]やネストリウス派を改めて異端としてニカイア信条を強調し、ローマ教会との対立を避けた。[[453年]]に[[アッティラ]]が急死するとフン族は急速に弱体化し、フン族への献金を打ち切った。
マルキアヌスが急死すると、皇帝には[[トラキア人]]の[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]([[457年]] - [[474年]])が据えられたが、[[アラン人]]の[[パトリキ]]で[[マギステル・ミリトゥム]]だった[[アスパル]]の傀儡であった。しかし、[[471年]]にアスパル父子を殺害して実権を得ることに成功した。
[[西ローマ帝国]]での皇帝権は[[ゲルマン人]]の侵入で急速に弱体化していく。[[476年]]に{{仮リンク|東ゲルマン族|en|East Germanic tribes}}の[[スキリア族]]の[[オドアケル]]は西ローマ皇帝[[ロムルス・アウグストゥルス]]を退位させ、自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]([[474年]] - [[491年]])に帝位を返上した。東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて古代後期時点でのローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝となった。オドアケルは東ローマ皇帝の[[宗主国|宗主権]]を認めてローマ帝国内のイタリ領主として任命され、皇帝の代官としてローマ帝国の本土であるイタリア半島を支配した。
西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は
* [[アナトリア]]・[[歴史的シリア|シリア]]・[[エジプト]]のような、ゲルマン人の手の届かない地域に豊かな[[穀倉地帯]]を保持していた。対する西ローマ帝国は穀倉地帯である[[シチリア]]を、ゲルマン人に奪われた。
* アナトリアの[[イサウリア]]人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいた。
* [[西ゴート人]]や[[東ゴート人]]へ貢納金を払って西ローマ帝国へ移住させた。ただし、これによって西ローマ側の疲弊は進んだ。
* 首都コンスタンティノポリスには整備された堅固な城壁があった。
ことなどが挙げられる。
[[ファイル:Hagia Sophia Mars 2013.jpg|thumb|[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]<br/>周囲の[[ミナレット|尖塔]]は[[オスマン帝国]]時代のもの]]
しかし[[488年]]にイタリアの統治方針についてゼノンとイタリア領主オドアケルが対立したことがきっかけとなり、東ローマ皇帝ゼノンがオドアケル追討を命じた。[[489年]]に[[東ゴート族]]の[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]がイタリア侵攻を開始した。[[491年]]、皇帝ゼノンが急死し、皇后アリアドネは[[アナスタシウス1世]]([[491年]] - [[518年]])と結婚して皇帝に据え、混乱を防いだ。[[493年]]にオドアケルは暗殺され、テオドリックがイタリアの[[総督]]および[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|道長官]]に任命された。テオドリックは[[497年]]にアナスタシウス1世より[[イタリア王]]を名乗ることが許され、ここに[[東ゴート王国]]([[497年]]-[[553年]])が成立した。ただし東ゴート王国の宗主権はものとされ、民政は引き続き西ローマ帝国政府が運営し、立法権は東ローマ皇帝が行使した<ref>[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、pp.157。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.120。</ref><ref>[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.84。</ref>。
[[アナスタシウス1世]]の下で東ローマ帝国は力を蓄えたが、その一方で、単性論寄りの宗教政策によってカトリック教会と対立が再び表面化した。[[502年]]の[[アナスタシア戦争]]が長きに渡る[[サーサーン朝]]との{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争|en|Byzantine–Sassanid Wars}}の発端となった。アナスタシウス1世が急死すると、次の[[ユスティヌス1世]]([[518年]] - [[527年]])は[[ローマ教皇]]との関係修復に腐心することになった。
6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]([[527年]] - [[565年]])の時代には、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊した。一方、名将[[ベリサリウス]]の活躍により旧西ローマ帝国領の[[イタリア半島]]・[[北アフリカ]]・[[イベリア半島]]の一部を征服し、[[533年]]の[[アド・デキムムの戦い]]で[[ヴァンダル族]]を破って[[カルタゴ]]を奪還すると、[[ヴァンダル戦争]]([[533年]] - [[534年]])で[[地中海]]沿岸の大半を再統一することに成功した。特にこの時期、[[442年]]([[455年]])以来[[東ゴート族|東ゴート人]]に占領されていた旧都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。[[528年]]にトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『[[ローマ法大全]]』の編纂や[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]の再建など、後世に残る文化事業も成したが、[[529年]]にはギリシアの多神教を弾圧し、[[プラトン]]以来続いていた[[アテネ]]の[[アカデメイア]]を閉鎖に追い込み、数多くの学者がサーサーン朝に移住していった。
[[535年]]のインドネシアの[[クラカタウ]]大噴火の影響で{{仮リンク|535年から536年の異常気象現象|en|Extreme weather events of 535–536}}に見舞われた。イタリア半島においては[[ゴート戦争]]([[535年]] – [[554年]])が始まる。[[543年]]、[[黒死病]]({{仮リンク|ユスティニアヌスのペスト|en|Plague of Justinian}})。{{仮リンク|ラジカ王国|en|Lazica}}をめぐる[[サーサーン朝]]ペルシアとの抗争({{仮リンク|ラジカ戦争|en|Lazic War}})で手がまわらなくなると、[[スラヴ人]]([[542年]])・[[アヴァール]]([[557年]])などの侵入に悩まされた。[[546年]]に東ゴート軍は、[[イサウリア]]人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時の[[ローマ略奪 (546年)|ローマ略奪]]と重税によって、いわゆる「ローマの元老院と市民」([[SPQR]])が崩壊し、[[古代ローマ]]はこの時滅亡したのだと主張する学者もいる{{誰|date=2019年9月}}。[[552年]]に[[ナルセス]]将軍が派遣され、[[ブスタ・ガロールムの戦い]]({{lang-el|Μάχη των Βουσταγαλλώρων}}、{{lang|en|Battle of Busta Gallorum}}、タギナエの戦い/{{lang-it|Battaglia di Tagina}}, {{lang-en|Battle of Taginae}})で[[トーティラ]]を敗死させ、東ゴートは滅亡した。翌年、イタリア半島は平定された。
[[565年]]にユスティニアヌス1世が没すると、[[568年]]には[[アルプス山脈]]を越えて南下したゲルマン系[[ランゴバルド人]]によって[[ランゴバルド王国]]が北イタリアに建国された。[[558年]]、[[突厥]]の西面(現[[イリ]])の[[室点蜜]]は[[サーサーン朝]]の[[ホスロー1世]]との連合軍で[[エフタル]]を攻撃し、[[567年]]頃に室点蜜はエフタルを滅ぼした。その後、室点蜜とホスロー1世の関係が悪化し、[[568年]]に室点蜜からの使者が東ローマ帝国を訪れた。[[572年]]から始まった{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)|en|Byzantine–Sassanid War of 572–591}}で、東ローマ帝国もサーサーン朝に対抗する同盟相手を求めていたため、[[576年]]に[[達頭可汗]]にサーサーン朝を挟撃することを提案した。[[588年]]、{{仮リンク|第一次ペルソ・テュルク戦争|en|First Perso-Turkic War}}でサーサーン朝を挟撃した。[[598年]]、達頭可汗がエフタルと[[アヴァール]]征服を東ローマ帝国の皇帝[[マウリキウス]]に報告した。[[602年]]に軍閥[[フォカス]]が政変が引き起こし、首都に入城して皇帝マウリキウスとその一族を皆殺しにした上で帝位についた。
東ローマ帝国の内乱に際して、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った({{仮リンク|サーサーン朝のエジプト征服|en|Sassanid conquest of Egypt}})。フォカスは、簒奪の汚名を打ち消す目的も兼ねてサーサーン朝ペルシアへ侵攻した([[東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)]])。
=== 中期(610年頃 - 1204年) ===
==== 危機と変質 (7世紀 - 8世紀) ====
{{see_also|ヘラクレイオス王朝|イサウリア朝}}
[[608年]]に[[カルタゴ]]の{{仮リンク|アフリカ総督|en|Exarchate of Africa}}{{仮リンク|ヘラクレイオス (カルタゴ総督)|en|Heraclius the Elder|label=大ヘラクレイオス}}が反乱を起こし、[[610年]]にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子の[[ヘラクレイオス]](イラクリオス/在位:[[610年]] - [[641年]])が皇帝に即位した。ヘラクレイオスは、[[西突厥]]の二度にわたる戦争({{仮リンク|第二次ペルソ・テュルク戦争|en|Second Perso-Turkic War}}、[[第三次ペルソ・テュルク戦争]])に助けられ、{{仮リンク|サーサーン朝のエジプト征服|en|Sassanid conquest of Egypt|label=シリア・エジプトへ侵攻した}}サーサーン朝ペルシアを[[ニネヴェの戦い (627年)]]で破るなどして[[東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)]]に勝利し、領土を奪回することに成功した。[[627年]]に[[ハザール]]を主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、[[628年]]に[[統葉護可汗]]が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。
東ローマ領内では既に4世紀から[[ラテン語]]の重要性は次第に低下しつつあり、[[ギリシア語]]が徐々に事実上の公用語へと変わっていた<ref name="尚樹1999pp272-275">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], pp. 272-275</ref>。それでもなおラテン語は「ローマ人の言語」としてその重要性の維持が試みられもしたが、5世紀中には文官たちにとってラテン語の習得はもはや必要なものではなくなっていた<ref name="尚樹1999pp272-275"/>。軍はラテン語の伝統を最も長く保持し、6世紀に至るまで公式の行政文書をラテン語で書いたが、全体として東ローマ帝国領内におけるラテン語使用が時間と共に低迷する潮流は変わらなかった。ヘラクレイオスはこの変化を公式に認め、[[620年]]にはギリシア語が公用語であることを承認した<ref name="Davis p. 260">[[#refDavis1990|Davis 1990]], p. 260.</ref><ref name="尚樹1999pp330-331">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], pp. 330-331</ref>。また、ヘラクレイオスはサーサーン朝に対する勝利の後、古くから蛮族の王を指す通用的な用語であった「'''[[バシレウス]]'''({{lang|el|Βασιλεύς}}, ヴァシレフス)」を公式儀礼用語として使用するようになった。この言葉はラテン語の"{{lang|la|[[wikt:ja:rex#ラテン語|rex]]}}"に対応し、以降帝国の滅亡まで用いられた。古くからのローマ的称号であるアウグストゥス(アウグストス)も公式儀礼用語として使用され続けたが、その場合でも「信者ヴァシレフス」が必ず付された<ref>尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国の政治制度』(2005)pp, 19-22</ref>。
===== アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代) =====
{{main|アラブ・東ローマ戦争}}
[[イスラーム教徒のペルシア征服|サーサーン朝への攻撃]]を開始した[[イスラム帝国]]([[正統カリフ]])は、[[カーディスィーヤの戦い]]でメソポタミアからサーサーン朝を駆逐して間もなく、東ローマ領の[[シリア地方]]へも侵攻した。[[636年]]に[[ヤルムークの戦い]]で東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどの[[オリエント]]地域や北アフリカを再び失った。[[641年]]、ヘラクレイオスが死亡すると、[[コンスタンティノス3世]]と[[ヘラクロナス]]との間で後継者問題が起き、[[コンスタンス2世]]が即位して落ち着いた。東ローマ軍は、[[655年]]にアナトリア南岸の[[リュキア]]沖での海戦({{仮リンク|マストの戦い|en|Battle of the Masts}})でイスラム軍([[正統カリフ]])に敗れた後は東地中海の制海権も失った。
[[656年]]、イスラム帝国内で第三代カリフの[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]が暗殺され、{{仮リンク|第一次フィトナ|en|First Fitna|label=第一次内乱}}([[656年]] - [[661年]])が始まる。[[661年]]、[[ウマイヤ朝]]が成立。
[[ファイル:Greekfire-madridskylitzes1.jpg|thumb|240px|[[ギリシア火薬]]を用いてアラブ船を攻撃するローマ軍]]
[[674年]]から[[678年]]までの[[コンスタンティノポリス包囲戦 (674年–678年)|コンスタンティノポリス包囲戦]]では、連年イスラム海軍([[ウマイヤ朝]])に包囲され、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされたが、難攻不落の大城壁と秘密兵器「[[ギリシア火薬|ギリシアの火]]」を用いて撃退することに成功した。[[680年]]には[[オングロスの戦い]]で[[テュルク系]][[ブルガール人]]に破れ、[[681年]]の講和で北方に[[第一次ブルガリア帝国]]が建国された([[ブルガリア・東ローマ戦争]]、[[680年]] - [[1355年]])。[[698年]]、{{仮リンク|カルタゴの戦い (698年)|en|Battle of Carthage (698)|label=カルタゴの戦い}}ではイスラム軍([[ウマイヤ朝]])に敗れ、[[カルタゴ]]を占領されて[[カイラワーン]]に拠点を構築された<ref name=sights>{{cite web|title=Tunisia - Carthage|url=http://www.sights-and-culture.com/Tunisia/Carthage.html|publisher=www.sights-and-culture.com|accessdate=20 September 2012}}</ref><ref name=brit>{{cite web|title=ʿAbd al-Malik|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/678/Abd-al-Malik|publisher=www.britannica.com|accessdate=20 September 2012}}</ref><ref name=myeth>{{cite web|title=Battle of Carthage (698)|url=http://www.myetymology.com/encyclopedia/Battle_of_Carthage_%28698%29.html|publisher=www.myetymology.com|accessdate=20 September 2012}}</ref>。その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島と[[バルカン半島]]の沿岸部、南イタリアの一部([[マグナ・グラエキア]])に縮小した。
[[717年]]に即位した[[イサウリア王朝]]の皇帝[[レオーン3世]]は、[[718年]]に[[イスラム帝国]]軍([[ウマイヤ朝]])を撃退([[コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)|第二次コンスタンティノポリス包囲戦]])。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。しかし、宗教的には[[726年]]にレオーン3世が始めた[[聖像破壊運動]]などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、[[カトリック教会]]との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに[[787年]]、[[第2ニカイア公会議]]決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は後に[[フィリオクェ問題]]をきっかけとして顕在化した。
女帝[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]](イリニ)治下の[[800年]]、ローマ教皇が[[フランク王国|フランク王]]カール1世([[カール大帝]])に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、[[802年]][[10月31日]]のクーデターで[[ニケフォロス1世]]が即位し、[[803年]]に{{仮リンク|パクス・ニケフォリ|en|Pax Nicephori}}を締結したが、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の[[地中海世界]]の統一は完全に失われ、地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。
[[ファイル:Siege of Amorium.jpg|thumb|left|[[アモリオンの戦い]]([[838年]])]]
イスラム軍([[アッバース朝]])とは、[[804年]]の[[クラソスの戦い]]、[[806年]]の[[アッバース朝の小アジア侵攻 (806年)|アッバース朝軍の小アジアへの侵攻]]で戦火を交えたが敗北し、貢納金を支払う条件で[[平和条約|和約]]を結んだ。[[811年]]には[[第一次ブルガリア帝国]]に侵攻したが、撤退時の[[プリスカの戦い]]({{lang-en-short|Battle of Pliska}}、[[ブルガリア語]]:{{lang|bg|Битка при Върбишкия проход}} - バルビツィア峠の戦い)で皇帝[[ニケフォロス1世]]が戦死し、後継者問題が起こった。[[ミカエル1世ランガベー]]が皇帝に即位し、対立していた[[フランク王国]]と妥協し、カール大帝の皇帝就任を承認。[[813年]]に[[ヴェルシニキアの戦い]]で再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、[[レオーン5世]]への譲位を余儀なくされた。[[814年]]に第一次ブルガリア帝国の[[クルム (ブルガリア皇帝)|クルム]]が死去すると、[[オムルタグ]]と[[815年の条約|30年不戦条約]]を結んだ。[[827年]]にアラブ人([[アッバース朝]]支配下の[[アグラブ朝]])が[[シチリア島]]へ侵攻し({{仮リンク|ムスリムのシチリア征服|it|Conquista islamica della Sicilia|en|Muslim conquest of Sicily}}、[[827年]]-[[902年]])、[[シチリア首長国]]([[831年]] - [[1072年]])が成立。902年にイブラーヒーム2世が[[タオルミーナ]]を攻略してシチリア島の征服が完了した<ref>{{Cite book|和書|last = ヒッティ|first = フィリップ・K |translator = 岩永博|title = アラブの歴史|edition = 初版|year = 1983|publisher = [[講談社]]|series = [[講談社学術文庫]]|isbn = 4-06-158592-4 |volume = 下}}、p.509</ref>。
こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、[[バルカン半島]]沿岸部と[[アナトリア]]を支配し、[[ギリシア人]]・[[正教会]]・[[古代ギリシア|ギリシア文化]]を中心とする国家となった。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。
{{Clearleft}}
==== 最盛期(9世紀 - 11世紀前半) ====
[[ファイル:Byzantine Empire Themes 1025-en.svg|thumb|240px|1025年の東ローマ帝国]]
[[ファイル:Basilios_II.jpg|thumb|180px|軍装の[[バシレイオス2世]]<br/>東ローマ帝国の全盛期を現出した]]
[[ファイル:Jean_II_Comnene.jpg|right|thumb|180px|ヨハネス2世コムネノス<br/>彼の下で帝国は再び繁栄の時代を迎えた]]
{{see_also|マケドニア王朝 (東ローマ)|ルーシ・ビザンツ戦争}}
9世紀になると国力を回復させ、[[バシレイオス1世]]が開いた[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]([[867年]] - [[1057年]])の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。一方、東ローマ皇帝とローマ教皇の対立は[[フィリオクェ問題]]をきっかけとして再び顕在化した。[[867年]]、[[アモリア王朝]]最後の皇帝となる[[ミカエル3世]](在位:[[838年]]-[[867年]])主宰の[[教会会議]]が[[ローマ教皇]][[ニコラウス1世 (ローマ教皇)|ニコラウス1世]]を[[破門]]するに至った「{{仮リンク|フォティオスの分離|en|Photian schism}}」などによって、東西両教会の亀裂が深まり、事実上分裂する事となった。<ref group="注">これより[[正教会]]が誕生する。なお、最終的に[[東西教会の分裂]]が起きたのは一般に[[1054年]]が目安とされるが、分裂が確定した年代については異説も存在する(詳しくは[[東西教会の分裂]]を参照)。</ref>。
政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域への[[キリスト教]]の布教も積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝[[コンスタンティノス7世]]の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。これを「[[マケドニア朝ルネサンス]]」と呼ぶこともある。
10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝[[ニケフォロス2世フォカス]]、[[ヨハネス1世ツィミスケス]]、[[バシレイオス2世]]ブルガロクトノスの下では、[[歴史的シリア|北シリア]]・[[南イタリア]]・[[バルカン半島]]全土を征服して、東ローマ帝国は東[[地中海]]の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあった[[コンスタンティノープル]]は人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。
==== 衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀) ====
{{see_also|コムネノス王朝}}
[[1011年]]、西から[[ノルマン人]]の攻撃を受けた([[ノルマン・東ローマ戦争]]、[[1011年]] - [[1185年]])。
しかし、[[1025年]]にバシレイオス2世が没すると、その後は政治的混乱が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発した。[[1040年]]には{{仮リンク|ブルガリア (テマ制)|en|Bulgaria (theme)}}で[[:en:Peter Delyan]]の反乱が起こり、[[ピレウス]]も呼応して蜂起した。
===== セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年) =====
[[1055年]]、[[セルジューク・東ローマ戦争]]が始まり、[[1071年]]には[[マラズギルトの戦い|マラズギルト(マンジケルト)の戦い]]で[[トルコ人]]の[[セルジューク朝]]に敗れたため、東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小した。[[小アジア]]のほぼ全域をトルコ人に奪われ、[[ノルマン人]]の[[ルッジェーロ2世]]には[[南イタリア]]を奪われた。
[[1081年]]に即位した、大貴族[[コムネノス王朝|コムネノス家]]出身の皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]](在位:[[1081年]] - [[1118年]])は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、<!--貴族の大土地所有・徴税権を認める代わりに軍役奉仕を義務付ける'''[[プロノイア]]制度'''を導入することで-->帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていた[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、[[ローマ教皇]]へ援軍を要請し<ref group="注">この要請にこたえて実施された軍事行動が[[第1回十字軍]]である。</ref>、トルコ人からの領土奪回を図った。
アレクシオス1世と、その息子で名君とされる[[ヨハネス2世コムネノス]](在位:[[1118年]] - [[1143年]])はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。
ヨハネス2世の後を継いだ息子[[マヌエル1世コムネノス]](在位:[[1143年]] - [[1180年]])は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、[[イタリア遠征]]やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。特に[[イタリア遠征]]、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。[[1176年]]には、アナトリア中部の[[ミュリオケファロンの戦い]]でトルコ人の[[ルーム・セルジューク朝]]に惨敗した。犠牲者のほとんどは[[アンティオキア公国]]の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。
==== 分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭) ====
{{see_also|アンゲロス王朝|フランコクラティア}}
[[1180年]]にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。[[アンドロニコス1世コムネノス]](在位:[[1183年]] - [[1185年]])は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世を廃して帝位についた[[イサキオス2世アンゲロス]](在位:[[1185年]] - [[1195年]])も、[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]([[1171年]])・[[第二次ブルガリア帝国]]([[1185年]])といったスラヴ諸民族が帝国に反旗を翻して独立し、また地方に対する中央政府の統制力が低下する中で、有効な対策は打てずにいた<ref name="ハリス2018pp272_279">[[#ハリス 2018|ハリス 2018]], pp. 272-279</ref>。
===== 第4回十字軍 =====
十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、[[1204年]]4月13日、[[第4回十字軍]]はヴェネツィアの助言の元に[[コンスタンティノポリス]]を陥落させて[[ラテン帝国]]を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権<ref group="注">小アジア西部の[[ニカイア帝国]]、小アジア北東部の[[トレビゾンド帝国]]、バルカン半島南西部の[[エピロス専制侯国]]など。</ref>を建てて抵抗することとなった。
=== 後期(1204年 - 1453年) ===
==== 帝国の再興(1204年 - 1261年) ====
[[ファイル:ShepherdByzempire1265.jpg|thumb|240px|[[1265年]]のバルカン半島および小アジア]]
{{see_also|ニカイア帝国|パレオロゴス王朝}}
第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)だった。ニカイア帝国は初代の[[テオドロス1世ラスカリス]](在位:[[1205年]] - [[1222年]])、2代目の[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]](在位:[[1222年]] - [[1254年]])の賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。
==== モンゴル襲来(1223年 - 1299年) ====
周辺国では、[[1223年]]の[[カルカ河畔の戦い]]以来、[[モンゴル帝国]]による東欧侵蝕([[チンギス・カンの西征]]、{{仮リンク|モンゴルのヨーロッパ侵攻|en|Mongol invasion of Europe}})が始まり、[[1242年]]には[[ジョチ・ウルス]]が[[キプチャク草原]]に成立し、[[1243年]]の[[キョセ・ダグの戦い]]で[[ルーム・セルジューク朝]]がモンゴル帝国([[1258年]]に[[イルハン朝]]に分裂)の属国化し、[[1245年]]の{{仮リンク|ヤロスラヴの戦い|uk|Битва під Ярославом|ru|Ярославское сражение|pl|Bitwa pod Jarosławiem (1245)}}では[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]が[[ジョチ・ウルス]]の属国化した。
3代目のニカイア皇帝[[テオドロス2世ラスカリス]](在位:[[1254年]] - [[1258年]])の死後、摂政、ついで共同皇帝として[[ミカエル8世パレオロゴス]](在位:[[1261年]] - [[1282年]])が実権を握った。[[1259年]]9月、[[ペラゴニアの戦い]]で、[[アカイア公国]]・[[エピロス専制侯国]]・[[シチリア王国]]の連合国軍を[[ニカイア帝国]](東ローマ亡命政権)軍が破り、1261年には[[コンスタンティノポリス]]を[[コンスタンティノープルの回復 (1261年)|奪回]]。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、最後にして最長の王朝[[パレオロゴス王朝]]([[1261年]] - [[1453年]])を開いた。
[[フレグの西征]]で[[1258年]]には[[イルハン朝]]が[[イラン高原]]に成立していた。さらに[[1260年]]にモンケが没して[[モンゴル帝国帝位継承戦争|帝位継承戦争]]が勃発し、[[1262年]]11月には{{仮リンク|ベルケ・フレグ戦争|en|Berke–Hulagu war}}でジョチ・ウルスとイルハン朝の争いが始まる中、東ローマ帝国はジョチ・ウルスと直接接触することになった。
[[1265年]]に、[[ノガイ|ノガイ・ハーン]]率いる[[ジョチ・ウルス]]軍が[[トラキア]]に侵攻し、[[ミカエル8世パレオロゴス]]の軍は敗北し、ジョチ・ウルスと同盟することになった<ref group="注">ミカエル8世の娘({{lang|en|Euphrosyne}})がノガイ・ハーンの妃になった。</ref>。その後も[[1271年]]、[[1274年]]、[[1282年]]、[[1285年]]にモンゴル軍は[[ヴォルガ・ブルガール]]に侵攻していた。
[[1277年]]に[[第二次ブルガリア帝国]]で[[イヴァイロ (ブルガリア皇帝)|イヴァイロ]]の蜂起が起こり、ミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し、[[1285年]]に[[第二次ブルガリア帝国]]はジョチ・ウルスに従属した。この間の[[1282年]]に、[[テッサリア]]で反乱が起こり、ノガイ・ハーンは[[トラキア]]へミカエル8世への援軍を送ったが、ミカエル8世は病気になり急死した。ミカエル8世の息子・[[アンドロニコス2世パレオロゴス]]は、援軍をブルガリアと同盟する[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]攻撃に用いた。[[1286年]]に、セルビア王国の[[ステファン・ウロシュ2世ミルティン (セルビア王)|ステファン・ウロシュ2世ミルティン]]が講和を申し入れた。
[[アンドロニコス2世パレオロゴス]](在位:[[1282年]] - [[1328年]])の時代以降、軍事的な圧力が強まる中で1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無く、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済も[[ヴェネツィア]]・[[ジェノヴァ]]といったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなくなった。そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]に攻撃された。
===== オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年) =====
{{main|オスマン・東ローマ戦争}}
[[1352年]]に東から[[オスマン帝国]]の[[オルハン]]に攻撃されて[[ブルサ]]を奪取され([[東ローマ内戦 (1352年 - 1357年)]])、[[1352年]]には領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の共同皇帝[[ヨハネス5世パレオロゴス]](在位:[[1341年]] - [[1391年]])と[[ヨハネス6世カンタクゼノス]](在位:1347年 - 1354年)は、[[1354年]]の[[ガリポリ陥落]]でオスマン帝国[[スルタン]]の[[オルハン]]に臣従し、帝国は[[オスマン帝国]]の属国となってしまった。
[[1380年]]の[[クリコヴォの戦い]]で急速に国力を増大した[[モスクワ大公国]]が[[ジョチ・ウルス]]を破り、周辺国でも激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡後に、モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになる。
14世紀末の皇帝[[マヌエル2世パレオロゴス]](在位:[[1391年]] - [[1425年]])は、窮状を打開しようと[[フランス]]や[[イングランド]]まで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子[[ヨハネス8世パレオロゴス]](在位:[[1425年]] - [[1448年]])と[[コンスタンティノス11世ドラガセス]](在位:[[1449年]] - [[1453年]])は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。
この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「[[パレオロゴス朝ルネサンス]]」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、[[ルネサンス]]に多大な影響を与えた。
==== 滅亡(1453年) ====
[[ファイル:Fall-of-constantinople-22.jpg|thumb|[[コンスタンティノープルの陥落]]]]
{{see_also|コンスタンティノープルの陥落|トルコクラティア}}
[[1453年]]4月、[[オスマン帝国]]第7代[[スルタン]]の[[メフメト2世]]率いる10万の大軍勢が[[コンスタンティノポリス]]を包囲した。[[ハンガリー人]]のウルバン{{enlink|Orban}}が開発したオスマン帝国の新兵器「[[ウルバン砲]]」による砲撃に曝され、絶対的に不利な状況下、東ローマ側は守備兵7千で2か月近くにわたり抵抗を続けた。5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落、皇帝[[コンスタンティノス11世パレオロゴス]]は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきた[[ローマ帝国]]の系統は途絶えることになる。通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって[[中世#ヨーロッパ|中世]]の終わり・[[近世]]の始まりとする学説が多い。同年には[[百年戦争]]が終結し、この戦いを通じて[[イギリス]]([[イングランド王国]])と[[フランス]]([[フランス王国]])は王権伸長による中央集権化および[[絶対君主制]]への移行が進むなど、西ヨーロッパでも大きな体制の変化があった。
[[1460年]]には[[ペロポネソス半島]]の自治領土[[モレアス専制公領]]が、[[1461年]]には黒海沿岸の[[トレビゾンド帝国]]がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。
なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世や[[スレイマン1世]]などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。また、[[1467年]]に[[イヴァン3世]]がコンスタンティノス11世の姪[[ゾイ・パレオロギナ]]を妻とし、ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、[[モスクワ大公国]]の[[イヴァン4世]]などや歴代の[[ロシア]]([[ロシア・ツァーリ国]]、[[ロシア帝国]])指導者はローマ帝国の継承性を主張している<ref group="注">もっともロシアでは[[ジョチ・ウルス]]のハンも東ローマ皇帝も君主号としては大雑把に「[[ツァーリ]]」と呼んでおり、古代ローマの後継者およびキリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。</ref>。
== 政治 ==
[[ファイル:Byzantine_eagle.JPG|thumb|250px|東ローマ帝国末期の国章「[[双頭の鷲]]」<br/>画像は[[コンスタンティノープル総主教庁|コンスタンティノポリス総主教庁]]の正門に今も掲げられているもの]]
=== イデオロギー ===
6世紀になると330年5月11日が特別な記念日とされ<ref>[[#井上1990|井上1990]]、pp.72-73</ref><!--確認済-->、「ローマを嫌ったコンスタンティヌスがローマの支配から独立した新しい帝国を創った」とする建国神話が創造された。9世紀になるとそれまで勅令等で使われていなかった「ローマ皇帝」といった称号が法令等の文書でも年代記等の編纂文献でも頻繁に用いるようになった<ref group="注">文学作品でも基本的には「皇帝」とのみ記載されたが、稀に「ローマ皇帝」という用語が使われていた。[[ローマ皇帝#ローマ皇帝に関わる称号や権限]]の注を参照</ref><!--<ref name="尚樹1999pp403-404" /><ref name="オストロゴルスキー2001p257" /--><!--確認済 「それ以前には全く使われなかった、ということではないが」と前置きしたうえで、少数の例外を除けばビザンツで「ローマ」の称号が用いられるようになるのは813年以降--><ref name="井上2009p20" /><!--井上2009では、西欧に皇帝が生まれる以前の皇帝たちは「ローマ皇帝」と名乗っておらず、カールの戴冠に影響を受けて「ローマ人の皇帝」と主張するようになったと記載があるのみで、9世紀以降名乗るようになったとは書いていない-->。自らがローマ帝国であることを示すために形式的にではあるが古代ローマ時代の伝統の復興も試みられ、例えば9世紀末までには「市民」を意味する[[デーモス]]という名の官職が創り出され{{Refnest|group="注"|段階的な説明としては、まず9世紀末に[[レオーン6世]]が元来の意味での市民(デーモス)を否定する勅令を出<!--井上2009p72では、「都市自治を最終的に否定する勅令を発布した。その直後に官職表・・・」という文面となっている-->し、その直後に編纂させた官職表『{{仮リンク|クレートロロギオン|en|Kletorologion}}』でデーモスという語を官職名として再定義した<ref name="井上2009p72" />。}}、「市民」という官職名の「役人」による「市民による歓呼」の模倣という奇妙な儀式が行われるようになった<ref>[[#井上1990|井上1990]]<!--確認済-->、pp.15-16。</ref><ref name="井上2009p72">[[#井上2009|井上2009]]、p.72。</ref><ref>[[#井上・栗生澤2009|井上・栗生澤2009]]、pp.23-24。</ref><!--三書とも確認済-->{{Refnest|group="注"|東ローマ帝国において、市民による歓呼は6世紀までは実際に重視されていたが7世紀以降には廃れていた<ref name="井上2009p172">[[#井上2009|井上2009]]、p.172。</ref><!--確認済-->。}}。10世紀には皇帝[[コンスタンティノス7世]]の下で『儀式の書』が記され、<!-- 「古代ローマの儀式を手本として」 ←を削除。引用元に記載がないため。この部分は、経過観察後本コメントとともに削除、-->ビザンツ帝国の宮廷儀式が整備された<ref>[[#井上2009|井上2009]]、pp.171-176。</ref>。他にも帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わったことを「父祖の言葉を棄てた」と批判した『テマについて』や、「皇帝の権力は民衆・元老院・軍隊の三つの要素に拠る」と記した[[ミカエル・プセルロス]]の『年代記』など、古代ローマとの連続性をほのめかす著作の多くが10世紀から12世紀の間に作成された。ところが13世紀になると今度は自分たちの起源を古代ギリシアに求めるようになり<ref name="井上2009pp23-24" /><!--確認済--><ref>[[#根津2008|根津2008]]、p.86。</ref>、住民の自称も「ローマ人」から「イリネス(ギリシア人)」へと変化していった<ref name="井上2009pp23-24" /><!--確認修正済-->。このように、この帝国では全てが流動的であった<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.48。</ref><!--確認済-->。こうした変化に対応する柔軟性を持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる{{誰|date=2019年9月}}。
==== ローマ帝国の継承者として ====
<!-- 9世紀以降、帝国は「ローマ帝国」や「ローマ皇帝」といった名称を用いてローマ帝国の継承者としての地位を[[神聖ローマ帝国|西ローマ帝国]]と争った<ref name="井上2009pp11-14" />。 ←は文章としては間違っていないが、出典の当該部分にはそのようなことは書いていないのでコメントアウト-->西方領土と東方領土とでは「ローマ帝国」に対する認識は微妙に異なるものであった。政治的・法的・文化的それぞれの側面で異なっていた<ref>[[#井上2009|井上2009]]pp9-14 </ref>。法的にはローマ法を受け継ぎ、「コンスタンティノープルの皇帝は、ローマ皇帝の唯一の法的に正統な継承者であると自任し」<ref>[[#シュルツェ2005|シュルツェ2005]]p21</ref>、「『ローマ法大全』は、九世紀にはギリシア語版『バシリカ法典』として再編されて、ずっと国家の基本法であり続け」<ref>[[#井上2009|井上2009]]p9-10</ref>、「哲学・歴史学・文学の重要な作品はビザンツ帝国において書き継がれ」<ref>[[#井上2009|井上2009]]p10</ref>、「自分たちはギリシア古典、ローマ法の世界に生きているとビザンツ人は考えていた」<ref>[[#井上2009|井上2009]]p11</ref><ref>[[#シュルツェ2005|シュルツェ2005]]ビザンツ研究者であるリーリエは、「ビザンツ帝国が古代ローマ帝国の「後継国家」ではなく、ともかく自己意識においては古代ローマ帝国そのものであった」と強調している。p21</ref>。一方、政治体制についての認識はこれとは大分異なっていた。西ヨーロッパではローマ帝国は[[ロームルス]]のローマ建設神話から[[王政ローマ|王政]]・[[共和政ローマ|共和政]]と変化してきたローマ共同体の政治史の一部だったが、一方の東ローマ帝国においては[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]以前のローマ共同体を自分たちの歴史の一部であるとする意識は薄かった<ref name="名前なし-1">[[#井上2009|井上2009]]p11-14</ref><!--確認済-->{{Refnest|group="注"|そもそも当時のギリシア語にはローマ共同体を表す[[レス・プブリカ]](Res publica)に相当する語すらなかったともいう<ref name="渡辺1980p52">[[#渡辺1980|渡辺1980]]、p.52。</ref>。<!--確認済-->}}。東ローマ帝国におけるローマ帝国とは[[旧約聖書]]の『ダニエル書』に見られる帝国交替史に基づいたもので<ref name="名前なし-1"/><!--確認済-->、それは[[バビロニア帝国]]・[[ペルシア帝国]]・[[アレクサンドロス帝国]]から受け継いだ<ref name="名前なし-1"/>「文明世界を支配する帝国」「[[キリスト]]による[[最後の審判]]まで続く地上最後の帝国」としての存在だった。ビザンツ人にとってみれば、カエサル以前のローマ帝国よりはペルシア帝国の方が自分たちとつながりのある世界だったのである<ref>[[#井上2009|井上2009]]p13</ref>。<!--確認済-->自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、[[世界創造紀元]]の使用にも現れている。
==== ビザンツ皇帝理念 ====
ビザンツ皇帝は[[ローマ皇帝]]に起源を持ちつつもローマ皇帝とは異なる存在(専制君主)である<ref name="井上2009p170">[[#井上2009|井上2009]]、p.170-1。</ref><!--確認済-->。「すべての人間は皇帝の奴隷である」という言葉に象徴されるように、ビザンツ皇帝は絶対的な主権者だった<ref name="ルメルル2003pp34-36" /><ref name="井上2009p138">[[#井上2009|井上2009]]、p.138<!--確認済-->。</ref>。ビザンツ帝国では、市民は国家に奉仕するのではなく、皇帝に奉仕するものとなった<ref name="ルメルル2003pp34-36">[[#ルメルル2003|ルメルル2003]]、pp.34-36。</ref>。古代ローマでは市民の果たす役割は財産に応じた階級に託されていた(エヴェルジェティスムや公職者就任の財産制限)が、今や役割がそれを果たす人の階級を決めることになった。それは古代ローマとは反対の制度だった<ref name="ルメルル2003pp34-36" />。
ビザンツ皇帝理念が形成されたのは主に5世紀半ばから7世紀初頭にかけてである。「「軍人皇帝時代」もちろん、330年のコンスタンティノープル遷都以降も、皇帝歓呼の中心は軍隊で」「皇帝歓呼は軍隊の駐屯地で行われることが多く、コンスタンティノープル西方のヘブドモン軍事基地などが、即位式の主要な舞台であった」が、「五世紀の後半になると、元老院・民衆の歓呼が重要性を増し、即位式の舞台もコンスタンティノープル競馬場に移った」<ref>[[#笠谷2005]]p197-8、井上浩一「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」</ref>。一方同じ5世紀の半ばに[[コンスタンティノープル総主教]]による戴冠の儀式が行われるようになり、「徐々にローマ時代から伝わる戴冠の方法を完全に押しのけ、中世では、これが最終的に戴冠式の本質的部分となった」<ref name="オストロゴルスキー2001p85" /><!--確認済--><ref>マラヴァル2005p12にも関連する情報が記載されている</ref>。就任に際してコンスタンティノープル総主教によって戴冠された最初の皇帝は5世紀の[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]であると考えられている<ref name="松原2010LeoI">[[松原國師]][レオー(ン)1世]『西洋古典学事典』[[京都大学学術出版会]]、2010年。ISBN 9784876989256。</ref><!--確認済--><ref name="尚樹1999p51">[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、p.51。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.84。</ref><!--確認済-->{{Refnest|group="注"|レオ1世に先だって[[マルキアヌス]]が戴冠を行ったとする説もある<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.119<!--確認済-->。</ref>。}}。そこにはローマから正当なローマ皇帝として承認されなかったレオ1世の即位を神の意志による選択として正当化しようとする思惑があったと考えられるが、その結果として皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった<ref name="松原2010LeoI" /><ref name="尚樹1999p51" /><ref group="注">ただし、井上浩一は論文「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」([[#笠谷2005]]p194-5)にてレオン一世の戴冠について述べたくだりで「総主教による戴冠は、それ自体として皇帝を生み出すものとは考えられなかった。総主教は、ある場合には元老院・市民・軍隊の代表者として戴冠し、ある場合には皇帝によって指名された人物を改めて聖別したに過ぎない」としている</ref>。7世紀になると皇帝歓呼の場所は競馬場から宮殿・聖ソフィア教会へ移るが、並行して皇帝自らが後継者を共同皇帝として戴冠するようになった。<ref group="注">[[#笠谷2005]]p198、井上浩一「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」p199にて井上浩一は、「皇帝自らが戴冠するという式次第」がマケドニア朝で発生したことについて「帝位の世襲が確立した時期」であったとコメントしている</ref> 6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]は専制君主制へと大きな一歩を踏み出した。ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し<ref name="マラヴァル2005p12" /><!--確認済-->、「自らの地位を諸法に超越するものとし」<ref group="注">ただし、こうした法令は1世紀の「ウェスパシアヌス帝の最高指揮権に関する法律」で登場しており、セウェルス朝の法学者ウルピアヌスも「皇帝の発言は法的な力を持つ」と記載(『法学提要1巻2章6節)している([[ローマ皇帝#アウグストゥス以後の皇帝権の変化]]参照)</ref>、「その結果、皇帝は、諸法を超越しながらも、自発的に諸法に従うことになった」。<ref name="マラヴァル2005p12" /><!--確認済-->。ユスティニアヌス1世は自らを「[[ドミヌス|主人]]」と呼ばせ、元老院議員へも跪拝({{仮リンク|プロスキュネーシス|en|Proskynesis}})を要求した{{Refnest|group="注"|ただしユスティニアヌス1世が臣下に跪拝を求めた際には元老院議員からの強い反発があったという<ref name="井上2009pp15-16">[[#井上2009|井上2009]]、pp.15-16。</ref><!--確認済-->。これが10世紀ともなると最高位の大臣ですら皇帝の奴隷であることを名誉なこととして抵抗なく跪拝を行うようになるのである<ref name="井上2009pp15-16" /><!--確認済-->。ユスティニアヌス1世の時代は専制君主制へと移行する過渡期だった。}}。かつては市民によって信任された公職者であった皇帝が3万人の市民を虐殺した[[ニカの乱]]の惨たらしい結末がユスティニアヌス1世という皇帝を象徴している<ref name="井上・栗生澤2009pp46-47" /><!--確認修正済 出典の表現をそのまま採用-->。ユスティニアヌス1世によって古代の民主政治の伝統は最終的に否定され、ビザンティン専制国家への道が開かれた<ref name="井上1990p92" /><!--確認修正済 出典の表現をそのまま採用-->。古代民主政治の中から産まれたローマ皇帝権力は、その母斑をついに消し去ったのである<ref name="井上・栗生澤2009pp46-47">[[#井上・栗生澤2009|井上・栗生澤2009]]、pp.46-47。<!--確認修正済 出典の表現をそのまま採用--></ref>。血塗られた彼の帝衣は、まさに古代ローマ皇帝の死装束であった<ref name="井上1990p92">[[#井上1990|井上1990]]、p.92。<!--確認修正済 出典の表現をそのまま採用--></ref>。
7世紀には、もう一つ皇帝像の変化があった。「戦う皇帝」から「平和の皇帝」への転換である。古代ローマや中世西欧では、ローマ皇帝は武装した軍人として描かれ、軍司令官としての性質が強調された。一方の東ローマ帝国では、7世紀の皇帝[[ヘラクレイオス]]を最後に古代ローマ式の征服称号が用いられなくなった<ref name="井上2009p298">[[#井上2009|井上2009]]、p.298。</ref><!--確認済-->。ヘラクレイオスは皇帝称号に「平和者」という語を含めたが、このキーワードが9世紀までにはビザンツ皇帝称号の重要な部分となり、皇帝とは平和を好む敬虔な人物であるべきという考えが定着することになる<ref name="井上2009pp298-300">[[#井上2009|井上2009]]、pp.298-300。</ref><!--確認済-->。
=== 政治体制 ===
東ローマ帝国は、古代ローマ帝国の帝政後期以降の[[皇帝#ローマ帝国|皇帝]](ドミヌス)による専制君主制([[ドミナートゥス]])を受け継いだ<ref group="注">[[#レミィ2010|レミィ2010]]、pp.151-153の訳者あとがきによると、「ローマの帝政は、元老院というオブラートに包まれていたにせよ、その始まりから皇帝による軍事独裁だった」とされ、「著者は、ディオクレティアヌスは最後の「ローマ皇帝」だった、と述べている」とした上で、現在の歴史学では「「専制君主政」という言葉を用いる専門のローマ史研究者はほとんどいないだろう」し、「「専制君主政」という言い方は完全に廃れてしまった」と記載している。</ref> 7世紀以降の皇帝([[バシレウス]]/ヴァシレフス)は「神の恩寵によって」帝位に就いた「地上における神の代理人」「諸王の王」とされ<ref name="井上2009pp170-176">[[#井上2009|井上2009]]、pp.170-176。</ref>、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。
しかし、皇帝の地位自体は不安定<ref group="注">帝位継承法のようなものはなく、「[[元老院 (ローマ)|元老院]]・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。</ref>で、たびたび[[クーデター]]が起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような<ref group="注">6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]や9世紀の[[バシレイオス1世]]など。</ref>、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、[[アレクシオス1世コムネノス]]以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。
このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、[[宦官]]の役割が非常に大きく、[[コンスタンティノープル総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあった[[フォティオス]]のように高級官僚が直接[[総主教]]へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。
=== 行政制度 ===
==== 属州制からテマ制へ ====
{{main|テマ制}}
地方では、初期は古代ローマ後期の[[属州]]制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握る'''テマ制'''(軍管区制)と呼ばれる体制になった。
テマ制は、自弁で武装を用意できる[[ストラディオット|ストラティオティス]]と呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができた。ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、定着したスラヴ人なども積極的に編成された。ストラティオティスは屯田兵でもあり、バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれている。彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われる。
テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来の[[コローヌス]]に基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、[[スラヴ人]]や[[ペルシア人]]の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。
==== テマ制の崩壊 ====
8世紀後半以降、外敵の大規模な侵入が減り、次第に商業が活性化していくと、それにつれてテマ農民兵士の貧富の格差が増大し、中小自由農民層の没落・貧困化が進行した。安定期となったマケドニア朝の時代に大土地所有の傾向がはっきりと現れるようになり、10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的な大土地所有者が確認できる。
ストラティオティス層は法律により土地の譲渡が禁じられていたため、まだ影響は少なかったが、[[レオーン6世]]の態度が大土地所有の傾向を確実なものとした。晩年の「新勅法」によって、それまで土地を売った者の近隣者が6ヶ月以内に売った価格の同額を支払えば買い戻せるとした先買権を無効とした。[[ロマノス1世レカペノス]]の時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国に弊害をもたらしており、彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者の先買権を復活させ、さらに農村共同体に優先的に土地の譲渡をうける権利を定めた。また、不当な価格で取り引きされた土地については無償で返還されるものとされ、正当な取引であっても3年以内に売却価格の同額を支払えば土地を取り戻せるとした。しかしこれらの法律は守られなかった。なぜなら不当な購入をしていたのは地方のテマ長官や有力役人、その親族たちであったからだ。彼らによってロマノス1世の努力は骨抜きにされたのである。
同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向を助長した。マケドニア朝末期の[[バシレイオス2世]]は過去の不法な土地譲渡や皇帝の直筆でない有力者への土地贈与文書を無効とし、教会財産の制限をおこなった。これはかなりの効果を上げ、彼の軍事的成功もこの政策に恩恵によるところが大きかった。
この時代にストラティオティスを基盤とした軍制は崩壊した。帝国は計画的に軍事力を削減し、ストラティオティス層からは軍役を免除する代わりに納税を義務づけた。これにより帝国はノルマン人などの[[傭兵]]に軍事力を大きく依存することになった。以後テマは単なる行政単位となったが帝国滅亡まで存続した。テマ長官としてのドメスティコスは[[文官]]職に変化し急速に地位が低下した。
==== プロノイア制 ====
{{main|プロノイア}}
[[コムネノス王朝|コムネノス朝]]の時代には'''プロノイア制'''が実施された。かつては貴族に大土地所有や徴税権を認める代わりに軍務を提供させる制度であると考えられ、これが西欧の[[レーエン]]制に擬され、[[ゲオルク・オストロゴルスキー]]などが主張したいわゆる「ビザンツ封建制」の要素と考えられていたが、今日ではこの説は基本的に否定されている。プロノイアは国家に功績のあった臣下に恩賜として基本的に一代限りで授与されるものであり、またプロノイアの設定された地域をその受領者が実際に統治したかどうか明確でない。したがって荘園のように囲い込まれて不輸不入の領主権が設定されたわけではない。
ニカイア帝国ではプロノイアは限定された地域に限られていて、[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス|ヨハネス3世]]はプロノイアの土地は国家の管理下にあるものとして、売買を固く禁じている。[[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]はプロノイアの世襲を大規模に認めているが、これは例外措置であり世襲財産と同一視することを厳しく注意している。とはいえ、これらの事実は逆にプロノイアが帝国の意図に反して売買されたり世襲されたりすることがあったという証明であるともいえる。
軍制との関連性も明確でない。軍事奉仕を暗示するようなプロノイア贈与もおこなわれなかったわけではないが一般的ではない。プロノイア自体は必ずしも土地と結びつくわけではなく、漁業権であったり貧困農民層であるパリコスの労働使役権だったりするが、パリコスは法的には完全な自由民であった。
プロノイアは女性や教会や一団の兵士などの団体に贈与されることもあった。そのためプロノイアを税収の一部を賜与したものとする見方もある。また、コムネノス朝時代のプロノイアは非常に限定的で従来のテマ制度と代替可能なほど徹底されてはいない。そのためテマ制の崩壊とプロノイア制出現の因果関係は明確ではない。
自由農民層による軍隊編成が試みられなかったわけではないが、帝国が末期まで傭兵に軍事力を頼っていることを考慮すると、プロノイア制度が国家の防衛に果たした役割はそれほど大きいものではないと判断できよう。むしろビザンツ封建制があったとしてそれを用意するものがあるとすれば、旧ラテン帝国の封建諸侯である。彼らはビザンツ貴族とは別個に服従契約を結び、それは西欧封建制に影響を受けたものであった。末期に顕著となる皇族への領土分配は[[専制公|デスポテース]]という地位と西欧封建制との関係で論じられるべきであろう。
== 住民 ==
東ローマ帝国の住民の中心は[[ギリシア人]]であり、7世紀以降は[[ギリシア語]]が[[公用語]]であった。しかし東ローマ帝国の住民をギリシア人によって代表することは一面的な物の見方に過ぎない<ref name="渡辺1980pp19-21">[[#渡辺1980|渡辺1980]]、pp.19-21<!--確認済-->。</ref>。東ローマ帝国は初めには[[アルメニア人]]・[[シリア人]]・[[コプト人]]・[[ユダヤ人]]のような多数の非ギリシア人を内包する多民族国家だった<ref name="渡辺1980pp19-21" /><!--確認済-->。公用語はギリシア語だったが日常会話には[[スキタイ語]]・[[ペルシア語]]・[[ラテン語]]・{{仮リンク|アラン語 (イラン語群)|label=アラン語|ru|Аланский язык}}・[[アラビア語]]・[[ロシア語]]・[[ヘブライ語]]なども存在した<ref name="渡辺1980pp19-21" /><!--確認済-->。それが12世紀までに領土が限定されるにつれてギリシア語を話す人々が数的に優勢になっていったにすぎないのである<ref name="渡辺1980pp19-21" /><!--確認済-->。7世紀のバルカン半島においては、その割合は不明だが、ギリシア人は国民全体の一部に過ぎずマイノリティであったとする研究者もいる<ref name="渡辺1980pp19-21" /><!--確認済--><ref group="注">逆に近代のギリシアでは、その[[民族主義]]的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。[[メガリ・イデア]]も参照のこと。</ref>。むしろ東ローマ帝国の軍事・行政・教会機構の中で特に大きな役割を演じていたのは6世紀以前には[[ゴート人]]であり<ref name="オストロゴルスキー2001pp86-90">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.86-90。</ref>、7世紀から11世紀にかけてはアルメニア人であり<ref name="渡辺1980pp19-21" />、12世紀以降においては[[フランク人]]だった<ref name="渡辺1980pp19-21" /><!--確認済-->。帝国の著名な貴族や官僚には[[グルジア人]]や[[トルコ人]]らもいた。中でもアルメニア人とのハーフ、もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシア人の間からは[[コンスタンディヌーポリ|コンスタンティノポリス総主教]]や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいる<ref group="注">ただし中世の[[バグラトゥニ朝アルメニア王国]]自体は、東ローマ帝国と敵対していたことが多かった。また、帝国で活躍したアルメニア人も文化的にはギリシア化していた</ref>。7世紀の[[ヘラクレイオス王朝]]や、[[9世紀]]~[[11世紀]]の黄金時代を現出した[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]はアルメニア系の王朝である<ref group="注">これはかつての[[古代ローマ帝国]]でも同様であった。民族に関係なくローマ市民権を持っていた者がローマ人であり、[[アラブ人]]のローマ皇帝や[[ムーア人]](黒人)のローマ皇帝候補者も存在した。</ref>。
帝国内の自由民は、[[カラカラ]]帝の「[[アントニヌス勅令]]」以降[[ローマ市民権]]を持っていたため、言語・血統にかかわらず、自らを「[[ローマ人]] ({{lang|el|Ῥωμαίοι, Rhōmaioi}})」と称していた。東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は[[古代末期]]には既に形骸化していた<ref group="注">9世紀末以降の東ローマ帝国の宮廷においては「市民(デーモス)」という役人が雇われていた。彼らの仕事は新皇帝を歓呼で迎えることであり、「ローマ市民の信任を得たローマ皇帝」という体裁を守ることが目的であった。ただし、[[コンスタンティノポリス]]の市民は、7世紀の[[ヘラクレイオス]]帝の後継者争いや11世紀後半の混乱の時代などでは、皇帝の廃立に実際に関与している。これは、建前ながらも皇帝位の正当性が市民にあるという観念が生きていたからである。</ref>。
一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「[[蛮族]]」(エトネーあるいは[[バルバロイ]])と見なしており、10世紀の皇帝[[コンスタンティノス7世]]が息子の[[ロマノス2世]]のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている<ref>渡辺金一[第一章 民族移動と中世ローマ帝国]『中世ローマ帝国』(岩波新書)</ref>。<!--「夷狄の民」は脚注に示された書籍の表記なので、みだりに変えるべきではない-->
== 文化 ==
{{main|ビザンティン文化}}
{{see_also|ビザンティン美術|ビザンティン建築|ビザンティン聖歌}}
東ローマ帝国は、[[古代ギリシア]]・[[ヘレニズム]]・[[古代ローマ]]の文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化('''ビザンティン文化''')を発展させた。
== 宗教 ==
国の国教と定められた正教会が広く崇拝され、後世にも影響を与えている。また、11世紀の年代史家{{仮リンク|ヨアニス・ゾナラス|en|Joannes Zonaras}}によると、伝統的な[[ギリシア神話]]の神々に対する信仰は当時まだ行われており<ref>[http://www.byzantinepagan.org Byzantine Paganism]</ref>、15世紀には多神教の復活を説いた[[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン]]が現れた。
=== 正教会 ===
{{main|正教会}}
帝国の国教であった[[正教会]]は[[セルビア]]・[[ブルガリア]]・[[ロシア]]といった東欧の国々に広まり、今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。
==== 皇帝教皇主義 ====
{{main|皇帝教皇主義|ビザンティン・ハーモニー}}
[[カノッサの屈辱]]に象徴される中世西欧の強力な[[教皇]]権力に比して、東ローマ帝国のキリスト教会いわゆる[[東方正教会|ビザンティン教会]]はいわば皇帝権力の内あるいは下の位置に甘んじていた<ref>[[#ゴンサレス 2003|ゴンサレス 2003]], p. 319を参照。</ref>。[[正教会]]のトップである[[総主教]]の交代さえ皇帝の意のままだった<ref>[[#ゴンサレス 2003|ゴンサレス 2003]], p. 319.</ref>。このような関係を歴史学の用語で[[皇帝教皇主義]]と言い、東ローマ帝国はその典型である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%B8%9D%E6%95%99%E7%9A%87%E4%B8%BB%E7%BE%A9-62791 皇帝教皇主義] [[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典、[[コトバンク]]。2020年12月8日閲覧。</ref>。
しかしこの通説には大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、[[コンスタンティノープル総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]等の任免権を有していた。しかし、[[正教会]]において教義の最終決定権はあくまでも[[教会会議]]にある。[[聖像破壊運動]]を終結させた[[第2ニカイア公会議|第七全地公会]]も、主催は[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]によるものの、決定したのはあくまで[[公会議]]である。[[ローマ教皇]]のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、皇帝がローマ教皇のように振舞える道理は無かった。実際、9世紀の皇帝[[バシレイオス1世]]が発布した法律書『[[エパナゴゲー]]』では、国家と教会は統一体であるが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。{{要出典|date=2020年12月}}
==== 宗教論争 ====
東ローマ帝国では[[単性論]]・[[聖像破壊運動]]・[[静寂主義]]論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったため[[ギリシア人]]の一般民衆でも『[[聖書]]』を読むことができたという証左でもある。『新約聖書』は原典が[[ギリシア語]]([[コイネー]]/キニ)であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。この宗教論争に関しては、一般民衆が[[ラテン語]]の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができた[[カトリック教会]]との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。
== 法律 ==
{{Seealso|テオドシウス法典|ローマ法大全}}
帝国の法制度の多くは古代ローマ帝国より引き継いだものだったが、古代ローマの法律は極めて複雑なものであり全く整理されていなかった。5世紀の皇帝[[テオドシウス2世]]は、[[438年]]にローマ法史上では初となる官撰勅法集『[[テオドシウス法典]]』を発布し、この問題を解決しようとした<ref name="尚樹1999pp98-99">[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、pp.98-99。</ref>。この法典は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国が東西一体であることを強調するものであったが、結果として[[ローマ法]]は『テオドシウス法典』を最後にして帝国の東と西とで異なる発展を遂げることになった<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、pp.79-80。</ref>。
6世紀半ばには[[ユスティニアヌス1世]]によって古代ローマ時代の法律の集大成である『勅法彙纂(ユスティニアヌス法典)』、『学説彙纂』、『法学提要』が編纂された<ref name="マラヴァル2005pp54-57">[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、pp.54-57。</ref>。これら法典は後に西欧へも伝わり『[[ローマ法大全]]』と名付けられることになる<ref group="注">『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に[[民法]]にも多大な影響を与え、その影響は遠く日本にまで及んでいる。また、[[ブルガリア]]・[[セルビア]]・[[ロシア]]などの[[正教会]]諸国では帝国からの自立後も『プロキロン』の[[スラヴ語]]訳を用いた。</ref>。ユスティニアヌス1世が編纂させた法典は、その後も幾多の改訂を経ながらも帝国の基本法典として用いられた。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝[[レオーン3世]]による『[[エクロゲー法典]]』発布<ref>[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、p.367。</ref>、9世紀後半の[[バシレイオス1世]]による『法学提要』のギリシア語による手引書『[[プロキロン]]』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布<ref>[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、pp.436-438。</ref>、そしてバシレイオス1世の息子[[レオーン6世]]による『勅法彙纂』のギリシア語改訂版である『{{仮リンク|バシリカ法典|en|Basilika}}』(帝国法)編纂である<ref>[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、pp.440-441。</ref>。
またユスティニアヌス1世の時代は、法と皇帝との関係が専制的なものへと大きく変化した時期でもあった。例えばユスティニアヌス1世の以前には、皇帝アルカディウスによって、皇帝へ問い合わせた際の皇帝の回答は「判例」としては利用できないと宣言されていた<ref name="尚樹1999p97">[[#尚樹 1999|尚樹1999]]、p.97。</ref>。これは権力者が自らの裁判に都合が良いように法を変えてしまうことを防ぐ目的であったのだが<ref name="尚樹1999p97" />、ユスティニアヌス1世の時代には「皇帝が好むところが法である」とされ<ref name="井上2009p177">[[#井上2009|井上2009]]、p.177<!--確認済-->。</ref><ref name="尚樹1999p97" />、皇帝の回答は「判例」となった<ref name="尚樹1999p97" />。ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し<ref name="マラヴァル2005p12">[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.12。</ref>、自らの地位を「諸法に超越するもの」であると宣言した<ref name="マラヴァル2005p12" />。これによって皇帝は、[[ヘレニズム]]的な「生ける法」となったのである<ref name="マラヴァル2005p12" /><ref name="井上2009pp177-179">[[#井上2009|井上2009]]、pp.177-179。</ref><!--確認済-->。
== 経済 ==
[[ファイル:Solidus-Leo III and Constantine V-sb1504.jpg|thumb|[[レオーン3世]]と[[コンスタンティノス5世]]を描いたノミスマ]]
東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の[[貨幣経済]]制度が機能し続けた。帝国発行の[[ノミスマ金貨]]は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した<ref group="注">ブルガリアのように、地方によっては税が物納だったこともある。</ref>。特に首都[[コンスタンティノポリス]]では、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された[[絹織物]]([[東ローマ帝国の養蚕伝来]])や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「'''世界の富の三分の二が集まるところ'''」と言われるほど繁栄した。
だが12世紀以降、[[北イタリア]]諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行った[[ヴェネツィア共和国]]などの北イタリア諸都市国家への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。
主要産業の農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩がなかった。それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった<!--(これが12世紀以降、西欧やイスラム勢力のよる東西からの圧迫に東ローマ帝国が耐え切れずに崩壊してしまった一つの原因ではないか、ともいわれている)--><ref>井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書、1990年)、204頁</ref><ref>ミシェル・カプラン『黄金のビザンティン帝国—文明の十字路の1100年』(井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1993年)、90頁</ref>。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。
== 軍事 ==
[[ファイル:Byzantine fresca from St-Lucas.jpg|thumb|180px|12-13世紀の[[フレスコ]]画に描かれた東ローマ兵士]]
=== 初期の軍制 ===
初期の東ローマ帝国は、2世紀末に[[ディオクレティアヌス]]帝が採用した後期[[ローマ帝国]]の軍事制度を継承した。軍隊は、[[リミタネイ]](辺境部隊)と[[コミタテンセス]](野戦部隊)に大別された。リミタネイは辺境属州を担任する[[ドゥクス]](軍司令官)の指揮下で国境防衛にあたった。コミタテンセスははるかに広い地域を担当する[[マギステル・ミリトゥム]](方面軍司令官)の指揮下で大都市に駐屯し、帝国軍の主力として戦地に出撃した<ref>中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10頁。</ref>。野戦部隊は辺境部隊に比べ精鋭であり、給与等は優先されていた。
歩兵は依然ローマ軍の主力ではあったものの、騎兵の重要性が拡大していた。例えば478年には、東方野戦軍は8000の騎兵と30000の歩兵から編成され、357年のユリアヌス帝はストラスブルグの会戦において10000の歩兵と3000の騎兵を率いていた。
騎兵部隊は細分化され、ローマ軍の4分の1は騎兵部隊で構成されるようになった。騎兵の約半数は鎧・槍・剣を装備する重装騎兵からなる。("スタブレシアニ")。弓を装備していた者もいたが、散兵としてではなく突撃の援護の為に用いられた。
野戦部隊には「{{仮リンク|カタフラクタリイ|en|Equites cataphractarii|label=カタフラクタリイ}}」や「クリバナリイ」等の重装騎兵も編成されていた。弓騎兵({{仮リンク|サジタリイ|en| Sagittarii|label=エクイテス・サジタリイ}})も含む軽騎兵({{仮リンク|スクタリウス|en| Scutarius|label=スクタリイ}}、プロモティ)は有用な斥候・偵察兵として{{仮リンク|リミタネイ|en| Limitanei}}で多く用いられた。「{{仮リンク|コミタテンセス|en| Comitatenses}}」の歩兵は[[ローマ軍団|レギオン]]、[[アウクシリア]]、{{仮リンク|ヌメルス|en|Numerus (Roman military unit)|label=ヌメリ}}等と呼称される500から1200人の部隊に編成されていた。これらの重装歩兵は槍・剣・盾・鎧・兜を装備し、軽歩兵隊の援護を受けていた。
ユスティニアヌス1世の軍隊はペルシア帝国の脅威を受けた5世紀の危機に応じて再編された。レギオン・[[コホルス]]・[[アラ (ローマ軍)|アラエ]]といった以前の帝国軍の編成は消え、代わりに[[タグマ]]やヌメルスと呼ばれるより小規模な歩兵部隊や騎兵隊が取って代わった。タグマは300から400人で編成され、2つ以上のタグマで{{仮リンク|モイラ (軍事)|en|Moira (military)|label=モイラ}}、2つ以上のモイラでメロスが編成された。
ユスティニアヌス帝時代には以下の様な軍に分かれていた。
# 帝都の護衛隊
# コミタテンセス(ユスティニアヌス帝時代にはストラティオタイと呼ばれていた)。ローマ軍の野戦部隊である。ストラティオタイは主にトラキア、イリュリクムとイサウリアから兵は集められた。
# リミタネイ(ユスティニアヌス帝時代にはアクリタイと呼ばれていた)。国境の要塞に駐留し、守備を担っていた。
# [[フォエデラティ]]。蛮族の志願兵から構成され、ローマ人士官の元で騎兵として編成された。
# 同盟軍。フン族・ヘルリ族・ゴート族やその他の蛮族から供給され、彼ら自身の族長が指揮していた。土地や報償金を見返りとして戦った。
# [[ブケッラリイ|ブケラリィ]]。将軍や貴族など高位の人間の私兵であり、野戦軍の騎兵戦力として重要な地位を占めていた。その規模は雇い主の裕福さに左右されていた。兵士は[[ヒュパスピスタイ]](盾持ち)と呼称され、士官はドリュフォロイ(槍持ち)と呼ばれた。ドリュフォロイは雇い主と皇帝に厳粛な忠誠を誓っており、ベリサリウス将軍麾下のドリュフォロイなどは有名である。
=== テマとタグマ ===
7世紀にアラブ人に敗れて帝国の版図が著しく縮小したとき、帝国の軍制もまた根本的な変化を余儀なくされた。小アジアに退却した野戦部隊は、残存領土に分かれて駐屯し、テマ(軍団)となった。テマは敵と決戦して打ち破ろうとはせず、拠点防衛とゲリラ戦を組み合わせて受け身の抗戦に徹した。かつての辺境部隊の役割を担ったわけだが、この時代のテマには敵を国境線で防ぎ止めることができず、中央から主力軍が来て敵を撃破してくれるという希望もない。敵の侵入を許しながら征服されずに戦いぬく戦略であった<ref>中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10-12頁。</ref>。テマの兵士は平時は農民で、諸税を免除される代わりに武器を自弁した<ref>井上浩一「総論:7-12世紀のビザンティオン軍制」、2-3頁。</ref>。
8世紀後半に帝国が存亡の危機を脱すると、テマの細分化とともに、テマに地方行政を担わせる改革が進み、地方制度としての[[テマ制]]が作られた<ref>中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、9頁。</ref>。テマ制では、テマ(軍団)の長官(ストラテーゴイ)が地方行政の長官を兼ね、軍管区であり行政区でもあるその管轄地をもテマと呼ぶ。
また8世紀後半には[[コンスタンティノス5世]]がテマから選抜した兵士をもとに首都に常備軍([[タグマ]]と呼ばれる)を整備したことで、地方軍と中央軍の二本立ての体制が復活した。外国人傭兵を部隊に編成したタグマ<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、43頁。</ref>、地方国境に駐屯したタグマも作られた<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、40-41頁。</ref>。
10世紀にはタグマが増設・強化されて領土拡大戦争の主力となった。<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、39-40頁。</ref>。その一方でテマ兵士を含む自由農民が没落し、有力者が土地を広げて農民を隷属させる社会変化が進んでいた<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、41頁。</ref>。有力者は帝国の最強兵科である重装騎兵を供給したが、貴族化して帝国の軍隊を私物化し、反乱を頻発させた<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、44-45頁。</ref>。
=== プロノイア制の時代 ===
1081年に有力貴族から出て即位した[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシオス1世]]は、有力貴族を軍の主力に据えることで軍事制度を立て直した。貴族の私兵だけでなく、皇帝自らの私兵というべき直属軍の育成に意を用い、外国人傭兵も依然として大きな比重を保った<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、45-47頁。</ref>。
=== 軍隊の規模 ===
軍隊の規模は論争となっている。Warren Treadgold<ref>Treadgold(1998),p.67"</ref>による算定値を参考に以下に示す(300年から1453年の間の軍隊構成員数の変遷は[[東ローマ帝国の軍隊]]([[:en:Byzantine army|英語版]]を参照)。
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin: 1em auto 1em auto"
|-
! 年 !! 773 !! 809 !! 840 !! 899
|-
! テマ軍合計
| 62,000 || 68,000 || 96,000|| 96,000
|-
! タグマ合計
| 18,000 || 22,000 || 24,000|| 28,000
|-
! 合計
| 80,000 || 91,000 || 120,000|| 124,000
|}
===軍隊の種類===
* [[カタフラクト]]
* 騎馬隊
* 歩兵
== 用語の表記方法について ==
{{main2|ウィキペディア内での表記|プロジェクト:東ローマ帝国史の用語表記}}
日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。主に[[東海大学]]教授の尚樹啓太郎の著作のように、実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、中世ギリシア語形を用いている例も見られる。もっとも中世ギリシア語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、論争中である。
このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、注意が必要である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em|refs=
<ref name="オストロゴルスキー2001p85">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.85。</ref>
}}
== 参考文献 ==
* 中谷功治「ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち」中公新書、2020年6月。
*井上浩一「総論:7-12世紀のビザンティオン軍制 比較史研究のために」、『古代文化』、41巻2号、1989年。
* {{Cite book|和書|author=井上浩一|authorlink=井上浩一 (歴史学者)|title=生き残った帝国 ビザンティン|publisher=[[講談社学術文庫]]|date=1990-12|isbn=978-4-06-159866-9|ref=井上1990}}
* {{Cite book|和書|author1=井上浩一|author2=栗生澤猛夫|authorlink2=栗生澤猛夫|title=ビザンツとスラヴ 世界の歴史11|publisher=[[中央公論新社]]〈[[中公文庫]]〉|date=2009-05|isbn=978-4-12-205157-7|ref=井上・栗生澤2009}}
* {{Cite book|和書|author=井上浩一|title=ビザンツ 文明の継承と変容|publisher=[[京都大学学術出版会]]〈学術選書〉|date=2009-06|isbn=9784876988433|ref=井上2009}}
* 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化 マケドニア朝からコムネノス朝へ」、『古代文化』 41巻2号、1989年。
* {{Cite book|和書|author=ゲオルグ・オストロゴルスキー|authorlink=ゲオルグ・オストロゴルスキー|translator=[[和田廣]]|year=2001|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[恒文社]]|isbn=4770410344|ref=オストロゴルスキー2001}}
*{{Cite book|和書|author=笠谷和比古|authorlink=笠谷和比古|year=2005|title=公家と武家の比較文明史|publisher=[[思文閣出版]]|isbn=4784212566|ref=笠谷2005}}
* {{Cite book|和書|author=フスト・ゴンサレス |year=2003 |title=キリスト教史 下巻 |publisher=[[新教出版社]] |isbn=978-4400221159|ref=ゴンサレス 2003}}
* {{Cite book|和書|author=ハンス・K・シュルツェ|authorlink=ハンス・K・シュルツェ|translator=[[五十嵐修]]|year=2005|title=西欧中世史事典Ⅱ 皇帝と帝国|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=9784623039302|ref=シュルツェ2005}}
* {{Cite book |和書 |author=尚樹啓太郎|authorlink=尚樹啓太郎 |title=ビザンツ帝国史 |publisher=[[東海大学|東海大学出版会]] |date=1999-2 |isbn=978-4-486-01431-7 |ref=尚樹 1999 }}
* {{Cite book |和書 |author=杉村貞臣|authorlink=杉村貞臣 |title=ヘラクレイオス王朝時代の研究 |publisher=[[山川出版社]] |date=1981 |isbn=4634651807 |ref=杉村 1981 }}
* 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、『古代文化』 41巻2号、1989年、2頁。
* {{Cite book|和書|author=南雲泰輔|authorlink=南雲泰輔|editor=南川高志|editor-link=南川高志|year=2018|chapter=ビザンツ的世界秩序の形成|title=378年 失われた古代帝国の秩序|publisher=[[山川出版社]]|isbn=9784634445024|ref=南雲2018}}
* {{Cite book|和書|author=根津由喜夫|year=2008|title=ビザンツの国家と社会|publisher=山川出版社〈世界史リブレット〉|isbn=978-4-634-34942-1|ref=根津2008}}<!--徴税機構の記述はこれを参考にした可能性あり-->
* {{Cite book |和書 |author=ジョナサン・ハリス|authorlink=:en:Jonathan Harris (historian) |translator=[[井上浩一]] |title=[[ビザンツ帝国 生存戦略の一千年]] |publisher=[[白水社]] |date=2018-2|isbn=978-4-560-09590-4 |ref=ハリス 2018 }}(''The Lost World of Byzantium'')
* {{Cite book|和書|author=ピエール・マラヴァル|authorlink=ピエール・マラヴァル|translator=[[大月康弘]]|year=2005|title=皇帝ユスティニアヌス|publisher=[[白水社]]|isbn=9784560508831|ref=マラヴァル2005}}
* {{Cite book|和書|author=アンミアヌス・マルケリヌス|authorlink=アンミアヌス・マルケリヌス|translator=[[山沢孝至]]|year=2017|title=ローマ帝政の歴史Ⅰ|publisher=[[京都大学学術出版会]]|isbn=4814000960|ref=マルケシヌス2017}}
* {{Cite book|和書|author=南川高志|editor=南川高志|year=2018|chapter=ローマ的世界秩序の崩壊|title=378年 失われた古代帝国の秩序|publisher=[[山川出版社]]|isbn=9784634445024|ref=南川2018}}
* {{Cite book|和書|author=ポール・ルメルル|authorlink=:fr:Paul Lemerle|translator=[[西村六郎]]|year=2003|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]]〉|isbn=4560058709|ref=ルメルル2003}}
* {{Cite book|和書|author=ベルナール・レミィ|translator=[[大清水裕]]|year=2010|title=ディオクレティアヌスと四帝統治|publisher=[[白水社]]|ref=レミィ2010}}
* {{Cite book|和書|author=和田廣|authorlink=和田廣|year=2015|title=秘史|publisher=[[京都大学学術出版会]]|isbn=4876989141|ref=和田2015}}
* {{Cite book|和書|author=渡辺金一|authorlink=渡辺金一|year=1968|title=ビザンツ社会経済史研究|publisher=[[岩波書店]]||ref=渡辺1968}}
* {{Cite book|和書|author=渡辺金一|authorlink=渡辺金一|year=1980|title=中世ローマ帝国-世界史を見直す|publisher=岩波書店〈[[岩波新書]]〉|isbn=9784004201243|ref=渡辺1980}}
* <cite id=refDavis1990>{{cite book | last = Davis, Leo Donald | title = The first seven ecumenical councils (325–787): their history and theology|edition= 1990| publisher = Liturgical Press| isbn= 0-8146-5616-1}} <small>- Total pages: 342 </small></cite>
<!--最低限特定の見解を述べた箇所には脚注が必要です-->
{{参照方法|date=2016年10月|section=1}}
* [[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]] 『ビザンツ帝国』 [[岩波書店]]〈世界歴史叢書〉、1982年
* 井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝 憧れの都に咲いた花』 [[筑摩書房]]、1996年/白水社〈[[白水Uブックス]]〉、2009年。ISBN 978-4-560-72109-4
* [[大月康弘]] 『帝国と慈善 ビザンツ』 [[創文社]]、2005年。ISBN 978-4-423-46058-0
* ミシェル・カプラン 『黄金のビザンティン帝国 文明の十字路の1100年』 井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、[[創元社]]〈[[「知の再発見」双書]]〉、1993年。ISBN 978-4-422-21078-0
* [[エドワード・ギボン]] 『[[ローマ帝国衰亡史]]』、[[中野好夫]]・[[朱牟田夏雄]]・[[中野好之]]訳、筑摩書房(全11巻)、1976~93年/[[ちくま学芸文庫]](新訂版・全10巻)、1995~96年。(東ローマ帝国期は中盤以降)
* [[桜井万里子]]編 『ギリシア史』 [[山川出版社]]〈新版世界各国史〉、2005年。ISBN 978-4-634-41470-9。東ローマ期を扱った第4章の執筆者は井上浩一。
* [[鈴木董]] 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社現代新書、1992年、ISBN 978-4-06-149097-0
* [[尚樹啓太郎]] 『コンスタンティノープルを歩く』 [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1988年、ISBN 978-4-486-01020-3
* 尚樹啓太郎 『ビザンツ東方の旅』 東海大学出版会、1993年、ISBN 978-4-486-01251-1
* 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国の政治制度』 東海大学出版会〈東海大学文学部叢書〉、2005年、ISBN 978-4-486-01667-0
* [[根津由喜夫]] 『ビザンツ 幻影の世界帝国』 [[講談社]]選書メチエ、1999年
* [[益田朋幸]] 『ビザンティン』 山川出版社〈世界歴史の旅〉、2004年、ISBN 978-4-634-63310-0
== 関連文献 ==
* ベルナール・フリューザン 『ビザンツ文明 キリスト教ローマ帝国の伝統と変容』 大月康弘訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2009年。ISBN 978-4-560-50937-1
* [[ジュディス・ヘリン]] 『ビザンツ 驚くべき中世帝国』 井上浩一監訳/根津由喜夫ほか3名訳、白水社、2010年。ISBN 978-4-560-08098-6
* 井上浩一・根津由喜夫編 『ビザンツ 交流と共生の千年帝国』 昭和堂、2013年。ISBN 978-4-8122-1320-9
* 浅野和生 『イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国』 [[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2003年。ISBN 978-4-12-101684-3
* 中谷功治 『ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち』 中央公論新社〈中公新書〉、2020年。ISBN 978-4-12-102595-1
* 根津由喜夫 『図説 ビザンツ帝国 刻印された千年の記憶』 [[河出書房新社]]〈ふくろうの本〉、2011年。ISBN 978-4-309-76159-6
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* ハンス・ゲオルク・ベック 『ビザンツ世界の思考構造 文学創造の根底にあるもの』 渡辺金一編訳、岩波書店、1978年
* 森安達也 『ビザンツとロシア・東欧』 講談社〈世界の歴史9 ビジュアル版〉、1985年
* 米田治泰 『ビザンツ帝国』 [[角川書店]]、1977年
* 和田廣 『ビザンツ帝国 東ローマ一千年の歴史』 [[教育社歴史新書]]、1981年
* 和田廣 『史料が語るビザンツ世界』 山川出版社、2006年
* 渡辺金一 『コンスタンティノープル千年 革命劇場』 岩波新書、1985年
* Treadgold, Warren T. (1997). A History of the Byzantine State and Society. Stanford University Press. ISBN 0-8047-2630-2.
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Byzantine Empire|Byzantine Empire}}
* [[東ローマ帝国関連記事の一覧]]
== 外部リンク ==
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* [https://www.ritsumei.ac.jp/~ohayashi/ Ohayashi's Page](小林功・[[立命館大学]]文学部教授のサイト。ビザンツ帝国に関する講義録、[[年代記]]の翻訳など)
*[https://aiebnet.gr/ 国際ビザンティン学会]{{fr icon}}{{en icon}}{{el icon}}
* [https://sourcebooks.fordham.edu/byzantium/ Byzantine study on the Internet](アメリカ・[[フォーダム大学]]のサイト){{en icon}}
* [https://web.archive.org/web/20080410123427/http://www.doaks.org/Byzantine.html Byzantine Studies] - [[ダンバートン・オークス]]・ビザンティン研究所のサイト){{en icon}}
* [https://www.ocbr.ox.ac.uk/ The Oxford Centre for Byzantine Research] - [[オックスフォード大学]]{{en icon}}
*[https://www.byzneo.univie.ac.at/ Institut für Byzantinistik und Neogräzistik] - [[ウィーン大学]]{{de icon}}
* [https://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3atext%3a2008.01.0669 プロコピウス著『秘史』ギリシア語原典]
* {{Kotobank|ビザンティン帝国}}
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8,994 | M78 (天体) | 座標: 05 46 46.7, +00° 03′ 00′′ M78(NGC 2068)はオリオン座にある散光星雲(反射星雲)である。
メシエ天体の一つ。オリオン座の三つ星の東端にあるζ星から北東に約2.5度離れた位置にある。M78 は反射星雲の中では全天で最も明るいものの一つである。馬頭星雲やオリオン大星雲 (M42) と同様に、オリオン座付近に広がっているオリオン座分子雲の一部を構成している。
M78は10等星の重星HD 38563A と HDE 38563B によって照らされている。この星雲の近くにはNGC 2064、NGC 2067、NGC 2071があるが、すべてバーナードループの中に入っている。写真では中央にある星雲がM78で左上にある星雲がNGC 2071である。南西部にある小さな星雲がNGC 2064である。NGC 2067はこの写真でははっきりしない。
暗いわりには双眼鏡でもはっきりと星雲状に見える。口径5cmの望遠鏡で、中央の2重星が見えてくる。口径10cmでは外形もはっきりし、ゆがんでいる様子や北西側の輪郭がはっきりとし、逆に南西側の輪郭がぼやけている様子がわかる。初心者に小さな彗星のイメージを示すのに適している。口径50cmではM78の構造もはっきりと見え、NGC 2064も確認できる。
1780年にピエール・メシャンによって発見された。彼は「オリオンの右側で、星雲状物質に囲まれ2個の核がある」としている。同年シャルル・メシエは「2個の星のある小星雲。北側ははっきりしSf方向に向かい、ここは次第に消滅する。最も濃密な個所は中央である」と記している。1852年にロス卿は「前面の観測より渦状」と見た。リック天文台は「やや明るく拡散し星雲状。明るい部分は6'x4'で10等星2個を含む。6'西にこれと広い暗条にへだてられて微かな光斑がある。西よりでわずかに南よりのものがNGC 2064で、北側のものがNGC 2067である」としている。 | [
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'''M78'''([[ニュージェネラルカタログ|NGC]] 2068)は[[オリオン座]]にある[[散光星雲]]([[反射星雲]])である。
== 概要 ==
[[メシエカタログ|メシエ天体]]の一つ。オリオン座の[[オリオン座の三つ星|三つ星]]の東端にある[[オリオン座ゼータ星|ζ星]]から北東に約2.5[[度 (角度)|度]]離れた位置にある。M78 は反射星雲の中では全天で最も明るいものの一つである{{R|seds}}。[[馬頭星雲]]や[[オリオン大星雲]] (M42) と同様に、オリオン座付近に広がっている[[オリオン座分子雲]]の一部を構成している{{R|seds}}。
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暗いわりには双眼鏡でもはっきりと星雲状に見える。口径5cmの望遠鏡で、中央の2重星が見えてくる。口径10cmでは外形もはっきりし、ゆがんでいる様子や北西側の輪郭がはっきりとし、逆に南西側の輪郭がぼやけている様子がわかる。初心者に小さな彗星のイメージを示すのに適している。口径50cmではM78の構造もはっきりと見え、NGC 2064も確認できる。
== 観測史 ==
1780年に[[ピエール・メシャン]]によって発見された。彼は「オリオンの右側で、星雲状物質に囲まれ2個の核がある」としている{{R|seds2}}。同年[[シャルル・メシエ]]は「2個の星のある小星雲。北側ははっきりしSf方向に向かい、ここは次第に消滅する。最も濃密な個所は中央である」と記している{{R|seds2}}。1852年に[[ウィリアム・パーソンズ (第3代ロス伯爵)|ロス卿]]は「前面の観測より渦状」と見た。リック天文台は「やや明るく拡散し星雲状。明るい部分は6'x4'で10等星2個を含む。6'西にこれと広い暗条にへだてられて微かな光斑がある。西よりでわずかに南よりのものがNGC 2064で、北側のものがNGC 2067である」としている。
== フィクションとの関連 ==
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<!--各種作品についてはこちらにお願いします-->}}
== ギャラリー ==
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== 脚注 ==
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<ref name="simbad">{{Cite web
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|url=http://messier.seds.org/Mdes/dm078.html
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|author=Hartmut Frommert, Christine Kronberg
|publisher=[[Students for the Exploration and Development of Space|SEDS]]
|date=2005-10-21
|accessdate=2016-01-19}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite|和書|author=中野繁|title=星雲星団の観測|publisher=[[恒星社厚生閣]]|date=1978|isbn=978-4769900559}}
* {{Cite|和書|author=浅田英夫|title=星雲星団ウォッチング|publisher=[[地人書館]]|date=1996-02|isbn=978-4805205013}}
{{オリオン座}}
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[[Category:オリオン座]]
[[Category:散光星雲]]
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[[Category:NGC天体|2068]]
[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-05-22T00:36:41Z | 2023-11-30T22:40:52Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/M78_(%E5%A4%A9%E4%BD%93) |
8,995 | 銀河系 | 銀河系(ぎんがけい、英: the Galaxy)または天の川銀河(あまのがわぎんが、英: Milky Way Galaxy)は太陽系を含む銀河の名称である。地球から見えるその帯状の姿は天の川と呼ばれる。
2000〜4000億の恒星が含まれる棒渦巻銀河とされ、局所銀河群に属している。
通常の銀河と同様、銀河系も数多くの恒星や星間ガスなどの天体の集まりで、全質量は太陽の1兆2600億倍と見積もられている。そのうち可視光などの電磁波を放出している質量の合計は5.1%以下の643億太陽質量で、質量の大部分は正体が分からない暗黒物質である。中心付近には比較的古い恒星からなる密度の高いバルジを持ち、それを取り巻くように若い恒星や星間物質からなる直径約8万-10万光年のディスク(銀河円盤)がある。ディスク(銀河円盤)の厚さは中心部で約1万5000光年、周縁部で約1000光年で凸レンズ状の形状を持つ。ディスク(銀河円盤)の中には明るい星や散開星団、散光星雲などが多く見られる渦状腕が存在する。大きさを相対的に例えると、銀河系を直径130 kmに縮めた場合、太陽系は約2 mほどの大きさになる。バルジとディスクのさらに外側には約130個の球状星団などからなる直径約25万から40万光年の球形の銀河ハローが存在する。銀河系の中心は地球の立場から見るといて座の方向に約3万光年離れた所に位置しており、いて座Aという強い電波源がある。いて座Aの中心部(いて座A*)には超大質量ブラックホールが存在することが確実視されていたが、2022年5月12日、ブラックホールの直接観測を目指す国際プロジェクトイベントホライズンテレスコープ (EHT) により、いて座A*に存在する超大質量ブラックホールの直接観測に成功したと発表された。ブラックホールの直接観測に成功したのはM87の中心にある超大質量ブラックホールに次いで観測史上2例目である。
天の川は天の赤道に対してはるか北のカシオペヤ座からはるか南のみなみじゅうじ座までの範囲に達している。このことから、地球の赤道面や軌道面である黄道面が銀河面に対して大きく傾いていることが分かる。また、天の川によって天球がほぼ同じ広さの二つの半球に分けられることから、太陽系は銀河面に近い位置にあることが分かる。
銀河系の絶対等級は直接測定することが不可能であるため確実な数値として表現することは出来ない。そこで研究者の間では、約-20.5等という値が慣習的に受け入れられている。
銀河系の一部は地球上から天の川として観測できるが、肉眼では淡い光の帯としか見えないため、それが星々から成り立っていることは分かっていなかった。多くの民族が天の川の正体に思いをはせ、さまざまな伝説が残されている。
天の川が遠く離れた星々からなっているという説を最初に唱えたのは紀元前400年頃の学者デモクリトスである。その後、1609年にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って天の川を観測し、天の川が無数の星の集まりであることを確認した。1755年にはイマヌエル・カントが、天の川も太陽系と同様に多くの恒星が重力によって円盤状に回転している天体であるとする説を唱えた。1788年にはウィリアム・ハーシェルが恒星の見かけの明るさを距離に対応づけることで恒星の3次元的な空間分布を求める計数観測を行い、天の川が直径を約6000光年、厚みを約1000光年の円盤状の構造であるとし、太陽がそのほぼ中心にあるとした。
20世紀にはヤコブス・カプタインやハーロー・シャプレーによってより正確な銀河系の構造が求められた。1908年にはハーバード大学天文台のヘンリエッタ・スワン・リービットがケフェイド変光星の変光周期と絶対等級が比例する、いわゆる周期-光度関係を発見したことで視差を利用できないほど遠方の星の距離が算出できるようになり、これを利用して1918年にシャプレーが天の川銀河の大きさを測定し、さらに太陽系の位置が銀河の中心から大きく外れていることを明らかにした。1920年にはシャプレーとヒーバー・ダウスト・カーチスの間でいわゆる「大論争(The Great Debate)」が起き、その中でシャプレーは渦巻銀河が銀河系の内部に、カーチスは外部にあることを主張した。この議論は1924年にエドウィン・ハッブルがアンドロメダ銀河までの距離を算出し、アンドロメダ銀河が銀河系外部に存在することが明らかになったため、銀河系以外にも銀河が存在することが確かめられた。また1958年にはヤン・オールトによって21cm線による電波観測がおこなわれ、これによって銀河系が渦巻銀河であることが明らかになった。
銀河系の年齢は、約130億年と見積もられている。銀河系で最も古い天体としては、HE 1523-0901の132億年や、HD 140283の約145億年などがある。HD140283の年齢が正しければ約138億年前の宇宙開闢よりも古くなってしまうが、誤差が8億年ほど存在するため、最も若い見積もりであれば矛盾は解消する。
銀河系はおおよそ100億年前にガイア=エンケラドゥス (Gaia-Enceladus)と呼ばれる矮小銀河と衝突し合体した。この際の残骸が銀河系のハローを形成したとの研究が2019年に発表されている。また銀河系にほど近いいて座矮小楕円銀河はこれまで約50億から60億年前、約20億年前、10億年前の3度にわたって銀河系と衝突を繰り返しており、この衝撃によって銀河系内での恒星の誕生が促され、太陽系もこのときの衝撃によって誕生した可能性があるとされる。
銀河系はハッブル分類でSBbcに分類される棒渦巻銀河で、総質量は約1兆2600億太陽質量であり、約2000億 - 4000億個の恒星が含まれていると考えられている。
銀河系が普通の渦巻銀河でなく棒渦巻銀河であると考えられるようになったのは1980年代になってからである。2005年にスピッツァー宇宙望遠鏡によって行われた観測でもこのモデルは裏付けられており、さらに銀河系の棒構造はそれまで考えられていたよりも大きいことが明らかになっている。
銀河系の中心には超大質量ブラックホールと目される、非常に大きな質量を持つ小さな天体(いて座A*)が存在しており、2022年5月12日には直接観測に成功したと発表されている。現在ではほとんどの銀河の中心に大質量ブラックホールが存在すると考えられている。
銀河系は多くの銀河の場合と同様に、銀河系内の恒星の軌道速度が中心からの距離によらずほぼ同じ速度となるような質量分布を持っている。中心のバルジや外縁部を除くと、銀河系の恒星の典型的な速度は約210から240 km/sである。したがって、典型的な恒星の軌道周期はその軌道の長さのみに単純に比例する。これは系の中心に質量のほとんどが集中している太陽系のケプラー運動のような、異なる軌道を持つ天体がその軌道に応じて異なる軌道速度を持つ場合とは大きく異なっている。
銀河系のディスク(銀河円盤)の両端を結んだ直径は約10万光年と見積もられている。太陽から銀河の中心までの距離は約2万6000光年から約3万5000光年と見積もられている。ディスク(銀河円盤)は銀河中心では外側に膨らんでおり、中心から遠さがるにつれて膨らみが小さくなる。
銀河系の棒構造は約2万7000光年の長さを持ち、太陽系と銀河中心を結ぶ直線に対して約44±10度の角度で銀河中心を貫いている。棒構造は主に年齢の古い赤い星から形成されている。
銀河系の各渦状腕は(他の全ての渦巻銀河と同様に)対数螺旋を描いており、その角度は約12度である。銀河系には銀河中心から伸びた4本の渦状腕が存在すると考えられていて、それぞれ以下の名称が付けられている。
また、これ以外に二つの小さな腕や弧が存在する。代表的なものは以下の腕である。
銀河系のディスク(銀河円盤)は古い恒星や球状星団からなる回転楕円体の銀河ハローに取り囲まれている。銀河ハローの直径は約25万 - 40万光年である。ディスク(銀河円盤)にはガスや塵が含まれ、いくつかの波長では見通すことができないが、銀河ハローにはそのような物質はほとんどない。ディスク(銀河円盤)のうち、特に物質密度の高い渦状腕の内部では活発な星形成が行なわれているが、銀河ハローでは星形成はほとんど見られない。散開星団も主にディスク(銀河円盤)に存在している。
銀河系の質量のほとんどは暗黒物質で、ダークハローを形成している。ダークハローは銀河中心に向かって密度が高くなっている。
21世紀初頭の発見によって、銀河系の構造についての知識は広がりつつあると共に誤った知識から正しい知識へと変わりつつある。2005年、アンドロメダ銀河 (M31) のディスクがそれまで考えられていたよりもずっと大きく広がっていることが発見され、銀河系のディスクもそれまでの推定より大きい可能性が高まっている。このことは、はくちょう腕がさらに外側に続いていることが発見されたことからも裏付けられている。また、いて座矮小楕円銀河の発見と同時に、銀河の「破片」からなる帯がいて座を中心として極軌道を描いて取り巻いていることが発見され、これはこの伴銀河が銀河系との相互作用によって分裂しつつある姿であることが明らかになっている。この帯はいて座ストリームと呼ばれ、約10億年前の銀河衝突の名残とされている。同様におおいぬ座矮小銀河の発見に伴って、この銀河と銀河系との相互作用で生じた銀河の小片がリングとなって銀河系のディスクを取り巻いているのも見つかっている。
2006年1月9日、プリンストン大学のMario Juric他はスローン・デジタル・スカイサーベイの北天のデータから、天の川の中に現在考えられている銀河系のモデルに合わない巨大な(満月の約5000倍の面積に広がっている)淡い構造を発見したと発表している。この構造は恒星の集団で、銀河系の渦状腕の面に対してほぼ垂直に広がっている。彼らはこの構造についての可能性の高い解釈として、矮小銀河が銀河系と合体しつつある姿ではないかとしている。この銀河は暫定的にVirgo Stellar Streamと名付けられ、地球から見ておとめ座の方向に約3万光年離れた位置に存在している。
2006年5月9日にはDaniel ZuckerとVasily Belokurovが、同様にスローン・デジタル・スカイサーベイの観測データからりょうけん座とうしかい座の位置に2個の矮小銀河を発見したと発表している。
太陽はオリオン腕の内側の縁近く、銀河中心から7.94±0.42 kpcの距離にある局所恒星間雲と呼ばれる星間雲に属している。太陽系が属している腕と隣のペルセウス腕との距離は約6500光年である。太陽系は銀河系におけるハビタブルゾーンの中にあると考えられている。
太陽が銀河系内を運動する方向を太陽向点と呼ぶ。太陽の銀河系内運動の標準的な方向はベガの近くのこと座とヘルクレス座の境界付近で、銀河中心から約86度の方向である。太陽の銀河系内の軌道はほぼ楕円軌道で、これに銀河系の渦状腕や一様でない質量分布による摂動が加わっていると考えられている。太陽は現在、この軌道上の近銀点(銀河中心に最も近づく点)の手前約1/8の位置にいる。
太陽系が銀河系内の軌道を一周するには約2億2500万から2億5000万年ほどかかり、太陽系が誕生してから現在までに約20〜25周していると考えられている。太陽系の軌道速度は約220km/sで、約8日で1天文単位、約1400年で1光年進む。
銀河系は、アンドロメダ銀河やさんかく座銀河 (M33) など約50個の銀河とともに局所銀河群を構成している。局所銀河群の中で銀河系とアンドロメダ銀河は突出して大きな銀河であり、さんかく座銀河の約10倍の質量を持っている。局所銀河群はおとめ座超銀河団の一部となっている。
銀河系には局所銀河群の数多くの矮小銀河が周回している。これらの矮小銀河の中で最も大きいものが直径約2万光年の大マゼラン雲である。これに対して最も小さいりゅうこつ座矮小銀河、りゅう座矮小銀河、しし座II矮小銀河は直径500光年しかない。銀河系を周回する矮小銀河は、これら以外に小マゼラン雲、おおいぬ座矮小銀河(銀河系に最も近い)、いて座矮小楕円銀河(かつて最も銀河系に近いと考えられていた)などがある。
一般的な意味では、アインシュタインの特殊相対性理論によれば宇宙空間における物体の絶対速度という考え方には意味がない。
このことを念頭において、多くの研究者は、近傍の銀河の観測位置に対して銀河系は約630km/sの速度で宇宙空間を運動していると考えている。宇宙マイクロ波背景放射の非等方性の観測結果にも整合している。
21世紀初頭の推定ではこの値は130 km/sから1,000 km/sまでばらつきがある。仮に銀河系が600 km/sで運動しているとすると、我々は1日に5184万 km移動しており、1年では189億 km動くことになる。これは我々が毎年地球から冥王星までの距離の約4.5倍を移動していることを意味する。銀河系の運動方向はうみへび座の方向だと考えられている。
銀河系から約230万光年離れた位置にあるアンドロメダ銀河は秒速約122 kmの速度で銀河系に近づいており、従って銀河系はアンドロメダ銀河と40億年後には衝突することが示唆されている。この際、さんかく座銀河も同様に衝突する可能性が高いとされる。この2個の銀河が衝突しても太陽やその他の恒星が互いに衝突する可能性は低いが、衝突から約30億年後には2個の銀河は合体して1個の楕円銀河を形成すると考えられている。 | [
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"text": "銀河系(ぎんがけい、英: the Galaxy)または天の川銀河(あまのがわぎんが、英: Milky Way Galaxy)は太陽系を含む銀河の名称である。地球から見えるその帯状の姿は天の川と呼ばれる。",
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"text": "2000〜4000億の恒星が含まれる棒渦巻銀河とされ、局所銀河群に属している。",
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"text": "通常の銀河と同様、銀河系も数多くの恒星や星間ガスなどの天体の集まりで、全質量は太陽の1兆2600億倍と見積もられている。そのうち可視光などの電磁波を放出している質量の合計は5.1%以下の643億太陽質量で、質量の大部分は正体が分からない暗黒物質である。中心付近には比較的古い恒星からなる密度の高いバルジを持ち、それを取り巻くように若い恒星や星間物質からなる直径約8万-10万光年のディスク(銀河円盤)がある。ディスク(銀河円盤)の厚さは中心部で約1万5000光年、周縁部で約1000光年で凸レンズ状の形状を持つ。ディスク(銀河円盤)の中には明るい星や散開星団、散光星雲などが多く見られる渦状腕が存在する。大きさを相対的に例えると、銀河系を直径130 kmに縮めた場合、太陽系は約2 mほどの大きさになる。バルジとディスクのさらに外側には約130個の球状星団などからなる直径約25万から40万光年の球形の銀河ハローが存在する。銀河系の中心は地球の立場から見るといて座の方向に約3万光年離れた所に位置しており、いて座Aという強い電波源がある。いて座Aの中心部(いて座A*)には超大質量ブラックホールが存在することが確実視されていたが、2022年5月12日、ブラックホールの直接観測を目指す国際プロジェクトイベントホライズンテレスコープ (EHT) により、いて座A*に存在する超大質量ブラックホールの直接観測に成功したと発表された。ブラックホールの直接観測に成功したのはM87の中心にある超大質量ブラックホールに次いで観測史上2例目である。",
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"text": "天の川は天の赤道に対してはるか北のカシオペヤ座からはるか南のみなみじゅうじ座までの範囲に達している。このことから、地球の赤道面や軌道面である黄道面が銀河面に対して大きく傾いていることが分かる。また、天の川によって天球がほぼ同じ広さの二つの半球に分けられることから、太陽系は銀河面に近い位置にあることが分かる。",
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"text": "銀河系の絶対等級は直接測定することが不可能であるため確実な数値として表現することは出来ない。そこで研究者の間では、約-20.5等という値が慣習的に受け入れられている。",
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"text": "銀河系の一部は地球上から天の川として観測できるが、肉眼では淡い光の帯としか見えないため、それが星々から成り立っていることは分かっていなかった。多くの民族が天の川の正体に思いをはせ、さまざまな伝説が残されている。",
"title": "観測史"
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"text": "天の川が遠く離れた星々からなっているという説を最初に唱えたのは紀元前400年頃の学者デモクリトスである。その後、1609年にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って天の川を観測し、天の川が無数の星の集まりであることを確認した。1755年にはイマヌエル・カントが、天の川も太陽系と同様に多くの恒星が重力によって円盤状に回転している天体であるとする説を唱えた。1788年にはウィリアム・ハーシェルが恒星の見かけの明るさを距離に対応づけることで恒星の3次元的な空間分布を求める計数観測を行い、天の川が直径を約6000光年、厚みを約1000光年の円盤状の構造であるとし、太陽がそのほぼ中心にあるとした。",
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"text": "20世紀にはヤコブス・カプタインやハーロー・シャプレーによってより正確な銀河系の構造が求められた。1908年にはハーバード大学天文台のヘンリエッタ・スワン・リービットがケフェイド変光星の変光周期と絶対等級が比例する、いわゆる周期-光度関係を発見したことで視差を利用できないほど遠方の星の距離が算出できるようになり、これを利用して1918年にシャプレーが天の川銀河の大きさを測定し、さらに太陽系の位置が銀河の中心から大きく外れていることを明らかにした。1920年にはシャプレーとヒーバー・ダウスト・カーチスの間でいわゆる「大論争(The Great Debate)」が起き、その中でシャプレーは渦巻銀河が銀河系の内部に、カーチスは外部にあることを主張した。この議論は1924年にエドウィン・ハッブルがアンドロメダ銀河までの距離を算出し、アンドロメダ銀河が銀河系外部に存在することが明らかになったため、銀河系以外にも銀河が存在することが確かめられた。また1958年にはヤン・オールトによって21cm線による電波観測がおこなわれ、これによって銀河系が渦巻銀河であることが明らかになった。",
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"text": "銀河系の年齢は、約130億年と見積もられている。銀河系で最も古い天体としては、HE 1523-0901の132億年や、HD 140283の約145億年などがある。HD140283の年齢が正しければ約138億年前の宇宙開闢よりも古くなってしまうが、誤差が8億年ほど存在するため、最も若い見積もりであれば矛盾は解消する。",
"title": "年齢と形成史"
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"text": "銀河系はおおよそ100億年前にガイア=エンケラドゥス (Gaia-Enceladus)と呼ばれる矮小銀河と衝突し合体した。この際の残骸が銀河系のハローを形成したとの研究が2019年に発表されている。また銀河系にほど近いいて座矮小楕円銀河はこれまで約50億から60億年前、約20億年前、10億年前の3度にわたって銀河系と衝突を繰り返しており、この衝撃によって銀河系内での恒星の誕生が促され、太陽系もこのときの衝撃によって誕生した可能性があるとされる。",
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"text": "銀河系はハッブル分類でSBbcに分類される棒渦巻銀河で、総質量は約1兆2600億太陽質量であり、約2000億 - 4000億個の恒星が含まれていると考えられている。",
"title": "構造"
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"text": "銀河系が普通の渦巻銀河でなく棒渦巻銀河であると考えられるようになったのは1980年代になってからである。2005年にスピッツァー宇宙望遠鏡によって行われた観測でもこのモデルは裏付けられており、さらに銀河系の棒構造はそれまで考えられていたよりも大きいことが明らかになっている。",
"title": "構造"
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"text": "銀河系の中心には超大質量ブラックホールと目される、非常に大きな質量を持つ小さな天体(いて座A*)が存在しており、2022年5月12日には直接観測に成功したと発表されている。現在ではほとんどの銀河の中心に大質量ブラックホールが存在すると考えられている。",
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"text": "銀河系は多くの銀河の場合と同様に、銀河系内の恒星の軌道速度が中心からの距離によらずほぼ同じ速度となるような質量分布を持っている。中心のバルジや外縁部を除くと、銀河系の恒星の典型的な速度は約210から240 km/sである。したがって、典型的な恒星の軌道周期はその軌道の長さのみに単純に比例する。これは系の中心に質量のほとんどが集中している太陽系のケプラー運動のような、異なる軌道を持つ天体がその軌道に応じて異なる軌道速度を持つ場合とは大きく異なっている。",
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"text": "銀河系のディスク(銀河円盤)の両端を結んだ直径は約10万光年と見積もられている。太陽から銀河の中心までの距離は約2万6000光年から約3万5000光年と見積もられている。ディスク(銀河円盤)は銀河中心では外側に膨らんでおり、中心から遠さがるにつれて膨らみが小さくなる。",
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"text": "銀河系の棒構造は約2万7000光年の長さを持ち、太陽系と銀河中心を結ぶ直線に対して約44±10度の角度で銀河中心を貫いている。棒構造は主に年齢の古い赤い星から形成されている。",
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"text": "銀河系の各渦状腕は(他の全ての渦巻銀河と同様に)対数螺旋を描いており、その角度は約12度である。銀河系には銀河中心から伸びた4本の渦状腕が存在すると考えられていて、それぞれ以下の名称が付けられている。",
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"text": "また、これ以外に二つの小さな腕や弧が存在する。代表的なものは以下の腕である。",
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"text": "銀河系のディスク(銀河円盤)は古い恒星や球状星団からなる回転楕円体の銀河ハローに取り囲まれている。銀河ハローの直径は約25万 - 40万光年である。ディスク(銀河円盤)にはガスや塵が含まれ、いくつかの波長では見通すことができないが、銀河ハローにはそのような物質はほとんどない。ディスク(銀河円盤)のうち、特に物質密度の高い渦状腕の内部では活発な星形成が行なわれているが、銀河ハローでは星形成はほとんど見られない。散開星団も主にディスク(銀河円盤)に存在している。",
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"text": "銀河系の質量のほとんどは暗黒物質で、ダークハローを形成している。ダークハローは銀河中心に向かって密度が高くなっている。",
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"text": "21世紀初頭の発見によって、銀河系の構造についての知識は広がりつつあると共に誤った知識から正しい知識へと変わりつつある。2005年、アンドロメダ銀河 (M31) のディスクがそれまで考えられていたよりもずっと大きく広がっていることが発見され、銀河系のディスクもそれまでの推定より大きい可能性が高まっている。このことは、はくちょう腕がさらに外側に続いていることが発見されたことからも裏付けられている。また、いて座矮小楕円銀河の発見と同時に、銀河の「破片」からなる帯がいて座を中心として極軌道を描いて取り巻いていることが発見され、これはこの伴銀河が銀河系との相互作用によって分裂しつつある姿であることが明らかになっている。この帯はいて座ストリームと呼ばれ、約10億年前の銀河衝突の名残とされている。同様におおいぬ座矮小銀河の発見に伴って、この銀河と銀河系との相互作用で生じた銀河の小片がリングとなって銀河系のディスクを取り巻いているのも見つかっている。",
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"text": "2006年1月9日、プリンストン大学のMario Juric他はスローン・デジタル・スカイサーベイの北天のデータから、天の川の中に現在考えられている銀河系のモデルに合わない巨大な(満月の約5000倍の面積に広がっている)淡い構造を発見したと発表している。この構造は恒星の集団で、銀河系の渦状腕の面に対してほぼ垂直に広がっている。彼らはこの構造についての可能性の高い解釈として、矮小銀河が銀河系と合体しつつある姿ではないかとしている。この銀河は暫定的にVirgo Stellar Streamと名付けられ、地球から見ておとめ座の方向に約3万光年離れた位置に存在している。",
"title": "構造"
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"text": "2006年5月9日にはDaniel ZuckerとVasily Belokurovが、同様にスローン・デジタル・スカイサーベイの観測データからりょうけん座とうしかい座の位置に2個の矮小銀河を発見したと発表している。",
"title": "構造"
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"text": "太陽はオリオン腕の内側の縁近く、銀河中心から7.94±0.42 kpcの距離にある局所恒星間雲と呼ばれる星間雲に属している。太陽系が属している腕と隣のペルセウス腕との距離は約6500光年である。太陽系は銀河系におけるハビタブルゾーンの中にあると考えられている。",
"title": "太陽の位置"
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"text": "太陽が銀河系内を運動する方向を太陽向点と呼ぶ。太陽の銀河系内運動の標準的な方向はベガの近くのこと座とヘルクレス座の境界付近で、銀河中心から約86度の方向である。太陽の銀河系内の軌道はほぼ楕円軌道で、これに銀河系の渦状腕や一様でない質量分布による摂動が加わっていると考えられている。太陽は現在、この軌道上の近銀点(銀河中心に最も近づく点)の手前約1/8の位置にいる。",
"title": "太陽の位置"
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{
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"text": "太陽系が銀河系内の軌道を一周するには約2億2500万から2億5000万年ほどかかり、太陽系が誕生してから現在までに約20〜25周していると考えられている。太陽系の軌道速度は約220km/sで、約8日で1天文単位、約1400年で1光年進む。",
"title": "太陽の位置"
},
{
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"text": "銀河系は、アンドロメダ銀河やさんかく座銀河 (M33) など約50個の銀河とともに局所銀河群を構成している。局所銀河群の中で銀河系とアンドロメダ銀河は突出して大きな銀河であり、さんかく座銀河の約10倍の質量を持っている。局所銀河群はおとめ座超銀河団の一部となっている。",
"title": "銀河系の近傍"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "銀河系には局所銀河群の数多くの矮小銀河が周回している。これらの矮小銀河の中で最も大きいものが直径約2万光年の大マゼラン雲である。これに対して最も小さいりゅうこつ座矮小銀河、りゅう座矮小銀河、しし座II矮小銀河は直径500光年しかない。銀河系を周回する矮小銀河は、これら以外に小マゼラン雲、おおいぬ座矮小銀河(銀河系に最も近い)、いて座矮小楕円銀河(かつて最も銀河系に近いと考えられていた)などがある。",
"title": "銀河系の近傍"
},
{
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"text": "一般的な意味では、アインシュタインの特殊相対性理論によれば宇宙空間における物体の絶対速度という考え方には意味がない。",
"title": "宇宙空間での速度"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "このことを念頭において、多くの研究者は、近傍の銀河の観測位置に対して銀河系は約630km/sの速度で宇宙空間を運動していると考えている。宇宙マイクロ波背景放射の非等方性の観測結果にも整合している。",
"title": "宇宙空間での速度"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "21世紀初頭の推定ではこの値は130 km/sから1,000 km/sまでばらつきがある。仮に銀河系が600 km/sで運動しているとすると、我々は1日に5184万 km移動しており、1年では189億 km動くことになる。これは我々が毎年地球から冥王星までの距離の約4.5倍を移動していることを意味する。銀河系の運動方向はうみへび座の方向だと考えられている。",
"title": "宇宙空間での速度"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "銀河系から約230万光年離れた位置にあるアンドロメダ銀河は秒速約122 kmの速度で銀河系に近づいており、従って銀河系はアンドロメダ銀河と40億年後には衝突することが示唆されている。この際、さんかく座銀河も同様に衝突する可能性が高いとされる。この2個の銀河が衝突しても太陽やその他の恒星が互いに衝突する可能性は低いが、衝突から約30億年後には2個の銀河は合体して1個の楕円銀河を形成すると考えられている。",
"title": "未来"
}
] | 銀河系または天の川銀河は太陽系を含む銀河の名称である。地球から見えるその帯状の姿は天の川と呼ばれる。 2000〜4000億の恒星が含まれる棒渦巻銀河とされ、局所銀河群に属している。 | {{混同|銀河}}
{{天体 基本
| 幅 =
| 色 = 銀河
| 和名 = 銀河系
| 英名 = Milky Way
| 画像ファイル = Artist's impression of the Milky Way (updated - annotated).jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 銀河系の想像図
| 画像背景色 =
| 仮符号・別名 = 天の川銀河<br/>Milky Way Galaxy
| 星座 = [[いて座]](中心部)
| 視等級 =
| 視直径 =
| 変光星型 =
| 分類 = SBc型[[銀河]]<ref>[http://arxiv.org/abs/astro-ph/0203110 Mass distribution in our Galaxy] -
[[arXiv]]</ref>
| 軌道の種類 =
}}
{{天体 物理
| 色 = 銀河
| 直径 = 約10-20万[[光年]]<ref name="nasaquestion">[http://imagine.gsfc.nasa.gov/docs/ask_astro/answers/980317b.html How large is the Milky Way?] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]</ref>
<ref name="biggeryouthought">[https://www.iac.es/en/outreach/news/disc-milky-way-bigger-we-thought The disc of the Milky Way is bigger than we thought]</ref>
{{天体 項目|厚さ|約1000[[光年]]<ref name="nasaquestion"/>}}
| 質量 = 約2 × 10<sup>12</sup> [[太陽質量|''M''<sub>☉</sub>]]<ref name="mass">[https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2003A%26A...397..899S/abstract The mass of the Milky Way: Limits from a newly assembled set of halo objects,] 2003</ref>
{{天体 項目|[[恒星]]数|2000 - 4000億個<ref name="number">[http://www.universetoday.com/22380/how-many-stars-are-in-the-milky-way/ How Many Stars are in the Milky Way?] - [[:en:Universe Today]]</ref>}}
{{天体 項目|最古の天体|132億年<ref name="he">[http://arxiv.org/abs/astro-ph/0703414 Discovery of HE 1523-0901, a Strongly r-Process Enhanced Metal-Poor Star with Detected Uranium] - [[arXiv]]</ref>}}
| 平均密度 = 7.13 ± 0.71 × 10<sup>-25</sup>g/cm<sup>3</sup><br/>(0.40 ± 0.04 GeV/cm<sup>3</sup><ref name="mass"/>)
| 自転周期 =
| 絶対等級 = -20.5
| 光度 =
| 年齢 =
}}
{{天体 終了
| 色 = 銀河
}}
'''銀河系'''{{efn|name="sciterm"|「天の川銀河」「銀河系」ともに文部科学省による[[学術用語集]] 天文学編(増訂版)に掲載されている[[学術用語]]である<ref>[http://sciterm.nii.ac.jp オンライン学術用語集「銀河」]</ref>}}<ref name="biseichou">{{Cite web|和書|url=http://www.bao.city.ibara.okayama.jp/stardb/gal/data/gal0026.html |title=「銀河系」美星町 星のデータベース |author= |date= |work= |publisher= 美星町|accessdate=2017-10-22 }}</ref>(ぎんがけい、{{lang-en-short|the Galaxy}})または'''天の川銀河'''{{efn|name="sciterm"}}<ref name="biseichou"/>(あまのがわぎんが、{{lang-en-short|Milky Way Galaxy}}<ref name="biseichou"/>)は[[太陽系]]を含む[[銀河]]の名称である<ref name="biseichou" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigakukiso/archive/2013_chigakukiso_04.pdf |title=NHK高校講座 地学基礎 |author= |date= |work= |publisher=NHK |accessdate=2016-07-02 |archivedate=2017-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171115193616/http://www.nhk.or.jp:80/kokokoza/tv/chigakukiso/archive/2013_chigakukiso_04.pdf}}</ref>。地球から見えるその帯状の姿は'''[[天の川]]'''と呼ばれる。
2000〜4000億の恒星が含まれる[[棒渦巻銀河]]とされ<ref name="number" /><ref name="swin">{{Cite web|url=http://astronomy.swin.edu.au/cosmos/M/Milky+Way |title=Milky Way |author=Swinburne University of Technology |date= |work=COSMOS - The SAO Encyclopedia of Astronomy |publisher= |accessdate= 2016-07-02}}</ref>、[[局所銀河群]]に属している。
== 概要 ==
通常の銀河と同様、銀河系も数多くの[[恒星]]や[[星間ガス]]などの[[天体]]の集まりで、全[[質量]]は太陽の1兆2600億倍<ref name="mass"/>と見積もられている。そのうち[[可視光]]などの[[電磁波]]を放出している質量の合計は5.1%以下の643億太陽質量<ref name="mass"/>で、質量の大部分は正体が分からない[[暗黒物質]]である。中心付近には比較的古い恒星からなる密度の高い[[銀河バルジ|バルジ]]を持ち、それを取り巻くように若い恒星や[[星間物質]]からなる直径約8万-10万[[光年]]の[[銀河円盤|ディスク]](銀河円盤)がある。ディスク(銀河円盤)の厚さは中心部で約1万5000光年、周縁部で約1000光年で凸レンズ状の形状を持つ。ディスク(銀河円盤)の中には明るい星や[[散開星団]]、[[散光星雲]]などが多く見られる渦状腕が存在する。大きさを相対的に例えると、銀河系を直径130 kmに縮めた場合、太陽系は約2 mほどの大きさになる。バルジとディスクのさらに外側には約130個の[[球状星団]]などからなる直径約25万から40万光年の球形の[[銀河ハロー]]が存在する。銀河系の中心は地球の立場から見ると[[いて座]]の方向に約3万光年離れた所に位置しており、[[いて座A]]という強い電波源がある。いて座Aの中心部([[いて座A*]])には[[超大質量ブラックホール]]が存在することが確実視されていたが、2022年5月12日、ブラックホールの直接観測を目指す国際プロジェクト[[イベントホライズンテレスコープ]] (EHT) により、いて座A*に存在する超大質量ブラックホールの直接観測に成功したと発表された。ブラックホールの直接観測に成功したのは[[M87]]の中心にある超大質量ブラックホールに次いで観測史上2例目である<ref>https://sorae.info/astronomy/20220513-sgr-a-star.html 「【解説】天の川銀河の超大質量ブラックホール「いて座A*」ついに撮影成功! その輪郭が捉えられた」soare 2022-05-13 2023年6月2日閲覧</ref>。
天の川は[[天の赤道]]に対してはるか北の[[カシオペヤ座]]からはるか南の[[みなみじゅうじ座]]までの範囲に達している。このことから、地球の赤道面や軌道面である[[黄道]]面が銀河面に対して大きく傾いていることが分かる。また、天の川によって[[天球]]がほぼ同じ広さの二つの半球に分けられることから、太陽系は銀河面に近い位置にあることが分かる。
銀河系の[[絶対等級]]は直接測定することが不可能であるため確実な数値として表現することは出来ない。そこで研究者の間では、約-20.5等という値が慣習的に受け入れられている。
== 観測史 ==
=== 古代 ===
銀河系の一部は地球上から天の川として観測できるが、肉眼では淡い光の帯としか見えないため、それが星々から成り立っていることは分かっていなかった<ref>「天の川が消える日」p13-14 谷口義明 日本評論社 2018年6月25日第1版第1刷発行</ref>。多くの民族が天の川の正体に思いをはせ、さまざまな伝説が残されている<ref>「星の文化史事典」p21-26 出雲晶子編著 白水社 2012年4月9日発行</ref>。
=== 科学 ===
[[ファイル:Herschel-Galaxy.png|thumb|right|250px|ハーシェルが恒星の計数観測を元に描いた銀河系。中央やや左にある大きめの点が太陽系の位置を表す。]]
天の川が遠く離れた星々からなっているという説を最初に唱えたのは紀元前400年頃の学者[[デモクリトス]]である。その後、[[1609年]]に[[ガリレオ・ガリレイ]]が[[望遠鏡]]を使って天の川を観測し、天の川が無数の[[天体|星]]の集まりであることを確認した<ref>「物理学は歴史をどう変えてきたか 古代ギリシャの自然哲学から暗黒物質の謎まで」p161 アン・ルーニー 立木勝訳 東京書籍 2015年8月18日第1刷発行</ref>。[[1755年]]には[[イマヌエル・カント]]が、天の川も太陽系と同様に多くの恒星が[[重力]]によって円盤状に回転している天体であるとする説を唱えた。[[1788年]]には[[ウィリアム・ハーシェル]]が恒星の見かけの明るさを距離に対応づけることで恒星の3次元的な空間分布を求める計数観測を行い、天の川が直径を約6000[[光年]]、厚みを約1000光年の円盤状の構造であるとし、太陽がそのほぼ中心にあるとした<ref>「天の川が消える日」p18-24 谷口義明 日本評論社 2018年6月25日第1版第1刷発行</ref>。
[[20世紀]]には[[ヤコブス・カプタイン]]や[[ハーロー・シャプレー]]によってより正確な銀河系の構造が求められた。1908年にはハーバード大学天文台の[[ヘンリエッタ・スワン・リービット]]が[[ケフェイド変光星]]の変光周期と絶対等級が比例する、いわゆる[[周期-光度関係]]を発見したことで<ref>https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/galaxy/galaxy05.html 「国立科学博物館-宇宙の質問箱-銀河編」日本国立科学博物館 2023年1月3日閲覧</ref>視差を利用できないほど遠方の星の距離が算出できるようになり、これを利用して1918年にシャプレーが天の川銀河の大きさを測定し、さらに太陽系の位置が銀河の中心から大きく外れていることを明らかにした<ref>「物理学は歴史をどう変えてきたか 古代ギリシャの自然哲学から暗黒物質の謎まで」p173-174 アン・ルーニー 立木勝訳 東京書籍 2015年8月18日第1刷発行</ref>。1920年にはシャプレーと[[ヒーバー・ダウスト・カーチス]]の間でいわゆる「[[大論争 (天文学)|大論争]](The Great Debate)」が起き、その中でシャプレーは渦巻銀河が銀河系の内部に、カーチスは外部にあることを主張した<ref>「天の川が消える日」p56-58 谷口義明 日本評論社 2018年6月25日第1版第1刷発行</ref>。この議論は1924年に[[エドウィン・ハッブル]]がアンドロメダ銀河までの距離を算出し、アンドロメダ銀河が銀河系外部に存在することが明らかになったため、銀河系以外にも銀河が存在することが確かめられた<ref>「天の川が消える日」p160-162 谷口義明 日本評論社 2018年6月25日第1版第1刷発行</ref>。また[[1958年]]には[[ヤン・オールト]]によって[[21cm線]]による[[電波]]観測がおこなわれ、これによって銀河系が[[渦巻銀河]]であることが明らかになった<ref>「Newton別冊 現代の宇宙像はこうして創られた 天文学躍進の400年」p50 ニュートンプレス 2009年5月15日発行</ref>。
{{main|銀河#観測の歴史}}
== 年齢と形成史 ==
銀河系の年齢は、約130億年と見積もられている<ref>https://www.nao.ac.jp/news/science/2015/20150909-subaru.html 「突然、星を作らなくなった銀河の発見 ―100億年前、銀河に何が起こったのか?」国立天文台 2015年9月9日 2023年6月1日閲覧</ref><ref>https://sorae.info/astronomy/20220330-milky-way.html 「天の川銀河の形成が始まったのは約130億年前だった可能性」sorae 2022-03-30 2023年6月1日閲覧</ref>。銀河系で最も古い天体としては、[[HE 1523-0901]]の132億年や<ref>https://www.astroarts.co.jp/news/2007/05/16galactic_fossil_star/index-j.shtml 「推定年齢132億歳の恒星、天の川銀河に発見」Astro Arts 2007年5月16日 2023年6月1日閲覧</ref>、[[HD 140283]]の約145億年などがある。HD140283の年齢が正しければ約138億年前の宇宙開闢よりも古くなってしまうが、誤差が8億年ほど存在するため、最も若い見積もりであれば矛盾は解消する<ref>https://www.astroarts.co.jp/news/2013/03/12hd140283/index-j.shtml 「宇宙最古の星の年齢をさらに正確に推定」Astro Arts 2013年3月12日 2023年6月1日閲覧</ref>。
銀河系はおおよそ100億年前にガイア=エンケラドゥス (Gaia-Enceladus)と呼ばれる[[矮小銀河]]と衝突し合体した。この際の残骸が銀河系のハローを形成したとの研究が2019年に発表されている<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3195522 「銀河系ハロー、100億年前の銀河「巨大衝突」で形成」AFPBB
2018年11月1日 2023年6月2日閲覧</ref>。また銀河系にほど近いいて座矮小楕円銀河はこれまで約50億から60億年前、約20億年前、10億年前の3度にわたって銀河系と衝突を繰り返しており、この衝撃によって銀河系内での恒星の誕生が促され、太陽系もこのときの衝撃によって誕生した可能性があるとされる<ref>https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/11277_sagdeg 「矮小銀河の衝突が天の川の星形成を促し、太陽も誕生させた可能性」Astro Arts 2020年5月29日 2023年6月2日閲覧</ref>。
== 構造 ==
[[File:Milky Way Spiral Arm.svg|250px|right|thumb|銀河系の渦状腕の構造(黄色の点は太陽系)の想像図。グレーの部分は太陽系から見て銀河系の反対側にあるため、詳細な構造が不明である領域。]]
銀河系は[[ハッブル分類]]でSBbcに分類される[[棒渦巻銀河]]で<ref name="swin" />、総質量は約1兆2600億[[太陽質量]]であり<ref name="mass"/>、約2000億 - 4000億個の恒星が含まれていると考えられている<ref name="number"/>。
銀河系が普通の渦巻銀河でなく棒渦巻銀河であると考えられるようになったのは[[1980年代]]になってからである。2005年に[[スピッツァー宇宙望遠鏡]]によって行われた観測でもこのモデルは裏付けられており、さらに銀河系の棒構造はそれまで考えられていたよりも大きいことが明らかになっている<ref name="fn3">{{Cite web |url=http://www.newscientistspace.com/article.ns?id=dn7854 |title=Bar at Milky Way's heart revealed |accessdate=2022-02-20 |date=2005-08-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051120013906/http://www.newscientistspace.com/article.ns?id=dn7854 |archivedate=2005-11-20}}</ref>。
銀河系の中心には[[超大質量ブラックホール]]と目される、非常に大きな質量を持つ小さな天体([[いて座A*]])が存在しており、2022年5月12日には直接観測に成功したと発表されている<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2022051200836&g=soc|title=銀河系中心のブラックホール撮影 国立天文台など参加の国際研究|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2022-05-12|accessdate=2022-05-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220512132927/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022051200836&g=soc|archivedate=2022-05-12}}</ref>。現在ではほとんどの銀河の中心に大質量ブラックホールが存在すると考えられている<ref>「宇宙は本当にひとつなのか 最新宇宙論入門」p34 村山斉 講談社ブルーバックス 2011年7月20日第1刷発行</ref>。
銀河系は多くの銀河の場合と同様に、銀河系内の恒星の[[軌道速度]]が中心からの距離によらずほぼ同じ速度となるような質量分布を持っている。中心のバルジや外縁部を除くと、銀河系の恒星の典型的な速度は約210から240 km/sである<ref name="fn4">{{Cite web |url=http://zebu.uoregon.edu/~imamura/123/lecture-2/mass.html |title=Mass of the Milky Way Galaxy |accessdate=2022-02-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19991008185413/http://zebu.uoregon.edu/~imamura/123/lecture-2/mass.html |archivedate=1999-10-08}}</ref>。したがって、典型的な恒星の軌道周期はその軌道の長さのみに単純に比例する。これは系の中心に質量のほとんどが集中している太陽系の[[ケプラー運動]]のような、異なる軌道を持つ天体がその軌道に応じて異なる軌道速度を持つ場合とは大きく異なっている。
銀河系のディスク(銀河円盤)の両端を結んだ直径は約10万光年と見積もられている<ref>「天の川が消える日」p24-25 谷口義明 日本評論社 2018年6月25日第1版第1刷発行</ref>。太陽から銀河の中心までの距離は約2万6000光年から約3万5000光年と見積もられている。ディスク(銀河円盤)は銀河中心では外側に膨らんでおり、中心から遠さがるにつれて膨らみが小さくなる。
銀河系の棒構造は約2万7000光年の長さを持ち、太陽系と銀河中心を結ぶ直線に対して約44±10度の角度で銀河中心を貫いている。棒構造は主に年齢の古い赤い星から形成されている。
=== 渦状腕 ===
[[File:Milky Way Arms.svg|250px|right|thumb|銀河北極から見た銀河系の渦状腕の構造図。実線は観測によるもので、点線は推定。大半の星は時計回りに移動する。太陽(中央上部にある黄色い点)の位置からの灰色の線は、各星座の方向を表している。
{|class="wikitable"
|-
!色
!渦状腕
|-
| style="background:#28c7b4;"|青緑
|3k[[パーセク|pc]]腕 (3kpc Arm)・[[ペルセウス腕]] (Perseus Arm)
|-
| style="background:#928bff;"|青
|[[じょうぎ腕]] (Norma Arm)・[[はくちょう腕]] (Cygnus Arm,Outer Arm)
|-
| style="background:#07c459;"|緑
|[[たて・ケンタウルス腕]](Scutum-Centaurus Arm)
|-
| style="background:#ff6c6c;"|赤
|[[いて・りゅうこつ腕]](Carina–Sagittarius Arm)
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|このほか、下記のものを含む少なくとも2つの小規模な腕が存在する。
|-
| style="background:#ff9b00;"|オレンジ
|[[オリオン腕|オリオン・はくちょう腕]] (Orion–Cygnus Arm、太陽と太陽系が含まれる)
|}]]
銀河系の各渦状腕は(他の全ての渦巻銀河と同様に)[[対数螺旋]]を描いており、その角度は約12度である。銀河系には銀河中心から伸びた4本の渦状腕が存在すると考えられていて、それぞれ以下の名称が付けられている。
* 3k[[パーセク|pc]]腕 (3kpc Arm)・[[ペルセウス腕]] (Perseus Arm)
* [[じょうぎ腕]] (Norma Arm)・[[はくちょう腕]] (Cygnus Arm,Outer Arm)
* [[たて・ケンタウルス腕]](Scutum-Centaurus Arm)
* [[りゅうこつ腕]] (Carina Arm)・[[いて腕]] (Sagittarius Arm)
また、これ以外に二つの小さな腕や弧が存在する。代表的なものは以下の腕である。
* [[オリオン腕]](Orion Arm [[太陽系]]が属する腕)
銀河系のディスク(銀河円盤)は古い恒星や球状星団からなる[[回転楕円体]]の銀河ハローに取り囲まれている。銀河ハローの直径は約25万 - 40万光年である<ref name="halo">{{Cite web |url=http://www.olemiss.edu/courses/astr104/Topics/MilkyWay-N.html |title=The Milky Way Galaxy |accessdate=2022-02-20 |archivedate=2001-05-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010520200251/http://www.olemiss.edu/courses/astr104/Topics/MilkyWay-N.html}}</ref>。ディスク(銀河円盤)にはガスや塵が含まれ、いくつかの波長では見通すことができないが、銀河ハローにはそのような物質はほとんどない。ディスク(銀河円盤)のうち、特に物質密度の高い渦状腕の内部では活発な[[星形成]]が行なわれているが、銀河ハローでは星形成はほとんど見られない。[[散開星団]]も主にディスク(銀河円盤)に存在している。
銀河系の質量のほとんどは[[暗黒物質]]で、ダークハローを形成している。ダークハローは銀河中心に向かって密度が高くなっている<ref name="galmass">filler</ref>。
21世紀初頭の発見によって、銀河系の構造についての知識は広がりつつあると共に誤った知識から正しい知識へと変わりつつある。2005年、[[アンドロメダ銀河]] (M31) のディスクがそれまで考えられていたよりもずっと大きく広がっていることが発見され<ref name="fn5">{{Cite web |url=http://xxx.lanl.gov/abs/astro-ph/0504164 |title=On the accretion origin of a vast extended stellar disk around the Andromeda galaxy |accessdate=2022-02-20 |date=2005-04-06 |archiveurl=https://archive.fo/wm6c |archivedate=2012-12-13}}</ref>、銀河系のディスクもそれまでの推定より大きい可能性が高まっている。このことは、はくちょう腕がさらに外側に続いていることが発見されたことからも裏付けられている<ref name="fn6">{{Cite web |title=Milky Way Ring |url=http://www.solstation.com/x-objects/gal-ring.htm |website=www.solstation.com |accessdate=2022-02-20}}</ref>。また、[[いて座矮小楕円銀河]]の発見と同時に、銀河の「破片」からなる帯がいて座を中心として極軌道を描いて取り巻いていることが発見され、これはこの伴銀河が銀河系との相互作用によって分裂しつつある姿であることが明らかになっている。この帯は[[いて座ストリーム]]と呼ばれ<ref>https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/12395_outer 「天の川銀河の円盤の外縁部に予想外の構造」 Astro Arts 2006年5月19日 2023年5月31日閲覧</ref>、約10億年前の銀河衝突の名残とされている<ref>「天の川が消える日」p47-48 谷口義明 日本評論社 2018年6月25日第1版第1刷発行</ref>。同様に[[おおいぬ座矮小銀河]]の発見に伴って、この銀河と銀河系との相互作用で生じた銀河の小片がリングとなって銀河系のディスクを取り巻いているのも見つかっている。
2006年[[1月9日]]、[[プリンストン大学]]のMario Juric他は[[スローン・デジタル・スカイサーベイ]]の北天のデータから、天の川の中に現在考えられている銀河系のモデルに合わない巨大な(満月の約5000倍の面積に広がっている)淡い構造を発見したと発表している。この構造は恒星の集団で、銀河系の渦状腕の面に対してほぼ垂直に広がっている。彼らはこの構造についての可能性の高い解釈として、矮小銀河が銀河系と合体しつつある姿ではないかとしている。この銀河は暫定的にVirgo Stellar Streamと名付けられ、地球から見て[[おとめ座]]の方向に約3万光年離れた位置に存在している<ref>https://www.astroarts.co.jp/news/2006/05/19milkyway_neighbor/index-j.shtml 「近すぎて見えなかった…天の川銀河のごく近くに星の大集団を発見」Astro Arts 2006年2月2日 2023年5月31日閲覧</ref>。
2006年[[5月9日]]にはDaniel ZuckerとVasily Belokurovが、同様にスローン・デジタル・スカイサーベイの観測データから[[りょうけん座]]と[[うしかい座]]の位置に2個の矮小銀河を発見したと発表している<ref>https://www.astroarts.co.jp/news/2006/05/19milkyway_neighbor/index-j.shtml 「天の川の「支流」とその「水源」」Astro Arts 2006年5月19日 2023年5月31日閲覧</ref>。
[[ファイル:Milky Way Galaxy center Chandra.jpg|center|thumb|500px|[[チャンドラ (人工衛星)|チャンドラ]]X線観測衛星による銀河系中心部のX線モザイク画像]]
[[ファイル:Milky Way infrared.jpg|center|thumb|500px|2MASSの観測データに基づく銀河系の赤外線画像]]
== 太陽の位置 ==
太陽はオリオン腕の内側の縁近く、銀河中心から7.94±0.42 kpcの距離<ref name="distance1">Reid, M. J. (1993), [https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1993ARA&A..31..345R?format=&data_type=HTML&db_key=AST "The distance to the center of the Galaxy"]. Annual Review of Astronomy and Astrophysics, Vol. 31, p. 345-372.</ref><ref name="distance2">Eisenhauer, F., et al (2003), [http://arxiv.org/abs/astro-ph/0306220 "A Geometric Determination of the Distance to the Galactic Center"] Astrophys.J. 597 L121-L124.</ref><ref name="distance3">Horrobin, M. et al (2004), {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20060330212250/http://www.mpe.mpg.de/SPIFFI/preprints/first_result_an1.pdf "First results from SPIFFI. I: The Galactic Center"]}} ([[Portable Document Format|PDF]]). Astronomische Nachrichten, Vol. 325, p. 120-123.</ref>にある[[局所恒星間雲]]と呼ばれる星間雲に属している。太陽系が属している腕と隣のペルセウス腕との距離は約6500光年である<ref name="fn9">{{Cite web |title=Astronomy Images: Canadian Galactic Plane Survey Map 1 of the Milky Way Galaxy |url=http://www.ras.ucalgary.ca/CGPS/press/aas00/pr/pr_14012000/pr_14012000map1.html |website=www.ras.ucalgary.ca |accessdate=2022-02-20}}</ref>。太陽系は銀河系における[[ハビタブルゾーン]]の中にあると考えられている。
太陽が銀河系内を運動する方向を[[太陽向点]]と呼ぶ。太陽の銀河系内運動の標準的な方向は[[ベガ]]の近くの[[こと座]]と[[ヘルクレス座]]の境界付近で、銀河中心から約86度の方向である。太陽の銀河系内の軌道はほぼ楕円軌道で、これに銀河系の渦状腕や一様でない質量分布による摂動が加わっていると考えられている。太陽は現在、この軌道上の近銀点(銀河中心に最も近づく点)の手前約1/8の位置にいる。
太陽系が銀河系内の軌道を一周するには約2億2500万から2億5000万年ほどかかり<ref name="fn10">{{Cite web |title=Period of the Sun's Orbit around the Galaxy (Cosmic Year) - The Physics Factbook |url=https://hypertextbook.com/facts/2002/StacyLeong.shtml |website=hypertextbook.com |accessdate=2022-02-20}}</ref>、太陽系が誕生してから現在までに約20〜25周していると考えられている。太陽系の軌道速度は約220km/sで<ref>「宇宙は本当にひとつなのか 最新宇宙論入門」p35 村山斉 講談社ブルーバックス 2011年7月20日第1刷発行</ref>、約8日で1[[天文単位]]、約1400年で1[[光年]]進む。
== 銀河系の近傍 ==
銀河系は、アンドロメダ銀河や[[さんかく座銀河]] (M33) など約50個の銀河とともに[[局所銀河群]]を構成している<ref>「銀河Ⅱ 銀河系」(シリーズ現代の天文学第5巻)p177-179 祖父江義明・有本信雄・家正則編 日本評論社 2007年4月25日第1版第1刷発行</ref>。局所銀河群の中で銀河系とアンドロメダ銀河は突出して大きな銀河であり、さんかく座銀河の約10倍の質量を持っている<ref>「天の川が消える日」p127-128 谷口義明 日本評論社 2018年6月25日第1版第1刷発行</ref>。局所銀河群は[[おとめ座超銀河団]]の一部となっている。
銀河系には局所銀河群の数多くの矮小銀河が周回している。これらの矮小銀河の中で最も大きいものが直径約2万光年の[[大マゼラン雲]]である。これに対して最も小さい[[りゅうこつ座矮小銀河]]、[[りゅう座矮小銀河]]、[[しし座II矮小銀河]]は直径500光年しかない。銀河系を周回する矮小銀河は、これら以外に[[小マゼラン雲]]、[[おおいぬ座矮小銀河]](銀河系に最も近い)、[[いて座矮小楕円銀河]](かつて最も銀河系に近いと考えられていた)などがある。
{{Main|局所銀河群|銀河系の伴銀河一覧}}
== 宇宙空間での速度 ==
一般的な意味では、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の[[特殊相対性理論]]によれば宇宙空間における物体の絶対速度という考え方には意味がない<ref>特殊相対論では、宇宙には銀河系の運動の基準となるような特別な[[慣性系]]は存在しないとしている(物体の運動は常に他の物体に対する運動として特定しなければならない)。</ref>。
このことを念頭において、多くの研究者は、近傍の銀河の観測位置に対して銀河系は約630km/sの速度で宇宙空間を運動していると考えている<ref>https://wired.jp/2017/02/01/dipole-repeller-milky-way/ 「銀河系を押し返す「謎の宇宙領域」が見つかる:研究結果」WIRED 2017.02.01 2023年6月2日閲覧</ref>。[[宇宙マイクロ波背景放射]]の非等方性の観測結果にも整合している。
21世紀初頭の推定ではこの値は130 km/sから1,000 km/sまでばらつきがある。仮に銀河系が600 km/sで運動しているとすると、我々は1日に5184万 km移動しており、1年では189億 km動くことになる。これは我々が毎年地球から[[冥王星]]までの距離の約4.5倍を移動していることを意味する。銀河系の運動方向は[[うみへび座]]の方向だと考えられている。
== 未来 ==
{{seealso|銀河系とアンドロメダ銀河の衝突合体}}
銀河系から約230万[[光年]]離れた位置にある[[アンドロメダ銀河]]は秒速約122 kmの速度で銀河系に近づいており<ref>{{Cite web |title=Redshift data for Messier Galaxies |url=http://www.messier.seds.org/xtra/supp/redshift.html |website=www.messier.seds.org |accessdate=2022-02-20}}</ref>、従って銀河系はアンドロメダ銀河と40億年後には衝突することが示唆されている<ref>{{Cite web|和書|title=40億年後の銀河衝突、アンドロメダと天の川 |url=https://www.astroarts.co.jp/news/2012/06/04andromeda/index-j.shtml |website=www.astroarts.co.jp |accessdate=2022-02-20 |date=2012-06-04}}</ref>。この際、さんかく座銀河も同様に衝突する可能性が高いとされる<ref>「天の川が消える日」p152 谷口義明 日本評論社 2018年6月25日第1版第1刷発行</ref>。この2個の銀河が衝突しても太陽やその他の恒星が互いに衝突する可能性は低いが、衝突から約30億年後には2個の銀河は合体して1個の[[楕円銀河]]を形成すると考えられている<ref>「天の川が消える日」p155 谷口義明 日本評論社 2018年6月25日第1版第1刷発行</ref>。<!--ただし、宇宙の膨張速度が加速度的に増加している事が[[1990年代]]後半に確認されており、この加速膨張を考慮に入れると衝突合体の時期はいくらか延びるとする予想もある。-->
== ギャラリー ==
<gallery>
File:1_-_Flickr_-_Macro_Monster.jpg|地球から見た天の川銀河中心部
File:Buková hora, imgp7733-imgp7779 (2017-05).jpg|地球から見た天の川銀河中心部
File:Galactic level.jpg|地球から見た天の川銀河中心部
File:ESO-VLT-Laser-phot-33a-07.jpg|レーザー光が銀河の中心を指している
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Milky Way Galaxy}}
{{Wiktionary|銀河系}}
* [[銀河座標]] - [[銀経]] - [[銀緯]]
* [[銀河赤道]] - [[銀河面]]
* [[星雲]]
* [[アンドロメダ銀河]]
* [[銀河天文学]]
* [[ローカル・ボイド]]
== 外部リンク ==
* [https://asd.gsfc.nasa.gov/archive/mwmw/ MultiWavelength Milky Way] NASA site with images and [[VRML]] models
* [http://www.perseus.gr/Astro-Milky-Way-20050710.htm Widefield Image of the Summer Milky Way]
* [http://www.atlasoftheuniverse.com/galaxy.html The Milky Way Galaxy] from ''An Atlas of the Universe''
* [http://www.solstation.com/x-objects/gal-ring.htm Proposed Ring around the Milky Way]
* [http://www.newscientist.com/news/news.jsp?id=ns99994959 Milky Way spiral gets an extra arm] New Scientist.com
** [http://www.solstation.com/x-objects/gal2arc.jpg The new arc of hydrogen gas fits with predictions]
* [https://skyandtelescope.org/astronomy-news/possible-new-milky-way-spiral-arm/ Possible New Milky Way Spiral Arm] Sky and Telescope .com
*[http://www.sciencebits.com/ice-ages The Milky Way spiral arms and a possible climate connection]
*[http://antwrp.gsfc.nasa.gov/diamond_jubilee/debate20.html The 1920 Shapley - Curtis Debate on the size of the Milky Way]
* [http://www.ras.ucalgary.ca/CGPS/where/plan/ Milky Way Plan Views]
* {{Kotobank}}
{{銀河系}}
{{地球の位置}}
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{{デフォルトソート:きんかけい}}
[[Category:銀河系|*]]
[[Category:古代以前に発見された天体]]
[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-05-22T01:46:17Z | 2023-12-03T22:48:33Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%B2%B3%E7%B3%BB |
9,000 | 相対性原理 | 相対性原理(そうたいせいげんり、Principle of relativity)は、互いに運動する物体の座標系の間では、物理学の法則が不変な形を保つという原理。次の三つがある。
最小作用の原理によれば、どのような物理現象が生起するかは作用積分によって決まる。そのため、相対性原理は「作用積分が座標変換によって変化しないスカラー量である」ことと言い換えることができる。 | [
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] | 相対性原理は、互いに運動する物体の座標系の間では、物理学の法則が不変な形を保つという原理。次の三つがある。 ガリレイの相対性原理
特殊相対性原理
一般相対性原理 最小作用の原理によれば、どのような物理現象が生起するかは作用積分によって決まる。そのため、相対性原理は「作用積分が座標変換によって変化しないスカラー量である」ことと言い換えることができる。 | '''相対性原理'''(そうたいせいげんり、Principle of relativity)は、互いに[[運動 (物理学)|運動]]する物体の[[座標系]]の間では、[[物理学]]の[[法則]]が不変な形を保つという[[原理]]。次の三つがある。
# [[ガリレイ変換|ガリレイの相対性原理]]
# [[特殊相対性原理]]
# [[一般相対性原理]]
[[最小作用の原理]]によれば、どのような物理現象が生起するかは[[作用積分]]によって決まる。そのため、相対性原理は「作用積分が座標変換によって変化しない[[スカラー量]]である」ことと言い換えることができる<ref>{{cite|和書 |author=吉田伸夫 |title=明解量子重力理論入門 |edition= |publisher=講談社 |year=2011 |isbn=978-4-06-153275-5 |page=61}}</ref>。
== 脚注 ==
{{reflist}}
==関連項目==
*[[相対性理論]]
*[[対称性 (物理学)]]
* [[一般共変性]]
*[[ガリレオ・ガリレイ]]
*[[アルベルト・アインシュタイン]]
{{相対性理論}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:そうたいせいけんり}}
[[Category:物理学]]
[[Category:原理]]
[[Category:時空]]
[[Category:相対性理論]]
[[Category:対称性]] | null | 2021-11-12T16:00:54Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86 |
9,007 | ゴールドバッハの予想 | ゴールドバッハの予想(ゴールドバッハのよそう、英語:Goldbach's conjecture)とは、次のような加法的整数論上の未解決問題の1つである。ゴールドバッハ予想、ゴルドバッハの予想とも。
この予想はウェアリングの問題などと共に古くから知られ、クリスティアン・ゴールドバッハ(Christian Goldbach, 1690年 - 1764年)がレオンハルト・オイラーへの書簡(1742年)で定式化して述べたことからこの名前がついている。
4 × 10 までの4以上のすべての整数について成立することが2015年に確認されていて一般に正しいと想定されているが、多くの努力にもかかわらず未だに証明されていない。
予想には、ほとんど同値ないくつかの述べ方があり、次のように述べることが多い:
例えば、6以上で22までの偶数を奇素数の和で表す場合は、
のように、二つの奇素数の和で表すことができる。2012年現在、4×10までの全ての偶数について成り立つことが、コンピュータによって確かめられている。
ゴールドバッハはこの予想を更に緻密にして、こう予想した。
これから上が導けるのは、偶数を三つの素数の和で表すと素数の一つは 2 になっているからである(奇数+奇数+奇数=奇数になる。和が偶数になるには、奇数+奇数+偶数か、偶数+偶数+偶数しかない)。
多くの数学者は、素数分布の確率に関する統計学的な観察から、この予想は正しいと考えている(偶数が大きければ大きいほど、二つの素数の和で表されるというのはより"ありそうな"ことなのである)。
類似の予想として、「弱いゴールドバッハ予想」というものがある。これは5より大きい奇数は三つの素数の和で表せるという予想である。4より大きい偶数が二つの奇素数の和で表せるという「強いゴールドバッハ予想」が正しいならば、弱いゴールドバッハ予想も真である。これは
ならば
であることから明らかである。ここでp1およびp2は奇素数である。
また、一般化されたリーマン予想が正しいならば、弱いゴールドバッハ予想が導かれることが知られている。
素数の確率分布に焦点を当てた統計的考察から、十分大きな整数における本予想(強い予想および弱い予想)の成立が示唆される。一般に大きな数であるほど二つ三つの数の和に分解する方法も多くなるので、そのような和の中に一つは全て素数のものがあったとしても不思議ではない。
強い予想についてのヒューリスティックかつ確率論的な議論は、大まかには次のようなものである。素数定理によれば、無作為に選択した整数 m が素数である確率は 1/ln m である。故に十分大きな偶数 n に対し m が 3 ≤ m ≤ n/2 を満たすとき、m と n − m が共に素数である確率は 1/(ln m ln(n − m)) となる。このことから、十分大きな偶数 n を二つの素数の和に分解する方法の数は概ね
であると計算できる。この値は n の増大につれて無限大に発散するので、恐らく任意の巨大な偶数は二つの素数の和に分解できるどころか、そのような方法は幾通りも存在するであろうと予想できる。
この議論は実際にはやや不正確である。理由は m と n − m が素数であるという二つの事象に統計的独立性を仮定しているためである。例えば m が奇数ならば n − m もまた奇数、m が偶数ならば n − m もまた偶数となるが、2 を除く整数は奇数のときしか素数となりえないため、これは二つの事象の間の非自明な関係となる。同様に n が 3 の倍数、m が 3 でない素数のとき、n − m は 3 と互いに素となる可能性があり、その分素数である確率も若干高くなる。1923年、ハーディとリトルウッドはこのような解析をより注意深く行い、次のように予想した。
予想 (ハーディ・リトルウッド予想の一部) ― 任意の固定された c ≥ 2 に対し、十分大きな整数 n を c 個の素数の和 n = p1 + ... + pc (p1 ≤ ... ≤ pc) として表現する方法の数は、次に漸近的に等しい。
ただし式中の積は素数全体 p に渡って行い、γc,p(n) は合同式 n = q1 + ... + qc mod p (q1, ...,qc ≠ 0 mod p) の解の個数を表す。
この予想は c ≥ 3 において正しいことがヴィノグラードフ(英語版)により厳密に証明されているが、c = 2 の場合は未だ証明されていない。c = 2 のとき上式は、n が奇数のとき 0 、n が偶数のとき
と単純化される。ただし Π2 はハーディ・リトルウッドの双子素数定数
である。
この予想は「拡張ゴールドバッハ予想(英: Extended Goldbach conjecture)」と呼ばれることもある。実際、強いゴールドバッハ予想は双子素数予想にとても良く似ており、これら二つの予想の難しさは概ね同程度であると考えられている。
記事中のゴールドバッハの分配函数をヒストグラムにすることで、上述の式をより見やすく描写することもできる。ゴールドバッハ彗星も参照。
強いゴールドバッハ予想は、さらに非常に難しい。ヴィノグラードフ(英語版)の方法を使い、チュダコフ(英語版) や、ヴァン・デル・コルプト(英語版) や エスターマン(英語版) は、ほとんど全ての偶数が 2つの素数の和として表すことができることを示した(この意味は、そのように書くことのできる偶数の確率が 1 に近づく傾向にあるという意味である)。1930年、レフ・シュニレルマン(英語版)はで、任意の 1 より大きな自然数は C 個よりも多くない素数の和として書き表すことができることを証明した。ここに C は有効に計算可能な定数である。シュニレルマン密度を参照。シュニレルマンの定数は、この性質を持つ最も小さな数であり、シュニレルマン自身は C < 800000 を得た。この結果は多くの人々により拡張されている。オリバー・ラマレ(英語版)は、1995年に全ての偶数 n ≥ 4 は、多くとも6つの素数の和であることを示した。ハラルド・ヘルフゴットは、2013年に弱いゴールドバッハ予想を証明したとする論文を発表したが、これが正しいとすると、その帰結として全ての偶数 n ≥ 4 は多くとも4つの素数の和であることになる。
陳景潤は、1973年に篩法を使い、全ての十分に大きな偶数は 2つの素数の和として書き表されるか、もしくは一つの素数と半素数(2つの素数の積)の和として書き表すことができることを示した。例を挙げると、100 = 23 + 7·11 陳の定理を参照。
1975年、ヒュー・モンゴメリ(英語版)とロバート・チャールズ・ヴォーン(英語版)は、「ほとんど」全ての偶数は 2つの素数の和として表すことができることを示した。詳しくは、正の数 c と C が存在して、全ての十分に大きな数 N に対して、N よりも小さな数は 2つの素数の和であることを、彼らは示した。この例外は、多くとも C N 1 − c {\displaystyle CN^{1-c}} である。特に、2つの素数の和であらわされない偶数の集合は自然密度(英語版)ゼロである。
ユーリ・リンニック(英語版)は、1951年、全ての十分に大きな偶数が 2つの素数と 2 の 高々 K 乗との和として表せるような K が存在することを証明した。ロジャー・ヒースブラウン(英語版)とジャン・クリストフ・シュラージ・プクタ(英語版)は、2002年に、K = 13 であることを発見した。 これは、2003年にヤノス・ピンツ(英語版)とイムル・ルッツァ(英語版)により K=8 と改善された。
数学の多くの有名な予想と同じように、ゴールドバッハ予想を解いたと主張する多くの「証明」があるが、数学の学会では受け入れられていない。
素数を、例えば平方数のような他の特別な数の集合に置き換えると、同じような問題を考えることができる。
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"title": "厳密な結果"
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"text": "また整数環 Z と同じく一意分解整域である多項式環 Z[x] に対して同じような問題を考えると、これは証明することができる。Hayes (1965) 参照。",
"title": "類似した問題"
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] | ゴールドバッハの予想(ゴールドバッハのよそう、英語:Goldbach's conjecture)とは、次のような加法的整数論上の未解決問題の1つである。ゴールドバッハ予想、ゴルドバッハの予想とも。 この予想はウェアリングの問題などと共に古くから知られ、クリスティアン・ゴールドバッハ(Christian Goldbach, 1690年 - 1764年)がレオンハルト・オイラーへの書簡(1742年)で定式化して述べたことからこの名前がついている。 4 × 1018 までの4以上のすべての整数について成立することが2015年に確認されていて一般に正しいと想定されているが、多くの努力にもかかわらず未だに証明されていない。 | {{要改訳}}
[[File:Letter Goldbach-Euler.jpg|thumb|320px|1742年6月7日の日付のゴールドバッハからオイラーに宛てた(ラテン語とドイツ語で書かれた)手紙<ref>''Correspondance mathématique et physique de quelques célèbres géomètres du XVIIIème siècle'' (Band 1), St.-Pétersbourg 1843, [https://books.google.co.jp/books?id=OGMSAAAAIAAJ&pg=PA125&redir_esc=y&hl=ja S. 125–129]</ref>]]
'''ゴールドバッハの予想'''(ゴールドバッハのよそう、[[英語]]:Goldbach's conjecture)とは、次のような[[加法]]的[[数論|整数論]]上の[[数学上の未解決問題|未解決問題]]の1つである。'''ゴールドバッハ予想'''、'''ゴルドバッハの予想'''とも<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ゴールドバッハの予想-686029 |title = デジタル大辞泉 ゴールドバッハの予想 |publisher = コトバンク |accessdate = 2017-12-30 }}</ref>。
{{Quotation|すべての 2 よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる<ref>{{MathWorld|title=Goldbach Number|urlname=GoldbachNumber}}</ref>。このとき、2つの素数は同じであってもよい。}}
この予想は[[ウェアリングの問題]]などと共に古くから知られ、[[クリスティアン・ゴールドバッハ]](Christian Goldbach, [[1690年]] - [[1764年]])が[[レオンハルト・オイラー]]への書簡([[1742年]])で定式化して述べたことからこの名前がついている<ref>{{Citation |last=Goldbach |first=Christian |date=7 June 1742 |title=letter to Leonhard Euler (letter XLIII) |url=http://www.math.dartmouth.edu/~euler/correspondence/letters/OO0765.pdf }}</ref>。
4 × 10<sup>18</sup> までの4以上のすべての整数について成立することが2015年に確認<ref name="名前なし-1">[http://www.ieeta.pt/~tos/goldbach.html “Goldbach conjecture verification"]</ref>されていて一般に正しいと想定されているが、多くの努力にもかかわらず未だに証明されていない。
{{see also|弱いゴールドバッハ予想}}
== 概要 ==
[[Image:Goldbach partitions of the even integers from 4 to 50 rev4b.svg|thumb|320px|4 から 28 までの偶数を 2つの素数の和としてあらわした。ゴールドバッハは全ての 2よりも大きい偶数が少なくとも一通りで 2つの素数の和として表すことができることを予想した。]]
[[Image:GoldbachConjecture.gif|right|thumb|320px|偶数を二つの素数で表す方法が何通りあるか表したグラフ。]]
[[予想]]には、ほとんど同値ないくつかの述べ方があり、次のように述べることが多い:
: 4以上の全ての[[偶数]]は、二つの[[素数]]の和で表すことができる。
: 6以上の全ての偶数は、二つの奇素数の和で表すことができる。
:: 素数のうち偶数であるのは、2 のみであるから、偶素数同士の和となるのは、4=2+2 であり、4 のみである。
例えば、6以上で22までの偶数を奇素数の和で表す場合は、
<pre>
6 = 3 + 3
8 = 3 + 5
10 = 7 + 3 = 5 + 5
12 = 5 + 7
14 = 3 + 11 = 7 + 7
16 = 3 + 13 = 5 + 11
18 = 5 + 13 = 7 + 11
20 = 3 + 17 = 7 + 13
22 = 11 + 11 = 19 + 3 = 17 + 5
</pre>
のように、二つの奇素数の和で表すことができる。2012年現在、4×10<sup>18</sup>までの全ての偶数について成り立つことが、[[コンピュータ]]によって確かめられている。<ref>Tomás Oliveira e Silva, [http://www.ieeta.pt/~tos/goldbach.html Goldbach conjecture verification]</ref>
ゴールドバッハはこの予想を更に緻密にして、こう予想した。
: 5より大きな任意の[[自然数]]は、三つの素数の和で表せる。
これから上が導けるのは、偶数を三つの素数の和で表すと素数の一つは 2 になっているからである(奇数+奇数+奇数=奇数になる。和が偶数になるには、奇数+奇数+偶数か、偶数+偶数+偶数しかない)。
多くの[[数学者]]は、[[素数定理|素数分布の確率]]に関する[[統計学]]的な観察から、この予想は正しいと考えている(偶数が大きければ大きいほど、二つの素数の和で表されるというのはより"ありそうな"ことなのである)。
類似の予想として、「[[弱いゴールドバッハ予想]]」というものがある。これは5より大きい[[奇数]]は三つの素数の和で表せるという予想である。4より大きい偶数が二つの奇素数の和で表せるという「強いゴールドバッハ予想」が正しいならば、弱いゴールドバッハ予想も真である。これは
: <math>2n = p_1+p_2 \quad n>2</math>
ならば
: <math>2(n+1)+1 = p_1+p_2+3 \quad n>2 \,</math>
であることから明らかである。ここでp<sub>1</sub>およびp<sub>2</sub>は奇素数である。
また、[[一般化されたリーマン予想]]が正しいならば、弱いゴールドバッハ予想が導かれることが知られている<ref>{{Citation2 |doi=10.1090/S1079-6762-97-00031-0 |last=Deshouillers |first=J.-M. |last2=Effinger |first2=G. |last3=te Riele |first3=H. |last4=Zinoviev |first4=D. |name-list-style=amp |year=1997 |title=A complete Vinogradov 3-primes theorem under the Riemann hypothesis |journal=Electron. Res. Announc. Amer. Math. Soc. |volume=3 |issue= |pages=99–104 |url=http://www.ams.org/era/1997-03-15/S1079-6762-97-00031-0/S1079-6762-97-00031-0.pdf |issn= }}</ref>。
== 現在までの主な進歩 ==
* [[ノルウェー]]の数学者[[ヴィーゴ・ブルン|ブルン]]は1920年頃(いくつかの論文に分かれているため曖昧)、[[エラトステネスの篩]]を発展させた新しい篩法を用いて、十分大きなすべての偶数は、[[高々 (数学)|高々]]9つの素数の積であるような数の二つの和であることを証明した。
* [[ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|ハーディ]]と[[ジョン・エデンサー・リトルウッド|リトルウッド]]は1923年に、[[L関数]]に対する一般化された[[リーマン予想]](の若干弱い形を)を仮定して、全ての奇数 n ≧ n<sub>0</sub> が3個の素数の和となるような下限 n<sub>0</sub> が存在することを証明し、またその表現の個数の漸近公式を得た。また同様の仮定のもとにほとんどすべての偶数が二つの奇素数で表されること、すなわち例外的な数全体は零集合であることを証明。しかし偶数を二つの奇素数で表す仕方の数の漸近公式については予想するにとどまった。
* [[1930年]]に[[ソビエト連邦|ソビエト]]の数学者[[レフ・ゲンリホーヴィッチ・シュニレルマン|シュニレルマン]]は、2個の素数の和で表される数と0, 1からなる集合は正の[[シュニレルマン密度]]を持つことを[[ブルンの篩]]を用いて初等的に示し、シュニレルマンの定理から、すべての自然数が高々 k 個の素数の和であるような、k が存在することを示した。
* [[1937年]]に[[ソビエト連邦|ソビエト]]の数学者{{仮リンク|イヴァン・ヴィノグラードフ|en|Ivan Matveyevich Vinogradov|label=ヴィノグラードフ}}は三素数の問題に関して、三角和の方法を用いて、一般化されたリーマン予想を仮定することなしに、上記のような定数 n<sub>0</sub> (現在、具体的にわかっている。<math>n_0=3^{3^{15}}</math>(Borozdin,1939)さらに良い評価として<math>n_0\approx 2 \times 10^{1346}</math>(Liu Ming-Chit and Wang Tian-Ze,2002))の存在を証明した。([[ヴィノグラードフの定理]]参照)
* [[1938年]]頃、[[イギリス]]のエスターマン、[[ソビエト連邦|ソビエト]]の数学者チュダコフ、オランダの数学者ヴァン・デア・コルプトらは、それぞれ独立に、なんらの仮定もせずにほとんどすべての偶数は二つの奇素数の和であることを証明した。
* [[1947年]]、[[ハンガリー]]の数学者[[レーニ・アルフレード|レーニ]]は{{仮リンク|大きな篩い|en|large sieve}}という新しい方法を用いて、すべての自然数を、素数と高々 ''k'' 個の素数の積である数との和で表すことのできるような、''k'' が存在することを証明した。
* [[中華人民共和国|中国]]の数学者[[陳景潤]]は[[1978年]]までに、十分大きなすべての偶数は、素数と高々二つの素数の積であるような数との和で表されることを証明した。下界が山田智宏により与えられている。<ref>{{cite arXiv|last=Yamada |first=Tomohiro |eprint=1511.03409 |title=Explicit Chen's theorem |class=math.NT |date=2015-11-11}}</ref>
* [[1995年]]、フランスの数学者[[オリヴィエ・ラマレ|ラマレ]]はすべての偶数が高々6個の素数の和として表せることを証明した。
* [[2002年]]、{{仮リンク|ロジャー・ヒース=ブラウン|en|Roger Heath-Brown|label=ヒース=ブラウン}}と[[ヤン・クリストフ・シュラーゲ=プフタ|シュラーゲ=プフタ]]は十分大きなすべての偶数は2個の素数と13個の2の冪の和で表され、一般化されたリーマン予想が正しいならば、十分大きなすべての偶数は2個の素数と7個の2の冪の和で表されることを示した。
* [[2009年]]、ゴールドバッハの予想に関する分散コンピューティングプロジェクト([[BOINC]])で[http://goldbach.pl/ Goldbach's Conjecture Project]が開始された。
* 2013年、[[ハラルド・ヘルフゴット]]によって[[弱いゴールドバッハ予想]]が証明された。
* 2015年、4 × 10<sup>18</sup> までの4以上の全ての偶数について成立することが確認された<ref name="名前なし-1"/>。
== ヒューリスティックな正当化 ==
[[Image:Goldbach-1000.svg|thumbnail|right|320px|偶数 {{mvar|n}} {{math|(4 ≤ {{mvar|n}} ≤ 1,000)}} を二つの素数の和に分解する方法の数, {{OEIS|A002375}}]]
[[Image:Goldbach-1000000.png|thumbnail|right|320px|偶数 {{mvar|n}} {{math|(4 ≤ {{mvar|n}} ≤ 1,000,000)}} を二つの素数の和に分解する方法の数]]
[[素数定理|素数の確率分布]]に焦点を当てた統計的考察から、十分大きな整数における本予想(強い予想および弱い予想)の成立が示唆される。一般に大きな数であるほど二つ三つの数の和に分解する方法も多くなるので、そのような和の中に一つは全て素数のものがあったとしても不思議ではない。
強い予想についてのヒューリスティックかつ確率論的な議論は、大まかには次のようなものである。[[素数定理]]によれば、無作為に選択した整数 {{mvar|m}} が素数である確率は {{math|1/ln {{mvar|m}}}} である。故に十分大きな偶数 {{mvar|n}} に対し {{mvar|m}} が {{math|3 ≤ {{mvar|m}} ≤ {{mvar|n}}/2}} を満たすとき、{{mvar|m}} と {{math|{{mvar|n}} − {{mvar|m}}}} が共に素数である確率は {{math|1/(ln {{mvar|m}} ln({{mvar|n}} − {{mvar|m}}))}} となる。このことから、十分大きな偶数 {{mvar|n}} を二つの素数の和に分解する方法の数は概ね
:<math>\sum_{m=3}^{n/2} \frac{1}{\ln m} {1 \over \ln (n-m)} \approx \frac{n}{2 \ln^2 n}</math>
であると計算できる。この値は {{mvar|n}} の増大につれて無限大に発散するので、恐らく任意の巨大な偶数は二つの素数の和に分解できるどころか、そのような方法は幾通りも存在するであろうと予想できる。
この議論は実際にはやや不正確である。理由は {{mvar|m}} と {{math|{{mvar|n}} − {{mvar|m}}}} が素数であるという二つの事象に[[独立_(確率論)|統計的独立性]]を仮定しているためである。例えば {{mvar|m}} が奇数ならば {{math|{{mvar|n}} − {{mvar|m}}}} もまた奇数、{{mvar|m}} が偶数ならば {{math|{{mvar|n}} − {{mvar|m}}}} もまた偶数となるが、2 を除く整数は奇数のときしか素数となりえないため、これは二つの事象の間の非自明な関係となる。同様に {{mvar|n}} が 3 の倍数、{{mvar|m}} が 3 でない素数のとき、{{math|{{mvar|n}} − {{mvar|m}}}} は 3 と互いに素となる可能性があり、その分素数である確率も若干高くなる。1923年、[[ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|ハーディ]]と[[ジョン・エデンサー・リトルウッド|リトルウッド]]はこのような解析をより注意深く行い、次のように予想した。
{{math theorem
|予想
|note=ハーディ・リトルウッド予想の一部
|任意の固定された {{math|{{mvar|c}} ≥ 2}} に対し、十分大きな整数 {{mvar|n}} を {{mvar|c}} 個の素数の和 {{math|{{mvar|n}} {{=}} {{mvar|p}}{{msub|1}} + … + {{mvar|p}}{{msub|{{mvar|c}}}}}} {{math|({{mvar|p}}{{msub|1}} ≤ … ≤ {{mvar|p}}{{msub|{{mvar|c}}}})}} として表現する方法の数は、次に漸近的に等しい。
:<math> \left(\prod_p \frac{p \gamma_{c,p}(n)}{(p-1)^c}\right)
\int_{2 \leq x_1 \leq \cdots \leq x_c: x_1+\cdots+x_c = n} \frac{dx_1 \cdots dx_{c-1}}{\ln x_1 \cdots \ln x_c}</math>
ただし式中の積は素数全体 {{mvar|p}} に渡って行い、{{math|γ{{msub|{{mvar|c}},{{mvar|p}}}}({{mvar|n}})}} は[[合同式]] {{math|{{mvar|n}} {{=}} {{mvar|q}}{{msub|1}} + … + {{mvar|q}}{{msub|{{mvar|c}}}} mod {{mvar|p}}}} {{math|({{mvar|q}}{{msub|1}}, …,{{mvar|q}}{{msub|{{mvar|c}}}} ≠ 0 mod {{mvar|p}})}} の解の個数を表す。
}}
この予想は {{math|{{mvar|c}} ≥ 3}} において正しいことが{{仮リンク|イワン・マッツヴェーヴィッチ・ヴィノグラードフ|label=ヴィノグラードフ|en|Ivan Matveevich Vinogradov}}により厳密に証明されているが、{{math|{{mvar|c}} {{=}} 2}} の場合は未だ証明されていない。{{math|{{mvar|c}} {{=}} 2}} のとき上式は、{{mvar|n}} が奇数のとき 0 、{{mvar|n}} が偶数のとき
: <math>
2 \Pi_2 \left(\prod_{p \mid n; p \geq 3} \frac{p - 1}{p - 2}\right) \int_2^n \frac{dx}{(\ln x)^2}
\approx 2 \Pi_2 \left(\prod_{p \mid n; p \geq 3} \frac{p - 1}{p - 2}\right) \frac{n}{(\ln n)^2}
</math>
と単純化される。ただし {{math|Π{{msub|2}}}} はハーディ・リトルウッドの双子素数定数
: <math>\Pi_2 := \prod_{p \geq 3} \left(1 - \frac{1}{(p - 1)^2}\right) = 0.6601618158\ldots.</math>
である。
この予想は「拡張ゴールドバッハ予想({{lang-en-short|Extended Goldbach conjecture}})」と呼ばれることもある。実際、強いゴールドバッハ予想は[[双子素数予想]]にとても良く似ており、これら二つの予想の難しさは概ね同程度であると考えられている。
記事中のゴールドバッハの分配函数をヒストグラムにすることで、上述の式をより見やすく描写することもできる。[[ゴールドバッハ彗星]]も参照。
==厳密な結果==
強いゴールドバッハ予想は、さらに非常に難しい。{{仮リンク|イワン・マッツヴェービッチ・ヴィノグラドフ|label=ヴィノグラードフ|en|Ivan Matveevich Vinogradov}}の方法を使い、{{仮リンク|ニコライ・チュダコフ|label=チュダコフ|en|Nikolai Chudakov}}<ref>{{Cite journal| last=Chudakov | first=Nikolai G. | year=1937 | title=О проблеме Гольдбаха |trans-title=On the Goldbach problem | journal=[[Doklady Akademii Nauk SSSR]] | volume=17 | pages=335–338| postscript=.}}</ref> や、{{仮リンク|ヨハン・ヴァン・デル・コルプト|label=ヴァン・デル・コルプト|en|Johannes van der Corput}}<ref>{{cite journal |last=Van der Corput |first=J. G. |title={{lang|fr|[http://www.dwc.knaw.nl/DL/publications/PU00016746.pdf Sur l'hypothèse de Goldbach]}} |journal=Proc. Akad. Wet. Amsterdam |volume=41 |issue= |year=1938 |pages=76–80 |doi= }}</ref> や {{仮リンク|テオドル・エスターマン|label=エスターマン|en|Theodor Estermann}}<ref>{{cite journal |last=Estermann |first=T. |title=On G 1 oldbach's problem: proof that almost all even positive integers are sums of two primes |journal=Proc. London Math. Soc. |series=2 |volume=44 |year=1938 |issue= |pages=307–314 |doi=10.1112/plms/s2-44.4.307 }}</ref> は、ほとんど全ての偶数が 2つの素数の和として表すことができることを示した(この意味は、そのように書くことのできる偶数の確率が 1 に近づく傾向にあるという意味である)。1930年、{{仮リンク|レフ・シュニレルマン|en|Lev Schnirelmann}}は<ref>Schnirelmann, L.G. (1930). "[http://mi.mathnet.ru/eng/umn/y1939/i6/p9 On the additive properties of numbers]", first published in "Proceedings of the Don Polytechnic Institute in Novocherkassk" (in Russian), vol '''XIV''' (1930), pp. 3-27, and reprinted in "Uspekhi Matematicheskikh Nauk" (in Russian), 1939, no. 6, 9–25.</ref><ref>Schnirelmann, L.G. (1933). First published as "[http://link.springer.com/article/10.1007/BF01448914 Über additive Eigenschaften von Zahlen]" in "[[Mathematische Annalen]]" (in German), vol '''107''' (1933), 649-690, and reprinted as "[http://mi.mathnet.ru/eng/umn/y1940/i7/p7 On the additive properties of numbers]" in "Uspekhi Matematicheskikh Nauk" (in Russian), 1940, no. 7, 7–46.</ref>で、任意の 1 より大きな[[自然数]]は C 個よりも多くない素数の和として書き表すことができることを証明した。ここに C は有効に計算可能な定数である。[[シュニレルマン密度]]を参照。'''シュニレルマンの定数'''は、この性質を持つ最も小さな数であり、シュニレルマン自身は C < 800000 を得た。この結果は多くの人々により拡張されている。{{仮リンク|オリバー・ラマレ|en|Olivier Ramaré}}は、1995年に全ての偶数 n ≥ 4 は、多くとも6つの素数の和であることを示した。[[ハラルド・ヘルフゴット]]は、2013年に[[弱いゴールドバッハ予想]]を証明したとする論文を発表した<ref>{{cite arXiv |eprint=1305.2897 |title = Major arcs for Goldbach's theorem|last = Helfgott|first = H.A. |class=math.NT |year=2013}}</ref><ref>{{cite arXiv |eprint=1205.5252 |title = Minor arcs for Goldbach's problem |last = Helfgott|first = H.A.|class=math.NT |year=2012}}</ref><ref>http://www.truthiscool.com/prime-numbers-the-271-year-old-puzzle-resolved</ref><ref>[http://www.newscientist.com/article/dn23535-proof-that-an-infinite-number-of-primes-are-paired.html Proof that an infinite number of primes are paired - physics-math - 14 May 2013]. New Scientist. Retrieved on 2014-05-11.</ref>が、これが正しいとすると、その帰結として全ての偶数 n ≥ 4 は多くとも4つの素数の和であることになる。<ref>{{Cite journal | title=Checking the Goldbach Conjecture up to 4 10<sup>11</sup>|last=Sinisalo|first=Matti K.| periodical=Mathematics of Computation|volume=61|issue=204|date=Oct., 1993|pages= 931–934 | doi=10.2307/2153264}}</ref>
[[陳景潤]]は、1973年に[[篩法]]を使い、全ての十分に大きな偶数は 2つの素数の和として書き表されるか、もしくは一つの素数と[[半素数]](2つの素数の積)の和として書き表すことができることを示した。<ref>{{cite journal |first=J. R. |last=Chen |title=On the representation of a larger even integer as the sum of a prime and the product of at most two primes |journal=Sci. Sinica |volume=16 |issue= |year=1973 |pages=157–176 }}</ref>例を挙げると、100 = 23 + 7·11 [[陳の定理]]を参照。
1975年、{{仮リンク|ヒュー・モンゴメリ|en|Hugh Montgomery (mathematician)}}と{{仮リンク|ロバート・チャールズ・ヴォーン|en|Robert Charles Vaughan (mathematician)}}は、「ほとんど」全ての偶数は 2つの素数の和として表すことができることを示した。詳しくは、正の数 c と C が存在して、全ての十分に大きな数 N に対して、N よりも小さな数は 2つの素数の和であることを、彼らは示した。この例外は、多くとも <math>C N^{1-c}</math> である。特に、2つの素数の和であらわされない偶数の集合は{{仮リンク|自然密度|en|natural density}}ゼロである。
{{仮リンク|ユーリ・リンニック|en|Yuri Linnik}}は、1951年、全ての十分に大きな偶数が 2つの素数と 2 の 高々 K 乗との和として表せるような K が存在することを証明した。{{仮リンク|ロジャー・ヒースブラウン|en|Roger Heath-Brown}}と{{仮リンク|ジャン・クリストフ・シュラージ・プクタ|en|Jan-Christoph Schlage-Puchta}}は、2002年に、K = 13 であることを発見した。<ref>{{cite journal |first=D. R. |last=Heath-Brown |first2=J. C. |last2=Puchta |arxiv=math.NT/0201299 |title=Integers represented as a sum of primes and powers of two |journal=[[Asian Journal of Mathematics]] |volume=6 |year=2002 |issue=3 |pages=535–565 }}</ref> これは、2003年に{{仮リンク|ヤノス・ピンツ|en|János Pintz}}と{{仮リンク|イムル・ルッツァ|en|Imre Z. Ruzsa}}により K=8 と改善された。<ref>{{cite journal |first=J. |last=Pintz |first2=I. Z. |last2=Ruzsa |title=On Linnik's approximation to Goldbach's problem, I |journal=[[Acta Arithmetica]] |volume=109 |issue= 2|year=2003 |pages=169–194 |doi=10.4064/aa109-2-6 }}</ref>
数学の多くの有名な予想と同じように、ゴールドバッハ予想を解いたと主張する多くの「証明」があるが、数学の学会では受け入れられていない。
== 類似した問題 ==
素数を、例えば平方数のような他の特別な数の集合に置き換えると、同じような問題を考えることができる。
* [[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]により、[[四平方定理|すべての正の整数は高々4つの平方数の和であること]]が証明されている。素数の冪の和に関しては、[[ウェアリングの問題]]や、関連する{{仮リンク|ウェアリング・ゴルドバッハの問題|en|Waring–Goldbach problem}}を参照。
* ハーディとリトルウッドは彼らの予想 I として「'''全ての大きな奇数 (''n'' > 5) は1つの素数と1つの素数の2倍の和である'''」ことを載せた(''Mathematics Magazine'', 66.1 (1993): 45-47.)。この予想は、{{仮リンク|ルモワーヌの予想|en|Lemoine's conjecture}}(あるいは、レヴィ予想)として知られている。
* [[プラクティカル数]]<ref>ある正の数 n について、1 以上 n 未満の数のいずれもが n の異なる約数の和で表されるとき、その n をプラクティカル数という。例えば、12 の約数は、1, 2, 3, 4, 6 であり、11 以下の正の整数は、5=3+2, 7=6+1, 8=6+2, 9=6+3, 10=6+3+1, 11=6+3+2 で表されるので、12 はプラクティカル数である。プラクティカル数の列は、
:1, 2, 4, 6, 8, 12, 16, 18, 20, 24, 28, 30, 32, 36, 40, 42, 48, 54, ....
となる。</ref>に対するゴールドバッハ予想は、1984年に Margenstern により提示され<ref>{{cite journal |first=M. |last=Margenstern |title=Results and conjectures about practical numbers |journal=Comptes-Rendus de l'Académie des Sciences Paris |volume=299 |year=1984 |pages=895–898 }}</ref>、1996年に{{仮リンク|ジュゼッペ・メルフィ|en|Giuseppe Melfi}}により証明された。すなわち、全ての偶数は 2つのプラクティカル数の和である。
*「4以上の偶数は2個の[[幸運数]]の和として表せる」という問題は、未解決である。
また整数環 {{math|'''Z'''}} と同じく[[一意分解整域]]である多項式環 {{math|'''Z'''[''x'']}} に対して同じような問題を考えると、これは証明することができる。{{harvtxt|Hayes|1965}} 参照。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2012年9月13日 (木) 00:13 (UTC)~|section=1}}
* 本橋洋一,解析的整数論 I -- 素数分布論 --,[[朝倉書店]],東京 2009 (第2刷 2012:加筆含む)ISBN 978-4-254-11821-6
*本橋洋一,[https://doi.org/10.11429/sugaku1947.57.138 '篩法'概観],[[日本数学会]]「数学」57 (2005), 138-163.
*日本数学会市民講演 “素数の翼に乗って” http://mathsoc.jp/publication/tushin/1001/motohashi.pdf
*{{Cite book|和書|author=徐遅|authorlink=徐遅|year=1979|title=ゴルドバッハの予想|publisher=[[外文出版社]]|location=[[北京]]|language=日本語|ref=徐1979}}
* {{Cite book|和書|author=末綱恕一|authorlink=末綱恕一|editor=[[岩波書店]]編|year=1933-1935年|title=岩波講座数学 第9|chapter=ごるどばっはノ問題|volume=第2巻|publisher=岩波書店}}
* {{Cite book|和書|author=アポストロス・ドキアディス|authorlink=アポストロス・ドキアディス|others=[[酒井武志]]訳|date=2001-03-09|title=ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」|series=ハヤカワ・ノヴェルズ|publisher=[[早川書房]]|isbn=4-15-208336-0|url=http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/116415.html}} - 「ゴールドバッハの予想」の証明に一生を捧げた架空の数学者の物語。
* Ramaré, O. "On Snirel'man's Constant." ''Ann. Scuola Norm. Sup. Pisa Cl. Sci.'' '''22'''(1995), 645--706.
* L. G. Schnirelmann, Über additive Eigenschaften von Zahlen, ''Math. Ann.'' '''107''' (1932/33), 649–-690.
* {{Citation | last= Hayes | first = D. R. | title = A Goldbach theorem for polynomials with integral coefficients | journal = Amer. Math. Monthly | volume = 72 | year = 1965 | pages = 45–46 | doi = 10.2307/2312999}}
* {{Citation |first=D. R. |last=Heath-Brown |first2=J. C. |last2=Puchta |arxiv=math.NT/0201299 |title=Integers represented as a sum of primes and powers of two |journal=[[Asian Journal of Mathematics]] |volume=6 |year=2002 |issue=3 |pages=535–565 }}
== 関連項目 ==
* [[弱いゴールドバッハ予想]]
* [[エラトステネスの篩]]
* [[ゲーデルの不完全性定理]]
* [[初等整数論]]
* [[数学上の未解決問題]]
* [[双子素数の予想]]
== 外部リンク ==
*[http://www.i-programmer.info/news/112-theory/4211-goldbach-conjecture-closer-to-solved.html Terence Tao proved that all odd numbers are at most the sum of five primes ]
*[http://mathworld.wolfram.com/GoldbachConjecture.html State of the art ]
* {{SpringerEOM|title=Goldbach problem|urlname=Goldbach_problem}}
* [http://www.math.dartmouth.edu/~euler/correspondence/letters/OO0765.pdf Goldbach's original letter to Euler — PDF format (in German and Latin)]
*[http://primes.utm.edu/glossary/page.php?sort=GoldbachConjecture ''Goldbach's conjecture''], part of Chris Caldwell's [[Prime Pages]].
*[http://www.ieeta.pt/~tos/goldbach.html ''Goldbach conjecture verification''], Tomás Oliveira e Silva's distributed computer search.
{{Normdaten}}
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[[Category:数論]]
[[Category:加法的整数論]]
[[Category:素数に関する予想]]
[[Category:ヒルベルトの23の問題]]
[[Category:素数]]
[[Category:クリスティアン・ゴルトバハ]]
[[Category:数学のエポニム]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-05-22T04:02:05Z | 2023-11-22T01:51:22Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E3%81%AE%E4%BA%88%E6%83%B3 |
9,008 | ユーゴスラビア連邦共和国 | ユーゴスラビア連邦共和国(ユーゴスラビアれんぽうきょうわこく、セルビア語・セルビア・クロアチア語:Савезна Република Југославија; СРЈ / Savezna Republika Jugoslavija; SRJ)は、1992年から2003年まで存在した南ヨーロッパ・バルカン半島中部の連邦国家。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)が崩壊して4つの共和国が独立した後、同国に留まっていたセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって結成された。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア分離前のユーゴスラビアと区別して「新ユーゴスラビア」と呼ぶことが多い。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)から4つの共和国が分離したことによって、残された2国から成るユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)はより単一民族的となった。2つの国家で多数派を形成する民族はそれぞれセルビア人、モンテネグロ人であるが、両者は民族的・文化的にほぼ同一である。モンテネグロ人の民族主義者は、モンテネグロ人がセルビア人とは異なる独自の民族であると主張するが、それ以外の多くの人々はモンテネグロ人はセルビア人の一支族であると考えている。ユーゴスラビア連邦共和国の少数民族としては、アルバニア人、マジャル人、ルーマニア人などがいる。コソボ・メトヒヤ自治州で多数派であるアルバニア人と少数派のセルビア人との間で民族的緊張が高まり、両者の衝突はユーゴスラビア連邦共和国の存続期間を通してずっと続いた問題であった。
ユーゴスラビア連邦共和国は、1992年の建国から2000年に至るまで、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家である認められていなかった。1992年から2000年までの間、アメリカ合衆国などの国々はユーゴスラビア連邦共和国を「セルビアとモンテネグロ」、あるいはその中でセルビアが支配的な地位にあったことから単に「セルビア」と呼んでいた。特にスロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア大統領の地位にあった時代、ミロシェヴィッチは連邦の大統領よりも強い影響力を持っていた。ミロシェヴィッチやセルビア民族主義に反対する人々は、ミロシェヴィッチ支配下のユーゴスラビア連邦共和国を「大セルビア」と呼んだ。
2003年に国家を再編し、国家連合セルビア・モンテネグロに移行した。しかし国家連合もその3年後の2006年、モンテネグロの住民投票で独立が支持されたことに伴い、解消された。その結果、2006年にはモンテネグロ、セルビアの両国はともに独立国となった。
1991年から1992年にかけてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊によって、セルビア共和国とモンテネグロ共和国だけがユーゴスラビア連邦に残された。2国は連邦を維持することを決め、1992年に新しい憲法を制定した。旧東側諸国における共産主義体制の崩壊を受け、共産主義体制は正式に放棄され、1990年に解体したユーゴスラビア共産主義者同盟の指導的地位は否定された。国旗からは赤い星が取り除かれ、社会主義的な国章も変更され、セルビアとモンテネグロの象徴の入った双頭の鷲の紋章に変更された。このほかの変更としては、警察の呼称がミリツィヤ(Милиција / Milicija)からポリツィヤ(Полиција / Policija)に改められ、2つの共和国はそれぞれの武力を持つとされた。新しい連邦はまた、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の時代の集団指導体制を廃止し、民主的に選ばれた単独の大統領制とし、民主的に選ばれた一つの議会を持つとされた。
ユーゴスラビア連邦共和国は、国際的な機関への参加資格を停止されていた。これは、1990年代に進行中であったユーゴスラビア紛争のためである。そのため、旧連邦の資産と責務、とくに国債の分配に関する合意の妨げとなっていた。ユーゴスラビア連邦共和国の政府は、1991年から1995年にかけての紛争で、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナで、それぞれの政府と戦うセルビア人勢力を支援していた。そのために、ユーゴスラビア連邦共和国は経済的・政治的な制裁下におかれ、国の経済は壊滅し、多くの若者が国外に流出した。
BBCのドキュメンタリー番組「Death of Yugoslavia」では、ユーゴスラビアの高官ボリサヴ・ヨヴィッチ(Borisav Jović)が、ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人軍がユーゴスラビア人民軍から分かれて組織されたことを明かした。これによって、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立に伴って、そこに駐留していたユーゴスラビア人民軍は「外国の侵略軍」ではなくなり、ユーゴスラビアが侵略者として紛争に介入しているとする見方を回避した。この際、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人軍は、自力での資金拠出能力はなく、ユーゴスラビアから多量の装備と全ての資金を受け取っていた。さらに、セルビア急進党の党首で民兵組織「白い鷹」の創設者でもあるヴォイスラヴ・シェシェリは、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチがシェシェリに対して民兵をボスニア・ヘルツェゴビナに送るよう私的に要請したと主張している。さらに、ボスニアのセルビア人軍を指揮していたのは、かつてのユーゴスラビア人民軍の指揮官ラトコ・ムラディッチであった。。ムラディッチはユーゴスラビア人民軍の指揮官として1991年から1992年のクロアチア紛争に従事し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での戦争犯罪の嫌疑でユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追されている。
1995年、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビア連邦共和国とボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人勢力を代表してアメリカ合衆国のデイトンで和平交渉に臨み、その結果結ばれたデイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は終結した。
1996年、モンテネグロは、セルビアと結んでいた経済協力関係を破棄し、独自の経済政策を始め、通貨としてドイツマルクを導入した。その後のモンテネグロ政府は独立を目指した政策を採り続け、セルビアとの政治的緊張は2000年にミロシェヴィッチが失脚した後も続いた。さらに、アルバニア人民族主義者の武装組織が1996年ごろから暴力を次第に激化させていった。ユーゴスラビア連邦国家の存続は政府にとって深刻な問題となった。
ミロシェヴィッチのセルビア大統領としての2期目の任期が切れると、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦大統領の選挙に出馬し、勝利した。ミロシェヴィッチが連邦大統領となったことによって、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦軍と治安部隊の直接の指揮権を獲得した。ミロシェヴィッチはこれらをコソボの分離主義の動きを抑えるのに使った。衝突は1996年から1999年にかけて激化して、コソボ紛争として知られる内戦へと発展した。
1999年3月から、アメリカ合衆国の指導のもと、北大西洋条約機構(NATO)がコソボ紛争に介入を始めた。NATOはユーゴスラビア政府がアルバニア人に対してコソボでジェノサイドを行っているものと考えた。その根拠の一つとなったのが、過激なセルビア人民族主義者のヴォイスラヴ・シェシェリがこの時ユーゴスラビアの首相となっていたことである。シェシェリはクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナの紛争時に民兵組織「白い鷹」を率い、多くの市民を惨殺するなどの蛮行を行っている。これと同様の事がコソボのアルバニア人にも行われる事が懸念されていた。加えて、ミロシェヴィッチもまた上記の蛮行に間接的に関与していたものと考えられていた。NATOはアライド・フォース作戦と呼ばれる大規模な空爆を開始し、ユーゴスラビア連邦軍やセルビア人準軍事組織の関連施設と考えられた場所が空爆された。NATOの作戦は、ユーゴスラビア各地で多くの戦闘員ではない市民を殺害し、各方面から厳しい批判を受けた。ユーゴスラビア政府はNATOの行為は市民を対象にした恐怖攻撃であると批判する一方、NATOは攻撃は適法であると主張した。ベオグラードに対する空爆は第二次世界大戦以来のことであった。NATOの介入後も、セルビア人の軍事勢力によるアルバニア人に対する虐殺が起こった。ツスカの虐殺(Cuska massacre)、ポドゥイェヴォの虐殺(Podujevo massacre)、ヴェリカ・クルシャの虐殺(Velika Krusa massacre)は、いずれもこの紛争中にセルビア人の警察や準軍事組織によってアルバニア人市民に対して行われた虐殺の一部である。NATOは、ユーゴスラビアがコソボでの軍事行動を中止し、コソボの自治を回復するよう求めた。長期に及ぶ空爆の後、ミロシェヴィッチはNATO側の要求を受け入れ、コソボの分離独立運動に対する行動を中止し、コソボから撤退、NATOがコソボを占領することを認めた。
1999年6月、NATOによる空爆が終わった後、NATOやその他の外国の軍がコソボ入りし、コソボ解放軍と協力しコソボの秩序回復にあたった。NATOのコソボ解放軍との協力の決定は、NATOが分離主義者の側に立っているとの思いをセルビア人に抱かせた。コソボ解放軍は紛争中、セルビア人の市民に対して多くの蛮行を行ってきた。コソボの支配権がNATOに渡ったとき、およそ30万人のコソボ住民(主にセルビア人)はコソボを脱出するか追放された。多くのセルビア人がコソボを去ったことによって、コソボのセルビア人人口は劇的に減った。多くのセルビア人たちは、コソボの統治機構に組み込まれたコソボ解放軍によるセルビア人への迫害を恐れていた。多くの批判にも関わらず、国際連合はコソボに関する命令の履行を進めた。この中では、コソボは法的にはユーゴスラビアの一部とされる一方、ユーゴスラビア側の統治権は完全に排除された。コソボの自治権は、かつてコソボが最大の自治権を持っていた1974年から1990年までよりもさらに大きくなった。コソボはモンテネグロに倣ってユーゴスラビア・ディナールの使用を停止し、独自の議会と内閣を持ち、さらにモンテネグロよりも進んで独自の自動車のナンバープレートをも作った。コソボにはユーゴスラビアの法制度は適用されず、独自の政府を持ち、ユーゴスラビアの軍、警察、民兵、準軍事組織はコソボから排除された。コソボに住むセルビア人やロマ、クロアチア人、正教会やカトリック教会の施設を守るためのセルビア側からのコソボへの関与は否定された。国際連合の決議は、ユーゴスラビア連邦が解体された後も2009年に至るまでなお効力を持ち続けている。
ユーゴスラビア連邦共和国の領土は、2つの共和国と2つの自治州の4つに大きく分けられる。
ユーゴスラビア連邦議会は、市民議会と共和国議会の2つから成る。市民議会はユーゴスラビア市民を代表する通常の議会として機能する一方、共和国議会は連邦を構成するそれぞれの共和国からの同数の議員によって構成され、両共和国の対等性を保障している。
ユーゴスラビア連邦共和国では、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の集団指導体制は廃止され、単一の大統領が選ばれる。ユーゴスラビア連邦共和国の存続期間の間、その大統領の地位は不安定であり、4年以上同じ人物が大統領を務めた例はない。最初の大統領は1992年から1993年までその地位にあったドブリツァ・チョシッチ(Dobrica Ćosić)であり、第二次世界大戦時の共産主義パルチザンの一員であった。チョシッチは後に、物議を醸したセルビア科学芸術アカデミーの覚書の著者の一人となっている。連邦の元首となったにも関わらず、チョシッチは1993年にセルビア大統領のミロシェヴィッチに反対してその地位を追われた。代わって連邦大統領となったのはゾラン・リリッチ(Zoran Lilić)であり、1993年から1997年まで連邦大統領を務めた。1997年にミロシェヴィッチがセルビア大統領としての任期切れを迎えると、ミロシェヴィッチが連邦大統領の地位に就いた。2000年の連邦大統領選挙では、ミロシェヴィッチを利する不正があったとの非難があがった。ミロシェヴィッチの退陣を求めるユーゴスラビアの市民たちは路上でデモを展開し、ベオグラードでは暴動に発展した。ミロシェヴィッチはまもなくその地位から離れ、ヴォイスラヴ・コシュトゥニツァが新しいユーゴスラビア連邦大統領の地位に就いた。コシュトゥニツァは2003年にユーゴスラビア連邦が国家連合セルビア・モンテネグロに移行するまでの間、その大統領の職を務めた。
ユーゴスラビアは、かつての領土を大きく失い、市場が縮小したこと、および経済政策の失敗、紛争による国際的な経済制裁によって、深刻な苦境に陥った。1990年代前半、ユーゴスラビアでは通貨ユーゴスラビア・ディナールはハイパーインフレに見舞われた。1990年代中ごろにはインフレを脱した。さらにユーゴスラビアの経済を悪化させたのは、コソボ紛争におけるインフラ、産業施設への空爆であった。これによってユーゴスラビアの経済は1990年の半分にまで縮小した。ミロシェヴィッチの失脚後、民主野党連合の連立政権は、経済の安定化措置を導入し、大胆な市場改革に乗り出した。国際通貨基金の会員資格を2000年に更新すると、ユーゴスラビアは世界銀行や欧州復興開発銀行などへの再加入も果たし、国際社会に復帰していった。
小さいモンテネグロは経済的には連邦政府や、ミロシェヴィッチ時代の前半はセルビアの支配を受けた。その後、2つの共和国は中央銀行を分離し、モンテネグロでは通貨としてドイツマルクを導入し、ドイツマルクがユーロに移行するとユーロが通貨となった。セルビアではその後もユーゴスラビア・ディナールをセルビア・ディナールと改称し、使用し続けた。
ユーゴスラビア連邦の複雑な政治関係、民営化の遅れ、ヨーロッパの景気低迷は、ユーゴスラビア経済に悪影響を及ぼした。国際通貨基金の介入、特に財政規律の要求は、政策決定に重要な要素となった。深刻な失業率は、経済問題の中核であった。汚職や腐敗もまた深刻であり、巨大な闇市や、形式経済に犯罪要素が深く食い込んでいることも問題であった。 | [
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"text": "ユーゴスラビア連邦共和国(ユーゴスラビアれんぽうきょうわこく、セルビア語・セルビア・クロアチア語:Савезна Република Југославија; СРЈ / Savezna Republika Jugoslavija; SRJ)は、1992年から2003年まで存在した南ヨーロッパ・バルカン半島中部の連邦国家。",
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"text": "ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)が崩壊して4つの共和国が独立した後、同国に留まっていたセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって結成された。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア分離前のユーゴスラビアと区別して「新ユーゴスラビア」と呼ぶことが多い。",
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"text": "ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)から4つの共和国が分離したことによって、残された2国から成るユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)はより単一民族的となった。2つの国家で多数派を形成する民族はそれぞれセルビア人、モンテネグロ人であるが、両者は民族的・文化的にほぼ同一である。モンテネグロ人の民族主義者は、モンテネグロ人がセルビア人とは異なる独自の民族であると主張するが、それ以外の多くの人々はモンテネグロ人はセルビア人の一支族であると考えている。ユーゴスラビア連邦共和国の少数民族としては、アルバニア人、マジャル人、ルーマニア人などがいる。コソボ・メトヒヤ自治州で多数派であるアルバニア人と少数派のセルビア人との間で民族的緊張が高まり、両者の衝突はユーゴスラビア連邦共和国の存続期間を通してずっと続いた問題であった。",
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"text": "ユーゴスラビア連邦共和国は、1992年の建国から2000年に至るまで、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家である認められていなかった。1992年から2000年までの間、アメリカ合衆国などの国々はユーゴスラビア連邦共和国を「セルビアとモンテネグロ」、あるいはその中でセルビアが支配的な地位にあったことから単に「セルビア」と呼んでいた。特にスロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア大統領の地位にあった時代、ミロシェヴィッチは連邦の大統領よりも強い影響力を持っていた。ミロシェヴィッチやセルビア民族主義に反対する人々は、ミロシェヴィッチ支配下のユーゴスラビア連邦共和国を「大セルビア」と呼んだ。",
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"text": "2003年に国家を再編し、国家連合セルビア・モンテネグロに移行した。しかし国家連合もその3年後の2006年、モンテネグロの住民投票で独立が支持されたことに伴い、解消された。その結果、2006年にはモンテネグロ、セルビアの両国はともに独立国となった。",
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] | ユーゴスラビア連邦共和国は、1992年から2003年まで存在した南ヨーロッパ・バルカン半島中部の連邦国家。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)が崩壊して4つの共和国が独立した後、同国に留まっていたセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって結成された。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア分離前のユーゴスラビアと区別して「新ユーゴスラビア」と呼ぶことが多い。 | {{混同|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|x1=1943年から1992年まで存在した、本記事で解説する国家の前身である}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = ユーゴスラビア
|日本語国名 = ユーゴスラビア連邦共和国
|公式国名 = {{native name|sh|Савезна Република Југославија|italic=no}}<ref group="※">[[キリル文字]]による表記。</ref><br />{{native name|sh|Savezna Republika Jugoslavija|italic=no}}<ref group="※">[[ラテン文字]]による表記。</ref>
|建国時期 = [[1992年]]
|亡国時期 = [[2003年]]
|先代1 = ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
|先旗1 = Flag of SFR Yugoslavia.svg
|次代1 = セルビア・モンテネグロ
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|国旗画像 = Flag_of_Yugoslavia_(1992–2003);_Flag_of_Serbia_and_Montenegro_(2003–2006).svg
|国旗リンク = [[セルビア・モンテネグロの国旗|国旗]]
|国旗説明 = ユーゴスラビア連邦共和国の国旗
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|国旗縁 = no
|国章画像 = Coat of arms of Serbia and Montenegro.svg
|国章リンク = [[セルビア・モンテネグロの国章|国章]]
|国章説明 = ユーゴスラビア連邦共和国の国章
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|国歌 = [[スラヴ人よ|Хеј, Словени]]{{sr icon}}<br>''スラヴ人よ''<br>{{center|[[File:United States Navy Band - Hey, Slavs.ogg]]}}
|国歌追記 =
|位置画像 = Federal Republic of Yugoslavia (1992).svg
|位置画像説明 = ユーゴスラビア連邦共和国の位置(1992年)
|公用語 = [[セルビア・クロアチア語]]<br>{{smaller|(1992年 - 1997年)}}<br><br />[[セルビア語]]<br>{{smaller|(1997年 - 2003年)}}
|首都 = [[ベオグラード]]
|元首等肩書 = [[ユーゴスラビア#指導者|大統領]]
|元首等年代始1 = 1992年
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|元首等氏名1 = [[ドブリツァ・チョシッチ]]
|元首等年代始2 = 1993年
|元首等年代終2 = 1997年
|元首等氏名2 = [[ゾラン・リリッチ]]
|元首等年代始3 = 1997年
|元首等年代終3 = 2000年
|元首等氏名3 = [[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]
|元首等年代始4 = 2000年
|元首等年代終4 = 2003年
|元首等氏名4 = [[ヴォイスラヴ・コシュトニツァ]]
|首相等肩書 = 首相
|首相等年代始1 = 1992年
|首相等年代終1 = 1993年
|首相等氏名1 = [[ミラン・パニッチ]]
|首相等年代始2 = 1993年
|首相等年代終2 = 1998年(最後)
|首相等氏名2 = [[ラトイェ・コンティッチ]]
|首相等年代始3 = 1998年
|首相等年代終3 = 2000年
|首相等氏名3 = [[モミル・ブラトヴィッチ]]
|首相等年代始4 = 2000年
|首相等年代終4 = 2001年
|首相等氏名4 = [[ゾラン・ジジッチ]]
|首相等年代始5 = 2001年
|首相等年代終5 = 2003年
|首相等氏名5 = [[ドラギシャ・ペシッチ]]
|面積測定時期1 = 2002年
|面積値1 = 102,350
|人口測定時期1 = 2002年推計
|人口値1 = 10,656,929
|変遷1 = 憲法制定
|変遷年月日1 = 1992年4月27日
|変遷2 = 建国
|変遷年月日2 = 1992年4月28日
|変遷3 = 国際連合加盟
|変遷年月日3 = 2000年11月1日
|変遷4 = 再編
|変遷年月日4 = 2003年2月4日
|通貨 = '''セルビア'''
*[[ユーゴスラビア・ディナール]]<br>{{smaller|(1992年 - 2003年)}}<br><br>'''モンテネグロ'''
*[[ユーゴスラビア・ディナール]]<br>{{smaller|(1992年 - 1999年)}}<br>
*[[ドイツ・マルク]]<br>{{smaller|(1999年 - 2002年)}}<br>
*[[ユーロ]]<br>{{smaller|(2002年 - 2003年)}}
|時間帯 = [[中央ヨーロッパ時間]]
|夏時間 = [[中央ヨーロッパ夏時間]]
|時間帯追記 =
|ccTLD = [[.yu]]
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 = +381
|国際電話番号追記 =
|現在 = {{SRB}}<br>{{MNT}}<br>{{KOS}}
|注記 = <references group="※" />
}}
[[ファイル:Passport of the Federal Republic of Yugoslavia.jpg|thumb|225px|right|ユーゴスラビア連邦共和国のパスポート。[[2009年]][[12月31日]]まで有効とされた。]]
'''ユーゴスラビア連邦共和国'''(ユーゴスラビアれんぽうきょうわこく、[[セルビア語]]・[[セルビア・クロアチア語]]:{{lang|sr|Савезна Република Југославија; '''СРЈ''' / Savezna Republika Jugoslavija; '''SRJ'''}})は、[[1992年]]から[[2003年]]まで存在した[[南ヨーロッパ]]・[[バルカン半島]]中部の[[連邦|連邦国家]]。
'''[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]'''(SFRJ)が[[ユーゴスラビアの崩壊|崩壊]]して4つの共和国が独立した後、同国に留まっていた[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]と[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]によって結成された。[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[マケドニア共和国|マケドニア]]分離前のユーゴスラビアと区別して「新ユーゴスラビア」と呼ぶことが多い{{Efn|略称は「新ユーゴ」であり、この場合、識別上、SFRJは「旧ユーゴ」と表記されることが多い}}。
== 概要 ==
{{複数の問題
| section = 1
| 未検証 = 2021年4月22日 (木) 16:02 (UTC)
| 単一の出典 = 2021年4月22日 (木) 16:02 (UTC)
| 正確性 = 2021年4月22日 (木) 16:02 (UTC)
| 言葉を濁さない = 2021年4月22日 (木) 16:02 (UTC)
}}
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)から4つの共和国が分離したことによって、残された2国から成るユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)はより単一民族的となった。2つの国家で多数派を形成する民族はそれぞれ[[セルビア人]]、[[モンテネグロ人]]であるが、{{要出典範囲|両者は民族的・文化的にほぼ同一である|date=2021年4月}}。モンテネグロ人の民族主義者{{誰|date=2021年4月14日 (水) 15:34 (UTC)}}は、モンテネグロ人がセルビア人とは異なる独自の民族であると主張するが、それ以外の多くの人々{{誰|date=2021年4月14日 (水) 15:34 (UTC)}}はモンテネグロ人はセルビア人の一支族であると考えている。ユーゴスラビア連邦共和国の少数民族としては、[[アルバニア人]]、[[マジャル人]]、[[ルーマニア人]]などがいる。[[コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)|コソボ・メトヒヤ自治州]]で多数派である[[アルバニア人]]と少数派の[[セルビア人]]との間で民族的緊張が高まり、両者の衝突はユーゴスラビア連邦共和国の存続期間を通してずっと続いた問題であった<ref name="kubo hikisakareta" />。
ユーゴスラビア連邦共和国は、[[1992年]]の建国から[[2000年]]に至るまで、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家である{{誰|date=2021年4月14日 (水) 15:34 (UTC)|post-text=に}}認められていなかった。1992年から2000年までの間、[[アメリカ合衆国]]などの国々{{誰|date=2021年4月14日 (水) 15:34 (UTC)}}はユーゴスラビア連邦共和国を「セルビアとモンテネグロ」、あるいはその中でセルビアが支配的な地位にあったことから単に「セルビア」と呼んでいた。特に[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]がセルビア大統領の地位にあった時代、ミロシェヴィッチは連邦の大統領よりも強い影響力を持っていた。ミロシェヴィッチやセルビア民族主義に反対する人々{{誰|date=2021年4月14日 (水) 15:34 (UTC)}}は、ミロシェヴィッチ支配下のユーゴスラビア連邦共和国を「[[大セルビア]]」と呼んだ。
[[2003年]]に国家を再編し、国家連合[[セルビア・モンテネグロ]]に移行した。しかし国家連合もその3年後の2006年、モンテネグロの住民投票で独立が支持されたことに伴い、解消された。その結果、2006年には[[モンテネグロ]]、[[セルビア]]の両国はともに独立国となった<ref name="kubo hikisakareta">{{Cite book
|author=[[久保慶一]]
|date=2003年10月10日
|title=引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題
|publisher=有信堂高文社
|location=日本、東京
|id=ISBN 978-4842055510
}}</ref>。
== 歴史 ==
[[1991年]]から[[1992年]]にかけての[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の崩壊によって、[[セルビア共和国 (1992年-2006年)|セルビア共和国]]と[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]だけがユーゴスラビア連邦に残された。2国は連邦を維持することを決め、[[1992年]]に新しい憲法を制定した<ref name="kubo hikisakareta" />。旧[[東側諸国]]における[[共産主義]]体制の崩壊を受け、共産主義体制は正式に放棄され、1990年に解体した[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]の指導的地位は否定された。国旗からは[[赤い星]]が取り除かれ、社会主義的な国章も変更され、セルビアとモンテネグロの象徴の入った双頭の鷲の[[紋章]]に変更された。このほかの変更としては、警察の呼称がミリツィヤ({{lang|sr|Милиција / ''Milicija''}})からポリツィヤ({{lang|sr|Полиција / ''Policija''}})に改められ、2つの共和国はそれぞれの武力を持つとされた。新しい連邦はまた、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の時代の集団指導体制を廃止し、民主的に選ばれた単独の大統領制とし、民主的に選ばれた一つの議会を持つとされた。
=== ユーゴスラビア連邦共和国とユーゴスラビア紛争 ===
ユーゴスラビア連邦共和国は、国際的な機関への参加資格を停止されていた。これは、[[1990年代]]に進行中であった[[ユーゴスラビア紛争]]のためである。そのため、旧連邦の資産と責務、とくに国債の分配に関する合意の妨げとなっていた。ユーゴスラビア連邦共和国の政府は、[[1991年]]から[[1995年]]にかけての紛争で、[[クロアチア]]や[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]で、それぞれの政府と戦う[[セルビア人]]勢力を支援していた。そのために、ユーゴスラビア連邦共和国は経済的・政治的な制裁下におかれ、国の経済は壊滅し、多くの若者が国外に流出した。
[[英国放送協会|BBC]]のドキュメンタリー番組「Death of Yugoslavia」では、ユーゴスラビアの高官[[ボリサヴ・ヨヴィッチ]]([[:en:Borisav Jović|Borisav Jović]])が、[[スルプスカ共和国軍|ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人軍]]が[[ユーゴスラビア人民軍]]から分かれて組織されたことを明かした。これによって、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立に伴って、そこに駐留していたユーゴスラビア人民軍は「外国の侵略軍」ではなくなり、ユーゴスラビアが侵略者として紛争に介入しているとする見方を回避した。この際、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人軍は、自力での資金拠出能力はなく、ユーゴスラビアから多量の装備と全ての資金を受け取っていた。さらに、[[セルビア急進党]]の党首で民兵組織「[[白い鷹]]」の創設者でもある[[ヴォイスラヴ・シェシェリ]]は、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチがシェシェリに対して民兵をボスニア・ヘルツェゴビナに送るよう私的に要請したと主張している。さらに、ボスニアのセルビア人軍を指揮していたのは、かつてのユーゴスラビア人民軍の指揮官[[ラトコ・ムラディッチ]]であった。<ref>{{Cite book
|author=[[岩田昌征]]
|date=1999年8月20日
|title=ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像―学者の冒険
|publisher=御茶の水書房
|location=日本
|id=ISBN 978-4275017703
}}</ref><ref name="sahara bosnia">{{Cite book
|author=[[佐原徹哉]]
|date=2008年3月20日
|title=ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化
|publisher=有志舎
|location=日本、東京
|id=ISBN 978-4-903426-12-9
}}</ref>。ムラディッチはユーゴスラビア人民軍の指揮官として1991年から1992年の[[クロアチア紛争]]に従事し、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]での戦争犯罪の嫌疑で[[ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]に訴追されている<ref name="sahara bosnia" />。
[[1995年]]、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビア連邦共和国とボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人勢力を代表して[[アメリカ合衆国]]の[[デイトン (オハイオ州)|デイトン]]で和平交渉に臨み、その結果結ばれた[[デイトン合意]]によってボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は終結した<ref name="sahara bosnia" />。
=== 分離主義の動き ===
[[1996年]]、モンテネグロは、セルビアと結んでいた経済協力関係を破棄し、独自の[[経済政策]]を始め、通貨として[[ドイツマルク]]を導入した<ref name="kubo hikisakareta" />。その後のモンテネグロ政府は独立を目指した政策を採り続け、セルビアとの政治的緊張は[[2000年]]にミロシェヴィッチが失脚した後も続いた。さらに、[[アルバニア人]]民族主義者の武装組織が[[1996年]]ごろから暴力を次第に激化させていった<ref name="kubo hikisakareta" />。ユーゴスラビア連邦国家の存続は政府にとって深刻な問題となった。
=== コソボ紛争 ===
{{複数の問題
| section = 1
| 出典の明記 = 2021年4月8日 (木) 07:01 (UTC)
| 独自研究 = 2021年4月8日 (木) 07:01 (UTC)
| 正確性 = 2021年4月8日 (木) 07:01 (UTC)
| 観点 = 2021年4月8日 (木) 07:01 (UTC)
}}
{{See also|コソボ紛争|コソボ地位問題}}
ミロシェヴィッチのセルビア大統領としての2期目の任期が切れると、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦大統領の選挙に出馬し、勝利した。ミロシェヴィッチが連邦大統領となったことによって、ミロシェヴィッチは[[ユーゴスラビア連邦軍]]と治安部隊の直接の指揮権を獲得した。ミロシェヴィッチはこれらをコソボの分離主義の動きを抑えるのに使った。衝突は[[1996年]]から[[1999年]]にかけて激化して、[[コソボ紛争]]として知られる内戦へと発展した。
[[1999年]]3月から、[[アメリカ合衆国]]の指導のもと、[[北大西洋条約機構]](NATO)がコソボ紛争に介入を始めた。NATOはユーゴスラビア政府が[[アルバニア人]]に対して[[コソボ]]で[[ジェノサイド]]を行っているものと考えた。その根拠の一つとなったのが、過激なセルビア人民族主義者の[[ヴォイスラヴ・シェシェリ]]がこの時ユーゴスラビアの首相となっていたことである。シェシェリはクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナの紛争時に民兵組織「[[白い鷹]]」を率い、多くの市民を惨殺するなどの蛮行を行っている。これと同様の事がコソボのアルバニア人にも行われる事が懸念されていた。加えて、ミロシェヴィッチもまた上記の蛮行に間接的に関与していたものと考えられていた。NATOは[[アライド・フォース作戦]]と呼ばれる大規模な空爆を開始し、ユーゴスラビア連邦軍やセルビア人準軍事組織の関連施設と考えられた場所が空爆された。NATOの作戦は、ユーゴスラビア各地で多くの戦闘員ではない市民を殺害し、各方面から厳しい批判を受けた。ユーゴスラビア政府はNATOの行為は市民を対象にした恐怖攻撃であると批判する一方、NATOは攻撃は適法であると主張した。[[ベオグラード]]に対する空爆は[[第二次世界大戦]]以来のことであった。NATOの介入後も、セルビア人の軍事勢力によるアルバニア人に対する虐殺が起こった。[[ツスカの虐殺]]([[:en:Cuska massacre|Cuska massacre]])<ref>[http://americanradioworks.publicradio.org/features/kosovo/cuska/cuska_frameset.html Justice for Kosovo - Massacre at Cuska<!-- Bot generated title -->]</ref>、[[ポドゥイェヴォの虐殺]]([[:en:Podujevo massacre|Podujevo massacre]])<ref>[http://www.cbc.ca/news/background/balkans/crimesandcourage.html CBC News Indepth: Balkans<!-- Bot generated title -->]{{リンク切れ|date=2021-04-08}}</ref>、[[ヴェリカ・クルシャの虐殺]]([[:en:Massacre at Krusha e Madhe|Velika Krusa massacre]])<ref>[http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/inside_kosovo/velika_krusa.stm BBC News | Inside Kosovo | Velika Krusa<!-- Bot generated title -->]</ref>は、いずれもこの紛争中にセルビア人の警察や準軍事組織によってアルバニア人市民に対して行われた虐殺の一部である。NATOは、ユーゴスラビアがコソボでの軍事行動を中止し、コソボの自治を回復するよう求めた。長期に及ぶ空爆の後、ミロシェヴィッチはNATO側の要求を受け入れ、コソボの分離独立運動に対する行動を中止し、コソボから撤退、NATOがコソボを占領することを認めた。
[[1999年]]6月、NATOによる空爆が終わった後、NATOやその他の外国の軍がコソボ入りし、[[コソボ解放軍]]と協力しコソボの秩序回復にあたった。NATOのコソボ解放軍との協力の決定は、NATOが分離主義者の側に立っているとの思いをセルビア人に抱かせた。コソボ解放軍は紛争中、セルビア人の市民に対して多くの蛮行を行ってきた。コソボの支配権がNATOに渡ったとき、{{要出典範囲|およそ30万人のコソボ住民(主にセルビア人)|date=2021年4月}}はコソボを脱出するか追放された。多くのセルビア人がコソボを去ったことによって、コソボのセルビア人人口は劇的に減った。多くのセルビア人たちは、コソボの統治機構に組み込まれたコソボ解放軍によるセルビア人への迫害を恐れていた。多くの批判{{誰|date=2021年4月22日 (木) 16:02 (UTC)|post-text=からの}}にも関わらず、[[国際連合]]はコソボに関する命令の履行を進めた。この中では、コソボは法的にはユーゴスラビアの一部とされる一方、ユーゴスラビア側の統治権は完全に排除された。コソボの自治権は、かつてコソボが最大の自治権を持っていた[[1974年]]から[[1990年]]までよりもさらに大きくなった。コソボはモンテネグロに倣ってユーゴスラビア・ディナールの使用を停止し、独自の議会と内閣を持ち、さらにモンテネグロよりも進んで独自の自動車のナンバープレートをも作った。コソボにはユーゴスラビアの法制度は適用されず、独自の政府を持ち、ユーゴスラビアの軍、警察、民兵、準軍事組織はコソボから排除された。コソボに住むセルビア人やロマ、クロアチア人、[[正教会]]や[[カトリック教会]]の施設を守るためのセルビア側からのコソボへの関与は否定された。{{要出典範囲|国際連合の決議は、ユーゴスラビア連邦が解体された後も[[2009年]]に至るまでなお効力を持ち続けている|date=2021年4月}}。
=== 連邦の終焉とセルビア・モンテネグロへの移行 ===
{{節スタブ|date=2021年4月22日 (木) 16:02 (UTC)}}
== 領土区分 ==
[[ファイル:Scg02.png|thumb|200px|right|ユーゴスラビア連邦共和国の領土区分。黄色で示された大きいほうが[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]。青で示された小さいほうが[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]。]]
ユーゴスラビア連邦共和国の領土は、2つの共和国と2つの自治州の4つに大きく分けられる<ref name="kubo hikisakareta" />。
[[ファイル:Flag_of_Serbia_1992-2004.svg|120px|border]]
*'''[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]''' - 首都:[[ベオグラード]]。
** [[ヴォイヴォディナ|ヴォイヴォディナ自治州]] – セルビア共和国の自治州。首都:[[ノヴィ・サド]]。
** [[コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)|コソボ・メトヒヤ自治州]] – セルビア共和国の自治州。[[コソボ紛争]]後は[[国際連合]]の保護領。首都:[[プリシュティナ]]。
[[ファイル:Flag of Montenegro (1993-2004).svg|170px|border]]
* '''[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]''' - 首都:[[ポドゴリツァ]]
== 政治 ==
{{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}}
ユーゴスラビア連邦議会は、市民議会と共和国議会の2つから成る。市民議会はユーゴスラビア市民を代表する通常の議会として機能する一方、共和国議会は連邦を構成するそれぞれの共和国からの同数の議員によって構成され、両共和国の対等性を保障している。
ユーゴスラビア連邦共和国では、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の集団指導体制は廃止され、単一の大統領が選ばれる。ユーゴスラビア連邦共和国の存続期間の間、その大統領の地位は不安定であり、4年以上同じ人物が大統領を務めた例はない。最初の大統領は[[1992年]]から[[1993年]]までその地位にあった[[ドブリツァ・チョシッチ]]([[:en:Dobrica Ćosić|Dobrica Ćosić]])であり、[[第二次世界大戦]]時の共産主義[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]の一員であった。チョシッチは後に、物議を醸した[[セルビア科学芸術アカデミーの覚書]]の著者の一人となっている。連邦の元首となったにも関わらず、チョシッチは[[1993年]]にセルビア大統領のミロシェヴィッチに反対してその地位を追われた。代わって連邦大統領となったのは[[ゾラン・リリッチ]]([[:en:Zoran Lilić|Zoran Lilić]])であり、[[1993年]]から[[1997年]]まで連邦大統領を務めた。[[1997年]]にミロシェヴィッチがセルビア大統領としての任期切れを迎えると、ミロシェヴィッチが連邦大統領の地位に就いた。[[2000年]]の連邦大統領選挙では、ミロシェヴィッチを利する不正があったとの非難があがった。ミロシェヴィッチの退陣を求めるユーゴスラビアの市民たちは路上でデモを展開し、ベオグラードでは暴動に発展した。ミロシェヴィッチはまもなくその地位から離れ、[[ヴォイスラヴ・コシュトゥニツァ]]が新しいユーゴスラビア連邦大統領の地位に就いた。コシュトゥニツァは[[2003年]]にユーゴスラビア連邦が国家連合セルビア・モンテネグロに移行するまでの間、その大統領の職を務めた。
== 経済 ==
{{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}}
ユーゴスラビアは、かつての領土を大きく失い、市場が縮小したこと、および経済政策の失敗、紛争による国際的な経済制裁によって、深刻な苦境に陥った。[[1990年代]]前半、ユーゴスラビアでは通貨[[ユーゴスラビア・ディナール]]はハイパーインフレに見舞われた。1990年代中ごろにはインフレを脱した。さらにユーゴスラビアの経済を悪化させたのは、[[コソボ紛争]]におけるインフラ、産業施設への空爆であった。これによってユーゴスラビアの経済は[[1990年]]の半分にまで縮小した。ミロシェヴィッチの失脚後、[[セルビア民主野党連合|民主野党連合]]の連立政権は、経済の安定化措置を導入し、大胆な市場改革に乗り出した。[[国際通貨基金]]の会員資格を2000年に更新すると、ユーゴスラビアは[[世界銀行]]や[[欧州復興開発銀行]]などへの再加入も果たし、国際社会に復帰していった。
小さいモンテネグロは経済的には連邦政府や、ミロシェヴィッチ時代の前半はセルビアの支配を受けた。その後、2つの共和国は中央銀行を分離し、モンテネグロでは通貨として[[ドイツマルク]]を導入し、ドイツマルクが[[ユーロ]]に移行するとユーロが通貨となった<ref name="kubo hikisakareta" />。セルビアではその後もユーゴスラビア・ディナールを[[セルビア・ディナール]]と改称し、使用し続けた。
ユーゴスラビア連邦の複雑な政治関係、民営化の遅れ、ヨーロッパの景気低迷は、ユーゴスラビア経済に悪影響を及ぼした。国際通貨基金の介入、特に財政規律の要求は、政策決定に重要な要素となった。深刻な失業率は、経済問題の中核であった。汚職や腐敗もまた深刻であり、巨大な[[闇市]]や、形式経済に犯罪要素が深く食い込んでいることも問題であった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{ページ番号|date=2021年4月|section=1}}
{{Reflist}}
{{ユーゴスラビア紛争}}
{{ユーゴスラビア連邦の構成国}}
<!-- Wikipedia 翻訳支援ツール Ver0.72、[[:en:Federal Republic of Yugoslavia]](2008年12月11日 19:51:26(UTC))より -->
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ゆうこすらひあれんほうきようわこく}}
[[Category:ユーゴスラビアの歴史]]
[[Category:20世紀のヨーロッパ]]
[[Category:かつてバルカンに存在した国家]]
[[Category:過去の国際連合加盟国]]
[[Category:ユーゴスラビア崩壊]] | 2003-05-22T04:53:38Z | 2023-12-23T15:55:20Z | false | false | false | [
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9,020 | フランス保護領カンボジア | フランス保護領カンボジア(フランスほごりょうカンボジア、クメール語: ប្រទេសកម្ពុជាក្រោមអាណាព្យាបាលបារាំង、フランス語: Protectorat français du Cambodge)は、フランス植民地帝国内の東南アジアの保護領であるフランス領インドシナ内の保護領であったときのカンボジア王国を指す。保護領は、1863年にカンボジア王ノロドムが自国にフランスの保護領を設立するよう要求したときに設立された。一方、シャム(現在のタイ)はカンボジアに対する宗主権を放棄し、フランスによるカンボジアのフランスの保護国化を公式に承認した。
カンボジアは、1887年にフランスの植民地およびベトナムの保護領(コーチシナ、アンナン、トンキン)と共にフランス領インドシナに統合された。1946年、カンボジアはフランス連合内での自治を認められ、1949年に保護領の地位が廃止された。その後カンボジアは独立を果たし、11月9日は独立記念日として祝われるようになった。
19世紀、カンボジア王国は、ベトナムの阮朝からの影響力が高まり、国の東部を脅かす一方で、アンコールを含む西部の州を併合したシャム王国(ラタナコーシン朝)の従属国となった。フランスが1862年にコーチシナ(現在のベトナム南部)に植民地を設立した後、カンボジアの国王ノロドムは王国のフランスによる保護国化を要請した。当時コーチシナの植民地総督であったピエール=ポール・ド・ラ・グランディエール(フランス語版)は、フランスの支配をベトナム全体に拡大する計画を実行しており、カンボジアをベトナムとシャムにおけるフランスの領土の間の緩衝材と見なしていた。
1863年8月11日、ノロドムはカンボジア王国をフランスが保護することを認める条約に署名した。条約の下で、カンボジアの君主制の存続が認められたが、権力の大部分はプノンペンに収容される統監に与えられた。また、フランスはカンボジアの外交および貿易関係を担当し、軍事的保護を提供することになっていた。フランスがカンボジアのバッタンバン州を割譲し、タイがアンコールを支配することを認めた後、サイアムは後に保護領を認めた。
フランス領インドシナ全体の総督府は、1902年に首都がハノイに移るまでサイゴンに置かれていた。フランス領インドシナの構成国であるカンボジアは、パリの海洋および植民地省によって直接任命されたカンボジアのレジデント・スペリウール(統監)によって統治されていた。統監は、バッタンバン、ポーサット、オドン、シェムリアップなどのすべての州の中心部に配置された住民または地方知事の支援を受けた。また、首都プノンペンは総督府の直轄地であった。
カンボジアにおけるフランスの統治の最初の数十年には、君主の権力の縮小や奴隷制度の廃止など、カンボジアの政治に対する数多くの改革が含まれていた。1884年、コーチシナ総督のチャールズ・アントワーヌ・フランソワ・トムソン(英語版)は、プノンペンの王宮に小規模な部隊を派遣することで、君主を打倒し、カンボジアに対するフランスの完全な支配を確立しようと試みた。フランス領インドシナ総督がカンボジア人との衝突の可能性を理由に完全な植民地化を阻止し、君主の権力が表看板のように縮小されたため、この運動はわずかな成功に留まった。
ノロドムの異母兄で王位継承者であったシ・ヴォタ(英語版)は、シャムへの亡命からの帰国後の1885年、フランスの支援を受けたノロドムを処分するために反乱を起こした。ノロドム・フランス反対派からの支持を集め、カンボジアのジャングルやカンポットを中心に反乱を起こし、オクニャ・クラーラホム・コンが抵抗軍を率いた。その後、フランス軍はノロドムに協力し、カンボジア人の武装解除と保護領の最高権力者である統監を認めるという合意のもとにシ・ヴォタを討伐した。オクニャ・クララホム・コンはプノンペンに呼び戻され、ノロドムとフランス政府関係者と和平について話し合ったが、フランス軍に捕らえられた。彼はその後殺害され、反乱は公式に終結した。
1896 年、フランスと大英帝国は、インドシナ、特にシャムに対する互いの影響範囲を認める協定に署名した。この協定の下で、シャムはバッタンバン州を現在フランスが支配するカンボジアに返還しなければならなかった。この協定は、フランス・シャム戦争でのフランスの勝利とシャム東部へのフランスの影響に続いて、1893年に追加されたラオスだけでなく、ベトナム(コーチシナの植民地とアンナムとトンキンの保護領を含む)、カンボジアに対するフランスの支配を認めた。フランス政府は後に植民地に新しい行政ポストを配置し、同化プログラムの一環としてフランスの文化と言語を地元の人々に紹介しながら、経済的に発展させ始めた。
1897年、統監は現在のカンボジア国王であるノロドムはもはや統治にふさわしくないとパリに訴え、税金を徴収し、布告を発し、さらには王室の役人を任命し、国王を選ぶ王の権限を引き継ぐ許可を求めた。その時以来、ノロドムと将来のカンボジアの王たちは表看板であり、カンボジアの仏教の守護者にすぎなかったが、彼らは依然として農民の人口によって神の王と見なされていた。他のすべての権力は、総督と植民地官僚の手にありった。この官僚機構は主にフランスの役人によって形成され、政府への参加を自由に許可された唯一のアジア人は、インドシナ連合で支配的なアジア人と見なされていた民族のベトナム人であった。
1904年、ノロドムが亡くなり、フランス人はノロドムの息子たちに王位を譲るのではなく、ノロドムの兄弟であるシソワットに王位を譲った。シソワットはノロドム家の分家であり、ノロドム家より服従的で、親仏であった。同様に、ノロドムはフランスの支配に対するカンボジアの絶え間ない反乱の責任があると見なされていた。もう1つの理由は、ノロドムのお気に入りの息子であり、王位継承を望んでいたユカントール王子が、ヨーロッパへの旅行中に、占領下のカンボジアにおけるフランスの残虐行為について世論を巻き起こしたことである。
その後、フランスは1902年と1904年に、シャムとの条約によってプリアヴィヒア州とチャンパーサック県をカンボジアに加え、バサック川を完全に支配することでカンボジア保護領の領土を拡大しながら支配を強化した。カンボジアがストゥントレン州の領有権を主張する以前の1904年には、カンボジアがチャンパーサックを譲り受け、ストゥントレン州をフランス保護領ラオスから獲得するという交換が行われた。その後、バタンバン州とシェムリアップ州をめぐるフランスとシャムの領土紛争により、1904年に偶然にもトラート県がフランスに併合されることになった。
フランスとシャムは、1907年のフランス・シャム条約に基づいて領土交換を行うことに同意した。これにより、フランスは18世紀後半まで元々はカンボジア領だったバタンバン州とシェムリアップ州を獲得した。これらの州の獲得は、インドシナにおけるフランスの領土拡大の最終段階となった。また、シャムは後にこの地域のイギリスと協力することになった。彼らはフランスの無秩序な拡大とシャムの支配がインドシナの権力のバランスを崩すことを恐れていた。
もともと、より重要なベトナムの植民地とシャムの間のフランスの緩衝地域として機能していたカンボジアは、当初、経済的に重要な地域とは見なされていなかった。植民地政府の予算は当初、主な歳入源としてカンボジアでの徴税に大きく依存しており、カンボジア人はインドシナのフランス植民地の中で1人当たりの税金を最も多く支払っていた。カンボジアにおけるフランス統治初期の貧しい、時には不安定な行政は、インフラと都市の成長がベトナムよりもはるかに遅く、村の伝統的な社会構造がまだ残っていることを意味した。
しかし、フランス・シャム戦争後にフランスの支配が強化されると、カンボジアの開発がゆっくりと進み、コメとコショウの収穫によって、経済の成長が可能になった。輸出を促進するために、特にバッタンバン州(西部)で土地の使用権を与えられた植民地の起業家によって、近代的な農業方法が導入された。
フランスの自動車産業が成長するにつれて、すでにコーチシナやアンナンにあるようなゴム農園がフランスの投資家によって建設され、運営された。経済の多様化は 1920 年代を通じて続き、トウモロコシや綿花も栽培された。経済の拡大と投資にもかかわらず、カンボジア人は依然として高い税金を払い続けており、1916年には減税を要求する抗議行動が勃発した。
インフラや公共事業もフランス統治下で整備され、道路や鉄道もカンボジア領内に建設された。最も注目すべきは、プノンペンとタイ国境のバッタンバンを結ぶ鉄道である。
産業は後に発展したが、主に地元での使用または輸出のために原材料を処理するように設計された。近隣のイギリス領ビルマやイギリス領マラヤと同様に、重要な経済的地位を占めるカンボジア人に対するフランスの差別により、外国人が経済の労働力を支配していた。多くのベトナム人がゴム農園で働くために採用され、後に移民は漁師やビジネスマンとして植民地経済で重要な役割を果たした。中国系カンボジア人は商業に大きく関与し続けたが、より高い地位はフランス人に与えられた。
ベトナムとは異なり、カンボジアのナショナリズムは、主に教育の影響が少ないためにフランス統治期間の多くの間、比較的静かなままであった。しかし、フランスで教育を受けたカンボジアのエリートの間では、西側の民主主義と自治の考え方、そしてフランスによるアンコール・ワットなどのモニュメントの修復が、過去のカンボジアのかつての強力な地位に対する誇りと意識を生み出した。
教育現場でも、少数民族であるベトナム人が優遇されていることにカンボジア人学生の間で反発が強まっていた。1936年、ソン・ゴック・タインとパック・チュンは、フランス語の反植民地、時には反ベトナムの新聞としてナガラヴァッタ(Notre cité)の発行を開始した。1940年、タイに住むカンボジア人の間で、クメール・イッサラクを中心とする小規模な独立運動が展開され始めた。彼らは、母国で活動すれば処罰されることを恐れていた。
1940年のフランス陥落後、カンボジアとフランス領インドシナの残りの部分は、枢軸国の傀儡であるヴィシー・フランス政府によって支配され、日本はフランス領インドシナへ侵攻し、日本軍が駐留しているにもかかわらず、ヴィシー政府の植民地の当局者がその管理職にとどまることを許可した。1940年12月、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、日本が支援するタイ軍に対するフランスの抵抗にもかかわらず、日本はフランス当局にバッタンバン、シソポン、シェムリアップ(シェムリアップの町を除く)、プレアビヒア州をタイに割譲するよう強制した。
「アジア人のためのアジア」という日本の呼びかけは、カンボジアのナショナリストの間で受容的な聴衆を見つけた。1942年7月、著名で政治的に活動的な仏教僧ヘム・チュー(英語版)が植民地民兵に扇動的な説教をしたとして逮捕された後、ナガラヴァッタの編集者は彼の釈放を要求するデモを主導した。ヴィシー当局はすぐにデモ参加者を逮捕し、ナガラヴァッタの編集者の1人であるPach Choeunに終身刑を言い渡した。もう一人の編集者、ソン・ゴック・タン(英語版)はプノンペンから東京に逃亡した。
アジアにおけるヨーロッパの植民地の問題は、カイロ会議、テヘラン会議、ヤルタ会議の3つの会議で、ビッグ3の連合国の指導者、フランクリン・ルーズベルト、スターリン、チャーチルによって議論されたものの1つである。イギリス最大の植民地であるの インド植民地に関して、ルーズベルトは終戦までにその独立を認める宣言をチャーチルに非常に強く求めたが、チャーチルはその圧力に断固として抵抗した。
アジアにおけるイギリス以外の植民地に関しては、ルーズベルトとスターリンはテヘランで、フランスとオランダが戦後アジア支配に復帰しないことを決定した。しかし、終戦前のルーズベルトの早すぎる死に続き、ルーズベルトの想定とは大きく異なる展開が続いた。イギリスはアジアにおけるフランスとオランダの支配の復帰を支持し、この目的のためにイギリスの指揮下でインド兵の派遣を組織した。
戦争の最後の数ヶ月間、日本は現地の支持を得ようとして、1945年3月9日にフランスの植民地政権を解体し、カンボジアに大東亜共栄圏での独立を宣言するよう促した(明号作戦)。4日後、国王シハヌークは独立カンプチア(カンボジアの元のクメール語の発音)を宣言した。ソン・ゴク・タンは5月に東京から帰国し、外務大臣に任命された。
日本が降伏した1945年8月15日、ソン・ゴク・タンを首相とする新政府が樹立された。連合軍が10月にプノンペンを占領したとき、タンは日本への協力を理由に逮捕され、フランスに亡命し、自宅軟禁されたままであった。彼の支持者の何人かは地下に潜り、タイが支配する北西カンボジアに逃れ、そこで最終的に独立派のクメール・イッサラク(英語版)の軍と合流した。
終戦時のカンボジア情勢は混沌としていた。シャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランスは、インドシナを回復することを決意したが、彼らはカンボジアと他のインドシナ保護領に慎重に限定された自治を提供した。彼らは「文明化の使命」を持っていると確信し、フランス文化の共通の経験を共有した旧植民地のフランス連合にインドシナが参加することを思い描いた。しかし、都会のプロのエリートも庶民もこの取り決めには惹かれなかった。ほぼすべての職業のカンボジア人にとって、1945年3月から10月までの短い独立期間は楽しいものであった。クメール人の倦怠感は過去のものだった。
プノンペンでは、国家元首として行動するシハヌークは、彼をフランスの協力者と見なす党の政治家やクメール・イサラクとベトミンの支持者を無力化しようとする一方で、完全な独立のためにフランスと交渉するという微妙な立場に置かれた。1946年から1953年までの激動の時代に、シアヌークは1970年3月に権力の座から転落する前後に、彼を支えた政治的生き残りのための驚くべき適性を示した。クメール・イサラクは、国境地域で活動する極めて異質なゲリラ運動であった。
このグループには、先住民族の左派、ベトナムの左派、ソン・ゴック・タンに忠実な反君主主義民族主義者(クメール・セライ)、混乱を利用して村人を恐怖に陥れる平凡な盗賊が含まれていた。彼らの財産は戦後すぐに浮き沈みしたが(大きな打撃は1947年にバンコクで左翼の友好的な政府が転覆した)、1954年までにクメール・イサラクはベトミンと協力して活動し、いくつかの推定ではカンボジアの領土の50%を支配していた。
1946年、フランスはカンボジア人が政党を結成し、国の憲法の草案作成について国王に助言する諮問議会の選挙を行うことを許可した。2つの主要な政党は、いずれも皇太子が率いていた。 Sisowath Yuthevong王子が率いる民主党は、即時の独立、民主的改革、および議会政府を支持した。その支持者は、教師、公務員、仏教僧団の政治的に活動的なメンバー、および 1942 年にフランスによって閉鎖される前にナガラヴァッタのナショナリスティックな訴えに大きく影響された人々であった。
多くの民主党員は、クメール・イサラクの暴力的な方法に同情した。ノロドム・ノリンデス王子が率いる自由党は、大地主を含む昔の田舎のエリートの利益を代表していた。彼らは、フランスとの植民地関係を何らかの形で継続することを好み、段階的な民主的改革を提唱した。1946年9月に行われた諮問議会選挙で、民主党は67議席中50議席を獲得した。
議会で圧倒的多数を占める民主党は、フランス第4共和国の憲法をモデルにした憲法を起草した。権力は、一般に選ばれた国民議会の手に集中した。国王はしぶしぶ1947年5月6日に新しい憲法を宣言した。それは彼を「国家の精神的な元首」として認めた一方で、彼を立憲君主の地位にまで引き下げ、国家の政治において彼がどの程度積極的な役割を果たすことができるかは不明のままであった。しかし、シアヌークは後年、この曖昧さを有利に利用することになる。
1947年12月の国民議会選挙では、民主党が再び過半数を獲得した。それにもかかわらず、党内の不和は横行していた。その創設者であるシソワト・ユセボンは亡くなり、彼の後を継ぐ明確なリーダーは現れなかった。 1948年から1949年にかけて、民主党は、国王またはその任命者が後援する法律に反対するという点で団結しているように見えた。主要な問題は、1948年後半にフランスが提出した条約草案で提案された、フランス連合内での独立に対する国王の受容性であった。1949年9月に国民議会が解散された後、シアヌーク国王とフランス政府との間の書簡の交換を通じて、協定に関する合意に達した。それは2か月後に発効したが、国会で条約の批准が確保されることはなかった。
この条約は、シハヌークが「50 パーセントの独立」と呼んだものをカンボジアに与えた。これにより、植民地関係は正式に終了し、カンボジア人はほとんどの行政機能の支配権を与えられた。カンボジア軍は、第二次世界大戦後にタイから回収されたバッタンバン州とシェムリアブ州からなる自治自治区内での行動の自由を認められたが、フランスは他の場所で圧迫され、管理する資源を持っていなかった。しかし、カンボジアは依然としてフランス連合高等評議会との外交政策問題の調整を求められており、フランスは司法制度、財政、および慣習に対する重要な管理手段を保持していた。
自治区外での戦時中の軍事作戦の管理は、依然としてフランスの手に委ねられていた。フランスはまた、カンボジアの領地に軍事基地を維持することを許可された。1950年、カンボジアはアメリカとほとんどの非共産主義国から外交上の承認を受けたが、アジアではタイと韓国のみが承認した。
民主党は1951年9月の第2回国民議会選挙で過半数を獲得し、実質的にすべての面で国王に反対する政策を継続した。国民の承認をさらに得るために、シハヌークはフランス人に民族主義者のソン・ゴック・タンを亡命から解放し、彼の国に戻ることを許可するよう求めた。1951年10月29日、彼は意気揚々とプノンペンに入国した。しかし、彼がカンボジアからのフランス軍の撤退を要求し始めるまで、そう長くはかからなかった。
彼は1952年初頭、彼が創刊した週刊紙クメール クロック(Khmer Awake!) でこの要求を繰り返した。同紙は 3 月に発行中止を余儀なくされ、ソン・ゴック・タンは少数の武装信者を連れて首都から逃れ、クメール・イサラクに加わった。シハヌークによって共産主義者とアメリカ中央情報局(CIA)のエージェントの烙印を押され、ロン・ノルが1970年にクメール共和国を樹立するまで亡命生活を続けた。
1952年6月、シハヌークは内閣の解任を発表し、憲法を停止し、首相として政府の支配権を握った。その後、明確な憲法上の制裁なしに、彼は国会を解散し、1953年1月に戒厳令を布告した。シハヌークは、1952年6月から 1955年2月までのほぼ3年間、直接統治を行った。議会の解散後、彼は議会に取って代わる諮問委員会を創設し、父親のノロドム・スラマリットを摂政に任命した。
1953年3月、シハヌークはフランスに行った。表向きは、彼は健康のために旅行していた。しかさ実際は、フランス政府に完全な独立を認めるよう説得するための集中的なキャンペーンを開始していた。当時のカンボジアの世論は、彼がすぐに完全な独立を達成しなければ、人々はその目標を達成するために全力を尽くしていたソン・ゴック・タンとクメール・イサラクに頼る可能性が高いというものであった。フランス大統領や他の高官との会談で、シハヌークは国内の政治状況について過度に「騒ぎ立てている」と示唆された。フランス人はまた、彼が非協力的であり続ければ、彼らが彼に取って代わるかもしれないという、薄く覆い隠された脅威を作った。旅は失敗に終わったように見えたが、シハヌークはアメリカ、カナダ、日本を経由して帰国する途中、メディアでカンボジアの窮状を公表した。
彼の「独立のための王室の十字軍」をさらに脚色するために、シハヌークは、フランスが完全な独立が認められるという保証を与えるまで、彼は戻ってこないと宣言した。その後彼は6月にプノンペンを離れ、タイに亡命した。バンコクでは歓迎されず、彼はシェムリアップ県のアンコール遺跡の近くにある王室の別荘に引っ越した。1949年に設立された自治軍事区域の一部であるシェムリアブは、著名になりつつあった元右翼政治家のロン・ノル中佐によって指揮され、やがて軍内で不可欠なシアヌーク同盟国となった。彼のシェムリアップ基地から、国王とロン・ノルは、フランス人が彼らの条件を満たさなかった場合の抵抗の計画を熟考した。
シハヌークは、フランス人が彼をもっと柔軟な君主に簡単に置き換えることができたので、賭け金を賭けていた。しかし、インドシナ全土で軍事状況が悪化し、フランス政府は1953年7月3日、カンボジア、ベトナム、ラオスの3つの州に完全な独立を認める用意があると宣言した。シハヌークは、国防、警察、裁判所、および財政問題の完全な管理を含む彼自身の条件を主張した。
フランスは降伏した。警察と司法は8月末にカンボジアの支配下に移され、10月には国は軍の完全な指揮権を握った。シハヌーク国王は国民の目には今や英雄であり、勝利を収めてプノンペンに戻り、1953年11月9日に独立記念日が祝われた。1954年に、財政や予算問題など、主権に影響を与える残余事項の管理は、新しいカンボジア国家に渡された。 | [
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"text": "フランス保護領カンボジア(フランスほごりょうカンボジア、クメール語: ប្រទេសកម្ពុជាក្រោមអាណាព្យាបាលបារាំង、フランス語: Protectorat français du Cambodge)は、フランス植民地帝国内の東南アジアの保護領であるフランス領インドシナ内の保護領であったときのカンボジア王国を指す。保護領は、1863年にカンボジア王ノロドムが自国にフランスの保護領を設立するよう要求したときに設立された。一方、シャム(現在のタイ)はカンボジアに対する宗主権を放棄し、フランスによるカンボジアのフランスの保護国化を公式に承認した。",
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"text": "19世紀、カンボジア王国は、ベトナムの阮朝からの影響力が高まり、国の東部を脅かす一方で、アンコールを含む西部の州を併合したシャム王国(ラタナコーシン朝)の従属国となった。フランスが1862年にコーチシナ(現在のベトナム南部)に植民地を設立した後、カンボジアの国王ノロドムは王国のフランスによる保護国化を要請した。当時コーチシナの植民地総督であったピエール=ポール・ド・ラ・グランディエール(フランス語版)は、フランスの支配をベトナム全体に拡大する計画を実行しており、カンボジアをベトナムとシャムにおけるフランスの領土の間の緩衝材と見なしていた。",
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"text": "ノロドムの異母兄で王位継承者であったシ・ヴォタ(英語版)は、シャムへの亡命からの帰国後の1885年、フランスの支援を受けたノロドムを処分するために反乱を起こした。ノロドム・フランス反対派からの支持を集め、カンボジアのジャングルやカンポットを中心に反乱を起こし、オクニャ・クラーラホム・コンが抵抗軍を率いた。その後、フランス軍はノロドムに協力し、カンボジア人の武装解除と保護領の最高権力者である統監を認めるという合意のもとにシ・ヴォタを討伐した。オクニャ・クララホム・コンはプノンペンに呼び戻され、ノロドムとフランス政府関係者と和平について話し合ったが、フランス軍に捕らえられた。彼はその後殺害され、反乱は公式に終結した。",
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"text": "教育現場でも、少数民族であるベトナム人が優遇されていることにカンボジア人学生の間で反発が強まっていた。1936年、ソン・ゴック・タインとパック・チュンは、フランス語の反植民地、時には反ベトナムの新聞としてナガラヴァッタ(Notre cité)の発行を開始した。1940年、タイに住むカンボジア人の間で、クメール・イッサラクを中心とする小規模な独立運動が展開され始めた。彼らは、母国で活動すれば処罰されることを恐れていた。",
"title": "クメール民族主義の出現"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1940年のフランス陥落後、カンボジアとフランス領インドシナの残りの部分は、枢軸国の傀儡であるヴィシー・フランス政府によって支配され、日本はフランス領インドシナへ侵攻し、日本軍が駐留しているにもかかわらず、ヴィシー政府の植民地の当局者がその管理職にとどまることを許可した。1940年12月、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、日本が支援するタイ軍に対するフランスの抵抗にもかかわらず、日本はフランス当局にバッタンバン、シソポン、シェムリアップ(シェムリアップの町を除く)、プレアビヒア州をタイに割譲するよう強制した。",
"title": "第二次世界大戦時のカンボジア"
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"text": "「アジア人のためのアジア」という日本の呼びかけは、カンボジアのナショナリストの間で受容的な聴衆を見つけた。1942年7月、著名で政治的に活動的な仏教僧ヘム・チュー(英語版)が植民地民兵に扇動的な説教をしたとして逮捕された後、ナガラヴァッタの編集者は彼の釈放を要求するデモを主導した。ヴィシー当局はすぐにデモ参加者を逮捕し、ナガラヴァッタの編集者の1人であるPach Choeunに終身刑を言い渡した。もう一人の編集者、ソン・ゴック・タン(英語版)はプノンペンから東京に逃亡した。",
"title": "第二次世界大戦時のカンボジア"
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"text": "アジアにおけるヨーロッパの植民地の問題は、カイロ会議、テヘラン会議、ヤルタ会議の3つの会議で、ビッグ3の連合国の指導者、フランクリン・ルーズベルト、スターリン、チャーチルによって議論されたものの1つである。イギリス最大の植民地であるの インド植民地に関して、ルーズベルトは終戦までにその独立を認める宣言をチャーチルに非常に強く求めたが、チャーチルはその圧力に断固として抵抗した。",
"title": "第二次世界大戦時のカンボジア"
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"text": "アジアにおけるイギリス以外の植民地に関しては、ルーズベルトとスターリンはテヘランで、フランスとオランダが戦後アジア支配に復帰しないことを決定した。しかし、終戦前のルーズベルトの早すぎる死に続き、ルーズベルトの想定とは大きく異なる展開が続いた。イギリスはアジアにおけるフランスとオランダの支配の復帰を支持し、この目的のためにイギリスの指揮下でインド兵の派遣を組織した。",
"title": "第二次世界大戦時のカンボジア"
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{
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"text": "戦争の最後の数ヶ月間、日本は現地の支持を得ようとして、1945年3月9日にフランスの植民地政権を解体し、カンボジアに大東亜共栄圏での独立を宣言するよう促した(明号作戦)。4日後、国王シハヌークは独立カンプチア(カンボジアの元のクメール語の発音)を宣言した。ソン・ゴク・タンは5月に東京から帰国し、外務大臣に任命された。",
"title": "第二次世界大戦時のカンボジア"
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{
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"text": "日本が降伏した1945年8月15日、ソン・ゴク・タンを首相とする新政府が樹立された。連合軍が10月にプノンペンを占領したとき、タンは日本への協力を理由に逮捕され、フランスに亡命し、自宅軟禁されたままであった。彼の支持者の何人かは地下に潜り、タイが支配する北西カンボジアに逃れ、そこで最終的に独立派のクメール・イッサラク(英語版)の軍と合流した。",
"title": "第二次世界大戦時のカンボジア"
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"text": "終戦時のカンボジア情勢は混沌としていた。シャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランスは、インドシナを回復することを決意したが、彼らはカンボジアと他のインドシナ保護領に慎重に限定された自治を提供した。彼らは「文明化の使命」を持っていると確信し、フランス文化の共通の経験を共有した旧植民地のフランス連合にインドシナが参加することを思い描いた。しかし、都会のプロのエリートも庶民もこの取り決めには惹かれなかった。ほぼすべての職業のカンボジア人にとって、1945年3月から10月までの短い独立期間は楽しいものであった。クメール人の倦怠感は過去のものだった。",
"title": "クメール統一のための闘争"
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"text": "プノンペンでは、国家元首として行動するシハヌークは、彼をフランスの協力者と見なす党の政治家やクメール・イサラクとベトミンの支持者を無力化しようとする一方で、完全な独立のためにフランスと交渉するという微妙な立場に置かれた。1946年から1953年までの激動の時代に、シアヌークは1970年3月に権力の座から転落する前後に、彼を支えた政治的生き残りのための驚くべき適性を示した。クメール・イサラクは、国境地域で活動する極めて異質なゲリラ運動であった。",
"title": "クメール統一のための闘争"
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{
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"text": "このグループには、先住民族の左派、ベトナムの左派、ソン・ゴック・タンに忠実な反君主主義民族主義者(クメール・セライ)、混乱を利用して村人を恐怖に陥れる平凡な盗賊が含まれていた。彼らの財産は戦後すぐに浮き沈みしたが(大きな打撃は1947年にバンコクで左翼の友好的な政府が転覆した)、1954年までにクメール・イサラクはベトミンと協力して活動し、いくつかの推定ではカンボジアの領土の50%を支配していた。",
"title": "クメール統一のための闘争"
},
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"text": "1946年、フランスはカンボジア人が政党を結成し、国の憲法の草案作成について国王に助言する諮問議会の選挙を行うことを許可した。2つの主要な政党は、いずれも皇太子が率いていた。 Sisowath Yuthevong王子が率いる民主党は、即時の独立、民主的改革、および議会政府を支持した。その支持者は、教師、公務員、仏教僧団の政治的に活動的なメンバー、および 1942 年にフランスによって閉鎖される前にナガラヴァッタのナショナリスティックな訴えに大きく影響された人々であった。",
"title": "クメール統一のための闘争"
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"text": "多くの民主党員は、クメール・イサラクの暴力的な方法に同情した。ノロドム・ノリンデス王子が率いる自由党は、大地主を含む昔の田舎のエリートの利益を代表していた。彼らは、フランスとの植民地関係を何らかの形で継続することを好み、段階的な民主的改革を提唱した。1946年9月に行われた諮問議会選挙で、民主党は67議席中50議席を獲得した。",
"title": "クメール統一のための闘争"
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{
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"text": "議会で圧倒的多数を占める民主党は、フランス第4共和国の憲法をモデルにした憲法を起草した。権力は、一般に選ばれた国民議会の手に集中した。国王はしぶしぶ1947年5月6日に新しい憲法を宣言した。それは彼を「国家の精神的な元首」として認めた一方で、彼を立憲君主の地位にまで引き下げ、国家の政治において彼がどの程度積極的な役割を果たすことができるかは不明のままであった。しかし、シアヌークは後年、この曖昧さを有利に利用することになる。",
"title": "クメール統一のための闘争"
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{
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"text": "1947年12月の国民議会選挙では、民主党が再び過半数を獲得した。それにもかかわらず、党内の不和は横行していた。その創設者であるシソワト・ユセボンは亡くなり、彼の後を継ぐ明確なリーダーは現れなかった。 1948年から1949年にかけて、民主党は、国王またはその任命者が後援する法律に反対するという点で団結しているように見えた。主要な問題は、1948年後半にフランスが提出した条約草案で提案された、フランス連合内での独立に対する国王の受容性であった。1949年9月に国民議会が解散された後、シアヌーク国王とフランス政府との間の書簡の交換を通じて、協定に関する合意に達した。それは2か月後に発効したが、国会で条約の批准が確保されることはなかった。",
"title": "クメール統一のための闘争"
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"text": "この条約は、シハヌークが「50 パーセントの独立」と呼んだものをカンボジアに与えた。これにより、植民地関係は正式に終了し、カンボジア人はほとんどの行政機能の支配権を与えられた。カンボジア軍は、第二次世界大戦後にタイから回収されたバッタンバン州とシェムリアブ州からなる自治自治区内での行動の自由を認められたが、フランスは他の場所で圧迫され、管理する資源を持っていなかった。しかし、カンボジアは依然としてフランス連合高等評議会との外交政策問題の調整を求められており、フランスは司法制度、財政、および慣習に対する重要な管理手段を保持していた。",
"title": "クメール統一のための闘争"
},
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"text": "自治区外での戦時中の軍事作戦の管理は、依然としてフランスの手に委ねられていた。フランスはまた、カンボジアの領地に軍事基地を維持することを許可された。1950年、カンボジアはアメリカとほとんどの非共産主義国から外交上の承認を受けたが、アジアではタイと韓国のみが承認した。",
"title": "クメール統一のための闘争"
},
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"text": "民主党は1951年9月の第2回国民議会選挙で過半数を獲得し、実質的にすべての面で国王に反対する政策を継続した。国民の承認をさらに得るために、シハヌークはフランス人に民族主義者のソン・ゴック・タンを亡命から解放し、彼の国に戻ることを許可するよう求めた。1951年10月29日、彼は意気揚々とプノンペンに入国した。しかし、彼がカンボジアからのフランス軍の撤退を要求し始めるまで、そう長くはかからなかった。",
"title": "クメール統一のための闘争"
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"text": "彼は1952年初頭、彼が創刊した週刊紙クメール クロック(Khmer Awake!) でこの要求を繰り返した。同紙は 3 月に発行中止を余儀なくされ、ソン・ゴック・タンは少数の武装信者を連れて首都から逃れ、クメール・イサラクに加わった。シハヌークによって共産主義者とアメリカ中央情報局(CIA)のエージェントの烙印を押され、ロン・ノルが1970年にクメール共和国を樹立するまで亡命生活を続けた。",
"title": "クメール統一のための闘争"
},
{
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"text": "1952年6月、シハヌークは内閣の解任を発表し、憲法を停止し、首相として政府の支配権を握った。その後、明確な憲法上の制裁なしに、彼は国会を解散し、1953年1月に戒厳令を布告した。シハヌークは、1952年6月から 1955年2月までのほぼ3年間、直接統治を行った。議会の解散後、彼は議会に取って代わる諮問委員会を創設し、父親のノロドム・スラマリットを摂政に任命した。",
"title": "独立運動"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "1953年3月、シハヌークはフランスに行った。表向きは、彼は健康のために旅行していた。しかさ実際は、フランス政府に完全な独立を認めるよう説得するための集中的なキャンペーンを開始していた。当時のカンボジアの世論は、彼がすぐに完全な独立を達成しなければ、人々はその目標を達成するために全力を尽くしていたソン・ゴック・タンとクメール・イサラクに頼る可能性が高いというものであった。フランス大統領や他の高官との会談で、シハヌークは国内の政治状況について過度に「騒ぎ立てている」と示唆された。フランス人はまた、彼が非協力的であり続ければ、彼らが彼に取って代わるかもしれないという、薄く覆い隠された脅威を作った。旅は失敗に終わったように見えたが、シハヌークはアメリカ、カナダ、日本を経由して帰国する途中、メディアでカンボジアの窮状を公表した。",
"title": "独立運動"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "彼の「独立のための王室の十字軍」をさらに脚色するために、シハヌークは、フランスが完全な独立が認められるという保証を与えるまで、彼は戻ってこないと宣言した。その後彼は6月にプノンペンを離れ、タイに亡命した。バンコクでは歓迎されず、彼はシェムリアップ県のアンコール遺跡の近くにある王室の別荘に引っ越した。1949年に設立された自治軍事区域の一部であるシェムリアブは、著名になりつつあった元右翼政治家のロン・ノル中佐によって指揮され、やがて軍内で不可欠なシアヌーク同盟国となった。彼のシェムリアップ基地から、国王とロン・ノルは、フランス人が彼らの条件を満たさなかった場合の抵抗の計画を熟考した。",
"title": "独立運動"
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{
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"text": "シハヌークは、フランス人が彼をもっと柔軟な君主に簡単に置き換えることができたので、賭け金を賭けていた。しかし、インドシナ全土で軍事状況が悪化し、フランス政府は1953年7月3日、カンボジア、ベトナム、ラオスの3つの州に完全な独立を認める用意があると宣言した。シハヌークは、国防、警察、裁判所、および財政問題の完全な管理を含む彼自身の条件を主張した。",
"title": "独立運動"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "フランスは降伏した。警察と司法は8月末にカンボジアの支配下に移され、10月には国は軍の完全な指揮権を握った。シハヌーク国王は国民の目には今や英雄であり、勝利を収めてプノンペンに戻り、1953年11月9日に独立記念日が祝われた。1954年に、財政や予算問題など、主権に影響を与える残余事項の管理は、新しいカンボジア国家に渡された。",
"title": "独立運動"
}
] | フランス保護領カンボジアは、フランス植民地帝国内の東南アジアの保護領であるフランス領インドシナ内の保護領であったときのカンボジア王国を指す。保護領は、1863年にカンボジア王ノロドムが自国にフランスの保護領を設立するよう要求したときに設立された。一方、シャム(現在のタイ)はカンボジアに対する宗主権を放棄し、フランスによるカンボジアのフランスの保護国化を公式に承認した。 カンボジアは、1887年にフランスの植民地およびベトナムの保護領(コーチシナ、アンナン、トンキン)と共にフランス領インドシナに統合された。1946年、カンボジアはフランス連合内での自治を認められ、1949年に保護領の地位が廃止された。その後カンボジアは独立を果たし、11月9日は独立記念日として祝われるようになった。 | {{基礎情報 過去の国
|日本語国名 = カンボジア王国
|公式国名 = {{native name|km|ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា|italic=no}}<br>{{native name|fr|Royaume du Cambodge|italic=no}}
|略名 = カンボジア
|建国時期 = [[1863年]]
|亡国時期 = [[1945年]]
|建国時期2 = [[1945年]]
|亡国時期2 = [[1953年]]
|変遷1 = [[保護国|保護国化]]
|変遷年月日1 = 1863年8月11日
|変遷2 = {{nowrap|[[フランス領インドシナ]]の一部に}}
|変遷年月日2 = 1887年10月17日
|変遷3 = {{仮リンク|フランス・シャム条約 (1904年)|en|Franco-Siamese Treaty (1904)|label=フランス・シャム条約}}
|変遷年月日3 = 1904年2月13日
|変遷4 = {{仮リンク|フランス・シャム条約 (1907年)|en|Franco-Siamese Treaty (1907)|label=フランス・シャム条約}}
|変遷年月日4 = 1907年3月23日
|変遷5 = [[タイ・フランス領インドシナ紛争]]
|変遷年月日5 = 1940年10月-1941年1月
|変遷6 = 独立
|変遷年月日6 = 1945年3月13日
|変遷7 = {{nowrap|フランス支配の再開}}
|変遷年月日7 = 1945年10月16日
|変遷8 = 憲法制定
|変遷年月日8 = 1947年5月6日
|変遷9 = 独立
|変遷年月日9 = 1953年11月9日
|変遷10 = [[ジュネーブ協定]]
|変遷年月日10 = 1954年7月21日
|先代1 = カンボジアの暗黒時代
|先旗1 = Flag of Cambodia (pre-1863).svg
|先代2 = カンボジア王国 (1945年)
|先旗2 = Flag of Cambodia under French protection.svg
|次代1 = カンボジア王国 (1945年)
|次旗1 = Flag of Cambodia under French protection.svg
|次代2 = カンボジア王国 (1954年-1970年)
|次旗2 = Flag of Cambodia.svg
|国旗画像 = Flag of Cambodia under French protection.svg
|国旗リンク = [[カンボジアの国旗|国旗]]{{smaller|(1863年 - 1948年)}}
|国章画像 = Coat of arms of Cambodia (1864–1970).svg
|国章リンク = [[カンボジアの国章|国章]]{{smaller|(1935年 - 1953年)}}
|位置画像 = Atlas de l'Indochine dressé (...)Indochine française bpt6k11001779 76.jpg
|位置画像説明 = フランス保護領カンボジアの位置
|公用語 = [[フランス語]]
|言語 = [[クメール語]]
|宗教 = [[上座部仏教]]<br />[[カトリック]]
|人口測定時期1 = 1931年
|人口値1 = 2,803,000
|国歌 =
|首都 = [[ウドン (カンボジア)|ウドン]]{{smaller|(1863年 - 1865年)}}<br />[[プノンペン]]{{smaller|(1865年 - 1953年)}}
|最高指導者等肩書 = 君主
|最高指導者等氏名1 = [[ノロドム]]
|最高指導者等年代始1 = 1863年
|最高指導者等年代終1 = 1904年
|最高指導者等氏名2 = [[シソワット]]
|最高指導者等年代始2 = 1904年
|最高指導者等年代終2 = 1927年
|最高指導者等氏名3 = [[シソワット・モニヴォン]]
|最高指導者等年代始3 = 1927年
|最高指導者等年代終3 = 1941年
|最高指導者等氏名4 = [[ノロドム・シハヌーク]]
|最高指導者等年代始4 = 1941年
|最高指導者等年代終4 = 1953年
|元首等肩書 = [[List of administrators of the French protectorate of Cambodia|Resident-Superior]]
|元首等氏名1 = [[Ernest Doudart de Lagrée|Ernest D. de Lagrée]]{{efn|group=infobox|as Representative}}
|元首等年代始1 = 1863年
|元首等年代終1 = 1866年
|元首等氏名2 = [[Jean Risterucci]]{{efn|group=infobox|as High Commissioner}}
|元首等年代始2 = 1953年
|元首等年代終2 = 1953年
|首相等肩書 = 首相
|首相等氏名1 = [[ノロドム・シハヌーク]]
|首相等年代始1 = 1945年
|首相等年代終1 = 1945年
|首相等氏名2 = [[ペン・ヌート]]
|首相等年代始2 = 1953年
|首相等年代終2 = 1953年
|通貨 = [[Cambodian tical|tical]]{{smaller|(1875年まで)}}<br />[[カンボジア・フラン|フラン]]{{smaller|(1875年 - 1885年)}}<br />[[フランス領インドシナ・ピアストル|ピアストル]]{{smaller|(1885年以降)}}
|現在 = {{CAM}}
}}
{{特殊文字|Khmer}}
'''フランス保護領カンボジア'''(フランスほごりょうカンボジア、{{Lang-km|ប្រទេសកម្ពុជាក្រោមអាណាព្យាបាលបារាំង}}、{{Lang-fr|Protectorat français du Cambodge}})は、[[フランス植民地帝国]]内の東南アジアの[[保護国|保護領]]である[[フランス領インドシナ]]内の保護領であったときの[[カンボジア]]王国を指す。保護領は、1863年にカンボジア王[[ノロドム]]が自国にフランスの保護領を設立するよう要求したときに設立された。一方、シャム(現在の[[タイ王国|タイ]])はカンボジアに対する[[宗主国|宗主権]]を放棄し、フランスによるカンボジアのフランスの保護国化を公式に承認した。
カンボジアは、1887年にフランスの植民地および[[ベトナム]]の保護領([[コーチシナ]]、[[アンナン]]、[[トンキン]])と共に[[フランス領インドシナ]]に統合された。1946年、カンボジアは[[フランス連合]]内での自治を認められ、1949年に保護領の地位が廃止された。その後カンボジアは独立を果たし、11月9日は独立記念日として祝われるようになった。
== フランス統治開始 ==
19世紀、カンボジア王国は、ベトナムの[[阮朝]]からの影響力が高まり、国の東部を脅かす一方で、[[アンコール遺跡|アンコール]]を含む西部の州を併合したシャム王国([[チャクリー王朝|ラタナコーシン朝]])の従属国となった。フランスが1862年にコーチシナ(現在のベトナム南部)に植民地を設立した後、カンボジアの国王ノロドムは王国のフランスによる保護国化を要請した。当時コーチシナの植民地総督であった{{仮リンク|ピエール=ポール・ド・ラ・グランディエール|fr|Pierre-Paul de La Grandière}}は、フランスの支配をベトナム全体に拡大する計画を実行しており、カンボジアをベトナムとシャムにおけるフランスの領土の間の緩衝材と見なしていた<ref name="名前なし-20230316104029">Philippe Franchini, ''Les Guerres d'Indochine'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, page 92</ref><ref name="名前なし-20230316104029-2">Pierre Montagnon, ''La France coloniale'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, pages 146–147</ref>。
1863年8月11日、ノロドムはカンボジア王国をフランスが保護することを認める条約に署名した。条約の下で、[[カンボジア君主・国家元首一覧|カンボジアの君主制]]の存続が認められたが、権力の大部分は[[プノンペン]]に収容される統監に与えられた。また、フランスはカンボジアの外交および貿易関係を担当し、軍事的保護を提供することになっていた。フランスがカンボジアの[[バタンバン州|バッタンバン]]州を割譲し、タイが[[アンコール遺跡|アンコール]]を支配することを認めた後、サイアムは後に保護領を認めた<ref name="名前なし-20230316104029"/><ref name="名前なし-20230316104029-2"/>。
== フランスの植民地支配 ==
[[ファイル:King_Sisowath_of_Cambodia.jpg|リンク=//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/King_Sisowath_of_Cambodia.jpg/220px-King_Sisowath_of_Cambodia.jpg|サムネイル|1911年にフランスの役人に挨拶する[[シソワット]]王。]]
フランス領インドシナ全体の総督府は、1902年に首都が[[ハノイ]]に移るまで[[ホーチミン市|サイゴン]]に置かれていた。フランス領インドシナの構成国であるカンボジアは、パリの海洋および植民地省によって直接任命されたカンボジアの''レジデント・スペリウール''(統監)によって統治されていた。統監は、[[バタンバン|バッタンバン]]、ポーサット、オドン、[[シェムリアップ]]などのすべての州の中心部に配置された住民または地方知事の支援を受けた。また、首都[[プノンペン]]は総督府の直轄地であった。
=== 1885年-1887年の反乱 ===
カンボジアにおけるフランスの統治の最初の数十年には、君主の権力の縮小や奴隷制度の廃止など、カンボジアの政治に対する数多くの改革が含まれていた。1884年、コーチシナ総督の{{仮リンク|チャールズ・アントワーヌ・フランソワ・トムソン|en|Charles Antoine François Thomson}}は、プノンペンの王宮に小規模な部隊を派遣することで、君主を打倒し、カンボジアに対するフランスの完全な支配を確立しようと試みた。フランス領インドシナ総督がカンボジア人との衝突の可能性を理由に完全な植民地化を阻止し、君主の権力が表看板のように縮小されたため、この運動はわずかな成功に留まった<ref name="Gilles97-98">Claude Gilles, ''Le Cambodge: Témoignages d'hier à aujourd'hui'', L'Harmattan, 2006, pages 97–98</ref>。
ノロドムの異母兄で王位継承者であった{{仮リンク|シ・ヴォタ|en|Si Votha}}は、シャムへの亡命からの帰国後の1885年、フランスの支援を受けたノロドムを処分するために反乱を起こした。ノロドム・フランス反対派からの支持を集め、カンボジアのジャングルや[[カンポット]]を中心に反乱を起こし、オクニャ・クラーラホム・コンが抵抗軍を率いた。その後、フランス軍はノロドムに協力し、カンボジア人の武装解除と保護領の最高権力者である統監を認めるという合意のもとにシ・ヴォタを討伐した。オクニャ・クララホム・コンはプノンペンに呼び戻され、ノロドムとフランス政府関係者と和平について話し合ったが、フランス軍に捕らえられた。彼はその後殺害され、反乱は公式に終結した。
=== 行政再編 ===
[[ファイル:King_Norodom.jpg|リンク=//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/King_Norodom.jpg/200px-King_Norodom.jpg|サムネイル|297x297ピクセル|シャムの圧力から逃れるため、1863年にカンボジアを保護国にするためにフランスに申し入れを始めた君主である[[ノロドム|ノロドム王]]]]
1896 年、フランスと[[イギリス帝国|大英帝国]]は、[[インドシナ半島|インドシナ]]、特にシャムに対する互いの影響範囲を認める協定に署名した。この協定の下で、シャムは[[バタンバン|バッタンバン]]州を現在フランスが支配するカンボジアに返還しなければならなかった。この協定は、フランス・シャム戦争でのフランスの勝利とシャム東部へのフランスの影響に続いて、1893年に追加されたラオスだけでなく、ベトナム(コーチシナの植民地とアンナムとトンキンの保護領を含む)、カンボジアに対するフランスの支配を認めた。フランス政府は後に植民地に新しい行政ポストを配置し、同化プログラムの一環としてフランスの文化と言語を地元の人々に紹介しながら、経済的に発展させ始めた<ref>Philippe Franchini, ''Les Guerres d'Indochine'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, page 114</ref>。
1897年、統監は現在のカンボジア国王である[[ノロドム]]はもはや統治にふさわしくないとパリに訴え、税金を徴収し、布告を発し、さらには王室の役人を任命し、国王を選ぶ王の権限を引き継ぐ許可を求めた。その時以来、ノロドムと将来のカンボジアの王たちは表看板であり、カンボジアの仏教の守護者にすぎなかったが、彼らは依然として農民の人口によって神の王と見なされていた。他のすべての権力は、総督と植民地官僚の手にありった。この官僚機構は主にフランスの役人によって形成され、政府への参加を自由に許可された唯一のアジア人は、インドシナ連合で支配的なアジア人と見なされていた民族の[[キン族|ベトナム人]]であった{{要出典|date=May 2014}}。
[[ファイル:Carte_politique_de_l'Indo-Chine_(...)Deloncle_François_btv1b53025089w.jpg|リンク=//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Carte_politique_de_l%27Indo-Chine_%28...%29Deloncle_Fran%C3%A7ois_btv1b53025089w.jpg/200px-Carte_politique_de_l%27Indo-Chine_%28...%29Deloncle_Fran%C3%A7ois_btv1b53025089w.jpg|左|サムネイル|302x302ピクセル|フランス領インドシナの地図(1889年10月)]]
1904年、ノロドムが亡くなり、フランス人はノロドムの息子たちに王位を譲るのではなく、ノロドムの兄弟である[[シソワット]]に王位を譲った。シソワットはノロドム家の分家であり、ノロドム家より服従的で、親仏であった。同様に、ノロドムはフランスの支配に対するカンボジアの絶え間ない反乱の責任があると見なされていた。もう1つの理由は、ノロドムのお気に入りの息子であり、王位継承を望んでいたユカントール王子が、ヨーロッパへの旅行中に、占領下のカンボジアにおけるフランスの残虐行為について世論を巻き起こしたことである<ref name="名前なし-20230316104029-3">Maurice Zimmerman, [http://www.persee.fr/web/revues/home/prescript/article/geo_0003-4010_1907_num_16_87_6973 Traité du 23 mars 1907 avec le Siam], [[:en:Annales de géographie|Annales de géographie]], Année 1907, Volume 16, n°87, pp. 277–278, sur ''Persée.fr''</ref>。
その後、フランスは1902年と1904年に、シャムとの条約によって[[プリアヴィヒア州]]と[[チャンパーサック県]]をカンボジアに加え、バサック川を完全に支配することでカンボジア保護領の領土を拡大しながら支配を強化した。カンボジアが[[ストゥントレン州]]の領有権を主張する以前の1904年には、カンボジアが[[チャンパーサック]]を譲り受け、ストゥントレン州をフランス保護領ラオスから獲得するという交換が行われた。その後、[[バタンバン州]]と[[シェムリアップ州]]をめぐるフランスとシャムの領土紛争により、1904年に偶然にも[[トラート県]]がフランスに併合されることになった。
フランスとシャムは、1907年のフランス・シャム条約に基づいて領土交換を行うことに同意した。これにより、フランスは18世紀後半まで元々はカンボジア領だった[[バタンバン]]州と[[シェムリアップ]]州を獲得した。これらの州の獲得は、インドシナにおけるフランスの領土拡大の最終段階となった。また、シャムは後にこの地域のイギリスと協力することになった。彼らはフランスの無秩序な拡大とシャムの支配がインドシナの権力のバランスを崩すことを恐れていた<ref name="名前なし-20230316104029-3"/>。
== フランス植民地時代の経済 ==
もともと、より重要なベトナムの植民地とシャムの間のフランスの緩衝地域として機能していたカンボジアは、当初、経済的に重要な地域とは見なされていなかった。植民地政府の予算は当初、主な歳入源としてカンボジアでの徴税に大きく依存しており、カンボジア人はインドシナのフランス植民地の中で1人当たりの税金を最も多く支払っていた。カンボジアにおけるフランス統治初期の貧しい、時には不安定な行政は、インフラと都市の成長がベトナムよりもはるかに遅く、村の伝統的な社会構造がまだ残っていることを意味した<ref name="Tyner2017">{{Cite book|last=Tyner|first=James A.|title=From Rice Fields to Killing Fields: Nature, Life, and Labor under the Khmer Rouge|date=2017|publisher=Syracuse University Press|location=Syracuse, New York|isbn=9780815635567|page=29|url=http://syracuseuniversitypress.syr.edu/fall-2017/from-rice-fields.shtml}}</ref>。
しかし、フランス・シャム戦争後にフランスの支配が強化されると、カンボジアの開発がゆっくりと進み、コメとコショウの収穫によって、経済の成長が可能になった。輸出を促進するために、特に[[バタンバン州|バッタンバン州]](西部)で土地の使用権を与えられた植民地の起業家によって、近代的な農業方法が導入された<ref name="Tyner2017">{{Cite book|last=Tyner|first=James A.|title=From Rice Fields to Killing Fields: Nature, Life, and Labor under the Khmer Rouge|date=2017|publisher=Syracuse University Press|location=Syracuse, New York|isbn=9780815635567|page=29|url=http://syracuseuniversitypress.syr.edu/fall-2017/from-rice-fields.shtml}}</ref>。
フランスの自動車産業が成長するにつれて、すでにコーチシナやアンナンにあるようなゴム農園がフランスの投資家によって建設され、運営された。経済の多様化は 1920 年代を通じて続き、トウモロコシや綿花も栽培された。経済の拡大と投資にもかかわらず、カンボジア人は依然として高い税金を払い続けており、1916年には減税を要求する抗議行動が勃発した<ref>Claude Gilles, ''Le Cambodge: Témoignages d'hier à aujourd'hui'', L'Harmattan, 2006, page 98</ref>。
インフラや公共事業もフランス統治下で整備され、道路や鉄道もカンボジア領内に建設された。最も注目すべきは、プノンペンとタイ国境のバッタンバンを結ぶ鉄道である。
産業は後に発展したが、主に地元での使用または輸出のために原材料を処理するように設計された。近隣の[[イギリス統治下のビルマ|イギリス領ビルマ]]や[[イギリス領マラヤ]]と同様に、重要な経済的地位を占めるカンボジア人に対するフランスの差別により、外国人が経済の労働力を支配していた。多くのベトナム人がゴム農園で働くために採用され、後に移民は漁師やビジネスマンとして植民地経済で重要な役割を果たした。中国系カンボジア人は商業に大きく関与し続けたが、より高い地位はフランス人に与えられた。
== クメール民族主義の出現 ==
ベトナムとは異なり、カンボジアのナショナリズムは、主に教育の影響が少ないためにフランス統治期間の多くの間、比較的静かなままであった。しかし、フランスで教育を受けたカンボジアのエリートの間では、西側の民主主義と自治の考え方、そしてフランスによる[[アンコール・ワット]]などのモニュメントの修復が、過去のカンボジアのかつての強力な地位に対する誇りと意識を生み出した<ref>[[:en:Philip Short|Philip Short]], ''Pol Pot anatomie d'un cauchemar'', Denoël, 2007, page 47</ref>。
教育現場でも、少数民族であるベトナム人が優遇されていることにカンボジア人学生の間で反発が強まっていた。1936年、ソン・ゴック・タインとパック・チュンは、フランス語の反植民地、時には反ベトナムの新聞としてナガラヴァッタ(Notre cité)の発行を開始した。1940年、タイに住むカンボジア人の間で、クメール・イッサラクを中心とする小規模な独立運動が展開され始めた。彼らは、母国で活動すれば処罰されることを恐れていた。
== 第二次世界大戦時のカンボジア ==
{{Main|日本占領時期のカンボジア}}
[[ファイル:Norodom_Sihanouk_1941.jpg|リンク=//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/Norodom_Sihanouk_1941.jpg/180px-Norodom_Sihanouk_1941.jpg|サムネイル|255x255ピクセル| 1941年の[[ノロドム・シハヌーク]]の戴冠式]]
1940年の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス陥落]]後、カンボジアとフランス領インドシナの残りの部分は、枢軸国の傀儡である[[ヴィシー政権|ヴィシー・フランス]]政府によって支配され、[[大日本帝国|日本]]は[[仏印進駐|フランス領インドシナへ侵攻]]し、日本軍が駐留しているにもかかわらず、ヴィシー政府の植民地の当局者がその管理職にとどまることを許可した。1940年12月、[[タイ・フランス領インドシナ紛争]]が勃発し、日本が支援するタイ軍に対するフランスの抵抗にもかかわらず、日本はフランス当局に[[バタンバン州|バッタンバン]]、[[バンテイメンチェイ州|シソポン]]、[[シェムリアップ州|シェムリアップ]]([[シェムリアップ]]の町を除く)、[[プリアヴィヒア州|プレアビヒア]]州をタイに割譲するよう強制した<ref>Philippe Franchini, ''Les Guerres d'Indochine'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, page 164</ref>。
[[ファイル:Japanese_Empire_-_1942.svg|リンク=//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b7/Japanese_Empire_-_1942.svg/250px-Japanese_Empire_-_1942.svg.png|サムネイル|250x250ピクセル|1942年の[[大日本帝国]]]]
「アジア人のためのアジア」という日本の呼びかけは、カンボジアのナショナリストの間で受容的な聴衆を見つけた。1942年7月、著名で政治的に活動的な仏教僧{{仮リンク|ヘム・チュー|en|Hem Chieu}}が植民地民兵に扇動的な説教をしたとして逮捕された後、ナガラヴァッタの編集者は彼の釈放を要求するデモを主導した。ヴィシー当局はすぐにデモ参加者を逮捕し、ナガラヴァッタの編集者の1人であるPach Choeunに終身刑を言い渡した。もう一人の編集者、{{仮リンク|ソン・ゴック・タン|en|Son Ngoc Thanh}}はプノンペンから[[東京]]に逃亡した。
アジアにおけるヨーロッパの植民地の問題は、[[カイロ会談|カイロ会議]]、[[テヘラン会談|テヘラン会議]]、[[ヤルタ会談|ヤルタ会議]]の3つの会議で、[[連合国 (第二次世界大戦)|ビッグ3]]の連合国の指導者、[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]によって議論されたものの1つである。イギリス最大の植民地であるの [[イギリス領インド帝国|インド植民地]]に関して、ルーズベルトは終戦までにその独立を認める宣言をチャーチルに非常に強く求めたが、チャーチルはその圧力に断固として抵抗した<ref name="名前なし-20230316104029-4">"Roosevelt and Stalin, The Failed Courtship" by Robert Nisbet, pub: Regnery Gateway, 1988</ref><ref name="名前なし-20230316104029-5">"[[:en:Churchill's Secret war|Churchill's Secret war]]", by [[:en:Madhushree Mukherjee|Madhushree Mukherjee]], Pub: Basic Books, 2010></ref>。
アジアにおけるイギリス以外の植民地に関しては、ルーズベルトとスターリンはテヘランで、フランスとオランダが戦後アジア支配に復帰しないことを決定した。しかし、終戦前のルーズベルトの早すぎる死に続き、ルーズベルトの想定とは大きく異なる展開が続いた。イギリスはアジアにおけるフランスとオランダの支配の復帰を支持し、この目的のためにイギリスの指揮下でインド兵の派遣を組織した<ref name="名前なし-20230316104029-4"/>{{要ページ番号|date=August 2020}}<ref name="名前なし-20230316104029-5"/>{{要ページ番号|date=August 2020}}。
戦争の最後の数ヶ月間、日本は現地の支持を得ようとして、1945年3月9日にフランスの植民地政権を解体し、カンボジアに[[大東亜共栄圏]]での独立を宣言するよう促した([[明号作戦]])。4日後、国王シハヌークは独立カンプチア(カンボジアの元のクメール語の発音)を宣言した。ソン・ゴク・タンは5月に東京から帰国し、外務大臣に任命された。
日本が降伏した1945年8月15日、ソン・ゴク・タンを首相とする新政府が樹立された。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合]]軍が10月にプノンペンを占領したとき、タンは日本への[[対敵協力|協力]]を理由に逮捕され、フランスに亡命し、自宅軟禁されたままであった。彼の支持者の何人かは地下に潜り、タイが支配する北西カンボジアに逃れ、そこで最終的に独立派の{{仮リンク|クメール・イッサラク|en|Khmer Issarak}}の軍と合流した。
== クメール統一のための闘争 ==
終戦時のカンボジア情勢は混沌としていた。[[シャルル・ド・ゴール]]将軍率いる[[自由フランス]]は、インドシナを回復することを決意したが、彼らはカンボジアと他のインドシナ保護領に慎重に限定された自治を提供した。彼らは「文明化の使命」を持っていると確信し、フランス文化の共通の経験を共有した旧植民地の[[フランス連合]]にインドシナが参加することを思い描いた。しかし、都会のプロのエリートも庶民もこの取り決めには惹かれなかった。ほぼすべての職業のカンボジア人にとって、1945年3月から10月までの短い独立期間は楽しいものであった。クメール人の倦怠感は過去のものだった<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
プノンペンでは、国家元首として行動するシハヌークは、彼をフランスの協力者と見なす党の政治家やクメール・イサラクと[[ベトミン]]の支持者を無力化しようとする一方で、完全な独立のためにフランスと交渉するという微妙な立場に置かれた。1946年から1953年までの激動の時代に、シアヌークは1970年3月に権力の座から転落する前後に、彼を支えた政治的生き残りのための驚くべき適性を示した。クメール・イサラクは、国境地域で活動する極めて異質な[[ゲリラ|ゲリラ運動]]であった<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
このグループには、先住民族の[[左翼|左派]]、ベトナムの左派、ソン・ゴック・タンに忠実な反君主主義民族主義者(クメール・セライ)、混乱を利用して村人を恐怖に陥れる平凡な盗賊が含まれていた。彼らの財産は戦後すぐに浮き沈みしたが(大きな打撃は1947年にバンコクで左翼の友好的な政府が転覆した)、1954年までにクメール・イサラクはベトミンと協力して活動し、いくつかの推定ではカンボジアの領土の50%を支配していた<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
1946年、フランスはカンボジア人が政党を結成し、国の憲法の草案作成について国王に助言する諮問議会の選挙を行うことを許可した。2つの主要な政党は、いずれも皇太子が率いていた。 Sisowath Yuthevong王子が率いる民主党は、即時の独立、民主的改革、および議会政府を支持した。その支持者は、教師、公務員、仏教僧団の政治的に活動的なメンバー、および 1942 年にフランスによって閉鎖される前に''ナガラヴァッタ''のナショナリスティックな訴えに大きく影響された人々であった<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
多くの民主党員は、クメール・イサラクの暴力的な方法に同情した。ノロドム・ノリンデス王子が率いる自由党は、大地主を含む昔の田舎のエリートの利益を代表していた。彼らは、フランスとの植民地関係を何らかの形で継続することを好み、段階的な民主的改革を提唱した。1946年9月に行われた諮問議会選挙で、民主党は67議席中50議席を獲得した<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
議会で圧倒的多数を占める民主党は、[[フランス第四共和政|フランス第4共和国]]の憲法をモデルにした憲法を起草した。権力は、一般に選ばれた国民議会の手に集中した。国王はしぶしぶ1947年5月6日に新しい憲法を宣言した。それは彼を「国家の精神的な元首」として認めた一方で、彼を立憲君主の地位にまで引き下げ、国家の政治において彼がどの程度積極的な役割を果たすことができるかは不明のままであった。しかし、シアヌークは後年、この曖昧さを有利に利用することになる<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
1947年12月の国民議会選挙では、民主党が再び過半数を獲得した。それにもかかわらず、党内の不和は横行していた。その創設者であるシソワト・ユセボンは亡くなり、彼の後を継ぐ明確なリーダーは現れなかった。 1948年から1949年にかけて、民主党は、国王またはその任命者が後援する法律に反対するという点で団結しているように見えた。主要な問題は、1948年後半にフランスが提出した条約草案で提案された、フランス連合内での独立に対する国王の受容性であった。1949年9月に国民議会が解散された後、シアヌーク国王とフランス政府との間の書簡の交換を通じて、協定に関する合意に達した。それは2か月後に発効したが、国会で条約の批准が確保されることはなかった<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
この条約は、シハヌークが「50 パーセントの独立」と呼んだものをカンボジアに与えた。これにより、植民地関係は正式に終了し、カンボジア人はほとんどの行政機能の支配権を与えられた。カンボジア軍は、第二次世界大戦後にタイから回収されたバッタンバン州とシェムリアブ州からなる自治自治区内での行動の自由を認められたが、フランスは他の場所で圧迫され、管理する資源を持っていなかった。しかし、カンボジアは依然としてフランス連合高等評議会との外交政策問題の調整を求められており、フランスは司法制度、財政、および慣習に対する重要な管理手段を保持していた<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
自治区外での戦時中の軍事作戦の管理は、依然としてフランスの手に委ねられていた。フランスはまた、カンボジアの領地に軍事基地を維持することを許可された。1950年、カンボジアはアメリカとほとんどの非共産主義国から外交上の承認を受けたが、アジアではタイと[[大韓民国|韓国]]のみが承認した<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
民主党は1951年9月の第2回国民議会選挙で過半数を獲得し、実質的にすべての面で国王に反対する政策を継続した。国民の承認をさらに得るために、シハヌークはフランス人に民族主義者のソン・ゴック・タンを亡命から解放し、彼の国に戻ることを許可するよう求めた。1951年10月29日、彼は意気揚々とプノンペンに入国した。しかし、彼がカンボジアからのフランス軍の撤退を要求し始めるまで、そう長くはかからなかった<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
彼は1952年初頭、彼が創刊した週刊紙''クメール クロック''(Khmer Awake!) でこの要求を繰り返した。同紙は 3 月に発行中止を余儀なくされ、ソン・ゴック・タンは少数の武装信者を連れて首都から逃れ、クメール・イサラクに加わった。シハヌークによって共産主義者とアメリカ[[中央情報局]](CIA)のエージェントの烙印を押され、[[ロン・ノル]]が1970年に[[クメール共和国]]を樹立するまで亡命生活を続けた<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
== 独立運動 ==
1952年6月、シハヌークは内閣の解任を発表し、憲法を停止し、首相として政府の支配権を握った。その後、明確な憲法上の制裁なしに、彼は国会を解散し、1953年1月に戒厳令を布告した。シハヌークは、1952年6月から 1955年2月までのほぼ3年間、直接統治を行った。議会の解散後、彼は議会に取って代わる諮問委員会を創設し、父親の[[ノロドム・スラマリット]]を摂政に任命した<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
1953年3月、シハヌークはフランスに行った。表向きは、彼は健康のために旅行していた。しかさ実際は、フランス政府に完全な独立を認めるよう説得するための集中的なキャンペーンを開始していた。当時のカンボジアの世論は、彼がすぐに完全な独立を達成しなければ、人々はその目標を達成するために全力を尽くしていたソン・ゴック・タンとクメール・イサラクに頼る可能性が高いというものであった。フランス大統領や他の高官との会談で、シハヌークは国内の政治状況について過度に「騒ぎ立てている」と示唆された。フランス人はまた、彼が非協力的であり続ければ、彼らが彼に取って代わるかもしれないという、薄く覆い隠された脅威を作った。旅は失敗に終わったように見えたが、シハヌークはアメリカ、カナダ、日本を経由して帰国する途中、メディアでカンボジアの窮状を公表した<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
彼の「独立のための王室の十字軍」をさらに脚色するために、シハヌークは、フランスが完全な独立が認められるという保証を与えるまで、彼は戻ってこないと宣言した。その後彼は6月にプノンペンを離れ、タイに亡命した。バンコクでは歓迎されず、彼は[[シェムリアップ]]県のアンコール遺跡の近くにある王室の別荘に引っ越した。1949年に設立された自治軍事区域の一部であるシェムリアブは、著名になりつつあった元右翼政治家の[[ロン・ノル]]中佐によって指揮され、やがて軍内で不可欠なシアヌーク同盟国となった。彼のシェムリアップ基地から、国王とロン・ノルは、フランス人が彼らの条件を満たさなかった場合の抵抗の計画を熟考した<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
シハヌークは、フランス人が彼をもっと柔軟な君主に簡単に置き換えることができたので、賭け金を賭けていた。しかし、インドシナ全土で軍事状況が悪化し、フランス政府は1953年7月3日、カンボジア、ベトナム、[[ラオス王国|ラオス]]の3つの州に完全な独立を認める用意があると宣言した。シハヌークは、国防、警察、裁判所、および財政問題の完全な管理を含む彼自身の条件を主張した<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
フランスは降伏した。警察と司法は8月末にカンボジアの支配下に移され、10月には国は軍の完全な指揮権を握った。シハヌーク国王は国民の目には今や英雄であり、勝利を収めてプノンペンに戻り、1953年11月9日に独立記念日が祝われた。1954年に、財政や予算問題など、主権に影響を与える残余事項の管理は、新しいカンボジア国家に渡された<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite journal|last=Low|first=Sally|date=Spring 2016|title=''Les Tribunaux Résidentiels'': Disputed Jurisdictions in the Protectorate of Cambodia|journal=French Colonial History|volume=16|pages=73–102|publisher=[[:en:Michigan State University Press|Michigan State University Press]]|DOI=10.14321/frencolohist.16.1.0073|JSTOR=10.14321/frencolohist.16.1.0073}}
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9,023 | ティーターン | ティーターン(古希: Τιτάν, Tītān)は、ギリシア神話・ローマ神話に登場する神々である。ウーラノス(天)の王権を簒奪したクロノスを始め、オリュンポスの神々に先行する古の神々である。巨大な体を持つとされる。
日本ではしばしばティタン、ティターン、あるいは英語による発音にもとづいてタイタンと表記される。
狭義には、ウーラノスとガイアの間に生まれた12柱の神々の兄弟姉妹を指す。クロノスはその末弟。これにディオーネーを加える場合もある。
また、ヘーリオスやセレーネー、プロメーテウスなど、狭義のティーターンの子孫(特にゼウスに与しない神々)も、ティーターンと呼ばれる事がある。
ゼウスが父クロノスに戦いを挑んだ時、ティーターンたちの多くもクロノス側につき、10年にわたる大戦争となった。この戦争をティーターノマキアーという。
ちなみにティーターンはバルカン半島の地においてインド・ヨーロッパ語族共通の天空神由来のゼウス信仰が確立する以前の、古い時代の自然神と思われる。地底に封じ込められており、彼らが時々暴れると地震がおきると信じられていた。 | [
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] | ティーターンは、ギリシア神話・ローマ神話に登場する神々である。ウーラノス(天)の王権を簒奪したクロノスを始め、オリュンポスの神々に先行する古の神々である。巨大な体を持つとされる。 日本ではしばしばティタン、ティターン、あるいは英語による発音にもとづいてタイタンと表記される。 | {{redirect|ティタン|衛星|タイタン (衛星)}}
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'''ティーターン'''({{lang-grc-short|'''Τιτάν''', ''Tītān''}})は、[[ギリシア神話]]・[[ローマ神話]]に登場する[[神|神々]]である。[[ウーラノス]](天)の王権を簒奪した[[クロノス]]を始め、[[オリュンポス十二神|オリュンポスの神々]]に先行する古の神々である。巨大な体を持つとされる。<!-- 、しばしば'''巨神族'''と訳される。 //ギガンテスと混同している -->
日本ではしばしば'''ティタン'''、'''ティターン'''、あるいは[[英語]]による発音にもとづいて'''タイタン'''と表記される。
== 概説 ==
<!-- [[File:Altar Selene Louvre Ma508.jpg|thumb|200px|月神セレーネー]] -->
狭義には、[[ウーラノス]]と[[ガイア]]の間に生まれた12柱の神々の兄弟姉妹を指す。[[クロノス]]はその末弟。これに[[ディオーネー]]を加える場合もある。
*[[オーケアノス]]
*[[コイオス]]
*[[クレイオス]]
*[[ヒュペリーオーン]]
*[[イーアペトス]]
*[[クロノス]]
*[[テイアー]]
*[[レアー]]
*[[テミス]]
*[[ムネーモシュネー]]
*[[ポイベー]]
*[[テーテュース]]
[[File:Titan struck Dumont Louvre MR1840.jpg|thumb|200px|雷霆に撃たれたティーターン]]
また、[[ヘーリオス]]や[[セレーネー]]、[[プロメーテウス]]など、狭義の'''ティーターン'''の子孫(特に[[ゼウス]]に与しない神々)も、'''ティーターン'''と呼ばれる事がある。
[[ゼウス]]が父[[クロノス]]に戦いを挑んだ時、'''ティーターン'''たちの多くも[[クロノス]]側につき、10年にわたる大戦争となった。この戦争を[[ティーターノマキアー]]という。
ちなみにティーターンは[[バルカン半島]]の地において[[インド・ヨーロッパ語族]]共通の[[天空神]]由来の[[ゼウス]][[信仰]]が確立する以前の、古い時代の[[自然神]]と思われる。地底に封じ込められており、彼らが時々暴れると[[地震]]がおきると信じられていた。
== ティーターンに由来する命名の例 ==
{{See also|タイタン}}
== 関連項目 ==
{{Commons category|Titans}}
* [[ウーラノス]]
* [[オリュンポス十二神]]
* [[ティーターノマキアー]]
{{ギリシア神話}}
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ていたん}}
[[Category:ギリシア神話の神]]
[[Category:ローマ神話の神]]
[[Category:ギリシア神話の巨人]]
[[Category:神々]] | 2003-05-22T05:24:41Z | 2023-09-16T08:58:26Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3 |
9,025 | アフガニスタン・イスラム国 | アフガニスタン・イスラム国(ペルシア語: دولت اسلامی افغانستان)は、1992年から2002年までのアフガニスタンの政体。アフガニスタンのムジャーヒディーン政党の一部によるペシャワール合意(英語版)でアフガニスタン共和国が崩壊した後の1992年4月26日に成立した。アフガニスタン・イスラム国は臨時政府が指定した国名。1996年より、ターリバーンの統治するアフガニスタン・イスラム首長国と同時に存在したが、5年後のアメリカ同時多発テロ事件によりアメリカ合衆国が参戦してイスラム首長国が転覆された(英語版)。
1992年4月、後ろ盾のロシアの支持を失った大統領ムハンマド・ナジーブッラーが辞任、後任は中立の臨時政府となった。ムジャーヒディーン政党数党が連立政権に向けた交渉を開始したが、パキスタンの軍統合情報局の支持と指示を受けるイスラム党(英語版)(党首グルブッディーン・ヘクマティヤール)は交渉に参加せず、独自でカーブルを征服すると宣言した。ヘクマティヤールはカーブルに進軍、4月17日以降には入城に成功した。これによりほかのムジャーヒディーン組織はヘクマティヤールがカーブル、そして全国で権力を奪取することを防ぐためにカーブルに入城するしかなくなった。その結果、5、6つの軍勢(ほぼ全員が外国の支持を得ていた)がお互いと戦う内戦状態に突入した。1992年4月26日にはいくつかのムジャーヒディーン組織が「臨時政府」創設を宣言したが、アフガニスタンで実権を握るには至らなかった。 アフガニスタン・イスラム共和国 (2001-2021年8月15日同国大統領の国外への亡命により事実上の共和国政府崩壊)
共産党員が支配していたアフガニスタン共和国の大統領ムハンマド・ナジーブッラーは1992年4月15日に辞任を余儀なくされた。同年4月25日、アフガニスタンの反ソ連レジスタンス7組織のうち6組織はペシャワール合意(英語版)を締結、カーブルを掌握するための臨時政府を設立した。7組織のうちパシュトゥーン人グルブッディーン・ヘクマティヤール率いるイスラム党(英語版)のみはナジーブッラーの残党から支持を受けて合意への署名を拒否した。イスラム党は代わりにイスラム国家の建国を宣言、シャリーアの採用、バーの閉鎖、女性のヒジャブ着用義務などを定めた。6月、タジク人を中心とするジャマーアテ・イスラーミー(英語版)の党首ブルハーヌッディーン・ラッバーニーがアフガニスタン・イスラム国の暫定大統領に就任、12月30日には7人で構成された政府委員会の議長(実質的には大統領)を任期2年で選出された。しかし、ヘクマティヤールが統治権を要求、ラッバーニーの軍勢と衝突した。数か月間の戦闘の後、2人は1993年3月に協定を締結、ラッバーニーの任期を1.5年に短縮するとともにヘクマティヤールが6月に首相に就任した。しかし、反乱諸勢力の間の戦闘は継続、カーブルはほとんど破壊しつくされた。
1994年末、主にパシュトゥーン人で構成されるイスラム原理主義民兵組織であるターリバーンはパキスタンの支援を得て南アフガニスタンで広大な地域を占領した。1995年と1996年にも進撃を続けたターリバーンは1996年9月にカーブルを占領、ラッバーニー政府やほかの反乱勢力を北に追いやり、1996年末にはアフガニスタンの3分の2を占領した。また1996年9月27日に元大統領ナジーブッラーが逮捕、公開処刑された。
ターリバーンは国名をアフガニスタン・イスラム首長国に変え、支配地でシャリーアよりも厳しい法律を敷いた。これは特に女性に悪影響を与えた(英語版)。すなわち、ターリバーンの規定では女性がブルカ着用義務を課され、屋内にとどまるよう強制され、家以外で働くことがまれな例外を除いて禁止され、女子学校が閉鎖されてほとんどの女性が教育を受けられなくなった(女性の識字率は共産党統治時期には上昇していた)。映画館、サッカースタジアム、テレビ局も閉鎖された。
首都を追われたラッバーニー政府はウズベク人軍人ラシッド・ドスタム、タジク人の指導者アフマド・シャー・マスード、カリーム・ハリーリー率いるシーア派のヘズベ・ワフダート(ハザーラ人を主体としている)と大同盟を結成した。同盟の目的はアフガニスタンをターリバーンから取り戻すことで、正式名称は「アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線」だったが、西半球では北部同盟として知られた。アフガニスタン・イスラム国は国際連合で承認されるアフガニスタン代表に留まった。
北部同盟は1997年5月末までに一連の戦略的勝利を収め、ターリバーンの攻勢が止まった。国際からの圧力により北部同盟とターリバーンは交渉を開始したが、両派とも過大な要求を出したため和解は不可能であり、交渉が膠着した。1997年の国連報告によると、アフガニスタンでは地雷による死傷が頻発し、乳児死亡率が25%に上り、反乱諸派による経済封鎖が飢餓を引き起こし、人道主義組織も救援活動を満足に行えなかった。また1998年2月アフガニスタン地震(英語版)が北東部でおき、4,500人が死亡した。
1998年の前半には交渉で平和合意が締結されると思われたが、北部同盟が崩壊してしまった。ターリバーンは機に乗じて攻勢を開始、州都のマイーマナ(英語版)、シェベルガーン、マザーリシャリーフ(1998年8月8日、マザーリシャリーフの戦い (1997年-1998年)(英語版)も参照)を続けざまに占領した。ターリバーンはマザーリシャリーフのシーア派市民を虐殺、さらにイランのジャーナリストや外交官8人を殺害した(アフガニスタン国内のイラン外交官殺害事件(英語版))。この行動は国際の批判を受け、ターリバーン政権とイランが戦争寸前の状態に陥った。
2001年、アメリカ同時多発テロ事件によりアメリカ合衆国と北大西洋条約機構が参戦してターリバーン政府の転覆に成功、アフガニスタン・イスラム共和国が建国された。これによりアフガニスタン暫定行政機構(英語版)が成立した。 | [
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] | アフガニスタン・イスラム国は、1992年から2002年までのアフガニスタンの政体。アフガニスタンのムジャーヒディーン政党の一部によるペシャワール合意でアフガニスタン共和国が崩壊した後の1992年4月26日に成立した。アフガニスタン・イスラム国は臨時政府が指定した国名。1996年より、ターリバーンの統治するアフガニスタン・イスラム首長国と同時に存在したが、5年後のアメリカ同時多発テロ事件によりアメリカ合衆国が参戦してイスラム首長国が転覆された。 | {{基礎情報 過去の国
|略名 =
|日本語国名 = アフガニスタン・イスラム国
|公式国名 = '''{{lang|fa|دولت اسلامی افغانستان}}'''
|建国時期 = [[1992年]]
|亡国時期 = [[2002年]]([[デ・ジュリ|法令上]])<br />[[1992年]] - [[1996年]]<br />[[2001年]] - [[2002年]]([[デ・ファクト|事実上]])<br />([[アフガニスタン・イスラム首長国|ターリバーンによる占領:1996年 - 2001年]])
|先代1 = アフガニスタン民主共和国
|先旗1 = Flag of Afghanistan (1987–1992).svg
|先代2 = アフガニスタン・イスラム首長国
|先旗2 = Flag of Taliban.svg
|次代1 = アフガニスタン・イスラム首長国
|次旗1 = Flag of Taliban.svg
|次代2 = アフガニスタン・イスラム共和国
|次旗2 = Flag of Afghanistan (2002-2004).svg
|国旗画像 = Flag of Afghanistan (1992-2001).svg
|国旗リンク = [[アフガニスタンの国旗|国旗]]
|国旗幅 =
|国旗縁 =
|国章画像 = Emblem of Afghanistan (1992-1996).svg
|国章リンク = [[アフガニスタンの国章|国章]]
|国章幅 =
|標語 = {{lang|ar|لا إله إلا الله، محمد رسول الله}}
<br>(アラビア語:[[シャハーダ|アッラーフの他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。]])
|標語追記 =
|国歌 = [[アフガニスタンの国歌#アフガニスタン・イスラム国の国歌|{{lang|fa| قلعه اسلام قلب اسیا}}]]<br>''アフガニスタン・イスラム国の国歌''<br>{{center|[[ファイル:Former Afghan national anthem, 1992-2006.oga]]}}
|国歌追記 =
|位置画像 = Afghanistan (orthographic projection).svg
|位置画像説明 =
|位置画像幅 = <!-- 初期値250px -->
|公用語 = [[パシュトー語]]<br />[[ペルシア語]]
|首都 = [[カーブル]](法令上)
|元首等肩書 = [[アフガニスタンの大統領|大統領]]
|元首等年代始1 = [[1992年]]
|元首等年代終1 = [[1992年]]
|元首等氏名1 = [[シブガトゥッラー・ムジャッディディー]]
|元首等年代始2 = [[1992年]]
|元首等年代終2 = [[2001年]]
|元首等氏名2 = [[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]
|元首等年代始3 = [[2001年]]
|元首等年代終3 = [[2002年]]
|元首等氏名3 = [[ハーミド・カルザイ]]
|首相等肩書 = [[アフガニスタンの首相|首相]]
|首相等年代始1 = [[1992年]]
|首相等年代終1 = [[1992年]]
|首相等氏名1 = {{仮リンク|アブドゥル・サブール・ファリード・クーヘスターニー|en|Abdul Sabur Farid Kohistani|label=アブドゥル・クーヘスターニー}}(初代)
|首相等年代始2 = [[1997年]]
|首相等年代終2 = [[1997年]]
|首相等氏名2 = {{仮リンク|アブドゥル・ラヒーム・ガフールザイ|en|Hezb-e Islami Gulbuddin}}(最後)
|面積測定時期1 =
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|面積測定時期2 =
|面積値2 =
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
|人口測定時期2 =
|人口値2 =
|変遷1 = 1992年4月25日
|変遷年月日1 = {{仮リンク|ペシャワール合意|en|Peshawar Accord}}
|変遷2 = 2002年6月19日
|変遷年月日2 = {{仮リンク|2002年ロヤ・ジルガ|en|2002 loya jirga}}
|通貨 = [[アフガニ]]
|通貨追記 =
|時間帯 = [[UTC+4:30|+4:30]]
|夏時間 =
|時間帯追記 =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 = 93
|国際電話番号追記 =
|現在 = {{Flag|Afghanistan}}
|注記 =
}}
'''アフガニスタン・イスラム国'''<ref>{{cite web | author = Directorate of Intelligence | title = CIA -- The World Factbook -- Afghanistan| format= mirror |year= 2001 | url = http://www.umsl.edu/services/govdocs/wofact2001/geos/af.html#Govt | accessdate = 2012-06-06 | quote = note - the self-proclaimed Taliban government refers to the country as Islamic Emirate of Afghanistan |language=en}}</ref>({{lang-fa|{{big|دولت اسلامی افغانستان}}}}<ref name="name"/>)は、1992年から2002年までの[[アフガニスタン]]の政体。アフガニスタンの[[ムジャーヒディーン]]政党の一部による{{仮リンク|ペシャワール合意|en|Peshawar Accord}}<ref name="BSH,ch.II">{{cite report|language=en|last=Sifton|first=John|title=Blood-Stained Hands: Past Atrocities in Kabul and Afghanistan’s Legacy of Impunity (chapter II, Historical background)|publisher=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ|Human Rights Watch]]|date=6 July 2005|url=https://www.hrw.org/report/2005/07/06/blood-stained-hands/past-atrocities-kabul-and-afghanistans-legacy-impunity#7ea268}}</ref>{{sfnp|Saikal|2004|page=215}}で[[アフガニスタン共和国 (1987年-1992年)|アフガニスタン共和国]]が崩壊した後の1992年4月26日に成立した。アフガニスタン・イスラム国は臨時政府が指定した国名<ref name="BSH,chapt.I">{{cite report|language=en|last=Sifton|first=John|title=Blood-Stained Hands: Past Atrocities in Kabul and Afghanistan’s Legacy of Impunity (chapter I Introduction; see under § Specific Findings)|publisher=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ|Human Rights Watch]]|date=6 July 2005|url=https://www.hrw.org/report/2005/07/06/blood-stained-hands/past-atrocities-kabul-and-afghanistans-legacy-impunity#534dca}}</ref>。1996年より、[[ターリバーン]]の統治する[[アフガニスタン・イスラム首長国]]と同時に存在したが、5年後の[[アメリカ同時多発テロ事件]]により[[アメリカ合衆国]]が[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|参戦して]]イスラム首長国が{{仮リンク|トラ・ボラの戦い (2001年)|en|Battle of Tora Bora|label=転覆された}}。
== 背景 ==
{{Main|{{仮リンク|アフガニスタン内戦 (1989年-1992年)|en|Afghan Civil War (1989–1992)}}}}
1992年4月、後ろ盾の[[ロシア]]の支持を失った大統領[[ムハンマド・ナジーブッラー]]が辞任、後任は中立の臨時政府となった。[[ムジャーヒディーン]]政党数党が連立政権に向けた交渉を開始したが、[[パキスタン]]の[[軍統合情報局]]の支持と指示を受ける{{仮リンク|イスラム党 (アフガニスタン)|en|Hezbi Islami|label=イスラム党}}(党首[[グルブッディーン・ヘクマティヤール]])は交渉に参加せず、独自で[[カーブル]]を征服すると宣言した。ヘクマティヤールはカーブルに進軍、4月17日以降には入城に成功した。これによりほかのムジャーヒディーン組織はヘクマティヤールがカーブル、そして全国で権力を奪取することを防ぐためにカーブルに入城するしかなくなった<ref name="BSH,ch.II" /><ref name="Urban">{{cite news|first=Mark |last=Urban |authorlink=マーク・アーバン |title=Afghanistan: power struggle |url=https://www.pbs.org/newshour/bb/asia/afghanistan/afghan_4-28-92.html |work= |publisher=[[公共放送サービス|PBS]] |language=en |date=28 April 1992 |accessdate=27 July 2007 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070709170253/http://www.pbs.org/newshour/bb/asia/afghanistan/afghan_4-28-92.html |archivedate=9 July 2007 |df=dmy }}</ref>。その結果、5、6つの軍勢(ほぼ全員が外国の支持を得ていた)がお互いと戦う内戦状態に突入した。1992年4月26日にはいくつかのムジャーヒディーン組織が「臨時政府」創設を宣言したが、アフガニスタンで実権を握るには至らなかった。
[[File:Flag of Afghanistan.svg|25px]] [[アフガニスタン・イスラム共和国]] (2001-2021年8月15日同国大統領の国外への亡命により事実上の共和国政府崩壊<ref>{{Cite news|title=Afghani president Ashraf Ghani flees country as capital falls to insurgents – as it happened|url=https://www.theguardian.com/world/live/2021/aug/15/afghanistan-taliban-close-in-on-kabul-as-last-government-stronghold-in-north-falls|work=The Guardian|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-16|issn=0261-3077|language=en-GB|first=Helen|last=Sullivan (now|first2=earlier); Joanna|last2=Walters|first3=Alex|last3=Mistlin|first4=and Jessica|last4=Murray}}</ref>)
== 歴史 ==
=== ラッバーニーとヘクマティヤール ===
{{See also|{{仮リンク|アフガニスタン内戦 (1992年-1996年)|en|Afghan Civil War (1992–1996)}}|{{仮リンク|カーブルの戦い (1992年-1996年)|en|Battle of Kabul (1992–1996)}}}}
共産党員が支配していたアフガニスタン共和国の大統領[[ムハンマド・ナジーブッラー]]は1992年4月15日に辞任を余儀なくされた<ref name="EncAfghan">Encarta-encyclopedie Winkler Prins (1993–2002) s.v. "Afghanistan. §5.6 Burgeroorlog". Microsoft Corporation/Het Spectrum.</ref>。同年4月25日、アフガニスタンの反ソ連レジスタンス7組織のうち6組織は{{仮リンク|ペシャワール合意|en|Peshawar Accord}}を締結、カーブルを掌握するための臨時政府を設立した<ref name="EncAfghan" />。7組織のうち[[パシュトゥーン人]][[グルブッディーン・ヘクマティヤール]]率いる{{仮リンク|イスラム党 (アフガニスタン)|en|Hezbi Islami|label=イスラム党}}のみはナジーブッラーの残党から支持を受けて合意への署名を拒否した。イスラム党は代わりにイスラム国家の建国を宣言、[[シャリーア]]の採用、[[バー (酒場)|バー]]の閉鎖、女性の[[ヒジャブ]]着用義務などを定めた<ref name="EncAfghan" />。6月、[[タジク人]]を中心とする{{仮リンク|ジャマーアテ・イスラーミー (アフガニスタン)|en|Jamiat-e Islami|label=ジャマーアテ・イスラーミー}}の党首[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]がアフガニスタン・イスラム国の暫定大統領に就任、12月30日には7人で構成された政府委員会の議長(実質的には大統領)を任期2年で選出された<ref name="EncAfghan" />。しかし、ヘクマティヤールが統治権を要求、ラッバーニーの軍勢と衝突した。数か月間の戦闘の後、2人は1993年3月に協定を締結、ラッバーニーの任期を1.5年に短縮するとともにヘクマティヤールが6月に首相に就任した<ref name="EncAfghan" />。しかし、反乱諸勢力の間の戦闘は継続、カーブルはほとんど破壊しつくされた。
=== ターリバーンの台頭 ===
{{main|{{仮リンク|ターリバーンの権力掌握|en|Taliban's rise to power}}}}
1994年末、主に[[パシュトゥーン人]]で構成される[[イスラム原理主義]]民兵組織である[[ターリバーン]]は[[パキスタン]]の支援を得て南アフガニスタンで広大な地域を占領した<ref name="EncAfghan" />。1995年と1996年にも進撃を続けたターリバーンは1996年9月にカーブルを占領、ラッバーニー政府やほかの反乱勢力を北に追いやり、1996年末にはアフガニスタンの3分の2を占領した。また1996年9月27日に元大統領ナジーブッラーが逮捕、公開処刑された。
ターリバーンは国名を[[アフガニスタン・イスラム首長国]]に変え、支配地でシャリーアよりも厳しい法律を敷いた。これは{{仮リンク|ターリバーンによる女性の扱い|en|Taliban treatment of women|label=特に女性に悪影響を与えた}}。すなわち、ターリバーンの規定では女性が[[ブルカ]]着用義務を課され、屋内にとどまるよう強制され、家以外で働くことがまれな例外を除いて禁止され、女子学校が閉鎖されてほとんどの女性が教育を受けられなくなった(女性の[[識字率]]は共産党統治時期には上昇していた)。[[映画館]]、サッカースタジアム、テレビ局も閉鎖された<ref name="EncAfghan" />。
=== 北部同盟対ターリバーン ===
{{Main|{{仮リンク|アフガニスタン内戦 (1996年-2001年)|en|Afghan Civil War (1996–2001)}}|北部同盟 (アフガニスタン)}}
首都を追われたラッバーニー政府は[[ウズベク人]]軍人[[ラシッド・ドスタム]]、タジク人の指導者[[アフマド・シャー・マスード]]、[[カリーム・ハリーリー]]率いる[[シーア派]]の[[アフガニスタン・イスラム統一党|ヘズベ・ワフダート]]([[ハザーラ人]]を主体としている)と大同盟を結成した<ref name="EncAfghan" />。同盟の目的はアフガニスタンをターリバーンから取り戻すことで、正式名称は「アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線」だったが、[[西半球]]では[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]として知られた。アフガニスタン・イスラム国は[[国際連合]]で承認されるアフガニスタン代表に留まった。
北部同盟は1997年5月末までに一連の戦略的勝利を収め、ターリバーンの攻勢が止まった。国際からの圧力により北部同盟とターリバーンは交渉を開始したが、両派とも過大な要求を出したため和解は不可能であり、交渉が膠着した<ref name="EncAfghan" />。1997年の国連報告によると、アフガニスタンでは地雷による死傷が頻発し、[[乳児死亡率]]が25%に上り、反乱諸派による経済封鎖が飢餓を引き起こし、人道主義組織も救援活動を満足に行えなかった。また{{仮リンク|アフガニスタン地震 (1998年2月)|en|February 1998 Afghanistan earthquake|label=1998年2月アフガニスタン地震}}が北東部でおき、4,500人が死亡した<ref name="EncAfghan" />。
1998年の前半には交渉で平和合意が締結されると思われたが、北部同盟が崩壊してしまった。ターリバーンは機に乗じて攻勢を開始、州都の{{仮リンク|マイーマナ|en|Maymana}}、[[シェベルガーン]]、[[マザーリシャリーフ]](1998年8月8日、{{仮リンク|マザーリシャリーフの戦い (1997年-1998年)|en|Battles of Mazar-i-Sharif (1997–98)}}も参照)を続けざまに占領した。ターリバーンはマザーリシャリーフの[[シーア派]]市民を虐殺、さらにイランのジャーナリストや外交官8人を殺害した({{仮リンク|アフガニスタン国内のイラン外交官殺害事件|en|1998 killing of Iranian diplomats in Afghanistan}})。この行動は国際の批判を受け、ターリバーン政権とイランが戦争寸前の状態に陥った<ref name="EncAfghan" />。
2001年、[[アメリカ同時多発テロ事件]]により[[アメリカ合衆国]]と[[北大西洋条約機構]]が[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|参戦して]]ターリバーン政府の転覆に成功、[[アフガニスタン・イスラム共和国]]が建国された。これにより{{仮リンク|アフガニスタン暫定行政機構|en|Afghan Interim Administration}}が成立した。
== 地図 ==
<gallery>
ファイル:Stellungen Kabul 1992.png|諸党派のカーブルにおける勢力範囲(1992年)
ファイル:Afghanistan politisch 1992.png|ナジーブッラー失脚後の情勢(1992年)
ファイル:Afghanistan politisch 1996.png|ターリバーンがカーブルを占領した後の情勢(1996年)
ファイル:Afghanistan politisch 2000.png|ターリバーン・北部同盟戦争(2000年)
ファイル:War in Afghanistan (1992–2001).png|戦争の進展(1992年 - 2001年)
</gallery>
== 脚注 ==
<references>
<ref name="name">{{lang-*-Latn|fa|Dowlat-e Eslami-ye Afghanestan}}</ref>
</references>
== 参考文献 ==
*{{cite book |ref=harv |last=Saikal |first=Amin |title=Modern Afghanistan: A History of Struggle and Survival |url=https://books.google.com/books?id=DEIBAwAAQBAJ&pg=PP1 |year=2004 |publisher=I.B.Tauris |isbn=978-0-85771-478-7}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あふかにすたんいすらむこく}}
[[Category:アフガニスタン・イスラム国|*]]
[[Category:アフガニスタンの歴史]]
[[Category:20世紀に成立した国家・領域]]
[[Category:21世紀に消滅した国家・領域]]
[[Category:第二次アフガニスタン紛争]]
[[Category:ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]] | 2003-05-22T05:30:01Z | 2023-11-28T10:17:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%9B%BD |
9,030 | 証 (東洋医学) | 証(しょう、あかし)は中医学・漢方医学の治療指針となるべくもので、西洋医学で言うところの病名(診断名)に相当するものである。一般的に、証は弁証といわれる、脈診、問診、触診などから導き出され、病の状態を現す。中医学・漢方医学では、この方法によって導き出された証に基づき、鍼灸・漢方の治療方針を決定する。様々な流派があり、それぞれにおいて弁証方法は若干異なる。
現在、日本漢方界においては「病名(診断名)=処方」「1症状=処方」が一般的な病院において普及しているが、弁証を重視する流派からは、これは中医学・漢方医学の本来の治療指針からは大きな誤りであり、誤治の起こる危険性を懸念する声も高く、また誤治を起こすと副作用として処理することに対し、遺憾であるとの声も根強い。
八綱弁証とは、病人の証を決定するにあたって、表裏、虚実、寒熱の3対6項目に基づいて、病状を分析する方法。表裏は病気のある場所、虚実は病邪の盛衰と身体の正気の強弱、寒熱は病気の性質を表す。
表裏、虚実、寒熱の3項目の組み合わせで、8種類ができ八網と呼ばれる。
病理の性質に基づいて、全ての疾病を陰陽の二方面に鑑別してみることができる。
陽証とは、生体反応が発揚、増強している病情。表証、実証、熱証がある。主な症状として顔面紅潮、気分が昂揚して活気がある、言葉が多い、手足を伸ばす、炎症、充血、発熱、舌質は紅が多い、脈は浮数滑洪実がある。
陰証とは、生体反応が沈滞、減弱している病情。裏証、虚証、寒証がある。主な症状として顔面蒼白、気分が沈鬱して活気がない、言葉が少ない、手足を縮める、悪寒や冷えを訴える、舌質は淡胖が多い、脈は遅弱細微がある。
六淫(外邪ないし外因)とは、外(外気)から侵襲した邪気の総称のこと。通常は六気と言って、邪気になりえない外環境であっても、生体の正気の過不足から邪気と受け止める場合は六淫といい、また季節の気候の過不足(寒すぎ、暑すぎなど)でも六淫となりえる。
病原体、あるいは厳しい自然環境や気候の急激な変化などが原因で発病した際、これらの条件を六淫(外因ないし外邪)と呼ぶ。逆に厳しい環境でも生体の正気の強さによっては六淫とならない場合もあり、外環境と生体の中環境のバランスも関係すると思われる。
風邪(ふうじゃ)/暑(熱)邪/火邪/燥邪/湿邪/寒邪
これに疫癘(えきれい)を加えることもある。
七情(内傷ないし内因)とは、内(内気)から発症した精神の変動の総称のこと。通常は七気と言って、精神的に症があれば起こりうる。
ストレス等による疲れでも発症することが多い。これらの条件を七情(内因ないし内傷)と呼ぶ。
喜(喜び)/怒(怒り)/憂(憂い)/思(思い悩み)/悲(悲しみ)/恐(恐れ)/驚(驚き)
太陽経病/陽明経病/少陽経病/太陰経病/少陰経病/厥陰経病
太陽病/少陽病/陽明病/太陰病/少陰病/厥陰病
合病/併病/直中/両感/壊病
督脈病/任脈病/衝脈病/帯脈病/陽維脈病/陰維脈病/陽蹻脈病/陰蹻脈病
手太陰肺経病/手陽明大腸経病/足陽明胃経病/足太陰脾経病
手少陰心経病/手太陽小腸経病/足太陽膀胱経病/足少陰腎経病
手厥陰心包経病/手少陽三焦経病/足少陽胆経病/足厥陰肝経病
気病(気実、気虚)/血病(血虚、血寒、血熱、血実(瘀血))/気血同病/水(津液病)
衛分/気分/栄分/血分
上焦病/中焦病/下焦病
肝病(肝気虚、肝血虚、肝陽虚、肝陰虚、肝鬱気滞、肝火上炎、肝陽上亢、肝風内動、肝経湿熱) /心病(心気虚、心陽虚、心血虚、心陰虚、心血淤阻、痰濁淤阻心脈、大気下陥、痰迷心竅、痰火擾心、心神不寧、心腎不交、心火亢進) /脾病(脾気虚、脾陽虚、脾陰虚、脾虚湿盛、寒湿困脾、脾胃湿熱、肝脾不和、脾胃昇降失調) /肺病(肺気虚、肺陽虚、肺陰虚、痰湿阻肺、風寒束肺、肺宣発粛降失調)/腎病(腎陽虚、腎陰虚、腎精不足、腎血淤)/心包病
胆病(胆気虚、胆湿熱、肝胆湿熱)/小腸病/胃病(胃気不和、肝胃不和、胃気上逆) /大腸病/膀胱病/三焦病
日本漢方における証は、中医学における証と多くが共通している。だが、日本漢方と中医学では、虚実の考え方が異なる。中医学における虚実は正気と邪気のバランスで決まる。したがって一人の身体の中の虚実は、一定でなくそのときどきで変化する。一方、日本漢方では虚実は身体の充実度で決まるので常に一定である。また、日本漢方では実証と虚証の中間として中間証があるが、中医学には中間証はない。
臓腑経絡弁証のみが発達して、六部定位脈診による経絡治療が主流である。
なお、1995年に行われた日本経絡学会(現在の日本伝統鍼灸学会)において、以下のように用語の定義が提唱された。
『証』:治療法を指示できる病能名
(日本経絡学会誌、第26号より) | [
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"text": "日本漢方における証は、中医学における証と多くが共通している。だが、日本漢方と中医学では、虚実の考え方が異なる。中医学における虚実は正気と邪気のバランスで決まる。したがって一人の身体の中の虚実は、一定でなくそのときどきで変化する。一方、日本漢方では虚実は身体の充実度で決まるので常に一定である。また、日本漢方では実証と虚証の中間として中間証があるが、中医学には中間証はない。",
"title": "日本漢方の「証」"
},
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"text": "臓腑経絡弁証のみが発達して、六部定位脈診による経絡治療が主流である。",
"title": "日本鍼灸の「証」"
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"text": "なお、1995年に行われた日本経絡学会(現在の日本伝統鍼灸学会)において、以下のように用語の定義が提唱された。",
"title": "日本鍼灸の「証」"
},
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"text": "『証』:治療法を指示できる病能名",
"title": "日本鍼灸の「証」"
},
{
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"text": "(日本経絡学会誌、第26号より)",
"title": "日本鍼灸の「証」"
}
] | 証(しょう、あかし)は中医学・漢方医学の治療指針となるべくもので、西洋医学で言うところの病名(診断名)に相当するものである。一般的に、証は弁証といわれる、脈診、問診、触診などから導き出され、病の状態を現す。中医学・漢方医学では、この方法によって導き出された証に基づき、鍼灸・漢方の治療方針を決定する。様々な流派があり、それぞれにおいて弁証方法は若干異なる。 現在、日本漢方界においては「病名(診断名)=処方」「1症状=処方」が一般的な病院において普及しているが、弁証を重視する流派からは、これは中医学・漢方医学の本来の治療指針からは大きな誤りであり、誤治の起こる危険性を懸念する声も高く、また誤治を起こすと副作用として処理することに対し、遺憾であるとの声も根強い。 | {{東洋医学}}
'''証'''(しょう、あかし)は[[中医学]]・[[漢方医学]]の治療指針となるべくもので、西洋医学で言うところの病名(診断名)に相当するものである。一般的に、証は弁証といわれる、脈診、問診、触診などから導き出され、病の状態を現す。[[中医学]]・[[漢方医学]]では、この方法によって導き出された証に基づき、[[鍼灸]]・[[漢方]]の治療方針を決定する。様々な流派があり、それぞれにおいて弁証方法は若干異なる。
現在、日本漢方界においては「病名(診断名)=処方」「1症状=処方」が一般的な病院において普及しているが、弁証を重視する流派からは、これは[[中医学]]・[[漢方医学]]の本来の治療指針からは大きな誤りであり、[[誤治]]の起こる危険性を懸念する声も高く、また誤治を起こすと副作用として処理することに対し、遺憾であるとの声も根強い。
== 八綱弁証 ==
{{See also|zh:八纲辨证}}
[[八綱辨証|八綱弁証]]とは、病人の証を決定するにあたって、表裏、虚実、寒熱の3対6項目に基づいて、病状を分析する方法。表裏は病気のある場所、虚実は病邪の盛衰と身体の正気の強弱、寒熱は病気の性質を表す{{要出典|date=2019年11月}}。
表裏、虚実、寒熱の3項目の組み合わせで、8種類ができ八網と呼ばれる{{要出典|date=2019年11月}}。
===[[表裏]]===
*表証
*裏証
*半表半裏証
===[[虚実]]・[[寒熱]]===
{| class="wikitable"
|+
!!! style="background-color:#fb9" |熱証
! style="background-color:#9df" |寒証
|-
! style="background-color:#fb9" |実証
| style="background-color:#fdc" |
*[[陽熱]]([[胃熱]])
*[[陽実]]([[実熱]])
**[[胆実]]、[[小腸実]]、[[胃実]]、[[大腸実]]、[[膀胱実]]、[[三焦実]]
| style="background-color:#cef" |
*[[陰寒]]([[脾寒]])
*[[陰実]]([[実寒]])
**[[肝実]]、[[心実]]、[[脾実]]、[[肺実]]、[[腎実]]、[[心包実]]
|-
! style="background-color:#9df" |虚証
| style="background-color:#cef" |
*[[陰熱]]([[脾熱]])
*[[陰虚]]([[虚熱]])
**[[肝虚]]、[[心虚]]、[[脾虚]]、[[肺虚]]、[[腎虚]]、[[心包虚]]
| style="background-color:#fdc" |
*[[陽寒]]([[胃寒]])
*[[陽虚]]([[虚寒]])
**[[胆虚]]、[[小腸虚]]、[[胃虚]]、[[大腸虚]]、[[膀胱虚]]、[[三焦虚]]
|}
== [[陰陽]] ==
病理の性質に基づいて、全ての疾病を陰陽の二方面に鑑別してみることができる。
=== {{color|#c40|陽証}} ===
陽証とは、生体反応が発揚、増強している病情。表証、実証、熱証がある。主な症状として顔面紅潮、気分が昂揚して活気がある、言葉が多い、手足を伸ばす、炎症、充血、発熱、舌質は紅が多い、脈は浮数滑洪実がある。
=== {{color|#08c|陰証}} ===
陰証とは、生体反応が沈滞、減弱している病情。裏証、虚証、寒証がある。主な症状として顔面蒼白、気分が沈鬱して活気がない、言葉が少ない、手足を縮める、悪寒や冷えを訴える、舌質は淡胖が多い、脈は遅弱細微がある。
== 六淫(外邪ないし外因)==
[[六淫]](外邪ないし外因)とは、外(外気)から侵襲した邪気の総称のこと。通常は六気と言って、邪気になりえない外環境であっても、生体の正気の過不足から邪気と受け止める場合は六淫といい、また季節の気候の過不足(寒すぎ、暑すぎなど)でも六淫となりえる。
病原体、あるいは厳しい自然環境や気候の急激な変化などが原因で発病した際、これらの条件を[[六淫]](外因ないし外邪)と呼ぶ。逆に厳しい環境でも生体の正気の強さによっては六淫とならない場合もあり、外環境と生体の中環境のバランスも関係すると思われる。
風邪(ふうじゃ)/暑(熱)邪/火邪/燥邪/湿邪/寒邪
これに疫癘(えきれい)を加えることもある。
== 七情(内傷ないし内因) ==
[[七情]](内傷ないし内因)とは、内(内気)から発症した精神の変動の総称のこと。通常は七気と言って、精神的に症があれば起こりうる。
ストレス等による疲れでも発症することが多い。これらの条件を[[七情]](内因ないし内傷)と呼ぶ。
喜(喜び)/怒(怒り)/憂(憂い)/思(思い悩み)/悲(悲しみ)/恐(恐れ)/驚(驚き)
== 六経辨証 ==
=== 六経病 ===
[[太陽経病]]/[[陽明経病]]/[[少陽経病]]/[[太陰経病]]/[[少陰経病]]/[[厥陰経病]]
=== 三陰三陽病 ===
[[太陽病]]/[[少陽病]]/[[陽明病]]/[[太陰病]]/[[少陰病]]/[[厥陰病]]
[[合病]]/[[併病]]/[[直中]]/[[両感]]/[[壊病]]
== 経絡辨証 ==
=== 奇経八脈辨証 ===
[[督脈病]]/[[任脈病]]/[[衝脈病]]/[[帯脈病]]/[[陽維脈病]]/[[陰維脈病]]/[[陽蹻脈病]]/[[陰蹻脈病]]
=== 正経十二経脈辨証 ===
[[手太陰肺経病]]/[[手陽明大腸経病]]/[[足陽明胃経病]]/[[足太陰脾経病]]
[[手少陰心経病]]/[[手太陽小腸経病]]/[[足太陽膀胱経病]]/[[足少陰腎経病]]
[[手厥陰心包経病]]/[[手少陽三焦経病]]/[[足少陽胆経病]]/[[足厥陰肝経病]]
== 気血水辨証(気血津液辨証) ==
[[気病]]([[気実]]、[[気虚]])/[[血病]]([[血虚]]、[[血寒]]、[[血熱]]、[[血実]]([[瘀血]]))/[[気血同病]]/[[水]]([[津液病]])
== 衛気栄血辨証 ==
[[衛分]]/[[気分]]/[[栄分]]/[[血分]]
== 三焦辨証 ==
[[上焦病]]/[[中焦病]]/[[下焦病]]
== 臓腑病証 ==
[[肝病]]([[肝気虚]]、[[肝血虚]]、[[肝陽虚]]、[[肝陰虚]]、[[肝鬱気滞]]、[[肝火上炎]]、[[肝陽上亢]]、[[肝風内動]]、[[肝経湿熱]]) /[[心病]]([[心気虚]]、[[心陽虚]]、[[心血虚]]、[[心陰虚]]、[[心血淤阻]]、[[痰濁淤阻心脈]]、[[大気下陥]]、[[痰迷心竅]]、[[痰火擾心]]、[[心神不寧]]、[[心腎不交]]、[[心火亢進]]) /[[脾病]]([[脾気虚]]、[[脾陽虚]]、[[脾陰虚]]、[[脾虚湿盛]]、[[寒湿困脾]]、[[脾胃湿熱]]、[[肝脾不和]]、[[脾胃昇降失調]]) /[[肺病]]([[肺気虚]]、[[肺陽虚]]、[[肺陰虚]]、[[痰湿阻肺]]、[[風寒束肺]]、[[肺宣発粛降失調]])/[[腎病]]([[腎陽虚]]、[[腎陰虚]]、[[腎精不足]]、[[腎血淤]])/[[心包病]]
[[胆病]]([[胆気虚]]、[[胆湿熱]]、[[肝胆湿熱]])/[[小腸病]]/[[胃病]]([[胃気不和]]、[[肝胃不和]]、[[胃気上逆]]) /[[大腸病]]/[[膀胱病]]/[[三焦病]]
== 日本漢方の「証」==
日本漢方における証は、中医学における証と多くが共通している。だが、日本漢方と中医学では、虚実の考え方が異なる。中医学における虚実は正気と邪気のバランスで決まる。したがって一人の身体の中の虚実は、一定でなくそのときどきで変化する。一方、日本漢方では虚実は身体の充実度で決まるので常に一定である。また、日本漢方では実証と虚証の中間として中間証があるが、中医学には中間証はない。
== 日本鍼灸の「証」==
臓腑経絡弁証のみが発達して、六部定位脈診による経絡治療が主流である。
*肝虚熱証/肝虚寒証
*脾虚熱証(脾虚陽明経実熱証/脾虚胃実熱証/脾虚胃虚熱証)/脾虚寒証
*脾虚肝実熱証/脾虚肝実証
*肺虚陽経実熱証/肺虚寒証
*肺虚肝実証=腎虚肝実証
*腎虚熱証/腎虚寒証
なお、1995年に行われた日本経絡学会(現在の[[日本伝統鍼灸学会]])において、以下のように用語の定義が提唱された。
『証』:治療法を指示できる病能名
(日本経絡学会誌、第26号より)
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9,032 | 物理化学 | 物理化学(ぶつりかがく、英: physical chemistry)は、化学の対象である物質、あるいはその基本的な構成を成している化合物や分子などについて、物質の構造、物質の性質(=物性)、物質の反応を調べるために、物理学的な手法を用いて研究する領域に対する呼称。
理論的な基礎として熱力学と量子力学、およびこれら2つをつなぐ統計力学を大きな柱とする。
化学は対象とする物質によって有機化学、無機化学などがあるが、物理化学でも対象によって有機物理化学、無機物理化学と呼び分けられている。
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== 概要 ==
理論的な基礎として[[熱力学]]と[[量子力学]]<ref>Flügge, S. (2012). Practical quantum mechanics. Springer Science & Business Media.</ref>、およびこれら2つをつなぐ[[統計力学]]<ref>Tolman, R. C. (1979). The principles of statistical mechanics. Courier Corporation.</ref>を大きな柱とする<ref name=tanaka>{{cite|和書 |author=田中一義|author2=田中庸裕 |title=物理化学 |publisher=丸善 |year=2010 |isbn=978-4-621-08302-4}}</ref>。
化学は対象とする物質によって有機化学、無機化学<ref>Bailar, J. C., & Trotman-Dickenson, A. F. (Eds.). (1973). Comprehensive inorganic chemistry (Vol. 3, p. 1387). Oxford: Pergamon press.</ref><ref>Cotton, F. A., Wilkinson, G., Murillo, C. A., Bochmann, M., & Grimes, R. (1988). Advanced inorganic chemistry (Vol. 5). New York: Wiley.</ref><ref>Cotton, F. A., & Lippard, S. J. (Eds.). (1959). Progress in inorganic chemistry (Vol. 4). John Wiley & Sons.</ref>などがあるが、物理化学でも対象によって有機物理化学、無機物理化学と呼び分けられている<ref>伊藤俊洋, 伊藤祐子, & 岡本義久. (1995). 生命科学のための基礎科学 無機物理化学編: 丸善株式会社.</ref>。
物理化学の中の分野としては以下のものがある。
* [[反応速度論]]
* [[電気化学]]<ref>林茂雄. (2012). エンジニアのための電気化学. コロナ社.</ref>
* [[量子化学]] - 量子力学の考え方を応用したもの<ref name="chiezo" /><ref>Levine, I. N., Busch, D. H., & Shull, H. (2009). Quantum chemistry (Vol. 6). Upper Saddle River, NJ: Pearson Prentice Hall.</ref><ref>Lowe, J. P., & Peterson, K. (2011). Quantum chemistry. Elsevier.</ref>。計算化学・化学シミュレーションなどが含まれる。
* [[分光法]]<ref>Hollas, J. M. (2004). Modern spectroscopy. John Wiley & Sons.</ref><ref>Pavia, D. L., Lampman, G. M., Kriz, G. S., & Vyvyan, J. A. (2014). Introduction to spectroscopy. Nelson Education.</ref>
* [[界面化学]]<ref>Vold, R. D., & Vold, M. J. (1983). Colloid and interface chemistry (pp. 345-371). Reading, MA: Addison-Wesley.</ref>
* [[熱化学]](化学[[熱力学]]<ref>Rock, P. A. (2013). Chemical thermodynamics. University Science Books.</ref>)
* [[生物物理化学]]
* [[計算化学]]<ref>Jensen, F. (2017). Introduction to computational chemistry. John wiley & sons.</ref><ref>Cramer, C. J. (2013). Essentials of computational chemistry: theories and models. John Wiley & Sons.</ref>
** [[分子動力学法]] - [[コンピュータ]]を使って分子の運動や反応ダイナミックスを[[シミュレーション|シミュレート]]し予測する<ref>川添良幸, 三上益弘, & 大野かおる. (1996). コンピュータ・シミュレーションによる物質科学: 分子動力学とモンテカルロ法. [[共立出版]].</ref><ref>北川浩. (2003). 分子動力学法の考え方. 溶接学会誌, 72(6), 485-488.</ref>
** [[分子軌道法]] - 分子内の[[電子]]を構成原子の軌道で記述する<ref name="chiezo" /><ref>藤永茂, 入門分子軌道法‐分子計算を手掛ける前に‐, 講談社サイエンティフィク (1990).</ref>
<!--
{{要出典範囲|[[ルドルフ・クラウジウス]]によって[[カロリック説]]が完全に否定され、[[熱力学]]が生まれた。熱力学は[[気体]]や[[溶液]]のふるまい、[[化学反応]]のエネルギーを系統立てて説明することに成功した。[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]らにより[[統計力学]]が生まれた。統計力学は分子や原子の振る舞いの集合として熱力学を説明するものであった。これらは、反応速度論を主に扱い、[[20世紀]]後半からは[[量子力学]]をもとにして[[化学結合]]や分子の[[電子状態]]などを扱う[[量子化学]]が発展してきた。これによって結合エネルギーなどを系統立てて説明できるようになった。|date=2012年11月-->
== 脚注 ==
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}}
* [[スヴァンテ・アレニウス]]
* [[フガシティー]]
* [[活量]]
* [[平衡定数]]
* [[物性物理学]]
== 外部リンク ==
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[[Category:物理化学|*]]
[[Category:化学の分野]]
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9,035 | オランダ王国 | オランダ王国(オランダおうこく、オランダ語: Koninkrijk der Nederlanden〔コーニンクレイク・デル・ネーデルランデン〕、フリジア語: Keninkryk fan de Nederlannen、パピアメント語: Reino Hulandes)は、西ヨーロッパおよびカリブに領土を有する主権国家・立憲君主国である。王国の4つの地域であるアルバ、オランダ、キュラソー、シント・マールテンはそれぞれ国(蘭: landen)と呼ばれ、王国内のパートナーとして互いに対等な立場で王国を構成している。オランダは、カリブの3つの特別自治体を除いてヨーロッパに位置しており本土部分のみを指す場合は「ヨーロッパ・オランダ」と呼ばれる。
オランダ王国は1813年のナポレオン帝国の崩壊にその起源がある。この年、オランダは再び自由を得て、オラニエおよびナッサウ公ウィレムを君主としたネーデルラント公国が宣言された。南ネーデルラント(おおよそ現在のベルギーおよびルクセンブルク)との再統一は1814年に決定された。1815年3月、君主の称号がネーデルラント国王となり、王国は現在に至る。オランダ国王は、同時にドイツ連邦内の大公国でもあったネーデルラント王国の一地方の君主であるルクセンブルク大公でもあった。
1830年のベルギー独立革命で、ベルギーは王国から離脱し、オランダは1839年にロンドン条約で独立を承認した。この時点で、ルクセンブルクはネーデルラントと人的同君連合にある完全な独立国となった。この領土の損失をドイツ連邦に対して埋め合わせするため、オランダのリンブルフ地方はこれ以前にルクセンブルクがあった地位と同様にオランダおよびドイツ連邦の両方に属する公国とされた。この地位はドイツ連邦が終わる1867年に覆され、この時点でリンブルフは以前のように普通のオランダの州となったが、オランダ王は今日でもリンブルフ公の称号を有している。
1954年の行政改革の起源は1931年のウェストミンスター憲章および1941年の大西洋憲章(政府形態を選択する人民の権利、一般的安全保障のための仕組みの必要性について述べられている)にある(オランダは1942年1月1日に大西洋憲章に調印した)。変革は女王ウィルヘルミナの1942年12月7日のラジオ演説で提案された。この演説で、女王はロンドンのオランダ亡命政府(英語版)を代表し、戦争集結後にオランダとその植民地との間の関係を見直したいという願いを表明した。解放後、政府は海外領土が王国の統治に対等な立場で参加できるような調停に合意するための会議を招集したいとした。当初は、この演説にはプロパガンダ目的があった。オランダ政府はオランダ領東インド(現在のインドネシア)を念頭に置いており、植民地主義に対して批判的となっていたアメリカ合衆国の世論を鎮めたいと願っていた。
インドネシアの独立後、スリナムとオランダ領アンティルの経済がオランダの経済と比較して取るに足らないため連邦構造は重すぎると考えられた。1954年の憲章では、スリナムとオランダ領アンティルはそれぞれオランダに全権公使を置くこととなった。スリナムやオランダ領アンティルに直接的に関係する王国全体に対して当てはまる事柄について、全権公使はこれについて議論がなされるオランダの閣議に参加する権利を有していた。スリナムおよびオランダ領アンティルの代表はスターテン・ヘネラールの第一および第二評議会の会合に参加することが出来た。海外領土のメンバーは適切な時は国策会議(英語版)に加えることが出来た。憲章によれば、スリナムおよびオランダ領アンティルは彼らの基本法 (Staatsregeling) を改正することも許された。この2つの自治国が王国を一方的に離脱する権利は認められなかったが、協議によって解決すると憲章に明記された。
1954年のオランダ王国憲章(英語版)の宣言前、スリナム、オランダ領ニューギニア、オランダ領アンティル(以前のキュラソー植民地(英語版))はオランダの植民地であった。
スリナムは1954年から1975年まで王国内の構成国であったが、オランダ領アンティルは1954年から2010年まで構成国だった。スリナムは独立共和国となり、オランダ領アンティルは構成国であるアルバ(1986年から)、キュラソーおよびシント・マールテン(2010年から)、本土オランダの特別自治体であるボネール島、サバ島、シント・ユースタティウス島に分かれた。オランダ領ニューギニアは1962年までは王国の属領であったが自治国ではなく、憲章では言及されていない。
1955年、女王ユリアナおよび王配ベルンハルトはスリナムおよびオランダ領アンティルを訪問した。この訪問は大成功を収めた。女王夫妻は地元住民によって熱狂的に歓迎され、この旅行はオランダのマスコミよって広く報道された。その他いくつかの行幸が続いて行われた。
1969年、キュラソーのアンティル島での非組織的なストライキによって深刻な騒乱や略奪が起こり、この間にウィレムスタットの歴史的な市内の一部が火事によって焼失した。秩序はオランダ海兵隊によって回復された。同年、スリナムでは深刻な政治的不安定状態となり、スリナム首相のJohan Pengelは教師のストライキを終わらせるため軍事支援を要請するとの脅しを行った。
1973年、労働党のヨープ・デン・ウイル(英語版)の下、新しいオランダ内閣が発足した。政策方針で、内閣はスリナムおよびオランダ領アンティルの独立の期日をこれらの国の政府と共に決定したいと宣言した。アンティル政府は態度をはっきりさせず、スリナムのシドニー(英語版)内閣も同様であった。スリナムの1973年の選挙によって国民党同盟 (Nationale Partij Kombinatie) が勝利し、ヘンク・アロン(英語版)が首相となった。新政府は1976年より前に独立するという声明を発表した。選挙期間中は独立については論点となっていなかったため、これは異例のことであった。デン・ハーグのデン・ウイル政府はスリナム独立の計画を実現するための協力者をパラマリボに得た。激しく感情的なスリナム野党の抵抗にもかかわらず、デン・ウイルとアロンは合意に達し、1975年11月25日、スリナムは独立した。
オランダ王国は現在互いに対等な立場で王国を形成している4つの国によって構成されている。
アルバは中央集権化された単一国家である。政府は、君主の代理である総督(英語版)、首相(英語版)を長とする閣僚会議によって構成されている。議会は一院制のアルバ議会である。現在のアルバ総督はフレディス・レフンニョル(英語版)、現在の首相はマイクアリソン・エマリンケルンである。通貨はアルバ・フロリンが使用されている。
キュラソーは中央集権化された単一国家であり、アルバと同様の統治形態である。通貨はアンティル・ギルダーが使用されている。
オランダは議会制民主主義の単一国家である。政府は君主および首相を長とする閣僚会議によって構成されている。議会は第一院(上院)および第二院(下院)によって構成されるスターテン・ヘネラールである。オランダは12の州(ドレンテ州、フレヴォラント州、フリースラント州、ヘルダーラント州、フローニンゲン州、リンブルフ州、北ブラバント州、北ホラント州、オーファーアイセル州、ユトレヒト州、ゼーラント州、南ホラント州)に分かれている。州はさらに443の基礎自治体ヘメーンテ(Gemeente)に分割されている。現在のオランダ首相はマルク・ルッテである。通貨はユーロを導入している。例外は特別自治体のBES諸島で、オランダ領アンティルギルダーを使用していたが2011年に米ドルを導入した。
ボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島特別自治体(BES諸島)はオランダ本土の一部であり、州には組込まれていない。BES諸島はほとんどの場合において通常のオランダの基礎自治体と似ており(自治体の長、議員、議会など)、ほとんどのオランダの法律の対象となる。これらの3つの島の住民はオランダの国政選挙や欧州選挙に投票することができる。しかしながら、これらの島にはいくつか例外が存在する。例えば、社会保険はオランダと同等のレベルでは提供されていない。2008年11月、これらの島では通貨として米ドルを導入することが決定され、2011年1月1日から導入された。オランダは本土とBES諸島との間のキャッシュフローに関して為替相場変動リスクを負うこととなった。
シント・マールテンは中央集権化された単一国家であり、アルバと同様に統治機構を有している。通貨はキュラソーと同様にアンティル・ギルダーが使用されている。
オランダ憲法(英語版)、アルバ憲法(英語版)、キュラソー憲法(英語版)、シント・マールテン憲法(英語版)はそれぞれの国の統治を定めるが、オランダ王国憲章(英語版)がこれらの憲法より優位にある。オランダ憲法は憲章で言及されている王国の制度を制定、制限する。これらの制度に関する憲章中の条項は付加的であり、憲章に明記されているアルバ、キュラソー、シント・マールテンに直接的に影響する王国の事項に関してのみ適用される。王国の事柄がアルバ、キュラソー、シント・マールテンに影響しない場合は、オランダ憲法で定められた条項に従って対処する。これらの場合、オランダはオランダ憲法に従って、オランダ王国という立場で単独で行動する。その他の3カ国は、自国のみに関連し本土オランダとは関連しない王国の事柄に関して、オランダ同様に行動することはできない。これらの場合、憲章の条項が優先される。
オランダ王国憲章の改正は、全ての国が合意した時のみ可能である。
王および彼の大臣は王国政府を形成する。憲章の第7条によれば、オランダ王国閣僚会議(英語版)は、オランダ閣僚会議(英語版)とそれを補完するアルバの全権公使(英語版)、キュラソー島の全権公使(英語版)、シント・マールテン島の全権公使(英語版)によって構成される。オランダ首相は王国閣僚会議の議長を務める。
2007年12月、王国関係のための代理評議会が設立された。この評議会は王国閣僚会議の会合のための準備を行う。このような評議会の設立は、王国国策会議によって長年主張されてきた。
政府および王国閣僚会議は君主制それ自身と共に、憲章の第五条において、これらの関してはオランダ王国憲法によって主に制限されオランダ王国憲章は定めない、と記されている。しかしながら、オランダ本土および王国全域においてこれらの制度が有する2つの役割は司法上分離している。
王国レベルにおいて2つの法律文書が存在する: 王国法 (オランダ語: Rijkswet) および王国枢密院令 (オランダ語: Algemene maatregel van Rijksbestuur)。王国法の例は「オランダ市民権に関する王国法 (オランダ語: Rijkswet op het Nederlanderschap)」である。
オランダ国王あるいは女王は王国の元首である。アルバ、キュラソー、シント・マールテンでは総督が国王を代理する。
オランダは選挙によって選ばれた議会を持った初めての主権国家の一つである。
王国の立法府はオランダの議会(スターテン・ヘネラール)と政府によって構成されている。憲章の第十四、十六、十七条では、アルバ、キュラソー、シント・マールテン議会へのいくらかの関与が記されている。
憲章の第十三条は、王国国策会議の設置が明記されている。国策会議は憲法で規定されるが、憲章はアルバ、キュラソー、シント・マールテンの要請によって、これらの島々のそれぞれのメンバーを国策会議に含むことができることを示唆している。アルバは現在この権利を行使している。常にこの権利が行使される訳ではなく、オランダ領アンティルは1987年まで、アルバは2000年までこのメンバーではなかった。シント・マールテン初の国策会議メンバーは元副総督のDennis Richardsonとなるであろう。
オランダ最高裁判所(Hoge Raad der Nederlanden)は、オランダ領アンティルおよびアルバの廃棄法令により、王国の最高裁判所である。この法令の基礎は憲章の第二十三条である。第二十三条第二項では、王国の海外国が要求した場合は、その国からの追加の法廷メンバーのための王国法を制定しなければならないと明記されている。今まで、アルバ、キュラソー、シント・マールテンはいずれもこの権利を行使したことはない。
憲章第三十九条によれば、「民法および商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法、著作権、産業財産権法、公証人役場、計量に関する規定は、オランダ、アルバ、キュラソー、シント・マールテンにおいて出来得る限り同じように規制されなければならない」とされている。また、憲章では、これらの事項に関する現行法の大幅な修正が提案される時はその他の構成国の政府が見解を表明する機会を得るまでは代議員会に提出あるいは審議してはならない、と規定されている。
構成国と王国との間で対立した場合に備えて、憲章第十二条では行政による調停手続きを規定している。これは、しばしば王国の民主主義の欠陥と考えられており、2010年10月10日に発効する憲章修正の採択につながった。新しい第十二a条では、行政による調停手続きに加えて、「王国法により、王国法で明記された王国と構成国間の特定の対立の調停のために法令が制定されなければならない」と明記された。また、アルバの特別代表Evelyna Wever-CroesとJ. E. Thijsenによって修正が行われた。オリジナルの条文は「王国法により —— 法令を制定することができる」となっていた。
憲章第三条では王国が担う政務が明記されている。
第四十三条(2)では追加の王国の政務が一つ明記されている。
第三条第二項では、「その他の事項は協議によって王国の政務となる可能性がある」と明記されている。
これらの王国の政務はアルバあるいはオランダ領アンティルに影響するとしても王国政府のみが担当する。憲章第十四条第三項は、その他の場合におけるオランダによる王国の政務の扱いを予測している。
第三十八条に基づいて、王国内の国は前述の王国の政務の範囲外で王国法の制定を決定することができる。このような法令は、アルバおよびオランダ領アンティル議会の合意が必要なため、合意王国法と呼ばれる。
王国は、国際条約および合意について交渉し決定する。アルバ、キュラソー、シント・マールテンに直接影響しないものは王国憲法の規定により(つまりオランダ単独)扱われる。憲章第二十四条は、国際条約あるいは協定がアルバ、キュラソー、シント・マールテンに影響する時はその条約あるいは協定はアルバ、キュラソー、シント・マールテンの代議員会に提出されなければならないと明記している。第二十四条ではさらに、そのような条約あるいは協定がオランダ議会の黙示的承認のために提出される時は、全権大使は議会での明示的承認を表明するよう希望を伝えることができる、と明記している。
憲章第二十五条は、アルバ、キュラソー、シント・マールテンに国際条約あるいは協定から脱退する機会を与えている。この場合、この条約あるいは協定はアルバ、キュラソー、あるいはシント・マールテンに対して適用されないことを明記しなければならない。
第二十六条は、アルバ、キュラソー、シント・マールテンが、関係している構成国単独に適用される国際経済あるいは金融協定の締結に対して希望を伝える時、王国と構成国のつながりと矛盾する場合を除き、王国の政府はそのような協定の締結を助けなければならない、と明記している。
第二十七条は、アルバ、キュラソー、シント・マールテンに影響する条約あるいは協定の作成においてこれらの国の関与を明記しており、第二十八条は、アルバ、キュラソーあるいはシント・マールテンは、彼らが望めば、国際機関に加盟することができる、と明記している。
オランダ王国は北大西洋条約機構 (NATO)、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO) の創立メンバーでもある。
ほとんどの学者はオランダ王国の立憲的取り決めを国家組織の従来のモデルの一つに分類することは困難であることに合意しており、王国はスイ・ジェネリス(英語版)(Sui generis、独自の)形態であると考えている。その代わりに、王国は連邦国家、国家連合、非対称的連邦制(英語版)、権限を移譲(英語版)された単一国家の特徴を有しているとされる。
王国の連邦的特徴としては、憲章における王国政務の描写、憲章における王国の構成部分の列挙、憲章が構成国の法律を王国の法律に対して下位に置いていること、憲章における王国機構の制定、王国が自身の立法文書(王国法ならびに枢密院令)を有することが挙げられる。王国の国家連合的特徴としては、憲章が構成国間の合意によってのみ改正できることが挙げられる:ほとんどの普通の連邦国家では、連邦機関自身が憲法を改正することができる。
多かれ少なかれ非対称的連邦制を示す特徴としては、王国の組織の機能は憲章に明記されていない場合はオランダ憲法によって管理されることが挙げられる。憲章は王国法の制定手続についても明示していない:憲章の第十五条から第二十二条に規定された追加および修正条項によってオランダ憲法の第八十一から八十八条は王国法に対しても適用される。強制的にカリブ海の構成国が参加が必要な唯一の王国機関は王国閣僚会議である。最高裁判所および王国国策会議は共にカリブ海の構成国が求めた時のみこれらの国をメンバーに含み、カリブ海の構成国は王国の立法府への参加をほとんど完全に排除されている。しかしながら、これらの国は王国法の起草に参加でき、特命全権公使は議会の前で王国政府が提出した王国法に反対することができる。さらに、憲章第十五条によれば、特命全権公使は王国議会に王国法の起草を要求できる。
最後に、重要なこととして、憲章第十四条によれば、オランダは王国の政務がアルバ、キュラソーあるいはシント・マールテンに影響しない場合はこの政務を自身で処理することができる。アルバ、キュラソー、シント・マールテンはこの権利を持たない。
権限を移譲された単一国家を示す特徴は、憲章第五十条によると、カリブ海の構成国の法的措置あるいは行政措置が王国憲章、国際協定、王国法、枢密院令と矛盾した場合や他の王国政務を制限する場合は、王国政府がその措置を無効にすることができることである。
王国の憲法構造は憲法学者C. Bormanによって以下のように要約されている。
憲法学者C. A. J. M. Kortmannは「連邦制の特徴を有する国の連合だが、独自の形態である」と述べている Belinfante and De Reede do speak about a "federal association" without any reservations.。
sui juris(英語版)な憲法的な性格であるにもかかわらず、同様の性質を持つ国もいくつか存在する。特に、デンマーク王国はデンマーク、グリーンランド、フェロー諸島で構成され(デンマーク王国共同体を参照)、ニュージーランド王国はニュージーランド、クック諸島、ニウエ、トケラウ、ロス海属領で構成される。これらの比較は正確ではない: 例えば、ニュージーランド女王を除いては、ニュージーランド、クック諸島、ニウエは憲法的構造を共有していない。
複数の領土を有する国家は他にもあるが、はっきりと異なっている。連合王国(イギリス)とその海外領土、あるいはアメリカ合衆国とその海外領土のように一部の国家は、海外領土を国家の一体部分とは見做していない。オーストラリア連邦といったその他の国家では、海外領土を一体要素として扱ってはいないが、国家と同等の単一の国家/国籍レベルを有している。
オランダ王国は欧州連合 (EU) の創立メンバーである。当初、スリナムとオランダ領アンティルはローマ条約付帯議定書の規定により明確に欧州経済共同体から除外されていたが、1962年9月1日にオランダ王国の批准文書を補完する附則によって欧州共同体内の海外国 (OCT) としてのスリナムの地位が確立された。オランダ領アンティルの海外国ならびに海外領土 (OCT) としての地位を獲得するオランダ領アンティルと欧州経済共同体との連合に関する協定(英語版)は1964年10月1日に発効した。
現在は本土オランダの一部であるBES諸島を含むカリブ海の全ての島は、欧州連合のOCTである。市民権は王国政務であり、ゆえに王国内の4つの国は区別されないため、これら四カ国の市民は欧州連合の市民でもある。
2004年、共同委員会はオランダ領アンティルの大改革を提案した。2006年10月11日および11月2日、オランダ政府とそれぞれの島との間で合意が交わされ、2008年12月15日までに施行することとなった。この改革は2010年10月10日に実施された。これらの改革の下、オランダ領アンティルは解体され、キュラソーおよびシント・マールテンはオランダ王国の構成国となり1986年にオランダ領アンティルを離脱したアルバと同じ地位を得た。
BES諸島(ボネール島、サバ島、シント・ユースタティウス島)は、自身もオランダ王国の主要な構成国の一つであるオランダの一部分となった。特別自治体として、これらの島はオランダ王国憲法の下「公共団体(英語版)」(オランダ語: openbare lichamen) として構成されている。これらの自治体はほとんどの点においてオランダの普通の自治体と類似しており(例えば、首長、議員、議会を有する)、ほとんどのオランダの法律(英語版)が適用される。経過措置として、オランダの法制度内で機能するのに必要と考えられるオランダの法律のみ導入され、オランダ領アンティルのほとんどの法律がBES諸島がオランダに組み入れられた2010年10月10日後も効力のあるままとなっている。それ以後、オランダ領アンティルの法律はオランダの法律に徐々に置き換えられていく見通しである。にもかかわらず、一部の例外は残ると考えられている。例えば社会保障はヨーロッパオランダとは同じレベルでは提供されず、ユーロが導入されるかも不確かである。
特別自治領は、オランダ議会の投票権を有するため、オランダによる王国政務において代表権を有すると考えられている。現在のオランダの選挙法は、上院は州ごとに選出されると規定されている。しかしながら、BES諸島は現在どの州の一部でもないため、どのように上院議員を選出するかについて不確かなままである。オランダ政府はBES諸島の住民が上院議員を選出できるようになることを保障しており、これに関するオプションを検討している。
オランダはBES諸島がEU法の適用を受ける欧州連合の外部に存在する地域 (OMR) の地位を得ることに関する調査を行うことを提案している。この調査は、BES諸島がOMRの地位の下でどのようにやっていくかについても検討する。
オランダ王国外では、「オランダ」はオランダ王国を表すのに使用されている。例えば国際連合では、オランダ王国は国連総会では英語で「Netherlands」と呼ばれるが、公式な国連の文書では「Netherlands」の代わりに「Kingdom of the Netherlands」が使用される。国際条約においても、「オランダ王国」は「オランダ」としばしば短縮される。通常使用されるオランダ語の名称は「Nederland」で単数形であるが、公式なオランダ語の名称は「Koninkrijk der Nederlanden」で複数形である。しかしながら、オランダの慣例では、「オランダ王国」は「オランダ」ではなく「王国」と短縮される。これは、憲章で定められた王国と王国の主要な構成国であるオランダとを混同するためである。オランダ王国憲章でも、「オランダ王国」は「オランダ」ではなく「王国」と短縮されている。
オランダ王国を「オランダ」と呼ぶことが混乱を生ずることは別として、「オランダ」という用語を使用することに関連する不快な感情を抑えるためにも「王国」という用語は使用される。王国全体を指して「オランダ」と呼ぶことは、アルバ、キュラソー、シント・マールテンがヨーロッパに位置するオランダと平等ではないこと、王国に関する事柄に関してこれら3カ国の発言権がなくヨーロッパオランダに従属していることを暗示する。これらの島の王国政務における影響は限定されているが、確かに存在する。
オランダ王国の領土は42,519平方キロメートル (16,417 sq mi)である。オランダ王国はベルギー、ドイツ(どちらもオランダと)、フランス(シント・マールテンと)と国境を接している。オランダの約4分の1は海抜0メートルを下回り、ほとんどの土地は干拓によって拡げられてきた。洪水から土地を守るために堤防が築かれている。以前は、オランダの最高地点はリンブルフ州のファールス山(Vaalserberg)における322.5メートルであったが、2010年10月10日の憲法改正によってサバ島がオランダの特別自治体となったため、サバ島に存在するシーナリー山(877メートル)が最高地点となった。
王国のカリブ海地域は異なる地理的起源を持つ2つの領域から構成される。ウィンドワード諸島(サバ島、シント・ユースタティウス島、シント・マールテン島)は火山島であり、山がちで農業に適した土地がほとんど残っていない。リーワード諸島(アルバ、ボネール島、キュラソー島)は火山起源およびサンゴ礁起源が混ざっている。
カリブ海の島々は熱帯気候であり、一年中温暖である。ウィンドワード諸島は夏季はハリケーンに襲われる。オランダのヨーロッパ地域は穏やかな海洋性気候であり、夏は涼しく冬は暖かい。 | [
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"text": "オランダ王国(オランダおうこく、オランダ語: Koninkrijk der Nederlanden〔コーニンクレイク・デル・ネーデルランデン〕、フリジア語: Keninkryk fan de Nederlannen、パピアメント語: Reino Hulandes)は、西ヨーロッパおよびカリブに領土を有する主権国家・立憲君主国である。王国の4つの地域であるアルバ、オランダ、キュラソー、シント・マールテンはそれぞれ国(蘭: landen)と呼ばれ、王国内のパートナーとして互いに対等な立場で王国を構成している。オランダは、カリブの3つの特別自治体を除いてヨーロッパに位置しており本土部分のみを指す場合は「ヨーロッパ・オランダ」と呼ばれる。",
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"text": "オランダ王国は1813年のナポレオン帝国の崩壊にその起源がある。この年、オランダは再び自由を得て、オラニエおよびナッサウ公ウィレムを君主としたネーデルラント公国が宣言された。南ネーデルラント(おおよそ現在のベルギーおよびルクセンブルク)との再統一は1814年に決定された。1815年3月、君主の称号がネーデルラント国王となり、王国は現在に至る。オランダ国王は、同時にドイツ連邦内の大公国でもあったネーデルラント王国の一地方の君主であるルクセンブルク大公でもあった。",
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"text": "1830年のベルギー独立革命で、ベルギーは王国から離脱し、オランダは1839年にロンドン条約で独立を承認した。この時点で、ルクセンブルクはネーデルラントと人的同君連合にある完全な独立国となった。この領土の損失をドイツ連邦に対して埋め合わせするため、オランダのリンブルフ地方はこれ以前にルクセンブルクがあった地位と同様にオランダおよびドイツ連邦の両方に属する公国とされた。この地位はドイツ連邦が終わる1867年に覆され、この時点でリンブルフは以前のように普通のオランダの州となったが、オランダ王は今日でもリンブルフ公の称号を有している。",
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"text": "1954年の行政改革の起源は1931年のウェストミンスター憲章および1941年の大西洋憲章(政府形態を選択する人民の権利、一般的安全保障のための仕組みの必要性について述べられている)にある(オランダは1942年1月1日に大西洋憲章に調印した)。変革は女王ウィルヘルミナの1942年12月7日のラジオ演説で提案された。この演説で、女王はロンドンのオランダ亡命政府(英語版)を代表し、戦争集結後にオランダとその植民地との間の関係を見直したいという願いを表明した。解放後、政府は海外領土が王国の統治に対等な立場で参加できるような調停に合意するための会議を招集したいとした。当初は、この演説にはプロパガンダ目的があった。オランダ政府はオランダ領東インド(現在のインドネシア)を念頭に置いており、植民地主義に対して批判的となっていたアメリカ合衆国の世論を鎮めたいと願っていた。",
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"text": "インドネシアの独立後、スリナムとオランダ領アンティルの経済がオランダの経済と比較して取るに足らないため連邦構造は重すぎると考えられた。1954年の憲章では、スリナムとオランダ領アンティルはそれぞれオランダに全権公使を置くこととなった。スリナムやオランダ領アンティルに直接的に関係する王国全体に対して当てはまる事柄について、全権公使はこれについて議論がなされるオランダの閣議に参加する権利を有していた。スリナムおよびオランダ領アンティルの代表はスターテン・ヘネラールの第一および第二評議会の会合に参加することが出来た。海外領土のメンバーは適切な時は国策会議(英語版)に加えることが出来た。憲章によれば、スリナムおよびオランダ領アンティルは彼らの基本法 (Staatsregeling) を改正することも許された。この2つの自治国が王国を一方的に離脱する権利は認められなかったが、協議によって解決すると憲章に明記された。",
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"text": "1954年のオランダ王国憲章(英語版)の宣言前、スリナム、オランダ領ニューギニア、オランダ領アンティル(以前のキュラソー植民地(英語版))はオランダの植民地であった。",
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"text": "スリナムは1954年から1975年まで王国内の構成国であったが、オランダ領アンティルは1954年から2010年まで構成国だった。スリナムは独立共和国となり、オランダ領アンティルは構成国であるアルバ(1986年から)、キュラソーおよびシント・マールテン(2010年から)、本土オランダの特別自治体であるボネール島、サバ島、シント・ユースタティウス島に分かれた。オランダ領ニューギニアは1962年までは王国の属領であったが自治国ではなく、憲章では言及されていない。",
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"text": "1955年、女王ユリアナおよび王配ベルンハルトはスリナムおよびオランダ領アンティルを訪問した。この訪問は大成功を収めた。女王夫妻は地元住民によって熱狂的に歓迎され、この旅行はオランダのマスコミよって広く報道された。その他いくつかの行幸が続いて行われた。",
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"text": "1969年、キュラソーのアンティル島での非組織的なストライキによって深刻な騒乱や略奪が起こり、この間にウィレムスタットの歴史的な市内の一部が火事によって焼失した。秩序はオランダ海兵隊によって回復された。同年、スリナムでは深刻な政治的不安定状態となり、スリナム首相のJohan Pengelは教師のストライキを終わらせるため軍事支援を要請するとの脅しを行った。",
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"text": "1973年、労働党のヨープ・デン・ウイル(英語版)の下、新しいオランダ内閣が発足した。政策方針で、内閣はスリナムおよびオランダ領アンティルの独立の期日をこれらの国の政府と共に決定したいと宣言した。アンティル政府は態度をはっきりさせず、スリナムのシドニー(英語版)内閣も同様であった。スリナムの1973年の選挙によって国民党同盟 (Nationale Partij Kombinatie) が勝利し、ヘンク・アロン(英語版)が首相となった。新政府は1976年より前に独立するという声明を発表した。選挙期間中は独立については論点となっていなかったため、これは異例のことであった。デン・ハーグのデン・ウイル政府はスリナム独立の計画を実現するための協力者をパラマリボに得た。激しく感情的なスリナム野党の抵抗にもかかわらず、デン・ウイルとアロンは合意に達し、1975年11月25日、スリナムは独立した。",
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"text": "オランダ王国は現在互いに対等な立場で王国を形成している4つの国によって構成されている。",
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"text": "アルバは中央集権化された単一国家である。政府は、君主の代理である総督(英語版)、首相(英語版)を長とする閣僚会議によって構成されている。議会は一院制のアルバ議会である。現在のアルバ総督はフレディス・レフンニョル(英語版)、現在の首相はマイクアリソン・エマリンケルンである。通貨はアルバ・フロリンが使用されている。",
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"text": "キュラソーは中央集権化された単一国家であり、アルバと同様の統治形態である。通貨はアンティル・ギルダーが使用されている。",
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"text": "オランダは議会制民主主義の単一国家である。政府は君主および首相を長とする閣僚会議によって構成されている。議会は第一院(上院)および第二院(下院)によって構成されるスターテン・ヘネラールである。オランダは12の州(ドレンテ州、フレヴォラント州、フリースラント州、ヘルダーラント州、フローニンゲン州、リンブルフ州、北ブラバント州、北ホラント州、オーファーアイセル州、ユトレヒト州、ゼーラント州、南ホラント州)に分かれている。州はさらに443の基礎自治体ヘメーンテ(Gemeente)に分割されている。現在のオランダ首相はマルク・ルッテである。通貨はユーロを導入している。例外は特別自治体のBES諸島で、オランダ領アンティルギルダーを使用していたが2011年に米ドルを導入した。",
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"text": "ボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島特別自治体(BES諸島)はオランダ本土の一部であり、州には組込まれていない。BES諸島はほとんどの場合において通常のオランダの基礎自治体と似ており(自治体の長、議員、議会など)、ほとんどのオランダの法律の対象となる。これらの3つの島の住民はオランダの国政選挙や欧州選挙に投票することができる。しかしながら、これらの島にはいくつか例外が存在する。例えば、社会保険はオランダと同等のレベルでは提供されていない。2008年11月、これらの島では通貨として米ドルを導入することが決定され、2011年1月1日から導入された。オランダは本土とBES諸島との間のキャッシュフローに関して為替相場変動リスクを負うこととなった。",
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"text": "シント・マールテンは中央集権化された単一国家であり、アルバと同様に統治機構を有している。通貨はキュラソーと同様にアンティル・ギルダーが使用されている。",
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"text": "オランダ憲法(英語版)、アルバ憲法(英語版)、キュラソー憲法(英語版)、シント・マールテン憲法(英語版)はそれぞれの国の統治を定めるが、オランダ王国憲章(英語版)がこれらの憲法より優位にある。オランダ憲法は憲章で言及されている王国の制度を制定、制限する。これらの制度に関する憲章中の条項は付加的であり、憲章に明記されているアルバ、キュラソー、シント・マールテンに直接的に影響する王国の事項に関してのみ適用される。王国の事柄がアルバ、キュラソー、シント・マールテンに影響しない場合は、オランダ憲法で定められた条項に従って対処する。これらの場合、オランダはオランダ憲法に従って、オランダ王国という立場で単独で行動する。その他の3カ国は、自国のみに関連し本土オランダとは関連しない王国の事柄に関して、オランダ同様に行動することはできない。これらの場合、憲章の条項が優先される。",
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"text": "オランダ王国憲章の改正は、全ての国が合意した時のみ可能である。",
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"text": "王および彼の大臣は王国政府を形成する。憲章の第7条によれば、オランダ王国閣僚会議(英語版)は、オランダ閣僚会議(英語版)とそれを補完するアルバの全権公使(英語版)、キュラソー島の全権公使(英語版)、シント・マールテン島の全権公使(英語版)によって構成される。オランダ首相は王国閣僚会議の議長を務める。",
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"text": "2007年12月、王国関係のための代理評議会が設立された。この評議会は王国閣僚会議の会合のための準備を行う。このような評議会の設立は、王国国策会議によって長年主張されてきた。",
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"text": "政府および王国閣僚会議は君主制それ自身と共に、憲章の第五条において、これらの関してはオランダ王国憲法によって主に制限されオランダ王国憲章は定めない、と記されている。しかしながら、オランダ本土および王国全域においてこれらの制度が有する2つの役割は司法上分離している。",
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"text": "王国レベルにおいて2つの法律文書が存在する: 王国法 (オランダ語: Rijkswet) および王国枢密院令 (オランダ語: Algemene maatregel van Rijksbestuur)。王国法の例は「オランダ市民権に関する王国法 (オランダ語: Rijkswet op het Nederlanderschap)」である。",
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"text": "オランダ国王あるいは女王は王国の元首である。アルバ、キュラソー、シント・マールテンでは総督が国王を代理する。",
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"text": "オランダは選挙によって選ばれた議会を持った初めての主権国家の一つである。",
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"text": "王国の立法府はオランダの議会(スターテン・ヘネラール)と政府によって構成されている。憲章の第十四、十六、十七条では、アルバ、キュラソー、シント・マールテン議会へのいくらかの関与が記されている。",
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"text": "憲章の第十三条は、王国国策会議の設置が明記されている。国策会議は憲法で規定されるが、憲章はアルバ、キュラソー、シント・マールテンの要請によって、これらの島々のそれぞれのメンバーを国策会議に含むことができることを示唆している。アルバは現在この権利を行使している。常にこの権利が行使される訳ではなく、オランダ領アンティルは1987年まで、アルバは2000年までこのメンバーではなかった。シント・マールテン初の国策会議メンバーは元副総督のDennis Richardsonとなるであろう。",
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"text": "オランダ最高裁判所(Hoge Raad der Nederlanden)は、オランダ領アンティルおよびアルバの廃棄法令により、王国の最高裁判所である。この法令の基礎は憲章の第二十三条である。第二十三条第二項では、王国の海外国が要求した場合は、その国からの追加の法廷メンバーのための王国法を制定しなければならないと明記されている。今まで、アルバ、キュラソー、シント・マールテンはいずれもこの権利を行使したことはない。",
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"text": "憲章第三十九条によれば、「民法および商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法、著作権、産業財産権法、公証人役場、計量に関する規定は、オランダ、アルバ、キュラソー、シント・マールテンにおいて出来得る限り同じように規制されなければならない」とされている。また、憲章では、これらの事項に関する現行法の大幅な修正が提案される時はその他の構成国の政府が見解を表明する機会を得るまでは代議員会に提出あるいは審議してはならない、と規定されている。",
"title": "司法"
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"text": "構成国と王国との間で対立した場合に備えて、憲章第十二条では行政による調停手続きを規定している。これは、しばしば王国の民主主義の欠陥と考えられており、2010年10月10日に発効する憲章修正の採択につながった。新しい第十二a条では、行政による調停手続きに加えて、「王国法により、王国法で明記された王国と構成国間の特定の対立の調停のために法令が制定されなければならない」と明記された。また、アルバの特別代表Evelyna Wever-CroesとJ. E. Thijsenによって修正が行われた。オリジナルの条文は「王国法により —— 法令を制定することができる」となっていた。",
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"text": "憲章第三条では王国が担う政務が明記されている。",
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"text": "第四十三条(2)では追加の王国の政務が一つ明記されている。",
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"text": "第三条第二項では、「その他の事項は協議によって王国の政務となる可能性がある」と明記されている。",
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"text": "これらの王国の政務はアルバあるいはオランダ領アンティルに影響するとしても王国政府のみが担当する。憲章第十四条第三項は、その他の場合におけるオランダによる王国の政務の扱いを予測している。",
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"text": "第三十八条に基づいて、王国内の国は前述の王国の政務の範囲外で王国法の制定を決定することができる。このような法令は、アルバおよびオランダ領アンティル議会の合意が必要なため、合意王国法と呼ばれる。",
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"text": "王国は、国際条約および合意について交渉し決定する。アルバ、キュラソー、シント・マールテンに直接影響しないものは王国憲法の規定により(つまりオランダ単独)扱われる。憲章第二十四条は、国際条約あるいは協定がアルバ、キュラソー、シント・マールテンに影響する時はその条約あるいは協定はアルバ、キュラソー、シント・マールテンの代議員会に提出されなければならないと明記している。第二十四条ではさらに、そのような条約あるいは協定がオランダ議会の黙示的承認のために提出される時は、全権大使は議会での明示的承認を表明するよう希望を伝えることができる、と明記している。",
"title": "王国の政務"
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"text": "憲章第二十五条は、アルバ、キュラソー、シント・マールテンに国際条約あるいは協定から脱退する機会を与えている。この場合、この条約あるいは協定はアルバ、キュラソー、あるいはシント・マールテンに対して適用されないことを明記しなければならない。",
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"text": "第二十六条は、アルバ、キュラソー、シント・マールテンが、関係している構成国単独に適用される国際経済あるいは金融協定の締結に対して希望を伝える時、王国と構成国のつながりと矛盾する場合を除き、王国の政府はそのような協定の締結を助けなければならない、と明記している。",
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"text": "第二十七条は、アルバ、キュラソー、シント・マールテンに影響する条約あるいは協定の作成においてこれらの国の関与を明記しており、第二十八条は、アルバ、キュラソーあるいはシント・マールテンは、彼らが望めば、国際機関に加盟することができる、と明記している。",
"title": "王国の政務"
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"text": "オランダ王国は北大西洋条約機構 (NATO)、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO) の創立メンバーでもある。",
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"text": "ほとんどの学者はオランダ王国の立憲的取り決めを国家組織の従来のモデルの一つに分類することは困難であることに合意しており、王国はスイ・ジェネリス(英語版)(Sui generis、独自の)形態であると考えている。その代わりに、王国は連邦国家、国家連合、非対称的連邦制(英語版)、権限を移譲(英語版)された単一国家の特徴を有しているとされる。",
"title": "憲法的な性格"
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"text": "王国の連邦的特徴としては、憲章における王国政務の描写、憲章における王国の構成部分の列挙、憲章が構成国の法律を王国の法律に対して下位に置いていること、憲章における王国機構の制定、王国が自身の立法文書(王国法ならびに枢密院令)を有することが挙げられる。王国の国家連合的特徴としては、憲章が構成国間の合意によってのみ改正できることが挙げられる:ほとんどの普通の連邦国家では、連邦機関自身が憲法を改正することができる。",
"title": "憲法的な性格"
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"text": "多かれ少なかれ非対称的連邦制を示す特徴としては、王国の組織の機能は憲章に明記されていない場合はオランダ憲法によって管理されることが挙げられる。憲章は王国法の制定手続についても明示していない:憲章の第十五条から第二十二条に規定された追加および修正条項によってオランダ憲法の第八十一から八十八条は王国法に対しても適用される。強制的にカリブ海の構成国が参加が必要な唯一の王国機関は王国閣僚会議である。最高裁判所および王国国策会議は共にカリブ海の構成国が求めた時のみこれらの国をメンバーに含み、カリブ海の構成国は王国の立法府への参加をほとんど完全に排除されている。しかしながら、これらの国は王国法の起草に参加でき、特命全権公使は議会の前で王国政府が提出した王国法に反対することができる。さらに、憲章第十五条によれば、特命全権公使は王国議会に王国法の起草を要求できる。",
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"text": "最後に、重要なこととして、憲章第十四条によれば、オランダは王国の政務がアルバ、キュラソーあるいはシント・マールテンに影響しない場合はこの政務を自身で処理することができる。アルバ、キュラソー、シント・マールテンはこの権利を持たない。",
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"text": "権限を移譲された単一国家を示す特徴は、憲章第五十条によると、カリブ海の構成国の法的措置あるいは行政措置が王国憲章、国際協定、王国法、枢密院令と矛盾した場合や他の王国政務を制限する場合は、王国政府がその措置を無効にすることができることである。",
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"text": "王国の憲法構造は憲法学者C. Bormanによって以下のように要約されている。",
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"text": "憲法学者C. A. J. M. Kortmannは「連邦制の特徴を有する国の連合だが、独自の形態である」と述べている Belinfante and De Reede do speak about a \"federal association\" without any reservations.。",
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"paragraph_id": 46,
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"text": "sui juris(英語版)な憲法的な性格であるにもかかわらず、同様の性質を持つ国もいくつか存在する。特に、デンマーク王国はデンマーク、グリーンランド、フェロー諸島で構成され(デンマーク王国共同体を参照)、ニュージーランド王国はニュージーランド、クック諸島、ニウエ、トケラウ、ロス海属領で構成される。これらの比較は正確ではない: 例えば、ニュージーランド女王を除いては、ニュージーランド、クック諸島、ニウエは憲法的構造を共有していない。",
"title": "憲法的な性格"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "複数の領土を有する国家は他にもあるが、はっきりと異なっている。連合王国(イギリス)とその海外領土、あるいはアメリカ合衆国とその海外領土のように一部の国家は、海外領土を国家の一体部分とは見做していない。オーストラリア連邦といったその他の国家では、海外領土を一体要素として扱ってはいないが、国家と同等の単一の国家/国籍レベルを有している。",
"title": "憲法的な性格"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "オランダ王国は欧州連合 (EU) の創立メンバーである。当初、スリナムとオランダ領アンティルはローマ条約付帯議定書の規定により明確に欧州経済共同体から除外されていたが、1962年9月1日にオランダ王国の批准文書を補完する附則によって欧州共同体内の海外国 (OCT) としてのスリナムの地位が確立された。オランダ領アンティルの海外国ならびに海外領土 (OCT) としての地位を獲得するオランダ領アンティルと欧州経済共同体との連合に関する協定(英語版)は1964年10月1日に発効した。",
"title": "欧州連合との関係"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "現在は本土オランダの一部であるBES諸島を含むカリブ海の全ての島は、欧州連合のOCTである。市民権は王国政務であり、ゆえに王国内の4つの国は区別されないため、これら四カ国の市民は欧州連合の市民でもある。",
"title": "欧州連合との関係"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2004年、共同委員会はオランダ領アンティルの大改革を提案した。2006年10月11日および11月2日、オランダ政府とそれぞれの島との間で合意が交わされ、2008年12月15日までに施行することとなった。この改革は2010年10月10日に実施された。これらの改革の下、オランダ領アンティルは解体され、キュラソーおよびシント・マールテンはオランダ王国の構成国となり1986年にオランダ領アンティルを離脱したアルバと同じ地位を得た。",
"title": "オランダ領アンティルの憲法改正"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "BES諸島(ボネール島、サバ島、シント・ユースタティウス島)は、自身もオランダ王国の主要な構成国の一つであるオランダの一部分となった。特別自治体として、これらの島はオランダ王国憲法の下「公共団体(英語版)」(オランダ語: openbare lichamen) として構成されている。これらの自治体はほとんどの点においてオランダの普通の自治体と類似しており(例えば、首長、議員、議会を有する)、ほとんどのオランダの法律(英語版)が適用される。経過措置として、オランダの法制度内で機能するのに必要と考えられるオランダの法律のみ導入され、オランダ領アンティルのほとんどの法律がBES諸島がオランダに組み入れられた2010年10月10日後も効力のあるままとなっている。それ以後、オランダ領アンティルの法律はオランダの法律に徐々に置き換えられていく見通しである。にもかかわらず、一部の例外は残ると考えられている。例えば社会保障はヨーロッパオランダとは同じレベルでは提供されず、ユーロが導入されるかも不確かである。",
"title": "オランダ領アンティルの憲法改正"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "特別自治領は、オランダ議会の投票権を有するため、オランダによる王国政務において代表権を有すると考えられている。現在のオランダの選挙法は、上院は州ごとに選出されると規定されている。しかしながら、BES諸島は現在どの州の一部でもないため、どのように上院議員を選出するかについて不確かなままである。オランダ政府はBES諸島の住民が上院議員を選出できるようになることを保障しており、これに関するオプションを検討している。",
"title": "オランダ領アンティルの憲法改正"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "オランダはBES諸島がEU法の適用を受ける欧州連合の外部に存在する地域 (OMR) の地位を得ることに関する調査を行うことを提案している。この調査は、BES諸島がOMRの地位の下でどのようにやっていくかについても検討する。",
"title": "オランダ領アンティルの憲法改正"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "オランダ王国外では、「オランダ」はオランダ王国を表すのに使用されている。例えば国際連合では、オランダ王国は国連総会では英語で「Netherlands」と呼ばれるが、公式な国連の文書では「Netherlands」の代わりに「Kingdom of the Netherlands」が使用される。国際条約においても、「オランダ王国」は「オランダ」としばしば短縮される。通常使用されるオランダ語の名称は「Nederland」で単数形であるが、公式なオランダ語の名称は「Koninkrijk der Nederlanden」で複数形である。しかしながら、オランダの慣例では、「オランダ王国」は「オランダ」ではなく「王国」と短縮される。これは、憲章で定められた王国と王国の主要な構成国であるオランダとを混同するためである。オランダ王国憲章でも、「オランダ王国」は「オランダ」ではなく「王国」と短縮されている。",
"title": "オランダとオランダ王国間の差異"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "オランダ王国を「オランダ」と呼ぶことが混乱を生ずることは別として、「オランダ」という用語を使用することに関連する不快な感情を抑えるためにも「王国」という用語は使用される。王国全体を指して「オランダ」と呼ぶことは、アルバ、キュラソー、シント・マールテンがヨーロッパに位置するオランダと平等ではないこと、王国に関する事柄に関してこれら3カ国の発言権がなくヨーロッパオランダに従属していることを暗示する。これらの島の王国政務における影響は限定されているが、確かに存在する。",
"title": "オランダとオランダ王国間の差異"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "オランダ王国の領土は42,519平方キロメートル (16,417 sq mi)である。オランダ王国はベルギー、ドイツ(どちらもオランダと)、フランス(シント・マールテンと)と国境を接している。オランダの約4分の1は海抜0メートルを下回り、ほとんどの土地は干拓によって拡げられてきた。洪水から土地を守るために堤防が築かれている。以前は、オランダの最高地点はリンブルフ州のファールス山(Vaalserberg)における322.5メートルであったが、2010年10月10日の憲法改正によってサバ島がオランダの特別自治体となったため、サバ島に存在するシーナリー山(877メートル)が最高地点となった。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "王国のカリブ海地域は異なる地理的起源を持つ2つの領域から構成される。ウィンドワード諸島(サバ島、シント・ユースタティウス島、シント・マールテン島)は火山島であり、山がちで農業に適した土地がほとんど残っていない。リーワード諸島(アルバ、ボネール島、キュラソー島)は火山起源およびサンゴ礁起源が混ざっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "カリブ海の島々は熱帯気候であり、一年中温暖である。ウィンドワード諸島は夏季はハリケーンに襲われる。オランダのヨーロッパ地域は穏やかな海洋性気候であり、夏は涼しく冬は暖かい。",
"title": "地理"
}
] | オランダ王国は、西ヨーロッパおよびカリブに領土を有する主権国家・立憲君主国である。王国の4つの地域であるアルバ、オランダ、キュラソー、シント・マールテンはそれぞれ国と呼ばれ、王国内のパートナーとして互いに対等な立場で王国を構成している。オランダは、カリブの3つの特別自治体を除いてヨーロッパに位置しており本土部分のみを指す場合は「ヨーロッパ・オランダ」と呼ばれる。 | {{Otheruseslist|西ヨーロッパとカリブの領土から構成される国家|単にオランダと呼ばれる王国内の主たる国|オランダ|[[ルクセンブルク]]ならびに[[ベルギー]]独立以前の王国|ネーデルラント連合王国|[[ナポレオン戦争]]期の[[フランス第一帝政|フランス帝国]]の衛星国|ホラント王国}}
{{Infobox country
|native_name = {{lang|nl|Koninkrijk der Nederlanden}} <small>{{nl icon}}<br>{{lang|fy|Keninkryk fan de Nederlannen}} {{fy icon}}<br>{{lang|pap|Reino Hulandes}} {{pap icon}}
|conventional_long_name = オランダ王国
|common_name = オランダ
|image_flag = Flag of the Netherlands.svg
|image_coat = Royal Coat of Arms of the Netherlands.svg
|image_map = Kingdom of the Netherlands (orthographic projection).svg
|map_caption =
|national_anthem = [[ヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエ|ヴィルヘルムス]]<br><center>[[File:United States Navy Band - Het Wilhelmus (tempo corrected).ogg]]</center>
|national_motto = <span style="line-height:133%">''Je maintiendrai''{{Spaces|2}}<small>([[フランス語|仏語]])</small><ref>{{cite web|title=Wat is het Koninklijk wapen of Rijkswapen? (Google translate)|url=https://translate.google.com/translate?js=n&prev=_t&hl=nl&ie=UTF-8&layout=2&eotf=1&sl=auto&tl=en&u=http%3A%2F%2Fwww.rijksoverheid.nl%2Fdocumenten-en-publicaties%2Fvragen-en-antwoorden%2Fwat-is-het-koninklijk-wapen-of-rijkswapen.html|work=Official Dutch government website|accessdate=8 August 2011}}</ref><br>(我、守り続けん)</span>
|official_languages = [[オランダ語]]{{smallsup|1}}(国);<br>[[西フリジア語]]、[[パピアメント語]]、[[英語]](地域)
|regional_languages =
|capital = [[アムステルダム]]{{smallsup|2}}
|dn=52.08 |de=4.30
|largest_city = capital
|government_type = [[議院内閣制|議会制]][[民主主義]]および[[立憲君主制]]
|leader_title1 = [[オランダ君主一覧|国王]]
|leader_name1 = [[ウィレム=アレクサンダー (オランダ王)|ウィレム=アレクサンダー]]
|leader_title2 = [[オランダの首相|王国閣僚会議議長]]<ref name="PM">オランダの首相は、王国の大臣として振舞う時、「王国閣僚会議議長という立場にある我らの首相」({{lang-nl-short|''Onze Minister-President, in zijn hoedanigheid van voorzitter van de raad van ministers van het Koninkrijk''}})。この一つの例は、[http://wetten.overheid.nl/BWBR0028132/ キュラソー島およびシント・マールテン島への金融監督指針に関する王国の法令] の2(3a) 条に見ることができる。オランダのその他の大臣は、王国大臣として行動する時は「王国大臣という立場にある~」({{lang-nl-short|''in zijn hoedanigheid van Minister van het Koninkrijk''}})を付けて呼ばれる(例: 王国大臣という立場にある我らの法務大臣 ''Onze Minister van Justitie in zijn hoedanigheid van minister van het Koninkrijk'')。ただし、外務大臣および防衛大臣の職務は常に王国の権限であるため、このようには呼ばれない。</ref>
|leader_name2 = [[マルク・ルッテ]]
|leader_title3 = {{仮リンク|アルバの全権公使|en|Minister Plenipotentiary of Aruba}}
|leader_name3 = {{interlang|en|Edwin Abath}}
|leader_title4 = {{仮リンク|キュラソー島の全権公使|en|Minister Plenipotentiary of Curaçao}}
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|legislature = [[スターテン・ヘネラール]]
|upper_house = [[第一院 (オランダ)|第一院]]
|lower_house = [[第二院 (オランダ)|第二院]]
|sovereignty_type = 成立
|established_event1 = 現在の王国の成立
|established_date1 = [[1815年]]
|established_event2 = オランダ王国憲章(非対称的連邦制)
|established_date2 = <br>1954年10月28日
|area_rank = 136位
|area_magnitude = 1 E10
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|area_sq_mi = 16,478<!--Do not remove per [[WP:MOSNUM]]-->
|percent_water = 18.41
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|population_density_rank = 30位
|GDP_PPP_year = 2006
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|GDP_PPP_rank =
|GDP_PPP_per_capita =
|GDP_PPP_per_capita_rank =
|currency = [[ユーロ]] <small>(ヨーロッパ・オランダ)</small>、[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]] <small>([[BES諸島|カリブ・オランダ]])</small>、[[オランダ領アンティル・ギルダー]] <small>([[キュラソー (オランダ王国)|キュラソー]]、[[シント・マールテン|シント・マールテン島]])</small>、[[アルバ・フローリン]] <small>(アルバ)</small>
|currency_code = € EUR, USD, ANG, AWG
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|time_zone = [[中央ヨーロッパ時間|CET]]および[[大西洋標準時|AST]]
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|cctld = [[.nl]]{{smallsup|3}}, [[.aw]], [[.an]], [[.bq]]
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|footnote1 = [[パピアメント語]]は王国のカリブ地域の公用語である<ref name=languages>{{cite web
|url=http://wetten.overheid.nl/BWBR0028827/geldigheidsdatum_24-10-2010
|title=Tijdelijke wet officiële talen BES
|language=Dutch
|quote=Artikel 2: De officiële talen zijn het Engels, het Nederlands en het Papiamentu. (第2条: 公用語は英語、オランダ語、パピアメント語である)
|publisher = wetten.nl
|accessdate=2010-10-24
}}</ref></small>。英語は、[[ボネール島]]、[[サバ島]]、[[シント・ユースタティウス島]]、[[シント・マールテン|シント・マールテン島]]の公用語である<ref name=languages/>。[[スペイン語]]は公用語ではないが、これらの島々で広く話されている。[[フリースラント州]]では、[[西フリジア語]]が公的地位を有している<ref>{{cite web
|url=http://wetten.overheid.nl/BWBR0002219/tekst_bevat_Fries/geldigheidsdatum_25-10-2010
|title=Wet gebruik Friese taal in het rechtsverkeer
|publisher=wetten.nl
|accessdate=2010-10-25
|language=オランダ語
}}</ref>。[[オランダ低ザクセン語]]および[[リンブルフ語]]は[[オランダ]]の[[ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章|地方言語]]として公式に認められている。
|footnote2 = [[デン・ハーグ]]がオランダの実質的な首都機能を有している。[[オラニエスタッド]]はアルバの首都である。[[ウィレムスタット]]は[[キュラソー島|キュラソー]]の首都である。[[フィリップスブルフ]]は[[シント・マールテン]]の首都である。
|footnote3 = オランダではその他のEU加盟国と共に[[.eu]]も使用される。
}}
'''オランダ王国'''(オランダおうこく、{{lang-nl|{{Audio|Nl-Koninkrijk der Nederlanden2.ogg|''Koninkrijk der Nederlanden''}}}}〔コーニンクレイク・デル・ネーデルランデン〕、{{lang-fy|Keninkryk fan de Nederlannen}}、{{lang-pap|Reino Hulandes}})は、[[西ヨーロッパ]]および[[西インド諸島|カリブ]]に領土を有する[[主権国家]]・[[立憲君主国]]である。王国の4つの地域である[[アルバ]]、[[オランダ]]、[[キュラソー (オランダ王国)|キュラソー]]、[[シント・マールテン]]はそれぞれ[[構成国|国]]({{lang-nl-short|landen}})と呼ばれ、王国内のパートナーとして互いに対等な立場で王国を構成している<ref>"EXPLANATORY MEMORANDUM to the Charter for the Kingdom of the Netherlands", transmitted to the U.N. Secretary-General in compliance with the wishes expressed in General Assembly resolutions 222 (III) and 747 (VIII). New York, 30 March 1955(* Ministerie van Buitenlandse Zaken , 41, Suriname en de Nederlandse Antillen in de Verenigde Naties III, Staatsdrukkerij-en uitgeversbedrijf/ ’s Gravenhage, 1956)</ref>。オランダは、カリブの3つの[[BES諸島|特別自治体]]を除いて[[ヨーロッパ]]に位置しており本土部分のみを指す場合は「[[ヨーロッパ・オランダ]]」と呼ばれる。
==歴史==
{{main|オランダの歴史|オランダ語連合}}
オランダ王国は[[1813年]]の[[フランス第一帝政|ナポレオン帝国]]の崩壊にその起源がある。この年、オランダは再び自由を得て、[[ウィレム1世 (オランダ王)|オラニエおよびナッサウ公ウィレム]]を君主としたネーデルラント公国が宣言された。[[南ネーデルラント]](おおよそ現在の[[ベルギー]]および[[ルクセンブルク]])との[[ネーデルラント連合王国|再統一]]は1814年に決定された。1815年3月、君主の称号が[[ネーデルラント連合王国|ネーデルラント国王]]となり、王国は現在に至る。オランダ国王は、同時に[[ドイツ連邦]]内の[[大公国]]でもあったネーデルラント王国の一地方の君主である[[ルクセンブルク大公]]でもあった。
1830年の[[ベルギー独立革命]]で、ベルギーは王国から離脱し、オランダは1839年に[[ロンドン条約 (1839年)|ロンドン条約]]で独立を承認した。この時点で、ルクセンブルクはネーデルラントと[[人的同君連合]]にある完全な独立国となった。この領土の損失を[[ドイツ連邦]]に対して埋め合わせするため、オランダの[[リンブルフ]]地方はこれ以前にルクセンブルクがあった地位と同様にオランダおよびドイツ連邦の両方に属する公国とされた。この地位はドイツ連邦が終わる1867年に覆され、この時点でリンブルフは以前のように普通のオランダの州となったが、オランダ王は今日でも[[リンブルフ公]]の称号を有している。
1954年の行政改革の起源は1931年の[[ウェストミンスター憲章]]および1941年の[[大西洋憲章]](政府形態を選択する人民の権利、一般的安全保障のための仕組みの必要性について述べられている)にある(オランダは1942年1月1日に大西洋憲章に調印した)。変革は[[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|女王ウィルヘルミナ]]の1942年12月7日のラジオ演説で提案された。この演説で、女王はロンドンの{{仮リンク|オランダ亡命政府|en|Dutch government in exile}}を代表し、戦争集結後にオランダとその植民地との間の関係を見直したいという願いを表明した。解放後、政府は海外領土が王国の統治に対等な立場で参加できるような調停に合意するための会議を招集したいとした。当初は、この演説にはプロパガンダ目的があった。オランダ政府は[[オランダ領東インド]](現在の[[インドネシア]])を念頭に置いており、[[植民地主義]]に対して批判的となっていた[[アメリカ合衆国]]の世論を鎮めたいと願っていた<ref name="Meel">Peter Meel, ''Tussen autonomie en onafhankelijkheid. Nederlands-Surinaamse betrekkingen 1954-1961'' (Between Autonomy and Independence. Dutch-Surinamese Relations 1954-1961; Leiden: KITLV 1999).</ref>。
インドネシアの独立後、[[スリナム]]と[[オランダ領アンティル]]の経済がオランダの経済と比較して取るに足らないため連邦構造は重すぎると考えられた。1954年の憲章では、スリナムとオランダ領アンティルはそれぞれオランダに[[特命全権公使|全権公使]]を置くこととなった。スリナムやオランダ領アンティルに直接的に関係する王国全体に対して当てはまる事柄について、全権公使はこれについて議論がなされるオランダの閣議に参加する権利を有していた。スリナムおよびオランダ領アンティルの代表は[[スターテン・ヘネラール]]の第一および第二評議会の会合に参加することが出来た。海外領土のメンバーは適切な時は{{仮リンク|国策会議|en|Council of State (Netherlands)}}に加えることが出来た。憲章によれば、スリナムおよびオランダ領アンティルは彼らの基本法 (''Staatsregeling'') を改正することも許された。この2つの自治国が王国を一方的に離脱する権利は認められなかったが、協議によって解決すると憲章に明記された<ref name="Meel" />。
1954年の{{仮リンク|オランダ王国憲章|en|Charter for the Kingdom of the Netherlands}}の宣言前、スリナム、[[オランダ領ニューギニア]]、オランダ領アンティル(以前の{{仮リンク|キュラソー植民地|en|Curaçao and Dependencies}})はオランダの植民地であった。
スリナムは1954年から1975年まで王国内の[[構成国]]であったが、オランダ領アンティルは1954年から2010年まで構成国だった。スリナムは独立共和国となり、オランダ領アンティルは構成国である[[アルバ]](1986年から)、[[キュラソー島|キュラソー]]および[[シント・マールテン]](2010年から)、本土オランダの特別自治体である[[ボネール島]]、[[サバ島]]、[[シント・ユースタティウス島]]に分かれた。オランダ領ニューギニアは1962年までは王国の属領であったが自治国ではなく、憲章では言及されていない。
1955年、女王[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ]]および王配[[ベルンハルト (オランダ王配)|ベルンハルト]]はスリナムおよびオランダ領アンティルを訪問した。この訪問は大成功を収めた。女王夫妻は地元住民によって熱狂的に歓迎され、この旅行はオランダのマスコミよって広く報道された。その他いくつかの行幸が続いて行われた<ref name="Oostindie1">Gert Oostindie, ''De parels en de kroon. Het koningshuis en de koloniën'' (The Pearls and the Crown. The Royal House and the Colonies; Amsterdam: [[De Bezige Bij]], 2006).</ref>。
1969年、キュラソーのアンティル島での非組織的なストライキによって深刻な騒乱や略奪が起こり、この間に[[ウィレムスタット]]の歴史的な市内の一部が火事によって焼失した。秩序は[[オランダ海兵隊]]によって回復された。同年、スリナムでは深刻な政治的不安定状態となり、スリナム首相のJohan Pengelは教師のストライキを終わらせるため軍事支援を要請するとの脅しを行った。
1973年、[[労働党 (オランダ)|労働党]]の{{仮リンク|ヨープ・デン・ウイル|en|Joop den Uyl}}の下、新しいオランダ内閣が発足した。政策方針で、内閣はスリナムおよびオランダ領アンティルの独立の期日をこれらの国の政府と共に決定したいと宣言した。アンティル政府は態度をはっきりさせず、スリナムの{{仮リンク|ユレス・シドニー|en|Jules Sedney|label=シドニー}}内閣も同様であった。スリナムの1973年の選挙によって国民党同盟 (''Nationale Partij Kombinatie'') が勝利し、{{仮リンク|ヘンク・アロン|en|Henck Arron}}が首相となった。新政府は1976年より前に独立するという声明を発表した。選挙期間中は独立については論点となっていなかったため、これは異例のことであった。[[デン・ハーグ]]のデン・ウイル政府はスリナム独立の計画を実現するための協力者を[[パラマリボ]]に得た。激しく感情的なスリナム野党の抵抗にもかかわらず、デン・ウイルとアロンは合意に達し、1975年11月25日、スリナムは独立した<ref name="Oostindie2">Gert Oostindie and Inge Klinkers, ''Knellende Koninkrijksbanden. Het Nederlandse dekolonisatiebeleid in de Caraïben, 1940-2000'', II, ''1954-1975'' (Stringent Kingdom Ties. The Dutch De-colonisation Policy in the Caribbean; Amsterdam: University Press 2001).</ref>。
== 国 ==
[[ファイル:Structuur en locatie van het Koninkrijk der Nederlanden-ja.svg|thumb|250px|オランダ王国の4つの国]]
[[ファイル:Koninkrijk der Nederlanden.png|サムネイル|250px|オランダ王国の地図。全ての領土は同縮尺で示されている。]]
オランダ王国は現在互いに対等な立場で王国を形成している4つの国によって構成されている。
<!--The statistics in this section is based on statistics from the Dutch, Aruban, and Netherlands Antillean Central Bureau of Statistics (CBS), which is has the most complete, reliable and up-to-date statistics on the Kingdom of the Netherlands. All three CBSes collect statistical information for the three governments. The statistics from the CIA World Factbook differ slightly from the CBS statistics, but they cannot be used in this section because the CIA doesn't collect statistical information about the individual islands within the Netherlands Antilles.-->
{| class="wikitable sortable" style="text-align:right"
|+ オランダ王国内の国
|-
!国
!人口<br><small>(2010年1月1日)<ref group="nb" name="dissolution" /></small>
!王国人口における割合
!面積<br><small>(km<sup>2</sup>)</small>
!王国面積における割合
!人口密度<br><small>(毎km<sup>2</sup>)</small>
!class="unsortable"|<small>情報源</small>
|-
! scope="row" style="text-align: left; font-weight: normal" | {{flag|Aruba}}
| 112,309 || 0.63% || 180 || 0.42% || 624
| style="text-align: center" | <ref group="lower-roman" name="aruba" />
|-
! scope="row" style="text-align: left; font-weight: normal" | {{flag|Curaçao|name=キュラソー}}
| 158,665 || 0.89% || 444 || 1.04% || 358
| style="text-align: center" | <ref group="lower-roman" name="antilles" />
|-
! scope="row" style="text-align: left; font-weight: normal" | {{flag|Netherlands}}<ref group="nb" name="dissolution" />
| 17,424,978 || 98.24% || 41,873 || 98.45% || 516
|
|-
! scope="row" style="text-align: left; font-weight: normal" | — {{flagicon|Netherlands}} [[ヨーロッパ・オランダ]]
| 17,399,821 || 98.10% || 41,545 || 97.68% || 521
| style="text-align: center" | <ref group="lower-roman" name="netherlands" />
|-
! scope="row" style="text-align: left; font-weight: normal" | — {{flag|Bonaire}}
| 201,040 || 0.11% || 288 || 0.69% || 69
| style="text-align: center" | <ref group="lower-roman" name="antilles" />
|-
! scope="row" style="text-align: left; font-weight: normal" | — {{flag|Saba}}
| 1,915 || 0.01% || 13 || 0.03% || 148
| style="text-align: center" | <ref group="lower-roman" name="antilles" />
|-
! scope="row" style="text-align: left; font-weight: normal" | — {{flag|Sint Eustatius}}
| 3,168 || 0.02% || 21 || 0.05% || 150
| style="text-align: center" | <ref group="lower-roman" name="antilles" />
|-
! scope="row" style="text-align: left; font-weight: normal" | {{flag|Sint Maarten}}
| 41,486 || 0.23% || 34 || 0.08% || 1,221
| style="text-align: center" | <ref group="lower-roman" name="antilles" />
|-
! scope="row" style="text-align: left; font-weight: normal; background-color:#E9E9E9" | {{flagicon|Kingdom of the Netherlands}} オランダ王国
| style="background-color:#E9E9E9" | ''17,737,438''
| style="background-color:#E9E9E9" | ''100.00%''
| style="background-color:#E9E9E9" | ''42,525''
| style="background-color:#E9E9E9" | ''100.00%''
| style="background-color:#E9E9E9" | ''515''
| style="background-color:#E9E9E9" |
|-class="sortbottom"
! scope="row" colspan="7" style="text-align: left; font-weight: normal; background-color:#FFFFFF" | {{reflist |group=lower-roman |refs=<ref group="lower-roman" name="aruba">[http://www.cbs.aw/ Central Bureau of Statistics] (Aruba)</ref>
<ref group="lower-roman" name="netherlands">[http://www.cbs.nl/nl-NL/menu/themas/bevolking/cijfers/kerncijfers/bevolking-kc.htm Central Bureau of Statistics] (Netherlands)</ref>
<ref group="lower-roman" name="antilles">[http://www.cbs.an/population/population_b2.asp Central Bureau of Statistics - population] and [http://www.cbs.an/area_climate/area_a1.asp area] (former Netherlands Antilles)</ref>}}
|-class="sortbottom"
! scope="row" colspan="7" style="text-align: left; font-weight: normal; background-color:#FFFFFF" | <small>'''Notes'''</small>
{{reflist |group=nb |refs=<ref group="nb" name="dissolution">2010年10月10日まで、オランダはボネール、サバ、あるいはシント・ユースタティウスを含まない。</ref>}}
|}
=== アルバ ===
[[アルバ]]は中央集権化された[[単一国家]]である。政府は、君主の代理である{{仮リンク|アルバの総督|en|Governor of Aruba|label=総督}}、{{仮リンク|アルバの首相|en|Prime Minister of Aruba|label=首相}}を長とする閣僚会議によって構成されている。議会は一院制の[[アルバ議会]]である。現在のアルバ総督は{{仮リンク|フレディス・レフンニョル|en|Fredis Refunjol}}、現在の首相はマイクアリソン・エマリンケルンである。通貨は[[アルバ・フロリン]]が使用されている。
===キュラソー===
[[キュラソー (オランダ王国)|キュラソー]]は中央集権化された単一国家であり、アルバと同様の統治形態である。通貨は[[アンティル・ギルダー]]が使用されている。
=== オランダ ===
[[オランダ]]は[[議会制民主主義]]の単一国家である。政府は君主および[[オランダの首相|首相]]を長とする閣僚会議によって構成されている。議会は[[第一院 (オランダ)|第一院]](上院)および[[第二院 (オランダ)|第二院]](下院)によって構成される[[スターテン・ヘネラール]]である。オランダは12の州([[ドレンテ州]]、[[フレヴォラント州]]、[[フリースラント州]]、[[ヘルダーラント州]]、[[フローニンゲン州]]、[[リンブルフ州 (オランダ)|リンブルフ州]]、[[北ブラバント州]]、[[北ホラント州]]、[[オーファーアイセル州]]、[[ユトレヒト州]]、[[ゼーラント州]]、[[南ホラント州]])に分かれている。州はさらに443の基礎自治体[[ヘメーンテ (オランダ)|ヘメーンテ]](Gemeente)に分割されている。現在のオランダ首相は[[マルク・ルッテ]]である。通貨は[[ユーロ]]を導入している。例外は特別自治体の[[BES諸島]]で、オランダ領アンティルギルダーを使用していたが2011年に[[米ドル]]を導入した<ref>{{cite web
|url=http://www.thedailyherald.com/islands/1-news/3703-monetary-safety-law-bes-islands-approved.html
|title=Monetary, Safety Law BES islands approved islands
|publisher=The Daily Herald
|date=2010-05-19
|accessdate=2011-06-27
}}</ref>。
====ボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島====
{{see also|ボネール、シント・ユースタティウスおよびサバ}}
[[ボネール島]]、[[シント・ユースタティウス島]]、[[サバ島]][[ボネール、シント・ユースタティウスおよびサバ|特別自治体]](BES諸島)はオランダ本土の一部であり、州には組込まれていない<ref>{{cite web
|url=http://www.eerstekamer.nl/wetsvoorstel/31954_wet_openbare_lichamen
|title=31.954, Wet openbare lichamen Bonaire, Sint Eustatius en Saba
|language=Dutch
|publisher=Eerste kamer der Staten-Generaal
|quote=De openbare lichamen vallen rechtstreeks onder het Rijk omdat zij geen deel uitmaken van een provincie. (The public bodies (...), because they are not part of a Province)
|accessdate=2010-10-15
}}</ref>。BES諸島はほとんどの場合において通常のオランダの基礎自治体と似ており(自治体の長、議員、議会など)、ほとんどのオランダの法律の対象となる。これらの3つの島の住民はオランダの国政選挙や欧州選挙に投票することができる。しかしながら、これらの島にはいくつか例外が存在する。例えば、[[社会保険]]はオランダと同等のレベルでは提供されていない。2008年11月、これらの島では通貨として[[米ドル]]を導入することが決定され<ref>[http://www.bonaireinsider.com/index.php/bonaireinsider/bonaire_opts_for_us_dollar_as_new_official_currency/ Bonaire Opts for U.S. Dollar as New Official Currency]</ref>、2011年1月1日から導入された。オランダは本土とBES諸島との間のキャッシュフローに関して為替相場変動リスクを負うこととなった。
===シント・マールテン島===
[[シント・マールテン]]は中央集権化された[[単一国家]]であり、アルバと同様に統治機構を有している。通貨はキュラソーと同様にアンティル・ギルダーが使用されている。
== 制度 ==
=== 憲章および憲法 ===
{{仮リンク|オランダ憲法|en|Constitution of the Netherlands}}、{{仮リンク|アルバ憲法|en|Constitution of Aruba}}、{{仮リンク|キュラソー憲法|en|Constitution of Curaçao}}、{{仮リンク|シント・マールテン憲法|en|Constitution of Sint Maarten}}はそれぞれの国の統治を定めるが、{{仮リンク|オランダ王国憲章|en|Charter for the Kingdom of the Netherlands}}がこれらの憲法より優位にある。オランダ憲法は憲章で言及されている王国の制度を制定、制限する。これらの制度に関する憲章中の条項は付加的であり、憲章に明記されているアルバ、キュラソー、シント・マールテンに直接的に影響する王国の事項に関してのみ適用される。王国の事柄がアルバ、キュラソー、シント・マールテンに影響しない場合は、オランダ憲法で定められた条項に従って対処する。これらの場合、オランダはオランダ憲法に従って、オランダ王国という立場で単独で行動する。その他の3カ国は、自国のみに関連し本土オランダとは関連しない王国の事柄に関して、オランダ同様に行動することはできない。これらの場合、憲章の条項が優先される。
オランダ王国憲章の改正は、全ての国が合意した時のみ可能である。
=== 政府 ===
王および彼の大臣は王国政府を形成する。憲章の第7条によれば、{{仮リンク|オランダ王国閣僚会議|en|Council of Ministers of the Kingdom of the Netherlands}}は、{{仮リンク|オランダ閣僚会議|en|Council of Ministers of the Netherlands}}とそれを補完する{{仮リンク|アルバの全権公使|en|Minister Plenipotentiary of Aruba}}、{{仮リンク|キュラソー島の全権公使|en|Minister Plenipotentiary of Curaçao}}、{{仮リンク|シント・マールテン島の全権公使|en|Minister Plenipotentiary of Sint Maarten}}によって構成される<ref name="Charter" />。[[オランダの首相|オランダ首相]]は王国閣僚会議の議長を務める<ref name="bzk">{{cite web
|url=http://www.minbzk.nl/bzk2006uk/subjects/aruba-and-the
|title=Aruba and the Netherlands Antilles: Political relations within the Kingdom of the Netherlands
|accessdate=2007-10-13
|publisher=Ministerie van Binnenlandse Zaken en Koninkrijksrelaties
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080217222203/http://www.minbzk.nl/bzk2006uk/subjects/aruba-and-the <!-- Bot retrieved archive -->
|archivedate = 2008-02-17
}}</ref>。
2007年12月、王国関係のための代理評議会が設立された<ref>Wetten.overheid.nl - [http://wetten.overheid.nl/BWBR0023029/ Instellingsbesluit raad voor Koninkrijksrelaties]</ref><ref>Nationaal Archief - [http://www.nationaalarchief.nl/selectielijsten/BSD_Coordinatie_algemeen_regeringsbeleid_stcrnt_2009_63.pdf], page 12</ref>。この評議会は王国閣僚会議の会合のための準備を行う。このような評議会の設立は、王国国策会議によって長年主張されてきた<ref>RNW - [http://antilliaans.caribiana.nl/politiek/car20071107_Onderraad-Antillen Onderraad voor Koninkrijksrelaties]</ref>。
政府および王国閣僚会議は君主制それ自身と共に、憲章の第五条において、これらの関してはオランダ王国憲法によって主に制限されオランダ王国憲章は定めない、と記されている。しかしながら、オランダ本土および王国全域においてこれらの制度が有する2つの役割は司法上分離している。
王国レベルにおいて2つの法律文書が存在する: 王国法 ({{lang-nl|Rijkswet}}) および王国枢密院令 ({{lang-nl|Algemene maatregel van Rijksbestuur}})。王国法の例は「オランダ市民権に関する王国法 ({{lang-nl|Rijkswet op het Nederlanderschap}})」である。
オランダ国王あるいは女王は王国の[[元首]]である。アルバ、キュラソー、シント・マールテンでは[[総督]]が国王を代理する。
オランダは選挙によって選ばれた議会を持った初めての[[主権国家体制|主権国家]]の一つである{{Citation needed|date=June 2011}}。
=== 立法府 ===
王国の立法府はオランダの議会([[スターテン・ヘネラール]])と政府によって構成されている。憲章の第十四、十六、十七条では、アルバ、キュラソー、シント・マールテン議会へのいくらかの関与が記されている。
=== 国策会議 ===
憲章の第十三条は、王国国策会議の設置が明記されている。国策会議は憲法で規定されるが、憲章はアルバ、キュラソー、シント・マールテンの要請によって、これらの島々のそれぞれのメンバーを国策会議に含むことができることを示唆している<ref name="Charter" />。アルバは現在この権利を行使している<ref name="bzk" />。常にこの権利が行使される訳ではなく、オランダ領アンティルは1987年まで、アルバは2000年までこのメンバーではなかった<ref name="Hoogers">H.G. Hoogers (2008) "De landen en het Koninkrijk", in [http://www.antillenhuis.nl/web/images/eindrapportageRUG31032008.pdf Schurende rechtsordes: over juridische implicates van de UPG-status voor de eilandgebieden van de Nederlandse Antillen en Aruba], Groningen: Faculteit rechtsgeleerdheid van de Rijksuniversiteit Groningen, pp. 119-124. This study was [http://www.minbzk.nl//onderwerpen/de-nederlandse/samenwerking/publicaties/114245/eindrapportage mandated by the Dutch State Secretary for Kingdom Relations] and was used for government policy.</ref>。シント・マールテン初の国策会議メンバーは元副総督のDennis Richardsonとなるであろう<ref>RNW.nl - [http://www.rnw.nl/caribiana/article/dennis-richardson-voorgedragen-voor-raad-van-state Dennis Richardson voorgedragen voor Raad van State]</ref>。
== 司法 ==
[[オランダ最高裁判所|オランダ最高裁判所(Hoge Raad der Nederlanden)]]は、オランダ領アンティルおよびアルバの廃棄法令により、王国の[[最高裁判所]]である<ref>In Dutch: Cassatieregeling voor de Nederlandse Antillen en Aruba, text available [http://www.st-ab.nl/wetten/1000_Cassatieregeling_voor_de_Nederlandse_Antillen_en_Aruba.htm here]</ref>。この法令の基礎は憲章の第二十三条である。第二十三条第二項では、王国の海外国が要求した場合は、その国からの追加の法廷メンバーのための王国法を制定しなければならないと明記されている<ref name="Charter" />。今まで、アルバ、キュラソー、シント・マールテンはいずれもこの権利を行使したことはない。
憲章第三十九条によれば、「[[民法]]および[[商法]]、[[民事訴訟法]]、[[刑法]]、[[刑事訴訟法]]、[[著作権]]、産業財産権法、[[公証人]]役場、計量に関する規定は、オランダ、アルバ、キュラソー、シント・マールテンにおいて出来得る限り同じように規制されなければならない」とされている。また、憲章では、これらの事項に関する現行法の大幅な修正が提案される時はその他の構成国の政府が見解を表明する機会を得るまでは代議員会に提出あるいは審議してはならない、と規定されている<ref name="Charter" />。
=== 構成国間および構成国と王国間の調停 ===
構成国と王国との間で対立した場合に備えて、憲章第十二条では行政による調停手続きを規定している。これは、しばしば王国の民主主義の欠陥と考えられており、2010年10月10日に発効する憲章修正の採択につながった。新しい第十二a条では、行政による調停手続きに加えて、「王国法により、王国法で明記された王国と構成国間の特定の対立の調停のために法令が制定されなければならない」と明記された。また、アルバの特別代表Evelyna Wever-CroesとJ. E. Thijsenによって修正が行われた。オリジナルの条文は「王国法により —— 法令を制定することができる」となっていた<ref>Ikregeer.nl - [http://ikregeer.nl/document/kst-32213-17 Nr. 17 AMENDEMENT VAN DE BIJZONDER GEDELEGEERDEN WEVER EN THIJSEN]</ref>。
== 王国の政務 ==
憲章第三条では王国が担う政務が明記されている。
*王国の独立および防衛の維持
*外交関係
*オランダ国籍
*騎士団、王国旗、国章の規定
*船舶の国籍および帆船を除く王国旗を掲げた航洋船の安全と航海に必要な国王旗
*オランダ国民のオランダ国籍の取得および放棄を規定する一般規則の監督
*外国人の国籍取得および放棄に関する一般条件
*身柄引渡
第四十三条(2)では追加の王国の政務が一つ明記されている。
*基本的人権および自由、法的確実性、良い統治の保護
第三条第二項では、「その他の事項は協議によって王国の政務となる可能性がある」と明記されている<ref name="Charter">[http://www.arubaforeignaffairs.com/afa/readBlob.do?id=704 Charter for the Kingdom of the Netherlands]</ref>。
これらの王国の政務はアルバあるいはオランダ領アンティルに影響するとしても王国政府のみが担当する。憲章第十四条第三項は、その他の場合におけるオランダによる王国の政務の扱いを予測している<ref name="Charter" />。
第三十八条に基づいて、王国内の国は前述の王国の政務の範囲外で王国法の制定を決定することができる。このような法令は、アルバおよびオランダ領アンティル議会の合意が必要なため、合意王国法と呼ばれる<ref name="Charter" />。
=== 外交 ===
王国は、国際[[条約]]および合意について交渉し決定する。アルバ、キュラソー、シント・マールテンに直接影響しないものは王国憲法の規定により(つまりオランダ単独)扱われる。憲章第二十四条は、国際条約あるいは協定がアルバ、キュラソー、シント・マールテンに影響する時はその条約あるいは協定はアルバ、キュラソー、シント・マールテンの代議員会に提出されなければならないと明記している。第二十四条ではさらに、そのような条約あるいは協定がオランダ議会の黙示的承認のために提出される時は、全権大使は議会での明示的承認を表明するよう希望を伝えることができる、と明記している<ref name="Charter" />。
憲章第二十五条は、アルバ、キュラソー、シント・マールテンに国際条約あるいは協定から脱退する機会を与えている。この場合、この条約あるいは協定はアルバ、キュラソー、あるいはシント・マールテンに対して適用されないことを明記しなければならない。
第二十六条は、アルバ、キュラソー、シント・マールテンが、関係している構成国単独に適用される国際経済あるいは金融協定の締結に対して希望を伝える時、王国と構成国のつながりと矛盾する場合を除き、王国の政府はそのような協定の締結を助けなければならない、と明記している<ref name="Charter" />。
第二十七条は、アルバ、キュラソー、シント・マールテンに影響する条約あるいは協定の作成においてこれらの国の関与を明記しており、第二十八条は、アルバ、キュラソーあるいはシント・マールテンは、彼らが望めば、国際機関に加盟することができる、と明記している<ref name="Charter" />。
オランダ王国は[[北大西洋条約機構]] (NATO)、[[経済協力開発機構]] (OECD)、[[世界貿易機関]] (WTO) の創立メンバーでもある。
==憲法的な性格==
ほとんどの学者はオランダ王国の立憲的取り決めを国家組織の従来のモデルの一つに分類することは困難であることに合意しており、王国は{{仮リンク|スイ・ジェネリス|en|Sui generis}}(''Sui generis''、独自の)形態であると考えている<ref name="Hoogers" /><ref>"De in het statuut neergelegde staatsvorm heeft een uniek karakter en is moeilijk in een bepaalde categorie onder te brengen [...] Veelal wordt dan ook geconcludeerd dat het Koninkrijk niet van een duidelijke classificate kan worden voorzien. Gesproken wordt van een quasi-, dan wel pseudo-federatie of van een constructie ''sui generis''", in: C. Borman (2005) ''[https://books.google.co.jp/books?id=2-tZN0vj5QwC&pg=PA24&lpg=PA24&source=bl&ots=JAhhnKWBpG&sig=vNTM2UzSyblZQ7yh75Z0VrA2qh0&hl=nl&ei=M2gZStb2As7T-QaqxJnMDg&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y Het Statuut voor het Koninkrijk]'', Deventer: Kluwer, pp. 23-24.</ref>。その代わりに、王国は[[連邦制|連邦国家]]、[[国家連合]]、{{仮リンク|非対称的連邦制|en|federacy}}、{{仮リンク|分権|en|devolution|label=権限を移譲}}された[[単一国家]]の特徴を有しているとされる。
王国の連邦的特徴としては、憲章における王国政務の描写、憲章における王国の構成部分の列挙、憲章が構成国の法律を王国の法律に対して下位に置いていること、憲章における王国機構の制定、王国が自身の立法文書(王国法ならびに枢密院令)を有することが挙げられる。王国の国家連合的特徴としては、憲章が構成国間の合意によってのみ改正できることが挙げられる:ほとんどの普通の連邦国家では、連邦機関自身が憲法を改正することができる<ref name="Hoogers" />。
多かれ少なかれ非対称的連邦制を示す特徴としては、王国の組織の機能は憲章に明記されていない場合はオランダ憲法によって管理されることが挙げられる。憲章は王国法の制定手続についても明示していない:憲章の第十五条から第二十二条に規定された追加および修正条項によってオランダ憲法の第八十一から八十八条は王国法に対しても適用される。強制的にカリブ海の構成国が参加が必要な唯一の王国機関は王国閣僚会議である。最高裁判所および王国国策会議は共にカリブ海の構成国が求めた時のみこれらの国をメンバーに含み、カリブ海の構成国は王国の立法府への参加をほとんど完全に排除されている。しかしながら、これらの国は王国法の起草に参加でき、特命全権公使は議会の前で王国政府が提出した王国法に反対することができる。さらに、憲章第十五条によれば、特命全権公使は王国議会に王国法の起草を要求できる<ref name="Hoogers" />。
最後に、重要なこととして、憲章第十四条によれば、オランダは王国の政務がアルバ、キュラソーあるいはシント・マールテンに影響しない場合はこの政務を自身で処理することができる。アルバ、キュラソー、シント・マールテンはこの権利を持たない<ref name="Hoogers" />。
権限を移譲された単一国家を示す特徴は、憲章第五十条によると、カリブ海の構成国の法的措置あるいは行政措置が王国憲章、国際協定、王国法、枢密院令と矛盾した場合や他の王国政務を制限する場合は、王国政府がその措置を無効にすることができることである<ref name="Hoogers" />。
王国の憲法構造は憲法学者C. Bormanによって以下のように要約されている。
{{quote|a voluntary association of autonomous countries in a sovereign Kingdom that is placed above them, in which the institutions of the Kingdom largely coincide with the institutions of the largest country, in which on the level of the Kingdom only a few affairs are governed, and in which from the level of the Kingdom a limited influence can be exerted on the smaller countries.|C. Borman<ref>"Een poging om de structuur van het Koninkrijk samen te vatten leidt tot de volgende omschrijving: een vrijwillig samengaan van autonome landen in een boven die landen geplaatst soeverein Koninkrijk, waarbij de organen van het Koninkrijk grotendeels samenvallen met die van het grootste land, op het niveau van het Koninkrijk slechts enkele taken worden verricht en vanwege het Koninkrijk een beperkte invloed kan worden uitgeoefend op het autonome bestuur in de kleinere landen", in: C. Borman (2005) ''[https://books.google.co.jp/books?id=2-tZN0vj5QwC&pg=PA24&lpg=PA24&source=bl&ots=JAhhnKWBpG&sig=vNTM2UzSyblZQ7yh75Z0VrA2qh0&hl=nl&ei=M2gZStb2As7T-QaqxJnMDg&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y Het Statuut voor het Koninkrijk]'', Deventer: Kluwer, p. 24.</ref>}}
憲法学者C. A. J. M. Kortmannは「連邦制の特徴を有する国の連合だが、独自の形態である」と述べている<ref>"associatie van
landen die trekken heeft van een federatie (Bondsstaat), maar wel een eigensoortige", in: C.A.J.M. Kortmann (2005) ''Constitutioneel recht'', Deventer, p. 107.</ref> Belinfante and De Reede do speak about a "federal association" without any reservations.<ref>A.D. Belinfante, J.L. De Reede (2002) ''Beginselen van het Nederlandse Staatsrecht'', Deventer, p. 315.</ref>。
=== 比較 ===
{{仮リンク|sui juris|en|sui juris|label=''sui juris''}}な憲法的な性格であるにもかかわらず、同様の性質を持つ国もいくつか存在する。特に、[[デンマーク王国]]は[[デンマーク]]、[[グリーンランド]]、[[フェロー諸島]]で構成され([[デンマーク王国共同体]]を参照)、[[ニュージーランド王国]]は[[ニュージーランド]]、[[クック諸島]]、[[ニウエ]]、[[トケラウ]]、[[ロス海属領]]で構成される。これらの比較は正確ではない: 例えば、[[ニュージーランド女王]]を除いては、ニュージーランド、クック諸島、ニウエは憲法的構造を共有していない。
複数の領土を有する国家は他にもあるが、はっきりと異なっている。[[連合王国]]([[イギリス]])とその[[イギリスの海外領土|海外領土]]、あるいは[[アメリカ合衆国]]とその[[アメリカ合衆国の海外領土|海外領土]]のように一部の国家は、海外領土を国家の一体部分とは見做していない。[[オーストラリア連邦]]といったその他の国家では、海外領土を一体要素として扱ってはいないが、国家と同等の単一の国家/国籍レベルを有している。
==欧州連合との関係==
オランダ王国は[[欧州連合]] (EU) の創立メンバーである。当初、スリナムとオランダ領アンティルは[[ローマ条約]]付帯議定書の規定により明確に[[欧州経済共同体]]から除外されていたが<ref>TREATY ESTABLISHING THE EEC - PROTOCOL ON THE APPLICATION OF THE TREATY ESTABLISHING THE EUROPEAN ECONOMIC COMMUNITY TO THE NON-EUROPEAN PARTS OF THE KINGDOM OF THE NETHERLANDS<p>{{sc|The High Contracting Parties,}}<p>{{sc|Anxious}}, at the time of signature of the Treaty establishing the European Economic Community, to define the scope of the provisions of Article 227 of this Treaty in respect of the Kingdom of the Netherlands,<p>{{sc|Have agreed}} upon the following provisions, which shall be annexed to this Treaty:<p>The Government of the Kingdom of the Netherlands, by reason of the constitutional structure of the Kingdom resulting from the Statute of 29 December 1954, shall, by way of derogation from Article 227, be entitled to ratify the Treaty on behalf of the Kingdom in Europe and Netherlands New Guinea only.<p>Done at Rome this twenty-fifth day of March in the year one thousand nine hundred and fifty-seven.<p>[http://www.ena.lu/treaty-establishing-protocol-application-non-european-parts-kingdom-netherlands-rome-march-1957-020302338.html Source]</ref>、1962年9月1日にオランダ王国の批准文書を補完する附則によって欧州共同体内の[[欧州連合加盟国の特別領域|海外国]] (OCT) としてのスリナムの地位が確立された<ref>"The provisions of Part Four of the Treaty were applied to Surinam, by virtue of a Supplementary Act of the Kingdom of the Netherlands to complete its instrument of ratification, from 1 September 1962 to 16 July 1976.", in: eur-lex.europa.eu - [http://eur-lex.europa.eu/LexUriServ/LexUriServ.do?uri=CELEX:12006E/TXT:EN:HTML Treaty establishing the European Community (consolidated version) - Text of the Treaty]</ref>。オランダ領アンティルの海外国ならびに海外領土 (OCT) としての地位を獲得する{{仮リンク|オランダ領アンティルと欧州経済共同体との連合に関する協定|en|Convention on the association of the Netherlands Antilles with the European Economic Community}}は1964年10月1日に発効した。
現在は本土オランダの一部であるBES諸島を含むカリブ海の全ての島は、欧州連合のOCTである。市民権は王国政務であり、ゆえに王国内の4つの国は区別されないため、これら四カ国の市民は[[欧州連合の市民]]でもある。
== オランダ領アンティルの憲法改正 ==
{{main|w:Dissolution of the Netherlands Antilles|オランダ領アンティルの解体}}
2004年、共同委員会はオランダ領アンティルの大改革を提案した。2006年10月11日および11月2日、オランダ政府とそれぞれの島との間で合意が交わされ、2008年12月15日までに施行することとなった<ref name="endofNA">{{cite news
|author=Staff reporter
|title=Agreement on division of Netherlands Antilles
|url=http://www.government.nl/actueel/nieuwsarchief/2007/02February/13/0-42-1_42-92711.jsp
|publisher=Government.nl
|date=2007-02-13
|accessdate=2007-02-24
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070312003241/http://www.government.nl/actueel/nieuwsarchief/2007/02February/13/0-42-1_42-92711.jsp <!-- Bot retrieved archive -->
|archivedate=2007-03-12
}}</ref>。この改革は2010年10月10日に実施された。これらの改革の下、オランダ領アンティルは解体され、キュラソーおよびシント・マールテンはオランダ王国の構成国となり1986年にオランダ領アンティルを離脱したアルバと同じ地位を得た。
BES諸島(ボネール島、サバ島、シント・ユースタティウス島)は、自身もオランダ王国の主要な構成国の一つであるオランダの一部分となった。特別自治体として、これらの島はオランダ王国憲法の下「{{仮リンク|公共団体 (オランダ)|en|Public body (Netherlands)|label=公共団体}}」({{lang-nl|openbare lichamen}}) として構成されている。これらの自治体はほとんどの点においてオランダの普通の自治体と類似しており(例えば、首長、議員、議会を有する)、ほとんどの{{仮リンク|オランダの法律|en|Law of the Netherlands}}が適用される。経過措置として、オランダの法制度内で機能するのに必要と考えられるオランダの法律のみ導入され、オランダ領アンティルのほとんどの法律がBES諸島がオランダに組み入れられた2010年10月10日後も効力のあるままとなっている。それ以後、オランダ領アンティルの法律はオランダの法律に徐々に置き換えられていく見通しである。にもかかわらず、一部の例外は残ると考えられている。例えば社会保障はヨーロッパオランダとは同じレベルでは提供されず、[[ユーロ]]が導入されるかも不確かである<ref name="carib">{{cite web |author=The Daily Herald |title=St. Eustatius, Saba, Bonaire and The Hague Reach Historic Agreement |url=http://www.caribbeanpressreleases.com/articles/636/1/St-Eustatius-Saba-Bonaire-and-The-Hague-Reach-Historic-Agreement/More-talks-with-Curacao-and-St-Maarten.html |date=2006-10-12 |accessdate=2006-10-21}}</ref><ref name="rnw">{{cite web |author=Radio Netherlands |title=Caribbean islands become Dutch municipalities |url=http://www.radionetherlands.nl/currentaffairs/ant061012mc |date=2006-10-12 |accessdate=2006-10-21}}</ref>。
特別自治領は、オランダ議会の投票権を有するため、オランダによる王国政務において代表権を有すると考えられている。現在のオランダの選挙法は、[[第一院 (オランダ)|上院]]は州ごとに選出されると規定されている。しかしながら、BES諸島は現在どの州の一部でもないため、どのように上院議員を選出するかについて不確かなままである。オランダ政府はBES諸島の住民が上院議員を選出できるようになることを保障しており、これに関するオプションを検討している<ref name="carib" /><ref name="rnw" />。
オランダはBES諸島が[[欧州連合加盟国の特別領域|EU法の適用を受ける欧州連合の外部に存在する地域]] (OMR) の地位を得ることに関する調査を行うことを提案している。この調査は、BES諸島がOMRの地位の下でどのようにやっていくかについても検討する<ref name="carib" />。
== オランダとオランダ王国間の差異==
オランダ王国外では、「オランダ」はオランダ王国を表すのに使用されている。例えば国際連合では、オランダ王国は国連総会では英語で「Netherlands」と呼ばれるが、公式な国連の文書では「Netherlands」の代わりに「Kingdom of the Netherlands」が使用される。国際条約においても、「オランダ王国」は「オランダ」としばしば短縮される。通常使用されるオランダ語の名称は「Nederland」で単数形であるが、公式なオランダ語の名称は「Koninkrijk der Nederlanden」で複数形である。しかしながら、オランダの慣例では、「オランダ王国」は「オランダ」ではなく「王国」と短縮される。これは、憲章で定められた王国と王国の主要な構成国であるオランダとを混同するためである<ref>この慣例は全ての政府文書やほとんど全ての王国政務に関する報道で見ることができる。また、オランダ王国と関連した機関でも同様の慣例が見られる(例: ''Raad van Ministers van het Koninkrijk'' 王国閣僚会議、''Ministerie van Binnenlanse Zaken en Koninkrijksrelaties'' 内務・王国政務省、{{仮リンク|コーニンクレイクスペーレン|en|Kingdom Games|label=''Koninkrijksspelen''}} 王国ゲームズ〔英連邦の[[コモンウェルスゲームズ]]と類似したイベント〕)</ref>。オランダ王国憲章でも、「オランダ王国」は「オランダ」ではなく「王国」と短縮されている<ref name="Charter" />。
オランダ王国を「オランダ」と呼ぶことが混乱を生ずることは別として、「オランダ」という用語を使用することに関連する不快な感情を抑えるためにも「王国」という用語は使用される。王国全体を指して「オランダ」と呼ぶことは、アルバ、キュラソー、シント・マールテンがヨーロッパに位置するオランダと平等ではないこと、王国に関する事柄に関してこれら3カ国の発言権がなくヨーロッパオランダに従属していることを暗示する。これらの島の王国政務における影響は限定されているが、確かに存在する。<!--
Talking about the negotiation tactics of then Minister for Kingdom Affairs [[Alexander Pechtold]], [[ChristenUnie]] leader and then demissionair Deputy Prime Minister of the Netherlands [[André Rouvoet]] illustrated the sensitivity in this matter by remarking in the ''[[House of Representatives of the Netherlands|House of Representatives]]'' that "[...] the old reproof that constantly characterised the relationship between the Netherlands and the Antilles immediately surfaced again. The Netherlands identifies the Kingdom with the Netherlands and dictates. The Netherlands Antilles can either give in or be ruled upon."<ref>{{cite web |url=http://www.christenunie.nl/nl/k/news/view/41358 |title=Bijdrage debat Begroting Koninkrijksrelaties 2006 |accessdate=2007-10-21 |author=André Rouvoet |date=2005-10-12 |publisher=ChristenUnie.nl |language=Dutch |quote=Hoewel Minister De Grave er wat ons betreft meer vaart achter had mogen zetten, had hij onmiskenbaar de goede richting te pakken én, dat is in Koninkrijkszaken cruciaal, de goede toon. Zijn opvolger, Minister Pechtold, bleek die broodnodige prudentie te ontberen met als dieptepunt zijn brief van 24 augustus waarin hij staatkundige veranderingen afhankelijk maakte van financiële verbeteringen. Het oude verwijt dat steeds de relatie tussen Nederland en de Antillen heeft gekenmerkt, speelde onmiddellijk weer op. Nederland vereenzelvigt het Koninkrijk met Nederland en dicteert. De Nederlandse Antillen moeten slikken of stikken. Gevolg: ergernis in de West, verstoorde verhoudingen en verlies van momentum; geen frisse wind, maar meer een storm in de Caribische porseleinkast. Het zal allemaal wel te maken hebben met de behoefte van deze minister om te zeggen wat hij denkt en heilige huisjes niet te sparen, maar echt behulpzaam voor de verhoudingen in het Koninkrijk is het niet.}}</ref> In addition, the ''Werkgroep Bestuurlijke en Financiële Verhoudingen Nederlandse Antillen''—the commission that explored the current constitutional reform of the Kingdom—recommended that the "identification of the Netherlands with the Kingdom needs to be eliminated".<ref>{{cite web |url=http://www.minbzk.nl/contents/pages/10100/nukanhetnumoethet.pdf |title=Nu kan het... nu moet het! Advies Werkgroep Bestuurlijke en Financiële Verhoudingen Nederlandse Antillen |accessdate=2007-10-21 |author=Werkgroep Bestuurlijke en Financiële Verhoudingen Nederlandse Antillen |date=2004-10-08 |language=Dutch |pages=37–38 |format=PDF |quote=Aanbevelingen Koninkrijk “Nieuwe Stijl”: [...] 7. De vereenzelviging van Nederland met het Koninkrijk wordt doorbroken.}}</ref> The Council of State of the Kingdom joins the commission in this by remarking that the Kingdom of the Netherlands has no telephone number, no budget and that the [[Council of Ministers of the Kingdom of the Netherlands|Council of Ministers of the Kingdom]] usually meets very briefly with a summary agenda.<ref>{{cite web |url=http://www.minbzk.nl/contents/pages/81294/bijlage_staatkundige_veranderingen.pdf |title=Voorlichting overeenkomstig artikel 18, tweede lid, van de Wet op de Raad van State inzake de hervorming van de staatkundige verhoudingen van de Antilliaanse eilanden binnen het Koninkrijk |accessdate=2007-10-21 |author=Raad van State van het Koninkrijk |date=2006-09-18 |language=Dutch |pages=34–35 |format=PDF |quote=Het Koninkrijk der Nederlanden heeft geen adres of telefoonnummer en al evenmin een eigen budget. Als het Koninkrijk wordt gebeld, krijgt men Nederland aan de lijn. De relaties binnen het Koninkrijk zijn vooral een dynamisch onderhandelingsproces. Een democratisch gelegitimeerd centrum ontbreekt. Het duidelijkst geldt dit voor de rijksministerraad, die gewoonlijk slechts zeer kortstondig beraadslaagt, met een zeer summiere agenda en met weinig discussie over de koers van het Koninkrijk als geheel. Voor de voorbereiding is de raad vrijwel geheel afhankelijk van (voorbereidend) overleg tussen vertegenwoordigers van de drie landsregeringen.}}</ref> To counter this habit, the Council of State has suggested that with the pending constitutional reform in the Kingdom, a Secretariat for the Kingdom will be instituted that prepares the agenda for the Council of Ministers of the Kingdom and guards the enforcement of decisions of the Council.
-->
== 地理 ==
[[ファイル:Dutch Caribbean map.png|サムネイル|400px|オランダ領カリブ諸島の地図]]
{{main|アルバの地理|キュラソーの地理|オランダの地理|シント・マールテンの地理}}
オランダ王国の領土は{{convert|42519|km2|sqmi}}である。オランダ王国は[[ベルギー]]、[[ドイツ]](どちらもオランダと)、[[フランス]](シント・マールテンと)と国境を接している。オランダの約4分の1は海抜0メートルを下回り、ほとんどの土地は干拓によって拡げられてきた。洪水から土地を守るために[[堤防]]が築かれている。以前は、オランダの最高地点は[[リンブルフ州 (オランダ)|リンブルフ州]]の[[ファールス山]](Vaalserberg)における322.5メートルであったが、2010年10月10日の憲法改正によって[[サバ島]]がオランダの特別自治体となったため、サバ島に存在する[[シーナリー山]](877メートル)が最高地点となった。
王国のカリブ海地域は異なる地理的起源を持つ2つの領域から構成される。[[ウィンドワード諸島 (西インド諸島)|ウィンドワード諸島]](サバ島、シント・ユースタティウス島、シント・マールテン島)は火山島であり、山がちで[[農業]]に適した土地がほとんど残っていない。[[リーワード諸島 (西インド諸島)|リーワード諸島]](アルバ、ボネール島、キュラソー島)は火山起源およびサンゴ礁起源が混ざっている。
カリブ海の島々は[[熱帯気候]]であり、一年中温暖である。ウィンドワード諸島は夏季は[[ハリケーン]]に襲われる。オランダのヨーロッパ地域は穏やかな[[海洋性気候]]であり、夏は涼しく冬は暖かい。
== 脚注 ==
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
*{{仮リンク|非対称的連邦制|en|federacy}}
*[[オランダ君主一覧]]
*{{仮リンク|王国記念日|en|Koninkrijksdag}}
*[[オランダ領カリブ]]
== 外部リンク ==
*{{PDFlink|1=[http://www.arubaforeignaffairs.com/afa/readBlob.do?id=704 The Charter for the Kingdom of the Netherlands]}}
*[https://www.cia.gov/library/publications/world-leaders-1/world-leaders-n/netherlands.html Chief of State and Cabinet Members]
*{{Curlie|Regional/Europe/Netherlands}}
{{オランダ王国の構成国}}
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[[Category:オランダ王国|*]]
[[Category:同君連合]] | 2003-05-22T05:59:24Z | 2023-10-06T20:20:26Z | false | false | false | [
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9,045 | 倶知安町 | 倶知安町(くっちゃんちょう)は、北海道虻田郡にある町。後志総合振興局所在地。
後志地域の行政の中心地としての役割を担っており、農業ではジャガイモの産地として知られている。また、自然を活かした観光業が盛んであり、2000年代以降は、スキーなどを目的とする日本国外からの観光客が多く訪れている。西隣のニセコ町や蘭越町とともに「ニセコ観光圏」を形成する。
北海道遺産に「スキーとニセコ連峰」が選定されている。ニセコ町とともにスキーリゾート開発が特に進んでおり、倶知安町内では、ひらふ地区や花園地区がリゾート開発の中核になっている。このうち「ひらふ地区」は主に倶知安町字山田と字樺山からなる地区の総称をいい、これらの地域とは別に倶知安町字比羅夫地区があるが尻別川を挟んだ羊蹄山側に位置している地区でありリゾート開発の影響の少ない地域となっている。日本国外の企業によるコンドミニアム建設ラッシュなどにより、倶知安町字山田が2006年から3年連続で住宅地の地価上昇率全国1位になった。2016年にも倶知安町旭が同全国1位となっている。なお、リゾート開発に伴う土地取引で分筆や合筆が繰り返され地番が不規則になっていたため、ひらふ地区にある倶知安町字山田の一部約212ヘクタールが、2022年10月から新たに「倶知安町ニセコひらふ」に住所が変更され、地番も整理された。
「倶知安」という地名の由来は諸説あり不明であるが、いずれもアイヌ語に由来する。なお、「倶知安」という字をあてたのは、当時の北海道庁参事官であった白仁武である。
南に羊蹄山(蝦夷富士)、西にニセコ連峰がある小盆地に位置している。面積は261.24 km2。東西25.1 km、南北21.8 kmで海抜176 mに位置している。羊蹄山周辺は「支笏洞爺国立公園」に指定されており、ニセコアンヌプリ周辺は「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」に指定されている。尻別川は清流日本一に認定されたことがあり、サケやサクラマスが遡上する川でもある。
日本海側気候に分類され、春から夏にかけては温暖で晴天の日が多いが、冬は北西からの季節風の影響を受けて平均で年間10m以上の降雪量と2m弱の最深積雪を観測するなど日本でも有数の豪雪地帯であり、「特別豪雪地帯」に指定されている。月最深積雪の極値は1970年 3月25日の312 cm。この安定した冬の積雪を生かしてスキー産業が発達している。最低気温の極値は1945年(昭和20年)1月27日に-35.7度を観測しているが、1967年(昭和42年)1月16日観測の-31.2度以降、-30度以下の気温は観測されていない。2000年(平成12年)以降での最低気温は、2001年(平成13年)1月14日の-24.3度となっている。最高気温の極値は1999年(平成11年)8月8日及び2021年(令和3年)8月6日に観測された34.4度である。
2015年国勢調査によれば、以下の集落は調査時点で人口0人の消滅集落となっている。
「倶知安町のあゆみ」、「倶知安の歴史(年表)」参照
姉妹都市
観光パートナー都市
「俱知安町議会」参照
国の機関
道の機関
警察
消防
病院
電力
新聞社
倶知安町「子育て・教育」参照
字名のないものは市街地に所在。
高等学校
中学校
小学校
保育所
幼稚園
字名のないものは市街地に所在。
立地企業
組合
スーパーマーケット
金融機関
郵便
宅配便
2030年度末の北海道新幹線新函館北斗駅 - 札幌駅間延伸時には、倶知安駅に新幹線のホームが設けられる予定である。
町内を通る幹線道路は、シーニックバイウェイの「支笏洞爺ニセコルート」になっている
国指定
町指定
近代化産業遺産
字名のないものは市街地に所在。
50音順
俱知安町民憲章
わたくしたちの町倶知安は、自然美を誇る羊蹄山、ニセコ連峰のふもとにあり、きびしい風雪を克服し、後志の中心として発展してきました。
わたくしたちは、先人が困苦に耐えながら開拓してきたこの郷土と、そのたくましい精神を受けつぎ、さらに住みよい町づくりを目指し、決意をあらたにしてこの憲章を定めます。
スキーの町宣言文
私たち倶知安町民は、雄大なる羊蹄、ニセコ連峰に抱かれて、きびしい風雪にひるむことなく、幾代に亘ってこの地を開拓し、豊かな郷土を培ってきた。これは、酷寒、多雪の風土のもとにつちかわれた剛健な心身と、たくましい意欲のたまものである。今や雪は、町民の心身を育てると共に、郷土をスキーのメッカとして大きく躍進させる天与の宝となりつつある。
私たちは、明るくたくましい雪国の生活を目ざして、スキーのすべてを町民のものとし、スキーを通じて、たくましい心身を育て、ゆたかな町づくりに資することを乞い願い、スキーを町技と定め、ここに「スキーの町」を宣言する。 | [
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] | 倶知安町(くっちゃんちょう)は、北海道虻田郡にある町。後志総合振興局所在地。 | {{日本の町村
|自治体名 = 倶知安町
|画像 =2010-02.mt_yotei.jpg
|画像の説明 = [[ニセコ東急 グラン・ヒラフ]]と[[羊蹄山]]<br />{{Infobox mapframe|zoom=10}}
|旗 = [[ファイル:Flag of Kutchan, Hokkaido.svg|100px]]
|旗の説明 = 倶知安[[市町村旗|町旗]]<div style="font-size:smaller">[[1991年7月1日]]制定</div>
|紋章 = [[ファイル:Emblem of Kutchan, Hokkaido.svg|80px]]
|紋章の説明 = 倶知安[[市町村章|町章]]<div style="font-size:smaller">1991年7月1日制定</div>
|区分 = 町
|都道府県 = 北海道
|支庁 = [[後志総合振興局]]
|郡 = [[虻田郡]]
|コード = 01400-1
|隣接自治体 = [[虻田郡]][[京極町]]、虻田郡[[ニセコ町]]、[[余市郡]][[仁木町]]、余市郡[[赤井川村]]、[[岩内郡]][[共和町]]、[[磯谷郡]][[蘭越町]]
|木 = [[イタヤカエデ]]
|花 = [[シャクナゲ|キバナシャクナゲ]]
|シンボル名 = 他のシンボル
|郵便番号 = 044-0001
|所在地 = 虻田郡倶知安町北1条東3丁目3<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-01|display=inline,title}}<br />[[File:Kutchan town office.JPG|258px]]
|外部リンク = {{Official website}}
|位置画像 = {{基礎自治体位置図|01|400}}
}}
'''倶知安町'''(くっちゃんちょう)は、[[北海道]][[虻田郡]]にある[[町]]。[[後志総合振興局]]所在地。
== 概要 ==
後志地域の行政の中心地としての役割を担っており、[[農業]]では[[ジャガイモ]]の産地として知られている<ref name="新幹線" />。また、自然を活かした[[観光業]]が盛んであり、2000年代以降は、[[スキー]]などを目的とする日本国外からの[[観光客]]が多く訪れている<ref name="J-CAST">{{Cite web|和書|url=http://www.j-cast.com/2006/09/19003017.html |title=オーストラリア人に乗っ取られた 北海道のリゾート町 |date=2006-09-19 |work=J-CASTニュース |publisher=[[ジェイ・キャスト]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131212113951/http://www.j-cast.com/2006/09/19003017.html |archivedate=2013-12-12 |accessdate=2015-02-27 |deadlinkdate=2017-09}}</ref>。西隣の[[ニセコ町]]や[[蘭越町]]とともに「ニセコ観光圏」を形成する<ref>[http://www.niseko-tourism-zone.com/ ニセコ観光圏](2018年12月24日閲覧)。</ref>。
[[北海道遺産]]に「スキーとニセコ連峰」が選定されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokkaidoisan.org/heritage/020.html |title=スキーとニセコ連峰 |publisher=北海道遺産協議会 |accessdate=2015-03-02}}</ref>。ニセコ町とともにスキーリゾート開発が特に進んでおり、倶知安町内では、ひらふ地区や花園地区がリゾート開発の中核になっている<ref name="hokkaidogeog">{{Cite web|和書|author=塩﨑大輔、橋本雄一|url=https://www.hokkaidogeog.org/modules/xelfinder/index.php/view/368/96_1_1_Shiozaki%26Hashimoto.pdf|title=ニセコひらふ地区におけるリゾート開発と土砂災害リスク|publisher=地理学論集 Vol. 96, No. 1 (2021)|date=|accessdate=2022-03-24}}</ref>。このうち「ひらふ地区」は主に倶知安町字山田と字樺山からなる地区の総称をいい、これらの地域とは別に倶知安町字比羅夫地区があるが尻別川を挟んだ羊蹄山側に位置している地区でありリゾート開発の影響の少ない地域となっている<ref name="hokkaidogeog" />。日本国外の企業によるコンドミニアム建設ラッシュなどにより、倶知安町字山田が2006年から3年連続で住宅地の地価上昇率全国1位になった<ref>{{Cite web|和書|url=http://tochi.mlit.go.jp/chika/chousa/2006/02_h11.htm |title=年間上昇率上位ポイント(全国) |year=2006 |publisher=[[国土交通省]] |accessdate=2015-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://tochi.mlit.go.jp/chika/chousa/2007/11.html |title=基準地価格及び変動率順位表 |year=2007 |publisher=国土交通省 |accessdate=2015-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://tochi.mlit.go.jp/chika/chousa/2008/24.html |title=基準地価格及び変動率順位表 -参考資料 |year=2008 |publisher=国土交通省 |accessdate=2015-03-10}}</ref>。2016年にも倶知安町旭が同全国1位となっている。なお、リゾート開発に伴う土地取引で分筆や合筆が繰り返され地番が不規則になっていたため、ひらふ地区にある倶知安町字山田の一部約212ヘクタールが、2022年10月から新たに「倶知安町ニセコひらふ」に住所が変更され、地番も整理された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/660333|title=倶知安町内リゾート「ニセコひらふ」正式地名に 10月から変更|publisher=北海道新聞|date=2022-03-23|accessdate=2022-03-23}}</ref>。
== 町名の由来 ==
「倶知安」という地名の由来は諸説あり不明であるが、いずれも[[アイヌ語]]に由来する<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/grp/4150.pdf|title=アイヌ語地名リスト キト~コム P41-50P|accessdate=2017-10-19|date=2007|work=[http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/new_timeilist.htm アイヌ語地名リスト]|publisher=北海道 環境生活部 アイヌ政策推進室}}</ref>。なお、「倶知安」という字をあてたのは、当時の[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]参事官であった[[白仁武]]である<ref name="概要" />。
{| class="wikitable" style="font-size: smaller;"
|-
! colspan="2" | アイヌ語
! rowspan="2" | 意味
! rowspan="2" | 由来
|-
! [[片仮名|カタカナ]]表記{{wbr}}({{lang|ain-Kana|[[アイヌ語仮名|アコㇿイタㇰ]]}})
! [[ラテン文字化|ラテン翻字]]
|-
| {{lang|ain-Kana|クトゥサニ}}
| {{lang|ain-Latn|kutu-sani}}
| {{unknown|?}}
| [[永田方正]]による。泥土の濁川の意とされる。
|-
| {{lang|ain-Kana|クッサン}}
| {{lang|ain-Latn|kut-san}}
| {{sdash}}
|[[知里真志保]]による。川が円筒のような地形の所を流れ出していた。
|-
| rowspan="3" | {{lang|ain-Kana|クッサンイ<br />(クッサニ)}}
| rowspan="3" | {{lang|ain-Latn|kut-san-i}}
| 魚を捕る道具
| [[松浦武四郎]]による。
|-
| くだの(ようなところ)を・流れ出る・ところ
| 町ではこの説を採っている<ref name="概要">{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/profile/gaiyou/ |title=町の概要 |publisher=倶知安町 |accessdate=2015-10-24}}</ref>。尻別川支流、倶登山(くとさん)川の旧名で、これが「クッシャニ」に転訛し現在の名となり、川は「クッシャニ」から「クドサニ」と変わって倶登山川となった。<ref name="概要" />。
|-
| 崖(の所)を・流れ出る・もの(川)
| [[山田秀三]]による試案。川水が昔ぶつかって崩していた土崖があった所。ただし「クッ(kut)」は通常岩崖を示す。
|-
| {{lang|ain-Kana|クッサㇺウンペッ<br />(クッサムンペッ)}}
| {{lang|ain-Latn|kut-sam-un-pet}}
| 岩崖・のかたわら・にある・川
| 現在の倶知安峠にあるクッチャウンペッという小川が由来と推定される。
|-
| {{lang|ain-Kana|クチャウンナイ}}
| {{lang|ain-Latn|kucha-un-nay}}
| 猟人のいる小屋のある沢
| [[ジョン・バチェラー|バチェラー]]による。
|}
== 地理 ==
南に[[羊蹄山]](蝦夷富士)、西に[[ニセコ連峰]]がある小盆地に位置している<ref name="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/file/contents/772/6562/kutchan_station_concept.pdf |title=北海道新幹線倶知安駅周辺整備構想 |format=PDF |work=倶知安町住宅都市課新幹線まちづくり推進室 |publisher=倶知安町 |accessdate=2015-02-27}}</ref>。面積は261.24 km²<ref name="概要"/>。東西25.1 km、南北21.8 kmで海抜176 mに位置している<ref name="概要"/>。[[羊蹄山]]周辺は「[[支笏洞爺国立公園]]」に指定されており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/park/shikotsu/ |title=支笏洞爺国立公園 |work=[[北海道地方環境事務所]] |publisher=[[環境省]] |accessdate=2015-02-27}}</ref>、[[ニセコアンヌプリ]]周辺は「[[ニセコ積丹小樽海岸国定公園]]」に指定されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/skn/environ/parks/niseko.htm |title=ニセコ積丹小樽海岸国定公園 |publisher=[[北海道]] |accessdate=2015-02-27}}</ref>。[[尻別川]]は清流日本一に認定されたことがあり、[[サケ]]や[[サクラマス]]が遡上する川でもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/kn/kawa_kei/ud49g70000001rrt.html |title=尻別川 |publisher=[[北海道開発局]] |accessdate=2017-10-09}}</ref>。
* 山:羊蹄山([[活火山]]、1,898 m)、ニセコアンヌプリ (1,308 m)、[[イワオヌプリ]](活火山、1,116 m)、[[ニトヌプリ]](活火山、1,080 m)、ワイスホルン (1,046 m)
* 河川:尻別川、倶登山川、ジャコ川、硫黄川
* 湖沼:半月湖、鏡沼
<gallery widths="180" heights="120">
Yotei-zan-from-hirafu.jpg|羊蹄山(2005年)
Niseko Annupuri (East side).jpg|サンモリッツ大橋から望むニセコアンヌプリ(2006年)
Mt Iwaonupuri and Niseko Onuma Marsh.JPG|イワオヌプリとニセコ大沼(2007年)
Iwaonupuri & Niseko-Annupuri.jpg|ニトヌプリ山頂から眺めたイワオヌプリ(左)とニセコアンヌプリ(右)(2012年)
Lake Hangetsu.jpg|羊蹄山と半月湖(2013年)
</gallery>
=== 気候 ===
[[日本海側気候]]に分類され、春から夏にかけては温暖で晴天の日が多いが、冬は北西からの季節風の影響を受けて平均で年間10m以上の降雪量と2m弱の最深積雪を観測するなど日本でも有数の豪雪地帯であり、「[[豪雪地帯|特別豪雪地帯]]」に指定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/pdf/shiribetsugawa08-5-1.pdf |title=尻別川水系 |format=PDF |publisher=国土交通省 |accessdate=2015-02-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sekkankyo.org/hokkaidou.htm |title=北海道 全域豪雪地帯 |publisher=全国積雪寒冷地帯振興協議会 |accessdate=2015-03-06}}</ref>。月最深積雪の極値は1970年 3月25日の312 cm<ref name="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/file/contents/820/14641/kutchan_toukei_2014.pdf |title=倶知安の統計 2014年版 |format=PDF |publisher=倶知安町 |accessdate=2015-02-27}}</ref>。この安定した冬の積雪を生かしてスキー産業が発達している。最低気温の極値は1945年([[昭和]]20年)1月27日に-35.7度を観測しているが<ref name="統計"/>、1967年(昭和42年)1月16日観測の-31.2度以降<ref name="統計"/>、-30度以下の気温は観測されていない。2000年([[平成]]12年)以降での最低気温は、2001年(平成13年)1月14日の-24.3度となっている<ref name="統計"/>。最高気温の極値は1999年(平成11年)8月8日及び2021年(令和3年)8月6日に観測された34.4度である<ref name="統計"/>。
{{Weather box
|location = 倶知安特別地域気象観測所(倶知安町南1条東、標高176m)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan record high C = 8.7
|Feb record high C = 10.4
|Mar record high C = 14.4
|Apr record high C = 23.8
|May record high C = 32.5
|Jun record high C = 32.5
|Jul record high C = 34.1
|Aug record high C = 34.6
|Sep record high C = 32.0
|Oct record high C = 26.8
|Nov record high C = 20.0
|Dec record high C = 12.5
|year record high C = 34.6
|Jan high C = -2.0
|Feb high C = -1.0
|Mar high C = 3.0
|Apr high C = 9.8
|May high C = 16.9
|Jun high C = 20.9
|Jul high C = 24.4
|Aug high C = 25.4
|Sep high C = 21.7
|Oct high C = 15.0
|Nov high C = 6.9
|Dec high C = 0.0
|year high C = 11.8
|Jan mean C = -5.4
|Feb mean C = -4.9
|Mar mean C = -1.0
|Apr mean C = 4.9
|May mean C = 11.2
|Jun mean C = 15.6
|Jul mean C = 19.7
|Aug mean C = 20.6
|Sep mean C = 16.4
|Oct mean C = 9.7
|Nov mean C = 2.9
|Dec mean C = -3.1
|year mean C = 7.2
|Jan low C = -9.6
|Feb low C = -9.4
|Mar low C = -5.7
|Apr low C = 0.1
|May low C = 6.0
|Jun low C = 11.3
|Jul low C = 16.1
|Aug low C = 16.7
|Sep low C = 11.3
|Oct low C = 4.5
|Nov low C = -1.0
|Dec low C = -6.8
|year low C = 2.8
|Jan record low C = -35.7
|Feb record low C = -28.7
|Mar record low C = -28.8
|Apr record low C = -18.6
|May record low C = -4.8
|Jun record low C = 0.1
|Jul record low C = 4.6
|Aug record low C = 4.8
|Sep record low C = -1.3
|Oct record low C = -8.9
|Nov record low C = -22.0
|Dec record low C = -27.0
|year record low C = -35.7
|Jan precipitation mm = 184.5
|Feb precipitation mm = 129.4
|Mar precipitation mm = 98.3
|Apr precipitation mm = 67.1
|May precipitation mm = 75.8
|Jun precipitation mm = 59.9
|Jul precipitation mm = 102.3
|Aug precipitation mm = 153.1
|Sep precipitation mm = 133.3
|Oct precipitation mm = 128.2
|Nov precipitation mm = 182.8
|Dec precipitation mm = 217.7
|year precipitation mm = 1532.3
|Jan snow cm = 253
|Feb snow cm = 187
|Mar snow cm = 122
|Apr snow cm = 17
|May snow cm = 0
|Jun snow cm = 0
|Jul snow cm = 0
|Aug snow cm = 0
|Sep snow cm = 0
|Oct snow cm = 2
|Nov snow cm = 95
|Dec snow cm = 253
|year snow cm = 921
|Jan humidity = 82
|Feb humidity = 80
|Mar humidity = 75
|Apr humidity = 72
|May humidity = 74
|Jun humidity = 80
|Jul humidity = 83
|Aug humidity = 84
|Sep humidity = 82
|Oct humidity = 79
|Nov humidity = 80
|Dec humidity = 83
|year humidity = 79
|unit precipitation days = 0.5 mm
|Jan precipitation days = 27.2
|Feb precipitation days = 23.6
|Mar precipitation days = 20.9
|Apr precipitation days = 14.3
|May precipitation days = 11.9
|Jun precipitation days = 9.4
|Jul precipitation days = 10.5
|Aug precipitation days = 11.6
|Sep precipitation days = 13.7
|Oct precipitation days = 16.9
|Nov precipitation days = 22.1
|Dec precipitation days = 27.2
|year precipitation days = 209.2
|Jan snow days = 26.3
|Feb snow days = 23.4
|Mar snow days = 20.3
|Apr snow days = 7.5
|May snow days = 0.0
|Jun snow days = 0.0
|Jul snow days = 0.0
|Aug snow days = 0.0
|Sep snow days = 0.0
|Oct snow days = 0.5
|Nov snow days = 11.7
|Dec snow days = 25.2
|year snow days = 114.9
|Jan sun = 47.0
|Feb sun = 65.1
|Mar sun = 121.1
|Apr sun = 173.3
|May sun = 189.9
|Jun sun = 169.7
|Jul sun = 144.5
|Aug sun = 149.5
|Sep sun = 149.3
|Oct sun = 127.8
|Nov sun = 65.5
|Dec sun = 38.8
|year sun = 1441.4
|source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1944年-現在)<ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=16&block_no=47433&year=&month=&day=&view=
| title = 平年値ダウンロード
| accessdate = 2023-03
| publisher = 気象庁}}
</ref><ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=16&block_no=47433&year=&month=&day=&view=
| title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)
| accessdate = 2023-03
| publisher = 気象庁}}
</ref>
|unit snow days=1cm}}
<!--Infobox ends-->
{{Weather box
|location = 倶知安測候所 1961 - 1990年平均
|metric first = Yes
|single line = Yes
|Jan high C = -2.5
|Feb high C = -1.8
|Mar high C = 2.1
|Apr high C = 8.9
|May high C = 16.1
|Jun high C = 20.1
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|Dec high C = 0.1
|year high C =
|Jan mean C = -6.3
|Feb mean C = -6.1
|Mar mean C = -2.1
|Apr mean C = 4.1
|May mean C = 10.4
|Jun mean C = 14.9
|Jul mean C = 19.1
|Aug mean C = 20.4
|Sep mean C = 15.3
|Oct mean C = 8.6
|Nov mean C = 2.3
|Dec mean C = -3.3
|year mean C =
|Jan low C = -11.3
|Feb low C = -11.5
|Mar low C = -7.0
|Apr low C = -0.8
|May low C = 4.8
|Jun low C = 10.2
|Jul low C = 15.2
|Aug low C = 16.3
|Sep low C = 10.1
|Oct low C = 3.0
|Nov low C = -1.8
|Dec low C = -7.4
|year low C =
|Jan snow cm = 410
|Feb snow cm = 278
|Mar snow cm = 138
|Apr snow cm = 18
|May snow cm = 0
|Jun snow cm = 0
|Jul snow cm = 0
|Aug snow cm = 0
|Sep snow cm = 0
|Oct snow cm = 4
|Nov snow cm = 120
|Dec snow cm = 333
|year snow cm =
|source 1 = World Climate Kutchan, Japan<ref>{{Cite web |url=http://www.climate-charts.com/Locations/j/JP47433.php |title=Kutchan, Japan Climate Normals 1961-1990 |language=English |publisher=World Climate Home |accessdate=2013-04-01}}</ref>
}}
<div style="font-size:80%">
{{climate chart|'''倶知安町'''
|-10.7|-2.4|189
|-10.6|-1.6|136
|-6.8|2.2|91
|-0.4|9.1|72
|5.0|16.0|72
|10.5|20.2|54
|15.5|24.1|82
|16.4|25.2|145
|10.5|21.0|134
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|-1.5|6.5|178
|-7.1|0.2|193
|float=right
|source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=16&prec_ch=%8C%E3%8Eu%8Ex%92%A1&block_no=47433&block_ch=%8B%E4%92m%88%C0&year=2008&month=02&day=&elm=normal&view=p1]
}}</div>
=== 人口 ===
{{人口統計|code=01400|name=倶知安町|image=Population distribution of Kutchan, Hokkaido, Japan.svg}}
==== 消滅集落 ====
2015年[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]によれば、以下の集落は調査時点で人口0人の[[消滅集落]]となっている<ref name="kokusei2015-01-a">{{Cite report |author=総務省統計局統計調査部国勢統計課 |authorlink=統計局 |date=2017-01-27 |title=平成27年国勢調査小地域集計01北海道《年齢(5歳階級),男女別人口,総年齢及び平均年齢(外国人-特掲)-町丁・字等》 |url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files/data?fileid=000007841019&rcount=1 |publisher=[[総務省]] |format=CSV |accessdate=2017-05-20 |quote= }}※条町区分地の一部に0人の地域がある場合でも他の同一区分地で人口がある場合は除いた。</ref>。
* 倶知安町 - 字高嶺、字岩雄登、字緑、字山梨
== 歴史 ==
「倶知安町のあゆみ」<ref name="統計"/>、「倶知安の歴史(年表)」参照<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/culture-sports/kucchan-history/history-nenpyou/ |title=倶知安の歴史(年表) |publisher=倶知安町 |accessdate=2015-02-27}}</ref>
* [[1800年]]([[寛政]]11年):[[江戸幕府]]の[[天領]]とされる。
* [[1803年]]([[享和]]{{0}}3年):[[弘前藩]]によって[[長万部町|長万部]] - [[虻田町|虻田]]間の道路改修。
* [[1890年]]([[明治]]23年):官林200万町歩が御料局に引き渡され、[[皇室財産|御料林]]となる
* [[1891年]](明治24年):クッチャン原野貸下げのための共同出願組合結成。
* [[1892年]](明治25年):クッチャン原野の開墾始まる。
* [[1893年]](明治26年):倶知安村を設置し、虻田村(現在の[[洞爺湖町]])[[戸長役場]]の管轄になる。
* [[1896年]](明治29年):倶知安村戸長役場が開庁。
* [[1899年]](明治32年):室蘭支庁(現在の[[胆振総合振興局]])から岩内支庁へ管轄変更。
* [[1906年]](明治39年):[[北海道一・二級町村制|二級町村制]]施行。
* [[1904年]](明治37年):[[北海道鉄道 (初代)|北海道鉄道]][[函館本線]]開通。
* [[1910年]](明治43年):[[後志支庁]](現在の[[後志総合振興局]])設置。東倶知安村(現在の[[京極町]])分村。
* [[1912年]](明治45年):[[テオドール・エードラー・フォン・レルヒ]](レルヒ中佐)一行が羊蹄山スキー登山を試み、4合目から徒歩で登頂。
* [[1916年]]([[大正]]{{0}}5年):町制施行し、'''倶知安町'''となる。
* [[1919年]](大正{{0}}8年):京極軽便線(後の[[胆振線]])開通(1986年廃止)。
* [[1943年]]([[昭和]]18年):[[布袋座火災]]発生。
* [[1955年]](昭和30年):[[陸上自衛隊]][[倶知安駐屯地]]開設。
* [[1964年]](昭和39年):[[スイス]]・[[サンモリッツ]]と「姉妹都市」提携。『[[倶知安町長杯全道ジャンプ大会]]』初開催(1997年廃止)。
* [[1970年]](昭和45年):[[第25回国民体育大会]]冬季大会スキー競技会開催。
* [[1985年]](昭和60年):[[北海道スピードパーク]]完成(2012年閉鎖)。
* [[1986年]](昭和61年):[[第41回国民体育大会]](かいじ国体)冬季大会スキー競技会開催。
* [[1989年]]([[平成]]元年):[[第44回国民体育大会]](はまなす国体)山岳競技・柔剣道競技会開催。
* [[1991年]](平成{{0}}3年):開基100周年記念式典。
* [[1994年]](平成{{0}}6年):総合体育館、くとさんパーク竣工。絵本館が開館。
* [[1999年]](平成11年):小川原脩記念美術館が開館。
* [[2002年]](平成14年):倶知安風土館が開館。
* [[2005年]](平成17年):羊蹄大橋、サンモリッツ大橋が開通。
* [[2006年]](平成18年):[[栃木県]][[日光市]]と「観光パートナー都市」締結。
* [[2008年]](平成20年):[[国道393号]](赤井川道路)全線開通<ref>{{Cite web|和書|url=http://rmec.or.jp/wp-content/uploads/2016/03/vol24-44-45.pdf |title=一般国道393号赤井川道路 全線開通 |format=PDF |work=北の交差点 Vol.24 AUTUMN-WINTER 2009 |publisher=北海道道路管理技術センター |accessdate=2017-10-09}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年):倶知安町字山田、字樺山、字旭、字岩尾別、字花園の地域で「[[準都市計画区域]]」「特定用途制限地域」「[[景観地区]]」適用<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/file/contents/699/4059/zumen.pdf |title=準都市計画区域図 |format=PDF |publisher=倶知安町 |accessdate=2015-03-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/file/contents/700/13367/tokuteiyoutoseigentiikizu.pdf |title=倶知安準都市計画特定用途制限地域決定箇所図 |format=PDF |publisher=倶知安町 |accessdate=2015-03-11}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年):倶知安・東陵の中学校2校が閉校し、新「倶知安中学校」開校。
* [[2018年]](平成30年):日本国内初となる宿泊料金の2%を徴収する定率制の[[宿泊税]]条例を制定<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASLDF4G73LDFIIPE00B.html 「ニセコ宿泊税、全国初の定率制に 富裕層から多く徴収」][[朝日新聞]]DIGITAL(2018年12月13日)2018年12月24日閲覧。</ref>。
== 姉妹都市・観光パートナー都市 ==
'''姉妹都市'''
* [[サンモリッツ]]([[スイス]])
** [[1964年]]([[昭和]]39年)[[3月19日]]提携
'''観光パートナー都市'''
* [[日光市]]([[栃木県]])
** [[2006年]]([[平成]]18年)[[8月23日]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/tourism/niseko_future/2517/ |title=観光パートナー日光市との取り組み |publisher=倶知安町 |accessdate=2017-10-09}}</ref>
== 町議会 ==
「俱知安町議会」参照<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/gikai/ |title=俱知安町議会 |publisher=俱知安町 |accessdate=2016-04-10}}</ref>
* 議員定数16人
* 議会
** 定例会(3月・6月・9月・12月)
** 臨時会
* 委員会
** 議会運営委員会(定数8人)
** 常任委員会
*** 総務常任委員会(定数6人以内)
*** 厚生文教常任委員会(定数6人以内)
*** 経済建設常任委員会(定数6人以内)
** 特別委員会
*** 広報特別委員会(定数8人)
*** 自衛隊駐屯地特別委員会(定数8人)
*** 議会活性化特別委員会(定数15人)
*** 統合保育所に関する特別委員会(定数15人)
== 官公署 ==
'''国の機関'''
{{Columns-list|2|
* [[法務省]]
** [[札幌法務局]]俱知安支局
* [[財務省]]
** [[国税庁]][[札幌国税局]]俱知安税務署
* [[厚生労働省]]
** [[北海道労働局]]
*** 小樽[[労働基準監督署]]俱知安支署
*** 岩内[[公共職業安定所]]俱知安分室(ハローワーク俱知安(分))
* [[農林水産省]]
** [[林野庁]][[北海道森林管理局]]後志森林管理署
* [[国土交通省]]
** [[北海道開発局]]小樽開発建設部俱知安開発事務所
* [[防衛省]]
** [[陸上自衛隊]][[倶知安駐屯地]]
** [[自衛隊札幌地方協力本部]]
*** 俱知安地域事務所
*** 札幌地域援護センター俱知安分室
}}
'''道の機関'''
* [[後志総合振興局]]
** 北海道教育庁後志教育局
** 北海道倶知安保健所
** 北海道後志総合振興局後志農業改良普及センター
** 北海道後志家畜保健衛生所
** 北海道後志森づくりセンター
<gallery widths="180" heights="120">
ファイル:後志総合振興局.jpg|北海道後志合同庁舎(2017年8月)
</gallery>
== 公共施設 ==
{{Columns-list|2|
* 倶知安町[[公民館]]・文化福祉センター
* 倶知安町世代交流センター
* 倶知安町中小企業センター
* 後志労働福祉センター
* サンスポーツランドくっちゃん
* 倶知安町総合体育館
* 倶知安町営[[プール]]
* 倶知安町旭ケ丘スキー場
* 倶知安町営野球場
* 花園育成[[牧場]]
* 倶知安[[斎場]]
* 倶知安町清掃センター
* 倶知安町[[下水処理場|下水終末処理場]]
}}
== 公的機関 ==
'''警察'''
* [[倶知安警察署]]
** 駅前[[交番]]、寒別[[駐在所]]
'''消防'''
* [[羊蹄山ろく消防組合]]消防本部・倶知安消防署
'''病院'''
* [[倶知安厚生病院]]
'''電力'''
* [[北海道電力]]倶知安営業所
'''新聞社'''
* [[北海道新聞社]]俱知安支局
== 教育機関 ==
倶知安町「子育て・教育」参照<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/Living_Information/kosodate-kyouiku/ |title=子育て・教育 |publisher=倶知安町 |accessdate=2015-02-26}}</ref>
字名のないものは市街地に所在。
'''高等学校'''
* [[北海道倶知安高等学校]]
* [[北海道倶知安農業高等学校]](字旭)
'''中学校'''
* 倶知安町立倶知安中学校
'''小学校'''
* 倶知安町立倶知安小学校
* 倶知安町立北陽小学校
* [[倶知安町立東小学校]]
* 倶知安町立西小学校
** 樺山分校(字樺山)
'''保育所'''
* 倶知安保育所
* 俱知安みなみ保育所
'''幼稚園'''
* 倶知安幼稚園
* 倶知安藤幼稚園
* 倶知安めぐみ幼稚園
== 経済・産業 ==
字名のないものは市街地に所在。
'''立地企業'''
* 伊井化学工業(字旭)
* 白木建設工業
* 瀬尾建設工業
* 千歳林業(字琴平)
* [[コアレックス道栄]](字比羅夫)
* ニセコ運輸(字峠下)
* 二世古酒造(字旭)
* 横関建設工業
'''組合'''
* [[ホクレン農業協同組合連合会|ホクレン]]倶知安支所
* [[ようてい農業協同組合]](JAようてい)本所・倶知安支所
* [[北海道農業共済組合]](NOSAI北海道)後志支所・後志家畜診療センター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nosai-do.or.jp/office/minami/#office_n4 |title=みなみ統括センター事業所紹介 |accessdate=2022-04-15}}</ref>
* ようてい森林組合俱知安事業所<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.youtei-fa.or.jp |title=ようてい森林組合 |accessdate=2015-10-24}}</ref>
'''スーパーマーケット'''
* [[生活協同組合コープさっぽろ]]道央地区
** 俱知安店
* [[北雄ラッキー]]([[シジシージャパン|CGCグループ]])
** ラッキー俱知安店
* [[イオン北海道]]([[イオングループ]])
** マックスバリュ俱知安店
'''金融機関'''
* [[北洋銀行]]倶知安支店
* [[北海道信用金庫]]倶知安支店
* [[北海道労働金庫]]倶知安支店
* JAバンク北海道([[北海道信用農業協同組合連合会]])JAようてい本所
* [[北海道銀行]]NISEKO出張所(ニセコひらふ一条)※外国為替業務のみ
'''郵便'''
* [[倶知安郵便局]](集配局)
* 俱知安北郵便局
* 俱知安南郵便局
* 六郷簡易郵便局
'''宅配便'''
* [[ヤマト運輸]]千歳主管支店倶知安センター(字比羅夫)
* [[佐川急便]]倶知安営業所
== 交通 ==
[[File:JR Hakodate-Main-Line Kutchan Station building.jpg|thumb|258px|倶知安駅(2017年9月)]]
=== 鉄道 ===
; [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)
* [[函館本線]]:[[比羅夫駅]] - [[倶知安駅]]
2030年度末の[[北海道新幹線]][[新函館北斗駅]] - [[札幌駅]]間延伸時には、倶知安駅に新幹線のホームが設けられる予定である。
==== 廃線となった鉄道 ====
; [[日本国有鉄道]](国鉄)
* [[胆振線]]:俱知安駅 - [[六郷駅]] - [[参郷駅]] - [[寒別駅]]
=== バス ===
* [[ニセコバス]](中央バスグループ)
* [[道南バス]](倶知安営業所を設置)
* [[北海道中央バス]]
* くっちゃんまちなか循環バス「じゃがりん号」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/Living_Information/sumai-koutu/dourokoutsuu/traffic/jagarin/ |title=まちなか循環バスじゃがりん号 |publisher=倶知安町 |accessdate=2015-02-27}}</ref>
<gallery widths="180" heights="120">
Jagaringo-1.JPG|じゃがりん号南北ルート
Jagaringo-2.JPG|じゃがりん号東西ルート
</gallery>
=== 道路 ===
町内を通る幹線道路は、[[シーニックバイウェイ]]の「支笏洞爺ニセコルート」になっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.scenicbyway.jp/routes/shikotsu-touya-niseko |title=支笏洞爺ニセコルート |work=シーニックバイウェイ北海道 |accessdate=2015-10-19}}</ref>
* [[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路|一般国道自動車専用道路(A')]]
** {{事業中|[[倶知安余市道路]]|一部事業}}
* [[一般国道]]
** [[国道5号]]
** [[国道276号]]
** [[国道393号]]
* [[都道府県道]]
** [[北海道道58号倶知安ニセコ線]]
** [[北海道道271号倶知安停車場線]]
** [[北海道道343号蘭越ニセコ倶知安線]]
** [[北海道道478号京極倶知安線]]
** [[北海道道631号ニセコ高原比羅夫線]]
== 文化財 ==
'''国指定'''
* [[天然記念物]]
** 後方羊蹄山の[[高山植物]]帯<ref>{{文化遺産オンライン|137494|後方羊蹄山の高山植物帯}}</ref>
'''町指定'''
* [[有形文化財]]
** 大仏寺本堂の天井画 - 倶知安町指定有形文化財
* [[民俗文化財]]
** 倶知安赤坂奴([[奴振り]]) - 倶知安町赤坂奴保存会
** 羊蹄[[太鼓]] - 羊蹄太鼓保存会 鼓流
'''近代化産業遺産'''
* イワオヌプリ[[硫黄]]鉱山<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.meti.go.jp/press/20090206001/20090206001.html |title=「近代化産業遺産群 続33」を選定しました |publisher=[[経済産業省]] |accessdate=2015-02-27}}</ref>
== 観光・レジャー ==
{{See also|ニセコ}}字名のないものは市街地に所在。{{Columns-list|2|
* 倶知安町旭ケ丘スキー場(字旭)
* ホワイトアイルニセコ(字旭)
* <del>ナチュラルリゾートニセコワイスホテル(字花園)</del>※2015年に閉館
* [[ニセコHANAZONOリゾート]](字岩尾別)
* [[ニセコHANAZONOリゾート|HANAZONO GOLF]](字旭)
* [[ニセコ東急 グラン・ヒラフ]](ニセコひらふ1条)
* [[ニセコビレッジ]](ニセコひらふ1条)
* 倶知安風土館
* 小川原脩記念美術館
* 覚王山金剛寺([[北海道三十三観音霊場]]4番札所)
}}
<gallery widths="180" heights="120">
倶知安旭ヶ丘.JPG|旭ケ丘スキー場(2014年)
Niseko-Weiss.JPG|ホワイトアイルニセコ(2010年)
ニセコ花園スキー場.JPG|ニセコHANAZONOリゾート(2014年)
Niseko Mt.Resort Grand Hirafu.JPG|ニセコ東急 グラン・ヒラフ(2010年)
Shiroi-Koibito's Temperature sign in Hokkaido 2008.jpg|「[[白い恋人]]」温度計と羊蹄山(2008年)
</gallery>
== 祭事・催事 ==
* 雪トピアフェスティバル(2月)
* くっちゃんじゃが祭り(8月)
== 名産・特産 ==
* [[ジャガイモ]]
* [[豪雪うどん]]
* [[ニセコ羊蹄コロッケ定食]]
== 人物 ==
50音順
=== 出身人物 ===
{{Columns-list|2|
* [[アッキー]](タレント)
* [[江川淳]](元[[クロスカントリースキー]]選手)
* [[大森光章]](小説家)
* [[小川原脩]](画家)
* [[勝呂裕司]](元[[ノルディック複合]]選手)
* [[菊池均也]](俳優)
* [[近藤潤子]](看護学者)
* [[菅恭司]]([[バイアスロン]]選手)
* Beモダン [[SPARKS GO GO]](ロックバンド)
* [[千街晶之]](ミステリ評論家)
* [[外崎正次]](経済学者)
* [[中井孝治]]([[スノーボード]]選手)
* [[八反田角一郎]](元[[読売テレビ]]社長)
* [[開心那]]([[スケートボード]]選手)
* [[水月駿一郎]](俳優)
* [[山崎晃資]](精神医学者)
* [[山根あゆみ]]([[北海道放送]][[ラジオパーソナリティ]])
* [[yukky]](イラストレーター)
* [[和島あみ]](歌手)
}}
=== ゆかりのある人物 ===
{{Columns-list|2|
* [[大野智弘]]([[Kudan]]創業者。[[東京都]][[品川区]]から倶知安町に移住)
* [[気田義也]](元[[アルペンスキー]]選手)
* [[木森敏之]](作曲家)
* [[工藤誠二]](元クロスカントリースキー選手)
* [[琴音]](作家。北海道[[函館市]]生まれ。倶知安町在住)
* [[武富健治]](漫画家。[[佐賀県]]生まれ)
* [[出口弘之]](バイアスロン選手)
* [[福原吉春]](元アルペンスキー選手)
* [[松本江里子]](タレント・歌手。[[東京都]][[日野市]]生まれ)
* [[ゆうきまさみ]](漫画家)
}}
== 町民憲章・宣言 ==
'''俱知安町民憲章'''
{{Quotation|
わたくしたちの町倶知安は、自然美を誇る羊蹄山、ニセコ連峰のふもとにあり、きびしい風雪を克服し、後志の中心として発展してきました。
わたくしたちは、先人が困苦に耐えながら開拓してきたこの郷土と、そのたくましい精神を受けつぎ、さらに住みよい町づくりを目指し、決意をあらたにしてこの憲章を定めます。
: 1. 仕事を工夫し、力をあわせ豊かな町をつくりましょう
: 1. 郷土を愛し、教養をたかめ、文化の町をつくりましょう
: 1. 自然をいかし、環境をととのえ、美しい町をつくりましょう
: 1. きまりを守り、親切に助けあい、明るい町をつくりましょう
: 1. 未来に希望をもち、若さにあふれた、伸びゆく町をつくりましょう
|昭和45年1月15日<ref name="概要"/>}}
'''スキーの町宣言文'''
{{Quotation|
私たち倶知安町民は、雄大なる羊蹄、ニセコ連峰に抱かれて、きびしい風雪にひるむことなく、幾代に亘ってこの地を開拓し、豊かな郷土を培ってきた。これは、酷寒、多雪の風土のもとにつちかわれた剛健な心身と、たくましい意欲のたまものである。今や雪は、町民の心身を育てると共に、郷土をスキーのメッカとして大きく躍進させる天与の宝となりつつある。
私たちは、明るくたくましい雪国の生活を目ざして、スキーのすべてを町民のものとし、スキーを通じて、たくましい心身を育て、ゆたかな町づくりに資することを乞い願い、スキーを町技と定め、ここに「スキーの町」を宣言する。
|昭和47年12月20日<ref name="概要"/>}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{sister
|project=voyage
|text=[[ウィキボヤージュ]]には、'''[[wikivoyage:Kutchan|倶知安(Kutchan)]]'''{{en icon}}に関する情報があります。
}}
* [[日本の地方公共団体 (く)]]
* [[日本の地方公共団体一覧]]
* [[日本の観光地一覧]]
* [[北海道の観光地]]
== 外部リンク ==
;行政
* {{Official website|name=倶知安町}}
* {{Facebook|kutchan.hokkaido|くっちゃん町【倶知安町役場】}}
;観光
* [https://www.niseko.co.jp/ 北海道ニセコくっちゃん {{!}} 倶知安観光協会]
* {{Facebook|KutchanTourismAssociation|倶知安観光協会 Kutchan Travel Guide Niseko}}
{{後志支庁の自治体}}
{{北海道の市と郡}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:くつちやんちよう}}
[[Category:倶知安町|*]]
[[Category:観光圏]]
[[Category:後志管内]]
[[Category:北海道の市町村]]
[[Category:支笏洞爺国立公園]] | 2003-05-22T06:22:31Z | 2023-12-29T05:29:39Z | false | false | false | [
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"Template:Official website",
"Template:後志支庁の自治体",
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"Template:人口統計",
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"Template:文化遺産オンライン",
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"Template:Weather box"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E7%9F%A5%E5%AE%89%E7%94%BA |
9,046 | 動的リンク | 動的リンク(どうてきりんく、英語: dynamic link)とは二つの意味がある。
動的リンキング、ダイナミックリンキングとも言う。
コンピュータプログラム作成時において、大規模なプログラムは一般的に複数のモジュールに分割される。ライブラリあるいはアプリケーションプログラムのモジュールをビルドする際に、まずコンパイラによってソースコードからオブジェクトファイルが生成されるが、各モジュールに必要なプログラムコードの実体すべてをリンケージエディタによってリンクしてモジュールに含め、実行可能形式のバイナリ(実行ファイル)を得る方式を静的リンクと呼ぶ。
これに対し、各モジュールに必要なプログラムコードの実体すべてを含めず、プログラムの実行開始時にローダによって初めて他のモジュールと結合する方式を動的リンクと呼ぶ。この動的リンク機構を使ったライブラリを、動的リンクライブラリ(ダイナミックリンクライブラリ)と呼ぶ。Microsoft Windows環境ではDLLと略されることが多い。よく使われる処理(アルゴリズム)を記述したサブルーチンを再利用するケースなど、動的リンクライブラリを複数のプログラムから共有することには利点があるので、しばしば「共有ライブラリ」として運用される。
動的リンクの利点としては、重複するコードやデータが減ることでモジュールのサイズを小さくできることや、ライブラリの実装を変更したときに、ライブラリのインターフェイスに変更がなければプログラムを再リンクする必要がないことが挙げられる。
動的リンクの欠点としては、モジュール自身に必要なコードが含まれていないため自己完結できないことや、シンボルの解決が実行時に(動的に)実施されるためプログラム実行時のオーバーヘッドがあることなどが挙げられる。
動的リンクされるライブラリは、単独のアプリケーションから利用される「プライベートライブラリ」だけでなく、複数のアプリケーションから利用される「共有ライブラリ」にすることもできる。ただし共有ライブラリの場合、暗黙的に特定のバージョンの共有ライブラリの内部処理や仕様に依存していたプログラムがライブラリのバージョンアップによって動作しなくなること、バージョンアップした共有ライブラリにバグが存在するとそのライブラリを利用するソフトウェアすべてに影響が及ぶこと(特にライブラリがシステム全体で共有される場合に深刻となる)、バージョンアップによる影響範囲を事前に特定できないこと、同じ共有ライブラリの複数のバージョンがシステム内に存在するときに探索優先度の違いで動作が変わってしまうこと、などがある。これらの欠点は俗にコンピュータ業界で「DLL地獄(DLL Hell)」の名称で呼ばれることがある。
ハイパーテキストにおいて、ハイパーテキストを記述したときにノード間のリンクをあらかじめ定義する方式に対して、参照時に動的にリンクを決定する方式を言う。 | [
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] | 動的リンクとは二つの意味がある。 コンピュータのプログラムにおいて、実行時にプログラムの結合を行う方式。
ハイパーテキストにおいて、ノード間のリンクを参照時に決定する方式。 | '''動的リンク'''('''どうてきりんく'''、{{lang-en|dynamic link}})とは二つの意味がある。
#[[コンピュータ]]の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]において、実行時にプログラムの結合を行う方式。
#[[ハイパーテキスト]]において、[[ノード (ネットワーク)|ノード]]間の[[ハイパーリンク|リンク]]を参照時に決定する方式。
== プログラムにおける動的リンク ==
'''動的リンキング'''、'''ダイナミックリンキング'''とも言う。
コンピュータプログラム作成時において、大規模なプログラムは一般的に複数の[[モジュール]]に分割される。[[ライブラリ]]あるいは[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーションプログラム]]の[[モジュール]]を[[ビルド (ソフトウェア)|ビルド]]する際に、まず[[コンパイラ]]によって[[ソースコード]]から[[オブジェクトファイル]]が生成されるが、各モジュールに必要なプログラムコードの実体すべてを[[リンケージエディタ]]によってリンクしてモジュールに含め、実行可能形式のバイナリ([[実行ファイル]])を得る方式を[[静的リンク]]と呼ぶ。
これに対し、各モジュールに必要なプログラムコードの実体すべてを含めず、プログラムの実行開始時に[[ローダ]]によって初めて他のモジュールと結合する方式を動的リンクと呼ぶ。この動的リンク機構を使ったライブラリを、動的リンクライブラリ([[ダイナミックリンクライブラリ]])と呼ぶ。[[Microsoft Windows]]環境ではDLLと略されることが多い。よく使われる処理(アルゴリズム)を記述した[[サブルーチン]]を再利用するケースなど、動的リンクライブラリを複数のプログラムから共有することには利点があるので、しばしば「共有ライブラリ」として運用される。
動的リンクの利点としては、重複するコードやデータが減ることでモジュールのサイズを小さくできることや、ライブラリの実装を変更したときに、ライブラリのインターフェイスに変更がなければプログラムを再リンクする必要がないことが挙げられる。
動的リンクの欠点としては、モジュール自身に必要なコードが含まれていないため自己完結できないことや、シンボルの解決が実行時に(動的に)実施されるためプログラム実行時のオーバーヘッドがあることなどが挙げられる。
=== 共有ライブラリ ===
動的リンクされるライブラリは、単独のアプリケーションから利用される「プライベートライブラリ」だけでなく、複数のアプリケーションから利用される「共有ライブラリ」にすることもできる。ただし共有ライブラリの場合、暗黙的に特定のバージョンの共有ライブラリの内部処理や仕様に依存していたプログラムがライブラリのバージョンアップによって動作しなくなること、バージョンアップした共有ライブラリに[[バグ]]が存在するとそのライブラリを利用するソフトウェアすべてに影響が及ぶこと(特にライブラリがシステム全体で共有される場合に深刻となる)、バージョンアップによる影響範囲を事前に特定できないこと{{要説明|date=2020-03}}、同じ共有ライブラリの複数のバージョンがシステム内に存在するときに探索優先度の違いで動作が変わってしまうこと、などがある。これらの欠点は俗にコンピュータ業界で「[[DLL地獄]](DLL Hell)」の名称で呼ばれることがある。
== ハイパーテキストにおける動的リンク ==
ハイパーテキストにおいて、ハイパーテキストを記述したときにノード間のリンクをあらかじめ定義する方式に対して、参照時に動的にリンクを決定する方式を言う。
== 関連項目 ==
* [[静的リンク]]
{{DEFAULTSORT:とうてきりんく}}
[[Category:プログラミング]]
[[Category:ハイパーテキスト]] | null | 2021-10-25T17:04:57Z | false | false | false | [
"Template:要説明",
"Template:Lang-en"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%9A%84%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF |
9,057 | バーレーン国 | バーレーン国(バーレーンこく、アラビア語: دولة البحرين Dawlat al-Baḥrayn)は、1971年から2002年までのバーレーンの国名及び政体である。
バーレーンは1971年にイギリスの植民地から首長国として独立し、2002年に立憲君主制の王国に移行した。
バーレーンは長年イギリスの植民地であったが、1971年8月15日に独立した。当初は周辺の首長国と共にアラブ首長国連邦を結成する予定であったが、バーレーンは単独独立を選び、首長国連邦には加わらなかった。
独立後もアメリカやイギリスなどと友好関係を維持し、湾岸戦争では多国籍軍の一員としてイラクと交戦した。なお、この時バーレーンに多国籍軍の司令部が置かれた。
典型的なレンティア国家であり、王族のハリーファ家による絶対君主制の下で石油の輸出が進められ、飛躍的な経済発展が成し遂げられたが、絶対君主制に対する国民の不満が増大。2001年に民主化運動が起こり、翌2002年2月14日、議会が開設されて立憲君主制に移行して現在のバーレーン王国となった。 | [
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] | バーレーン国は、1971年から2002年までのバーレーンの国名及び政体である。 バーレーンは1971年にイギリスの植民地から首長国として独立し、2002年に立憲君主制の王国に移行した。 | {{基礎情報 過去の国
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'''バーレーン国'''(バーレーンこく、{{lang-ar|دولة البحرين}} ''Dawlat al-Baḥrayn'')は、[[1971年]]から[[2002年]]までの[[バーレーン]]の[[国名]]及び[[政治体制|政体]]である。
バーレーンは1971年に[[イギリス帝国|イギリス]]の[[植民地]]から[[首長国]]として[[国家の独立|独立]]し、2002年に[[立憲君主制]]の[[王国]]に移行した。
== 概要 ==
バーレーンは長年イギリスの植民地であったが、[[1971年]][[8月15日]]に独立した。当初は周辺の[[首長国]]と共に[[アラブ首長国連邦]]を結成する予定であったが、バーレーンは単独独立を選び、首長国連邦には加わらなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bh.emb-japan.go.jp/itpr_ja/bahrainoverview.html |title=バーレーン概観 |publisher=在バーレーン日本国大使館 |date=2022-01-09 |accessdate=2022-01-19}}</ref>。
独立後も[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]などと友好関係を維持し、[[湾岸戦争]]では[[多国籍軍]]の一員として[[バアス党政権 (イラク)|イラク]]と交戦した<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/バーレーン-117639 |title=バーレーンとは |publisher=コトバンク |accessdate=2022-01-19}}</ref>。なお、この時バーレーンに多国籍軍の[[司令部]]が置かれた。
典型的な[[レンティア国家]]であり、[[王族]]の[[ハリーファ家]]による[[絶対君主制]]の下で[[石油]]の[[輸出]]が進められ、飛躍的な[[経済発展]]が成し遂げられたが、絶対君主制に対する[[国民]]の[[フラストレーション|不満]]が増大。[[2001年]]に[[民主化]]運動が起こり、翌[[2002年]][[2月14日]]、[[国民議会 (バーレーン)|議会]]が開設されて[[立憲君主制]]に移行して現在の[[バーレーン|バーレーン王国]]となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.y-history.net/appendix/wh1703-123.html |title=バーレーン |publisher=世界史の窓 |accessdate=2022-01-19}}</ref>。
== 脚注 ==
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[[Category:バーレーン]]
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[[Category:イスラム国家]] | 2003-05-22T07:39:43Z | 2023-12-08T03:34:27Z | false | false | false | [
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9,060 | フィジー | フィジー共和国(フィジーきょうわこく)、通称フィジーは、オセアニアの国家で、イギリス連邦加盟国である。首都はビティレブ島のスバ。南太平洋のフィジー諸島と北に500km程離れた保護領のロツマ島に位置する群島国家である。300余の火山島と珊瑚礁からなる。西にバヌアツ、東にトンガ、北にツバルがある。
正式名称は、Republic of Fiji(リパブリック・オブ・フィージー)。通称、Fiji。
国名の由来には諸説あり、説として有力なのは前者である。
日本語の表記は、フィジー共和国。通称、フィジー。他に、フィジイ、フィジィ。
1998年にフィジー共和国からフィジー諸島共和国へと改称したが、2011年2月に再度フィジー共和国に戻った。また、漢字による表記は「斐濟」である。
パプアニューギニアと並ぶ南太平洋の島嶼国のリーダー。
大統領を元首に戴く象徴大統領制(英語版)、首相が行政権を掌握する議院内閣制で、議会は一院制で任期4年、定数は50。更にフィジー全土を一つの選挙区としたオープンリスト比例代表制となっている。選挙権は18歳から。
以前は二院制であったが、2013年の新憲法公布により一院制へ変更された。
2014年9月まで軍事政権。軍事政権は、2009年3月に民政復帰のための総選挙を実施するとしていたが、延期されていた。2009年4月高裁が軍事政権を違法と判断を下したため、イロイロ大統領は憲法を廃止して自らが政府の実権を握ったと言明し、バイニマラマ軍司令官を暫定首相に再任し、国内に30日間の非常事態宣言を発令し、総選挙を2014年に先送りすると表明した。軍事政権はメディアへの検閲を開始し、オーストラリアABC放送の記者らを国外退去させた。市民生活は通常通り。2013年に新憲法を2014年9月に総選挙を実施、フィジー第一党が過半数の議席を獲得し、バイニマラマ首相が再任された。その後、2016年9月の内閣改造に伴い、バイニマラマ首相は外相も兼任。
一方、イギリス国王を元首に戴く立憲君主制への復帰も検討されているが、英連邦王国の一部であったカリブ海地域国家のバルバドスが2021年11月30日に共和制へ移行したことにより、その件で今後のイギリス国王の影響力などを踏まえながら動く姿勢が同地域から見え始めている為、余波を考慮すれば立憲君主制への復帰の可能性は現時点で定かとは言えない。
フィジーは伝統的に、日本やオーストラリア、ニュージーランドなど、アジア・太平洋諸国との関係を重視してきたが、軍事政権樹立後は民政復帰や民主化への対応をめぐって内政干渉を行うオーストラリアやニュージーランドと対立している。遂には、両国大使のフィジーからの退去を命ずる一方、オーストラリアとニュージーランド政府もフィジー大使の国外退去を命じる局面もあった。
一方、多数の国際機関に加盟している国家の一つとしても知られており、その機関の数はかなり多いものともなっている。同国が参加している国際機関は以下。
オーストラリアやニュージーランドとの貿易額はシンガポールについで大きく、フィジーはオーストラリアから小麦粉や食料品その他を輸入している。ニュージーランドからは牛乳や肉その他食料品の輸入が多い。フィジーにはビジネス目的に暮らしているオーストラリア人やニュージーランド人も多く、Fiji Australia Business CouncilやFiji New Zealand Business Councilもある。
貿易以外では、フィジーのリゾートはオーストラリア人やニュージーランド人による経営が多く、Fiji Australia Business Councilは、オーストラリア政府のフィジー政府に対する姿勢をビジネス促進に対する障害として批判する発言をしたこともある。
太平洋戦争以前には、フィジーへの日本人移民の導入が試みられていた。しかし病気(脚気)が原因で定着せず、太平洋戦争の勃発によって中断された。日本軍とフィジー軍は太平洋上で戦闘状態になったものの、フィジー本土上陸戦は行われなかった。現在も太平洋戦争に備えた防塁等防御構築物の跡は残されている。1970年(昭和45年)の独立を日本も承認し、1979年にはスバに在フィジー日本大使館が開設された。在日本フィジー大使館は1981年に東京都に開設され、1990年(平成2年)には大阪に、2012年には横浜にそれぞれ名誉領事も任命している。フィジーはラグビーが盛んで、日本で活躍するラグビー選手もいる。また、公用語が英語で費用が比較的安価であることから、語学留学先としての人気もある。
オーストラリアとニュージーランドの度重なる内政干渉による圧力のため、近年フィジー軍政は新たな活路として中国との関係を強化している。以前は、ほとんどいなかったとされる中国人がフィジーを訪れるようになり、年間1万人にまでになった。このため首都スバ市内には中国人経営の店舗が拡大している。2010年にはエアパシフィックとキャセイ航空の共同運航で香港から直行便が就航した。中国人は首都スバにいくビジネスマンが大半で、フィジー本島西部ナンディではあまり見かけない。
また、フィジー各地で中国の援助による建築やインフラ整備が進み、娯楽施設や幹線道路、水力発電所を建設している。
中国がフィジーに援助をする狙いは、豊富な漁業資源の獲得にあると見られている。理由は中国の経済成長により、国内のマグロ消費量が多くなっていることがあげられる。近年、中国の遠洋漁船がスバ港で多く見られるようになり、今では7割の外国船が中国の漁船である。また、フィジー最大の水産企業は中国の国営企業3社で、27隻のマグロ漁船で5分の1のマグロを水揚げしている。この国営企業はフィジー軍政のバイニマラマ首相とも太いパイプがある。
2010年1月、中国政府はフィジー大統領府の敷地を囲む塀の無償援助をフィジー政府に約束した。塀の工事は中国の中鉄五局グループ(大手ゼネコン中国中鉄グループの一員)が請け負った。長さ2.4キロメートルの塀は2011年2月に竣工した。
2021年から始まった中国・太平洋島嶼国外相会議に参加。2022年5月30日に開催された第二回会議はフィジーが開催国となり、バイニマラマ首相兼外相と王毅国務委員兼外相が共同議長を務めた。
フィジーの南、トンガの南西およそ400kmにあるミネルバ・リーフの領有権を主張している。ミネルバ・リーフにおいては1972年1月にユダヤ系アメリカ人のマイケル・オリバーがマイクロネーションとしてミネルバ共和国の独立を宣言したが、周辺のフィジー、トンガ、ナウル、西サモアとクック諸島自治政府は、オーストラリアやニュージーランドと協議し同年6月にトンガ軍が上陸し占領した。しかし翌月フィジー軍が上陸し領有権を主張、このときはトンガの正式な領有権主張を認めたフィジー政府だったが、再び領有権を主張し2005年国際海底機構に提訴した。また、ミネルバ共和国の後継を主張するメンバーがミネルバ公国として再度領有権を主張するなど混乱が続いている。
同国軍は世界で最も小さい軍隊の1つとして認知されている。3,500人の兵士(陸軍2,600、海軍400名、PKO等派遣500名)と6,000人の予備軍で構成されており、主に海軍が主体とされている。
PKO等派遣については、主に国連兵力引き渡し監視軍(UNDOF(ゴラン高原))に約140名、国連イラク支援ミッション(UNAMI(イラク))に約170名、多国籍部隊・監視団(MFO(シナイ半島))に約170名を派遣しているほか、UNIFIL(レバノン)、UNTSO(イスラエル)、UNMHA(イエメン)及びUNMISS(南スーダン)にそれぞれ司令部要員を若干名派遣している。兵士は志願制である。
フィジーには300以上の島があり、その大半は小島で占められている。
全島が熱帯雨林気候(Af)となっており、年中高温多雨。南東貿易風の影響下にはいる5月〜11月は降雨も少ない。
世界におけるイグアナ生息地の一つに数え上げられる。同国固有の種は3種が確認されているが個体数が少なく、現在は絶滅危惧種に指定されている。
鳥類相は西ポリネシアでは最も豊かとされている。同国にはいくつかの固有種が存在していて、その一部が近隣国のトンガやサモアに生息域を拡げている。
フィジーは、4つの地域 (division) という行政区画に分かれる。( )内は地域政府所在地。
群島の北部にあるロツマ島は、保護領である。
主要都市はスバ、ラウトカ、ナンディなど
主に農業や衣料や観光で成り立っている。観光で得る収入は2億7000万ドルにのぼり、耕地面積は26万haある。農業に従事する人は13万人いる。貿易は大幅な輸入超過である。 輸出品は、野菜や果物、アメリカで人気の高いフィジーウォーター、砂糖、マホガニー、パルプ、衣料品、コプラ、ココナッツ石鹸、食料品などである。サトウキビ栽培は19世紀にヨーロッパ人が島にやって来たときに始まる。当初は、サトウキビ栽培に適した土地に製糖所を作るという 小規模なものであったが、植民地政府が奨励し経済的基盤としたためにサトウキビ産業として発展した。1988年までは最も重要な産業であったが、観光や衣料の輸出などの他の産業に押され気味である。しかし、労働力の四分の一を雇用している。2000年の映画『キャスト・アウェイ』の劇中で、主人公が漂着するクック諸島の南方600マイルに位置する無人島の場面があり、モンドリキ島がその撮影地となった。
2010年度の調査では、フィジーを訪れた観光客は631,868人で2009年より16.5% 増加した。オーストラリア人観光客が50.4%を占めて一番多く、前年より28%増加して31万8135人。2位はニュージーランド 97857人、3位はアメリカ 53122人、4位は南太平洋諸国 39198人、5位はヨーロッパ諸国 30088人。日本人の入国者は1%に満たない程度だが、2004年より英語学習を目的とした留学生もいる。ナンディとラウトカにキャンパスを置くFree Bird Institute(フリーバードインスティテュート)などで、年間1500名以上の留学生が英語留学している。
国際線の主要玄関となるナンディ国際空港は国営フィジー・エアウェイズが本拠としており、国内線が主であるナウソリ国際空港のほか各島に13の空港がある。島の間はフェリーが通う。大きな島ではタクシーのほかバスが利用されている。
砂糖産業の盛んなビティレブ島西部とバヌアレブ島にはサトウキビ輸送専用の鉄道が約600km敷設されており、収穫期には貨物列車がサトウキビを製糖工場へと輸送している。自動車の通行区分は、日本やイギリスと同じ左側通行。
2020年時点での人口は89万6千人であり、オセアニアではオーストラリア、パプアニューギニア、ニュージーランドに次ぐ4番目の人口を有する。
2007年時の住民は、フィジー系が56.8%、インド系移民が37.5%、ロツマ人1.2%、ヨーロッパ人や他の太平洋の島民、華人などが4.5%である。
フィジーの住民は、先住民であるフィジー系と、イギリスが植民地時代に強制入植させた新しい住民であるインド系が多数を占める。リトル・インディアの相を呈する。19世紀の後半、西洋との接触でもたらされた伝染病が原因で、フィジー人絶滅の危機にさらされた。宗主国のあいだで奴隷制を終焉させ、先住民保護思想が広がっていたので、宗主国イギリスは人種絶滅を避けるためサトウキビ・プランテーションの契約労働者としてインド人導入政策をとった。こうしてインド人移民が始まったのである。1879年479人が移民した。
フィジー系のみで構成される伝統的社会指導者評議会 (GCC) による大統領任命が行われるなど、歴史的には政治面でのフィジー系の優遇政策がとられてきたが、ビジネスに長けたインド系へのやっかみもある。1999年5月の総選挙でインド系首相が就任したが、2000年5月にフィジー系の政治的優位の強化を主張する武装勢力によるクーデターが発生した。ただし、現政権によってGCCは廃止された。
ライセニア・ガラセ政権がフィジー系・インド系の対立の改善を図るが、2000年のクーデターでフィジー系の攻撃標的にされた軍司令官が宥和政策の実施を行うための法律は、実は2000年クーデター参加者の特赦が目的であると、これを拒否、2006年12月ガラセ首相を強行解任。大統領が司令官の方針に同調。
近年はフィジー系とインド系の結婚が進み、混血も多い。 現政権はフィジー系とインド系の融合で、現政権のトップはフィジー人のバイニマラマであるが、国のナンバー2である司法長官はインド系の元弁護士カイユン(本名:アイヤズ・サイェド=カイユーム/Aiyaz Sayed-Khaiyum)である。カイユンは2011年3月にフィジー系女性と結婚した。
言語は、英語、フィジー語、ヒンディー語(フィジー・ヒンディー語)が公用語。
フィジーでは結婚は「家族を作ること」ではなく「個人間の同盟である」と認識されている。その為、婚姻は親側の承認が先に出ないと成立させることが不可能となっている。
同国の結婚は伝統的なものと現在一般的となっている欧米式のものの2種類に分かれている。伝統的な結婚式は地域と種族により、その内容が異なる特徴を持つ。
伝統に基づくものには色々な儀式が必要とされており、地域によっては結婚式後の場合に行なわれる事もある。
ほとんどの場合は、男性は先に好きな女性の父親の許可を貰いに向かうことが多く、一般的に男性と同じ氏族の男性はクジラの歯を持って、女性の父親を訪ねる仕来りとなっている。
宗教は、キリスト教が64.7%、ヒンドゥー教が27.9%、イスラム教が6.3%、その他0.6%である。
義務教育は8年間となっている。
2019年の犯罪統計資料によると、フィジーにおける犯罪認知件数は約17,000件であり、2018年に比べて4%減少しているが、スリやひったくりなどの窃盗、強盗及び暴行が依然として多い他、違法薬物に関わる犯罪や性的暴行など性犯罪の増加が指摘されている。地域別では、首都圏(スバ市、ラミ町、ナシヌ町及びナウソリ町)及び西部地区(ラウトカ市、ナンディ町及びバ町)は、その他の地域に比べて多くの犯罪が発生している。
日本人の犯罪被害は、窃盗、強盗、暴行傷害、詐欺などが報告されている。窃盗及び強盗に関しては、財布(現金)やスマートフォンなどの貴重品を盗まれる事例が多く報告されており、暴行傷害に関しては夜間にナイトクラブなどで喧嘩に巻き込まれた事例、早朝に泥酔した現地人に絡まれて暴行を受けた事例などが報告されている。詐欺に関しては、格安観光ツアーを装った者に現金をだまし取られる事例、クレジットカードなどのスキミング被害などが報告されている。
加えて日本人を含むアジア人は、「裕福である」との印象を持たれている上、欧米人に比べて体格が小さいことからも犯罪のターゲットになりやすい傾向がある為、散策などの外出時は強い注意が必要となる。
フィジーの主要放送局はフィジーワンと、Mai TVがあり、そのほか有料のスカイTVもある。インターネットはConnect, Kida net, Vodafone など各社がある。また、インテルサット(Intelsat)とも提携を行なっている。 フィジーにもキャンパスを設置する南太平洋大学もプロバイダを行っている。 新聞は売店などで80セントから90セントで手に入る。新聞は英語のフィジータイムス、フィジーサンのほか、フィジー語やヒンドゥー語の新聞が発行されている。
フィジーの文化は多国籍文化である。主にインドや中国、ヨーロッパの文化、および太平洋に存在する近隣国からの様々な文化の導入によって進化して来た。特にトンガとロツマの言語に関連するものを含む面が顕著に現れている。また、独特の共同体と国民のアイデンティティを生み出していることから、その文化は色濃いものとなっている。
各村には、集会などに用いられるブレ(英語版)と呼ぶ建物がある。
フィジーではラグビーが国技と言われるほど盛んであり、15人制では2007年ラグビーW杯でベスト8の成績を収めた。7人制ではラグビーワールドカップセブンズで1997年大会と2005年大会で2度の優勝を果たし、オリンピックでは7人制として初めて開催された2016年リオデジャネイロ五輪で優勝し、全種目を通じてフィジー初のメダル獲得となった。
フィジーではラグビーの次にサッカーが盛んであり、1977年にサッカーリーグのナショナル・フットボールリーグが創設された。バをホームタウンとするバFCが、リーグ最多21度の優勝を数える。フィジーサッカー協会(FFA)によって構成されるサッカーフィジー代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしOFCネイションズカップでは、1998年大会と2008年大会で3位に輝いている。
クリケットも人気スポーツの一つである。1874年にオバラウ島のレブカで始まり、訪問中の英国海軍艦艇がレブカのロイヤルホテルで選ばれた地元チームと対戦した。フィジーのクリケット協会は1946年に設立され、国際クリケット評議会に1965年に加盟した。1979年にICCトロフィーが創設され、トップレベルの競技会に定期的に参加するようになり、1990年にバミューダ諸島に勝利したのは最大の功績の一つである。女子クリケットも普及が進んでおり、15歳以下の代表チームのパフォーマンスも向上している。 | [
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"text": "太平洋戦争以前には、フィジーへの日本人移民の導入が試みられていた。しかし病気(脚気)が原因で定着せず、太平洋戦争の勃発によって中断された。日本軍とフィジー軍は太平洋上で戦闘状態になったものの、フィジー本土上陸戦は行われなかった。現在も太平洋戦争に備えた防塁等防御構築物の跡は残されている。1970年(昭和45年)の独立を日本も承認し、1979年にはスバに在フィジー日本大使館が開設された。在日本フィジー大使館は1981年に東京都に開設され、1990年(平成2年)には大阪に、2012年には横浜にそれぞれ名誉領事も任命している。フィジーはラグビーが盛んで、日本で活躍するラグビー選手もいる。また、公用語が英語で費用が比較的安価であることから、語学留学先としての人気もある。",
"title": "外交・国際関係"
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"text": "オーストラリアとニュージーランドの度重なる内政干渉による圧力のため、近年フィジー軍政は新たな活路として中国との関係を強化している。以前は、ほとんどいなかったとされる中国人がフィジーを訪れるようになり、年間1万人にまでになった。このため首都スバ市内には中国人経営の店舗が拡大している。2010年にはエアパシフィックとキャセイ航空の共同運航で香港から直行便が就航した。中国人は首都スバにいくビジネスマンが大半で、フィジー本島西部ナンディではあまり見かけない。",
"title": "外交・国際関係"
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"text": "また、フィジー各地で中国の援助による建築やインフラ整備が進み、娯楽施設や幹線道路、水力発電所を建設している。",
"title": "外交・国際関係"
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"text": "中国がフィジーに援助をする狙いは、豊富な漁業資源の獲得にあると見られている。理由は中国の経済成長により、国内のマグロ消費量が多くなっていることがあげられる。近年、中国の遠洋漁船がスバ港で多く見られるようになり、今では7割の外国船が中国の漁船である。また、フィジー最大の水産企業は中国の国営企業3社で、27隻のマグロ漁船で5分の1のマグロを水揚げしている。この国営企業はフィジー軍政のバイニマラマ首相とも太いパイプがある。",
"title": "外交・国際関係"
},
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"text": "2010年1月、中国政府はフィジー大統領府の敷地を囲む塀の無償援助をフィジー政府に約束した。塀の工事は中国の中鉄五局グループ(大手ゼネコン中国中鉄グループの一員)が請け負った。長さ2.4キロメートルの塀は2011年2月に竣工した。",
"title": "外交・国際関係"
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"text": "2021年から始まった中国・太平洋島嶼国外相会議に参加。2022年5月30日に開催された第二回会議はフィジーが開催国となり、バイニマラマ首相兼外相と王毅国務委員兼外相が共同議長を務めた。",
"title": "外交・国際関係"
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"text": "フィジーの南、トンガの南西およそ400kmにあるミネルバ・リーフの領有権を主張している。ミネルバ・リーフにおいては1972年1月にユダヤ系アメリカ人のマイケル・オリバーがマイクロネーションとしてミネルバ共和国の独立を宣言したが、周辺のフィジー、トンガ、ナウル、西サモアとクック諸島自治政府は、オーストラリアやニュージーランドと協議し同年6月にトンガ軍が上陸し占領した。しかし翌月フィジー軍が上陸し領有権を主張、このときはトンガの正式な領有権主張を認めたフィジー政府だったが、再び領有権を主張し2005年国際海底機構に提訴した。また、ミネルバ共和国の後継を主張するメンバーがミネルバ公国として再度領有権を主張するなど混乱が続いている。",
"title": "外交・国際関係"
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"text": "同国軍は世界で最も小さい軍隊の1つとして認知されている。3,500人の兵士(陸軍2,600、海軍400名、PKO等派遣500名)と6,000人の予備軍で構成されており、主に海軍が主体とされている。",
"title": "軍事"
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{
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"text": "PKO等派遣については、主に国連兵力引き渡し監視軍(UNDOF(ゴラン高原))に約140名、国連イラク支援ミッション(UNAMI(イラク))に約170名、多国籍部隊・監視団(MFO(シナイ半島))に約170名を派遣しているほか、UNIFIL(レバノン)、UNTSO(イスラエル)、UNMHA(イエメン)及びUNMISS(南スーダン)にそれぞれ司令部要員を若干名派遣している。兵士は志願制である。",
"title": "軍事"
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"text": "フィジーには300以上の島があり、その大半は小島で占められている。",
"title": "地理"
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"text": "全島が熱帯雨林気候(Af)となっており、年中高温多雨。南東貿易風の影響下にはいる5月〜11月は降雨も少ない。",
"title": "地理"
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"text": "世界におけるイグアナ生息地の一つに数え上げられる。同国固有の種は3種が確認されているが個体数が少なく、現在は絶滅危惧種に指定されている。",
"title": "地理"
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"text": "鳥類相は西ポリネシアでは最も豊かとされている。同国にはいくつかの固有種が存在していて、その一部が近隣国のトンガやサモアに生息域を拡げている。",
"title": "地理"
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"text": "フィジーは、4つの地域 (division) という行政区画に分かれる。( )内は地域政府所在地。",
"title": "地方行政区分"
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"text": "群島の北部にあるロツマ島は、保護領である。",
"title": "地方行政区分"
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"text": "主要都市はスバ、ラウトカ、ナンディなど",
"title": "地方行政区分"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "主に農業や衣料や観光で成り立っている。観光で得る収入は2億7000万ドルにのぼり、耕地面積は26万haある。農業に従事する人は13万人いる。貿易は大幅な輸入超過である。 輸出品は、野菜や果物、アメリカで人気の高いフィジーウォーター、砂糖、マホガニー、パルプ、衣料品、コプラ、ココナッツ石鹸、食料品などである。サトウキビ栽培は19世紀にヨーロッパ人が島にやって来たときに始まる。当初は、サトウキビ栽培に適した土地に製糖所を作るという 小規模なものであったが、植民地政府が奨励し経済的基盤としたためにサトウキビ産業として発展した。1988年までは最も重要な産業であったが、観光や衣料の輸出などの他の産業に押され気味である。しかし、労働力の四分の一を雇用している。2000年の映画『キャスト・アウェイ』の劇中で、主人公が漂着するクック諸島の南方600マイルに位置する無人島の場面があり、モンドリキ島がその撮影地となった。",
"title": "経済"
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"text": "2010年度の調査では、フィジーを訪れた観光客は631,868人で2009年より16.5% 増加した。オーストラリア人観光客が50.4%を占めて一番多く、前年より28%増加して31万8135人。2位はニュージーランド 97857人、3位はアメリカ 53122人、4位は南太平洋諸国 39198人、5位はヨーロッパ諸国 30088人。日本人の入国者は1%に満たない程度だが、2004年より英語学習を目的とした留学生もいる。ナンディとラウトカにキャンパスを置くFree Bird Institute(フリーバードインスティテュート)などで、年間1500名以上の留学生が英語留学している。",
"title": "経済"
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"text": "国際線の主要玄関となるナンディ国際空港は国営フィジー・エアウェイズが本拠としており、国内線が主であるナウソリ国際空港のほか各島に13の空港がある。島の間はフェリーが通う。大きな島ではタクシーのほかバスが利用されている。",
"title": "交通"
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"text": "砂糖産業の盛んなビティレブ島西部とバヌアレブ島にはサトウキビ輸送専用の鉄道が約600km敷設されており、収穫期には貨物列車がサトウキビを製糖工場へと輸送している。自動車の通行区分は、日本やイギリスと同じ左側通行。",
"title": "交通"
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"text": "2020年時点での人口は89万6千人であり、オセアニアではオーストラリア、パプアニューギニア、ニュージーランドに次ぐ4番目の人口を有する。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2007年時の住民は、フィジー系が56.8%、インド系移民が37.5%、ロツマ人1.2%、ヨーロッパ人や他の太平洋の島民、華人などが4.5%である。",
"title": "国民"
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{
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"text": "フィジーの住民は、先住民であるフィジー系と、イギリスが植民地時代に強制入植させた新しい住民であるインド系が多数を占める。リトル・インディアの相を呈する。19世紀の後半、西洋との接触でもたらされた伝染病が原因で、フィジー人絶滅の危機にさらされた。宗主国のあいだで奴隷制を終焉させ、先住民保護思想が広がっていたので、宗主国イギリスは人種絶滅を避けるためサトウキビ・プランテーションの契約労働者としてインド人導入政策をとった。こうしてインド人移民が始まったのである。1879年479人が移民した。",
"title": "国民"
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"text": "フィジー系のみで構成される伝統的社会指導者評議会 (GCC) による大統領任命が行われるなど、歴史的には政治面でのフィジー系の優遇政策がとられてきたが、ビジネスに長けたインド系へのやっかみもある。1999年5月の総選挙でインド系首相が就任したが、2000年5月にフィジー系の政治的優位の強化を主張する武装勢力によるクーデターが発生した。ただし、現政権によってGCCは廃止された。",
"title": "国民"
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"text": "ライセニア・ガラセ政権がフィジー系・インド系の対立の改善を図るが、2000年のクーデターでフィジー系の攻撃標的にされた軍司令官が宥和政策の実施を行うための法律は、実は2000年クーデター参加者の特赦が目的であると、これを拒否、2006年12月ガラセ首相を強行解任。大統領が司令官の方針に同調。",
"title": "国民"
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"text": "近年はフィジー系とインド系の結婚が進み、混血も多い。 現政権はフィジー系とインド系の融合で、現政権のトップはフィジー人のバイニマラマであるが、国のナンバー2である司法長官はインド系の元弁護士カイユン(本名:アイヤズ・サイェド=カイユーム/Aiyaz Sayed-Khaiyum)である。カイユンは2011年3月にフィジー系女性と結婚した。",
"title": "国民"
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"text": "言語は、英語、フィジー語、ヒンディー語(フィジー・ヒンディー語)が公用語。",
"title": "国民"
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"text": "フィジーでは結婚は「家族を作ること」ではなく「個人間の同盟である」と認識されている。その為、婚姻は親側の承認が先に出ないと成立させることが不可能となっている。",
"title": "国民"
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"text": "同国の結婚は伝統的なものと現在一般的となっている欧米式のものの2種類に分かれている。伝統的な結婚式は地域と種族により、その内容が異なる特徴を持つ。",
"title": "国民"
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"text": "伝統に基づくものには色々な儀式が必要とされており、地域によっては結婚式後の場合に行なわれる事もある。",
"title": "国民"
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{
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"tag": "p",
"text": "ほとんどの場合は、男性は先に好きな女性の父親の許可を貰いに向かうことが多く、一般的に男性と同じ氏族の男性はクジラの歯を持って、女性の父親を訪ねる仕来りとなっている。",
"title": "国民"
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{
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"text": "宗教は、キリスト教が64.7%、ヒンドゥー教が27.9%、イスラム教が6.3%、その他0.6%である。",
"title": "国民"
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"text": "義務教育は8年間となっている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2019年の犯罪統計資料によると、フィジーにおける犯罪認知件数は約17,000件であり、2018年に比べて4%減少しているが、スリやひったくりなどの窃盗、強盗及び暴行が依然として多い他、違法薬物に関わる犯罪や性的暴行など性犯罪の増加が指摘されている。地域別では、首都圏(スバ市、ラミ町、ナシヌ町及びナウソリ町)及び西部地区(ラウトカ市、ナンディ町及びバ町)は、その他の地域に比べて多くの犯罪が発生している。",
"title": "治安"
},
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "日本人の犯罪被害は、窃盗、強盗、暴行傷害、詐欺などが報告されている。窃盗及び強盗に関しては、財布(現金)やスマートフォンなどの貴重品を盗まれる事例が多く報告されており、暴行傷害に関しては夜間にナイトクラブなどで喧嘩に巻き込まれた事例、早朝に泥酔した現地人に絡まれて暴行を受けた事例などが報告されている。詐欺に関しては、格安観光ツアーを装った者に現金をだまし取られる事例、クレジットカードなどのスキミング被害などが報告されている。",
"title": "治安"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "加えて日本人を含むアジア人は、「裕福である」との印象を持たれている上、欧米人に比べて体格が小さいことからも犯罪のターゲットになりやすい傾向がある為、散策などの外出時は強い注意が必要となる。",
"title": "治安"
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"tag": "p",
"text": "フィジーの主要放送局はフィジーワンと、Mai TVがあり、そのほか有料のスカイTVもある。インターネットはConnect, Kida net, Vodafone など各社がある。また、インテルサット(Intelsat)とも提携を行なっている。 フィジーにもキャンパスを設置する南太平洋大学もプロバイダを行っている。 新聞は売店などで80セントから90セントで手に入る。新聞は英語のフィジータイムス、フィジーサンのほか、フィジー語やヒンドゥー語の新聞が発行されている。",
"title": "マスコミ"
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{
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"text": "フィジーの文化は多国籍文化である。主にインドや中国、ヨーロッパの文化、および太平洋に存在する近隣国からの様々な文化の導入によって進化して来た。特にトンガとロツマの言語に関連するものを含む面が顕著に現れている。また、独特の共同体と国民のアイデンティティを生み出していることから、その文化は色濃いものとなっている。",
"title": "文化"
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"tag": "p",
"text": "各村には、集会などに用いられるブレ(英語版)と呼ぶ建物がある。",
"title": "文化"
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"text": "フィジーではラグビーが国技と言われるほど盛んであり、15人制では2007年ラグビーW杯でベスト8の成績を収めた。7人制ではラグビーワールドカップセブンズで1997年大会と2005年大会で2度の優勝を果たし、オリンピックでは7人制として初めて開催された2016年リオデジャネイロ五輪で優勝し、全種目を通じてフィジー初のメダル獲得となった。",
"title": "スポーツ"
},
{
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"text": "フィジーではラグビーの次にサッカーが盛んであり、1977年にサッカーリーグのナショナル・フットボールリーグが創設された。バをホームタウンとするバFCが、リーグ最多21度の優勝を数える。フィジーサッカー協会(FFA)によって構成されるサッカーフィジー代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしOFCネイションズカップでは、1998年大会と2008年大会で3位に輝いている。",
"title": "スポーツ"
},
{
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"text": "クリケットも人気スポーツの一つである。1874年にオバラウ島のレブカで始まり、訪問中の英国海軍艦艇がレブカのロイヤルホテルで選ばれた地元チームと対戦した。フィジーのクリケット協会は1946年に設立され、国際クリケット評議会に1965年に加盟した。1979年にICCトロフィーが創設され、トップレベルの競技会に定期的に参加するようになり、1990年にバミューダ諸島に勝利したのは最大の功績の一つである。女子クリケットも普及が進んでおり、15歳以下の代表チームのパフォーマンスも向上している。",
"title": "スポーツ"
}
] | フィジー共和国(フィジーきょうわこく)、通称フィジーは、オセアニアの国家で、イギリス連邦加盟国である。首都はビティレブ島のスバ。南太平洋のフィジー諸島と北に500km程離れた保護領のロツマ島に位置する群島国家である。300余の火山島と珊瑚礁からなる。西にバヌアツ、東にトンガ、北にツバルがある。 | {{基礎情報 国
| 略名 =フィジー
| 日本語国名 =フィジー共和国
| 公式国名 =<strong lang="en" xml:lang="en">Republic of Fiji</strong>([[英語]])<br /><strong lang="fj" xml:lang="fj">Matanitu Tugalala o Viti</strong>([[フィジー語]])<br /><strong lang="fj" xml:lang="fj">रिपब्लिक ऑफ फीजी</strong>([[ヒンディー語]])
| 国旗画像 =Flag of Fiji.svg
| 国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Fiji.svg|100px|フィジーの国章]]
| 国章リンク =([[フィジーの国章|国章]])
| 標語 =<em lang="fj" xml:lang="fj">Rerevaka na Kalou ka Doka na Tui</em><br />(フィジー語: 神を畏敬し、女王を尊敬する)
| 位置画像 =Fiji on the globe (small islands magnified) (Polynesia centered).svg
| 公用語 =[[英語]]、[[フィジー語]]<br />[[ヒンドゥスターニー語]]([[フィジー・ヒンディー語]]、[[ヒンディー語]]、[[ウルドゥー語]])
| 首都 =[[スバ]]
| 最大都市 =スバ
| 元首等肩書 =[[フィジーの大統領|大統領]]
| 元首等氏名 ={{ill2|ウィリアメ・カトニヴェレ|en|Wiliame Katonivere}}
| 首相等肩書 =[[フィジーの首相|首相]]
| 首相等氏名 =[[シティベニ・ランブカ]]
| 面積順位 =155
| 面積大きさ =1 E10
| 面積値 =18,274
| 水面積率 =極僅か
| 人口統計年 = 2022
| 人口順位 = 163
| 人口大きさ = 1 E4
| 人口値 = 943,737
| 人口密度値 = 51.6
| 人口追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/fiji/ |title=Fiji |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月20日}}</ref>
| GDP統計年元 =2020
| GDP値元 =97億4700万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月24日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=819,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref>
| GDP統計年MER =2020
| GDP順位MER =156
| GDP値MER =44億9400万<ref name="economy" />
| GDP MER/人 =4995.163(推計)<ref name="economy" />
| GDP統計年 =2020
| GDP順位 =155
| GDP値 =108億2600万(推計)<ref name="economy" />
| GDP/人 =1万2032.463<ref name="economy" />
| 建国形態 =[[独立]]<br /> - 日付
| 建国年月日 =[[イギリス]]より<br />[[1970年]][[10月10日]]
| 通貨 =[[フィジー・ドル]]
| 通貨コード =FJD
| 時間帯 =+12
| 夏時間 =なし(2021年1月を最後に撤廃)
| ISO 3166-1 = FJ / FJI
| ccTLD =[[.fj]]
| 国際電話番号 =679
| 注記 =
|国歌=[[フィジーに幸あれ|{{lang|en|God Bless Fiji}}]]{{en icon}}<br>''フィジーに幸あれ''<br><center>[[ファイル:Fiji National Anthem.ogg]]}}
'''フィジー共和国'''(フィジーきょうわこく)、通称'''フィジー'''は、[[オセアニア]]の[[国家]]で、[[イギリス連邦]]加盟国である。首都は[[ビティレブ島]]の[[スバ]]。[[南太平洋]]のフィジー諸島と北に500km程離れた保護領の[[ロツマ島]]に位置する[[群島国家]]である。300余の火山島と珊瑚礁からなる。西に[[バヌアツ]]、東に[[トンガ]]、北に[[ツバル]]がある。
== 国名 ==
正式名称は、<em lang="en" xml:lang="en">Republic of Fiji</em>(リパブリック・オブ・フィージー)。通称、<em lang="en" xml:lang="en">Fiji</em>。
国名の由来には諸説あり、説として有力なのは前者である。
*フィジーの最大の島である[[ビティレブ島]](Viti Levu Island)の「ビティ(Viti)」をヨーロッパから来た宣教師が「フィジー(Fiji)」と発音したという説。
*1773年に[[ジェームズ・クック]]がトンガを発見した際、トンガ人から隣に「フィージー」と言う国があると聞き、これを「Feejee」と書き残して、それが今の国名になったという説
日本語の表記は、'''フィジー共和国'''。通称、'''フィジー'''。他に、フィジイ、フィジィ。
[[1998年]]に'''フィジー共和国'''から'''フィジー諸島共和国'''へと改称したが、[[2011年]][[2月]]に再度フィジー共和国に戻った。また、[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字による表記]]は「'''斐濟'''」である。
== 歴史 ==
[[File:Urville-Viti-Lebouka2.jpg|right|thumb|旧首都[[レブカ]]([[1842年]])]]
{{Main|{{仮リンク|フィジーの歴史|en|History of Fiji}}}}
<!-- 本文 -->
* 伝説によると、フィジーに人が住み始めたのは約8000年前[[メラネシア|メラネシアン]]が[[カヌー]]で[[ビティレブ島]]西海岸の[[ヴダ岬]]に上陸したのが始まりであるとされている。フィジー最古の都である[[ヴィセイセイ]]は[[ルーツナソバソバ]] (Lutunasobasoba)によって造営された<ref>[http://www.fiji.org.nz/files/9213/3713/9625/History.pdf]</ref><ref>[https://www.africaresource.com/rasta/sesostris-the-great-the-egyptian-hercules/africanroots-of-fiji-viti-dua/]</ref>。その後、トンガ人が移り住み、ポリネシア文化の影響を受けた。
* [[紀元前1300年]]以前と推定される土器類がビティレブ島から発掘されている。
* [[1643年]]、オランダの[[アベル・タスマン|タスマン]]が北部に上陸。
* [[1774年]]、イギリス人航海家の[[ジェームズ・クック|クック]]が南部に上陸。
* [[1874年]]、[[イギリス]]の[[植民地]]となる。
* [[1881年]]、ロツマ島がイギリスの植民地となる。
* [[1879年]]、イギリスは[[1916年]]まで<ref group="注">過酷な輸送条件と労働環境のため問題視されるようになり1920年公式に停止となった。</ref>[[砂糖]]の[[プランテーション]]のため大勢の[[インド]]人契約労働者をフィジーに移民させる。その多くはフィジーに定住し、フィジー社会を劇的に変化させる事になる。
* [[1913年]]、[[アポロシ・ナワイ]]によってフィジー系住民の民族運動「ヴィチ・カンバニ運動」が始まる。
* [[1970年]]、[[英連邦王国]]として[[独立]]。ロツマ島を保護領とする。
* [[1987年]]、{{ill2|ティモシー・バヴァドラ|en|Timoci Bavadra}}首相が政権をとるが、5月と9月に[[シティベニ・ランブカ]]陸軍中佐による[[クーデター]]が起こり10月に[[共和国]]宣言をし、イギリス連邦を離脱。
**同年10月、ロツマ島出身の空手家で王位を自称していた[[ヘンリー・ギブソン (フィジー人)|ヘンリー・ギブソン]]が移住先の[[ニュージーランド]]でロツマ共和国の独立を宣言。同年12月に鎮圧される。
* [[1990年]]、フィジー系の[[憲法]]を公布。
* [[1997年]]、改正憲法公布。イギリス連邦に再び加盟。
* [[1998年]]、国名を'''フィジー諸島共和国'''に変更。
* [[1999年]]、5月の総選挙によりインド系{{ill2|マヘンドラ・チョードリー|en|Mahendra Chaudhry}}首相就任。労働党を中心とする政権誕生。
* [[2000年]]、5月[[ジョージ・スペイト]]率いる集団がチョードリー首相を人質に[[国会議事堂 (フィジー)|国会議事堂]]を2か月占拠し(国会占領事件)、[[軍隊|軍]]が[[戒厳令]]を発令し、7月フィジー系[[ライセニア・ガラセ]]を首班とする[[文民統制|文民]]暫定政権が発足する。
* [[2001年]]、9月[[総選挙]]を行う。ガラセ首相就任。
* [[2006年]]、5月ガラセ首相再任。12月に[[フランク・バイニマラマ]]軍司令官によるクーデター。以降、ニュージーランド・オーストラリア・EUなどが援助停止や入国禁止などの圧力を加えるのに対し、中国が援助を急増させる<ref> 『中国の援助、フィジーのクーデター以降急上昇』国際機関太平洋諸島センター http://www.pic.or.jp/news/080505.htm#2</ref>。
* [[2007年]]、1月パイニマラマは暫定内閣の首相に就任。総人口に占めるインド系の割合は36%まで落ち込む。
* [[2009年]]、[[4月9日]]に高裁が軍事政権を違法と判断。10日に[[ジョセファ・イロイロ]]大統領が憲法を廃止し、バイニマラマ軍司令官を暫定首相に就任させた。民政復帰の選挙は2014年まで延期。
* 2009年、[[5月2日]]に[[太平洋諸島フォーラム]](PIF)が、民主的選挙の未実施を理由にフィジーのメンバー資格停止を発表<ref>PIF PRESS STATEMENT 2 May 2009</ref>。
* 2009年、[[7月28日]]にイロイロ大統領が健康上の理由から近く退任すると発表。後任には[[エペリ・ナイラティカウ]]副大統領が就いた。
* 2009年、[[9月1日]]に[[イギリス連邦]](コモンウェルス、53カ国)が、2010年10月予定の民主的選挙の未実施を理由にフィジーのメンバー資格停止を発表<ref>「[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]」日本語版サイト 2009年9月2日付。http://www.cnn.co.jp/world/CNN200909020012.html</ref>。
* [[2011年]]、2月に国名を'''フィジー共和国'''と改称。
* 2013年9月新憲法公布。
* [[2013年]][[12月19日]] ベンガ島ルクア村電化プロジェクトが完了。
* [[2014年]][[9月17日]] {{仮リンク|2014年フィジー議会総選挙|label=フィジー議会総選挙|en|Fijian general election, 2014}}。バイニマラマ暫定首相率いる政党[[フィジーファースト]]が大勝。これにより民政復帰。これを受けPIFもメンバー資格停止を解除した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/fiji/data.html|title=フィジー共和国(Republic of Fiji)基礎データ|publisher=日本国[[外務省]]|accessdate=2017-02-13}}</ref>。
* 2014年[[9月29日]] イギリス連邦に復帰。
== 政治 ==
{{Main|{{仮リンク|フィジーの政治|en|Politics of Fiji}}}}
[[パプアニューギニア]]と並ぶ[[南太平洋]]の島嶼国のリーダー。
[[フィジーの大統領|大統領]]を[[元首]]に戴く{{仮リンク|象徴大統領|label=象徴大統領制|en|Executive president}}、首相が行政権を掌握する[[議院内閣制]]で、[[フィジー議会|議会]]は一院制で任期4年、定数は50。更にフィジー全土を一つの選挙区としたオープンリスト比例代表制となっている。選挙権は18歳から<ref>[http://www.parliament.gov.fj/elections/ フィジー政府のサイト]</ref>。
以前は二院制であったが、2013年の新憲法公布により一院制へ変更された。
[[2014年]]9月まで[[軍事政権]]。軍事政権は、[[2009年]]3月に民政復帰のための総選挙を実施するとしていたが、延期されていた。2009年4月高裁が軍事政権を違法と判断を下したため、イロイロ大統領は[[憲法]]を廃止して自らが政府の実権を握ったと言明し、バイニマラマ軍司令官を暫定[[フィジーの首相|首相]]に再任し、国内に30日間の[[非常事態宣言]]を発令し、総選挙を[[2014年]]に先送りすると表明した。軍事政権は[[マスメディア|メディア]]への[[検閲]]を開始し、[[オーストラリア]]ABC放送の記者らを国外退去させた。市民生活は通常通り。2013年に新憲法を2014年9月に総選挙を実施、フィジー第一党が過半数の議席を獲得し、バイニマラマ首相が再任された。その後、2016年9月の内閣改造に伴い、バイニマラマ首相は外相も兼任<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/fiji/data.html#section2 フィジー共和国基礎データ]</ref>。
{{See also|{{仮リンク|フィジーの憲法|fr|Constitution des Fidji}}|{{仮リンク|2013年フィジー憲法|en|2013 Constitution of Fiji}}}}
一方、[[イギリス国王]]を元首に戴く[[立憲君主制]]への復帰も検討されているが、[[英連邦王国]]の一部であった[[カリブ海地域]]国家の[[バルバドス]]が2021年[[11月30日]]に[[共和制]]へ移行したことにより、その件で今後のイギリス国王の影響力などを踏まえながら動く姿勢が同地域から見え始めている<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20211129223314/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021112900827&g=int|title=エリザベス女王の君主制廃止 カリブ島国バルバドス、共和制へ―英影響力に陰り|newspaper=時事ドットコム|date=2021-12-05|accessdate=2021-12-05}}</ref>為、余波を考慮すれば立憲君主制への復帰の可能性は現時点で定かとは言えない。
{{節スタブ}}
== 外交・国際関係 ==
{{Main|{{仮リンク|フィジーの国際関係|en|Foreign relations of Fiji}}}}
フィジーは伝統的に、日本やオーストラリア、ニュージーランドなど、[[アジア]]・太平洋諸国との関係を重視してきたが、軍事政権樹立後は民政復帰や民主化への対応をめぐって内政干渉を行うオーストラリアやニュージーランドと対立している。遂には、両国大使のフィジーからの[[ペルソナ・ノン・グラータ|退去]]を命ずる一方<ref>{{Cite web |date=2009-11-04 |url=http://english.cctv.com/20091104/102876.shtml |title=New Zealand expels Fiji diplomat |publisher=CCTV |accessdate=2019-10-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2009 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/kuni/08_databook/pdfs/07-12.pdf |title=政府開発援助(ODA)国別データブック 2008 フィジー |publisher=外務省 |accessdate=2019-10-31 |format=PDF |page=1}}</ref>、オーストラリアとニュージーランド政府もフィジー大使の国外退去を命じる局面もあった。
一方、多数の[[国際機関]]に加盟している国家の一つとしても知られており、その機関の数はかなり多いものともなっている。同国が参加している国際機関は以下。
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{{col-4}}
* [[アフリカ・カリブ海・太平洋諸国]](ACP)
* [[アジア開発銀行]](ADB)
* [[コロンボ・プラン]](CP)
* [[アジア太平洋経済社会委員会]](ESCAP)
* [[国際連合食糧農業機関]](FAO)
* [[77ヶ国グループ]](G‑77)
* [[国際復興開発銀行]](IBRD)
* [[国際民間航空機関]](ICAO)
* [[国際刑事裁判所]](ICC)
* [[国際自由労働組合総連盟]](ICFTU)
* [[国際赤十字・赤新月運動]](ICRM)
{{col-4}}
* [[国際開発協会]](IDA)
* [[国際農業開発基金]](IFAD)
* [[国際金融公社]](IFC)
* [[国際水路機関]](IHO)
* [[国際労働機関]](ILO)
* [[国際通貨基金]](IMF)
* [[国際海事機関]](IMO)
* [[国際刑事警察機構]](Interpol)
* [[国際オリンピック委員会]](IOC)
* [[国際標準化機構]](ISO)
* [[国際電気通信連合]](ITU)
{{col-4}}
* [[化学兵器禁止機関]](OPCW)
* [[常設仲裁裁判所]](PCA)
* [[太平洋諸島フォーラム]](PIF)
* {{仮リンク|南太平洋地域貿易経済協力協定|en|South Pacific Regional Trade and Economic Co-operation Agreement}}(Sparteca)
* [[太平洋共同体]](SPC)
* [[国際連合]](UN)
* [[国際連合貿易開発会議]](UNCTAD)
* [[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)
* [[気候変動に関する国際連合枠組条約]](UNFCCC)
* [[国際連合工業開発機関]](UNIDO)
* [[国際連合レバノン暫定駐留軍]](UNIFIL)
{{col-4}}
* [[国際連合イラク・クウェート監視団]](UNIKOM)
* [[国際連合ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ミッション]](UNMIBH)
* [[国際連合コソボ暫定行政ミッション]](UNMIK)
* [[万国郵便連合]](UPU)
* [[世界税関機構]](WCO}
* [[世界労働組合連盟]](WFTU)
* [[世界保健機関]](WHO)
* [[世界知的所有権機関]](WIPO)
* [[世界気象機関]](WMO)
* [[世界観光機関]](UNWTO)
* [[世界貿易機関]](WTO)
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=== オーストラリアやニュージーランドとの関係 ===
オーストラリアやニュージーランドとの貿易額はシンガポールについで大きく、フィジーはオーストラリアから小麦粉や食料品その他を輸入している。ニュージーランドからは牛乳や肉その他食料品の輸入が多い。フィジーにはビジネス目的に暮らしているオーストラリア人やニュージーランド人も多く、Fiji Australia Business CouncilやFiji New Zealand Business Councilもある。
貿易以外では、フィジーのリゾートはオーストラリア人やニュージーランド人による経営が多く、Fiji Australia Business Councilは、オーストラリア政府のフィジー政府に対する姿勢をビジネス促進に対する障害として批判する発言をしたこともある。
=== 日本との関係 ===
[[太平洋戦争]]以前には、フィジーへの日本人移民の導入が試みられていた。しかし病気([[脚気]])が原因で定着せず、太平洋戦争の勃発によって中断された。日本軍とフィジー軍は太平洋上で戦闘状態になったものの、フィジー本土上陸戦は行われなかった。現在も太平洋戦争に備えた[[防塁等防御構築物]]の跡は残されている。1970年([[昭和]]45年)の独立を日本も承認し、1979年にはスバに[[在フィジー日本国大使館|在フィジー日本大使館]]が開設された。[[駐日フィジー大使館|在日本フィジー大使館]]は1981年に東京都に開設され、1990年(平成2年)には大阪に、2012年には横浜にそれぞれ名誉領事も任命している。フィジーは[[ラグビーフットボール|ラグビー]]が盛んで、日本で活躍するラグビー選手もいる<ref>日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。また、公用語が英語で費用が比較的安価であることから、語学留学先としての人気もある。
=== 中国の進出 ===
オーストラリアとニュージーランドの度重なる内政干渉による圧力のため、近年フィジー軍政は新たな活路として[[中華人民共和国|中国]]との関係を強化している。以前は、ほとんどいなかったとされる中国人がフィジーを訪れるようになり、年間1万人にまでになった。このため首都スバ市内には中国人経営の店舗が拡大している。2010年にはエアパシフィックとキャセイ航空の共同運航で香港から直行便が就航した。中国人は首都スバにいくビジネスマンが大半で、フィジー本島西部ナンディではあまり見かけない。
また、フィジー各地で中国の援助による建築やインフラ整備が進み、娯楽施設や幹線道路、水力発電所を建設している。<!--倍率と額とが対応しないので要確認 中国は、フィジーに対する援助額を公表していないが、2005年の1億円に対し、2007年には160億円と倍に拡大した。これは日本の援助額の3倍で、今では中国が最大援助国となっている。-->
中国がフィジーに援助をする狙いは、豊富な漁業資源の獲得にあると見られている。理由は中国の経済成長により、国内のマグロ消費量が多くなっていることがあげられる。近年、中国の遠洋漁船がスバ港で多く見られるようになり、今では7割の外国船が中国の漁船である。また、フィジー最大の水産企業は中国の国営企業3社で、27隻のマグロ漁船で5分の1のマグロを水揚げしている。この国営企業はフィジー軍政のバイニマラマ首相とも太いパイプがある<ref>NHKbs1「[[きょうの世界]]」 2009年6月2日放送回より。{{出典無効|date=2022年8月}}</ref>。
2010年1月、中国政府はフィジー大統領府の敷地を囲む塀の無償援助をフィジー政府に約束した<ref name="yakusoku">「{{lang|zh-Hans|[http://www.fmprc.gov.cn/chn/gxh/wzb/zwbd/wshd/t650233.htm 中斐签署斐济总统府围墙项目实施合同]}}」(中国外交部公式サイト、2012年1月7日、2012年5月26日閲覧)</ref>。塀の工事は中国の中鉄五局グループ(大手ゼネコン[[中国中鉄]]グループの一員)が請け負った<ref name="yakusoku" />。長さ2.4キロメートルの塀は2011年2月に竣工した<ref>「{{lang|zh-Hans|[http://www.mofcom.gov.cn/aarticle/i/jyjl/k/201104/20110407483478.html 中国援斐济总统府和植物园围墙项目竣工交接]}}」(中国商務部公式サイト、2011年4月6日、2012年5月26日閲覧)</ref>。
[[2021年]]から始まった[[中国・太平洋島嶼国外相会議]]に参加。[[2022年]][[5月30日]]に開催された第二回会議はフィジーが開催国となり、バイニマラマ首相兼外相と王毅国務委員兼外相が共同議長を務めた<ref>{{Cite web |url=http://j.people.com.cn/n3/2022/0531/c94474-10103863.html |title=王毅部長が中国・太平洋島嶼国外相会議の5つの共通認識を発表 |publisher=人民網 |date=2022-05-31 |accessdate=2022-06-08}}</ref>。
=== 領土問題 ===
フィジーの南、トンガの南西およそ400kmにある[[ミネルバ・リーフ]]の領有権を主張している。ミネルバ・リーフにおいては1972年1月にユダヤ系アメリカ人のマイケル・オリバーが[[マイクロネーション]]として[[ミネルバ共和国]]の独立を宣言したが、周辺のフィジー、トンガ、[[ナウル]]、[[サモア|西サモア]]と[[クック諸島]]自治政府は、オーストラリアやニュージーランドと協議し同年6月にトンガ軍が上陸し占領した。しかし翌月フィジー軍が上陸し領有権を主張、このときはトンガの正式な領有権主張を認めたフィジー政府だったが、再び領有権を主張し2005年[[国際海底機構]]に提訴した。また、ミネルバ共和国の後継を主張するメンバーがミネルバ公国として再度領有権を主張するなど混乱が続いている。
== 軍事 ==
{{Main|{{仮リンク|フィジー共和国軍|en|Republic of Fiji Military Forces}}}}
同国軍は世界で最も小さい軍隊の1つとして認知されている。3,500人の兵士(陸軍2,600、海軍400名、[[PKO等派|PKO等派遣]]500名)と6,000人の[[予備役|予備軍]]で構成されており、主に[[海軍]]が主体とされている。
PKO等派遣については、主に国連兵力引き渡し監視軍([[国際連合兵力引き離し監視軍|UNDOF]]([[ゴラン高原]]))に約140名、国連イラク支援ミッション([[国際連合イラク支援ミッション|UNAMI]]([[イラク]]))に約170名、多国籍部隊・監視団([[MFO]]([[シナイ半島]]))に約170名を派遣しているほか、[[国際連合レバノン暫定駐留軍|UNIFIL]]([[レバノン]])、[[国際連合休戦監視機構|UNTSO]]([[イスラエル]])、[[UNMHA]]([[イエメン]])及び[[国際連合南スーダン派遣団|UNMISS]]([[南スーダン]])にそれぞれ司令部要員を若干名派遣している。兵士は志願制である。<ref>{{Cite web|和書|title=フィジー共和国基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/fiji/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2023-03-03 |language=ja}}</ref>
{{節スタブ}}
== 地理 ==
[[ファイル:Fiji-CIA WFB Map.png|right|thumb|フィジーの地図]]
{{main|{{仮リンク|フィジーの地理|en|Geography of Fiji}}}}
フィジーには300以上の島があり、その大半は[[小島]]で占められている。
{{節スタブ}}
=== 主な島 ===
* [[ビティレブ島]] - 首都[[スバ]]
* [[バヌアレブ島]]
* [[カンダブ島]]
* [[タベウニ島]]
* [[オバラウ島]]
* [[ママヌザ諸島]]
* [[ヤサワ諸島]]
* [[マロロ諸島]]
* [[バトア島]]
=== 気候 ===
全島が[[熱帯雨林気候]](Af)となっており、年中高温多雨。南東[[貿易風]]の影響下にはいる5月〜11月は降雨も少ない。
=== 生態系 ===
世界における[[イグアナ]]生息地の一つに数え上げられる。同国固有の種は3種が確認されているが個体数が少なく、現在は[[絶滅危惧種]]に指定されている。
[[鳥類]]相は[[西ポリネシア]]では最も豊かとされている。同国にはいくつかの固有種が存在していて、その一部が近隣国のトンガやサモアに生息域を拡げている。
{{See also|{{仮リンク|フィジーの鳥の一覧|en|List of birds of Fiji}}}}
== 地方行政区分 ==
[[Image:FijiOMCmap.png|thumb|right|200px|フィジーの地図(詳細)]]
{{Main|フィジーの行政区画}}
フィジーは、4つの地域 (division) という行政区画に分かれる。( )内は地域政府所在地。
* 中央地域、Central Division([[スバ]]、Suva)
* 北部地域、Northern Division ([[ランバサ]]、Labasa)
* 東部地域 Eastern Division ([[レブカ]]、Levuka)
* 西部地域 Western Division ([[ラウトカ]]、Lautoka)
群島の北部にある[[ロツマ島]]は、[[保護領]]である。
主要都市は[[スバ]]、[[ラウトカ]]、[[ナンディ]]など
== 経済 ==
[[File:Tree map exports 2009 Fiji.jpeg|right|thumb|28の色で識別されたフィジーの輸出品目]]
{{main|{{仮リンク|フィジーの経済|en|Economy of Fiji}}}}
主に[[農業]]や衣料や[[観光]]で成り立っている。[[観光]]で得る収入は2億7000万ドルにのぼり、耕地[[面積]]は26万[[ヘクタール|ha]]ある。[[農業]]に従事する人は13万人いる。[[貿易]]は大幅な[[輸入]]超過である。
[[輸出]]品は、野菜や果物、アメリカで人気の高い[[フィジーウォーター]]、砂糖、マホガニー、パルプ、衣料品、コプラ、ココナッツ石鹸、食料品などである。サトウキビ栽培は19世紀にヨーロッパ人が島にやって来たときに始まる。当初は、サトウキビ栽培に適した土地に製糖所を作るという
小規模なものであったが、植民地政府が奨励し経済的基盤としたためにサトウキビ産業として発展した。1988年までは最も重要な産業であったが、観光や衣料の輸出などの他の産業に押され気味である。しかし、労働力の四分の一を雇用している<ref>丹羽典生「サトウキビ産業盛衰史」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 99ページ</ref>。[[2000年]]の映画『[[キャスト・アウェイ]]』の劇中で、主人公が漂着する[[クック諸島]]の南方600[[マイル]]に位置する[[無人島]]の場面があり、[[ママヌザ諸島|モンドリキ島]]がその撮影地となった。
=== 観光 ===
[[File:The Point (Fiji).jpg|left|thumb|ヤシが生い茂るフィジーのビーチ]]
2010年度の調査では、フィジーを訪れた観光客は631,868人で2009年より16.5% 増加した。オーストラリア人観光客が50.4%を占めて一番多く、前年より28%増加して31万8135人。2位はニュージーランド 97857人、3位はアメリカ 53122人、4位は南太平洋諸国 39198人、5位はヨーロッパ諸国 30088人。日本人の入国者は1%に満たない程度だが、2004年より英語学習を目的とした留学生もいる。[[ナンディ]]と[[ラウトカ]]にキャンパスを置く[[Free Bird Institute]](フリーバードインスティテュート)などで、年間1500名以上の[[留学生]]が[[英語]]留学している。
{{Clearleft}}
== 交通 ==
[[File:Yasawa Flyer Ferry.jpg|thumb|right|160px|ヤサワフライヤー(Yasawa Flyer)の[[フェリー]] <br/> [[ナンディ]]港にて撮影 ]]
{{main|フィジーの交通}}
国際線の主要玄関となる[[ナンディ国際空港]]は国営[[フィジー・エアウェイズ]]が本拠としており、国内線が主である[[ナウソリ国際空港]]のほか各島に13の空港がある。島の間はフェリーが通う。大きな島ではタクシーのほかバスが利用されている。
砂糖産業の盛んなビティレブ島西部とバヌアレブ島にはサトウキビ輸送専用の鉄道が約600㎞敷設されており、収穫期には貨物列車がサトウキビを製糖工場へと輸送している<ref>「世界の鉄道」p131 [[海外鉄道技術協力協会|一般社団法人海外鉄道技術協力協会]]著 ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行</ref>。自動車の通行区分は、[[日本]]や[[イギリス]]と同じ[[左側通行]]。
== 国民 ==
[[File:Fijian women ceremonial.jpg|right|thumb|160px|[[w:Fijian people|フィジー系]]の女性(1935年)]]
{{main|{{仮リンク|フィジーの人口統計|en|Demographics of Fiji|es|Demografía de Fiyi}}}}
2020年時点での人口は89万6千人であり、オセアニアでは[[オーストラリア]]、[[パプアニューギニア]]、[[ニュージーランド]]に次ぐ4番目の人口を有する。
=== 人種・民族 ===
2007年時の住民は、[[フィジー人|フィジー系]]が56.8%、[[インド系移民と在外インド人|インド系移民]]が37.5%<ref>1987年のクーデター以降海外へ流出激増、2007年の統計では、フィジー総人口に占める割合は36%まで下がっている。将来3分の1まで下がることが確実視されている。(丹波典生「リトル・インディアの行方」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 98ページ)</ref>、ロツマ人1.2%、[[ヨーロッパ|ヨーロッパ人]]や他の太平洋の島民、[[華人]]などが4.5%である<ref name=":0">https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/fj.html</ref>。
==== フィジー系とインド系 ====
フィジーの住民は、先住民であるフィジー系と、イギリスが植民地時代に強制入植させた新しい住民であるインド系が多数を占める。リトル・インディアの相を呈する。19世紀の後半、西洋との接触でもたらされた伝染病が原因で、フィジー人絶滅の危機にさらされた。宗主国のあいだで奴隷制を終焉させ、先住民保護思想が広がっていたので、宗主国イギリスは人種絶滅を避けるためサトウキビ・プランテーションの契約労働者としてインド人導入政策をとった。こうしてインド人移民が始まったのである。1879年479人が移民した。<ref>丹波典生「リトル・インディアの行方」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 95-96ページ </ref>
フィジー系のみで構成される[[伝統的社会指導者評議会]] (GCC) による大統領任命が行われるなど、歴史的には政治面でのフィジー系の優遇政策がとられてきたが、ビジネスに長けたインド系へのやっかみもある。1999年5月の総選挙でインド系首相が就任したが、2000年5月にフィジー系の政治的優位の強化を主張する武装勢力によるクーデターが発生した。ただし、現政権によってGCCは廃止された。
[[ライセニア・ガラセ]]政権がフィジー系・インド系の対立の改善を図るが、2000年のクーデターでフィジー系の攻撃標的にされた軍司令官が宥和政策の実施を行うための法律は、実は2000年クーデター参加者の特赦が目的であると、これを拒否、2006年12月ガラセ首相を強行解任。大統領が司令官の方針に同調。
近年はフィジー系とインド系の結婚が進み、混血も多い。
現政権はフィジー系とインド系の融合で、現政権のトップはフィジー人のバイニマラマであるが、国のナンバー2である司法長官はインド系の元弁護士カイユン(本名:アイヤズ・サイェド=カイユーム/Aiyaz Sayed-Khaiyum)である。カイユンは2011年3月にフィジー系女性と結婚した。
=== 言語 ===
言語は、[[英語]]、[[フィジー語]]、[[ヒンディー語]]([[フィジー・ヒンディー語]])が公用語。
=== 婚姻 ===
フィジーでは結婚は「[[家族]]を作ること」ではなく「個人間の[[同盟]]である」と認識されている。その為、婚姻は親側の承認が先に出ないと成立させることが不可能となっている。
同国の結婚は伝統的なものと現在一般的となっている欧米式のものの2種類に分かれている。伝統的な結婚式は地域と種族により、その内容が異なる特徴を持つ。
伝統に基づくものには色々な儀式が必要とされており、地域によっては結婚式後の場合に行なわれる事もある。
ほとんどの場合は、男性は先に好きな女性の父親の許可を貰いに向かうことが多く、一般的に男性と同じ氏族の男性は[[クジラ]]の歯を持って、女性の父親を訪ねる仕来りとなっている。
{{節スタブ}}
=== 宗教 ===
{{main|{{仮リンク|フィジーの宗教|en|Religion in Fiji}}}}
宗教は、[[キリスト教]]が64.7%、[[ヒンドゥー教]]が27.9%、[[イスラム教]]が6.3%、その他0.6<ref name=":0" />%である。
{{節スタブ}}
=== 教育 ===
{{main|{{仮リンク|フィジーの教育|en|Education in Fiji}}}}
[[義務教育]]は8年間となっている。
{{節スタブ}}
=== 保健 ===
{{main|{{仮リンク|フィジーの保健|en|Health in Fiji}}}}
{{節スタブ}}
== 治安 ==
2019年の犯罪統計資料によると、フィジーにおける[[犯罪]]認知件数は約17,000件であり、2018年に比べて4%減少しているが、[[スリ]]や[[ひったくり]]などの[[窃盗]]、[[強盗]]及び[[暴行]]が依然として多い他、[[麻薬|違法薬物]]に関わる犯罪や性的暴行など[[性犯罪]]の増加が指摘されている。地域別では、首都圏(スバ市、ラミ町、ナシヌ町及びナウソリ町)及び西部地区(ラウトカ市、ナンディ町及びバ町)は、その他の地域に比べて多くの犯罪が発生している。
日本人の犯罪被害は、窃盗、強盗、[[暴行]][[傷害]]、[[詐欺]]などが報告されている。窃盗及び強盗に関しては、財布(現金)や[[スマートフォン]]などの貴重品を盗まれる事例が多く報告されており、暴行傷害に関しては夜間に[[ナイトクラブ]]などで[[喧嘩]]に巻き込まれた事例、早朝に泥酔した現地人に絡まれて暴行を受けた事例などが報告されている。詐欺に関しては、格安観光ツアーを装った者に現金をだまし取られる事例、[[クレジットカード]]などの[[スキミング]]被害などが報告されている。
加えて日本人を含むアジア人は、「裕福である」との印象を持たれている上、欧米人に比べて体格が小さいことからも犯罪のターゲットになりやすい傾向がある為、散策などの外出時は強い注意が必要となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_076.html|title=フィジー 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-12-05|publisher=外務省}}</ref>。
{{節スタブ}}
=== 人権 ===
{{main|{{仮リンク|フィジーにおける人権|en|Human rights in Fiji}}}}
{{節スタブ}}
== マスコミ ==
=== 情報・通信 ===
フィジーの主要放送局はフィジーワンと、Mai TVがあり、そのほか有料のスカイTVもある。インターネットはConnect, Kida net, Vodafone など各社がある。また、[[インテルサット]](Intelsat)とも提携を行なっている。
フィジーにもキャンパスを設置する[[南太平洋大学]]も[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]を行っている。
新聞は売店などで80セントから90セントで手に入る。新聞は英語のフィジータイムス、フィジーサンのほか、フィジー語やヒンドゥー語の新聞が発行されている。
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|フィジーの文化|en|Culture of Fiji|fr|Culture des Fidji}}}}
フィジーの文化は多国籍文化である。主に[[インド]]や[[中華人民共和国|中国]]、[[ヨーロッパ]]の文化、および太平洋に存在する近隣国からの様々な文化の導入によって進化して来た。特に[[トンガ]]と[[ロツマ島|ロツマ]]の言語に関連するものを含む面が顕著に現れている。また、独特の共同体と国民のアイデンティティを生み出していることから、その文化は色濃いものとなっている。
=== 食文化 ===
{{main|{{仮リンク|フィジー料理|en|Fijian food}}}}
{{節スタブ}}
=== 文学 ===
{{main|{{仮リンク|フィジー文学|en|Fijian literature}}}}
{{節スタブ}}
=== 音楽 ===
{{main|{{仮リンク|フィジーの音楽|en|Music of Fiji}}}}
{{節スタブ}}
=== 建築 ===
[[File:BureNavala2.jpg|right|thumb|{{仮リンク|ナウソリ高原|en|Nausori Highlands}}の[[ナバラ (フィジー)|ナバラ]]にある小屋]]
各村には、集会などに用いられる{{仮リンク|ブレ (フィジー)|label=ブレ|en|Bure (Fiji)}}と呼ぶ建物がある。
{{節スタブ}}
=== 世界遺産 ===
{{main|フィジーの世界遺産}}
=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable" style="margin:0.5em auto"
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考
|-
|[[1月1日]]
|[[元日]]
|
|
|-
|3月-4月 (''イースター前の金曜日'')
|[[聖金曜日]]
|
|移動祝日
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|3月-4月 (''イースター前の土曜日'')
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== スポーツ ==
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{{See also|オリンピックのフィジー選手団}}
=== ラグビー ===
フィジーでは[[ラグビーフットボール|ラグビー]]が[[国技]]と言われるほど盛んであり<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/fiji/wadai.html フィジーについての話題集] 外務省 2000年6月</ref>、15人制では[[ラグビーワールドカップ2007|2007年ラグビーW杯]]でベスト8の成績を収めた。[[7人制ラグビー|7人制]]では[[ラグビーワールドカップセブンズ]]で1997年大会と2005年大会で2度の優勝を果たし、[[近代オリンピック|オリンピック]]では7人制として初めて開催された[[2016年リオデジャネイロオリンピックのラグビー競技|2016年リオデジャネイロ五輪]]で優勝し、全種目を通じてフィジー初のメダル獲得となった。
=== サッカー ===
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フィジーではラグビーの次に[[サッカー]]が盛んであり、[[1977年]]にサッカーリーグの[[ナショナル・フットボールリーグ (フィジー)|ナショナル・フットボールリーグ]]が創設された。'''[[バ (フィジー)|バ]]'''をホームタウンとする'''[[バFC]]'''が、リーグ最多21度の優勝を数える。[[フィジーサッカー協会]](FFA)によって構成される[[サッカーフィジー代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし[[OFCネイションズカップ]]では、[[OFCネイションズカップ1998|1998年大会]]と[[OFCネイションズカップ2008|2008年大会]]で3位に輝いている。
=== クリケット ===
[[クリケット]]も人気スポーツの一つである。1874年にオバラウ島のレブカで始まり、訪問中の英国海軍艦艇がレブカのロイヤルホテルで選ばれた地元チームと対戦した<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/east-asia-pacific/associate/93 Cricket Fiji] 国際クリケット評議会 2023年10月1日閲覧。</ref>。フィジーのクリケット協会は1946年に設立され、[[国際クリケット評議会]]に1965年に加盟した<ref name="ICC"/>。1979年にICCトロフィーが創設され、トップレベルの競技会に定期的に参加するようになり、1990年に[[バミューダ諸島]]に勝利したのは最大の功績の一つである<ref name="ICC"/>。女子クリケットも普及が進んでおり、15歳以下の代表チームのパフォーマンスも向上している<ref name="ICC"/>。
== 著名な出身者 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[フィジー関係記事の一覧]]
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== 外部リンク ==
; 政府
* [http://www.fiji.gov.fj/ フィジー共和国政府] {{en icon}}
* [http://www.fijiembassy.jp/ja/ 在日フィジー大使館] {{ja icon}}
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* [https://www.fj.emb-japan.go.jp/JapaneseVersion/index_j.html 在フィジー日本国大使館] {{ja icon}}
; 観光
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; その他
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** {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20110902161621/http://www.pic.or.jp/country/fiji.htm |date=2011年9月2日}}
* [http://www.fijione.tv/ フィジーテレビ] - フィジーの地元テレビ局 {{en icon}}
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9,065 | 漢方薬 | 漢方薬 (かんぽうやく)とは、日本の漢方医学の中で用いられる生薬を用いた医薬品全般を指す。中国伝統学を中華人民共和国が統一化した「中医学」で用いられる生薬製剤「中医薬、中成薬」や韓国医学で用いられる「韓薬」と共通するものも多いが、一般的に漢方薬といった場合には、日本の漢方医学で用いられる生薬製剤を意味する。ただし中国でも「中国漢方」などと言った言い方がされることがある。これは主に日本人観光客を対象に日本人になじみが無い「中薬、中成薬」では無く分かりやすく売りやすいいいかたとして「中国漢方」というのであって、学問的には一応区別される。
古代の中医薬学においては、複数の生薬を組み合わせることにより、薬理作用が強く倍増することが発見された。さらに、その薬理作用は減衰することができ、優れた生薬の組み合わせによって、西洋薬と比べると医療目的への指向性は強化されているのが最大の特徴である。葛根湯などの「方剤」が後世に伝えられたが、副作用が無いと誤解されていて、西洋薬と同様に定期的な診断が必要である。
中国の中医薬学や日本の漢方医学は同様に人体を診るところにあり、「証」という概念を持っている。証は主に体質を表す。この点で西洋医学とは大きく異なる。漢方診療は「証に随って治療する(随証治療)」が原則であり、体全体の調子を整えることで結果的に病気を治していく。このため、症状だけを見るのでなく体質を診断し、重んじる(ホーリズム)。西洋医学が解剖学的見地に立脚し、臓器や組織に病気の原因を求めるのとは対照的である。
同様に、漢方薬も「証」に基づき、患者一人ひとりの体質を見ながら調合される。西洋医薬は体の状態が正常でも異常でも一定の作用を示すが、漢方薬は病理状態で初めて作用を示す。
中国大陸では数千年の歴史の中で経験に基づく医学が培われた。古代中国からの医書や医学理論は今の中華人民共和国の中医学(中国の漢方・中医薬を処方)、日本の漢方医学(日本の漢方・漢方薬を処方)、朝鮮半島の韓医学(韓国の漢方・韓薬を処方)として独自の発展を遂げ、三つの異なる医学体系が形成された。
中国は現在でも古代と同じ、個人の証に合わせて処方を調整する煎じ薬で飲むことが多く、日本では逆にエキスの錠剤が多い。日本の漢方薬は持ち運びなどの利便性がいい反面、処方調整が難しいという面もあり、一方、中国の漢方薬は利便性が減っているが、薬用効果が極めて高い。中国系の漢方は一般的に精油成分が粉末にする際に蒸発しやすく、また液体状態にて服用した方が消化器にて吸収しやすいことから、煎じ薬の方がエキス錠より効き目が早く、そして強いといわれる。
日本への古代中国の医学の伝来は5〜6世紀ごろといわれている。日本では中国医学の吸収が続く一方、中国医学の考え方に批判的な一派が起こり、これは現在「古方派」と呼ばれている。。ただし江戸時代、日本の医学が全て古方派になったわけでは無く、例えば多紀元胤(1789-1827)は1819年に「難経疏証」を著している。江戸時代にはオランダを通じて体系の全く異なる西洋医学が伝来し「蘭方」と呼ばれるようになり、伝統医学のほうは「漢方」と呼ばれるようになった。
現代では医薬品医療機器等法が施行されたことなどから漢方薬の成分分析が進んだため、日本では、中国には無い組み合わせの処方が行われるようになっている。ただし、例として日本の大手メーカーであるツムラでも、原料である生薬の8割を中国から輸入している。また明治時代の西洋化では漢方医学や漢方薬は一時排斥された歴史があり、1895年に帝国議会が『漢医継続願い』を否決した。
1967年(昭和42年)、武見太郎(日本医師会会長)の尽力により、漢方薬は健康保険の適用対象となる薬価に70種類の漢方薬を大臣告示で薬価基準に収載させた。ただ、新薬で行われる通常の臨床評価試験を経ず、文献上の資料のみを元にして収録されたため、今後の効用再評価が求められる。
大韓民国では、漢方ではなく「韓方」「韓薬」の呼称が一般的である。これは韓国においても許浚の『東医宝鑑』等で漢方医学が独自に体系づけられたからである。同国内には韓方医を育成する韓医学部が大学に置かれ、韓方医院は地方でもごく普通に存在する。
欧米では一般に漢方薬は疑似科学とみなされ、作用機序に欠ける迷信の類と考えられている。また、漢方に関する現行の各種の研究も、作用機序が存在するという前提に立ったバイアスに満ちたものとして否定される傾向にある。漢方薬を医薬費として販売するため臨床試験を進めている企業も存在するが、現在のところFDAの認可を果たした事例は存在しない。
人が生薬を使い始めたときは1種類(いわゆる単味)の生薬を用いていた。これらは例えば柴胡は熱を下げる、杏仁は咳を止めるといった簡単な知識の集積となった。しかし、漢書『芸文志』ですでに指摘されているように、病気は、季節、気候、風土、体質などの遺伝的要因の影響を受け、他の病と併発するなど複雑化することもある。そこで2種類以上の生薬を組み合わせて用いられるようになった。2つ以上の生薬の組み合わせを薬対という。薬対は任意の生薬の組み合わせではなく、歴代の医薬専門家によって蓄積された臨床的治療効果の知識に基づく基本単位である。
漢方薬は一般的に複数の生薬をあらかじめ組み合わせた方剤をさす。この方剤により、効能が大きく変わる。甘草湯(かんぞうとう)のように甘草だけの方剤もあるが、希な例外である。
また漢方薬は東洋医学の理論に基づき処方されるのに対し、民間薬は経験的な民間伝承によるものである点で両者は異なるとされる。民間薬は多くの場合が単一の薬草で原料生薬の配合比率が厳格に決まっているわけではない。その効果は漢方薬においては比較的に限定的正確に働くのに対し、民間薬の効果は全般的で漠然と働くものが多いとされる。
「漢方薬=生薬」という解釈をしている人も多いが、上記からわかるように、これは誤解である。日常的に、「漢方薬ではない生薬」の例は非常に多い。ゲンノショウコやセンブリ、ドクダミなどを煎じて、症状の詳細も体質も考慮せずにただ飲むだけであれば、それを漢方(薬)と呼ぶことは決してできない。
なお、日本の漢方薬では、似て非なる生薬がしばしば混同されていることがある。例として白朮と蒼朮の混同、桂皮(肉桂)と桂枝の混同などがあり、生姜と乾姜の中国医学と日本漢方との定義揺れなどの問題もある。
近年、世界の伝統医学の生薬、薬草の現代医学の視点からの作用機序の研究が進められており、漢方薬についても例外ではない。一例として、抑肝散のセロトニン神経系への作用や葛根湯のサイトカインへの作用、六君子湯による食欲増進ホルモン「グレリン」の分泌作用、大建中湯の腸管血流増加作用や消化管亢進運動作用などある。長い歴史の中で経験的に作られた、漢方の薬理作用が分子レベルでの研究が進められている。
業界団体である日本漢方製薬製剤協会(日漢協)も、2018年にまとめた『漢方の将来ビジョン2040』で、漢方薬のエビデンス(科学的根拠)集積を掲げた。
漢方薬は、他の漢方薬や西洋薬との飲み合わせに問題がないという誤解がしばしば見受けられるが、これは正しくはない。他の薬の効果に影響し、悪い作用をもたらすこともある。特に同じ効能を持つ薬との重複は禁忌である。例えば、甘草は漢方方剤の約7割に含まれており、重複して漢方方剤を服用したことにより偽アルドステロン症を起こしやすくなるなどがある。また、特定の食べ物との組み合わせが禁忌とされている場合もある。このような飲み合わせ、食べ合わせに関する禁忌事項は、一般に、中国国内で販売されている漢方薬には明記されていることが多いが、日本国内で販売されているものには記載されていないことが多い。
漢方にも西洋薬と同様に副作用がある。特に防風通聖散、防已黄耆湯には、共に甘草という成分が含まれており、長期内服は「偽性アルドステロン症」を引き起こす可能性がある。むくみ、高血圧、低カリウム血症などの症状が出るので、定期的なチェックが必要である。漢方を継続して内服するなら、西洋薬と同様に数か月に1回の対面での身体診察や血液検査が望ましいと指摘している。
東洋の薬に対する価値観は『神農本草経』で示されている。以下の分類に従えば西洋薬は「下品」に見なしているが、逆に西洋医学では「上品」「中品」は薬とされていない。
そのため、しばしば漢方薬は自然の材料を使用するから副作用が無く、安全であると誤解している人がいる。これは西洋医学と対比してという意味で、ここ数十年の間に広まったものである。
ただし、「漢方に副作用がない」というのはある意味で本当である。これは薬が天然のものだからという理由でなく、漢方の方法論において副作用という概念がないということによる。漢方では副作用が出た場合は誤治、すなわち診断ミスか投薬ミスとみなされる。漢方では、理論上は、副作用があって治癒できるなら副作用なしでも可能であるとされている。このことを理解するには証の概念について詳しく知る必要がある。西洋医学の視点からは、漢方薬の摂取による副作用として、甘草による偽アルドステロン症や小柴胡湯による間質性肺炎や肝機能障害などがよく知られている(詳しくは各項目を参照)。また誤治とアレルギー反応は区別すべきである。
一方、漢方医学には瞑眩(めんげん)という概念がある。治療中に一時的に病状が悪化し、その後に完全に回復するような状態を指す。漢方医学以外の代替療法や民間療法などで「好転反応」という言葉を耳にすることがあるが、ほとんど同じ意味である。これは副作用とは異なると説明されるが、実際に症状が出ている時点での区別は困難で、事後的にのみ確認できる。結局は医師の経験によって見分けるしかなく、あまり当てにならないので、瞑眩らしきものがあればただの誤治だったと考えるほうが無難である。この概念は日本独特であり、かつ日本でも江戸時代はあまり認知されていなかった。
また、漢方医学でも古方派の瞑眩を積極的に歓迎する立場は、副作用の考えに近い。
特に作用の強力な薬剤として副作用に注意するものには、地黄、麻黄、大黄、附子、芒硝、桃仁が挙げられる。
厚生労働省の薬務局で発表される医薬品の副作用モニター調査結果などに、漢方薬の名も掲載されることがあるという。例えば、小柴胡湯(しょうさいことう)や八味地黄丸(はちみじおうがん)、葛根湯などの名である。だが、これらの"副作用"として報じられたものが、果たして化学薬のサリドマイドの催奇形やストレプトマイシンの難聴のような副作用と同じものとして扱っていいかというと、「まったく違うのではないか」と大塚恭男は述べている。というのは、「もし、小柴胡湯や八味地黄丸を正しい診断のもとに使った結果、好ましくない作用が生じたとすればそれは副作用といっても仕方ないことだが、必ずしも適正に使用されなかったのではないか疑問がある」と大塚恭男は述べている。「使うべきでない状態の患者に間違って使用した場合、好ましくない副作用が出て当然だと思われる」と指摘している。
漢方薬(方剤)の名称の最後の文字には、次のようなものがある。「湯」が最も多く、「散」がそれに次ぎ、その他は比較的少ない。
漢方薬(方剤)の名称には、時に次のような文字が入ることもある。
韓国では以下の大学に韓薬学科が設置されている。
西洋薬(医療)を主としている日本では、漢方薬学を中心として講義する大学はごく僅かである。
中国や韓国では西洋医学、伝統医学について医師、薬剤師は教育課程が別であり、免許も別である。一方、日本では医師免許、薬剤師免許は一本化されており医師免許を持っていれば西洋薬も漢方薬も処方でき、薬剤師免許を持っていれば西洋薬も漢方薬も販売、調剤できる。これは一つの免許で総合的な医療に対応できる反面、漢方薬も含めた東洋医学の専門性をもつ医師の育成が難しいという課題を持つ。 | [
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"text": "一方、漢方医学には瞑眩(めんげん)という概念がある。治療中に一時的に病状が悪化し、その後に完全に回復するような状態を指す。漢方医学以外の代替療法や民間療法などで「好転反応」という言葉を耳にすることがあるが、ほとんど同じ意味である。これは副作用とは異なると説明されるが、実際に症状が出ている時点での区別は困難で、事後的にのみ確認できる。結局は医師の経験によって見分けるしかなく、あまり当てにならないので、瞑眩らしきものがあればただの誤治だったと考えるほうが無難である。この概念は日本独特であり、かつ日本でも江戸時代はあまり認知されていなかった。",
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"text": "また、漢方医学でも古方派の瞑眩を積極的に歓迎する立場は、副作用の考えに近い。",
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"text": "厚生労働省の薬務局で発表される医薬品の副作用モニター調査結果などに、漢方薬の名も掲載されることがあるという。例えば、小柴胡湯(しょうさいことう)や八味地黄丸(はちみじおうがん)、葛根湯などの名である。だが、これらの\"副作用\"として報じられたものが、果たして化学薬のサリドマイドの催奇形やストレプトマイシンの難聴のような副作用と同じものとして扱っていいかというと、「まったく違うのではないか」と大塚恭男は述べている。というのは、「もし、小柴胡湯や八味地黄丸を正しい診断のもとに使った結果、好ましくない作用が生じたとすればそれは副作用といっても仕方ないことだが、必ずしも適正に使用されなかったのではないか疑問がある」と大塚恭男は述べている。「使うべきでない状態の患者に間違って使用した場合、好ましくない副作用が出て当然だと思われる」と指摘している。",
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"text": "漢方薬(方剤)の名称の最後の文字には、次のようなものがある。「湯」が最も多く、「散」がそれに次ぎ、その他は比較的少ない。",
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"text": "漢方薬(方剤)の名称には、時に次のような文字が入ることもある。",
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"text": "中国や韓国では西洋医学、伝統医学について医師、薬剤師は教育課程が別であり、免許も別である。一方、日本では医師免許、薬剤師免許は一本化されており医師免許を持っていれば西洋薬も漢方薬も処方でき、薬剤師免許を持っていれば西洋薬も漢方薬も販売、調剤できる。これは一つの免許で総合的な医療に対応できる反面、漢方薬も含めた東洋医学の専門性をもつ医師の育成が難しいという課題を持つ。",
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] | 漢方薬 (かんぽうやく)とは、日本の漢方医学の中で用いられる生薬を用いた医薬品全般を指す。中国伝統学を中華人民共和国が統一化した「中医学」で用いられる生薬製剤「中医薬、中成薬」や韓国医学で用いられる「韓薬」と共通するものも多いが、一般的に漢方薬といった場合には、日本の漢方医学で用いられる生薬製剤を意味する。ただし中国でも「中国漢方」などと言った言い方がされることがある。これは主に日本人観光客を対象に日本人になじみが無い「中薬、中成薬」では無く分かりやすく売りやすいいいかたとして「中国漢方」というのであって、学問的には一応区別される。 古代の中医薬学においては、複数の生薬を組み合わせることにより、薬理作用が強く倍増することが発見された。さらに、その薬理作用は減衰することができ、優れた生薬の組み合わせによって、西洋薬と比べると医療目的への指向性は強化されているのが最大の特徴である。葛根湯などの「方剤」が後世に伝えられたが、副作用が無いと誤解されていて、西洋薬と同様に定期的な診断が必要である。 中国の中医薬学や日本の漢方医学は同様に人体を診るところにあり、「証」という概念を持っている。証は主に体質を表す。この点で西洋医学とは大きく異なる。漢方診療は「証に随って治療する(随証治療)」が原則であり、体全体の調子を整えることで結果的に病気を治していく。このため、症状だけを見るのでなく体質を診断し、重んじる(ホーリズム)。西洋医学が解剖学的見地に立脚し、臓器や組織に病気の原因を求めるのとは対照的である。 同様に、漢方薬も「証」に基づき、患者一人ひとりの体質を見ながら調合される。西洋医薬は体の状態が正常でも異常でも一定の作用を示すが、漢方薬は病理状態で初めて作用を示す。 | {{東洋医学}}
'''漢方薬 '''(かんぽうやく)とは、日本の[[漢方医学]]の中で用いられる生薬を用いた医薬品全般を指す。中国伝統学を中華人民共和国が統一化した「中医学」で用いられる生薬製剤「中医薬、中成薬」や韓国医学で用いられる「韓薬」と共通するものも多いが、一般的に漢方薬といった場合には、日本の漢方医学で用いられる生薬製剤を意味する。ただし中国でも「中国漢方」などと言った言い方がされることがある。これは主に日本人観光客を対象に日本人になじみが無い「中薬、中成薬」では無く分かりやすく売りやすいいいかたとして「中国漢方」というのであって、学問的には一応区別される。
古代の[[中医薬学]]においては、複数の[[生薬]]を組み合わせることにより、[[薬理|薬理作用]]が強く倍増することが発見された。さらに、その薬理作用は減衰することができ、優れた生薬の組み合わせによって、西洋薬と比べると医療目的への[[指向性]]は強化されているのが最大の特徴である{{Sfn|花輪寿彦|2003|pp=286-288}}。[[葛根湯]]などの「方剤」が後世に伝えられたが、副作用が無いと誤解されていて、西洋薬と同様に定期的な診断が必要である<ref name=":0" />。
中国の中医薬学や日本の漢方医学は同様に人体を診るところにあり、「'''[[証 (東洋医学)|証]]'''」という概念を持っている{{Sfn|花輪寿彦|2003|pp=350-353}}。証は主に[[体質]]を表す{{Sfn|花輪寿彦|2003|pp=350-353}}。この点で[[西洋医学]]とは大きく異なる。漢方診療は「証に随って治療する(随証治療)」が原則であり、体全体の調子を整えることで結果的に病気を治していく{{Sfn|花輪寿彦|2003|pp=350-353}}。このため、症状だけを見るのでなく体質を診断し、重んじる([[ホーリズム]])。西洋医学が[[解剖学]]的見地に立脚し、[[臓器]]や[[組織 (生物学)|組織]]に病気の原因を求めるのとは対照的である。
同様に、漢方薬も「証」に基づき、患者一人ひとりの体質を見ながら調合される。西洋医薬は体の状態が正常でも異常でも一定の作用を示すが、漢方薬は病理状態で初めて作用を示す{{Sfn|日本医師会|1992|p=29}}。
== 各国での定義と発展 ==
{{Seealso|薬草#歴史}}
中国大陸では数千年の歴史の中で経験に基づく医学が培われた<ref name="sukoyaka" />。古代中国からの医書や医学理論は今の中華人民共和国の[[中国医学|中医学]](中国の漢方・中医薬を処方)、日本の[[漢方医学]](日本の漢方・漢方薬を処方)、朝鮮半島の[[韓医学]](韓国の漢方・韓薬を処方)として独自の発展を遂げ、三つの異なる医学体系が形成された<ref name="sukoyaka" />。
=== 中国 ===
中国は現在でも古代と同じ、個人の証に合わせて処方を調整する[[煎じ薬]]で飲むことが多く、日本では逆に[[エキス]]の[[錠剤]]が多い。日本の漢方薬は持ち運びなどの利便性がいい反面、処方調整が難しいという面もあり、一方、中国の漢方薬は利便性が減っているが、薬用効果が極めて高い<ref>{{Cite journal|和書|author=溝部宏毅, 新井信, 佐藤弘, 代田文彦, 小幡弘 |date=1993-05 |url=https://hdl.handle.net/10470/8540 |title=(シンポジウム 東洋医学の新たな展開 : 基礎と臨床から)東京女子医科大学附属東洋医学研究所の現状と展望 |journal=東京女子医科大学雑誌 |ISSN=0040-9022 |publisher=東京女子医科大学学会 |volume=63 |issue=5 |pages=452-456 |hdl=10470/8540 |CRID=1050564286201094528}}</ref>。中国系の漢方は一般的に[[精油]]成分が粉末にする際に蒸発しやすく<ref>[http://www.kampoyubi.jp/products/policy.html クラシエ医療用漢方エキス製剤品質ポリシーと製造管理(クラシエ)]</ref>、また液体状態にて服用した方が消化器にて吸収しやすいことから、煎じ薬の方がエキス錠より効き目が早く、そして強いといわれる。
=== 日本 ===
{{See also|[[一般用漢方製剤承認基準]]}}
日本への古代中国の医学の伝来は5〜6世紀ごろといわれている<ref name="sukoyaka" />。日本では中国医学の吸収が続く一方、中国医学の考え方に批判的な一派が起こり、これは現在「古方派」と呼ばれている。<ref name="sukoyaka" />。ただし江戸時代、日本の医学が全て古方派になったわけでは無く、例えば多紀元胤(1789-1827)は1819年に「難経疏証」を著している<ref>{{Cite book|和書|author=多紀元胤 |year=1819 |title=難経疏証 |publisher=萬笈堂 |doi=10.20730/100271636 |CRID=1460565280891031424 |hdl=2324/4705995 |series=九大コレクション}}</ref>。江戸時代にはオランダを通じて体系の全く異なる西洋医学が伝来し「蘭方」と呼ばれるようになり、伝統医学のほうは「漢方」と呼ばれるようになった<ref name="sukoyaka" />。
現代では[[医薬品医療機器等法]]が施行されたことなどから漢方薬の成分分析が進んだため、日本では、中国には無い組み合わせの処方が行われるようになっている。ただし、例として日本の大手メーカーである[[ツムラ]]でも、原料である生薬の8割を中国から輸入している<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/economy/20190304-OYT1T50170/ [LEADERS]伝統の漢方 独自の技術革新…ツムラ社長 加藤照和氏 55]『[[読売新聞]]』朝刊2019年3月5日(経済面)2019年4月24日閲覧。</ref>。また[[明治]]時代の西洋化では漢方医学や漢方薬は一時排斥された歴史があり、[[1895年]]に[[帝国議会]]が『漢医継続願い』を否決した<ref>[https://www.jsom.or.jp/universally/story/note/02/04.html 漢方の歴史][[日本東洋医学会]]ホームページ(2019年4月24日閲覧)。</ref>。
[[1967年]]([[昭和]]42年)、[[武見太郎]]([[日本医師会]]会長)の尽力により、漢方薬は[[健康保険]]の適用対象となる[[薬価]]に70種類の漢方薬を大臣告示で薬価基準に収載させた{{Sfn|花輪寿彦|2003|p=322}}<ref>[http://www.keio-kampo.jp/ja_2/page01.html 慶應義塾大学医学部漢方医学センター センターの概要]、2020-01-22閲覧</ref>。ただ、新薬で行われる通常の臨床評価試験を経ず、文献上の資料のみを元にして収録されたため、今後の効用再評価が求められる。
=== 韓国や朝鮮半島 ===
[[大韓民国]]では、漢方ではなく「[[韓方]]」「韓薬」の呼称が一般的である。これは韓国においても[[許浚]]の『[[東医宝鑑]]』等で漢方医学が独自に体系づけられたからである。同国内には韓方医を育成する韓医学部が大学に置かれ、韓方医院は地方でもごく普通に存在する。
=== 欧米 ===
欧米では一般に漢方薬は[[疑似科学]]とみなされ、作用機序に欠ける迷信の類と考えられている<ref>{{Cite journal |author=Shang, Aijing; Huwiler, Karin; Nartey, Linda; Juni, Peter; Egger, Matthias |year=2007 |month=06 |title=Placebo-controlled trials of Chinese herbal medicine and conventional medicine-comparative study |journal=International Journal of Epidemiology |volume=36 |issue=5 |pages=1086-1092 |ISSN=0300-5771 |doi=10.1093/ije/dym119 |url=https://doi.org/10.1093/ije/dym119 |access-date=2023-09-01}}</ref>。また、漢方に関する現行の各種の研究も、作用機序が存在するという前提に立ったバイアスに満ちたものとして否定される傾向にある。漢方薬を医薬費として販売するため臨床試験を進めている企業も存在するが、現在のところ[[アメリカ食品医薬品局|FDA]]の認可を果たした事例は存在しない<ref>{{Cite web |url=http://www.suntenglobal.com/news/show.php?ID=218&page= |title=Chinese Herbal Medicine Passes FDA Phase II Clinical Trials |access-date=2012-04-02 at the Wayback Machine |publisher=ayback Machine}}</ref>。
== 生薬・民間薬と漢方薬 ==
[[File:Keishikasyakuyakutou 2.JPG|160px|thumb|right|[[桂枝加芍薬湯]]エキス剤]]
人が生薬を使い始めたときは1種類(いわゆる単味)の生薬を用いていた<ref name="薬対論2">陳維華ほか原著、木村郁子ほか翻訳『薬対論』南山堂、2019年、2頁</ref>。これらは例えば[[柴胡]]は熱を下げる、[[杏仁]]は咳を止めるといった簡単な知識の集積となった<ref name="薬対論2" />。しかし、漢書『芸文志』ですでに指摘されているように、病気は、季節、気候、風土、体質などの遺伝的要因の影響を受け、他の病と併発するなど複雑化することもある<ref name="薬対論2" />。そこで2種類以上の生薬を組み合わせて用いられるようになった<ref name="薬対論2" />。2つ以上の生薬の組み合わせを薬対という<ref name="薬対論3">陳維華ほか原著、木村郁子ほか翻訳『薬対論』南山堂、2019年、3頁</ref>。薬対は任意の生薬の組み合わせではなく、歴代の医薬専門家によって蓄積された臨床的治療効果の知識に基づく基本単位である<ref name="薬対論3" />。
漢方薬は一般的に複数の[[生薬]]をあらかじめ組み合わせた[[方剤]]をさす。この方剤により、効能が大きく変わる。[[甘草湯]](かんぞうとう)のように[[甘草]]だけの方剤もあるが、希な例外である。
また漢方薬は[[東洋医学]]の理論に基づき処方されるのに対し、[[民間薬]]は[[民間療法|経験的な民間伝承]]によるものである点で両者は異なるとされる<ref name="gendai">『現代商品大辞典 新商品版』 [[東洋経済新報社]]、1986年、396頁</ref>。民間薬は多くの場合が単一の薬草で原料生薬の配合比率が厳格に決まっているわけではない<ref name="sukoyaka" />。その効果は漢方薬においては比較的に限定的正確に働くのに対し、民間薬の効果は全般的で漠然と働くものが多いとされる<ref name="gendai" />。
「'''漢方薬'''='''生薬'''」という解釈をしている人も多いが、上記からわかるように、これは誤解である。日常的に、「漢方薬ではない生薬」の例は非常に多い。[[ゲンノショウコ]]や[[センブリ]]、[[ドクダミ]]などを煎じて、[[症状]]の詳細も[[体質]]も考慮せずにただ飲むだけであれば、それを漢方(薬)と呼ぶことは決してできない<ref group="注釈">なお、近代以降に考案された方剤の中には[[アスピリン]]のような合成薬品を含むものも存在する。</ref>。
なお、日本の漢方薬では、似て非なる生薬がしばしば混同されていることがある。例として[[白朮]]と[[蒼朮]]の混同、[[桂皮]](肉桂)と[[桂枝]]の混同などがあり、[[生姜]]と[[乾姜]]の中国医学と日本漢方との定義揺れなどの問題もある。
== 作用機序 ==
近年、世界の[[伝統医学]]の生薬、[[薬草]]の現代医学の視点からの[[作用機序]]の研究が進められており、漢方薬についても例外ではない。一例として、[[抑肝散]]の[[セロトニン]]神経系への作用<ref>[http://mtpro.medical-tribune.co.jp/mtnews/2013/M46430101/ セロトニン受容体拮抗作用とBDNF発現への関与を示唆]</ref>や[[葛根湯]]の[[サイトカイン]]への作用<ref>{{Cite journal|和書 |author=白木公康 |year=2006 |url=https://www.pieronline.jp/content/article/0386-8109/40040/413 |title=4 感冒に対する葛根湯の作用機序 |journal=治療学 |volume=40 |issue=4 |pages=413-416 |publisher=ライフサイエンス出版}} {{要購読}}</ref>、[[六君子湯]]による食欲増進[[ホルモン]]「[[グレリン]]」の分泌作用<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/3073 漢方薬のトレーサビリティ確立に挑む、ツムラが対峙する中国産生薬の安全]</ref>、[[大建中湯]]の腸管血流増加作用や消化管亢進運動作用<ref name="sukoyaka">[https://www.nikkankyo.org/kampo/colume/pdf/kampo04.pdf 漢方ですこやか生活] 日本漢方製薬製剤協会、2019年9月21日閲覧。</ref>などある。長い歴史の中で経験的に作られた、漢方の薬理作用が分子レベルでの研究が進められている。
[[業界団体]]である日本漢方製薬製剤協会(日漢協)も、2018年にまとめた『漢方の将来ビジョン2040』で、漢方薬の[[エビデンス (医学)|エビデンス]](科学的根拠)集積を掲げた<ref>[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00482544 「漢方のエビデンス集積/日漢協 将来ビジョン策定」]『[[日刊工業新聞]]』2018年7月26日(ヘルスケア面)2018年9月30日閲覧。</ref>。
== 飲み合わせ・食べ合わせ ==
漢方薬は、他の漢方薬や西洋薬との飲み合わせに問題がないという誤解がしばしば見受けられるが、これは正しくはない。他の薬の効果に影響し、悪い作用をもたらすこともある。特に同じ効能を持つ薬との重複は禁忌である。例えば、甘草は漢方方剤の約7割に含まれており、重複して漢方方剤を服用したことにより偽アルドステロン症を起こしやすくなるなどがある。また、特定の食べ物との組み合わせが禁忌とされている場合もある{{Sfn|日本医師会|1992|p=30}}。このような飲み合わせ、食べ合わせに関する禁忌事項は、一般に、中国国内で販売されている漢方薬には明記されていることが多いが、日本国内で販売されているものには記載されていないことが多い。
== 副作用 ==
漢方にも西洋薬と同様に副作用がある。特に防風通聖散、防已黄耆湯には、共に甘草という成分が含まれており、長期内服は「偽性アルドステロン症」を引き起こす可能性がある。むくみ、高血圧、低カリウム血症などの症状が出るので、定期的なチェックが必要である。漢方を継続して内服するなら、西洋薬と同様に数か月に1回の対面での身体診察や血液検査が望ましいと指摘している<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=その「漢方ダイエット」、高いお金を払う価値はある?|新米医師こーたの駆け出しクリニック|url=https://medical.jiji.com/topics/2338|website=時事メディカル|accessdate=2021-10-25|language=ja}}</ref>。
東洋の薬に対する価値観は『[[神農本草経]]』で示されている。以下の分類に従えば西洋薬は「下品」に見なしているが、逆に西洋医学では「上品」「中品」は薬とされていない{{Sfn|日本医師会|1992|pp=20-22}}。
{| class="wikitable" style="margin-left:2em"
|+ 『神農本草経』における薬の分類 {{Sfn|日本医師会|1992|pp=20-22}}
|-
! 上品 (ideal drug)
| 作用がたとえ弱くとも[[副作用]]の無い薬
|-
! 中品 (ordinary drug)
| 少量または短期間だけなら作用はあっても毒性の無い薬
|-
! 下品 (drug to be cautious)
| 病気を治す力は強いがしばしば副作用を伴う薬
|}
そのため、しばしば漢方薬は自然の材料を使用するから[[副作用]]が無く、安全であると誤解している人がいる。これは西洋医学と対比してという意味で、ここ数十年の間に広まったものである<ref group="注釈">[[高橋晄正]]はその著作『漢方薬Q&A』([[1990年]](平成2年))、『漢方薬は危ない』(リュウブックス [[1992年]](平成4年))、『漢方薬は効かない』(ワニの本 [[1993年]](平成5年))などで副作用(及び伝統中国医学全般)を指摘批判している</ref>。
ただし、「漢方に副作用がない」というのはある意味で本当である。これは薬が天然のものだからという理由でなく、漢方の方法論において副作用という概念がないということによる。漢方では副作用が出た場合は[[誤治]]、すなわち診断ミスか投薬ミスとみなされる。漢方では、理論上は、副作用があって治癒できるなら副作用なしでも可能であるとされている。このことを理解するには[[証 (東洋医学)|証]]の概念について詳しく知る必要がある。西洋医学の視点からは、漢方薬の摂取による副作用として、甘草による[[偽アルドステロン症]]や[[小柴胡湯]]による[[間質性肺炎]]や[[肝機能障害]]などがよく知られている(詳しくは各項目を参照)<ref name="sukoyaka" />。また[[誤治]]と[[アレルギー]]反応は区別すべきである{{Sfn|花輪寿彦|2003|p=305}}。
一方、漢方医学には[[瞑眩]](めんげん)という概念がある{{Sfn|花輪寿彦|2003|p=302}}。治療中に一時的に病状が悪化し、その後に完全に回復するような状態を指す{{Sfn|花輪寿彦|2003|p=302}}。漢方医学以外の[[代替医学|代替療法]]や[[民間療法]]などで「[[好転反応]]」という言葉を耳にすることがあるが、ほとんど同じ意味である。これは副作用とは異なると説明されるが、実際に症状が出ている時点での区別は困難で、事後的にのみ確認できる。結局は[[医師]]の経験によって見分けるしかなく、あまり当てにならないので、瞑眩らしきものがあればただの誤治だったと考えるほうが無難である。この概念は日本独特であり、かつ日本でも江戸時代はあまり認知されていなかった。
また、漢方医学でも[[古方派]]の瞑眩を積極的に歓迎する立場は、副作用の考えに近い。
特に作用の強力な薬剤として副作用に注意するものには、[[地黄]]、[[麻黄]]、[[大黄]]、[[トリカブト|附子]]、[[芒硝]]、[[桃仁]]が挙げられる{{Sfn|日本医師会|1992|pp=20-31}}。
[[厚生労働省]]の薬務局で発表される医薬品の副作用モニター調査結果などに、漢方薬の名も掲載されることがあるという。例えば、[[小柴胡湯]](しょうさいことう)や[[八味地黄丸]](はちみじおうがん)、葛根湯などの名である。だが、これらの"副作用"として報じられたものが、果たして化学薬の[[サリドマイド]]の催奇形や[[ストレプトマイシン]]の難聴のような副作用と同じものとして扱っていいかというと、「まったく違うのではないか」と大塚恭男は述べている。というのは、「もし、小柴胡湯や八味地黄丸を正しい診断のもとに使った結果、好ましくない作用が生じたとすればそれは副作用といっても仕方ないことだが、必ずしも適正に使用されなかったのではないか疑問がある」と大塚恭男は述べている。「使うべきでない状態の患者に間違って使用した場合、好ましくない副作用が出て当然だと思われる」と指摘している{{Sfn|大塚恭男|1996|p=104}}。
==方剤の名称について==
漢方薬(方剤)の名称の最後の文字には、次のようなものがある。「湯」が最も多く、「散」がそれに次ぎ、その他は比較的少ない。
*〜'''湯''':本来は煎じた液を温かいうちに服用するもの。
**例:[[葛根湯]]、[[十味敗毒湯]]、[[麻黄湯]]、[[補中益気湯]]、[[六君子湯]]、[[人参養栄湯]]、[[越婢加朮湯]]、[[胃苓湯]]、[[茵蔯蒿湯]]、[[甘麦大棗湯]]、[[茵蔯五苓散]]
*〜'''散''':本来は生薬を粉末にしてそのまま服用するもの。
**例:[[安中散]]、[[五苓散]]、[[当帰芍薬散]]、[[加味逍遙散]]、[[防風通聖散]]、[[抑肝散]]
*〜'''丸''':丸薬の意味で、粉末状にした生薬に蜂蜜などを加えて丸く固めたものを服用するもの(ただし現代のエキス剤などの場合はこの限りではない)。
**例:[[八味地黄丸]]、[[桂枝茯苓丸]]、[[六味丸]]、[[麻子仁丸]]、[[牛車腎気丸]]
*〜'''飲'''
**例:[[温清飲]]、[[参蘇飲]]、[[茯苓飲]]、[[清心蓮子飲]]、[[連珠飲]]
*〜'''膏''':軟膏(塗り薬)のこと
**例:[[紫雲膏]]、[[中黄膏]]、[[神仙太乙膏]]
*その他
**例:[[治打撲一方]]、[[当帰飲子]]、[[痛瀉要方]]、[[玉女煎]]、[[雷氏清凉滌暑方]]、[[黒錫丹]]、[[紫金錠]]
漢方薬(方剤)の名称には、時に次のような文字が入ることもある。
*A'''加'''B:方剤Aに生薬B(複数の場合もある)を加えたもの。
**例:[[葛根湯加川芎辛夷]]、[[桂枝加竜骨牡蛎湯]]、[[白虎加人参湯]]、[[抑肝散加陳皮半夏]]、[[桂枝茯苓丸加薏苡仁]]
*A'''去'''B:方剤Aから生薬B(複数の場合もある)を取り去ったもの。
**例:[[大柴胡湯去大黄]]、[[乙字湯去大黄]]、[[桂枝去芍薬湯]]
*A'''合'''B:方剤Aと方剤Bの合方(合剤)
**例:[[猪苓湯合四物湯]]、[[茯苓飲合半夏厚朴湯]]、[[大柴胡湯合半夏厚朴湯]]
<!--
== 漢方薬を元にした市販薬 ==
日本で販売される[[市販薬]]の中には、漢方薬を錠剤あるいは顆粒などの形にし、場合によっては2種類以上混ぜ合わせて商品名を付けたもの珍しくない。以下にその例を示す。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; margin-left:2em"
|+市販薬の漢方薬の例
!市販薬の商品名|!!漢方薬の処方名
|-
|アロパノール([[全薬工業]])||抑肝散
|-
|ギャクリア([[小林製薬]])||六君子湯<ref name="soujutsu">本来白朮であるべきところが蒼朮配合。</ref>
|-
|コッコアポ EX錠([[クラシエ薬品]])||[[防風通聖散]]
|-
|〃 G錠(〃)||[[大柴胡湯]]
|-
|〃 L錠(〃)||[[防已黄耆湯]]
|-
|大正漢方胃腸薬([[大正製薬]])||[[安中散]]+[[芍薬甘草湯]]
|-
|大正胃腸薬K(〃)||安中散+芍薬甘草湯<ref>大正漢方胃腸薬より芍薬甘草湯の配合量が多い。</ref>
|-
|大正漢方胃腸薬 内服液(〃)||[[五苓散]]+[[黄連解毒湯]]
|-
|タケダ漢方便秘薬([[武田薬品工業]])||[[大黄甘草湯]]
|-
|タケダ漢方胃腸薬 A・A末(〃)||[[安中散]]
|-
|〃 K・K末(〃)||[[香砂平胃散加芍薬]]
|-
|チクナイン(小林製薬)||[[辛夷清肺湯]]
|-
|ナイシトール(〃)||[[防風通聖散]]
|-
|漢方ナイトミン(〃)||[[酸棗仁湯]]
|-
|ボーコレン(〃)||[[五淋散]]
|-
|ユリナール(〃)||[[清心蓮子飲]]
|-
|命の母 A([[笹岡薬品]])||[[当帰芍薬散]]<ref name="soujutsu"/>+[[桂枝茯苓丸]]+[[加味逍遙散]]<ref name="soujutsu"/>
|-
|ルビーナ(武田薬品工業)||[[連珠飲]]
|}
-->
== 漢方薬学を設置している大学 ==
*[[長春中医薬大学]]
*[[北京中医薬大学]]
**日本中医学院([[無認可校]])
*[[上海中医薬大学]]
*[[天津中医薬大学]]
**天津中医薬大学中薬学院日本校([[外国大学の日本校]])
*[[湖南中医薬大学]]
[[大韓民国|韓国]]では以下の大学に韓薬学科が設置されている。
* [[慶熙大学校|慶煕大学校]]薬学大学
* [[又石大学校]]薬学大学
* [[圓光大学校]]薬学大学
西洋薬(医療)を主としている日本では、漢方薬学を中心として講義する大学はごく僅かである。
*[[富山大学]]薬学部
*[[横浜薬科大学]]薬学部漢方薬学科
*[[日本薬科大学]]薬学部薬学科漢方薬学コース
*[[国際医療福祉大学]]薬学部薬学科
中国や韓国では西洋医学、伝統医学について医師、薬剤師は教育課程が別であり、免許も別である。一方、日本では医師免許、薬剤師免許は一本化されており医師免許を持っていれば西洋薬も漢方薬も処方でき、薬剤師免許を持っていれば西洋薬も漢方薬も販売、調剤できる。これは一つの免許で総合的な医療に対応できる反面、漢方薬も含めた東洋医学の専門性をもつ医師の育成が難しいという課題を持つ。
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite |和書|editor=日本医師会 |editor-link=日本医師会 |title=漢方治療のABC |date=1992 |publisher=医学書院 |isbn=4260175076 |series=日本医師会生涯教育シリーズ |ref=harv}}
* {{Cite |和書|title=漢方診療のレッスン |author=[[花輪寿彦]] |publisher=金原出版 |date=2003-01 |isbn=4307506030 |ref=harv}}
* {{Cite |和書|author=大塚恭男 |title=東洋医学 |series=岩波新書 |publisher=岩波書店 |date=1996 |isbn=4004304482 |ref=harv}}
*「「漢方」の大嘘」、『[[週刊新潮]]』、2017年9月14日号(頁40ー47)、2017年9月21日号(頁44-51)。※ 漢方薬の副作用の例が書かれている。
== 関連項目 ==
* [[伝統中国医学]]([[漢方医学]]/[[中医学]]/[[東医学]]・[[韓医学]])
* [[証 (東洋医学)|証]]
* [[生薬]]
** [[薬草]] / [[毒草]] / [[ハーブ]]
* [[漢方方剤一覧]] - いわゆる漢方薬の一覧([[葛根湯]]、[[小柴胡湯]]等)
* [[漢方生薬一覧]] - 漢方薬の原料に使われる生薬の一覧([[桂枝]]、[[甘草]]等)
* [[薬研]] / [[煎じ薬]]
* [[本草学]]
* [[和漢薬]]
== 外部リンク ==
*[https://www.nikkankyo.org/ 日本漢方生薬製剤協会]
**[https://www.nikkankyo.org/seihin/seihin3.htm 生薬一覧]
*[https://kampo-ikai.jp/ 日本臨床漢方医会]
*[http://www.jsom.or.jp/universally/index.html 日本東洋医学会]
*[https://www.tokyo-shoyaku.com/ 公益社団法人東京生薬協会]
**[https://www.tokyo-shoyaku.com/wakan_list.php 新常用和漢薬集]
* {{kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かんほうやく}}
[[Category:東洋医学]]
[[Category:漢方薬|*]] | 2003-05-22T09:59:38Z | 2023-11-27T17:42:40Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%96%B9%E8%96%AC |
9,067 | 楕円軌道 | 楕円軌道(だえんきどう、英語: elliptical orbit)とは、逆二乗の法則に従う力の作用の下で、束縛された物体がとる軌道である。
万有引力の法則やクーロンの法則は逆二乗の法則で表される。このような力の作用の下で運動する物体がとる軌道は、力の中心を焦点とする2次曲線となる。2次曲線の軌道のうち、距離が有限にとどまる軌道、すなわち束縛軌道が楕円軌道である。
太陽系において、惑星に作用する力は太陽からの万有引力が支配的であり、その周回軌道はほぼ楕円軌道となる。これはケプラーの第1法則として知られている。また、惑星の周りを周回する衛星の軌道もほぼ楕円軌道となる。人工衛星の軌道には、利用上の便宜から円軌道をとる場合もあるが、これは楕円軌道の特別な場合である。軌道離心率が大きい場合には、長楕円軌道とも呼ばれる。
力の中心となる天体は二つある楕円の焦点(図の点F1)に位置しており、楕円の図形的中心(図の点O)に来るわけではない。楕円軌道にある人工衛星は地表からの高度が軌道上の位置によって変化する。地球に最も近づいた点を近地点(ペリジ、perigee)と呼び、地球から最も遠ざかった点を遠地点(アポジ、apogee)と呼ぶ。また惑星が太陽に最も近づく点は近日点、最も遠ざかる点は遠日点と呼ばれる。
2次曲線は焦点を原点とする極座標 (r, φ) により
で表される。e は離心率と呼ばれるパラメータで、2次曲線の概形を表す。離心率が 0 ≤ e < 1 の範囲にあるとき、分母がゼロとならないため、焦点からの距離 r が有限にとどまり楕円となる。L は半通径、あるいは半直弦と呼ばれる2次曲線の大きさを表すパラメータである。 楕円においては長半径が
で定義され、半通径に変えて楕円の大きさを表すパラメータとして用いることができる。
2次曲線が天体などの軌道である場合、角度変数 φ は真近点角と呼ばれる。 真近点角 φ = 0 のとき、近点距離
となり、φ = π のとき、遠点距離
となる。
逆二乗の法則に従う力は保存力であり、ポテンシャルは V = −k/r で与えられる。 このポテンシャルの下での運動を記述するハミルトン関数は
である。この系は保存系であり、エネルギーを保存する。また、変数 φ はハミルトン関数に含まれない循環座標であり、これに共役な角運動量も保存する。 2次曲線は二つのパラメータ L, e で表されるため、二つの保存量により運動が決定される。この2次曲線の形は、パラメータeの値によって変わる。
保存エネルギーを E、保存角運動量を J とすると
である。楕円軌道では有限の距離に束縛されているので E < 0 である。 長半径は
となる。 また、軌道周期は
となる。周期の二乗が長半径の三乗に比例することはケプラーの第3法則として知られている。 | [
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] | 楕円軌道とは、逆二乗の法則に従う力の作用の下で、束縛された物体がとる軌道である。 | {{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:19 (UTC)}}
[[画像:Elliptical-orbit.png|thumb|400px|左記において説明している内容を図面に表した図です。]]
{{Astrodynamics}}
'''楕円軌道'''(だえんきどう、{{lang-en|elliptical orbit}})とは、[[逆二乗の法則]]に従う[[力 (物理学)|力]]の作用の下で、束縛された物体がとる[[軌道 (力学)|軌道]]である。
== 概要 ==
[[万有引力|万有引力の法則]]や[[クーロンの法則]]は逆二乗の法則で表される。このような力の作用の下で運動する物体がとる軌道は、力の中心を[[焦点 (幾何学)|焦点]]とする[[2次曲線]]となる。2次曲線の軌道のうち、距離が有限にとどまる軌道、すなわち束縛軌道が楕円軌道である。
[[太陽系]]において、[[惑星]]に作用する力は[[太陽]]からの万有引力が支配的であり、その周回軌道はほぼ楕円軌道となる。これは[[ケプラーの法則|ケプラーの第1法則]]として知られている。また、惑星の周りを周回する[[衛星]]の軌道もほぼ楕円軌道となる。[[人工衛星の軌道]]には、利用上の便宜から[[円軌道]]をとる場合もあるが、これは楕円軌道の特別な場合である。[[軌道離心率]]が大きい場合には、[[長楕円軌道]]とも呼ばれる。
力の中心となる天体は二つある楕円の焦点(図の点F{{sub|1}})に位置しており、楕円の図形的中心(図の点O)に来るわけではない。楕円軌道にある[[人工衛星]]は地表からの高度が軌道上の位置によって変化する。[[地球]]に最も近づいた点を[[近地点]](ペリジ、perigee)と呼び、地球から最も遠ざかった点を[[遠地点]](アポジ、apogee)と呼ぶ。また惑星が太陽に最も近づく点は近日点、最も遠ざかる点は遠日点と呼ばれる。
== 軌道の表現 ==
{{See also|軌道要素}}
2次曲線は焦点を原点とする[[極座標]] {{math|(''r'', ''φ'')}} により
:<math>r =\frac{L}{1+e\cos\phi}</math>
で表される。{{mvar|e}} は[[離心率]]と呼ばれるパラメータで、2次曲線の概形を表す。離心率が {{math|0 ≤ ''e'' < 1}} の範囲にあるとき、分母がゼロとならないため、焦点からの距離 {{mvar|r}} が有限にとどまり楕円となる。{{mvar|L}} は半通径、あるいは半直弦と呼ばれる2次曲線の大きさを表すパラメータである。
楕円においては[[長半径]]が
:<math>a =\frac{L}{1-e^2}</math>
で定義され、半通径に変えて楕円の大きさを表すパラメータとして用いることができる。
2次曲線が天体などの軌道である場合、角度変数 {{mvar|φ}} は[[真近点角]]と呼ばれる。
真近点角 {{math|1=''φ'' = 0}} のとき、近点距離
:<math>r_\text{min} =\frac{L}{1+e} =a(1-e)</math>
となり、{{math|1=''φ'' = π}} のとき、遠点距離
:<math>r_\text{max} =\frac{L}{1-e} =a(1+e)</math>
となる。
== 運動の解析 ==
逆二乗の法則に従う力は保存力であり、[[ポテンシャル]]は {{math|1=''V'' = −''k''/''r''}} で与えられる。
このポテンシャルの下での運動を記述する[[ハミルトン関数]]は
:<math>\mathcal{H} =\frac{{p_r}^2}{2m} +\frac{{p_\phi}^2}{2mr^2} -\frac{k}{r}</math>
である。この系は保存系であり、[[エネルギー]]を保存する。また、変数 {{mvar|φ}} はハミルトン関数に含まれない[[循環座標]]であり、これに共役な[[角運動量]]も保存する。
先にみたように、2次曲線は二つのパラメータ {{mvar|L, e}} で表されるため、二つの保存量により運動が決定される。
保存エネルギーを {{mvar|E}}、保存角運動量を {{mvar|J}} とすると
:<math>E =\frac{{p_r}^2}{2m} +\frac{J^2}{2mr^2} -\frac{k}{r}</math>
である<ref name="landau">[[#landau|ランダウ、リフシッツ『力学』]] pp.42-47, §15. ケプラー問題</ref><ref name="heki">[[#heki|日置 物理学1の講義ノート]]</ref>。楕円軌道では有限の距離に束縛されているので {{math|''E'' < 0}} である<ref name="landau"/>。
長半径は
:<math>a =\frac{k}{2|E|} =-\frac{k}{2E}</math>
となる<ref name="landau"/><ref name="heki"/>。
また、[[軌道周期]]は
:<math>T =\frac{\pi k}{|E|^{3/2}} \sqrt{\frac{m}{2}} =2\pi a^{3/2} \sqrt{\frac{m}{k}}</math>
となる<ref name="landau"/><ref name="heki"/>。周期の二乗が長半径の三乗に比例することは[[ケプラーの法則|ケプラーの第3法則]]として知られている。
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author= [[レフ・ランダウ]]、[[エフゲニー・リフシッツ]]
|title= 力学
|edition= 増訂第3版
|series= 理論物理教程
|publisher= 東京図書
|isbn= 4-489-01160-1
|ref= landau
}}
== 関連項目 ==
* [[軌道 (力学)|軌道]] - [[円軌道]]
* [[ケプラーの法則]]
* [[人工衛星の軌道]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書
|url= https://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~heki/pdf/mechanics7.pdf
|accessdate= 2023-07-07
|author= 日置幸介
|title= 物理学1 講義ノート その7
|publisher= 北海道大学
|format= PDF
|ref= heki
}}
{{軌道}}
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[[Category:力学]]
[[Category:天文学]]
[[Category:軌道]]
[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-05-22T10:42:41Z | 2023-12-25T00:10:54Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%95%E5%86%86%E8%BB%8C%E9%81%93 |
9,074 | 導体 | 導体(英: conductor)
特に、電気(熱)を良く通す(伝える)ものを良導体という。 | [
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] | 導体 通常は、電気を通す物体(物質)のこと。→電気伝導体
イオンを通す物体(物質)のこと。→イオン伝導体
熱を伝え易い物体(物質)を導体という場合もある。→熱伝導 特に、電気(熱)を良く通す(伝える)ものを良導体という。 | '''導体'''({{lang-en-short|conductor}})
*通常は、[[電気]]を通す[[物体]](物質)のこと。→[[電気伝導体]]
*[[イオン]]を通す[[物体]](物質)のこと。→[[イオン伝導体]]
*[[熱]]を伝え易い物体(物質)を導体という場合もある。→[[熱伝導]]
特に、電気(熱)を良く通す(伝える)ものを'''良導体'''という。
==関連項目==
*[[熱力学]]
*[[半導体]]
*[[絶縁体]]
*[[電気伝導]]
*[[超伝導]]
*[[完全導体]]
{{aimai}}
{{DEFAULTSORT:とうたい}}
[[Category:物質]] | null | 2022-02-21T07:48:32Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8E%E4%BD%93 |
9,079 | カントリーコード | カントリーコード(The Country Code)とは、もともとは、イギリスにおいて1930年代頃から制定され始めた、田園地帯を訪問する人間が守るべきルール・マナーをまとめたものを指す。
さまざまな団体によって種々のものが作成されている。 その中でも最も良く知られているのは、イギリスのカントリーサイドコミッション(en:Countryside Commission)が1981年に発表した12か条である。
2004年には、社会情勢などの変化を反映した改訂版であるカントリーサイドコードが発表されている。
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] | ISO 3166-1などによって規定された、国または地域に付けられる国名コード。
自然公園などを訪問する者が守るべきルールやマナーを明文化したもの。本項で説明。 カントリーコード(The Country Code)とは、もともとは、イギリスにおいて1930年代頃から制定され始めた、田園地帯を訪問する人間が守るべきルール・マナーをまとめたものを指す。 さまざまな団体によって種々のものが作成されている。
その中でも最も良く知られているのは、イギリスのカントリーサイドコミッションが1981年に発表した12か条である。 カントリーサイドを楽しみ、住んでいる人の生活と仕事に敬意を払う。
どんな小さな火の元にも注意する。
牧場の門(ゲート)は開けたら必ず閉める。
連れて来た犬はきちんと管理する。
農地を通る時は農道を歩く。
牧場の柵、生け垣、壁を乗り越えたりせず、ゲートや踏み越し段(en:stile)を通る。
家畜、作物、農具に手を触れない。
ごみは持ち帰る。
水を汚さずきれいに。
野生動物、植物、木を守る。
田舎道は気をつけて歩く。
不必要な騒音を立てない。 2004年には、社会情勢などの変化を反映した改訂版であるカントリーサイドコードが発表されている。 安全第一 - 前もって計画を立て、標識には必ず従う。
すべてのゲートは、必ず元の状態にしておく。(開けたものは閉める、閉めたものは開ける)
動植物を守り、ごみは持ち帰る。
連れて来た犬はきちんと管理する。
他の人のことを思いやる。 | *[[ISO 3166-1]]などによって規定された、国または地域に付けられる[[国名コード]]。
*自然公園などを訪問する者が守るべきルールやマナーを明文化したもの。本項で説明。
----
'''カントリーコード'''(''The Country Code'')とは、もともとは、[[イギリス]]において[[1930年代]]頃から制定され始めた、田園地帯を訪問する人間が守るべきルール・マナーをまとめたものを指す。
さまざまな団体によって種々のものが作成されている。
その中でも最も良く知られているのは、イギリスのカントリーサイドコミッション([[:en:Countryside Commission]])が1981年に発表した12か条である。
*カントリーサイドを楽しみ、住んでいる人の生活と仕事に敬意を払う。
*どんな小さな火の元にも注意する。
*牧場の門(ゲート)は開けたら必ず閉める。
*連れて来た犬はきちんと管理する。
*農地を通る時は農道を歩く。
*牧場の柵、生け垣、壁を乗り越えたりせず、ゲートや踏み越し段([[:en:stile]])を通る。
*家畜、作物、農具に手を触れない。
*ごみは持ち帰る。
*水を汚さずきれいに。
*野生動物、植物、木を守る。
*田舎道は気をつけて歩く。
*不必要な騒音を立てない。
2004年には、社会情勢などの変化を反映した改訂版であるカントリーサイドコードが発表されている。
*安全第一 - 前もって計画を立て、標識には必ず従う。
*すべてのゲートは、必ず元の状態にしておく。(開けたものは閉める、閉めたものは開ける)
*動植物を守り、ごみは持ち帰る。
*連れて来た犬はきちんと管理する。
*他の人のことを思いやる。
==日本のカントリーコード==
経過
*1998年3月、「富士山カントリーコード」制定。
*1999年8月、「小笠原カントリーコード」制定。
*2000年4月、「南アルプスカントリーコード」制定。
*2000年9月、「秩父多摩甲斐国立公園カントリーコード」制定。
*2001年10月、「屋久島カントリーコード」制定。
==関連項目==
*[[エコツーリズム]]
==外部リンク==
*[https://web.archive.org/web/20060426073936/www.countrysideaccess.gov.uk/things_to_know/countryside_code The English Countryside Code]
*[http://www.fujisan-net.gr.jp/outline/countrycode.htm 富士山カントリーコード]
*[http://www.sizenken.biodic.go.jp/park/np/minamiarupusu/topics/5/ 南アルプスカントリーコード]
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[[Category:イギリスの文化]]
{{Env-stub}} | null | 2021-01-25T18:23:56Z | false | false | false | [
"Template:Env-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 |
9,082 | リン | リン(燐、英: phosphorus、新ラテン語: phosphorus)は原子番号15番の元素である。元素記号はP。原子量は30.97。窒素族元素(15族)のひとつ。周期は3。
ギリシャ語で「光を運ぶもの」という意味の「phosphoros」から命名された。phos が「光」、phoros が「運ぶもの」の意。
以前、リンは漢字で燐(ひとだまの意)と書いていた。ひとだまはリンが燃えているものだと考えられていたためであろう。
白リン(黄リン)・赤リン・紫リン・黒リンなどの同素体が存在する。+III(例:六酸化四リン、P4O6)、+IV(例:八酸化四リン、P4O8)、+V(例:五酸化二リン、P2O5)などの酸化数をとる。
リンは数種類の同素体をもつことが古くから知られている。白リン以外の同素体は、安定でほぼ無毒である。
白リン(P4)は四面体形の分子からなり、比重が1.82、融点が44.1 °C、沸点が280 °Cの、常温常圧で白色ロウ状の固体である。発火点は約44 °Cで些細なことで自然発火するため、水中で保存する。空気中で室温でも徐々に酸化され、熱および青白い光を発する。現在、燐光は別の発光現象の意味で用いられているが、その語源でもある。ベンゼン、二硫化炭素(CS2)などの有機溶媒によく溶ける。強い毒性を持ち、ニンニクのような臭いがある。日光にあたると赤リンに変化する。
黒リンは比重が2.69の固体である。黄リンを約12000気圧で加圧し、約200 °Cで加熱すると得られる。リンの同素体中でもっとも安定である。半導体であり鉄灰色の金属光沢を持ち、β金属リンとも呼ばれる。空気中ではなかなか発火しない。
紫リンは比重が2.36の固体である。褐色を帯びた暗紫色で金属光沢を持ち、α金属リンとも呼ばれる。白リンを鉛に溶かして密閉して加熱し、再結晶させることで得られる。電気伝導性は小さい。1865年にヴィルヘルム・ヒットルフが発見したのでヒットルフの金属リンと呼ばれることもある。
赤リンは比重が2.05~2.34。紫リンを主成分とする白リンとの混合体で、融点590 °C、発火点260 °Cの赤褐色の粉末である。二硫化炭素に不溶。マッチの材料に使われる。密閉した容器で白リンを約250 °Cで加熱すると得られる。
紅リンは比重が1.88の深紅色の粉末である。微細な粒子からなる赤リンと考えられている。
二リン(P2、P≡P)は、リン同士が三重結合して二原子分子になったものである。
黄リンは同素体とされていたが、実際には不純物(赤リンなど)を含む粗製白リンであり同素体ではない。リン鉱石(リン酸カルシウム)をケイ砂、コークスとともに混合強熱して得られる淡黄色蝋状固体である。黄色は白リンの表面が微量の赤リンの膜で覆われたもので、融点沸点などの物理的性質は白リンに準じる。19世紀にマッチの材料として使用されたが、自然発火事故や健康被害(白リン顎)により20世紀初頭に使用が禁止された。赤リンの乾留でも得られる。
燃焼すると十酸化四リン(五酸化二リン)が生成する。
白リンは強塩基の水溶液と反応するとホスフィンを生成する。
1669年にヘニッヒ・ブラントが、錬金術の実験としてバケツ60杯の尿を蒸発させていたところ、尿の残留物からリンを発見した。
2023年、日米欧の研究者チームは、土星の衛星エンケラドゥスの海に、高濃度のリンが含まれていることを発表した。
生体内では、遺伝情報の要であるDNAやRNAのポリリン酸エステル鎖として存在するほか、生体エネルギー代謝に欠かせないATP、細胞膜の主要な構成要素であるリン脂質など、重要な働きを担う化合物中に存在している。また、脊椎動物ではリン酸カルシウムが骨格の主要構成要素としての役割も持つ。このため、あらゆる生物にとっての必須元素であり、地球上におけるリンの存在量が、地球生態系のバイオマスの限界量を決定すると言われている。農業においてはリン酸が、カリウム・窒素などとともに肥料の主要成分である。
リンの原子が地上に現れるおもな循環システムは、植物を起点として考えた場合、
となる。この循環は短期間で一巡する場合もあるが、10年単位の時間を要する場合もある。雨や風によってループから外れ、海に流出してしまうリンもあり、そうしたリンが海底で堆積してできるのがリン灰石である。プレートテクトニクスによってリン灰石が地表に現れるには100万年以上の時間がかかる。
海洋においては浅い地域に多く、元素の中では偏在性が強い。メキシコ、コンゴ、南米付近の海底には大規模なリンの鉱床がある。
多くの食品にはリンが含まれ、その存在形態には無機リンと有機リンがある。無機リンの例としてはリン酸があり、牛乳に比較的多く含まれる。加工食品によっては無機リンがpH調整剤として添加されることもある。有機リンはタンパク質や糖、脂質とリン酸とが結合している。肉ではその多くが有機リンであり、たとえば、キナーゼによりリン酸化されたタンパク質であったり、ホスファチジルコリンなどのリン脂質として存在している。一方、穀類や豆類などではリンは糖と結合していることが多く、例としてはフィチン酸を挙げることができる。
骨に一番多くヒドロキシアパタイトとして存在する。血液中では7割が有機リンとして存在している。
用途としては、化学肥料の原料として使われるものがもっとも大きい。近年では、過リン酸石灰の生産が落ち込んでいるのに加え、従来の重過リン酸石灰の生産量は減少し、代わりにリン酸アンモニウム肥料がその重要性を増している。リン酸は金属の表面加工や工業用触媒に用いられるほか、食品添加物としてコーラなどにも少量添加されている。
代表的なリン酸の関連化合物の用途については、農薬や殺虫剤としての利用も多く、化学兵器として研究されるほど強力な毒性を持った製品も開発されたが、その多くは使用が中止されている。現在はリン酸エステル系の殺虫剤が主力になっている。
同じくリン酸化合物であるリン酸ナトリウム水溶液は強塩基性を示すため、単独で金属の洗浄剤として使われるほか、次亜塩素酸と混合することで強力な洗剤となるため、三リン酸ナトリウムは洗剤として広く利用されていたが、排水に高濃度のリンが含まれるために微生物の異常な繁殖の原因となり、赤潮などの公害を引き起こした。それゆえ、環境への配慮から日本国内での使用はほとんどなくなってきている。リン酸水素カルシウムは研磨剤として歯磨きなどに含まれ、フッ素を含む歯磨きには二リン酸カルシウムなど、口腔衛生に関わる場面でもリン酸化合物が数多く配合されている。
そのほかにも、コーンフレークやベーキングパウダー、飼料にもリン酸化合物が含まれるほか、ハムやチーズなどの製造時にも使用されている。燃料の不凍液にリン酸化合物が加えられたり、繊維製品の難燃加工にも利用されたりしている。製紙工業では消泡剤として、核燃料の再処理ではウラン・プルトニウム抽出の際の溶剤としてなど、多様なリン酸化合物が開発され、さまざまな場面で利用がある。
一般的に工業用の材料として使用されるものは、無機被覆または樹脂被覆処理を行った被覆リンとして流通している。被覆されることによって有毒なホスフィンの発生を抑制して自然発火が起きないようにすることで取り扱いを容易にしている。販売されている被覆リンは保存に特別な設備を必要とせず、常温の空気中に保存することができる。
潤滑用途ではさまざまな種類のリン系添加剤が使用されており、特に耐摩耗性、極圧性に優れたものが多く存在する。ジチオリン酸亜鉛などは磨耗防止、酸化防止、腐食防止といった機能を持つ多機能添加剤であるため昔から潤滑油用途で多用され、現在でも一般的な4ストローク用エンジンオイルのほとんどに添加されている。
煙幕として白リン弾や赤リン発煙弾が使われている。
リンは細胞の不可欠な構成要素であるため、環境中に過剰に存在すると微生物の大量増殖を導いてしまう。赤潮などの公害が多発した1960年代以降、合成洗剤の洗浄助剤としての使用が禁止されるなどの対策が講じられ、その後も閉鎖性水域を中心に、環境基準の項目として定番となっている。
ガソリンエンジンの排ガスを浄化する三元触媒はエンジンオイルに含まれるリンによって被毒する。そのためILSACなどのエンジンオイル規格においてリンの含有量規制が存在する。ただしリンは磨耗防止などさまざまな機能を担っている重要な要素であり、現状では潤滑性能を維持する観点から最低含有量も同時に設定されている。
白リン(黄リン)への習慣的曝露によりリン中毒性顎骨壊死を生じ、これは1880年代から1910年代にかけてマッチ工場の労働者の職業病であった。1906年のベルヌ条約によりマッチへの白リンの使用を禁じる取り組みが始まり、日本では1921年の黄燐燐寸製造禁止法とそれを受け継いで戦後制定された労働安全衛生法、毒物及び劇物取締法により黄リンマッチの製造・使用・譲渡等が禁止されている。
リンのオキソ酸は慣用名を持つ。次にそれらを挙げる。
※オキソ酸塩名称の '-' にはカチオン種の名称が入る。 | [
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"text": "リン(燐、英: phosphorus、新ラテン語: phosphorus)は原子番号15番の元素である。元素記号はP。原子量は30.97。窒素族元素(15族)のひとつ。周期は3。",
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"text": "ギリシャ語で「光を運ぶもの」という意味の「phosphoros」から命名された。phos が「光」、phoros が「運ぶもの」の意。",
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"text": "以前、リンは漢字で燐(ひとだまの意)と書いていた。ひとだまはリンが燃えているものだと考えられていたためであろう。",
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"text": "白リン(黄リン)・赤リン・紫リン・黒リンなどの同素体が存在する。+III(例:六酸化四リン、P4O6)、+IV(例:八酸化四リン、P4O8)、+V(例:五酸化二リン、P2O5)などの酸化数をとる。",
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"text": "リンは数種類の同素体をもつことが古くから知られている。白リン以外の同素体は、安定でほぼ無毒である。",
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"text": "白リン(P4)は四面体形の分子からなり、比重が1.82、融点が44.1 °C、沸点が280 °Cの、常温常圧で白色ロウ状の固体である。発火点は約44 °Cで些細なことで自然発火するため、水中で保存する。空気中で室温でも徐々に酸化され、熱および青白い光を発する。現在、燐光は別の発光現象の意味で用いられているが、その語源でもある。ベンゼン、二硫化炭素(CS2)などの有機溶媒によく溶ける。強い毒性を持ち、ニンニクのような臭いがある。日光にあたると赤リンに変化する。",
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"text": "黒リンは比重が2.69の固体である。黄リンを約12000気圧で加圧し、約200 °Cで加熱すると得られる。リンの同素体中でもっとも安定である。半導体であり鉄灰色の金属光沢を持ち、β金属リンとも呼ばれる。空気中ではなかなか発火しない。",
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"text": "紫リンは比重が2.36の固体である。褐色を帯びた暗紫色で金属光沢を持ち、α金属リンとも呼ばれる。白リンを鉛に溶かして密閉して加熱し、再結晶させることで得られる。電気伝導性は小さい。1865年にヴィルヘルム・ヒットルフが発見したのでヒットルフの金属リンと呼ばれることもある。",
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"text": "赤リンは比重が2.05~2.34。紫リンを主成分とする白リンとの混合体で、融点590 °C、発火点260 °Cの赤褐色の粉末である。二硫化炭素に不溶。マッチの材料に使われる。密閉した容器で白リンを約250 °Cで加熱すると得られる。",
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"text": "紅リンは比重が1.88の深紅色の粉末である。微細な粒子からなる赤リンと考えられている。",
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"text": "黄リンは同素体とされていたが、実際には不純物(赤リンなど)を含む粗製白リンであり同素体ではない。リン鉱石(リン酸カルシウム)をケイ砂、コークスとともに混合強熱して得られる淡黄色蝋状固体である。黄色は白リンの表面が微量の赤リンの膜で覆われたもので、融点沸点などの物理的性質は白リンに準じる。19世紀にマッチの材料として使用されたが、自然発火事故や健康被害(白リン顎)により20世紀初頭に使用が禁止された。赤リンの乾留でも得られる。",
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"text": "2023年、日米欧の研究者チームは、土星の衛星エンケラドゥスの海に、高濃度のリンが含まれていることを発表した。",
"title": "歴史"
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"text": "生体内では、遺伝情報の要であるDNAやRNAのポリリン酸エステル鎖として存在するほか、生体エネルギー代謝に欠かせないATP、細胞膜の主要な構成要素であるリン脂質など、重要な働きを担う化合物中に存在している。また、脊椎動物ではリン酸カルシウムが骨格の主要構成要素としての役割も持つ。このため、あらゆる生物にとっての必須元素であり、地球上におけるリンの存在量が、地球生態系のバイオマスの限界量を決定すると言われている。農業においてはリン酸が、カリウム・窒素などとともに肥料の主要成分である。",
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"text": "リンの原子が地上に現れるおもな循環システムは、植物を起点として考えた場合、",
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"text": "となる。この循環は短期間で一巡する場合もあるが、10年単位の時間を要する場合もある。雨や風によってループから外れ、海に流出してしまうリンもあり、そうしたリンが海底で堆積してできるのがリン灰石である。プレートテクトニクスによってリン灰石が地表に現れるには100万年以上の時間がかかる。",
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"text": "海洋においては浅い地域に多く、元素の中では偏在性が強い。メキシコ、コンゴ、南米付近の海底には大規模なリンの鉱床がある。",
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"text": "多くの食品にはリンが含まれ、その存在形態には無機リンと有機リンがある。無機リンの例としてはリン酸があり、牛乳に比較的多く含まれる。加工食品によっては無機リンがpH調整剤として添加されることもある。有機リンはタンパク質や糖、脂質とリン酸とが結合している。肉ではその多くが有機リンであり、たとえば、キナーゼによりリン酸化されたタンパク質であったり、ホスファチジルコリンなどのリン脂質として存在している。一方、穀類や豆類などではリンは糖と結合していることが多く、例としてはフィチン酸を挙げることができる。",
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"text": "骨に一番多くヒドロキシアパタイトとして存在する。血液中では7割が有機リンとして存在している。",
"title": "摂取"
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"text": "用途としては、化学肥料の原料として使われるものがもっとも大きい。近年では、過リン酸石灰の生産が落ち込んでいるのに加え、従来の重過リン酸石灰の生産量は減少し、代わりにリン酸アンモニウム肥料がその重要性を増している。リン酸は金属の表面加工や工業用触媒に用いられるほか、食品添加物としてコーラなどにも少量添加されている。",
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"text": "代表的なリン酸の関連化合物の用途については、農薬や殺虫剤としての利用も多く、化学兵器として研究されるほど強力な毒性を持った製品も開発されたが、その多くは使用が中止されている。現在はリン酸エステル系の殺虫剤が主力になっている。",
"title": "用途"
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"text": "同じくリン酸化合物であるリン酸ナトリウム水溶液は強塩基性を示すため、単独で金属の洗浄剤として使われるほか、次亜塩素酸と混合することで強力な洗剤となるため、三リン酸ナトリウムは洗剤として広く利用されていたが、排水に高濃度のリンが含まれるために微生物の異常な繁殖の原因となり、赤潮などの公害を引き起こした。それゆえ、環境への配慮から日本国内での使用はほとんどなくなってきている。リン酸水素カルシウムは研磨剤として歯磨きなどに含まれ、フッ素を含む歯磨きには二リン酸カルシウムなど、口腔衛生に関わる場面でもリン酸化合物が数多く配合されている。",
"title": "用途"
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"text": "そのほかにも、コーンフレークやベーキングパウダー、飼料にもリン酸化合物が含まれるほか、ハムやチーズなどの製造時にも使用されている。燃料の不凍液にリン酸化合物が加えられたり、繊維製品の難燃加工にも利用されたりしている。製紙工業では消泡剤として、核燃料の再処理ではウラン・プルトニウム抽出の際の溶剤としてなど、多様なリン酸化合物が開発され、さまざまな場面で利用がある。",
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"text": "潤滑用途ではさまざまな種類のリン系添加剤が使用されており、特に耐摩耗性、極圧性に優れたものが多く存在する。ジチオリン酸亜鉛などは磨耗防止、酸化防止、腐食防止といった機能を持つ多機能添加剤であるため昔から潤滑油用途で多用され、現在でも一般的な4ストローク用エンジンオイルのほとんどに添加されている。",
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"text": "煙幕として白リン弾や赤リン発煙弾が使われている。",
"title": "用途"
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"text": "リンは細胞の不可欠な構成要素であるため、環境中に過剰に存在すると微生物の大量増殖を導いてしまう。赤潮などの公害が多発した1960年代以降、合成洗剤の洗浄助剤としての使用が禁止されるなどの対策が講じられ、その後も閉鎖性水域を中心に、環境基準の項目として定番となっている。",
"title": "用途"
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"text": "ガソリンエンジンの排ガスを浄化する三元触媒はエンジンオイルに含まれるリンによって被毒する。そのためILSACなどのエンジンオイル規格においてリンの含有量規制が存在する。ただしリンは磨耗防止などさまざまな機能を担っている重要な要素であり、現状では潤滑性能を維持する観点から最低含有量も同時に設定されている。",
"title": "用途"
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"text": "白リン(黄リン)への習慣的曝露によりリン中毒性顎骨壊死を生じ、これは1880年代から1910年代にかけてマッチ工場の労働者の職業病であった。1906年のベルヌ条約によりマッチへの白リンの使用を禁じる取り組みが始まり、日本では1921年の黄燐燐寸製造禁止法とそれを受け継いで戦後制定された労働安全衛生法、毒物及び劇物取締法により黄リンマッチの製造・使用・譲渡等が禁止されている。",
"title": "用途"
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"text": "リンのオキソ酸は慣用名を持つ。次にそれらを挙げる。",
"title": "リンの化合物"
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"text": "※オキソ酸塩名称の '-' にはカチオン種の名称が入る。",
"title": "リンの化合物"
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] | リンは原子番号15番の元素である。元素記号はP。原子量は30.97。窒素族元素(15族)のひとつ。周期は3。 | {{Otheruses|元素}}
{{Elementbox
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|japanese name=リン
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|image name comment=左から白リン(黄リン)、赤リン、紫リン、黒リン
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|image name 2 comment=
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|atomic mass 2=2
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|melting point K=<!--(白リン)317.4 K、(赤リン)≈ 852 K、(黒リン)883 -->
|melting point C=(白リン)44.2 {{℃}}、(黒リン)610
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|sublimation point C=(赤リン)≈ 416 – 590 {{℃}}、(紫リン)620
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|triple point K=
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|triple point K 2=(赤リン)862.7
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|crystal structure=cubic
|japanese crystal structure=[[立方晶系]](白リン)
|oxidation states='''5''', 4, 3, 2<ref>[https://www.webelements.com/compounds/phosphorus/diphosphorus_tetrahydride.html Phosphorus: diphosphorus tetrahydride]</ref>, 1<ref>{{cite journal|doi=10.1021/ic060186o|pmid=16903744|title=Phosphorus(I) Iodide: A Versatile Metathesis Reagent for the Synthesis of Low Oxidation State Phosphorus Compounds|year=2006|last1=Ellis|first1=Bobby D.|last2=MacDonald|first2=Charles L. B.|journal=Inorganic Chemistry|volume=45|issue=17|pages=6864}}</ref>, −1, −2, −3
|oxidation states comment=弱[[酸性酸化物]]
|electronegativity=2.19
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|atomic radius calculated=
|covalent radius=[[1 E-10 m|107±3]]
|Van der Waals radius=[[1 E-10 m|180]]
|magnetic ordering=(白リン、赤リン、紫リン、黒リン)[[反磁性]]<ref>{{PDF|[https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds]}}(2004年3月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]), in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref>
|electrical resistivity=
|electrical resistivity at 0=
|electrical resistivity at 20=
|thermal conductivity=(白リン)0.236、(黒リン)12.1
|thermal conductivity 2=
|thermal diffusivity=
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{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[リン31|31]] | sym=P | na=100% | n=16}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[リン32|32]] | sym=P
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| dm=[[ベータ崩壊|β{{sup|−}}]] | de=0.249 | pn=[[硫黄33|33]] | ps=[[硫黄|S]]}}
|isotopes comment=
}}
'''リン'''(燐、{{lang-en-short|phosphorus}}、{{lang-lan-short|phosphorus}}<ref>[http://www.thefreedictionary.com/Phosphorus The Free Dictionary]</ref>)は[[原子番号]]15番の[[元素]]である。[[元素記号]]は'''P'''。[[原子量]]は30.97。[[第15族元素|窒素族元素]](15族)のひとつ。周期は3。
== 名称 ==
ギリシャ語で「光を運ぶもの」という意味の「{{lang|grc-latn|''phosphoros''}}」から命名された。{{lang|grc-latn|''phos''}} が「光」、{{lang|grc-latn|''phoros''}} が「運ぶもの」の意。
以前、リンは漢字で燐(ひとだまの意)と書いていた。ひとだまはリンが燃えているものだと考えられていたためであろう。<ref>https://www.ielement.org/p.html</ref>
== 同素体 ==
白リン(黄リン)・赤リン・紫リン・黒リンなどの[[同素体]]が存在する。+III(例:[[六酸化四リン]]、P{{sub|4}}O{{sub|6}})、+IV(例:[[八酸化四リン]]、P{{sub|4}}O{{sub|8}})、+V(例:[[五酸化二リン]]、P{{sub|2}}O{{sub|5}})などの[[酸化数]]をとる。
リンは数種類の同素体をもつことが古くから知られている。白リン以外の同素体は、安定でほぼ無毒である。
'''白リン'''(P{{sub|4}})は[[四面体形]]の分子からなり、[[比重]]が1.82、[[融点]]が44.1 °C、[[沸点]]が280 °Cの、常温常圧で白色ロウ状の[[固体]]である。発火点は約44 °Cで些細なことで[[自然発火]]するため、水中で保存する。空気中で室温でも徐々に酸化され、熱および青白い光を発する。現在、[[燐光]]は別の発光現象の意味で用いられているが、その語源でもある。[[ベンゼン]]、[[二硫化炭素]](CS{{sub|2}})などの[[有機溶媒]]によく溶ける。強い毒性を持ち<ref>[https://www.ilo.org/dyn/icsc/showcard.display?p_lang=ja&p_card_id=0628&p_version=2 PHOSPHORUS (YELLOW)] 国際化学物質安全性カード</ref>、[[ニンニク]]のような臭いがある。日光にあたると赤リンに変化する。
'''黒リン'''は比重が2.69の固体である。黄リンを約12000気圧で加圧し、約200 °Cで加熱すると得られる。リンの同素体中でもっとも安定である。[[半導体]]であり鉄灰色の[[金属光沢]]を持ち、'''β金属リン'''とも呼ばれる。空気中ではなかなか発火しない。
'''紫リン'''は比重が2.36の固体である。褐色を帯びた暗紫色で金属光沢を持ち、'''α金属リン'''とも呼ばれる。白リンを鉛に溶かして密閉して加熱し、再結晶させることで得られる。電気伝導性は小さい。1865年に[[ヴィルヘルム・ヒットルフ]]が発見したのでヒットルフの金属リンと呼ばれることもある。
'''赤リン'''は比重が2.05~2.34。紫リンを主成分とする白リンとの混合体で、融点590 °C、発火点260 °Cの赤褐色の粉末である。[[二硫化炭素]]に不溶。[[マッチ]]の材料に使われる。密閉した容器で白リンを約250 °Cで加熱すると得られる。
'''紅リン'''は比重が1.88の深紅色の粉末である。微細な粒子からなる赤リンと考えられている。
'''[[二リン]]'''(P{{sub|2}}、P≡P)は、リン同士が[[三重結合]]して[[二原子分子]]になったものである。
;結晶構造
<gallery>
White phosphorus molecule.jpg|白リンの結晶構造
BlackPhosphorus.jpg|黒リンの結晶構造
Schwarzer Phosphor.svg|黒リンの結晶構造
</gallery>
=== 同素体ではないもの ===
'''黄リン'''は同素体とされていたが、実際には[[不純物]](赤リンなど)を含む粗製白リンであり同素体ではない。[[リン鉱石]]([[リン酸カルシウム]])を[[ケイ砂]]、[[コークス]]とともに混合強熱して得られる淡黄色蝋状固体である。黄色は白リンの表面が微量の赤リンの膜で覆われたもので、融点沸点などの物理的性質は白リンに準じる。19世紀にマッチの材料として使用されたが、[[自然発火]]事故や健康被害([[白リン顎]])により20世紀初頭に使用が禁止された。赤リンの乾留でも得られる。
== 反応 ==
[[燃焼]]すると[[十酸化四リン]]([[五酸化二リン]])が生成する。
:<chem>
4P + 5O2 ->P4O10
</chem>
白リンは[[強塩基]]の水溶液と反応すると[[ホスフィン]]を生成する。
:<chem>
P4 + 4OH^- + 2 H2O -> 2HPO3^2- + 2 PH3
</chem><ref>アメリカ{{仮リンク|有害物質・疾病登録局|en|Agency for Toxic Substances and Disease Registry}} (ATSDR) が 1997年に作成した[http://www.atsdr.cdc.gov/toxprofiles/tp103.pdf TOXICOLOGICAL PROFILE FOR WHITE PHOSPHORUS]による。</ref>
== 歴史 ==
[[1669年]]に[[ヘニッヒ・ブラント]]が、[[錬金術]]の実験としてバケツ60杯の尿を蒸発させていたところ、尿の残留物からリンを発見した<ref>{{Cite |和書 |author = [[桜井弘]] |title = 元素111の新知識 |date = 1998 |pages = 94 |publisher = [[講談社]] |series = [[ブルーバックス]] |isbn= 4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。
[[2023年]]、日米欧の研究者チームは、[[土星]]の[[衛星]][[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]の海に、高濃度のリンが含まれていることを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20230615-L5JVS673IVIWVEOJAEKCBSSYSA/ |title=土星の衛星の海に生命に必須の元素 高濃度のリン発見 |publisher=産経新聞 |date=2023-06-15 |accessdate=2023-06-15}}</ref>。
== 生化学 ==
[[File:Phosphodiester Bond Diagram.svg|thumb|DNAなどの[[核酸]]における[[ホスホジエステル結合]]]]
生体内では、遺伝情報の要である[[デオキシリボ核酸|DNA]]や[[リボ核酸|RNA]]のポリリン酸エステル鎖として存在するほか、生体エネルギー代謝に欠かせない[[アデノシン三リン酸|ATP]]、細胞膜の主要な構成要素である[[リン脂質]]など、重要な働きを担う化合物中に存在している。また、[[脊椎動物]]では[[燐灰石|リン酸カルシウム]]が[[骨格]]の主要構成要素としての役割も持つ。このため、あらゆる生物にとっての[[必須元素]]であり、地球上におけるリンの存在量が、地球[[生態系]]の[[バイオマス]]の限界量を決定すると言われている。[[農業]]においては[[リン酸]]が、[[カリウム]]・[[窒素]]などとともに[[肥料]]の主要成分である。
リンの原子が地上に現れるおもな循環システムは、植物を起点として考えた場合、
#植物が枯死するか、その植物を食べた動物が死ぬ
#微生物に分解され土壌に戻る
#再び植物の根から吸い上げられる
となる<ref name="DeFries">{{Cite |和書
|author = ルース・ドフリース
|title = 食糧と人類:飢餓を克服した大増産の文明史
|translator= [[小川敏子]]
|date = 2016
|publisher = [[日本経済新聞出版社]]
|isbn = 978-4532169817
|pages = 90–95}}</ref>。この循環は短期間で一巡する場合もあるが、10年単位の時間を要する場合もある。雨や風によってループから外れ、海に流出してしまうリンもあり、そうしたリンが海底で堆積してできるのが[[リン灰石]]である。[[プレートテクトニクス]]によってリン灰石が地表に現れるには100万年以上の時間がかかる<ref name="DeFries"/>。
海洋においては浅い地域に多く、元素の中では偏在性が強い。メキシコ、コンゴ、南米付近の海底には大規模なリンの鉱床がある<ref>{{Cite |和書
|author = 臼井朗
|title = 海底鉱物資源:未利用レアメタルの探査と開発
|date = 2010
|publisher = [[オーム社]]
|isbn = 978-4274502873
|page = 53}}</ref>。
== 摂取 ==
多くの食品にはリンが含まれ、その存在形態には無機リンと有機リンがある。無機リンの例としては[[リン酸]]があり、[[牛乳]]に比較的多く含まれる。加工食品によっては無機リンが[[pH調整剤]]として添加されることもある。有機リンはタンパク質や糖、脂質と[[リン酸]]とが結合している。肉ではその多くが有機リンであり、たとえば、[[キナーゼ]]によりリン酸化されたタンパク質であったり、[[ホスファチジルコリン]]などの[[リン脂質]]として存在している。一方、穀類や豆類などではリンは[[糖]]と結合していることが多く、例としては[[フィチン酸]]を挙げることができる<ref name="ANaHM2009">{{cite book
|title=Advanced Nutrition and Human Metabolism
|authors=Sareen S. Gropper, Jack L. Smith, James L. Groff
|edition=4th edition
|publisher=WADSWORTH
|page=443,444
|isbn=978-0-495-11657-8
}}</ref>。
;体内での存在
[[骨]]に一番多く[[ヒドロキシアパタイト]]として存在する。血液中では7割が有機リンとして存在している<ref name="ANaHM2009"/>。
;摂取基準
{|class="wikitable"
|+リンの食事摂取基準(2015年)<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.tyojyu.or.jp/net/kenkou-tyoju/eiyouso/mineral-p.html |title= リンの働きと1日の摂取量 |website= 健康長寿ネット |publisher= 公益財団法人 [[長寿科学振興財団]] |date= 2019-08-09 |accessdate= 2020-04-17 }}</ref>
|-
!年齢!!男性(目安量)!!女性(目安量)
|-
|18歳以上||1000 mg||800 mg
|}
== 用途 ==
用途としては、化学肥料の原料として使われるものがもっとも大きい。近年では、[[過リン酸石灰]]の生産が落ち込んでいるのに加え、従来の[[重過リン酸石灰]]の生産量は減少し、代わりに[[リン酸アンモニウム]]肥料がその重要性を増している。リン酸は[[金属]]の表面加工や工業用[[触媒]]に用いられるほか、[[食品添加物]]として[[コーラ (飲料)|コーラ]]などにも少量添加されている。
代表的なリン酸の関連化合物の用途については、[[農薬]]や[[殺虫剤]]としての利用も多く、[[化学兵器]]として研究されるほど強力な毒性を持った製品も開発されたが、その多くは使用が中止されている。現在は[[リン酸エステル]]系の殺虫剤が主力になっている。
同じくリン酸化合物である[[リン酸ナトリウム]]水溶液は強[[塩基性]]を示すため、単独で金属の洗浄剤として使われるほか、[[次亜塩素酸]]と混合することで強力な洗剤となるため、[[三リン酸ナトリウム]]は洗剤として広く利用されていたが、排水に高濃度のリンが含まれるために微生物の異常な繁殖の原因となり、[[赤潮]]などの公害を引き起こした。それゆえ、[[環境]]への配慮から日本国内での使用はほとんどなくなってきている。[[リン酸水素カルシウム]]は[[研磨剤]]として歯磨きなどに含まれ、[[フッ素]]を含む歯磨きには[[二リン酸カルシウム]]など、口腔衛生に関わる場面でもリン酸化合物が数多く配合されている。
そのほかにも、[[コーンフレーク]]や[[ベーキングパウダー]]、[[飼料]]にもリン酸化合物が含まれるほか、[[ハム]]や[[チーズ]]などの製造時にも使用されている。燃料の[[不凍液]]にリン酸化合物が加えられたり、[[繊維]]製品の[[難燃性|難燃]]加工にも利用されたりしている。[[製紙]]工業では[[消泡剤]]として、[[核燃料]]の再処理では[[ウラン]]・[[プルトニウム]]抽出の際の溶剤としてなど、多様なリン酸化合物が開発され、さまざまな場面で利用がある。
一般的に工業用の材料として使用されるものは、無機被覆または樹脂被覆処理を行った被覆リンとして流通している。被覆されることによって有毒な[[ホスフィン]]の発生を抑制して自然発火が起きないようにすることで取り扱いを容易にしている。販売されている被覆リンは保存に特別な設備を必要とせず、常温の空気中に保存することができる。
[[潤滑]]用途ではさまざまな種類のリン系添加剤が使用されており、特に耐摩耗性、極圧性に優れたものが多く存在する。[[ZnDTP|ジチオリン酸亜鉛]]などは磨耗防止、酸化防止、腐食防止といった機能を持つ多機能添加剤であるため昔から潤滑油用途で多用され、現在でも一般的な[[4ストローク]]用[[エンジンオイル]]のほとんどに添加されている。
[[煙幕]]として[[白リン弾]]や[[赤リン発煙弾]]が使われている。
=== 規制 ===
リンは細胞の不可欠な構成要素であるため、[[環境]]中に過剰に存在すると微生物の大量増殖を導いてしまう。[[赤潮]]などの[[公害]]が多発した[[1960年代]]以降、[[合成洗剤]]の[[洗浄助剤]]としての使用が禁止されるなどの対策が講じられ、その後も閉鎖性水域を中心に、[[環境基準]]の項目として定番となっている。
ガソリンエンジンの排ガスを浄化する[[三元触媒]]はエンジンオイルに含まれるリンによって被毒する。そのためILSACなどのエンジンオイル規格においてリンの含有量規制が存在する。ただしリンは磨耗防止などさまざまな機能を担っている重要な要素であり、現状では潤滑性能を維持する観点から最低含有量も同時に設定されている。
白リン(黄リン)への習慣的曝露により[[リン中毒性顎骨壊死]]を生じ、これは1880年代から1910年代にかけてマッチ工場の労働者の職業病であった。[[ベルヌ条約 (1906年)|1906年のベルヌ条約]]によりマッチへの白リンの使用を禁じる取り組みが始まり、日本では1921年の黄燐燐寸製造禁止法とそれを受け継いで戦後制定された[[労働安全衛生法]]、毒物及び劇物取締法により黄リンマッチの製造・使用・譲渡等が禁止されている。
== リンの化合物 ==
{{div col}}
* [[酸化物]]
** 十酸化四リン(P{{sub|4}}O{{sub|10}}) - 組成式P{{sub|2}}O{{sub|5}}より[[五酸化二リン]]とも呼ばれる。
** [[八酸化四リン]](P{{sub|4}}O{{sub|8}})
** [[六酸化四リン]](P{{sub|4}}O{{sub|6}})
* [[ハロゲン化物]]
**[[三フッ化リン]](PF{{sub|3}})
** [[五フッ化リン]](PF{{sub|5}})
** [[三塩化リン]](PCl{{sub|3}})
** [[五塩化リン]](PCl{{sub|5}})
** [[三臭化リン]](PBr{{sub|3}})
** [[五臭化リン]](PBr{{sub|5}})
** [[三ヨウ化リン]](PI{{sub|3}})
* ハロゲン化ホスホリル
**[[フッ化ホスホリル]](POF{{sub|3}})
** [[塩化ホスホリル]](POCl{{sub|3}})
** [[臭化ホスホリル]](POBr{{sub|3}})
* その他
**[[ホスフィン]](PH{{sub|3}})
** [[リン化カルシウム]](Ca{{sub|3}}P{{sub|2}}など)
** [[リン酸]](H{{sub|3}}PO{{sub|4}}) - 生体にとっても重要、核酸を構成する。
** [[リン酸ナトリウム]](Na{{sub|3}}PO{{sub|4}})
** [[ヘキサフルオロリン酸]](HPF{{sub|6}})
{{div col end}}
=== リンのオキソ酸 ===
リンの[[オキソ酸]]は慣用名を持つ。次にそれらを挙げる。
[[画像:リン酸とホスフィン.png|175px|thumb|リンのオキソ酸およびホスフィンの命名法。[[互変異性|互変異性体]]の関係にあるものは両矢印で示した]]
{| class="wikitable"
|-
! オキソ酸の名称 !! 化学式<br>(酸化数) !! オキソ酸塩の名称 !! 備考
|-
| [[ホスフィン酸]]<br>(phosphinic acid)|| '''HPH{{sub|2}}O{{sub|2}}'''<br>(+I)|| ホスフィン酸塩<br>( - phosphinate)|| 水素原子のうち2個がリンに直接結合しているため、リンの原子価は5価。
|-
| [[ホスホン酸]]<br>(phosphonic acid)|| '''H{{sub|2}}PHO{{sub|3}}'''<br>(+III)|| ホスホン酸塩<br>( - phosphonate)|| 亜リン酸の互変異性体。水素原子のうち1個がリンに直接結合しているため、リンの原子価は5価。
|-
| [[亜リン酸]]<br>(phosphorous acid)|| '''H{{sub|3}}PO{{sub|3}}'''<br>(+III)|| 亜リン酸塩<br>( - phosphite)|| 詳しくは[[亜リン酸]]、[[三酸化二リン]]を参照。
|-
| [[リン酸]]<br>(phosphoric acid)|| '''H{{sub|3}}PO{{sub|4}}'''<br>(+V)|| リン酸塩<br>( - phosphate)|| 詳しくは[[リン酸]]、[[五酸化二リン]]を参照。
|-
| [[ペルオキソ一リン酸]]<br>(peroxomonophosphoric acid)|| '''H{{sub|3}}PO{{sub|5}}'''<br>(+V)|| ペルオキソ一リン酸塩<br>( - peroxomonophosphorate)|| 水溶液としてのみ得られ、強い[[酸化力]]がある。
|}
''※オキソ酸塩名称の '-' にはカチオン種の名称が入る。''
== 同位体 ==
{{See|リンの同位体}}
== 参考文献 ==
ダン・イーガン『肥料争奪戦の時代―希少資源リンの枯渇に脅える世界』(原書房、2023年)
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|25em}}
== 関連項目 ==
* [[燐光]]
* [[有機リン化合物]]
* [[リン31NMR]]
* [[リン鉱石]]
* [[赤潮]]
* [[GFAJ-1]]
* [[グアノ]]
* [[リン酸]]
* [[リン酸塩]]
* [[高リン血症]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat}}
{{Wiktionary|燐|磷}}
* {{PaulingInstitute|mic/minerals/phosphorus Phosphorus}}
* {{Hfnet|720|リン脂質結合大豆ペプチド}}
{{元素周期表}}
{{リンの化合物}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:りん}}
[[Category:リン|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:非金属元素]]
[[Category:ニクトゲン]]
[[Category:第15族元素]]
[[Category:第3周期元素]]
[[Category:必須ミネラル]]
[[Category:第2類危険物]] | 2003-05-22T13:37:07Z | 2023-11-20T08:42:39Z | false | false | false | [
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"Template:リンの化合物"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3 |
9,083 | 第15族元素 | 第15族元素(だいじゅうごぞくげんそ)は、周期表において第15族に属する窒素・リン・ヒ素・アンチモン・ビスマス・モスコビウムのこと。窒素族元素、V族元素(ごぞくげんそ)、プニクトゲン (またはニクトゲン、pnictogen)とよばれることもある。プニクトゲンの名はギリシャ語のπνίγειν(pnigein)が語源で、窒素の特性である「窒息する」を意味する。
15族は窒素族とも呼ばれるが、特にプニクトゲンと呼ぶ場合は窒素(N)を除外する。これは窒素が非金属であるのに対し、他の元素(P、As、Sb、Bi)は半金属元素であり特性が異なるためである。
これらの単体は古くから知られており、ヒ素、アンチモン、ビスマスは近代以前に知られていた。リンが17世紀、窒素は18世紀の発見である。
第15族元素は価電子に nsnp の5電子を持つ電子構造を有する。
第15族元素単体のうち、窒素のみが常温で気体であり、ほかは固体である。また窒素とリンの価電子は混成軌道を形成し、共有結合物質として振舞う。一方、第4周期のヒ素より周期の大きい単体は、共有結合性と金属との性質を併せ持つ物性を示し半金属と呼ばれる。これらのヒ素、アンチモン、ビスマスは混成軌道を形成するよりは、2つの電子が占有したs軌道と、3つの1つずつ電子が存在するp軌道として振舞うので、酸化数は+3と+5が安定である。
第15族元素の一部は炎色反応を示す。
第15族元素は半導体デバイスにおいて重要な役割を演じる。第14族元素の真性半導体に対して、第15族元素と第13族元素の化合物から形成される半導体をIII-V族半導体と呼ぶ。III-V族半導体のバンドギャップは可視光領域に相当するため、発光ダイオード・半導体レーザーなど光デバイスの素材として重要である。また、真性半導体に第15族元素を微量ドーピングすることでN型半導体を形成する。
第15族元素は一般式 MH3 で示される水素化物を形成する。いずれの水素化物も三角錐状の構造をとるが、アンモニアのみが傾向よりも高い沸点を示し、水素結合を形成する性質を有する。
窒素とリンは多様な酸化状態を持つ酸化物を形成するが、窒素は酸化数が大きいほど自由エネルギーが大きく不安定であり、酸化数0の単体窒素が最も自由エネルギーが小さくて安定な為、窒素酸化物は酸化剤として利用されるものが多い。一方、リンの酸化物はいずれも単体リンよりも自由エネルギーが小さく、酸化数が大きいものほど自由エネルギーが小さくて安定である。それゆえリンの酸化物は酸化剤としては利用されない。
一方、ヒ素、アンチモン、ビスマスは酸化数+5に比べ+3が安定化しているので、いずれも一般式 M2O3 で表される酸化物が安定である。
第15族元素は一般式 MX3 もしくは MX5 で表されるハロゲン化物などを生成する。
リンのハロゲン化物は、有機化学においてヒドロキシ基、カルボン酸を相当するハロゲン基、酸ハロゲン化物に変換する試薬として利用される。 | [
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] | 第15族元素(だいじゅうごぞくげんそ)は、周期表において第15族に属する窒素・リン・ヒ素・アンチモン・ビスマス・モスコビウムのこと。窒素族元素、V族元素(ごぞくげんそ)、プニクトゲン (またはニクトゲン、pnictogen)とよばれることもある。プニクトゲンの名はギリシャ語のπνίγειν(pnigein)が語源で、窒素の特性である「窒息する」を意味する。 15族は窒素族とも呼ばれるが、特にプニクトゲンと呼ぶ場合は窒素(N)を除外する。これは窒素が非金属であるのに対し、他の元素(P、As、Sb、Bi)は半金属元素であり特性が異なるためである。 これらの単体は古くから知られており、ヒ素、アンチモン、ビスマスは近代以前に知られていた。リンが17世紀、窒素は18世紀の発見である。 | {{出典の明記|date=2022年12月}}
{| class="infobox" style="background-color: white; text-align: center"
|-
| [[元素の族|'''族''']] || [[第14族元素|←]] '''15''' [[第16族元素|→]]
|-
| style="width:40%" | [[元素の周期|'''周期''']]
|
|-
| [[第2周期元素|'''2''']]
| style="background-color: #a0ffa0" | {{small|7}} <br />[[窒素|N]]
|-
| [[第3周期元素|'''3''']]
| style="background-color: #a0ffa0" | {{small|15}} <br />[[リン|P]]
|-
| [[第4周期元素|'''4''']]
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|-
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|-
| [[第6周期元素|'''6''']]
| style="background-color: #cc9" | {{small|83}} <br />[[ビスマス|Bi]]
|-
| [[第7周期元素|'''7''']]
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|}
'''第15族元素'''(だいじゅうごぞくげんそ)は、[[周期表]]において第15族に属する[[窒素]]・[[リン]]・[[ヒ素]]・[[アンチモン]]・[[ビスマス]]・[[モスコビウム]]のこと。'''窒素族元素'''、'''V族元素'''(ごぞくげんそ)、'''プニクトゲン''' (または'''ニクトゲン'''、pnictogen)とよばれることもある。プニクトゲンの名はギリシャ語のπνίγειν(pnigein)が語源で、窒素の特性である「窒息する」を意味する。
15族は窒素族とも呼ばれるが、特にプニクトゲンと呼ぶ場合は窒素(N)を除外する。これは窒素が非金属であるのに対し、他の元素(P、As、Sb、Bi)は半金属元素であり特性が異なるためである。
これらの[[単体]]は古くから知られており、ヒ素、アンチモン、ビスマスは近代以前に知られていた。リンが17世紀、窒素は18世紀の発見である。
== 性質 ==
第15族元素は価電子に ns<sup>2</sup>np<sup>3</sup> の5電子を持つ電子構造を有する。
{| class="wikitable"
!!![[窒素]]<br /><chem>_{7}N</chem>!![[リン]]<br /><chem>_{15}P</chem>!![[ヒ素]]<br /><chem>_{33}As</chem>!![[アンチモン]]<br /><chem>_{51}Sb</chem>!![[ビスマス]]<br /><chem>_{83}Bi</chem>!![[モスコビウム]]<br /><chem>_{115}Mc</chem>
|-
|[[電子配置]]||<chem>[He]{}2s^{2}{}2p^{3}</chem>||<chem>[Ne]{}3s^{2}{}3p^{3}</chem>||<chem>[Ar]{}3d^{10}{}4s^{2}{}4p^{3}</chem>||<chem>[Kr]{}4d^{10}{}5s^{2}{}5p^{3}</chem>||<chem>[Xe]{}4f^{14}{}5d^{10}{}6s^{2}{}6p^{3}</chem>||<chem>[Rn]{}5f^{14}{}6d^{10}{}7s^{2}{}7p^{3}</chem>
|-
|第1イオン化エネルギー<br />(kJ·mol<sup>−1</sup>)||1402||1012||947||834||703|| -
|-
|電子付加エンタルピー<br />(kJ·mol<sup>−1</sup>)||-||-||-||103.23895||-|| -
|-
|電子親和力<br />(kJ·mol<sup>−1</sup>)||-6.75 ||72.0 ||-||-||-|| -
|-
|電気陰性度<br />(Allred-Rochow)||3.07||2.06||2.20||1.82||1.67|| -
|-
|イオン半径<br />(pm, M<sup>3−</sup>)||132(4配位)||-||-||-||-|| -
|-
|イオン半径<br />(pm, M<sup>3+</sup>)||-||58(6配位)||72(6配位)||90(6配位)||117(6配位)<br />131(8配位)|| -
|-
|イオン半径<br />(pm, M<sup>5+</sup>)||27(6配位)||31(4配位)||48(4配位)<br />60(6配位)||74(6配位)||90(6配位)|| -
|-
|共有結合半径<br />(pm)||75||106||119||138||146|| -
|-
|van der Waals半径<br />(pm)||155||180||185||-||-||-
|-
|融点<br />(K)||63.14 (N<sub>2</sub>)||44.1||1090 (3.6 MPa)||903.78||544.4||-
|-
|沸点<br />(K)||77.35 (N<sub>2</sub>)||280||887(昇華)||1860||1837||-
|-
|還元電位 ''E''<sup>0</sup> (V)||-||-||+0.25 (M<sup>3+</sup>/M)||+0.21(M<sup>3+</sup>/M)||+0.32(M<sup>3+</sup>/M)||-
|}
[[File:Stickstoff-gruppe.jpg|300px|thumb|ニクトゲン元素のサンプル]]
第15族元素単体のうち、[[窒素]]のみが常温で気体であり、ほかは固体である。また窒素と[[リン]]の価電子は[[混成軌道]]を形成し、共有結合物質として振舞う。一方、第4周期の[[ヒ素]]より周期の大きい単体は、共有結合性と金属との性質を併せ持つ物性を示し[[半金属]]と呼ばれる。これらのヒ素、[[アンチモン]]、[[ビスマス]]は混成軌道を形成するよりは、2つの電子が占有したs軌道と、3つの1つずつ電子が存在するp軌道として振舞うので、酸化数は+3と+5が安定である。
第15族元素の一部は[[炎色反応]]を示す。
{| class="wikitable"
|-
!リン<br />(リン酸イオン)!!ヒ素!!アンチモン
|-
|淡青色||淡青色||淡青色
|}
第15族元素は半導体デバイスにおいて重要な役割を演じる。第14族元素の真性半導体に対して、第15族元素と第13族元素の化合物から形成される半導体を[[III-V族半導体]]と呼ぶ。III-V族半導体のバンドギャップは可視光領域に相当するため、[[発光ダイオード]]・[[半導体レーザー]]など光デバイスの素材として重要である。また、真性半導体に第15族元素を微量ドーピングすることで[[N型半導体]]を形成する。
== 水素化物 ==
第15族元素は一般式 MH<sub>3</sub> で示される水素化物を形成する。いずれの水素化物も三角錐状の構造をとるが、[[アンモニア]]のみが傾向よりも高い沸点を示し、[[水素結合]]を形成する性質を有する。
===水素化物の種類===
* [[アンモニア]] NH<sub>3</sub>
* [[ホスフィン]] PH<sub>3</sub>
* [[アルシン]] AsH<sub>3</sub>
* [[スチビン]] SbH<sub>3</sub>
* [[ビスムチン]] BiH<sub>3</sub>
== 酸化物 ==
窒素とリンは多様な酸化状態を持つ酸化物を形成するが、窒素は酸化数が大きいほど自由エネルギーが大きく不安定であり、酸化数0の単体窒素が最も自由エネルギーが小さくて安定な為、窒素酸化物は酸化剤として利用されるものが多い。一方、リンの酸化物はいずれも単体リンよりも自由エネルギーが小さく、酸化数が大きいものほど自由エネルギーが小さくて安定である。それゆえリンの酸化物は酸化剤としては利用されない。
一方、ヒ素、アンチモン、ビスマスは酸化数+5に比べ+3が安定化しているので、いずれも一般式 M<sub>2</sub>O<sub>3</sub> で表される酸化物が安定である。
== ハロゲン化物 ==
第15族元素は一般式 MX<sub>3</sub> もしくは MX<sub>5</sub> で表されるハロゲン化物などを生成する。
{| class="wikitable"
!rowspan="2"| ||colspan="2"|[[窒素]]||colspan="3"|[[リン]]||colspan="2"|[[ヒ素]]||colspan="2"|[[アンチモン]]||[[ビスマス]]
|-
!'''NX<sub>3</sub>'''||その他||'''PX<sub>3</sub>'''||'''PX<sub>5</sub>'''||その他||'''AsX<sub>3</sub>'''||'''AsX<sub>5</sub>'''||'''SbX<sub>3</sub>'''||'''SbX<sub>5</sub>'''||'''BiX<sub>3</sub>'''
|-
|[[フッ素|フッ化物]]||[[三フッ化窒素]]<br />'''NF<sub>3</sub>'''||'''N<sub>2</sub>F<sub>4</sub>'''<br />'''''trans''-N<sub>2</sub>F<sub>2</sub>'''<br />'''''cis''-N<sub>2</sub>F<sub>2</sub>'''||[[三フッ化リン]]<br />'''PF<sub>3</sub>'''<br />気体<br />bp 171 K||[[五フッ化リン]]<br />'''PF<sub>5</sub>'''<br />気体<br />bp 188.6 K|| ||[[三フッ化ヒ素]]<br />'''AsF<sub>3</sub>'''||[[五フッ化ヒ素]]<br />'''AsF<sub>5</sub>'''||[[三フッ化アンチモン]]<br />'''SbF<sub>3</sub>'''<br />無色固体||[[五フッ化アンチモン]]<br />'''SbF<sub>5</sub>'''<br />粘稠液体||[[三フッ化ビスマス]]<br />'''BiF<sub>3</sub>'''<br />白色固体
|-
|[[塩素|塩化物]]||[[塩化窒素]]<br />'''NCl<sub>3</sub>'''||[[四塩化二窒素]]<br />'''N<sub>2</sub>Cl<sub>4</sub>'''||[[三塩化リン]]<br />'''PCl<sub>3</sub>'''<br />液体<br />bp 349 K||[[五塩化リン]]<br />'''PCl<sub>5</sub>'''<br />固体<br />433 K 昇華||[[四塩化二リン]]<br />'''P<sub>2</sub>Cl<sub>4</sub>'''<br />固体<br />mp 453 K||[[三塩化ヒ素]]<br />'''AsCl<sub>3</sub>'''<br />液体||(存在せず)||[[三塩化アンチモン]]<br />'''SbCl<sub>3</sub>'''||[[塩化アンチモン#塩化アンチモン(V)|五塩化アンチモン]]<br />'''SbCl<sub>5</sub>'''||[[三塩化ビスマス]]<br />'''BiCl<sub>3</sub>'''<br />白色固体
|-
|[[臭素|臭化物]]||[[臭化窒素]]<br />'''NBr<sub>3</sub>'''|| ||[[三臭化リン]]<br />'''PBr<sub>3</sub>'''<br />液体<br />bp 446 K||[[五臭化リン]]<br />'''PBr<sub>5</sub>'''<br />黄色固体<br />mp 373 K|| ||[[三臭化ヒ素]]<br />'''AsBr<sub>3</sub>'''<br />無色固体||(存在せず)||[[三臭化アンチモン]]<br />'''SbBr<sub>3</sub>'''||(存在せず)||[[三臭化ビスマス]]<br />'''BiBr<sub>3</sub>'''<br />黄色固体
|-
|[[ヨウ素|ヨウ化物]]||[[ヨウ化窒素]]<br />'''NI<sub>3</sub>'''|| ||[[三ヨウ化リン]]<br />'''PI<sub>3</sub>'''<br />暗赤色固体<br />mp 334 K||(存在せず)||[[四ヨウ化二リン]]<br />'''P<sub>2</sub>I<sub>4</sub>'''<br />橙色固体<br />mp 398 K||[[三ヨウ化ヒ素]]<br />'''AsI<sub>3</sub>'''<br />赤色固体||(存在せず)||[[三ヨウ化アンチモン]]<br />'''SbI<sub>3</sub>'''||(存在せず)||[[三ヨウ化ビスマス]]<br />'''BiI<sub>3</sub>'''<br />黒色固体
|}
リンのハロゲン化物は、[[有機化学]]において[[ヒドロキシ基]]、[[カルボン酸]]を相当するハロゲン基、酸ハロゲン化物に変換する試薬として利用される。
==関連項目==
* [[プニクトゲン間化合物]]
* [[元素の族]]
* [[周期表]]
* [[窒化物]]
* [[半導体]]
{{周期表 (ナビゲーション)}}
{{元素周期表}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たい15そくけんそけんそ}}
[[Category:ニクトゲン|*]]
[[Category:周期表の族|#15]] | 2003-05-22T13:42:07Z | 2023-11-20T07:43:56Z | false | false | false | [
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9,084 | みすて♡ないでデイジー | 『みすて♡ないでデイジー』は、月刊少年キャプテンで1986年10月号から1989年9月号まで連載された永野のりこの初連載作品である日本の漫画。および、それを原作としたドラマCD・テレビアニメ・小説など。
連載後、徳間書店から単行本(全3巻)が出版されるが廃刊。1996年3月にアスキーで加筆修正を加えたものが、『みすて・ないでデイジー FOR EVER』(全2巻)として復刊。その縁もあってログアウト文庫からノベライズ版が出版される運びとなる。その後、アスキー版がマンガ図書館Zにおいて配信されている。
1995年11月25日に、データム・ポリスターよりドラマCDが発売された。
1997年7月にはテレビアニメ化され、テレビ東京のみで放送された。後にVHSビデオでソフト化された。
2022年現在、日本ではDVD版・Blu-ray版はリリースされておらず、海外ではDVD版はリリースされている。
核シェルターの中で育った歩野零二郎は、地球を脱出して愚かな人類の自滅していく様子を観察して楽しもうと考えていたが、松沢ひとみに出会い、計画を変える。
「声 - 」は、ドラマCD版 / テレビアニメ版における声優。
データム・ポリスターより1995年11月25日に発売された。収録時間は70分。規格品番:DPCX-5050。
1997年7月2日から同年9月17日の毎週水曜25時45分から26時15分(木曜1時45分 - 2時15分)に、テレビ東京で放送された。 | [
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] | 『みすて♡ないでデイジー』は、月刊少年キャプテンで1986年10月号から1989年9月号まで連載された永野のりこの初連載作品である日本の漫画。および、それを原作としたドラマCD・テレビアニメ・小説など。 | {{出典の明記|date=2021-04-23}}
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{{Infobox animanga/Header
|タイトル=みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー
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{{Infobox animanga/Manga
|作者=[[永野のりこ]]
|出版社=[[徳間書店]]→[[アスキー (企業)|アスキー]]
|他出版社=
|掲載誌=[[月刊少年キャプテン]]
|レーベル=少年キャプテンコミックス<br/>→アスキーコミックス
|開始号=月刊少年キャプテン:<br/>1986年10月号
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|巻数=徳間書店版:全3巻<br/>アスキー版:全2巻
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{{Infobox animanga/RadioDrama
|メディア=ドラマCD
|発売元=[[データム・ポリスター]]
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|枚数=1枚
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{{Infobox animanga/TVAnime
|監督=[[ムトウユージ]]
|シリーズ構成=[[西園悟]]
|脚本=西園悟、[[山口亮太]]、[[阪口和久]]
|キャラクターデザイン=[[中嶋敦子]](メイン)<br/>室井ふみえ(ゲスト)
|音楽=[[松浦晃久]]、[[伊藤広規]]<br/>[[小田原豊]]
|アニメーション制作=[[スタジオディーン]]
|製作=デイジー製作委員会
|放送局=[[テレビ東京]]
|放送開始=[[1997年]][[7月2日]]
|放送終了=[[9月17日]]
|話数=全12話
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{{Infobox animanga/Novel
|タイトル=みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー 恋のブラックホール
|著者=[[山口亮太]]
|イラスト=永野のりこ
|出版社=アスキー
|他出版社=
|レーベル=ログアウト文庫
|発売日=1998年5月6日
|巻数=全1巻
|話数=
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{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]]
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『'''みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー'''』は、[[月刊少年キャプテン]]で1986年10月号から1989年9月号まで連載された[[永野のりこ]]の初連載作品である[[日本]]の[[漫画]]。および、それを原作としたドラマCD・[[テレビアニメ]]・小説など。
== 概要 ==
連載後、[[徳間書店]]から[[単行本]](全3巻)が出版されるが廃刊。1996年3月に[[アスキー (企業)|アスキー]]で加筆修正を加えたものが、『みすて・ないでデイジー FOR EVER』(全2巻)として復刊。その縁もあって[[ログアウト文庫]]からノベライズ版が出版される運びとなる。その後、アスキー版が[[マンガ図書館Z]]において配信されている。
1995年11月25日に、[[データム・ポリスター]]よりドラマCDが発売された。
1997年7月には[[テレビアニメ]]化され、[[テレビ東京]]のみで放送された。後に[[VHS]]ビデオでソフト化された。
2022年現在、日本では[[DVD]]版・[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]版はリリースされておらず、海外ではDVD版はリリースされている。
== あらすじ ==
{{不十分なあらすじ|date=2021-04-23}}
[[核シェルター]]の中で育った歩野零二郎は、地球を脱出して愚かな人類の自滅していく様子を観察して楽しもうと考えていたが、松沢ひとみに出会い、計画を変える。
== 登場人物 ==
「声 - 」は、ドラマCD版 / テレビアニメ版における[[声優]]。
; 歩野 零二郎(てくの れいじろう)
: 声 - [[檜山修之]] / [[林泰文]]
: 幼年期から天才的[[マッドサイエンティスト]]であり、その能力の異常な高さと暴走性ゆえ、中学校入学まで核シェルターに閉じ込められて成長した。対人関係能力に著しい問題がある。
: 「ひとみへの一目惚れ」を「彼女が電波で脳に命令している」と解釈、ゆえに「そんな彼女は宇宙人なのだ」とねじれた判断をしてしまう。
: [[トレードマーク]]は[[メガネ]]と[[白衣]]。
; 松沢 ひとみ(まつざわ ひとみ)
: 声 - [[天野由梨]] / [[飯沼希歩]]
: 零二郎から一方的に[[デイジー・ベル|デイジー]]と名付けられ、振り回される。ビシッとそろった[[おかっぱ]]頭が特徴。
; さより
: 声 - [[萩森侚子]] / [[三浦七緒子|みうらうらら]]
: ひとみの友人。山川Xに惚れている。髪型はショートヘア。
; たみ
: 声 - [[嶋方淳子]] / [[夏樹リオ]]
: ひとみの友人。ひとみ・さよりとの[[トリオ]]では[[漫才#ボケとツッコミ|突っ込み]]役。髪型はウェーブのかかったロングヘア。
; G2
: 声 - [[高山みなみ]] / [[笠原弘子]]
: ひとみそっくりに作られた[[人造人間|アンドロイド]]。
; 歩野 陽一郎(てくの よういちろう)
: 声 - [[八奈見乗児]] / [[八木光生]]
: 零二郎のじっちゃん。零二郎の社会復帰のために、見当はずれの努力を続ける。
; 兄井 野枝(あにい のえ)
: 声 - (なし) / [[山本郁子 (女優)|山本郁子]]
: 零二郎とひとみの先輩として登場。
: 後に陽一郎が零二郎のために用意した社会復帰用[[サイボーグ]]と明かされる。実は陽一郎の妻で零二郎の祖母である。
; 山川 X(やまかわ エックス)
: 声 - [[矢尾一樹]] / [[森川智之]]
: 脇役。[[パンク・ファッション|パンクス]]なのに自虐的性格。零二郎に散々おちょくられる。さよりにベタ惚れされているが全く気づいていない。
; らら子先生(ららこせんせい)
: 声 - (なし) / [[島本須美]]
: 歩野らのクラスの担任。空気の読めない人。服装がいつも奇抜。
; ひとみの父
: 声 - [[佐藤正治 (声優)|佐藤正治]] / [[清川元夢]]
: ひとみの父親。
; ひとみの母
: 声 - [[川島千代子]] / [[つかもと景子]]
: ひとみの母親。
; ミミちゃん
: 声 - (なし) / みうらうらら
: 核ミサイル。白を基調とし、胴体部分にカラフルな模様があしらわれている。
; クマちゃん
: 声 - (なし) / [[うえだゆうじ|上田祐司]]
: 核ミサイル。黒一色。
== 単行本 ==
* 徳間書店版
** 『みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー1』 1988年1月発行、{{ISBN2|4-19-838510-6}}
** 『みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー2』 1988年12月発行、{{ISBN2|4-19-838621-8}}
** 『みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー3』 1989年9月発行、{{ISBN2|4-19-839091-6}}
* アスキー版
** 『みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー FOR EVER1』 1996年2月発行、{{ISBN2|4-7561-1201-3}}
*** Act.01 ドント・リーブ・ミー・アローン・デイジー (『FOR EVER1』用に書き下ろされたもの)
*** Act.02 ラジオ・アクティヴィティ (サブタイトル名は、[[クラフトワーク]]のアルバム『放射能』から)
*** Act.03 ストレンジャー・ザン・パラノイア (サブタイトル名は、映画『[[ストレンジャー・ザン・パラダイス]]』から)
*** Act.04 嵐を呼んでしまう男 (サブタイトル名は、映画『[[嵐を呼ぶ男]]』から)
*** Act.05 ドロップ・アウトサイダース
*** Act.06 トリュフドの日 (サブタイトル名は、[[ジョン・ウィンダム]]のSF小説『[[トリフィドの日]]』から)
*** Act.07 凍土の人々
*** Act.08 Sは社会復帰のS
*** Act.09 High男の恐怖 (サブタイトル名は、SF映画『[[蝿男の恐怖]]』から)
*** Act.10 巨獣水爆戦 (サブタイトル名は、SF映画『[[宇宙水爆戦]]』から)
*** Act.11 エレクトリック・ドローム (サブタイトル名は、SF映画『[[ビデオドローム]]』と『[[エレクトリック・ドリーム]]』から)
*** Act.12 地球はひとりぼっち (サブタイトル名は、『[[太陽はひとりぼっち]]』から)
*** Act.13 甘い汁の恐怖
*** Act.14 でいと物語 (サブタイトル名は、『[[帝都物語]]』から)
*** Act.15 クリスマスのうたなんかきこえない (サブタイトル名は、『[[白鳥のうたなんかきこえない]]』から)
*** Act.16 ハートのジャンク
** 『みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー FOR EVER2』1996年3月発行、{{ISBN2|4-7561-1210-2}}
*** Act.17 私をペトロパブロフスク カムチャッキーに連れてって (サブタイトル名は、[[1987年]]11月に公開の映画『[[私をスキーに連れてって]]』から〈[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー]]は[[ロシア連邦]]に実在する都市〉)
*** Act.18 ハルのめざめ (サブタイトル名は、ドイツ古典文学『春のめざめ』から〈ハルがカタカナなのはSF映画『2001年宇宙の旅』に登場したコンピューターHALにもかかっている〉)
*** Act.19 さらば青春の光 (サブタイトル名は、映画『[[さらば青春の光 (映画)|さらば青春の光]]』から)
*** Act.20 オープンド・ドア
*** Act.21 青春GROUND ZERO
*** Act.22 ひとりぼっちの宇宙人 (サブタイトル名は、『[[ウルトラセブン]]』第29話「ひとりぼっちの地球人」から)
*** Act.23 スタンド・バイ・ミー
*** Act.24 スローランナー
*** Act.25 スイートブラックボックスI
*** Act.26 スイートブラックボックスII
*** Act.27 あかるいなかま
*** Act.28 みすてないでデイジーI
*** Act.29 みすてないでデイジーII
*** Act.30 みすてないでデイジーIII
**** 解説くん:[[唐沢なをき]] / 解説:[[あさりよしとお]] / 永野のりこさまへ:[[ふくやまけいこ]]
== ドラマCD ==
[[データム・ポリスター]]より1995年11月25日に発売された。収録時間は70分。規格品番:DPCX-5050。
; 収録リスト
:# プロローグ(ドラマ)
:# きみはブレイクスルー
:# 愛しのデイジー星人(ドラマ)
:# デイジー、ドント・リーヴ・ミー・アローン
:# スウィッチ・オフ・ロンリネス(ドラマ)
:# ミス・ユー
:# ひとりぼっちの宇宙人(ドラマ)
:# パニック! 地球最後の日(ドラマ)
:# 恋愛歌〜ラヴソング
:# エピローグ(ドラマ)
:# デイジー・ベル
== テレビアニメ ==
[[1997年]][[7月2日]]から同年[[9月17日]]の毎週水曜25時45分から26時15分(木曜1時45分 - 2時15分)に、[[テレビ東京]]で放送された。
=== スタッフ ===
* 原作 - [[永野のりこ]]
* 監督 - [[ムトウユージ]]
* シリーズ構成 - [[西園悟]]
* メインキャラクターデザイン - [[中嶋敦子]]
* ゲストキャラクターデザイン - 室井ふみえ
* 美術監督 - 宮前光春
* 色彩設計 - 村上智美
* 撮影監督 - 青木孝司
* 編集 - 森田清次、高山智江子
* 音響監督 - [[若林和弘]]
* 音楽 - [[松浦晃久]]、[[伊藤広規]]、[[小田原豊]]
* 制作プロデューサー - 豊住政弘
* アニメーション制作 - [[スタジオディーン]]
* 製作 - デイジー製作委員会
==== 英語版スタッフ ====
* 製作総指揮 - Ken Iyadomi
* プロデューサー - Diana Gage
* 共同プロデューサー - Charles McCarter, Jerry Chu
* プロダクション・アシスタント - Kevin Hale, Richard Noboru Kekahuna
* 配給 - バンダイエンターテインメント
* Licensed by Bandai Entertainment
=== 主題歌 ===
; オープニングテーマ「ガールフレンド〜僕の共犯者〜」
: 作詞・作曲 - AKIRA / 編曲 - SIDE-ONE・[[武内享|TORU TAKEUCHI]] / 歌 - SIDE-ONE
; エンディングテーマ「ONE MORE CHANCE」
: 作詞 - [[松井五郎]] / 作曲 - [[林哲司]] / 編曲 - 田代隆廣 / 歌 - [[仲間由紀恵]]
: 後に[[カプコン]]のアクションゲーム『[[ロックマンX4]]』のエンディングテーマとしても使用された。
=== 各話リスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日
|-
|1||もしかしてロマンス!ひょっとしてサイエンス!!||[[西園悟]]||[[菱川直樹]]||[[うえだしげる]]||畑良子||'''1997年'''<br />7月2日
|-
|2||初めての遠足!募る想いはアトミック!!||[[山口亮太]]||伊藤雄之介||石崎すすむ||春日久美子||7月9日
|-
|3||科学のココロは恋心!!||西園悟||[[近藤信宏]]||菱川直樹||井上哲||7月16日
|-
|4||練習の彼方に...。気がつけば二股!?||山口亮太||守岡博||うえだしげる||畑良子||7月23日
|-
|5||ともだち総立ち!いけないモーション!!||西園悟||伊藤雄之介||石崎すすむ||春日久美子||7月30日
|-
|6||胸騒ぎ!?放っておけないずる休み!||山口亮太||うえだしげる<br/>[[ムトウユージ]]||菱川直樹||井上哲||8月6日
|-
|7||挑戦、グループ交際!寒い国にもお友達!?||rowspan="2"|西園悟||南康宏||福島宏之||畑良子||8月13日
|-
|8||不思議にコーフン!征服の恋人たち!?|||福島宏之||石崎すすむ||春日久美子||8月20日
|-
|9||想いはプレゼント!かたちはペンダント!||[[阪口和久]]||colspan="2" style="text-align:center"|うえだしげる||畑良子||8月27日
|-
|10||引き裂かれたステージ!過去も未来も恋のミチ!?||山口亮太||colspan="2" style="text-align:center"|菱川直樹||井上哲||9月3日
|-
|11||暑さ寒さも誤解まで!?ラブシーンが許せない!||rowspan="2"|西園悟||colspan="2" style="text-align:center"|福島宏之||畑良子||9月10日
|-
|12||ココロはナニゆえに!ひとみはキミゆえに!||ムトウユージ||うえだしげる||室井ふみえ||9月17日
|}
{{前後番組
|放送局=[[テレビ東京]]
|放送枠=水曜25:45 - 26:15枠
|番組名=みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー
|前番組=[[HAUNTEDじゃんくしょん]]
|次番組=[[エルフを狩るモノたち|エルフを狩るモノたちII]]
}}
== 関連書籍 ==
=== ファンブック ===
; みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー メモリアルブック 永野のりこ LOVE LOVE WORLD ANIMATION
: 発行所:アスキー / 発売元:[[アスペクト (企業)|アスペクト]] / 発行日付:1998年2月 / {{ISBN2|4-89366-948-6}}
:; DAYSY ART GALLERY
:: 永野のりこ、[[室井ふみえ]]、[[中嶋敦子]]、[[開田裕治]]、[[米田裕]]
:; ANIME VARIETY
:: STORY DIGEST / ANIMATION DESIGN / LETTERS / INTERVIEW&REPORTAGE
:; 夏休み緊急防衛指令 -MISSION DAISY-
:: アニメ化を記念して、[[コミックビーム]]1997年8月号に掲載された読切作品。
:; SPECIAL GUEST
:: [[青木光恵]]、[[高野聖ーナ]]、[[火浦功]]、[[唐沢なをき]]、[[水玉螢之丞]]、[[西川魯介]]、[[滝沢ひろゆき]]
:; みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー超進化図鑑!!
:: 原作漫画の加筆修正の一部を紹介。
:; 海底きちのひみつ‐幻の原稿縮小採録‐
:: 徳間書店版の単行本第1巻に収録されながら、作者の意向で一旦[[お蔵入り]]にされた作品。
=== 小説 ===
; みすて{{JIS2004フォント|♡}}ないでデイジー 恋のブラックホール
: 著者:[[山口亮太]] / カバー&挿絵:永野のりこ / 出版:アスキー(ログアウト文庫)/ 発行日付:1998年5月6日 / {{ISBN2|4-7572-0001-3}}
: 永野のりこの熱狂的ファンである脚本家・山口亮太の手によるノベライズ版。原作のニセデイジー(G2)までのエピソードまでが、ひとみの視点を中心にまとめられている。原作者本人による挿絵と(いつもの)あとがきあり。
:* 第一章 君が僕を知ってる
:* 第二章 ヘルプ!
:* 第三章 本当のことなんか言えない
:* 第四章 望みの色を
:* 第五章 ナニが出て来た日
:* 第六章 空間脱出X
:* 第七章 魂の生放送
:* 第八章 暴走する魂
:* エピローグ
== 外部リンク ==
* {{マンガ図書館Z作品|41361}}
{{スタジオディーン}}
{{ムトウユージ監督作品}}
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[[Category:漫画作品 み|すてないてていしい]]
[[Category:SF漫画作品]]
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[[Category:アニメ作品 み|すてないてていしい]]
[[Category:1997年のテレビアニメ]]
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9,085 | グラム | グラム(仏: gramme、英: gram、記号:g)は、質量の計量単位である。計量単位令において、キログラム (kg) の1000分の1の質量と定義されている。
一円硬貨の質量が、1.0グラムである。
メートル法によって新しい質量の単位として定められた。「グラム」という名称は、ラテン語の grámma に由来する。元々はグラムが質量の基本単位で、「最大密度にある蒸留水1ミリリットルの質量」と定義された。しかし、作られた原器はキログラムの質量を示すもので、その質量が1キログラムと再定義され、グラムはその1000分の1ということになった。
CGS単位系では質量の基本単位であったが、MKS単位系およびそこから派生した国際単位系ではキログラムが基本単位とされている。ただし、SI接頭語はキログラムではなくグラムにつけることとなっており、例えばキログラムの10倍は、「マイクロキログラム」(μkg) ではなく「ミリグラム」(mg) となる。なお、10 g (= 10 kg) 以上についてはトン (t) が用いられることがある。
漢字「瓦」は日本におけるグラムの音訳である「瓦蘭姆」に基づくものである。明治時代には、「瓦」から「瓱」(ミリグラム)、「瓲」(トン)などの国字が作られ準常用漢字として扱われたが、 1942年(昭和17年)に国語審議会から発表された標準漢字表案の段階において準常用漢字から外され、第二次世界大戦後は使用機会も無くなった。 1951年(昭和26年)以降の計量法に則した取引・証明においては「瓦」の字を用いることはできない。
21世紀の現代日本において、日常生活で用いられる質量はほとんどがグラムかキログラムを単位とするものである。例えば料理のレシピでは、基本的にはグラムで表記される。食材の売買はほとんどがグラムを単位として行われ、特に100グラム単位で取引されることが多い。また体重の計量にはキログラムが用いられる(新生児などの体重にはグラムが用いられる)。 | [
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}}
'''グラム'''({{lang-fr-short|gramme}}、{{lang-en-short|gram}}<ref group="注">英国においても、計量法規では、gram であり、gramme が用いられることはない。これに対して、メートルは metre、リットルは litre と綴られる。{{Cite web|title=The Units of Measurement Regulations 1995|url=http://www.legislation.gov.uk/uksi/1995/1804/schedule/made|accessdate=2017-03-29}}{{en icon}}</ref>、記号:'''g''')は、[[質量]]の[[計量単位]]である。計量単位令において、[[キログラム]] (kg) の1000分の1の質量と定義されている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357_20190520_501CO0000000006&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E4%BB%A4 計量単位令] 別表第1、項番2、質量の欄</ref>。
[[一円硬貨]]の質量が、1.0グラムである<ref>{{cite web
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| title = 知ってる? 貨幣のデザイン
| work = ぞうへいきょく探検隊
| publisher = [[造幣局 (日本)|造幣局]]
| accessdate = 2017-4-21
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}}</ref>。
==概要==
[[メートル法]]によって新しい質量の単位として定められた。「グラム」という名称は、ラテン語の grámma に由来する。元々はグラムが質量の基本単位で、「最大密度にある蒸留水1[[ミリリットル]]の質量」と定義された。しかし、作られた原器はキログラムの質量を示すもので、その質量が1キログラムと再定義され、グラムはその1000分の1ということになった。
[[CGS単位系]]では質量の基本単位であったが、[[MKS単位系]]およびそこから派生した国際単位系ではキログラムが基本単位とされている。ただし、[[SI接頭語]]はキログラムではなくグラムにつけることとなっており、例えばキログラムの10<sup>−6</sup>倍は、「マイクロキログラム」(µkg) ではなく「ミリグラム」(mg) となる。なお、10<sup>6</sup> g (= 10<sup>3</sup> kg) 以上については[[トン]] (t) が用いられることがある。
日本では[[1952年]]([[昭和]]27年)[[2月29日]]までは漢字の「'''瓦'''」が使われていた。
日本におけるグラムの音訳である「瓦蘭姆」に基づくものである。明治時代には、「瓦」から「瓱」(ミリグラム)、「瓲」(トン)などの国字が作られ準常用漢字として扱われたが、
[[1942年]](昭和17年)に[[国語審議会]]から発表された標準漢字表案の段階において準常用漢字から外され<ref>修正加え、二千五百二十八字本決り『毎日新聞』昭和17年6月18日大阪版(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p710 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>、[[第二次世界大戦]]後は使用機会も無くなった。
「瓦」は[[常用漢字]]表にあるものの、グラムの読みは常用漢字表になく、
1952年(昭和27年)[[3月1日]]以降の[[計量法]]に則した取引・証明においては「瓦」の字を用いることはできない。
[[21世紀]]の現代日本において、日常生活で用いられる質量はほとんどがグラムかキログラムを単位とするものである。例えば料理のレシピでは、基本的にはグラムで表記される。食材の売買はほとんどがグラムを単位として行われ、特に100グラム単位で取引されることが多い。また[[体重]]の計量にはキログラムが用いられる([[新生児]]などの体重にはグラムが用いられる)。
{{質量の単位}}
{{GravEngAbs}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
==外部リンク==
{{Wiktionary|グラム}}
* [https://www.tan-i-kansan.com/category/{{urlencode:グラムの重さ|単位換算表}}/ グラム(質量)単位換算表]
{{Unit of mass.(kg)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くらむ}}
[[Category:質量の単位]]
[[Category:CGS単位系]]
[[Category:SI単位の10進の倍量及び分量]] | 2003-05-22T13:46:17Z | 2023-12-09T12:46:37Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0 |
9,087 | アンチモン | アンチモン(安質母、独: Antimon [antiˈmoːn]、英: antimony [ˈæntɨmɵni]、羅: stibium)は原子番号51の元素。元素記号は Sb。常温、常圧で安定なのは灰色アンチモンで、銀白色の金属光沢のある硬くて脆い半金属の固体。炎色反応は淡青色(淡紫色)である。レアメタルの一種。
なお、日本語でアンチモニーと呼ばれる場合、この元素(英語名)を指す場合とこの元素を含む合金の一種(後述)を指す場合がある。
「ある修道会で豚にアンチモンを与えたら(駆虫薬として働き)豚は丸々と太った。そこで栄養失調の修道士に与えたところ、太るどころではなく死んでしまった。それゆえアンチ・モンク(修道士に抗する)という名が与えられた」という逸話がある。ウァレンティウスがアンチモンの語をはじめて著したが、この修道士がウァレンティウスとするならばドイツ語ではなくフランス語の「モンク」を用いて命名するのは不自然である。
実際には11世紀頃にアラビアより錬金術が伝わった際にすでにアンチモンにアラビア語の名が与えられていたので、「アンチモン」という語の語源はアラビア語に由来すると考えられている。
ギリシャ語で「孤独嫌い」を意味する anti-monos が由来とする説もある(単体で見つからないからという)。
日本では、英語の読み方を採用してアンチモニー(安質母尼)と表記されている事もある(合金としてのアンチモニーについては後述)。
元素記号の Sb は輝安鉱(三硫化二アンチモン、Sb2S3)を意味するラテン語 Stibium から取られている。
アンチモン化合物は古代より顔料(化粧品)として利用され、最古のものでは有史前のアフリカで利用されていた痕跡が残っている。
西洋史においてはドイツ・エルフルトのベネディクト会修道院長、医師、錬金術師であるバシリウス・ウァレンティウスが著したとされる『太古の偉大なる石』『自然・超自然の存在』『オカルト哲学』『アンチモン凱旋車』など「ヴァレンティヌス文書」にアンチモンの記述が見出される。しかし、ベネディクト会の記録にはバシリウス・ウァレンティウスが存在したという記録はない。また、16世紀にテューリンゲンの参事官かつ製塩業者であるヨハン・テルデが編纂出版しているが、実際にはウァレンティウスは存在せず彼の著作であるという説がある。
『アンチモンの凱旋車』でワインより生じる「星状レグレス」と呼ばれる結晶が記述されているが、これは酒石酸アンチモンの結晶であると推定される。またアンチモンの毒性について「ヴァレンティヌス文書」で述べられている。
日本最古の銅銭である富本銭(683年頃)に、アンチモンが銅の融解温度を下げ鋳造を易しくするとともに、完成品の強度を上げるために添加されている。
中国の湖南省が世界の主産地で、他に広東省、貴州省などにも輝安鉱の鉱山がある。最大の鉱山は湖南省の錫鉱山であるが、その名が示す通り、昔はスズと混同されていた。なお、中国語の方言では、アルミニウムをアンチモンやスズと混同して呼ぶ例も見られる。
日本において本格的に採掘が開始されたのは明治時代以降である。愛媛県・市ノ川鉱山、兵庫県・中瀬鉱山(金山として開発され、第二次世界大戦後にアンチモンが主力となった)、山口県・鹿野鉱山等が開発された。とくに市ノ川鉱山は美晶の輝安鉱が産出されることが海外にも知られ、製錬所も建設された。しかし、資源枯渇や生産コストの問題から現在は全て輸入となっている。また、鉱石による輸入は1990年代に終了し、全量が地金及び地金屑、あるいは三酸化アンチモン等化合物による輸入である。
2011年5月、鹿児島湾の海底で総量約90万トンと推定されるアンチモンの鉱床が、岡山大学や東京大学、九州大学らの研究グループにより発見されたと報道された。2010年の日本国内販売量約5千トンから計算すると、約180年分がまかなえる量。
鉱石からのアンチモンの抽出は、鉱石の品質と組成に依存する。ほとんどのアンチモンは硫化物として産出する。低品位の鉱石はフロス浮選によって選鉱され、選鉱された鉱石は輝安鉱が溶けて脈石鉱物から分離する温度である500〜600度に加熱して製錬される。アンチモンは鉄くずで還元することにより粗硫化アンチモンから分離できる。
硫化物を酸化物に変換する。次に揮発性の酸化アンチモン(III)を焙煎して気化させて回収する。この材料は主な用途に直接使用されることが多く、不純物はヒ素と硫化物である。 アンチモンは炭素熱還元によって酸化物から分離される。
低品位の鉱石は高炉で還元され、高品位の鉱石は反射炉で還元される。
アンチモンの生産量の約60%は難燃剤に使用され、20%が鉛電池、残りがすべり軸受、はんだの合金などで使用される。工業材料として多岐にわたる用途に用いられているが、人体に対して毒性の疑いがある(化合物の多くが刺激性のある劇物)ことから、代替素材の開発が進み、徐々に使用が控えられる傾向にある。アンチモン地金は正方形に作られることが多く、上方に輝安鉱のようなシダ状の凸凹模様ができる。これは「スターマーク」と言い、純度の高い物ほど、この模様がはっきりと現れる。もろい金属のため合金として用いられ、16世紀には鏡や活字(活字合金)に用いられていた。
主に防炎コンパウンドの三酸化物として使用され、ハロゲン含有ポリマーを除いて常にハロゲン化難燃剤と組み合わせて使用される。三酸化アンチモンの難燃効果は水素原子と反応して酸素原子とOHラジカルとも反応して火災を抑制するハロゲン化アンチモン化合物の形成によって生み出される。 これらの難燃剤の市場には、子供服、おもちゃ、航空機、自動車のシートカバーなどがある。
鉛蓄電池の電極への添加は強度及び帯電特性を向上させ電池の性能を向上させる。
アンチモンは鉛と非常に有用な合金を形成して硬度と機械的強度を高める。鉛を含むほとんどの用途はさまざまな量のアンチモンが合金金属として使用される。また、一般的な熱膨張特性に反して溶融状態から冷え固まる際に膨張する特性を利用し活字合金などヒケ(収縮による凹みや歪み)を防止する高精度鋳物を作れる。大型の帆走スーパーヨットの場合は船底のバラストとして鉛キールが使用される。鉛キールの硬度と引張強度を向上させるために2〜5体積%のアンチモンが鉛に混合される。銃弾の弾頭の鉛への添加(硬鉛)、電気ケーブル、鉛ハンダ、オルガンパイプなどがある。
ガラス製造工程で、溶融したガラスに三酸化物を混和する事で、泡抜きを助け、製品の透明度を高める。
周期律表でヒ素の下に位置し、化学的性質に類似性がある。「ヴァレンティヌス文書」などを始め古典的著作には毒性が認められてきた元素である。
急性アンチモン中毒の症状は、著しい体重の減少、脱毛、皮膚の乾燥、鱗片状の皮膚である。また、血液学的所見では好酸球の増加が、病理的所見では心臓、肝臓、腎臓に急性の鬱血が認められる。このほか、アンチモン化合物は、皮膚や粘膜への刺激性を有するものが多く、日本では毒物及び劇物取締法及び毒物及び劇物指定令によりアンチモン化合物及びこれを含有する製剤は硫化アンチモンなど一部の例外を除いて劇物に指定されている。
日本語でアンチモニーと呼ばれる場合、この元素(英語名)ではなくこの元素を含む合金の一種を指す場合がある。
合金としてのアンチモニーは、鉛80%〜90%、アンチモン10%〜20%、このほか用途により錫(スズ)を少々混ぜた合金のことをいう。合金としてのアンチモニーの地金を鋳造加工した製品をアンチモニー製品、その産業をアンチモニー産業という。
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"text": "アンチモンの生産量の約60%は難燃剤に使用され、20%が鉛電池、残りがすべり軸受、はんだの合金などで使用される。工業材料として多岐にわたる用途に用いられているが、人体に対して毒性の疑いがある(化合物の多くが刺激性のある劇物)ことから、代替素材の開発が進み、徐々に使用が控えられる傾向にある。アンチモン地金は正方形に作られることが多く、上方に輝安鉱のようなシダ状の凸凹模様ができる。これは「スターマーク」と言い、純度の高い物ほど、この模様がはっきりと現れる。もろい金属のため合金として用いられ、16世紀には鏡や活字(活字合金)に用いられていた。",
"title": "用途"
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"text": "主に防炎コンパウンドの三酸化物として使用され、ハロゲン含有ポリマーを除いて常にハロゲン化難燃剤と組み合わせて使用される。三酸化アンチモンの難燃効果は水素原子と反応して酸素原子とOHラジカルとも反応して火災を抑制するハロゲン化アンチモン化合物の形成によって生み出される。 これらの難燃剤の市場には、子供服、おもちゃ、航空機、自動車のシートカバーなどがある。",
"title": "用途"
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"text": "鉛蓄電池の電極への添加は強度及び帯電特性を向上させ電池の性能を向上させる。",
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"text": "アンチモンは鉛と非常に有用な合金を形成して硬度と機械的強度を高める。鉛を含むほとんどの用途はさまざまな量のアンチモンが合金金属として使用される。また、一般的な熱膨張特性に反して溶融状態から冷え固まる際に膨張する特性を利用し活字合金などヒケ(収縮による凹みや歪み)を防止する高精度鋳物を作れる。大型の帆走スーパーヨットの場合は船底のバラストとして鉛キールが使用される。鉛キールの硬度と引張強度を向上させるために2〜5体積%のアンチモンが鉛に混合される。銃弾の弾頭の鉛への添加(硬鉛)、電気ケーブル、鉛ハンダ、オルガンパイプなどがある。",
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"text": "ガラス製造工程で、溶融したガラスに三酸化物を混和する事で、泡抜きを助け、製品の透明度を高める。",
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"text": "周期律表でヒ素の下に位置し、化学的性質に類似性がある。「ヴァレンティヌス文書」などを始め古典的著作には毒性が認められてきた元素である。",
"title": "毒性"
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"text": "急性アンチモン中毒の症状は、著しい体重の減少、脱毛、皮膚の乾燥、鱗片状の皮膚である。また、血液学的所見では好酸球の増加が、病理的所見では心臓、肝臓、腎臓に急性の鬱血が認められる。このほか、アンチモン化合物は、皮膚や粘膜への刺激性を有するものが多く、日本では毒物及び劇物取締法及び毒物及び劇物指定令によりアンチモン化合物及びこれを含有する製剤は硫化アンチモンなど一部の例外を除いて劇物に指定されている。",
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"text": "日本語でアンチモニーと呼ばれる場合、この元素(英語名)ではなくこの元素を含む合金の一種を指す場合がある。",
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"text": "合金としてのアンチモニーは、鉛80%〜90%、アンチモン10%〜20%、このほか用途により錫(スズ)を少々混ぜた合金のことをいう。合金としてのアンチモニーの地金を鋳造加工した製品をアンチモニー製品、その産業をアンチモニー産業という。",
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"text": "合金としてのアンチモニーは鋳物表面(鋳肌)が平滑で、冷却後の収縮が少なく、メッキの乗りも良いといった特性がある。小皿、優勝カップ、トロフィー、メダルなどに利用される。",
"title": "アンチモニー"
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] | アンチモンは原子番号51の元素。元素記号は Sb。常温、常圧で安定なのは灰色アンチモンで、銀白色の金属光沢のある硬くて脆い半金属の固体。炎色反応は淡青色(淡紫色)である。レアメタルの一種。 なお、日本語でアンチモニーと呼ばれる場合、この元素(英語名)を指す場合とこの元素を含む合金の一種(後述)を指す場合がある。 | {{Elementbox
|name=antimony
|japanese name=アンチモン
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|symbol=Sb
|pronounce={{IPAc-en|ˈ|æ|n|t|ɨ|m|ɵ|n|ɪ}}<br />{{respell|AN|ti-mo-nee}}<ref group="note">In the UK, the variable vowel {{IPA|/ɵ/}} is usually pronounced as a schwa {{IPA|[ə]}}; in the US, it is generally a full {{IPA|[oʊ]}}.</ref>
|left=[[スズ]]
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|oxidation states comment=
|electronegativity=2.05
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|atomic radius=[[1 E-10 m|140]]
|covalent radius=[[1 E-10 m|139±5]]
|Van der Waals radius=[[1 E-10 m|206]]
|magnetic ordering=[[反磁性]]<ref>[https://web.archive.org/web/20140328180838/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds], in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref>
|electrical resistivity=
|electrical resistivity at 0=
|electrical resistivity at 20=417 n
|thermal conductivity=24.4
|thermal conductivity 2=
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|thermal expansion at 25=11
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|speed of sound rod at r.t.=
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|CAS number=7440-36-0
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[アンチモン121|121]] | sym=Sb | na=57.36% | n=70}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[アンチモン123|123]] | sym=Sb | na=42.64% | n=72}}
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|isotopes comment=
}}
'''アンチモン'''(安質母<ref>{{Citation|和書|author=落合直文|author-link=落合直文|year=1921|contribution=あんちもん(安質母)|others=[[芳賀矢一]]改修|title=言泉:日本大辞典|volume=第一|publisher=[[大倉書店]]|pages=134}}</ref>、{{lang-de-short|Antimon}} {{IPA-de|antiˈmoːn|}}、{{lang-en-short|antimony}} {{IPA-en|ˈæntɨmɵni|}}、{{lang-la-short|stibium}})は[[原子番号]]51の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Sb'''。常温、常圧で安定なのは灰色アンチモンで、銀白色の金属光沢のある硬くて脆い[[半金属]]の[[固体]]。[[炎色反応]]は淡青色(淡紫色)である。[[レアメタル]]の一種。
なお、日本語で'''アンチモニー'''と呼ばれる場合、この元素(英語名)を指す場合とこの元素を含む[[合金]]の一種(後述)を指す場合がある<ref name="松野">{{Cite web|和書|author=松野建一、丹治明| url=http://sokeizai.or.jp/japanese/publish/200706/200707matsuno.pdf | title=アンチモニー産業の歴史と生産技術 - 外貨獲得に貢献した東京の地場産業 - | publisher=一般財団法人素形材センター | accessdate=2021-01-10}}</ref>。
== 名称 ==
{{出典の明記|date=2023-4|section=1}}
「ある修道会で[[ブタ|豚]]にアンチモンを与えたら(駆虫薬として働き)豚は丸々と太った。そこで栄養失調の修道士に与えたところ、太るどころではなく死んでしまった。それゆえアンチ・モンク(修道士に抗する)という名が与えられた」という逸話がある。ウァレンティウスがアンチモンの語をはじめて著したが、この修道士がウァレンティウスとするならば[[ドイツ語]]ではなく[[フランス語]]の「モンク」を用いて命名するのは不自然である。
実際には[[11世紀]]頃に[[アラビア]]より[[錬金術]]が伝わった際にすでにアンチモンに[[アラビア語]]の名が与えられていたので、「アンチモン」という語の語源はアラビア語に由来すると考えられている。
[[ギリシャ語]]で「孤独嫌い」を意味する anti-monos が由来とする説もある(単体で見つからないからという)。
日本では、[[英語]]の読み方を採用して'''アンチモニー'''(安質母尼)と表記されている事もある(合金としてのアンチモニーについては後述)。
元素記号の Sb は[[輝安鉱]]([[三硫化二アンチモン]]、Sb{{sub|2}}S{{sub|3}})を意味する[[ラテン語]] {{lang|la|''Stibium''}} から取られている。
== 歴史 ==
アンチモン化合物は古代より[[顔料]]([[化粧品]])として利用され、最古のものでは有史前の[[アフリカ]]で利用されていた痕跡が残っている。
西洋史においては[[ドイツ]]・[[エルフルト]]の[[ベネディクト会]]修道院長、医師、錬金術師であるバシリウス・ウァレンティウスが著したとされる『太古の偉大なる石』『自然・超自然の存在』『オカルト哲学』『アンチモン凱旋車』など「ヴァレンティヌス文書」にアンチモンの記述が見出される<ref>[http://macrocosm4alchemy.web.fc2.com/translation/Twelve_Keys.html『十二の鍵』Practice with Twelve Keys and appendix,Basil Valentine,1400~1600?]</ref>。しかし、ベネディクト会の記録にはバシリウス・ウァレンティウスが存在したという記録はない。また、16世紀にテューリンゲンの参事官かつ製塩業者である[[ヨハン・テルデ]]が編纂出版しているが、実際にはウァレンティウスは存在せず彼の著作であるという説がある。
『アンチモンの凱旋車』で[[ワイン]]より生じる「星状レグレス」と呼ばれる[[結晶]]が記述されているが、これは[[酒石酸アンチモン]]の結晶であると推定される。またアンチモンの[[毒|毒性]]について「ヴァレンティヌス文書」で述べられている。
日本最古の銅銭である[[富本銭]](683年頃)に、アンチモンが銅の融解温度を下げ鋳造を易しくするとともに、完成品の強度を上げるために添加されている。
== 産地 ==
[[中華人民共和国|中国]]の[[湖南省]]が世界の主産地で、他に[[広東省]]、[[貴州省]]などにも[[輝安鉱]]の鉱山がある。最大の鉱山は湖南省の錫鉱山であるが、その名が示す通り、昔は[[スズ]]と混同されていた。なお、[[中国語]]の[[方言]]では、[[アルミニウム]]をアンチモンやスズと混同して呼ぶ例も見られる。
日本において本格的に採掘が開始されたのは[[明治時代]]以降である。[[愛媛県]]・[[市ノ川鉱山]]、[[兵庫県]]・[[中瀬鉱山]](金山として開発され、第二次世界大戦後にアンチモンが主力となった)、[[山口県]]・[[鹿野鉱山]]等が開発された。とくに市ノ川鉱山は美晶の輝安鉱が産出されることが海外にも知られ、製錬所も建設された。しかし、資源枯渇や生産コストの問題から現在は全て輸入となっている。また、鉱石による輸入は1990年代に終了し、全量が[[地金]]及び地金屑、あるいは[[三酸化アンチモン]]等化合物による輸入である。
[[2011年]]5月、[[鹿児島湾]]の海底で総量約90万トンと推定されるアンチモンの鉱床が、[[岡山大学]]や[[東京大学]]、[[九州大学]]らの研究グループにより発見されたと報道された。2010年の日本国内販売量約5千トンから計算すると、約180年分がまかなえる量<ref>[http://www.asahi.com/science/update/0515/OSK201105150023.html 鹿児島湾でレアメタル発見 国内販売量の180年分] 朝日新聞 2011年5月15日</ref><ref>[http://www.okayama-u.ac.jp/up_load_files/soumu_pdf/press23/press-110419-6.pdf 鹿児島湾奥部海底に有望なレアメタル鉱床を確認] 岡山大学 2011年4月19日</ref><ref>[http://qyj00653.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-6044.html アンチモン鉱床が日本近海底で存在確認される] 「日本資源貿易の将来像」 国際資源産業・資源貿易研究 :武上研究室 2011年4月25日</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right"
! 国 !! トン !! 構成比
|-
| style="text-align:center"| [[中華人民共和国|中国]] || 120,937 || 78.3
|-
| style="text-align:center"| [[ロシア]] || 10,000 || 6.5
|-
| style="text-align:center"| [[ボリビア]] || 5,052 || 3.3
|-
| style="text-align:center"| [[タジキスタン]] || 3,945 || 2.6
|-
| style="text-align:center"| [[ミャンマー]] || 3,836 || 2.5
|-
| style="text-align:center"| [[オーストラリア]] || 3,275 || 2.1
|-
| style="text-align:center"| [[南アフリカ共和国|南アフリカ]] || 2,615 || 1.7
|-
| 7か国小計 || 149,660 || 96.9
|-
| '''世界合計''' || '''154,3978''' || 100.0
|-
| colspan="3" | 産出国 出典:<ref>{{PDFlink|[http://mric.jogmec.go.jp/public/report/2015-03/22_201504_Sb.pdf 鉱物資源マテリアルフロー2014] 石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)}}</ref>
|}
===精製法===
鉱石からのアンチモンの抽出は、鉱石の品質と組成に依存する。ほとんどのアンチモンは硫化物として産出する。低品位の鉱石はフロス浮選によって選鉱され、選鉱された鉱石は[[輝安鉱]]が溶けて脈石鉱物から分離する温度である500〜600度に加熱して製錬される。アンチモンは鉄くずで還元することにより粗硫化アンチモンから分離できる。<ref name="of03"/>
:{{chem|Sb|2|S|3}} + 3 Fe → 2 Sb + 3 FeS
硫化物を酸化物に変換する。次に揮発性の酸化アンチモン(III)を焙煎して気化させて回収する。この材料は主な用途に直接使用されることが多く、不純物はヒ素と硫化物である。<ref name="Norm">{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=vVhpurkfeN4C&pg=PA45|page=45|title=Chemistry of arsenic, antimony, and bismuth|isbn=978-0-7514-0389-3|author=Norman, Nicholas C|date=1998}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Wilson|first1=N. J.|last2=Craw|first2=D.|last3=Hunter|first3=K.|date=2004|title=Antimony distribution and environmental mobility at an historic antimony smelter site, New Zealand|journal=Environmental Pollution|volume=129|issue=2|pages=257–66|doi=10.1016/j.envpol.2003.10.014|pmid=14987811}}</ref> アンチモンは炭素熱還元によって酸化物から分離される。<ref name="of03"/><ref name="Norm"/>
:2 {{chem|Sb|2|O|3}} + 3 C → 4 Sb + 3 {{chem|CO|2}}
低品位の鉱石は高炉で還元され、高品位の鉱石は反射炉で還元される。<ref name="of03"/>
== 用途 ==
アンチモンの生産量の約60%は[[難燃剤]]に使用され、20%が[[鉛電池]]、残りがすべり軸受、はんだの合金などで使用される。<ref name="of03">{{cite journal|url=http://pubs.usgs.gov/of/2003/of03-019/of03-019.pdf|first1=C.|last1=Butterman|first2=J. F.|last2=Carlin, Jr.|date=2003|publisher=United States Geological Survey|title=Mineral Commodity Profiles: Antimony}}</ref>工業材料として多岐にわたる用途に用いられているが、人体に対して毒性の疑いがある(化合物の多くが刺激性のある[[劇物]])ことから、代替素材の開発が進み、徐々に使用が控えられる傾向にある。アンチモン[[地金]]は正方形に作られることが多く、上方に輝安鉱のような[[シダ]]状の凸凹模様ができる。これは「スターマーク」と言い、純度の高い物ほど、この模様がはっきりと現れる。もろい金属のため合金として用いられ、16世紀には[[鏡]]や[[活字]]([[活字合金]])に用いられていた。<ref name="松野" />{{See|#アンチモニー}}
===難燃剤===
主に防炎コンパウンドの三酸化物として使用され、ハロゲン含有ポリマーを除いて常にハロゲン化難燃剤と組み合わせて使用される。三酸化アンチモンの難燃効果は水素原子と反応して酸素原子とOHラジカルとも反応して火災を抑制するハロゲン化アンチモン化合物の形成によって生み出される。<ref>{{cite book|chapter-url=https://books.google.com/books?id=ZG9VFSBnIPAC&pg=PA61|chapter=Antimony trioxide and Related Compounds|title=Flame retardants for plastics and textiles: Practical applications|isbn=978-3-446-41652-9|last1=Weil|first1=Edward D.|last2=Levchik|first2=Sergei V.|date=4 June 2009}}</ref>
これらの難燃剤の市場には、子供服、おもちゃ、航空機、自動車のシートカバーなどがある。
===電池===
鉛蓄電池の電極への添加は強度及び帯電特性を向上させ電池の性能を向上させる。
===鉛合金===
アンチモンは鉛と非常に有用な合金を形成して硬度と機械的強度を高める。鉛を含むほとんどの用途はさまざまな量のアンチモンが合金金属として使用される。また、一般的な[[熱膨張]]特性に反して溶融状態から冷え固まる際に膨張する特性を利用し[[活字合金]]などヒケ(収縮による凹みや歪み)を防止する高精度[[鋳物]]を作れる。大型の帆走スーパーヨットの場合は船底のバラストとして鉛キールが使用される。鉛キールの硬度と引張強度を向上させるために2〜5体積%のアンチモンが鉛に混合される。銃弾の弾頭の鉛への添加([[硬鉛]])、電気ケーブル、鉛ハンダ、オルガンパイプなどがある。
===清澄剤===
ガラス製造工程で、溶融したガラスに三酸化物を混和する事で、泡抜きを助け、製品の透明度を高める。
== 毒性 ==
周期律表で[[ヒ素]]の下に位置し、化学的性質に類似性がある。「[[ヴァレンティヌス文書]]」などを始め古典的著作には[[毒性]]が認められてきた[[元素]]である。
急性アンチモン[[中毒]]の症状は、著しい体重の減少、脱毛、皮膚の乾燥、鱗片状の皮膚である。また、血液学的所見では好酸球の増加が、病理的所見では心臓、肝臓、腎臓に急性の[[鬱血]]が認められる<ref>[http://www.shokusan.or.jp/haccp/hazardous/2_8_ziyukin.html#02 HACCP関連情報データベース 化学的・物理的危害要因情報] 財団法人食品産業センター</ref>。このほか、アンチモン化合物は、[[皮膚]]や[[粘膜]]への刺激性を有するものが多く、日本では[[毒物及び劇物取締法]]及び[[毒物及び劇物指定令]]によりアンチモン化合物及びこれを含有する製剤は[[硫化アンチモン]]など一部の例外{{efn|4-アセトキシフエニルジメチルスルホニウム=ヘキサフルオロアンチモネート及びこれを含有する製剤、アンチモン酸ナトリウム及びこれを含有する製剤、[[三酸化アンチモン|酸化アンチモン(III)]]を含有する製剤、[[五酸化アンチモン|酸化アンチモン(V)]]及びこれを含有する製剤、[[硫化アンチモン]]及びこれを含有する製剤を除く。}}を除いて[[劇物]]に指定されている。
== 化合物 ==
{{See also|Category:アンチモンの化合物}}
* [[硫化アンチモン]] (Sb<sub>2</sub>S<sub>3</sub>)
* [[三酸化アンチモン]](アンチモン白)(Sb<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)
* [[五酸化アンチモン]] (Sb<sub>2</sub>O<sub>5</sub>)
* [[塩化アンチモン|三塩化アンチモン]](アンチモンバター)(SbCl<sub>3</sub>)
* [[アンチモン酸鉛]](アンチモンイエロー)(Pb<sub>3</sub>(SbO<sub>4</sub>)<sub>2</sub>)
* [[スチビン]] (SbH<sub>3</sub>)
* [[五フッ化アンチモン]] (SbF<sub>5</sub>) - 強力な[[ルイス酸]]。[[フルオロスルホン酸]]との混合物である[[マジック酸]]は最強の[[超酸]]として知られる。
* [[酒石酸アンチモニルカリウム]](吐酒石)(KSb(C<sub>4</sub>H<sub>2</sub>O<sub>6</sub>)•1.5H<sub>2</sub>O)
* [[アンチモン化インジウム]] (InSb) - [[III-V族半導体]]
== 同位体 ==
{{Main|アンチモンの同位体}}
== アンチモニー ==
日本語で'''アンチモニー'''と呼ばれる場合、この元素(英語名)ではなくこの元素を含む合金の一種を指す場合がある<ref name="松野" />。
合金としてのアンチモニーは、[[鉛]]80%〜90%、アンチモン10%〜20%、このほか用途により[[スズ|錫]](スズ)を少々混ぜた合金のことをいう<ref name="松野" />。合金としてのアンチモニーの地金を鋳造加工した製品をアンチモニー製品、その産業をアンチモニー産業という<ref name="松野" />。
合金としてのアンチモニーは鋳物表面(鋳肌)が平滑で、冷却後の収縮が少なく、[[めっき|メッキ]]の乗りも良いといった特性がある<ref name="松野" />。小皿、優勝カップ、トロフィー、メダルなどに利用される<ref name="松野" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Antimony}}
* [[鉛]]
* [[不活性電子対効果]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{元素周期表}}
{{アンチモンの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あんちもん}}
[[Category:アンチモン|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:半金属]]
[[Category:ニクトゲン]]
[[Category:第15族元素]]
[[Category:第5周期元素]] | 2003-05-22T14:04:48Z | 2023-11-20T09:12:58Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A2%E3%83%B3 |
9,088 | 機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス | 『機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス』(きどうせんしたいでんせつきょじん ぎゃくしゅうのギガンティス、GUNDAM VS. IDEON)は、矢立肇・富野由悠季(原案)、長谷川裕一(漫画)による日本の漫画作品である。
アニメ作品群「ガンダムシリーズ」と『伝説巨神イデオン』を題材とするクロスオーバー作品。バンダイ出版課の漫画雑誌『サイバーコミックス』No.23 - 26に『ガンダムVS伝説の巨神』(ガンダムたいでんせつのきょじん)として連載された。その後、単行本化の際に現在の題名へと改められている。
宇宙世紀を舞台にしており、本作が執筆された1990年におけるテレビアニメ『機動戦士ガンダムΖΖ』と劇場アニメ『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の期間をつなぐ「仮想作品」として描かれている。
ある時、長谷川は友人のこやま基夫にガイナックスの忘年会へ誘われる。そこで知り合った『サイバーコミックス』の編集者にガンダム漫画の執筆を依頼され、年明けに正式な依頼の電話が来た。この時、編集者は「サンライズはもうアムロもシャアも使わないから好きに描いていい」と述べたというが、長谷川は「自分の気を削がないように言ってくれたのかもしれない」と回想している。
長谷川は学生時代に考えていた「ガンダムVSイデオン」を描きたいと話したが、編集者にはギャグ漫画と思われたらしく、大笑いされた。さすがに「ガンダムVSイデオン」はまずいということで「ガンダムVS伝説の巨神」というタイトルとなった。話数は全3話を予定していたが、収まりが悪かったため全4話となったという。
発想は「東映まんがまつり」の『マジンガーZ対デビルマン』などと同様のものであり、長谷川には同じ制作会社の作品は対決するものであるというイメージが何となくあった。また、終盤のジュドー・アーシタの台詞には『無敵鋼人ダイターン3』からの引き写しがある。
宇宙世紀0091年、木星圏で働いていたジュドー・アーシタは、地球からの船と共にやって来たアムロ・レイの来訪を受ける。アムロは木星圏でジオンの残党が100メートル級の超大型モビルスーツを開発しているという動きを察知し、それを阻止すべくやって来たのだという。その超大型モビルスーツらしきものは、木星出身の小説家ヨシユキ・トミノのフィクション作品に登場する人型ロボットにちなんで「伝説巨神」というコードネームで呼ばれていた。アムロは漠然と、小説の中で人類を見限り宇宙を滅ぼした「伝説巨神」は実在すると考えていた。
アムロの部下であるシマ・八丈と鉄面皮、そしてモビルスーツ「メガゼータ」に乗るジュドーとアムロの4名は、小惑星の背に固定されている「伝説巨神」とジオン残党の基地を発見。シマと鉄面皮が囮になり、その隙にジュドーとアムロが「伝説巨神」の内部に乗り込むも、助けを求める何者かの声を感じ取ったジュドーは単独行動を開始し、やがてサイコミュ装置に繋がれ囚われていたミネバ・ザビを発見する。ジュドーはミネバを連れて脱出しようとするが、基地司令官のヒトーリンが、ジュドーこそがミネバの敬愛するハマーン・カーンを殺害した張本人であると吹き込む。そして、ミネバの絶叫と共に「伝説巨神」は動き出す。
「伝説巨神」はヨシユキ・トミノの小説に登場する巨神そのものであり、巨神が夢として見せた「警告」を書き留めたものがヨシユキ・トミノの小説であった。全てを圧倒する巨神の力にジュドー、アムロ、シマ、鉄面皮、そしてシャアが苦戦を強いられる中、ジュドーは巨神に取り込まれたミネバの救出を試みる。
再び巨神の中に潜入したジュドーは、彼を「かつて有機宇宙(ユウキ・コスモ)だったものの一部」と呼ぶ者、「無限力」の声を聞く。無限力はかつて、宇宙そのものをも終局に導くほどの激しい争いを繰り広げていた二つの民の憎しみを利用して自ら宇宙を滅ぼし、その後、人が再び過ちを犯さないように「互いにわかり合うための力」を分け与えた。だが、人はなお争いをやめなかったため、再び宇宙を無に帰そうとしているのだという。無限力はこれを「死」ではなく「やり直し」だとし、受け入れることを強要するが、ジュドーはこの考えを否定する。
ミネバはジュドーによって救出され、巨神はアムロとシャアの攻撃で破壊される。戦いの後、アムロはシャアとの戦いのため地球圏に戻り、ミネバはアムロの図らいにより「ミネバ・アーシタ」としてジュドーの元に残される。
ロボット作品のクロスオーバーゲーム『スーパーロボット大戦シリーズ』のプロデューサーである寺田貴信は、本作を「クロスオーバーものの教科書」と評している。
「このマンガがすごい!WEB」では、「イデ」「ニュータイプ」という両作品のテーマを「木星」を軸として繋げた長谷川の想像力を評価している。
本作の他にも、小説家の福井晴敏が、『伝説巨神イデオン』における無限力「イデ」の依り代であるイデオンの装甲材質「イデオナイト」が、『逆襲のシャア』を初出とする材質「サイコフレーム」と同じ性質を持つものであるとして、『イデオン』と『ガンダム』の関連性に言及しており、自身が関わった『機動戦士ガンダムUC』『機動戦士ガンダムNT』『機動戦士ムーンガンダム』にイデオン的な解釈でのサイコフレームを登場させている。『ガンダムΖΖ』完結後のミネバ・ザビを登場させているのも本作と共通する。ただし先行する本作とは登場人物の設定などに相違もみられ、整合を図るような描写は一切ない。
後年に制作されたOVA『GUNDAM EVOLVE』では、ジュドーはΖΖガンダム(のパーツ)を木星に持ち込んでいるという描写があるが、本作に登場するメガゼータはプロトタイプΖΖガンダムを改修した機体という設定であり、『ガンダムΖΖ』本編でジュドーが乗っていたΖΖガンダムの所在については言及されない。
なお、本作の単行本に併録された長谷川による漫画『機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス』(別題『機動戦士Vガンダム外伝』または『機動戦士Vガンダム外伝 脱出計画編』)では、ΖΖタイプの頭部を持つ老朽化したモビルスーツ「ガンプ」が登場するが、頭部形状はメガゼータとガンプで異なっている。ただし、『プロジェクト・エクソダス』巻末の設定資料では「ΖΖはハマーンとの最終決戦で大破したはずであり、ガンプと同一の機体ではありえない」という旨の記載がある。
長谷川の考えでは本作と『Vガンダム外伝』は繋がっており、メガゼータがガンプになったと「思えば思える」内容になっているが、本作をなかったことにしても『Vガンダム外伝』が成立するようにはなっている。 | [
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"text": "『機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス』(きどうせんしたいでんせつきょじん ぎゃくしゅうのギガンティス、GUNDAM VS. IDEON)は、矢立肇・富野由悠季(原案)、長谷川裕一(漫画)による日本の漫画作品である。",
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"text": "「このマンガがすごい!WEB」では、「イデ」「ニュータイプ」という両作品のテーマを「木星」を軸として繋げた長谷川の想像力を評価している。",
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"text": "本作の他にも、小説家の福井晴敏が、『伝説巨神イデオン』における無限力「イデ」の依り代であるイデオンの装甲材質「イデオナイト」が、『逆襲のシャア』を初出とする材質「サイコフレーム」と同じ性質を持つものであるとして、『イデオン』と『ガンダム』の関連性に言及しており、自身が関わった『機動戦士ガンダムUC』『機動戦士ガンダムNT』『機動戦士ムーンガンダム』にイデオン的な解釈でのサイコフレームを登場させている。『ガンダムΖΖ』完結後のミネバ・ザビを登場させているのも本作と共通する。ただし先行する本作とは登場人物の設定などに相違もみられ、整合を図るような描写は一切ない。",
"title": "他作品との関連"
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"text": "後年に制作されたOVA『GUNDAM EVOLVE』では、ジュドーはΖΖガンダム(のパーツ)を木星に持ち込んでいるという描写があるが、本作に登場するメガゼータはプロトタイプΖΖガンダムを改修した機体という設定であり、『ガンダムΖΖ』本編でジュドーが乗っていたΖΖガンダムの所在については言及されない。",
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"text": "なお、本作の単行本に併録された長谷川による漫画『機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス』(別題『機動戦士Vガンダム外伝』または『機動戦士Vガンダム外伝 脱出計画編』)では、ΖΖタイプの頭部を持つ老朽化したモビルスーツ「ガンプ」が登場するが、頭部形状はメガゼータとガンプで異なっている。ただし、『プロジェクト・エクソダス』巻末の設定資料では「ΖΖはハマーンとの最終決戦で大破したはずであり、ガンプと同一の機体ではありえない」という旨の記載がある。",
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"text": "長谷川の考えでは本作と『Vガンダム外伝』は繋がっており、メガゼータがガンプになったと「思えば思える」内容になっているが、本作をなかったことにしても『Vガンダム外伝』が成立するようにはなっている。",
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] | 『機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス』は、矢立肇・富野由悠季(原案)、長谷川裕一(漫画)による日本の漫画作品である。 | {{Infobox animanga/Header
|タイトル = 機動戦士VS伝説巨神<br />逆襲のギガンティス
|画像 =
|サイズ =
|説明 =
|ジャンル =
}}
{{Infobox animanga/Manga
| タイトル =
| 作者 = [[長谷川裕一]]<br />[[矢立肇]]、[[富野由悠季]](原案)
| 作画 =
| 出版社 = [[バンダイ]]出版課<br />[[学研ホールディングス|学習研究社]]<br />[[角川書店]]
| 他出版社 =
| 掲載誌 = [[サイバーコミックス]]
| レーベル = [[ノーラコミックス]]DX<br />[[カドカワコミックス・エース]]
| 発行日 =
| 発売日 =
| 開始号 = No.23
| 終了号 = 26
| 開始日 = [[1990年]][[9月]]
| 終了日 = [[12月]]
| 発表期間 =
| 巻数 = 全1巻
| 話数 = 全4話
| その他 =
| インターネット =
}}
{{Infobox animanga/Footer}}
『'''機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス'''』(きどうせんしたいでんせつきょじん ぎゃくしゅうのギガンティス、'''GUNDAM VS. IDEON''')は、[[矢立肇]]・[[富野由悠季]](原案)、[[長谷川裕一]](漫画)による[[日本]]の[[漫画]]作品である。
== 概要 ==
[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品群「[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]」と『[[伝説巨神イデオン]]』を題材とする[[クロスオーバー作品]]。[[バンダイ]]出版課の[[漫画雑誌]]『[[サイバーコミックス]]』No.23 - 26に『'''ガンダムVS伝説の巨神'''』(ガンダムたいでんせつのきょじん)として連載された。その後、単行本化の際に現在の題名へと改められている。
[[宇宙世紀]]を舞台にしており、本作が執筆された1990年におけるテレビアニメ『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』と劇場アニメ『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]』の期間をつなぐ「仮想作品」として描かれている<ref>[[長谷川裕一]]、原案:[[矢立肇]]・[[富野由悠季]] 『機動戦士Vガンダム外伝』、[[角川書店]]、1995年、p. 258。</ref>{{Efn|アニメ『[[機動戦士ガンダムUC]]』を含めた2000年代以降のアニメーション作品群とは、各種設定に不整合が生じる。[[#他作品との関連]]も参照。}}。
== 制作背景 ==
ある時、長谷川は友人の[[こやま基夫]]に[[ガイナックス]]の忘年会へ誘われる{{sfn|『オタクの遺伝子』|p=101}}。そこで知り合った『サイバーコミックス』の編集者にガンダム漫画の執筆を依頼され、年明けに正式な依頼の電話が来た{{sfn|『オタクの遺伝子』|p=101}}。この時、編集者は「[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]はもう[[アムロ・レイ|アムロ]]も[[シャア・アズナブル|シャア]]も使わないから好きに描いていい」と述べたというが、長谷川は「自分の気を削がないように言ってくれたのかもしれない」と回想している{{sfn|『ガンダムエース』2018年5月号|p=443}}。
長谷川は学生時代に考えていた「ガンダムVSイデオン」を描きたいと話したが{{sfn|『オタクの遺伝子』|p=101}}、編集者にはギャグ漫画と思われたらしく、大笑いされた{{sfn|『ガンダムエース』2018年5月号|p=443}}。さすがに「ガンダムVSイデオン」はまずいということで「ガンダムVS伝説の巨神」というタイトルとなった{{sfn|『オタクの遺伝子』|p=101}}。話数は全3話を予定していたが、収まりが悪かったため全4話となったという{{sfn|『ガンダムエース』2018年5月号|p=443}}。
発想は「[[東映まんがまつり]]」の『[[マジンガーZ対デビルマン]]』などと同様のものであり、長谷川には同じ制作会社の作品は対決するものであるというイメージが何となくあった{{sfn|『ガンダムエース』2018年5月号|p=443}}。また、終盤の[[ジュドー・アーシタ]]の台詞には『[[無敵鋼人ダイターン3]]』からの引き写しがある{{sfn|『ガンダムエース』2018年5月号|p=443}}。
== 物語 ==
宇宙世紀0091年、[[木星]]圏で働いていたジュドー・アーシタは、[[地球]]からの船と共にやって来たアムロ・レイの来訪を受ける。アムロは木星圏でジオンの残党が100メートル級の超大型[[モビルスーツ]]を開発しているという動きを察知し、それを阻止すべくやって来たのだという。その超大型モビルスーツらしきものは、木星出身の小説家ヨシユキ・トミノのフィクション作品に登場する人型ロボットにちなんで「伝説巨神」というコードネームで呼ばれていた。アムロは漠然と、小説の中で人類を見限り宇宙を滅ぼした「伝説巨神」は実在すると考えていた。
アムロの部下であるシマ・八丈と鉄面皮、そしてモビルスーツ「メガゼータ」に乗るジュドーとアムロの4名は、小惑星の背に固定されている「伝説巨神」とジオン残党の基地を発見。シマと鉄面皮が囮になり、その隙にジュドーとアムロが「伝説巨神」の内部に乗り込むも、助けを求める何者かの声を感じ取ったジュドーは単独行動を開始し、やがて[[サイコミュ]]装置に繋がれ囚われていたミネバ・ザビを発見する。ジュドーはミネバを連れて脱出しようとするが、基地司令官のヒトーリンが、ジュドーこそがミネバの敬愛するハマーン・カーンを殺害した張本人であると吹き込む。そして、ミネバの絶叫と共に「伝説巨神」は動き出す。
「伝説巨神」はヨシユキ・トミノの小説に登場する巨神そのものであり、巨神が夢として見せた「警告」を書き留めたものがヨシユキ・トミノの小説であった。全てを圧倒する巨神の力にジュドー、アムロ、シマ、鉄面皮、そしてシャアが苦戦を強いられる中、ジュドーは巨神に取り込まれたミネバの救出を試みる。
再び巨神の中に潜入したジュドーは、彼を「かつて有機宇宙(ユウキ・コスモ)だったものの一部」と呼ぶ者、「無限力」の声を聞く。無限力はかつて、宇宙そのものをも終局に導くほどの激しい争いを繰り広げていた二つの民の憎しみを利用して自ら宇宙を滅ぼし、その後、人が再び過ちを犯さないように「互いにわかり合うための力」を分け与えた。だが、人はなお争いをやめなかったため、再び宇宙を無に帰そうとしているのだという。無限力はこれを「死」ではなく「やり直し」だとし、受け入れることを強要するが、ジュドーはこの考えを否定する。
ミネバはジュドーによって救出され、巨神はアムロとシャアの攻撃で破壊される。戦いの後、アムロはシャアとの戦いのため地球圏に戻り、ミネバはアムロの図らいにより「ミネバ・アーシタ」としてジュドーの元に残される。
== 登場人物 ==
=== 地球連邦軍 ===
; [[ジュドー・アーシタ]]
: かつて[[第一次ネオ・ジオン抗争]]で[[ΖΖガンダム]]に乗り戦った英雄。現在は木星圏の[[スペースコロニー]]「オリュンポス・コロニー」で暮らしている。もう二度と軍には関わらないと決めていたが、第二の故郷である木星圏の平和を守るため、アムロに手を貸すことを決意する。
: 本作における[[ニュータイプ]](ジュドー、アムロ、シャア)は『伝説巨神イデオン』の主人公[[伝説巨神イデオンの登場人物#ソロ・シップクルー|ユウキ・コスモ]]の生まれ変わりであるとされている。ジュドーはその中で最も色濃くコスモの因子を受け継いでいるらしく、無限力からは「コスモ」と呼ばれる。
: 作中、アムロの考えが本当かどうか確かめたり、ミネバに自分が敵ではないことを教えるためにニュータイプ能力を使っているが、一方でその力を戦いの場で発揮することはなく、また[[カミーユ・ビダン]]が[[パプテマス・シロッコ]]との決戦で行ったような、死者の思念を取り込み力にすることを否定し([[ハマーン・カーン|ハマーン]]、[[プルシリーズ#エルピー・プル|プル]]、[[プルシリーズ#プルツー|プルツー]]、[[ララァ・スン|ララァ]]らの霊が力を貸そうとするが拒否する)、「生きている者の力」でミネバを救出するなど、ニュータイプの力に頼るまいとしている。
: アムロは、不必要な時にはニュータイプ能力を使わず「閉じておく」ことができるジュドーは、彼より以前にニュータイプと呼ばれた者たちよりも進化した個体であるという仮説を立てている。
; [[アムロ・レイ]]
: 超大型モビルスーツの調査のため非公式に木星圏に現れた、かつての英雄的存在。ジュドーと共にメガゼータに乗ってジオン残党および巨神と戦い、途中から参戦したシャアと「最初で最後の共同戦線」を張る。ラストでは「ミネバ・アーシタ」の処遇について便宜を図る。
: 正史においては、宇宙世紀0091年当時のアムロは[[ロンド・ベル]]の結成に関わっていたことになっている{{sfn|『プロジェクト・エクソダス』|p=109}}ものの、本作では「当時の公式な記録に登場するアムロは[[影武者]]であった」という、独自の設定を用いている{{sfn|『プロジェクト・エクソダス』|pp=109-110,115}}。
: 無限力によれば、彼とシャアもまたユウキ・コスモの生まれ変わりだという。
; シマ・八丈(シマ・ハチジョウ)
: アムロと共に木星圏に来た女性パイロットだが、専門はデータ分析。鉄面皮と共に、連邦軍内でも屈指のニュータイプ能力者であるとされる。
; 鉄面皮(てつめんぴ)
: アムロと共に木星圏に来たパイロット。仮面を着けた男性。本名は不明。
: シマと共にメガゼータの援護を行う。アムロやジュドーからは[[火傷]]を隠すために仮面を着けているのだろうと思われていたが、実は[[赤面症|対人赤面症]]で、軍務に支障が出ないように隠していただけであった。素顔は美形で、それを知ったアムロは苦笑する。
=== ネオ・ジオン ===
; [[ザビ家#ミネバ・ラオ・ザビ|ミネバ・ザビ]]
: 「伝説巨神」を稼動させるためのキーとしてヒトーリンに拘束されている。ニュータイプ能力による精神感応でジュドーを信用するが、姉と慕っていたハマーンを殺したのがジュドーであると吹き込まれ、彼女の絶望に呼応して巨神が覚醒する。
; ヒトーリン
: 木星圏で「伝説巨神」破壊計画を担当していた士官。枠外で「注:地球人」と注釈が打たれるほど、人相も体型も醜い豚のような小男。
: ネオ・ジオン本隊からの命令を無視し、巨神の力で地球連邦を壊滅させ「神聖ジオン帝国」を作ろうと目論んでいた。最後はザク型のデコプチでオリュンポス・コロニーに逃げ込もうとするが、シャアのスザクに撃ち落とされ死亡。その後、他の戦死者たちと共に魂を無限力に取り込まれる。
; [[シャア・アズナブル]]
: 巨神の復活を知り、ヒトーリンと巨神を止めるためにネオ・ジオンの大部隊を率いて現れた。ヒトーリンを粛正した後、その場にいたアムロと手を組み巨神に立ち向かう。
: 時系列的には本作の2年後に当たる『逆襲のシャア』と異なり、ストレートの長髪にサングラスという格好をしている。
: 無限力によれば、ジュドーやアムロと同じく、ユウキ・コスモの生まれ変わりであるという。
=== その他 ===
; [[カイ・シデン]]
: ジャーナリストで元[[ホワイトベース]]乗組員。宇宙世紀0090年のロンド・ベル結成式典に登場したアムロ・レイは影武者であると証言するが、後に撤回する。撤回するまでの間に[[ブライト・ノア]]が秘密裡に接触し、事情を説明したためとする説が有力らしい。
; [[富野由悠季|ヨシユキ・トミノ]]
: 小説家。宇宙世紀の歴史小説を著述しているほか、『伝説巨神』などのフィクションも手がけている。
; [[イデ|無限力]](むげんちから)
: 巨神の核とでも呼ぶべき存在。この世界を見限る決定を下す。
: 彼(彼女?)によれば、『伝説巨神イデオン』の世界が滅びた後、150億年の時を経て再び創成されたのが宇宙世紀の世界であり、ニュータイプ能力はかつてのような争いが再び起きないようにと無限力が人類に分け与えた力だという。
: 木星出身者にニュータイプが多いのは、木星近辺に存在するある種の力場=無限力の影響によるものとされ、実際にニュータイプであった[[シャリア・ブル]]やパプテマス・シロッコの航海記録に「“血まみれの巨神”に出会った」という記述が残されていたことから、アムロに木星圏と「伝説巨神」の調査任務が与えられることとなった。
: ジュドーに語りかけるシーンでは、『イデオン』のカララ・アジバやパイパー・ルウの姿がイメージとして現れている。
== 登場兵器 ==
=== 地球連邦軍 ===
; MSΖ-009M [[ΖΖガンダム#メガゼータ|メガゼータ]]
: [[ΖΖガンダム#プロトタイプΖΖガンダム|プロトタイプΖΖガンダム]]の改修機。
; [[ジム・スナイパー#ジム・スナイパー,EX|ジム・スナイパー,EX]]
: メガゼータと共に木星圏に持ち込まれたモビルスーツ。2機存在し、それぞれシマと鉄面皮が搭乗。メガゼータの支援を行うも、巨神の全方位ミサイル斉射に巻き込まれ、中破してしまう。
; デコプチ(デコレーション・プチモビルスーツ)
: 作業用のプチモビルスーツを[[SDガンダム|SD]]風にデコレーションしたもの。実際に乗る作業員からは不満が挙がっているが、整備士によれば「流行でこれじゃないと売れない」らしい。正確には軍属ではなく、オリュンポス・コロニーの作業用機であり、冒頭でジュドーが[[ガンダムMk-II]]型のデコプチに乗っている。
: 作中にはMk-II、[[ゲルググ]]、[[騎士ガンダム]]をモデルにした機体のほか、一部分のみだが[[魔神英雄伝ワタル#魔神|伝説の救世主と共に戦う魔神]]に酷似した機体が映り込んでいる。
; [[地球連邦軍の艦船およびその他の兵器#ジュピトリス|ジュピトリス]]級資源採掘艦
: 物語冒頭とラストに登場する。メガゼータとアムロたちを、地球からオリュンポス・コロニーに運んできた。
=== ネオ・ジオン ===
; 木星圏部隊
:; MS-06 [[ザクII]]:作中の宇宙世紀0091年ではすでに旧型だが、ネオ・ジオン木星圏部隊では警備や作業を中心に現役使用されている。
:; MS-10 [[ペズン計画#ペズン・ドワッジ|ペズン・ドワッジ]]: ザクII同様に旧型だが、ネオ・ジオン木星圏部隊では未だに現役。
:; MS-R12 [[ペズン計画#リックギガン|リックギガン]]:
:; MS-16 [[ペズン計画#ドガッシャ|ドガッシャ]]:
:; ザクII型デコプチ:ヒトーリンが操縦する。
:; [[イデオン (架空の兵器)|巨神]](伝説巨神、血まみれの巨神):遺跡のような姿で小惑星の表面に埋まっていた巨大兵器。『イデオン』本編よりカラーリングがダークトーンになり、両肩に二連装砲が左右2基ずつ増設されている(作中未使用)。また、全体的に『イデオン』よりも細かいディテールが増えている。
:: ヒトーリンは木星圏で「掘り出した」と考えていたが、実際には原子を少しずつ結び付け、無から有へと「誕生」しつつある段階だった。自らを破壊しに来たシャアの部隊を圧倒、全方位ミサイルで壊滅状態に追いやる。最終的にジュドーとアムロによってミネバを奪還され、上腕部から[[イデオン (架空の兵器)#イデオンソード|光線]]を発射しようと試みるが、メガゼータとスザクの総攻撃で消滅させられた。
:
; シャア・アズナブル部隊
:; AMS-110 キタラ:頭部と下腹部から伸びた長い角(下側のものは折り畳むことができる)の先端を結んで体の前方にビームの刃を形成し、体当たりで攻撃する。大型目標を攻撃する際は四肢を真後ろに向けた突撃姿勢に変形する。足は前後に開き、長方形の板のような腕の、手の甲に相当する部分からは細長い槍状の突起が3本突き出している。多数機がシャアのスザクに率いられて木星圏に現れ、ヒトーリン一派の部隊と交戦するが、巨神によって全滅させられる(なお、少なくとも1機はメガゼータに撃破されている)。
:; [[ザクのバリエーション#スザク(S・ザク・ザクIII改・改)|スザク(S・ザク・ザクIII改・改)]]: シャアの搭乗するザク系モビルスーツ。スカート部分にビームキャノンを装備している。
:: 本作では後年に制作された配信アニメ『[[機動戦士ガンダム Twilight AXIS]]』における設定と異なり、シャアがザクIIIに搭乗している。
:; MA-08-2 [[ビグ・ザム|ビグザム]]改:2機登場し、大型メガ粒子砲を巨神に撃つが、[[イデオン (架空の兵器)#バリアー|バリアー]]で防がれ、その後両機とも巨神に破壊される。作中では「ビグザム」としか呼ばれず、テロップでビグザム改と紹介されている。
:; [[ムサイ]]級軽巡洋艦: ビグザム改を輸送してきた。巨神にビグザム改をぶつけられて撃沈される。
:; [[ムサイ#エンドラ|エンドラ]]級軽巡洋艦
== 書誌情報 ==
* 機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス(ノーラコミックスデラックス〈学習研究社〉) - ガンダムとは無関係のSF短編『わかりすぎた結末 あるいは失笑した宇宙 もしくはキャプテン・オーマイガーの華麗なる挑戦』との併録。
** 全1巻完結(1992年12月6日発行) ISBN 4-05-106152-3
* 機動戦士Vガンダム外伝(角川コミックス・エース〈角川書店〉) - 『[[機動戦士Vガンダム#機動戦士Vガンダム外伝|機動戦士Vガンダム外伝]]』との併録。
** 全1巻完結(1995年11月7日発行) ISBN 4-04-713119-9
* 機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス(角川コミックス・エース〈角川書店〉) - 前者の表題作を、内容はそのままに改題した改題版。本来はあとがきが追加されるはずだったがミスにより記載されず、長谷川のブログで公開されている<ref>{{Cite web|和書|date=2016-01-13 |url=http://blog.studio-himitsukichi.com/?eid=140 |title=「あとがき」発掘! |website=スタジオ秘密基地-長谷川裕一公式ブログ- |accessdate=2019-01-19}}</ref>。
** 全1巻完結(2012年7月25日発行) ISBN 4-04-120375-9
== 評価 ==
ロボット作品のクロスオーバーゲーム『[[スーパーロボット大戦シリーズ]]』のプロデューサーである[[寺田貴信]]は、本作を「クロスオーバーものの教科書」と評している{{sfn|『ガンダムエース』2018年5月号|p=444}}。
「このマンガがすごい!WEB」では、「イデ」「ニュータイプ」という両作品のテーマを「木星」を軸として繋げた長谷川の想像力を評価している<ref>{{Cite web|和書|author=[[前島賢]] |date=2017-08-10 |url=https://konomanga.jp/guide/121892-2 |title=8月10日は「モーツァルト最後の交響曲、交響曲第41番『ジュピター』を完成した日」 『機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス』を読もう! 【きょうのマンガ】 |website=このマンガがすごい!WEB |accessdate=2019-01-19}}</ref>。
== 他作品との関連 ==
本作の他にも、小説家の[[福井晴敏]]が、『伝説巨神イデオン』における無限力「イデ」の依り代であるイデオンの装甲材質「[[イデ#イデオナイト|イデオナイト]]」が、『逆襲のシャア』を初出とする材質「[[サイコフレーム]]」と同じ性質を持つものであるとして、『イデオン』と『ガンダム』の関連性に言及しており<ref>{{Cite book|和書
|editor=ガンダムエース編集部
|date=2018-11-30
|title=ガンダム宇宙世紀メモリアル
|publisher=KADOKAWA
|author=福井晴敏
|chapter=ニュータイプ考察・試論で私論
|pages=28-34
|origdate=2014
|id={{JAN|4997766628943}}
|ref={{SfnRef|『宇宙世紀メモリアル』}}
}} - {{Cite book|和書
|year=2014
|title=ガンダムUC証言集
|publisher=KADOKAWA
|isbn=9784041021262
}}からの再掲。</ref>、自身が関わった『[[機動戦士ガンダムUC]]』『[[機動戦士ガンダムNT]]』『[[機動戦士ムーンガンダム]]』にイデオン的な解釈でのサイコフレームを登場させている。『ガンダムΖΖ』完結後のミネバ・ザビを登場させているのも本作と共通する。ただし先行する本作とは登場人物の設定などに相違もみられ、整合を図るような描写は一切ない。
後年に制作されたOVA『[[GUNDAM EVOLVE]]』では、ジュドーはΖΖガンダム(のパーツ)を木星に持ち込んでいるという描写があるが、本作に登場するメガゼータはプロトタイプΖΖガンダムを改修した機体という設定であり、『ガンダムΖΖ』本編でジュドーが乗っていたΖΖガンダムの所在については言及されない。
なお、本作の単行本に併録された長谷川による漫画『[[機動戦士Vガンダム#機動戦士Vガンダム外伝|機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス]]』(別題『機動戦士Vガンダム外伝』または『機動戦士Vガンダム外伝 脱出計画編』)では、ΖΖタイプの頭部{{sfn|『プロジェクト・エクソダス』|pp=86-87,104}}を持つ老朽化したモビルスーツ「[[ΖΖガンダム#ガンプ|ガンプ]]」が登場するが、頭部形状はメガゼータとガンプで異なっている。ただし、『プロジェクト・エクソダス』巻末の設定資料では「ΖΖはハマーンとの最終決戦で大破したはずであり、ガンプと同一の機体ではありえない」という旨の記載がある{{sfn|『プロジェクト・エクソダス』|p=104}}。
長谷川の考えでは本作と『Vガンダム外伝』は繋がっており、メガゼータがガンプになったと「思えば思える」内容になっているが、本作をなかったことにしても『Vガンダム外伝』が成立するようにはなっている{{sfn|『オタクの遺伝子』|p=111}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author=[[稲葉振一郎]]
|title=オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界
|publisher=[[太田出版]]
|date=2005年3月3日初版発行
|isbn=4-87233-869-3
|ref={{sfnref|『オタクの遺伝子』}}
}}
* {{Cite book|和書
|author=[[長谷川裕一]]
|title=[[#書誌情報|機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス]]
|date=2012-07-26
|series=[[KADOKAWAの漫画レーベル#カドカワコミックス・エース|角川コミックス・エース]]
|publisher=[[角川書店]]
|isbn=978-4-04-120375-0
|ref={{sfnref|『プロジェクト・エクソダス』}}
}}
* {{Cite journal|和書
|date=2018
|journal=[[月刊ガンダムエース]]
|issue=2018年5月号
|publisher=[[角川書店]]
|ref={{sfnref|『ガンダムエース』2018年5月号}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%95%E6%88%A6%E5%A3%ABVS%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E5%B7%A8%E7%A5%9E_%E9%80%86%E8%A5%B2%E3%81%AE%E3%82%AE%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9 |
9,089 | Transmission Control Protocol | Transmission Control Protocol(トランスミッション コントロール プロトコル、TCP)はIPネットワーク上のアプリ間・コネクション型・高信頼性・ストリーム指向の通信プロトコルである。伝送制御プロトコルとも呼ばれる。
TCPは通信プロトコルである。TCPではポート、ソケット、コネクションの概念が導入され、IPネットワークのホスト上にあるアプリケーション同士がコネクションを通じて通信する。確立されたコネクションはTCPが定める制御機構によって到着が保証され、破壊が検出され、流量や輻輳が制御されており、これを通信路としてバイトストリームが伝達される。
TCPを用いることでインターネットにおける到達保証付きアプリケーション間メッセージ通信が可能になるため、ファイル転送、電子メール、World Wide Web、リモート管理(英語版)など様々なインターネット・アプリケーションで利用される。上位プロトコルにはHTTP、FTP、Telnet、SSHなどがある。
TCPはインターネット・プロトコル・スイートを構成し、Internet Protocolの上位プロトコルとして使われる。またOSI参照モデルに当てはめるならトランスポート層にあたる。その仕様はIETFによりRFC 9293 (STD 7) として標準化されている。なお、IPヘッダでのプロトコル番号は6である。
対比されるプロトコルにUser Datagram Protocol (UDP) がある。UDPは信頼性よりもシンプルさ・低レイテンシを重視したデータグラム通信を提供する。TCPはより信頼性が高くその分オーバーヘッドがある。
1974年5月、Institute of Electrical and Electronic Engineers (IEEE) が "A Protocol for Packet Network Interconnection" と題した論文を出版。著者はヴィントン・サーフとロバート・カーンで、ノード間でパケット通信を使い資源を共有するインターネットワーキングのプロトコルを記述したものである。このモデルでの中核制御コンポーネントが Transmission Control Program で、ホスト間のコネクション指向のリンクとデータグラムサービスの両方を含んでいた。当初一体だった Transmission Control Program は後にモジュール化されたアーキテクチャに分割され、コネクション指向部分の Transmission Control Protocol とデータグラムサービス部分の Internet Protocol に分けられた。このモデルを一般に TCP/IP と呼ぶが、公式にはインターネット・プロトコル・スイートと呼ぶようになった。
TCPはIPネットワーク上で利用され以下の機能を提供する。これらの機能を実現する機構は#プロトコル操作を参照。
IPはホスト間通信を可能にするが、そのままだとホストへの全信号を1つのアプリケーションのみが受け取る。TCPはポート機能を提供することで、1ホスト内複数アプリケーションへの通信振り分けを可能にする。すなわちアプリケーション間通信を提供する。
IPはパケットの送出を可能にするがパケットの到達を保証しない。TCPは到達確認とデータ再送要求を提供することで、送出されたセグメントが宛先へ到達することを保証する。
IPは独立したパケットを送信するため、パケット間の関係性を扱わない。TCPはバイトストリーム入出力機能を提供することで、実用されるIPパケットサイズを超えた、ファイルやデータストリームの送信を可能にする。
ネットワークの輻輳や負荷分散、その他ネットワークの予測できない振る舞いにより、IPパケットは遅延し順序がばらばらに届きうる。ストリームをパケットに分割して送出しそれを到着順に再構成した場合、元のストリームを復元できる保証がない。TCPは順序制御を提供することで、パケット群からストリームを再構築できることを保証する。
IPは疎通の確認なくパケットを送信するため、コネクション(仮想回線)の概念を持たない。TCPはソケット対に基づくコネクションを定義することでコネクション型通信を提供する。ストリーム送信や各種制御はコネクション単位で管理されるため、単一のアプリケーションが複数のコネクション(宛先アプリケーション)を独立して扱えるようになる。
通信先にとって過剰量のデータがコネクションへ流れ込まないよう、TCPは流量制御を提供する。
IPネットワークへ無秩序にパケットが送出されるとネットワークの混雑(輻輳)を引き起こす。TCPはそれらの問題を検出し、ネットワークの混雑が起きにくくなるよう制御して他の問題が発生する可能性を低くする。
TCPは高速さよりも正確さに最適化されている(高信頼ストリーム配送サービス)。ゆえにパケットの到達が保証され、データを正しく並べかえることができる。その反面、メッセージの順序がばらばらだったり、喪失したメッセージの再送を待ったりすることがあると、秒のオーダーの比較的長い遅延が生じることがある。これはリアルタイム性を求められるVoIPなどのアプリケーションには向いていない。そのような用途には一般に User Datagram Protocol (UDP) 上の Real-time Transport Protocol (RTP) などのプロトコルが推奨される。
TCPの利用例としてWorld Wide Web (WWW)、電子メール、File Transfer Protocol、Secure Shell、ファイル共有、一部のストリーミングが挙げられる。
TCPセグメント(英: TCP segment)はTCPにおける送受信単位である。
TCPは上位から受け取ったデータを分割し、それにTCPヘッダを付与してTCPセグメントを作成する。TCPセグメントはさらに Internet Protocol (IP) データグラムにカプセル化される。TCPセグメントは「データを相手と交換するためにTCPが使う情報の束」である。
なお、非公式に「TCPパケット」という用語が使われることがあるが、最近の用法では TCP PDU (Protocol Data Unit) は「セグメント」、IP PDU は「データグラム」、データリンク層のPDUは「フレーム」と呼ぶのが一般的である。
プロセスはTCPを呼び出し、データを格納したバッファを引数で渡すことでデータを送信する。TCPはそれらのバッファ内のデータをセグメント群にパッケージし、インターネット・モジュール(例えばIP)を呼び出すことで宛先のTCPへ各セグメントを送信する。
TCPセグメントは、セグメント・ヘッダとデータ部分から成る。TCPヘッダは10の必須フィールドとオプションの拡張フィールドを含む(テーブルではオプション部分をオレンジで示している)。
データ部はヘッダ部の後に続いている。その内容はアプリケーションに渡すべきデータである。データ部の長さはTCPセグメントのヘッダには記されておらず、IPヘッダにあるIPデータグラム長からIPヘッダとTCPヘッダの長さを差し引いて計算できる。
一部のオプションはSYNがセットされているときだけ送信される。それらは以下で で示している。各行の先頭は「オプション種別[, オプション長, オプション値](全ビット数)」の形式で示す。
他のオプションは既に使われていないもの、実験的なもの、標準になっていないものなどである。
TCPプロトコル操作は3つのフェーズに分けられる。コネクションは多段階のハンドシェイクプロセスで正しく確立する必要があり(コネクション確立フェーズ)、その後「データ転送フェーズ」に入る。データ転送が完了したら「コネクション終了フェーズ」で仮想回線を閉じ、確保していたリソースを解放する。
TCPコネクションはオペレーティングシステムがソケットというプログラミングインタフェースを通して管理する。TCPコネクションが存在する間、以下のような状態間で遷移する。
コネクションを確立する際、TCPでは3ウェイ・ハンドシェイクを行う。
クライアントがサーバと接続する前、サーバはコネクション可能なようにポートをバインドしておかなければならない。これをパッシブ・オープンと呼ぶ。サーバ側がパッシブ・オープンになっていれば、クライアントはアクティブ・オープンを開始できる。コネクションを確立するための3ウェイ・ハンドシェイクは次のようになる。
この時点でクライアントとサーバ双方がコネクション確立の確認応答を受け取ったことになる。
多くの実装では、テーブルの1エントリを動作中のOSプロセスとのセッションにマッピングする。TCPセグメントにはセッション識別子がないため、通信している双方でクライアントのアドレスとポートでセッションを識別する。パケットを受信すると、TCPソフトウェアはそのテーブルを参照して、対応するプロセスを見つける。
サーバ側でのセッション数はメモリ容量にのみ制限され、コネクション確立要求がくるたびに増えていく。しかし、クライアントはサーバに最初のSYNセグメントを送る前に無作為にポートを選んで確保しなければならない。このポートはコネクションをクローズするまで確保され続け、実質的にクライアントの持つIPアドレス毎の外に出て行くコネクション数を制限している。アプリケーションが不要になったコネクションをクローズしそこねると、空いているポートが足りなくなり、新たなTCPコネクションを確立できなくなる。
また、通信する双方で確認応答を受け取っていない送信済みデータとアプリケーションに渡す前の受信データを格納しておく領域を確保する必要がある。
TCPが提供する機能(#機能を参照)は以下の機構で提供される。
TCPは「シーケンス番号」を使ってデータの各バイトを識別する。シーケンス番号は双方のホストが送信するバイト列に先頭から振られる番号であり、それによってデータがどう分割されても、順番が入れ替わっても、転送中に失われても、元のデータを復元できる。ペイロードの各バイトを送るたびにシーケンス番号をインクリメントしなければならない。3ウェイ・ハンドシェイクの最初の2ステップで、双方のホストは初期シーケンス番号 (ISN) をやりとりする。この番号は任意であり、TCPシーケンス番号予測攻撃への防御のために予測不可能な値とすべきである。
TCPは「累積確認応答」方式を採用しており、受信側が確認応答を返すとき、そのセグメントで示されている確認応答番号は、対応するシーケンス番号未満のデータを全て受信済みであることを示している。送信側はペイロードの先頭バイトのシーケンス番号をそのセグメントのシーケンス番号として設定する。受信側は次に受信することを期待しているバイトのシーケンス番号を確認応答番号に設定して確認応答を返す。例えば、送信側が4バイトのペイロードをシーケンス番号 100 で送信する場合、そのペイロードの4バイトのシーケンス番号は順に 100、101、102、103 である。受信側がこのセグメントを受信すると、その確認応答での確認応答番号は 104 となり、次のパケットで送られてくるペイロードの先頭バイトのシーケンス番号となっている。
累積確認応答に加えて、受信側は選択確認応答でさらなる情報を送ることができる。
送信側がネットワーク内でデータが失われたと判断した場合、データの再送を行う。
後述の#チェックサムの計算も参照。 シーケンス番号と確認応答は、パケットの重複、喪失パケットの再送、データの順序通りの並べ替えなどを扱っている。受信したパケットの内容が正しいことを確認するため、TCPにはチェックサムフィールドがある。チェックサムフィールドは設定必須の項目であり省略できない。
TCPチェックサムは、現在の標準から見れば弱い。データリンク層のビット誤り率が高ければ、TCPチェックサムとは別の誤り検出訂正機能が必要である。TCP/IPの下層であるデータリンク層には一般にCRCなどのもっと強力な検査機構があり、TCPチェックサムの弱さを一部補っている(例えば、PPPやイーサネット)。しかし、だからといって16ビットのTCPチェックサムが無駄というわけではない。実際、CRCで保護された通信路でパケットに誤りが残ることはよくあるが、エンドツーエンドの16ビットTCPチェックサムがそういった単純な誤りを捉えている。これはエンドツーエンド原理が機能している例である。
TCPはエンドツーエンドのフロー制御プロトコルを使い、送信ペースが受信側にとって速すぎる状態になるのを防いでいる。様々な性能の機器が接続されたネットワークでは、フロー制御は欠かせない機構である。例えば、PCから性能の劣るPDAにデータを送る場合、PDAの性能に合わせて送信ペースを調整する必要がある。
TCPはスライディングウィンドウによるフロー制御を採用している。各TCPセグメントについて、受信側は「ウィンドウサイズ」フィールドで、そのコネクション用のバッファの空き容量に相当する今後受信可能なデータの量(バイト単位)を示す。送信側は確認応答を待ち合わせるまでに、そのフィールドで指定された量までのデータを送り、新たな確認応答でウィンドウサイズ・フィールドを確認してさらに送信できるデータ量を更新する。
受信側がウィンドウサイズを0としたとき、送信側は送信を停止してタイマ (persist timer) を起動する。このタイマは受信側のウィンドウサイズの更新セグメントが喪失してデッドロック状態になるのを防ぐためのものである(受信側がウィンドウサイズを更新しないと送信を再開できないため)。タイマがタイムアウトすると、送信側は小さなパケットを送り、その確認応答で受信側のウィンドウサイズが回復したかを調べる。
受信側での受信データの処理が遅いと、ウィンドウサイズの指定は小さいままとなる。これをSilly Window Syndrome(英語版) (SWS)と呼び、送信側は1度に数バイトのデータしか送れなくなり、TCPヘッダの方が大きな割合を占めるため転送効率が極端に低下する。そのような状況に陥らないようにするためのウィンドウ・アルゴリズムが RFC 813 (Window and acknowledgement strategy in TCP) に記載されている。
TCPは高性能を達成し輻輳崩壊(ネットワーク性能が数桁のオーダーで低下する現象)を防ぐため、輻輳制御機構をいくつか備えている。ネットワークに流入させるデータレートを制御し、崩壊のきっかけとなるようなレート未満でデータを送るよう保つ。また、おおまかに最大最小公平(英語版)なフロー割り当てを目指す。
送信データへの ACK (確認応答)の有無は、送信側でネットワークの状態を推測する材料となる。これをタイマと組み合わせ、データのフローの振る舞いを変化させることができる。これを一般に輻輳制御またはネットワーク輻輳回避などと呼ぶ。
最近のTCP実装では、スロースタート(英語版)、輻輳回避(英語版)、TCP高速再送アルゴリズム(英語版)、ファストリカバリ(en, RFC 5681) という4つの相互にからみあったアルゴリズムを使用している。
スループットをあげるため輻輳しない限界まで送信側はスライディングウィンドウを大きくする必要があるが、ウィンドウサイズを調整する輻輳回避アルゴリズムは長年研究されている。一覧は w:TCP congestion avoidance algorithm を参照。かつては、輻輳するとパケットロスが発生することを利用し、パケットロスをベースにした TCP Reno およびそれを改良した TCP NewReno (RFC 3782) がよく使われていたが、現在では、送信側のスライディングウィンドウにどれだけの時間とどまっていたかを元にしたアルゴリズム (Delay-based Congestion Avoidance) が中心になっており、Microsoft Windows では、Windows Vista 以降は、Compound TCP(英語版) が採用され、Linux では 2.6.8〜2.6.18 は BIC TCP(英語版) が、2.6.19 以降は CUBIC TCP(英語版) が使われている。
さらに送信側には「再送タイムアウト (RTO)」があり、送信してから確認応答が戻るまでの時間であるラウンドトリップタイム (RTT) を推算し、ばらつきも考慮して設定する。このタイマの動作は RFC 2988 で規定されている。RTTの推算には微妙な点がある。例えば、再送パケットのRTTを計算する場合は注意しなければならず、一般にカーンのアルゴリズム(英語版)やTCPタイムスタンプ(RFC 1323 参照)を使う。個々のRTTの標本から時系列で平均をとり、ジェイコブソンのアルゴリズムを使って Smoothed Round Trip Time (SRTT) を生成する。最終的にSRTT値がRTTの推算に使われる。
TCPを拡張して、喪失を高信頼に扱ったり、誤りを最小化したり、輻輳を制御してより高速化しようという試みが今も行われている。
最大セグメントサイズ以下の小さなパケットをばらばらと送るのは非効率なので、送信を遅延し、それらを1つのTCPパケットにまとめるのが、Nagleアルゴリズムである。同様に、複数のACKを1つにまとめるのが、TCP遅延ACKである。どちらも、送信を遅延させるという点においては同じだが、相互に影響し合い、遅延が増大するという問題があり、詳細はNagleアルゴリズムを参照。
最大セグメントサイズ (MSS) はバイト単位で指定され、単一のセグメントとして受信可能な最大データ量を示す。性能を最大限発揮するにはIPフラグメンテーションを十分防げる程度に小さくする必要がある。IPフラグメンテーションが行われると、パケット喪失時の再送に時間がかかることになる。一般にコネクション確立時にMSSオプションを使って双方のMSSを通知するので、適切なMSSを決めるにはデータリンク層の Maximum Transmission Unit (MTU) から導出したMSSを通知すればよい。さらに送信側は経路MTU探索を使うことができ、通信相手との間にある経路でMTUが最小の部分を推定し、それを使ってMSSを動的に調整しIPフラグメンテーションを防ぐことができる。
MSS通知は「MSSネゴシエーション」とも呼ばれる。ネゴシエーションというと送信側と受信側が交渉して合意に達するかのように思われるが、実際には異なり、送信する方向によってそれぞれ異なるMSSが設定可能である。これは例えば一方がメモリ容量が小さいため、バッファ領域を大きくとれない場合などに起きる(発見したパスMTUより小さいこともありうる)。
もともとのTCPプロトコルで採用されている累積確認応答方式を使うと、パケットを喪失したときに非効率になる可能性がある。例えば、10,000バイトのデータを10個のTCPセグメントで送信し、その最初のパケットが喪失したとする。もともとの累積確認応答プロトコルでは、受信側は1,000から9,999までのバイトは受信成功、ただし0から999までのバイトを含む先頭パケットの受信に失敗したという風に伝えることができないので、送信側は10,000バイト全体を再送しなければならない。
このため RFC 2018 で「選択確認応答 (SACK)」オプションが追加された。これは、通常の累積確認応答とは別に、受信側が不連続なブロックを正しく受信したという確認応答を返せるようにしたものである。選択確認応答にはオプション部分にいくつかのSACKブロックを指定し、SACKブロックには正しく受信できた連続な範囲のシーケンス番号の開始点と終了点を指定する。例えば、先ほどの例では 1000 と 9999 のシーケンス番号をSACKオプションで示せばよい。すると送信側は 0 から 999 までのバイトを含む最初のパケットだけを再送する。
SACKオプションの拡張として RFC 2883 で定義されたデュプリケートSACK (D-SACK) オプションがある。パケットの順序がばらばらになると、送信側への確認応答も順序どおりにならないため送信側でパケット喪失と勘違いし、喪失したと思われるパケットを再送することがあり、同時にネットワーク輻輳を防ぐため送信ペースを落とす。このとき、受信側が D-SACK オプションで再送パケットが重複していることを通知すれば、遅くなっていた送信ペースを元に戻すことができる。
SACKオプションは必須ではなく、両者がサポートしている場合だけ使われる。これはコネクション確立時に調整される。SACKオプションは主なTCPスタックでサポートされており、広く使われている。選択確認応答は Stream Control Transmission Protocol (SCTP) でも使われている。
広帯域ネットワークをより効率的に使うには、TCPウィンドウのサイズを大きくする必要がある。TCPヘッダのウィンドウサイズのフィールドは16ビットで、2バイトから65,535バイトまでしか設定できない。
ウィンドウサイズ・フィールドは拡張できないので、スケールファクタ(英語版)が導入されている。RFC 7323 で定義されているウィンドウスケール・オプションを使えば、最大ウィンドウサイズを 65,535 バイトから 1 ギガバイトに拡張できる。ウィンドウサイズのスケールアップはTCPのチューニング (en) に必須の要素である。
ウィンドウスケール・オプションは3ウェイ・ハンドシェイクの際にしか使われない。ウィンドウスケール・オプションのオプション値は、16ビットのウィンドウサイズ・フィールドの値を左にシフトするビット数を表している。ウィンドウスケールの値は0(シフトしない)から14まで指定でき、通信の双方向で別々に設定できる。どちらの方向もSYNセグメントのオプションとして通知する。
一部のルーターやファイアウォールは、このスケールファクタを転送時に書き換えることがある。すると送信側と受信側でウィンドウサイズの認識が異なることになり、トラフィックが不安定になって、非常に低速になることがある。
TCPタイムスタンプは RFC 1323 で定義されており、パケット送出の順序をTCPレベルで知ることが出来る。TCPタイムスタンプはシステムクロックに合わせているわけではなく、無作為な値から開始する。多くのOSはこのタイムスタンプ値をミリ秒単位でインクリメントする。ただし、RFCは単に時間経過に比例して増加すべきだとしているだけである。
タイムスタンプのフィールドは2つある。
TCPタイムスタンプは PAWS (Protection Against Wrapped Sequences) と呼ばれるアルゴリズム(RFC 1323 参照)で利用する。PAWSは、2の32乗まであるシーケンス番号が一周してしまう場合に使われる。シーケンス番号はデータバイト毎に振られるので、最大4ギガバイトしか表せないが、最近の高速ネットワークでは1分以内に一周する可能性があり、再送が必要になったとき、現在の周回なのか前の周回なのかを識別するのにタイムスタンプを使う。
RFC 1323 の2.2節では、ウィンドウサイズは1ギガバイトまでとされているため、多くの実装でスケールオプションの最大値を14までとしている。
また、Eifel detection アルゴリズム (RFC 3522) でもTCPタイムスタンプを使っており、再送の原因がパケット喪失なのか順序がばらばらになったせいなのかを判断する。
ストリームが完了するのを待たずに、キューイングされたストリームに割り込むことができる。この場合、緊急 (urgent) と指定したデータを使う。それによって受信側プログラムが緊急データをすぐさま処理すべきであることを知らせる。その処理が終了すると、もとのストリーム・キューの処理を再開する。例えば、リモートログインのセッションにTCPを使っているとき、ユーザーが実行中のプログラムをアボートさせるキーシーケンスを送るときなどに使われる。プログラムが暴走したときなど、そのプログラムの出力を待っているのではなく、強引にアボートさせたいときに必須となる。
帯域外データの概念は現在のインターネット向けの設計ではない。緊急ポインタは相手ホストでの処理を変えるものであって、ネットワーク上の処理は何も変わらない。緊急ポインタのあるセグメントがリモートホストに到着したとき、若干異なる2つのプロトコルの解釈があり、単一バイトの帯域外データしか信頼できないという状況になっている。そのため滅多に使われず、実装も貧弱になる傾向がある 。
通常、TCPは送信すべきデータが最大セグメントサイズ (MSS) まで溜まるか、200ミリ秒経過するまで待つ(Nagleアルゴリズムで小さいメッセージを単一パケットにまとめようとするため)。これは例えばファイル転送のような一定の送信が要求される場合に問題となることがある。例えば、送信ブロックが一般的な4KBで、MSSも一般的な1460バイトだとする。すると1ブロックが3セグメントで送信され、最後の1セグメントはMSSに満たないことになる。すると、2パケットまでは約1.2ミリ秒で送信され、1176バイトの3パケット目は197ミリ秒待ってから送信ということになる。
Telnetの場合、ユーザーがキーを押下するたびに通信先からエコーバックされて画面に文字が表示される。すると、1文字押下するたびに200ミリ秒待たされることになり、非常にストレスになる。
この場合、ソケットのオプション TCP_NODELAY を使ってデフォルトの200ミリ秒の送信遅延を変更することができる。
RFCには PSH フラグを使って「受信側TCPスタックでそのデータを即座にアプリケーションに送る」という機能が定義されている。しかしソケットにはこれを制御するインタフェースがなく、プロトコルスタックの実装に任されている。
コネクション終了フェーズは多くの場合「4ウェイ・ハンドシェイク」を使い、コネクションの双方がそれぞれ独立に終了できる。一方がコネクションを終了したい場合、FINセグメントを送信し、相手がそのACKを返す。相手も同様にFINを送ってACKを受信することでコネクションを終了する。両方のFIN/ACK交換が済むと、最後にACKを送った側(先にFINを送った側)がタイマを設定してタイムアウトするまで当該ポートを別のコネクションに再利用できないようにする。これによって配送が遅れていたパケットが新たなコネクションで受信されて混乱するのを防ぐ。
コネクションは「ハーフオープン」という状態にもでき、一方だけ終了していても、もう一方はデータを送り続けることができる。終了した側はもう一方が終了するまで受信可能の状態を継続する。
コネクション終了を3ウェイ・ハンドシェイクで行うこともでき、ホストAのFIN送信に対してホストBが FIN+ACK で応答し、ホストAがACK応答する。実際にはこれが最も一般的である。
両方から同時にFINセグメントを送りあい、双方がACKを返すということもありうる。FIN/ACKシーケンスが並行して行われるため、2ウェイ・ハンドシェイクと呼ぶこともできる。
TCPは様々な方法で攻撃される可能性がある。TCPの完全なセキュリティアセスメントの結果は、認識されていた問題の考えうる対策と共に2009年に公表され、その後もIETF内で進められている。
IPスプーフィングを使い、悪意を持って作ったSYNパケットを繰り返し送信することで、偽の接続に対処するために対象サーバの多大な量のリソースを消費させることができる。これを SYN flood 攻撃と呼ぶ。この問題への対策として提案された方法として、SYN cookies や暗号的パズルがある。Sockstress も類似の攻撃法だが、システムのリソース管理によって効果を和らげることができる。オンラインマガジン Phrack 66号では、TCPの Persist Timer に存在する脆弱性を利用した改良型DoS攻撃の分析を行っている。
TCPセッションを盗聴できパケットをリダイレクトできる攻撃者は、TCPコネクションを乗っ取ることができる。その場合、攻撃者は進行中の通信からシーケンス番号を読み取り、ストリームにおける次のセグメントを装った偽のセグメントを作る。そのような簡単な乗っ取りで、通信中の一方に1つのパケットを誤って受け取らせることができる。受け取ったホストが余分なセグメントへの確認応答をコネクションのもう一方に返すと、同期が失われる。ARPまたはルーティング攻撃を組合わせることで、乗っ取ったTCPコネクションの制御を完全に奪うことができる。
RFC 1948 が登場する以前は異なるIPアドレスを真似ることは難しくなく、初期シーケンス番号は容易に推測可能だった。そのため攻撃者はARP/ルーティング攻撃を併用することなく、適当な一連のパケットを受信者に送信し、異なるIPアドレスからのものだと信じさせることができた。その際、偽装したIPアドレスの本来のホストがダウンしていれば十分であり、Dos攻撃でそのホストをダウンさせればよかった。以上のような理由から、初期シーケンス番号のランダムな選択が行われるようになった。
TCPにおけるポートは「ホスト内アドレス」である。
単一のホストでは複数のプロセス(≒ アプリケーション)が動作している。TCPはホスト内の"部屋番号"に相当するポート、ポートとインターネットアドレスの組み合わせであるソケット(英: socket)を定義し、このソケット-ソケット間で通信を行う。単一ホスト内に複数ポートが存在することで、単一のホスト上で複数のプロセスが同時にTCP通信できる(多重化)。各ポートはポート番号として知られるポート識別子が設定されており、プロセスとポートを結びつけることでそのプロセスへの通信を可能にする。ポート番号は16ビット符号なし整数 (0-65535) の範囲をもつ。
コネクション(英: connection)は一組のソケットで識別される論理的通信路である。すなわち「ソケット 172.16.0.0:1024 とソケット 192.168.0.0:80 を繋ぐ論理的通信路」といった形で識別されるものがコネクションである。受信したTCPセグメントは特定のコネクションに属すると識別される。
ポート番号は大きく3つに分類されており、ウェルノウン (well-known)、レジスタード (registered)、ダイナミック/プライベート (dynamic/private) がある。ウェルノウンポート番号は Internet Assigned Numbers Authority (IANA) が割り当てを行っており、主にシステムレベルや重要なプロセスで使われている。サーバとして動作する有名なアプリケーションは、それらのポートを使いコネクション確立要求を待ち受けているのが一般的である。例えば、FTP (20, 21)、SSH (22)、TELNET (23)、SMTP (25)、HTTP (80) などがある。レジスタードポート番号は一般にエンドユーザー用アプリケーションが送信元のエフェメラルポートとしてサーバに接続するのに使うが、サードパーティが登録した名前を持ったサービスの識別にも使われている。ダイナミック/プライベートポート番号もエンドユーザーのアプリケーションで使えるが、一般にそのような使い方は少ない。ダイナミック/プライベートポート番号は、それを使っている特定のTCPコネクションでしか意味を持たない。
TCPは複雑なプロトコルである。長年重大な改良が実施されたり提案されたりしてきたが、1974年に RFC 675 で最初の仕様が登場し、1981年9月に RFC 793 でバージョン4が登場して以来、基本的動作はほとんど変わっていない。RFC 1122 (Host Requirements for Internet Hosts) はTCPプロトコルの実装時の要求仕様を何点か明確にし、近年最も重要なTCP関連のRFCの1つである RFC 2581 (TCP Congestion Control) は輻輳を防ぐための新たなアルゴリズムを提示している。2001年、RFC 3168 で明示的輻輳通知(英語版) (ECN) が提示された。2022年8月には、RFC 675とそれ以降の拡張をまとめたRFC 9293が公開されている。
当初のTCP輻輳回避アルゴリズム(英語版)は "TCP Tahoe" と呼ばれているが、代替アルゴリズムも多数提案されている(TCP Reno、TCP Vegas、FAST TCP、TCP New Reno、TCP Hybla など)。
マルチパスTCP (MPTCP)はIETFで近年進行中の改良で、リソース利用効率と冗長性を高めるためにTCPコネクションを複数経路にする試みである。Multipath TCP による冗長性は、無線ネットワークでリソースの統計多重化を可能にし、TCPのスループットを劇的に高める。マルチパスTCP はデータセンター環境にも性能面の利点をもたらす。Multipath TCP のリファレンス実装がLinuxカーネル向けに開発されている。
TCP Cookie Transactions (TCPCT) は2009年12月に提案された拡張で、サーバをDoS攻撃から守ることを意図している。SYN cookies とは異なり、TCPCTはウィンドウスケーリングなどの他のTCP拡張と共存できる。TCPCTは、短命なTCPコネクションをサーバが多数処理しなければならないDNSSECでの必要から設計された。
tcpcrypt は2010年7月に提案された拡張で、TCP自身で直接暗号化するものである。透過的に動作可能なように設計されており、設定変更は不要である。TLS (SSL) とは異なり、tcpcrypt 自体は認証機構を持たないが、そのための簡単なプリミティブをアプリケーションに提供する。2010年現在、IETF による最初のドラフトが公表されており、いくつかの主要プラットフォームでの実装が存在する。その後、2019年には実験的(Experimental)のステータスのRFC 8547およびRFC 8548が公開されている。
TCPは有線ネットワーク向けに最適化されてきた。一般にパケット喪失はネットワーク輻輳の結果と判断され、予防のために輻輳ウィンドウサイズが大幅に縮小される。しかし無線の場合、減衰、影に入る、ハンドオーバーなどの無線特有の原因でパケットを喪失することがあり、輻輳が原因とは限らない。無線パケット喪失による(誤った)輻輳ウィンドウサイズ縮小後、輻輳回避のための保守的なウィンドウサイズの縮小も行われる可能性がある。これにより無線リンクの効率が低下する。このような問題への対策が広く研究されている。提案されている対策としては、エンドツーエンド型の対策(クライアントとサーバの修正が必要)とリンク層の対策(RLPなど)とプロキシを使った対策(端点以外のネットワークの何らかの変更が必要)がある。
LANアナライザはネットワークリンク上のTCPトラフィックをインターセプトできる機器で、リンク上を通るパケットの内容を表示でき、ネットワーク、プロトコルスタック、TCPを使っているアプリケーションのデバッグに有効である。一部の実装ではソケットの setsockopt() で SO_DEBUG オプションを指定でき、全パケット、TCPのステータス、ソケット上のイベントなどを出力でき、デバッグに有効である。他に、netstatもデバッグに使われる。
TCPの使用で明らかになった主要な問題は、ヘッドオブラインブロッキングとマルチホーミングの欠如による、コールシグナリングに許容できない遅延の発生である。さらに、TCPの多くの用途は適切とはいえない。(少なくとも通常の実装での)最大の問題は、喪失パケットの再送を受信してからでないと受信済みの後続のパケットをアプリケーションで利用できない点である。特にストリーミング、オンラインゲーム、VoIPなどのリアルタイム型アプリケーションで重要な問題であり、データの順序性よりも適時性が重要である。
歴史的・性能的理由により、ストレージエリアネットワーク (SAN) はTCP/IPよりもファイバーチャネルプロトコルを採用することが多い。
組み込みシステムでも、ネットワークブートや多数のクライアントからの簡単な要求を受け付けるサーバ(例えばDNSサーバ)でTCPの複雑さが問題となる可能性がある。さらには、STUNなどの NAT traversal 技法では相対的に複雑なTCPを使わずに、遥かに単純な方法で実現している。
一般にTCPが適さない場合は User Datagram Protocol (UDP) を使用する。UDPはTCPと同様にアプリケーション多重化とチェックサム機構を提供するが、ストリームの構築や再送を行わず、アプリケーションにそういった機能の実装を任せている。
SCTPは、TCPとよく似たストリーム指向のサービスを提供するプロトコルである。TCPより新しくさらに複雑であり、広く普及したとは言い難い。しかし、信頼性とリアルタイム性を同時に必要とする用途を意図して設計されている。
TCPは広帯域環境でも問題を抱えている。TCP輻輳回避アルゴリズム(英語版)は、送信者が事前にわからない場当たり的な環境ではうまく機能するが、通信パターンが予測可能な環境では Asynchronous Transfer Mode (ATM) のようなタイミングに基づくプロトコルの方がオーバーヘッドが小さく、うまく機能する。
IPv4上のTCPの場合、チェックサム計算法は RFC 793 で定義されている。
チェックサム・フィールドは、ヘッダおよびテキストの全16ビットワードの1の補数の総和の1の補数の下位16ビットである。オクテット数が奇数の場合、最後のオクテットの右にゼロの列をパディングして16ビットワードにしてからチェックサムを計算する。このパディングはセグメントの一部として送信することはない。チェックサム計算時、チェックサム・フィールド自体はゼロとして計算する。
言い換えれば、正しくパディングした後、全16ビットワードを1の補数表現で加算していく。そして総和をビット毎に反転してチェックサム・フィールドに挿入する。チェックサム計算時には、IPv4パケットヘッダを真似た擬似ヘッダも含めて行うことになっている。擬似ヘッダを含めたチェックサム計算範囲を以下に示す。
上のピンクの部分はIPv4ヘッダの一部である。プロトコル番号はTCPでは 6 である。パケット長はTCPヘッダとデータの合計の長さである。
IPv6上のTCPの場合、チェックサム計算法は RFC 2460 で示すように変更されている。
チェックサム計算にIPヘッダのアドレスを含める上位層のプロトコルでは、IPv4の32ビットアドレスの代わりにIPv6の128ビットのアドレスを使うよう変更しなければならない。
チェックサム計算で使うIPv6ヘッダを真似た擬似ヘッダは次のようになる。
多くのTCP/IPスタック実装では、ネットワークカードによる自動チェックサム計算を補助的に使うオプションを用意している。これによりCPUサイクルをチェックサム計算に費やすコストを低減でき、ネットワーク性能を向上させることができる。
なお、送信時にチェックサム計算をネットワークカードに任せていると、LANアナライザがチェックサムエラーを検出することがある。 | [
{
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"text": "Transmission Control Protocol(トランスミッション コントロール プロトコル、TCP)はIPネットワーク上のアプリ間・コネクション型・高信頼性・ストリーム指向の通信プロトコルである。伝送制御プロトコルとも呼ばれる。",
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},
{
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"text": "TCPは通信プロトコルである。TCPではポート、ソケット、コネクションの概念が導入され、IPネットワークのホスト上にあるアプリケーション同士がコネクションを通じて通信する。確立されたコネクションはTCPが定める制御機構によって到着が保証され、破壊が検出され、流量や輻輳が制御されており、これを通信路としてバイトストリームが伝達される。",
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"text": "TCPを用いることでインターネットにおける到達保証付きアプリケーション間メッセージ通信が可能になるため、ファイル転送、電子メール、World Wide Web、リモート管理(英語版)など様々なインターネット・アプリケーションで利用される。上位プロトコルにはHTTP、FTP、Telnet、SSHなどがある。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "TCPはインターネット・プロトコル・スイートを構成し、Internet Protocolの上位プロトコルとして使われる。またOSI参照モデルに当てはめるならトランスポート層にあたる。その仕様はIETFによりRFC 9293 (STD 7) として標準化されている。なお、IPヘッダでのプロトコル番号は6である。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "対比されるプロトコルにUser Datagram Protocol (UDP) がある。UDPは信頼性よりもシンプルさ・低レイテンシを重視したデータグラム通信を提供する。TCPはより信頼性が高くその分オーバーヘッドがある。",
"title": "概要"
},
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"text": "1974年5月、Institute of Electrical and Electronic Engineers (IEEE) が \"A Protocol for Packet Network Interconnection\" と題した論文を出版。著者はヴィントン・サーフとロバート・カーンで、ノード間でパケット通信を使い資源を共有するインターネットワーキングのプロトコルを記述したものである。このモデルでの中核制御コンポーネントが Transmission Control Program で、ホスト間のコネクション指向のリンクとデータグラムサービスの両方を含んでいた。当初一体だった Transmission Control Program は後にモジュール化されたアーキテクチャに分割され、コネクション指向部分の Transmission Control Protocol とデータグラムサービス部分の Internet Protocol に分けられた。このモデルを一般に TCP/IP と呼ぶが、公式にはインターネット・プロトコル・スイートと呼ぶようになった。",
"title": "起源"
},
{
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"text": "TCPはIPネットワーク上で利用され以下の機能を提供する。これらの機能を実現する機構は#プロトコル操作を参照。",
"title": "機能"
},
{
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"text": "IPはホスト間通信を可能にするが、そのままだとホストへの全信号を1つのアプリケーションのみが受け取る。TCPはポート機能を提供することで、1ホスト内複数アプリケーションへの通信振り分けを可能にする。すなわちアプリケーション間通信を提供する。",
"title": "機能"
},
{
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"tag": "p",
"text": "IPはパケットの送出を可能にするがパケットの到達を保証しない。TCPは到達確認とデータ再送要求を提供することで、送出されたセグメントが宛先へ到達することを保証する。",
"title": "機能"
},
{
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"text": "IPは独立したパケットを送信するため、パケット間の関係性を扱わない。TCPはバイトストリーム入出力機能を提供することで、実用されるIPパケットサイズを超えた、ファイルやデータストリームの送信を可能にする。",
"title": "機能"
},
{
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"text": "ネットワークの輻輳や負荷分散、その他ネットワークの予測できない振る舞いにより、IPパケットは遅延し順序がばらばらに届きうる。ストリームをパケットに分割して送出しそれを到着順に再構成した場合、元のストリームを復元できる保証がない。TCPは順序制御を提供することで、パケット群からストリームを再構築できることを保証する。",
"title": "機能"
},
{
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"tag": "p",
"text": "IPは疎通の確認なくパケットを送信するため、コネクション(仮想回線)の概念を持たない。TCPはソケット対に基づくコネクションを定義することでコネクション型通信を提供する。ストリーム送信や各種制御はコネクション単位で管理されるため、単一のアプリケーションが複数のコネクション(宛先アプリケーション)を独立して扱えるようになる。",
"title": "機能"
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"text": "通信先にとって過剰量のデータがコネクションへ流れ込まないよう、TCPは流量制御を提供する。",
"title": "機能"
},
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"text": "IPネットワークへ無秩序にパケットが送出されるとネットワークの混雑(輻輳)を引き起こす。TCPはそれらの問題を検出し、ネットワークの混雑が起きにくくなるよう制御して他の問題が発生する可能性を低くする。",
"title": "機能"
},
{
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"text": "TCPは高速さよりも正確さに最適化されている(高信頼ストリーム配送サービス)。ゆえにパケットの到達が保証され、データを正しく並べかえることができる。その反面、メッセージの順序がばらばらだったり、喪失したメッセージの再送を待ったりすることがあると、秒のオーダーの比較的長い遅延が生じることがある。これはリアルタイム性を求められるVoIPなどのアプリケーションには向いていない。そのような用途には一般に User Datagram Protocol (UDP) 上の Real-time Transport Protocol (RTP) などのプロトコルが推奨される。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "TCPの利用例としてWorld Wide Web (WWW)、電子メール、File Transfer Protocol、Secure Shell、ファイル共有、一部のストリーミングが挙げられる。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "TCPセグメント(英: TCP segment)はTCPにおける送受信単位である。",
"title": "TCPセグメント構造"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "TCPは上位から受け取ったデータを分割し、それにTCPヘッダを付与してTCPセグメントを作成する。TCPセグメントはさらに Internet Protocol (IP) データグラムにカプセル化される。TCPセグメントは「データを相手と交換するためにTCPが使う情報の束」である。",
"title": "TCPセグメント構造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "なお、非公式に「TCPパケット」という用語が使われることがあるが、最近の用法では TCP PDU (Protocol Data Unit) は「セグメント」、IP PDU は「データグラム」、データリンク層のPDUは「フレーム」と呼ぶのが一般的である。",
"title": "TCPセグメント構造"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "プロセスはTCPを呼び出し、データを格納したバッファを引数で渡すことでデータを送信する。TCPはそれらのバッファ内のデータをセグメント群にパッケージし、インターネット・モジュール(例えばIP)を呼び出すことで宛先のTCPへ各セグメントを送信する。",
"title": "TCPセグメント構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "TCPセグメントは、セグメント・ヘッダとデータ部分から成る。TCPヘッダは10の必須フィールドとオプションの拡張フィールドを含む(テーブルではオプション部分をオレンジで示している)。",
"title": "TCPセグメント構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "データ部はヘッダ部の後に続いている。その内容はアプリケーションに渡すべきデータである。データ部の長さはTCPセグメントのヘッダには記されておらず、IPヘッダにあるIPデータグラム長からIPヘッダとTCPヘッダの長さを差し引いて計算できる。",
"title": "TCPセグメント構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "一部のオプションはSYNがセットされているときだけ送信される。それらは以下で で示している。各行の先頭は「オプション種別[, オプション長, オプション値](全ビット数)」の形式で示す。",
"title": "TCPセグメント構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "他のオプションは既に使われていないもの、実験的なもの、標準になっていないものなどである。",
"title": "TCPセグメント構造"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "TCPプロトコル操作は3つのフェーズに分けられる。コネクションは多段階のハンドシェイクプロセスで正しく確立する必要があり(コネクション確立フェーズ)、その後「データ転送フェーズ」に入る。データ転送が完了したら「コネクション終了フェーズ」で仮想回線を閉じ、確保していたリソースを解放する。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "TCPコネクションはオペレーティングシステムがソケットというプログラミングインタフェースを通して管理する。TCPコネクションが存在する間、以下のような状態間で遷移する。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "コネクションを確立する際、TCPでは3ウェイ・ハンドシェイクを行う。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "クライアントがサーバと接続する前、サーバはコネクション可能なようにポートをバインドしておかなければならない。これをパッシブ・オープンと呼ぶ。サーバ側がパッシブ・オープンになっていれば、クライアントはアクティブ・オープンを開始できる。コネクションを確立するための3ウェイ・ハンドシェイクは次のようになる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "この時点でクライアントとサーバ双方がコネクション確立の確認応答を受け取ったことになる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "多くの実装では、テーブルの1エントリを動作中のOSプロセスとのセッションにマッピングする。TCPセグメントにはセッション識別子がないため、通信している双方でクライアントのアドレスとポートでセッションを識別する。パケットを受信すると、TCPソフトウェアはそのテーブルを参照して、対応するプロセスを見つける。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "サーバ側でのセッション数はメモリ容量にのみ制限され、コネクション確立要求がくるたびに増えていく。しかし、クライアントはサーバに最初のSYNセグメントを送る前に無作為にポートを選んで確保しなければならない。このポートはコネクションをクローズするまで確保され続け、実質的にクライアントの持つIPアドレス毎の外に出て行くコネクション数を制限している。アプリケーションが不要になったコネクションをクローズしそこねると、空いているポートが足りなくなり、新たなTCPコネクションを確立できなくなる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、通信する双方で確認応答を受け取っていない送信済みデータとアプリケーションに渡す前の受信データを格納しておく領域を確保する必要がある。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "TCPが提供する機能(#機能を参照)は以下の機構で提供される。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "TCPは「シーケンス番号」を使ってデータの各バイトを識別する。シーケンス番号は双方のホストが送信するバイト列に先頭から振られる番号であり、それによってデータがどう分割されても、順番が入れ替わっても、転送中に失われても、元のデータを復元できる。ペイロードの各バイトを送るたびにシーケンス番号をインクリメントしなければならない。3ウェイ・ハンドシェイクの最初の2ステップで、双方のホストは初期シーケンス番号 (ISN) をやりとりする。この番号は任意であり、TCPシーケンス番号予測攻撃への防御のために予測不可能な値とすべきである。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "TCPは「累積確認応答」方式を採用しており、受信側が確認応答を返すとき、そのセグメントで示されている確認応答番号は、対応するシーケンス番号未満のデータを全て受信済みであることを示している。送信側はペイロードの先頭バイトのシーケンス番号をそのセグメントのシーケンス番号として設定する。受信側は次に受信することを期待しているバイトのシーケンス番号を確認応答番号に設定して確認応答を返す。例えば、送信側が4バイトのペイロードをシーケンス番号 100 で送信する場合、そのペイロードの4バイトのシーケンス番号は順に 100、101、102、103 である。受信側がこのセグメントを受信すると、その確認応答での確認応答番号は 104 となり、次のパケットで送られてくるペイロードの先頭バイトのシーケンス番号となっている。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "累積確認応答に加えて、受信側は選択確認応答でさらなる情報を送ることができる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "送信側がネットワーク内でデータが失われたと判断した場合、データの再送を行う。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "後述の#チェックサムの計算も参照。 シーケンス番号と確認応答は、パケットの重複、喪失パケットの再送、データの順序通りの並べ替えなどを扱っている。受信したパケットの内容が正しいことを確認するため、TCPにはチェックサムフィールドがある。チェックサムフィールドは設定必須の項目であり省略できない。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "TCPチェックサムは、現在の標準から見れば弱い。データリンク層のビット誤り率が高ければ、TCPチェックサムとは別の誤り検出訂正機能が必要である。TCP/IPの下層であるデータリンク層には一般にCRCなどのもっと強力な検査機構があり、TCPチェックサムの弱さを一部補っている(例えば、PPPやイーサネット)。しかし、だからといって16ビットのTCPチェックサムが無駄というわけではない。実際、CRCで保護された通信路でパケットに誤りが残ることはよくあるが、エンドツーエンドの16ビットTCPチェックサムがそういった単純な誤りを捉えている。これはエンドツーエンド原理が機能している例である。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "TCPはエンドツーエンドのフロー制御プロトコルを使い、送信ペースが受信側にとって速すぎる状態になるのを防いでいる。様々な性能の機器が接続されたネットワークでは、フロー制御は欠かせない機構である。例えば、PCから性能の劣るPDAにデータを送る場合、PDAの性能に合わせて送信ペースを調整する必要がある。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "TCPはスライディングウィンドウによるフロー制御を採用している。各TCPセグメントについて、受信側は「ウィンドウサイズ」フィールドで、そのコネクション用のバッファの空き容量に相当する今後受信可能なデータの量(バイト単位)を示す。送信側は確認応答を待ち合わせるまでに、そのフィールドで指定された量までのデータを送り、新たな確認応答でウィンドウサイズ・フィールドを確認してさらに送信できるデータ量を更新する。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "受信側がウィンドウサイズを0としたとき、送信側は送信を停止してタイマ (persist timer) を起動する。このタイマは受信側のウィンドウサイズの更新セグメントが喪失してデッドロック状態になるのを防ぐためのものである(受信側がウィンドウサイズを更新しないと送信を再開できないため)。タイマがタイムアウトすると、送信側は小さなパケットを送り、その確認応答で受信側のウィンドウサイズが回復したかを調べる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "受信側での受信データの処理が遅いと、ウィンドウサイズの指定は小さいままとなる。これをSilly Window Syndrome(英語版) (SWS)と呼び、送信側は1度に数バイトのデータしか送れなくなり、TCPヘッダの方が大きな割合を占めるため転送効率が極端に低下する。そのような状況に陥らないようにするためのウィンドウ・アルゴリズムが RFC 813 (Window and acknowledgement strategy in TCP) に記載されている。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "TCPは高性能を達成し輻輳崩壊(ネットワーク性能が数桁のオーダーで低下する現象)を防ぐため、輻輳制御機構をいくつか備えている。ネットワークに流入させるデータレートを制御し、崩壊のきっかけとなるようなレート未満でデータを送るよう保つ。また、おおまかに最大最小公平(英語版)なフロー割り当てを目指す。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "送信データへの ACK (確認応答)の有無は、送信側でネットワークの状態を推測する材料となる。これをタイマと組み合わせ、データのフローの振る舞いを変化させることができる。これを一般に輻輳制御またはネットワーク輻輳回避などと呼ぶ。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "最近のTCP実装では、スロースタート(英語版)、輻輳回避(英語版)、TCP高速再送アルゴリズム(英語版)、ファストリカバリ(en, RFC 5681) という4つの相互にからみあったアルゴリズムを使用している。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "スループットをあげるため輻輳しない限界まで送信側はスライディングウィンドウを大きくする必要があるが、ウィンドウサイズを調整する輻輳回避アルゴリズムは長年研究されている。一覧は w:TCP congestion avoidance algorithm を参照。かつては、輻輳するとパケットロスが発生することを利用し、パケットロスをベースにした TCP Reno およびそれを改良した TCP NewReno (RFC 3782) がよく使われていたが、現在では、送信側のスライディングウィンドウにどれだけの時間とどまっていたかを元にしたアルゴリズム (Delay-based Congestion Avoidance) が中心になっており、Microsoft Windows では、Windows Vista 以降は、Compound TCP(英語版) が採用され、Linux では 2.6.8〜2.6.18 は BIC TCP(英語版) が、2.6.19 以降は CUBIC TCP(英語版) が使われている。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "さらに送信側には「再送タイムアウト (RTO)」があり、送信してから確認応答が戻るまでの時間であるラウンドトリップタイム (RTT) を推算し、ばらつきも考慮して設定する。このタイマの動作は RFC 2988 で規定されている。RTTの推算には微妙な点がある。例えば、再送パケットのRTTを計算する場合は注意しなければならず、一般にカーンのアルゴリズム(英語版)やTCPタイムスタンプ(RFC 1323 参照)を使う。個々のRTTの標本から時系列で平均をとり、ジェイコブソンのアルゴリズムを使って Smoothed Round Trip Time (SRTT) を生成する。最終的にSRTT値がRTTの推算に使われる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "TCPを拡張して、喪失を高信頼に扱ったり、誤りを最小化したり、輻輳を制御してより高速化しようという試みが今も行われている。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "最大セグメントサイズ以下の小さなパケットをばらばらと送るのは非効率なので、送信を遅延し、それらを1つのTCPパケットにまとめるのが、Nagleアルゴリズムである。同様に、複数のACKを1つにまとめるのが、TCP遅延ACKである。どちらも、送信を遅延させるという点においては同じだが、相互に影響し合い、遅延が増大するという問題があり、詳細はNagleアルゴリズムを参照。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "最大セグメントサイズ (MSS) はバイト単位で指定され、単一のセグメントとして受信可能な最大データ量を示す。性能を最大限発揮するにはIPフラグメンテーションを十分防げる程度に小さくする必要がある。IPフラグメンテーションが行われると、パケット喪失時の再送に時間がかかることになる。一般にコネクション確立時にMSSオプションを使って双方のMSSを通知するので、適切なMSSを決めるにはデータリンク層の Maximum Transmission Unit (MTU) から導出したMSSを通知すればよい。さらに送信側は経路MTU探索を使うことができ、通信相手との間にある経路でMTUが最小の部分を推定し、それを使ってMSSを動的に調整しIPフラグメンテーションを防ぐことができる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "MSS通知は「MSSネゴシエーション」とも呼ばれる。ネゴシエーションというと送信側と受信側が交渉して合意に達するかのように思われるが、実際には異なり、送信する方向によってそれぞれ異なるMSSが設定可能である。これは例えば一方がメモリ容量が小さいため、バッファ領域を大きくとれない場合などに起きる(発見したパスMTUより小さいこともありうる)。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "もともとのTCPプロトコルで採用されている累積確認応答方式を使うと、パケットを喪失したときに非効率になる可能性がある。例えば、10,000バイトのデータを10個のTCPセグメントで送信し、その最初のパケットが喪失したとする。もともとの累積確認応答プロトコルでは、受信側は1,000から9,999までのバイトは受信成功、ただし0から999までのバイトを含む先頭パケットの受信に失敗したという風に伝えることができないので、送信側は10,000バイト全体を再送しなければならない。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "このため RFC 2018 で「選択確認応答 (SACK)」オプションが追加された。これは、通常の累積確認応答とは別に、受信側が不連続なブロックを正しく受信したという確認応答を返せるようにしたものである。選択確認応答にはオプション部分にいくつかのSACKブロックを指定し、SACKブロックには正しく受信できた連続な範囲のシーケンス番号の開始点と終了点を指定する。例えば、先ほどの例では 1000 と 9999 のシーケンス番号をSACKオプションで示せばよい。すると送信側は 0 から 999 までのバイトを含む最初のパケットだけを再送する。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "SACKオプションの拡張として RFC 2883 で定義されたデュプリケートSACK (D-SACK) オプションがある。パケットの順序がばらばらになると、送信側への確認応答も順序どおりにならないため送信側でパケット喪失と勘違いし、喪失したと思われるパケットを再送することがあり、同時にネットワーク輻輳を防ぐため送信ペースを落とす。このとき、受信側が D-SACK オプションで再送パケットが重複していることを通知すれば、遅くなっていた送信ペースを元に戻すことができる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "SACKオプションは必須ではなく、両者がサポートしている場合だけ使われる。これはコネクション確立時に調整される。SACKオプションは主なTCPスタックでサポートされており、広く使われている。選択確認応答は Stream Control Transmission Protocol (SCTP) でも使われている。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "広帯域ネットワークをより効率的に使うには、TCPウィンドウのサイズを大きくする必要がある。TCPヘッダのウィンドウサイズのフィールドは16ビットで、2バイトから65,535バイトまでしか設定できない。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ウィンドウサイズ・フィールドは拡張できないので、スケールファクタ(英語版)が導入されている。RFC 7323 で定義されているウィンドウスケール・オプションを使えば、最大ウィンドウサイズを 65,535 バイトから 1 ギガバイトに拡張できる。ウィンドウサイズのスケールアップはTCPのチューニング (en) に必須の要素である。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ウィンドウスケール・オプションは3ウェイ・ハンドシェイクの際にしか使われない。ウィンドウスケール・オプションのオプション値は、16ビットのウィンドウサイズ・フィールドの値を左にシフトするビット数を表している。ウィンドウスケールの値は0(シフトしない)から14まで指定でき、通信の双方向で別々に設定できる。どちらの方向もSYNセグメントのオプションとして通知する。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "一部のルーターやファイアウォールは、このスケールファクタを転送時に書き換えることがある。すると送信側と受信側でウィンドウサイズの認識が異なることになり、トラフィックが不安定になって、非常に低速になることがある。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "TCPタイムスタンプは RFC 1323 で定義されており、パケット送出の順序をTCPレベルで知ることが出来る。TCPタイムスタンプはシステムクロックに合わせているわけではなく、無作為な値から開始する。多くのOSはこのタイムスタンプ値をミリ秒単位でインクリメントする。ただし、RFCは単に時間経過に比例して増加すべきだとしているだけである。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "タイムスタンプのフィールドは2つある。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "TCPタイムスタンプは PAWS (Protection Against Wrapped Sequences) と呼ばれるアルゴリズム(RFC 1323 参照)で利用する。PAWSは、2の32乗まであるシーケンス番号が一周してしまう場合に使われる。シーケンス番号はデータバイト毎に振られるので、最大4ギガバイトしか表せないが、最近の高速ネットワークでは1分以内に一周する可能性があり、再送が必要になったとき、現在の周回なのか前の周回なのかを識別するのにタイムスタンプを使う。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "RFC 1323 の2.2節では、ウィンドウサイズは1ギガバイトまでとされているため、多くの実装でスケールオプションの最大値を14までとしている。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "また、Eifel detection アルゴリズム (RFC 3522) でもTCPタイムスタンプを使っており、再送の原因がパケット喪失なのか順序がばらばらになったせいなのかを判断する。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ストリームが完了するのを待たずに、キューイングされたストリームに割り込むことができる。この場合、緊急 (urgent) と指定したデータを使う。それによって受信側プログラムが緊急データをすぐさま処理すべきであることを知らせる。その処理が終了すると、もとのストリーム・キューの処理を再開する。例えば、リモートログインのセッションにTCPを使っているとき、ユーザーが実行中のプログラムをアボートさせるキーシーケンスを送るときなどに使われる。プログラムが暴走したときなど、そのプログラムの出力を待っているのではなく、強引にアボートさせたいときに必須となる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "帯域外データの概念は現在のインターネット向けの設計ではない。緊急ポインタは相手ホストでの処理を変えるものであって、ネットワーク上の処理は何も変わらない。緊急ポインタのあるセグメントがリモートホストに到着したとき、若干異なる2つのプロトコルの解釈があり、単一バイトの帯域外データしか信頼できないという状況になっている。そのため滅多に使われず、実装も貧弱になる傾向がある 。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "通常、TCPは送信すべきデータが最大セグメントサイズ (MSS) まで溜まるか、200ミリ秒経過するまで待つ(Nagleアルゴリズムで小さいメッセージを単一パケットにまとめようとするため)。これは例えばファイル転送のような一定の送信が要求される場合に問題となることがある。例えば、送信ブロックが一般的な4KBで、MSSも一般的な1460バイトだとする。すると1ブロックが3セグメントで送信され、最後の1セグメントはMSSに満たないことになる。すると、2パケットまでは約1.2ミリ秒で送信され、1176バイトの3パケット目は197ミリ秒待ってから送信ということになる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "Telnetの場合、ユーザーがキーを押下するたびに通信先からエコーバックされて画面に文字が表示される。すると、1文字押下するたびに200ミリ秒待たされることになり、非常にストレスになる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "この場合、ソケットのオプション TCP_NODELAY を使ってデフォルトの200ミリ秒の送信遅延を変更することができる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "RFCには PSH フラグを使って「受信側TCPスタックでそのデータを即座にアプリケーションに送る」という機能が定義されている。しかしソケットにはこれを制御するインタフェースがなく、プロトコルスタックの実装に任されている。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "コネクション終了フェーズは多くの場合「4ウェイ・ハンドシェイク」を使い、コネクションの双方がそれぞれ独立に終了できる。一方がコネクションを終了したい場合、FINセグメントを送信し、相手がそのACKを返す。相手も同様にFINを送ってACKを受信することでコネクションを終了する。両方のFIN/ACK交換が済むと、最後にACKを送った側(先にFINを送った側)がタイマを設定してタイムアウトするまで当該ポートを別のコネクションに再利用できないようにする。これによって配送が遅れていたパケットが新たなコネクションで受信されて混乱するのを防ぐ。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "コネクションは「ハーフオープン」という状態にもでき、一方だけ終了していても、もう一方はデータを送り続けることができる。終了した側はもう一方が終了するまで受信可能の状態を継続する。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "コネクション終了を3ウェイ・ハンドシェイクで行うこともでき、ホストAのFIN送信に対してホストBが FIN+ACK で応答し、ホストAがACK応答する。実際にはこれが最も一般的である。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "両方から同時にFINセグメントを送りあい、双方がACKを返すということもありうる。FIN/ACKシーケンスが並行して行われるため、2ウェイ・ハンドシェイクと呼ぶこともできる。",
"title": "プロトコル操作"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "TCPは様々な方法で攻撃される可能性がある。TCPの完全なセキュリティアセスメントの結果は、認識されていた問題の考えうる対策と共に2009年に公表され、その後もIETF内で進められている。",
"title": "脆弱性"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "IPスプーフィングを使い、悪意を持って作ったSYNパケットを繰り返し送信することで、偽の接続に対処するために対象サーバの多大な量のリソースを消費させることができる。これを SYN flood 攻撃と呼ぶ。この問題への対策として提案された方法として、SYN cookies や暗号的パズルがある。Sockstress も類似の攻撃法だが、システムのリソース管理によって効果を和らげることができる。オンラインマガジン Phrack 66号では、TCPの Persist Timer に存在する脆弱性を利用した改良型DoS攻撃の分析を行っている。",
"title": "脆弱性"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "TCPセッションを盗聴できパケットをリダイレクトできる攻撃者は、TCPコネクションを乗っ取ることができる。その場合、攻撃者は進行中の通信からシーケンス番号を読み取り、ストリームにおける次のセグメントを装った偽のセグメントを作る。そのような簡単な乗っ取りで、通信中の一方に1つのパケットを誤って受け取らせることができる。受け取ったホストが余分なセグメントへの確認応答をコネクションのもう一方に返すと、同期が失われる。ARPまたはルーティング攻撃を組合わせることで、乗っ取ったTCPコネクションの制御を完全に奪うことができる。",
"title": "脆弱性"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "RFC 1948 が登場する以前は異なるIPアドレスを真似ることは難しくなく、初期シーケンス番号は容易に推測可能だった。そのため攻撃者はARP/ルーティング攻撃を併用することなく、適当な一連のパケットを受信者に送信し、異なるIPアドレスからのものだと信じさせることができた。その際、偽装したIPアドレスの本来のホストがダウンしていれば十分であり、Dos攻撃でそのホストをダウンさせればよかった。以上のような理由から、初期シーケンス番号のランダムな選択が行われるようになった。",
"title": "脆弱性"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "TCPにおけるポートは「ホスト内アドレス」である。",
"title": "TCPポート"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "単一のホストでは複数のプロセス(≒ アプリケーション)が動作している。TCPはホスト内の\"部屋番号\"に相当するポート、ポートとインターネットアドレスの組み合わせであるソケット(英: socket)を定義し、このソケット-ソケット間で通信を行う。単一ホスト内に複数ポートが存在することで、単一のホスト上で複数のプロセスが同時にTCP通信できる(多重化)。各ポートはポート番号として知られるポート識別子が設定されており、プロセスとポートを結びつけることでそのプロセスへの通信を可能にする。ポート番号は16ビット符号なし整数 (0-65535) の範囲をもつ。",
"title": "TCPポート"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "コネクション(英: connection)は一組のソケットで識別される論理的通信路である。すなわち「ソケット 172.16.0.0:1024 とソケット 192.168.0.0:80 を繋ぐ論理的通信路」といった形で識別されるものがコネクションである。受信したTCPセグメントは特定のコネクションに属すると識別される。",
"title": "TCPポート"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ポート番号は大きく3つに分類されており、ウェルノウン (well-known)、レジスタード (registered)、ダイナミック/プライベート (dynamic/private) がある。ウェルノウンポート番号は Internet Assigned Numbers Authority (IANA) が割り当てを行っており、主にシステムレベルや重要なプロセスで使われている。サーバとして動作する有名なアプリケーションは、それらのポートを使いコネクション確立要求を待ち受けているのが一般的である。例えば、FTP (20, 21)、SSH (22)、TELNET (23)、SMTP (25)、HTTP (80) などがある。レジスタードポート番号は一般にエンドユーザー用アプリケーションが送信元のエフェメラルポートとしてサーバに接続するのに使うが、サードパーティが登録した名前を持ったサービスの識別にも使われている。ダイナミック/プライベートポート番号もエンドユーザーのアプリケーションで使えるが、一般にそのような使い方は少ない。ダイナミック/プライベートポート番号は、それを使っている特定のTCPコネクションでしか意味を持たない。",
"title": "TCPポート"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "TCPは複雑なプロトコルである。長年重大な改良が実施されたり提案されたりしてきたが、1974年に RFC 675 で最初の仕様が登場し、1981年9月に RFC 793 でバージョン4が登場して以来、基本的動作はほとんど変わっていない。RFC 1122 (Host Requirements for Internet Hosts) はTCPプロトコルの実装時の要求仕様を何点か明確にし、近年最も重要なTCP関連のRFCの1つである RFC 2581 (TCP Congestion Control) は輻輳を防ぐための新たなアルゴリズムを提示している。2001年、RFC 3168 で明示的輻輳通知(英語版) (ECN) が提示された。2022年8月には、RFC 675とそれ以降の拡張をまとめたRFC 9293が公開されている。",
"title": "発展"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "当初のTCP輻輳回避アルゴリズム(英語版)は \"TCP Tahoe\" と呼ばれているが、代替アルゴリズムも多数提案されている(TCP Reno、TCP Vegas、FAST TCP、TCP New Reno、TCP Hybla など)。",
"title": "発展"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "マルチパスTCP (MPTCP)はIETFで近年進行中の改良で、リソース利用効率と冗長性を高めるためにTCPコネクションを複数経路にする試みである。Multipath TCP による冗長性は、無線ネットワークでリソースの統計多重化を可能にし、TCPのスループットを劇的に高める。マルチパスTCP はデータセンター環境にも性能面の利点をもたらす。Multipath TCP のリファレンス実装がLinuxカーネル向けに開発されている。",
"title": "発展"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "TCP Cookie Transactions (TCPCT) は2009年12月に提案された拡張で、サーバをDoS攻撃から守ることを意図している。SYN cookies とは異なり、TCPCTはウィンドウスケーリングなどの他のTCP拡張と共存できる。TCPCTは、短命なTCPコネクションをサーバが多数処理しなければならないDNSSECでの必要から設計された。",
"title": "発展"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "tcpcrypt は2010年7月に提案された拡張で、TCP自身で直接暗号化するものである。透過的に動作可能なように設計されており、設定変更は不要である。TLS (SSL) とは異なり、tcpcrypt 自体は認証機構を持たないが、そのための簡単なプリミティブをアプリケーションに提供する。2010年現在、IETF による最初のドラフトが公表されており、いくつかの主要プラットフォームでの実装が存在する。その後、2019年には実験的(Experimental)のステータスのRFC 8547およびRFC 8548が公開されている。",
"title": "発展"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "TCPは有線ネットワーク向けに最適化されてきた。一般にパケット喪失はネットワーク輻輳の結果と判断され、予防のために輻輳ウィンドウサイズが大幅に縮小される。しかし無線の場合、減衰、影に入る、ハンドオーバーなどの無線特有の原因でパケットを喪失することがあり、輻輳が原因とは限らない。無線パケット喪失による(誤った)輻輳ウィンドウサイズ縮小後、輻輳回避のための保守的なウィンドウサイズの縮小も行われる可能性がある。これにより無線リンクの効率が低下する。このような問題への対策が広く研究されている。提案されている対策としては、エンドツーエンド型の対策(クライアントとサーバの修正が必要)とリンク層の対策(RLPなど)とプロキシを使った対策(端点以外のネットワークの何らかの変更が必要)がある。",
"title": "無線ネットワークでのTCP"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "LANアナライザはネットワークリンク上のTCPトラフィックをインターセプトできる機器で、リンク上を通るパケットの内容を表示でき、ネットワーク、プロトコルスタック、TCPを使っているアプリケーションのデバッグに有効である。一部の実装ではソケットの setsockopt() で SO_DEBUG オプションを指定でき、全パケット、TCPのステータス、ソケット上のイベントなどを出力でき、デバッグに有効である。他に、netstatもデバッグに使われる。",
"title": "デバッグ"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "TCPの使用で明らかになった主要な問題は、ヘッドオブラインブロッキングとマルチホーミングの欠如による、コールシグナリングに許容できない遅延の発生である。さらに、TCPの多くの用途は適切とはいえない。(少なくとも通常の実装での)最大の問題は、喪失パケットの再送を受信してからでないと受信済みの後続のパケットをアプリケーションで利用できない点である。特にストリーミング、オンラインゲーム、VoIPなどのリアルタイム型アプリケーションで重要な問題であり、データの順序性よりも適時性が重要である。",
"title": "代替となる選択肢"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "歴史的・性能的理由により、ストレージエリアネットワーク (SAN) はTCP/IPよりもファイバーチャネルプロトコルを採用することが多い。",
"title": "代替となる選択肢"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "組み込みシステムでも、ネットワークブートや多数のクライアントからの簡単な要求を受け付けるサーバ(例えばDNSサーバ)でTCPの複雑さが問題となる可能性がある。さらには、STUNなどの NAT traversal 技法では相対的に複雑なTCPを使わずに、遥かに単純な方法で実現している。",
"title": "代替となる選択肢"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "一般にTCPが適さない場合は User Datagram Protocol (UDP) を使用する。UDPはTCPと同様にアプリケーション多重化とチェックサム機構を提供するが、ストリームの構築や再送を行わず、アプリケーションにそういった機能の実装を任せている。",
"title": "代替となる選択肢"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "SCTPは、TCPとよく似たストリーム指向のサービスを提供するプロトコルである。TCPより新しくさらに複雑であり、広く普及したとは言い難い。しかし、信頼性とリアルタイム性を同時に必要とする用途を意図して設計されている。",
"title": "代替となる選択肢"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "TCPは広帯域環境でも問題を抱えている。TCP輻輳回避アルゴリズム(英語版)は、送信者が事前にわからない場当たり的な環境ではうまく機能するが、通信パターンが予測可能な環境では Asynchronous Transfer Mode (ATM) のようなタイミングに基づくプロトコルの方がオーバーヘッドが小さく、うまく機能する。",
"title": "代替となる選択肢"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "IPv4上のTCPの場合、チェックサム計算法は RFC 793 で定義されている。",
"title": "チェックサムの計算"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "チェックサム・フィールドは、ヘッダおよびテキストの全16ビットワードの1の補数の総和の1の補数の下位16ビットである。オクテット数が奇数の場合、最後のオクテットの右にゼロの列をパディングして16ビットワードにしてからチェックサムを計算する。このパディングはセグメントの一部として送信することはない。チェックサム計算時、チェックサム・フィールド自体はゼロとして計算する。",
"title": "チェックサムの計算"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "言い換えれば、正しくパディングした後、全16ビットワードを1の補数表現で加算していく。そして総和をビット毎に反転してチェックサム・フィールドに挿入する。チェックサム計算時には、IPv4パケットヘッダを真似た擬似ヘッダも含めて行うことになっている。擬似ヘッダを含めたチェックサム計算範囲を以下に示す。",
"title": "チェックサムの計算"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "上のピンクの部分はIPv4ヘッダの一部である。プロトコル番号はTCPでは 6 である。パケット長はTCPヘッダとデータの合計の長さである。",
"title": "チェックサムの計算"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "IPv6上のTCPの場合、チェックサム計算法は RFC 2460 で示すように変更されている。",
"title": "チェックサムの計算"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "チェックサム計算にIPヘッダのアドレスを含める上位層のプロトコルでは、IPv4の32ビットアドレスの代わりにIPv6の128ビットのアドレスを使うよう変更しなければならない。",
"title": "チェックサムの計算"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "チェックサム計算で使うIPv6ヘッダを真似た擬似ヘッダは次のようになる。",
"title": "チェックサムの計算"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "多くのTCP/IPスタック実装では、ネットワークカードによる自動チェックサム計算を補助的に使うオプションを用意している。これによりCPUサイクルをチェックサム計算に費やすコストを低減でき、ネットワーク性能を向上させることができる。",
"title": "チェックサムの計算"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "なお、送信時にチェックサム計算をネットワークカードに任せていると、LANアナライザがチェックサムエラーを検出することがある。",
"title": "チェックサムの計算"
}
] | Transmission Control ProtocolはIPネットワーク上のアプリ間・コネクション型・高信頼性・ストリーム指向の通信プロトコルである。伝送制御プロトコルとも呼ばれる。 | {{IPstack}}
'''Transmission Control Protocol'''(トランスミッション コントロール プロトコル、'''TCP''')は[[Internet Protocol|IP]][[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上のアプリ間・コネクション型・高信頼性・ストリーム指向の[[通信プロトコル]]である<ref name=":02">"Transmission Control Protocol (TCP) ... TCP provides a reliable, in-order, byte-stream service to applications. ... TCP is connection oriented" {{IETF RFC|9293}}.</ref>。伝送制御プロトコルとも呼ばれる。
== 概要 ==
TCPは[[通信プロトコル]]である。TCPではポート、ソケット、コネクションの概念が導入され、[[Internet Protocol|IP]][[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]のホスト上にあるアプリケーション同士がコネクションを通じて通信する。確立されたコネクションはTCPが定める制御機構によって到着が保証され、破壊が検出され、流量や輻輳が制御されており、これを通信路としてバイトストリームが伝達される<ref name=":02" />。
TCPを用いることで[[インターネット]]における到達保証付きアプリケーション間メッセージ通信が可能になるため、ファイル転送、[[電子メール]]、[[World Wide Web]]、{{仮リンク|リモート管理|en|remote administration}}など様々な[[インターネット]]・アプリケーションで利用される。上位プロトコルには[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]、[[File Transfer Protocol|FTP]]、[[Telnet]]、[[Secure Shell|SSH]]などがある。
TCPは[[インターネット・プロトコル・スイート]]を構成し、[[Internet Protocol]]の上位プロトコルとして使われる。また[[OSI参照モデル]]に当てはめるなら[[トランスポート層]]にあたる。その仕様は[[Internet Engineering Task Force|IETF]]により{{IETF RFC|9293}} (STD 7) として標準化されている。なお、IPヘッダでの[[プロトコル番号]]は6である。
対比されるプロトコルに[[User Datagram Protocol]] (UDP) がある。UDPは信頼性よりもシンプルさ・低[[レイテンシ]]を重視した[[データグラム]]通信を提供する。TCPはより信頼性が高くその分オーバーヘッドがある。
== 起源 ==
[[1974年]]5月、Institute of Electrical and Electronic Engineers ([[IEEE]]) が "''A Protocol for Packet Network Interconnection''" と題した論文を出版<ref>{{Cite journal|url= http://ece.ut.ac.ir/Classpages/F84/PrincipleofNetworkDesign/Papers/CK74.pdf |author=Vinton G. Cerf, Robert E. Kahn, |title=''A Protocol for Packet Network Intercommunication'' |journal=IEEE Transactions on Communications |volume=22 |issue=5 |date=May 1974 |pages=637-648}}</ref>。著者は[[ヴィントン・サーフ]]と[[ロバート・カーン]]で、ノード間で[[パケット通信]]を使い資源を共有する[[インターネットワーキング]]のプロトコルを記述したものである。このモデルでの中核制御コンポーネントが ''Transmission Control Program'' で、ホスト間のコネクション指向のリンクと[[データグラム]]サービスの両方を含んでいた。当初一体だった Transmission Control Program は後に[[モジュール化]]されたアーキテクチャに分割され、コネクション指向部分の ''Transmission Control Protocol'' とデータグラムサービス部分の ''Internet Protocol'' に分けられた。このモデルを一般に TCP/IP と呼ぶが、公式には[[インターネット・プロトコル・スイート]]と呼ぶようになった。
== 機能 ==
TCPは[[Internet Protocol|IP]]ネットワーク上で利用され以下の機能を提供する。これらの機能を実現する機構は[[Transmission Control Protocol#%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AB%E6%93%8D%E4%BD%9C|#プロトコル操作]]を参照。
=== アプリケーション間通信 ===
IPはホスト間通信を可能にするが、そのままだとホストへの全信号を1つのアプリケーションのみが受け取る。TCPはポート機能を提供することで、1ホスト内複数アプリケーションへの通信振り分けを可能にする<ref>"TCP uses port numbers to identify application services and to multiplex distinct flows between hosts." {{IETF RFC|9293}}.</ref>。すなわちアプリケーション間通信を提供する。
=== 到達保証 ===
IPはパケットの送出を可能にするがパケットの到達を保証しない。TCPは到達確認とデータ再送要求を提供することで、送出されたセグメントが宛先へ到達することを保証する<ref name="comer" />。
=== ストリーム送信 ===
IPは独立したパケットを送信するため、パケット間の関係性を扱わない。TCPはバイトストリーム入出力機能を提供することで<ref>"The application byte-stream is conveyed over the network via TCP segments" {{IETF RFC|9293}}.</ref>、実用されるIPパケットサイズを超えた、ファイルやデータストリームの送信を可能にする。
==== 順序制御 ====
ネットワークの輻輳や負荷分散、その他ネットワークの予測できない振る舞いにより、IP[[パケット]]は遅延し順序がばらばらに届きうる。ストリームをパケットに分割して送出しそれを到着順に再構成した場合、元のストリームを復元できる保証がない。TCPは順序制御を提供することで、パケット群からストリームを再構築できることを保証する。
=== コネクション型通信 ===
IPは疎通の確認なくパケットを送信するため、コネクション([[仮想回線]])の概念を持たない。TCPはソケット対に基づくコネクションを定義することでコネクション型通信を提供する。ストリーム送信や各種制御はコネクション単位で管理されるため、単一のアプリケーションが複数のコネクション(宛先アプリケーション)を独立して扱えるようになる。
==== 流量制御 ====
通信先にとって過剰量のデータがコネクションへ流れ込まないよう、TCPは流量制御を提供する。
==== 輻輳制御 ====
IPネットワークへ無秩序にパケットが送出されるとネットワークの混雑([[輻輳]])を引き起こす。TCPはそれらの問題を検出し、ネットワークの混雑が起きにくくなるよう制御して他の問題が発生する可能性を低くする。
== 特性 ==
TCPは高速さよりも正確さに最適化されている(高信頼ストリーム配送サービス)。ゆえにパケットの到達が保証され、データを正しく並べかえることができる。その反面、メッセージの順序がばらばらだったり、喪失したメッセージの再送を待ったりすることがあると、秒のオーダーの比較的長い遅延が生じることがある。これはリアルタイム性を求められる[[VoIP]]などのアプリケーションには向いていない。そのような用途には一般に [[User Datagram Protocol]] (UDP) 上の [[Real-time Transport Protocol]] (RTP) などのプロトコルが推奨される<ref name="comer">{{Cite book|last=Comer|first=Douglas E.|authorlink=ダグラス・カマー|title=Internetworking with TCP/IP:Principles, Protocols, and Architecture|publisher=Prentice Hall|year=2006|edition=5th|volume=1|isbn=0131876716}}</ref>。
== 利用 ==
TCPの利用例として[[World Wide Web|World Wide Web (WWW)]]、[[電子メール]]、[[File Transfer Protocol]]、[[Secure Shell]]、[[ファイル共有ソフト|ファイル共有]]、一部の[[ストリーミング]]が挙げられる。
== TCPセグメント構造 ==
'''TCPセグメント'''({{lang-en-short|TCP segment}})はTCPにおける送受信単位である<ref>"a TCP segment is the unit of data transferred between a pair of TCP modules." {{IETF RFC|9293}}.</ref>。
TCPは上位から受け取ったデータを分割し、それにTCPヘッダを付与してTCPセグメントを作成する。TCPセグメントはさらに [[Internet Protocol]] (IP) データグラムに[[カプセル化 (通信)|カプセル化]]される。TCPセグメントは「データを相手と交換するためにTCPが使う情報の束」である<ref>[http://www.linktionary.com/t/tcp.html TCP (Linktionary term)]</ref>。
なお、非公式に「TCPパケット」という用語が使われることがあるが、最近の用法では TCP PDU ([[Protocol Data Unit]]) は「セグメント」、IP PDU は「[[データグラム]]」<ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc791#section-2.1 RFC 791 - section 2.1]</ref>、[[データリンク層]]のPDUは「フレーム」と呼ぶのが一般的である。
<blockquote>
プロセスはTCPを呼び出し、データを格納したバッファを引数で渡すことでデータを送信する。TCPはそれらのバッファ内のデータをセグメント群にパッケージし、インターネット・モジュール(例えばIP)を呼び出すことで宛先のTCPへ各セグメントを送信する。<ref>{{IETF RFC|793}}</ref>
</blockquote>
TCPセグメントは、セグメント・ヘッダとデータ部分から成る。TCPヘッダは10の必須フィールドとオプションの拡張フィールドを含む(テーブルではオプション部分をオレンジで示している)。
データ部はヘッダ部の後に続いている。その内容はアプリケーションに渡すべきデータである。データ部の長さはTCPセグメントのヘッダには記されておらず、IPヘッダにあるIPデータグラム長からIPヘッダとTCPヘッダの長さを差し引いて計算できる。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+TCPヘッダ
|-
! style="border-bottom:none; border-right:none;"| ''オフセット''
! style="border-left:none;"| [[オクテット (コンピュータ)|オクテット]]
! colspan="8" | 0
! colspan="8" | 1
! colspan="8" | 2
! colspan="8" | 3
|-
! style="border-top: none" | オクテット
! <tt>[[ビット]]</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 0</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 1</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 2</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 3</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 4</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 5</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 6</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 7</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 8</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1"> 9</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">10</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">11</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">12</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">13</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">14</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1;">15</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">16</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">17</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">18</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">19</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">20</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">21</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">22</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">23</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">24</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">25</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">26</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">27</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">28</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">29</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">30</tt>!!<tt style="font-size:7.5pt; line-height:1">31</tt>
|-
! 0
!<tt> 0</tt>
| colspan="16"| 送信元ポート || colspan="16"| 送信先ポート
|-
! 4
!<tt> 32</tt>
| colspan="32"| シーケンス番号
|-
! 8
!<tt> 64</tt>
| colspan="32"| 確認応答番号(<tt>ACK</tt> がセットされている場合)
|-
! 12
! <tt> 96</tt>
| colspan="4"| ヘッダ長 || colspan="3"| 予約<br/><tt style="font-size:8pt; line-height:1">'''0 0 0'''</tt> ||colspan="1" cellpadding="1"|<tt style="font-size:8pt; line-height:1">N<br>S</tt>||colspan="1"|<tt style="font-size:8pt; line-height:1">C<br>W<br>R</tt>||colspan="1"|<tt style="font-size:8pt; line-height:1">E<br>C<br>E</tt>||colspan="1"|<tt style="font-size:8pt; line-height:1">U<br>R<br>G</tt>||colspan="1"|<tt style="font-size:8pt; line-height:1">A<br>C<br>K</tt>||colspan="1"|<tt style="font-size:8pt; line-height:1">P<br>S<br>H</tt>||colspan="1"|<tt style="font-size:8pt; line-height:1">R<br>S<br>T</tt>||colspan="1"|<tt style="font-size:8pt;
line-height:1">S<br>Y<br>N</tt>||colspan="1"|<tt style="font-size:8pt; line-height:1">F<br>I<br>N</tt>|| colspan="16"| ウィンドウサイズ
|-
! 16
!<tt>128</tt>
|colspan="16"| チェックサム || colspan="16" | 緊急ポインタ(<tt>URG</tt>がセットされている場合)
|-
! 20<br />...
!<tt>160<br />...</tt>
| colspan="32" bgcolor="#FFCC88" | オプション(ヘッダ長が5より大きければ、必要に応じて最後まで0でパディングする)<br />...
|}
* 送信元[[ポート (コンピュータネットワーク)|ポート]](16ビット) – 送信側のポート番号
* 送信先ポート(16ビット) – 受信側のポート番号
* シーケンス番号(32ビット) – 2つの役割がある。
** <tt>SYN</tt>フラグがセットされている場合 (1)、初期シーケンス番号である。実際の先頭データバイトのシーケンス番号と対応する確認応答の確認応答番号は、このシーケンス番号に1を加えた値になる。
** <tt>SYN</tt>フラグがセットされていない場合 (0)、このセッションにおけるこのパケットの先頭データバイトの累積シーケンス番号である。
* 確認応答番号(32ビット) – <tt>ACK</tt>フラグがセットされている場合、受信側が期待する次のシーケンス番号を格納している。(もしあれば)それまでの全バイト列の受信を確認済みであることを示す。最初に互いに<tt>ACK</tt>を送る際は、相手側の初期シーケンス番号を確認するだけで、データは含めない。
* ヘッダ長(4ビット) – TCPヘッダのサイズを32ビットワード単位で表す。ヘッダの最小サイズは5ワードで、最大サイズは15ワードである。すなわち、ヘッダ部は20バイトから60バイトまでの大きさであり、21バイトめからの40バイトはオプションとなる。TCPセグメント内の実際にデータが始まる位置を示すことにもなるため、データオフセットとも呼ぶ。
* 予約(3ビット) – 将来の利用のために予約されたビット列であり、常に 0 をセットする。
* フラグあるいは制御ビット列(9ビット) – 9個の1ビットのフラグがある。
** <tt>NS</tt>(1ビット) – ECN-nonce 輻輳保護({{IETF RFC|3540}} でヘッダに追加)
** <tt>CWR</tt>(1ビット) – 輻輳制御ウィンドウ縮小 (Congestion Window Reduced)。<tt>ECE</tt>フラグがセットされたTCPセグメントを受信した際、輻輳制御機構で応答するときにセットする。({{IETF RFC|3168}} でヘッダに追加)
** <tt>ECE</tt>(1ビット) – ECN-Echo を示す。
*** <tt>SYN</tt>フラグがセットされている場合 (1)、{{仮リンク|明示的輻輳通知|en|Explicit Congestion Notification|label=ECN}}を利用可能であることを示す。
*** <tt>SYN</tt>フラグがセットされていない場合 (0)、通常送受信時にIPヘッダに Congestion Experienced フラグがセットされたパケットを受信したことを示す。({{IETF RFC|3168}} でヘッダに追加)
** <tt>URG</tt>(1ビット) – 緊急ポインタ・フィールドが有効であることを示す。
** <tt>ACK</tt>(1ビット) – 確認応答番号フィールドが有効であることを示す。最初の<tt>SYN</tt>パケットを除く以降の全パケットでこのフラグをセットする。
** <tt>PSH</tt>(1ビット) – プッシュ機能。バッファに蓄えたデータをアプリケーションにプッシュする(押しやる)ことを依頼する。
** <tt>RST</tt>(1ビット) – コネクションをリセットする。
** <tt>SYN</tt>(1ビット) – シーケンス番号の同期。通信する両方で最初のパケットだけ、このフラグをセットする。他のフラグはこのフラグの値によって意味が変化したり、このフラグの値によって有効/無効が決まる。
** <tt>FIN</tt>(1ビット) – 送信終了を示す。
* ウィンドウサイズ(16ビット) – 受信ウィンドウの大きさ。このセグメントの送信側がその時点(確認応答番号フィールドにあるシーケンス番号以降)で受信可能なバイト数を指定する。詳しくは[[#フロー制御|フロー制御]]の節と[[#ウィンドウスケーリング|ウィンドウスケーリング]]の節を参照。
* チェックサム(16ビット) – ヘッダおよびデータの誤り検出用の16ビット[[チェックサム]]。後述の[[#誤り検出]]と[[#チェックサムの計算]]も参照。
* 緊急ポインタ(16ビット) – <tt>URG</tt>フラグがセットされている場合、最新の緊急データバイトのシーケンス番号からのオフセットを示す。
* オプション(0から320ビットまで可変で、32ビット単位で変化する) – ヘッダ長フィールドによって、このフィールドの長さが決まる。個々のオプションは、オプション種別(1バイト)、オプション長(1バイト)、オプションデータ(可変)から成る。オプション種別フィールドはオプションの種類を示し、オプションとしては必ず存在するフィールドである。オプションの種類によって扱い方が違い、後続の2つのフィールドの有無も異なる。存在する場合、オプション長フィールドはそのオプションの全長が格納されており、オプションデータ・フィールドにはオプションに関わる値が格納されている。例えば、オプション種別が 0x01 の場合、No-Op オプションであることを意味し、オプション長やオプションデータは存在しない。オプション種別が0の場合、End Of Options オプションであることを意味し、この場合も1バイトだけである。オプション種別が 0x02 の場合、[[最大セグメントサイズ]] (MSS) オプションであることを意味し、その後ろに1バイトのMSSフィールド長を指定するフィールドがある(値は 0x04)。この長さはオプションの全長であるため、オプション種別フィールドとオプション長フィールドのぶんも含んでいる。従って、MSS値は通常2バイトで表され、オプション長は4(バイト)となる。例えば、MSS値が 0x05B4 なら、MSSオプション全体の値は (0x02 0x04 0x05B4) となる。
* パディング – TCPヘッダが32ビット境界で終わるようにするために使われる。パディングは常に0である<ref>{{IETF RFC|793}} section 3.1</ref>。
一部のオプションは<tt>SYN</tt>がセットされているときだけ送信される。それらは以下で <sup><tt style="color:#000; background-color:#CCC;">[SYN]</tt></sup> で示している。各行の先頭は「オプション種別[, オプション長, オプション値](全ビット数)」の形式で示す。
**0(8ビット) - オプションリストの終了
**1(8ビット) - 何もしない(NOP、パディング)。オプション・フィールドを32ビット境界に揃えるのに使う。
**2,4,''SS''(32ビット) - 最大セグメント長([[最大セグメントサイズ]] を参照) <sup><tt style="color:#000; background-color:#CCC;">[SYN]</tt></sup>
**3,3,''S''(24ビット) - ウィンドウスケール(詳しくは[[#ウィンドウスケーリング|ウィンドウスケーリング]]参照)<sup><tt style="color:#000; background-color:#CCC;">[SYN]</tt></sup><ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc1323#page-9 RFC 1323, TCP Extensions for High Performance, Section 2.2]</ref>
**4,2(16ビット) - 選択確認応答が可能。<sup><tt style="color:#000; background-color:#CCC;">[SYN]</tt></sup> ([[#選択確認応答|選択確認応答]]を参照)<ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2018#section-2 RFC 2018, TCP Selective Acknowledgement Options, Section 2]</ref>
**5,''N,BBBB,EEEE,...''(可変長、''N'' は 10, 18, 26, 34 のいずれか) - 選択確認応答 (SACK)<ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2018#section-3 RFC 2018, TCP Selective Acknowledgement Options, Section 3]</ref>。最初の2バイトの後に選択確認応答される1から4ブロックのリストを32ビットの開始/終了ポインタで示す。
**8,10,''TTTT,EEEE''(80ビット) - タイムスタンプと前のタイムスタンプのエコー([[#TCPタイムスタンプ|TCPタイムスタンプ]]を参照)<ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc1323#page-11 RFC 1323, TCP Extensions for High Performance, Section 3.2]</ref>
**14,3,''S''(24ビット) - チェックサム方式変更要求。<sup><tt style="color:#000; background-color:#CCC;">[SYN]</tt></sup><ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc1146#page-2 RFC 1146, TCP Alternate Checksum Options]</ref>
**15,''N,...''(可変長) - チェックサム方式が変更されて、そのチェックサムが16ビットより長い場合にこれでチェックサム値を示す。
他のオプションは既に使われていないもの、実験的なもの、標準になっていないものなどである。
== プロトコル操作 ==
[[File:Tcp_start.svg|thumb|right|250px|3ウェイ・ハンドシェイクにおける典型的な状態遷移。遷移に使われる[[ソケット (BSD)|ソケット]]呼び出しを付記した。]]
[[File:Tcp_end.svg|thumb|right|250px|通信終了の際の、ソケットを閉じるまでの典型的な状態遷移。]]
TCPプロトコル操作は3つのフェーズに分けられる。コネクションは多段階のハンドシェイクプロセスで正しく確立する必要があり(コネクション確立フェーズ)、その後「データ転送フェーズ」に入る。データ転送が完了したら「コネクション終了フェーズ」で仮想回線を閉じ、確保していたリソースを解放する。
TCPコネクションは[[オペレーティングシステム]]が[[ソケット (BSD)|ソケット]]というプログラミングインタフェースを通して管理する。TCPコネクションが存在する間、以下のような状態間で遷移する<ref>{{IETF RFC|793}} Section 3.2</ref>。
<!--needs to be completed -->
# LISTENING : サーバの場合、任意のリモートクライアントからのコネクション要求を待ち受ける。
# SYN-SENT : SYNフラグとACKフラグをセットしたTCPセグメントを相手側が送ってくるのを待つ状態(通常、クライアント側)。
# SYN-RECEIVED : コネクション確立要求に対して確認応答を返した後、相手側が確認応答を返してくるのを待つ状態(通常、サーバ側)。
# ESTABLISHED : 相手側とコネクションが確立し、指定ポートでのデータの送受信が可能な状態。
# FIN-WAIT-1 : FINフラグをセットしたTCPセグメントを先に相手に送り、確認応答が返ってくるのを待つ状態。
# FIN-WAIT-2 : FINに対する確認応答を受け取り、相手からのFINを待つ状態。
# CLOSE-WAIT : 相手から先にFINを受け取り、アプリケーションがクローズ可能となるのを待つ状態。クローズ可能になったら相手にFINに対する確認応答を送る。
# LAST-ACK : FINセグメントを送って、その確認応答を待っている状態。
# TIME-WAIT : 「FIN-WAIT2」でFINセグメントを受信し、確認応答を返した状態。相手が確認応答を受信完了することを保証するため、十分な時間待つ。{{IETF RFC|793}} では最大4分間この状態でコネクションを保つことができるとされており、これをMSL (maximum segment lifetime) と呼ぶ。
# CLOSED : コネクションがクローズした状態。
=== コネクション確立 ===
{{main|3ウェイ・ハンドシェイク}}
コネクションを確立する際、TCPでは[[3ウェイ・ハンドシェイク]]を行う。
クライアントがサーバと接続する前、サーバはコネクション可能なようにポートをバインドしておかなければならない。これをパッシブ・オープンと呼ぶ。サーバ側がパッシブ・オープンになっていれば、クライアントはアクティブ・オープンを開始できる。コネクションを確立するための3ウェイ・ハンドシェイクは次のようになる。
# '''SYN''': クライアントはサーバにSYNを送り、アクティブ・オープンを行う。クライアントはこの際に無作為な値Aを選び、SYNセグメントのシーケンス番号とする。
# '''SYN-ACK''': それに対してサーバはSYN+ACKを返す。確認応答番号は受信したSYNセグメントのシーケンス番号に1を加えたもの (A + 1) とし、SYN+ACK のシーケンス番号は別の無作為な値 B とする。
# '''ACK''': クライアントがサーバからの SYN+ACK に対して ACK を返す。その際のシーケンス番号は受信した SYN+ACK の確認応答番号 (A + 1) とし、確認応答番号は SYN+ACK のシーケンス番号に1を加えた値 (B + 1) とする。
この時点でクライアントとサーバ双方がコネクション確立の確認応答を受け取ったことになる。
=== リソースの使い方 ===
多くの実装では、テーブルの1エントリを動作中のOSプロセスとのセッションにマッピングする。TCPセグメントにはセッション識別子がないため、通信している双方でクライアントのアドレスとポートでセッションを識別する。パケットを受信すると、TCPソフトウェアはそのテーブルを参照して、対応するプロセスを見つける。
サーバ側でのセッション数はメモリ容量にのみ制限され、コネクション確立要求がくるたびに増えていく。しかし、クライアントはサーバに最初のSYNセグメントを送る前に無作為にポートを選んで確保しなければならない。このポートはコネクションをクローズするまで確保され続け、実質的にクライアントの持つIPアドレス毎の外に出て行くコネクション数を制限している。アプリケーションが不要になったコネクションをクローズしそこねると、空いているポートが足りなくなり、新たなTCPコネクションを確立できなくなる。
また、通信する双方で確認応答を受け取っていない送信済みデータとアプリケーションに渡す前の受信データを格納しておく領域を確保する必要がある。
=== データ転送 ===
TCPが提供する機能([[Transmission Control Protocol#%E6%A9%9F%E8%83%BD|#機能]]を参照)は以下の機構で提供される。
* 順序保証: 受信側でシーケンス番号を使って並べ替え<ref name="comer" />
* 到達保証/再送: 確認応答のないセグメントは再送<ref name="comer" />
* 誤りのないデータ転送: チェックサム<ref>{{Cite web|url= http://www.linfo.org/tcp.html |title=TCP Definition |accessdate=2011-03-12}}</ref>
* フロー制御: 受信側は常にどのくらいのデータを受け取れるかを知らせている(スライディングウィンドウで制御している)。受信側のバッファが一杯になると、次の確認応答ではウィンドウサイズを0とするので送信が停止し、バッファ内のデータを処理する余裕ができる<ref name="comer" />。
==== 高信頼転送 ====
TCPは「シーケンス番号」を使ってデータの各バイトを識別する。シーケンス番号は双方のホストが送信するバイト列に先頭から振られる番号であり、それによってデータがどう分割されても、順番が入れ替わっても、転送中に失われても、元のデータを復元できる。ペイロードの各バイトを送るたびにシーケンス番号をインクリメントしなければならない。3ウェイ・ハンドシェイクの最初の2ステップで、双方のホストは初期シーケンス番号 (ISN) をやりとりする。この番号は任意であり、[[TCPシーケンス番号予測攻撃]]への防御のために予測不可能な値とすべきである。
TCPは「累積確認応答」方式を採用しており、受信側が確認応答を返すとき、そのセグメントで示されている確認応答番号は、対応するシーケンス番号未満のデータを全て受信済みであることを示している。送信側はペイロードの先頭バイトのシーケンス番号をそのセグメントのシーケンス番号として設定する。受信側は次に受信することを期待しているバイトのシーケンス番号を確認応答番号に設定して確認応答を返す。例えば、送信側が4バイトのペイロードをシーケンス番号 100 で送信する場合、そのペイロードの4バイトのシーケンス番号は順に 100、101、102、103 である。受信側がこのセグメントを受信すると、その確認応答での確認応答番号は 104 となり、次のパケットで送られてくるペイロードの先頭バイトのシーケンス番号となっている。
累積確認応答に加えて、受信側は[[#選択確認応答|選択確認応答]]でさらなる情報を送ることができる。
送信側がネットワーク内でデータが失われたと判断した場合、データの再送を行う。
==== 誤り検出 ====
後述の[[#チェックサムの計算]]も参照。
シーケンス番号と確認応答は、パケットの重複、喪失パケットの再送、データの順序通りの並べ替えなどを扱っている。受信したパケットの内容が正しいことを確認するため、TCPには[[チェックサム]]フィールドがある。チェックサムフィールドは設定必須の項目であり省略できない。
TCPチェックサムは、現在の標準から見れば弱い。データリンク層のビット誤り率が高ければ、TCPチェックサムとは別の[[誤り検出訂正]]機能が必要である。TCP/IPの下層である[[データリンク層]]には一般に[[巡回冗長検査|CRC]]などのもっと強力な検査機構があり、TCPチェックサムの弱さを一部補っている(例えば、[[Point-to-Point Protocol|PPP]]や[[イーサネット]])。しかし、だからといって16ビットのTCPチェックサムが無駄というわけではない。実際、CRCで保護された通信路でパケットに誤りが残ることはよくあるが、[[エンドツーエンド原理|エンドツーエンド]]の16ビットTCPチェックサムがそういった単純な誤りを捉えている<ref>{{Cite journal | last1=Stone | last2=Partridge | title=When The CRC and TCP Checksum Disagree | journal=Sigcomm | year=2000 | url= http://dl.acm.org/citation.cfm?id=347561&dl=ACM&coll=DL&CFID=67856317&CFTOKEN=90549758 }}</ref>。これは[[エンドツーエンド原理]]が機能している例である。
==== フロー制御 ====
TCPはエンドツーエンドの[[フロー制御]]プロトコルを使い、送信ペースが受信側にとって速すぎる状態になるのを防いでいる。様々な性能の機器が接続されたネットワークでは、フロー制御は欠かせない機構である。例えば、PCから性能の劣るPDAにデータを送る場合、PDAの性能に合わせて送信ペースを調整する必要がある<ref name="comer" />。
TCPは[[スライディングウィンドウ]]によるフロー制御を採用している。各TCPセグメントについて、受信側は「ウィンドウサイズ」フィールドで、そのコネクション用のバッファの空き容量に相当する今後受信可能なデータの量(バイト単位)を示す。送信側は確認応答を待ち合わせるまでに、そのフィールドで指定された量までのデータを送り、新たな確認応答でウィンドウサイズ・フィールドを確認してさらに送信できるデータ量を更新する。
[[File:Tcp.svg|right|thumbnail|250px|TCPシーケンス番号と受信ウィンドウサイズは、時計のような振る舞いをする。受信ウィンドウは新たなセグメントのデータを受信したときと確認応答を返したときにずれていく。シーケンス番号は最大値までいくと0に戻る。]]
受信側がウィンドウサイズを0としたとき、送信側は送信を停止してタイマ (persist timer) を起動する。このタイマは受信側のウィンドウサイズの更新セグメントが喪失して[[デッドロック]]状態になるのを防ぐためのものである(受信側がウィンドウサイズを更新しないと送信を再開できないため)。タイマがタイムアウトすると、送信側は小さなパケットを送り、その確認応答で受信側のウィンドウサイズが回復したかを調べる。
受信側での受信データの処理が遅いと、ウィンドウサイズの指定は小さいままとなる。これを{{仮リンク|Silly Window Syndrome|en|silly window syndrome}} (SWS)と呼び、送信側は1度に数バイトのデータしか送れなくなり、TCPヘッダの方が大きな割合を占めるため転送効率が極端に低下する。そのような状況に陥らないようにするためのウィンドウ・アルゴリズムが {{IETF RFC|813}} (Window and acknowledgement strategy in TCP) に記載されている。
==== 輻輳制御 ====
TCPは高性能を達成し[[輻輳]]崩壊(ネットワーク性能が数桁のオーダーで低下する現象)を防ぐため、[[輻輳制御]]機構をいくつか備えている。ネットワークに流入させるデータレートを制御し、崩壊のきっかけとなるようなレート未満でデータを送るよう保つ。また、おおまかに{{仮リンク|最大最小公平性|en|Max-min fairness|label=最大最小公平}}なフロー割り当てを目指す。
送信データへの ACK (確認応答)の有無は、送信側でネットワークの状態を推測する材料となる。これをタイマと組み合わせ、データのフローの振る舞いを変化させることができる。これを一般に輻輳制御またはネットワーク輻輳回避などと呼ぶ。
最近のTCP実装では、{{仮リンク|スロースタート (TCP)|en|Slow-start|label=スロースタート}}、{{仮リンク|TCP輻輳回避アルゴリズム|en|TCP congestion avoidance algorithm|label=輻輳回避}}、{{仮リンク|TCP高速再送アルゴリズム|en|fast retransmit}}、ファストリカバリ([[:en:Slow-start#Fast recovery|en]], {{IETF RFC|5681}}) という4つの相互にからみあったアルゴリズムを使用している。
スループットをあげるため輻輳しない限界まで送信側はスライディングウィンドウを大きくする必要があるが、ウィンドウサイズを調整する輻輳回避アルゴリズムは長年研究されている。一覧は [[:w:TCP congestion avoidance algorithm]] を参照。かつては、輻輳するとパケットロスが発生することを利用し、パケットロスをベースにした [[TCP Reno]] およびそれを改良した [[TCP NewReno]] ({{IETF RFC|3782}}) がよく使われていたが、現在では、送信側のスライディングウィンドウにどれだけの時間とどまっていたかを元にしたアルゴリズム (Delay-based Congestion Avoidance) が中心になっており、[[Microsoft Windows]] では、[[Windows Vista]] 以降は、{{仮リンク|Compound TCP|en|Compound TCP}} が採用され、[[Linux]] では 2.6.8〜2.6.18 は {{仮リンク|BIC TCP|en|BIC TCP}} が、2.6.19 以降は {{仮リンク|CUBIC TCP|en|CUBIC TCP}} が使われている。
さらに送信側には「再送タイムアウト (RTO)」があり、送信してから確認応答が戻るまでの時間である[[ラウンドトリップタイム]] (RTT) を推算し、ばらつきも考慮して設定する。このタイマの動作は {{IETF RFC|2988}} で規定されている。RTTの推算には微妙な点がある。例えば、再送パケットのRTTを計算する場合は注意しなければならず、一般に{{仮リンク|カーンのアルゴリズム|en|Karn's Algorithm}}やTCPタイムスタンプ({{IETF RFC|1323}} 参照)を使う。個々のRTTの標本から時系列で平均をとり、[[バン・ジェイコブソン|ジェイコブソン]]のアルゴリズムを使って Smoothed Round Trip Time (SRTT) を生成する。最終的にSRTT値がRTTの推算に使われる。
TCPを拡張して、喪失を高信頼に扱ったり、誤りを最小化したり、輻輳を制御してより高速化しようという試みが今も行われている。
====遅延送信====
{{main|Nagleアルゴリズム}}
{{main|TCP遅延ACK}}
[[最大セグメントサイズ]]以下の小さなパケットをばらばらと送るのは非効率なので、送信を遅延し、それらを1つのTCPパケットにまとめるのが、[[Nagleアルゴリズム]]である。同様に、複数のACKを1つにまとめるのが、[[TCP遅延ACK]]である。どちらも、送信を遅延させるという点においては同じだが、相互に影響し合い、遅延が増大するという問題があり、詳細は[[Nagleアルゴリズム]]を参照。
=== 最大セグメントサイズ ===
{{main|最大セグメントサイズ}}
[[最大セグメントサイズ]] (MSS) はバイト単位で指定され、単一のセグメントとして受信可能な最大データ量を示す。性能を最大限発揮するには[[IPフラグメンテーション]]を十分防げる程度に小さくする必要がある。IPフラグメンテーションが行われると、パケット喪失時の再送に時間がかかることになる。一般にコネクション確立時にMSSオプションを使って双方のMSSを通知するので、適切なMSSを決めるには[[データリンク層]]の [[Maximum Transmission Unit]] (MTU) から導出したMSSを通知すればよい。さらに送信側は[[経路MTU探索]]を使うことができ、通信相手との間にある経路でMTUが最小の部分を推定し、それを使ってMSSを動的に調整しIPフラグメンテーションを防ぐことができる。
MSS通知は「MSSネゴシエーション」とも呼ばれる。ネゴシエーションというと送信側と受信側が交渉して合意に達するかのように思われるが、実際には異なり、送信する方向によってそれぞれ異なるMSSが設定可能である<ref>[http://www.faqs.org/rfcs/rfc879.html RFC 879]</ref>。これは例えば一方がメモリ容量が小さいため、バッファ領域を大きくとれない場合などに起きる(発見したパスMTUより小さいこともありうる)。
=== 選択確認応答 ===
もともとのTCPプロトコルで採用されている累積確認応答方式を使うと、パケットを喪失したときに非効率になる可能性がある。例えば、10,000バイトのデータを10個のTCPセグメントで送信し、その最初のパケットが喪失したとする。もともとの累積確認応答プロトコルでは、受信側は1,000から9,999までのバイトは受信成功、ただし0から999までのバイトを含む先頭パケットの受信に失敗したという風に伝えることができないので、送信側は10,000バイト全体を再送しなければならない。
このため {{IETF RFC|2018}} で「選択確認応答 (SACK)」オプションが追加された。これは、通常の累積確認応答とは別に、受信側が不連続なブロックを正しく受信したという確認応答を返せるようにしたものである。選択確認応答にはオプション部分にいくつかのSACKブロックを指定し、SACKブロックには正しく受信できた連続な範囲のシーケンス番号の開始点と終了点を指定する。例えば、先ほどの例では 1000 と 9999 のシーケンス番号をSACKオプションで示せばよい。すると送信側は 0 から 999 までのバイトを含む最初のパケットだけを再送する。
SACKオプションの拡張として {{IETF RFC|2883}} で定義されたデュプリケートSACK (D-SACK) オプションがある。パケットの順序がばらばらになると、送信側への確認応答も順序どおりにならないため送信側でパケット喪失と勘違いし、喪失したと思われるパケットを再送することがあり、同時にネットワーク輻輳を防ぐため送信ペースを落とす。このとき、受信側が D-SACK オプションで再送パケットが重複していることを通知すれば、遅くなっていた送信ペースを元に戻すことができる。
SACKオプションは必須ではなく、両者がサポートしている場合だけ使われる。これはコネクション確立時に調整される。SACKオプションは主なTCPスタックでサポートされており、広く使われている。選択確認応答は [[Stream Control Transmission Protocol]] (SCTP) でも使われている。
=== ウィンドウスケーリング ===
広帯域ネットワークをより効率的に使うには、TCPウィンドウのサイズを大きくする必要がある。TCPヘッダのウィンドウサイズのフィールドは16ビットで、2バイトから65,535バイトまでしか設定できない。
ウィンドウサイズ・フィールドは拡張できないので、{{仮リンク|スケールファクタ (計算機科学)|label=スケールファクタ|en|Scale factor (computer science)}}が導入されている。{{IETF RFC|7323}} で定義されているウィンドウスケール・オプションを使えば、最大ウィンドウサイズを 65,535 バイトから 1 ギガバイトに拡張できる。ウィンドウサイズのスケールアップはTCPのチューニング ([[:en:TCP Tuning|en]]) に必須の要素である。
ウィンドウスケール・オプションは3ウェイ・ハンドシェイクの際にしか使われない。ウィンドウスケール・オプションのオプション値は、16ビットのウィンドウサイズ・フィールドの値を左にシフトするビット数を表している。ウィンドウスケールの値は0(シフトしない)から14まで指定でき、通信の双方向で別々に設定できる。どちらの方向もSYNセグメントのオプションとして通知する。
一部の[[ルーター]]や[[ファイアウォール]]は、このスケールファクタを転送時に書き換えることがある。すると送信側と受信側でウィンドウサイズの認識が異なることになり、トラフィックが不安定になって、非常に低速になることがある<ref>[http://lwn.net/Articles/92727/ TCP window scaling and broken routers] lwn.net</ref>。
=== TCPタイムスタンプ ===
TCPタイムスタンプは {{IETF RFC|1323}} で定義されており、パケット送出の順序をTCPレベルで知ることが出来る。TCPタイムスタンプはシステムクロックに合わせているわけではなく、無作為な値から開始する。多くのOSはこのタイムスタンプ値をミリ秒単位でインクリメントする。ただし、RFCは単に時間経過に比例して増加すべきだとしているだけである。
タイムスタンプのフィールドは2つある。
* 4バイトの送信側タイムスタンプ値(自分のタイムスタンプ)
* 4バイトの応答タイムスタンプ値(相手から直近に受け取ったタイムスタンプ値)
TCPタイムスタンプは PAWS (Protection Against Wrapped Sequences) と呼ばれるアルゴリズム({{IETF RFC|1323}} 参照)で利用する。PAWSは、2の32乗まであるシーケンス番号が一周してしまう場合に使われる。シーケンス番号はデータバイト毎に振られるので、最大4ギガバイトしか表せないが、最近の高速ネットワークでは1分以内に一周する可能性があり、再送が必要になったとき、現在の周回なのか前の周回なのかを識別するのにタイムスタンプを使う。
{{IETF RFC|1323}} の2.2節では、ウィンドウサイズは1ギガバイトまでとされているため、多くの実装でスケールオプションの最大値を14までとしている。
また、Eifel detection アルゴリズム ({{IETF RFC|3522}}) でもTCPタイムスタンプを使っており、再送の原因がパケット喪失なのか順序がばらばらになったせいなのかを判断する。
=== 帯域外データ ===
ストリームが完了するのを待たずに、キューイングされたストリームに割り込むことができる。この場合、緊急 (urgent) と指定したデータを使う。それによって受信側プログラムが緊急データをすぐさま処理すべきであることを知らせる。その処理が終了すると、もとのストリーム・キューの処理を再開する。例えば、リモートログインのセッションにTCPを使っているとき、ユーザーが実行中のプログラムをアボートさせるキーシーケンスを送るときなどに使われる。プログラムが暴走したときなど、そのプログラムの出力を待っているのではなく、強引にアボートさせたいときに必須となる<ref name="comer" />。
帯域外データの概念は現在のインターネット向けの設計ではない。緊急ポインタは相手ホストでの処理を変えるものであって、ネットワーク上の処理は何も変わらない。緊急ポインタのあるセグメントがリモートホストに到着したとき、若干異なる2つのプロトコルの解釈があり、単一バイトの帯域外データしか信頼できないという状況になっている。そのため滅多に使われず、実装も貧弱になる傾向がある
<ref>{{Cite web| last = Gont | first = Fernando | title = On the implementation of TCP urgent data | publisher = 73rd IETF meeting | date = 2008-11 | url = http://www.gont.com.ar/talks/IETF73/ietf73-tcpm-urgent-data.ppt | accessdate = 2009-01-04}}</ref><ref>{{Cite book| last = Peterson | first = Larry | title = Computer Networks | publisher = Morgan Kaufmann | year = 2003 | pages = 401 | isbn = 155860832X}}</ref>。
=== 強制的データ送出 ===
通常、TCPは送信すべきデータが[[最大セグメントサイズ]] (MSS) まで溜まるか、200ミリ秒経過するまで待つ([[Nagleアルゴリズム]]で小さいメッセージを単一パケットにまとめようとするため)。これは例えばファイル転送のような一定の送信が要求される場合に問題となることがある。例えば、送信ブロックが一般的な4KBで、MSSも一般的な1460バイトだとする。すると1ブロックが3セグメントで送信され、最後の1セグメントはMSSに満たないことになる。すると、2パケットまでは約1.2ミリ秒で送信され、1176バイトの3パケット目は197ミリ秒待ってから送信ということになる。
[[Telnet]]の場合、ユーザーがキーを押下するたびに通信先からエコーバックされて画面に文字が表示される。すると、1文字押下するたびに200ミリ秒待たされることになり、非常にストレスになる。
この場合、[[ソケット (BSD)|ソケット]]のオプション <code>TCP_NODELAY</code> を使ってデフォルトの200ミリ秒の送信遅延を変更することができる。
RFCには <code>PSH</code> フラグを使って「受信側TCPスタックでそのデータを即座にアプリケーションに送る」という機能が定義されている<ref name="comer" />。しかし[[ソケット (BSD)|ソケット]]にはこれを制御するインタフェースがなく、[[プロトコルスタック]]の実装に任されている<ref name="Stevens2006">{{Cite book|author=Richard W. Stevens|title=TCP/IP Illustrated. Vol. 1, The protocols|url= https://books.google.com/books?id=b2elQwAACAAJ|accessdate=2011-11-14|year=2006|publisher=Addison-Wesley|isbn=978-0-201-63346-7|pages=Chapter 20}}</ref>。
=== コネクション終了 ===
コネクション終了フェーズは多くの場合「4ウェイ・[[ハンドシェイク]]」を使い、コネクションの双方がそれぞれ独立に終了できる。一方がコネクションを終了したい場合、FINセグメントを送信し、相手がそのACKを返す。相手も同様にFINを送ってACKを受信することでコネクションを終了する。両方のFIN/ACK交換が済むと、最後にACKを送った側(先にFINを送った側)がタイマを設定してタイムアウトするまで当該ポートを別のコネクションに再利用できないようにする。これによって配送が遅れていたパケットが新たなコネクションで受信されて混乱するのを防ぐ。
コネクションは「ハーフオープン」という状態にもでき、一方だけ終了していても、もう一方はデータを送り続けることができる。終了した側はもう一方が終了するまで受信可能の状態を継続する。
コネクション終了を3ウェイ・ハンドシェイクで行うこともでき、ホストAのFIN送信に対してホストBが FIN+ACK で応答し、ホストAがACK応答する<ref>{{Cite book|last= Tanenbaum|first= Andrew S.|authorlink= アンドリュー・タネンバウム|title= Computer Networks|edition= Fourth |date= 2003-03-17|publisher= Prentice Hall|isbn= 0-13-066102-3}}</ref>。実際にはこれが最も一般的である。
両方から同時にFINセグメントを送りあい、双方がACKを返すということもありうる。FIN/ACKシーケンスが並行して行われるため、2ウェイ・ハンドシェイクと呼ぶこともできる。
== 脆弱性 ==
TCPは様々な方法で攻撃される可能性がある。TCPの完全なセキュリティアセスメントの結果は、認識されていた問題の考えうる対策と共に2009年に公表され<ref>[http://www.cgisecurity.com/2009/02/security-assessment-of-the-transmission-control-protocol-tcp.html Security Assessment of the Transmission Control Protocol (TCP)]</ref>、その後も[[Internet Engineering Task Force|IETF]]内で進められている<ref>[http://tools.ietf.org/html/draft-ietf-tcpm-tcp-security Security Assessment of the Transmission Control Protocol (TCP)]</ref>。
=== DoS攻撃 ===
[[IPスプーフィング]]を使い、悪意を持って作ったSYNパケットを繰り返し送信することで、偽の接続に対処するために対象サーバの多大な量のリソースを消費させることができる。これを [[SYN flood]] 攻撃と呼ぶ。この問題への対策として提案された方法として、[[SYN cookies]] や暗号的パズルがある。[[:en:Sockstress|Sockstress]] も類似の攻撃法だが、システムのリソース管理によって効果を和らげることができる<ref>http://www.gont.com.ar/talks/hacklu2009/fgont-hacklu2009-tcp-security.pdf Some insights about the recent TCP DoS (Denial of Service) vulnerabilities</ref>。オンラインマガジン [[Phrack]] 66号では、TCPの Persist Timer に存在する脆弱性を利用した改良型[[DoS攻撃]]の分析を行っている<ref>[http://phrack.org/issues.html?issue=66&id=9#article Exploiting TCP and the Persist Timer Infiniteness]</ref>。
=== コネクション乗っ取り ===
{{Main|TCPシーケンス番号予測攻撃}}
TCPセッションを盗聴できパケットをリダイレクトできる攻撃者は、TCPコネクションを乗っ取ることができる。その場合、攻撃者は進行中の通信からシーケンス番号を読み取り、ストリームにおける次のセグメントを装った偽のセグメントを作る。そのような簡単な乗っ取りで、通信中の一方に1つのパケットを誤って受け取らせることができる。受け取ったホストが余分なセグメントへの確認応答をコネクションのもう一方に返すと、同期が失われる。ARPまたはルーティング攻撃を組合わせることで、乗っ取ったTCPコネクションの制御を完全に奪うことができる<ref>[http://www.usenix.org/publications/library/proceedings/security95/joncheray.html Laurent Joncheray, ''Simple Active Attack Against TCP'', 1995]</ref>。
{{IETF RFC|1948}} が登場する以前は異なるIPアドレスを真似ることは難しくなく、初期シーケンス番号は容易に推測可能だった。そのため攻撃者はARP/ルーティング攻撃を併用することなく、適当な一連のパケットを受信者に送信し、異なるIPアドレスからのものだと信じさせることができた。その際、偽装したIPアドレスの本来のホストがダウンしていれば十分であり、Dos攻撃でそのホストをダウンさせればよかった。以上のような理由から、初期シーケンス番号のランダムな選択が行われるようになった。
== TCPポート ==
{{main|ポート (コンピュータネットワーク)}}
TCPにおける'''ポート'''は「ホスト内アドレス」である<ref name=":0">the TCP provides a set of addresses or ports within each host. [rfc:793 {{IETF RFC|793}} - TRANSMISSION CONTROL PROTOCOL]</ref>。
単一のホストでは複数のプロセス(≒ アプリケーション)が動作している。TCPはホスト内の"部屋番号"に相当する'''''ポート<ref name=":0" />'''''、ポートとインターネットアドレスの組み合わせである'''ソケット'''({{lang-en-short|socket}})を定義し<ref>"Glossary ... socket ... An address that specifically includes a port identifier, that is, the concatenation of an Internet Address with a TCP port." {{IETF RFC|9293}}.</ref>、このソケット-ソケット間で通信を行う。単一ホスト内に複数ポートが存在することで、単一のホスト上で複数のプロセスが同時にTCP通信できる(多重化)<ref>To allow for many processes within a single Host to use TCP communication facilities simultaneously, the TCP provides a set of addresses or ports within each host. [rfc:793 {{IETF RFC|793}} - TRANSMISSION CONTROL PROTOCOL]</ref>。各ポートは'''ポート番号'''として知られるポート識別子が設定されており<ref>To identify the separate data streams that a TCP may handle, the TCP provides a port identifier. [rfc:793 {{IETF RFC|793}} - TRANSMISSION CONTROL PROTOCOL]</ref>、プロセスとポートを結びつけることでそのプロセスへの通信を可能にする<ref>Since a process may need to distinguish among several communication streams between itself and another process (or processes), we imagine that each process may have a number of ports through which it communicates with the ports of other processes. [rfc:793 {{IETF RFC|793}} - TRANSMISSION CONTROL PROTOCOL]</ref><ref>uniquely allocating a group of ports to a given process [rfc:793 {{IETF RFC|793}} - TRANSMISSION CONTROL PROTOCOL]</ref>。ポート番号は16ビット符号なし整数 (0-65535) の範囲をもつ。
'''コネクション'''({{lang-en-short|connection}})は一組のソケットで識別される論理的通信路である<ref>"Glossary ... connection A logical communication path identified by a pair of sockets." {{IETF RFC|9293}}.</ref>。すなわち「ソケット <code>172.16.0.0:1024</code> とソケット <code>192.168.0.0:80</code> を繋ぐ論理的通信路」といった形で識別されるものがコネクションである。受信したTCPセグメントは特定のコネクションに属すると識別される。
ポート番号は大きく3つに分類されており、ウェルノウン (well-known)、レジスタード (registered)、ダイナミック/プライベート (dynamic/private) がある。ウェルノウンポート番号は [[Internet Assigned Numbers Authority]] (IANA) が割り当てを行っており、主にシステムレベルや重要なプロセスで使われている。サーバとして動作する有名なアプリケーションは、それらのポートを使いコネクション確立要求を待ち受けているのが一般的である。例えば、[[File Transfer Protocol|FTP]] (20, 21)、[[Secure Shell|SSH]] (22)、[[Telnet|TELNET]] (23)、[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]] (25)、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]] (80) などがある。レジスタードポート番号は一般にエンドユーザー用アプリケーションが送信元の[[エフェメラルポート]]としてサーバに接続するのに使うが、サードパーティが登録した名前を持ったサービスの識別にも使われている。ダイナミック/プライベートポート番号もエンドユーザーのアプリケーションで使えるが、一般にそのような使い方は少ない。ダイナミック/プライベートポート番号は、それを使っている特定のTCPコネクションでしか意味を持たない。
== 発展 ==
TCPは複雑なプロトコルである。長年重大な改良が実施されたり提案されたりしてきたが、1974年に {{IETF RFC|675}} で最初の仕様が登場し、1981年9月に {{IETF RFC|793}} でバージョン4が登場して以来、基本的動作はほとんど変わっていない。{{IETF RFC|1122}} (Host Requirements for Internet Hosts) はTCPプロトコルの実装時の要求仕様を何点か明確にし、近年最も重要なTCP関連のRFCの1つである {{IETF RFC|2581}} (TCP Congestion Control) は輻輳を防ぐための新たなアルゴリズムを提示している。2001年、{{IETF RFC|3168}} で{{仮リンク|明示的輻輳通知|en|Explicit Congestion Notification}} (ECN) が提示された。2022年8月には、{{IETF RFC|675}}<nowiki/>とそれ以降の拡張をまとめた{{IETF RFC|9293}}が公開されている。
当初の{{仮リンク|TCP輻輳回避アルゴリズム|en|TCP congestion avoidance algorithm}}は "TCP Tahoe" と呼ばれているが、代替アルゴリズムも多数提案されている([[:en:TCP Reno|TCP Reno]]、[[:en:TCP Vegas|TCP Vegas]]、[[:en:FAST TCP|FAST TCP]]、[[:en:TCP New Reno|TCP New Reno]]、[[:en:TCP Hybla|TCP Hybla]] など)。
マルチパスTCP (MPTCP)<ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc6182 RFC 6182 Architectural Guidelines for Multipath TCP Development]</ref><ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc8684 RFC 8684 TCP Extensions for Multipath Operation with Multiple Addresses]</ref>は[[Internet Engineering Task Force|IETF]]で近年進行中の改良で、リソース利用効率と冗長性を高めるためにTCPコネクションを複数経路にする試みである。Multipath TCP による冗長性は、無線ネットワークでリソースの[[統計多重化]]を可能にし、TCPのスループットを劇的に高める<ref>[http://portal.acm.org/citation.cfm?id=1794199 TCP with feed-forward source coding for wireless downlink networks]</ref>。マルチパスTCP はデータセンター環境にも性能面の利点をもたらす<ref>{{Cite journal | last1=Raiciu |last2=Barre |last3=Pluntke |last4=Greenhalgh |last5=Wischik |last6=Handley | title=Improving datacenter performance and robustness with multipath TCP | journal=Sigcomm | year=2011 | url= http://inl.info.ucl.ac.be/publications/improving-datacenter-performance-and-robustness-multipath-tcp }}</ref>。Multipath TCP の[[リファレンス実装]]<ref>[http://mptcp.info.ucl.ac.be MultiPath TCP - Linux Kernel implementation]</ref>が[[Linuxカーネル]]向けに開発されている<ref>{{Cite journal |last1=Barre |last2=Paasch |last3=Bonaventure | title=MultiPath TCP: From Theory to Practice | journal=IFIP Networking | year=2011 | url= http://inl.info.ucl.ac.be/publications/multipath-tcp-theory-practice}}</ref>。
[[:en:TCP Cookie Transactions|TCP Cookie Transactions]] (TCPCT) は2009年12月に提案された拡張で、サーバをDoS攻撃から守ることを意図している。[[SYN cookies]] とは異なり、TCPCTはウィンドウスケーリングなどの他のTCP拡張と共存できる。TCPCTは、短命なTCPコネクションをサーバが多数処理しなければならない[[DNS Security Extensions|DNSSEC]]での必要から設計された。
[[:en:tcpcrypt|tcpcrypt]] は2010年7月に提案された拡張で、TCP自身で直接暗号化するものである。透過的に動作可能なように設計されており、設定変更は不要である。[[Transport Layer Security|TLS]] (SSL) とは異なり、tcpcrypt 自体は認証機構を持たないが、そのための簡単なプリミティブをアプリケーションに提供する。2010年現在、[[Internet Engineering Task Force|IETF]] による最初のドラフトが公表されており、いくつかの主要プラットフォームでの実装が存在する。その後、2019年には実験的(Experimental)のステータスの{{IETF RFC|8547}}および{{IETF RFC|8548}}が公開されている。
== 無線ネットワークでのTCP ==
TCPは有線ネットワーク向けに最適化されてきた。一般にパケット喪失は[[輻輳制御|ネットワーク輻輳]]の結果と判断され、予防のために輻輳ウィンドウサイズが大幅に縮小される。しかし無線の場合、減衰、影に入る、[[ハンドオーバー]]などの無線特有の原因でパケットを喪失することがあり、輻輳が原因とは限らない。無線パケット喪失による(誤った)輻輳ウィンドウサイズ縮小後、輻輳回避のための保守的なウィンドウサイズの縮小も行われる可能性がある。これにより無線リンクの効率が低下する。このような問題への対策が広く研究されている。提案されている対策としては、エンドツーエンド型の対策(クライアントとサーバの修正が必要)<ref name="Microsoft Academic Research">{{Cite web | title= TCP performance over CDMA2000 RLP | url = http://academic.research.microsoft.com/Paper/3352358.aspx |accessdate= 2010-08-30}}</ref>と[[リンク層]]の対策([[:en:Radio Link Protocol|RLP]]など)とプロキシを使った対策(端点以外のネットワークの何らかの変更が必要)<ref name="Microsoft Academic Research"/><ref name="IEEE Computer Society">{{Cite journal|author=Muhammad Adeel & Ahmad Ali Iqbal |year=2004 |title=TCP Congestion Window Optimization for CDMA2000 Packet Data Networks |journal=International Conference on Information Technology (ITNG'07) |pages=31-35 |url= http://www.computer.org/portal/web/csdl/doi/10.1109/ITNG.2007.190 |doi=10.1109/ITNG.2007.190 |isbn=978-0-7695-2776-5}}</ref>がある。
== デバッグ ==
[[LANアナライザ]]はネットワークリンク上のTCPトラフィックをインターセプトできる機器で、リンク上を通るパケットの内容を表示でき、ネットワーク、プロトコルスタック、TCPを使っているアプリケーションの[[デバッグ]]に有効である。一部の実装ではソケットの <tt>setsockopt()</tt> で <tt>SO_DEBUG</tt> オプションを指定でき、全パケット、TCPのステータス、ソケット上のイベントなどを出力でき、デバッグに有効である。他に、[[netstat]]もデバッグに使われる。
== 代替となる選択肢 ==
TCPの使用で明らかになった主要な問題は、ヘッドオブラインブロッキングとマルチホーミングの欠如による、コールシグナリングに許容できない遅延の発生である。さらに、TCPの多くの用途は適切とはいえない。(少なくとも通常の実装での)最大の問題は、喪失パケットの再送を受信してからでないと受信済みの後続のパケットをアプリケーションで利用できない点である。特に[[ストリーミング]]、オンラインゲーム、[[VoIP]]などのリアルタイム型アプリケーションで重要な問題であり、データの順序性よりも適時性が重要である。
歴史的・性能的理由により、[[ストレージエリアネットワーク]] (SAN) はTCP/IPよりも[[ファイバーチャネル]]プロトコルを採用することが多い。
[[組み込みシステム]]でも、[[ネットワークブート]]や多数のクライアントからの簡単な要求を受け付けるサーバ(例えば[[Domain Name System|DNS]]サーバ)でTCPの複雑さが問題となる可能性がある。さらには、[[STUN]]などの [[NAT traversal]] 技法では相対的に複雑なTCPを使わずに、遥かに単純な方法で実現している。
一般にTCPが適さない場合は [[User Datagram Protocol]] (UDP) を使用する。UDPはTCPと同様にアプリケーション[[多重化]]とチェックサム機構を提供するが、ストリームの構築や再送を行わず、アプリケーションにそういった機能の実装を任せている。
[[Stream Control Transmission Protocol|SCTP]]は、TCPとよく似たストリーム指向のサービスを提供するプロトコルである。TCPより新しくさらに複雑であり、広く普及したとは言い難い。しかし、信頼性とリアルタイム性を同時に必要とする用途を意図して設計されている。
TCPは広帯域環境でも問題を抱えている。{{仮リンク|TCP輻輳回避アルゴリズム|en|TCP congestion avoidance algorithm}}は、送信者が事前にわからない場当たり的な環境ではうまく機能するが、通信パターンが予測可能な環境では [[Asynchronous Transfer Mode]] (ATM) のようなタイミングに基づくプロトコルの方がオーバーヘッドが小さく、うまく機能する。
== チェックサムの計算 ==
=== IPv4でのTCPチェックサム ===
[[IPv4]]上のTCPの場合、チェックサム計算法は {{IETF RFC|793}} で定義されている。
<blockquote>
チェックサム・フィールドは、ヘッダおよびテキストの全16ビットワードの1の補数の総和の1の補数の下位16ビットである。オクテット数が奇数の場合、最後のオクテットの右にゼロの列をパディングして16ビットワードにしてからチェックサムを計算する。このパディングはセグメントの一部として送信することはない。チェックサム計算時、チェックサム・フィールド自体はゼロとして計算する。
</blockquote>
言い換えれば、正しくパディングした後、全16ビットワードを[[符号付数値表現#1の補数|1の補数表現]]で加算していく。そして総和をビット毎に反転してチェックサム・フィールドに挿入する。チェックサム計算時には、IPv4パケットヘッダを真似た擬似ヘッダも含めて行うことになっている。擬似ヘッダを含めたチェックサム計算範囲を以下に示す。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+チェックサム計算用TCP擬似ヘッダ (IPv4)
|-
! ビットオフセット
! colspan="4" width="11%"| 0–3
! colspan="4" width="11%"| 4–7
! colspan="8" width="22%"| 8–15
! colspan="16" width="44%"| 16–31
|-
! 0
| colspan="32" bgcolor="#FFDDDD"| 送信元[[IPアドレス]]
|-
! 32
| colspan="32" bgcolor="#FFDDDD"| あて先[[IPアドレス]]
|-
! 64
| colspan="8" bgcolor="#FFDDDD"| ゼロ
| colspan="8" bgcolor="#FFDDDD"| [[プロトコル番号]] (6)
| colspan="16" bgcolor="#FFDDDD"| パケット長
|-
! 96
| colspan="16"| 送信元ポート
| colspan="16"| 送信先ポート
|-
! 128
| colspan="32"| [[シーケンス番号]]
|-
! 160
| colspan="32"| [[確認応答番号]]
|-
! 192
| colspan="4"| ヘッダ長
| colspan="4"| 予約
| colspan="8"| フラグ群
| colspan="16"| [[ウィンドウサイズ]]
|-
! 224
| colspan="16" bgcolor="#FFDDDD"| チェックサム
| colspan="16"| 緊急ポインタ
|-
! 256
| colspan="32"| オプション(あれば)
|-
! 256/288+
| colspan="32"| <br />データ<br />
|}
上のピンクの部分はIPv4ヘッダの一部である。[[プロトコル番号]]はTCPでは 6 である。パケット長はTCPヘッダとデータの合計の長さである。
=== IPv6でのTCPチェックサム ===
[[IPv6]]上のTCPの場合、チェックサム計算法は {{IETF RFC|2460}} で示すように変更されている。
<blockquote>
チェックサム計算にIPヘッダのアドレスを含める上位層のプロトコルでは、IPv4の32ビットアドレスの代わりにIPv6の128ビットのアドレスを使うよう変更しなければならない。
</blockquote>
チェックサム計算で使うIPv6ヘッダを真似た擬似ヘッダは次のようになる。
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|+チェックサム計算用TCP擬似ヘッダ (IPv6)
|-
! Bit offset
! colspan="8" width="22%"| 0 - 7
! colspan="8" width="22%"| 8–15
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|-
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|-
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|-
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|-
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|-
! 480
| colspan="32"| オプション(あれば)
|-
! 480/512+
| colspan="32"| <br />データ<br />
|}
* 送信元IPアドレス - IPv6ヘッダにあるもの
* あて先IPアドレス - 最終送信先。ルーティングヘッダがある場合、TCPは最終のあて先アドレスを使用する。発信元ノードでは、そのアドレスはルーティングヘッダの最後の要素にあり、受信側ではIPv6ヘッダの着信アドレスフィールドにある。
* パケット長 - TCPのヘッダとデータをあわせた全長
* 次のヘッダ - TCPの[[プロトコル番号]]
=== チェックサム・オフロード ===
{{Main|オフロード (コンピュータ用語)}}
多くのTCP/IPスタック実装では、[[ネットワークカード]]による自動チェックサム計算を補助的に使うオプションを用意している。これによりCPUサイクルをチェックサム計算に費やすコストを低減でき、ネットワーク性能を向上させることができる。
なお、送信時にチェックサム計算をネットワークカードに任せていると、[[LANアナライザ]]がチェックサムエラーを検出することがある。
== 脚注・出典 ==
{{Reflist|colwidth=30em}}
== 参考文献 ==
* [[W・リチャード・スティーヴンス|W. Richard Stevens]]. TCP/IP Illustrated, Volume 1: The Protocols. ISBN 0-201-63346-9
* [[W・リチャード・スティーヴンス|W. Richard Stevens]] and Gary R. Wright. TCP/IP Illustrated, Volume 2: The Implementation. ISBN 0-201-63354-X
* [[W・リチャード・スティーヴンス|W. Richard Stevens]]. TCP/IP Illustrated, Volume 3: [[:en:T/TCP|TCP for Transactions]], [[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]], [[Network News Transfer Protocol|NNTP]], and the [[:en:unix domain sockets|UNIX Domain]] Protocols. ISBN 0-201-63495-3
== 学習用参考書 ==
* 小口正人:「コンピュータネットワーク入門―TCP/IPプロトコル群とセキュリティ」、サイエンス社、ISBN 978-4781911663 (2007年5月)。
* 村公保:「基礎からわかるTCP/IP ネットワークコンピューティング入門 第3版」、オーム社、ISBN 978-4274050732(2015年2月26日)。
* 安永遼真、中山悠、丸田一輝:「TCP技術入門 ――進化を続ける基本プロトコル」、技術評論社、ISBN 978-4297106232(2019年7月6日)。
* みやたひろし:「図解入門TCP/IP 仕組み・動作が見てわかる」、SBクリエイティブ、ISBN 978-4815604974(2020年12月22日)。
== 関連項目 ==
* [[ポート番号]]
* [[TCPやUDPにおけるポート番号の一覧]]
* [[Maximum Transmission Unit]] (MTU)
* [[最大セグメントサイズ]] (MSS)
* [[SYN flood]]
* [[SYN cookies]]
* [[User Datagram Protocol]]
* [[Stream Control Transmission Protocol]] (SCTP)
* [[Datagram Congestion Control Protocol]] (DCCP)
* [[トランスポート層]]
* [[エンドツーエンド原理]]
* [[二人の将軍問題]]
* [[ウィンドウサイズ]] - [[スライディングウィンドウ]] - [[フロー制御]]
* [[Bufferbloat]]
== 外部リンク ==
=== RFC ===
* {{IETF RFC|675}} - Specification of Internet Transmission Control Program 1974年12月版
* {{IETF RFC|1122}} - Requirements for Internet Hosts -- Communication Layers (TCP に関する細かい修正が含まれている)
* {{IETF RFC|7323}} - TCP Extensions for High Performance
* {{IETF RFC|2018}} - TCP Selective Acknowledgment Options
* {{IETF RFC|6298}} - Computing TCP's Retransmission Timer
* {{IETF RFC|3390}} - Increasing TCP's Initial Window
* {{IETF RFC|6582}} - The NewReno Modification to TCP's Fast Recovery Algorithm
* {{IETF RFC|7414}} - A Roadmap for TCP Specification Documents
* {{IETF RFC|5681}} - TCP Congestion Control
* {{IETF RFC|9293}} - Transmission Control Protocol (TCP): 現行の仕様
=== その他 ===
* [https://conservancy.umn.edu/handle/11299/107387 Oral history interview with Robert E. Kahn], [[チャールズ・バベッジ研究所|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota, Minneapolis.
* [https://condor.depaul.edu/~jkristof/technotes/tcp.html John Kristoff's Overview of TCP] - TCPの基本概念とデータ転送動作について
* [http://www.networksorcery.com/enp/protocol/tcp.htm TCP, Transmission Control Protocol]
* [http://mathforum.org/library/drmath/view/54379.html Compute 16-bit One's Complement Sum] - チェックサムの例
* [http://www.ssfnet.org/Exchange/tcp/tcpTutorialNotes.html TCP tutorial]
* [https://www.linktionary.com/s/segment_tcp.html Linktionary on TCP segments]
{{OSI}}
[[Category:Transmission Control Protocol|*]]
[[Category:トランスポート層プロトコル]]
[[Category:RFC|0793]] | 2003-05-22T14:15:36Z | 2023-11-20T08:59:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Transmission_Control_Protocol |
9,090 | TCP | TCP | [
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] | TCP | '''TCP'''
== 科学・技術 ==
* [[Transmission Control Protocol]] - [[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]の通信処理で使われるプロトコルのひとつ。
* TCP (Tape carrier package) - 半導体製品のパッケージ規格の一つ。[[パッケージ (電子部品)#TCP (Tape carrier package)]]参照。
* [[TCP (デザイナードラッグ)]]('''t'''hienyl'''c'''yclohexyl'''p'''iperidine) - [[デザイナードラッグ]]の一種。
* {{仮リンク|トコフェロール|en|Tocopherol}}('''t'''o'''c'''o'''p'''herol)の略称。
* [[リン酸三カルシウム]]('''t'''ri'''c'''alcium '''p'''hosphate)の略称。
* [[リン酸トリクレジル]]('''T'''ri'''c'''resyl '''p'''hosphate)の略称。
== 組織 ==
* [[TCP (企業)]] - [[テレビ]][[番組制作会社]]。
* [[台湾共産党 (2008年)]](Taiwan Communist Party)- [[中華民国]](台湾)にかつて存在した社会主義政党。
* [[東京綜合写真専門学校]](Tokyo College of Photography)- [[専修学校]]。
<!-- * [[トップ・カウ・プロダクション]] --><!-- 一般的な略称ではない -->
* [[東京クラシックプレイヤーズ]] - [[ヴァイオリニスト]][[浦川宜也]]主宰の[[弦楽合奏]]団。
* [[チェンバー・フィルハーモニック東京]] - [[指揮者]]の木村康人が[[芸術監督]]を務める、[[東京都]]を拠点とする[[アマチュア・オーケストラ]]の略称。
* [[東京言語心理学会議]](Tokyo Conference on Psycholinguistics)
== その他 ==
* {{仮リンク|タバ国際空港|en|Taba International Airport}}の[[空港コード]]。
* [[ティーチングプロ]] - [[ゴルフ]]を[[報酬]]を得て指導する[[プロフェッショナル]]。[[日本プロゴルフ協会]](JPGA)が認定している。→[[プロフェッショナル#プロフェッショナルの形態]]参照。
* [[タイムズカープラス]] - [[タイムズ24]]が提供する[[カーシェアリング]]サービスの略称。
* 税務コンプライアンスとプランニング (Tax compliance and planning) - [[米国公認会計士]]の2024年以降の受験科目の一つ
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9,092 | 659年 | 659年(659 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | [
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[己未]]
* [[日本]]
** [[斉明天皇]]5年
** [[皇紀]]1319年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[顕慶]]4年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[宝蔵王]]18年
** [[百済]]:[[義慈王]]19年
** [[新羅]]:[[武烈王]]6年
** [[檀紀]]2992年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[7月27日]](斉明天皇5年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[坂合部石布]]、[[津守連吉祥]]らを[[遣唐使]]に派遣。坂合部石布は遭難・漂着し、原住民に襲撃され死亡。津守連吉祥らは唐に到着。
* [[10月21日]](斉明天皇5年[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]) - 遣唐使が唐の皇帝に謁見。
* [[12月19日]](斉明天皇5年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - 唐での冬至の儀式にて、日本からの遣唐使の風采挙措が最も優れていたとの評価を受ける。
* 月日不明 - 『[[北史]]』・『[[南史]]』の成立。
== 誕生 ==
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* [[藤原不比等]]、[[公卿]]、[[藤原鎌足]]の次男(+ [[720年]])
* [[賀知章]]、[[唐]]代の詩人・[[書家]](+ [[744年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:659年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[長孫無忌]]、唐代の[[政治家]]
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|659}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/659%E5%B9%B4 |
9,094 | 静的リンク | 静的リンク(せいてきリンク、英語: static link)とは、コンピュータプログラム作成時において、ライブラリあるいはアプリケーションプログラムのモジュールをビルドする際に、各モジュールに必要なプログラムコードの実体すべてをリンケージエディタによってリンクしてモジュールに含める方式。
コンパイラによってソースコードから生成されたオブジェクトファイルを、リンク時につなぎ合わせ、実行可能形式のバイナリ(実行ファイル)を作成する。
静的リンキング、スタティックリンキングとも言う。
静的リンクの利点としては、モジュール自身に必要なコードが含まれているため自己完結できることや、シンボルの解決が事前に(静的に)実施されるためプログラム実行時のオーバーヘッドがないことなどが挙げられる。
静的リンクの欠点としては、各モジュールに重複するコードやデータがあったとしても、それぞれに実体が存在するためモジュールのサイズが大きくなってしまうことや、ライブラリの実装を変更したときに、たとえライブラリのインターフェイスに変更がなくてもプログラムを再リンクする必要があることなどが挙げられる。静的リンクされるコードの量が増えると、ビルド時のリンク時間が増大し、開発サイクルが鈍化する原因となる。また、重複するコードやデータはメモリを圧迫し、キャッシュが頻繁にクリアされることで実行速度が低下する原因にもなる。
なお、静的リンクライブラリは通例処理系ごとに固有のアプリケーションバイナリインタフェース (ABI) に依存する形式となるため、ABI互換のない処理系間で共有・再利用することはできない。
共有ライブラリあるいはダイナミックリンクライブラリ (DLL) にプログラムコードの実体を分割しておき、プログラムの実行開始時にローダによって初めて結合する方式を動的リンクと呼ぶ。 | [
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] | 静的リンクとは、コンピュータプログラム作成時において、ライブラリあるいはアプリケーションプログラムのモジュールをビルドする際に、各モジュールに必要なプログラムコードの実体すべてをリンケージエディタによってリンクしてモジュールに含める方式。 コンパイラによってソースコードから生成されたオブジェクトファイルを、リンク時につなぎ合わせ、実行可能形式のバイナリ(実行ファイル)を作成する。 静的リンキング、スタティックリンキングとも言う。 静的リンクの利点としては、モジュール自身に必要なコードが含まれているため自己完結できることや、シンボルの解決が事前に(静的に)実施されるためプログラム実行時のオーバーヘッドがないことなどが挙げられる。 静的リンクの欠点としては、各モジュールに重複するコードやデータがあったとしても、それぞれに実体が存在するためモジュールのサイズが大きくなってしまうことや、ライブラリの実装を変更したときに、たとえライブラリのインターフェイスに変更がなくてもプログラムを再リンクする必要があることなどが挙げられる。静的リンクされるコードの量が増えると、ビルド時のリンク時間が増大し、開発サイクルが鈍化する原因となる。また、重複するコードやデータはメモリを圧迫し、キャッシュが頻繁にクリアされることで実行速度が低下する原因にもなる。 なお、静的リンクライブラリは通例処理系ごとに固有のアプリケーションバイナリインタフェース (ABI) に依存する形式となるため、ABI互換のない処理系間で共有・再利用することはできない。 | '''静的リンク'''('''せいてきリンク'''、{{lang-en|static link}})とは、[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]作成時において、[[ライブラリ]]あるいは[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーションプログラム]]の[[モジュール]]を[[ビルド (ソフトウェア)|ビルド]]する際に、各モジュールに必要なプログラムコードの実体すべてを[[リンケージエディタ]]によってリンクしてモジュールに含める方式。
[[コンパイラ]]によって[[ソースコード]]から生成された[[オブジェクトファイル]]を、リンク時につなぎ合わせ、実行可能形式の[[バイナリ]]([[実行ファイル]])を作成する。
'''静的リンキング'''、'''スタティックリンキング'''とも言う。
静的リンクの利点としては、モジュール自身に必要なコードが含まれているため自己完結できることや、シンボルの解決が事前に(静的に)実施されるためプログラム実行時のオーバーヘッドがないことなどが挙げられる。<!-- 動的リンクのライブラリ形式すなわち.soや.dllであっても、複数のアプリケーションから利用される「共有ライブラリ」ではなく、単独のアプリケーションから利用される「プライベートライブラリ」であれば、バージョン互換性を気にする必要はない。静的リンク固有の利点ではない。 -->
静的リンクの欠点としては、各モジュールに重複するコードやデータがあったとしても、それぞれに実体が存在するためモジュールのサイズが大きくなってしまうことや、ライブラリの実装を変更したときに、たとえライブラリのインターフェイスに変更がなくてもプログラムを再リンクする必要があることなどが挙げられる<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/cpp/build/dlls-in-visual-cpp Create C/C++ DLLs in Visual Studio | Microsoft Docs]</ref>。静的リンクされるコードの量が増えると、ビルド時のリンク時間が増大し、開発サイクルが鈍化する原因となる。また、重複するコードやデータはメモリを圧迫し、キャッシュが頻繁にクリアされることで実行速度が低下する原因にもなる。
なお、静的リンクライブラリは通例処理系ごとに固有の[[アプリケーションバイナリインタフェース]] (ABI) に依存する形式となるため、ABI互換のない処理系間で共有・再利用することはできない。
== 対義語 ==
共有[[ライブラリ]]あるいは[[ダイナミックリンクライブラリ]] (DLL) にプログラムコードの実体を分割しておき、プログラムの実行開始時に[[ローダ]]によって初めて結合する方式を[[動的リンク]]と呼ぶ。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ar (UNIX)]]
* [[動的リンク]]
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{{DEFAULTSORT:せいてきりんく}}
[[Category:プログラミング]] | null | 2020-11-24T11:49:04Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E7%9A%84%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF |
9,096 | 洗濯機 | 洗濯機(せんたくき、英: washing machine, laundry machine)は、洗濯に用いられる機械。
歴史的には「洗濯機」と言う言葉は様々な動力源のものを指してきた。日本では、昭和以降「電気洗濯機」しか販売されていないので、単に「洗濯機」と言うと、事実上それを指している。
初期は人力で動かす手動式洗濯機であったが、19世紀には蒸気機関で動かすものが多く、20世紀なかばからは電動機(モータ)で回転させるものが広まり、20世紀後半では脱水機付きのものが登場し、さらに洗濯から脱水まで自動で行うもの(当時「全自動」と呼ばれていたもの)が大半となり、その後、洗濯・脱水だけでなく乾燥まで自動で行うものまで登場した。
洗濯とはもともと、もっぱら人の手や足で行っていたかなり手間のかかる重労働である。洗濯機は、そうした重労働を軽減する目的で開発され、家事労働の軽減に貢献してきた。
2009年、カトリック教会の半公的な新聞である L'Osservatore Romano が、洗濯機が女性を家事の苦役から解放したという意味で、女性解放における重要なマイルストーンだったと表明している。
本項は、主に家庭用の洗濯機について記述し、業務用についても若干ふれる。
洗濯は、布をこすったり叩いたりすることで布から汚れを浮かせ(分離し)きれいにする。また布地に石鹸を浸透させ汚れを落としやすくする、ということも行われる。もともとは、川や池や泉の縁の岩などに衣類を打ち付けたり、こすったりするしていたが、その後波状の溝をつけた洗濯板が使われるようになった。古代ローマでは、"fuller" と呼ばれる人たちが発酵した尿などの入ったバケツに洗濯物を入れ、それを足で踏んで洗濯した。
洗濯という重労働を何とか軽減させるため、洗濯する機械が開発されてきた。また特に、ヨーロッパではペストなどの伝染病が広まった歴史があり、これを防ぐために熱湯を沸かしたかまどの中で洗濯物を木の棒でかきまわして洗う習慣が普及したが、やけどしがちな作業を避けるための機械の需要が生じた。ドイツなどで初期に考案された洗濯機は、樽などの容器を横向きにし、湯や洗濯物を入れ蓋をし、容器についたハンドルを手で回し、中身を攪拌する方式だった。
洗濯は温水を使った方が汚れが落ちやすい。石鹸の入った温水は貴重だったため、そのまま何度も再利用されていた。まず汚れの少ない衣類を洗い、徐々に汚れのひどいものを洗っていく。初期の洗濯機は木製だったが、金属製のものができると、洗濯槽を下から火で加熱できるようになった。このため、一日中洗濯しても洗濯水を暖かく保つことができた。
イングランドでは、1691年に初の洗濯機および脱水機に類する特許が成立している。また、1752年1月の "The Gentlemen's Magazine" というイギリスの雑誌に初期の洗濯機の絵が掲載されている。ドイツでは Jacob Christian Schäffer が洗濯機を考案し、1767年にその設計が出版されている。1782年には、イギリスで Henry Sidgier が回転ドラム式洗濯機の特許を取得している。
洗濯後、洗濯物から石鹸水を除去する工程は全く別の工程だった。元々はびしょぬれの衣類を手で絞っていた。この仕事を助けるため、2つのローラーにばねで力をかけ、そこに衣類を通してローラーを手で回すという手絞り機(または手回し脱水機)が開発された。これには1枚ずつ衣類を入れてやる必要があった。元々は独立した機械だったが、洗濯機に組み込まれるようになり、搾り取った石鹸水が洗濯槽に戻って再利用できるような構造になった。
アメリカ合衆国では1797年、ニューハンプシャー州の Nathaniel Briggs が "Clothes Washing" と題した特許を取得している。特許事務所が後に火事で焼け落ちたため、彼が具体的にどういう発明をしたのかは分かっていない。洗濯機に手絞り機を組み込んだものは、1843年セントジョンの John E. Turnbull が取得した "Clothes Washer With Wringer Rolls" という特許が最初である。
蒸気機関・ガソリンエンジン等を用いてドラムを回転させるものや、撹拌棒を回転させる撹拌式洗濯機が使われるようになった。1気筒の低速なガソリンエンジンなどがよく使われていた。
電気洗濯機は20世紀初めにアメリカで登場している。アルバ・ジョン・フィッシャーが1910年に電気洗濯機の特許を取得しており、電気洗濯機の発明者とされることが多いが、フィッシャー以前にも電気洗濯機の特許が存在していた。
電気式洗濯機は1908年にアメリカで発明され、1908年にアメリカのHurley Machine Companyが「Thor」として販売。
電力が欧米で普及するのは1930年代である。
アメリカでの電気洗濯機の年間販売台数は1928年には913,000台に達した。しかし、世界恐慌が発生したために販売台数が減少し、1932年には出荷台数が約600,000台となっている。洗濯機の設計は1930年代に改善が進み、安全性を考慮して電動機などの機械が筐体に覆われるようになった。1940年には、アメリカの電力供給を受けている2500万戸の60%が電気洗濯機を所有していた。
第二次世界大戦中、アメリカ国内の洗濯機メーカーは軍需に徴用されたが、全自動洗濯機の開発は続けられ、戦後間もなく全自動洗濯機を発売した。ベンディックスは1947年、改良型の Bendix Deluxe(当時249.50ドル)を発売。ゼネラル・エレクトリックも同年、全自動洗濯機を発売している。他社も1950年代初めまでに次々と全自動洗濯機を発売している。中には2槽式で、洗濯槽から脱水槽に洗濯物を手で移さなければならない半自動洗濯機もあった。
電気掃除機で知られるフーバー社は、マイコン制御が登場する以前にカートリッジ式で洗濯パターンをプログラム可能な全自動洗濯機 Keymatic を製造していた。洗濯機のスロットにプラスチック製の鍵状のカートリッジを挿入すると、それにしたがって洗濯パターンを決定するものである。しかし、ダイヤル式で設定する他の洗濯機に対して特に優れているわけでもないため、成功したとは言い難い(カートリッジは失くしやすいという問題もあった)。
初期の全自動洗濯機は機械式タイマーを使い、タイマーシャフトに一連のカムがあり、様々なスイッチを時間で操作していた。1950年代、これが電子式タイマーになり、設定の自由度が格段に向上した。
ヨーロッパでは1950年代まで電気洗濯機は一般化しなかった。これは、第二次世界大戦の戦禍により、ヨーロッパの消費者市場が1950年代後半まで回復しなかったためである。当初はローラーによる手絞り機構付きの電気洗濯機が主流だった。1960年代には2槽式が主流となった。全自動洗濯機が主流となったのは1970年代になってからのことである。
日本では1930(昭和5)年に東芝の前身である東京電気株式会社がHurley Machine Companyの「Thor」(ソアー)の輸入販売を開始し、日本産(「国産」)第一号は1930年に東芝の前身である芝浦製作所から攪拌式洗濯機「Solar」(ソーラー)として販売された。その後、1953年に三洋電機から現在の洗濯機の原点とも言える噴流式洗濯機が低価格で発売され、一気に普及した。
戦後(第二次世界大戦後)の1950年代、日本の電器メーカーは電気洗濯機を『三種の神器』という宣伝文句で民衆に売り込んだ。その後昭和後期ころからは「白物家電」と呼ばれるようになり、現在でも家電製品の中でも代表格のひとつである。
昭和時代の日本では日本製が大半を占めたが、平成以降は他の白物家電と同様に、一部の高付加価値製品を除き生産コストの低いアジア圏で生産されたものが大半を占める状況になっている。撤退するところも多くなり、2008年10月31日を以て三菱電機は(売り上げ不振で赤字が続いたことから)洗濯機の生産より完全撤退した。
日本では「電気洗濯機」として家庭用品品質表示法の適用対象となっており電気機械器具品質表示規程に定めがある。また、テレビ受像機、エアコン、冷蔵庫とともに2001年より家電リサイクル法の対象となり、廃棄する場合には、適切な処理が義務付けられ、粗大ゴミとして処分できなくなった。固定資産としての法定耐用年数は6年だが、家庭での平均的な使用年数は8.4年である。
一部では芋洗いや、タコのぬめり取りなどの魚介類を洗うために使われる事もある。メーカーの想定外・保証外の利用法であり、故障の原因ともなるので推奨されない利用法である。
回転による脱水が一般化するのは、電動機が開発されてからである。回転で脱水するには高速で強力な回転力が必要であり、脱水機は洗濯機とは別の装置として作られた。洗濯した衣類を洗濯槽から脱水槽に移して脱水していた。このような初期の脱水機は、中身が偏っていると脱水槽自体が危険なほど揺れるという問題があった。それでこの揺れをなんとかしようと様々な試みがなされた。まず、若干のアンバランスを吸収する緩衝フレームが考案され、さらに激しい揺れを検出して脱水機の回転を止める機構が考案された。この場合、人間の手で中身を均等にして再度脱水する。最近では、液体を封入した環を使い、それを脱水槽と同時に回すことで全体としてバランスが取れるようにしていることが多い。
いわゆる全自動洗濯機は、洗濯槽と脱水槽が1つになり、水の出し入れが自動化され、洗濯から脱水まで自動的に行うようになっている。1937年、ベンディックスが初の全自動洗濯機の特許を取得し、それを使った洗濯機を同年発売した。この洗濯機は現代の全自動洗濯機の基本機能は全て備えていたが、サスペンション機構がなかったため、動き回らないよう床に固定する必要があった。
初期の全自動洗濯機では、洗濯槽/脱水槽の回転速度は機械的手段か電動機に供給する電力を可変抵抗器で加減することで制御していた。1970年代には上位機種から電子制御が一般化していった。1990年代になると、タイマーの代わりにマイクロコントローラを採用した機種が登場する。これが今(近年)では一般化している。ファジィ制御も洗濯機にいち早く採用されている。
最近では衣類乾燥機の機能まで1台でこなすものもあり、ボタン一つで最後までいくが、家庭用での普及よりコインランドリーで汎用されている。
21世紀頃から、より使用水量の少ない縦ドラム型の洗濯機が普及している。
槽の中に洗濯物が入った円筒のドラムを入れ、ドラムを回転させて洗濯する。ドラム式の元となった。
槽と同じ程度の高さのある大型の羽根をゆっくり反転させて水流を発生させる方式。構造的に大型となるため日本では業務用の一部に限られるが、アメリカでは現在も主流。 日本では1922年(大正11年)に初めて輸入され、1930年(昭和5年)に東芝が国産初の電気洗濯機として製造。終戦直後は日本のメーカーも進駐軍向けに製造していたが、1947年(昭和22年)に「日本人メイドの人件費が安く、しかも上手に手で洗ってくれる」という理由で納入が打ち切られた。これを契機に一般向けにも発売されたが、5万円以上(ローラー絞り器なし 当時の日本人の大卒初任給は22,000円)と非常に高価だったため普及しなかった。
洗濯槽にパルセーターと呼ばれる羽根を持ち、それを高速回転させて激しい水流を発生させて汚れを落とす方式でアジアで一般的。日本では1953年(昭和28年)8月に三洋電機が初めて製造。定価は28,500円(当時の大卒初任給は17,000円)と、比較的買いやすい値段だった。同年に出力100W以下の洗濯機が物品税の対象から外れたのを契機に、槽の側面にパルセーターがある噴流式の開発が日本で盛んになった。しかし噴流式は洗濯物がよじれて傷みやすかったり、洗濯物が多くても少なくても同じ水量が必要だったことから、1954(昭和29)年にパルセーターを底面に設置した渦巻き式が開発された。日本では渦巻き式が1960(昭和35)年から現在までの主流となっている。パルセーターが大径口で乾燥機能が付くものは、タテ型(2000(平成12)年12月に松下電器、現パナソニックが発売)と呼ばれる。ごく初期のパルセーターは小型のものが主流であったが、現在ではほぼ洗濯槽いっぱいの大きさとなっている。昭和 - 平成初期に建てられたアパートや賃貸マンションに住む者は洗面台の入り口が55cm - 59cmと狭小のため、室内にドラム式が設置できないことから、この渦巻き式を購入することが多い。
横を向いた円筒状の洗濯槽を回転させ、洗濯物が上がっては落ちを繰り返すことにより叩き洗いをすることで汚れを落とす方式。ドラムの上底面から洗濯物を出し入れする。クリーニング店・コインランドリーの洗濯機ではこの方式が良く使われている。洗濯物の傷みが少なく、水の使用量も少ない。ヨーロッパでは主流の方式。 重量が重いことを引き換えに一般に乾燥機能においてメリットがあるため、家庭用では一部メーカーを除き、乾燥機付き洗濯機に限られる。また奥行きが大きいことから、搬入経路や置き場所の考慮も必要である。 家庭用のサイズだと高温多湿で軟水の日本では脂肪を含んだ汗や泥汚れが充分に落ちづらいという点で不利。1950年代には日本でも製造されていたが、当時は家庭用としては主流とならなかった。しかし、ポンプアップと電子制御を併用、ヒーター式乾燥機能などを追加することで2000年(平成12年)から日本でも普及し始めた。2005年(平成17年)にはパナソニックが、世界で初めて乾燥にヒートポンプ式を採用したドラム式洗濯機を発売した。ヒートポンプ式はヒートポンプの熱交換と除湿によって乾燥する方式で、高温の温風で乾燥する従来のヒーター式に比べ、低温であるため衣類の傷みが少ない方式とされており、2022年現在、中上位機種で主流の乾燥方式となっている。
洗濯物が浮き上がらないように上から蓋で押さえたうえで、洗濯槽の底にある振動板を高速で振動させて汚れを落とす方式。1950年代に発売したが、汚れの落ちが悪く振動がうるさいため全く普及しなかった。
2008年、リーズ大学は約280mlの水だけで洗濯できる洗濯機を開発した。
洗濯は繊維製品の性質に合わせた方法をとる必要があるため、一般に衣料品などの繊維製品には絵表示(ピクトグラム)などで取扱方法が表示されている。日本では2017年春夏向け商品からISO(国際標準化機構)に対応した絵表示(JIS L 0001:2014)に変更され表示記号は22種類から41種類とほぼ2倍になる。洗濯表示を参照。
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"text": "洗濯機(せんたくき、英: washing machine, laundry machine)は、洗濯に用いられる機械。",
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"text": "歴史的には「洗濯機」と言う言葉は様々な動力源のものを指してきた。日本では、昭和以降「電気洗濯機」しか販売されていないので、単に「洗濯機」と言うと、事実上それを指している。",
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"text": "初期は人力で動かす手動式洗濯機であったが、19世紀には蒸気機関で動かすものが多く、20世紀なかばからは電動機(モータ)で回転させるものが広まり、20世紀後半では脱水機付きのものが登場し、さらに洗濯から脱水まで自動で行うもの(当時「全自動」と呼ばれていたもの)が大半となり、その後、洗濯・脱水だけでなく乾燥まで自動で行うものまで登場した。",
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"text": "洗濯とはもともと、もっぱら人の手や足で行っていたかなり手間のかかる重労働である。洗濯機は、そうした重労働を軽減する目的で開発され、家事労働の軽減に貢献してきた。",
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"text": "2009年、カトリック教会の半公的な新聞である L'Osservatore Romano が、洗濯機が女性を家事の苦役から解放したという意味で、女性解放における重要なマイルストーンだったと表明している。",
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"text": "本項は、主に家庭用の洗濯機について記述し、業務用についても若干ふれる。",
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"text": "洗濯は、布をこすったり叩いたりすることで布から汚れを浮かせ(分離し)きれいにする。また布地に石鹸を浸透させ汚れを落としやすくする、ということも行われる。もともとは、川や池や泉の縁の岩などに衣類を打ち付けたり、こすったりするしていたが、その後波状の溝をつけた洗濯板が使われるようになった。古代ローマでは、\"fuller\" と呼ばれる人たちが発酵した尿などの入ったバケツに洗濯物を入れ、それを足で踏んで洗濯した。",
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"text": "洗濯という重労働を何とか軽減させるため、洗濯する機械が開発されてきた。また特に、ヨーロッパではペストなどの伝染病が広まった歴史があり、これを防ぐために熱湯を沸かしたかまどの中で洗濯物を木の棒でかきまわして洗う習慣が普及したが、やけどしがちな作業を避けるための機械の需要が生じた。ドイツなどで初期に考案された洗濯機は、樽などの容器を横向きにし、湯や洗濯物を入れ蓋をし、容器についたハンドルを手で回し、中身を攪拌する方式だった。",
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"text": "洗濯は温水を使った方が汚れが落ちやすい。石鹸の入った温水は貴重だったため、そのまま何度も再利用されていた。まず汚れの少ない衣類を洗い、徐々に汚れのひどいものを洗っていく。初期の洗濯機は木製だったが、金属製のものができると、洗濯槽を下から火で加熱できるようになった。このため、一日中洗濯しても洗濯水を暖かく保つことができた。",
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"text": "イングランドでは、1691年に初の洗濯機および脱水機に類する特許が成立している。また、1752年1月の \"The Gentlemen's Magazine\" というイギリスの雑誌に初期の洗濯機の絵が掲載されている。ドイツでは Jacob Christian Schäffer が洗濯機を考案し、1767年にその設計が出版されている。1782年には、イギリスで Henry Sidgier が回転ドラム式洗濯機の特許を取得している。",
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"text": "洗濯後、洗濯物から石鹸水を除去する工程は全く別の工程だった。元々はびしょぬれの衣類を手で絞っていた。この仕事を助けるため、2つのローラーにばねで力をかけ、そこに衣類を通してローラーを手で回すという手絞り機(または手回し脱水機)が開発された。これには1枚ずつ衣類を入れてやる必要があった。元々は独立した機械だったが、洗濯機に組み込まれるようになり、搾り取った石鹸水が洗濯槽に戻って再利用できるような構造になった。",
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"text": "アメリカ合衆国では1797年、ニューハンプシャー州の Nathaniel Briggs が \"Clothes Washing\" と題した特許を取得している。特許事務所が後に火事で焼け落ちたため、彼が具体的にどういう発明をしたのかは分かっていない。洗濯機に手絞り機を組み込んだものは、1843年セントジョンの John E. Turnbull が取得した \"Clothes Washer With Wringer Rolls\" という特許が最初である。",
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"text": "蒸気機関・ガソリンエンジン等を用いてドラムを回転させるものや、撹拌棒を回転させる撹拌式洗濯機が使われるようになった。1気筒の低速なガソリンエンジンなどがよく使われていた。",
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"text": "電気洗濯機は20世紀初めにアメリカで登場している。アルバ・ジョン・フィッシャーが1910年に電気洗濯機の特許を取得しており、電気洗濯機の発明者とされることが多いが、フィッシャー以前にも電気洗濯機の特許が存在していた。",
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"text": "電気式洗濯機は1908年にアメリカで発明され、1908年にアメリカのHurley Machine Companyが「Thor」として販売。",
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"text": "電力が欧米で普及するのは1930年代である。",
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"text": "アメリカでの電気洗濯機の年間販売台数は1928年には913,000台に達した。しかし、世界恐慌が発生したために販売台数が減少し、1932年には出荷台数が約600,000台となっている。洗濯機の設計は1930年代に改善が進み、安全性を考慮して電動機などの機械が筐体に覆われるようになった。1940年には、アメリカの電力供給を受けている2500万戸の60%が電気洗濯機を所有していた。",
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"text": "第二次世界大戦中、アメリカ国内の洗濯機メーカーは軍需に徴用されたが、全自動洗濯機の開発は続けられ、戦後間もなく全自動洗濯機を発売した。ベンディックスは1947年、改良型の Bendix Deluxe(当時249.50ドル)を発売。ゼネラル・エレクトリックも同年、全自動洗濯機を発売している。他社も1950年代初めまでに次々と全自動洗濯機を発売している。中には2槽式で、洗濯槽から脱水槽に洗濯物を手で移さなければならない半自動洗濯機もあった。",
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"text": "電気掃除機で知られるフーバー社は、マイコン制御が登場する以前にカートリッジ式で洗濯パターンをプログラム可能な全自動洗濯機 Keymatic を製造していた。洗濯機のスロットにプラスチック製の鍵状のカートリッジを挿入すると、それにしたがって洗濯パターンを決定するものである。しかし、ダイヤル式で設定する他の洗濯機に対して特に優れているわけでもないため、成功したとは言い難い(カートリッジは失くしやすいという問題もあった)。",
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"text": "初期の全自動洗濯機は機械式タイマーを使い、タイマーシャフトに一連のカムがあり、様々なスイッチを時間で操作していた。1950年代、これが電子式タイマーになり、設定の自由度が格段に向上した。",
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"text": "ヨーロッパでは1950年代まで電気洗濯機は一般化しなかった。これは、第二次世界大戦の戦禍により、ヨーロッパの消費者市場が1950年代後半まで回復しなかったためである。当初はローラーによる手絞り機構付きの電気洗濯機が主流だった。1960年代には2槽式が主流となった。全自動洗濯機が主流となったのは1970年代になってからのことである。",
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"text": "日本では1930(昭和5)年に東芝の前身である東京電気株式会社がHurley Machine Companyの「Thor」(ソアー)の輸入販売を開始し、日本産(「国産」)第一号は1930年に東芝の前身である芝浦製作所から攪拌式洗濯機「Solar」(ソーラー)として販売された。その後、1953年に三洋電機から現在の洗濯機の原点とも言える噴流式洗濯機が低価格で発売され、一気に普及した。",
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"text": "戦後(第二次世界大戦後)の1950年代、日本の電器メーカーは電気洗濯機を『三種の神器』という宣伝文句で民衆に売り込んだ。その後昭和後期ころからは「白物家電」と呼ばれるようになり、現在でも家電製品の中でも代表格のひとつである。",
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"text": "昭和時代の日本では日本製が大半を占めたが、平成以降は他の白物家電と同様に、一部の高付加価値製品を除き生産コストの低いアジア圏で生産されたものが大半を占める状況になっている。撤退するところも多くなり、2008年10月31日を以て三菱電機は(売り上げ不振で赤字が続いたことから)洗濯機の生産より完全撤退した。",
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"text": "日本では「電気洗濯機」として家庭用品品質表示法の適用対象となっており電気機械器具品質表示規程に定めがある。また、テレビ受像機、エアコン、冷蔵庫とともに2001年より家電リサイクル法の対象となり、廃棄する場合には、適切な処理が義務付けられ、粗大ゴミとして処分できなくなった。固定資産としての法定耐用年数は6年だが、家庭での平均的な使用年数は8.4年である。",
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"text": "一部では芋洗いや、タコのぬめり取りなどの魚介類を洗うために使われる事もある。メーカーの想定外・保証外の利用法であり、故障の原因ともなるので推奨されない利用法である。",
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"text": "回転による脱水が一般化するのは、電動機が開発されてからである。回転で脱水するには高速で強力な回転力が必要であり、脱水機は洗濯機とは別の装置として作られた。洗濯した衣類を洗濯槽から脱水槽に移して脱水していた。このような初期の脱水機は、中身が偏っていると脱水槽自体が危険なほど揺れるという問題があった。それでこの揺れをなんとかしようと様々な試みがなされた。まず、若干のアンバランスを吸収する緩衝フレームが考案され、さらに激しい揺れを検出して脱水機の回転を止める機構が考案された。この場合、人間の手で中身を均等にして再度脱水する。最近では、液体を封入した環を使い、それを脱水槽と同時に回すことで全体としてバランスが取れるようにしていることが多い。",
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"text": "いわゆる全自動洗濯機は、洗濯槽と脱水槽が1つになり、水の出し入れが自動化され、洗濯から脱水まで自動的に行うようになっている。1937年、ベンディックスが初の全自動洗濯機の特許を取得し、それを使った洗濯機を同年発売した。この洗濯機は現代の全自動洗濯機の基本機能は全て備えていたが、サスペンション機構がなかったため、動き回らないよう床に固定する必要があった。",
"title": "歴史"
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"text": "初期の全自動洗濯機では、洗濯槽/脱水槽の回転速度は機械的手段か電動機に供給する電力を可変抵抗器で加減することで制御していた。1970年代には上位機種から電子制御が一般化していった。1990年代になると、タイマーの代わりにマイクロコントローラを採用した機種が登場する。これが今(近年)では一般化している。ファジィ制御も洗濯機にいち早く採用されている。",
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"text": "最近では衣類乾燥機の機能まで1台でこなすものもあり、ボタン一つで最後までいくが、家庭用での普及よりコインランドリーで汎用されている。",
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"text": "槽の中に洗濯物が入った円筒のドラムを入れ、ドラムを回転させて洗濯する。ドラム式の元となった。",
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"text": "槽と同じ程度の高さのある大型の羽根をゆっくり反転させて水流を発生させる方式。構造的に大型となるため日本では業務用の一部に限られるが、アメリカでは現在も主流。 日本では1922年(大正11年)に初めて輸入され、1930年(昭和5年)に東芝が国産初の電気洗濯機として製造。終戦直後は日本のメーカーも進駐軍向けに製造していたが、1947年(昭和22年)に「日本人メイドの人件費が安く、しかも上手に手で洗ってくれる」という理由で納入が打ち切られた。これを契機に一般向けにも発売されたが、5万円以上(ローラー絞り器なし 当時の日本人の大卒初任給は22,000円)と非常に高価だったため普及しなかった。",
"title": "撹拌方式"
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"text": "洗濯槽にパルセーターと呼ばれる羽根を持ち、それを高速回転させて激しい水流を発生させて汚れを落とす方式でアジアで一般的。日本では1953年(昭和28年)8月に三洋電機が初めて製造。定価は28,500円(当時の大卒初任給は17,000円)と、比較的買いやすい値段だった。同年に出力100W以下の洗濯機が物品税の対象から外れたのを契機に、槽の側面にパルセーターがある噴流式の開発が日本で盛んになった。しかし噴流式は洗濯物がよじれて傷みやすかったり、洗濯物が多くても少なくても同じ水量が必要だったことから、1954(昭和29)年にパルセーターを底面に設置した渦巻き式が開発された。日本では渦巻き式が1960(昭和35)年から現在までの主流となっている。パルセーターが大径口で乾燥機能が付くものは、タテ型(2000(平成12)年12月に松下電器、現パナソニックが発売)と呼ばれる。ごく初期のパルセーターは小型のものが主流であったが、現在ではほぼ洗濯槽いっぱいの大きさとなっている。昭和 - 平成初期に建てられたアパートや賃貸マンションに住む者は洗面台の入り口が55cm - 59cmと狭小のため、室内にドラム式が設置できないことから、この渦巻き式を購入することが多い。",
"title": "撹拌方式"
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"text": "横を向いた円筒状の洗濯槽を回転させ、洗濯物が上がっては落ちを繰り返すことにより叩き洗いをすることで汚れを落とす方式。ドラムの上底面から洗濯物を出し入れする。クリーニング店・コインランドリーの洗濯機ではこの方式が良く使われている。洗濯物の傷みが少なく、水の使用量も少ない。ヨーロッパでは主流の方式。 重量が重いことを引き換えに一般に乾燥機能においてメリットがあるため、家庭用では一部メーカーを除き、乾燥機付き洗濯機に限られる。また奥行きが大きいことから、搬入経路や置き場所の考慮も必要である。 家庭用のサイズだと高温多湿で軟水の日本では脂肪を含んだ汗や泥汚れが充分に落ちづらいという点で不利。1950年代には日本でも製造されていたが、当時は家庭用としては主流とならなかった。しかし、ポンプアップと電子制御を併用、ヒーター式乾燥機能などを追加することで2000年(平成12年)から日本でも普及し始めた。2005年(平成17年)にはパナソニックが、世界で初めて乾燥にヒートポンプ式を採用したドラム式洗濯機を発売した。ヒートポンプ式はヒートポンプの熱交換と除湿によって乾燥する方式で、高温の温風で乾燥する従来のヒーター式に比べ、低温であるため衣類の傷みが少ない方式とされており、2022年現在、中上位機種で主流の乾燥方式となっている。",
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"text": "洗濯物が浮き上がらないように上から蓋で押さえたうえで、洗濯槽の底にある振動板を高速で振動させて汚れを落とす方式。1950年代に発売したが、汚れの落ちが悪く振動がうるさいため全く普及しなかった。",
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"text": "2008年、リーズ大学は約280mlの水だけで洗濯できる洗濯機を開発した。",
"title": "技術"
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"text": "洗濯は繊維製品の性質に合わせた方法をとる必要があるため、一般に衣料品などの繊維製品には絵表示(ピクトグラム)などで取扱方法が表示されている。日本では2017年春夏向け商品からISO(国際標準化機構)に対応した絵表示(JIS L 0001:2014)に変更され表示記号は22種類から41種類とほぼ2倍になる。洗濯表示を参照。",
"title": "洗濯の過程"
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"title": "メーカー、ブランド"
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] | 洗濯機は、洗濯に用いられる機械。 | {{出典の明記|date=2022年4月26日}}
[[File:LGwashingmachine.jpg|thumb|200px|ドラム式洗濯機]]
'''洗濯機'''(せんたくき<ref group="注">「せんたっき」と発音することが多く、[[日本語入力システム]]でも概ね「せんたっき」で変換できる。</ref>、{{lang-en-short|washing machine, laundry machine}})は、[[洗濯]]に用いられる[[機械]]。
== 概要 ==
歴史的には「洗濯機」と言う言葉は様々な動力源のものを指してきた。日本では、[[昭和]]以降「電気洗濯機」しか販売されていないので、単に「洗濯機」と言うと、事実上それを指している。
{{Gallery|width = 240px
|A Washing machine IMG 3785.jpg|フロントローディング式(ドラム式)の電気洗濯機(イスラエルELECTRA社)
|Miele Waschmaschine 05 (fcm).jpg|フロントローディング式電気洗濯機(ドイツMiele社)
|File:Top Loading Washing Machine.png |トップローディング式の電気洗濯機
|File:Frigidaire FAW-0351MT semi-automatic washing machine.jpg|二槽式電気洗濯機(米国[[フリッジデール]]社)
|File:140327-A-TW638-183 - Laundry Advanced System at Fort Mccoy, Wis. (Image 11 of 31).jpg|[[アメリカ軍]]の、とある基地の数千名の兵士の衣類を洗濯するための洗濯機(洗濯システム)
}}
初期は人力で動かす手動式洗濯機であったが、19世紀には[[蒸気機関]]で動かすものが多く、20世紀なかばからは[[電動機]]([[モータ]])で回転させるものが広まり、20世紀後半では脱水機付きのものが登場し、さらに洗濯から脱水まで自動で行うもの(当時「全自動」と呼ばれていたもの)が大半となり、その後、洗濯・脱水だけでなく乾燥まで自動で行うものまで登場した。
[[洗濯]]とはもともと、もっぱら人の手や足で行っていたかなり手間のかかる重労働である。洗濯機は、そうした重労働を軽減する目的で開発され、[[家事]]労働の軽減に貢献してきた。
[[2009年]]、[[カトリック教会]]の半公的な新聞である [[:en:L'Osservatore Romano|L'Osservatore Romano]] が、洗濯機が女性を家事の苦役から解放したという意味で、女性解放における重要なマイルストーンだったと表明している<ref>[http://www.hindu.com/2009/03/10/stories/2009031051721800.htm Vatican’s praise for washing machine]. [[:en:The Hindu|The Hindu]]. 10 March 2009.</ref>。
本項は、主に家庭用の洗濯機について記述し、業務用についても若干ふれる。
== 歴史 ==
[[洗濯]]は、布をこすったり叩いたりすることで布から汚れを浮かせ(分離し)きれいにする。また布地に[[石鹸]]を浸透させ汚れを落としやすくする、ということも行われる。もともとは、川や池や泉の縁の岩などに衣類を打ち付けたり、こすったりするしていたが、その後波状の溝をつけた[[洗濯板]]が使われるようになった。[[古代ローマ]]では、"fuller" と呼ばれる人たちが発酵した尿などの入ったバケツに洗濯物を入れ、それを足で踏んで洗濯した<ref>[http://www.life-bio.or.jp/topics/topics233.html 洗剤の力 - 酵素の科学] 第3回松柏軒バイオカフェ、くらしとバイオプラザ21</ref>。
{| style="width:140px; float:right; border:1px solid #ccc; background:#f9f9f9; font-size:88%; line-height:1.5em;"
| [[ファイル:Rhof-histWaschmaschine.ogv]]
|-
| ドイツの野外博物館での手回し式洗濯機の実演
|-
| ビデオのサイズ: 50% 100kbit
|-
| 他のサイズとビットレート: [[:ファイル:Rhof-histWaschmaschine 104x80 64kbit.ogg|25% 64kbit]] [[:ファイル:Rhof-histWaschmaschine 312x240 200kbit.ogg|75% 220kbit]] [[:ファイル:Rhof-histWaschmaschine 416x320 270kbit.ogg|100% 270kbit]] [[:ファイル:Rhof-histWaschmaschine.ogv|オリジナル 1100kbit]]
|}
洗濯という重労働を何とか軽減させるため、洗濯する機械が開発されてきた。また特に、ヨーロッパではペストなどの伝染病が広まった歴史があり、これを防ぐために熱湯を沸かしたかまどの中で洗濯物を木の棒でかきまわして洗う習慣が普及したが、やけどしがちな作業を避けるための機械の需要が生じた。ドイツなどで初期に考案された洗濯機は、樽などの容器を横向きにし、湯や洗濯物を入れ蓋をし、容器についたハンドルを手で回し、中身を攪拌する方式だった。
[[ファイル:Washing machine.jpg|thumb|left|140px|19世紀の手回し式洗濯機]]
[[ファイル:Waschmaschine Historisch.jpg|thumb|left|140px|ドイツ製の古い洗濯機]]
洗濯は温水を使った方が汚れが落ちやすい。石鹸の入った温水は貴重だったため、そのまま何度も再利用されていた。まず汚れの少ない衣類を洗い、徐々に汚れのひどいものを洗っていく。初期の洗濯機は木製だったが、[[金属]]製のものができると、洗濯槽を下から火で加熱できるようになった。このため、一日中洗濯しても洗濯水を暖かく保つことができた。
[[イングランド]]では、[[1691年]]に初の洗濯機および脱水機に類する特許が成立している<ref>''Mothers and Daughters of Invention: Notes for a Revised History of Technology'', Autumn Stanley, [[ラトガース大学|Rutgers University]] Press, 1995, p. 301</ref>。また、[[1752年]]1月の "The Gentlemen's Magazine" という[[イギリス]]の雑誌に初期の洗濯機の絵が掲載されている。[[ドイツ]]では [[:en:Jacob Christian Schäffer|Jacob Christian Schäffer]] が洗濯機を考案し、[[1767年]]にその設計が出版されている<ref>[http://www.deutsches-museum.de/bibliothek/unsere-schaetze/technikgeschichte/schaeffer/ Die bequeme und höchstvortheilhafte Waschmaschine] Deuches Museum</ref>。[[1782年]]には、イギリスで Henry Sidgier が回転ドラム式洗濯機の特許を取得している。
[[ファイル:Mangle.jpg|thumb|left|140px|手絞り機]]
洗濯後、洗濯物から石鹸水を除去する工程は全く別の工程だった。元々はびしょぬれの衣類を手で絞っていた。この仕事を助けるため、2つの[[圧延|ローラー]]に[[ばね]]で力をかけ、そこに衣類を通してローラーを手で回すという手絞り機(または手回し脱水機)が開発された。これには1枚ずつ衣類を入れてやる必要があった。元々は独立した機械だったが、洗濯機に組み込まれるようになり、搾り取った石鹸水が洗濯槽に戻って再利用できるような構造になった。
[[アメリカ合衆国]]では[[1797年]]、[[ニューハンプシャー州]]の Nathaniel Briggs が "Clothes Washing" と題した特許を取得している。特許事務所が後に火事で焼け落ちたため、彼が具体的にどういう発明をしたのかは分かっていない。洗濯機に手絞り機を組み込んだものは、[[1843年]][[セントジョン (ニューブランズウィック州)|セントジョン]]の John E. Turnbull が取得した "Clothes Washer With Wringer Rolls" という特許が最初である<ref>Mario Theriault, ''Great Maritme Inventions 1833-1950'', Goose Lane, 2001, p. 28</ref>。
[[ファイル:Les merveilles de l'industrie, 1873 "Coupe de la pile défileuse" (4723595733).jpg|thumb|left|140px|フランスの攪拌式洗濯機(1870年頃)<ref>ルイ・フィギエ著『産業の驚異』第2巻(1873年)より</ref>]]
[[蒸気機関]]・[[ガソリンエンジン]]等を用いてドラムを回転させるものや、撹拌棒を回転させる撹拌式洗濯機が使われるようになった。[[単気筒|1気筒]]の低速な[[ガソリンエンジン]]などがよく使われていた。
=== 電動式 ===
電気洗濯機は[[20世紀]]初めにアメリカで登場している<ref>"Electric Washing Machine the Latest. Housewives can do Washing in one-third the Time," Des Moines Daily Capitol, November 12, 1904, p. 13.</ref>。アルバ・ジョン・フィッシャーが1910年に電気洗濯機の特許を取得しており<ref>{{US patent|966677}}</ref>、電気洗濯機の発明者とされることが多いが、フィッシャー以前にも電気洗濯機の特許が存在していた<ref>{{US patent|921195}} など</ref>。
電気式洗濯機は[[1908年]]<ref group="注">後述のように諸説があり、1906年のT.J. Winansの特許(特許図面にはプーリーはあるが動力源が書かれていない 1907年に1900Co. Nineteen Hundred Washer Company、現Whirlpool Co.から発売)、1908年のOliver B. Woodrowの特許(特許請求の範囲は「モーターあるいはその他の動力源を備えた洗濯機」)、1910年のAlva J. Fisherの特許(1908年にHurley Machine Companyから「Thor」として発売)がある。</ref>に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で発明され、1908年にアメリカのHurley Machine Companyが「Thor」として販売。
電力が欧米で普及するのは[[1930年代]]である。
アメリカでの電気洗濯機の年間販売台数は[[1928年]]には913,000台に達した。しかし、[[世界恐慌]]が発生したために販売台数が減少し、[[1932年]]には出荷台数が約600,000台となっている。洗濯機の設計は[[1930年代]]に改善が進み、安全性を考慮して電動機などの機械が筐体に覆われるようになった。[[1940年]]には、アメリカの電力供給を受けている2500万戸の60%が電気洗濯機を所有していた。
[[第二次世界大戦]]中、アメリカ国内の洗濯機メーカーは軍需に徴用されたが、全自動洗濯機の開発は続けられ、戦後間もなく全自動洗濯機を発売した。ベンディックスは[[1947年]]、改良型の Bendix Deluxe(当時249.50ドル)を発売。[[ゼネラル・エレクトリック]]も同年、全自動洗濯機を発売している。他社も[[1950年代]]初めまでに次々と全自動洗濯機を発売している。中には2槽式で、洗濯槽から脱水槽に洗濯物を手で移さなければならない半自動洗濯機もあった。
[[電気掃除機]]で知られるフーバー社は、マイコン制御が登場する以前にカートリッジ式で洗濯パターンをプログラム可能な全自動洗濯機 ''Keymatic'' を製造していた。洗濯機のスロットに[[合成樹脂|プラスチック]]製の鍵状のカートリッジを挿入すると、それにしたがって洗濯パターンを決定するものである。しかし、ダイヤル式で設定する他の洗濯機に対して特に優れているわけでもないため、成功したとは言い難い(カートリッジは失くしやすいという問題もあった)。
初期の全自動洗濯機は機械式[[タイマー]]を使い、タイマーシャフトに一連の[[カム (機械要素)|カム]]があり、様々なスイッチを時間で操作していた。1950年代、これが電子式タイマーになり、設定の自由度が格段に向上した。
{{Gallery|width = 240px
|ファイル:PostcardAdvertisingHappyDayWashingMachineCirca1910.jpg|1910年の広告
|ファイル:Waschvollautomat Constructa 1950er.jpg|1950年代の洗濯機
}}
[[ヨーロッパ]]では1950年代まで電気洗濯機は一般化しなかった。これは、第二次世界大戦の戦禍により、ヨーロッパの消費者市場が1950年代後半まで回復しなかったためである。当初はローラーによる手絞り機構付きの電気洗濯機が主流だった。[[1960年代]]には2槽式が主流となった。全自動洗濯機が主流となったのは[[1970年代]]になってからのことである。
==== 日本 ====
{{出典の明記|date=2022年1月|section=1}}
日本では1930(昭和5)年に[[東芝]]の前身である東京電気株式会社がHurley Machine Companyの「Thor」(ソアー)の輸入販売を開始し、日本産(「国産」)第一号は[[1930年]]に東芝の前身である芝浦製作所から攪拌式洗濯機「Solar」(ソーラー)として販売された<ref group="注">Hurley Machine Companyから技術導入をして開発された。</ref><ref name="toshiba">[http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1930laundry/index_j.htm 東芝一号機ものがたり「1930年 日本初の電気洗濯機」] [[東芝未来科学館]]</ref>。その後、[[1953年]]に[[三洋電機]]から現在の洗濯機の原点とも言える噴流式洗濯機が低価格で発売され<ref name="sanyo1950">[http://www.sanyo.co.jp/cc/sw50th/history/index.html 洗濯機「初」物語 1950年代] 三洋電機公式{{リンク切れ|date=2022年1月}}</ref><ref group="注">[[日本放送協会|NHK]]の『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜|プロジェクトX]]』で「家電元年・最強営業マン立つ~勝負は洗濯機~」として[[2002年]](平成14年)[[7月16日]]に放送された。(プロジェクトX 4Kリストア版[[2021年]](令和3年)[[5月25日]]放送 NHK)</ref>、一気に普及した。
[[戦後]]([[第二次世界大戦]]後)の1950年代、日本の電器メーカーは電気洗濯機を『[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]』という宣伝文句で民衆に売り込んだ。その後昭和後期ころからは「[[白物家電]]」と呼ばれるようになり、現在でも[[電気製品の一覧|家電製品]]の中でも代表格のひとつである。
昭和時代の日本では日本製が大半を占めたが、平成以降は他の白物家電と同様に、一部の高付加価値製品を除き生産コストの低い[[アジア]]圏で生産されたものが大半を占める状況になっている。撤退するところも多くなり、2008年[[10月31日]]を以て[[三菱電機]]は(売り上げ不振で赤字が続いたことから)洗濯機の生産より完全撤退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20080912/157907/|title=三菱電機,洗濯機事業から撤退《追加あり》 {{!}} 日経クロステック(xTECH)|accessdate=2022-1-2|publisher=日経BP}}</ref>。<!--<ref group="注">三洋電機は二槽式洗濯機に至るまですべて日本製を貫いている{{いつ|date=2022年1月}}{{要出典|date=2022年1月}}。</ref>-->
日本では「電気洗濯機」として[[家庭用品品質表示法]]の適用対象となっており電気機械器具品質表示規程に定めがある<ref name="caa">{{Cite web|和書|url=http://www.caa.go.jp/hinpyo/law/law_06.html#17|title=電気機械器具品質表示規程|publisher=消費者庁|accessdate=2013-05-23}}</ref>。また、[[テレビ受像機]]、[[エア・コンディショナー|エアコン]]、[[冷蔵庫]]とともに[[2001年]]より[[家電リサイクル法]]の対象となり、廃棄する場合には、適切な処理が義務付けられ、[[粗大ゴミ]]として処分できなくなった。[[固定資産]]としての[[減価償却資産の耐用年数等に関する省令|法定耐用年数]]は6年だが、家庭での平均的な使用年数は8.4年<ref>内閣府経済社会総合研究所景気統計部 「消費動向調査(全国、月次) 平成21年3月実施調査結果」 2009年4月17日</ref>である。
一部では芋洗いや、[[タコ]]のぬめり取りなどの[[魚介類]]を洗うために使われる事もある。メーカーの想定外・保証外の利用法であり、故障の原因ともなるので推奨されない利用法である<ref>[http://homepage2.nifty.com/twave/TAKOYUDE.htm タコの茹で方]{{リンク切れ|date=2022年1月}}</ref>。
回転による脱水が一般化するのは、[[電動機]]が開発されてからである。回転で脱水するには高速で強力な回転力が必要であり、脱水機は洗濯機とは別の装置として作られた。洗濯した衣類を洗濯槽から脱水槽に移して脱水していた<ref group="注">1919年の洗濯工場の図。水平型の洗濯機と垂直型の脱水機が見える。 -- ''Don't Waste Waste'', [[ポピュラーサイエンス|Popular Science]] monthly, January 1919, page 73, Scanned by Google Books: https://books.google.co.jp/books?id=HykDAAAAMBAJ&pg=PA73&redir_esc=y&hl=ja </ref>。このような初期の脱水機は、中身が偏っていると脱水槽自体が危険なほど揺れるという問題があった。それでこの揺れをなんとかしようと様々な試みがなされた。まず、若干のアンバランスを吸収する緩衝フレームが考案され、さらに激しい揺れを検出して脱水機の回転を止める機構が考案された。この場合、人間の手で中身を均等にして再度脱水する。最近では{{いつ|date=2022年1月}}、液体を封入した環を使い、それを脱水槽と同時に回すことで全体としてバランスが取れるようにしていることが多い{{要出典|date=2022年1月}}。
いわゆる全自動洗濯機は、洗濯槽と脱水槽が1つになり、水の出し入れが自動化され、洗濯から脱水まで自動的に行うようになっている。[[1937年]]、[[:en:Bendix Corporation|ベンディックス]]が初の全自動洗濯機の特許を取得し<ref>{{US patent|2165884}}</ref>、それを使った洗濯機を同年発売した<ref>http://www.oldewash.com/cf/images/IMAGES/327.jpg</ref>。この洗濯機は現代の全自動洗濯機の基本機能は全て備えていたが、[[インシュレーター#機械工学|サスペンション]]機構がなかったため、動き回らないよう床に固定する必要があった。
初期の全自動洗濯機では、洗濯槽/脱水槽の回転速度は機械的手段か[[電動機]]に供給する電力を[[抵抗器#機能による分類|可変抵抗器]]で加減することで制御していた。1970年代には上位機種から電子制御が一般化していった。[[1990年代]]になると、タイマーの代わりに[[マイクロコントローラ]]を採用した機種が登場する。これが今(近年)では一般化している。[[ファジィ制御]]も洗濯機にいち早く採用されている。
最近では[[衣類乾燥機]]の機能まで1台でこなすものもあり、ボタン一つで最後までいくが、家庭用での普及よりコインランドリーで汎用されている。
21世紀頃から、より使用水量の少ない縦ドラム型の洗濯機が普及している。
{{Gallery|title=日本の洗濯機の歴史|width = 220px
|ファイル:TOSHIBA Solar.JPG|国産一号機の洗濯機:Solar([[1930年]])([[東芝科学館]])
|File:Kiso River Cultural History Museum 20210321 85.jpg|Toshibaの洗濯機(1930年代のもの。岐阜県[[各務原市]]川島松倉町、川島会館の文化史料館の展示品)
|ファイル:Hand-washing-machine.jpg|手回し式洗濯機([[相模原市]]博物館)
|File:Washing machine by Denso 1954.jpg|[[デンソー]]製のドラム式洗濯機の広告([[1954年]])
|File:ローラー式絞り機付き、洗濯機昭和30年代後半P2179662.jpg|昭和30年代後半のローラー式絞り機つき洗濯機
|File:昭和の洗濯機 (36509688786).jpg|[[昭和]]時代の[[三洋電機|SANYO]]の洗濯機
|File:Sharp ES-HD63P 20190923.jpg|[[シャープ]]のコイン式全自動洗濯乾燥機(近年)
|File:HK residential building washing machine August 2021 SS2 01.jpg|[[日立製作所|Hitachi]]の中国語圏向け仕様の洗濯機(近年)
}}
== 種類 ==
; 一槽式
: 洗濯槽のみの洗濯機。一般的な洗濯機では1960年代までこの種類が存在していた。脱水部分は手で絞るか、洗濯機傍についていたローラーで絞る。現在でも簡易・小型洗濯機でこの種類が存在する<ref>[http://k-tai.ascii24.com/db/news/ce/2001/06/20/627142-000.html ただのバケツじゃありま洗(せん) N-BK2] [[アスキー (企業)|ASCII24]] 2001年6月20日、など</ref>。また、脱水槽のみの脱水専用機も存在している<ref>[https://kaden.watch.impress.co.jp/cda/column/2008/01/10/1761.html 家電製品ミニレビュー/トーマス「高速脱水機」] 家電Watch([[Impress Watch]])2008年1月10日、[https://kaden.watch.impress.co.jp/cda/column/2007/11/14/1556.html 家電製品ミニレビュー/ソメラ「高速脱水機 C-14LSS」] 家電Watch([[Impress Watch]])2007年11月14日、など</ref>。
; 二槽式洗濯機
: 「洗い」と「すすぎ」を行う槽と「脱水」を行う槽が分離しており、それぞれの作業工程を各槽で行う。洗濯槽と脱水槽の間で洗濯物を移し替える必要がある。1957年、[[イギリス]]の[[フーバー]]{{要曖昧さ回避|date=2021年5月}}社によって開発され<ref name="toshiba"/>、1960年に三洋電機によって脱水槽側に熱風乾燥装置を組み込んだ「二槽式脱水乾燥洗濯機」が発売<ref name="sanyo1960">[http://www.sanyo.co.jp/cc/sw50th/history/1960.html 洗濯機「初」物語 1960年代] 三洋電機公式</ref>。1970年代から[[1980年代]]前期までの主流。現在では少数派であるが、洗濯・すすぎと脱水を同時並行で行えるため時間あたりに洗える量は全自動洗濯機に比べて多く、構造的にも単純で丈夫なため、[[理容所|理容店]]、[[ガソリンスタンド]]、工場などでの業務用、あるいは農家などで作業着を別に洗うために2台目として屋外や土間に置くなど、根強い需要がある。脱水能力において一槽式の全自動洗濯機を上回る場合が多い<ref group="注">全自動タイプは洗濯槽と一体の為遠心力が弱く脱水時間が長い(3分から10分程度の時間を要する)事に対して、二層式の脱水槽は遠心力が高く短時間(1分から2分)で脱水が完了しやすい。</ref>。また、脱水槽に注水でき、注水しながら脱水することで、すすぎを助ける機種もある。現代の日本においては、下述の全自動洗濯機の普及率が高まっていて、住宅の設計・建設においてもこれを前提としている物件が多いため、全自動洗濯機に比べて横幅が広い機種が多い二槽式を置くためには予めそのスペースの確認を要するケースが多く、注意を要する。
:全自動洗濯機の普及により国内向けの需要は減少し、東芝は生産を中止したが<ref name="sankei000">{{Cite web|和書|title=【経済インサイド】東芝もやめてしまうのか 洗濯機メーカーは3〜4社に 「白物家電王国」の落日(1/4ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20160102-SUTILQIDRJLZXG4TYC2V4L6YCI/ |website=産経ニュース |date=2016-01-02 |access-date=2023-10-31 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>、慣れ親しんだ年配や洗濯にこだわる層により5%は二槽式とされ、業務用と合わせ一定のニーズが存在することから、日本国内では[[日立製作所|日立]]、[[ハイアールジャパン]]、[[アクア (企業)|AQUA]]の3社が販売を継続している<ref>{{Cite web|和書|title=洗濯こだわれば二槽式 |url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20100609-OYTEW57855/ |website=ヨミドクター(読売新聞) |date=2010-06-09 |access-date=2023-10-31 |language=ja}}</ref>。またペットや介護など汚れ物が出るニーズに合わせ、二台目として小型の二槽式が販売されている<ref>{{Cite web|和書|title=二槽式洗濯機が今売れる理由 ペットの世話や介護で威力 |url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO76547680T00C14A9000000/ |website=日本経済新聞 |date=2014-09-15 |access-date=2023-10-31 |language=ja}}</ref>。
: 価格の安さにより新興国では主流であり<ref name=sankei000 />、[[インドネシア]]では高温多湿な気候と丹念に洗濯する国民性にマッチしているため、経済的に発展した現在でも[[洗濯板]]が付いた二槽式が主流とされる<ref>{{Cite web|和書|title=【60秒解説】洗濯板付二槽式が大ヒットしたワケ(METI/経済産業省) |url=https://www.meti.go.jp/main/60sec/2015/20151210001.html |website=www.meti.go.jp |access-date=2023-10-31 |language=ja}}</ref>。
:以上の2方式の操作方法は一時期ボタン操作式(マイコン制御)のものもあったが、現在に至るまで回転スイッチ式である。
:; 三槽式洗濯機
:: [[日立製作所]]がかつて製造していた、二槽式洗濯機の亜種。同社が製造していた攪拌棒付異型[[パルセーター]]「からまん棒」(後述)の特長を生かしたもので、洗濯槽の上部中央に、もうひとつ小さなバケツ状の小型洗濯槽を取り付けている。「からまん棒」の内側に駆動軸を通し、小型洗濯槽のパルセーターを駆動していた。
; 自動二槽式洗濯機
: 二槽式洗濯機の洗濯槽での行程である「洗い」から「すすぎ」までをプログラムタイマーにより自動化した形態。脱水槽の側ですすぎから脱水までを行える機種も出現した。もとは'''自動洗濯機'''の商品名で登場したが、後に下記全自動洗濯機の登場により現在の呼称に変わった。全自動の登場後はニッチ商品化したが、それでも日本が好景気であった時代には松下『スピンリンス』、東芝『シャワーリンス』、三菱『スピンシャワー』など、定番ラインアップとして存在していた。しかし、全自動の普及に加えて[[バブル経済]]崩壊後の機種整理の流れのなかで、かつて自動二槽を製造していた各社はすべて撤退している。現在国内で生産を継続している日立は、逆に全自動の普及期に一度撤退していたが[[1995年]]に復帰して現在に至る。通常の二槽式よりは遥かに手間が省ける一方、脱水能力は二槽式のそれであるため部屋干しや乾燥機の使用が恒常化している場合にメリットとなる。かつては機械式プログラムタイマーであったが、[[1980年代]]後半以降はマイコン式が主流となった。
; 全自動洗濯機
: 「洗い」、「すすぎ」、「脱水」をすべて1つの槽で行うもの。注水から最後の脱水までをすべて自動で行う。[[1965年]]に松下電器産業(現・[[パナソニック]])によって第1号機が開発・販売された<ref name="pana">[http://panasonic.jp/labo/history/product/kaji/wash/chr_table/ 洗濯機/衣類乾燥機の歴史] パナソニック公式</ref>。使用する水の量が多くなる問題があり、普及は遅れた(1970年代初頭、全自動洗濯機普及率4.7-8.6%<ref name="pana"/>)。1980年代以降改良が重ねられ、現在までの主流となっている。
; 乾燥機付洗濯機(洗濯乾燥機)
: 一般的に'''洗濯乾燥機'''と呼称される、全自動洗濯機にさらに乾燥機能がついたもの。乾燥機が分けられたものと「洗い」「すすぎ」「脱水」「乾燥」まで1つの槽で全自動で行えるものがある。前者は乾燥機のみ横倒しの槽になっている。[[2000年代]]前半から需要・台数が伸びている<ref>{{PDFlink|[http://www.kokusen.go.jp/pdf/n-20040707_1.pdf 洗濯乾燥機の実使用性〜消費生活相談からみた問題点を探る〜]}} [[国民生活センター]]</ref>。一般的に家庭用の乾燥機付洗濯機は、洗濯できる量より乾燥できる量が少ないため、洗濯物全てを乾燥させる場合は、乾燥手前で、洗濯物を取り出す必要がある。乾燥可能な量の洗濯物であっても全自動で乾燥させると衣類がしわだらけのまま乾燥されたり、乾燥ムラがおきるなどの問題が発生することもある。このため、加熱をせず、送風のみで簡易乾燥を行い、ある程度水分を飛ばしてから自分で干すといった使い方をすることもできる。また、2022年現在では、脱水後、加熱されていない空気で送風を行いつつ洗濯物を回転させることで、洗濯物の水分をある程度まで除去し(完全に乾燥させることはできない)干した際の乾燥時間を短縮させ、また部屋干し時の嫌な匂いを低減させる「風乾燥」という簡易式の乾燥機能が普及し、縦型洗濯機の多くの機種に搭載されている。また、一部の高級機種には、ドラム式ではない縦型洗濯機にも、この室温での「風乾燥」ではなく、ヒーターで加熱させた空気を使い、完全に乾燥させる温風乾燥機能を実装している機種も存在する。
: [[ヒートポンプ]]式の乾燥機能は、室温が低すぎるといった場合性能が発揮できず完全に乾燥できない場合がある。そういった場合は暖房して室温を調整すればよい。一方、除湿冷却方式の同機能は、そのようなことはないが、除湿水の温度をリアルタイムに監視している[[サーミスタ]]に糸くずなど異物が付着すると、正確に温度を読み取れなくなり、乾燥不良が発生することがある。基本的には、熱に耐える素材で仕上がりがしわになっても支障ないものであれば洗濯から乾燥まで全自動でよい。前述のとおり乾燥も配慮した量の範囲で洗濯するようにする。
: ドラム式はすべての工程において使用水量が少ないため、投入洗剤量を指定分に抑えないと残洗剤が過多となり濯ぎ不足状態となる可能性がある。
; 手回し式洗濯機
: 初期には、非電動洗濯機も存在した。洗濯物と水を球形の金属製洗濯槽に密閉して人力で回転させることで攪拌し洗浄する。構造的には現在のドラム式洗濯機に近い。現在でも少量の洗濯向けに「手動洗濯機」「簡易洗濯機」と称してわずかに生産されている。
== 撹拌方式 ==
[[File:Washing machine by Hitachi & Mitsubishi 1956.jpg|thumb|日立の渦巻き式洗濯機と三菱の攪拌式洗濯機の広告(1956年)]]
=== 円筒型 ===
槽の中に洗濯物が入った円筒のドラムを入れ、ドラムを回転させて洗濯する。ドラム式の元となった。
=== 攪拌式 ===
槽と同じ程度の高さのある大型の羽根をゆっくり反転させて水流を発生させる方式。構造的に大型となるため日本では業務用の一部に限られるが、アメリカでは現在も主流。
日本では[[1922年]]([[大正]]11年)に初めて輸入され、[[1930年]]([[昭和]]5年)に[[東芝]]が国産初の電気洗濯機として製造。終戦直後は日本のメーカーも進駐軍向けに製造していたが、[[1947年]]([[昭和]]22年)に「日本人メイドの人件費が安く、しかも上手に手で洗ってくれる」という理由で納入が打ち切られた。これを契機に一般向けにも発売されたが、5万円以上(ローラー絞り器なし {{要検証範囲|当時の日本人の大卒初任給は22,000円|date=2018年12月}})と非常に高価だったため普及しなかった。
=== パルセーター式(噴流式・渦巻き式) ===
洗濯槽に[[パルセーター]]と呼ばれる羽根を持ち、それを高速回転させて激しい水流を発生させて汚れを落とす方式でアジアで一般的。日本では[[1953年]]([[昭和]]28年)[[8月]]に[[三洋電機]]が初めて製造。定価は28,500円(当時の大卒初任給は17,000円)と、比較的買いやすい値段だった。同年に出力100W以下の洗濯機が[[物品税]]の対象から外れたのを契機に、槽の側面にパルセーターがある噴流式の開発が日本で盛んになった。しかし噴流式は洗濯物がよじれて傷みやすかったり、洗濯物が多くても少なくても同じ水量が必要だったことから、1954(昭和29)年にパルセーターを底面に設置した渦巻き式が開発された。日本では渦巻き式が1960(昭和35)年から現在までの主流となっている。パルセーターが大径口で乾燥機能が付くものは、タテ型(2000(平成12)年12月に松下電器、現パナソニックが発売)と呼ばれる。ごく初期のパルセーターは小型のものが主流であったが、現在ではほぼ洗濯槽いっぱいの大きさとなっている。[[昭和]] - [[平成]]初期に建てられた[[アパート]]や賃貸[[マンション]]に住む者は洗面台の入り口が55cm - 59cmと狭小のため、室内にドラム式が設置できないことから、この渦巻き式を購入することが多い。
; からまん棒<ref>[http://www.nipponstyle.jp/db/index.php?option=010005300012&file=1&zooma=0&hyoji=picture.php Nippon_Style]</ref>
: 日立製作所が[[1982年]]([[昭和]]57年)に開発した方式で、本来は同社の登録[[商標]]であったが、現在は使われていない。パルセーターの軸部分を垂直に延長し、羽のついた攪拌棒を持たせた方式。名前から解るとおり、当初は衣類の絡みを抑止する目的で開発されたが、この意味ではあまり役立たなかった。その後、それまで手洗いに限定されていたおしゃれ着や[[ウール]]の洗濯のできる機種が現れ始めると、電子制御と併用することで、従来のパルセーターよりも一歩抜きん出た。欠点として、本体のサイズの割りに洗濯容量が小さくなる。この欠点のため、その後の家庭用洗濯機大容量化の波についていけなくなり、順次廃止され、通常の渦巻き式となった。
: 攪拌棒方式は他に三菱電機の「'''Mr.かくはん'''」が、また様式は異なるがパルセーター方式に攪拌式の特徴を取り入れた方式としては東芝の「'''最洗ターン'''」、三洋電機の「'''手もみL'''」が存在したが、いずれも現在までに廃止されている。
; [[ビートウォッシュ]]
: 日立製作所が開発した方式。基本構造は渦巻き式と同様であるが、波状の形状をしたパルセータを洗濯物に直接接触させ洗濯する点が異なる。
;二重噴流式
:[[富士電機]]が開発した方式。洗濯槽側面に2個のパルセータを対面させるように配置し、洗濯能力を高めたもので、[[1954年]]に'''W361型'''が発売された。対面している2個のパルセータは互いに回転軸を1cmほどずらすことで、洗濯物のよじれ、洗浄むらを防ぐ<ref>{{Cite journal|和書|author=佐々木洋一郎 |format=PDF |url=http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/27-04/FEJ-27-04-284-1954.pdf |title=新型電機洗濯機(W361型) |journal=[http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/contents_27-04.html 富士時報] |volume=27 |issue=4 |publisher=富士電機 |year=1954 |pages=77-78}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=定石照夫|format=PDF |url=http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/28-02/FEJ-28-02-100-1955.pdf |title=普及型二重噴流式電機洗濯機について |journal=[http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/contents_28-02.html 富士時報] |volume=28 |issue=2 |publisher=富士電機 |year=1955 |pages=34-40 }}</ref>。その性能は「[[暮しの手帖]]」も認めるほどであったという<ref>{{Cite journal|和書|format=PDF |url=http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/36-01/FEJ-36-01-109-1963.pdf |title=家庭用品 |journal=[http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/contents_36-01.html 富士時報] |volume=36 |issue=1 |publisher=富士電機 |year=1963 |page=110 }}</ref>。
;二重水流式
:富士電機が開発した方式。洗濯槽底部に1個の[[パルセーター]]を傾斜を付けて設置することで、洗濯水に噴流と上下振動を与え、高い洗濯性能にもかかわらず洗濯物を傷めない。[[1958年]]に'''W261型'''が発売されている<ref>{{Cite journal|和書|author=佐々木洋一郎 |format=PDF |url=http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/31-02/FEJ-31-02-173-1958.pdf |title=二重水流式W261型電機洗濯機 |journal=[http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/contents_31-02.html 富士時報] |volume=31 |issue=2 |publisher=富士電機 |year=1958 |pages=76-77 }}</ref>。
;しっかりパル
:それまでの小型パルセーターによる上記二重水流式に代わり、全自動洗濯機用パルセーターからのフィードバックで、[[1985年]]に三菱電機が商品化した、洗濯槽の底部ほぼ全面となる大型パルセーター。極部的に強い水流を生み出してしまう小型パルセーター式よりも布傷みが少なく、全体的には洗浄力が上がる。「しっかりパル」は三菱の登録商標であったが、技術特許取得には至らず、他社にも波及し、現在国内メーカーの二槽式洗濯機のデファクトスタンダードとなっている。
;穴無し全自動
:全自動洗濯機の短所である使用水量の多さと、不可視部分が多いことによる衛生管理上の問題を克服する形で開発が行われた形式。[[1984年代]]に一度三菱電機が商品化したが、制御技術がまだ機械式プログラムタイマーからマイコン式への過渡期と時期尚早だったこともあり、充分な評価試験を得ないままの投入となったため脱水不良などの欠点ばかりが目立ち撤退した。
:後、[[1992年]]にシャープが、洗濯槽をゆるい逆紡錘形とすることでその脱水時に上部から排水が促進される「コニカル水槽」を採用して商品化に成功、特許も取得し現在のシャープの縦型洗濯機の主力商品となっている。
=== ドラム式(回転式) ===
横を向いた円筒状の洗濯槽を回転させ、洗濯物が上がっては落ちを繰り返すことにより叩き洗いをすることで汚れを落とす方式。ドラムの上底面から洗濯物を出し入れする。[[クリーニング所|クリーニング店]]・[[コインランドリー]]の洗濯機ではこの方式が良く使われている。洗濯物の傷みが少なく、水の使用量も少ない。ヨーロッパでは主流の方式。
重量が重いことを引き換えに一般に乾燥機能においてメリットがあるため、家庭用では一部メーカー<ref group="注">日本国内では2022年現在、アイリスオーヤマ、アクアが乾燥機能なしのドラム式洗濯機を発売している。</ref>を除き、乾燥機付き洗濯機に限られる。また奥行きが大きいことから、搬入経路や置き場所の考慮も必要である。
家庭用のサイズだと高温多湿で軟水の日本では[[脂肪]]を含んだ汗や泥汚れが充分に落ちづらいという点で不利。1950年代には日本でも製造されていたが、当時は家庭用としては主流とならなかった。しかし、ポンプアップと電子制御を併用、ヒーター式乾燥機能などを追加することで[[2000年]](平成12年)から日本でも普及し始めた。[[2005年]](平成17年)にはパナソニックが、世界で初めて乾燥にヒートポンプ式を採用したドラム式洗濯機を発売した。ヒートポンプ式は[[ヒートポンプ]]の熱交換と除湿によって乾燥する方式で、高温の温風で乾燥する従来のヒーター式に比べ、低温であるため衣類の傷みが少ない方式とされており、2022年現在、中上位機種で主流の乾燥方式となっている。
; 斜めドラム式
: パナソニックが開発した方式。従来の縦型に比べ使用水量及び衣類の傷みが少ない。最新機種の上位モデルは「エコナビ」も搭載している。なお、発売には至らなかったが、東芝が[[1956年]](昭和31年)に日本初の傾斜ドラム式全自動洗濯機を開発している。
: 2011年秋モデルにおいては、パナソニック製洗濯機としては初めて「系列店([[パナソニックショップ]])限定モデル」が登場(第1号機は「NA-VX710SL/R」)。コース数が量販店兼用モデルより多く、[[掃除機]]に取り付けられる乾燥フィルター掃除用ノズルと(パナソニック以外の他社製掃除機に繋ぐ場合の)継ぎ手パイプ(アダプター)付属。その他仕様は量販店兼用モデルNA-VX7100L/Rと共通。さらにマンションなどの狭い空間にも設置可能な小型モデルも登場している。
; トップオープンドラム式
: 回転軸が正面から見て水平で、ドラムの側面を開閉するような構造のドラム。ヨーロッパでは主流だが、日本では三洋電機と東芝のみが採用。[[2002年]](平成14年)に三洋電機が日本で初めて発売したが、三洋電機・東芝ともに[[2007年]](平成19年)までに廃止された。
=== 振動式 ===
洗濯物が浮き上がらないように上から蓋で押さえたうえで、洗濯槽の底にある振動板を高速で振動させて汚れを落とす方式。[[1950年代]]に発売したが、汚れの落ちが悪く振動がうるさいため全く普及しなかった。
== 技術 ==
; [[制振鋼板]]
: 脱水時の[[電動機|モータ]]の振動と外箱の共鳴を抑えるため、鉄板と鉄板の間に[[ポリエステル]]樹脂などを挟んだ鋼板。
; [[ニューラルネットワーク]]、[[ファジィ制御]]、[[人工知能|AI]]
: [[マイクロコントローラ|マイコン]]による制御方式のひとつとして使われた。2010年代後半に日立やシャープがAIを搭載した洗濯機を発売。
; 直流[[インバーター]]制御
: 直流モータの電圧をインバーターで調整することによって回転速度を変える制御方式。1990年に東芝が発売。それ以前はギアを使って交流モーターの回転速度を調整していたため、それが騒音源の一つになっていた。
; [[ダイレクトドライブ]]
: インバーター制御の直流モーターと[[パルセーター]]を直結し、モーターとパルセーターの間にあった駆動用ベルトをなくして低騒音化をはかったもの。[[1991年]]に三菱電機が全自動洗濯機AW-A80V1として発売。[[1997年]]に東芝がアウトローター方式のダイレクトドライブインバーターモータを採用した洗濯機を発売し、モーターを小型化し低騒音化(洗濯時に約40[[デシベル|dB]])した。
[[2008年]]、[[リーズ大学]]は約280mlの水だけで洗濯できる洗濯機を開発した<ref>[http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-1025043/Spin-dry-The-washing-machine-needs-just-cup-water.html?ITO=1490 Ûniversity University of Leeds creating a washing machine that needs but 2% of the water/electricity requirements of a conventional washing machine]</ref>。
== 洗濯の過程 ==
洗濯は繊維製品の性質に合わせた方法をとる必要があるため、一般に衣料品などの繊維製品には絵表示([[ピクトグラム]])などで取扱方法が表示されている。日本では[[2017年]]春夏向け商品からISO([[国際標準化機構]])に対応した絵表示([[JIS L 0001]]:2014)に変更され表示記号は22種類から41種類とほぼ2倍になる<ref>{{Cite web|和書|title=繊研新聞 {{!}} No.1ファッションビジネス専門紙 |url=https://senken.co.jp/ |website=senken.co.jp |access-date=2023-10-31}}</ref><ref>[http://www.meti.go.jp/press/2014/10/20141020002/20141020002-C.pdf JIS L0001(ISO3758)と JIS L0217 との表示記号に関する対比表] 経済産業省</ref>。[[洗濯表示]]を参照。
=== 注水 ===
* 一般には水道に給水ホースを直結させて水道水を利用するが、井戸水や風呂の残り湯などが利用される場合もある。
* 水道水を利用する場合には水栓が開いている必要がある。電気洗濯機では自動で注水し洗濯物の分量に合わせて水量も自動制御されるものが多い。
* 風呂の残り湯を利用する場合には一般には注水ポンプが用いられる。注水ポンプは、主に[[節水]]を目的として[[風呂]]の残り湯などを洗濯(すすぎには水道水を使う)に使うための[[ポンプ]]で水を飲む、風呂水ホース付属機種は、ホースの先端にポンプがある機種と、洗濯機本体にポンプを内蔵している機種に分かれる。バスポンプ内蔵機種で風呂水吸水ホースが破れたり継ぎ手が破損した場合、当該機種に適合した別売りホースをサービスパーツとして各メーカーより取り寄せ購入可能。
* アジアを除く海外ではヒーターを内蔵し、好みに応じて熱湯まで水温を調節可能なドラム式機種が多い。これはヨーロッパやオーストラリアなど硬水地域では洗剤の成分が効力を発揮しないためでもある。温水用の給水栓を別に設けた機種もある。
=== 洗い ===
* 色移り等を防ぐために洗濯前に衣類の分類が必要な場合がある。
* しみ抜きなど前処理が必要な場合がある。
* 洗濯機に定められた適量の洗剤を投入する。
* 予洗いの機能を有するものもある。
=== すすぎ ===
* この過程で洗剤を落とす。
* この過程で洗濯槽に汚れが蓄積しないよう毎回自動で槽洗浄を行う機能を有するものもある。
=== 脱水 ===
* 二槽式の場合には脱水槽へ衣類を移す必要がある。
* かつては外付けのローラー絞り機が用いられていたこともあるが、電気洗濯機の多くは遠心脱水が主流となっている。
** ローラー絞り機
**: 2本のゴムローラーの間に洗濯物をはさんでハンドルを回して洗濯物を絞るもの。厚さが均一でない場合は完全に脱水ができず、なおかつ衣服のボタンが割れることもあった。手回し式洗濯機・初期の電気洗濯機で使われた。
** 遠心脱水機
**: 槽を回転させて、遠心力により洗濯物の水分を振り切って脱水する。1874年にRobert Pilkingtonが手動回転式を、[[1903年]]にW.L. Dolierが電気駆動式を発明。二槽式洗濯機で洗濯機本体に組み込まれる。現在の主流。
=== 乾燥 ===
* 乾燥機能を有するものもあり、遠心脱水では飛ばしきれなかった水分を乾燥させる。
* 乾燥装置の汚れを少量の水を使いながら自動で取り除く機能を持つものもあるが、これらの機種では乾燥過程でも水栓が開いている必要がある。
== 注意点 ==
; [[感電]]の防止
: 洗濯機を設置する際には、確実にアース([[接地]])をしておく必要がある。
; 幼児の落下
: トップローディング式(上から洗濯物をいれる方式)の場合、洗濯槽に水がたまっている間に幼児が落下すれば死に直結しうるので常に注意を要する。幼児の落下に備えて、運転中に蓋を開けるとブザーが鳴り続け、蓋が開いた状態が一定時間継続すると洗濯槽内の水を強制的に排水する機能をもつもの、または運転中は蓋がロックされ開けることができないものもある。
; 閉じ込め
: フロントローディング式(ドラム式)洗濯機の場合、子供が中に入り込んだ拍子に戸が閉まり死亡する事故も発生する。対策として、扉が容易に開かないようにする[[チャイルド・ロック]]や、内側から扉を開けられるようにする機構が開発されているが、すべてのドラム式洗濯機に装備されているわけではない<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.iza.ne.jp/topics/events/events-7247-m.html
| title =ドラム式洗濯機の中で男児死亡「『おやすみ』と言ったのが最後」
| publisher = iza(2015年6月26日)
| accessdate= 2018年1月28日
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20170831053403/https://www.iza.ne.jp/topics/events/events-7247-m.html
| archivedate = 2017-08-31
}}</ref>。
; 洗濯槽の定期的な洗浄
: 洗濯槽には洗剤残り、髪の毛等が残るため、定期的に専用クリーナーなどの洗浄剤を用いて洗浄することが望ましい。[[カビ]]や汚れの原因となる<ref>{{Cite news|title=ちゃんとやってますか?ドラム式洗濯機の掃除方法|url=https://taskle.jp/media/articles/27|accessdate=2018-09-26|language=ja-JP|work=タスクル {{!}} 暮らしのお悩み解決サイト}}</ref>。
: メーカーからも専用クリーナーが発売されているが、日本メーカーの専用クリーナーは総じて[[ユシロ化学工業]]からのOEM(全メーカー対応)。
[[ファイル:Accidentally washed guide book.jpg|thumb|100px|書籍を一緒に洗ってしまった場合]]
; 放り込む前にポケットなどを確認
: [[ティッシュペーパー|ティッシュ]]や[[携帯電話]]・[[スマートフォン|スマホ]]、[[紙幣]]などを気づかずに洗ってしまう恐れもある<ref>[http://econutssoap.com/eleven-things-people-overlook-when-doing-their-laundry/ 11 Common Laundry Mistakes] - Eco Nuts Organic Soap Nuts</ref>ので、常に確認することが好ましい。
== メーカー、ブランド ==
=== ヨーロッパ ===
;ドイツ
*[[ミーレ]] - アメリカや日本では高級ブランドとして白物家電を販売している。
*[[ロバート・ボッシュ (企業)|ボッシュ]]<ref>[https://www.appliancesconnection.com/blog/best-european-washing-machine-brands]</ref>
*[[:de:Blomberg (Hausgeräte)|Blomberg]]
*[[シーメンス]]
*[[AEG]] - もともとはドイツのメーカーだが1994年にスウェーデンのAB [[Electrolux]]([[エレクトロラックス]]社)がAEGを買収し、同社がAEGブランドで洗濯機を製造している。
=== アジア ===
;インド
*[[IFB]]
:インドのメーカー
;中華人民共和国
*[[ハイアール・グループ|ハイアール]] - 中国の家電メーカー。日本国内では[[2002年]]より三洋電機との合弁会社「三洋ハイアール」により輸入販売しはじめ現在ではハイアールジャパンセールスに継承。こちらは「Haier」ブランドで販売しており、シンプルで安価な製品をメインとする。
*[[ハイセンス]] - 中国の家電メーカー。日本にも低価格ブランドとして白物家電を販売している。
;韓国
*[[LGエレクトロニクス]] - <u>世界シェアNo.1</u><ref>[https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column/newtech/627031.html 【そこが知りたい家電の新技術】2015年に白物家電部門をグローバルNo.1ブランドに~LG Electronicsの戦略とは - 家電Watch]</ref>。[[2012年]]、[[2017年]]に[[アメリカ合衆国]]から[[アンチ・ダンピング関税措置]]が課せられているため、生産拠点を各国へ移している<ref>{{cite news |url = http://jp.reuters.com/article/usitc-tariff-korea-idJPKBN14V047
|title = 米ITC、韓国2社の中国製洗濯機に反ダンピング税 |newspaper = ロイター |date = 2017-01-11 |accessdate = 2017-01-13}}</ref>。
*[[サムスン電子]] - 設立当初から洗濯機を製造。Kenmoreの[[OEM]]。LGと同様に生産拠点を各国に移している。
=== 日本 ===
==== 現在生産中 ====
*[[パナソニック]] - 斜めドラム型は系列店「[[パナソニックショップ]]」限定モデルも2011年より「NA-VX710SL/SR」を皮切りに販売開始。なお2槽式の現行モデルはダイヤル操作式の「NA-W40G2」のみで、ボタン操作の2槽式洗濯機「愛妻号」シリーズとタテ型洗濯乾燥機「Lab」シリーズは生産終了(現行モデルはドラム式が「スピンダンシング」シリーズ、タテ型が「エコウォッシュ」シリーズをそれぞれ生産)。またバスポンプも製造(現行モデルは「N-30P」のみ)。
*[[日立グローバルライフソリューションズ]](旧・[[日立アプライアンス]]) - [[日立製作所]]の子会社。ドラム式洗濯乾燥機は「ナイアガラ洗浄・[[ビッグドラム]]」シリーズを、タテ型洗濯乾燥機は「ナイアガラ洗浄・[[ビートウォッシュ|BEAT WASH]]」及び「白い約束」各シリーズを、2槽式洗濯機は「青空」シリーズをそれぞれ生産(2槽式「青空」シリーズは「ボタン操作式機種」を現在国内で唯一生産)。2012年12月からは(縦型洗濯機「白い約束」NW-8SY/6SYの[[OEM]]モデルとなる)[[三菱電機ストアー]]向け縦型洗濯機「MAW-70BP/70AP/60AP」も生産開始。
*[[東芝]]([[東芝ライフスタイル]])- ドラム式洗濯乾燥機は「ZABOON」シリーズを生産。なおタテ型洗濯機のうち[[1990年代]]前半に生産されていた機種は時計を内蔵しており、予約洗濯終了時刻が「○時△分」単位で設定可能だった(洗濯中はディスプレイに洗濯・すすぎ・脱水の全工程合計残り時間が表示され、電源を切ってプラグをコンセントに挿している間は時刻を表示。但しプラグを抜けば時計は「0:00」にリセットされるので再使用時は時計をその都度合わせ直す必要あり)。しかし現行モデルは時計機能が廃止され、予約洗濯終了時刻は「○時間後」単位で設定する簡易タイマーへと改められている(液晶或いはFLディスプレイには洗濯・脱水・すすぎ・乾燥の全工程合計残り時間を表示)。なお一連の不正経理問題発覚に端を発した業績不振による不採算部門リストラの一環として、二槽式洗濯機生産は2016年3月限りで完全終了した(二槽式洗濯機生産より撤退した国内大手電機メーカーはシャープ・三菱電機・三洋電機に次いで4社目)。このため系列店「[[東芝ストアー]]」へ供給される2槽式洗濯機はパナソニック・日立アプライアンス・ハイアールなどの他社製品に変更。その後東芝の白物家電部門は中国の電機メーカー「[[美的集団]]」へ売却されている(日本国内での「TOSHIBA」ブランドは存続)。
*[[アイリスオーヤマ]] - フロントローディング式(ドラム式)とトップローディング式(縦型)を製造している。<ref>[https://www.irisohyama.co.jp/products/electrical-appliances/large-appliances/washing-machine 洗濯機]アイリスオーヤマ</ref>
*[[シャープ]] - 2槽式洗濯機の生産は[[2007年]]限りで終了し、現在はドラム式及び縦型洗濯乾燥機のみを生産。系列店「[[シャープフレンドショップ]]」へ供給される2槽式洗濯機はパナソニック・日立アプライアンス・ハイアールなどの他社製品へと変更。
*[[アクア (企業)|アクア]](旧ハイアールアクアセールス→ハイアールアジア) - パナソニックの完全子会社となった三洋電機の洗濯機事業を継承したハイアールの子会社。「AQUA」ブランドで販売。
*[[TOSEI]](トーセイ) - コインランドリーやクリーニング店などの業務用大型洗濯機、乾燥機、洗濯乾燥機を開発、製造、販売している。2020年には敷布団専用乾燥機を発売<ref>{{Cite web|和書|title=コイン式ふとん専用ガス乾燥機を発売しました。|url=https://www.tosei-corporation.co.jp/info/202003021100.html|website=www.tosei-corporation.co.jp|accessdate=2020-06-16|language=ja}}</ref>。
==== 生産より撤退 ====
*[[三菱電機]] - 業界初のドラム角度可変機能付き洗濯乾燥機「ムービングドラム」シリーズを2007年5月に発売したが、不具合によるリコール続出により発売からわずか3ヶ月で製造中止に追い込まれ、これに出荷台数の落ち込みも加わって洗濯機事業全体の赤字が膨らんだ事から、洗濯機の自社生産は2008年10月限りで終了。現在は系列店「[[三菱電機ストアー]]」のみで販売される縦型「MAW-70BP」のみを[[日立グローバルライフソリューションズ]]へ生産委託する形で販売。また三菱電機ストアーへ供給される2槽式及びドラム式洗濯機はパナソニック・日立グローバルライフソリューションズ・シャープ・[[ハイアール]]などの他社製品へと変わっている。
*[[三洋電機]] - 子会社「三洋アクア」が洗濯機を生産していたが、パナソニックの完全子会社化に伴う「SANYO」商標廃止により2011年9月限りで生産終了。上記の通り三洋の洗濯機事業はハイアールへ売却され、三洋時代からの「AQUA」ブランドを継承(三洋系列店「[[スマイるNo.1ショップ]]」よりパナソニックショップへ衣替えした[[系列電器店]]の中にはハイアール製品を販売する店舗も一部あり)。
*[[日本電気|NEC]] - 洗濯機を含む白物家電は[[1990年]]までに撤退。現在はPCとその関連商品及び照明器具&ランプのみを生産(照明器具&ランプは子会社「[[NECライティング]]」が製造)。
*[[富士通ゼネラル]] - 現在生産している白物家電はエアコン「ノクリア」シリーズのみで、洗濯機を含むその他白物家電生産は1990年代に撤退。
<ref group="注"> 注 - ある独特のこだわりがある人の主張によると『{{要出典範囲|バスポンプ非搭載の従来型洗濯機と組み合わせて使うバスポンプ単体機を生産している国内大手電機メーカーは現在パナソニックのみとなっており、他社系列電器店では「工進」や「センダック」製品を主に販売している(バスポンプ搭載機の延長風呂水ホース及び交換用フィルター付き風呂水ホースは各メーカーで純正品を生産しており、サービスルート扱いで購入可)。|date=2022年5月}}』</ref>
=== 北米 ===
*[[ワールプール・コーポレーション|ワールプール(WHIRLPOOL)]] - アメリカの家電メーカー。[[メイタグ|メイタグ(MayTag)]]、[[アマナ (家電)|アマナ]]など多くのブランドで販売している。
*[[ゼネラル・エレクトリック|GE]] - HotPointブランドを持つ
== ギャラリー ==
<gallery>
File:Berlin schoeneberg wakufa 26.11.2012 16-02-08.JPG|展示の一例(ドイツ・[[ベルリン]])
File:Household appliances store in tehran 7.jpg|売り場の展示の一例([[テヘラン]])
File:XinHui 新會碧桂園 Country Garden 大潤發 RT-Mart 1st floor supermarket 19.JPG|売り場の展示の一例(中国)
File:HK TKO 將軍澳南 Tseung Kwan O South Monterey Place mall basement shop washing machines September 2021 SS2.jpg|家電ショップの展示例([[香港]])
File:12kg 용량 ‘트롬 세탁기 씽큐’ 출시 - 50395933441.jpg|販売促進用写真の例([[韓国]])
</gallery>
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Washing machines}}
* [[コインランドリー]]
* [[リサイクル]]
* [[白物家電]]
* [[食洗機]]
* [[家電機器]]
* [[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]
* [[ファジィ論理]]
* [[NEW STYLE LAUNDRY AQUA]] - [[三洋電機]]の子会社・三洋アクアが製造していた高級家庭用洗濯機。
* [[系列電器店]]
* [[洗濯板]]
* [[洗剤]]、[[漂白剤]]、[[柔軟剤]]
* [[遠心分離]]
* [[衣類乾燥機]]
* [[蛇腹]][[ホース]] - 排水用のフレキシブルホース。
* [[ユシロ化学工業]] - 日本メーカー純正の洗濯槽クリーナーの製造を一手に手掛ける(OEMのみ)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2016年3月|section=1}}
{{Refbegin}}
* {{Cite book|和書|ref=Harv |editor=久保道正|editor-link=久保道正|title=家電製品にみる暮らしの戦後史 |year=1991 |publisher=ミリオン書房 |chapter=家庭電化製品それぞれの戦後史 |isbn=4-943948-46-4 }}
* {{Cite book|和書|ref=Harv |author=大西正幸|authorlink=大西正幸|title=電気洗濯機100年の歴史 |year=2008 |publisher=技報堂出版 |isbn=978-4-7655-4461-0 }}
{{Refend}}
== 外部リンク ==
* [http://www.tepco-switch.com/life/labo/select/01_washing/index-j.html 快適にくらすための家電選び:洗濯機]{{リンク切れ|date=2020年10月}}(東京電力くらしのラボが提供する製品の選び方ガイド)
* {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
* {{Kotobank|電気洗濯機|2=世界大百科事典 第2版}}
* 杉並区役所公式情報サイトすぎなみ学倶楽部『[https://www.suginamigaku.org/2014/10/tool-sentakuki.html 道具に見る昭和の暮らし・洗濯機]』
{{乾燥}}
{{オートメーション}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せんたくき}}
[[Category:家電機器]]
[[Category:洗濯]]
[[Category:ホームオートメーション]] | 2003-05-22T17:19:34Z | 2023-11-26T23:59:38Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E6%BF%AF%E6%A9%9F |
9,098 | 西ドイツ | 西ドイツ(にしドイツ、独: Westdeutschland、英: West Germany)は、1949年5月23日から1990年10月2日までのドイツ連邦共和国の通称である(略称:西独)。
冷戦時代はドイツ民主共和国(東ドイツ)と対峙する分断国家だったが、1990年10月3日、ドイツ民主共和国を併合する東西ドイツ再統一により、この通称は使われなくなった。東西ドイツ再統一まで首都はボンに置かれたが、再統一後はベルリンに移った。ドイツ人は、かつての西ドイツを「ボン共和国」(die Bonner Republik)と呼ぶこともある。ドイツ再統一は法的には「旧東ドイツの各州がドイツ連邦共和国に加入」という形式で行なわれたため、厳密にいうと現在のドイツは再統一により再編成された新しい国家ではなく、「領域を旧東ドイツ地域にも拡大した西ドイツ」である。
1945年5月8日に第二次世界大戦に敗北した国家社会主義ドイツ労働者党政権下のドイツ国(ナチス・ドイツ)は、ベルリン宣言の発表によって完全に滅亡し、7月のポツダム会談における決定で米ソ英仏の4カ国による分割統治と非武装化・非ナチ化政策を受けることになった。しかし、イデオロギー対立による冷戦の開始と共に、英米仏の3カ国とソ連は対立を深めた。イギリス軍占領地区とアメリカ軍占領地区は占領円滑化のため、合同してバイゾーン(Bizone、後にフランス軍占領地区とも連合しトライゾーン、Trizoneとなる)を形成し、ソ連軍占領地区との亀裂が深まった。
東西の亀裂が決定的となったのは、1948年6月21日、英米仏各占領地区で独自に発行されていた通貨(ライヒスマルクやレンテンマルク)を統合してトライゾーンでの統一通貨(ドイツマルク)を発行し、戦後のハイパーインフレーションを収拾する通貨改革を発表したときだった。これはソ連側が6月24日に発行を計画していた新通貨・東ドイツマルクに対抗する措置でもあった。排除されたソ連側は3日後、予定通り東ドイツマルクを発行し、これが東西分裂の象徴になった。ソ連はドイツマルクを使用する西ベルリンを経済封鎖し、西側は大空輸作戦で1949年5月12日までの11か月間西ベルリンを支えた(ベルリン封鎖)。
1949年5月23日、英米仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府が発足(ホイス大統領、コンラート・アデナウアー首相)し、10月7日にソ連統治諸州にドイツ民主共和国(ピーク大統領)が成立して、東西に二つの共和国が並び立つ事態となった。四カ国共同占領地だったベルリンも分断され、後の1961年にはベルリンの壁が建設された。
西ドイツは1955年5月5日に主権の完全な回復を宣言し、ドイツ連邦軍を編成して再軍備を行い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられたかたちの西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。
1957年1月1日には、住民投票でドイツ復帰を選んだフランス保護領ザールをザールラント州として併合した。
西ドイツは欧州経済共同体(EEC)や欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)などへの加盟を通じ、かつて対立した近隣諸国との経済協力や政治協調を進め、欧州の一員かつ中核メンバーとして受け入れられるようになった。それは欧州復興の中心地であったからである。100億ドル単位のマーシャル・プランやガリオア資金といった援助が朝鮮戦争特需によって実を結び、1950年代末には早々とGNP世界2位に躍進、経済の奇跡(ドイツ語: Wirtschaftswunder)と呼ばれた。西ドイツはヨーロッパのみならず世界有数の経済大国となった。
しかし、戦後の西ドイツの再出発には多数の障害があった。大戦による破壊もさることながら、モーゲンソー・プランに基づきドイツを脱工業化するため、連合国軍は1950年まで石炭産業・鉄鋼業を財閥解体した。国内外にドイツ企業が持っていた高価値の特許は、敵性資産として連合国に没収された。それだけでなく、ドイツ人の研究者がソ連やアメリカに連行された。
なかんずく1948年の通貨改革は試練であった。6月にライヒスマルクが1/10のデノミネーションをともないドイツマルクへ置き換えられた。また、連邦準備制度にならったマルチ・リザーブ・システムが同年3月設立のレンダー・バンク(英語版、ドイツ語版)を頂点に整備された。そして、現金以外の金融資産の切り替えが行われた。一般の債権債務は通貨と同率の1割となった。公債はすべて破棄された。預貯金は1割にされてから、引き出しがその半額に制限された。封鎖分は10月に2割が引き出せるようになり、1割が中長期投資勘定に振り返られた。残り7割は切り捨てられた。したがって、預貯金は1割ではなく6.5%しか保護されなかった。一方、賃金・物価は据え置かれた。このアンフェアな措置は、企業の現実資産に有利であった。インフレ対策としては功を奏し、企業がインフレ期待のもと保有していた金融資産が市場に出回るようになった。格差を是正する措置として1952年に負担調整法が制定された。しかし、これによる現実資産への課税は微々たるものであった。税収は様々な戦争被害に対する補償に使われた。
復興の積極要因は幾つかあるが、端緒は占領軍による緊縮政策の根負けである。1948年6月23日の法律は所得税・法人税率等を平均して2/3に縮小した。翌日の立法では消費税の統制が撤廃された。11月に賃金の統制が撤廃された。主要食糧が1950年前半までに、石炭・鉄鋼等も1952年頃までに自由化された。また工業に対する連合国の束縛の廃止もある程度の影響を与えた。結果として物価が実勢値に跳ね上がった。
1950年に勃発した朝鮮戦争は世界的に物資の需要を高め、1951年4月3日造船制限が撤廃された。このとき、西ドイツにはオーデル・ナイセ線以東の旧ドイツ東部領土や東ドイツからの避難民が溢れていたため、賃金の安い熟練労働者が西ドイツには比較的多かった。これを強みとして西ドイツは諸外国の輸入需要にこたえ、輸出を急激に伸ばした。労働時間は長くなり仕事は次第にきつくなってきた。第1回連邦議会は、カルテルを容認する一方、石炭鉄鋼産業における労使対等の共同決定を法制度として認めなかった。そしてこれをきっかけに全国的な社会闘争が起こった。結果として、石炭鉄鋼業についてはモンタン共同決定法が成立した。これは、11人の監査役に5名ずつの株主監査役員と労働者監査役員が石炭鉄鋼会社の経営に共同参画するものである。1952年には経営組織法が制定されて、労働者数が500以上2000以下の企業に適用された。監査役定員の1/3が労働者監査役員でなくてはならなくなった。そして彼らは労働者に直接選任された。
この朝鮮戦争は西ドイツの国際的地位を回復させた。1951年初頭ランツベルク刑務所から大量の戦犯が釈放された。1952年9月10日、西ドイツ政府はイスラエルの全般補償請求を認め、15年間で34億5000万ドルを現物により支払うことを約束した(第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償#ルクセンブルク協定の成立)。
1950年代末から1960年代にかけてはガストアルバイター(Gastarbeiter)として、トルコや韓国など諸外国から移民が誘致された。彼らは西ドイツの人手不足や経済成長の加速を支えた。まず1955年イタリアと、1960年スペイン・ギリシャとガストアルバイターの募集協定を結んだが、まだこのときは労働者全体に占める外国人の割合は1%未満であった。ガストアルバイターは1961年にベルリンの壁ができてから急増した。外国人労働者数は1960年の28万人が1966年に131万人となり、1974年にピークを迎えて233万人となった。上記3時点において、労働者全体に占める割合はそれぞれ1.3、5.8、11.2%であった。他方、1965年に株式法が多少変わった。これは1897年から続く複数議決権を例外措置とするものであり、自然独占の観点からシーメンスをふくむエネルギー企業に認められた。
1970年代は波乱であった。1973年1月末にドイツ連邦銀行にドルが売り浴びせられ、以降5週間に差し引き240億ドイツマルクが流出した。逆にドルは流入したので、戦前からドル基準の国内物価が上昇した。オイルショックにより1975年上半期の失業者数は90万人にのぼり、11月に欧州諸共同体以外からの労働者募集を中止した。1974年12月には17.3億ドイツマルクの公共事業を決定した。7.5%の投資補助金が交付されたり、投資減税が行われたりした。1975年1月に所得税法改正により年間160億ドイツマルク分の企業負担を軽減した。1976年、石炭鉄鋼業以外にも労働者2000人超である企業すべてに適用される共同決定法が成立した。この法律は労働者数に応じて株主監査役員と労働者監査役員の定員を決めた。労働者監査役員のうち2名から3名は労働組合代表者でなくてはならないとした。産業界は束になって違憲訴訟を提起したが、連邦憲法裁判所は合憲判決を下した。
1983年中ごろ依然として失業者数が230万人(9.3%)であり、ドイツ経済はスタグフレーションに陥っていた。そこでヘルムート・コール首相は新自由主義路線を打ち出した。しかし、決してフェアな政策ではなかった。西ドイツ史上最大の汚職フリック事件が発覚し、オットー・グラーフ・ラムスドルフ経済相が1984年1月27日をもって引責辞任した。
一方、原子力企業ヌーケム(英語版、ドイツ語版)がパキスタン・スーダン・リビアの3カ国へ核燃料を密輸、1985年に原爆188個分、1986年で70個分の核物質が行方不明となっていた。1960年4月ヌーケムの主要株主は、52.5%を保有するデグサと22.5%のリオ・ティントであった。1965年は、デグサが45%に保有率を下げ、RWEが25%を占めるようになり、そしてリオ・ティントも18%に保有率を下げた。1969年にシーメンスと合弁で原燃会社を設立。2006年、Advent International に、2013年、カメコに買収された。
1988年後半まで失業者数は220万ほどであったが、ベルリンの壁崩壊直前の1989年末に200万の大台を割った。 1989年1月には国際協定の調印により、上海へ地下鉄を建設するためにドイツ復興金融公庫が4億6千万マルクを供与することとなった。 1990年3月、欧州女性の富豪ランキングで、1位と2位はエリザベス2世とベアトリクス女王であったが、3位はヨハンナ・クヴァントであった。1991年前半には失業者数が160万人ほどへ落ち着き、国内への投資も増加した。
西ドイツには、「東ドイツとの統一後に憲法を持つことにする」との意志から憲法(Verfassung) がなく、基本法(Grundgesetz)のみがあった(これは基本法146条に明記されていた)。
東西冷戦の最前線に立つ国だったことからアメリカへの政治的・軍事的依存が高く、多くの米軍基地が国内におかれていた。また東ドイツとの対立から、再軍備直後の1956年以来、18歳から45歳までの男子国民に徴兵制が敷かれていた。しかし第二次世界大戦への反省から、西ドイツ時代のドイツ連邦軍の役割は抑制されたものだった。環境保護運動同様に反戦運動も盛んであり、1983年には、1979年調印の第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)にもかかわらず西ドイツに核ミサイルが持ち込まれたことを受けてヨーロッパ全土へ波及する大規模な反核運動が起こっている。
対東ドイツ政策では、1970年代以前はハルシュタイン原則に基づき、西ドイツがドイツ地域で唯一民主的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家であると位置づけ、ソ連以外の国で東ドイツを承認して国交を持った国とは、国交を断絶する政策を採った。しかしこの原則は東ドイツが第三世界の多くと国交を結ぶ中で実効性を失った。
1970年代初頭、東側諸国との関係改善を図るヴィリー・ブラント首相の東方外交により、東西ドイツは相互承認へと進んだ。さらにモスクワ条約(1970年、ソビエト・西ドイツ武力不行使条約)、西ドイツ・ポーランド間のワルシャワ条約(1970年)、東西ベルリンの相互通行を促進する米ソ英仏の四カ国合意(1971年)、西ベルリンと西ドイツ間の通行を保障する通過合意(1972年)、東西ドイツ基本条約(1972年)と続いた諸条約は東西ドイツの関係正常化につながり、両国が同時に国際連合へ加盟する道を開いた。
第二次世界大戦直後、東西冷戦と並ぶ欧州の大きな問題は、ドイツが三度戦争を起こさないようにするにはどのように抑え込めばいいかというものだった。当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(モーゲンソー・プランも参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な国境警備隊や機雷掃海部隊以外の国軍を持つことは許されず、米ソ英仏の四カ国が治安に責任を持っていた。
こうした流れは冷戦の開始とともに変わることとなる。ソ連に対抗すべく西ドイツ経済の復興が求められると同時に、西ドイツの再軍備も検討されるようになった。主権回復後の1950年、西ドイツは再軍備の基本構想策定を解除され新たな「ドイツ連邦軍」の創設準備を始めた。
一方、周辺の西欧諸国はブリュッセル条約を締結して対独抑止を図ったほか、ヨーロッパが西ドイツを制御できなくなることを防ぐため、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)によって軍需物資である石炭と鉄鋼の産出を西欧諸国で共同管理する仕組みが作られた。また西欧とアメリカは北大西洋条約機構(NATO)を結成することでソ連・東欧への対抗とドイツ抑え込みを行うことになる。しかしフランスはドイツ連邦軍の創設と西ドイツのNATO加盟に反対し、西ドイツも含む西欧諸国が超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する「欧州防衛共同体」(EDC)構想を打ち出した。この構想では西ドイツが作る部隊は西ドイツ政府ではなくEDCの指揮のもとに置かれ、西ドイツの防衛はEDCが責任を持つこととなっていた。この構想は1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、主権を侵されることをよしとしないド・ゴール主義者たちの反対により1954年に当のフランス議会で否決され、批准に至らなかった。結果、フランスも西ドイツの再軍備とNATO加盟を認め、ドイツ連邦軍は1955年11月12日に正式に誕生した。
西ドイツの政治は、小政党が乱立し結果としてファシズムの台頭を招いたヴァイマル共和政期の反省から、一定の得票率 (5%) を議席獲得の条件とする(「阻止条項」)、議会制民主主義を否定する政党の結党を禁止する(「戦う民主主義」)などの措置を講じていたため、非常に安定した。議会ではキリスト教民主主義の元に右派諸勢力が結集したキリスト教民主同盟 (CDU) と19世紀以来の左派政党ドイツ社会民主党 (SPD) の二大政党が左右に並んでいた。
建国後、西ドイツ再建と社会福祉の充実を指揮したアデナウアー政権(1949年 - 1963年)のあと、短いエアハルト政権(1963年 - 1966年)とキージンガー政権(1966年 - 1969年)が続いた。
1966年までの政権はキリスト教民主同盟 (CDU) とキリスト教社会同盟 (CSU) の二つの保守政党の連立であり、これに中道の自由民主党 (FDP) が加わっていた。1966年のキージンガー政権ではキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟とドイツ社会民主党の「大連立」が成立したが、この時期に社会民主党は現実主義路線に移り政権運営が可能な能力を得た。
大連立下の議会では、論議の的となってきた非常事態宣言法など憲法上の権利を制限する法律が成立した。この法律に対し学生運動や労働組合は反対の声を上げた。1967年には学生デモに参加していた学生ベンノ・オーネゾルクの射殺により運動が過熱し、1968年には学生運動の指導者ルディ・ドゥチュケに対する暗殺未遂事件が発生した。
1960年代にはナチス時代に対する直面を促する学生らによる大規模行動も起こった。また経済成長とともに激しくなったドイツの環境破壊を背景に、ルディ・ドゥチュケら学生運動家、ペトラ・ケリー、ハインリヒ・ベル、ヨーゼフ・ボイスら社会運動家は環境保護運動に結集し緑の党が結成された。1979年のブレーメン州選挙で、緑の党はついに得票率5%を超えたため議席を確保している。こうした動きの中で環境保護主義と反国家主義が西ドイツの基本的な価値観となった。
同じ1960年代の学生運動のうち、過激化した運動家らが1968年以降ドイツ赤軍 (Rote Armee Fraktion, RAF) を結成し、1970年代の間、西ドイツの政治家や財界人に対するテロ攻撃を加え続けた。特に1977年の「ドイツの秋」と呼ばれる一連の事態(ドイツ経営者連盟会長のハンス=マルティン・シュライヤーに対する誘拐殺人、およびルフトハンザ航空181便ハイジャック事件など)は西ドイツを震撼させた。
1969年の選挙でヴィリー・ブラントが党首を務める社会民主党は大きな議席を確保し、自由民主党との連立で政権を獲得することに成功し政権交代が起きた。ブラント政権は1974年まで続き東方外交など外交上の成果を上げたが、彼の秘書が東ドイツ国家保安省(シュタージ)のスパイだったというスキャンダルからブラントは首相を辞任した。財務大臣ヘルムート・シュミットが以後1982年まで、自由民主党の党首ハンス・ディートリヒ・ゲンシャーの助けのもと政権をとった。石油ショック後の景気維持のほか、欧州共同体(EC)への支持、全欧安全保障協力会議の創設など、欧州統合と米欧間の協力強化に尽力した。
1982年には社会民主党と自由民主党の連立が崩壊し、シュミット政権に建設的内閣不信任案を出したキリスト教民主同盟が自由民主党を引き入れて政権を奪取し、ヘルムート・コールが第6代首相となった。翌年の選挙でコール政権は支持を得たが、緑の党の躍進と連邦議会議席獲得によりキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟は絶対過半数の獲得には失敗した。1989年のベルリンの壁崩壊に伴い東西ドイツ統一の好機が訪れると、コール政権は統一ドイツもEU統合や米欧同盟維持を支持するとして各国の了解をとり、一気に東ドイツを吸収し、東ドイツに数か月前に成立したばかりの五つの州をドイツ連邦共和国の一部とした。
戦前に欧州有数の大都市だったベルリンが実質的に飛び地となった西ドイツでは、政治の中心は暫定首都のボンに置かれたものの、多くの権限を各州が持ち、中央銀行・証券取引所など経済政策の中心がフランクフルト・アム・マインに置かれ、連邦憲法裁判所と連邦最高裁判所といった司法の中心がカールスルーエに置かれるなど政治・経済面での地域分散化が進んだ。この点では、東ベルリンへの一極集中を進め地方都市の弱体化が進んだ東ドイツとは対照的だった。ベルリンは名目上は西ドイツの首都でありながらドイツの中心としての地位を喪失したものの、西ベルリンは三カ国占領下で徴兵制もない政治的にあいまいな状態のため、西ドイツや世界各地からの若者が流入し、コスモポリタン的な文化が栄えた。
1989年のベルリンの壁崩壊以後、東西ドイツは通貨・関税同盟を1990年7月に結び、1990年10月3日の東ドイツが西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に組み入れられる(西ドイツ憲法旧23条の規定による旧東ドイツの5州の連邦共和国への「加盟」)ことにより東西分断はようやく終焉を迎えた。
東西ドイツ統一によりドイツが全土での主権を回復すること(法的継承性は無いものの事実上の旧「ドイツ国」の復活)に対する警戒心も周辺諸国にはあったが、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「ドイツ最終規定条約」(別名「2プラス4条約」、第二次世界大戦後結ばれることのなかった講和条約の代替となる事実上の平和条約)により、再統一後のドイツの地位と国境が確定し、ここにドイツの主権が完全に回復した。1990年10月3日の再統一の後、1991年3月15日、英仏ソ三カ国の軍はドイツから撤退した。 | [
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"text": "西ドイツ(にしドイツ、独: Westdeutschland、英: West Germany)は、1949年5月23日から1990年10月2日までのドイツ連邦共和国の通称である(略称:西独)。",
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"text": "冷戦時代はドイツ民主共和国(東ドイツ)と対峙する分断国家だったが、1990年10月3日、ドイツ民主共和国を併合する東西ドイツ再統一により、この通称は使われなくなった。東西ドイツ再統一まで首都はボンに置かれたが、再統一後はベルリンに移った。ドイツ人は、かつての西ドイツを「ボン共和国」(die Bonner Republik)と呼ぶこともある。ドイツ再統一は法的には「旧東ドイツの各州がドイツ連邦共和国に加入」という形式で行なわれたため、厳密にいうと現在のドイツは再統一により再編成された新しい国家ではなく、「領域を旧東ドイツ地域にも拡大した西ドイツ」である。",
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"text": "1945年5月8日に第二次世界大戦に敗北した国家社会主義ドイツ労働者党政権下のドイツ国(ナチス・ドイツ)は、ベルリン宣言の発表によって完全に滅亡し、7月のポツダム会談における決定で米ソ英仏の4カ国による分割統治と非武装化・非ナチ化政策を受けることになった。しかし、イデオロギー対立による冷戦の開始と共に、英米仏の3カ国とソ連は対立を深めた。イギリス軍占領地区とアメリカ軍占領地区は占領円滑化のため、合同してバイゾーン(Bizone、後にフランス軍占領地区とも連合しトライゾーン、Trizoneとなる)を形成し、ソ連軍占領地区との亀裂が深まった。",
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"text": "1983年中ごろ依然として失業者数が230万人(9.3%)であり、ドイツ経済はスタグフレーションに陥っていた。そこでヘルムート・コール首相は新自由主義路線を打ち出した。しかし、決してフェアな政策ではなかった。西ドイツ史上最大の汚職フリック事件が発覚し、オットー・グラーフ・ラムスドルフ経済相が1984年1月27日をもって引責辞任した。",
"title": "経済改革"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "一方、原子力企業ヌーケム(英語版、ドイツ語版)がパキスタン・スーダン・リビアの3カ国へ核燃料を密輸、1985年に原爆188個分、1986年で70個分の核物質が行方不明となっていた。1960年4月ヌーケムの主要株主は、52.5%を保有するデグサと22.5%のリオ・ティントであった。1965年は、デグサが45%に保有率を下げ、RWEが25%を占めるようになり、そしてリオ・ティントも18%に保有率を下げた。1969年にシーメンスと合弁で原燃会社を設立。2006年、Advent International に、2013年、カメコに買収された。",
"title": "経済改革"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1988年後半まで失業者数は220万ほどであったが、ベルリンの壁崩壊直前の1989年末に200万の大台を割った。 1989年1月には国際協定の調印により、上海へ地下鉄を建設するためにドイツ復興金融公庫が4億6千万マルクを供与することとなった。 1990年3月、欧州女性の富豪ランキングで、1位と2位はエリザベス2世とベアトリクス女王であったが、3位はヨハンナ・クヴァントであった。1991年前半には失業者数が160万人ほどへ落ち着き、国内への投資も増加した。",
"title": "経済改革"
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"text": "西ドイツには、「東ドイツとの統一後に憲法を持つことにする」との意志から憲法(Verfassung) がなく、基本法(Grundgesetz)のみがあった(これは基本法146条に明記されていた)。",
"title": "政治"
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"text": "東西冷戦の最前線に立つ国だったことからアメリカへの政治的・軍事的依存が高く、多くの米軍基地が国内におかれていた。また東ドイツとの対立から、再軍備直後の1956年以来、18歳から45歳までの男子国民に徴兵制が敷かれていた。しかし第二次世界大戦への反省から、西ドイツ時代のドイツ連邦軍の役割は抑制されたものだった。環境保護運動同様に反戦運動も盛んであり、1983年には、1979年調印の第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)にもかかわらず西ドイツに核ミサイルが持ち込まれたことを受けてヨーロッパ全土へ波及する大規模な反核運動が起こっている。",
"title": "政治"
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"text": "対東ドイツ政策では、1970年代以前はハルシュタイン原則に基づき、西ドイツがドイツ地域で唯一民主的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家であると位置づけ、ソ連以外の国で東ドイツを承認して国交を持った国とは、国交を断絶する政策を採った。しかしこの原則は東ドイツが第三世界の多くと国交を結ぶ中で実効性を失った。",
"title": "政治"
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"text": "1970年代初頭、東側諸国との関係改善を図るヴィリー・ブラント首相の東方外交により、東西ドイツは相互承認へと進んだ。さらにモスクワ条約(1970年、ソビエト・西ドイツ武力不行使条約)、西ドイツ・ポーランド間のワルシャワ条約(1970年)、東西ベルリンの相互通行を促進する米ソ英仏の四カ国合意(1971年)、西ベルリンと西ドイツ間の通行を保障する通過合意(1972年)、東西ドイツ基本条約(1972年)と続いた諸条約は東西ドイツの関係正常化につながり、両国が同時に国際連合へ加盟する道を開いた。",
"title": "政治"
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"text": "第二次世界大戦直後、東西冷戦と並ぶ欧州の大きな問題は、ドイツが三度戦争を起こさないようにするにはどのように抑え込めばいいかというものだった。当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(モーゲンソー・プランも参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な国境警備隊や機雷掃海部隊以外の国軍を持つことは許されず、米ソ英仏の四カ国が治安に責任を持っていた。",
"title": "政治"
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"text": "こうした流れは冷戦の開始とともに変わることとなる。ソ連に対抗すべく西ドイツ経済の復興が求められると同時に、西ドイツの再軍備も検討されるようになった。主権回復後の1950年、西ドイツは再軍備の基本構想策定を解除され新たな「ドイツ連邦軍」の創設準備を始めた。",
"title": "政治"
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"text": "一方、周辺の西欧諸国はブリュッセル条約を締結して対独抑止を図ったほか、ヨーロッパが西ドイツを制御できなくなることを防ぐため、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)によって軍需物資である石炭と鉄鋼の産出を西欧諸国で共同管理する仕組みが作られた。また西欧とアメリカは北大西洋条約機構(NATO)を結成することでソ連・東欧への対抗とドイツ抑え込みを行うことになる。しかしフランスはドイツ連邦軍の創設と西ドイツのNATO加盟に反対し、西ドイツも含む西欧諸国が超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する「欧州防衛共同体」(EDC)構想を打ち出した。この構想では西ドイツが作る部隊は西ドイツ政府ではなくEDCの指揮のもとに置かれ、西ドイツの防衛はEDCが責任を持つこととなっていた。この構想は1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、主権を侵されることをよしとしないド・ゴール主義者たちの反対により1954年に当のフランス議会で否決され、批准に至らなかった。結果、フランスも西ドイツの再軍備とNATO加盟を認め、ドイツ連邦軍は1955年11月12日に正式に誕生した。",
"title": "政治"
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"text": "西ドイツの政治は、小政党が乱立し結果としてファシズムの台頭を招いたヴァイマル共和政期の反省から、一定の得票率 (5%) を議席獲得の条件とする(「阻止条項」)、議会制民主主義を否定する政党の結党を禁止する(「戦う民主主義」)などの措置を講じていたため、非常に安定した。議会ではキリスト教民主主義の元に右派諸勢力が結集したキリスト教民主同盟 (CDU) と19世紀以来の左派政党ドイツ社会民主党 (SPD) の二大政党が左右に並んでいた。",
"title": "政治"
},
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"text": "建国後、西ドイツ再建と社会福祉の充実を指揮したアデナウアー政権(1949年 - 1963年)のあと、短いエアハルト政権(1963年 - 1966年)とキージンガー政権(1966年 - 1969年)が続いた。",
"title": "政治"
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"text": "1966年までの政権はキリスト教民主同盟 (CDU) とキリスト教社会同盟 (CSU) の二つの保守政党の連立であり、これに中道の自由民主党 (FDP) が加わっていた。1966年のキージンガー政権ではキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟とドイツ社会民主党の「大連立」が成立したが、この時期に社会民主党は現実主義路線に移り政権運営が可能な能力を得た。",
"title": "政治"
},
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"text": "大連立下の議会では、論議の的となってきた非常事態宣言法など憲法上の権利を制限する法律が成立した。この法律に対し学生運動や労働組合は反対の声を上げた。1967年には学生デモに参加していた学生ベンノ・オーネゾルクの射殺により運動が過熱し、1968年には学生運動の指導者ルディ・ドゥチュケに対する暗殺未遂事件が発生した。",
"title": "政治"
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"text": "1960年代にはナチス時代に対する直面を促する学生らによる大規模行動も起こった。また経済成長とともに激しくなったドイツの環境破壊を背景に、ルディ・ドゥチュケら学生運動家、ペトラ・ケリー、ハインリヒ・ベル、ヨーゼフ・ボイスら社会運動家は環境保護運動に結集し緑の党が結成された。1979年のブレーメン州選挙で、緑の党はついに得票率5%を超えたため議席を確保している。こうした動きの中で環境保護主義と反国家主義が西ドイツの基本的な価値観となった。",
"title": "政治"
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"text": "同じ1960年代の学生運動のうち、過激化した運動家らが1968年以降ドイツ赤軍 (Rote Armee Fraktion, RAF) を結成し、1970年代の間、西ドイツの政治家や財界人に対するテロ攻撃を加え続けた。特に1977年の「ドイツの秋」と呼ばれる一連の事態(ドイツ経営者連盟会長のハンス=マルティン・シュライヤーに対する誘拐殺人、およびルフトハンザ航空181便ハイジャック事件など)は西ドイツを震撼させた。",
"title": "政治"
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"text": "1969年の選挙でヴィリー・ブラントが党首を務める社会民主党は大きな議席を確保し、自由民主党との連立で政権を獲得することに成功し政権交代が起きた。ブラント政権は1974年まで続き東方外交など外交上の成果を上げたが、彼の秘書が東ドイツ国家保安省(シュタージ)のスパイだったというスキャンダルからブラントは首相を辞任した。財務大臣ヘルムート・シュミットが以後1982年まで、自由民主党の党首ハンス・ディートリヒ・ゲンシャーの助けのもと政権をとった。石油ショック後の景気維持のほか、欧州共同体(EC)への支持、全欧安全保障協力会議の創設など、欧州統合と米欧間の協力強化に尽力した。",
"title": "政治"
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"text": "1982年には社会民主党と自由民主党の連立が崩壊し、シュミット政権に建設的内閣不信任案を出したキリスト教民主同盟が自由民主党を引き入れて政権を奪取し、ヘルムート・コールが第6代首相となった。翌年の選挙でコール政権は支持を得たが、緑の党の躍進と連邦議会議席獲得によりキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟は絶対過半数の獲得には失敗した。1989年のベルリンの壁崩壊に伴い東西ドイツ統一の好機が訪れると、コール政権は統一ドイツもEU統合や米欧同盟維持を支持するとして各国の了解をとり、一気に東ドイツを吸収し、東ドイツに数か月前に成立したばかりの五つの州をドイツ連邦共和国の一部とした。",
"title": "政治"
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"text": "戦前に欧州有数の大都市だったベルリンが実質的に飛び地となった西ドイツでは、政治の中心は暫定首都のボンに置かれたものの、多くの権限を各州が持ち、中央銀行・証券取引所など経済政策の中心がフランクフルト・アム・マインに置かれ、連邦憲法裁判所と連邦最高裁判所といった司法の中心がカールスルーエに置かれるなど政治・経済面での地域分散化が進んだ。この点では、東ベルリンへの一極集中を進め地方都市の弱体化が進んだ東ドイツとは対照的だった。ベルリンは名目上は西ドイツの首都でありながらドイツの中心としての地位を喪失したものの、西ベルリンは三カ国占領下で徴兵制もない政治的にあいまいな状態のため、西ドイツや世界各地からの若者が流入し、コスモポリタン的な文化が栄えた。",
"title": "政治"
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{
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"text": "1989年のベルリンの壁崩壊以後、東西ドイツは通貨・関税同盟を1990年7月に結び、1990年10月3日の東ドイツが西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に組み入れられる(西ドイツ憲法旧23条の規定による旧東ドイツの5州の連邦共和国への「加盟」)ことにより東西分断はようやく終焉を迎えた。",
"title": "ドイツ再統一(東ドイツ併合)"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "東西ドイツ統一によりドイツが全土での主権を回復すること(法的継承性は無いものの事実上の旧「ドイツ国」の復活)に対する警戒心も周辺諸国にはあったが、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「ドイツ最終規定条約」(別名「2プラス4条約」、第二次世界大戦後結ばれることのなかった講和条約の代替となる事実上の平和条約)により、再統一後のドイツの地位と国境が確定し、ここにドイツの主権が完全に回復した。1990年10月3日の再統一の後、1991年3月15日、英仏ソ三カ国の軍はドイツから撤退した。",
"title": "ドイツ再統一(東ドイツ併合)"
}
] | 西ドイツは、1949年5月23日から1990年10月2日までのドイツ連邦共和国の通称である(略称:西独)。 | {{出典の明記| date = 2021年6月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = 西ドイツ
|日本語国名 = ドイツ連邦共和国
|公式国名 = {{native name|de|Bundesrepublik Deutschland|italic=no}}
|建国時期 = [[1949年]]
|亡国時期 = [[1990年]]
|先代1 = 連合軍軍政期 (ドイツ)
|先旗1 = Flag of Germany (1946-1949).svg
|先旗1縁 = no
|先代2 = ザール (フランス保護領)
|先旗2 = Flag of Saar (1947–1956).svg
|次代1 = ドイツ
|次旗1 = Flag of Germany.svg
|国旗画像 = Flag of Germany.svg
|国旗リンク = [[ドイツの国旗|国旗]]
|国旗幅 =
|国旗縁 =
|国章画像 = Coat of Arms of Germany.svg
|国章リンク = [[ドイツの国章|国章]]
|国章幅 =
|標語 = <!--{{lang|de|Einigkeit und Recht und Freiheit}}{{de icon}}<br/>''統一と正義と自由''--><!--明確な出典が必要です。俗説を紹介する必要なし。-->
|標語追記 =
|国歌 = {{仮リンク|Ich hab' mich ergeben|en|Ich hab' mich ergeben}}{{de icon}}<br> ''我は汝に捧げり''{{smaller|(1949年 - 1952年) }}<br><center>[[File:Ich hab' mich ergeben.ogg]]<center><br> [[ドイツの歌|{{lang|de|Das Lied der Deutschen}}]]{{de icon}}<br/>''ドイツ人の歌''{{smaller|(1952年以降)}}<br/>{{center|[[File:Deutschlandlied played by USAREUR Band.ogg]]}}
|国歌追記 =
|位置画像 = West Germany 1956-1990.svg
|位置画像説明 = ドイツ連邦共和国の領土(緑と黄緑)、1957
|位置画像幅 =
|公用語 = [[ドイツ語]]
|首都 = [[ボン]]
|元首等肩書 = [[連邦大統領 (ドイツ)|大統領]]
|元首等年代始1 = 1949年
|元首等年代終1 = 1959年
|元首等氏名1 = [[テオドール・ホイス]]{{smaller|(初代)}}
|元首等年代始2 = 1984年
|元首等年代終2 = 1990年
|元首等氏名2 = [[リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー]]{{smaller|(再統一時)}}
|首相等肩書 = [[ドイツの首相|首相]]
|首相等年代始1 = 1949年
|首相等年代終1 = 1963年
|首相等氏名1 = [[コンラート・アデナウアー]]{{smaller|(初代)}}
|首相等年代始2 = 1982年
|首相等年代終2 = 1990年
|首相等氏名2 = [[ヘルムート・コール]]{{smaller|(再統一時)}}
|面積測定時期1 = 1990年
|面積値1 = 248,717
|人口測定時期1 = 1990年
|人口値1 = 63,254,000
|変遷1 = 成立
|変遷年月日1 = 1949年5月23日
|変遷2 = [[パリ協定 (1954年)|パリ協定]]発効
|変遷年月日2 = 1955年5月5日
|変遷3 = [[NATO]]加盟
|変遷年月日3 = 1955年5月9日
|変遷4 = [[欧州経済共同体|EEC]]結成
|変遷年月日4 = 1957年3月25日
|変遷5 = [[東西ドイツ基本条約]]
|変遷年月日5 = 1972年12月21日
|変遷6 = [[国際連合安全保障理事会決議335|国連加盟]]
|変遷年月日6 = 1973年9月18日
|変遷7 = [[ドイツ最終規定条約]]
|変遷年月日7 = 1990年9月12日
|変遷10 = [[ドイツ再統一]]
|変遷年月日10 = 1990年10月3日
|通貨 = [[ドイツマルク]]
|通貨追記 =
|時間帯 = +1
|夏時間 =
|時間帯追記 =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|現在 = {{GER}}
|注記 =
}}
{{ドイツの歴史}}
'''西ドイツ'''(にしドイツ、{{lang-de-short|Westdeutschland}}、{{lang-en-short|West Germany}})は、[[1949年]][[5月23日]]から[[1990年]][[10月2日]]までの'''[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]'''の通称である(略称:'''西独''')。
== 概要 ==
[[冷戦]]時代は'''[[ドイツ民主共和国|ドイツ民主共和国(東ドイツ)]]'''と対峙する[[分断国家]]だったが、1990年[[10月3日]]、ドイツ民主共和国を併合する[[ドイツ再統一|東西ドイツ再統一]]により、この通称は使われなくなった。東西ドイツ再統一まで[[首都]]は[[ボン]]に置かれたが、再統一後は[[ベルリン]]に移った。[[ドイツ人]]は、かつての西ドイツを「ボン共和国」(die Bonner Republik)と呼ぶこともある<ref>{{Cite web|title=Themen {{!}} bpb|url=https://www.bpb.de/veranstaltungen/themen/|website=bpb.de|accessdate=2021-10-24|language=de|first=Bundeszentrale für politische|last=Bildung}}</ref>。ドイツ再統一は法的には「旧東ドイツの各州が[[ドイツ連邦共和国]]に加入」という形式で行なわれたため、厳密にいうと現在の[[ドイツ]]は再統一により再編成された新しい国家ではなく、「[[領域 (国家)|領域]]を旧東ドイツ地域にも拡大した西ドイツ」である。
== 占領地から独立へ ==
{{main|連合軍軍政期 (ドイツ)}}
[[Image:Deutschland Besatzungszonen 8 Jun 1947 - 22 Apr 1949.svg|thumb|left|[[1945年]]以降、ドイツの分割占領]]
[[1945年]][[5月8日]]に[[第二次世界大戦]]に敗北した[[国家社会主義ドイツ労働者党]]政権下の[[ドイツ国]]([[ナチス・ドイツ]])は、[[ベルリン宣言 (1945年)|ベルリン宣言]]の発表によって完全に滅亡し、7月の[[ポツダム会談]]における決定で[[アメリカ合衆国|米]][[ソビエト連邦|ソ]][[イギリス|英]][[フランス|仏]]の4カ国による分割統治と非武装化・[[非ナチ化]]政策を受けることになった。しかし、[[イデオロギー]]対立による[[冷戦]]の開始と共に、英米仏の3カ国とソ連は対立を深めた。[[イギリス軍]]占領地区と[[アメリカ軍]]占領地区は占領円滑化のため、合同して[[バイゾーン]](Bizone、後に[[フランス軍]]占領地区とも連合し[[トライゾーン]]、Trizoneとなる)を形成し、[[ソ連占領地域|ソ連軍占領地区]]との亀裂が深まった。
東西の亀裂が決定的となったのは、[[1948年]][[6月21日]]、英米仏各占領地区で独自に発行されていた[[通貨]]([[ライヒスマルク]]や[[レンテンマルク]])を統合してトライゾーンでの統一通貨([[ドイツマルク]])を発行し、戦後の[[ハイパーインフレーション]]を収拾する通貨改革を発表したときだった。これはソ連側が[[6月24日]]に発行を計画していた新通貨・[[東ドイツマルク]]に対抗する措置でもあった。排除されたソ連側は3日後、予定通り東ドイツマルクを発行し、これが東西分裂の象徴になった。ソ連はドイツマルクを使用する[[西ベルリン]]を経済封鎖し、[[西側諸国|西側]]は大空輸作戦で[[1949年]][[5月12日]]までの11か月間西ベルリンを支えた([[ベルリン封鎖]])。
[[1949年]][[5月23日]]、英米仏の西側統治諸州に[[ボン]]を首府とする'''連邦共和国臨時政府'''が発足([[テオドール・ホイス|ホイス]]大統領、[[コンラート・アデナウアー]]首相)し、[[10月7日]]にソ連統治諸州にドイツ民主共和国([[ヴィルヘルム・ピーク|ピーク]]大統領)が成立して、東西に二つの[[共和国]]が並び立つ事態となった。四カ国共同占領地だったベルリンも分断され、後の[[1961年]]には[[ベルリンの壁]]が建設された。
西ドイツは[[1955年]][[5月5日]]に[[主権]]の完全な回復を宣言し、[[ドイツ連邦軍]]を編成して[[再軍備]]を行い、[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟した。ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられたかたちの西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。
[[1957年]][[1月1日]]には、住民投票でドイツ復帰を選んだ[[ザール (フランス保護領)|フランス保護領ザール]]を[[ザールラント州]]として併合した。
== 経済改革 ==
{{see also|ドイツ銀行#分割と再統合|en:Schufa}}
[[Image:Koeln 1945.jpg|thumb|200px|left|[[空襲]]で破壊されたケルン市街(1945年)]]
[[Image:Fusca estacionado.jpg|thumb|200px|left|世界各国へ輸出された[[フォルクスワーゲン・タイプ1]](ビートル)は西ドイツの経済の奇跡の象徴となった]]
西ドイツは[[欧州経済共同体]](EEC)や[[欧州石炭鉄鋼共同体]](ECSC)などへの加盟を通じ、かつて対立した近隣諸国との経済協力や政治協調を進め、欧州の一員かつ中核メンバーとして受け入れられるようになった。それは欧州復興の中心地であったからである。100億ドル単位の[[マーシャル・プラン]]{{efn|[[1953年]]から[[1971年]]まで、西ドイツは毎年マーシャル・プランの貸付資金の返済を行わねばならなかった。この債務は[[第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償|戦争の補償]]に上積みされた。}}や[[ガリオア資金]]といった援助が[[朝鮮戦争]]特需によって実を結び、1950年代末には早々とGNP世界2位に躍進、[[経済の奇跡]]({{Lang-de|Wirtschaftswunder}}){{efn|1950年にイギリスの[[タイムズ]]紙がドイツ復興をこう表現した。}}と呼ばれた。西ドイツは[[ヨーロッパ]]のみならず世界有数の[[経済大国]]となった。
しかし、戦後の西ドイツの再出発には多数の障害があった。大戦による破壊もさることながら、[[モーゲンソー・プラン]]に基づきドイツを脱工業化するため、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍は1950年まで石炭産業・鉄鋼業を[[財閥解体]]した。国内外にドイツ企業が持っていた高価値の[[特許]]は、敵性資産として連合国に没収された{{efn|国外に保有する資産に関しては日本も同様の境遇にあった。}}。それだけでなく、ドイツ人の研究者がソ連やアメリカに連行された。
なかんずく1948年の'''通貨改革'''は試練であった{{efn|ここから西ドイツ成立後の[[市場経済|市場経済主義]]経済政策に至るまで、[[ルートヴィヒ・エアハルト]]が経済大臣・首相を歴任した。}}。6月にライヒスマルクが1/10の[[デノミネーション]]をともないドイツマルクへ置き換えられた。また、[[連邦準備制度]]にならったマルチ・リザーブ・システムが同年3月設立の{{仮リンク|レンダー・バンク|en|Bank deutscher Länder|de|Bank deutscher Länder}}を頂点に整備された。そして、現金以外の金融資産の切り替えが行われた。一般の債権債務は通貨と同率の1割となった。公債はすべて破棄された。預貯金は1割にされてから、[[預金封鎖|引き出しがその半額に制限]]された。封鎖分は10月に2割が引き出せるようになり、1割が中長期投資勘定に振り返られた。残り7割は切り捨てられた。したがって、預貯金は1割ではなく6.5%しか保護されなかった。一方、賃金・物価は据え置かれた。このアンフェアな措置は、企業の現実資産に有利であった。インフレ対策としては功を奏し、企業がインフレ期待のもと保有していた金融資産が市場に出回るようになった。格差を是正する措置として1952年に負担調整法が制定された。しかし、これによる現実資産への課税は微々たるものであった。税収は様々な戦争被害に対する補償に使われた<ref name=post>東京大学社会科学研究所 『国際環境』 東京大学出版会 1974年 pp.128-129.</ref>。
復興の積極要因は幾つかあるが、端緒は占領軍による緊縮政策の根負けである。1948年6月23日の法律は[[所得税]]・[[法人税]]率等を平均して2/3に縮小した。翌日の立法では[[消費税]]の統制が撤廃された。11月に賃金の統制が撤廃された。主要食糧が1950年前半までに、石炭・鉄鋼等も1952年頃までに自由化された。また工業に対する連合国の束縛の廃止もある程度の影響を与えた。結果として[[物価]]が実勢値に跳ね上がった<ref name=post />。
1950年に勃発した[[朝鮮戦争]]は世界的に物資の需要を高め、1951年4月3日造船制限が撤廃された。このとき、西ドイツには[[オーデル・ナイセ線]]以東の[[旧ドイツ東部領土]]や東ドイツからの避難民が溢れていたため、賃金の安い熟練労働者が西ドイツには比較的多かった。これを強みとして西ドイツは諸外国の輸入需要にこたえ、[[輸出]]を急激に伸ばした。労働時間は長くなり仕事は次第にきつくなってきた。第1回[[ドイツ連邦議会|連邦議会]]は、[[カルテル]]を容認する一方、石炭鉄鋼産業における労使対等の共同決定を法制度として認めなかった。そしてこれをきっかけに全国的な社会闘争が起こった。結果として、石炭鉄鋼業については'''[[:de:Montan-Mitbestimmungsgesetz|モンタン共同決定法]]'''が成立した。これは、11人の[[監査役]]に5名ずつの株主監査役員と労働者監査役員が石炭鉄鋼会社の経営に共同参画するものである。1952年には経営組織法が制定されて、労働者数が500以上2000以下の企業に適用された。監査役定員の1/3が労働者監査役員でなくてはならなくなった。そして彼らは労働者に直接選任された。
この朝鮮戦争は西ドイツの国際的地位を回復させた。1951年初頭[[ランツベルク刑務所]]から大量の戦犯が釈放された。1952年9月10日、西ドイツ政府はイスラエルの全般補償請求を認め、15年間で34億5000万ドルを現物により支払うことを約束した([[第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償#ルクセンブルク協定の成立]])。
[[1950年代]]末から[[1960年代]]にかけては[[ガストアルバイター]](Gastarbeiter)として、[[トルコ]]や[[大韓民国|韓国]]など諸外国から[[移民]]が誘致された。彼らは西ドイツの人手不足や経済成長の加速を支えた。まず1955年イタリアと、1960年スペイン・ギリシャとガストアルバイターの募集協定を結んだが、まだこのときは労働者全体に占める外国人の割合は1%未満であった。ガストアルバイターは1961年に[[ベルリンの壁]]ができてから急増した。外国人労働者数は1960年の28万人が1966年に131万人となり、1974年にピークを迎えて233万人となった。上記3時点において、労働者全体に占める割合はそれぞれ1.3、5.8、11.2%であった。他方、1965年に株式法が多少変わった。これは1897年から続く複数議決権を例外措置とするものであり、[[自然独占]]の観点から[[シーメンス]]をふくむエネルギー企業に認められた<ref>清水忠之、「[https://hdl.handle.net/10723/2512 複数議決権等と株主平等の原則]」『明治学院大学法律科学研究所年報』2015年 31巻 p.39-45, {{hdl|10723/2512}}, 明治学院大学法律科学研究所</ref>。
1970年代は波乱であった。1973年1月末に[[ドイツ連邦銀行]]にドルが売り浴びせられ、以降5週間に差し引き240億ドイツマルクが流出した。逆にドルは流入したので、戦前からドル基準の国内物価が上昇した。[[オイルショック]]により1975年上半期の失業者数は90万人にのぼり、11月に[[欧州諸共同体]]以外からの労働者募集を中止した。1974年12月には17.3億ドイツマルクの公共事業を決定した。7.5%の投資補助金が交付されたり、投資減税が行われたりした。1975年1月に所得税法改正により年間160億ドイツマルク分の企業負担を軽減した。1976年、石炭鉄鋼業以外にも労働者2000人超である企業すべてに適用される共同決定法が成立した。この法律は労働者数に応じて株主監査役員と労働者監査役員の定員を決めた。労働者監査役員のうち2名から3名は[[労働組合]]代表者でなくてはならないとした。産業界は束になって違憲訴訟を提起したが、[[連邦憲法裁判所]]は合憲判決を下した。
1983年中ごろ依然として失業者数が230万人(9.3%)であり、ドイツ経済は[[スタグフレーション]]に陥っていた。そこで[[ヘルムート・コール]]首相は[[新自由主義]]路線を打ち出した。しかし、決してフェアな政策ではなかった。西ドイツ史上最大の汚職'''フリック事件'''が発覚し、[[オットー・グラーフ・ラムスドルフ]]経済相が1984年1月27日をもって引責辞任した。
一方、原子力企業{{仮リンク|ヌーケム|en|Nukem Energy|de|Nukem}}がパキスタン・スーダン・リビアの3カ国へ核燃料を密輸、1985年に原爆188個分、1986年で70個分の核物質が行方不明となっていた<ref>[[:de:Stern (Zeitschrift)|シュテルン]] 1988年1月21日号</ref>。1960年4月ヌーケムの主要株主は、52.5%を保有する[[デグサ]]と22.5%の[[リオ・ティント]]であった。1965年は、デグサが45%に保有率を下げ、[[RWE]]が25%を占めるようになり、そしてリオ・ティントも18%に保有率を下げた。1969年にシーメンスと合弁で{{efn|出資割合は、シーメンス6に対しヌーケム4。}}原燃会社を設立。2006年、''[[:en:Advent International|Advent International]]'' に、2013年、[[カメコ]]に買収された<ref>ヌーケム [http://www.nukem.de/fileadmin/nukem/mediapool/PDFs/NUKEM_History.pdf NUKEM History or the Roots of NUKEM] Alzenau, August 2013</ref>。
1988年後半まで失業者数は220万ほどであったが、[[ベルリンの壁崩壊]]直前の1989年末に200万の大台を割った。
1989年1月には国際協定の調印により、[[上海]]へ地下鉄を建設するために[[ドイツ復興金融公庫]]が4億6千万マルクを供与することとなった<ref>''IDSA News Review on East Asia'', vol. 3, Institute for Defence Studies and Analyses, 1989, p. 143.</ref>。
1990年3月、欧州女性の富豪ランキングで、1位と2位は[[エリザベス2世]]と[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]であったが、3位は[[ヨハンナ・クヴァント]]であった<ref>''[[:en:Harpers & Queen|Harpers & Queen]]'', March, 1990</ref>。1991年前半には失業者数が160万人ほどへ落ち着き、国内への投資も増加した。
== 政治 ==
[[Image:Berlinermauer.jpg|thumb|200px|[[ベルリンの壁]]、中間の無人地帯に見えるのは[[ドイツ民主共和国国境警備隊|東ドイツ側の国境警備隊員]]。]]
西ドイツには、「東ドイツとの統一後に憲法を持つことにする」との意志から[[憲法]](Verfassung) がなく、[[ドイツ連邦共和国基本法|基本法]](Grundgesetz)のみがあった(これは基本法146条に明記されていた)。
東西冷戦の最前線に立つ国だったことからアメリカへの政治的・軍事的依存が高く、多くの米軍基地が国内におかれていた。また東ドイツとの対立から、再軍備直後の[[1956年]]以来、18歳から45歳までの男子国民に[[徴兵制度|徴兵制]]が敷かれていた。しかし第二次世界大戦への反省から、西ドイツ時代のドイツ連邦軍の役割は抑制されたものだった。[[環境保護運動]]同様に[[反戦運動]]も盛んであり、[[1983年]]には、[[1979年]]調印の[[第二次戦略兵器制限交渉]](SALT II)にもかかわらず西ドイツに[[核ミサイル]]が持ち込まれたことを受けてヨーロッパ全土へ波及する大規模な[[反核運動]]が起こっている。
=== 対東ドイツ政策 ===
[[Image:Willy-brandt-und-richard-nixon 1-588x398.jpg|thumb|200px|[[ヴィリー・ブラント]]と[[リチャード・ニクソン]]]]
対東ドイツ政策では、[[1970年代]]以前は[[ハルシュタイン原則]]に基づき、西ドイツがドイツ地域で唯一[[民主主義|民主]]的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家であると位置づけ、ソ連以外の国で東ドイツを[[国家の承認|承認]]して[[国交]]を持った国とは、国交を断絶する政策を採った。しかしこの原則は東ドイツが[[第三世界]]の多くと国交を結ぶ中で実効性を失った。
1970年代初頭、[[東側諸国]]との関係改善を図る[[ヴィリー・ブラント]][[ドイツの首相|首相]]の'''[[東方外交]]'''により、東西ドイツは相互承認へと進んだ。さらにモスクワ条約(1970年、[[ソビエト・西ドイツ武力不行使条約]])、西ドイツ・[[ポーランド]]間の[[ワルシャワ条約 (1970年)|ワルシャワ条約]](1970年)、東西ベルリンの相互通行を促進する米ソ英仏の四カ国合意([[1971年]])、西ベルリンと西ドイツ間の通行を保障する[[通過合意]]([[1972年]])、[[東西ドイツ基本条約]](1972年)と続いた諸条約は東西ドイツの関係正常化につながり、両国が同時に[[国際連合]]へ加盟する道を開いた。
=== 欧州の協調と対独抑止 ===
第二次世界大戦直後、東西冷戦と並ぶ欧州の大きな問題は、ドイツが三度戦争を起こさないようにするにはどのように抑え込めばいいかというものだった。当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた([[モーゲンソー・プラン]]も参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な[[国境警備隊]]や機雷掃海部隊以外の国軍を持つことは許されず、米ソ英仏の四カ国が治安に責任を持っていた。
こうした流れは冷戦の開始とともに変わることとなる。ソ連に対抗すべく西ドイツ経済の復興が求められると同時に、西ドイツの再軍備も検討されるようになった。主権回復後の[[1950年]]、西ドイツは再軍備の基本構想策定を解除され新たな「[[ドイツ連邦軍]]」の創設準備を始めた。
一方、周辺の西欧諸国は[[ブリュッセル条約 (1948年)|ブリュッセル条約]]を締結して対独抑止を図ったほか、ヨーロッパが西ドイツを制御できなくなることを防ぐため、[[欧州石炭鉄鋼共同体]](ECSC)によって軍需物資である石炭と鉄鋼の産出を西欧諸国で共同管理する仕組みが作られた。また西欧とアメリカは[[北大西洋条約機構]](NATO)を結成することでソ連・東欧への対抗とドイツ抑え込みを行うことになる。しかしフランスはドイツ連邦軍の創設と西ドイツのNATO加盟に反対し、西ドイツも含む西欧諸国が超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する「[[欧州防衛共同体]]」(EDC)構想を打ち出した。この構想では西ドイツが作る部隊は西ドイツ政府ではなくEDCの指揮のもとに置かれ、西ドイツの防衛はEDCが責任を持つこととなっていた。この構想は[[1952年]]に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、主権を侵されることをよしとしない[[ド・ゴール主義|ド・ゴール主義者]]たちの反対により[[1954年]]に当のフランス議会で否決され、[[批准]]に至らなかった。結果、フランスも西ドイツの再軍備とNATO加盟を認め、ドイツ連邦軍は[[1955年]][[11月12日]]に正式に誕生した。
=== 国内政治 ===
西ドイツの政治は、小政党が乱立し結果として[[ファシズム]]の台頭を招いた[[ヴァイマル共和政]]期の反省から、一定の得票率 (5%) を議席獲得の条件とする(「[[阻止条項]]」)、[[議会制民主主義]]を否定する政党の結党を禁止する(「[[戦う民主主義]]」)などの措置を講じていたため、非常に安定した。議会では[[キリスト教民主主義]]の元に右派諸勢力が結集した[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]] (CDU) と19世紀以来の左派政党[[ドイツ社会民主党]] (SPD) の二大政党が左右に並んでいた。
建国後、西ドイツ再建と社会福祉の充実を指揮した[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]]政権([[1949年]] - [[1963年]])のあと、短い[[ルートヴィヒ・エアハルト|エアハルト]]政権([[1963年]] - [[1966年]])と[[クルト・ゲオルク・キージンガー|キージンガー]]政権([[1966年]] - [[1969年]])が続いた。
1966年までの政権は[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]] (CDU) と[[キリスト教社会同盟]] (CSU) の二つの保守政党の連立であり、これに中道の[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党]] (FDP) が加わっていた。1966年のキージンガー政権ではキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟とドイツ社会民主党の「[[大連立]]」が成立したが、この時期に社会民主党は現実主義路線に移り政権運営が可能な能力を得た。
大連立下の議会では、論議の的となってきた[[非常事態宣言]]法など憲法上の権利を制限する法律が成立した。この法律に対し[[学生運動]]や[[労働組合]]は反対の声を上げた。[[1967年]]には学生デモに参加していた学生[[ベンノ・オーネゾルク]]の射殺により運動が過熱し、1968年には学生運動の指導者[[ルディ・ドゥチュケ]]に対する暗殺未遂事件が発生した。
[[1960年代]]にはナチス時代に対する直面を促する学生らによる大規模行動も起こった。また経済成長とともに激しくなったドイツの環境破壊を背景に、ルディ・ドゥチュケら学生運動家、[[ペトラ・ケリー]]、[[ハインリヒ・ベル]]、[[ヨーゼフ・ボイス]]ら社会運動家は環境保護運動に結集し[[緑の党 (ドイツ)|緑の党]]が結成された。[[1979年]]の[[ブレーメン州]]選挙で、緑の党はついに得票率5%を超えたため議席を確保している。こうした動きの中で[[環境保護主義]]と[[反国家主義]]が西ドイツの基本的な価値観となった。
同じ1960年代の学生運動のうち、過激化した運動家らが1968年以降[[ドイツ赤軍]] (Rote Armee Fraktion, RAF) を結成し、[[1970年代]]の間、西ドイツの[[政治家]]や[[財界|財界人]]に対する[[テロリズム|テロ]]攻撃を加え続けた。特に[[1977年]]の「[[ドイツの秋]]」と呼ばれる一連の事態(ドイツ経営者連盟会長の[[ハンス=マルティン・シュライヤー]]に対する[[誘拐]][[殺人]]、および[[ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件]]など)は西ドイツを震撼させた。
[[1969年]]の選挙で[[ヴィリー・ブラント]]が党首を務める社会民主党は大きな議席を確保し、自由民主党との連立で政権を獲得することに成功し政権交代が起きた。ブラント政権は[[1974年]]まで続き東方外交など外交上の成果を上げたが、彼の秘書が東ドイツ国家保安省([[シュタージ]])の[[スパイ]]だったというスキャンダルからブラントは首相を辞任した。財務大臣[[ヘルムート・シュミット]]が以後[[1982年]]まで、自由民主党の党首[[ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー]]の助けのもと政権をとった。[[オイルショック|石油ショック]]後の景気維持のほか、[[欧州共同体]](EC)への支持、[[全欧安全保障協力会議]]の創設など、[[欧州統合]]と米欧間の協力強化に尽力した。
[[1982年]]には社会民主党と自由民主党の連立が崩壊し、シュミット政権に建設的内閣不信任案を出したキリスト教民主同盟が自由民主党を引き入れて政権を奪取し、[[ヘルムート・コール]]が第6代首相となった。翌年の選挙でコール政権は支持を得たが、緑の党の躍進と連邦議会議席獲得によりキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟は絶対過半数の獲得には失敗した。1989年のベルリンの壁崩壊に伴い東西ドイツ統一の好機が訪れると、コール政権は統一ドイツもEU統合や米欧同盟維持を支持するとして各国の了解をとり、一気に東ドイツを吸収し、東ドイツに[[新連邦州|数か月前に成立したばかりの五つの州]]をドイツ連邦共和国の一部とした。
=== 地域分散 ===
戦前に欧州有数の大都市だったベルリンが実質的に[[飛地|飛び地]]となった西ドイツでは、政治の中心は暫定首都のボンに置かれたものの、多くの権限を各州が持ち、中央銀行・[[フランクフルト証券取引所|証券取引所]]など経済政策の中心が[[フランクフルト・アム・マイン]]に置かれ、[[連邦憲法裁判所]]と連邦最高裁判所といった司法の中心が[[カールスルーエ]]に置かれるなど政治・経済面での地域分散化が進んだ。この点では、[[東ベルリン]]への一極集中を進め地方都市の弱体化が進んだ東ドイツとは対照的だった。ベルリンは名目上は西ドイツの首都でありながらドイツの中心としての地位を喪失したものの、[[西ベルリン]]は三カ国占領下で徴兵制もない政治的にあいまいな状態のため、西ドイツや世界各地からの若者が流入し、[[コスモポリタニズム|コスモポリタン]]的な文化が栄えた。
== ドイツ再統一(東ドイツ併合) ==
[[画像:Berlin-wall.jpg|thumb|200px|[[ベルリンの壁]]([[1989年]][[11月16日]])]]
[[1989年]]の[[ベルリンの壁崩壊]]以後、東西ドイツは[[通貨同盟|通貨]]・[[関税同盟]]を1990年7月に結び、1990年10月3日の東ドイツが西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に組み入れられる(西ドイツ憲法旧23条の規定による旧東ドイツの5州の連邦共和国への「加盟」)ことにより東西分断はようやく終焉を迎えた。
東西ドイツ統一によりドイツが全土での主権を回復すること(法的継承性は無いものの事実上の旧「[[ドイツ国]]」の復活)に対する警戒心も周辺諸国にはあったが、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「[[ドイツ最終規定条約]]」(別名「2プラス4条約」、第二次世界大戦後結ばれることのなかった講和条約の代替となる事実上の[[平和条約]])により、再統一後のドイツの地位と[[国境]]が確定し、ここにドイツの主権が完全に回復した。1990年10月3日の再統一の後、[[1991年]][[3月15日]]、英仏ソ三カ国の軍はドイツから撤退した。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[冷戦]]
* [[ドイツ民主共和国]]
* [[ドイツ再統一]]
* [[ドイツの政治]]、[[ドイツの歴史認識]]
* [[ドイツ連邦共和国基本法]]
== 外部リンク ==
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{{Wiktionary|ドイツ連邦共和国}}
* “[http://www.germany.info/relaunch/culture/history/marshall.html Marshall Plan 1947-1997 A German View]” by Susan Stern
* [https://www.econlib.org/library/Enc/GermanEconomicMiracle.html German Economic “Miracle”] by David R. Henderson
* [http://www.germannotes.com/hist_west_overview.shtml History of West Germany (1949 - 1990)]
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[[Category:西ドイツ|*]]
[[Category:過去の国際連合加盟国]] | 2003-05-22T17:44:22Z | 2023-09-25T17:35:28Z | false | false | false | [
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9,099 | 赤外線 | 赤外線(せきがいせん)は、可視光線の赤色より波長が長く(周波数が低い)、電波より波長の短い電磁波のことである。ヒトの目では見ることができない光である。英語では infrared といい、「赤より下にある」「赤より低い」を意味する(infra は「下」を意味する接頭辞)。分光学などの分野ではIRとも略称される。対義語に、「紫より上にある」「紫より高い」を意味する紫外線(英:ultraviolet)がある。
人間の視覚は、波長の長い光を赤色光として感じとるが、その上限は 760 - 830 nm 付近とされ、それより波長の長い光は知覚できず、可視光線の赤色の外側という意味で 赤外線という。ミリ波長の電波よりも波長の短い電磁波全般を指し、波長ではおよそ700 nm - 1 mm (=1000 μm) に分布する。
さらに、波長によって、近赤外線、中赤外線、遠赤外線に分けられる。それぞれの波長区分は学問領域によって若干異なり、下記の区分はその一例である。
近赤外線は波長がおよそ0.7 - 2.5 μmの電磁波で、赤色の可視光線に近い波長を持つ。性質も可視光線に近い特性を持つため「見えない光」として、赤外線カメラや赤外線通信、家電用のリモコン、生体認証の一種である静脈認証などに応用されている。光ファイバーでもこの波長帯が使われ、代表的な波長は1.55μmである。天文学の分野では、1 - 3 μmの波長を近赤外線としている。
中赤外線は、波長がおよそ2.5 - 4 μmの電磁波で、近赤外線の一部として分類されることもある。赤外分光の分野では、単に赤外と言うとこの領域を指すことが多い。波数が1300 - 650 cm の領域は指紋領域と呼ばれ、物質固有の吸収スペクトルが現れるため、化学物質の同定に用いられる。天文学の分野では、3 - 40 μmの波長のものを中間赤外線と呼ぶ。
遠赤外線は熱線とも呼ばれ、波長がおよそ4 - 1000 μmの電磁波である。性質は電波に近い。天文学の分野では、40 - 400 μmの波長を遠赤外線としている。
全ての物質は、熱放射により温度に応じたスペクトルの電磁波を発している。この強度は、高温の物体ほど強くなる。また、熱放射のピークの波長は温度に反比例し、常温の物体では赤外線の強度が最も強くなる。例えば、20 °Cの物体が放射する赤外線のピーク波長は10 μm程度である。
赤外線は大気に吸収され、その一部が地上に届く。
水は遠赤外線よりも近赤外線を強く吸収するが、いずれの波長も数mm以上は透過しない。「遠赤外線は体の内部まで浸透し内側から温める」と言われることがあるが、間違いである。
水に対する吸光度は中赤外線および遠赤外線において高く、したがって生体組織(特に、水分を多く含んだ組織)に対しては浅い部分でその多くが吸収される。このような波長のレーザである炭酸ガスレーザ(λ=10.6 μm)やEr:YAGレーザ(λ=2.94 μm)は生体組織の切開や蒸散(いずれも凝固に比べ高いエネルギー密度や位置選択性が要求される)に利用されている。
また、赤外線は気候にも重大な影響を与えている。地表からは大量の赤外線が放出されるが、この赤外線を二酸化炭素などの温室効果ガスが吸収し赤外線を再度放射する。この働きによって地表の気温は上がる。この一連の動きは温室効果と呼ばれ、地球の気温を大きく上げる役割を果たしている。温室効果による赤外線放射は太陽から直接受け取る熱量を大きく上回っており、もし温室効果が存在しなかった場合は地球は氷点下の凍てついた惑星となる。
1800年、イギリスのウィリアム・ハーシェルにより赤外線放射が発見された。彼は太陽光をプリズムに透過させ、可視光のスペクトルの赤色光を越えた位置に温度計を置く実験を行った。この実験で温度計の温度は上昇し、このことから彼は、赤色光の先にも目に見えない光が存在すると結論づけた。この発見に刺激され、翌1801年にはドイツのヨハン・ヴィルヘルム・リッターにより紫外線も発見されている。
1850年にはイタリアのマセドニオ・メローニが、赤外線には反射、屈折、偏光、干渉、回折がみられ、その性質は可視光と同じであることを実験によって示した。
遠赤外線(熱線)の放射は、対象物に熱を与える効果があり、暖房や調理器具などとして利用されている。多くの暖房器具は輻射を利用しているが、暖房効果における輻射の比率には大小がある。主に輻射による暖房器具として、こたつ、電気ストーブなどがある。燃焼を使う器具は温度が高いため可視光の比率が多いが、温度の低い触媒燃焼を利用する器具もある。輻射を利用した調理器具としては電気オーブンやオーブントースターが挙げられる。また塗装の工程で塗装面に熱を与えて硬化させる場合には輻射を利用した専用のヒーターが用いられる。リフロー方式によるプリント基板のはんだ付けでは、基板及び部品の加熱に用いるリフロー炉において遠赤外線がしばしば使用される。
上述の通り、遠赤外線は身体の内部から温めると言われるが、これは誤りであり、数ミリ程度しか浸透しない。物質の内部から温める効果としては、遠赤外線よりも波長が長い電磁波であるマイクロ波のほうが、より顕著である。その一方でマイクロ波は対象となる物質によっては、透過したり反射されたりするため、加熱が困難、不可能な場合もある。
透明なシリコーン樹脂製の型にプラスチックのペレットを充填し、近赤外線で加熱・成型する「光成形法」が、金型による射出成型よりも低コストな製造法として注目されている。
近赤外線と遠赤外線は、センサ目的に各分野で広く用いられている。
赤外線は可視光に比べて波長が長いため、散乱しにくい性質を利用して、煙や薄い布などを透過して向こう側の物体を撮影するために用いることができる。また目に見えないという特性もあるため、夜間に被写体を近赤外線光源で照らしても被写体に気付かれることなく撮影することができることから、警備・防衛用途や、野生動物の観察・研究用途にも広く用いられている。これらの用途には、主として近赤外線が用いられる。
一方、あらゆる物体はそれ自身の温度によった遠赤外線を出している(黒体放射)ため、対象物の放つ遠赤外線を感知するセンサは、光源が無い場所でも目標を発見することが可能である。また黒体放射においては、温度に応じて異なる強度の赤外線が放射されることから、対象物の温度を測定することができる。これを利用した技術がサーモグラフィーである。
地表や海面の温度を調べるのはもちろんのこと、植生の状況をモニタリングするために近赤外域や中間赤外域(短波長赤外域)が使用される。植生は太陽光の可視域の反射が低く、近赤外域の反射が非常に強いという分光反射特性をもつ。可視赤色域と近赤外域を用いた植生指数が多数提唱されている。
赤外線で星や銀河等を観測することにより、他の波長の電磁波ではわからない現象を調べることができる。例えば我々の銀河系中心方向には視線方向に、可視光を吸収してしまう星間物質があるため可視光線では観測できないが赤外線を検出することにより、銀河中心付近の星の分布などを調べることができる。
近距離赤外線通信規格IrDAの携帯電話への普及により、赤外線通信が一般に認知され、使用されるようになった。電波で通信する方式に比べて、信号が空間的に広がりにくく(回折を起こさず)、障害物があると通信できない欠点はあるものの、それは第三者に傍受されにくいというセキュリティ上の大きな長所でもある。
ザウルスなどの以前の機種では、ASK方式が用いられていた。
また、屋外で使う自動車用ドアロック・ワイヤレスリモコンは周囲の明るい光が妨害源となり赤外線通信には不向きであるので電波を利用するものが多いが、強烈な光に晒されることのない屋内で使われる家電製品のワイヤレスリモコンは電磁ノイズの影響を受けない赤外線を利用しているものがほとんどである。
音のワイヤレス伝送を行う場合に、電波を使わずパルス変調した赤外線を光源から発信し、受光器で受信して復調する機器がいくつか存在する。家庭用ではヘッドフォンで使用され、業務用ではカラオケのマイクロフォンや同時通訳を聞く際のレシーバに使用されている。
電波と異なり壁を透過しないので外部との混信や盗聴の心配が少なく、マルチチャンネル化も容易で利便性が高いが、一方で送受信器の間に大きな物体があるなど赤外線が届かない条件もしばしば起きるため、使用場所の形状によっては送受信器のうち固定器側について数を増やしたり、人や物に遮られない高所に設置するなどの検討が必要になる。また移動器側も衣服のポケットに入れたり、手で握るなど赤外線を遮らないよう注意する必要がある。受信機に太陽光などの強力な熱線が当たると受信センサーの赤外線が飽和して伝送が不調になる場合もある。
生体認証の一方式として使用される。皮膚への浸透深度は近赤外線域では数mm(最大6 mm)である。短波長側(0.7 - 0.8 μm)の近赤外光は静脈認証や医療用の一部の検査装置などに利用される。静脈認証は静脈血内のヘモグロビンが近赤外光を強く吸収する性質を利用している。
全ての分子には、ある決まった周波数の電磁波を吸収する性質がある。これを赤外線の領域で調べる手法が赤外分光法 (IR法) であり、分子内部における原子の振動状態を通じて物質の構造に関する知見を得ることができる。赤外領域の基準振動がスペクトル分析の基本であるが、吸収が大きすぎるため、近赤外領域にある、吸収の少ない倍音、三倍音を観測することもある。近赤外の分光法は赤外に比べ感度が極めて低く、そのため利用が遅れていたが、分析手法の発達により、非破壊検査・測定に利用されるようになった。
熱紋とは熱源から放射される赤外線の固有の波長分布や形状を指し、熱紋をデータベースと照合することにより熱源を同定することができる。
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"text": "近赤外線は波長がおよそ0.7 - 2.5 μmの電磁波で、赤色の可視光線に近い波長を持つ。性質も可視光線に近い特性を持つため「見えない光」として、赤外線カメラや赤外線通信、家電用のリモコン、生体認証の一種である静脈認証などに応用されている。光ファイバーでもこの波長帯が使われ、代表的な波長は1.55μmである。天文学の分野では、1 - 3 μmの波長を近赤外線としている。",
"title": "赤外線の種類"
},
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"text": "中赤外線は、波長がおよそ2.5 - 4 μmの電磁波で、近赤外線の一部として分類されることもある。赤外分光の分野では、単に赤外と言うとこの領域を指すことが多い。波数が1300 - 650 cm の領域は指紋領域と呼ばれ、物質固有の吸収スペクトルが現れるため、化学物質の同定に用いられる。天文学の分野では、3 - 40 μmの波長のものを中間赤外線と呼ぶ。",
"title": "赤外線の種類"
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"text": "遠赤外線は熱線とも呼ばれ、波長がおよそ4 - 1000 μmの電磁波である。性質は電波に近い。天文学の分野では、40 - 400 μmの波長を遠赤外線としている。",
"title": "赤外線の種類"
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"text": "全ての物質は、熱放射により温度に応じたスペクトルの電磁波を発している。この強度は、高温の物体ほど強くなる。また、熱放射のピークの波長は温度に反比例し、常温の物体では赤外線の強度が最も強くなる。例えば、20 °Cの物体が放射する赤外線のピーク波長は10 μm程度である。",
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"text": "赤外線は大気に吸収され、その一部が地上に届く。",
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"text": "水は遠赤外線よりも近赤外線を強く吸収するが、いずれの波長も数mm以上は透過しない。「遠赤外線は体の内部まで浸透し内側から温める」と言われることがあるが、間違いである。",
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"text": "水に対する吸光度は中赤外線および遠赤外線において高く、したがって生体組織(特に、水分を多く含んだ組織)に対しては浅い部分でその多くが吸収される。このような波長のレーザである炭酸ガスレーザ(λ=10.6 μm)やEr:YAGレーザ(λ=2.94 μm)は生体組織の切開や蒸散(いずれも凝固に比べ高いエネルギー密度や位置選択性が要求される)に利用されている。",
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"text": "また、赤外線は気候にも重大な影響を与えている。地表からは大量の赤外線が放出されるが、この赤外線を二酸化炭素などの温室効果ガスが吸収し赤外線を再度放射する。この働きによって地表の気温は上がる。この一連の動きは温室効果と呼ばれ、地球の気温を大きく上げる役割を果たしている。温室効果による赤外線放射は太陽から直接受け取る熱量を大きく上回っており、もし温室効果が存在しなかった場合は地球は氷点下の凍てついた惑星となる。",
"title": "特性"
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"text": "1800年、イギリスのウィリアム・ハーシェルにより赤外線放射が発見された。彼は太陽光をプリズムに透過させ、可視光のスペクトルの赤色光を越えた位置に温度計を置く実験を行った。この実験で温度計の温度は上昇し、このことから彼は、赤色光の先にも目に見えない光が存在すると結論づけた。この発見に刺激され、翌1801年にはドイツのヨハン・ヴィルヘルム・リッターにより紫外線も発見されている。",
"title": "発見"
},
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"text": "1850年にはイタリアのマセドニオ・メローニが、赤外線には反射、屈折、偏光、干渉、回折がみられ、その性質は可視光と同じであることを実験によって示した。",
"title": "発見"
},
{
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"text": "遠赤外線(熱線)の放射は、対象物に熱を与える効果があり、暖房や調理器具などとして利用されている。多くの暖房器具は輻射を利用しているが、暖房効果における輻射の比率には大小がある。主に輻射による暖房器具として、こたつ、電気ストーブなどがある。燃焼を使う器具は温度が高いため可視光の比率が多いが、温度の低い触媒燃焼を利用する器具もある。輻射を利用した調理器具としては電気オーブンやオーブントースターが挙げられる。また塗装の工程で塗装面に熱を与えて硬化させる場合には輻射を利用した専用のヒーターが用いられる。リフロー方式によるプリント基板のはんだ付けでは、基板及び部品の加熱に用いるリフロー炉において遠赤外線がしばしば使用される。",
"title": "用途"
},
{
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"text": "上述の通り、遠赤外線は身体の内部から温めると言われるが、これは誤りであり、数ミリ程度しか浸透しない。物質の内部から温める効果としては、遠赤外線よりも波長が長い電磁波であるマイクロ波のほうが、より顕著である。その一方でマイクロ波は対象となる物質によっては、透過したり反射されたりするため、加熱が困難、不可能な場合もある。",
"title": "用途"
},
{
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"tag": "p",
"text": "透明なシリコーン樹脂製の型にプラスチックのペレットを充填し、近赤外線で加熱・成型する「光成形法」が、金型による射出成型よりも低コストな製造法として注目されている。",
"title": "用途"
},
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"text": "近赤外線と遠赤外線は、センサ目的に各分野で広く用いられている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "赤外線は可視光に比べて波長が長いため、散乱しにくい性質を利用して、煙や薄い布などを透過して向こう側の物体を撮影するために用いることができる。また目に見えないという特性もあるため、夜間に被写体を近赤外線光源で照らしても被写体に気付かれることなく撮影することができることから、警備・防衛用途や、野生動物の観察・研究用途にも広く用いられている。これらの用途には、主として近赤外線が用いられる。",
"title": "用途"
},
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"tag": "p",
"text": "一方、あらゆる物体はそれ自身の温度によった遠赤外線を出している(黒体放射)ため、対象物の放つ遠赤外線を感知するセンサは、光源が無い場所でも目標を発見することが可能である。また黒体放射においては、温度に応じて異なる強度の赤外線が放射されることから、対象物の温度を測定することができる。これを利用した技術がサーモグラフィーである。",
"title": "用途"
},
{
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"tag": "p",
"text": "地表や海面の温度を調べるのはもちろんのこと、植生の状況をモニタリングするために近赤外域や中間赤外域(短波長赤外域)が使用される。植生は太陽光の可視域の反射が低く、近赤外域の反射が非常に強いという分光反射特性をもつ。可視赤色域と近赤外域を用いた植生指数が多数提唱されている。",
"title": "用途"
},
{
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"tag": "p",
"text": "赤外線で星や銀河等を観測することにより、他の波長の電磁波ではわからない現象を調べることができる。例えば我々の銀河系中心方向には視線方向に、可視光を吸収してしまう星間物質があるため可視光線では観測できないが赤外線を検出することにより、銀河中心付近の星の分布などを調べることができる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "近距離赤外線通信規格IrDAの携帯電話への普及により、赤外線通信が一般に認知され、使用されるようになった。電波で通信する方式に比べて、信号が空間的に広がりにくく(回折を起こさず)、障害物があると通信できない欠点はあるものの、それは第三者に傍受されにくいというセキュリティ上の大きな長所でもある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ザウルスなどの以前の機種では、ASK方式が用いられていた。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、屋外で使う自動車用ドアロック・ワイヤレスリモコンは周囲の明るい光が妨害源となり赤外線通信には不向きであるので電波を利用するものが多いが、強烈な光に晒されることのない屋内で使われる家電製品のワイヤレスリモコンは電磁ノイズの影響を受けない赤外線を利用しているものがほとんどである。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "音のワイヤレス伝送を行う場合に、電波を使わずパルス変調した赤外線を光源から発信し、受光器で受信して復調する機器がいくつか存在する。家庭用ではヘッドフォンで使用され、業務用ではカラオケのマイクロフォンや同時通訳を聞く際のレシーバに使用されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "電波と異なり壁を透過しないので外部との混信や盗聴の心配が少なく、マルチチャンネル化も容易で利便性が高いが、一方で送受信器の間に大きな物体があるなど赤外線が届かない条件もしばしば起きるため、使用場所の形状によっては送受信器のうち固定器側について数を増やしたり、人や物に遮られない高所に設置するなどの検討が必要になる。また移動器側も衣服のポケットに入れたり、手で握るなど赤外線を遮らないよう注意する必要がある。受信機に太陽光などの強力な熱線が当たると受信センサーの赤外線が飽和して伝送が不調になる場合もある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "生体認証の一方式として使用される。皮膚への浸透深度は近赤外線域では数mm(最大6 mm)である。短波長側(0.7 - 0.8 μm)の近赤外光は静脈認証や医療用の一部の検査装置などに利用される。静脈認証は静脈血内のヘモグロビンが近赤外光を強く吸収する性質を利用している。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "全ての分子には、ある決まった周波数の電磁波を吸収する性質がある。これを赤外線の領域で調べる手法が赤外分光法 (IR法) であり、分子内部における原子の振動状態を通じて物質の構造に関する知見を得ることができる。赤外領域の基準振動がスペクトル分析の基本であるが、吸収が大きすぎるため、近赤外領域にある、吸収の少ない倍音、三倍音を観測することもある。近赤外の分光法は赤外に比べ感度が極めて低く、そのため利用が遅れていたが、分析手法の発達により、非破壊検査・測定に利用されるようになった。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "熱紋とは熱源から放射される赤外線の固有の波長分布や形状を指し、熱紋をデータベースと照合することにより熱源を同定することができる。",
"title": "熱紋"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "特別な場合に限られるものの、ヒトの視覚でも赤外線を感知できることもあるという。",
"title": "話題"
}
] | 赤外線(せきがいせん)は、可視光線の赤色より波長が長く(周波数が低い)、電波より波長の短い電磁波のことである。ヒトの目では見ることができない光である。英語では infrared といい、「赤より下にある」「赤より低い」を意味する。分光学などの分野ではIRとも略称される。対義語に、「紫より上にある」「紫より高い」を意味する紫外線がある。 | '''赤外線'''(せきがいせん)は、[[可視光線]]の赤色より[[波長]]が長く([[周波数]]が低い)、[[電波]]より波長の短い[[電磁波]]のことである。[[ヒト]]の目では見ることができない[[光]]である。[[英語]]では infrared といい、「赤より下にある」「赤より低い」を意味する(infra は「下」を意味する接頭辞)。[[分光学]]などの分野では'''IR'''とも略称される。{{要出典範囲|対義語に、「紫より上にある」「紫より高い」を意味する[[紫外線]](英:ultraviolet)がある。|date=2021年3月}}
== 赤外線の種類 ==
人間の視覚は、[[波長]]の長い光を赤色光として感じとるが、その上限は 760 - 830 [[ナノメートル|nm]] 付近とされ、それより波長の長い光は知覚できず、[[可視光線]]の赤色の外側という意味で '''赤外線'''という。ミリ波長の[[電波]]よりも波長の短い電磁波全般を指し、波長ではおよそ700 [[ナノメートル|nm]] - 1 [[ミリメートル|mm]] (=1000 µm) に分布する。
さらに、波長によって、'''近赤外線'''、'''中赤外線'''、'''遠赤外線'''に分けられる。それぞれの波長区分は学問領域によって若干異なり、下記の区分はその一例である。
=== 一般的分類 ===
==== 近赤外線 ====
近赤外線は波長がおよそ0.7 - 2.5 µmの[[電磁波]]で、赤色の可視光線に近い波長を持つ。性質も可視光線に近い特性を持つため「見えない光」として、赤外線カメラや[[赤外線通信]]、家電用の[[リモコン]]、[[生体認証]]の一種である[[静脈認証]]などに応用されている。[[光ファイバー]]でもこの波長帯が使われ、代表的な波長は1.55µmである。天文学の分野では、1 - 3 µmの波長を近赤外線としている{{R|astro-dic_infrared}}。
==== 中赤外線 ====
中赤外線は、波長がおよそ2.5 - 4 µmの電磁波で、近赤外線の一部として分類されることもある。[[赤外分光法|赤外分光]]の分野では、単に'''赤外'''と言うとこの領域を指すことが多い。[[波数]]が1300 - 650 cm<sup>−1</sup> の領域は指紋領域と呼ばれ、物質固有の[[スペクトル|吸収スペクトル]]が現れるため、化学物質の[[定性分析|同定]]に用いられる。天文学の分野では、3 - 40 µmの波長のものを'''中間赤外線'''と呼ぶ{{R|astro-dic_infrared}}。
==== 遠赤外線 ====
遠赤外線は熱線とも呼ばれ、波長がおよそ4 - 1000 µmの電磁波である。性質は電波に近い。天文学の分野では、40 - 400 µmの波長を遠赤外線としている{{R|astro-dic_infrared}}。
全ての物質は、[[熱放射]]により温度に応じたスペクトルの電磁波を発している。この強度は、高温の物体ほど強くなる。また、熱放射のピークの波長は温度に反比例し、常温の物体では赤外線の強度が最も強くなる。例えば、20 ℃の物体が放射する赤外線のピーク波長は10 µm程度である。
=== その他の分類 ===
{|class="wikitable"
!帯域名||波長||[[光エネルギー]]
|-
|'''近赤外線''' (Near-infrared, '''NIR''')
|0.75-1.4 µm
|0.9-1.7 [[電子ボルト|eV]]
|-
|'''短波長赤外線''' (Short-wavelength infrared, '''SWIR''')
|1.4-3 µm
|0.4-0.9 eV
|-
|'''中波長赤外線''' (Mid-wavelength infrared, '''MWIR''')
|3-8 µm
|150-400 meV
|-
|'''長波長赤外線''' (Long-wavelength infrared, '''LWIR''')<br />'''熱赤外線''' (Thermal infrared, '''TIR''')
|8–15 µm
|80-150 meV
|-
|'''遠赤外線''' (Far infrared, '''FIR''')
|15-1,000 µm
|1.2-80 meV
|}
== 特性 ==
赤外線は[[大気]]に吸収され、その一部が地上に届く。
[[ファイル:Atmosfaerisk spredning.png|frame|center|地球放射の一部と太陽放射(0.8 µm以下。幅が狭いため正確に表現できていない)の[[スペクトル]]。青い部分の上下幅が広いところが[[大気の窓]]。横軸(Wavelength)が波長、縦軸(Transmittance)が放射の透過率を表す。]]
水は遠赤外線よりも近赤外線を強く吸収するが、いずれの波長も数mm以上は透過しない<ref>[http://www.kurabo.co.jp/el/room/infrare/page3_4.html 赤外線の話] - 図5 膜厚が異なる水膜の赤外吸収スペクトル</ref>。「遠赤外線は体の内部まで浸透し内側から温める」と言われることがあるが、間違いである<ref>[http://www.enseki.or.jp/tokusei.html 社団法人遠赤外線協会「遠赤外線とは?・遠赤外線技術」]</ref>。<blockquote>水に対する吸光度は中赤外線および遠赤外線において高く、したがって生体組織(特に、水分を多く含んだ組織)に対しては浅い部分でその多くが吸収される<ref>日本生体医工学会監修「MEの基礎知識と安全管理 改訂第5版」p51</ref>。このような波長の[[レーザー|レーザ]]である[[炭酸ガスレーザー|炭酸ガスレーザ]](λ=10.6 µm)やEr:[[YAGレーザー|YAGレーザ]](λ=2.94 µm)は生体組織の切開([[レーザーメス]])や蒸散(いずれも凝固に比べ高いエネルギー密度や位置選択性が要求される)に利用されている。</blockquote>また、赤外線は気候にも重大な影響を与えている。地表からは大量の赤外線が放出されるが、この赤外線を[[二酸化炭素]]などの[[温室効果ガス]]が吸収し赤外線を再度放射する。この働きによって地表の気温は上がる。この一連の動きは[[温室効果]]と呼ばれ、地球の気温を大きく上げる役割を果たしている。温室効果による赤外線放射は太陽から直接受け取る熱量を大きく上回っており、もし温室効果が存在しなかった場合は地球は氷点下の凍てついた惑星となる<ref>「太陽系探検ガイド エクストリームな50の場所」p83-84 デイヴィッド・ベイカー、トッド・ラトクリフ著 渡部潤一監訳 後藤真理子訳 朝倉書店 2012年10月10日初版第1刷</ref>。
== 発見 ==
[[1800年]]、[[イギリス]]の[[ウィリアム・ハーシェル]]により赤外線放射が発見された。彼は太陽光を[[プリズム]]に透過させ、[[可視光]]の[[スペクトル]]の赤色光を越えた位置に温度計を置く実験を行った。この実験で温度計の温度は上昇し、このことから彼は、赤色光の先にも目に見えない光が存在すると結論づけた<ref>「宇宙観5000年史 人類は宇宙をどうみてきたか」p133 中村士・岡村定矩 東京大学出版会 2011年12月26日初版</ref>。この発見に刺激され、翌[[1801年]]には[[ドイツ]]の[[ヨハン・ヴィルヘルム・リッター]]により[[紫外線]]も発見されている<ref>「宇宙観5000年史 人類は宇宙をどうみてきたか」p133-134 中村士・岡村定矩 東京大学出版会 2011年12月26日初版</ref>。
[[1850年]]には[[イタリア]]の[[マセドニオ・メローニ]]が、赤外線には反射、屈折、偏光、干渉、回折がみられ、その性質は可視光と同じであることを実験によって示した。
== 用途 ==
=== 熱源 ===
[[ファイル:Carbon heater.jpg|thumb|80px|right|[[カーボンヒーター]]。ピーク波長は遠赤外線領域で、輻射の大部分が赤外線である。]]
遠赤外線(熱線)の[[放射]]は、対象物に熱を与える効果があり、暖房や調理器具などとして利用されている。多くの暖房器具は輻射を利用しているが、暖房効果における輻射の比率には大小がある。主に輻射による暖房器具として、[[こたつ]]、[[電気ストーブ]]などがある。燃焼を使う器具は温度が高いため可視光の比率が多いが、温度の低い[[触媒燃焼]]を利用する器具もある。輻射を利用した調理器具としては電気オーブンや[[オーブントースター]]が挙げられる。また塗装の工程で塗装面に熱を与えて硬化させる場合には輻射を利用した専用のヒーターが用いられる。リフロー方式による[[はんだ付け#プリント基板のはんだ付け|プリント基板のはんだ付け]]では、基板及び部品の加熱に用いるリフロー炉において遠赤外線がしばしば使用される。
上述の通り、遠赤外線は身体の内部から温めると言われるが、これは誤りであり、数ミリ程度しか浸透しない。物質の内部から温める効果としては、遠赤外線よりも波長が長い電磁波である[[マイクロ波]]のほうが、より顕著である。その一方でマイクロ波は対象となる物質によっては、透過したり反射されたりするため、加熱が困難、不可能な場合もある。
透明な[[シリコーン樹脂]]製の型にプラスチックのペレットを充填し、近赤外線で加熱・成型する「[[光成形]]法」が、[[金型]]による[[射出成型]]よりも低コストな製造法として注目されている<ref>[https://www.d-mec.co.jp/product/comparison/structure3.php 光成形、マイクロ波成形のしくみ]、[[ディーメック]]</ref><ref>[https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1150728.html 35年前の初代G-SHOCKが新品相当に復活。“光成形”レストアサービス]、Impress Watch、2018年10月31日、同年11月25日閲覧</ref>。
=== センサ ===
[[ファイル:Ir girl.png|サムネイル|[[赤外線カメラ]]によって作成された[[サーモグラフィー]]]]
{{main|赤外線センサ}}
近赤外線と遠赤外線は、[[センサ]]目的に各分野で広く用いられている。
赤外線は可視光に比べて波長が長いため、[[散乱]]しにくい性質を利用して、煙や薄い布などを透過して向こう側の物体を撮影するために用いることができる。また目に見えないという特性もあるため、夜間に被写体を近赤外線光源で照らしても被写体に気付かれることなく撮影することができることから、警備・防衛用途や、野生動物の観察・研究用途にも広く用いられている。これらの用途には、主として近赤外線が用いられる。
一方、あらゆる物体はそれ自身の温度によった遠赤外線を出している([[黒体放射]])ため、対象物の放つ遠赤外線を感知するセンサは、光源が無い場所でも目標を発見することが可能である。また黒体放射においては、温度に応じて異なる強度の赤外線が放射されることから、対象物の温度を測定することができる。これを利用した技術が[[サーモグラフィー]]である。
==== リモートセンシング衛星 ====
{{main|リモートセンシング衛星}}
地表や海面の温度を調べるのはもちろんのこと、[[植生]]の状況をモニタリングするために近赤外域や中間赤外域(短波長赤外域)が使用される。植生は太陽光の可視域の反射が低く、近赤外域の反射が非常に強いという分光反射特性をもつ。可視赤色域と近赤外域を用いた植生指数が多数提唱されている。
==== 赤外線天文学 ====
{{main|赤外線天文学}}
赤外線で星や銀河等を観測することにより、他の波長の電磁波ではわからない現象を調べることができる。例えば我々の銀河系中心方向には視線方向に、可視光を吸収してしまう星間物質があるため可視光線では観測できないが赤外線を検出することにより、銀河中心付近の星の分布などを調べることができる。
=== 通信手段 ===
[[ファイル:Mobile-infrared.jpeg|thumb|240px|right|赤外線通信 (D901iS)]]
{{see also|IrDA}}
近距離赤外線通信規格[[IrDA]]の携帯電話への普及により、赤外線通信が一般に認知され、使用されるようになった。電波で通信する方式に比べて、信号が空間的に広がりにくく([[回折]]を起こさず)、障害物があると通信できない欠点はあるものの、それは第三者に[[盗聴|傍受]]されにくいというセキュリティ上の大きな長所でもある。
[[ザウルス]]などの以前の機種では、[[振幅偏移変調|ASK方式]]が用いられていた。
また、屋外で使う自動車用ドアロック・ワイヤレスリモコンは周囲の明るい光が妨害源となり赤外線通信には不向きであるので電波を利用するものが多いが、強烈な光に晒されることのない屋内で使われる家電製品のワイヤレス[[リモコン]]は電磁ノイズの影響を受けない赤外線を利用しているものがほとんどである。
==== 音の伝送 ====
[[音]]のワイヤレス伝送を行う場合に、[[電波]]を使わず[[パルス変調]]した赤外線を光源から発信し、受光器で受信して復調する機器がいくつか存在する。家庭用では[[ヘッドフォン]]で使用され、業務用では[[カラオケ]]の[[マイクロフォン]]や[[同時通訳]]を聞く際のレシーバに使用されている。
電波と異なり壁を透過しないので外部との混信や盗聴の心配が少なく、マルチチャンネル化も容易で利便性が高いが、一方で送受信器の間に大きな物体があるなど赤外線が届かない条件もしばしば起きるため、使用場所の形状によっては送受信器のうち固定器側について数を増やしたり、人や物に遮られない高所に設置するなどの検討が必要になる。また移動器側も衣服のポケットに入れたり、手で握るなど赤外線を遮らないよう注意する必要がある。受信機に太陽光などの強力な熱線が当たると受信センサーの赤外線が飽和して伝送が不調になる場合もある。
=== 静脈認証 ===
[[生体認証]]の一方式として使用される。皮膚への浸透深度は近赤外線域では数mm(最大6 mm)である。短波長側(0.7 - 0.8 µm)の近赤外光は[[静脈認証]]<ref>[http://www.microsoft.com/japan/business/enterprise/executivecircle_jp/leadingedge/hitachi04.mspx マイクロソフト Enterprise Web「IT先進企業 日立製作所」]{{リンク切れ|date=2016年4月}}</ref>や医療用の一部の検査装置<ref>{{PDFlink|[https://www.quantum-inc.jp/jamitpub/modules/jamitpublicationpub/index.php/PDF/22-3/22-3_3.pdf 近赤外線トポグラフィによる脳機能計測]}}(一例){{リンク切れ|date=2016年4月}}</ref>などに利用される。静脈認証は静脈血内の[[ヘモグロビン]]が近赤外光を強く吸収する性質を利用している<ref>{{PDFlink|[http://www.oki.com/jp/Home/JIS/Books/KENKAI/n207/pdf/207_R32.pdf 実用化が進む生体認証技術]}} - 静脈認証技術とその適用事例(沖電気)</ref>。
=== 赤外分光法 ===
{{main|赤外分光法}}
全ての分子には、ある決まった周波数の電磁波を吸収する性質がある。これを赤外線の領域で調べる手法が'''赤外分光法''' (IR法) であり、[[分子]]内部における[[原子]]の振動状態を通じて物質の構造に関する知見を得ることができる。赤外領域の基準振動がスペクトル分析の基本であるが、吸収が大きすぎるため、近赤外領域にある、吸収の少ない倍音、三倍音を観測することもある。近赤外の分光法は赤外に比べ感度が極めて低く、そのため利用が遅れていたが、分析手法の発達により、非破壊検査・測定に利用されるようになった。
== 熱紋 ==
{{main|[[:en:Infrared signature]]}}
熱紋とは熱源から放射される赤外線の固有の波長分布や形状を指し、熱紋を[[データベース]]と照合することにより熱源を同定することができる。
== 話題 ==
特別な場合に限られるものの、ヒトの視覚でも赤外線を感知できることもあるという<ref>{{Cite web|和書|url= http://karapaia.com/archives/52179584.html |title= 人間にもスーパービジョンが!?不可視とされていたはずの赤外線が特定の条件下で見えることが判明(米研究)|website= カラパイア |date= 2014-12-06 |accessdate= 2020-11-21 }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|25em|refs=
<ref name="astro-dic_infrared">{{Cite web|和書
| title=赤外線
| website=天文学辞典 | publisher=[[日本天文学会]] | date=2023-02-09
| url=https://astro-dic.jp/infrared-ray/ | access-date=2023-04-01}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[近赤外線分光法]]
* [[赤外線天文学]]
* [[放射計]]
* [[赤外線センサ]]
* [[赤外線計測]]
* [[赤外線写真]]
* [[サーモグラフィー]]
* [[グローブ温度]]
* [[色温度]]
* [[非電離放射線]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{電磁波}}
{{放射線}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:せきかいせん}}
[[Category:赤外線|*]]
[[Category:光学]]
[[Category:光]]
[[Category:ウィリアム・ハーシェル]] | 2003-05-22T17:48:21Z | 2023-12-11T03:42:16Z | false | false | false | [
"Template:See also",
"Template:Reflist",
"Template:リンク切れ",
"Template:Kotobank",
"Template:電磁波",
"Template:Cite web",
"Template:放射線",
"Template:Normdaten",
"Template:要出典範囲",
"Template:R",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:PDFlink"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A4%96%E7%B7%9A |
9,101 | Post Office Protocol | Post Office Protocol(ポスト オフィス プロトコル、POP(ポップ))は、電子メールで使われる通信プロトコル(通信規約)のひとつ。ユーザがメールサーバから自分のメールを取り出す時に使用する、メール受信用プロトコル。現在は、改良されたPOP3 (POP Version 3) (ポップスリー)が使用されている。
電子メールは、いつ・誰から送られてくるか分からない。しかし、ユーザが自分のコンピュータを常にインターネットに接続してメールを受信できるように待機させておく必要はない。これは、インターネットサービスプロバイダ (ISP) や企業ネットワーク内にメールを配達・受信するためのメールサーバが設置されており、メールサーバが常にメールを受信できるように待機しているからである。メールサーバにメールが届いた後に、ユーザがメールサーバからメールを取り出して、自分のコンピュータに取り込めばよい。この時に使われるプロトコルがPOPである。この作業は、郵便局(メールサーバ)に届けられた手紙をユーザーが郵便局へ取りに行く作業に似ている。メールサーバにメールが届いているかどうかもPOPで確かめることができる。
POPのユーザ認証機能をメール送信時の送信者認証に使用することがあり、これをPOP before SMTPと言う。
通常使用するTCPポート番号は、POP2では109番、POP3では110番を使用する。
認証方法として、平文のUSER/PASS 認証が広く用いられているが、サーバ/クライアント双方が対応していれば、オプションコマンドである APOP(RFC 1460から追加)や拡張機能である SASLメカニズムを利用したAUTHコマンドなどを用いて認証を暗号化し、パスワード漏洩を防止することができる。
ただし、それらを用いても認証の部分のみを暗号化したものであって、その他のメールのヘッダや本文などの内容は平文のままである。このため、TLSを用いてすべてを暗号化することが推奨されている。
APOPで暗号化された中身の解析については電気通信大学(情報理工学部・大学院情報理工学研究科)の太田和夫教授の研究グループが解析を成功させた。この脆弱性はMD5ハッシュ方式をAPOPにおいて不適切に用いていることによるプロトコル(通信手順)上の問題であり、現時点で根本的な対策方法は存在しない。そのため、内容を漏洩させないためにはSTARTTLSやPOP over SSL(ポート番号は995番)などを利用してSSLで通信し、ネットワーク経路を暗号化する必要がある。
なお、MD5そのものについても、アメリカ合衆国政府(NIST(アメリカ国立標準技術研究所))及び日本のCRYPTREC(暗号技術評価プロジェクト)では推奨から外されており、その点でもAPOPの利用は勧められない。
Transport Layer Security (TLS)で暗号化して通信する方式として、POP3S (Implicit TLS)とSTARTTLSが規定されている。POP3Sではポート995番を用いる。 | [
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] | Post Office Protocolは、電子メールで使われる通信プロトコル(通信規約)のひとつ。ユーザがメールサーバから自分のメールを取り出す時に使用する、メール受信用プロトコル。現在は、改良されたPOP3 (ポップスリー)が使用されている。 | {{Redirect|APOP|アニメソングに関する記事|A-POP}}
{{IPstack}}
'''Post Office Protocol'''(ポスト オフィス プロトコル、'''POP'''(ポップ<ref name="kotobank20230820">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/POP3-8855|title=POP3(ぽっぷすりー)とは? 意味や使い方 - コトバンク|accessdate=2023-08-20|publisher=コトバンク}}</ref><ref name="fmworld20230820">{{Cite web|和書|url=https://www.fmworld.net/cs/glossary/jsp/termdescription.jsp?SITE_RID=0&UNIFY_WD_ID=1256|title=パソコン用語集 POP3|accessdate=2023-08-20|publisher=富士通}}</ref><ref name="xtech20230820">{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01852/110900002/|title=メールアプリの登録で悩む「POP」と「IMAP」、両者の違いを改めて比較|accessdate=2023-08-20|publisher=日経XTECH}}</ref><ref name="imidas20230820">{{Cite web|和書|url=https://imidas.jp/katakana/detail/Z-30-4-0670.html|title=ポップスリー | 現代人のカタカナ語辞典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス|accessdate=2023-08-20|publisher=イミダス}}</ref>))は、[[電子メール]]で使われる[[通信プロトコル]](通信規約)のひとつ。[[ユーザ]]が[[メールサーバ]]から自分のメールを取り出す時に使用する、メール受信用プロトコル。現在は、改良されたPOP3 (POP Version 3) (ポップスリー<ref name="kotobank20230820"/><ref name="fmworld20230820"/><ref name="xtech20230820"/><ref name="imidas20230820"/>)が使用されている。
== 概要 ==
電子メールは、いつ・誰から送られてくるか分からない。しかし、ユーザが自分のコンピュータを常にインターネットに接続してメールを受信できるように待機させておく必要はない。これは、[[インターネットサービスプロバイダ]] (ISP) や企業ネットワーク内にメールを配達・受信するためのメールサーバが設置されており、メールサーバが常にメールを受信できるように待機しているからである。メールサーバにメールが届いた後に、ユーザがメールサーバからメールを取り出して、自分のコンピュータに取り込めばよい。この時に使われるプロトコルがPOPである。この作業は、郵便局(メールサーバ)に届けられた手紙をユーザーが郵便局へ取りに行く作業に似ている。メールサーバにメールが届いているかどうかもPOPで確かめることができる。
POPのユーザ認証機能をメール送信時の送信者認証に使用することがあり、これを[[POP before SMTP]]と言う。
通常使用するTCPポート番号は、POP2では109番、POP3では110番を使用する。
== ユーザの認証方法 ==
認証方法として、[[平文]]のUSER/PASS [[認証]]が広く用いられているが、サーバ/クライアント双方が対応していれば、オプションコマンドである APOP({{IETF RFC|1460}}から追加)や拡張機能である [[SASL]]メカニズムを利用したAUTHコマンドなどを用いて[[認証]]を暗号化し、パスワード漏洩を防止することができる。
ただし、それらを用いても[[認証]]の部分のみを暗号化したものであって、その他のメールのヘッダや本文などの内容は[[平文]]のままである。このため、[[Transport Layer Security|TLS]]を用いてすべてを暗号化することが推奨されている。
== IPAの勧告 ==
APOPで暗号化された中身の解析については[[電気通信大学]]([[情報理工学部]]・大学院情報理工学研究科)の太田和夫[[教授]]の研究グループが解析を成功させた<ref>[https://www.ipa.go.jp/security/vuln/200704_APOP.html IPA:APOP方式におけるセキュリティ上の弱点(脆弱性)の注意喚起について]</ref><ref>[http://www.ipa.go.jp/security/vuln/documents/2007/JVN_19445002.html 情報処理推進機構:セキュリティセンター:脆弱性関連情報取扱い:脆弱性関連情報の調査結果 JVN#19445002 APOP におけるパスワード漏えいの脆弱性]</ref><ref>{{JVN|19445002|APOP におけるパスワード漏えいの脆弱性|2007-04-19|2018-06-15}}</ref>。この脆弱性は[[MD5]][[ハッシュ]]方式をAPOPにおいて不適切に用いていることによるプロトコル(通信手順)上の問題であり、現時点で根本的な対策方法は存在しない。そのため、内容を漏洩させないためには[[STARTTLS]]や[[POP over SSL]](ポート番号は995番)などを利用して[[Secure Sockets Layer|SSL]]で通信し、ネットワーク経路を暗号化する必要がある。
なお、MD5そのものについても、[[アメリカ合衆国政府]]([[アメリカ国立標準技術研究所|NIST(アメリカ国立標準技術研究所)]])及び日本の[[CRYPTREC|CRYPTREC(暗号技術評価プロジェクト)]]では推奨から外されており、その点でもAPOPの利用は勧められない。
== 暗号化 ==
[[Transport Layer Security]] (TLS)で暗号化して通信する方式として、POP3S (Implicit TLS)と[[STARTTLS]]が規定されている。POP3Sではポート995番を用いる。
== RFC ==
* {{IETF RFC|5034}} - The Post Office Protocol (POP3) Simple Authentication and Security Layer (SASL) Authentication Mechanism
* {{IETF RFC|3206}} - SYS and AUTH POP Response Codes
* {{IETF RFC|2595}} - Using TLS with IMAP, POP3 and ACAP
* {{IETF RFC|2449}} - POP3 Extension Mechanism
* {{IETF RFC|2384}} - POP URL Scheme
* {{IETF RFC|2195}} - IMAP/POP AUTHorize Extension for Simple Challenge/Response
* {{IETF RFC|1957}} - Some Observations on Implementations of POP3
* {{IETF RFC|1939}} - '''Post Office Protocol - Version 3'''
* {{IETF RFC|1734}} - POP3 AUTHentication command ''({{IETF RFC|5034}}で改訂)''
* {{IETF RFC|1725}} - Post Office Protocol - Version 3 ''({{IETF RFC|1939}}で改訂)''
* {{IETF RFC|1460}} - Post Office Protocol - Version 3 ''({{IETF RFC|1725}}で改訂)''
* {{IETF RFC|1225}} - Post Office Protocol - Version 3 ''({{IETF RFC|1460}}で改訂)''
* {{IETF RFC|1081}} - Post Office Protocol - Version 3 ''({{IETF RFC|1225}}で改訂)''
* {{IETF RFC|937}} - POST OFFICE PROTOCOL - VERSION 2
* {{IETF RFC|918}} - POST OFFICE PROTOCOL ''({{IETF RFC|937}}で改訂)''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]
* [[Internet Message Access Protocol|IMAP]]
* [http://www.pop3component.net/ S/MIME & POP3]
* [[メールサーバ]]
[[Category:アプリケーション層プロトコル]]
[[Category:電子メールのプロトコル]]
[[Category:RFC|0918]] | 2003-05-22T18:02:52Z | 2023-10-31T16:13:23Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
"Template:JVN",
"Template:Redirect",
"Template:IPstack",
"Template:IETF RFC",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Post_Office_Protocol |
9,110 | 日本映画 | 日本映画(にほんえいが)は、一般的に日本国内の映画館などで公開されることを前提として、日本国籍を持つ者、あるいは日本の国内法に基づく法人が出資(製作)している映画を指すが、詳細な定義は識者によって異なる。邦画(ほうが)とも呼称される。また、映画のことは時代によって活動写真・キネマ・シネマ等とも呼ばれる。
トーマス・エジソンによって1891年に発明されたキネトスコープが世界的な映画の起源となるが、それを用いて日本で最初に上映がなされたのは1896年11月で、当時の西洋技術の最先端である映画が到来した年にあたる。日本人による映画撮影としては1898年の浅野四郎による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まる。ここから現代に至るまで日本映画は日本文化の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げ、日本を代表する大衆娯楽のひとつとして位置付けられていった。
日本映画をジャンルとして明確に定義することは困難であり、日本人監督によって、日本人の俳優を主に用いて、日本人らで撮影し、日本国内で上映する日本語の映画、という条件のもと、そのいくつかが当てはまるものを一般に日本映画と呼称している。しかし、『ホノカアボーイ』などの総海外ロケの映画や、フランスの資本を基に黒澤明や大島渚が撮影した映画、在日韓国・朝鮮人監督など非日本国籍の日本語話者による映画など、全ての条件を満たしていなくても、日本語話者が日本での最初の公開向けにつくった映画は邦画と認知される。
日本映画が日本映画たりえた背景には当然日本文化の影響が存在している。映画が日本に到来する時代、日本は比較的高い識字率を誇っており、大衆的な読み物から新聞、児童書などあらゆる書物が庶民に親しまれていた。また、映画よりはるかに長い歴史を持つ歌舞伎や人形浄瑠璃などの伝統演劇が日本映画に与えた影響も計り知れない。これは今日でも映画館を劇場と呼称したりすることからも窺える。
また、初期の無声映画時代、上映にあたり、弁士と呼ばれるフィルムの説明者が存在したが、映像と分離した音声を享受するというシステム、口踊芸と呼ばれる洗練された語りの手法は、既に人形浄瑠璃をはじめとする演劇で確立されており、日本人にすんなりと受け入れられ、独自の発展を遂げたとされる。庶民にとって誰が弁士を務めるかも映画鑑賞の重要な判断基準となり、花形の弁士が演じる映画は総じて人気を博した。無声映画とは声の無い映像のみの映画を指すが、日本映画においては真の意味での無声映画は存在していなかったと言って良い。
純粋に日本文化を映画へ昇華し、日本映画らしさを出そうとする一方で、国外の文化や素材を日本風に咀嚼し、混交するという日本映画も多数誕生している。ジャック・フェデーの『ミモザ館』から着想を得た山中貞雄の『人情紙風船』やウィリアム・シェイクスピアの『リア王』が原作とされる黒澤明の『乱』などがそれにあたる。
日本における初の映画上映は、鉄砲商人であった高橋信治によって1896年11月、神戸の神港倶楽部に始まった。これはトーマス・エジソンのキネトスコープによるものである。リュミエール兄弟のシネマトグラフによるスクリーン上映は1897年1月に稲畑勝太郎によって京都電燈株式会社の当時の本社(現在の元・立誠小学校の敷地)の中庭にて初めて行われた。続いて1897年2月に初めての「有料上映」が稲畑勝太郎によって大阪にて行われた。同年3月には東京でキネトスコープを改良したヴァイタスコープが公開され、人気を博した。谷崎潤一郎は自著『幼少時代』において「一巻のフィルムの両端をつなぎ合わせ、同じ場面を何回も繰り返し映せるもの」と評している。
その後浅野四郎によっていくつかの短編映画が撮られ、1898年、日本で初めて映画が撮影された。
1898年には先に挙げた『化け地蔵』『死人の蘇生』が、翌1899年には『芸者の手踊り』(東京歌舞伎座)が公開された。これは小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。同年には1巻70フィートの日本最初の劇映画となる『ピストル強盗清水定吉』が駒田好洋によって撮影され、日本初の映画俳優として新派の横山運平が起用された。積極的に映画と接触しようとした新派とは異なり歌舞伎などは映画を「泥芝居」と蔑み、原作や役者の提供に躊躇する時代であった。現存する最も古い日本映画としては同年柴田常吉によって撮影された『紅葉狩』がある。
1903年には吉沢商店が浅草に日本で最初となる映画専門館「電気館」を設置した。翌1904年に日露戦争が勃発すると実写撮影班を現地中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博した。
1908年に発表された『本能寺合戦』は最初の本格的な劇映画であり、横田商会の依頼で本作品を撮り上げた牧野省三は日本最初の映画監督として名を残している。京都に浄瑠璃小屋を所有し、狂言方として活動していた牧野は作品の原作に用いられる浄瑠璃を空で暗記していたことから、脚本を用いる事無く、撮影にあたったと言われている。翌年には歌舞伎俳優の尾上松之助が主演した『碁盤忠信』が大ヒットとなり、「目玉の松ちゃん」として日本最初のスターが誕生した。以降、尾上は14年間の俳優生活において千本を超える映画で主演を果たしている。中でも1910年に撮られた『忠臣蔵』は浄瑠璃、歌舞伎に続き、その後の日本映画においても欠かせない題材として庶民の人気であり続けた。後年、牧野はその功績を称えられ、アメリカの映画監督D・W・グリフィスによりグリフィス・マキノという称号を与えられている。
1912年、横田商会・吉沢商店・M・パテー商会・福宝堂という4つの映画会社がトラスト合同を行い、日本活動写真株式会社、略称日活を発足させた。日活は従来の家内工業的な小規模な製作から一線を画す、日本初の本格的な映画会社となった。東京向島の向島撮影所、京都二条城西櫓下の関西撮影所の2箇所の撮影所を設け、東京では新派(後の現代劇)を、京都では旧劇(後の時代劇)を製作した。
ここまでの多くのフィルムは演劇的演出の再現に留まり、映画として独自の技法が試みられるようになるのは1910年代後半に入ってからである。井上正夫が1917年に製作した『大尉の娘』ではクローズアップや移動技法、カットバックといった技法が導入されている。この頃より呼称も「活動写真」から「映画」へと次第に変遷が始まり、1922年ごろまでには映画という言葉が一般庶民にも深く浸透するようになった。
一方映画評論においては、吉沢商店が1909年に発表した初の映画雑誌『活動写真界』などが既にあったが、1917年に帰山教正が『活動写真劇の創作と撮影法』と題する理論書を発表したのをきっかけに1918年には日本映画の近代化運動「純映画劇運動」が起こる。映画芸術協会を主宰した帰山は同書で映画は演劇の模倣であってはならないと説き、舞台脚本をシナリオ、女形を女優、弁士を字幕として呼称した。帰山の作品には日本初の女優花柳はるみを使った『生の輝き』、日本初の女性のヌードシーンを撮影した『幻影の女』などがある。
その背景には第一次世界大戦が終結し、ハリウッドの映画会社が徐々に日本へと進出してきた影響は否定できない。こうした動きに合わせるように国活、大活といった映画会社が相次いで設立され、1920年には歌舞伎を本業としていた松竹が松竹キネマ合名会社を設立し製作に乗り出した。特に松竹が建てた俳優養成所はハリウッドのスター・システムを採用し、『路上の霊魂』の英百合子や『虞美人草』の栗島すみ子など、多数の女優を輩出した。また、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響も大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。
この純映画劇運動は1923年の関東大震災で、現代劇映画を製作していた東京のあらゆる撮影所が壊滅し、旧劇の中心地・京都での撮影のみが行われる状況が発生したことにより突然の終焉を迎えることとなった。1926年に入ると松竹による現代劇が本格化し、牛原虚彦による『彼と東京』(1928年)、『陸の王者』(1928年)など、ごく普通の庶民を等身大で描く都会風現代劇が出現した。また、五所平之助による『村の花嫁』(1928年)や『伊豆の踊子』(1933年)のように、田舎の田園を舞台とした牧歌的、叙情的な作品も登場している。エルンスト・ルビッチに強い影響を受けた小津安二郎は、『大学は出たけれど』(1929年)、『落第はしたけれど』(1930年)など庶民を主人公とした人生観を詰め込んだ作品を数多く残した。
こうした松竹の動きに遅れを取った日活は、1923年の震災による向島撮影所の閉鎖を受けてようやく女形から女優への移行を果たす。翌年には京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映京都撮影所)が開設される。日活現代劇の代表ともされる溝口健二はハリウッドで学んだ撮影技法を駆使し、『霧の港』(1923年)、『血と霊』(1923年)、『狂恋の女師匠』(1926年)など、様々なジャンルを試み、後礎を築いた。
他方、内務省警保局による活動写真検閲なども行われ、衣笠貞之助の『日輪』(1925年)などは作品に当局の介入が入り、大幅な編集を余儀なくされ、改作改題の上公開となるなど、検閲の影響により興行的に失敗となった作品も少なくない。しかし、衣笠はその後も精力的に活動を続け、日本最初の前衛映画となる『狂つた一頁』(1926年)や欧州で高い評価を受けた『十字路』(1928年)など、「純映画劇運動」の目的、目標を達成させている。
時代劇に目を移すと、尾上主演一千本記念作品『荒木又右衛門』(1925年)などが取り上げられるが、従来の悠々とした口上を述べ、人を斬るといったスタイルから、よりスピーディで激しい殺陣が求められるようになっていた。こうしたスタイルをいち早く確立した阪東妻三郎は『雄呂血』(1925年)で人気を博す。そのほか大河内傳次郎による『丹下左膳』や、市川右太衛門の『旗本退屈男』、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』など、新しい時代劇が多数登場した。
1927年(昭和2年)、映画実際家連盟「友達の会」が発足。松竹蒲田から牛原虚彦、島津保次郎、大久保忠素らが、日活からは村田実、溝口健二、岡田嘉子らが、阪妻プロからは鈴木重吉、川浪良太、近藤伊与吉らが参加した。目立った活動はなかったが、製作会社を横断する映画業界人の組織であったことは特筆すべきことであり、文壇界から低くみられがちな映画界の地位向上を図る契機にもなった。
映像に対し、音声を加えようとする試みは映画の移入とほぼ同時になされており、河浦謙一は1902年にレコードの回転とフィルムの回転を同期させることによるトーキーの実験を行っている。これらの試みが商業的な脚光を浴びるのは1927年の昭和キネマによるミナ・トーキーであった。アメリカのリー・ド・フォレストからトーキー技術の権利を購入した皆川芳造によるものである。
ミナ・トーキーを使用した小山内薫による『黎明』は技術的な問題から公開には至らず、日本最初のトーキー映画は1929年の『大尉の娘』であった。同年、ミナ・トーキーとは別方式、東條政生のイーストフォン・トーキーを採用しようと研究したが、結局、独自のディスク式トーキーでマキノ正博が監督した『戻橋』が公開された。イーストフォンは一般には浸透しなかった。その後も溝口健二による『ふるさと』(1930年)などが続いたが、字幕と音声を併用したいわゆるパート・トーキーの形式が一般的で、完全なトーキー映画として最初に登場したのは五所平之助の『マダムと女房』(1931年)であった。
資本力のある大会社はこの時代、積極的に無声映画からトーキー映画へと移行を計り、一部例外として小津安二郎のようにトーキーに懐疑的な目を向ける者もいた。1935年には完全に移行を成し遂げるが、財政的に移行の難しい独立プロは1938年ごろまで無声映画を撮り続けた。この結果小スタジオは続々と大手映画会社へ吸収されていく。
また、無声映画時代が終了しても海外映画の解説訳として存続が計られた弁士も、1931年『モロッコ』ではじめて採用された字幕スーパーの登場により、不要な存在となった。既得権益を守ろうとした弁士はトーキー侵出の妨害活動に出たが、時代の流れに逆らう事はもはや不可能となり、弁士の存在は忘れられていった。
こうしたトーキーの出現は新しい俳優の出現や新ジャンルの確立を齎した。落語や声帯模写など、語り芸を生業とする者がスクリーンへ登場し始め、榎本健一、古川緑波などといった喜劇俳優が台頭するようになった。また、『愛染かつら』のように主題歌の流行を通して人気を博す映画も現れるようになった。
トーキー映画の出現は撮影期間の長期化という現象を齎すこととなった。これがきっかけとなり日活は1934年に多摩川へ、松竹は1936年に大船へそれぞれ撮影所を移転・拡充した。それぞれの特徴として日活は重厚で泥臭い作風を、松竹は洗練された都会風の作風を得意としていた。日活を代表する監督としては『人生劇場・青春篇』(1936年)、『土』(1939年)の内田吐夢、『蒼氓』(1937年)、『阿部一族』(1938年)の熊谷久虎、松竹を代表する監督としては『隣の八重ちゃん』(1934年)の島津保次郎、『愛染かつら』(1938年)、『一人息子』(1936年)の野村浩将、『有りがたうさん』(1936年)、『花形選手』(1937年)の清水宏などが挙げられる。こうした一連の作風に疑問を投げかけた溝口健二は『浪華悲歌』(1936年)、『祇園の姉妹』(1936年)などで方言を用いた作品を撮り上げ、既存の「映画は東京弁でなければならぬ」という概念を打ち崩していった。
1930年に設立されたPCLは1933年より映画製作業界への参入を表明した。黒澤明や本多猪四郎、瀧口修造、井深大など、多数のスタッフを集め、日本で最初のプロデューサー・システムを採用した会社となった。初期には木村荘十二の『河向ふの青春』(1933年)、『兄いもうと』(1936年)や松竹より移籍してきた成瀬巳喜男の『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、石田民三の『花ちりぬ』(1938年)などが人気を博した。特に成瀬の『妻よ薔薇のやうに』は海外進出も実現し、ニューヨークで一般公開された初の日本映画となった。当初、PCLは配給館を所有していなかった事から、興行的な苦戦を強いられたが、1937年、小林一三などの働きにより「写真化学研究所」、京都の大沢商会の映画スタジオである「J.O.スタヂオ」、阪急資本による配給会社「東宝映画配給」などと合併し、東宝映画として配給上の困難を解消し、日活、松竹に続く大映画会社となった。
1937年、日本と当時のナチス・ドイツとの間で、一本の国策的映画が製作された。山岳映画を得意としたドイツのアーノルド・ファンクと伊丹万作の共同監督で製作された『新しき土』である。日本での興行的な成績では失敗に終わったが、主演女優として典型的な日本人女性大和光子を演じた原節子はその容貌と演技が絶賛され、戦時下の日本映画において欠かせない女優となった。
第二次世界大戦(太平洋戦争)による国民と国土の疲弊は、映画産業界においても、甚大な影響を与えていた。1941年(昭和16年)には、当時アメリカに次ぐ世界第2位の製作数である年間500本を超える映画を製作していた日本も、1945年(昭和20年)には僅か26本の製作となっており、その影響が窺える。また、1939年(昭和14年)に成立した映画法により、製作と配給が許可制に、監督と俳優は登録制となり、製作される作品についても、脚本段階で検閲が入った。
さらにABCD包囲網による経済制裁が発動すると、アメリカからのフィルム輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされ、厳しい使用制限がかけられ、映画業界にとって死活問題となった。東宝はこれらの状況を打破するため、軍部と積極的に関わる事で活路を見出したが、日活は1942年(昭和17年)に永田雅一の主導による合併に巻き込まれて大日本映画となり、日活の名は消えていった。戦前数多く存在した独立スタジオは、閉鎖、合併を繰返し、映画産業の規模は急速に縮小し、東宝、松竹、大映の3社を残すのみとなった。
当然、戦争を主題とした映画が主として製作され、田坂具隆は『五人の斥候兵』(1938年)で、戦場における信頼をテーマとした作品を撮り、ヴェネツィア国際映画祭で入賞を果たした。皇紀2600年記念の阿部豊の『燃ゆる大空』(1940年)では実写に重きを置いた航空映画として、陸軍航空本部の監修により実物の戦闘機や爆撃機が撮影に使用された。吉村公三郎が製作した『間諜未だ死せず』(1942年)は戦意高揚を訴える映画が続く中で、スパイへの警戒を訴えた珍しい切り口の映画となった。また、山本嘉次郎の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)では、真珠湾攻撃を再現した特撮担当の円谷英二による精巧なミニチュアが話題を呼び、軍神加藤建夫と飛行第64戦隊を描いた『加藤隼戦闘隊』(1944年)では、陸軍の全面協力により実物の戦闘機や爆撃機および連合国軍の鹵獲機が多数出演し、円谷の特撮と高度な合成技術とともに迫力ある作品となった。
厳しい検閲の目をかわし、反戦を訴える作品を製作した監督としては亀井文夫が挙げられる。『支那事変』(1937年)や『上海』(1938年)などでは表向きは戦意高揚映画と謡いつつも、日本軍の行軍を見つめる民衆や、疲弊した兵の表情をフィルムに収めるなど、意図的な映像を流した。続く作品『戦ふ兵隊』(1938年)は上映禁止となり、亀井は免許剥奪の上検挙されてしまう。
また、戦争を主題としない作品についても、荒唐無稽な娯楽向け作品が一律禁止され、稲垣浩の『宮本武蔵』や溝口健二の『元禄忠臣蔵』など、厳粛な叙事詩的作品が製作された。1940年代前半に登場した黒澤明は『姿三四郎』(1943年)においてその頭角を現した。1945年(昭和20年)に最終決戦を呼びかけるために製作が検討されていたジャンヌ・ダルクを原作とした『荒姫様』は、同年の日本の敗戦によりお蔵入りとなっている。
1937年8月、映画の巻頭に「挙国一致」「銃後を護れ」などの1枚タイトルを挿入した。1944年12月7日、映配は、生フィルム欠乏のために、731の映画館(約40%)に配給休止を宣告した。
外地における映画は、獲得した地を日本化するための有効な手段と捉えられ、積極的な上映が実施された。台湾、朝鮮、満州、インドネシアなどにおける各地の映画史を簡単に以下に記す。
日清戦争により獲得した台湾で高松豊次郎により最初の映画上映が行われたのは1901年である。台湾において最初に製作がなされたのは1921年で、『預防霍乱』という食品衛生啓蒙映画であった。また、1925年には台湾人の李松峰により『誰之過』が製作された。
日本で興った「純映画劇運動」において、台湾という「辺境の地」は格好の題材となり、枝正義郎の『哀の曲』(1919年)、田坂具隆の『阿里山の侠児』(1927年)、張雲鶴の『血痕』(1929年)、千葉泰樹・安藤太郎の『義人呉鳳』(1932年)など、台湾を舞台とする様々な作品が撮られている。
しかし、現地人による映画製作はそれほど活性化せず、1941年に台湾映画協会が設立され、管理統制が厳しくなると、その傾向は終戦まで続いた。
1910年に併合した朝鮮における映画は1919年に製作された金陶山の『義理的仇討』を嚆矢とした。日本政府は当初、尹白南による貯蓄奨励映画『月下の誓い』(1923年)など、台湾と同じく映画による教育啓蒙を試みたが、自身の手による映画製作の気運が強く、1924年以降、日本人が設立した朝鮮キネマに対抗するかの如く、独立スタジオが林立した。
1926年に羅雲奎が製作した『アリラン』は、民族主義の高揚における重要な役割を果たした。『映画「アリラン」の再評価』(1997年、趙熙文)など、津守秀一が監督したという説も存在する。その他、『金色夜叉』の翻案で、李慶孫の『長恨夢』(1926年)や李圭煥が製作した反日的内容の『主なき渡し舟』(1932年)などが話題を呼んだ。また、李明雨によって製作された最初のトーキー映画『春香伝』は1935年に登場して以降何度もリメイクされ、韓国における国民的映画のひとつに発展している。
日本が軍国主義へ傾くにつれ、厳しい検閲が敷かれるようになり朝鮮での映画生産は減少していき、1940年には日本と同じく映画法が実施されるに至った。1942年には全ての映画会社が閉鎖され、朝鮮総督府による朝映が設立された。この時代は主に日本人監督が現地のスタッフを使用して映画を製作する、というスタイルが主となり、日夏英太郎の『君と僕』(1941年)、豊田四郎の『若き姿』(1943年)、今井正の『望楼の決死隊』(1943年)などが公開された。
日本が1932年に建国した満州国では、1936年に満州映画協会(満映)が設立され、映画製作が執り行われた。満映では日本の文化啓蒙を目的とした映画と一般の劇映画が製作され、一部は日本に持ち込まれるなどした。1940年に『支那の夜』に登場した李香蘭(山口淑子)はその美貌と歌唱力、演技力などで一躍スターとなった。
1942年ごろより、自由な映画製作を求め、木村荘十二や内田吐夢など日本人映画監督が次々と渡満してくる。全編がロシア語で構成された島津保次郎の『私の鶯』(1943年)など、自由闊達な映画が企画・製作された。
1945年に満州国が崩壊すると満映の施設はソビエト連邦に接収され、満映スタッフは日本や台湾、香港へと散り散りに去っていった。日本では根岸寛一やマキノ光雄などによりこうした満映引揚者が迎え入れられ、後の東映の基礎を形作った。
上海では1910年代より中国映画の製作地としてその名が知られており、1937年に日本による占領が始まると、日本軍はその映画管理を川喜多長政に要請した。
川喜多は1939年、上海の映画会社を併合し、中華電影を設立した。作品としては満映との合作で製作された李香蘭主演の『萬世流芳』(1943年)などがある。
1945年、日本が敗戦した後は上海で日本人と共に映画製作を行っていた中国人監督の大部分が香港へ亡命し、後の香港における映画産業発展の礎となった。
インドネシアでは現地人による映画撮影が禁止され、日本軍による啓蒙映画が主に製作された。また、日本軍の捕虜虐待を隠蔽する目的でいくつかの偽ドキュメンタリー映画が製作されるなどした。
有名なものとしては1944年に日夏英太郎がジャカルタで製作した『Calling Australia』があり、オーストラリア人捕虜が撮影した映像として連合国軍側へ送付された。後にオーストラリアは捕虜として出演した者を集め、『Calling Australia』の虚偽を告発するドキュメンタリーを製作している。
1945年、日本が第二次世界大戦に敗北すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本間接統治が開始された。日本で製作される映画はGHQの下部組織CIE(民間情報教育局)によって管理されることとなった。この管理体制は1952年まで続き、日本映画界において、初めて外国機関による管理と制御が実施された特異な期間となった。企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ製作がなされた。例えば、黒澤明の『暁の脱走』(1950年)は当初、山口淑子(満映の李香蘭)主演の朝鮮人従軍慰安婦を描いた作品としていたが、数十回に及ぶCIEの検閲により、原形を留めぬ作品となってしまっている。完成したフィルムはCCD(民間検閲支隊)により二度目の検閲が行われた。また、この検閲は過去の映画作品に遡っても実施された。
また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画製作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、川喜多長政、根岸寛一、城戸四郎といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。しかし他のジャンルにおける追及と同じく、映画業界においても戦争責任の所在は曖昧に処理され、上記の処置は1950年には解除されている。
戦後、最初に公開された映画は佐々木康による『そよかぜ』で、並木路子による主題歌『リンゴの唄』が大ヒットした。
CIEのデヴィッド・コンデによって1945年に発布された製作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の製作は事実上不可能となった。この影響で時代劇を生業としていた俳優は現代劇に出演するようになる。片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』、阪東妻三郎の『破れ太鼓』、稲垣浩の『手をつなぐ子等』、伊藤大輔の『王将』などがそれにあたる。
また、GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数製作された。その中で黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年)、今井正の『青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。佐々木康の『はたちの青春』(1946年)では日本映画最初のキスシーンが撮られた。
1945年11月16日、GHQは「非民主主義的映画排除方指令に関する覚書」を交付した。11月19日、超国家主義的・軍国主義的・封建主義的思想の映画236本の上映禁止・焼却指令を発表した。
1946年1月28日、GHQは「映画検閲に関する覚書」を出し、民間検閲課による検閲を開始。8月13日、記録映画『日本の悲劇』上映禁止を通告。
1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、日本国は主権を回復した。翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。また、1958年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。
GHQによって制限されていた戦争映画が製作されはじめ、関川秀雄の『きけ、わだつみの声』(1950年)、今井正の『ひめゆりの塔』(1953年)、木下恵介の『二十四の瞳』(1954年)、市川崑の『ビルマの竪琴』(1956年)など、戦争を単純悪と捉えた作品ではなく、戦争体験の悲壮さや感傷的回顧を目的とした作品が次々と登場し、社会的影響となった。その他、『戦艦大和』(1953年)や『太平洋の鷲』(1953年)といったノスタルジア映画も量産された。こうした中で嵐寛寿郎が明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』(1957年)といった作品までもが登場した。神聖にして侵すべからずとされた天皇の商品化という、戦前には考えられなかった事態であった。
映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年『西鶴一代女』、1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の『七人の侍』もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞するなど、極東の国から届けられたフィルムに世界中が驚嘆した。
こうした映画の量産体制は東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって牽引した。各社の動向は以下の通り。
新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。中村錦之助、東千代之介出演の『新諸国物語 笛吹童子』シリーズ(1954年・三部作)、『新諸国物語 紅孔雀』シリーズ(1954年 - 1955年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介、大友柳太朗出演の、大人向け時代劇も活性化。中村錦之助、大川橋蔵主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。現代劇でも東映ニューフェイスから、中原ひとみ、高倉健、水木襄、佐久間良子、梅宮辰夫、千葉真一などの主演スターが輩出した。今井正監督『米』(1957年)、『純愛物語』(同)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』を公開するなど、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。
森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、フランキー堺出演の社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支えた。今井正監督『また逢う日まで』(1950年)、ヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞した稲垣浩監督『無法松の一生』(1958年)、成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955年)、岡本喜八監督『独立愚連隊』(1959年)、東宝争議により一時東宝を離れていた黒澤明は、『生きる』(1952年)を皮切りに、『七人の侍』(1954年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)などが大ヒットした。黒澤は莫大な製作費をかけるため、1959年に黒澤プロダクションが発足されるが、東宝とのパートナーシップは続いた。『七人の侍』も公開されていた1954年には『ゴジラ』が大成功を収め、シリーズ化されて1975年まで続くドル箱シリーズとなった。以降、小田基義監督+円谷英二特撮監督『透明人間』(1954年)、本多猪四郎監督+円谷英二特撮監督『獣人雪男』(1955年)、など特撮作品でヒットを飛ばす。東宝映画1000本の記念作品は特撮映画で、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による『日本誕生』(1959年)だった。
大庭秀雄監督による『君の名は』(1953年 - 1954年)、今井正監督『にごりえ』(1953年)、『キクとイサム』(1959年)をはじめ文芸作が大ヒット。小林正樹監督『人間の條件』(1959年 - 1962年)ではヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞を受賞した。さらに福田晴一監督・伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットした。木下惠介監督が『カルメン故郷に帰る』(1951年)、『日本の悲劇』(1953年)、『二十四の瞳』『女の園』(1954年)、『野菊の如き君なりき』(1955年)、『太陽とバラ』(1956年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、『楢山節考』(1958年)などや、小津安二郎監督も『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、『彼岸花』(1958年)、『東京物語』(1953年)などを発表した。
1953年の製作再開以降、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年)などの文藝作を製作していた。五社協定により他社からスターを引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠、二谷英明、川地民夫、待田京介、和田浩治などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作・配給した。なかでも古川卓己監督『太陽の季節』(1956年)、中平康監督『狂った果実』(1956年)、井上梅次監督『嵐を呼ぶ男』(1957年)、田坂具隆監督『陽のあたる坂道』、蔵原惟繕監督『風速40米』(1958年)などの石原裕次郎主演作が一世を風靡する。川島雄三監督フランキー堺主演の『幕末太陽傳』(1957年)などの歴史に残る作品も残している。
1950年代から1960年代前半にかけて男優では長谷川一夫、市川雷蔵、女優では京マチ子、山本富士子、若尾文子と、さらに他社専属やフリーの高峰秀子、鶴田浩二、岸惠子らも出演し、溝口健二監督『近松物語』(1954年)、吉村公三郎監督『夜の河』(1956年)などの名作を多数送り出した。中でも市川主演作が人気を呼び、森一生監督『薄桜記』(1959年)、伊藤大輔監督『弁天小僧』(1959年)などの時代劇の他、市川崑監督『炎上』などの文藝作もヒットした。
このほか、新藤兼人監督『原爆の子』(1952年)、山本薩夫監督『真空地帯』(1953年)、今井正監督『真昼の暗黒』(1956年)などの独立系映画も活発に製作・公開。1957年には勅使河原宏や羽仁進などの若手映画人らがグループ「シネマ57」を結成し、実験映画の製作などを行っていた。
1960年に日本映画史上で最高製作本数となる547本を製作し、ピークを迎えた。そのほとんどは大手6社によるプログラムピクチャーで、この年以降、映画産業に翳りが見え隠れするようになった。観客動員数はこれより先、1958年の11億人強を最高に、急激に下降し、1963年には半分以下の5億人強となった。
この背景には1953年より登場したテレビの急速な普及がある。テレビは1959年の皇太子結婚をきっかけに一般に広く浸透し、1964年の東京オリンピックでその勢いは加速。またこの時期フジテレビに在籍していた五社英雄が松竹へ出向し『三匹の侍』で映画監督としてデビュー。テレビ畑出身、映画界での下積み経験のない人材が大手映画作品に進出していく契機となる。1961年には新東宝が製作停止、日活は1969年に撮影所を売却、1971年に製作停止となった。
同時に、中平康、鈴木清順、増村保造、蔵原惟繕、石井輝男、岡本喜八、今村昌平、松本俊夫、大島渚、高橋治、山田洋次、吉田喜重、篠田正浩、山下耕作、五社英雄、深作欣二、三隅研次、工藤栄一、浦山桐郎、熊井啓、勅使河原宏、若松孝二といった個性的で多種多様な若手監督が活躍した時代でもあった。
観客動員No.1となった東映は、1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、製作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは鶴田浩二、高倉健、藤純子らを擁して仁侠ブームを作った。このジャンルの開祖は沢島忠の『人生劇場 飛車角』(1963年)といわれ、義理と人情の板挟みにあいながらも自己犠牲を貫く内容だった。以降、『博徒』、『日本侠客伝』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』、『緋牡丹博徒』といった任侠シリーズは人気を博し、1972年頃まで製作され、内藤誠の『不良番長シリーズ』もヒットした。一方で1969年にはオールスターキャストの『日本暗殺秘録』(主演:千葉真一・監督:中島貞夫)を封切り公開し、東大紛争・安保闘争など騒然とした当時の世相を反映させている。
東宝では社長シリーズに続き、古沢憲吾による植木等主演の無責任シリーズ、日本一の男シリーズなどを開始し、陽気なミュージカル喜劇として人気を博した。また、加山雄三主演の若大将シリーズでは松竹が得意としたスポーツマン大学生もののお株を奪うヒットを見せた。
他方で黒澤明や怪獣映画も人気を堅持し、黒澤は引き続き黒澤プロダクションとの東宝共同製作で、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『天国と地獄』(1963年)、『赤ひげ』(1965年)などの作品を発表した。1969年にアメリカの20世紀フォックス社の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』の脚本と監督を依頼された黒澤は、最終編集権が監督にないハリウッドのシステムに反発。撮影が容易に進まず、激しい心労の末に解任され、自殺未遂事件を起こす。また、1970年には初のカラー映画『どですかでん』を製作している。
岡本喜八による『独立愚連隊』(1959年)で戦争モノにも進出し、多彩なジャンルをアピールした。岡本はその後の『日本のいちばん長い日』(1967年)で東宝と製作主張を巡り訣別を告げ、私費で『肉弾』(1968年)を製作している。
その他代表作としては、市川崑総監督『東京オリンピック』(1965年)、成瀬巳喜男監督の『女の中にいる他人』(1966年)、『乱れ雲』(1967年)などが挙げられる。
東宝は1961年ごろにロサンジェルスの老舗映画館「ラ・ブレア」を買い取り、自社作品の上映を開始し、同館は米国における日本映画のショーケースとして機能した。60年代には同様にニューヨークのタイムズスクエアにも専門館を所持した。
「大船調」といわれた松竹お得意のメロドラマ路線が、収益を呼べず、1960年に城戸四郎社長が辞任。監査役の大谷博が社長となった。松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた助監督群が相次いでデビューし、大島渚監督『青春残酷物語』(1960年)、『日本の夜と霧』(1960年)、吉田喜重監督『ろくでなし』(1960年)、『秋津温泉』(1962年)、篠田正浩監督『恋の片道切符』(1960年)、『暗殺』(1964年)などの斬新な作品群を発表するが、日米安保改定問題を扱った大島渚監督『日本の夜と霧』が封切り4日後に松竹によって興行を打ち切られる。松竹を辞めた大島渚は独立プロ創造社を起こすなど、松竹ヌーヴェルヴァーグの監督たちは後に松竹を後にした。野村芳太郎は『拝啓天皇陛下様』(1963年)などの人情喜劇、コント55号主演映画などを監督。山田洋次監督は『下町の太陽』(1963年)、『馬鹿まるだし』(1964年)、『霧の旗』(1965年)などの作品を経て、1969年より「男はつらいよシリーズ」を始める。代表作には、小津安二郎監督『秋日和』(1960年)、『秋刀魚の味』(1962年)、木下惠介監督『笛吹川』(1960年)、『永遠の人』(1961年)、『二人で歩いた幾春秋』(1962年)、『死闘の伝説』(1963年)、『香華』(1964年)、渋谷実監督『もず』(1961年)、小林正樹監督『切腹』『からみ合い』(1962年)、松山善三監督『山河あり』(1962年)、羽仁進監督『充たされた生活』(1962年)、中村登監督『古都』(1963年)、『紀ノ川』『暖春』(1966年)、『智恵子抄』『惜春』(1967年)、『わが恋わが歌』(1969年)、吉村公三郎監督の『眠れる美女』(1968年)、蔵原惟繕監督の『栄光への5000キロ』(1969年)などがある。『宇宙大怪獣ギララ』(1967年)、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。
1960年代に引き続き、無国籍映画と云われた和製西部劇(小林旭の渡り鳥シリーズや流れ者シリーズなど)が大ヒットするが、本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、アクション映画のマンネリ化、企画不足、石原裕次郎と小林の人気低下、社長・堀久作のワンマン体質からくる放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化。その1960年代には吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹、渡哲也、山本陽子、和泉雅子、松原智恵子、藤竜也、梶芽衣子、杉良太郎らを輩出したが、退潮を食い止めることはできなかった。一方、今村昌平が『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)、鈴木清順が『東京流れ者』、『けんかえれじい』(1966年)などを制作したが、『殺しの烙印』(1967年)に不満を持った堀から解雇される。このほか、監督では熊井啓、浦山桐郎らを擁した。
1960年代に入ると勝新太郎・田宮二郎が頭角を現すが、長谷川一夫・叶順子の引退(1963年)、永田雅一社長によって五社協定にかけられた山本富士子(1963年)・田宮二郎(1968年)の退社、市川雷蔵の急逝(1969年)で観客数の落ち込みが深刻になり、永田のワンマンな放漫経営もあって業績は悪化。日本初の70ミリ映画『釈迦』(1961年)や『秦・始皇帝』(1962年)など大作映画路線も数作で終わった。この年代の大映の代表作には、市川崑監督の『おとうと』『ぼんち』(1960年)、『黒い十人の女』(1961年)、『私は二歳』『破戒』(1962年)、『雪之丞変化』(1963年)、増村保造監督の『偽大学生』(1960年)、『妻は告白する』(1961年)、『清作の妻』(1965年)、『華岡青洲の妻』(1967年)、三隅研次監督の『斬る』(1962年)、『剣』(1964年)、『剣鬼』(1965年)、吉村公三郎監督の『その夜は忘れない』(1962年)、『越前竹人形』(1963年)、川島雄三監督の『雁の寺』(1962年)、『しとやかな獣』(1963年)、山本薩夫監督の『傷だらけの山河』(1964年)、『白い巨塔』『氷点』(1966年)、森一生監督の『ある殺し屋』(1967年)などがある。ガメラシリーズ(1965年 - 1971年)、大魔神シリーズ(全て1966年・3作)『妖怪大戦争』(1968年)などの子供向け特撮映画も発表し、中でもガメラシリーズに至っては東宝のゴジラシリーズと並ぶ怪獣映画の二枚看板にまで発展するに至るほどの人気シリーズとなった。主な人気シリーズは以下の通り。
大手企業によるブロックブッキング制の影響があったものの、文芸プロダクションにんじんくらぶが複数の作品を制作・公開しており、1966年の日本・台湾合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、主演の千葉真一と監督の深作欣二が東映に籍を置きながら参加した作品である。一方映画産業の斜陽化と共に、監督が大企業を離れて独立プロで製作を行う、といったことが見られるようになり、新藤兼人の『裸の島』(1960年)、『鬼婆』(1964年)、『裸の十九才』(1970年)や、勅使河原宏と安部公房による『おとし穴』(1962年)、『砂の女』(1964年)、『他人の顔』(1966年)といったブラックユーモアに満ちた作品が出現した。
1961年に、日本アート・シアター・ギルド (ATG) 設立(- 1992年)。非商業主義的な芸術作品を製作・配給した。第1回配給作品はイェジー・カヴァレロヴィチ監督『尼僧ヨアンナ』(1962年4月)。初の日本映画作品は勅使河原宏監督『おとし穴』(1962年7月)。以降、1968年には1000万映画の製作を開始し、新藤兼人、羽仁進などの独立系監督のほか、三島由紀夫(作家)、実相寺昭雄(テレビ演出家)、寺山修司(演劇)、田原総一朗(ジャーナリスト)、清水邦夫(演劇)などの異業種出身監督、黒木和雄、松本俊夫などの新人など、多くの出身者や作風に門戸を広げた。また1960年代後半には、ピンク映画出身の若松孝二など、そして大手五社映画を辞した大島渚、今村昌平、吉田喜重、篠田正浩、岡本喜八、熊井啓、増村保造、斎藤耕一またはフリーの市川崑などにも製作と発表の場を与えた功績も大きい。多くの作品がキネマ旬報ベストテンに選定されるなど高い評価を受け、70年代はもちろん、80年代後半まで大きな潮流となった。
1962年、手塚治虫が虫プロダクションを設立。
1970年代も日本映画の集客力の凋落は止まらず、内訳で見た場合、1971年に公開された367本のうち、大手5社の占める割合が約4割に激減した。今日独り勝ちが続く東宝でさえ厳しく、12代目東宝社長・石田敏彦は「松岡辰郎社長時代の1970年に20本みんなで選んだんですが、当たったのが『その人は女教師』(岩下志麻主演・出目昌伸監督)1本だけだった鮮烈な記憶があります」と述べている。このうち、大映は倒産し、後の1974年に徳間書店に買収された。逆に、低予算で製作可能なピンク映画や独立プロによる映画が躍進している。経営難に陥った日活は労働組合を中心に再建がなされ、1971年より日活ロマンポルノとしてロマンポルノ路線を断行した。また、スターシステムの崩壊により俳優は製作会社への所属から作品ごとの契約へと切り替わりが進んだ。前時代に活躍した監督についても、資本を海外に求めた黒澤や大島、ドキュメンタリーへ転進した今村など、徐々に消えていくこととなった。いわゆる、五社協定の終焉である。
1950年代から1960年代にかけては、映画は10本作れば6本は黒字だったが、1970年代後半はヒット作は10本中2本程度になった。映画人口もピーク時の7分の1。映画がこれほど衰退した国は、世界に例がないと当時いわれた。あまりの衰退ぶりに映画業界から国から助成をという声が盛んに上がったが、1978年6月に日本映画製作者連盟の会長に就任した岡田茂が「金も出せば口も出すで、結局あちらの言いなりじゃ自ら首を絞めるようなものだ。地道に一本一本力を込めて、自力再生するしかない。もう東映だ、松竹だと妙な社風を振りかざして睨み合ってる時代じゃない。この斜陽対策を業界全体で考えなくてはならない」などと国からの支援を断固反対した。
その一方で1976年に角川春樹が映画製作に進出し、豊富な予算による制作とメディアミックスによる戦略化された宣伝を展開。封切り公開された作品は立て続けに大ヒットし続け、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破り、角川映画の勢いは1980年代半ばまで続いた。アニメーションやドキュメンタリーの分野は発展し、後の礎を築いた。1977年に東映が配給した『宇宙戦艦ヤマト』では日本映画で初といわれる徹夜組が出た。1979年には『銀河鉄道999』(東映製作配給)が公開され、1979年度の邦画の邦画配収第一位となり、アニメ映画史上初の快挙となった。アニメ映画が評価されなかった時代に異例の評価を得る。
学生運動の衰退に伴い、東映の任侠モノは色あせた映画と評されるようになった。伊藤俊也の『女囚さそりシリーズ』の公開後、1973年には実録路線の『仁義なき戦い』シリーズや、格闘映画の『ボディガード牙』シリーズなどが大ヒットし、以降次々とシリーズ化され、実録・格闘路線は経営を支える二本柱となった。特に千葉真一の格闘映画は欧米・東南アジアでも大ヒットした。1975年には日本国内では初めてのパニック映画である『新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では高い評価をされて大ヒットした。同年には松竹の『男はつらいよ』シリーズに対抗した『トラック野郎』が、『新幹線大爆破』より日本での興行収入を上回ったことからシリーズ化され、菅原文太はヤクザ映画から脱却するきっかけとなった。1978年には『柳生一族の陰謀』が大ヒットし、『赤穂城断絶』など次々と時代劇復興を掲げた作品が製作された。1970年代後半からは角川映画、オフィス・アカデミーなどの独立プロを盛んに取り込んだ。
松竹では1969年より開始された山田洋次による『男はつらいよ』のシリーズ化により国民的人気を勝ち取る事となった。このシリーズは30年近く、48本の映画が製作され、1983年、「世界最長の映画シリーズ」としてギネス・ワールド・レコーズに登録されている。
1976年の『犬神家の一族』を皮切りに、出版やテレビドラマ等との複合的効果を狙ったメディアミックスマーケティングを展開し、『人間の証明』、『野性の証明』、1979年の『戦国自衛隊』など、大作を立て続けに大ヒットさせた。『犬神家の一族』では製作を東宝、配給は東映など、以降の作品でも映画会社のそれぞれの強みのみを採用し、従来の映画界の枠を打ち破る独自の映画製作を進めていった。
日活の転進はそれまで所属していた大物俳優や監督との訣別を意味した。小林旭や渡哲也は東映へ、宍戸錠はテレビへと活躍の場を求めている。逆に今まで機会のなかった新人監督や俳優が次々と出現し、業界の停滞期において、唯一といっていい人材育成の場所となった。日活ロマンポルノは1988年まで週に2本というペースで製作がなされ、神代辰巳、田中登、小沼勝、村川透、池田敏春、中原俊、黒沢直輔、金子修介といった多数の人材を輩出している。
1980年になると従来のスタジオシステムは崩壊し、大手が大作映画を全国の専属劇場で同時公開するという方式が成り立たなくなった。日活は1978年に社名を「にっかつ」に、1988年に「ロッポニカ」に変更し、ロマンポルノ路線からの脱皮を図ったが、うまく立ち行くことはできなかった。
1980年の第54回キネマ旬報ベスト・テンで話題を呼んだのは、ゲリラ的に製作・配給・興行した鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』が日本映画ベスト・テン1位を取ったことと、巨匠監督の作品に交じって大森一樹『ヒポクラテスたち』、橋浦方人『海潮音』、石井聰亙『狂い咲きサンダーロード』と、20~30歳代の若い監督作がベスト・テンに名を連ねたことだった。キネマ旬報ベスト・テン選考委員の一人である松田政男は「1980年は自主製作映画の最良のエネルギーを取り込むことに成功した一年だった。80年代に於ける日本映画転換のきざしを準備したと言える。それを担ったのはシネマプラセット・新生ATG・名画座チェーンの三者。この功績は大きい」と評した。名画座チェーンというのは、いずれも良心的な劇場(こや)として映画ファンに知られていた東京の並木座、池袋文芸坐、上板東映の三館を指し、「80年代はもうメジャーに任せておけない!」と、若手監督の自主製作バックアップに情熱を注いだ。並木座は土方鉄人監督の『戦争の犬たち』、文芸坐は山川直人監督の『アナザ・サイド』、上板東映は石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』の製作にも関わっている。横山博人監督の『純』は、並木座、文芸坐でのヒットを見た岡田茂東映社長がスケベ心を動かして東映で配給したといわれる。
邦画アニメ映画の好調が話題の中心になった2020年代の映画状況を考えるとき、その起点と見られるのは1977年の『宇宙戦艦ヤマト』であるが、《アニメ・ブーム》とマスメディアが騒いだのが1981年3月のことだった。この年、3月14日の同日封切で、松竹が『機動戦士ガンダム』、東宝が『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』『怪物くん 怪物ランドへの招待、東映が『世界名作童話 白鳥の湖』など東映まんがまつり、東映洋画?が『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』、日本ヘラルドが『おじゃまんが山田くん』、サンリオが『ユニコ』を公開し、各社アニメ作品のオンパレードとなり、映画界は"3・14アニメ戦争"などと呼ばれた。
酒井武史は『朝日ジャーナル』1982年7月の記事で「いま日本の映画界では一見奇妙な現象が起きています。映画人口は1981年についに1億5千万人を割りました。これは最盛期の14%に当たります。にも関わらず、邦画ニューウェーブの旗手たちといわれる新進。若手の監督たちが、話題作、問題作を引っさげて続々登場してきています」と論じ、同誌編集部が独断で、将来の日本映画を担うと期待する若手監督20人を選び、1982年7月に二週に渡り紹介している。ここで挙げられている20人は、長嶺高文、井筒和幸、森田芳光、浅尾政行、土方鉄人、井上真介、小栗康平、石山昭信、土橋亨、後藤俊夫、山川直人、石井聰亙、長崎しゅんいち、大森一樹、根岸吉太郎、横山博人、松原信吾、和泉聖治、保坂延彦、澤井信一郎である。
1984年、伊丹十三(映画監督伊丹万作の息子)が51歳で『お葬式』で映画監督としてデビューし、当初は「映画の名前が良くない」などと、ほとんど映画館から上映を断られるほど知名度が低い状態であったが、最初は小さな映画館での上映から始まり徐々に高い評価をうけ上映館が拡大し、ついには日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして、実に30を超える映画賞を受賞する状態までになった。(翌1985年の『タンポポ』も佳作との評価する人が多いが)1987年の『マルサの女』は、同時代を取材しそれを巧みに取り込んだ作品で、社会現象化し世間はこの映画のことで話題しきりの状態となった。伊丹は日本映画に、伊丹独特のセンス、新しい切り口、(製作上の)新しい手法などを導入した。
80年代終盤になると有名人を映画監督に担ぎ出す動きが相次ぎ、ミュージシャンや俳優から作家、画家などあらゆるジャンルの監督が出現したが、二作目のメガホンをとったのは北野武、坂東玉三郎、竹中直人などごく僅かであった。
一方、1970年代に沈黙してきた巨匠の復帰作品というものも見られ、代表的なものとしては黒澤明の『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)や鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『夢二』(1991年)や吉田喜重の『人間の約束』(1986年)、松本俊夫の『ドグラ・マグラ』(1988年)などがある。
この時期、特異な存在感を示したのが当時視聴率トップを走っていたフジテレビであった。フジテレビは映画に再参入すると『南極物語』(1983年)、『子猫物語』(1986年)の動物ものをヒットさせ、1980年代末からのバブル時代にはホイチョイ三部作と呼ばれる「トレンディ」な映画をヒットさせた。自局の映画番組での放映権が獲得しやすいこともあり、各局とも映画に参入するきっかけとなった。
映画業界の苦戦は続き、年間観客動員数は1996年に1億1957万人まで減少、洋画人気による洋高邦低の状況も顕著になり、1998年には年間配給収入シェアで邦画が30.2%まで落ち込んだ。
一方シネマコンプレックスが日本に定着した1990年代は、長期恒常的な不景気のあおりを受けつつも、1994年、長らく減少を続けていた映画館数がようやく増加の傾向に切り替わった。1960年から30年、全ての数値で減少し続けていた映画業界において、わずかながらではあるが、回復の兆しが見え始めた時期であるといえる。メディアミックスの動きが活発になり、ゲーム、漫画、アニメなどと連動した映画作品が増加した。製作委員会方式によるリスク分散の手法が一般化し、テレビ製作会社の映画事業参入が増加。2000年代の邦画復活の布石となった。
また、1950年来遠ざかっていた国際映画祭の話題もいくつか出現し、1997年、今村昌平の『うなぎ』がカンヌ映画祭のグランプリを、河瀬直美の『萌の朱雀』がカメラ・ドールを獲得した。ヴェネツィア映画祭では北野武の『HANA-BI』が金獅子賞を獲得し、マス・メディアにおいて「日本映画のルネッサンス」という標語まで誕生した。興行面においても周防正行の『Shall we ダンス?』などがアメリカをはじめとする諸国で成功を収めた。国内においても1997年に宮崎駿の『もののけ姫』が記録的なヒットとなるなど、明るい話題が続いた。
2001年には『千と千尋の神隠し』が当時の日本歴代興行収入第1位を記録。2003年、『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』が記録的ヒット。同年に『座頭市』が第60回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を、第28回トロント国際映画祭では観客賞を受賞。2004年には『誰も知らない』に出演した柳楽優弥が、第57回カンヌ国際映画祭にて史上最年少および日本人として初めての最優秀主演男優賞を獲得。2008年には『おくりびと』が事実上、日本映画として初の第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、快挙が続いた。ジャパニーズホラーとも呼ばれるホラー映画も海外で脚光を浴び、『呪怨』などがハリウッドでもリメイクされた。
海外の映画監督の評価もあり、日本独自の映像表現が見直されるようになり、同時に、低迷する実写邦画の再建が模索された。洋画の興行収入の低迷という点もあるものの、2006年は21年ぶりに邦画の興行収入が洋画の興行収入を上回った(日本映画製作者連盟調査)。
2000年代の実写邦画復活の立役者は、『踊る大捜査線』シリーズに代表されるテレビ局の出資であった。しかし、テレビ局が出資した映画のCMを自局で大量に流し、情報番組などで宣伝している点があり、それに比例してテレビ局の口出しが増え、映画の自主性が薄れているとされる。放送法でテレビ局は番組以外の商品は、宣伝が自由にできるので製作してはならないという決まりがあるが、将来自局で流す映画のコマーシャルは放送法に違反しないため問題はないので、上記で挙げた過剰な宣伝はモラルの問題とされる。
2001年11月16日、文化芸術振興基本法が衆議院に提出され、同月30日衆参で可決した。法律の公布・施行は同年12月7日。この法律のメディア芸術の振興の項目(第9条)で、映画を含んだメディア芸術の製作・上映支援などのために必要な施策を講じることが明記され、これと連動する形で第35条で地方公共団体によるバックアップも明記された。 このことを受け、文化庁は地域振興と結びつく映画製作について助成することを打ち出し、各地方公共団体はフィルム・コミッションなどの設立・運営、および当該組織を通じての映画製作の誘致などを始めた。さらに、『眠る男』(群馬県)や『船を降りたら彼女の島』(愛媛県)などのように、地方公共団体が(「補助金」や「寄付」などではなく)映画に対して直接出資する例も見られるようになった。2000年(平成12年)2月 に「フィルム・コミッション設立研究会」が設立された。2001年(平成13年)8月8日 に「全国FC連絡協議会」設立総会が開催された。パシフィコ横浜で全国FC(フィルム・コミッション)連絡協議会の設立総会が開催された。46の正会員団体のうち、フィルム・コミッションの団体数は11。同年12月7日 に 「文化芸術振興基本法」施行。この法律の対象には、メディア芸術(第九条)として、映画も含まれる。 2003年(平成15年)4月1日に 「全国FC連絡協議会」、加盟47団体へ。全国フィルム・コミッション連絡協議会への加盟FC(フィルム・コミッション)の数が47団体に達した。4月24日に公開映画の納付義務付けを提言。文化庁の懇談会は、公開された日本映画を東京国立近代美術館フィルムセンターへ納入することを義務付ける事など日本映画を振興させる12の施策提言を最終報告書にまとめた。
東京など大都市よりも地方都市でロケーション撮影をする作品も多くなった。ヒット作品の中には地方都市を舞台にした作品もあり、これをきっかけにロケ地をめぐる観光客(聖地巡礼)が増加したケースもある。地方活性化の一役を映画が担っている面もこの時代から急速に大きくなっている。そのため誘致から撮影のスケジュール調整などを担う「フィルムコミッション」が各地で設立された。
日本映画の製作本数は増加し、2006年の公開作品総数は821本(1955年以降で最高)、スクリーン数は3062(対前年比136増。3000を超えたのは1970年以来)、入場者数は計1億6427万人余であった(日本映画製作者連盟)。しかし同時に公開の目処の立たない長篇映画、DVD化もされない作品も多く、そう云った作品は年間100本以上とも、3本に1本とも云われており、それらは「不良債権映画」とも云われた。
日本では、基本的に観客は静寂を保つように視聴するのが礼儀となっており、北米やインドのように拍手・声援などで応答することは珍しかったが、2000年代に入ると、「応援上映」(チアリング上映)などと呼ばれる上映会が催され、それらでは声援など観客たちが映画の進行に合わせて盛り上げることが可能になった。
この頃になると洋邦実写映画の没落・邦アニメの台頭が顕著になる。2010年代からはアニメ映画の興行的な躍進が目立っており、アニメ映画、特撮、「漫画の実写化」といったオタク系・二次元原作の作品が興行収入上位をほぼ独占的に占めるようになっている。
例として、2016年の邦画作品別興収トップテンは、『君の名は。』(興行収入251.7億円)を筆頭にアニメ映画が多く、2位『シン・ゴジラ』(興行収入82.5億円・特撮映画)、3位『名探偵コナン 純黒の悪夢』(63億3,000万円・アニメ)、 4位『映画 妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!』(55億3,000万円・アニメ)、5位『ONE PIECE FILM GOLD』(52億円・アニメ) 、6位『信長協奏曲(のぶながコンツェルト)』(46億1,000万円・漫画実写化)、7位『映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生』(41億2,000万円・アニメ)、 8位『暗殺教室~卒業編~』(35億2,000万円・漫画実写化)、 9位『orange -オレンジ-』(32億5,000万円・漫画実写化)、 10位『ガールズ&パンツァー 劇場版』(24億円・アニメ)と、トップ10がアニメと特撮と漫画実写化映画で独占される形なった。特に「君の名は。」は、世界での興行収入は3.61億ドル(日本円で414.4億円)を記録し、日本映画では世界歴代興行収入で『千と千尋の神隠し』に次ぐ2位となった。日本歴代興行収入ランキングでは『千と千尋の神隠し』『タイタニック』『アナと雪の女王』に次ぐ第4位である。
漫画等二次元コンテンツ原作のものや怪獣映画を除いた実写映画の中でならば、2013年の『永遠の0』(興行収入87.6億円)、2017年の『カメラを止めるな!』(31.2億円・インディーズ映画として異例のヒット)、2018年の『劇場版コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命』(92.3億円)、『万引き家族』(45.3億円)などが挙げられる。『万引き家族』は監督の是枝裕和が第71回カンヌ国際映画祭で日本人として『うなぎ』以来21年ぶりに最高賞であるパルム・ドールを獲得した。
洋画の人気は低下し、例えば2014年の日本における映画興行収入トップ20の15本は邦画となり、アメリカ映画は僅か5本となっている。
松竹・東宝・東映の邦画御三家(日本映画製作者連盟)は、1958年の映画最盛期から下り坂一方の棘の道をお互い踏ん張り、耐えに耐えしぶとく生き残った。かねてから邦画実写映画の存在感・人気・興行収入が低迷する一方、邦画アニメ映画は好調であり、2021年から2022年までの興行収入ランキングのトップ3をアニメ映画が占めた。
2020年には『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が興行収入404.3億円を記録し、日本歴代興行収入第1位記録を更新した。また、本作は2020年の年間興行収入世界第1位となり、非ハリウッド映画として初めて年間1位となった。2020年11月9日時点で「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が204億円を超えたことで、日本歴代興行収入トップファイブが全てアニメ映画になった。
2020年の鬼滅の刃の記録的な大ヒットを皮切りに、以降も『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、『劇場版 呪術廻戦 0』、『ONE PIECE FILM RED』、『THE FIRST SLAM DUNK』、『名探偵コナン 黒鉄の魚影』、新海誠作品など日本国内のアニメーション映画が次々と興行収入100億円を超えている。
2020年代前半には洋画だけでなく、実写邦画を含めた実写映画自体が低迷している。2022年は日本の興収1位の「ONE PIECE FILM RED」(8月公開=197.0億円)を筆頭に、4位までアニメ(邦アニメ)が独占した。実写で1位は5位の「キングダム2 遥かなる大地へ」(7月公開=51.6億円)の5位が最高であるが、これも原作は日本漫画「キングダム」である。映画批評家の前田有一は、「国内でも国外でも売れる邦画は、今はアニメだけ。」と語り、日本の実写邦画の低迷については「観客がお金を払ってまで映画館に足を運ぶのは、テレビでは見られない映像がそこにあるからです。アニメならそれも可能ですが、製作費をかけられない日本の実写映画では難しい。大半がドラマの延長レベルです。実写で“キラーコンテンツ”になり得るのは、ハリウッド並みとは言いませんが、2ケタ億円はかけた作品でしょう。例えばそれがNetflixのドラマだったりする。」とし、日本における洋画の低迷については「興行を下支えしていた中級ヒットが激減」「名前で観客を呼べるハリウッドスター不在」「そもそも米国に対する憧れがなくなったことも大きい」「米国を“豊かな国”としてカルチャーやライフスタイルを真似していたのは、ぎりぎり今の40代後半まででしょう。ハリウッド大作も憧れのひとつでしたが、今の20代、30代には数ある国のひとつでしかありません」と分析している。2022年でもトム・クルーズ主演のハリウッド映画「トップガン マーヴェリック」(5月公開=興収135.7億円)くらいしか話題になったと言える洋画が無くなっていた。日本映画製作者連盟の統計によると、1990年代の興行収入割合が洋画7割で邦画3割であったが、2022年の興行収入割合は邦画68.8%に対し、洋画は31.2%と逆転している。
一方、完全実写映画側では賞の受賞が増えており、2020年には『スパイの妻』が第77回ヴェネツィア国際映画祭で『座頭市』以来17年振りとなる銀獅子賞を受賞。2021年には『ドライブ・マイ・カー』が第74回カンヌ国際映画祭にて日本映画最多となる3部門を受賞したほか、第94回アカデミー賞では作品賞を含む4部門にノミネートされ、国際長編映画賞を受賞した。第79回ゴールデングローブ賞では『鍵』以来62年ぶりに外国語映画賞を受賞するなど、世界各国で数多くの映画賞を受賞した。2023年には『怪物』が第76回カンヌ国際映画祭において、脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した。
海外での興行収入上位はすべてアニメ映画である。
台湾への日本映画輸出は、1969年に日本映画の輸入が台湾映画の製作に圧迫を与えるという理由で、事実上輸入禁止措置がとられ、日本が中国と国交を回復した1972年以来、商売の道も閉ざされ、1973年から全面的に禁止された。岡田茂映連会長以下、各映画会社首脳陣の長年の努力が実り、台湾行政院新聞局から映連に、1980年の金馬奨に日本映画の出品要請があり、1980年、当時の映連加盟四社から各一本づつ、松竹『砂の器』、東宝『サンダカン八番娼館 望郷』、東映『二百三高地』、日活『先生のつうしんぼ』の4本が金馬奨の招待作品として上映された。以降は日中関係も懸念され、濃すぎる日本色を抑えるためか、台湾の製作者や一部ジャーナリストの間で解禁に反対の声もあったが、1982年に岡田映連会長が訪台した際に、宋行政院新聞局局長に「(1980年の)金馬奨に出品した4作品だけでも特別に輸入を解禁してほしい」と要請。台湾側の外貨事情、対日感情の好転などの背景もあり、これが認められ1983年12月6日に東京会館での記者会見で岡田が「台湾が15年ぶりに日本映画輸入の門戸を開いた」と発表し、1984年8月、台湾行政院新聞局から正式に日本映画輸入を解禁するとの報道された。これを祝して1985年2月に新宿東映ホール1で日本で初めての台湾映画祭が開催された。復活初年度の1985年は、東映だけ『二百三高地』を『魔界転生』に入れ替え、他の三社は1980年の金馬奨に出品した同じ作品が台北、高雄の映画館で一般公開され、日本映画の輸出が復活した。台湾の解禁で主要国で日本映画を上映禁止するのは韓国だけとなった。これらは大人気となり、現地の業者が群がり大変な騒ぎになった。翌1986年は前年の4本から6本に枠が増え、増加分は映連加盟四社で抽選があり、抽選に勝った東映と松竹が2本づつになり、角川映画は当時映連に加盟していなかったが、『里見八犬伝』はこの東映の増加枠に入れられ、1986年9月25日に台湾で公開され大ヒットした。Record Chinaは、大ヒットした日本映画の1本として『里見八犬伝』を挙げている。封切に合わせ、薬師丸ひろ子や松坂慶子、三船敏郎、岡田茂東映社長・映連会長らが訪台し、台湾でも大人気の薬師丸が熱烈歓迎を受け、大きな騒動になった。当時台湾では最新の日本とアメリカのビデオが見られる同伴喫茶が大流行しており、台湾のヤングは国際芸能によく通じていたという。岡田は台湾の映画関係者と輸入に関する取り決め事項の調整を行った。『海角七号 君想う、国境の南』の監督・魏徳聖(ウェイ・ダーション)は「『里見八犬伝』は初めて自分で2回チケットを買って観た作品なんですよ。今でもストーリーや登場人物を鮮明に覚えています」などと話している。
1986年から1994年10月にかけては、行政院新聞局が6回の輸入割当本数の告示を行い、合計201本の輸入割当を許可したが、日本映画の著作権料が跳ね上がり、実際に輸入された日本映画はこの間52本であった。1994年10月以降は全面的に日本映画の輸入が解禁されている。日本映画輸入自由化は、岡田茂映連会長の永年の努力が大きいといわれる。1986年の岡田と台湾の映画関係者との折衝の際に、台湾側から「日本映画は輸出するのに、台湾の映画は日本ではやってくれないではないか」と不満が出て、急遽、東映で1987年2月14日から『スケバン刑事』との併映で公開予定だった香港映画『蜀山』(『蜀山奇傅 天空の剣』)を後ろにずらし、台湾側から要望があった『カンフーキッド/好小子』をこの枠に入れ、東映洋画系で公開した。同作は日本のメジャー映画会社の番線に乗った初めての台湾映画である。また1995年4月に台湾初のCATV、党営の「博新多媒體」(PHTV)が開局の際、これらの交渉で岡田と懇意になった同社社長・廖祥雄からの要請で、東映台(東映チャンネル)がディズニー台(ディズニー・チャンネル)などと共に四チャンネルの一つに選ばれた。台湾はレンタルビデオやCATVなどのメディアの普及が日本より早かった。台湾は1960年代から1970年代に日本映画の興行を禁止していたため、台湾人には東映のヤクザ映画が新鮮で人気が高かったという。東映台は三年の供給契約で東映の過去の映画850本とテレビドラマなど供給本数は1600本に上った。台湾のCATVで最初に放映された日本映画・ドラマは東映作品であった。東映はこれを機にアジア戦略を強化し、日本での二次利用、三次利用が一段落ついた旧作品ビジネスをアジアで広げようと1996年夏に日本で公開されたが配収が4億円と振るわなかった『That's カンニング! 史上最大の作戦?』の主演・安室奈美恵が1997年にアジアでコンサートを開いて人気を高めたことから香港で同作を上映したり、当時アジアの衛星放送で日本のトレンディドラマが相次いで放送され、『Lie lie Lie』の出演者である豊川悦司や鈴木保奈美らが知名度を高めていたことから台湾と香港で日本公開に先駆け同作を先行上映するなどしている。 | [
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"text": "日本映画をジャンルとして明確に定義することは困難であり、日本人監督によって、日本人の俳優を主に用いて、日本人らで撮影し、日本国内で上映する日本語の映画、という条件のもと、そのいくつかが当てはまるものを一般に日本映画と呼称している。しかし、『ホノカアボーイ』などの総海外ロケの映画や、フランスの資本を基に黒澤明や大島渚が撮影した映画、在日韓国・朝鮮人監督など非日本国籍の日本語話者による映画など、全ての条件を満たしていなくても、日本語話者が日本での最初の公開向けにつくった映画は邦画と認知される。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "日本映画が日本映画たりえた背景には当然日本文化の影響が存在している。映画が日本に到来する時代、日本は比較的高い識字率を誇っており、大衆的な読み物から新聞、児童書などあらゆる書物が庶民に親しまれていた。また、映画よりはるかに長い歴史を持つ歌舞伎や人形浄瑠璃などの伝統演劇が日本映画に与えた影響も計り知れない。これは今日でも映画館を劇場と呼称したりすることからも窺える。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "また、初期の無声映画時代、上映にあたり、弁士と呼ばれるフィルムの説明者が存在したが、映像と分離した音声を享受するというシステム、口踊芸と呼ばれる洗練された語りの手法は、既に人形浄瑠璃をはじめとする演劇で確立されており、日本人にすんなりと受け入れられ、独自の発展を遂げたとされる。庶民にとって誰が弁士を務めるかも映画鑑賞の重要な判断基準となり、花形の弁士が演じる映画は総じて人気を博した。無声映画とは声の無い映像のみの映画を指すが、日本映画においては真の意味での無声映画は存在していなかったと言って良い。",
"title": "背景"
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"tag": "p",
"text": "純粋に日本文化を映画へ昇華し、日本映画らしさを出そうとする一方で、国外の文化や素材を日本風に咀嚼し、混交するという日本映画も多数誕生している。ジャック・フェデーの『ミモザ館』から着想を得た山中貞雄の『人情紙風船』やウィリアム・シェイクスピアの『リア王』が原作とされる黒澤明の『乱』などがそれにあたる。",
"title": "背景"
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{
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"text": "日本における初の映画上映は、鉄砲商人であった高橋信治によって1896年11月、神戸の神港倶楽部に始まった。これはトーマス・エジソンのキネトスコープによるものである。リュミエール兄弟のシネマトグラフによるスクリーン上映は1897年1月に稲畑勝太郎によって京都電燈株式会社の当時の本社(現在の元・立誠小学校の敷地)の中庭にて初めて行われた。続いて1897年2月に初めての「有料上映」が稲畑勝太郎によって大阪にて行われた。同年3月には東京でキネトスコープを改良したヴァイタスコープが公開され、人気を博した。谷崎潤一郎は自著『幼少時代』において「一巻のフィルムの両端をつなぎ合わせ、同じ場面を何回も繰り返し映せるもの」と評している。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "その後浅野四郎によっていくつかの短編映画が撮られ、1898年、日本で初めて映画が撮影された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 8,
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"text": "1898年には先に挙げた『化け地蔵』『死人の蘇生』が、翌1899年には『芸者の手踊り』(東京歌舞伎座)が公開された。これは小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。同年には1巻70フィートの日本最初の劇映画となる『ピストル強盗清水定吉』が駒田好洋によって撮影され、日本初の映画俳優として新派の横山運平が起用された。積極的に映画と接触しようとした新派とは異なり歌舞伎などは映画を「泥芝居」と蔑み、原作や役者の提供に躊躇する時代であった。現存する最も古い日本映画としては同年柴田常吉によって撮影された『紅葉狩』がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1903年には吉沢商店が浅草に日本で最初となる映画専門館「電気館」を設置した。翌1904年に日露戦争が勃発すると実写撮影班を現地中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "1908年に発表された『本能寺合戦』は最初の本格的な劇映画であり、横田商会の依頼で本作品を撮り上げた牧野省三は日本最初の映画監督として名を残している。京都に浄瑠璃小屋を所有し、狂言方として活動していた牧野は作品の原作に用いられる浄瑠璃を空で暗記していたことから、脚本を用いる事無く、撮影にあたったと言われている。翌年には歌舞伎俳優の尾上松之助が主演した『碁盤忠信』が大ヒットとなり、「目玉の松ちゃん」として日本最初のスターが誕生した。以降、尾上は14年間の俳優生活において千本を超える映画で主演を果たしている。中でも1910年に撮られた『忠臣蔵』は浄瑠璃、歌舞伎に続き、その後の日本映画においても欠かせない題材として庶民の人気であり続けた。後年、牧野はその功績を称えられ、アメリカの映画監督D・W・グリフィスによりグリフィス・マキノという称号を与えられている。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1912年、横田商会・吉沢商店・M・パテー商会・福宝堂という4つの映画会社がトラスト合同を行い、日本活動写真株式会社、略称日活を発足させた。日活は従来の家内工業的な小規模な製作から一線を画す、日本初の本格的な映画会社となった。東京向島の向島撮影所、京都二条城西櫓下の関西撮影所の2箇所の撮影所を設け、東京では新派(後の現代劇)を、京都では旧劇(後の時代劇)を製作した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "ここまでの多くのフィルムは演劇的演出の再現に留まり、映画として独自の技法が試みられるようになるのは1910年代後半に入ってからである。井上正夫が1917年に製作した『大尉の娘』ではクローズアップや移動技法、カットバックといった技法が導入されている。この頃より呼称も「活動写真」から「映画」へと次第に変遷が始まり、1922年ごろまでには映画という言葉が一般庶民にも深く浸透するようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 13,
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"text": "一方映画評論においては、吉沢商店が1909年に発表した初の映画雑誌『活動写真界』などが既にあったが、1917年に帰山教正が『活動写真劇の創作と撮影法』と題する理論書を発表したのをきっかけに1918年には日本映画の近代化運動「純映画劇運動」が起こる。映画芸術協会を主宰した帰山は同書で映画は演劇の模倣であってはならないと説き、舞台脚本をシナリオ、女形を女優、弁士を字幕として呼称した。帰山の作品には日本初の女優花柳はるみを使った『生の輝き』、日本初の女性のヌードシーンを撮影した『幻影の女』などがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "その背景には第一次世界大戦が終結し、ハリウッドの映画会社が徐々に日本へと進出してきた影響は否定できない。こうした動きに合わせるように国活、大活といった映画会社が相次いで設立され、1920年には歌舞伎を本業としていた松竹が松竹キネマ合名会社を設立し製作に乗り出した。特に松竹が建てた俳優養成所はハリウッドのスター・システムを採用し、『路上の霊魂』の英百合子や『虞美人草』の栗島すみ子など、多数の女優を輩出した。また、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響も大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "この純映画劇運動は1923年の関東大震災で、現代劇映画を製作していた東京のあらゆる撮影所が壊滅し、旧劇の中心地・京都での撮影のみが行われる状況が発生したことにより突然の終焉を迎えることとなった。1926年に入ると松竹による現代劇が本格化し、牛原虚彦による『彼と東京』(1928年)、『陸の王者』(1928年)など、ごく普通の庶民を等身大で描く都会風現代劇が出現した。また、五所平之助による『村の花嫁』(1928年)や『伊豆の踊子』(1933年)のように、田舎の田園を舞台とした牧歌的、叙情的な作品も登場している。エルンスト・ルビッチに強い影響を受けた小津安二郎は、『大学は出たけれど』(1929年)、『落第はしたけれど』(1930年)など庶民を主人公とした人生観を詰め込んだ作品を数多く残した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "こうした松竹の動きに遅れを取った日活は、1923年の震災による向島撮影所の閉鎖を受けてようやく女形から女優への移行を果たす。翌年には京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映京都撮影所)が開設される。日活現代劇の代表ともされる溝口健二はハリウッドで学んだ撮影技法を駆使し、『霧の港』(1923年)、『血と霊』(1923年)、『狂恋の女師匠』(1926年)など、様々なジャンルを試み、後礎を築いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "他方、内務省警保局による活動写真検閲なども行われ、衣笠貞之助の『日輪』(1925年)などは作品に当局の介入が入り、大幅な編集を余儀なくされ、改作改題の上公開となるなど、検閲の影響により興行的に失敗となった作品も少なくない。しかし、衣笠はその後も精力的に活動を続け、日本最初の前衛映画となる『狂つた一頁』(1926年)や欧州で高い評価を受けた『十字路』(1928年)など、「純映画劇運動」の目的、目標を達成させている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "時代劇に目を移すと、尾上主演一千本記念作品『荒木又右衛門』(1925年)などが取り上げられるが、従来の悠々とした口上を述べ、人を斬るといったスタイルから、よりスピーディで激しい殺陣が求められるようになっていた。こうしたスタイルをいち早く確立した阪東妻三郎は『雄呂血』(1925年)で人気を博す。そのほか大河内傳次郎による『丹下左膳』や、市川右太衛門の『旗本退屈男』、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』など、新しい時代劇が多数登場した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "1927年(昭和2年)、映画実際家連盟「友達の会」が発足。松竹蒲田から牛原虚彦、島津保次郎、大久保忠素らが、日活からは村田実、溝口健二、岡田嘉子らが、阪妻プロからは鈴木重吉、川浪良太、近藤伊与吉らが参加した。目立った活動はなかったが、製作会社を横断する映画業界人の組織であったことは特筆すべきことであり、文壇界から低くみられがちな映画界の地位向上を図る契機にもなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "映像に対し、音声を加えようとする試みは映画の移入とほぼ同時になされており、河浦謙一は1902年にレコードの回転とフィルムの回転を同期させることによるトーキーの実験を行っている。これらの試みが商業的な脚光を浴びるのは1927年の昭和キネマによるミナ・トーキーであった。アメリカのリー・ド・フォレストからトーキー技術の権利を購入した皆川芳造によるものである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "ミナ・トーキーを使用した小山内薫による『黎明』は技術的な問題から公開には至らず、日本最初のトーキー映画は1929年の『大尉の娘』であった。同年、ミナ・トーキーとは別方式、東條政生のイーストフォン・トーキーを採用しようと研究したが、結局、独自のディスク式トーキーでマキノ正博が監督した『戻橋』が公開された。イーストフォンは一般には浸透しなかった。その後も溝口健二による『ふるさと』(1930年)などが続いたが、字幕と音声を併用したいわゆるパート・トーキーの形式が一般的で、完全なトーキー映画として最初に登場したのは五所平之助の『マダムと女房』(1931年)であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "資本力のある大会社はこの時代、積極的に無声映画からトーキー映画へと移行を計り、一部例外として小津安二郎のようにトーキーに懐疑的な目を向ける者もいた。1935年には完全に移行を成し遂げるが、財政的に移行の難しい独立プロは1938年ごろまで無声映画を撮り続けた。この結果小スタジオは続々と大手映画会社へ吸収されていく。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、無声映画時代が終了しても海外映画の解説訳として存続が計られた弁士も、1931年『モロッコ』ではじめて採用された字幕スーパーの登場により、不要な存在となった。既得権益を守ろうとした弁士はトーキー侵出の妨害活動に出たが、時代の流れに逆らう事はもはや不可能となり、弁士の存在は忘れられていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "こうしたトーキーの出現は新しい俳優の出現や新ジャンルの確立を齎した。落語や声帯模写など、語り芸を生業とする者がスクリーンへ登場し始め、榎本健一、古川緑波などといった喜劇俳優が台頭するようになった。また、『愛染かつら』のように主題歌の流行を通して人気を博す映画も現れるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "トーキー映画の出現は撮影期間の長期化という現象を齎すこととなった。これがきっかけとなり日活は1934年に多摩川へ、松竹は1936年に大船へそれぞれ撮影所を移転・拡充した。それぞれの特徴として日活は重厚で泥臭い作風を、松竹は洗練された都会風の作風を得意としていた。日活を代表する監督としては『人生劇場・青春篇』(1936年)、『土』(1939年)の内田吐夢、『蒼氓』(1937年)、『阿部一族』(1938年)の熊谷久虎、松竹を代表する監督としては『隣の八重ちゃん』(1934年)の島津保次郎、『愛染かつら』(1938年)、『一人息子』(1936年)の野村浩将、『有りがたうさん』(1936年)、『花形選手』(1937年)の清水宏などが挙げられる。こうした一連の作風に疑問を投げかけた溝口健二は『浪華悲歌』(1936年)、『祇園の姉妹』(1936年)などで方言を用いた作品を撮り上げ、既存の「映画は東京弁でなければならぬ」という概念を打ち崩していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "1930年に設立されたPCLは1933年より映画製作業界への参入を表明した。黒澤明や本多猪四郎、瀧口修造、井深大など、多数のスタッフを集め、日本で最初のプロデューサー・システムを採用した会社となった。初期には木村荘十二の『河向ふの青春』(1933年)、『兄いもうと』(1936年)や松竹より移籍してきた成瀬巳喜男の『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、石田民三の『花ちりぬ』(1938年)などが人気を博した。特に成瀬の『妻よ薔薇のやうに』は海外進出も実現し、ニューヨークで一般公開された初の日本映画となった。当初、PCLは配給館を所有していなかった事から、興行的な苦戦を強いられたが、1937年、小林一三などの働きにより「写真化学研究所」、京都の大沢商会の映画スタジオである「J.O.スタヂオ」、阪急資本による配給会社「東宝映画配給」などと合併し、東宝映画として配給上の困難を解消し、日活、松竹に続く大映画会社となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1937年、日本と当時のナチス・ドイツとの間で、一本の国策的映画が製作された。山岳映画を得意としたドイツのアーノルド・ファンクと伊丹万作の共同監督で製作された『新しき土』である。日本での興行的な成績では失敗に終わったが、主演女優として典型的な日本人女性大和光子を演じた原節子はその容貌と演技が絶賛され、戦時下の日本映画において欠かせない女優となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦(太平洋戦争)による国民と国土の疲弊は、映画産業界においても、甚大な影響を与えていた。1941年(昭和16年)には、当時アメリカに次ぐ世界第2位の製作数である年間500本を超える映画を製作していた日本も、1945年(昭和20年)には僅か26本の製作となっており、その影響が窺える。また、1939年(昭和14年)に成立した映画法により、製作と配給が許可制に、監督と俳優は登録制となり、製作される作品についても、脚本段階で検閲が入った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "さらにABCD包囲網による経済制裁が発動すると、アメリカからのフィルム輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされ、厳しい使用制限がかけられ、映画業界にとって死活問題となった。東宝はこれらの状況を打破するため、軍部と積極的に関わる事で活路を見出したが、日活は1942年(昭和17年)に永田雅一の主導による合併に巻き込まれて大日本映画となり、日活の名は消えていった。戦前数多く存在した独立スタジオは、閉鎖、合併を繰返し、映画産業の規模は急速に縮小し、東宝、松竹、大映の3社を残すのみとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "当然、戦争を主題とした映画が主として製作され、田坂具隆は『五人の斥候兵』(1938年)で、戦場における信頼をテーマとした作品を撮り、ヴェネツィア国際映画祭で入賞を果たした。皇紀2600年記念の阿部豊の『燃ゆる大空』(1940年)では実写に重きを置いた航空映画として、陸軍航空本部の監修により実物の戦闘機や爆撃機が撮影に使用された。吉村公三郎が製作した『間諜未だ死せず』(1942年)は戦意高揚を訴える映画が続く中で、スパイへの警戒を訴えた珍しい切り口の映画となった。また、山本嘉次郎の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)では、真珠湾攻撃を再現した特撮担当の円谷英二による精巧なミニチュアが話題を呼び、軍神加藤建夫と飛行第64戦隊を描いた『加藤隼戦闘隊』(1944年)では、陸軍の全面協力により実物の戦闘機や爆撃機および連合国軍の鹵獲機が多数出演し、円谷の特撮と高度な合成技術とともに迫力ある作品となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "厳しい検閲の目をかわし、反戦を訴える作品を製作した監督としては亀井文夫が挙げられる。『支那事変』(1937年)や『上海』(1938年)などでは表向きは戦意高揚映画と謡いつつも、日本軍の行軍を見つめる民衆や、疲弊した兵の表情をフィルムに収めるなど、意図的な映像を流した。続く作品『戦ふ兵隊』(1938年)は上映禁止となり、亀井は免許剥奪の上検挙されてしまう。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また、戦争を主題としない作品についても、荒唐無稽な娯楽向け作品が一律禁止され、稲垣浩の『宮本武蔵』や溝口健二の『元禄忠臣蔵』など、厳粛な叙事詩的作品が製作された。1940年代前半に登場した黒澤明は『姿三四郎』(1943年)においてその頭角を現した。1945年(昭和20年)に最終決戦を呼びかけるために製作が検討されていたジャンヌ・ダルクを原作とした『荒姫様』は、同年の日本の敗戦によりお蔵入りとなっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "1937年8月、映画の巻頭に「挙国一致」「銃後を護れ」などの1枚タイトルを挿入した。1944年12月7日、映配は、生フィルム欠乏のために、731の映画館(約40%)に配給休止を宣告した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "外地における映画は、獲得した地を日本化するための有効な手段と捉えられ、積極的な上映が実施された。台湾、朝鮮、満州、インドネシアなどにおける各地の映画史を簡単に以下に記す。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日清戦争により獲得した台湾で高松豊次郎により最初の映画上映が行われたのは1901年である。台湾において最初に製作がなされたのは1921年で、『預防霍乱』という食品衛生啓蒙映画であった。また、1925年には台湾人の李松峰により『誰之過』が製作された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "日本で興った「純映画劇運動」において、台湾という「辺境の地」は格好の題材となり、枝正義郎の『哀の曲』(1919年)、田坂具隆の『阿里山の侠児』(1927年)、張雲鶴の『血痕』(1929年)、千葉泰樹・安藤太郎の『義人呉鳳』(1932年)など、台湾を舞台とする様々な作品が撮られている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "しかし、現地人による映画製作はそれほど活性化せず、1941年に台湾映画協会が設立され、管理統制が厳しくなると、その傾向は終戦まで続いた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1910年に併合した朝鮮における映画は1919年に製作された金陶山の『義理的仇討』を嚆矢とした。日本政府は当初、尹白南による貯蓄奨励映画『月下の誓い』(1923年)など、台湾と同じく映画による教育啓蒙を試みたが、自身の手による映画製作の気運が強く、1924年以降、日本人が設立した朝鮮キネマに対抗するかの如く、独立スタジオが林立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1926年に羅雲奎が製作した『アリラン』は、民族主義の高揚における重要な役割を果たした。『映画「アリラン」の再評価』(1997年、趙熙文)など、津守秀一が監督したという説も存在する。その他、『金色夜叉』の翻案で、李慶孫の『長恨夢』(1926年)や李圭煥が製作した反日的内容の『主なき渡し舟』(1932年)などが話題を呼んだ。また、李明雨によって製作された最初のトーキー映画『春香伝』は1935年に登場して以降何度もリメイクされ、韓国における国民的映画のひとつに発展している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本が軍国主義へ傾くにつれ、厳しい検閲が敷かれるようになり朝鮮での映画生産は減少していき、1940年には日本と同じく映画法が実施されるに至った。1942年には全ての映画会社が閉鎖され、朝鮮総督府による朝映が設立された。この時代は主に日本人監督が現地のスタッフを使用して映画を製作する、というスタイルが主となり、日夏英太郎の『君と僕』(1941年)、豊田四郎の『若き姿』(1943年)、今井正の『望楼の決死隊』(1943年)などが公開された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日本が1932年に建国した満州国では、1936年に満州映画協会(満映)が設立され、映画製作が執り行われた。満映では日本の文化啓蒙を目的とした映画と一般の劇映画が製作され、一部は日本に持ち込まれるなどした。1940年に『支那の夜』に登場した李香蘭(山口淑子)はその美貌と歌唱力、演技力などで一躍スターとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1942年ごろより、自由な映画製作を求め、木村荘十二や内田吐夢など日本人映画監督が次々と渡満してくる。全編がロシア語で構成された島津保次郎の『私の鶯』(1943年)など、自由闊達な映画が企画・製作された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1945年に満州国が崩壊すると満映の施設はソビエト連邦に接収され、満映スタッフは日本や台湾、香港へと散り散りに去っていった。日本では根岸寛一やマキノ光雄などによりこうした満映引揚者が迎え入れられ、後の東映の基礎を形作った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "上海では1910年代より中国映画の製作地としてその名が知られており、1937年に日本による占領が始まると、日本軍はその映画管理を川喜多長政に要請した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "川喜多は1939年、上海の映画会社を併合し、中華電影を設立した。作品としては満映との合作で製作された李香蘭主演の『萬世流芳』(1943年)などがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1945年、日本が敗戦した後は上海で日本人と共に映画製作を行っていた中国人監督の大部分が香港へ亡命し、後の香港における映画産業発展の礎となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "インドネシアでは現地人による映画撮影が禁止され、日本軍による啓蒙映画が主に製作された。また、日本軍の捕虜虐待を隠蔽する目的でいくつかの偽ドキュメンタリー映画が製作されるなどした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "有名なものとしては1944年に日夏英太郎がジャカルタで製作した『Calling Australia』があり、オーストラリア人捕虜が撮影した映像として連合国軍側へ送付された。後にオーストラリアは捕虜として出演した者を集め、『Calling Australia』の虚偽を告発するドキュメンタリーを製作している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1945年、日本が第二次世界大戦に敗北すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本間接統治が開始された。日本で製作される映画はGHQの下部組織CIE(民間情報教育局)によって管理されることとなった。この管理体制は1952年まで続き、日本映画界において、初めて外国機関による管理と制御が実施された特異な期間となった。企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ製作がなされた。例えば、黒澤明の『暁の脱走』(1950年)は当初、山口淑子(満映の李香蘭)主演の朝鮮人従軍慰安婦を描いた作品としていたが、数十回に及ぶCIEの検閲により、原形を留めぬ作品となってしまっている。完成したフィルムはCCD(民間検閲支隊)により二度目の検閲が行われた。また、この検閲は過去の映画作品に遡っても実施された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画製作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、川喜多長政、根岸寛一、城戸四郎といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。しかし他のジャンルにおける追及と同じく、映画業界においても戦争責任の所在は曖昧に処理され、上記の処置は1950年には解除されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "戦後、最初に公開された映画は佐々木康による『そよかぜ』で、並木路子による主題歌『リンゴの唄』が大ヒットした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "CIEのデヴィッド・コンデによって1945年に発布された製作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の製作は事実上不可能となった。この影響で時代劇を生業としていた俳優は現代劇に出演するようになる。片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』、阪東妻三郎の『破れ太鼓』、稲垣浩の『手をつなぐ子等』、伊藤大輔の『王将』などがそれにあたる。",
"title": "歴史"
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"text": "また、GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数製作された。その中で黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年)、今井正の『青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。佐々木康の『はたちの青春』(1946年)では日本映画最初のキスシーンが撮られた。",
"title": "歴史"
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"text": "1945年11月16日、GHQは「非民主主義的映画排除方指令に関する覚書」を交付した。11月19日、超国家主義的・軍国主義的・封建主義的思想の映画236本の上映禁止・焼却指令を発表した。",
"title": "歴史"
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"text": "1946年1月28日、GHQは「映画検閲に関する覚書」を出し、民間検閲課による検閲を開始。8月13日、記録映画『日本の悲劇』上映禁止を通告。",
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"text": "1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、日本国は主権を回復した。翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。また、1958年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "GHQによって制限されていた戦争映画が製作されはじめ、関川秀雄の『きけ、わだつみの声』(1950年)、今井正の『ひめゆりの塔』(1953年)、木下恵介の『二十四の瞳』(1954年)、市川崑の『ビルマの竪琴』(1956年)など、戦争を単純悪と捉えた作品ではなく、戦争体験の悲壮さや感傷的回顧を目的とした作品が次々と登場し、社会的影響となった。その他、『戦艦大和』(1953年)や『太平洋の鷲』(1953年)といったノスタルジア映画も量産された。こうした中で嵐寛寿郎が明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』(1957年)といった作品までもが登場した。神聖にして侵すべからずとされた天皇の商品化という、戦前には考えられなかった事態であった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年『西鶴一代女』、1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の『七人の侍』もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞するなど、極東の国から届けられたフィルムに世界中が驚嘆した。",
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"text": "こうした映画の量産体制は東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって牽引した。各社の動向は以下の通り。",
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"text": "新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。中村錦之助、東千代之介出演の『新諸国物語 笛吹童子』シリーズ(1954年・三部作)、『新諸国物語 紅孔雀』シリーズ(1954年 - 1955年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介、大友柳太朗出演の、大人向け時代劇も活性化。中村錦之助、大川橋蔵主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。現代劇でも東映ニューフェイスから、中原ひとみ、高倉健、水木襄、佐久間良子、梅宮辰夫、千葉真一などの主演スターが輩出した。今井正監督『米』(1957年)、『純愛物語』(同)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』を公開するなど、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。",
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"paragraph_id": 61,
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"text": "森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、フランキー堺出演の社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支えた。今井正監督『また逢う日まで』(1950年)、ヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞した稲垣浩監督『無法松の一生』(1958年)、成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955年)、岡本喜八監督『独立愚連隊』(1959年)、東宝争議により一時東宝を離れていた黒澤明は、『生きる』(1952年)を皮切りに、『七人の侍』(1954年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)などが大ヒットした。黒澤は莫大な製作費をかけるため、1959年に黒澤プロダクションが発足されるが、東宝とのパートナーシップは続いた。『七人の侍』も公開されていた1954年には『ゴジラ』が大成功を収め、シリーズ化されて1975年まで続くドル箱シリーズとなった。以降、小田基義監督+円谷英二特撮監督『透明人間』(1954年)、本多猪四郎監督+円谷英二特撮監督『獣人雪男』(1955年)、など特撮作品でヒットを飛ばす。東宝映画1000本の記念作品は特撮映画で、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による『日本誕生』(1959年)だった。",
"title": "歴史"
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"text": "大庭秀雄監督による『君の名は』(1953年 - 1954年)、今井正監督『にごりえ』(1953年)、『キクとイサム』(1959年)をはじめ文芸作が大ヒット。小林正樹監督『人間の條件』(1959年 - 1962年)ではヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞を受賞した。さらに福田晴一監督・伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットした。木下惠介監督が『カルメン故郷に帰る』(1951年)、『日本の悲劇』(1953年)、『二十四の瞳』『女の園』(1954年)、『野菊の如き君なりき』(1955年)、『太陽とバラ』(1956年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、『楢山節考』(1958年)などや、小津安二郎監督も『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、『彼岸花』(1958年)、『東京物語』(1953年)などを発表した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "1953年の製作再開以降、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年)などの文藝作を製作していた。五社協定により他社からスターを引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠、二谷英明、川地民夫、待田京介、和田浩治などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作・配給した。なかでも古川卓己監督『太陽の季節』(1956年)、中平康監督『狂った果実』(1956年)、井上梅次監督『嵐を呼ぶ男』(1957年)、田坂具隆監督『陽のあたる坂道』、蔵原惟繕監督『風速40米』(1958年)などの石原裕次郎主演作が一世を風靡する。川島雄三監督フランキー堺主演の『幕末太陽傳』(1957年)などの歴史に残る作品も残している。",
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"text": "1950年代から1960年代前半にかけて男優では長谷川一夫、市川雷蔵、女優では京マチ子、山本富士子、若尾文子と、さらに他社専属やフリーの高峰秀子、鶴田浩二、岸惠子らも出演し、溝口健二監督『近松物語』(1954年)、吉村公三郎監督『夜の河』(1956年)などの名作を多数送り出した。中でも市川主演作が人気を呼び、森一生監督『薄桜記』(1959年)、伊藤大輔監督『弁天小僧』(1959年)などの時代劇の他、市川崑監督『炎上』などの文藝作もヒットした。",
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"text": "このほか、新藤兼人監督『原爆の子』(1952年)、山本薩夫監督『真空地帯』(1953年)、今井正監督『真昼の暗黒』(1956年)などの独立系映画も活発に製作・公開。1957年には勅使河原宏や羽仁進などの若手映画人らがグループ「シネマ57」を結成し、実験映画の製作などを行っていた。",
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"text": "1960年に日本映画史上で最高製作本数となる547本を製作し、ピークを迎えた。そのほとんどは大手6社によるプログラムピクチャーで、この年以降、映画産業に翳りが見え隠れするようになった。観客動員数はこれより先、1958年の11億人強を最高に、急激に下降し、1963年には半分以下の5億人強となった。",
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"text": "この背景には1953年より登場したテレビの急速な普及がある。テレビは1959年の皇太子結婚をきっかけに一般に広く浸透し、1964年の東京オリンピックでその勢いは加速。またこの時期フジテレビに在籍していた五社英雄が松竹へ出向し『三匹の侍』で映画監督としてデビュー。テレビ畑出身、映画界での下積み経験のない人材が大手映画作品に進出していく契機となる。1961年には新東宝が製作停止、日活は1969年に撮影所を売却、1971年に製作停止となった。",
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"text": "同時に、中平康、鈴木清順、増村保造、蔵原惟繕、石井輝男、岡本喜八、今村昌平、松本俊夫、大島渚、高橋治、山田洋次、吉田喜重、篠田正浩、山下耕作、五社英雄、深作欣二、三隅研次、工藤栄一、浦山桐郎、熊井啓、勅使河原宏、若松孝二といった個性的で多種多様な若手監督が活躍した時代でもあった。",
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"text": "観客動員No.1となった東映は、1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、製作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは鶴田浩二、高倉健、藤純子らを擁して仁侠ブームを作った。このジャンルの開祖は沢島忠の『人生劇場 飛車角』(1963年)といわれ、義理と人情の板挟みにあいながらも自己犠牲を貫く内容だった。以降、『博徒』、『日本侠客伝』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』、『緋牡丹博徒』といった任侠シリーズは人気を博し、1972年頃まで製作され、内藤誠の『不良番長シリーズ』もヒットした。一方で1969年にはオールスターキャストの『日本暗殺秘録』(主演:千葉真一・監督:中島貞夫)を封切り公開し、東大紛争・安保闘争など騒然とした当時の世相を反映させている。",
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"paragraph_id": 70,
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"text": "東宝では社長シリーズに続き、古沢憲吾による植木等主演の無責任シリーズ、日本一の男シリーズなどを開始し、陽気なミュージカル喜劇として人気を博した。また、加山雄三主演の若大将シリーズでは松竹が得意としたスポーツマン大学生もののお株を奪うヒットを見せた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 71,
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"text": "他方で黒澤明や怪獣映画も人気を堅持し、黒澤は引き続き黒澤プロダクションとの東宝共同製作で、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『天国と地獄』(1963年)、『赤ひげ』(1965年)などの作品を発表した。1969年にアメリカの20世紀フォックス社の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』の脚本と監督を依頼された黒澤は、最終編集権が監督にないハリウッドのシステムに反発。撮影が容易に進まず、激しい心労の末に解任され、自殺未遂事件を起こす。また、1970年には初のカラー映画『どですかでん』を製作している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 72,
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"text": "岡本喜八による『独立愚連隊』(1959年)で戦争モノにも進出し、多彩なジャンルをアピールした。岡本はその後の『日本のいちばん長い日』(1967年)で東宝と製作主張を巡り訣別を告げ、私費で『肉弾』(1968年)を製作している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 73,
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"text": "その他代表作としては、市川崑総監督『東京オリンピック』(1965年)、成瀬巳喜男監督の『女の中にいる他人』(1966年)、『乱れ雲』(1967年)などが挙げられる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 74,
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"text": "東宝は1961年ごろにロサンジェルスの老舗映画館「ラ・ブレア」を買い取り、自社作品の上映を開始し、同館は米国における日本映画のショーケースとして機能した。60年代には同様にニューヨークのタイムズスクエアにも専門館を所持した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "「大船調」といわれた松竹お得意のメロドラマ路線が、収益を呼べず、1960年に城戸四郎社長が辞任。監査役の大谷博が社長となった。松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた助監督群が相次いでデビューし、大島渚監督『青春残酷物語』(1960年)、『日本の夜と霧』(1960年)、吉田喜重監督『ろくでなし』(1960年)、『秋津温泉』(1962年)、篠田正浩監督『恋の片道切符』(1960年)、『暗殺』(1964年)などの斬新な作品群を発表するが、日米安保改定問題を扱った大島渚監督『日本の夜と霧』が封切り4日後に松竹によって興行を打ち切られる。松竹を辞めた大島渚は独立プロ創造社を起こすなど、松竹ヌーヴェルヴァーグの監督たちは後に松竹を後にした。野村芳太郎は『拝啓天皇陛下様』(1963年)などの人情喜劇、コント55号主演映画などを監督。山田洋次監督は『下町の太陽』(1963年)、『馬鹿まるだし』(1964年)、『霧の旗』(1965年)などの作品を経て、1969年より「男はつらいよシリーズ」を始める。代表作には、小津安二郎監督『秋日和』(1960年)、『秋刀魚の味』(1962年)、木下惠介監督『笛吹川』(1960年)、『永遠の人』(1961年)、『二人で歩いた幾春秋』(1962年)、『死闘の伝説』(1963年)、『香華』(1964年)、渋谷実監督『もず』(1961年)、小林正樹監督『切腹』『からみ合い』(1962年)、松山善三監督『山河あり』(1962年)、羽仁進監督『充たされた生活』(1962年)、中村登監督『古都』(1963年)、『紀ノ川』『暖春』(1966年)、『智恵子抄』『惜春』(1967年)、『わが恋わが歌』(1969年)、吉村公三郎監督の『眠れる美女』(1968年)、蔵原惟繕監督の『栄光への5000キロ』(1969年)などがある。『宇宙大怪獣ギララ』(1967年)、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1960年代に引き続き、無国籍映画と云われた和製西部劇(小林旭の渡り鳥シリーズや流れ者シリーズなど)が大ヒットするが、本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、アクション映画のマンネリ化、企画不足、石原裕次郎と小林の人気低下、社長・堀久作のワンマン体質からくる放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化。その1960年代には吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹、渡哲也、山本陽子、和泉雅子、松原智恵子、藤竜也、梶芽衣子、杉良太郎らを輩出したが、退潮を食い止めることはできなかった。一方、今村昌平が『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)、鈴木清順が『東京流れ者』、『けんかえれじい』(1966年)などを制作したが、『殺しの烙印』(1967年)に不満を持った堀から解雇される。このほか、監督では熊井啓、浦山桐郎らを擁した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "1960年代に入ると勝新太郎・田宮二郎が頭角を現すが、長谷川一夫・叶順子の引退(1963年)、永田雅一社長によって五社協定にかけられた山本富士子(1963年)・田宮二郎(1968年)の退社、市川雷蔵の急逝(1969年)で観客数の落ち込みが深刻になり、永田のワンマンな放漫経営もあって業績は悪化。日本初の70ミリ映画『釈迦』(1961年)や『秦・始皇帝』(1962年)など大作映画路線も数作で終わった。この年代の大映の代表作には、市川崑監督の『おとうと』『ぼんち』(1960年)、『黒い十人の女』(1961年)、『私は二歳』『破戒』(1962年)、『雪之丞変化』(1963年)、増村保造監督の『偽大学生』(1960年)、『妻は告白する』(1961年)、『清作の妻』(1965年)、『華岡青洲の妻』(1967年)、三隅研次監督の『斬る』(1962年)、『剣』(1964年)、『剣鬼』(1965年)、吉村公三郎監督の『その夜は忘れない』(1962年)、『越前竹人形』(1963年)、川島雄三監督の『雁の寺』(1962年)、『しとやかな獣』(1963年)、山本薩夫監督の『傷だらけの山河』(1964年)、『白い巨塔』『氷点』(1966年)、森一生監督の『ある殺し屋』(1967年)などがある。ガメラシリーズ(1965年 - 1971年)、大魔神シリーズ(全て1966年・3作)『妖怪大戦争』(1968年)などの子供向け特撮映画も発表し、中でもガメラシリーズに至っては東宝のゴジラシリーズと並ぶ怪獣映画の二枚看板にまで発展するに至るほどの人気シリーズとなった。主な人気シリーズは以下の通り。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 78,
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"text": "大手企業によるブロックブッキング制の影響があったものの、文芸プロダクションにんじんくらぶが複数の作品を制作・公開しており、1966年の日本・台湾合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、主演の千葉真一と監督の深作欣二が東映に籍を置きながら参加した作品である。一方映画産業の斜陽化と共に、監督が大企業を離れて独立プロで製作を行う、といったことが見られるようになり、新藤兼人の『裸の島』(1960年)、『鬼婆』(1964年)、『裸の十九才』(1970年)や、勅使河原宏と安部公房による『おとし穴』(1962年)、『砂の女』(1964年)、『他人の顔』(1966年)といったブラックユーモアに満ちた作品が出現した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1961年に、日本アート・シアター・ギルド (ATG) 設立(- 1992年)。非商業主義的な芸術作品を製作・配給した。第1回配給作品はイェジー・カヴァレロヴィチ監督『尼僧ヨアンナ』(1962年4月)。初の日本映画作品は勅使河原宏監督『おとし穴』(1962年7月)。以降、1968年には1000万映画の製作を開始し、新藤兼人、羽仁進などの独立系監督のほか、三島由紀夫(作家)、実相寺昭雄(テレビ演出家)、寺山修司(演劇)、田原総一朗(ジャーナリスト)、清水邦夫(演劇)などの異業種出身監督、黒木和雄、松本俊夫などの新人など、多くの出身者や作風に門戸を広げた。また1960年代後半には、ピンク映画出身の若松孝二など、そして大手五社映画を辞した大島渚、今村昌平、吉田喜重、篠田正浩、岡本喜八、熊井啓、増村保造、斎藤耕一またはフリーの市川崑などにも製作と発表の場を与えた功績も大きい。多くの作品がキネマ旬報ベストテンに選定されるなど高い評価を受け、70年代はもちろん、80年代後半まで大きな潮流となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "1962年、手塚治虫が虫プロダクションを設立。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "1970年代も日本映画の集客力の凋落は止まらず、内訳で見た場合、1971年に公開された367本のうち、大手5社の占める割合が約4割に激減した。今日独り勝ちが続く東宝でさえ厳しく、12代目東宝社長・石田敏彦は「松岡辰郎社長時代の1970年に20本みんなで選んだんですが、当たったのが『その人は女教師』(岩下志麻主演・出目昌伸監督)1本だけだった鮮烈な記憶があります」と述べている。このうち、大映は倒産し、後の1974年に徳間書店に買収された。逆に、低予算で製作可能なピンク映画や独立プロによる映画が躍進している。経営難に陥った日活は労働組合を中心に再建がなされ、1971年より日活ロマンポルノとしてロマンポルノ路線を断行した。また、スターシステムの崩壊により俳優は製作会社への所属から作品ごとの契約へと切り替わりが進んだ。前時代に活躍した監督についても、資本を海外に求めた黒澤や大島、ドキュメンタリーへ転進した今村など、徐々に消えていくこととなった。いわゆる、五社協定の終焉である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1950年代から1960年代にかけては、映画は10本作れば6本は黒字だったが、1970年代後半はヒット作は10本中2本程度になった。映画人口もピーク時の7分の1。映画がこれほど衰退した国は、世界に例がないと当時いわれた。あまりの衰退ぶりに映画業界から国から助成をという声が盛んに上がったが、1978年6月に日本映画製作者連盟の会長に就任した岡田茂が「金も出せば口も出すで、結局あちらの言いなりじゃ自ら首を絞めるようなものだ。地道に一本一本力を込めて、自力再生するしかない。もう東映だ、松竹だと妙な社風を振りかざして睨み合ってる時代じゃない。この斜陽対策を業界全体で考えなくてはならない」などと国からの支援を断固反対した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "その一方で1976年に角川春樹が映画製作に進出し、豊富な予算による制作とメディアミックスによる戦略化された宣伝を展開。封切り公開された作品は立て続けに大ヒットし続け、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破り、角川映画の勢いは1980年代半ばまで続いた。アニメーションやドキュメンタリーの分野は発展し、後の礎を築いた。1977年に東映が配給した『宇宙戦艦ヤマト』では日本映画で初といわれる徹夜組が出た。1979年には『銀河鉄道999』(東映製作配給)が公開され、1979年度の邦画の邦画配収第一位となり、アニメ映画史上初の快挙となった。アニメ映画が評価されなかった時代に異例の評価を得る。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "学生運動の衰退に伴い、東映の任侠モノは色あせた映画と評されるようになった。伊藤俊也の『女囚さそりシリーズ』の公開後、1973年には実録路線の『仁義なき戦い』シリーズや、格闘映画の『ボディガード牙』シリーズなどが大ヒットし、以降次々とシリーズ化され、実録・格闘路線は経営を支える二本柱となった。特に千葉真一の格闘映画は欧米・東南アジアでも大ヒットした。1975年には日本国内では初めてのパニック映画である『新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では高い評価をされて大ヒットした。同年には松竹の『男はつらいよ』シリーズに対抗した『トラック野郎』が、『新幹線大爆破』より日本での興行収入を上回ったことからシリーズ化され、菅原文太はヤクザ映画から脱却するきっかけとなった。1978年には『柳生一族の陰謀』が大ヒットし、『赤穂城断絶』など次々と時代劇復興を掲げた作品が製作された。1970年代後半からは角川映画、オフィス・アカデミーなどの独立プロを盛んに取り込んだ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "松竹では1969年より開始された山田洋次による『男はつらいよ』のシリーズ化により国民的人気を勝ち取る事となった。このシリーズは30年近く、48本の映画が製作され、1983年、「世界最長の映画シリーズ」としてギネス・ワールド・レコーズに登録されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1976年の『犬神家の一族』を皮切りに、出版やテレビドラマ等との複合的効果を狙ったメディアミックスマーケティングを展開し、『人間の証明』、『野性の証明』、1979年の『戦国自衛隊』など、大作を立て続けに大ヒットさせた。『犬神家の一族』では製作を東宝、配給は東映など、以降の作品でも映画会社のそれぞれの強みのみを採用し、従来の映画界の枠を打ち破る独自の映画製作を進めていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "日活の転進はそれまで所属していた大物俳優や監督との訣別を意味した。小林旭や渡哲也は東映へ、宍戸錠はテレビへと活躍の場を求めている。逆に今まで機会のなかった新人監督や俳優が次々と出現し、業界の停滞期において、唯一といっていい人材育成の場所となった。日活ロマンポルノは1988年まで週に2本というペースで製作がなされ、神代辰巳、田中登、小沼勝、村川透、池田敏春、中原俊、黒沢直輔、金子修介といった多数の人材を輩出している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "1980年になると従来のスタジオシステムは崩壊し、大手が大作映画を全国の専属劇場で同時公開するという方式が成り立たなくなった。日活は1978年に社名を「にっかつ」に、1988年に「ロッポニカ」に変更し、ロマンポルノ路線からの脱皮を図ったが、うまく立ち行くことはできなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 89,
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"text": "1980年の第54回キネマ旬報ベスト・テンで話題を呼んだのは、ゲリラ的に製作・配給・興行した鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』が日本映画ベスト・テン1位を取ったことと、巨匠監督の作品に交じって大森一樹『ヒポクラテスたち』、橋浦方人『海潮音』、石井聰亙『狂い咲きサンダーロード』と、20~30歳代の若い監督作がベスト・テンに名を連ねたことだった。キネマ旬報ベスト・テン選考委員の一人である松田政男は「1980年は自主製作映画の最良のエネルギーを取り込むことに成功した一年だった。80年代に於ける日本映画転換のきざしを準備したと言える。それを担ったのはシネマプラセット・新生ATG・名画座チェーンの三者。この功績は大きい」と評した。名画座チェーンというのは、いずれも良心的な劇場(こや)として映画ファンに知られていた東京の並木座、池袋文芸坐、上板東映の三館を指し、「80年代はもうメジャーに任せておけない!」と、若手監督の自主製作バックアップに情熱を注いだ。並木座は土方鉄人監督の『戦争の犬たち』、文芸坐は山川直人監督の『アナザ・サイド』、上板東映は石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』の製作にも関わっている。横山博人監督の『純』は、並木座、文芸坐でのヒットを見た岡田茂東映社長がスケベ心を動かして東映で配給したといわれる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 90,
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"text": "邦画アニメ映画の好調が話題の中心になった2020年代の映画状況を考えるとき、その起点と見られるのは1977年の『宇宙戦艦ヤマト』であるが、《アニメ・ブーム》とマスメディアが騒いだのが1981年3月のことだった。この年、3月14日の同日封切で、松竹が『機動戦士ガンダム』、東宝が『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』『怪物くん 怪物ランドへの招待、東映が『世界名作童話 白鳥の湖』など東映まんがまつり、東映洋画?が『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』、日本ヘラルドが『おじゃまんが山田くん』、サンリオが『ユニコ』を公開し、各社アニメ作品のオンパレードとなり、映画界は\"3・14アニメ戦争\"などと呼ばれた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 91,
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"text": "酒井武史は『朝日ジャーナル』1982年7月の記事で「いま日本の映画界では一見奇妙な現象が起きています。映画人口は1981年についに1億5千万人を割りました。これは最盛期の14%に当たります。にも関わらず、邦画ニューウェーブの旗手たちといわれる新進。若手の監督たちが、話題作、問題作を引っさげて続々登場してきています」と論じ、同誌編集部が独断で、将来の日本映画を担うと期待する若手監督20人を選び、1982年7月に二週に渡り紹介している。ここで挙げられている20人は、長嶺高文、井筒和幸、森田芳光、浅尾政行、土方鉄人、井上真介、小栗康平、石山昭信、土橋亨、後藤俊夫、山川直人、石井聰亙、長崎しゅんいち、大森一樹、根岸吉太郎、横山博人、松原信吾、和泉聖治、保坂延彦、澤井信一郎である。",
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"paragraph_id": 92,
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"text": "1984年、伊丹十三(映画監督伊丹万作の息子)が51歳で『お葬式』で映画監督としてデビューし、当初は「映画の名前が良くない」などと、ほとんど映画館から上映を断られるほど知名度が低い状態であったが、最初は小さな映画館での上映から始まり徐々に高い評価をうけ上映館が拡大し、ついには日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして、実に30を超える映画賞を受賞する状態までになった。(翌1985年の『タンポポ』も佳作との評価する人が多いが)1987年の『マルサの女』は、同時代を取材しそれを巧みに取り込んだ作品で、社会現象化し世間はこの映画のことで話題しきりの状態となった。伊丹は日本映画に、伊丹独特のセンス、新しい切り口、(製作上の)新しい手法などを導入した。",
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"paragraph_id": 93,
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"text": "80年代終盤になると有名人を映画監督に担ぎ出す動きが相次ぎ、ミュージシャンや俳優から作家、画家などあらゆるジャンルの監督が出現したが、二作目のメガホンをとったのは北野武、坂東玉三郎、竹中直人などごく僅かであった。",
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"text": "一方、1970年代に沈黙してきた巨匠の復帰作品というものも見られ、代表的なものとしては黒澤明の『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)や鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『夢二』(1991年)や吉田喜重の『人間の約束』(1986年)、松本俊夫の『ドグラ・マグラ』(1988年)などがある。",
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"text": "この時期、特異な存在感を示したのが当時視聴率トップを走っていたフジテレビであった。フジテレビは映画に再参入すると『南極物語』(1983年)、『子猫物語』(1986年)の動物ものをヒットさせ、1980年代末からのバブル時代にはホイチョイ三部作と呼ばれる「トレンディ」な映画をヒットさせた。自局の映画番組での放映権が獲得しやすいこともあり、各局とも映画に参入するきっかけとなった。",
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"text": "映画業界の苦戦は続き、年間観客動員数は1996年に1億1957万人まで減少、洋画人気による洋高邦低の状況も顕著になり、1998年には年間配給収入シェアで邦画が30.2%まで落ち込んだ。",
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"text": "一方シネマコンプレックスが日本に定着した1990年代は、長期恒常的な不景気のあおりを受けつつも、1994年、長らく減少を続けていた映画館数がようやく増加の傾向に切り替わった。1960年から30年、全ての数値で減少し続けていた映画業界において、わずかながらではあるが、回復の兆しが見え始めた時期であるといえる。メディアミックスの動きが活発になり、ゲーム、漫画、アニメなどと連動した映画作品が増加した。製作委員会方式によるリスク分散の手法が一般化し、テレビ製作会社の映画事業参入が増加。2000年代の邦画復活の布石となった。",
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"text": "また、1950年来遠ざかっていた国際映画祭の話題もいくつか出現し、1997年、今村昌平の『うなぎ』がカンヌ映画祭のグランプリを、河瀬直美の『萌の朱雀』がカメラ・ドールを獲得した。ヴェネツィア映画祭では北野武の『HANA-BI』が金獅子賞を獲得し、マス・メディアにおいて「日本映画のルネッサンス」という標語まで誕生した。興行面においても周防正行の『Shall we ダンス?』などがアメリカをはじめとする諸国で成功を収めた。国内においても1997年に宮崎駿の『もののけ姫』が記録的なヒットとなるなど、明るい話題が続いた。",
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"text": "2001年には『千と千尋の神隠し』が当時の日本歴代興行収入第1位を記録。2003年、『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』が記録的ヒット。同年に『座頭市』が第60回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を、第28回トロント国際映画祭では観客賞を受賞。2004年には『誰も知らない』に出演した柳楽優弥が、第57回カンヌ国際映画祭にて史上最年少および日本人として初めての最優秀主演男優賞を獲得。2008年には『おくりびと』が事実上、日本映画として初の第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、快挙が続いた。ジャパニーズホラーとも呼ばれるホラー映画も海外で脚光を浴び、『呪怨』などがハリウッドでもリメイクされた。",
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"paragraph_id": 100,
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"text": "海外の映画監督の評価もあり、日本独自の映像表現が見直されるようになり、同時に、低迷する実写邦画の再建が模索された。洋画の興行収入の低迷という点もあるものの、2006年は21年ぶりに邦画の興行収入が洋画の興行収入を上回った(日本映画製作者連盟調査)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "2000年代の実写邦画復活の立役者は、『踊る大捜査線』シリーズに代表されるテレビ局の出資であった。しかし、テレビ局が出資した映画のCMを自局で大量に流し、情報番組などで宣伝している点があり、それに比例してテレビ局の口出しが増え、映画の自主性が薄れているとされる。放送法でテレビ局は番組以外の商品は、宣伝が自由にできるので製作してはならないという決まりがあるが、将来自局で流す映画のコマーシャルは放送法に違反しないため問題はないので、上記で挙げた過剰な宣伝はモラルの問題とされる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "2001年11月16日、文化芸術振興基本法が衆議院に提出され、同月30日衆参で可決した。法律の公布・施行は同年12月7日。この法律のメディア芸術の振興の項目(第9条)で、映画を含んだメディア芸術の製作・上映支援などのために必要な施策を講じることが明記され、これと連動する形で第35条で地方公共団体によるバックアップも明記された。 このことを受け、文化庁は地域振興と結びつく映画製作について助成することを打ち出し、各地方公共団体はフィルム・コミッションなどの設立・運営、および当該組織を通じての映画製作の誘致などを始めた。さらに、『眠る男』(群馬県)や『船を降りたら彼女の島』(愛媛県)などのように、地方公共団体が(「補助金」や「寄付」などではなく)映画に対して直接出資する例も見られるようになった。2000年(平成12年)2月 に「フィルム・コミッション設立研究会」が設立された。2001年(平成13年)8月8日 に「全国FC連絡協議会」設立総会が開催された。パシフィコ横浜で全国FC(フィルム・コミッション)連絡協議会の設立総会が開催された。46の正会員団体のうち、フィルム・コミッションの団体数は11。同年12月7日 に 「文化芸術振興基本法」施行。この法律の対象には、メディア芸術(第九条)として、映画も含まれる。 2003年(平成15年)4月1日に 「全国FC連絡協議会」、加盟47団体へ。全国フィルム・コミッション連絡協議会への加盟FC(フィルム・コミッション)の数が47団体に達した。4月24日に公開映画の納付義務付けを提言。文化庁の懇談会は、公開された日本映画を東京国立近代美術館フィルムセンターへ納入することを義務付ける事など日本映画を振興させる12の施策提言を最終報告書にまとめた。",
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"paragraph_id": 103,
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"text": "東京など大都市よりも地方都市でロケーション撮影をする作品も多くなった。ヒット作品の中には地方都市を舞台にした作品もあり、これをきっかけにロケ地をめぐる観光客(聖地巡礼)が増加したケースもある。地方活性化の一役を映画が担っている面もこの時代から急速に大きくなっている。そのため誘致から撮影のスケジュール調整などを担う「フィルムコミッション」が各地で設立された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 104,
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"text": "日本映画の製作本数は増加し、2006年の公開作品総数は821本(1955年以降で最高)、スクリーン数は3062(対前年比136増。3000を超えたのは1970年以来)、入場者数は計1億6427万人余であった(日本映画製作者連盟)。しかし同時に公開の目処の立たない長篇映画、DVD化もされない作品も多く、そう云った作品は年間100本以上とも、3本に1本とも云われており、それらは「不良債権映画」とも云われた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 105,
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"text": "日本では、基本的に観客は静寂を保つように視聴するのが礼儀となっており、北米やインドのように拍手・声援などで応答することは珍しかったが、2000年代に入ると、「応援上映」(チアリング上映)などと呼ばれる上映会が催され、それらでは声援など観客たちが映画の進行に合わせて盛り上げることが可能になった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 106,
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"text": "この頃になると洋邦実写映画の没落・邦アニメの台頭が顕著になる。2010年代からはアニメ映画の興行的な躍進が目立っており、アニメ映画、特撮、「漫画の実写化」といったオタク系・二次元原作の作品が興行収入上位をほぼ独占的に占めるようになっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 107,
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"text": "例として、2016年の邦画作品別興収トップテンは、『君の名は。』(興行収入251.7億円)を筆頭にアニメ映画が多く、2位『シン・ゴジラ』(興行収入82.5億円・特撮映画)、3位『名探偵コナン 純黒の悪夢』(63億3,000万円・アニメ)、 4位『映画 妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!』(55億3,000万円・アニメ)、5位『ONE PIECE FILM GOLD』(52億円・アニメ) 、6位『信長協奏曲(のぶながコンツェルト)』(46億1,000万円・漫画実写化)、7位『映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生』(41億2,000万円・アニメ)、 8位『暗殺教室~卒業編~』(35億2,000万円・漫画実写化)、 9位『orange -オレンジ-』(32億5,000万円・漫画実写化)、 10位『ガールズ&パンツァー 劇場版』(24億円・アニメ)と、トップ10がアニメと特撮と漫画実写化映画で独占される形なった。特に「君の名は。」は、世界での興行収入は3.61億ドル(日本円で414.4億円)を記録し、日本映画では世界歴代興行収入で『千と千尋の神隠し』に次ぐ2位となった。日本歴代興行収入ランキングでは『千と千尋の神隠し』『タイタニック』『アナと雪の女王』に次ぐ第4位である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "漫画等二次元コンテンツ原作のものや怪獣映画を除いた実写映画の中でならば、2013年の『永遠の0』(興行収入87.6億円)、2017年の『カメラを止めるな!』(31.2億円・インディーズ映画として異例のヒット)、2018年の『劇場版コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命』(92.3億円)、『万引き家族』(45.3億円)などが挙げられる。『万引き家族』は監督の是枝裕和が第71回カンヌ国際映画祭で日本人として『うなぎ』以来21年ぶりに最高賞であるパルム・ドールを獲得した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "洋画の人気は低下し、例えば2014年の日本における映画興行収入トップ20の15本は邦画となり、アメリカ映画は僅か5本となっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "松竹・東宝・東映の邦画御三家(日本映画製作者連盟)は、1958年の映画最盛期から下り坂一方の棘の道をお互い踏ん張り、耐えに耐えしぶとく生き残った。かねてから邦画実写映画の存在感・人気・興行収入が低迷する一方、邦画アニメ映画は好調であり、2021年から2022年までの興行収入ランキングのトップ3をアニメ映画が占めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "2020年には『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が興行収入404.3億円を記録し、日本歴代興行収入第1位記録を更新した。また、本作は2020年の年間興行収入世界第1位となり、非ハリウッド映画として初めて年間1位となった。2020年11月9日時点で「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が204億円を超えたことで、日本歴代興行収入トップファイブが全てアニメ映画になった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "2020年の鬼滅の刃の記録的な大ヒットを皮切りに、以降も『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、『劇場版 呪術廻戦 0』、『ONE PIECE FILM RED』、『THE FIRST SLAM DUNK』、『名探偵コナン 黒鉄の魚影』、新海誠作品など日本国内のアニメーション映画が次々と興行収入100億円を超えている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "2020年代前半には洋画だけでなく、実写邦画を含めた実写映画自体が低迷している。2022年は日本の興収1位の「ONE PIECE FILM RED」(8月公開=197.0億円)を筆頭に、4位までアニメ(邦アニメ)が独占した。実写で1位は5位の「キングダム2 遥かなる大地へ」(7月公開=51.6億円)の5位が最高であるが、これも原作は日本漫画「キングダム」である。映画批評家の前田有一は、「国内でも国外でも売れる邦画は、今はアニメだけ。」と語り、日本の実写邦画の低迷については「観客がお金を払ってまで映画館に足を運ぶのは、テレビでは見られない映像がそこにあるからです。アニメならそれも可能ですが、製作費をかけられない日本の実写映画では難しい。大半がドラマの延長レベルです。実写で“キラーコンテンツ”になり得るのは、ハリウッド並みとは言いませんが、2ケタ億円はかけた作品でしょう。例えばそれがNetflixのドラマだったりする。」とし、日本における洋画の低迷については「興行を下支えしていた中級ヒットが激減」「名前で観客を呼べるハリウッドスター不在」「そもそも米国に対する憧れがなくなったことも大きい」「米国を“豊かな国”としてカルチャーやライフスタイルを真似していたのは、ぎりぎり今の40代後半まででしょう。ハリウッド大作も憧れのひとつでしたが、今の20代、30代には数ある国のひとつでしかありません」と分析している。2022年でもトム・クルーズ主演のハリウッド映画「トップガン マーヴェリック」(5月公開=興収135.7億円)くらいしか話題になったと言える洋画が無くなっていた。日本映画製作者連盟の統計によると、1990年代の興行収入割合が洋画7割で邦画3割であったが、2022年の興行収入割合は邦画68.8%に対し、洋画は31.2%と逆転している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 114,
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"text": "一方、完全実写映画側では賞の受賞が増えており、2020年には『スパイの妻』が第77回ヴェネツィア国際映画祭で『座頭市』以来17年振りとなる銀獅子賞を受賞。2021年には『ドライブ・マイ・カー』が第74回カンヌ国際映画祭にて日本映画最多となる3部門を受賞したほか、第94回アカデミー賞では作品賞を含む4部門にノミネートされ、国際長編映画賞を受賞した。第79回ゴールデングローブ賞では『鍵』以来62年ぶりに外国語映画賞を受賞するなど、世界各国で数多くの映画賞を受賞した。2023年には『怪物』が第76回カンヌ国際映画祭において、脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 115,
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"text": "海外での興行収入上位はすべてアニメ映画である。",
"title": "海外への輸出"
},
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"paragraph_id": 116,
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"text": "台湾への日本映画輸出は、1969年に日本映画の輸入が台湾映画の製作に圧迫を与えるという理由で、事実上輸入禁止措置がとられ、日本が中国と国交を回復した1972年以来、商売の道も閉ざされ、1973年から全面的に禁止された。岡田茂映連会長以下、各映画会社首脳陣の長年の努力が実り、台湾行政院新聞局から映連に、1980年の金馬奨に日本映画の出品要請があり、1980年、当時の映連加盟四社から各一本づつ、松竹『砂の器』、東宝『サンダカン八番娼館 望郷』、東映『二百三高地』、日活『先生のつうしんぼ』の4本が金馬奨の招待作品として上映された。以降は日中関係も懸念され、濃すぎる日本色を抑えるためか、台湾の製作者や一部ジャーナリストの間で解禁に反対の声もあったが、1982年に岡田映連会長が訪台した際に、宋行政院新聞局局長に「(1980年の)金馬奨に出品した4作品だけでも特別に輸入を解禁してほしい」と要請。台湾側の外貨事情、対日感情の好転などの背景もあり、これが認められ1983年12月6日に東京会館での記者会見で岡田が「台湾が15年ぶりに日本映画輸入の門戸を開いた」と発表し、1984年8月、台湾行政院新聞局から正式に日本映画輸入を解禁するとの報道された。これを祝して1985年2月に新宿東映ホール1で日本で初めての台湾映画祭が開催された。復活初年度の1985年は、東映だけ『二百三高地』を『魔界転生』に入れ替え、他の三社は1980年の金馬奨に出品した同じ作品が台北、高雄の映画館で一般公開され、日本映画の輸出が復活した。台湾の解禁で主要国で日本映画を上映禁止するのは韓国だけとなった。これらは大人気となり、現地の業者が群がり大変な騒ぎになった。翌1986年は前年の4本から6本に枠が増え、増加分は映連加盟四社で抽選があり、抽選に勝った東映と松竹が2本づつになり、角川映画は当時映連に加盟していなかったが、『里見八犬伝』はこの東映の増加枠に入れられ、1986年9月25日に台湾で公開され大ヒットした。Record Chinaは、大ヒットした日本映画の1本として『里見八犬伝』を挙げている。封切に合わせ、薬師丸ひろ子や松坂慶子、三船敏郎、岡田茂東映社長・映連会長らが訪台し、台湾でも大人気の薬師丸が熱烈歓迎を受け、大きな騒動になった。当時台湾では最新の日本とアメリカのビデオが見られる同伴喫茶が大流行しており、台湾のヤングは国際芸能によく通じていたという。岡田は台湾の映画関係者と輸入に関する取り決め事項の調整を行った。『海角七号 君想う、国境の南』の監督・魏徳聖(ウェイ・ダーション)は「『里見八犬伝』は初めて自分で2回チケットを買って観た作品なんですよ。今でもストーリーや登場人物を鮮明に覚えています」などと話している。",
"title": "海外への輸出"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "1986年から1994年10月にかけては、行政院新聞局が6回の輸入割当本数の告示を行い、合計201本の輸入割当を許可したが、日本映画の著作権料が跳ね上がり、実際に輸入された日本映画はこの間52本であった。1994年10月以降は全面的に日本映画の輸入が解禁されている。日本映画輸入自由化は、岡田茂映連会長の永年の努力が大きいといわれる。1986年の岡田と台湾の映画関係者との折衝の際に、台湾側から「日本映画は輸出するのに、台湾の映画は日本ではやってくれないではないか」と不満が出て、急遽、東映で1987年2月14日から『スケバン刑事』との併映で公開予定だった香港映画『蜀山』(『蜀山奇傅 天空の剣』)を後ろにずらし、台湾側から要望があった『カンフーキッド/好小子』をこの枠に入れ、東映洋画系で公開した。同作は日本のメジャー映画会社の番線に乗った初めての台湾映画である。また1995年4月に台湾初のCATV、党営の「博新多媒體」(PHTV)が開局の際、これらの交渉で岡田と懇意になった同社社長・廖祥雄からの要請で、東映台(東映チャンネル)がディズニー台(ディズニー・チャンネル)などと共に四チャンネルの一つに選ばれた。台湾はレンタルビデオやCATVなどのメディアの普及が日本より早かった。台湾は1960年代から1970年代に日本映画の興行を禁止していたため、台湾人には東映のヤクザ映画が新鮮で人気が高かったという。東映台は三年の供給契約で東映の過去の映画850本とテレビドラマなど供給本数は1600本に上った。台湾のCATVで最初に放映された日本映画・ドラマは東映作品であった。東映はこれを機にアジア戦略を強化し、日本での二次利用、三次利用が一段落ついた旧作品ビジネスをアジアで広げようと1996年夏に日本で公開されたが配収が4億円と振るわなかった『That's カンニング! 史上最大の作戦?』の主演・安室奈美恵が1997年にアジアでコンサートを開いて人気を高めたことから香港で同作を上映したり、当時アジアの衛星放送で日本のトレンディドラマが相次いで放送され、『Lie lie Lie』の出演者である豊川悦司や鈴木保奈美らが知名度を高めていたことから台湾と香港で日本公開に先駆け同作を先行上映するなどしている。",
"title": "海外への輸出"
}
] | 日本映画(にほんえいが)は、一般的に日本国内の映画館などで公開されることを前提として、日本国籍を持つ者、あるいは日本の国内法に基づく法人が出資(製作)している映画を指すが、詳細な定義は識者によって異なる。邦画(ほうが)とも呼称される。また、映画のことは時代によって活動写真・キネマ・シネマ等とも呼ばれる。 | {{Otheruses||1930年代に存在した企業「日本映画株式会社」|日本映画 (映画会社)}}
{{参照方法|date=2009年12月}}
{{日本映画}}
'''日本映画'''(にほんえいが)は、一般的に[[日本]]国内の[[映画館]]などで公開されることを前提として、[[日本国籍]]を持つ者、あるいは[[日本法|日本の国内法]]に基づく[[法人]]が[[出資]]([[製作]])している[[映画]]を指すが、詳細な定義は[[識者]]によって異なる。'''[[wikt:邦|邦]]画'''(ほうが)とも呼称される。また、映画のことは時代によって[[活動写真]]・[[キネマ]]・シネマ等とも呼ばれる。
==概要==
[[トーマス・エジソン]]によって[[1891年]]に発明された[[キネトスコープ]]が世界的な映画の起源となるが、それを用いて日本で最初に上映がなされたのは[[1896年]]11月で、当時の[[西洋]]技術の最先端である映画が到来した年にあたる。日本人による[[映画撮影]]としては[[1898年]]の[[浅野四郎]]による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まる。ここから現代に至るまで日本映画は[[日本文化]]の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げ、日本を代表する[[大衆]][[娯楽]]のひとつとして位置付けられていった。
日本映画を[[ジャンル]]として明確に定義することは困難であり、[[日本人]][[映画監督|監督]]によって、日本人の[[俳優]]を主に用いて、日本人らで[[撮影]]し、日本国内で[[上映]]する[[日本語]]の映画、という条件のもと、そのいくつかが当てはまるものを一般に日本映画と呼称している<ref>[[四方田犬彦]]『日本映画史100年』(集英社 ISBN 978-4087200256)pp.14-16</ref>。しかし、『[[ホノカアボーイ]]』などの総[[海外]][[ロケーション撮影|ロケ]]の映画や、[[フランス]]の[[資本]]を基に[[黒澤明]]や[[大島渚]]が撮影した映画、[[在日韓国・朝鮮人]]監督など非日本国籍の日本語話者による映画など、全ての条件を満たしていなくても、日本語話者が日本での最初の公開向けにつくった映画は邦画と認知される<ref>{{Cite web |title=欧米・アジアなど、海外で人気の日本映画の傾向とは |url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK1602B_W2A011C1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2012-10-22 |access-date=2023-11-24 |language=ja}}</ref>。
== 背景 ==
[[画像:Humanity and Paper Balloons poster.jpg|thumb|200px|[[山中貞雄]]『人情紙風船』]]
[[日本]]映画が日本映画たりえた背景には当然[[日本文化]]の影響が存在している。映画が日本に到来する時代、日本は比較的高い[[識字率]]を誇っており、大衆的な読み物から[[新聞]]、[[児童書]]などあらゆる[[書物]]が[[庶民]]に親しまれていた。また、映画よりはるかに長い歴史を持つ[[歌舞伎]]や[[人形浄瑠璃]]などの伝統演劇が日本映画に与えた影響も計り知れない。これは今日でも映画館を劇場と呼称したりすることからも窺える。
また、初期の[[無声映画]]時代、上映にあたり、[[活動弁士|弁士]]と呼ばれるフィルムの説明者が存在したが、映像と分離した音声を享受するというシステム、口踊芸と呼ばれる洗練された語りの手法は、既に人形浄瑠璃をはじめとする[[演劇]]で確立されており、日本人にすんなりと受け入れられ、独自の発展を遂げたとされる。庶民にとって誰が弁士を務めるかも映画鑑賞の重要な判断基準となり、花形の弁士が演じる映画は総じて人気を博した。無声映画とは声の無い映像のみの映画を指すが、日本映画においては真の意味での無声映画は存在していなかったと言って良い<ref>田中純一郎『日本映画発達史』{{要ページ番号|title=巻数・ページ数|date=2009年11月}}</ref>。
純粋に日本文化を映画へ昇華し、日本映画らしさを出そうとする一方で、国外の文化や素材を日本風に咀嚼し、混交するという日本映画も多数誕生している。[[ジャック・フェデー]]の『[[ミモザ館]]』から着想を得た[[山中貞雄]]の『[[人情紙風船]]』や<ref>{{Cite book|和書
|author= 山本喜久男|year= 1983|title= 日本映画における外国映画の影響|publisher= 早稲田大学出版部|isbn= 4-657-83008-2}}pp.600-603</ref>[[ウィリアム・シェイクスピア]]の『[[リア王]]』が原作とされる黒澤明の『[[乱 (映画)|乱]]』などがそれにあたる<ref>{{Cite book|和書
|author= 山本喜久男|year= 1983|title= 日本映画における外国映画の影響|publisher= 早稲田大学出版部|isbn= 4-657-83008-2}}{{要ページ番号|date=2009年11月}}</ref>。
== 歴史 ==
=== サイレント時代 ===
[[画像:CinematographeProjection.png|thumb|200px|[[シネマトグラフ]]]]
[[画像:Onoe-Matsunosuke.jpg|thumb|200px|『[[忠臣蔵]]』([[尾上松之助]])]]
[[画像:Kanto-daishinsai.jpg|thumb|200px|[[関東大震災]]により廃墟と化した[[神奈川県]][[横浜市]]]]
[[画像:Kanjuro-Arashi-in-film-Gozonji-Kurama-Tengu-1936.png|thumb|200px|『[[鞍馬天狗]]』[[嵐寛寿郎]]]]
日本における初の映画上映は、鉄砲商人であった[[高橋信治]]によって[[1896年]]11月、[[神戸市|神戸]]の神港倶楽部に始まった。これは[[トーマス・エジソン]]の[[キネトスコープ]]によるものである。[[リュミエール兄弟]]の[[シネマトグラフ]]によるスクリーン上映は[[1897年]]1月に[[稲畑勝太郎]]によって[[京都電燈]]株式会社の当時の本社(現在の[[元・立誠小学校]]の敷地)の中庭にて初めて行われた。続いて[[1897年]]2月に初めての「有料上映」が稲畑勝太郎によって大阪にて行われた。同年3月には東京でキネトスコープを改良した[[ヴァイタスコープ]]が公開され、人気を博した。[[谷崎潤一郎]]は自著『幼少時代』において「一巻のフィルムの両端をつなぎ合わせ、同じ場面を何回も繰り返し映せるもの」と評している。
その後[[浅野四郎]]によっていくつかの短編映画が撮られ、1898年、日本で初めて映画が撮影された。
1898年には先に挙げた『化け地蔵』『死人の蘇生』が、翌[[1899年]]には『芸者の手踊り』(東京[[歌舞伎座]])が公開された。これは小西本店(後の小西六写真工業、現[[コニカミノルタ]])の浅野四郎が[[ゴーモン]]社製の撮影機にて芝・[[紅葉館]]で実写撮影し、[[駒田好洋]]が率いる「[[日本率先活動写真会]]」によって一般公開された。同年には1巻70フィートの日本最初の劇映画となる『[[清水定吉|ピストル強盗清水定吉]]』が駒田好洋によって撮影され、日本初の映画俳優として[[新派]]の[[横山運平]]が起用された。積極的に映画と接触しようとした新派とは異なり歌舞伎などは映画を「泥芝居」と蔑み、原作や役者の提供に躊躇する時代であった<ref>「日本映画史100年」p.44</ref>。現存する最も古い日本映画としては同年[[柴田常吉]]によって撮影された『紅葉狩』がある。
[[1903年]]には[[吉沢商店]]が[[浅草]]に日本で最初となる映画専門館「[[電気館]]」を設置した{{R|東宝全史550}}。翌[[1904年]]に[[日露戦争]]が勃発すると実写撮影班を現地中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博した。
[[1908年]]に発表された『[[本能寺合戦]]』は最初の本格的な劇映画であり、[[横田商会]]の依頼で本作品を撮り上げた[[牧野省三]]は日本最初の映画監督として名を残している。[[京都]]に[[浄瑠璃]]小屋を所有し、狂言方として活動していた牧野は作品の原作に用いられる浄瑠璃を空で暗記していたことから、脚本を用いる事無く、撮影にあたったと言われている。翌年には[[歌舞伎]]俳優の[[尾上松之助]]が主演した『碁盤忠信』が大ヒットとなり、「目玉の松ちゃん」として日本最初のスターが誕生した。以降、尾上は14年間の俳優生活において千本を超える映画で主演を果たしている。中でも[[1910年]]に撮られた『[[忠臣蔵]]』は浄瑠璃、歌舞伎に続き、その後の日本映画においても欠かせない題材として庶民の人気であり続けた。後年、牧野はその功績を称えられ、アメリカの映画監督[[D・W・グリフィス]]によりグリフィス・マキノという称号を与えられている<ref>「日本映画史100年」p.48</ref>。
[[1912年]]、横田商会・吉沢商店・[[M・パテー商会]]・[[福宝堂]]という4つの映画会社が[[トラスト (企業形態)|トラスト合同]]を行い、日本活動写真株式会社、略称[[日活]]を発足させた。日活は従来の家内工業的な小規模な製作から一線を画す、日本初の本格的な映画会社となった。東京[[向島 (墨田区)#広域地名|向島]]の[[日活向島撮影所|向島撮影所]]、京都[[二条城]]西櫓下の[[日活撮影所#関西撮影所|関西撮影所]]の2箇所の撮影所を設け、東京では新派(後の現代劇)を、京都では旧劇(後の[[時代劇]])を製作した。
ここまでの多くのフィルムは演劇的演出の再現に留まり、映画として独自の技法が試みられるようになるのは1910年代後半に入ってからである。[[井上正夫]]が[[1917年]]に製作した『[[大尉の娘 (戯曲)|大尉の娘]]』では[[クローズアップ]]や[[移動技法]]、[[カットバック]]といった技法が導入されている。この頃より呼称も「活動写真」から「映画」へと次第に変遷が始まり、1922年ごろまでには映画という言葉が一般庶民にも深く浸透するようになった。
一方映画評論においては、吉沢商店が[[1909年]]に発表した初の映画雑誌『活動写真界』などが既にあったが、[[1917年]]に[[帰山教正]]が『活動写真劇の創作と撮影法』と題する理論書を発表したのをきっかけに[[1918年]]には日本映画の近代化運動「[[純映画劇運動]]」が起こる。[[映画芸術協会]]を主宰した帰山は同書で映画は演劇の模倣であってはならないと説き、舞台脚本をシナリオ、女形を女優、弁士を字幕として呼称した。帰山の作品には日本初の女優[[花柳はるみ]]を使った『[[生の輝き]]』、日本初の女性の[[ヌード|ヌードシーン]]を撮影した『[[幻影の女]]』などがある。
その背景には第一次世界大戦が終結し、[[ハリウッド]]の映画会社が徐々に日本へと進出してきた影響は否定できない。こうした動きに合わせるように[[国活]]、[[大活]]といった映画会社が相次いで設立され、[[1920年]]には歌舞伎を本業としていた[[松竹]]が[[松竹キネマ|松竹キネマ合名会社]]を設立し製作に乗り出した。特に松竹が建てた俳優養成所はハリウッドの[[スター・システム (俳優)|スター・システム]]を採用し、『[[路上の霊魂]]』の[[英百合子]]や『[[虞美人草]]』の[[栗島すみ子]]など、多数の女優を輩出した。また、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、[[ヘンリー小谷]]が果たした影響も大きい。彼が[[レフ板]]を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。
この純映画劇運動は[[1923年]]の[[関東大震災]]で、現代劇映画を製作していた東京のあらゆる撮影所が壊滅し、旧劇の中心地・京都での撮影のみが行われる状況が発生したことにより突然の終焉を迎えることとなった。[[1926年]]に入ると松竹による現代劇が本格化し、[[牛原虚彦]]による『彼と東京』(1928年)、『陸の王者』(1928年)など、ごく普通の庶民を等身大で描く都会風現代劇が出現した。また、[[五所平之助]]による『村の花嫁』(1928年)や『[[伊豆の踊子]]』(1933年)のように、田舎の田園を舞台とした牧歌的、叙情的な作品も登場している。[[エルンスト・ルビッチ]]に強い影響を受けた[[小津安二郎]]は、『[[大学は出たけれど]]』(1929年)、『落第はしたけれど』(1930年)など庶民を主人公とした人生観を詰め込んだ作品を数多く残した。
こうした松竹の動きに遅れを取った日活は、1923年の震災による向島撮影所の閉鎖を受けてようやく女形から女優への移行を果たす。翌年には京都の郊外・[[太秦|太秦村]]に「[[日活太秦撮影所]]」(後の[[大映京都撮影所]])が開設される。日活現代劇の代表ともされる[[溝口健二]]はハリウッドで学んだ撮影技法を駆使し、『[[霧の港]]』(1923年)、『[[血と霊]]』(1923年)、『[[狂恋の女師匠]]』(1926年)など、様々なジャンルを試み、後礎を築いた。
他方、[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]による活動写真[[検閲]]なども行われ、[[衣笠貞之助]]の『[[日輪]]』(1925年)などは作品に当局の介入が入り、大幅な編集を余儀なくされ、改作改題の上公開となるなど、検閲の影響により興行的に失敗となった作品も少なくない。しかし、衣笠はその後も精力的に活動を続け、日本最初の前衛映画となる『[[狂つた一頁]]』(1926年)や欧州で高い評価を受けた『[[十字路 (1928年の映画)|十字路]]』(1928年)など、「純映画劇運動」の目的、目標を達成させている。
時代劇に目を移すと、尾上主演一千本記念作品『荒木又右衛門』(1925年)などが取り上げられるが、従来の悠々とした口上を述べ、人を斬るといったスタイルから、よりスピーディで激しい[[殺陣]]が求められるようになっていた。こうしたスタイルをいち早く確立した[[阪東妻三郎]]は『[[雄呂血]]』(1925年)で人気を博す。そのほか[[大河内傳次郎]]による『[[丹下左膳]]』や、[[市川右太衛門]]の『[[旗本退屈男]]』、[[嵐寛寿郎]]の『鞍馬天狗』など、新しい時代劇が多数登場した。
[[1927年]](昭和2年)、映画実際家連盟「友達の会」が発足。松竹蒲田から[[牛原虚彦]]、[[島津保次郎]]、[[大久保忠素]]らが、日活からは[[村田実]]、[[溝口健二]]、[[岡田嘉子]]らが、阪妻プロからは[[鈴木重吉]]、[[川浪良太]]、[[近藤伊与吉]]らが参加した<ref>映画製作の実務者が「友達の会」を結成『大阪毎日新聞』昭和2年2月16日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p19 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。目立った活動はなかったが、製作会社を横断する映画業界人の組織であったことは特筆すべきことであり、[[文壇]]界から低くみられがちな映画界の地位向上を図る契機にもなった。
=== 音声有り映画・戦前の黄金時代 ===
[[画像:Lee De Forest.jpg|thumb|200px|[[トーキー映画]]の産みの親[[リー・ド・フォレスト]]]]
映像に対し、音声を加えようとする試みは映画の移入とほぼ同時になされており、[[河浦謙一]]は1902年にレコードの回転とフィルムの回転を同期させることによる[[トーキー]]の実験を行っている。これらの試みが商業的な脚光を浴びるのは1927年の[[昭和キネマ]]による[[ミナ・トーキー]]であった。アメリカの[[リー・ド・フォレスト]]からトーキー技術の権利を購入した[[皆川芳造]]によるものである。
ミナ・トーキーを使用した[[小山内薫]]による『黎明』は技術的な問題から公開には至らず、日本最初のトーキー映画は[[1929年]]の『[[大尉の娘 (戯曲)|大尉の娘]]』であった。同年、ミナ・トーキーとは別方式、[[東條政生]]のイーストフォン・トーキーを採用しようと研究したが、結局、独自の[[ディスク式トーキー]]で[[マキノ正博]]が監督した『[[戻橋 (映画)|戻橋]]』が公開された<ref>『映画渡世・天の巻 - マキノ雅弘自伝』、[[マキノ雅弘]]、[[平凡社]]、1977年、p.141-142.</ref>。イーストフォンは一般には浸透しなかった。その後も溝口健二による『[[藤原義江のふるさと|ふるさと]]』(1930年)などが続いたが、字幕と音声を併用したいわゆる[[パート・トーキー]]の形式が一般的で、完全なトーキー映画として最初に登場したのは[[五所平之助]]の『[[マダムと女房]]』(1931年)であった。
資本力のある大会社はこの時代、積極的に無声映画からトーキー映画へと移行を計り、一部例外として[[小津安二郎]]のようにトーキーに懐疑的な目を向ける者もいた<ref>「日本映画史100年」p.80</ref>。1935年には完全に移行を成し遂げるが、財政的に移行の難しい独立プロは1938年ごろまで無声映画を撮り続けた。この結果小スタジオは続々と大手映画会社へ吸収されていく。
また、無声映画時代が終了しても海外映画の解説訳として存続が計られた弁士も、1931年『[[モロッコ (映画)|モロッコ]]』ではじめて採用された[[スーパーインポーズ (映像編集)|字幕スーパー]]の登場により、不要な存在となった。既得権益を守ろうとした弁士はトーキー侵出の妨害活動に出たが、時代の流れに逆らう事はもはや不可能となり、弁士の存在は忘れられていった。
こうしたトーキーの出現は新しい俳優の出現や新ジャンルの確立を齎した。落語や声帯模写など、語り芸を生業とする者がスクリーンへ登場し始め、[[榎本健一]]、[[古川緑波]]などといった喜劇俳優が台頭するようになった。また、『[[愛染かつら]]』のように主題歌の流行を通して人気を博す映画も現れるようになった。
トーキー映画の出現は撮影期間の長期化という現象を齎すこととなった。これがきっかけとなり日活は1934年に[[日活撮影所|多摩川]]へ、松竹は1936年に[[松竹大船撮影所|大船]]へそれぞれ撮影所を移転・拡充した。それぞれの特徴として日活は重厚で泥臭い作風を、松竹は洗練された都会風の作風を得意としていた。日活を代表する監督としては『[[人生劇場・青春篇]]』(1936年)、『[[土 (映画)|土]]』(1939年)の[[内田吐夢]]、『[[蒼氓]]』(1937年)、『[[阿部一族]]』(1938年)の[[熊谷久虎]]、松竹を代表する監督としては『[[隣の八重ちゃん]]』(1934年)の[[島津保次郎]]、『[[愛染かつら]]』(1938年)、『[[一人息子 (映画)|一人息子]]』(1936年)の[[野村浩将]]、『[[有りがたうさん]]』(1936年)、『[[花形選手]]』(1937年)の[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]などが挙げられる。こうした一連の作風に疑問を投げかけた溝口健二は『浪華悲歌』(1936年)、『[[祇園の姉妹]]』(1936年)などで方言を用いた作品を撮り上げ、既存の「映画は東京弁でなければならぬ」という概念を打ち崩していった。
1930年に設立された[[ピー・シー・エル映画製作所|PCL]]は1933年より映画製作業界への参入を表明した。[[黒澤明]]や[[本多猪四郎]]、[[瀧口修造]]、[[井深大]]など、多数のスタッフを集め、日本で最初のプロデューサー・システムを採用した会社となった。初期には[[木村荘十二]]の『[[河向ふの青春]]』(1933年)、『[[兄いもうと]]』(1936年)や松竹より移籍してきた[[成瀬巳喜男]]の『[[妻よ薔薇のやうに]]』(1935年)、[[石田民三]]の『花ちりぬ』(1938年)などが人気を博した。特に成瀬の『妻よ薔薇のやうに』は海外進出も実現し、ニューヨークで一般公開された初の日本映画となった。当初、PCLは配給館を所有していなかった事から、興行的な苦戦を強いられたが、[[1937年]]、[[小林一三]]などの働きにより「写真化学研究所」、[[京都]]の[[大沢商会]]の映画スタジオである「[[J.O.スタヂオ]]」、[[阪急電鉄|阪急]]資本による配給会社「[[東宝映画配給]]」などと合併し、[[東宝映画]]として配給上の困難を解消し、日活、松竹に続く大映画会社となった。
1937年、日本と当時の[[ナチス・ドイツ]]との間で、一本の国策的映画が製作された。山岳映画を得意としたドイツの[[アーノルド・ファンク]]と[[伊丹万作]]の共同監督で製作された『[[新しき土]]』である。日本での興行的な成績では失敗に終わったが、主演女優として典型的な日本人女性大和光子を演じた[[原節子]]はその容貌と演技が絶賛され、戦時下の日本映画において欠かせない女優となった。
=== 戦時下の映画 ===
[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])による国民と国土の疲弊は、映画産業界においても、甚大な影響を与えていた。1941年(昭和16年)には、当時アメリカに次ぐ世界第2位の製作数である{{要出典|date=2009年11月}}年間500本を超える映画を製作していた日本も、1945年(昭和20年)には僅か26本の製作となっており、その影響が窺える{{誰2|date=2009年11月}}。また、1939年(昭和14年)に成立した[[映画法]]により、製作と配給が許可制に、監督と俳優は登録制となり、製作される作品についても、[[脚本]]段階で[[日本における検閲|検閲]]が入った。
さらに[[ABCD包囲網]]による[[経済制裁]]が発動すると、アメリカからのフィルム輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされ、厳しい使用制限がかけられ、映画業界にとって死活問題となった。東宝はこれらの状況を打破するため、軍部と積極的に関わる事で活路を見出したが、日活は1942年(昭和17年)に[[永田雅一]]の主導による[[合併 (企業)|合併]]に巻き込まれて[[大映|大日本映画]]となり、日活の名は消えていった。戦前数多く存在した独立スタジオは、閉鎖、合併を繰返し、映画産業の規模は急速に縮小し、東宝、松竹、大映の3社を残すのみとなった。
当然、戦争を主題とした映画が主として製作され、[[田坂具隆]]は『[[五人の斥候兵]]』(1938年)で、戦場における信頼をテーマとした作品を撮り、[[ヴェネツィア国際映画祭]]で入賞を果たした。[[皇紀2600年]]記念の[[阿部豊]]の『[[燃ゆる大空]]』(1940年)では[[実写]]に重きを置いた航空映画として、[[陸軍航空本部]]の監修により実物の[[九七式戦闘機|戦闘機]]や[[九七式重爆撃機|爆撃機]]が撮影に使用された{{efn|[[ジョン・ウェイン]]主演のアメリカの戦意高揚映画『[[フライング・タイガー (映画)|フライング・タイガー]][[:en:Flying Tigers (film)|Flying Tigers]]』(1942年)では、『燃ゆる大空』の一部フィルムが着色されたうえで流用([[盗用]])されている。}}。[[吉村公三郎]]が製作した『[[間諜未だ死せず]]』(1942年)は[[プロパガンダ映画|戦意高揚を訴える映画]]が続く中で、[[スパイ]]への警戒を訴えた珍しい切り口の映画となった。また、[[山本嘉次郎]]の『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』(1942年)では、[[真珠湾攻撃]]を再現した[[特撮]]担当の[[円谷英二]]による精巧な[[ミニチュア]]が話題を呼び、[[軍神]][[加藤建夫]]と[[加藤隼戦闘隊|飛行第64戦隊]]を描いた『[[加藤隼戦闘隊 (映画)|加藤隼戦闘隊]]』(1944年)では、陸軍の全面協力により実物の[[一式戦闘機|戦闘機]]や爆撃機および[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]の[[鹵獲]]機が多数出演し、円谷の特撮と高度な[[光学合成|合成]]技術とともに迫力ある作品となった。
厳しい検閲の目をかわし、[[反戦運動|反戦]]を訴える作品を製作した監督としては[[亀井文夫]]が挙げられる。『[[支那事変 (映画)|支那事変]]』(1937年)や『[[上海 (映画)|上海]]』(1938年)などでは表向きは戦意高揚映画と謡いつつも、日本軍の[[行軍]]を見つめる民衆や、疲弊した兵の表情をフィルムに収めるなど、意図的な映像を流した。続く作品『[[戦ふ兵隊]]』(1938年)は上映禁止となり、亀井は免許剥奪の上検挙されてしまう。
また、戦争を主題としない作品についても、荒唐無稽な娯楽向け作品が一律禁止され、[[稲垣浩]]の『[[宮本武蔵]]』や溝口健二の『[[元禄忠臣蔵]]』など、厳粛な叙事詩的作品が製作された。[[1940年代]]前半に登場した[[黒澤明]]は『[[姿三四郎 (1943年の映画)|姿三四郎]]』(1943年)においてその頭角を現した。1945年(昭和20年)に[[本土決戦|最終決戦]]を呼びかけるために製作が検討されていた[[ジャンヌ・ダルク]]を原作とした『荒姫様』は、同年の[[日本の降伏|日本の敗戦]]により[[お蔵入り]]となっている{{efn|1945年に制作され同年8月5日に封切られた『[[北の三人]]』が、戦時下の日本で最後に完成し、同年8月15日の敗戦当時に国内で唯一上映されていた劇映画であるとされる。}}。
1937年8月、映画の巻頭に「挙国一致」「銃後を護れ」などの1枚タイトルを挿入した<ref name="ReferenceA">日本映画発達史 田中純一郎{{要ページ番号|date=2021年11月}}</ref>。1944年12月7日、映配は、生フィルム欠乏のために、731の映画館(約40%)に配給休止を宣告した<ref name="ReferenceA"/>。
=== 日本統治の外地での日本映画 ===
[[外地]]における映画は、獲得した地を日本化するための有効な手段と捉えられ、積極的な上映が実施された。[[台湾]]、[[朝鮮]]、[[満州]]、[[インドネシア]]などにおける各地の映画史を簡単に以下に記す。
==== 台湾 ====
[[日清戦争]]により獲得した台湾で[[高松豊次郎]]により最初の映画上映が行われたのは[[1901年]]である。台湾において最初に製作がなされたのは[[1921年]]で、『預防霍乱』という食品衛生啓蒙映画であった。また、1925年には台湾人の[[李松峰]]により『誰之過』が製作された。
日本で興った「純映画劇運動」において、台湾という「辺境の地」は格好の題材となり、[[枝正義郎]]の『[[哀の曲]]』(1919年)、[[田坂具隆]]の『[[阿里山の侠児]]』(1927年)、[[張雲鶴]]の『血痕』(1929年)、[[千葉泰樹]]・[[安藤太郎 (映画監督)|安藤太郎]]の『[[義人呉鳳]]』(1932年)など、台湾を舞台とする様々な作品が撮られている。
しかし、現地人による映画製作はそれほど活性化せず、1941年に台湾映画協会が設立され、管理統制が厳しくなると、その傾向は終戦まで続いた。
==== 朝鮮 ====
[[1910年]]に併合した朝鮮における映画は[[1919年]]に製作された金陶山の『義理的仇討』を嚆矢とした。日本政府は当初、[[尹白南]]による貯蓄奨励映画『月下の誓い』(1923年)など、台湾と同じく映画による教育啓蒙を試みたが、自身の手による映画製作の気運が強く、1924年以降、日本人が設立した[[朝鮮キネマ]]に対抗するかの如く、独立スタジオが林立した。
[[1926年]]に[[羅雲奎]]が製作した『[[アリラン (映画)|アリラン]]』は、民族主義の高揚における重要な役割を果たした。『映画「アリラン」の再評価』(1997年、趙熙文)など、[[津守秀一]]が監督したという説も存在する{{要出典|date=2009年11月}}。その他、『[[金色夜叉]]』の翻案で、李慶孫の『長恨夢』(1926年)や李圭煥が製作した[[反日]]的内容の『主なき渡し舟』(1932年)などが話題を呼んだ。また、李明雨によって製作された最初のトーキー映画『[[春香伝]]』は[[1935年]]に登場して以降何度もリメイクされ、韓国における国民的映画のひとつに発展している。
日本が軍国主義へ傾くにつれ、厳しい検閲が敷かれるようになり朝鮮での映画生産は減少していき、[[1940年]]には日本と同じく映画法が実施されるに至った。[[1942年]]には全ての映画会社が閉鎖され、[[朝鮮総督府]]による[[朝鮮映画|朝映]]が設立された。この時代は主に日本人監督が現地のスタッフを使用して映画を製作する、というスタイルが主となり、[[日夏英太郎]]<!--<ref>日本人名は通名で、朝鮮人。後にインドネシアへ渡り、フユンという名で映画製作を行い、インドネシアにおいて最初に[[キス|キスシーン]]を撮った監督として知られる。</ref>-->の『[[君と僕 (映画)|君と僕]]』(1941年)、[[豊田四郎]]の『[[若き姿]]』(1943年)、[[今井正]]の『[[望楼の決死隊]]』(1943年)などが公開された。
{{See also|日本統治時代の朝鮮の映画作品の一覧}}
==== 満州 ====
[[画像:Li_Xianglan.jpg|thumb|200px|[[山口淑子|李香蘭]](山口淑子)]]
日本が1932年に建国した[[満州国]]では、1936年に[[満州映画協会]](満映)が設立され、映画製作が執り行われた。満映では日本の文化啓蒙を目的とした映画と一般の劇映画が製作され、一部は日本に持ち込まれるなどした。1940年に『[[支那の夜]]』に登場した[[山口淑子|李香蘭]](山口淑子)はその美貌と歌唱力、演技力などで一躍スターとなった。
1942年ごろより、自由な映画製作を求め、[[木村荘十二]]や[[内田吐夢]]など日本人映画監督が次々と渡満してくる。全編が[[ロシア語]]で構成された[[島津保次郎]]の『[[私の鶯]]』(1943年)など、自由闊達な映画が企画・製作された。
1945年に満州国が崩壊すると満映の施設は[[ソビエト連邦]]に接収され、満映スタッフは日本や台湾、香港へと散り散りに去っていった。日本では[[根岸寛一]]や[[マキノ光雄]]などによりこうした満映引揚者が迎え入れられ、後の[[東映]]の基礎を形作った。
==== 上海 ====
[[上海]]では1910年代より中国映画の製作地としてその名が知られており、[[1937年]]に日本による占領が始まると、日本軍はその映画管理を[[川喜多長政]]に要請した。
川喜多は1939年、上海の映画会社を併合し、[[中華電影]]を設立した。作品としては満映との合作で製作された李香蘭主演の『萬世流芳』(1943年)などがある。
1945年、日本が敗戦した後は上海で日本人と共に映画製作を行っていた中国人監督の大部分が[[香港]]へ亡命し、後の香港における映画産業発展の礎となった。
==== インドネシア ====
[[インドネシア]]では現地人による映画撮影が禁止され、日本軍による啓蒙映画が主に製作された。また、日本軍の捕虜虐待を隠蔽する目的でいくつかの偽ドキュメンタリー映画が製作されるなどした。
有名なものとしては1944年に日夏英太郎が[[ジャカルタ]]で製作した『Calling Australia』があり、[[オーストラリア]]人捕虜が撮影した映像として連合国軍側へ送付された。後にオーストラリアは捕虜として出演した者を集め、『Calling Australia』の虚偽を告発するドキュメンタリーを製作している<ref>「日本映画史100年」p.123</ref>。
=== GHQ占領下時代 ===
[[画像:Yoko Sugi and Setsuko Hara in Aoi Sanmyaku.jpg|thumb|200px|[[今井正]]『[[青い山脈 (映画)|青い山脈]]』([[杉葉子]]と[[原節子]])]]
1945年、日本が第二次世界大戦に敗北すると、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)]]による日本間接統治が開始された。日本で製作される映画はGHQの下部組織[[民間情報教育局|CIE(民間情報教育局)]]によって管理されることとなった。この管理体制は1952年まで続き、日本映画界において、初めて外国機関による管理と制御が実施された特異な期間となった。企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ製作がなされた。例えば、[[黒澤明]]の『[[暁の脱走]]』(1950年)は当初、[[山口淑子]](満映の李香蘭)主演の朝鮮人従軍慰安婦を描いた作品としていたが、数十回に及ぶCIEの検閲により、原形を留めぬ作品となってしまっている<ref>「日本映画史100年」p.134</ref>。完成したフィルムは[[民間検閲支隊|CCD(民間検閲支隊)]]により二度目の検閲が行われた。また、この検閲は過去の映画作品に遡っても実施された<ref>「日本映画史100年」p.129</ref>。
また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画製作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、[[川喜多長政]]、[[根岸寛一]]、[[城戸四郎]]といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。しかし他のジャンルにおける追及と同じく、映画業界においても戦争責任の所在は曖昧に処理され、上記の処置は1950年には解除されている。
戦後、最初に公開された映画は[[佐々木康]]による『[[そよかぜ (映画)|そよかぜ]]』で、[[並木路子]]による[[主題歌]]『[[リンゴの唄]]』が大ヒットした。
CIEの[[デヴィッド・コンデ]]によって1945年に発布された製作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の製作は事実上不可能となった。この影響で時代劇を生業としていた俳優は現代劇に出演するようになる。[[片岡千恵蔵]]の『多羅尾伴内』、[[阪東妻三郎]]の『破れ太鼓』、[[稲垣浩]]の『手をつなぐ子等』、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]の『王将』などがそれにあたる。
また、GHQ主導で勧められた[[民主主義映画|民主主義礼讃作品]]としてプロパガンダ映画が多数製作された。その中で[[黒澤明]]の『[[わが青春に悔なし]]』(1946年)、[[吉村公三郎]]の『[[安城家の舞踏会]]』(1947年)、[[今井正]]の『[[青い山脈 (映画)|青い山脈]]』などに出演した[[原節子]]は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。[[佐々木康]]の『はたちの青春』(1946年)では日本映画最初のキスシーンが撮られた。
1945年11月16日、GHQは「非民主主義的映画排除方指令に関する覚書」を交付した。11月19日、超国家主義的・軍国主義的・封建主義的思想の映画236本の上映禁止・焼却指令を発表した<ref name="ReferenceB">日本管理法令研究 日本管理法令研究会{{Full|date=2021年11月}}</ref><ref>朝日新聞{{Full|date=2021年11月}}</ref>。
1946年1月28日、GHQは「映画検閲に関する覚書」を出し、民間検閲課による検閲を開始。8月13日、記録映画『日本の悲劇』上映禁止を通告<ref name="ReferenceB"/><ref>映画史 岩崎昶{{Full|date=2021年11月}}</ref>。
=== 主権回復・第二黄金時代 ===
[[ファイル:Rashomon_poster_2.jpg|thumb|200px|[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]。([[1950年]]([[昭和]]25年))]]
[[画像:24 Eyes 2.jpg|thumb|200px|『[[二十四の瞳]]』([[1954年]]([[昭和]]29年))]]
[[1951年]]に[[サンフランシスコ講和条約]]が締結されると、日本国は主権を回復した。翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。また、1958年には映画人口が11億人を突破するなど{{R|TCMP122}}、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。
GHQによって制限されていた戦争映画が製作されはじめ、[[関川秀雄]]の『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声|きけ、わだつみの声]]』(1950年)、今井正の『[[ひめゆりの塔 (1953年の映画)|ひめゆりの塔]]』(1953年)、[[木下恵介]]の『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』(1954年)、[[市川崑]]の『[[ビルマの竪琴]]』(1956年)など、戦争を単純悪と捉えた作品ではなく、戦争体験の悲壮さや感傷的回顧を目的とした作品が次々と登場し、社会的影響となった。その他、『[[戦艦大和 (映画)|戦艦大和]]』(1953年)や『[[太平洋の鷲]]』(1953年)といったノスタルジア映画も量産された。こうした中で[[嵐寛寿郎]]が[[明治天皇]]を演じた『[[明治天皇と日露大戦争]]』(1957年)といった作品までもが登場した。神聖にして侵すべからずとされた天皇の商品化という、戦前には考えられなかった事態であった。
映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』で[[ヴェネツィア国際映画祭]]グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年『[[西鶴一代女]]』、1953年『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』、1954年『[[山椒大夫]]』と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の『[[七人の侍]]』もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、[[カンヌ国際映画祭]]において[[衣笠貞之助]]の『[[地獄門]]』がグランプリを受賞するなど、極東の国から届けられたフィルムに世界中が驚嘆した。
こうした映画の量産体制は東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって牽引した。各社の動向は以下の通り。
==== 東映 ====
新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。[[萬屋錦之介|中村錦之助]]、[[東千代之介]]出演の『[[笛吹童子|新諸国物語 笛吹童子]]』シリーズ(1954年・三部作)、『[[紅孔雀|新諸国物語 紅孔雀]]』シリーズ(1954年 - 1955年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、[[市川右太衛門]]、[[片岡千恵蔵]]、[[月形龍之介]]、[[大友柳太朗]]出演の、大人向け時代劇も活性化。中村錦之助、[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。現代劇でも[[東映ニューフェイス]]から、[[中原ひとみ]]、[[高倉健]]、[[水木襄]]、[[佐久間良子]]、[[梅宮辰夫]]、[[千葉真一]]などの[[主演]][[wikt:スター|スター]]が輩出した。[[今井正]]監督『[[米 (映画)|米]]』(1957年)、『[[純愛物語]]』(同)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラー[[アニメーション映画|アニメ映画]]『[[白蛇伝]]』を公開するなど{{R|東宝全史550}}、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。
==== 東宝 ====
[[画像:Gojira 1954 Japanese poster.jpg|thumb|200px|『[[ゴジラ]]』(1954年([[昭和]]29年))]]
[[森繁久弥]]出演の『[[三等重役]]』より、サラリーマンシリーズ、フランキー堺出演の[[社長シリーズ]]、[[駅前シリーズ]]が大ヒット。東宝の経営を支えた。[[今井正]]監督『[[また逢う日まで (1950年の映画)|また逢う日まで]]』(1950年)、ヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞した[[稲垣浩]]監督『[[無法松の一生 (1958年の映画)|無法松の一生]]』(1958年)、[[成瀬巳喜男]]監督『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』(1955年)、[[岡本喜八]]監督『[[独立愚連隊]]』(1959年)、[[東宝争議]]により一時東宝を離れていた[[黒澤明]]は、『[[生きる (映画)|生きる]]』(1952年)を皮切りに、『[[七人の侍]]』(1954年)、『[[隠し砦の三悪人]]』(1958年)などが大ヒットした。黒澤は莫大な製作費をかけるため、1959年に黒澤プロダクションが発足されるが、東宝とのパートナーシップは続いた。『七人の侍』も公開されていた1954年には『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』が大成功を収め、[[ゴジラ|シリーズ]]化されて1975年まで続くドル箱シリーズとなった。以降、[[小田基義]]監督+[[円谷英二]]特撮監督『[[透明人間 (1954年の映画)|透明人間]]』(1954年)、[[本多猪四郎]]監督+円谷英二特撮監督『[[獣人雪男]]』(1955年)、など特撮作品でヒットを飛ばす。東宝映画1000本の記念作品は特撮映画で、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による『[[日本誕生]]』(1959年)だった。
==== 松竹 ====
大庭秀雄監督による『[[君の名は]]』(1953年 - 1954年)、[[今井正]]監督『[[にごりえ]]』(1953年)、『[[キクとイサム]]』(1959年)をはじめ文芸作が大ヒット。[[小林正樹]]監督『[[人間の條件 (映画)|人間の條件]]』(1959年 - 1962年)ではヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞を受賞した。さらに福田晴一監督・[[伴淳三郎]]出演『[[二等兵物語]]』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットした。[[木下惠介]]監督が『[[カルメン故郷に帰る]]』(1951年)、『[[日本の悲劇 (1953年の映画)|日本の悲劇]]』(1953年)、『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』『女の園』(1954年)、『[[野菊の如き君なりき]]』(1955年)、『[[太陽とバラ]]』(1956年)、『[[喜びも悲しみも幾歳月]]』(1957年)、『[[楢山節考 (1958年の映画)|楢山節考]]』(1958年)などや、[[小津安二郎]]監督も『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』(1951年)、『[[早春 (1956年の映画)|早春]]』(1956年)、『[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]』(1958年)、『[[東京物語]]』(1953年)などを発表した。
==== 日活 ====
1953年の製作再開以降、[[市川崑]]監督『[[ビルマの竪琴]]』(1956年)などの文藝作を製作していた。五社協定により他社からスターを引き抜けないため、[[石原裕次郎]]、[[小林旭]]、[[浅丘ルリ子]]、[[赤木圭一郎]]、[[宍戸錠]]、[[二谷英明]]、[[川地民夫]]、[[待田京介]]、[[和田浩治]]などの自前のスターを作り出し、若年向けの[[青春映画]]や無国籍[[アクション映画]]を製作・配給した。なかでも古川卓己監督『[[太陽の季節]]』(1956年)、[[中平康]]監督『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』(1956年)、[[井上梅次]]監督『[[嵐を呼ぶ男]]』(1957年)、[[田坂具隆]]監督『[[陽のあたる坂道 (小説)|陽のあたる坂道]]』、[[蔵原惟繕]]監督『[[風速40米]]』(1958年)などの石原裕次郎主演作が一世を風靡する。[[川島雄三]]監督[[フランキー堺]]主演の『[[幕末太陽傳]]』(1957年)などの歴史に残る作品も残している。
==== 大映 ====
1950年代から1960年代前半にかけて男優では[[長谷川一夫]]、[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]、女優では[[京マチ子]]、[[山本富士子]]、[[若尾文子]]と、さらに他社専属やフリーの[[高峰秀子]]、[[鶴田浩二]]、[[岸惠子]]らも出演し、[[溝口健二]]監督『[[近松物語]]』(1954年)、[[吉村公三郎]]監督『夜の河』(1956年)などの名作を多数送り出した。中でも市川主演作が人気を呼び、[[森一生]]監督『[[薄桜記]]』(1959年)、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督『[[弁天小僧]]』(1959年)などの時代劇の他、[[市川崑]]監督『[[炎上 (映画)|炎上]]』などの文藝作もヒットした。
このほか、[[新藤兼人]]監督『[[原爆の子 (映画)|原爆の子]]』(1952年)、[[山本薩夫]]監督『[[真空地帯]]』(1953年)、[[今井正]]監督『[[真昼の暗黒 (映画)|真昼の暗黒]]』(1956年)などの独立系映画も活発に製作・公開。1957年には[[勅使河原宏]]や[[羽仁進]]などの若手映画人らがグループ「シネマ57」を結成し、実験映画の製作などを行っていた。
=== 1960年代 ===
[[File:Movie theater attendance in Japan.svg|thumb|日本における映画観客動員数の推移。]]
[[1960年]]に日本映画史上で最高製作本数となる547本を製作し、ピークを迎えた。そのほとんどは大手6社による[[プログラムピクチャー]]で、この年以降、映画産業に翳りが見え隠れするようになった。観客動員数はこれより先、1958年の11億人強を最高に、急激に下降し、1963年には半分以下の5億人強となった{{R|TCMP122}}。
この背景には[[1953年]]より登場した[[テレビ]]の急速な普及がある{{R|TCMP122}}。テレビは1959年の皇太子結婚をきっかけに一般に広く浸透し、[[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]でその勢いは加速{{R|TCMP122}}。またこの時期[[フジテレビ]]に在籍していた[[五社英雄]]が松竹へ出向し『[[三匹の侍]]』で映画監督としてデビュー。テレビ畑出身、映画界での下積み経験のない人材が大手映画作品に進出していく契機となる。1961年には[[新東宝]]が製作停止、日活は1969年に撮影所を売却、1971年に製作停止となった。
同時に、[[中平康]]、[[鈴木清順]]、[[増村保造]]、[[蔵原惟繕]]、[[石井輝男]]、[[岡本喜八]]、[[今村昌平]]、[[松本俊夫]]、[[大島渚]]、[[高橋治]]、[[山田洋次]]、[[吉田喜重]]、[[篠田正浩]]、[[山下耕作]]、[[五社英雄]]、[[深作欣二]]、[[三隅研次]]、[[工藤栄一]]、[[浦山桐郎]]、[[熊井啓]]、[[勅使河原宏]]、[[若松孝二]]といった個性的で多種多様な若手監督が活躍した時代でもあった。
==== 東映 ====
観客動員No.1となった[[東映]]は、1960年に第二東映(1年後に[[ニュー東映]]と改称)を設立し、製作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは[[鶴田浩二]]、[[高倉健]]、[[富司純子|藤純子]]らを擁して仁侠ブームを作った。このジャンルの開祖は[[沢島忠]]の『[[人生劇場 飛車角]]』(1963年)といわれ<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%95%8C-70355|title=任侠映画 にんきょうえいが- コトバンク|publisher=[[朝日新聞社]]|accessdate=2021-02-27}}</ref>{{R|toeininkyo}}、義理と人情の板挟みにあいながらも自己犠牲を貫く内容だった。以降、『[[博徒シリーズ|博徒]]』、『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』、『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』、『[[昭和残侠伝シリーズ|昭和残侠伝]]』、『[[緋牡丹博徒シリーズ|緋牡丹博徒]]』といった任侠シリーズは人気を博し{{R|toeininkyo}}、1972年頃まで製作され、[[内藤誠]]の『[[不良番長]]シリーズ』もヒットした。一方で[[1969年]]には[[オールスター|オールスターキャスト]]の『[[日本暗殺秘録]]』([[主演]]:[[千葉真一]]・[[映画監督|監督]]:[[中島貞夫]])を封切り公開し、[[東大紛争]]・[[安保闘争]]など騒然とした当時の世相を反映させている<ref>{{Cite book |和書|author = JJサニー千葉 |authorlink = 千葉真一 |year = 2010 |title = 千葉流 サムライへの道 |publisher = [[ぶんか社]] |pages = 28-36 |isbn = 4821142694 }}</ref>。
==== 東宝 ====
[[画像:Mikio Naruse.jpg|thumb|200px|[[成瀬巳喜男]]]]
東宝では[[社長シリーズ]]に続き、[[古沢憲吾]]による[[植木等]]主演の[[クレージー映画|無責任シリーズ]]、[[クレージー映画|日本一の男シリーズ]]などを開始し、陽気なミュージカル喜劇として人気を博した{{R|TCMP122}}。また、[[加山雄三]]主演の[[若大将シリーズ]]では松竹が得意としたスポーツマン大学生もののお株を奪うヒットを見せた。
他方で黒澤明や怪獣映画も人気を堅持し{{R|TCMP122}}、黒澤は引き続き黒澤プロダクションとの東宝共同製作で、『[[用心棒]]』(1961年)、『[[椿三十郎]]』(1962年)、『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』(1963年)、『[[赤ひげ]]』(1965年)などの作品を発表した。1969年にアメリカの[[20世紀フォックス]]社の戦争映画『[[トラ・トラ・トラ!]]』の脚本と監督を依頼された黒澤は、最終編集権が監督にないハリウッドのシステムに反発。撮影が容易に進まず、激しい心労の末に解任され、自殺未遂事件を起こす。また、1970年には初のカラー映画『[[どですかでん]]』を製作している。
[[岡本喜八]]による『[[独立愚連隊]]』(1959年)で戦争モノにも進出し、多彩なジャンルをアピールした。岡本はその後の『[[日本のいちばん長い日]]』(1967年)で東宝と製作主張を巡り訣別を告げ、私費で『[[肉弾]]』(1968年)を製作している。
その他代表作としては、[[市川崑]]総監督『[[東京オリンピック (映画)|東京オリンピック]]』(1965年)、[[成瀬巳喜男]]監督の『[[女の中にいる他人]]』(1966年)、『[[乱れ雲]]』(1967年)などが挙げられる。
東宝は1961年ごろに[[ロサンジェルス]]の老舗映画館「[[:en:La Brea Theatre|ラ・ブレア]]」を買い取り、自社作品の上映を開始し、同館は米国における日本映画のショーケースとして機能した{{R|latimes}}。60年代には同様に[[ニューヨーク]]のタイムズスクエアにも専門館を所持した<ref>[http://cinematreasures.org/theaters/2293 Toho La Brea Theatre] Cinema Treasures</ref>。
==== 松竹 ====
[[画像:Nagisa_Ōshima_and_Ryūhei_Matsuda_at_Cannes_in_2000.jpg|thumb|200px|[[大島渚]]]]
「大船調」といわれた松竹お得意のメロドラマ路線が、収益を呼べず、1960年に[[城戸四郎]]社長が辞任。監査役の大谷博が社長となった。[[ヌーヴェルヴァーグ|松竹ヌーヴェルヴァーグ]]と呼ばれた助監督群が相次いでデビューし、[[大島渚]]監督『[[青春残酷物語]]』(1960年)、『[[日本の夜と霧]]』(1960年)、[[吉田喜重]]監督『[[ろくでなし (1960年の映画)|ろくでなし]]』(1960年)、『[[秋津温泉]]』(1962年)、[[篠田正浩]]監督『恋の片道切符』(1960年)、『[[暗殺 (映画)|暗殺]]』(1964年)などの斬新な作品群を発表するが、[[日米安保]]改定問題を扱った大島渚監督『日本の夜と霧』が封切り4日後に松竹によって興行を打ち切られる。松竹を辞めた大島渚は独立プロ創造社を起こすなど、松竹ヌーヴェルヴァーグの監督たちは後に松竹を後にした。[[野村芳太郎]]は『[[拝啓天皇陛下様]]』(1963年)などの人情喜劇、[[コント55号]]主演映画などを監督。[[山田洋次]]監督は『[[下町の太陽]]』(1963年)、『[[馬鹿まるだし]]』(1964年)、『[[霧の旗#映画|霧の旗]]』(1965年)などの作品を経て、1969年より「[[男はつらいよ|男はつらいよシリーズ]]」を始める。代表作には、[[小津安二郎]]監督『[[秋日和]]』(1960年)、『[[秋刀魚の味]]』(1962年)、[[木下惠介]]監督『[[笛吹川]]』(1960年)、『[[永遠の人]]』(1961年)、『[[二人で歩いた幾春秋]]』(1962年)、『[[死闘の伝説]]』(1963年)、『[[香華]]』(1964年)、[[渋谷実]]監督『[[もず]]』(1961年)、[[小林正樹]]監督『[[切腹 (映画)|切腹]]』『[[からみ合い]]』(1962年)、[[松山善三]]監督『[[山河あり]]』(1962年)、[[羽仁進]]監督『[[充たされた生活]]』(1962年)、[[中村登]]監督『[[古都 (1963年の映画)|古都]]』(1963年)、『[[紀ノ川 (小説)#映像化|紀ノ川]]』『暖春』(1966年)、『[[智恵子抄#映画「智恵子抄」(1967年版)|智恵子抄]]』『[[惜春]]』(1967年)、『[[わが恋わが歌]]』(1969年)、[[吉村公三郎]]監督の『[[眠れる美女]]』(1968年)、[[蔵原惟繕]]監督の『[[栄光への5000キロ]]』(1969年)などがある。『[[宇宙大怪獣ギララ]]』(1967年)、『[[吸血鬼ゴケミドロ]]』(1968年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。
==== 日活 ====
1960年代に引き続き、無国籍映画と云われた和製西部劇([[小林旭]]の渡り鳥シリーズや流れ者シリーズなど)が大ヒットするが、本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、アクション映画のマンネリ化、企画不足、[[石原裕次郎]]と小林の人気低下、社長・[[堀久作]]のワンマン体質からくる放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化。その1960年代には[[吉永小百合]]、[[浜田光夫]]、[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]、[[渡哲也]]、[[山本陽子]]、[[和泉雅子]]、[[松原智恵子]]、[[藤竜也]]、[[梶芽衣子]]、[[杉良太郎]]らを輩出したが、退潮を食い止めることはできなかった。一方、[[今村昌平]]が『[[豚と軍艦]]』(1961年)、『[[にっぽん昆虫記]]』(1963年)、『[[赤い殺意]]』(1964年)、[[鈴木清順]]が『[[東京流れ者]]』、『[[けんかえれじい]]』(1966年)などを制作したが、『[[殺しの烙印]]』(1967年)に不満を持った堀から解雇される。このほか、監督では[[熊井啓]]、[[浦山桐郎]]らを擁した。
==== 大映 ====
1960年代に入ると[[勝新太郎]]・[[田宮二郎]]が頭角を現すが、[[長谷川一夫]]・[[叶順子 (女優)|叶順子]]の引退(1963年)、[[永田雅一]]社長によって[[五社協定]]にかけられた[[山本富士子]](1963年)・[[田宮二郎]](1968年)の退社、[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]の急逝(1969年)で観客数の落ち込みが深刻になり、永田のワンマンな放漫経営もあって業績は悪化。日本初の70ミリ映画『[[釈迦#釈迦を題材にした作品|釈迦]]』(1961年)や『[[秦・始皇帝]]』(1962年)など大作映画路線も数作で終わった。この年代の[[大映]]の代表作には、[[市川崑]]監督の『[[おとうと (1960年の映画)|おとうと]]』『[[ぼんち (小説)#映画|ぼんち]]』(1960年)、『[[黒い十人の女]]』(1961年)、『[[私は二歳]]』『[[破戒 (小説)#1962年版|破戒]]』(1962年)、『[[雪之丞変化#雪之丞変化(1963年)|雪之丞変化]]』(1963年)、[[増村保造]]監督の『[[偽大学生]]』(1960年)、『[[妻は告白する#映画|妻は告白する]]』(1961年)、『[[清作の妻 (1965年の映画)|清作の妻]]』(1965年)、『[[華岡青洲の妻#映画化|華岡青洲の妻]]』(1967年)、[[三隅研次]]監督の『[[斬る]]』(1962年)、『[[剣 (映画)|剣]]』(1964年)、『[[剣鬼]]』(1965年)、[[吉村公三郎]]監督の『[[その夜は忘れない]]』(1962年)、『[[越前竹人形#映画|越前竹人形]]』(1963年)、[[川島雄三]]監督の『[[雁の寺]]』(1962年)、『[[しとやかな獣]]』(1963年)、[[山本薩夫]]監督の『[[傷だらけの山河]]』(1964年)、『[[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]]』『[[氷点#映画|氷点]]』(1966年)、[[森一生]]監督の『[[ある殺し屋]]』(1967年)などがある。[[ガメラ]]シリーズ(1965年 - 1971年)、[[大魔神]]シリーズ(全て1966年・3作)『[[妖怪大戦争 (1968年の映画)|妖怪大戦争]]』(1968年)などの子供向け特撮映画も発表し、中でもガメラシリーズに至っては東宝のゴジラシリーズと並ぶ怪獣映画の二枚看板にまで発展するに至るほどの人気シリーズとなった。主な人気シリーズは以下の通り。
* [[悪名|悪名シリーズ]](1961年 - 1969年)[[勝新太郎]]、[[田宮二郎]]主演。
* [[座頭市|座頭市物語シリーズ]](1962年 - 1968年)勝新太郎主演
* [[兵隊やくざ|兵隊やくざシリーズ]](1965年 - 1968年)勝新太郎、[[田村高廣]]主演
* [[忍びの者|忍びの者シリーズ]](1962年 - 1966年)[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]主演
* [[眠狂四郎|眠狂四郎シリーズ]](1963年 - 1969年)市川雷蔵主演
* [[陸軍中野学校 (映画)#陸軍中野学校シリーズ|陸軍中野学校シリーズ]](1966年 - 1968年)市川雷蔵主演
==== 独立系 ====
大手企業による[[ブロックブッキング制]]の影響があったものの、[[文芸プロダクションにんじんくらぶ]]が複数の作品を制作・公開しており、[[1966年]]の日本・[[台湾映画|台湾]]合作映画『[[カミカゼ野郎 真昼の決斗]]』は、主演の[[千葉真一]]と監督の[[深作欣二]]が[[東映]]に籍を置きながら参加した作品である。一方映画産業の斜陽化と共に、監督が大企業を離れて独立プロで製作を行う、といったことが見られるようになり、[[新藤兼人]]の『[[裸の島]]』(1960年)、『[[鬼婆 (映画)|鬼婆]]』(1964年)、『[[裸の十九才]]』(1970年)や、[[勅使河原宏]]と[[安部公房]]による『[[おとし穴 (映画)|おとし穴]]』(1962年)、『[[砂の女]]』(1964年)、『[[他人の顔]]』(1966年)といったブラックユーモアに満ちた作品が出現した。
==== ATG ====
1961年に、[[日本アート・シアター・ギルド]] (ATG) 設立(- 1992年)。非商業主義的な芸術作品を製作・配給した。第1回配給作品は[[イェジー・カヴァレロヴィチ]]監督『[[尼僧ヨアンナ]]』(1962年4月)。初の日本映画作品は[[勅使河原宏]]監督『おとし穴』(1962年7月)。以降、1968年には1000万映画の製作を開始し、[[新藤兼人]]、[[羽仁進]]などの独立系監督のほか、[[三島由紀夫]](作家)、[[実相寺昭雄]](テレビ演出家)、[[寺山修司]](演劇)、[[田原総一朗]](ジャーナリスト)、[[清水邦夫]](演劇)などの異業種出身監督、[[黒木和雄]]、[[松本俊夫]]などの新人など、多くの出身者や作風に門戸を広げた。また1960年代後半には、ピンク映画出身の[[若松孝二]]など、そして大手五社映画を辞した[[大島渚]]、[[今村昌平]]、[[吉田喜重]]、[[篠田正浩]]、[[岡本喜八]]、[[熊井啓]]、[[増村保造]]、[[斎藤耕一]]またはフリーの[[市川崑]]などにも製作と発表の場を与えた功績も大きい。多くの作品が[[キネマ旬報]]ベストテンに選定されるなど高い評価を受け、70年代はもちろん、80年代後半まで大きな潮流となった。
{{see|日本アート・シアター・ギルド公開作品の一覧}}
==== 手塚治虫・虫プロダクション ====
1962年、[[手塚治虫]]が[[虫プロダクション]]を設立。
=== 1970年代 ===
1970年代も日本映画の集客力の凋落は止まらず、内訳で見た場合、1971年に公開された367本のうち、大手5社の占める割合が約4割に激減した<ref name="avj9601" />。逆に、低予算で製作可能なピンク映画や独立プロによる映画の躍進も見られた。
また、スターシステムと五社協定の崩壊により俳優は製作会社への所属から作品ごとの契約へと切り替わりが進んだ。前時代に活躍した監督についても、資本を海外に求めた黒澤や大島、ドキュメンタリーへ転進した今村など、徐々に消えていくこととなった。
[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけては、映画は10本作れば6本は[[黒字と赤字|黒字]]だったが{{R|読売780608}}、1970年代後半はヒット作は10本中2本程度になった{{R|読売780608}}。映画人口もピーク時の7分の1{{R|読売780608}}。映画がこれほど衰退した国は、世界に例がないと当時いわれた{{R|読売780608}}。あまりの衰退ぶりに映画業界から国から[[補助金|助成]]をという声が盛んに上がったが、1978年6月に[[日本映画製作者連盟]]の会長に就任した[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]が「金も出せば口も出すで、結局あちらの言いなりじゃ自ら首を絞めるようなものだ。地道に一本一本力を込めて、自力再生するしかない。もう東映だ、松竹だと妙な社風を振りかざして睨み合ってる時代じゃない。この斜陽対策を業界全体で考えなくてはならない」などと国からの支援を断固反対した{{R|読売780608}}。
==== 東映 ====
学生運動の衰退に伴い、東映の任侠モノは色あせた映画と評されるようになった。[[伊藤俊也]]の『[[女囚さそりシリーズ]]』の公開後、1973年には[[実録路線]]の『[[仁義なき戦い]]』シリーズや、格闘映画の『[[ボディガード牙]]』シリーズなどが大ヒットし、以降次々とシリーズ化され、実録・格闘路線は経営を支える二本柱となった。特に[[千葉真一]]の格闘映画は[[欧米]]・[[東南アジア]]でも大ヒットした<ref>[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety]]、[[1974年]][[12月18日]]付{{要ページ番号|date=2021年11月}}。</ref><ref>「本家[[ブルース・リー]]をしのぐ[[千葉真一]]」 [[スポーツ報知|報知新聞]]、1974年[[12月27日]]付[[朝刊]]。</ref><ref>{{Cite journal |和書|year = 1981 |month = 8 |journal = SPORTS CITY |volume = 1 |issue = 2 |page = 32 |publisher = 鎌倉書房 }}</ref><ref>{{Cite book |和書|author = 中村カタブツ |year = 1999 |title = 極真外伝 〜[[極真空手]]もう一つの闘い〜 |publisher = ぴいぷる社 |pages = 172-186 |isbn = 4893741373 }}</ref>。1975年には日本国内では初めての[[パニック映画]]である『[[新幹線大爆破]]』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では高い評価をされて大ヒットした。同年には松竹の『男はつらいよ』シリーズに対抗した『[[トラック野郎]]』が、『新幹線大爆破』より日本での興行収入を上回ったことからシリーズ化され、[[菅原文太]]は[[ヤクザ映画]]から脱却するきっかけとなった。1978年には『[[柳生一族の陰謀]]』が大ヒットし{{R|興行収入}}、『[[赤穂城断絶]]』など次々と時代劇復興を掲げた作品が製作された。1970年代後半からは角川映画、[[西崎義展|オフィス・アカデミー]]などの[[制作プロダクション|独立プロ]]を盛んに取り込んだ{{Sfn|クロニクル東映2|1991|p=65}}{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258–259、272–273}}{{Sfn|活動屋人生|2012|pp=102–135}}{{Sfn|教科書|2016|pp=226–235}}<ref>[https://web.archive.org/web/20060724085318/http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】](archive)、[http://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201004120034.html asahi.com(朝日新聞社):ヤマトは「文芸もの」だった?]、[https://web.archive.org/web/20120822075511/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00006.htm 角川春樹氏、思い出語る「ひとつの時代終わった」…岡田茂氏死去](archive)</ref>。
==== 東宝 ====
後の21世紀では独り勝ちが続く東宝でさえ厳しく、12代目東宝社長・[[石田敏彦]]は「[[松岡辰郎]]社長時代の1970年に20本みんなで選んだんですが、当たったのが『[[その人は女教師]]』([[岩下志麻]]主演・[[出目昌伸]]監督)1本だけだった鮮烈な記憶があります」と述べている<ref name="avj9601">{{Cite journal |和書 |title=東宝・磯田敏彦インタビュー『それは組織崩壊に繋がりまから』 |journal=AVジャーナル |issue=1996年1月号 |publisher=[[文化通信社]] |pages=22–29頁 }}</ref>。
==== 松竹 ====
[[画像:Kuruma torajirou.jpg|thumb|200px|東京[[柴又駅]]の[[男はつらいよ|車寅次郎]]の銅像]]
松竹では1969年より開始された[[山田洋次]]による『[[男はつらいよ]]』をシリーズ化し、国民的人気を得てこのシリーズは30年近く続き48本の映画が製作され、1983年、「世界最長の映画シリーズ」として[[ギネス・ワールド・レコーズ]]に登録されている。
==== 日活 ====
経営難に陥った日活は労働組合を中心に再建がなされ、1971年より[[日活ロマンポルノ]]としてロマンポルノ路線を断行した{{R|TCMP124}}。日活の転進はそれまで所属していた大物俳優や監督との訣別を意味した。[[小林旭]]や[[渡哲也]]は東映へ、[[宍戸錠]]はテレビへと活躍の場を求めている。逆に今まで機会のなかった新人監督や俳優が次々と出現し、業界の停滞期において、唯一といっていい人材育成の場所となった。[[日活ロマンポルノ]]は1988年まで週に2本というペースで製作がなされ、[[神代辰巳]]、[[田中登]]、[[小沼勝]]、[[村川透]]、[[池田敏春]]、[[中原俊]]、[[黒沢直輔]]、[[金子修介]]といった多数の人材を輩出している。
==== 大映 ====
大映は倒産し{{R|TCMP124}}、後の1974年に[[徳間書店]]に買収された。
==== 角川映画 ====
映画苦戦の一方で1976年に[[角川春樹]]が映画製作に進出し、豊富な予算による制作と[[メディアミックス]]による戦略化された宣伝を展開。封切り公開された作品は立て続けに大ヒットし続け、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破り、[[角川映画]]の勢いは1980年代半ばまで続いた{{Sfn|教科書|2016|pp=224–230}}。アニメーションやドキュメンタリーの分野は発展し、後の礎を築いた。1977年に東映が配給した『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』では日本映画で初といわれる徹夜組が出た。1979年には『[[銀河鉄道999 (アニメ)#映画版|銀河鉄道999]]』(東映製作配給)が公開され、1979年度の邦画の邦画配収第一位となり、アニメ映画史上初の快挙となった。アニメ映画が評価されなかった<ref>津堅信之『日本アニメーションの力 85年の歴史を貫く2つの軸』NTT出版、[[2004年]]{{要ページ番号|date=2021年11月}}。</ref>時代に異例の評価を得る。
1976年の『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』を皮切りに、出版やテレビドラマ等との複合的効果を狙った[[メディアミックス]]マーケティングを展開し、『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』、『[[野性の証明#映画|野性の証明]]』、[[1979年]]の『[[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]]』など、大作を立て続けに大ヒットさせた{{Sfn|教科書|2016|pp=224–230}}。『犬神家の一族』では製作を東宝、配給は東映など、以降の作品でも映画会社のそれぞれの強みのみを採用し、従来の映画界の枠を打ち破る独自の映画製作を進めていった{{Sfn|教科書|2016|pp=241–243}}。
=== 1980年代 ===
[[File:Distributors income in Japan.svg|thumb|邦画配給会社別の年間配給収入([[1999年]]([[平成]]11年)まで)]]
1980年になると従来の[[スタジオシステム]]は崩壊し、大手が大作映画を全国の専属劇場で同時公開するという方式が成り立たなくなった。日活は1978年に社名を「にっかつ」に、1988年に「ロッポニカ」に変更し、ロマンポルノ路線からの脱皮を図ったが、うまく立ち行くことはできなかった。
[[キネマ旬報#第54回(1980年度)|1980年の第54回キネマ旬報ベスト・テン]]で話題を呼んだのは、ゲリラ的に製作・配給・興行した[[鈴木清順]]監督の『[[ツィゴイネルワイゼン (映画)|ツィゴイネルワイゼン]]』が日本映画ベスト・テン1位を取ったことと、巨匠監督の作品に交じって[[大森一樹]]『[[ヒポクラテスたち]]』、[[橋浦方人]]『[[海潮音 (1980年の映画)|海潮音]]』、[[石井聰亙]]『[[狂い咲きサンダーロード]]』と、20~30歳代の若い監督作がベスト・テンに名を連ねたことだった<ref name="噂の眞相8103">{{Cite journal |和書 |author = 川崎宏 |title = ATG・1000万映画路線のターニング・ポイント |journal = [[噂の眞相]] |issue = 1981年3月号 |publisher = 噂の眞相 |pages = 36–43頁 }}</ref>。キネマ旬報ベスト・テン選考委員の一人である[[松田政男]]は「1980年は自主製作映画の最良のエネルギーを取り込むことに成功した一年だった。80年代に於ける日本映画転換のきざしを準備したと言える。それを担ったのはシネマプラセット<ref>[http://www.eurospace.co.jp/works/detail.php?w_id=000669 ツィゴイネルワイゼン – 東京]</ref>・新生[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]・名画座チェーンの三者。この功績は大きい」と評した<ref name="噂の眞相8103"/>。名画座チェーンというのは、いずれも良心的な劇場(こや)として映画ファンに知られていた東京の並木座、[[新文芸坐|池袋文芸坐]]、上板東映の三館を指し、「80年代はもうメジャーに任せておけない!」と、若手監督の自主製作バックアップに情熱を注いだ<ref name="噂の眞相8103"/>。並木座は土方鉄人監督の『[[戦争の犬たち (1980年の映画)|戦争の犬たち]]』、文芸坐は[[山川直人 (映画監督)|山川直人]]監督の『アナザ・サイド』、上板東映は石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』の製作にも関わっている<ref name="噂の眞相8103"/>。[[横山博人]]監督の『[[純 (映画)|純]]』は、並木座、文芸坐でのヒットを見た[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映社長がスケベ心を動かして東映で配給したといわれる<ref name="噂の眞相8103"/>。
[[邦画アニメ映画]]の好調が話題の中心になった2020年代の映画状況を考えるとき、その起点と見られるのは1977年の『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』であるが<ref name="CR8103">{{Cite journal |和書 |author = 寺島優 |authorlink = 寺島優 |title = シネマ最前線 アニメは、ブームを越えて文化へと成熟する!! 81年はアニメの年、第2次ブームを迎えたアニメの人気の秘密を徹底分析! |journal = [[シティロード]] |issue = 1981年3月号 |publisher = エコー企画 |pages = 14–15頁 }}</ref>、《アニメ・ブーム》とマスメディアが騒いだのが1981年3月のことだった<ref name="CR8103"/>。この年、3月14日の同日封切で、[[松竹]]が『[[機動戦士ガンダム#劇場版三部作|機動戦士ガンダム]]』、[[東宝]]が『[[ドラえもん のび太の宇宙開拓史#映画|ドラえもん のび太の宇宙開拓史]]』『[[怪物くん (カラーアニメ)#怪物くん 怪物ランドへの招待|怪物くん 怪物ランドへの招待]]、[[東映]]が『[[世界名作童話 白鳥の湖]]』など[[東映まんがまつり]]、[[東映洋画]]?が『[[宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち]]』、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド]]が『[[おじゃまんが山田くん#アニメ劇場版|おじゃまんが山田くん]]』、[[サンリオ]]が『[[ユニコ#映画第一作『ユニコ』|ユニコ]]』を公開し、各社アニメ作品のオンパレードとなり、映画界は"3・14アニメ戦争"などと呼ばれた<ref name="CR8103"/>。
[[酒井武史]]は『[[朝日ジャーナル]]』1982年7月の記事で「いま日本の映画界では一見奇妙な現象が起きています。映画人口は1981年についに1億5千万人を割りました。これは最盛期の14%に当たります。にも関わらず、邦画ニューウェーブの旗手たちといわれる新進。若手の監督たちが、話題作、問題作を引っさげて続々登場してきています」と論じ<ref name="朝日jo8207">{{Cite journal |和書 |author = 酒井武史 |authorlink = 酒井武史 |title = 日本映画はよみがえるか 〈ニューウェーブの旗手20氏に聞く(上)〉 |journal = [[朝日ジャーナル]] |issue = 1982年7月23日号 |publisher = [[朝日新聞社]] |pages = 32-37 }}{{Cite journal |和書 |author = 酒井武史 |title = 日本映画はよみがえるか 〈ニューウェーブの旗手20氏に聞く(下)〉 |journal = 朝日ジャーナル |issue = 1982年7月30日号 |publisher = 朝日新聞社 |pages = 92-96 }}</ref>、同誌編集部が独断で、将来の日本映画を担うと期待する若手監督20人を選び、1982年7月に二週に渡り紹介している<ref name="朝日jo8207"/>。ここで挙げられている20人は、[[長嶺高文]]、[[井筒和幸]]、[[森田芳光]]、[[浅尾政行]]、[[土方鉄人]]、[[井上真介]]、[[小栗康平]]、[[石山昭信]]、[[土橋亨]]、[[後藤俊夫]]、[[山川直人]]、[[石井岳龍|石井聰亙]]、[[長崎俊一|長崎しゅんいち]]、[[大森一樹]]、[[根岸吉太郎]]、[[横山博人]]、[[松原信吾]]、[[和泉聖治]]、[[保坂延彦]]、[[澤井信一郎]]である<ref name="朝日jo8207"/>。
1984年、[[伊丹十三]](映画監督伊丹万作の息子)が51歳で『[[お葬式]]』で映画監督としてデビューし、当初は「映画の名前が良くない」などと、ほとんど映画館から上映を断られるほど知名度が低い状態であったが、最初は小さな映画館での上映から始まり徐々に高い評価をうけ上映館が拡大し、ついには日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして、実に30を超える映画賞を受賞する状態までになった。(翌1985年の『[[タンポポ (映画)|タンポポ]]』も佳作との評価する人が多いが)1987年の『[[マルサの女]]』は、同時代を取材しそれを巧みに取り込んだ作品で、社会現象化し世間はこの映画のことで話題しきりの状態となった。伊丹は日本映画に、伊丹独特のセンス、新しい切り口、(製作上の)新しい手法などを導入した{{efn|伊丹はその後も、『[[マルサの女2]]』(1988年)、『[[あげまん (映画)|あげまん]]』(1990年)、『[[ミンボーの女]]』(1992年)、『[[大病人]]』(1993年)、『[[静かな生活]]』(1995年)、『[[スーパーの女]]』(1996年)、『[[マルタイの女]]』(1997年)と、90年代後半にかけて、手堅く当たる作品を世に出し続け、計十本の映画を手掛けることになる。なお『マルサの女』の現場には[[周防正行]]もスタッフとして参加しており、その現場で知りえた伊丹独特の手法が自分で映画を撮るときに大いに役に立ったと周防正行は後に語っており、伊丹はその意味でも日本映画に貢献した。}}。
80年代終盤になると有名人を映画監督に担ぎ出す動きが相次ぎ、ミュージシャンや俳優から作家、画家などあらゆるジャンルの監督が出現したが、二作目のメガホンをとったのは[[北野武]]、[[坂東玉三郎 (5代目)|坂東玉三郎]]、[[竹中直人]]などごく僅かであった。
一方、1970年代に沈黙してきた巨匠の復帰作品というものも見られ、代表的なものとしては黒澤明の『[[影武者 (映画)|影武者]]』(1980年)、『[[乱 (映画)|乱]]』(1985年)、『[[夢 (映画)|夢]]』(1990年)や[[鈴木清順]]の『[[ツィゴイネルワイゼン (映画)|ツィゴイネルワイゼン]]』(1980年)、『[[陽炎座]]』(1981年)、『[[夢二]]』(1991年)や[[吉田喜重]]の『[[人間の約束]]』(1986年)、[[松本俊夫]]の『[[ドグラ・マグラ]]』(1988年)などがある。
この時期、特異な存在感を示したのが当時視聴率トップを走っていた[[フジテレビ]]であった。フジテレビは映画に再参入すると『[[南極物語]]』(1983年)、『[[子猫物語]]』(1986年)の動物ものをヒットさせ、1980年代末からの[[バブル時代]]には[[ホイチョイ]]三部作と呼ばれる「トレンディ」な映画をヒットさせた。自局の映画番組での放映権が獲得しやすいこともあり、各局とも映画に参入するきっかけとなった<ref name="fuji">[https://www.moviecollection.jp/news/16858/ テレビ局と映画製作の歴史(その1)/映画製作に最も熱心だったのはフジテレビ! | ムビコレ | 映画・エンタメ情報サイト]</ref>。
=== 1990年代 ===
[[画像:TakeshiKitano.jpg|thumb|200px|[[ビートたけし|北野武]]]]
映画業界の苦戦は続き、年間観客動員数は1996年に1億1957万人まで減少、洋画人気による洋高邦低の状況も顕著になり、1998年には年間配給収入シェアで邦画が30.2%まで落ち込んだ<ref name="fuji"/>。
一方[[シネマコンプレックス]]が日本に定着した1990年代は、長期恒常的な不景気のあおりを受けつつも、1994年、長らく減少を続けていた映画館数がようやく増加の傾向に切り替わった。1960年から30年、全ての数値で減少し続けていた映画業界において、わずかながらではあるが、回復の兆しが見え始めた時期であるといえる。[[メディアミックス]]の動きが活発になり、[[コンピューターゲーム|ゲーム]]、[[日本の漫画|漫画]]、[[日本のアニメ|アニメ]]などと連動した映画作品が増加した。[[製作委員会方式]]によるリスク分散の手法が一般化し、テレビ製作会社の映画事業参入が増加。2000年代の邦画復活の布石となった。
また、1950年来遠ざかっていた国際映画祭の話題もいくつか出現し、1997年、[[今村昌平]]の『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』がカンヌ映画祭のグランプリを、[[河瀬直美]]の『[[萌の朱雀]]』がカメラ・ドールを獲得した。ヴェネツィア映画祭では[[北野武]]の『[[HANA-BI]]』が金獅子賞を獲得し、マス・メディアにおいて「日本映画のルネッサンス」という標語まで誕生した。興行面においても[[周防正行]]の『[[Shall we ダンス?]]』などがアメリカをはじめとする諸国で成功を収めた。国内においても1997年に宮崎駿の『[[もののけ姫]]』が記録的なヒットとなるなど、明るい話題が続いた。
=== 2000年代 ===
[[File:Movie distributor's ticketsales in Japan.svg|thumb|邦画配給会社別の年間興行収入([[2000年]]([[平成]]12年)以降)]]
2001年には『[[千と千尋の神隠し]]』が当時の[[日本歴代興行成績上位の映画一覧#日本歴代興行収入ランキング|日本歴代興行収入]]第1位を記録。2003年、『[[踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!]]』が記録的ヒット。同年に『[[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]]』が[[第60回ヴェネツィア国際映画祭]]で銀獅子賞を、第28回[[トロント国際映画祭]]では観客賞を受賞。2004年には『[[誰も知らない]]』に出演した[[柳楽優弥]]が、[[第57回カンヌ国際映画祭]]にて史上最年少および日本人として初めての[[カンヌ国際映画祭 男優賞|最優秀主演男優賞]]を獲得。2008年には『[[おくりびと]]』が事実上、日本映画として初の[[第81回アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞し、快挙が続いた。ジャパニーズホラーとも呼ばれる[[ホラー映画]]も海外で脚光を浴び、『[[呪怨]]』などがハリウッドでも[[リメイク]]された。
海外の映画監督の評価もあり、日本独自の映像表現が見直されるようになり、同時に、低迷する実写邦画の再建が模索された。洋画の興行収入の低迷という点もあるものの、[[2006年]]は21年ぶりに邦画の興行収入が洋画の興行収入を上回った(日本映画製作者連盟調査)。
2000年代の実写邦画復活の立役者は、『[[踊る大捜査線]]』シリーズに代表されるテレビ局の出資であった<ref>[https://research.a01.aoyama.ac.jp/blog/insights/column_hida-3-3/ 日本映画がより発展するために - 青山学院大学 | AGUリサーチ]</ref>。しかし、[[テレビ局]]が出資した映画の[[コマーシャルメッセージ|CM]]を自局で大量に流し、情報番組などで宣伝している点があり、それに比例してテレビ局の口出しが増え、映画の自主性が薄れているとされる。放送法でテレビ局は番組以外の商品は、宣伝が[[自由]]にできるので製作してはならないという決まりがあるが、将来自局で流す映画のコマーシャルは放送法に違反しないため問題はないので、上記で挙げた過剰な宣伝は[[道徳|モラル]]の問題とされる{{R|wp1}}。
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{{要出典範囲|もっとも、これらの傾向は低迷していた1980年代以来続いていたことであり、そういったメディア展開は必ずしも興行収入増加を約束するものではないという見方もある|date=2021年12月}}。
{{要出典範囲|また、タレントや流行の単発芸人など話題性によるその場的な利用についても、特に日本は欧米と違い、タレントがCMからお笑い、ドラマや映画まで出演しているため出演者の個性が脳裏に焼きついて“映画”として見られないという声もある|date=2021年12月}}。-->
[[2001年]][[11月16日]]、[[文化芸術振興基本法]]が衆議院に提出され、同月30日衆参で可決した。法律の公布・施行は同年[[12月7日]]。この法律のメディア芸術の振興の項目(第9条)で、映画を含んだメディア芸術の製作・上映支援などのために必要な施策を講じることが明記され、これと連動する形で第35条で[[地方公共団体]]によるバックアップも明記された。
このことを受け、[[文化庁]]は地域振興と結びつく映画製作について助成することを打ち出し、各[[地方公共団体]]は''[[フィルム・コミッション]]''などの設立・運営、および当該組織を通じての映画製作の誘致などを始めた。さらに、『眠る男』([[群馬県]])や『[[船を降りたら彼女の島]]』([[愛媛県]])などのように、地方公共団体が(「[[補助金]]」や「[[寄付]]」などではなく)映画に対して直接[[出資]]する例も見られるようになった。[[2000年]]([[平成]]12年)2月 に「フィルム・コミッション設立研究会」が設立された。[[2001年]](平成13年)[[8月8日]] に「全国FC連絡協議会」設立総会が開催された。パシフィコ横浜で全国FC(フィルム・コミッション)連絡協議会の設立総会が開催された。46の正会員団体のうち、フィルム・コミッションの団体数は11。同年[[12月7日]] に 「文化芸術振興基本法」施行。この法律の対象には、メディア芸術(第九条)として、映画も含まれる。
[[2003年]](平成15年)[[4月1日]]に 「全国FC連絡協議会」、加盟47団体へ。全国フィルム・コミッション連絡協議会への加盟FC(フィルム・コミッション)の数が47団体に達した。[[4月24日]]に公開映画の納付義務付けを提言。[[文化庁]]の懇談会は、公開された日本映画を[[国立映画アーカイブ|東京国立近代美術館フィルムセンター]]へ納入することを義務付ける事など日本映画を振興させる12の施策提言を最終報告書にまとめた。
東京など大都市よりも地方都市でロケーション撮影をする作品も多くなった。ヒット作品の中には地方都市を舞台にした作品もあり、これをきっかけにロケ地をめぐる観光客([[聖地巡礼]])が増加したケースもある。地方活性化の一役を映画が担っている面もこの時代から急速に大きくなっている。そのため誘致から撮影のスケジュール調整などを担う「[[フィルムコミッション]]」が各地で設立された。
日本映画の製作本数は増加し、2006年の公開作品総数は821本(1955年以降で最高)、スクリーン数は3062(対前年比136増。3000を超えたのは1970年以来)、入場者数は計1億6427万人余であった(日本映画製作者連盟)。{{要出典範囲|しかし同時に公開の目処の立たない長篇映画、DVD化もされない作品も多く、そう云った作品は年間100本以上とも、3本に1本とも云われており、それらは「不良債権映画」とも云われた|date=2021年12月}}。
日本では、基本的に観客は静寂を保つように視聴するのが礼儀となっており、{{要出典範囲|北米やインドのように|date=2021年12月}}拍手・声援などで応答することは珍しかったが、2000年代に入ると、「[[応援上映]]」(チアリング上映)などと呼ばれる上映会が催され、それらでは声援など観客たちが映画の進行に合わせて盛り上げることが可能になった。
=== 2010年代 ===
この頃になると洋邦実写映画の没落・邦アニメの台頭が顕著になる。2010年代からはアニメ映画の興行的な躍進が目立っており、アニメ映画、[[特撮]]、「漫画の実写化」といったオタク系・二次元原作の作品が興行収入上位をほぼ独占的に占めるようになっている。
例として、2016年の邦画作品別興収トップテンは、『[[君の名は。]]』(興行収入251.7億円)を筆頭にアニメ映画が多く、2位『[[シン・ゴジラ]]』(興行収入82.5億円・特撮映画)、3位『[[名探偵コナン 純黒の悪夢]]』(63億3,000万円・アニメ)、 4位『[[映画 妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!|映画 妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!]]』(55億3,000万円・アニメ)、5位『[[ONE PIECE FILM GOLD]]』(52億円・アニメ) 、6位『[[信長協奏曲]](のぶながコンツェルト)』(46億1,000万円・漫画実写化)、7位『[[映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生]]』(41億2,000万円・アニメ)、 8位『[[暗殺教室〜卒業編〜|暗殺教室~卒業編~]]』(35億2,000万円・漫画実写化)、 9位『[[orange -オレンジ-]]』(32億5,000万円・漫画実写化)、 10位『[[ガールズ&パンツァー 劇場版|ガールズ&パンツァー 劇場版]]』(24億円・アニメ)と、トップ10がアニメと特撮と漫画実写化映画で独占される形なった<ref>{{Cite web |title=『君の名は。』『シン・ゴジラ』年間ワンツートップ!東宝が過去最高興収で圧倒! - 邦画ベストテン|シネマトゥデイ |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0088660 |website=シネマトゥデイ |date=2016-12-30 |access-date=2023-11-24 |language=ja}}</ref>。特に「君の名は。」は、世界での興行収入は3.61億ドル(日本円で414.4億円)を記録し、日本映画では世界歴代興行収入で『千と千尋の神隠し』に次ぐ2位となった。日本歴代興行収入ランキングでは『千と千尋の神隠し』『タイタニック』『アナと雪の女王』に次ぐ第4位である<ref>{{Cite web |title=平成映画ランキング 千と千尋、タイタニック、アナ雪が上位 |url=https://www.news-postseven.com/archives/20181226_830875.html?DETAIL |website=NEWSポストセブン |access-date=2023-11-24 |language=ja}}</ref>。
漫画等二次元コンテンツ原作のものや怪獣映画を除いた実写映画の中でならば、2013年の『[[永遠の0]]』(興行収入87.6億円)、2017年の『[[カメラを止めるな!]]』(31.2億円・[[インディーズ映画]]として異例のヒット)、2018年の『[[コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-|劇場版コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命]]』(92.3億円)<ref>{{Cite web |title=2018年興収トップ10、邦画「劇場版コード・ブルー」、洋画「ジュラシック・ワールド」が首位 : 映画ニュース |url=https://eiga.com/news/20181231/3/ |website=映画.com |access-date=2023-11-24 |language=ja}}</ref>、『[[万引き家族]]』(45.3億円)などが挙げられる。『万引き家族』は監督の[[是枝裕和]]が[[第71回カンヌ国際映画祭]]で日本人として『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』以来21年ぶりに最高賞である[[パルム・ドール]]を獲得した<ref name="パルムドール">{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0100948 |title=是枝裕和『万引き家族』に最高賞パルムドール!日本人21年ぶり:第71回カンヌ国際映画祭 |publisher=シネマトゥデイ |date=2018-05-20 |accessdate=2018-05-20}}</ref>。
洋画の人気は低下し、例えば2014年の日本における[[年度別映画興行成績|映画興行収入]]トップ20の15本は邦画となり、[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]は僅か5本となっている<ref>{{cite news |title=ネットフリックス日本進出の成否、米メディアはこう見る |newspaper=[[ニューズウィーク]] |date=2015-8-18|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2015/08/post-3840.php|accessdate=2015-8-22|author=高森郁哉 }}</ref>。
=== 2020年代 ===
松竹・東宝・東映の邦画[[御三家]]([[日本映画製作者連盟]])は、1958年の映画最盛期から下り坂一方の棘の道をお互い踏ん張り、耐えに耐えしぶとく生き残った<ref name="avj9601"/>。かねてから邦画実写映画の存在感・人気・興行収入が低迷する一方、[[邦画アニメ映画]]は好調であり、[[2021年]]から[[2022年]]までの興行収入ランキングのトップ3をアニメ映画が占めた<ref>{{Cite web|和書|title=去年の映画興行収入 邦画アニメ好調で3年ぶり2000億円超える {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230131/k10013966291000.html |website=NHKニュース |access-date=2023-02-15 |last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=邦画アニメが記録的大ヒット、『スラムダンク』100億突破、『すずめの戸締まり』は『天気の子』超え、『ONE PIECE』200億超えなるか |url=https://gem-standard.com/columns/665 |website=GEM Standard |access-date=2023-02-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=2022年映画産業分析:明暗分かれた邦画アニメと洋画アニメ。東宝一強時代は終わりを告げるか? {{!}} CINEMAS+ |url=https://cinema.ne.jp/article/detail/50863?page=1/ |website=cinema.ne.jp |access-date=2023-02-15 |language=ja}}</ref>。
2020年には『[[劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 |劇場版「鬼滅の刃」無限列車編]]』が興行収入404.3億円を記録し、日本歴代興行収入第1位記録を更新した。また、本作は2020年の年間興行収入世界第1位となり、非ハリウッド映画として初めて年間1位となった。2020年11月9日時点で「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が204億円を超えたことで、日本歴代興行収入トップファイブが全てアニメ映画になった<ref group="注釈">ちなみにこの時点での内訳は、2位『千と千尋の神隠し』、 3位『君の名は。』、4位『ハウルの動く城』、5位『もののけ姫』、6位『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ』、であった(2020年11月9日時点)</ref><ref>{{Cite web |title=「鬼滅の刃」ヒットで邦画の歴代興行収入ベスト5が全てアニメ作品に 「踊る大捜査線」超え |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2011/09/news092.html |website=ねとらぼ |date=2020-11-09 |access-date=2023-11-24 |language=ja}}</ref>。
2020年の鬼滅の刃の記録的な大ヒットを皮切りに、以降も『[[シン・エヴァンゲリオン劇場版]]』、『[[呪術廻戦 (アニメ) |劇場版 呪術廻戦 0]]』、『[[ONE PIECE FILM RED]]』、『[[THE FIRST SLAM DUNK]]』、『[[名探偵コナン 黒鉄の魚影]]』、[[新海誠]]作品など日本国内のアニメーション映画が次々と興行収入100億円を超えている。
2020年代前半には洋画だけでなく、実写邦画を含めた実写映画自体が低迷している。2022年は日本の興収1位の「[[ONE PIECE FILM RED]]」(8月公開=197.0億円)を筆頭に、4位までアニメ(邦アニメ)が独占した。実写で1位は5位の「[[キングダム2 遥かなる大地へ]]」(7月公開=51.6億円)の5位が最高であるが、これも原作は日本漫画「[[キングダム (漫画)|キングダム]]」である。映画批評家の[[前田有一]]は、「国内でも国外でも売れる邦画は、今はアニメだけ。」と語り、日本の実写邦画の低迷については「観客がお金を払ってまで映画館に足を運ぶのは、テレビでは見られない映像がそこにあるからです。アニメならそれも可能ですが、製作費をかけられない日本の実写映画では難しい。大半がドラマの延長レベルです。実写で“キラーコンテンツ”になり得るのは、ハリウッド並みとは言いませんが、2ケタ億円はかけた作品でしょう。例えばそれが[[Netflix]]のドラマだったりする。」とし、日本における洋画の低迷については「興行を下支えしていた中級ヒットが激減」「名前で観客を呼べるハリウッドスター不在」「そもそも米国に対する憧れがなくなったことも大きい」「米国を“豊かな国”としてカルチャーやライフスタイルを真似していたのは、ぎりぎり今の40代後半まででしょう。ハリウッド大作も憧れのひとつでしたが、今の20代、30代には数ある国のひとつでしかありません」と分析している。2022年でもトム・クルーズ主演のハリウッド映画「[[トップガン マーヴェリック]]」(5月公開=興収135.7億円)くらいしか話題になったと言える洋画が無くなっていた。日本映画製作者連盟の統計によると、1990年代の興行収入割合が洋画7割で邦画3割であったが、2022年の興行収入割合は邦画68.8%に対し、洋画は31.2%と逆転している<ref>{{Cite web |title=洋画低迷が議論されるが実写の邦画離れも深刻…観客を呼べる映画は「アニメだけ」|話題の焦点 |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/320107 |website=日刊ゲンダイDIGITAL |date=2023-03-16 |access-date=2023-11-24}}</ref>。
一方、完全実写映画側では賞の受賞が増えており、2020年には『[[スパイの妻]]』が[[第77回ヴェネツィア国際映画祭]]で『[[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]]』以来17年振りとなる[[銀獅子賞]]を受賞<ref>{{cite web|url=https://www.indiewire.com/2020/09/venice-film-festival-2020-winners-list-1234585982/ |title=Venice Film Festival 2020 Winners: ''Nomadland'' Takes Golden Lion, Vanessa Kirby Is Best Actress |work=IndieWire |accessdate=12 September 2020}}</ref><ref>{{cite news|url=https://eiga.com/news/20200913/2/|title=黒沢清監督「スパイの妻」ベネチア映画祭で監督賞「ずっと監督を続けてきて本当に良かった」 作品賞は「ノマドランド」|publisher=映画.com|date=2020-09-13|accessdate=2020-10-18}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.cinematoday.jp/news/N0118574 |title= ベネチア映画祭『ノマドランド』に金獅子賞!フランシス・マクドーマンド主演のロードムービー |newspaper=[[シネマトゥデイ]]|date=2020-09-13|accessdate=2020-09-25}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200913/k10012615301000.html |title= ベネチア国際映画祭 黒沢清監督が監督賞 「スパイの妻」で |newspaper=[[NHKニュース]]|date=2020-09-13|accessdate=2020-09-25}}</ref>。2021年には『[[ドライブ・マイ・カー (映画)|ドライブ・マイ・カー]]』が[[第74回カンヌ国際映画祭]]にて日本映画最多となる3部門を受賞したほか、[[第94回アカデミー賞]]では[[アカデミー作品賞|作品賞]]を含む4部門にノミネートされ、[[アカデミー国際長編映画賞|国際長編映画賞]]を受賞した。[[第79回ゴールデングローブ賞]]では『[[鍵 (1959年の映画)|鍵]]』以来62年ぶりに[[ゴールデングローブ賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞するなど、世界各国で数多くの映画賞を受賞した。2023年には『[[怪物 (2023年の映画)|怪物]]』が[[第76回カンヌ国際映画祭]]において、[[カンヌ国際映画祭 脚本賞|脚本賞]]<ref name="eiga-com20230528">{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20230528/1/ |title=【第76回カンヌ国際映画祭】是枝裕和監督「怪物」に脚本賞 坂元裕二「たった一人の孤独な人のために書きました」 |publisher=[[映画.com]] |date=2023-05-28 |accessdate=2023-06-02}}</ref>と[[クィア・パルム|クィア・パルム賞]]<ref name="eiga-com20230527">{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20230527/8/ |title=【第76回カンヌ国際映画祭】是枝裕和監督「怪物」にクィア・パルム賞 日本映画としては初 |publisher=映画.com |date=2023-05-27 |accessdate=2023-06-02}}</ref>を受賞した。
== 映画興行 ==
{{see|[[日本映画の歴代興行収入一覧]]}}
{{see|[[日本歴代興行成績上位の映画一覧]]}}
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+ <span style="font-size: 9pt">'''日本映画製作者連盟 調べ'''</span> <ref>{{Cite news|url= http://www.eiren.org/toukei/data.html | title= 過去データ一覧|work= 日本映画製作者連盟 |accessdate=2023-02-04}}</ref>{{R|eiren}}
! rowspan="2"|年度 !!colspan="2"|興行収入<br> (億円) !! rowspan="1"|シェア!! rowspan="2"|入場者数 <br>(億人)
|-
! 合計 !! colspan="2"|邦画
|-
!2000
|1709||543||31.8%||1.35
|-
!2001
|2002||781||39.0%||1.63
|-
!2002
|1968||533||27.1%||1.61
|-
!2003
|2033||671||33.0%||1.62
|-
!2004
|2109||791||37.5%||1.70
|-
!2005
|1982||818||41.3%||1.60
|-
!2006
|2029||1079||53.2%||1.65
|-
!2007
|1984||946||47.7%||1.63
|-
!2008
|1948||1159||59.5%||1.61
|-
!2009
|2060||1173||56.9%||1.69
|-
!2010
|2207||1182||53.6%||1.74
|-
!2011
|1812||995||54.9%||1.45
|-
!2012
|1952||1282||65.7%||1.55
|-
!2013
|1942||1177||60.6%||1.56
|-
!2014
|2070||1207||58.3%||1.61
|-
!2015
|2171||1204||55.4%||1.67
|-
!2016
|2355||1486||63.1%||1.80
|-
!2017
|2286||1255||54.9%||1.74
|-
!2018
|2225||1220||54.8%||1.69
|-
!2019
|2612||1422||54.4%||1.95
|-
!2020
|1433||1093||76.3%||1.06
|-
!2021
|1619||1283||79.3%||1.15
|-
!2022
|2131||1466||68.8%||1.52
|-
|}
== 海外への輸出 ==
海外での興行収入上位はすべてアニメ映画である<ref>[https://eigaz.net/boxoffice/ 海外で売れた日本映画ランキング(邦画の世界興行収入)~スナップアップ投資顧問]</ref>。
=== 台湾への日本映画輸出 ===
台湾への日本映画輸出は、[[1969年]]に日本映画の輸入が台湾映画の製作に圧迫を与えるという理由で{{R|日経産業19840827}}、事実上輸入禁止措置がとられ{{R|日経産業19840827|映画時報198401|日経産業19950704}}、[[日中国交正常化|日本が中国と国交を回復した]][[1972年]]以来、商売の道も閉ざされ{{R|朝日19950627|キネ旬19861101|キネ旬19860701}}、[[1973年]]から全面的に禁止された{{R|映画時報198401|kyoto-u|読売19880302}}。[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[日本映画製作者連盟|映連]]会長以下、各映画会社首脳陣の長年の努力が実り{{R|日経産業19840827|映画時報198401|キネ旬19860701|avj199601}}、[[行政院新聞局|台湾行政院新聞局]]から映連に、[[1980年]]の[[金馬奨]]に日本映画の出品要請があり{{R|映画時報198401}}、1980年、当時の映連加盟四社から各一本づつ、[[松竹]]『[[砂の器#映画|砂の器]]』、[[東宝]]『[[サンダカン八番娼館 望郷]]』、[[東映]]『[[二百三高地#映画|二百三高地]]』、[[日活]]『[[先生のつうしんぼ]]』の4本が[[金馬奨]]の招待作品として上映された{{R|朝日19950627|キネ旬19821101}}。以降は日中関係も懸念され{{R|キネ旬19861101}}、濃すぎる日本色を抑えるためか{{R|読売19880302}}、台湾の製作者や一部[[ジャーナリスト]]の間で解禁に反対の声もあったが{{R|映画時報198401}}、[[1982年]]に岡田映連会長が訪台した際に、宋行政院新聞局局長に「(1980年の)金馬奨に出品した4作品だけでも特別に輸入を解禁してほしい」と要請{{R|映画時報198401}}。台湾側の[[外貨]]事情、[[親日|対日感情の好転]]などの背景もあり{{R|日経産業19840827}}、これが認められ[[1983年]]12月6日に[[東京会館]]での記者会見で岡田が「台湾が15年ぶりに日本映画輸入の門戸を開いた」と発表し{{R|映画時報198401}}、1984年8月、台湾行政院新聞局から正式に日本映画輸入を解禁するとの報道された{{R|日経産業19840827}}。これを祝して[[1985年]]2月に[[新宿三丁目イーストビル#新宿東映会館|新宿東映ホール1]]で日本で初めての台湾映画祭が開催された<ref>{{cite journal |和書|author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1986(映画産業団体連合会協賛) |issue = 1985年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages= 11頁}}</ref>。復活初年度の1985年は、東映だけ『二百三高地』を『[[魔界転生#映画|魔界転生]]』に入れ替え{{R|キネ旬19860701}}、他の三社は1980年の金馬奨に出品した同じ作品が[[台北市|台北]]、[[高雄市|高雄]]の映画館で一般公開され{{R|日経産業19840827|キネ旬19860701|年鑑1985}}<ref>{{Cite news |author = 今村三四夫 |title = 週間点描 年初各種会合盛況 その繁栄全業界に |date = 1984年1月21日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1}}</ref>、日本映画の輸出が復活した{{R|日経産業19950704|朝日19950627|キネ旬19860701|kyoto-u|年鑑1986}}。台湾の解禁で主要国で日本映画を上映禁止するのは[[韓国]]だけとなった{{R|日経産業19840827}}。これらは大人気となり、現地の業者が群がり大変な騒ぎになった{{R|日経産業19840827|キネ旬19860701|年鑑1985}}<ref>{{Cite news |author = 今村三四夫|title = 週間点描年初各種会合盛況その繁栄全業界に|date = 1984年1月21日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1}}</ref>。翌1986年は前年の4本から6本に枠が増え{{R|キネ旬19861101}}、増加分は映連加盟四社で抽選があり、抽選に勝った東映と松竹が2本づつになり{{R|キネ旬19860701}}、[[角川映画]]は当時映連に加盟していなかったが{{R|キネ旬19860701}}、『[[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]]』はこの東映の増加枠に入れられ{{R|キネ旬19860701}}、1986年9月25日に台湾で公開され大ヒットした{{R|キネ旬19861101}}。[[Record China]]は、大ヒットした日本映画の1本として『里見八犬伝』を挙げている{{R|RecordChina}}{{efn|〔引用者註〕出典の先頭の「2016年4月1日、」は誤植と思われる。1980年の映画祭で出品されたのは二本ではなく四本。}}。封切に合わせ、[[薬師丸ひろ子]]や[[松坂慶子]]、[[三船敏郎]]、岡田茂東映社長・映連会長らが訪台し{{R|キネ旬19861101|読売19880302}}、台湾でも大人気の薬師丸が熱烈歓迎を受け、大きな騒動になった{{R|キネ旬19861101}}。当時台湾では最新の日本とアメリカのビデオが見られる同伴喫茶が大流行しており、台湾のヤングは国際芸能によく通じていたという{{R|読売19880302}}。岡田は台湾の映画関係者と輸入に関する取り決め事項の調整を行った{{R|キネ旬19861101}}。『[[海角七号 君想う、国境の南]]』の監督・[[魏徳聖]]([[ウェイ・ダーション]])は「『里見八犬伝』は初めて自分で2回チケットを買って観た作品なんですよ。今でもストーリーや登場人物を鮮明に覚えています」などと話している<ref>[http://www.asian-hana.com/2009/09/post-54.html 台湾映画『海角七号/君想う、国境の南』記者会見 - アジアンエンタメ情報]</ref>。
1986年から[[1994年]]10月にかけては、[[行政院新聞局]]が6回の輸入割当本数の告示を行い、合計201本の輸入割当を許可したが、日本映画の[[著作権]]料が跳ね上がり、実際に輸入された日本映画はこの間52本であった{{R|kyoto-u}}。1994年10月以降は全面的に日本映画の輸入が解禁されている{{R|朝日19950627|kyoto-u|avj199601}}。日本映画輸入自由化は、岡田茂映連会長の永年の努力が大きいといわれる{{R|avj199601}}。1986年の岡田と台湾の映画関係者との折衝の際に{{R|キネ旬19861101}}、台湾側から「日本映画は輸出するのに、台湾の映画は日本ではやってくれないではないか」と不満が出て{{R|キネ旬19861101}}、急遽、東映で1987年2月14日から『[[スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説#劇場版|スケバン刑事]]』との併映で公開予定だった[[香港映画]]『蜀山』(『[[蜀山奇傅 天空の剣]]』)を後ろにずらし{{R|キネ旬19861101}}、台湾側から要望があった『[[カンフーキッド/好小子]]』をこの枠に入れ、東映洋画系で公開した{{R|キネ旬19861101}}。同作は日本の[[日本映画製作者連盟|メジャー映画会社]]の番線に乗った初めての台湾映画である{{R|キネ旬19861101}}。また1995年4月に台湾初の[[ケーブルテレビ|CATV]]、[[台湾国民党|党営]]の「[[:zh:博新多媒體|博新多媒體]]」(PHTV)が開局の際、これらの交渉で岡田と懇意になった同社社長・廖祥雄からの要請で{{R|日経産業19950704}}、東映台([[東映チャンネル]])がディズニー台([[ディズニー・チャンネル]])などと共に四チャンネルの一つに選ばれた{{R|日経産業19950704|日経19971202|日経産業19970711}}。台湾は[[レンタルビデオ]]や[[ケーブルテレビ|CATV]]などのメディアの普及が日本より早かった{{R|日経産業19950704}}。台湾は1960年代から1970年代に日本映画の興行を禁止していたため{{R|日経産業19950704}}、[[台湾人]]には[[ヤクザ映画#東映任侠路線|東映のヤクザ映画]]が新鮮で人気が高かったという{{R|日経産業19950704}}。東映台は三年の供給契約で東映の過去の映画850本とテレビドラマなど供給本数は1600本に上った{{R|日経19971202}}。台湾のCATVで最初に放映された日本映画・ドラマは東映作品であった。東映はこれを機にアジア戦略を強化し{{R|日経19971202|日経産業19970711}}、日本での二次利用、三次利用が一段落ついた旧作品ビジネスをアジアで広げようと1996年夏に日本で公開されたが[[興行収入#配給収入|配収]]が4億円と振るわなかった{{R|日経産業19970711}}『[[That's カンニング! 史上最大の作戦?]]』の主演・[[安室奈美恵]]が1997年にアジアでコンサートを開いて人気を高めたことから香港で同作を上映したり{{R|日経産業19970711}}、当時アジアの[[衛星放送]]で日本の[[トレンディドラマ]]が相次いで放送され{{R|日経産業19970711}}、『[[Lie lie Lie]]』の出演者である[[豊川悦司]]や[[鈴木保奈美]]らが[[知名度]]を高めていたことから台湾と香港で日本公開に先駆け同作を先行上映するなどしている{{R|日経産業19970711}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em
|refs=
<ref name="toeininkyo">[https://megalodon.jp/2015-0705-1038-32/www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕](Internet Archive)[http://www.cinemavera.com/preview.php?no=216 滅びの美学 任侠映画の世界 - シネマヴェーラ渋谷]、[http://godotsushin.net/column/369/ コラム|東映京撮・盟友対談② | 合同通信オンライン]{{Cite web|和書|author=[[早見俊]]|title=「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼|url=https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=2|website=[[東洋経済新報社#「東洋経済オンライン」|東洋経済オンライン]]|date=2021-01-23|publisher=[[東洋経済新報社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123043401/https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=2|accessdate=2021-02-27|archivedate=2021-01-23}}[https://deagostini.jp/site/tnd/pretop/ 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション 特設ページ]、[https://video.unext.jp/feature/cp/toeishowa/ U-NEXT 東映昭和映画傑作選]</ref>
<ref name=latimes>[http://articles.latimes.com/1990-10-31/entertainment/ca-3308_1_japanese-films Last Picture Show in Little Tokyo : Film: An era ends for the country's only remaining Japanese-language movie house] The Los Angels Times, October 31, 1990</ref>
<!--
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<ref name="キネ旬19861101">{{Cite journal|和書|author=脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・[[黒井和男]]|year=1986|title=映画・トピック・ジャーナル 台湾映画の超ヒット作が来年東映の一般番線に登場。日本映画の輸出枠をアップされ、両国の興隆はますます盛んに。|journal=[[キネマ旬報]]|issue=1986年11月上旬号|publisher=[[キネマ旬報社]]|pages=166-167}}</ref>
<ref name="キネ旬19860701">{{Cite journal|和書|author = 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男 |title = 映画・トピック・ジャーナル 永年の努力と昨年の実績が認められ台湾に年間6本輸出 |journal = キネマ旬報 |issue = 1986年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 169 }}</ref>
<ref name="映画時報198401">{{Cite journal|和書|author=|title=台湾へ15年ぶり日本映画輸出決る『砂の器』『二百三高地』など4本|journal=映画時報|issue=1984年1月号|publisher=映画時報社|pages=32}}</ref>
<ref name="年鑑1985">{{cite journal |和書|author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1984年版([[映画産業団体連合会]]協賛) |issue = 1984年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages= 10頁 }}</ref>
<ref name="年鑑1986">{{cite journal |和書|author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1984年版(映画産業団体連合会協賛) |issue = 1985年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages= 4、7頁 }}</ref>
<ref name="avj199601">{{Cite journal |和書|title = アルバムは語る 『小さな代表団』 文・[[日本映画製作者連盟]]・顧問 鈴木進 |journal = AVジャーナル |issue = 1996年1月号 |publisher = 文化通信社 |page = 113 }}</ref>
<ref name="wp1">[[2006年]][[10月|10月号]]「[[日経エンタテインメント!]]」([[日経BP社]])の連載「[[テレビ証券]]」より{{要ページ番号|date=2021年11月}}</ref>
<ref name="興行収入">{{Cite journal |和書|date = 2012-12-12 |title = 西郷輝彦、深作欣二作品の萬屋錦之介に身震い |journal = [[アサヒ芸能|アサ芸+]] |publisher = [[徳間書店]] |url = http://www.asagei.com/10838 |accessdate = 2013-1-1 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/http://www.asagei.com/10838 |archivedate = 2013-1-1--> }}</ref>
<ref name="東宝全史550">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|pp=550-554|loc=「特撮映画関係年表」}}</ref>
<ref name="kyoto-u">{{Cite journal|和書|author=LoHuei-Wen(羅慧雯) |title=日本製映像ソフトの浸透と台湾の国家政策 |url=https://doi.org/10.14989/44553 |journal=調査と研究 |issn=09175393 |publisher=京都大学経済学会 |year=2003 |month=apr |issue=26 |pages=41-61 |naid=120000899309 |doi=10.14989/44553}}</ref>
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<ref name="TCMP124">{{Harvnb|東宝チャンピオンまつりパーフェクション|2014|pp=124-125|loc=「プロジェクト東宝チャンピオンまつり 祭り囃子は遠くに」}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|editor=電撃ホビーマガジン編集部|editor-link=電撃ホビーマガジン|title=ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション|date=2014-11-29|publisher=[[KADOKAWA]]([[アスキー・メディアワークス]])|series=DENGEKI HOBBY BOOKS|isbn=978-4-04-866999-3|ref={{SfnRef|東宝チャンピオンまつりパーフェクション|2014}}}}
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== 関連項目 ==
* [[日本の映画作品一覧]]
* [[日本の映画監督一覧]]
* [[キネマ旬報20世紀の映画スター]]
* [[アニメーション映画]] - [[邦画アニメ映画]]
* [[アニメ関係者一覧]]
* [[実写化]] - [[アニメ・漫画の実写映画化作品一覧]]
* [[日本初の一覧#映画]]
* [[各国の映画]]
* [[映画のジャンル]]
* [[映画の著作物]]
* [[年度別日本公開映画]]
* [[日本映画の歴代興行収入一覧]]
* [[映画用語]]
== 外部リンク ==
* [https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB-110076 日本映画] - [[日本大百科全書]](ニッポニカ)
* {{PDFlink|[https://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf07/7-13-22-masuko.pdf GHQと153点の戦争記録画]}}
{{各年の映画}}
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{{日本関連の項目}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB |
9,111 | 1591年 | 1591年(1591 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。 | [
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]] : [[辛卯]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天正]]19年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2251年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]19年
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** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]24年
** [[檀君紀元|檀紀]]3924年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[洪寧]]元年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]14年
* [[仏滅紀元]] : 2133年 - 2134年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 999年 - 1000年
* [[ユダヤ暦]] : 5351年 - 5352年
* [[ユリウス暦]] : 1590年12月22日 - 1591年12月21日
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1591}}
== できごと ==
* [[ジョルダーノ・ブルーノ]]捕縛([[1600年]]処刑)。
* フランスの数学者、[[フランソワ・ビエト]]が"Artem Analyticien Isagoge"を刊行し、既知数の記号化を行ない、記号代数の原理と方法を確立する。
* イタリアの植物学者、[[プロスペロ・アルピーニ]]が『エジプト植物誌』"De plantis aegypti" を刊行した。コーヒーやバナナやバオバオの記述がされた。
* [[明]]の播州で[[楊応龍の乱]]が起きた
=== 日本 ===
* [[長宗我部元親]]、[[豊臣秀吉]]に体長9尋の[[クジラ|鯨]]を献上する。
* [[豊臣秀吉]]、[[関白]]の位を[[豊臣秀次]]に譲り、[[太閤]]となる。
* [[7月7日]] - 皆既月食が七夕と重なる。
* [[7月25日]] - 豊臣秀吉が、[[ポルトガル領]][[インド副王]]に宛てて[[スペイン|イスパニア]]王の来日を要求した。
* [[9月15日]] - 豊臣秀吉が、[[スペイン領]][[フィリピン諸島]]([[小琉球]])に[[朝貢]]と服属を要求。
* [[伊達政宗]]、[[蒲生氏郷]]とともに[[葛西大崎一揆]]を平定。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1591年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月11日]] - [[ロバート・デヴァルー (第3代エセックス伯)]] - [[清教徒革命]]時の議会軍司令官
* [[1月12日]] - [[ホセ・デ・リベーラ]]、[[画家]](+ [[1652年]])
* [[2月8日]] - [[グエルチーノ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Il-Guercino Il Guercino Italian artist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、画家(+ [[1666年]])
* [[2月21日]]または[[3月2日]] - [[ジラール・デザルグ]]、[[数学者]](+ [[1661年]])
* [[9月18日]] - [[ピエール・ド・ラリヴェ2世]]、[[占星術師]](+ [[1633年]])
* [[11月11日]](天正19年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]) - [[伊達秀宗]]、伊達政宗の長男、[[伊予国]][[宇和島藩]][[藩主]](+ [[1658年]])
* 月日不明 - [[ウィリアム・レントール]]([[w:William Lenthall|William Lenthall]])、[[政治家]](+ [[1662年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1591年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月15日]](天正19年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[豊臣秀長]]、[[豊臣秀吉]]の弟、[[武将]](* [[1540年]])
* [[4月21日]](天正19年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[千利休]]、[[茶道|茶人]](* [[1522年]])
* [[6月11日]](天正19年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[津田宗及]]、茶人(* 生年不詳)
* [[6月21日]] - [[アロイシウス・ゴンザーガ]]、16世紀の[[イエズス会]]員、[[聖人]] (* [[1568年]])
* [[7月2日]] - [[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]の父、[[作曲家]](* [[1520年]]頃)
* [[7月18日]] - [[ヤコブス・ガルス]]、作曲家(* [[1550年]])
* [[9月22日]](天正19年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[豊臣鶴松]]、豊臣秀吉の長男(* [[1589年]])
* [[10月16日]] - [[グレゴリウス14世 (ローマ教皇)|グレゴリウス14世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Gregory-XIV Gregory XIV pope] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1535年]])
* [[10月25日]](天正19年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]) - [[太田資正]]、武将(* [[1522年]])
* [[12月14日]] - [[十字架のヨハネ]]、[[司祭]]、[[聖人]](* [[1542年]])
* [[12月19日]](天正19年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]) - [[北条氏直]]、武将(* [[1562年]])
* [[12月30日]] - [[インノケンティウス9世 (ローマ教皇)|インノケンティウス9世]]、ローマ教皇(* [[1519年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1591}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1591%E5%B9%B4 |
9,116 | シリア | シリア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、アラビア語: الجُمهُورِيّةُ العَرَبِيّةُ السُورِيّةُ)、通称シリアは、西アジアに位置する共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカスで、古くから交通や文化の要衝として栄えた。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。
東西交通の十字路に当たるため、古代からヒッタイト、アケメネス朝、マケドニアなどの支配を受けた。7世紀に興ったウマイヤ朝がダマスカスに都を置くと、イスラム文化の中心地として栄えたが(661-750年)、続くアッバース朝が都をバクダッドに移すと、その役割は薄れた。16世紀以降はオスマン帝国の領土となる。20世紀初頭にフランスの植民地になり、1946年に独立した。
1963年に社会主義路線のバアス党が政権を奪い、1970年に同党の軍部クーデターによりハフェズ・アサドが政権を掌握し、軍と秘密警察を後ろ盾としたバアス党独裁体制が築かれた。2000年の死去後もその独裁体制は息子 バシャール・アサドに引き継がれ、現在に至っている。近年は強権的支配への反発が強まっており、アラブの春により2011年にシリア内戦が発生した。内戦はアメリカ合衆国やロシアなどの外国勢力も参加したことで悪化し、多くのシリア難民を生んだ。
半世紀にわたって独裁体制を維持できているのは、汎イスラム主義と他信仰に寛容な世俗主義という相反するイズムの使い分けによるとされる。ただし、政権批判や反政府活動に対しては容赦ない弾圧を加えており、英国のエコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、下から4番目の世界164位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも下から7番目の174位と後順位で最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。
外交は反イスラエル・反米路線が顕著であり、イスラエルと数度にわたって戦争を行ない(中東戦争)、1967年の第三次中東戦争の結果、南西国境地帯のゴラン高原を占領されている。イスラエルに対抗してレバノンで活動するシーア派原理組織「ヒズボラへの支援を行っている。このことからアメリカ合衆国からはテロ支援国家に指定されている。1990年代には和平交渉が断続的に行われたが、2000年3月に暗礁に乗り上げた。
経済面では、国の歳入は、東部で産出される石油が1位だが、産出量・埋蔵量とも少ないため、枯渇が深刻化している。ただし、綿花、小麦、オリーブ栽培といった農業の他、繊維、食品加工、セメントなどの工業も見られ、中東諸国に顕著な石油依存のモノカルチャー経済というわけではない。
面積は約18万5000平方キロメートル。人口は約2000万人で、9割をシリア系アラブ人が占める。イラン語系のクルド人や印欧語系のアルメニア人他も存在する多民族国家である。公用語はアラビア語。アラブ系国民の9割近くをイスラム教スンニ派が占めているが、現大統領アサドはアラウィー派(シーア派の一派)である。アルメニア使徒教会やコプト正教会など東方教会系のキリスト教徒も1割ほどいる。
正式名称は、アラビア語でالجمهورية العربية السورية(翻字: al-Jumhūrīyah al-'Arabīyah as-Sūrīyah)で、読みはアル=ジュムフーリーヤ・ル=アラビーヤ・ッ=スーリーヤ、通称 سوريا(Sūriyā スーリヤー)または سورية(Sūrīya スーリーヤ)。
公式の英語表記は Syrian Arab Republic (シリアン・アラブ・リパブリック)。通称 Syria (シリア)。
日本語の表記はシリア・アラブ共和国。通称シリア。
「シリア」の語源は不明だが、アッシリアの転訛とする説、ティルスの転訛とする説などがある。
661年、ムアーウィヤがカリフとなりウマイヤ朝創設。ダマスカスを首都と定める。750年にウマイヤ朝が倒れると次いでアッバース朝の支配下となるが、アッバース朝が衰退するにつれ、地方政権が割拠するようになる。10世紀には東ローマ帝国が一時北シリアを奪還した。
ファーティマ朝の支配下にあったシリアをセルジューク朝が攻略。シリア・セルジューク朝(1085年 - 1117年)。
1098年、第1回十字軍がセルジューク朝の支配下にあったシリア北西部のアンティオキアを攻略(アンティオキア攻囲戦)。地中海沿岸部を中心に、アンティオキア公国をはじめとする十字軍国家が成立する。アンティオキア公国は1268年にマムルーク朝に滅ぼされるまでイスラム諸勢力と併存した。
1171年、サラーフッディーン(サラディン)がアイユーブ朝を建国。
一般にシリアは前大統領ハーフィズ・アル=アサド時代のイメージから大統領による個人独裁国家であるとみなされることが多いが、現大統領バッシャール・アル=アサドの就任以降は絶大な大統領権限は行使されていない。その内実は大統領や党・軍・治安機関幹部による集団指導体制であり、個人独裁ではなくバアス党(および衛星政党)による独裁である。バッシャール・アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春(英語版)」と呼んだ。
改革では反汚職キャンペーンなどの面で多少の成果があったものの、基本的には就任まもないバッシャール・アサドの体制内での権力基盤を強化するためのものでシリアの「民主化」を目的としたものではなかった。事実、2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制がわずか1か月足らずで崩壊させられたことを受けると、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、それ以前は一定程度容認されていたデモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩む。また、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなった。理由としては、グルジアなどでいわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、権威主義体制が次々と崩壊したことに脅威を覚えたためだと見られている。その後、2011年のアラブの春を契機とした市民による民主化要求運動を武力で制圧したとことによって、結果的にはその後のシリア内戦へとつながっていった。
2011年の反政府勢力としては、「シリア国民評議会(英語版)」(SNC)、「民主的変革のための全国調整委員会(英語版)」(NCC)の2つの全国組織が結成されている。反体制派の「自由将校団運動」(Free Officers Movement) のニックネームを持ちトルコ政府が支援している「自由シリア軍」(FSA)というイスラム過激派武装組織も作られている。さらに、地方でも中央組織に加わっていない組織が作られている。2012年11月にはこれらを統合するシリア国民連合が結成され、政権側との対立が続いている。
2012年の反体制武装勢力の大攻勢により、北部の最重要都市アレッポが孤立し、首都ダマスカスの中心部でも激しい戦闘が発生して、自爆攻撃により国防相や治安機関幹部などの政府要人が殺害されるなど、戦局が悪化。兵士の集団離脱まで発生し、一時は体制崩壊間近との観測も流れた。シリア政府軍は同国西部地域が危殆に瀕する情勢に際し、ハサカ・デリゾール・ラッカ県など、同国東部地域に展開する戦力の大部分を西部へ転進させるのみならず、内戦開始後も依然として控置されていた虎の子の対イスラエル戦備をも大規模に抽出転用するなど、西部地域に兵力を集中させて防衛に尽力、2012年後半の苦境を瀬戸際で乗り切り、2013年3月初旬には反体制派支配地域に孤立していたアレッポへの補給路を啓開した。しかし、対照的に防備が薄弱となった東部地域はそのほとんどが反体制武装勢力に制圧され、アレッポへの補給路啓開と機を同じくする3月初旬、ラッカ市が反体制武装勢力に制圧され、内戦開始後初の県都陥落となった。
一方、ロシアやイランを筆頭とする同盟国は、シリア政府を支えるため軍事援助を継続したほか、ヒズボラをはじめとしたシーア派武装勢力による政府軍への直接支援が開始され、2013年春以降、政府軍は西部地域における勢力基盤確立と反体制武装勢力の封じ込めを企図し、戦局を巻き返すため攻勢に転移した。同年4月上旬に始まった作戦により政府軍は首都ダマスカス周辺の反体制武装勢力支配地区を削縮し、同月中にはこれらを包囲することに成功した。そして、5月には同国中部における反体制派の補給拠点であったクサイルを奪還。さらにホムス県最西部を制圧し、ホムス県北部に盤踞する反体制武装勢力の根拠地を包囲するなど政府軍が攻勢を強めるなか、8月に何者かによって首都ダマスカス郊外で化学兵器が使用された。一時は米仏を中心にシリアへの空爆が検討されたが、シリア政府が化学兵器禁止条約に加入し、該当兵器の全廃を確約したため、空爆は回避された。
政府軍は同年3月にアレッポ市への補給路啓開に成功していたが、本兵站線は依然脆弱な状態が続いていた。ダマスカス近郊における化学兵器使用事件直後の8月下旬、アレッポ県にて反体制武装勢力の攻勢が開始され、アレッポ市への補給路は再び遮断されるに至った。この攻勢は翌9月中旬まで続き、サフィーラ市近郊の政府軍重要拠点も反体制武装勢力に包囲された。しかし、アレッポ市周辺における反体制武装勢力の活発な軍事行動は政府軍の苛烈な反応を惹起することになった。空爆の危機を回避した政府軍は、北部における抗戦基盤強化に向け、アレッポ市への補給路再打通を企図する攻勢を10月1日付で発動した。2か月間にわたった本攻勢によって政府軍はアレッポ市への補給路打通と政府軍重要拠点解囲を達成したのみならず、サフィーラ市攻略とアレッポ国際空港周辺の脅威排除にも成功した。続いて、2013年末ごろからはレバノン国境地帯で政府軍による大攻勢が始まり、翌2014年の4月末日までに要域をほぼ奪還した。また5月9日には停戦交渉に基づき、政権側による厳しい包囲下に置かれていたホムス旧市街から反体制武装勢力が撤退した。これによってシリア政府は、反体制派によって革命の首都と呼ばれていたホムス市における統制を完全に回復した。さらに同年8月、政府軍は首都ダマスカスとダマスカス国際空港を結ぶ交通幹線を扼す要衝であり、依然反体制武装勢力の勢力下にあったムライハを力攻し、これを制圧した。
2013年の政府軍の大攻勢に対して反体制派各派は内紛によって有効な手段を講ずることができず、このことも政府軍の軍事的成功の一助となった。特に反体制派の一角を占めていたクルド人勢力とイスラーム主義勢力が鋭く対立したため、クルド人勢力は北部においてトルコやイラクのクルド人民兵などの支援を受けて支配地域を確立すると急速に中立化した。ロジャヴァ・クルド人自治区を創設し、事実上の自治権を獲得すると、シリア政府もこれを黙認する姿勢をとり、クルド人勢力と政府側との対立は沈静化した。
しかし、2014年夏以降、それまでの反体制武装勢力が内紛によって衰退すると、イスラム過激派のISIL(イラクとレバントのイスラム国)が反体制運動の中心に躍り出た。サウジアラビアを中心としたスンナ派湾岸諸国の富裕層の資金が流入しているとされる豊富な資金力や、それまで体制転換を目指した国々によって反政府武装勢力に提供されてきた武器・兵器をもとに力をつけたISILによる攻勢が続いた。特に東部のラッカ県やデリゾール県などでは、政府軍の残余部隊や自由シリア軍およびヌスラ戦線などが駆逐され、ISILによる非常に残忍で冷酷な方法による独自の支配権が築かれた。2014年9月にはISILに対する米軍をはじめとした国際社会の有志連合による空爆も開始し、2015年には当初限定されたイラク領内だけではなく、シリア領内においても空爆を行うようになった。その結果、政府軍対反体制武装勢力という従来の内戦の様相は、西側有志連合・ISIL・政府軍・クルド民兵・アルカーイダ系武装勢力(アル=ヌスラ戦線など)・その他のイスラム主義武装集団(イスラーム戦線など)が角逐するという複雑な構造へ変化しつつあり、もはや内戦は終わりの見えない泥沼状態となっている。当初の反体制勢力であった民主化を求めていた市民のデモ隊やシリア国民連合はほとんど力を失った。2015年春にはISILはパルミラ遺跡やダマスカス近郊まで支配権を確立し、支配領土を拡張しつつある。
これに対し、シリア北部においては、アル=ヌスラ戦線などを中心とするアルカーイダ系武装勢力が反政府勢力内の世俗主義勢力との内紛に勝利したのち、政府軍への攻勢を強めた。ヌスラ戦線とその同盟勢力は、2014年8月から9月にハマー市を指向する大攻勢を実施したが、本攻勢はハマー市近郊まで迫ったものの、政府軍の縦深によって阻まれて攻勢限界に達した。これを受けて政府軍は精鋭を投入して反攻に移り、ヌスラ戦線と同盟勢力が攻勢開始後に制圧した地域はほぼ奪還した。ヌスラ戦線は本攻勢が挫折したのち、攻略目標をイドリブ県に変更し、12月にはイドリブ県中部の政府軍大拠点の覆滅に成功した。政府軍はイドリブ県において、県都イドリブ市とハマー県西北部を結ぶ交通幹線周辺を掌握し回廊状の支配地域を形成していたが、2015年2月、アルカーイダ系武装勢力は大攻勢を実施してイドリブ市を攻略。内戦開始後2つ目となる県都陥落となった。政府軍は、イドリブ市を回復するため精鋭部隊を投入するも拠点を次々奪われ、最終的にイドリブ県西部の要衝まで喪失するなど2012年以来の大敗北を喫し、イドリブ県における支配地域をほとんど喪失した。アルカーイダ系武装勢力はイドリブ市を中心としてイドリブ県やアレッポ県西部一帯に勢力を扶植しており、当該地域を根拠とするイスラム首長国の建設を試みているとされる。
ただし、北部および東部とは対照的に、ダラア県を中心とする南部地域は2014年中においても依然として自由シリア軍を中心とする勢力が有力であった。政府軍は県都ダラア市の北半を確保していたが、東・西・南側を反体制武装勢力に制圧され半包囲の状態にあり、首都ダマスカス方面へ延びる交通幹線周辺を掌握することによって回廊を形成し、戦線を維持していた。シリア政府軍はダラア県における状況を改善すべく、同年夏ごろより県西部諸都市の攻略へ向けた作戦を発起し、劣勢を挽回しようとしたもののこれに失敗。逆に反政府武装勢力による総反攻に直面するに至った。2014年秋ごろに開始された反政府武装勢力の攻勢は、南部地域全域に及ぶ広範なもので、南部の反政府武装勢力が総力を傾けた本攻勢により、政府軍はダラア県の西部およびヨルダン国境地帯における統制を喪失。ダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線も圧迫を受けるに至った。さらに反体制武装勢力は、残る回廊部の遮断とダラア市政府支配地区の攻略に向けた行動を強めたが、回廊部および市街は政府軍の重防御地区であったため消耗戦の様相を呈し始め、回廊遮断を目前にして反体制武装勢力は攻勢限界に達し、冬前に攻勢は収束した。南部における戦線崩壊を回避した政府軍であったが、先の攻勢によって、反体制武装勢力がダラア県西北からダマスカス郊外県西南部一角にかけて突出部を形成し、これによるダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線の圧迫が続いていた。これを放置することはヘルモン山南麓や西ゴータ地域の反体制派支配地域への打通を許すことにもつながりかねず、さらにダマスカス南外縁の主防衛線が危機に陥る可能性も孕んでいた。状況を改善すべく、政府軍による攻勢が翌2015年1月に発起された。本攻勢は、反体制武装勢力の突出部を消滅させて脅威を排除したうえで、さらにヒズボラなどとの協力のもとに南下、一挙にダラア県西部北半における政府軍の主導権奪取を目論む乾坤一擲の作戦であった。だが、政府軍は突出部を消滅させ、クネイトラ方面への交通幹線に対する圧迫を解消するなど一定の成果を得たものの、それ以後は戦果低調であり、ヒズボラの支援を受けながらもダラア県西部への進攻は反政府武装勢力により拒止され、戦局の挽回には至らなかった。2014年後半に南部地域で実施された反体制武装勢力の攻勢は、政府軍を苦境に追い込んだものの、別の結果も生まれた。それは攻勢の規模の大きさゆえに反体制武装勢力自身の戦力をも激しく耗弱・疲弊させたことであった。このことは結果的に南部の反体制武装勢力内におけるアルカーイダ系武装勢力の存在感を高めるなど重大な影響を及ぼした。
先述のように、2014年後半以降、ISILやヌスラ戦線などイスラム過激派の勢力拡大傾向は次第に強まりを見せたが、政府軍は2013年から2014年にかけて自身が実施した大規模作戦や2014年後半の反体制武装勢力による大攻勢への対処などによって戦力を著しく損耗させており、兵力不足が以前にも増して顕在化しつつあった。このような状況下で政府軍は、国内西部の都市とそれらを結ぶ幹線の維持による持久戦の指向を示唆。2015年3月のイドリブ市陥落後、同年5月初旬の演説においてアサド大統領自身が大敗を認めたほか、7月下旬の演説においては、シリア全土に対する支配を放棄しないことが原則であると断ったうえで、すべての地域における同時勝利は不可能であることを認め、戦略上重要であり維持されるべき地域に軍部隊を集中し、一部地域を放棄せざるを得ない場合もあると述べるなど、西部地域重視の傾向はますます強まった。具体的には、戦略物資搬入の拠点であるラタキア・タルトゥース・バーニヤースなどの地中海沿岸諸都市および、国内交通の要衝であるホムスやハマー・スワイダー・サラミーヤをはじめとする政府支持基盤の盤石な都市に加えて、首都ダマスカスならびに北部最重要都市アレッポなど、西部の各主要都市の防衛と各都市間を結ぶ兵站線の保持がもっとも重視されており、政府軍はそのために戦力を傾注している。これらの都市群およびその隣接地区は、沿海部のアラウィー派をはじめ、キリスト教徒、ドゥルーズ派、イスマーイール派など、シリア・バアス党とその衛星政党の支持基盤である少数宗派の集住地であるほか、スンナ派世俗層も多い地域である。また、政府軍の方針に策応したヒズボラは、レバノン・シリア国境に広がる山岳地帯を拠点に両国をまたぐ形で活動し、ホムス・ダマスカス間の交通幹線に対する脅威となっていたISILとヌスラ戦線に対し、大規模作戦を発動して両勢力を減殺、交通幹線に対する脅威を排除した。北部ならびに東部においてISILやアルカーイダ系武装勢力が着実に地歩を固めつつあるのに対して、政府軍はレバノン国境地帯に残存する未奪還地域の統制回復に向けた行動を活発化させ、2015年秋までに所期の目的を達した。また、北部のロジャヴァ・クルド人自治区に対してはトルコ軍がPKK(クルディスタン労働者党)の過激派が潜んでいるとしてテロリスト制圧目的に軍事進攻するなど、入り乱れた模様となっている。さらに、同年9月30日よりロシア軍はシリア政府の要請を受けてシリアへの本格的な軍事介入を開始。ロシア軍の航空支援やイラン革命防衛隊の地上支援を受けた政府軍は2015年秋以降、アレッポ市郊外やラタキア県北部における攻勢を強化しており、アレッポ市郊外では2013年以来、反体制武装勢力やISILによって包囲を受けてきた航空基地や小都市の解囲作戦に成功し、反体制武装勢力の補給路を一部遮断した。政府軍はさらに、県都イドリブや孤立状態にある政府支配地区が所在し、反体制武装勢力の補給拠点が存在するイドリブ県北部を指向しており、当該地域の東西にあたるアレッポ県およびラタキア県から接近を試みている。政府軍の攻勢に対し、ISILはアレッポ市とサラミーヤ市とを結ぶ交通幹線への攻撃を強め一時的にこれを遮断した。
ロシア軍の空爆に対し、米国やフランス、トルコをはじめとしたNATO諸国、サウジアラビアやカタールなどのスンナ派湾岸諸国は、ロシア軍の空爆対象はISILやアルカーイダ系武装勢力などのイスラム過激派のみならず、西側有志連合が支援する反政府武装勢力も含まれているとして、ロシアを強く非難しているが、一方では親欧米のエジプトや従来はアサド政権と敵対していたイスラエル、キリスト教の総本山であるバチカン市国がイスラム過激派をアサド政権以上の脅威とみなし、ロシア軍の空爆を支持又は黙認している。さらに、英仏もISILに対する空爆を本格化させているなど、シリアを舞台に各国が思惑が異なる中で勢力図争いを行っており、泥沼の紛争状態が続いている。冷酷で残忍なISIL(イラクとレバントのイスラム国)支配拡張と終わりの見えない内戦は大量のシリア難民を生み、国際問題となっている。2015年7月には全人口2,200万人のうち国外への難民は400万人に達している。
さらに、2017年10月のラッカ陥落以降ISの攻勢は終焉を迎えたものの、紛争は複雑な構成となっており、2016年12月のアレッポでの戦いを制したアサド政権がロシア軍、イラン軍、ヒズボラなどの支援により一部地域を除いて国土の大半を掌握、イランとロシア、ヒズボラに支えられたシリア政府軍、英米仏を中心としたNATO軍とサウジアラビアやその同盟国(有志連合)に支えられるアルカーイダを含んだ反政府イスラム過激派、そして、イドリブのイスラム過激派の反政府武装勢力を支援してシリア北部のアフリーンに侵攻しクルド人勢力を叩くトルコ軍、アサド政権へは中立的な立場を取り、米露双方から支援を受けIS壊滅に大きく貢献し、トルコ軍や反政府軍とも戦うクルド人勢力、さらに欧米と同盟国として共同歩調を取りつつもアサド政権を支援するイランやヒズボラへ越境攻撃するイスラエル軍の5つの勢力によるプロパガンダや偽造工作などの情報戦を含んだ熾烈な争いとなっている。
2018年4月には、7年にわたり反政府イスラム過激派の大規模な拠点であったダマスカス近郊の東グータ地区を政権軍が掌握。これにより、反政府勢力はアサド政権の中枢であるダマスカス官庁街を攻撃する手立てを完全に失い、少なくともアサド政権の存続は確定的となり、7年にわたる戦争の勝利も濃厚となった。東グータ陥落の直前には「シリア政府軍による化学兵器攻撃が行われた」とする東グータで活動する反政府組織(ホワイト・ヘルメット)の主張をもとに、英米仏によるアサド政権攻撃が行われるも、NATO軍の介入を呼び込むことで逆転に懸けた反政府勢力の意図に反し、軍事作戦は懲罰の意味合い程度の単発的なミサイル攻撃に留まった。
アサド政権打倒を目指して始まったシリア内戦は、2018年4月の東グータ陥落に伴いアサド政権の存続で一つの区切りを迎えたが、イドリブを中心とした北西部に撤退して抗戦を続ける反政府勢力、北東部を中心に独自の勢力圏を維持するクルド人勢力、これら地域の奪還を目指すアサド政権、シリア東部に違法に駐留する米軍、各勢力を支援する欧米・ロシア・トルコ・イラン・サウジアラビア、イラン牽制の独自の戦略を持つイスラエルなど、依然としてシリア国内外の勢力がそれぞれの戦略で直接・間接に軍事活動を続けているため、戦闘の主軸はシリア北部へ移動し、戦争の性質はアサド政権によるシリア再統一を目指した反政府勢力の掃討作戦へと転換したものの、戦争勃発から9年が過ぎた2020年3月に至るもいまだに紛争解決の目途は立っていない。
しかしながら、2023年にはアラブ連盟への復帰が認められ、アラブ諸国の一員として復活。2023年時点では紛争は完全解決には至らないものの一応は安定を見せており国外に流出した難民も帰還し、2023年の人口は23,022,427人と紛争開始前の水準を超えるまで回復している。
シリアは共和制、大統領制をとる国家である。1963年の3月8日革命(クーデター)以降、一貫してバアス党(アラブ社会主義復興党)が政権を担っている(バアス党政権)。現行憲法の「シリア・アラブ共和国憲法(英語版)」は1973年の制定当初、国家を社会主義・人民民主主義国家とし、バアス党を「国家を指導する政党」と定めていた。しかし、2011年のシリア騒乱勃発を受けて行われた2012年の憲法改正(Syrian constitutional referendum)で、これらを定めた条文はいずれも削除されている。
シリア騒乱勃発後、バアス党政権の正統性を認めない反体制派の諸団体が現行政府の打倒を目指し国内外で活動している。反体制派を支援してきた欧米・中東の一部の国々は、反体制派を「穏健な反体制派」とイスラム過激派とに区分し、「穏健な反体制派」のシリア国民連合を「シリアの正統な代表組織」として政府承認している(後述)。しかし、シリア政府の関係者は反体制派全体をテロリストと認識しており、反体制派をあえて2つに区分するのを無意味なこととみている。
国家元首である大統領は、バアス党の提案を受け人民議会が1名を大統領候補とし、国民投票で承認するという選任方法をとっていた。大統領の任期は7年で、ムスリムでなければならない。再選の制限は特になかったが、2011年以来のシリア内戦の初期に政権側から示された妥協案のひとつである憲法改正により、2任期の制限が設けられた(ただし、憲法改正以前にさかのぼっての適用ではないため、現職のバッシャール・アル=アサドは実質3任期目である)。また、バアス党の専権であった大統領候補者提案権も削除され、人民議会議員35名以上の文書による支持が新たな候補者要件となった。
首相と内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、大統領が任命する。
立法府たる議会は一院制で、正式名称は「人民議会」。定数は250議席。人民議会議員は国民の直接選挙(15選挙区)で選出され、任期は4年である。定数250議席のうち、127議席は労働者と農民の代表でなければならないと規定されている。
大統領は絶対的な必要性がある場合は、人民議会の閉会中でも立法権も行使することができ、シリア軍の最高司令官も兼任する。
1973年に制定されたシリア・アラブ共和国憲法では、第8条においてバアス党が「国家を指導する政党」と規定され、バアス党によるヘゲモニー政党制がとられていたが、2011年より始まったアラブの春による一連の改革要求や反政府活動に応える形で2012年に憲法の抜本的改正が行われ、前記の規定は削除された。またこれに先立つ2011年8月に政党法および選挙法が制定・施行され、複数政党制が導入された。ただバアス党は、現在もアラブ社会主義連合党(英語版)やシリア共産党(英語版)などの諸政党と協力関係にあり、与党連合「国民進歩戦線(英語版)」(NPF)を結成している(国民進歩戦線議長はバアス党書記長)。バアス党は50年以上にわたる一党独裁により、党組織が巨大化して党員は350万人を数え、衛星政党の党員と合算すると400万人に達する。また非公認政党はクルド人勢力を中心に多数存在するが、非合法指定を受けた政治組織はムスリム同胞団のみである。なお、ムスリム同胞団はバアス党政権と激しく対立しており、同国の法律によって構成員への極刑が定められている。
司法制度はフランス法およびオスマン帝国法を基礎としている。イスラーム法は家族法の分野で用いられている。大統領を議長とする最高司法評議会が置かれており、裁判所判事の任命にあたる。最高司法機関は最高憲法裁判所である。
シリアはアラブ世界ではエジプトに次ぐ軍事大国として知られる。シリアは徴兵制が敷かれており、男子の兵役義務がある。また敵国であるイスラエルの侵攻を防ぐために旧東側諸国の武器を重装備しており、おもに友好国であるロシアから武器を調達している。
シリア軍の総兵力は現役約32万人、予備役は50万人である。陸軍の総兵力は約21万5,000人、海軍総兵力約5,000人に加えて予備役約4,000人、空軍総兵力約7万人、防空軍総兵力約4万人である。また、これらの正規軍のほかにイスラエルの侵攻に備えて、ゲリラ戦を行うために複数の民兵が組織されている。
シリアの軍事予算は国家予算の1割を占め、膨大な軍事費のためにシリアの財政を非常に圧迫している。またハマース、ヒズブッラー、PFLPなどのゲリラ組織への資金援助、武器援助などを加えると軍事費はさらに膨大なものとなっている。
また、タルトゥース港とフメイミム空軍基地(ラタキア)にロシア連邦軍が駐留し、同軍の地中海における拠点となっている。
国家の安全保障、アラブ諸国の間での影響力の増大、およびイスラエルからのゴラン高原返還を確実にすることが、バッシャール・アル=アサド大統領の外交政策の主要目的である。対外関係において、アサド政権はバアス党の伝統として「アラブの大義」「パレスチナを含むイスラエルによる全アラブ占領地の解放」を前面に押し出した主張をすることが多い。
シリアは、歴史上の多くの局面においてトルコ、イスラエル、イラク、レバノンなどの地理的・文化的隣国との間で激しい緊張関係を経験してきた。また、サウジアラビアやカタールを中心とした湾岸地域のスンナ派アラブ諸国とは敵対関係にあり、これらの諸国は一貫してイスラム過激派を含むシリアの反政府勢力への支援を行ってきた。21世紀に入り、アサド政権は中東地域で対立関係にあった複数の国家との関係改善に成功した。しかし、イスラエル及び同盟国の米国とは溝が深く、2004年から米国に経済制裁を受けている。
2011年に「アラブの春」がシリアにも波及すると、反政府派を米国が支援し、シリア内戦に突入。その影響から多数の国との外交関係が断絶、あるいは疎遠化しており、国際社会における交流の幅が狭まっている(詳細はシリア内戦に対する国際的な対応(英語版)を参照のこと)。
シリア・バアス党政権は、2011年のシリア内戦勃発を理由にアラブ連盟(2011年)、およびイスラム協力機構(2012年)への加盟資格を停止させられている。また、トルコ、カナダ、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカ合衆国、イギリス、ベルギー、スペイン、および湾岸協力会議加盟諸国は反体制派団体のひとつであるシリア国民連合を「シリアの正統な代表組織」として政府承認しており、バアス党政権との外交関係が断絶している(シリア国民連合を政府承認している国の一覧については該当ページを参照のこと)。
一方、バアス党政権は伝統的な同盟国であるイラン、ロシアと良好な関係を維持し続けており、シリア騒乱に対する軍事的援助を両国から受けている。また、内戦勃発後も友好的な関係を維持している国々として、中国、北朝鮮、アンゴラ、キューバ、ベネズエラ、ニカラグア、ブラジル、ガイアナ、インド、南アフリカ、タンザニア、パキスタン、アルメニア,、アルゼンチン、ベラルーシ、タジキスタン、インドネシア、フィリピンウガンダ、ジンバブエ、キプロス、ギリシャおよびその他諸国があり、アラブ連盟加盟国であるイラク、エジプト(2013年のクーデター以降)、アルジェリア、クウェート、スーダン、レバノン、オマーン、アラブ首長国連邦(2021年以降)、パレスチナ自治政府、イエメンとも友好関係を維持している。
そのほか、バアス党政権と反体制派のいずれも積極的に支援せず、日本のように在シリア大使館を一時的に閉鎖して両国関係を疎遠にさせている国もある(各国のシリアにおける在外公館の設置・閉鎖状況については、駐シリア外国公館の一覧(英語版)を参照のこと)。
シリアとイスラエルは1948年5月14日のイスラエル建国とその直後に起きた第一次中東戦争以来、ゴラン高原の領有権、ハマースやヒズボッラーなどの反イスラエル武装組織への支援、イスラエルが敵国とみなすイランへの協力、シリア自体の核兵器開発疑惑などの理由から、2023年現在に至るまで敵対的な関係が続いている。
両国の最大の対立要因は1967年の第三次中東戦争においてイスラエルがシリアから奪取したゴラン高原の帰属問題で、1967年以来イスラエルはゴラン高原を実効支配し、その主権を主張しているが、シリアはゴラン高原をシリア固有の領土であると主張し、同領土の返還を要求し続けている。イスラエルを除く当事国、および国連のどちらもイスラエルの主張を認めていない。国連安全保障理事会が決議497「イスラエルの(ゴラン高原)併合は国際法に対して無効である」旨を採択し、同地がイスラエルによって不当に併合されたシリア領であるという見解が固定化した。しかし、イスラエル政府は「併合」であると認めていない。シリアとイスラエルは現在もゴラン高原の領有権を争っているが、第四次中東戦争停戦後の1974年以来、武力行使を行っていない。
シリアはイスラエルを牽制するため、1976年以降レバノンに軍を進め以後駐留を続けたが、レバノン国内からの反対(杉の革命)と国際的圧力により、2005年3月に軍と情報機関の完全撤退を表明した。軍は4月12日までに完全撤退した。情報機関の撤退については不明である。レバノンの反シリア派は、同国で頻発する政治テロの犯人はシリアであると非難している。
また、シリアは欧米諸国やイスラエルが「テロ組織」と呼ぶ組織ヒズボッラーを支援しており、アメリカからは「テロ支援国家」に指定されている。首都ダマスカスにパレスチナ・ゲリラの拠点があり、武器援助や軍事訓練拠点を提供しているとされた。なお、パレスチナガザ地区を支配するムスリム同胞団を母体とするハマースはジハード主義組織であるアルカイダやISIS等と共にアサド政権打倒側に参戦しておりシリア内戦以降はアサド政権と対立関係にある。そのため、ムスリム同胞団の出資国であるカタールはシリアのアラブ連盟への復帰を認めていない唯一の国となっておりハマースとシリアは依然として対立関係にある。同じくムスリム同胞団出身のアラブの春で誕生したエジプトのムハンマド・ムルシー政権もアラブの春で追放されたムバラク大統領と異なり、アサド政権と激しく対立していたが、2013年のクーデターで失脚して誕生したシーシー政権以来は関係が改善している。
2007年9月にはイスラエル軍がシリアの核施設とみられる建造物を越境爆撃した。限定的な空爆はそれ以前から散発的に実施されており、以後もシリア内戦勃発以降も含め複数回実施されたが、2018年2月にはシリア軍がイスラエル軍機を撃墜している。
2011年3月以降のシリア内戦では、イスラエルはシリア軍の化学兵器関連の疑いのある施設やアサド政権支援のためにシリア国内で活動するヒズボラやイスラム革命防衛隊に対することを名目に、何百回も空爆を行っている(国際法上の正当性はないとされる)。ただし、実際には限定的ではなく無差別的で、民間人の死傷者も出ている。
一方、アサド政権崩壊後の混乱を警戒してか、同政権の崩壊を企図した反体制武装勢力への支援についてはきわめて慎重な姿勢をとっており、2018年7月のアサド政権軍によるゴラン高原隣接地域を含むシリア南西部の平定について「シリアの状況は内戦前に戻りつつある」として、内戦でのアサド政権の勝利がイスラエルにとっても好ましいとの見方を示した。
隣国イラクをめぐっては、シリア・バアス党とイラク・バアス党の政治対立によって、イラン・イラク戦争ではイラン支持に回り、湾岸戦争ではシリア軍が多国籍軍の一員としてイラクに侵攻するなど、対立の時代が長く続いた。しかし、イラク戦争後アメリカ軍により指名手配された旧イラク・バアス党幹部やイラク国内の混乱から逃れた人々が数多くシリアへ亡命し、受け入れた数は推定120万人に上るとされた。シリア政府が政治亡命したイラク・バアス党員の引き渡しを拒否したことや、イラクで米軍と戦うアル=カーイダなどのテロリストがシリアを経由してイラク国内に流入したことは、米国政府からの強い非難を引き起こした。イラク治安筋によるとダマスカスとラタキアには、外国人テロリストのイラクへの密入国を仲介する者たちがおり、そのほとんどがイラク・シリア国境付近における密貿易で生計を立てていた者であったという。
米陸軍士官学校ウェストポイントはイラク北部のシンジャールで見つかったアル=カーイダの文書を元に報告書を作成した。それによると、現在までにシリアからイラクに入ったテロリストは590人で、約100人のシリア人仲介者がテロリストの密入国を手助けしているという。動機は金銭目的、イスラーム原理主義を支持しているなどの理由であるという。テロリストの出身国は遠くはモロッコ、リビア、アルジェリア、イエメン、近くはサウジアラビアで、彼らは密入国の手数料として2,500ドルを支払い、国境付近に到着すると偽造パスポートを受け取り、地元民の協力とガイドでイラクへと越境している。また、外国人テロリストのほとんどがアラブ諸国出身者であり、アラブ民族主義、あるいは侵略された同胞ムスリムを助けるジハードの遂行のためにイラクへ入国したイスラム過激思想信奉者であるとされる。特に、デリゾール県などのイラク国境地域の住民はイラク北西部に住むスンナ派部族とは親戚関係にあり、ジャズィーラ方言のアラビア語(メソポタミア方言のうち、イラク北西部やシリア東部で話されるもの)を喋るなどイラクとの関係は深く、「外国人の占領下に置かれている同胞」への同情からテロリストを支援しているとされている。
イラクでの戦闘に参加するために、同国へ潜入したイスラム過激思想信奉者のうち著名な人物は、シリア東部デリゾール県出身のアブー・ムハンマド・アル=ジャウラーニーである(ジャウラーニー氏についてはダラア県出身との説もある)。当該人物は、シリア内戦における反政府武装勢力の主力たるアル=ヌスラ戦線の指導者となっている。ヌスラ戦線の要員には、米軍占領期のイラクにおいて反米・反シーア派闘争に参加した者たちが多く含まれる。
シリア政府は、2003年の対イラク開戦時には越境する「アラブ人義勇兵」を放置していたが、同年4月以降までに密輸業者を取り締まるなどの対策を講じた。しかし、部族民や地元政府、治安当局者まで業者に賄賂で買収されてしまっており、効果があがっていないとされる。もっとも外国人テロリストの越境数が多かったのは、2004年のファッルージャの戦闘時で、大半がサウジ人であったという。イラク戦争後、シリア国内で統制が強化されたのは、これらの義勇兵にイスラーム過激派が含まれており、シリア・バアス党の政治思想と厳しく対立していたためでもあり、シリア国内の治安への悪影響を減ずるという意図もあった。しかし、シリアは旧イラク・バアス党政権の残党には庇護を加え、米軍をはじめとする占領軍やイラク暫定政権に対する破壊活動を支援したとされる。
またイラクでは、元大統領サッダーム・フセインの出身部族がスンナ派であることに加え、サッダーム旧政権時代の与党であったイラク・バアス党の中核支持層もスンナ派に属し、これがイラク国内で多数派の十二イマーム派を押さえる形になっていた。しかし、シリアでは対照的に、アサド大統領の出身部族はイスラームの少数宗派であるアラウィー派に属し、シリア・バアス党の中核支持層はアラウィー派のほか、キリスト教徒・ドゥルーズ派・イスマーイール派などの少数宗派であり、これらが多数派であるスンナ派を抑える形になっている(ただし、スンナ派であっても世俗主義勢力の一部はバアス党と協力関係にある)。
このため、シリア内戦が勃発したあと、イラク国内で反米・反シーア派闘争を継続していた聖戦と解放の最高司令部およびナクシュバンディー軍を率いる旧イラク・バアス党序列第2位のイッザト・イブラーヒーム(サッダーム・フセインの死刑執行後、イラク・バアス党の地域指導部書記長に就任)は、アサド大統領の打倒を目指してシリア国内で活動するスンナ派の反体制勢力との連帯を表明した。また、イラク西部のスンナ派多数派地域における自由シリア軍支持者によって自由イラク軍というスンナ派武装集団も結成されている。これらの組織は過激派組織ISILとも協調しており、イラク政府軍と戦闘状態にある。逆に、イラク・バアス党政権の崩壊後、十二イマーム派が主体となったイラク政府は、ISILや同組織と同盟関係あるスンナ派武装集団の戦闘においてシリア政府と協力関係にある。
シリアは旧イラク・バアス党政権の残党に庇護を与えていたが、一様な支援ではなく、イラク・バアス党側においてもイッザト・イブラーヒームはイランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。また、イラク・バアス党はサッダーム・フセインの死によって路線対立に歯止めが利かなくなり、一部の党幹部が非主流派グループを形成し、イブラーヒームの下を離脱。シリア東部のハサカにて会議を行い元党軍事局員のムハンマド・ユーニス・アル=アフマドを新指導者に選出した。この後、ユーニスはイブラーヒームを党より追放すると宣言、これに対抗してイブラーヒームがユーニスとそれに連なる党員の追放を行い、イラク・バアス党は主流のイブラーヒーム派と傍流のユーニス派に分裂した。ユーニス派による内訌と党分裂の事態に際して、イブラーヒームは声明を発し、イラク・バアス党に対するアメリカの陰謀を支援しているとして、シリア政府を非難している。イブラーヒームはシリア政府との協働に懐疑的姿勢を崩さず敵視しており、シリア内戦勃発後には最終的にシリア政府と決別した。しかし対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。
現イラク政府の暴力的転覆によるイラク・バアス党の政権奪取を重視している聖戦と解放の最高司令部やナクシュバンディー軍を始めとするイブラーヒーム派に対し、アル・アウダのようなユーニス派は恩赦や国外へ逃れたバアス党員の本国帰還によるイラク・バアス党の政治的再建を重視している(アル・アウダの結成は2003年であり、当初は積極的武力闘争路線であったがのちに方針を転換した)。また、イブラーヒーム派は闘争の過程でスーフィズムの紐帯を利用したほか、ジハード主義者と共闘するなど宗派主義的傾向を強めた(ただし、これは軍事的手段のひとつとして用いた便宜的なものであり、政治的には世俗主義を維持していた)が、ユーニス派は前者に比してさらに世俗主義的傾向が色濃く汎アラブ主義への回帰はより強固であった。これによって、ユーニス派は十二イマーム派が多数を占めるイラク南部における支持獲得に成功し、上位の指導層はスンナ派が占めているとはいえ、組織の中間層にはシーア派が多く存在するなど、旧来の支持基盤であるスンナ派多数地域での構成員獲得を目指すイブラーヒーム派とは対照的である。シリア政府はユーニス派を通じてイラクへの影響力拡大を図っていたのだった。また、恩赦を呼びかけるユーニスらに対してヌーリー・マーリキーは拒否する姿勢を崩さなかったが、マーリキーの退陣後、イラク首相に就任したハイダル・アル=アバーディは、穏健派であるユーニスとの和解に対して妥協的である。
また、当初は十二イマーム派が主導する現イラク政府との戦いにおいてISILと共闘していたイブラーヒーム派だったが、支持基盤の一部はスーフィー信者であり、ISILの急速な勢力拡大に対して警戒感を強め、同盟関係は2014年末には決裂したとされる。しかし、イッザト・イブラーヒームの率いる武装組織は、イラク政府との闘争も依然継続し、翌2015年4月中旬、領袖のイッザト・イブラーヒームがイラク政府軍およびシーア派武装組織との戦闘で死亡した。イブラーヒーム派がISILとの協力を停止し(スーフィーに属さない党関係者にはISILとの協働を継続している者やISILの構成員となっている者もおり、これらの元党関係者はISILとの同盟関係が決裂した際、反対にイブラーヒーム派の攻撃に加担した)、イブラーヒーム本人が戦死するなか、イラク政府はISILとの戦いを続けるうえで、イラク・バアス党との政治的和解を模索しているとされる。しかし、当事者であるイラク・バアス党は両派に分裂したまま派閥対立がまったく収束していない。イブラーヒーム派はムハンマド・ユーニス・アル=アフマドをイラク政府との交渉から排除することを望み、ユーニス派はイラク国内の破壊および占領に関するイブラーヒーム派の責任を非難し、イブラーヒーム派の政治的復権を拒否している。
イラク・バアス党政権との対立関係や、シリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権であることから、イラン・イラク戦争ではシーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した背景があり、イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、欧米西側諸国との対立等で利害が一致する点が多い。シリア内戦ではイランは一貫してアサド政権を支持しており、資金や物資に留まらず革命防衛隊を援軍として送るなど直接・間接にアサド政権を支援しているため、内戦勃発以降は政治面のほか、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。
近年では、イランのほか、ベネズエラ、スーダン、キューバなどの反米路線の国との関係を強化している。
シリアは隣国トルコ共和国のハタイ県を固有の領土であると主張している。2000年のバッシャール・アル=アサドの大統領就任後は両国の関係はクルド人を封じ込む利害が一致していることで改善していたが、2011年にシリア内戦が勃発すると、ムスリム同胞団と関連の深いエルドアン政権はアサド政権打倒目的で自由シリア軍をはじめ反体制武装勢力を積極的に支援するなど対立関係にある。トルコの反体制派支援に対しアサド政権はシリア北部のクルド人勢力(クルド人民防衛隊、YPG)と協調し、同国北東部の自治を事実上黙認する方針をとったため、国内にクルド人問題を抱えるトルコは2016年と2018年にシリアのクルド人地域(ロジャヴァ)に対する越境攻撃を実施した。特に2018年の越境攻撃時にはアサド政権が反体制派への勝利をほぼ確定的にし、余裕が出た戦力をYPGへの援軍として送ったためトルコ軍との直接戦闘に至り、両国の対立は激化の一途をたどった。しかしながら、アサド政権の勝利が確定した中で、クルド人地域への統治という共通の目的をにらみ利害が一致しはじめ、エルドアン政権とアサド政権との関係和解の方向に向かっている。
独立後のシリアは、1957年にソ連との間に経済技術援助協定が締結されたことに始まり、1958年には同じく親ソ路線を掲げていたナセル政権下のエジプトと合併したアラブ連合共和国期、1961年にエジプトとの連合を解消しシリア・アラブ共和国として再独立した後の、1963年3月8日革命以来今日まで続くバアス党政権期を通して、一貫して親ソ・親露路線を外交の基盤としている。 ハーフィズ・アル=アサド政権時代の1980年には、外交や兵器の輸入・その他技術の導入などの親ソ路線から更に進み、ソビエト・シリア友好協力条約が締結され、軍事的に同盟関係となっている。 この同盟関係はソ連崩壊後もロシア連邦が引き継ぎ、ロシアは新鋭の防空兵器や弾道ミサイルなど、さまざまな武器・兵器を販売するなどシリアにとって最大の武器援助国となっている。また独立国家共同体(CIS)諸国以外で唯一のロシアの軍事施設がある(タルトゥース海軍補給処、ラタキア近郊のフメイミム空軍基地など)。
シリア危機に際し、2013年9月9日にプーチン政権は米国によるシリア侵攻を回避すべくロシアのセルゲイ・ラブロフ外相を通してシリアの化学兵器を国際管理下に置き、シリアの化学兵器禁止条約批准を提案した。そして、9月12日にシリアのアサド大統領はさらに批准後の1か月後に化学兵器情報を提供することにも同意した。2015年9月30日にはロシア連邦軍がアサド政権を支援する軍事介入を開始(ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆)。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾き、アレッポやデリゾールといった主要都市を巡る攻防を政府軍が制し、内戦の帰趨を決する決定的な影響を与えた。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とはハーフィズ・アサド政権時代からの伝統的友好国であり、軍事交流や弾道ミサイルなどの北朝鮮製兵器の買い手でもある。共同の核開発計画も行っているとされ、2007年にはイスラエル空軍が核開発施設と見られる建物を爆撃した。
シリアは北朝鮮との友好関係を考慮し、大韓民国と国交を有していない。
中華人民共和国(中国)とはハーフィズの時代からの伝統的友好国であり、軍事交流や弾道ミサイルなどの中国製兵器の買い手でもある。1990年代にシリアに小型の原子炉を売却した際はイスラエルやアメリカから懸念された。経済的にはシリア最大の貿易相手国ともされ、2つのシリア最大の産油企業の大株主であり、2011年から国連のシリア非難決議でもロシアとともに拒否権を行使することも多い。
アサド大統領も2004年6月に訪中して中国の胡錦濤国家主席と会談を行うなど、中国との関係を重視している。シリアは中露主導の上海協力機構への加盟も申請している。
アメリカ合衆国はシリアが1990年の湾岸戦争で多国籍軍に参加し、1991年にアメリカ合衆国政府が主催した中東和平マドリード会議以後、アメリカ合衆国政府が提案する中東和平プロセスを支持し、アメリカ合衆国政府が主導した国連安保理決議に基づいて2005年にレバノンから軍を撤退させたが、アメリカ合衆国政府はシリアがレバノンに軍を進駐させた1976年当時からシリアを「テロ支援国家」と認定し、2004年以後は経済制裁を実施、2005年以後は在シリア大使を帰国させている。
アラブの春では反体制派を支援し、シリア内戦になると、2013年9月5日にアメリカ合衆国上院外交委員会はシリアの化学兵器使用を理由に軍事行動を承認したが、議会承認なきままアメリカ軍はシリア侵攻の攻撃態勢に入っていた。2014年9月に湾岸諸国とともに空爆が開始されたが、このときの攻撃対象は、内戦下で増長したISILとされた。それでも、安保理決議なしでの空爆は、国際法違反だとされる。2017年4月、化学兵器使用疑惑を理由に、初の政府軍を標的とするミサイル攻撃が行われた。2018年10月からシリア領内の油田を防衛すると主張し、デリゾール県やハサカ県の油田地帯を中心に違法駐留を開始。2019年10月、ドナルド・トランプ米大統領は、エクソンモービルを含む米石油メジャーにシリアで油田操業を担わせる可能性に言及した。これについて、法律やエネルギー業界の専門家からは、戦争犯罪で非倫理的などという批判の声が上がった。2022年2月、シリアの石油鉱物資源省は、国内で生産される原油の80%以上が米国によって盗奪されていると発表した。
シリア戦争の危機に際し、安倍晋三政権は日本の同盟国である米国のシリア侵攻に対しては反対を表明はしてはいない。菅義偉官房長官は2013年8月29日の記者会見で、シリア政府による化学兵器を使用の根拠を問われ「さまざまな具体的情報があるが、関係国とのやり取りなので控える」としている。
2012年5月、日本政府はモハンマド・ガッサーン・アルハバシュ駐日シリア大使に国外退去勧告を行う一方、シリア政府も翌6月、鈴木敏郎駐シリア大使にペルソナ・ノン・グラータを通告するなど、相互に大使の追放処分を行った。
シリアには13の県がある。
このうち、シリア内戦以降事実上政府の管轄が及んでいないクルド人自治区としてロジャヴァ・クルド人自治区がある。アレッポ県、ラッカ県、ハサカ県の一部にまたがって設立されている。シリア政府による公式な自治は認められていないが、事実上の黙認状態となっており政府軍との戦闘は起きていない。一方、トルコ政府とは交戦状態となっている。
東地中海に面する一部を除いて、国土は隣国と地続きであり、北部ではトルコと、東部ではイラクと、南部ではヨルダンと、西部ではイスラエルやレバノンとそれぞれ国境を接している。
国土のうち西部の地中海沿岸部には平野が広がっており、南部は肥沃な土地が広がっており、国内農業のほとんどを負担している。北部は半乾燥地帯、中部はアンチレバノン山脈が連なり、山岳地帯が大半であるが、乾燥地帯の延長上には、アラビア半島に続くシリア砂漠がある。国内最高峰はヘルモン山(2,814メートル)。国土を北から南にユーフラテス川が、南から北にオロンテス川が流れている。
気候は地中海沿岸部は典型的な地中海性気候(Cs)で、夏季は高温乾燥、冬季は温暖多雨である。内陸部に入るに従い乾燥の度合いが激しくなり(BS)、イラク国境周辺は砂漠気候(BW)となっている。この地域では冬季には氷点下まで下がり、降雪による積雪も見られ、時に数十センチに達する大雪となることもあるなど季節ごとの差が激しい。ダマスカスの年平均気温は5.8°C(1月)、26.5°C(7月)、年降水量は158.5ミリ。
IMFの統計によると、内戦が本格化する前の2010年のGDPは600億ドル。1人あたりのGDPでは2,807ドルで、中東では低い水準であり、隣国のイラクやヨルダンよりも1,000ドル以上低い数値である。シリア内戦後は急落し、2010年から2017年にかけて、GDPは70%以上減少したとされる。
シリアの産業は、バアス党の強力な計画経済により農業、商工業、鉱業ともに偏りがなくバランスが取れた形となっており、石油資源にも恵まれているが、米国による禁輸措置もあり経済は低迷状態が続いていた。2004年時点で政府発表の国内失業率は20%を超えており、中華人民共和国の改革開放を手本として市場経済の導入を計り、外国企業の投資受け入れやインターネット導入を進めていた。しかし2011年に勃発した内戦により経済は深刻な影響を受けており、国連の推定では2014年時点でGDPは40%縮小、国内の労働人口500万人のうち約半数が失業状態にあり、国民の4分の3が貧困状態に陥っていると考えられている。
独立直後の主産業は農業であった。しかし、農業従事者の多くは小作人だったため、生活はほとんど向上しなかった。1960年代になると政権を握ったバアス党は社会主義的政策を採り、土地改革と主要産業の国有化、外国投資により、インフラをはじめとする大規模な開発を成功させた。また、産業の私的部門を推奨する資本主義面も見せた。ただし、情勢の不安定さと中東戦争での敗北により、経済は低迷した。
1970年に政権を掌握したハーフィズ・アル=アサドは、油田開発と自由化政策を採り、特に73から74年にかけての原油価格の高騰と合わせて経済成長を成功させた。また、より石油資源の豊富なアラブ諸国で働くシリア人からの送金の増加や、アラブ諸国をはじめとする海外からの援助の増加も、シリアの好景気に拍車をかけた。70年代末には、シリア経済は従来の農業を中心とした経済から、サービス業、工業、商業を中心とした経済へと変化していた。灌漑、電力、水道の整備、道路建設事業、医療サービスや教育の地方への拡大などに巨額の支出が行われ、繁栄に貢献した。しかし、財政と貿易の両面で赤字が拡大し、その財源を海外からの援助や補助金に依存する状態が続いた。また、アラブ・イスラエル紛争の最前線に位置するシリアは、中東政治の影響を受けやすく、増大する国防費をアラブの援助移転とソ連の援助に頼っていた。
1980年代に入ると、第2次オイルショックや干ばつ、在外シリア人からの送金減などにより、減速した。
2000年にハーフィズの息子のバッシャール・アル=アサドが大統領になると、経済の近代化と自由化が推し進められた。政府の新自由主義的改革は、貿易の活発化と民間部門の活性化に貢献し、安定した経済成長が続いた。一方、格差拡大や公共サービスの低下、汚職の露骨化などを伴い、アラブの春へと繋がる国民不満の増加につながったとされる。
シリア内戦勃発後は、2010年から2017年までマイナス成長となり、GDPは70%以上減少したとされる。ISILが勢力を失い、少し落ち着いた2018年は微増した。20年に深刻化した隣国レバノンの経済危機や米国の新たな対シリア制裁法が影響し、通貨シリアポンドの価値は対米ドルで1年前の半分以下になり、急激なインフレが起きた。
2021年にNGOワールド・ビジョンが発表した推計では、内戦による経済損失は計1兆2000億ドルに上るとされる。シリア石油鉱物資源省によると、東部地域を占領する米国とその側の勢力により、1日平均7万バレルが窃取されている問題もある。
人口2,200万人のうち、2015年時点では国内避難民として少なくとも760万人以上が居住地を放棄して国内移動を行っているほか、約400万人が難民として国外へ流出している。シリア難民の最多流出国はトルコ(213万人)、次いでヨルダン(140万人)、レバノン(119万人)となっている。
住民は、アラブ人が90%で、クルド人が8%ほど、そのほかにアルメニア人、ギリシャ人などがいる。アラブ人の中にはシリア語を母語とする部族もいるため民族性も多様化している。少数民族としてネストリウス派(アッシリア人)、北コーカサス系民族、南トルコ系民族もいる。
言語は現代標準アラビア語が公用語である。そのほかにもアラビア語の方言(レバント方言(英語版)、イラク方言、ナジュド方言、北メソポタミア・アラビア語(英語版))、シリア語(典礼言語として)、クルド語、アルメニア語、アゼルバイジャン語、現代アラム語(アッシリア現代アラム語、現代西アラム語)が使われる。さらにフランス委任統治領時代の影響でフランス語も使われているが、隣国レバノンと異なり一部エリート層の使用に限られるなど通用度は高くない。
宗教は、イスラム教スンナ派が約70%。他のイスラム教の宗派(アラウィー派、ドゥルーズ派、イスマーイール派、十二イマーム派などがあわせて約20%、これらの少数宗派はすべてシーア派とみなす場合もあるが、アラウィー派とドゥルーズ派をシーア派に含めない場合もある。
系統不明瞭なアラウィー派が現在シーア派の一派として扱われるのは、1973年にシリアの大統領ハーフィズ・アル=アサドの働きかけにより、レバノンの十二イマーム派のイマームであったムーサー・アッ=サドル(英語版)が、アラウィー派をシーア派の一派と看做すファトワーを発したことによる。そして、ドゥルーズ派はイスマーイール派から分派した宗派である。しかし、アラウィー派とドゥルーズ派の教義はグノーシス主義や神秘主義の強い影響を受けており、イスラーム教とさえみなされない場合もあるなど、スンナ派や十二イマーム派からの厳しい異端視に晒されてきた。また、イスマーイール派もオスマン帝国時代に弾圧を受けた。
キリスト教(非カルケドン派のシリア正教会、東方正教会のアンティオキア総主教庁、東方典礼カトリックのマロン典礼カトリック教会など)は約10%である。
そのほかには、アレヴィー派やヤズィード派などの少数宗派があり、アレヴィー派はトルコマン人によって、ヤズィード派はクルド人によって信仰されているが、併せて約1%ほどである。シリア国内の人口比で約8%を占めるクルド人のほとんどはスンナ派を信仰しており、ヤズィード派を信仰するものはごく一部である。
元来、都市部に住む富裕層にはスンナ派が多く、これらの名望家層はオスマン帝国時代から政治エリートとして大きな影響力を誇っていた。第一次世界大戦後、新たな支配者としてシリアを委任統治したフランスはスンナ派有力者たちの影響力を押さえ、統治を円滑化するために少数宗派を優遇し、スンナ派以外の諸宗派に政治や軍事への門戸を開いた。また、同じスンナ派であっても都市部の有力者達は相互に姻戚関係で結びつき、その特権意識から農村部に住む人々や貧困層を「大衆」と呼んで蔑むなど、大きな格差が存在していた。都市部に住むスンナ派エリート層によって政治から排除されてきた人々は、シリア独立後、バアス党や共産党などの左派政党の政治運動へ支持・共鳴を示した。左派政治組織の支持拡大に対して、保守的な人々はムスリム同胞団との結びつきを強めた。
イスラム教徒の女性は婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)一方、改姓する女性もいる。
シリアの教育は小学校6年間、中学校3年間、高等学校3年間の6・3・3制で小学校の6年間が義務教育であり、生徒の80%がイスラム教徒のため男女共学の高校は存在しないとされる。
シリア国鉄(英語版)が運行されており、路線総延長は2,423キロに及び、アラブ諸国の中では数少ない鉄道網が整備されている国である。ダマスカス鉄道駅からトルコのイスタンブールへの直通列車も運行されていた。しかしながら2012年以降は内戦で運行停止状態となっている。
ダマスカス国際空港、アレッポ国際空港、バーセル・アル=アサド国際空港(英語版)などの国際空港があり、シリア・アラブ航空によって運航されている。
シリアは古代より文明が栄えた土地のため、また各文明の交流地点のため高度な文化が発達しており、国内の各地にアッシリア帝国時代の遺跡が点在する。また、西洋風の町並や服装も浸透している。さらに反米および反イスラエル国家であるが、首都・ダマスカスにはケンタッキーの店舗が存在する。
シリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。
シリア国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1966年にプロサッカーリーグのシリア・プレミアリーグが創設された。リーグ開始以降アル・ジャイシュSCが圧倒的な強さを誇っており、5連覇を含むリーグ最多17度の優勝を達成している。
シリアサッカー協会(SFA)によって構成されるサッカーシリア代表は、これまでFIFAワールドカップへの出場経験はない。AFCアジアカップには6度出場しているものの、全大会でグループリーグ敗退となっている。しかし西アジアサッカー選手権では、2012年大会で初優勝した。
シリアはオリンピックには1948年ロンドン五輪で初参加した。それ以降は中東戦争などの影響で参加と不参加が続いたが、1980年モスクワ五輪以降は参加を続けている。しかし冬季オリンピックへの参加経験はない。2021年東京五輪では、ウエイトリフティング男子109kg超級でマン・アサードが、シリア選手として4大会ぶりのメダルを獲得した。 | [
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"text": "半世紀にわたって独裁体制を維持できているのは、汎イスラム主義と他信仰に寛容な世俗主義という相反するイズムの使い分けによるとされる。ただし、政権批判や反政府活動に対しては容赦ない弾圧を加えており、英国のエコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、下から4番目の世界164位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも下から7番目の174位と後順位で最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "外交は反イスラエル・反米路線が顕著であり、イスラエルと数度にわたって戦争を行ない(中東戦争)、1967年の第三次中東戦争の結果、南西国境地帯のゴラン高原を占領されている。イスラエルに対抗してレバノンで活動するシーア派原理組織「ヒズボラへの支援を行っている。このことからアメリカ合衆国からはテロ支援国家に指定されている。1990年代には和平交渉が断続的に行われたが、2000年3月に暗礁に乗り上げた。",
"title": "概要"
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"text": "経済面では、国の歳入は、東部で産出される石油が1位だが、産出量・埋蔵量とも少ないため、枯渇が深刻化している。ただし、綿花、小麦、オリーブ栽培といった農業の他、繊維、食品加工、セメントなどの工業も見られ、中東諸国に顕著な石油依存のモノカルチャー経済というわけではない。",
"title": "概要"
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"text": "面積は約18万5000平方キロメートル。人口は約2000万人で、9割をシリア系アラブ人が占める。イラン語系のクルド人や印欧語系のアルメニア人他も存在する多民族国家である。公用語はアラビア語。アラブ系国民の9割近くをイスラム教スンニ派が占めているが、現大統領アサドはアラウィー派(シーア派の一派)である。アルメニア使徒教会やコプト正教会など東方教会系のキリスト教徒も1割ほどいる。",
"title": "概要"
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"text": "正式名称は、アラビア語でالجمهورية العربية السورية(翻字: al-Jumhūrīyah al-'Arabīyah as-Sūrīyah)で、読みはアル=ジュムフーリーヤ・ル=アラビーヤ・ッ=スーリーヤ、通称 سوريا(Sūriyā スーリヤー)または سورية(Sūrīya スーリーヤ)。",
"title": "国名"
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"text": "公式の英語表記は Syrian Arab Republic (シリアン・アラブ・リパブリック)。通称 Syria (シリア)。",
"title": "国名"
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"text": "日本語の表記はシリア・アラブ共和国。通称シリア。",
"title": "国名"
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"text": "「シリア」の語源は不明だが、アッシリアの転訛とする説、ティルスの転訛とする説などがある。",
"title": "国名"
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"text": "661年、ムアーウィヤがカリフとなりウマイヤ朝創設。ダマスカスを首都と定める。750年にウマイヤ朝が倒れると次いでアッバース朝の支配下となるが、アッバース朝が衰退するにつれ、地方政権が割拠するようになる。10世紀には東ローマ帝国が一時北シリアを奪還した。",
"title": "歴史"
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"text": "ファーティマ朝の支配下にあったシリアをセルジューク朝が攻略。シリア・セルジューク朝(1085年 - 1117年)。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "1098年、第1回十字軍がセルジューク朝の支配下にあったシリア北西部のアンティオキアを攻略(アンティオキア攻囲戦)。地中海沿岸部を中心に、アンティオキア公国をはじめとする十字軍国家が成立する。アンティオキア公国は1268年にマムルーク朝に滅ぼされるまでイスラム諸勢力と併存した。",
"title": "歴史"
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"text": "1171年、サラーフッディーン(サラディン)がアイユーブ朝を建国。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "一般にシリアは前大統領ハーフィズ・アル=アサド時代のイメージから大統領による個人独裁国家であるとみなされることが多いが、現大統領バッシャール・アル=アサドの就任以降は絶大な大統領権限は行使されていない。その内実は大統領や党・軍・治安機関幹部による集団指導体制であり、個人独裁ではなくバアス党(および衛星政党)による独裁である。バッシャール・アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春(英語版)」と呼んだ。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "改革では反汚職キャンペーンなどの面で多少の成果があったものの、基本的には就任まもないバッシャール・アサドの体制内での権力基盤を強化するためのものでシリアの「民主化」を目的としたものではなかった。事実、2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制がわずか1か月足らずで崩壊させられたことを受けると、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、それ以前は一定程度容認されていたデモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩む。また、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなった。理由としては、グルジアなどでいわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、権威主義体制が次々と崩壊したことに脅威を覚えたためだと見られている。その後、2011年のアラブの春を契機とした市民による民主化要求運動を武力で制圧したとことによって、結果的にはその後のシリア内戦へとつながっていった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 17,
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"text": "2011年の反政府勢力としては、「シリア国民評議会(英語版)」(SNC)、「民主的変革のための全国調整委員会(英語版)」(NCC)の2つの全国組織が結成されている。反体制派の「自由将校団運動」(Free Officers Movement) のニックネームを持ちトルコ政府が支援している「自由シリア軍」(FSA)というイスラム過激派武装組織も作られている。さらに、地方でも中央組織に加わっていない組織が作られている。2012年11月にはこれらを統合するシリア国民連合が結成され、政権側との対立が続いている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2012年の反体制武装勢力の大攻勢により、北部の最重要都市アレッポが孤立し、首都ダマスカスの中心部でも激しい戦闘が発生して、自爆攻撃により国防相や治安機関幹部などの政府要人が殺害されるなど、戦局が悪化。兵士の集団離脱まで発生し、一時は体制崩壊間近との観測も流れた。シリア政府軍は同国西部地域が危殆に瀕する情勢に際し、ハサカ・デリゾール・ラッカ県など、同国東部地域に展開する戦力の大部分を西部へ転進させるのみならず、内戦開始後も依然として控置されていた虎の子の対イスラエル戦備をも大規模に抽出転用するなど、西部地域に兵力を集中させて防衛に尽力、2012年後半の苦境を瀬戸際で乗り切り、2013年3月初旬には反体制派支配地域に孤立していたアレッポへの補給路を啓開した。しかし、対照的に防備が薄弱となった東部地域はそのほとんどが反体制武装勢力に制圧され、アレッポへの補給路啓開と機を同じくする3月初旬、ラッカ市が反体制武装勢力に制圧され、内戦開始後初の県都陥落となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "一方、ロシアやイランを筆頭とする同盟国は、シリア政府を支えるため軍事援助を継続したほか、ヒズボラをはじめとしたシーア派武装勢力による政府軍への直接支援が開始され、2013年春以降、政府軍は西部地域における勢力基盤確立と反体制武装勢力の封じ込めを企図し、戦局を巻き返すため攻勢に転移した。同年4月上旬に始まった作戦により政府軍は首都ダマスカス周辺の反体制武装勢力支配地区を削縮し、同月中にはこれらを包囲することに成功した。そして、5月には同国中部における反体制派の補給拠点であったクサイルを奪還。さらにホムス県最西部を制圧し、ホムス県北部に盤踞する反体制武装勢力の根拠地を包囲するなど政府軍が攻勢を強めるなか、8月に何者かによって首都ダマスカス郊外で化学兵器が使用された。一時は米仏を中心にシリアへの空爆が検討されたが、シリア政府が化学兵器禁止条約に加入し、該当兵器の全廃を確約したため、空爆は回避された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "政府軍は同年3月にアレッポ市への補給路啓開に成功していたが、本兵站線は依然脆弱な状態が続いていた。ダマスカス近郊における化学兵器使用事件直後の8月下旬、アレッポ県にて反体制武装勢力の攻勢が開始され、アレッポ市への補給路は再び遮断されるに至った。この攻勢は翌9月中旬まで続き、サフィーラ市近郊の政府軍重要拠点も反体制武装勢力に包囲された。しかし、アレッポ市周辺における反体制武装勢力の活発な軍事行動は政府軍の苛烈な反応を惹起することになった。空爆の危機を回避した政府軍は、北部における抗戦基盤強化に向け、アレッポ市への補給路再打通を企図する攻勢を10月1日付で発動した。2か月間にわたった本攻勢によって政府軍はアレッポ市への補給路打通と政府軍重要拠点解囲を達成したのみならず、サフィーラ市攻略とアレッポ国際空港周辺の脅威排除にも成功した。続いて、2013年末ごろからはレバノン国境地帯で政府軍による大攻勢が始まり、翌2014年の4月末日までに要域をほぼ奪還した。また5月9日には停戦交渉に基づき、政権側による厳しい包囲下に置かれていたホムス旧市街から反体制武装勢力が撤退した。これによってシリア政府は、反体制派によって革命の首都と呼ばれていたホムス市における統制を完全に回復した。さらに同年8月、政府軍は首都ダマスカスとダマスカス国際空港を結ぶ交通幹線を扼す要衝であり、依然反体制武装勢力の勢力下にあったムライハを力攻し、これを制圧した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "2013年の政府軍の大攻勢に対して反体制派各派は内紛によって有効な手段を講ずることができず、このことも政府軍の軍事的成功の一助となった。特に反体制派の一角を占めていたクルド人勢力とイスラーム主義勢力が鋭く対立したため、クルド人勢力は北部においてトルコやイラクのクルド人民兵などの支援を受けて支配地域を確立すると急速に中立化した。ロジャヴァ・クルド人自治区を創設し、事実上の自治権を獲得すると、シリア政府もこれを黙認する姿勢をとり、クルド人勢力と政府側との対立は沈静化した。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "しかし、2014年夏以降、それまでの反体制武装勢力が内紛によって衰退すると、イスラム過激派のISIL(イラクとレバントのイスラム国)が反体制運動の中心に躍り出た。サウジアラビアを中心としたスンナ派湾岸諸国の富裕層の資金が流入しているとされる豊富な資金力や、それまで体制転換を目指した国々によって反政府武装勢力に提供されてきた武器・兵器をもとに力をつけたISILによる攻勢が続いた。特に東部のラッカ県やデリゾール県などでは、政府軍の残余部隊や自由シリア軍およびヌスラ戦線などが駆逐され、ISILによる非常に残忍で冷酷な方法による独自の支配権が築かれた。2014年9月にはISILに対する米軍をはじめとした国際社会の有志連合による空爆も開始し、2015年には当初限定されたイラク領内だけではなく、シリア領内においても空爆を行うようになった。その結果、政府軍対反体制武装勢力という従来の内戦の様相は、西側有志連合・ISIL・政府軍・クルド民兵・アルカーイダ系武装勢力(アル=ヌスラ戦線など)・その他のイスラム主義武装集団(イスラーム戦線など)が角逐するという複雑な構造へ変化しつつあり、もはや内戦は終わりの見えない泥沼状態となっている。当初の反体制勢力であった民主化を求めていた市民のデモ隊やシリア国民連合はほとんど力を失った。2015年春にはISILはパルミラ遺跡やダマスカス近郊まで支配権を確立し、支配領土を拡張しつつある。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "これに対し、シリア北部においては、アル=ヌスラ戦線などを中心とするアルカーイダ系武装勢力が反政府勢力内の世俗主義勢力との内紛に勝利したのち、政府軍への攻勢を強めた。ヌスラ戦線とその同盟勢力は、2014年8月から9月にハマー市を指向する大攻勢を実施したが、本攻勢はハマー市近郊まで迫ったものの、政府軍の縦深によって阻まれて攻勢限界に達した。これを受けて政府軍は精鋭を投入して反攻に移り、ヌスラ戦線と同盟勢力が攻勢開始後に制圧した地域はほぼ奪還した。ヌスラ戦線は本攻勢が挫折したのち、攻略目標をイドリブ県に変更し、12月にはイドリブ県中部の政府軍大拠点の覆滅に成功した。政府軍はイドリブ県において、県都イドリブ市とハマー県西北部を結ぶ交通幹線周辺を掌握し回廊状の支配地域を形成していたが、2015年2月、アルカーイダ系武装勢力は大攻勢を実施してイドリブ市を攻略。内戦開始後2つ目となる県都陥落となった。政府軍は、イドリブ市を回復するため精鋭部隊を投入するも拠点を次々奪われ、最終的にイドリブ県西部の要衝まで喪失するなど2012年以来の大敗北を喫し、イドリブ県における支配地域をほとんど喪失した。アルカーイダ系武装勢力はイドリブ市を中心としてイドリブ県やアレッポ県西部一帯に勢力を扶植しており、当該地域を根拠とするイスラム首長国の建設を試みているとされる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "ただし、北部および東部とは対照的に、ダラア県を中心とする南部地域は2014年中においても依然として自由シリア軍を中心とする勢力が有力であった。政府軍は県都ダラア市の北半を確保していたが、東・西・南側を反体制武装勢力に制圧され半包囲の状態にあり、首都ダマスカス方面へ延びる交通幹線周辺を掌握することによって回廊を形成し、戦線を維持していた。シリア政府軍はダラア県における状況を改善すべく、同年夏ごろより県西部諸都市の攻略へ向けた作戦を発起し、劣勢を挽回しようとしたもののこれに失敗。逆に反政府武装勢力による総反攻に直面するに至った。2014年秋ごろに開始された反政府武装勢力の攻勢は、南部地域全域に及ぶ広範なもので、南部の反政府武装勢力が総力を傾けた本攻勢により、政府軍はダラア県の西部およびヨルダン国境地帯における統制を喪失。ダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線も圧迫を受けるに至った。さらに反体制武装勢力は、残る回廊部の遮断とダラア市政府支配地区の攻略に向けた行動を強めたが、回廊部および市街は政府軍の重防御地区であったため消耗戦の様相を呈し始め、回廊遮断を目前にして反体制武装勢力は攻勢限界に達し、冬前に攻勢は収束した。南部における戦線崩壊を回避した政府軍であったが、先の攻勢によって、反体制武装勢力がダラア県西北からダマスカス郊外県西南部一角にかけて突出部を形成し、これによるダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線の圧迫が続いていた。これを放置することはヘルモン山南麓や西ゴータ地域の反体制派支配地域への打通を許すことにもつながりかねず、さらにダマスカス南外縁の主防衛線が危機に陥る可能性も孕んでいた。状況を改善すべく、政府軍による攻勢が翌2015年1月に発起された。本攻勢は、反体制武装勢力の突出部を消滅させて脅威を排除したうえで、さらにヒズボラなどとの協力のもとに南下、一挙にダラア県西部北半における政府軍の主導権奪取を目論む乾坤一擲の作戦であった。だが、政府軍は突出部を消滅させ、クネイトラ方面への交通幹線に対する圧迫を解消するなど一定の成果を得たものの、それ以後は戦果低調であり、ヒズボラの支援を受けながらもダラア県西部への進攻は反政府武装勢力により拒止され、戦局の挽回には至らなかった。2014年後半に南部地域で実施された反体制武装勢力の攻勢は、政府軍を苦境に追い込んだものの、別の結果も生まれた。それは攻勢の規模の大きさゆえに反体制武装勢力自身の戦力をも激しく耗弱・疲弊させたことであった。このことは結果的に南部の反体制武装勢力内におけるアルカーイダ系武装勢力の存在感を高めるなど重大な影響を及ぼした。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "先述のように、2014年後半以降、ISILやヌスラ戦線などイスラム過激派の勢力拡大傾向は次第に強まりを見せたが、政府軍は2013年から2014年にかけて自身が実施した大規模作戦や2014年後半の反体制武装勢力による大攻勢への対処などによって戦力を著しく損耗させており、兵力不足が以前にも増して顕在化しつつあった。このような状況下で政府軍は、国内西部の都市とそれらを結ぶ幹線の維持による持久戦の指向を示唆。2015年3月のイドリブ市陥落後、同年5月初旬の演説においてアサド大統領自身が大敗を認めたほか、7月下旬の演説においては、シリア全土に対する支配を放棄しないことが原則であると断ったうえで、すべての地域における同時勝利は不可能であることを認め、戦略上重要であり維持されるべき地域に軍部隊を集中し、一部地域を放棄せざるを得ない場合もあると述べるなど、西部地域重視の傾向はますます強まった。具体的には、戦略物資搬入の拠点であるラタキア・タルトゥース・バーニヤースなどの地中海沿岸諸都市および、国内交通の要衝であるホムスやハマー・スワイダー・サラミーヤをはじめとする政府支持基盤の盤石な都市に加えて、首都ダマスカスならびに北部最重要都市アレッポなど、西部の各主要都市の防衛と各都市間を結ぶ兵站線の保持がもっとも重視されており、政府軍はそのために戦力を傾注している。これらの都市群およびその隣接地区は、沿海部のアラウィー派をはじめ、キリスト教徒、ドゥルーズ派、イスマーイール派など、シリア・バアス党とその衛星政党の支持基盤である少数宗派の集住地であるほか、スンナ派世俗層も多い地域である。また、政府軍の方針に策応したヒズボラは、レバノン・シリア国境に広がる山岳地帯を拠点に両国をまたぐ形で活動し、ホムス・ダマスカス間の交通幹線に対する脅威となっていたISILとヌスラ戦線に対し、大規模作戦を発動して両勢力を減殺、交通幹線に対する脅威を排除した。北部ならびに東部においてISILやアルカーイダ系武装勢力が着実に地歩を固めつつあるのに対して、政府軍はレバノン国境地帯に残存する未奪還地域の統制回復に向けた行動を活発化させ、2015年秋までに所期の目的を達した。また、北部のロジャヴァ・クルド人自治区に対してはトルコ軍がPKK(クルディスタン労働者党)の過激派が潜んでいるとしてテロリスト制圧目的に軍事進攻するなど、入り乱れた模様となっている。さらに、同年9月30日よりロシア軍はシリア政府の要請を受けてシリアへの本格的な軍事介入を開始。ロシア軍の航空支援やイラン革命防衛隊の地上支援を受けた政府軍は2015年秋以降、アレッポ市郊外やラタキア県北部における攻勢を強化しており、アレッポ市郊外では2013年以来、反体制武装勢力やISILによって包囲を受けてきた航空基地や小都市の解囲作戦に成功し、反体制武装勢力の補給路を一部遮断した。政府軍はさらに、県都イドリブや孤立状態にある政府支配地区が所在し、反体制武装勢力の補給拠点が存在するイドリブ県北部を指向しており、当該地域の東西にあたるアレッポ県およびラタキア県から接近を試みている。政府軍の攻勢に対し、ISILはアレッポ市とサラミーヤ市とを結ぶ交通幹線への攻撃を強め一時的にこれを遮断した。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "ロシア軍の空爆に対し、米国やフランス、トルコをはじめとしたNATO諸国、サウジアラビアやカタールなどのスンナ派湾岸諸国は、ロシア軍の空爆対象はISILやアルカーイダ系武装勢力などのイスラム過激派のみならず、西側有志連合が支援する反政府武装勢力も含まれているとして、ロシアを強く非難しているが、一方では親欧米のエジプトや従来はアサド政権と敵対していたイスラエル、キリスト教の総本山であるバチカン市国がイスラム過激派をアサド政権以上の脅威とみなし、ロシア軍の空爆を支持又は黙認している。さらに、英仏もISILに対する空爆を本格化させているなど、シリアを舞台に各国が思惑が異なる中で勢力図争いを行っており、泥沼の紛争状態が続いている。冷酷で残忍なISIL(イラクとレバントのイスラム国)支配拡張と終わりの見えない内戦は大量のシリア難民を生み、国際問題となっている。2015年7月には全人口2,200万人のうち国外への難民は400万人に達している。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "さらに、2017年10月のラッカ陥落以降ISの攻勢は終焉を迎えたものの、紛争は複雑な構成となっており、2016年12月のアレッポでの戦いを制したアサド政権がロシア軍、イラン軍、ヒズボラなどの支援により一部地域を除いて国土の大半を掌握、イランとロシア、ヒズボラに支えられたシリア政府軍、英米仏を中心としたNATO軍とサウジアラビアやその同盟国(有志連合)に支えられるアルカーイダを含んだ反政府イスラム過激派、そして、イドリブのイスラム過激派の反政府武装勢力を支援してシリア北部のアフリーンに侵攻しクルド人勢力を叩くトルコ軍、アサド政権へは中立的な立場を取り、米露双方から支援を受けIS壊滅に大きく貢献し、トルコ軍や反政府軍とも戦うクルド人勢力、さらに欧米と同盟国として共同歩調を取りつつもアサド政権を支援するイランやヒズボラへ越境攻撃するイスラエル軍の5つの勢力によるプロパガンダや偽造工作などの情報戦を含んだ熾烈な争いとなっている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2018年4月には、7年にわたり反政府イスラム過激派の大規模な拠点であったダマスカス近郊の東グータ地区を政権軍が掌握。これにより、反政府勢力はアサド政権の中枢であるダマスカス官庁街を攻撃する手立てを完全に失い、少なくともアサド政権の存続は確定的となり、7年にわたる戦争の勝利も濃厚となった。東グータ陥落の直前には「シリア政府軍による化学兵器攻撃が行われた」とする東グータで活動する反政府組織(ホワイト・ヘルメット)の主張をもとに、英米仏によるアサド政権攻撃が行われるも、NATO軍の介入を呼び込むことで逆転に懸けた反政府勢力の意図に反し、軍事作戦は懲罰の意味合い程度の単発的なミサイル攻撃に留まった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "アサド政権打倒を目指して始まったシリア内戦は、2018年4月の東グータ陥落に伴いアサド政権の存続で一つの区切りを迎えたが、イドリブを中心とした北西部に撤退して抗戦を続ける反政府勢力、北東部を中心に独自の勢力圏を維持するクルド人勢力、これら地域の奪還を目指すアサド政権、シリア東部に違法に駐留する米軍、各勢力を支援する欧米・ロシア・トルコ・イラン・サウジアラビア、イラン牽制の独自の戦略を持つイスラエルなど、依然としてシリア国内外の勢力がそれぞれの戦略で直接・間接に軍事活動を続けているため、戦闘の主軸はシリア北部へ移動し、戦争の性質はアサド政権によるシリア再統一を目指した反政府勢力の掃討作戦へと転換したものの、戦争勃発から9年が過ぎた2020年3月に至るもいまだに紛争解決の目途は立っていない。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、2023年にはアラブ連盟への復帰が認められ、アラブ諸国の一員として復活。2023年時点では紛争は完全解決には至らないものの一応は安定を見せており国外に流出した難民も帰還し、2023年の人口は23,022,427人と紛争開始前の水準を超えるまで回復している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "シリアは共和制、大統領制をとる国家である。1963年の3月8日革命(クーデター)以降、一貫してバアス党(アラブ社会主義復興党)が政権を担っている(バアス党政権)。現行憲法の「シリア・アラブ共和国憲法(英語版)」は1973年の制定当初、国家を社会主義・人民民主主義国家とし、バアス党を「国家を指導する政党」と定めていた。しかし、2011年のシリア騒乱勃発を受けて行われた2012年の憲法改正(Syrian constitutional referendum)で、これらを定めた条文はいずれも削除されている。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "シリア騒乱勃発後、バアス党政権の正統性を認めない反体制派の諸団体が現行政府の打倒を目指し国内外で活動している。反体制派を支援してきた欧米・中東の一部の国々は、反体制派を「穏健な反体制派」とイスラム過激派とに区分し、「穏健な反体制派」のシリア国民連合を「シリアの正統な代表組織」として政府承認している(後述)。しかし、シリア政府の関係者は反体制派全体をテロリストと認識しており、反体制派をあえて2つに区分するのを無意味なこととみている。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "国家元首である大統領は、バアス党の提案を受け人民議会が1名を大統領候補とし、国民投票で承認するという選任方法をとっていた。大統領の任期は7年で、ムスリムでなければならない。再選の制限は特になかったが、2011年以来のシリア内戦の初期に政権側から示された妥協案のひとつである憲法改正により、2任期の制限が設けられた(ただし、憲法改正以前にさかのぼっての適用ではないため、現職のバッシャール・アル=アサドは実質3任期目である)。また、バアス党の専権であった大統領候補者提案権も削除され、人民議会議員35名以上の文書による支持が新たな候補者要件となった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "首相と内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、大統領が任命する。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "立法府たる議会は一院制で、正式名称は「人民議会」。定数は250議席。人民議会議員は国民の直接選挙(15選挙区)で選出され、任期は4年である。定数250議席のうち、127議席は労働者と農民の代表でなければならないと規定されている。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "大統領は絶対的な必要性がある場合は、人民議会の閉会中でも立法権も行使することができ、シリア軍の最高司令官も兼任する。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1973年に制定されたシリア・アラブ共和国憲法では、第8条においてバアス党が「国家を指導する政党」と規定され、バアス党によるヘゲモニー政党制がとられていたが、2011年より始まったアラブの春による一連の改革要求や反政府活動に応える形で2012年に憲法の抜本的改正が行われ、前記の規定は削除された。またこれに先立つ2011年8月に政党法および選挙法が制定・施行され、複数政党制が導入された。ただバアス党は、現在もアラブ社会主義連合党(英語版)やシリア共産党(英語版)などの諸政党と協力関係にあり、与党連合「国民進歩戦線(英語版)」(NPF)を結成している(国民進歩戦線議長はバアス党書記長)。バアス党は50年以上にわたる一党独裁により、党組織が巨大化して党員は350万人を数え、衛星政党の党員と合算すると400万人に達する。また非公認政党はクルド人勢力を中心に多数存在するが、非合法指定を受けた政治組織はムスリム同胞団のみである。なお、ムスリム同胞団はバアス党政権と激しく対立しており、同国の法律によって構成員への極刑が定められている。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "司法制度はフランス法およびオスマン帝国法を基礎としている。イスラーム法は家族法の分野で用いられている。大統領を議長とする最高司法評議会が置かれており、裁判所判事の任命にあたる。最高司法機関は最高憲法裁判所である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "シリアはアラブ世界ではエジプトに次ぐ軍事大国として知られる。シリアは徴兵制が敷かれており、男子の兵役義務がある。また敵国であるイスラエルの侵攻を防ぐために旧東側諸国の武器を重装備しており、おもに友好国であるロシアから武器を調達している。",
"title": "軍事"
},
{
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"tag": "p",
"text": "シリア軍の総兵力は現役約32万人、予備役は50万人である。陸軍の総兵力は約21万5,000人、海軍総兵力約5,000人に加えて予備役約4,000人、空軍総兵力約7万人、防空軍総兵力約4万人である。また、これらの正規軍のほかにイスラエルの侵攻に備えて、ゲリラ戦を行うために複数の民兵が組織されている。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "シリアの軍事予算は国家予算の1割を占め、膨大な軍事費のためにシリアの財政を非常に圧迫している。またハマース、ヒズブッラー、PFLPなどのゲリラ組織への資金援助、武器援助などを加えると軍事費はさらに膨大なものとなっている。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、タルトゥース港とフメイミム空軍基地(ラタキア)にロシア連邦軍が駐留し、同軍の地中海における拠点となっている。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "国家の安全保障、アラブ諸国の間での影響力の増大、およびイスラエルからのゴラン高原返還を確実にすることが、バッシャール・アル=アサド大統領の外交政策の主要目的である。対外関係において、アサド政権はバアス党の伝統として「アラブの大義」「パレスチナを含むイスラエルによる全アラブ占領地の解放」を前面に押し出した主張をすることが多い。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "シリアは、歴史上の多くの局面においてトルコ、イスラエル、イラク、レバノンなどの地理的・文化的隣国との間で激しい緊張関係を経験してきた。また、サウジアラビアやカタールを中心とした湾岸地域のスンナ派アラブ諸国とは敵対関係にあり、これらの諸国は一貫してイスラム過激派を含むシリアの反政府勢力への支援を行ってきた。21世紀に入り、アサド政権は中東地域で対立関係にあった複数の国家との関係改善に成功した。しかし、イスラエル及び同盟国の米国とは溝が深く、2004年から米国に経済制裁を受けている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2011年に「アラブの春」がシリアにも波及すると、反政府派を米国が支援し、シリア内戦に突入。その影響から多数の国との外交関係が断絶、あるいは疎遠化しており、国際社会における交流の幅が狭まっている(詳細はシリア内戦に対する国際的な対応(英語版)を参照のこと)。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "シリア・バアス党政権は、2011年のシリア内戦勃発を理由にアラブ連盟(2011年)、およびイスラム協力機構(2012年)への加盟資格を停止させられている。また、トルコ、カナダ、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカ合衆国、イギリス、ベルギー、スペイン、および湾岸協力会議加盟諸国は反体制派団体のひとつであるシリア国民連合を「シリアの正統な代表組織」として政府承認しており、バアス党政権との外交関係が断絶している(シリア国民連合を政府承認している国の一覧については該当ページを参照のこと)。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "一方、バアス党政権は伝統的な同盟国であるイラン、ロシアと良好な関係を維持し続けており、シリア騒乱に対する軍事的援助を両国から受けている。また、内戦勃発後も友好的な関係を維持している国々として、中国、北朝鮮、アンゴラ、キューバ、ベネズエラ、ニカラグア、ブラジル、ガイアナ、インド、南アフリカ、タンザニア、パキスタン、アルメニア,、アルゼンチン、ベラルーシ、タジキスタン、インドネシア、フィリピンウガンダ、ジンバブエ、キプロス、ギリシャおよびその他諸国があり、アラブ連盟加盟国であるイラク、エジプト(2013年のクーデター以降)、アルジェリア、クウェート、スーダン、レバノン、オマーン、アラブ首長国連邦(2021年以降)、パレスチナ自治政府、イエメンとも友好関係を維持している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "そのほか、バアス党政権と反体制派のいずれも積極的に支援せず、日本のように在シリア大使館を一時的に閉鎖して両国関係を疎遠にさせている国もある(各国のシリアにおける在外公館の設置・閉鎖状況については、駐シリア外国公館の一覧(英語版)を参照のこと)。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "シリアとイスラエルは1948年5月14日のイスラエル建国とその直後に起きた第一次中東戦争以来、ゴラン高原の領有権、ハマースやヒズボッラーなどの反イスラエル武装組織への支援、イスラエルが敵国とみなすイランへの協力、シリア自体の核兵器開発疑惑などの理由から、2023年現在に至るまで敵対的な関係が続いている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "両国の最大の対立要因は1967年の第三次中東戦争においてイスラエルがシリアから奪取したゴラン高原の帰属問題で、1967年以来イスラエルはゴラン高原を実効支配し、その主権を主張しているが、シリアはゴラン高原をシリア固有の領土であると主張し、同領土の返還を要求し続けている。イスラエルを除く当事国、および国連のどちらもイスラエルの主張を認めていない。国連安全保障理事会が決議497「イスラエルの(ゴラン高原)併合は国際法に対して無効である」旨を採択し、同地がイスラエルによって不当に併合されたシリア領であるという見解が固定化した。しかし、イスラエル政府は「併合」であると認めていない。シリアとイスラエルは現在もゴラン高原の領有権を争っているが、第四次中東戦争停戦後の1974年以来、武力行使を行っていない。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "シリアはイスラエルを牽制するため、1976年以降レバノンに軍を進め以後駐留を続けたが、レバノン国内からの反対(杉の革命)と国際的圧力により、2005年3月に軍と情報機関の完全撤退を表明した。軍は4月12日までに完全撤退した。情報機関の撤退については不明である。レバノンの反シリア派は、同国で頻発する政治テロの犯人はシリアであると非難している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "また、シリアは欧米諸国やイスラエルが「テロ組織」と呼ぶ組織ヒズボッラーを支援しており、アメリカからは「テロ支援国家」に指定されている。首都ダマスカスにパレスチナ・ゲリラの拠点があり、武器援助や軍事訓練拠点を提供しているとされた。なお、パレスチナガザ地区を支配するムスリム同胞団を母体とするハマースはジハード主義組織であるアルカイダやISIS等と共にアサド政権打倒側に参戦しておりシリア内戦以降はアサド政権と対立関係にある。そのため、ムスリム同胞団の出資国であるカタールはシリアのアラブ連盟への復帰を認めていない唯一の国となっておりハマースとシリアは依然として対立関係にある。同じくムスリム同胞団出身のアラブの春で誕生したエジプトのムハンマド・ムルシー政権もアラブの春で追放されたムバラク大統領と異なり、アサド政権と激しく対立していたが、2013年のクーデターで失脚して誕生したシーシー政権以来は関係が改善している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2007年9月にはイスラエル軍がシリアの核施設とみられる建造物を越境爆撃した。限定的な空爆はそれ以前から散発的に実施されており、以後もシリア内戦勃発以降も含め複数回実施されたが、2018年2月にはシリア軍がイスラエル軍機を撃墜している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2011年3月以降のシリア内戦では、イスラエルはシリア軍の化学兵器関連の疑いのある施設やアサド政権支援のためにシリア国内で活動するヒズボラやイスラム革命防衛隊に対することを名目に、何百回も空爆を行っている(国際法上の正当性はないとされる)。ただし、実際には限定的ではなく無差別的で、民間人の死傷者も出ている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "一方、アサド政権崩壊後の混乱を警戒してか、同政権の崩壊を企図した反体制武装勢力への支援についてはきわめて慎重な姿勢をとっており、2018年7月のアサド政権軍によるゴラン高原隣接地域を含むシリア南西部の平定について「シリアの状況は内戦前に戻りつつある」として、内戦でのアサド政権の勝利がイスラエルにとっても好ましいとの見方を示した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "隣国イラクをめぐっては、シリア・バアス党とイラク・バアス党の政治対立によって、イラン・イラク戦争ではイラン支持に回り、湾岸戦争ではシリア軍が多国籍軍の一員としてイラクに侵攻するなど、対立の時代が長く続いた。しかし、イラク戦争後アメリカ軍により指名手配された旧イラク・バアス党幹部やイラク国内の混乱から逃れた人々が数多くシリアへ亡命し、受け入れた数は推定120万人に上るとされた。シリア政府が政治亡命したイラク・バアス党員の引き渡しを拒否したことや、イラクで米軍と戦うアル=カーイダなどのテロリストがシリアを経由してイラク国内に流入したことは、米国政府からの強い非難を引き起こした。イラク治安筋によるとダマスカスとラタキアには、外国人テロリストのイラクへの密入国を仲介する者たちがおり、そのほとんどがイラク・シリア国境付近における密貿易で生計を立てていた者であったという。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "米陸軍士官学校ウェストポイントはイラク北部のシンジャールで見つかったアル=カーイダの文書を元に報告書を作成した。それによると、現在までにシリアからイラクに入ったテロリストは590人で、約100人のシリア人仲介者がテロリストの密入国を手助けしているという。動機は金銭目的、イスラーム原理主義を支持しているなどの理由であるという。テロリストの出身国は遠くはモロッコ、リビア、アルジェリア、イエメン、近くはサウジアラビアで、彼らは密入国の手数料として2,500ドルを支払い、国境付近に到着すると偽造パスポートを受け取り、地元民の協力とガイドでイラクへと越境している。また、外国人テロリストのほとんどがアラブ諸国出身者であり、アラブ民族主義、あるいは侵略された同胞ムスリムを助けるジハードの遂行のためにイラクへ入国したイスラム過激思想信奉者であるとされる。特に、デリゾール県などのイラク国境地域の住民はイラク北西部に住むスンナ派部族とは親戚関係にあり、ジャズィーラ方言のアラビア語(メソポタミア方言のうち、イラク北西部やシリア東部で話されるもの)を喋るなどイラクとの関係は深く、「外国人の占領下に置かれている同胞」への同情からテロリストを支援しているとされている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "イラクでの戦闘に参加するために、同国へ潜入したイスラム過激思想信奉者のうち著名な人物は、シリア東部デリゾール県出身のアブー・ムハンマド・アル=ジャウラーニーである(ジャウラーニー氏についてはダラア県出身との説もある)。当該人物は、シリア内戦における反政府武装勢力の主力たるアル=ヌスラ戦線の指導者となっている。ヌスラ戦線の要員には、米軍占領期のイラクにおいて反米・反シーア派闘争に参加した者たちが多く含まれる。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "シリア政府は、2003年の対イラク開戦時には越境する「アラブ人義勇兵」を放置していたが、同年4月以降までに密輸業者を取り締まるなどの対策を講じた。しかし、部族民や地元政府、治安当局者まで業者に賄賂で買収されてしまっており、効果があがっていないとされる。もっとも外国人テロリストの越境数が多かったのは、2004年のファッルージャの戦闘時で、大半がサウジ人であったという。イラク戦争後、シリア国内で統制が強化されたのは、これらの義勇兵にイスラーム過激派が含まれており、シリア・バアス党の政治思想と厳しく対立していたためでもあり、シリア国内の治安への悪影響を減ずるという意図もあった。しかし、シリアは旧イラク・バアス党政権の残党には庇護を加え、米軍をはじめとする占領軍やイラク暫定政権に対する破壊活動を支援したとされる。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "またイラクでは、元大統領サッダーム・フセインの出身部族がスンナ派であることに加え、サッダーム旧政権時代の与党であったイラク・バアス党の中核支持層もスンナ派に属し、これがイラク国内で多数派の十二イマーム派を押さえる形になっていた。しかし、シリアでは対照的に、アサド大統領の出身部族はイスラームの少数宗派であるアラウィー派に属し、シリア・バアス党の中核支持層はアラウィー派のほか、キリスト教徒・ドゥルーズ派・イスマーイール派などの少数宗派であり、これらが多数派であるスンナ派を抑える形になっている(ただし、スンナ派であっても世俗主義勢力の一部はバアス党と協力関係にある)。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "このため、シリア内戦が勃発したあと、イラク国内で反米・反シーア派闘争を継続していた聖戦と解放の最高司令部およびナクシュバンディー軍を率いる旧イラク・バアス党序列第2位のイッザト・イブラーヒーム(サッダーム・フセインの死刑執行後、イラク・バアス党の地域指導部書記長に就任)は、アサド大統領の打倒を目指してシリア国内で活動するスンナ派の反体制勢力との連帯を表明した。また、イラク西部のスンナ派多数派地域における自由シリア軍支持者によって自由イラク軍というスンナ派武装集団も結成されている。これらの組織は過激派組織ISILとも協調しており、イラク政府軍と戦闘状態にある。逆に、イラク・バアス党政権の崩壊後、十二イマーム派が主体となったイラク政府は、ISILや同組織と同盟関係あるスンナ派武装集団の戦闘においてシリア政府と協力関係にある。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "シリアは旧イラク・バアス党政権の残党に庇護を与えていたが、一様な支援ではなく、イラク・バアス党側においてもイッザト・イブラーヒームはイランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。また、イラク・バアス党はサッダーム・フセインの死によって路線対立に歯止めが利かなくなり、一部の党幹部が非主流派グループを形成し、イブラーヒームの下を離脱。シリア東部のハサカにて会議を行い元党軍事局員のムハンマド・ユーニス・アル=アフマドを新指導者に選出した。この後、ユーニスはイブラーヒームを党より追放すると宣言、これに対抗してイブラーヒームがユーニスとそれに連なる党員の追放を行い、イラク・バアス党は主流のイブラーヒーム派と傍流のユーニス派に分裂した。ユーニス派による内訌と党分裂の事態に際して、イブラーヒームは声明を発し、イラク・バアス党に対するアメリカの陰謀を支援しているとして、シリア政府を非難している。イブラーヒームはシリア政府との協働に懐疑的姿勢を崩さず敵視しており、シリア内戦勃発後には最終的にシリア政府と決別した。しかし対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "現イラク政府の暴力的転覆によるイラク・バアス党の政権奪取を重視している聖戦と解放の最高司令部やナクシュバンディー軍を始めとするイブラーヒーム派に対し、アル・アウダのようなユーニス派は恩赦や国外へ逃れたバアス党員の本国帰還によるイラク・バアス党の政治的再建を重視している(アル・アウダの結成は2003年であり、当初は積極的武力闘争路線であったがのちに方針を転換した)。また、イブラーヒーム派は闘争の過程でスーフィズムの紐帯を利用したほか、ジハード主義者と共闘するなど宗派主義的傾向を強めた(ただし、これは軍事的手段のひとつとして用いた便宜的なものであり、政治的には世俗主義を維持していた)が、ユーニス派は前者に比してさらに世俗主義的傾向が色濃く汎アラブ主義への回帰はより強固であった。これによって、ユーニス派は十二イマーム派が多数を占めるイラク南部における支持獲得に成功し、上位の指導層はスンナ派が占めているとはいえ、組織の中間層にはシーア派が多く存在するなど、旧来の支持基盤であるスンナ派多数地域での構成員獲得を目指すイブラーヒーム派とは対照的である。シリア政府はユーニス派を通じてイラクへの影響力拡大を図っていたのだった。また、恩赦を呼びかけるユーニスらに対してヌーリー・マーリキーは拒否する姿勢を崩さなかったが、マーリキーの退陣後、イラク首相に就任したハイダル・アル=アバーディは、穏健派であるユーニスとの和解に対して妥協的である。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "また、当初は十二イマーム派が主導する現イラク政府との戦いにおいてISILと共闘していたイブラーヒーム派だったが、支持基盤の一部はスーフィー信者であり、ISILの急速な勢力拡大に対して警戒感を強め、同盟関係は2014年末には決裂したとされる。しかし、イッザト・イブラーヒームの率いる武装組織は、イラク政府との闘争も依然継続し、翌2015年4月中旬、領袖のイッザト・イブラーヒームがイラク政府軍およびシーア派武装組織との戦闘で死亡した。イブラーヒーム派がISILとの協力を停止し(スーフィーに属さない党関係者にはISILとの協働を継続している者やISILの構成員となっている者もおり、これらの元党関係者はISILとの同盟関係が決裂した際、反対にイブラーヒーム派の攻撃に加担した)、イブラーヒーム本人が戦死するなか、イラク政府はISILとの戦いを続けるうえで、イラク・バアス党との政治的和解を模索しているとされる。しかし、当事者であるイラク・バアス党は両派に分裂したまま派閥対立がまったく収束していない。イブラーヒーム派はムハンマド・ユーニス・アル=アフマドをイラク政府との交渉から排除することを望み、ユーニス派はイラク国内の破壊および占領に関するイブラーヒーム派の責任を非難し、イブラーヒーム派の政治的復権を拒否している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "イラク・バアス党政権との対立関係や、シリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権であることから、イラン・イラク戦争ではシーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した背景があり、イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、欧米西側諸国との対立等で利害が一致する点が多い。シリア内戦ではイランは一貫してアサド政権を支持しており、資金や物資に留まらず革命防衛隊を援軍として送るなど直接・間接にアサド政権を支援しているため、内戦勃発以降は政治面のほか、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "近年では、イランのほか、ベネズエラ、スーダン、キューバなどの反米路線の国との関係を強化している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "シリアは隣国トルコ共和国のハタイ県を固有の領土であると主張している。2000年のバッシャール・アル=アサドの大統領就任後は両国の関係はクルド人を封じ込む利害が一致していることで改善していたが、2011年にシリア内戦が勃発すると、ムスリム同胞団と関連の深いエルドアン政権はアサド政権打倒目的で自由シリア軍をはじめ反体制武装勢力を積極的に支援するなど対立関係にある。トルコの反体制派支援に対しアサド政権はシリア北部のクルド人勢力(クルド人民防衛隊、YPG)と協調し、同国北東部の自治を事実上黙認する方針をとったため、国内にクルド人問題を抱えるトルコは2016年と2018年にシリアのクルド人地域(ロジャヴァ)に対する越境攻撃を実施した。特に2018年の越境攻撃時にはアサド政権が反体制派への勝利をほぼ確定的にし、余裕が出た戦力をYPGへの援軍として送ったためトルコ軍との直接戦闘に至り、両国の対立は激化の一途をたどった。しかしながら、アサド政権の勝利が確定した中で、クルド人地域への統治という共通の目的をにらみ利害が一致しはじめ、エルドアン政権とアサド政権との関係和解の方向に向かっている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "独立後のシリアは、1957年にソ連との間に経済技術援助協定が締結されたことに始まり、1958年には同じく親ソ路線を掲げていたナセル政権下のエジプトと合併したアラブ連合共和国期、1961年にエジプトとの連合を解消しシリア・アラブ共和国として再独立した後の、1963年3月8日革命以来今日まで続くバアス党政権期を通して、一貫して親ソ・親露路線を外交の基盤としている。 ハーフィズ・アル=アサド政権時代の1980年には、外交や兵器の輸入・その他技術の導入などの親ソ路線から更に進み、ソビエト・シリア友好協力条約が締結され、軍事的に同盟関係となっている。 この同盟関係はソ連崩壊後もロシア連邦が引き継ぎ、ロシアは新鋭の防空兵器や弾道ミサイルなど、さまざまな武器・兵器を販売するなどシリアにとって最大の武器援助国となっている。また独立国家共同体(CIS)諸国以外で唯一のロシアの軍事施設がある(タルトゥース海軍補給処、ラタキア近郊のフメイミム空軍基地など)。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "シリア危機に際し、2013年9月9日にプーチン政権は米国によるシリア侵攻を回避すべくロシアのセルゲイ・ラブロフ外相を通してシリアの化学兵器を国際管理下に置き、シリアの化学兵器禁止条約批准を提案した。そして、9月12日にシリアのアサド大統領はさらに批准後の1か月後に化学兵器情報を提供することにも同意した。2015年9月30日にはロシア連邦軍がアサド政権を支援する軍事介入を開始(ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆)。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾き、アレッポやデリゾールといった主要都市を巡る攻防を政府軍が制し、内戦の帰趨を決する決定的な影響を与えた。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とはハーフィズ・アサド政権時代からの伝統的友好国であり、軍事交流や弾道ミサイルなどの北朝鮮製兵器の買い手でもある。共同の核開発計画も行っているとされ、2007年にはイスラエル空軍が核開発施設と見られる建物を爆撃した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "シリアは北朝鮮との友好関係を考慮し、大韓民国と国交を有していない。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "中華人民共和国(中国)とはハーフィズの時代からの伝統的友好国であり、軍事交流や弾道ミサイルなどの中国製兵器の買い手でもある。1990年代にシリアに小型の原子炉を売却した際はイスラエルやアメリカから懸念された。経済的にはシリア最大の貿易相手国ともされ、2つのシリア最大の産油企業の大株主であり、2011年から国連のシリア非難決議でもロシアとともに拒否権を行使することも多い。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "アサド大統領も2004年6月に訪中して中国の胡錦濤国家主席と会談を行うなど、中国との関係を重視している。シリアは中露主導の上海協力機構への加盟も申請している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国はシリアが1990年の湾岸戦争で多国籍軍に参加し、1991年にアメリカ合衆国政府が主催した中東和平マドリード会議以後、アメリカ合衆国政府が提案する中東和平プロセスを支持し、アメリカ合衆国政府が主導した国連安保理決議に基づいて2005年にレバノンから軍を撤退させたが、アメリカ合衆国政府はシリアがレバノンに軍を進駐させた1976年当時からシリアを「テロ支援国家」と認定し、2004年以後は経済制裁を実施、2005年以後は在シリア大使を帰国させている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "アラブの春では反体制派を支援し、シリア内戦になると、2013年9月5日にアメリカ合衆国上院外交委員会はシリアの化学兵器使用を理由に軍事行動を承認したが、議会承認なきままアメリカ軍はシリア侵攻の攻撃態勢に入っていた。2014年9月に湾岸諸国とともに空爆が開始されたが、このときの攻撃対象は、内戦下で増長したISILとされた。それでも、安保理決議なしでの空爆は、国際法違反だとされる。2017年4月、化学兵器使用疑惑を理由に、初の政府軍を標的とするミサイル攻撃が行われた。2018年10月からシリア領内の油田を防衛すると主張し、デリゾール県やハサカ県の油田地帯を中心に違法駐留を開始。2019年10月、ドナルド・トランプ米大統領は、エクソンモービルを含む米石油メジャーにシリアで油田操業を担わせる可能性に言及した。これについて、法律やエネルギー業界の専門家からは、戦争犯罪で非倫理的などという批判の声が上がった。2022年2月、シリアの石油鉱物資源省は、国内で生産される原油の80%以上が米国によって盗奪されていると発表した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "シリア戦争の危機に際し、安倍晋三政権は日本の同盟国である米国のシリア侵攻に対しては反対を表明はしてはいない。菅義偉官房長官は2013年8月29日の記者会見で、シリア政府による化学兵器を使用の根拠を問われ「さまざまな具体的情報があるが、関係国とのやり取りなので控える」としている。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2012年5月、日本政府はモハンマド・ガッサーン・アルハバシュ駐日シリア大使に国外退去勧告を行う一方、シリア政府も翌6月、鈴木敏郎駐シリア大使にペルソナ・ノン・グラータを通告するなど、相互に大使の追放処分を行った。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 78,
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"text": "シリアには13の県がある。",
"title": "地方行政区分"
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{
"paragraph_id": 79,
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"text": "このうち、シリア内戦以降事実上政府の管轄が及んでいないクルド人自治区としてロジャヴァ・クルド人自治区がある。アレッポ県、ラッカ県、ハサカ県の一部にまたがって設立されている。シリア政府による公式な自治は認められていないが、事実上の黙認状態となっており政府軍との戦闘は起きていない。一方、トルコ政府とは交戦状態となっている。",
"title": "地方行政区分"
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{
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"text": "東地中海に面する一部を除いて、国土は隣国と地続きであり、北部ではトルコと、東部ではイラクと、南部ではヨルダンと、西部ではイスラエルやレバノンとそれぞれ国境を接している。",
"title": "地理"
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"text": "国土のうち西部の地中海沿岸部には平野が広がっており、南部は肥沃な土地が広がっており、国内農業のほとんどを負担している。北部は半乾燥地帯、中部はアンチレバノン山脈が連なり、山岳地帯が大半であるが、乾燥地帯の延長上には、アラビア半島に続くシリア砂漠がある。国内最高峰はヘルモン山(2,814メートル)。国土を北から南にユーフラテス川が、南から北にオロンテス川が流れている。",
"title": "地理"
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"text": "気候は地中海沿岸部は典型的な地中海性気候(Cs)で、夏季は高温乾燥、冬季は温暖多雨である。内陸部に入るに従い乾燥の度合いが激しくなり(BS)、イラク国境周辺は砂漠気候(BW)となっている。この地域では冬季には氷点下まで下がり、降雪による積雪も見られ、時に数十センチに達する大雪となることもあるなど季節ごとの差が激しい。ダマスカスの年平均気温は5.8°C(1月)、26.5°C(7月)、年降水量は158.5ミリ。",
"title": "地理"
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"text": "IMFの統計によると、内戦が本格化する前の2010年のGDPは600億ドル。1人あたりのGDPでは2,807ドルで、中東では低い水準であり、隣国のイラクやヨルダンよりも1,000ドル以上低い数値である。シリア内戦後は急落し、2010年から2017年にかけて、GDPは70%以上減少したとされる。",
"title": "経済"
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"text": "シリアの産業は、バアス党の強力な計画経済により農業、商工業、鉱業ともに偏りがなくバランスが取れた形となっており、石油資源にも恵まれているが、米国による禁輸措置もあり経済は低迷状態が続いていた。2004年時点で政府発表の国内失業率は20%を超えており、中華人民共和国の改革開放を手本として市場経済の導入を計り、外国企業の投資受け入れやインターネット導入を進めていた。しかし2011年に勃発した内戦により経済は深刻な影響を受けており、国連の推定では2014年時点でGDPは40%縮小、国内の労働人口500万人のうち約半数が失業状態にあり、国民の4分の3が貧困状態に陥っていると考えられている。",
"title": "経済"
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"text": "独立直後の主産業は農業であった。しかし、農業従事者の多くは小作人だったため、生活はほとんど向上しなかった。1960年代になると政権を握ったバアス党は社会主義的政策を採り、土地改革と主要産業の国有化、外国投資により、インフラをはじめとする大規模な開発を成功させた。また、産業の私的部門を推奨する資本主義面も見せた。ただし、情勢の不安定さと中東戦争での敗北により、経済は低迷した。",
"title": "経済"
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"text": "1970年に政権を掌握したハーフィズ・アル=アサドは、油田開発と自由化政策を採り、特に73から74年にかけての原油価格の高騰と合わせて経済成長を成功させた。また、より石油資源の豊富なアラブ諸国で働くシリア人からの送金の増加や、アラブ諸国をはじめとする海外からの援助の増加も、シリアの好景気に拍車をかけた。70年代末には、シリア経済は従来の農業を中心とした経済から、サービス業、工業、商業を中心とした経済へと変化していた。灌漑、電力、水道の整備、道路建設事業、医療サービスや教育の地方への拡大などに巨額の支出が行われ、繁栄に貢献した。しかし、財政と貿易の両面で赤字が拡大し、その財源を海外からの援助や補助金に依存する状態が続いた。また、アラブ・イスラエル紛争の最前線に位置するシリアは、中東政治の影響を受けやすく、増大する国防費をアラブの援助移転とソ連の援助に頼っていた。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 87,
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"text": "1980年代に入ると、第2次オイルショックや干ばつ、在外シリア人からの送金減などにより、減速した。",
"title": "経済"
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"text": "2000年にハーフィズの息子のバッシャール・アル=アサドが大統領になると、経済の近代化と自由化が推し進められた。政府の新自由主義的改革は、貿易の活発化と民間部門の活性化に貢献し、安定した経済成長が続いた。一方、格差拡大や公共サービスの低下、汚職の露骨化などを伴い、アラブの春へと繋がる国民不満の増加につながったとされる。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "シリア内戦勃発後は、2010年から2017年までマイナス成長となり、GDPは70%以上減少したとされる。ISILが勢力を失い、少し落ち着いた2018年は微増した。20年に深刻化した隣国レバノンの経済危機や米国の新たな対シリア制裁法が影響し、通貨シリアポンドの価値は対米ドルで1年前の半分以下になり、急激なインフレが起きた。",
"title": "経済"
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{
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"text": "2021年にNGOワールド・ビジョンが発表した推計では、内戦による経済損失は計1兆2000億ドルに上るとされる。シリア石油鉱物資源省によると、東部地域を占領する米国とその側の勢力により、1日平均7万バレルが窃取されている問題もある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 91,
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"text": "人口2,200万人のうち、2015年時点では国内避難民として少なくとも760万人以上が居住地を放棄して国内移動を行っているほか、約400万人が難民として国外へ流出している。シリア難民の最多流出国はトルコ(213万人)、次いでヨルダン(140万人)、レバノン(119万人)となっている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 92,
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"text": "住民は、アラブ人が90%で、クルド人が8%ほど、そのほかにアルメニア人、ギリシャ人などがいる。アラブ人の中にはシリア語を母語とする部族もいるため民族性も多様化している。少数民族としてネストリウス派(アッシリア人)、北コーカサス系民族、南トルコ系民族もいる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "言語は現代標準アラビア語が公用語である。そのほかにもアラビア語の方言(レバント方言(英語版)、イラク方言、ナジュド方言、北メソポタミア・アラビア語(英語版))、シリア語(典礼言語として)、クルド語、アルメニア語、アゼルバイジャン語、現代アラム語(アッシリア現代アラム語、現代西アラム語)が使われる。さらにフランス委任統治領時代の影響でフランス語も使われているが、隣国レバノンと異なり一部エリート層の使用に限られるなど通用度は高くない。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 94,
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"text": "宗教は、イスラム教スンナ派が約70%。他のイスラム教の宗派(アラウィー派、ドゥルーズ派、イスマーイール派、十二イマーム派などがあわせて約20%、これらの少数宗派はすべてシーア派とみなす場合もあるが、アラウィー派とドゥルーズ派をシーア派に含めない場合もある。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 95,
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"text": "系統不明瞭なアラウィー派が現在シーア派の一派として扱われるのは、1973年にシリアの大統領ハーフィズ・アル=アサドの働きかけにより、レバノンの十二イマーム派のイマームであったムーサー・アッ=サドル(英語版)が、アラウィー派をシーア派の一派と看做すファトワーを発したことによる。そして、ドゥルーズ派はイスマーイール派から分派した宗派である。しかし、アラウィー派とドゥルーズ派の教義はグノーシス主義や神秘主義の強い影響を受けており、イスラーム教とさえみなされない場合もあるなど、スンナ派や十二イマーム派からの厳しい異端視に晒されてきた。また、イスマーイール派もオスマン帝国時代に弾圧を受けた。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 96,
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"text": "キリスト教(非カルケドン派のシリア正教会、東方正教会のアンティオキア総主教庁、東方典礼カトリックのマロン典礼カトリック教会など)は約10%である。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 97,
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"text": "そのほかには、アレヴィー派やヤズィード派などの少数宗派があり、アレヴィー派はトルコマン人によって、ヤズィード派はクルド人によって信仰されているが、併せて約1%ほどである。シリア国内の人口比で約8%を占めるクルド人のほとんどはスンナ派を信仰しており、ヤズィード派を信仰するものはごく一部である。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "元来、都市部に住む富裕層にはスンナ派が多く、これらの名望家層はオスマン帝国時代から政治エリートとして大きな影響力を誇っていた。第一次世界大戦後、新たな支配者としてシリアを委任統治したフランスはスンナ派有力者たちの影響力を押さえ、統治を円滑化するために少数宗派を優遇し、スンナ派以外の諸宗派に政治や軍事への門戸を開いた。また、同じスンナ派であっても都市部の有力者達は相互に姻戚関係で結びつき、その特権意識から農村部に住む人々や貧困層を「大衆」と呼んで蔑むなど、大きな格差が存在していた。都市部に住むスンナ派エリート層によって政治から排除されてきた人々は、シリア独立後、バアス党や共産党などの左派政党の政治運動へ支持・共鳴を示した。左派政治組織の支持拡大に対して、保守的な人々はムスリム同胞団との結びつきを強めた。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 99,
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"text": "イスラム教徒の女性は婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)一方、改姓する女性もいる。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 100,
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"text": "シリアの教育は小学校6年間、中学校3年間、高等学校3年間の6・3・3制で小学校の6年間が義務教育であり、生徒の80%がイスラム教徒のため男女共学の高校は存在しないとされる。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "シリア国鉄(英語版)が運行されており、路線総延長は2,423キロに及び、アラブ諸国の中では数少ない鉄道網が整備されている国である。ダマスカス鉄道駅からトルコのイスタンブールへの直通列車も運行されていた。しかしながら2012年以降は内戦で運行停止状態となっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 102,
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"text": "ダマスカス国際空港、アレッポ国際空港、バーセル・アル=アサド国際空港(英語版)などの国際空港があり、シリア・アラブ航空によって運航されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 103,
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"text": "シリアは古代より文明が栄えた土地のため、また各文明の交流地点のため高度な文化が発達しており、国内の各地にアッシリア帝国時代の遺跡が点在する。また、西洋風の町並や服装も浸透している。さらに反米および反イスラエル国家であるが、首都・ダマスカスにはケンタッキーの店舗が存在する。",
"title": "文化"
},
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"text": "シリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 105,
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"text": "シリア国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1966年にプロサッカーリーグのシリア・プレミアリーグが創設された。リーグ開始以降アル・ジャイシュSCが圧倒的な強さを誇っており、5連覇を含むリーグ最多17度の優勝を達成している。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 106,
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"text": "シリアサッカー協会(SFA)によって構成されるサッカーシリア代表は、これまでFIFAワールドカップへの出場経験はない。AFCアジアカップには6度出場しているものの、全大会でグループリーグ敗退となっている。しかし西アジアサッカー選手権では、2012年大会で初優勝した。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 107,
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"text": "シリアはオリンピックには1948年ロンドン五輪で初参加した。それ以降は中東戦争などの影響で参加と不参加が続いたが、1980年モスクワ五輪以降は参加を続けている。しかし冬季オリンピックへの参加経験はない。2021年東京五輪では、ウエイトリフティング男子109kg超級でマン・アサードが、シリア選手として4大会ぶりのメダルを獲得した。",
"title": "スポーツ"
}
] | シリア・アラブ共和国、通称シリアは、西アジアに位置する共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカスで、古くから交通や文化の要衝として栄えた。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。 | {{Otheruses}}
{{基礎情報 国
| 略名 = シリア
| 日本語国名 = シリア・アラブ共和国
| 公式国名 = '''{{Lang|ar|الجمهورية العربية السورية}}'''
| 国旗画像 = Flag of Syria.svg
| 国章画像 = [[ファイル:Coat_of_arms_of_Syria.svg|100px|シリアの国章]]
| 国章リンク = ([[シリアの国章|国章]])
| 標語 = なし
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| 位置画像 = Syria (orthographic projection).svg
| 公用語 = [[アラビア語]]
| 首都 = [[ダマスカス]]
| 最大都市 = ダマスカス
| 元首等肩書 = [[シリアの大統領|大統領]]
| 元首等氏名 = [[バッシャール・アル=アサド]]
| 首相等肩書 = [[w:Vice President of Syria|副大統領]]
| 首相等氏名 = {{ill2|ナジャーハ・アル=アッタール|en|Najah al-Attar}}
| 他元首等肩書1 = [[シリアの首相|首相]]
| 他元首等氏名1 = {{ill2|フセイン・アルヌース|en|Hussein Arnous}}
| 他元首等肩書2 = [[人民議会 (シリア)|人民議会議長]]
| 他元首等氏名2 = {{ill2|ハンムーダ・サッバーグ|en|Hammouda Sabbagh}}
| 面積順位 = 86
| 面積大きさ = 1 E11
| 面積値 = 185,180
| 水面積率 = 0.6%
| 人口統計年 = 2022
| 人口順位 = 60
| 人口大きさ = 1 E7
| 人口値 = 21,563,800<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/syria/ |title=Syria |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月11日}}</ref>
| 人口密度値 = 116.4
| GDP統計年元 = 2010
| GDP値元 = 2兆7,918億<ref name="imf201510">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2015/02/weodata/weorept.aspx?sy=2008&ey=2010&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=463&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=18&pr.y=5|title=World Economic Outlook Database, October 2015
|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|date = 2015-10|accessdate=2016-02-17}}</ref>
| GDP統計年MER = 2010
| GDP順位MER = 67
| GDP値MER = 600億<ref name="imf201510" />
| GDP MER/人 = 2,804<ref name="imf201510" />
| GDP統計年 = 2010
| GDP順位 = 68
| GDP値 = 1,364億<ref name="imf201510" />
| GDP/人 = 6,375<ref name="imf201510" />
| 建国形態 = 建国<br /> - 宣言<br /> - 承認
| 建国年月日 = [[フランス]]より<br />[[1944年]][[1月1日]]<br />[[1946年]][[4月17日]]
| 通貨 = [[シリア・ポンド]] (YTL)
| 通貨コード = SYP
| 時間帯 = +3<ref>[https://www.timeanddate.com/news/time/syria-jordan-abolish-dst-2022.html Syria and Jordan Ditch DST Clock Changes]. timeanddate.com、2022年10月9日閲覧。</ref>
| 夏時間 = なし
| ISO 3166-1 = SY / SYR
| ccTLD = [[.sy]]
| 国際電話番号 = 963
| 注記 =
}}
'''シリア・アラブ共和国'''(シリア・アラブきょうわこく、{{Lang-ar|الجُمهُورِيّةُ العَرَبِيّةُ السُورِيّةُ}})、通称'''シリア'''は、[[西アジア]]に位置する[[共和制]][[国家]]。北に[[トルコ]]、東に[[イラク]]、南に[[ヨルダン]]、西に[[レバノン]]、南西に[[イスラエル]]と国境を接し、北西は東[[地中海]]に面する。首都は[[ダマスカス]]で<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ダマスカス-94313 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2019-10-29}}</ref>、古くから交通や文化の要衝として栄えた。「'''シリア'''」という言葉は、[[国境]]を持つ国家ではなく、周辺のレバノンや[[パレスチナ]]を含めた地域([[歴史的シリア]]、[[大シリア]]、[[ローマ帝国]]の[[シリア属州]])を指すこともある。
== 概要 ==
東西交通の十字路に当たるため、古代から[[ヒッタイト]]、[[アケメネス朝]]、[[マケドニア]]などの支配を受けた。7世紀に興った[[ウマイヤ朝]]が[[ダマスカス]]に都を置くと、[[イスラーム文化|イスラム文化]]の中心地として栄えたが(661-750年)、続く[[アッバース朝]]が都を[[バグダード|バクダッド]]に移すと、その役割は薄れた。[[16世紀]]以降は[[オスマン帝国]]の領土となる。[[20世紀]]初頭に[[フランス]]の植民地になり、[[1946年]]に独立した<ref name=tiezo>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2-80926#E7.9F.A5.E6.81.B5.E8.94.B5 知恵蔵 シリア]</ref>。
[[1963年]]に[[社会主義]]路線の[[バアス党]]が政権を奪い、[[1970年]]に同党の軍部クーデターにより[[ハフェズ・アサド]]が政権を掌握し、軍と[[秘密警察]]を後ろ盾としたバアス党独裁体制が築かれた<ref name=tiezo/>。[[2000年]]の死去後もその独裁体制は息子
[[バッシャール・アル=アサド|バシャール・アサド]]に引き継がれ、現在に至っている<ref name=tiezo/>。近年は強権的支配への反発が強まっており、[[アラブの春]]により2011年に[[シリア内戦]]が発生した<ref name=mypedia>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2-80926#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア シリア]</ref>。内戦は[[アメリカ合衆国]]や[[ロシア]]などの外国勢力も参加したことで悪化し、多くの[[シリア難民]]を生んだ。
半世紀にわたって独裁体制を維持できているのは、[[汎イスラム主義]]と他信仰に寛容な[[世俗主義]]という相反するイズムの使い分けによるとされる<ref name=tiezo/>。ただし、政権批判や反政府活動に対しては容赦ない弾圧を加えており<ref name=tiezo/>、英国の[[エコノミスト]]誌傘下の研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]による[[民主主義指数]]は、下から4番目の世界164位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)<ref>[https://www.eiu.com/topic/democracy-index EIU Democracy Index - World Democracy Report]</ref>。[[国境なき記者団]]による[[世界報道自由度ランキング]]も下から7番目の174位と下位で最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)<ref>[https://www.asahi.com/topics/word/%E3%83%86%E3%83%AD%E6%94%AF%E6%8F%B4%E5%9B%BD%E5%AE%B6.html 朝日新聞 テロ支援国家]</ref>。
外交は反[[イスラエル]]・反米路線が顕著であり、イスラエルと数度にわたって戦争を行ない([[中東戦争]])、[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]の結果、南西国境地帯の[[ゴラン高原]]を占領されている<ref name=britanica>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2-80926 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 シリア]</ref>。イスラエルに対抗して[[レバノン]]で活動する[[シーア派]]原理組織「[[ヒズボラ]]への支援を行っている<ref name=tiezo/>。このことからアメリカ合衆国からは[[テロ支援国家]]に指定されている<ref>[https://rsf.org/en/ranking/# “World Press Freedom Index]</ref>。1990年代には和平交渉が断続的に行われたが、2000年3月に暗礁に乗り上げた<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/kuni/05_databook/pdfs/04-09.pdf |title=[9]シリア |access-date=2022-11-03 |publisher=外務省}}</ref>。
経済面では、国の歳入は、東部で産出される[[石油]]が1位だが、産出量・埋蔵量とも少ないため、枯渇が深刻化している。ただし、綿花、小麦、オリーブ栽培といった農業の他、繊維、食品加工、セメントなどの工業も見られ、中東諸国に顕著な石油依存の[[モノカルチャー経済]]というわけではない<ref name=tiezo/>。
面積は約18万5000平方キロメートル。人口は約2000万人で、9割をシリア系アラブ人が占める。イラン語系のクルド人や印欧語系のアルメニア人他も存在する多民族国家である。公用語は[[アラビア語]]。アラブ系国民の9割近くを[[イスラム教]][[スンニ派]]が占めているが、現大統領アサドは[[アラウィー派]]([[シーア派]]の一派)である。[[アルメニア使徒教会]]や[[コプト正教会]]など[[東方教会]]系のキリスト教徒も1割ほどいる<ref name=tiezo/>。
== 国名 ==
正式名称は、[[アラビア語]]で{{lang|ar|الجمهورية العربية السورية}}([[翻字]]: {{transl|ar|DIN|al-Jumhūrīyah al-'Arabīyah as-Sūrīyah}})で、読みはアル=ジュムフーリーヤ・ル=アラビーヤ・ッ=スーリーヤ、通称 {{lang|ar|سوريا}}({{transl|ar|DIN|Sūriyā}} スーリヤー)または {{lang|ar|سورية}}({{transl|ar|DIN|Sūrīya}} スーリーヤ)。
公式の英語表記は Syrian Arab Republic (シリアン・アラブ・リパブリック)。通称 Syria (シリア)。
日本語の表記は'''シリア・アラブ共和国'''<ref>1961年(昭和36年)12月7日外務省告示第210号「シリア・アラブ共和国承認の件」(承認日は1961年10月17日)</ref>。通称'''シリア'''。
「シリア」の語源は不明だが、[[アッシリア]]の転訛とする説、[[ティルス]]の転訛とする説などがある<ref>牧英夫編著 『世界地名の語源』 自由国民社 1980年12月20日発行 12ページ</ref>。
== 歴史 ==
[[File:Citadel of Aleppo.jpg|thumb|right|300px|[[紀元前10世紀]]の建築を原型とする[[アレッポ城]]]]
{{main|シリアの歴史}}
=== アケメネス朝 ===
{{Main|アケメネス朝}}
* [[アケメネス朝]]ペルシアが古代オリエントを統一。
=== セレウコス朝 ===
{{Main|セレウコス朝}}
* [[紀元前305年]] - [[マケドニア王国|マケドニア]]の[[セレウコス1世|セレウコス]][[将軍]]が王号を名乗る。[[首都]]は[[アンティオキア]](現在の[[トルコ]]領[[アンタキヤ]])。
* [[紀元前304年]] - インド領からの撤退が始まる。
* [[紀元前301年]] - シリア地方獲得。
* [[紀元前274年]] - [[ガリア人]]侵入を撃退。
* [[紀元前274年]]〜[[紀元前168年]] - [[コイレ・シリア]]をめぐる[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]と[[プトレマイオス朝|プトレマイオス朝エジプト]]の[[シリア戦争 (プトレマイオス朝)|シリア戦争]]。
* [[紀元前130年]] - [[パルティア]]軍に敗北。全東方領土を喪失。
=== ローマ帝国 ===
{{Main|シリア属州}}
* [[紀元前64年]] - [[ローマ帝国|ローマ軍]]首都制圧。[[シリア属州]]として併合され、[[セレウコス朝]]滅亡。
=== イスラム帝国 ===
{{Main|ウマイヤ朝}}
[[661年]]、[[ムアーウィヤ]]が[[カリフ]]となり[[ウマイヤ朝]]創設。[[ダマスカス]]を[[首都]]と定める。[[750年]]にウマイヤ朝が倒れると次いで[[アッバース朝]]の支配下となるが、アッバース朝が衰退するにつれ、地方政権が割拠するようになる。[[10世紀]]には[[東ローマ帝国]]が一時北シリアを奪還した。
=== セルジューク朝 ===
{{Main|セルジューク朝|シリア・セルジューク朝}}
[[ファーティマ朝]]の支配下にあったシリアを[[セルジューク朝]]が攻略。[[シリア・セルジューク朝]](1085年 - 1117年)。
=== 十字軍国家 ===
[[ファイル:Map Crusader states 1135-en.svg|thumb|[[1135年]]のシリア地方]]
{{Main|十字軍国家}}
[[1098年]]、[[第1回十字軍]]が[[セルジューク朝]]の支配下にあったシリア北西部の[[アンティオキア]]を攻略([[アンティオキア攻囲戦]])。地中海沿岸部を中心に、[[アンティオキア公国]]をはじめとする[[十字軍国家]]が成立する。アンティオキア公国は[[1268年]]に[[マムルーク朝]]に滅ぼされるまでイスラム諸勢力と併存した。
=== アイユーブ朝 ===
[[1171年]]、[[サラーフッディーン]](サラディン)が[[アイユーブ朝]]を建国。
=== モンゴル帝国 ===
{{main|{{仮リンク|モンゴルのシリア侵攻|en|Mongol invasions of Syria}}}}
* [[モンゴル帝国]]、[[イルハン朝]]。
=== マムルーク朝エジプト ===
{{Main|マムルーク朝}}
=== オスマン帝国 ===
{{Main|オスマン帝国}}
* 15世紀ごろ - [[オスマン帝国]]の支配下に置かれる({{仮リンク|シャム・エヤレト|en|Damascus Eyalet|label=ダマスカス・エヤレト}})。
* [[アラブ反乱]]([[1916年]] - [[1918年]])
=== OETA ===
* [[1917年]] - [[オスマン帝国]]が占領され[[:en:Occupied Enemy Territory Administration]]([[1917年]] - [[1920年]])が成立。
=== 独立・シリア王国 ===
* [[1920年]][[3月8日]] - {{仮リンク|シリア・アラブ王国|en|Arab Kingdom of Syria}}により独立し、[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]が初代国王として即位。
* [[1920年]][[7月24日]] - {{仮リンク|フランス・シリア戦争|en|Franco–Syrian War}}でフランスが占領。
=== フランス委任統治領シリア ===
[[ファイル:French Mandate for Syria and the Lebanon map en.svg|thumb|240px|[[フランス委任統治領シリア]]]]
{{Main|フランス委任統治領シリア}}
* [[1920年]][[8月10日]] - [[セーヴル条約]]により[[フランス]]の[[フランス委任統治領シリア|委任統治領]]([[1920年]]-[[1946年]])となる。
* [[1920年]][[9月1日]] - {{仮リンク|ダマスカス国|en|State of Damascus}}({{仮リンク|ジャバル・ドゥルーズ地区|en|Jabal Druze State}}を含む)、{{仮リンク|アレッポ国|en|State of Aleppo}}({{仮リンク|アレキサンドレッタ地区|en|Sanjak of Alexandretta}}を含む)、[[大レバノン]]に分離・分割。
* [[1920年]][[9月2日]] - {{仮リンク|アラウイ自治地区|en|Alawite State}}を分離・分割。
* [[1921年]][[5月1日]] - {{仮リンク|ジャバル・ドゥルーズ地区|en|Jabal Druze State}}を分離・分割。
* [[1921年]][[10月20日]] - [[アンカラ条約 (1921年)|アンカラ条約]]により{{仮リンク|アレキサンドレッタ地区|en|Sanjak of Alexandretta}}が成立。
* [[1936年]]9月 - {{仮リンク|フランス・シリア独立条約|en|Franco–Syrian Treaty of Independence (1936)}}交渉でフランスが批准を拒否。
* [[1938年]][[9月7日]] - {{仮リンク|ハタイ共和国|en|Hatay State}}([[1938年]] - [[1939年]]、現[[トルコ|トルコ共和国]][[ハタイ県]])
=== 独立・シリア共和国 ===
* [[1946年]] - '''{{仮リンク|シリア共和国 (1930年–1958年)|en|Syrian Republic (1930–1958)|label=シリア共和国}}'''としてフランスより独立<ref name="WDL">{{cite web |url = http://www.wdl.org/en/item/400/ |title = Report of the Commission Entrusted by the Council with the Study of the Frontier between Syria and Iraq |website = [[World Digital Library]] |date = 1932 |accessdate = 2013-07-08 }}</ref>。同年、自治権を求める[[アラウィー派]]の反乱が起きるが、政府により鎮圧。
* [[1949年]] - {{仮リンク|1949年3月クーデター|en|March 1949 Syrian coup d'état}}により[[フスニー・アッ=ザイーム]]が政権を握るが、同年8月に打倒され[[ハーシム・アル=アターシー]]の挙国一致政権が成立する。
* [[1951年]] - 12月に[[アディーブ・アル=シーシャクリー]]によるクーデターが発生し、軍事独裁政権が成立する。
* [[1952年]] - 再度、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、シーシャクリー政権は全政党を禁止する。
* [[1954年]] - [[ドゥルーズ派]]による反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、{{仮リンク|1954年クーデター|en|1954 Syrian coup d'état}}により、シーシャクリー政権が打倒される。
* [[1957年]] - ソ連との間に経済技術援助協定が締結される。
=== アラブ連合共和国 ===
* [[1958年]] - 2月に[[エジプト]]と連合、「[[アラブ連合共和国]]」成立(首都:[[カイロ]])。同年3月、[[北イエメン]]が連合国家に合流。
* [[1959年]] - エジプトによって全政党が解党され翼賛政党へ加入。
=== 独立・シリア・アラブ共和国 ===
* [[1961年]] - 9月に陸軍将校団によるクーデターが発生し、エジプトとの連合が解消され、'''シリア・アラブ共和国'''として再独立。
=== バアス党政権樹立 ===
* [[1963年]] - [[3月8日革命]]により[[バアス党]]が政権を獲得。
* [[1964年]] - {{仮リンク|ハマー動乱 (1964年)|en|1964 Hama riot}}、同年、元大統領のシーシャクリーが亡命先においてドゥルーズ派の青年に暗殺される。
* [[1966年]] - [[1966年シリアクーデター|1966年クーデター]]が起き、バアス党の若手幹部によって古参幹部が追放され、バアス党組織はシリア派とイラク派に分裂。
* [[1967年]] - [[第3次中東戦争]]、[[ゴラン高原]]を失う。
==== ハーフィズ・アル=アサド政権 ====
* [[1970年]] - バアス党で急進派と穏健・現実主義派が対立、[[ハーフィズ・アル=アサド]]をリーダーとした穏健・現実主義派がクーデター([[矯正運動 (シリア)|矯正運動]])で実権を握る。
* [[1971年]] - ハーフィズ・アル=アサド、大統領に選出。
* [[1973年]] - [[第四次中東戦争]]。
* [[1976年]] - [[レバノン]]への駐留開始([[レバノン内戦]])。
* [[1980年]] - [[ソビエト・シリア友好協力条約]]締結。
* [[1981年]]、{{仮リンク|ハマー虐殺 (1981年)|en|1981 Hama massacre}}。
* [[1982年]]、[[ハマー虐殺]]。
* [[2000年]] - ハーフィズ・アル=アサド大統領死去。息子の[[バッシャール・アル=アサド]]が大統領就任。
==== バッシャール・アル=アサド政権 ====
=====ダマスカスの春=====
一般にシリアは前大統領[[ハーフィズ・アル=アサド]]時代のイメージから大統領による個人独裁国家であるとみなされることが多いが、現大統領[[バッシャール・アル=アサド]]の就任以降は絶大な大統領権限は行使されていない。その内実は大統領や党・軍・治安機関幹部による集団指導体制であり、個人独裁ではなく[[バアス党]](および衛星政党)による独裁である。バッシャール・アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「{{仮リンク|ダマスカスの春|en|Damascus Spring}}」と呼んだ。
改革では反汚職キャンペーンなどの面で多少の成果があったものの、基本的には就任まもないバッシャール・アサドの体制内での権力基盤を強化するためのものでシリアの「民主化」を目的としたものではなかった。事実、[[2003年]]の[[イラク戦争]]で[[アメリカ軍]]の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権の[[サッダーム・フセイン]]体制がわずか1か月足らずで崩壊させられたことを受けると、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、それ以前は一定程度容認されていた[[デモ活動]]や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩む。また、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなった。理由としては、[[グルジア]]などでいわゆる「[[色の革命]]」といわれる民主化運動により、[[権威主義]]体制が次々と崩壊したことに脅威を覚えたためだと見られている。その後、2011年の[[アラブの春]]を契機とした市民による民主化要求運動を武力で制圧したとことによって、結果的にはその後のシリア内戦へとつながっていった。
* [[2005年]] - レバノンよりシリア軍撤退。
* [[2007年]] - バッシャール・アル=アサド、大統領信任投票で99%の得票率で再選、2期目就任。
* [[2008年]] - 隣国レバノンとの間に正式な外交関係樹立。大使館設置で合意。
=====シリア内戦=====
{{main|シリア内戦}}
{{main|反体制派 (シリア 2011-)}}
[[File:Bombed out vehicles Aleppo.jpg|thumb|left|戦闘で破壊された車両([[アレッポ]]、[[2012年]])]]
[[ファイル:Syrian_Civil_War_map.svg|thumb|right|240px|ほぼ3分割されたシリアの勢力図、桃色=政府軍、黄色=クルド人勢力、緑=その他の反政府勢力]]
* [[2011年]] - [[アラブの春]]に触発された[[騒乱]]が発生、[[シリア内戦]]([[1月26日]])に発展し、継続中。
[[2011年]]の反政府勢力としては、「{{仮リンク|シリア国民評議会|en|Syrian National Council}}」(SNC)、「{{仮リンク|民主的変革のための全国調整委員会|en|National Coordination Committee for Democratic Change}}」(NCC)の2つの全国組織が結成されている。反体制派の「自由将校団運動」(Free Officers Movement) のニックネームを持ちトルコ政府が支援している「[[自由シリア軍]]」(FSA)というイスラム過激派武装組織も作られている。さらに、地方でも中央組織に加わっていない組織が作られている。2012年11月にはこれらを統合する[[シリア国民連合]]が結成され、政権側との対立が続いている。
2012年の反体制武装勢力の大攻勢により、北部の最重要都市アレッポが孤立し、首都ダマスカスの中心部でも激しい戦闘が発生して、自爆攻撃により国防相や治安機関幹部などの政府要人が殺害されるなど、戦局が悪化。兵士の集団離脱まで発生し、一時は体制崩壊間近との観測も流れた。シリア政府軍は同国西部地域が危殆に瀕する情勢に際し、ハサカ・デリゾール・ラッカ県など、同国東部地域に展開する戦力の大部分を西部へ転進させるのみならず、内戦開始後も依然として控置されていた虎の子の対イスラエル戦備をも大規模に抽出転用するなど、西部地域に兵力を集中させて防衛に尽力、2012年後半の苦境を瀬戸際で乗り切り、[[2013年]]3月初旬には反体制派支配地域に孤立していたアレッポへの補給路を啓開した。しかし、対照的に防備が薄弱となった東部地域はそのほとんどが反体制武装勢力に制圧され、アレッポへの補給路啓開と機を同じくする3月初旬、ラッカ市が反体制武装勢力に制圧され、内戦開始後初の県都陥落となった。
一方、ロシアやイランを筆頭とする同盟国は、シリア政府を支えるため軍事援助を継続したほか、[[ヒズボラ]]をはじめとしたシーア派武装勢力による政府軍への直接支援が開始され、2013年春以降、政府軍は西部地域における勢力基盤確立と反体制武装勢力の封じ込めを企図し、戦局を巻き返すため攻勢に転移した。同年4月上旬に始まった作戦により政府軍は首都ダマスカス周辺の反体制武装勢力支配地区を削縮し、同月中にはこれらを包囲することに成功した。そして、5月には同国中部における反体制派の補給拠点であったクサイルを奪還。さらにホムス県最西部を制圧し、ホムス県北部に盤踞する反体制武装勢力の根拠地を包囲するなど政府軍が攻勢を強めるなか、8月に何者かによって首都ダマスカス郊外で化学兵器が使用された。一時は米仏を中心にシリアへの空爆が検討されたが、シリア政府が化学兵器禁止条約に加入し、該当兵器の全廃を確約したため、空爆は回避された。
政府軍は同年3月にアレッポ市への補給路啓開に成功していたが、本兵站線は依然脆弱な状態が続いていた。ダマスカス近郊における化学兵器使用事件直後の8月下旬、アレッポ県にて反体制武装勢力の攻勢が開始され、アレッポ市への補給路は再び遮断されるに至った。この攻勢は翌9月中旬まで続き、サフィーラ市近郊の政府軍重要拠点も反体制武装勢力に包囲された。しかし、アレッポ市周辺における反体制武装勢力の活発な軍事行動は政府軍の苛烈な反応を惹起することになった。空爆の危機を回避した政府軍は、北部における抗戦基盤強化に向け、アレッポ市への補給路再打通を企図する攻勢を10月1日付で発動した。2か月間にわたった本攻勢によって政府軍はアレッポ市への補給路打通と政府軍重要拠点解囲を達成したのみならず、サフィーラ市攻略とアレッポ国際空港周辺の脅威排除にも成功した。続いて、2013年末ごろからはレバノン国境地帯で政府軍による大攻勢が始まり、翌[[2014年]]の4月末日までに要域をほぼ奪還した。また5月9日には停戦交渉に基づき、政権側による厳しい包囲下に置かれていた[[ホムス]]旧市街から反体制武装勢力が撤退した。これによってシリア政府は、反体制派によって革命の首都と呼ばれていたホムス市における統制を完全に回復した。さらに同年8月、政府軍は首都ダマスカスとダマスカス国際空港を結ぶ交通幹線を扼す要衝であり、依然反体制武装勢力の勢力下にあったムライハを力攻し、これを制圧した。
2013年の政府軍の大攻勢に対して反体制派各派は内紛によって有効な手段を講ずることができず、このことも政府軍の軍事的成功の一助となった。特に反体制派の一角を占めていたクルド人勢力とイスラーム主義勢力が鋭く対立したため、クルド人勢力は北部においてトルコやイラクのクルド人民兵などの支援を受けて支配地域を確立すると急速に中立化した。[[ロジャヴァ|ロジャヴァ・クルド人自治区]]を創設し、事実上の自治権を獲得すると、シリア政府もこれを黙認する姿勢をとり、クルド人勢力と政府側との対立は沈静化した。
しかし、2014年夏以降、それまでの反体制武装勢力が内紛によって衰退すると、イスラム過激派の[[ISIL]]('''イラクとレバントのイスラム国''')が反体制運動の中心に躍り出た。[[サウジアラビア]]を中心とした[[スンナ派]]湾岸諸国の富裕層の資金が流入しているとされる豊富な資金力や、それまで体制転換を目指した国々によって反政府武装勢力に提供されてきた武器・兵器をもとに力をつけたISILによる攻勢が続いた。特に東部の[[ラッカ]]県や[[デリゾール]]県などでは、政府軍の残余部隊や自由シリア軍およびヌスラ戦線などが駆逐され、[[ISIL]]による非常に残忍で冷酷な方法による独自の支配権が築かれた。2014年9月にはISILに対する米軍をはじめとした国際社会の有志連合による空爆も開始し、2015年には当初限定されたイラク領内だけではなく、シリア領内においても空爆を行うようになった。その結果、政府軍対反体制武装勢力という従来の内戦の様相は、西側有志連合・[[ISIL]]・政府軍・クルド民兵・[[アルカーイダ]]系武装勢力([[アル=ヌスラ戦線]]など)・その他の[[イスラム主義]]武装集団([[:en:Islamic Front (Syria)|イスラーム戦線]]など)が角逐するという複雑な構造へ変化しつつあり、もはや内戦は終わりの見えない泥沼状態となっている。当初の反体制勢力であった民主化を求めていた市民のデモ隊や[[シリア国民連合]]はほとんど力を失った。2015年春には[[ISIL]]は[[パルミラ遺跡]]やダマスカス近郊まで支配権を確立し、支配領土を拡張しつつある。
これに対し、シリア北部においては、[[アル=ヌスラ戦線]]などを中心とするアルカーイダ系武装勢力が反政府勢力内の世俗主義勢力との内紛に勝利したのち、政府軍への攻勢を強めた。ヌスラ戦線とその同盟勢力は、2014年8月から9月にハマー市を指向する大攻勢を実施したが、本攻勢はハマー市近郊まで迫ったものの、政府軍の縦深によって阻まれて攻勢限界に達した。これを受けて政府軍は精鋭を投入して反攻に移り、ヌスラ戦線と同盟勢力が攻勢開始後に制圧した地域はほぼ奪還した。ヌスラ戦線は本攻勢が挫折したのち、攻略目標をイドリブ県に変更し、12月にはイドリブ県中部の政府軍大拠点の覆滅に成功した。政府軍はイドリブ県において、県都イドリブ市とハマー県西北部を結ぶ交通幹線周辺を掌握し回廊状の支配地域を形成していたが、2015年2月、アルカーイダ系武装勢力は大攻勢を実施してイドリブ市を攻略。内戦開始後2つ目となる県都陥落となった。政府軍は、イドリブ市を回復するため精鋭部隊を投入するも拠点を次々奪われ、最終的にイドリブ県西部の要衝まで喪失するなど2012年以来の大敗北を喫し、イドリブ県における支配地域をほとんど喪失した。アルカーイダ系武装勢力はイドリブ市を中心としてイドリブ県やアレッポ県西部一帯に勢力を扶植しており、当該地域を根拠とするイスラム首長国の建設を試みているとされる。
ただし、北部および東部とは対照的に、ダラア県を中心とする南部地域は2014年中においても依然として自由シリア軍を中心とする勢力が有力であった。政府軍は県都ダラア市の北半を確保していたが、東・西・南側を反体制武装勢力に制圧され半包囲の状態にあり、首都ダマスカス方面へ延びる交通幹線周辺を掌握することによって回廊を形成し、戦線を維持していた。シリア政府軍はダラア県における状況を改善すべく、同年夏ごろより県西部諸都市の攻略へ向けた作戦を発起し、劣勢を挽回しようとしたもののこれに失敗。逆に反政府武装勢力による総反攻に直面するに至った。2014年秋ごろに開始された反政府武装勢力の攻勢は、南部地域全域に及ぶ広範なもので、南部の反政府武装勢力が総力を傾けた本攻勢により、政府軍はダラア県の西部およびヨルダン国境地帯における統制を喪失。ダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線も圧迫を受けるに至った。さらに反体制武装勢力は、残る回廊部の遮断とダラア市政府支配地区の攻略に向けた行動を強めたが、回廊部および市街は政府軍の重防御地区であったため消耗戦の様相を呈し始め、回廊遮断を目前にして反体制武装勢力は攻勢限界に達し、冬前に攻勢は収束した。南部における戦線崩壊を回避した政府軍であったが、先の攻勢によって、反体制武装勢力がダラア県西北からダマスカス郊外県西南部一角にかけて突出部を形成し、これによるダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線の圧迫が続いていた。これを放置することはヘルモン山南麓や西ゴータ地域の反体制派支配地域への打通を許すことにもつながりかねず、さらにダマスカス南外縁の主防衛線が危機に陥る可能性も孕んでいた。状況を改善すべく、政府軍による攻勢が翌2015年1月に発起された。本攻勢は、反体制武装勢力の突出部を消滅させて脅威を排除したうえで、さらにヒズボラなどとの協力のもとに南下、一挙にダラア県西部北半における政府軍の主導権奪取を目論む乾坤一擲の作戦であった。だが、政府軍は突出部を消滅させ、クネイトラ方面への交通幹線に対する圧迫を解消するなど一定の成果を得たものの、それ以後は戦果低調であり、ヒズボラの支援を受けながらもダラア県西部への進攻は反政府武装勢力により拒止され、戦局の挽回には至らなかった。2014年後半に南部地域で実施された反体制武装勢力の攻勢は、政府軍を苦境に追い込んだものの、別の結果も生まれた。それは攻勢の規模の大きさゆえに反体制武装勢力自身の戦力をも激しく耗弱・疲弊させたことであった。このことは結果的に南部の反体制武装勢力内におけるアルカーイダ系武装勢力の存在感を高めるなど重大な影響を及ぼした。
先述のように、2014年後半以降、ISILやヌスラ戦線などイスラム過激派の勢力拡大傾向は次第に強まりを見せたが、政府軍は2013年から2014年にかけて自身が実施した大規模作戦や2014年後半の反体制武装勢力による大攻勢への対処などによって戦力を著しく損耗させており、兵力不足が以前にも増して顕在化しつつあった。このような状況下で政府軍は、国内西部の都市とそれらを結ぶ幹線の維持による持久戦の指向を示唆。2015年3月のイドリブ市陥落後、同年5月初旬の演説においてアサド大統領自身が大敗を認めたほか、7月下旬の演説においては、シリア全土に対する支配を放棄しないことが原則であると断ったうえで、すべての地域における同時勝利は不可能であることを認め、戦略上重要であり維持されるべき地域に軍部隊を集中し、一部地域を放棄せざるを得ない場合もあると述べるなど、西部地域重視の傾向はますます強まった。具体的には、戦略物資搬入の拠点であるラタキア・タルトゥース・バーニヤースなどの地中海沿岸諸都市および、国内交通の要衝であるホムスやハマー・スワイダー・サラミーヤをはじめとする政府支持基盤の盤石な都市に加えて、首都ダマスカスならびに北部最重要都市アレッポなど、西部の各主要都市の防衛と各都市間を結ぶ兵站線の保持がもっとも重視されており、政府軍はそのために戦力を傾注している。これらの都市群およびその隣接地区は、沿海部の[[アラウィー派]]をはじめ、キリスト教徒、[[ドゥルーズ派]]、[[イスマーイール派]]など、シリア・バアス党とその衛星政党の支持基盤である少数宗派の集住地であるほか、スンナ派世俗層も多い地域である。また、政府軍の方針に策応した[[ヒズボラ]]は、レバノン・シリア国境に広がる山岳地帯を拠点に両国をまたぐ形で活動し、ホムス・ダマスカス間の交通幹線に対する脅威となっていたISILとヌスラ戦線に対し、大規模作戦を発動して両勢力を減殺、交通幹線に対する脅威を排除した。北部ならびに東部において[[ISIL]]や[[アルカーイダ]]系武装勢力が着実に地歩を固めつつあるのに対して、政府軍はレバノン国境地帯に残存する未奪還地域の統制回復に向けた行動を活発化させ、2015年秋までに所期の目的を達した。また、北部の[[ロジャヴァ|ロジャヴァ・クルド人自治区]]に対してはトルコ軍がPKK([[クルディスタン労働者党]])の過激派が潜んでいるとしてテロリスト制圧目的に軍事進攻するなど、入り乱れた模様となっている。さらに、同年9月30日より[[ロシア軍]]はシリア政府の要請を受けてシリアへの本格的な軍事介入を開始<ref>{{cite news |title=ロシア、シリア空爆開始…「対テロ」で政権支援|newspaper=[[読売新聞]]|date=2015-10-01|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/20150930-OYT1T50151.html|accessdate=2015-10-11}}</ref>。ロシア軍の航空支援やイラン革命防衛隊の地上支援を受けた政府軍は2015年秋以降、アレッポ市郊外やラタキア県北部における攻勢を強化しており、アレッポ市郊外では2013年以来、反体制武装勢力や[[ISIL]]によって包囲を受けてきた航空基地や小都市の解囲作戦に成功し、反体制武装勢力の補給路を一部遮断した。政府軍はさらに、県都イドリブや孤立状態にある政府支配地区が所在し、反体制武装勢力の補給拠点が存在するイドリブ県北部を指向しており、当該地域の東西にあたるアレッポ県およびラタキア県から接近を試みている。政府軍の攻勢に対し、[[ISIL]]はアレッポ市とサラミーヤ市とを結ぶ交通幹線への攻撃を強め一時的にこれを遮断した。
ロシア軍の空爆に対し、米国やフランス、トルコをはじめとした[[NATO]]諸国、サウジアラビアやカタールなどのスンナ派湾岸諸国は、ロシア軍の空爆対象は[[ISIL]]やアルカーイダ系武装勢力などのイスラム過激派のみならず、西側[[有志連合]]が支援する反政府武装勢力も含まれているとして、ロシアを強く非難しているが、一方では親欧米の[[エジプト]]や従来はアサド政権と敵対していた[[イスラエル]]、キリスト教の総本山である[[バチカン市国]]がイスラム過激派をアサド政権以上の脅威とみなし、ロシア軍の空爆を支持又は黙認している。さらに、英仏もISILに対する空爆を本格化させているなど、シリアを舞台に各国が思惑が異なる中で勢力図争いを行っており、泥沼の紛争状態が続いている。冷酷で残忍な[[ISIL]]('''イラクとレバントのイスラム国''')支配拡張と終わりの見えない内戦は大量の[[シリア難民]]を生み、国際問題となっている。2015年7月には全人口2,200万人のうち国外への難民は400万人に達している<ref>{{cite news |title=シリア難民、400万人を突破|newspaper=[[国際連合難民高等弁務官事務所]]|date=2015-07-09|url=http://www.unhcr.or.jp/html/2015/07/pr-150709.html|accessdate=2015-09-05}}</ref>。
さらに、2017年10月のラッカ陥落以降ISの攻勢は終焉を迎えたものの、紛争は複雑な構成となっており、2016年12月のアレッポでの戦いを制したアサド政権がロシア軍、イラン軍、ヒズボラなどの支援により一部地域を除いて国土の大半を掌握、イランとロシア、[[ヒズボラ]]に支えられた[[シリア軍|シリア政府軍]]、英米仏を中心とした[[NATO]]軍と[[サウジアラビア]]やその同盟国([[有志連合]])に支えられる[[アルカーイダ]]を含んだ反政府イスラム過激派、そして、[[イドリブ]]のイスラム過激派の反政府武装勢力を支援してシリア北部の[[アフリーン]]に侵攻しクルド人勢力を叩く[[トルコ軍]]、アサド政権へは中立的な立場を取り、米露双方から支援を受けIS壊滅に大きく貢献し、トルコ軍や反政府軍とも戦う[[クルド人]]勢力、さらに欧米と同盟国として共同歩調を取りつつもアサド政権を支援するイランやヒズボラへ越境攻撃する[[イスラエル軍]]の5つの勢力による[[プロパガンダ]]や偽造工作などの情報戦を含んだ熾烈な争いとなっている。
2018年4月には、7年にわたり反政府イスラム過激派の大規模な拠点であったダマスカス近郊の東[[グータ]]地区を政権軍が掌握<ref>{{cite news |title=シリア反体制派、撤退開始か 首都近郊陥落へ |newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2018-4-02|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28904820S8A400C1FF1000/|accessdate=2018-4-14}}</ref>。これにより、反政府勢力はアサド政権の中枢であるダマスカス官庁街を攻撃する手立てを完全に失い、少なくともアサド政権の存続は確定的となり、7年にわたる戦争の勝利も濃厚となった。東グータ陥落の直前には「シリア政府軍による化学兵器攻撃が行われた」とする東グータで活動する反政府組織([[ホワイト・ヘルメット (シリア内戦)|ホワイト・ヘルメット]])の主張をもとに、英米仏によるアサド政権攻撃が行われるも、NATO軍の介入を呼び込むことで逆転に懸けた反政府勢力の意図に反し、軍事作戦は懲罰の意味合い程度の単発的なミサイル攻撃に留まった。
'''アサド政権打倒'''を目指して始まった'''[[シリア内戦]]'''は、2018年4月の東グータ陥落に伴い'''アサド政権の存続'''で一つの区切りを迎えたが、イドリブを中心とした北西部に撤退して抗戦を続ける反政府勢力、北東部を中心に独自の勢力圏を維持するクルド人勢力、これら地域の奪還を目指すアサド政権、シリア東部に違法に駐留する米軍、各勢力を支援する欧米・ロシア・トルコ・イラン・サウジアラビア、イラン牽制の独自の戦略を持つイスラエルなど、依然としてシリア国内外の勢力がそれぞれの戦略で直接・間接に軍事活動を続けているため、戦闘の主軸はシリア北部へ移動し、戦争の性質は'''アサド政権によるシリア再統一'''を目指した'''反政府勢力の掃討作戦'''へと転換したものの、戦争勃発から9年が過ぎた2020年3月に至るもいまだに紛争解決の目途は立っていない。
しかしながら、2023年には[[アラブ連盟]]への復帰が認められ、アラブ諸国の一員として復活<ref>{{cite news |title=アラブ連盟外相会合でシリアの復帰が決定 |newspaper=[[ジェトロ]]|date=2018-4-02|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2023/05/1c753812c7e1c9b5.html|accessdate=2023-10-31}}</ref>。2023年時点では紛争は完全解決には至らないものの一応は安定を見せており国外に流出した難民も帰還し、2023年の人口は23,022,427人と紛争開始前の水準を超えるまで回復している。
== 政治 ==
[[File:Syrian Parliament in mid-20th century.jpg|thumb|180px|国会議事堂]]
{{main|[[シリアの政治]]}}
シリアは[[共和制]]、[[大統領制]]をとる国家である。[[1963年]]の[[3月8日革命]]([[クーデター]])以降、一貫して[[バアス党]](アラブ社会主義復興党)が[[政権]]を担っている('''バアス党政権''')。現行[[憲法]]の「{{仮リンク|シリア・アラブ共和国憲法|en|Constitution of Syria}}」は[[1973年]]の制定当初、国家を[[社会主義]]・[[人民民主主義]]国家とし、[[バアス党]]を「[[党の指導性|国家を指導する政党]]」と定めていた。しかし、[[2011年]]の[[シリア内戦|シリア騒乱]]勃発を受けて行われた[[2012年]]の憲法改正([[w:Syrian constitutional referendum, 2012|Syrian constitutional referendum]])で、これらを定めた条文はいずれも削除されている。
シリア騒乱勃発後、バアス党政権の[[正統性]]を認めない'''[[反体制派 (シリア 2011-)|反体制派の諸団体]]'''が現行政府の打倒を目指し国内外で活動している。反体制派を支援してきた[[欧米]]・[[中東]]の一部の国々は、反体制派を「穏健な反体制派」と[[イスラム過激派]]とに区分し、「穏健な反体制派」の[[シリア国民連合]]を「シリアの正統な代表組織」として[[政府承認]]している([[シリア#国際関係|後述]])。しかし、シリア政府の関係者は反体制派全体を[[テロリスト]]と認識しており<ref>[https://sputniknews.jp/20170804/3955548.html 何のために米国はシリア北部で軍事基地を建設? 専門家の見解]([[スプートニク (通信社)|スプートニク通信]]2017年08月04日配信記事)</ref>、反体制派をあえて2つに区分するのを無意味なこととみている<ref>[https://sputniknews.jp/20161007/2870621.html シリア大統領、「穏健」反体制派というのは作り話](スプートニク通信2016年10月07日配信記事)</ref>。
=== 元首 ===
[[元首|国家元首]]である[[シリアの大統領|大統領]]は、バアス党の提案を受け人民議会が1名を大統領候補とし、国民投票で承認するという選任方法をとっていた。大統領の任期は7年で、[[ムスリム]]でなければならない。再選の制限は特になかったが、[[2011年]]以来の[[シリア内戦]]の初期に政権側から示された妥協案のひとつである[[憲法改正]]により、2任期の制限が設けられた(ただし、憲法改正以前にさかのぼっての適用ではないため、現職の[[バッシャール・アル=アサド]]は実質3任期目である)。また、バアス党の専権であった大統領候補者提案権も削除され、人民議会議員35名以上の文書による支持が新たな候補者要件となった。
=== 行政 ===
[[首相]]と[[内閣]]に相当する閣僚評議会のメンバーは、大統領が任命する。
=== 立法 ===
[[立法府]]たる[[議会]]は[[一院制]]で、正式名称は「[[人民議会 (シリア)|人民議会]]」。定数は250議席。人民議会議員は国民の[[直接選挙]](15選挙区)で選出され、任期は4年である。定数250議席のうち、127議席は[[労働者]]と[[農民]]の代表でなければならないと規定されている。
大統領は絶対的な必要性がある場合は、人民議会の閉会中でも[[立法権]]も行使することができ、[[シリア軍]]の最高司令官も兼任する。
[[1973年]]に制定された[[シリア・アラブ共和国憲法]]では、第8条において[[バアス党]]が「[[党の指導性|国家を指導する政党]]」と規定され、バアス党による[[ヘゲモニー政党制]]がとられていたが、2011年より始まった[[アラブの春]]による一連の改革要求や反政府活動に応える形で[[2012年]]に憲法の抜本的改正が行われ、前記の規定は削除された。またこれに先立つ[[2011年]]8月に政党法および選挙法が制定・施行され、複数政党制が導入された。ただバアス党は、現在も{{仮リンク|アラブ社会主義連合党|en|Arab Socialist Union (Syria)}}や{{仮リンク|シリア共産党|en|Syrian Communist Party (Unified)}}などの諸政党と協力関係にあり、与党連合「'''{{仮リンク|国民進歩戦線|en|National Progressive Front (Syria)}}'''」(NPF)を結成している(国民進歩戦線議長はバアス党書記長)。バアス党は50年以上にわたる一党独裁により、党組織が巨大化して党員は350万人を数え、衛星政党の党員と合算すると400万人に達する。また非公認政党は[[クルド人]]勢力を中心に多数存在するが、非合法指定を受けた政治組織は[[ムスリム同胞団]]のみである。なお、ムスリム同胞団はバアス党政権と激しく対立しており、同国の法律によって構成員への極刑が定められている。
=== 司法 ===
[[司法]]制度は[[フランス法]]および[[オスマン帝国]]法を基礎としている。[[イスラーム法]]は[[家族法]]の分野で用いられている。大統領を議長とする最高司法評議会が置かれており、裁判所判事の任命にあたる。最高司法機関は最高憲法裁判所である。
{{Clearleft}}
== 軍事 ==
[[File:Mikoyan Mig-23 M2D (468958918).jpg|thumb|[[シリア空軍]]の[[MiG-23 (航空機)|MiG-23]]戦闘機]]
{{main|シリア軍}}
シリアは[[アラブ世界]]では[[エジプト]]に次ぐ[[軍事大国]]として知られる。シリアは[[徴兵制度|徴兵制]]が敷かれており、男子の兵役義務がある。また敵国である[[イスラエル]]の侵攻を防ぐために旧[[東側諸国]]の武器を重装備しており、おもに友好国である[[ロシア]]から武器を調達している。
シリア軍の総兵力は現役約32万人、予備役は50万人である。陸軍の総兵力は約21万5,000人、海軍総兵力約5,000人に加えて予備役約4,000人、空軍総兵力約7万人、防空軍総兵力約4万人である。また、これらの正規軍のほかにイスラエルの侵攻に備えて、ゲリラ戦を行うために複数の民兵が組織されている。
シリアの軍事予算は国家予算の1割を占め、膨大な軍事費のためにシリアの財政を非常に圧迫している。また[[ハマース]]、[[ヒズボラ|ヒズブッラー]]、[[パレスチナ解放人民戦線|PFLP]]などの[[ゲリラ]]組織への資金援助、武器援助などを加えると軍事費はさらに膨大なものとなっている。
また、[[タルトゥース]]港と[[フメイミム空軍基地]]([[ラタキア]])に[[ロシア連邦軍]]が駐留し、同軍の地中海における拠点となっている。
== 国際関係 ==
{{main|{{仮リンク|シリアの国際関係|en|Foreign relations of Syria}}}}
[[File:Diplomatic relations of Syria.svg|300px|thumb|シリア(赤色)と国交を有する国(青色)]]
[[File:Diplomatic missions of Syria.png|thumb|520px|青で塗られている諸国にはシリアの外交使節が派遣されている]]
国家の[[安全保障]]、[[アラブ諸国]]の間での影響力の増大、および[[イスラエル]]からの[[ゴラン高原]]返還を確実にすることが、[[バッシャール・アル=アサド]]大統領の外交政策の主要目的である。対外関係において、アサド政権は[[バアス党]]の伝統として「アラブの大義」「[[パレスチナ]]を含むイスラエルによる全アラブ占領地の解放」を前面に押し出した主張をすることが多い。
シリアは、歴史上の多くの局面において[[トルコ]]、[[イスラエル]]、[[イラク]]、[[レバノン]]などの地理的・文化的隣国との間で激しい緊張関係を経験してきた。また、[[サウジアラビア]]や[[カタール]]を中心とした[[湾岸協力会議|湾岸地域]]の[[スンナ派]]アラブ諸国とは敵対関係にあり、これらの諸国は一貫して[[イスラム過激派]]を含むシリアの反政府勢力への支援を行ってきた。[[21世紀]]に入り、アサド政権は[[中東]]地域で対立関係にあった複数の国家との関係改善に成功した。しかし、イスラエル及び同盟国の米国とは溝が深く、2004年から米国に経済制裁を受けている<ref name=":0" />。
2011年に「[[アラブの春]]」がシリアにも波及すると、反政府派を米国が支援し、[[シリア内戦]]に突入。その影響から多数の国との[[外交関係]]が断絶、あるいは疎遠化しており、[[国際社会]]における交流の幅が狭まっている(詳細は{{仮リンク|シリア内戦に対する国際的な対応|en|International reactions to the Syrian civil war}}を参照のこと)。
=== シリア内戦が国際関係に与えた影響 ===
シリア・バアス党政権は、[[2011年]]の[[シリア内戦]]勃発を理由に[[アラブ連盟]](2011年)、および[[イスラム協力機構]]([[2012年]])への加盟資格を停止させられている。また、[[トルコ]]、[[カナダ]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[ドイツ]]、[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[ベルギー]]、[[スペイン]]、および[[湾岸協力会議]]加盟諸国は[[反体制派 (シリア 2011-)|反体制派団体]]のひとつである[[シリア国民連合]]を「シリアの正統な代表組織」として[[政府承認]]しており、バアス党政権との外交関係が断絶している<ref>Zvi Barel. (8 February 2012). [http://www.haaretz.com/news/middle-east/assad-takes-a-page-out-of-russia-s-book-in-his-war-against-rebels-1.411789 Assad takes a page out of Russia's book in his war against rebels] ''Haaretz''. Retrieved 9 February 2014.</ref>(シリア国民連合を政府承認している国の一覧については[[シリア国民連合#国際的な承認|該当ページ]]を参照のこと)。
一方、バアス党政権は伝統的な[[同盟国]]である[[イラン]]、[[ロシア]]と良好な関係を維持し続けており、シリア騒乱に対する[[軍事]]的援助を両国から受けている。また、内戦勃発後も友好的な関係を維持している国々として、[[中華人民共和国|中国]]、[[北朝鮮]]、[[アンゴラ]]、[[キューバ]]<ref>{{cite web|url=http://syriatimes.sy/index.php/news/local/25731-anniversary-of-establishing-syrian-cuban-diplomatic-relations-celebrated |title=Anniversary of Establishing Syrian-Cuban Diplomatic Relations Celebrated |work=Syria Times |date=15 August 2016 |accessdate=1 February 2017}}</ref><ref>{{cite web|url=http://syriatimes.sy/index.php/news/local/27895-presidential-affairs-minister-offers-condolences-to-cuban-president-over-passing-of-fidel-castro |title=Presidential Affairs Minister Offers Condolences to Cuban President over Passing of Fidel Castro |work=Syria Times |date=30 November 2016 |accessdate=1 February 2017}}</ref>、[[ベネズエラ]]<ref>{{cite web|url=http://syriatimes.sy/index.php/presidential-activities/28908-presidents-assad-and-maduro-phone-calls |title=Presidents Assad and Maduro Phone Call |work=Syria Times |date=30 January 2017 |accessdate=1 February 2017}}</ref>、[[ニカラグア]]<ref>[https://syria360.wordpress.com/2012/11/25/letter-from-president-bashar-assad-to-nicaraguan-president-daniel-ortega/ Letter from President Bashar Assad to Nicaraguan President Daniel Ortega] ''SYRIA 360°''. 25 November 2012. Retrieved 1 February 2017.</ref>、[[ブラジル]]<ref>{{cite web|url=http://www.syriaonline.sy/index.php?f=Details&catid=12&pageid=5490&g=1 |title=Brazil.. Dialogue is Only Way out of the Crisis in Syria |work=Syrian TV |date=6 April 2013 |accessdate=1 July 2015}}</ref>、[[ガイアナ]]<ref>{{cite web|url=http://sana.sy/eng/21/2014/06/21/551372.htm|title=الوكالة العربية السورية للأنباء - Syrian Arab News Agency|publisher=Sana.sy|accessdate=21 February 2015|deadurl=yes|archiveurl=https://archive.is/20140621123014/http://sana.sy/eng/21/2014/06/21/551372.htm|archivedate=21 June 2014|df=dmy-all}}</ref>、[[インド]]<ref>{{cite web|url=http://syriatimes.sy/index.php/news/local/9578-india-forming-international-will-to-combat-terrorism-imperative |title=India forming international will to combat terrorism imperative |work=Syria Times |date=22 November 2013 |accessdate=9 February 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.syriaonline.sy/?f=Details&catid=12&pageid=7947|title=Syrian TV - India stresses need for international will against terrorism|work=Syrian TV -India stresses need for international will against terrorism|accessdate=21 February 2015}}</ref><ref>{{cite web|url=http://syriatimes.sy/index.php/news/world/21658-ahead-with-efforts-to-combat-terrorism-and-for-a-political-solution-to-crisis |title=Ahead with Efforts to Combat Terrorism and for a Political Solution to Crisis |work=Syria Times |date=12 January 2016 |accessdate=12 January 2016}}</ref>、[[南アフリカ]]<ref>{{cite web|author= |url=http://www.sana.sy/en/?p=46265 |title=Al-Moallem briefs the visiting South African delegation on escalating terror threats and countries’ involvement | Syrian Arab News Agency |publisher=Sana.sy |date=25 June 2015 |accessdate=9 October 2015}}</ref><ref>{{cite web|author= |url=http://www.sana.sy/en/?p=46454 |title=President al-Assad warns of the "international problem" of terrorism, refers to BRICS role to unify anti-terror efforts | Syrian Arab News Agency |publisher=Sana.sy |date=27 June 2015 |accessdate=9 October 2015}}</ref>、[[タンザニア]]<ref>{{cite web|url=http://www.syriaonline.sy/index.php?f=Details&catid=12&pageid=5657&g=1 |title=Tanzania Supports Syria in Fighting Terrorism |work=Syrian TV |date=29 April 2013 |accessdate=17 October 2015}}</ref>、[[パキスタン]]<ref>{{cite web|url=http://www.syriaonline.sy/index.php?f=Details&catid=12&pageid=5662&g=1 |title=President al-Assad Sends Letter to President of Pakistan Delivered by Mikdad |work=Syrian TV |date=29 April 2013 |accessdate=17 October 2015}}</ref>、[[アルメニア]],<ref>{{cite web|author= |url=http://www.sana.sy/en/?p=37344 |title=Armenian President: Syria will defeat terrorism | Syrian Arab News Agency |publisher=Sana.sy |date=23 April 2015 |accessdate=9 October 2015}}</ref>、[[アルゼンチン]]、[[ベラルーシ]]、[[タジキスタン]]<ref name="irna.ir">{{cite web|url=http://www.irna.ir/en/News/81185461/Politic/Representatives_of_seven_countries_to_supervise_Syria_elections|title=Representatives of seven countries to supervise Syria elections|publisher=Irna.ir|accessdate=21 February 2015}}</ref>、[[インドネシア]]<ref>{{cite web|url=http://syriatimes.sy/index.php/news/local/31892-syria-indonesia-discuss-mechanisms-to-develop-parliamentary-relations |title=Syria, Indonesia discuss mechanisms to develop parliamentary relations |work=Syria Times |date=27 July 2017 |accessdate=27 July 2017}}</ref>、[[フィリピン]]<ref name="irna.ir"/>[[ウガンダ]]<ref name="irna.ir"/>、[[ジンバブエ]]<ref name="irna.ir"/>、[[キプロス]]、[[ギリシャ]]およびその他諸国<ref>{{cite web|url=http://lainfo.es/en/2014/06/02/true-friends-of-syria-condemn-terrorism-in-the-arab-nation/|title="True Friends of Syria" condemn terrorism in the Arab nation - laInfo.es|publisher=Lainfo.es|accessdate=21 February 2015}}</ref>があり、アラブ連盟加盟国である[[イラク]]、[[エジプト]]([[2013年エジプトクーデター|2013年のクーデター]]以降)、[[アルジェリア]]<ref>{{cite web|url=http://syriatimes.sy/index.php/news/local/22999-syria-algeria-stress-unified-stance-on-need-to-combat-terrorism |title=Syria, Algeria Stress Unified Stance on Need to Combat Terrorism |work=Syria Times |date=29 March 2016 |accessdate=29 March 2016}}</ref>、[[クウェート]]<ref>{{cite web|url=http://www.presstv.ir/Detail/2015/01/06/391924/Syria-embassy-in-Kuwait-resumes-services|title=PressTV-Syria embassy in Kuwait resumes services|publisher=Presstv.ir|accessdate=21 February 2015}}</ref>、[[スーダン]]<ref>{{cite web|url=http://www.sudantribune.com/spip.php?article54950|title=Syria approves credentials of new Sudanese ambassador|publisher= SUDAN TRIBUNE|accessdate=18 September 2017}}</ref>、[[レバノン]]、[[オマーン]]<ref>{{cite web|url=http://syriatimes.sy/index.php/news/local/15385-omani-embassy-in-damascus-celebrates-national-day |title=Omani Embassy in Damascus Celebrates National-Day |work=Syria Times |date=20 November 2014 |accessdate=21 November 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.sana.sy/en/?p=50680 |title=Syrian and Omani FMs agree it’s time for concerted efforts to end crisis in Syria |work=SANA |date=6 August 2015 |accessdate=8 August 2015}}</ref><ref>{{cite web|url=http://syriatimes.sy/index.php/presidential-activities/20321-elimination-of-terrorism-contributes-to-success-of-a-political-track |title=Elimination of terrorism contributes to success of a political track |work=Syria Times |date=26 October 2015 |accessdate=26 October 2015}}</ref>、[[アラブ首長国連邦]]([[2021年]]以降)、[[パレスチナ自治政府]]、[[イエメン]]とも友好関係を維持している。
そのほか、バアス党政権と反体制派のいずれも積極的に支援せず、[[日本]]のように[[在シリア日本国大使館|在シリア大使館]]を一時的に閉鎖<ref>[https://www.sy.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在シリア日本国大使館]([[外務省]])</ref>して両国関係を疎遠にさせている国もある(各国のシリアにおける[[在外公館]]の設置・閉鎖状況については、{{仮リンク|駐シリア外国公館の一覧|en|List of diplomatic missions in Syria}}を参照のこと)。
=== イスラエルとの関係 ===
{{main|{{仮リンク|イスラエルとシリアの関係|en|Israel–Syria relations}}}}
シリアと[[イスラエル]]は1948年5月14日のイスラエル建国とその直後に起きた[[第一次中東戦争]]以来、[[ゴラン高原]]の領有権、[[ハマース]]や[[ヒズボラ|ヒズボッラー]]などの反イスラエル武装組織への支援、イスラエルが敵国とみなすイランへの協力、シリア自体の核兵器開発疑惑などの理由から、2023年現在に至るまで敵対的な関係が続いている。
両国の最大の対立要因は1967年の[[第三次中東戦争]]においてイスラエルがシリアから奪取した[[ゴラン高原]]の帰属問題で、1967年以来イスラエルはゴラン高原を実効支配し、その[[主権]]を主張しているが、シリアはゴラン高原をシリア固有の領土であると主張し、同領土の返還を要求し続けている。イスラエルを除く当事国、および国連のどちらもイスラエルの主張を認めていない。国連安全保障理事会が決議497「イスラエルの(ゴラン高原)併合は国際法に対して無効である」旨を採択し、同地がイスラエルによって不当に併合されたシリア領であるという見解が固定化した。しかし、イスラエル政府は「併合」であると認めていない。シリアとイスラエルは現在もゴラン高原の領有権を争っているが、第四次中東戦争停戦後の1974年以来、武力行使を行っていない。
シリアは[[イスラエル]]を牽制するため、[[1976年]]以降[[レバノン]]に軍を進め以後駐留を続けたが、レバノン国内からの反対([[杉の革命]])と国際的圧力により、[[2005年]]3月に軍と情報機関の完全撤退を表明した。軍は4月12日までに完全撤退した。情報機関の撤退については不明である。レバノンの反シリア派は、同国で頻発する政治テロの犯人はシリアであると非難している。
また、シリアは欧米諸国やイスラエルが「テロ組織」と呼ぶ組織[[ヒズボラ|ヒズボッラー]]を支援しており、アメリカからは「[[テロ支援国家]]」に指定されている。首都ダマスカスにパレスチナ・ゲリラの拠点があり、武器援助や軍事訓練拠点を提供しているとされた。なお、パレスチナガザ地区を支配する[[ムスリム同胞団]]を母体とする[[ハマース]]は[[ジハード主義]]組織である[[アルカイダ]]や[[ISIS]]等と共にアサド政権打倒側に参戦しておりシリア内戦以降はアサド政権と対立関係にある。そのため、ムスリム同胞団の出資国である[[カタール]]はシリアのアラブ連盟への復帰を認めていない唯一の国となっておりハマースとシリアは依然として対立関係にある。同じくムスリム同胞団出身のアラブの春で誕生したエジプトの[[ムハンマド・ムルシー]]政権もアラブの春で追放された[[ホスニー・ムバーラク|ムバラク大統領]]と異なり、アサド政権と激しく対立していたが、[[2013年エジプトクーデター|2013年のクーデター]]で失脚して誕生した[[アブドルファッターフ・アッ=シーシー|シーシー政権]]以来は関係が改善している。
2007年9月には[[イスラエル軍]]がシリアの核施設とみられる建造物を越境爆撃した。限定的な空爆はそれ以前から散発的に実施されており、以後もシリア内戦勃発以降も含め複数回実施されたが、2018年2月にはシリア軍がイスラエル軍機を撃墜している。
2011年3月以降の[[シリア内戦]]では、イスラエルはシリア軍の化学兵器関連の疑いのある施設やアサド政権支援のためにシリア国内で活動するヒズボラや[[イスラム革命防衛隊]]に対することを名目に、何百回も空爆を行っている(国際法上の正当性はないとされる<ref>{{Cite web|和書|title=イスラエルがまたもやシリアを爆撃:ウクライナ侵攻の論理によって正当化される国際法違反(青山弘之) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2c7238d0134f313a0367376d14b9f6032b5ea2d2 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-11-03}}</ref>)。ただし、実際には限定的ではなく無差別的で、民間人の死傷者も出ている<ref>{{Cite web|和書|title=シリア、イスラエルの空爆で民間人2人が負傷 |url=https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_71043/ |website=Arab News |access-date=2022-11-03}}</ref><ref>{{Cite news|title=イスラエルがシリア首都空爆、2人死亡=国営メディア|url=https://jp.reuters.com/article/syria-security-israel-idJPKBN2L40BV|work=Reuters|date=2022-03-07|access-date=2022-11-03}}</ref>。
一方、アサド政権崩壊後の混乱を警戒してか、同政権の崩壊を企図した[[反体制派 (シリア 2011-)|反体制武装勢力]]への支援についてはきわめて慎重な姿勢をとっており、2018年7月のアサド政権軍によるゴラン高原隣接地域を含むシリア南西部の平定について「シリアの状況は内戦前に戻りつつある」として、内戦でのアサド政権の勝利がイスラエルにとっても好ましいとの見方を示した。
=== イラクとの関係 ===
{{main|{{仮リンク|イラクとシリアの関係|en|Iraq–Syria relations}}}}
隣国イラクをめぐっては、シリア・バアス党とイラク・バアス党の政治対立によって、[[イラン・イラク戦争]]ではイラン支持に回り、湾岸戦争ではシリア軍が多国籍軍の一員としてイラクに侵攻するなど、対立の時代が長く続いた。しかし、イラク戦争後[[アメリカ軍]]により[[指名手配]]された旧イラク・バアス党幹部やイラク国内の混乱から逃れた人々が数多くシリアへ亡命し、受け入れた数は推定120万人に上るとされた。シリア政府が政治亡命したイラク・バアス党員の引き渡しを拒否したことや、イラクで米軍と戦う[[アル=カーイダ]]などの[[テロリスト]]がシリアを経由してイラク国内に流入したことは、米国政府からの強い非難を引き起こした。イラク治安筋によると[[ダマスカス]]と[[ラタキア]]には、外国人テロリストのイラクへの密入国を仲介する者たちがおり、そのほとんどがイラク・シリア国境付近における密貿易で生計を立てていた者であったという。
[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|米陸軍士官学校]][[ウェストポイント]]はイラク北部のシンジャールで見つかったアル=カーイダの文書を元に報告書を作成した。それによると、現在までにシリアからイラクに入ったテロリストは590人で、約100人のシリア人仲介者がテロリストの密入国を手助けしているという。動機は金銭目的、[[イスラーム原理主義]]を支持しているなどの理由であるという。テロリストの出身国は遠くはモロッコ、リビア、アルジェリア、イエメン、近くはサウジアラビアで、彼らは密入国の手数料として2,500ドルを支払い、国境付近に到着すると[[偽造パスポート]]を受け取り、地元民の協力とガイドでイラクへと越境している。また、外国人テロリストのほとんどが[[アラブ諸国]]出身者であり、[[アラブ民族主義]]、あるいは侵略された同胞ムスリムを助ける[[ジハード]]の遂行のためにイラクへ入国したイスラム過激思想信奉者であるとされる。特に、[[デリゾール]]県などのイラク国境地域の住民はイラク北西部に住むスンナ派部族とは親戚関係にあり、[[ジャズィーラ]]方言の[[アラビア語]](メソポタミア方言のうち、イラク北西部やシリア東部で話されるもの)を喋るなどイラクとの関係は深く、「外国人の占領下に置かれている同胞」への同情からテロリストを支援しているとされている。
[[ファイル:Árabe mesopotámico.png|280px|right|thumb|メソポタミア方言の分布]]
イラクでの戦闘に参加するために、同国へ潜入したイスラム過激思想信奉者のうち著名な人物は、シリア東部[[デリゾール県]]出身の[[:en:Abu Mohammad al-Jawlani|アブー・ムハンマド・アル=ジャウラーニー]]である(ジャウラーニー氏についてはダラア県出身との説もある<ref>http://syriaarabspring.info/?p=30190</ref>)。当該人物は、シリア内戦における反政府武装勢力の主力たる[[アル=ヌスラ戦線]]の指導者となっている<ref>http://syriaarabspring.info/?p=11184</ref>。ヌスラ戦線の要員には、米軍占領期のイラクにおいて[[アル=ヌスラ戦線#結成|反米・反シーア派闘争に参加した]]者たちが多く含まれる。
シリア政府は、[[2003年]]の[[イラク戦争|対イラク開戦時]]には越境する「アラブ人義勇兵」を放置していたが、同年4月以降までに密輸業者を取り締まるなどの対策を講じた。しかし、部族民や地元政府、治安当局者まで業者に賄賂で買収されてしまっており、効果があがっていないとされる。もっとも外国人テロリストの越境数が多かったのは、2004年の[[ファルージャの戦闘|ファッルージャの戦闘]]時で、大半がサウジ人であったという<ref>http://www.guardian.co.uk/uslatest/story/0,,-7946319,00.html</ref>。イラク戦争後、シリア国内で統制が強化されたのは、これらの義勇兵にイスラーム過激派が含まれており、シリア・バアス党の政治思想と厳しく対立していたためでもあり、シリア国内の治安への悪影響を減ずるという意図もあった。しかし、シリアは旧イラク・バアス党政権の残党には庇護を加え、米軍をはじめとする占領軍やイラク暫定政権に対する破壊活動を支援したとされる。
またイラクでは、元大統領サッダーム・フセインの出身部族がスンナ派であることに加え、サッダーム旧政権時代の与党であったイラク・バアス党の中核支持層もスンナ派に属し、これがイラク国内で多数派の[[十二イマーム派]]を押さえる形になっていた。しかし、シリアでは対照的に、アサド大統領の出身部族はイスラームの少数宗派である[[アラウィー派]]に属し、シリア・バアス党の中核支持層はアラウィー派のほか、[[キリスト教徒]]・[[ドゥルーズ派]]・[[イスマーイール派]]などの少数宗派であり、これらが多数派である[[スンナ派]]を抑える形になっている(ただし、スンナ派であっても世俗主義勢力の一部はバアス党と協力関係にある)。
このため、シリア内戦が勃発したあと、イラク国内で反米・反シーア派闘争を継続していた[[:en:Supreme Command for Jihad and Liberation|聖戦と解放の最高司令部]]および[[:en:Army of the Men of the Naqshbandi Order|ナクシュバンディー軍]]を率いる旧イラク・バアス党序列第2位の[[イッザト・イブラーヒーム]](サッダーム・フセインの死刑執行後、イラク・バアス党の地域指導部書記長に就任)は、アサド大統領の打倒を目指してシリア国内で活動するスンナ派の反体制勢力との連帯を表明した。また、イラク西部のスンナ派多数派地域における自由シリア軍支持者によって[[:en:Free Iraqi Army|自由イラク軍]]というスンナ派武装集団も結成されている。これらの組織は過激派組織[[ISIL]]とも協調しており、イラク政府軍と戦闘状態にある。逆に、イラク・バアス党政権の崩壊後、十二イマーム派が主体となったイラク政府は、[[ISIL]]や同組織と同盟関係あるスンナ派武装集団の戦闘においてシリア政府と協力関係にある。
シリアは旧イラク・バアス党政権の残党に庇護を与えていたが、一様な支援ではなく、イラク・バアス党側においても[[イッザト・イブラーヒーム]]はイランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。また、イラク・バアス党は[[サッダーム・フセイン]]の死によって路線対立に歯止めが利かなくなり、一部の党幹部が非主流派グループを形成し、イブラーヒームの下を離脱。シリア東部の[[ハサカ]]にて会議を行い元党軍事局員の[[:en:Mohammed Younis al-Ahmed|ムハンマド・ユーニス・アル=アフマド]]を新指導者に選出した。この後、ユーニスはイブラーヒームを党より追放すると宣言、これに対抗してイブラーヒームがユーニスとそれに連なる党員の追放を行い、イラク・バアス党は主流のイブラーヒーム派と傍流のユーニス派に分裂した。ユーニス派による内訌と党分裂の事態に際して、イブラーヒームは声明を発し、イラク・バアス党に対するアメリカの陰謀を支援しているとして、シリア政府を非難している<ref>http://www.jamestown.org/fileadmin/JamestownContent/TM_007_3.pdf</ref>。イブラーヒームはシリア政府との協働に懐疑的姿勢を崩さず敵視しており、シリア内戦勃発後には最終的にシリア政府と決別した。しかし対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。
現イラク政府の暴力的転覆によるイラク・バアス党の政権奪取を重視している聖戦と解放の最高司令部やナクシュバンディー軍を始めとするイブラーヒーム派に対し、[[:en:The Return (guerrilla organization)|アル・アウダ]]のようなユーニス派は恩赦や国外へ逃れたバアス党員の本国帰還によるイラク・バアス党の政治的再建を重視している(アル・アウダの結成は[[2003年]]であり、当初は積極的武力闘争路線であったがのちに方針を転換した)。また、イブラーヒーム派は闘争の過程で[[スーフィズム]]の紐帯を利用したほか、ジハード主義者と共闘するなど宗派主義的傾向を強めた(ただし、これは軍事的手段のひとつとして用いた便宜的なものであり、政治的には世俗主義を維持していた)が、ユーニス派は前者に比してさらに世俗主義的傾向が色濃く[[汎アラブ主義]]への回帰はより強固であった。これによって、ユーニス派は十二イマーム派が多数を占めるイラク南部における支持獲得に成功し、上位の指導層はスンナ派が占めているとはいえ、組織の中間層にはシーア派が多く存在するなど、旧来の支持基盤であるスンナ派多数地域での構成員獲得を目指すイブラーヒーム派とは対照的である。シリア政府はユーニス派を通じてイラクへの影響力拡大を図っていたのだった。また、恩赦を呼びかけるユーニスらに対して[[ヌーリー・マーリキー]]は拒否する姿勢を崩さなかったが、マーリキーの退陣後、イラク首相に就任した[[ハイダル・アル=アバーディ]]は、穏健派であるユーニスとの和解に対して妥協的である。
また、当初は[[十二イマーム派]]が主導する現イラク政府との戦いにおいて[[ISIL]]と共闘していたイブラーヒーム派だったが、支持基盤の一部はスーフィー信者であり、ISILの急速な勢力拡大に対して警戒感を強め、同盟関係は2014年末には決裂したとされる。しかし、イッザト・イブラーヒームの率いる武装組織は、イラク政府との闘争も依然継続し、翌2015年4月中旬、領袖のイッザト・イブラーヒームがイラク政府軍およびシーア派武装組織との戦闘で死亡した。イブラーヒーム派が[[ISIL]]との協力を停止し(スーフィーに属さない党関係者にはISILとの協働を継続している者やISILの構成員となっている者もおり、これらの元党関係者はISILとの同盟関係が決裂した際、反対にイブラーヒーム派の攻撃に加担した)、イブラーヒーム本人が戦死するなか、イラク政府は[[ISIL]]との戦いを続けるうえで、イラク・バアス党との政治的和解を模索しているとされる。しかし、当事者であるイラク・バアス党は両派に分裂したまま派閥対立がまったく収束していない。イブラーヒーム派はムハンマド・ユーニス・アル=アフマドをイラク政府との交渉から排除することを望み、ユーニス派はイラク国内の破壊および占領に関するイブラーヒーム派の責任を非難し、イブラーヒーム派の政治的復権を拒否している<ref>http://www.al-monitor.com/pulse/politics/2015/11/baath-party-iraq-amendments-shiites.html</ref>。
=== イラン・イスラーム共和国との関係 ===
{{main|{{仮リンク|イランとシリアの関係|en|Iran–Syria relations}}}}
イラク・バアス党政権との対立関係や、シリアは他のアラブ諸国と異なり非[[スンナ派]]政権であることから、[[イラン・イラク戦争]]では[[シーア派]]が国民の大多数を占める[[イラン]]を支持した背景があり、イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、[[反米]]・反イスラエル、欧米西側諸国との対立等で利害が一致する点が多い。[[シリア内戦]]ではイランは一貫してアサド政権を支持しており、資金や物資に留まらず[[革命防衛隊]]を援軍として送るなど直接・間接にアサド政権を支援しているため、内戦勃発以降は政治面のほか、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。
近年では、イランのほか、[[ベネズエラ]]、[[スーダン]]、[[キューバ]]などの反米路線の国との関係を強化している。
=== トルコ共和国との関係 ===
{{Main|{{仮リンク|シリアとトルコの関係|en|Syria–Turkey relations}}}}
シリアは隣国トルコ共和国の[[ハタイ県]]を固有の領土であると主張している。2000年のバッシャール・アル=アサドの大統領就任後は両国の関係はクルド人を封じ込む利害が一致していることで改善していたが、2011年に[[シリア内戦]]が勃発すると、[[ムスリム同胞団]]と関連の深い[[エルドアン]]政権はアサド政権打倒目的で[[自由シリア軍]]をはじめ[[反体制派 (シリア 2011-)|反体制武装勢力]]を積極的に支援するなど対立関係にある。トルコの反体制派支援に対しアサド政権はシリア北部のクルド人勢力([[クルド人民防衛隊]]、YPG)と協調し、同国北東部の自治を事実上黙認する方針をとったため、国内にクルド人問題を抱えるトルコは2016年と2018年にシリアのクルド人地域([[ロジャヴァ]])に対する[[トルコ軍によるシリア侵攻 (シリア内戦)|越境攻撃]]を実施した。特に2018年の越境攻撃時にはアサド政権が反体制派への勝利をほぼ確定的にし、余裕が出た戦力をYPGへの援軍として送ったためトルコ軍との直接戦闘に至り、両国の対立は激化の一途をたどった。しかしながら、アサド政権の勝利が確定した中で、クルド人地域への統治という共通の目的をにらみ利害が一致しはじめ、エルドアン政権とアサド政権との関係和解の方向に向かっている<ref>{{cite news |title=シリアへ接近、動いたエルドアン氏 仲介はロシア 中東で交錯の思惑 |newspaper=[[朝日新聞]]|date=2018-4-02|url=https://www.asahi.com/articles/ASR1B664GR19UHBI01T.html|accessdate=2023-10-31}}</ref>。
=== ソビエト連邦及びロシアとの関係 ===
{{main|{{仮リンク|ロシア連邦とシリアの関係|en|Russia–Syria relations}}}}
[[ファイル:Dmitry Medvedev in Syria 10 May 2010-5.jpeg|thumb|260px|[[ロシア]]の[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]]大統領(当時)と会談する[[バッシャール・アル=アサド|アサド]]大統領([[2010年]])]]
独立後のシリアは、1957年に[[ソビエト連邦|ソ連]]との間に経済技術援助協定が締結されたことに始まり、1958年には同じく親ソ路線を掲げていた[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル]]政権下の[[エジプト]]と合併した[[アラブ連合共和国]]期、1961年にエジプトとの連合を解消しシリア・アラブ共和国として再独立した後の、1963年[[3月8日革命]]以来今日まで続くバアス党政権期を通して、一貫して親ソ・[[親露]]路線を外交の基盤としている。
[[ハーフィズ・アル=アサド]]政権時代の[[1980年]]には、外交や兵器の輸入・その他技術の導入などの親ソ路線から更に進み、[[ソビエト・シリア友好協力条約]]が締結され、軍事的に同盟関係となっている。
この同盟関係はソ連崩壊後もロシア連邦が引き継ぎ、ロシアは新鋭の防空兵器や[[弾道ミサイル]]など、さまざまな武器・兵器を販売するなどシリアにとって最大の武器援助国となっている。また[[独立国家共同体]](CIS)諸国以外で唯一の[[ロシア]]の軍事施設がある<ref>安蒜泰助『今のロシアがわかる本』三笠書房 知的生きかた文庫、2008年4月10日発行(147ページ) ISBN 978-4-8379-7668-4</ref>([[タルトゥース海軍補給処]]、[[ラタキア]]近郊の[[フメイミム空軍基地]]など)。
シリア危機に際し、2013年9月9日に[[プーチン]]政権は米国によるシリア侵攻を回避すべく[[ロシア]]の[[セルゲイ・ラブロフ]]外相を通してシリアの化学兵器を国際管理下に置き、シリアの[[化学兵器禁止条約]]批准を提案した<ref>{{cite news |title=シリアに化学兵器禁止条約参加を要請 ロシアのラブロフ外相 |newspaper=[[ハフィントン・ポスト]] |date=2013-09-10|url=http://www.huffingtonpost.jp/2013/09/09/russia_syria_n_3896103.html|accessdate=2013-11-03}}</ref>。そして、9月12日にシリアのアサド大統領はさらに批准後の1か月後に化学兵器情報を提供することにも同意した<ref>{{cite news |title=シリア、化学兵器引渡しは軍事介入撤回後に─アサド大統領=通信|newspaper=[[トムソン・ロイター|Reuters]] |date=2013-09-12|url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTJE98B01P20130912|accessdate=2013-11-03}}</ref>。2015年9月30日には[[ロシア連邦軍]]がアサド政権を支援する軍事介入を開始([[ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆]])。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾き、[[アレッポ]]や[[デリゾール]]といった主要都市を巡る攻防を政府軍が制し、内戦の帰趨を決する決定的な影響を与えた。
=== 朝鮮民主主義人民共和国との関係 ===
{{main|{{仮リンク|北朝鮮とシリアの関係|en|North Korea–Syria relations}}}}
[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)とはハーフィズ・アサド政権時代からの伝統的友好国であり、軍事交流や弾道ミサイルなどの北朝鮮製兵器の買い手でもある。共同の核開発計画も行っているとされ、[[2007年]]には[[イスラエル空軍]]が核開発施設と見られる建物を爆撃した。
シリアは北朝鮮との友好関係を考慮し、[[大韓民国]]と国交を有していない。
=== 中華人民共和国との関係 ===
{{main|{{仮リンク|中華人民共和国とシリアの関係|en|China–Syria relations}}}}
[[中華人民共和国]](中国)とはハーフィズの時代からの伝統的友好国であり、軍事交流<ref>{{cite news |title=China 'to provide aid, enhance military training' in Syria – top|author=|newspaper=[[ロシア・トゥデイ]]|date=2016-08-16|url=https://www.rt.com/news/356161-china-syria-military-training/|accessdate=2017-12-23}}</ref><ref>{{cite news |title=China's Syria Agenda|author=|newspaper=The Diplomat|date=2016-09-22|url=https://thediplomat.com/2016/09/chinas-syria-agenda/|accessdate=2017-12-23}}</ref>や弾道ミサイル<ref>{{cite news |title=HOW CHINA SOLD SYRIA NUKE-CAPABLE MISSILES|author=|newspaper=WND|date=1998-10-19|url=https://www.wnd.com/1998/10/3372/|accessdate=2018-10-16}}</ref>などの中国製兵器の買い手でもある。1990年代にシリアに小型の原子炉を売却した際はイスラエルやアメリカから懸念された<ref>{{cite news |title=SRR-1|author=|newspaper=NTI|date=2012-08-15|url=https://www.nti.org/learn/facilities/464/|accessdate=2018-10-17}}</ref>。経済的にはシリア最大の貿易相手国ともされ<ref>{{cite news |title=China Accounts for 80% of Syria's Foreign Trade - Syrian Ambassador to China|author=|newspaper=Sputnik|date=2017-02-14|url=https://sputniknews.com/world/201702141050653949-china-syria-foreign-trade/|accessdate=2017-04-14}}</ref>、2つのシリア最大の産油企業の大株主であり<ref>{{cite news |title=Belt and Road: Middle East takes the slow road to China|author=|newspaper=[[AFPBB]]|date=2017-09-26|url=https://www.euromoney.com/article/b14r59l2nbv4g6/belt-and-road-middle-east-takes-the-slow-road-to-china|accessdate=2018-08-28}}</ref>、2011年から国連のシリア非難決議でもロシアとともに[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を行使することも多い<ref>{{cite news |title=ロシア、国連安保理のシリア非難決議案に拒否権 各国は反発|author=|newspaper=[[BBC]]|date=2017-04-13|url=https://www.bbc.com/japanese/39586021|accessdate=2018-08-28}}</ref>。
アサド大統領も2004年6月に訪中して中国の[[胡錦濤]][[中華人民共和国主席|国家主席]]と会談を行うなど、中国との関係を重視している<ref>{{cite news|url=http://www.chinadaily.com.cn/english/doc/2004-06/22/content_341612.htm|publisher=[[チャイナデイリー]]|author=|title=Syria President Al-Assad visits China|date=2004-06-22|accessdate=2018-08-31}}</ref>。シリアは中露主導の[[上海協力機構]]への加盟も申請している<ref>{{cite news|url=http://tass.ru/en/world/799107|publisher=[[タス通信]]|author=|title=TASS: World - Syria, Egypt may join Shanghai Cooperation Organization as observers — diplomat|date=June 5, 2015|accessdate=2017-12-23}}</ref>。
=== アメリカ合衆国との関係 ===
{{main|{{仮リンク|シリアとアメリカ合衆国の関係|en|Syria–United States relations}}}}
[[アメリカ合衆国]]はシリアが[[1990年]]の[[湾岸戦争]]で[[多国籍軍]]に参加し、[[1991年]]にアメリカ合衆国政府が主催した中東和平[[中東和平会議|マドリード会議]]以後、アメリカ合衆国政府が提案する中東和平プロセスを支持し、アメリカ合衆国政府が主導した国連安保理決議に基づいて2005年にレバノンから軍を撤退させたが、アメリカ合衆国政府はシリアがレバノンに軍を進駐させた[[1976年]]当時からシリアを「[[テロ支援国家]]」と認定し、2004年以後は[[経済制裁]]を実施、2005年以後は在シリア大使を帰国させている<ref>{{Cite web|和書|last=外務省|title=各国・地域情勢>シリア|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/syria/index.html |accessdate=2008-08-26 }}</ref>。
[[アラブの春]]では反体制派を支援し、[[シリア内戦]]になると、[[2013年]][[9月5日]]に[[アメリカ合衆国上院外交委員会]]はシリアの[[化学兵器]]使用を理由に軍事行動を承認したが、議会承認なきまま[[アメリカ軍]]はシリア侵攻の攻撃態勢に入っていた<ref>{{cite news |title=【シリア情勢】介入、地上軍投入せず最大90日 米上院委が条件付承認決議案採択 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-09-05|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130905/amr13090509100000-n1.htm|accessdate=2013-11-03}}</ref><ref>{{cite news |title=米大統領がシリア軍事行動に向けた姿勢崩さず、G20内の溝浮き彫り |newspaper=[[トムソン・ロイター|ロイター]] |date=2013-09-06|url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTJE98501J20130906|accessdate=2013-11-03}}</ref><ref>{{cite news |title=ロシアでG20開幕、シリア介入各国の対立鮮明に |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2013-09-06|url=http://www.cnn.co.jp/world/35036892.html|accessdate=2013-11-03}}</ref>。2014年9月に湾岸諸国とともに空爆が開始されたが、このときの攻撃対象は、内戦下で増長した[[ISIL]]とされた<ref>{{Cite news|title=米国が「イスラム国」掃討へシリア空爆開始、湾岸5カ国参加|url=https://www.reuters.com/article/wrap-us-syria-airstrike-idJPKCN0HI2LT20140923|work=Reuters|date=2014-09-23|access-date=2022-11-03}}</ref>。それでも、安保理決議なしでの空爆は、国際法違反だとされる。2017年4月、化学兵器使用疑惑を理由に、初の政府軍を標的とするミサイル攻撃が行われた<ref>{{Cite web|和書|title=米軍、シリアへミサイル攻撃 「サリン」使った「化学攻撃」に反応 |url=https://www.bbc.com/japanese/39523891 |website=BBCニュース |date=2017-04-07 |access-date=2022-11-03}}</ref>。2018年10月からシリア領内の油田を防衛すると主張し、[[デリゾール県]]や[[ハサカ県]]の油田地帯を中心に違法駐留を開始。2019年10月、[[ドナルド・トランプ]]米大統領は、[[エクソンモービル]]を含む米[[石油メジャー]]にシリアで油田操業を担わせる可能性に言及した。これについて、法律やエネルギー業界の専門家からは、[[戦争犯罪]]で非倫理的などという批判の声が上がった<ref>{{Cite news|title=米石油大手がシリア油田操業も、トランプ大統領が言及|url=https://jp.reuters.com/article/syria-oil-us-idJPKBN1X60UI|work=Reuters|date=2019-10-27|access-date=2022-10-09|language=ja}}</ref>。2022年2月、シリアの石油鉱物資源省は、国内で生産される原油の80%以上が米国によって盗奪されていると発表した<ref>{{Cite web|和書|title=シリアの石油鉱物資源省は国内で生産される原油の80%以上が米国によって盗奪されていると発表(青山弘之) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/25db2acc4caaff39486246e5cca901be4cb21c80 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-10-09}}</ref>。
=== 日本国との関係 ===
{{main|日本とシリアの関係}}
シリア戦争の危機に際し、[[安倍晋三]]政権は日本の同盟国である米国のシリア侵攻に対しては反対を表明はしてはいない<ref>{{Cite news|newspaper=[[毎日新聞]]|title=菅官房長官「情勢悪化責任、アサド政権に」|url=http://mainichi.jp/select/news/20130901k0000m010102000c.html|accessdate=2013-11-03}}</ref>。[[菅義偉]]官房長官は2013年8月29日の記者会見で、シリア政府による化学兵器を使用の根拠を問われ「さまざまな具体的情報があるが、関係国とのやり取りなので控える」としている<ref>{{Cite news|newspaper=[[毎日新聞]]|title=シリア:化学兵器使用疑惑 菅官房長官「情勢悪化責任、アサド政権に」|url=http://mainichi.jp/select/news/20130829dde007030009000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131104105731/http://mainichi.jp/select/news/20130829dde007030009000c.html|archivedate=2013-11-04|accessdate=2022-10-13}}</ref>。
2012年5月、日本政府は[[モハンマド・ガッサーン・アルハバシュ]]駐日シリア[[大使]]に[[国外退去]]勧告を行う一方、シリア政府も翌6月、[[鈴木敏郎 (外交官)|鈴木敏郎]]駐シリア大使に[[ペルソナ・ノン・グラータ]]を通告するなど、相互に大使の追放処分を行った<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS06033_W2A600C1PP8000/ シリア政府、日本大使を「好ましくない人物」に指定] 日本経済新聞(2012年6月7日)2018年1月21日閲覧</ref>。
== 地方行政区分 ==
{{main|シリアの行政区画}}
{{main|シリアの都市の一覧}}
[[ファイル:Syrnumbered.png|thumb|377x377px|シリアの県]]
シリアには13の県がある。
# [[ダマスカス県]]
# [[ダマスカス郊外県|リーフ・ディマシュク県]]([[ダマスカス郊外県]])
# [[クネイトゥラ県]] ([[クネイトゥラ]])
# [[ダルアー県]]([[ダルアー]])
# [[スワイダー県]] ([[スワイダー]])
# [[ホムス県]]([[ホムス]])
# [[タルトゥース県]]([[タルトゥース]])
# [[ラタキア県]]([[ラタキア]])
# [[ハマー県]]([[ハマー (都市)|ハマー]])
# [[イドリブ県]]([[イドリブ]])
# [[アレッポ県]]([[アレッポ]])
# [[ラッカ県]]([[ラッカ]])
# [[デリゾール県]]([[デリゾール]])
# [[ハサカ県]]([[ハサカ]])
このうち、[[シリア内戦]]以降事実上政府の管轄が及んでいないクルド人自治区として[[ロジャヴァ|ロジャヴァ・クルド人自治区]]がある。[[アレッポ県]]、[[ラッカ県]]、[[ハサカ県]]の一部にまたがって設立されている。シリア政府による公式な自治は認められていないが、事実上の黙認状態となっており政府軍との戦闘は起きていない。一方、[[トルコ]]政府とは交戦状態となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50874820R11C19A0000000/|title=シリア攻撃でトルコ軍「174人殺害」 クルド側も反撃|accessdate=2020年5月6日|publisher=日経新聞}}</ref>。
== 地理 ==
[[ファイル:Sy-map.png|thumb|300px|シリアの地図]]
{{main|{{仮リンク|シリアの地理|en|Geography of Syria}}}}
東[[地中海]]に面する一部を除いて、国土は隣国と地続きであり、北部では[[トルコ]]と、東部では[[イラク]]と、南部では[[ヨルダン]]と、西部では[[イスラエル]]や[[レバノン]]とそれぞれ国境を接している。
国土のうち西部の地中海沿岸部には平野が広がっており、南部は肥沃な土地が広がっており、国内農業のほとんどを負担している。北部は半乾燥地帯、中部は[[アンチレバノン山脈]]が連なり、山岳地帯が大半であるが、乾燥地帯の延長上には、[[アラビア半島]]に続く[[シリア砂漠]]がある。国内最高峰は[[ヘルモン山]](2,814メートル)。国土を北から南に[[ユーフラテス川]]が、南から北に[[オロンテス川]]が流れている。
気候は地中海沿岸部は典型的な[[地中海性気候]](Cs)で、夏季は高温乾燥、冬季は温暖多雨である。内陸部に入るに従い乾燥の度合いが激しくなり([[ステップ気候|BS]])、イラク国境周辺は[[砂漠気候]](BW)となっている。この地域では冬季には氷点下まで下がり、降雪による積雪も見られ、時に数十センチに達する大雪となることもあるなど季節ごとの差が激しい。[[ダマスカス]]の年平均気温は5.8℃(1月)、26.5℃(7月)、年降水量は158.5ミリ。
== 経済 ==
{{main|{{仮リンク|シリアの経済|en|Economy of Syria}}}}
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、内戦が本格化する前の[[2010年]]の[[国内総生産|GDP]]は600億ドル。1人あたりのGDPでは2,807ドルで、中東では低い水準であり、隣国の[[イラク]]や[[ヨルダン]]よりも1,000ドル以上低い数値である<ref name="imf201510" />。シリア内戦後は急落し、2010年から2017年にかけて、GDPは70%以上減少したとされる<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/syria/ |title=Syria |access-date=2022-11-06 |website=THE WORLD FACT BOOK}}</ref>。
シリアの産業は、[[バアス党 (シリア)|バアス党]]の強力な[[計画経済]]により農業、商工業、鉱業ともに偏りがなくバランスが取れた形となっており、石油資源にも恵まれているが、米国による禁輸措置もあり経済は低迷状態が続いていた。[[2004年]]時点で[[政府]]発表の国内[[失業率]]は20%を超えており、[[中華人民共和国]]の[[改革開放]]を手本として[[市場経済]]の導入を計り、外国企業の投資受け入れやインターネット導入を進めていた。しかし[[2011年]]に勃発した内戦により経済は深刻な影響を受けており、国連の推定では[[2014年]]時点でGDPは40%縮小、国内の労働人口500万人のうち約半数が失業状態にあり、国民の4分の3が貧困状態に陥っていると考えられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.reuters.com/article/syria-poor-economy-idJPKBN0E90J620140529|title=シリア国民の3分の2は極貧、内戦4年目で経済縮小が加速=報告|publisher=[[ロイター]]|date=2014-05-29|accessdate=2016-02-17}}</ref>。
=== 歴史 ===
独立直後の主産業は[[農業]]であった<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282812588330368 |title=経済自由化とシリアの伝統経済 |access-date=2022-11-06 |publisher=黒田美代子 |year=1992}}</ref>。しかし、農業従事者の多くは[[小作人]]だったため、生活はほとんど向上しなかった。1960年代になると政権を握った[[バアス党]]は[[社会主義]]的政策を採り、土地改革と主要産業の国有化、外国投資により、[[インフラストラクチャー|インフラ]]をはじめとする大規模な開発を成功させた。また、産業の私的部門を推奨する[[資本主義]]面も見せた。ただし、情勢の不安定さと[[中東戦争]]での敗北により、経済は低迷した。<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=Syria : a country study|year=1987|publisher=Federal Research Division Washington, D.C.|author=Thomas Collelo}}</ref>
1970年に政権を掌握した[[ハーフィズ・アル=アサド]]は、油田開発と自由化政策を採り、特に73から74年にかけての[[原油価格]]の高騰と合わせて経済成長を成功させた<ref name=":2" />。また、より石油資源の豊富なアラブ諸国で働くシリア人からの送金の増加や、アラブ諸国をはじめとする海外からの援助の増加も、シリアの好景気に拍車をかけた<ref name=":2" />。70年代末には、シリア経済は従来の農業を中心とした経済から、[[サービス業]]、工業、商業を中心とした経済へと変化していた。灌漑、電力、水道の整備、道路建設事業、医療サービスや教育の地方への拡大などに巨額の支出が行われ、繁栄に貢献した。しかし、財政と貿易の両面で赤字が拡大し、その財源を海外からの援助や補助金に依存する状態が続いた。また、アラブ・イスラエル紛争の最前線に位置するシリアは、中東政治の影響を受けやすく、増大する国防費をアラブの援助移転と[[ソ連]]の援助に頼っていた<ref name=":3" />。
1980年代に入ると、[[第2次オイルショック]]や[[干ばつ]]、在外シリア人からの送金減などにより、減速した<ref name=":3" />。
2000年にハーフィズの息子の[[バッシャール・アル=アサド]]が大統領になると、経済の近代化と自由化が推し進められた。政府の[[新自由主義]]的改革は、貿易の活発化と民間部門の活性化に貢献し、安定した経済成長が続いた。一方、格差拡大や公共サービスの低下、汚職の露骨化などを伴い、アラブの春へと繋がる国民不満の増加につながったとされる<ref>{{Cite web |title=Popular Protest in North Africa and the Middle East (VI): The Syrian People’s Slow-motion Revolution |url=https://www.crisisgroup.org/middle-east-north-africa/eastern-mediterranean/syria/popular-protest-north-africa-and-middle-east-vi-syrian-people-s-slow-motion-revolution |website=www.crisisgroup.org |date=2011-07-06 |access-date=2022-11-05}}</ref>。
シリア内戦勃発後は、2010年から2017年までマイナス成長となり<ref>{{Cite web |title=GDP growth (annual %) - Syrian Arab Republic {{!}} Data |url=https://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.MKTP.KD.ZG?locations=SY |website=data.worldbank.org |access-date=2022-11-05}}</ref>、GDPは70%以上減少したとされる<ref name=":1" />。[[ISIL]]が勢力を失い、少し落ち着いた2018年は微増した。20年に深刻化した隣国[[レバノン]]の経済危機や米国の新たな対シリア制裁法が影響し、通貨シリアポンドの価値は対米ドルで1年前の半分以下になり、急激なインフレが起きた<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=シリア内戦10年、経済損失130兆円 遠い和平と復興 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR12BQ40S1A310C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2021-03-14 |access-date=2022-11-05}}</ref>。
2021年に[[NGO]][[ワールド・ビジョン]]が発表した推計では、内戦による経済損失は計1兆2000億ドルに上るとされる<ref name=":4" />。シリア石油鉱物資源省によると、東部地域を占領する米国とその側の勢力により、1日平均7万バレルが窃取されている問題もある<ref>{{Cite web|和書|title=シリアの石油鉱物資源省は国内で生産される原油の80%以上が米国によって盗奪されていると発表(青山弘之) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/25db2acc4caaff39486246e5cca901be4cb21c80 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-11-05}}</ref>。
== 国民 ==
[[File:Damascus, traditional clothing (6364877017).jpg|thumb|伝統的な衣装に身を包んだ[[ダマスカス]]の市民]]
{{main|{{仮リンク|シリアの人口統計|en|Demographics of Syria}}}}
人口2,200万人のうち、2015年時点では[[国内避難民]]として少なくとも760万人以上が居住地を放棄して国内移動を行っているほか<ref>{{Cite web|和書|date=2015-07-09 |url=https://www.asahi.com/articles/ASH791FH7H78UHBI03J.html |title=シリア難民、400万人 避難民と合わせ人口の半数超に |publisher=朝日新聞 |accessdate=2020-03-09}}</ref>、約400万人が難民として国外へ流出している。[[シリア難民]]の最多流出国はトルコ(213万人)、次いでヨルダン(140万人)、レバノン(119万人)となっている。
=== 民族 ===
住民は、[[アラブ人]]が90%で、[[クルド人]]が8%ほど、そのほかに[[アルメニア人]]、[[ギリシャ人]]などがいる。アラブ人の中には[[シリア語]]を母語とする[[部族]]もいるため民族性も多様化している。少数民族として[[ネストリウス派]]([[アッシリア人]])、北[[コーカサス]]系民族、南トルコ系民族もいる。
=== 言語 ===
{{Main|{{仮リンク|シリアの言語|en|Languages of Syria}}}}
言語は[[現代標準アラビア語]]が[[公用語]]である。そのほかにもアラビア語の方言({{仮リンク|アラビア語レバント方言|en|Levantine Arabic|label=レバント方言}}、[[アラビア語イラク方言|イラク方言]]、[[アラビア語ナジュド方言|ナジュド方言]]、{{仮リンク|北メソポタミア・アラビア語|en|North Mesopotamian Arabic}})、[[シリア語]]([[典礼言語]]として)、[[クルド語]]、[[アルメニア語]]、[[アゼルバイジャン語]]、{{仮リンク|現代アラム語|en|Neo-Aramaic languages}}([[アッシリア現代アラム語]]、[[現代西アラム語]])が使われる。さらにフランス委任統治領時代の影響で[[フランス語]]も使われているが、隣国[[レバノン]]と異なり一部エリート層の使用に限られるなど通用度は高くない。
=== 宗教 ===
{{main|{{仮リンク|シリアの宗教|en|Religion in Syria}}}}
{{Pie chart
|title =
|thumb = right
|label1 = [[スンナ派]][[アラブ人]]
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}}
{{seealso|シリアのキリスト教}}
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|title=宗教構成(シリア)
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{{bar percent|イスラム教諸派|green|87}}
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}}
宗教は、[[イスラム教]][[スンナ派]]が約70%。他のイスラム教の宗派([[アラウィー派]]、[[ドゥルーズ派]]、[[イスマーイール派]]、[[十二イマーム派]]などがあわせて約20%、これらの少数宗派はすべて[[シーア派]]とみなす場合もあるが、[[アラウィー派]]と[[ドゥルーズ派]]をシーア派に含めない場合もある。
系統不明瞭なアラウィー派が現在シーア派の一派として扱われるのは、1973年にシリアの大統領[[ハーフィズ・アル=アサド]]の働きかけにより、レバノンの十二イマーム派の[[イマーム]]であった{{仮リンク|ムーサー・アッ=サドル|en|Musa al-Sadr}}が、アラウィー派をシーア派の一派と看做す[[ファトワー]]を発したことによる。そして、ドゥルーズ派は[[イスマーイール派]]から分派した宗派である。しかし、アラウィー派とドゥルーズ派の教義は[[グノーシス主義]]や[[神秘主義]]の強い影響を受けており、イスラーム教とさえみなされない場合もあるなど、スンナ派や[[十二イマーム派]]からの厳しい異端視に晒されてきた。また、イスマーイール派もオスマン帝国時代に弾圧を受けた。
[[キリスト教]]([[非カルケドン派正教会|非カルケドン派]]の[[シリア正教会]]、[[正教会|東方正教会]]の[[アンティオキア総主教庁]]、[[東方典礼カトリック教会|東方典礼カトリック]]の[[マロン典礼カトリック教会]]など)は約10%である。
そのほかには、[[アレヴィー派]]や[[ヤズィード派]]などの少数宗派があり、アレヴィー派は[[トルコマン人]]によって、[[ヤズィード派]]はクルド人によって信仰されているが、併せて約1%ほどである。シリア国内の人口比で約8%を占めるクルド人のほとんどはスンナ派を信仰しており、ヤズィード派を信仰するものはごく一部である。
元来、都市部に住む富裕層にはスンナ派が多く、これらの名望家層はオスマン帝国時代から政治エリートとして大きな影響力を誇っていた。[[第一次世界大戦]]後、新たな支配者としてシリアを[[委任統治]]したフランスはスンナ派有力者たちの影響力を押さえ、統治を円滑化するために少数宗派を優遇し、スンナ派以外の諸宗派に政治や軍事への門戸を開いた。また、同じスンナ派であっても都市部の有力者達は相互に姻戚関係で結びつき、その特権意識から農村部に住む人々や貧困層を「大衆」と呼んで蔑むなど、大きな格差が存在していた。都市部に住むスンナ派エリート層によって政治から排除されてきた人々は、シリア独立後、バアス党や共産党などの左派政党の政治運動へ支持・共鳴を示した。左派政治組織の支持拡大に対して、保守的な人々は[[ムスリム同胞団]]との結びつきを強めた。
=== 婚姻 ===
イスラム教徒の女性は婚姻時に改姓することはない([[夫婦別姓]])一方、改姓する女性もいる<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/syrian-culture/syrian-culture-naming#syrian-culture-naming Syrian Culture], Cultural Atlas</ref>。
=== 教育 ===
{{main|{{仮リンク|シリアの教育|en|Education in Syria}}}}
シリアの教育は[[小学校]]6年間、[[中学校]]3年間、[[高等学校]]3年間の6・3・3制で小学校の6年間が義務教育であり、生徒の80%がイスラム教徒のため男女共学の高校は存在しないとされる<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/syria_1.html |title=世界の学校を見てみよう! シリア |publisher=外務省 |accessdate=2019-10-29}}</ref>。
== 交通 ==
{{main|{{仮リンク|シリアの交通|en|Transport in Syria}}}}
=== 鉄道 ===
{{main|シリアの鉄道}}
{{仮リンク|シリア国鉄|en|Syrian Railways}}が運行されており、路線総延長は2,423キロに及び、アラブ諸国の中では数少ない鉄道網が整備されている国である。ダマスカス鉄道駅から[[トルコ]]の[[イスタンブール]]への直通列車も運行されていた。しかしながら[[2012年]]以降は内戦で運行停止状態となっている。
=== 航空 ===
{{main|シリアの空港の一覧}}
[[ダマスカス国際空港]]、[[アレッポ国際空港]]、{{仮リンク|バーセル・アル=アサド国際空港|en|Bassel Al-Assad International Airport}}などの国際空港があり、[[シリア・アラブ航空]]によって運航されている。
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|シリアの文化|en|Culture of Syria}}}}
シリアは古代より文明が栄えた土地のため、また各文明の交流地点のため高度な文化が発達しており、国内の各地に[[アッシリア]]帝国時代の遺跡が点在する。また、西洋風の町並や服装も浸透している。さらに[[反米]]および反[[イスラエル]]国家であるが、[[首都]]・[[ダマスカス]]には[[KFCコーポレーション|ケンタッキー]]の店舗が存在する<ref group="注釈">[[:File:KFC-Damascus.JPG]]</ref>。
=== 食文化 ===
{{main|{{仮リンク|シリア料理|en|Syrian cuisine|preserve=1}}}}
{{sectstub}}
=== 文学 ===
{{main|{{仮リンク|シリア文学|en|Syrian literature}}}}
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=== 音楽 ===
{{main|{{仮リンク|シリアの音楽|en|Music of Syria}}}}
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=== 映画 ===
{{main|{{仮リンク|シリアの映画|en|Cinema of Syria}}}}
{{sectstub}}
=== 世界遺産 ===
[[Image:Palmyra, Syria, Monumental Arch and Columns.jpg|thumb|right|[[世界遺産]]の[[パルミラ|パルミラ遺跡]]]]
{{main|シリアの世界遺産}}
シリア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が6件存在する<ref>http://whc.unesco.org/ja/list/?iso=sy&search=& 世界遺産センター-シリア</ref><ref>http://www.unesco.or.jp/isan/list/list_3/ 世界遺産一覧-五十音順国別リスト(サ行){{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
* [[古代都市ダマスカス|古都ダマスクス]]
* [[パルミラ|パルミラの遺跡]]
* [[古代都市ボスラ]]
* [[古代都市アレッポ|古都アレッポ]]
* [[クラック・デ・シュヴァリエ]]と[[カラット・サラーフ・アッディーン]]
* [[シリア北部の古代村落群]]
=== 祝祭日 ===
{{main|{{仮リンク|シリアの祝日|en|Public holidays in Syria}}}}
{| class="wikitable"
! 日付
! 日本語表記
! 現地語表記
! 備考
|-
| [[1月1日]]
| [[元日]]
| عيد راس السنة الميلادية
|
|-
| [[3月8日]]
| 3月8日革命記念日
| ثورة الثامن من اذار
| [[バアス党]]による権力掌握を記念する
|-
| [[3月21日]]
| 母の日
| عيد الأم
|
|-
| [[4月17日]]
| [[独立記念日]]
| عيد الجلاء
| [[フランス軍]]のシリア完全撤退の日を祝う
|-
|
| [[グレゴリオ暦]]の[[イースター]]
| عيد الفصح غريغوري
| 新暦のイースター。移動祝日
|-
|
| [[ユリウス暦]]のイースター
| عيد الفصح اليوليوسي
| 移動祝日
|-
| [[5月1日]]
| [[メーデー]]
| عيد العمال
|
|-
| [[5月6日]]
| 殉国者の日
| عيد الشهداء
| [[1916年]]、[[オスマン帝国]]の[[アフメト・ジェマル・パシャ]]が<br />シリア[[民族主義]]者多数を処刑した記念日
|-
| [[10月6日]]
| 10月解放戦争記念日
| حرب تشرين التحريرية
| [[第四次中東戦争]]の開戦記念日
|-
| [[12月25日]]
| [[クリスマス]]
| عيد الميلاد المجيد
|
|-
|
| [[イード・アル=アドハー|犠牲祭]]
| عيد الأضحى
| 移動祝日
|-
|
| [[イード・アル=フィトル|断食明け大祭]]
| عيد الفطر
| 移動祝日
|-
|
| [[預言者生誕祭]]
| المولد النبوي
| 移動祝日
|}
== スポーツ ==
{{main|{{仮リンク|シリアのスポーツ|en|Sport in Syria}}}}
=== サッカー ===
{{main|{{仮リンク|シリアのサッカー|en|Football in Syria}}}}
シリア国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1966年]]にプロサッカーリーグの[[シリア・プレミアリーグ]]が創設された。リーグ開始以降[[アル・ジャイシュ・ダマスカス|アル・ジャイシュSC]]が圧倒的な強さを誇っており、5連覇を含むリーグ最多17度の優勝を達成している。
[[シリアサッカー協会]](SFA)によって構成される[[サッカーシリア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]への出場経験はない。[[AFCアジアカップ]]には6度出場しているものの、全大会でグループリーグ敗退となっている。しかし[[西アジアサッカー選手権]]では、[[西アジアサッカー選手権2012|2012年大会]]で初優勝した。
=== オリンピック ===
{{main|オリンピックのシリア選手団}}
シリアは[[近代オリンピック|オリンピック]]には[[1948年ロンドンオリンピック|1948年ロンドン五輪]]で初参加した。それ以降は[[中東戦争]]などの影響で参加と不参加が続いたが、[[1980年モスクワオリンピック|1980年モスクワ五輪]]以降は参加を続けている。しかし[[冬季オリンピック]]への参加経験はない。[[2020年東京オリンピック|2021年東京五輪]]では、[[ウエイトリフティング]]男子109kg超級でマン・アサードが、シリア選手として4大会ぶりのメダルを獲得した。
== 著名な出身者 ==
{{Main|Category:シリアの人物}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 関連項目 ==
* [[シリアの世界遺産]]
* [[シリア関係記事の一覧]]
* [[シリアの政党]]
* [[ハーフィズ・アル=アサド]]
* [[オデッサ・ファイル]]
* [[ISIL]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Syria|Syria}}
; 日本政府
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/syria/ 日本外務省 - シリア] {{ja icon}}
; その他
* [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-13.html 中東協力センター(JCCME) - シリア]
* [http://www.nipponsyria.org/ 日本シリア親善協会]
* [http://www.kamit.jp/31_syria/syria.htm シリアの建築]
* [http://syriaarabspring.info/ シリア・アラブの春 顛末記:最新シリア情勢]
* {{Kotobank}}
{{アジア}}
{{OIC}}
{{使徒パウロの第二回伝道旅行}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しりあ}}
[[Category:シリア|*]]
[[Category:アジアの国]]
[[Category:共和国]]
[[Category:国際連合加盟国]]
[[Category:イスラム協力機構加盟国]]
[[Category:アラブ連盟]] | 2003-05-22T21:33:29Z | 2023-11-25T21:52:12Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2 |
9,119 | 熱心党 | 熱心党(ねっしんとう、ヘブライ語: קנאי, kanai、(複) ヘブライ語: קנאים, kana'im)は、イエス時代に存在したユダヤ教の政治的宗教集団である。ギリシャ語の訳語から、ゼロテ派(希: ζηλωτής, zēlōtēs、英: Zealot ; (複) 希: ζηλωταί, zēlōtai、英: Zealots)とも呼称される。
ヘロデ大王の治世(前37年 - 4年)に結成されたが、その起源はマカバイ戦争まで遡る。フラウィウス・ヨセフスは、ユダヤ戦争時におけるユダヤ側のレジスタンス闘争者の呼称として用いている。
紀元元年前後のユダヤ民族は、ハスモン朝といった一時的な独立の時期もあるが、ユダ王国崩壊以後500年以上被支配の状態にあった。そうした状況の中で、多くの人々はユダヤ人民族国家の建国をほとんど諦め、被支配を前提に、その中でどのように神と係わりを持つか、民族を保つかといった妥協的な考えに向かわざるを得なかった。しかし一方で、ユダヤ民族独立を未だ現実的に切望する集団もいた。熱心党は、そうした集団の内、手段を厭わず暴力行為を以ってしてでも目的を遂行しようという当時の抵抗組織である。有名なのがシカリ派などである。シカリ派は聖書では短剣を持った4000人の男と書かれている。ラテン語のシーカーリイーに由来しておりシーカは短剣を意味し、「短剣を使うもの」という意味がある。
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] | 熱心党は、イエス時代に存在したユダヤ教の政治的宗教集団である。ギリシャ語の訳語から、ゼロテ派とも呼称される。 | {{出典の明記|date=2013年10月7日 (月) 18:11 (UTC)}}
'''熱心党'''(ねっしんとう、{{lang-he|קנאי}}, kanai、(複) {{lang-he|קנאים}}, kana'im)は、イエス時代に存在した[[ユダヤ教]]の政治的宗教集団である。ギリシャ語の訳語から、'''ゼロテ派'''({{lang-el-short|ζηλωτής}}, zēlōtēs、{{lang-en-short|Zealot}} ; (複) {{lang-el-short|ζηλωταί}}, zēlōtai、{{lang-en-short|Zealots}})とも呼称される。
== 概要 ==
[[ヘロデ大王]]の治世(前37年 - 4年)に結成されたが、その起源は[[マカバイ戦争]]まで遡る。[[フラウィウス・ヨセフス]]は、[[ユダヤ戦争]]時におけるユダヤ側のレジスタンス闘争者の呼称として用いている。
紀元元年前後のユダヤ民族は、[[ハスモン朝]]といった一時的な独立の時期もあるが、[[ユダ王国]]崩壊以後500年以上被支配の状態にあった。そうした状況の中で、多くの人々はユダヤ人民族国家の建国をほとんど諦め、被支配を前提に、その中でどのように神と係わりを持つか、民族を保つかといった妥協的な考えに向かわざるを得なかった。しかし一方で、ユダヤ民族独立を未だ現実的に切望する集団もいた。熱心党は、そうした集団の内、手段を厭わず暴力行為を以ってしてでも目的を遂行しようという当時の抵抗組織である。有名なのがシカリ派などである。シカリ派は聖書では短剣を持った4000人の男と書かれている。ラテン語のシーカーリイーに由来しており[[シーカ (刀剣)|シーカ]]は短剣を意味し、「短剣を使うもの」という意味がある。
==新約聖書と熱心党==
[[新約聖書]]中には、熱心党、またはその可能性のある人物が幾人か見られる。
*[[熱心党のシモン]]
*[[シカリ派]]
==関連項目==
*[[ファリサイ派]]
*[[サドカイ派]]
*[[エッセネ派]]
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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※記事を書く上で参考とした文献はここでまとめる。文献の提
示がない場合はコメントアウトとしておく。
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[[Category:ユダヤ教]]
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9,122 | キログラム | キログラム(仏: kilogramme、英: kilogram、記号: kg)は、国際単位系(SI)における質量の基本単位である。基本単位にSI接頭語(k)がついているのはキログラムだけである。
現在、kgとはプランク定数によって定義されている。
グラム(gram)はキログラムの1000分の1と定義される。またメートル系トン(metric ton)はキログラムの1000倍(1メガグラム)に等しいと定義される。
単位の「k」は小文字で書き、大文字で「Kg」と表記しない。
キログラムの定義は2018年11月16日に次のように改定され、2019年5月20日に発効された。
c は真空中の光の速さ、 ∆νCs は Cs (セシウム)の超微細構造遷移周波数である。
この新定義によって、129年にわたって使用されてきた国際キログラム原器(IPK)が廃止された。日本の計量法体系では、計量単位令(平成4年政令第357号)が改正され、2019年5月20日に施行することにより変更された。
2021年2月1日からは国際キログラム原器(IPK)の質量の国際合意値は、0.999999998(20) kg である(後述 #国際キログラム原器(IPK)の質量の不確かさ)。
1キログラムの当初の定義は「水1リットルの質量」であった。1795年の定義では、「大気圧下で氷の溶けつつある温度における水」となっていたが、その後、水の体積は温度に依存することが分かり、そのため、「最大密度における蒸留水1立方デシメートル(1リットル)の質量」と定義された。しかし、水の密度は気圧と温度に影響され(水の密度が最大となる温度は約4 °C)、気圧にはその因子に質量が含まれている。すなわち、このキログラムの定義には循環定義が含まれていることになる。 この問題を避けるため、1799年に、当時のキログラムの定義に合わせた白金製の原器が作製された。このキログラム原器をアルシーヴ原器 (kilogramme des Archives) と呼ぶ。
2018年まではキログラムの定義は、「国際キログラム原器 (en:International Prototype of the Kilogram) (IPK)の質量」であった。SI基本単位において、キログラムが普遍的な物理量ではなく「人工物」に基づいて値が定義される単位として最後まで残った。
1875年のメートル条約に基づき、1889年にキログラムは新しい国際キログラム原器 (IPK: International Prototype Kilogram) の質量と定義された。これは、1879年に作成された3つの原器のうちの1つである。測定の結果、以前のアルシーヴ原器と当時の技術では質量差が認められなかったものであるが、1889年の第1回国際度量衡総会の決定により、この国際キログラム原器がキログラムの定義に使用されることとなった。
国際キログラム原器は直径・高さともに約39 mmの円柱形の、プラチナ(白金)90 %、イリジウム10 %からなる合金製の金属塊である。フランス・パリ郊外セーヴルの国際度量衡局(BIPM)に、2重の気密容器で真空中に保護された状態で保管されている。
上記1889年の第1回国際度量衡総会において、世界各国で用いる標準原器として各国に国際キログラム原器の複製を配布することが決定された。当初40個の複製が作られて各国に配布・保管されている。これらの原器は約40年ごとに特殊な天秤を用いて国際キログラム原器と比較されることになっている。
日本は1885年にメートル条約へ加盟したため、日本にも標準原器が配布されることとなった。その後、1889年に作成された複製のうちNo.6が日本に割り当てられ、1890年に到着した。日本国内ではこのNo.6を「日本国キログラム原器」としてキログラムの基準に使用している。なお、No.30とNo.39も副原器として日本に配布されたが、No.39は1947年に連合軍軍政期の朝鮮(現在の大韓民国)に譲渡したため、1963年にNo.E59を新造し、実験用原器として使用している。2009年9月には、BIPMから原器No.94を新規に購入した。副原器を含めた以上の4器は茨城県つくば市の独立行政法人産業技術総合研究所に保管されている。 1991年時点における日本国キログラム原器(No.6)の質量は、1 kg + 0.176 mg(つまり、国際キログラム原器より176 μg だけ重い) であった。2022年に重要文化財に指定。
国際キログラム原器の質量は、表面吸着などの影響により年々増加しており、その量は洗浄直後の急速な汚染の他、年に1 μg程度と見られている。1988年–1992年の第3回各国キログラム原器の定期校正に際して、42年ぶりに国際キログラム原器の洗浄が行われたが、これにより国際キログラム原器の質量は約50 μg減少した(50 μg は、ちょうど指紋1個に含まれる皮脂の質量に相当する)。これは1 kgの5×10倍に当たるので、国際キログラム原器による定義の精度は8桁程度ということになる。質量の定義をより明確にするため、質量単位「キログラム」は「洗浄直後の国際キログラム原器の質量値」として解釈されることになった。
2007年9月、国際キログラム原器が50 μg軽くなっているという報道が一部でなされた。しかし、これは同原器が突然50 μg軽くなったことを意味するわけではない。上記のように原器は経年で徐々に質量を増すことが知られているが、BIPMの解説によると、1889年からの間に他の複数の複製と比較して、質量変動が約50 μg少なかったということだという。
他のSI基本単位は「普遍的な物理量」に基づく定義に改められてきたのに対し、キログラムだけがいまだ「人工物に依存」する単位として残っていた。人工物による定義では、経年変化により値が変化し、また、焼損や紛失のおそれもある。このため1970年代から、普遍的な物理量によるキログラムの定義が検討されてきた。2011年10月21日に国際度量衡総会において、キログラム原器による基準を廃止し、新しい定義を設けることが決議された 。 この決議を実現するために、キログラムをプランク定数 h によって定義することが2013年12月に提案された。これはプランク定数がもはや実験値ではなく、定義定数となることを意味する。この提案は、SI文書の第9版の1章〜3章の改訂(案)の一部として提案された。
これまではIPKの不確かさはゼロで、プランク定数に 4.4×10 の不確かさがあった(2013年当時)のに対して、この新しいキログラムの定義では、プランク定数の不確かさはゼロになり、逆にIPKに4.4×10の不確かさがあることになる。
プランク定数に基づく定義では、静止エネルギーと質量の関係式 E = mc を用いて、ある振動数 ν の光子のエネルギー (E = hν) と等しい静止エネルギーを持つ物体の質量を1キログラムと定義する。すなわち、
この2013年12月の提案は、アンペア (A)、ケルビン (K)、モル (mol) の再定義と併せて、2014年の第25回国際度量衡総会 (CGPM) で決議することが予定されていた。しかし、2014年11月18日 – 20日に開催されたCGPMでは、プランク定数の精度が十分でないことなどにより上記の定義への変更はなされず、次の2018年開催予定の第26回CGPMに向けて定義変更のための諸課題を解決すべし、との決議が採択された。
プランク定数の新たな定義値は、2015年から2017年にかけて報告された、8つの実験値に基づいて決定された。そのうちの4つは、ワット天秤を用いて直接測定されたものである。残りの4つは、アボガドロ定数から間接的に得られたものである。
CIPMはキログラムの定義の変更をCGPMの決議案として提出し、この決議案は2018年11月16日にCGPMによって決議・承認された。
なお、キログラムと共に、アンペア、ケルビン、モルの定義も大きく変更されたものが決議されたが、これらの変更も併せ、2019年5月20日に施行された。
それまでの定義に変わる新しい定義の候補として、アボガドロ定数などを用いた各種の提案があった。
アボガドロ定数に基づく定義は、一定個数のケイ素(Si)原子の質量をキログラムとするという原子質量標準である。アボガドロ定数の値をより正確に求めることができれば、そこからケイ素1 kgに含まれるケイ素原子の数を決定することができる。ケイ素が不純物を含まない単結晶を作りやすいために採用された。アボガドロ定数を精密測定する国際プロジェクトが2004年に立ち上がり、各国の研究機関でケイ素を用いてアボガドロ定数の不確かさを少しでも小さくするための研究が行われた。2010年時点でのアボガドロ定数の値
(CODATA2010年推奨値。括弧内は標準不確かさ)には、プランク定数と同じく、8桁目に不確かさがあった。アボガドロ定数はモルプランク定数を介してプランク定数と結びついているので、精度の点から見ればキログラムの定義にどちらを採用しても変わりはない。実際、プランク定数の定義値の基になった8つの実験値のうち、4つはケイ素単結晶を用いたアボガドロ定数の測定実験から得られたものである。キログラムの定義にプランク定数が使用されたのは、その方が電気標準において利便性が高いからである。なお、アボガドロ定数はモルの定義に使われることとなった。
他には以下のような提案があった。
キログラムの定義が変更されたことにより、国際キログラム原器(IPK)の質量には10 μgの不確かさがあることとなった。また、各国に配布されているキログラム原器の質量には、BIPMによるキャリブレーション証明書(2019年5月20日以前に発行されたもの)に記載されている不確かさの数値に10 μgを加えた不確かさがあることとされた。
その後、2020年12月に上記の見積り値は見直されており、2021年2月1日からは国際キログラム原器の質量は、1 kg-2 μg であり、その標準不確かさは 20 μg とすることが質量標準供給の国際基準値「合意値(Consensus value)」となった。すなわち、
である。
グラム(英語: gram, 仏語: gramme, 記号: g)は質量の単位であり、SIにおいては「キログラムの1000分の1 (10 kg) 」と定義されている。「キログラム」は、明らかにグラムにSI接頭語キロ (kilo-) を付けたものである。しかし、SIにおいては、グラムではなくキログラムが基本単位となっており、グラムはその分量単位の一つとされている。
グラムではなくキログラムがSI基本単位とされたのは、以下のような経緯があるからである。
フランスにおいて1789年の革命が勃発した後、国王ルイ16世は新しい時代の度量衡単位の策定を、アントワーヌ・ラヴォアジエ、ニコラ・ド・コンドルセ、ピエール=シモン・ラプラス、ジャン=シャルル・ド・ボルダ、アドリアン=マリ・ルジャンドルなど主に科学者達で構成された委員会に委嘱した。その委員会において、質量単位のモデルとして1メートルの10分の1(= 10 cm)で構成された立方体の升に入った水の質量、すなわち1リットルの大気圧下で氷の溶けつつある温度(0度)における水について、grave(グラーブ、記号G)と名称が与えられた質量単位を標準とすることが提案された。その語源は gravity(重力)から由来したものである。
当初は、この grave(グラーブ、グラーヴ)を質量の基本単位とした原器が作られる予定であった。またこれを元として、1 grave の1000分の1を別の質量単位名で、仏語 gramme(グラム)ないし gravet(グラベト、グラヴェト)、また1 grave の1000倍を別の質量単位名を用いて tonne(トン)ないし bar(バー)と称するように名称が考案されたりもした。そしてやがて来るフランス革命の波に襲われ、科学者達の研究は途中で中断するが、その後、新しい革命政府が樹立されると再びメートル法が注目されるようになった。しかしそのフランス革命の後、質量の単位は大きな転機を迎えることとなる。
1795年の(暫定)メートル法制定当初、革命後の共和政府が当初の質量の基本単位を grave から、その1000分の1を表す gramme へと変更したのである。理由は諸説あるが、有力な説の一つとして、1 grave という大きさの質量が当時、メートル法以前の昔から使われてきたいくつかの質量の旧単位と比較しても、大きな単位であるということがある。そのためフランスの科学者達は、グラーブは日常的に使う質量単位としては大きすぎるであろうと危惧し、フランス共和政府と共に、質量の基本単位は1グラーブの1000分の1である「1グラムを質量の基本単位とすべき」と決定したという説があるが、真相は定かではない。
しかし、質量の基本単位を1グラムとすると非常に使い勝手が悪く、とりわけ1グラムを定義した、(1円硬貨ほどの大きさを持つ)原器を作るにはあまりにも小さすぎた。そこで共和政府は基本単位とした1グラムの1000倍、すなわち当初の予定通り1 graveの質量原器を作ることを決めたわけであるが、その名称が使われることはなく、グラムの1000倍を表すために接頭語のキロ (k) を付けた名称、"キログラム (kg)"の名前を冠した原器を作ることと決めた。これはあくまでも質量の基本単位をグラムにしたことに起因する。こうして当初の質量単位 grave(グラーブ)の名称は姿を消したのである。
これが後の1799年に作成された「確定キログラム原器」となった。こうしてメートル法制定当初、長さの単位を m(metre; メートル)、質量の単位を g(gramme; グラム)とした基本単位ができ上がった。しかし、メートルとグラムとではその規模が異なる。すなわち、「数グラムの質量を持つものは、数センチメートル台の大きさ」であることが多く、逆に「メートルで測られる大きさを持つものは、キログラム台の質量を持つ」ことが多い。そのため、メートルの代わりにセンチメートルを採用し、センチメートル(英語:centimeter; 仏語: centimetre)・グラム(英語: gram; 仏語: gramme)・秒(英語: second; 仏語: seconde)を基本単位とする単位系が構築されるようになった。これがCGS単位系である。
しかし、電磁気学の発展に伴い、CGS単位系では不都合が生じるようになった。CGS単位系を元に電磁気学の単位を作ると、値が大きくなってしまう。これは、電磁気学の現象を記述するには、センチメートル・グラムでは小さすぎるということである。そのため、科学で使われる単位系の主流はメートル・キログラム・秒を基本単位とするMKS単位系へと移行した。また上記に記された1889年のキログラムの新定義により、それ以降のメートル法において質量の基本単位としての礎を築いた。MKS単位系を更に発展させた国際単位系(SI)においても、キログラムが基本単位として引き継がれている。
キログラムの分量・倍量単位のSI接頭語は、キログラムではなくグラムを基準にして付けられる。これは、SIでは二重にSI接頭語を付けることを禁じているためである。そこで、キログラムを基準としてSI接頭語が付けられるように、キログラムに代わる新たな単位名称を付けようという提案が何度かなされている。quilo(記号:q)や kilon(記号:k)といったものが提案されているが、正式に議論にかけられたものは、現時点ではない。
いわゆる「1キログラムの重量(重さ)」は、1 kgの質量をもつ物体に重力が働くことによって生じる力であり、これを表すには重量キログラム(kgf, kgw, キログラム重)という、質量のキログラムとは異なる単位がある。定義された重量キログラムは地球表面(の特定の場所)において1 kgの質量を持つ物体に働く約9.80665 N(力のSI単位)の重力である。980.665 cm/s(この値が定義されたときはCGS単位系が主として使われていた)という重力加速度の値は、グラム重を定義するために第3回国際度量衡総会(CGPM)で定められた協定値であるということに注意する必要がある。重力加速度は緯度や高度、場所によって微妙に異なるため、この値が定められるまではグラム重という単位は値が不明確な単位であった。
SI接頭語は歴史的な理由(上記#グラムとキログラム参照)により、キログラムではなくグラムに対して付けられる。例えば1キログラムの100万分の1の質量は、1「マイクロキログラム」ではなく1ミリグラム(1000分の1グラム)となる。マイクログラムもよく用いられ、「μg」または「mcg」と表記するが、webコンテンツなどでは「μ」に代え「u」と代用表記される、すなわち「ug」となる場合もある。実用されている分量・倍量単位は次の通り。
次のようにグラムにメガ以上のSI接頭語を付けることも考えられるが、キログラムの1000倍の質量に対して、1メガグラム (Mg) という名前が用いられることは一般にはなく、トンが使われる。さらにはトンの倍量単位に対し、トンにSI接頭語が付されることも多い(とくにキロトン (kt) やメガトン (Mt))。
SI接頭語はグラムに対して付けられるため、100倍・10倍・1/10および1/100を表すSI接頭語を付けた次のような単位も一応考えられ、後述のようにこれらを表す漢字も作られているが、現実には用いられず、理論上の単位の域を出ない。またかつては1万倍を表す「ミリア」というSI接頭語も存在したが、これもあまり用いられることなく、現在では廃止されている。
漢字ではグラムが「瓦蘭姆」と音訳され、ここから「瓦」一字だけでグラムの意味を表すようになった。日本では明治時代、中央気象台(現気象庁)が「瓦」をその中に含む以下のような倍量・分量単位の漢字を作り、1891年から各気象台で気象観測の月報などに使用して、一般にも広まった。中国では、「瓦」はワットを表し、グラムには「克」の字を当てているため、それに合わせて「兛」(キログラム)、「兞」(ミリグラム)といった漢字が作られている。
これらの漢字表記は、計量法上は使用することはできない。
Unicodeには、文字様記号としてU+210A g script small g、CJK互換用文字として以下の文字が収録されている。
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"text": "プランク定数の新たな定義値は、2015年から2017年にかけて報告された、8つの実験値に基づいて決定された。そのうちの4つは、ワット天秤を用いて直接測定されたものである。残りの4つは、アボガドロ定数から間接的に得られたものである。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "CIPMはキログラムの定義の変更をCGPMの決議案として提出し、この決議案は2018年11月16日にCGPMによって決議・承認された。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、キログラムと共に、アンペア、ケルビン、モルの定義も大きく変更されたものが決議されたが、これらの変更も併せ、2019年5月20日に施行された。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "それまでの定義に変わる新しい定義の候補として、アボガドロ定数などを用いた各種の提案があった。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アボガドロ定数に基づく定義は、一定個数のケイ素(Si)原子の質量をキログラムとするという原子質量標準である。アボガドロ定数の値をより正確に求めることができれば、そこからケイ素1 kgに含まれるケイ素原子の数を決定することができる。ケイ素が不純物を含まない単結晶を作りやすいために採用された。アボガドロ定数を精密測定する国際プロジェクトが2004年に立ち上がり、各国の研究機関でケイ素を用いてアボガドロ定数の不確かさを少しでも小さくするための研究が行われた。2010年時点でのアボガドロ定数の値",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "(CODATA2010年推奨値。括弧内は標準不確かさ)には、プランク定数と同じく、8桁目に不確かさがあった。アボガドロ定数はモルプランク定数を介してプランク定数と結びついているので、精度の点から見ればキログラムの定義にどちらを採用しても変わりはない。実際、プランク定数の定義値の基になった8つの実験値のうち、4つはケイ素単結晶を用いたアボガドロ定数の測定実験から得られたものである。キログラムの定義にプランク定数が使用されたのは、その方が電気標準において利便性が高いからである。なお、アボガドロ定数はモルの定義に使われることとなった。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "他には以下のような提案があった。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "キログラムの定義が変更されたことにより、国際キログラム原器(IPK)の質量には10 μgの不確かさがあることとなった。また、各国に配布されているキログラム原器の質量には、BIPMによるキャリブレーション証明書(2019年5月20日以前に発行されたもの)に記載されている不確かさの数値に10 μgを加えた不確かさがあることとされた。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "その後、2020年12月に上記の見積り値は見直されており、2021年2月1日からは国際キログラム原器の質量は、1 kg-2 μg であり、その標準不確かさは 20 μg とすることが質量標準供給の国際基準値「合意値(Consensus value)」となった。すなわち、",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "グラム(英語: gram, 仏語: gramme, 記号: g)は質量の単位であり、SIにおいては「キログラムの1000分の1 (10 kg) 」と定義されている。「キログラム」は、明らかにグラムにSI接頭語キロ (kilo-) を付けたものである。しかし、SIにおいては、グラムではなくキログラムが基本単位となっており、グラムはその分量単位の一つとされている。",
"title": "グラムとキログラム"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "グラムではなくキログラムがSI基本単位とされたのは、以下のような経緯があるからである。",
"title": "グラムとキログラム"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "フランスにおいて1789年の革命が勃発した後、国王ルイ16世は新しい時代の度量衡単位の策定を、アントワーヌ・ラヴォアジエ、ニコラ・ド・コンドルセ、ピエール=シモン・ラプラス、ジャン=シャルル・ド・ボルダ、アドリアン=マリ・ルジャンドルなど主に科学者達で構成された委員会に委嘱した。その委員会において、質量単位のモデルとして1メートルの10分の1(= 10 cm)で構成された立方体の升に入った水の質量、すなわち1リットルの大気圧下で氷の溶けつつある温度(0度)における水について、grave(グラーブ、記号G)と名称が与えられた質量単位を標準とすることが提案された。その語源は gravity(重力)から由来したものである。",
"title": "グラムとキログラム"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "当初は、この grave(グラーブ、グラーヴ)を質量の基本単位とした原器が作られる予定であった。またこれを元として、1 grave の1000分の1を別の質量単位名で、仏語 gramme(グラム)ないし gravet(グラベト、グラヴェト)、また1 grave の1000倍を別の質量単位名を用いて tonne(トン)ないし bar(バー)と称するように名称が考案されたりもした。そしてやがて来るフランス革命の波に襲われ、科学者達の研究は途中で中断するが、その後、新しい革命政府が樹立されると再びメートル法が注目されるようになった。しかしそのフランス革命の後、質量の単位は大きな転機を迎えることとなる。",
"title": "グラムとキログラム"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1795年の(暫定)メートル法制定当初、革命後の共和政府が当初の質量の基本単位を grave から、その1000分の1を表す gramme へと変更したのである。理由は諸説あるが、有力な説の一つとして、1 grave という大きさの質量が当時、メートル法以前の昔から使われてきたいくつかの質量の旧単位と比較しても、大きな単位であるということがある。そのためフランスの科学者達は、グラーブは日常的に使う質量単位としては大きすぎるであろうと危惧し、フランス共和政府と共に、質量の基本単位は1グラーブの1000分の1である「1グラムを質量の基本単位とすべき」と決定したという説があるが、真相は定かではない。",
"title": "グラムとキログラム"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "しかし、質量の基本単位を1グラムとすると非常に使い勝手が悪く、とりわけ1グラムを定義した、(1円硬貨ほどの大きさを持つ)原器を作るにはあまりにも小さすぎた。そこで共和政府は基本単位とした1グラムの1000倍、すなわち当初の予定通り1 graveの質量原器を作ることを決めたわけであるが、その名称が使われることはなく、グラムの1000倍を表すために接頭語のキロ (k) を付けた名称、\"キログラム (kg)\"の名前を冠した原器を作ることと決めた。これはあくまでも質量の基本単位をグラムにしたことに起因する。こうして当初の質量単位 grave(グラーブ)の名称は姿を消したのである。",
"title": "グラムとキログラム"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "これが後の1799年に作成された「確定キログラム原器」となった。こうしてメートル法制定当初、長さの単位を m(metre; メートル)、質量の単位を g(gramme; グラム)とした基本単位ができ上がった。しかし、メートルとグラムとではその規模が異なる。すなわち、「数グラムの質量を持つものは、数センチメートル台の大きさ」であることが多く、逆に「メートルで測られる大きさを持つものは、キログラム台の質量を持つ」ことが多い。そのため、メートルの代わりにセンチメートルを採用し、センチメートル(英語:centimeter; 仏語: centimetre)・グラム(英語: gram; 仏語: gramme)・秒(英語: second; 仏語: seconde)を基本単位とする単位系が構築されるようになった。これがCGS単位系である。",
"title": "グラムとキログラム"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "しかし、電磁気学の発展に伴い、CGS単位系では不都合が生じるようになった。CGS単位系を元に電磁気学の単位を作ると、値が大きくなってしまう。これは、電磁気学の現象を記述するには、センチメートル・グラムでは小さすぎるということである。そのため、科学で使われる単位系の主流はメートル・キログラム・秒を基本単位とするMKS単位系へと移行した。また上記に記された1889年のキログラムの新定義により、それ以降のメートル法において質量の基本単位としての礎を築いた。MKS単位系を更に発展させた国際単位系(SI)においても、キログラムが基本単位として引き継がれている。",
"title": "グラムとキログラム"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "キログラムの分量・倍量単位のSI接頭語は、キログラムではなくグラムを基準にして付けられる。これは、SIでは二重にSI接頭語を付けることを禁じているためである。そこで、キログラムを基準としてSI接頭語が付けられるように、キログラムに代わる新たな単位名称を付けようという提案が何度かなされている。quilo(記号:q)や kilon(記号:k)といったものが提案されているが、正式に議論にかけられたものは、現時点ではない。",
"title": "グラムとキログラム"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "いわゆる「1キログラムの重量(重さ)」は、1 kgの質量をもつ物体に重力が働くことによって生じる力であり、これを表すには重量キログラム(kgf, kgw, キログラム重)という、質量のキログラムとは異なる単位がある。定義された重量キログラムは地球表面(の特定の場所)において1 kgの質量を持つ物体に働く約9.80665 N(力のSI単位)の重力である。980.665 cm/s(この値が定義されたときはCGS単位系が主として使われていた)という重力加速度の値は、グラム重を定義するために第3回国際度量衡総会(CGPM)で定められた協定値であるということに注意する必要がある。重力加速度は緯度や高度、場所によって微妙に異なるため、この値が定められるまではグラム重という単位は値が不明確な単位であった。",
"title": "重量との関係"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "SI接頭語は歴史的な理由(上記#グラムとキログラム参照)により、キログラムではなくグラムに対して付けられる。例えば1キログラムの100万分の1の質量は、1「マイクロキログラム」ではなく1ミリグラム(1000分の1グラム)となる。マイクログラムもよく用いられ、「μg」または「mcg」と表記するが、webコンテンツなどでは「μ」に代え「u」と代用表記される、すなわち「ug」となる場合もある。実用されている分量・倍量単位は次の通り。",
"title": "分量・倍量単位"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "次のようにグラムにメガ以上のSI接頭語を付けることも考えられるが、キログラムの1000倍の質量に対して、1メガグラム (Mg) という名前が用いられることは一般にはなく、トンが使われる。さらにはトンの倍量単位に対し、トンにSI接頭語が付されることも多い(とくにキロトン (kt) やメガトン (Mt))。",
"title": "分量・倍量単位"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "SI接頭語はグラムに対して付けられるため、100倍・10倍・1/10および1/100を表すSI接頭語を付けた次のような単位も一応考えられ、後述のようにこれらを表す漢字も作られているが、現実には用いられず、理論上の単位の域を出ない。またかつては1万倍を表す「ミリア」というSI接頭語も存在したが、これもあまり用いられることなく、現在では廃止されている。",
"title": "分量・倍量単位"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "漢字ではグラムが「瓦蘭姆」と音訳され、ここから「瓦」一字だけでグラムの意味を表すようになった。日本では明治時代、中央気象台(現気象庁)が「瓦」をその中に含む以下のような倍量・分量単位の漢字を作り、1891年から各気象台で気象観測の月報などに使用して、一般にも広まった。中国では、「瓦」はワットを表し、グラムには「克」の字を当てているため、それに合わせて「兛」(キログラム)、「兞」(ミリグラム)といった漢字が作られている。",
"title": "表記"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "これらの漢字表記は、計量法上は使用することはできない。",
"title": "表記"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "Unicodeには、文字様記号としてU+210A g script small g、CJK互換用文字として以下の文字が収録されている。",
"title": "符号位置"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "これらは、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであり、使用は推奨されない。",
"title": "符号位置"
}
] | キログラムは、国際単位系(SI)における質量の基本単位である。基本単位にSI接頭語(k)がついているのはキログラムだけである。 現在、kgとはプランク定数によって定義されている。 グラム(gram)はキログラムの1000分の1と定義される。またメートル系トンはキログラムの1000倍(1メガグラム)に等しいと定義される。 単位の「k」は小文字で書き、大文字で「Kg」と表記しない。 | {{単位
|名称=キログラム
|英字=kilogram
|画像=
|記号=kg
|度量衡=[[メートル法]]
|単位系=SI
|種類=[[SI基本単位|基本単位]]
|物理量=[[質量]]
|定義=[[プランク定数]]を{{val|6.62607015|e=-34|u=J s}}とすることによって定まる質量
|由来=最大密度温度での1 [[リットル|L]]の[[水]]の質量
|語源=[[ラテン語]] grámma(書かれた物、わずかな重量)
}}
'''キログラム'''({{lang-fr-short|kilogramme}}、{{lang-en-short|kilogram}}、[[単位記号|記号]]: '''kg''')は、[[国際単位系]](SI)における[[質量]]の[[SI基本単位|基本単位]]である。基本単位に[[SI接頭語]](k)がついているのはキログラムだけである。
現在、kgとは[[プランク定数]]によって定義されている。
[[グラム]]({{lang|en|gram}})はキログラムの1000分の1と定義される。またメートル系[[トン]]({{lang|en|metric ton}})はキログラムの1000倍(1メガグラム)に等しいと定義される。
単位の「k」は[[小文字]]で書き、[[大文字]]で「Kg」と表記しない。
{{See|キロ#小文字を使う理由}}
== 定義 ==
キログラムの定義は[[2018年]][[11月16日]]に次のように改定され<ref>[https://gendai.media/articles/-/55228 キログラムの定義が変わる、そのとき何が起こるのか?] 講談社ブルーバックス、臼田孝、2018年4月24日</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASLCF4TKJLCFULBJ028.html 「キログラム」の定義、変更を決定 「アンペア」なども] 朝日新聞、2018-11-16</ref>、[[2019年]][[5月20日]]に発効された。
{{Quotation|キログラム(記号は kg)は質量の SI 単位であり、プランク定数 ''h'' を単位 J s(kg m{{sup|2}} s{{sup-|1}} に等しい)で表したときに、その数値を {{val|6.62607015|e=-34}} と定めることによって定義される。ここで、メートルおよび秒は ''c'' および ''∆ν''{{sub|Cs}} に関連して定義される<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=17 国際単位系(SI)第 9 版(2019)] p.100、産業技術総合研究所、計量標準総合センター、2020年3月</ref><ref group="注">国際単位系における正式の言語はフランス語である。ここでの定義は英語及びこれを日本語に翻訳したものである。正式な本文の確認が必要な場合又は文章の解釈に疑義がある場合はフランス語版を確認する必要がある。</ref>。}}
''c'' は真空中の光の速さ、 ''∆ν''{{sub|Cs}} は {{sup|133}}Cs ([[セシウム]])の超微細構造遷移周波数である。
この新定義によって、129年にわたって使用されてきた国際キログラム原器(IPK)が廃止された。日本の計量法体系では、計量単位令(平成4年政令第357号)が改正され、2019年[[5月20日]]に施行することにより変更された<ref>[https://www.meti.go.jp/press/2019/05/20190514002/20190514002-4.pdf 計量単位令の一部を改正する政令案 新旧対照条文] 経産省 産業技術環境局 計量行政室、2019年5月14日</ref>。
2021年2月1日からは国際キログラム原器(IPK)の質量の国際合意値は、{{val|0.999999998|(20)}} kg である(後述 [[#国際キログラム原器(IPK)の質量の不確かさ]])。
== 定義の変遷 ==
=== 当初の定義 ===
1キログラムの当初の定義は「[[水]]1[[リットル]]の[[質量]]」であった。[[1795年]]の定義では、「大気圧下で氷の[[融点|溶けつつある温度]]における水」となっていたが<ref name="decree">
{{cite web
|url = http://smdsi.quartier-rural.org/histoire/18germ_3.htm
|title = Decree on weights and measures
|date = 7 April 1795
|accessdate = 2011-11-02
|quote = ''Gramme'', le poids absolu d'un volume d'eau pure égal au cube de la centième partie du mètre , et à la température de la glace fondante.
}}</ref>、その後、水の[[体積]]は[[温度]]に依存することが分かり、そのため、「最大密度における[[水|蒸留水]]1立方[[デシ]][[メートル]](1リットル)の質量」と定義された。しかし、水の密度は気圧と温度に影響され(水の密度が最大となる温度は約4 {{℃}})、気圧にはその因子に質量が含まれている。すなわち、このキログラムの定義には[[循環定義]]が含まれていることになる。
この問題を避けるため、[[1799年]]に、当時のキログラムの定義に合わせた白金製の原器が作製された。このキログラム原器をアルシーヴ原器 ({{fr|kilogramme des Archives}}) と呼ぶ。
=== 国際キログラム原器(IPK)による定義 ===
[[File:Prototype kilogram replica.JPG|thumb|[[シテ科学産業博物館]]に展示されているキログラム原器のレプリカ。二重のガラス製の鐘の中に保管されている]]
2018年まではキログラムの定義は、「'''国際キログラム原器{{enlink|International Prototype of the Kilogram|s=off||en}}''' (IPK)の質量」であった。SI基本単位において、キログラムが普遍的な[[物理量]]ではなく「人工物」に基づいて値が定義される単位として最後まで残った<ref name="名前なし-1">イアン・ホワイトロー、「単位の歴史 測る・計る・量る」p.101、冨永星訳、大月書店、ISBN 978-4-272-44037-5、2009年5月20日第1刷発行</ref>。
[[画像:Prototype mass drifts.jpg|thumb|right|400px|各国のキログラム原器(K21–K40)および、IPKの副原器K32・K8(41)<ref>K8(41)は誤って41番と刻印されたが、付属品は正しく8番とされている。したがって8番と刻印された原器はなく、この原器がK8(41)と呼ばれる。</ref>の経年による質量変化。すべての質量変化はIPKに対する相対変化であり、1889年時点でのIPKに対する偏差を0としている<ref>{{Cite journal |title=The Third Periodic Verification of National Prototypes of the Kilogram (1988–1992) |author=G.{{nbsp}}Girard |journal=Metrologia |volume=31 |issue=4 |year=1994 |pages=317–336 |doi=10.1088/0026-1394/31/4/007|bibcode = 1994Metro..31..317G }}</ref>。上記はすべて相対的測定結果であり、どの原器がもっとも環境変動に対して安定していたかを示す歴史的な測定結果というものは存在しない。どの原器も100年以上の間に質量が増大し、その中ではK21・K35・K40およびIPKが相対的に増加量が少なかったという可能性が高い。]]
[[1875年]]の[[メートル条約]]に基づき、[[1889年]]にキログラムは新しい国際キログラム原器 ({{en|IPK: International Prototype Kilogram}}) の質量と定義された。これは、[[1879年]]に作成された3つの原器のうちの1つである。測定の結果、以前のアルシーヴ原器と当時の技術では質量差が認められなかったものであるが、[[1889年]]の第1回[[国際度量衡総会]]の決定により、この国際キログラム原器がキログラムの定義に使用されることとなった<ref name="Quinn">''New Techniques in the Manufacture of Platinum-Iridium Mass Standards'', T. J. Quinn, Platinum Metals Rev., 1986, '''30''', (2), pp. {{nowrap|74–79}}.</ref>。
国際キログラム原器は直径・高さともに約39 [[ミリメートル|mm]]の[[円柱 (数学)|円柱]]形の、[[プラチナ]](白金)90 %、[[イリジウム]]10 %からなる[[合金]]製の金属塊である<ref>[http://www.bipm.org/en/bipm/mass/ipk/ The International Prototype(IPK)] BIPM</ref><ref>[http://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2012/201203essei.pdf 国際キログラム原器と分析化学] 三浦 勉(産業技術総合研究所計測標準研究部門)、ぶんせき、p.164、2012年3月
</ref><ref name="名前なし-1"/>。[[フランス]]・[[パリ]]郊外[[セーヴル]]の[[国際度量衡局]](BIPM)に、2重の気密容器で真空中に保護された状態で保管されている<ref name="AFPBB">「国際キログラム原器、50マイクログラムの減量明らかに」[https://www.afpbb.com/articles/-/2283851?pid=2144531 AFPBB News]</ref>。
==== キログラム原器の複製 ====
上記1889年の第1回国際度量衡総会において、世界各国で用いる標準原器として各国に国際キログラム原器の複製を配布することが決定された<ref name="aist">https://www.aist.go.jp/science_town/standard/standard_01/standard_01_01.html 「“ものさし”のふるさと!?」 [[産総研]] 2015年10月14日閲覧</ref>。当初40個の複製が作られて各国に配布・保管されている。これらの原器は約40年ごとに特殊な[[天秤ばかり|天秤]]を用いて国際キログラム原器と比較されることになっている<ref>水島他、p.185。</ref>。
==== 日本国キログラム原器 ====
日本は1885年にメートル条約へ加盟したため<ref name=":0" />、日本にも標準原器が配布されることとなった。その後、1889年に作成された複製のうちNo.6が日本に割り当てられ、[[1890年]]に到着した<ref name=":0">[https://unit.aist.go.jp/riem/mass-std/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%8E%9F%E5%99%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%202018_11_18.pdf 日本国キログラム原器について] 産総研 計量標準総合センター 工学計測標準研究部門、質量標準研究グループ長 倉本 直樹、4/7ページ</ref>。日本国内ではこのNo.6を「日本国キログラム原器」としてキログラムの基準に使用している。なお、No.30とNo.39も副原器として日本に配布されたが、No.39は1947年に[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期の朝鮮]](現在の[[大韓民国]])に譲渡したため、1963年にNo.E59を新造し、実験用原器として使用している<ref>[https://unit.aist.go.jp/riem/mass-std/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%8E%9F%E5%99%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%202018_11_18.pdf 日本国キログラム原器について] 産総研 計量標準総合センター 工学計測標準研究部門 質量標準研究グループ長 倉本 直樹、 5/7ページ
</ref>。2009年9月には、BIPMから原器No.94を新規に購入した<ref>水島他、p.190。</ref>。副原器を含めた以上の4器は[[茨城県]][[つくば市]]の[[独立行政法人]][[産業技術総合研究所]]に保管されている。
1991年時点における日本国キログラム原器(No.6)の質量は、1 kg + 0.176 mg(つまり、国際キログラム原器より176 µg だけ重い) であった<ref>[https://unit.aist.go.jp/riem/mass-std/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%8E%9F%E5%99%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%202018_11_18.pdf 日本国キログラム原器について] 2/7ページ、産総研 計量標準総合センター 工学計測標準研究部門
質量標準研究グループ長 倉本 直樹</ref><ref name="mizu188">水島他、p.188。</ref>。2022年に重要文化財に指定<ref>令和4年3月22日文部科学省告示第39号。</ref>。
==== キログラム原器の不安定性 ====
国際キログラム原器の質量は、表面吸着などの影響により年々増加しており、その量は洗浄直後の急速な汚染の他、年に1 μg程度と見られている<ref name="mizu188" />。1988年–1992年の第3回各国キログラム原器の定期校正に際して、42年ぶりに国際キログラム原器の洗浄が行われたが、これにより国際キログラム原器の質量は約50 μg減少した(50 μg は、ちょうど指紋1個に含まれる[[皮脂]]の質量に相当する<ref>臼田孝、新しい1キログラムの測り方、p.75,p.157、ブルーバックス B-2056、2018年4月20日第1刷、講談社、ISBN 978-4-06-502056-2</ref>)。これは1 kgの5{{E|-8}}倍に当たるので、国際キログラム原器による定義の精度は8桁程度ということになる。質量の定義をより明確にするため、質量単位「キログラム」は「洗浄直後の国際キログラム原器の質量値」として解釈されることになった<ref name="mizu188" />。
[[2007年]]9月、国際キログラム原器が50 μg軽くなっているという報道が一部でなされた<ref name="AFPBB" />。しかし、これは同原器が突然50 μg軽くなったことを意味するわけではない。上記のように原器は経年で徐々に質量を増すことが知られているが、BIPMの解説によると、1889年からの間に他の複数の複製と比較して、質量変動が約50 μg少なかったということだという<ref>なおこれは[[1988年]]–[[1992年]]の定期校正時期の知見であり、同様の報道は以前にも[[1990年]]および[[2003年]]ごろにメディアで取り上げられているという。[http://www.bipm.org/en/scientific/mass/faqs2_mass.html BIPM FAQs]。[http://www.bipm.org/en/scientific/mass/verifications.html グラフ]。</ref>。
=== プランク定数による定義 ===
{{see also|SI基本単位の再定義 (2019年)}}
他のSI基本単位は「普遍的な物理量」に基づく定義に改められてきたのに対し、キログラムだけがいまだ「人工物に依存」する単位として残っていた。人工物による定義では、経年変化により値が変化し、また、焼損や紛失のおそれもある。このため[[1970年代]]から、普遍的な物理量によるキログラムの定義が検討されてきた。[[2011年]][[10月21日]]に国際度量衡総会において、キログラム原器による基準を廃止し、新しい定義を設けることが決議された<ref>[http://www.bipm.org/utils/common/pdf/24_CGPM_Convocation_Draft_Resolution_A.pdf (On the possible future revision of the International System of Units, the SI)]</ref>
<ref>{{Cite news|url=http://ajisaibunko.sblo.jp/article/49945119.html
|title=キログラムの基準「原器」廃止へ 長さに続き
|work=asahi.com
|newspaper=[[朝日新聞]]
|date=2011-10-22
|accessdate=2011-10-22
}}</ref>。
この決議を実現するために、キログラムを[[プランク定数]] ''h'' によって定義することが2013年12月に提案された。これはプランク定数がもはや実験値ではなく、定義定数となることを意味する。この提案は、SI文書の第9版の1章{{~}}3章の改訂(案)の一部として提案された<ref>http://www.bipm.org/utils/common/pdf/si_brochure_draft_ch123.pdf] Draft Chapters 1, 2 and 3 of the 9th SI Brochure(Draft dated 16 December 2013) , p.13/29</ref>。
:<math>h = 6.626\, 069\, 57 \times 10^{-34} \, \mathrm{J\, s} </math> (採用されなかった定義値)
これまではIPKの[[不確かさ (測定)|不確かさ]]はゼロで、プランク定数に 4.4{{e|-8}} の不確かさがあった(2013年当時)のに対して、この新しいキログラムの定義では、プランク定数の不確かさはゼロになり、逆にIPKに4.4{{e|-8}}の不確かさがあることになる<ref>[http://www.bipm.org/en/si/new_si/faqs.html] 新しいSIについてのよくある質問、Q10+A10
</ref>。
プランク定数に基づく定義では、静止エネルギーと質量の関係式 [[E=mc2|''E'' = ''mc''<sup>2</sup>]] を用いて、ある振動数 {{mvar|ν}} の[[光子]]のエネルギー ({{math|1=''E'' = ''hν''}}) と等しい[[静止エネルギー]]を持つ物体の質量を1キログラムと定義する。すなわち、
{{Quotation|キログラムは[[周波数]]が {{nowrap|{({{val|299792458}})<sup>2</sup>/{{val|6.62606957}}}× 10<sup>34</sup> [[ヘルツ (単位)|ヘルツ]]}}の[[光子]]の[[エネルギー]]に等価な質量である<ref>[http://www.jikkyo.co.jp/contents/download/9988191246] 藤井賢一, “キログラムの再定義をめぐる最近の動き”, 実教出版, じっきょう理科資料No.57(2005年3月4日発行)
</ref>。}}
この[[2013年]]12月の提案は、[[アンペア]] (A)、[[ケルビン]] (K)、[[モル]] (mol) の再定義と併せて、2014年の第25回[[国際度量衡総会]] (CGPM) で決議することが予定されていた<ref>http://www.bipm.org/utils/en/pdf/Press_release_resolution_1_CGPM.pdf</ref>。しかし、2014年11月18日 – 20日に開催されたCGPMでは、プランク定数の精度が十分でないことなどにより上記の定義への変更はなされず、次の2018年開催予定の第26回[[CGPM]]に向けて定義変更のための諸課題を解決すべし、との決議が採択された<ref>[http://www.bipm.org/utils/common/pdf/CGPM-2014/25th-CGPM-Resolutions.pdf Resolutions adopted by the CGPM at its 25th meeting (18‐20 November 2014)] 表紙を入れてpp.3-4、'''that''' despite this progress the data do not yet appear to be sufficiently robust for the CGPM to adopt the revised SI at its 25th meeting,
'''encourages'''
• continued effort in the NMIs, the BIPM, and academic institutions to obtain data relevant to the determination of h, e, k, and NA with the requisite uncertainties,
• the NMIs to continue acting through the CCs to discuss and review this data,
• the CIPM to continue developing a plan to provide the path via the
Consultative Committees and the CCU for implementing Resolution 1 adopted
by the CGPM at its 24th meeting (2011), and
• continued effort by the CIPM, together with its Consultative Committees, the NMIs, the BIPM, and other organizations such as the International Organization of Legal Metrology (OIML), to complete all work necessary for the CGPM at its 26th meeting to adopt a resolution that would replace the current SI with the revised SI, provided the amount of data, their uncertainties, and level of consistency are deemed satisfactory. </ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22644950U7A021C1CR8000/ 重さの基準、分銅不要に? 「1キロ」決定に新手法]</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20171025/k00/00e/040/255000c kg新基準、日本など確立…原器の分銅 130年で幕]</ref>。
==== プランク定数による定義の提案 ====
プランク定数の新たな定義値は、2015年から2017年にかけて報告された、8つの実験値に基づいて決定された<ref name=SI_9th_mol>{{Cite web|和書|format=PDF|accessdate=2020-10-27|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/6_SI_%E3%83%A2%E3%83%AB.pdf|title = 物質量の単位「モル」の基礎解説とアボガドロ定数にもとづく新たな定義を導いた計測技術|author = 倉本直樹|publisher = [[産業技術総合研究所]] 計量標準総合センター}}</ref>。そのうちの4つは、[[ワット天秤]]を用いて直接測定されたものである。残りの4つは、[[アボガドロ定数]]から間接的に得られたものである。
CIPMはキログラムの定義の変更をCGPMの決議案として提出し、この決議案は2018年11月16日にCGPMによって決議・承認された<ref>[https://www.bipm.org/utils/en/pdf/CGPM/Draft-Resolution-A-EN.pdf Draft Resolution A On the revision of the International System of Units (SI)] Draft Resolution A – 26th meeting of the CGPM (13-16 November 2018),Appendix 3. "The base units of the SI",第3ページ目, 2018-02-06 </ref>。
なお、キログラムと共に、[[アンペア]]、[[ケルビン]]、[[モル]]の定義も大きく変更されたものが決議されたが、これらの変更も併せ、2019年5月20日に施行された<ref>[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/SI-roadmap.pdf Joint CCM and CCU '''roadmap''' for the adoption of the revision of the International System of Units] 3ページ目、2019年の欄</ref><ref>[https://www.bipm.org/utils/en/pdf/CGPM/Draft-Resolution-A-EN.pdf Draft Resolution A On the revision of the International System of Units (SI)] Draft Resolution A – 26th meeting of the CGPM (13-16 November 2018),第1ページ目, 2018-02-06 </ref>。
==== 過去の様々な提案 ====
それまでの定義に変わる新しい定義の候補として、アボガドロ定数などを用いた各種の提案があった。
アボガドロ定数に基づく定義は、一定個数の[[ケイ素]](Si)原子の質量をキログラムとするという原子質量標準である。アボガドロ定数の値をより正確に求めることができれば、そこからケイ素1 kgに含まれるケイ素原子の数を決定することができる。ケイ素が不純物を含まない[[単結晶]]を作りやすいために採用された。アボガドロ定数を精密測定する国際プロジェクトが2004年に立ち上がり、各国の研究機関でケイ素を用いてアボガドロ定数の[[不確かさ (測定)|不確かさ]]を少しでも小さくするための研究が行われた<ref>臼田孝、新しい1キログラムの測り方、pp.170-182、ブルーバックス B-2056、2018年4月20日第1刷、講談社、ISBN 978-4-06-502056-2</ref>。[[2010年]]時点でのアボガドロ定数の値
:{{math|1=''N<sub>A</sub>'' = 6.022 141 29(27) × 10<sup>23</sup> mol<sup>−1</sup>}}
([[CODATA]]2010年推奨値。括弧内は[[標準不確かさ]])には、プランク定数と同じく、8桁目に不確かさがあった。アボガドロ定数は[[モルプランク定数]]を介してプランク定数と結びついているので、精度の点から見ればキログラムの定義にどちらを採用しても変わりはない<ref name="hidaka">日高洋「アボガドロ定数はどこまで求まっているか」『ぶんせき』2005年2月号 pp. 72–76。[http://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2005/kougi02.pdf PDF]</ref>。実際、プランク定数の定義値の基になった8つの実験値のうち、4つはケイ素単結晶を用いたアボガドロ定数の測定実験から得られたものである。キログラムの定義にプランク定数が使用されたのは、その方が電気標準において利便性が高いからである<ref name=SI_9th_mol />。なお、アボガドロ定数は[[モル]]の定義に使われることとなった。
他には以下のような提案があった。
* [[超伝導]]コイルで発生する[[磁場]]で超伝導体を浮揚することによってキログラムと電気量とを関連づけ、コイルに流れる電流により定義する。
* [[ジョセフソン定数]] (''K''<sub>J</sub> = {{val|4.83597870|(11)|e=14|u=Hz/V}}) と[[フォン・クリッツィング定数]] (''R''<sub>K</sub> = {{val|2.58128074434|(84)|e=4|u=Ω}}) を用いて定義する<ref>[[1990年]]には、両定数の協定値を用いた[[協定電気単位]]が制定され、電磁気の単位はこれらにより定義されるものとなっていた。2019年のSI改定後は、[[電気素量]]と[[プランク定数]]が定義値となったことで、それらから導出されるジョセフソン定数やフォン・クリッツィング定数も不確かさのない値となり、(僅かな値の変更を伴いつつ)国際単位系との一貫性を取り戻している。</ref>。すなわち、真空中に1メートルの間隔で平行に置かれた無限に小さい円形の断面を有する無限に長い2本の直線状[[電気伝導体|導体]]のそれぞれに、1秒あたり {{val|6.24150962915265|e=18}} の[[電荷]]による直流の電流が流れるとき、導体に {{val|2|e=-7|u=m/s2}} の[[加速度]]が生じたときの、その導体の1メートル当たりの質量を1キログラムと定義する。
* [[金]]の原子を蓄積し、それを中性化するのに必要な[[電流]]によって定義する。
==== 国際キログラム原器(IPK)の質量の不確かさ ====
キログラムの定義が変更されたことにより、国際キログラム原器(IPK)の質量には10 µgの不確かさがあることとなった<ref> [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/events/seminar/2018/scj-symposium_2018/pdf/1_Usuda.pdf 標準改定の歴史、今回の改定と今後] 臼田孝(国際度量衡委員)、日本学術会議公開シンポジウム、p.28、2018年12月2日</ref>。また、各国に配布されているキログラム原器の質量には、BIPMによるキャリブレーション証明書(2019年5月20日以前に発行されたもの)に記載されている不確かさの数値に10 µgを加えた不確かさがあることとされた<ref>[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/CC/CCM/BIPM_Note-on-kilogram-redefinition.pdf Note on the impact of the redefinition of the kilogram on BIPM mass calibration uncertainties] BIPM,2019-05-20</ref>。
その後、2020年12月に上記の見積り値は見直されており、2021年2月1日からは国際キログラム原器の質量は、1 kg-2 µg であり、その標準不確かさは 20 µg とすることが質量標準供給の国際基準値「合意値(Consensus value)」となった<ref>[https://www.bipm.org/documents/20126/49759984/Calculation+of+the+consensus+value+2020/99498411-54a2-ddfd-5054-4d7beb1ae45f Calculation of the Consensus Value for the Kilogram 2020] Summary, CCM Task Group on the Phases for the Dissemination of the kilogram following redefinition (CCM-TGPfD-kg), December 2020</ref>。すなわち、
* IPKの質量 = {{val|0.999999998|(20)}} kg
である。
== グラムとキログラム ==
'''[[グラム]]'''(英語: {{en|gram}}, 仏語: {{fr|gramme}}, 記号: g)は質量の単位であり、SIにおいては「キログラムの1000分の1 (10<sup>−3</sup> kg) 」と定義されている。「キログラム」は、明らかにグラムに'''[[SI接頭語]][[キロ]] (kilo-) を付けたもの'''である。しかし、SIにおいては、グラムではなく'''キログラムが基本単位'''となっており、グラムはその分量単位の一つとされている。
グラムではなくキログラムがSI基本単位とされたのは、以下のような経緯があるからである。
フランスにおいて1789年の[[フランス革命|革命]]が勃発した後、国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]は新しい時代の度量衡単位の策定を、[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]、[[ニコラ・ド・コンドルセ]]、[[ピエール=シモン・ラプラス]]、[[ジャン=シャルル・ド・ボルダ]]、[[アドリアン=マリ・ルジャンドル]]など主に科学者達で構成された委員会に委嘱した<ref name=Adletinto>{{cite book
|title = The Measure of all Things - The Seven -Year-Odyssey that Transformed the World
|last= Adler
|first= Ken
|year= 2004
|publisher= Abacus
|location= London
|isbn= 0-349-11507-9
|pages= 89}}</ref>。その委員会において、質量単位のモデルとして1メートルの10分の1(= 10 cm)で構成された立方体の升に入った水の質量、すなわち1リットルの大気圧下で氷の溶けつつある温度(0度)における水について、{{fr|grave}}(グラーブ、記号G)と名称が与えられた質量単位を標準とすることが提案された<ref> [http://www.bipm.org/en/si/history-si/name_kg.html The name "kilogram": a historical quirk. BIPM] </ref>。その語源は {{fr|gravity}}(重力)から由来したものである。
当初は、この {{fr|grave}}(グラーブ、グラーヴ)を質量の基本単位とした原器が作られる予定であった。またこれを元として、1 {{fr|grave}} の1000分の1を別の質量単位名で、仏語 {{fr|gramme}}(グラム)ないし {{fr|gravet}}(グラベト、グラヴェト)、また1 {{fr|grave}} の1000倍を別の質量単位名を用いて {{fr|tonne}}(トン)ないし {{fr|bar}}(バー)と称するように名称が考案されたりもした。そしてやがて来るフランス革命の波に襲われ、科学者達の研究は途中で中断するが、その後、新しい革命政府が樹立されると再びメートル法が注目されるようになった。しかしそのフランス革命の後、質量の単位は大きな転機を迎えることとなる。
1795年の(暫定)メートル法制定当初、革命後の共和政府が当初の質量の基本単位を {{fr|grave}} から、その1000分の1を表す {{fr|gramme}} へと変更したのである。理由は諸説あるが、有力な説の一つとして、1 {{fr|grave}} という大きさの質量が当時、メートル法以前の昔から使われてきたいくつかの質量の旧単位と比較しても、大きな単位であるということがある。そのためフランスの科学者達は、グラーブは日常的に使う質量単位としては大きすぎるであろうと危惧し、フランス共和政府と共に、質量の基本単位は1グラーブの1000分の1である「1グラムを質量の基本単位とすべき」と決定したという説があるが、真相は定かではない。
しかし、質量の基本単位を1グラムとすると非常に使い勝手が悪く、とりわけ1グラムを定義した、([[1円硬貨]]ほどの大きさを持つ)原器を作るにはあまりにも小さすぎた。そこで共和政府は基本単位とした1グラムの1000倍、すなわち当初の予定通り1 {{fr|grave}}の質量原器を作ることを決めたわけであるが、その名称が使われることはなく、グラムの1000倍を表すために接頭語のキロ (k) を付けた名称、"キログラム (kg)"の名前を冠した原器を作ることと決めた。これはあくまでも質量の基本単位をグラムにしたことに起因する。こうして当初の質量単位 {{fr|grave}}(グラーブ)の名称は姿を消したのである。
これが後の1799年に作成された「確定キログラム原器」となった。こうして[[メートル法]]制定当初、長さの単位を m({{fr|metre}}; メートル)、質量の単位を g({{fr|gramme}}; グラム)とした基本単位ができ上がった。しかし、メートルとグラムとではその規模が異なる。すなわち、「数グラムの質量を持つものは、数センチメートル台の大きさ」であることが多く、逆に「メートルで測られる大きさを持つものは、キログラム台の質量を持つ」ことが多い。そのため、メートルの代わりにセンチメートルを採用し、センチメートル(英語:{{en|centimeter}}; 仏語: {{fr|centimetre}})・グラム(英語: {{en|gram}}; 仏語: {{fr|gramme}})・秒(英語: {{en|second}}; 仏語: {{fr|seconde}})を基本単位とする単位系が構築されるようになった。これが[[CGS単位系]]である。
しかし、[[電磁気学]]の発展に伴い、CGS単位系では不都合が生じるようになった。CGS単位系を元に電磁気学の単位を作ると、値が大きくなってしまう。これは、電磁気学の現象を記述するには、センチメートル・グラムでは小さすぎるということである。そのため、科学で使われる単位系の主流はメートル・キログラム・秒を基本単位とする[[MKS単位系]]へと移行した。また上記に記された1889年のキログラムの新定義により、それ以降のメートル法において質量の基本単位としての礎を築いた。MKS単位系を更に発展させた国際単位系(SI)においても、キログラムが基本単位として引き継がれている。
キログラムの分量・倍量単位の[[SI接頭語]]は、キログラムではなくグラムを基準にして付けられる。これは、SIでは二重にSI接頭語を付けることを禁じているためである。そこで、キログラムを基準としてSI接頭語が付けられるように、キログラムに代わる新たな単位名称を付けようという提案が何度かなされている。{{fr|quilo}}(記号:q)や {{fr|kilon}}(記号:k)といったものが提案されている<ref>{{Cite book |和書 |author=海老原寛 |year=2005 |title=最新知識 単位・定数小辞典 |publisher=講談社 |page=36 |isbn=406153999X }}</ref>が、正式に議論にかけられたものは、現時点ではない。
== 重量との関係 ==
{{seealso|重さ#質量と重さ }}
いわゆる「1キログラムの[[重量]](重さ)」は、1 kgの質量をもつ物体に重力が働くことによって生じる[[力 (物理学)|力]]であり、これを表すには[[重量キログラム]](kgf, kgw, キログラム重)という、質量のキログラムとは異なる単位がある。定義された重量キログラムは[[地球]]表面(の特定の場所)において1 kgの質量を持つ物体に働く約{{val|9.80665|ul=N}}(力のSI単位)の重力である。980.665 cm/s<sup>2</sup>(この値が定義されたときは[[CGS単位系]]が主として使われていた)という[[重力加速度]]の値は、グラム重を定義するために第3回[[国際度量衡総会]](CGPM)で定められた協定値であるということに注意する必要がある。重力加速度は緯度や高度、場所によって微妙に異なるため、この値が定められるまではグラム重という単位は値が不明確な単位であった。
{{GravEngAbs}}
== 分量・倍量単位 ==
{|class=infobox
|-
|{{SI multiples
|symbol=g
|unit=グラム
|note=よく使われる単位を太字で示す
|k=
|m=
|xm=[[ミリグラム]]
|mc=[[マイクログラム]]
|n=
|xM=メガグラム([[トン]])
}}
|}
SI接頭語は歴史的な理由(上記[[#グラムとキログラム]]参照)により、キログラムではなくグラムに対して付けられる。例えば1キログラムの100万分の1の質量は、1「マイクロキログラム」ではなく1[[ミリグラム]](1000分の1グラム)となる。[[マイクログラム]]もよく用いられ、「μg」または「mcg」と表記するが、webコンテンツなどでは「μ」に代え「u」と代用表記される、すなわち「ug」となる場合もある<ref>京都精華大学環境ソリューション研究機構 [http://www.kyoto-seika.ac.jp/cgi/database/kankyo/keyword/keywords.cgi?sline=401&print=1&keys16=%81%A8%89%F0%90%E0&tid=detail 環境キーワード:マイクロ]</ref>。実用されている分量・倍量単位は次の通り。
* '''キログラム''' (kg) -- 10<sup>3</sup> g ([[1 E0 kg|1 kg]])
* '''グラム''' (g) -- 10<sup>0</sup> g ([[1 E-3 kg|10<sup>−3</sup> kg]])
* '''ミリグラム''' (mg) -- 10<sup>−3</sup> g ([[1 E-6 kg|10<sup>−6</sup> kg]])
** 1[[立方メートル#分量・倍量単位|立方ミリメートル]]の水の質量は1ミリグラムである。
** 砂粒はだいたい1ミリグラム程度である。
* '''マイクログラム''' (μg) (mcg)-- 10<sup>−6</sup> g ([[1 E-9 kg|10<sup>−9</sup> kg]])
** ジュースなどの成分表示で「~μg」という表示が見られる。
* '''ナノグラム''' (ng) -- 10<sup>−9</sup> g ([[1 E-12 kg|10<sup>−12</sup> kg]])
* '''ピコグラム''' (pg) -- 10<sup>−12</sup> g ([[1 E-15 kg|10<sup>−15</sup> kg]])
* '''フェムトグラム''' (fg) -- 10<sup>−15</sup> g ([[1 E-18 kg|10<sup>−18</sup> kg]])
* '''アトグラム''' (ag) -- 10<sup>−18</sup> g ([[1 E-21 kg|10<sup>−21</sup> kg]])
* '''ゼプトグラム''' (zg) -- 10<sup>−21</sup> g ([[1 E-24 kg|10<sup>−24</sup> kg]])
* '''ヨクトグラム''' (yg) -- 10<sup>−24</sup> g ([[1 E-27 kg|10<sup>−27</sup> kg]])
** [[核子]]・[[原子]]・[[分子]]の質量はヨクトグラムのオーダーである。より軽い粒子のためにはヨクトグラムでも大きすぎるが、現時点ではヨクトよりも小さな値を表すSI接頭語は存在しない。
** 1[[原子質量単位]]は 1.660 54 yg
** [[電子]]の質量は 0.000 91 yg
** [[陽子]]の質量は 1.672 6 yg
** [[中性子]]の質量は 1.674 9 yg
次のようにグラムにメガ以上の[[SI接頭語]]を付けることも考えられるが、キログラムの1000倍の質量に対して、1[[メガ]]グラム (Mg) という名前が用いられることは一般にはなく、[[トン]]が使われる。さらにはトンの倍量単位に対し、トンにSI接頭語が付されることも多い(とくにキロトン (kt) やメガトン (Mt))。
* '''ヨタグラム''' (Yg) -- 10<sup>24</sup> g ([[1 E21 kg|10<sup>21</sup> kg]], 10<sup>18</sup> t (1 Et))
** 例: [[ウンブリエル]](天王星の衛星)、[[ディオネ (衛星)|ディオネ]](土星の衛星)、[[ケレス (準惑星)|ケレス]](準惑星)
* '''ゼタグラム''' (Zg) -- 10<sup>21</sup> g ([[1 E18 kg|10<sup>18</sup> kg]], 10<sup>15</sup> t (1 Pt))
* '''エクサグラム''' (Eg) -- 10<sup>18</sup> g ([[1 E15 kg|10<sup>15</sup> kg]], 10<sup>12</sup> t (1 Tt))
* '''ペタグラム''' (Pg) -- 10<sup>15</sup> g ([[1 E12 kg|10<sup>12</sup> kg]], 10<sup>9</sup> t (1 Gt))
* '''テラグラム''' (Tg) -- 10<sup>12</sup> g ([[1 E9 kg|10<sup>9</sup> kg]], 10<sup>6</sup> t (1 Mt))
* '''ギガグラム''' (Gg) -- 10<sup>9</sup> g ([[1 E6 kg|10<sup>6</sup> kg]], 10<sup>3</sup> t (1 kt))
* '''メガグラム''' (Mg) -- 10<sup>6</sup> g ([[1 E3 kg|10<sup>3</sup> kg]], 1 t)
[[SI接頭語]]はグラムに対して付けられるため、100倍・10倍・1/10および1/100を表すSI接頭語を付けた次のような単位も一応考えられ、後述のようにこれらを表す漢字も作られているが、現実には用いられず、理論上の単位の域を出ない。またかつては1万倍を表す「ミリア」というSI接頭語も存在したが、これもあまり用いられることなく、現在では廃止されている。
* '''ミリアグラム''' -- 10<sup>4</sup> g ([[1 E1 kg|10<sup>1</sup> kg]])
* '''ヘクトグラム''' (hg) -- 10<sup>2</sup> g ([[1 E-1 kg|10<sup>−1</sup> kg]])
* '''デカグラム''' (dag) -- 10<sup>1</sup> g ([[1 E-2 kg|10<sup>−2</sup> kg]])
* '''デシグラム''' (dg) -- 10<sup>−1</sup> g ([[1 E-4 kg|10<sup>−4</sup> kg]])
* '''センチグラム''' (cg) -- 10<sup>−2</sup> g ([[1 E-5 kg|10<sup>−5</sup> kg]])
== 表記 ==
[[漢字]]ではグラムが「瓦蘭姆」と音訳され、ここから「瓦」一字だけでグラムの意味を表すようになった。日本では明治時代、中央気象台(現[[気象庁]])が「瓦」をその中に含む以下のような倍量・分量単位の漢字を作り、1891年から各気象台で気象観測の月報などに使用して、一般にも広まった。中国では、「瓦」はワットを表し、グラムには「克」の字を当てているため、それに合わせて「兛」(キログラム)、「兞」(ミリグラム)といった漢字が作られている。
これらの漢字表記は、[[計量法]]上は使用することはできない。
* マイクログラム (μg) -- {瓦少} ([[ファイル:瓦/少.gif]])
* ミリグラム (mg) -- 瓱
* センチグラム (cg) -- 甅
* デシグラム (dg) -- 瓰
* デカグラム (dag) -- 瓧
* ヘクトグラム (hg) -- 瓸
* キログラム (kg) -- 瓩(中国では、日本と独立に[[キロワット]]の意味の文字として作られている)
* ミリアグラム (10<sup>4</sup> g) -- {瓦万} ([[ファイル:瓦/万.gif]])
* トン (t, 10<sup>3</sup> kg) -- 瓲 (略して 屯 とも表記される)
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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*{{Unichar|338D|Square mu g}}
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*{{Unichar|3318|Square Guramu}}
*{{Unichar|3319|Square Guramuton}}
これらは、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであり、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=https://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。
== 参考文献 ==
* 水島茂喜、上田和永、大岩彰「1kg質量標準の校正(2008-2009)」『産総研計量標準報告』Vol.8 (2011) No.2, pp.185-200。[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/bulletin/Vol8/2/V8N2P185.pdf 計量標準総合センター]
* [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/events/seminar/2017/Forum2017/pdf/fujii_20180124.pdf プランク定数にもとづくキログラムの新しい定義] 産業技術総合研究所(AIST)計量標準総合センター(NMIJ)工学計測標準研究部門 藤井 賢一 ,2018-01-24
* [https://www.youtube.com/embed/KARtlqNeDZk 新しい1キログラムの測り方-さらばキログラム原器] 【産総研公式】 説明動画、産業技術総合研究所 倉本直樹、2021年12月11日
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 関連項目 ==
* [[メートル条約]]
* [[質量の比較]]
* [[1001グラム ハカリしれない愛のこと]]([[:en:1001 Grams|英語版]]) - [[ベント・ハーメル]]監督の[[ノルウェー]]映画。国際キログラム原器およびノルウェーのキログラム原器にまつわるストーリーである。
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{Wiktionary}}
* [http://www.bipm.org/en/scientific/mass/prototype.html BIPM - International prototype of the kilogram] - [[国際度量衡局]]の国際キログラム原器に関するWebページ
* [https://www.aist.go.jp/taisaku/ja/kg/announce.html キログラム定義改定特設サイト] - 産業技術総合研究所
* [https://www.youtube.com/embed/KARtlqNeDZk 新しい1キログラムの測り方-さらばキログラム原器] 【産総研公式】 説明動画、産業技術総合研究所 倉本直樹、2021年12月11日
* [https://www.asahi.com/articles/ASLCF4TKJLCFULBJ028.html 「キログラム」の定義、変更を決定 「アンペア」なども(朝日新聞デジタル記事、2018年11月16日21時26分)]
* {{Wayback |url=https://www.yomiuri.co.jp/science/20181116-OYT1T50111.html |title=質量の単位「kg」130年ぶり定義見直し(読売新聞デジタル記事、2018年11月16日22時04分)|date=20181116220113 }}
* [https://www.tan-i-kansan.com/category/%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%81%AE%E9%87%8D%E3%81%95%EF%BD%9C%E5%8D%98%E4%BD%8D%E6%8F%9B%E7%AE%97%E8%A1%A8/ キログラム(質量)単位換算表]
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[[Category:質量の単位]]
[[Category:SI基本単位]]
[[Category:国際単位系]]
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9,125 | 上界 | 上界(じょうかい) | [
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] | 上界(じょうかい) 数学で、ある部分集合の任意の要素より小さくない要素。順序集合を参照。
生物学で、リンネ式分類の階層の1つ。界の上。ドメインと同義とされることもある。
仏教で、無色界と色界。三界も参照。
天界。あるいは、天国、天など。 | '''上界'''(じょうかい)
*数学で、ある部分集合の任意の要素より小さくない要素。''[[順序集合#上界|順序集合]]''を参照。
*生物学で、リンネ式分類の階層の1つ。[[界 (分類学)|界]]の上。[[ドメイン (分類学)|ドメイン]]と同義とされることもある。
*仏教で、[[無色界]]と[[色界]]。[[三界]]も参照。
*[[天界]]。あるいは、[[天国]]、[[天]]など。
== 関連項目 ==
* [[下界 (曖昧さ回避)]]
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9,128 | 下界 | 下界(げかい、かかい) | [
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天界に対し、地上の世界。
登山をする人の俗語で、(山中ではない)一般社会。
かかい
数学で、ある部分集合の任意の要素より大きくない要素。順序集合を参照。
生物学で、リンネ式分類の階層の1つ。界の下の亜界の下。 | 下界(げかい、かかい)
*げかい
**仏教で、[[欲界]]。[[三界]]も参照。
**[[天界]]に対し、地上の世界。
**[[登山]]をする人の俗語で、(山中ではない)一般社会。
*かかい
**数学で、ある部分集合の任意の要素より大きくない要素。''[[順序集合#下界|順序集合]]''を参照。
**生物学で、リンネ式分類の階層の1つ。[[界 (分類学)|界]]の下の亜界の下。
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9,129 | トン | トン(tonne, ton フランス語: [tɔn] 英語: [tʌn], 記号: t)は、質量の単位である。SI単位ではなく、分・時・日、度・分・秒、ヘクタール、リットル、天文単位などとともに「SI単位と併用できる非SI単位」である(SI併用単位#SI接頭語と組み合わせることができない単位)。
そのほか、質量以外の各種の物理量に対して使われるトンもある。
元来はヤード・ポンド法の単位である。15世紀後半に使用され始めた。トンという名称は、古英語のtunne、さらには古フランス語のtonneが語源で、それは「樽」という意味である。当初は、252ワインガロン (0.954 m) 入りの樽に入る水の重さ約2100 lb(ポンド)を1トンとしていた。
メートル法における単位 トン(tonne) とその記号「t」は、1879年の国際度量衡委員会で採択されたものである。 メートル系のトンに加えて、ヤード・ポンド法のトン(ロングトン、ショートトン)もあるので、その表記と単位記号は複雑なものとならざるを得ない(後述)。
日本の計量法体系では、計量単位の表記は、カタカナの「トン」のみである。漢字表記として「屯」があるが、計量法では認められておらず、使用することはできない。また、「噸」は英トン、「瓲」は仏トンを表す別の字である。これは英国系単位に口偏を付ける習慣があったからである。なお、「屯」は「噸」の略字である。
フランス語の表記と英語表記(アメリカ合衆国を除く)は、tonne であるが、アメリカ合衆国では、この表記は使われず、「metric ton」(日本語では、メートルトン 又は、メートル系トンと訳される。フランス語の表記は、tonne métrique)と表記される。合衆国政府は、官報(en:Federal Register)において、tonne ではなく metric ton を用いると、わざわざ宣言している。
トンの記号は、日本の計量法体系でも、国際単位系(SI)でも、小文字、立体活字の「t」である。
記号を大文字の「T」と誤記すると、磁束密度の単位であるテスラの記号、「T」 と紛れてしまう(これは人物に由来するものであるため)。また、特殊の計量である「船舶の体積の計量」の単位である「トン」の記号は大文字の「T」であるので、これとも紛れることになる。
「t」は、単位の記号であっても略称ではないため、「t.」のように「ピリオド」を付してはならない。
日本を始めとするメートル法を広く使用している国では、質量の単位として現在使われるトンとは、キログラム (kg) を基準に定義されたメトリックトン (metric ton) のことを指す。1メトリックトンは1000キログラム(1メガグラム)に等しいと定義されている。メトリックトン(日本語では「メートルトン、メートル系トン」)は、グラムに基づくトンであることからグラムトン、メートル法がフランス発祥であることから仏トン、フランストン、フレンチトン (French ton)ともいう。
メトリックトンの歴史は、1879年まで遡る。18世紀末メートル法制定以後、グラムというメートル法の質量の基本単位(1901年以後、キログラムが正式にメートル法の基本単位として認められる)を用いて大きな質量を表示する場合、当時は1000倍を表すキロ (k) から1000分の1を表すミリ (m) までの限られた接頭語しか存在しなかったため、キログラム以上の大きさを表記する方法がなかった。また、キログラムの1000倍という意味で、キロキログラムと二重に接頭語を用いて混乱を招きやすかったため、1879年当時国際度量衡委員会において質量1000キログラムを表すものとして、またトンを表す記号として「t」の使用を採択したのである。これにより、メートル法における質量の単位として正式にメトリックトンが認められた。
現在ではメトリックトンはSI併用単位(SIと併用できるがSIに属さない単位)である。一方、メートル法の諸所の単位統一を目指して国際単位系 (SI) が誕生した1960年になって、100万倍を表すメガ (M) という大きな接頭語が追加されたので、キログラムの1000倍を表す単位としてメガグラム (Mg) が誕生した。メガグラム (Mg) とメトリックトン (t) は同一の質量を表す単位であり、国際単位系ではSI接頭語付SI単位のメガグラムを(優先して)使用することを推奨しているものの、現状では併用を認められているメトリックトンの方が歴史的に長い間使用されてきたため、幅広く認知され今日に至っている。
SI併用単位にはSI接頭語を付けることができる(時間の単位を除く。)ので、トンについても「キロトン」や「メガトン」のように使うことができる。
本来のトンはヤード・ポンド法の質量の単位である。それにできるだけ近いメートル法の単位として作られたのがメトリックトンである。
ヤード・ポンド法のトンは、1t = 20 cwt(ハンドレッドウェイト)と定義されているが、ハンドレッドウェイトがイギリス(帝国単位)では112ポンド (= 50.80234544 kg)、アメリカ(米国慣用単位)では100ポンド (= 45.359237 kg) であるために、トンの大きさも異なる。それぞれ英トン(ロングトン、グロストン)、米トン(ショートトン、ネットトン)と呼ばれている。
英トンは2240ポンドであり、正確に1016.0469088キログラムに等しい。イギリスでは単に「トン」(ton) と言えば英トンのことを指し、英国やその影響を受けている地域では広く使われている。ただし、イギリスは公式にメートル法への移行を進めていること、英トンとメトリックトンは1.6%程度しか違いがなく、日常生活においては混同しても問題が小さいことから、メトリックトンもよく使われている。
米トンは2000ポンドであり、正確に907.18474キログラムに等しい。アメリカでは単に「トン」(ton) と言えば米トンのことを指し、英トンと異なり10%ほどの差があることから、メトリックトン (tonne) とは厳密に区別される。
15世紀以前のイングランドでは、1ハンドレッドウェイトが108ポンドであったため、1トンは2160ポンドであった。
英米では、ヤード・ポンド法のトンは ton と書き、メトリックトンはフランス語風に tonne と書いて区別している。ただし、米国では、metric ton の表記が公式には正しい(前述)。アメリカ合衆国ではメトリックトンをフランス語の単語を使って「ミリヤー」(millier)や「トノー」(tonneau)とも呼んでいたが、これらの呼称は1975年に廃止された。
記号では統一された使い分けはないが、ヤード・ポンド法のトンを T、メトリックトンを t で区別したり、s.t. (short ton) や l.t. (long ton) に対して m.t. (metric tonne) を使ったりすることもある。
「重量トン」の意味でトンを使うことがある。これは、重量キログラムの意味でキログラムを使うのと同じである。ただし重量トンも、トンをその意味で使うことも、SIでは認められていない(これもキログラムなどと同様である)。
船舶の大きさは各種のトンを使ったトン数 (tonnage) で表される。
質量には載貨重量トン数、排水量トン数などがある。質量ではなく体積(主に容積)を表すものには総トン数、国際総トン数、純トン数、載貨容積トン数がある。各種あるのは、そもそもトンの単位としての値が違う場合のほか、トンが同じでも容積として計上する箇所の違いなどがあるからである。
質量のトンを使って定義されているものは、英トンが使われている。
核爆弾の核爆発の威力 (yield) はTNT火薬1 t (1000 kg。「1仏トン」というニュアンス) の爆発力に換算されて表される。TNT火薬の爆発力には幅があるが、便宜的に平均1000 calth/g(1グラムあたり1000熱力学カロリー)とされているので、TNT火薬1 tの爆発力は1 Gcalth = 4.184 GJ(ギガジュール)となる。実際はSI接頭語を付けたキロトン (kt) かメガトン (Mt) が使われることが多い。
冷凍機の冷凍能力を、「1トン、0°Cの水を24時間で0°Cの氷にできる冷凍能力」を基準として冷凍トンという形で表現することがある。日本ではメートルトンが、アメリカでは米トンが用いられるため、数値が若干異なる。
また、Unicodeには、トンとその分量・倍量単位を表す上記の文字が収録されている。これらはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。 | [
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"text": "記号を大文字の「T」と誤記すると、磁束密度の単位であるテスラの記号、「T」 と紛れてしまう(これは人物に由来するものであるため)。また、特殊の計量である「船舶の体積の計量」の単位である「トン」の記号は大文字の「T」であるので、これとも紛れることになる。",
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"text": "日本を始めとするメートル法を広く使用している国では、質量の単位として現在使われるトンとは、キログラム (kg) を基準に定義されたメトリックトン (metric ton) のことを指す。1メトリックトンは1000キログラム(1メガグラム)に等しいと定義されている。メトリックトン(日本語では「メートルトン、メートル系トン」)は、グラムに基づくトンであることからグラムトン、メートル法がフランス発祥であることから仏トン、フランストン、フレンチトン (French ton)ともいう。",
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"text": "メトリックトンの歴史は、1879年まで遡る。18世紀末メートル法制定以後、グラムというメートル法の質量の基本単位(1901年以後、キログラムが正式にメートル法の基本単位として認められる)を用いて大きな質量を表示する場合、当時は1000倍を表すキロ (k) から1000分の1を表すミリ (m) までの限られた接頭語しか存在しなかったため、キログラム以上の大きさを表記する方法がなかった。また、キログラムの1000倍という意味で、キロキログラムと二重に接頭語を用いて混乱を招きやすかったため、1879年当時国際度量衡委員会において質量1000キログラムを表すものとして、またトンを表す記号として「t」の使用を採択したのである。これにより、メートル法における質量の単位として正式にメトリックトンが認められた。",
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"text": "本来のトンはヤード・ポンド法の質量の単位である。それにできるだけ近いメートル法の単位として作られたのがメトリックトンである。",
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"text": "ヤード・ポンド法のトンは、1t = 20 cwt(ハンドレッドウェイト)と定義されているが、ハンドレッドウェイトがイギリス(帝国単位)では112ポンド (= 50.80234544 kg)、アメリカ(米国慣用単位)では100ポンド (= 45.359237 kg) であるために、トンの大きさも異なる。それぞれ英トン(ロングトン、グロストン)、米トン(ショートトン、ネットトン)と呼ばれている。",
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"text": "英トンは2240ポンドであり、正確に1016.0469088キログラムに等しい。イギリスでは単に「トン」(ton) と言えば英トンのことを指し、英国やその影響を受けている地域では広く使われている。ただし、イギリスは公式にメートル法への移行を進めていること、英トンとメトリックトンは1.6%程度しか違いがなく、日常生活においては混同しても問題が小さいことから、メトリックトンもよく使われている。",
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{
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"text": "米トンは2000ポンドであり、正確に907.18474キログラムに等しい。アメリカでは単に「トン」(ton) と言えば米トンのことを指し、英トンと異なり10%ほどの差があることから、メトリックトン (tonne) とは厳密に区別される。",
"title": "質量の単位"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "15世紀以前のイングランドでは、1ハンドレッドウェイトが108ポンドであったため、1トンは2160ポンドであった。",
"title": "質量の単位"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "英米では、ヤード・ポンド法のトンは ton と書き、メトリックトンはフランス語風に tonne と書いて区別している。ただし、米国では、metric ton の表記が公式には正しい(前述)。アメリカ合衆国ではメトリックトンをフランス語の単語を使って「ミリヤー」(millier)や「トノー」(tonneau)とも呼んでいたが、これらの呼称は1975年に廃止された。",
"title": "質量の単位"
},
{
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"text": "記号では統一された使い分けはないが、ヤード・ポンド法のトンを T、メトリックトンを t で区別したり、s.t. (short ton) や l.t. (long ton) に対して m.t. (metric tonne) を使ったりすることもある。",
"title": "質量の単位"
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{
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"text": "「重量トン」の意味でトンを使うことがある。これは、重量キログラムの意味でキログラムを使うのと同じである。ただし重量トンも、トンをその意味で使うことも、SIでは認められていない(これもキログラムなどと同様である)。",
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"text": "船舶の大きさは各種のトンを使ったトン数 (tonnage) で表される。",
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"text": "質量には載貨重量トン数、排水量トン数などがある。質量ではなく体積(主に容積)を表すものには総トン数、国際総トン数、純トン数、載貨容積トン数がある。各種あるのは、そもそもトンの単位としての値が違う場合のほか、トンが同じでも容積として計上する箇所の違いなどがあるからである。",
"title": "派生した単位"
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{
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"text": "質量のトンを使って定義されているものは、英トンが使われている。",
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"text": "核爆弾の核爆発の威力 (yield) はTNT火薬1 t (1000 kg。「1仏トン」というニュアンス) の爆発力に換算されて表される。TNT火薬の爆発力には幅があるが、便宜的に平均1000 calth/g(1グラムあたり1000熱力学カロリー)とされているので、TNT火薬1 tの爆発力は1 Gcalth = 4.184 GJ(ギガジュール)となる。実際はSI接頭語を付けたキロトン (kt) かメガトン (Mt) が使われることが多い。",
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"text": "冷凍機の冷凍能力を、「1トン、0°Cの水を24時間で0°Cの氷にできる冷凍能力」を基準として冷凍トンという形で表現することがある。日本ではメートルトンが、アメリカでは米トンが用いられるため、数値が若干異なる。",
"title": "派生した単位"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、Unicodeには、トンとその分量・倍量単位を表す上記の文字が収録されている。これらはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。",
"title": "符号位置"
}
] | トンは、質量の単位である。SI単位ではなく、分・時・日、度・分・秒、ヘクタール、リットル、天文単位などとともに「SI単位と併用できる非SI単位」である(SI併用単位#SI接頭語と組み合わせることができない単位)。 そのほか、質量以外の各種の物理量に対して使われるトンもある。 | {{otheruses|質量の単位|船の大きさ|トン数|その他}}
{{単位
|名称=トン(メトリックトン)
|英字=tonne(米国以外), metric ton(米国)
|記号=t
|度量衡= [[メートル法]]、[[非SI単位]]
|単位系=[[MTS単位系]]、SI単位と併用できる非SI単位([[SI併用単位]])
|物理量=[[質量]]
|定義=10{{sup|3}}[[キログラム|kg]] = 1000 kg = 1 Mg
|画像=
}}
{{単位
|名称=英トン
|英字=ton, long ton, gross ton
|記号=t, l.t., l/t, L/T
|単位系=[[ヤード・ポンド法]]
|物理量=[[質量]]
|定義=20 英[[ハンドレッドウェイト|cwt]] = 2240 [[ポンド (質量)|lb]]
|SI={{val|1016.0469088|u=kg}}(正確に)
|画像=
}}
{{単位
|名称=米トン
|英字=ton, short ton, net ton
|記号=t, s.t., s/t, S/T
|単位系=[[ヤード・ポンド法]]
|物理量=[[質量]]
|定義=20 米cwt = 2000 lb
|SI={{val|907.18474|u=kg}}(正確に)
|画像=
}}
'''トン'''(tonne, ton {{IPA-fr|tɔn|lang}} {{IPA-en|tʌn|lang}}, 記号: '''t''')は、[[質量]]の[[物理単位|単位]]である。SI単位ではなく、[[分]]・[[時間 (単位)|時]]・[[日]]、[[度 (角度)|度]]・[[分 (角度)|分]]・[[秒 (角度)|秒]]、[[ヘクタール]]、[[リットル]]、[[天文単位]]などとともに「SI単位と併用できる[[非SI単位]]」である<ref>{{cite book|和書|url=https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf#page=37|title=国際文書 国際単位系 (SI)|edition=第 8 版日本語版|year=2006|author=独立行政法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター|ref=SI8thja}} p.36 「表 6 SI 単位と併用される非 SI 単位」</ref>([[SI併用単位#SI接頭語と組み合わせることができない単位]])。
そのほか、[[質量]]以外の各種の[[物理量]]に対して使われるトンもある。
== 由来 ==
元来は[[ヤード・ポンド法]]の単位である。[[15世紀]]後半に使用され始めた。トンという名称は、[[古英語]]の''tunne''、さらには[[古フランス語]]の''tonne''が語源で、それは「[[樽]]」という意味である。当初は、252[[ガロン|ワインガロン]] (0.954 [[立方メートル|m{{sup|3}}]]) 入りの樽に入る[[水]]の重さ約2100 lb([[ポンド (質量)|ポンド]])を1トンとしていた。
== 表記 ==
メートル法における単位 トン(tonne) とその記号「t」は、[[1879年]]の[[国際度量衡委員会]]で採択されたものである。
メートル系のトンに加えて、ヤード・ポンド法のトン(ロングトン、ショートトン)もあるので、その表記と単位記号は複雑なものとならざるを得ない(後述)。
=== 単位の名称・表記 ===
日本の計量法体系では、計量単位の表記は、カタカナの「'''トン'''」のみである<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051#1357|title=計量法(平成四年法律第五十一号)別表第1|date=2014-06-13|quote=2016年4月1日施行分|website=e-Gov法令検索|accessdate=2019-12-29}}</ref>。
[[1952年]]([[昭和]]27年)[[2月29日]]までは漢字表記として「'''屯'''」が使われていた。
[[常用漢字]]表にあるが、1952年(昭和27年)[[3月1日]]の[[計量法]]制定後は計量法で認められておらず使用することはできない。
また、「'''噸'''」は英トン、「'''瓲'''」は仏トンを表す別の字である。これは英国系単位に[[口偏]]を付ける習慣があったからである。なお、「屯」は「噸」の略字である。
「噸」と「瓲」は[[1942年]](昭和17年)に[[国語審議会]]から発表された標準漢字表案の段階において準常用漢字から外され<ref>修正加え、二千五百二十八字本決り『毎日新聞』昭和17年6月18日大阪版(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p710 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>、[[戦後|第二次世界大戦後]]は使用機会も無くなった。
フランス語の表記と英語表記(アメリカ合衆国を除く)は、tonne である<ref>[http://www.bipm.org/en/publications/si-brochure/chapter4.html Table 6. Non-SI units accepted for use with the International System of Units] massの欄 </ref>が、アメリカ合衆国では、この表記は使われず、「metric ton」(日本語では、メートルトン 又は、メートル系トン<ref>{{cite book|和書|url=https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf#page=37|title=国際文書 国際単位系 (SI)|edition=第 8 版日本語版|year=2006|author=独立行政法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター|ref=SI8thja}} p.36、(注)(g)における訳語</ref>と訳される。フランス語の表記は、tonne métrique)と表記される。合衆国政府は、官報([[:en:Federal Register]])において、tonne ではなく metric ton を用いると、わざわざ宣言している<ref>[http://physics.nist.gov/cuu/pdf/SI_FRN_Notice_2008.pdf Federal Register / Vol. 73, No. 96 / Friday, May 16, 2008 / Notices 28433] 28433ページの左欄 中程から下の記述、 II. Modifications to the SI for Its Use in
the United States The 2008 Edition of NIST SP 330 differs from the ‘‘SI Brochure’’ to conform to the language and customary use of measurement units in the United States: (中略)b. The name of the unit with symbol t is defined according to 1 t = 10{{sup|3}} kg which is called ‘‘metric ton’’ rather than ‘‘tonne;’’ </ref>。
=== 単位記号 ===
トンの記号は、日本の計量法体系でも<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080 計量単位規則] 別表第二(第2条関係)「質量」の欄に、「トン t」とある。</ref>、国際単位系(SI)でも<ref>{{cite book|和書|url=https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf#page=37|title=国際文書 国際単位系 (SI)|edition=第 8 版日本語版|year=2006|author=独立行政法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター|ref=SI8thja}} p.36</ref>、小文字、[[立体活字]]の「'''t'''」である。
記号を大文字の「'''T'''」と誤記すると、[[磁束密度]]の単位である[[テスラ (単位)|テスラ]]の記号<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080 計量単位規則] 別表第二(第2条関係)、磁束密度の欄 </ref><ref>{{cite book|和書|url=https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf#page=30|title=国際文書 国際単位系 (SI)|edition=第 8 版日本語版|year=2006|author=独立行政法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター|ref=SI8thja}} p.29、表3、テスラの欄</ref>、「T」 と紛れてしまう(これは人物に由来するものであるため)。また、特殊の計量である「船舶の体積の計量」の単位である「トン」の記号は大文字の「T」である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080 計量単位規則] 別表第四(第2条関係)「船舶の体積の計量」の欄</ref>ので、これとも紛れることになる。
「t」は、単位の'''記号であっても略称ではない'''ため、「t.」のように「ピリオド」を付してはならない。
== 質量の単位 ==
=== メートル法 ===
日本を始めとする[[メートル法]]を広く使用している国では、質量の単位として現在使われるトンとは、[[キログラム]] (kg) を基準に定義された'''メトリックトン''' ([[:en:Tonne|metric ton]]) のことを指す。1メトリックトンは1000キログラム(1[[メガ]]グラム)に等しいと定義されている<ref>「[https://web.archive.org/web/20191008102417/https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf#page=37 国際文書第8版 (2006) 国際単位系 (SI) 日本語版]」「表6 SI単位と併用される非SI単位」、p.36</ref>。メトリックトン(日本語では「'''メートルトン'''、'''メートル系トン'''<ref>「[https://web.archive.org/web/20191008102417/https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf#page=37 国際文書第8版 (2006) 国際単位系 (SI) 日本語版]」「表6 SI単位と併用される非SI単位」の注記 (g)、p.36</ref>」)は、[[グラム]]に基づくトンであることから'''グラムトン'''、メートル法がフランス発祥であることから'''仏トン'''、'''フランストン'''、'''フレンチトン''' (French ton)ともいう。
メトリックトンの歴史は、[[1879年]]まで遡る。[[18世紀]]末メートル法制定以後、グラムというメートル法の質量の基本単位([[1901年]]以後、キログラムが正式にメートル法の基本単位として認められる)を用いて大きな質量を表示する場合、当時は1000倍を表すキロ (k) から1000分の1を表すミリ (m) までの限られた接頭語しか存在しなかったため、キログラム以上の大きさを表記する方法がなかった。また、キログラムの1000倍という意味で、キロキログラムと二重に接頭語を用いて混乱を招きやすかったため、1879年当時国際度量衡委員会において質量1000キログラムを表すものとして、またトンを表す記号として「t」の使用を採択したのである。これにより、メートル法における質量の単位として正式にメトリックトンが認められた。
現在ではメトリックトンは[[SI併用単位]](SIと併用できるがSIに属さない単位)である。一方、メートル法の諸所の単位統一を目指して国際単位系 (SI) が誕生した[[1960年]]になって、100万倍を表すメガ (M) という大きな接頭語が追加されたので、キログラムの1000倍を表す単位としてメガグラム (Mg) が誕生した。メガグラム (Mg) とメトリックトン (t) は同一の質量を表す単位であり、国際単位系では'''[[SI接頭語]]付SI単位のメガグラムを'''(優先して)使用することを推奨しているものの、現状では併用を認められているメトリックトンの方が歴史的に長い間使用されてきたため、幅広く認知され今日に至っている。
SI併用単位には[[SI接頭語]]を付けることができる(時間の単位を除く。)ので<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月、p.114</ref>、トンについても「キロトン」や「メガトン」のように使うことができる。
=== ヤード・ポンド法 ===
{{seealso|ロングトン|ショートトン}}
本来のトンは[[ヤード・ポンド法]]の質量の単位である。それにできるだけ近いメートル法の単位として作られたのがメトリックトンである。
ヤード・ポンド法のトンは、1t = 20 cwt([[ハンドレッドウェイト]])と定義されているが、ハンドレッドウェイトがイギリス([[帝国単位]])では112[[ポンド (質量)|ポンド]] (= {{val|50.80234544|u=kg}})、アメリカ([[米国慣用単位]])では100[[ポンド (質量)|ポンド]] (= {{val|45.359237|u=kg}}) であるために、トンの大きさも異なる。それぞれ'''英トン'''([[ロングトン]]、グロストン)、'''米トン'''([[ショートトン]]、ネットトン)と呼ばれている。
'''英トン'''は2240[[ポンド (質量)|ポンド]]であり、正確に{{val|1016.0469088}}キログラムに等しい<ref>[http://www.legislation.gov.uk/uksi/1995/1804/schedule/made The Units of Measurement Regulations 1995]</ref>。イギリスでは単に「トン」(ton) と言えば英トンのことを指し、英国やその影響を受けている地域では広く使われている。ただし、イギリスは公式にメートル法への移行を進めていること、英トンとメトリックトンは1.6%程度しか違いがなく、日常生活においては混同しても問題が小さいことから、メトリックトンもよく使われている。
'''米トン'''は2000ポンドであり、正確に{{val|907.18474}}キログラムに等しい<ref>[http://www.nist.gov/pml/wmd/metric/upload/SP1038.pdf The International System of Units (SI) - Conversion Factors for General Use], NIST Special Publication 1038, p.11, ton (short) の欄</ref>。アメリカでは単に「トン」(ton) と言えば米トンのことを指し、英トンと異なり10%ほどの差があることから、メトリックトン (tonne) とは厳密に区別される。
[[15世紀]]以前のイングランドでは、1ハンドレッドウェイトが108ポンドであったため、1トンは2160ポンドであった。
=== 表記、記号 ===
英米では、ヤード・ポンド法のトンは {{lang|en|ton}} と書き、メトリックトンはフランス語風に {{lang|en|tonne}} と書いて区別している。ただし、米国では、metric ton の表記が公式には正しい(前述)。アメリカ合衆国ではメトリックトンをフランス語の単語を使って「ミリヤー」(''millier'')や「トノー」(''tonneau'')とも呼んでいたが<ref>Act of July 28, 1866, codified in {{usc|15|205}}</ref>、これらの呼称は[[1975年]]に廃止された。
記号では統一された使い分けはないが、ヤード・ポンド法のトンを T、メトリックトンを t で区別したり、s.t. ({{lang|en|short ton}}) や l.t. ({{lang|en|long ton}}) に対して m.t. ({{lang|en|metric tonne}}) を使ったりすることもある。
== 派生した単位 ==
=== 力 ===
「重量トン」の意味でトンを使うことがある。これは、[[重量キログラム]]の意味でキログラムを使うのと同じである。ただし重量トンも、トンをその意味で使うことも、SIでは認められていない(これもキログラムなどと同様である)。
*1 重量米トン = 2000 [[重量ポンド|lbf]] = {{val|8.896443230521|u=[[キロ|k]][[ニュートン (単位)|N]]}}
*1 重量英トン = 2240 lbf = {{val|9.96401641818352|u=kN}}<ref>[http://www.legislation.gov.uk/uksi/1995/1804/schedule/made The Units of Measurement Regulations 1995], SCHEDULE RELEVANT IMPERIAL UNITS, CORRESPONDING METRIC UNITS AND METRIC EQUIVALENTS, 'Force'の欄</ref>
*1 重量メトリックトン = 1000 [[重量キログラム|kgf]] = {{val|9.80665|u=kN}}
=== 体積 ===
{{main|トン数}}
[[船舶]]の大きさは各種のトンを使ったトン数 ([[:en:Tonnage|tonnage]]) で表される。
質量には載貨重量トン数、排水量トン数などがある。質量ではなく[[体積]](主に[[容積]])を表すものには総トン数、国際総トン数、純トン数、載貨容積トン数がある。各種あるのは、そもそもトンの単位としての値が違う場合のほか、トンが同じでも容積として計上する箇所の違いなどがあるからである。
質量のトンを使って定義されているものは、英トンが使われている。
=== エネルギー ===
==== TNT換算 ====
{{main|TNT換算}}
[[核爆弾]]の[[核爆発]]の威力 (yield) は[[トリニトロトルエン|TNT]][[火薬]]1 t (1000 [[キログラム|kg]]。「1仏トン」というニュアンス) の爆発力に換算されて表される。TNT火薬の爆発力には幅があるが、便宜的に平均1000 cal{{sub|th}}/g(1[[グラム]]あたり1000熱力学[[カロリー]])とされているので、TNT火薬1 tの爆発力は1 Gcal{{sub|th}} = 4.184 GJ(ギガ[[ジュール]])となる。実際は[[SI接頭語]]を付けたキロトン (kt) かメガトン (Mt) が使われることが多い。
==== その他 ====
*'''石炭換算トン''' (TCE; ton of coal equivalent) = 7 Gcal{{sub|IT}} = 29.3076 GJ
*'''石油換算トン''' (TOE; ton of oil equivalent) = 10 Gcal{{sub|IT}} = 41.868 GJ
=== 仕事率 ===
{{main|冷凍トン}}
冷凍機の[[冷凍能力]]を、「1トン、0[[セルシウス温度|℃]]の水を24[[時間]]で0℃の[[氷]]にできる冷凍能力」を基準として'''冷凍トン'''という形で表現することがある。日本ではメートルトンが、アメリカでは米トンが用いられるため、数値が若干異なる。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13263|33CF|-|キロトン}}
{{CharCode|13095|3327|1-13-37|全角トン}}
{{CharCode|13081|3319|-|全角グラムトン}}
|}
また、[[Unicode]]には、トンとその分量・倍量単位を表す上記の文字が収録されている。これらは[[CJK互換用文字]]であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
*[[単位の換算]]
{{GravEngAbs}}
{{Unit of mass.(kg)}}
{{SI units navbox}}
{{DEFAULTSORT:とん}}
[[Category:質量の単位]]
[[Category:メートル法]]
[[Category:ヤード・ポンド法]]
[[Category:SI併用単位]] | 2003-05-23T03:40:17Z | 2023-12-09T12:44:32Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3 |
9,130 | 高分子化学 | 高分子化学(こうぶんしかがく、英語:polymer chemistry)は、分子量がおよそ 10,000 を超える無機化合物および有機化合物である高分子を研究対象とする学問分野である。主に、タンパク質やポリエチレンなどのポリマーを扱う。
高分子化学を大別すると高分子化学は物理化学的研究領域と有機化学的研究領域とに分けることができる。前者は高分子の分子構造を扱う高分子構造論、高分子固体の熱的性質、力学的性質あるいは電気的性質を扱う高分子固体論、高分子の希薄あるいは濃厚溶液の物性を扱う高分子溶液論などから構成される。後者はモノマーから高分子へと成長増大させる手法に関する高分子合成論と合成論に適用する化学反応を探求する高分子反応論等から構成される。
高分子は低分子とは異なる特異な物性・反応性を持つため、1つの研究分野として確立している。高分子の特異な機能・物性は主に力学的・熱力学的な部分に強く現れるために、固体や溶液の粘弾性などといった物理化学的な視点からの研究が大きく発展している。また、近年では生体高分子に関する研究も大きな柱になっている。
自然界における高分子化合物は、おもに有機高分子の生体物質である糖鎖、タンパク質、核酸などとして多種多様なものが見出される。したがって研究対象である高分子自体は有史以前より人類の営みのなかに存在していた。人類が天然高分子を利用していた歴史は古く、紀元前3000年の古代インド文明の遺跡より綿布が見つかっており、絹織物の歴史は新石器時代の中国で始まっている。しかしながら、綿や絹がセルロースやフィブロインといった高分子であると知られていたわけではない。また今日では高分子に分類される、ニトロセルロースやポリスチレンは19世紀に、レーヨンは20世紀初頭に発明・発見されているが、学問対象としての高分子化学が確立するのは比較的最近である。
「高分子」概念の確立には、1920年から1935年の15年間に渡る論争があった。
1920年代の半ば頃まで、高分子化合物である天然ゴム、セルロース、デンプン、タンパク質などは低分子化合物が「副電子価」で会合したり、ミセルを形成して見かけ上大きな粒子となっているだけだと考えられていた(会合体説)。例えば、「天然ゴムの構造はイソプレンの環状二量体が会合した物である」とするC. Harriesの説や、1870年に植物学者カール・ネーゲリが提唱したセルロースのミセル説が受け入れられていた。
1917年、チューリッヒ工科大学の教授だったヘルマン・シュタウディンガーは、スイス化学工業協会の講演で「高分子説」をはじめて述べ、それを1920年にドイツ化学会誌に発表した。その主張は上述の天然ゴムなどの物質は通常の有機化合物(低分子化合物)と同じく共有結合によって構成され、非常に長く繋がったものであるとした。しかしシュタウディンガーが「高分子説」を唱えた当初は確固とした実験事実はなく、高分子説は会合体説を採っていた多くの化学者達から猛烈な反対を受けた。1926年9月23日、デュッセルドルフで行われたシンポジウムで高分子説と会合体説について討論が行われたが、5人の講演者の中で高分子説を支持していたのはシュタウディンガーだけだった。
共有結合説の決定的な実験事実は、デンプンを用いた等重合度反応によって得られた。デンプンを三酢酸デンプンにした後、再びデンプンに誘導またはメチルデンプンとし、幾つかの溶媒を用いて溶液浸透圧を測定した。浸透圧から重合度を決定したところ、化学修飾によって重合度はほとんど変化していなかった。会合体説が正しいならば、溶媒や化学修飾の変化で会合状態が変化し、見かけの重合度が変化すると予想される。しかし、実験事実はこの予想に反していた。シュタウディンガーは同様の実験をセルロースやポリ酢酸ビニルなどでも行い、共有結合説を証明した。こうして1935年まで続いた論争は、翌1936年にシュタウディンガーがドイツ化学会誌に自身の研究成果を総括した論文を発表した段階で終結したと同編集部に判断された。
高分子化学の成果は、1940年代以降の石油化学工業の発展とともに、初期はウォーレス・カロザースのナイロン66(1930年)など合成繊維に応用され、今日では服飾品から魚網まで天然繊維に取って代わるほど利用されるようになった。また、カール・ツィーグラーとジュリオ・ナッタが開発したチーグラー・ナッタ触媒(1953年)で合成されるポリプロピレン等に代表される合成樹脂(プラスチック)は、建材、機械部品から日用品の素材として幅広く利用されている。
現在では従来より高強度で高収率、或いは特殊な機能を持つ高分子を作るなどの研究が行われている。また、ナノテクノロジーの分野として生体高分子や超分子の性質の解明に関する研究も盛んである。
低分子の場合と同様に、X線回折・電子線回折・中性子線回折・赤外線分光・ラマン散乱・NMRなどの手法を用いて研究されている。
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] | 高分子化学は、分子量がおよそ 10,000 を超える無機化合物および有機化合物である高分子を研究対象とする学問分野である。主に、タンパク質やポリエチレンなどのポリマーを扱う。 高分子化学を大別すると高分子化学は物理化学的研究領域と有機化学的研究領域とに分けることができる。前者は高分子の分子構造を扱う高分子構造論、高分子固体の熱的性質、力学的性質あるいは電気的性質を扱う高分子固体論、高分子の希薄あるいは濃厚溶液の物性を扱う高分子溶液論などから構成される。後者はモノマーから高分子へと成長増大させる手法に関する高分子合成論と合成論に適用する化学反応を探求する高分子反応論等から構成される。 高分子は低分子とは異なる特異な物性・反応性を持つため、1つの研究分野として確立している。高分子の特異な機能・物性は主に力学的・熱力学的な部分に強く現れるために、固体や溶液の粘弾性などといった物理化学的な視点からの研究が大きく発展している。また、近年では生体高分子に関する研究も大きな柱になっている。 | {{出典の明記|date=2011年11月}}
'''高分子化学'''(こうぶんしかがく、[[英語]]:polymer chemistry)は、分子量がおよそ 10,000 を超える無機化合物および有機化合物である[[高分子]]を研究対象とする学問分野である。主に、[[タンパク質]]や[[ポリエチレン]]などの[[ポリマー]]を扱う。
高分子化学を大別すると高分子化学は物理化学的研究領域と有機化学的研究領域とに分けることができる。前者は高分子の分子構造を扱う'''高分子構造論'''、高分子固体の熱的性質、力学的性質あるいは電気的性質を扱う'''高分子固体論'''、高分子の希薄あるいは濃厚溶液の物性を扱う'''高分子溶液論'''などから構成される。後者はモノマーから高分子へと成長増大させる手法に関する'''高分子合成論'''と合成論に適用する化学反応を探求する'''高分子反応論'''等から構成される。
高分子は低分子とは異なる特異な物性・反応性を持つため、1つの研究分野として確立している。高分子の特異な機能・物性は主に[[力学]]的・[[熱力学]]的な部分に強く現れるために、固体や溶液の[[粘弾性]]などといった物理化学的な視点からの研究が大きく発展している。また、近年では[[生体高分子]]に関する研究も大きな柱になっている。
== 歴史 ==
=== 前史 ===
自然界における高分子化合物は、おもに有機高分子の生体物質である[[糖鎖]]、[[タンパク質]]、[[核酸]]などとして多種多様なものが見出される。したがって研究対象である[[高分子]]自体は有史以前より人類の営みのなかに存在していた。人類が天然高分子を利用していた歴史は古く、紀元前3000年の[[古代インド]]文明の遺跡より[[綿布]]が見つかっており、[[絹織物]]の歴史は[[新石器時代]]の中国で始まっている。しかしながら、綿や絹が[[セルロース]]や[[フィブロイン]]といった高分子であると知られていたわけではない<ref name=":0">伊勢典夫、東村敏延、今西幸男ほか (1995年), pp.1-3</ref>。また今日では高分子に分類される、[[ニトロセルロース]]や[[ポリスチレン]]は[[19世紀]]に、[[レーヨン]]は[[20世紀]]初頭に発明・発見されているが、学問対象としての高分子化学が確立するのは比較的最近である。
=== 高分子化学の確立 ===
「高分子」概念の確立には、[[1920年]]から[[1935年]]の15年間に渡る論争があった<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=三枝武夫|year=2001|title=第2回高分子の幕あけ―Staudinger教授の偉大な業績―|journal=高分子|volume=50|issue=5月|pages=329-331}}</ref>。
1920年代の半ば頃まで、高分子化合物である[[天然ゴム]]、[[セルロース]]、[[デンプン]]、タンパク質などは低分子化合物が「副電子価」で会合したり、[[ミセル]]を形成して見かけ上大きな粒子となっているだけだと考えられていた(会合体説)。例えば、「天然ゴムの構造は[[イソプレン]]の環状[[二量体]]が会合した物である」とするC. Harriesの説や<ref name=":0" /><ref name=":1" />、[[1870年]]に植物学者[[カール・ネーゲリ]]が提唱したセルロースのミセル説が受け入れられていた<ref name=":0" />。
[[1917年]]、[[チューリッヒ工科大学]]の教授だった[[ヘルマン・シュタウディンガー]]は、スイス化学工業協会の講演で「高分子説」をはじめて述べ、それを1920年にドイツ化学会誌に発表した。その主張は上述の天然ゴムなどの物質は通常の有機化合物(低分子化合物)と同じく[[共有結合]]によって構成され、非常に長く繋がったものであるとした。しかしシュタウディンガーが「高分子説」を唱えた当初は確固とした実験事実はなく、高分子説は会合体説を採っていた多くの化学者達から猛烈な反対を受けた<ref name=":1" />。[[1926年]][[9月23日]]、[[デュッセルドルフ]]で行われたシンポジウムで高分子説と会合体説について討論が行われたが、5人の講演者の中で高分子説を支持していたのはシュタウディンガーだけだった<ref name=":1" />。
共有結合説の決定的な実験事実は、[[デンプン]]を用いた等重合度反応によって得られた。デンプンを三酢酸デンプンにした後、再びデンプンに誘導またはメチルデンプンとし、幾つかの[[溶媒]]を用いて溶液[[浸透圧]]を測定した。浸透圧から重合度を決定したところ、化学修飾によって重合度はほとんど変化していなかった。会合体説が正しいならば、溶媒や化学修飾の変化で会合状態が変化し、見かけの重合度が変化すると予想される。しかし、実験事実はこの予想に反していた。シュタウディンガーは同様の実験をセルロースやポリ酢酸ビニルなどでも行い、共有結合説を証明した<ref>伊勢典夫、東村敏延、今西幸男ほか (1995年), pp.10-11</ref>。こうして1935年まで続いた論争は、翌1936年にシュタウディンガーがドイツ化学会誌に自身の研究成果を総括した論文を発表した段階で終結したと同編集部に判断された<ref name=":1" />。
=== 発展 ===
高分子化学の成果は、[[1940年代]]以降の[[石油化学工業]]の発展とともに、初期は[[ウォーレス・カロザース]]の[[ナイロン66]]([[1930年]])など[[合成繊維]]に応用され、今日では服飾品から魚網まで[[天然繊維]]に取って代わるほど利用されるようになった。また、[[カール・ツィーグラー]]と[[ジュリオ・ナッタ]]が開発した[[チーグラー・ナッタ触媒]]([[1953年]])で合成される[[ポリプロピレン]]等に代表される[[合成樹脂]](プラスチック)は、建材、機械部品から日用品の素材として幅広く利用されている。
現在では従来より高強度で高収率、或いは特殊な機能を持つ高分子を作るなどの研究が行われている。また、ナノテクノロジーの分野として生体高分子や超分子の性質の解明に関する研究も盛んである。
== 分野 ==
===高分子構造論===
[[低分子]]の場合と同様に、[[X線回折]]・[[電子線回折]]・[[中性子線回折]]・[[赤外線]]分光・[[ラマン]][[散乱]]・[[NMR]]などの手法を用いて研究されている。
===高分子反応論===
新規[[重合]]反応のための[[触媒]]の研究なども含まれる。
== 出典 ==
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|author=伊勢典夫、東村敏延、今西幸男ほか|title=新高分子化学序論|year=1995|month=3|publisher=[[化学同人]]|ISBN=978-4759802580}}
=== 脚注 ===
<references />
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}}
* [[ポリマー]]
* [[プラスチック]]
* [[合成繊維]]
{{化学}}
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[[Category:高分子化学|*]]
[[Category:化学の分野]] | null | 2021-03-15T11:55:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%88%86%E5%AD%90%E5%8C%96%E5%AD%A6 |
9,137 | 国 | 国()は、一般的に、住民・領土・主権及び外交能力(他国からの承認)を備えた地球上の地域のことを指す。
古代ギリシャのソクラテス、プラトン、アリストテレスなどは、最高善を求めてポリス(都市国家)が造られると説く。多くの国が憲法を成文法で作成し、自国の権利や能力を他国に表明している。新しい国を作る手法として、すでにある国(の一部地域)が憲法改正や革命など「新憲法制定」によって統治権 を表明して成立する場合もある。
国()は、「邦」「州」などとも表される多義的な語である。現在では「国家の権利及び義務に関する条約」に基づいた、主に大きさと独立性(統治機構や担税力など)を備えた国家(独立国)を意味し、以下のような地域を表す。
元来、国とは諸侯が統治する城塞都市を指した。殷王は諸侯の地方統治を認め連合した。周王が諸侯の統治領を認めることを封建と呼んだ。戦国時代には諸侯は王号を称した。
漢代に、皇帝が親族・功臣・朝貢国王を、最上位の臣下として王位に就け地方統治を許し、その統治領を「国」とした(郡国制)。
なお現在言うところの「中国」は元来は「天下」であり、したがって「国」ではない。
国と和訳される英語には、state、nation、country がある。
いずれも、明確に国家の意味はなく、文脈によっては国家未満、超国家の意味でも使われる。また、具体的な行政区画の名称としてこれらの語を使うこともある。
これらの場合は、country、nation、state の本来の意味の区別は問題にならない。
empire、kingdom、duchy 等はそれぞれ帝国、王国、公国等と和訳されるが、これらは単にそれぞれ皇帝、王、公の領地という意味にすぎず、国家の意味はない。西欧社会では、中世封建社会から絶対王政の時代に至るまで、ある国の君主が別の君主の兼任あるいは臣下であることは珍しくなかった。たとえば、インド皇帝はイングランド王の兼任であり、インド帝国はイギリスの一部だった。最近の例では、アンドラ大公位はフランス大統領とウルヘル司教が(共同で)就いており、それにより1993年までアンドラ公国は独立国ではなく、フランスとスペインの共同統治的な地域だった。
republic は共和国と和訳されるが、これは民衆による政体という意味で、これも国家の意味はない。たとえば、ロシア連邦(およびソビエト連邦)は国内に共和国を持つ。
日本史においては、古くは中国史書『漢書』にあらわれる奴国()などがある。
『魏志倭人伝』収載の邪馬台国などの地方の「くに」の連合も記されている。
また、「倭国」「三国一」のような、視点を日本列島外に置くような表現にあっては、日本全体が一つの「国」として扱われた。
「くに」は元来自然の国土を指す語だった。
弥生時代に日本列島各地に政治的支配が始まり、その地方政権が支配する領域も「くに」と呼ぶようにもなった。これら地方の「くに」は、地域としてはのちの「郡」相当の広さしかない狭小な地域にすぎなかったが、政体としての独立性を保つ原初的政権であった。民俗学者折口信夫によれば、「くに」の語の原義は、ヤマトの宮廷に対して半属半独立の関係にある地方を意味しており、また、「くに」には「くにたま」(国魂)があって、これを所有する者がその地方を統治する権限を有するものと観念されていた。それゆえに、ある地方が宮廷の支配に服することは、当該地方の「くにたま」が宮廷に奉られることを意味していた。
ヤマト王権によって日本列島の統一が進行していった4世紀の古墳時代にあっては、そのような「くに」の地方豪族の首長を「国造()」に任じた。なお地方豪族の少なからずは元来中央豪族であったものが地方統治に進出し、そこで定住した地方首長層であった。
これに伴って古墳文化も東北から九州まで広がっていった。国造たちは自分たちの祖神を祀り、祭政一致の支配体系が確立された一方、国造家の人間たちは朝廷の軍事や外交に当たったほか、宮廷に舎人や采女を奉仕させた。
日本では、「くに」に対して漢字の「國(国)」の字を当て、中国に習い、地方豪族が治める地域を指した。これに伴い、統一されたヤマト国家(後の「日本」)を指して「くに」と呼ぶことも無くなった。
これらとは別に、「大地」「土地」「出身地」に近い意味合いもあった。天津神に対する国津神(くにつかみ)の「国」は、天に対する地を意味し、実際、地の漢字が当てられることもあった。また、「国衆()」「国替()」などの語では、土地を意味した。
このような地方領域の「くに」は、飛鳥時代には律令制のもとで令制国として定められた。令制国は官吏である国司が中央から派遣され治めた。
令制国は、その広狭や人口、生産力などを基準にして大国・上国・中国・下国の4等級に分類され、「守」以下四等官の国司の定員や官人の位階などに差が設けられた。大宝律令制定時の8世紀初頭には58国3島であったが、その後の分割や統合などを経て、9世紀初頭の段階では66国2島となり、それ以後、固定化された。
明治時代以降、「国」は、ほぼ現在言うところの「国家」の意味で使われるように替わった。「国家の正当な政府」を単に「国」と呼称する新たな用法も生まれた。日本においては、日本国政府が国と呼称されることが多い。また、独立国ではない政体や日本国が承認していない政権に対し、報道や統計発表などにおいて明示的に「国」の使用を避けることがあり、マスメディアを中心に「国と地域」のような表現もみられる。
令制国は文書などによって法的に廃止されたわけではないが、廃藩置県等の明治時代以降の諸施策によって有名無実化した。これを「国」と呼ぶのは紛らわしくなったため、「旧国」と呼称されることが多くなった。
ただし現在でも「くに」は、文脈によっては、「出身地」の「くに」の意味で普通に使われる。その場合でも都道府県が定着した今日では、旧国単位ではなく都道府県単位で考えることが多くなっている。 | [
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"text": "元来、国とは諸侯が統治する城塞都市を指した。殷王は諸侯の地方統治を認め連合した。周王が諸侯の統治領を認めることを封建と呼んだ。戦国時代には諸侯は王号を称した。",
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"text": "明治時代以降、「国」は、ほぼ現在言うところの「国家」の意味で使われるように替わった。「国家の正当な政府」を単に「国」と呼称する新たな用法も生まれた。日本においては、日本国政府が国と呼称されることが多い。また、独立国ではない政体や日本国が承認していない政権に対し、報道や統計発表などにおいて明示的に「国」の使用を避けることがあり、マスメディアを中心に「国と地域」のような表現もみられる。",
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"text": "令制国は文書などによって法的に廃止されたわけではないが、廃藩置県等の明治時代以降の諸施策によって有名無実化した。これを「国」と呼ぶのは紛らわしくなったため、「旧国」と呼称されることが多くなった。",
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] | 国は、一般的に、住民・領土・主権及び外交能力(他国からの承認)を備えた地球上の地域のことを指す。 古代ギリシャのソクラテス、プラトン、アリストテレスなどは、最高善を求めてポリス(都市国家)が造られると説く。多くの国が憲法を成文法で作成し、自国の権利や能力を他国に表明している。新しい国を作る手法として、すでにある国(の一部地域)が憲法改正や革命など「新憲法制定」によって統治権
を表明して成立する場合もある。 | {{Otheruses|国家が支配する領域としての「国」|日本の地域区分|令制国}}
{{出典の明記|date=2021年2月}}
{{読み仮名|'''国'''|くに、こく}}は、一般的に、[[住民]]・[[領土]]・[[主権]]及び外交能力(他国からの承認)を備えた[[地球]]上の地域のことを指す<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/9353650/ 新たな「国」を造るには、何が必要?]</ref><ref>[http://www.huffingtonpost.jp/triport/niue_b_7498510.html 新たな国「ニウエ」とは?世界最小レベルの島国を独り占め!(HUFFPOSTブログ)]</ref>。
[[古代ギリシャ]]の[[ソクラテス]]、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]などは、[[最高善]]を求めて[[ポリス]](都市国家)が造られると説く。多くの国が[[憲法]]を[[成文法]]で作成し<ref>{{CRD|1000089341|世界の国の中で憲法を持たない国がどのくらいあるのか知りたい。表になっているようなものがあれば見たい。|名古屋市鶴舞中央図書館}}</ref>、自国の権利や能力を他国に表明している。新しい国を作る手法として、すでにある国(の一部地域)が[[憲法改正]]や[[革命]]など「新憲法制定」によって[[統治権]]
を表明して成立する場合もある。
== 「国」の多義性 ==
{{読み仮名|'''国'''|くに、こく}}は、「邦」「州」などとも表される多義的な語である。現在では「[[モンテビデオ条約 (1933年)|国家の権利及び義務に関する条約]]」に基づいた、主に大きさと独立性([[統治機構]]や[[担税力]]など)を備えた[[国家]](独立国)を意味し、以下のような地域を表す。
# '''[[国家]]、中央[[政府]]'''
#: [[政治]]的な[[国家]] (state/état) が支配する一定の領域や住民・[[共同体]]・[[制度]]・[[文化 (代表的なトピック)|文化]]などの総体。新興国においては、国家の統治機構となる'''中央[[政府]]'''を指す場合もある。
# '''[[令制国]]'''
#: 古代の[[日本]]での、[[律令制]]下の行政単位。律令制が崩壊した後も、[[受領]]の支配区分や[[守護]]の軍事警察管区として、また地域区分の単位として[[明治]]時代初期まで用いられた。現在でも「'''旧国名'''」として、[[都道府県]]の別名や、都道府県内の地域名として用いられることがある。
# '''[[故郷]]、[[地方]]'''
#: 生まれ故郷や出身地。また、国家に対して、地方を指すこともある。英語の「country」も、国家を指す場合と、地方を指す場合の2つの意味を持つ。
# '''[[地|大地]]'''
#: 例:<!-- [[国つ罪]]、 -->天に対する地の意をもって国とし、[[国津神]]というように用いられる。「地」の字が充てられることが多い。
# 「国」の原義(古代中国)は、諸侯が統治する[[城塞]]都市を指した。
== 中国の「国」 ==
元来、国とは[[諸侯]]が統治する[[城塞]]都市を指した。[[殷]][[王]]は諸侯の地方統治を認め連合した。[[周]][[王]]が諸侯の統治領を認めることを[[封建]]と呼んだ。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]には諸侯は王号を称した。
[[漢]]代に、[[皇帝]]が親族・功臣・[[朝貢国]]王を、最上位の臣下として王位に就け地方統治を許し、その統治領を「国」とした([[郡国制]])。
なお現在言うところの「中国」は元来は「[[天下]]」であり、したがって「国」ではない。
== 欧米の「国」 ==
===state、nation、country===
国と和訳される[[英語]]には、state、nation、country がある。
* country は、[[ラテン語]]の contrata terra(向こう側の土地)が語源で、地理的な国土を意味する。政体の性質を問題にしないため、日本での「国と地域」に相当する使われ方もする。
* nation は、ラテン語の natalis(出生)が語源で、土地の住民の総体を意味する。国家の場合は国民のことだが、国家に結びつかない、[[少数民族]]・分断民族・流浪民族などにも nation はある。
* state は、ラテン語の status(土地とその住民への支配権)が語源で、土地とその住民に対する統治権・統治機構を意味する。
いずれも、明確に国家の意味はなく、文脈によっては国家未満、超国家の意味でも使われる。また、具体的な行政区画の名称としてこれらの語を使うこともある。
* country は、[[イギリス|イギリス連合王国]]では構成する[[イングランド]]、[[スコットランド]]、[[ウェールズ]]、[[北アイルランド]](かつては[[アイルランド島|アイルランド]])を指す(それらは「王国」とされる)。
* state は、[[アメリカ合衆国]]では[[アメリカ合衆国の州|州]]と和訳される。これは「国」に準ずる存在ではあるが「国」と和訳されることはない。
* nation は、アメリカ合衆国では合衆国全体の意味で使われる。
これらの場合は、country、nation、state の本来の意味の区別は問題にならない。
===empire、kingdom、duchy===
empire、kingdom、duchy 等はそれぞれ[[帝国]]、[[王国]]、[[公国]]等と和訳されるが、これらは単にそれぞれ[[皇帝]]、[[王]]、[[公爵|公]]の[[領地]]という意味にすぎず、国家の意味はない。西欧社会では、中世[[封建社会]]から[[絶対王政]]の時代に至るまで、ある国の君主が別の君主の兼任あるいは[[臣下]]であることは珍しくなかった。たとえば、[[インド皇帝]]は[[イングランド王]]の兼任であり、[[インド帝国]]はイギリスの一部だった。最近の例では、アンドラ大公位は[[フランス大統領]]と[[ウルヘル司教]]が(共同で)就いており、それにより[[1993年]]まで[[アンドラ公国]]は独立国ではなく、[[フランス]]と[[スペイン]]の共同統治的な地域だった。
===republic===
republic は[[共和国]]と和訳されるが、これは[[民衆]]による政体という意味で、これも国家の意味はない。たとえば、[[ロシア連邦]](および[[ソビエト連邦]])は国内に[[ロシア連邦の地方区分|共和国]]を持つ。
== 日本の「国」 ==
<!--現在の日本が成立するまでには、以下のような経緯があった。-->
=== 中国史書===
[[日本の歴史|日本史]]においては、古くは中国史書『[[漢書]]』にあらわれる{{読み仮名|[[奴国]]|なこく}}などがある。
『[[魏志倭人伝]]』収載の[[邪馬台国]]などの地方の「くに」の連合も記されている。
また、「[[倭国]]」「[[三国一]]」のような、視点を日本列島外に置くような表現にあっては、日本全体が一つの「国」として扱われた。
=== 近代以前 ===
「くに」は元来自然の国土を指す語だった。
[[弥生時代]]に[[日本列島]]各地に政治的支配が始まり、その地方[[政権]]が支配する領域も「くに」と呼ぶようにもなった{{sfnp|黛|2004}}。これら地方の「くに」は、地域としてはのちの「[[郡]]」相当の広さしかない狭小な地域にすぎなかったが、政体としての独立性を保つ原初的政権であった。民俗学者[[折口信夫]]によれば、「くに」の語の原義は、[[ヤマト]]{{要曖昧さ回避|date=2023年2月}}の[[宮廷]]に対して半属半独立の関係にある地方を意味しており<ref>{{harvp|西村|1966|p=73|ps=。原出典は『折口信夫全集第1巻』p.377}}</ref>、また、「くに」には「くにたま」(国魂)があって、これを所有する者がその地方を統治する権限を有するものと観念されていた{{sfnp|西村|1966|p=73}}。それゆえに、ある地方が宮廷の支配に服することは、当該地方の「くにたま」が宮廷に奉られることを意味していた{{sfnp|西村|1966|p=73}}{{efn|「くにたま」は多くの場合、[[稲穂]]によって象徴された。したがって、[[大嘗祭]]においては地方各国の稲穂が[[天皇|天子]]のもとに送られ、[[新嘗祭|新嘗の神事]]がおこなわれた。{{sfnp|西村|1966|p=74}}}}。
[[ヤマト王権]]によって[[日本列島]]の統一が進行していった[[4世紀]]の[[古墳時代]]にあっては、そのような「くに」の地方豪族の[[首長]]を「{{読み仮名|[[国造]]|くにつのみやつこ}}」に任じた。なお地方豪族の少なからずは元来中央豪族であったものが地方統治に進出し、そこで定住した地方[[首長]]層であった。
これに伴って古墳文化も東北から九州まで広がっていった。国造たちは自分たちの祖神を祀り、祭政一致の支配体系が確立された一方、国造家の人間たちは朝廷の軍事や外交に当たったほか、宮廷に[[舎人]]や[[采女]]を奉仕させた。
日本では、「くに」に対して[[漢字]]の「國(国)」の字を当て{{sfnp|黛|2004}}、中国に習い、地方豪族が治める地域を指した。これに伴い、統一されたヤマト国家(後の「日本」)を指して「くに」と呼ぶことも無くなった。
<!--すなわち、統一されたヤマト国家、また各国造の支配領域に至るまで、「くに」には大小・広狭さまざまあり、[[機構]]や概念においてもそれぞれ差異が認められるにもかかわらず、こうした政治的領域すべてに「國(国)」の字を当てはめた{{sfnp|黛|2004}}。-->
これらとは別に、「[[大地]]」「[[土地]]」「[[出身地]]」に近い意味合いもあった。[[天津神]]に対する[[国津神]](くにつかみ)の「国」は、天に対する地を意味し、実際、地の漢字が当てられることもあった。また、「{{読み仮名|[[国衆]]|くにしゅう}}」「{{読み仮名|[[国替]]|くにがえ}}」などの語では、[[土地]]を意味した。
==== 令制国 ====
このような地方領域の「くに」は、[[飛鳥時代]]には[[律令制]]のもとで[[令制国]]として定められた。令制国は官吏である[[国司]]が中央から派遣され治めた。
令制国は、その広狭や[[人口]]、生産力などを基準にして[[大国 (令制国)|大国]]・[[上国]]・[[中国 (令制国)|中国]]・[[下国]]の4等級に分類され、「守」以下[[四等官]]の[[国司]]の定員や[[官人]]の[[位階]]などに差が設けられた。[[大宝律令]]制定時の[[8世紀]]初頭には58国3島であったが、その後の分割や統合などを経て、[[9世紀]]初頭の段階では66国2島となり、それ以後、固定化された{{sfnp|黛|2004}}。
=== 近代 ===
[[明治時代]]以降、「国」は、ほぼ現在言うところの「国家」の意味で使われるように替わった。「国家の正当な[[政府]]」を単に「国」と呼称する新たな用法も生まれた。日本においては、[[日本国政府]]が国と呼称されることが多い。また、独立国ではない政体や日本国が承認していない政権に対し、[[報道]]や[[統計]][[発表]]などにおいて明示的に「国」の使用を避けることがあり、[[マスメディア]]を中心に「国と地域」のような表現もみられる。
令制国は文書などによって法的に廃止されたわけではないが、[[廃藩置県]]等の[[明治時代]]以降の諸施策によって有名無実化した。これを「国」と呼ぶのは紛らわしくなったため、「旧国」と呼称されることが多くなった。
ただし現在でも「くに」は、文脈によっては、「出身地」の「くに」の意味で普通に使われる。その場合でも[[都道府県]]が定着した今日では、旧国単位ではなく都道府県単位で考えることが多くなっている。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=西村|first=亨|author-link=西村亨|title=歌と民俗学|publisher=[[岩崎美術社]]|series=民俗・民芸双書|date=1966-7|id={{全国書誌番号|66007016}}}}
* {{Citation|和書|last=黛|first=弘道|author-link=黛弘道|contribution=国|editor=小学館|editor-link=小学館|title=日本大百科全書|edition=スーパーニッポニカProfessional Win版|publisher=小学館|date=2004-2|isbn=4-09-906745-9}}
== 関連項目 ==
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{{Wiktionary|囶|𡇕}}
{{Wiktionary|𡈑|𡆿|𡇎|囻}}
{{Wikidata property|P17|国}}
* [[国の一覧]] - 国家
** [[国の一覧 (大陸別)]]
* [[令制国一覧]] - 旧国名
* [[世界]]、[[社会]]
* [[通貨]] - [[仮想通貨]]
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[[Category:国| ]] | 2003-05-23T04:56:46Z | 2023-12-22T08:08:23Z | false | false | false | [
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9,139 | 原作 | 原作(げんさく、英語: original work, draft)は、その派生作品のもととなった作品のこと。または、オリジナル作品における原案のこと。翻訳における元の言語の作品なども指す。オリジナル作品における著作者として制作プロダクションや制作スタッフによる共同ペンネームが「原作」としてクレジットされることもある。
著作権法では、原著作物と呼ばれ、直接の定義はないが二次的著作物の定義の「著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう。」にある二次的著作物の元になる先に創作された第一の著作物のことをいうとされる。
最初に小説(ライトノベル)で発表されたものが、映画・演劇・漫画・アニメ・ゲームなど複数のメディアに展開されたとすれば、小説版が「原作」となる。また小説が複数の言語に翻訳された場合には、元の言語で書かれているものが「原作」と呼ばれる。
漫画などで「設定や筋を考える者」と「それを作品として仕上げる者」が分業している場合、前者を「原作者」と呼ぶ。この時、作品の原型となるコンテ・筋書き的なものが「原作」にあたる。ただし、原作の内容を忠実に再現しようと努力している派生作品もあれば、ほとんど原作と別の内容になっているものもあり、後者のように「ほとんど原作と別の内容」になっている場合は「原案」または「翻案の元作品」のように扱われることがある。『水滸伝』と『南総里見八犬伝』の関係が、これにあたる。
また、原作者と作画者が分かれている漫画作品(オリジナルストーリーに限り、小説の漫画化は除く)が映像化された場合、アニメーションはもちろん、実写作品であっても、両方の名前が原作者としてクレジットされるのが通例である。両者の共同著作物の商業的成功に依拠して映像化されることが多いということ、ストーリーだけでなくイメージ、構図やコマ割も参照して演出されるケースも少なくないことなどが理由である。この場合、作成過程により原作とその二次的著作物である漫画という関係ではなく、全体が共同著作物(著作権法の定義では「二人以上の者が共同して創作した著作物であつて、その各人の寄与を分離して個別的に利用することができないもの」)になることもある。
原作者は二次的著作物の利用について、二次的著作物の著作者と同一の権利を専有するとしている。すなわち、二次的著作物の著作者が、権利の譲渡などをしても、原作者には効果が及ばない。
原作からの派生作品を巡っては、「原作者」と「派生作品の製作者」(出版社、アニメ制作会社など)との間で著作権や各種知的財産権(著作隣接権、商標権など)の問題が起こる場合がある。
特に近年では漫画・アニメやゲームなど複数のメディアで同時にストーリーを展開(メディアミックス)させる作品も多く、どのメディア(媒体)をもって「原作」とするのか、その定義や境目が明確ではなく、曖昧な作品も増えつつある。また、事実上のスピンオフとして扱われることもある。
ある作品がメディアミックスされた場合、その「原作者」だけでなく「出版社」「アニメ制作会社」などにも各種の権利が行き渡り、複数に分散されることで『誰がどの面で「権利」と「責任」を持つのか』、その所在が不明瞭になることがある。そのため、アニメ化・ゲーム化などにおける権利者や印税(ロイヤリティの分配など)を巡る争いや訴訟に発展することも少なくない。
原作者・漫画家・アニメ制作会社などの間で問題が起こった作品としては『キャンディ・キャンディ』や『宇宙戦艦ヤマト』などがあり、知的財産権を巡る問題として引き合いにされることもある。 | [
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] | 原作は、その派生作品のもととなった作品のこと。または、オリジナル作品における原案のこと。翻訳における元の言語の作品なども指す。オリジナル作品における著作者として制作プロダクションや制作スタッフによる共同ペンネームが「原作」としてクレジットされることもある。 | {{出典の明記|date=2013年7月}}
'''原作'''(げんさく、{{Lang-en|'''original work''', '''draft'''}})は、その[[派生作品]]のもととなった[[作品]]のこと。または、[[オリジナル]]作品における[[原案]]のこと。[[翻訳]]における元の[[言語]]の作品なども指す。オリジナル作品における[[著作者]]として[[制作プロダクション]]や[[制作]][[スタッフ]]による[[共同ペンネーム]]が「原作」として[[クレジットタイトル|クレジット]]されることもある。
==概要==
[[著作権法]]では、原著作物と呼ばれ<ref name="著作権法" />、直接の定義はないが[[二次的著作物]]の定義の「著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう。」にある二次的著作物の元になる先に創作された第一の著作物のことをいうとされる。
最初に[[小説]]([[ライトノベル]])で発表されたものが、[[映画]]・[[演劇]]・[[漫画]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[ゲーム]]など複数のメディアに展開されたとすれば、小説版が「原作」となる。また小説が複数の言語に[[翻訳]]された場合には、元の[[言語]]で書かれているものが「原作」と呼ばれる<ref name="著作権法">{{Egov law|345AC0000000048|著作権法}}</ref>。
[[漫画]]などで「設定や筋を考える者」と「それを作品として仕上げる者」が分業している場合、前者を「原作者」と呼ぶ。この時、作品の原型となる[[コンテ]]・筋書き的なものが「原作」にあたる。ただし、原作の内容を忠実に再現しようと努力している派生作品もあれば、ほとんど原作と別の内容になっているものもあり、後者のように「ほとんど原作と別の内容」になっている場合は「[[原案]]」または「翻案の元作品」のように扱われることがある。『[[水滸伝]]』と『[[南総里見八犬伝]]』の関係が、これにあたる。
また、原作者と作画者が分かれている漫画作品(オリジナルストーリーに限り、小説の漫画化は除く)が映像化された場合、アニメーションはもちろん、[[実写]]作品であっても、両方の名前が原作者として[[クレジットタイトル|クレジット]]されるのが通例である。両者の共同著作物の商業的成功に依拠して映像化されることが多いということ、ストーリーだけでなくイメージ、構図やコマ割も参照して演出されるケースも少なくないことなどが理由である。この場合、作成過程により原作とその二次的著作物である漫画という関係ではなく、全体が共同著作物(著作権法の定義では「二人以上の者が共同して創作した著作物であつて、その各人の寄与を分離して個別的に利用することができないもの」)になることもある。
===二次的著作物との関係===
原作者は二次的著作物の利用について、二次的著作物の著作者と同一の権利を専有するとしている<ref name="著作権法" />。すなわち、二次的著作物の著作者が、権利の譲渡などをしても、原作者には効果が及ばない<ref>{{Cite web|和書|url= https://hiroshima-kigyo.com/column/8178#toc_id-9 |title= 二次的著作物とは?弁護士がわかりやすく解説します|website=山下江法律事務所|publisher=|accessdate=2022-12-19}}</ref>。
== 著作権問題 ==
原作からの派生作品を巡っては、「原作者」と「派生作品の製作者」([[出版社]]、[[アニメ制作会社]]など)との間で[[著作権]]や各種[[知的財産権]]([[著作隣接権]]、[[商標権]]など)の問題が起こる場合がある。
特に近年では漫画・アニメやゲームなど複数のメディアで同時にストーリーを展開([[メディアミックス]])させる作品も多く、どのメディア(媒体)をもって「原作」とするのか、その定義や境目が明確ではなく、曖昧な作品も増えつつある。また、事実上の[[スピンオフ]]として扱われることもある。
ある作品がメディアミックスされた場合、その「原作者」だけでなく「出版社」「アニメ制作会社」などにも各種の権利が行き渡り、複数に分散されることで『誰がどの面で「権利」と「責任」を持つのか』、その所在が不明瞭になることがある。そのため、アニメ化・ゲーム化などにおける権利者や[[印税]]([[ロイヤリティ]]の分配など)を巡る争いや訴訟に発展することも少なくない。
原作者・漫画家・[[アニメ制作会社]]などの間で問題が起こった作品としては『[[キャンディ・キャンディ]]』<ref>{{cite 判例検索システム|url= https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail7?id=11836
|法廷名= 東京地方裁判所
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|裁判年月日= 平成14年5月30日
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}}{{PDFlink|[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/836/011836_hanrei.pdf 判決全文]|}}</ref><ref>{{cite 判例検索システム|url= https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail7?id=13145
|法廷名= 東京地方裁判所
|裁判形式=判決
|裁判年月日= 平成12年5月25日
|事件番号= 平成11(ワ)8471
|事件名 =
|判例集=
}}{{PDFlink|[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/145/013145_hanrei.pdf 判決全文]|}}</ref>や『[[宇宙戦艦ヤマト]]』などがあり、知的財産権を巡る問題として引き合いにされることもある。
==脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[脚本]] - [[台本]] - [[戯曲]] - [[漫画原作]] - [[漫画原作者]]
* [[あらすじ]]
* [[演出]]
* [[著作物]]
* [[ライトノベルのアニメ化作品一覧]]
* [[テレビドラマ化された日本の小説一覧]]
* [[:Category:翻案作品]]
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{{DEFAULTSORT:けんさく}}
[[Category:作品]]
[[Category:日本の著作権法]]
[[Category:著作権法]] | 2003-05-23T05:19:56Z | 2023-11-15T13:23:07Z | false | false | false | [
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"Template:Culture-stub",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E4%BD%9C |
9,141 | ジェームズ・クラーク・マクスウェル | ジェームズ・クラーク・マクスウェル(英語: James Clerk Maxwell、1831年6月13日 - 1879年11月5日)は、イギリス・スコットランドの理論物理学者である。姓はマックスウェルと表記されることもある。
マイケル・ファラデーによる電磁場理論をもとに、1864年にマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立した。さらに電磁波の存在を理論的に予想しその伝播速度が光の速度と同じであること、および横波であることを示した。これらの業績から電磁気学の最も偉大な学者の一人とされる。また、土星の環や気体分子運動論・熱力学・統計力学などの研究でも知られている。
マクスウェルは1831年6月13日にスコットランドのエディンバラで、弁護士のジョン・クラーク (John Clerk) とフランシス・ケイ (Frances Cay) の間に生まれた。父のジョンはマクスウェル家の持つ1,800エーカーの広大な土地を相続しており、それがあるスコットランド南西部のミドルビーでマクスウェルは幼少期を過ごした。近くには学校がなかったため母のフランシスが教師となったが8歳の時に母ががんで亡くなり、以後は相性の悪い家庭教師の下で2年間学んだ。1841年11月に10歳でエディンバラ中等学校に入学し、当初は訛りをからかわれたもののやがて早熟な才能を示した。14歳の時には書いた詩が『エディンバラ通信』に掲載され、その半年後には複数の焦点を用いた卵形線の定義とこれに基づいたピンと糸による描法を考え出し、論文として発表している。この業績はエディンバラ大学のジェームズ・フォーブスに認められ、エディンバラ王立協会で発表された。
1847年に16歳でエディンバラ大学に入学し、偏光による弾性ひずみの観察の研究などを行なった。さらに1850年にケンブリッジ大学のピーターハウスカレッジに入学したが、翌学期から学内のトリニティーカレッジに移った。なお、当時のケンブリッジには物理学者のジョージ・ガブリエル・ストークスやウィリアム・ヒューウェルがいた。1854年に数学の学位を2位の成績で取得して卒業している。この時1位だった数学者のラウスに負けた悔しさからマクスウェルは学内の数学のスミス賞を狙い、こちらはラウスと同時受賞となった。
卒業後も教授の資格を得るためにトリニティーカレッジに残ってフェローとして研究や学生の指導を行ない、1855年12月10日にはマイケル・ファラデーの提唱した磁気力線に関する論文を発表した。これが契機となって、後にファラデーとの間に交流が生まれている。1856年4月30日付でトリニティーカレッジの研究員となり、さらに同年10月15日に故郷のスコットランドのアバディーンにあるマーシャルカレッジで科学哲学の教授に就任した。なお、4月2日には父・ジョンが亡くなった。この頃ケンブリッジのアダムズ賞に取り組み、1857年度の課題だった「土星の環の構造と安定性」について1856年12月16日に論文を提出し、翌1857年5月30日に受賞した。この論文において安定して環が存在し続けるためには、環は無数の粒子から構成されていなければならないとの結論を得ている。1858年2月にはマリシャルの学長の娘であるキャサリン・マリー・デュワーと婚約し、同年6月に披露宴を挙げている。1859年9月21日に発表した気体の動力学的理論の論文では、個々の粒子の速度分布はマクスウェル分布に従う事を示した。
1860年、マーシャルカレッジと近郊のキングスカレッジとの統合にともない教授の職を失った。マクスウェルはグレンレア領の領主であり、所有地からの収入は年間2,000ポンドに上っており収入の不安はなかったが、マックスウェルは同年10月からロンドンのキングス・カレッジ・ロンドン(前述の統合校とは別)の応用科学の教授職に就いた。1861年には、光の三原色それぞれのフィルターを着けて撮影した3枚の写真を重ねることで史上初めてカラー写真の撮影に成功した。右図のように被写体はタータンリボンであり、この結果は同年5月17日に王立研究所で発表された。また同年、気体の分子運動論の論文を発表した。この論文では、エーテルの中で力線に沿って整列した渦流が敷き詰められ、その間に小さな歯車のような存在があって噛み合っているという力学モデルを提案した。これは現実的ではないが、ここから正確なアンペールの法則が初めて導き出された。さらにエーテルを弾性体として電気・磁気の力によって伝播する波の速度を求めたところ、光速度とほぼ一致することが明らかになった。すなわち光は横波であり、かつ電磁気と一体の現象として捉えられることがわかった。同年王立協会フェロー選出。
これらを整理して渦流を用いずに説明できる電磁場のモデルであるマクスウェルの方程式を導き、1864年に王立協会で発表した。1864年(及び1870年)には、マクスウェル・ベティの相反作用の定理に関係する論文も発表している。
1865年4月にマクスウェルは論文執筆などで多忙のため、キングスカレッジを退職した。同年秋に故郷のミドルビーに戻り、1867年の春から夏にかけては妻の転地療養も兼ねてイタリアを訪れている。1868年には論文の中で電磁波という言葉を使用し、電気と磁気の相関に触れた。また1871年には著作の中で、クラウジウスが提唱した熱力学第二法則に疑問を投げかけ、マクスウェルの悪魔の思考実験を示した。マクスウェルは1865年以降スコットランドの自宅で研究を続けていたが、ケンブリッジ大学で実験物理学講座が開設されることになると同大学からの懇請を受け、1871年3月8日にケンブリッジ大学で実験物理学の初代教授となった。ここでは総長の第7代デヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディッシュ(英語版)の基金によるキャヴェンディッシュ研究所設立に貢献し、1874年6月16日開所と同時に初代所長となった。またこのとき、デヴォンシャー公から彼の親族にあたるヘンリー・キャヴェンディッシュの遺稿を渡され、マクスウェルはこの実験を再現していき1879年には論文集を発行している。1877年にはアダムズ賞の審査員となり、かつて同級生だったラウスがこれを受賞している。1879年夏季にミドルビーに帰省した際に2年前から患った腹部の癌が悪化し、ケンブリッジで治療を受けるも11月5日に逝去した。
アルベルト・アインシュタインは1920年代にケンブリッジ大学を訪問した際に、自分の業績はアイザック・ニュートンよりもマクスウェルに支えられた所が大きいと述べた。 | [
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"text": "マイケル・ファラデーによる電磁場理論をもとに、1864年にマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立した。さらに電磁波の存在を理論的に予想しその伝播速度が光の速度と同じであること、および横波であることを示した。これらの業績から電磁気学の最も偉大な学者の一人とされる。また、土星の環や気体分子運動論・熱力学・統計力学などの研究でも知られている。",
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"text": "マクスウェルは1831年6月13日にスコットランドのエディンバラで、弁護士のジョン・クラーク (John Clerk) とフランシス・ケイ (Frances Cay) の間に生まれた。父のジョンはマクスウェル家の持つ1,800エーカーの広大な土地を相続しており、それがあるスコットランド南西部のミドルビーでマクスウェルは幼少期を過ごした。近くには学校がなかったため母のフランシスが教師となったが8歳の時に母ががんで亡くなり、以後は相性の悪い家庭教師の下で2年間学んだ。1841年11月に10歳でエディンバラ中等学校に入学し、当初は訛りをからかわれたもののやがて早熟な才能を示した。14歳の時には書いた詩が『エディンバラ通信』に掲載され、その半年後には複数の焦点を用いた卵形線の定義とこれに基づいたピンと糸による描法を考え出し、論文として発表している。この業績はエディンバラ大学のジェームズ・フォーブスに認められ、エディンバラ王立協会で発表された。",
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"text": "1847年に16歳でエディンバラ大学に入学し、偏光による弾性ひずみの観察の研究などを行なった。さらに1850年にケンブリッジ大学のピーターハウスカレッジに入学したが、翌学期から学内のトリニティーカレッジに移った。なお、当時のケンブリッジには物理学者のジョージ・ガブリエル・ストークスやウィリアム・ヒューウェルがいた。1854年に数学の学位を2位の成績で取得して卒業している。この時1位だった数学者のラウスに負けた悔しさからマクスウェルは学内の数学のスミス賞を狙い、こちらはラウスと同時受賞となった。",
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"text": "卒業後も教授の資格を得るためにトリニティーカレッジに残ってフェローとして研究や学生の指導を行ない、1855年12月10日にはマイケル・ファラデーの提唱した磁気力線に関する論文を発表した。これが契機となって、後にファラデーとの間に交流が生まれている。1856年4月30日付でトリニティーカレッジの研究員となり、さらに同年10月15日に故郷のスコットランドのアバディーンにあるマーシャルカレッジで科学哲学の教授に就任した。なお、4月2日には父・ジョンが亡くなった。この頃ケンブリッジのアダムズ賞に取り組み、1857年度の課題だった「土星の環の構造と安定性」について1856年12月16日に論文を提出し、翌1857年5月30日に受賞した。この論文において安定して環が存在し続けるためには、環は無数の粒子から構成されていなければならないとの結論を得ている。1858年2月にはマリシャルの学長の娘であるキャサリン・マリー・デュワーと婚約し、同年6月に披露宴を挙げている。1859年9月21日に発表した気体の動力学的理論の論文では、個々の粒子の速度分布はマクスウェル分布に従う事を示した。",
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"text": "1865年4月にマクスウェルは論文執筆などで多忙のため、キングスカレッジを退職した。同年秋に故郷のミドルビーに戻り、1867年の春から夏にかけては妻の転地療養も兼ねてイタリアを訪れている。1868年には論文の中で電磁波という言葉を使用し、電気と磁気の相関に触れた。また1871年には著作の中で、クラウジウスが提唱した熱力学第二法則に疑問を投げかけ、マクスウェルの悪魔の思考実験を示した。マクスウェルは1865年以降スコットランドの自宅で研究を続けていたが、ケンブリッジ大学で実験物理学講座が開設されることになると同大学からの懇請を受け、1871年3月8日にケンブリッジ大学で実験物理学の初代教授となった。ここでは総長の第7代デヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディッシュ(英語版)の基金によるキャヴェンディッシュ研究所設立に貢献し、1874年6月16日開所と同時に初代所長となった。またこのとき、デヴォンシャー公から彼の親族にあたるヘンリー・キャヴェンディッシュの遺稿を渡され、マクスウェルはこの実験を再現していき1879年には論文集を発行している。1877年にはアダムズ賞の審査員となり、かつて同級生だったラウスがこれを受賞している。1879年夏季にミドルビーに帰省した際に2年前から患った腹部の癌が悪化し、ケンブリッジで治療を受けるも11月5日に逝去した。",
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] | ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、イギリス・スコットランドの理論物理学者である。姓はマックスウェルと表記されることもある。 マイケル・ファラデーによる電磁場理論をもとに、1864年にマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立した。さらに電磁波の存在を理論的に予想しその伝播速度が光の速度と同じであること、および横波であることを示した。これらの業績から電磁気学の最も偉大な学者の一人とされる。また、土星の環や気体分子運動論・熱力学・統計力学などの研究でも知られている。 | {{Infobox scientist
|name = ジェームズ・クラーク・マクスウェル<br>James Clerk Maxwell
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{{統計力学}}
'''ジェームズ・クラーク・マクスウェル'''({{lang-en|James Clerk Maxwell}}、[[1831年]][[6月13日]] - [[1879年]][[11月5日]])は、[[イギリス]]・[[スコットランド]]の理論[[物理学者]]である。姓は'''マックスウェル'''と表記されることもある。
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== 経歴 ==
マクスウェルは[[1831年]][[6月13日]]に[[スコットランド]]の[[エディンバラ]]で、[[弁護士]]のジョン・クラーク (John Clerk) とフランシス・ケイ (Frances Cay) の間に生まれた。父のジョンはマクスウェル家の持つ1,800[[エーカー]]の広大な土地を相続しており、それがある[[スコットランド]]南西部のミドルビーでマクスウェルは幼少期を過ごした。近くには学校がなかったため母のフランシスが教師となったが8歳の時に母ががんで亡くなり{{sfn|米沢|2005|p=110}}、以後は相性の悪い[[家庭教師]]の下で2年間学んだ。1841年11月に10歳でエディンバラ中等学校に入学し、当初は訛りをからかわれたもののやがて早熟な才能を示した。14歳の時には書いた詩が『エディンバラ通信』に掲載され、その半年後には複数の[[焦点 (幾何学)|焦点]]を用いた[[卵]]形線の定義とこれに基づいたピンと糸による描法を考え出し、論文として発表している。この業績は[[エディンバラ大学]]のジェームズ・フォーブスに認められ、[[エディンバラ王立協会]]で発表された{{sfn|米沢|2005|p=112}}。
1847年に16歳で[[エディンバラ大学]]に入学し、偏光による[[弾性]][[ひずみ]]の観察の研究などを行なった。さらに1850年に[[ケンブリッジ大学]]のピーターハウスカレッジに入学したが、翌学期から学内の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティーカレッジ]]に移った。なお、当時の[[ケンブリッジ]]には物理学者の[[ジョージ・ガブリエル・ストークス]]や[[ウィリアム・ヒューウェル]]がいた。1854年に[[数学]]の[[学位]]を2位の成績で取得して卒業している<ref>「スコットランド文化事典」p639 [[木村正俊]]・中尾正史編 原書房 2006年11月3日第1刷</ref>。この時1位だった数学者の[[エドワード・ラウス|ラウス]]に負けた悔しさからマクスウェルは学内の数学のスミス賞を狙い、こちらはラウスと同時受賞となった{{sfn|米沢|2005|p=114}}。
卒業後も教授の資格を得るためにトリニティーカレッジに残ってフェローとして研究や学生の指導を行ない、1855年12月10日には[[マイケル・ファラデー]]の提唱した磁気力線に関する論文を発表した。これが契機となって、後にファラデーとの間に交流が生まれている。1856年4月30日付でトリニティーカレッジの研究員となり、さらに同年10月15日に故郷のスコットランドの[[アバディーン]]にあるマーシャルカレッジで[[科学哲学]]の[[教授]]に就任した。なお、4月2日には父・ジョンが亡くなった。この頃ケンブリッジの[[アダムズ賞]]に取り組み、1857年度の課題だった「[[土星]]の[[環 (天体)|環]]の構造と安定性」について1856年12月16日に論文を提出し、翌1857年5月30日に受賞した。この論文において安定して環が存在し続けるためには、環は無数の粒子から構成されていなければならないとの結論を得ている。1858年2月にはマリシャルの[[学長]]の娘であるキャサリン・マリー・デュワーと婚約し{{sfn|セン|2021|p=115}}、同年6月に披露宴を挙げている。1859年9月21日に発表した気体の動力学的理論の論文では、個々の粒子の速度分布は[[マクスウェル分布]]に従う事を示した{{sfn|米沢|2005|p=116}}。
1860年、マーシャルカレッジと近郊のキングスカレッジとの統合にともない教授の職を失った{{sfn|セン|2021|pp=123–124}}。マクスウェルはグレンレア領の領主であり<ref>「スコットランド文化事典」p639 木村正俊・中尾正史編 原書房 2006年11月3日第1刷</ref>、所有地からの収入は年間2,000[[スターリング・ポンド|ポンド]]に上っており収入の不安はなかったが、マックスウェルは同年10月から[[ロンドン]]の[[キングス・カレッジ・ロンドン]](前述の統合校とは別)の応用科学の教授職に就いた{{sfn|セン|2021|p=124}}。1861年には、[[光|光の三原色]]それぞれのフィルターを着けて撮影した3枚の写真を重ねることで史上初めて[[写真#カラー写真|カラー写真]]の撮影に成功した。右図のように被写体は[[タータン]][[リボン]]であり、この結果は同年5月17日に王立研究所で発表された。また同年、[[気体]]の[[分子運動論]]の論文を発表した。この論文では、[[エーテル (物理)|エーテル]]の中で力線に沿って整列した渦流が敷き詰められ、その間に小さな歯車のような存在があって噛み合っているという力学モデルを提案した。これは現実的ではないが、ここから正確な[[アンペールの法則]]が初めて導き出された。さらにエーテルを[[弾性体]]として電気・磁気の力によって伝播する波の速度を求めたところ、[[光速度]]とほぼ一致することが明らかになった。すなわち光は[[横波]]であり、かつ[[電磁気]]と一体の現象として捉えられることがわかった。同年[[王立協会フェロー]]選出。
これらを整理して渦流を用いずに説明できる電磁場のモデルである'''[[マクスウェルの方程式]]'''を導き、[[1864年]]に[[王立協会]]で発表した。1864年(及び1870年)には、[[マクスウェル・ベティの相反作用の定理]]に関係する論文も発表している<ref>Maxwell JC (1864) On reciprocal figures and diagrams of forces. Philos Mag 26:250–261</ref><ref>Maxwell JC (1870) On reciprocal figures, frames, and diagrams of forces. Edinb Roy Soc Proc 7:160–208</ref>。
1865年4月にマクスウェルは論文執筆などで多忙のため、キングスカレッジを退職した。同年秋に故郷のミドルビーに戻り、1867年の春から夏にかけては妻の転地療養も兼ねて[[イタリア]]を訪れている。1868年には論文の中で[[電磁波]]という言葉を使用し、[[電気]]と[[磁気]]の相関に触れた。また1871年には著作の中で、[[クラウジウス]]が提唱した[[熱力学第二法則]]に疑問を投げかけ、'''[[マクスウェルの悪魔]]'''の思考実験を示した。マクスウェルは1865年以降スコットランドの自宅で研究を続けていたが、ケンブリッジ大学で実験物理学講座が開設されることになると同大学からの懇請を受け、1871年3月8日にケンブリッジ大学で[[実験物理学]]の初代教授となった<ref>『ケンブリッジの天才科学者たち』p21 小山慶太 新潮選書 1995年11月10日発行</ref>。ここでは総長の第7代[[デヴォンシャー公]]{{仮リンク|ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第7代デヴォンシャー公爵)|en|William Cavendish, 7th Duke of Devonshire|label=ウィリアム・キャヴェンディッシュ}}の基金による[[キャヴェンディッシュ研究所]]設立に貢献し、1874年6月16日開所と同時に初代所長となった。またこのとき、デヴォンシャー公から彼の親族にあたる[[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]の遺稿を渡され、マクスウェルはこの実験を再現していき1879年には論文集を発行している<ref>『ケンブリッジの天才科学者たち』p22-26 小山慶太 新潮選書 1995年11月10日発行</ref>。1877年にはアダムズ賞の審査員となり、かつて同級生だったラウスがこれを受賞している。[[1879年]]夏季にミドルビーに帰省した際に2年前から患った腹部の[[癌]]が悪化し、ケンブリッジで治療を受けるも[[11月5日]]に逝去した{{sfn|米沢|2005|p=140}}。
== 人物 ==
[[アルベルト・アインシュタイン]]は[[1920年代]]に[[ケンブリッジ大学]]を訪問した際に、自分の業績は[[アイザック・ニュートン]]よりもマクスウェルに支えられた所が大きいと述べた。
== 受賞歴 ==
*[[スミス賞]] (1854)
*[[アダムズ賞]] (1857)
*[[ランフォード・メダル]] (1860)
*[[ベーカリアン・メダル]] (1866)
*キース賞 (1869–71)
== ギャラリー ==
{{Gallery
|YoungJamesClerkMaxwell.jpg|若きマクスウェル
|Tartan Ribbon.jpg|史上初のカラー写真
|Maxwell IEEE Plaque KCL.jpg|マクスウェルの方程式の銘板(キングスカレッジ)
|James Clerk Maxwell statue in George Street, Edinburgh.jpg|マクスウェルの記念碑(エディンバラ)
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
===マクスウェルの著作で邦訳があるもの===
* {{cite book|和書
|last=マクスウェル
|first=ジェームズ・クラーク
|translator=[[竹内薫]]
|title=電気論の初歩 上
|publisher=シャムハトプレス
|date=2006-02
|isbn=978-4-903031-05-7
|ref={{sfnref|マクスウェル『電気論の初歩 上』|2006}}
}}
* {{cite book|和書
|last=マクスウェル
|first=ジェームズ・クラーク
|translator=井口和基
|title=マックスウェルの電磁気学
|publisher=太陽書房
|date=2012-12-25
|isbn=978-4-86420-065-3
|ref={{sfnref|『マックスウェルの電磁気学』|2012}}
}}
* {{cite book|和書
|editor=物理学史研究刊行会
|series=物理学古典論文叢書 5
|title=気体分子運動論
|publisher=東海大学出版会
|ncid=BN00957900
|date=1971-01
|translator=佐光興亜, 松村博之, 長浜惲
|ref={{sfnref|物理学史研究刊行会編『気体分子運動論』|1971}}
}}
** 佐光興亜 訳:
*** 『気体の動力学的理論の例示』
*** 『気体の動力学的理論について』
** 松村博之 訳:
*** 『質点系におけるエネルギーの平均分布に関するBoltzmannの理論について』
===評伝===
* {{cite book|和書
|last=矢島
|first=祐利
|title=マックスウェル
|publisher=弘文堂
|series=科学史をつくる人々
|date=1950
|doi=10.11501/1160997
|ref=harv
}}
* {{cite book|和書
|last=カルツェフ
|first=ウラジミール・ペトロヴィチ
|translator=早川光雄, [[金田一真澄]]
|title=マクスウェルの生涯: 電気文明の扉を開いた天才
|publisher=東京図書
|date=1976
|ref=harv
}}
* {{cite book|和書
|first=フランシス
|last=エヴァリッツ
|chapter=ジェームズ・クラーク・マクスウェル 電気と磁気を統一した男
|title=パリティ
|publisher=パリティ編集委員会
|volume=22
|issue=10
|pages=19–28
|date=2007
|ref=harv
}}
*{{cite journal|和書
|last=宮下
|first=保
|title=自然へのまなざし マクスウェルの場合
|journal=東海大学海洋学部紀要
|volume=27
|pages=59–80
|date=2001
|issn=09167757
|ref=harv
}}
* {{cite book|和書
|last=太田
|first=浩一
|chapter=マクスウェルは世界を変えた
|title=数理科学
|publisher=サイエンス社
|volume=455
|pages=9–18
|date=2001-05
|ref=harv
}}
* {{cite book|和書
|last=久保
|first=泉
|chapter=エルゴード伝説 マックスウェルとボルツマンの成果
|title=数学セミナー
|volume=21
|issue=10
|pages=74–80
|date=1982
|ref=harv
}}
*Campbell, Lewis『{{PDFlink|[http://www.sonnetsoftware.com/bio/maxbio.pdf The Life of James Clerk Maxwell]}}』、[[1882年]]
*James C. Rautio『{{PDFlink|[http://www.sonnetsoftware.com/bio/maxwellslegacy.pdf ''Maxwell's Legacy]}}』、[[2005年]] その{{PDFlink|[http://www.sonnetsoftware.co.jp/product/seminar/dml/summary.pdf 和文要約]}}、[[2008年]]
*Peter M. Harman『The Natural Philosophy of James Clerk Maxwell』、Cambridge University Press、1998年
=== その他書籍 ===
* {{Cite book|和書
|first=ポール
|last=セン
|translator=水谷淳
|title=宇宙を解く唯一の科学 熱力学
|publisher=河出書房新社
|date=2021-06-25
|isbn=978-4309254289
|ref=harv
}}
* {{Cite book|和書
|last=米沢
|first=富美子
|chapter=第5章 電気と磁気の謎を追う ―ジェームズ・C・マクスウェル―
|title=人物で語る物理入門 上
|series=岩波新書 新赤版 980
|publisher=岩波書店
|date=2005-11-18
|isbn=978-4004309802
|ref=harv
}}
== 関連項目 ==
*[[マクスウェル (単位)]]
*[[マクスウェルの悪魔]](気体分子運動論)
*[[マクスウェルの関係式]](熱力学)
*[[熱力学第零法則]](熱力学)
*[[マクスウェルの方程式]](電磁気学)
*[[マクスウェル分布]](統計力学)
*[[ハインリヒ・ヘルツ]](電磁波の存在を実証)
*[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル望遠鏡]]
*[[マクスウェル山]]([[金星]]最高峰、マクスウェルに因んで命名された)
== 外部リンク ==
{{Commons|James Clerk Maxwell}}
* {{Kotobank|マクスウェル(James Clerk Maxwell)}}
{{100名の最も偉大な英国人}}
{{Telecommunications}}
{{電磁気学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まくすうえる しえむすくらく}}
[[Category:ジェームズ・クラーク・マクスウェル|*]]
[[Category:スコットランドの物理学者]]
[[Category:19世紀イギリスの物理学者]]
[[Category:イギリスの理論物理学者]]
[[Category:王立協会フェロー]]
[[Category:エディンバラ王立協会フェロー]]
[[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]]
[[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]]
[[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]]
[[Category:ケンブリッジ大学の教員]]
[[Category:キングス・カレッジ・ロンドンの教員]]
[[Category:キャヴェンディッシュ研究所の人物]]
[[Category:ヴィクトリア朝の人物]]
[[Category:エディンバラ出身の人物]]
[[Category:エディンバラ大学出身の人物]]
[[Category:ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ出身の人物]]
[[Category:ケンブリッジ大学ピーターハウス出身の人物]]
[[Category:1831年生]]
[[Category:1879年没]] | 2003-05-23T05:43:40Z | 2023-12-18T23:51:50Z | false | false | false | [
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"Template:仮リンク",
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9,146 | 六大州 | 六大州(ろくだいしゅう、six continents)とは、世界を地理学的に六つの州に区分したものの総称である。
六大陸ともいう。大陸といった場合は地理学的な大陸に限られ、州といった場合は大陸の周辺の島々を含む。しかし両者を区別しないことも多い。
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] | 六大州とは、世界を地理学的に六つの州に区分したものの総称である。 六大陸ともいう。大陸といった場合は地理学的な大陸に限られ、州といった場合は大陸の周辺の島々を含む。しかし両者を区別しないことも多い。 | {{大州|px=250}}
'''六大州'''(ろくだいしゅう、six continents)とは、[[世界]]を[[地理学]]的に六つの[[州]]に区分したものの総称である。
'''六大陸'''ともいう。[[大陸]]といった場合は地理学的な[[大陸]]に限られ、州といった場合は大陸の周辺の[[島|島々]]を含む。しかし両者を区別しないことも多い。
== 一覧 ==
六大州とは次の6つを言うのが代表的である。
* [[アジア]]州 - [[アジア大陸]]([[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]の一部)とその周辺
* [[ヨーロッパ]]州 - [[ヨーロッパ大陸]](ユーラシア大陸の一部)とその周辺
* [[アフリカ]]州 - [[アフリカ大陸]]とその周辺
* [[北アメリカ]]州 - [[北アメリカ大陸]]とその周辺
* [[南アメリカ]]州 - [[南アメリカ大陸]]とその周辺
* [[オセアニア|オセアニア(オーストラリア)]]州 - [[オーストラリア大陸]]とその周辺および[[太平洋]]の島々
== その他 ==
六大州以外には、次のようなものがある。
* 北アメリカと南アメリカを合わせて[[アメリカ州]]にした「[[五大州]]」、「[[五大陸]]」
* [[南極大陸]]を加えた「[[七大州]]」、「[[七大陸]]」
また、次のものを六大州ということもある。
* 南極を加え、北アメリカと南アメリカを合わせて[[アメリカ州]]にする。[[ラテンアメリカ]]で多い。
* 南極を加え、アジアとヨーロッパを合わせて[[ユーラシア|ユーラシア州]]にする(特に、'''六大陸'''と言った場合)。
== 参考項目 ==
* [[大陸]]
* [[大州]]
* [[七大陸最高峰]]
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[[Category:大陸]]
[[Category:大陸別の地理]]
[[Category:名数6|たいしゆう]]<!--「六大・州」ではなく「六・大州」-->
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9,148 | アジア大陸 | アジア大陸(アジアたいりく)は、巨大な大陸であるユーラシア大陸の東側の大きな部分を占める亜大陸である。
西のヨーロッパ大陸とは、ウラル山脈を介して一体となっており、南のアフリカ大陸とはスエズ運河でつながっている。周囲は、太平洋・インド洋の大洋、北極海・ヨーロッパ地中海・黒海・紅海・ペルシア湾などの地中海、ベーリング海・オホーツク海・東シナ海・黄海・日本海・アラビア海・ベンガル湾などの縁海などに面している。
大陸・亜大陸の定義は任意であるため、アジアとヨーロッパの境界は非常に曖昧なものであるが、ダーダネルス海峡、マルマラ海、黒海、カフカース山脈、カスピ海、ウラル川、ウラル山脈、ノヴァヤゼムリャを結んだ線上にあるとされている。 | [
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] | アジア大陸(アジアたいりく)は、巨大な大陸であるユーラシア大陸の東側の大きな部分を占める亜大陸である。 西のヨーロッパ大陸とは、ウラル山脈を介して一体となっており、南のアフリカ大陸とはスエズ運河でつながっている。周囲は、太平洋・インド洋の大洋、北極海・ヨーロッパ地中海・黒海・紅海・ペルシア湾などの地中海、ベーリング海・オホーツク海・東シナ海・黄海・日本海・アラビア海・ベンガル湾などの縁海などに面している。 大陸・亜大陸の定義は任意であるため、アジアとヨーロッパの境界は非常に曖昧なものであるが、ダーダネルス海峡、マルマラ海、黒海、カフカース山脈、カスピ海、ウラル川、ウラル山脈、ノヴァヤゼムリャを結んだ線上にあるとされている。 | <!--ここには大陸としての地形的特徴を書きます-->
'''アジア大陸'''(アジアたいりく)は、巨大な[[大陸]]である[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]の東側の大きな部分を占める[[亜大陸]]である。
西の[[ヨーロッパ大陸]]とは、[[ウラル山脈]]を介して一体となっており、南の[[アフリカ大陸]]とは[[スエズ運河]]でつながっている。周囲は、[[太平洋]]・[[インド洋]]の[[大洋]]、[[北極海]]・[[ヨーロッパ地中海]]・[[黒海]]・[[紅海]]・[[ペルシア湾]]などの[[地中海]]、[[ベーリング海]]・[[オホーツク海]]・[[東シナ海]]・[[黄海]]・[[日本海]]・[[アラビア海]]・[[ベンガル湾]]などの[[縁海]]などに面している。
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| colspan=6 align=right|経度・緯度30度刻みの地形図によるアジア大陸の位置
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[[ファイル:Asia satellite orthographic.jpg|thumb|250px|アジア大陸]]
== 大陸の構成 ==
* [[シベリア]]([[北アジア]])
* [[東アジア]]
* [[東南アジア]]
* [[南アジア]]
* [[中央アジア]]
* [[西アジア]]
== 主な半島 ==
* [[アラビア半島]]
* [[インド亜大陸|インド半島]](インド亜大陸)
* [[アナトリア半島]]
* [[カムチャツカ半島]]
* [[インドシナ半島]]
* [[マレー半島]]
* [[朝鮮半島]]
* [[房総半島]]
== 主な山脈・高原・山 ==
* [[ヒマラヤ山脈]]
** [[エベレスト山]]
* [[カラコルム山脈]]
** [[K2]]
* [[パミール高原]]
* [[チベット高原]]
* [[テンシャン山脈]]
* [[エルブールズ山脈]]
* [[カフカース山脈]]
* [[イラン高原]]
* [[ザグロス山脈]]
* [[ヒンドゥークシュ山脈]]
== 主な湖・内海 ==
* [[カスピ海]]
* [[アラル海]]
* [[バイカル湖]]
* [[死海]]
== 主な河川 ==
* [[オビ川]]
* [[エニセイ川]]
* [[レナ川]]
* [[アムール川]]
* [[長江]]
* [[ガンジス川]]
* [[ブラマプトラ川]]
* [[インダス川]]
* [[メコン川]]
* [[ユーフラテス川]]
* [[黄河]]
* [[コリマ川]]
* [[シルダリア川]]
* [[アムダリア川]]
* [[セレンガ川]]
* [[イラワジ川]]
* [[珠江]]
* [[サルウィン川]]
* [[オレニョーク川]]
* [[ウラル川]]
* [[遼河]]
* [[イーリー川]]
* [[タリム川]]
== 主な砂漠 ==
* [[ルブアルハリ砂漠]]
* [[ゴビ砂漠]]
* [[カラクム砂漠]]
* [[キジルクム砂漠]]
* [[タクラマカン砂漠]]
* [[カヴィール砂漠]]
* [[シリア砂漠]]
* [[タール砂漠]]
* [[ルート砂漠]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アジア]]
* [[六大州]]
{{世界の地理 |continents}}
[[Category:アジアの地形|*あしあたいりく]]
[[Category:大陸|あしあたいりく]] | 2003-05-23T10:01:00Z | 2023-09-14T01:31:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%A4%A7%E9%99%B8 |
9,149 | 慣用句 | 慣用句(かんようく)とは、習慣として長い間広く使われてきた、ひとまとまりの言葉・文句や言い回しのことで、類語に成句や成語がある。
慣用句とは、二語以上の単語が固く結びつき、全く異なる意味を持つものを指し、言語学的にはイディオムと呼ばれる。慣用句は、会話や文章上で定型句として用いられる。
慣用句と諺(ことわざ)は混同されやすく、分類も困難であるため、諺と慣用句双方を掲載した辞典が多い。厳密には、諺は一つの文で独立語として成立し、格言、教訓や皮肉、物事の法則を含ませているものである(例『弘法も筆の誤り』『負けるが勝ち』『三日坊主』など)。そして品詞では名詞に区分される。
対して、慣用句とは独立した単語の複合により、異なった意味を持つようになった定型句であり、それらは通常、独立語、すなわち名詞として扱わない。
例えば、「舌の根の乾かぬうちに」という慣用句は、「舌(名詞)」+「の(助詞)」+「根(名詞)」+「の(助詞)」+「乾か(動詞の未然形)」+「ぬ(助動詞)」+「うち(名詞)」+「に(助詞)」で構成され、それぞれ異なる意味を持つ。それに対し、「舌の根の乾かぬうちに」で“先ほど口にした直後に”という意味を持つ慣用表現となり、この言葉の後には決まって前の文脈を否定する表現が来る。
「足が出る」など動詞、形容詞、形容動詞を述語とする場合は会話や文章の状況に応じて活用することがある(ただし、『足下から鳥が発つ』などのように動詞で終わっても諺として分類されるものがある)。また、慣用句は諺のように教訓や格言として機能するものではなく、あくまで日常の行動や物事の状態などを面白おかしく表現したりしたものである。
すなわち、慣用句は一種の比喩(暗喩)表現でもあり、それらの意味は固定化している。したがって、正しく意味を理解しないと、頓珍漢な使用をしてしまったり、使用した相手に対して間違った応答をしてしまったりすることがある。
また、成句は、慣用句の定義とほぼ重なるが、「無くて七癖」のように古くから慣習的に用いられている文句も含み、諺にも近いニュアンスをもつこともある。
さらに、成語も、成句・慣用句と混同して用いられることが多いが、故事成語の略として使われることもある。また、中国語圏では、日本における四字熟語とほぼ同義に用いられる。
言語学における慣用句、すなわちイディオム(idiom)は、慣習的に意味と用例が固定的な連語表現と定義されており、語彙的慣用句(lexical idiom)、句慣用句(phrasal idiom)、枠組み慣用句(formal idiom)などの類型がある。 | [
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] | 慣用句(かんようく)とは、習慣として長い間広く使われてきた、ひとまとまりの言葉・文句や言い回しのことで、類語に成句や成語がある。 | '''慣用句'''(かんようく)とは、[[習慣]]として長い間広く使われてきた、ひとまとまりの[[語|言葉]]・文句や言い回しのことで、類語に'''成句'''や'''[[成語]]'''がある。
== 概要 ==
慣用句とは、二語以上の[[単語]]が固く結びつき、全く異なる意味を持つものを指し、[[言語学]]的には[[イディオム]]と呼ばれる。慣用句は、会話や文章上で定型句として用いられる。
慣用句と[[ことわざ|諺]](ことわざ)は混同されやすく、分類も困難であるため、諺と慣用句双方を掲載した辞典が多い。厳密には、諺は一つの文で独立語として成立し、[[格言]]、教訓や皮肉、物事の法則を含ませているものである(例『弘法も筆の誤り』『負けるが勝ち』『三日坊主』など)。そして[[品詞]]では[[名詞]]に区分される。
対して、慣用句とは独立した単語の複合により、異なった意味を持つようになった定型句であり、それらは通常、独立語、すなわち名詞として扱わない。
例えば、「舌の根の乾かぬうちに」という慣用句は、「舌(名詞)」+「の(助詞)」+「根(名詞)」+「の(助詞)」+「乾か(動詞の未然形)」+「ぬ(助動詞)」+「うち(名詞)」+「に(助詞)」で構成され、それぞれ異なる意味を持つ。それに対し、「舌の根の乾かぬうちに」で“先ほど口にした直後に”という意味を持つ慣用表現となり、この言葉の後には決まって前の文脈を否定する表現が来る。
「足が出る」など[[動詞]]、[[形容詞]]、[[形容動詞]]を述語とする場合は会話や文章の状況に応じて[[活用]]することがある(ただし、『足下から鳥が発つ』などのように動詞で終わっても諺として分類されるものがある)。また、慣用句は諺のように教訓や[[格言]]として機能するものではなく、あくまで日常の行動や物事の状態などを面白おかしく表現したりしたものである。
すなわち、慣用句は一種の[[比喩]]([[暗喩]])表現でもあり、それらの意味は固定化している。したがって、正しく意味を理解しないと、頓珍漢な使用をしてしまったり、使用した相手に対して間違った応答をしてしまったりすることがある。
また、成句は、慣用句の定義とほぼ重なるが、「無くて七癖」のように古くから慣習的に用いられている文句も含み、諺にも近いニュアンスをもつこともある<ref>『使い方の分かる類語例解辞典』小学館(1994年)</ref>。
さらに、成語も、成句・慣用句と混同して用いられることが多いが、[[故事|故事成語]]の略として使われることもある。また、中国語圏では、日本における[[四字熟語]]とほぼ同義に用いられる。
== 言語学における慣用句 ==
{{main|イディオム}}
言語学における慣用句、すなわち'''イディオム'''(idiom)は、慣習的に意味と用例が固定的な連語表現と定義されており、語彙的慣用句(lexical idiom)、句慣用句(phrasal idiom)、枠組み慣用句(formal idiom)などの類型がある。
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 高木一彦「慣用句研究のため」(『[[教育国語]]』38,[[1974年]]。[[松本泰丈]]編『日本語研究の方法』[[むぎ書房]],[[1978年]],ISBN 9784838401031 に再録)
== 関連項目 ==
*[[ことわざ]]
*[[流行語]]
*[[若者言葉]]
*[[カルタ]]
*[[熟語]]
**[[英熟語]]
**[[イディオム]]
**[[四字熟語]]
*[[故事|故事成語]]
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{{DEFAULTSORT:かんようく}}
[[Category:言葉の文化]]
[[Category:慣用句|*]]
[[Category:語彙論]] | 2003-05-23T10:40:47Z | 2023-09-03T07:44:48Z | false | false | false | [
"Template:Language-stub",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A3%E7%94%A8%E5%8F%A5 |
9,151 | 衛星電話 | 衛星電話(えいせいでんわ)とは、通信衛星と直接通信する電話機を使用した電話網を提供するサービスである。
衛星電話は、電線(光ケーブルやマイクロ波回線も含む)を使った有線電話(固定電話)や地上の無線通信技術を用いた携帯電話と比較して、通話可能地域が広いほか、地上設備が少ない通信網が技術的には提供可能である。しかし、無線局の免許や税金、利用地域の政府の規制などの関係で自由に使用できない地域も多い。
静止衛星を用いたサービスは、端末やアンテナの小型化を可能にするため、マルチビーム方式のスポットアンテナを搭載し、ビーム間の交換設備を内蔵した衛星が使用される。
通信距離が上下各約36,000kmと長いため、遅延時間が大きい。また、高緯度地域や経度の離れた地域など衛星への仰角が小さい場合、地上の障害物のため通信しにくいことがある。
各種の多元接続方式でトランスポンダの電波帯域を有効活用している。
衛星電話はインマルサットが開発してサービスが始まった。実際の事業は民間企業が行っている(後述)。 太平洋・大西洋(東・西)・インド洋の4つの静止衛星を使用しており、南極と北極を除いた緯度70度以下の地域で、海上・陸上・空中を問わず通信が可能である。
Broadband Global Area Network (BGAN) と呼ばれる高速通信サービスのために、グローバルビーム1本・ワイドスポットビーム19本・ナロースポットビーム228本を搭載したInmarsat-4衛星を軌道投入している。ナロースポットビームは、指向性を変化させることができ、需要に合わせた回線設計が可能である。2005年(平成17年)3月11日にインド洋衛星が打ち上げに成功し、同年中にサービスが順次開始されている。
日本の電波法及び電気通信事業法に基づく事業は、KDDI(GSPS型を除く)、日本デジコム(ミニM型及びBGAN型、GSPS型に限る)、JSAT MOBILE Communications(BGAN型、GSPS型に限る)が行っている。
ワイドスターは、1996年(平成8年)3月29日に、海岸の基地局を利用した船舶電話を置き換える目的でサービスが開始された。NTTドコモが、N-STARc(東経136度)およびN-STARd(JCSAT-5A、東経132度)の2機の静止衛星で日本の領海・領土向けのサービスとして提供しており、衛星が見通せる地点ならば、海上・陸上・空中を問わず利用可能。
長距離フェリーや、電話線がひかれていない山の売店・山小屋などに設置されている公衆電話でも、ワイドスターが使用されている。自衛隊・気象庁および海上保安庁職員のみが駐在している硫黄島や南鳥島でも、本土との電話回線にワイドスター電話が使われている。
また地域衛星通信ネットワークの衛星電話が設置されていない公共施設では、災害時応急復旧用無線電話機と共ににも設置されている。地震などの大災害が発生すると、通常の電話回線は多くの通話が殺到して輻輳状態になるほか、電話回線が損傷すると通話そのものが不可能になる。その点、衛星電話は地上設備が比較的少なく設備損傷のリスクが少ないと考えられるため、地方自治体・警察・消防用の緊急電話回線(一般用とは別系統のワイドスター電話端末)が設置されている。
日本の通信事業者(NTTドコモ)が行っているサービスのため、電話番号は通常の携帯電話と同様に090や080の電話番号が割り振られ、発信方法も同じである。他の海外キャリアの衛星電話は、発着信の際国番号や特定番号をいれなければ発着信ができない。法人営業部門のあるドコモショップ等で端末の購入が可能である。
形態としては、陸上可搬型、車載型、船舶型の3種類となる。
2010年(平成22年)4月からは、「ワイドスター」の後継として、「ワイドスターII」サービス提供及び「衛星可搬端末01」の発売が開始された。
ワイドスターII は通信速度が大幅にあがり、上り最大144kbps・下り最大384kbpsとなり帯域占有サービス、帯域保証サービス、最大200拠点に対して、音声、FAX、Eメールの複数の手段にて一斉連絡が可能となる「一斉同報通信サービス」が提供された。あわせてパケット通信料金が大幅に値下げされた。
スラーヤ (Thuraya) は、アラブ首長国連邦の所有する人工衛星を利用したもので、サービス提供エリアはヨーロッパ・北アフリカ・中東およびインドなどの南アジアである。
2000年(平成12年)10月に1号、2003年(平成15年)6月に2号が東経44度に軌道投入されたほか、2008年(平成20年)には3機目の衛星を軌道に乗せ、東南アジア・東アジアでも提供開始された。
日本では、電波法により使用が認められていなかったが、2012年12月14日付けで日本デジコムとソフトバンクモバイル(現・ソフトバンク)が、総務省から無線局免許状を取得した。これにより、日本でもスラーヤ端末の利用が可能となった。ただし使用している電波の周波数帯が電波天文学観測所で観測で使用している周波数に近く、天文観測に影響を与える可能性があることから、北関東・新潟・長野・山梨・福島の一部地域では、災害時などを除いて使用制限がかかっている。
エイセス (Asia Cellular Satellite) は、インドネシアのスラウェシ島上空(東経123度)の「Garuda-1」静止衛星を利用した、東南アジアを中心とした地域向けの衛星電話サービスである。東南アジアなどの地上設備の敷設が遅れている地域の通信環境を改善するために提供されている。
インマルサットに事実上吸収され、同社の主力機であるR190はIsatPhone(アイサットフォン)として稼動している。
日本の領土・領海では無線局免許の関係で使用できない。
地方自治体では、地域衛星通信ネットワーク(LASCOMネット)の「個別通信サービス」の電話機能も、衛星電話と呼ばれている。
静止衛星SUPERBIRD Bシリーズを用いた自治体専用の衛星通信回線で、音声通話の他に一斉指令・FAX・映像伝送・データ通信なども可能。電話番号も独自体系であり、一般の電話回線に直接接続することはできない。通話・FAX・デジタル映像伝送などの通話料が無料なのが特徴で、出先機関や消防車・救急車に搭載して日常的に使用している自治体もある。災害で電話回線・有線通信回線が途絶した場合は、これが唯一の通信手段となることが多い。
携帯電話と変わらない小型の端末で遅延時間の少ない交信を高緯度地域でも可能にするため、多数個の通信衛星からなる低軌道の衛星コンステレーションを利用するものがある。
衛星との見通し距離が1/10以下になると電波損失は1/100になるため、大型になる指向性アンテナを用いなくても通信が成り立つ。反面、1つの衛星から見渡せる地域は狭くなるため、多数個の衛星を衛星間通信により組み合わせて使用する。
1990年代後半に電気通信事業者が相次いで設立され、実際に衛星打上げも進められた。しかし、地上の携帯電話ネットワークのサービスエリア拡大や、静止衛星を利用する端末の小型化・低価格化により通信料金などの競争力が弱くなったため、需要が予測に反して伸びず、膨大な設備投資を回収できなくなった。このためデータ通信への需要のシフトを図ろうと試みたが、インターネットバブルの崩壊により投資が冷え込んだこともあって、事業者は次々と倒産した。
1987年に米国モトローラ社から構想が打ち出されたシステム。当初は77機の衛星コンステレーションで計画されたため、原子番号77のイリジウムにちなんで名づけられた。モトローラが約18%、日本イリジウムが約11%間接出資する「IRIDIUM LLC」社が事業を担い、1997年12月からイリジウム通信衛星が長征2C(太原衛星発射センター)とデルタ II(ヴァンデンバーグ空軍基地)により順次打ち上げられ、1998年(平成10年)11月にサービスを開始した。
しかしながら当初から懸念されていた通信衛星のインフラ投資負担の重荷と、大型で高額のハンドセット(日本では40万円前後で販売)によりアメリカで5万台程度の契約数に留まったことで、開始後1年弱の1999年(平成11年)8月に連邦倒産法第11章を申請し倒産。2000年(平成12年)3月サービス停止した。一時は全数運用に入っている66機と予備の衛星すべてを大気圏へ突入させて焼却処分することも検討されたが、2000年(平成12年)11月にイリジウム・サテライト社(現:イリジウムコミュニケーションズ)が全ての資産を買い取ることで合意した。2004年(平成16年)4月に、ボーイング社への衛星維持費の支払いの軽減、世界10数カ所に存在した関門局(アースターミナル)を廃止しアリゾナ州の地球局へ一本化、全社員を700人から100人へ人員削減を行い、主にアメリカ合衆国連邦政府・アメリカ合衆国国防総省などを相手先とした通信サービスを行う事業モデルに変更して再出発した。
日本でも第二電電(DDI,現:KDDI)と京セラらが出資して1993年に設立した「日本イリジウム」によって1998年11月からアメリカと同時にサービスが開始された。DDIとしてはDDIセルラーグループ、ツーカー、DDIポケットに次ぐ移動体通信事業への参入であった。これに伴い日本で発着信するイリジウムの衛星電話網とイリジウム以外の電話回線(国際電話含む)を中継するアースターミナルと称する関門局が長野県内の山間部に3カ所設置され、DDIが同時期に参入した国際電話(0078)網も大いに活用されることになった。2000年3月末日を以て、米国イリジウム社のサービス停止により日本でも端末の使用ができなくなり、アースターミナルも運用停止状態を経て2005年前後に解体された。
2001年にはイリジウム・サテライト社によりサービスが再開されるも、日本イリジウムは前年に郵政省へ無線局の免許を返納し法人清算処理に入ったため、海外免許で取得したイリジウム端末の不正使用(電波法により無線局免許状を持たない端末は不法無線局となる)が問題になった。その状況を打開し要望に応えるべく、2005年(平成17年)6月にインマルサット(旧KDDの事業領域)を扱うKDDIの法人事業子会社「KDDIネットワーク&ソリューションズ」によってサービスを再開し、日本国内および公海上の日本船籍船舶内で再び使用できるようになった。日本国内で合法に利用するには同社経由で販売・貸与されるものに限られる。同社は2008年(平成20年)7月1日にKDDI本体に吸収されたため、現在はKDDIが日本唯一の事業者となっている(加入申し込み受付担当はKDDI ソリューション営業本部MSAT営業グループ)。個人の契約にはクレジットカードが必要になる。初代イリジウムとは異なり、イリジウム端末間以外の通信は全てアリゾナ州の地球局で中継し国際電話網を経由する流れとなっているため、イリジウム以外の電話回線で発信する場合は国際電話料金が適用される。
初代イリジウムでは携帯電話(セルラー)網とのデュアルネットワークに対応する機種が主力であり、大株主のモトローラと京セラがベンダーとして端末を発売していた。
イリジウム衛星(通信衛星)は鏡面のようなアンテナを持ち、これが太陽光を反射して地上の狭い領域を強く照らすことがある。地上からは、数十秒間だけ非常に明るい物体が移動するように見え、-9等級に達することもある。これをイリジウムフレアと言い、見られる場所や時刻の予報も行われているが、しばしばUFOと誤認される。
2009年2月10日16時55分UTCに、北シベリア上空約790kmにおいて運用中であった通信衛星イリジウム33号が機能停止中であったロシアの軍事通信衛星コスモス2251号と衝突し、500個以上ものスペースデブリを発生させた。これは、宇宙空間で発生した初めての人工衛星同士の衝突事故である(2009年人工衛星衝突事故を参照)。日本デジコムは同12日のプレスリリースで、イリジウム社は30日以内に衝突し破壊された衛星の軌道上にスペアとなる衛星を再配置する計画であり、ユーザーに対する影響は軽微と発表した。
2007年に、イリジウム コミュニケーションズは、イリジウム通信衛星66機をすべて更新する総額30億ドルの次世代衛星通信ネットワーク計画「Iridium NEXT」を発表。2014年3月に、オービタルサイエンシズ社が生産を開始し、軌道上で運用する66機と軌道上予備機6機、地上予備機9機の計81機を3年間で製造すると発表した。打ち上げは2015年2月に開始し、2017年までに全ての衛星を軌道上に展開する予定。
高度1,300 - 1,400kmの衛星を288個用いて、衛星通信によるインターネット接続を提供しようとした会社およびサービス。
1991年6月3日に米国ロラール社とクウォルコム社の出資で設立されたLQSS社が申請した高度1,414kmの衛星を48個用いるシステム。1999年(平成11年)10月にサービス開始したが、翌2000年(平成12年)11月に連邦倒産法第11章の適用を受けた。
1991年9月にインマルサットから「プロジェクト-21」として構想が発表され、1995年1月に設立されたICOグローバルコミュニケーションズ社が事業主体となって開始されたシステム。衛星の個数を減らせる中軌道を採用。ICO (Intermediate Circular Orbit) は中軌道の別名である。1999年(平成11年)に破綻後、テレデシックへの投資家の支援を受け、衛星を使った無線ネットワーク会社として再出発を計画している。
2021年、楽天モバイルではAST SpaceMobileと共同で低軌道衛星と既存の携帯電話が4Gで直接通信する計画「スペースモバイル」を発表した。これにより日本での人口カバー率100%を目指すという。2022年には試験衛星「BlueWalker3」を打ち上げて通信試験を実施する予定。
2022年時点では携帯移動地球局が必要になるため、技術基準適合証明の携帯電話では通信ができないため、サービス開始には制度変更が必要となる。 | [
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"text": "衛星電話(えいせいでんわ)とは、通信衛星と直接通信する電話機を使用した電話網を提供するサービスである。",
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"text": "衛星電話は、電線(光ケーブルやマイクロ波回線も含む)を使った有線電話(固定電話)や地上の無線通信技術を用いた携帯電話と比較して、通話可能地域が広いほか、地上設備が少ない通信網が技術的には提供可能である。しかし、無線局の免許や税金、利用地域の政府の規制などの関係で自由に使用できない地域も多い。",
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"text": "静止衛星を用いたサービスは、端末やアンテナの小型化を可能にするため、マルチビーム方式のスポットアンテナを搭載し、ビーム間の交換設備を内蔵した衛星が使用される。",
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"text": "通信距離が上下各約36,000kmと長いため、遅延時間が大きい。また、高緯度地域や経度の離れた地域など衛星への仰角が小さい場合、地上の障害物のため通信しにくいことがある。",
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"text": "各種の多元接続方式でトランスポンダの電波帯域を有効活用している。",
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"text": "衛星電話はインマルサットが開発してサービスが始まった。実際の事業は民間企業が行っている(後述)。 太平洋・大西洋(東・西)・インド洋の4つの静止衛星を使用しており、南極と北極を除いた緯度70度以下の地域で、海上・陸上・空中を問わず通信が可能である。",
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"text": "Broadband Global Area Network (BGAN) と呼ばれる高速通信サービスのために、グローバルビーム1本・ワイドスポットビーム19本・ナロースポットビーム228本を搭載したInmarsat-4衛星を軌道投入している。ナロースポットビームは、指向性を変化させることができ、需要に合わせた回線設計が可能である。2005年(平成17年)3月11日にインド洋衛星が打ち上げに成功し、同年中にサービスが順次開始されている。",
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"text": "日本の電波法及び電気通信事業法に基づく事業は、KDDI(GSPS型を除く)、日本デジコム(ミニM型及びBGAN型、GSPS型に限る)、JSAT MOBILE Communications(BGAN型、GSPS型に限る)が行っている。",
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"text": "ワイドスターは、1996年(平成8年)3月29日に、海岸の基地局を利用した船舶電話を置き換える目的でサービスが開始された。NTTドコモが、N-STARc(東経136度)およびN-STARd(JCSAT-5A、東経132度)の2機の静止衛星で日本の領海・領土向けのサービスとして提供しており、衛星が見通せる地点ならば、海上・陸上・空中を問わず利用可能。",
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"text": "長距離フェリーや、電話線がひかれていない山の売店・山小屋などに設置されている公衆電話でも、ワイドスターが使用されている。自衛隊・気象庁および海上保安庁職員のみが駐在している硫黄島や南鳥島でも、本土との電話回線にワイドスター電話が使われている。",
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"text": "また地域衛星通信ネットワークの衛星電話が設置されていない公共施設では、災害時応急復旧用無線電話機と共ににも設置されている。地震などの大災害が発生すると、通常の電話回線は多くの通話が殺到して輻輳状態になるほか、電話回線が損傷すると通話そのものが不可能になる。その点、衛星電話は地上設備が比較的少なく設備損傷のリスクが少ないと考えられるため、地方自治体・警察・消防用の緊急電話回線(一般用とは別系統のワイドスター電話端末)が設置されている。",
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"text": "日本の通信事業者(NTTドコモ)が行っているサービスのため、電話番号は通常の携帯電話と同様に090や080の電話番号が割り振られ、発信方法も同じである。他の海外キャリアの衛星電話は、発着信の際国番号や特定番号をいれなければ発着信ができない。法人営業部門のあるドコモショップ等で端末の購入が可能である。",
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"text": "形態としては、陸上可搬型、車載型、船舶型の3種類となる。",
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"text": "2010年(平成22年)4月からは、「ワイドスター」の後継として、「ワイドスターII」サービス提供及び「衛星可搬端末01」の発売が開始された。",
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"text": "ワイドスターII は通信速度が大幅にあがり、上り最大144kbps・下り最大384kbpsとなり帯域占有サービス、帯域保証サービス、最大200拠点に対して、音声、FAX、Eメールの複数の手段にて一斉連絡が可能となる「一斉同報通信サービス」が提供された。あわせてパケット通信料金が大幅に値下げされた。",
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"text": "スラーヤ (Thuraya) は、アラブ首長国連邦の所有する人工衛星を利用したもので、サービス提供エリアはヨーロッパ・北アフリカ・中東およびインドなどの南アジアである。",
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"text": "2000年(平成12年)10月に1号、2003年(平成15年)6月に2号が東経44度に軌道投入されたほか、2008年(平成20年)には3機目の衛星を軌道に乗せ、東南アジア・東アジアでも提供開始された。",
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] | 衛星電話(えいせいでんわ)とは、通信衛星と直接通信する電話機を使用した電話網を提供するサービスである。 衛星電話は、電線(光ケーブルやマイクロ波回線も含む)を使った有線電話(固定電話)や地上の無線通信技術を用いた携帯電話と比較して、通話可能地域が広いほか、地上設備が少ない通信網が技術的には提供可能である。しかし、無線局の免許や税金、利用地域の政府の規制などの関係で自由に使用できない地域も多い。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2020年4月
| 独自研究 = 2021年9月
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[[画像:Satellite phone.jpg|thumb|衛星電話([[インマルサット]])]]
'''衛星電話'''(えいせいでんわ)とは、[[通信衛星]]と直接通信する[[電話機]]を使用した[[電話網]]を提供するサービスである。
衛星電話は、[[電線]]([[光ケーブル]]やマイクロ波回線も含む)を使った有線電話([[固定電話]])や地上の[[無線通信]]技術を用いた[[携帯電話]]と比較して、通話可能地域が広いほか、地上設備が少ない通信網が技術的には提供可能である。しかし、[[無線局]]の免許や[[税金]]、利用地域の政府の規制などの関係で自由に使用できない地域も多い<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「スペースモバイル」でどこでもつながる通信へ、楽天モバイルの挑戦 |url=https://corp.mobile.rakuten.co.jp/blog/2022/0519_01/ |website=楽天モバイル株式会社 |access-date=2022-08-11 |language=ja |last=楽天モバイル株式会社}}</ref>。
== 静止衛星を用いたサービス ==
[[静止衛星]]を用いたサービスは、[[端末]]や[[アンテナ]]の小型化を可能にするため、[[マルチビーム方式]]の[[スポットアンテナ]]を搭載し、ビーム間の交換設備を内蔵した衛星が使用される。
通信距離が上下各約36,000[[キロメートル|km]]と長いため、遅延時間が大きい。また、高緯度地域や経度の離れた地域など衛星への仰角が小さい場合、地上の障害物のため通信しにくいことがある。
各種の[[多元接続]]方式で[[トランスポンダ]]の[[電波]]帯域を有効活用している。
=== インマルサット ===
[[ファイル:Néra_fr.jpg|thumb|Nera Satcom製のインマルサット端末]]
衛星電話は'''[[インマルサット]]'''が開発してサービスが始まった。実際の事業は民間企業が行っている(後述)。
[[太平洋]]・[[大西洋]](東・西)・[[インド洋]]の4つの静止衛星を使用しており、南極と北極を除いた緯度70度以下の地域で、海上・陸上・空中を問わず通信が可能である。
Broadband Global Area Network (BGAN) と呼ばれる高速通信サービスのために、グローバルビーム1本・ワイドスポットビーム19本・ナロースポットビーム228本を搭載したInmarsat-4衛星を軌道投入している。ナロースポットビームは、指向性を変化させることができ、需要に合わせた回線設計が可能である。[[2005年]](平成17年)[[3月11日]]に[[インド洋]]衛星が打ち上げに成功し、同年中にサービスが順次開始されている。
日本の[[電波法]]及び[[電気通信事業法]]に基づく事業は、[[KDDI]](GSPS型を除く)、[[日本デジコム]](ミニM型及びBGAN型、GSPS型に限る)、[[JSAT MOBILE Communications]](BGAN型、GSPS型に限る)が行っている。
{| class="wikitable"
|+'''主な端末機'''
|-
! rowspan=2 |名称
! rowspan=2 |音声
! rowspan=2 |[[テレックス]]
! colspan="2" align="center" |最大通信速度 (k[[ビット毎秒|bps]])
! rowspan=2 |特徴
|-
![[ファクシミリ]]/データ
![[無線パケット通信|パケット]]
|-
|A
| style="text-align:center;" |○
| style="text-align:center;" |○
|4.8程度
|
|[[アナログ]]方式・通信料金が高い
|-
|B
| style="text-align:center;" |○
| style="text-align:center;" |○
|9.6
|
|Aより通信料金が安い
|-
|C
|
| style="text-align:center;" |○
|テキストをファクシミリへ送信可・受信は不可
|0.6
|[[蓄積交換]]方式で最も料金が安い
|-
|F33
| style="text-align:center;" |○
|
|9.6
|下64<br />上50
| rowspan=2 |音声はグローバルその他はスポットビーム
|-
|F55
| style="text-align:center;" |○
|
|[[ISDN]]64,9.6
| rowspan=3 |64
|-
|F77
| style="text-align:center;" |○
|
| rowspan=2 |ISDN64,2.4または9.6
|全てグローバルビーム
|-
|M4
| style="text-align:center;" |○
|
|可搬型
|-
|ミニM
| style="text-align:center;" |○
|
|2.4
|
|M4より小型の可搬型
|-
|[[BGAN]]
| style="text-align:center;" |○
|
|[[ISDN]]64
|492
|I-4衛星を利用した高速通信
|-
|R-BGAN
|
|
|
|144
|スラーヤ衛星からI-4衛星に変更された
|-
|[[IsatPhone]](アイサットフォン),GSPS型
| style="text-align:center;" |○
|
|
|20
|I-4衛星を利用した衛星携帯電話サービス
|-
|}
* 海上における遭難及び安全に関する世界的な制度 (GMDSS : [[Global Maritime Distress and Safety System]]) 対応[[船舶]]端末
* [[国際海事機関]]条約の[[船舶警報通報装置]] (SSAS : Ship Security Alert Sysytem) 対応端末。
* インマルサットAサービスは終了している。
=== 日本領海・領土向けサービス(ワイドスター) ===
{{main|ワイドスター}}
[[ファイル:Widestar.jpg|thumb|WIDESTAR DUO可搬タイプ]]
[[画像:A NTT DoCoMo's green pay phone in the Hankyu Ferry.jpg|thumb|ワイドスターII簡易公衆電話]]
'''[[ワイドスター]]'''は、[[1996年]](平成8年)[[3月29日]]に、海岸の[[基地局]]を利用した[[船舶電話]]を置き換える目的でサービスが開始された。[[NTTドコモ]]が、N-STARc(東経136度)およびN-STARd([[JCSAT]]-5A、東経132度)の2機の静止衛星で[[日本]]の領海・領土向けのサービスとして提供しており、衛星が見通せる地点ならば、海上・陸上・空中を問わず利用可能。
長距離[[フェリー]]や、電話線がひかれていない山の[[売店]]・[[山小屋]]などに設置されている[[公衆電話]]でも、ワイドスターが使用されている。[[自衛隊]]・[[気象庁]]および[[海上保安庁]]職員のみが駐在している[[硫黄島_(東京都)|硫黄島]]や[[南鳥島]]でも、本土との電話回線にワイドスター電話が使われている。
また[[自治体衛星通信機構#地域衛星通信ネットワーク|地域衛星通信ネットワーク]]の衛星電話が設置されていない公共施設では、災害時応急復旧用無線電話機<ref>「孤立化防止用無線」とは異なる。こちらは衛星電話の発達で廃止された</ref>と共ににも設置されている。[[地震]]などの大災害が発生すると、通常の電話回線は多くの通話が殺到して[[輻輳]]状態になるほか、電話回線が損傷する<ref>交換設備・収容ビルはよほどの事がなければ破壊はされないが、電柱倒壊により電話線が切れる事は[[巨大地震|大地震]]の際に度々ある</ref>と通話そのものが不可能になる。その点、衛星電話は地上設備が比較的少なく設備損傷のリスクが少ないと考えられるため、[[地方公共団体|地方自治体]]・[[日本の警察|警察]]・[[日本の消防|消防]]用の緊急電話回線(一般用とは別系統のワイドスター電話端末)が設置されている。
日本の通信事業者(NTTドコモ)が行っているサービスのため、電話番号は通常の[[携帯電話]]と同様に090や080の電話番号が割り振られ、発信方法も同じである。他の海外キャリアの衛星電話は、発着信の際[[国番号]]や[[特定番号]]をいれなければ発着信ができない。法人営業部門のある[[ドコモショップ]]等で端末の購入が可能である。
形態としては、陸上可搬型、車載型、船舶型の3種類となる。
==== ワイドスターII ====
[[2010年]](平成22年)4月からは、「ワイドスター」の後継として、「ワイドスターⅡ」サービス提供及び「衛星可搬端末01」の発売が開始された。
ワイドスターII は通信速度が大幅にあがり、上り最大144k[[ビット毎秒|bps]]・下り最大384kbpsとなり帯域占有サービス、帯域保証サービス、最大200拠点に対して、音声、[[FAX]]、[[Eメール]]の複数の手段にて一斉連絡が可能となる「一斉同報通信サービス」が提供された。あわせてパケット通信料金が大幅に値下げされた。
=== スラーヤ ===
[[ファイル:Thuraya_XT-PRO_DUAL.jpg|thumb|100px|Thuraya XT-PRO DUAL]]
[[スラーヤ]] ({{en|Thuraya}}) は、[[アラブ首長国連邦]]の所有する人工衛星を利用したもので、サービス提供エリアは[[ヨーロッパ]]・北[[アフリカ]]・[[中東]]および[[インド]]などの[[南アジア]]である。
[[2000年]](平成12年)[[10月]]に1号、[[2003年]](平成15年)[[6月]]に2号が東経44度に[[人工衛星の軌道|軌道]]投入されたほか、[[2008年]](平成20年)には3機目の衛星を軌道に乗せ、東南アジア・東アジアでも提供開始された。
日本では、[[電波法]]により使用が認められていなかったが、2012年12月14日付けで[[日本デジコム]]とソフトバンクモバイル(現・[[ソフトバンク]])が、[[総務省]]から[[無線局免許状]]を取得した。これにより、日本でもスラーヤ端末の利用が可能となった。ただし使用している電波の周波数帯が[[電波天文学]]観測所で観測で使用している周波数に近く、天文観測に影響を与える可能性があることから、北関東・新潟・長野・山梨・福島の一部地域では、災害時などを除いて使用制限がかかっている。
* 主な端末機
** 音声通信と伴に、9600bpsのデータ通信・[[ショートメッセージサービス|ショートメッセージングサービス]]の可能な900MHz [[GSM]][[携帯電話]]とのデュアルバンド機。
=== ACeS ===
'''エイセス''' (Asia Cellular Satellite) は、[[インドネシア]]のスラウェシ島上空(東経123度)の「Garuda-1」静止衛星を利用した、東南アジアを中心とした地域向けの衛星電話サービスである。東南アジアなどの地上設備の敷設が遅れている地域の通信環境を改善するために提供されている。
[[インマルサット]]に事実上吸収され、同社の主力機であるR190はIsatPhone(アイサットフォン)として稼動している。
日本の領土・領海では無線局免許の関係で使用できない。
* 主な端末機
** [[固定電話]]に似た形の卓上型でアンテナを構造物に固定するもの
** 音声通信とともに2400bpsのデータ通信・ショートメッセージングサービスの可能な900MHz GSM携帯電話とのデュアルバンド機
=== 地域衛星通信ネットワーク ===
地方自治体では、[[自治体衛星通信機構#地域衛星通信ネットワーク|地域衛星通信ネットワーク]](LASCOMネット)の「個別通信サービス」の電話機能も、'''衛星電話'''と呼ばれている{{#tag:ref|専用の電話帳「衛星電話番号簿」も発行されている<ref>「[http://www.lascom.or.jp/number 衛星電話番号簿]」『一般財団法人自治体衛星通信機構』 自治体衛星通信機構</ref>。}}。
静止衛星[[SUPERBIRD]] Bシリーズを用いた自治体専用の衛星通信回線で、音声通話の他に一斉指令・FAX・映像伝送・データ通信なども可能。電話番号も独自体系であり、一般の電話回線に直接接続することはできない。通話・FAX・デジタル映像伝送などの通話料が無料なのが特徴で、出先機関や消防車・救急車に搭載して日常的に使用している自治体もある。災害で電話回線・有線通信回線が途絶した場合は、これが唯一の通信手段となることが多い。
{{see|自治体衛星通信機構}}
== 低軌道衛星を用いたサービス ==
携帯電話と変わらない小型の端末で遅延時間の少ない交信を高緯度地域でも可能にするため、多数個の通信衛星からなる[[低軌道]]の[[衛星コンステレーション]]を利用するものがある。
衛星との見通し距離が1/10以下になると電波損失は1/100になるため、大型になる指向性[[アンテナ]]を用いなくても通信が成り立つ。反面、1つの衛星から見渡せる地域は狭くなるため、多数個の衛星を衛星間通信により組み合わせて使用する。
[[1990年代]]後半に[[電気通信事業者]]が相次いで設立され、実際に衛星打上げも進められた。しかし、地上の携帯電話ネットワークのサービスエリア拡大や、静止衛星を利用する端末の小型化・低価格化により通信料金などの競争力が弱くなったため、需要が予測に反して伸びず、膨大な設備投資を回収できなくなった。このためデータ通信への需要のシフトを図ろうと試みたが、インターネットバブルの崩壊により投資が冷え込んだこともあって、事業者は次々と倒産した。
=== イリジウム ===
{{main|イリジウム衛星}}
[[ファイル:Iridium Satellite.jpg|thumb|イリジウム衛星]]
[[ファイル:Gruppenbild 05.jpg|thumb|左から順に、インマルサット「IsatPhone Pro」・イリジウム「Iridium 9555」・スラーヤ「Thuraya XT」]]
1987年に米国モトローラ社から構想が打ち出されたシステム<ref name="system">{{Cite web|和書|author=坂費誠事、浜本直和|title =周囲軌道通信衛星システムの世界的動向 |url =https://www.nict.go.jp/publication/kiho/44/001-002/Kiho_Vol44_SI_No001-002_pp067-079.pdf|publisher = 通信総合研究所| accessdate = 2021年9月23日}}</ref>。当初は77機の[[衛星コンステレーション]]で計画されたため、[[原子番号]]77の[[イリジウム]]にちなんで名づけられた。モトローラが約18%、日本イリジウムが約11%間接出資する「IRIDIUM [[LLC]]」社が事業を担い、[[1997年]]12月からイリジウム[[通信衛星]]が[[長征2号|長征2C]]([[太原衛星発射センター]])と[[デルタ II]]([[ヴァンデンバーグ空軍基地]])により順次打ち上げられ、[[1998年]](平成10年)11月にサービスを開始した。
しかしながら当初から懸念されていた通信衛星のインフラ投資負担の重荷と、大型で高額のハンドセット(日本では40万円前後で販売)によりアメリカで5万台程度の契約数に留まったことで、開始後1年弱の[[1999年]](平成11年)[[8月]]に[[連邦倒産法第11章]]を申請し倒産。[[2000年]](平成12年)[[3月]]サービス停止した。一時は全数運用に入っている66機と予備の衛星すべてを[[地球の大気|大気圏]]へ[[大気圏再突入|突入]]させて焼却処分することも検討されたが、[[2000年]](平成12年)[[11月]]にイリジウム・サテライト社(現:[[イリジウムコミュニケーションズ]])が全ての資産を買い取ることで合意した。[[2004年]](平成16年)[[4月]]に、[[ボーイング]]社への衛星維持費の支払いの軽減、世界10数カ所に存在した関門局(アースターミナル)を廃止しアリゾナ州の地球局へ一本化、全社員を700人から100人へ人員削減を行い、主に[[アメリカ合衆国連邦政府]]・[[アメリカ合衆国国防総省]]などを相手先とした通信サービスを行う事業モデルに変更して再出発した。
日本でも[[第二電電]](DDI,現:[[KDDI]])と[[京セラ]]らが出資して1993年に設立した「'''日本イリジウム'''」によって1998年11月からアメリカと同時にサービスが開始された<ref>関東・東海地域では[[日本移動通信|IDO(日本移動通信)]]が、IDOショップに端末の模型やカタログを置くなどの販売協力を行っていた。</ref>。DDIとしては[[DDIセルラーグループ]]、[[ツーカー]]、[[ウィルコム|DDIポケット]]に次ぐ移動体通信事業への参入であった。これに伴い日本で発着信するイリジウムの衛星電話網とイリジウム以外の電話回線([[国際電話]]含む)を中継する'''アースターミナル'''と称する[[関門]]局が長野県内の山間部に3カ所設置され、DDIが同時期に参入した国際電話(0078)網も大いに活用されることになった。2000年3月末日を以て、米国イリジウム社のサービス停止により日本でも端末の使用ができなくなり、アースターミナルも運用停止状態を経て2005年前後に解体された。
2001年にはイリジウム・サテライト社によりサービスが再開されるも、日本イリジウムは前年に[[郵政省]]へ[[無線局]]の免許を返納し法人[[清算]]処理に入ったため<ref>2005年に東京地裁へ[[破産]]申請し法人[[解散]]。</ref>、海外免許で取得したイリジウム端末の不正使用([[電波法]]により[[無線局免許状]]を持たない端末は[[不法無線局]]となる)が問題になった<ref>初代イリジウムでは電波法103条5の規定により、海外端末も日本イリジウムの免許とみなすため違法ではなかった。</ref>。その状況を打開し要望に応えるべく、[[2005年]](平成17年)[[6月]]に[[インマルサット]](旧[[国際電信電話|KDD]]の事業領域)を扱うKDDIの法人事業子会社「[[KDDIネットワーク&ソリューションズ]]」によってサービスを再開し、日本国内および公海上の日本船籍船舶内で再び使用できるようになった。日本国内で合法に利用するには同社経由で販売・貸与されるものに限られる。同社は[[2008年]](平成20年)[[7月1日]]にKDDI本体に吸収されたため、現在はKDDIが日本唯一の事業者となっている(加入申し込み受付担当はKDDI ソリューション営業本部MSAT営業グループ)。個人の契約にはクレジットカードが必要になる。初代イリジウムとは異なり、イリジウム端末間以外の通信は全てアリゾナ州の地球局で中継し国際電話網を経由する流れとなっているため、イリジウム以外の電話回線で発信する場合は国際電話料金が適用される。
==== 主な端末 ====
[[ファイル:Iridium Satellite Phone.jpg|thumb|Iridium 9500]]
* 音声通信とともに2400bpsのデータ通信・ショートメッセージングサービスの可能な携帯端末。
* [[国際海事機関|IMO]]条約の船舶保安警報装置 (SSAS : Ship Security Alert Sysytem) 対応端末
* 船舶用イリジウム衛星電話「OpenPort」 - 発売日:[[2008年]](平成20年)[[11月1日]]。現行機種の約53倍の高速パケット通信を実現。イリジウム衛星電話の通信速度は2.4kbps、本機はその約53倍となる最大128kbpsの高速データ通信を実現。また、従来の接続時間に応じた課金ではなく、データ量に応じたパケット制。これまで、接続時間を気にして通信をしていた問題を解決し、ストレスのない通信環境を提供。電話回線3回線の同時収容を実現。イリジウム衛星電話としては初となる複数電話回線の同時収容を実現。最大3回線の音声通信とデータ通信を同時利用が可能。これまで1番号毎に1台の端末を購入していた手間と船内のスペース軽減に役立つ。[https://www.jdc.ne.jp/iridium/openport_081030.htm 日本デジコムによる報道発表]
初代イリジウムでは携帯電話(セルラー)網とのデュアルネットワークに対応する機種が主力であり、大株主のモトローラと[[京セラ]]がベンダーとして端末を発売していた。
==== イリジウム衛星 ====
イリジウム衛星([[通信衛星]])は鏡面のようなアンテナを持ち、これが太陽光を反射して地上の狭い領域を強く照らすことがある。地上からは、数十秒間だけ非常に明るい物体が移動するように見え、-9[[等級 (天文)|等級]]に達することもある。これを[[衛星フレア|イリジウムフレア]]と言い、見られる場所や時刻の予報も行われている<ref>[http://www.heavens-above.com/ Heavens-Above] - 自分の緯度・経度を指定すれば、主要な人工衛星の見える時刻と方角を調べることができる。</ref>が、しばしば[[未確認飛行物体|UFO]]と誤認される。
2009年2月10日16時55分UTCに、北シベリア上空約790kmにおいて運用中であった通信衛星[[イリジウム33号]]が機能停止中であったロシアの軍事通信衛星[[コスモス2251号]]と衝突し、500個以上もの[[スペースデブリ]]を発生させた。これは、宇宙空間で発生した初めての[[人工衛星]]同士の衝突[[事故]]である([[2009年人工衛星衝突事故]]を参照)。日本デジコムは同12日のプレスリリースで、イリジウム社は30日以内に衝突し破壊された衛星の軌道上にスペアとなる衛星を再配置する計画であり、ユーザーに対する影響は軽微と発表した<ref>[http://www.jdc.ne.jp/iridium/crash_090212.htm 日本デジコム社による報道発表]</ref>。
2007年に、イリジウム コミュニケーションズは、イリジウム通信衛星66機をすべて更新する総額30億ドルの次世代衛星通信ネットワーク計画「Iridium NEXT」を発表。2014年3月に、[[オービタルサイエンシズ]]社が生産を開始し、軌道上で運用する66機と軌道上予備機6機、地上予備機9機の計81機を3年間で製造すると発表した。打ち上げは2015年2月に開始し、2017年までに全ての衛星を軌道上に展開する予定<ref>{{cite news | title = イリジウム通信衛星 軌道上66機を総入れ替え オービタルサイエンシズが全81機を製造
| url = http://response.jp/article/2014/03/31/220222.html
| publisher = レスポンス | date = 2014-03-31 | accessdate = 2014-12-26}}</ref>。
=== テレデシック ===
{{main|テレデシック}}
高度1,300 - 1,400kmの衛星を288個用いて、衛星通信によるインターネット接続を提供しようとした会社およびサービス。
=== グローバルスター ===
1991年6月3日に米国ロラール社とクウォルコム社の出資で設立されたLQSS社が申請した高度1,414kmの衛星を48個用いるシステム<ref name="system" />。[[1999年]](平成11年)10月にサービス開始したが、翌[[2000年]](平成12年)11月に[[連邦倒産法第11章]]の適用を受けた。
=== ICO ===
1991年9月にインマルサットから「プロジェクト-21」として構想が発表され、1995年1月に設立されたICOグローバルコミュニケーションズ社が事業主体となって開始されたシステム<ref name="system" />。衛星の個数を減らせる[[中軌道]]を採用。ICO (Intermediate Circular Orbit) は中軌道の別名である。[[1999年]](平成11年)に破綻後、テレデシックへの投資家の支援を受け、衛星を使った無線ネットワーク会社として再出発を計画している。
=== スペースモバイル ===
2021年、[[楽天モバイル]]ではAST SpaceMobileと共同で低軌道衛星と既存の携帯電話が[[第4世代移動通信システム|4G]]で直接通信する計画「スペースモバイル」を発表した<ref name=":0" />。これにより日本での[[人口カバー率]]100%を目指すという<ref name=":0" />。2022年には試験衛星「BlueWalker3」を打ち上げて通信試験を実施する予定<ref name=":0" />。
2022年時点では[[携帯移動地球局]]が必要になるため、[[技術基準適合証明]]の携帯電話では通信ができないため、サービス開始には制度変更が必要となる<ref name=":0" />。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[成層圏プラットフォーム]]
* [[衛星インターネットアクセス]]
* [[緊急ロケータービーコン]]
== 外部リンク ==
{{Commons category|Satellite phones}}
* [https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/eisei_keitai/060621_1.html 総務省総合通信基盤局「衛星携帯電話」ページ]
* [https://www.inmarsat.com/ インマルサット]
* [https://www.thuraya.com/ スラーヤ]
* [https://www.iridium.com/ イリジウム]
* [https://www.globalstar.com/en-us/ グローバルスター]
* [https://www.nttdocomo.co.jp/biz/service/widestar/ NTTドコモ(ワイドスター)]
* [https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/page/080425_04.html ドコモ・センツウ] (事業の移管に関するお知らせ)
* [https://biz.kddi.com/service/satellite/ KDDI衛星通信サイト]
* [https://www.mobell.co.jp/ モベルコミュニケーションズリミテッド]
* [https://www.jdc.ne.jp/ 日本デジコム]
* [http://www.satphone.jp/ 日本デジコム 衛星電話専門Wiki satphone.jp]
* [https://www.jsatmobile.com/company/index.html JSAT MOBILE Communications株式会社]
{{Telecommunications}}
{{DEFAULTSORT:えいせいてんわ}}
[[Category:携帯電話]]
[[Category:衛星通信]]
[[Category:衛星測位システム]]
[[Category:船舶機器]] | 2003-05-23T10:48:37Z | 2023-12-02T03:12:59Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Cite news",
"Template:En",
"Template:See",
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"Template:Main"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%98%9F%E9%9B%BB%E8%A9%B1 |
9,154 | アングロアメリカ | アングロアメリカ(Anglo-America)は、アメリカ州(米州)のうち、イギリスあるいはイングランドと歴史的・民族的・文化的・言語的なつながりが深い地域の名称。大まかに言えば、アメリカ合衆国とカナダからなる。これらの国々は、イギリスの旧領で、英語を公用語とし、イギリス系住民が(比較的)多く、プロテスタント系キリスト教徒が(比較的)多い。アングロアメリカはラテン系のスペインとポルトガルの旧領だったラテンアメリカとの対義語で使われる。
ここでの「アングロ」という接頭語は「イギリス(系)の」という意味で使われる言葉であり、「ラテン」という接頭語は「イベリア(系)の」、すなわちスペインとポルトガルに限定された意味で使われている。アメリカ合衆国では、アングロアメリカ人 (Anglo-American) という言葉は、イギリス系(イングランド系)住民という意味で使われることが多い。しかしアメリカ合衆国とカナダは今日ではイギリス系住民の割合はそれほど高くなく、アメリカ合衆国では26%、カナダでは28%を占めるにすぎない。
多くの場合、「アングロアメリカ」は「アメリカとカナダ」の意味で使われるが、違う範囲に定義されることもある。
カナダのケベック州は古くはフランス領で、民族的・文化的・言語的にはラテン系に属するフランス系であるが、1763年のパリ条約以来イギリス領だったこともあり、ラテンアメリカではなくアングロアメリカに含められる。
広義には、以下の国と地域をアングロアメリカに含めることがある(アングロアメリカに含めない場合も、ラテンアメリカに含めるわけではない)。これらの国と地域はすべて、英語を公用語(少なくともその1つ)とする。
プエルトリコはアメリカ領であるが、1898年のパリ条約までスペイン領であり、スペイン語が第一言語である(公式には英語と共に公用語の一つであるが住人のほとんどはスペイン語を話す)などスペイン系文化との結びつきが強く、ラテンアメリカに含めることが多い。
フォークランド諸島、サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島以外は、イギリス系住民がほとんどいない(ほとんどの国でアフリカ系住民が大半を占める)。このことも、これらの国と地域がアングロアメリカとされないことが多い理由である。 | [
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] | アングロアメリカ(Anglo-America)は、アメリカ州(米州)のうち、イギリスあるいはイングランドと歴史的・民族的・文化的・言語的なつながりが深い地域の名称。大まかに言えば、アメリカ合衆国とカナダからなる。これらの国々は、イギリスの旧領で、英語を公用語とし、イギリス系住民が(比較的)多く、プロテスタント系キリスト教徒が(比較的)多い。アングロアメリカはラテン系のスペインとポルトガルの旧領だったラテンアメリカとの対義語で使われる。 ここでの「アングロ」という接頭語は「イギリス(系)の」という意味で使われる言葉であり、「ラテン」という接頭語は「イベリア(系)の」、すなわちスペインとポルトガルに限定された意味で使われている。アメリカ合衆国では、アングロアメリカ人 (Anglo-American) という言葉は、イギリス系(イングランド系)住民という意味で使われることが多い。しかしアメリカ合衆国とカナダは今日ではイギリス系住民の割合はそれほど高くなく、アメリカ合衆国では26%、カナダでは28%を占めるにすぎない。 | {{for|地理的に重複するが定義や範囲が異なる「アメリカ」|北部アメリカ|北アメリカ}}
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[[ファイル:Anglo-America (centered orthographic projection).svg|thumb|アングロアメリカ。より正確には、[[米州]]のうち[[英語]]が第1[[公用語]]の地域。]]
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ここでの「[[アングロ・サクソン人|アングロ]]」という接頭語は「イギリス(系)の」という意味で使われる言葉であり、「[[ラテン人|ラテン]]」という接頭語は「[[イベリア半島|イベリア]](系)の」、すなわちスペインとポルトガルに限定された意味で使われている。アメリカ合衆国では、アングロアメリカ人 ({{en|Anglo-American}}) という言葉は、イギリス系(イングランド系)住民という意味で使われることが多い。しかしアメリカ合衆国とカナダは今日ではイギリス系住民の割合はそれほど高くなく、アメリカ合衆国では26%、カナダでは28%を占めるにすぎない。
== 範囲 ==
多くの場合、「アングロアメリカ」は「アメリカとカナダ」の意味で使われるが、違う範囲に定義されることもある。
=== ケベック州 ===
カナダの[[ケベック州]]は古くは[[フランス]]領で、民族的・文化的・言語的にはラテン系に属するフランス系であるが、[[1763年]]の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]以来イギリス領だったこともあり、ラテンアメリカではなくアングロアメリカに含められる。
=== 米加以外の英語圏 ===
広義には、以下の国と地域をアングロアメリカに含めることがある(アングロアメリカに含めない場合も、ラテンアメリカに含めるわけではない)。これらの国と地域はすべて、英語を公用語(少なくともその1つ)とする。
* 旧イギリス領の独立国 - [[アンティグアバーブーダ]]、[[バハマ]]、[[バルバドス]]、[[ベリーズ]]、[[ドミニカ国]]([[イスパニョーラ島]]の[[ドミニカ共和国]]とは異なる)、[[グレナダ]]、[[ガイアナ]]、[[ジャマイカ]]、[[セントクリストファー・ネイヴィス]]、[[セントルシア]]、[[セントヴィンセント・グレナディーン]]、[[トリニダード・トバゴ]]
* イギリス領 - [[アンギラ]]、[[バミューダ諸島|バミューダ]]、[[フォークランド諸島]]、[[英領ヴァージン諸島]]、[[ケーマン諸島]]、[[モントセラト]]、[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島]]、[[タークス・カイコス諸島]]
* アメリカ領 - [[プエルトリコ]]、[[米領ヴァージン諸島]]
[[プエルトリコ]]はアメリカ領であるが、[[1898年]]の[[パリ条約 (1898年)|パリ条約]]まで[[スペイン]]領であり、[[スペイン語]]が第一言語である(公式には英語と共に公用語の一つであるが住人のほとんどはスペイン語を話す)などスペイン系文化との結びつきが強く、ラテンアメリカに含めることが多い。
フォークランド諸島、サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島以外は、イギリス系住民がほとんどいない(ほとんどの国で[[アフリカ]]系住民が大半を占める)。このことも、これらの国と地域がアングロアメリカとされないことが多い理由である。
== 関連項目 ==
* [[アングル人]]
* [[WASP]]
* [[アンゲルン半島]]
== 外部リンク ==
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[[Category:北アメリカ]]
[[Category:イングランド系アメリカ人]]
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9,155 | 親鸞 | 親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされる。
法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)の草稿本が完成した1224年(元仁元年4月15日)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。
親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多い。本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、親鸞の曽孫であり、本願寺教団の実質的な創設者でもある覚如が記した書物(『御伝鈔』など)によっている。それらの書物は、各地に残る伝承などを整理しつつ成立し、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。
年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。
永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる(「末法」の到来を参照)。
保元元年(1156年)7月9日、保元の乱起こる。
平治元年(1159年)12月9日、平治の乱起こる。
貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。
承安3年(1173年)4月1日(グレゴリオ暦換算 1173年5月21日)に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進 日野有範の長男として誕生する。母については同時代の一次資料がなく、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている。「吉光女」(きっこうにょ)とも。幼名は、「松若磨」、「松若丸」、「十八公麿」。
治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。
幼少期、平家全盛の時で、母(貴光女)は、源氏の各家の男子はことごとく暗殺されることを危惧していた。牛若丸が鞍馬寺に預けられたように、松若丸も同様に寺に預けられる運命だった。清和源氏は源経基以降、五摂家(藤原氏)に仕えたが元を正せば天皇家の血筋でもあった。
治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)
戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。
治承5年(1181年)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。
伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠んだという。無常観を非常に文学的に表現した歌である。
出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。天台宗は「法華経」を重視した宗派だったが、そもそも「八幡太郎」の嫡流は八幡神社思想が「三つ子の魂」で「法華経」はなじまなかったという学説がある。
建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。
建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
意訳 - 「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」
という偈句(「女犯偈」)に続けて、
「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」
の告を得る。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然が住していた吉水草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。
法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意する。これを機に法然より「綽空」(しゃっくう) の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる
『御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる。詳細は「本願寺聖人伝絵#覚如による錯誤」を参照。
『親鸞聖人正明伝』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ」、「建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ(中略)今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ」と記されている。
『恵信尼消息』では、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、(中略)また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに」と記されている。
元久元年(1204年)11月7日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である。このことから元久元年11月7日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる。
元久2年(1205年)4月14日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長・隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2年4月14日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる。
元久2年(1205年)閏7月29日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない。改名の名はについて石田は「善信であったとされる。」としている。
妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。
当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。
親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。(詳細は「善鸞#恵信尼との関係」を参照。)
事件の経緯は承元の法難を参照。
元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。
建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。
この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。
親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん) と名告り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「改名について」も参照。)
承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。
建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて勅免の宣旨が順徳天皇より下る。
同月、法然に入洛の許可が下りる。
親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。
建暦2年(1212年)1月25日、法然は京都で80歳をもって入滅する。
赦免後の親鸞の動向については二説ある。
1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。
対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派・真宗興正派の中興である了源が著した『算頭録』に「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承と位置付けていて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている 。
建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。
寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。
そして笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる。
親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。
西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとし、文永9年(1272年)にこの地で没したとしている。
この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。また、東国布教中に蓮位坊(下間氏の祖)も親鸞の弟子となり、その後もそば近くに仕えた。
62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。
寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。
宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。
建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。
建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。
建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。
建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。
建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)を撰述する。
建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。
同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。
『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。
康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。
康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。
正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。
南北朝時代には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。
この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。
弘長2年(1262年)11月28日 (グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)、押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「善法院 」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。
荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。
親鸞の祥月命日には、宗祖に対する報恩感謝のため「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。
明治9年(1876年)11月28日、明治天皇より「見真大師」(見眞大師)の諡号を追贈された。西本願寺・東本願寺・専修寺の御影堂の親鸞の木像の前にある額の「見真」(見眞)はこの諡号に基づく。
浄土真宗本願寺派は、「本願寺派宗制」を2007年11月28日改正・全文変更(2008年4月1日施行)し、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除した。同年4月15日には、「浄土真宗の教章」も改正し、大師号が削除され新「浄土真宗の教章」を制定した。真宗大谷派は、1981年に「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した。また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した。
高校で使われる倫理の教科書ではかつて、親鸞が法然の教えを「徹底」または「発展」させたという記述が多かったが、優劣をつけない表現へ修正されつつある。
明治29年(1896年)村田勤は『史的批評・親鸞真伝』「第十二章 系圖上の大疑問」において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱した。続いて東京帝国大学教授の田中義成と國學院大学教授の八代国治が「親鸞抹殺論」の談話を発表した。
しかし、大正10年(1921年)に鷲尾教導の調査によって西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状(「恵信尼消息」)10通が発見される。その内容と親鸞の動向が合致したため、親鸞が実在したことが証明されている。
略系図出典
親鸞の思想に影響を与えた七高僧の注釈書など。
親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』 が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した。
親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。
如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。
教えに対する解釈は真宗大谷派、 浄土真宗本願寺派、 真宗系の新宗教である浄土真宗親鸞会 などでそれぞれ差異がある。
以上のような親鸞の教えは、法然の専修念仏を基礎としたもので、親鸞自身は新しい教えや宗派の創設を意図していなかった。しかし、自らも含めた人間の欲望や弱さなどにありのまま向き合う中で到達した阿弥陀の本願に関する親鸞の解釈には、阿弥陀からの呼びかけを信じ順う心が発った時点で、念仏さえ要せずに極楽往生が定まる(その後の念仏は自然(じねん)の報恩である)など他力思想の徹底、その表裏として、修行や善行といった自力で涅槃に至ることができるという自称善人のおごり・はからいを戒め、むしろ、万人が等しく凡夫・悪人として救済されることこそ阿弥陀の本願であるとの世界観・人間観など、独自の特色があり、ここに浄土真宗が独立宗派として成立する思想的基盤があった。
また、このような親鸞の思想は、仏陀自身が説いた初期仏教とは様相の異なるもので、他力思想の徹底という意味では、初期仏教の限界を乗り越えようとする営みの連続であった大乗仏教の中でも、殊に特徴的であり、仏教というよりも、人間の原罪とキリストによる救済という構図を有するキリスト教に近いとの指摘が、かねてからされている。一方で、親鸞の思想を狭い意味での仏教の中だけで理解しようとすることを戒め、仏教伝来前から現代に至るまで通底する日本の精神的土壌が、仏教を通して顕現したものであるとして、積極的に評価する意見もある。
親鸞を主人公とした歴史小説は多く出されている。ただし親鸞自身は生涯にわたり自伝的な記述をした著書が少なく不明確な事柄が多い。その限られた行実に沿って作られているため、内容の大部分がフィクションである。
主な作品に、
がある。
なお吉川英治の『親鸞』は、1960年に伝記映画として『親鸞』・『続 親鸞』のタイトルで制作され、田坂具隆が監督し、親鸞を中村錦之助が演じた。三國連太郎『白い道』は、1987年に伝記映画として『親鸞 白い道』のタイトルで制作され、原作者の三國連太郎が監督し、親鸞を森山潤久が演じた。 | [
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"text": "年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる(「末法」の到来を参照)。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "保元元年(1156年)7月9日、保元の乱起こる。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "平治元年(1159年)12月9日、平治の乱起こる。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "承安3年(1173年)4月1日(グレゴリオ暦換算 1173年5月21日)に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進 日野有範の長男として誕生する。母については同時代の一次資料がなく、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている。「吉光女」(きっこうにょ)とも。幼名は、「松若磨」、「松若丸」、「十八公麿」。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "幼少期、平家全盛の時で、母(貴光女)は、源氏の各家の男子はことごとく暗殺されることを危惧していた。牛若丸が鞍馬寺に預けられたように、松若丸も同様に寺に預けられる運命だった。清和源氏は源経基以降、五摂家(藤原氏)に仕えたが元を正せば天皇家の血筋でもあった。",
"title": "生涯"
},
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"text": "治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)",
"title": "生涯"
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{
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"text": "戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。",
"title": "生涯"
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"text": "治承5年(1181年)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。",
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},
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"text": "伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、",
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"text": "「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」",
"title": "生涯"
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"text": "と詠んだという。無常観を非常に文学的に表現した歌である。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。天台宗は「法華経」を重視した宗派だったが、そもそも「八幡太郎」の嫡流は八幡神社思想が「三つ子の魂」で「法華経」はなじまなかったという学説がある。",
"title": "生涯"
},
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"text": "建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "意訳 - 「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "という偈句(「女犯偈」)に続けて、",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」",
"title": "生涯"
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{
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"text": "の告を得る。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然が住していた吉水草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。",
"title": "生涯"
},
{
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"tag": "p",
"text": "法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意する。これを機に法然より「綽空」(しゃっくう) の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "『御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる。詳細は「本願寺聖人伝絵#覚如による錯誤」を参照。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "『親鸞聖人正明伝』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ」、「建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ(中略)今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ」と記されている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "『恵信尼消息』では、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、(中略)また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに」と記されている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "元久元年(1204年)11月7日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である。このことから元久元年11月7日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "元久2年(1205年)4月14日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長・隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2年4月14日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "元久2年(1205年)閏7月29日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない。改名の名はについて石田は「善信であったとされる。」としている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。(詳細は「善鸞#恵信尼との関係」を参照。)",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "事件の経緯は承元の法難を参照。",
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},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん) と名告り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「改名について」も参照。)",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて勅免の宣旨が順徳天皇より下る。",
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},
{
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"text": "同月、法然に入洛の許可が下りる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "建暦2年(1212年)1月25日、法然は京都で80歳をもって入滅する。",
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},
{
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"text": "赦免後の親鸞の動向については二説ある。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派・真宗興正派の中興である了源が著した『算頭録』に「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承と位置付けていて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている 。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。",
"title": "生涯"
},
{
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"tag": "p",
"text": "寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。",
"title": "生涯"
},
{
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"tag": "p",
"text": "そして笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとし、文永9年(1272年)にこの地で没したとしている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。また、東国布教中に蓮位坊(下間氏の祖)も親鸞の弟子となり、その後もそば近くに仕えた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。",
"title": "生涯"
},
{
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"tag": "p",
"text": "寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)を撰述する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "南北朝時代には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "弘長2年(1262年)11月28日 (グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)、押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「善法院 」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "親鸞の祥月命日には、宗祖に対する報恩感謝のため「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "明治9年(1876年)11月28日、明治天皇より「見真大師」(見眞大師)の諡号を追贈された。西本願寺・東本願寺・専修寺の御影堂の親鸞の木像の前にある額の「見真」(見眞)はこの諡号に基づく。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "浄土真宗本願寺派は、「本願寺派宗制」を2007年11月28日改正・全文変更(2008年4月1日施行)し、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除した。同年4月15日には、「浄土真宗の教章」も改正し、大師号が削除され新「浄土真宗の教章」を制定した。真宗大谷派は、1981年に「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した。また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "高校で使われる倫理の教科書ではかつて、親鸞が法然の教えを「徹底」または「発展」させたという記述が多かったが、優劣をつけない表現へ修正されつつある。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "明治29年(1896年)村田勤は『史的批評・親鸞真伝』「第十二章 系圖上の大疑問」において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱した。続いて東京帝国大学教授の田中義成と國學院大学教授の八代国治が「親鸞抹殺論」の談話を発表した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "しかし、大正10年(1921年)に鷲尾教導の調査によって西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状(「恵信尼消息」)10通が発見される。その内容と親鸞の動向が合致したため、親鸞が実在したことが証明されている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "略系図出典",
"title": "系図"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "親鸞の思想に影響を与えた七高僧の注釈書など。",
"title": "依拠聖典"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』 が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した。",
"title": "教え"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。",
"title": "教え"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。",
"title": "教え"
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{
"paragraph_id": 84,
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"text": "教えに対する解釈は真宗大谷派、 浄土真宗本願寺派、 真宗系の新宗教である浄土真宗親鸞会 などでそれぞれ差異がある。",
"title": "教え"
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"text": "以上のような親鸞の教えは、法然の専修念仏を基礎としたもので、親鸞自身は新しい教えや宗派の創設を意図していなかった。しかし、自らも含めた人間の欲望や弱さなどにありのまま向き合う中で到達した阿弥陀の本願に関する親鸞の解釈には、阿弥陀からの呼びかけを信じ順う心が発った時点で、念仏さえ要せずに極楽往生が定まる(その後の念仏は自然(じねん)の報恩である)など他力思想の徹底、その表裏として、修行や善行といった自力で涅槃に至ることができるという自称善人のおごり・はからいを戒め、むしろ、万人が等しく凡夫・悪人として救済されることこそ阿弥陀の本願であるとの世界観・人間観など、独自の特色があり、ここに浄土真宗が独立宗派として成立する思想的基盤があった。",
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"text": "また、このような親鸞の思想は、仏陀自身が説いた初期仏教とは様相の異なるもので、他力思想の徹底という意味では、初期仏教の限界を乗り越えようとする営みの連続であった大乗仏教の中でも、殊に特徴的であり、仏教というよりも、人間の原罪とキリストによる救済という構図を有するキリスト教に近いとの指摘が、かねてからされている。一方で、親鸞の思想を狭い意味での仏教の中だけで理解しようとすることを戒め、仏教伝来前から現代に至るまで通底する日本の精神的土壌が、仏教を通して顕現したものであるとして、積極的に評価する意見もある。",
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"text": "親鸞を主人公とした歴史小説は多く出されている。ただし親鸞自身は生涯にわたり自伝的な記述をした著書が少なく不明確な事柄が多い。その限られた行実に沿って作られているため、内容の大部分がフィクションである。",
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"text": "がある。",
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"text": "なお吉川英治の『親鸞』は、1960年に伝記映画として『親鸞』・『続 親鸞』のタイトルで制作され、田坂具隆が監督し、親鸞を中村錦之助が演じた。三國連太郎『白い道』は、1987年に伝記映画として『親鸞 白い道』のタイトルで制作され、原作者の三國連太郎が監督し、親鸞を森山潤久が演じた。",
"title": "歴史小説"
}
] | 親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)の草稿本が完成した1224年(元仁元年4月15日)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。 | {{出典の明記|date=2017-10}}
{{Infobox Buddhist
|名前=<span style="font-size:120%;">親鸞</span>
|生没年=[[#誕生|承安3年4月1日]] - [[#入滅|弘長2年11月28日]]<br />
<span style="font-size:90%;">[[1173年]][[5月14日]] - [[1263年]][[1月9日]]</span><br />
<span style="font-size:90%;">1173年[[5月21日]] - 1263年[[1月16日]]</span><br />
<span style="font-size:80%;">上段・[[宣明暦|旧暦]] 中段・[[ユリウス暦]] 下段・[[先発グレゴリオ暦|グレゴリオ暦換算]]</span>{{efn|[[グレゴリオ暦]]換算…本願寺派や[[真宗高田派|高田派]]では、西暦の生没年をグレゴリオ暦に換算し、承安3年4月1日(1173年5月21日) - 弘長2年11月28日(1263年1月16日)とする。}}
|幼名=松若磨・松若丸・十八公麿
|名=俗名(配流時)- 藤井善信<sup>{{efn|[[#師弟配流|配流]]時の俗名は、藤井善信(ふじいよしざね)。}}</sup>
|法名=<span style="font-size:80%;">〔叡山修行時〕</span>範宴<br /><span style="font-size:80%;">〔吉水入門後〕</span>綽空 ⇒ 善信/親鸞<sup>{{efn|吉水入門後の法名については、綽空から善信(ぜんしん)と改めたとする説と、綽空から親鸞と改めたとする説がある。詳細は「[[#改名について]]」を参照。}}</sup><br /><span style="font-size:80%;">〔越後配流後〕</span>(愚禿)釋親鸞
|号=<span style="font-size:80%;">〔房号〕</span>善信房<sup>{{efn|〔房号〕 善信房…「善信」は、房号とする説がある。その説では、「善信房綽空」より「善信房親鸞」と吉水在所時に法名を改めたとしている。詳細については「[[#「善信」房号説]]」を参照。}}</sup>
|諱=
|諡号=見真大師(1876年追贈)
|尊称=親鸞聖人・宗祖聖人・開山聖人
|生地=[[京都]]・[[法界寺]]付近
|没地=[[京都]]・善法院(押小路南 万里小路東)
|画像=[[ファイル:ShinranShonin.png|250px]]
|説明文=「[[安城御影]]」{{efn|手前に配置されている各物品は左より、[[火鉢|火桶]]、[[猫]]皮の[[草履]]、[[桑]]の[[鹿]]杖。親鸞が座している[[座布団]]のようにみえるのは、[[狸]]の[[毛皮]]の敷物。}}
|宗旨=非僧非俗<br />([[浄土真宗]])
|宗派=
|寺院=
|師=[[法然]]
|弟子=<span style="font-size:80%;">(厳密には、親鸞に師事した人物)</span><br />[[善鸞]]、[[如信]]、河和田の[[唯円]]、<br /><span style="font-size:80%;">〔[[二十四輩]]〕</span>[[性信]]、[[真仏]]、[[順信]]、<br />[[乗然]]、信楽、成然、西念、證性、善性、<br />是真、[[無為信]]、善念、信願、定信、<br />入西(道円)、穴沢の入信、念信、<br />八田の入信、[[明法]](弁円)、慈善、<br />唯仏、戸森の唯信、
畠谷(幡谷)の唯信、<br />鳥喰の[[唯円]]、他
|著作=『[[教行信証]]』、『[[三帖和讃]]』、[[#著書|他]]
|廟=[[大谷本廟]](本願寺派)<br />[[大谷祖廟]](大谷派)<br />御廟拝堂(高田派)<br />佛光寺本廟(佛光寺派)<br />他
}}
'''親鸞'''(しんらん、{{lang-en|Shinran}}、[[承安 (日本)|承安]]3年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]] - [[弘長]]2年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]
{{efn|生没年月日の西暦表記については注意を要するため、生年月日については[[#誕生|「誕生」]]の節を、没年月日については[[#入滅|「入滅」]]の節を参照のこと。}})は、[[鎌倉時代]]前半から中期にかけての日本の[[僧|仏教家]]。'''親鸞聖人'''と称され、[[鎌倉仏教]]の一つ、[[浄土真宗]]の宗祖とされる{{efn|浄土真宗の宗祖(開山とも)と定めたのは、本願寺三世[[覚如]]である。}}。
[[法然]]を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え<ref>『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。</ref>」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。{{要出典範囲|親鸞の念仏集団の隆盛が|date=2017-04}}、既成の仏教教団や{{要出典範囲|浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で|date=2017-04}}、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『'''[[顕浄土真実教行証文類]]'''』(以下、『'''教行信証'''』)の草稿本が完成した[[1224年]]([[元仁]]元年4月15日)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。
== 生涯 ==
親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多い。本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、親鸞の曽孫であり、本願寺教団の実質的な創設者でもある覚如が記した書物(『[[本願寺聖人伝絵|御伝鈔]]』など)によっている。それらの書物は、各地に残る伝承などを整理しつつ成立し、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。
<span style="font-size:90%;">年齢は、[[数え年]]。日付は文献との整合を保つため、いずれも[[旧暦]](宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。</span>
=== 時代背景 ===
{{Indent|[[永承]]7年(1052年)、[[末法]]の時代に突入したと考えられ、[[終末論]]的な[[末法思想]]が広まる([[浄土教#平安時代末期|「末法」の到来]]を参照)。}}
{{Indent|[[保元]]元年(1156年)[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]、[[保元の乱]]起こる。}}
{{Indent|[[平治]]元年(1159年)[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]、[[平治の乱]]起こる。}}
貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。
=== 誕生 ===
[[ファイル:Hokaiji05s1920.jpg|thumbnail|140px|法界寺]]
[[承安 (日本)|承安]]3年([[1173年]])[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]{{efn|旧暦(宣明暦)。}}{{efn|親鸞は、自伝的な記述をした著書がほとんど無い(もしくは、現存しない)ため、「出生日」、「幼名」、「婚姻の時期」、「歿地」など不明確(研究中)な事柄が多く、様々な説がある事に留意されたい。}}(<span style="font-size:90%;">[[先発グレゴリオ暦|グレゴリオ暦換算]] 1173年[[5月21日]]</span>{{efn|name="グレゴリオ暦換算"|[[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]・[[真宗高田派|高田派]]では、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、入滅日を1月16日に改めた。[[真宗大谷派|大谷派]]・[[真宗佛光寺派|佛光寺派]]・[[真宗興正派|興正派]]などでは、旧暦の日付をそのまま新暦の日付に改めた。}})に、現在の[[法界寺]]、[[日野誕生院]]付近(京都市伏見区日野)にて、[[皇太后宮職|皇太后宮大進]]{{efn|『[[本願寺聖人伝絵|御伝鈔]]』・『親鸞聖人正明傳』。『[[尊卑分脈]]』『本願寺系圖』では「皇太后宮権大進」とする。}} [[日野有範]]の長男として誕生する<ref>[{{NDLDC|821948/21}} 本願寺聖人親鸞傳繪上]</ref><ref>[http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/html/0033L/0033.html?l=0,1&b=1&p=7&c=&q=%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E7%B3%BB 『本願寺系圖』]</ref>。母については同時代の一次資料がなく{{Sfn|松尾|2012|pp=53-56}}、江戸時代中期に著された『[[親鸞聖人正明伝]]』では[[清和源氏]]の[[源義家|八幡太郎義家]]の孫娘の「貴光女」としている<ref name="shinrandensousho_19">[{{NDLDC|821948/30}} 親鸞聖人正明傳巻一上]</ref>。「吉光女」(きっこうにょ)とも<ref>[{{NDLDC|821948/83}} 高田開山親鸞聖人正統傳巻之一]</ref><ref>『親鸞 生涯と教え』P.26「第一節 誕生」、真宗大谷派出版部、2010年。</ref>。幼名は、「'''松若磨'''<ref name="denne">参考文献…高松信英・野田晋 著 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年刊行、ISBN 978-4-8341-0164-5。{{要ページ番号|date=2017-10}}</ref>」、「'''松若丸'''<ref name="syoujiten">参考文献…瓜生津隆真・細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年新装版、ISBN 4-8318-7067-6。{{要ページ番号|date=2017-10}}</ref>」、「十八公麿<ref>参考文献…[[#参考文献|佐々木月樵編『親鸞伝叢書』]]P.19『親鸞聖人正明傳』巻一上・『高田開山親鸞聖人正統傳』巻之一P126より。</ref>」。兄弟全員が出家しており、母は[[源義朝]]の娘で、親鸞は[[源頼朝]]の甥にあたるとの研究もある。
{{Indent|[[治承]]4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、[[治承・寿永の乱]]起こる。}}幼少期、[[平家]]全盛の時で、母(貴光女)は、源氏の各家の男子はことごとく暗殺されることを危惧していた。[[牛若丸]]が[[鞍馬寺]]に預けられたように、松若丸も同様に寺に預けられる運命だった。清和源氏は[[源経基]]以降、[[五摂家]](藤原氏)に仕えたが元を正せば天皇家の血筋でもあった。{{Indent|[[治承]]5年/[[養和]]元年(1181年)、[[養和の飢饉]]が発生する。[[洛中]]の死者だけでも、4万2300人とされる。(『[[方丈記]]』)}}
戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。
=== 出家 ===
[[ファイル:Kyoto Shorenin03n4272.jpg|thumbnail|140px|青蓮院(宸殿)<br />お得度の間]]
[[治承]]5年(1181年)9歳、叔父である[[日野範綱]]に伴われて[[京都]][[青蓮院]]に入り、後の[[天台座主]]・[[慈円]](慈鎮和尚)のもと[[得度]]して「'''範宴'''」(はんねん)と称する。
[[伝説]]によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、
{{Indent|「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」}}
と詠んだという。無常観を非常に文学的に表現した歌である。
=== 叡山修学 ===
[[ファイル:Seikouinato.JPG|thumbnail|140px|聖光院跡<br />比叡山延暦寺 西塔]]
[[ファイル:Rokkakudo.jpg|thumbnail|140px|頂法寺(六角堂)<br />本堂]]
出家後は叡山([[比叡山]][[延暦寺]])に登り、慈円が[[検校]](けんぎょう)を勤める[[延暦寺#横川|横川]]の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、[[天台宗]]の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Ma6QRcfgZvg&t=326s なぜ親鸞聖人は法華経の修行を捨てられたのか] 仏教に学ぶ幸福論</ref>、自力修行の限界を感じるようになる。天台宗は「法華経」を重視した宗派だったが、そもそも「八幡太郎」の嫡流は八幡神社思想が「三つ子の魂」で「法華経」はなじまなかったという学説がある。
{{Indent|[[建久]]3年(1192年)[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]、[[源頼朝]]が[[征夷大将軍]]に任じられ、[[鎌倉時代]]に移行する。}}
=== 六角夢告 ===
[[建仁]]元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し{{efn|9歳から29歳までの20年間比叡山で修行した。ちなみに道元はわずか二年、日蓮も十年前後である。}}、後世の祈念の為に[[聖徳太子]]の建立とされる[[頂法寺|六角堂]](京都市中京区)へ百日参籠{{efn|他説に、比叡山無動寺谷大乗院より毎夜下り、百夜に渡り六角堂に通った説もある。無動寺谷大乗院には、毎夜居なくなる範宴(親鸞)を回りの僧侶達が不審に思い師匠に告げ口をした。その師匠は、夜中に蕎麦を振る舞い、範宴の所在を確かめようとした。その時、範宴自作の木像が蕎麦を食べて、回りの不審を払拭したという伝説が残されている。その時の木像が、今も無動寺谷大乗院に「蕎麦喰ひ木像」とよばれ、本尊・阿弥陀如来と共に祀られている。}}を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され([[観音菩薩|救世菩薩]]の化身が現れ)、
{{Indent|「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」}}
{{Indent|意訳 - 「修行者が前世の因縁によって{{efn|「宿報」の意訳について…一般的に「宿報」とは、「宿世(すくせ)の果報。前世でなした善悪業(ぜんあくごう)のむくい。」(『広辞苑』第五版)の意である。しかし、過去世としての「前世」に否定的な見解の場合は、「前世」ではなく「過去の行い」と解釈している。(本多弘之 監修『知識ゼロからの親鸞』幻冬舎、2009年。P.29「六角堂夢告の内容」 を参照。)}}女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう<ref>意訳…瓜生津隆真・細川行信 編『真宗小事典』法藏館、2000年、新装版。P.189「六角夢告」より引用。</ref>。」}}
という偈句(「[[女犯偈]]」)に続けて、
{{Indent|「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」}}
の告を得る。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然が住していた[[安養寺 (京都市東山区)|吉水草庵]]を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵{{efn|現在の真宗大谷派岡崎別院付近。}}を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する<ref name="eshinni">出典…「[[恵信尼#恵信尼消息|恵信尼消息]]」。{{要ページ番号|date=2016-11}}</ref>。
=== 入門 ===
法然の[[専修念仏]]の教えに触れ入門を決意する。これを機に法然より「'''綽空'''」(しゃっくう){{efn|綽空…「綽」は、中国の[[道綽]]禅師より、「空」は源空〈法然〉上人よりつけられたものと推察される。{{Sfn|石田|1989|p=18}}}} の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる
『[[御伝鈔]]』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年[[辛酉]]」・「建仁三年[[癸亥]]」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる<ref>高松信英、野田晋 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』補注、P107「七、吉水入室の年次」・P108「九、建仁元年」。</ref>{{Sfn|平松|1998|pp=45-97}}。詳細は「[[本願寺聖人伝絵#覚如による錯誤]]」を参照。
『[[親鸞聖人正明伝]]』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「''建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ''<ref>[{{NDLDC|950295/156}} 国立国会図書館デジタルコレクション 妻木直良編 『真宗全書』第34巻、蔵経書院、1914年、P.299「親鸞聖人正明傳巻一下」。]</ref>」、「''建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ''(中略)''今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ''<ref>[{{NDLDC|950295/157}} 国立国会図書館デジタルコレクション 妻木直良編 『真宗全書』第34巻、蔵経書院、1914年、P.301「親鸞聖人正明傳巻二上」。]</ref>」と記されている。
『[[恵信尼消息]]』では、「''山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、''(中略)''また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに''{{efn|原文 - ''やまをいてゝ 六かくたうに百日こもらせ給て ごせをいのらせ給けるに''(中略)''又六かくたうに百日こもらせ給て候けるやうに 又百か日 ふるにもてるにも いかなるたい事にも まいりてありしに''(『浄土真宗聖典』〈原典版〉P.888。)}}」と記されている。
[[元久]]元年([[1204年]])11月7日、法然は「[[承元の法難#法然の対応|七箇条制誡]]」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である<ref>大橋俊雄 校注 『法然 一遍』 岩波書店〈日本思想大系 10〉、P.284。</ref>。このことから元久元年11月7日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる{{Sfn|石田|1989|p=17}}。
元久2年(1205年)[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]、入門より5年後には[[選択本願念仏集|『選択本願念仏集』(『選択集』)]]の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『[[顕浄土真実教行証文類]]』「[[化身土巻]]」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも[[弁長]]・[[隆寛]]などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2年4月14日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる{{Sfn|石田|1989|p=17}}。
元久2年(1205年)閏7月29日、『[[顕浄土真実教行証文類]]』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2646_,83,0642c19:2646_,83,0643a01.html 『顯淨土眞實教行證文類』SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)]を参照。</ref>。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない{{Sfn|石田|1989|p=17}}。改名の名はについて石田は「善信であったとされる。」としている。
==== 改名について ====
;「善信」実名説
: 「綽空」から「'''善信'''」(ぜんしん){{efn|善信…「善」は、中国の[[善導|善導大師]]より、「信」は[[源信 (僧侶)|源信]]和尚より。}} への改名説。「親鸞」の名告りはそれ以降とする説。
: [[覚如]]の『拾遺古徳伝』と、それを受けた存覚の『六要鈔』を論拠とする。
;{{Anchors|「善信」房号説}}「善信」房号説
: 宗教学者の[[真木由香子]]が『親鸞とパウロ』<ref>真木由香子『親鸞とパウロ』[[教文館]]、1988年。</ref>において主張し、真宗学者の[[本多弘之]]{{efn|当初、本多は夢告に依って「善信」に改名した後に、越後流罪赦免後に「愚禿釋親鸞」(「善信房親鸞」)に改名したと講じている(『新講教行信証:総序の巻』「第一講」〈1999年7月18日〉P.18・P.23)。しかし、真木由美子『親鸞とパウロ』における論証を受け、「善信」は房号であり、吉水在所時代に実名を「綽空」から「親鸞」に改名したとする説に改めている(『新講教行信証:総序の巻』「第二講」〈1999年9月17日〉P.33-37、付「出会いと名のり-「親鸞」の名によせて」P.319-331)。}}らが支持する説<ref>「善信」房号説を支持する学者は、本多弘之の他に[[寺川俊昭]](「親鸞の名をめぐって」『真宗』2010年11月号、真宗大谷派出版部)・豅(ながたに)弘信(「[http://www.sainenji.net/kiyou003.htm 「善信」実名説を問う(上)]」、『親鸞教學』第95号、大谷大学真宗学会、2010年、40-54頁。・「[http://www.sainenji.net/kiyou004.htm 「善信」実名説を問う(下)]」、『親鸞教學』第96号、大谷大学真宗学会、2011年、50-68頁。)など。</ref>。
: 「善信」は[[戒名|法名]]ではなく房号で、法然によって「(善信房)綽空」から「(善信房)親鸞」とする説<ref>『[[#参考文献|知識ゼロからの親鸞入門]]』41頁より。</ref>。ここでいう房号とは、「[[官僧]]」から遁世した「[[聖|聖(ひじり)]]」や、[[僧#沙弥・沙弥尼|沙弥]]などの僧が用いた通称のこと。親鸞が在世していた当時には実名敬避の慣習があり、日常生活で実名の使用を避けるために呼び習わされた名のこと(参考文献…『[[#参考文献|親鸞敎學]]』95号)。
: 「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「綽空」から「親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。
: 「善信房」の房号は、唯円の『[[歎異抄]]』、覚如の『[[口伝鈔]]』・『[[本願寺聖人伝絵|御伝鈔]]』に見て取れる。
=== 妻帯 ===
妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。
* 法然の元で学ぶ間に、[[九条兼実]]の娘である「玉日」と京都で結婚したという説。
:「玉日」について、歴史学者の[[松尾剛次]]<ref>松尾剛次『親鸞再考』{{要ページ番号|date=2016-11}}</ref>、真宗大谷派の佐々木正<ref>佐々木正『親鸞再考』{{要ページ番号|date=2016-11}}</ref>、浄土宗西山深草派の吉良潤<ref>西山深草(吉良潤)『親鸞は源頼朝の甥』{{要ページ番号|date=2016-11}}</ref>、哲学者の[[梅原猛]]<ref>[http://www.chugainippoh.co.jp/interviews/hot/20140409-001.html 中外日報(2014年4月9日)]</ref>は、『親鸞聖人御因縁』{{efn|『親鸞聖人御因縁』 - 鎌倉時代後期頃に成立したと考えられる荒木門徒系の伝承。荒木門徒は武蔵国荒木(埼玉県行田市)に在した門徒集団で、親鸞の孫弟子である源海を祖とする。真宗佛光寺派や真宗興正派が荒木門徒の系譜に属する。<ref>[http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?page_id=1386 興正寺史話]</ref> }}・{{sub|伝}}存覚『[[親鸞聖人正明伝]]』<ref>[{{NDLDC|821948/13}} 国立国会図書館デジタルコレクション 佐々木月樵編 『親鸞伝叢書』解題、P.2-3。]</ref>{{efn|{{sub|伝}}存覚述『親鸞聖人正明伝』- 五天良空([[寛文]]9年〈1669年〉 - 享保18年〈1733年〉)による著作とみられる。五天良空は、専修寺系の寺院「常超院」(三重県四日市市)の[[住職|住持]]。[[享保]]18年(1733年)開板<ref name="名前なし-1">[http://www.senjuji.or.jp/about/rekidai.php 真宗高田派本山 専修寺「高田本山 専修寺の歩み」]</ref>}}・五天良空『親鸞聖人正統伝』<ref>[{{NDLDC|821948/13}} 国立国会図書館デジタルコレクション 佐々木月樵編 『親鸞伝叢書』解題、P.6-8。]</ref>{{efn|五天良空『親鸞聖人正統伝』 - 五天良空による著作。[[正徳 (日本)|正徳]]5年(1715年)1月18日完成。享保2年(1717年)7月開板<ref name="名前なし-1"/>}}の記述を根拠に「玉日実在説」を主張している。
:対して、日本史学者の[[平雅行]]は、『親鸞聖人御因縁』・『親鸞聖人正明伝』・『親鸞聖人正統伝』が時の天皇を誤認していることや、当時の朝廷の慣習、中世の延暦寺の実態などの知識を欠いた人物の著作だとし、玉日との結婚は伝承であると再考証している<ref>平雅行 『歴史のなかに見る親鸞』「第二章 延暦寺からの出奔」P.47、「第四章 越後での生活」P.97</ref>。
:これには、松尾は親鸞についての史料が少ない中で、疑わしい点のある史料であっても批判的検討を行って積極的に用いるべきであるとし、平の方法論は近年の歴史学的成果に逆行するものであると述べている{{Sfn|松尾|2012|pp=18-23}}。また、玉日の墓と伝えられる墓所があり、江戸時代後期に改葬がなされていることなど、考古学的知見も玉日実在説の史料になると主張する<ref>[http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2013/0221rondan.html 玉日姫の実在説に新史料 ―「親鸞と結婚」話に真実性] 2013年2月21日付 中外日報(論・談)</ref>。
* 法然の元で学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族[[三善為教]]の娘である「[[恵信尼]]」と京都で結婚したという説。
: 「恵信尼」については、[[大正]]10年(1921年)に恵信尼の書状(「[[恵信尼#恵信尼消息|恵信尼消息]]」)が[[西本願寺]]の宝物庫から発見され、その内容から実在が証明されている。
* 京都在所時に玉日と結婚後に越後に配流され、なんらかの理由で越後で恵信尼と再婚したとする説。
** 玉日と恵信尼は同一人物で再婚ではないとする説。
* 法然の元で学ぶ間に、善鸞の実母{{efn|善鸞の実母…平雅行は、善鸞の実母は「[[善鸞#恵信尼との関係|善鸞義絶状]]」に記述されている「ミフノ女房」と推定し、善鸞の実母が死没していた場合は「ミフノ女房」は実母の姉妹か善鸞の同母妹と推定している。(平雅行 『歴史のなかに見る親鸞』「第四章 越後での生活」P.109-114「善鸞の母」。)}}と結婚し、流罪を契機に離別。配流先の越後で越後の[[在庁官人]]の娘である恵信尼と再婚したとする説。この説を提唱した[[平雅行]]は、恵信尼の一族が京都での生活基盤を失った理由や越後にもち得た理由の説明がつかないため、在京の豪族[[三善為教]]の娘ではありえないとしている。また[[天文 (元号)|天文]]10年(1541年)に成立した『日野一流系図』の記載は疑問点が多く史料として価値が低いとしている<ref>平雅行 『歴史のなかに見る親鸞』「第四章 越後での生活」P.114-119「恵信尼について」</ref>。
当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。
親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・[[善鸞]]・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・[[覚信尼]])の7子<ref>[http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/html/0033L/0033.html?l=0,1&b=1&p=7&c=&q=%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E7%B3%BB 参考文献…『本願寺系圖』(大阪本願寺本)]</ref>をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説{{efn|7子すべてが恵信尼の子ではないとする説…印信の母については、『尊卑分脈』では「月輪関白女」、『本願寺系圖』(大阪本願寺本)では「後法性寺摂政太国兼実女」と記されている。いずれも「九条兼実の娘」の意である。小黒女房の母については、『本願寺系圖』(大阪本願寺本)は「兵部大輔三善為教女」と記され、三善為教の娘である。}}、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。(詳細は「[[善鸞#恵信尼との関係]]」を参照。)
=== 師弟配流 ===
{{Indent|事件の経緯は[[承元の法難]]を参照。}}
{{Indent|元久2年(1205年)、[[興福寺]]は九箇条の過失(「[[興福寺奏状]]」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。}}
[[建永]]2年{{efn|建永2年…建永2年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]に、「[[承元]]」と改元する。}}(1207年)2月、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・[[住蓮|住蓮房]]・[[遵西|安楽房遵西]]の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。
この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「'''藤井善信'''」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は[[土佐国]]番田へ{{efn|土佐国番田…「番田」は、「幡多」・「幡田」とも。『歎異抄』の写本により異なる。}}{{efn|法然は[[土佐国]]番田へ…法然は、[[九条兼実|円証(九条兼実)]]の庇護により、[[土佐国]]から[[讃岐国]]に配流地が変更になる。}}、親鸞は[[越後国]]国府(現、[[新潟県]][[上越市]])に配流が決まる。
親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「'''愚禿釋親鸞'''」(ぐとくしゃくしんらん){{efn|親鸞…「親」は、インドの天親菩薩より、「鸞」は曇鸞大師より。{{要出典|date=2017-10}}}} と名告り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「[[#改名について|改名について]]」も参照。)
[[承元]]5年(1211年)[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。
[[建暦]]元年(1211年)[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]、流罪より5年後、[[藤原範光|岡崎中納言範光]]を通じて{{efn|岡崎中納言範光を通じて…勅使は、岡崎中納言範光卿(藤原範光)と伝えられているが、当時すでに[[出家|入道]]していて、範光の命を受けた者が勅使として越後に向ったと考えられる。(#参考文献|参考文献 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 P.120より}}勅免{{efn|勅免…勅命(天皇の命令)による[[wikt:免罪|赦免]]。}}の[[宣旨]]が[[順徳天皇]]より下る。
{{Indent|同月、法然に入洛の許可が下りる。}}
親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に{{efn|建暦元年(1211年)11月…新暦で換算すると12月~1月。}}豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。
{{Indent|建暦2年([[1212年]])[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]、法然は京都で80歳をもって入滅する。}}
赦免後の親鸞の動向については二説ある。
1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。
対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、[[真宗佛光寺派]]・[[真宗興正派]]の中興である[[了源]]が著した『算頭録』に「''親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ''」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、[[伝承]]と位置付けていて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている <ref>[http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?p=50 興正寺史話【十五】「興正寺の伝承 その一」]</ref><ref>[http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?p=52 興正寺史話【十六】「興正寺の伝承 そのニ」]</ref><ref>[http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?p=54 興正寺史話【十七】「興正寺の伝承 その三」]</ref><ref>[http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?p=56 興正寺史話【十八】「興正寺の伝承 その四」]</ref>。
=== 東国布教 ===
[[ファイル:Zenkoji02s3200.jpg|thumbnail|140px|善光寺<br />本堂]]
[[ファイル:kojima_souan_ato.JPG|thumbnail|140px|小島の草庵跡<br />史跡]]
[[ファイル:Inadagobou Sainenji.JPG|thumbnail|140px|稲田の草庵跡<br />西念寺本堂]]
[[建保]]2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、[[東国]](関東)での布教活動のため、家族や[[性信]]などの門弟と共に越後を出発し、[[信濃国]]の[[善光寺]]から[[上野国]]佐貫庄を経て、[[常陸国]]に向かう。
寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県[[下妻市]]小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵{{efn|大山の草庵…別説には、稲田の草庵から大山の草庵に移住したとする説もある。{{要出典|date=2017-10}}}}」([[茨城県]][[城里町]])を結んだと伝えられる{{要出典|date=2017-10}}。
そして笠間郡稲田郷{{efn|笠間郡稲田郷…現在の茨城県[[笠間市]]}}の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「'''[[西念寺 (笠間市)|稲田の草庵]]'''{{efn|「稲田の草庵」を由緒とする寺院はいくつかあり、西念寺の他に、[[浄興寺]](現在は、新潟県上越市に移転)などがある。}}」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『'''[[教行信証]]'''』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、[[元仁]]元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる{{要出典|date=2017-10}}。
親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。
[[西念寺 (笠間市)]](稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとし、[[文永]]9年([[1272年]])にこの地で没したとしている。
この関東布教時代の高弟は、後に「関東[[二十四輩]]」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで[[開山 (仏教)|開山]]する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。また、東国布教中に[[下間蓮位|蓮位]]坊([[下間氏]]の祖)も親鸞の弟子となり、その後もそば近くに仕えた。
=== 帰京 ===
[[File:Shinran (Nara National Museum).jpg|thumb|right|180px|「熊皮御影 」]]
62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。
; 帰京の理由
: 確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。
:* [[天福 (日本)|天福]]2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。
:: 弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。
:* 主著『教行信証』と、「経典」・「論釈」との校合のため。
:: [[鹿島神宮]]には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。
:* 東国において執筆した主著『教行信証』をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都{{efn|当時の政治の中心地は鎌倉であるが、経済・文化の中心地は京都である。([[京都#鎌倉幕府の設置]]を参照。)}}の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。
:: 現代と比較して、機械的伝達手段{{efn|機械的伝達手段…テレビ・ラジオなど通信装置など}}が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度{{efn|経済・文化などの伝播の速度…言語の伝播([[柳田國男]]提唱の「[[蝸牛考]]」を参照。)と同様に、経済・文化なども中心地を同心円として広がる傾向がある。}}が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。
:* 望郷の念によるもの。
:: 35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。
:* 著作活動に専念するため。
:: 当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。
; 妻・恵信尼の動向
: 確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。
:* 東国に残り、没したとする説。([[西念寺 (笠間市)|西念寺]]寺伝)
:* 京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。
:: 当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。
:* 京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、[[建長]]6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の[[覚信尼]]に任せ、故郷の越後に帰ったとする。
:: 帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。
:: また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。
:* [[承久の乱]]
:: 承久の乱により、法然・親鸞らを流罪に処した後鳥羽上皇が、[[隠岐島]]に配流されたことによる
[[寛元]]5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『'''教行信証'''』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。
[[宝治]]2年(1248年)、『'''[[三帖和讃#浄土和讃|浄土和讃]]'''』と『'''[[三帖和讃#高僧和讃|高僧和讃]]'''』を撰述する。
[[建長]]2年(1250年)、『'''唯信鈔文意'''』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。
建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。
建長4年(1252年)、『'''[[浄土文類聚鈔]]'''』を撰述する。
建長5年(1253年)頃、[[善鸞]](親鸞の息子)とその息子[[如信]](親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、[[陸奥国]]の大網(現、[[福島県]][[石川郡]][[古殿町]])にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。
建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『'''[[愚禿鈔]]'''』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首){{efn|『正像末和讃』(「皇太子聖徳奉讃〈十一首〉」)に収録されている物とは、別の和讃集。}}を撰述する。
建長8年(1256年)、『'''[[入出二門偈|入出二門偈頌文]]'''』(福井県・法雲寺本)を撰述する。
{{Wikisource|善鸞義絶状|「善鸞義絶状」}}
同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を[[義絶]]する。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。
{{Indent|『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。}}
[[康元]]元年(1256年)、『'''如来二種回向文'''』(往相回向還相回向文類)を撰述する。
康元2年(1257年)、『'''一念多念文意'''』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『'''浄土三経往生文類'''』(広本・康元本)を転写する。
[[正嘉]]2年(1258年)、『'''尊号真像銘文'''』(広本)、『'''[[三帖和讃#正像末和讃|正像末和讃]]'''』を撰述する。
{{Indent|[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「'''[[三帖和讃]]'''」と総称する{{efn|南北朝時代には〜総称する…[[#参考文献|伊藤博之 校注『歎異抄 三帖和讃』]]P.51より}}。}}
{{Indent|この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。}}
=== 入滅 ===
[[弘長]]2年([[1262年]]{{efn|弘長2年11月28日は、西暦(ユリウス暦・グレゴリオ暦換算ともに)では「1263年」になるが、弘長2年はまだ年を越していないので「1262年」と考える。よって、文献の「親鸞の示寂」の年の西暦を、和暦に基づいて「1262年」と表記する場合と、新暦に基づいて「1263年」と表記する場合があるので注意が必要である。}})[[11月28日 (旧暦)|11月28日]] (<span style="font-size:90%;">[[先発グレゴリオ暦|グレゴリオ暦換算]] [[1263年]][[1月16日]]</span>{{efn|name="グレゴリオ暦換算"}})、押小路南 万里小路東{{efn|押小路南 万里小路東 - おしこうじみなみ までのこうじひがし}}にある実弟の[[尋有]]が院主である「善法院{{efn|入滅の地である、押小路南 万里小路東の「善法院」(「善法坊」)には諸説ある。本願寺派は、「善法坊」の場所を西の万里小路とし、善法院を再興する(現、本願寺派角坊別院)。大谷派は、「善法院」の場所を「親鸞ヶ原」と呼ばれるようになった地に建立された法泉寺の跡地(現、[[京都市立京都御池中学校]]〈虎石町〉)付近として、「見真大師遷化之旧跡」の石碑を建立する。その他にも、光円寺(京都市下京区)で入滅され、何等かの理由により善法院に御遺体を移されたとする説もある。{{要出典|date=2017-10}}}} 」にて、[[享年|行年]]90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の[[覚信尼]]らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。
[[火葬|荼毘]]の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺{{efn|本願寺派は、鳥辺山南辺(現在の[[大谷本廟]]〈西大谷〉の「御荼毘所」)にて荼毘に付されたとする。大谷派は、[[延仁寺]](京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている。(現在の延仁寺は、東本願寺第二十一世[[大谷光勝|嚴如]]が再興したもの。)}}に葬したてまつる」と記されている。
: 頂骨と遺品の多くは弟子の[[善性]]らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。
=== 入滅後 ===
==== 報恩講 ====
親鸞の[[祥月命日]]には、宗祖に対する報恩感謝のため「'''[[報恩講]]'''」と呼ばれる法要が営まれている。
==== 浄土真宗各派本山の成立 ====
{{節スタブ|date=2014年10月}}
* 本願寺の成立については、[[覚如]]、[[蓮如]](中興)、および[[本願寺の歴史]]を参照。
* 専修寺の成立については、[[真仏]]、[[真慧]](中興)、および[[専修寺]]を参照。
* 佛光寺の成立については、[[了源]](中興)、および[[佛光寺#歴史]]を参照。
* 興正寺の成立については、[[了源]](中興)、[[蓮教|経豪/蓮教]]、および[[興正寺#歴史]]を参照。
* 錦織寺の成立については、[[錦織寺]]を参照。
* 毫摂寺の成立については、[[毫摂寺]]を参照。
* 誠照寺の成立については、[[誠照寺]]を参照。
* 専照寺の成立については、[[専照寺]]を参照。
* 證誠寺の成立については、[[證誠寺]]を参照。
==== 大師号追贈 ====
[[明治]]9年(1876年)11月28日、[[明治天皇]]より「'''見真[[大師 (僧)|大師]]'''{{efn|見真大師 - けんしんだいし}}」(見眞大師)の[[諡|諡号]]を追贈された。[[西本願寺]]・[[東本願寺]]・[[専修寺]]の御影堂の親鸞の木像の前にある額の「見真」(見眞)はこの諡号に基づく。
浄土真宗本願寺派は、「本願寺派宗制[http://www.hongwanji.or.jp/shumon/hoki/pdf/shusei.pdf]」を2007年11月28日改正・全文変更(2008年4月1日施行)し、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除した<ref>『中外日報』2008年1月17日付を参照。</ref>。同年4月15日には、「浄土真宗の教章{{efn|浄土真宗の教章 - 浄土真宗本願寺派における規範のひとつで、親鸞聖人の流れをくむものとして心に銘ずべき内容を定めたもの。}}」も改正し、大師号が削除され新「浄土真宗の教章[http://hongwanji-shuppan.com/sp/kyousyou/index.html]」を制定した。真宗大谷派は、1981年に「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した。また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した。
==== 現代における受容・評価 ====
[[高等学校|高校]]で使われる[[倫理]]の[[教科書]]ではかつて、親鸞が法然の教えを「徹底」または「発展」させたという記述が多かったが、優劣をつけない表現へ修正されつつある<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/DA3S12845352.html|title=親鸞、教科書記述に変化 「教えを発展」修正の動き/法然が劣ると誤解生む?|work=|publisher=[[朝日新聞]]朝刊|date=2017年3月17日}}</ref>。
==== 親鸞非実在論 ====
明治29年(1896年)[[村田勤]]は『史的批評・親鸞真伝』「第十二章 系圖上の大疑問」<ref>[{{NDLDC|821944/62}} 国立国会図書館デジタルコレクション 村田勤 『親鸞真伝 : 史的批評』第十二章 系圖上の大疑問、P.116-121。]</ref>において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱した。続いて東京帝国大学教授の[[田中義成]]と[[國學院大学]]教授の[[八代国治]]が「親鸞抹殺論」の談話を発表した<ref>千葉乗隆『浄土真宗』ナツメ社、P.216「親鸞の存在についての論争」。</ref>。
しかし、[[大正]]10年(1921年)に鷲尾教導の調査によって[[西本願寺]]の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である[[恵信尼]]から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の[[覚信尼]]に宛てた書状(「[[恵信尼消息]]」)10通が発見される<ref>鷲尾教導『恵信尼文書の研究』P.3</ref>。その内容と親鸞の動向が合致したため、親鸞が実在したことが証明されている。
== 系図 ==
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">系図</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree |border=0|||||||01||01=〈'''[[日野家]]'''〉<br>'''[[藤原有信]]'''<br />('''日野有信''')}}
{{familytree |border=0||||||||)|-|-|.}}
{{familytree |border=0|||||||01|02|||01=[[日野実光]]|02='''藤原宗光'''<br />('''日野宗光''')}}
{{familytree |border=0||||||||!|||!}}
{{familytree |border=0|||||||01|02||01=[[日野資長]]<br />〈[[日野家]][[嫡流]]〉|02='''藤原経尹'''{{efn|name="tsunemasa"|経尹、範綱、有範について、『尊卑分脈』と『本願寺系図』とでは関係が異なる。本図は『本願寺系図』に依拠する。}}<br />('''日野経尹''')}}
{{familytree |border=0|||||||||||)|-|-|v|-|-|.}}
{{familytree |border=0||||||||||01|02|03||01=藤原範綱{{efn|藤原範綱(日野範綱)…親鸞が得度(入室?)する時の養父。}}{{efn|name="tsunemasa"}}<br />(日野範綱)|02=藤原宗業{{efn|name="tsunemasa"}}<br />(日野宗業)|03='''[[日野有範|藤原有範]]'''{{efn|name="tsunemasa"}}<br />('''日野有範''')}}
{{familytree |border=0|||||||||||`|-|-|-|-|-|!|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.}}
{{familytree |border=0||||||||,|-|-|-|-|-|-|-|-|+|-|-|v|-|-|v|-|-|.|||||!}}
{{familytree |border=0|06|~|y|~|01|~|y|~|07|02|03|04|05|||08||01=範宴<small>→</small>綽空<br />→{{big|'''親鸞'''}}|02=[[尋有]]|03=兼有|04=有意|05=行兼|06=(九条兼実の娘?)<ref name="inshinhaha">(九条兼実の娘?) - 『日野一流系図』に、宴意(改印信)の母について「後法性寺摂政兼実公女」(九条兼実の娘)と記されている。兼実の日記『玉葉』に、兼実に2人の娘が記され、1人は[[後鳥羽天皇]][[中宮]]の[[九条任子|宜秋門院任子]]で、もう1人は4歳で亡くなっている([http://shiryoken.hongwanji.or.jp/project/report/pdf/syohou_26.pdf 本願寺史料研究所報 第26号、平松令三「西本願寺蔵 古本本願寺系図について」]P.8、参照。)。</ref>|07=[[恵信尼]]{{efn|恵信尼…三善為教の子。諸説あり。}}|08=藤原信綱<br />(日野信綱)}}
{{familytree |border=0|||||!|||,|-|-|+|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|-|-|-|-|.||||!}}
{{familytree |border=0||||01|02|03|04|05|06|09|~|07|~|08||01=印信<ref>印信 - 『日野一流系図』に、親鸞の長男は宴意(改印信)と記されている。</ref><br />(範意)|02=小黒女房|03=[[善鸞|慈信房善鸞]]<ref>善鸞の母については異説があり、恵信尼は継母で、実母は「善鸞義絶状」に記されている「みぶの女房」とする説がある。詳細は「[[善鸞#恵信尼との関係]]」参照。</ref>|04=信連房明信|05=益方入道有房<br />(道性)|06=高野禅尼|07=[[覚信尼|覺信尼]]|08=藤原広綱{{efn|藤原広綱 - 覺信尼の前夫。死別。}}<br />(日野広綱)|09=小野宮禅念{{efn|小野宮禅念 - 覺信尼の後夫。}}}}
{{familytree |border=0|}}
{{familytree/end}}
</div>
</div>
略系図出典
* [[洞院公定]]撰『尊卑分脈』
* [[佐々木月樵]] 編『親鸞伝叢書』「本願寺系図」
* 『真宗の教えと宗門の歩み』真宗大谷派宗務所出版部、第4版
* [[今井雅晴]]『如信上人』 真宗大谷派東京教務所、改訂版
* [[平雅行]]『歴史のなかに見る親鸞』
* [[同朋大学]]仏教文化研究所 編『誰も書かなかった親鸞-伝絵の真実』
== 依拠聖典 ==
{{Wikisource|仏説無量寿経|『佛説無量寿経』}}
{{Wikisource|仏説観無量寿経|『佛説観無量寿経』}}
{{Wikisource|仏説阿弥陀経|『佛説阿弥陀経』}}
{{Wikisource|易行品|『十住毘婆沙論』「易行品」}}
{{Wikisource|十二礼|「十二礼」}}
{{Wikisource|無量寿経優婆提舎願生偈|『無量寿経優婆提舎願生偈』}}
{{Wikisource|無量寿経優婆提舎願生偈註|『無量寿経優婆提舎願生偈註』}}
{{Wikisource|讃阿弥陀仏偈|『讃阿弥陀佛偈』}}
=== 根本経典 ===
; 根本経典
: 親鸞は、「'''[[浄土三部経]]'''」と総称される『'''[[無量寿経#仏説無量寿経|佛説無量寿経]]'''』、『'''[[観無量寿経|佛説観無量寿経]]'''』、『'''[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|佛説阿弥陀経]]'''』を、拠り所の経典とする。
: 特に『佛説無量寿経』を『'''大無量寿経'''』(『'''大経'''』)と呼び、教えの中心となる経典として最重要視する。
=== 七高僧論釈章疏 ===
親鸞の思想に影響を与えた[[七高僧]]の注釈書など。
; [[龍樹]] - [[インド]]([[インドの仏教]])
: 『[[十住毘婆沙論]]』「易行品」
: 「十二礼」
; [[世親|天親]] - インド
: 『'''[[無量寿経優婆提舎願生偈]]'''』(『無量寿経優婆提舎』、『浄土論』、『往生論』)
; [[曇鸞]] - [[中国]]([[中国の仏教]])
: 『'''[[無量寿経優婆提舎願生偈註]]'''』(『浄土論註』、『往生論註』)
: 『讃阿弥陀佛偈』
; [[道綽]] - 中国
: 『[[安楽集]]』
; [[善導]] - 中国
: 『[[観無量寿経疏]]』(『観経疏』、『観経四帖疏』、『観経義』){{efn|『観無量寿経疏』の各巻題は、『観経玄義分 巻第一』・『観経序分義 巻第二』・『観経正宗分定善義 巻第三』・『観経正宗分散善義 巻第四』である。}}
: 『往生礼讃偈』(『往生礼讃』)
: 『法事讃』{{efn|『法事讃』…上巻の首題は、『転経行道願往生浄土法事讃』、尾題は『西方浄土法事讃』で、下巻は首題・尾題ともに『安楽行道転経願生浄土法事讃』である。}}
: 『般舟讃』{{efn|『般舟讃』…首題は『依観経等明般舟三昧行道往生讃』、尾題は『般舟三昧行道往生讃』である。}}
: 『観念法門』{{efn|『観念法門』…首題は『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』、尾題は『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門経』である。}}
; [[源信_(僧侶)|源信]] - [[日本]]([[日本の仏教]])
: 『[[往生要集]]』
; '''[[法然|源空]]'''('''法然''') - 日本
: 『'''[[選択本願念仏集|選択本願念佛集]]'''』(『選択集』)
=== その他 ===
{{wikisource|十七条憲法|『十七条憲法』}}
; [[聖徳太子]]
: 「和国の教主{{efn|和国の教主…「和国」とは日本のこと、{{要出典範囲|「教主」とは釈尊のこと。|date=2017-10}}}}」として尊敬し、観音菩薩の化身として崇拝した。
: 『[[十七条憲法]]』
== 教え ==
{{告知|注意|宗派によって解釈が異なる教義については、その項目の記事ページに出典を明記した上で詳細を記述する。|ノート:親鸞/過去ログ2|「教え」のセクションに関しての提案}}
=== 概要 ===
親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『[[顕浄土真実教行証文類|教行信証]]』の冒頭に[[釈迦|釈尊]]の出世本懐の[[経]]である『[[無量寿経|大無量寿経]]』{{efn|『大無量寿経』など浄土経典は、親鸞在世当時では釈尊自説と考えられていた。現代では浄土経典は、小乗仏教確立後に出現したものと考えられている。([[#参考文献|『浄土三部経』(下)]]、「文献」・「解説」を参照。)}}
が「真実の教」であるとし、[[阿弥陀如来]](以降「如来」)の[[本願]]([[四十八願]])と、本願によって与えられる名号「[[南無阿弥陀仏|南無阿弥陀佛]]」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を[[浄土教|浄土門]]の真実の教え「浄土真宗」であると示した<ref name="iwanami541">『岩波仏教辞典』(第二版)P.541「浄土真宗」</ref>。
親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。
如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々[[凡夫]]のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する<ref name="iwanami541"/><ref>『真宗小事典』P92「浄土真宗」</ref>。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない<ref>[http://j-soken.jp/category/ask/ask_6 『浄土真宗聖典』オンライン検索]にて検索</ref>。
教えに対する解釈は[[真宗大谷派#教義|真宗大谷派]]、 [[浄土真宗本願寺派#浄土真宗本願寺派の教章|浄土真宗本願寺派]]、 真宗系の新宗教である[[浄土真宗親鸞会#目的|浄土真宗親鸞会]]
などでそれぞれ差異がある。
以上のような親鸞の教えは、[[法然]]の[[専修念仏]]を基礎としたもので、親鸞自身は新しい教えや宗派の創設を意図していなかった。しかし、自らも含めた人間の欲望や弱さなどにありのまま向き合う中で到達した[[阿弥陀]]の[[本願]]に関する親鸞の解釈には、阿弥陀からの呼びかけを信じ順う心が発った時点で、[[念仏]]さえ要せずに極楽往生が定まる(その後の念仏は自然(じねん)の報恩である)など[[他力]]思想の徹底、その表裏として、修行や善行といった[[自力]]で[[涅槃]]に至ることができるという自称善人のおごり・はからいを戒め、むしろ、万人が等しく[[凡夫]]・悪人として救済されることこそ阿弥陀の本願であるとの世界観・人間観など、独自の特色があり、ここに[[浄土真宗]]が独立宗派として成立する思想的基盤があった<ref>梅原猛『歎異抄』(講談社、2015)</ref><ref name=shaku>釈徹宗『NHK100分de名著 歎異抄~仏にわが身をゆだねよ』(NHK出版、2019)</ref>。
また、このような親鸞の思想は、仏陀自身が説いた[[初期仏教]]とは様相の異なるもので、他力思想の徹底という意味では、初期仏教の限界を乗り越えようとする営みの連続であった[[大乗仏教]]の中でも、殊に特徴的であり、[[仏教]]というよりも、人間の[[原罪]]とキリストによる[[救済]]という構図を有する[[キリスト教]]に近いとの指摘が、かねてからされている<ref>>[http://www.healthcare-m.ac.jp/hcm/wp-content/uploads/file/2/14/2/09kotegawa.pdf 小手川巧光「五木寛之著「親鸞」」保健医療経営大学紀要 № 2 65 ~ 69(2010) ]</ref><ref>佐々木閑『別冊NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版)</ref>。一方で、親鸞の思想を狭い意味での仏教の中だけで理解しようとすることを戒め、仏教伝来前から現代に至るまで通底する日本の精神的土壌が、仏教を通して顕現したものであるとして、積極的に評価する意見もある<ref>鈴木大拙『日本的霊性』(角川ソフィア文庫、2010)</ref>。
<!--
教義に関しては、宗派や宗教団体により解釈などが異なるため下記のリンク先を参照の事。
;伝統宗派{{efn|ここでいう「伝統宗派」とは、幕末維新期以前に成立していた宗派のこと。}}、もしくは伝統宗派に源流をもつ宗派{{efn|ここでいう「伝統宗派に源流をもつ宗派」とは、真宗浄興寺派や浄土真宗東本願寺派などのこと。}}
<small>以上の内、ページ内に自派の教義を説明しているもの</small>
* [[浄土真宗本願寺派#浄土真宗本願寺派の教章|浄土真宗本願寺派]]における教義に関して
* [[真宗大谷派#教義|真宗大谷派]]における教義に関して
;[[新宗教]]団体{{efn|ここでいう「新宗教団体」とは、幕末維新期以降に興った宗教団体のこと。}}
<small>以上の内、ページ内に自派の教義を説明しているもの</small>
* [[浄土真宗親鸞会#目的|浄土真宗親鸞会]]における教義に関して
-->
===教義・教学の用語===
<!-- 教義・教学に関して宗派による差異が見られる点について追記する場合は、その項目に出典を明記した上でその詳細を記述してください。 -->
* [[称名念仏]]
* [[他力本願#用法1|他力本願]]
* 往還二回向 ⇒ [[往相回向]]・[[還相回向]]
* [[悪人正機]]
* [[現生正定聚]]
== 著書 ==
{{Wikiquote|親鸞}}
{{Wikisource|正信念仏偈|「正信念仏偈」}}
[[ファイル:Syouzoumatsu Wasan7.JPG|200px|right|thumb|親鸞筆「三帖和讃」([[専修寺]]蔵){{efn|「文明本」などでは、「像末五濁ノ世トナリテ 釋迦ノ遺敎カクレシム 彌陀ノ悲願ヒロマリテ 念佛往生サカリナリ」。}}]]
; [[漢文]]
:* 『'''[[顕浄土真実教行証文類]]'''』(略名 『'''教行信証'''』)
::* 「'''[[正信念仏偈]]'''」は、『教行信証』の「行巻」の末尾にある、七言百二十句からなる偈文。
:* 『[[浄土文類聚鈔]]』 - 『教行信証』の要点を述べた書物。
:* 『[[愚禿鈔]]』
:* 『[[入出二門偈]]』
:* 『[[五会法事讃略抄]]』
; 和文
:* 『'''[[三帖和讃#浄土和讃|浄土和讃]]'''』
:* 『'''[[三帖和讃#高僧和讃|高僧和讃]]'''』
:* 『'''[[三帖和讃#正像末和讃|正像末和讃]]'''』
::* 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「'''[[三帖和讃]]'''」と総称する。国宝<ref>{{国指定文化財等データベース|201|696|三帖和讃}}</ref>。
:* 『[[三経往生文類]]』
:* 『[[尊号真像銘文]]』
:* 『[[一念多念証文]]』
:* 『[[唯信鈔文意]]』 - 法然門下の兄弟子・聖覚の著した『唯信鈔』で引用されている経釈の要文の註釈
:* 『[[如来二種回向文]]』
:* 『[[弥陀如来名号徳]]』
:* 『[[親鸞聖人御消息]]』
; 関連書籍
:* 『[[恵信尼消息]]』 妻の書簡
:* 『[[後世物語]]』(後世物語聞書) - 一般に作者不明とされるが、江戸期の僧・皆円は『聖人後世物語抄』において、親鸞本人の筆になるものという説を唱えている{{Sfn|松本|1998|pp=99-100}}。また仏教学者の[[松本史朗]]も同様の主張を文献学的に行っている{{Sfn|松本|1998|pp=99-103}}。
:* 『'''[[歎異抄]]'''』
== 子孫 ==
{{Wikisource|善鸞義絶状|「善鸞義絶状」}}
* [[善鸞]] - 毫摂寺第二代/證誠寺第二世。親鸞の帰洛後の東国では門徒の法義理解の混乱や対立が発生する。それを正すため善鸞とその実子[[如信]]を派遣するも収束できなかった。善鸞は異義異端事件を起し義絶される。続柄については諸説あり、親鸞の長男もしくは二男。
* [[覚信尼]] - 親鸞の墓所である「[[大谷廟堂]]」を建立し、初代留守職となる<ref name="rekishi_nishi">[http://www.hongwanji.or.jp/hongwanji/history.html 本願寺(西本願寺)>本願寺について>本願寺の歴史]</ref><ref name="rekishi_higashi">[http://www.higashihonganji.or.jp/about/history/ 東本願寺>東本願寺について>真宗大谷派(東本願寺)沿革]</ref>。親鸞の娘。
* [[覚如]] - 本願寺第三代。本願寺の実質的な開祖{{efn|本願寺の開祖は親鸞とされるが、覚如が本願寺を成立させた後に親鸞を開山と定めた。}}。親鸞の[[曽孫]]。
* [[存覚]] - [[常楽寺 (下京区)]]初代。錦織寺四代。佛光寺七代/興正寺七世の[[了源]]の師<ref>[http://www.bukkoji.or.jp/introduction/index.html#gairyaku 真宗佛光寺派 本山佛光寺>佛光寺のご紹介「中興了源(りょうげん)上人」]</ref><ref>[http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?p=19 興正寺史話【六】「興正寺建立以前」]</ref><ref>[http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?p=21 興正寺史話【七】「了源上人と存覚上人」~了源上人はいつ京都に来たのか~]</ref>。親鸞の[[玄孫]]。
* [[蓮如]] - 本願寺第八代。本願寺中興の祖<ref name="rekishi_nishi"/><ref name="rekishi_higashi"/>。親鸞からみて直系9親等(「[[雲孫]]の子」)にあたる。
* [[顕如]] - 本願寺第十一代。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に顕如を法主とする本願寺は[[織田信長]]と敵対する。([[石山合戦]]・[[信長包囲網]])<ref name="rekishi_nishi"/><ref name="rekishi_higashi"/>。親鸞からみて直系13親等にあたる。
* [[教如]] - 東本願寺第十二代。顕如の長男。顕如の示寂にともない本願寺を継承し本願寺第十二代となるも、[[豊臣秀吉]]により退隠を命ぜられる。秀吉の歿後、[[後陽成天皇]]の勅許を背景に[[徳川家康]]より京都七条烏丸に寺領が寄進され、本願寺(東本願寺)を分立する<ref name="rekishi_higashi"/>。親鸞からみて直系14親等にあたる。
* [[准如]] - 西本願寺第十二代。顕如の三男。顕如の示寂後に秀吉の命により本願寺第十二代となる<ref name="rekishi_nishi"/>{{efn|浄土真宗本願寺派では、教如は歴代に入れず、准如を第十二代とする。}}。
* [[大谷家]] - 明治時代に名字必称となると[[浄土真宗本願寺派]]や[[真宗大谷派]]など本願寺教団の法主(門主・門首)、およびその一族が[[姓]]を「大谷」とした。本願寺派第25代[[大谷光淳]]は親鸞からみて26親等にあたる。真宗大谷派第二十五代門首の[[大谷暢顯]]は親鸞からみて25親等にあたり、2014年4月に門首後継者に選定された[[大谷暢裕]]も親鸞からみて25親等にあたる。浄土真宗東本願寺派第二十五代門主の[[大谷光紹]]は親鸞からみて直系25親等にあたる。
== 歴史小説 ==
親鸞を[[主人公]]とした[[歴史小説]]は多く出されている。ただし親鸞自身は生涯にわたり自伝的な記述をした著書が少なく不明確な事柄が多い。その限られた行実に沿って作られているため、内容の大部分が[[フィクション]]である。
主な作品に、
*[[倉田百三]]『[[出家とその弟子]]』(1917年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/023950508 NDL-OPAC - 書誌情報 倉田百三『出家とその弟子』]</ref>
*同『親鸞』(1940年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000000720192 NDL-OPAC - 書誌情報 倉田百三『親鸞』]</ref>
*[[吉川英治]]『親鸞記』(1923年)
*同『親鸞』全3巻(1938年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000000844661 NDL-OPAC - 書誌情報 吉川英治『親鸞』上,中,下巻]</ref>
*[[丹羽文雄]]『親鸞とその妻』全3巻(1957年 - 1959年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000000943265 NDL-OPAC - 書誌情報 丹羽文雄『親鸞とその妻』第1巻(叡山時代)]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000000943266 NDL-OPAC - 書誌情報 丹羽文雄『親鸞とその妻』第2巻(吉水時代)]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000000943267 NDL-OPAC - 書誌情報 丹羽文雄『親鸞とその妻』第3巻(越後時代)]</ref>
*同『親鸞』全5巻(1969年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000001249380 NDL-OPAC - 書誌情報 丹羽文雄『親鸞』第1巻]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000001249381 NDL-OPAC - 書誌情報 丹羽文雄『親鸞』第2巻]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000001260500 NDL-OPAC - 書誌情報 丹羽文雄『親鸞』第3巻]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000001249382 NDL-OPAC - 書誌情報 丹羽文雄『親鸞』第4巻]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000001249383 NDL-OPAC - 書誌情報 丹羽文雄『親鸞』第5巻]</ref>
*[[三國連太郎]]『白い道:第一部 法然・親鸞とその時代 しかも無間の業に生きる』全3巻(1982年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000001562458 NDL-OPAC - 書誌情報 三国連太郎『白い道 : 法然・親鸞とその時代 しかも無間の業に生きる. 第1部』3冊]</ref>
*[[津本陽]]『弥陀の橋は:親鸞聖人伝』全2巻(2002年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000003068242 NDL-OPAC - 書誌情報 津本陽『弥陀の橋は:親鸞聖人伝』上巻]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000003068243 NDL-OPAC - 書誌情報 津本陽『弥陀の橋は:親鸞聖人伝』下巻]</ref>
*[[五木寛之]]『親鸞』全2巻(2010年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000010656126 NDL-OPAC - 書誌情報 五木寛之『親鸞』上]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/000010656121 NDL-OPAC - 書誌情報 五木寛之『親鸞』下]</ref>{{efn|五木寛之『親鸞』では、親鸞の幼名を「日野忠範」としている。}}
*同『親鸞 激動篇』全2巻(2012年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/023254525 NDL-OPAC - 書誌情報 五木寛之『親鸞』激動篇 上]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/023254527 NDL-OPAC - 書誌情報 五木寛之『親鸞』激動篇 下]</ref>
*同『親鸞 完結篇』全2巻(2014年)<ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/025826317 NDL-OPAC - 書誌情報 五木寛之『親鸞』完結篇 上]</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/bib/025826319 NDL-OPAC - 書誌情報 五木寛之『親鸞』完結篇 下]</ref>
がある。
なお吉川英治の『親鸞』は、1960年に[[伝記映画]]として[[親鸞 (映画)|『親鸞』・『続 親鸞』]]のタイトルで制作され、[[田坂具隆]]が監督し、親鸞を[[萬屋錦之介|中村錦之助]]が演じた<ref>[https://www.allcinema.net/cinema/139443 映画 親鸞 - allcinema]</ref>。三國連太郎『白い道』は、1987年に[[伝記映画]]として『[[親鸞 白い道]]』のタイトルで制作され、原作者の三國連太郎が監督し、親鸞を[[森山潤久]]が演じた<ref>[https://www.allcinema.net/cinema/150117 映画 親鸞 白い道 - allcinema]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2016-11}}
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
* {{Cite book|和書|author=浄土真宗教学伝道研究センター 編|year=1985|title=浄土真宗聖典|publisher=本願寺出版社|isbn=4-89416-251-2|volume=(原典版)}}
* {{Cite book|和書|author=浄土真宗教学伝道研究センター 編|year=2004|title=浄土真宗聖典|edition=第2版|publisher=本願寺出版社|isbn=4-89416-270-9|volume=(註釈版)}}
* {{Cite book|和書|author=真宗聖典編纂委員会 編|year=1978|title=真宗聖典|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|isbn=4-8341-0070-7}}
* {{Cite book|和書|editor=末木文美士ほか 4名|editor-link=末木文美士|year=2002|title=岩波仏教辞典 第二版|publisher=岩波書店|isbn=4-00-080205-4}}
* {{Cite book|和書|author=河野法雲|coauthors=雲山龍珠 監修|year=1994|title=真宗辞典|edition=新装版|publisher=法藏館|isbn=4-8318-7012-9}}
* {{Cite book|和書|author=瓜生津隆真|authorlink=瓜生津隆真|coauthors=細川行信 編|year=2000|title=真宗小事典|edition=新装版|publisher=法藏館|isbn=4-8318-7067-6}}
* {{Cite book|和書|author=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂|year=1996|title=浄土三部経|publisher=本願寺出版社|series=浄土真宗聖典|isbn=4-89416-601-1|volume=現代語版}}
* {{Cite book|和書|author=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂|year=2000|title=顕浄土真実教行証文類|publisher=本願寺出版社|series=浄土真宗聖典|isbn=4-89416-668-2|volume=現代語版}}
* {{Cite book|和書|author=浄土真宗教学編集所 聖典編纂監修委員会 編纂|year=2009|title=浄土文類聚鈔 入出二門偈頌|publisher=本願寺出版社|series=浄土真宗聖典|isbn=978-4-89416-277-8|volume=現代語版}}
* {{Cite book|和書|author=金子大栄 校訂|authorlink=金子大栄|year=1957|title=教行信証|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]] 青318-1|isbn=4-00-333181-8}}
* {{Cite book|和書|author=名畑應順 校注|year=1976|title=親鸞和讃集|publisher=岩波書店|series=岩波文庫 青318-3|isbn=4-00-333183-4}}
* {{Cite book|和書|author=高松信英|coauthors=野田晋|date=1987年刊行|title=親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|isbn=978-4-8341-0164-5}}
* {{Cite book|和書|author=今井雅晴|authorlink=今井雅晴|year=2008|title=茨城と親鸞|publisher=[[茨城新聞|茨城新聞社]]|isbn=978-4-87273-230-6}}
* {{Cite book|和書|author=今井雅晴|date=1995年初版、1998年改訂|title=如信上人|publisher=真宗大谷派東京教務所|isbn=}}
* {{Cite book|和書|author=千葉乗隆|authorlink=千葉乗隆|year=2005|title=浄土真宗|publisher=[[ナツメ社]]|series=[[図解雑学シリーズ|図解雑学]]|isbn=4-8163-3822-5 }}
* {{Cite book|和書|author=寺史編纂員|year=|title=本願寺系圖(大阪本願寺本)|url=http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/html/0033S/0033.html?l=0,1&b=1&c=02&q=%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E7%B3%BB}}
* {{Cite book|和書|author=本多弘之 監修|authorlink=本多弘之|year=2009|title=知識ゼロからの親鸞入門|publisher=幻冬舎|isbn=978-4-344-90148-3}}
* {{Cite book|和書|author=古田和弘|year=2008|title=正信偈の教え|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|isbn=978-4-8341-0397-7|volume=上}}
* {{Cite book|和書|author=一楽 真|authorlink=一楽真|year=2007|title=親鸞聖人に学ぶ‐真宗入門|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|isbn=978-4-8341-0373-1}}
* {{Cite book|和書|author=伊藤博之 校注|year=1981|title=歎異抄 三帖和讃|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮日本古典集成]] 46|isbn=4-10-620346-4}}
* {{Cite book|和書|editor=佐々木月樵|editor-link=佐々木月樵|year=1910|title=親鸞伝叢書|url={{NDLDC|821948}} |publisher=無我山房|isbn=}}
* {{Cite book|和書 |author=本多弘之 |year=2003 |title=新講 教行信証 |publisher=草光舎
|isbn=4-7952-8718-X |volume=総序の巻}}
* {{Cite journal |和書 |author =豅弘信 |date =2010-03 |title =「善信」実名説を問う(上) |journal =親鸞敎學 |publisher =文栄堂書店 |number =95 |page =40-54 |issn =0583-0567 |naid =40017063825 |url=http://www.sainenji.net/kiyou001.htm}}
* {{Cite book|和書 |author=大谷大学真宗総合研究所 |year=2011 |month=10 |title=親鸞像の再構築 |publisher=筑摩書房 |volume=親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集 下巻 |isbn=978-4-480-84722-5}}
* {{Cite book|和書|author=石田瑞麿|authorlink=石田瑞麿|title=教行信証入門|year=1989|month=11|publisher=講談社|series=[[講談社学術文庫]] 902|isbn=4-06-158902-4 |ref= {{SfnRef|石田|1989}}}}
* {{Cite book|和書|author=平雅行|authorlink=平雅行|year=2011|month=4|title=歴史のなかに見る親鸞|publisher=法藏館|isbn=978-4-8318-6061-3}}
* {{Cite book|和書|author=鷲尾教導 |year=1923 |title=恵信尼文書の研究 |url={{NDLDC|971083/3}} |publisher=中外出版 |isbn=}}
* {{Cite book|和書|author=平松令三|authorlink=平松令三|year=1998|month=4|title=親鸞|publisher=吉川弘文館|series=[[歴史文化ライブラリー]]37|isbn=4-642-05437-5|ref={{SfnRef|平松|1998}}}}
* {{Cite book|和書|author=大橋俊雄 校注|authorlink=大橋俊雄|title=法然 一遍|year=1971|month=1|publisher=岩波書店|series=[[日本思想大系]] 10|isbn=}}<!-- 「七箇条制誡」の署名の確認に用いる。 -->
* {{Cite book|和書|author=真宗大谷派学校連合会教科書編纂委員会 編|year=2010|month=3|title=親鸞 生涯と教え|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|isbn=978-4-8341-0413-4}}
* {{Cite book|和書|author=松尾剛次|authorlink=松尾剛次|year=2012|month=9|title=知られざる親鸞|publisher=[[平凡社]]|series=平凡社新書654|isbn=978-4-582-85654-5|ref={{SfnRef|松尾|2012}}}}
* [[四方田犬彦]]『親鸞への接近』[[工作舎]] 2018年8月 {{ISBN2|978-4-87502-495-8}}
* {{Cite journal |和書|author=松本史朗 |title=『捨子問答』と『後世物語』--親鸞思想の研究-1- |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/14332/KJ00005121001.pdf |journal=駒沢大学仏教学部論集 |volume=29 |issue= |pages=91-198 |year=1998 |issn=0389990X |publisher=[駒澤大学]仏教学部研究室 |ref={{SfnRef|松本|1998}}}}
== 関連項目 ==
* [[親鸞賞]] (親鸞を記念した文学賞)
* [[西田幾多郎]]
* [[吉本隆明]]
* [[滝沢克己]]
* [[カール・バルト]]
* [[信仰義認]]
* [[枢軸時代#「枢軸時代」の吟味|枢軸時代]]
* [[世尊布施論]]
* [[森田療法]] - 親鸞の思想との親和性が指摘されている精神療法
* [[大乗仏教]]
* [[日本の仏教]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Shinran}}
* [https://www.hongwanji.or.jp/daionki/ 親鸞聖人750回大遠忌|西本願寺]
* [http://www.higashihonganji.jp/ 真宗大谷派(東本願寺)2011年 親鸞聖人七百五十回御遠忌]{{リンク切れ|date=2023年5月}}
* [https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション]
** [{{NDLDC|821948/1}} 佐々木月樵編 『親鸞伝叢書』]
*** [{{NDLDC|821948/21}} 覺如上人撰『本願寺聖人親鸞傳繪』(21/369)]
*** [{{NDLDC|821948/30}} 常樂臺 釋存覺述『親鸞聖人正明傳』(30/369)]
*** [{{NDLDC|821948/79}} 五天良空述『高田開山親鸞聖人正統傳』(369/70)]
** [{{NDLDC|991586/12}} 藤原公定撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)第4冊20頁「内麿公流○本願寺」(12/60)]
* [http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/top.html 龍谷大学図書館貴重書画像データベース]
** [http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/cont_01/pages_01/0120S/0120.html?l=0,1&b=1&c=02&q=%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E8%A6%AA%E9%B8%9E 『本願寺聖人親鸞傳繪』上]・[http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/cont_01/pages_01/0120S/0120.html?l=0,1&b=2&c=02&q=%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E8%A6%AA%E9%B8%9E 下](室町時代写本)
** [http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/html/0033L/0033.html?l=0,1&b=1&p=7&c=&q=%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E7%B3%BB 『本願寺系圖』(大坂本願寺本)(Vol.1/1, img.7/26)]
* [http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?page_id=1386 興正寺史話]
{{先代次代|[[浄土真宗]]|'''宗祖'''|<small>[[浄土宗]]・開祖<br />[[浄土真宗]]・元祖</small><br />('''[[法然]]''')|[[本願寺]]<br /><small>([[浄土真宗本願寺派]]</small><br /><small>・[[真宗大谷派]]</small><br /><small>・[[浄土真宗東本願寺派]])</small><br />([[錦織寺]])<br /><small>([[真宗木辺派]])</small><br />'''[[如信]]'''<br /><br />[[専修寺#本寺専修寺|専修寺]]<br /><small>([[真宗高田派]])</small><br />[[佛光寺]]<br /><small>([[真宗佛光寺派]]</small><br /><small>・[[真宗興正派]])</small><br />'''[[真仏]]'''<br /><br />[[毫摂寺]]<br /><small>([[真宗出雲路派]])</small><br />[[證誠寺 (鯖江市)|證誠寺]]<br /><small>([[真宗山元派]])</small><br />'''[[善鸞]]'''<br /><br />[[誠照寺]](真照寺)<br /><small>([[真宗誠照寺派]])</small><br />'''[[道性]]'''(益方入道)<br /><br />[[専照寺]]<br /><small>([[真宗三門徒派]])</small><br />'''[[如導]]'''<br /><br />[[浄興寺]]<br /><small>([[真宗浄興寺派]])</small><br />'''[[善性]]'''}}
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9,157 | 1173年 | 1173年(1173 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[承安 (日本)|承安]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1833年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[乾道 (宋)|乾道]]9年
** [[金 (王朝)|金]] : [[大定 (金)|大定]]13年
* 中国周辺
** [[西遼]] : [[崇福]]10年?
** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[乾祐 (西夏)|乾祐]]4年
** [[大理国]] : [[利貞]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[明宗 (高麗王)|明宗]]3年
** [[檀君紀元|檀紀]] : 3506年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[政隆宝応]]11年
* [[仏滅紀元]] : 1715年 - 1716年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 568年 - 569年
* [[ユダヤ暦]] : 4933年 - 4934年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1173|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[ピサの斜塔]]が着工される(最終的な完成は[[1372年]])。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1173年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月21日]](承安3年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[明恵]]、[[華厳宗]]の[[僧]](+ [[1232年]])
* [[5月21日]](承安3年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]) - [[親鸞]]、[[浄土真宗]]の[[開祖]](宗祖)とされる[[僧]](+ [[1262年]])
* [[10月31日]](承安3年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]) - [[九条任子]]、[[後鳥羽天皇]][[中宮]]、[[女院]](+ [[1239年]])
* [[12月23日]] - [[ルートヴィヒ1世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ1世]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]] (+ [[1231年]])
* [[花山院忠経]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](+ [[1229年]])
* [[平高清]]、[[平安時代]]、鎌倉時代の[[平家]]一門(+ [[1199年]])
* [[湛慶]]、鎌倉時代の[[仏師]](+ [[1256年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1173年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月5日]] - [[ボレスワフ4世]]、[[ポーランド]]大公(* [[1120年]])
* [[2月18日]](承安3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[藤原光頼]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1124年]])
* [[3月26日]](承安3年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[藤原雅教]]、平安時代の公卿(* [[1113年]])
* [[9月23日]](承安3年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[藤原育子]]、[[二条天皇]][[中宮]](* [[1146年]])
* [[ウラジーミル・ムスチスラヴィチ (キエフ大公)|ウラジーミル・ムスチスラヴィチ]]、[[キエフ大公]](* [[1132年]])
* [[毅宗 (高麗王)|毅宗]]、第18代[[高麗王]](* [[1127年]])
* [[ラインバウト・ダウレンガ]]、[[オランジュ]]公、叙情[[詩人]](* [[1147年]])
* [[藤原公通]]、平安時代の公卿(* [[1117年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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9,158 | 1262年 | 1262年(1262 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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] | 1262年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1262}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[弘長]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1922年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[景定]]3年
** [[元 (王朝)|モンゴル帝国]] : [[中統]]3年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[元宗 (高麗王)|元宗]]3年
** [[檀君紀元|檀紀]]3595年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[紹隆]]5年
* [[仏滅紀元]] : 1804年 - 1805年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 660年 - 661年
* [[ユダヤ暦]] : 5022年 - 5023年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1262|Type=J|表題=可視}}
<!-- == できごと == -->
== 誕生 ==
{{see also|Category:1262年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[懌子内親王]]、[[鎌倉時代]]の[[皇族]]、[[女院]](+ [[1294年]])
* [[国分重胤]]、鎌倉時代の[[武士]](+ [[1331年]])
* [[日仙]]、鎌倉時代の[[法華宗]]の[[僧]](+ [[1357年]])
* [[明極楚俊]]、[[元 (王朝)|元]]の渡来僧(+ [[1336年]])
* [[ラースロー4世 (ハンガリー王)|ラースロー4世]]、[[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]の[[国王]](+ [[1290年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1262年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[6月23日]] - [[シェモヴィト1世]]、[[マゾフシェ公]]、[[シェラツ]]公(* [[1215年]]?)
* [[9月26日]](弘長2年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[安達長泰]]、[[鎌倉時代]]の[[御家人]](* [[1211年]])
* [[10月5日]](弘長2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]) - [[曦子内親王]]、鎌倉時代の[[皇族]]、[[斎宮|伊勢斎宮]](* [[1224年]])
* [[ロスチスラフ・ミハイロヴィチ]]、[[マチェヴァ]]総督、[[ミハイル2世 (キエフ大公)|キエフ大公ミハイル2世]]の子、ボヘミア王妃[[クンフタ・ウヘルスカー]]の父(* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1262}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}}
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9,159 | 小田急多摩線 | 多摩線(たません)は、神奈川県川崎市麻生区の新百合ヶ丘駅から東京都多摩市の唐木田駅までを結ぶ、小田急電鉄の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はOT。
多摩線は1974年開通で、小田急電鉄で一番新しい路線であり、京王相模原線とともに多摩ニュータウンと東京都心方面を結んでいる。開通から30年近くは新百合ヶ丘駅での小田原線との乗り換えが不便などの理由で、多摩ニュータウンから東京都心へのアクセスには京王線に直通して新宿駅 - 多摩センター駅間を結ぶ競合路線で、永山駅 - 多摩センター駅間で当線と併走する京王相模原線を利用する乗客が多く、京王電鉄に大きな差をつけられていた。
2000年から2018年までは、小田原線を経て東京メトロ千代田線・JR常磐緩行線直通の多摩急行・急行が運行されていたが、現在の新宿行き急行よりも運行本数が少なかった。しかし、小田急主体の沿線開発の進展に伴い年々利用客が増加し、小田原線の複々線化完成(代々木上原駅 - 登戸駅間)による2018年のダイヤ改正では、小田急多摩センター駅 - 新宿駅間を最短33分 で結ぶ快速急行や、通勤時間帯の通勤急行、新宿方面への日中の急行、帰宅時間帯及び土休日の快速急行が新設され、新宿方面との直通が強化されている。朝ラッシュ時間帯に関しては、明大前駅付近で速度が落ちる京王線に対して当路線の方が速達性で勝る。全線が高架化されており、踏切は存在しない。唐木田駅からは相模原駅方面への延伸計画がある(後述)。
※ 全線立体交差、踏切は存在せず。
3面6線の新百合ヶ丘駅を発車すると、多摩線は高架を登り右カーブで北西を向き小田原線から分岐する。この曲線は半径555 mで、多摩線最小の曲線となる。その先で麻生川と東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線(津久井道)を跨ぎ、切通しに入り五月台駅へ。その先は住宅街を築堤で抜け2面2線の栗平駅に到着。この先から徐々に本来の多摩丘陵の様相が見えてきて山が増えてくるようになり、次の黒川駅を発車すると東京都道・神奈川県道19号町田調布線(鶴川街道)を跨ぎ黒川トンネルを抜ける。黒川トンネルを抜けると新興住宅街はるひ野を左手に見て小田急で最も新しいはるひ野駅へ。この付近から北側に京王相模原線が見えてくるようになり、この先で諏訪トンネルを抜けて同線と合流して東京都(多摩市)に入る。しばらく多摩ニュータウンを両側に見ながら再び永山トンネルを抜けると2面2線の小田急永山駅に到着する。
小田急永山駅を発車すると京王相模原線と並走し、東京都道18号府中町田線(鎌倉街道など)を跨ぎ、左カーブで西を向く。切通しであった線路は間もなく高架に変わり、多摩ニュータウンの中心街に入ると2面2線の小田急多摩センター駅に到着する。
小田急多摩センター駅を発車するとすぐに多摩都市モノレール線が跨ぎ、京王相模原線と別れる。その先は右側は多摩丘陵の山を、左側は多摩ニュータウンを見ながら東京都道158号小山乞田線と並走。右手に府中カントリークラブゴルフ場が見えると間もなく2面3線の唐木田駅へ。唐木田駅の先は喜多見電車区唐木田出張所が広がり、また将来の延伸に備えて町田市方面に線路が延びている。
1963年7月11日に新住宅市街地開発法が公布され、それに基づき東京都は多摩ニュータウンを開発する計画を立てた。そして、居住者の多くが都心へ通勤することを考慮し、小田急電鉄と京王帝都電鉄(現:京王電鉄)の2社にニュータウン鉄道として新線の建設を要請した(計画段階では西武鉄道多摩川線の延長案もあった)。これに先立つ1962年には運輸省都市交通審議会の答申第6号で「喜多見方面より原宿、永田町、日比谷、池ノ端および日暮里の各方面を経て松戸方面へ向かう路線」として「東京8号線」の整備が提案されており、1964年には同区間が「東京9号線」として確定した上で、1972年の同審議会第15号答申 では「橋本 - 喜多見」間が追加されて、多摩ニュータウンから都心部へのルート整備が進められる事になった。
小田急は当初、喜多見駅から分岐してよみうりランド付近および稲城市内を経由して多摩中央(現在の「多摩センター駅」のことを指す)に至るルートを検討したが、新たに多摩川に架橋する必要が生じるうえ京王相模原線と同じルートとなることから、その後百合ヶ丘駅付近から分岐することに計画を変更した。百合ヶ丘付近にはS字カーブがあり、輸送のネックが生ずることが予想されたことから、路線の付け替えを行い、その途中に分岐駅となる新百合ヶ丘駅を設置することとした。
こうして1974年6月1日に新百合ヶ丘 - 小田急永山間、続いて1975年4月23日には小田急永山 - 小田急多摩センター間が開業した。しかし、小田原線の線路容量が逼迫していることもあって、多摩線のほとんどの列車は線内折り返しで運転せざるを得ず、朝ラッシュ時のわずかの各停を除き、新宿方面へは新百合ヶ丘駅で乗り換えが必要となった。一方の多摩ニュータウンに並行して乗り入れている京王相模原線が開業当初から都心方面(新宿駅・都営新宿線)への直通列車を運転していたことと、さらに2005年3月20日の小田急線運賃改定まで小田急多摩センター - 小田急永山間の運賃と京王多摩センター - 京王永山間の運賃に差異もある(大人初乗り運賃で京王が130円に対して小田急は140円であった)ことから、小田急多摩線は京王相模原線に相当数の乗客を奪われていた。そのため、日中はあたかも地方ローカル線のような線内列車(2両編成が主だった1980年代には15分間隔で4両編成が運転された)のみが行き来する閑散路線と化していた。小田急で最後に開業した路線にもかかわらず、車両は1980年代まで18 m級の2400形などが主力で、それで十分の輸送量しかなかったのである。
一方、小田急は多摩線の開発と関連してその沿線に住宅都市を建設する構想をたて、1970年ごろから具体化に動き出していた。ちょうどそのころ多摩ニュータウンではごく一部ながら入居が始まり、周辺には百合ヶ丘、鶴川、平尾などの開発が終わった大規模住宅地があったことから、多摩線の建設と相まって多摩丘陵の開発が促進されるのは必至であった。これをそのまま放置すればスプロール化により、将来近代的な市街地として発展するうえで大きな障害となることが予想された。これを未然に防ぐため、小田急は地元一体となり土地区画整理事業を行い、広範囲にわたりインフラ整備と宅地の利用増進をはかり、理想的な街づくりをしようと計画したのである。
計画区域は新百合ヶ丘駅周辺から、多摩線に沿った黒川駅付近までの東西約6km・南北約1kmが設定された。このエリアを黒川第一、栗木第一、柿生第一、柿生第二、西百合ヶ丘、黒川第二、真光寺、栗木第二の8ブロックに分け、それぞれのブロックで地元地権者と協力して組合を設立し、土地区画整理事業を施工するという形で開発が行われた。この手法は、同じ鉄道会社のものとしては1960年代に始まった東京急行電鉄(現:東急および東急電鉄)の「多摩田園都市」でも用いられたものであるが、小田急としては初めてのことだった。ただし、このうち新百合ヶ丘駅周辺の西百合ヶ丘ブロックは川崎市が、多摩ニュータウンに隣接する黒川第二・真光寺ブロックは日本住宅公団(後のUR都市機構)がそれぞれ施行することになり、これらのブロックで小田急は一組合員としての参加になった。
こうして1971年8月に柿生第二ブロックにおいて組合が設立され、着工したのを皮切りに、他のブロックにおいても次々と組合が設立・着工した。柿生第二ブロックでは、小田急が取得した保留地において「栗平邸宅街」の分譲が1977年に行われ、全139区画が即日完売するという好評さであった。最後まで残った黒川第二・真光寺ブロックにおいてもUR都市機構により「黒川特定土地区画整理事業」が施行され、その街びらきに合わせた2004年12月11日にはるひ野駅が開業した。このような開発の進展とともに沿線人口は増加し、かつてのローカル線のイメージは払拭されつつある。
新百合ヶ丘 - 小田急多摩センター間の開通後の多摩ニュータウンでは、関係自治体からの要求やオイルショックが相まって、人口密度を大幅に減らす決定がなされていた。かつての住宅不足の解決を目的とした団地のような画一的な中高層住宅の大量建設ではなく、定住性を重視したゆったりとした住宅の建設が志向されるようになり、実際に1980年代に入ると戸建てのような低層集合住宅「タウンハウス」が次々に建てられていった。こうしたことから当初の計画における輸送量は見込めず、なおかつ京王と競合する多摩センター - 橋本間の延伸には小田急は着手しなかった。そして1987年に城山まで所持していた路線免許の失効をもって、この区間への延伸は正式に断念された。
一方で多摩ニュータウン開発が進展するなか、京王と競合しない唐木田地区へと多摩線は延伸されることになった。唐木田地区の既存住民が、清掃工場の建設を受け入れることとの引き換えに、唐木田への多摩線の延伸を要求したからともいわれる。この工事は1987年12月に着手され、小田急多摩センター - 唐木田間の延伸工事とともに、車両基地の工事が行われた。車両基地の建設に当たっては、建設地がもともと丘陵地であり全体として標高が高いことから、深さ25メートルの掘り下げが行われた。ここで発生した土の量は約76万立方メートルで、10tダンプ約14万台分にも及ぶ。最初に約15メートルを掘り下げ、擁壁として機能させる円柱の杭を車庫となる場所の周囲に329本設置したのち、その内側を更に10メートル掘り下げるという手法で行われた。
こうして、多摩ニュータウン唐木田地区の街びらきに合わせた1990年3月27日に唐木田駅が開業した。開業当初の利用客は、付近に開学した大妻女子大学多摩キャンパスの学生が多かったが、唐木田地区の入居が進むにつれ徐々に乗降客数は増えている。同時に車両基地の稼働も開始され、小田急線の車両運用上でも重要な役割を果たすようになった。また、車両基地内の配線はさらに南西の町田市西部・相模原市方面への延長が可能なように設定された。
2000年12月2日、営団地下鉄(現:東京地下鉄)千代田線への相互乗り入れを行う急行が新設され、当初の「東京9号線」構想が実現した。その後も小田原線での複々線化などの改良が進むなか、2002年3月23日には千代田線直通の多摩急行が新設、2004年12月11日にははるひ野駅開業と同時に新宿方面とを結ぶ区間準急が設定された。先述した運賃についても加算運賃の廃止や旅客運賃の値下げから大人初乗り運賃が京王より安い120円となった。このように相模原線に対する多摩線の競争力が増すことで、多摩線の劣勢が鮮明だった多摩センター駅においても、多摩線の乗降客数が相模原線のそれの半数程度まで追い上げる結果となっている。
2011年3月11日に発生した東日本大震災による福島第一原子力発電所などの停止にともない実施された輪番停電(計画停電)では、小田急電鉄のほか多くの鉄道路線でも運休などの対応が取られたが、多摩線では小田原線と比べ利用者が少ないことなどから、初日の3月14日は終日運休(小田原線の新宿-経堂以外も終日運休)。2日目の3月15日は11:30 - 22:30の間運休(他路線は19:30には運転開始)となった。他の運休路線と異なり都心通勤通学圏内である多摩線の利用客を軽視したと取られる対応に対して多くの質問(クレーム)がよせられたようで、3日目の3月16日からは多摩線を終日運行(他路線は3月18日まで運休あり)とし、同日に小田急電鉄のホームページに、他の運休区間などもあわせ理解を求める文章を掲載した。
2016年3月26日には新宿方面とを結ぶ区間準急を廃止するとともに千代田線直通の急行が増発され、多摩線と千代田線との結びつきはより強いものとなっていたが、小田原線の複々線化完成に伴う2018年3月のダイヤ改正では一変する。この改正では、朝の通勤時間帯において小田急多摩センター - 新宿間を最短33分、ラッシュピーク時でも40分で結ぶ通勤急行の新設や、帰宅時間帯における新宿発の快速急行の新設、新百合ヶ丘駅における小田原線優等列車との接続強化 など、多摩線の大幅な利便性向上を打ち出したものとされたが、その一方で千代田線直通については急行および多摩急行は廃止され(日中の急行は新宿方面に変更)、他の千代田線直通列車も平日朝の下り各駅停車1本のみを残して全廃となり、多摩線の優等列車は千代田線直通から新宿方面直通に転換されることとなった。ただし、2020年3月のダイヤ改正から2022年3月まで、平日朝の直通列車に代わって、常磐緩行線発の唐木田行き急行が土休日朝1本のみ設定されていた。2022年3月のダイヤ変更により、千代田線直通列車は完全に消滅したことから新百合ヶ丘発着列車を除き、全ての列車が新宿方面直通列車となった。
2018年3月17日のダイヤ改正時点で、快速急行・通勤急行・急行・各駅停車の4種類の列車種別が存在する。途中駅に待避・折り返しの設備がないため、線内で先行列車を追い越す列車、途中駅で折り返す列車は設定されていない。2018年3月17日より快速急行・通勤急行及び小田急多摩センター始発列車が設定されている。
2022年3月12日現在、平日朝下り3本、平日夜下り1本、休日朝上り2本のみ設定されている。新宿駅 - 唐木田駅間の途中停車駅は、代々木上原駅・下北沢駅・登戸駅・新百合ヶ丘駅・栗平駅・小田急永山駅・小田急多摩センター駅。列車番号は3700番台である。
2018年3月17日のダイヤ改正で新宿駅発着として平日朝夕下り、土休日朝下り・上りと夜下りに設定されたが、2022年3月12日のダイヤ変更で前述の6本を除いて急行に置き換えられた。
2018年3月17日のダイヤ改正から新設された(運転開始は3月19日)。朝方上り方面のみの運行。唐木田駅 - 新宿駅間の途中停車駅は、小田急多摩センター駅・小田急永山駅・栗平駅・新百合ヶ丘駅・向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅・下北沢駅・代々木上原駅。快速急行の停車駅のうち登戸駅を通過し、快速急行通過駅である向ヶ丘遊園駅と成城学園前駅に停まる千鳥停車を採用している。6本が小田急多摩センター始発、3本が唐木田始発である。列車番号は唐木田発および小田原線内の全列車が3800番台、小田急多摩センター発の多摩線内は3900番台である。
2000年12月2日のダイヤ改正から多摩線での定期運行が始まった。新宿駅 - 唐木田駅間の運転が中心となっている。
日中は上下ともに新百合ヶ丘駅で各駅停車に種別変更を行い新百合ヶ丘駅 - 唐木田駅間を各駅停車で運転する。2022年3月11日までは、平日朝上り・夜間下りと土休日日中上りのみこのような列車が設定されていた。
列車番号は新宿発着の列車が2700番台、それ以外の列車が2900番台である。新宿駅 - 唐木田駅間の途中停車駅は、代々木上原駅・下北沢駅・経堂駅・成城学園前駅・登戸駅・向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・栗平駅・小田急永山駅・小田急多摩センター駅。基本的に10両編成で運行されるが、線内完結列車では6両編成での運行もある。
2000年12月2日の運行開始時は、朝に千代田線直通の綾瀬駅行き1本が設定されるのみだったが、その後千代田線直通列車が多摩線発着を主体としたことで順次増発された。2016年3月26日のダイヤ改正で日中時間帯の多摩急行を置き換える形で大幅に増発されたほか、土休日に新宿行きの列車も設定された。
2018年3月17日のダイヤ改正で運行形態が変更され、千代田線・常磐線直通列車が廃止されたが、2020年3月14日のダイヤ改正で、土休日に下り1本のみながら常磐線・千代田線から直通する列車が再設定されたが、2022年3月12日のダイヤ変更で廃止された。
2020年3月14日のダイヤ改正で、平日夜間及び土休日日中に、多摩線内は各駅停車に種別変更する列車が設定された。
2022年3月12日のダイヤ変更で、日中の全列車が多摩線内は各駅停車に種別変更されるようになった。
線内折り返しの列車が基本だが、2022年3月12日現在、新宿駅 - 唐木田駅間通して各駅停車で運転される列車が下りは深夜帯平日5本・土休日に4本、上りは毎日早朝に3本と土休日の11時台に1本それぞれ設定されている。また新百合ヶ丘駅で急行から種別変更し各駅停車となる列車も多い(急行の項目を参照)。6 - 10両編成で運転される。
2018年3月17日のダイヤ改正でラッシュ時間帯および日中の各駅停車の本数が減少した。
2020年3月14日のダイヤ改正で、平日夜間及び土休日日中の一部列車が、小田原線内は急行となる新宿駅発着の列車に置き換えられたため、当該時間帯の本数が減少した。
2022年3月12日のダイヤ変更で、平日日中の一部列車が、小田原線内は急行となる新宿駅発着の列車に置き換えられたため、当該時間帯の本数が減少した。
列車番号は多摩線完結列車が7600番台、小田原線直通列車が7900番台となる。
日中の1時間ごとの運行本数をまとめると、以下のとおりになる(2022年3月12日ダイヤ変更時点)。
2000年12月2日のダイヤ改正より、多摩線内で新宿発の下り「ホームウェイ」の運行を開始した。当初は1日1本のみであったが、2002年3月23日のダイヤ改正で1日2本となり、2003年3月29日のダイヤ改正から平日3本と土休日2本が設定された。さらに2008年3月15日からは平日のみ東京メトロ千代田線北千住駅始発の「メトロホームウェイ」が1本運転され、新宿発を置き換えた(3本→2本)。
その後、2012年3月17日のダイヤ改正で、多摩線方面のホームウェイ・メトロホームウェイは平日のみの運行となり、さらに2016年3月26日のダイヤ改正で、多摩線内を運行する列車はすべて廃止された。
なお、唐木田発の上り列車が定期運行されたことは無い。また、線内では登場時点での急行と同じ停車駅であったが、2003年に急行が栗平駅に停車するようになっても登場当時のまま停車駅が変わらなかったため、定期列車で栗平駅を通過した最後の種別である。
2004年12月11日のダイヤ改正より従来の各駅停車の一部を置き換えて登場した種別で、多摩線内はすべての駅に停車し新宿駅まで運行された。平日は上り14本・下り13本、土曜・休日は上り17本・下り18本が運転されていた。8両編成での運転が基本だが、下り3本、上り1本は6両編成で運転された。2016年3月26日のダイヤ改正をもって廃止された。
2014年3月15日ダイヤ改正より、平日朝下り1本の新宿発の準急が設定され、多摩線内はすべての駅に停車した。2018年3月17日ダイヤ改正で多摩線での運転は廃止された。
2002年3月23日のダイヤ改正より運行を開始した種別である。唐木田駅から小田原線を経由して、東京メトロ千代田線に直通し、千代田線綾瀬駅発着とJR東日本常磐線松戸駅・柏駅・我孫子駅発着及び取手発の列車があった。多摩線内の停車駅は急行と同一であったが、小田原線内の通過駅は異なり、向ヶ丘遊園駅を通過し、経堂駅に停車していた。
2016年3月26日のダイヤ改正で、向ヶ丘遊園駅停車のため急行の運転に変更された影響で日中時間帯の設定が無くなり、これ以外の時間帯に限られた。このため大幅に本数が減り、平日は下り17本・上り12本、土休日は下り12本・上り10本となった。
2016年3月26日のダイヤ改正までは日中は唯一の速達列車であり、平日は上り26本・下り32本、土曜・休日は上り24本・下り26本が運転されていた。平日の朝ラッシュ時の上りは運転せず、急行を運転していた。
2018年3月17日のダイヤ改正で廃止された。
江の島・鎌倉エクスプレス
湘南マリンエクスプレス
湘南マリン
多摩大山もみじ号
初詣&初日の出号
ドラゴン号
定期的な乗り入れはない。
全て通勤型である。2018年3月16日をもって多摩線への乗り入れは終了した。
女性専用車は、平日朝7:30 - 9:30に新宿駅に到着する上り通勤急行・急行の進行方向最後尾1号車に設定されている。
川崎市土地区画整理事業完了地区概要 による。多摩ニュータウンにおける土地区画整理事業は「多摩ニュータウン#施行事業一覧」を参照のこと。
唐木田から横浜線・相模線方面への延伸が、2000年の運輸政策審議会答申第18号(現・交通政策審議会)で今後整備を検討すべき路線として位置づけられている。2006年5月に神奈川県相模原市にある在日米軍相模総合補給廠の一部返還が決まったことにより、相模原市と町田市は延伸の実現に向けた具体的な検討を行うため、同年11月に「小田急多摩線延伸検討会」を設置した。そして2014年5月26日、両市は多摩線延伸推進に関する覚書を取り交わし、中央新幹線開業が予定される2027年までの実現を目指すとした。
2014年5月に「小田急多摩線延伸計画に関する研究会」から発表されたルートは次のとおりである。唐木田駅から東京都道158号小山乞田線(尾根幹線道路)と交差し、町田市に入る。そして小山田・常盤地区を抜け、東京都道47号八王子町田線(町田街道)と交差、相模総合補給廠(ルート上は返還される予定)を縦断し、相模原駅で横浜線と交差、その先は相模原市の中心部を抜け、相模線上溝駅へ向かう。そのうち、相模原駅と上溝駅に駅を増設、さらに町田市内に新駅が一つ設置されることになっており、費用などの観点から小山田地区への設置が想定されている。この計画では事業費用を1,080億円と試算しており、開業後40年以内で黒字化できるとしている。
しかし、2019年5月に開催された「小田急多摩線延伸に関する関係者会議」では、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が国と地方自治体から整備費の3分の2の補助を受けて路線を整備し、小田急は使用料を払って路線を借りて列車を運行する都市鉄道利便増進事業制度の採用を前提に、概算建設費が1,300億円、黒字化の達成は42年と試算されたことが公表された。これでは都市鉄道利便増進事業制度を適用できる目安である30年を越えてしまうため、第1期整備区間として相模原駅まで部分開業して、概算建設費を870億円に抑え黒字化の達成を26年に短縮してから、第2期整備区間として上溝駅まで開業するよう変更された。
相模原市・厚木市・愛川町・清川村からは、さらに愛川町・厚木市を経由して本厚木駅に至る路線の建設も要望されている。神奈川県鉄道輸送力増強促進会議でも2016年度小田急電鉄向け要望書にて上溝駅方面への延伸の早期実現化とともに、本厚木駅に至る路線の建設を要望している が、小田急は現在唐木田駅以遠への延伸は建設費や採算面などで難色を示している。
運輸政策審議会答申第18号にて「目標年次(2015年)までに開業することが適当である路線」(A1) に位置付けられた川崎縦貫高速鉄道(川崎市営地下鉄、2018年計画廃止)が、新百合ヶ丘から乗り入れし、相互直通運転するという計画が川崎市から提示されたことがある。実現後は、川崎市の広域拠点都市と位置付けられている武蔵小杉駅や、宮前区にもダイレクトにアクセスすることが可能となるため、かわさきマイコンシティなどを有する沿線市域の一体化および発展に重要な役割を果たす構想であった。一方、直通運転にあたって川崎市側は車庫を保有せず、喜多見検車区唐木田出張所の利用を前提としていたが、これらを含めた計画に対しての小田急側との合意は行われていなかった。 | [
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"text": "多摩線は1974年開通で、小田急電鉄で一番新しい路線であり、京王相模原線とともに多摩ニュータウンと東京都心方面を結んでいる。開通から30年近くは新百合ヶ丘駅での小田原線との乗り換えが不便などの理由で、多摩ニュータウンから東京都心へのアクセスには京王線に直通して新宿駅 - 多摩センター駅間を結ぶ競合路線で、永山駅 - 多摩センター駅間で当線と併走する京王相模原線を利用する乗客が多く、京王電鉄に大きな差をつけられていた。",
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"text": "計画区域は新百合ヶ丘駅周辺から、多摩線に沿った黒川駅付近までの東西約6km・南北約1kmが設定された。このエリアを黒川第一、栗木第一、柿生第一、柿生第二、西百合ヶ丘、黒川第二、真光寺、栗木第二の8ブロックに分け、それぞれのブロックで地元地権者と協力して組合を設立し、土地区画整理事業を施工するという形で開発が行われた。この手法は、同じ鉄道会社のものとしては1960年代に始まった東京急行電鉄(現:東急および東急電鉄)の「多摩田園都市」でも用いられたものであるが、小田急としては初めてのことだった。ただし、このうち新百合ヶ丘駅周辺の西百合ヶ丘ブロックは川崎市が、多摩ニュータウンに隣接する黒川第二・真光寺ブロックは日本住宅公団(後のUR都市機構)がそれぞれ施行することになり、これらのブロックで小田急は一組合員としての参加になった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "こうして1971年8月に柿生第二ブロックにおいて組合が設立され、着工したのを皮切りに、他のブロックにおいても次々と組合が設立・着工した。柿生第二ブロックでは、小田急が取得した保留地において「栗平邸宅街」の分譲が1977年に行われ、全139区画が即日完売するという好評さであった。最後まで残った黒川第二・真光寺ブロックにおいてもUR都市機構により「黒川特定土地区画整理事業」が施行され、その街びらきに合わせた2004年12月11日にはるひ野駅が開業した。このような開発の進展とともに沿線人口は増加し、かつてのローカル線のイメージは払拭されつつある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "新百合ヶ丘 - 小田急多摩センター間の開通後の多摩ニュータウンでは、関係自治体からの要求やオイルショックが相まって、人口密度を大幅に減らす決定がなされていた。かつての住宅不足の解決を目的とした団地のような画一的な中高層住宅の大量建設ではなく、定住性を重視したゆったりとした住宅の建設が志向されるようになり、実際に1980年代に入ると戸建てのような低層集合住宅「タウンハウス」が次々に建てられていった。こうしたことから当初の計画における輸送量は見込めず、なおかつ京王と競合する多摩センター - 橋本間の延伸には小田急は着手しなかった。そして1987年に城山まで所持していた路線免許の失効をもって、この区間への延伸は正式に断念された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "一方で多摩ニュータウン開発が進展するなか、京王と競合しない唐木田地区へと多摩線は延伸されることになった。唐木田地区の既存住民が、清掃工場の建設を受け入れることとの引き換えに、唐木田への多摩線の延伸を要求したからともいわれる。この工事は1987年12月に着手され、小田急多摩センター - 唐木田間の延伸工事とともに、車両基地の工事が行われた。車両基地の建設に当たっては、建設地がもともと丘陵地であり全体として標高が高いことから、深さ25メートルの掘り下げが行われた。ここで発生した土の量は約76万立方メートルで、10tダンプ約14万台分にも及ぶ。最初に約15メートルを掘り下げ、擁壁として機能させる円柱の杭を車庫となる場所の周囲に329本設置したのち、その内側を更に10メートル掘り下げるという手法で行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "こうして、多摩ニュータウン唐木田地区の街びらきに合わせた1990年3月27日に唐木田駅が開業した。開業当初の利用客は、付近に開学した大妻女子大学多摩キャンパスの学生が多かったが、唐木田地区の入居が進むにつれ徐々に乗降客数は増えている。同時に車両基地の稼働も開始され、小田急線の車両運用上でも重要な役割を果たすようになった。また、車両基地内の配線はさらに南西の町田市西部・相模原市方面への延長が可能なように設定された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2000年12月2日、営団地下鉄(現:東京地下鉄)千代田線への相互乗り入れを行う急行が新設され、当初の「東京9号線」構想が実現した。その後も小田原線での複々線化などの改良が進むなか、2002年3月23日には千代田線直通の多摩急行が新設、2004年12月11日にははるひ野駅開業と同時に新宿方面とを結ぶ区間準急が設定された。先述した運賃についても加算運賃の廃止や旅客運賃の値下げから大人初乗り運賃が京王より安い120円となった。このように相模原線に対する多摩線の競争力が増すことで、多摩線の劣勢が鮮明だった多摩センター駅においても、多摩線の乗降客数が相模原線のそれの半数程度まで追い上げる結果となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災による福島第一原子力発電所などの停止にともない実施された輪番停電(計画停電)では、小田急電鉄のほか多くの鉄道路線でも運休などの対応が取られたが、多摩線では小田原線と比べ利用者が少ないことなどから、初日の3月14日は終日運休(小田原線の新宿-経堂以外も終日運休)。2日目の3月15日は11:30 - 22:30の間運休(他路線は19:30には運転開始)となった。他の運休路線と異なり都心通勤通学圏内である多摩線の利用客を軽視したと取られる対応に対して多くの質問(クレーム)がよせられたようで、3日目の3月16日からは多摩線を終日運行(他路線は3月18日まで運休あり)とし、同日に小田急電鉄のホームページに、他の運休区間などもあわせ理解を求める文章を掲載した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2016年3月26日には新宿方面とを結ぶ区間準急を廃止するとともに千代田線直通の急行が増発され、多摩線と千代田線との結びつきはより強いものとなっていたが、小田原線の複々線化完成に伴う2018年3月のダイヤ改正では一変する。この改正では、朝の通勤時間帯において小田急多摩センター - 新宿間を最短33分、ラッシュピーク時でも40分で結ぶ通勤急行の新設や、帰宅時間帯における新宿発の快速急行の新設、新百合ヶ丘駅における小田原線優等列車との接続強化 など、多摩線の大幅な利便性向上を打ち出したものとされたが、その一方で千代田線直通については急行および多摩急行は廃止され(日中の急行は新宿方面に変更)、他の千代田線直通列車も平日朝の下り各駅停車1本のみを残して全廃となり、多摩線の優等列車は千代田線直通から新宿方面直通に転換されることとなった。ただし、2020年3月のダイヤ改正から2022年3月まで、平日朝の直通列車に代わって、常磐緩行線発の唐木田行き急行が土休日朝1本のみ設定されていた。2022年3月のダイヤ変更により、千代田線直通列車は完全に消滅したことから新百合ヶ丘発着列車を除き、全ての列車が新宿方面直通列車となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正時点で、快速急行・通勤急行・急行・各駅停車の4種類の列車種別が存在する。途中駅に待避・折り返しの設備がないため、線内で先行列車を追い越す列車、途中駅で折り返す列車は設定されていない。2018年3月17日より快速急行・通勤急行及び小田急多摩センター始発列車が設定されている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日現在、平日朝下り3本、平日夜下り1本、休日朝上り2本のみ設定されている。新宿駅 - 唐木田駅間の途中停車駅は、代々木上原駅・下北沢駅・登戸駅・新百合ヶ丘駅・栗平駅・小田急永山駅・小田急多摩センター駅。列車番号は3700番台である。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で新宿駅発着として平日朝夕下り、土休日朝下り・上りと夜下りに設定されたが、2022年3月12日のダイヤ変更で前述の6本を除いて急行に置き換えられた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正から新設された(運転開始は3月19日)。朝方上り方面のみの運行。唐木田駅 - 新宿駅間の途中停車駅は、小田急多摩センター駅・小田急永山駅・栗平駅・新百合ヶ丘駅・向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅・下北沢駅・代々木上原駅。快速急行の停車駅のうち登戸駅を通過し、快速急行通過駅である向ヶ丘遊園駅と成城学園前駅に停まる千鳥停車を採用している。6本が小田急多摩センター始発、3本が唐木田始発である。列車番号は唐木田発および小田原線内の全列車が3800番台、小田急多摩センター発の多摩線内は3900番台である。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2000年12月2日のダイヤ改正から多摩線での定期運行が始まった。新宿駅 - 唐木田駅間の運転が中心となっている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "日中は上下ともに新百合ヶ丘駅で各駅停車に種別変更を行い新百合ヶ丘駅 - 唐木田駅間を各駅停車で運転する。2022年3月11日までは、平日朝上り・夜間下りと土休日日中上りのみこのような列車が設定されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "列車番号は新宿発着の列車が2700番台、それ以外の列車が2900番台である。新宿駅 - 唐木田駅間の途中停車駅は、代々木上原駅・下北沢駅・経堂駅・成城学園前駅・登戸駅・向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・栗平駅・小田急永山駅・小田急多摩センター駅。基本的に10両編成で運行されるが、線内完結列車では6両編成での運行もある。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2000年12月2日の運行開始時は、朝に千代田線直通の綾瀬駅行き1本が設定されるのみだったが、その後千代田線直通列車が多摩線発着を主体としたことで順次増発された。2016年3月26日のダイヤ改正で日中時間帯の多摩急行を置き換える形で大幅に増発されたほか、土休日に新宿行きの列車も設定された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で運行形態が変更され、千代田線・常磐線直通列車が廃止されたが、2020年3月14日のダイヤ改正で、土休日に下り1本のみながら常磐線・千代田線から直通する列車が再設定されたが、2022年3月12日のダイヤ変更で廃止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2020年3月14日のダイヤ改正で、平日夜間及び土休日日中に、多摩線内は各駅停車に種別変更する列車が設定された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日のダイヤ変更で、日中の全列車が多摩線内は各駅停車に種別変更されるようになった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "線内折り返しの列車が基本だが、2022年3月12日現在、新宿駅 - 唐木田駅間通して各駅停車で運転される列車が下りは深夜帯平日5本・土休日に4本、上りは毎日早朝に3本と土休日の11時台に1本それぞれ設定されている。また新百合ヶ丘駅で急行から種別変更し各駅停車となる列車も多い(急行の項目を参照)。6 - 10両編成で運転される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正でラッシュ時間帯および日中の各駅停車の本数が減少した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2020年3月14日のダイヤ改正で、平日夜間及び土休日日中の一部列車が、小田原線内は急行となる新宿駅発着の列車に置き換えられたため、当該時間帯の本数が減少した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日のダイヤ変更で、平日日中の一部列車が、小田原線内は急行となる新宿駅発着の列車に置き換えられたため、当該時間帯の本数が減少した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "列車番号は多摩線完結列車が7600番台、小田原線直通列車が7900番台となる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日中の1時間ごとの運行本数をまとめると、以下のとおりになる(2022年3月12日ダイヤ変更時点)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2000年12月2日のダイヤ改正より、多摩線内で新宿発の下り「ホームウェイ」の運行を開始した。当初は1日1本のみであったが、2002年3月23日のダイヤ改正で1日2本となり、2003年3月29日のダイヤ改正から平日3本と土休日2本が設定された。さらに2008年3月15日からは平日のみ東京メトロ千代田線北千住駅始発の「メトロホームウェイ」が1本運転され、新宿発を置き換えた(3本→2本)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "その後、2012年3月17日のダイヤ改正で、多摩線方面のホームウェイ・メトロホームウェイは平日のみの運行となり、さらに2016年3月26日のダイヤ改正で、多摩線内を運行する列車はすべて廃止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお、唐木田発の上り列車が定期運行されたことは無い。また、線内では登場時点での急行と同じ停車駅であったが、2003年に急行が栗平駅に停車するようになっても登場当時のまま停車駅が変わらなかったため、定期列車で栗平駅を通過した最後の種別である。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2004年12月11日のダイヤ改正より従来の各駅停車の一部を置き換えて登場した種別で、多摩線内はすべての駅に停車し新宿駅まで運行された。平日は上り14本・下り13本、土曜・休日は上り17本・下り18本が運転されていた。8両編成での運転が基本だが、下り3本、上り1本は6両編成で運転された。2016年3月26日のダイヤ改正をもって廃止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2014年3月15日ダイヤ改正より、平日朝下り1本の新宿発の準急が設定され、多摩線内はすべての駅に停車した。2018年3月17日ダイヤ改正で多摩線での運転は廃止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2002年3月23日のダイヤ改正より運行を開始した種別である。唐木田駅から小田原線を経由して、東京メトロ千代田線に直通し、千代田線綾瀬駅発着とJR東日本常磐線松戸駅・柏駅・我孫子駅発着及び取手発の列車があった。多摩線内の停車駅は急行と同一であったが、小田原線内の通過駅は異なり、向ヶ丘遊園駅を通過し、経堂駅に停車していた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2016年3月26日のダイヤ改正で、向ヶ丘遊園駅停車のため急行の運転に変更された影響で日中時間帯の設定が無くなり、これ以外の時間帯に限られた。このため大幅に本数が減り、平日は下り17本・上り12本、土休日は下り12本・上り10本となった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2016年3月26日のダイヤ改正までは日中は唯一の速達列車であり、平日は上り26本・下り32本、土曜・休日は上り24本・下り26本が運転されていた。平日の朝ラッシュ時の上りは運転せず、急行を運転していた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で廃止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "江の島・鎌倉エクスプレス",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "湘南マリンエクスプレス",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "湘南マリン",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "多摩大山もみじ号",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "初詣&初日の出号",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ドラゴン号",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "定期的な乗り入れはない。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "全て通勤型である。2018年3月16日をもって多摩線への乗り入れは終了した。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "女性専用車は、平日朝7:30 - 9:30に新宿駅に到着する上り通勤急行・急行の進行方向最後尾1号車に設定されている。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "川崎市土地区画整理事業完了地区概要 による。多摩ニュータウンにおける土地区画整理事業は「多摩ニュータウン#施行事業一覧」を参照のこと。",
"title": "多摩線沿線の土地区画整理事業一覧"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "唐木田から横浜線・相模線方面への延伸が、2000年の運輸政策審議会答申第18号(現・交通政策審議会)で今後整備を検討すべき路線として位置づけられている。2006年5月に神奈川県相模原市にある在日米軍相模総合補給廠の一部返還が決まったことにより、相模原市と町田市は延伸の実現に向けた具体的な検討を行うため、同年11月に「小田急多摩線延伸検討会」を設置した。そして2014年5月26日、両市は多摩線延伸推進に関する覚書を取り交わし、中央新幹線開業が予定される2027年までの実現を目指すとした。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2014年5月に「小田急多摩線延伸計画に関する研究会」から発表されたルートは次のとおりである。唐木田駅から東京都道158号小山乞田線(尾根幹線道路)と交差し、町田市に入る。そして小山田・常盤地区を抜け、東京都道47号八王子町田線(町田街道)と交差、相模総合補給廠(ルート上は返還される予定)を縦断し、相模原駅で横浜線と交差、その先は相模原市の中心部を抜け、相模線上溝駅へ向かう。そのうち、相模原駅と上溝駅に駅を増設、さらに町田市内に新駅が一つ設置されることになっており、費用などの観点から小山田地区への設置が想定されている。この計画では事業費用を1,080億円と試算しており、開業後40年以内で黒字化できるとしている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "しかし、2019年5月に開催された「小田急多摩線延伸に関する関係者会議」では、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が国と地方自治体から整備費の3分の2の補助を受けて路線を整備し、小田急は使用料を払って路線を借りて列車を運行する都市鉄道利便増進事業制度の採用を前提に、概算建設費が1,300億円、黒字化の達成は42年と試算されたことが公表された。これでは都市鉄道利便増進事業制度を適用できる目安である30年を越えてしまうため、第1期整備区間として相模原駅まで部分開業して、概算建設費を870億円に抑え黒字化の達成を26年に短縮してから、第2期整備区間として上溝駅まで開業するよう変更された。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "相模原市・厚木市・愛川町・清川村からは、さらに愛川町・厚木市を経由して本厚木駅に至る路線の建設も要望されている。神奈川県鉄道輸送力増強促進会議でも2016年度小田急電鉄向け要望書にて上溝駅方面への延伸の早期実現化とともに、本厚木駅に至る路線の建設を要望している が、小田急は現在唐木田駅以遠への延伸は建設費や採算面などで難色を示している。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "運輸政策審議会答申第18号にて「目標年次(2015年)までに開業することが適当である路線」(A1) に位置付けられた川崎縦貫高速鉄道(川崎市営地下鉄、2018年計画廃止)が、新百合ヶ丘から乗り入れし、相互直通運転するという計画が川崎市から提示されたことがある。実現後は、川崎市の広域拠点都市と位置付けられている武蔵小杉駅や、宮前区にもダイレクトにアクセスすることが可能となるため、かわさきマイコンシティなどを有する沿線市域の一体化および発展に重要な役割を果たす構想であった。一方、直通運転にあたって川崎市側は車庫を保有せず、喜多見検車区唐木田出張所の利用を前提としていたが、これらを含めた計画に対しての小田急側との合意は行われていなかった。",
"title": "その他"
}
] | 多摩線(たません)は、神奈川県川崎市麻生区の新百合ヶ丘駅から東京都多摩市の唐木田駅までを結ぶ、小田急電鉄の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はOT。 | {{独自研究|date=2018年2月}}
{{redirect|多摩線|武蔵野市と府中市を結ぶ、旧称が「多摩線」の西武鉄道の路線|西武多摩川線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Odakyu electric railway company logos.svg|60px|小田急電鉄|link=小田急電鉄]] 多摩線
|路線色=#2288CC
|ロゴ=File:Odakyu tama.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像= OER-Series5000-5055 Tama-line.jpg
|画像サイズ= 300px
|画像説明=多摩線を走行する[[小田急5000形電車 (2代)|5000形]]による急行<br>(2021年11月 黒川駅)
|国={{JPN}}
|所在地=[[神奈川県]]、[[東京都]]
|起点=[[新百合ヶ丘駅]]
|終点=[[唐木田駅]]
|駅数=8駅
|路線記号=OT
|開業=[[1974年]][[6月1日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[小田急電鉄]]
|運営者=小田急電鉄
|車両基地=
|使用車両=[[小田急電鉄#車両]]を参照
|路線距離=10.6 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=25 [[パーミル|‰]]<ref name="KotsuTech1969-7">交通協力会『交通技術』1969年7月号ニュータウンと鉄道建設計画「小田急・多摩線の概要」pp.38 - 41。</ref><ref name="SUBWAY1990-5">日本地下鉄協会『SUBWAY』1990年5月号レポート2「小田急多摩線(小田急多摩センター - 唐木田間)の延伸開業について 」pp.31 - 36。</ref>
|最小曲線半径=555 m<ref name="KotsuTech1969-7"/><ref name="SUBWAY1990-5"/>
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#D-ATS-P(デジタルATS-P)形|D-ATS-P]]
|最高速度=110 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref><ref name="speed">ただし、営業最高速度が100km/hを超える車両の定期運用はない。</ref>
|路線図=[[File:Odakyu Electric Railway Linemap.svg|300px]]
}}
'''多摩線'''(たません)は、[[神奈川県]][[川崎市]][[麻生区]]の[[新百合ヶ丘駅]]から[[東京都]][[多摩市]]の[[唐木田駅]]までを結ぶ、[[小田急電鉄]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''OT'''。
== 概要 ==
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#2288CC|white}}
{{BS-table}}
{{BS5||||KHSTa||||OH01 [[新宿駅]]|}}
{{BS3|||LSTR|||↑↓ {{rint|tokyo|oh}} [[小田急小田原線|小田原線]]|}}
{{BS3|||BHF|0.0|OH23 [[新百合ヶ丘駅]]||}}
{{BS3||STR+l|ABZgr||||}}
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{{BS5|STR+r||STR|||||←[[京王電鉄|京王]]:[[京王相模原線|相模原線]]↓|}}
{{BS5|HST||BHF|||4.1|OT03 [[黒川駅 (神奈川県)|黒川駅]]||}}
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{{BS5||TUNNEL1|O2=GRZq|TUNNEL1|O3=GRZq|||||[[神奈川県]]/[[東京都]]|}}
{{BS3|TUNNEL1|TUNNEL1||||←[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]|}}
{{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||6.8|OT05 [[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]||}}
{{BS3|STR|STR|||||}}
{{BS3|hSTRa|hSTRa||||←[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]|}}
{{BS3|hBHF|O1=HUBaq|hBHF|O2=HUBq|HUBlg|9.1|OT06 [[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]||}}
{{BS5|hSTRq|hKRZhu|hKRZhu|hKBHFeq|O4=HUBe||||[[多摩センター駅]]|}}
{{BS3|hSTR|hSTR||||←[[多摩都市モノレール線]]→|}}
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多摩線は[[1974年]]開通で、小田急電鉄で一番新しい路線であり、[[京王相模原線]]とともに[[多摩ニュータウン]]と東京[[都心]]方面を結んでいる。開通から30年近くは[[新百合ヶ丘駅]]での[[小田急小田原線|小田原線]]との乗り換えが不便などの理由で、多摩ニュータウンから東京都心へのアクセスには[[京王線]]に直通して[[新宿駅]] - [[多摩センター駅]]間を結ぶ競合路線で、永山駅 - 多摩センター駅間で当線と併走する京王相模原線を利用する乗客が多く、[[京王電鉄]]に大きな差をつけられていた。
[[2000年]]から[[2018年]]までは、小田原線を経て[[東京メトロ千代田線]]・JR[[常磐緩行線]]直通の[[多摩急行]]・[[急行列車|急行]]が運行されていたが、現在の新宿行き急行よりも運行本数が少なかった。しかし、小田急主体の沿線開発の進展に伴い年々利用客が増加し、小田原線の複々線化完成([[代々木上原駅]] - [[登戸駅]]間)による2018年のダイヤ改正では、[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]] - [[新宿駅]]間を最短33分<ref>[https://www.odakyu.jp/voice-station/ ODAKYU VOICE station 3月17日(土)、小田急は「新ダイヤ」へ。|小田急電鉄]</ref> で結ぶ[[快速急行]]や、通勤時間帯の[[急行列車|通勤急行]]、新宿方面への日中の急行、帰宅時間帯及び土休日の快速急行が新設され、新宿方面との直通が強化されている。朝ラッシュ時間帯に関しては、[[明大前駅]]付近で速度が落ちる京王線に対して当路線の方が速達性で勝る。全線が高架化されており、踏切は存在しない。[[唐木田駅]]からは[[相模原駅]]方面への延伸計画がある(後述)。
=== 路線データ ===
* 路線距離:10.6 km
* [[軌間]]:1067 mm
* 駅数:8駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線(直流1,500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:110 km/h<ref name="terada" /><ref name="speed" />
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])
※ 全線立体交差、[[踏切]]は存在せず。
== 路線概要 ==
3面6線の[[新百合ヶ丘駅]]を発車すると、多摩線は高架を登り右カーブで北西を向き小田原線から分岐する。この曲線は半径555 mで、多摩線最小の曲線となる<ref name="KotsuTech1969-7"/><ref name="SUBWAY1990-5"/>。その先で[[麻生川]]と[[東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線]](津久井道)を跨ぎ、切通しに入り[[五月台駅]]へ。その先は住宅街を築堤で抜け2面2線の[[栗平駅]]に到着。この先から徐々に本来の[[多摩丘陵]]の様相が見えてきて山が増えてくるようになり、次の[[黒川駅 (神奈川県)|黒川駅]]を発車すると[[東京都道・神奈川県道19号町田調布線]]([[鶴川街道]])を跨ぎ黒川トンネルを抜ける。黒川トンネルを抜けると新興住宅街[[はるひ野]]を左手に見て小田急で最も新しい[[はるひ野駅]]へ。この付近から北側に[[京王相模原線]]が見えてくるようになり、この先で諏訪トンネルを抜けて同線と合流して[[東京都]]([[多摩市]])に入る。しばらく[[多摩ニュータウン]]を両側に見ながら再び永山トンネルを抜けると2面2線の[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]に到着する<ref name="KotsuTech1974-8">交通協力会『交通技術』1974年8月号「小田急多摩線開業」pp.28 - 30。</ref>。
小田急永山駅を発車すると京王相模原線と並走し、[[東京都道18号府中町田線]]([[鎌倉街道]]など)を跨ぎ、左カーブで西を向く。切通しであった線路は間もなく高架に変わり、多摩ニュータウンの中心街に入ると2面2線の[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]に到着する。
小田急多摩センター駅を発車するとすぐに[[多摩都市モノレール線]]が跨ぎ、京王相模原線と別れる。その先は右側は多摩丘陵の山を、左側は多摩ニュータウンを見ながら[[東京都道158号小山乞田線]]と並走。右手に府中カントリークラブゴルフ場が見えると間もなく2面3線の[[唐木田駅]]へ。唐木田駅の先は[[小田急電鉄の車両検修施設|喜多見電車区唐木田出張所]]が広がり、また将来の延伸に備えて[[町田市]]方面に線路が延びている。
<gallery>
Shin-Yurigaoka Station.jpg|[[新百合ヶ丘駅]]
OER Kurihira station North.jpg|[[栗平駅]]
Odakyu-nagayama-station south-exit.JPG|[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]
OER Tama-Center station.jpg|[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]
Karakida Station1.jpg|[[唐木田駅]]
</gallery>
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2018年2月|section=1}}
=== 多摩ニュータウン開発と多摩線の建設 ===
[[ファイル:Oer1800 last run.JPG|thumb|1981年ごろの黒川 - 小田急永山間(現在のはるひ野駅付近)を走る列車。沿線の開発は進んでいなかった]]
[[1963年]][[7月11日]]に[[新住宅市街地開発法]]が公布され、それに基づき[[東京都]]は[[多摩ニュータウン]]を開発する計画を立てた。そして、居住者の多くが都心へ通勤することを考慮し、[[小田急電鉄]]と京王帝都電鉄(現:[[京王電鉄]])の2社に[[ニュータウン鉄道]]として新線の建設を要請した(計画段階では[[西武鉄道]][[西武多摩川線|多摩川線]]の延長案もあった)。これに先立つ[[1962年]]には[[運輸省]]都市交通審議会の答申第6号で「喜多見方面より原宿、永田町、日比谷、池ノ端および日暮里の各方面を経て松戸方面へ向かう路線」として「東京8号線」の整備が提案されており、[[1964年]]には同区間が「東京9号線」として確定した上で、[[1972年]]の同審議会第15号答申<ref group="注釈">同答申では「東京10号線」の西側の起点が橋本まで延長され、現在の京王相模原線から都営地下鉄新宿線にかけての整備も同時に求められた。</ref> では「橋本 - 喜多見」間が追加されて、多摩ニュータウンから都心部へのルート整備が進められる事になった。
小田急は当初、[[喜多見駅]]から分岐して[[よみうりランド]]付近および[[稲城市]]内を経由して多摩中央(現在の「[[多摩センター駅]]」のことを指す)に至るルートを検討したが、新たに[[多摩川]]に架橋する必要が生じるうえ[[京王相模原線]]と同じルートとなることから、その後[[百合ヶ丘駅]]付近から分岐することに計画を変更した<ref>高松良晴『東京の鉄道ネットワークはこうつくられた』、交通新聞社、2015年</ref>。百合ヶ丘付近にはS字カーブがあり、輸送のネックが生ずることが予想されたことから、路線の付け替えを行い、その途中に分岐駅となる[[新百合ヶ丘駅]]を設置することとした。
こうして[[1974年]]6月1日に新百合ヶ丘 - [[永山駅 (東京都)|小田急永山]]間、続いて[[1975年]]4月23日には小田急永山 - [[多摩センター駅|小田急多摩センター]]間が開業した。しかし、[[小田急小田原線|小田原線]]の線路容量が逼迫していることもあって、多摩線のほとんどの列車は線内折り返しで運転せざるを得ず、朝ラッシュ時のわずかの各停を除き、[[新宿駅|新宿]]方面へは新百合ヶ丘駅で乗り換えが必要となった。一方の多摩ニュータウンに並行して乗り入れている京王相模原線が開業当初から都心方面(新宿駅・[[都営新宿線]])への直通列車を運転していたことと、さらに[[2005年]]3月20日の小田急線運賃改定まで小田急多摩センター - 小田急永山間の運賃と京王多摩センター - 京王永山間の運賃に差異もある(大人初乗り運賃で京王が130円に対して小田急は140円であった)ことから、小田急多摩線は京王相模原線に相当数の乗客を奪われていた。そのため、日中はあたかも地方ローカル線のような線内列車(2両編成が主だった[[1980年代]]には15分間隔で4両編成が運転された)のみが行き来する閑散路線と化していた。小田急で最後に開業した路線にもかかわらず、車両は1980年代まで18 m級の2400形などが主力で、それで十分の輸送量しかなかったのである。
=== 小田急による多摩線沿線の開発 ===
[[ファイル:OER-5555.jpg|thumb|沿線の開発が進んだ2007年の黒川 - はるひ野間を走る5200形。]]
一方、小田急は多摩線の開発と関連してその沿線に住宅都市を建設する構想をたて、[[1970年]]ごろから具体化に動き出していた。ちょうどそのころ[[多摩ニュータウン]]ではごく一部ながら入居が始まり、周辺には百合ヶ丘、鶴川、平尾などの開発が終わった大規模住宅地があったことから、多摩線の建設と相まって[[多摩丘陵]]の開発が促進されるのは必至であった。これをそのまま放置すれば[[スプロール化]]により、将来近代的な市街地として発展するうえで大きな障害となることが予想された。これを未然に防ぐため、小田急は地元一体となり[[土地区画整理事業]]を行い、広範囲にわたりインフラ整備と宅地の利用増進をはかり、理想的な街づくりをしようと計画したのである<ref name="50nenshi_tamasen_kaihatsu">『小田急五十年史』小田急電鉄株式会社、昭和55年、535ページ。</ref>。
計画区域は[[新百合ヶ丘駅]]周辺から、多摩線に沿った[[黒川駅 (神奈川県)|黒川駅]]付近までの東西約6km・南北約1kmが設定された。このエリアを黒川第一、栗木第一、柿生第一、柿生第二、西百合ヶ丘、黒川第二、真光寺、栗木第二の8ブロックに分け、それぞれのブロックで地元地権者と協力して組合を設立し、土地区画整理事業を施工するという形で開発が行われた。この手法は、同じ鉄道会社のものとしては[[1960年代]]に始まった東京急行電鉄(現:[[東急]]および[[東急電鉄]])の「[[多摩田園都市]]」でも用いられたものであるが、小田急としては初めてのことだった。ただし、このうち新百合ヶ丘駅周辺の西百合ヶ丘ブロックは[[川崎市]]が、多摩ニュータウンに隣接する黒川第二・真光寺ブロックは[[日本住宅公団]](後の[[UR都市機構]])がそれぞれ施行することになり、これらのブロックで小田急は一組合員としての参加になった<ref name="50nenshi_tamasen_kaihatsu"/>。
こうして[[1971年]]8月に柿生第二ブロックにおいて組合が設立され、着工したのを皮切りに、他のブロックにおいても次々と組合が設立・着工した。柿生第二ブロックでは、小田急が取得した保留地において「栗平邸宅街」の分譲が[[1977年]]に行われ、全139区画が即日完売するという好評さであった<ref name="50nenshi_tamasen_kaihatsu"/>。最後まで残った黒川第二・真光寺ブロックにおいてもUR都市機構により「黒川特定土地区画整理事業」が施行され、その街びらきに合わせた[[2004年]]12月11日に[[はるひ野駅]]が開業した。このような開発の進展とともに沿線人口は増加し、かつてのローカル線のイメージは払拭されつつある。
=== 唐木田への延伸 ===
[[File:Odakyu_Karakida_Rail_Yard_Another_direction_20180225.jpg|thumb|250px|多摩ニュータウン唐木田地区に建設された車両基地]]
[[新百合ヶ丘]] - [[多摩センター駅|小田急多摩センター]]間の開通後の[[多摩ニュータウン]]では、関係自治体からの要求や[[オイルショック]]が相まって、人口密度を大幅に減らす決定がなされていた。かつての住宅不足の解決を目的とした[[団地]]のような画一的な中高層住宅の大量建設ではなく、定住性を重視したゆったりとした住宅の建設が志向されるようになり、実際に[[1980年代]]に入ると戸建てのような低層集合住宅「[[タウンハウス]]」が次々に建てられていった。こうしたことから当初の計画における輸送量は見込めず、なおかつ京王と競合する[[多摩センター駅|多摩センター]] - [[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]間の延伸には小田急は着手しなかった。そして[[1987年]]に城山まで所持していた路線免許の失効をもって、この区間への延伸は正式に断念された。
一方で多摩ニュータウン開発が進展するなか、京王と競合しない唐木田地区へと多摩線は延伸されることになった。唐木田地区の既存住民が、清掃工場の建設を受け入れることとの引き換えに、唐木田への多摩線の延伸を要求したからともいわれる。この工事は[[1987年]]12月に着手され、小田急多摩センター - [[唐木田駅|唐木田]]間の延伸工事とともに、車両基地の工事が行われた。車両基地の建設に当たっては、建設地がもともと丘陵地であり全体として標高が高いことから、深さ25メートルの掘り下げが行われた。ここで発生した土の量は約76万立方メートルで、10tダンプ約14万台分にも及ぶ。最初に約15メートルを掘り下げ、擁壁として機能させる円柱の杭を車庫となる場所の周囲に329本設置したのち、その内側を更に10メートル掘り下げるという手法で行われた<ref name="tamant2013_tamasen">中込芳雄・横山陽「小田急多摩線物語」『多摩ニュータウン研究 No.15』多摩ニュータウン学会、2013年、70-79ページ。</ref>。
こうして、多摩ニュータウン唐木田地区の街びらきに合わせた[[1990年]]3月27日に唐木田駅が開業した。開業当初の利用客は、付近に開学した[[大妻女子大学]]多摩キャンパスの学生が多かったが、唐木田地区の入居が進むにつれ徐々に乗降客数は増えている。同時に車両基地の稼働も開始され、小田急線の車両運用上でも重要な役割を果たすようになった。また、車両基地内の配線はさらに南西の[[町田市]]西部・[[相模原市]]方面への延長が可能なように設定された<ref name="tamant2013_tamasen"/>。
=== 都心方面への直通運転の開始 ===
[[2000年]][[12月2日]]、[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現:[[東京地下鉄]])[[東京メトロ千代田線|千代田線]]への相互乗り入れを行う[[急行列車|急行]]が新設され、当初の「東京9号線」構想が実現した。その後も小田原線での複々線化などの改良が進むなか、[[2002年]][[3月23日]]には千代田線直通の[[多摩急行]]が新設、[[2004年]][[12月11日]]には[[はるひ野駅]]開業と同時に新宿方面とを結ぶ[[区間準急]]が設定された。先述した運賃についても加算運賃の廃止や旅客運賃の値下げから大人初乗り運賃が京王より安い120円となった<ref group="注釈">京王相模原線は建設費の償還を目的とした加算運賃が設定されているため、隣接する相模原線の駅から乗車する場合の大人初乗り運賃は130円だが、それ以外の路線では120円である</ref>。このように[[京王相模原線|相模原線]]に対する多摩線の競争力が増すことで、多摩線の劣勢が鮮明だった[[多摩センター駅]]においても、多摩線の乗降客数が相模原線のそれの半数程度まで追い上げる結果となっている。
=== 東日本大震災の影響 ===
[[2011年]][[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]による[[福島第一原子力発電所]]などの停止にともない実施された[[輪番停電]](計画停電)では、小田急電鉄のほか多くの鉄道路線でも運休などの対応が取られたが、多摩線では小田原線と比べ利用者が少ないことなどから、初日の[[3月14日]]は終日運休(小田原線の新宿-経堂以外も終日運休)。2日目の[[3月15日]]は11:30 - 22:30の間運休(他路線は19:30には運転開始)となった<ref group="注釈">実際は同日22:31ごろに[[静岡県]][[富士宮市]]を震源とした[[静岡県東部地震|地震]]の影響により運転開始はさらに1時間程度遅れた。</ref>。他の運休路線と異なり都心通勤通学圏内である多摩線の利用客を軽視したと取られる対応に対して多くの質問(クレーム)がよせられたようで、3日目の[[3月16日]]からは多摩線を終日運行(他路線は[[3月18日]]まで運休あり)とし、同日に小田急電鉄のホームページに、他の運休区間などもあわせ理解を求める文章を掲載した<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/support/20110322185131fa512eda.pdf 計画停電に伴い実施された運転見合わせを行った日時と区間(小田急HP)]}}{{リンク切れ|date=2014年3月}}</ref>。
=== 千代田線直通から新宿方面直通への転換 ===
[[2016年]][[3月26日]]には新宿方面とを結ぶ区間準急を廃止するとともに千代田線直通の急行が増発され、多摩線と千代田線との結びつきはより強いものとなっていたが、小田原線の複々線化完成に伴う[[2018年]]3月のダイヤ改正では一変する。この改正では、朝の通勤時間帯において小田急多摩センター - 新宿間を最短33分、ラッシュピーク時でも40分で結ぶ[[通勤急行]]の新設や、帰宅時間帯における新宿発の[[快速急行]]の新設、[[新百合ヶ丘駅]]における小田原線優等列車との接続強化<ref>帰宅時間帯での多摩線プラットホーム停車による乗換えの簡便化など</ref> など、多摩線の大幅な利便性向上を打ち出したものとされたが、その一方で千代田線直通については急行および多摩急行は廃止され(日中の急行は新宿方面に変更)、他の千代田線直通列車も平日朝の下り各駅停車1本のみを残して全廃となり、多摩線の優等列車は千代田線直通から新宿方面直通に転換されることとなった。ただし、[[2020年]]3月のダイヤ改正から[[2022年]]3月まで、平日朝の直通列車に代わって、常磐緩行線発の唐木田行き急行が土休日朝1本のみ設定されていた。2022年3月のダイヤ変更により、千代田線直通列車は完全に消滅したことから新百合ヶ丘発着列車を除き、全ての列車が新宿方面直通列車となった。
=== 年表 ===
* [[1967年]]([[昭和]]42年)12月:新百合ヶ丘 - 小田急多摩センター間の地方鉄道敷設免許を取得<ref name="SUBWAY1990-5"/>。
* [[1970年]](昭和45年)6月:自社工事として、多摩線の建設工事に着手<ref name="SUBWAY1990-5"/>。
* [[1972年]](昭和47年):日本鉄道建設公団の民鉄線方式の建設路線となる<ref name="SUBWAY1990-5"/>。
* [[1974年]](昭和49年)[[6月1日]]:小田急電鉄多摩線として新百合ヶ丘 - 小田急永山間開業<ref>{{Cite news |和書|title=小田急多摩線きょう開業 新百合ヶ丘-永山間 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-06-01 |page=2 }}</ref>。各駅停車のみの運行。当時小田原線・江ノ島線では対キロ制運賃が採用されていたが、多摩線においては独自の対キロ区間制運賃が採用された<ref name="50nen">『小田急電鉄五十年史』年表</ref>。
** 開業記念列車として、当時新鋭の[[小田急9000形電車|9000形]]の9701x6が使用された。翌[[6月2日|2日]]から線内運行列車は[[小田急2100形電車|2100形]]の使用となった。その後、さらに線内運行列車は2連運転が可能だった[[小田急1900形電車|1900形]]や[[小田急2200形電車|2200形]]に置き換えた。
* [[1975年]](昭和50年)[[4月23日]]:小田急永山 - 小田急多摩センター間開業<ref>{{Cite news |和書|title=関東の私鉄に二つの新線 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1975-04-23 |page=2 }}</ref>。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[1月8日]] 運賃改定。1975年12月13日に対キロ区間制運賃に移行していた小田原線・江ノ島線と合わせ、小田急全線について同一の対キロ区間制運賃を適用した上で多摩線に加算運賃を設定する形態に移行<ref name="50nen" />。
** [[3月26日]]:ダイヤ改正が実施され、全列車が4両編成での運転となる。
* [[1986年]](昭和61年)8月:小田急多摩センター - 唐木田間の地方鉄道敷設免許を申請<ref name="SUBWAY1990-5"/>。
* [[1987年]](昭和62年)3月:前述区間の敷設免許を取得、同年12月から建設工事に着手<ref name="SUBWAY1990-5"/>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月27日]]:小田急多摩センター - 唐木田間開業<ref>{{Cite news |title=小田急多摩線 多摩センター~唐木田間 きょう開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-03-27 |page=1 }}</ref>。唐木田駅の南西側で「経堂検車区唐木田出張所」が運用開始。
* [[1991年]](平成3年)[[10月11日]]:台風の影響により黒川 - 小田急永山間にて土砂崩れが発生。[[10月13日]]まで不通となる。この事故で[[小田急2600形電車|2600形初代2671x6]]のクハ2871、サハ2771が廃車となった。
* [[1994年]](平成6年)3月27日:唐木田の車両基地が「喜多見検車区唐木田出張所」に改称。
* [[1998年]](平成10年)[[9月16日]]:台風の影響により黒川 - 小田急永山間にて土砂崩れが発生。
* [[2000年]](平成12年)[[12月2日]]:夕方のラッシュ時限定で新宿駅発の[[モーニングウェイ・ホームウェイ|特急ロマンスカー「ホームウェイ」]]の運行開始(多摩線で特急ロマンスカーが毎日運行となる)。また同時に小田原線を経由して営団地下鉄(現:東京地下鉄)千代田線に乗り入れる[[急行列車|急行]]の運行開始。停車駅は特急・急行共に新百合ヶ丘駅・小田急永山駅・小田急多摩センター駅・唐木田駅。
* [[2002年]](平成14年)[[3月23日]]:小田原線を経由して営団地下鉄(現:東京地下鉄)千代田線に乗り入れる[[多摩急行]]の運行開始。停車駅は新百合ヶ丘駅・栗平駅・小田急永山駅・小田急多摩センター駅・唐木田駅。
* [[2003年]](平成15年)[[3月29日]]:栗平駅が急行停車駅に加えられる。これにより、多摩線内の急行と多摩急行の停車駅が同じとなる。
* [[2004年]](平成16年)
** 10月:五月台・栗平・黒川・小田急永山・小田急多摩センター駅の各駅にて、リニューアル工事が[[2006年]](平成18年)3月にかけて実施される<ref name="odakyu2004">[https://web.archive.org/web/20041211051231/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=892&info_kubun=co&mode=online 小田急多摩線の5駅でリニューアル工事を実施します。五月台、栗平、黒川、小田急永山、小田急多摩センターの各駅が明るくスマートに](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)。</ref>。
** [[12月11日]]:黒川駅 - 小田急永山駅間にはるひ野駅が開業。また同時に新宿発着の[[列車種別#区間種別|区間準急]]の運行開始。
* [[2005年]](平成17年)[[3月20日]]:運賃改定に伴い多摩線加算運賃を同日利用分から廃止(定期運賃の加算運賃は4月1日以降利用分から廃止)。
* [[2006年]](平成18年)[[1月31日]]:五月台・栗平・黒川・小田急永山・小田急多摩センターの各駅のホームの屋根に太陽光発電装置が設置され、「省電力」化が開始される。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:平日夕方のラッシュ時限定で千代田線北千住発の特急ロマンスカー「メトロホームウェイ」の運行開始。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月13日]]:同月11日に発生した[[東日本大震災]]による発電所の停止に伴う電力供給逼迫のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から地下鉄千代田線との相互直通運転が休止され、特急ロマンスカーの運転が休止される。
** [[4月1日]]:地下鉄千代田線との相互直通運転が朝夕ラッシュ時のみ再開される。
** [[4月16日]]:特急ロマンスカーが運転を再開する。
** [[7月2日]]:土休日の地下鉄千代田線との相互直通運転が再開される。
** [[9月12日]]:通常ダイヤでの運転が再開される。
* [[2014年]](平成26年)
** [[3月15日]]:ダイヤ改正により準急と10両編成の各駅停車、8両編成の急行が設定される<ref name="路線図"/><ref name="20140315ダイヤ改正"/><ref group="注釈">2014年3月15日のダイヤ改正で設定された多摩線の準急は平日朝の下り1本のみである。</ref>。
** [[5月26日]]:唐木田駅以西の延伸計画覚書が町田市・相模原市との間で締結。2027年までにJR横浜線相模原駅を経由しJR相模線上溝駅まで至る路線の敷設および営業開始を目指す<ref name="response20140527" />。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:ダイヤ改正。日中の千代田線・常磐線直通列車が多摩急行から急行に変更されるとともに、毎時2本→3本に増強された<ref>{{PDFlink|[http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20151218_102.pdf 日比谷線、 東西線、 千代田線、 有楽町線、半蔵門線、 副都心線のダイヤを改正します]}} - 東京地下鉄、2015年12月18日</ref>。同時に、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[JR東日本E233系電車|E233系2000番台]]が当線に乗り入れ、逆に小田急の4000形が常磐線に乗り入れる。また、土休日早朝に1本だけ多摩線では、史上初となる新宿行きの急行が新設された一方、新宿発着の区間準急、唐木田行きの特急ロマンスカー「ホームウェイ」・「メトロホームウェイ」は廃止となった。なお、平日の「ホームウェイ」・「メトロホームウェイ」は新百合ヶ丘駅3番線で着発し、多摩線の列車と同一ホーム上で乗り換えができるよう配慮はされている。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:ダイヤ改正<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。快速急行・通勤急行が新設、多摩急行・準急が廃止され、優等列車がすべて千代田線直通から新宿方面直通へと変更。通勤急行は唐木田始発のほか、小田急多摩センター始発が設定される。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]]:ダイヤ改正<ref name="odakyu20191213">{{Cite press release |和書 |title=2020年3月14日(土)小田急線ダイヤ改正を実施します |publisher=小田急電鉄 |date=2019-12-13 |url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001nybm-att/o5oaa1000001nybt.pdf |format=PDF |accessdate=2020-03-15}}</ref>。新百合ヶ丘駅で種別変更し、新百合ヶ丘駅 - 唐木田駅間を各駅停車として運転する急行が設定された。
* [[2022年]](令和4年)[[3月12日]]:ダイヤ変更により、新百合ヶ丘発着列車を除き、全て千代田線直通列車から新宿方面直通列車へと変更。
== 列車種別 ==
[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ改正時点で、[[快速急行]]・通勤急行・[[急行列車|急行]]・[[各駅停車]]の4種類の[[列車種別]]が存在する。途中駅に待避・折り返しの設備がないため、線内で先行列車を追い越す列車、途中駅で折り返す列車は設定されていない。2018年3月17日より快速急行・通勤急行及び小田急多摩センター始発列車が設定されている<ref name="odakyu20171101">{{Cite press release |和書 |title=2018年3月、新ダイヤでの運行開始 |publisher=小田急電鉄 |date=2017-11-01 |url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8701_5820170_.pdf |format=PDF |accessdate=2017-11-02}}</ref><ref name="odakyu20171215">{{Cite press release |和書 |title=新ダイヤでの運行開始日を決定! |publisher=小田急電鉄 |date=2017-12-15 |url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000005scq-att/8731_0522542_.pdf |format=PDF |accessdate=2017-12-16}}</ref>。
=== 快速急行 ===
2022年3月12日現在、平日朝下り3本、平日夜下り1本、休日朝上り2本のみ設定されている。新宿駅 - 唐木田駅間の途中停車駅は、代々木上原駅・下北沢駅・登戸駅・新百合ヶ丘駅・栗平駅・小田急永山駅・小田急多摩センター駅。[[列車番号]]は3700番台である<ref name="小田急時刻表2018" />。
[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ改正で新宿駅発着として平日朝夕下り、土休日朝下り・上りと夜下りに設定された<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" /><ref name="navitime" />が、2022年3月12日のダイヤ変更で前述の6本を除いて急行に置き換えられた。
=== 通勤急行 ===
[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ改正から新設された(運転開始は3月19日)<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。朝方上り方面のみの運行。唐木田駅 - 新宿駅間の途中停車駅は、小田急多摩センター駅・小田急永山駅・栗平駅・新百合ヶ丘駅・向ヶ丘遊園駅・成城学園前駅・下北沢駅・代々木上原駅。快速急行の停車駅のうち登戸駅を通過し、快速急行通過駅である向ヶ丘遊園駅と成城学園前駅に停まる[[千鳥停車]]を採用している。6本が小田急多摩センター始発、3本が唐木田始発である。列車番号は唐木田発および小田原線内の全列車が3800番台、小田急多摩センター発の多摩線内は3900番台である<ref name="小田急時刻表2018" />。
=== 急行 ===
2000年12月2日のダイヤ改正から多摩線での定期運行が始まった。新宿駅 - 唐木田駅間の運転が中心となっている。
日中は上下ともに新百合ヶ丘駅で各駅停車に種別変更を行い新百合ヶ丘駅 - 唐木田駅間を各駅停車で運転する。2022年3月11日までは、平日朝上り・夜間下りと土休日日中上りのみこのような列車が設定されていた。
列車番号は新宿発着の列車が2700番台、それ以外の列車が2900番台である<ref name="小田急時刻表2018">{{Cite |title=小田急時刻表2018 |publisher=交通新聞社 |date=2018-3-13 |url=http://shop.kotsu.co.jp/shopdetail/000000002313/025/O/page1/order/}}</ref>。新宿駅 - 唐木田駅間の途中停車駅は、代々木上原駅・下北沢駅・経堂駅・成城学園前駅・登戸駅・向ヶ丘遊園駅・新百合ヶ丘駅・栗平駅・小田急永山駅・小田急多摩センター駅。基本的に10両編成で運行されるが、線内完結列車では6両編成での運行もある。
2000年12月2日の運行開始時は、朝に[[東京メトロ千代田線|千代田線]]直通の[[綾瀬駅]]行き1本が設定されるのみだったが、その後千代田線直通列車が多摩線発着を主体としたことで順次増発された。[[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正で日中時間帯の多摩急行を置き換える形で大幅に増発されたほか、土休日に新宿行きの列車も設定された。
[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ改正で運行形態が変更され、千代田線・常磐線直通列車が廃止されたが<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" /><!--
2018年3月16日以前は平日朝ラッシュ時に千代田線直通の綾瀬駅行き1本、千代田線および[[常磐緩行線]]直通が4本運行されていた。日中時間帯および土休日夜は千代田線直通列車が毎時3本設定されており、千代田線直通以外では、多摩線内のみ運転の列車が平日朝に下り1本・上り3本設定されており、上りのうちの2本は小田急線全体で唯一の8両編成で運転(1本は2014年3月15日のダイヤ改正にて新規設定、もう1本は2017年3月4日のダイヤ修正にて10両編成から運用変更)されている。-->、[[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正で、土休日に下り1本のみながら常磐線・千代田線から直通する列車が再設定されたが<ref group="注釈">当初は[[松戸駅]]始発。2021年ダイヤ改正から[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]始発。</ref>、2022年3月12日のダイヤ変更で廃止された。
2020年3月14日のダイヤ改正で、平日夜間及び土休日日中に、多摩線内は各駅停車に種別変更する列車が設定された<ref name="odakyu20191213" />。
2022年3月12日のダイヤ変更で、日中の全列車が多摩線内は各駅停車に種別変更されるようになった。
=== 各駅停車 ===
線内折り返しの列車が基本だが、2022年3月12日現在、新宿駅 - 唐木田駅間通して各駅停車で運転される列車が下りは深夜帯平日5本・土休日に4本、上りは毎日早朝に3本と土休日の11時台に1本それぞれ設定されている。また新百合ヶ丘駅で急行から種別変更し各駅停車となる列車も多い(急行の項目を参照)。6 - 10両編成で運転される。
2018年3月17日のダイヤ改正でラッシュ時間帯および日中の各駅停車の本数が減少した。
2020年3月14日のダイヤ改正で、平日夜間及び土休日日中の一部列車が、小田原線内は急行となる新宿駅発着の列車に置き換えられたため、当該時間帯の本数が減少した。
2022年3月12日のダイヤ変更で、平日日中の一部列車が、小田原線内は急行となる新宿駅発着の列車に置き換えられたため、当該時間帯の本数が減少した。
列車番号は多摩線完結列車が7600番台、小田原線直通列車が7900番台となる<ref>{{Cite |title=小田急多摩線時刻表 |publisher=えきから時刻表 |date=2018-3-19 |url=http://www.ekikara.jp/newdata/line/1306031.htm}}</ref>。
=== 運行本数 ===
日中の1時間ごとの運行本数をまとめると、以下のとおりになる(2022年3月12日ダイヤ変更時点)。
{| class="wikitable"
|-
!colspan="2"|種別\駅名
!{{縦書き|新宿|height=3em}}
!…
!colspan="2"|{{縦書き|新百合ヶ丘|height=6em}}
!…
!{{縦書き|唐木田|height=4em}}
!備考
|- style="text-align:center;"
! rowspan="2" |運行本数
| style="background:pink;" |急行
| colspan="3" style="background:pink;" | 3本
| colspan="3" style="background:#bdf;" | 3本
| 新百合ヶ丘駅 - 唐木田駅間は各駅停車として運転
|- style="text-align:center;"
| rowspan="2" style="background:#bdf;"|各駅停車
| colspan="3" |
| colspan="3" style="background:#bdf;" | 3本
|
|}
=== 過去の列車種別 ===
==== 特急ロマンスカー ====
{{Main|小田急ロマンスカー}}
[[2000年]][[12月2日]]のダイヤ改正より、多摩線内で新宿発の下り'''「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|ホームウェイ]]」'''の運行を開始した。当初は1日1本のみであったが、[[2002年]][[3月23日]]のダイヤ改正で1日2本となり、[[2003年]][[3月29日]]のダイヤ改正から平日3本と土休日2本が設定された。さらに[[2008年]][[3月15日]]からは平日のみ東京メトロ千代田線[[北千住駅]]始発の'''「メトロホームウェイ」'''が1本運転され、新宿発を置き換えた(3本→2本)。
その後、2012年3月17日のダイヤ改正で、多摩線方面のホームウェイ・メトロホームウェイは平日のみの運行となり、さらに2016年3月26日のダイヤ改正で、多摩線内を運行する列車はすべて廃止された。
なお、唐木田発の上り列車が定期運行されたことは無い。また、線内では登場時点での急行と同じ停車駅であったが、2003年に急行が栗平駅に停車するようになっても登場当時のまま停車駅が変わらなかったため、定期列車で栗平駅を通過した最後の種別である。
==== 区間準急 ====
[[2004年]][[12月11日]]のダイヤ改正より従来の各駅停車の一部を置き換えて登場した種別で、多摩線内はすべての駅に停車し新宿駅まで運行された。平日は上り14本・下り13本、土曜・休日は上り17本・下り18本が運転されていた。8両編成での運転が基本だが、下り3本、上り1本は6両編成で運転された。2016年3月26日のダイヤ改正をもって廃止された。
==== 準急 ====
[[2014年]][[3月15日]]ダイヤ改正より、平日朝下り1本の新宿発の準急が設定され、多摩線内はすべての駅に停車した<ref name="路線図"/><ref name="20140315ダイヤ改正"/>。2018年3月17日ダイヤ改正で多摩線での運転は廃止された<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。
==== 多摩急行 ====
{{Main|多摩急行}}
2002年3月23日のダイヤ改正より運行を開始した種別である。唐木田駅から小田原線を経由して、東京メトロ千代田線に直通し、千代田線綾瀬駅発着とJR東日本[[常磐線]]松戸駅・柏駅・我孫子駅発着及び取手発の列車があった。多摩線内の停車駅は急行と同一であったが、小田原線内の通過駅は異なり、向ヶ丘遊園駅を通過し、経堂駅に停車していた。
2016年3月26日のダイヤ改正で、[[向ヶ丘遊園駅]]停車のため急行の運転に変更された影響で日中時間帯の設定が無くなり、これ以外の時間帯に限られた。このため大幅に本数が減り、平日は下り17本・上り12本、土休日は下り12本・上り10本となった。
2016年3月26日のダイヤ改正までは日中は唯一の速達列車であり、平日は上り26本・下り32本、土曜・休日は上り24本・下り26本が運転されていた。平日の朝ラッシュ時の上りは運転せず、急行を運転していた。
2018年3月17日のダイヤ改正で廃止された<ref name="odakyu20171101" /><ref name="odakyu20171215" />。
[[ファイル:Infomation board Tama-Express for Shinjuku.jpg|ダイヤが乱れた際、多摩急行は新宿駅行きとなる場合があった。|thumb|none|220px]]
=== 臨時列車 ===
==== 特急ロマンスカー ====
'''江の島・鎌倉エクスプレス'''
* [[1990年]][[4月]] - [[5月]]、唐木田駅 - [[片瀬江ノ島駅]]間で運行。
'''湘南マリンエクスプレス'''
* 1990年[[7月]] - [[8月]]、唐木田駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行。
'''湘南マリン'''
* [[2008年]]7月 - 8月、唐木田駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行。車両は[[小田急60000形電車|60000形MSE]](7月25日のみ[[小田急20000形電車|20000形RSE]])使用。
'''多摩大山もみじ号'''
* [[2014年]]11月29日 - 11月30日、唐木田駅 - [[小田原駅]]間で運行。車両は60000形MSEを使用。
==== 千代田線直通臨時列車 ====
'''初詣&初日の出号'''
* 毎年12月31日、唐木田駅→千代田線綾瀬駅間で運行される。停車駅は、多摩急行と同じ。
'''ドラゴン号'''
* 2002年 - 2004年の[[東京湾大華火祭]]の開催に合わせ、唐木田駅→[[東京メトロ有楽町線]][[新木場駅]]間で運行された。
== 車両 ==
=== 自社車両 ===
==== 通勤型 ====
* 地下鉄非直通列車
** [[小田急1000形電車|1000形]]
** [[小田急2000形電車|2000形]]
** [[小田急3000形電車 (2代)|3000形]]
** [[小田急5000形電車 (2代)|5000形]]
** [[小田急8000形電車|8000形]]
* 地下鉄直通列車
** [[小田急4000形電車 (2代)|4000形]] - 2007年運転開始。地下鉄非直通列車でも運用される。
=== 過去の自社車両 ===
{{See also|小田急電鉄#除籍車両}}
==== 特急型 ====
* [[小田急30000形電車|30000形「EXE」・「EXEα」]]
* [[小田急50000形電車|50000形「VSE」]]
* [[小田急60000形電車|60000形「MSE」]]
* [[小田急70000形電車|70000形「GSE」]]
定期的な乗り入れはない。
=== 過去の乗り入れ車両 ===
全て通勤型である。2018年3月16日をもって多摩線への乗り入れは終了した。
==== 東京地下鉄 ====
* [[東京メトロ16000系電車|16000系]] - 2010年 - 2018年
* [[営団06系電車|06系]] - 2002年3月23日 - 2015年
* [[営団6000系電車|6000系]] - 2002年3月23日 - 2017年
==== 東日本旅客鉄道 ====
* [[JR東日本E233系電車#2000番台|E233系2000番台]] - 2016年 - 2018年
== 女性専用車 ==
[[日本の女性専用車両|女性専用車]]は、平日朝7:30 - 9:30に新宿駅に到着する上り通勤急行・急行の進行方向最後尾1号車に設定されている。
== 駅一覧 ==
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は、2014年1月より順次導入<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf 小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します!]}} - 小田急電鉄、2013年12月24日</ref>。
* 各駅停車は各駅に停車するため省略。
; 凡例
:* 停車駅 - ●:停車、|:通過、↑:上り方向通過(通勤急行のみ)
:* [[待避駅|待避設備]] - ◇:あり、空欄:なし
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:3px solid #2288CC;" rowspan="2"|駅番号
!style="width:10em; border-bottom:3px solid #2288CC;" rowspan="2"|駅名
!style="width:3.5em; border-bottom:3px solid #2288CC;" rowspan="2"|改札鋏<br><ref>* {{Cite book|和書|author= 生方良雄|authorlink=生方良雄|coauthors = |year = 2009|title = 小田急の駅 今昔・昭和の面影|publisher = JTBパブリッシング|ref = 生方2009|id = |isbn = 9784533075629}}に掲載の改札鋏と照合。</ref>
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #2288CC;" rowspan="2"|駅間<br />キロ
!colspan="2"|累計キロ
!style="width:1em; background:#fcc; border-bottom:3px solid #2288CC;" rowspan="2"|{{縦書き|急行|height=3em}}
!style="width:1em; background:#faf; border-bottom:3px solid #2288CC;" rowspan="2"|{{縦書き|通勤急行|height=5em}}
!style="width:1em; background:#fdb; border-bottom:3px solid #2288CC;" rowspan="2"|{{縦書き|快速急行|height=5em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #2288CC;"|接続路線
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #2288CC;"|{{縦書き|待避設備|height=5em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #2288CC;"|所在地
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:3px solid #2288CC; font-size:85%"|新百合ヶ丘<br/>から
!style="width:3em; border-bottom:3px solid #2288CC; font-size:85%"|新宿<br>から
|-
!OH23
|[[新百合ヶ丘駅]]
|style="text-align:center;"|[[File:Signs of Ticket puncher Odakyu Shin-Yurigaoka.jpg|25px]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|21.5
|style="text-align:center; background:#fcc"|●
|style="text-align:center; background:#faf"|●
|style="text-align:center; background:#fdb"|●
|[[小田急電鉄]]:[[File:Odakyu odawara.svg|18px|OH]] [[小田急小田原線|小田原線]]([[新宿駅]]まで直通運転)
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="5" style="white-space:nowrap;"|[[神奈川県]]<br>[[川崎市]]<br>[[麻生区]]
|-
!OT01
|[[五月台駅]]
|style="text-align:center;"|[[File:Signs of Ticket puncher Odakyu Satsukidai.jpg|25px]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|23.0
|style="text-align:center; background:#fcc"||
|style="text-align:center; background:#faf"|↑
|style="text-align:center; background:#fdb"||
|
|
|-
!OT02
|[[栗平駅]]
|style="text-align:center;"|[[File:Signs of Ticket puncher Odakyu Kurihira.jpg|25px]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|24.3
|style="text-align:center; background:#fcc"|●
|style="text-align:center; background:#faf"|●
|style="text-align:center; background:#fdb"|●
|
|
|-
!OT03
|[[黒川駅 (神奈川県)|黒川駅]]
|style="text-align:center;"|[[File:Signs of Ticket puncher Odakyu Kurokawa.jpg|25px]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|25.6
|style="text-align:center; background:#fcc"||
|style="text-align:center; background:#faf"|↑
|style="text-align:center; background:#fdb"||
|
|
|-
!OT04
|[[はるひ野駅]]
|style="text-align:center;"|[[File:Signs of Ticket puncher Odakyu Haruhino.jpg|25px]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:right;"|26.4
|style="text-align:center; background:#fcc"||
|style="text-align:center; background:#faf"|↑
|style="text-align:center; background:#fdb"||
|
|
|-
!OT05
|[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]
|style="text-align:center;"|[[File:Signs of Ticket puncher Odakyu Nagayama.jpg|25px]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|6.8
|style="text-align:right;"|28.3
|style="text-align:center; background:#fcc"|●
|style="text-align:center; background:#faf"|●
|style="text-align:center; background:#fdb"|●
|[[京王電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王相模原線|相模原線]]([[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]:KO40)
|
|rowspan="3"|[[東京都]]<br>[[多摩市]]
|-
!OT06
|[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]
|style="text-align:center;"|[[File:Signs of Ticket puncher Odakyu Tama Center.jpg|25px]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|9.1
|style="text-align:right;"|30.6
|style="text-align:center; background:#fcc"|●
|style="text-align:center; background:#faf"|●
|style="text-align:center; background:#fdb"|●
|京王電鉄:[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] 相模原線([[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]:KO41)<br/>[[多摩都市モノレール]]:[[File:Tama Monorail Line symbol.svg|18px|TT]] [[多摩都市モノレール線]]([[多摩センター駅]]:TT01)
|style="text-align:center;"|
|-
!OT07
|[[唐木田駅]]
|style="text-align:center;"|[[File:Signs of Ticket puncher Odakyu Karakida.jpg|25px]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|10.6
|style="text-align:right;"|32.1
|style="text-align:center; background:#fcc"|●
|style="text-align:center; background:#faf"|●
|style="text-align:center; background:#fdb"|●
|
|
|}
== 多摩線沿線の土地区画整理事業一覧 ==
川崎市土地区画整理事業完了地区概要<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kawasaki.jp/500/page/0000002530.html|title=川崎市土地区画整理事業完了地区概要|publisher=川崎市|accessdate=2017-02-01}}</ref> による。多摩ニュータウンにおける土地区画整理事業は「[[多摩ニュータウン#施行事業一覧]]」を参照のこと。
; 柿生第二土地区画整理事業
: 施行者:柿生第二土地区画整理組合
: 施行面積:約32.8ha
: 事業期間:1971年 - 1976年度
: 総事業費:2,890,000千円
: 合算減歩率:40.2%
: 公共減歩率:18.5%
; 栗木第一土地区画整理事業
: 施行者:栗木第一土地区画整理組合
: 施行面積:約63.8ha
: 事業期間:1972年 - 1982年度
: 総事業費:8,790,605千円
: 合算減歩率:46.5%
: 公共減歩率:19.4%
; 黒川第一土地区画整理事業
: 施行者:黒川第一土地区画整理組合
: 施行面積:約9.4ha
: 事業期間:1974年 - 1979年度
: 総事業費:1,584,500千円
: 合算減歩率:50.1%
: 公共減歩率:26.5%
; 川崎都市計画新百合丘駅周辺特定土地区画整理事業
: 施行者:新百合丘駅周辺特定土地区画整理組合
: 施行面積:約46.4ha
: 事業期間:1977年 - 1984年度
: 総事業費:13,610,065千円
: 合算減歩率:38.2%
: 公共減歩率:24.1%
; 柿生第一土地区画整理事業
: 施行者:柿生第一土地区画整理組合
: 施行面積:約45.7ha
: 事業期間:1977年 - 1982年度
: 総事業費:8,616,163千円
: 合算減歩率:49.1%
: 公共減歩率:25.0%
; 栗木第二土地区画整理事業
: 施行者:栗木第二土地区画整理組合
: 施行面積:約44.2ha
: 事業期間:1986年 - 2001年度
: 総事業費:22,690,000千円
: 合算減歩率:41.0%
: 公共減歩率:15.1%
; 黒川特定土地区画整理事業
: 施行者:UR都市機構
: 施行面積:約80.5ha
: 事業期間:1991年 - 2010年度(換地処分公告は2006年3月12日)
: 総事業費:42,162,503千円
: 合算減歩率:52.9%
: 公共減歩率:31.5%
== その他 ==
=== 相模原延伸計画 ===
{{File clip| KoutsuSeisakuShigikai198 Tokyo.png | width= 300 | 55 | 70 | 34 | 18 | w= 3937 | h= 3325 |<20>が[[交通政策審議会答申第198号]]で示された小田急多摩線延伸部(唐木田駅 - 上溝駅)である。<12>は同答申で示された多摩モノレール延伸部であり、小田急多摩線延伸部ではない。}}
唐木田から[[横浜線]]・[[相模線]]方面への延伸が、2000年の[[運輸政策審議会答申第18号]](現・交通政策審議会)で今後整備を検討すべき路線として位置づけられている<ref name="2000tousin18">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/kisha/oldmot/kisha00/koho00/tosin/kotumo/images/kotumo.pdf 平成12年運輸政策審議会答申第18号 答申路線]}}</ref>。[[2006年]][[5月]]に[[神奈川県]][[相模原市]]にある[[在日米軍]][[相模総合補給廠]]の一部返還が決まったことにより、相模原市と町田市は延伸の実現に向けた具体的な検討を行うため、同年[[11月]]に「小田急多摩線延伸検討会」を設置した<ref name="enshinhoukoku">{{PDFlink|[http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/842/houkoku.pdf 小田急多摩線延伸計画に関する研究会 報告書]}}</ref>。そして[[2014年]][[5月26日]]、両市は多摩線延伸推進に関する覚書を取り交わし、[[中央新幹線]]開業が予定される[[2027年]]までの実現を目指すとした<ref name="response20140527">[http://response.jp/article/2014/05/27/224080.html 町田・相模原両市長、小田急多摩線延伸で覚書締結] - レスポンス、2014年5月27日</ref>。
2014年5月に「小田急多摩線延伸計画に関する研究会」から発表されたルートは次のとおりである<ref name="enshinhoukoku"/>。唐木田駅から[[東京都道158号小山乞田線]](尾根幹線道路)と交差し、町田市に入る。そして小山田・常盤地区を抜け、[[東京都道47号八王子町田線]](町田街道)と交差、相模総合補給廠(ルート上は返還される予定)を縦断し、[[相模原駅]]で横浜線と交差、その先は相模原市の中心部を抜け、相模線[[上溝駅]]へ向かう。そのうち、相模原駅と上溝駅に駅を増設、さらに町田市内に新駅が一つ設置されることになっており、費用などの観点から小山田地区への設置が想定されている。この計画では事業費用を1,080億円と試算しており、開業後40年以内で黒字化できるとしている。
しかし、[[2019年]]5月に開催された「小田急多摩線延伸に関する関係者会議」では、[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]が国と地方自治体から整備費の3分の2の補助を受けて路線を整備し、小田急は使用料を払って路線を借りて列車を運行する都市鉄道利便増進事業制度の採用を前提に、概算建設費が1,300億円、黒字化の達成は42年と試算されたことが公表された<ref name="norimono190625">{{Cite web|和書|date=2019-06-25 |url=https://trafficnews.jp/post/87285 |title=小田急多摩線の延伸構想が加速、まず相模原へ リニア新幹線開業も影響する? |publisher=乗りものニュース |accessdate=2021-09-09}}</ref>。これでは都市鉄道利便増進事業制度を適用できる目安である30年を越えてしまうため、第1期整備区間として相模原駅まで部分開業して、概算建設費を870億円に抑え黒字化の達成を26年に短縮してから、第2期整備区間として上溝駅まで開業するよう変更された<ref name="enshinkankeisya">{{PDFlink|[https://www.city.machida.tokyo.jp/kurashi/sumai/kotsu/tetsukido/enshinkeikaku/201905281200.files/odakyu_enshin_matome.pdf 小田急多摩線延伸に関する関係者会議 調査のまとめ]}}</ref><ref name="kanaloco20190529">{{Cite web|和書|date=2019-05-29 |url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-170854.html |title=小田急多摩線延伸、相模原駅まで先行整備 相模原市長方針 |publisher=[[神奈川新聞|カナロコ]] |accessdate=2019-06-02}}</ref>。
相模原市・[[厚木市]]・[[愛川町]]・[[清川村]]からは、さらに愛川町・厚木市を経由して[[本厚木駅]]に至る路線の建設も要望されている<ref>{{PDFlink|[http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/842/torikumijyoukyou_houkoku.pdf 小田急多摩線の愛川・厚木方面への延伸に向けて取り組んでいます (「小田急多摩線の延伸促進に関する連絡会」の取組状況報告)]}}</ref>。神奈川県鉄道輸送力増強促進会議でも2016年度小田急電鉄向け要望書にて上溝駅方面への延伸の早期実現化とともに、本厚木駅に至る路線の建設を要望している<ref name="2016kanagawa">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/882706.pdf 神奈川県鉄道輸送力増強促進会議 平成28年度 要望・回答 小田急電鉄]}}</ref> が、小田急は現在唐木田駅以遠への延伸は建設費や採算面などで難色を示している<ref name="2016kanagawa" />。
==== 年表 ====
* 2000年(平成12年)1月 - [[運輸政策審議会答申第18号]]において、「唐木田駅から横浜線・相模線方面への延伸について、今後整備について検討すべき路線」に位置づけ
* 2005年(平成17年)8月 - [[都市鉄道等利便増進法]]の施行
* 2006年(平成18年)5月 - 在日米軍再編協議において[[相模総合補給廠]]の一部返還が基本合意
* 2006年(平成18年)11月 - 「小田急多摩線延伸検討会」発足
* 2008年(平成20年)6月 - 日米合同委員会において相模総合補給廠の一部返還が正式合意
* 2012年(平成24年)7月 - 「小田急多摩線延伸計画に関する研究会」発足
* 2014年(平成26年)5月 - 「小田急多摩線延伸計画に関する研究会」報告書の公表、小田急多摩線延伸の推進に関する覚書の締結(町田市、相模原市)
* 2014年(平成26年)9月 - 相模総合補給廠の一部が国へ返還
* 2016年(平成28年)4月 - [[交通政策審議会答申第198号]]において、「地域の成長に応じた鉄道ネットワークの充実に資するプロジェクト」の一つに位置づけ
* 2016年(平成28年)8月 - 「小田急多摩線延伸に関する関係者会議」発足
* 2019年(令和元年)5月 - 「小田急多摩線延伸に関する関係者会議」報告書の公表
=== 川崎縦貫高速鉄道との直通運転計画 ===
{{See also|川崎縦貫高速鉄道}}
運輸政策審議会答申第18号にて「目標年次(2015年)までに開業することが適当である路線」(A1) に位置付けられた<ref name="2000tousin18" />[[川崎縦貫高速鉄道]](川崎市営地下鉄、2018年計画廃止)が、新百合ヶ丘から乗り入れし、相互直通運転するという計画が川崎市から提示されたことがある。実現後は、[[川崎市]]の広域拠点都市と位置付けられている[[武蔵小杉駅]]や、[[宮前区]]にもダイレクトにアクセスすることが可能となるため、[[かわさきマイコンシティ]]などを有する沿線市域の一体化および発展に重要な役割を果たす構想であった。一方、直通運転にあたって川崎市側は車庫を保有せず、喜多見検車区唐木田出張所の利用を前提としていたが、これらを含めた計画に対しての小田急側との合意は行われていなかった<ref>{{PDFlink|[http://www.city.kawasaki.jp/500/cmsfiles/contents/0000023/23644/03gijiroku.pdf 第3回新技術による川崎縦貫鉄道整備推進検討委員会議事録]}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="路線図">{{Cite web|和書|url=http://www.odakyu.jp/station/doc/railmap.pdf|title=小田急停車駅案内|publisher=小田急電鉄|accessdate=2014-03-15}}</ref>
<ref name="20140315ダイヤ改正">{{Cite web|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8051_6733761_.pdf|title=平日朝・土休日深夜を中心に輸送サービスを向上します 2014年3月15日(土)小田急線ダイヤ改正実施|publisher=小田急電鉄|accessdate=2014-03-15}}</ref>
<ref name="navitime">{{Cite |title=小田急電鉄とナビタイムジャパンが連携、新ダイヤ対応の乗換案内特設サイトを提供開始 |publisher=ナビタイム |date=2018-2-5 |url=http://corporate.navitime.co.jp/topics/pr/201802/05_4348.html}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* 交通協力会『交通技術』1969年7月号ニュータウンと鉄道建設計画「小田急・多摩線の概要」(山田 敬司・小田急電鉄株式会社・建設課長)
* [[日本地下鉄協会]]『SUBWAY』1989年7月号現場から2「小田急多摩線延伸工事(小田急多摩センター - 唐木田間) 」(小田急電鉄株式会社 多摩線工事事務所 所長 橋間 千晴)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Odakyū Tama Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[日本の鉄道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.odakyu.jp/station/ 駅・時刻表のご案内|小田急電鉄]
{{小田急電鉄の路線}}
{{デフォルトソート:おたきゆうたません}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|たません]]
[[Category:小田急電鉄の鉄道路線|たません]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:多摩ニュータウン]] | 2003-05-23T13:51:34Z | 2023-12-04T06:25:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E6%80%A5%E5%A4%9A%E6%91%A9%E7%B7%9A |
9,163 | スカンジナビア (客船) | 北緯33度27分 東経135度43分 / 北緯33.450度 東経135.717度 / 33.450; 135.717座標: 北緯33度27分 東経135度43分 / 北緯33.450度 東経135.717度 / 33.450; 135.717
スカンジナビアは、1927年建造のヨット型クルーズ客船。
クルーズ客船「ステラ・ポラリス」として運用された後、コクド(現:西武ホールディングス)傘下の伊豆箱根鉄道が所有・管理し、係留地の静岡県沼津市西浦でホテル兼レストラン「フローティングホテル・スカンジナビア」として利用された。
この船を発注した船会社「ベルゲン蒸気船会社」(BDS=ノルウェー語: Det Bergenske Dampskibsselskab)は「ステラ・ポラリス」と名付けた。同社の伝統に従い、天文現象や夜空の天体の名前を新造船に付けており、「ステラポラリス」とはラテン語でこぐま座の北極星を指す。
受注したウェーデンのイェータヴェルケン造船所にとって400隻目であり、購入価格469万2511ノルウェー・クローネが支払われると1926年9月11日に進水、翌年2月に引き渡された。全長127m(バウスプリットを含む) 、乗客定員は200名でコールサインはLGCF/LCYZである。
航海で世界を巡った本船は会社で一番人気の船になり、クルーズ船として世界一の知名度を得た。第二次世界大戦中は占領したドイツ軍に徴用され、ドイツ兵の洋上宿舎に転用されている。1951年にはスウェーデンの海運企業「クリッパーライン」に売却されたがクルーズ界で1969年まで稼働、日本に売却されるとホテルとレストラン用の施設として係留される。2006年8月に中国に向けて曳航され、日本の領海で沈没した。
第一次世界大戦中に被った破壊と損失を補うため、海上輸送は大規模な業界再建を見る。戦後、世界には好景気が訪れたがノルウェーは不況に見舞われ、為替を1914年以前の金本位制に戻そうと動いて1928年に実現する。1920年代後半には世界中の海を大型船が航行し、海運業は急速に成長した。貨物船が最も多かったが、先進国の繁栄によりクルーズ市場がわき、他の海運会社も投資を始めた。
その中にノルウェーの海運会社ベルゲン蒸気船会社(諾: Det Bergenske Dampskibsselskab)も含まれており、すでに所有の蒸気機関ヨット(DY)「メテオール 」(ノルウェー語)で成功を収めていた同社は1925年8月、旅客専用の豪華な新型客船を設計させた。外観は僚船メテオールから発想を得たものの、新しい船体は蒸気機関ではなくディーゼル機関を2基積んだ。造船業者が応札し、イェータヴェルケン社は落札こそしたものの、それまで客船も、ましてや豪華客船などの建造実績はなかった。したがって家具の多くは設計から納品まで下請け業者に発注し、たとえばSelander & Sons(セランダー&サンズ)社は内装も外装も木工品は全て任されている。
1926年11月、スウェーデン南西部のヨーテボリ造船所にて建造、翌1927年2月23日にステラ・ポラリス(M/S Stella Polaris、北極星の意)として進水した(発注主:ベルゲンライン社(ノルウェー))。2月26日に出航した処女航海の目的地はロンドンであった。
優雅な姿から「七つの海の白い女王」と呼ばれ、富裕層を対象にしたクルーズ事業向け客船として世界中を航海した。
本船は処女航海の旅程からティルベリー(英語版)まで走ると物資と乗客数名を乗せ、リスボン(ポルトガル)を経由して地中海を航行している。その後、春と秋には地中海やカナリア諸島などの暖かい地域を訪れ、冬の間は世界一周にあててニューヨークを出発点に選ぶのが常だった。夏はノルウェー沿岸からスバールヴァル諸島、バルト海など北の海域で過ごしている。クルーズの乗客定員は200名前後、世界一周を楽しむ乗客はその半分ほどであった。1937年6月12日の夜、本船ステラ・ポラリスはスタ(英語版)北方の海域でノルウェーの貨物船DS「ノーベル」と衝突事故を起こす。後者の船は積荷にダイナマイトと弾薬が含まれていたが、爆発しないまま沈没した。本船は船首に軽い損傷を受け、折れたバウスプリットを補修している。クルーズ運航を続けた本船は、1939年9月にオスロに帰着すると第二次世界大戦を母港の係留地で迎えた。1940年4月9日(現地時間)、ノルウェーはドイツ軍の攻撃を受ける(ヴェーザー演習作戦)。船会社は本船の係留地をベルゲン近くのオスターフィヨルドへ移動すると決定した。
1940年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツによるノルウェー侵略により、ドイツ軍に接収された。しかし戦時下でも戦災には巻き込まれず(Uボート乗組員の憂さ晴らしに荒らされた事はあったが)、終戦の1945年に元の所有者であるベルゲンライン社(ノルウェー)に返還される。
1946年、ドイツ軍による接収の間の船体の整備は必ずしも良好でなく、また調度品などにもダメージを受けていたので、故郷であるヨーテボリに回航され、大規模な修復が施された。この時、ブリッジの密閉化などの近代化改修もあわせて行われた。
1947年、修復と改修を終えたステラ・ポラリスは、第二次世界大戦後の混乱が続く中ではあったが、いち早くクルーズ船としての営業を開始した。
1959年、スウェーデンのクリッパーライン社に売却された。この時は近代化をあえて行わず、むしろベルゲンライン時代の良さを残す形で修復が行われた。
SOLAS条約とは「1914年の海上における人命の安全のための国際条約」の通称である。1912年の『タイタニック号』事故を機に1929年に締結され、数々の改定を経て今日でも国際的な海難防止の礎を築いている。
1974年の改正は、ステラ・ポラリスにとっては、大規模な改修か就航終了かを迫る厳しい宣告となった。施行までの猶予期間は設けられたものの、これを機にステラ・ポラリスの豪華客船としての歴史を終えることになる。
1969年、就航40年以上を経過したステラ・ポラリスの処置についてクリッパーライン社は、クルーズ客船としての維持修復に多額の投資を続けるより売却を選択した。当時の日本が高度経済成長を迎えるなか、積極的にリゾート開発を行っていたコクドに沿って、傘下企業の伊豆箱根鉄道が沿線リゾート開発目的での買収によるホテルシップ構想を表明、5億円で売却されることになった。なお、契約条項に「ステラ・ポラリスの継続使用は認めない」という内容が含まれていたため、名称を「フローティングホテル・スカンジナビア」に変更し、静岡県沼津市西浦木負767番地沖に投錨、1970年7月25日に営業を開始した。
コクドは当初、スカンジナビアを中心に水族館などを併設した総合レジャー施設(今日で言うテーマパーク)を建設する構想があったが頓挫した。既に長井崎を挟み2kmほど離れて存在する三津天然水族館(現在の伊豆・三津シーパラダイス)とは遊覧船で結ばれてはいたものの、観光地としての連続性に欠けるものとなり、その価値はやや低下することとなったが、グループ企業にプリンスホテルを持つ強みを生かしたホテルのサービスノウハウや、レストラン部門の充実により数多くの利用客に親しまれ、リゾート地としての人気を長年にわたり維持していた。
こうした評価と実績については、富士山を背景にしたスカンジナビア号の気品ある景観の美しさが評判を呼び、ホテルとしての付加価値・魅力にも繋がった事を挙げなければならない(ピークの1990年度には、船内のレストランだけで年間約6万人が利用し、約10億3000万円の売り上げを記録した)。
1999年、バブル景気終了後の消費低迷やリゾート不況の影響で、人員削減をはじめとしたリストラなどの経費節減を実施していたが、客室稼働率が著しく低下していたホテル部門の営業終了を発表し、ホテル主体の事業からレストラン専業に業態を変更した。
2005年、コクド会長・堤義明の証券取引法違反事件に端を発した西武グループの事業再編が始まり、スカンジナビアも事業見直しの対象となった。このさい、建造後70年以上経過し老朽化の激しい船体の維持管理に掛かる莫大なコストなどに伴う不採算事業として、レストラン部門の閉鎖および船体の売却方針がマスコミに発表された。地域住民の有志から「海洋文化財としてこのまま地元に残すべき」などといった声が多く集まり、シンポジウム開催や保存を要望する署名を所有者の伊豆箱根鉄道へ持参しての陳情など、保存運動が行われたが、2005年3月31日、レストラン営業を終了した。
2005年、海洋クルーズ運航事業を行うランティー社(BVI、イギリス領ヴァージン諸島)との間に売買交渉が持たれ、同年7月中には修理のために日本を離れて上海に向かうとの報道があったが、翌2006年になっても曳航準備の動きなく、売買交渉が難航していると報道された。なお、最終的にこの売買交渉は成立しなかった。
ランティー社との売買交渉が不成立となったあと、ペトロ・ファースト社(スウェーデン)へ売却が決まった。2006年8月31日、伊豆箱根鉄道社長や沼津市長らが参加して出航式が行われ、曳航される形で沼津を出航した。この後、9月7日上海に寄港し改修ののち、スウェーデンで再びホテル兼レストランとして営業する予定だったが、曳航中の9月1日21時頃に船体が左傾しはじめ、同23時30分頃に状態確認のため串本町潮岬西側の入江に退避した。しかし傾斜はおさまらず徐々に浸水し、船体が沈み始めた。2日午前1時30分頃に再び沖合に向かったが、傾斜および浸水の状況が改善することなく同午前2時頃、和歌山県潮岬沖約3kmの海底72mに沈没した。船内には木製のレリーフや美しいガラス彫刻などの美術品も残っていたが、それらも船と運命を共にしてしまった。西武鉄道グループの事業再編に端を発したスカンジナビア売却は、第二の活躍の地であった日本に36年係留された後、再び建造国のスウェーデンへ戻ることなく太平洋の海底で79年の船史を終えることとなった。
沈没の原因は老朽化によるものであった。
ステラ・ポラリスの設計コンセプトは19世紀の快速船クリッパーの優雅な外観をなぞっており、ベルゲンラインの設計部長クヌード・ツィンマー(Knud Zimmer)の発想に基づき、船首にバウスプリットを備えマストを傾斜させ、煙突は黄色に船尾は白に塗装してあった。
世界のクルーズ専用船のごく初めの例であるばかりか、最初からクルーズ運航のみに用いた船の1つでもある。1950年代まで、客船は繁忙期に定期旅客航路を走り、閑散期にはクルーズ運航を割り振った。これらの船舶と比べると本船ステラ・ポラリスの外観はまるで王族専用のヨットのようであった。また外観に負けず劣らず内装も優雅で、貴重な木材を用材に注文家具はスウェーデンの家具職人が手がけ、また大食堂の天井には星座を構成する150個のランプに異なる彩色を施した。最も豪華な客室は4室、それぞれマホガニー、サクラ、ナシ、カバで装飾した。インテリア装飾にはガラス作品を採用、主な作家はノルウェーの芸術家 Ståle Kyllingstadなどで、木工象嵌の1種(英語版)などの装飾が見られた。
世界一周クルーズにはバルコニーのある外側の船室のみ用いて、内廊下に面した客室は乗客のウォークイン・クローゼットに充てた。そのため乗客の定員は100名ほどと満室の半分、それに対する乗務員は130名前後を配し、真のファーストクラスのサービスでもてなした。典型的な旅程は通常1月にニューヨークを出るとキューバを訪問してからパナマ運河を通過した。太平洋を渡りオーストラリア信託統治領ニューギニア(英語)、フィリピン、インドネシア、シンガポールに立ち寄ってからスリランカとインドに向かった。喜望峰を回り北上してフリータウン(シエラレオネ)、ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア、カサブランカとタンジェ(モロッコ)、ジブラルタル(イベリア半島)を目指し、イギリスのハーウィッチ(英語版)で旅客を下ろした。
本船は当時の客船に比べれば控えめな大きさであり、同じ1927年に建造された客船 MS「アウグスタス」(イタリア船籍)は全長92 m、総トン数で6倍以上も大きく、乗客定員は11倍である 。現代の例えばロイヤル・カリビアン・インターナショナルの運航する新しい船「オアシス・オブ・ザ・シーズ」(2009年秋竣工)と比べると全長ほぼ3分の1、総トン数で大きさは2.4%(42分の1)、乗客定員は3.7%(27分の1)に過ぎない。
映像作品のロケ地に使用。
発想の元となった作品。
1969年から2006年まで。
田辺海上保安部発表による。 | [
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"text": "本船は処女航海の旅程からティルベリー(英語版)まで走ると物資と乗客数名を乗せ、リスボン(ポルトガル)を経由して地中海を航行している。その後、春と秋には地中海やカナリア諸島などの暖かい地域を訪れ、冬の間は世界一周にあててニューヨークを出発点に選ぶのが常だった。夏はノルウェー沿岸からスバールヴァル諸島、バルト海など北の海域で過ごしている。クルーズの乗客定員は200名前後、世界一周を楽しむ乗客はその半分ほどであった。1937年6月12日の夜、本船ステラ・ポラリスはスタ(英語版)北方の海域でノルウェーの貨物船DS「ノーベル」と衝突事故を起こす。後者の船は積荷にダイナマイトと弾薬が含まれていたが、爆発しないまま沈没した。本船は船首に軽い損傷を受け、折れたバウスプリットを補修している。クルーズ運航を続けた本船は、1939年9月にオスロに帰着すると第二次世界大戦を母港の係留地で迎えた。1940年4月9日(現地時間)、ノルウェーはドイツ軍の攻撃を受ける(ヴェーザー演習作戦)。船会社は本船の係留地をベルゲン近くのオスターフィヨルドへ移動すると決定した。",
"title": "船歴"
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"text": "1940年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツによるノルウェー侵略により、ドイツ軍に接収された。しかし戦時下でも戦災には巻き込まれず(Uボート乗組員の憂さ晴らしに荒らされた事はあったが)、終戦の1945年に元の所有者であるベルゲンライン社(ノルウェー)に返還される。",
"title": "船歴"
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"text": "1946年、ドイツ軍による接収の間の船体の整備は必ずしも良好でなく、また調度品などにもダメージを受けていたので、故郷であるヨーテボリに回航され、大規模な修復が施された。この時、ブリッジの密閉化などの近代化改修もあわせて行われた。",
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"text": "1947年、修復と改修を終えたステラ・ポラリスは、第二次世界大戦後の混乱が続く中ではあったが、いち早くクルーズ船としての営業を開始した。",
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"text": "1959年、スウェーデンのクリッパーライン社に売却された。この時は近代化をあえて行わず、むしろベルゲンライン時代の良さを残す形で修復が行われた。",
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"text": "SOLAS条約とは「1914年の海上における人命の安全のための国際条約」の通称である。1912年の『タイタニック号』事故を機に1929年に締結され、数々の改定を経て今日でも国際的な海難防止の礎を築いている。",
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"text": "1974年の改正は、ステラ・ポラリスにとっては、大規模な改修か就航終了かを迫る厳しい宣告となった。施行までの猶予期間は設けられたものの、これを機にステラ・ポラリスの豪華客船としての歴史を終えることになる。",
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"text": "1969年、就航40年以上を経過したステラ・ポラリスの処置についてクリッパーライン社は、クルーズ客船としての維持修復に多額の投資を続けるより売却を選択した。当時の日本が高度経済成長を迎えるなか、積極的にリゾート開発を行っていたコクドに沿って、傘下企業の伊豆箱根鉄道が沿線リゾート開発目的での買収によるホテルシップ構想を表明、5億円で売却されることになった。なお、契約条項に「ステラ・ポラリスの継続使用は認めない」という内容が含まれていたため、名称を「フローティングホテル・スカンジナビア」に変更し、静岡県沼津市西浦木負767番地沖に投錨、1970年7月25日に営業を開始した。",
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"text": "コクドは当初、スカンジナビアを中心に水族館などを併設した総合レジャー施設(今日で言うテーマパーク)を建設する構想があったが頓挫した。既に長井崎を挟み2kmほど離れて存在する三津天然水族館(現在の伊豆・三津シーパラダイス)とは遊覧船で結ばれてはいたものの、観光地としての連続性に欠けるものとなり、その価値はやや低下することとなったが、グループ企業にプリンスホテルを持つ強みを生かしたホテルのサービスノウハウや、レストラン部門の充実により数多くの利用客に親しまれ、リゾート地としての人気を長年にわたり維持していた。",
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"text": "こうした評価と実績については、富士山を背景にしたスカンジナビア号の気品ある景観の美しさが評判を呼び、ホテルとしての付加価値・魅力にも繋がった事を挙げなければならない(ピークの1990年度には、船内のレストランだけで年間約6万人が利用し、約10億3000万円の売り上げを記録した)。",
"title": "船歴"
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"text": "1999年、バブル景気終了後の消費低迷やリゾート不況の影響で、人員削減をはじめとしたリストラなどの経費節減を実施していたが、客室稼働率が著しく低下していたホテル部門の営業終了を発表し、ホテル主体の事業からレストラン専業に業態を変更した。",
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"text": "2005年、コクド会長・堤義明の証券取引法違反事件に端を発した西武グループの事業再編が始まり、スカンジナビアも事業見直しの対象となった。このさい、建造後70年以上経過し老朽化の激しい船体の維持管理に掛かる莫大なコストなどに伴う不採算事業として、レストラン部門の閉鎖および船体の売却方針がマスコミに発表された。地域住民の有志から「海洋文化財としてこのまま地元に残すべき」などといった声が多く集まり、シンポジウム開催や保存を要望する署名を所有者の伊豆箱根鉄道へ持参しての陳情など、保存運動が行われたが、2005年3月31日、レストラン営業を終了した。",
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"text": "2005年、海洋クルーズ運航事業を行うランティー社(BVI、イギリス領ヴァージン諸島)との間に売買交渉が持たれ、同年7月中には修理のために日本を離れて上海に向かうとの報道があったが、翌2006年になっても曳航準備の動きなく、売買交渉が難航していると報道された。なお、最終的にこの売買交渉は成立しなかった。",
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"text": "ランティー社との売買交渉が不成立となったあと、ペトロ・ファースト社(スウェーデン)へ売却が決まった。2006年8月31日、伊豆箱根鉄道社長や沼津市長らが参加して出航式が行われ、曳航される形で沼津を出航した。この後、9月7日上海に寄港し改修ののち、スウェーデンで再びホテル兼レストランとして営業する予定だったが、曳航中の9月1日21時頃に船体が左傾しはじめ、同23時30分頃に状態確認のため串本町潮岬西側の入江に退避した。しかし傾斜はおさまらず徐々に浸水し、船体が沈み始めた。2日午前1時30分頃に再び沖合に向かったが、傾斜および浸水の状況が改善することなく同午前2時頃、和歌山県潮岬沖約3kmの海底72mに沈没した。船内には木製のレリーフや美しいガラス彫刻などの美術品も残っていたが、それらも船と運命を共にしてしまった。西武鉄道グループの事業再編に端を発したスカンジナビア売却は、第二の活躍の地であった日本に36年係留された後、再び建造国のスウェーデンへ戻ることなく太平洋の海底で79年の船史を終えることとなった。",
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"text": "沈没の原因は老朽化によるものであった。",
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"text": "ステラ・ポラリスの設計コンセプトは19世紀の快速船クリッパーの優雅な外観をなぞっており、ベルゲンラインの設計部長クヌード・ツィンマー(Knud Zimmer)の発想に基づき、船首にバウスプリットを備えマストを傾斜させ、煙突は黄色に船尾は白に塗装してあった。",
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"text": "世界のクルーズ専用船のごく初めの例であるばかりか、最初からクルーズ運航のみに用いた船の1つでもある。1950年代まで、客船は繁忙期に定期旅客航路を走り、閑散期にはクルーズ運航を割り振った。これらの船舶と比べると本船ステラ・ポラリスの外観はまるで王族専用のヨットのようであった。また外観に負けず劣らず内装も優雅で、貴重な木材を用材に注文家具はスウェーデンの家具職人が手がけ、また大食堂の天井には星座を構成する150個のランプに異なる彩色を施した。最も豪華な客室は4室、それぞれマホガニー、サクラ、ナシ、カバで装飾した。インテリア装飾にはガラス作品を採用、主な作家はノルウェーの芸術家 Ståle Kyllingstadなどで、木工象嵌の1種(英語版)などの装飾が見られた。",
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"text": "世界一周クルーズにはバルコニーのある外側の船室のみ用いて、内廊下に面した客室は乗客のウォークイン・クローゼットに充てた。そのため乗客の定員は100名ほどと満室の半分、それに対する乗務員は130名前後を配し、真のファーストクラスのサービスでもてなした。典型的な旅程は通常1月にニューヨークを出るとキューバを訪問してからパナマ運河を通過した。太平洋を渡りオーストラリア信託統治領ニューギニア(英語)、フィリピン、インドネシア、シンガポールに立ち寄ってからスリランカとインドに向かった。喜望峰を回り北上してフリータウン(シエラレオネ)、ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア、カサブランカとタンジェ(モロッコ)、ジブラルタル(イベリア半島)を目指し、イギリスのハーウィッチ(英語版)で旅客を下ろした。",
"title": "クルーズ船の女王"
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"text": "本船は当時の客船に比べれば控えめな大きさであり、同じ1927年に建造された客船 MS「アウグスタス」(イタリア船籍)は全長92 m、総トン数で6倍以上も大きく、乗客定員は11倍である 。現代の例えばロイヤル・カリビアン・インターナショナルの運航する新しい船「オアシス・オブ・ザ・シーズ」(2009年秋竣工)と比べると全長ほぼ3分の1、総トン数で大きさは2.4%(42分の1)、乗客定員は3.7%(27分の1)に過ぎない。",
"title": "クルーズ船の女王"
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"text": "映像作品のロケ地に使用。",
"title": "映像作品の言及"
},
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"text": "発想の元となった作品。",
"title": "映像作品の言及"
},
{
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"text": "1969年から2006年まで。",
"title": "位置情報"
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"text": "田辺海上保安部発表による。",
"title": "位置情報"
}
] | 北緯33度27分 東経135度43分 スカンジナビアは、1927年建造のヨット型クルーズ客船。 クルーズ客船「ステラ・ポラリス」として運用された後、コクド傘下の伊豆箱根鉄道が所有・管理し、係留地の静岡県沼津市西浦でホテル兼レストラン「フローティングホテル・スカンジナビア」として利用された。 | {{出典の明記|date=2023年8月}}
{{coord|33|27|N|135|43|E|display=inline,title}}
{{infobox 船
|名称= スカンジナビア<br />旧称ステラポラリス<br />{{lang-no|MY Stella Polaris}}
|画像= [[File:MY Stella Polaris fra SFFA.jpg|300px]]|画像説明= 進水当時の「ステラポラリス」と呼ばれれたころ(撮影者:Olaf Andreas Knutsen Storegjerde)<br />
[[画像:Skandinavia20060831.jpg|300px|曳航され海上を進むスカンジナビア号(2006年8月31日、観覧船から)]]
| 船種=
クルーズ客船<br />
洋上ホテル<br />
レストラン船
| 建造所= [[:no:Götaverken|イェータヴェルケン造船所]]{{no icon}}([[スウェーデン]]、[[イェーテボリ]])
<!-- | kjølstrekking = -->
|起工=[[1926年]][[11月]]
| 竣工= 1927年
|進水=[[1927年]][[2月23日]]
|処女航海=[[1927年]][[2月26日]]
| 運航者=
1927年–1951年:[[:d:Q1142652|ベルゲン蒸気船会社]](BDS={{lang-no|links=no|Det Bergenske Dampskibsselskab}})
1951年–1969年:クリッパー・ライン
| 船籍=
1927年–1943年:{{Flagcountry|NOR}} [[ベルゲン]]<br />
1943年–1945年:{{Flagcountry|DEU}}{{efn|[[ドイツの歴史#ナチス・ドイツ|ドイツの歴史 (1933年–1945年)]]を参照。}}<br />
1945年–1951年:{{Flagcountry|NOR}} ベルゲン<br />
1951年–1969年:{{Flagcountry|SWE}} [[マルメ]] Malmö<br />
1969年–2006年:{{Flagcountry|JPN}} [[沼津港]]
|その後=[[2006年]][[9月2日]]に沈没
|総トン数=5,105 [[トン]]
|全長=127.0 m<!-- |全長=127.1 m (360.5 [[フィート|ft]]) -->
|全幅=16.7 m<!-- 幅 15.5 m (50.5 ft) -->
|高さ=44.0 m(船底 - マストトップ)<br />ブリッジ高 17.0 m
|喫水=5.5m(船底 - 吃水)<!-- 5.2 m (17 ft) -->
| 信号符字= LGCF / LCYZ
|要目注記= クリッパーボウ<!-- skrog = Klipperbaug -->
<!-- | skrogmateriale = -->
| 速力= 17.5 [[ノット|kn]]
| 機関= ディーゼル機関2基、[[:en:Burmeister & Wain| バーマイスター・アンド・ウェイン (B&W)]]{{en icon}}製
| 出力= 5 250 [[馬力|hp]]
| 総登録トン数= 5 208 [[総登録トン数|GRT]]
| 載貨重量= 2 250 [[載貨重量トン数|DWT]]
| 排水量=
| 旅客定員= 200
| 車両搭載数= ≈
| 乗組員= 130
| comcat = MY «Stella Polaris»
| commons =
}}
'''スカンジナビア'''は、[[1927年]]建造のヨット型[[クルーズ客船]]。
クルーズ客船「ステラ・ポラリス」として運用された後、[[コクド]](現:[[西武ホールディングス]])傘下の[[伊豆箱根鉄道]]が所有・管理し、係留地の[[静岡県]][[沼津市]]西浦で[[ホテル]]兼[[レストラン]]「フローティングホテル・スカンジナビア」として利用された。
<!-- ノルウェー語版 [[:no:MY «Stella Polaris»]]から節単位で導入部、「Historie」配下の一部の中見出し<nowiki>=== 中見出し ===</nowiki>を転記してコメントアウト(「Bakgrunn」と「Under norsk flagg」)。原文特定版は 22393230 番、翻訳準備。[https://no.wikipedia.org/w/index.php?title=MY_%C2%ABStella_Polaris%C2%BB&oldid=22393230#Historie 2022-03-26T21:51:29(UTC)時点における Vasmar1 による版]。内部リンクに「:no:」、テンプレートに「tl:」。
{{tl:Infoboks skip}}-->
== 概要 ==
この船を発注した船会社「ベルゲン蒸気船会社」(BDS={{lang-no|Det Bergenske Dampskibsselskab|}})は「ステラ・ポラリス」と名付けた。同社の伝統に従い、天文現象や夜空の天体の名前を新造船に付けており、「ステラポラリス」とは[[ラテン語]]で[[こぐま座]]の[[北極星]]を指す。
受注したウェーデンのイェータヴェルケン造船所にとって400隻目であり、購入価格469万2511[[ノルウェー・クローネ]]が支払われると1926年9月11日に進水、翌年2月に引き渡された<ref>{{Cite web |title=M/S STELLA POLARIS (1927) |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221128041409/http://www.faktaomfartyg.se/stella_polaris_1927.htm |language=sv |url=http://www.faktaomfartyg.se/stella_polaris_1927.htm |archivedate=2022-11-28 |website=web.archive.org |publisher= |date=2022-11-28 |access-date=2023-08-13}}</ref>。全長127[[メートル|m]]([[バウスプリット]]を含む) 、乗客定員は200名でコールサインはLGCF/LCYZである。
航海で世界を巡った本船は会社で一番人気の船になり、クルーズ船として世界一の知名度を得た<ref>[http://www.snl.no/cruise Store norske leksikon – Cruise. (Se avsnittet historikk).] Besøkt 16. mars 2015</ref>。第二次世界大戦中は占領したドイツ軍に徴用され、ドイツ兵の洋上宿舎に転用されている。1951年にはスウェーデンの海運企業「クリッパーライン」に売却されたがクルーズ界で1969年まで稼働<ref>{{Cite web |title=CLIPPER LINE |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210924040423/http://www.kommandobryggan.se/clipper/clipper.htm|archivedate=2021-09-24 |url=http://www.kommandobryggan.se/clipper/clipper.htm |language=sv |website=web.archive.org |publisher=Kommandobryggan|date=2021-09-24 |access-date=2023-08-13}}</ref>、日本に売却されるとホテルとレストラン用の施設として係留される。2006年8月に中国に向けて曳航され、日本の領海で沈没した<ref>[https://www.sjohistorie.no/no/skip/27616/ Sjøhistorisk database – MY Stella Polaris] Besøkt 12. august 2017</ref>。
== 船歴 ==
=== 時代背景 ===
[[第一次世界大戦]]中に被った破壊と損失を補うため、海上輸送は大規模な業界再建を見る。戦後、世界には好景気が訪れたがノルウェーは不況に見舞われ、為替を1914年以前の[[金本位制]]に戻そうと動いて1928年に実現する{{Efn|1920年代にいくつかの国では「パルポリティック」({{lang-no|Paripolitikk}})という金融政策を推進し[1]、国の通貨の為替価値を1914年以前の価値し、いわゆる金平価(パリレート)、つまり金本位に戻すことを目指した[1]。それには高金利、デフレ、通貨供給量の削減が有効とされた[2]。ノルウェーの場合、中央銀行に当たるノルゲス銀行は1920年に金本位政策を求めると宣言しながら、本格的に着手するのは1925年に入ってからであった。ノルウェーの金本位制は1928年に再導入されて、ようやく為替レートが安定した。}}。1920年代後半には世界中の海を大型船が航行し、海運業は急速に成長した。貨物船が最も多かったが、先進国の繁栄によりクルーズ市場がわき、他の海運会社も投資を始めた。
その中にノルウェーの海運会社ベルゲン蒸気船会社({{Lang-no-short|Det Bergenske Dampskibsselskab}})も含まれており、すでに所有の蒸気機関ヨット(DY)「[[:no:DY "Meteor"|メテオール]] 」{{No icon}}で成功を収めていた同社は1925年8月、旅客専用の豪華な新型客船を設計させた。外観は僚船メテオールから発想を得たものの、新しい船体は蒸気機関ではなく[[:no:Dieselmotor|ディーゼル機関]]を2基積んだ。造船業者が応札し、イェータヴェルケン社は落札こそしたものの、それまで客船も、ましてや豪華客船などの建造実績はなかった。したがって[[家具]]の多くは設計から納品まで下請け業者に発注し、たとえばSelander & Sons(セランダー&サンズ)社は内装も外装も木工品は全て任されている。
=== 進水・処女航海<!-- === Under norsk flagg === --> ===
[[1926年]][[11月]]、[[スウェーデン]]南西部の[[ヨーテボリ]]造船所にて建造、翌[[1927年]][[2月23日]]にステラ・ポラリス(<span lang="sv">[[:sv:M/S Stella Polaris|M/S Stella Polaris]]</span>、[[北極星]]の意)として進水した(発注主:ベルゲンライン社([[ノルウェー]])){{Efn|同社の取締役で代議士の[[:d:Q32952|クリストファー・レームクール]]の娘リリー・レームクールが名付け親で「ステラ・ポラリス」と命名した。当初引き渡し日は1927年4月1日と計画され、それ以前の2月20日には準備が整い試験航海は成功、本船はすぐにベルゲン蒸気船会社に向けて出航することとなり、同月26日土曜、午前12時に母港に出発した。}}。[[2月26日]]に出航した処女航海の目的地は[[ロンドン]]であった。
優雅な姿から「[[スカンジナビア_(客船)#七つの海の白い女王|七つの海の白い女王]]」と呼ばれ、富裕層を対象にしたクルーズ事業向け客船として世界中を航海した。
本船は処女航海の旅程から{{仮リンク|ティルベリー|en|Tilbury}}まで走ると物資と乗客数名を乗せ、[[リスボン]]([[ポルトガル]])を経由して[[地中海]]を航行している。その後、春と秋には地中海や[[カナリア諸島]]などの暖かい地域を訪れ、冬の間は世界一周にあてて[[ニューヨーク]]を出発点に選ぶのが常だった。夏はノルウェー沿岸から[[スヴァールバル諸島|スバールヴァル諸島]]、[[バルト海]]など北の海域で過ごしている。クルーズの乗客定員は200名前後、世界一周を楽しむ乗客はその半分ほどであった。1937年6月12日の夜、本船ステラ・ポラリスは{{仮リンク|スタ|en|Stad,_Norway}}北方の海域でノルウェーの貨物船DS「ノーベル」と衝突事故を起こす。後者の船は積荷に[[ダイナマイト]]と[[弾薬]]が含まれていたが、爆発しないまま沈没した。本船は船首に軽い損傷を受け、折れた[[バウスプリット]]を補修している。クルーズ運航を続けた本船は、[[1939年]]9月にオスロに帰着すると[[第二次世界大戦]]を母港の係留地で迎えた。1940年4月9日(現地時間)、ノルウェーはドイツ軍の攻撃を受ける([[ヴェーザー演習作戦]])。船会社は本船の係留地をベルゲン近くのオスターフィヨルドへ移動すると決定した。
=== ドイツ軍による接収 ===
[[1940年]]、[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ナチス党]]政権下の[[ドイツ]]による[[北欧侵攻|ノルウェー侵略]]により、[[ドイツ軍]]に接収された。しかし戦時下でも戦災には巻き込まれず([[Uボート]]乗組員の憂さ晴らしに荒らされた事はあったが)、終戦の[[1945年]]に元の所有者であるベルゲンライン社(ノルウェー)に返還される。
=== 故郷に戻り修復 ===
[[1946年]]、ドイツ軍による接収の間の船体の整備は必ずしも良好でなく、また調度品などにもダメージを受けていたので、故郷であるヨーテボリに回航され、大規模な修復が施された。この時、ブリッジの密閉化などの近代化改修もあわせて行われた。
=== クルーズ船として復帰 ===
[[1947年]]、修復と改修を終えたステラ・ポラリスは、[[第二次世界大戦]]後の混乱が続く中ではあったが、いち早くクルーズ船としての営業を開始した。
=== 故郷スウェーデンの船籍に ===
[[1959年]]、スウェーデンのクリッパーライン社に売却された。この時は近代化をあえて行わず、むしろベルゲンライン時代の良さを残す形で修復が行われた。
=== SOLAS条約 ===
[[海上における人命の安全のための国際条約|<span lang="en" abbr="Safety of Life at Sea" title="Safety of Life at Sea">SOLAS</span>条約]]とは「[[海上における人命の安全のための国際条約|1914年の海上における人命の安全のための国際条約]]」の通称である。[[1912年]]の『[[タイタニック (客船)|タイタニック号]]』事故を機に[[1929年]]に締結され、数々の改定を経て今日でも国際的な海難防止の礎を築いている。
[[1974年]]の改正は、ステラ・ポラリスにとっては、大規模な改修か就航終了かを迫る厳しい宣告となった。施行までの猶予期間は設けられたものの、これを機にステラ・ポラリスの豪華客船としての歴史を終えることになる。
=== 日本への売却 ===
1969年、就航40年以上を経過したステラ・ポラリスの処置についてクリッパーライン社は、クルーズ客船としての維持修復に多額の投資を続けるより売却を選択した。当時の日本が[[高度経済成長]]を迎えるなか、積極的に[[リゾート]]開発を行っていた[[コクド]]に沿って、傘下企業の[[伊豆箱根鉄道]]が沿線リゾート開発目的での買収によるホテルシップ構想を表明、5億円で売却されることになった。なお、契約条項に「ステラ・ポラリスの継続使用は認めない」という内容が含まれていたため、名称を「フローティングホテル・スカンジナビア」に変更し、静岡県沼津市西浦木負767番地沖に投錨、[[1970年]][[7月25日]]に営業を開始した<ref>{{Cite journal|和書|author=鈴木政子|editor=日本交通公社|year=1971|date=1971-07|title=特集グラビア <カラーオフ> 豪華船スカンジナビア号と氷川丸|journal=旅|volume=45|issue=7(通号530)|publisher=新潮社|ref={{NDLJP|7887779}}}}</ref>。
コクドは当初、スカンジナビアを中心に[[水族館]]などを併設した総合レジャー施設(今日で言う[[テーマパーク]])を建設する構想があったが頓挫した。既に長井崎を挟み2kmほど離れて存在する三津天然水族館(現在の[[伊豆・三津シーパラダイス]])とは[[遊覧船]]で結ばれてはいたものの、観光地としての連続性に欠けるものとなり、その価値はやや低下することとなったが、グループ企業に[[プリンスホテル]]を持つ強みを生かしたホテルのサービス[[手続き的知識|ノウハウ]]や<ref>{{Cite book|和書|author=伊藤洋三|year=1974|chapter=56 スカンジナビア号と高積雲|title=雲の表情|page=56|publisher=保育社 (カラーブックス)|ref={{NDLJP|9582142}}|doi=10.11501/9582142}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=妹尾河童|author-link=妹尾河童|editor=[[日本交通公社]]|year=1979|date=1979-05|title=伊豆三津浜港・海に浮かぶホテル--<図解と文>世界でも有数の豪華ヨット「スカンジナビア号」は富士山の見える静かな湾に……。泊まり心地のルポ|journal=旅|volume=53|issue=5(通号626)|pages=126-129|publisher=新潮社|ref={{NDLJP|7887875}}}}</ref>、[[レストラン]]部門の充実により数多くの利用客に親しまれ、リゾート地としての人気を長年にわたり維持していた。
こうした評価と実績については、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]を背景にしたスカンジナビア号の気品ある景観の美しさが評判を呼び、ホテルとしての付加価値・魅力にも繋がった事を挙げなければならない(ピークの1990年度には、船内のレストランだけで年間約6万人が利用し、約10億3000万円の売り上げを記録した)。
=== ホテルの営業終了 ===
[[1999年]]、[[バブル景気]]終了後の消費低迷やリゾート[[不況]]の影響で、人員削減をはじめとした[[リストラ]]などの経費節減を実施していたが、客室稼働率が著しく低下していた[[ホテル]]部門の営業終了を発表し、ホテル主体の事業からレストラン専業に業態を変更した。
=== レストランの営業終了 ===
[[2005年]]、コクド会長・[[堤義明]]の[[西武鉄道#証券取引法違反事件|証券取引法違反事件]]に端を発した[[西武グループ]]の[[西武鉄道#グループ再編へ|事業再編]]が始まり、スカンジナビアも事業見直しの対象となった。このさい、建造後70年以上経過し老朽化の激しい船体の維持管理に掛かる莫大なコストなどに伴う不採算事業として、レストラン部門の閉鎖および船体の売却方針が[[マスメディア|マスコミ]]に発表された。地域住民の有志から「海洋[[文化財]]としてこのまま地元に残すべき」などといった声が多く集まり、シンポジウム開催や保存を要望する署名を所有者の伊豆箱根鉄道へ持参しての陳情など、保存運動が行われたが、[[2005年]]3月31日、レストラン営業を終了した。
; 2005年閉鎖前の営業内容
* フローティングレストラン・スカンジナビア - 北欧料理のバイキング形式での提供。「グリル北欧」レストランの運営。
* ドルフィンウエディング - 伊豆三津シーパラダイスでイルカ達と結婚式&スカンジナビアでウェディングパーティを企画運営。
* 多目的ホール・北極星 - 広い船内スペースを活用したパーティ用などのイベントスペース。
=== 転売に難航 ===
2005年、海洋クルーズ運航事業を行うランティー社(<span title="British Virgin Islands">BVI</span>、[[イギリス領ヴァージン諸島]])との間に売買交渉が持たれ、同年7月中には修理のために日本を離れて[[上海市|上海]]に向かうとの報道があったが、翌[[2006年]]になっても曳航準備の動きなく、売買交渉が難航していると報道された。なお、最終的にこの売買交渉は成立しなかった。
=== 曳航中の事故 ===
ランティー社との売買交渉が不成立となったあと、ペトロ・ファースト社([[スウェーデン]])へ売却が決まった。2006年[[8月31日]]、伊豆箱根鉄道社長や沼津市長らが参加して出航式が行われ、曳航される形で[[沼津港|沼津]]を出航した。この後、[[9月7日]]上海に寄港し改修ののち、スウェーデンで再びホテル兼レストランとして営業する予定だったが、曳航中の9月1日21時頃に船体が左傾しはじめ、同23時30分頃に状態確認のため[[串本町]]潮岬西側の入江に退避した。しかし傾斜はおさまらず徐々に浸水し、船体が沈み始めた。2日午前1時30分頃に再び沖合に向かったが、傾斜および浸水の状況が改善することなく同午前2時頃、[[和歌山県]][[潮岬]]沖約3[[キロメートル|km]]の海底72mに[[沈没]]した。船内には木製のレリーフや美しいガラス彫刻などの美術品も残っていたが、それらも船と運命を共にしてしまった。西武鉄道グループの事業再編に端を発したスカンジナビア売却は、第二の活躍の地であった日本に36年係留された後、再び建造国のスウェーデンへ戻ることなく太平洋の海底で79年の船史を終えることとなった。
{{疑問点範囲|沈没の原因は老朽化によるものであった|date=2023年8月|text=「[https://www.3d-survey.jp/conduct/scandinavia.html 潜水学術調査 スカンジナビア号]」に原因不明と提示あり。}}{{要出典|date=2023年8月}}。
== クルーズ船の女王{{anchors|七つの海の白い女王|クルーズ船の女王|白い女王|}} ==<!-- == Cruiseskipenes dronning ==
ノルウェー語版から転記していったんコメントアウト。原文の特定版は[[:no:MY_«Stella_Polaris»#Cruiseskipenes_dronning]] 22393230 番、2022-03-26T21:51:29(ETC)時点における Vasmar1 による版 。
«Stella Polaris» var tegnet av Det Bergenske Dampskibsselskabs tekniske sjef Knud Zimmer. Skrogfasongen var i likhet med rederiets første cruiseskip DY «Meteor» inspirert av de hurtiggående [[:no:klipper]]skipene fra 1800-tallet. Klipperbaugen med baugspryd, de bakoverlente mastene, den gule skorsteinen og skipets hekk ga det hvitmalte skipet et elegant utseende.
«Stella Polaris» var ikke bare et av verdens første spesialbygde cruiseskip, men også et av de første som utelukkende seilte på cruise. Før 1950-tallet var det vanlig at passasjerskip seilte på cruise i lavsesongene, men gikk i passasjerruter i høysesongene. Sammenlignet med disse store passasjerskipene fortonte «Stella Polaris» seg som en kongelig yacht, og interiøret svarte til eksteriøret hva eleganse og stil angikk. Innredningen var utført i edeltre og bygd av svenske møbelsnekkere. I taket på spisesalen formet 150 lamper i forskjellige farger en stjerne, og de fire mest luksuriøse lugarene hadde innredning i henholdsvis mahogny, kirsebærtre, pæretre og bjørk. Innredningen var utsmykket med [[:no:intarsia]] og glassarbeider utført av blant andre den norske kunstneren [[:no:Ståle Kyllingstad (1903)|Ståle Kyllingstad]]. I skipslitteratur betegnes «Stella Polaris» som et av de vakreste cruiseskipene noensinne.
På jordomseilingene ble bare de utvendige lugarene benyttet; de innvendige lugarene ble brukt til garderober for passasjerene. Dette halverte passasjertallet, og med en besetning på omkring 130 betød dette at passasjerene fikk virkelig førsteklasses service. På en typisk jordomseiling startet skipet vanligvis i New York i januar og besøkte Cuba før hun gikk gjennom Panamakanalen. I Stillehavet seilte hun til [[:no:Ny-Guinea]], Filippinene, Indonesia og Singapore før hun gikk til Sri Lanka og India. Etter å ha rundet [[Kapp det gode håp]], satte hun kursen nordover til [[:no:Freetown]], Las Palmas, [[:no:Casablanca]], [[:no:Tanger]] og Gibraltar før jordomseilingen ble avsluttet i [[:no:Harwich]], Storbritannia.
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[[File:MY Stella Polaris i Adventbukten.jpg|thumb|left|{{仮リンク|アドベント湾|en|Adventfjorden}}を進むステラ・ポラリス(1928年、Anders Beer Wilse撮影。)]]
ステラ・ポラリスの設計コンセプトは19世紀の快速船[[クリッパー (船)|クリッパー]]の優雅な外観をなぞっており、ベルゲンラインの設計部長クヌード・ツィンマー(Knud Zimmer)の発想に基づき、船首にバウスプリットを備えマストを傾斜させ、煙突は黄色に船尾は白に塗装してあった。
世界のクルーズ専用船のごく初めの例であるばかりか、最初からクルーズ運航のみに用いた船の1つでもある。1950年代まで、客船は繁忙期に定期旅客航路を走り、閑散期にはクルーズ運航を割り振った。これらの船舶と比べると本船ステラ・ポラリスの外観はまるで王族専用のヨットのようであった。また外観に負けず劣らず内装も優雅で、貴重な木材を用材に注文家具はスウェーデンの家具職人が手がけ、また大食堂の天井には星座を構成する150個のランプに異なる彩色を施した。最も豪華な客室は4室、それぞれ[[マホガニー]]、[[サクラ]]、[[ナシ]]、[[カバノキ属|カバ]]で装飾した。インテリア装飾にはガラス作品を採用、主な作家はノルウェーの芸術家 [[:d:Q12003834|Ståle Kyllingstad]]などで、{{仮リンク|タラセア|en|Intarsia|label=木工象嵌の1種}}などの装飾が見られた。
世界一周クルーズにはバルコニーのある外側の船室のみ用いて、内廊下に面した客室は乗客の[[ウォークイン・クローゼット]]に充てた。そのため乗客の定員は100名ほどと満室の半分、それに対する乗務員は130名前後を配し、真のファーストクラスのサービスでもてなした。典型的な旅程は通常1月にニューヨークを出ると[[キューバ]]を訪問してから[[パナマ運河]]を通過した。太平洋を渡り[[オーストラリア]]信託統治領[[:en:Territory_of_New_Guinea|ニューギニア]]{{En icon}}、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]、[[シンガポール]]に立ち寄ってから[[スリランカ]]と[[インド]]に向かった。[[喜望峰]]を回り北上して[[フリータウン]]([[シエラレオネ]])、[[ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア]]、[[カサブランカ]]と[[タンジェ]]([[モロッコ]])、[[ジブラルタル]]([[イベリア半島]])を目指し、イギリスの{{仮リンク|ハーウィッチ|en|Harwich}}で旅客を下ろした。
本船は当時の客船に比べれば控えめな大きさであり、同じ1927年に建造された客船 MS「アウグスタス」(イタリア船籍)は全長92 m、総トン数で6倍以上も大きく、乗客定員は11倍である<ref>{{Cite web |title=Augustus – TGOL |url=http://thegreatoceanliners.com/articles/augustus/ |date=2018-04 |language=en-GB |first=Daniel |last=Othfors|work=The Great Oceanliners|accessdate=2018-10-10}}</ref> 。現代の例えば[[ロイヤル・カリビアン・インターナショナル]]の運航する新しい船「[[オアシス・オブ・ザ・シーズ]]」(2009年秋竣工)と比べると全長ほぼ3分の1、総トン数で大きさは2.4[[パーセント|%]](42分の1)、乗客定員は3.7%(27分の1)に過ぎない<ref>{{Cite web |work=Cruise – Fantastiske cruise og cruisetilbud |title= Royal Caribbean Norge |url=https://www.royalcaribbean.com/nor/no |website=Norwegian |accessdate=2015-03-16 |language=no-NO}}</ref>。
<!--
«Stella Polaris» var av beskjeden størrelse sammenlignet med datidens passasjerskip. Det italienske passasjerskipet MS «Augustus» – også fra 1927 – var for eksempel 92 meter lengre, over seks ganger større (i bruttotonnasje) og hadde 11 ganger større passasjerkapasitet.<ref>[http://thegreatoceanliners.com/articles/augustus/ The Great Oceanliners: MS Augustus (engelsk).] Besøkt 10. oktober 2018</ref> Sammenlignet med dagens største cruiseskip blir «Stella Polaris» forsvinnende liten. [[:no:Royal Caribbean Cruises Ltd.|Royal Caribbean International]]s nye skip [[:no:MS «Oasis of the Seas»]] (overlevert høsten 2009) er nesten tre ganger lengre, 42 ganger større (i bruttotonnasje), og har 27 ganger større passasjerkapasitet.<ref>[http://www.royalcaribbean.no/#!/skipene/skip/oasis-of-the-seas Royal Caribbean Cruise Line – Oasis of the Seas] Besøkt 16. mars 2015</ref> -->
== 映像作品の言及 ==
映像作品の[[ロケーション撮影|ロケ地]]に使用。
;テレビドラマ
* [[ウルトラマンA]] - 第20話「青春の星 ふたりの星」に登場。
* [[西部警察]] - 第1期第21話「汚ない奴」に登場。
* [[ぼくら野球探偵団]] - 第13話「シージャック 海を行く赤マント」に登場。
;映画
* [[下落合焼とりムービー]] - 船上パーティーのシーンに登場。
* [[シベリア超特急]] - シベリア超特急3の舞台となった。
発想の元となった作品。
;テレビドラマ
* [[虹色定期便]] - テレビドラマの[[1999年|99年度]]版に登場するホテルポセイドンはスカンジナビアをモデルとしている。
;アニメ
* [[サザエさん (テレビアニメ)]] - [[1985年]][[3月31日]]放送の「早春伊豆長岡の別れ」その二のラストに登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://magmix.jp/post/144581/2 |title=『サザエさん』の「お隣さん」は*伊佐坂先生じゃなかった? 平成・令和世代は知らない「消された一家」|website=マグミクス-2 |author=大山くまお|date=2023^03-20|accessdate=2023-03-20}}</ref>。
;漫画
* {{疑問点範囲|[[ラブライブ!サンシャイン!!]] - かつて[[沼津市]]西浦木負にあった船という設定で、シングル『[[smile smile ship Start!]]』に登場|date=2023年8月|title=[[ラブライブ!サンシャイン!! (テレビアニメ)|同名のテレビアニメ]]の話題では?}}。[[西武グループ]]各社が協賛<!-- 協賛したのは漫画なのか? 声優版のアニメ作品のCM協賛では? -->。
== 位置情報 ==
{{座標一覧}}
=== 係留地 ===
1969年から2006年まで。
{{日本の位置情報|35|01|17.15|138|52|46.60|韮山,大瀬崎|静岡県沼津市西浦木負767|スカンジナビア号係留地}}
=== 沈没地点 ===
田辺海上保安部発表による。
{{日本の位置情報|33|26|58.98|135|43|33.78|田並|+33° 26' 58.98", +135° 43' 33.78"|ステラ・ポラリス号沈没地点}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2023年8月}}
* {{cite book|和書|title=特設艦船入門|author=大内健二|publisher=光人社|year=2008|pages=373-379|isbn=978-4-7698-2565-4|ref=harv}}
== 関連項目 ==
50音順。
* [[海難事故]]
* [[スカンディナヴィア]]
* [[西武鉄道]]
** [[伊豆箱根鉄道]] - 1969年から2006年まで所有・管理していた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
<!-- deadlink * [http://www.pluto.dti.ne.jp/~mucha-07/grandluxe/wadatsumi/hokuou/stella/stellahistory.htm 『ステラ・ポラリス』の歴史] -->
<!-- deadlink * [http://www.izuhakone.co.jp/restaurant/scandinavia/ フローティングレストラン スカンジナビア] -->
<!-- deadlink * [http://live-fuji.cocolog-nifty.com/scan/ スカンジナビア号を保存する会] -->
* [http://www.digital-jp.com/tv/channel.htm 2006年8月31日のスカンジナビア出航の様子](ストリーミング動画が視聴できる) - デジタルジェイピー
* [http://www.izuhakone.co.jp/ 伊豆箱根鉄道]
** [https://web.archive.org/web/20071216100354/http://www.izuhakone.co.jp/press/pdf/20060903.pdf 沈没事故についてのコメント] - 伊豆箱根鉄道(PDFファイル)※2007年5月5日に取得されたアーカイブ。
* [http://www.kaiho.mlit.go.jp/05kanku/tanabe/ziken/kizi/181199/sukanzinavia.htm (串本)スカンジナビア号沈没] - [[第五管区海上保安本部#組織|田辺海上保安部]]
* [http://www.aftonbladet.se/vss/nyheter/story/0,2789,881343,00.html Aftonbladet - スウェーデンの豪華巡洋艦が日本沖で沈没(アフトンブラデット)]{{no icon}}
<!-- 行ったんコメントアウト、個人サイトか?
* [https://web.archive.org/web/20070528073224/http://web.telia.com/~u85908778/stella/stella.htm Om M/S Stella Polaris]{{sv icon}} 「M/S ステラ ポラリスについて」アンダース・バーグストロム筆(アーカイブ版)-->
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9,165 | 東パキスタン | 東パキスタン(ひがしパキスタン、East Pakistan)は、現在のバングラデシュ人民共和国の領土に1955年から1971年まで存在し、パキスタンに属していた地域である。インドおよびビルマとの国境とベンガル湾への海岸線に囲まれていた。
東パキスタンはムハンマド・アリ・ボグラ首相の「One Unit計画」によって、東ベンガル州から改名された。
パキスタン憲法 (1956年)により、イギリス、属領および海外領土の立憲君主制から、イスラム共和制に改められた。ベンガル州の政治家H. S. Suhrawardyは、1956年から1957年の間、パキスタン首相を務めた。ベンガル州の官僚であるイスカンダル・ミールザーが、最初のパキスタンの大統領となった。
1958年のパキスタンのクーデターにより、アユブ・ハーン将軍が、イスカンダル・ミールザーに代わって大統領となって権力を握り、民主化運動の指導者に対する弾圧を開始した。カーンは、普通選挙権を廃止するパキスタン憲法 (1962年)を制定した。
1966年までに、ムジブル・ラフマンが優れたパキスタンの野党指導者として台頭し、自治と民主主義のためにシックスポイント運動を開始した。
1969年東パキスタン蜂起の影響もあり、アユブ・カーン政権が崩壊すると、ヤヤ・カーン将軍が大統領職を奪取し、戒厳令を敷いた。
1970年のボーラ・サイクロンは、大規模な自然災害であった。1970年、ヤヤ・カーンはパキスタン初の連邦総選挙を実施し、アワミ連盟が最大政党となり、パキスタン人民党が第二政党となった。軍事政権は選挙結果を受け入れず、市民の不服従、バングラデシュ大虐殺 (1971年)へと至り、インドの支援を得たバングラデシュ独立戦争により、東パキスタンはパキスタンから分離独立した。
東パキスタン州議会が立法機関であった。
東パキスタンの戦略的重要性のために、パキスタンは東南アジア条約機構のメンバーであった。東パキスタンの経済は1960年から1965年の間に、平均で2.6%成長した。パキスタンの輸出の大部分は東パキスタンからであったのにもかかわらず、連邦政府は西パキスタンに資金と外国からの援助の多くを投入した。一方で、アユブ・カーン大統領は、東パキスタンで著しい工業化を達成した。Kaptaiダムが、1965年に建設された。Eastern Refinery社が、チッタゴンに設立された。ダッカはパキスタンの第2首都と宣言され、国会議事堂の建設が計画された。政府はアメリカの建築家ルイス・I・カーンを雇い、ダッカの国会議事堂を設計させた。
ヘンリー・キッシンジャーは対中国交正常化に向け仲介役を果たしていたパキスタンがおこなっていた、東パキスタンにおける大規模なレイプや虐殺を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取ってバングラデシュとなったとされる。 | [
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] | 東パキスタンは、現在のバングラデシュ人民共和国の領土に1955年から1971年まで存在し、パキスタンに属していた地域である。インドおよびビルマとの国境とベンガル湾への海岸線に囲まれていた。 | {{混同|西パキスタン}}
{{出典の明記|date=2020年12月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = バングラデシュ
|日本語国名 =東パキスタン
|公式国名 = {{native name|bn|পূর্ব পাকিস্তান|italic=no}}<br>{{native name|ur|{{Nastaliq|مشرقی پاکستان}}|italic=no}}
|建国時期 = [[1955年]]
|亡国時期 = [[1971年]]
|先代1 = パキスタン (ドミニオン)
|先旗1 = Flag of Pakistan.svg
|次代1 = バングラデシュ
|次旗1 = Flag of Bangladesh.svg
|国旗画像 = Flag of Pakistan.svg
|国旗リンク = [[パキスタンの国旗|国旗]]
|国旗縁 =
|国章画像 = Emblem of East Pakistan (1955-1971).svg
|国章リンク = [[パキスタンの国章|国章]]
|標語 =
|国歌 = তারানা-ই-পাকিস্তান{{bn icon}}
|国歌追記 =
|位置画像 = India - Bengal area 1950s (8165904945).jpg
|位置画像説明 = 東パキスタンの地図
|公用語 = [[ベンガル語]]、[[ウルドゥー語]]、[[英語]]
|首都 = [[ダッカ]]
|元首等肩書 = {{仮リンク|現在のパキスタンの首席大臣一覧|label=首席大臣|en|List of current Pakistani chief ministers}}
|元首等年代始1 = 1955年
|元首等年代終1 = 1956年
|元首等氏名1 = {{仮リンク|アブ・フセイン・サーカー|en|Abu Hussain Sarkar}}
|元首等年代始2 = 1956年
|元首等年代終2 = 1958年
|元首等氏名2 = {{仮リンク|アウタル・ラーマン・カーン|en|Ataur Rahman Khan}}
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|元首等氏名5 =
|首相等肩書 =
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|変遷1 = One Unitによる設立
|変遷年月日1 =1955年10月14日
|変遷2 = 独立宣言
|変遷年月日2 = 1971年3月26日
|変遷3 = [[パキスタンの降伏文書|パキスタン降伏協定]]
|変遷年月日3 = 1971年12月16日
|通貨 = [[パキスタン・ルピー]]
|時間帯 =
|時間帯追記 =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|現在 = {{BAN}}<br>{{IND}}
|注記 =
}}
'''東パキスタン'''(ひがしパキスタン、East Pakistan)は、現在の[[バングラデシュ人民共和国]]の領土に1955年から1971年まで存在し、[[パキスタン]]に属していた地域である。[[インド]]および[[ビルマ]]との国境と[[ベンガル湾]]への海岸線に囲まれていた。
== 歴史 ==
東パキスタンは[[:en:Mohammad Ali Bogra|ムハンマド・アリ・ボグラ]]首相の「[[:en:One Unit|One Unit]]計画」によって、[[:en:East Bengal|東ベンガル州]]から改名された。
[[:en:Constitution of Pakistan of 1956|パキスタン憲法 (1956年)]]により、[[英連邦王国|イギリス、属領および海外領土]]の[[立憲君主制]]から、[[イスラム共和制]]に改められた。ベンガル州の政治家[[:en:Huseyn Shaheed Suhrawardy|H. S. Suhrawardy]]は、1956年から1957年の間、[[:en:Prime Minister of Pakistan|パキスタン首相]]を務めた。ベンガル州の官僚である[[:en:Iskander Mirza|イスカンダル・ミールザー]]が、最初の[[パキスタンの大統領]]となった。
[[:en:1958 Pakistani coup d'état|1958年のパキスタンのクーデター]]により、[[アユーブ・ハーン|アユブ・ハーン]]将軍が、イスカンダル・ミールザーに代わって大統領となって権力を握り、民主化運動の指導者に対する弾圧を開始した。カーンは、[[普通選挙]]権を廃止する[[:en:Constitution of Pakistan of 1962|パキスタン憲法 (1962年)]]を制定した。
1966年までに、[[ムジブル・ラフマン]]が優れたパキスタンの野党指導者として台頭し、自治と民主主義のために[[:en:Six point movement|シックスポイント運動]]を開始した。
[[:en:1969 Mass uprising in East Pakistan|1969年東パキスタン蜂起]]の影響もあり、アユブ・カーン政権が崩壊すると、[[:en:Yahya Khan|ヤヤ・カーン]]将軍が大統領職を奪取し、[[戒厳令]]を敷いた。
[[1970年のボーラ・サイクロン]]は、大規模な自然災害であった。1970年、ヤヤ・カーンはパキスタン初の連邦総選挙を実施し、[[アワミ連盟]]が最大政党となり、[[パキスタン人民党]]が第二政党となった。軍事政権は選挙結果を受け入れず、市民の不服従、[[バングラデシュ大虐殺 (1971年)]]へと至り、インドの支援を得た[[バングラデシュ独立戦争]]により、東パキスタンは[[パキスタン]]から分離独立した。
[[:en:East Pakistan Provincial Assembly|東パキスタン州議会]]が立法機関であった。
東パキスタンの戦略的重要性のために、パキスタンは[[東南アジア条約機構]]のメンバーであった。東パキスタンの経済は1960年から1965年の間に、平均で2.6%成長した。パキスタンの輸出の大部分は東パキスタンからであったのにもかかわらず、連邦政府は西パキスタンに資金と外国からの援助の多くを投入した。一方で、アユブ・カーン大統領は、東パキスタンで著しい工業化を達成した。[[カプタイ・ダム|Kaptaiダム]]が、1965年に建設された。[[:en:Eastern Refinery Limited|Eastern Refinery社]]が、[[チッタゴン]]に設立された。[[ダッカ]]はパキスタンの第2首都と宣言され、国会議事堂の建設が計画された。政府はアメリカの建築家[[ルイス・I・カーン]]を雇い、ダッカの[[国会議事堂 (バングラデシュ)|国会議事堂]]を設計させた。
==独立の過程==
[[ヘンリー・キッシンジャー]]は対中国交正常化に向け仲介役を果たしていた[[パキスタン]]がおこなっていた、東パキスタンにおける大規模な[[レイプ]]や[[虐殺]]を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取って[[バングラデシュ]]となったとされる<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3493823?page=2 【解説】キッシンジャー氏の主要実績 論争の種も 写真9枚 国際ニュース:AFPBB News]</ref>。
== 脚注 ==
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[[Category:東パキスタン]]
[[Category:かつて存在したアジアの共和国]]
[[Category:バングラデシュの歴史]]
[[Category:パキスタンの歴史]]
[[Category:ベンガル]]
[[Category:パキスタン・バングラデシュ関係]] | 2003-05-23T14:12:38Z | 2023-12-03T23:21:56Z | false | false | false | [
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9,167 | スオミ | スオミ(Suomi)とは、フィンランドそのもの、フィンランド語(スオミ語)、フィンランド民族(フィン人/スオミ人)を表す語。古くはフィンランド南西部のトゥルク周辺の地域を指す語であった。現在もフィンランド南部の行政区画の名にスオミの語が使われている。 | [
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] | スオミ(Suomi)とは、フィンランドそのもの、フィンランド語(スオミ語)、フィンランド民族(フィン人/スオミ人)を表す語。古くはフィンランド南西部のトゥルク周辺の地域を指す語であった。現在もフィンランド南部の行政区画の名にスオミの語が使われている。 スオミネイト - フィンランドの国を擬人化したキャラクターで、意味は"フィンランドの乙女"である。
1656 スオミ - フィンランド人の天文学者であるユルィヨ・バイサラが発見した火星横断小惑星の一つ。
ジョン・スオミ - フィンランド系カナダ人のプロ野球選手。
ヴェルナール・スオミ - フィンランド系アメリカ人の気象学者で、アメリカ国家科学賞の受賞者。
スオミNPP - アメリカ海洋大気庁が運用する気象衛星で、ヴェルナール・スオミにちなんで名付けられた。
スオミ短機関銃 - フィンランド軍の銃器設計者アイモ・ラハティが開発した短機関銃であるスオミ KP/-31の通称。
スオミ KP/-26 - スオミ KP/-31の前身に相当する短機関銃。
スオミの湯 - オークランド観光開発がかつて複数地域で運営していたサウナ・温浴施設(スーパー銭湯)。サウナの本場である上記、フィンランドに由来。 | '''スオミ'''({{Lang|fi|Suomi}})とは、'''[[フィンランド]]'''そのもの、'''[[フィンランド語]]'''(スオミ語)、'''フィンランド民族'''([[フィン人]]/スオミ人)を表す語。古くはフィンランド南西部の[[トゥルク]]周辺の地域を指す語であった。現在もフィンランド南部の[[フィンランドの地方行政区画|行政区画]]の名にスオミの語が使われている。
* [[スオミネイト]] - フィンランドの国を擬人化したキャラクターで、意味は"フィンランドの乙女"である。
* [[スオミ (小惑星)|1656 スオミ]] - フィンランド人の[[天文学者]]である[[ユルィヨ・バイサラ]]が発見した[[火星横断小惑星]]の一つ。
* [[ジョン・スオミ]] - [[フィンランド系カナダ人]]の[[プロ野球選手]]。
* [[ヴェルナール・スオミ]] - [[フィンランド系アメリカ人]]の[[気象学者]]で、[[アメリカ国家科学賞]]の受賞者。
** [[スオミNPP]] - [[アメリカ海洋大気庁]]が運用する[[気象衛星]]で、ヴェルナール・スオミにちなんで名付けられた。
* [[スオミ短機関銃]] - フィンランド軍の銃器設計者[[アイモ・ラハティ]]が開発した[[短機関銃]]である'''[[スオミ KP/-31]]'''(スオミ M31、スオミM1931としても知られる)の通称。
** [[スオミ KP/-26]] - スオミ KP/-31の前身に相当する短機関銃。
* スオミの湯 - [[オークランド観光開発]]がかつて複数地域で運営していた[[サウナ風呂|サウナ]]・[[日帰り入浴施設|温浴施設]]([[スーパー銭湯]])。サウナの本場である上記、フィンランドに由来。
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9,188 | ヒンドゥークシュ山脈 | ヒンドゥークシュ山脈(ヒンドゥークシュさんみゃく、パシュトー語/ペルシア語:ھندوکُش)とは、主にアフガニスタン国内を北東から南西に1200kmにわたって延びる山脈。一部はパキスタン西部にも広がる。
クシュは山や山地を指すのでさらに山脈をつけるのは日本語の翻訳地名によくある慣例である。また、ヒンドゥークシュはペルシャ語で「インド人殺し」を意味する。これはインドからペルシャ方面に抜ける際に通るこの山脈の厳しい気候と地形から、多くの人間が遭難死してきたためである。
ヒンズークシ山脈、ヒンドゥークシ山脈とも表記される。
この山脈は単一ではなく、最大幅500kmにわたる山地となっており、アフガニスタンの首都カーブルも山脈を区切る幅の広い盆地に位置している。北東部ではタジキスタン領内のパミール高原(ゴルノ・バダフシャン自治州)やインド・パキスタン間で帰属に問題があるカシミールに接し、ヒンドゥ・ラジ山脈を経てヒマラヤ山脈の西端であるカラコルム山脈西部とつながっている。2つの山脈が接する東経74度の地点にはバツーラ氷河(英語版、ウルドゥー語版)の源流がある。ヒンドゥークシュ山脈は南西に延びていくにしたがって複数の支脈に分かれていく。いずれもカンダハル平原が南西の端となっている。
最高峰はティリチミール(7708m)。7000m以上の峰としては、ノシャック(7492m)、イストルオナ(英語版)(7398m)、サラグラル(英語版)(7349m)などが際立つ。
急峻な地形ゆえ、山脈周辺では土砂災害も発生する。1971年7月下旬にはケンジャン峠付近で発生した地すべりが集落を押しつぶし、1000人以上が死亡している。
ヒンドゥークシュ山脈は、南アジアのインダス川流域と中央アジアのアムダリヤ川流域の境界を形成している。雪と氷からの溶けた水は、中央アジアの主要な河川システムに供給され、アムダリヤ川、ヘルマンド川(アフガニスタン南部とイランのシスタン盆地のハームーン湖の主要な水源である)、カブール川(Kabul River=インダス川の主要な支流)をなす。
ヒンドゥークシュ山脈は古来から東西南北の交通の障害となってきた。このため重要な峠が点在する。中央アジアとインドを結ぶ峠道が多数あり、ハワク峠(英語版) (3548m)はアレクサンドロス3世(大王)やティムールが通過している。シバル峠(英語版)(2978m)、サラン峠(3363m) はカーブルと中央アジアのマザーリシャリーフを結ぶ重要な道路が通る。
国際道路であるアジアハイウェイ(AH-1)は、イランのテヘランを経由し、西からアフガニスタン国内に入る。しかし、ヘラートの町でヒンドゥークシュ山脈にぶつかる。そのためハイウェーは南に向きを変え、ギリシュク(英語版)とカンダハールを通ったあと、北東に進み山脈内の谷間を抜けてカーブルに到達する。その後、東のカイバル峠を越えてパキスタン国内に入る。
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] | ヒンドゥークシュ山脈とは、主にアフガニスタン国内を北東から南西に1200kmにわたって延びる山脈。一部はパキスタン西部にも広がる。 クシュは山や山地を指すのでさらに山脈をつけるのは日本語の翻訳地名によくある慣例である。また、ヒンドゥークシュはペルシャ語で「インド人殺し」を意味する。これはインドからペルシャ方面に抜ける際に通るこの山脈の厳しい気候と地形から、多くの人間が遭難死してきたためである。 ヒンズークシ山脈、ヒンドゥークシ山脈とも表記される。 | {{表記揺れ案内|表記1=ヒンドゥークシュ山脈|表記2=ヒンドゥークシ山脈|表記3=ヒンズークシ山脈}}
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|名称 = ヒンドゥークシュ山脈
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[[ファイル:Afghan topo en.jpg|300px|right|thumb|'''アフガニスタン国土の高度分布図''' 灰色に写っている部分は高度3000mを越えており、白が強くなるほど高度が上がる。この部分がほぼヒンドゥークシュ山脈に相当する]]
'''ヒンドゥークシュ山脈'''(ヒンドゥークシュさんみゃく、[[パシュトー語]]/[[ペルシア語]]:{{Nastaliq|ھندوکُش}})とは、主に[[アフガニスタン]]国内を北東から南西に1200kmにわたって延びる山脈。一部は[[パキスタン]]西部にも広がる。
クシュは山や山地を指すのでさらに山脈をつけるのは[[日本語]]の翻訳地名によくある慣例である。また、ヒンドゥークシュはペルシャ語で「インド人殺し」を意味する<ref>[[杉山正明]]『モンゴル帝国と長いその後』講談社</ref>。これはインドからペルシャ方面に抜ける際に通るこの山脈の厳しい気候と地形から、多くの人間が遭難死してきたためである。
'''ヒンズークシ山脈'''<ref>{{Cite Kotobank|word=ヒンズークシ山脈|encyclopedia=小学館「デジタル大辞泉」|accessdate=2022年1月4日}}</ref>、'''ヒンドゥークシ山脈'''<ref>{{Cite Kotobank|word=ヒンドゥークシ山脈|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2022年1月4日}}</ref>とも表記される。
== 概要 ==
この山脈は単一ではなく、最大幅500kmにわたる山地となっており、アフガニスタンの首都[[カーブル]]も山脈を区切る幅の広い盆地に位置している。北東部では[[タジキスタン]]領内の[[パミール高原]]([[ゴルノ・バダフシャン自治州]])やインド・パキスタン間で帰属に問題がある[[カシミール]]に接し、[[ヒンドゥ・ラジ山脈]]を経て[[ヒマラヤ山脈]]の西端である[[カラコルム山脈]]西部とつながっている。2つの山脈が接する東経74度の地点には{{仮リンク|バツーラ氷河|en|Batura Glacier|ur|بتورا گلیشیر}}の源流がある。ヒンドゥークシュ山脈は南西に延びていくにしたがって複数の支脈に分かれていく。いずれも[[カンダハル平原]]が南西の端となっている。
[[最高峰]]は[[ティリチミール]](7708m)。7000m以上の峰としては、[[ノシャック]](7492m)、{{仮リンク|イストルオナ|en|Istor-o-Nal}}(7398m)、{{仮リンク|サラグラル|en|Saraghrar}}(7349m)などが際立つ。
急峻な地形ゆえ、山脈周辺では[[土砂災害]]も発生する。[[1971年]]7月下旬にはケンジャン峠付近で発生した[[地すべり]]が集落を押しつぶし、1000人以上が死亡している<ref>「千人以上死ぬ アフガニスタンで地すべり」『中國新聞』昭和46年7月30日 15面</ref>。
ヒンドゥークシュ山脈は、南アジアの[[インダス川]]流域と中央アジアの[[アムダリヤ川]]流域の境界を形成している。雪と氷からの溶けた水は、中央アジアの主要な河川システムに供給され、[[アムダリヤ川]]、[[ヘルマンド川]](アフガニスタン南部と[[イラン]]の[[シスタン盆地]]の[[ハームーン湖]]の主要な水源である)、[[カブール川]]([[:en:Kabul River|Kabul River]]=インダス川の主要な支流)をなす。
== 交通 ==
ヒンドゥークシュ山脈は古来から東西南北の交通の障害となってきた。このため重要な峠が点在する。[[中央アジア]]と[[インド]]を結ぶ峠道が多数あり、{{仮リンク|ハワク峠|en|Khawak Pass}} (3548m)は[[アレクサンドロス3世]](大王)や[[ティムール]]が通過している。{{仮リンク|シバル峠|en|Shibar Pass}}(2978m)、[[サラン峠]](3363m) は[[カーブル]]と中央アジアの[[マザーリシャリーフ]]を結ぶ重要な道路が通る。
国際道路である[[アジアハイウェイ]]([[アジアハイウェイ1号線|AH-1]])は、[[イラン]]の[[テヘラン]]を経由し、西からアフガニスタン国内に入る。しかし、[[ヘラート]]の町でヒンドゥークシュ山脈にぶつかる。そのためハイウェーは南に向きを変え、{{仮リンク|ギリシュク|en|Girishk}}と[[カンダハール]]を通ったあと、北東に進み山脈内の谷間を抜けてカーブルに到達する。その後、東の[[カイバル峠]]を越えてパキスタン国内に入る。
== 産業 ==
標高が高く[[森林限界]]に近いため、樹木はほとんど見られない。鉱物資源が発見されているものの交通路がないために開発が進んでいない。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons cat|Hindu Kush}}
* [[ワハーン回廊]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|ヒンドゥークシュ山脈-1199884|[[世界大百科事典]] 第2版|ヒンドゥークシュ山脈}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:ひんとうくしゆさんみやく}}
[[Category:アフガニスタンの地形]]
[[Category:パキスタンの地形]]
[[Category:アジアの山地]]
[[Category:ヒンドゥークシュ|*]]
[[Category:イラン高原]] | null | 2023-04-26T14:35:00Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%B1%B1%E8%84%88 |
9,192 | シル川 | [] | シル川 (スペイン) - スペイン北西部カスティーリャ・イ・レオン州レオン県に発し、オウレンセ県でミーニョ川に合流する。
シルダリヤ川 - 名称のシルダリヤの後半部分のダリヤはペルシア語の「川」を意味する語であるため、シル川と表記されることもある。 | * [[シル川 (スペイン)]] - [[スペイン]]北西部[[カスティーリャ・イ・レオン州]][[レオン県 (スペイン)|レオン県]]に発し、[[オウレンセ県]]で[[ミーニョ川]]に合流する。
* [[シルダリヤ川]] - 名称のシルダリヤの後半部分のダリヤはペルシア語の「川」を意味する語であるため、シル川と表記されることもある。
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9,195 | ランダム | ランダム(英語: Random)とは、事象の発生に法則性(規則性)がなく、予測が不可能(英語版)な状態である。ランダムネス(英語: randomness)、無作為性(むさくいせい)ともいう。
事象・記号などのランダムな列には秩序がなく、理解可能なパターンや組み合わせに従わない。個々のランダムな事象は定義上予測不可能であるが、多くの場合、何度も試行した場合の結果の頻度は予測可能である。例えば、2つのサイコロを投げるとき、1回ごとの出目は予測できないが、合計が7になる頻度は4になる頻度の2倍になる。この見方では、ランダム性とは結果の不確実性の尺度であり、確率・情報エントロピーの概念に適用される。
数学、確率、統計の分野では、ランダム性の正式な定義が使用される。統計では、事象空間の起こり得る結果に数値を割り当てたものを確率変数(random variable)という。この関連付けは、事象の確率の識別および計算を容易にする。確率変数の列をランダム系列(英語版)(random sequence)という。ランダム過程(不規則過程、確率過程)は、結果が決定論的パターンに従わず、確率分布によって記述される進化に従う確率変数の列である。これらの構造と他の構造は、確率論や様々なランダム性の応用に非常に有用である。
ランダム性は、よく定義された統計的特性を示すために統計で最も頻繁に使用される。ランダムな入力(乱数発生器(英語版)や擬似乱数発生器など)に依存するモンテカルロ法は、計算科学などの科学において重要な技術である。これに対し、準モンテカルロ法(英語版)では乱数列ではなく一様分布列を使用している。
無作為抽出(random selection)は、ある項目を選択する確率が母集団内におけるその項目の割合と一致している集団から項目を選択する方法である。例えば、赤い石10個と青い石90個を入れた袋に入れた場合、この袋から何らかのランダム選択メカニズムによって石を1個選択した時にそれが赤い石である確率は1/10である。しかし、ランダム選択メカニズムによって実際に10個の石を選択したときに、それが赤1個・青9個であるとは限らない。母集団が識別可能な項目で構成されている状況では、ランダム選択メカニズムは、選択される項目に等しい確率を必要とする。つまり、選択プロセスが、母集団の各メンバー(例えば、研究対象)が選択される確率が同じである場合、選択プロセスはランダムであると言うことができる。
古代の歴史において、偶然性とランダム性の概念は運命の概念と絡み合っていた。古代、多くの人々は運命を決定するためにサイコロを投げたが、これは後に偶然性を利用したゲームに発展した。古代のほとんどの文化では、ランダム性と運命を回避するために様々な方法の占いを行っていた。
3000年前の中国人は、おそらく、確率や偶然性を形式化した最も初期の人々だった。ギリシャの哲学者は、長さのランダム性について議論したが、非定量的な形でしかできなかった。16世紀になってイタリアの数学者たちは、様々な偶然性を利用したゲームに関連する確率を公式化し始めた。微積分の発明は、ランダム性の形式化の研究に良い影響を与えた。ジョン・ベンは著書 "The Logic of Chance" の1888年版で、乱数の概念についての章を書いた。その章には、2次元のランダムウォークを構築するのに円周率の数字のランダム性を使うことも含まれていた。
20世紀初頭、確率の数学的基盤への様々なアプローチが導入されたことにより、ランダム性の形式的分析が急速に拡大した。20世紀半ばから後半にかけて、アルゴリズム情報理論のアイデアは、アルゴリズム的ランダム性という概念を介して、この分野に新しい次元をもたらした。
何世紀にもわたって、ランダム性は邪魔なもの・有害なものと見なされてきたが、20世紀にコンピュータ科学者は、ランダム性を意図的に計算に導入することが、より良いアルゴリズムを設計するための効果的なツールになることを認識し始めた。このようなランダム化されたアルゴリズムは、最良の決定論的手法よりも優れている場合もある。
多くの科学の分野がランダム性に関係している。
19世紀、科学者は、熱力学の現象や気体の性質(英語版)を説明するための統計力学の発展に、分子のランダムな動きの概念を用いた。
量子力学のいくつかの標準解釈によれば、微視的現象は客観的にランダムである。つまり、実験において、因果関係のある全てのパラメータを制御したとしても、結果のいくつかの側面は依然としてランダムに変化する。例えば、制御された環境に単一の不安定な原子が置かれている場合、原子が減衰するのにどれくらいの時間がかかるかを予測することはできない。従って、量子力学では個々の実験の結果を特定するのではなく、確率のみを指定する。隠れた変数理論は、性質が既約のランダム性を含んでいるという見解を拒絶する。この理論では、無作為に見える過程において、ある統計的分布を有する特性が裏で働いて、それぞれの場合に結果を決定すると仮定する。
物性物理学では、“ランダムな系”と言うと、“乱れた系”という意味合いがある。ランダムな系としては、長距離秩序のないガラスやアモルファスがある(短距離秩序はあるので、その意味では完全なランダムではない)。
現代進化論(英語版)では、観察される生物の多様性は、ランダムな突然変異とそれに続く自然選択に帰する。後者は、突然変異した遺伝子がそれを有する個体に与える生存と再生のための系統的に改善された機会のために、遺伝子プールにいくつかのランダムな変異を保持する。
何人か著者はまた、進化と発達には特定の形のランダム性、すなわち質的に新しい行動の出現を必要とすると主張する。いくつかの予め与えられたものからの可能性の選択の代わりに、このランダム性は新しい可能性の形成に対応する。
生物の特性は、決定論的に(例えば、遺伝子および環境の影響下で)、そしてある程度ランダムに生じる。例えば、人の皮膚に現れるそばかすの密度は、遺伝子や光の暴露によって決まるが、個々のそばかすの正確な位置はランダムに見える。
行動に関しては、動物が他者に予測不可能なやり方で行動するために、ランダム性が重要となる。例えば、飛行中の昆虫は方向がランダムに変化する傾向があり、捕食者が軌道を予測するのを困難にする。
確率の数学的理論は、偶然性のある事象の数学的記述を形式化するために生まれた。元々はギャンブルのためであったが、後に物理学と関連づけられた。統計は、経験的な観測の集合の基礎となる確率分布を推測するために使用される。シミュレーションの目的のためには、必要に応じて乱数やそれを生成する手段が必要となる。
アルゴリズム情報理論は、他のトピックの中で、何がランダム系列(英語版)を構成するかを研究する。基本的な考え方は、あるビット列が、そのビット列を生成できるコンピュータプログラムよりも短い時かつその時に限り、そのビット列がランダムであるということである(コルモゴロフランダム性)。これは、ランダムなビット列は圧縮することができないということを意味する。この分野のパイオニアとしては、アンドレイ・コルモゴロフとその学生であるペール・マルティン=レーフ、レイ・ソロモノフ、グレゴリー・チャイティンらがいる。無限列の概念については、通常、マルティン=レーフの定義を使用する。つまり、無限列は、それが全ての再帰的に列挙可能なヌル集合(英語版)に耐える時かつその時に限り、ランダムである。ランダム系列の他の概念には、再帰的ランダム性およびシュノアランダム性がある(ただしこれに限定されない)。これらは、再帰的に計算可能なマルチンゲールに基づく。これらのランダム性の概念は一般に異なっていることが宋詠璿(英語版)によって示された。
ランダム性は、log(2)や円周率(π)などの数値で発生する。πの小数部は無限の数列を構成し、循環的に繰り返されることはない。πなどの数字は正規数であると考えられている。これは、数字が統計的意味でランダムであることを意味する。
πは確かにこのように振る舞うようである。πの小数点以下の最初の60億桁では、0から9までの数字がそれぞれ約6億回現れる。しかし、このような結果はおそらく偶発的なものであっても、基数10であっても、他の数の基底での正規性がはるかに低いことを証明していない。
統計学では、無秩序標本を作成するために一般にランダム性が使用される。これにより、完全にランダムなグループのアンケートで現実的なデータを提供することができる。これを行う一般的な方法には、くじを引く、乱数表を使用するなどがある。乱数表は、乱数の大きな表である。
情報科学では、無関係な、または無意味なデータはノイズとみなされる。ノイズは、統計的にランダム化された時間分布を伴う多数の一時的な外乱から構成される。
通信理論(英語版)では、信号のランダム性は「ノイズ」と呼ばれ、信号源に起因する変動の成分である「信号」に相対している。
ランダムウォーク仮説では、組織された市場における資産価格は、変化の期待値はゼロであるが実際の価値は正または負となる可能性があるという意味で、ランダムに変動すると考える。より一般的には、資産価格は、一般的な経済環境における様々な予期せぬ出来事の影響を受ける。
日本工業規格では、「集会の要素をランダムな順序に並べる過程。母集団が1からnの自然数から成るとき,n!通りの順序が等しい確率で選ばれるとき,その選ばれた順序はランダムな順序とよばれる。」とランダム化を定義している。
選挙の投票結果が引き分けになった場合に、当選者を決定するための公平な方法として、くじ引きなどのランダム選択が行われることがある。
政治でのランダム性の使用は非常に古い。古代のアテネでは、公職者は希望する市民の中からくじ引きで選出されたため、投票は行われなかった。
日本では室町幕府6代将軍・足利義教がくじ引きによって選出された例として知られる。
過去と未来の全ての出来事を知っている全能の神によって宇宙が創造されたというような、いくつかの宗教における決定論的な考え方と、ランダム性は矛盾するとみなすことができる。宇宙が目的を持っているとするなら、偶然性は不可能であるとみなすことができる。これは、無作為な突然変異の結果であるという、進化に対する宗教的反対の根拠の一つである。
ヒンズー教と仏教の哲学は、業や因果という概念に反映されているように、いかなる出来事もそれ以前の出来事の結果であるとしており、偶然性のある出来事や、最初の出来事というものは存在しない。
いくつかの宗教では、乱数器として認識される手続きが占いに使用される。おみくじは、神の意思を知る手段としてくじを引くものである。
数学的、政治的、社会的、宗教的な用途の大部分で、ランダム性はその本来の公正さとバイアスの排除のために使用される。
システム内で(明らかに)ランダムな挙動の原因となる以下の3つのメカニズムが存在することが、一般に認められている。
計算機による乱数発生器が出現する以前、(統計上重要な)十分な乱数を大量に生成するには、多くの作業が必要だった。結果は時々収集され、乱数表として配布された。
二値数列のランダム性には多くの実用的な尺度がある。その中には、頻度、離散変換(英語版)、複雑性に基づく、またはこれらを併用した尺度があり、Kak、Phillips、Yuen、Hopkins、Beth & Dai、Mund、Marsaglia & Zamanのテストなどがある。
量子非局所性(Quantum Non-Locality))は、指定された数列の真のランダム性の存在を証明するために使用されている。 | [
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"text": "無作為抽出(random selection)は、ある項目を選択する確率が母集団内におけるその項目の割合と一致している集団から項目を選択する方法である。例えば、赤い石10個と青い石90個を入れた袋に入れた場合、この袋から何らかのランダム選択メカニズムによって石を1個選択した時にそれが赤い石である確率は1/10である。しかし、ランダム選択メカニズムによって実際に10個の石を選択したときに、それが赤1個・青9個であるとは限らない。母集団が識別可能な項目で構成されている状況では、ランダム選択メカニズムは、選択される項目に等しい確率を必要とする。つまり、選択プロセスが、母集団の各メンバー(例えば、研究対象)が選択される確率が同じである場合、選択プロセスはランダムであると言うことができる。",
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"text": "古代の歴史において、偶然性とランダム性の概念は運命の概念と絡み合っていた。古代、多くの人々は運命を決定するためにサイコロを投げたが、これは後に偶然性を利用したゲームに発展した。古代のほとんどの文化では、ランダム性と運命を回避するために様々な方法の占いを行っていた。",
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"text": "3000年前の中国人は、おそらく、確率や偶然性を形式化した最も初期の人々だった。ギリシャの哲学者は、長さのランダム性について議論したが、非定量的な形でしかできなかった。16世紀になってイタリアの数学者たちは、様々な偶然性を利用したゲームに関連する確率を公式化し始めた。微積分の発明は、ランダム性の形式化の研究に良い影響を与えた。ジョン・ベンは著書 \"The Logic of Chance\" の1888年版で、乱数の概念についての章を書いた。その章には、2次元のランダムウォークを構築するのに円周率の数字のランダム性を使うことも含まれていた。",
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"text": "二値数列のランダム性には多くの実用的な尺度がある。その中には、頻度、離散変換(英語版)、複雑性に基づく、またはこれらを併用した尺度があり、Kak、Phillips、Yuen、Hopkins、Beth & Dai、Mund、Marsaglia & Zamanのテストなどがある。",
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] | ランダムとは、事象の発生に法則性(規則性)がなく、予測が不可能な状態である。ランダムネス、無作為性(むさくいせい)ともいう。 事象・記号などのランダムな列には秩序がなく、理解可能なパターンや組み合わせに従わない。個々のランダムな事象は定義上予測不可能であるが、多くの場合、何度も試行した場合の結果の頻度は予測可能である。例えば、2つのサイコロを投げるとき、1回ごとの出目は予測できないが、合計が7になる頻度は4になる頻度の2倍になる。この見方では、ランダム性とは結果の不確実性の尺度であり、確率・情報エントロピーの概念に適用される。 数学、確率、統計の分野では、ランダム性の正式な定義が使用される。統計では、事象空間の起こり得る結果に数値を割り当てたものを確率変数という。この関連付けは、事象の確率の識別および計算を容易にする。確率変数の列をランダム系列(random sequence)という。ランダム過程(不規則過程、確率過程)は、結果が決定論的パターンに従わず、確率分布によって記述される進化に従う確率変数の列である。これらの構造と他の構造は、確率論や様々なランダム性の応用に非常に有用である。 ランダム性は、よく定義された統計的特性を示すために統計で最も頻繁に使用される。ランダムな入力(乱数発生器や擬似乱数発生器など)に依存するモンテカルロ法は、計算科学などの科学において重要な技術である。これに対し、準モンテカルロ法では乱数列ではなく一様分布列を使用している。 無作為抽出は、ある項目を選択する確率が母集団内におけるその項目の割合と一致している集団から項目を選択する方法である。例えば、赤い石10個と青い石90個を入れた袋に入れた場合、この袋から何らかのランダム選択メカニズムによって石を1個選択した時にそれが赤い石である確率は1/10である。しかし、ランダム選択メカニズムによって実際に10個の石を選択したときに、それが赤1個・青9個であるとは限らない。母集団が識別可能な項目で構成されている状況では、ランダム選択メカニズムは、選択される項目に等しい確率を必要とする。つまり、選択プロセスが、母集団の各メンバー(例えば、研究対象)が選択される確率が同じである場合、選択プロセスはランダムであると言うことができる。 | {{selfref|Wikipediaの記事のランダム表示については[[特別:おまかせ表示]]を参照。}}
'''ランダム'''({{lang-en|Random}})とは、[[事象 (確率論)|事象]]の発生に[[法則]]性([[規則]]性)がなく、{{仮リンク|予測可能性|en|predictability|label=予測が不可能}}な状態である<ref group="注釈">『[[オックスフォード英語辞典]]』では"random"を"Having no definite aim or purpose; not sent or guided in a particular direction; made, done, occurring, etc., without method or conscious choice; haphazard."(明確な目的や目的がない。特定の方向に送信されたり誘導されたりすることがない。方法や意識的な選択なしに、作成、完了、発生すること。行き当たりばったり。)と定義している。</ref>。'''ランダムネス'''({{lang-en|randomness|links=no}})、'''無作為性'''(むさくいせい)ともいう。
事象・[[記号]]などのランダムな列には[[秩序]]がなく、理解可能なパターンや組み合わせに従わない。個々のランダムな事象は定義上予測不可能であるが、多くの場合、何度も試行した場合の結果の[[頻度]]は予測可能である。例えば、2つの[[サイコロ]]を投げるとき、1回ごとの出目は予測できないが、合計が7になる頻度は4になる頻度の2倍になる。この見方では、ランダム性とは結果の不確実性の尺度であり、[[確率]]・[[情報量|情報エントロピー]]の概念に適用される。
数学、確率、統計の分野では、ランダム性の正式な定義が使用される。統計では、事象空間の起こり得る結果に数値を割り当てたものを[[確率変数]](random variable<ref group="注釈">直訳すると「ランダム変数」だが、日本語の術語では「確率変数」という。</ref>)という。この関連付けは、事象の確率の識別および計算を容易にする。確率変数の列を{{仮リンク|ランダム系列|en|random sequence}}(random sequence)という。ランダム過程(不規則過程、[[確率過程]])は、結果が[[決定論]]的パターンに従わず、[[確率分布]]によって記述される進化に従う確率変数の列である。これらの構造と他の構造は、[[確率論]]や様々なランダム性の応用に非常に有用である。
ランダム性は、よく定義された統計的特性を示すために統計で最も頻繁に使用される。ランダムな入力({{仮リンク|乱数発生|en|random number generation|label=乱数発生器}}や[[擬似乱数]]発生器など)に依存する[[モンテカルロ法]]は、[[計算科学]]などの科学において重要な技術である<ref>[http://www.people.fas.harvard.edu/~junliu/Workshops/workshop2007/ Third Workshop on Monte Carlo Methods], Jun Liu, Professor of Statistics, Harvard University</ref>。これに対し、{{仮リンク|準モンテカルロ法|en|quasi-Monte Carlo method}}では乱数列ではなく一様分布列を使用している。
[[無作為抽出]](random selection)は、ある項目を選択する確率が母集団内におけるその項目の割合と一致している集団から項目を選択する方法である。例えば、赤い石10個と青い石90個を入れた袋に入れた場合、この袋から何らかのランダム選択メカニズムによって石を1個選択した時にそれが赤い石である確率は1/10である。しかし、ランダム選択メカニズムによって実際に10個の石を選択したときに、それが赤1個・青9個であるとは限らない。母集団が識別可能な項目で構成されている状況では、ランダム選択メカニズムは、選択される項目に等しい確率を必要とする。つまり、選択プロセスが、母集団の各メンバー(例えば、研究対象)が選択される確率が同じである場合、選択プロセスはランダムであると言うことができる。
== 歴史 ==
{{Main|{{ill|ランダム性の歴史|en|History of randomness}}}}
[[File:Pompeii - Osteria della Via di Mercurio - Dice Players.jpg|thumb|[[ポンペイ]]でサイコロ遊びをする人を描いた古代の[[フレスコ画]]]]
古代の歴史において、偶然性とランダム性の概念は運命の概念と絡み合っていた。古代、多くの人々は運命を決定するために[[サイコロ]]を投げたが、これは後に偶然性を利用したゲームに発展した。古代のほとんどの文化では、ランダム性と運命を回避するために様々な方法の[[占い]]を行っていた<ref>''Handbook to life in ancient Rome'' by Lesley Adkins 1998 {{ISBN2|0-19-512332-8}} page 279</ref><ref>''Religions of the ancient world'' by Sarah Iles Johnston 2004 {{ISBN2|0-674-01517-7}} page 370</ref>。
3000年前の中国人は、おそらく、確率や偶然性を形式化した最も初期の人々だった。ギリシャの哲学者は、長さのランダム性について議論したが、非定量的な形でしかできなかった。16世紀になってイタリアの数学者たちは、様々な偶然性を利用したゲームに関連する確率を公式化し始めた。[[微積分]]の発明は、ランダム性の形式化の研究に良い影響を与えた。[[ジョン・ベン]]は著書 "The Logic of Chance" の1888年版で、乱数の概念についての章を書いた。その章には、2次元の[[ランダムウォーク]]を構築するのに[[円周率]]の数字のランダム性を使うことも含まれていた<ref>''Annotated readings in the history of statistics'' by Herbert Aron David, 2001 {{ISBN2|0-387-98844-0}} page 115. Note that the 1866 edition of Venn's book (on Google books) does not include this chapter.</ref>。
20世紀初頭、確率の数学的基盤への様々なアプローチが導入されたことにより、ランダム性の形式的分析が急速に拡大した。20世紀半ばから後半にかけて、[[アルゴリズム情報理論]]のアイデアは、[[アルゴリズム的ランダムな無限列|アルゴリズム的ランダム性]]という概念を介して、この分野に新しい次元をもたらした。
何世紀にもわたって、ランダム性は邪魔なもの・有害なものと見なされてきたが、20世紀にコンピュータ科学者は、ランダム性を意図的に計算に導入することが、より良いアルゴリズムを設計するための効果的なツールになることを認識し始めた。このような[[乱択アルゴリズム|ランダム化されたアルゴリズム]]は、最良の決定論的手法よりも優れている場合もある。
== 科学 ==
多くの科学の分野がランダム性に関係している。
{{div col|colwidth=20em}}
* [[アルゴリズム的確率]]
* [[カオス理論]]
* [[暗号理論]]
* [[ゲーム理論]]
* [[情報理論]]
* [[パターン認識]]
* [[確率論]]
* [[量子力学]]
* [[統計力学]]
* [[統計学]]
{{div col end}}
=== 物理学 ===
19世紀、科学者は、[[熱力学]]の現象や{{仮リンク|気体の法則|en|gas laws|label=気体の性質|redirect=1}}を説明するための[[統計力学]]の発展に、分子のランダムな動きの概念を用いた。
[[量子力学]]のいくつかの標準解釈によれば、[[微視的]]現象は客観的にランダムである<ref>[http://www.nature.com/nature/journal/v446/n7138/abs/nature05677.html Nature.com] in [[Bell's aspect experiment]]: ''[[ネイチャー|Nature]]''</ref>。つまり、実験において、因果関係のある全てのパラメータを制御したとしても、結果のいくつかの側面は依然としてランダムに変化する。例えば、制御された環境に単一の不安定な[[原子]]が置かれている場合、原子が減衰するのにどれくらいの時間がかかるかを予測することはできない<ref>"Each nucleus decays spontaneously, at random, in accordance with the blind workings of chance." ''Q for Quantum'', {{仮リンク|ジョン・グリビン|en|John Gribbin|label=John Gribbin}}</ref>。従って、量子力学では個々の実験の結果を特定するのではなく、確率のみを指定する。[[隠れた変数理論]]は、性質が既約のランダム性を含んでいるという見解を拒絶する。この理論では、無作為に見える過程において、ある統計的分布を有する特性が裏で働いて、それぞれの場合に結果を決定すると仮定する。
[[物性物理学]]では、“ランダムな系”と言うと、“乱れた系”という意味合いがある。ランダムな系としては、[[長距離秩序]]のない[[ガラス]]や[[アモルファス]]がある([[短距離秩序]]はあるので、その意味では完全なランダムではない)。
=== 生物学 ===
{{仮リンク|現代進化論|en|modern synthesis}}では、観察される生物の多様性は、ランダムな[[突然変異]]とそれに続く[[自然選択説|自然選択]]に帰する。後者は、突然変異した遺伝子がそれを有する個体に与える生存と再生のための系統的に改善された機会のために、[[遺伝子プール]]にいくつかのランダムな変異を保持する。
何人か著者はまた、進化と発達には特定の形のランダム性、すなわち質的に新しい行動の出現を必要とすると主張する。いくつかの予め与えられたものからの可能性の選択の代わりに、このランダム性は新しい可能性の形成に対応する<ref>{{Cite journal|last=Longo|first=Giuseppe|last2=Montévil|first2=Maël|last3=Kauffman|first3=Stuart|date=2012-01-01|year=|title=No Entailing Laws, but Enablement in the Evolution of the Biosphere|url=https://www.academia.edu/11720588/No_entailing_laws_but_enablement_in_the_evolution_of_the_biosphere|journal=Proceedings of the 14th Annual Conference Companion on Genetic and Evolutionary Computation|series=GECCO '12|location=New York, NY, USA|publisher=ACM|volume=|pages=1379–1392|doi=10.1145/2330784.2330946|isbn=9781450311786|via=}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Longo|first=Giuseppe|last2=Montévil|first2=Maël|date=2013-10-01|year=|title=Extended criticality, phase spaces and enablement in biology|url=https://www.academia.edu/11720575/Extended_criticality_phase_spaces_and_enablement_in_biology|journal=Chaos, Solitons & Fractals|series=Emergent Critical Brain Dynamics|volume=55|pages=64–79|doi=10.1016/j.chaos.2013.03.008|via=}}</ref>。
生物の特性は、決定論的に(例えば、遺伝子および環境の影響下で)、そしてある程度ランダムに生じる。例えば、人の皮膚に現れる[[そばかす]]の密度は、遺伝子や光の暴露によって決まるが、個々のそばかすの正確な位置はランダムに見える<ref>{{cite journal |last= Breathnach |first= A. S. |year= 1982 |title= A long-term hypopigmentary effect of thorium-X on freckled skin |journal= British Journal of Dermatology |volume= 106 |issue= 1 |pages= 19–25 |doi= 10.1111/j.1365-2133.1982.tb00897.x |quote= The distribution of freckles seems entirely random, and not associated with any other obviously punctuate anatomical or physiological feature of skin. |pmid= 7059501}}</ref>。
行動に関しては、動物が他者に予測不可能なやり方で行動するために、ランダム性が重要となる。例えば、飛行中の昆虫は方向がランダムに変化する傾向があり、捕食者が軌道を予測するのを困難にする。
=== 数学 ===
[[確率]]の数学的理論は、偶然性のある事象の数学的記述を形式化するために生まれた。元々は[[ギャンブル]]のためであったが、後に物理学と関連づけられた。統計は、経験的な観測の集合の基礎となる[[確率分布]]を推測するために使用される。[[シミュレーション]]の目的のためには、必要に応じて[[乱数]]やそれを生成する手段が必要となる。
[[アルゴリズム情報理論]]は、他のトピックの中で、何が{{仮リンク|ランダム系列|en|random sequence}}を構成するかを研究する。基本的な考え方は、ある[[ビット列]]が、そのビット列を生成できるコンピュータプログラムよりも短い時かつその時に限り、そのビット列がランダムであるということである([[コルモゴロフ複雑性|コルモゴロフランダム性]])。これは、ランダムなビット列は[[データ圧縮|圧縮]]することができないということを意味する。この分野のパイオニアとしては、[[アンドレイ・コルモゴロフ]]とその学生である[[ペール・マルティン=レーフ]]、[[レイ・ソロモノフ]]、[[グレゴリー・チャイティン]]らがいる。無限列の概念については、通常、マルティン=レーフの定義を使用する。つまり、無限列は、それが全ての再帰的に列挙可能な{{仮リンク|ヌル集合|en|null set}}に耐える<!-- ここでのwithstandsの意味がわからない -->時かつその時に限り、ランダムである。ランダム系列の他の概念には、再帰的ランダム性およびシュノアランダム性がある(ただしこれに限定されない)。これらは、再帰的に計算可能な[[マルチンゲール]]に基づく。これらのランダム性の概念は一般に異なっていることが{{仮リンク|宋詠璿|en|Yongge Wang}}によって示された<ref>Yongge Wang: Randomness and Complexity. PhD Thesis, 1996. http://webpages.uncc.edu/yonwang/papers/thesis.pdf</ref>。
ランダム性は、[[対数|log(2)]]や[[円周率]](π)などの数値で発生する。πの小数部は無限の数列を構成し、循環的に繰り返されることはない。πなどの数字は[[正規数]]であると考えられている。これは、数字が統計的意味でランダムであることを意味する。
<blockquote>
πは確かにこのように振る舞うようである。πの小数点以下の最初の60億桁では、0から9までの数字がそれぞれ約6億回現れる。しかし、このような結果はおそらく偶発的なものであっても、基数10であっても、他の数の基底での正規性がはるかに低いことを証明していない<ref>{{cite web|url=http://www.lbl.gov/Science-Articles/Archive/pi-random.html |title=Are the digits of pi random? researcher may hold the key |publisher=Lbl.gov |date=2001-07-23 |accessdate=2012-07-27}}</ref>。</blockquote>
=== 統計学 ===
{{main|{{仮リンク|統計的ランダム性|en|Statistical randomness}}}}
[[統計学]]では、無秩序標本を作成するために一般にランダム性が使用される。これにより、完全にランダムなグループのアンケートで現実的なデータを提供することができる。これを行う一般的な方法には、[[くじ]]を引く、[[乱数表]]を使用するなどがある。乱数表は、乱数の大きな表である。
=== 情報科学 ===
[[情報科学]]では、無関係な、または無意味なデータは[[ノイズ]]とみなされる。ノイズは、統計的にランダム化された時間分布を伴う多数の一時的な外乱から構成される。
{{仮リンク|通信理論|en|communication theory}}では、信号のランダム性は「ノイズ」と呼ばれ、信号源に起因する変動の成分である「信号」に相対している。
=== 経済学 ===
[[ランダム・ウォーク理論|ランダムウォーク仮説]]では、組織された[[市場]]における資産価格は、変化の[[期待値]]はゼロであるが実際の価値は正または負となる可能性があるという意味で、ランダムに変動すると考える。より一般的には、資産価格は、一般的な経済環境における様々な予期せぬ出来事の影響を受ける。
== 日本工業規格 ==
[[日本工業規格]]では、「集会の要素をランダムな順序に並べる過程。母集団が1からnの自然数から成るとき,n!通りの順序が等しい確率で選ばれるとき,その選ばれた順序はランダムな順序とよばれる。」とランダム化を定義している<ref>[[JIS Z 8101]]-1 : 1999 [[統計]] − [http://kikakurui.com/z8/Z8101-1-1999-01.html 用語と記号 − 第1部:確率及び一般統計用語 2.65 ランダム化], [[日本規格協会]]</ref>。
== 政治 ==
[[選挙]]の投票結果が[[引き分け]]になった場合に、当選者を決定するための公平な方法として、くじ引きなどのランダム選択が行われることがある<ref>Municipal Elections Act (Ontario, Canada) 1996, c. 32, Sched., s. 62 (3) : "If the recount indicates that two or more candidates who cannot both or all be declared elected to an office have received the same number of votes, the clerk shall choose the successful candidate or candidates by lot."</ref>。
政治でのランダム性の使用は非常に古い。[[アテナイ|古代のアテネ]]では、公職者は希望する市民の中からくじ引きで選出されたため、投票は行われなかった。
日本では[[室町幕府]]6代将軍・[[足利義教]]がくじ引きによって選出された例として知られる。
== ランダム性と宗教 ==
過去と未来の全ての出来事を知っている全能の神によって宇宙が創造されたというような、いくつかの宗教における[[決定論]]的な考え方と、ランダム性は矛盾するとみなすことができる。宇宙が目的を持っているとするなら、偶然性は不可能であるとみなすことができる。これは、無作為な突然変異の結果であるという、[[進化]]に対する宗教的反対の根拠の一つである。
[[ヒンズー教]]と[[仏教]]の哲学は、[[業]]や[[因果]]という概念に反映されているように、いかなる出来事もそれ以前の出来事の結果であるとしており、偶然性のある出来事や、最初の出来事というものは存在しない。
いくつかの宗教では、乱数器として認識される手続きが占いに使用される。[[おみくじ]]は、[[神]]の意思を知る手段としてくじを引くものである。
== 応用 ==
{{main|{{仮リンク|ランダム性の応用|en|Applications of randomness}}}}
数学的、政治的、社会的、宗教的な用途の大部分で、ランダム性はその本来の公正さとバイアスの排除のために使用される。
; 政治
: [[アテナイの民主主義]]は[[イソノミア]](政治的権利の平等)の概念に基づいており、アテナイを運営していた支配委員会の地位が公平に配分されることを確実にするために、複雑な配当機を使用した。{{仮リンク|くじ引きによる公職者の決定|en|Sortition}}は、現在、アングロサクソンの法律制度における[[陪審員]]の選定や、[[徴兵制度|徴兵者]]の選定など、ランダム化によって「公平性」を近似している状況に限定されている。
; ゲーム
: 乱数は、[[ギャンブル]]のために最初に研究され、[[サイコロ]]、[[トランプ]]、[[ルーレット]]などの多くのランダム化デバイスがギャンブルで使用するために開発された。乱数を公平に生成する能力は、電子ギャンブルにとって不可欠であり、それを作成するために使用される方法は、通常、政府の{{仮リンク|ゲーム規制委員会|en|Gaming control board}}によって規制されている。[[宝くじ]]の当選者の決定には、ランダムなくじ引きが使用される。
; スポーツ
: [[アメリカンフットボール]]などのいくつかのスポーツでは、[[コイントス]]を使用してゲームの開始条件を選択したり、[[プレーオフ]]で{{仮リンク|シード権|en|seed (sports)}}を獲得するチームをランダムに選択したりする。[[NBA]]では、[[NBAドラフト]]での指名順位の上位をプレーオフに進出できなかったチームによる抽選で決定する。
; 数学
: 乱数は、[[世論調査]]のためのサンプリングや、[[品質管理]]システムでの統計的サンプリングなどでも使用される。[[モンテカルロ法]]や[[遺伝的アルゴリズム]]のように、いくつかの種類の問題の計算ソリューションは乱数を広範囲に使用する。
; 医学
: 臨床試験において、偏りを減らすためにランダムな割り振りが使用される([[ランダム化比較試験]])。
; 宗教
: ランダムであることを意図したものではないが、[[おみくじ]]のような様々な形の占いは、ランダムな事象が神の意志によるものとして行われるものである。
== 生成 ==
{{main|[[乱数生成]]}}
[[File:Roulette wheel.jpg|right|200px|thumb|[[ルーレット]]のボールは、その動作が初期条件に対して非常に敏感であるため、見かけのランダム性の源として使用できる。]]
システム内で(明らかに)ランダムな挙動の原因となる以下の3つのメカニズムが存在することが、一般に認められている。
# 環境によるランダム性([[ブラウン運動]]、[[ハードウェア乱数生成器]]など)
# 初期状態によるランダム性。この側面はカオス理論によって研究され、初期状態のわずかな変化に対して非常に敏感なシステム([[パチンコ]]や[[サイコロ]]など)で観察される。
# システムによって内因的に生成されるランダム性。これは[[疑似乱数]]とも呼ばれ、疑似乱数ジェネレータで使用される。[[算術]]または[[セルオートマトン]]に基づいた、擬似乱数の生成アルゴリズムは数多くある。システムの動作は、{{仮リンク|乱数シード|en|random seed}}の状態と使用されているアルゴリズムを知ることで判断できる。これらの方法は、環境から「真の」ランダム性を取得するよりも迅速である。
計算機による乱数発生器が出現する以前、(統計上重要な)十分な乱数を大量に生成するには、多くの作業が必要だった。結果は時々収集され、[[乱数表]]として配布された。
== 計量と検定 ==
{{main|{{仮リンク|ランダム性のテスト|en|Randomness tests}}}}
二値数列のランダム性には多くの実用的な尺度がある。その中には、頻度、{{仮リンク|離散変換|en|Discrete transform}}、[[複雑性]]に基づく、またはこれらを併用した尺度があり、Kak、Phillips、Yuen、Hopkins、Beth & Dai、Mund、Marsaglia & Zamanのテストなどがある<ref>Terry Ritter, Randomness tests: a literature survey. [http://www.ciphersbyritter.com/RES/RANDTEST.HTM ciphersbyritter.com]</ref>。
量子非局所性(Quantum Non-Locality))は、指定された数列の真のランダム性の存在を証明するために使用されている<ref>{{cite journal|last1=Pironio et.al|first1=S.|title=Random Numbers Certified by Bell's Theorem|journal=Nature|url=https://doi.org/10.1038/nature09008}}</ref>。
<!--
== Misconceptions and logical fallacies ==
{{main|Gambler's fallacy}}
Popular perceptions of randomness are frequently mistaken, based on fallacious reasoning or intuitions.
=== A number is "due" ===
{{See also|Coupon collector's problem}}
This argument is, "In a random selection of numbers, since all numbers eventually appear, those that have not come up yet are 'due', and thus more likely to come up soon." This logic is only correct if applied to a system where numbers that come up are removed from the system, such as when [[playing card]]s are drawn and not returned to the deck. In this case, once a jack is removed from the deck, the next draw is less likely to be a jack and more likely to be some other card. However, if the jack is returned to the deck, and the deck is thoroughly reshuffled, a jack is as likely to be drawn as any other card. The same applies in any other process where objects are selected independently, and none are removed after each event, such as the roll of a die, a coin toss, or most [[lottery]] number selection schemes. Truly random processes such as these do not have memory, making it impossible for past outcomes to affect future outcomes.
=== A number is "cursed" or "blessed" ===
{{See also|Benford's law}}
In a random sequence of numbers, a number may be said to be cursed because it has come up less often in the past, and so it is thought that it will occur less often in the future. A number may be assumed to be blessed because it has occurred more often than others in the past, and so it is thought likely to come up more often in the future. This logic is valid only if the randomisation is biased, for example with a loaded die. If the die is fair, then previous rolls give no indication of future events.
In nature, events rarely occur with perfectly equal frequency, so observing outcomes to determine which events are more probable makes sense. It is fallacious to apply this logic to systems designed to make all outcomes equally likely, such as shuffled cards, dice, and roulette wheels.
=== Odds are never dynamic ===
In the beginning of a scenario, one might calculate the probability of a certain event. The fact is, as soon as one gains more information about that situation, they may need to re-calculate the probability.
[[File:Monty open door.svg|thumb|100px|When the host reveals one door that contains a goat, this is new information.]]
Say we are told that a woman has two children. If we ask whether either of them is a girl, and are told yes, what is the probability that the other child is also a girl? Considering this new child independently, one might expect the probability that the other child is female is ½ (50%). But by building a [[probability space]] (illustrating all possible outcomes), we see that the probability is actually only ⅓ (33%). This is because the possibility space illustrates 4 ways of having these two children: boy-boy, girl-boy, boy-girl, and girl-girl. But we were given more information. Once we are told that one of the children is a female, we use this new information to eliminate the boy-boy scenario. Thus the probability space reveals that there are still 3 ways to have two children where one is a female: boy-girl, girl-boy, girl-girl. Only ⅓ of these scenarios would have the other child also be a girl.<ref name=NYOdds>{{cite news| url=https://www.nytimes.com/2008/06/08/books/review/Johnson-G-t.html?_r=1 | work=The New York Times | first=George | last=Johnson | title=Playing the Odds | date=8 June 2008}}</ref> Using a probability space, we are less likely to miss one of the possible scenarios, or to neglect the importance of new information. For further information, see [[Boy or girl paradox]].
This technique provides insights in other situations such as the [[Monty Hall problem]], a game show scenario in which a car is hidden behind one of three doors, and two goats are hidden as [[booby prize]]s behind the others. Once the contestant has chosen a door, the host opens one of the remaining doors to reveal a goat, eliminating that door as an option. With only two doors left (one with the car, the other with another goat), the player must decide to either keep their decision, or switch and select the other door. Intuitively, one might think the player is choosing between two doors with equal probability, and that the opportunity to choose another door makes no difference. But probability spaces reveal that the contestant has received new information, and can increase their chances of winning by changing to the other door.<ref name=NYOdds/>
-->
== 関連項目 ==
* [[アルゴリズム的確率]]
* {{仮リンク|Aleatory|en|Aleatory}}
* [[チャイティンの定数]]
* [[チャンス]]
* [[カオス理論]]
* [[暗号理論]]
* {{仮リンク|頻度確率|en|Frequency probability}}
* [[ゲーム理論]]
* [[情報理論]]
* {{仮リンク|非決定論|en|Indeterminism}}
* [[非線形システム論]]
* [[パターン認識]]
* {{仮リンク|予測可能性|en|Predictability}}
* {{Ill|確率の解釈|en|Probability interpretations}}
* [[確率論]]
* [[疑似乱数]]
* [[量子力学]]
* [[統計力学]]
* [[統計学]]
* [[ウラムの螺旋]]
* [[秩序]]
* [[確率]]
* [[無作為抽出]]
* [[モンテカルロ法]]
* [[乱数列]]
* [[乱雑位相近似]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
* ''Randomness'' by Deborah J. Bennett. Harvard University Press, 1998. {{ISBN2|0-674-10745-4}}.
* ''Random Measures, 4th ed.'' by [[Olav Kallenberg]]. Academic Press, New York, London; Akademie-Verlag, Berlin, 1986. {{MR|0854102}}.
* ''The Art of Computer Programming. Vol. 2: Seminumerical Algorithms, 3rd ed.'' by [[Donald Knuth|Donald E. Knuth]]. Reading, MA: Addison-Wesley, 1997. {{ISBN2|0-201-89684-2}}.
* ''[[Fooled by Randomness]], 2nd ed.'' by [[Nassim Nicholas Taleb]]. Thomson Texere, 2004. {{ISBN2|1-58799-190-X}}.
* ''Exploring Randomness'' by [[Gregory Chaitin]]. Springer-Verlag London, 2001. {{ISBN2|1-85233-417-7}}.
* ''Random'' by Kenneth Chan includes a "Random Scale" for grading the level of randomness.
* ''The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules our Lives'' by [[Leonard Mlodinow]]. Pantheon Books, New York, 2008. {{ISBN2|978-0-375-42404-5}}.
* {{Cite book|和書|author=西岡康夫|year=2013|title=数学チュートリアル やさしく語る 確率統計|publisher=オーム社|isbn=9784274214073}}
* {{Cite book|和書|author=伏見康治|year=1942|title=確率論及統計論|publisher=河出書房|isbn=9784874720127|url= http://ebsa.ism.ac.jp/ebooks/ebook/204}}
* {{Cite book|和書|author=日本数学会|year=2007|title=数学辞典|publisher=岩波書店|isbn=9784000803090}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|randomness}}
* {{YouTube|AUSKTk9ENzg|An {{convert|8|ft|m|adj=mid|-tall}} Probability Machine (named Sir Francis) comparing stock market returns to the randomness of the beans dropping through the quincunx pattern.}} from Index Funds Advisors [http://www.ifa.com IFA.com]
* [http://www.quantumlab.de QuantumLab] Quantum random number generator with single photons as interactive experiment.
* [http://www.random.org Random.org] generates random numbers using atmospheric noises (see also {{Ill|Random.org|en|Random.org}}).
* [http://www.fourmilab.ch/hotbits/ HotBits] generates random numbers from radioactive decay.
* [http://random.irb.hr QRBG] Quantum Random Bit Generator
* [http://qrng.physik.hu-berlin.de/ QRNG] Fast Quantum Random Bit Generator
* [http://www.cs.auckland.ac.nz/CDMTCS/chaitin/sciamer.html Chaitin: Randomness and Mathematical Proof]
* [http://www.fourmilab.ch/random/ A Pseudorandom Number Sequence Test Program (Public Domain)]
* [http://etext.lib.virginia.edu/cgi-local/DHI/dhi.cgi?id=dv1-46 ''Dictionary of the History of Ideas'':] Chance
* [http://www.spaceandmotion.com/Philosophy-Free-Will-Determinism.htm Philosophy: Free Will vs. Determinism]
* [http://www.rahmnation.org RAHM Nation Institute]
* [http://www.wolframscience.com/nksonline/page-1067b-text History of randomness definitions], in [[Stephen Wolfram]]'s ''[[A New Kind of Science]]''
* [http://www.cs.auckland.ac.nz/~cristian/Calude361_370.pdf Computing a Glimpse of Randomness]
* [http://plato.stanford.edu/entries/chance-randomness/ Chance versus Randomness], from the [[Stanford Encyclopedia of Philosophy]]
{{統計学}}
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[[Category:数学に関する記事]] | null | 2023-07-07T20:36:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A0 |
9,196 | 結晶構造 | 結晶構造(けっしょうこうぞう) とは、結晶中の原子の配置構造のことをいう。
結晶構造は「基本構造」と「格子」の2つから成る。つまり基本構造と格子が決まれば、結晶構造も決まる。
基本構造とは一つの「格子点」に付随する構造である。ここで、格子点とは周囲の環境が同一である点のことをいい、特定の原子の位置には限られない。
また格子点は並進操作により無限に再現され、「格子」を作る。 格子点を結んだ領域で、適当な並進操作を繰り返すことで全空間を埋め尽くすことのできるものを「単位格子」と呼ぶ(「単位」という名前がつけられているが、いくら大きくてもいくつ格子点を含んでいても構わない)。 単位格子の中で格子点が頂点だけのもの、つまり格子点を平均で1つ含むような単位格子を「基本単位格子(または単純単位格子)」と呼ぶ。
結晶格子(けっしょうこうし)は、結晶の並進対称性を特徴付ける空間上の格子である。
実空間において、基本並進ベクトル a1, a2, a3 により、実格子ベクトル Rn は、
で表される。ここで、n = (n1, n2, n3) は任意の整数の組である。a1, a2, a3 が作る平行六面体が単位格子(すなわち単位胞)であり、この単位格子を3次元的に繰り返し並べたものが結晶である。そしてこの結晶を形作る格子が結晶格子であり、実格子ベクトル Rn の終点が格子点である。
結晶系は「必須の対称性」を定めることで、以下の7つの結晶系に分類される。次に、結晶格子を対称性により分類することを考える。単位胞の中にちょうど一つの原子を含むものを単純 (primitive) 格子と呼ぶが、結晶格子の対称性を考える上では、同じ結晶であっても単位胞に複数の原子を含むように記述したほうが見通しがよくなる場合がある。そこで、単純格子と、その単位胞の中心や単位胞の面の中心に原子を配置してできる格子を考える。このよう格子は3次元の場合 7 (対称性) × 4 (単純・底心・面心・体心) 種類あるが、ここからより小さな単位胞を使って記述しても単位胞の対称性を損なわないものを除くと14種類になる。このような14種類を (3次元) ブラベ格子 (Bravais Lattice) と呼ぶ。
2次元のブラベ格子(5種類)・3次元のブラベ格子(14種類)については以下の通り。なお、4次元のブラベ格子は64種類が存在する(詳細は英語版ページを参照)。
結晶格子を構成する原子または分子の中で、同じ性質や状態を持つもの同士が形成する部分的な格子のこと(この意味で部分格子とも言う)である。従って、種類の異なる原子、分子からなる副格子も定義可能である。
副格子の例としては、反強磁性体での上向きスピンを持つ原子と、下向きスピンを持つ原子が、それぞれ副格子を形成している。他にフェリ磁性体などのような磁気構造を持つ場合に副格子が存在する。勿論、磁性以外の性質、状態に関しての副格子も存在する。超格子構造でも副格子が重要な意味を持つ。
結晶構造はいろいろな方法で記述できる。単位格子を基にする方法以外にも、最密充填を基にする方法がある。原子を間隙が最も少なくなるように配置させた構造を最密充填構造という。
多くの結晶は多成分から成り、同じような結晶構造を持つものが多い。そのような結晶構造には以下のように名前が付けられている。 | [
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"text": "結晶系は「必須の対称性」を定めることで、以下の7つの結晶系に分類される。次に、結晶格子を対称性により分類することを考える。単位胞の中にちょうど一つの原子を含むものを単純 (primitive) 格子と呼ぶが、結晶格子の対称性を考える上では、同じ結晶であっても単位胞に複数の原子を含むように記述したほうが見通しがよくなる場合がある。そこで、単純格子と、その単位胞の中心や単位胞の面の中心に原子を配置してできる格子を考える。このよう格子は3次元の場合 7 (対称性) × 4 (単純・底心・面心・体心) 種類あるが、ここからより小さな単位胞を使って記述しても単位胞の対称性を損なわないものを除くと14種類になる。このような14種類を (3次元) ブラベ格子 (Bravais Lattice) と呼ぶ。",
"title": "結晶格子"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "2次元のブラベ格子(5種類)・3次元のブラベ格子(14種類)については以下の通り。なお、4次元のブラベ格子は64種類が存在する(詳細は英語版ページを参照)。",
"title": "結晶格子"
},
{
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"tag": "p",
"text": "結晶格子を構成する原子または分子の中で、同じ性質や状態を持つもの同士が形成する部分的な格子のこと(この意味で部分格子とも言う)である。従って、種類の異なる原子、分子からなる副格子も定義可能である。",
"title": "結晶格子"
},
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"tag": "p",
"text": "副格子の例としては、反強磁性体での上向きスピンを持つ原子と、下向きスピンを持つ原子が、それぞれ副格子を形成している。他にフェリ磁性体などのような磁気構造を持つ場合に副格子が存在する。勿論、磁性以外の性質、状態に関しての副格子も存在する。超格子構造でも副格子が重要な意味を持つ。",
"title": "結晶格子"
},
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"tag": "p",
"text": "",
"title": "結晶格子"
},
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"text": "結晶構造はいろいろな方法で記述できる。単位格子を基にする方法以外にも、最密充填を基にする方法がある。原子を間隙が最も少なくなるように配置させた構造を最密充填構造という。",
"title": "最密充填"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "多くの結晶は多成分から成り、同じような結晶構造を持つものが多い。そのような結晶構造には以下のように名前が付けられている。",
"title": "主な結晶構造"
}
] | 結晶構造(けっしょうこうぞう) とは、結晶中の原子の配置構造のことをいう。 | [[ファイル:Graphite ambient STM.jpg|サムネイル|[[走査型トンネル顕微鏡]]により観測された[[グラファイト]]表面の結晶構造]]
'''結晶構造'''(けっしょうこうぞう) とは、[[結晶]]中の[[原子]]の配置構造のことをいう。
== 分類 ==
結晶構造は「'''基本構造'''」と「'''格子'''」の2つから成る。つまり基本構造と格子が決まれば、結晶構造も決まる。
基本構造とは一つの「格子点」に付随する構造である。ここで、格子点とは周囲の環境が同一である点のことをいい、特定の原子の位置には限られない<ref>[[#実際|日本分析化学会(2002)]]、p. 2。</ref>。
また格子点は並進操作により無限に再現され、「格子」を作る。
格子点を結んだ領域で、適当な並進操作を繰り返すことで全空間を埋め尽くすことのできるものを「'''[[単位胞|単位格子]]'''」と呼ぶ(「単位」という名前がつけられているが、いくら大きくてもいくつ格子点を含んでいても構わない)。
単位格子の中で格子点が頂点だけのもの、つまり格子点を平均で1つ含むような単位格子を「基本単位格子(または単純単位格子)」と呼ぶ。
==結晶格子==
結晶格子(けっしょうこうし)は、結晶の[[並進対称性]]を特徴付ける[[空間]]上の[[格子 (数学)|格子]]である。
<!--(結晶格子では意味が曖昧すぎると思われる.英語ページには"crystal lattice"などという用語はない).-->
[[実空間]]において、基本並進ベクトル '''''a'''''<sub>1</sub>, '''''a'''''<sub>2</sub>, '''''a'''''<sub>3</sub> により、実格子ベクトル '''''R'''''<sub>''n''</sub> は、
:<math>\boldsymbol{R}_{n} = n_1 \boldsymbol{a}_1 + n_2 \boldsymbol{a}_2 + n_3 \boldsymbol{a}_3</math>
で表される。ここで、'''''n''''' = (''n''<sub>1</sub>, ''n''<sub>2</sub>, ''n''<sub>3</sub>) は任意の整数の組である。'''''a'''''<sub>1</sub>, '''''a'''''<sub>2</sub>, '''''a'''''<sub>3</sub> が作る平行六面体が単位格子(すなわち[[単位胞]])であり、この単位格子を3次元的に繰り返し並べたものが結晶である。そしてこの結晶を形作る格子が'''結晶格子'''であり、実格子ベクトル '''''R'''''<sub>n</sub> の終点が格子点である。
===結晶系・ブラベ格子===
結晶系は「必須の対称性」を定めることで、以下の7つの結晶系に分類される。次に、結晶格子を対称性により分類することを考える。[[単位胞]]の中にちょうど一つの原子を含むものを単純 (primitive) 格子と呼ぶが、結晶格子の対称性を考える上では、同じ結晶であっても単位胞に複数の原子を含むように記述したほうが見通しがよくなる場合がある。そこで、単純格子と、その単位胞の中心や単位胞の面の中心に原子を配置してできる格子を考える。このよう格子は3次元の場合 7 (対称性) × 4 (単純・底心・面心・体心) 種類あるが、ここからより小さな単位胞を使って記述しても単位胞の対称性を損なわないものを除くと14種類になる。このような14種類を (3次元) '''ブラベ格子''' (Bravais Lattice) と呼ぶ<ref name="ibach">{{cite book |title=Solid-State Physics|first1=Harald|last1=Ibach|first2=Hans|last2=Lüth|year=2003|origyear=1981|publisher=Springer|isbn=3-540-43870-X|chapter=2 Structure of solid matter}} (日本語訳版 {{cite book |和書|title=固体物理学|author1=H.イバッハ|author2=H.リュート|isbn=978-4621061404}}) </ref><ref>http://pmsl.planet.sci.kobe-u.ac.jp/~seto/class/V/supplement2-1.pdf)</ref>。
2次元のブラベ格子(5種類)・3次元のブラベ格子(14種類)については以下の通り。なお、4次元のブラベ格子は64種類が存在する(詳細は[[:w:Crystal system#Crystal systems in four-dimensional space|英語版ページ]]を参照)。
{| class="wikitable" style="text-align:center;background:#ffffff;white-space:nowrap;font-size:85%"
|+2次元のブラベ格子
!分類
!colspan=2|ブラベ格子
!rowspan=2|図
|-
!Crystal family
!単純<br />(P)
!面心<br />(C)
|-
|Monoclinic (m)
|斜方格子<br />(oblique)<br />{{small|右図1}}
|
|rowspan=4|[[File:2d-bravais.svg|450px]]
|-
|Orthorhombic (o)
|長方格子<br />(rectangular)<br />{{small|右図2}}
|面心長方格子<br />(centered rectangular)<br />{{small|右図3}}
|-
|Hexagonal (h)
|六方格子<br />(hexagonal)<br />{{small|右図4}}
|
|-
|Tetragonal (t)
|正方格子<br />(square)<br />{{small|右図5}}
|
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center;background:#ffffff;white-space:nowrap;font-size:85%"
|+3次元のブラベ格子
!colspan=3|分類
!rowspan=2|対称性
!rowspan=2|点群数
!rowspan=2|空間群数
!colspan=4|ブラベ格子
|-
!Crystal family<br />{{small|広義的分類}}
!Crystal system<br />([[結晶系]])<br />{{small|対称性による分類}}
!Lattice system<br />(格子系/結晶系)<br />{{small|格子による分類}}
!単純<br /> (P)
!底心<br /> (S or A/B/C)
!体心<br /> (I)
!面心<br /> (F)
|-
|colspan=3|[[三斜晶系]]<br />(triclinic; a)
|なし
|2
|2
||[[ファイル:Triclinic.png|80px|三斜晶]]<br />三斜格子<br />(aP)
|
|
|
|-
|colspan=3|[[単斜晶系]]<br />(monoclinic; m)
|1つの<br />2回回転軸/鏡映面
|3
|13
|[[ファイル:Monoclinic.png|80px|単斜晶, 単純]]<br />単純単斜格子<br />(mP)
|[[ファイル:Monoclinic-base-centered.png|80px|単斜晶, 底心]]<br />底心単斜格子<br />(mS)
|
|
|-
|colspan=3|[[直方晶系]](斜方晶系)<br />(orthorhombic; o)
|3つの直交した<br />2回回転軸/鏡映面
|3
|59
|[[ファイル:Orthorhombic.png|80px|斜方晶系, 単純]]<br />単純直方格子<br />(oP)
|[[ファイル:Orthorhombic-base-centered.png|80px|斜方晶系, 底心]]<br />底心直方格子<br />(oS)
|[[ファイル:Orthorhombic-body-centered.png|80px|斜方晶系, 体心]]<br />体心直方格子<br />(oI)
|[[ファイル:Orthorhombic-face-centered.png|80px|斜方晶系, 面心]]<br />面心直方格子<br />(oF)
|-
|colspan=3|[[正方晶系]]<br />(tetragonal; t)
|1つの<br />4回回転軸/4回回反軸
|7
|68
|[[ファイル:Tetragonal.png|80px|正方晶系, 単純]]<br />単純正方格子<br />(tP)
|
|[[ファイル:Tetragonal-body-centered.png|80px|正方晶系, 体心]]<br />体心正方格子<br />(tI)
|
|-
|rowspan=3|六方晶系<br />(hexagonal; h)
|style="height:4em;"|六方晶系<br />(hexagonal)
|rowspan=2|六方晶系<br />(hexagonal)
|1つの<br />6回回転軸/6回回反軸
|7
|27
|rowspan=2|[[ファイル:Hexagonal.png|80px|六方晶]]<br />六方格子<br />(hP)
|rowspan=2|
|rowspan=2|
|rowspan=2|
|-
|rowspan=2|三方晶系<br />(trigonal)
|rowspan=2|1つの<br />3回回転軸/3回回反軸
|rowspan=2|5
|18
|-
|菱面体晶系<br />(rhombohedral)
|7
|[[ファイル:Rhombohedral.png|80px|菱面体晶系]]<br />菱面体格子<br />(三方格子)<br />(hR)
|
|
|
|-
|colspan=3|[[立方晶系]](等軸晶系)<br />(cubic; c)
|4つの<br />3回回転軸
|5
|36
|[[ファイル:Cubic crystal shape.png|80px|立方晶系, 単純]]<br />単純立方格子<br />(cP)
|
|[[ファイル:Cubic-body-centered.png|80px|立方晶系, 体心]]<br />体心立方格子<br />(cI)
|[[ファイル:Cubic, face-centered.png|80px|立方晶系, 面心]]<br />面心立方格子<br />(cF)
|}
===副格子===
結晶格子を構成する原子または分子の中で、同じ性質や状態を持つもの同士が形成する部分的な格子のこと(この意味で部分格子とも言う)である。従って、種類の異なる原子、分子からなる副格子も定義可能である。
副格子の例としては、[[反強磁性]]体での上向きスピンを持つ原子と、下向きスピンを持つ原子が、それぞれ副格子を形成している。他に[[フェリ磁性]]体などのような磁気構造を持つ場合に副格子が存在する。勿論、磁性以外の性質、状態に関しての副格子も存在する。[[超格子]]構造でも副格子が重要な意味を持つ。
==最密充填==
結晶構造はいろいろな方法で記述できる。単位格子を基にする方法以外にも、最密充填を基にする方法がある。原子を間隙が最も少なくなるように配置させた構造を'''最密充填構造'''という。
* 最密充填構造
** [[六方最密充填構造]](hcp)
** [[面心立方格子構造]](fcc)または立方最密充填構造(ccp)
* 最密充填ではない構造
** [[単純立方格子構造]](cubic-P)
** [[体心立方格子構造]](cubic-I, bcc)
==主な結晶構造==
多くの結晶は多成分から成り、同じような結晶構造を持つものが多い。そのような結晶構造には以下のように名前が付けられている。
{|class=wikitable
!結晶構造
!SB記号<ref>{{Cite web|url=https://www.atomic-scale-physics.de/lattice/struk/index.html|title=Crystal Lattice Structures|accessdate=2019/07/25}}</ref>
!図
!主な例
!ボロノイ図形表現
|-
|style="text-align:center"|単純立方格子構造
|style="text-align:center"|Ah
|[[ファイル:Cpstructure.png|170x170ピクセル]]
|α-<chem>Po</chem>(低温)<ref>小岩昌宏、「[https://doi.org/10.2320/materia.38.144 ポロニウムの結晶構造]」『まてりあ』 1999年 38巻 2号 p.144-147,{{doi|10.2320/materia.38.144}}</ref>
|[[ファイル:Cubicfilling.png|サムネイル|center|立方体]]
|-
|style="text-align:center"|面心立方格子構造
|style="text-align:center"|A1
|[[ファイル:Fccstructure.png|170x170ピクセル]]
|<chem>Al</chem>, <chem>Ca</chem>, <chem>Ni</chem>, <chem>Cu</chem>, <chem>Ag</chem>, <chem>Au</chem>
|[[ファイル:Fccbmodel.png|サムネイル|center|菱形十二面体]]
|-
|style="text-align:center"|体心立方格子構造
|style="text-align:center"|A2
|[[ファイル:Bccstructure.png|169x169ピクセル]]
|<chem>Li</chem>, <chem>Na</chem>, <chem>K</chem>, <chem>V</chem>, <chem>Cr</chem>
|[[ファイル:Bccbr.png|サムネイル|center|切頂八面体]]
|-
|style="text-align:center"|六方最密充填構造
|style="text-align:center"|A3
|[[ファイル:Hpcstructure.png|169x169ピクセル]]
|<chem>Be</chem>, <chem>Mg</chem>, <chem>Ti</chem>, <chem>Co</chem>, <chem>Zn</chem>
|[[ファイル:Hexab.png|サムネイル|center|菱形台形十二面体]]
|-
|style="text-align:center"|ダイヤモンド構造
|style="text-align:center"|A4
|[[ファイル:Diamonds_glitter.png|158x158ピクセル]]
|<chem>C</chem>, <chem>Si</chem>, <chem>Ge</chem>, <chem>Sn</chem>
|[[ファイル:Diamondstructure.png|サムネイル|center|切頂四面体に正四面体の4等分の三角錐を貼り付けた16面体]]
|-
|style="text-align:center"|白スズ型構造
|style="text-align:center"|A5
|[[ファイル:WhiteSn.png|170x170ピクセル]]
|β-<chem>Sn</chem>
|[[ファイル:WhiteSnb.png|サムネイル|center|等面四面体(等面八面体の空隙あり)]]
|-
|style="text-align:center"|グラファイト構造
|style="text-align:center"|A9
|[[ファイル:Grafitest.png|170x170ピクセル]]
|<chem>C</chem>
|[[ファイル:Grafiteb.png|サムネイル|center|六角柱の側面に四角錐を3つ貼り付けた11面体+六角柱の側面に四角錐を3つ、天地面に六角錐を貼り付けた15面体]]
|-
|style="text-align:center"|A15型構造
|style="text-align:center"|A15
|[[ファイル:A15structure.jpg|150x150ピクセル]]
|<chem>Nb3Sn</chem>, <chem>V3Si</chem>, β-<chem>W</chem>, <chem>Nb3Al</chem>, <chem>Cr3O</chem>
|[[ファイル:Pyrite20spacefilling.png|サムネイル|center|黄鉄鉱型三角二十面体+楔形四面体]]
|-
|style="text-align:center"|塩化ナトリウム型構造
|style="text-align:center"|B1
|[[ファイル:NaCl-estructura cristalina.svg|150ピクセル]]
|<chem>NaCl</chem>, <chem>MgO</chem>, <chem>CoO</chem>
|[[ファイル:NNaCl.png|サムネイル|center|切稜立方体+立方体]]
|-
|style="text-align:center"|[[塩化セシウム型構造]]
|style="text-align:center"|B2
|[[ファイル:CsCl_crystal.png|150ピクセル]]
|<chem>CsCl</chem>, <chem>RbCl</chem>(高温高圧下)
|[[ファイル:SeClstructure.png|サムネイル|center|立方八面体+正八面体]]
|-
|style="text-align:center"|閃亜鉛鉱型構造
|style="text-align:center"|B3
|[[ファイル:Sphalerite-unit-cell-3D-balls.png|150ピクセル]]
|<chem>ZnS</chem>, <chem>HgS</chem>, <chem>CuCl</chem>
|[[ファイル:ZnSstructure.png|サムネイル|center|正八面体の4面に交互に正四面体の4等分の三角錐を貼り付けた16面体+正四面体]]
|-
|style="text-align:center"|ウルツ鉱型構造
|style="text-align:center"|B4
|[[ファイル:Wurtzite-unit-cell-3D-balls.png|150ピクセル]]
|<chem>ZnO</chem>, <chem>AlN</chem>, <chem>BeO</chem>, <chem>GaN</chem>
|[[ファイル:Urtustructure.png|サムネイル|center|菱形台形十二面体の2等分+菱形台形十二面体の2等分]]
|-
|style="text-align:center"|ヒ化ニッケル型構造
|style="text-align:center"|B8-1
|[[ファイル:NiAsst.png|170x170ピクセル]]
|<chem>NiAs</chem>, <chem>AuSn</chem>, <chem>CoTe</chem>, <chem>CrSe</chem>
|[[ファイル:NiAsb.png|サムネイル|center|菱形台形十二面体+菱形十二面体]]
|-
|style="text-align:center"|一酸化鉛型構造
|style="text-align:center"|B10
|[[ファイル:Pbost.png|170x170ピクセル]]
|<chem>PbO</chem>, <chem>FeSe</chem>, <chem>FeS</chem>
|[[ファイル:PbOboro.png|サムネイル|center|正八面体の片側4面に正四面体の4等分の三角錐を貼り付けた16面体+正四面体]]
|-
|style="text-align:center"|蛍石型構造
|style="text-align:center"|C1
|[[ファイル:CaF2structure.png|161x161ピクセル]]
|<chem>CaF2</chem>, <chem>CeO2</chem>
|[[ファイル:CaF2vo.png|サムネイル|center|正八面体+正四面体]]
|-
|style="text-align:center"|黄鉄鉱型構造
|style="text-align:center"|C2
|[[ファイル:FeS2st.png|170x170ピクセル]]
|<chem>FeS2</chem>, <chem>AuSb2</chem>, <chem>CaC2</chem>, <chem>CoS2</chem>, <chem>MnS2</chem>
|[[ファイル:FeS2b.png|サムネイル|center|立方体+切稜立方体の二等分]]
|-
|style="text-align:center"|赤銅鉱型構造
|style="text-align:center"|C3
|[[ファイル:Cu2Ost.png|170x170ピクセル]]
|<chem>Cu2O</chem>, <chem>Ag2O</chem>, <chem>Pb2O</chem>
|[[ファイル:Cu2Ob.png|サムネイル|center|正八面体+正四面体(空隙あり)]]
|-
|style="text-align:center"|ルチル型構造
|style="text-align:center"|C4
|[[ファイル:TiO2st.png|170x170ピクセル]]
|<chem>TiO2</chem>, <chem>MgF2</chem>, <chem>MnF2</chem>, <chem>NiF2</chem>, <chem>ZnF2</chem>
|[[ファイル:TiO2b.png|サムネイル|center|菱形六面体+菱形2面・台形2面・三角形2面からなる六面体]]
|-
|style="text-align:center"|ヨウ化カドミウム型構造
|style="text-align:center"|C6
|[[ファイル:CdI2st.png|170x170ピクセル]]
|<chem>CdI2</chem>
|[[ファイル:CdI2b.png|サムネイル|center|菱形十二面体+菱形十二面体]]
|-
|style="text-align:center"|フッ化ビスマス型構造
|style="text-align:center"|D0-3
|[[ファイル:BiF3st.png|170x170ピクセル]]
|<chem>BiF3</chem>, <chem>BiFe3</chem>, <chem>AlFe3</chem>
|[[ファイル:BiF3b.png|サムネイル|center|切頂八面体+切頂八面体]]
|-
|style="text-align:center"|酸化レニウム型構造
|style="text-align:center"|D0-9
|[[ファイル:ReO3structure.png|154x154ピクセル]]||<chem>ReO3</chem>, <chem>Cu3N</chem>, <chem>O3W</chem>, <chem>O3U</chem>
|[[ファイル:ReO3vo.png|サムネイル|center|重四角錐台+立方体]]
|-
|style="text-align:center"|<chem>Ni4Mo</chem>型構造
|style="text-align:center"|D1-a
|[[ファイル:Ni4Most.png|170x170ピクセル]]
|<chem>Ni4Mo</chem>, <chem>Ag4Lu</chem>, <chem>Ag4Sc</chem>, <chem>Au4Cr</chem>
|[[ファイル:Ni4Mob.png|サムネイル|center|扁平な切頂八面体+扁平な切頂八面体]]
|-
|style="text-align:center"|<chem>Al4Ba</chem>型構造
|style="text-align:center"|D1-3
|[[ファイル:Al4Bast.png|207x207ピクセル]]
|<chem>Al4Ba</chem>, <chem>ThCu2Si2</chem>, <chem>ThCr2Si2</chem>
|[[ファイル:Al4Bab.png|サムネイル|center|四面体+四角錐+直方体]]
|-
|style="text-align:center"|ホウ化カルシウム型構造
|style="text-align:center"|D2-1
|[[ファイル:B6Cast.png|170x170ピクセル]]
|<chem>B6Ca</chem>
|[[ファイル:B6Cab.png|サムネイル|center|切頂八面体+切頂八面体の6等分]]
|-
|style="text-align:center"|<chem>CaCu5</chem>型構造
|style="text-align:center"|D2-d
|[[ファイル:CaCu5st.png|170x170ピクセル]]
|<chem>CaCu5</chem>, <chem>Ag5Ba</chem>, <chem>CePt5</chem>, <chem>Ag3Al2La</chem>
|[[ファイル:CaCu5b.png|サムネイル|center|六角柱+四角柱+三角柱]]
|-
|style="text-align:center"|コランダム型構造
|style="text-align:center"|D5-1
|[[ファイル:Corundumst.png|225x225ピクセル]]
|α-<chem>Al2O3</chem>
|[[ファイル:Corundumb.png|サムネイル|center|立方体+正方形台形11面体]]
|-
|style="text-align:center"|[[ペロブスカイト型構造]]
|style="text-align:center"|E2-1
|[[ファイル:Perovskita-wiki.jpg|150ピクセル]]
|<chem>CaTiO3</chem>, <chem>LiNbO3</chem>, <chem>CaZrO3</chem>
|[[ファイル:Perobuskite.png|サムネイル|center|大菱形立方八面体+切頂八面体+立方体]]
|-
|style="text-align:center"|ウルマナイト型構造
|style="text-align:center"|F0-1
|[[ファイル:Ullmanite2.png|173x173ピクセル]]
|<chem>NiSSb</chem>, <chem>AsBaPt</chem>, <chem>AsPdS</chem>, <chem>BiIrS</chem>
|
|-
|style="text-align:center"|[[スピネル型構造]]
|style="text-align:center"|H1-1
|[[File:Spinelst.png|171x171ピクセル]]
|<chem>MgAl2O4</chem>, <chem>CaIn2S4</chem>, <chem>Al2CdS4</chem>
|[[ファイル:Spinelb.png|サムネイル|center|切頂八面体から屋根型3つと三角錐1つを取り去った13面体+直方体+四面体(空隙あり)]]
|-
|style="text-align:center"|リン酸銀型構造
|style="text-align:center"|H2-1
|[[ファイル:Ag3PO4st.png|170x170ピクセル]]
|<chem>Ag3PO4</chem>
|[[ファイル:Ag3PO4b.png|サムネイル|center|四面体+四面体+四角形8面・三角形12面の20面体の二等分(小さい八面体の空隙あり)]]
|-
|style="text-align:center"|CuAuⅠ型構造
|style="text-align:center"|L1-0
|[[ファイル:AuCust.png|171x171ピクセル]]
|<chem>CuAu</chem>, <chem>TiAl</chem>, <chem>NiPt</chem>, <chem>CoPt</chem>, <chem>FePd</chem>
|[[ファイル:AuCub.png|サムネイル|center|菱形12面体+菱形12面体]]
|-
|style="text-align:center"|K4結晶構造
|
|[[ファイル:K4nstructure.png|183x183ピクセル]]
|<chem>SrSi2</chem>中の<chem>Si</chem>, <chem>BaSi2</chem>中の<chem>Si</chem>
|
|}
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
==参考文献==
*{{cite book|和書|title=物質の対称性と群論|author=今野 豊彦|year=2001|publisher=共立出版|id=ISBN 978-4320034099}}
*{{cite book|1=和書 | title=粉末X線解析の実際 | publisher=[[朝倉書店]] | year=2002 | isbn=4-254-14059-2|others=日本分析化学会X線分析研究懇談会|ref=実際}}
==関連項目==
{{Commonscat|Crystal structures}}
*[[分子構造]]
*[[物性物理学]]
*[[結晶学]]、[[結晶]]
*[[鉱物学]]、[[鉱物]]
*[[点群]]
*[[群論]]
*[[空間群]]
*[[単位胞]]
*[[ミラー指数]]
*[[ウッドの記法]]
*[[ブリュアンゾーン]]
==外部リンク==
* [http://www.dawgsdk.org/crystal/ Flash Crystal Viewer]
* [http://crystdb.nims.go.jp/index.html Atomwork] - 無機材料データベース (国立研究開発法人 物質・材料研究機構)
* [http://www.aflowlib.org/ AFlow] - material database (Duke University, North Carolina)
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けつしようこうそう}}
[[Category:結晶]]
[[Category:結晶構造|*]]
[[Category:鉱物学]]
[[Category:対称性]]
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9,197 | 社会福祉学 | 社会福祉学(しゃかいふくしがく、Social Welfare)は、乳幼児、児童、少年、障害者、女性、高齢者、経済的困窮者などに代表される社会的弱者(制度的弱者とも言う)の福祉の増進と権利の擁護、及びそのための援助の方法、技術、また行政政策、福祉を考えた社会的な基盤と構造を考える学問。
福祉とは暮らしのあり方であり、生きるために欠かせない基礎的な生活要求、人として生きるための社会的な要求、健康かつ文化的に生きたいという文化的要求から成る。ノーマライゼーションやインテグレーションを一つの原則とする。なお、社会福祉学上で言う「インテグレーション」とは、単に統合教育の事を指すのではなく、それに限られぬより大きな社会制度・社会構造上の、子供を含む一般社会成員と社会制度的弱者との生活の合一・統合のことを指す。
政策レベルと対人援助にかかわるレベルと大きく分けて2種類に分かれ、対象者別の児童・家庭福祉論、高齢者福祉論、障害者福祉論や、社会福祉援助技術論など固有の領域のほか、社会福祉に関係する経済学・経営学・医学・心理学なども研究対象である。
社会学や法学・経済学、心理学や看護学から分化した学問と考えてよいが、かつては「福祉は制度であり、それ以上でもそれ以下でもない」という考え方があり、また対象分野の広範な広がりと名称先行の成立のため社会福祉学という考え方に難色を示す意見もあった。
上記のような経緯から、社会福祉学においては社会科学はもとより、人文科学や自然科学からのアプローチが可能な学際的領域の学問であり、言い換えれば広義の応用科学であると考えられる。同じ様なスタンスの学問に教育学がある。
社会福祉学の重たる源流は欧米域における慈善組織協会(COS)の友愛訪問活動に見られ、その活動の蓄積から心理学の手法を応用して効果的な運用を目指したことが、始まりとされている。
日本においてもCOSの理論が入る以前より四天王寺四箇院をはじめとして、個々の社会福祉事業は存在した。しかし明治時代までは、それらの成果はあくまでも個々の事業者のものとして扱われ、それらを学問的に体系づけて集積・分類し、学問として共有および次世代へと受け継がせていく形の試みは長らく成されていなかった。
日本において、初めて高等教育の機関が学問として社会事業(社会福祉事業)を扱うようになったのは同志社大学が1931年に文学部内に設置させた社会事業学科である。これに続く形で関西学院大学が1952年に文学部内に社会事業学科を設立した。この2校の社会事業学科設立の源流は賀川豊彦の影響によって中島重が1925年より主導した学生キリスト教運動および社会的基督教運動にある。また当時それらの恩恵の元に設立運営がなされていた灘生活協同組合が大きな影響を与えており、その中で社会福祉事業の学問的力動論(体系化)を提唱した嶋田啓一郎や、米国のケースワーク理論を日本に持ち帰りローカライズ体系化を行った竹内愛二などが賀川・中島の指導の元で大きな働きを見せた。のち竹内と嶋田は1960年に日本キリスト教社会福祉学会を設立している。
その後1957年に日本初の福祉専門の単科大学として日本福祉大学が設立された。のち1960年代より高まった障害者の社会運動や1970年代より始まった社会高齢化の高まりによって注目されることになる。1980年代頃に名称が先行し、その発展と共に中身が充実・発展してきた。
以降、社会福祉学は各地の私立大学による社会福祉学部の新設の下、私学主導という形で発展していく。その成果を基に、一般に広く開かれた学会として1954年に日本社会福祉学会が設立され、これが2010年に一般社団法人化し、日本の社会福祉学の要のひとつとして機能している。また一方で介護を主眼に置いた日本介護福祉学会が1993年に設立されている。 | [
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] | 社会福祉学は、乳幼児、児童、少年、障害者、女性、高齢者、経済的困窮者などに代表される社会的弱者(制度的弱者とも言う)の福祉の増進と権利の擁護、及びそのための援助の方法、技術、また行政政策、福祉を考えた社会的な基盤と構造を考える学問。 | {{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=学}}
'''社会福祉学'''(しゃかいふくしがく、Social Welfare)は、[[乳幼児]]、[[児童]]、[[少年]]、[[障害者]]、[[女性]]、[[高齢者]]、[[経済的困窮者]]などに代表される[[社会的弱者]](制度的弱者とも言う)の[[福祉]]の増進と[[権利]]の擁護、及びそのための援助の方法、技術、また行政[[政策]]、福祉を考えた社会的な基盤と構造を考える[[学問]]。
== 概要 ==
福祉とは暮らしのあり方であり、生きるために欠かせない基礎的な生活要求、人として生きるための社会的な要求、健康かつ文化的に生きたいという文化的要求から成る。[[ノーマライゼーション]]や[[インテグレーション]]を一つの原則とする。なお、社会福祉学上で言う「インテグレーション」とは、単に[[統合教育]]の事を指すのではなく、それに限られぬより大きな社会制度・社会構造上の、[[子供]]を含む一般社会成員と社会制度的弱者との生活の合一・統合のことを指す。
政策レベルと対人援助にかかわるレベルと大きく分けて2種類に分かれ、対象者別の[[児童・家庭福祉]]論、[[高齢者福祉]]論、[[障害者福祉]]論や、[[社会福祉援助技術]]論など固有の領域のほか、社会福祉に関係する経済学・経営学・医学・心理学なども研究対象である。
=== 総合的俯瞰 ===
[[社会学]]や[[法学]]・[[経済学]]、[[心理学]]や[[看護学]]から分化した学問と考えてよいが、かつては「福祉は[[制度]]であり、それ以上でもそれ以下でもない」という考え方があり、また対象分野の広範な広がりと名称先行の成立のため社会福祉学という考え方に難色を示す意見もあった。
上記のような経緯から、社会福祉学においては[[社会科学]]はもとより、[[人文科学]]や[[自然科学]]からのアプローチが可能な[[学際]]的領域の学問であり、言い換えれば広義の[[応用科学]]であると考えられる。同じ様なスタンスの学問に[[教育学]]がある。
=== 歴史 ===
{{see also|福祉|社会福祉の年表}}
社会福祉学の重たる源流は欧米域における[[慈善組織協会]](COS)の友愛訪問活動に見られ、その活動の蓄積から心理学の手法を応用して効果的な運用を目指したことが、始まりとされている。
=== 日本の社会福祉学 ===
{{see also|日本の福祉#歴史}}
[[日本]]においてもCOSの理論が入る以前より四天王寺四箇院をはじめとして、個々の社会福祉事業は存在した。しかし[[明治時代]]までは、それらの成果はあくまでも個々の事業者のものとして扱われ、それらを学問的に体系づけて集積・分類し、学問として共有および次世代へと受け継がせていく形の試みは長らく成されていなかった。
日本において、初めて高等教育の機関が学問として社会事業(社会福祉事業)を扱うようになったのは[[同志社大学]]が[[1931年]]に[[文学部]]内に設置させた社会事業学科である。これに続く形で[[関西学院大学]]が[[1952年]]に文学部内に社会事業学科を設立した。この2校の社会事業学科設立の源流は[[賀川豊彦]]の影響によって[[中島重]]が[[1925年]]より主導した学生キリスト教運動および社会的基督教運動にある。また当時それらの恩恵の元に設立運営がなされていた[[生活協同組合コープこうべ|灘生活協同組合]]が大きな影響を与えており、その中で社会福祉事業の学問的力動論(体系化)を提唱した[[嶋田啓一郎]]や、米国のケースワーク理論を日本に持ち帰り[[ローカライズ]]体系化を行った[[竹内愛二]]などが賀川・中島の指導の元で大きな働きを見せた。のち竹内と嶋田は[[1960年]]に[[日本キリスト教社会福祉学会]]を設立している。
その後[[1957年]]に日本初の福祉専門の単科大学として[[日本福祉大学]]が設立された。のち[[1960年代]]より高まった障害者の社会運動や[[1970年代]]より始まった社会高齢化の高まりによって注目されることになる。[[1980年代]]頃に名称が先行し、その発展と共に中身が充実・発展してきた。
以降、社会福祉学は各地の私立大学による[[社会福祉学部]]の新設の下、'''私学主導'''という形で発展していく。その成果を基に、一般に広く開かれた学会として[[1954年]]に[[日本社会福祉学会]]が設立され、これが[[2010年]]に[[一般社団法人]]化し、日本の社会福祉学の要のひとつとして機能している。また一方で[[介護]]を主眼に置いた[[日本介護福祉学会]]が[[1993年]]に設立されている。
== 著名な研究者 ==
{{see|category:日本の社会福祉学者}}
* [[竹内愛二]]
* [[中園康夫]]
* [[一番ヶ瀬康子]]
<!-- == 脚注 ==
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[日本社会福祉学会]]
* [[福祉]]
* [[職業指導]]
* [[保健福祉学]]
== 外部リンク ==
* [http://www.jssw.jp/ 日本社会福祉学会]
* [http://jsswp.org/ 日本社会福祉実践理論学会]
* [http://wwwsoc.nii.ac.jp/jracd/ 日本地域福祉学会]
* [http://wwwsoc.nii.ac.jp/sssp/ 社会政策学会]
* [http://hwelfare.umin.jp/ 保健福祉学会]
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9,198 | 亜鉛 | 亜鉛(あえん、英: zinc、羅: zincum)は、原子番号30の金属元素。元素記号は Zn。亜鉛族元素の一つ。安定な結晶構造は、六方最密充填構造 (HCP) の金属。必須ミネラル(無機質)16種の一つ。
鉛製造工業の副産物として得られていた亜鉛の表面は平滑ではなく、櫛の歯 (Zinken) のような筋状になっていたので、Zinkと呼ばれるようになった。
日本では真鍮を意味する鍮石という言葉は天平年間から記録があり、文禄年間には真鍮という名称に変化している。その当時すなわち16世紀終わり頃、亜鉛は中国名で倭鉛と呼ばれ、ポルトガルではツタンナガ (Tutanaga) といったが、これを日本ではトタン(吐丹)と呼んだ。
亜鉛という言葉は1713年(正徳3年)に『和漢三才図会』に記録されたのが最初であるとされる。
亜鉛は光沢を有し、反磁性を示す青味を帯びた銀白色の金属である。融点は419.5 °C、沸点は907 °Cと金属としては比較的低い。比重は鉄よりも小さく7.14。常温では脆いが、約100 〜150 °Cの範囲のみで展性、延性に富むようになる。210 °Cを超えると、再び脆性を示すようになる。亜鉛は良好な電気伝導体である。
単体金属の格子定数はa = 265.9 pm、c = 493.7 pm (25 °C) で、理想的な六方最密充填構造よりもやや c 軸方向に伸びている。c 軸方向の熱膨張率は a 軸方向の約3.5倍と異方性が強く現れ、線膨張率は a 軸方向(c 軸と垂直)は1.50×10 K、c 軸方向では5.30×10 Kである。亜鉛を曲げると双晶変化によるスズ鳴きが起こる。
亜鉛を含む合金は多く、銅との合金である真鍮がよく知られている。その他の亜鉛と二元合金を形成する金属としては、アルミニウム、アンチモン、ビスマス、金、鉄、鉛、水銀、銀、スズ、マグネシウム、コバルト、ニッケル、テルル、ナトリウムが知られている。亜鉛とジルコニウムは共に強磁性ではないが、その合金ZrZn2は35 K以下の温度で強磁性を示す。
亜鉛は周期表の第12族元素に属し、[Ar]3d4sの電子配置を取る。単体亜鉛は中程度の反応性を持つ金属であり、強還元剤として働く。純粋な金属の表面は湿った空気中で錆びて変色(英語版)しやすく、最終的には空気中の二酸化炭素との反応によって塩基性炭酸亜鉛からなる灰白色の不動態皮膜が形成される。
亜鉛は空気中で燃焼して明るい青緑色の炎色を発しながら酸化亜鉛のフュームとなる。
亜鉛は酸および塩基と容易に反応し、極めて純度の高い亜鉛では室温において酸とのみ徐々に反応する。塩酸や硫酸のような強酸は不動態皮膜を除去することができるため、不動態が除去された金属表面と継続的に反応して水素を発生させる。希硝酸に溶解させた場合は濃度により、亜酸化窒素、窒素、ヒドロキシルアミンあるいはアンモニウムイオンを生成する。
亜鉛の化学は2価の酸化状態が支配的である。2価の酸化状態にあるとき、亜鉛の電子殻は最外殻の4s軌道の電子が失われた状態となり[Ar]3dの電子配置となる。水溶液中においては主に6配位錯体の[Zn(H2O)6]の形をとる。亜鉛と塩化亜鉛の混合物を285度以上で揮発させることで、+1価の酸化状態の亜鉛化合物であるZn2Cl2が形成される。+1価および+2価以外の酸化状態を取る亜鉛化合物の存在は知られておらず、計算化学による解析からは4価の亜鉛化合物は存在し得ないだろうことが示されている。
亜鉛の化学的性質は錯形成能などの面においては銅やニッケルのような第4周期後半の遷移金属元素に類似しているが、d軌道が満たされている電子配置に起因してその化合物は反磁性を示し、またその多くは無色である。亜鉛とマグネシウムのイオン半径はほぼ同じであるため、同種の陰イオンと形成する塩同士では同じ結晶構造を取り、その他のイオン半径に支配される性質においても多くの場合はマグネシウムのそれと同等である。亜鉛は共有結合性の強い結合を形成し、また窒素や硫黄をドナー原子としてより安定な錯体を形成する傾向がある。亜鉛の錯体は主に4配位もしくは6配位を取るが、5配位の錯体も知られている。
ハロゲンとは室温において乾燥状態では反応しにくいが、水分の存在下で室温でも激しく反応し、硫黄とは高温で硫化物をつくる。一方、水素、炭素および窒素とは高温でも直接は反応しない。
亜鉛の地殻中の存在比はおよそ75から80 ppmと推定されており、その存在比は全元素中24番目である。土壌濃度は5-770 ppm、平均で65 ppmである。海水中にはわずかに30 ppb、大気中には0.1-4 μg/mが含まれる。
亜鉛は通常、銅や鉛などの鉱石中でベースメタルに伴って産出する。亜鉛は親銅元素であり、酸化物よりもむしろ硫化物を形成しやすい性質を有している。このような親銅元素鉱石は、初期の地球大気の還元雰囲気下でマグマオーシャンが凝固し地殻となった際に形成されたものと考えられている。硫化亜鉛からなる閃亜鉛鉱は60-62 %と高濃度に亜鉛を含むため、最も多く採掘されている亜鉛鉱物である。他の亜鉛源となる鉱物としては菱亜鉛鉱、異極鉱、ウルツ鉱、水亜鉛土(英語版)などがある。これらの鉱物はウルツ鉱を除き全て、元の硫化亜鉛鉱物の風化によって二次的に形成された鉱物である。
全世界の亜鉛の資源量はおよそ19-28億トンと見られている。大規模な鉱床はオーストラリア、カナダおよびアメリカにあり、埋蔵量が最も多いのはイランである。亜鉛の可採埋蔵量は、アメリカ地質調査所による2015年における推定において亜鉛純分としておよそ2億3000万トンと見積もられている。有史以来2002年までの間におよそ3億4600万トンの亜鉛が採掘され、うち1億900万トンから3億500万トンの亜鉛が今も使用されていると学者によって推定されている。
亜鉛の沸点が同族のカドミウム、水銀と同様に低いため、酸化亜鉛を木炭などで還元して金属を得ようとしても昇華してしまい煙突の先端で空気中の酸素と反応し酸化物に戻る。この場合、鉱石を還元して生成した蒸気を空気を遮断して冷却しなければ単体は得られない。
亜鉛は少なくとも紀元前4000年から銅との合金である黄銅(真鍮)として用いられて来た。古代ギリシア人はキプロス産の亜鉛化合物について記述している。ローマ征服前のダキア人(現在のルーマニア)は紀元前から金属亜鉛精錬技術に通じていた。ダキア以前に金属亜鉛を得た民族は見つかっておらず、ダキア以外のヨーロッパで金属亜鉛を精錬するようになったのは産業革命が始まってからである。
インドでもダキア人とは独立に亜鉛精錬技術を発見し、12世紀にはウールを還元剤として金属亜鉛を得ていた。12世紀から16世紀までに100万トン以上の亜鉛を製造したと考えられている。インドの技術はやがて中国に渡り、16世紀には中国でも亜鉛生産が始まっている。
ヨーロッパ人として金属亜鉛に初めて接したのはポルトガル人だった。ポルトガル人は亜鉛の重要性に気づいておらず、ポルトガル商船を拿捕したオランダ人によって西欧に金属亜鉛が持ち込まれた。1509年にニュルンベルクのエベナーが初めて欧州での金属亜鉛の生産をはじめた。1620年にはヨーロッパで東洋起源の金属亜鉛の販売が始まった。1737年に、中国から亜鉛精錬技術がイギリスに伝わる。1743年、ヨーロッパ初の亜鉛工場が港湾都市ブリストルに建設された。年間生産量は200トンである。同年スウェーデン人のアントン・フォン・シュワープが炭酸亜鉛から亜鉛を蒸留分離することに成功、硫化亜鉛からも抽出できた。これはイギリス人の製法とは独立である。1746年、ドイツ人アンドレアス・マルクグラーフは他の2国とは独立に金属亜鉛を得る。コークスと酸化亜鉛を加熱する際、空気を断つことが成功につながった。結局、マルクグラーフの手法が金属亜鉛の大規模生産へとつながっていく。このため、マルクグラーフこそが亜鉛の発見者であると位置づけられることがある。1798年に水平レトルト精錬法という、耐火性容器に石炭と亜鉛鉱石を入れて加熱し、亜鉛を蒸留精錬する方法による精錬工場が建設された。
従来、日本では真鍮は江戸時代になって普及したと考えられていた。しかし、12世紀の平安時代、鳥羽上皇の皇后、美福門院が高野山に奉納した「紺紙金字一切経」に、真鍮が大量に使われていることが判明し、すでにこの時代には日本でも真鍮が使われていたようである。
1850年代には米国のヒルツが亜鉛生産を開始した。1881年にフランスのルトランジュが電解法を発明した。
日本国内における金属亜鉛の製錬は1889年(明治22年)に黒鉱の処理から開始された。蒸留亜鉛が商業ベースで生産され、電気亜鉛の生産が神岡鉱山で開始されたのは共に1910年(明治43年)頃である。1910年代になると世界各地で亜鉛の電解精錬がはじまった。
亜鉛鉱としては閃亜鉛鉱 (ZnS) や菱亜鉛鉱 (ZnCO3) が主要であり、日本の亜鉛鉱山は閃亜鉛鉱が主である。細かく破砕された鉱石から浮遊選鉱などで脈石・銅鉱物・鉛鉱物などを分離したものは亜鉛精鉱と呼ばれる(亜鉛含量 50-58 %)。亜鉛精鉱は焼結により団塊とされることが多い。亜鉛精鉱は焙焼により酸化亜鉛(亜鉛焼鉱)とされた後に、乾式製錬法もしくは湿式製錬法(電解精錬)により金属亜鉛に製錬される。
閃亜鉛鉱にはカドミウムが、菱亜鉛鉱には鉛が随伴するため、亜鉛精錬においてはこれらの有害金属が環境放出されないように制御される。
乾式製錬法は、炭素(コークスまたは無煙炭)により酸化亜鉛の焼鉱を還元し、生成した金属亜鉛を揮発回収して蒸留亜鉛を作る方法である。還元炉の形式により、水平レトルト蒸留法・立形レトルト蒸留法(竪型レトルト法・New Jersey 法)・電熱蒸留法・ISP 法などに大別される。
蒸留亜鉛は耐火粘土製コンデンサー(受け皿)に導いて冷却し液状亜鉛として捕集されるが、鉛 (bp. 1744 °C)、カドミウム (bp. 765 °C) を含む。これらの不純物はダイカスト用亜鉛において粒界腐食を起こす原因ともなるので、分別蒸留によりさらに高純度に精製される。鉛は揮発しない温度に保たれ、カドミウムは先に揮発させて分別する。
電熱蒸留法では、亜鉛焼鉱とコークス粒の混合物に直接電流を通し加熱する円筒電気炉を使用する。この方法では亜鉛1トン当たり3000 kWhの電力と500 kgのコークスを必要とする。ISP 法は鎔鉱炉製錬法とも呼ばれ、炉内で生成する亜鉛蒸気を鎔融鉛のシャワーに吸収させ、この亜鉛を4.6%含む560 °Cの鎔融金属を440 °Cまで冷却すると鎔融鉛に対する亜鉛の溶解度が2.1%まで低下し、ほぼ純粋な鎔融亜鉛が分離して浮き上がるため、これを回収する。
湿式製錬法では、酸化亜鉛の焼鉱を硫酸に溶かした硫酸亜鉛の水溶液とし電解して金属を得る。
この硫酸亜鉛溶液は不純物を含むため、まず少量の二酸化マンガンを加えて鉄イオンを2価から3価へ酸化した後、鉄・ヒ素・アンチモンを沈殿させる。続いて少量の亜鉛末を加えて銅・ニッケル・コバルトおよびカドミウムを単体をして析出除去する。この精製した硫酸亜鉛水溶液に希硫酸を加えて酸性とし、陰極にアルミニウム電極、陽極に不溶性の含銀鉛電極を用いて電解精錬する。陽極からは酸素、陰極からは亜鉛が析出し、純度 99.99 %以上の金属亜鉛が得られる。亜鉛はイオン化傾向が水素よりも大きく電位的に還元されにくい金属であるが、水素過電圧が高いため水溶液中であっても陰極に析出させることができる。
消費電力は亜鉛1トンあたり3000 - 4000 kWhである。酸化亜鉛の発熱量は約1.5kWh/kgであり電解の電力効率は半分以下でありお世辞にも高いとは言えない。これは充電式の空気亜鉛電池を実用化する上での障害となる。
酸化亜鉛は1000°C以上、十分な反応速度を確保するためには1500°C以上の高温を用いて熱分解できる。
2 ZnO ↽ − − ⇀ 2 Zn ( g ) + O 2 {\displaystyle {\ce {2ZnO <=> 2Zn(g) + O2}}}
そのままだと平衡状態に達して反応が停止してしまうので酸素を除去する必要が有る。銅などと反応させることで酸素を除去できる。酸化銅は水素と反応させ還元できる。水素と酸素を直接反応させると水蒸気が発生し著しく反応速度が低下してしまうのでよくない。
電熱の他太陽光を集光することでも1500°C以上の高温を手に入れられる。アルミナであれば1500°Cの温度にも耐えられる。
一連の反応で高効率、二酸化炭素の排出なしで亜鉛を精錬できる。
亜鉛合金は融点が低く、寸法精度を出しやすく衝撃にも強い優れた性能があり、前出の真鍮や洋白などの合金は現在でも広く利用されている。安価で緻密な加工ができるダイカスト製品の地金にも亜鉛合金が多い。
酸化亜鉛 (亜鉛華)は白色の粉末状結晶で、亜鉛の蒸気を酸素と反応させることにより製造される。古くは鉛や水銀を原料としおしろいなどに用いられたがこれが中毒を引き起こすため、代替として顔料、医薬品、化粧品などとして用いられている。
このほか、酸化亜鉛は透明電極としても使われ、近年においては透明薄膜トランジスタの伝導膜としても使われる。ただし耐酸化性が極めて弱いため、代わって酸化インジウムスズ(ITO)が液晶パネルの応用が進んだが、こちらは高価であり、さらに代替の導電性高分子の材料開発が行われている。
マンガン電池では負極材料や電解液、アルカリ電池、空気亜鉛電池では負極材料として使用される。尚、充電時には電池内部にて負極から正極に向けて樹枝状のデンドライトが生成し、短絡の原因ともなる為いずれの電池も充電には適さない。亜鉛を燃料とする一種の燃料電池ともいえるメカニカルチャージ式の空気亜鉛電池が一時期開発されていた。
船舶や水道鋼管では金属部分が水に触れて電極となり電池を形成して腐食してしまう。これを防ぐ為、亜鉛などを溶接してこちらを電池の犠牲電極(または流電陽極ともいう)とする。このような方法を電気防食という。船舶では亜鉛のブロックを船体に組み込み、消耗した亜鉛ブロックは定期的に補充する方法がとられるが、水道鋼管では耐消耗性を確保するため亜鉛以外の材料も使われる。
鋼材の防食を目的として行われる。
溶融亜鉛めっきは、溶融した亜鉛に鋼材を浸して製造する。薄い鉄板に亜鉛めっきを施した亜鉛めっき鋼板はトタンと呼ばれ屋根材などに使われる。道路の側溝をカバーするグレーチングにも亜鉛めっき鋼材が用いられる。
亜鉛は水銀などと同様に水素過電圧の大きな電極であり(約0.7 V; 1 N H2SO4)相対的に水素分子を発生しにくい電極である。つまり水素過電圧は電極の表面状態、電流密度、温度などで変化するので条件によっては水素よりも標準酸化還元電位が大である亜鉛が水溶液から析出したり電解めっきすることが可能になる。すなわち、亜鉛の表面では水素イオンが電子により還元されてから水素分子が生成する多段階反応が律速となるため、低電流領域では陰極電位がZn の平衡電位に到達せず水素が発生するものの、高電流領域では二水素生成が飽和することで陰極電位が上昇し(水素過電圧)亜鉛が析出する現象が見られる。また陰極上に生成吸着した Zn(OH)2 が水素析出抑制剤として作用するとも考えられている。
この電気めっきにより電気製品やコンピュータなど細密な製品にも応用することが可能となったが、表面に亜鉛のヒゲ状の結晶が成長し(ウィスカー)、これが電気内で短絡を起こして製品の故障原因となる場合がある。近年でも、サーバに障害を発生させる原因となるとして注意喚起が行なわれている。
生体では鉄の次に多い必須微量元素で、体重70 kgのヒトに平均2.3 g含まれる。生物学的半減期は280日とする報告がある。100種類を超える酵素の活性に関与し、主に酵素の構造形成および維持に必須である。それらの酵素の生理的役割は、免疫機構の補助、創傷治癒、精子形成、味覚感知、胎発生、小児の成長など多岐にわたる。炭酸脱水酵素が最も重要だと思われる。そのほか、加水分解酵素の活性に関わり、DNA や RNA のリン酸エステルを加水分解によって切断するので細胞分裂に大きく関わる。
人体に入る亜鉛はすべて食品に由来する。人体中では骨に多く、次いで体組織である。最も少ないのが血液であり、7 ppmに過ぎない。体組織中では、眼球、肝臓、筋肉、腎臓、前立腺、脾臓である。体液としては精液に多い。このうち、亜鉛の貯蔵器官は骨と脾臓である。亜鉛の排出経路は消化器が9割を占め、残りが尿と汗である。男性の場合、適度な亜鉛摂取は精子形成の増加および性欲増進の効果が見られる。毛髪の原料であるため、AGA・薄毛治療においても重要とされる。
なお、必須ミネラル16種の一つであるが、高濃度の亜鉛は人体に有害である。蒸気を吸入すると呼吸器に障害を起こし、全身、特に四肢の痙攣に至る。また工業的に作られた製品は不純物が有害な場合がある。
2020年版の「日本人の食事摂取基準」では、推定平均必要量:成人男性 9 mg/日、推奨量:11 mg/日、上限量:40~45 mg/日。推定平均必要量:成人女性 7 mg/日、推奨量:8 mg/日、上限量:30~35 mg/日。(成人とは18歳以上、妊婦は更に1~2 mgの付加量、授乳婦は3~4 mgの付加量 )である。
亜鉛の欠乏は、亜鉛含量の少ない食事の摂取、亜鉛と結合し小腸での吸収を妨げる食物繊維の取りすぎ、さらに鉄や銅の過剰摂取などが原因となって起こることがある。亜鉛を最も含む食材は入手の容易さを考慮に入れるとレバーである。食物中にフィチン酸が含まれていると亜鉛の吸収が妨げられる。フィチン酸は穀物や豆類に多い。したがって、赤身の肉が少なく、穀物や豆類の摂取が多い国、例えば、FAO の統計によると、メキシコやペルーなどに欠乏症の素地を満たす国民が多い。
症状は細胞分裂の頻繁な箇所に影響が現れる。
亜鉛欠乏時には、胃腸機能の減衰および免疫機能低下による下痢が見られ、亜鉛を含む栄養素の摂取不良を招き、欠乏がさらに悪化することがある。亜鉛はインスリンの構造維持に必須でもあり、糖代謝にも関与する。さらに、ビタミンAの活性化にも関与するため、亜鉛の欠乏により、ビタミンA欠乏症が現れることがある。また、動物実験レベルでは、亜鉛欠乏により、活動性の低下、記憶や注意力の低下、味覚指向の変化が見られる。医師による治療の際は、亜鉛含有製剤としてポラプレジンクなどが処方される。
亜鉛は過剰に摂取されると、膵液を通して過剰分が排泄される。また毒性も低いとされているため、通常の食生活では亜鉛の過剰症が問題となることはない。しかし、急性中毒や、サプリメントの摂取などにより継続的に過剰摂取した場合には以下のような問題を引き起こす。
100 g中に含まれる亜鉛の量 (mg) の比較。
酸化亜鉛は、紫外線防止のために日焼け止めに一般的に使われ、規制限度内での使用は安全だと考えられている。ジンクピリチオンはフケや脂漏性皮膚炎に有効で、シャンプーなどに配合される。
皮膚科領域では亜鉛の殺菌と抗炎症作用から多様に研究されているが小規模試験が多く、低価格な亜鉛の有効性を判断するには、適切なランダム化比較試験が必要である。中でもニキビに対しては研究が多く、第一選択肢を置き換える治療法になるとまではいかないが、実際の臨床に反映されていない。
化合物中の1価の亜鉛イオンは二原子イオン ([Zn2])の形を取るが、極めて不安定であり不均化しやすい。融解状態の塩化亜鉛に金属亜鉛を加え、冷却させることで得られる黄色のガラス状物質中において[Zn2]の存在が確認されている。Zn2+2という1価イオンの形は1価の水銀の二原子イオンであるHg2+2に類似しており、その二量体構造を反映して反磁性を有している。初めて合成された1価の亜鉛化合物はデカメチルジジンコセン(英語版)((η-C5Me5)2Zn2)であり、これは初めて合成されたジメタロセンでもある。
亜鉛は、貴ガス元素を除く全ての非金属元素および半金属元素との間で二元化合物を形成することが知られている。酸化亜鉛は水に難溶な白色粉末であるが、両性酸化物であり酸にも塩基にも溶解する。他の第16族元素との化合物(硫化亜鉛、セレン化亜鉛、テルル化亜鉛(英語版))は電子材料や光学材料に用いられる。第15族元素との化合物(窒化亜鉛、リン化亜鉛、ヒ化亜鉛(英語版)、アンチモン化亜鉛(英語版))や水素化物(水素化亜鉛(英語版))、炭化物(炭化亜鉛)なども知られている。フッ化亜鉛はイオン性が強く高融点(872度)であるが、他のハロゲン化亜鉛(塩化亜鉛、臭化亜鉛、ヨウ化亜鉛)は共有結合性がより強いため比較的低融点を示す。
2価の水和イオン Zn(aq) は無色であり、多少加水分解して弱酸性を示し、その酸解離定数はpKa = 9.0である。Znを含んだ溶液を弱塩基性にすると、水酸化亜鉛の白色沈殿が生成する。より塩基性が強くなると、この水酸化物は亜鉛酸イオン([Zn(OH)4])として再び溶解する。亜鉛はオキソ酸イオンとも化合物を形成し、それらの例として硝酸亜鉛や硫酸亜鉛、リン酸亜鉛、モリブデン酸亜鉛、亜ヒ酸亜鉛、ヒ酸亜鉛などがある。黄色を呈するクロム酸亜鉛は、無色であることが多い2価の亜鉛化合物の中で数少ない有色の化合物である。最も単純な亜鉛の有機酸塩の一例として酢酸亜鉛がある。
亜鉛-炭素結合を持つ有機亜鉛化合物として、合成化学において試薬として用いられるジエチル亜鉛がある。ジエチル亜鉛は1848年に報告された初めての有機亜鉛化合物であり、亜鉛とヨウ化エチルの反応によって合成される。それはまた金属-炭素間にσ結合を有する化合物としても初のものであった。
亜鉛の同位体は自然界に5種類が存在している。天然存在比の最も高い同位体は Zn の 48.63%。Zn の半減期は4.3 × 10 年であるが、その放射能は無視できる程度である。同様に、0.6%含まれる Zn も1.3 × 10 年の半減期を持つが、こちらも通常は放射性ではないとみなされている。他の同位体の天然存在比は Zn が 28%、Zn が 4%、Zn が 9%である。
天然に存在するもの以外にも数十種の放射性同位体が同定されている。その中で最も安定なものは、半減期243.93日のZn であり、次いで安定なのが半減期46.5時間のZn である。また、亜鉛には10種の核異性体が存在している。最も安定な核異性体はZnであり、その半減期は13.76時間である。
質量数66未満の放射性同位体の崩壊モードは電子捕獲であり、娘核種として銅の同位体が生成される。
一方で、質量数66以上の放射性同位体の崩壊モードはβ崩壊であり、娘核種としてガリウムの同位体が生成される。 | [
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"text": "亜鉛(あえん、英: zinc、羅: zincum)は、原子番号30の金属元素。元素記号は Zn。亜鉛族元素の一つ。安定な結晶構造は、六方最密充填構造 (HCP) の金属。必須ミネラル(無機質)16種の一つ。",
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"text": "鉛製造工業の副産物として得られていた亜鉛の表面は平滑ではなく、櫛の歯 (Zinken) のような筋状になっていたので、Zinkと呼ばれるようになった。",
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"text": "日本では真鍮を意味する鍮石という言葉は天平年間から記録があり、文禄年間には真鍮という名称に変化している。その当時すなわち16世紀終わり頃、亜鉛は中国名で倭鉛と呼ばれ、ポルトガルではツタンナガ (Tutanaga) といったが、これを日本ではトタン(吐丹)と呼んだ。",
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"text": "亜鉛という言葉は1713年(正徳3年)に『和漢三才図会』に記録されたのが最初であるとされる。",
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"text": "亜鉛は光沢を有し、反磁性を示す青味を帯びた銀白色の金属である。融点は419.5 °C、沸点は907 °Cと金属としては比較的低い。比重は鉄よりも小さく7.14。常温では脆いが、約100 〜150 °Cの範囲のみで展性、延性に富むようになる。210 °Cを超えると、再び脆性を示すようになる。亜鉛は良好な電気伝導体である。",
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"text": "単体金属の格子定数はa = 265.9 pm、c = 493.7 pm (25 °C) で、理想的な六方最密充填構造よりもやや c 軸方向に伸びている。c 軸方向の熱膨張率は a 軸方向の約3.5倍と異方性が強く現れ、線膨張率は a 軸方向(c 軸と垂直)は1.50×10 K、c 軸方向では5.30×10 Kである。亜鉛を曲げると双晶変化によるスズ鳴きが起こる。",
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"text": "亜鉛を含む合金は多く、銅との合金である真鍮がよく知られている。その他の亜鉛と二元合金を形成する金属としては、アルミニウム、アンチモン、ビスマス、金、鉄、鉛、水銀、銀、スズ、マグネシウム、コバルト、ニッケル、テルル、ナトリウムが知られている。亜鉛とジルコニウムは共に強磁性ではないが、その合金ZrZn2は35 K以下の温度で強磁性を示す。",
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"text": "亜鉛は周期表の第12族元素に属し、[Ar]3d4sの電子配置を取る。単体亜鉛は中程度の反応性を持つ金属であり、強還元剤として働く。純粋な金属の表面は湿った空気中で錆びて変色(英語版)しやすく、最終的には空気中の二酸化炭素との反応によって塩基性炭酸亜鉛からなる灰白色の不動態皮膜が形成される。",
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"text": "亜鉛は空気中で燃焼して明るい青緑色の炎色を発しながら酸化亜鉛のフュームとなる。",
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"text": "亜鉛は酸および塩基と容易に反応し、極めて純度の高い亜鉛では室温において酸とのみ徐々に反応する。塩酸や硫酸のような強酸は不動態皮膜を除去することができるため、不動態が除去された金属表面と継続的に反応して水素を発生させる。希硝酸に溶解させた場合は濃度により、亜酸化窒素、窒素、ヒドロキシルアミンあるいはアンモニウムイオンを生成する。",
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"text": "亜鉛の化学は2価の酸化状態が支配的である。2価の酸化状態にあるとき、亜鉛の電子殻は最外殻の4s軌道の電子が失われた状態となり[Ar]3dの電子配置となる。水溶液中においては主に6配位錯体の[Zn(H2O)6]の形をとる。亜鉛と塩化亜鉛の混合物を285度以上で揮発させることで、+1価の酸化状態の亜鉛化合物であるZn2Cl2が形成される。+1価および+2価以外の酸化状態を取る亜鉛化合物の存在は知られておらず、計算化学による解析からは4価の亜鉛化合物は存在し得ないだろうことが示されている。",
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"text": "亜鉛の化学的性質は錯形成能などの面においては銅やニッケルのような第4周期後半の遷移金属元素に類似しているが、d軌道が満たされている電子配置に起因してその化合物は反磁性を示し、またその多くは無色である。亜鉛とマグネシウムのイオン半径はほぼ同じであるため、同種の陰イオンと形成する塩同士では同じ結晶構造を取り、その他のイオン半径に支配される性質においても多くの場合はマグネシウムのそれと同等である。亜鉛は共有結合性の強い結合を形成し、また窒素や硫黄をドナー原子としてより安定な錯体を形成する傾向がある。亜鉛の錯体は主に4配位もしくは6配位を取るが、5配位の錯体も知られている。",
"title": "性質"
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"text": "ハロゲンとは室温において乾燥状態では反応しにくいが、水分の存在下で室温でも激しく反応し、硫黄とは高温で硫化物をつくる。一方、水素、炭素および窒素とは高温でも直接は反応しない。",
"title": "性質"
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"text": "亜鉛の地殻中の存在比はおよそ75から80 ppmと推定されており、その存在比は全元素中24番目である。土壌濃度は5-770 ppm、平均で65 ppmである。海水中にはわずかに30 ppb、大気中には0.1-4 μg/mが含まれる。",
"title": "天然における存在"
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"text": "亜鉛は通常、銅や鉛などの鉱石中でベースメタルに伴って産出する。亜鉛は親銅元素であり、酸化物よりもむしろ硫化物を形成しやすい性質を有している。このような親銅元素鉱石は、初期の地球大気の還元雰囲気下でマグマオーシャンが凝固し地殻となった際に形成されたものと考えられている。硫化亜鉛からなる閃亜鉛鉱は60-62 %と高濃度に亜鉛を含むため、最も多く採掘されている亜鉛鉱物である。他の亜鉛源となる鉱物としては菱亜鉛鉱、異極鉱、ウルツ鉱、水亜鉛土(英語版)などがある。これらの鉱物はウルツ鉱を除き全て、元の硫化亜鉛鉱物の風化によって二次的に形成された鉱物である。",
"title": "天然における存在"
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"text": "全世界の亜鉛の資源量はおよそ19-28億トンと見られている。大規模な鉱床はオーストラリア、カナダおよびアメリカにあり、埋蔵量が最も多いのはイランである。亜鉛の可採埋蔵量は、アメリカ地質調査所による2015年における推定において亜鉛純分としておよそ2億3000万トンと見積もられている。有史以来2002年までの間におよそ3億4600万トンの亜鉛が採掘され、うち1億900万トンから3億500万トンの亜鉛が今も使用されていると学者によって推定されている。",
"title": "天然における存在"
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"text": "亜鉛の沸点が同族のカドミウム、水銀と同様に低いため、酸化亜鉛を木炭などで還元して金属を得ようとしても昇華してしまい煙突の先端で空気中の酸素と反応し酸化物に戻る。この場合、鉱石を還元して生成した蒸気を空気を遮断して冷却しなければ単体は得られない。",
"title": "天然における存在"
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"text": "亜鉛は少なくとも紀元前4000年から銅との合金である黄銅(真鍮)として用いられて来た。古代ギリシア人はキプロス産の亜鉛化合物について記述している。ローマ征服前のダキア人(現在のルーマニア)は紀元前から金属亜鉛精錬技術に通じていた。ダキア以前に金属亜鉛を得た民族は見つかっておらず、ダキア以外のヨーロッパで金属亜鉛を精錬するようになったのは産業革命が始まってからである。",
"title": "歴史"
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"text": "インドでもダキア人とは独立に亜鉛精錬技術を発見し、12世紀にはウールを還元剤として金属亜鉛を得ていた。12世紀から16世紀までに100万トン以上の亜鉛を製造したと考えられている。インドの技術はやがて中国に渡り、16世紀には中国でも亜鉛生産が始まっている。",
"title": "歴史"
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"text": "ヨーロッパ人として金属亜鉛に初めて接したのはポルトガル人だった。ポルトガル人は亜鉛の重要性に気づいておらず、ポルトガル商船を拿捕したオランダ人によって西欧に金属亜鉛が持ち込まれた。1509年にニュルンベルクのエベナーが初めて欧州での金属亜鉛の生産をはじめた。1620年にはヨーロッパで東洋起源の金属亜鉛の販売が始まった。1737年に、中国から亜鉛精錬技術がイギリスに伝わる。1743年、ヨーロッパ初の亜鉛工場が港湾都市ブリストルに建設された。年間生産量は200トンである。同年スウェーデン人のアントン・フォン・シュワープが炭酸亜鉛から亜鉛を蒸留分離することに成功、硫化亜鉛からも抽出できた。これはイギリス人の製法とは独立である。1746年、ドイツ人アンドレアス・マルクグラーフは他の2国とは独立に金属亜鉛を得る。コークスと酸化亜鉛を加熱する際、空気を断つことが成功につながった。結局、マルクグラーフの手法が金属亜鉛の大規模生産へとつながっていく。このため、マルクグラーフこそが亜鉛の発見者であると位置づけられることがある。1798年に水平レトルト精錬法という、耐火性容器に石炭と亜鉛鉱石を入れて加熱し、亜鉛を蒸留精錬する方法による精錬工場が建設された。",
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"text": "従来、日本では真鍮は江戸時代になって普及したと考えられていた。しかし、12世紀の平安時代、鳥羽上皇の皇后、美福門院が高野山に奉納した「紺紙金字一切経」に、真鍮が大量に使われていることが判明し、すでにこの時代には日本でも真鍮が使われていたようである。",
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"text": "1850年代には米国のヒルツが亜鉛生産を開始した。1881年にフランスのルトランジュが電解法を発明した。",
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"text": "日本国内における金属亜鉛の製錬は1889年(明治22年)に黒鉱の処理から開始された。蒸留亜鉛が商業ベースで生産され、電気亜鉛の生産が神岡鉱山で開始されたのは共に1910年(明治43年)頃である。1910年代になると世界各地で亜鉛の電解精錬がはじまった。",
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"text": "亜鉛鉱としては閃亜鉛鉱 (ZnS) や菱亜鉛鉱 (ZnCO3) が主要であり、日本の亜鉛鉱山は閃亜鉛鉱が主である。細かく破砕された鉱石から浮遊選鉱などで脈石・銅鉱物・鉛鉱物などを分離したものは亜鉛精鉱と呼ばれる(亜鉛含量 50-58 %)。亜鉛精鉱は焼結により団塊とされることが多い。亜鉛精鉱は焙焼により酸化亜鉛(亜鉛焼鉱)とされた後に、乾式製錬法もしくは湿式製錬法(電解精錬)により金属亜鉛に製錬される。",
"title": "製錬"
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"text": "閃亜鉛鉱にはカドミウムが、菱亜鉛鉱には鉛が随伴するため、亜鉛精錬においてはこれらの有害金属が環境放出されないように制御される。",
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"text": "乾式製錬法は、炭素(コークスまたは無煙炭)により酸化亜鉛の焼鉱を還元し、生成した金属亜鉛を揮発回収して蒸留亜鉛を作る方法である。還元炉の形式により、水平レトルト蒸留法・立形レトルト蒸留法(竪型レトルト法・New Jersey 法)・電熱蒸留法・ISP 法などに大別される。",
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"text": "蒸留亜鉛は耐火粘土製コンデンサー(受け皿)に導いて冷却し液状亜鉛として捕集されるが、鉛 (bp. 1744 °C)、カドミウム (bp. 765 °C) を含む。これらの不純物はダイカスト用亜鉛において粒界腐食を起こす原因ともなるので、分別蒸留によりさらに高純度に精製される。鉛は揮発しない温度に保たれ、カドミウムは先に揮発させて分別する。",
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"text": "電熱蒸留法では、亜鉛焼鉱とコークス粒の混合物に直接電流を通し加熱する円筒電気炉を使用する。この方法では亜鉛1トン当たり3000 kWhの電力と500 kgのコークスを必要とする。ISP 法は鎔鉱炉製錬法とも呼ばれ、炉内で生成する亜鉛蒸気を鎔融鉛のシャワーに吸収させ、この亜鉛を4.6%含む560 °Cの鎔融金属を440 °Cまで冷却すると鎔融鉛に対する亜鉛の溶解度が2.1%まで低下し、ほぼ純粋な鎔融亜鉛が分離して浮き上がるため、これを回収する。",
"title": "製錬"
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"text": "湿式製錬法では、酸化亜鉛の焼鉱を硫酸に溶かした硫酸亜鉛の水溶液とし電解して金属を得る。",
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"text": "この硫酸亜鉛溶液は不純物を含むため、まず少量の二酸化マンガンを加えて鉄イオンを2価から3価へ酸化した後、鉄・ヒ素・アンチモンを沈殿させる。続いて少量の亜鉛末を加えて銅・ニッケル・コバルトおよびカドミウムを単体をして析出除去する。この精製した硫酸亜鉛水溶液に希硫酸を加えて酸性とし、陰極にアルミニウム電極、陽極に不溶性の含銀鉛電極を用いて電解精錬する。陽極からは酸素、陰極からは亜鉛が析出し、純度 99.99 %以上の金属亜鉛が得られる。亜鉛はイオン化傾向が水素よりも大きく電位的に還元されにくい金属であるが、水素過電圧が高いため水溶液中であっても陰極に析出させることができる。",
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"text": "消費電力は亜鉛1トンあたり3000 - 4000 kWhである。酸化亜鉛の発熱量は約1.5kWh/kgであり電解の電力効率は半分以下でありお世辞にも高いとは言えない。これは充電式の空気亜鉛電池を実用化する上での障害となる。",
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"text": "酸化亜鉛は1000°C以上、十分な反応速度を確保するためには1500°C以上の高温を用いて熱分解できる。",
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"text": "2 ZnO ↽ − − ⇀ 2 Zn ( g ) + O 2 {\\displaystyle {\\ce {2ZnO <=> 2Zn(g) + O2}}}",
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"text": "そのままだと平衡状態に達して反応が停止してしまうので酸素を除去する必要が有る。銅などと反応させることで酸素を除去できる。酸化銅は水素と反応させ還元できる。水素と酸素を直接反応させると水蒸気が発生し著しく反応速度が低下してしまうのでよくない。",
"title": "製錬"
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"text": "電熱の他太陽光を集光することでも1500°C以上の高温を手に入れられる。アルミナであれば1500°Cの温度にも耐えられる。",
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"text": "一連の反応で高効率、二酸化炭素の排出なしで亜鉛を精錬できる。",
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"text": "亜鉛合金は融点が低く、寸法精度を出しやすく衝撃にも強い優れた性能があり、前出の真鍮や洋白などの合金は現在でも広く利用されている。安価で緻密な加工ができるダイカスト製品の地金にも亜鉛合金が多い。",
"title": "用途"
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"text": "酸化亜鉛 (亜鉛華)は白色の粉末状結晶で、亜鉛の蒸気を酸素と反応させることにより製造される。古くは鉛や水銀を原料としおしろいなどに用いられたがこれが中毒を引き起こすため、代替として顔料、医薬品、化粧品などとして用いられている。",
"title": "用途"
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"text": "このほか、酸化亜鉛は透明電極としても使われ、近年においては透明薄膜トランジスタの伝導膜としても使われる。ただし耐酸化性が極めて弱いため、代わって酸化インジウムスズ(ITO)が液晶パネルの応用が進んだが、こちらは高価であり、さらに代替の導電性高分子の材料開発が行われている。",
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"text": "マンガン電池では負極材料や電解液、アルカリ電池、空気亜鉛電池では負極材料として使用される。尚、充電時には電池内部にて負極から正極に向けて樹枝状のデンドライトが生成し、短絡の原因ともなる為いずれの電池も充電には適さない。亜鉛を燃料とする一種の燃料電池ともいえるメカニカルチャージ式の空気亜鉛電池が一時期開発されていた。",
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"text": "船舶や水道鋼管では金属部分が水に触れて電極となり電池を形成して腐食してしまう。これを防ぐ為、亜鉛などを溶接してこちらを電池の犠牲電極(または流電陽極ともいう)とする。このような方法を電気防食という。船舶では亜鉛のブロックを船体に組み込み、消耗した亜鉛ブロックは定期的に補充する方法がとられるが、水道鋼管では耐消耗性を確保するため亜鉛以外の材料も使われる。",
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"text": "鋼材の防食を目的として行われる。",
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"text": "溶融亜鉛めっきは、溶融した亜鉛に鋼材を浸して製造する。薄い鉄板に亜鉛めっきを施した亜鉛めっき鋼板はトタンと呼ばれ屋根材などに使われる。道路の側溝をカバーするグレーチングにも亜鉛めっき鋼材が用いられる。",
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"text": "亜鉛は水銀などと同様に水素過電圧の大きな電極であり(約0.7 V; 1 N H2SO4)相対的に水素分子を発生しにくい電極である。つまり水素過電圧は電極の表面状態、電流密度、温度などで変化するので条件によっては水素よりも標準酸化還元電位が大である亜鉛が水溶液から析出したり電解めっきすることが可能になる。すなわち、亜鉛の表面では水素イオンが電子により還元されてから水素分子が生成する多段階反応が律速となるため、低電流領域では陰極電位がZn の平衡電位に到達せず水素が発生するものの、高電流領域では二水素生成が飽和することで陰極電位が上昇し(水素過電圧)亜鉛が析出する現象が見られる。また陰極上に生成吸着した Zn(OH)2 が水素析出抑制剤として作用するとも考えられている。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この電気めっきにより電気製品やコンピュータなど細密な製品にも応用することが可能となったが、表面に亜鉛のヒゲ状の結晶が成長し(ウィスカー)、これが電気内で短絡を起こして製品の故障原因となる場合がある。近年でも、サーバに障害を発生させる原因となるとして注意喚起が行なわれている。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "生体では鉄の次に多い必須微量元素で、体重70 kgのヒトに平均2.3 g含まれる。生物学的半減期は280日とする報告がある。100種類を超える酵素の活性に関与し、主に酵素の構造形成および維持に必須である。それらの酵素の生理的役割は、免疫機構の補助、創傷治癒、精子形成、味覚感知、胎発生、小児の成長など多岐にわたる。炭酸脱水酵素が最も重要だと思われる。そのほか、加水分解酵素の活性に関わり、DNA や RNA のリン酸エステルを加水分解によって切断するので細胞分裂に大きく関わる。",
"title": "人体における亜鉛"
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"tag": "p",
"text": "人体に入る亜鉛はすべて食品に由来する。人体中では骨に多く、次いで体組織である。最も少ないのが血液であり、7 ppmに過ぎない。体組織中では、眼球、肝臓、筋肉、腎臓、前立腺、脾臓である。体液としては精液に多い。このうち、亜鉛の貯蔵器官は骨と脾臓である。亜鉛の排出経路は消化器が9割を占め、残りが尿と汗である。男性の場合、適度な亜鉛摂取は精子形成の増加および性欲増進の効果が見られる。毛髪の原料であるため、AGA・薄毛治療においても重要とされる。",
"title": "人体における亜鉛"
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"tag": "p",
"text": "なお、必須ミネラル16種の一つであるが、高濃度の亜鉛は人体に有害である。蒸気を吸入すると呼吸器に障害を起こし、全身、特に四肢の痙攣に至る。また工業的に作られた製品は不純物が有害な場合がある。",
"title": "人体における亜鉛"
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"text": "2020年版の「日本人の食事摂取基準」では、推定平均必要量:成人男性 9 mg/日、推奨量:11 mg/日、上限量:40~45 mg/日。推定平均必要量:成人女性 7 mg/日、推奨量:8 mg/日、上限量:30~35 mg/日。(成人とは18歳以上、妊婦は更に1~2 mgの付加量、授乳婦は3~4 mgの付加量 )である。",
"title": "人体における亜鉛"
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"text": "亜鉛の欠乏は、亜鉛含量の少ない食事の摂取、亜鉛と結合し小腸での吸収を妨げる食物繊維の取りすぎ、さらに鉄や銅の過剰摂取などが原因となって起こることがある。亜鉛を最も含む食材は入手の容易さを考慮に入れるとレバーである。食物中にフィチン酸が含まれていると亜鉛の吸収が妨げられる。フィチン酸は穀物や豆類に多い。したがって、赤身の肉が少なく、穀物や豆類の摂取が多い国、例えば、FAO の統計によると、メキシコやペルーなどに欠乏症の素地を満たす国民が多い。",
"title": "人体における亜鉛"
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"text": "症状は細胞分裂の頻繁な箇所に影響が現れる。",
"title": "人体における亜鉛"
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"tag": "p",
"text": "亜鉛欠乏時には、胃腸機能の減衰および免疫機能低下による下痢が見られ、亜鉛を含む栄養素の摂取不良を招き、欠乏がさらに悪化することがある。亜鉛はインスリンの構造維持に必須でもあり、糖代謝にも関与する。さらに、ビタミンAの活性化にも関与するため、亜鉛の欠乏により、ビタミンA欠乏症が現れることがある。また、動物実験レベルでは、亜鉛欠乏により、活動性の低下、記憶や注意力の低下、味覚指向の変化が見られる。医師による治療の際は、亜鉛含有製剤としてポラプレジンクなどが処方される。",
"title": "人体における亜鉛"
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"tag": "p",
"text": "亜鉛は過剰に摂取されると、膵液を通して過剰分が排泄される。また毒性も低いとされているため、通常の食生活では亜鉛の過剰症が問題となることはない。しかし、急性中毒や、サプリメントの摂取などにより継続的に過剰摂取した場合には以下のような問題を引き起こす。",
"title": "人体における亜鉛"
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"text": "100 g中に含まれる亜鉛の量 (mg) の比較。",
"title": "人体における亜鉛"
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"tag": "p",
"text": "酸化亜鉛は、紫外線防止のために日焼け止めに一般的に使われ、規制限度内での使用は安全だと考えられている。ジンクピリチオンはフケや脂漏性皮膚炎に有効で、シャンプーなどに配合される。",
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"tag": "p",
"text": "皮膚科領域では亜鉛の殺菌と抗炎症作用から多様に研究されているが小規模試験が多く、低価格な亜鉛の有効性を判断するには、適切なランダム化比較試験が必要である。中でもニキビに対しては研究が多く、第一選択肢を置き換える治療法になるとまではいかないが、実際の臨床に反映されていない。",
"title": "人体における亜鉛"
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"tag": "p",
"text": "化合物中の1価の亜鉛イオンは二原子イオン ([Zn2])の形を取るが、極めて不安定であり不均化しやすい。融解状態の塩化亜鉛に金属亜鉛を加え、冷却させることで得られる黄色のガラス状物質中において[Zn2]の存在が確認されている。Zn2+2という1価イオンの形は1価の水銀の二原子イオンであるHg2+2に類似しており、その二量体構造を反映して反磁性を有している。初めて合成された1価の亜鉛化合物はデカメチルジジンコセン(英語版)((η-C5Me5)2Zn2)であり、これは初めて合成されたジメタロセンでもある。",
"title": "亜鉛の化合物"
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"tag": "p",
"text": "亜鉛は、貴ガス元素を除く全ての非金属元素および半金属元素との間で二元化合物を形成することが知られている。酸化亜鉛は水に難溶な白色粉末であるが、両性酸化物であり酸にも塩基にも溶解する。他の第16族元素との化合物(硫化亜鉛、セレン化亜鉛、テルル化亜鉛(英語版))は電子材料や光学材料に用いられる。第15族元素との化合物(窒化亜鉛、リン化亜鉛、ヒ化亜鉛(英語版)、アンチモン化亜鉛(英語版))や水素化物(水素化亜鉛(英語版))、炭化物(炭化亜鉛)なども知られている。フッ化亜鉛はイオン性が強く高融点(872度)であるが、他のハロゲン化亜鉛(塩化亜鉛、臭化亜鉛、ヨウ化亜鉛)は共有結合性がより強いため比較的低融点を示す。",
"title": "亜鉛の化合物"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2価の水和イオン Zn(aq) は無色であり、多少加水分解して弱酸性を示し、その酸解離定数はpKa = 9.0である。Znを含んだ溶液を弱塩基性にすると、水酸化亜鉛の白色沈殿が生成する。より塩基性が強くなると、この水酸化物は亜鉛酸イオン([Zn(OH)4])として再び溶解する。亜鉛はオキソ酸イオンとも化合物を形成し、それらの例として硝酸亜鉛や硫酸亜鉛、リン酸亜鉛、モリブデン酸亜鉛、亜ヒ酸亜鉛、ヒ酸亜鉛などがある。黄色を呈するクロム酸亜鉛は、無色であることが多い2価の亜鉛化合物の中で数少ない有色の化合物である。最も単純な亜鉛の有機酸塩の一例として酢酸亜鉛がある。",
"title": "亜鉛の化合物"
},
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"tag": "p",
"text": "亜鉛-炭素結合を持つ有機亜鉛化合物として、合成化学において試薬として用いられるジエチル亜鉛がある。ジエチル亜鉛は1848年に報告された初めての有機亜鉛化合物であり、亜鉛とヨウ化エチルの反応によって合成される。それはまた金属-炭素間にσ結合を有する化合物としても初のものであった。",
"title": "亜鉛の化合物"
},
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"tag": "p",
"text": "亜鉛の同位体は自然界に5種類が存在している。天然存在比の最も高い同位体は Zn の 48.63%。Zn の半減期は4.3 × 10 年であるが、その放射能は無視できる程度である。同様に、0.6%含まれる Zn も1.3 × 10 年の半減期を持つが、こちらも通常は放射性ではないとみなされている。他の同位体の天然存在比は Zn が 28%、Zn が 4%、Zn が 9%である。",
"title": "同位体"
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"tag": "p",
"text": "天然に存在するもの以外にも数十種の放射性同位体が同定されている。その中で最も安定なものは、半減期243.93日のZn であり、次いで安定なのが半減期46.5時間のZn である。また、亜鉛には10種の核異性体が存在している。最も安定な核異性体はZnであり、その半減期は13.76時間である。",
"title": "同位体"
},
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"tag": "p",
"text": "質量数66未満の放射性同位体の崩壊モードは電子捕獲であり、娘核種として銅の同位体が生成される。",
"title": "同位体"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "一方で、質量数66以上の放射性同位体の崩壊モードはβ崩壊であり、娘核種としてガリウムの同位体が生成される。",
"title": "同位体"
}
] | 亜鉛は、原子番号30の金属元素。元素記号は Zn。亜鉛族元素の一つ。安定な結晶構造は、六方最密充填構造 (HCP) の金属。必須ミネラル(無機質)16種の一つ。 | {{Elementbox
|name=zinc
|japanese name=亜鉛
|number=30
|symbol=Zn
|pronounce={{IPAc-en|ˈ|z|ɪ|ŋ|k}} {{respell|zingk}}
|left=[[銅]]
|right=[[ガリウム]]
|above=-
|below=[[カドミウム|Cd]]
|series=ポスト遷移金属
|group=12
|period=4
|block=d
|series color=
|phase color=
|appearance=銀白色
|image name=Zinc_fragment_sublimed_and_1cm3_cube.jpg
|image size=
|image name comment=
|image name 2=
|image name 2 comment=
|atomic mass=65.38(2)
|atomic mass 2=4
|atomic mass comment=
|electron configuration=[[[アルゴン|Ar]]] 3d<sup>10</sup> 4s<sup>2</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 2
|color=
|phase=固体
|phase comment=
|density gplstp=
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|melting point K=692.68
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|triple point kPa=
|critical point K=
|critical point MPa=
|heat fusion=7.32
|heat fusion 2=
|heat vaporization=123.6
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|vapor pressure 1=610
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|vapor pressure comment=
|crystal structure=hexagonal
|japanese crystal structure=[[六方晶系]]
|oxidation states='''2''', 1, 0
|oxidation states comment=[[両性酸化物]]
|electronegativity=1.65
|number of ionization energies=4
|1st ionization energy=906.4
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|atomic radius=[[1 E-10 m|134]]
|atomic radius calculated=
|covalent radius=[[1 E-10 m|122±4]]
|Van der Waals radius=[[1 E-10 m|139]]
|magnetic ordering=[[反磁性]]
|electrical resistivity=
|electrical resistivity at 0=
|electrical resistivity at 20=59.0 n
|thermal conductivity=116
|thermal conductivity 2=
|thermal diffusivity=
|thermal expansion=
|thermal expansion at 25=30.2
|speed of sound=
|speed of sound rod at 20=
|speed of sound rod at r.t.=(rolled) 3850
|Young's modulus=108
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|Poisson ratio=0.25
|Mohs hardness=2.5
|Vickers hardness=
|Brinell hardness=412
|CAS number=7440-66-6
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[亜鉛64|64]] | sym=Zn | na=48.6 % | n=34}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[亜鉛65|65]] | sym=Zn
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|243.8 d]]
| dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=1.3519 | pn1=[[銅65|65]] | ps1=[[銅|Cu]]
| dm2=[[ガンマ崩壊|γ]] | de2=1.1155 | pn2= | ps2=-}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[亜鉛66|66]] | sym=Zn | na=27.9 % | n=36}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[亜鉛67|67]] | sym=Zn | na=4.1 % | n=37}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[亜鉛68|68]] | sym=Zn | na=18.8 % | n=38}}
{{Elementbox_isotopes_decay2_2hl | mn=[[亜鉛69|69]] | sym=Zn
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl1=[[1 E4 s|13.76 h]]
| dm1=[[ベータ崩壊|β<sup>−</sup>]] | de1=.906 | pn1=[[ガリウム69|69]] | ps1=[[ガリウム|Ga]] | hl2=[[1 E3 s|56 m]]
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{{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[亜鉛70|70]] | sym=Zn | na=0.6 % | n=40}}
{{Elementbox_isotopes_decay2_2hl | mn=[[亜鉛71|71]] | sym=Zn
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl1=[[1 E5 s |3.97 d]]
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{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[亜鉛72|72]] | sym=Zn
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|46.5 h]]
| dm=[[ベータ崩壊|β<sup>−</sup>]] | de=0.458 | pn=[[ガリウム72|72]] | ps=[[ガリウム|Ga]]}}
|isotopes comment=
}}
'''亜鉛'''(あえん、{{lang-en-short|zinc}}、{{lang-la-short|zincum}})は、[[原子番号]]30の[[金属元素]]。[[元素記号]]は '''Zn'''。[[亜鉛族元素]]の一つ。安定な[[結晶]]構造は、[[六方最密充填構造]] (HCP) の[[金属]]。[[必須ミネラル]](無機質)16種の一つ。
== 名称 ==
鉛製造工業の副産物として得られていた亜鉛の表面は平滑ではなく、[[櫛]]の歯 (Zinken) のような筋状になっていたので、Zinkと呼ばれるようになった<ref>大学教育研究会編『化学ー物質と人間の歴史―』開成出版、1985年、ISBN 4-87603-044-8</ref>。
日本では[[黄銅|真鍮]]を意味する鍮石という言葉は[[天平]]年間から記録があり、[[文禄]]年間には真鍮という名称に変化している。その当時すなわち16世紀終わり頃、亜鉛は中国名で倭鉛と呼ばれ、[[ポルトガル]]ではツタンナガ (Tutanaga) といったが、これを日本では[[トタン|トタン(吐丹)]]と呼んだ<ref name=nishikawa>西川精一『新版金属工学入門』アグネ技術センター、p. 405、 2001年</ref>。
亜鉛という言葉は1713年([[正徳 (日本)|正徳]]3年)に『[[和漢三才図会]]』に記録されたのが最初であるとされる<ref name=nishikawa>西川精一『新版金属工学入門』アグネ技術センター、p. 405、 2001年</ref>。
== 性質 ==
=== 物理的性質 ===
亜鉛は[[光沢]]を有し、[[反磁性]]を示す青味を帯びた銀白色の金属である<ref name="CRCp4-41">{{harvnb|CRC|2006|p='''4'''–41}}<!-- sic "-" not a range! --></ref>。[[融点]]は419.5 {{℃}}、[[沸点]]は907 {{℃}}と金属としては比較的低い<ref name="ZincMetalProps">{{cite web|url=http://xn--q9j2c9fqfxds58svd1g.com/|title=Zinc Metal Properties|accessdate=April 7, 2015|date=2008|publisher=American Galvanizers Association|archiveurl=http://www.galvanizeit.org/design-and-fabrication/design-considerations/zinc-metal-properties|archivedate=2015年4月7日|deadlinkdate=|dead-url=no}}</ref>。比重は鉄よりも小さく7.14<ref>Wells A.F. (1984) ''Structural Inorganic Chemistry'' 5th edition p 1277 Oxford Science Publications ISBN 0-19-855370-6</ref>。常温では[[脆性|脆い]]が、約100 〜150 {{℃}}の範囲のみで展性、[[塑性|延性]]に富むようになる<ref name="CRCp4-41"/><ref name="Heiserman1992p123">{{harvnb|Heiserman|1992|p=123}}</ref>。210 {{℃}}を超えると、再び脆性を示すようになる<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/?id=SSkKAAAAIAAJ|title=The Useful Metals and Their Alloys|first=John|last=Scoffern|publisher=Houlston and Wright|date=1861|pages=591–603|accessdate=April 6, 2009}}</ref>。亜鉛は良好な[[電気伝導体]]である<ref name="CRCp4-41"/>。
単体金属の[[格子定数]]はa = 265.9 [[ピコメートル|pm]]、c = 493.7 pm (25 {{℃}}) で、理想的な六方最密充填構造よりもやや c 軸方向に伸びている。c 軸方向の[[熱膨張率]]は a 軸方向の約3.5倍と異方性が強く現れ、線膨張率は a 軸方向(c 軸と垂直)は1.50×10<sup>−5</sup> K<sup>−1</sup>、c 軸方向では5.30×10<sup>−5</sup> K<sup>−1</sup>である<ref name=binran>日本化学会編『化学便覧 基礎編 改訂4版』丸善、1993年</ref>。亜鉛を曲げると双晶変化によるスズ鳴きが起こる<ref>{{Cite book|和書|title=図解入門最新金属の基本がわかる事典|author=田中和明|page=143|year=2015|publisher=秀和システム|isbn=9784798044316}}</ref>。
亜鉛を含む[[合金]]は多く、銅との合金である[[真鍮]]がよく知られている。その他の亜鉛と二元合金を形成する金属としては、[[アルミニウム]]、[[アンチモン]]、[[ビスマス]]、[[金]]、[[鉄]]、[[鉛]]、[[水銀]]、[[銀]]、[[スズ]]、[[マグネシウム]]、[[コバルト]]、[[ニッケル]]、[[テルル]]、[[ナトリウム]]が知られている<ref>{{Cite book|title=Production and Properties of Zinc: A Treatise on the Occurrence and Distribution of Zinc Ore, the Commercial and Technical Conditions Affecting the Production of the Spelter, Its Chemical and Physical Properties and Uses in the Arts, Together with a Historical and Statistical Review of the Industry|last=Ingalls|first=Walter Renton|publisher=The Engineering and Mining Journal|date=1902|pages=142–6|url=https://books.google.com/?id=RhNDAAAAIAAJ&pg=PA133}}</ref>。亜鉛と[[ジルコニウム]]は共に[[強磁性]]ではないが、その合金ZrZn<sub>2</sub>は35 [[ケルビン|K]]以下の温度で強磁性を示す<ref name="CRCp4-41"/>。
=== 化学的性質 ===
亜鉛は[[周期表]]の[[第12族元素]]に属し、[Ar]3d<sup>10</sup>4s<sup>2</sup>の[[電子配置]]を取る。単体亜鉛は中程度の反応性を持つ金属であり、強[[還元剤]]として働く<ref name=CRC2006p8-29>{{harvnb|CRC|2006|pp='''8'''–29}}</ref>。純粋な金属の表面は湿った空気中で錆びて{{仮リンク|変色|en|Tarnish}}しやすく、最終的には空気中の[[二酸化炭素]]との反応によって塩基性[[炭酸亜鉛]]からなる灰白色の[[不動態]]皮膜が形成される<ref>{{Cite book|publisher=CRC Press|date=1994|page=121|isbn=0-8247-9213-0|title=Corrosion Resistance of Zinc and Zinc Alloys| first=Frank C.|last=Porter}}</ref>。
亜鉛は空気中で燃焼して明るい青緑色の[[炎色反応|炎色]]を発しながら[[酸化亜鉛]]のフュームとなる<ref name="Holl"/>。
: <chem>2 Zn + O2 -> 2ZnO</chem>
亜鉛は[[酸]]および[[塩基]]と容易に反応し<ref>{{Cite book|last=Hinds|first=John Iredelle Dillard|title=Inorganic Chemistry: With the Elements of Physical and Theoretical Chemistry|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|date=1908|edition=2nd|pages=506–508|url=https://books.google.com/?id=xMUMAAAAYAAJ}}</ref>、極めて純度の高い亜鉛では室温において酸とのみ徐々に反応する<ref name="Holl"/>。[[塩酸]]や[[硫酸]]のような強酸は不動態皮膜を除去することができるため、不動態が除去された金属表面と継続的に反応して[[水素]]を発生させる<ref name="Holl"/>。希[[硝酸]]に溶解させた場合は濃度により、[[亜酸化窒素]]、[[窒素]]、[[ヒドロキシルアミン]]あるいは[[アンモニア#アンモニウムイオン|アンモニウムイオン]]を生成する<ref name=kagakudaijiten>『化学大辞典』共立出版、1993年</ref>。
:<chem>Zn + 2 H^+(aq) -> Zn^{2+}(aq) + H2</chem>
:<chem>Zn + 2OH^{-}(aq) + 2H2O ->w [Zn(OH)4]^{2-}(aq) + H2</chem>
:<chem>4 Zn + 10 H^+(aq) + NO3^-(aq) -> 4Zn^{2+}(aq) + NH4^+(aq) + 3H2O</chem>
亜鉛の化学は2価の酸化状態が支配的である。2価の酸化状態にあるとき、亜鉛の[[電子殻]]は最外殻の4s軌道の電子が失われた状態となり[Ar]3d<sup>10</sup>の電子配置となる<ref>{{Cite book|last=Ritchie|first=Rob|title=Chemistry|publisher=Letts and Lonsdale|date=2004|edition=2nd|page=71|isbn=1-84315-438-2|url=https://books.google.com/?id=idT9j6406gsC}}</ref>。水溶液中においては主に6配位[[錯体]]の{{chem|[Zn(H|2|O)<sub>6</sub>]|2+}}の形をとる<ref>{{Cite book|last=Burgess|first=John|title=Metal ions in solution|publisher=Ellis Horwood|location=New York|date=1978|page=147|isbn=0-470-26293-1}}</ref>。亜鉛と[[塩化亜鉛]]の混合物を285度以上で揮発させることで、+1価の酸化状態の亜鉛化合物であるZn<sub>2</sub>Cl<sub>2</sub>が形成される<ref name="Holl"/>。+1価および+2価以外の酸化状態を取る亜鉛化合物の存在は知られておらず<ref>{{Cite book|last=Brady|first=James E.|author2=Humiston, Gerard E. |author3=Heikkinen, Henry |title=General Chemistry: Principles and Structure|publisher=John Wiley & Sons|date=1983|edition=3rd|page=671|isbn=0-471-86739-X}}</ref>、[[計算化学]]による解析からは4価の亜鉛化合物は存在し得ないだろうことが示されている<ref>{{Cite journal|journal=Inorganic Chemistry|date=1994|volume=33|issue=10|pages=2122–2131|title=Oxidation state +IV in group 12 chemistry. Ab initio study of zinc(IV), cadmium(IV), and mercury(IV) fluorides|author=Kaupp M.|author2=Dolg M.|author3=Stoll H.|author4=Von Schnering H. G.|doi=10.1021/ic00088a012}}</ref>。
亜鉛の化学的性質は錯形成能などの面においては[[銅]]や[[ニッケル]]のような第4周期後半の[[遷移金属元素]]に類似しているが、[[d軌道]]が満たされている電子配置に起因してその化合物は[[反磁性]]を示し、またその多くは無色である<ref name="Greenwood1997p1206"/>。亜鉛と[[マグネシウム]]の[[イオン半径]]はほぼ同じであるため、同種の陰イオンと形成する塩同士では同じ[[結晶構造]]を取り<ref>{{harvnb|CRC|2006|pp='''12'''–11–12}}</ref>、その他のイオン半径に支配される性質においても多くの場合はマグネシウムのそれと同等である<ref name="Holl">{{Cite book|publisher=Walter de Gruyter|date=1985|edition=91–100| pages=1034–1041|isbn=3-11-007511-3|title=Lehrbuch der Anorganischen Chemie|first1=Arnold F.|last1=Holleman|last2=Wiberg|first2=Egon|last3=Wiberg|first3=Nils|language=German|chapter=Zink}}</ref>。亜鉛は[[共有結合]]性の強い結合を形成し、また窒素や硫黄をドナー原子としてより安定な錯体を形成する傾向がある<ref name="Greenwood1997p1206">{{harvnb|Greenwood|1997|p=1206}}</ref>。亜鉛の錯体は主に4配位もしくは6配位を取るが、5配位の錯体も知られている<ref name="Holl"/>。
[[ハロゲン]]とは室温において乾燥状態では反応しにくいが、水分の存在下で室温でも激しく反応し、[[硫黄]]とは高温で硫化物をつくる。一方、水素、[[炭素]]および窒素とは高温でも直接は反応しない。
== 天然における存在 ==
亜鉛の[[地殻]]中の存在比はおよそ75から80 [[ppm]]<ref>Taylor & McLennan, 1985</ref>と推定されており、その存在比は全元素中24番目である。土壌濃度は5-770 ppm、平均で65 ppmである。[[海水]]中にはわずかに30 [[ppb]]、[[大気]]中には0.1-4 μg/m<sup>3</sup>が含まれる<ref name="Emsley2001p503">{{harvnb|Emsley|2001|p=503}}</ref>。
亜鉛は通常、銅や鉛などの鉱石中でベースメタルに伴って産出する。亜鉛は親銅元素であり、酸化物よりもむしろ硫化物を形成しやすい性質を有している。このような親銅元素鉱石は、初期の地球大気の還元雰囲気下でマグマオーシャンが凝固し地殻となった際に形成されたものと考えられている<ref name="Greenwood1997p1202">{{harvnb|Greenwood|1997|p=1202}}</ref>。[[硫化亜鉛]]からなる[[閃亜鉛鉱]]は60-62 %と高濃度に亜鉛を含むため、最も多く採掘されている亜鉛鉱物である<ref name="Lehto1968p822">{{harvnb|Lehto|1968|p=822}}</ref>。他の亜鉛源となる鉱物としては[[菱亜鉛鉱]]、[[異極鉱]]、[[ウルツ鉱]]、{{仮リンク|水亜鉛土|en|hydrozincite}}などがある。これらの鉱物はウルツ鉱を除き全て、元の硫化亜鉛鉱物の[[風化]]によって二次的に形成された鉱物である<ref name="Greenwood1997p1202"/>。
全世界の亜鉛の資源量はおよそ19-28億トンと見られている<ref name=USGSMCS2015>{{cite web|last=Tolcin|first=A. C.|date=2015|url=http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/zinc/mcs-2015-zinc.pdf|publisher=[[United States Geological Survey]]|accessdate=May 27, 2015|title=Mineral Commodity Summaries 2015: Zinc}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Erickson|first1=RL|title=Crustal Abundance of Elements, and Mineral Reserves and Resources|journal=U.S. Geological Survey Professional Paper 820|date=1973|pages=21–25}}</ref>。大規模な鉱床はオーストラリア、カナダおよびアメリカにあり、埋蔵量が最も多いのはイランである<ref name="Greenwood1997p1202"/><ref>{{cite web|url=http://www.etdb.org/StrategiesAndResearch/Countries/CSPReports/ReportsLibrary/CPS%20Report%20-%20Islamic%20Republic%20of%20Iran.doc|title=Country Partnership Strategy—Iran: 2011–12|accessdate=June 6, 2011|publisher=ECO Trade and development bank|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111026135641/http://www.etdb.org/StrategiesAndResearch/Countries/CSPReports/ReportsLibrary/CPS%20Report%20-%20Islamic%20Republic%20of%20Iran.doc|archivedate=2011年10月26日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.iranconmin.de/en/leftnavigation/market|title=IRAN – a growing market with enormous potential|accessdate=March 3, 2010|publisher=IMRG|date=July 5, 2010}}</ref>。亜鉛の[[可採埋蔵量]]は、[[アメリカ地質調査所]]による2015年における推定において亜鉛純分としておよそ2億3000万トンと見積もられている<ref name=USGSMCS2009>{{cite web|last=Tolcin|first=A.C.|date=2009|url=http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/zinc/mcs-2015-zinc.pdf|publisher=[[United States Geological Survey]]|accessdate=August 4, 2016|title=Mineral Commodity Summaries 2015: Zinc}}</ref>。有史以来2002年までの間におよそ3億4600万トンの亜鉛が採掘され、うち1億900万トンから3億500万トンの亜鉛が今も使用されていると学者によって推定されている<ref>{{Cite journal|last=Gordon|first=R. B.|author2=Bertram, M. |author3=Graedel, T. E. |title=Metal stocks and sustainability|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=103|date=2006|pmid=16432205|pmc=1360560|doi=10.1073/pnas.0509498103|issue=5|bibcode = 2006PNAS..103.1209G|pages=1209–14 }}</ref><ref>{{cite journal|last1=Gerst|first1=Michael|title=In-Use Stocks of Metals: Status and Implications|journal=Environmental Science and Technology|date=2008|volume=42|issue=19|pages=7038–45|doi=10.1021/es800420p|pmid=18939524|bibcode=2008EnST...42.7038G}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Meylan|first1=Gregoire|title=The anthropogenic cycle of zinc: Status quo and perspectives|journal=Resources, Conservation and Recycling|date=2016|pages=In press|doi=10.1016/j.resconrec.2016.01.006}}</ref>。
亜鉛の[[沸点]]が同族の[[カドミウム]]、[[水銀]]と同様に低いため、[[酸化亜鉛]]を[[木炭]]などで[[還元]]して金属を得ようとしても[[昇華 (化学)|昇華]]してしまい煙突の先端で空気中の[[酸素]]と反応し酸化物に戻る。この場合、鉱石を[[還元]]して生成した[[蒸気]]を空気を遮断して冷却しなければ[[単体]]は得られない。
== 歴史 ==
亜鉛は少なくとも[[紀元前4000年]]から[[銅]]との[[合金]]である[[黄銅]](真鍮)として用いられて来た。[[古代ギリシア]]人は[[キプロス]]産の亜鉛化合物について記述している。[[古代ローマ|ローマ]]征服前の[[ダキア人]](現在の[[ルーマニア]])は紀元前から金属亜鉛精錬技術に通じていた。[[ダキア]]以前に金属亜鉛を得た民族は見つかっておらず、ダキア以外の[[ヨーロッパ]]で金属亜鉛を精錬するようになったのは[[産業革命]]が始まってからである。
[[インド]]でもダキア人とは独立に亜鉛精錬技術を発見し、[[12世紀]]には[[ウール]]を還元剤として金属亜鉛を得ていた。12世紀から[[16世紀]]までに100万トン以上の亜鉛を製造したと考えられている。インドの技術はやがて[[中国]]に渡り、16世紀には中国でも亜鉛生産が始まっている。
ヨーロッパ人として金属亜鉛に初めて接したのは[[ポルトガル人]]だった。[[ポルトガル]]人は亜鉛の重要性に気づいておらず、ポルトガル商船を拿捕した[[オランダ]]人によって西欧に金属亜鉛が持ち込まれた。[[1509年]]に[[ニュルンベルク]]のエベナーが初めて欧州での金属亜鉛の生産をはじめた。[[1620年]]にはヨーロッパで東洋起源の金属亜鉛の販売が始まった。1737年に、中国から亜鉛精錬技術が[[イギリス]]に伝わる。[[1743年]]、ヨーロッパ初の亜鉛工場が港湾都市[[ブリストル]]に建設された。年間生産量は200トンである。同年[[スウェーデン人]]のアントン・フォン・シュワープが炭酸亜鉛から亜鉛を蒸留分離することに成功、硫化亜鉛からも抽出できた。これはイギリス人の製法とは独立である。[[1746年]]、[[ドイツ人]]アンドレアス・マルクグラーフは他の2国とは独立に金属亜鉛を得る。[[コークス]]と酸化亜鉛を加熱する際、空気を断つことが成功につながった。結局、マルクグラーフの手法が金属亜鉛の大規模生産へとつながっていく。このため、マルクグラーフこそが亜鉛の発見者であると位置づけられることがある。[[1798年]]に水平レトルト精錬法という、耐火性容器に[[石炭]]と亜鉛鉱石を入れて加熱し、亜鉛を[[蒸留]]精錬する方法による精錬工場が建設された<ref name="非鉄金属の本"/>。
従来、日本では真鍮は[[江戸時代]]になって普及したと考えられていた。しかし、12世紀の[[平安時代]]、[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の[[皇后]]、[[藤原得子|美福門院]]が[[高野山]]に奉納した「紺紙金字一切経」に、真鍮が大量に使われていることが判明し、すでにこの時代には日本でも真鍮が使われていたようである<ref>{{cite news |title=真鍮合金、平安期に - 定説覆す発見/奈良大が分析 |newspaper=[[奈良新聞]] |date=2014-4-22 |url=https://www.nara-np.co.jp/news/20140422090033.html |accessdate=2018-9-24}}</ref><ref>{{cite news |title=平安期の金字経から真ちゅう 制作者、費用ごまかす? |newspaper=[[日経新聞]] |date=2014-4-21 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2104C_R20C14A4CR8000/|accessdate=2018-9-24}}</ref>。
[[1850年代]]には[[アメリカ合衆国|米国]]のヒルツが亜鉛生産を開始した。1881年に[[フランス]]のルトランジュが電解法を発明した<ref name="非鉄金属の本"/>。
日本国内における金属亜鉛の製錬は1889年(明治22年)に[[黒鉱]]の処理から開始された。蒸留亜鉛が商業ベースで生産され、電気亜鉛の生産が[[神岡鉱山]]で開始されたのは共に1910年(明治43年)頃である<ref name=nishikawa />。1910年代になると世界各地で亜鉛の電解精錬がはじまった<ref name="非鉄金属の本">山口英一監修、非鉄金属研究会編著、『非鉄金属の本』、日刊工業新聞社、2010年8月30日初版1刷発行、ISBN 9784526065149 pp. 78–85</ref>。
== 製錬 ==
[[File:Zinc acetate.JPG|thumb|酢酸亜鉛]]
[[File:Zinc chloride.jpg|thumb|[[塩化亜鉛]]]]
亜鉛鉱としては[[閃亜鉛鉱]] (ZnS) や[[菱亜鉛鉱]] (ZnCO<sub>3</sub>) が主要であり、日本の亜鉛鉱山は閃亜鉛鉱が主である。細かく破砕された鉱石から[[浮遊選鉱]]などで脈石・銅鉱物・鉛鉱物などを分離したものは亜鉛精鉱と呼ばれる(亜鉛含量 50-58 %)。亜鉛精鉱は焼結により団塊とされることが多い。亜鉛精鉱は焙焼により[[酸化亜鉛]](亜鉛焼鉱)とされた後に、乾式製錬法もしくは湿式製錬法([[電解精錬]])により金属亜鉛に製錬される。
:<chem>2ZnS + 3O2 -> 2ZnO + 2SO2</chem>
閃亜鉛鉱には[[カドミウム]]が、菱亜鉛鉱には[[鉛]]が随伴するため、亜鉛精錬においてはこれらの有害金属が環境放出されないように制御される。
=== 乾式法 ===
乾式製錬法は、炭素([[コークス]]または[[無煙炭]])により[[酸化亜鉛]]の焼鉱を[[還元]]し、生成した金属亜鉛を揮発回収して蒸留亜鉛を作る方法である。還元炉の形式により、水平レトルト蒸留法・立形レトルト蒸留法(竪型レトルト法・New Jersey 法)・電熱蒸留法・ISP 法などに大別される<ref name=jikken>『新実験化学講座8 無機化合物の合成(I)』丸善、1976年</ref>。
:<chem>ZnO + C -> Zn(g) + CO</chem>
蒸留亜鉛は耐火粘土製コンデンサー(受け皿)に導いて冷却し液状亜鉛として捕集されるが、鉛 (bp. 1744 {{℃}})、カドミウム (bp. 765 {{℃}}) を含む。これらの不純物はダイカスト用亜鉛において粒界腐食を起こす原因ともなるので、分別[[蒸留]]によりさらに高純度に精製される。鉛は揮発しない温度に保たれ、カドミウムは先に揮発させて分別する。
電熱蒸留法では、亜鉛焼鉱とコークス粒の混合物に直接電流を通し加熱する円筒電気炉を使用する。この方法では亜鉛1トン当たり3000 [[キロワット時|kWh]]の電力と500 kgのコークスを必要とする。ISP 法は鎔鉱炉製錬法とも呼ばれ、炉内で生成する亜鉛蒸気を鎔融鉛のシャワーに吸収させ、この亜鉛を4.6%含む560 {{℃}}の鎔融金属を440 {{℃}}まで冷却すると鎔融鉛に対する亜鉛の溶解度が2.1%まで低下し、ほぼ純粋な鎔融亜鉛が分離して浮き上がるため、これを回収する<ref name=nishikawa />。
=== 湿式法 ===
湿式製錬法では、酸化亜鉛の焼鉱を[[硫酸]]に溶かした[[硫酸亜鉛]]の水溶液とし電解して金属を得る。
: <chem>ZnO + H2SO4 -> ZnSO4 + H2O</chem>
:<chem>(ZnO + 2 H^+ -> Zn^{2+}{}+H2O)</chem>
この硫酸亜鉛溶液は不純物を含むため、まず少量の[[二酸化マンガン]]を加えて鉄イオンを2価から3価へ酸化した後、鉄・[[ヒ素]]・[[アンチモン]]を沈殿させる。続いて少量の亜鉛末を加えて[[銅]]・[[ニッケル]]・[[コバルト]]およびカドミウムを単体をして析出除去する<ref name=jikken />。この精製した硫酸亜鉛水溶液に希硫酸を加えて酸性とし、[[陰極]]にアルミニウム電極、[[陽極]]に不溶性の含銀鉛電極を用いて電解精錬する。陽極からは酸素、陰極からは亜鉛が析出し、純度 99.99 %以上の金属亜鉛が得られる<ref name="bluebacks1188">増本健、2-5-1亜鉛、『金属なんでも小事典』、ブルーバックスB1188、講談社、pp.128–130、1997。ISBN 4-06-257188-9</ref><ref name="世界大百科事典">後藤 佐吉、「亜鉛」、『世界大百科事典』、第二版CD-ROM版、平凡社、1998年。</ref>。亜鉛は[[イオン化傾向]]が水素よりも大きく電位的に還元されにくい金属であるが、水素[[過電圧]]が高いため水溶液中であっても陰極に析出させることができる。{{seealso|亜鉛めっき}}
: <math>\rm Zn^{2+} + 2 e^- \rightarrow Zn</math>(陰極、''E''°<nowiki>=</nowiki>{{math| −0.7626 V}})
消費電力は亜鉛1トンあたり3000 - 4000 kWhである<ref name=kagakudaijiten />。酸化亜鉛の発熱量は約1.5kWh/kgであり電解の電力効率は半分以下でありお世辞にも高いとは言えない。<ref name="注" group="注">酸化亜鉛の生成熱は-348kJ/mol亜鉛の原子量は65なので、亜鉛の発熱量は348÷65=5.36kJ/g=1.49kWh/kg=1490kWh/t</ref>これは充電式の[[空気亜鉛電池]]を実用化する上での障害となる。
=== 熱分解 ===
酸化亜鉛は1000℃以上、十分な反応速度を確保するためには1500℃以上の高温を用いて熱分解できる。<ref>{{Cite journal|title=太陽エネルギーを用いた酸化亜鉛の熱解離プロセスに関する研究|url=https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/62/pdf/K2-41.pdf|journal=日本大学理工学部 学術講演会予稿}}</ref>
<chem>2ZnO <=> 2Zn(g) + O2</chem>
そのままだと平衡状態に達して反応が停止してしまうので酸素を除去する必要が有る。[[銅]]などと反応させることで酸素を除去できる。[[酸化銅(I)|酸化銅]]は[[水素]]と反応させ還元できる。水素と酸素を直接反応させると[[水蒸気]]が発生し著しく反応速度が低下してしまうのでよくない。<ref>{{Cite journal|last=立也|first=井本|last2=淑郎|first2=原納|last3=泰英|first3=西|date=1963|title=水素による酸化亜鉛の還元|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/nikkashi1948/84/2/84_2_115/_article/-char/ja/|journal=日本化學雜誌|volume=84|issue=2|pages=115–119,A10|doi=10.1246/nikkashi1948.84.2_115}}</ref><ref>{{Cite journal|last=立也|first=井本|last2=淑郎|first2=原納|last3=泰英|first3=西|last4=悟|first4=益田|date=1964|title=水素による酸化亜鉛の還元(ii)|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/nikkashi1948/85/2/85_2_106/_article/-char/ja/|journal=日本化學雜誌|volume=85|issue=2|pages=106–109,A7|doi=10.1246/nikkashi1948.85.2_106}}</ref>
電熱の他[[太陽光]]を集光することでも1500℃以上の高温を手に入れられる。[[アルミナ]]であれば1500℃の温度にも耐えられる。<ref>{{Cite journal|title=亜鉛及び水蒸気を利用した太陽エネルギーによる水素生成|url=https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/61/pdf/K2-44.pdf|journal=日本大学理工学部 学術講演会予稿集}}</ref>
一連の反応で高効率、[[二酸化炭素]]の排出なしで亜鉛を精錬できる。
== 用途 ==
=== 合金 ===
亜鉛合金は融点が低く、寸法精度を出しやすく衝撃にも強い優れた性能があり、前出の[[真鍮]]や[[洋白]]などの合金は現在でも広く利用されている。安価で緻密な加工ができる[[ダイカスト]]製品の[[地金]]にも亜鉛合金が多い。
=== 亜鉛華 ===
[[酸化亜鉛|酸化亜鉛 (亜鉛華)]]は白色の粉末状結晶で、亜鉛の蒸気を酸素と反応させることにより製造される。古くは[[鉛]]や[[水銀]]を原料とし[[おしろい]]などに用いられたがこれが中毒を引き起こすため、代替として[[顔料]]、医薬品、[[化粧品]]などとして用いられている。
このほか、酸化亜鉛は[[透明電極]]としても使われ、近年においては[[透明薄膜トランジスタ]]の伝導膜としても使われる<ref>John. F. Wager. "[http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/300/5623/1245 Transparent Electronics.]" Science 23 May 2003, Vol.300, Issue 5623, pp.1245-1246, {{DOI|10.1126/science.1085276}}</ref><ref>久米廷志,伴隆幸,大矢豊、「[https://doi.org/10.14853/pcersj.2005S.0.370.0 ゾルゲル法によって作製した酸化亜鉛を伝導層とする透明薄膜トランジスタ]」 日本セラミックス協会 年会・秋季シンポジウム 講演予稿集 2005年年会講演予稿集 セッションID:3B20, {{doi|10.14853/pcersj.2005S.0.370.0}}</ref>。ただし耐酸化性が極めて弱いため、代わって[[酸化インジウムスズ]](ITO)が[[液晶パネル]]の応用が進んだが、こちらは高価であり、さらに代替の[[導電性高分子]]の材料開発が行われている。
=== 電池 ===
[[マンガン電池]]では負極材料や電解液、[[アルカリ電池]]、[[空気亜鉛電池]]では負極材料として使用される。尚、充電時には電池内部にて負極から正極に向けて樹枝状の[[デンドライト]]が生成し、短絡の原因ともなる為いずれの電池も充電には適さない。亜鉛を燃料とする一種の[[燃料電池]]ともいえるメカニカルチャージ式の空気亜鉛電池が一時期開発されていた。
船舶や水道鋼管では金属部分が水に触れて電極となり電池を形成して腐食してしまう。これを防ぐ為、亜鉛などを溶接してこちらを電池の[[犠牲電極]](または[[流電陽極]]ともいう)とする。このような方法を[[電気防食]]という<ref name=boshoku>[http://www.wsp.gr.jp/qanda/taikei-c-2.html 日本水道鋼管協会]</ref>。船舶では亜鉛のブロックを船体に組み込み、消耗した亜鉛ブロックは定期的に補充する方法がとられるが、水道鋼管では耐消耗性を確保するため亜鉛以外の材料も使われる。
=== 亜鉛めっき ===
鋼材の防食を目的として行われる。
[[溶融亜鉛めっき]]は、溶融した亜鉛に鋼材を浸して製造する。薄い鉄板に亜鉛めっきを施した[[亜鉛めっき鋼板]]は[[トタン]]と呼ばれ屋根材などに使われる。道路の側溝をカバーする[[グレーチング]]にも亜鉛めっき鋼材が用いられる。
亜鉛は水銀などと同様に水素過電圧の大きな電極であり(約0.7 V; 1 ''N'' H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>)相対的に水素分子を発生しにくい電極である。つまり水素過電圧は電極の表面状態、電流密度、温度などで変化するので条件によっては水素よりも[[標準酸化還元電位]]が大である亜鉛が水溶液から析出したり[[電気めっき|電解めっき]]することが可能になる。すなわち、亜鉛の表面では水素イオンが電子により還元されてから水素分子が生成する多段階反応が律速となるため、低電流領域では陰極電位がZn の平衡電位に到達せず水素が発生するものの、高電流領域では二水素生成が飽和することで陰極電位が上昇し(水素過電圧)亜鉛が析出する現象が見られる。また陰極上に生成吸着した Zn(OH)<sub>2</sub> が水素析出抑制剤として作用するとも考えられている<ref>福島久哲、中野博昭、「[https://doi.org/10.1380/jsssj.22.107 硫酸塩浴からの亜鉛および亜鉛合金の電析機構]」 表面科学 2001年 22巻 2号 p.107-112, {{doi|10.1380/jsssj.22.10}}</ref>。
この電気めっきにより電気製品やコンピュータなど細密な製品にも応用することが可能となったが、表面に亜鉛のヒゲ状の結晶が成長し([[ウィスカー]])、これが電気内で短絡を起こして製品の故障原因となる場合がある<ref>永井武,名取勝英,古沢孝、「[https://doi.org/10.2320/jinstmet1952.53.3_303 電子機器に使われる光沢電気Znめっきからのウィスカによる短絡頻度]」 日本金属学会誌 1989年 53巻 3号 p.303-307, {{doi|10.2320/jinstmet1952.53.3_303}}</ref>。近年でも、[[サーバ]]に障害を発生させる原因となるとして注意喚起が行なわれている<ref>[http://it.jeita.or.jp/infosys/info/whisker/020115.html ウイスカにご注意ください] 電子情報技術産業協会 インダストリ・システム部 平成14年1月16日</ref>。
== 人体における亜鉛 ==
{{独自研究|section=1|date=March 2013}}
生体では[[鉄]]の次に多い必須[[微量元素]]で、体重70 kgのヒトに平均2.3 g含まれる。生物学的半減期は280日とする報告がある<ref>{{cite web|title=Zinc|publisher=DrugBank|url=https://www.drugbank.ca/drugs/DB01593|accessdate=2019年6月27日}}</ref>。100種類を超える[[酵素]]の活性に関与し、主に酵素の構造形成および維持に必須である。それらの酵素の生理的役割は、[[免疫]]機構の補助、創傷治癒、[[精子]]形成、[[味覚]]感知、胎発生、小児の成長など多岐にわたる。[[炭酸脱水酵素]]が最も重要だと思われる。そのほか、[[加水分解]]酵素の活性に関わり、[[デオキシリボ核酸|DNA]] や [[リボ核酸|RNA]] の[[リン酸]][[エステル]]を[[加水分解]]によって切断するので[[細胞分裂]]に大きく関わる。
人体に入る亜鉛はすべて食品に由来する。人体中では骨に多く、次いで体組織である。最も少ないのが血液であり、7 ppmに過ぎない。体組織中では、[[眼球]]、[[肝臓]]、[[筋肉]]、[[腎臓]]、[[前立腺]]、[[脾臓]]である。[[体液]]としては[[精液]]に多い。このうち、亜鉛の貯蔵器官は[[骨]]と脾臓である。亜鉛の排出経路は消化器が9割を占め、残りが[[尿]]と[[汗]]である。{{要出典|男性の場合、適度な亜鉛摂取は精子形成の増加および性欲増進の効果が見られる。|date=2022年8月}}毛髪の原料であるため、AGA・薄毛治療においても重要とされる。
なお、必須ミネラル16種の一つであるが、高濃度の亜鉛は人体に有害である。蒸気を吸入すると呼吸器に障害を起こし、全身、特に四肢の[[痙攣]]に至る。また工業的に作られた製品は不純物が有害な場合がある。
=== 所要量 ===
2020年版の「[https://www.mhlw.go.jp/content/10904750/000586553.pdf 日本人の食事摂取基準]」では、推定平均必要量:成人男性 9 mg/日、推奨量:11 mg/日、上限量:40~45 mg/日。推定平均必要量:成人女性 7 mg/日、推奨量:8 mg/日、上限量:30~35 mg/日。(成人とは18歳以上、妊婦は更に1~2 mgの付加量、授乳婦は3~4 mgの付加量 )である。
{| class="wikitable"
|+1日の平均摂取推奨量(mg)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=亜鉛 {{!}} 海外の情報 {{!}} 一般の方へ {{!}} 「統合医療」情報発信サイト 厚生労働省 「統合医療」に係る情報発信等推進事業|url=http://www.ejim.ncgg.go.jp/public/overseas/c03/12.html|website=www.ejim.ncgg.go.jp|accessdate=2019-02-14|publisher=厚生労働省}}</ref>
!ライフステージ
!摂取推奨量
|-
|生後6カ月
| 2 mg
|-
|幼児7-12カ月
| 3 mg
|-
|小児1-3歳
| 3 mg
|-
|小児4-8歳
| 5 mg
|-
|小児9-13歳
| 8 mg
|-
|10歳代14-18歳:(男子)
| 11 mg
|-
|10歳代14-18歳:(女子)
| 9 mg
|-
|成人(男性)
| 11 mg
|-
|成人(女性)
| 8 mg
|-
|10代の妊婦
| 12 mg
|-
|妊婦
| 11 mg
|-
|10代の授乳婦
| 13 mg
|-
|授乳婦
| 12 mg
|}
=== 欠乏症 ===
{{main|亜鉛欠乏症}}
亜鉛の欠乏は、亜鉛含量の少ない[[食事]]の摂取、亜鉛と結合し[[小腸]]での吸収を妨げる[[食物繊維]]の取りすぎ、さらに[[鉄]]や[[銅]]の過剰摂取などが原因となって起こることがある。亜鉛を最も含む[[食品|食材]]は入手の容易さを考慮に入れると[[レバー (食材)|レバー]]である。食物中に[[フィチン酸]]が含まれていると亜鉛の吸収が妨げられる。フィチン酸は穀物や豆類に多い。したがって、赤身の肉が少なく、[[穀物]]や[[豆|豆類]]の摂取が多い国、例えば、FAO の統計によると、[[メキシコ]]や[[ペルー]]などに欠乏症の素地を満たす国民が多い。
症状は[[細胞分裂]]の頻繁な箇所に影響が現れる。
* [[味蕾]]の減少による[[味覚]]障害<ref name="jga">{{Cite web|和書|author=日本溶融亜鉛鍍金協会 |date=2014 |url=http://www.aen-mekki.or.jp/mekki/tabid/77/Default.aspx |title=健康への影響 |website=亜鉛めっきについて |publisher=日本溶融亜鉛鍍金協会 |accessdate=2019-08-29}}</ref>
* [[精子]]形成の減少
* [[無月経]]
* [[貧血]]
* [[皮膚炎]]
* [[免疫]]機能の減弱
* [[甲状腺]]機能の減弱
* [[創傷治癒]]の遅延
亜鉛欠乏時には、胃腸機能の減衰および免疫機能低下による[[下痢]]が見られ、亜鉛を含む[[栄養素]]の摂取不良を招き、欠乏がさらに悪化することがある。亜鉛は[[インスリン]]の構造維持に必須でもあり、[[糖]]代謝にも関与する。さらに、[[ビタミンA]]の活性化にも関与するため、亜鉛の欠乏により、ビタミンA欠乏症が現れることがある。また、動物実験レベルでは、亜鉛欠乏により、活動性の低下、記憶や注意力の低下、味覚指向の変化<ref>[https://doi.org/10.4327/jsnfs.66.25 亜鉛の摂取不足がラットのラード食と魚油食の嗜好性に及ぼす影響] 日本栄養・食糧学会誌 Vol.66 (2013) No.1 pp.25–33</ref>が見られる。医師による治療の際は、亜鉛含有製剤として[[ポラプレジンク]]などが処方される<ref>[http://www.yakuzai.saga-med.ac.jp/yaku-bunrui/tekiou-gai-siyo-yaku/innai-seizai-area/ryusan-aen-matsu-main.html 亜鉛含有製剤] 佐賀医科大学医学部附属病院 薬剤部</ref>。
=== 過剰症 ===
[[ファイル:Foodstuff-containing-Zinc.jpg|right|250px|thumb|亜鉛を多く含む食品の例]]
亜鉛は過剰に摂取されると、[[膵液]]を通して過剰分が排泄される。また毒性も低いとされているため、通常の食生活では亜鉛の過剰症が問題となることはない{{R|jga}}<ref name="nih">{{Cite web|和書|url=http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail672.html|title=「健康食品」の安全性・有効性情報:F.亜鉛過剰摂取のリスク|publisher=[[国立健康・栄養研究所]]|accessdate=2017-02-14}}</ref>。しかし、急性中毒や、[[サプリメント]]の摂取などにより継続的に過剰摂取した場合には以下のような問題を引き起こす{{R|nih}}。
; 急性亜鉛中毒{{R|nih}}
:* 胃障害、[[めまい]]、[[吐き気]]の症状。
:
; 継続的な過剰摂取{{R|nih}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20150626-OYTEW52746/|date=2015-06-26|work=あなたの健康百科 by メディカルトリビューン|title=亜鉛の取り過ぎに注意、貧血や神経障害の恐れも―英研究|publisher=[[読売新聞]]|accessdate=2017-02-14}}</ref>
:* 直接的には症状を引き起こさないが、銅や鉄の吸収阻害を起こすため、[[銅欠乏症]]や[[鉄欠乏症]]を引き起こす。これらの欠乏症が[[貧血]]、免疫障害、[[神経症]]、[[下痢]]、[[リポタンパク質#高密度リポタンパク質(HDL)|HDL]](いわゆる「善玉コレステロール」)の血液中濃度の低下といった諸症状を引き起こす。
:* 吐き気、嘔吐、食欲不振、胃痙攣、頭痛などの徴候がみられる。長期にわたり亜鉛を過剰摂取すると、銅の減少、免疫の低下、および[[HDLコレステロール]]の減少などの問題が生じる場合がある<ref name=":0" />。
=== 摂取源 ===
{{正確性|section=1|date=2009年1月}}
100 g中に含まれる亜鉛の量 (mg) の比較。<!-- John Emsley による --><ref>{{Cite
| author = John Emsley
| title = Nature's building blocks
| publisher = Oxford University Press
| series =
| volume =
| edition = New edition
| date = 2011
| pages = p.623
| url = https://global.oup.com/academic/product/natures-building-blocks-9780199605637?cc=jp&lang=en&#
| doi =
| isbn = 978-0-19-960563-7
}}
</ref>
<!-- 要検証テンプレート部分は検証確認できませんでした -->
* [[カキ (貝)|カキ]] - 7
* [[レバー (食材)|レバー]] - 6
*[[カシューナッツ]] - 5
* [[牛肉]] - 4
* [[コムギ|小麦]] - 4 - {{要検証|=ただし土壌により、1/10にまで下がる場合がある|date=2016年1月}}
* [[チーズ]] - 3
* {{要検証|=[[納豆]] - 3|date=2016年1月}}
*[[たらこ]] - 3
* [[エビ]] - 2
* [[卵]] - 1
* [[牛乳]] - 0.4
=== 外用薬 ===
[[酸化亜鉛]]は、紫外線防止のために[[サンスクリーン剤|日焼け止め]]に一般的に使われ、規制限度内での使用は安全だと考えられている<ref name="pmid28509652">{{Cite journal |author=Kyu-Bong Kim, Young Woo Kim, Seong Kwang Lim et al. |title=Risk assessment of zinc oxide, a cosmetic ingredient used as a UV filter of sunscreens |journal=Journal of toxicology and environmental health. Part B, Critical reviews |volume=20 |issue=3 |pages=155–182 |date=2017 |doi=10.1080/10937404.2017.1290516 |pmid=28509652 }}</ref>。[[ジンクピリチオン]]は[[フケ]]や[[脂漏性皮膚炎]]に有効で<ref name="pmid26885780">{{Cite journal |author=James R. Schwartz |title=Zinc Pyrithione: A Topical Antimicrobial With Complex Pharmaceutics |journal=Journal of drugs in dermatology : JDD |volume=15 |issue=2 |pages=140–144 |date=2016-2 |pmid=26885780 }}</ref>、シャンプーなどに配合される。
皮膚科領域では亜鉛の殺菌と抗炎症作用から多様に研究されているが小規模試験が多く、低価格な亜鉛の有効性を判断するには、適切なランダム化比較試験が必要である<ref name="pmid25120566">{{Cite journal |author=Mrinal Gupta, Vikram K. Mahajan, Karaninder S. Mehta, Pushpinder S. Chauhan |title=Zinc therapy in dermatology: a review |journal=Dermatology research and practice |volume=2014 |pages=709152 |date=2014 |doi=10.1155/2014/709152 |pmid=25120566 |url=https://doi.org/10.1155/2014/709152 }}</ref>。中でも[[尋常性痤瘡|ニキビ]]に対しては研究が多く、第一選択肢を置き換える治療法になるとまではいかないが、実際の臨床に反映されていない<ref name="pmid25120566"/>。
== 亜鉛の化合物 ==
=== 1価 ===
[[化合物]]中の1価の亜鉛イオンは二原子イオン ({{chem|[Zn|2|]|2+}})の形を取るが、極めて不安定であり[[不均化]]しやすい。融解状態の[[塩化亜鉛]]に金属亜鉛を加え、冷却させることで得られる黄色のガラス状物質中において[Zn<sub>2</sub>]<sup>2+</sup>の存在が確認されている<ref name=Cotton>F・A・コットン、[[ジェフリー・ウィルキンソン|G・ウィルキンソン]]著、中原 勝儼訳『コットン・ウィルキンソン無機化学』培風館、1987年、591頁。</ref>。{{chem|Zn|2|2+}}という1価イオンの形は1価の[[水銀]]の二原子イオンである{{chem|Hg|2|2+}}に類似しており、その二量体構造を反映して反磁性を有している。初めて合成された1価の亜鉛化合物は{{仮リンク|デカメチルジジンコセン|en|Decamethyldizincocene}}((η<sup>5</sup>-C<sub>5</sub>Me<sub>5</sub>)<sub>2</sub>Zn<sub>2</sub>)であり、これは初めて合成されたジ[[メタロセン]]でもある<ref>{{Housecroft3rd|page=739–741, 843}}</ref>。
=== 2価 ===
亜鉛は、[[貴ガス]]元素を除く全ての[[非金属]]元素および[[半金属]]元素との間で[[二元化合物]]を形成することが知られている。[[酸化亜鉛]]は水に難溶な白色粉末であるが、[[両性 (化学)|両性]]酸化物であり[[酸]]にも[[塩基]]にも溶解する<ref name="Holl">{{Cite book|publisher=Walter de Gruyter|date=1985|edition=91–100| pages=1034–1041|isbn=3-11-007511-3|title=Lehrbuch der Anorganischen Chemie|first1=Arnold F.|last1=Holleman|last2=Wiberg|first2=Egon|last3=Wiberg|first3=Nils|language=German|chapter=Zink}}</ref>。他の[[第16族元素]]との化合物([[硫化亜鉛]]、[[セレン化亜鉛]]、{{仮リンク|テルル化亜鉛|en|Zinc telluride}})は電子材料や光学材料に用いられる<ref>{{cite web|url=http://www.americanelements.com/znsu.html|title=Zinc Sulfide|publisher=[[American Elements]]|accessdate=February 3, 2009}}</ref>。[[第15族元素]]との化合物([[窒化亜鉛]]、[[リン化亜鉛]]、{{仮リンク|ヒ化亜鉛|en|Zinc arsenide}}、{{仮リンク|アンチモン化亜鉛|en|Zinc antimonide}})<ref>{{cite book|author=Grolier contributors|title=Academic American Encyclopedia|url=https://books.google.com/?id=YgI4E7w5JI8C|date=1994|publisher=Grolier Inc.| location=[[ダンベリー (コネチカット州)|ダンベリー]], [[コネチカット州]]|isbn=0-7172-2053-2|page=202}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.americanelements.com/znp.html|title=Zinc Phosphide|publisher=[[American Elements]]|accessdate=February 3, 2009}}</ref>や水素化物({{仮リンク|水素化亜鉛|en|Zinc hydride}})、炭化物([[炭化亜鉛]])なども知られている<ref>{{Cite journal|journal=Diamond and Related Materials|volume=9|date=2000|title=Peculiarities of interaction in the Zn–C system under high pressures and temperatures|first=A. A.|issue=2|last=Shulzhenko|author2=Ignatyeva, I. Yu. |author3=Osipov, A. S. |author4= Smirnova, T. I. |doi=10.1016/S0925-9635(99)00231-9|pages=129–133|bibcode = 2000DRM.....9..129S }}</ref>。[[フッ化亜鉛]]はイオン性が強く高融点(872度)であるが、他のハロゲン化亜鉛([[塩化亜鉛]]、[[臭化亜鉛]]、[[ヨウ化亜鉛]])は共有結合性がより強いため比較的低融点を示す<ref name="Greenwood1997p1211">{{harvnb|Greenwood|1997|p=1211}}</ref>。
2価の[[水和]]イオン Zn<sup>2+</sup>(aq) は無色であり、多少[[加水分解]]して弱[[酸性]]を示し、その[[酸解離定数]]はp''K''<sub>a</sub> = 9.0である。Zn<sup>2+</sup>を含んだ溶液を弱塩基性にすると、[[水酸化亜鉛]]の白色[[沈殿]]が生成する。より塩基性が強くなると、この水酸化物は亜鉛酸イオン({{chem|[Zn(OH)|4|]|2-}})として再び溶解する<ref name="Holl"/>。亜鉛はオキソ酸イオンとも化合物を形成し、それらの例として[[硝酸亜鉛]]や[[硫酸亜鉛]]、[[リン酸亜鉛]]、[[モリブデン酸亜鉛]]、[[亜ヒ酸亜鉛]]、[[ヒ酸亜鉛]]などがある。黄色を呈する[[クロム酸亜鉛]]は、無色であることが多い2価の亜鉛化合物の中で数少ない有色の化合物である<ref>{{Cite journal| last=Rasmussen|first=J. K.|author2=Heilmann, S. M. | title=In situ Cyanosilylation of Carbonyl Compounds: O-Trimethylsilyl-4-Methoxymandelonitrile| journal=Organic Syntheses, Collected Volume| volume=7| page=521|date=1990| url=http://www.orgsyn.org/orgsyn/prep.asp?prep=cv7p0521}}</ref><ref name="perry">{{Cite book|title=Handbook of Inorganic Compounds|last=Perry|first=D. L.|pages=448–458|date=1995|isbn=0-8493-8671-3|publisher=CRC Press}}</ref>。最も単純な亜鉛の有機酸塩の一例として[[酢酸亜鉛]]がある。
亜鉛-炭素結合を持つ[[有機亜鉛化合物]]として、合成化学において試薬として用いられる[[ジエチル亜鉛]]がある。ジエチル亜鉛は1848年に報告された初めての有機亜鉛化合物であり、亜鉛と[[ヨウ化エチル]]の反応によって合成される。それはまた金属-炭素間に[[σ結合]]を有する化合物としても初のものであった<ref>{{Cite journal|title=On the isolation of the organic radicals|author=Frankland, E.|journal=Quarterly [[Journal of the Chemical Society]]|date=1850|volume=2|issue=3|page=263|doi=10.1039/QJ8500200263|authorlink=Edward Frankland}}</ref>。
=== 主な化合物 ===
* [[塩化亜鉛]] (ZnCl<sub>2</sub>)
* [[酸化亜鉛]] (ZnO)
* [[硫化亜鉛]] (ZnS) - [[白|白色]]
* [[硫酸亜鉛]] (ZnSO<sub>4</sub>)
* [[クロム酸亜鉛]] (ZnCrO<sub>4</sub>) - [[黄色]][[顔料]]・[[ジンククロメート]](ジンクイエロー)として使われる。
* [[ステアリン酸亜鉛]]{{chem|(Zn(C|18|H|35|O|2|)|2|)}} - 製薬助剤
* [[スズ酸亜鉛]] (ZnSnO<sub>3</sub>) - プラスチック[[難燃剤]]
* [[グルコン酸亜鉛]] {{chem|(C|12|H|22|O|14|Zn)}} - 医薬(亜鉛補充剤)
* [[リン化亜鉛]]{{chem|(Zn|3|P|2|)}} - 殺鼠殺虫剤
== 同位体 ==
{{Main|亜鉛の同位体}}
亜鉛の同位体は自然界に5種類が存在している。[[天然存在比]]の最も高い同位体は <sup>64</sup>Zn の 48.63%<ref name="NNDC">{{cite web|url=http://www.nndc.bnl.gov/chart/|author=NNDC contributors|editor=Alejandro A. Sonzogni (Database Manager)|title=Chart of Nuclides|publisher=National Nuclear Data Center, [[ブルックヘブン国立研究所]]|accessdate=September 13, 2008|date=2008|location=Upton (NY)}}</ref>。<sup>64</sup>Zn の[[半減期]]は4.3 × 10<sup>18</sup> 年であるが<ref>{{cite book|author=CRC contributors|title=Handbook of Chemistry and Physics|editor=David R. Lide|edition=87th|page='''11'''-70|year=2006|url=https://books.google.com/?id=WDll8hA006AC&pg=PT893|publisher=CRC Press, Taylor & Francis Group|location=Boca Raton, Florida|isbn=0-8493-0487-3|ref=CITEREFCRC2006}}</ref>、その[[放射能]]は無視できる程度である<ref name="NASA">{{cite web|title=Five-Year Wilkinson Microwave Anisotropy Probe (WMAP) Observations: Data Processing, Sky Maps, and Basic Results|url=http://lambda.gsfc.nasa.gov/product/map/dr3/pub_papers/fiveyear/basic_results/wmap5basic.pdf|publisher=[[NASA]]|accessdate=March 6, 2008|author=NASA contributors}}</ref>。同様に、0.6%含まれる <sup>70</sup> Zn も1.3 × 10<sup>16</sup> 年の半減期を持つが、こちらも通常は放射性ではないとみなされている。他の同位体の天然存在比は <sup>66</sup>Zn が 28%、<sup>67</sup>Zn が 4%、<sup>68</sup>Zn が 9%である。
天然に存在するもの以外にも数十種の[[放射性同位体]]が同定されている。その中で最も安定なものは、半減期243.93日の<sup>65</sup>Zn であり、次いで安定なのが半減期46.5時間の<sup>72</sup>Zn である。また、亜鉛には10種の[[核異性体]]が存在している。最も安定な核異性体は<sup>69m</sup>Znであり、その半減期は13.76時間である<ref name="NNDC"/>。
[[質量数]]66未満の放射性同位体の[[崩壊モード]]は[[電子捕獲]]であり、娘核種として[[銅]]の同位体が生成される<ref name="NNDC"/>。
:{{Nuclide|zinc|n}} + {{粒子の記号|link=yes|e}} → {{Nuclide|copper|n}}
一方で、質量数66以上の放射性同位体の崩壊モードは[[ベータ崩壊#β−崩壊|β<sup>−</sup>崩壊]]であり、娘核種として[[ガリウム]]の同位体が生成される<ref name="NNDC"/>。
:{{Nuclide|zinc|n}} → {{Nuclide|gallium|n}} + {{粒子の記号|link=yes|e}} + {{粒子の記号|link=yes|反νe}}
==出典==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* <!-- CRC -->{{cite book
|author=CRC contributors
|title=Handbook of Chemistry and Physics
|editor=David R. Lide
|edition=87th
|year=2006
|url=https://books.google.com/?id=WDll8hA006AC&pg=PT893
|publisher=CRC Press, Taylor & Francis Group
|location=Boca Raton, Florida
|isbn=0-8493-0487-3
|ref=CITEREFCRC2006}}
* <!-- Em -->{{cite book
|title=Nature's Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements
|last=Emsley
|first=John
|publisher=Oxford University Press
|year=2001
|location=Oxford, England, UK
|isbn=0-19-850340-7
|chapter=Zinc
|pages=499–505
|url=https://books.google.com/?id=j-Xu07p3cKwC
|ref=CITEREFEmsley2001}}
*{{cite book
|last=Greenwood
|first=N. N.
|author2=Earnshaw, A.
|title=Chemistry of the Elements
|edition=2nd
|publisher=Butterworth-Heinemann
|location=Oxford
|year=1997
|isbn=0-7506-3365-4
|ref=CITEREFGreenwood1997}}
* <!-- He -->{{cite book
|last=Heiserman
|first=David L.
|title=Exploring Chemical Elements and their Compounds
|location=New York
|publisher=TAB Books
|isbn=0-8306-3018-X
|chapter=Element 30: Zinc
|url=https://books.google.com/?id=24l-Cpal9oIC
|ref=CITEREFHeiserman1992
|year=1992
}}
* <!-- Le -->{{cite book
|title=The Encyclopedia of the Chemical Elements
|publisher=Reinhold Book Corporation
|location=New York
|year=1968
|editor=Clifford A. Hampel
|last=Lehto
|first=R. S.
|isbn=0-442-15598-0
|chapter=Zinc
|pages=822–830
|ref=CITEREFLehto1968
|lccn=68-29938
}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Zinc}}
* [[味覚]]
* [[ジンクホワイト]](酸化亜鉛)
* [[微量元素]]
* [[マトリックスメタロプロテアーゼ]]
*[[亜鉛欠乏症]]
*[[亜鉛イオノフォア]]
== 外部リンク ==
* [https://mric.jogmec.go.jp/ 金属資源情報] - 石油天然ガス・金属鉱物資源機構
* {{PaulingInstitute|jp/mic/minerals/zinc}}
* {{Hfnet|672|亜鉛解説}}
* {{Hfnet|36|亜鉛|nolink=yes}}
* [https://www.riken.jp/medialibrary/riken/pr/press/2006/20060807_1/20060807_1pdf.pdf 栄養素「亜鉛」は免疫のシグナル](独立行政法人 [[理化学研究所]])
* [https://gbank.gsj.jp/geochemmap/zenkoku/japanZn.htm 亜鉛の地球化学図]
* {{Kotobank}}
* [http://kikakurui.com/k8/K8012-2006-01.html 亜鉛 (試薬)JISK8012:2006]
{{元素周期表}}
{{亜鉛の化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あえん}}
[[Category:亜鉛|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:第12族元素]]
[[Category:第4周期元素]]
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[[Category:必須ミネラル]] | 2003-05-23T15:31:59Z | 2023-11-20T08:54:54Z | false | false | false | [
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9,199 | カドニウム | もしかして
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] | もしかして カドミウム ではありませんか? | {{もしかして|カドミウム}}{{Short pages monitor}}<!--
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{{デフォルトソート:かとにうむ}} | null | 2023-04-23T13:12:20Z | false | false | false | [
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9,200 | カドミウム | カドミウム(英: cadmium [ˈkædmiəm])は、原子番号48の金属元素で、元素記号は Cd である。亜鉛族元素の1つであり、化学的挙動は亜鉛と似ており、常に亜鉛鉱にカドミウムも含まれているため、亜鉛精錬の際に回収されている。
有害物質として知られる。人体にとって有害であり、体内に吸収されると腎臓に機能障害を引き起こすなどするため、取り扱い、及び、鉱山などからの排水の管理には注意を要する。日本ではカドミウムによる環境汚染により、富山県の神通川流域で発生したイタイイタイ病が問題となった。また、カドミウムとその化合物は、WHOの下部機関IARCよりヒトに対して発癌性を有する (Group1) と勧告されている。
ホタテガイの中腸腺(ウロ)には、カドミウムが蓄積する事が知られている。
カドミウムの由来には、諸説が有る。例えば、フェニキアの伝説上の人物であるカドモスが由来という説も有る。また、ギリシャ語で菱亜鉛鉱を意味するカドメイア (Kadmeia) に由来するという説も有る。
カドミウムの単体は、安定な六方最密充填構造 (HCP) をとる。銀白色で展性に富む軟金属である。比較的酸化され難く金属光沢を保ち易いものの、湿気の多い空気中では徐々に酸化されて灰色になり金属光沢も失う。
塩酸および希硫酸などとは徐々に反応し、無色の2価の水和カドミウムイオンを生成する。
2価の水和カドミウムイオン Cd(aq) は極めて弱い酸としての性質 (pKa = 10.2) を示すが、その程度はよりイオン半径の小さな亜鉛イオン Zn(aq) より低い。カドミウムイオンはHSAB則では中程度のルイス酸として分類され、ヨウ化物イオンなどハロゲン化物イオンおよび、アンモニアなどと錯体を作り易い。
常圧での融点は、320.9 °Cと金属元素の中では比較的低い方である。常圧での沸点は、765 °Cである。この値も金属元素としては、水銀およびアルカリ金属に次いで低く、したがって蒸気圧が比較的高い金属と言える。なお、カドミウム蒸気も有毒である。
ウッド合金の成分材料、顔料(カドミウムイエロー・レッド・オレンジ等)、二次電池(ニッカド電池)の電極など様々な工業製品に利用されてきた。融点が低いという性質を利用して、ハンダの原料として用いられた事もある。また、比較的中性子を吸収し易い性質から、原子炉の制御用材料にも使われている。
カドミウムはめっき材料として、自動車関連業界で古くから用いられてきた。めっきが均質で、亜鉛よりはやや小さいイオン化傾向を持ち、犠牲電極として良好な性質を持つからである。また潤滑油とのなじみが良く、焼付きを防ぐ性質がある。やや黄色味がかったカドミウムめっきは、1960年代までのアメリカ車のエンジンルームでよく見られた。
しかし、近年はカドミウムの毒性が懸念され、その利用が忌避される傾向が強い。
カドミウムは一般に、最外殻の5s軌道の電子のみを失った状態である+2価の酸化数を取っている状態が安定である。 しかし、稀に不安定ながら+1価 (Cd2) 状態を取る場合もある。なお、10個の電子で満たされている4d軌道の電子を失うような酸化数は取らない。
塩化物および硫酸塩などとの塩は、一般的に無色の物が多く水溶性である。しかし、カルコゲンとの化合物は、有色である場合が多く、極めて水に対して難溶性である。
カドミウムは、質量数が110から112の合計3つの核種が、安定核種である。この他に、質量数106、108、113、114、116も極めて長い寿命を持った核種であり、天然に存在する。
カドミウムは、ヒトで体重1 kg当たり約0.7 mg含まれると見積もられている。カドミウムは亜鉛と同族元素であるために、生体内での挙動も類似している。多くの生物種において蓄積性が見られ、ヒトでは体内に約30年間残留すると言われている。したがって、一旦カドミウムに暴露されると、長期間その毒性に蝕まれる危険性がある。
カドミウムの毒性については、骨が極めて脆弱化するイタイイタイ病で大きな社会問題となった。さらに、慢性毒性では、肺気腫、腎障害、蛋白尿が見られる。腎障害では糸球体ではなく、尿細管が障害を受けると言われている。また、カドミウムは発ガン性物質としても知られている。これらの毒性の一部は、カドミウムが亜鉛と類似の生体内挙動を示す事から、亜鉛含有酵素の作用を乱した結果と考えられる。
これらの毒性に対する生体側の防御として、金属結合性タンパク質のメタロチオネインが誘導され、カドミウムを分子内に取り込み毒性を軽減している。
カドミウムは亜鉛に伴って産出するため、公害への関心が薄かった時代には亜鉛の精錬過程で環境に放出され、精錬所の下流域の土壌に蓄積された。 また、カドミウムを使用する工場からも排水を通じて環境にカドミウムが放出された。1970年に通商産業省がメッキ工場、電気機器工場の排水を抜き打ち調査した結果、8割の工場で排水処理がされておらず、半数の工場で工場排水基準法の基準(当時0.1ppm)を超過した状態にあった。
土壌中に蓄積されたカドミウムは、土壌のpHが中性からアルカリ性では難溶であるために吸収され難いのに対して、土壌の酸化条件によりイオンとして溶出して農作物に吸収され、蓄積される。日本列島の土壌は、大半が中性から酸性であるためカドミウムが溶出し易い環境であり、このため食物がカドミウムによる汚染を受け易い状況にある。日本人は食事によってカドミウムを、1日当たり26 μgを平均して摂取していると見積もられている。
日本ではコメを始めとする食物に、カドミウムの含有基準が設けられており、基準値以上を含む農作物は販売が禁止されている。食品衛生法上は玄米において上限1 ppmと規定されており、これを超過した物は、全て焼却処分すると定められている。また、食糧庁通達により玄米中0.4 ppm以上が検出された場合は、食用にはされずに全て工業用途に回すとしてきたものの、2008年に発覚した汚染米問題で明らかになったように、糊原料には小麦粉が用いられており、コメの工業用の用途は確認されていない。
なお各国の含有基準は、台湾:0.5 ppm、韓国・中国・EU:0.2 ppm、タイ・オーストラリア:0.1 ppmである。2006年7月に開催されたコーデックス委員会総会において、国際基準が精米中に0.4 (mg/kg)とされた。
国立がん研究センターによると、食品に含まれるカドミウムの長期摂取と、がん発症のリスクには明確な関連が見られないことが分かった。研究では、9府県の男女約9万人を対象に、喫煙や飲酒など、他のリスクを除いて、カドミウムの摂取量とがんの発症を調べたところ、相関は認められなかった。その理由として、食品に含まれるカドミウムの量が少ないことと、吸入ではなく摂取であることが考えられている。
ヨーロッパでは、カドミウムの人体への蓄積を防ぐため、カドミウムを含む製品の製造・輸入に関してRoHSとして知られる厳しい制限を課している。
2001年、ソニー・コンピュータエンタテインメントは、オランダ政府より、ゲーム機のPS oneの周辺機器から基準値を超えるカドミウムを検出したとして、対応策を求められた。配線の赤いビニール被覆の顔料として、カドミウムの化合物が用いられていた事が原因であった。ソニー・コンピュータエンタテインメントは欧州全域で100億円以上の費用を投入し、製品の回収と対策品の置き換えを余儀なくされた。この出来事は、世界の電機部品メーカーに強いショックを与え、工業製品の生産現場からカドミウム離れが起こった。
前後して市販の二次電池も、負極に水酸化カドミウム Cd(OH)2 を使用するニッケル・カドミウム蓄電池(いわゆるニッカド電池)から、より大容量でかつカドミウムを使わないニッケル・水素蓄電池・リチウムイオン二次電池への転換が進められている。
1817年にドイツの科学者フリードリヒ・シュトロマイヤーによって、菱亜鉛鉱(炭酸亜鉛)から不純物として発見された。同年には同じくドイツのカール・ザムエル・ヘルマンも酸化亜鉛から発見している。 | [
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"text": "カドミウム(英: cadmium [ˈkædmiəm])は、原子番号48の金属元素で、元素記号は Cd である。亜鉛族元素の1つであり、化学的挙動は亜鉛と似ており、常に亜鉛鉱にカドミウムも含まれているため、亜鉛精錬の際に回収されている。",
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"text": "有害物質として知られる。人体にとって有害であり、体内に吸収されると腎臓に機能障害を引き起こすなどするため、取り扱い、及び、鉱山などからの排水の管理には注意を要する。日本ではカドミウムによる環境汚染により、富山県の神通川流域で発生したイタイイタイ病が問題となった。また、カドミウムとその化合物は、WHOの下部機関IARCよりヒトに対して発癌性を有する (Group1) と勧告されている。",
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"text": "カドミウムの由来には、諸説が有る。例えば、フェニキアの伝説上の人物であるカドモスが由来という説も有る。また、ギリシャ語で菱亜鉛鉱を意味するカドメイア (Kadmeia) に由来するという説も有る。",
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"text": "カドミウムの単体は、安定な六方最密充填構造 (HCP) をとる。銀白色で展性に富む軟金属である。比較的酸化され難く金属光沢を保ち易いものの、湿気の多い空気中では徐々に酸化されて灰色になり金属光沢も失う。",
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"text": "塩酸および希硫酸などとは徐々に反応し、無色の2価の水和カドミウムイオンを生成する。",
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"text": "2価の水和カドミウムイオン Cd(aq) は極めて弱い酸としての性質 (pKa = 10.2) を示すが、その程度はよりイオン半径の小さな亜鉛イオン Zn(aq) より低い。カドミウムイオンはHSAB則では中程度のルイス酸として分類され、ヨウ化物イオンなどハロゲン化物イオンおよび、アンモニアなどと錯体を作り易い。",
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"text": "常圧での融点は、320.9 °Cと金属元素の中では比較的低い方である。常圧での沸点は、765 °Cである。この値も金属元素としては、水銀およびアルカリ金属に次いで低く、したがって蒸気圧が比較的高い金属と言える。なお、カドミウム蒸気も有毒である。",
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"text": "ウッド合金の成分材料、顔料(カドミウムイエロー・レッド・オレンジ等)、二次電池(ニッカド電池)の電極など様々な工業製品に利用されてきた。融点が低いという性質を利用して、ハンダの原料として用いられた事もある。また、比較的中性子を吸収し易い性質から、原子炉の制御用材料にも使われている。",
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"text": "カドミウムはめっき材料として、自動車関連業界で古くから用いられてきた。めっきが均質で、亜鉛よりはやや小さいイオン化傾向を持ち、犠牲電極として良好な性質を持つからである。また潤滑油とのなじみが良く、焼付きを防ぐ性質がある。やや黄色味がかったカドミウムめっきは、1960年代までのアメリカ車のエンジンルームでよく見られた。",
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"text": "カドミウムは一般に、最外殻の5s軌道の電子のみを失った状態である+2価の酸化数を取っている状態が安定である。 しかし、稀に不安定ながら+1価 (Cd2) 状態を取る場合もある。なお、10個の電子で満たされている4d軌道の電子を失うような酸化数は取らない。",
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"text": "塩化物および硫酸塩などとの塩は、一般的に無色の物が多く水溶性である。しかし、カルコゲンとの化合物は、有色である場合が多く、極めて水に対して難溶性である。",
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"text": "カドミウムは、質量数が110から112の合計3つの核種が、安定核種である。この他に、質量数106、108、113、114、116も極めて長い寿命を持った核種であり、天然に存在する。",
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"text": "カドミウムは、ヒトで体重1 kg当たり約0.7 mg含まれると見積もられている。カドミウムは亜鉛と同族元素であるために、生体内での挙動も類似している。多くの生物種において蓄積性が見られ、ヒトでは体内に約30年間残留すると言われている。したがって、一旦カドミウムに暴露されると、長期間その毒性に蝕まれる危険性がある。",
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"text": "カドミウムの毒性については、骨が極めて脆弱化するイタイイタイ病で大きな社会問題となった。さらに、慢性毒性では、肺気腫、腎障害、蛋白尿が見られる。腎障害では糸球体ではなく、尿細管が障害を受けると言われている。また、カドミウムは発ガン性物質としても知られている。これらの毒性の一部は、カドミウムが亜鉛と類似の生体内挙動を示す事から、亜鉛含有酵素の作用を乱した結果と考えられる。",
"title": "代謝"
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"text": "これらの毒性に対する生体側の防御として、金属結合性タンパク質のメタロチオネインが誘導され、カドミウムを分子内に取り込み毒性を軽減している。",
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"text": "カドミウムは亜鉛に伴って産出するため、公害への関心が薄かった時代には亜鉛の精錬過程で環境に放出され、精錬所の下流域の土壌に蓄積された。 また、カドミウムを使用する工場からも排水を通じて環境にカドミウムが放出された。1970年に通商産業省がメッキ工場、電気機器工場の排水を抜き打ち調査した結果、8割の工場で排水処理がされておらず、半数の工場で工場排水基準法の基準(当時0.1ppm)を超過した状態にあった。",
"title": "食物の汚染"
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"text": "土壌中に蓄積されたカドミウムは、土壌のpHが中性からアルカリ性では難溶であるために吸収され難いのに対して、土壌の酸化条件によりイオンとして溶出して農作物に吸収され、蓄積される。日本列島の土壌は、大半が中性から酸性であるためカドミウムが溶出し易い環境であり、このため食物がカドミウムによる汚染を受け易い状況にある。日本人は食事によってカドミウムを、1日当たり26 μgを平均して摂取していると見積もられている。",
"title": "食物の汚染"
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"text": "日本ではコメを始めとする食物に、カドミウムの含有基準が設けられており、基準値以上を含む農作物は販売が禁止されている。食品衛生法上は玄米において上限1 ppmと規定されており、これを超過した物は、全て焼却処分すると定められている。また、食糧庁通達により玄米中0.4 ppm以上が検出された場合は、食用にはされずに全て工業用途に回すとしてきたものの、2008年に発覚した汚染米問題で明らかになったように、糊原料には小麦粉が用いられており、コメの工業用の用途は確認されていない。",
"title": "食物の汚染"
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"text": "なお各国の含有基準は、台湾:0.5 ppm、韓国・中国・EU:0.2 ppm、タイ・オーストラリア:0.1 ppmである。2006年7月に開催されたコーデックス委員会総会において、国際基準が精米中に0.4 (mg/kg)とされた。",
"title": "食物の汚染"
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"text": "国立がん研究センターによると、食品に含まれるカドミウムの長期摂取と、がん発症のリスクには明確な関連が見られないことが分かった。研究では、9府県の男女約9万人を対象に、喫煙や飲酒など、他のリスクを除いて、カドミウムの摂取量とがんの発症を調べたところ、相関は認められなかった。その理由として、食品に含まれるカドミウムの量が少ないことと、吸入ではなく摂取であることが考えられている。",
"title": "食物の汚染"
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"text": "ヨーロッパでは、カドミウムの人体への蓄積を防ぐため、カドミウムを含む製品の製造・輸入に関してRoHSとして知られる厳しい制限を課している。",
"title": "脱カドミウムの動き"
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"text": "2001年、ソニー・コンピュータエンタテインメントは、オランダ政府より、ゲーム機のPS oneの周辺機器から基準値を超えるカドミウムを検出したとして、対応策を求められた。配線の赤いビニール被覆の顔料として、カドミウムの化合物が用いられていた事が原因であった。ソニー・コンピュータエンタテインメントは欧州全域で100億円以上の費用を投入し、製品の回収と対策品の置き換えを余儀なくされた。この出来事は、世界の電機部品メーカーに強いショックを与え、工業製品の生産現場からカドミウム離れが起こった。",
"title": "脱カドミウムの動き"
},
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"text": "前後して市販の二次電池も、負極に水酸化カドミウム Cd(OH)2 を使用するニッケル・カドミウム蓄電池(いわゆるニッカド電池)から、より大容量でかつカドミウムを使わないニッケル・水素蓄電池・リチウムイオン二次電池への転換が進められている。",
"title": "脱カドミウムの動き"
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"text": "1817年にドイツの科学者フリードリヒ・シュトロマイヤーによって、菱亜鉛鉱(炭酸亜鉛)から不純物として発見された。同年には同じくドイツのカール・ザムエル・ヘルマンも酸化亜鉛から発見している。",
"title": "歴史"
}
] | カドミウムは、原子番号48の金属元素で、元素記号は Cd である。亜鉛族元素の1つであり、化学的挙動は亜鉛と似ており、常に亜鉛鉱にカドミウムも含まれているため、亜鉛精錬の際に回収されている。 有害物質として知られる。人体にとって有害であり、体内に吸収されると腎臓に機能障害を引き起こすなどするため、取り扱い、及び、鉱山などからの排水の管理には注意を要する。日本ではカドミウムによる環境汚染により、富山県の神通川流域で発生したイタイイタイ病が問題となった。また、カドミウムとその化合物は、WHOの下部機関IARCよりヒトに対して発癌性を有する (Group1) と勧告されている。 ホタテガイの中腸腺(ウロ)には、カドミウムが蓄積する事が知られている。 | {{Otheruses|[[元素]]|[[鉱物]]|自然カドミウム}}
{{Elementbox
|number=48
|symbol=Cd
|name=cadmium
|japanese name=カドミウム
|pronounce={{IPAc-en|ˈ|k|æ|d|m|i|əm}} {{respell|KAD|mee-əm}}
|left=[[銀]]
|right=[[インジウム]]
|above=[[亜鉛|Zn]]
|below=[[水銀|Hg]]
|series=ポスト遷移金属
|group=12
|period=5
|block=d
|image name=Cadmium-crystal_bar.jpg
|appearance=銀白色
|atomic mass=112.411
|electron configuration=[[[クリプトン|Kr]]] 5s<sup>2</sup> 4d<sup>10</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 18, 2
|phase=固体
|density gpcm3nrt=8.65
|density gpcm3mp=7.996
|melting point K=594
|melting point C=321
|boiling point K=1038
|boiling point C=765
|heat fusion=6.21
|heat vaporization=99.87
|heat capacity=26.020
|vapor pressure 1=530
|vapor pressure 10=583
|vapor pressure 100=654
|vapor pressure 1 k=745
|vapor pressure 10 k=867
|vapor pressure 100 k=1040
|vapor pressure comment=
|crystal structure=[[六方晶系]]
|oxidation states='''2''', 1([[塩基性酸化物]])
|electronegativity=1.69
|number of ionization energies=3
|1st ionization energy=867.8
|2nd ionization energy=1631.4
|3rd ionization energy=3616
|atomic radius=151
|covalent radius=144 ± 9
|Van der Waals radius=158
|magnetic ordering=[[反磁性]]<ref>{{PDF|[https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds]}}(2004年3月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]), in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref>
|electrical resistivity=(22 {{℃}}) 72.7 n
|thermal conductivity=96.6
|thermal expansion at 25=30.8
|speed of sound rod at 20=2310
|Young's modulus=50
|Shear modulus=19
|Bulk modulus=42
|Poisson ratio=0.30
|Mohs hardness=2.0
|Brinell hardness=203
|CAS number=7440-43-9
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=106 | sym=Cd
| na=1.25% | hl=[[1 E19 s|> 9.5 × 10<sup>17</sup>]] [[年|y]]
| dm=[[二重電子捕獲|εε2ν]] | de=- | pn=106 | ps=[[パラジウム|Pd]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=107 | sym=Cd
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|6.5]] [[時間|h]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de=1.417 | pn=107 | ps=[[銀|Ag]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=108 | sym=Cd
| na=0.89% | hl=[[1 E19 s|> 6.7 × 10<sup>17</sup>]] y
| dm=[[二重電子捕獲|εε2ν]] | de=- | pn=108 | ps=[[パラジウム|Pd]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=109 | sym=Cd
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|462.6]] [[日|d]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.214 | pn=109 | ps=[[銀|Ag]]}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=110 | sym=Cd | na=12.49% | n=62}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=111 | sym=Cd | na=12.8% | n=63}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=112 | sym=Cd | na=24.13% | n=64}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=113 | sym=Cd
| na=12.22% | hl=[[1 E19 s|7.7 × 10<sup>15</sup>]] y
| dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.316 | pn=113 | ps=[[インジウム|In]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=113[[核異性体|m]] | sym=Cd
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E8 s|14.1]] y
| dm1=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de1=0.580 | pn1=113 | ps1=[[インジウム|In]]
| dm2=[[核異性体転移|IT]] | de2=0.264 | pn2=113 | ps2=Cd}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=114 | sym=Cd
| na=28.73% | hl=[[1 E19 s|> 9.3 × 10<sup>17</sup>]] y
| dm=[[二重電子捕獲|ββ2ν]] | de=- | pn=114 | ps=[[スズ|Sn]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=115 | sym=Cd
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|53.46]] h
| dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=1.446 | pn=115 | ps=[[インジウム|In]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=116 | dm=[[二重電子捕獲|ββ2ν]] | de=- | sym=Cd | na=7.49% | hl=[[1 E19 s|2.9 × 10<sup>19</sup>]] y | pn=116 | ps=[[スズ|Sn]]}}
|isotopes comment=
}}
'''カドミウム'''({{lang-en-short|cadmium}} {{IPA-en|ˈkædmiəm|}})は、[[原子番号]]48の[[金属元素]]で、[[元素記号]]は '''Cd''' である。[[亜鉛族元素]]の1つであり、化学的挙動は[[亜鉛]]と似ており、常に亜鉛鉱にカドミウムも含まれているため、亜鉛精錬の際に回収されている。
有害物質として知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211105-JYH4OYYLMNIMVEMLVZKYWASO3M/|title=軽石の有害物質、基準以下 沖縄県、有効利用検討|publisher=産経ニュース|date=2021-11-05|accessdate=2021-11-05}}</ref>。人体にとって有害であり、体内に吸収されると[[腎臓]]に機能障害を引き起こすなどするため、取り扱い、及び、鉱山などからの排水の管理には注意を要する。日本ではカドミウムによる環境汚染により、富山県の[[神通川]]流域で発生した[[イタイイタイ病]]が問題となった<ref>鈴木勉、田中真知『学研雑学百科 毒学教室 毒のしくみから世界の毒事件ま簿まで 毒のすべてをわかりやすく解説』株式会社学研マーティング、2011年、11ページ、ISBN 978-4-05-404832-4</ref>。また、カドミウムとその化合物は、[[世界保健機関|WHO]]の下部機関IARCよりヒトに対して[[発癌性]]を有する (Group1) と勧告されている。
[[ホタテガイ]]の[[中腸腺]](ウロ)には、カドミウムが蓄積する事が知られている。
== 名称 ==
カドミウムの由来には、諸説が有る。例えば、フェニキアの伝説上の人物である[[カドモス]]が由来という説も有る<ref name="Sakurai_e111_p225_p226">桜井 弘(編集)『元素111の新知識』 p.225、p.226 講談社(ブルーバックスB-1192) 1997年10月20日発行 ISBN 4-06-257192-7</ref>。また、[[ギリシャ語]]で[[菱亜鉛鉱]]を意味するカドメイア (Kadmeia) に由来するという説も有る。
== 性質 ==
カドミウムの単体は、安定な[[六方最密充填構造]] (HCP) をとる。銀白色で[[展性]]に富む軟金属である。比較的酸化され難く[[金属光沢]]を保ち易いものの、湿気の多い空気中では徐々に酸化されて灰色になり金属光沢も失う。
[[塩酸]]および[[硫酸|希硫酸]]などとは徐々に反応し、無色の2価の水和カドミウムイオンを生成する。
: <chem>Cd + 2 H^+(aq) -> Cd^2+(aq) + H2</chem>
2価の水和カドミウムイオン Cd<sup>2+</sup>(aq) は極めて弱い酸としての性質 ([[酸解離定数|p''K''a]] = 10.2) を示すが、その程度はより[[イオン半径]]の小さな亜鉛イオン Zn<sup>2+</sup>(aq) より低い。カドミウムイオンは[[HSAB則]]では中程度の[[ルイス酸]]として分類され、[[ヨウ化物]]イオンなど[[ハロゲン]]化物イオンおよび、[[アンモニア]]などと[[錯体]]を作り易い。
常圧での[[融点]]は、320.9 {{℃}}と金属元素の中では比較的低い方である<ref name="Sakurai_e111_p225_p226">桜井 弘(編集)『元素111の新知識』 p.225、p.226 講談社(ブルーバックスB-1192) 1997年10月20日発行 ISBN 4-06-257192-7</ref>。常圧での沸点は、765 {{℃}}である<ref name="Sakurai_e111_p225">桜井 弘(編集)『元素111の新知識』 p.225 講談社(ブルーバックスB-1192) 1997年10月20日発行 ISBN 4-06-257192-7</ref>。この値も金属元素としては、[[水銀]]および[[アルカリ金属]]に次いで低く、したがって[[蒸気圧]]が比較的高い金属と言える。なお、カドミウム蒸気も有毒である。
== 用途 ==
[[ウッド合金]]の成分材料、[[顔料]]([[カドミウムイエロー|カドミウムイエロー・レッド・オレンジ等]])、[[二次電池]]([[ニッケル・カドミウム蓄電池|ニッカド電池]])の電極など様々な工業製品に利用されてきた。融点が低いという性質を利用して、[[ハンダ]]の原料として用いられた事もある。また、比較的[[中性子]]を吸収し易い性質から、[[原子炉]]の制御用材料にも使われている。
カドミウムは[[めっき]]材料として、自動車関連業界で古くから用いられてきた。めっきが均質で、亜鉛よりはやや小さい[[イオン化傾向]]を持ち、[[犠牲電極]]として良好な性質を持つからである。また[[潤滑油]]とのなじみが良く、焼付きを防ぐ性質がある。やや黄色味がかったカドミウムめっきは、1960年代までの[[アメリカ車]]のエンジンルームでよく見られた。
しかし、近年はカドミウムの毒性が懸念され、その利用が忌避される傾向が強い。
== 化合物 ==
カドミウムは一般に、最外殻の[[s軌道|5s軌道]]の電子のみを失った状態である+2価の[[酸化数]]を取っている状態が安定である。
しかし、稀に不安定ながら+1価 (Cd<sub>2</sub><sup>2+</sup>) 状態を取る場合もある。なお、10個の電子で満たされている[[d軌道|4d軌道]]の電子を失うような酸化数は取らない<ref name="Sakurai_e111_p225_p226">桜井 弘(編集)『元素111の新知識』 p.225、p.226 講談社(ブルーバックスB-1192) 1997年10月20日発行 ISBN 4-06-257192-7</ref>。
[[塩化物]]および[[硫酸塩]]などとの塩は、一般的に無色の物が多く水溶性である。しかし、[[カルコゲン]]との化合物は、有色である場合が多く、極めて水に対して難溶性である。
* [[硫化カドミウム]] (CdS) - 黄色顔料・[[カドミウムイエロー]]、そして[[半導体]]として使われる。
* [[硫化亜鉛カドミウム]] (ZnS•CdS) - カドミウムイエローのうち色合いの淡い物は、この化合物を主成分とする。
* [[酸化カドミウム]] (CdO)
* [[セレン化カドミウム]] (CdSe) - 暗赤色の結晶。赤顔料、半導体などに用いる。
* [[硫セレン化カドミウム]] (CdS•CdSe) - 赤色顔料・カドミウムレッドとして使われる。
* [[テルル化カドミウム]] (CdTe) - 黒色結晶。半導体として用いる。非常に安定な物質。
== 同位体 ==
{{main|カドミウムの同位体}}
カドミウムは、質量数が110から112の合計3つの核種が、[[安定同位体|安定核種]]である。この他に、質量数106、108、113、114、116も極めて長い寿命を持った核種であり、天然に存在する。
== 代謝 ==
カドミウムは、ヒトで体重1 kg当たり約0.7 mg含まれると見積もられている。カドミウムは亜鉛と同族元素であるために、生体内での挙動も類似している。多くの生物種において蓄積性が見られ、ヒトでは体内に約30年間残留すると言われている。したがって、一旦カドミウムに暴露されると、長期間その毒性に蝕まれる危険性がある。
カドミウムの毒性については、骨が極めて脆弱化する[[イタイイタイ病]]で大きな社会問題となった。さらに、[[慢性毒性]]では、[[肺気腫]]、[[腎障害]]、[[蛋白尿]]が見られる。腎障害では[[糸球体]]ではなく、[[尿細管]]が障害を受けると言われている。また、カドミウムは[[発ガン性物質]]としても知られている。これらの毒性の一部は、カドミウムが亜鉛と類似の生体内挙動を示す事から、亜鉛含有酵素の作用を乱した結果と考えられる。
これらの毒性に対する生体側の防御として、金属結合性タンパク質の[[メタロチオネイン]]が誘導され、カドミウムを分子内に取り込み毒性を軽減している。
== 食物の汚染 ==
カドミウムは亜鉛に伴って産出するため、公害への関心が薄かった時代には亜鉛の精錬過程で環境に放出され、精錬所の下流域の[[土壌]]に蓄積された。
また、カドミウムを使用する工場からも排水を通じて環境にカドミウムが放出された。[[1970年]]に[[通商産業省]]がメッキ工場、電気機器工場の排水を抜き打ち調査した結果、8割の工場で排水処理がされておらず、半数の工場で[[工場排水]]基準法の基準(当時0.1ppm)を超過した状態にあった<ref>カドミウム野放し状態 違反工場、半数越える 八割が排水処理もせず『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月6日 12版 23面</ref>。
土壌中に蓄積されたカドミウムは、土壌の[[水素イオン指数|pH]]が中性からアルカリ性では難溶であるために吸収され難いのに対して、土壌の酸化条件によりイオンとして溶出して農作物に吸収され、蓄積される。日本列島の土壌は、大半が中性から酸性であるためカドミウムが溶出し易い環境であり、このため食物がカドミウムによる汚染を受け易い状況にある。日本人は食事によってカドミウムを、1日当たり26 μgを平均して摂取していると見積もられている<ref name="kokuritugan">[http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/2973.html 食事からのカドミウム摂取量とがん罹患との関連について] 国立がん研究センター</ref>。秋田県のように鉱山が多い地域では、稲がカドミウムを吸収しないようにする取り組みを行っている<ref name=":0">[https://www.city.katagami.lg.jp/material/files/group/37/komchir.pdf 稲作農家の みなさんへ] - [[潟上市]]</ref><ref>{{Cite web |title=「あきたこまちR」危険視する根拠ない情報拡散 県注意呼びかけ {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231225/k10014292221000.html |website=NHKニュース |date=2023-12-25 |access-date=2023-12-25 |last=日本放送協会}}</ref>。
日本ではコメを始めとする食物に、カドミウムの含有基準が設けられており、基準値以上を含む農作物は販売が禁止されている。[[食品衛生法]]上は玄米において上限1 ppmと規定されており、これを超過した物は、全て焼却処分すると定められている。また、食糧庁通達により玄米中0.4 ppm以上が検出された場合は、食用にはされずに全て工業用途に回すとしてきたものの、2008年に発覚した汚染米問題で明らかになったように、糊原料には小麦粉が用いられており、コメの工業用の用途は確認されていない。
なお各国の含有基準は、台湾:0.5 ppm、韓国・中国・EU:0.2 ppm、タイ・オーストラリア:0.1 ppmである。2006年7月に開催された[[国際食品規格委員会|コーデックス委員会]]総会において、国際基準が精米中に0.4 (mg/kg)とされた。日本の自治体では海外への米の輸出する際の対応や将来的な国内基準の厳格化を見越し、カドミウム低吸収性品種の開発や[[奨励品種]]の切り替えが行われている<ref>{{Cite web |title=水稲新品種「あきたこまちR」を紹介します! |url=https://www.pref.akita.lg.jp/pages/archive/73119 |website=美の国あきたネット |access-date=2023-12-25 |language=ja}}</ref>。
{{See also|農用地の土壌の汚染防止等に関する法律}}
[[国立がん研究センター]]によると、食品に含まれるカドミウムの長期摂取と、[[がん]]発症のリスクには明確な関連が見られないことが分かった。研究では、9府県の男女約9万人を対象に、喫煙や飲酒など、他のリスクを除いて、カドミウムの摂取量とがんの発症を調べたところ、相関は認められなかった。その理由として、食品に含まれるカドミウムの量が少ないことと、吸入ではなく摂取であることが考えられている<ref name="kokuritugan"/><ref>『読売新聞』2012年4月30日付朝刊2面</ref>。
== 脱カドミウムの動き ==
ヨーロッパでは、カドミウムの人体への蓄積を防ぐため、カドミウムを含む製品の製造・輸入に関して[[RoHS]]として知られる厳しい制限を課している。
2001年、[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]]は、[[オランダ]]政府より、ゲーム機の[[PS one]]の周辺機器から基準値を超えるカドミウムを検出したとして、対応策を求められた。配線の赤いビニール被覆の顔料として、カドミウムの化合物が用いられていた事が原因であった。ソニー・コンピュータエンタテインメントは欧州全域で100億円以上の費用を投入し、製品の回収と対策品の置き換えを余儀なくされた。この出来事は、世界の電機部品メーカーに強いショックを与え、工業製品の生産現場からカドミウム離れが起こった。
前後して市販の[[二次電池]]も、負極に水酸化カドミウム Cd(OH)<sub>2</sub> を使用する[[ニッケル・カドミウム蓄電池]](いわゆるニッカド電池)から、より大容量でかつカドミウムを使わない[[ニッケル・水素蓄電池]]・[[リチウムイオン二次電池]]への転換が進められている。
== 歴史 ==
[[1817年]]に[[ドイツ]]の科学者[[フリードリヒ・シュトロマイヤー]]によって、[[菱亜鉛鉱]](炭酸亜鉛)から不純物として発見された<ref name="Sakurai_e111_p225">桜井 弘(編集)『元素111の新知識』 p.225 講談社(ブルーバックスB-1192) 1997年10月20日発行 ISBN 4-06-257192-7</ref>。同年には同じくドイツの[[:de:Carl Samuel Hermann|カール・ザムエル・ヘルマン]]も[[酸化亜鉛]]から発見している。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Cadmium}}
{{Wiktionary|カドミウム}}
* [[イタイイタイ病]]
* [[安中公害訴訟]]
* [[カドミウム中毒]]
* [[出口川のカドミウム汚染]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/12/h1209-1c.html 「食品に含まれるカドミウム」に関するQ&A] - [[厚生労働省]]
* [https://www.maff.go.jp/j/syouan/nouan/kome/k_cd/index2016.html 食品中のカドミウムに関する情報] - [[農林水産省]]
* {{ICSC|0020}}
{{元素周期表}}
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[[Category:カドミウム|*]]
[[Category:元素]]
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[[Category:化学安全]] | 2003-05-23T16:45:35Z | 2023-12-25T11:08:54Z | false | false | false | [
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9,201 | キンギョ | キンギョ(金魚、学名: Carassius auratus)は、フナの突然変異を人為的に選択し、観賞用に交配を重ねた結果生まれた観賞魚。飼育が容易であるため、世界中で親しまれている。
原産地は中国。中国のフナ(鯽、チイ)の突然変異種であるヒブナを改良したものである。初めて学名をつけたスウェーデンの生物学者カール・フォン・リンネは、キンギョをフナではなくコイの仲間とみなし、Cyprinus auratus Linnaeus, 1758と命名している(auratusはラテン語で「金色の」という意味)。近年、DNA分析の結果ギベリオブナ Carassius gibelio (Bloch, 1782)が直接の先祖にあたることが判明した。そのため、本来記載年の古いCarassius auratusが先取権の原理によりギベリオブナの学名になるはずだが、Opinion 2027によりギベリオブナの学名はCarassius gibelioのままとなった。しかしながら、別のDNA解析の結果では中国南部に生息するCarassius auratus auratus、特に長江下流の系統からの母系を起源に持つという結果も出ている。
淡水性で主に藻や水草を食べる。卵生で水中の植物に産卵する。通常30センチメートル程度まで成長する。寿命は10年-15年(ギネス記録は43年、非公式で45年)。品種改良により、様々な色・形態の金魚が作り出されている。
金魚はその祖先であるフナと同じく、染色体が倍化した四倍体性であるため、遺伝的変異を起こしやすい。この特徴を利用して人為的に様々な品種が作りだされてきた。比較的フナの体型に近い和金、ずんぐりした体に長いひれを持つ琉金、眼球が左右に飛び出した出目金などは、日本では明治時代までに輸入された移入種であり、古くから親しまれてきたものである。これらを品種改良して、黒い斑点のある東錦、背びれがなく頭部に瘤をもつ蘭鋳、短い体に長いひれ、頭に瘤があるオランダ獅子頭などが様々な品種がつくられた。愛知県産の地金、高知県産の土佐金、島根県産の出雲南金などは各県の指定天然記念物となっている。2015年時点、日本観賞魚振興事業協同組合が認定している日本産の品種だけでも33種あり、認定の可能性のある品種を含めると50種類にもなる。これらにさらに明治以降に中国から輸入された水泡眼、アメリカから輸入されたコメットなどが加わっている。
このように金魚の色・形態は品種によって大きく異なっているが、いずれの品種も分類学上はすべてCyprinus auratusとして扱われる。品種改良された金魚は自然の中での生存競争に向かず、フナの色や形に先祖返りしてしまう傾向があるため、品種を保つには意識的な維持・管理が不可欠となる。なお原産地の中国では、草種金魚(フナに近いもの)、文種金魚(尾が開いたもの)、蛋種金魚(背びれがなくなったもの)といった呼称はあるものの、日本のように品種といった明確なくくりはなく、品種よりも個体ごとの変異や特徴を楽しむ傾向がある。
体色は白、オレンジ(金色)、赤、黒、茶など様々である。孵化してからしばらくの間はフナと同じく黒色をしており、ここから徐々に赤い色などに変化していく(これを褪色現象という)。色は成長とともに変化することもあり、クロデメキンなど黒い色をしたキンギョでは数年経過してから褪色が始まり、金色になってしまうこともある。キンギョの体色には、以下のような呼び名がついていることがある。
キンギョの特徴の一つは、その独特な尾の形である。フナ尾、吹き流し尾、三つ尾、四つ尾、そり尾、さくら尾、クジャク尾などといった種類がある。特に、三つ尾、四つ尾など、尾ひれの背面側が癒合して腹面に向けて左右に分かれた形は、他の観賞魚の変異にも似たものが見あたらない。
水槽や池、水、砂利またはろ過機が必要である。金魚鉢と呼ばれる小型の飼育容器もあるが、水槽はなるべく大きなものがよい。キンギョは、水温の変化に合わせて体温も変化する変温動物であり、水温が高くなれば体温が上がり、活発に行動し、食欲も旺盛となるが、逆に水温が下がると体温も下がり、動きが鈍くなってエサを食べても消化が衰える。キンギョの適応可能水温は1°C以上35°C未満であるが、これはあくまで適応可能な範囲であり、およそ15°Cから28°Cまでの範囲が快適水温である。一般的にキンギョは、5°C以下では冬眠状態であり、15°C以上では元気に動いてエサを食べる。20°C以上28°C未満の範囲では動きが活発で食欲もすこぶる旺盛である。しかし、28°C以上になると動きが鈍く、食欲も下がってしまう。人間の体温は、キンギョにとってはきわめて高温であるため、移動などの際には網などを使用し、人の手で直接触ることは避けることが望ましい。また、キンギョは急激な水温の変化に耐えることができない。特にプラスマイナス5°C以上の水温変化はキンギョの体調に悪影響を与えるので、水の入れ替えなどでは注意が必要である。水換えは、ポンプ等で水を3分の1ないし2分の1程度を抜き、ろ過機の汚れやすい部分は飼育水で良く洗い、換え水は予めカルキ抜き(塩素除去)を施した水道水をバケツなどに用意しておき、それを利用するとよい。キンギョ飼育を続けると、エサの食べ残しや糞、尿などによって水質はどんどん悪化していくが、悪化した水質は好気性のバクテリアのはたらきで無害化される。そのために、水槽のなかでバクテリアを繁殖させることがキンギョ飼育にとっては大切で、飼育水を全て水道水に入れ替えたり、ろ過機・ろ過材を水道水で洗ったりするとバクテリアが死滅してしまう可能性がある。またろ過材を新品と交換する場合、水換えと同時に行うと一時的にバクテリアが大きく減少するため、両者の間には二・三日以上の時間差を設けるとよい。またバクテリアを維持するために、水槽の底に砂利や小石を敷くことがよく行われる。麦飯石や木炭・竹炭はいずれも多孔質で、水中に入れておくと水質の維持・改善に一定の効果があることが認められている。もしもキンギョの病気が発生して、対処のために水や砂利などをすべて交換する、薬剤を水に混ぜる、水槽内を殺菌・消毒するといった場合には、水槽内の環境をあらためて一から整えてやる必要がある。
一般にはキンギョは人に慣れない生物と思われがちであるが、愛情を込めてこまめに飼育をすると手乗りのインコ同様に慣れ、人影を認めるとエサをねだるようになる。原種に近い和金以外では可能であり、「どんぶり金魚」はこれを応用した例である。
エサは、藻などの植物性、虫やイトミミズなどの動物性いずれも食べる。栄養素をバランスよく配合した市販のエサが便利で、水質悪化を緩和するためのバクテリア等が配合されている商品もある。1日1回から2回、5分以内に食べきれる量をあたえるとよい。また、新しい環境に慣れるまでの3日くらいはエサを与えない方がよいとされている。
寄生虫によるもの、感染症によるものなど様々な原因で病気にかかる。主な病気に尾ぐされ病、松かさ病、穴あき病、白点病、水カビ病、転覆病、カラムナリス病、風船病、イカリムシ症、チョウ症、運動性エロモナス敗血症、キンギョヘルペスウイルスなどがある。
キンギョは、オスとメスを一緒に飼っていても、産卵のための工夫を何もしない場合、稚魚が見つかることはメダカなどと比べるとまれである。産卵しても、放っておくと親を含めた成魚が産み付けた卵を食べつくしてしまうことが圧倒的に多いためである。
キンギョの増やし方は比較的容易であるが、成魚からの捕食を防ぐため、水槽は別途用意する必要がある。
日本では春先(3月末頃から6月ぐらいまで)が、キンギョの繁殖の主たるシーズンである。繁殖期のキンギョのオスは、エラ蓋と胸ひれに「追い星」という白い斑点が浮き出し、メスを追いかけて産卵を促すようになるので、水槽にはシュロなど、魚のための産卵床()となりそうな物を入れる。亀の子たわしでも代用できる。大量に産卵させたい場合は、シュロの皮を針金に巻き、直径8センチメートル、長さ30センチメートル程度のブラシ状にすると良い。シュロの皮が入手しにくい場合は、ヤシの実の内皮(たわしの材料)やホテイアオイの根、アナカリスやカボンバなどの水草などでも卵を産み付けられる。
産卵期が春先や秋口のことが多いため、オスは3歳前後、メスは4歳前後を水温19度前後の水槽に入れる。人為的に産卵時期を変えることもできるが、奇形の発生率が上がったり、孵化率が下がったりする。産み出された卵は直径1mm前後である。なお、卵の生存については色で判別可能であり、生存している卵は無色透明だが、死亡した卵は乳白色である。
産み付けられた卵を見つけたら、水草ごと別の水槽に入れて孵化を待つ。稚魚用の水槽にもろ過装置やエアレーションが必要であり、酸欠による卵の死を防ぐためにエアレーションを微量だけ行い、水槽の水が対流するようにするとよい。大量のエアレーションを行うと、気泡による物理的ダメージで稚魚の奇形の発生率を高めてしまう可能性があり、ろ過装置に稚魚が吸い込まれないよう注意も必要である。稚魚は孵化後3日くらいはじっとして動かず、お腹のヨークサック(卵のう)の栄養で育つ。稚魚が泳ぎ出したら稚魚用のエサが必要となる。稚魚用のエサとして市販されている商品もあるが、成魚用のエサを乳鉢で細かく砕いてあたえてもよい。
金魚は長江下流域の浙江省近辺が発祥の地とされている。中国では南北朝時代には既に飼育されていたが、当時はまだ一般的ではなかった。養殖が盛んに行われるようになったのは宋代に入ってからであり、開宝年間(968年-975年)に現在の上海に近い浙江省嘉興の地でキンギョ放生がなされたと伝わる。明代に入ると品種も増えている。中国の金魚は長らく皇帝・皇族や貴族、士大夫、郷紳らによって飼育・愛玩されてきた奢侈品であった。このため景徳鎮の陶磁器などとともに、中華人民共和国成立後の文化大革命(文革)においては「旧文化」として非難・攻撃・破壊の対象となり、生産・流通・飼育とも壊滅状態に陥った。生産者や関係者、更にその家族まで帝国主義者として吊るし上げられ、浙江省の養魚場も破壊された。金魚も大量に殺され、中でも貴重な系統の親魚が多く失われたことから金魚生産は回復不能なほどの大打撃を受け、その歴史は断絶。生産手段や技術もほとんど失われたため、金魚生産で生計を立てていた人々が多かった地域では文革終結後も経済的に非常に苦しい状態が続いた。1978年(昭和53年)8月に日中平和友好条約が調印され民間の日中交流が拡大すると、日本の金魚生産者が浙江省などに出向いて親魚の提供や技術移転を行って復興に協力し、間もなく日本のような大量生産も始まった。庶民に流通するようになったのは改革開放政策実施後のことである。現在は中国伝統の特産物の一つとされるのみならず、日本や欧米への輸出品として、生産者は政府の支援を受けるに至っている。現在、中国のキンギョは大都市の花鳥魚虫市場で販売されている。
中国語において「金魚」の発音(ピン音で jīnyú )は「金余」と同じ縁起が良いものとされ、現在でも広く愛玩される背景の一つとなっている。お金が余るほど儲かるようにという願いをこめて店の軒先に金魚、またはその置物を置くところもわずかではあるが存在する。
日本では鎌倉時代にはその存在が知られていたが、金魚そのものは室町時代に中国の明から伝来した。後述の『金魚養玩草(きんぎょそだてぐさ)』によれば、文亀2年(1502年)に和泉国堺(現在の大阪府堺市)に渡来したとある。ただ当時はまだ飼育方法や養殖技術等が伝わっておらず、定着には至らなかった。
江戸時代に大々的に養殖が始まったが、その初期においてはまだまだ奢侈品であった。江戸前期、大坂の豪商である淀屋辰五郎は、天井にとりつけた舶来物のガラス製の大きな水槽の中に金魚を泳がせ、下から眺めることにより暑気払いをしたと伝えられている。江戸中期にはメダカとともに庶民の愛玩物として広まり、金魚売りや金魚すくいなどの販売形態も成立した。俳句においては夏の季語となっている。
金魚愛好が広まったのは、延享5年(1748年)に出版された金魚飼育書である安達喜之『金魚養玩草』の影響が大きいといわれている。庶民は金魚玉と呼ばれるガラス製の球体の入れ物に金魚を入れ軒下に吊るして愉しんだり、たらいや陶器・火鉢などに水を張って飼育したりしたようである。ガラスが普及する前は桶などに入れていたため、金魚を上から見た見た目が重要視された。
化政文化期には現在の三大養殖地で大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格も下がったことから本格的な金魚飼育が庶民に普及する。品評会が催されるようになったほか、水槽や水草が販売され始めるなど飼育用具の充実も見られた。このころには歌川国芳の戯画「金魚づくし」(天保年間)をはじめ、当時の浮世絵や日本画の画題としても広く取り上げられている。幕末には金魚飼育ブームが起こり、開国後日本にやってきた外国人の手記には、庶民の長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が飼育されているといった話や金魚の絵などが多く見られる。
明治維新後、学校の池などでの飼育も始まり、また明治時代から大正時代にかけて金魚の需要も多様化し、中国からの移入や新品種の作出なども盛んになった。太平洋戦争中は「金魚を飼っている家には爆弾が落ちない」という流言が東京中に拡がり、人々は争って金魚を求めた。しかし戦争中であり、生きた金魚の入手は不可能に近く、陶器で作られた金魚のおもちゃが飛ぶように売れたという。一般に流通する品種も増え、第二次世界大戦後は理科の教材として取り上げられ更に普及した。現在も縁日や夜店の金魚すくいなどを通じて日本人には馴染み深い。
現代では各地に金魚の養殖産地がある。愛知県の弥富市(弥富金魚)、奈良県の大和郡山市、東京都の江戸川下流域が三大養殖地として知られており、他にも山形県、熊本県玉名郡長洲町などが有名である。三大養殖地のうち江戸川下流域は近年、埼玉県北部及び茨城県南部へ養魚池を移す業者が増えている。東京都東側のベッドタウンとして宅地開発が進んだためで、江戸川区の金魚養殖業者は2018年時点で2軒を残すのみである。このほか各地に美しい魚体の保存・鑑賞を目的とした、愛好会・保存会が多数存在する。奈良県では2012年にアユやアマゴと合わせて「県のさかな」に指定された。
2010年からは金魚やその水槽専門の芸術展「アートアクアリウム」が開催。全国各地で展示会が開催された後、2020年8月28日に日本橋に常設展示施設「アートアクアリウム美術館」を開館した。その後、2021年9月26日に閉館。2022年5月4日に銀座三越新館にリニューアル移転を行った。
中国本土のほか、香港やマカオ、台湾、ベトナム、韓国などアジア各国・地域では、日本と同様に金魚の生産・飼育の歴史がある。これに関しては宮廷ドラマの時代に遡り、親善大使的な意味で贈られていた事は忘れてはならない。大半の国・地域では環境に適応する事ができずに死なせた例が多く、適応した国・地域、後に繁殖目的で持ち込まれた国での飼育が主となっている。
特に香港では住宅事情などから日本などに比べ犬や猫の飼育に困難が伴うため、ペットとしての観賞魚飼育が古くから盛んである。金魚の生産量・輸出量も多く、郊外の農村部には養魚場も点在する。また日本や東南アジアから多様な品種が輸入され流通しており、人口規模に比して観賞魚市場は大きいと言われる。風水では観賞魚は幸運を呼ぶ生物とされており、ラッキーアイテムの一種としても親しまれている。香港を代表する繁華街である旺角の「通菜街」と称する通りには、「水族店」と呼ばれるアクアショップが100軒以上集まっている一角があり、「金魚街」と呼ばれている。この「水族店」では現在も主力商品として金魚が多く流通しており、金魚があらかじめビニール袋に梱包され店先に大量にぶら下げられている光景を見ることが出来る。
小動物を愛玩する習慣が元々あまりない朝鮮半島では、韓国の都市部でインテリアの一つとして熱帯魚水槽が設置されてはいるものの、観賞魚飼育自体に人気がなく、金魚の流通も小規模である。
タイやインドネシアなどの東南アジア諸国では近年の経済成長とともに観賞魚飼育も広まりつつあり、香港と同様の売り方をするアクアショップもある。また東南アジアでは主に日本向けの輸出品として熱帯魚とともに金魚が生産されており、熱帯地域特有の気候を生かし日本や中国では見られない新品種の作出も行われている。
金魚は18世紀に中国からヨーロッパに渡り、ペットとして飼育されるようになった。またアメリカには幕末の日本から移入され goldfish という名で販売されている。ヨーロッパやアメリカで作出された品種も存在する。
一方、飼育放棄者による放流などが原因で、北米など世界各地で侵略的外来種となっている。金魚は繁殖力が旺盛であり、オタマジャクシなどを食い尽くすことがあると言われる。また寄生虫やコイヘルペスウイルスの宿主としても問題視されている。
1994年(平成6年)7月には宇宙酔いなどの研究のため、弥富金魚6匹がスペースシャトル・コロンビアに乗せられて実験動物となった。
食用・薬用の習慣は中国の書物「本草綱目」や江戸中期の書物「本朝食鑑」で確認できる。ただし、日本では「煮ても焼いても食えない」とされて敬遠されてきた。
1935年に金魚の遺伝学的研究の第一人者である松井佳一農学博士(当時農林省水産試験場豊橋分場長)が、美味な食用「和金」の開発に成功した。当時の帝国水産会長野村益三のお墨付きももらい、NHK名古屋放送局でPRも行なった。 | [
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"text": "水槽や池、水、砂利またはろ過機が必要である。金魚鉢と呼ばれる小型の飼育容器もあるが、水槽はなるべく大きなものがよい。キンギョは、水温の変化に合わせて体温も変化する変温動物であり、水温が高くなれば体温が上がり、活発に行動し、食欲も旺盛となるが、逆に水温が下がると体温も下がり、動きが鈍くなってエサを食べても消化が衰える。キンギョの適応可能水温は1°C以上35°C未満であるが、これはあくまで適応可能な範囲であり、およそ15°Cから28°Cまでの範囲が快適水温である。一般的にキンギョは、5°C以下では冬眠状態であり、15°C以上では元気に動いてエサを食べる。20°C以上28°C未満の範囲では動きが活発で食欲もすこぶる旺盛である。しかし、28°C以上になると動きが鈍く、食欲も下がってしまう。人間の体温は、キンギョにとってはきわめて高温であるため、移動などの際には網などを使用し、人の手で直接触ることは避けることが望ましい。また、キンギョは急激な水温の変化に耐えることができない。特にプラスマイナス5°C以上の水温変化はキンギョの体調に悪影響を与えるので、水の入れ替えなどでは注意が必要である。水換えは、ポンプ等で水を3分の1ないし2分の1程度を抜き、ろ過機の汚れやすい部分は飼育水で良く洗い、換え水は予めカルキ抜き(塩素除去)を施した水道水をバケツなどに用意しておき、それを利用するとよい。キンギョ飼育を続けると、エサの食べ残しや糞、尿などによって水質はどんどん悪化していくが、悪化した水質は好気性のバクテリアのはたらきで無害化される。そのために、水槽のなかでバクテリアを繁殖させることがキンギョ飼育にとっては大切で、飼育水を全て水道水に入れ替えたり、ろ過機・ろ過材を水道水で洗ったりするとバクテリアが死滅してしまう可能性がある。またろ過材を新品と交換する場合、水換えと同時に行うと一時的にバクテリアが大きく減少するため、両者の間には二・三日以上の時間差を設けるとよい。またバクテリアを維持するために、水槽の底に砂利や小石を敷くことがよく行われる。麦飯石や木炭・竹炭はいずれも多孔質で、水中に入れておくと水質の維持・改善に一定の効果があることが認められている。もしもキンギョの病気が発生して、対処のために水や砂利などをすべて交換する、薬剤を水に混ぜる、水槽内を殺菌・消毒するといった場合には、水槽内の環境をあらためて一から整えてやる必要がある。",
"title": "飼育"
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"text": "一般にはキンギョは人に慣れない生物と思われがちであるが、愛情を込めてこまめに飼育をすると手乗りのインコ同様に慣れ、人影を認めるとエサをねだるようになる。原種に近い和金以外では可能であり、「どんぶり金魚」はこれを応用した例である。",
"title": "飼育"
},
{
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"tag": "p",
"text": "エサは、藻などの植物性、虫やイトミミズなどの動物性いずれも食べる。栄養素をバランスよく配合した市販のエサが便利で、水質悪化を緩和するためのバクテリア等が配合されている商品もある。1日1回から2回、5分以内に食べきれる量をあたえるとよい。また、新しい環境に慣れるまでの3日くらいはエサを与えない方がよいとされている。",
"title": "飼育"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "寄生虫によるもの、感染症によるものなど様々な原因で病気にかかる。主な病気に尾ぐされ病、松かさ病、穴あき病、白点病、水カビ病、転覆病、カラムナリス病、風船病、イカリムシ症、チョウ症、運動性エロモナス敗血症、キンギョヘルペスウイルスなどがある。",
"title": "病気"
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{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "キンギョは、オスとメスを一緒に飼っていても、産卵のための工夫を何もしない場合、稚魚が見つかることはメダカなどと比べるとまれである。産卵しても、放っておくと親を含めた成魚が産み付けた卵を食べつくしてしまうことが圧倒的に多いためである。",
"title": "養殖方法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "キンギョの増やし方は比較的容易であるが、成魚からの捕食を防ぐため、水槽は別途用意する必要がある。",
"title": "養殖方法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "日本では春先(3月末頃から6月ぐらいまで)が、キンギョの繁殖の主たるシーズンである。繁殖期のキンギョのオスは、エラ蓋と胸ひれに「追い星」という白い斑点が浮き出し、メスを追いかけて産卵を促すようになるので、水槽にはシュロなど、魚のための産卵床()となりそうな物を入れる。亀の子たわしでも代用できる。大量に産卵させたい場合は、シュロの皮を針金に巻き、直径8センチメートル、長さ30センチメートル程度のブラシ状にすると良い。シュロの皮が入手しにくい場合は、ヤシの実の内皮(たわしの材料)やホテイアオイの根、アナカリスやカボンバなどの水草などでも卵を産み付けられる。",
"title": "養殖方法"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "産卵期が春先や秋口のことが多いため、オスは3歳前後、メスは4歳前後を水温19度前後の水槽に入れる。人為的に産卵時期を変えることもできるが、奇形の発生率が上がったり、孵化率が下がったりする。産み出された卵は直径1mm前後である。なお、卵の生存については色で判別可能であり、生存している卵は無色透明だが、死亡した卵は乳白色である。",
"title": "養殖方法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "産み付けられた卵を見つけたら、水草ごと別の水槽に入れて孵化を待つ。稚魚用の水槽にもろ過装置やエアレーションが必要であり、酸欠による卵の死を防ぐためにエアレーションを微量だけ行い、水槽の水が対流するようにするとよい。大量のエアレーションを行うと、気泡による物理的ダメージで稚魚の奇形の発生率を高めてしまう可能性があり、ろ過装置に稚魚が吸い込まれないよう注意も必要である。稚魚は孵化後3日くらいはじっとして動かず、お腹のヨークサック(卵のう)の栄養で育つ。稚魚が泳ぎ出したら稚魚用のエサが必要となる。稚魚用のエサとして市販されている商品もあるが、成魚用のエサを乳鉢で細かく砕いてあたえてもよい。",
"title": "養殖方法"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "金魚は長江下流域の浙江省近辺が発祥の地とされている。中国では南北朝時代には既に飼育されていたが、当時はまだ一般的ではなかった。養殖が盛んに行われるようになったのは宋代に入ってからであり、開宝年間(968年-975年)に現在の上海に近い浙江省嘉興の地でキンギョ放生がなされたと伝わる。明代に入ると品種も増えている。中国の金魚は長らく皇帝・皇族や貴族、士大夫、郷紳らによって飼育・愛玩されてきた奢侈品であった。このため景徳鎮の陶磁器などとともに、中華人民共和国成立後の文化大革命(文革)においては「旧文化」として非難・攻撃・破壊の対象となり、生産・流通・飼育とも壊滅状態に陥った。生産者や関係者、更にその家族まで帝国主義者として吊るし上げられ、浙江省の養魚場も破壊された。金魚も大量に殺され、中でも貴重な系統の親魚が多く失われたことから金魚生産は回復不能なほどの大打撃を受け、その歴史は断絶。生産手段や技術もほとんど失われたため、金魚生産で生計を立てていた人々が多かった地域では文革終結後も経済的に非常に苦しい状態が続いた。1978年(昭和53年)8月に日中平和友好条約が調印され民間の日中交流が拡大すると、日本の金魚生産者が浙江省などに出向いて親魚の提供や技術移転を行って復興に協力し、間もなく日本のような大量生産も始まった。庶民に流通するようになったのは改革開放政策実施後のことである。現在は中国伝統の特産物の一つとされるのみならず、日本や欧米への輸出品として、生産者は政府の支援を受けるに至っている。現在、中国のキンギョは大都市の花鳥魚虫市場で販売されている。",
"title": "歴史"
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"text": "中国語において「金魚」の発音(ピン音で jīnyú )は「金余」と同じ縁起が良いものとされ、現在でも広く愛玩される背景の一つとなっている。お金が余るほど儲かるようにという願いをこめて店の軒先に金魚、またはその置物を置くところもわずかではあるが存在する。",
"title": "歴史"
},
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"text": "日本では鎌倉時代にはその存在が知られていたが、金魚そのものは室町時代に中国の明から伝来した。後述の『金魚養玩草(きんぎょそだてぐさ)』によれば、文亀2年(1502年)に和泉国堺(現在の大阪府堺市)に渡来したとある。ただ当時はまだ飼育方法や養殖技術等が伝わっておらず、定着には至らなかった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "江戸時代に大々的に養殖が始まったが、その初期においてはまだまだ奢侈品であった。江戸前期、大坂の豪商である淀屋辰五郎は、天井にとりつけた舶来物のガラス製の大きな水槽の中に金魚を泳がせ、下から眺めることにより暑気払いをしたと伝えられている。江戸中期にはメダカとともに庶民の愛玩物として広まり、金魚売りや金魚すくいなどの販売形態も成立した。俳句においては夏の季語となっている。",
"title": "歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "金魚愛好が広まったのは、延享5年(1748年)に出版された金魚飼育書である安達喜之『金魚養玩草』の影響が大きいといわれている。庶民は金魚玉と呼ばれるガラス製の球体の入れ物に金魚を入れ軒下に吊るして愉しんだり、たらいや陶器・火鉢などに水を張って飼育したりしたようである。ガラスが普及する前は桶などに入れていたため、金魚を上から見た見た目が重要視された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "化政文化期には現在の三大養殖地で大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格も下がったことから本格的な金魚飼育が庶民に普及する。品評会が催されるようになったほか、水槽や水草が販売され始めるなど飼育用具の充実も見られた。このころには歌川国芳の戯画「金魚づくし」(天保年間)をはじめ、当時の浮世絵や日本画の画題としても広く取り上げられている。幕末には金魚飼育ブームが起こり、開国後日本にやってきた外国人の手記には、庶民の長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が飼育されているといった話や金魚の絵などが多く見られる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
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"text": "明治維新後、学校の池などでの飼育も始まり、また明治時代から大正時代にかけて金魚の需要も多様化し、中国からの移入や新品種の作出なども盛んになった。太平洋戦争中は「金魚を飼っている家には爆弾が落ちない」という流言が東京中に拡がり、人々は争って金魚を求めた。しかし戦争中であり、生きた金魚の入手は不可能に近く、陶器で作られた金魚のおもちゃが飛ぶように売れたという。一般に流通する品種も増え、第二次世界大戦後は理科の教材として取り上げられ更に普及した。現在も縁日や夜店の金魚すくいなどを通じて日本人には馴染み深い。",
"title": "歴史"
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"text": "現代では各地に金魚の養殖産地がある。愛知県の弥富市(弥富金魚)、奈良県の大和郡山市、東京都の江戸川下流域が三大養殖地として知られており、他にも山形県、熊本県玉名郡長洲町などが有名である。三大養殖地のうち江戸川下流域は近年、埼玉県北部及び茨城県南部へ養魚池を移す業者が増えている。東京都東側のベッドタウンとして宅地開発が進んだためで、江戸川区の金魚養殖業者は2018年時点で2軒を残すのみである。このほか各地に美しい魚体の保存・鑑賞を目的とした、愛好会・保存会が多数存在する。奈良県では2012年にアユやアマゴと合わせて「県のさかな」に指定された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "2010年からは金魚やその水槽専門の芸術展「アートアクアリウム」が開催。全国各地で展示会が開催された後、2020年8月28日に日本橋に常設展示施設「アートアクアリウム美術館」を開館した。その後、2021年9月26日に閉館。2022年5月4日に銀座三越新館にリニューアル移転を行った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "中国本土のほか、香港やマカオ、台湾、ベトナム、韓国などアジア各国・地域では、日本と同様に金魚の生産・飼育の歴史がある。これに関しては宮廷ドラマの時代に遡り、親善大使的な意味で贈られていた事は忘れてはならない。大半の国・地域では環境に適応する事ができずに死なせた例が多く、適応した国・地域、後に繁殖目的で持ち込まれた国での飼育が主となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "特に香港では住宅事情などから日本などに比べ犬や猫の飼育に困難が伴うため、ペットとしての観賞魚飼育が古くから盛んである。金魚の生産量・輸出量も多く、郊外の農村部には養魚場も点在する。また日本や東南アジアから多様な品種が輸入され流通しており、人口規模に比して観賞魚市場は大きいと言われる。風水では観賞魚は幸運を呼ぶ生物とされており、ラッキーアイテムの一種としても親しまれている。香港を代表する繁華街である旺角の「通菜街」と称する通りには、「水族店」と呼ばれるアクアショップが100軒以上集まっている一角があり、「金魚街」と呼ばれている。この「水族店」では現在も主力商品として金魚が多く流通しており、金魚があらかじめビニール袋に梱包され店先に大量にぶら下げられている光景を見ることが出来る。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "小動物を愛玩する習慣が元々あまりない朝鮮半島では、韓国の都市部でインテリアの一つとして熱帯魚水槽が設置されてはいるものの、観賞魚飼育自体に人気がなく、金魚の流通も小規模である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "タイやインドネシアなどの東南アジア諸国では近年の経済成長とともに観賞魚飼育も広まりつつあり、香港と同様の売り方をするアクアショップもある。また東南アジアでは主に日本向けの輸出品として熱帯魚とともに金魚が生産されており、熱帯地域特有の気候を生かし日本や中国では見られない新品種の作出も行われている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "金魚は18世紀に中国からヨーロッパに渡り、ペットとして飼育されるようになった。またアメリカには幕末の日本から移入され goldfish という名で販売されている。ヨーロッパやアメリカで作出された品種も存在する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "一方、飼育放棄者による放流などが原因で、北米など世界各地で侵略的外来種となっている。金魚は繁殖力が旺盛であり、オタマジャクシなどを食い尽くすことがあると言われる。また寄生虫やコイヘルペスウイルスの宿主としても問題視されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1994年(平成6年)7月には宇宙酔いなどの研究のため、弥富金魚6匹がスペースシャトル・コロンビアに乗せられて実験動物となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "食用・薬用の習慣は中国の書物「本草綱目」や江戸中期の書物「本朝食鑑」で確認できる。ただし、日本では「煮ても焼いても食えない」とされて敬遠されてきた。",
"title": "食用・薬用"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1935年に金魚の遺伝学的研究の第一人者である松井佳一農学博士(当時農林省水産試験場豊橋分場長)が、美味な食用「和金」の開発に成功した。当時の帝国水産会長野村益三のお墨付きももらい、NHK名古屋放送局でPRも行なった。",
"title": "食用・薬用"
}
] | キンギョは、フナの突然変異を人為的に選択し、観賞用に交配を重ねた結果生まれた観賞魚。飼育が容易であるため、世界中で親しまれている。 原産地は中国。中国のフナ(鯽、チイ)の突然変異種であるヒブナを改良したものである。初めて学名をつけたスウェーデンの生物学者カール・フォン・リンネは、キンギョをフナではなくコイの仲間とみなし、Cyprinus auratus Linnaeus, 1758と命名している(auratusはラテン語で「金色の」という意味)。近年、DNA分析の結果ギベリオブナ Carassius gibelio (Bloch, 1782)が直接の先祖にあたることが判明した。そのため、本来記載年の古いCarassius auratusが先取権の原理によりギベリオブナの学名になるはずだが、Opinion 2027によりギベリオブナの学名はCarassius gibelioのままとなった。しかしながら、別のDNA解析の結果では中国南部に生息するCarassius auratus auratus、特に長江下流の系統からの母系を起源に持つという結果も出ている。 淡水性で主に藻や水草を食べる。卵生で水中の植物に産卵する。通常30センチメートル程度まで成長する。寿命は10年-15年(ギネス記録は43年、非公式で45年)。品種改良により、様々な色・形態の金魚が作り出されている。 | {{Redirect|金魚|その他の'''金魚'''、'''キンギョ'''|キンギョ (曖昧さ回避)}}
{{Redirect|GOLDFISH|2023年の日本映画|GOLDFISH (映画)}}
{{生物分類表
|名称 = キンギョ
|status = [[観賞魚]]<br/>[[:en:Domesticated|Domesticated]]
|画像 = [[ファイル:Goldfishs.jpg|250px|キンギョ]]
|画像キャプション = キンギョ {{snamei|Carassius auratus}}
|省略 = 条鰭綱
|上目 = [[骨鰾上目]] {{sname||Ostariophysi}}
|目 = [[コイ目]] {{sname||Cypriniformes}}
|科 = [[コイ科]] {{sname||Cyprinidae}}
|亜科 = [[コイ亜科]] {{sname||Cyprininae}}
|属 = [[フナ属]] {{snamei||Carassius}}
|種 = '''キンギョ''' {{snamei||Carassius auratus}}
|学名 = {{snamei|Carassius auratus}}<br/>({{AUY|Linnaeus|1758}})
|和名 = キンギョ
|英名 = [[:en:Goldfish|Goldfish]]
|シノニム =
* {{snamei|Carassius discolor}} {{AUY|Basilewsky|1855}}
* {{snamei|Carassius burgeri}} {{AUY|Temminck & Schlegel|1846}}
* {{snamei|Carassius coeruleus}} {{AUY|Basilewsky|1855}}
* {{snamei|Carassius encobia}} {{AUY|Bonaparte|1845}}
* {{snamei|Carassius grandoculis}} {{AUY|Temminck & Schlegel|1846}}
* {{snamei|Carassius pekinensis}} {{AUY|Basilewsky|1855}}
* {{snamei|Cyprinus auratus}} {{AUY|Linnaeus|1758}}
* {{snamei|Cyprinus gibelioides}} {{AUY|Cantor|1842}}
* {{snamei|Cyprinus mauritianus}} {{AUY|Bennett|1832}}
* {{snamei|Cyprinus chinensis}} {{AUY|Gronow|1854}}
* {{snamei|Cyprinus maillardi}} {{AUY|Guichenot}}
* {{snamei|Cyprinus nigrescens}} {{AUY|Günther|1868}}
* {{snamei|Cyprinus thoracatus}} {{AUY|Valenciennes|1842}}
* {{snamei|Neocarassius ventricosus}} {{AUY|Castelnau|1872}}
}}
'''キンギョ'''('''金魚'''、学名: {{snamei||Carassius auratus}})は、[[フナ]]の[[突然変異]]を人為的に選択し、観賞用に[[交配]]を重ねた結果生まれた[[観賞魚]]。飼育が容易であるため、世界中で親しまれている。
原産地は[[中国]]<ref>{{Cite book|和書|title=改訂新版 世界文化生物大図鑑 魚類|publisher=世界文化社 |year=2004 |page=}}</ref>。中国の[[フナ]](鯽、チイ)の突然変異種である[[ヒブナ]]を改良したものである。初めて[[学名]]をつけた[[スウェーデン]]の生物学者[[カール・フォン・リンネ]]は、キンギョをフナではなく[[コイ]]の仲間とみなし、{{snamei|Cyprinus auratus}} {{AUY|Linnaeus|1758}}と命名している(''auratus''は[[ラテン語]]で「金色の」という意味<ref>Dictionnaire des sciences naturelles: dans lequel on traite méthodiquement 著者: Frédéric Cuvier</ref>)。近年、[[DNA]]分析の結果[[ギベリオブナ]] {{snamei|Carassius gibelio}} ({{AUY|Bloch|1782}})が直接の先祖にあたることが判明した<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080818/acd0808180101000-n1.htm |title=金魚の祖先は… DNAから解明 東海大などが発表へ |newspaper=MSN産経ニュース |date=2008-08-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080820004947/http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080818/acd0808180101000-n1.htm |archivedate=2008-08-20}}</ref>。そのため、本来記載年の古い{{snamei||Carassius auratus}}が[[先取権]]の原理によりギベリオブナの学名になるはずだが、[[Opinion 2027]]によりギベリオブナの学名は{{snamei|Carassius gibelio}}のままとなった。しかしながら、別のDNA解析の結果では中国南部に生息する{{snamei||Carassius auratus auratus}}、特に[[長江]]下流の系統からの母系を起源に持つという結果も出ている<ref>{{Cite journal|last=Wang|first=Shu-Yan|date=2013-3-19|title=Origin of Chinese Goldfish and Sequential Loss of Genetic Diversity Accompanies New Breeds|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3602300/|journal=PLOS ONE|volume=430|issue=3|pages=e59571|language=EN|bibcode=2013PLoSO...859571W|doi=10.1371/journal.pone.0059571|pmc=3602300|pmid=23527220}}</ref>。
[[淡水]]性で主に[[藻]]や[[水草]]を食べる。卵生で水中の植物に産卵する。通常30[[センチメートル]]程度まで成長する。寿命は10年-15年(ギネス記録は43年、非公式で45年<ref>{{Cite book|和書|author=松沢|title=はじめて金魚と暮らす人の本|publisher=|series=Gakken Pet Books|year=2011|page=166|isbn=}}</ref>)。[[品種改良]]により、様々な色・形態の金魚が作り出されている。
== 品種 ==
{{see also|金魚の品種の一覧}}[[file:ワキン20120701.JPG|thumb|right|ワキン]]
金魚はその祖先であるフナと同じく、[[染色体]]が倍化した[[倍数性|四倍体性]]であるため、遺伝的変異を起こしやすい。この特徴を利用して人為的に様々な[[品種]]が作りだされてきた<ref>『ジャパノロジーコレクション 金魚』 22-23頁。</ref>。比較的フナの体型に近い'''[[ワキン|和金]]'''、ずんぐりした体に長い[[鰭|ひれ]]を持つ'''[[リュウキン|琉金]]'''、眼球が左右に飛び出した'''[[デメキン|出目金]]'''などは、日本では[[明治|明治時代]]までに輸入された[[移入種]]であり、古くから親しまれてきたものである<ref name="鈴木亮">鈴木亮 「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A7-1525367#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 キンギョ]」 日本大百科全書、2016年7月22日閲覧。</ref>。これらを品種改良して、黒い斑点のある[[アズマニシキ|東錦]]、背びれがなく頭部に瘤をもつ[[ランチュウ|蘭鋳]]、短い体に長いひれ、頭に瘤がある[[オランダシシガシラ|オランダ獅子頭]]などが様々な品種がつくられた。愛知県産の[[ジキン|地金]]、高知県産の[[トサキン|土佐金]]、島根県産の[[イズモナンキン|出雲南金]]などは各県の指定[[天然記念物]]となっている。2015年時点、日本観賞魚振興事業協同組合が認定している日本産の品種だけでも33種あり、認定の可能性のある品種を含めると50種類にもなる<ref>『ジャパノロジーコレクション 金魚』 86頁。</ref>。これらにさらに明治以降に中国から輸入された[[スイホウガン|水泡眼]]、アメリカから輸入された[[コメット (キンギョ)|コメット]]などが加わっている<ref name="鈴木亮"/>。
このように金魚の色・形態は品種によって大きく異なっているが、いずれの品種も分類学上はすべて''Cyprinus auratus''として扱われる<ref>『ジャパノロジーコレクション 金魚』 87頁。</ref>。品種改良された金魚は自然の中での生存競争に向かず、[[フナ]]の色や形に先祖返りしてしまう傾向があるため、品種を保つには意識的な維持・管理が不可欠となる<ref>『ジャパノロジーコレクション 金魚』 23頁。</ref>。なお原産地の中国では、草種金魚(フナに近いもの)、文種金魚(尾が開いたもの)、蛋種金魚(背びれがなくなったもの)といった呼称はあるものの、日本のように品種といった明確なくくりはなく、品種よりも[[個体]]ごとの変異や特徴を楽しむ傾向がある<ref>『ジャパノロジーコレクション 金魚』 31-32頁。</ref>。
<gallery>
ファイル:Yatomi Goldfish Wakin ac.jpg|和金(更紗)
ファイル:Yatomi Goldfish Ryukin ac.jpg|琉金(赤)
ファイル:リュウキン.jpg|琉金(赤白)
ファイル:キャリコリュウキン.jpg|琉金(キャリコ)
ファイル:NEW FISH!!! 1 (4627848327).jpg|出目金(更紗)
ファイル:出目金.jpg|出目金(黒)
ファイル:弥富金魚アズマニシキ.jpg|アズマニシキ
ファイル:OrangeOranda.jpg|オランダシシガシラ
ファイル:Extra flotation devices.jpg|スイホウガン
ファイル:Goldfish Ranchu 2.jpg|ランチュウ
ファイル:弥富金魚コメット.jpg|コメット
</gallery>
== 体色・模様 ==
[[体色]]は白、オレンジ(金色)、赤、黒、茶など様々である。[[孵化]]してからしばらくの間はフナと同じく黒色をしており、ここから徐々に赤い色などに変化していく(これを褪色現象という)。色は成長とともに変化することもあり、クロデメキンなど黒い色をしたキンギョでは数年経過してから褪色が始まり、金色になってしまうこともある。キンギョの体色には、以下のような呼び名がついていることがある。
; 猩々
: 赤のみ。
; 素赤
: 体は赤く、各ヒレの先端が白い。
; 更紗
: 代表的なのは赤と白の模様であるが、他には白と黒、赤と黒のものもある。赤の比率の多いものを赤[[更紗]]、白の比率の多いものを白更紗と呼ぶこともある。白と黒はパンダ、赤と黒はレッサー、サビリュウと呼ばれている。
; キャリコ
: 赤、黒、白などによる複雑なまだら模様。
; 丹頂
: 頭頂部のみ赤で、他は全て白のもの。
; 背赤
: 背中のみが赤で、他は全て白のもの。
; 両奴
: 頭部が白く、両方の[[えら|エラ]]蓋が赤いもの。
; 六鱗
: 口、エラ蓋、ひれのみが赤で、他は全て白のもの。
== 尾の形 ==
キンギョの特徴の一つは、その独特な尾の形である。フナ尾、吹き流し尾、三つ尾、四つ尾、そり尾、さくら尾、[[クジャク]]尾などといった種類がある。特に、三つ尾、四つ尾など、尾ひれの背面側が癒合して腹面に向けて左右に分かれた形は、他の観賞魚の変異にも似たものが見あたらない。
; 鮒尾
: 一本尾ともいう。ワキン型の品種に多く見られる。[[ブリストル朱文金]]などのハート型に見える大きなフナ尾は、ハート尾と呼ばれ好まれる。コメットや[[シュブンキン|朱文金]]などに見られる長いフナ尾は、吹き流し尾と呼ばれ、その特徴となっている。
; 三つ尾
: 平付尾ともいう。二枚のフナ尾が上向きになってくっつき、2つの谷と3つの山ができた形。
; 四つ尾
: 三つ尾の真ん中の山に切れ込みが入って、3つの谷と4つの山ができた形。
; 桜尾
: 三つ尾の真ん中の山に少しだけ切れ込みが入った形、もしくは四つ尾の真ん中の山の切れ込みが浅い形。
; 孔雀(クジャク)尾
: 四つ尾が上向き(水平)ではなく垂直になっている形。[[地金]](ジキン)特有の尾。
; 平付け反転尾(反り尾)
: 三つ尾や桜尾の尾葉が体軸に対し並行に大きく広がり先端が反り返っている形。[[トサキン|土佐錦魚]](トサキン)特有の尾。
; 蝶尾
: 四つ尾の谷が小さくなって山が大きく広がった形。
== 飼育 ==
[[水槽]]や[[池]]、水、[[砂利]]または[[ろ過機]]が必要である。[[金魚鉢]]と呼ばれる小型の飼育容器もあるが、水槽はなるべく大きなものがよい。キンギョは、水温の変化に合わせて体温も変化する[[変温動物]]であり、水温が高くなれば体温が上がり、活発に行動し、食欲も旺盛となるが、逆に水温が下がると体温も下がり、動きが鈍くなってエサを食べても消化が衰える。キンギョの適応可能水温は1℃以上35℃未満であるが、これはあくまで適応可能な範囲であり、およそ15℃から28℃までの範囲が快適水温である<ref name="keihan">[http://www.kingyobest.com/cgi-bin/keihan_nishiki/siteup.cgi?category=2&page=1 京阪錦鯉センター「金魚の水作り」]</ref>。一般的にキンギョは、5℃以下では冬眠状態であり、15℃以上では元気に動いてエサを食べる<ref name=keihan/>。20℃以上28℃未満の範囲では動きが活発で食欲もすこぶる旺盛である<ref name=keihan/>。しかし、28℃以上になると動きが鈍く、食欲も下がってしまう<ref name=keihan/>。人間の体温は、キンギョにとってはきわめて高温であるため、移動などの際には[[網]]などを使用し、人の手で直接触ることは避けることが望ましい。また、キンギョは急激な水温の変化に耐えることができない<ref name=keihan/>。特にプラスマイナス5℃以上の水温変化はキンギョの体調に悪影響を与えるので、水の入れ替えなどでは注意が必要である<ref name=keihan/>。水換えは、ポンプ等で水を3分の1ないし2分の1程度を抜き、ろ過機の汚れやすい部分は飼育水で良く洗い、換え水は予め[[カルキ]]抜き([[塩素]]除去)を施した水道水をバケツなどに用意しておき、それを利用するとよい<ref name=keihan/>。キンギョ飼育を続けると、エサの食べ残しや糞、尿などによって水質はどんどん悪化していくが、悪化した水質は[[好気性生物|好気性]]の[[バクテリア]]のはたらきで無害化される<ref name=keihan/>。そのために、水槽のなかでバクテリアを繁殖させることがキンギョ飼育にとっては大切で、飼育水を全て水道水に入れ替えたり、ろ過機・ろ過材を水道水で洗ったりするとバクテリアが死滅してしまう可能性がある<ref name=keihan/>。またろ過材を新品と交換する場合、水換えと同時に行うと一時的にバクテリアが大きく減少するため、両者の間には二・三日以上の時間差を設けるとよい。またバクテリアを維持するために、水槽の底に砂利や小石を敷くことがよく行われる。[[麦飯石]]や[[木炭]]・[[竹炭]]はいずれも多孔質で、水中に入れておくと水質の維持・改善に一定の効果があることが認められている。もしもキンギョの病気が発生して、対処のために水や砂利などをすべて交換する、薬剤を水に混ぜる、水槽内を殺菌・消毒するといった場合には、水槽内の環境をあらためて一から整えてやる必要がある。
一般にはキンギョは人に慣れない生物と思われがちであるが、愛情を込めてこまめに飼育をすると手乗りのインコ同様に慣れ、人影を認めるとエサをねだるようになる。原種に近い和金以外では可能であり、「どんぶり金魚」はこれを応用した例である。
エサは、藻などの植物性、虫やイトミミズなどの動物性いずれも食べる。栄養素をバランスよく配合した市販のエサが便利で、水質悪化を緩和するためのバクテリア等が配合されている商品もある。1日1回から2回、5分以内に食べきれる量をあたえるとよい<ref name=kyorin>[http://www.kyorin-net.co.jp/gold/go_about_04.html キョーリン「FAQ:金魚 よくあるQ&A」]</ref>。また、新しい環境に慣れるまでの3日くらいはエサを与えない方がよいとされている<ref name=kyorin/>。
== 病気 ==
{{see|金魚の病気の一覧}}
[[寄生虫]]によるもの、[[感染症]]によるものなど様々な原因で病気にかかる。主な病気に[[金魚の病気の一覧#尾ぐされ病|尾ぐされ病]]、[[松かさ病]]、[[穴あき病]]、[[白点病]]、[[水カビ病]]、[[転覆病]]、[[カラムナリス病]]、[[金魚の病気の一覧#風船病|風船病]]、[[イカリムシ|イカリムシ症]]、[[チョウ (甲殻類)|チョウ症]]、[[運動性エロモナス敗血症]]、[[キンギョヘルペスウイルス]]などがある。
== 養殖方法 ==
キンギョは、オスとメスを一緒に飼っていても、産卵のための工夫を何もしない場合、[[稚魚]]が見つかることは[[メダカ]]などと比べるとまれである。産卵しても、放っておくと親を含めた成魚が産み付けた卵を食べつくしてしまうことが圧倒的に多いためである。
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Goldfish in pool.JPG|[[中華人民共和国]]の[[池]]で養殖されるキンギョ
W-Shuro_Bark.jpg|産卵床として利用されることがあるシュロ皮(シュロの樹皮)
Eichhornia Crassipes.png|[[ホテイアオイ]]の根
</gallery>
=== 産卵 ===
キンギョの増やし方は比較的容易であるが、成魚からの捕食を防ぐため、水槽は別途用意する必要がある。
日本では春先(3月末頃から6月ぐらいまで)が、キンギョの繁殖の主たるシーズンである<ref name=kyorin/>。繁殖期のキンギョのオスは、エラ蓋と胸ひれに「追い星」という白い[[斑点]]が浮き出し、メスを追いかけて産卵を促すようになるので、水槽には[[シュロ]]など、魚のための{{読み仮名|産卵床|さんらんしょう}}となりそうな物を入れる。[[亀の子たわし]]でも代用できる。大量に産卵させたい場合は、シュロの皮を針金に巻き、直径8センチメートル、長さ30センチメートル程度の[[ブラシ]]状にすると良い。シュロの皮が入手しにくい場合は、[[ヤシ]]の実の内皮(たわしの材料)や[[ホテイアオイ]]の根、[[アナカリス]]や[[カボンバ]]などの水草などでも卵を産み付けられる<ref name=kyorin/>。
産卵期が春先や秋口のことが多いため、オスは3歳前後、メスは4歳前後を水温19度前後の水槽に入れる。人為的に産卵時期を変えることもできるが、[[奇形]]の発生率が上がったり、孵化率が下がったりする。産み出された卵は直径1mm前後である。なお、卵の生存については色で判別可能であり、生存している卵は無色透明だが、死亡した卵は乳白色である。
=== 稚魚飼育 ===
産み付けられた卵を見つけたら、水草ごと別の水槽に入れて[[孵化]]を待つ<ref name=kyorin/>。稚魚用の水槽にもろ過装置やエアレーションが必要であり、[[酸欠]]による卵の死を防ぐために[[エアレーション]]を微量だけ行い、水槽の水が対流するようにするとよい<ref name=kyorin/>。大量のエアレーションを行うと、気泡による物理的ダメージで稚魚の奇形の発生率を高めてしまう可能性があり、ろ過装置に稚魚が吸い込まれないよう注意も必要である<ref name=kyorin/>。稚魚は孵化後3日くらいはじっとして動かず、お腹のヨークサック(卵のう)の栄養で育つ<ref name=kyorin/>。稚魚が泳ぎ出したら稚魚用のエサが必要となる<ref name=kyorin/>。稚魚用のエサとして市販されている商品もあるが、成魚用のエサを[[乳鉢]]で細かく砕いてあたえてもよい。
== 歴史 ==
=== 中国 ===
金魚は[[長江]]下流域の[[浙江省]]近辺が発祥の地とされている。中国では[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]時代には既に飼育されていたが、当時はまだ一般的ではなかった。養殖が盛んに行われるようになったのは[[宋 (王朝)|宋]]代に入ってからであり、[[開宝]]年間([[968年]]-[[975年]])に現在の[[上海市|上海]]に近い浙江省[[嘉興市|嘉興]]の地でキンギョ[[放生]]がなされたと伝わる<ref name=minpaku>『世界民族博物誌』 177-179頁。</ref>。[[明]]代に入ると品種も増えている。中国の金魚は長らく[[皇帝]]・[[皇族]]や[[貴族]]、[[士大夫]]、[[郷紳]]らによって飼育・愛玩されてきた奢侈品であった。このため[[景徳鎮]]の[[陶磁器]]などとともに、[[中華人民共和国]]成立後の[[文化大革命]](文革)においては「旧文化」として非難・攻撃・破壊の対象となり、生産・流通・飼育とも壊滅状態に陥った。生産者や関係者、更にその家族まで[[帝国主義]]者として吊るし上げられ、浙江省の養魚場も破壊された。金魚も大量に殺され、中でも貴重な系統の親魚が多く失われたことから金魚生産は回復不能なほどの大打撃を受け、その歴史は断絶。生産手段や技術もほとんど失われたため、金魚生産で生計を立てていた人々が多かった地域では文革終結後も経済的に非常に苦しい状態が続いた。1978年([[昭和]]53年)[[8月]]に[[日中平和友好条約]]が調印され民間の日中交流が拡大すると、日本の金魚生産者が浙江省などに出向いて親魚の提供や技術移転を行って復興に協力し、間もなく日本のような大量生産も始まった。庶民に流通するようになったのは[[改革開放]]政策実施後のことである。現在は中国伝統の[[特産物]]の一つとされるのみならず、日本や欧米への輸出品として、生産者は政府の支援を受けるに至っている。現在、中国のキンギョは大都市の花鳥魚虫市場で販売されている<ref name=minpaku/>。
[[中国語]]において「金魚」の発音([[ピン音]]で jīnyú )は「金余」と同じ[[縁起]]が良いものとされ、現在でも広く愛玩される背景の一つとなっている。お'''金'''が'''余'''るほど儲かるようにという願いをこめて店の軒先に金魚、またはその置物を置くところもわずかではあるが存在する。
=== 日本 ===
日本では[[鎌倉時代]]にはその存在が知られていたが、金魚そのものは[[室町時代]]に[[中国]]の[[明]]から伝来した。後述の『金魚養玩草(きんぎょそだてぐさ)』によれば、[[文亀]]2年(1502年)に[[和泉国]]堺(現在の[[大阪府]][[堺市]])に渡来したとある<ref name=minpaku/>。ただ当時はまだ飼育方法や養殖技術等が伝わっておらず、定着には至らなかった。
[[江戸時代]]に大々的に養殖が始まったが、その初期においてはまだまだ奢侈品であった。江戸前期、[[大坂]]の[[豪商]]である[[淀屋辰五郎]]は、[[天井]]にとりつけた舶来物の[[ガラス]]製の大きな水槽の中に金魚を泳がせ、下から眺めることにより暑気払いをしたと伝えられている。江戸中期には[[メダカ]]とともに庶民の愛玩物として広まり、[[金魚売り]]や[[金魚すくい]]などの販売形態も成立した。[[俳句]]においては[[夏]]の[[季語]]となっている<ref name=minpaku/>。
金魚愛好が広まったのは、[[延享]]5年(1748年)に出版された金魚飼育書である安達喜之『金魚養玩草』の影響が大きいといわれている<ref name=minpaku/>。庶民は[[金魚鉢|金魚玉]]と呼ばれる[[ガラス]]製の球体の入れ物に金魚を入れ軒下に吊るして愉しんだり、[[たらい]]や陶器・火鉢などに水を張って飼育したりしたようである。ガラスが普及する前は[[桶]]などに入れていたため、金魚を上から見た見た目が重要視された<ref>[https://www.nhk.or.jp/tsubo/arc-20060616.html 壱のツボ 金魚は上から見るべし]</ref>。
[[化政文化]]期には現在の三大養殖地で大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格も下がったことから本格的な金魚飼育が庶民に普及する。[[品評会]]が催されるようになったほか、水槽や水草が販売され始めるなど飼育用具の充実も見られた。このころには[[歌川国芳]]の[[戯画]]「金魚づくし」(天保年間)をはじめ、当時の[[浮世絵]]や日本画の画題としても広く取り上げられている。[[幕末]]には金魚飼育ブームが起こり、[[開国]]後日本にやってきた外国人の手記には、庶民の長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が飼育されているといった話や金魚の絵などが多く見られる<ref>[[エメェ・アンベール]]『絵で見る幕末日本』([[講談社学術文庫]])ほか</ref>。
[[明治維新]]後、[[学校]]の池などでの飼育も始まり、また[[明治時代]]から[[大正時代]]にかけて金魚の需要も多様化し、中国からの移入や新品種の作出なども盛んになった。[[太平洋戦争]]中は「金魚を飼っている家には爆弾が落ちない」という[[噂|流言]]が東京中に拡がり、人々は争って金魚を求めた。しかし戦争中であり、生きた金魚の入手は不可能に近く、陶器で作られた金魚のおもちゃが飛ぶように売れたという<ref>[[徳川夢声]]『夢声戦争日記』より</ref>。一般に流通する品種も増え、[[第二次世界大戦後]]は[[理科]]の教材として取り上げられ更に普及した。現在も[[縁日]]や夜店の金魚すくいなどを通じて日本人には馴染み深い。
現代では各地に金魚の養殖産地がある。[[愛知県]]の[[弥富市]]([[弥富金魚]])、[[奈良県]]の[[大和郡山市]]、[[東京都]]の[[江戸川]]下流域が三大養殖地として知られており、他にも[[山形県]]、[[熊本県]][[玉名郡]][[長洲町]]などが有名である。三大養殖地のうち江戸川下流域は近年、[[埼玉県]]北部及び[[茨城県]]南部へ養魚池を移す業者が増えている。東京都東側の[[ベッドタウン]]として宅地開発が進んだためで、[[江戸川区]]の金魚養殖業者は2018年時点で2軒を残すのみである<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33256790R20C18A7CC0000/ 【今昔まち話】揺らぐ赤い影 金魚の養魚場(東京・江戸川)]『日本経済新聞』2018年7月21日(社会面)2019年12月12日閲覧。</ref>。このほか各地に美しい魚体の保存・鑑賞を目的とした、[[愛好会]]・保存会が多数存在する。奈良県では2012年に[[アユ]]や[[アマゴ]]と合わせて「県のさかな」に指定された<ref>[http://www.pref.nara.jp/secure/15674/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%81%AE%E3%81%95%E3%81%8B%E3%81%AA.pdf 奈良県のさかなに制定]</ref>。
2010年からは金魚やその水槽専門の芸術展「[[アートアクアリウム]]」が開催。全国各地で展示会が開催された後、2020年8月28日に日本橋に常設展示施設「アートアクアリウム美術館」を開館した。その後、2021年9月26日に閉館。2022年5月4日に銀座三越新館にリニューアル移転を行った。
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Japanese gold fish 1.jpg|左側上より秋錦、らんちゅう、三ツ尾和金、右側上より出目金、朱文金
Japanese gold fish 2.jpg|上から琉金、獅子頭らんちゅう、金らんし
Japanese gold fish 3.jpg|上より出目らんちゅう、オランダ獅子頭、獅子頭秋錦、船尾和金
</gallery>
=== アジア ===
中国本土のほか、[[香港]]や[[マカオ]]、[[台湾]]、[[ベトナム]]、[[大韓民国|韓国]]など[[アジア]]各国・地域では、日本と同様に金魚の生産・飼育の歴史がある。これに関しては宮廷ドラマの時代に遡り、親善大使的な意味で贈られていた事は忘れてはならない。大半の国・地域では環境に適応する事ができずに死なせた例が多く、適応した国・地域、後に繁殖目的で持ち込まれた国での飼育が主となっている。
特に香港では住宅事情などから日本などに比べ[[犬]]や[[猫]]の飼育に困難が伴うため、ペットとしての[[観賞魚]]飼育が古くから盛んである。金魚の生産量・輸出量も多く、郊外の農村部には養魚場も点在する。また日本や東南アジアから多様な品種が輸入され流通しており、人口規模に比して観賞魚市場は大きいと言われる。風水では観賞魚は幸運を呼ぶ生物とされており、ラッキーアイテムの一種としても親しまれている。香港を代表する[[繁華街]]である[[旺角]]の「通菜街」と称する通りには、「水族店」と呼ばれるアクアショップが100軒以上集まっている一角があり、「金魚街」と呼ばれている。この「水族店」では現在も主力商品として金魚が多く流通しており、金魚があらかじめビニール袋に梱包され店先に大量にぶら下げられている光景を見ることが出来る。
小動物を愛玩する習慣が元々あまりない[[朝鮮半島]]では、韓国の都市部で[[インテリア]]の一つとして[[熱帯魚]]水槽が設置されてはいるものの、観賞魚飼育自体に人気がなく、金魚の流通も小規模である<ref group="注釈">特異な体制下にある[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]においても、[[平壌直轄市|平壌]]の特権階級家庭の間で金魚の飼育が行われているという。[[姜哲煥]]『平壌の水槽―北朝鮮地獄の強制収容所』。</ref>。
[[タイ王国|タイ]]や[[インドネシア]]などの[[東南アジア]]諸国では近年の[[経済成長]]とともに観賞魚飼育も広まりつつあり、香港と同様の売り方をするアクアショップもある。また東南アジアでは主に日本向けの輸出品として熱帯魚とともに金魚が生産されており、[[熱帯]]地域特有の気候を生かし日本や中国では見られない新品種の作出も行われている。
=== その他 ===
{{節スタブ}}
金魚は[[18世紀]]に中国から[[ヨーロッパ]]に渡り、ペットとして飼育されるようになった。また[[アメリカ合衆国|アメリカ]]には幕末の日本から移入され goldfish という名で販売されている。ヨーロッパやアメリカで作出された品種も存在する。
一方、飼育放棄者による放流などが原因で、北米など世界各地で侵略的[[外来種]]となっている。金魚は繁殖力が旺盛であり、[[オタマジャクシ]]などを食い尽くすことがあると言われる。また[[寄生虫]]や[[コイヘルペスウイルス]]の宿主としても問題視されている<ref>[https://www.nytimes.com/2016/09/23/science/discarded-goldfish-invasive-species.html In the Wild, Goldfish Turn From Pet to Pest] The New York Times(2016年9月23日)</ref><ref>[http://www.tsusinvasives.org/home/database/carassius-auratus Wild Goldfish] Texas Invasive Species Institute 2019年1月6日閲覧。</ref>。
== 科学 ==
金魚の糞と呼ばれる体についた細長い糞が見られるが、魚類の糞は細菌などから消化管を保護するためのキチン質などからなる強固な{{ill2|囲食膜|en|Peritrophic matrix}}に覆われていることから、簡単に折れずに長い糞が体から出た状態を保持することになる<ref>{{Cite web |url=https://www.a.u-tokyo.ac.jp/topics/2018/20180827-1.html |title=さかなのフンはなぜ長い?ー脊索動物門の進化過程での腸内バリア機構の喪失と腸内細菌叢の成立 |access-date=2023-12-25 |website=www.a.u-tokyo.ac.jp |language=ja}}</ref>。
1994年([[平成]]6年)7月には[[宇宙酔い]]などの研究のため、[[弥富金魚]]6匹が[[スペースシャトル・コロンビア]]に乗せられて実験動物となった<ref>{{Cite web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/606762 |title=「宇宙金魚」の子孫に会える 弥富の水族館に仲間入り:中日新聞Web |access-date=2023-12-26 |website=中日新聞Web |language=ja}}</ref>。
2022年、キンギョは操縦可能な水槽で水槽を餌をもらえる方向へ操縦可能であることが確認された<ref>{{Cite journal |last=Givon |first=Shachar |last2=Samina |first2=Matan |last3=Ben-Shahar |first3=Ohad |last4=Segev |first4=Ronen |date=2022-02-15 |title=From fish out of water to new insights on navigation mechanisms in animals |url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0166432821005994 |journal=Behavioural Brain Research |volume=419 |pages=113711 |doi=10.1016/j.bbr.2021.113711 |issn=0166-4328}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/01/post-97819.php |title=金魚は、自走式の水槽を「運転」できる |access-date=2023-12-26 |date=2022-01-11 |website=Newsweek日本版 |language=ja}}</ref>。
== 食用・薬用 ==
食用・薬用の習慣は中国の書物「[[本草綱目]]」や江戸中期の書物「[[本朝食鑑]]」で確認できる<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10815223 『本草綱目』と『本朝食鑑』の分類にみる食文化的な特徴]国会図書館</ref>。ただし、日本では「煮ても焼いても食えない」とされて敬遠されてきた<ref name="大阪毎日新聞"/>。
1935年に金魚の遺伝学的研究の第一人者である[[松井佳一]]農学博士(当時農林省水産試験場豊橋分場長)が、美味な食用「和金」の開発に成功した。当時の帝国水産会長[[野村益三]]のお墨付きももらい、NHK名古屋放送局でPRも行なった<ref name="大阪毎日新聞">[{{新聞記事文庫|url|0100295121|title=金魚はおいしい : 刺身にすれば鯛以上|oldmeta=10084054}} 大阪毎日新聞 1935年6月21日号]神戸大学附属図書館</ref>。
== キンギョを題材にした作品 ==
{{Notice|提示する作品は、Wikipediaのガイドライン[[Wikipedia:関連作品]]に準拠した作品であり、キンギョをより理解できる記述も含めて記入してください。}}
{{main|Category:キンギョを題材とした作品}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{citation|和書|author1=岡本信明 |author2=川田洋之助 |title=ジャパノロジーコレクション 金魚 |publisher=[[角川ソフィア文庫]] |year=2015 |isbn=9784044083328}}
* {{citation|和書|author=[[菅豊]]|editor=『[[月刊みんぱく]]』編集部|chapter=キンギョ|title=世界民族博物誌|publisher=[[八坂書房]]|year=2003|month=8|isbn=4-89694-826-2}}
* {{citation|和書|author=[[姜哲煥]]|title=平壌の水槽―北朝鮮地獄の強制収容所|publisher=[[ポプラ社]]|year=2003|month=8|isbn=978-4591078150}}
* {{citation|和書|author=松沢陽士|title=はじめて金魚と暮らす人の本|publisher=[[学研教育出版]]|series=Gakken Pet Books|year=2011|month=|isbn=978-4-05-404985-7}}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks|金魚
| n = no
| v = no
| species = Carassius auratus
}}
* [[金魚鉢]]
* [[金魚藻]]
* [[弥富金魚]]
* [[魚の一覧]]
* [[金魚の品種の一覧]]
* [[金魚の幽霊]]
* [[金魚すくい]]
* [[米内光政]]:元[[内閣総理大臣]]。[[海軍大臣]]時代、一部で「金魚大臣」と言われた。金魚が見た目はよくても実用にならないのと同じく、見た目は立派だが役に立たない大臣、との意([[阿川弘之]]『米内光政』新潮文庫)。
* [[アートアクアリウム]]金魚を取り扱った水槽作品の展示コンテンツ
* [[金魚酒]] - 金魚が泳げるほど薄い酒という意味。
<!-- 宣伝のための外部リンクは不要 -->
{{食肉}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きんきよ}}
[[Category:キンギョ|*]]
[[Category:夏の季語]]
[[Category:奈良県の象徴]]
[[Category:釣り餌]]
[[Category:家魚]] | 2003-05-23T17:23:26Z | 2023-12-26T01:00:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A7 |
9,207 | ご当地映画 | ご当地映画(ごとうちえいが)は、ある特定の地域を主要な舞台にしてドラマが展開していく映画作品を指す。
『二十四の瞳』(香川県)、『祭りの準備』(高知県)、『アイコ十六歳』(愛知県)、大林宣彦の尾道三部作(広島県)などのようにいわゆる地方を舞台とした映画作品は古くから存在している。通常、その地域を舞台とし、実際に撮影が行われた作品が「ご当地映画」と呼ばれる。複数の都市を舞台とした場合でも、同一県内若しくは近隣市町村など狭い地域が舞台の場合は「ご当地映画」と呼ばれるが、舞台が広範囲になると「ロードムービー」と呼ばれることがあり、その境界は明確ではない。
また、作品の舞台として特定の地域が設定されていながら実際にはその土地での撮影が行なわれていない場合や、他の地域や架空の地域を舞台とした設定しているがその撮影が特定の地域で行われた場合についても、ご当地映画として町おこし等に利用される場合がある。
21世紀以降、行政・市民有志・企業など地方側が主体的に動いて「ご当地映画」を企画製作する事が増えている。このような場合、地方側は配給業務など映画ビジネスや宣伝に関するノウハウに乏しいため、多くの場合は映画会社・民放局・広告代理店などと組むことが多いが、一部はそれらとは組まずに自主映画の形態をとる事もある。ご当地映画には、ドラマとしての作りが粗雑で安易な観光スポット案内の域を出ないものもあるが、その土地の風土に密着した完成度の高い作品も存在する。また、近年ではその土地が抱える経済問題などマイナスの側面を描いた「問題提起」型の作品も、少数ではあるが登場している。
2001年12月に施行された文化芸術振興基本法(現文化芸術基本法)、それを受けた文化庁の地域主導の映画製作について助成等の動きに反応して、各地方公共団体がフィルム・コミッション等の設立・運営、および当該組織を通じて「ご当地映画」づくりへの意欲が高まっている。また地方を舞台としたアニメーション映画が「ご当地アニメ」として注目されることもある。 | [
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] | ご当地映画(ごとうちえいが)は、ある特定の地域を主要な舞台にしてドラマが展開していく映画作品を指す。 | {{未検証|date=2009年8月}}{{出典の明記|date=2009年8月}}
'''ご当地映画'''(ごとうちえいが)は、ある特定の地域を主要な舞台にしてドラマが展開していく[[映画]]作品を指す。
== 概要 ==
『[[二十四の瞳]]』(香川県)、『[[祭りの準備]]』(高知県)、『[[1980アイコ十六歳|アイコ十六歳]]』(愛知県)、[[大林宣彦]]の[[尾道]]三部作([[広島県]])などのようにいわゆる地方を舞台とした映画作品は古くから存在している。通常、その地域を舞台とし、実際に撮影が行われた作品が「ご当地映画」と呼ばれる。複数の都市を舞台とした場合でも、同一県内若しくは近隣市町村など狭い地域が舞台の場合は「ご当地映画」と呼ばれるが、舞台が広範囲になると「[[ロードムービー]]」と呼ばれることがあり、その境界は明確ではない。
また、作品の舞台として特定の地域が設定されていながら実際にはその土地での撮影が行なわれていない場合や、他の地域や架空の地域を舞台とした設定しているがその撮影が特定の地域で行われた場合についても、ご当地映画として町おこし等に利用される場合がある。
21世紀以降、行政・市民有志・企業など地方側が主体的に動いて「ご当地映画」を企画製作する事が増えている。このような場合、地方側は配給業務など映画ビジネスや宣伝に関するノウハウに乏しいため、多くの場合は映画会社・[[民放局]]・[[広告代理店]]などと組むことが多いが、一部はそれらとは組まずに[[自主映画]]の形態をとる事もある。ご当地映画には、ドラマとしての作りが粗雑で安易な観光スポット案内の域を出ないものもあるが、その土地の風土に密着した完成度の高い作品も存在する。また、近年ではその土地が抱える経済問題などマイナスの側面を描いた「問題提起」型の作品も、少数ではあるが登場している。
2001年12月に施行された文化芸術振興基本法(現[[文化芸術基本法]])、それを受けた[[文化庁]]の地域主導の映画製作について助成等の動きに反応して、各地方公共団体が[[フィルム・コミッション]]等の設立・運営、および当該組織を通じて「ご当地映画」づくりへの意欲が高まっている。また地方を舞台としたアニメーション映画が「ご当地アニメ」として注目されることもある。
== 関連項目 ==
'''各都道府県を舞台にした作品一覧'''
*北海道 - [[北海道を舞台とした作品一覧#映画|北海道]]
*東北地方 - [[青森県#映画|青森県]]、[[岩手県#映画|岩手県]]、[[宮城県#宮城県を舞台とした作品|宮城県]]、[[秋田県#映画|秋田県]]、[[山形県#映画|山形県]]、[[福島県#福島県を舞台とした作品|福島県]]
* 関東地方 - [[茨城県#映画|茨城県]]、[[栃木県#栃木県を舞台とした作品|栃木県]]、[[群馬県#群馬県を舞台とした作品|群馬県]]、[[埼玉県を舞台とした作品一覧#映画|埼玉県]]、[[千葉県を舞台とした作品一覧#映画|千葉県]]、[[東京を舞台にした映画作品|東京都]]、[[神奈川県を舞台とした作品一覧#映画|神奈川県]]、[[山梨県#映画|山梨県]]
* 中部地方 - [[新潟県#映画・ドラマ|新潟県]]、[[富山県#映画|富山県]]、[[石川県を舞台とした作品一覧#映画|石川県]]、[[福井県#映画|福井県]]、[[長野県を舞台にした作品#映画|長野県]]、[[岐阜県#岐阜県を舞台とした作品|岐阜県]]、[[静岡県#映画|静岡県]]、[[愛知県を舞台とした作品一覧#映画|愛知県]]
* 近畿地方 - [[三重県#三重県を舞台とした作品|三重県]]、[[滋賀県#映画|滋賀県]]、[[京都府#映画|京都府]]、[[大阪府を舞台とした作品一覧#映画|大阪府]]、[[兵庫県#映画|兵庫県]]、[[奈良県#映画|奈良県]]、[[和歌山県#和歌山県を舞台とした作品|和歌山県]]
* 中国地方 - [[鳥取県#鳥取県を舞台とした作品|鳥取県]]、[[島根県#映画|島根県]]、[[岡山県を舞台とした作品一覧#映画|岡山県]]、[[広島県#広島県を舞台とした作品|広島県]]、[[山口県#山口県を舞台とした作品|山口県]]
* 四国地方 - [[徳島県#徳島県を舞台とした作品|徳島県]]、[[香川県#映画|香川県]]、[[愛媛県#映画|愛媛県]]、[[高知県#高知県を舞台とした作品|高知県]]
* 九州地方 - [[福岡県を舞台とした作品一覧#映画|福岡県]]、[[佐賀県#佐賀県を舞台とした作品|佐賀県]]、[[長崎県#長崎県を舞台とした作品|長崎県]]、[[熊本県を舞台とした作品一覧#映画|熊本県]]、[[大分県#映画|大分県]]、[[宮崎県#映画|宮崎県]]、[[鹿児島県#映画|鹿児島県]]、[[沖縄県#沖縄県を舞台とした作品|沖縄県]]
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9,210 | プラズマ物理 | プラズマ物理(プラズマぶつり)では、プラズマを理解するのに有用なもろもろの物理的概念を解説する。プラズマの全般的解説については項目プラズマを参照。
真空中の放電現象は18世紀に着目されていたが、その後しばらく忘れられていた。1835年ごろ、マイケル・ファラデーが再び真空放電に注目し、それを安定に実現した放電管内の現象を詳しく観察して、グロー、陽光柱などとともにファラデー暗部と呼ばれる構造を見いだした。真空放電の研究はその後、ウィリアム・クルックスなどによって大きく発展し、電子の発見への寄与を始めとして、現代物理学の成立に貢献した。
放電によって生成されたプラズマ自体の研究は1920年代のアーヴィング・ラングミュアに始まる。ラングミュアは1922年から約10年間、気体中の放電現象を研究し、その間にラングミュア探針を開発してプラズマの基本量(密度、温度)の測定手段を確立し、プラズマ振動を発見してその機構を解明する、などの大きな成果をあげ、いわゆるプラズマ物理学を創始した。1928年には放電によって発生した電離した気体に初めて「プラズマ」という名前を与えた。
プラズマ物理学の進展にとって、ブラソフ方程式 (Vlasov equation) の確立が重要である。ブラソフは1945年、プラズマ振動などの現象では個々の荷電粒子間の衝突は無視出来ることを論証し、衝突項を0と置いた運動論的方程式(無衝突ボルツマン方程式)と電磁場のマクスウェル方程式を組み合わせた方程式系でプラズマ振動を記述した。この方程式系はブラソフ方程式と呼ばれ、プラズマの特性にもっとも適合した方程式として広く用いられている。
ついで1946年にレフ・ランダウはブラソフの扱いを改良し、ブラソフ方程式をラプラス変換を用いて解く手法を編み出した。その結果、プラズマ振動にはランダウ減衰と呼ばれる現象があることを示した。このランダウの手法はこんにちのプラズマ理論のもっとも基本的手法として定着している。
プラズマの研究は1950年代から大きく加速した。その原動力はエネルギー源としての熱核融合の研究と宇宙空間物理学の進展である。熱核融合研究は1950年代初頭に始まり、世界的協力のもとで行われてきたが、最近になって熱核融合に必要な条件(1億 °C の温度、粒子密度 10m)を満たす核融合プラズマが生成されて科学的実証が達成された。そして、次の段階の「システムとしての核融合炉」が実現可能であることを示す工学的実証を目的として、2005年、国際熱核融合実験炉 (ITER) をフランスに建設することが決まった。
一方、宇宙空間物理学においては、ロケットや人工衛星による探査の進展とともに地球外の空間ではプラズマが極めて重要な役割を演じていることが解ってきて、プラズマのマクロな行動を記述する磁気流体力学が発達し、地球磁気圏の構造の解明などの大きな成果をあげた。
1970年に宇宙空間プラズマの研究者であるハンス・アルヴェーンが「電磁流体力学の基礎研究、プラズマ物理学への応用」によってノーベル物理学賞を受賞した。
そのほかプラズマは、プラズマディスプレイを始めとする数多くの応用によって、日常生活にも密接にかかわってきている。
気体の温度を上げて行くと構成する中性分子が電離してプラズマになる。この際、固体、液体、気体間の相転移とは異なって、気体からプラズマへの転移は徐々に起こり、電離度が非常に低くて構成分子の1%が電離しただけでも充分にプラズマの性質を示す。そのためプラズマは「物質の第四態」といっても、それは物質の三態とは大分異なった意味合いを持っている。
電離度はサハの電離公式によって評価される。電離度が低く、中性分子が大部分を占めるプラズマを弱電離プラズマ (weakly ionized plasma)、もしくは低温プラズマ (cold plasma) という。身近なプラズマは大部分がこれに属する。イオンと電子とでは質量が極端に違っていて衝突してもエネルギー交換が起こりにくいので、弱電離プラズマではイオンと電子とが別々の温度をもつのが普通である。そしてイオン温度は室温に近く、電子温度は数千度であることが多い。
温度をさらに上げるとついには中性分子がすべて電離し、イオンと電子だけで構成されるプラズマになる。この状態のプラズマを完全電離プラズマ (fully ionized plasma)、もしくは高温プラズマ (hot plasma) と言う。このとき電子温度は数万度以上になり、イオン温度もそれなりに高くなっている。熱核融合炉をつくる研究では燃料である重水素イオンに核融合反応を起こさせるため、イオン温度を10keV(1億度)程度にまで上げる。この状態のプラズマを核融合プラズマということもある。
その他 通常のプラズマの定義からは外れるが、その延長として研究されているものに次のものがある。
プラズマはイオンと電子との混合物で電気的に中性な物質である。それが真にプラズマらしく振る舞うには次の3つの要件を満たさなければならない。
これらの要件の意味は次の通りである。
プラズマの理論では温度 T は常にボルツマン定数 kB との積 kBT の形で現れ、これはエネルギーの次元を持っていて、(3/2)kBT は1粒子当たりの運動エネルギーを表す。そこで絶対温度の代わりにそのエネルギーを温度として用いると、その値は構成粒子の運動エネルギーと直接結びついていて非常に便利で、プラズマ物理ではもっぱらこの温度を用いる。単位として電子が1ボルトの電位差を通過して得られるエネルギーを用い、それを eV と書いて、電子ボルト (electron volt) と呼ぶ。絶対温度との間には 1 eV ≒ 1.16 × 10 K の関係があり、1 eV はおおよそ1万度と考えてよい。また場合に応じて keV (= 10eV) などの単位を用いる。
この単位を用いると、たとえば水素のイオン化電圧は 13.6 V であるから、電離にはマクスウェル分布の高速度側裾の電子が効率的に働くことと考え合わせて、電子温度 10 eV で水素プラズマが完全電離になることが素直に理解される。
次に宇宙および地上のプラズマの代表的な例とその特性値をあげる。
ここで n は電子密度 (m)、Te は電子温度 (eV)、Ti はイオン温度 (ev)、λD はデバイの長さ (m)、ωpe はプラズマ振動数 (s)、Λ はプラズマ・パラメタ、α は電離度を表す。
存在場所で言えば、まず銀河系内で銀河面に近い場所は、星と星との間にも平均で 5×10/m 程度の密度の水素原子でみちているが、そのうちB1型星より高温の星の近所やガス星雲の内部ではこれらの原子が完全電離してプラズマ状態になっていて、HII領域と呼ばれ、よく研究されている。ちなみに HI は中性水素原子を表す。
次に太陽系内に戻ると、まず太陽コロナはかなり高密度の完全電離プラズマからなる。その外側でも至る所に完全電離プラズマが存在するが、表には地球の公転軌道付近のプラズマの特性を挙げてある。
さらに地球に近づくと、よく知られた電離層がある。表では密度がもっとも大きいF2層(高さ 200–500km)についての値を挙げてある。このプラズマは完全電離ではなく、弱電離である。
地上ではプラズマはもっぱら人工的につくられる。よく知られた例は蛍光灯、広告用ネオンサインなどの放電管内のプラズマで、いずれも弱電離プラズマである。
実験室内の小型装置では、直流または交流の電場をかけ、気体内で放電を起こさせてプラズマをつくることが多い。ここではそのような小型放電装置でつくられるプラズマのおよそのパラメタ範囲を示してある。
一番下の核融合炉では重水素 (D) と三重水素(トリチウム、T)とを核融合させてエネルギーを得るに必要なプラズマの特性を挙げてある。これらの特性のプラズマはすでに作られている。究極的な核融合炉としては、弱放射性気体である三重水素を使わないD-D反応を用いた炉が望ましいが、それを達成するには密度とイオン温度をさらに上げて n = 10/m、Ti = 3×10eV 程度にする必要がある。
この表から分かるとおり、これらのプラズマはいずれもプラズマの3要件を充分に満たしている。
プラズマ中では荷電粒子に対する粒子間の個々の衝突の影響は小さく、荷電粒子の運動はまずは外から加えられた電磁場とプラズマ自身のつくり出す電磁場の作用により定まる。従ってプラズマの振舞いの理解には電磁場中での荷電粒子の行動を知ることが基本になる。ここではそのために有用ないくつかの概念について解説する。
一様定常な磁場中では荷電粒子は磁場と速度の双方に垂直な力、ローレンツ力を受けるので、磁場に垂直な方向に円運動する。その際イオンと電子では荷電の符号が逆なので、旋回の向きも逆になる。この運動をサイクロトロン運動ともいう。このように円運動する粒子の行動を調べるには、その円運動の中心を追うのが便利である。円運動の中心を旋回中心(gyration center)、もしくは案内中心(guiding center)と呼ぶ。 一方、粒子は磁場方向には力を受けないので旋回中心は1本の磁力線に沿って一定の速さで進む。従って粒子は磁力線に沿ってらせん形を描いて運動することになる。 一様定常な磁場 B の中の円運動の振動数 Ω は粒子の荷電を q (正負あり)、質量を m とすると
Ω = | q | B m {\displaystyle \Omega ={\frac {\left|q\right|B}{m}}}
で与えられ、サイクロトロン振動数(cyclotron frequency)、もしくはラーマー振動数(Larmor frequency)と呼ばれる。この値は質量の小さい電子の方がイオンのよりもはるかに大きい。
一方、円運動の半径 a {\displaystyle a} は、粒子の磁場に垂直方向の速さを v⊥ として、
a = v ⊥ Ω = m v ⊥ | q | B {\displaystyle a={\frac {v_{\perp }}{\Omega }}={\frac {mv_{\perp }}{\left|q\right|B}}}
となり、これを旋回半径(gyration radius)、もしくはラーマー半径(Larmor radius)という。その大きさは同じ温度ならばイオンの方が電子よりはるかに大きい。
実際の磁場中のプラズマでこれらの量の大きさを考えると、イオンと電子のいずれもサイクロトロン振動数は非常に大きく、旋回半径は非常に小さいことがわかり、どちらも磁力線に強く巻き付いて運動するという描像がよい近似で成り立つ。とくに電子はイオンよりはるかに小さい半径ではるかに速く旋回している。
磁場 B に垂直な電場 E がかかると、荷電粒子の円軌道の半分では加速されて旋回半径が大きくなって、旋回中心が粒子から遠ざかる。そして反対側へ来ると減速され、旋回半径が小さくなり、旋回中心が粒子に近づく。こうして旋回中心はいつでも減速側に動き、粒子自体も一方向に移動する。この磁場に垂直な旋回中心の移動をドリフト(drift)といい、その速度をドリフト速度という。粒子自身も磁場に垂直にはドリフト速度で移動する。この場合のドリフト速度 vd は
v d = E × B B 2 {\displaystyle \mathbf {v} _{d}={\frac {\mathbf {E} \times \mathbf {B} }{B^{2}}}}
となり、荷電粒子の種類、速度に依存しないのがその特徴である。
この事柄は次のように理解される。静止系で磁場 B と電場 E とからなる電磁場がある場合は、速度 V で動く座標系で見ると E ' = E + V × B の電場があるように感じる。従ってドリフト速度 vd で動く座標系では粒子の感じる電場は E + vd × B = 0 となって、粒子はこの座標系では電場のない場合と同じ円運動をすることになり、もとの座標系でみると速度 vd でドリフトしていることになる。
電場以外の外力 f が働く場合にも Eeff = f/q という実効的な電場に置き換えて考えればすぐにドリフト速度が求まる。重力などの場合はイオンと電子とではドリフト速度は大きく異なり、向きも反対である。
磁場の大きさが磁場自身と垂直方向に変化している場合も、同じように軌道のある部分と反対側では旋回半径の大きさが異なり、やはりドリフトが起こる。また磁力線が曲がっている場合はそこを通る粒子の遠心力もドリフトに寄与する。
さらに興味深いのは、磁場に垂直方向に粒子密度の勾配がある場合である。この時は粒子の旋回中心の移動は起こらない。しかし、ある一点でそこを通る粒子数を考えると、旋回中心が密度の高い側にある粒子の方が、低い側にある粒子よりも沢山通り、これらが打ち消し切らずに平均速度が残って、一方向に粒子の流れ速度を生ずる。これは密度勾配によるドリフトと呼ばれ、磁場で閉じ込められたプラズマの境界での性質を支配する重要な要素の一つである。
磁場中の荷電粒子は磁力線の周りに円軌道を描いて旋回しているので、遠くからはそこに円電流があって、それに伴う磁気モーメントがあるように見える。その磁気モーメントは向きが磁場と逆方向のベクトルであって、その大きさ μ {\displaystyle \mu } は(電流の強さ)×(円の面積)で与えられるから、
μ = q v ⊥ 2 π a π a 2 = m v ⊥ 2 2 B = W ⊥ B {\displaystyle \mu ={\frac {qv_{\perp }}{2\pi a}}\pi a^{2}={\frac {mv_{\perp }^{2}}{2B}}={\frac {W_{\perp }}{B}}}
となる。ここで W ⊥ = m v ⊥ 2 / 2 {\displaystyle W_{\perp }=mv_{\perp }^{2}/2} は磁場に垂直方向の運動エネルギーを表す。 こうして磁場中の荷電粒子の旋回中心は、質量 m 、電荷 q とともに磁気モーメント μ {\displaystyle {\boldsymbol {\mu }}} をもつ粒子のように振る舞い、非一様磁場 B の中では f = ∇ ( μ B ) {\displaystyle \mathbf {f} =\nabla \left({\boldsymbol {\mu }}\mathbf {B} \right)} の力を受ける。
磁気モーメントはその大きさ μ {\displaystyle \mu } が断熱不変量であること、つまり外部パラメータが時間的にゆっくり変化しても μ {\displaystyle \mu } が一定に保たれることで重要である。このため、荷電粒子が非一様磁場の中で移動すると磁場に垂直方向の運動エネルギー W ⊥ {\displaystyle W_{\perp }} はその場所での磁場の強さ B に比例して大きさを変える。これからミラー磁場による荷電粒子の閉じこめが次のように理解される。
ほぼ直線状で両端で強く中央で弱い磁場をもつ磁場配位を考え、中央の一点に荷電粒子を置く。粒子は1本の磁力線に沿って移動するが、端に近づくと次第に強い磁場を感じるようになり、磁気モーメントが一定に保たれるため、垂直方向の運動エネルギー W ⊥ {\displaystyle W_{\perp }} が増加する。一方、静磁場中の荷電粒子は全エネルギーが一定に保たれるため、このことは粒子の磁場方向の運動エネルギー W ‖ {\displaystyle W_{\|}} が減少することを意味する。そして条件によってはある点まで行くと W ⊥ {\displaystyle W_{\perp }} が全エネルギーと等しくなり、磁場方向の運動エネルギー W ‖ {\displaystyle W_{\|}} が =0 となって粒子はそこで引き返す。こうして磁場の強い場所は荷電粒子を反射する性質をもつので、これをミラー(mirror 、磁気鏡)と呼び、両端にミラーを持つ磁場配位は荷電粒子を中央部に閉じこめることが出来て、これをミラー磁場(mirror field )という。ただし、閉じこめられる粒子は W ⊥ {\displaystyle W_{\perp }} が W ‖ {\displaystyle W_{\|}} よりも最初からある程度大きいものだけに限られ、他はミラーを越えて外へ出ていく。 ミラー磁場による閉じこめ機構は核融合研究の進路の一つであるミラー閉じこめの基本原理である。
プラズマは荷電粒子群と電磁場が密接に絡み合った系であるから、荷電粒子の運動を記述する方程式と電磁場を記述するマクスウェル方程式とを組み合わせて使うことが必要である。このうち、マクスウェル方程式は電磁場を正確に記述するが、荷電粒子群の運動を「正確に」記述する方程式はないから、状況に従って以下のようないろいろな近似の方程式を用いる。
プラズマは電導性の流体であるから、まず磁気流体力学(MHD)の方程式系を使うことが出来る。特にトーラスによるプラズマの閉じこめなど、複雑な幾何学的配位の現象についてはまずはMHDによる研究が主体になる。そこでの、プラズマの圧力、張力、ならびに流体と磁力線との凍り付きなどの概念は極めて有用である。
また、イオンと電子をそれぞれ独立した流体ととらえ、プラズマをイオン流体と電子流体との混合物と考えて、各々に流体力学的方程式を組み立て、イオンと電子の相互作用の項でその交渉を論ずる2流体モデルも極めて有用である。それによればイオンと電子の振る舞いをその特性に従って別々に考えることが出来、MHD よりも詳しい解析を行うことが出来る。
2流体モデルにおいてもイオンと電子で質量が極端に違うことを利用して、2つの方程式を組み合わせてプラズマ流体の運動を支配する「運動方程式」と電流の行動を支配する「一般化されたオームの法則」との連立方程式の形に整理することが出来る。この方程式系はそれ自身、プラズマの解析に極めて有用であるが、さらにいくつかの性質のよく分かった近似を導入すると再び MHD の方程式系が得られ、MHD に含まれる近似の意味の解明にも役立つ。
流体的記述ではプラズマを構成する粒子は局所熱平衡にあると仮定されているが、現実のプラズマでは平衡に至る緩和過程よりタイムスケールの速い現象、つまり局所熱平衡から大きく外れ速度分布関数のマクスウェル分布からのずれが本質的に重要な現象が多い。そこで速度分布関数の変化を記述する運動論的方程式をマクスウェル方程式と組み合わせて使う。
一般にはイオンと電子とのそれぞれに運動方程式を立ててマクスウェル方程式と連立させるが、現象によっては問題の特性に従って一方にはずっと簡単化したモデルを使うことも多い。例えばプラズマ振動ではイオンはその速い時間変化に追随出来ないので背景をなす一様な電荷分布と見なし、電子のみを運動論的方程式で扱う。
プラズマは弱結合粒子系であるから、運動論的方程式の衝突項を0とおいた無衝突ボルツマン方程式とマクスウェル方程式を連立させたブラソフ方程式がプラズマを記述するのにもっとも適した方程式である。それに粒子間衝突の効果を取り入れるには、問題に応じて簡単な緩和型衝突項から精緻なボルツマン方程式までいろいろな近似の衝突項をもつ運動論的方程式を用いる。プラズマでは粒子間の分子間力がクーロン力であることを生かして近似したいくつかの衝突項が使われているので、それらに関しては別項目をたてて記述する予定である。
プラズマの見方には、それを荷電粒子の集まりと考える見方とともに、それを波動を伝える連続媒質と考える見方が極めて有用である。そして一様定常なプラズマの連続媒質としての性質は誘電率と呼ばれるただ一つのテンソル量によって特徴付けられる。
定義
プラズマ中に電場 E ( r , t ) {\displaystyle {\boldsymbol {E}}({\boldsymbol {r}},t)} とともにそこに誘起されたプラズマ電流 j p ( r , t ) {\displaystyle {\boldsymbol {j}}_{p}({\boldsymbol {r}},t)} があるとして、電束密度 D ( r , t ) {\displaystyle {\boldsymbol {D}}({\boldsymbol {r}},t)} を
∂ D ∂ t = ε 0 ∂ E ∂ t + j p ( r , t ) {\displaystyle {\frac {\partial {\boldsymbol {D}}}{\partial t}}=\varepsilon _{0}{\frac {\partial {\boldsymbol {E}}}{\partial t}}+{\boldsymbol {j}}_{p}({\boldsymbol {r}},t)}
で定義する。そして正弦波形の波動を表すのに複素数表示を用い、これらの物理量はすべて単色平面波:
E ( r , t ) = E ( k , ω ) e i ( k ⋅ r − ω t ) {\displaystyle {\boldsymbol {E}}({\boldsymbol {r}},t)={\boldsymbol {E}}({\boldsymbol {k}},\omega )e^{i({\boldsymbol {k}}\cdot {\boldsymbol {r}}-\omega t)}} :(*)
の形をしているとする。すると線形理論の範囲内で
D ( k , ω ) = ε ^ ( k , ω ) ⋅ E ( k , ω ) {\displaystyle {\boldsymbol {D}}({\boldsymbol {k}},\omega )={\hat {\varepsilon }}({\boldsymbol {k}},\omega )\cdot {\boldsymbol {E}}({\boldsymbol {k}},\omega )}
と書くことが出来る。ここで ε ^ ( k , ω ) {\displaystyle {\hat {\varepsilon }}({\boldsymbol {k}},\omega )} がプラズマの誘電率である。
誘電率テンソル
磁場中プラズマでは磁場による異方性のため、誘電率はテンソルになる。そしてそのテンソルは、考えている体系が磁場方向を軸として回転対称であるおかげで、次のような特殊な形をしていることが示される。
ε ^ ( k , ω ) = ( ε ⊥ ( k , ω ) − ε T ( k , ω ) 0 ε T ( k , ω ) ε ⊥ ( k , ω ) 0 0 0 ε ‖ ( k , ω ) ) {\displaystyle {\hat {\varepsilon }}({\boldsymbol {k}},\omega )={\begin{pmatrix}\varepsilon _{\perp }({\boldsymbol {k}},\omega )&-\varepsilon _{T}({\boldsymbol {k}},\omega )&0\\\varepsilon _{T}({\boldsymbol {k}},\omega )&\varepsilon _{\perp }({\boldsymbol {k}},\omega )&0\\0&0&\varepsilon _{\|}({\boldsymbol {k}},\omega )\end{pmatrix}}}
ただし、ここでは磁場方向を z 方向とした。従ってこのテンソルの独立な成分は ε ⊥ ( k , ω ) , ε ‖ ( k , ω ) , ε T ( k , ω ) {\displaystyle \varepsilon _{\perp }({\boldsymbol {k}},\omega ),\varepsilon _{\|}({\boldsymbol {k}},\omega ),\varepsilon _{T}({\boldsymbol {k}},\omega )} の3つである。
なお一般に、磁場中プラズマではそこでの2つのベクトル量を結びつけるテンソルはすべてこの形をしている。次に述べる電気伝導度テンソルもその例の一つである。
計算法
誘電率 ε ^ ( k , ω ) {\displaystyle {\hat {\varepsilon }}({\boldsymbol {k}},\omega )} を具体的に求めるには、まず上の形の電場を作用させた時にプラズマ中に流れる電子による電流を計算し、その係数 j e ( k , ω ) {\displaystyle {\boldsymbol {j}}_{e}({\boldsymbol {k}},\omega )} から j e ( k , ω ) = σ ^ e ( k , ω ) ⋅ E ( k , ω ) {\displaystyle {\boldsymbol {j}}_{e}({\boldsymbol {k}},\omega )={\hat {\sigma }}_{e}({\boldsymbol {k}},\omega )\cdot {\boldsymbol {E}}({\boldsymbol {k}},\omega )} で表される電気伝導度の電子成分 σ ^ e {\displaystyle {\hat {\sigma }}_{e}} を求める。そして同様にして電気伝導度のイオン成分 σ ^ i {\displaystyle {\hat {\sigma }}_{i}} を求める。すると誘電率は
ε ^ ( k , ω ) = ε 0 1 ^ + i ω σ ^ e ( k , ω ) + i ω σ ^ i ( k , ω ) {\displaystyle {\hat {\varepsilon }}({\boldsymbol {k}},\omega )=\varepsilon _{0}{\hat {\boldsymbol {1}}}+{\frac {i}{\omega }}{\hat {\sigma }}_{e}({\boldsymbol {k}},\omega )+{\frac {i}{\omega }}{\hat {\sigma }}_{i}({\boldsymbol {k}},\omega )}
と求まる(ここで 1 ^ {\displaystyle {\hat {1}}} は単位テンソルを表す)。その際、電流を求めるために使用した方程式系の近似の程度により、その近似に従った誘電率が得られる。
分散
誘電率が ω {\displaystyle \omega } に依存するのは、電流を形成する荷電粒子が過去に経験した電場の履歴を憶えていて、それが現在の電流にも影響するために起きる現象である。これは通常の誘電体にもあり、光の色の分散を引き起こすもととなる性質なので、単に「分散(dispersion)」、あるいは「時間分散(temporal dispersion)」 と呼ばれる。 それに対して誘電率が k {\displaystyle {\boldsymbol {k}}} に依存する現象は、荷電粒子が他の場所での電場を経験してやってくるために起こる現象なので固体誘電体には存在せず、プラズマに特徴的な性質である。これを「空間分散(spatial dispersion)」という。
誘電率の縦成分
ε l ( k , ω ) = k ⋅ ε ^ ( k , ω ) ⋅ k / k 2 {\displaystyle \varepsilon _{\ell }({\boldsymbol {k}},\omega )={\boldsymbol {k}}\cdot {\hat {\varepsilon }}({\boldsymbol {k}},\omega )\cdot {\boldsymbol {k}}/k^{2}}
というスカラー量を誘電率の縦成分と言う。これは比較的簡単な形に得られ、いろいろな局面で現れる重要な量である。とくに ω = 0 {\displaystyle \omega =0} の場合には簡単になって
ε l ( k , 0 ) = ε 0 ( 1 + k D 2 k 2 ) {\displaystyle \varepsilon _{\ell }({\boldsymbol {k}},0)=\varepsilon _{0}(1+{\frac {k_{D}^{2}}{k^{2}}})}
となり、これはプラズマ中のデバイ遮蔽の効果を表す。ここで k D {\displaystyle k_{D}} はデバイ波数(デバイの長さの逆数)である。実際、静止点電荷q の周りのポテンシャルを 誘電体中の電磁場のマクスウェル方程式の一つ d i v D = q δ ( r ) {\displaystyle div{\boldsymbol {D}}=q\delta ({\boldsymbol {r}})} からフーリエ変換を用いて求めるときには、計算の途中にこの: ε l ( k , 0 ) {\displaystyle \varepsilon _{\ell }({\boldsymbol {k}},0)} が現れ、最終的にはデバイ-ヒュッケルのポテンシャルが得られる。このようにして、誘電率がプラズマの連続媒質としての性質を的確に表現していることが分かる。
磁場中プラズマでは多種多様な波動が存在する。それを調べるにはまず振動数 ω {\displaystyle \omega } と波数 k {\displaystyle {\boldsymbol {k}}} との関係を表す分散式 ω = ω ( k ) {\displaystyle \omega =\omega ({\boldsymbol {k}})} を知ることが基本になる。
一様定常なプラズマを考える。すべての変動量は上で触れた単色平面波の形をしているとして、外部電流、電荷を持たないマクスウェル方程式から磁場を消去すると、次の式が得られる。
k × ( k × E ) + ω 2 μ ε ^ ( k , ω ) ⋅ E = 0 {\displaystyle {\boldsymbol {k}}\times ({\boldsymbol {k}}\times {\boldsymbol {E}})+\omega ^{2}\mu {\hat {\varepsilon }}({\boldsymbol {k}},\omega )\cdot {\boldsymbol {E}}=0}
これを成分に分けて書き下すと、電場 E {\displaystyle {\boldsymbol {E}}} の3つの成分 E x , E y , E z {\displaystyle E_{x},E_{y},E_{z}} に関する3元1次斉次連立方程式になる。従って波が存在する、すなわち斉次連立方程式が 0 でない解をもつためには、その係数から作られる3次の行列式 G ( k , ω ) {\displaystyle G({\boldsymbol {k}},\omega )} が 0 にならなければならない。すなわち
G ( k , ω ) = 0 {\displaystyle G({\boldsymbol {k}},\omega )=0}
これが分散関係( dispersion relation )で、これを解くことにより、分散式が定まる。
プラズマ中の波動の振舞いには外から加えた静磁場が大きく影響する。そして一様定常なプラズマに限っても、一般の方向に進む波の振舞いは極めて複雑であるが、外部磁場に平行に伝わる波に限定すると、縦波と横波とがはっきり分離して、ある程度分かり易い扱いが出来る。そして一般の方向に進む波はその知識を基礎にして考える。
縦波
外部磁場方向に進む縦波では荷電粒子の波に関連した動きは磁場の影響を受けないので、外部磁場のない場合と同様になる。この場合、縦波には電子だけが関与する高周波のプラズマ振動と、イオンの動きが主体の低周波波動イオン音波との2つのモードがある。
プラズマ振動は電子密度の変動により生ずる電場を復元力として発生し、その振動数 ω {\displaystyle \omega } はプラズマ振動数 ω p {\displaystyle \omega _{p}} にほぼ等しい。
一方、イオン音波は T e ≫ T i {\displaystyle T_{e}\gg \ T_{i}} の条件のもとでのみ定常に存在し、電子の圧力を復元力とするイオン流体中の音波であって、その速度は γ e T e / m i {\displaystyle {\sqrt {\gamma _{e}T_{e}/m_{i}}}} で与えられる。ここで γ e {\displaystyle \gamma _{e}} は電子流体の比熱比である。
横波
外部磁場方向に進む横波は電子およびイオンの旋回運動と結合するのでさらに複雑に振る舞う。まず、横波は一般に電場ベクトルの方向が円周上に回る2つの円偏波の波に分解され、イオンの旋回と同方向に回る左円偏波の波と、電子と同方向に回る右円偏波の波とに分類される。そして波は単色平面波(*)の形をしているとし、波数ベクトル k {\displaystyle {\boldsymbol {k}}} が向きまで含めて磁場方向に向いているとすると、、 ω < 0 {\displaystyle \omega <0} を満たす ω {\displaystyle \omega } は右円偏波の波を、 ω > 0 {\displaystyle \omega >0} を満たす ω {\displaystyle \omega } は左円偏波の波を表す。 そして、通常成立する条件 ω p ≫ Ω e {\displaystyle \omega _{p}\gg \Omega _{e}} ( Ω e , Ω i {\displaystyle \Omega _{e},\ \Omega _{i}} はそれぞれ電子とイオンのサイクロトロン振動数)のもとでは、 − ω p < ω < − Ω e {\displaystyle -\omega _{p}<\omega <-\Omega _{e}} を満たす ω {\displaystyle \omega } の範囲と、 Ω i < ω < ω p {\displaystyle \Omega _{i}<\omega <\omega _{p}} を満たす範囲には磁場方向に進む横波は存在しない。かくして横波は ω < − ω p , − Ω e < ω < Ω i , ω p < ω {\displaystyle \omega <-\omega _{p},\ -\Omega _{e}<\omega <\Omega _{i},\ \omega _{p}<\omega } の3つの領域に分かれて存在する。
まず、低周波の領域で、 | ω | ≪ Ω i {\displaystyle |\omega |\ll \Omega _{i}} を満たす波はアルヴェーン波である。アルヴェーン波では荷電粒子の旋回運動との結合がないので右円偏波と左円偏波の区別はなく、これを互いに直交する2つの直線偏波の波に分解しても考えてもよい。
左円偏波の波の周波数が上がって Ω i {\displaystyle \Omega _{i}} に近づくと、波数によらず周波数がほぼ一定、 ω ≈ Ω i {\displaystyle \omega \thickapprox \Omega _{i}} の波になる。これをイオン・サイクロトロン波( ion cyclotron wave )と呼び、核融合プラズマの加熱などに用いられる。
一方、右円偏波の波では周波数が大きくなって Ω i < | ω | ≪ Ω e {\displaystyle \Omega _{i}<|\omega |\ll \Omega _{e}} の領域に入る波を、ホイスラー波( Whistler wave)と言う。これは南半球で発生した雷の信号を地磁気の磁力線に沿ってホイスル(笛)状の雑音として北半球にまで伝える波として有名である。
高周波の領域 | ω | > ω p {\displaystyle |\omega |>\omega _{p}} の波は電磁波である。ただし、荷電粒子の旋回運動と結合して多少修正されるが、 | ω | {\displaystyle |\omega |} が十分大きい領域では荷電粒子は電場の変化に追随できなくなるので、限りなく真空中の電磁波に近くなる。他方、周波数が小さくなると変位電流と打ち消す方向にプラズマ電流が流れ始め、 | ω | = ω p {\displaystyle |\omega |=\omega _{p}} となると完全に打ち消して波は伝播しなくなる。
磁場によるプラズマの閉じ込めではプラズマ境界に必ず密度勾配が存在する。密度勾配があるとプラズマ中の波動はいろいろな影響を受けるが、なかでももっとも著しいのは、一様なプラズマには存在しない波が密度勾配が原因で現れることである。それはプラズマ中の荷電粒子のドリフトと密接に結びついているので、ドリフト波( drift wave )と呼ばれる。
外部磁場の方向をz方向にとり、密度 n 0 {\displaystyle n_{0}} がーx方向に勾配を持つとし、その勾配の大きさを
κ = − 1 n 0 d n 0 d x {\displaystyle \kappa =-{\frac {1}{n_{0}}}{\frac {dn_{0}}{dx}}}
とおくと、y方向に波数 k y {\displaystyle k_{y}} で進むドリフト波の振動数 ω {\displaystyle \omega } は ω = ω ∗ {\displaystyle \omega =\omega _{*}} で与えられる。ここで ω ∗ {\displaystyle \omega _{*}} は
ω ∗ = T e e B 0 k y κ {\displaystyle \omega _{*}={\frac {T_{e}}{eB_{0}}}k_{y}\kappa }
であって、ドリフト振動数(drift frequency )と呼ばれる。
ドリフト波はイオンの旋回運動と結びついてドリフト・サイクロトロン波を形成したりしていろいろな波を派生し、不安定になりやすい。そしてプラズマの磁場閉じ込めを妨げるもっとも危険な要因の一つとして深く研究され、現在ではいろいろな方法を組み合わせてその危険をほぼ取り除く見通しが得られている。 | [
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"text": "プラズマ物理(プラズマぶつり)では、プラズマを理解するのに有用なもろもろの物理的概念を解説する。プラズマの全般的解説については項目プラズマを参照。",
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"text": "真空中の放電現象は18世紀に着目されていたが、その後しばらく忘れられていた。1835年ごろ、マイケル・ファラデーが再び真空放電に注目し、それを安定に実現した放電管内の現象を詳しく観察して、グロー、陽光柱などとともにファラデー暗部と呼ばれる構造を見いだした。真空放電の研究はその後、ウィリアム・クルックスなどによって大きく発展し、電子の発見への寄与を始めとして、現代物理学の成立に貢献した。",
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"text": "放電によって生成されたプラズマ自体の研究は1920年代のアーヴィング・ラングミュアに始まる。ラングミュアは1922年から約10年間、気体中の放電現象を研究し、その間にラングミュア探針を開発してプラズマの基本量(密度、温度)の測定手段を確立し、プラズマ振動を発見してその機構を解明する、などの大きな成果をあげ、いわゆるプラズマ物理学を創始した。1928年には放電によって発生した電離した気体に初めて「プラズマ」という名前を与えた。",
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"text": "プラズマ物理学の進展にとって、ブラソフ方程式 (Vlasov equation) の確立が重要である。ブラソフは1945年、プラズマ振動などの現象では個々の荷電粒子間の衝突は無視出来ることを論証し、衝突項を0と置いた運動論的方程式(無衝突ボルツマン方程式)と電磁場のマクスウェル方程式を組み合わせた方程式系でプラズマ振動を記述した。この方程式系はブラソフ方程式と呼ばれ、プラズマの特性にもっとも適合した方程式として広く用いられている。",
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"text": "ついで1946年にレフ・ランダウはブラソフの扱いを改良し、ブラソフ方程式をラプラス変換を用いて解く手法を編み出した。その結果、プラズマ振動にはランダウ減衰と呼ばれる現象があることを示した。このランダウの手法はこんにちのプラズマ理論のもっとも基本的手法として定着している。",
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"text": "プラズマの研究は1950年代から大きく加速した。その原動力はエネルギー源としての熱核融合の研究と宇宙空間物理学の進展である。熱核融合研究は1950年代初頭に始まり、世界的協力のもとで行われてきたが、最近になって熱核融合に必要な条件(1億 °C の温度、粒子密度 10m)を満たす核融合プラズマが生成されて科学的実証が達成された。そして、次の段階の「システムとしての核融合炉」が実現可能であることを示す工学的実証を目的として、2005年、国際熱核融合実験炉 (ITER) をフランスに建設することが決まった。",
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"text": "一方、宇宙空間物理学においては、ロケットや人工衛星による探査の進展とともに地球外の空間ではプラズマが極めて重要な役割を演じていることが解ってきて、プラズマのマクロな行動を記述する磁気流体力学が発達し、地球磁気圏の構造の解明などの大きな成果をあげた。",
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"text": "1970年に宇宙空間プラズマの研究者であるハンス・アルヴェーンが「電磁流体力学の基礎研究、プラズマ物理学への応用」によってノーベル物理学賞を受賞した。",
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"text": "そのほかプラズマは、プラズマディスプレイを始めとする数多くの応用によって、日常生活にも密接にかかわってきている。",
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"text": "気体の温度を上げて行くと構成する中性分子が電離してプラズマになる。この際、固体、液体、気体間の相転移とは異なって、気体からプラズマへの転移は徐々に起こり、電離度が非常に低くて構成分子の1%が電離しただけでも充分にプラズマの性質を示す。そのためプラズマは「物質の第四態」といっても、それは物質の三態とは大分異なった意味合いを持っている。",
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"text": "電離度はサハの電離公式によって評価される。電離度が低く、中性分子が大部分を占めるプラズマを弱電離プラズマ (weakly ionized plasma)、もしくは低温プラズマ (cold plasma) という。身近なプラズマは大部分がこれに属する。イオンと電子とでは質量が極端に違っていて衝突してもエネルギー交換が起こりにくいので、弱電離プラズマではイオンと電子とが別々の温度をもつのが普通である。そしてイオン温度は室温に近く、電子温度は数千度であることが多い。",
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"text": "温度をさらに上げるとついには中性分子がすべて電離し、イオンと電子だけで構成されるプラズマになる。この状態のプラズマを完全電離プラズマ (fully ionized plasma)、もしくは高温プラズマ (hot plasma) と言う。このとき電子温度は数万度以上になり、イオン温度もそれなりに高くなっている。熱核融合炉をつくる研究では燃料である重水素イオンに核融合反応を起こさせるため、イオン温度を10keV(1億度)程度にまで上げる。この状態のプラズマを核融合プラズマということもある。",
"title": "プラズマの種類"
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"text": "その他 通常のプラズマの定義からは外れるが、その延長として研究されているものに次のものがある。",
"title": "プラズマの種類"
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"text": "プラズマはイオンと電子との混合物で電気的に中性な物質である。それが真にプラズマらしく振る舞うには次の3つの要件を満たさなければならない。",
"title": "プラズマの要件"
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"text": "これらの要件の意味は次の通りである。",
"title": "プラズマの要件"
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"text": "プラズマの理論では温度 T は常にボルツマン定数 kB との積 kBT の形で現れ、これはエネルギーの次元を持っていて、(3/2)kBT は1粒子当たりの運動エネルギーを表す。そこで絶対温度の代わりにそのエネルギーを温度として用いると、その値は構成粒子の運動エネルギーと直接結びついていて非常に便利で、プラズマ物理ではもっぱらこの温度を用いる。単位として電子が1ボルトの電位差を通過して得られるエネルギーを用い、それを eV と書いて、電子ボルト (electron volt) と呼ぶ。絶対温度との間には 1 eV ≒ 1.16 × 10 K の関係があり、1 eV はおおよそ1万度と考えてよい。また場合に応じて keV (= 10eV) などの単位を用いる。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "この単位を用いると、たとえば水素のイオン化電圧は 13.6 V であるから、電離にはマクスウェル分布の高速度側裾の電子が効率的に働くことと考え合わせて、電子温度 10 eV で水素プラズマが完全電離になることが素直に理解される。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "次に宇宙および地上のプラズマの代表的な例とその特性値をあげる。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "ここで n は電子密度 (m)、Te は電子温度 (eV)、Ti はイオン温度 (ev)、λD はデバイの長さ (m)、ωpe はプラズマ振動数 (s)、Λ はプラズマ・パラメタ、α は電離度を表す。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "存在場所で言えば、まず銀河系内で銀河面に近い場所は、星と星との間にも平均で 5×10/m 程度の密度の水素原子でみちているが、そのうちB1型星より高温の星の近所やガス星雲の内部ではこれらの原子が完全電離してプラズマ状態になっていて、HII領域と呼ばれ、よく研究されている。ちなみに HI は中性水素原子を表す。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "次に太陽系内に戻ると、まず太陽コロナはかなり高密度の完全電離プラズマからなる。その外側でも至る所に完全電離プラズマが存在するが、表には地球の公転軌道付近のプラズマの特性を挙げてある。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "さらに地球に近づくと、よく知られた電離層がある。表では密度がもっとも大きいF2層(高さ 200–500km)についての値を挙げてある。このプラズマは完全電離ではなく、弱電離である。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "地上ではプラズマはもっぱら人工的につくられる。よく知られた例は蛍光灯、広告用ネオンサインなどの放電管内のプラズマで、いずれも弱電離プラズマである。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "実験室内の小型装置では、直流または交流の電場をかけ、気体内で放電を起こさせてプラズマをつくることが多い。ここではそのような小型放電装置でつくられるプラズマのおよそのパラメタ範囲を示してある。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "一番下の核融合炉では重水素 (D) と三重水素(トリチウム、T)とを核融合させてエネルギーを得るに必要なプラズマの特性を挙げてある。これらの特性のプラズマはすでに作られている。究極的な核融合炉としては、弱放射性気体である三重水素を使わないD-D反応を用いた炉が望ましいが、それを達成するには密度とイオン温度をさらに上げて n = 10/m、Ti = 3×10eV 程度にする必要がある。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"text": "この表から分かるとおり、これらのプラズマはいずれもプラズマの3要件を充分に満たしている。",
"title": "代表的なプラズマの例"
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"tag": "p",
"text": "プラズマ中では荷電粒子に対する粒子間の個々の衝突の影響は小さく、荷電粒子の運動はまずは外から加えられた電磁場とプラズマ自身のつくり出す電磁場の作用により定まる。従ってプラズマの振舞いの理解には電磁場中での荷電粒子の行動を知ることが基本になる。ここではそのために有用ないくつかの概念について解説する。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
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"text": "一様定常な磁場中では荷電粒子は磁場と速度の双方に垂直な力、ローレンツ力を受けるので、磁場に垂直な方向に円運動する。その際イオンと電子では荷電の符号が逆なので、旋回の向きも逆になる。この運動をサイクロトロン運動ともいう。このように円運動する粒子の行動を調べるには、その円運動の中心を追うのが便利である。円運動の中心を旋回中心(gyration center)、もしくは案内中心(guiding center)と呼ぶ。 一方、粒子は磁場方向には力を受けないので旋回中心は1本の磁力線に沿って一定の速さで進む。従って粒子は磁力線に沿ってらせん形を描いて運動することになる。 一様定常な磁場 B の中の円運動の振動数 Ω は粒子の荷電を q (正負あり)、質量を m とすると",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
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"text": "Ω = | q | B m {\\displaystyle \\Omega ={\\frac {\\left|q\\right|B}{m}}}",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
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"text": "で与えられ、サイクロトロン振動数(cyclotron frequency)、もしくはラーマー振動数(Larmor frequency)と呼ばれる。この値は質量の小さい電子の方がイオンのよりもはるかに大きい。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
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"text": "一方、円運動の半径 a {\\displaystyle a} は、粒子の磁場に垂直方向の速さを v⊥ として、",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
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"text": "a = v ⊥ Ω = m v ⊥ | q | B {\\displaystyle a={\\frac {v_{\\perp }}{\\Omega }}={\\frac {mv_{\\perp }}{\\left|q\\right|B}}}",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "となり、これを旋回半径(gyration radius)、もしくはラーマー半径(Larmor radius)という。その大きさは同じ温度ならばイオンの方が電子よりはるかに大きい。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "実際の磁場中のプラズマでこれらの量の大きさを考えると、イオンと電子のいずれもサイクロトロン振動数は非常に大きく、旋回半径は非常に小さいことがわかり、どちらも磁力線に強く巻き付いて運動するという描像がよい近似で成り立つ。とくに電子はイオンよりはるかに小さい半径ではるかに速く旋回している。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "磁場 B に垂直な電場 E がかかると、荷電粒子の円軌道の半分では加速されて旋回半径が大きくなって、旋回中心が粒子から遠ざかる。そして反対側へ来ると減速され、旋回半径が小さくなり、旋回中心が粒子に近づく。こうして旋回中心はいつでも減速側に動き、粒子自体も一方向に移動する。この磁場に垂直な旋回中心の移動をドリフト(drift)といい、その速度をドリフト速度という。粒子自身も磁場に垂直にはドリフト速度で移動する。この場合のドリフト速度 vd は",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
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"tag": "p",
"text": "v d = E × B B 2 {\\displaystyle \\mathbf {v} _{d}={\\frac {\\mathbf {E} \\times \\mathbf {B} }{B^{2}}}}",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "となり、荷電粒子の種類、速度に依存しないのがその特徴である。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "この事柄は次のように理解される。静止系で磁場 B と電場 E とからなる電磁場がある場合は、速度 V で動く座標系で見ると E ' = E + V × B の電場があるように感じる。従ってドリフト速度 vd で動く座標系では粒子の感じる電場は E + vd × B = 0 となって、粒子はこの座標系では電場のない場合と同じ円運動をすることになり、もとの座標系でみると速度 vd でドリフトしていることになる。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
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"text": "電場以外の外力 f が働く場合にも Eeff = f/q という実効的な電場に置き換えて考えればすぐにドリフト速度が求まる。重力などの場合はイオンと電子とではドリフト速度は大きく異なり、向きも反対である。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "磁場の大きさが磁場自身と垂直方向に変化している場合も、同じように軌道のある部分と反対側では旋回半径の大きさが異なり、やはりドリフトが起こる。また磁力線が曲がっている場合はそこを通る粒子の遠心力もドリフトに寄与する。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
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{
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"text": "さらに興味深いのは、磁場に垂直方向に粒子密度の勾配がある場合である。この時は粒子の旋回中心の移動は起こらない。しかし、ある一点でそこを通る粒子数を考えると、旋回中心が密度の高い側にある粒子の方が、低い側にある粒子よりも沢山通り、これらが打ち消し切らずに平均速度が残って、一方向に粒子の流れ速度を生ずる。これは密度勾配によるドリフトと呼ばれ、磁場で閉じ込められたプラズマの境界での性質を支配する重要な要素の一つである。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "磁場中の荷電粒子は磁力線の周りに円軌道を描いて旋回しているので、遠くからはそこに円電流があって、それに伴う磁気モーメントがあるように見える。その磁気モーメントは向きが磁場と逆方向のベクトルであって、その大きさ μ {\\displaystyle \\mu } は(電流の強さ)×(円の面積)で与えられるから、",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "μ = q v ⊥ 2 π a π a 2 = m v ⊥ 2 2 B = W ⊥ B {\\displaystyle \\mu ={\\frac {qv_{\\perp }}{2\\pi a}}\\pi a^{2}={\\frac {mv_{\\perp }^{2}}{2B}}={\\frac {W_{\\perp }}{B}}}",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "となる。ここで W ⊥ = m v ⊥ 2 / 2 {\\displaystyle W_{\\perp }=mv_{\\perp }^{2}/2} は磁場に垂直方向の運動エネルギーを表す。 こうして磁場中の荷電粒子の旋回中心は、質量 m 、電荷 q とともに磁気モーメント μ {\\displaystyle {\\boldsymbol {\\mu }}} をもつ粒子のように振る舞い、非一様磁場 B の中では f = ∇ ( μ B ) {\\displaystyle \\mathbf {f} =\\nabla \\left({\\boldsymbol {\\mu }}\\mathbf {B} \\right)} の力を受ける。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "磁気モーメントはその大きさ μ {\\displaystyle \\mu } が断熱不変量であること、つまり外部パラメータが時間的にゆっくり変化しても μ {\\displaystyle \\mu } が一定に保たれることで重要である。このため、荷電粒子が非一様磁場の中で移動すると磁場に垂直方向の運動エネルギー W ⊥ {\\displaystyle W_{\\perp }} はその場所での磁場の強さ B に比例して大きさを変える。これからミラー磁場による荷電粒子の閉じこめが次のように理解される。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "ほぼ直線状で両端で強く中央で弱い磁場をもつ磁場配位を考え、中央の一点に荷電粒子を置く。粒子は1本の磁力線に沿って移動するが、端に近づくと次第に強い磁場を感じるようになり、磁気モーメントが一定に保たれるため、垂直方向の運動エネルギー W ⊥ {\\displaystyle W_{\\perp }} が増加する。一方、静磁場中の荷電粒子は全エネルギーが一定に保たれるため、このことは粒子の磁場方向の運動エネルギー W ‖ {\\displaystyle W_{\\|}} が減少することを意味する。そして条件によってはある点まで行くと W ⊥ {\\displaystyle W_{\\perp }} が全エネルギーと等しくなり、磁場方向の運動エネルギー W ‖ {\\displaystyle W_{\\|}} が =0 となって粒子はそこで引き返す。こうして磁場の強い場所は荷電粒子を反射する性質をもつので、これをミラー(mirror 、磁気鏡)と呼び、両端にミラーを持つ磁場配位は荷電粒子を中央部に閉じこめることが出来て、これをミラー磁場(mirror field )という。ただし、閉じこめられる粒子は W ⊥ {\\displaystyle W_{\\perp }} が W ‖ {\\displaystyle W_{\\|}} よりも最初からある程度大きいものだけに限られ、他はミラーを越えて外へ出ていく。 ミラー磁場による閉じこめ機構は核融合研究の進路の一つであるミラー閉じこめの基本原理である。",
"title": "磁場中の荷電粒子の運動"
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"text": "プラズマは荷電粒子群と電磁場が密接に絡み合った系であるから、荷電粒子の運動を記述する方程式と電磁場を記述するマクスウェル方程式とを組み合わせて使うことが必要である。このうち、マクスウェル方程式は電磁場を正確に記述するが、荷電粒子群の運動を「正確に」記述する方程式はないから、状況に従って以下のようないろいろな近似の方程式を用いる。",
"title": "プラズマを記述する方程式系"
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"text": "プラズマは電導性の流体であるから、まず磁気流体力学(MHD)の方程式系を使うことが出来る。特にトーラスによるプラズマの閉じこめなど、複雑な幾何学的配位の現象についてはまずはMHDによる研究が主体になる。そこでの、プラズマの圧力、張力、ならびに流体と磁力線との凍り付きなどの概念は極めて有用である。",
"title": "プラズマを記述する方程式系"
},
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"text": "また、イオンと電子をそれぞれ独立した流体ととらえ、プラズマをイオン流体と電子流体との混合物と考えて、各々に流体力学的方程式を組み立て、イオンと電子の相互作用の項でその交渉を論ずる2流体モデルも極めて有用である。それによればイオンと電子の振る舞いをその特性に従って別々に考えることが出来、MHD よりも詳しい解析を行うことが出来る。",
"title": "プラズマを記述する方程式系"
},
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"text": "2流体モデルにおいてもイオンと電子で質量が極端に違うことを利用して、2つの方程式を組み合わせてプラズマ流体の運動を支配する「運動方程式」と電流の行動を支配する「一般化されたオームの法則」との連立方程式の形に整理することが出来る。この方程式系はそれ自身、プラズマの解析に極めて有用であるが、さらにいくつかの性質のよく分かった近似を導入すると再び MHD の方程式系が得られ、MHD に含まれる近似の意味の解明にも役立つ。",
"title": "プラズマを記述する方程式系"
},
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "流体的記述ではプラズマを構成する粒子は局所熱平衡にあると仮定されているが、現実のプラズマでは平衡に至る緩和過程よりタイムスケールの速い現象、つまり局所熱平衡から大きく外れ速度分布関数のマクスウェル分布からのずれが本質的に重要な現象が多い。そこで速度分布関数の変化を記述する運動論的方程式をマクスウェル方程式と組み合わせて使う。",
"title": "プラズマを記述する方程式系"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "一般にはイオンと電子とのそれぞれに運動方程式を立ててマクスウェル方程式と連立させるが、現象によっては問題の特性に従って一方にはずっと簡単化したモデルを使うことも多い。例えばプラズマ振動ではイオンはその速い時間変化に追随出来ないので背景をなす一様な電荷分布と見なし、電子のみを運動論的方程式で扱う。",
"title": "プラズマを記述する方程式系"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "プラズマは弱結合粒子系であるから、運動論的方程式の衝突項を0とおいた無衝突ボルツマン方程式とマクスウェル方程式を連立させたブラソフ方程式がプラズマを記述するのにもっとも適した方程式である。それに粒子間衝突の効果を取り入れるには、問題に応じて簡単な緩和型衝突項から精緻なボルツマン方程式までいろいろな近似の衝突項をもつ運動論的方程式を用いる。プラズマでは粒子間の分子間力がクーロン力であることを生かして近似したいくつかの衝突項が使われているので、それらに関しては別項目をたてて記述する予定である。",
"title": "プラズマを記述する方程式系"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "プラズマの見方には、それを荷電粒子の集まりと考える見方とともに、それを波動を伝える連続媒質と考える見方が極めて有用である。そして一様定常なプラズマの連続媒質としての性質は誘電率と呼ばれるただ一つのテンソル量によって特徴付けられる。",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "定義",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "プラズマ中に電場 E ( r , t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}}({\\boldsymbol {r}},t)} とともにそこに誘起されたプラズマ電流 j p ( r , t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {j}}_{p}({\\boldsymbol {r}},t)} があるとして、電束密度 D ( r , t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {D}}({\\boldsymbol {r}},t)} を",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "∂ D ∂ t = ε 0 ∂ E ∂ t + j p ( r , t ) {\\displaystyle {\\frac {\\partial {\\boldsymbol {D}}}{\\partial t}}=\\varepsilon _{0}{\\frac {\\partial {\\boldsymbol {E}}}{\\partial t}}+{\\boldsymbol {j}}_{p}({\\boldsymbol {r}},t)}",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "で定義する。そして正弦波形の波動を表すのに複素数表示を用い、これらの物理量はすべて単色平面波:",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "E ( r , t ) = E ( k , ω ) e i ( k ⋅ r − ω t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}}({\\boldsymbol {r}},t)={\\boldsymbol {E}}({\\boldsymbol {k}},\\omega )e^{i({\\boldsymbol {k}}\\cdot {\\boldsymbol {r}}-\\omega t)}} :(*)",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "の形をしているとする。すると線形理論の範囲内で",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "D ( k , ω ) = ε ^ ( k , ω ) ⋅ E ( k , ω ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {D}}({\\boldsymbol {k}},\\omega )={\\hat {\\varepsilon }}({\\boldsymbol {k}},\\omega )\\cdot {\\boldsymbol {E}}({\\boldsymbol {k}},\\omega )}",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "と書くことが出来る。ここで ε ^ ( k , ω ) {\\displaystyle {\\hat {\\varepsilon }}({\\boldsymbol {k}},\\omega )} がプラズマの誘電率である。",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "誘電率テンソル",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "磁場中プラズマでは磁場による異方性のため、誘電率はテンソルになる。そしてそのテンソルは、考えている体系が磁場方向を軸として回転対称であるおかげで、次のような特殊な形をしていることが示される。",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ε ^ ( k , ω ) = ( ε ⊥ ( k , ω ) − ε T ( k , ω ) 0 ε T ( k , ω ) ε ⊥ ( k , ω ) 0 0 0 ε ‖ ( k , ω ) ) {\\displaystyle {\\hat {\\varepsilon }}({\\boldsymbol {k}},\\omega )={\\begin{pmatrix}\\varepsilon _{\\perp }({\\boldsymbol {k}},\\omega )&-\\varepsilon _{T}({\\boldsymbol {k}},\\omega )&0\\\\\\varepsilon _{T}({\\boldsymbol {k}},\\omega )&\\varepsilon _{\\perp }({\\boldsymbol {k}},\\omega )&0\\\\0&0&\\varepsilon _{\\|}({\\boldsymbol {k}},\\omega )\\end{pmatrix}}}",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ただし、ここでは磁場方向を z 方向とした。従ってこのテンソルの独立な成分は ε ⊥ ( k , ω ) , ε ‖ ( k , ω ) , ε T ( k , ω ) {\\displaystyle \\varepsilon _{\\perp }({\\boldsymbol {k}},\\omega ),\\varepsilon _{\\|}({\\boldsymbol {k}},\\omega ),\\varepsilon _{T}({\\boldsymbol {k}},\\omega )} の3つである。",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "なお一般に、磁場中プラズマではそこでの2つのベクトル量を結びつけるテンソルはすべてこの形をしている。次に述べる電気伝導度テンソルもその例の一つである。",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "計算法",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "誘電率 ε ^ ( k , ω ) {\\displaystyle {\\hat {\\varepsilon }}({\\boldsymbol {k}},\\omega )} を具体的に求めるには、まず上の形の電場を作用させた時にプラズマ中に流れる電子による電流を計算し、その係数 j e ( k , ω ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {j}}_{e}({\\boldsymbol {k}},\\omega )} から j e ( k , ω ) = σ ^ e ( k , ω ) ⋅ E ( k , ω ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {j}}_{e}({\\boldsymbol {k}},\\omega )={\\hat {\\sigma }}_{e}({\\boldsymbol {k}},\\omega )\\cdot {\\boldsymbol {E}}({\\boldsymbol {k}},\\omega )} で表される電気伝導度の電子成分 σ ^ e {\\displaystyle {\\hat {\\sigma }}_{e}} を求める。そして同様にして電気伝導度のイオン成分 σ ^ i {\\displaystyle {\\hat {\\sigma }}_{i}} を求める。すると誘電率は",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ε ^ ( k , ω ) = ε 0 1 ^ + i ω σ ^ e ( k , ω ) + i ω σ ^ i ( k , ω ) {\\displaystyle {\\hat {\\varepsilon }}({\\boldsymbol {k}},\\omega )=\\varepsilon _{0}{\\hat {\\boldsymbol {1}}}+{\\frac {i}{\\omega }}{\\hat {\\sigma }}_{e}({\\boldsymbol {k}},\\omega )+{\\frac {i}{\\omega }}{\\hat {\\sigma }}_{i}({\\boldsymbol {k}},\\omega )}",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "と求まる(ここで 1 ^ {\\displaystyle {\\hat {1}}} は単位テンソルを表す)。その際、電流を求めるために使用した方程式系の近似の程度により、その近似に従った誘電率が得られる。",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "分散",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "誘電率が ω {\\displaystyle \\omega } に依存するのは、電流を形成する荷電粒子が過去に経験した電場の履歴を憶えていて、それが現在の電流にも影響するために起きる現象である。これは通常の誘電体にもあり、光の色の分散を引き起こすもととなる性質なので、単に「分散(dispersion)」、あるいは「時間分散(temporal dispersion)」 と呼ばれる。 それに対して誘電率が k {\\displaystyle {\\boldsymbol {k}}} に依存する現象は、荷電粒子が他の場所での電場を経験してやってくるために起こる現象なので固体誘電体には存在せず、プラズマに特徴的な性質である。これを「空間分散(spatial dispersion)」という。",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "誘電率の縦成分",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ε l ( k , ω ) = k ⋅ ε ^ ( k , ω ) ⋅ k / k 2 {\\displaystyle \\varepsilon _{\\ell }({\\boldsymbol {k}},\\omega )={\\boldsymbol {k}}\\cdot {\\hat {\\varepsilon }}({\\boldsymbol {k}},\\omega )\\cdot {\\boldsymbol {k}}/k^{2}}",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "というスカラー量を誘電率の縦成分と言う。これは比較的簡単な形に得られ、いろいろな局面で現れる重要な量である。とくに ω = 0 {\\displaystyle \\omega =0} の場合には簡単になって",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ε l ( k , 0 ) = ε 0 ( 1 + k D 2 k 2 ) {\\displaystyle \\varepsilon _{\\ell }({\\boldsymbol {k}},0)=\\varepsilon _{0}(1+{\\frac {k_{D}^{2}}{k^{2}}})}",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "となり、これはプラズマ中のデバイ遮蔽の効果を表す。ここで k D {\\displaystyle k_{D}} はデバイ波数(デバイの長さの逆数)である。実際、静止点電荷q の周りのポテンシャルを 誘電体中の電磁場のマクスウェル方程式の一つ d i v D = q δ ( r ) {\\displaystyle div{\\boldsymbol {D}}=q\\delta ({\\boldsymbol {r}})} からフーリエ変換を用いて求めるときには、計算の途中にこの: ε l ( k , 0 ) {\\displaystyle \\varepsilon _{\\ell }({\\boldsymbol {k}},0)} が現れ、最終的にはデバイ-ヒュッケルのポテンシャルが得られる。このようにして、誘電率がプラズマの連続媒質としての性質を的確に表現していることが分かる。",
"title": "プラズマの誘電率"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "磁場中プラズマでは多種多様な波動が存在する。それを調べるにはまず振動数 ω {\\displaystyle \\omega } と波数 k {\\displaystyle {\\boldsymbol {k}}} との関係を表す分散式 ω = ω ( k ) {\\displaystyle \\omega =\\omega ({\\boldsymbol {k}})} を知ることが基本になる。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "一様定常なプラズマを考える。すべての変動量は上で触れた単色平面波の形をしているとして、外部電流、電荷を持たないマクスウェル方程式から磁場を消去すると、次の式が得られる。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "k × ( k × E ) + ω 2 μ ε ^ ( k , ω ) ⋅ E = 0 {\\displaystyle {\\boldsymbol {k}}\\times ({\\boldsymbol {k}}\\times {\\boldsymbol {E}})+\\omega ^{2}\\mu {\\hat {\\varepsilon }}({\\boldsymbol {k}},\\omega )\\cdot {\\boldsymbol {E}}=0}",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "これを成分に分けて書き下すと、電場 E {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}}} の3つの成分 E x , E y , E z {\\displaystyle E_{x},E_{y},E_{z}} に関する3元1次斉次連立方程式になる。従って波が存在する、すなわち斉次連立方程式が 0 でない解をもつためには、その係数から作られる3次の行列式 G ( k , ω ) {\\displaystyle G({\\boldsymbol {k}},\\omega )} が 0 にならなければならない。すなわち",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "G ( k , ω ) = 0 {\\displaystyle G({\\boldsymbol {k}},\\omega )=0}",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "これが分散関係( dispersion relation )で、これを解くことにより、分散式が定まる。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "プラズマ中の波動の振舞いには外から加えた静磁場が大きく影響する。そして一様定常なプラズマに限っても、一般の方向に進む波の振舞いは極めて複雑であるが、外部磁場に平行に伝わる波に限定すると、縦波と横波とがはっきり分離して、ある程度分かり易い扱いが出来る。そして一般の方向に進む波はその知識を基礎にして考える。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "縦波",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "外部磁場方向に進む縦波では荷電粒子の波に関連した動きは磁場の影響を受けないので、外部磁場のない場合と同様になる。この場合、縦波には電子だけが関与する高周波のプラズマ振動と、イオンの動きが主体の低周波波動イオン音波との2つのモードがある。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "プラズマ振動は電子密度の変動により生ずる電場を復元力として発生し、その振動数 ω {\\displaystyle \\omega } はプラズマ振動数 ω p {\\displaystyle \\omega _{p}} にほぼ等しい。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "一方、イオン音波は T e ≫ T i {\\displaystyle T_{e}\\gg \\ T_{i}} の条件のもとでのみ定常に存在し、電子の圧力を復元力とするイオン流体中の音波であって、その速度は γ e T e / m i {\\displaystyle {\\sqrt {\\gamma _{e}T_{e}/m_{i}}}} で与えられる。ここで γ e {\\displaystyle \\gamma _{e}} は電子流体の比熱比である。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "横波",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "外部磁場方向に進む横波は電子およびイオンの旋回運動と結合するのでさらに複雑に振る舞う。まず、横波は一般に電場ベクトルの方向が円周上に回る2つの円偏波の波に分解され、イオンの旋回と同方向に回る左円偏波の波と、電子と同方向に回る右円偏波の波とに分類される。そして波は単色平面波(*)の形をしているとし、波数ベクトル k {\\displaystyle {\\boldsymbol {k}}} が向きまで含めて磁場方向に向いているとすると、、 ω < 0 {\\displaystyle \\omega <0} を満たす ω {\\displaystyle \\omega } は右円偏波の波を、 ω > 0 {\\displaystyle \\omega >0} を満たす ω {\\displaystyle \\omega } は左円偏波の波を表す。 そして、通常成立する条件 ω p ≫ Ω e {\\displaystyle \\omega _{p}\\gg \\Omega _{e}} ( Ω e , Ω i {\\displaystyle \\Omega _{e},\\ \\Omega _{i}} はそれぞれ電子とイオンのサイクロトロン振動数)のもとでは、 − ω p < ω < − Ω e {\\displaystyle -\\omega _{p}<\\omega <-\\Omega _{e}} を満たす ω {\\displaystyle \\omega } の範囲と、 Ω i < ω < ω p {\\displaystyle \\Omega _{i}<\\omega <\\omega _{p}} を満たす範囲には磁場方向に進む横波は存在しない。かくして横波は ω < − ω p , − Ω e < ω < Ω i , ω p < ω {\\displaystyle \\omega <-\\omega _{p},\\ -\\Omega _{e}<\\omega <\\Omega _{i},\\ \\omega _{p}<\\omega } の3つの領域に分かれて存在する。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "まず、低周波の領域で、 | ω | ≪ Ω i {\\displaystyle |\\omega |\\ll \\Omega _{i}} を満たす波はアルヴェーン波である。アルヴェーン波では荷電粒子の旋回運動との結合がないので右円偏波と左円偏波の区別はなく、これを互いに直交する2つの直線偏波の波に分解しても考えてもよい。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "左円偏波の波の周波数が上がって Ω i {\\displaystyle \\Omega _{i}} に近づくと、波数によらず周波数がほぼ一定、 ω ≈ Ω i {\\displaystyle \\omega \\thickapprox \\Omega _{i}} の波になる。これをイオン・サイクロトロン波( ion cyclotron wave )と呼び、核融合プラズマの加熱などに用いられる。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "一方、右円偏波の波では周波数が大きくなって Ω i < | ω | ≪ Ω e {\\displaystyle \\Omega _{i}<|\\omega |\\ll \\Omega _{e}} の領域に入る波を、ホイスラー波( Whistler wave)と言う。これは南半球で発生した雷の信号を地磁気の磁力線に沿ってホイスル(笛)状の雑音として北半球にまで伝える波として有名である。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "高周波の領域 | ω | > ω p {\\displaystyle |\\omega |>\\omega _{p}} の波は電磁波である。ただし、荷電粒子の旋回運動と結合して多少修正されるが、 | ω | {\\displaystyle |\\omega |} が十分大きい領域では荷電粒子は電場の変化に追随できなくなるので、限りなく真空中の電磁波に近くなる。他方、周波数が小さくなると変位電流と打ち消す方向にプラズマ電流が流れ始め、 | ω | = ω p {\\displaystyle |\\omega |=\\omega _{p}} となると完全に打ち消して波は伝播しなくなる。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "磁場によるプラズマの閉じ込めではプラズマ境界に必ず密度勾配が存在する。密度勾配があるとプラズマ中の波動はいろいろな影響を受けるが、なかでももっとも著しいのは、一様なプラズマには存在しない波が密度勾配が原因で現れることである。それはプラズマ中の荷電粒子のドリフトと密接に結びついているので、ドリフト波( drift wave )と呼ばれる。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "外部磁場の方向をz方向にとり、密度 n 0 {\\displaystyle n_{0}} がーx方向に勾配を持つとし、その勾配の大きさを",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "κ = − 1 n 0 d n 0 d x {\\displaystyle \\kappa =-{\\frac {1}{n_{0}}}{\\frac {dn_{0}}{dx}}}",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "とおくと、y方向に波数 k y {\\displaystyle k_{y}} で進むドリフト波の振動数 ω {\\displaystyle \\omega } は ω = ω ∗ {\\displaystyle \\omega =\\omega _{*}} で与えられる。ここで ω ∗ {\\displaystyle \\omega _{*}} は",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "ω ∗ = T e e B 0 k y κ {\\displaystyle \\omega _{*}={\\frac {T_{e}}{eB_{0}}}k_{y}\\kappa }",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "であって、ドリフト振動数(drift frequency )と呼ばれる。",
"title": "プラズマ中の波動"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "ドリフト波はイオンの旋回運動と結びついてドリフト・サイクロトロン波を形成したりしていろいろな波を派生し、不安定になりやすい。そしてプラズマの磁場閉じ込めを妨げるもっとも危険な要因の一つとして深く研究され、現在ではいろいろな方法を組み合わせてその危険をほぼ取り除く見通しが得られている。",
"title": "プラズマ中の波動"
}
] | プラズマ物理(プラズマぶつり)では、プラズマを理解するのに有用なもろもろの物理的概念を解説する。プラズマの全般的解説については項目プラズマを参照。 | {{No footnotes|date=2023年12月}}
'''プラズマ物理'''(プラズマぶつり)では、プラズマを理解するのに有用なもろもろの物理的概念を解説する。プラズマの全般的解説については項目[[プラズマ]]を参照。
== 歴史 ==
[[真空]]中の放電現象は18世紀に着目されていたが、その後しばらく忘れられていた。1835年ごろ、[[マイケル・ファラデー]]が再び[[真空放電]]に注目し、それを安定に実現した放電管内の現象を詳しく観察して、グロー、陽光柱などとともに'''ファラデー暗部'''と呼ばれる構造を見いだした。真空放電の研究はその後、[[ウィリアム・クルックス]]などによって大きく発展し、[[電子]]の発見への寄与を始めとして、現代物理学の成立に貢献した。
放電によって生成された[[プラズマ]]自体の研究は1920年代の[[アーヴィング・ラングミュア]]に始まる。ラングミュアは1922年から約10年間、気体中の放電現象を研究し、その間に'''ラングミュア探針'''を開発してプラズマの基本量(密度、温度)の測定手段を確立し、[[プラズマ振動]]を発見してその機構を解明する、などの大きな成果をあげ、いわゆる'''プラズマ物理学'''を創始した。1928年には放電によって発生した電離した気体に初めて「プラズマ」という名前を与えた。
プラズマ物理学の進展にとって、'''ブラソフ方程式''' (Vlasov equation) の確立が重要である。ブラソフは1945年、プラズマ振動などの現象では個々の[[荷電粒子]]間の衝突は無視出来ることを論証し、衝突項を0と置いた[[運動論的方程式]](無衝突ボルツマン方程式)と電磁場の[[マクスウェル方程式]]を組み合わせた[[方程式]]系でプラズマ振動を記述した。この方程式系は[[運動論的方程式|ブラソフ方程式]]と呼ばれ、プラズマの特性にもっとも適合した方程式として広く用いられている。
ついで1946年に[[レフ・ランダウ]]はブラソフの扱いを改良し、ブラソフ方程式を[[ラプラス変換]]を用いて解く手法を編み出した。その結果、プラズマ振動には'''ランダウ減衰'''と呼ばれる現象があることを示した。このランダウの手法はこんにちのプラズマ理論のもっとも基本的手法として定着している。
プラズマの研究は1950年代から大きく加速した。その原動力は[[エネルギー]]源としての[[熱核融合]]の研究と[[宇宙空間物理学]]の進展である。[[熱核融合]]研究は1950年代初頭に始まり、世界的協力のもとで行われてきたが、最近になって熱核融合に必要な条件(1億 ℃ の温度、[[粒子]][[密度]] 10<sup>20</sup>m<sup>−3</sup>)を満たす核融合プラズマが生成されて科学的実証が達成された。そして、次の段階の「システムとしての核融合炉」が実現可能であることを示す[[工学]]的実証を目的として、2005年、国際熱核融合実験炉 ([[ITER]]) を[[フランス]]に建設することが決まった。
一方、宇宙空間物理学においては、[[ロケット]]や[[人工衛星]]による探査の進展とともに地球外の空間ではプラズマが極めて重要な役割を演じていることが解ってきて、プラズマの[[巨視的|マクロ]]な行動を記述する[[磁気流体力学]]が発達し、地球磁気圏の構造の解明などの大きな成果をあげた。
1970年に宇宙空間プラズマの研究者である[[ハンス・アルヴェーン]]が「[[電磁流体力学]]の基礎研究、プラズマ物理学への応用」によって[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。
そのほかプラズマは、[[プラズマディスプレイ]]を始めとする数多くの応用によって、日常生活にも密接にかかわってきている。
== プラズマの種類 ==
気体の温度を上げて行くと構成する中性分子が電離してプラズマになる。この際、固体、液体、気体間の[[相転移]]とは異なって、気体からプラズマへの転移は徐々に起こり、[[電離度]]が非常に低くて構成分子の1%が電離しただけでも充分にプラズマの性質を示す。そのためプラズマは「物質の第四態」といっても、それは物質の三態とは大分異なった意味合いを持っている。
電離度は[[サハの電離公式]]によって評価される。電離度が低く、中性分子が大部分を占めるプラズマを'''弱電離プラズマ''' (weakly ionized plasma)、もしくは'''低温プラズマ''' (cold plasma) という。身近なプラズマは大部分がこれに属する。[[イオン]]と電子とでは質量が極端に違っていて衝突してもエネルギー交換が起こりにくいので、弱電離プラズマではイオンと電子とが別々の温度をもつのが普通である。そしてイオン温度は室温に近く、電子温度は数千度であることが多い。
温度をさらに上げるとついには中性分子がすべて電離し、イオンと電子だけで構成されるプラズマになる。この状態のプラズマを'''完全電離プラズマ''' (fully ionized plasma)、もしくは'''高温プラズマ''' (hot plasma) と言う。このとき電子温度は数万度以上になり、イオン温度もそれなりに高くなっている。熱核融合炉をつくる研究では燃料である重水素イオンに核融合反応を起こさせるため、イオン温度を10keV(1億度)程度にまで上げる。この状態のプラズマを核融合プラズマということもある。
その他 通常のプラズマの定義からは外れるが、その延長として研究されているものに次のものがある。
;ダストプラズマ
:中に多数のμm程度の巨視的大きさをもった微粒子(ダスト)を浮かべたプラズマがあり、これを[[ダストプラズマ]] (dusty plasma)、もしくは'''微粒子プラズマ'''という。そこではこれらの微粒子が多数の電子を付着して大きな負の電気を帯び、微粒子系に着目するとそれが強結合系になって[[自己組織化]]などの興味深い現象をひきおこしたりするので、近年 注目されて盛んに研究されている。記事[[ダストプラズマ]]を参照。
;非中性プラズマ
:ミラー閉じ込めの原理を用いた荷電粒子の磁場閉じ込めにより、電気的中性から大きく外れたプラズマを、極端な場合には電子だけを蓄積して閉じ込めることができる。このようなプラズマを'''非中性プラズマ'''という。
;固体プラズマ
:[[半導体]]中の伝導電子と空孔もプラズマ中の電子とイオンとに似た振る舞いをして、プラズマ振動を起こしたりする。この観点で見たとき、それを'''固体プラズマ'''と呼ぶ。
== プラズマの要件 ==
プラズマはイオンと電子との混合物で電気的に中性な物質である。それが真にプラズマらしく振る舞うには次の3つの要件を満たさなければならない。
#その物質系の大きさ ''L'' が[[デバイの長さ]] λ<sub>D</sub> より充分大きくなければならない。すなわち ''L'' ≫ λ<sub>D</sub>。
#考えている現象の時間スケール ''t'' が[[プラズマ振動]]の周期よりも長くなければならない。すなわち ''t'' ≧ 1/ω<sub>pe</sub>。
#半径が λ<sub>D</sub> の球の中の粒子数 Λ が充分大きくなければならない。すなわち Λ ≫ 1。Λ を'''プラズマ・パラメタ'''という。
これらの要件の意味は次の通りである。
;デバイの長さ
:[[デバイの長さ]] λ<sub>D</sub> はプラズマ中で電場が遮蔽される現象(デバイ遮蔽)の特徴的な長さであり、λ<sub>D</sub> より小さい領域では電気的中性が保証されない。従って、考えている物質系がプラズマとして振る舞うためには、その空間的大きさ '' L '' が λ<sub>D</sub> よりも充分に大きくなくてはならない。すなわち要件1が必要である。
:特に容器に入ったプラズマはその容器壁との境界に λ<sub>D</sub> の厚さのシースと呼ばれる非中性領域が出来るから、これはシース部分を除くプラズマ本体が充分な大きさをもつことを意味する。
;プラズマ振動数
:(電子)プラズマ振動数 ω<sub>pe</sub> は[[プラズマ振動]]の固有振動数で、その逆数 1/ω<sub>pe</sub> は電気的中性が破れたとき、電子がそれに反応して中性を取り戻すのに必要な時間を表す。そこでこれより短い時間内では電気的中性が保証されず、プラズマらしく振る舞わない。従って、イオンと電子との混合物がプラズマとして振る舞うためには、考えている現象の時間スケール ''t'' が要件2を満たして充分に大きいことが必要である。
;プラズマ・パラメタ
:要件3は次のように考える。すなわち半径 λ<sub>D</sub> の球の中の粒子数である[[プラズマ・パラメタ]] Λ の値が1の程度だと、実際には他の荷電粒子は時々やってきて[[クーロン力]]を及ぼして去るだけであり、沢山の粒子の協同作用であるデバイ遮蔽などが実質的意味を持たない。逆に Λ の値が充分に大きければ、荷電粒子は常に沢山の粒子と作用を及ぼしあっていて、全体としてプラズマらしくまとまって行動する。これが上の条件の意味である。
:この Λ ≫ 1 の条件はまた次の条件の各々と等価である。詳しくは項目[[プラズマ・パラメタ]]を参照。
:#粒子間相互作用のポテンシャルエネルギーの平均が粒子の運動エネルギーよりずっと小さい。一般に粒子間相互作用のポテンシャルエネルギーが運動エネルギーより小さい粒子系を弱結合系、逆に運動エネルギーより大きい粒子系を強結合系というが、Λ ≫ 1 はプラズマが弱結合系であることを意味する。
:#進行方向が大きく曲がる衝突に必要な近接距離 ''r''<sub>0</sub> がデバイ長さ Λ<sub>D</sub> より充分小さい。つまり粒子はデバイの長さより充分内側まで近づかないと衝突が起こらない。''r''<sub>0</sub> はその距離でのクーロンポテンシャルが熱運動エネルギー ''k''<sub>B</sub>''T'' と等しいとして得られ、''r''<sub>0</sub> = e<sup>2</sup>/(4πε<sub>0</sub>''k''<sub>B</sub>''T'') で与えられる。
:#粒子の衝突頻度 ν<sub>c</sub> がプラズマ振動数 ω<sub>pe</sub> よりも充分小さい。すなわちプラズマ中の電子を主体とする現象では粒子間の衝突は無視でき、プラズマは無衝突とみなせる。
== 代表的なプラズマの例 ==
=== エネルギー温度とその単位===
プラズマの理論では温度 ''T'' は常に[[ボルツマン定数]] ''k''<sub>B</sub> との積 ''k''<sub>B</sub>T の形で現れ、これはエネルギーの次元を持っていて、(3/2)''k''<sub>B</sub>''T'' は1粒子当たりの運動エネルギーを表す。そこで[[絶対温度]]の代わりにそのエネルギーを温度として用いると、その値は構成粒子の運動エネルギーと直接結びついていて非常に便利で、プラズマ物理ではもっぱらこの温度を用いる。単位として電子が1ボルトの電位差を通過して得られるエネルギーを用い、それを '''eV''' と書いて、[[電子ボルト]] (electron volt) と呼ぶ。[[絶対温度]]との間には 1 eV ≒ 1.16 × 10<sup>4</sup> K の関係があり、1 eV はおおよそ1万度と考えてよい。また場合に応じて keV (= 10<sup>3</sup>eV) などの単位を用いる。
この単位を用いると、たとえば水素のイオン化電圧は 13.6 V であるから、電離には[[マクスウェル分布]]の高速度側裾の電子が効率的に働くことと考え合わせて、電子温度 10 eV で水素プラズマが完全電離になることが素直に理解される。
=== 代表的なプラズマの例とその特性 ===
次に宇宙および地上のプラズマの代表的な例とその特性値をあげる。
{| class="wikitable" style="text-align: center"
|-
! style="line-height: 2" | 所在場所 || ''n'' (m<sup>−3</sup>) || ''T''<sub>e</sub> (eV) || ''T''<sub>i</sub> (eV) || λ<sub>D</sub> (m) || ω<sub>pe</sub> (s<sup>−1</sup>) || Λ || α
|-
! HII領域
| 10<sup>4</sup>–10<sup>10</sup> || ~1 || ~1 || 10<sup>2</sup>–10<sup>−1</sup> || 10<sup>4</sup>–10<sup>7</sup> || 10<sup>7</sup>–10<sup>10</sup> || ~1
|-
! 太陽コロナ
| 10<sup>14</sup> || 10<sup>2</sup> || 10<sup>2</sup> || 7×10<sup>−3</sup> || 5×10<sup>7</sup> || 10<sup>8</sup> || 1
|-
! 地球軌道付近
| 2–5×10<sup>6</sup> || 10 || 10 || 10 || 10<sup>5</sup> || 10<sup>10</sup> || 1
|-
! 電離層(F2層)
| 10<sup>12</sup> || ~0.1 || ~0.1 || 2×10<sup>−3</sup> || 6×10<sup>7</sup> || 10<sup>4</sup> || 10<sup>−3</sup>
|-
! 広告用ネオンサイン
| 5×10<sup>18</sup> || 2.5 || 0.15 || 5×10<sup>−6</sup> || 2×10<sup>10</sup> || 10<sup>3</sup> || 10<sup>−4</sup>
|-
! 小型定常放電装置
| 10<sup>16</sup>–10<sup>20</sup> || 1–5 || 0.1–5 || 5×10<sup>-3</sup>–10<sup>−6</sup> || 2×10<sup>9</sup>–10<sup>11</sup> || 10<sup>2</sup>–10<sup>5</sup> || 10<sup>−10</sup>–10<sup>−4</sup>
|-
! 核融合炉(DT反応)
| 10<sup>20</sup> || 10<sup>4</sup> || 10<sup>4</sup> || 10<sup>−4</sup> || 6×10<sup>11</sup> || 10<sup>8</sup> || 1
|}
ここで ''n'' は電子密度 (m<sup>−3</sup>)、''T''<sub>e</sub> は電子温度 (eV)、''T''<sub>i</sub> はイオン温度 (ev)、λ<sub>D</sub> は[[デバイの長さ]] (m)、ω<sub>pe</sub> は[[プラズマ振動]]数 (s<sup>−1</sup>)、Λ は[[プラズマ・パラメタ]]、α は[[電離度]]を表す。
存在場所で言えば、まず[[銀河系]]内で銀河面に近い場所は、星と星との間にも平均で 5×10<sup>5</sup>/m<sup>3</sup> 程度の密度の水素原子でみちているが、そのうちB1型星より高温の星の近所やガス星雲の内部ではこれらの原子が完全電離してプラズマ状態になっていて、HII領域と呼ばれ、よく研究されている。ちなみに HI は[[中性水素]]原子を表す。
次に[[太陽系]]内に戻ると、まず太陽[[コロナ]]はかなり高密度の完全電離プラズマからなる。その外側でも至る所に完全電離プラズマが存在するが、表には地球の公転軌道付近のプラズマの特性を挙げてある。
さらに地球に近づくと、よく知られた[[電離層]]がある。表では密度がもっとも大きいF2層(高さ 200–500km)についての値を挙げてある。このプラズマは完全電離ではなく、弱電離である。
地上ではプラズマはもっぱら人工的につくられる。よく知られた例は蛍光灯、広告用ネオンサインなどの放電管内のプラズマで、いずれも弱電離プラズマである。
実験室内の小型装置では、直流または交流の電場をかけ、気体内で放電を起こさせてプラズマをつくることが多い。ここではそのような小型放電装置でつくられるプラズマのおよそのパラメタ範囲を示してある。
一番下の核融合炉では[[重水素]] (D) と[[三重水素]](トリチウム、T)とを核融合させてエネルギーを得るに必要なプラズマの特性を挙げてある。これらの特性のプラズマはすでに作られている。究極的な核融合炉としては、弱放射性気体である三重水素を使わないD-D反応を用いた炉が望ましいが、それを達成するには密度とイオン温度をさらに上げて ''n'' = 10<sup>21</sup>/m<sup>3</sup>、''T''<sub>i</sub> = 3×10<sup>4</sup>eV 程度にする必要がある。
この表から分かるとおり、これらのプラズマはいずれもプラズマの3要件を充分に満たしている。
== 磁場中の荷電粒子の運動 ==
プラズマ中では荷電粒子に対する粒子間の個々の衝突の影響は小さく、荷電粒子の運動はまずは外から加えられた電磁場とプラズマ自身のつくり出す電磁場の作用により定まる。従ってプラズマの振舞いの理解には電磁場中での荷電粒子の行動を知ることが基本になる。ここではそのために有用ないくつかの概念について解説する。
=== 旋回運動 ===
一様定常な磁場中では荷電粒子は磁場と速度の双方に垂直な力、[[ローレンツ力]]を受けるので、磁場に垂直な方向に円運動する。その際イオンと電子では荷電の符号が逆なので、旋回の向きも逆になる。この運動を'''[[サイクロトロン]]運動'''ともいう。このように円運動する粒子の行動を調べるには、その円運動の中心を追うのが便利である。円運動の中心を'''旋回中心(gyration center)'''、もしくは'''案内中心(guiding center)'''と呼ぶ。
一方、粒子は磁場方向には力を受けないので旋回中心は1本の磁力線に沿って一定の速さで進む。従って粒子は磁力線に沿ってらせん形を描いて運動することになる。
一様定常な磁場 '''B''' の中の円運動の振動数 Ω は粒子の荷電を q (正負あり)、質量を m とすると
{{Indent|<math>\Omega = \frac{\left|q\right|B}{m}</math>}}
で与えられ、'''サイクロトロン振動数(cyclotron frequency)'''、もしくは'''ラーマー振動数(Larmor frequency)'''と呼ばれる。この値は質量の小さい電子の方がイオンのよりもはるかに大きい。
一方、円運動の半径 <math>a</math> は、粒子の磁場に垂直方向の速さを v<sub>⊥</sub> として、
{{Indent|<math>a = \frac{v_\perp}{\Omega} = \frac{mv_\perp}{\left|q\right|B}</math>}}
となり、これを'''旋回半径(gyration radius)'''、もしくは'''ラーマー半径(Larmor radius)'''という。その大きさは同じ温度ならばイオンの方が電子よりはるかに大きい。
実際の磁場中のプラズマでこれらの量の大きさを考えると、イオンと電子のいずれもサイクロトロン振動数は非常に大きく、旋回半径は非常に小さいことがわかり、どちらも磁力線に強く巻き付いて運動するという描像がよい近似で成り立つ。とくに電子はイオンよりはるかに小さい半径ではるかに速く旋回している。
=== ドリフト ===
磁場 '''B''' に垂直な電場 '''E''' がかかると、荷電粒子の円軌道の半分では加速されて旋回半径が大きくなって、旋回中心が粒子から遠ざかる。そして反対側へ来ると減速され、旋回半径が小さくなり、旋回中心が粒子に近づく。こうして旋回中心はいつでも減速側に動き、粒子自体も一方向に移動する。この磁場に垂直な旋回中心の移動を'''[[ドリフト (プラズマ物理学)|ドリフト]](drift)'''といい、その速度をドリフト速度という。粒子自身も磁場に垂直にはドリフト速度で移動する。この場合のドリフト速度 '''v'''<sub>d</sub> は
{{Indent|<math>\mathbf{v}_d = \frac{\mathbf{E}\times\mathbf{B}}{B^2}</math>}}
となり、荷電粒子の種類、速度に依存しないのがその特徴である。
この事柄は次のように理解される。静止系で磁場 '''B''' と電場 '''E''' とからなる電磁場がある場合は、速度 '''V''' で動く座標系で見ると '''E''' ' = '''E''' + '''V''' × '''B''' の電場があるように感じる。従ってドリフト速度 '''v'''<sub>d</sub> で動く座標系では粒子の感じる電場は '''E''' + '''v'''<sub>d</sub> × '''B''' = '''0''' となって、粒子はこの座標系では電場のない場合と同じ円運動をすることになり、もとの座標系でみると速度 '''v'''<sub>d</sub> でドリフトしていることになる。
電場以外の外力 '''f''' が働く場合にも '''E'''<sub>eff</sub> = '''f'''/q という実効的な電場に置き換えて考えればすぐにドリフト速度が求まる。重力などの場合はイオンと電子とではドリフト速度は大きく異なり、向きも反対である。
磁場の大きさが磁場自身と垂直方向に変化している場合も、同じように軌道のある部分と反対側では旋回半径の大きさが異なり、やはりドリフトが起こる。また磁力線が曲がっている場合はそこを通る粒子の遠心力もドリフトに寄与する。
さらに興味深いのは、磁場に垂直方向に粒子密度の勾配がある場合である。この時は粒子の旋回中心の移動は起こらない。しかし、ある一点でそこを通る粒子数を考えると、旋回中心が密度の高い側にある粒子の方が、低い側にある粒子よりも沢山通り、これらが打ち消し切らずに平均速度が残って、一方向に粒子の流れ速度を生ずる。これは'''密度勾配によるドリフト'''と呼ばれ、磁場で閉じ込められたプラズマの境界での性質を支配する重要な要素の一つである。
=== 磁気モーメント ===
磁場中の荷電粒子は磁力線の周りに円軌道を描いて旋回しているので、遠くからはそこに円電流があって、それに伴う磁気モーメントがあるように見える。その磁気モーメントは向きが磁場と逆方向のベクトルであって、その大きさ <math>\mu</math> は(電流の強さ)×(円の面積)で与えられるから、
{{Indent|<math> \mu = \frac{qv_\perp}{2\pi a}\pi a^2 = \frac{mv_\perp^2}{2B}=\frac{W_\perp}{B}</math>}}
となる。ここで<math>W_\perp = mv_\perp^2 /2</math> は磁場に垂直方向の運動エネルギーを表す。 こうして磁場中の荷電粒子の旋回中心は、質量 m 、電荷 q とともに磁気モーメント<math>\boldsymbol{\mu}</math> をもつ粒子のように振る舞い、非一様磁場 '''B''' の中では <math> \mathbf{f} = \nabla \left( \boldsymbol{\mu}\mathbf{B}\right)</math> の力を受ける。
磁気モーメントはその大きさ<math> \mu </math> が[[断熱不変量]]であること、つまり外部パラメータが時間的にゆっくり変化しても <math> \mu </math> が一定に保たれることで重要である。このため、荷電粒子が非一様磁場の中で移動すると磁場に垂直方向の運動エネルギー <math>W_\perp </math> はその場所での磁場の強さ ''B'' に比例して大きさを変える。これからミラー磁場による荷電粒子の閉じこめが次のように理解される。
=== ミラー磁場 ===
ほぼ直線状で両端で強く中央で弱い磁場をもつ磁場配位を考え、中央の一点に荷電粒子を置く。粒子は1本の磁力線に沿って移動するが、端に近づくと次第に強い磁場を感じるようになり、磁気モーメントが一定に保たれるため、垂直方向の運動エネルギー<math>W_\perp </math>が増加する。一方、静磁場中の荷電粒子は全エネルギーが一定に保たれるため、このことは粒子の磁場方向の運動エネルギー<math>W_\|</math> が減少することを意味する。そして条件によってはある点まで行くと<math>W_\perp </math>が全エネルギーと等しくなり、磁場方向の運動エネルギー<math>W_\|</math>が =0 となって粒子はそこで引き返す。こうして磁場の強い場所は荷電粒子を反射する性質をもつので、これを'''ミラー(mirror 、磁気鏡)'''と呼び、両端にミラーを持つ磁場配位は荷電粒子を中央部に閉じこめることが出来て、これを'''ミラー磁場(mirror field )'''という。ただし、閉じこめられる粒子は<math>W_\perp </math>が<math>W_\|</math>よりも最初からある程度大きいものだけに限られ、他はミラーを越えて外へ出ていく。 ミラー磁場による閉じこめ機構は核融合研究の進路の一つである'''ミラー閉じこめ'''の基本原理である。
== プラズマを記述する方程式系 ==
プラズマは荷電粒子群と電磁場が密接に絡み合った系であるから、荷電粒子の運動を記述する方程式と電磁場を記述するマクスウェル方程式とを組み合わせて使うことが必要である。このうち、マクスウェル方程式は電磁場を正確に記述するが、荷電粒子群の運動を「正確に」記述する方程式はないから、状況に従って以下のようないろいろな近似の方程式を用いる。
=== 流体的記述 ===
プラズマは電導性の流体であるから、まず[[磁気流体力学]](MHD)の方程式系を使うことが出来る。特にトーラスによるプラズマの閉じこめなど、複雑な幾何学的配位の現象についてはまずは[[磁気流体力学|MHD]]による研究が主体になる。そこでの、プラズマの圧力、張力、ならびに流体と磁力線との凍り付きなどの概念は極めて有用である。
また、イオンと電子をそれぞれ独立した流体ととらえ、プラズマをイオン流体と電子流体との混合物と考えて、各々に流体力学的方程式を組み立て、イオンと電子の相互作用の項でその交渉を論ずる'''2流体モデル'''も極めて有用である。それによればイオンと電子の振る舞いをその特性に従って別々に考えることが出来、MHD よりも詳しい解析を行うことが出来る。
2流体モデルにおいてもイオンと電子で質量が極端に違うことを利用して、2つの方程式を組み合わせてプラズマ流体の運動を支配する「運動方程式」と電流の行動を支配する「一般化されたオームの法則」との連立方程式の形に整理することが出来る。この方程式系はそれ自身、プラズマの解析に極めて有用であるが、さらにいくつかの性質のよく分かった近似を導入すると再び MHD の方程式系が得られ、MHD に含まれる近似の意味の解明にも役立つ。
=== 運動論的記述 ===
流体的記述ではプラズマを構成する粒子は局所[[熱平衡]]にあると仮定されているが、現実のプラズマでは平衡に至る緩和過程よりタイムスケールの速い現象、つまり局所熱平衡から大きく外れ速度分布関数の[[マクスウェル分布]]からのずれが本質的に重要な現象が多い。そこで速度分布関数の変化を記述する[[運動論的方程式]]をマクスウェル方程式と組み合わせて使う。
一般にはイオンと電子とのそれぞれに運動方程式を立てて[[マクスウェル方程式]]と連立させるが、現象によっては問題の特性に従って一方にはずっと簡単化したモデルを使うことも多い。例えば[[プラズマ振動]]ではイオンはその速い時間変化に追随出来ないので背景をなす一様な電荷分布と見なし、電子のみを運動論的方程式で扱う。
プラズマは弱結合粒子系であるから、運動論的方程式の衝突項を0とおいた無衝突ボルツマン方程式とマクスウェル方程式を連立させた[[運動論的方程式|ブラソフ方程式]]がプラズマを記述するのにもっとも適した方程式である。それに粒子間衝突の効果を取り入れるには、問題に応じて簡単な緩和型衝突項から精緻な[[ボルツマン方程式]]までいろいろな近似の衝突項をもつ運動論的方程式を用いる。プラズマでは粒子間の分子間力が[[クーロン力]]であることを生かして近似したいくつかの衝突項が使われているので、それらに関しては別項目をたてて記述する予定である。
== プラズマの誘電率 ==
プラズマの見方には、それを荷電粒子の集まりと考える見方とともに、それを波動を伝える連続媒質と考える見方が極めて有用である。そして一様定常なプラズマの連続媒質としての性質は'''[[誘電率]]'''と呼ばれるただ一つのテンソル量によって特徴付けられる。
''' 定義 '''
プラズマ中に電場 <math> \boldsymbol{E}(\boldsymbol{r},t)</math> とともにそこに誘起されたプラズマ電流 <math> \boldsymbol{j}_p(\boldsymbol{r},t)</math>があるとして、[[電束密度]] <math> \boldsymbol{D}(\boldsymbol{r},t)</math> を
{{Indent|<math> \frac{ \partial \boldsymbol{D}}{\partial t} = \varepsilon_0 \frac{
\partial \boldsymbol{E}}{\partial t} + \boldsymbol{j}_p (\boldsymbol{r},t) </math>}}
で定義する。そして正弦波形の波動を表すのに複素数表示を用い、これらの物理量はすべて[[単色]][[平面波]]:
{{Indent|<math> \boldsymbol{E}(\boldsymbol{r},t) = \boldsymbol{E}(\boldsymbol{k},\omega) e^{i(\boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{r} - \omega t)} </math>:(*)}}
の形をしているとする。すると線形理論の範囲内で
{{Indent|<math> \boldsymbol{D}(\boldsymbol{k},\omega) = \hat{\varepsilon} (
\boldsymbol{k},\omega) \cdot \boldsymbol{E}(\boldsymbol{k},\omega)</math>}}
と書くことが出来る。ここで <math> \hat{\varepsilon}(\boldsymbol{k},\omega)</math> がプラズマの誘電率である。
''' 誘電率テンソル '''
磁場中プラズマでは磁場による異方性のため、誘電率はテンソルになる。そしてその[[テンソル]]は、考えている体系が磁場方向を軸として回転対称であるおかげで、次のような特殊な形をしていることが示される。
{{Indent|<math> \hat{\varepsilon} (\boldsymbol{k},\omega) =
\begin{pmatrix}
\varepsilon_\perp(\boldsymbol{k},\omega) & -\varepsilon_T(\boldsymbol{k},\omega) & 0 \\
\varepsilon_T(\boldsymbol{k},\omega) & \varepsilon_\perp(\boldsymbol{k},\omega) & 0 \\
0 & 0 & \varepsilon_\|(\boldsymbol{k},\omega)
\end{pmatrix}
</math>}}
ただし、ここでは磁場方向を ''z'' 方向とした。従ってこのテンソルの独立な成分は <math> \varepsilon_\perp(\boldsymbol{k},\omega), \varepsilon_\|(\boldsymbol{k},\omega), \varepsilon_T(\boldsymbol{k},\omega)</math> の3つである。
なお一般に、磁場中プラズマではそこでの2つのベクトル量を結びつけるテンソルはすべてこの形をしている。次に述べる電気伝導度テンソルもその例の一つである。
''' 計算法 '''
誘電率 <math>\hat{\varepsilon} (\boldsymbol{k},\omega) </math> を具体的に求めるには、まず上の形の電場を作用させた時にプラズマ中に流れる電子による電流を計算し、その係数 <math> \boldsymbol{j}_e (\boldsymbol{k},\omega)</math>から<math> \boldsymbol{j}_e (\boldsymbol{k},\omega) = \hat{\sigma}_e (\boldsymbol{k},\omega) \cdot \boldsymbol{E} (\boldsymbol{k},\omega) </math> で表される[[電気伝導度]]の電子成分 <math> \hat{\sigma}_e </math> を求める。そして同様にして電気伝導度のイオン成分 <math> \hat{\sigma}_i </math> を求める。すると誘電率は
{{Indent|<math> \hat{\varepsilon} (\boldsymbol{k},\omega) = \varepsilon_0 \hat{\boldsymbol{1}} + \frac {i}{\omega} \hat{\sigma}_e (\boldsymbol{k},\omega) + \frac {i}{\omega} \hat{\sigma}_i (\boldsymbol{k},\omega) </math>}}
と求まる(ここで <math> \hat{1} </math> は単位テンソルを表す)。その際、電流を求めるために使用した方程式系の近似の程度により、その近似に従った誘電率が得られる。
''' 分散 '''
誘電率が <math>\omega</math> に依存するのは、電流を形成する荷電粒子が過去に経験した電場の履歴を憶えていて、それが現在の電流にも影響するために起きる現象である。これは通常の誘電体にもあり、光の色の分散を引き起こすもととなる性質なので、単に「[[分散 (光学)|分散(dispersion)]]」、あるいは「'''時間分散'''(temporal dispersion)」 と呼ばれる。 それに対して誘電率が <math>\boldsymbol{k}</math> に依存する現象は、荷電粒子が他の場所での電場を経験してやってくるために起こる現象なので固体誘電体には存在せず、プラズマに特徴的な性質である。これを「'''空間分散'''(spatial dispersion)」という。
''' 誘電率の縦成分 '''
{{Indent|<math>\varepsilon_\ell (\boldsymbol{k},\omega) = \boldsymbol{k} \cdot \hat{\varepsilon}(\boldsymbol{k},\omega) \cdot \boldsymbol{k} / k^2 </math>}}
というスカラー量を'''誘電率の縦成分'''と言う。これは比較的簡単な形に得られ、いろいろな局面で現れる重要な量である。とくに<math> \omega = 0 </math> の場合には簡単になって
{{Indent|<math> \varepsilon_\ell (\boldsymbol{k},0) = \varepsilon_0 (1 + \frac{k_D^2}{k^2}) </math>}}
となり、これはプラズマ中の[[デバイの長さ|デバイ遮蔽]]の効果を表す。ここで <math> k_D </math> はデバイ波数([[デバイの長さ]]の逆数)である。実際、静止点電荷q の周りのポテンシャルを [[誘電体]]中の電磁場の[[マクスウェル方程式]]の一つ <math> div \boldsymbol{D} = q\delta (\boldsymbol{r})</math> から[[フーリエ変換]]を用いて求めるときには、計算の途中にこの:<math> \varepsilon_\ell (\boldsymbol{k},0)</math> が現れ、最終的には[[デバイの長さ|デバイ-ヒュッケルのポテンシャル]]が得られる。このようにして、誘電率がプラズマの連続媒質としての性質を的確に表現していることが分かる。
== プラズマ中の波動 ==
=== 分散関係 ===
磁場中プラズマでは多種多様な波動が存在する。それを調べるにはまず振動数 <math>\omega</math> と波数<math>\boldsymbol{k}</math> との関係を表す分散式 <math>\omega = \omega(\boldsymbol{k})</math> を知ることが基本になる。
一様定常なプラズマを考える。すべての変動量は上で触れた単色平面波の形をしているとして、外部電流、電荷を持たないマクスウェル方程式から磁場を消去すると、次の式が得られる。
{{Indent|<math> \boldsymbol{k}\times(\boldsymbol{k}\times\boldsymbol{E}) + \omega^2\mu\hat{\varepsilon}(\boldsymbol{k},\omega)\cdot\boldsymbol{E} =
0 </math>}}
これを成分に分けて書き下すと、電場 <math>\boldsymbol{E}</math> の3つの成分 <math> E_x,E_y,E_z </math> に関する3元1次斉次連立方程式になる。従って波が存在する、すなわち斉次連立方程式が 0 でない解をもつためには、その係数から作られる3次の行列式 <math> G(\boldsymbol{k},\omega)</math>が 0 にならなければならない。すなわち
{{Indent|<math> G(\boldsymbol{k},\omega) = 0 </math>}}
これが分散関係( dispersion relation )で、これを解くことにより、分散式が定まる。
=== 外部磁場に平行に伝わる波 ===
プラズマ中の波動の振舞いには外から加えた静磁場が大きく影響する。そして一様定常なプラズマに限っても、一般の方向に進む波の振舞いは極めて複雑であるが、外部磁場に平行に伝わる波に限定すると、縦波と横波とがはっきり分離して、ある程度分かり易い扱いが出来る。そして一般の方向に進む波はその知識を基礎にして考える。
''' 縦波 '''
外部磁場方向に進む縦波では荷電粒子の波に関連した動きは磁場の影響を受けないので、外部磁場のない場合と同様になる。この場合、縦波には電子だけが関与する高周波の[[プラズマ振動]]と、イオンの動きが主体の低周波波動[[イオン音波]]との2つのモードがある。
プラズマ振動は電子密度の変動により生ずる電場を復元力として発生し、その振動数<math>\omega</math>は[[プラズマ振動|プラズマ振動数]]<math>\omega_p</math>にほぼ等しい。
一方、イオン音波は<math>T_e \gg\ T_i</math>の条件のもとでのみ定常に存在し、電子の圧力を復元力とするイオン流体中の音波であって、その速度は<math>\sqrt{\gamma_eT_e/m_i}</math>で与えられる。ここで<math>\gamma_e</math> は電子流体の[[比熱比]]である。
''' 横波 '''
外部磁場方向に進む横波は電子およびイオンの旋回運動と結合するのでさらに複雑に振る舞う。まず、横波は一般に電場ベクトルの方向が円周上に回る2つの円[[偏波]]の波に分解され、イオンの旋回と同方向に回る左円偏波の波と、電子と同方向に回る右円偏波の波とに分類される。そして波は単色平面波(*)の形をしているとし、波数ベクトル <math>\boldsymbol{k}</math> が向きまで含めて磁場方向に向いているとすると、、<math>\omega < 0 </math> を満たす <math>\omega</math> は右円偏波の波を、<math>\omega > 0 </math> を満たす <math>\omega</math> は左円偏波の波を表す。
そして、通常成立する条件 <math> \omega_p\gg\Omega_e </math> (<math>\Omega_e,\ \Omega_i</math> はそれぞれ電子とイオンのサイクロトロン振動数)のもとでは、<math> -\omega_p < \omega < -\Omega_e </math> を満たす<math>\omega</math> の範囲と、<math> \Omega_i < \omega < \omega_p </math>
を満たす範囲には磁場方向に進む横波は存在しない。かくして横波は <math> \omega < -\omega_p,\ -\Omega_e < \omega < \Omega_i,\ \omega_p < \omega </math> の3つの領域に分かれて存在する。
まず、低周波の領域で、<math> |\omega| \ll \Omega_i </math> を満たす波は'''[[アルヴェーン波]]'''である。アルヴェーン波では荷電粒子の旋回運動との結合がないので右円偏波と左円偏波の区別はなく、これを互いに直交する2つの直線偏波の波に分解しても考えてもよい。
左円偏波の波の周波数が上がって <math>\Omega_i </math> に近づくと、波数によらず周波数がほぼ一定、<math> \omega \thickapprox \Omega_i </math> の波になる。これを'''イオン・サイクロトロン波'''( ion cyclotron wave )と呼び、核融合プラズマの加熱などに用いられる。
一方、右円偏波の波では周波数が大きくなって <math> \Omega_i < |\omega| \ll \Omega_e </math> の領域に入る波を、'''ホイスラー波'''( Whistler wave)と言う。これは南半球で発生した雷の信号を地磁気の磁力線に沿ってホイスル(笛)状の雑音として北半球にまで伝える波として有名である。
高周波の領域 <math>|\omega| > \omega_p </math> の波は'''[[電磁波]]'''である。ただし、荷電粒子の旋回運動と結合して多少修正されるが、<math>|\omega|</math> が十分大きい領域では荷電粒子は電場の変化に追随できなくなるので、限りなく真空中の電磁波に近くなる。他方、周波数が小さくなると変位電流と打ち消す方向にプラズマ電流が流れ始め、<math> |\omega| = \omega_p </math> となると完全に打ち消して波は伝播しなくなる。
=== ドリフト波 ===
磁場によるプラズマの閉じ込めではプラズマ境界に必ず密度勾配が存在する。密度勾配があるとプラズマ中の波動はいろいろな影響を受けるが、なかでももっとも著しいのは、一様なプラズマには存在しない波が密度勾配が原因で現れることである。それはプラズマ中の荷電粒子のドリフトと密接に結びついているので、'''ドリフト波'''( drift wave )と呼ばれる。
外部磁場の方向を''z''方向にとり、密度 <math> n_0 </math> がー''x''方向に勾配を持つとし、その勾配の大きさを
{{Indent|<math>\kappa = - \frac{1}{n_0} \frac{dn_0}{dx} </math>}}
とおくと、''y''方向に波数<math>k_y</math> で進むドリフト波の振動数 <math>\omega</math> は <math> \omega = \omega_*</math> で与えられる。ここで<math>\omega_*</math> は
{{Indent|<math> \omega_* = \frac{T_e}{eB_0}k_y\kappa </math>}}
であって、'''ドリフト振動数'''(drift frequency )と呼ばれる。
ドリフト波はイオンの旋回運動と結びついて'''ドリフト・サイクロトロン波'''を形成したりしていろいろな波を派生し、不安定になりやすい。そしてプラズマの磁場閉じ込めを妨げるもっとも危険な要因の一つとして深く研究され、現在ではいろいろな方法を組み合わせてその危険をほぼ取り除く見通しが得られている。
== 参考文献 ==
* シュピッツァー(他)『完全電離気体の物理:プラズマ物理入門』[[コロナ社]]、1963年。
* 水野幸雄『プラズマ物理学』[[共立出版]]、1984年。
* F.F.Chen『プラズマ物理入門』内田岱二郎訳、[[丸善]]、1977年。
== 外部リンク ==
* [https://wavesinplasmas.web.fc2.com/ 変態plasmanのプラズマ波動教室]
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9,228 | 北アメリカ | 北アメリカ(きたアメリカ、英: North America、西: América del Norte、仏: Amérique du Nord)または、北米(ほくべい)は、北半球にある大陸で、ほとんどが西半球に属している。北は北極海、東は大西洋、南東は南アメリカとカリブ海、西と南は太平洋に面している。グリーンランドは北アメリカプレート上にあるため、地理的には北米の一部に含まれる。
北アメリカ大陸とその周辺の、西インド諸島、グリーンランドやクイーンエリザベス諸島、バミューダ諸島といった島嶼からなる。南アメリカとの陸上の境界は、地峡が最も狭まったパナマ地峡である。ただし、地峡を越えて北アメリカ大陸と南アメリカ大陸にまたがる領土を持つパナマ共和国は、国ごとの統計では北アメリカに含める。このため、実質的な南北アメリカの境界は、パナマ地峡の南東にありパナマ・コロンビア間の国境をなしているダリエン地峡となっている。カリブ海諸島は、コロンビアのサンアンドレス島やリーワード・アンティル諸島、トリニダード・トバゴ諸島までの全域を北アメリカに含める(トリニダード・トバゴ諸島は地質学的には南アメリカ大陸と大陸棚が連続している)。
アメリカ合衆国領であるハワイは、オセアニア(より詳しくはポリネシア)であり北アメリカではないが、国ごとの統計ではアメリカ合衆国の一部として北アメリカに加算されることになる。
アジアとの境界はベーリング海峡である。ヨーロッパとの境界は、グリーンランドとアイスランドの間のデンマーク海峡である。
北アメリカの南部諸国を、北アメリカと南アメリカに挟まれた中部アメリカという地域とみなすことがある。その場合、北アメリカとは英語圏のアメリカ合衆国とカナダの2国だけを指し、アングロアメリカとほぼ同義となる。
北アメリカの大部分を占める北アメリカ大陸の地形を特徴づけるのは、大陸西部を南北に貫く大山脈、中央部に広がる大平原、そして東部のなだらかで低い山脈である。
西部大山脈のアメリカ本土とカナダ部分はロッキー山脈と呼ばれるが、その北と南にもそこから連続した山脈がそびえたつ。南に延びる山脈は、高度を下げつつ中央アメリカを縦断し、パナマ地峡の南にまで続く。ロッキー山脈は人口希薄であるが、中央アメリカの山脈部分は温暖な気候に恵まれ人口の集中する地域であり、アステカなどのメソアメリカ文明もこの高原上に栄えてきた。ロッキー山脈の西には、グレートベースンと呼ばれる乾燥した盆地が広がる。この盆地の北にはコロンビア高原、南にはコロラド高原が広がる。その西には太平洋に沿ってカスケード山脈、シエラネバダ山脈といった内陸山脈がそびえ、さらにその西には海岸山脈が走る。これらの海岸山脈はその名の通り太平洋のすぐそばにまで迫っている地域が多いが、海岸部に点在する低地にはロサンゼルスなどいくつかの大都市が存在する。ロッキー山脈以東には、グレートプレーンズと呼ばれる大平原が広がっている。この平原は西へ行くほど乾燥している。グレートプレーンズの東に広がるプレーリーは肥沃な草原地帯であり、コムギやトウモロコシといった穀物が盛んに栽培される穀倉地帯となっている。プレーリーの東側には北アメリカ最長の河川であるミシシッピ川が流れるが、この地方も基本的には平坦な地形である。ミシシッピ水系の北東には世界最大級の淡水湖群である五大湖がある。ミシシッピ川水系の東には東部の脊梁山脈であるアパラチア山脈が南北に延びるが、ロッキー山脈と比べて高度が低くややなだらかである。アパラチア山脈の東には大西洋との間に平地がひろがるが、この地方には世界経済の中心であるニューヨークをはじめ都市が点在し、人口稠密な産業地帯となっている。
北アメリカ大陸の南にはメキシコ湾やカリブ海といった内海が存在し、多数の島々が存在する。最大の島であるキューバをはじめ、イスパニョーラ島やプエルトリコ、ジャマイカといった大アンティル諸島には比較的大きな島々が多いが、その東に広がる小アンティル諸島は無数の小島が点在し、多くの島は島ひとつ、または数島を合わせただけで国家となっており、世界で最も小国家の密集する地域となっている。
気候的には太平洋岸の北部は西岸海洋性気候、中部は地中海性気候に属する。大陸北端はツンドラ気候、そこから北緯40度付近までの北部の広い範囲は冷帯湿潤気候に属する。西部内陸部の高原地帯は気候的には乾燥した地域が多く、大半がステップ気候、アリゾナやメキシコ北西部などには砂漠気候が広がる。アメリカ合衆国の北緯40度以南・西経100度以東は温暖湿潤気候となる。メキシコ中央高原は低緯度にあるものの標高が高いため温帯に属しているが、カリブ海諸島およびメキシコ南部・中央アメリカは熱帯気候に属する。
北アメリカは大きく分けて、北部と南部とに大別される。北部はアメリカ合衆国とカナダからなり、イギリス系移民を中心として開拓された国家であるためアングロアメリカと呼ばれる。これに対し、メキシコ以南の大陸南部やキューバは旧スペイン領であり、同じく旧スペイン・ポルトガル領だった南アメリカ大陸の諸国と合わせてラテンアメリカとよばれる。中央アメリカのベリーズや、カリブ海に浮かぶ諸国はイギリスなどほかの国の植民地から独立した国が多く厳密にはラテンアメリカには含まれないが、アングロアメリカの2国とも経済や文化面で差異が大きく、このためカリブ海諸国として一定のまとまりをもったうえで、ラテンアメリカ諸国と一括して扱われることが多い。
言語的にはインド・ヨーロッパ語族に属する話者が圧倒的に多く、先住のインディアンの話すアメリカ先住民諸語を話すものはわずかである。インド・ヨーロッパ語族のうち、アングロアメリカに属する北部のカナダとアメリカにおいては英語が公用語であり、日常生活においても圧倒的に使用される言語である。ただしこの両国は移民が多く、移民コミュニティの中においてはその移民の母国語が使用されることは珍しくない。また、カナダ東部のケベック州はフランス領のヌーベルフランス植民地の中心地としてフランス系移民が多数を占めていたことから、現代においてもフランス語が主に使用されているアングロアメリカで唯一の地域であり、ケベック最大の都市であるモントリオールはパリやブリュッセルに次ぐフランス語圏有数の都市となっている。中央アメリカ大陸部においては、旧イギリス領だったベリーズを除きすべての国がスペイン語を公用語としている。カリブ海地域は各国の植民地が入り乱れた地域であり、キューバやドミニカ共和国を中心としたスペイン語、ジャマイカやバハマ、小アンティル諸島の半分の国々で話される英語、その他宗主国によってフランス語やオランダ語などが使用される。
民族的には、アメリカおよびカナダにおいてはイギリス系が本来の主流であったが、ヨーロッパを中心に世界各国からの移民が長期にわたり押し寄せたことから、かなりの混淆が進んでいる。先住のインディアンはアメリカやカナダの各地に居留地を保有するが、人口的にはわずかな割合を占めるに過ぎない。また、アメリカの特に南部においてはヒスパニック系、および黒人の割合が高い。カナダはアメリカと同じくイギリス系を中心とした人々が大多数を占めるが、ケベック州だけはフランス系が大半を占めている。ケベック州は人口も多くよく開発された州であり、また英語を主とするカナダの他州との対立からケベック・ナショナリズムが盛んで独立運動がくすぶっており、過去数度独立を問う住民投票が行われたがいずれも否定された。中央アメリカにおいては、白人とインディオの混血であるメスティーソが多くの国で人口の過半を占める。インディオも、過去に大文明を築き上げていた中央アメリカの大陸部においては特に人口が多く、アングロアメリカよりもかなり多くのインディオが居住している。また、黒人は中央アメリカ大陸部にはあまり居住していないが、過去にサトウキビのプランテーションを運営するため大量に移住させられたカリブ海域においてはかなり多く、ハイチやジャマイカ、小アンティル諸島の多くの国のように、黒人が多数派を占めている国家も存在する。
北アメリカ大陸の中央部を占めるアメリカ合衆国は世界最大の大国であり、その北のカナダも産業的によく開発された豊かな国である。一方その南の中央アメリカやカリブ海諸国は、産業開発が進んでおらず貧しい国が大半である。
2011年センサスの数字
北アメリカ最大の都市は人口的にはメキシコシティであるが、経済・文化的には北アメリカ大陸の東岸中央部にあるニューヨークが最も重要な都市である。ニューヨークには国際連合本部をはじめ重要な国際機関がおかれているほか、世界の経済や文化に大きな影響を及ぼす都市であり、北アメリカのみならず世界で最も重要な都市のひとつである。アメリカ合衆国の東海岸北部には、このほかにもボストン、フィラデルフィア、ボルティモア、そして合衆国の首都ワシントンD.C.といった大都市が連続しており、ボスウォッシュとよばれるメガロポリスを形成している。このほかにも合衆国内には地域の中枢となる巨大都市が点在しており、中西部のシカゴ、南部のアトランタやマイアミ、テキサス州のヒューストンやダラス・フォートワース都市圏、西部のデンバー、西海岸のロサンゼルスやサンフランシスコ、シアトルなどが特に大きな都市である。カナダの大都市は国土の南部に集中しているが、もっとも人口の多い地域はオンタリオ州南東部からケベック州南部にかけての地域であり、カナダ最大の都市であるトロントと、それに次ぐ大都市であるモントリオールがこの地域に存在する。
カナダ太平洋岸の大都市はバンクーバーただ一つであり、カナダの西の玄関口となっている。カナダの肥沃な西部平原地方は平原の中に人口10万から50万程度の都市がいくつか点在するが、その中ではカルガリーが最も大きく、この地域の中心となりつつある。
北アメリカ地域では、最大の都市は上記のとおりメキシコの首都メキシコシティであり、メキシコの人口や富はここに集中している。しかしメキシコ国内ではこのほかにも、グアダラハラとモンテレイ、それにプエブラの3つの都市が人口100万人を超えている。この4つの都市はいずれも人口の集中するメキシコの中央高原に位置している。それに対し、海岸部にはカリブ海岸のベラクルスや太平洋岸のアカプルコなど重要な港湾都市は点在するものの、100万人を超えるような大都市は存在しない。
それより南の中央アメリカの小国群では、グアテマラの首都グアテマラシティとニカラグアの首都マナグアが人口100万人を超えて最も大きく、ホンジュラスの首都テグシガルパとパナマの首都パナマシティ、エルサルバドルの首都サンサルバドルがこれに次ぐ。カリブ海諸島では、キューバの首都ハバナとドミニカ共和国の首都サントドミンゴが人口200万人を超えており、ハイチの首都ポルトープランスも人口100万人を超える。
経済規模においてはアメリカ合衆国が他を圧倒しており、北アメリカの他の国をすべて合計してもアメリカの経済規模の半分にも遠く及ばない。アメリカは一人あたりの富においても北アメリカでもっとも豊かであるが、これに関してはカナダもアメリカとほぼ同じ数字を達成している。ただしカナダの産業地帯はアメリカ国境にほど近い地域に集中しており、両国間の経済交流も非常に盛んで、事実上経済地域としてはほぼ統合された状態にある。経済面でこの両国に次ぐ力を持つのはメキシコであるが、一人あたりの富においては両国には遠く及ばない。そのほか、中米地峡やカリブ海諸国のほとんどは経済的には中進国レベル、一部は発展途上国のレベルにあり、北部の2国との差は激しい。しかし、発展途上国のなかでも特に貧しい後発開発途上国に指定されているのはハイチ1国であり、その他の国は非常に貧しかったり経済が崩壊しているというわけではない。
アメリカおよびカナダは各種工業が発達しているほか、農業でも肥沃な農地と効率的な大規模農業によって生産性がきわめて高く、世界有数の食糧輸出国となっている。
アメリカとカナダの経済はほぼ統合された状態にあるが、それに加えて1992年には北アメリカ大陸南部最大の国家であるメキシコと、アメリカ、カナダの3か国が北米自由貿易協定(NAFTA)を結成して以降、メキシコの北部の各所にマキラドーラと呼ばれる保税加工区の建設が急速に進み、特にメキシコとアメリカ間の貿易が急伸した。
北アメリカにおけるヒトの定住は16,000年ほど前から始まったものと目されている。
北アメリカにおいて最も早く文明が成立したのは、現在のメキシコ中部においてであった。紀元前1250年ごろには最古の文明であるオルメカ文明が成立し、ついでメキシコ中央高原にはテオティワカンをはじめとする諸文明が、ユカタン半島にはマヤ文明が成立した。これらの文明は鉄器を持たず、青銅器も普及は遅れ利用も装飾にほぼ限定されたものの、トウモロコシをはじめとする多くの植物の栽培化をなしとげ、独自の高度な文明を作り上げていた。
1492年、クリストファー・コロンブスが現在のバハマの東端に近いサン・サルバドル島に上陸し(アメリカ大陸の発見)、以後数十年でスペインからやってきたコンキスタドールたちによって中央アメリカの高度な文明はすべて滅ぼされ、1521年には最大の先住民国家であったアステカ帝国もエルナン・コルテスによって滅亡した。また、ヨーロッパからの植民者たちは北アメリカで知られていなかった病原菌を持ち込み、このために北アメリカの先住民人口は激減した。16世紀の中ごろには、中部アメリカ大陸部のほとんどはスペインの植民地となっていた。一方カリブ海諸島においては17世紀以降、スペインの支配の合間を縫うようにイギリスやフランス、オランダなどが進出し、植民地を築いていった。
中央アメリカ地域に比べ、北アメリカ大陸北部への植民は遅れた。この地域で最初に永続的な植民地が開かれたのは1607年にイギリスによってジェームズタウンが建設された時である。ついで1620年にはメイフラワー号に乗ってやってきたピルグリム・ファーザーズたちがプリマスに入植し、やがて東海岸にはイギリスの13植民地が建設されることとなった。一方、その北のセントローレンス川河口にはフランスが進出し、1608年にケベックの街を建設して内陸にはいりこんでいき、ヌーベルフランス植民地を建設した。この植民地はセントローレンス川から五大湖・ミシシッピ川水系を通ってメキシコ湾にまで至る広大な植民地であったが、ケベック周辺を除き非常に人口は希薄であった。
やがて東海岸のイギリスとそれを囲むように広がるフランスの両植民地は衝突するようになり、100年以上断続的に衝突を繰り返したが、結局最後の北米植民地戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗し、1763年のパリ条約でフランスは北アメリカ大陸の植民地のほとんどをイギリスに譲渡することになった。しかし、この戦争の戦費によって財政難に陥ったイギリスは13植民地に様々な税を課すようになり、不満を持った植民地側は1775年に蜂起し、アメリカ独立戦争が勃発した。翌1776年にはアメリカ独立宣言が発表された。この戦争は植民地側の優位のまま進み、1783年にはパリ講和条約が締結されて、イギリスは13植民地の独立を認め、北アメリカ大陸最初の近代独立国家であるアメリカ合衆国が誕生した。ただしその北側に位置するカナダ植民地はイギリスのもとにとどまることを選択し、ここに北アメリカ大陸の旧英国領は南のアメリカ合衆国と北のカナダ植民地とに2分されることとなった。独立したアメリカはイギリス領だったミシシッピ川東岸を自国領としたが、さらに西へと進む動きを見せ、1803年にはフランスからミシシッピ川西岸にあたるルイジアナを買収して領土を2倍にした。アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンは1804年にメリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークに率いられた探検隊をミシシッピ西方へと派遣した。このルイス・クラーク探検隊はミズーリ川沿いに進んでロッキー山脈を抜け、太平洋に到達し、アメリカの西部進出の基盤を作ることとなった。
このアメリカ独立と、フランス革命に端を発する宗主国の混乱は、中央アメリカ各地域においても独立の動きをよびさました。最も早く独立へと動いたのは、カリブ海に浮かぶフランス領サン=ドマングである。サン=ドマングでは1791年にハイチ革命が勃発し、1804年には北アメリカ第2の独立国としてハイチが独立した。次いで1810年にはメキシコでもミゲル・イダルゴによってメキシコ独立革命が開始され、1821年にはメキシコが独立。さらにそこから1823年には中央アメリカ連邦共和国が独立し、スペインの勢力はカリブ海にうかぶ島々に限定されることとなった。
独立後すぐに、アメリカは西部への膨張を開始した。当初はアメリカ領だったミシシッピ川以東に限られていたが、上記ルイジアナ買収によってさらにアメリカの領土は西へと延伸し、移住者の波もそれに伴って徐々に西へと押し寄せた。重要だったのは1787年に制定された北西部土地条例で、これによって開拓地にできた準州は人口60000人を超えると州として連邦に加盟することが可能になり、西部の国土化に大きな役割を果たした。19世紀中ごろからは産業革命も開始され、さらに各国から続々と押し寄せる移民の波とそれを受け入れることの可能な西部の開拓地の存在によって、アメリカは急速に国力を増大させていった。こうしたアメリカの西進は、進行方向にあたる地域に領土を持っていたメキシコとの対立を呼び起こしたが、当時メキシコは国内の政情不安が続き、さらにアメリカと衝突するメキシコ北部においては人口も希薄で開発も進んでいなかったことから、この両国の対立は常にアメリカ有利で決着がついた。1836年にはメキシコ北端のコアウイラ・イ・テハス州においてアメリカ系移民が反乱を起こして独立し、テキサス共和国を建国。1845年に同国がアメリカに加盟したことで両国は衝突し、1846年には米墨戦争が勃発した。この戦いでアメリカは完勝し、1848年の講和によってメキシコから北部の広大な領土をもぎ取った。さらに1849年には、獲得したばかりのカリフォルニア州において金が発見され、カリフォルニア・ゴールドラッシュが起きて西部の開拓は飛躍的に進むこととなった。1869年には最初の大陸横断鉄道が開通して、アメリカの東西を結ぶ大動脈となった。
1860年代には、アメリカとメキシコにおいてそれぞれ大きな内乱が起きた。まず1861年にはアメリカにおいて、奴隷制の是非をめぐって北部と南部が対立し、南部がアメリカ連合国を建国して南北戦争が勃発した。次いで、この動乱を見たフランスがメキシコ出兵を決定し、メキシコシティを攻略して第2次メキシコ帝国を成立させた。この戦いはいずれもそれまでの中央政府(アメリカのエイブラハム・リンカーン政権・メキシコのベニート・フアレス政権)の勝利に終わり、両国の中央政府の支配力が強化されることとなった。また、アメリカの強大化は分離と統合を繰り返していた北側のイギリス領諸植民地の危機感を呼び覚まし、1867年にはこれらのうち4つの植民地が英領北アメリカ法を制定してカナダ自治領として統合した。このカナダ自治領にはこの地域にある他のイギリス植民地も続々と加入し、最終的には大陸北部のイギリス領はすべてカナダに統合された。
アメリカの経済成長はなおも続き、19世紀末には、アメリカの工業力はイギリスやドイツといったヨーロッパ列強諸国と肩を並べ抜き去るまでになっていた。1898年には米西戦争が起きてアメリカが勝利し、キューバが独立、プエルトリコがアメリカ領となってスペインは完全に新大陸での領土を喪失した。またこの時期からはアメリカ資本が中央アメリカ全域に進出するようになり、大農園を建設したユナイテッド・フルーツ社などの支配力が強まり、バナナ共和国という言葉に代表される中米諸国の経済的なアメリカへの従属化が進行した。メキシコにおいてはポルフィリオ・ディアス政権によって経済開発が進んだが、貧富の差の拡大や独裁に反感が高まり、1910年よりメキシコ革命が勃発した。また、1914年にはアメリカの手によってパナマ運河が建設され、太平洋と大西洋の海運距離が大幅に短縮した。
第一次世界大戦によってヨーロッパ諸国が経済的に疲弊すると、アメリカは世界最大の経済大国として世界経済をリードするようになり、第二次世界大戦によって政治・軍事的にも完全に世界をリードするようになった。一方、カリブ海・中央アメリカ諸国においては政情不安が続く国が多く、クーデターによって軍事政権が成立することも珍しくなかったが、政治・軍事的には完全にアメリカの強い影響下におかれるようになった。こうした中、1959年にキューバ革命が勃発し、フィデル・カストロに率いられた革命政権はソヴィエト連邦へと急速に接近。北アメリカに初の東側国家が誕生することになり、この地域に極度の緊張をもたらした。この緊張は1962年のキューバ危機によって最高潮に達し、以後やや緊張は緩んだものの両国の対立は21世紀に入っても続いた。1960年代から1980年代にかけては、カリブ海や小アンティル諸島に残っていたイギリス植民地が次々と独立し、とくに小アンティル諸島においては小国が乱立するようになった。 | [
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"text": "言語的にはインド・ヨーロッパ語族に属する話者が圧倒的に多く、先住のインディアンの話すアメリカ先住民諸語を話すものはわずかである。インド・ヨーロッパ語族のうち、アングロアメリカに属する北部のカナダとアメリカにおいては英語が公用語であり、日常生活においても圧倒的に使用される言語である。ただしこの両国は移民が多く、移民コミュニティの中においてはその移民の母国語が使用されることは珍しくない。また、カナダ東部のケベック州はフランス領のヌーベルフランス植民地の中心地としてフランス系移民が多数を占めていたことから、現代においてもフランス語が主に使用されているアングロアメリカで唯一の地域であり、ケベック最大の都市であるモントリオールはパリやブリュッセルに次ぐフランス語圏有数の都市となっている。中央アメリカ大陸部においては、旧イギリス領だったベリーズを除きすべての国がスペイン語を公用語としている。カリブ海地域は各国の植民地が入り乱れた地域であり、キューバやドミニカ共和国を中心としたスペイン語、ジャマイカやバハマ、小アンティル諸島の半分の国々で話される英語、その他宗主国によってフランス語やオランダ語などが使用される。",
"title": "人文"
},
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "民族的には、アメリカおよびカナダにおいてはイギリス系が本来の主流であったが、ヨーロッパを中心に世界各国からの移民が長期にわたり押し寄せたことから、かなりの混淆が進んでいる。先住のインディアンはアメリカやカナダの各地に居留地を保有するが、人口的にはわずかな割合を占めるに過ぎない。また、アメリカの特に南部においてはヒスパニック系、および黒人の割合が高い。カナダはアメリカと同じくイギリス系を中心とした人々が大多数を占めるが、ケベック州だけはフランス系が大半を占めている。ケベック州は人口も多くよく開発された州であり、また英語を主とするカナダの他州との対立からケベック・ナショナリズムが盛んで独立運動がくすぶっており、過去数度独立を問う住民投票が行われたがいずれも否定された。中央アメリカにおいては、白人とインディオの混血であるメスティーソが多くの国で人口の過半を占める。インディオも、過去に大文明を築き上げていた中央アメリカの大陸部においては特に人口が多く、アングロアメリカよりもかなり多くのインディオが居住している。また、黒人は中央アメリカ大陸部にはあまり居住していないが、過去にサトウキビのプランテーションを運営するため大量に移住させられたカリブ海域においてはかなり多く、ハイチやジャマイカ、小アンティル諸島の多くの国のように、黒人が多数派を占めている国家も存在する。",
"title": "人文"
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"text": "北アメリカ大陸の中央部を占めるアメリカ合衆国は世界最大の大国であり、その北のカナダも産業的によく開発された豊かな国である。一方その南の中央アメリカやカリブ海諸国は、産業開発が進んでおらず貧しい国が大半である。",
"title": "人文"
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"text": "2011年センサスの数字",
"title": "主要都市"
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"text": "北アメリカ最大の都市は人口的にはメキシコシティであるが、経済・文化的には北アメリカ大陸の東岸中央部にあるニューヨークが最も重要な都市である。ニューヨークには国際連合本部をはじめ重要な国際機関がおかれているほか、世界の経済や文化に大きな影響を及ぼす都市であり、北アメリカのみならず世界で最も重要な都市のひとつである。アメリカ合衆国の東海岸北部には、このほかにもボストン、フィラデルフィア、ボルティモア、そして合衆国の首都ワシントンD.C.といった大都市が連続しており、ボスウォッシュとよばれるメガロポリスを形成している。このほかにも合衆国内には地域の中枢となる巨大都市が点在しており、中西部のシカゴ、南部のアトランタやマイアミ、テキサス州のヒューストンやダラス・フォートワース都市圏、西部のデンバー、西海岸のロサンゼルスやサンフランシスコ、シアトルなどが特に大きな都市である。カナダの大都市は国土の南部に集中しているが、もっとも人口の多い地域はオンタリオ州南東部からケベック州南部にかけての地域であり、カナダ最大の都市であるトロントと、それに次ぐ大都市であるモントリオールがこの地域に存在する。",
"title": "主要都市"
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"text": "カナダ太平洋岸の大都市はバンクーバーただ一つであり、カナダの西の玄関口となっている。カナダの肥沃な西部平原地方は平原の中に人口10万から50万程度の都市がいくつか点在するが、その中ではカルガリーが最も大きく、この地域の中心となりつつある。",
"title": "主要都市"
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"text": "北アメリカ地域では、最大の都市は上記のとおりメキシコの首都メキシコシティであり、メキシコの人口や富はここに集中している。しかしメキシコ国内ではこのほかにも、グアダラハラとモンテレイ、それにプエブラの3つの都市が人口100万人を超えている。この4つの都市はいずれも人口の集中するメキシコの中央高原に位置している。それに対し、海岸部にはカリブ海岸のベラクルスや太平洋岸のアカプルコなど重要な港湾都市は点在するものの、100万人を超えるような大都市は存在しない。",
"title": "主要都市"
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"text": "それより南の中央アメリカの小国群では、グアテマラの首都グアテマラシティとニカラグアの首都マナグアが人口100万人を超えて最も大きく、ホンジュラスの首都テグシガルパとパナマの首都パナマシティ、エルサルバドルの首都サンサルバドルがこれに次ぐ。カリブ海諸島では、キューバの首都ハバナとドミニカ共和国の首都サントドミンゴが人口200万人を超えており、ハイチの首都ポルトープランスも人口100万人を超える。",
"title": "主要都市"
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"text": "経済規模においてはアメリカ合衆国が他を圧倒しており、北アメリカの他の国をすべて合計してもアメリカの経済規模の半分にも遠く及ばない。アメリカは一人あたりの富においても北アメリカでもっとも豊かであるが、これに関してはカナダもアメリカとほぼ同じ数字を達成している。ただしカナダの産業地帯はアメリカ国境にほど近い地域に集中しており、両国間の経済交流も非常に盛んで、事実上経済地域としてはほぼ統合された状態にある。経済面でこの両国に次ぐ力を持つのはメキシコであるが、一人あたりの富においては両国には遠く及ばない。そのほか、中米地峡やカリブ海諸国のほとんどは経済的には中進国レベル、一部は発展途上国のレベルにあり、北部の2国との差は激しい。しかし、発展途上国のなかでも特に貧しい後発開発途上国に指定されているのはハイチ1国であり、その他の国は非常に貧しかったり経済が崩壊しているというわけではない。",
"title": "経済"
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"text": "アメリカおよびカナダは各種工業が発達しているほか、農業でも肥沃な農地と効率的な大規模農業によって生産性がきわめて高く、世界有数の食糧輸出国となっている。",
"title": "経済"
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"text": "アメリカとカナダの経済はほぼ統合された状態にあるが、それに加えて1992年には北アメリカ大陸南部最大の国家であるメキシコと、アメリカ、カナダの3か国が北米自由貿易協定(NAFTA)を結成して以降、メキシコの北部の各所にマキラドーラと呼ばれる保税加工区の建設が急速に進み、特にメキシコとアメリカ間の貿易が急伸した。",
"title": "経済"
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"text": "北アメリカにおけるヒトの定住は16,000年ほど前から始まったものと目されている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "北アメリカにおいて最も早く文明が成立したのは、現在のメキシコ中部においてであった。紀元前1250年ごろには最古の文明であるオルメカ文明が成立し、ついでメキシコ中央高原にはテオティワカンをはじめとする諸文明が、ユカタン半島にはマヤ文明が成立した。これらの文明は鉄器を持たず、青銅器も普及は遅れ利用も装飾にほぼ限定されたものの、トウモロコシをはじめとする多くの植物の栽培化をなしとげ、独自の高度な文明を作り上げていた。",
"title": "歴史"
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"text": "1492年、クリストファー・コロンブスが現在のバハマの東端に近いサン・サルバドル島に上陸し(アメリカ大陸の発見)、以後数十年でスペインからやってきたコンキスタドールたちによって中央アメリカの高度な文明はすべて滅ぼされ、1521年には最大の先住民国家であったアステカ帝国もエルナン・コルテスによって滅亡した。また、ヨーロッパからの植民者たちは北アメリカで知られていなかった病原菌を持ち込み、このために北アメリカの先住民人口は激減した。16世紀の中ごろには、中部アメリカ大陸部のほとんどはスペインの植民地となっていた。一方カリブ海諸島においては17世紀以降、スペインの支配の合間を縫うようにイギリスやフランス、オランダなどが進出し、植民地を築いていった。",
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"text": "中央アメリカ地域に比べ、北アメリカ大陸北部への植民は遅れた。この地域で最初に永続的な植民地が開かれたのは1607年にイギリスによってジェームズタウンが建設された時である。ついで1620年にはメイフラワー号に乗ってやってきたピルグリム・ファーザーズたちがプリマスに入植し、やがて東海岸にはイギリスの13植民地が建設されることとなった。一方、その北のセントローレンス川河口にはフランスが進出し、1608年にケベックの街を建設して内陸にはいりこんでいき、ヌーベルフランス植民地を建設した。この植民地はセントローレンス川から五大湖・ミシシッピ川水系を通ってメキシコ湾にまで至る広大な植民地であったが、ケベック周辺を除き非常に人口は希薄であった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "やがて東海岸のイギリスとそれを囲むように広がるフランスの両植民地は衝突するようになり、100年以上断続的に衝突を繰り返したが、結局最後の北米植民地戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗し、1763年のパリ条約でフランスは北アメリカ大陸の植民地のほとんどをイギリスに譲渡することになった。しかし、この戦争の戦費によって財政難に陥ったイギリスは13植民地に様々な税を課すようになり、不満を持った植民地側は1775年に蜂起し、アメリカ独立戦争が勃発した。翌1776年にはアメリカ独立宣言が発表された。この戦争は植民地側の優位のまま進み、1783年にはパリ講和条約が締結されて、イギリスは13植民地の独立を認め、北アメリカ大陸最初の近代独立国家であるアメリカ合衆国が誕生した。ただしその北側に位置するカナダ植民地はイギリスのもとにとどまることを選択し、ここに北アメリカ大陸の旧英国領は南のアメリカ合衆国と北のカナダ植民地とに2分されることとなった。独立したアメリカはイギリス領だったミシシッピ川東岸を自国領としたが、さらに西へと進む動きを見せ、1803年にはフランスからミシシッピ川西岸にあたるルイジアナを買収して領土を2倍にした。アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンは1804年にメリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークに率いられた探検隊をミシシッピ西方へと派遣した。このルイス・クラーク探検隊はミズーリ川沿いに進んでロッキー山脈を抜け、太平洋に到達し、アメリカの西部進出の基盤を作ることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "このアメリカ独立と、フランス革命に端を発する宗主国の混乱は、中央アメリカ各地域においても独立の動きをよびさました。最も早く独立へと動いたのは、カリブ海に浮かぶフランス領サン=ドマングである。サン=ドマングでは1791年にハイチ革命が勃発し、1804年には北アメリカ第2の独立国としてハイチが独立した。次いで1810年にはメキシコでもミゲル・イダルゴによってメキシコ独立革命が開始され、1821年にはメキシコが独立。さらにそこから1823年には中央アメリカ連邦共和国が独立し、スペインの勢力はカリブ海にうかぶ島々に限定されることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "独立後すぐに、アメリカは西部への膨張を開始した。当初はアメリカ領だったミシシッピ川以東に限られていたが、上記ルイジアナ買収によってさらにアメリカの領土は西へと延伸し、移住者の波もそれに伴って徐々に西へと押し寄せた。重要だったのは1787年に制定された北西部土地条例で、これによって開拓地にできた準州は人口60000人を超えると州として連邦に加盟することが可能になり、西部の国土化に大きな役割を果たした。19世紀中ごろからは産業革命も開始され、さらに各国から続々と押し寄せる移民の波とそれを受け入れることの可能な西部の開拓地の存在によって、アメリカは急速に国力を増大させていった。こうしたアメリカの西進は、進行方向にあたる地域に領土を持っていたメキシコとの対立を呼び起こしたが、当時メキシコは国内の政情不安が続き、さらにアメリカと衝突するメキシコ北部においては人口も希薄で開発も進んでいなかったことから、この両国の対立は常にアメリカ有利で決着がついた。1836年にはメキシコ北端のコアウイラ・イ・テハス州においてアメリカ系移民が反乱を起こして独立し、テキサス共和国を建国。1845年に同国がアメリカに加盟したことで両国は衝突し、1846年には米墨戦争が勃発した。この戦いでアメリカは完勝し、1848年の講和によってメキシコから北部の広大な領土をもぎ取った。さらに1849年には、獲得したばかりのカリフォルニア州において金が発見され、カリフォルニア・ゴールドラッシュが起きて西部の開拓は飛躍的に進むこととなった。1869年には最初の大陸横断鉄道が開通して、アメリカの東西を結ぶ大動脈となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1860年代には、アメリカとメキシコにおいてそれぞれ大きな内乱が起きた。まず1861年にはアメリカにおいて、奴隷制の是非をめぐって北部と南部が対立し、南部がアメリカ連合国を建国して南北戦争が勃発した。次いで、この動乱を見たフランスがメキシコ出兵を決定し、メキシコシティを攻略して第2次メキシコ帝国を成立させた。この戦いはいずれもそれまでの中央政府(アメリカのエイブラハム・リンカーン政権・メキシコのベニート・フアレス政権)の勝利に終わり、両国の中央政府の支配力が強化されることとなった。また、アメリカの強大化は分離と統合を繰り返していた北側のイギリス領諸植民地の危機感を呼び覚まし、1867年にはこれらのうち4つの植民地が英領北アメリカ法を制定してカナダ自治領として統合した。このカナダ自治領にはこの地域にある他のイギリス植民地も続々と加入し、最終的には大陸北部のイギリス領はすべてカナダに統合された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "アメリカの経済成長はなおも続き、19世紀末には、アメリカの工業力はイギリスやドイツといったヨーロッパ列強諸国と肩を並べ抜き去るまでになっていた。1898年には米西戦争が起きてアメリカが勝利し、キューバが独立、プエルトリコがアメリカ領となってスペインは完全に新大陸での領土を喪失した。またこの時期からはアメリカ資本が中央アメリカ全域に進出するようになり、大農園を建設したユナイテッド・フルーツ社などの支配力が強まり、バナナ共和国という言葉に代表される中米諸国の経済的なアメリカへの従属化が進行した。メキシコにおいてはポルフィリオ・ディアス政権によって経済開発が進んだが、貧富の差の拡大や独裁に反感が高まり、1910年よりメキシコ革命が勃発した。また、1914年にはアメリカの手によってパナマ運河が建設され、太平洋と大西洋の海運距離が大幅に短縮した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦によってヨーロッパ諸国が経済的に疲弊すると、アメリカは世界最大の経済大国として世界経済をリードするようになり、第二次世界大戦によって政治・軍事的にも完全に世界をリードするようになった。一方、カリブ海・中央アメリカ諸国においては政情不安が続く国が多く、クーデターによって軍事政権が成立することも珍しくなかったが、政治・軍事的には完全にアメリカの強い影響下におかれるようになった。こうした中、1959年にキューバ革命が勃発し、フィデル・カストロに率いられた革命政権はソヴィエト連邦へと急速に接近。北アメリカに初の東側国家が誕生することになり、この地域に極度の緊張をもたらした。この緊張は1962年のキューバ危機によって最高潮に達し、以後やや緊張は緩んだものの両国の対立は21世紀に入っても続いた。1960年代から1980年代にかけては、カリブ海や小アンティル諸島に残っていたイギリス植民地が次々と独立し、とくに小アンティル諸島においては小国が乱立するようになった。",
"title": "歴史"
}
] | 北アメリカまたは、北米(ほくべい)は、北半球にある大陸で、ほとんどが西半球に属している。北は北極海、東は大西洋、南東は南アメリカとカリブ海、西と南は太平洋に面している。グリーンランドは北アメリカプレート上にあるため、地理的には北米の一部に含まれる。 | {{distinguish|北部アメリカ|アメリカ合衆国北部}}
{{redirect|北米|[[朝鮮民主主義人民共和国]]と[[アメリカ合衆国]]の二国間関係|米朝関係}}
{{出典の明記|date=2019年10月}}
{{Infobox Continent
|title = 北アメリカ
|image = Location North America.svg
|area = {{convert|23,633,760|km2|sqmi|abbr=on}}
|population = 592,296,233 (2021年, 4位)
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|cities ={{flagicon|USA}}[[ニューヨーク]]
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'''北アメリカ'''(きたアメリカ、{{lang-en-short|North America}}、{{lang-es-short|América del Norte}}、{{lang-fr-short|Amérique du Nord}})または、'''北米'''(ほくべい)は、[[北半球]]にある大陸で、ほとんどが[[西半球]]に属している。北は[[北極海]]、東は[[大西洋]]、南東は[[南アメリカ]]と[[カリブ海]]、西と南は[[太平洋]]に面している。[[グリーンランド]]は[[北アメリカプレート]]上にあるため、地理的には北米の一部に含まれる。
==範囲==
===広義===
[[北アメリカ大陸]]とその周辺の、[[西インド諸島]]、[[グリーンランド]]や[[クイーンエリザベス諸島]]、[[バミューダ諸島]]といった[[島嶼]]からなる。[[南アメリカ]]との陸上の境界は、地峡が最も狭まった[[パナマ地峡]]である。ただし、地峡を越えて北アメリカ大陸と[[南アメリカ大陸]]にまたがる領土を持つ[[パナマ|パナマ共和国]]は、国ごとの統計では北アメリカに含める。このため、実質的な南北アメリカの境界は、パナマ地峡の南東にありパナマ・コロンビア間の国境をなしている[[ダリエン地峡]]となっている{{sfn|石井|浦部|2018|p=2}}。[[カリブ海]]諸島は、[[コロンビア]]の[[サンアンドレス島]]や[[リーワード・アンティル諸島]]、[[トリニダード・トバゴ]]諸島までの全域を北アメリカに含める(トリニダード・トバゴ諸島は[[地質学]]的には[[南アメリカ大陸]]と[[大陸棚]]が連続している)。
[[アメリカ合衆国]]領である[[ハワイ州|ハワイ]]は、[[オセアニア]](より詳しくは[[ポリネシア]])であり北アメリカではないが、国ごとの統計ではアメリカ合衆国の一部として北アメリカに加算されることになる。
[[アジア]]との境界は[[ベーリング海峡]]である。[[ヨーロッパ]]との境界は、グリーンランドと[[アイスランド]]の間の[[デンマーク海峡]]である。
===狭義===
北アメリカの南部諸国を、北アメリカと南アメリカに挟まれた[[中部アメリカ]]という地域とみなすことがある。その場合、北アメリカとは[[英語圏]]の[[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]]の2国だけを指し、[[アングロアメリカ]]とほぼ同義となる{{sfn|石井|浦部|2018|pp=3-4}}。
==地理==
北アメリカの大部分を占める北アメリカ大陸の地形を特徴づけるのは、大陸西部を南北に貫く大山脈、中央部に広がる大平原、そして東部のなだらかで低い山脈である<ref>「アメリカとカナダの風土 日本的視点」p4 正井泰夫 二宮書店 平成7年4月1日第1刷</ref>。
西部大山脈のアメリカ本土とカナダ部分は[[ロッキー山脈]]と呼ばれるが、その北と南にもそこから連続した山脈がそびえたつ{{sfn|矢ケ﨑|2011|pp=12}}。南に延びる山脈は、高度を下げつつ中央アメリカを縦断し、パナマ地峡の南にまで続く。ロッキー山脈は人口希薄であるが、中央アメリカの山脈部分は温暖な気候に恵まれ人口の集中する地域であり、[[アステカ]]などの[[メソアメリカ文明]]もこの高原上に栄えてきた。ロッキー山脈の西には、[[グレートベースン]]と呼ばれる乾燥した盆地が広がる。この盆地の北にはコロンビア高原、南には[[コロラド高原]]が広がる。その西には太平洋に沿って[[カスケード山脈]]、[[シエラネバダ山脈 (アメリカ合衆国)|シエラネバダ山脈]]といった内陸山脈がそびえ、さらにその西には海岸山脈が走る{{sfn|矢ケ﨑|2011|pp=12-13}}。これらの海岸山脈はその名の通り太平洋のすぐそばにまで迫っている地域が多いが、海岸部に点在する低地には[[ロサンゼルス]]などいくつかの大都市が存在する。ロッキー山脈以東には、[[グレートプレーンズ]]と呼ばれる大平原が広がっている{{sfn|矢ケ﨑|2011|p=11}}。この平原は西へ行くほど乾燥している。グレートプレーンズの東に広がる[[プレーリー]]は肥沃な草原地帯であり、[[コムギ]]や[[トウモロコシ]]といった穀物が盛んに栽培される[[穀倉地帯]]となっている。プレーリーの東側には北アメリカ最長の河川である[[ミシシッピ川]]が流れるが、この地方も基本的には平坦な地形である。ミシシッピ水系の北東には世界最大級の淡水湖群である[[五大湖]]がある。ミシシッピ川水系の東には東部の脊梁山脈である[[アパラチア山脈]]が南北に延びるが、ロッキー山脈と比べて高度が低くややなだらかである{{sfn|矢ケ﨑|2011|p=10}}。アパラチア山脈の東には[[大西洋]]との間に平地がひろがるが、この地方には世界経済の中心である[[ニューヨーク]]をはじめ都市が点在し、人口稠密な産業地帯となっている。
北アメリカ大陸の南には[[メキシコ湾]]や[[カリブ海]]といった内海が存在し、多数の島々が存在する。最大の島である[[キューバ]]をはじめ、[[イスパニョーラ島]]や[[プエルトリコ]]、[[ジャマイカ]]といった[[大アンティル諸島]]には比較的大きな島々が多いが、その東に広がる[[小アンティル諸島]]は無数の小島が点在し、多くの島は島ひとつ、または数島を合わせただけで国家となっており、世界で最も小国家の密集する地域となっている。
気候的には太平洋岸の北部は[[西岸海洋性気候]]、中部は[[地中海性気候]]に属する。大陸北端は[[ツンドラ気候]]、そこから北緯40度付近までの北部の広い範囲は[[亜寒帯湿潤気候|冷帯湿潤気候]]に属する。西部内陸部の高原地帯は気候的には乾燥した地域が多く、大半が[[ステップ気候]]、アリゾナやメキシコ北西部などには[[砂漠気候]]が広がる。アメリカ合衆国の北緯40度以南・西経100度以東は[[温暖湿潤気候]]となる{{sfn|矢ケ﨑|2011|pp=14-16}}。メキシコ中央高原は低緯度にあるものの標高が高いため温帯に属しているが、カリブ海諸島およびメキシコ南部・中央アメリカは[[熱帯気候]]に属する{{sfn|石井|浦部|2018|pp=16-17}}。
==人文==
北アメリカは大きく分けて、北部と南部とに大別される。北部はアメリカ合衆国とカナダからなり、イギリス系移民を中心として開拓された国家であるためアングロアメリカと呼ばれる。これに対し、メキシコ以南の大陸南部やキューバは旧スペイン領であり、同じく旧スペイン・ポルトガル領だった南アメリカ大陸の諸国と合わせて[[ラテンアメリカ]]とよばれる。中央アメリカの[[ベリーズ]]や、カリブ海に浮かぶ諸国はイギリスなどほかの国の植民地から独立した国が多く厳密にはラテンアメリカには含まれないが、アングロアメリカの2国とも経済や文化面で差異が大きく、このためカリブ海諸国として一定のまとまりをもったうえで、ラテンアメリカ諸国と一括して扱われることが多い{{sfn|石井|浦部|2018|pp=2-5}}。
言語的には[[インド・ヨーロッパ語族]]に属する話者が圧倒的に多く、先住の[[インディアン]]の話す[[アメリカ先住民諸語]]を話すものはわずかである。インド・ヨーロッパ語族のうち、アングロアメリカに属する北部のカナダとアメリカにおいては[[英語]]が[[公用語]]であり、日常生活においても圧倒的に使用される言語である。ただしこの両国は移民が多く、移民コミュニティの中においてはその移民の母国語が使用されることは珍しくない。また、カナダ東部の[[ケベック州]]はフランス領のヌーベルフランス植民地の中心地としてフランス系移民が多数を占めていたことから、現代においても[[フランス語]]が主に使用されているアングロアメリカで唯一の地域であり、ケベック最大の都市であるモントリオールは[[パリ]]や[[ブリュッセル]]に次ぐフランス語圏有数の都市となっている。中央アメリカ大陸部においては、旧イギリス領だったベリーズを除きすべての国が[[スペイン語]]を公用語としている。カリブ海地域は各国の植民地が入り乱れた地域であり、キューバやドミニカ共和国を中心としたスペイン語、ジャマイカやバハマ、小アンティル諸島の半分の国々で話される英語、その他[[宗主国]]によってフランス語や[[オランダ語]]などが使用される。
民族的には、アメリカおよびカナダにおいてはイギリス系が本来の主流であったが、ヨーロッパを中心に世界各国からの移民が長期にわたり押し寄せたことから、かなりの混淆が進んでいる。先住のインディアンはアメリカやカナダの各地に居留地を保有するが、人口的にはわずかな割合を占めるに過ぎない。また、アメリカの特に南部においてはヒスパニック系、および黒人の割合が高い。カナダはアメリカと同じくイギリス系を中心とした人々が大多数を占めるが、ケベック州だけはフランス系が大半を占めている。ケベック州は人口も多くよく開発された州であり、また英語を主とするカナダの他州との対立からケベック・ナショナリズムが盛んで独立運動がくすぶっており、過去数度独立を問う住民投票が行われたがいずれも否定された。中央アメリカにおいては、白人と[[インディオ]]の混血である[[メスティーソ]]が多くの国で人口の過半を占める。インディオも、過去に大文明を築き上げていた中央アメリカの大陸部においては特に人口が多く、アングロアメリカよりもかなり多くのインディオが居住している。また、黒人は中央アメリカ大陸部にはあまり居住していないが、過去に[[サトウキビ]]の[[プランテーション]]を運営するため大量に移住させられたカリブ海域においてはかなり多く{{sfn|石井|浦部|2018|p=9}}、ハイチやジャマイカ、小アンティル諸島の多くの国のように、黒人が多数派を占めている国家も存在する{{sfn|石井|浦部|2018|p=134}}。
北アメリカ大陸の中央部を占めるアメリカ合衆国は世界最大の大国であり、その北のカナダも産業的によく開発された豊かな国である。一方その南の中央アメリカやカリブ海諸国は、産業開発が進んでおらず貧しい国が大半である。
==国と地域==
{{main|北アメリカの主権国家及び属領の一覧}}
===大陸地域===
{|class=wikitable
!国・地域!!現地語表記!!首都!!宗主国
|-
|{{CAN}}||[[ケベック・フランス語|フランス語]]と{{lang-en|Canada}}||[[オタワ]]||rowspan="3"|独立国
|-
|{{MEX}}||{{lang-es|Estados Unidos Mexicanos}}||[[メキシコシティ]]
|-
|{{USA}}||{{lang-en|United States of America}}||[[ワシントンD.C.]]
|}
===地峡地帯===
{|class=wikitable
!国・地域!!現地語表記!!首都!!宗主国
|-
|{{BLZ}}||{{lang-en|Belize}}||[[ベルモパン]]||rowspan="7"|独立国
|-
|{{CRI}}||{{lang-es|República de Costa Rica}}||[[サンホセ (コスタリカ)|サンホセ]]
|-
|{{SLV}}||{{lang-es|República de El Salvador}}||[[サンサルバドル]]
|-
|{{GTM}}||{{lang-es|República de Guatemala}}||[[グアテマラシティ]]
|-
|{{HND}}||{{lang-es|República de Honduras}}||[[テグシガルパ]]
|-
|{{NIC}}||{{lang-es|República de Nicaragua}}||[[マナグア]]
|-
|{{PAN}}||{{lang-es|República de Panamá}}||[[パナマ市]]
|}
===バハマ諸島===
{|class=wikitable
!国・地域!!現地語表記!!首都!!宗主国
|-
|{{BHS}}||{{lang-en|Commonwealth of The Bahamas}}||[[ナッソー]]||独立国
|-
|{{TCA}}||{{lang-en|Turks and Caicos Islands}}||[[コックバーンタウン]]||{{GBR}}
|}
===大アンティル諸島===
{|class=wikitable
!国・地域!!現地語表記!!首都!!宗主国
|-
|{{CYM}}||{{lang-en|Cayman Islands}}||[[ジョージタウン (ケイマン諸島)|ジョージタウン]]||{{GBR}}
|-
|{{CUB}}||{{lang-es|República de Cuba}}||[[ハバナ]]||rowspan="4"|独立国
|-
|{{DOM}}||{{lang-es|República Dominicana}}||[[サントドミンゴ]]
|-
|{{HTI}}||{{lang-ht|Repiblik d Ayiti}}<br>{{lang-fr|République d'Haïti}}||[[ポルトープランス]]
|-
|{{JAM}}||{{lang-en|Jamaica}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]
|-
|[[ナヴァッサ島]]||{{lang-en|Navassa Island}}||||rowspan="2"|{{USA}}
|-
|{{PRI}}||{{lang-es|Estado Libre Asociado de Puerto Rico}}<br>{{lang-en|Commonwealth of Puerto Rico}}||[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]]
|}
===小アンティル諸島===
{|class=wikitable
!国・地域!!現地語表記!!首都!!宗主国
|-
|{{AIA}}||{{lang-en|Anguilla}}||[[バレー (アンギラ)|バレー]]||{{GBR}}
|-
|{{ATG}}||{{lang-en|Antigua and Barbuda}}||[[セントジョンズ]]||rowspan="2"|独立国
|-
|{{BRB}}||{{lang-en|Barbados}}||[[ブリッジタウン]]
|-
|{{VGB}}||{{lang-en|British Virgin Islands}}||[[ロードタウン]]||{{GBR}}
|-
|{{DMA}}||{{lang-en|Commonwealth of Dominica}}||[[ロゾー]]||rowspan="2"|独立国
|-
|{{GRD}}||{{lang-en|Grenada}}||[[セントジョージズ]]
|-
|{{GLP}}||{{lang-fr|Guadeloupe}}||[[バステール (グアドループ)|バステール]]||rowspan="2"|{{FRA}}
|-
|[[file:Flag-of-Martinique.svg|25px|border]] [[マルティニーク]] ||{{lang-fr|Martinique}}||[[フォール=ド=フランス]]
|-
|{{MSR}}||{{lang-en|Montserrat}}||[[プリマス (モントセラト)|プリマス]]<br />[[ブレイズ (モントセラト)|ブレイズ]](臨時首都)||{{GBR}}
|-
|{{BLM}}||{{lang-fr|Saint Barthélemy}}||[[グスタビア]]||{{FRA}}
|-
|{{KNA}}||{{lang-en|Federation of Saint Christopher and Nevis}}||[[バセテール]]||rowspan="2"|独立国
|-
|{{LCA}}||{{lang-en|Saint Lucia}}||[[カストリーズ]]
|-
|{{MAF}}||{{lang-fr|Saint Martin}}||[[マリゴ]]||{{FRA}}
|-
|{{VCT}}||{{lang-en|Saint Vincent and the Grenadines}}||[[キングスタウン]]||独立国
|-
|{{SXM}}||{{lang-nl|Sint Maarten}}||[[フィリップスブルフ]]||{{NLD}}
|-
|{{TTO}}||{{lang-en|Trinidad and Tobago}}||[[ポートオブスペイン]]||独立国
|-
|{{VIR}}||{{lang-en|United States Virgin Islands}}||[[シャーロット・アマリー]]||{{USA}}
|}
===その他===
{|class=wikitable
!国・地域!!現地語表記!!首都!!宗主国
|-
|{{GRL}}||{{lang-da|Grønland}}<br>{{lang-kl|Kalaallit Nunaat}}||[[ヌーク]]||{{DNK}}
|-
|{{SPM}}||{{lang-fr|Saint-Pierre et Miquelon}}||[[サン=ピエール (サンピエール島・ミクロン島)|サンピエール]]||{{FRA}}
|-
|{{ABW}}||{{lang-nl|Aruba}}||[[オラニエスタッド]]||rowspan="2"|{{NLD}}
|-
|{{CUW}}||{{lang-nl|Curaçao}}||[[ウィレムスタット]]
|-
|{{BMU}}||{{lang-en|Bermuda}}||[[ハミルトン (バミューダ)|ハミルトン]]||{{GBR}}
|}
==主要都市==
{| class="wikitable sortable"
|-
! 都市圏
! 人口
! 面積
! 国
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[メキシコシティ]]
| 21,163,226<sup>†</sup>
| {{convert|7346|km2|sqmi}}
| {{MEX}}
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[ニューヨーク]]
| 19,949,502
| {{convert|17405|km2|sqmi}}
| {{USA}}
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[ロサンゼルス]]
| 13,131,431
| {{convert|12562|km2|sqmi}}
| {{USA}}
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[シカゴ]]
| 9,537,289
| {{convert|24814|km2|sqmi}}
| {{USA}}
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[ダラス]]・[[フォートワース]]
| 6,810,913
| {{convert|24059|km2|sqmi}}
| {{USA}}
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[ヒューストン]]
| 6,313,158
| {{convert|26061|km2|sqmi}}
| {{USA}}
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[トロント]]
| 6,054,191<sup>†</sup>
| {{convert|5906|km2|sqmi}}
| {{CAN}}
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[フィラデルフィア]]
| 6,034,678
| {{convert|13256|km2|sqmi}}
| {{USA}}
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[ワシントンD.C.]]
| 5,949,859
| {{convert|14412|km2|sqmi}}
| {{USA}}
|- style="vertical-align: top; text-align: left;"
| [[マイアミ]]
| 5,828,191
| {{convert|15896|km2|sqmi}}
| {{USA}}
|}
<small>‌<sup>†</sup>2011年センサスの数字</small>
{{-}}
北アメリカ最大の都市は人口的にはメキシコシティであるが、経済・文化的には北アメリカ大陸の東岸中央部にあるニューヨークが最も重要な都市である。ニューヨークには[[国際連合]]本部をはじめ重要な国際機関がおかれているほか、世界の経済や文化に大きな影響を及ぼす都市であり、北アメリカのみならず世界で最も重要な都市のひとつである。アメリカ合衆国の東海岸北部には、このほかにも[[ボストン]]、フィラデルフィア、[[ボルティモア]]、そして合衆国の首都ワシントンD.C.といった大都市が連続しており、[[ボスウォッシュ]]とよばれる[[メガロポリス]]を形成している{{sfn|矢ケ﨑|2011|p=100}}。このほかにも合衆国内には地域の中枢となる巨大都市が点在しており、中西部のシカゴ、南部の[[アトランタ]]やマイアミ、[[テキサス州]]のヒューストンやダラス・フォートワース都市圏、西部の[[デンバー]]、西海岸のロサンゼルスや[[サンフランシスコ]]、[[シアトル]]などが特に大きな都市である。カナダの大都市は国土の南部に集中しているが、もっとも人口の多い地域は[[オンタリオ州]]南東部から[[ケベック州]]南部にかけての地域であり、カナダ最大の都市であるトロントと、それに次ぐ大都市である[[モントリオール]]がこの地域に存在する。
カナダ太平洋岸の大都市は[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]ただ一つであり、カナダの西の玄関口となっている。カナダの肥沃な西部平原地方は平原の中に人口10万から50万程度の都市がいくつか点在するが、その中では[[カルガリー]]が最も大きく、この地域の中心となりつつある。
北アメリカ地域では、最大の都市は上記のとおりメキシコの首都メキシコシティであり、メキシコの人口や富はここに集中している。しかしメキシコ国内ではこのほかにも、[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]と[[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]]、それに[[プエブラ]]の3つの都市が人口100万人を超えている。この4つの都市はいずれも人口の集中するメキシコの中央高原に位置している。それに対し、海岸部にはカリブ海岸の[[ベラクルス]]や太平洋岸の[[アカプルコ]]など重要な港湾都市は点在するものの、100万人を超えるような大都市は存在しない。
それより南の中央アメリカの小国群では、グアテマラの首都[[グアテマラシティ]]とニカラグアの首都[[マナグア]]が人口100万人を超えて最も大きく、ホンジュラスの首都[[テグシガルパ]]とパナマの首都[[パナマシティ]]、エルサルバドルの首都[[サンサルバドル]]がこれに次ぐ。カリブ海諸島では、キューバの首都[[ハバナ]]とドミニカ共和国の首都[[サントドミンゴ]]が人口200万人を超えており、ハイチの首都[[ポルトープランス]]も人口100万人を超える。
==経済==
{| class="wikitable" style="text-align: right; float:right; border:1px solid #aaa; margin:10px"
|- style="background:#dbdbdb;"
! 順位
! 国
! [[国内総生産|GDP]] <small>(購買力平価, 2015年)</small><br /><small>[[アメリカ・ドル]](100万ドル)</small>
|-
| 1 ||align=left|{{USA}} || 18,124,731
|-
| 2 ||align=left|{{MEX}} || 2,224,313
|-
| 3 ||align=left|{{CAN}} || 1,640,370
|-
| 4 ||align=left|{{CUB}} || 211,947
|-
| 5 ||align=left|{{DOM}} || 146,277
|-
| 6 ||align=left|{{PRI}} || 125,633
|-
| 7 ||align=left|{{GTM}} || 124,941
|-
| 8 ||align=left|{{PAN}} || 81,801
|-
| 9 ||align=left|{{CRI}} || 74,324
|-
| 10 ||align=left|{{SLV}} || 52,682
|}
{| class="wikitable" style="text-align: right; float:right; border:1px solid #aaa; margin:10px"
|- style="background:#dbdbdb;"
! 順位
! 国
! [[国内総生産|GDP]] <small>(名目, 2015年)</small><br /><small>[[アメリカ・ドル]](100万ドル)</small>
|-
| 1 ||align=left|{{USA}} || 18,124,731
|-
| 2 ||align=left|{{CAN}} || 1,615,471
|-
| 3 ||align=left|{{MEX}} || 1,231,982
|-
| 4 ||align=left|{{PRI}} || 103,135
|-
| 5 ||align=left|{{CUB}} || 68,234
|-
| 6 ||align=left|{{DOM}} || 66,199
|-
| 7 ||align=left|{{GTM}} || 66,037
|-
| 8 ||align=left|{{CRI}} || 52,800
|-
| 9 ||align=left|{{PAN}} || 47,478
|-
| 10 ||align=left|{{TTO}} || 29,210
|}
{{-}}
経済規模においてはアメリカ合衆国が他を圧倒しており、北アメリカの他の国をすべて合計してもアメリカの経済規模の半分にも遠く及ばない。アメリカは一人あたりの富においても北アメリカでもっとも豊かであるが、これに関してはカナダもアメリカとほぼ同じ数字を達成している。ただしカナダの産業地帯はアメリカ国境にほど近い地域に集中しており、両国間の経済交流も非常に盛んで、事実上経済地域としてはほぼ統合された状態にある。経済面でこの両国に次ぐ力を持つのはメキシコであるが、一人あたりの富においては両国には遠く及ばない。そのほか、中米地峡やカリブ海諸国のほとんどは経済的には中進国レベル、一部は発展途上国のレベルにあり、北部の2国との差は激しい。しかし、発展途上国のなかでも特に貧しい[[後発開発途上国]]に指定されているのはハイチ1国であり<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/ohrlls/ldc_teigi.html|title = 外務省: 後発開発途上国|publisher = 外務省|date = 2012-12|accessdate = 2015-12-06}}</ref>、その他の国は非常に貧しかったり経済が崩壊しているというわけではない。
アメリカおよびカナダは各種工業が発達しているほか、[[農業]]でも肥沃な農地と効率的な大規模農業によって生産性がきわめて高く、世界有数の食糧輸出国となっている。
アメリカとカナダの経済はほぼ統合された状態にあるが、それに加えて[[1992年]]には北アメリカ大陸南部最大の国家であるメキシコと、アメリカ、カナダの3か国が[[北米自由貿易協定]](NAFTA)を結成して以降、メキシコの北部の各所に[[マキラドーラ]]と呼ばれる保税加工区の建設が急速に進み、特にメキシコとアメリカ間の貿易が急伸した<ref>「ラテンアメリカを知る事典」p542 平凡社 1999年12月10日新訂増補版第1刷 </ref>。
==歴史==
北アメリカにおける[[ヒト]]の定住は16,000年ほど前から始まったものと目されている<ref>{{Cite web|title=New artifacts suggest first people arrived in North America earlier than previously thought|url=https://today.oregonstate.edu/news/new-artifacts-suggest-first-people-arrived-north-america-earlier-previously-thought|website=Life at OSU|date=2019-08-29|accessdate=2021-08-24|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=First people in the Americas came by sea, ancient tools unearthed by Idaho river suggest|url=https://www.sciencemag.org/news/2019/08/first-people-americas-came-sea-ancient-tools-unearthed-idaho-river-suggest|website=Science {{!}} AAAS|date=2019-08-29|accessdate=2021-08-24|language=en|first=Lizzie|last=WadeAug. 29}}</ref><ref>{{Cite web|title=Stone tools suggest the first Americans came from Japan|url=https://arstechnica.com/science/2019/08/16000-year-old-site-in-idaho-indicates-people-sailed-around-the-ice-sheet/|website=Ars Technica|date=2019-08-29|accessdate=2021-08-24|language=en-us|first=Kiona N.|last=Smith}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Davis|first=Loren G.|last2=Madsen|first2=David B.|last3=Becerra-Valdivia|first3=Lorena|last4=Higham|first4=Thomas|last5=Sisson|first5=David A.|last6=Skinner|first6=Sarah M.|last7=Stueber|first7=Daniel|last8=Nyers|first8=Alexander J.|last9=Keen-Zebert|first9=Amanda|date=2019-08-30|title=Late Upper Paleolithic occupation at Cooper’s Ferry, Idaho, USA, ~16,000 years ago|url=https://science.sciencemag.org/content/365/6456/891|journal=Science|volume=365|issue=6456|pages=891–897|language=en|doi=10.1126/science.aax9830|issn=0036-8075|pmid=31467216}}</ref>。
北アメリカにおいて最も早く文明が成立したのは、現在のメキシコ中部においてであった。[[紀元前1250年]]ごろには最古の文明である[[オルメカ]]文明が成立し、ついで[[メキシコ中央高原]]には[[テオティワカン]]をはじめとする諸文明が、[[ユカタン半島]]には[[マヤ文明]]が成立した。これらの文明は[[鉄器]]を持たず、[[青銅器]]も普及は遅れ利用も装飾にほぼ限定されたものの、[[トウモロコシ]]をはじめとする多くの植物の栽培化をなしとげ、独自の高度な文明を作り上げていた。
[[1492年]]、[[クリストファー・コロンブス]]が現在のバハマの東端に近い[[サン・サルバドル島]]に上陸し([[アメリカ大陸の発見]])、以後数十年で[[スペイン]]からやってきた[[コンキスタドール]]たちによって中央アメリカの高度な文明はすべて滅ぼされ、[[1521年]]には最大の先住民国家であった[[アステカ帝国]]も[[エルナン・コルテス]]によって滅亡した。また、ヨーロッパからの植民者たちは北アメリカで知られていなかった病原菌を持ち込み、このために北アメリカの先住民人口は激減した。16世紀の中ごろには、中部アメリカ大陸部のほとんどはスペインの植民地となっていた。一方カリブ海諸島においては17世紀以降、スペインの支配の合間を縫うようにイギリスやフランス、オランダなどが進出し、植民地を築いていった{{sfn|石井|浦部|2018|pp=31-33}}。
中央アメリカ地域に比べ、北アメリカ大陸北部への植民は遅れた。この地域で最初に永続的な植民地が開かれたのは[[1607年]]に[[イギリス]]によって[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]が建設された時である。ついで[[1620年]]には[[メイフラワー号]]に乗ってやってきた[[ピルグリム・ファーザーズ]]たちが[[プリマス (マサチューセッツ州)|プリマス]]に入植し、やがて東海岸にはイギリスの[[13植民地]]が建設されることとなった。一方、その北の[[セントローレンス川]]河口には[[フランス]]が進出し、[[1608年]]に[[ケベック]]の街を建設して内陸にはいりこんでいき、[[ヌーベルフランス]]植民地を建設した。この植民地はセントローレンス川から[[五大湖]]・[[ミシシッピ川]]水系を通ってメキシコ湾にまで至る広大な植民地であったが、ケベック周辺を除き非常に人口は希薄であった。
やがて東海岸のイギリスとそれを囲むように広がるフランスの両植民地は衝突するようになり、100年以上断続的に衝突を繰り返したが、結局最後の[[北米植民地戦争]]である[[フレンチ・インディアン戦争]]においてフランスは大敗し、[[1763年]]の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]でフランスは北アメリカ大陸の植民地のほとんどをイギリスに譲渡することになった。しかし、この戦争の戦費によって財政難に陥ったイギリスは13植民地に様々な税を課すようになり、不満を持った植民地側は[[1775年]]に蜂起し、[[アメリカ独立戦争]]が勃発した。翌[[1776年]]には[[アメリカ独立宣言]]が発表された。この戦争は植民地側の優位のまま進み、[[1783年]]には[[パリ条約 (1783年)|パリ講和条約]]が締結されて、イギリスは13植民地の独立を認め、北アメリカ大陸最初の近代独立国家であるアメリカ合衆国が誕生した。ただしその北側に位置するカナダ植民地はイギリスのもとにとどまることを選択し、ここに北アメリカ大陸の旧英国領は南のアメリカ合衆国と北のカナダ植民地とに2分されることとなった。独立したアメリカはイギリス領だったミシシッピ川東岸を自国領としたが、さらに西へと進む動きを見せ、[[1803年]]にはフランスからミシシッピ川西岸にあたる[[ルイジアナ買収|ルイジアナを買収]]して領土を2倍にした。アメリカ大統領[[トーマス・ジェファーソン]]は[[1804年]]に[[メリウェザー・ルイス]]と[[ウィリアム・クラーク (探検家)|ウィリアム・クラーク]]に率いられた探検隊をミシシッピ西方へと派遣した。この[[ルイス・クラーク探検隊]]は[[ミズーリ川]]沿いに進んでロッキー山脈を抜け<ref>「ルイス=クラーク探検 アメリカ西部開拓の原初的物語」p9 明石紀雄 世界思想社 2004年12月25日第1刷</ref>、太平洋に到達し、アメリカの西部進出の基盤を作ることとなった。
このアメリカ独立と、[[フランス革命]]に端を発する宗主国の混乱は、中央アメリカ各地域においても独立の動きをよびさました。最も早く独立へと動いたのは、カリブ海に浮かぶフランス領[[サン=ドマング]]である。サン=ドマングでは[[1791年]]に[[ハイチ革命]]が勃発し、[[1804年]]には北アメリカ第2の独立国としてハイチが独立した。次いで[[1810年]]にはメキシコでも[[ミゲル・イダルゴ]]によって[[メキシコ独立革命]]が開始され、[[1821年]]にはメキシコが独立。さらにそこから[[1823年]]には[[中央アメリカ連邦共和国]]が独立し、スペインの勢力はカリブ海にうかぶ島々に限定されることとなった。
独立後すぐに、アメリカは西部への膨張を開始した。当初はアメリカ領だったミシシッピ川以東に限られていたが、上記ルイジアナ買収によってさらにアメリカの領土は西へと延伸し、移住者の波もそれに伴って徐々に西へと押し寄せた。重要だったのは[[1787年]]に制定された[[北西部条例 (アメリカ)|北西部土地条例]]で、これによって開拓地にできた[[準州]]は人口60000人を超えると州として連邦に加盟することが可能になり、西部の国土化に大きな役割を果たした。19世紀中ごろからは[[産業革命]]も開始され、さらに各国から続々と押し寄せる移民の波とそれを受け入れることの可能な西部の開拓地の存在によって、アメリカは急速に国力を増大させていった。こうしたアメリカの西進は、進行方向にあたる地域に領土を持っていたメキシコとの対立を呼び起こしたが、当時メキシコは国内の政情不安が続き、さらにアメリカと衝突するメキシコ北部においては人口も希薄で開発も進んでいなかったことから、この両国の対立は常にアメリカ有利で決着がついた。[[1836年]]にはメキシコ北端の[[コアウイラ・イ・テハス州]]においてアメリカ系移民が反乱を起こして独立し、[[テキサス共和国]]を建国。[[1845年]]に同国がアメリカに加盟したことで両国は衝突し、[[1846年]]には[[米墨戦争]]が勃発した。この戦いでアメリカは完勝し、1848年の講和によってメキシコから北部の広大な領土をもぎ取った{{sfn|石井|浦部|2018|pp=102-103}}。さらに[[1849年]]には、獲得したばかりの[[カリフォルニア州]]において[[金]]が発見され、[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]が起きて西部の開拓は飛躍的に進むこととなった。[[1869年]]には[[最初の大陸横断鉄道]]が開通して、アメリカの東西を結ぶ大動脈となった。
1860年代には、アメリカとメキシコにおいてそれぞれ大きな内乱が起きた。まず[[1861年]]にはアメリカにおいて、[[奴隷制]]の是非をめぐって北部と南部が対立し、南部が[[アメリカ連合国]]を建国して[[南北戦争]]が勃発した。次いで、この動乱を見た[[フランス]]が[[メキシコ出兵]]を決定し、メキシコシティを攻略して[[メキシコ帝国#メキシコ第二帝政(1864年-1867年)|第2次メキシコ帝国]]を成立させた。この戦いはいずれもそれまでの中央政府(アメリカの[[エイブラハム・リンカーン]]政権・メキシコの[[ベニート・フアレス]]政権)の勝利に終わり、両国の中央政府の支配力が強化されることとなった。また、アメリカの強大化は分離と統合を繰り返していた北側のイギリス領諸植民地の危機感を呼び覚まし、[[1867年]]にはこれらのうち4つの植民地が[[英領北アメリカ法]]を制定してカナダ自治領として統合した。このカナダ自治領にはこの地域にある他のイギリス植民地も続々と加入し、最終的には大陸北部のイギリス領はすべてカナダに統合された。
アメリカの経済成長はなおも続き、19世紀末には、アメリカの工業力はイギリスや[[ドイツ]]といったヨーロッパ[[列強]]諸国と肩を並べ抜き去るまでになっていた。[[1898年]]には[[米西戦争]]が起きてアメリカが勝利し、キューバが独立、プエルトリコがアメリカ領となってスペインは完全に新大陸での領土を喪失した{{sfn|石井|浦部|2018|pp=104-105}}。またこの時期からはアメリカ資本が中央アメリカ全域に進出するようになり、大農園を建設した[[ユナイテッド・フルーツ]]社などの支配力が強まり、[[バナナ共和国]]という言葉に代表される中米諸国の経済的なアメリカへの従属化が進行した。メキシコにおいては[[ポルフィリオ・ディアス]]政権によって経済開発が進んだが、貧富の差の拡大や独裁に反感が高まり、[[1910年]]より[[メキシコ革命]]が勃発した。また、1914年にはアメリカの手によって[[パナマ運河]]が建設され、太平洋と大西洋の海運距離が大幅に短縮した。
[[第一次世界大戦]]によってヨーロッパ諸国が経済的に疲弊すると、アメリカは世界最大の経済大国として世界経済をリードするようになり、[[第二次世界大戦]]によって政治・軍事的にも完全に世界をリードするようになった。一方、カリブ海・中央アメリカ諸国においては政情不安が続く国が多く、[[クーデター]]によって[[軍事政権]]が成立することも珍しくなかったが、政治・軍事的には完全にアメリカの強い影響下におかれるようになった。こうした中、[[1959年]]に[[キューバ革命]]が勃発し、[[フィデル・カストロ]]に率いられた革命政権は[[ソヴィエト連邦]]へと急速に接近。北アメリカに初の[[東側]]国家が誕生することになり、この地域に極度の緊張をもたらした。この緊張は[[1962年]]の[[キューバ危機]]によって最高潮に達し、以後やや緊張は緩んだものの両国の対立は21世紀に入っても続いた{{sfn|石井|浦部|2018|pp=114-115}}。1960年代から1980年代にかけては、カリブ海や小アンティル諸島に残っていたイギリス植民地が次々と独立し、とくに小アンティル諸島においては小国が乱立するようになった。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|title=中部アメリカ|url=https://www.worldcat.org/oclc/1183113017|publisher=朝倉書店|isbn=978-4-254-16930-0|oclc=1183113017|和書|year=2018|editor-last=石井|editor-first=久生|editor2-last=浦部|editor2-first=浩之|edition=初|publication-date=2018-03-20|version=第1刷|series=世界地誌シリーズ10}}
* {{Citation|title=アメリカ|publisher=朝倉書店|isbn=978-4-254-16858-7|oclc=752035213|和書|year=2011|editor-last=矢ケ﨑|editor-first=典隆|publication-date=2011-04-25|series=世界地誌シリーズ4|version=第1刷|edition=初}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|北アメリカ}}
{{Commons&cat|North America}}
{{WikinewsPortal}}
{{Wikivoyage|North America|北アメリカ{{en icon}}}}
* [[アメリカ州]]
** [[アングロアメリカ]]
** [[北部アメリカ]]
** [[中央アメリカ]]
** [[西インド諸島]]
** [[ラテンアメリカ]]
** [[南アメリカ]]
* {{仮リンク|北アメリカのスポーツ|en|Sports in North America}}
* {{仮リンク|北アメリカ料理|en|North American cuisine}}
* [[国の一覧]]
* [[国の一覧 (大陸別)]]
* [[海外領土・自治領の一覧]]
* [[国の面積順リスト]]
* [[国の人口順リスト]]
* [[国の人口密度順リスト]]
* [[国の国内総生産順リスト]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{大州横}}
{{世界の地理}}
{{アメリカ}}
{{normdaten}}
{{デフォルトソート:きたあめりか}}
[[Category:北アメリカ|*]] | 2003-05-24T03:01:12Z | 2023-12-27T01:38:25Z | false | false | false | [
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9,230 | 映画スタッフ一覧 | 映画スタッフ一覧では、映画スタッフを挙げる。 | [
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'''映画スタッフ一覧'''では、[[映画スタッフ]]を挙げる。
== 脚本家 ==
* [[荒井晴彦]]
* [[一色伸幸]]
* [[伊藤和典]]
* [[奥寺佐渡子]]
* [[笠原和夫 (脚本家)]]
* [[宮藤官九郎]]
* [[剣持亘]]
* [[高橋洋 (映画監督)|高橋洋]]
* [[田中陽造]]
* [[内藤忠司]]
* [[福田靖]]
* [[森岡利行]]
* [[高須光聖]]
* [[デビッド・コープ]]
== カメラマン(または撮影監督) ==
* [[芦澤明子]]
* [[安藤庄平]]
* [[石井勲]]
* [[伊東英男]]
* [[猪本雅三]]
* [[木村大作]]
* [[佐々木原保志]]
* [[篠田昇]]
* [[柴主高秀]]
* [[鈴木一博]]
* [[仙元誠三]]
* [[高瀬比呂志]]
* [[高間賢治]]
* [[高村倉太郎]]
* [[たむらまさき]]
* [[萩原泉]]
* [[浜田毅]]
* [[姫田真佐久]]
* [[前田米造]]
* [[栢野直樹]]
* [[林淳一郎]]
* [[釘宮慎治]]
* [[ゴードン・ウィリス]]
* [[ディーン・カンディ]]
* [[レオン・シャムロイ]]
* [[ヴィットリオ・ストラーロ]]
* [[マイケル・チャップマン]]
* [[クリストファー・ドイル]]
* [[オズワルド・モリス]]
* [[スヴェン・ニクヴィスト]]
== 照明 ==
* [[吉角荘介]]
* [[長田達也]]
== 録音技師 ==
* [[橋本泰夫]]
* [[ロン・ジャドキンズ]]
* [[クリス・ニューマン (音響技術者)|クリス・ニューマン]]
== デザイナー(美術) ==
* [[木村威夫]]
* [[桜木晶]]
* [[林田裕至]]
* [[磯見俊裕]]
* [[山口修 (美術デザイナー)|山口修]]
== メイクアップアーティスト ==
* [[クリスティーナ・スミス]]
== スタイリスト ==
* [[黒澤和子]]
== 音楽家 ==
* [[梅林茂]]
* [[大野雄二]]
* [[冨田勲]]
* [[久石譲]]
* [[千住明]]
* [[伊福部昭]]
* [[ラロ・シフリン]]
*[[デヴィッド・アーノルド]]
*[[マルコム・アーノルド]]
*[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]
*[[ダニー・エルフマン]]
*[[ジェリー・ゴールドスミス]]
*[[エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト]]
*[[ハンス・ジマー]]
*[[モーリス・ジャール]]
*[[ハワード・ショア]]
*[[マックス・スタイナー]]
*[[マイケル・ナイマン]]
*[[ランディ・ニューマン]]
*[[バーナード・ハーマン]]
*[[エルマー・バーンスタイン]]
*[[スコット・ブラッドリー]]
*[[マルコ・ベルトラミ]]
*[[ジェームズ・ホーナー]]
*[[ヘンリー・マンシーニ]]
*[[エンニオ・モリコーネ]]
*[[ガブリエル・ヤレド]]
*[[林強]]
*[[ミシェル・ルグラン]]
*[[リチャード・ロジャース (作曲家)|リチャード・ロジャース]]
*[[ニーノ・ロータ]]
== プロダクション・デザイナー ==
* [[ユダ・アッコ]]
* [[リック・カーター]]
== タイトルデザイナー ==
* [[カイル・クーパー]]
== VFXスーパーバイザー ==
* [[デニス・ミューレン]]
*[[ジョン・ノール]]
*[[フィル・ティペット]]
== 衣裳デザイナー ==
* [[イーディス・ヘッド]]
== 編集技師 ==
* [[ディディ・アレン]]
* [[マイケル・カーン]]
* [[ドン・キャンバーン]]
* [[アン・V・コーツ]]
* [[アーサー・シュミット]]
* [[ピエトロ・スカリア]]
* [[セルマ・スクーンメーカー]]
* [[ラルフ・ドーソン]]
* [[リチャード・マークス (編集技師)|リチャード・マークス]]
* [[ウォルター・マーチ]]
* [[ダニエル・マンデル]]
* [[ウィリアム・A・リオン]]
* [[ウィリアム・H・レイノルズ]]
== 関連項目 ==
* [[日本の映画スタッフ一覧]]
[[Category:映画スタッフ|*いちらん]]
[[Category:職業別人名一覧|えいかすたつふ]] | null | 2017-03-26T15:26:29Z | false | false | false | [
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9,246 | 日本の映画スタッフ一覧 | 日本の映画スタッフ一覧(にほんのえいがスタッフいちらん)は、日本映画で活躍している映画監督、映画プロデューサー以外のフィルム映画の製作スタッフの一覧を記している。
映画監督は日本の映画監督一覧、映画プロデューサーは映画プロデューサー一覧、日本の映画プロデューサー一覧を参考。 | [
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'''日本の映画スタッフ一覧'''(にほんのえいがスタッフいちらん)は、[[日本映画]]で活躍している[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]以外の[[フィルム]][[映画スタッフ|映画の製作スタッフ]]の一覧を記している。
映画監督は[[日本の映画監督一覧]]、映画プロデューサーは[[映画プロデューサー一覧]]、[[日本の映画プロデューサー一覧]]を参考。
== 脚本 ==
*[[荒井晴彦]]
*[[一色伸幸]]
*[[伊藤和典]]
*[[奥寺佐渡子]]
*[[笠原和夫 (脚本家)]]
*[[宮藤官九郎]]
*[[高橋洋 (映画監督)|高橋洋]]
*[[田中陽造]]
*[[福田靖]]
*[[松枝佳紀]]
*[[真辺克彦]]
*[[森岡利行]]
*[[高須光聖]]
==撮影技師==
*[[安藤庄平]]
*[[猪本雅三]]
*[[沖村志宏]]
*[[木村大作]]
*[[柴主高秀]]
*[[仙元誠三]]
*[[高間賢治]]
*[[高村倉太郎]]
*[[浜田毅]]
*[[姫田真佐久]]
*[[前田米造]]
*[[山本英夫 (映画カメラマン)|山本英夫]]
*[[藤澤順一 (撮影監督)|藤澤順一]]
*[[宮川一夫]]
*[[篠田昇]]
*[[柳島克己]]
*[[中井朝一]]
*[[玉井正夫]]
*[[厚田雄春]]
*[[藤石修]]
*[[佐光朗]]
*[[蔦井孝洋]]
*[[栢野直樹]]
*[[長沼六男]]
*[[斑目重友]]
*[[唐沢悟]]
*[[阿藤正一]]
*[[上田正治]]
*[[北澤弘之]]
*[[さのてつろう]]
*[[安田光]]
==照明技師==
*[[吉角荘介]]
*[[長田達也]]
*[[中須岳士]]
*[[木村太朗]]
*[[高屋齋]]
*[[中村裕樹]]
*[[渡辺三雄]]
*[[中岡源権]]
*[[疋田ヨシタケ]]
*[[水野研一]]
*[[杉本崇]]
*[[大久保武志]]
*[[小野晃]]
*[[加瀬弘行]]
*[[佐野武治]]
==美術(大道具・背景)==
*[[稲垣尚夫 (美術監督)|稲垣尚夫]]
*[[木村威夫]]
*[[磯見俊裕]]
*[[村木与四郎]]
*[[磯田典宏]]
*[[西岡善信]]
*[[種田陽平]]
*[[相馬直樹 (美術監督)|相馬直樹]]
*[[山崎秀満]]
*[[出川三男]]
*[[福澤勝広]]
*[[山口修 (美術デザイナー)|山口修]]
*[[部谷京子]]
*[[岩城南海子]]
*[[上條安里]]
*[[原田満生]]
*[[吉田孝]]
*[[松宮敏之]]
*[[近藤成之]]
*[[横尾嘉良]]
*[[徳田博]]
==装飾(小道具・持ち道具・消え物)==
* [[松本良二]]
== ロケーションコーディネーター ==
*[[森多夏良]]
==園芸・植木==
==特殊機械効果==
*[[三輪野勇]]
*[[田中豊夫]]
*[[金子久夫]]
*[[鹿山和男]]
*[[木本秀一]]
*[[関根義雄]]
*[[落合保雄]]
*[[長谷川忠治]]
*[[多正行]]
*[[平山茂]]
*[[露木聡]]
*[[赤岡修]]
*[[上竹寛一]]
==編集技師==
*[[宮島竜治]]
*[[田口拓也]]
*[[川島章正]]
*[[穂垣順之助]]
*[[阿部亙英]]
*[[掛須秀一]]
*[[太田義則]]
*[[石井巌]]
*[[今井剛]]
*[[大畑英亮]]
*[[奥原好幸]]
*[[菊池純一 (編集技師)|菊池純一]]
*[[上野聡一]]
*[[平澤政吾]]
*[[普嶋信一]]
*[[米田武朗]]
*[[小池義幸]]
==視覚効果==
==特殊効果(SFX)==
==合成技師==
==音楽==
*[[梅林茂]]
*[[伊福部昭]]
*[[大野雄二]]
*[[千住明]]
*[[冨田勲]]
*[[久石譲]]
*[[武満徹]]
*[[早坂文雄]]
*[[千野秀一]]
*[[池辺晋一郎]]
*[[大島ミチル]]
*[[服部隆之]]
*[[佐藤直紀]]
*[[岩代太郎]]
==録音技師(効果音・整音・音響)==
*[[小野寺修]]
*[[郡弘道]]
*[[伊藤裕規]]
*[[岸田和美]]
*[[高野泰雄]]
*[[武進 (録音技師)|武進]]
*[[鶴巻仁]]
*[[加来昭彦]]
*[[柿澤潔]]
*[[阿部茂]]
*[[米山靖]]
*[[志満順一]]
*[[松陰信彦]]
*[[瀬川徹夫]]
*[[宮永晋]]
*[[橋本文雄]]
*[[安藤精八]]
==衣装(スタイリスト)==
*[[黒澤和子]]
*[[宮本まさ江]]
* [[ワダ・エミ|和田恵美子]]
* [[伊賀大介]]
== 結髪(床山) ==
== 化粧(美粧) ==
== 記録(スクリプター) ==
* [[今村治子]]
* [[黒岩美穂子]]
* [[白鳥あかね]]
* [[堀北昌子]]
== 殺陣師(擬斗・技闘) ==
* [[久世浩|伊藤浩市]]
* [[久世竜]]
* [[國井正廣]]
* [[佐々木修平]]
* [[高倉英二]]
* [[高瀬将嗣]]
* [[二家本辰巳]]
== スタントマン ==
* [[渥美博]]
* [[雨宮正信]]
* [[大友千秋]]
* [[大西正昭]]
* [[黒子昭]]
* [[宍戸大全]]
* [[野呂慎治]]
* [[三石千尋]]
== 特殊メイク ==
* [[原口智生]]
== 火薬技師(発砲) ==
* [[坂本佐幸]]
* [[渡辺忠昭]]
* [[納富貴久男]]
* [[久米攻]]
== 操演 ==
== 水中カメラ ==
== 馬術 ==
== スチール ==
== 車輛(ドライバー) ==
== 関連項目 ==
* [[映画スタッフ一覧]]
* [[日本映画]]
* [[映画スタッフ]]
[[Category:職業別人名一覧|にほんのえいがすたつふ]]
[[Category:映画スタッフ|*にほんのいちらん]]
[[Category:日本の人物一覧|えいかすたつふ]] | null | 2019-01-19T11:22:22Z | false | false | false | [
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9,253 | メール転送エージェント | メール転送エージェント(メールてんそうエージェント、英語:Mail Transfer Agent または Message Transfer Agent、略称:MTA)は、電子メールを相手方に送信するためのメールサーバ機能における中心的な機能である。
電子メールクライアント(MUA)からSMTPなどでメールを受信する。その後、相手別に振り分け、メール配送エージェント(MDA)へ振り分ける機能を持っている。
MDAとMTAはセットや一体になっている場合も多く、メールサーバ全体のことをMTAという場合もある。
DNSの中で指示する場合には MX(Mail eXchanger)と表記する。
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] | メール転送エージェントは、電子メールを相手方に送信するためのメールサーバ機能における中心的な機能である。 電子メールクライアント(MUA)からSMTPなどでメールを受信する。その後、相手別に振り分け、メール配送エージェント(MDA)へ振り分ける機能を持っている。 MDAとMTAはセットや一体になっている場合も多く、メールサーバ全体のことをMTAという場合もある。 DNSの中で指示する場合には MXと表記する。 | '''メール転送エージェント'''(メールてんそうエージェント、[[英語]]:Mail Transfer Agent または Message Transfer Agent、略称:'''MTA''')は、[[電子メール]]を相手方に送信するための[[メールサーバ]]機能における中心的な機能である。
[[電子メールクライアント]](MUA)から[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]などでメールを受信する。その後、相手別に振り分け、[[メール配送エージェント]](MDA)へ振り分ける機能を持っている。
MDAとMTAはセットや一体になっている場合も多く、[[メールサーバ]]全体のことをMTAという場合もある。
[[Domain Name System|DNS]]の中で指示する場合には '''MX'''(Mail eXchanger)と表記する。
[[File:E-mail.svg]]
== 主なMTA ==
* [[Sendmail]]
* [[Courier-MTA]]
* [[Postfix]]
* [[qmail]]
* [[Exim]]
* [[Apache James]]
* [[Microsoft Exchange Server]]
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[[Category:電子メール]]
[[Category:メール転送エージェント|*]] | null | 2022-10-19T05:54:28Z | false | false | false | [
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"Template:Computer-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%BB%A2%E9%80%81%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88 |
9,254 | プルトニウム | プルトニウム(英・羅: Plutonium 英語: [pluːˈtoʊniəm])は、原子番号94の元素である。元素記号は Pu。アクチノイド元素の一つ。
原子番号92のウラン、93のネプツニウムがそれぞれ太陽系の惑星の天王星、海王星に因んで命名されていたため、これに倣って当時海王星の次の惑星と考えられていた冥王星 pluto から命名された。発見者のグレン・シーボーグは冗談で元素記号に Pu を選んだ。子供が臭いときに叫ぶPee-Yoo!を連想するからだが、特に問題にならずに周期表に採用された。
プルトニュウムなど。
ウラン鉱石中にわずかに含まれていることが知られる以前は、完全な人工元素と考えられていた。超ウラン元素で、放射性元素である。プルトニウム239、プルトニウム241その他いくつかの同位体が存在している。半減期はプルトニウム239の場合約2万4000年(α崩壊による)。比重は19.8で、金属プルトニウムは、ニッケルに似た銀白色の光沢を持つ大変重い金属である(結晶構造は単斜晶)。融点は639.5 °C、沸点は3230 °C(沸点は若干異なる実験値あり)。硝酸や濃硫酸には酸化被膜ができ、溶けない。塩酸や希硫酸などには溶ける。原子価は+3〜+6価(+4価が最も安定)。金属プルトニウムは、特に粉末状態において自然発火することがある。塊の状態でも、湿気を含む大気中では自然発火することがあり、火災の原因となる。プルトニウムとその化合物の化学的な毒性は、他の一般的な重金属と同程度である。またプルトニウムは放射性崩壊によってα線を放出するため、ヒトを含む動物の体内、特に肺に蓄積されると強い発癌性を示すとされている。
原子炉において、ウラン238が中性子を捕獲してウラン239となり、それがβ崩壊してネプツニウム239になり、さらにそれがβ崩壊してプルトニウム239ができる(原子炉内では他のプルトニウム同位体も多数できる)。ウラン238は天然に存在するのでネプツニウム239とプルトニウム239は微量ながら天然にも存在する。また半減期が約8000万年とプルトニウム同位体の中では最も長いプルトニウム244も微量ながら天然に存在する。なお、プルトニウム239およびプルトニウム240とそれらの放射壊変物の飛沫の吸引は 世界保健機関(WHO)の下部機関IARCにより「発癌性がある」(Type1)と勧告されている。
プルトニウムは主に核兵器の原料や、プルサーマル原子力発電におけるMOX燃料として使用される。人工衛星の電源として原子力電池として使用されたこともある。核テロリズム・原子力事故防止のため、プルトニウムの所在は国際機関や各国政府により厳しく監視・管理されている。日本は2020年末時点で、英仏への再処理委託により生じた分を含めて国内に約8.9トン、海外に約37.2トン、合計で約46.1トンのプルトニウム(うち核分裂性は約30.5トン)を保有している。
金属プルトニウムは銀白色であるが、酸化されると黄褐色となる。金属プルトニウムは温度が上がると収縮する。また、結晶構造の対称性が低いため、時間経過と共に脆くなる。
水溶液中では以下の5種類の酸化数を取りうる。
同位体 Pu は、核分裂を起こしやすく生成も容易なため、現代の核兵器における主要な核分裂性物質である。球状プルトニウムの臨界量は16 kgだが、中性子反射体で製作したタンパーを用いて中心方向に中性子を反射させることで10 kg(直径10 cmの球に相当)まで減らすことができる。1 kgのプルトニウムが完全に反応したとすると、20キロトンの TNT 相当の爆発エネルギーを生むことができる。
Pu はα崩壊により U を生成する。U も核分裂を起こしやすいが、親核種の Pu はより核分裂を起こしやすい。また、Pu はアクチニウム系列に含まれている。
同位体 Pu は半減期87年でα崩壊により発熱する。このため熱電変換器と組み合わせた原子力電池とすることで、人間の寿命程度のタイムスケールにおいて保守なしで機能し続ける必要がある機器の電源として利用することができる。実際に、宇宙探査機ガリレオやカッシーニの電源となる同位体電池にも用いられている。また、同様の技術が、アポロ月面探査計画における地震実験にも用いられている。
Pu は植え込み型心臓ペースメーカーの電源にも用いられ、電池交換のために手術を繰り返すリスクを避けるのに役立っていた。近年ではほとんどが一次電池であるヨウ化リチウムを用いているが、2003年時点では50から100個程度のプルトニウム電源のペースメーカーが患者に埋め込まれている。ただし、日本国内ではプルトニウム電源のペースメーカーは使用はもちろんのこと、製造も禁止されている。日本では放射性同位体の規制に抵触するからである。
大部分のプルトニウムは、人工的に生成されたものであるが、天然においては、ごく微量のプルトニウムが、ウラン鉱石中に存在する。これは、U が中性子捕獲により U になり、その後2回のβ崩壊により Pu に変化するためである。この過程は原子炉におけるプルトニウムの生成と同じ反応である。その後は Pu → U → Th → Pa と崩壊していき、最終的にはPbになる。この発見は1952年のことで、結果、ウランに代わって地球上に天然に存在する最も原子番号の大きな元素となった(その前年にはネプツニウムが天然において発見された)。
また、太陽系の誕生以前の超新星爆発で生成された Pu が痕跡量ではあるが現在も残っている。これは、Puの半減期が8千万年と相当に長いからである。ただし、天然においてはプルトニウムの同位体は本当に微量しか存在しない。あくまでウランが宇宙線などが原因で発生する中性子線を吸収した結果、生じているに過ぎず、地球誕生時にプルトニウムが存在していたとしても、ウランよりも半減期が短いため、現在まで存在し続けることは通常ならできないと考えられている。
1972年に、ガボン共和国にあるオクロの天然原子炉で、比較的高濃度の天然プルトニウムが発見された。
環境中のプルトニウムは、ほとんど酸化プルトニウム(IV) (PuO2) の形で存在しているが、これは非常に水に溶けにくい。1000万立方メートルの純水に、プルトニウム原子1個が溶ける程度であるといわれている。
プルトニウムは酸素と容易に反応し、PuO, PuO2 となる。いったん高温で焼き締めた PuO2 は硝酸にも難溶となるが、フッ化水素酸を加えると溶ける。また、その中間の酸化物も生成する。また、ハロゲンとも反応し、PuX3 の形の化合物を作る。PuF4 および PuF6 も見られる。PuOCl, PuOBr および PuOI のようなハロゲン化酸化物も確認されている。
炭素と反応して PuC、窒素と反応して PuN、またケイ素と反応して PuSi2 を形成する。プルトニウムは他のアクチノイド元素と同様、酸化プルトニウム(IV) PuO2 を形成するが、自然環境中では炭酸など酸素を含むイオン(OH, NO2, NO3, SO4)と電荷のある錯体を作る。 こうしてできた錯体は土との親和性が低く、容易に移動する:
強い硝酸酸性溶液を中和して作った PuO2 は、錯体にならない PuO2 重合体を生成しやすい。プルトニウムはまた価数が+3〜+6価の間で変化しやすい。ある溶液のなかでこれら全ての価数で平衡して存在することも珍しくない。
常圧下でもプルトニウムは6種の同素体を持ち、それぞれ結晶構造や密度が大きく異なる。密度は最大のα相と最小のδ相では25 %以上も違う。特に、δ相は負の熱膨張を起こすという特異的性質を持つ。
様々な同素体を持つということが、プルトニウムの機械加工を非常に難しいものにしている。加工時に加わる熱や圧力によって、相が非常に容易に変わってしまうからである。このような複雑な相変化をする原因は完全には解明されていない。最近の研究では、相変化の精密なコンピュータモデルが着目されている。
兵器への利用においては、相の安定性を増し加工性と取り扱いを容易にする目的で、他の金属と合金にして用いられる(数%のガリウムを加えるなど。「プルトニウムガリウム合金」参照)。核兵器においては、プルトニウムのコアを爆縮するための衝撃波も相変化の原因になる。この場合には通常のδ相からより密度の高いα相に変化するので、超臨界状態を実現するのに大いに助けになる。
人類の利用の観点で重要な同位体は Pu(核兵器と原子炉燃料に適)および Pu(原子力電池に適)である。これらは遅発中性子による臨界制御が可能である。一方、同位体 Pu は Pu の中性子捕獲により生成するが、この核種は非常に容易に自発核分裂を起こす。このため Pu は核兵器で使用されるプルトニウムにおいて不純物として重要である。Pu は自発核分裂により中性子をランダムに放出するため、計画した瞬間に正確に連鎖反応を開始させるような制御ができない。つまり爆弾の信頼度および出力を減少させてしまう。
プルトニウムを生産する際にPu のみ生成させることはできず、必ず複数の同位体が混在してしまう。前述の通り Pu は極めて容易に自発核分裂を起こすが、核兵器において Pu が一定量以上存在すると、自発核分裂により核兵器の内部に設計よりも早く核分裂連鎖反応が始まる部分が生じ、そのエネルギーでプルトニウム全体が核分裂を始める前にばらばらに吹き飛んでしまう(過早爆発)。爆縮レンズを用いたインプロージョン型核兵器では Pu が10 %程度以上混入すると過早爆発となるが、ガンバレル型の場合は Pu が1 %前後混入しただけで過早爆発が起きる。このため、プルトニウムを用いる核兵器ではインプロージョン型設計の採用が必須となる。実際に、第二次世界大戦中のアメリカ合衆国による原子爆弾開発(マンハッタン計画)では、ガンバレル型プルトニウム原爆シンマンも設計されていたが、過早爆発を防ぐのは困難として開発が中止されている。結局、核兵器原料とするプルトニウムは Pu の含有量を10 %以下とする必要があるが、これは軽水炉では実現困難なため黒鉛炉を使用して生産される。
Pu の混入という課題は核兵器開発において2つの側面を持つ。一つは混入による過早爆発対策として爆縮レンズ技術を開発する必要が生じ、マンハッタン計画に遅れと障害をもたらしたこと、もう一つは爆縮レンズ技術自体が極めて高度な技術であり、容易に獲得できるものではないため、他国の核開発における技術障壁になったことである。なお Pu の同位対比が約90 %を越えるプルトニウムは兵器級プルトニウム(英語版)と呼ばれる。アメリカ国内で生産された兵器級プルトニウムは、工場によりプルトニウムの同位体比が下表のようになっていた。
一般的な商用原子炉である軽水炉から得られたプルトニウムは少なくとも20%の Pu を含んでおり、原子炉級プルトニウムと呼ばれる。
原子炉級プルトニウムでも核兵器の製造は可能であるが、不安定な原子炉級プルトニウムでは爆発装置の製造が兵器級プルトニウムに比べて困難であり、兵器としての信頼性にも欠けるため、通常は核兵器に用いられることはない。だが、原子炉級プルトニウムを高速増殖炉(日本には「常陽」「もんじゅ」がある)に装荷して原子炉の運転をすると、その炉心の周囲にあるブランケットという部分で高純度の兵器級プルトニウムが生産できる。これまでに「常陽」のブランケットには Pu 同位体純度99.36%のプルトニウムが22kg、「もんじゅ」のブランケットには97.5%のプルトニウムが62kg生成されている。これを再処理工場で取り出すだけで原子爆弾30発以上を製造できる量になるとの主張もある。
プルトニウムの同位体の一つであるプルトニウム238は半減期が約84年と非常に短く、その分単位時間あたりの崩壊熱が非常に大きい。そのため温度勾配を利用した熱電発電用の発熱体として利用することで、電源として利用することができる。宇宙探査機や寒冷地の灯台用の電源として利用される。
1945年以来、約10トンのプルトニウムが、核実験を通じて地球上に放出された。核実験による放射性降下物のため、既に世界中の人体中に1–2 pCi (0.037–0.074 Bq) のプルトニウムが含まれている。また、核実験由来のプルトニウムが地表面の土壌に0.01–0.1 pCi/g (0.37–3.7 Bq/kg) 存在する。このほか、原子力施設などの事故や、再処理工場からの排出により、局地的な汚染が存在する。
プルトニウムの同位体は全て放射性である。このため、単体の金属プルトニウムならびにプルトニウム化合物は全て放射性物質である。化学毒性についてはウランに準ずると考えられている。しかし、その化学毒性が現れるよりもはるかに少ない量で放射線障害が生じると予想されるため、化学毒性のみでプルトニウムの毒性を論ずることはできない。
プルトニウムの急性毒性による半数致死量は経口摂取で32 g、吸入摂取で13 mg。長期的影響の観点では経口摂取で1150 mg、吸入摂取で0.26 mg(潜伏期間として15年以上)である。また、プルトニウム239の年摂取限度(1 mSv/年)は、経口摂取で48 μg(11万 Bq)、呼吸器への吸入では52 ng (120 Bq) である。プルトニウムは人類が初めて作り出した人工核種である。小出裕章は、α線源であるため放射線荷重係数が大きいこと、同じα線源である天然核種のウランなどと比べ半減期が短いため比放射能が高いこと、体内での代謝挙動(肺での不均等被曝は、発癌性が極端に高くなる)の3点から「かつて人類が遭遇した物質のうちでも最高の毒性をもつ」と報告している。プルトニウムの有害性は、体内に取り込んだ場合の内部被曝には特に留意すべきである。
プルトニウムは人体に全く不要な元素である。ヒ素やセレンのようにプルトニウムと同程度の毒性を持ちながら生物学的役割も持つ必須元素も存在するがプルトニウムはヒ素やセレンと異なり生物学的役割は何一つなく必須元素ではない。
プルトニウムを嚥下して消化管に入った場合、そのおよそ0.05 %程度が吸収され、残りは排泄される。吸収された微量のプルトニウムは骨と肝臓にほぼ半々の割合で蓄積され、体外へは排出されにくい。生物学的半減期(体内総量が当初の半分になるまでの期間)はウランやラジウムと比べても非常に長く、一説には骨に50年程度、肝臓に20年程度といわれる。放射線有害性は全てのα線源核種と同じであり、Pu のみが特別というものではない。
最も有害な取り込み経路は、空気中に浮遊するプルトニウム化合物粒子の吸入である。気道から吸入された微粒子は、大部分が気道の粘液によって食道へ送り出されるが、残り(4分の1程度)が肺に沈着する。沈着した粒子は肺に留まるか、胸のリンパ節に取り込まれるか、あるいは血管を経由して骨と肝臓に沈着する。そのため、他のα線・β線放射物質による内部被曝と同様に、国際がん研究機関(IARC)より発癌性があると (Type1) 勧告されている。また、動物実験では発癌性が認められているが、人においてはプルトニウムが原因で発癌したと科学的に判断された例はまだない。α線源であるため、国際放射線防護委員会(ICRP)が定める線量係数では Pu の経口摂取で2.5×10、吸入摂取で1.2×10 と定められ、I(経口摂取2.2×10)や Cs(経口摂取1.3×10)よりも1 Bq当たりの人体への影響が大きいと想定されている(一般には、α線はβ線よりも20倍の危険性があるとされている)。
ATOMICA によると、米国での1974年までのデータとして、最大許容身体負荷量 (1.5kBq) の10–50 %摂取した例が1155例、同50 %以上が158例ある。このうち代表的な2例(世界大戦における原爆製造工場、冷戦期の兵器工場火災でのPu含有ガス吸引)において、24年経過後で肺ガン「致死」は1名、42年経過後の「発症」では肺ガン3例と骨肉腫1例であった。これは被曝のない通常のグループよりも発生率が低い。ただ発症までの潜伏期が40–50年と長年であり、調査対象者も高齢化しており、疑わしい疾病を発症してもプルトニウムを病原と断定しにくいのも事実である。
プルトニウム239の臨界量は、金属の場合、ウラン235の4分の1しかないため、臨界量に近い量のプルトニウムが蓄積しないように注意しなければならない。すなわち形状が重要で、球体のようなコンパクトな形にしてはならないのである。溶液状のプルトニウムは固体より少ない量で臨界量に達する。それが単に溶けるか破片になるのではなく爆発するためには超臨界を大きく越える量を必要とするので、兵器級の核爆発は偶然に生じることはありえない。しかし、ひとたび臨界量に達すれば致死量の放射線が発生する。
臨界事故は過去に何度か起きており、それらのうちのいくつかで死者を出している。核開発の草創期の事故として著名なのが、いわゆる「デーモン・コア」の事例である。1945年8月21日、米国ロスアラモス国立研究所で致死量の放射線を発生させた事故は、6.2 kgの球状プルトニウムを囲んだ炭化タングステンブロックの不注意な取り扱いに起因していた。このとき科学者ハリー・ダリアンは推定510 rem (5.1 Sv) の被曝をし4週間後に死亡した。その9か月後に、別のロスアラモスの科学者ルイス・スローティンは、ベリリウムの反射材、および以前にダリアンの生命を奪ったのとまさに同じプルトニウムコアによる同様の事故で死亡した。2人の科学者の命を奪ったプルトニウムコアは「デーモン・コア」と名づけられた。これらの出来事は、1989年の映画『シャドー・メーカーズ』でかなり正確に描写された。1958年には、ロスアラモスのプルトニウム精製工程で、混合容器の中で臨界量が形成され、クレーン操作員が死亡した。この種の事故が、ソ連等の国で起こった(詳しくは「原子力事故」参照)。1986年にソ連で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故は、大量のプルトニウムの放出を引き起こした。
さらには、金属プルトニウムには発火の危険がある。特に素材が微粒子に分割されている場合が危険である。金属プルトニウムは酸素および水と反応し、自然発火性物質である水素化プルトニウムが蓄積する可能性があり、室温の空気中で発火しうる。プルトニウムが酸化してその容器を壊すとともに、プルトニウムが相当に拡散する。燃えている物質の放射能は危険性が増す。酸化マグネシウムの砂は、プルトニウム火災を消火するための最も有効な素材である。それはヒートシンクとして働き燃えている物質を冷やし、同時に酸素を遮断する。
1969年に米国コロラド州ボルダーの近くにあるロッキーフラッツ工場でプルトニウムが主な発火源になった火災があった。これらの問題を回避するために、どんな形態であれプルトニウムを保管・取り扱う場合は特別の警戒が必要である。一般的に、乾燥した不活性ガスが必要である。
ラジウムあるいは炭素14のような自然に生じる放射性同位体とは対照的に、プルトニウムは冷戦中に核兵器製造のために大量に(数百トン)濃縮・製造・分離されたことは注目すべきである。1944年から1994年までの期間にアメリカ合衆国だけで110トンのプルトニウムを分離し、今なお100トンを保有している。化学兵器、生物兵器と異なり、化学過程ではそれらを破壊することができないので、これらの備蓄は、武器形式であるかどうかに関わらず重大な問題を提起する。余剰の兵器級プルトニウムを処分する1つの提案はそれを高レベルの放射性同位体(例えば使用済み原子炉燃料)と混合することである。こうして潜在的な盗取、あるいはテロリストによる取り扱いを防止する。別の手段としては、ウランとそれを混合し原子炉用燃料(混合酸化物すなわちMOXアプローチ)として消費することである。これは Pu の多くを核分裂により破壊するだけでなく、残りのかなりの部分を核兵器としては役立たない Pu およびより重い同位体に変化させることができる。
日本では、プルトニウムの全ての同位体は 核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律 で、その保管、取り扱いを規制されているとともに、外国為替法の中で国際規制物資として輸出入が規制されている。
最初はウォルター・ラッセルによって存在が予想されていたが、ウラン238に中性子を照射してプルトニウムとネプツニウムを合成することは、1940年に2つのチームが互いに独立に予想した。米国カリフォルニア大学バークレー放射線研究所のエドウィン・M・マクミランとフィリップ・アベルソン、そして英国ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のノーマン・フェザーとイーゴン・ブレッチャーだった。偶然にも、両チームともが、外惑星の並びに似せて、ウランに続く同じ名前を提案していた。
最初に合成・分離したのは1941年2月23日、米国の化学者グレン・セオドア・シーボーグ、エドウィン・M・マクミラン、J・W・ケネディー、およびA・C・ワールで、バークレーの60インチサイクロトロンを使ってウランに重水素を衝突させる方法によってプルトニウム238が合成された。この発見は戦時下だったため秘匿された。マンハッタン計画において、最初のプルトニウム生産炉がオークリッジに建設された。後にプルトニウム生産のための大型炉がワシントン州ハンフォードに建造されたが、このプルトニウムは最初の原子爆弾に使用され、ニューメキシコ州ホワイトサンズのトリニティ実験場で核実験に使われた。また、ここのプルトニウムがプルトニウムの発見からわずか5年後、第二次世界大戦末の1945年、原子爆弾ファットマンとして長崎市に投下された。
冷戦時代を通じて、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の双方で厖大な量のプルトニウムの備蓄が行われた。1982年までに推定300トンのプルトニウムが蓄積された。冷戦の終了とともに、こうしたプルトニウムの備蓄が、核拡散の恐れの焦点となった。2002年にアメリカ合衆国エネルギー省は、アメリカ合衆国国防総省から34トンの余剰の兵器級プルトニウムの所有権を譲り受けた。2003年初頭の時点で、合衆国内にあるいくつかの原子力発電所において、プルトニウムの在庫を焼却する手段として濃縮ウラン燃料からMOX燃料へ転換することが検討されている。
プルトニウムが発見されてから数年の間、その生物学的・物理的特性はほとんど知られていなかった。そこで、合衆国政府およびその代理として活動する私的組織によって一連の放射線人体実験が行われた。第二次世界大戦の間から戦後にわたり、マンハッタン計画やその他の核兵器研究プロジェクトに従事した科学者が、実験動物や人体へのプルトニウムの影響を調べる研究を行った。人体に関しては、末期患者あるいは高齢や慢性病のため余命10年未満の入院患者に対し、(典型的には)5 μgのプルトニウムを含む溶液を注射することにより実施された。この注射は、こうした患者へのインフォームド・コンセントなしに行われた。 | [
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"text": "プルトニウム(英・羅: Plutonium 英語: [pluːˈtoʊniəm])は、原子番号94の元素である。元素記号は Pu。アクチノイド元素の一つ。",
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"text": "原子番号92のウラン、93のネプツニウムがそれぞれ太陽系の惑星の天王星、海王星に因んで命名されていたため、これに倣って当時海王星の次の惑星と考えられていた冥王星 pluto から命名された。発見者のグレン・シーボーグは冗談で元素記号に Pu を選んだ。子供が臭いときに叫ぶPee-Yoo!を連想するからだが、特に問題にならずに周期表に採用された。",
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"text": "プルトニュウムなど。",
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"text": "ウラン鉱石中にわずかに含まれていることが知られる以前は、完全な人工元素と考えられていた。超ウラン元素で、放射性元素である。プルトニウム239、プルトニウム241その他いくつかの同位体が存在している。半減期はプルトニウム239の場合約2万4000年(α崩壊による)。比重は19.8で、金属プルトニウムは、ニッケルに似た銀白色の光沢を持つ大変重い金属である(結晶構造は単斜晶)。融点は639.5 °C、沸点は3230 °C(沸点は若干異なる実験値あり)。硝酸や濃硫酸には酸化被膜ができ、溶けない。塩酸や希硫酸などには溶ける。原子価は+3〜+6価(+4価が最も安定)。金属プルトニウムは、特に粉末状態において自然発火することがある。塊の状態でも、湿気を含む大気中では自然発火することがあり、火災の原因となる。プルトニウムとその化合物の化学的な毒性は、他の一般的な重金属と同程度である。またプルトニウムは放射性崩壊によってα線を放出するため、ヒトを含む動物の体内、特に肺に蓄積されると強い発癌性を示すとされている。",
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"text": "原子炉において、ウラン238が中性子を捕獲してウラン239となり、それがβ崩壊してネプツニウム239になり、さらにそれがβ崩壊してプルトニウム239ができる(原子炉内では他のプルトニウム同位体も多数できる)。ウラン238は天然に存在するのでネプツニウム239とプルトニウム239は微量ながら天然にも存在する。また半減期が約8000万年とプルトニウム同位体の中では最も長いプルトニウム244も微量ながら天然に存在する。なお、プルトニウム239およびプルトニウム240とそれらの放射壊変物の飛沫の吸引は 世界保健機関(WHO)の下部機関IARCにより「発癌性がある」(Type1)と勧告されている。",
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"text": "プルトニウムは主に核兵器の原料や、プルサーマル原子力発電におけるMOX燃料として使用される。人工衛星の電源として原子力電池として使用されたこともある。核テロリズム・原子力事故防止のため、プルトニウムの所在は国際機関や各国政府により厳しく監視・管理されている。日本は2020年末時点で、英仏への再処理委託により生じた分を含めて国内に約8.9トン、海外に約37.2トン、合計で約46.1トンのプルトニウム(うち核分裂性は約30.5トン)を保有している。",
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"text": "金属プルトニウムは銀白色であるが、酸化されると黄褐色となる。金属プルトニウムは温度が上がると収縮する。また、結晶構造の対称性が低いため、時間経過と共に脆くなる。",
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"text": "水溶液中では以下の5種類の酸化数を取りうる。",
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"text": "同位体 Pu は、核分裂を起こしやすく生成も容易なため、現代の核兵器における主要な核分裂性物質である。球状プルトニウムの臨界量は16 kgだが、中性子反射体で製作したタンパーを用いて中心方向に中性子を反射させることで10 kg(直径10 cmの球に相当)まで減らすことができる。1 kgのプルトニウムが完全に反応したとすると、20キロトンの TNT 相当の爆発エネルギーを生むことができる。",
"title": "利用"
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"text": "Pu はα崩壊により U を生成する。U も核分裂を起こしやすいが、親核種の Pu はより核分裂を起こしやすい。また、Pu はアクチニウム系列に含まれている。",
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"text": "同位体 Pu は半減期87年でα崩壊により発熱する。このため熱電変換器と組み合わせた原子力電池とすることで、人間の寿命程度のタイムスケールにおいて保守なしで機能し続ける必要がある機器の電源として利用することができる。実際に、宇宙探査機ガリレオやカッシーニの電源となる同位体電池にも用いられている。また、同様の技術が、アポロ月面探査計画における地震実験にも用いられている。",
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"text": "Pu は植え込み型心臓ペースメーカーの電源にも用いられ、電池交換のために手術を繰り返すリスクを避けるのに役立っていた。近年ではほとんどが一次電池であるヨウ化リチウムを用いているが、2003年時点では50から100個程度のプルトニウム電源のペースメーカーが患者に埋め込まれている。ただし、日本国内ではプルトニウム電源のペースメーカーは使用はもちろんのこと、製造も禁止されている。日本では放射性同位体の規制に抵触するからである。",
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"text": "大部分のプルトニウムは、人工的に生成されたものであるが、天然においては、ごく微量のプルトニウムが、ウラン鉱石中に存在する。これは、U が中性子捕獲により U になり、その後2回のβ崩壊により Pu に変化するためである。この過程は原子炉におけるプルトニウムの生成と同じ反応である。その後は Pu → U → Th → Pa と崩壊していき、最終的にはPbになる。この発見は1952年のことで、結果、ウランに代わって地球上に天然に存在する最も原子番号の大きな元素となった(その前年にはネプツニウムが天然において発見された)。",
"title": "天然での存在"
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"text": "また、太陽系の誕生以前の超新星爆発で生成された Pu が痕跡量ではあるが現在も残っている。これは、Puの半減期が8千万年と相当に長いからである。ただし、天然においてはプルトニウムの同位体は本当に微量しか存在しない。あくまでウランが宇宙線などが原因で発生する中性子線を吸収した結果、生じているに過ぎず、地球誕生時にプルトニウムが存在していたとしても、ウランよりも半減期が短いため、現在まで存在し続けることは通常ならできないと考えられている。",
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"text": "1972年に、ガボン共和国にあるオクロの天然原子炉で、比較的高濃度の天然プルトニウムが発見された。",
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"text": "環境中のプルトニウムは、ほとんど酸化プルトニウム(IV) (PuO2) の形で存在しているが、これは非常に水に溶けにくい。1000万立方メートルの純水に、プルトニウム原子1個が溶ける程度であるといわれている。",
"title": "天然での存在"
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"text": "プルトニウムは酸素と容易に反応し、PuO, PuO2 となる。いったん高温で焼き締めた PuO2 は硝酸にも難溶となるが、フッ化水素酸を加えると溶ける。また、その中間の酸化物も生成する。また、ハロゲンとも反応し、PuX3 の形の化合物を作る。PuF4 および PuF6 も見られる。PuOCl, PuOBr および PuOI のようなハロゲン化酸化物も確認されている。",
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"text": "炭素と反応して PuC、窒素と反応して PuN、またケイ素と反応して PuSi2 を形成する。プルトニウムは他のアクチノイド元素と同様、酸化プルトニウム(IV) PuO2 を形成するが、自然環境中では炭酸など酸素を含むイオン(OH, NO2, NO3, SO4)と電荷のある錯体を作る。 こうしてできた錯体は土との親和性が低く、容易に移動する:",
"title": "化合物"
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"text": "強い硝酸酸性溶液を中和して作った PuO2 は、錯体にならない PuO2 重合体を生成しやすい。プルトニウムはまた価数が+3〜+6価の間で変化しやすい。ある溶液のなかでこれら全ての価数で平衡して存在することも珍しくない。",
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"text": "常圧下でもプルトニウムは6種の同素体を持ち、それぞれ結晶構造や密度が大きく異なる。密度は最大のα相と最小のδ相では25 %以上も違う。特に、δ相は負の熱膨張を起こすという特異的性質を持つ。",
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"text": "様々な同素体を持つということが、プルトニウムの機械加工を非常に難しいものにしている。加工時に加わる熱や圧力によって、相が非常に容易に変わってしまうからである。このような複雑な相変化をする原因は完全には解明されていない。最近の研究では、相変化の精密なコンピュータモデルが着目されている。",
"title": "同素体"
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"text": "兵器への利用においては、相の安定性を増し加工性と取り扱いを容易にする目的で、他の金属と合金にして用いられる(数%のガリウムを加えるなど。「プルトニウムガリウム合金」参照)。核兵器においては、プルトニウムのコアを爆縮するための衝撃波も相変化の原因になる。この場合には通常のδ相からより密度の高いα相に変化するので、超臨界状態を実現するのに大いに助けになる。",
"title": "同素体"
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"text": "人類の利用の観点で重要な同位体は Pu(核兵器と原子炉燃料に適)および Pu(原子力電池に適)である。これらは遅発中性子による臨界制御が可能である。一方、同位体 Pu は Pu の中性子捕獲により生成するが、この核種は非常に容易に自発核分裂を起こす。このため Pu は核兵器で使用されるプルトニウムにおいて不純物として重要である。Pu は自発核分裂により中性子をランダムに放出するため、計画した瞬間に正確に連鎖反応を開始させるような制御ができない。つまり爆弾の信頼度および出力を減少させてしまう。",
"title": "同位体とその利用特性"
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"text": "プルトニウムを生産する際にPu のみ生成させることはできず、必ず複数の同位体が混在してしまう。前述の通り Pu は極めて容易に自発核分裂を起こすが、核兵器において Pu が一定量以上存在すると、自発核分裂により核兵器の内部に設計よりも早く核分裂連鎖反応が始まる部分が生じ、そのエネルギーでプルトニウム全体が核分裂を始める前にばらばらに吹き飛んでしまう(過早爆発)。爆縮レンズを用いたインプロージョン型核兵器では Pu が10 %程度以上混入すると過早爆発となるが、ガンバレル型の場合は Pu が1 %前後混入しただけで過早爆発が起きる。このため、プルトニウムを用いる核兵器ではインプロージョン型設計の採用が必須となる。実際に、第二次世界大戦中のアメリカ合衆国による原子爆弾開発(マンハッタン計画)では、ガンバレル型プルトニウム原爆シンマンも設計されていたが、過早爆発を防ぐのは困難として開発が中止されている。結局、核兵器原料とするプルトニウムは Pu の含有量を10 %以下とする必要があるが、これは軽水炉では実現困難なため黒鉛炉を使用して生産される。",
"title": "同位体とその利用特性"
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"text": "Pu の混入という課題は核兵器開発において2つの側面を持つ。一つは混入による過早爆発対策として爆縮レンズ技術を開発する必要が生じ、マンハッタン計画に遅れと障害をもたらしたこと、もう一つは爆縮レンズ技術自体が極めて高度な技術であり、容易に獲得できるものではないため、他国の核開発における技術障壁になったことである。なお Pu の同位対比が約90 %を越えるプルトニウムは兵器級プルトニウム(英語版)と呼ばれる。アメリカ国内で生産された兵器級プルトニウムは、工場によりプルトニウムの同位体比が下表のようになっていた。",
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"text": "一般的な商用原子炉である軽水炉から得られたプルトニウムは少なくとも20%の Pu を含んでおり、原子炉級プルトニウムと呼ばれる。",
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"text": "原子炉級プルトニウムでも核兵器の製造は可能であるが、不安定な原子炉級プルトニウムでは爆発装置の製造が兵器級プルトニウムに比べて困難であり、兵器としての信頼性にも欠けるため、通常は核兵器に用いられることはない。だが、原子炉級プルトニウムを高速増殖炉(日本には「常陽」「もんじゅ」がある)に装荷して原子炉の運転をすると、その炉心の周囲にあるブランケットという部分で高純度の兵器級プルトニウムが生産できる。これまでに「常陽」のブランケットには Pu 同位体純度99.36%のプルトニウムが22kg、「もんじゅ」のブランケットには97.5%のプルトニウムが62kg生成されている。これを再処理工場で取り出すだけで原子爆弾30発以上を製造できる量になるとの主張もある。",
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"text": "プルトニウムの同位体の一つであるプルトニウム238は半減期が約84年と非常に短く、その分単位時間あたりの崩壊熱が非常に大きい。そのため温度勾配を利用した熱電発電用の発熱体として利用することで、電源として利用することができる。宇宙探査機や寒冷地の灯台用の電源として利用される。",
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"text": "1945年以来、約10トンのプルトニウムが、核実験を通じて地球上に放出された。核実験による放射性降下物のため、既に世界中の人体中に1–2 pCi (0.037–0.074 Bq) のプルトニウムが含まれている。また、核実験由来のプルトニウムが地表面の土壌に0.01–0.1 pCi/g (0.37–3.7 Bq/kg) 存在する。このほか、原子力施設などの事故や、再処理工場からの排出により、局地的な汚染が存在する。",
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"title": "毒性"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "最も有害な取り込み経路は、空気中に浮遊するプルトニウム化合物粒子の吸入である。気道から吸入された微粒子は、大部分が気道の粘液によって食道へ送り出されるが、残り(4分の1程度)が肺に沈着する。沈着した粒子は肺に留まるか、胸のリンパ節に取り込まれるか、あるいは血管を経由して骨と肝臓に沈着する。そのため、他のα線・β線放射物質による内部被曝と同様に、国際がん研究機関(IARC)より発癌性があると (Type1) 勧告されている。また、動物実験では発癌性が認められているが、人においてはプルトニウムが原因で発癌したと科学的に判断された例はまだない。α線源であるため、国際放射線防護委員会(ICRP)が定める線量係数では Pu の経口摂取で2.5×10、吸入摂取で1.2×10 と定められ、I(経口摂取2.2×10)や Cs(経口摂取1.3×10)よりも1 Bq当たりの人体への影響が大きいと想定されている(一般には、α線はβ線よりも20倍の危険性があるとされている)。",
"title": "毒性"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ATOMICA によると、米国での1974年までのデータとして、最大許容身体負荷量 (1.5kBq) の10–50 %摂取した例が1155例、同50 %以上が158例ある。このうち代表的な2例(世界大戦における原爆製造工場、冷戦期の兵器工場火災でのPu含有ガス吸引)において、24年経過後で肺ガン「致死」は1名、42年経過後の「発症」では肺ガン3例と骨肉腫1例であった。これは被曝のない通常のグループよりも発生率が低い。ただ発症までの潜伏期が40–50年と長年であり、調査対象者も高齢化しており、疑わしい疾病を発症してもプルトニウムを病原と断定しにくいのも事実である。",
"title": "毒性"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "プルトニウム239の臨界量は、金属の場合、ウラン235の4分の1しかないため、臨界量に近い量のプルトニウムが蓄積しないように注意しなければならない。すなわち形状が重要で、球体のようなコンパクトな形にしてはならないのである。溶液状のプルトニウムは固体より少ない量で臨界量に達する。それが単に溶けるか破片になるのではなく爆発するためには超臨界を大きく越える量を必要とするので、兵器級の核爆発は偶然に生じることはありえない。しかし、ひとたび臨界量に達すれば致死量の放射線が発生する。",
"title": "臨界管理"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "臨界事故は過去に何度か起きており、それらのうちのいくつかで死者を出している。核開発の草創期の事故として著名なのが、いわゆる「デーモン・コア」の事例である。1945年8月21日、米国ロスアラモス国立研究所で致死量の放射線を発生させた事故は、6.2 kgの球状プルトニウムを囲んだ炭化タングステンブロックの不注意な取り扱いに起因していた。このとき科学者ハリー・ダリアンは推定510 rem (5.1 Sv) の被曝をし4週間後に死亡した。その9か月後に、別のロスアラモスの科学者ルイス・スローティンは、ベリリウムの反射材、および以前にダリアンの生命を奪ったのとまさに同じプルトニウムコアによる同様の事故で死亡した。2人の科学者の命を奪ったプルトニウムコアは「デーモン・コア」と名づけられた。これらの出来事は、1989年の映画『シャドー・メーカーズ』でかなり正確に描写された。1958年には、ロスアラモスのプルトニウム精製工程で、混合容器の中で臨界量が形成され、クレーン操作員が死亡した。この種の事故が、ソ連等の国で起こった(詳しくは「原子力事故」参照)。1986年にソ連で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故は、大量のプルトニウムの放出を引き起こした。",
"title": "臨界管理"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "さらには、金属プルトニウムには発火の危険がある。特に素材が微粒子に分割されている場合が危険である。金属プルトニウムは酸素および水と反応し、自然発火性物質である水素化プルトニウムが蓄積する可能性があり、室温の空気中で発火しうる。プルトニウムが酸化してその容器を壊すとともに、プルトニウムが相当に拡散する。燃えている物質の放射能は危険性が増す。酸化マグネシウムの砂は、プルトニウム火災を消火するための最も有効な素材である。それはヒートシンクとして働き燃えている物質を冷やし、同時に酸素を遮断する。",
"title": "臨界管理"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1969年に米国コロラド州ボルダーの近くにあるロッキーフラッツ工場でプルトニウムが主な発火源になった火災があった。これらの問題を回避するために、どんな形態であれプルトニウムを保管・取り扱う場合は特別の警戒が必要である。一般的に、乾燥した不活性ガスが必要である。",
"title": "臨界管理"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ラジウムあるいは炭素14のような自然に生じる放射性同位体とは対照的に、プルトニウムは冷戦中に核兵器製造のために大量に(数百トン)濃縮・製造・分離されたことは注目すべきである。1944年から1994年までの期間にアメリカ合衆国だけで110トンのプルトニウムを分離し、今なお100トンを保有している。化学兵器、生物兵器と異なり、化学過程ではそれらを破壊することができないので、これらの備蓄は、武器形式であるかどうかに関わらず重大な問題を提起する。余剰の兵器級プルトニウムを処分する1つの提案はそれを高レベルの放射性同位体(例えば使用済み原子炉燃料)と混合することである。こうして潜在的な盗取、あるいはテロリストによる取り扱いを防止する。別の手段としては、ウランとそれを混合し原子炉用燃料(混合酸化物すなわちMOXアプローチ)として消費することである。これは Pu の多くを核分裂により破壊するだけでなく、残りのかなりの部分を核兵器としては役立たない Pu およびより重い同位体に変化させることができる。",
"title": "余剰兵器の解体で発生するプルトニウム"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本では、プルトニウムの全ての同位体は 核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律 で、その保管、取り扱いを規制されているとともに、外国為替法の中で国際規制物資として輸出入が規制されている。",
"title": "規制"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "最初はウォルター・ラッセルによって存在が予想されていたが、ウラン238に中性子を照射してプルトニウムとネプツニウムを合成することは、1940年に2つのチームが互いに独立に予想した。米国カリフォルニア大学バークレー放射線研究所のエドウィン・M・マクミランとフィリップ・アベルソン、そして英国ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のノーマン・フェザーとイーゴン・ブレッチャーだった。偶然にも、両チームともが、外惑星の並びに似せて、ウランに続く同じ名前を提案していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "最初に合成・分離したのは1941年2月23日、米国の化学者グレン・セオドア・シーボーグ、エドウィン・M・マクミラン、J・W・ケネディー、およびA・C・ワールで、バークレーの60インチサイクロトロンを使ってウランに重水素を衝突させる方法によってプルトニウム238が合成された。この発見は戦時下だったため秘匿された。マンハッタン計画において、最初のプルトニウム生産炉がオークリッジに建設された。後にプルトニウム生産のための大型炉がワシントン州ハンフォードに建造されたが、このプルトニウムは最初の原子爆弾に使用され、ニューメキシコ州ホワイトサンズのトリニティ実験場で核実験に使われた。また、ここのプルトニウムがプルトニウムの発見からわずか5年後、第二次世界大戦末の1945年、原子爆弾ファットマンとして長崎市に投下された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "冷戦時代を通じて、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の双方で厖大な量のプルトニウムの備蓄が行われた。1982年までに推定300トンのプルトニウムが蓄積された。冷戦の終了とともに、こうしたプルトニウムの備蓄が、核拡散の恐れの焦点となった。2002年にアメリカ合衆国エネルギー省は、アメリカ合衆国国防総省から34トンの余剰の兵器級プルトニウムの所有権を譲り受けた。2003年初頭の時点で、合衆国内にあるいくつかの原子力発電所において、プルトニウムの在庫を焼却する手段として濃縮ウラン燃料からMOX燃料へ転換することが検討されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "プルトニウムが発見されてから数年の間、その生物学的・物理的特性はほとんど知られていなかった。そこで、合衆国政府およびその代理として活動する私的組織によって一連の放射線人体実験が行われた。第二次世界大戦の間から戦後にわたり、マンハッタン計画やその他の核兵器研究プロジェクトに従事した科学者が、実験動物や人体へのプルトニウムの影響を調べる研究を行った。人体に関しては、末期患者あるいは高齢や慢性病のため余命10年未満の入院患者に対し、(典型的には)5 μgのプルトニウムを含む溶液を注射することにより実施された。この注射は、こうした患者へのインフォームド・コンセントなしに行われた。",
"title": "歴史"
}
] | プルトニウムは、原子番号94の元素である。元素記号は Pu。アクチノイド元素の一つ。 | {{redirect|Pu|その他の用法|PU}}
{{混同|プロトニウム}}
{{Elementbox
| name = plutonium
| japanese name = プルトニウム
| pronounce = {{IPAc-en|p|l|uː|ˈ|t|oʊ|n|i|əm}}<br />{{Respell|ploo|TOE|nee-əm}}
| number = 94
| symbol = Pu
| left = [[ネプツニウム]]
| right = [[アメリシウム]]
| above = [[サマリウム|Sm]]
| below = [[ウンクアドクアジウム|Uqq]]
| series = アクチノイド
| series comment =
| group = n/a
| period = 7
| block = f
| series color =
| phase color =
| appearance = 銀白色
| image name = Plutonium3.jpg
| image alt = Two shiny pellets about 3 cm in diameter
| image size =
| image name comment =
| image name 2 =
| image size 2 =
| image name 2 comment =
| atomic mass = [244]
| atomic mass 2 =
| atomic mass comment =
| electron configuration = [[[ラドン|Rn]]] 5f{{sup|6}} 7s{{sup|2}}
| electrons per shell = 2, 8, 18, 32, 24, 8, 2
| color =
| phase = 固体
| phase comment =
| density gplstp =
| density gpcm3nrt = 19.816 (α-Pu)
| density gpcm3nrt 2 =
| density gpcm3nrt 3 =
| density gpcm3mp = 16.63
| melting point K = 912.5
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| melting point pressure =
| sublimation point K =
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| sublimation point pressure =
| boiling point K = 3505
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| boiling point pressure =
| triple point K =
| triple point kPa =
| triple point K 2 =
| triple point kPa 2 =
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| critical point MPa =
| heat fusion = 2.82
| heat fusion 2 =
| heat fusion pressure =
| heat vaporization = 333.5
| heat vaporization pressure =
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| heat capacity pressure =
| vapor pressure 1 = 1756
| vapor pressure 10 = 1953
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| vapor pressure 100 k = 3499
| vapor pressure comment =
| crystal structure = 単斜晶系 (α-Pu)
| japanese crystal structure = [[単斜晶系]]
| oxidation states = 7, 6, 5, '''4''', 3([[両性酸化物]])
| oxidation states comment =
| electronegativity = 1.28
| number of ionization energies = 1
| 1st ionization energy=584.7
| 2nd ionization energy =
| 3rd ionization energy =
| atomic radius = 159
| atomic radius calculated =
| covalent radius = 187 ± 1
| Van der Waals radius =
| magnetic ordering = [[常磁性]]<ref name=magnet>[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20120112012253/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf |date=2012-01-12}}, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref>
| electrical resistivity =
| electrical resistivity at 0 = 1.460 μ
| electrical resistivity at 20 =
| thermal conductivity = 6.74
| thermal conductivity 2 =
| thermal diffusivity =
| thermal expansion =
| thermal expansion at 25 = 46.7
| speed of sound = 2260
| speed of sound rod at 20 =
| speed of sound rod at r.t. =
| Tensile strength =
| Young's modulus = 96
| Shear modulus = 43
| Bulk modulus =
| Poisson ratio = 0.21
| Mohs hardness =
| Vickers hardness =
| Brinell hardness =
| CAS number = 7440-07-5
| isotopes = {{Elementbox_isotopes_decay2
| mn = [[プルトニウム238|238]]
| sym = Pu
| na = [[人工放射性同位体|syn]]
| hl = [[1 E9 s|87.74 y]]
| dm1 = [[自発核分裂|SF]]
| de1 = 204.66<ref>[http://www.osti.gov/bridge//product.biblio.jsp?query_id=0&page=0&osti_id=5972980 ''BNL-NCS 51363, vol. II''] (1981), pages 835ff</ref>
| pn1 =
| ps1 = -
| dm2 = [[アルファ崩壊|α]]
| de2 = 5.5
| pn2 = [[ウラン234|234]]
| ps2 = [[ウラン|U]]
}}
{{Elementbox_isotopes_decay2
| mn = [[プルトニウム239|239]]
| sym = Pu
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| hl = [[1 E11 s|{{val|2.41|e=4|u=y}}]]
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| de1= 207.06
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}}
{{Elementbox_isotopes_decay2
| mn = [[プルトニウム240|240]]
| sym = Pu
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}}
{{Elementbox_isotopes_decay2
| mn = [[プルトニウム241|241]]
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}}
{{Elementbox_isotopes_decay2
| mn = [[プルトニウム242|242]]
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{{Elementbox_isotopes_decay2
| mn = [[プルトニウム244|244]]
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| pn2 =
| ps2 = -
}}
| isotopes comment =
}}
'''プルトニウム'''([[英語|英]]・{{lang-la-short|Plutonium}} {{IPA-en|pluːˈtoʊniəm|lang}})は、[[原子番号]]94の[[元素]]である。[[元素記号]]は '''Pu'''。[[アクチノイド元素]]の一つ。
== 名称 ==
原子番号92の[[ウラン]]、93の[[ネプツニウム]]がそれぞれ[[太陽系]]の[[惑星]]の[[天王星]]、[[海王星]]に因んで命名されていたため、これに倣って当時海王星の次の惑星と考えられていた[[冥王星]] ''pluto'' から命名された。発見者の[[グレン・シーボーグ]]は冗談で元素記号に Pu を選んだ。子供が臭いときに叫ぶPee-Yoo!を連想するからだが<ref>Clark, David L.; Hobart, David E. (2000). "Reflections on the Legacy of a Legend: Glenn T. Seaborg, 1912–1999". Los Alamos Science 26: 56–61, on 57.</ref>、特に問題にならずに[[周期表]]に採用された。
=== 表記ゆれ ===
プルトニュウム<ref>{{Cite journal|和書|author=高岡宏 |year=2008 |title=スポーケンを包む自然背景―大地と水― |journal=Mukogawa literary review |ISSN=13409441 |publisher=武庫川女子大学英文学会 |issue=44 |pages=25-40 |naid=120006940011 |doi=10.14993/00001942}}</ref><ref> {{Cite journal|和書|author=西松裕一 |title=資源・エネルギー問題試論 |journal=Journal of MMIJ |ISSN=18816118 |publisher=資源・素材学会 |year=2013 |month=jan |volume=129 |issue=1 |pages=1-10 |naid=10031141144 |doi=10.2473/journalofmmij.129.1}}</ref>など。
== 概要 ==
ウラン[[鉱石]]中にわずかに含まれていることが知られる以前は、完全な[[人工元素]]と考えられていた。[[超ウラン元素]]で、[[放射性元素]]である。[[プルトニウム239]]、[[プルトニウム241]]その他いくつかの[[同位体]]が存在している。[[半減期]]はプルトニウム239の場合約2万4000年([[α崩壊]]による)。[[比重]]は19.8で、金属プルトニウムは、[[ニッケル]]に似た銀白色の光沢を持つ大変重い[[金属]]である([[結晶]]構造は単斜晶)。[[融点]]は639.5 {{℃}}、[[沸点]]は3230 {{℃}}(沸点は若干異なる実験値あり)。[[硝酸]]や[[濃硫酸]]には[[酸化被膜]]ができ、溶けない。[[塩酸]]や[[希硫酸]]などには溶ける。[[原子価]]は+3〜+6価(+4価が最も安定)。金属プルトニウムは、特に粉末状態において[[自然発火]]することがある。塊の状態でも、湿気を含む大気中では自然発火することがあり、火災の原因となる。プルトニウムとその化合物の[[化学]]的な[[毒性]]は、他の一般的な[[重金属]]と同程度である<ref>{{PDFlink|[http://www2.qe.eng.hokudai.ac.jp/nuclear-accident/radio_act/pdf/Q_and_A-25-detail.pdf Q:プルトニウムが敷地内で検出されたようですが、大丈夫でしょうか?]}}[[北海道大学]]工学研究院(2021年7月31日閲覧)</ref>。またプルトニウムは[[放射性崩壊]]によって[[α線]]を放出するため、[[ヒト]]を含む[[動物]]の体内、特に[[肺]]に蓄積されると強い[[発癌性]]を示すとされている。
[[原子炉]]において、[[ウラン238]]が[[中性子]]を捕獲して[[ウラン239]]となり、それが[[β崩壊]]して[[ネプツニウム239]]になり、さらにそれがβ崩壊してプルトニウム239ができる(原子炉内では他のプルトニウム[[同位体]]も多数できる)。ウラン238は天然に存在するのでネプツニウム239とプルトニウム239は微量ながら天然にも存在する。また半減期が約8000万年とプルトニウム同位体の中では最も長い[[プルトニウム244]]も微量ながら天然に存在する。なお、プルトニウム239および[[プルトニウム240]]とそれらの[[放射性崩壊|放射壊変物]]の飛沫の吸引は [[世界保健機関]](WHO)の下部機関IARCにより「発癌性がある」(Type1)と勧告されている。
プルトニウムは主に[[核兵器]]の原料や、[[プルサーマル]][[原子力発電]]における[[MOX燃料]]として使用される。[[人工衛星]]の電源として[[原子力電池]]として使用されたこともある。[[核テロリズム]]・[[原子力事故]]防止のため、プルトニウムの所在は国際機関や各国政府により厳しく監視・管理されている。[[日本]]は2020年末時点で、英仏への[[再処理]]委託により生じた分を含めて国内に約8.9[[トン]]、海外に約37.2トン、合計で約46.1トンのプルトニウム(うち[[核分裂]]性は約30.5トン)を保有している<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP796F8YP79ULBJ002.html 「プルトニウム保有量46トンに 削減方針後、初めて増加」][[朝日新聞デジタル]](2021年7月9日)2021年7月31日閲覧</ref>。
== 特性 ==
金属プルトニウムは銀白色であるが、[[酸化]]されると黄褐色となる。金属プルトニウムは温度が上がると収縮する。また、結晶構造の対称性が低いため、時間経過と共に脆くなる。
[[水溶液]]中では以下の5種類の[[酸化数]]を取りうる。
[[画像:Plutonium in solution.jpg|thumb|410px|プルトニウム塩は様々な色を示す。<br />註:プルトニウム塩水溶液の色は、酸化数だけでなく配位する[[陰イオン]]の種類にも依存する。]]
* +III価 (<chem>Pu^{3+}</chem>) - 青紫色
* +IV価 (<chem>Pu^{4+}</chem>) - 黄褐色
* +V価 (<chem>PuO^{2+}</chem>) - ピンク色と考えられている。+V価の[[イオン]]は溶液中では不安定で、<chem>Pu^{4+}</chem> と <chem>PuO^2^+</chem> に[[不均化]]する。さらにその <chem>Pu^{4+}</chem> は <chem>PuO^{2+}</chem> を <chem>Pu{O2}^{2+}</chem> に酸化し、自身は <chem>Pu^{3+}</chem> になる。このためプルトニウム塩の水溶液は時間が経過すると <chem>Pu^{3+}</chem> と <chem>Pu{O2}^{2+}</chem> の混合物に変化する傾向がある。
* +VI価 (<chem>Pu{O2}^{2+}</chem>) - ピンク・オレンジ色
* +VII価 (<chem>Pu{O5}^{2-}</chem>) - 暗赤色のイオンであり、極端な酸化性雰囲気でのみ生成する。
== 利用 ==
同位体 [[プルトニウム239|{{sup|239}}Pu]] は、[[核分裂反応|核分裂]]を起こしやすく生成も容易なため、現代の核兵器における主要な核分裂性物質である。球状プルトニウムの[[臨界量]]は16 kgだが、[[中性子反射体]]で製作したタンパーを用いて中心方向に[[中性子]]を反射させることで10 kg(直径10 cmの球に相当)まで減らすことができる。1 kgのプルトニウムが完全に反応したとすると、20[[キロトン]]の [[トリニトロトルエン|TNT]] 相当の爆発エネルギーを生むことができる。
{{sup|239}}Pu はα崩壊により [[ウラン235|{{sup|235}}U]] を生成する。{{sup|235}}U も核分裂を起こしやすいが、親核種の {{sup|239}}Pu はより核分裂を起こしやすい。また、{{sup|239}}Pu は[[アクチニウム系列]]に含まれている。
同位体 [[プルトニウム238|{{sup|238}}Pu]] は半減期87年でα崩壊により発熱する。このため熱電変換器と組み合わせた[[原子力電池]]とすることで、人間の寿命程度のタイムスケールにおいて保守なしで機能し続ける必要がある機器の電源として利用することができる。実際に、宇宙探査機[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]や[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]の電源となる同位体電池にも用いられている。また、同様の技術が、[[アポロ計画|アポロ月面探査計画]]における地震実験にも用いられている。
{{sup|238}}Pu は植え込み型[[心臓ペースメーカー]]の電源にも用いられ、電池交換のために手術を繰り返すリスクを避けるのに役立っていた。近年ではほとんどが[[一次電池]]である[[ヨウ化リチウム]]を用いているが、2003年時点では50から100個程度のプルトニウム電源のペースメーカーが患者に埋め込まれている{{要出典|date=2016-1}}。ただし、日本国内ではプルトニウム電源のペースメーカーは使用はもちろんのこと、製造も禁止されている。日本では[[放射性同位体]]の規制に抵触するからである。
<!--(訳註:日本では放射性同位体の規制のためプルトニウム電源のペースメーカーは使用されていない-->
== 天然での存在 ==
大部分のプルトニウムは、人工的に生成されたものであるが、天然においては、ごく微量のプルトニウムが、ウラン鉱石中に存在する。これは、[[ウラン238|{{sup|238}}U]] が中性子捕獲により [[ウラン239|{{sup|239}}U]] になり、その後2回のβ崩壊により [[プルトニウム239|{{sup|239}}Pu]] に変化するためである。この過程は原子炉におけるプルトニウムの生成と同じ反応である。その後は {{sup|239}}Pu → [[ウラン235|{{sup|235}}U]] → [[トリウム|{{sup|231}}Th]] → [[プロトアクチニウム|{{sup|231}}Pa]] と崩壊していき、最終的には[[鉛|{{sup|207}}Pb]]になる。この発見は1952年のことで、結果、ウランに代わって地球上に天然に存在する最も原子番号の大きな元素となった(その前年には[[ネプツニウム]]が天然において発見された)。
: <chem>^239Pu -> ^235U -> ^231Th -> ^231Pa -> ^207Pb</chem>
{{main|アクチニウム系列}}
また、[[太陽系]]の誕生以前の[[超新星爆発]]で生成された [[プルトニウム244|{{sup|244}}Pu]] が痕跡量ではあるが現在も残っている。これは、{{sup|244}}Puの半減期が8千万年と相当に長いからである。ただし、天然においては[[プルトニウムの同位体]]は本当に微量しか存在しない。あくまでウランが[[宇宙線]]などが原因で発生する中性子線を吸収した結果、生じているに過ぎず、[[地球]]誕生時にプルトニウムが存在していたとしても、ウランよりも半減期が短いため、現在まで存在し続けることは通常ならできないと考えられている。
1972年に、[[ガボン共和国]]にある[[オクロの天然原子炉]]で、比較的高濃度の天然プルトニウムが発見された。
環境中のプルトニウムは、ほとんど[[酸化プルトニウム(IV)]] (PuO{{sub|2}}) の形で存在しているが、これは非常に水に溶けにくい<ref name="Human Health Fact Sheet"/>。1000万[[立方メートル]]の[[純水]]に、プルトニウム原子1個が溶ける程度であるといわれている。
== 化合物 ==
プルトニウムは[[酸素]]と容易に反応し、PuO, PuO{{sub|2}} となる。いったん高温で焼き締めた PuO{{sub|2}} は[[硝酸]]にも難溶となるが、[[フッ化水素酸]]を加えると溶ける<ref>The Chemistry of Actinide Elements Argonne National Laboratory</ref>。また、その中間の酸化物も生成する。また、[[ハロゲン]]とも反応し、PuX{{sub|3}} の形の化合物を作る。PuF{{sub|4}} および PuF{{sub|6}} も見られる。PuOCl, PuOBr および PuOI のようなハロゲン化酸化物も確認されている。
[[炭素]]と反応して PuC、[[窒素]]と反応して PuN、また[[ケイ素]]と反応して PuSi{{sub|2}} を形成する。プルトニウムは他のアクチノイド元素と同様、[[酸化プルトニウム(IV)]] PuO{{sub|2}} を形成するが、自然環境中では[[炭酸]]など酸素を含むイオン({{chem2|OH−}}, {{chem2|NO2-}}, {{chem2|NO3-}}, {{chem2|SO4(2-)}})と[[電荷]]のある[[錯体]]を作る。
こうしてできた錯体は[[土]]との親和性が低く、容易に移動する:
* <chem>PuO2(CO3)^2-</chem>
* <chem>PuO2(CO3)2^4-</chem>
* <chem>PuO2(CO3)3^6-</chem>
強い硝酸酸性溶液を[[中和]]して作った PuO{{sub|2}} は、錯体にならない PuO{{sub|2}} [[重合体]]を生成しやすい。プルトニウムはまた価数が+3〜+6価の間で変化しやすい。ある溶液のなかでこれら全ての価数で平衡して存在することも珍しくない。
== 同素体 ==
{{Main|プルトニウムの同素体}}
常圧下でもプルトニウムは6種の[[同素体]]を持ち、それぞれ結晶構造や[[密度]]が大きく異なる。密度は最大のα相と最小のδ相では25 %以上も違う。特に、δ相は[[負の熱膨張]]を起こすという特異的性質を持つ<ref>{{Cite journal|last=Söderlind|first=P.|date=2001-8|title=Ambient pressure phase diagram of plutonium: A unified theory for α-Pu and δ-Pu|url=http://iopscience.iop.org/article/10.1209/epl/i2001-00447-3/meta|journal=EPL (Europhysics Letters)|volume=55|issue=4|pages=525|language=en|doi=10.1209/epl/i2001-00447-3|issn=0295-5075}}</ref>。
{|class="wikitable floatright" style="text-align:center"
|+プルトニウムの同素体<ref name = "Baker1983">
{{Cite journal |url=http://library.lanl.gov/cgi-bin/getfile?07-16.pdf |title=Plutonium: A Wartime Nightmare but a Metallurgist's Dream |last=Baker |first=Richard D. |author2=Hecker, Siegfried S. |author3= Harbur, Delbert R. |journal=Los Alamos Science |date=Winter–Spring 1983 |publisher=Los Alamos National Laboratory |pages=148, 150–151}}</ref><ref>{{Cite book |url=https://books.google.co.jp/books?id=W3FnEOg8tS4C&pg=PA168&redir_esc=y&hl=ja|title = Nuclear forensic analysis| first1 = Kenton James|last1 =Moody|first2 = Ian D.|last2 =Hutcheon|first3 =Patrick M.|last3 =Grant| publisher = CRC Press |isbn = 978-0-8493-1513-8|page = 168|date =2005-02-28}}</ref>
!相!!結晶構造!!密度/(g/cm{{sup|3}})!!安定な温度範囲
|-
!α
|単斜晶(単純格子)||19.86||<115 °C
|-
!β
|単斜晶(体心格子)
|17.70
|115 – 185 °C
|-
!γ
|斜方晶(面心格子)
|17.14
|115 – 310 °C
|-
!δ
|立方晶(面心格子)
|15.92
|310 – 452 °C
|-
!δ′
|正方晶(体心格子)
|16.00
|452 – 480 °C
|-
!ε
|立方晶(体心格子)
|16.51
|480 – 640 °C
|}
様々な同素体を持つということが、プルトニウムの機械加工を非常に難しいものにしている。加工時に加わる熱や圧力によって、相が非常に容易に変わってしまうからである。このような複雑な[[相変化]]をする原因は完全には解明されていない。最近の研究では、相変化の精密なコンピュータモデルが着目されている。
兵器への利用においては、相の安定性を増し加工性と取り扱いを容易にする目的で、他の金属と[[合金]]にして用いられる(数%の[[ガリウム]]を加えるなど。「[[プルトニウムガリウム合金]]」参照)。核兵器においては、プルトニウムのコアを[[爆縮]]するための衝撃波も相変化の原因になる。この場合には通常のδ相からより密度の高いα相に変化するので、超臨界状態{{efn|[[物性物理学]]における[[超臨界]]とは意味が異なることに注意。原子力工学では[[核分裂連鎖反応]]が時間とともに増加することを意味する。}}を実現するのに大いに助けになる。
== 同位体とその利用特性 ==
{{main|プルトニウムの同位体}}
人類の利用の観点で重要な同位体は [[プルトニウム239|{{sup|239}}Pu]](核兵器と原子炉燃料に適)および [[プルトニウム238|{{sup|238}}Pu]](原子力電池に適)である。これらは遅発中性子による臨界制御が可能である。一方、同位体 [[プルトニウム240|{{sup|240}}Pu]] は {{sup|239}}Pu の中性子捕獲により生成するが、この核種は非常に容易に[[自発核分裂]]を起こす。このため {{sup|240}}Pu は核兵器で使用されるプルトニウムにおいて不純物として重要である。{{sup|240}}Pu は自発核分裂により中性子をランダムに放出するため、計画した瞬間に正確に連鎖反応を開始させるような制御ができない。つまり爆弾の信頼度および出力を減少させてしまう。
=== 核兵器原料としてのプルトニウム ===
プルトニウムを生産する際に[[プルトニウム239|{{sup|239}}Pu]] のみ生成させることはできず、必ず複数の同位体が混在してしまう。前述の通り [[プルトニウム240|{{sup|240}}Pu]] は極めて容易に自発核分裂を起こすが、核兵器において {{sup|240}}Pu が一定量以上存在すると、自発核分裂により核兵器の内部に設計よりも早く核分裂連鎖反応が始まる部分が生じ、そのエネルギーでプルトニウム全体が核分裂を始める前にばらばらに吹き飛んでしまう([[不完全核爆発|過早爆発]])。[[爆縮レンズ]]を用いたインプロージョン型核兵器では {{sup|240}}Pu が10 %程度以上混入すると過早爆発となるが、[[ガンバレル型]]の場合は {{sup|240}}Pu が1 %前後混入しただけで過早爆発が起きる。このため、プルトニウムを用いる核兵器ではインプロージョン型設計の採用が必須となる。実際に、[[第二次世界大戦]]中の[[アメリカ合衆国]]による[[原子爆弾]]開発([[マンハッタン計画]])では、ガンバレル型プルトニウム原爆[[Mark 2 (核爆弾)|シンマン]]も設計されていたが、過早爆発を防ぐのは困難として開発が中止されている。結局、核兵器原料とするプルトニウムは {{sup|240}}Pu の含有量を10 %以下とする必要があるが、これは[[軽水炉]]では実現困難なため[[黒鉛炉]]を使用して生産される。
{{sup|240}}Pu の混入という課題は核兵器開発において2つの側面を持つ。一つは混入による過早爆発対策として爆縮レンズ技術を開発する必要が生じ、マンハッタン計画に遅れと障害をもたらしたこと、もう一つは爆縮レンズ技術自体が極めて高度な技術であり、容易に獲得できるものではないため、他国の核開発における技術障壁になったことである。なお {{sup|239}}Pu の同位対比が約90 %を越えるプルトニウムは{{仮リンク|兵器級プルトニウム|en|Weapons-grade#Weapons-grade plutonium}}と呼ばれる。アメリカ国内で生産された兵器級プルトニウムは、工場によりプルトニウムの同位体比が下表のようになっていた<ref>{{Cite book |url=https://nige.files.wordpress.com/2009/10/glasstone-introduction-to-nuclear-weapons-72a.pdf |title=An Introduction to Nuclear Weapons |last1=Samuel |first1=Glasstone |last2=Leslie M. |first2=Redman |date=1972年6月}}</ref>。
{|class="wikitable"
!製造工場
!<chem>^238Pu</chem>
!<chem>^239Pu</chem>
!<chem>^240Pu</chem>
!<chem>^241Pu</chem>
!<chem>^242Pu</chem>
|-
|[[ハンフォード・サイト]]
| rowspan="2" |0.05 %以下
|93.17 %
|6.28 %
|0.54 %
| rowspan="2" |0.05 %以下
|-
|[[サバンナ・リバー・サイト]]
|92.99 %
|6.13 %
|0.86 %
|-
|[[ロッキーフラッツ]]の土壌
|極微量
|93.6 %
|5.8 %
|0.6 %
|極微量
|}
=== 原子炉 ===
一般的な商用原子炉である[[軽水炉]]から得られたプルトニウムは少なくとも20%の {{sup|240}}Pu を含んでおり、原子炉級プルトニウムと呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_1950.html |title=原子炉級プルトニウム |publisher=ATOMICA |date= |accessdate=2021-03-20}}</ref>。
原子炉級プルトニウムでも核兵器の製造は可能であるが<ref>{{Cite web |url=http://www.cnfc.or.jp/j/proposal/reports/ |title=原子炉級プルトニウムと兵器級プルトニウム 調査報告書 |publisher=社団法人 原子燃料政策研究会 |date=2001-05 |accessdate=2021-03-20}}</ref><ref>「使用済み核燃料から核兵器できる? 製造可能、米は実験成功」『[[日本経済新聞]]』2013年11月10日15面。実験成功は1962年、秘密解除は1977年7月。</ref>、不安定な原子炉級プルトニウムでは爆発装置の製造が兵器級プルトニウムに比べて困難であり、兵器としての信頼性にも欠けるため、通常は核兵器に用いられることはない。だが、原子炉級プルトニウムを[[高速増殖炉]](日本には「[[常陽]]」「[[もんじゅ]]」がある)に装荷して原子炉の運転をすると、その炉心の周囲にあるブランケットという部分で高純度の兵器級プルトニウムが生産できる。これまでに「常陽」のブランケットには {{sup|239}}Pu 同位体純度99.36%のプルトニウムが22kg、「もんじゅ」のブランケットには97.5%のプルトニウムが62kg生成されている。これを[[再処理工場]]で取り出すだけで[[原子爆弾]]30発以上を製造できる量になるとの主張もある<ref>槌田敦「日本核武装によるアジア核戦争の恐怖」[http://env01.cool.ne.jp/ss03/ss03042.htm 『核開発に反対する物理研究者の会通信』第42号](2006年12月)</ref>。
=== 原子力電池 ===
プルトニウムの同位体の一つであるプルトニウム238は半減期が約84年と非常に短く、その分単位時間あたりの崩壊熱が非常に大きい。そのため温度勾配を利用した熱電発電用の発熱体として利用することで、電源として利用することができる。[[宇宙探査機]]や寒冷地の[[灯台]]用の電源として利用される。
== 毒性 ==
1945年以来、約10トンのプルトニウムが、[[核実験]]を通じて地球上に放出された。核実験による[[放射性降下物]]のため、既に世界中の人体中に1–2 [[キュリー|pCi]] (0.037–0.074 [[ベクレル|Bq]]) のプルトニウムが含まれている<ref name="名前なし-1">National Academy of Sciences, Committee on International Security and Arms Control (1994). Management and Disposition of Excess Weapons Plutonium.</ref>。また、核実験由来のプルトニウムが地表面の土壌に0.01–0.1 pCi/g (0.37–3.7 Bq/kg) 存在する<ref>松岡理『Plutonium』1993年1月第一号(原子燃料政策委員会発行)</ref>。このほか、原子力施設などの事故や、再処理工場からの排出<ref>今中哲二[http://cnic.jp/modules/smartsection/item.php?itemid=35 「セラフィールド再処理工場からの放射能放出と白血病」]『[[原子力資料情報室]]通信』369号(2005年3月1日)</ref>により、局地的な汚染が存在する。
プルトニウムの同位体は全て放射性である。このため、単体の金属プルトニウムならびにプルトニウム化合物は全て放射性物質である。化学毒性についてはウランに準ずると考えられている<ref>Lawrence Livermore National Laboratory (2006). Scientists resolve 60-year-old plutonium questions. Retrieved on 2006-06-06. http://www.sciencedaily.com/releases/2006/06/060607084030.htm</ref>。しかし、その化学毒性が現れるよりもはるかに少ない量で放射線障害が生じると予想されるため、化学毒性のみでプルトニウムの毒性を論ずることはできない<ref>[[長崎県]]原爆被爆者対策課発行『[http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/renew/information/interna_heal_j/a7.html 放射能Q&A]』</ref><ref name="Pu-risk1">[https://web.archive.org/web/20090805171918/http://www.atomin.go.jp/atomin/high_sch/reference/atomic/plutonium_science/index_05.html プルトニウムの人体影響 : 高等学校 : あとみん-原子力・エネルギー教育支援情報提供サイト]</ref>。
プルトニウムの急性毒性による[[半数致死量]]は経口摂取で32 g、吸入摂取で13 mg<ref name="Pu-risk1" /><ref>[http://on.wsj.com/g6xxMU 「相次ぐヨウ素やプルトニウム検出―我々の生活はどのぐらい危険か」]『[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]日本版』</ref>。長期的影響の観点では経口摂取で1150 mg、吸入摂取で0.26 mg(潜伏期間として15年以上)<ref name="Pu-Tail">松岡理 「プルトニウム物語」</ref><ref name="Pu-pedia">[https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_09-03-01-05.html プルトニウムの毒性と取扱い] 原子力百科事典 ATOMICA</ref>である。また、プルトニウム239の年摂取限度(1 mSv/年)は、経口摂取で48 μg(11万 Bq)、呼吸器への吸入では52 ng (120 Bq) である<ref name="Pu-risk2">[[京都大学複合原子力科学研究所|京都大学原子炉実験所]] 小出裕章:{{PDFlink|[http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/kouen/Pu-risk.pdf プルトニウムという放射能とその被曝の特徴]}}(2006年7月15日)</ref>。プルトニウムは人類が初めて作り出した人工核種である<ref name="Pu-risk2"/>。[[小出裕章]]は、[[α線]]源であるため[[放射線荷重係数]]が大きいこと、同じα線源である天然核種のウランなどと比べ半減期が短いため[[比放射能]]が高いこと、体内での[[代謝]]挙動(肺での不均等被曝は、発癌性が極端に高くなる)の3点から「かつて人類が遭遇した物質のうちでも最高の毒性をもつ」と報告している<ref name="Pu-risk2"/>。プルトニウムの有害性は、体内に取り込んだ場合の内部被曝には特に留意すべきである。
プルトニウムは人体に全く不要な元素である<ref name="丸善出版">[https://pub.maruzen.co.jp/index/kokai/genso/512.pdf プルトニウム] - 丸善出版公式サイト内のPDFファイル。</ref>。[[ヒ素]]や[[セレン]]のようにプルトニウムと同程度の毒性を持ちながら生物学的役割も持つ[[必須元素]]も存在するがプルトニウムはヒ素やセレンと異なり生物学的役割は何一つなく必須元素ではない<ref name="丸善出版"/>。
=== 体内摂取の経路と排出 ===
プルトニウムを嚥下して[[消化管]]に入った場合、そのおよそ0.05 %程度が吸収され、残りは[[排泄]]される<ref name="Human Health Fact Sheet">[[アルゴンヌ国立研究所]]『Human Health Fact Sheet』2001年10月</ref>。吸収された微量のプルトニウムは[[骨]]と[[肝臓]]にほぼ半々の割合で蓄積され、体外へは排出されにくい。生物学的半減期(体内総量が当初の半分になるまでの期間)はウランや[[ラジウム]]と比べても非常に長く、一説には骨に50年程度、肝臓に20年程度といわれる<ref>[http://www.nsc.go.jp/hakusyo/hakusho05/2-1-3.htm 原子力安全委員会資料『原子力安全白書』]</ref><ref>[http://www.physics.isu.edu/radinf/pluto.htm 20 years for liver and 50 years for skeleton] [[アイダホ大学]]</ref>。放射線有害性は全てのα線源核種と同じであり、Pu のみが特別というものではない。
最も有害な取り込み経路は、空気中に浮遊するプルトニウム化合物粒子の吸入である。気道から吸入された微粒子は、大部分が[[気道]]の粘液によって[[食道]]へ送り出されるが、残り(4分の1程度)が肺に沈着する。沈着した粒子は肺に留まるか、胸の[[リンパ節]]に取り込まれるか、あるいは血管を経由して骨と肝臓に沈着する<ref name="Pu-Tail" /><ref name="Pu-pedia" />。そのため、他のα線・[[β線]]放射物質による内部被曝と同様に、[[国際がん研究機関]](IARC)より発癌性があると (Type1) 勧告されている。また、動物実験では発癌性が認められているが、人においてはプルトニウムが原因で発癌したと科学的に判断された例はまだない<ref name="Pu-risk1"/>。α線源であるため、[[国際放射線防護委員会]](ICRP)が定める線量係数<ref>[http://search.kankyo-hoshano.go.jp/food2/Yougo/j_senkeisu.html 実効線量係数]</ref><ref name="remnet1">[http://www.remnet.jp/lecture/b05_01/4_1.html 内部被ばくに関する線量換算係数] (財)原子力安全研究協会</ref>では {{sup|239}}Pu の経口摂取で{{val|2.5|e=7}}、吸入摂取で{{val|1.2|e=-4}} と定められ、{{sup|131}}I(経口摂取{{val|2.2|e=-8}})や {{sup|137}}Cs(経口摂取{{val|1.3|e=-8}})よりも1 Bq当たりの人体への影響が大きいと想定されている(一般には、α線はβ線よりも20倍の危険性があるとされている)。
=== 長期内部被曝の通説に疑義を呈する資料 ===
{{See also|マンハッタン計画|ロスアラモス|ロッキーフラッツ|[[ハンフォード・サイト|ハンフォード]]}}
[[ATOMICA]] によると、米国での1974年までのデータとして、最大許容身体負荷量 (1.5kBq) の10–50 %摂取した例が1155例、同50 %以上が158例ある。このうち代表的な2例([[マンハッタン計画|世界大戦における原爆製造]]工場、[[冷戦]]期の兵器工場火災でのPu含有ガス吸引)において、24年経過後で[[肺癌|肺ガン]]「致死」は1名、42年経過後の「発症」では肺ガン3例と[[骨肉腫]]1例であった。これは被曝のない通常のグループよりも発生率が低い。ただ発症までの潜伏期が40–50年と長年であり、調査対象者も高齢化しており、疑わしい疾病を発症してもプルトニウムを病原と断定しにくいのも事実である<ref name="Pu-pedia" /><ref name="Pu rist">{{ATOMICA|09-03-02-09|プルトニウムの被ばく事故}}</ref><ref name="Pu monka">[https://web.archive.org/web/20110624032325/http://www.atomin.go.jp/reference/atomic/plutonium_science/index04.html あとみん (3)発がん性]</ref>。
== 臨界管理 ==
[[画像:Partially-reflected-plutonium-sphere.jpeg|thumb|left|科学者2人の命を奪った[[デーモン・コア]]]]
プルトニウム239の臨界量は、金属の場合、ウラン235の4分の1しかないため<ref>{{Cite web|和書|url=https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_2421.html |title=最小臨界量 |publisher=ATOMICA |date=2007-02 |accessdate=2021-03-20}}</ref>、臨界量に近い量のプルトニウムが蓄積しないように注意しなければならない。<!--どのような環境に閉じ込められていようとも、核兵器で必要とされるような外部圧力によって閉じ込められていないにもかかわらず、それは自ら熱を出してそれ自体を破損するだろう。-->すなわち形状が重要で、球体のようなコンパクトな形にしてはならないのである。溶液状のプルトニウムは固体より少ない量で臨界量に達する。それが単に溶けるか破片になるのではなく爆発するためには超臨界を大きく越える量を必要とするので、兵器級の核爆発は偶然に生じることはありえない。しかし、ひとたび臨界量に達すれば致死量の放射線が発生する。
臨界事故は過去に何度か起きており、それらのうちのいくつかで死者を出している。核開発の草創期の事故として著名なのが、いわゆる「[[デーモン・コア]]」の事例である。1945年8月21日、米国[[ロスアラモス国立研究所]]で致死量の放射線を発生させた事故は、6.2 kgの球状プルトニウムを囲んだ[[炭化タングステン]]ブロックの不注意な取り扱いに起因していた。このとき科学者ハリー・ダリアンは推定510 rem (5.1 Sv) の被曝をし4週間後に死亡した。その9か月後に、別のロスアラモスの科学者[[ルイス・スローティン]]は、[[ベリリウム]]の反射材、および以前にダリアンの生命を奪ったのとまさに同じプルトニウムコアによる同様の事故で死亡した。2人の科学者の命を奪ったプルトニウムコアは「デーモン・コア」と名づけられた。これらの出来事は、1989年の映画『[[シャドー・メーカーズ]]』でかなり正確に描写された。1958年には、ロスアラモスのプルトニウム精製工程で、混合容器の中で臨界量が形成され、クレーン操作員が死亡した。この種の事故が、[[ソ連]]等の国で起こった(詳しくは「[[原子力事故]]」参照)。1986年にソ連で起きた[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]は、大量のプルトニウムの放出を引き起こした。
さらには、金属プルトニウムには発火の危険がある。特に素材が微粒子に分割されている場合が危険である。金属プルトニウムは酸素および水と反応し、[[自然発火性物質]]である[[水素化プルトニウム]]が蓄積する可能性があり、室温の空気中で発火しうる。プルトニウムが酸化してその容器を壊すとともに、プルトニウムが相当に拡散する。燃えている物質の放射能は危険性が増す。[[酸化マグネシウム]]の砂は、プルトニウム火災を消火するための最も有効な素材である。それはヒートシンクとして働き燃えている物質を冷やし、同時に酸素を遮断する。<!--水も有効である。-->
1969年に米国[[コロラド州]][[ボルダー (コロラド州)|ボルダー]]の近くにあるロッキーフラッツ工場でプルトニウムが主な発火源になった火災があった<ref>Crooks, William J. (2002). Nuclear Criticality Safety Engineering Training Module 10 - Criticality Safety in Material Processing Operations, Part 1. Retrieved on 2006-02-15.</ref>。これらの問題を回避するために、どんな形態であれプルトニウムを保管・取り扱う場合は特別の警戒が必要である。一般的に、乾燥した不活性ガスが必要である<ref>Matlack, George: A Plutonium Primer: An Introduction to Plutonium Chemistry and It's Radioactivity (LA-UR-02-6594)</ref>。
== 余剰兵器の解体で発生するプルトニウム ==
[[ラジウム]]あるいは[[炭素14]]のような自然に生じる放射性同位体とは対照的に、プルトニウムは冷戦中に核兵器製造のために大量に(数百トン)濃縮・製造・分離されたことは注目すべきである。1944年から1994年までの期間にアメリカ合衆国だけで110トンのプルトニウムを分離し、今なお100トンを保有している。[[化学兵器]]、[[生物兵器]]と異なり、化学過程ではそれらを破壊することができないので、これらの備蓄は、武器形式であるかどうかに関わらず重大な問題を提起する。余剰の兵器級プルトニウムを処分する1つの提案はそれを高レベルの放射性同位体(例えば[[使用済み核燃料|使用済み原子炉燃料]])と混合することである。こうして潜在的な盗取、あるいは[[テロリスト]]による取り扱いを防止する。別の手段としては、ウランとそれを混合し原子炉用燃料(混合酸化物すなわち[[MOX]]アプローチ)として消費することである。これは <sup>239</sup>Pu の多くを核分裂により破壊するだけでなく、残りのかなりの部分を核兵器としては役立たない <sup>240</sup>Pu およびより重い同位体に変化させることができる<ref name="名前なし-1"/>。
== 規制 ==
日本では、プルトニウムの全ての同位体は ''[[核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律]]'' で、その保管、取り扱いを規制されているとともに、''[[外国為替法]]''の中で国際規制物資として輸出入が規制されている。
== 歴史 ==
最初はウォルター・ラッセルによって存在が予想されていたが、ウラン238に中性子を照射してプルトニウムとネプツニウムを合成することは、1940年に2つのチームが互いに独立に予想した。米国[[カリフォルニア大学]][[ローレンス・バークレー国立研究所|バークレー放射線研究所]]の[[エドウィン・マクミラン|エドウィン・M・マクミラン]]と[[フィリップ・アベルソン]]、そして英国[[ケンブリッジ大学]][[キャヴェンディッシュ研究所|キャベンディッシュ研究所]]のノーマン・フェザーとイーゴン・ブレッチャーだった。偶然にも、両チームともが、外惑星の並びに似せて、ウランに続く同じ名前を提案していた。
最初に合成・分離したのは[[1941年]][[2月23日]]、米国の化学者[[グレン・シーボーグ|グレン・セオドア・シーボーグ]]、エドウィン・M・マクミラン、J・W・ケネディー、およびA・C・ワールで、バークレーの60[[インチ]][[サイクロトロン]]を使ってウランに[[重水素]]を衝突させる方法によって[[プルトニウム238]]が合成された。この発見は戦時下だったため秘匿された。[[マンハッタン計画]]において、最初のプルトニウム生産炉が[[オークリッジ国立研究所|オークリッジ]]に建設された。後にプルトニウム生産のための大型炉が[[ワシントン州]][[ハンフォード・サイト|ハンフォード]]に建造されたが、このプルトニウムは最初の原子爆弾に使用され、ニューメキシコ州[[ホワイトサンズ (ニューメキシコ州)|ホワイトサンズ]]のトリニティ実験場で[[トリニティ実験|核実験]]に使われた。また、ここのプルトニウムがプルトニウムの発見からわずか5年後、[[第二次世界大戦]]末の[[1945年]]、[[原子爆弾]][[ファットマン]]として[[長崎市]]に[[長崎市への原子爆弾投下|投下]]された。
冷戦時代を通じて、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の双方で厖大な量のプルトニウムの備蓄が行われた。1982年までに推定300トン<!-- 30万 kg -->のプルトニウムが蓄積された。冷戦の終了とともに、こうしたプルトニウムの備蓄が、核拡散の恐れの焦点となった。2002年に[[アメリカ合衆国エネルギー省]]は、[[アメリカ合衆国国防総省]]から34トンの余剰の兵器級プルトニウムの所有権を譲り受けた。2003年初頭の時点で、合衆国内にあるいくつかの原子力発電所において、プルトニウムの在庫を焼却する手段として濃縮ウラン燃料からMOX燃料へ転換することが検討されている。
プルトニウムが発見されてから数年の間、その生物学的・物理的特性はほとんど知られていなかった。そこで、合衆国政府およびその代理として活動する私的組織によって一連の放射線人体実験が行われた。第二次世界大戦の間から戦後にわたり、マンハッタン計画やその他の核兵器研究プロジェクトに従事した科学者が、実験動物や人体へのプルトニウムの影響を調べる研究を行った。人体に関しては、末期患者あるいは高齢や慢性病のため余命10年未満の入院患者に対し、(典型的には)5 μgのプルトニウムを含む溶液を注射することにより実施された。この注射は、こうした患者への[[インフォームド・コンセント]]なしに行われた<ref>Eileen Welsome, The Plutonium Files: America's Secret Medical Experiments in the Cold War、邦訳『プルトニウムファイル』上・下([[翔泳社]])</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}<!--
# Lawrence Livermore National Laboratory (2006). Scientists resolve 60-year-old plutonium questions. Retrieved on 2006-06-06.
# Crooks, William J. (2002). Nuclear Criticality Safety Engineering Training Module 10 - Criticality Safety in Material Processing Operations, Part 1. Retrieved on 2006-02-15.
# Matlack, George: A Plutonium Primer: An Introduction to Plutonium Chemistry and It's Radioactivity (LA-UR-02-6594)
# National Academy of Sciences, Committee on International Security and Arms Control (1994). Management and Disposition of Excess Weapons Plutonium.
# 松岡理『Plutonium』1993年1月第一号(原子燃料政策委員会発行)
# ''Human Health Fact Sheet'' アルゴンヌ国立研究所 2001年10月
# 松岡理『プルトニウム物語』
# ''The Chemistry of Actinide Elements'' Argonne National Laboratory
# ''The Myth of Plutonium Toxicity'' Bernard L. Cohen
# Eileen Welsome, The Plutonium Files: America's Secret Medical Experiments in the Cold War(邦訳 プルトニウムファイル〈上〉〈下〉)-->
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Plutonium}}
* [[グリーンピース (NGO)|グリーンピース]]
* [[原子爆弾]]
* [[原子力電池]]
* [[原子炉]]
* [[グレン・シーボーグ]]
* [[エミリオ・セグレ]]
* [[プルサーマル]]
* [[爆縮レンズ]]
* [[プルトニウム物語 頼れる仲間プルト君]]
* [[赤プル|赤いプルトニウム]]
== 外部リンク ==
* [https://atomica.jaea.go.jp/ 原子力百科事典 ATOMICA トップページ](運営:財団法人 高度情報科学技術研究機構)
** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_04-09-01-01.html プルトニウム核種の生成] (以下、原子力百科事典 ATOMICA)
** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_04-09-01-08.html プルトニウム燃料]
** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_04-09-01-09.html プルトニウム燃料の特徴 ]
** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_09-03-01-05.html プルトニウムの毒性と取扱い]
** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_09-03-02-09.html プルトニウムの被ばく事故]
** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_09-04-03-23.html プルトニウムの放射能濃度測定]
** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_13-05-01-07.html 原爆用と産業用プルトニウムとの組成の比較]
* {{EoE|Plutonium|Plutonium}}
{{元素周期表}}
{{プルトニウムの化合物}}
{{核技術}}
{{発電の種類}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふるとにうむ}}
[[Category:プルトニウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:アクチノイド]]
[[Category:第7周期元素]]
[[Category:核燃料]]
[[Category:核物質]] | 2003-05-24T08:18:56Z | 2023-12-15T06:27:16Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0 |
9,255 | メールサーバ | メールサーバ (英: email server) は、電子メールを配送するためのサーバソフトウェアあるいはサーバコンピュータのこと。
現在、インターネットで使われているものは、POP/SMTPやIMAPを使ったものが主流である。 パソコン通信などではその他のプロトコルを使うものもある。
メールサーバは、相手先を振り分けるメール転送エージェント(MTA)、振り分けられたメールをサーバ内のユーザや別のサーバへ配送するメール配送エージェント(MDA)などに分けることができる。
メールサーバのシェアに関するデータを取得するのは困難であり、信頼できる一次資料はほとんどなく、シェアの計測方法やデータ収集について合意された方法論もない。
インターネットに公開されたシステムの調査では、通常、バナーまたはその他の識別機能を介してシステムを識別しようとする。 その結果として、 Postfixとeximが80%以上のシェアを持つ圧倒的なリーダーとしている。 | [
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] | メールサーバ は、電子メールを配送するためのサーバソフトウェアあるいはサーバコンピュータのこと。 現在、インターネットで使われているものは、POP/SMTPやIMAPを使ったものが主流である。 パソコン通信などではその他のプロトコルを使うものもある。 メールサーバは、相手先を振り分けるメール転送エージェント(MTA)、振り分けられたメールをサーバ内のユーザや別のサーバへ配送するメール配送エージェント(MDA)などに分けることができる。 | '''メールサーバ''' ([[英語|英]]: email server) は、[[電子メール]]を配送するための[[サーバ]][[ソフトウェア]]あるいはサーバ[[コンピュータ]]のこと。
現在、[[インターネット]]で使われているものは、[[Post Office Protocol|POP]]/[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]や[[Internet Message Access Protocol|IMAP]]を使ったものが主流である。 [[パソコン通信]]などではその他の[[通信プロトコル|プロトコル]]を使うものもある。
メールサーバは、相手先を振り分ける[[メール転送エージェント]](MTA)、振り分けられたメールをサーバ内のユーザや別のサーバへ配送する[[メール配送エージェント]](MDA)などに分けることができる。
== 市場シェア ==
メールサーバのシェアに関するデータを取得するのは困難であり、信頼できる一次資料はほとんどなく、シェアの計測方法やデータ収集について合意された方法論もない。
インターネットに公開されたシステムの調査では、通常、バナーまたはその他の識別機能を介してシステムを識別しようとする<ref name="mx" />。 その結果として、 [[Postfix]]と[[exim]]が80%以上のシェアを持つ圧倒的なリーダーとしている<ref>[http://www.securityspace.com/s_survey/data/man.201403/mxsurvey.html Security Space Mail (MX) Server Survey], April 1, 2014.</ref><ref name="mx">{{Cite web|title=Mail (MX) Server Survey|url=http://www.securityspace.com/s_survey/data/man.201811/mxsurvey.html#x4|accessdate=17 December 2018}}</ref>。
== SMTP ==
{{columns-list|
* [[agorum core]]
* [[Apache James]]
* [[Axigen]]
* [[Citadel/UX|Citadel]]
* [[CommuniGate Pro]]
* [[Courier-MTA]]
*[[CyberMail]]
* [[Eudora Internet Mail Server]]
* [[Exim]]
* [[FirstClass]]
* [[Gordano Messaging Suite]]
* [[Halon (software)|Halon]]
* [[Haraka (software)|Haraka]]
* [[HMailServer]]
* [[IBM]] [[Lotus Domino]]
* [[IceWarp Mail Server]]
* [[Ipswitch IMail Server]]
* [[Ironport]]
* [[Kerio Connect]]
* [[MailEnable]]
* [[Mailtraq]]
* [[MDaemon]]
* [[Mercury Mail Transport System]]
* [[MeTA1]]
* [[Microsoft Exchange Server]]
* [[MMDF]]
* [[Novell NetMail]]
* [[OpenSMTPD]]
* [[Openwave Systems]]
* [[Open-Xchange]]
* [[Oracle Beehive]]
* [[Oracle Communications Messaging Server]]
* [[Postfix]]
* Post.Office
* [[qmail]]
* [[Qpopper]]
* [[qpsmtpd]]
* [[Scalix]]
* [[Sendmail]]
* [[Smail]]
* [[SparkEngine]]
* [[Sun Java System]]
* [[Univention Corporate Server]]
*[[Xmail]]
* [[WinGate (computing)|WinGate]]
* [[Zentyal]]
* [[Zimbra]]
* [[ZMailer]]|colwidth=18em}}
== POP / IMAP ==
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* [[agorum core]]
* [[Apache James]]
* [[Axigen]]
* [[Bongo (software)|Bongo]]
* [[Citadel/UX]]
* [[CommuniGate Pro]]
* [[Courier-MTA]]
* [[Cyrus IMAP server]]
* [[Dovecot]]
* [[Eudora Internet Mail Server]]
* [[FirstClass]]
* [[Gordano Messaging Suite]]
* [[GroupWise]]
* [[hMailServer]]
* [[IceWarp Mail Server]]
* [[Ipswitch IMail Server]]
* [[IBM Lotus Domino]]
* [[Kerio Connect]]
* [[Kopano (software)|Kopano]]
* [[Mailtraq]]
* [[MDaemon]]
* [[Mercury Mail Transport System]]
* [[Microsoft Exchange Server]]
* [[Novell NetMail]]
* [[Open-Xchange]]
* [[Oracle Beehive]]
* [[Oracle Communications Messaging Server]]
* [[UW IMAP]]
* [[WinGate (computing)|WinGate]]
* [[Zarafa (software)|Zarafa]]
* [[Zentyal]]
* [[Zimbra]]|colwidth=18em}}
== メールフィルタリング ==
{{columns-list|
* {{仮リンク|Anti-Spam SMTP Proxy|en|Anti-Spam SMTP Proxy}}
* [[Axigen]]
* [[Bogofilter]]
* [[Clearswift#SECURE Email Gateway|Clearswift Secure Email Gateway]]
* [[DSPAM]]
* [[fdm (software)|fdm]]
* [[Gordano Messaging Suite]]
* {{仮リンク|Halon|en|Halon (software)}}
* {{仮リンク|IceWarp Mail Server|en|IceWarp Mail Server}}
* {{仮リンク|MailChannels|en|MailChannels}}
* {{仮リンク|MailScanner|en|MailScanner}}
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* [[MDaemon]]
* {{仮リンク|Mimecast|en|Mimecast}}
* {{仮リンク|MIMEDefang|en|MIMEDefang}}
* {{仮リンク|procmail|en|procmail}}
* {{仮リンク|PureMessage|en|PureMessage}}
* {{仮リンク|SurfControl|en|SurfControl}}
* [[SpamAssassin]]
* {{仮リンク|WinGate|en|WinGate (computing)}}
* {{仮リンク|Webroot|en|Webroot}}
* {{仮リンク|Proofpoint, Inc.|en|Proofpoint, Inc.}}<ref>{{Cite web|url=https://www.proofpoint.com/us/solutions/products/enterprise-protection|title=Information Protection|website=Proofpoint|language=en|access-date=2017-08-30}}</ref>|colwidth=18em}}
== メールサーバーパッケージ ==
* {{仮リンク|Mail-in-a-Box|en|Mail-in-a-Box}}
* iRedmail <ref>https://iredmail.org/</ref>
* Modoboa<ref>https://modoboa.org/</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* {{仮リンク|メールサーバーの比較|en|Comparison of mail servers}}
* [[メール転送エージェント]] (MTA)
* [[メール配送エージェント]] (MDA)
* [[電子メールクライアント]]
* [[電子メール]]
* [[メールマガジン]]
* [[第三者中継]]
* [[スパム (メール)]]
* [[メールアーカイブ]]
{{DEFAULTSORT:めえるさあはあ}}
[[Category:メール転送エージェント|*]]
[[Category:コンピュータ関連の一覧]]
[[Category:メール配送エージェント|*]] | 2003-05-24T08:33:53Z | 2023-12-26T01:10:48Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%90 |
9,256 | メール配送エージェント | メール配送エージェント(メールはいそうエージェント、Mail Delivery Agent、MDA)は、メールサーバの中で、メール転送エージェント(MTA)によって振り分けられた電子メールを受信者に配送する機能。
直接相手に送信するのではなく、別のMTAに送られる場合もある。(リモートMDA)
受信者が自己のサーバ内にある場合は、MTAによってローカル用のメール配送エージェント(ローカルMDA)が選ばれ、ローカルMDAはメールボックスなどへ格納する。
リモートMDAはMTAと一体またはセットになったものが一般的だが、ローカルMDAは、MTAと別のソフトウェアである場合も多い。 | [
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] | メール配送エージェントは、メールサーバの中で、メール転送エージェント(MTA)によって振り分けられた電子メールを受信者に配送する機能。 直接相手に送信するのではなく、別のMTAに送られる場合もある。(リモートMDA) 受信者が自己のサーバ内にある場合は、MTAによってローカル用のメール配送エージェント(ローカルMDA)が選ばれ、ローカルMDAはメールボックスなどへ格納する。 リモートMDAはMTAと一体またはセットになったものが一般的だが、ローカルMDAは、MTAと別のソフトウェアである場合も多い。 | '''メール配送エージェント'''(メールはいそうエージェント、'''Mail Delivery Agent'''、'''MDA''')は、[[メールサーバ]]の中で、[[メール転送エージェント]](MTA)によって振り分けられた[[電子メール]]を受信者に配送する機能。
直接相手に送信するのではなく、別のMTAに送られる場合もある。(リモートMDA)
受信者が自己のサーバ内にある場合は、MTAによってローカル用のメール配送エージェント(ローカルMDA)が選ばれ、ローカルMDAは[[電子メールボックス|メールボックス]]などへ格納する。
リモートMDAはMTAと一体またはセットになったものが一般的だが、ローカルMDAは、MTAと別のソフトウェアである場合も多い。
== MDA実装例 ==
* [[UCB Mail]] (/bin/mail, /usr/bin/mail, /bin/mailx, /usr/bin/mailx)
* [[mail.local]] ([[sendmail]]に付属のMDA。sendmailそのものはMDAではない)
* [[Qpopper]]
* [[Procmail]]
* [[Maildrop]]
* [[Dovecot]]
* [[Qmail|qmail-pop3d]]
{{Computer-stub}}
{{DEFAULTSORT:めえるはいそうええしえんと}}
[[Category:電子メール]]
[[Category:メール配送エージェント|*]] | null | 2022-10-18T14:19:57Z | false | false | false | [
"Template:Computer-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%85%8D%E9%80%81%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88 |
9,257 | MTA | MTA(エムティーエー)
地下鉄やバスなどの公共交通機関の運行を担う地方公共団体の機関で、大都市圏や広域地域圏をその事業範囲とする機関がこの名称を使うことが多い。このような機関はアメリカ各地に約10か所設置されているが、"The Metropolitan Transportation Authority" もしくは単にMTAと言う場合には、「ニューヨーク州都市交通局(Metropolitan Transportation Authority)」あるいはその下位組織である「ニューヨーク市都市交通局 (MTA New York City Transit)」を指すのが一般的。その他、 Los Angeles County Metropolitan Transportation Authority などがある。 | [
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] | MTA(エムティーエー) Mail Transfer Agent メール転送エージェント
Microsoft Technology Associate マイクロソフト テクノロジー アソシエイト マイクロソフトの技術認定資格。 Mineral Trioxide Aggregatet ミネラル三酸化物 地下鉄やバスなどの公共交通機関の運行を担う地方公共団体の機関で、大都市圏や広域地域圏をその事業範囲とする機関がこの名称を使うことが多い。このような機関はアメリカ各地に約10か所設置されているが、"The Metropolitan Transportation Authority" もしくは単にMTAと言う場合には、「ニューヨーク州都市交通局(Metropolitan Transportation Authority)」あるいはその下位組織である「ニューヨーク市都市交通局 (MTA New York City Transit)」を指すのが一般的。その他、 Los Angeles County Metropolitan Transportation Authority などがある。 Metropolitan Transit Authority 大都市圏運輸公社、大都市圏運輸局
Metropolitan Transportation Authority 大都市圏交通公社、大都市圏交通局
Municipal Transportation Agency 市交通局、特にサンフランシスコ市交通局を指す。 株式会社MTA かつてトヨタ自動車が出資して設立したユニット系設備の設計・エンジニアリング会社。トヨタグループ#その他の関連企業参照。 Material Transfer Agreement 物質移動合意書
Milk Tea Alliance ミルクティー同盟 | '''MTA'''(エムティーエー)
; コンピューター分野
* Mail Transfer Agent '''[[メール転送エージェント]]'''
* Microsoft Technology Associate '''マイクロソフト テクノロジー アソシエイト''' マイクロソフトの技術認定資格。
; 物質
* Mineral Trioxide Aggregatet '''[[ミネラル三酸化物]]'''
:: [[根管治療]]に利用される[[保存修復学#合着及び接着用セメント|セメント]]の一種。
; 交通分野
地下鉄やバスなどの公共交通機関の運行を担う地方公共団体の機関で、大都市圏や広域地域圏をその事業範囲とする機関がこの名称を使うことが多い。このような機関は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]各地に約10か所設置されているが、"The Metropolitan Transportation Authority" もしくは単に'''MTA'''と言う場合には、「'''[[ニューヨーク州都市交通局]]'''(''Metropolitan Transportation Authority'')」あるいはその下位組織である「'''[[ニューヨーク市都市交通局]] '''(''MTA New York City Transit'')」を指すのが一般的。その他、 Los Angeles County Metropolitan Transportation Authority などがある。
* Metropolitan Transit Authority '''大都市圏運輸公社'''、'''大都市圏運輸局'''
* Metropolitan Transportation Authority '''大都市圏交通公社'''、'''大都市圏交通局'''
* Municipal Transportation Agency '''市交通局'''、特に'''[[サンフランシスコ市交通局]]''' (''[[:en:Municipal Transportation Agency|San Francisco Municipal Transportation Agency]]'')を指す。
; 企業
* 株式会社MTA かつて[[トヨタ自動車]]が出資して設立したユニット系設備の設計・エンジニアリング会社。[[トヨタグループ#その他の関連企業]]参照。
; その他
* Material Transfer Agreement '''[[物質移動合意書]]'''
* Milk Tea Alliance '''[[ミルクティー同盟]]'''
{{aimai}} | null | 2022-04-22T07:16:39Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/MTA |
9,258 | MDA | MDA | [
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] | MDA マンダリン航空のICAO航空会社コード。
最低飲酒年齢 - 法律で飲酒が認められる年齢。
アメリカミサイル防衛局 - Missile Defense Agencyの略。
メディア開発庁 - シンガポールの政府外郭機関の一つ。Media Development Authorityの略。
メール配送エージェント - Mail Delivery Agentの略。
機雷危険海域 - Mine Danger Areaの略。
海洋状況把握 - Maritime Domain Awarenessの略。
モデル駆動型アーキテクチャ - Model Driven Archtectureの略。
IBM PC用の標準ディスプレイカードMonochrome Display Adapterの略。80x25のテキスト画面を表示可能。白黒。
幻覚剤の一種である3,4-メチレンジオキシアンフェタミン(3,4-methylenedioxyamphetamine)の略。
マロンジアルデヒド (Malondialdehyde) の略
モルドバ共和国のISO 3166-1国名コード。
モルドバ剣道連盟の略。
アメリカの筋ジストロフィー協会。Muscular Dystrophy Associationの略。1966年より開催されている『レイバーデイ・テレソン』で有名。
「VS嵐」の、嵐チームが負けた時の罰ゲーム、Most Dame Arashi(モースト・ダメ・アラシ)の略。
丸の内ダイレクトアクセス(Marunouchi Direct Access) - 大手町・丸の内・有楽町のビル間を結ぶ回線業者。
相互防衛援助
MDA協定 - 日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定の略称。
MDA (企業) | '''MDA'''
* [[マンダリン航空]]の[[国際民間航空機関|ICAO]][[航空会社コード]]。
* 最低飲酒年齢 ('''M'''inimum '''D'''rinking '''A'''ge) - 法律で飲酒が認められる年齢。
* [[アメリカミサイル防衛局]] - '''M'''issile '''D'''efense '''A'''gencyの略。
* [[メディア開発庁]] - [[シンガポール]]の政府外郭機関の一つ。'''M'''edia '''D'''evelopment '''A'''uthorityの略。
* [[メール配送エージェント]] - '''M'''ail '''D'''elivery '''A'''gentの略。
* [[機雷戦|機雷危険海域]] - '''M'''ine '''D'''anger '''A'''reaの略。
* [[海洋状況把握]] - '''M'''aritime '''D'''omain '''A'''warenessの略。
* [[モデル駆動型アーキテクチャ]] - '''M'''odel '''D'''riven '''A'''rchtectureの略。
* [[IBM PC]]用の標準ディスプレイカード[[Monochrome Display Adapter]]の略。80x25のテキスト画面を表示可能。白黒。
* [[幻覚剤]]の一種である3,4-メチレンジオキシアンフェタミン(3,4-'''m'''ethylene'''d'''ioxy'''a'''mphetamine)の略。
* [[マロンジアルデヒド]] (Malondialdehyde) の略
* [[モルドバ|モルドバ共和国]]の[[ISO 3166-1]][[国名コード]]。
* [[モルドバ剣道連盟]] (The Kendo Federation of the Republic of Moldova)の略。
* アメリカの[[筋ジストロフィー]]協会。'''M'''uscular '''D'''ystrophy '''A'''ssociationの略。1966年より開催されている『レイバーデイ・テレソン』で有名。
* 「[[VS嵐]]」の、[[嵐 (グループ)|嵐]]チームが負けた時の[[罰ゲーム]]、'''M'''ost '''D'''ame '''A'''rashi(モースト・ダメ・アラシ)の略。
* 丸の内ダイレクトアクセス('''M'''arunouchi '''D'''irect '''A'''ccess) - 大手町・丸の内・有楽町のビル間を結ぶ回線業者。
* 相互防衛援助('''M'''utual '''D'''efense '''A'''ssistance)
** MDA協定 - [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定]]の略称。
* [[MDA (企業)]]
{{Aimai}}
{{DEFAULTSORT:えむていいええ}} | 2003-05-24T09:03:17Z | 2023-10-04T11:16:29Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/MDA |
9,261 | ヴィットリオ・ストラーロ | ヴィットリオ・ストラーロ(Vittorio Storaro, 1940年6月24日 - )はイタリアのローマ生まれの映画キャメラマン、撮影監督。
映写技師だった父親の推薦で十代でイタリアの国立映画学校に入学し、映画撮影を学ぶ。卒業後はキャメラ・オペレーターや舞台照明の仕事を経験し、1964年に撮影に参加した『革命前夜』でベルナルド・ベルトルッチと知り合い、親交を結ぶ。
その後、ベルトルッチとコンビを組むようになり、1970年に発表された『暗殺の森』では、芸術的な色彩感覚と若手ながらも完成された撮影スタイルにより脚光を浴び、監督であるベルトルッチと共に注目を集める。
以後、『ラストタンゴ・イン・パリ』や『1900年』などベルトルッチとの名コンビぶりを発揮し、70年代後半にはアメリカ映画界にも進出、フランシス・フォード・コッポラ監督『地獄の黙示録』、ウォーレン・ベイティ監督『レッズ』、また再びベルトルッチと組んだ『ラストエンペラー』でアカデミー撮影賞を3度も受賞し、名実共にトップキャメラマンとして活躍している。
「光で書く」(Writing with Light)「色は象徴である」と公言する通り、照明にはかなりの哲学を持っており、その圧倒的な色彩感覚は多くのカメラマンに影響を与え続けている。また、カンヌ映画祭の審査委員や照明デザイナーとしても活躍し、後進の育成や撮影技術の開発、保護などにも尽力を注いでいる。近年ではカルロス・サウラとのコンビが多い。
独自の映像フォーマットUnivisium(アスペクト比2:1、3パーフォレーション)を提唱しており、いくつかの作品はそれに添った形でDVDが再発売されている。
2003年、ICG(国際撮影監督協会)は映画撮影史上最も影響を与えた人物としてビリー・ビッツアー、ジョーダン・クローネンウェス、コンラッド・L・ホール、ジェームズ・ウォン・ハウ、グレッグ・トーランド、ハスケル・ウェクスラー、ゴードン・ウィリス、フレディ・ヤング、ヴィルモス・スィグモンド、スヴェン・ニクヴィストと並んで ヴィットリオ・ストラーロを選出した。 | [
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] | ヴィットリオ・ストラーロはイタリアのローマ生まれの映画キャメラマン、撮影監督。 | {{ActorActress
| 芸名 = Vittorio Storaro
| ふりがな = ヴィットリオ・ストラーロ
| 画像ファイル = VITTORIO STORARO.jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント = 2001年カンヌ国際映画祭にて
| 本名 =
| 別名義 =
| 出生地 = [[ローマ]]
| 死没地 =
| 国籍 = {{ITA}}
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1940
| 生月 = 6
| 生日 = 24
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = 撮影監督
| ジャンル =
| 活動期間 =
| 活動内容 =
| 配偶者 =
| 著名な家族 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー撮影賞|撮影賞]]'''<br />[[第52回アカデミー賞|1979年]]『[[地獄の黙示録]]』<br />[[第54回アカデミー賞|1981年]]『[[レッズ (映画)|レッズ]]』<br />[[第60回アカデミー賞|1987年]]『[[ラストエンペラー]]』
| ヴェネツィア国際映画祭 =
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 撮影賞|撮影賞]]'''<br />[[1990年]]『シェルタリング・スカイ』
| ヨーロッパ映画賞 = '''[[ヨーロッパ映画賞 撮影賞|撮影賞]]'''<br />[[2000年]]『[[ゴヤ]]』
| カンヌ国際映画祭 = '''[[カンヌ国際映画祭 バルカン賞|フランス高等技術委員会賞]]'''<br />[[第51回カンヌ国際映画祭|1998年]]『[[タンゴ]]』
| 全米映画批評家協会賞 = '''撮影賞'''<br />[[1971年]]『[[暗殺の森]]』
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 撮影賞|撮影賞]]'''<br />[[第53回ニューヨーク映画批評家協会賞|1987年]]『ラストエンペラー』<br />[[第56回ニューヨーク映画批評家協会賞|1990年]]『[[シェルタリング・スカイ]]』
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 撮影賞|撮影賞]]'''<br />[[第7回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1981年]]『レッズ』<br />[[第13回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1987年]]『ラストエンペラー』
| エミー賞 = '''撮影賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)'''<br />[[2000年]]『[[デューン/砂の惑星 (テレビドラマ)|デューン/砂の惑星]]』
| ゴヤ賞 = '''撮影賞'''<br />[[1999年]]『ゴヤ』
| その他の賞 =
| 備考 =
}}
'''ヴィットリオ・ストラーロ'''('''Vittorio Storaro''', [[1940年]][[6月24日]] - )は[[イタリア]]の[[ローマ]]生まれの映画[[撮影技師|キャメラマン]]、[[撮影監督]]。
== 略歴 ==
映写技師だった父親の推薦で十代でイタリアの国立映画学校に入学し、映画撮影を学ぶ。卒業後はキャメラ・オペレーターや舞台照明の仕事を経験し、1964年に撮影に参加した『[[革命前夜]]』で[[ベルナルド・ベルトルッチ]]と知り合い、親交を結ぶ。
その後、ベルトルッチとコンビを組むようになり、1970年に発表された『[[暗殺の森]]』では、芸術的な色彩感覚と若手ながらも完成された撮影スタイルにより脚光を浴び、監督であるベルトルッチと共に注目を集める。
以後、『[[ラストタンゴ・イン・パリ]]』や『[[1900年 (映画)|1900年]]』などベルトルッチとの名コンビぶりを発揮し、70年代後半にはアメリカ映画界にも進出、[[フランシス・フォード・コッポラ]]監督『[[地獄の黙示録]]』、[[ウォーレン・ベイティ]]監督『[[レッズ (映画)|レッズ]]』、また再びベルトルッチと組んだ『[[ラストエンペラー]]』で[[アカデミー撮影賞]]を3度も受賞し、名実共にトップキャメラマンとして活躍している。
「光で書く」(''Writing with Light'')「色は象徴である」と公言する通り、照明にはかなりの哲学を持っており、その圧倒的な色彩感覚は多くのカメラマンに影響を与え続けている。また、カンヌ映画祭の審査委員や照明デザイナーとしても活躍し、後進の育成や撮影技術の開発、保護などにも尽力を注いでいる。近年<!--いつ? →WP:DATED-->では[[カルロス・サウラ]]とのコンビが多い。
独自の映像フォーマット[[w:Univisium|Univisium]](アスペクト比2:1、3パーフォレーション)を提唱しており、いくつかの作品はそれに添った形でDVDが再発売されている<ref>『地獄の黙示録』(特別完全版、オリジナル版共に)、『レッズ』、『ラストエンペラー』(東北新社版『ラストエンペラー ディレクターズカット』)</ref>。
2003年、ICG(国際撮影監督協会)は映画撮影史上最も影響を与えた人物として[[ビリー・ビッツアー]]、[[ジョーダン・クローネンウェス]]、[[コンラッド・L・ホール]]、[[ジェームズ・ウォン・ハウ]]、[[グレッグ・トーランド]]、[[ハスケル・ウェクスラー]]、[[ゴードン・ウィリス]]、[[フレディ・ヤング]]、[[ヴィルモス・スィグモンド]]、[[スヴェン・ニクヴィスト]]と並んで ヴィットリオ・ストラーロを選出した。
== 主な作品 ==
* [[歓びの毒牙]] ''L'Uccello dalle piume di cristallo'' (1969)
* [[暗殺のオペラ]] ''Strategia del ragno'' (1969)
* [[暗殺の森]] ''Il Conformista'' (1970)
* 新・殺しのテクニック 次はお前だ! ''Giornata nera per l'ariete'' (1970)
* [[さらば美しき人]] ''Addio, fratello crudele'' (1971)
* [[暗殺者のメロディ]] ''The Assassination of Trotsky'' (1972)
* [[ラストタンゴ・イン・パリ]] ''Ultimo tango a Parigi'' (1972)
* [[青い体験]] ''Malizia'' (1973)
* 明日なき夕陽 ''Blu gang vissero per sempre felici e ammazzati'' (1974)
* [[スキャンダル (1976年のイタリア映画)|スキャンダル]] ''Scandalo'' (1976)
* [[1900年 (映画)|1900年]] ''1900'' ''Novecento'' (1976)
* [[アガサ 愛の失踪事件]] ''Agatha'' (1979)
* [[地獄の黙示録]] ''Apocalypse Now'' (1979)
* [[ルナ (映画)|ルナ]] ''La Luna'' (1979)
* [[レッズ (映画)|レッズ]] ''Reds'' (1981)
* [[ワン・フロム・ザ・ハート]] ''One from the Heart'' (1982)
* [[ワーグナー/偉大なる生涯]] ''Wagner'' (1983) テレビミニシリーズ
* [[レディホーク]] ''Ladyhawk'' (1985)
* [[イシュタール]] ''Ishtar'' (1987)
* [[ラストエンペラー]] ''The Last Emperor'' (1987)
* [[タッカー (映画)|タッカー]] ''Tucker: The Man and His Dream'' (1988)
* [[ニューヨーク・ストーリー]] ''New York Stories'' (1989)
* [[シェルタリング・スカイ]] ''The Sheltering Sky'' (1990)
* [[ディック・トレイシー (映画)|ディック・トレイシー]] ''Dick Tracy'' (1990)
* [[リトル・ブッダ]] ''Little Buddha'' (1993)
* フラメンコ ''Flamenco (de Carlos Saura)'' (1995)
* タクシー ''Taxi'' (1996)
* タンゴ ''Tango, no me dejes nunca'' (1998)
* [[ブルワース]] ''Bulworth'' (1998)
* ゴヤ ''Goya en Burdeos'' (1999)
* ヴァージン・ハンド ''Picking Up the Pieces'' (2000)
* [[エクソシスト・ビギニング]] ''Exorcist: The Beginning'' (2004)
* [[カラヴァッジョ 天才画家の光と影]] ''Caravaggio'' (2007)
* [[ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い]] ''Io, Don Giovanni'' (2009)
* [[フラメンコ・フラメンコ]] ''flamenco,flemenco'' (2010)
* [[カフェ・ソサエティ]] ''Café Society'' (2016)
* [[女と男の観覧車]] ''Wonder Wheel'' (2017)
* [[レイニーデイ・イン・ニューヨーク]] ''A Rainy Day in New York'' (2019)
* ''[[リフキンズ・フェスティバル|Rifkin's Festival]]'' (2020)
== 受賞歴 ==
* 1979年 [[アカデミー賞]]受賞 (撮影賞:『地獄の黙示録』)
* 1981年 アカデミー賞および[[ロサンゼルス映画批評家協会賞]]受賞 (撮影賞:『レッズ』)
* 1987年 アカデミー賞および[[ニューヨーク映画批評家協会賞]]受賞受賞 (撮影賞:『ラストエンペラー』)
* 1990年 ニューヨーク映画批評家協会賞受賞 (撮影賞:『シェルタリング・スカイ』)
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Vittorio Storaro|Vittorio Storaro}}
* {{Official website|storarovittorio.com}}{{it icon}}{{en icon}}
* {{allcinema name|1347|ヴィットリオ・ストラーロ}}
* {{Kinejun name|3127|ヴィットリオ・ストラーロ}}
* {{IMDb name|0005886|Vittorio Storaro}}
{{アカデミー賞撮影賞}}
{{サタジット・レイ生涯功労賞}}
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{{DEFAULTSORT:すとらあろ ういつとりお}}
[[Category:イタリアの撮影監督]]
[[Category:ローマ出身の人物]]
[[Category:アカデミー賞受賞者]]
[[Category:1940年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-05-24T09:51:07Z | 2023-10-19T14:36:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AD |
9,262 | POP | POP ; pop(ポップ、ピーオーピー)
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== アクロニム ==
([[アクロニム]]=[[頭字語]])
===一般名詞===
* [[PoP]] ({{interlang|en|point of presence}}) [https://www.atmarkit.co.jp/icd/root/91/89452491.html] - インターネット・ユーザーが最初に[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]に接続するアクセス・ポイント。
* [[POP広告]] ({{en|point of purchase}}) - [[広告]]の手法。店頭広告。
* [[POP書体]](ポップ体) - 手書き風[[書体]]の種類。由来はPOP広告に用いられる書体であることから。
* [[パッケージ (電子部品)#関連用語|Package on Package]] (PoP) - 半導体パッケージの種類。
* [[残留性有機汚染物質]] ({{en|persistent organic pollutants}})
=== 固有名詞 ===
* [[Post Office Protocol]] - [[電子メール]]をメールサーバから受け取るために使われる[[通信プロトコル]]。現行バージョンはPOP3。
* [[PowerPC Open Platform]] - [[PowerPC]]を用いたPC設計の仕様をオープンとしたもの。[[CHRP]]に引き継がれた。
* [[POP (芸能プロダクション)]] - 映画監督が作った役者や文化人を抱えるタレント事務所。
* [[POP (イラストレーター)]] - [[イラストレーター]]。「[[もえたん]]」のイラストを担当。'''ぽっぷ'''の表記も使用している。
* [[GANG PARADE|POP]] - [[アイドルグループ]]「[[GANG PARADE]]」の旧称。読み方はピーオーピー。略称はピオピ。
* [[P.O.P]] - [[HIPHOP]]バンド。双子ラッパーの上鈴木兄弟率いる日本のHIPHOPバンド。
* [[P・O・P]] - [[THE MAD CAPSULE MARKETS]] のアルバム。
* PoP - Package on Packageの略。[[半導体]]部品のパッケージの一種。[[パッケージ (電子部品)]]を参照。
* Portrait.of.Pirates - [[メガハウス]]が販売する[[ONE PIECE]]キャラクターフィギュアで、同社のフィギュア「エクセレントモデル」内のシリーズ。
* [[POP (山下久美子のアルバム)]] - [[山下久美子]]のアルバム。
* [[POP (B.O.L.Tのアルバム)]] - [[B.O.L.T]]のメジャーデビューアルバム。
== 非アクロニム ==
{{Seealso|ポップ (曖昧さ回避)}}
* [[ポップ・ミュージック]] ({{en|pop music}})
* [[ポップアート]]
* [[ポップ・イラストレーション]] - [[イラストレーション|イラスト]]の作風。
* [[ルービックキューブ]]用語で、回転している際にキューブが弾け飛んでしまうこと。
* [[スタック]](LIFO) からデータを取り出す処理。
* [[吉村秀雄]] - オートバイ技術者。通称「POP吉村」。(このPOPは「おやじ」のような意味。)
== 関連項目 ==
* {{prefix|POP}}
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9,264 | 外挿 | 外挿(がいそう、英: extrapolation)や補外(ほがい)とは、ある既知の数値データを基にして、そのデータの範囲の外側で予想される数値を求めること。またその手法を外挿法(英: extrapolation method)や補外法という。対義語は内挿や補間。
なお、外挿補間という呼び方も広まっているが、本来、補間とは、既知のデータを基にしてそのデータの範囲の内側の数値を予測することであり、内挿の同意語であるから、外挿補間という呼び方は誤りである。
当該数値データを、何らかの関数にあてはめ、数値データの無い範囲(外側)の値を推定する。最も簡単なものは、線形補間をデータ範囲の外側の点に対して適用する外挿(線形外挿、直線外挿)である。他にはリチャードソンの補外、エイトケンのΔ2乗加速法、ステフェンセン変換などがある。
外挿の信頼性はその予測信頼区間によって表示される。予測信頼区間は理論的にとりえない値を含む場合があり、このような場合に外挿結果をそのまま用いることは誤った結果を導く可能性がある。たとえば、有限の値しかとらない変数に対して無限大を定義域として含む関数(一次関数など)を選ぶ場合がそれに該当する。 | [
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] | 外挿や補外(ほがい)とは、ある既知の数値データを基にして、そのデータの範囲の外側で予想される数値を求めること。またその手法を外挿法や補外法という。対義語は内挿や補間。 なお、外挿補間という呼び方も広まっているが、本来、補間とは、既知のデータを基にしてそのデータの範囲の内側の数値を予測することであり、内挿の同意語であるから、外挿補間という呼び方は誤りである。 | {{出典の明記|date=2014年10月10日 (金) 17:33 (UTC)}}
'''外挿'''(がいそう、{{Lang-en-short|extrapolation}})や'''補外'''(ほがい)とは、ある既知の数値データを基にして、そのデータの範囲の外側で予想される数値を求めること。またその手法を'''外挿法'''({{lang-en-short|extrapolation method}})や'''補外法'''という。対義語は[[内挿]]や補間。
なお、外挿補間という呼び方も広まっているが、本来、補間とは、既知のデータを基にしてそのデータの範囲の内側の数値を予測することであり、内挿の同意語であるから、外挿補間という呼び方は誤りである。
== 手法 ==
{{節スタブ}}
当該数値データを、何らかの[[関数 (数学)|関数]]にあてはめ、数値データの無い範囲(外側)の値を推定する。最も簡単なものは、[[線形補間]]をデータ範囲の外側の点に対して適用する外挿(線形外挿、直線外挿)である。他には[[リチャードソンの補外]]、[[エイトケンのΔ2乗加速法]]、[[ステフェンセン変換]]などがある<ref>{{cite|和書 |editor= |author=小澤一文 |title=Cで学ぶ数値計算アルゴリズム |edition= |publisher=共立出版 |year=2008 |isbn=978-4-320-12221-5 |page=173-186}}</ref>。
== 誤った使用例 ==
外挿の信頼性はその予測信頼区間<!--[[予測区間]]と[[信頼区間]]?-->によって表示される。予測信頼区間は理論的にとりえない値を含む場合があり、このような場合に外挿結果をそのまま用いることは誤った結果を導く可能性がある。たとえば、有限の値しかとらない変数に対して[[無限|無限大]]を[[定義域]]として含む関数(一次関数など)を選ぶ場合がそれに該当する<ref>[[計量経済学]]における外挿の問題は {{Cite book | author=Charles F. Manski | title=Identification Problems in the Social Sciences | publisher=Harvard University Press | date=1999 | ISBN=978-0674442849 }} (Chapter 1)に詳しい。</ref>。
* 新しい病気の死亡率は当初急激に上昇するかもしれない。その時、死亡率のグラフを線形的に外挿すると、人口のすべてが数年内にこの病気によって死亡するという結果をもたらす場合がある。実際には、罹患者が死亡した後、生存者はこの病気にかかるのを避けるような行動をとるようになるので、新しく発見された病気の死亡率は低下するのである。さらにいえば、生存者が当初からこの病気に対して免疫をもっていることもありうるし、病気の流行に直面することによって後天的に免疫を得ることもありうる。病気の流行と死亡率の上昇を受けて、治療法も発達するかもしれない。
* 湖の水量が時が経つにつれ減少している場合に線形外挿を行った場合、ある将来時点で水量がゼロとなる。それ以後の期間はマイナスの水量が予測されるが、これは非合理的である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 参考となる図書類 ==
* Avram Sidi: "Practical Extrapolation Methods: Theory and Applications", Cambridge University Press, ISBN 0-521-66159-5 (2003).
* Claude Brezinski and Michela Redivo-Zaglia : "Extrapolation and Rational Approximation", Springer Nature, Switzerland, ISBN 9783030584177, (2020).
== 関連項目 ==
*[[内挿]](補間)
*[[数学]]
*[[統計学]]
*[[数値解析]]
*[[傾向推定]]
*[[線形予測法]]
<!--
== 外部リンク ==-->
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[[Category:統計学]]
[[Category:補間]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2022-08-27T01:40:36Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E6%8C%BF |
9,265 | コンパクト空間 | 位相空間がコンパクト(英: compact, /kəmˈpækt/)であるとは、後述する所定の性質を満たす「性質の良い」空間であり、 R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} 上の有界閉集合の性質を抽象化したもの。
「完閉」という訳語もあるが、ほとんど使われていない。
位相空間Xの部分集合Yに対し、YのXにおける閉包がコンパクトであるときYはXで相対コンパクト(英: relatively compact)であるという。
なおブルバキなどでは、本項でいうコンパクトを準コンパクト(英: quasi-compact)、準コンパクトでハウスドルフの分離公理を満たすものをコンパクトと定義することもある。
R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合は位相空間論的に「性質の良い」空間でXを R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合とすると、例えば以下が成立する事が知られている:
このような「性質の良い」空間を一般の位相空間に拡張して定義したものがコンパクトの概念である。
ただし、「 R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合」という概念自身は、「有界」という距離に依存した概念に基づいているため、一般の位相空間では定義できず、別の角度からコンパクトの概念を定義する必要がある。
そのために用いるのがボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理とハイネ・ボレルの被覆定理である。これらの定理はいずれも「 R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合であれば◯◯」という形の定理であるが、実は逆も成立する事が知られており、 R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} においては
の3つは同値となる。しかも上記の2,3はいずれも位相構造のみを使って記述可能である。
したがって2もしくは3の一方を満たす(同値なので実は2,3の両方を満たす)事をもってコンパクト性を定義する。ただしテクニカルな理由により、上記の2に関しては若干の補正が必要になるが、これについては後述する。
コンパクトの概念は以下に述べる同値な2性質の少なくとも一方(したがって両方)を満たす事により定義される。
1つ目の性質は(有向点族に対する)ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性といい、これは R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合に対するボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理の結論部分を若干拡張した形で定式化したものである。この性質は直観的には点列の拡張概念である有向点族の極限が発散する事がない事を意味する。
コンパクトな空間では有向点族がXの「外」に「発散」する事がないので、X内で「収束」するか「振動」するかのいずれかとなる。よって任意の有向点族には収束する部分列が取れるはずであり、厳密にはこの事実を持ってコンパクト性を定義する。
コンパクトな空間は「Xの外に発散する有向点族がない」という意味において、閉集合よりもさらに「閉じた」空間だと言え、実際ハウスドルフ空間においてはコンパクトな部分集合は必ず閉集合になる事が知られている。こうした事情から、コンパクトな空間には「閉」という接頭辞をつけて呼ぶ事があり、例えばコンパクトな多様体は「閉多様体」と呼ばれる。
コンパクトを特徴づける2つ目の性質(前述のようにこれはボルツァーノ・ワイエルシュトラス性と同値)はハイネ・ボレル性といい、これは R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合に対するハイネ・ボレルの被覆定理の結論部分に相当する性質である。
ハイネ・ボレル性は非常に抽象的な性質なので、その詳細は後の章に譲るが、コンパクトな空間に対する定理を証明する際、無限に伴う証明の困難さを回避するのにこの性質を用いる事ができる。なお、学部レベルの教科書ではハイネ・ボレル性の方をコンパクトの定義として採用しているものが多い。
Xが距離空間(もしくはさらに一般的に一様空間)であれば、上記2つのいずれとも異なる角度からコンパクト性を特徴づける事ができる。距離空間Xがコンパクトである必要十分条件はXが全有界かつ完備である事である。ここで全有界性とは、有界性を強めた条件で、任意のε>0に対し、Xが有限個のε-球の和集合で書ける事を意味する。また完備性はX上のコーシー列が必ず収束する事を意味する。
距離空間においてコンパクトの概念は、点列コンパクト性と呼ばれる性質とも同値になる。これは前述したボルツァーノ・ワイエルシュトラス性が点列に対して成立するという趣旨の概念である。この概念は一般にはコンパクト性よりも弱いが、距離空間であればコンパクト性と同値になる事が知られている。
R {\displaystyle \mathbb {R} } もしくは C {\displaystyle \mathbb {C} } 上の有限次元ベクトル空間(あるいはより一般に有限次元の完備リーマン多様体)の部分集合Xがコンパクトである必要十分条件は、Xが有界閉集合である事である。それに対し無限次元ベクトル空間の場合は有界閉集合であってもコンパクトにならない場合がある。前述のように距離空間においてはコンパクト性は全有界かつ完備な事と同値だが、無限次元のベクトル空間の場合は全有界ではない有界閉集合が存在するからである。
なお、 R {\displaystyle \mathbb {R} } もしくは C {\displaystyle \mathbb {C} } 上のノルム空間Vの閉単位球がコンパクトである必要十分条件はVが有限次元である事である(リースの補題から直接従う)。ただし以上の議論はVにノルムから定まる位相を入れた場合の話であり、それ以外の位相を入れた場合はこの限りではない。例えばVの双対空間Vに*弱位相を入れた場合、Vの閉単位球は(たとえVが無限次元であっても)コンパクトである(バナッハ・アラオグルの定理)。
すでに述べたようにコンパクト性には2種類の同値な定義がある。本章ではこの2つの定義のうち、ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性による定義について述べる。
本節ではボルツァーノ・ワイエルシュトラス性の定式化に必要な概念である有向点族の概念を導入する。有向点族とは有向集合を添え字とする族である:
定義 (有向集合・有向点族) ― 空でない集合ΛとΛ上の二項関係「≤ 」の組 (Λ, ≤)が有向集合(ゆうこうしゅうごう、英: directed set)であるとは、「≤ 」が以下の性質を全て満たす事を言う:
集合X上の有向点族とは、X上の族(xλ)λ∈Λで添字集合Λが有向集合であるものを指す。有向点族はネット (英: net)、 Moore-Smith 列(英: Moore-Smith sequence)、generalized sequenceなどとも呼ばれる。
なお、有向集合の二項関係「≤ 」は、反射律と推移律を満たすのものの反対称律は満たす必要がないので、前順序ではあるものの順序の定義は満たしていない。
点列と同様、有向点族に対して収束概念や部分有向点族の概念を定義する事ができる。詳細は有向点族の項目を参照されたい。
有向点族の概念は、点列概念と違い、添字が可算である事も全順序である事も要求しない。この事が有向点族に点列にはない優位性をもたらしており、例えば有向点族の収束の概念を用いれば、閉集合など位相空間の諸概念を特徴づける事ができる事が知られているが、点列の場合はそうではない。なぜなら点列概念は添字が可算である事が原因となり、点列で閉集合を特徴づけるには位相空間の方にも何らかの可算性を要求する必要が生じてしまうからである。詳細は列型空間を参照。
定義 (ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義) ― 位相空間 ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} が以下の性質を満たすとき、 ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} はコンパクトであるという:
上記の定義は、 R n {\displaystyle \mathbf {R} ^{n}} 上の有界閉集合に関するボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理の結論部分を有向点族に自然に拡張したものである:
定理 (ボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理) ― X ⊂ R n {\displaystyle X\subset \mathbf {R} ^{n}} が有界閉集合であるとき、X上の任意の点列は収束する部分列を持つ。
なお、コンパクトの定義において、元々のボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理と同様、有向点族ではなく点列に対してのみ収束部分列を要求したものを点列コンパクト性と呼ぶが、点列コンパクト性は距離空間においてはコンパクト性と同値(より一般的に擬距離空間でも同値)であるものの、無条件にはこの同値性は成立しない。点列コンパクト性に関する詳細は後述する。
次にコンパクトの概念を全く違う角度から特徴づける。この特徴付けの基盤となるのは R n {\displaystyle \mathbf {R} ^{n}} の有界閉集合に対するハイネ・ボレルの被覆定理である。そこでまず、この定理の記述に必要な概念を定義する。
定義 (開被覆) ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} を位相空間とし、 S {\displaystyle {\mathcal {S}}} をXの部分集合の集合とする。
が成立するとき、 S {\displaystyle {\mathcal {S}}} はXを被覆するといい、特に S {\displaystyle {\mathcal {S}}} の元が全て開集合であるとき、 S {\displaystyle {\mathcal {S}}} をXの開被覆(英: open cover)という。
コンパクト性の概念は以下のように特徴づける事ができる:
定義 (ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義) ― 位相空間 ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} が以下の性質を満たすとき ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} はコンパクトであるという:
定理 (2つの定義が同値であること) ― ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義はボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義と同値である。
上述の定義における T {\displaystyle {\mathcal {T}}} の事を S {\displaystyle {\mathcal {S}}} の有限部分被覆という。
もともとのハイネ・ボレルの定理は以下のように記述できる:
定理 (ハイネ・ボレルの被覆定理) ― R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} の部分集合Xが有界閉集合であれば、( R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} から誘導される部分位相に関して)ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義を満たす。
後述するように、実は逆向きも成立する事が知られているので、 R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} においてはコンパクト性は有界閉集合である事と同値である。なお、一般の距離空間では「コンパクト部分集合⇒有界閉集合」は言えるが逆向きは成立するとは限らない。
ハイネ・ボレル性による定義における「開集合」の補集合を取って「閉集合」とし、さらに対偶を取る事で、コンパクト性の以下の特徴づけが得られる:
定義 ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} を位相空間とし、Xの閉集合の任意の集合 F {\displaystyle {\mathcal {F}}} が以下の性質を満たすとき、 F {\displaystyle {\mathcal {F}}} は有限交差性を満たすという:
定理 (有限交差性によるコンパクトの特徴づけ) ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} がコンパクトである必要十分条件は以下の性質が成立する事である:
この条件は区間縮小法の一般化になっているとみなすことができ、位相空間における存在証明に重要な役割を果たす。
ハイネ・ボレル性は定理の証明などでXの各点xの近傍 O x {\displaystyle O_{x}} 上で局所的に示されている性質をX全体に広げる際に用いられる。この場合、ハイネ・ボレル性でいう開被覆 S {\displaystyle {\mathcal {S}}} は典型的には各点の近傍の集合 S = { O x ∣ x ∈ X } {\displaystyle {\mathcal {S}}=\{O_{x}\mid x\in X\}} であり、ハイネ・ボレル性はこの無限個の開集合からなる開被覆から有限部分被覆 T {\displaystyle {\mathcal {T}}} を抽出して、無限に伴う証明の困難さを回避する事を可能にする。
具体的には以下の定理の証明をもとに、ハイネ・ボレル性の使い方を説明する:
定理 (ハイネ・カントールの定理) ― 距離空間X、Yに対し、Xがコンパクトであれば、X上定義された任意の連続関数 f : X → Y {\displaystyle f~:~X\to Y} は一様連続である
この定理は、ハイネ・ボレル性を利用して以下のように証明する。まずfの連続性により、任意にε>0を固定するとき、Xの各点xの、あるδx-近傍が f ( B δ x ( x ) ) ⊂ B ε ( f ( x ) ) {\displaystyle f(B_{\delta _{x}}(x))\subset B_{\varepsilon }(f(x))} を満たす。ここで B ε ( y ) {\displaystyle B_{\varepsilon }(y)} は点yのε-近傍を表す。
この δ x {\displaystyle \delta _{x}} はxに依存しているが、もしも正数 ε {\displaystyle \varepsilon } を与えたときに f ( B δ ( x ) ) ⊂ B ε ( f ( x ) ) {\displaystyle f(B_{\delta }(x))\subset B_{\varepsilon }(f(x))} を満たす正数δが点xに依らずに選べるのであれば f {\displaystyle f} の X {\displaystyle X} における一様連続性が言える。そのようなδを見つける単純な方法は
とする事だが、xの選択は無限にあるので、δは0になる可能性があるからうまくいかない。
そこでハイネ・ボレル性を使って開被覆 S = { B δ x / 2 ( x ) | x ∈ X } {\displaystyle {\mathcal {S}}=\{B_{\delta _{x}/2}(x)|x\in X\}} の有限部分被覆 T = { B δ x i / 2 ( x i ) | i = 1 , ... , n } {\displaystyle {\mathcal {T}}=\{B_{\delta _{x_{i}}/2}(x_{i})|i=1,\ldots ,n\}} を選び、
とすれば δ x i {\displaystyle \delta _{x_{i}}} の個数は有限個なのでδ>0であることが保証される。
しかも T {\displaystyle {\mathcal {T}}} がXを被覆している事から、任意のx ∈ Xに対し、 x ∈ B δ x i ( x i ) {\displaystyle x\in B_{\delta _{x_{i}}}(x_{i})} となるxiが存在して、
となることから f {\displaystyle f} の X {\displaystyle X} における一様連続性が言える。
コンパクト性は、有向点族と本質的に同値な概念であるフィルターの収束によっても特徴づけられる。また普遍有向点族やその対応概念である超フィルターを用いても特徴づける事ができる。これまでに述べて特徴づけも含め、こうしたコンパクト性の様々な特徴づけを列挙する
定理 (コンパクトの特徴づけ) ― 位相空間 ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} に対し、以下は全て同値である。
コンパクトな位相空間の部分集合に関し、以下が言える:
したがってコンパクトかつハウスドルフな位相空間(コンパクトハウスドルフ空間)では部分集合Aが閉集合である事とAがコンパクトである事は同値である。
X が距離空間であれば、コンパクト性をまた別の方法で特徴づける事ができる。まずは結論となる定理を提示し、それから定理の記述に必要な概念を順に導入する。
定理 (距離空間におけるコンパクト性の特徴づけ) ― X を距離空間とするとき以下の3つは同値である。
距離空間Xが全有界であるとは任意の ε > 0 に対し、X を半径 ε の有限個の開球で被覆する事ができる事を指す:
定義 (全有界性) ― 距離空間Xが全有界(ぜんゆうかい、英: totally bounded)もしくはプレコンパクト(英: precompact)であるとは任意の ε > 0 に対し、Xの有限部分集合 F ⊂ X {\displaystyle F\subset X} が存在し、
となる事を指す。(ここで B ε ( x ) {\displaystyle B_{\varepsilon }(x)} は点xのε-近傍 B ε ( x ) = { y ∈ X ∣ d ( x , y ) < ε } {\displaystyle B_{\varepsilon }(x)=\{y\in X\mid d(x,y)<\varepsilon \}} を表す。)
全有界性は以下のようにも特徴づけられる事が知られている:
定理2 ― 距離空間Xが全有界である必要十分条件は以下を満たす事である: X上の任意の点列に対しある部分列が存在し、その部分列はコーシー列である。
定義 ― 距離空間 X が完備であるとは X 上のコーシー列は必ず収束する事を指す。
詳細は完備距離空間の項目を参照されたい。
位相空間が点列コンパクトとは、一般の有向集合ではなく点列に対してのみボルツァーノ・ワイエルシュトラス性が保証される事を意味する:
定義 ― 位相空間 X が点列コンパクトであるとは、X 上の任意の点列は収束部分列を持つ事を指す。すなわち X 上の任意の点列 { x n } n ∈ N {\displaystyle \{x_{n}\}_{n\in \mathbb {N} }} に対し適当な部分列 { x n i } i ∈ N {\displaystyle \{x_{n_{i}}\}_{i\in \mathbb {N} }} を取れば { x n i } i ∈ N {\displaystyle \{x_{n_{i}}\}_{i\in \mathbb {N} }} は X 上のいずれかの点に収束する事を指す。
点列コンパクト性の事を点列に対するボルツァーノ・ワイエルシュトラス性とも言う。
コンパクトと点列コンパクトの同値性は擬距離空間でも成立するが、無条件には成立しない。点列コンパクト性に関する詳細は後述する。
距離空間においてはコンパクト性と「全有界かつ完備」が同値になる事をユークリッド空間に適用すると、以下の系が従う:
系 ― 有限次元のユークリッド空間(あるいはより一般に完備リーマン多様体)の部分集合 A がコンパクトである必要十分条件は A が有界閉集合である事である。
より正確に言うと有限次元のユークリッド空間や完備リーマン多様体の部分集合に対しては、有界性と全有界性が同値であり、完備性と閉集合である事が同値である。これらの事実は簡単に証明できる。
コンパクト性と「全有界かつ完備」が同値になる事は距離空間よりも一般的な一様空間でも成立する:
定理 (一様空間におけるコンパクト性の特徴づけ) ― X を一様空間とするとき以下の3つは同値である。
一様空間の定義は当該項目を参照されたい。一様空間における全有界性と完備性は以下のように定義される:
定義・定理 (一様空間における全有界性) ― ( X , U ) {\displaystyle (X,{\mathcal {U}})} を一様空間とし、DをX上の擬距離の集合でDが定める一様構造が U {\displaystyle {\mathcal {U}}} と一致するものとする。
このとき以下の条件は全て同値である。これらの条件の少なくとも1つ(したがって全て)を満たすとき、 ( X , U ) {\displaystyle (X,{\mathcal {U}})} は全有界(英: totally bounded)もしくはプレコンパクト(英: precompact)であるという。
定義 (一様空間の完備性) ― 距離空間 X が完備であるとは X 上の任意のコーシー有向点族が少なくとも1つ極限を持つ事をいう。
上で「少なくとも1つ極限を持つ」という言い方をしているのは、 U {\displaystyle {\mathcal {U}}} が定める位相構造がハウスドルフでない限り、有向点族の収束の一意性は保証されないからである。
擬距離化可能空間においてコンパクト性は以下のようにも特徴づける事ができる:
定理 (Niemytzki-Tychonovの定理) ― Xを擬距離化可能な位相空間とするこのときXがコンパクトである必要十分条件は、X上の任意の擬距離d(でその擬距離の定める位相がXの位相と一致するもの)に対し、擬距離空間 ( X , d ) {\displaystyle (X,d)} が完備である事である。
すでに述べたように、有限次元ベクトル空間やより一般に有限次元の完備リーマン多様体の部分集合に対してはコンパクト性は有界閉集合と等しい。一方無限次元の空間の場合は、どのような空間にどのような位相を入れるかにより結論が異なる。
ノルムから位相を入れたベクトル空間(ノルム空間)に対してはリースの補題から直接的に次の事実が従う:
命題 ― R {\displaystyle \mathbb {R} } もしくは C {\displaystyle \mathbb {C} } 上のノルム空間Vの閉単位球がコンパクトである必要十分条件はVが有限次元である事である。
この定理を具体例を通して説明すると、例えばl空間
にlノルム
から定まる距離を入れた空間の閉単位球
はコンパクトではない。
実際、
とすると(ここでδn,kはクロネッカーのデルタ)、
であるので、 ( e n ) n ∈ N ⊂ B {\displaystyle (\mathbb {e} _{n})_{n\in \mathbb {N} }\subset B} のいかなる部分列 ( e n i ) i ∈ N {\displaystyle (\mathbb {e} _{n_{i}})_{i\in \mathbb {N} }} もコーシー列の条件
を満たしえず、したがって ( e n ) n ∈ N ⊂ B {\displaystyle (\mathbb {e} _{n})_{n\in \mathbb {N} }\subset B} は収束部分列を持たない為点列コンパクトではなく、よってコンパクトでもない。
l空間の閉単位球Bがコンパクトにならない原因は、Bは有界であっても全有界ではないからである。実際、 ‖ e n − e m ‖ = 2 {\displaystyle \|\mathbb {e} _{n}-\mathbb {e} _{m}\|={\sqrt {2}}} for n≠mであるので、 ε < 2 / 2 {\displaystyle \varepsilon <{\sqrt {2}}/2} を満たす正数εに対しては、各 e 1 , e 2 , ... {\displaystyle \mathbb {e} _{1},\mathbb {e} _{2},\ldots } を覆うために一つずつε-球を用いる必要があるので、可算無限個のε-球が必要となり、全有界ではない。
一方、無限次元空間であってもノルムから定まる位相以外の位相に関しては閉単位球がコンパクトになる事もある:
定理 (バナッハ・アラオグルの定理) ― Kを R {\displaystyle \mathbb {R} } もしくは C {\displaystyle \mathbb {C} } とする。このときK上のノルム空間Vの双対空間Vに*弱位相を入れると、(Vが無限次元であっても)Vの閉単位球はコンパクトである。
ここでノルム空間Vの双対空間VはV上のK値連続線形写像全体を関数としての和と定数倍によりベクトル空間とみなしたものであり、*弱位相とはx ∈ Vに対し、
とするとき、μxが全て連続になるV上の最弱の位相の事である。なおVは作用素ノルムによりノルム空間とみなせ、上記の定理で言う「閉単位球」はこのノルムに関する閉単位球の事である。
*弱位相はハウスドルフ性を満たす事が知られており、コンパクトな空間の閉部分集合はコンパクトなので、以下の系が成立する:
系 ― V*に*弱位相を入れた空間の有界閉集合はコンパクト
なお、Vが再帰的であればV上の弱位相に関しても同様な事が成立する事が知られているが、再帰的でない場合には反例がある事が知られている。
注意しなければならないのは、*弱位相における有界閉集合には内点が無く、有界閉集合上の点は必ず境界点になる事である。これはすなわち、たとえ閉単位球がコンパクトであっても*弱位相をいれたVが後述する局所コンパクトにはなっていない事を意味する。
本節では位相空間の(有限個または無限個の)直積には2種類の位相が入り、コンパクト空間の無限個の直積に前者の位相を入れた場合はコンパクトになるが、後者の位相を入れた場合はそうなるとは限らない事を見る。
( X λ ) λ ∈ Λ {\displaystyle (X_{\lambda })_{\lambda \in \Lambda }} を位相空間の族するとき、 ∏ λ ∈ Λ X λ {\displaystyle \prod _{\lambda \in \Lambda }X_{\lambda }} には以下の2種類の位相が入る。
定義 (直積位相、箱型積位相) ― ( X λ ) λ ∈ Λ {\displaystyle (X_{\lambda })_{\lambda \in \Lambda }} を位相空間の族とする。このとき、
これら2つの位相は有限個の直積 X 1 × ⋯ × X n {\displaystyle X_{1}\times \cdots \times X_{n}} を考えている場合は同一であるが、無限積を考えた場合には箱型積位相のほうが直積位相よりも強い(弱くない)位相になる。これを見るために直積位相を具体的に書き表すと、以下のようになる事が知られている:
定理 ― 上の定義と同様に記号を定義するとき、 直積位相は
を開基とする。
Λが無限集合のときは、「有限個のλを除いて...」という条件が原因で、箱型積位相と差が生じる。例えば R 1 , R 2 , ... {\displaystyle \mathbb {R} _{1},\mathbb {R} _{2},\ldots } を R {\displaystyle \mathbb {R} } の(可算)無限個のコピーとし、 U 1 , U 2 , ... {\displaystyle U_{1},U_{2},\ldots } を U = ( 0 , 1 ) {\displaystyle U=(0,1)} の無限個のコピーとするとき、直積
は直積位相に関して
の開集合ではない。実際、前述の「有限個を除いて...」という条件を満たしておらず、条件をみたすものの和集合としても書けないからである。
コンパクト空間の(有限個または無限個の)直積に直積位相位相を入れたものはコンパクトである:
定理 (チコノフの定理) ― ( X λ ) λ ∈ Λ {\displaystyle (X_{\lambda })_{\lambda \in \Lambda }} をコンパクトな位相空間の族とする。このとき直積 ∏ λ ∈ Λ X λ {\displaystyle \prod _{\lambda \in \Lambda }X_{\lambda }} に直積位相を入れたものはコンパクトである。
なおチコノフの定理は(ZF公理系を仮定した上で)選択公理と同値である事が知られている。
チコノフの定理より例えば R {\displaystyle \mathbb {R} } 上の単位区間 I = [ 0 , 1 ] {\displaystyle I=[0,1]} の無限個のコピー I 1 , I 2 , ... {\displaystyle I_{1},I_{2},\ldots } の直積 ∏ i ∈ N I i {\displaystyle \prod _{i\in \mathbb {N} }I_{i}} に直積位相を入れたものはコンパクトである。
一方 ∏ i ∈ N I i {\displaystyle \prod _{i\in \mathbb {N} }I_{i}} に箱型積位相を入れたものはコンパクトではない。実際、 x = ( x i ) i ∈ N ∈ ∏ i ∈ N I i {\displaystyle x=(x_{i})_{i\in \mathbb {N} }\in \prod _{i\in \mathbb {N} }I_{i}} に対し、ノルムを
と定義すると、箱型積位相はこのノルムから定まる位相と一致する事を簡単に確かめる事ができる。そこで e n = ( δ n , k ) k ∈ N {\displaystyle \mathbb {e} _{n}=(\delta _{n,k})_{k\in \mathbb {N} }} として無限次元ノルム空間の場合と同様の議論でコンパクトでない事を示せる。
位相空間X のコンパクト化とは X をコンパクトな位相空間に稠密に埋め込む操作を指す。コンパクトな空間は数学的に取り扱いやすい為、X をそのような空間に埋め込む事で X の性質を調べやすくする事ができる。コンパクトでない位相空間に一点付け加えるだけでコンパクト化する方法が必ず存在する(アレクサンドロフの一点コンパクト化)他、いくつかのコンパクト化の方法が知られている。実用上は X の構造を保つなど、X の性質が調べやすくなるコンパクト化の方法を選ぶ必要がある(例えば X が多様体であるときにコンパクト化 K として多様体になるものを選ぶ等)。
コンパクト性は位相空間論における重要概念の一つなので、コンパクト性の定義を拡張したり修正したりした概念が複数存在する。本節ではこうした概念を紹介し、それらの関係性を述べる。
これらの概念は以下のように定義される。点列コンパクトの定義は前の章ですでに述べたがが再掲している:
これらの概念は以下の関係性を満たす:
定理 ― コンパクト⇒点列コンパクト⇒可算コンパクト⇒擬コンパクト。
擬距離化可能な空間ではこれら4つの概念は同値である:
定理 (擬距離化可能空間における同値性) ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} を位相空間とする。 Xが擬距離化可能空間であれば、コンパクト、可算コンパクト、点列コンパクト、擬コンパクトは同値。
Xが擬距離化可能とは限らない場合はこれらは同値とは限らないが、以下のような関係を満たす:
定理 ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} を位相空間とする。
これらは以下のように定義される:
σ-コンパクトの定義に関して留意点を述べる。σ-コンパクトは局所コンパクトと違い、コンパクトな近傍(すなわち内点を持つ集合)である事を要求されていない。これが原因でσ-コンパクトであっても局所コンパクトではない事があり得る。例えば有理数の集合 Q {\displaystyle \mathbb {Q} } は一点集合(これはコンパクトである)の可算和で書けるのでσ-コンパクトだが、 Q {\displaystyle \mathbb {Q} } の各点のいかなる近傍も距離空間として完備でないのでコンパクトではなく、よって Q {\displaystyle \mathbb {Q} } は局所コンパクトではない。
以上の概念は以下の関係性を満たす:
定理 (各種概念の関係性) ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} を位相空間とする。
以上で述べた概念の中で重要なものの一つにパラコンパクトがある。本節ではパラコンパクトの性質について述べる。なおパラコンパクトの定義において我々は文献Kellyに従い、ハウスドルフ性を条件として課したが、書籍によってはハウスドルフ性を仮定していないので、注意が必要である。
パラコンパクトに関しては以下のようにも特徴づけられる。なお(ハウスドルフ性を満たす)パラコンパクトな空間は必ず正規空間になる事が知られている。
定理 (パラコンパクトの特徴づけ) ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} を正則な位相空間とするとき、下記の条件は全て同値である:
ここで細分が開であるとは細分が開被覆になっている事を意味する。同様に細分が閉であるとは細分が被覆になっている事を意味する。上記の定理はパラコンパクトな空間において開被覆が単に局所有限な細分を持つだけでなく、局所有限でしかも開な細分や閉な細分を持つ事を保証している。
コンパクト性は開被覆が、(開な)部分被覆を持つ事を保証しているので、パラコンパクトな空間において開で局所有限な細分が保証される事は、コンパクト性において成り立っている議論をパラコンパクト性に拡張する際に有益である。
パラコンパクトな空間の重要な性質の一つとして、開被覆に従属する1の分割の存在が保証されるというものがある。この事実を述べるためにまず1の分割の定義、およびそれが開被覆と両立する事の定義を述べる:
定義 (1の分割) ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} を位相空間とする。X上の1の分割(英: partition of unity)とは(fα)α∈AをXから[0,1]区間への連続関数
で、以下の2性質を満たすものを言う。
なお上述の条件1に対する関連概念として関数の台(英: support)
が存在するが、1の分割の定義では関数の台と違い閉包を取っていない事に注意されたい。また条件2において和を取っているが、この和は条件1より各x∈Xに対して有限和である事が保証されているので、族(fα)α∈Aが仮に非可算無限個の元を持っていても和は意味を持つ。
定義 (開被覆に従属する1の分割) ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} を位相空間とし、 ( O τ ) τ ∈ T {\displaystyle (O_{\tau })_{\tau \in T}} をXの開被覆とし、(fα)α∈AをXの1の分割とする。
パラコンパクトな空間は開被覆に従属する1の分割で特徴づけられる:
定理 (1の分割によるパラコンパクトの特徴づけ) ― ( X , O ) {\displaystyle (X,{\mathcal {O}})} がハウスドルフ空間であるとき、下記の条件は全て同値である: | [
{
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"text": "位相空間がコンパクト(英: compact, /kəmˈpækt/)であるとは、後述する所定の性質を満たす「性質の良い」空間であり、 R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} 上の有界閉集合の性質を抽象化したもの。",
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"text": "「完閉」という訳語もあるが、ほとんど使われていない。",
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"text": "位相空間Xの部分集合Yに対し、YのXにおける閉包がコンパクトであるときYはXで相対コンパクト(英: relatively compact)であるという。",
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"text": "なおブルバキなどでは、本項でいうコンパクトを準コンパクト(英: quasi-compact)、準コンパクトでハウスドルフの分離公理を満たすものをコンパクトと定義することもある。",
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"text": "R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合は位相空間論的に「性質の良い」空間でXを R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合とすると、例えば以下が成立する事が知られている:",
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"text": "このような「性質の良い」空間を一般の位相空間に拡張して定義したものがコンパクトの概念である。",
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"text": "ただし、「 R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合」という概念自身は、「有界」という距離に依存した概念に基づいているため、一般の位相空間では定義できず、別の角度からコンパクトの概念を定義する必要がある。",
"title": "概要"
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"text": "そのために用いるのがボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理とハイネ・ボレルの被覆定理である。これらの定理はいずれも「 R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合であれば◯◯」という形の定理であるが、実は逆も成立する事が知られており、 R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} においては",
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"text": "の3つは同値となる。しかも上記の2,3はいずれも位相構造のみを使って記述可能である。",
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"text": "したがって2もしくは3の一方を満たす(同値なので実は2,3の両方を満たす)事をもってコンパクト性を定義する。ただしテクニカルな理由により、上記の2に関しては若干の補正が必要になるが、これについては後述する。",
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"text": "コンパクトの概念は以下に述べる同値な2性質の少なくとも一方(したがって両方)を満たす事により定義される。",
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"text": "1つ目の性質は(有向点族に対する)ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性といい、これは R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合に対するボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理の結論部分を若干拡張した形で定式化したものである。この性質は直観的には点列の拡張概念である有向点族の極限が発散する事がない事を意味する。",
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"text": "コンパクトな空間では有向点族がXの「外」に「発散」する事がないので、X内で「収束」するか「振動」するかのいずれかとなる。よって任意の有向点族には収束する部分列が取れるはずであり、厳密にはこの事実を持ってコンパクト性を定義する。",
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"text": "コンパクトな空間は「Xの外に発散する有向点族がない」という意味において、閉集合よりもさらに「閉じた」空間だと言え、実際ハウスドルフ空間においてはコンパクトな部分集合は必ず閉集合になる事が知られている。こうした事情から、コンパクトな空間には「閉」という接頭辞をつけて呼ぶ事があり、例えばコンパクトな多様体は「閉多様体」と呼ばれる。",
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"text": "コンパクトを特徴づける2つ目の性質(前述のようにこれはボルツァーノ・ワイエルシュトラス性と同値)はハイネ・ボレル性といい、これは R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} の有界閉集合に対するハイネ・ボレルの被覆定理の結論部分に相当する性質である。",
"title": "概要"
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"text": "ハイネ・ボレル性は非常に抽象的な性質なので、その詳細は後の章に譲るが、コンパクトな空間に対する定理を証明する際、無限に伴う証明の困難さを回避するのにこの性質を用いる事ができる。なお、学部レベルの教科書ではハイネ・ボレル性の方をコンパクトの定義として採用しているものが多い。",
"title": "概要"
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"text": "Xが距離空間(もしくはさらに一般的に一様空間)であれば、上記2つのいずれとも異なる角度からコンパクト性を特徴づける事ができる。距離空間Xがコンパクトである必要十分条件はXが全有界かつ完備である事である。ここで全有界性とは、有界性を強めた条件で、任意のε>0に対し、Xが有限個のε-球の和集合で書ける事を意味する。また完備性はX上のコーシー列が必ず収束する事を意味する。",
"title": "概要"
},
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"tag": "p",
"text": "距離空間においてコンパクトの概念は、点列コンパクト性と呼ばれる性質とも同値になる。これは前述したボルツァーノ・ワイエルシュトラス性が点列に対して成立するという趣旨の概念である。この概念は一般にはコンパクト性よりも弱いが、距離空間であればコンパクト性と同値になる事が知られている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "R {\\displaystyle \\mathbb {R} } もしくは C {\\displaystyle \\mathbb {C} } 上の有限次元ベクトル空間(あるいはより一般に有限次元の完備リーマン多様体)の部分集合Xがコンパクトである必要十分条件は、Xが有界閉集合である事である。それに対し無限次元ベクトル空間の場合は有界閉集合であってもコンパクトにならない場合がある。前述のように距離空間においてはコンパクト性は全有界かつ完備な事と同値だが、無限次元のベクトル空間の場合は全有界ではない有界閉集合が存在するからである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "なお、 R {\\displaystyle \\mathbb {R} } もしくは C {\\displaystyle \\mathbb {C} } 上のノルム空間Vの閉単位球がコンパクトである必要十分条件はVが有限次元である事である(リースの補題から直接従う)。ただし以上の議論はVにノルムから定まる位相を入れた場合の話であり、それ以外の位相を入れた場合はこの限りではない。例えばVの双対空間Vに*弱位相を入れた場合、Vの閉単位球は(たとえVが無限次元であっても)コンパクトである(バナッハ・アラオグルの定理)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "すでに述べたようにコンパクト性には2種類の同値な定義がある。本章ではこの2つの定義のうち、ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性による定義について述べる。",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "本節ではボルツァーノ・ワイエルシュトラス性の定式化に必要な概念である有向点族の概念を導入する。有向点族とは有向集合を添え字とする族である:",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "定義 (有向集合・有向点族) ― 空でない集合ΛとΛ上の二項関係「≤ 」の組 (Λ, ≤)が有向集合(ゆうこうしゅうごう、英: directed set)であるとは、「≤ 」が以下の性質を全て満たす事を言う:",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "集合X上の有向点族とは、X上の族(xλ)λ∈Λで添字集合Λが有向集合であるものを指す。有向点族はネット (英: net)、 Moore-Smith 列(英: Moore-Smith sequence)、generalized sequenceなどとも呼ばれる。",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "なお、有向集合の二項関係「≤ 」は、反射律と推移律を満たすのものの反対称律は満たす必要がないので、前順序ではあるものの順序の定義は満たしていない。",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "点列と同様、有向点族に対して収束概念や部分有向点族の概念を定義する事ができる。詳細は有向点族の項目を参照されたい。",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "有向点族の概念は、点列概念と違い、添字が可算である事も全順序である事も要求しない。この事が有向点族に点列にはない優位性をもたらしており、例えば有向点族の収束の概念を用いれば、閉集合など位相空間の諸概念を特徴づける事ができる事が知られているが、点列の場合はそうではない。なぜなら点列概念は添字が可算である事が原因となり、点列で閉集合を特徴づけるには位相空間の方にも何らかの可算性を要求する必要が生じてしまうからである。詳細は列型空間を参照。",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "定義 (ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義) ― 位相空間 ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} が以下の性質を満たすとき、 ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} はコンパクトであるという:",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "上記の定義は、 R n {\\displaystyle \\mathbf {R} ^{n}} 上の有界閉集合に関するボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理の結論部分を有向点族に自然に拡張したものである:",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "定理 (ボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理) ― X ⊂ R n {\\displaystyle X\\subset \\mathbf {R} ^{n}} が有界閉集合であるとき、X上の任意の点列は収束する部分列を持つ。",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、コンパクトの定義において、元々のボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理と同様、有向点族ではなく点列に対してのみ収束部分列を要求したものを点列コンパクト性と呼ぶが、点列コンパクト性は距離空間においてはコンパクト性と同値(より一般的に擬距離空間でも同値)であるものの、無条件にはこの同値性は成立しない。点列コンパクト性に関する詳細は後述する。",
"title": "ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "次にコンパクトの概念を全く違う角度から特徴づける。この特徴付けの基盤となるのは R n {\\displaystyle \\mathbf {R} ^{n}} の有界閉集合に対するハイネ・ボレルの被覆定理である。そこでまず、この定理の記述に必要な概念を定義する。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "定義 (開被覆) ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} を位相空間とし、 S {\\displaystyle {\\mathcal {S}}} をXの部分集合の集合とする。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "が成立するとき、 S {\\displaystyle {\\mathcal {S}}} はXを被覆するといい、特に S {\\displaystyle {\\mathcal {S}}} の元が全て開集合であるとき、 S {\\displaystyle {\\mathcal {S}}} をXの開被覆(英: open cover)という。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "コンパクト性の概念は以下のように特徴づける事ができる:",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "定義 (ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義) ― 位相空間 ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} が以下の性質を満たすとき ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} はコンパクトであるという:",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "定理 (2つの定義が同値であること) ― ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義はボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義と同値である。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "上述の定義における T {\\displaystyle {\\mathcal {T}}} の事を S {\\displaystyle {\\mathcal {S}}} の有限部分被覆という。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "もともとのハイネ・ボレルの定理は以下のように記述できる:",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "定理 (ハイネ・ボレルの被覆定理) ― R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} の部分集合Xが有界閉集合であれば、( R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} から誘導される部分位相に関して)ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義を満たす。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "後述するように、実は逆向きも成立する事が知られているので、 R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} においてはコンパクト性は有界閉集合である事と同値である。なお、一般の距離空間では「コンパクト部分集合⇒有界閉集合」は言えるが逆向きは成立するとは限らない。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ハイネ・ボレル性による定義における「開集合」の補集合を取って「閉集合」とし、さらに対偶を取る事で、コンパクト性の以下の特徴づけが得られる:",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "定義 ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} を位相空間とし、Xの閉集合の任意の集合 F {\\displaystyle {\\mathcal {F}}} が以下の性質を満たすとき、 F {\\displaystyle {\\mathcal {F}}} は有限交差性を満たすという:",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "定理 (有限交差性によるコンパクトの特徴づけ) ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} がコンパクトである必要十分条件は以下の性質が成立する事である:",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この条件は区間縮小法の一般化になっているとみなすことができ、位相空間における存在証明に重要な役割を果たす。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ハイネ・ボレル性は定理の証明などでXの各点xの近傍 O x {\\displaystyle O_{x}} 上で局所的に示されている性質をX全体に広げる際に用いられる。この場合、ハイネ・ボレル性でいう開被覆 S {\\displaystyle {\\mathcal {S}}} は典型的には各点の近傍の集合 S = { O x ∣ x ∈ X } {\\displaystyle {\\mathcal {S}}=\\{O_{x}\\mid x\\in X\\}} であり、ハイネ・ボレル性はこの無限個の開集合からなる開被覆から有限部分被覆 T {\\displaystyle {\\mathcal {T}}} を抽出して、無限に伴う証明の困難さを回避する事を可能にする。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "具体的には以下の定理の証明をもとに、ハイネ・ボレル性の使い方を説明する:",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "定理 (ハイネ・カントールの定理) ― 距離空間X、Yに対し、Xがコンパクトであれば、X上定義された任意の連続関数 f : X → Y {\\displaystyle f~:~X\\to Y} は一様連続である",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "この定理は、ハイネ・ボレル性を利用して以下のように証明する。まずfの連続性により、任意にε>0を固定するとき、Xの各点xの、あるδx-近傍が f ( B δ x ( x ) ) ⊂ B ε ( f ( x ) ) {\\displaystyle f(B_{\\delta _{x}}(x))\\subset B_{\\varepsilon }(f(x))} を満たす。ここで B ε ( y ) {\\displaystyle B_{\\varepsilon }(y)} は点yのε-近傍を表す。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "この δ x {\\displaystyle \\delta _{x}} はxに依存しているが、もしも正数 ε {\\displaystyle \\varepsilon } を与えたときに f ( B δ ( x ) ) ⊂ B ε ( f ( x ) ) {\\displaystyle f(B_{\\delta }(x))\\subset B_{\\varepsilon }(f(x))} を満たす正数δが点xに依らずに選べるのであれば f {\\displaystyle f} の X {\\displaystyle X} における一様連続性が言える。そのようなδを見つける単純な方法は",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "とする事だが、xの選択は無限にあるので、δは0になる可能性があるからうまくいかない。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "そこでハイネ・ボレル性を使って開被覆 S = { B δ x / 2 ( x ) | x ∈ X } {\\displaystyle {\\mathcal {S}}=\\{B_{\\delta _{x}/2}(x)|x\\in X\\}} の有限部分被覆 T = { B δ x i / 2 ( x i ) | i = 1 , ... , n } {\\displaystyle {\\mathcal {T}}=\\{B_{\\delta _{x_{i}}/2}(x_{i})|i=1,\\ldots ,n\\}} を選び、",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "とすれば δ x i {\\displaystyle \\delta _{x_{i}}} の個数は有限個なのでδ>0であることが保証される。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "しかも T {\\displaystyle {\\mathcal {T}}} がXを被覆している事から、任意のx ∈ Xに対し、 x ∈ B δ x i ( x i ) {\\displaystyle x\\in B_{\\delta _{x_{i}}}(x_{i})} となるxiが存在して、",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "となることから f {\\displaystyle f} の X {\\displaystyle X} における一様連続性が言える。",
"title": "ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "コンパクト性は、有向点族と本質的に同値な概念であるフィルターの収束によっても特徴づけられる。また普遍有向点族やその対応概念である超フィルターを用いても特徴づける事ができる。これまでに述べて特徴づけも含め、こうしたコンパクト性の様々な特徴づけを列挙する",
"title": "それ以外の特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "定理 (コンパクトの特徴づけ) ― 位相空間 ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} に対し、以下は全て同値である。",
"title": "それ以外の特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "コンパクトな位相空間の部分集合に関し、以下が言える:",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "したがってコンパクトかつハウスドルフな位相空間(コンパクトハウスドルフ空間)では部分集合Aが閉集合である事とAがコンパクトである事は同値である。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "X が距離空間であれば、コンパクト性をまた別の方法で特徴づける事ができる。まずは結論となる定理を提示し、それから定理の記述に必要な概念を順に導入する。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "定理 (距離空間におけるコンパクト性の特徴づけ) ― X を距離空間とするとき以下の3つは同値である。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "距離空間Xが全有界であるとは任意の ε > 0 に対し、X を半径 ε の有限個の開球で被覆する事ができる事を指す:",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "定義 (全有界性) ― 距離空間Xが全有界(ぜんゆうかい、英: totally bounded)もしくはプレコンパクト(英: precompact)であるとは任意の ε > 0 に対し、Xの有限部分集合 F ⊂ X {\\displaystyle F\\subset X} が存在し、",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "となる事を指す。(ここで B ε ( x ) {\\displaystyle B_{\\varepsilon }(x)} は点xのε-近傍 B ε ( x ) = { y ∈ X ∣ d ( x , y ) < ε } {\\displaystyle B_{\\varepsilon }(x)=\\{y\\in X\\mid d(x,y)<\\varepsilon \\}} を表す。)",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "全有界性は以下のようにも特徴づけられる事が知られている:",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "定理2 ― 距離空間Xが全有界である必要十分条件は以下を満たす事である: X上の任意の点列に対しある部分列が存在し、その部分列はコーシー列である。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "定義 ― 距離空間 X が完備であるとは X 上のコーシー列は必ず収束する事を指す。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "詳細は完備距離空間の項目を参照されたい。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "位相空間が点列コンパクトとは、一般の有向集合ではなく点列に対してのみボルツァーノ・ワイエルシュトラス性が保証される事を意味する:",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "定義 ― 位相空間 X が点列コンパクトであるとは、X 上の任意の点列は収束部分列を持つ事を指す。すなわち X 上の任意の点列 { x n } n ∈ N {\\displaystyle \\{x_{n}\\}_{n\\in \\mathbb {N} }} に対し適当な部分列 { x n i } i ∈ N {\\displaystyle \\{x_{n_{i}}\\}_{i\\in \\mathbb {N} }} を取れば { x n i } i ∈ N {\\displaystyle \\{x_{n_{i}}\\}_{i\\in \\mathbb {N} }} は X 上のいずれかの点に収束する事を指す。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "点列コンパクト性の事を点列に対するボルツァーノ・ワイエルシュトラス性とも言う。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "コンパクトと点列コンパクトの同値性は擬距離空間でも成立するが、無条件には成立しない。点列コンパクト性に関する詳細は後述する。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "距離空間においてはコンパクト性と「全有界かつ完備」が同値になる事をユークリッド空間に適用すると、以下の系が従う:",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "系 ― 有限次元のユークリッド空間(あるいはより一般に完備リーマン多様体)の部分集合 A がコンパクトである必要十分条件は A が有界閉集合である事である。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "より正確に言うと有限次元のユークリッド空間や完備リーマン多様体の部分集合に対しては、有界性と全有界性が同値であり、完備性と閉集合である事が同値である。これらの事実は簡単に証明できる。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "コンパクト性と「全有界かつ完備」が同値になる事は距離空間よりも一般的な一様空間でも成立する:",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "定理 (一様空間におけるコンパクト性の特徴づけ) ― X を一様空間とするとき以下の3つは同値である。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "一様空間の定義は当該項目を参照されたい。一様空間における全有界性と完備性は以下のように定義される:",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "定義・定理 (一様空間における全有界性) ― ( X , U ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {U}})} を一様空間とし、DをX上の擬距離の集合でDが定める一様構造が U {\\displaystyle {\\mathcal {U}}} と一致するものとする。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "このとき以下の条件は全て同値である。これらの条件の少なくとも1つ(したがって全て)を満たすとき、 ( X , U ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {U}})} は全有界(英: totally bounded)もしくはプレコンパクト(英: precompact)であるという。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "定義 (一様空間の完備性) ― 距離空間 X が完備であるとは X 上の任意のコーシー有向点族が少なくとも1つ極限を持つ事をいう。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "上で「少なくとも1つ極限を持つ」という言い方をしているのは、 U {\\displaystyle {\\mathcal {U}}} が定める位相構造がハウスドルフでない限り、有向点族の収束の一意性は保証されないからである。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "擬距離化可能空間においてコンパクト性は以下のようにも特徴づける事ができる:",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "定理 (Niemytzki-Tychonovの定理) ― Xを擬距離化可能な位相空間とするこのときXがコンパクトである必要十分条件は、X上の任意の擬距離d(でその擬距離の定める位相がXの位相と一致するもの)に対し、擬距離空間 ( X , d ) {\\displaystyle (X,d)} が完備である事である。",
"title": "距離空間におけるコンパクトの特徴づけ"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "すでに述べたように、有限次元ベクトル空間やより一般に有限次元の完備リーマン多様体の部分集合に対してはコンパクト性は有界閉集合と等しい。一方無限次元の空間の場合は、どのような空間にどのような位相を入れるかにより結論が異なる。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ノルムから位相を入れたベクトル空間(ノルム空間)に対してはリースの補題から直接的に次の事実が従う:",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "命題 ― R {\\displaystyle \\mathbb {R} } もしくは C {\\displaystyle \\mathbb {C} } 上のノルム空間Vの閉単位球がコンパクトである必要十分条件はVが有限次元である事である。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "この定理を具体例を通して説明すると、例えばl空間",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "にlノルム",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "から定まる距離を入れた空間の閉単位球",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "はコンパクトではない。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "実際、",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "とすると(ここでδn,kはクロネッカーのデルタ)、",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "であるので、 ( e n ) n ∈ N ⊂ B {\\displaystyle (\\mathbb {e} _{n})_{n\\in \\mathbb {N} }\\subset B} のいかなる部分列 ( e n i ) i ∈ N {\\displaystyle (\\mathbb {e} _{n_{i}})_{i\\in \\mathbb {N} }} もコーシー列の条件",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "を満たしえず、したがって ( e n ) n ∈ N ⊂ B {\\displaystyle (\\mathbb {e} _{n})_{n\\in \\mathbb {N} }\\subset B} は収束部分列を持たない為点列コンパクトではなく、よってコンパクトでもない。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "l空間の閉単位球Bがコンパクトにならない原因は、Bは有界であっても全有界ではないからである。実際、 ‖ e n − e m ‖ = 2 {\\displaystyle \\|\\mathbb {e} _{n}-\\mathbb {e} _{m}\\|={\\sqrt {2}}} for n≠mであるので、 ε < 2 / 2 {\\displaystyle \\varepsilon <{\\sqrt {2}}/2} を満たす正数εに対しては、各 e 1 , e 2 , ... {\\displaystyle \\mathbb {e} _{1},\\mathbb {e} _{2},\\ldots } を覆うために一つずつε-球を用いる必要があるので、可算無限個のε-球が必要となり、全有界ではない。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "一方、無限次元空間であってもノルムから定まる位相以外の位相に関しては閉単位球がコンパクトになる事もある:",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "定理 (バナッハ・アラオグルの定理) ― Kを R {\\displaystyle \\mathbb {R} } もしくは C {\\displaystyle \\mathbb {C} } とする。このときK上のノルム空間Vの双対空間Vに*弱位相を入れると、(Vが無限次元であっても)Vの閉単位球はコンパクトである。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "ここでノルム空間Vの双対空間VはV上のK値連続線形写像全体を関数としての和と定数倍によりベクトル空間とみなしたものであり、*弱位相とはx ∈ Vに対し、",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "とするとき、μxが全て連続になるV上の最弱の位相の事である。なおVは作用素ノルムによりノルム空間とみなせ、上記の定理で言う「閉単位球」はこのノルムに関する閉単位球の事である。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "*弱位相はハウスドルフ性を満たす事が知られており、コンパクトな空間の閉部分集合はコンパクトなので、以下の系が成立する:",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "系 ― V*に*弱位相を入れた空間の有界閉集合はコンパクト",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "なお、Vが再帰的であればV上の弱位相に関しても同様な事が成立する事が知られているが、再帰的でない場合には反例がある事が知られている。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "注意しなければならないのは、*弱位相における有界閉集合には内点が無く、有界閉集合上の点は必ず境界点になる事である。これはすなわち、たとえ閉単位球がコンパクトであっても*弱位相をいれたVが後述する局所コンパクトにはなっていない事を意味する。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "本節では位相空間の(有限個または無限個の)直積には2種類の位相が入り、コンパクト空間の無限個の直積に前者の位相を入れた場合はコンパクトになるが、後者の位相を入れた場合はそうなるとは限らない事を見る。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "( X λ ) λ ∈ Λ {\\displaystyle (X_{\\lambda })_{\\lambda \\in \\Lambda }} を位相空間の族するとき、 ∏ λ ∈ Λ X λ {\\displaystyle \\prod _{\\lambda \\in \\Lambda }X_{\\lambda }} には以下の2種類の位相が入る。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "定義 (直積位相、箱型積位相) ― ( X λ ) λ ∈ Λ {\\displaystyle (X_{\\lambda })_{\\lambda \\in \\Lambda }} を位相空間の族とする。このとき、",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "これら2つの位相は有限個の直積 X 1 × ⋯ × X n {\\displaystyle X_{1}\\times \\cdots \\times X_{n}} を考えている場合は同一であるが、無限積を考えた場合には箱型積位相のほうが直積位相よりも強い(弱くない)位相になる。これを見るために直積位相を具体的に書き表すと、以下のようになる事が知られている:",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "定理 ― 上の定義と同様に記号を定義するとき、 直積位相は",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "を開基とする。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "Λが無限集合のときは、「有限個のλを除いて...」という条件が原因で、箱型積位相と差が生じる。例えば R 1 , R 2 , ... {\\displaystyle \\mathbb {R} _{1},\\mathbb {R} _{2},\\ldots } を R {\\displaystyle \\mathbb {R} } の(可算)無限個のコピーとし、 U 1 , U 2 , ... {\\displaystyle U_{1},U_{2},\\ldots } を U = ( 0 , 1 ) {\\displaystyle U=(0,1)} の無限個のコピーとするとき、直積",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "は直積位相に関して",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "の開集合ではない。実際、前述の「有限個を除いて...」という条件を満たしておらず、条件をみたすものの和集合としても書けないからである。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "コンパクト空間の(有限個または無限個の)直積に直積位相位相を入れたものはコンパクトである:",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "定理 (チコノフの定理) ― ( X λ ) λ ∈ Λ {\\displaystyle (X_{\\lambda })_{\\lambda \\in \\Lambda }} をコンパクトな位相空間の族とする。このとき直積 ∏ λ ∈ Λ X λ {\\displaystyle \\prod _{\\lambda \\in \\Lambda }X_{\\lambda }} に直積位相を入れたものはコンパクトである。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "なおチコノフの定理は(ZF公理系を仮定した上で)選択公理と同値である事が知られている。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "チコノフの定理より例えば R {\\displaystyle \\mathbb {R} } 上の単位区間 I = [ 0 , 1 ] {\\displaystyle I=[0,1]} の無限個のコピー I 1 , I 2 , ... {\\displaystyle I_{1},I_{2},\\ldots } の直積 ∏ i ∈ N I i {\\displaystyle \\prod _{i\\in \\mathbb {N} }I_{i}} に直積位相を入れたものはコンパクトである。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "一方 ∏ i ∈ N I i {\\displaystyle \\prod _{i\\in \\mathbb {N} }I_{i}} に箱型積位相を入れたものはコンパクトではない。実際、 x = ( x i ) i ∈ N ∈ ∏ i ∈ N I i {\\displaystyle x=(x_{i})_{i\\in \\mathbb {N} }\\in \\prod _{i\\in \\mathbb {N} }I_{i}} に対し、ノルムを",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "と定義すると、箱型積位相はこのノルムから定まる位相と一致する事を簡単に確かめる事ができる。そこで e n = ( δ n , k ) k ∈ N {\\displaystyle \\mathbb {e} _{n}=(\\delta _{n,k})_{k\\in \\mathbb {N} }} として無限次元ノルム空間の場合と同様の議論でコンパクトでない事を示せる。",
"title": "無限次元空間におけるコンパクト性"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "位相空間X のコンパクト化とは X をコンパクトな位相空間に稠密に埋め込む操作を指す。コンパクトな空間は数学的に取り扱いやすい為、X をそのような空間に埋め込む事で X の性質を調べやすくする事ができる。コンパクトでない位相空間に一点付け加えるだけでコンパクト化する方法が必ず存在する(アレクサンドロフの一点コンパクト化)他、いくつかのコンパクト化の方法が知られている。実用上は X の構造を保つなど、X の性質が調べやすくなるコンパクト化の方法を選ぶ必要がある(例えば X が多様体であるときにコンパクト化 K として多様体になるものを選ぶ等)。",
"title": "コンパクト化"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "コンパクト性は位相空間論における重要概念の一つなので、コンパクト性の定義を拡張したり修正したりした概念が複数存在する。本節ではこうした概念を紹介し、それらの関係性を述べる。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "これらの概念は以下のように定義される。点列コンパクトの定義は前の章ですでに述べたがが再掲している:",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "これらの概念は以下の関係性を満たす:",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "定理 ― コンパクト⇒点列コンパクト⇒可算コンパクト⇒擬コンパクト。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "擬距離化可能な空間ではこれら4つの概念は同値である:",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "定理 (擬距離化可能空間における同値性) ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} を位相空間とする。 Xが擬距離化可能空間であれば、コンパクト、可算コンパクト、点列コンパクト、擬コンパクトは同値。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "Xが擬距離化可能とは限らない場合はこれらは同値とは限らないが、以下のような関係を満たす:",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "定理 ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} を位相空間とする。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "これらは以下のように定義される:",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "σ-コンパクトの定義に関して留意点を述べる。σ-コンパクトは局所コンパクトと違い、コンパクトな近傍(すなわち内点を持つ集合)である事を要求されていない。これが原因でσ-コンパクトであっても局所コンパクトではない事があり得る。例えば有理数の集合 Q {\\displaystyle \\mathbb {Q} } は一点集合(これはコンパクトである)の可算和で書けるのでσ-コンパクトだが、 Q {\\displaystyle \\mathbb {Q} } の各点のいかなる近傍も距離空間として完備でないのでコンパクトではなく、よって Q {\\displaystyle \\mathbb {Q} } は局所コンパクトではない。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "以上の概念は以下の関係性を満たす:",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "定理 (各種概念の関係性) ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} を位相空間とする。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "以上で述べた概念の中で重要なものの一つにパラコンパクトがある。本節ではパラコンパクトの性質について述べる。なおパラコンパクトの定義において我々は文献Kellyに従い、ハウスドルフ性を条件として課したが、書籍によってはハウスドルフ性を仮定していないので、注意が必要である。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "パラコンパクトに関しては以下のようにも特徴づけられる。なお(ハウスドルフ性を満たす)パラコンパクトな空間は必ず正規空間になる事が知られている。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "定理 (パラコンパクトの特徴づけ) ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} を正則な位相空間とするとき、下記の条件は全て同値である:",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "ここで細分が開であるとは細分が開被覆になっている事を意味する。同様に細分が閉であるとは細分が被覆になっている事を意味する。上記の定理はパラコンパクトな空間において開被覆が単に局所有限な細分を持つだけでなく、局所有限でしかも開な細分や閉な細分を持つ事を保証している。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "コンパクト性は開被覆が、(開な)部分被覆を持つ事を保証しているので、パラコンパクトな空間において開で局所有限な細分が保証される事は、コンパクト性において成り立っている議論をパラコンパクト性に拡張する際に有益である。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "パラコンパクトな空間の重要な性質の一つとして、開被覆に従属する1の分割の存在が保証されるというものがある。この事実を述べるためにまず1の分割の定義、およびそれが開被覆と両立する事の定義を述べる:",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "定義 (1の分割) ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} を位相空間とする。X上の1の分割(英: partition of unity)とは(fα)α∈AをXから[0,1]区間への連続関数",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "で、以下の2性質を満たすものを言う。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "なお上述の条件1に対する関連概念として関数の台(英: support)",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "が存在するが、1の分割の定義では関数の台と違い閉包を取っていない事に注意されたい。また条件2において和を取っているが、この和は条件1より各x∈Xに対して有限和である事が保証されているので、族(fα)α∈Aが仮に非可算無限個の元を持っていても和は意味を持つ。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "定義 (開被覆に従属する1の分割) ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} を位相空間とし、 ( O τ ) τ ∈ T {\\displaystyle (O_{\\tau })_{\\tau \\in T}} をXの開被覆とし、(fα)α∈AをXの1の分割とする。",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "パラコンパクトな空間は開被覆に従属する1の分割で特徴づけられる:",
"title": "関連概念とその関係性"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "定理 (1の分割によるパラコンパクトの特徴づけ) ― ( X , O ) {\\displaystyle (X,{\\mathcal {O}})} がハウスドルフ空間であるとき、下記の条件は全て同値である:",
"title": "関連概念とその関係性"
}
] | 位相空間がコンパクトであるとは、後述する所定の性質を満たす「性質の良い」空間であり、 R n 上の有界閉集合の性質を抽象化したもの。 「完閉」という訳語もあるが、ほとんど使われていない。 位相空間Xの部分集合Yに対し、YのXにおける閉包がコンパクトであるときYはXで相対コンパクトであるという。 なおブルバキなどでは、本項でいうコンパクトを準コンパクト、準コンパクトでハウスドルフの分離公理を満たすものをコンパクトと定義することもある。 | {{Pathnav|[[数学]]|[[位相空間]]|frame=1}}
<!-- この行より下を編集してください -->
位相空間が'''コンパクト'''({{lang-en-short|compact}}, {{IPA|/kəmˈpækt/}}<ref>{{cite web
|url = https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/compact
|title = Cambridge English Dictionary
|accessdate = 2021-01-19
}}</ref>)であるとは、後述する所定の性質を満たす「性質の良い」空間であり、<math>\mathbb{R}^n</math>上の有界閉集合の性質を抽象化したもの。
「完閉」という訳語もあるが、ほとんど使われていない。
位相空間{{Mvar|X}}の部分集合{{Mvar|Y}}に対し、{{Mvar|Y}}の{{Mvar|X}}における閉包がコンパクトであるとき{{Mvar|Y}}は{{Mvar|X}}で'''相対コンパクト'''({{Lang-en-short|relatively compact}})であるという。
なお[[ブルバキ]]などでは、本項でいうコンパクトを準コンパクト({{lang-en-short|quasi-compact}})、準コンパクトで[[ハウスドルフ空間|ハウスドルフの分離公理]]を満たすものをコンパクトと定義することもある。
== 概要 ==
=== 動機 ===
<math>\mathbb{R}^n</math>の有界閉集合{{Mvar|X}}は位相空間として「性質が良く」、例えば以下が成立する事が知られている:
* {{Mvar|X}}から<math>\mathbb{R}</math>への連続写像は必ず最大値・最小値を持つ
* {{Mvar|X}}から<math>\mathbb{R}</math>への連続写像は必ず[[一様連続]]である
* {{Mvar|X}}から<math>\mathbb{R}^n</math>への[[単射]]{{Mvar|f}}が連続なら、逆写像<math>f^{-1}~:~f(X) \to X</math>も連続である。
このような「性質の良い」空間を一般の位相空間に拡張して定義したものがコンパクトの概念である。
ただし、「<math>\mathbb{R}^n</math>の有界閉集合」という概念自身は、「[[有界]]」という[[距離空間|距離]]に依存した概念に基づいているため、一般の位相空間では定義できず、別の角度からコンパクトの概念を定義する必要がある。
そのために用いるのが[[ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理|ボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理]]と[[ハイネ・ボレルの被覆定理]]である。これらの定理はいずれも「<math>\mathbb{R}^n</math>の有界閉集合であれば◯◯」という形の定理であるが、実は逆も成立する事が知られており、<math>\mathbb{R}^n</math>においては
# 有界閉集合である事
# ボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理の結論部分
# ハイネ・ボレルの定理の結論部分
の3つは同値となる。しかも上記の2,3はいずれも位相構造のみを使って記述可能である。
したがって2もしくは3の一方を満たす(同値なので実は2,3の両方を満たす)事をもってコンパクト性を定義する。ただしテクニカルな理由により、上記の2に関しては若干の補正が必要になるが、これについては後述する。
=== 2種類の同値な定義 ===
コンパクトの概念は以下に述べる同値な2性質の少なくとも一方(したがって両方)を満たす事により定義される。
==== ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性による定式化 ====
1つ目の性質は'''(有向点族に対する)ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性'''といい、これは<math>\mathbb{R}^n</math>の有界閉集合に対する[[ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理|ボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理]]の結論部分を若干拡張した形で定式化したものである。この性質は直観的には点列の拡張概念である[[有向点族]]の極限が発散する事がない事を意味する。
コンパクトな空間では有向点族が{{mvar|X}}の「外」に「発散」する事がないので、{{mvar|X}}内で「収束」するか「振動」するかのいずれかとなる<ref group="注">この部分の議論はコンパクト化の概念を定義する事により、厳密化する事ができる</ref>。よって任意の有向点族には収束する部分列が取れるはずであり、厳密にはこの事実を持ってコンパクト性を定義する。
コンパクトな空間は「{{mvar|X}}の外に発散する有向点族がない」という意味において、閉集合よりもさらに「閉じた」空間だと言え、実際ハウスドルフ空間においてはコンパクトな部分集合は必ず閉集合になる事が知られている。こうした事情から、コンパクトな空間には「閉」という接頭辞をつけて呼ぶ事があり、例えばコンパクトな[[多様体]]は「閉多様体」と呼ばれる<ref group="注">なお、閉多様体という言葉は書籍により意味の違いがあり、コンパクトな多様体を閉多様体と呼ぶものと、コンパクトで縁のない多様体を閉多様体と呼ぶものが有る</ref>。
==== ハイネ・ボレル性による定式化 ====
コンパクトを特徴づける2つ目の性質(前述のようにこれはボルツァーノ・ワイエルシュトラス性と同値)は'''ハイネ・ボレル性'''といい、これは<math>\mathbb{R}^n</math>の有界閉集合に対する[[ハイネ・ボレルの被覆定理]]の結論部分に相当する性質である。
ハイネ・ボレル性は非常に抽象的な性質なので、その詳細は後の章に譲るが、コンパクトな空間に対する定理を証明する際、無限に伴う証明の困難さを回避するのにこの性質を用いる事ができる。なお、学部レベルの教科書ではハイネ・ボレル性の方をコンパクトの定義として採用しているものが多い。
=== 距離空間における特徴づけ ===
{{mvar|X}}が[[距離空間]](もしくはさらに一般的に[[一様空間]])であれば、上記2つのいずれとも異なる角度からコンパクト性を特徴づける事ができる。距離空間{{mvar|X}}がコンパクトである必要十分条件は{{mvar|X}}が'''全有界かつ完備'''である事である。ここで'''全有界性'''とは、有界性を強めた条件で、任意の{{Math|''ε''>0}}に対し、{{Mvar|X}}が有限個の{{Mvar|ε}}-球の和集合で書ける事を意味する。また'''完備性'''は{{mvar|X}}上のコーシー列が必ず収束する事を意味する。
距離空間においてコンパクトの概念は、'''点列コンパクト性'''と呼ばれる性質とも同値になる。これは前述したボルツァーノ・ワイエルシュトラス性が点列に対して成立するという趣旨の概念である。この概念は一般にはコンパクト性よりも弱いが、距離空間であればコンパクト性と同値になる事が知られている。
=== ベクトル空間における特徴づけ ===
<math>\mathbb{R}</math>もしくは<math>\mathbb{C}</math>上の有限次元ベクトル空間(あるいはより一般に有限次元の完備[[リーマン多様体]])の部分集合{{Mvar|X}}がコンパクトである必要十分条件は、{{Mvar|X}}が有界閉集合である事である。それに対し無限次元ベクトル空間の場合は有界閉集合であってもコンパクトにならない場合がある。前述のように距離空間においてはコンパクト性は全有界かつ完備な事と同値だが、無限次元のベクトル空間の場合は全有界ではない有界閉集合が存在するからである。
なお、<math>\mathbb{R}</math>もしくは<math>\mathbb{C}</math>上のノルム空間{{Mvar|V}}の閉単位球がコンパクトである必要十分条件は{{Mvar|V}}が有限次元である事である([[リースの補題]]から直接従う)。ただし以上の議論は{{Mvar|V}}にノルムから定まる位相を入れた場合の話であり、それ以外の位相を入れた場合はこの限りではない。例えば{{Mvar|V}}の双対空間{{Mvar|V{{sup|*}}}}に*弱位相を入れた場合、{{Mvar|V{{sup|*}}}}の閉単位球は(たとえ{{Mvar|V{{sup|*}}}}が無限次元であっても)コンパクトである([[バナッハ=アラオグルの定理|バナッハ・アラオグルの定理]])。
==ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義==
すでに述べたようにコンパクト性には2種類の同値な定義がある。本章ではこの2つの定義のうち、ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性による定義について述べる。
=== 有向点族 ===
{{main|有向集合|有向点族}}本節ではボルツァーノ・ワイエルシュトラス性の定式化に必要な概念である有向点族の概念を導入する。有向点族とは有向集合を添え字とする族である:
{{math theorem|定義|空でない[[集合]]{{mvar|Λ}}と{{mvar|Λ}}上の[[二項関係]]「≤ 」の組 {{math|(Λ, ≤)}}が'''[[有向集合]]'''(ゆうこうしゅうごう、{{lang-en-short|directed set}})であるとは、「≤ 」が以下の性質を全て満たす事を言う<ref name="Kelly65">[[#Kelly]] pp.65-66.</ref>:
*([[反射関係|反射律]]){{math|∀λ∈Λ : λ ≤λ}}
*([[推移関係|推移律]]){{math|∀λ,μ,ν∈Λ : λ ≤ μ, μ ≤ν ⇒ λ ≤ ν}}
* {{mvar|Λ}}の任意の二元が[[順序集合#上界|上界]]を持つ。すなわち{{math|∀λ,μ∈Λ∃ν∈Λ : λ ≤ ν, μ ≤ν}}
集合{{mvar|X}}上の'''有向点族'''とは、{{mvar|X}}上の族{{math|(''x''{{sub|''λ''}}){{sub|''λ''∈''Λ''}}}}で添字集合{{mvar|Λ}}が有向集合であるものを指す<ref name="Kelly65" /><ref group="注">より厳密に言うと、有向集合{{math|(''Λ'',≤)}}と、{{mvar|Λ}}から{{mvar|X}}への写像{{math|''x'' : ''Λ''→''X''}}の組の事を{{mvar|Λ}}を添字集合とする有向点族と呼ぶ</ref>。有向点族は'''ネット''' ({{lang-en-short|net}})、 '''Moore-Smith 列'''({{lang-en-short|Moore-Smith sequence}}<ref name="Schechter7.6">[[位相空間#Schechter|#Schechter]] 7.6</ref>)、'''generalized sequence'''<ref name="Schechter7.6" />などとも呼ばれる。
|note='''有向集合'''・'''有向点族'''}}
なお、有向集合の二項関係「≤ 」は、反射律と推移律を満たすのものの反対称律は満たす必要がないので、前順序ではあるものの[[順序集合|順序]]の定義は満たしていない。
点列と同様、有向点族に対して'''収束'''概念や'''部分有向点族'''の概念を定義する事ができる。詳細は[[有向点族]]の項目を参照されたい。
有向点族の概念は、点列概念と違い、添字が[[可算集合|可算]]である事も全順序である事も要求しない。この事が有向点族に点列にはない優位性をもたらしており、例えば有向点族の収束の概念を用いれば、閉集合など位相空間の諸概念を特徴づける事ができる事が知られているが、点列の場合はそうではない。なぜなら点列概念は添字が可算である事が原因となり、点列で閉集合を特徴づけるには位相空間の方にも何らかの可算性を要求する必要が生じてしまうからである。詳細は[[列型空間]]を参照。
=== 定義 ===
{{math theorem|定義|
位相空間<math>(X,\mathcal{O})</math>が以下の性質を満たすとき、<math>(X,\mathcal{O})</math>は'''コンパクト'''であるという<ref name="Kelly135-136">[[コンパクト空間#Kelly|#Kelly]] pp.135-136.</ref>:
* ('''有向点族に対するボルツァーノ・ワイエルシュトラス性''') {{mvar|X}}上の任意の有向点族<math>(x_{\lambda})_{\lambda\in\Lambda}</math>に対し、<math>(x_{\lambda})_{\lambda\in\Lambda}</math>のある部分有向点族<math>(x_{\lambda_{\gamma}})_{\gamma\in\Gamma}</math>と{{math|''x''∈''X''}}が存在し、<math>(x_{\lambda_{\gamma}})_{\gamma\in\Gamma}</math>は{{math|''x''∈''X''}}に収束する
|note='''ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義'''{{Anchors|ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義}}}}
上記の定義は、<math>\mathbf{R}^n</math>上の有界閉集合に関する[[ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理|ボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理]]の結論部分を有向点族に自然に拡張したものである:
{{math theorem|定理|
<math>X\subset\mathbf{R}^n</math>が有界閉集合であるとき、{{mvar|X}}上の任意の点列は収束する部分列を持つ。
|note=[[ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理|ボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理]]}}なお、コンパクトの定義において、元々のボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理と同様、有向点族ではなく点列に対してのみ収束部分列を要求したものを'''点列コンパクト性'''と呼ぶが、点列コンパクト性は[[コンパクト空間#距離空間におけるコンパクト性の特徴づけ|距離空間においてはコンパクト性と同値]](より一般的に[[コンパクト空間#擬距離化可能空間におけるコンパクト、可算コンパクト、点列コンパクト、擬コンパクトの同値性|擬距離空間でも同値]])であるものの、無条件にはこの同値性は成立しない。点列コンパクト性に関する詳細は後述する。
==ハイネ・ボレル性によるコンパクト性の定義==
次にコンパクトの概念を全く違う角度から特徴づける。この特徴付けの基盤となるのは<math>\mathbf{R}^n</math>の有界閉集合に対する'''[[ハイネ・ボレルの被覆定理]]'''である。そこでまず、この定理の記述に必要な概念を定義する。
{{math theorem|定義|
<math>(X,\mathcal{O})</math>を位相空間とし、<math>\mathcal{S}</math>を{{mvar|X}}の部分集合の集合とする。
: <math>\cup_{O\in \mathcal{S}}O =X</math>
が成立するとき、<math>\mathcal{S}</math>は{{mvar|X}}を'''被覆する'''といい、特に<math>\mathcal{S}</math>の元が全て開集合であるとき、<math>\mathcal{S}</math>を{{mvar|X}}の'''開被覆'''({{lang-en-short|open cover}})という。
|note=開被覆}}
=== 定義 ===
コンパクト性の概念は以下のように特徴づける事ができる:{{math theorem|定義|位相空間<math>(X,\mathcal{O})</math>が以下の性質を満たすとき<math>(X,\mathcal{O})</math>は'''コンパクト'''であるという<ref name="Kelly135-136" />:
* ('''ハイネ・ボレル性''') {{mvar|X}}の任意の開被覆<math>\mathcal{S}</math>に対し、<math>\mathcal{S}</math>のある有限部分集合<math>\mathcal{T}</math>が存在し、<math>\mathcal{T}</math>は{{mvar|X}}を被覆する<ref name="Kelly135-136" />。|note='''ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義'''{{Anchors|ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義}}}}
{{math theorem|定理|ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義は[[コンパクト空間#ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義|ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義]]と同値である<ref name="Kelly135-136" />。|note='''2つの定義が同値であること'''{{Anchors|ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義}}}}
上述の定義における<math>\mathcal{T}</math>の事を<math>\mathcal{S}</math>の'''有限部分被覆'''という。
もともとのハイネ・ボレルの定理は以下のように記述できる:{{math theorem|定理|<math>\mathbb{R}^n</math>の部分集合{{mvar|X}}が有界閉集合であれば、(<math>\mathbb{R}^n</math>から誘導される部分位相に関して)[[コンパクト空間#ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義|ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義]]を満たす。|note=ハイネ・ボレルの被覆定理}}
後述するように、実は逆向きも成立する事が知られているので、<math>\mathbb{R}^n</math>においてはコンパクト性は有界閉集合である事と同値である。なお、一般の距離空間では「コンパクト部分集合⇒有界閉集合」は言えるが逆向きは成立するとは限らない。
===有限交差性===
ハイネ・ボレル性による定義における「開集合」の補集合を取って「閉集合」とし、さらに対偶を取る事で、コンパクト性の以下の特徴づけが得られる:{{math theorem|定義|<math>(X,\mathcal{O})</math>を位相空間とし、{{mvar|X}}の閉集合の任意の集合<math>\mathcal{F}</math>が以下の性質を満たすとき、<math>\mathcal{F}</math>は'''[[有限交差性]]'''を満たすという:
*<math>\mathcal{F}</math>の任意の有限部分集合<math>\mathcal{F}'</math>が、<math>\cap_{F\in\mathcal{F}'}F\neq\emptyset</math>を満たす。{{Anchors|有限交差性の定義}}}}
{{math theorem|定理|<math>(X,\mathcal{O})</math>がコンパクトである必要十分条件は以下の性質が成立する事である<ref name="Kelly135-136" />:
* {{mvar|X}}の閉集合の任意の集合<math>\mathcal{F}</math>が有限交差性を満たせば<math>\cap_{F\in\mathcal{F}}F\neq\emptyset</math>が成立する。|note='''有限交差性によるコンパクトの特徴づけ'''{{Anchors|有限交差性によるコンパクト性の特徴づけ}}}}この条件は[[区間縮小法]]の一般化になっているとみなすことができ、位相空間における存在証明に重要な役割を果たす。
=== 利用例 ===
ハイネ・ボレル性は定理の証明などで{{mvar|X}}の各点{{mvar|x}}の近傍<math>O_x</math>上で局所的に示されている性質を{{mvar|X}}全体に広げる際に用いられる。この場合、ハイネ・ボレル性でいう開被覆<math>\mathcal{S}</math>は典型的には各点の近傍の集合<math>\mathcal{S}=\{O_x \mid x\in X\}</math>であり、ハイネ・ボレル性はこの無限個の開集合からなる開被覆から有限部分被覆<math>\mathcal{T}</math>を抽出して、無限に伴う証明の困難さを回避する事を可能にする。
具体的には以下の定理の証明をもとに、ハイネ・ボレル性の使い方を説明する:{{math theorem|定理|距離空間{{mvar|X}}、{{mvar|Y}}に対し、{{mvar|X}}がコンパクトであれば、{{mvar|X}}上定義された任意の連続関数<math>f~:~X \to Y</math>は一様連続である|note='''[[ハイネ・カントールの定理]]'''}}
この定理は、ハイネ・ボレル性を利用して以下のように証明する。まず{{mvar|f}}の連続性により、任意に{{math|''ε''>0}}を固定するとき、{{mvar|X}}の各点{{mvar|x}}の、ある{{math|''δ''{{sub|''x''}}}}-近傍が<math>f(B_{\delta_x}(x))\subset B_{\varepsilon}(f(x))</math>を満たす。ここで<math>B_{\varepsilon}(y)</math>は点{{Mvar|y}}の''ε''-[[近傍]]を表す。
この<math>\delta_x</math>は{{mvar|x}}に依存しているが、もしも正数<math>\varepsilon</math>を与えたときに<math>f(B_{\delta}(x))\subset B_{\varepsilon}(f(x))</math>を満たす正数{{mvar|δ}}が点{{mvar|x}}に依らずに選べるのであれば<math>f</math>の<math>X</math>における一様連続性が言える。そのような{{mvar|δ}}を見つける単純な方法は
:<math>\delta=\inf_{x\in X}\delta_x</math>
とする事だが、{{mvar|x}}の選択は無限にあるので、{{mvar|δ}}は0になる可能性があるからうまくいかない。
そこでハイネ・ボレル性を使って開被覆<math>\mathcal{S}=\{B_{\delta_x/2}(x)|x\in X\}</math>の有限部分被覆<math>\mathcal{T}=\{B_{\delta_{x_i}/2}(x_i)|i=1,\ldots,n\}</math>を選び、
:<math>\delta=\min_{i}\delta_{x_i}/4</math>
とすれば<math>\delta_{x_i}</math>の'''個数は有限個なので'''{{math|''δ''>0}}であることが保証される。
しかも<math>\mathcal{T}</math>が{{Mvar|X}}を被覆している事から、任意の{{Math|''x'' ∈ ''X''}}に対し、<math>x\in B_{\delta_{x_i}}(x_i)</math>となる{{Mvar|x{{sub|i}}}}が存在して、
:<math>
f(B_{\delta}(x))\subset f(B_{\delta_i}(x))\subset B_{\varepsilon}(f(x))
</math>
となることから<math>f</math>の<math>X</math>における一様連続性が言える。
==それ以外の特徴づけ==
コンパクト性は、有向点族と本質的に同値な概念である[[フィルター (数学)|フィルター]]の収束によっても特徴づけられる。また普遍有向点族やその対応概念である超フィルターを用いても特徴づける事ができる。これまでに述べて特徴づけも含め、こうしたコンパクト性の様々な特徴づけを列挙する{{math theorem|定理|位相空間<math>(X,\mathcal{O})</math>に対し、以下は全て同値である。
* {{mvar|X}}は[[コンパクト空間#ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義|ハイネ・ボレル性によるコンパクトの定義]]を満たす。
*{{mvar|X}}は [[コンパクト空間#有限交差性によるコンパクト性の特徴づけ|有限交差性によるコンパクトの定義]]を満たす。
* {{mvar|X}}は[[コンパクト空間#ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義|ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性によるコンパクトの定義]]を満たす
* {{mvar|X}}上の任意の[[フィルター (数学)|フィルター]]は収束する細分を持つ
* {{mvar|X}}上の任意の有向点族は集積点を持つ
* {{mvar|X}}上の任意の[[フィルター (数学)|フィルター]]は集積点を持つ
* {{mvar|X}}上の任意の[[有向点族#普遍有向点族|普遍有向点族]]は収束する
* {{mvar|X}}上の任意の[[超フィルター]]は収束する|note='''コンパクトの特徴づけ'''}}
== 性質 ==
===閉集合===
コンパクトな位相空間の部分集合に関し、以下が言える:
* コンパクト空間の部分集合が閉集合ならコンパクトである。
* ハウスドルフの分離公理を満たす位相空間のコンパクト部分集合は閉集合である。
したがってコンパクトかつハウスドルフな位相空間('''コンパクトハウスドルフ空間''')では部分集合Aが閉集合である事とAがコンパクトである事は同値である。
===コンパクト性の遺伝===
* コンパクト空間から位相空間への連続写像の像はコンパクト集合である。
*(有限個または無限個の)コンパクト空間の直積はコンパクトである。([[チコノフの定理]]。この定理は[[公理的集合論|ZF]] のもとで[[選択公理]]と同値である<ref>[[コンパクト空間#Schechter|#Schechter]] p.461.</ref>)
===その他===
*コンパクト空間から[[ハウスドルフ空間]]への連続な全単射写像は[[位相同型|同相写像]]である。
*コンパクト空間から実数体への連続関数は[[連続 (数学)#一変数実関数の連続性|一様連続]]である。(ここから連続関数がリーマン可積分であることが言える)
* コンパクトハウスドルフなら正規<ref name="Kelly141">[[コンパクト空間#Kelly|#Kelly]] p.141.</ref>
== 距離空間におけるコンパクトの特徴づけ ==
''X'' が[[距離空間]]であれば、コンパクト性をまた別の方法で特徴づける事ができる。まずは結論となる定理を提示し、それから定理の記述に必要な概念を順に導入する。
{{math theorem|定理|
''X'' を距離空間とするとき以下の3つは同値である。
# ''X'' はコンパクトである。
# ''X'' は[[全有界]]かつ[[完備]]である。
# ''X'' は点列コンパクトである。|note='''距離空間におけるコンパクト性の特徴づけ'''<ref>[[コンパクト空間#内田|#内田]] p.146</ref>{{Anchors|距離空間におけるコンパクト性の特徴づけ}}}}
=== 定理の記述に必要な諸概念 ===
==== 全有界性 ====
距離空間{{mvar|X}}が全有界であるとは任意の ''ε'' > 0 に対し、''X'' を半径 ''ε'' の有限個の開球で被覆する事ができる事を指す:
{{math theorem|定義|
距離空間{{mvar|X}}が'''全有界'''(ぜんゆうかい、{{lang-en-short|totally bounded}})もしくは'''プレコンパクト'''({{lang-en-short|precompact}})であるとは任意の {{math|''ε'' > 0}} に対し、{{mvar|X}}の有限部分集合 <math>F\subset X</math> が存在し、
:<math>
X = \bigcup_{x\in F}B_{\varepsilon}(x)
</math>
となる事を指す。(ここで<math>B_{\varepsilon}(x)</math>は点{{mvar|x}}の{{mvar|ε}}-[[近傍]]<math>B_{\varepsilon}(x)=\{y\in X\mid d(x,y)<\varepsilon\}</math>を表す。)
|note='''全有界性'''}}
全有界性は以下のようにも特徴づけられる事が知られている:
{{math theorem|name=定理2|1=
距離空間{{mvar|X}}が全有界である必要十分条件は以下を満たす事である:
{{mvar|X}}上の任意の点列に対しある部分列が存在し、その部分列はコーシー列である<ref>[[コンパクト空間#内田|#内田]] pp.145-146.なお、この文献では必要性しか示されていないが、十分性に関しても以下のアイデアで示せる:<math>\bar{X}</math>を{{mvar|X}}の完備化とすると、仮定より<math>\bar{X}</math>上の点列はコーシー列を部分列に持ち、<math>\bar{X}</math>は完備なのでこのコーシー列は収束する。すなわち<math>\bar{X}</math>は点列コンパクトである。点列コンパクトは全有界かつ完備である事と同値なので、<math>\bar{X}</math>は全有界であり、したがって{{mvar|X}}も全有界である。</ref>。
}}
==== 完備性 ====
{{math theorem|定義|
距離空間 ''X'' が'''[[完備]]'''であるとは ''X'' 上の[[コーシー列]]は必ず収束する事を指す。
}}
詳細は[[完備距離空間]]の項目を参照されたい。
==== 点列コンパクト ====
位相空間が点列コンパクトとは、一般の有向集合ではなく点列に対してのみボルツァーノ・ワイエルシュトラス性が保証される事を意味する<ref group="注">単に「ボルツァーノ・ワイエルシュトラス性」といったとき有向点族に対するものを指すのか点列に対するものを指すのかは書籍により異なるので注意が必要である。</ref>:
{{math theorem|定義|
位相空間 ''X'' が'''[[点列コンパクト空間|点列コンパクト]]'''であるとは、''X'' 上の任意の点列は収束部分列を持つ事を指す。すなわち ''X'' 上の任意の点列 <math>\{x_n\}_{n\in\mathbb{N}}</math> に対し適当な部分列 <math>\{x_{n_i}\}_{i\in\mathbb{N}}</math> を取れば <math>\{x_{n_i}\}_{i\in\mathbb{N}}</math> は ''X'' 上のいずれかの点に収束する事を指す。
点列コンパクト性の事を'''点列に対するボルツァーノ・ワイエルシュトラス性'''とも言う。}}コンパクトと点列コンパクトの同値性は[[コンパクト空間#擬距離化可能空間におけるコンパクト、可算コンパクト、点列コンパクト、擬コンパクトの同値性|擬距離空間でも成立]]するが、無条件には成立しない。点列コンパクト性に関する詳細は[[コンパクト空間#点列コンパクトの性質|後述]]する。
=== 有限次元ベクトル空間におけるコンパクト性 ===
{{Anchors|有限次元空間におけるコンパクト性}}距離空間においては[[コンパクト空間#距離空間におけるコンパクト性の特徴づけ|コンパクト性と「全有界かつ完備」が同値になる事]]をユークリッド空間に適用すると、以下の系が従う:{{math theorem|name=系|1=
有限次元のユークリッド空間(あるいはより一般に完備[[リーマン多様体]])の部分集合 ''A'' がコンパクトである必要十分条件は ''A'' が有界閉集合である事である。
}}
より正確に言うと有限次元のユークリッド空間や完備[[リーマン多様体]]の部分集合に対しては、有界性と全有界性が同値であり、完備性と閉集合である事が同値である。これらの事実は簡単に証明できる。
=== 一様空間への一般化 ===
[[コンパクト空間#距離空間におけるコンパクト性の特徴づけ|コンパクト性と「全有界かつ完備」が同値になる事]]は距離空間よりも一般的な[[一様空間]]でも成立する:
{{math theorem|定理|
''X'' を一様空間とするとき以下の3つは同値である。
# ''X'' はコンパクトである。
# ''X'' は[[全有界]]かつ[[完備]]である。
|note='''一様空間におけるコンパクト性の特徴づけ'''}}
一様空間の定義は[[一様空間|当該項目]]を参照されたい。一様空間における全有界性と完備性は以下のように定義される:{{math theorem|定義・定理|<math>(X,\mathcal{U})</math>を一様空間とし、{{mvar|D}}を{{mvar|X}}上の擬距離の集合で{{mvar|D}}が定める一様構造が<math>\mathcal{U}</math>と一致するものとする。
このとき以下の条件は全て同値である。これらの条件の少なくとも1つ(したがって全て)を満たすとき、<math>(X,\mathcal{U})</math>は'''全有界'''({{lang-en-short|totally bounded}})もしくは'''プレコンパクト'''({{lang-en-short|precompact}})であるという<ref>[[一様空間#Kelly|#Kelly]] p.198.</ref><ref>[[一様空間#Schechter|#Schechter]] pp.505-506.</ref>。
* 任意の近縁<math>U\in \mathcal{U}</math>に対し、ある有限集合{{math|''F''∈''X''}}が存在し、<math>\cup_{x\in F}U[x]=X</math>である。
* 任意の擬距離{{math|''d''∈''D''}}と任意の実数{{math|''ε''>0}}に対し、{{mvar|X}}の有限部分集合{{mvar|F}}が存在し、<math>\cup_{x\in F}\{y \mid d(x,y)<\varepsilon\}=X</math>が成立する。
* {{mvar|X}}上の任意の有向点族は部分有向点族でコーシーなものを持つ。|note='''一様空間における全有界性'''}}{{math theorem|定義|
距離空間 ''X'' が'''[[完備]]'''であるとは ''X'' 上の任意のコーシー有向点族が少なくとも1つ極限を持つ事をいう。
|note='''一様空間の完備性'''}}
上で「少なくとも1つ極限を持つ」という言い方をしているのは、<math>\mathcal{U}</math>が定める位相構造が[[ハウスドルフ空間|ハウスドルフ]]でない限り、有向点族の収束の一意性は保証されないからである。
=== Niemytzki-Tychonovの定理 ===
擬距離化可能空間においてコンパクト性は以下のようにも特徴づける事ができる:{{math theorem|定理|{{mvar|X}}を擬距離化可能な位相空間とするこのとき{{mvar|X}}がコンパクトである必要十分条件は、{{mvar|X}}上の任意の擬距離{{mvar|d}}(でその擬距離の定める位相が{{mvar|X}}の位相と一致するもの)に対し、擬距離空間<math>(X,d)</math>が完備である事である<ref>[[コンパクト空間#Schechter|#Schechter]] p.507</ref>。|note='''Niemytzki-Tychonovの定理'''}}
== 無限次元空間におけるコンパクト性 ==
[[コンパクト空間#有限次元空間におけるコンパクト性|すでに述べたように]]、有限次元ベクトル空間やより一般に有限次元の完備リーマン多様体の部分集合に対してはコンパクト性は有界閉集合と等しい。一方無限次元の空間の場合は、どのような空間にどのような位相を入れるかにより結論が異なる。
=== 無限次元ベクトル空間 ===
==== ノルムから位相を入れた場合 ====
[[ノルム]]から位相を入れたベクトル空間([[ノルム線型空間|'''ノルム空間''']])に対しては[[リースの補題]]から直接的に次の事実が従う:
{{math theorem|name=命題|1=
<math>\mathbb{R}</math>もしくは<math>\mathbb{C}</math>上の[[ノルム線形空間|ノルム空間]]{{mvar|V}}の閉単位球がコンパクトである必要十分条件は{{mvar|V}}が有限次元である事である。
}}
{{Anchors|無限次元ノルム空間における反例}}
この定理を具体例を通して説明すると、例えば[[数列空間|ℓ<sup>2</sup>空間]]
:<math>\ell^2=\{x=(x_n)_{n\in\mathbb{N}}\mid \sum_nx_n{}^2<\infty\}</math>
にℓ<sup>2</sup>ノルム
:<math>\|x\|=\left(\sum_{n\in\mathbb{N}}x_n{}^2\right)^{1 \over 2}</math>
から定まる距離を入れた空間の閉単位球
:<math>B=\{x\in \ell^2\mid \|x\|\le 1\}</math>
はコンパクトでは'''ない'''。
実際、
:<math>\mathbb{e}_n=(\delta_{n,k})_{k\in\mathbb{N}}</math>
とすると(ここで{{mvar|δ{{sub|n,k}}}}は[[クロネッカーのデルタ]])、
: <math>\|\mathbb{e}_n-\mathbb{e}_m\|=\sqrt{2}</math> for {{math|''n''≠''m''}}
であるので、<math>(\mathbb{e}_n)_{n\in\mathbb{N}}\subset B</math>のいかなる部分列<math>(\mathbb{e}_{n_i})_{i\in\mathbb{N}}</math>もコーシー列の条件
: <math>\lim_{i,j\to \infty}\|\mathbb{e}_{n_i}-\mathbb{e}_{n_j}\|=0</math>
を満たしえず、したがって<math>(\mathbb{e}_n)_{n\in\mathbb{N}}\subset B</math>は収束部分列を持たない為点列コンパクトではなく、よってコンパクトでもない。
ℓ<sup>2</sup>空間の閉単位球{{mvar|B}}がコンパクトにならない原因は、{{mvar|B}}は有界であっても全有界ではないからである。実際、<math>\|\mathbb{e}_n-\mathbb{e}_m\|=\sqrt{2}</math> for {{math|''n''≠''m''}}であるので、<math>\varepsilon<\sqrt{2}/2</math>を満たす正数{{mvar|ε}}に対しては、各<math>\mathbb{e}_1,\mathbb{e}_2,\ldots</math>を覆うために一つずつ{{mvar|ε}}-球を用いる必要があるので、可算無限個の{{mvar|ε}}-球が必要となり、全有界ではない。
==== *弱位相の場合 ====
一方、無限次元空間であってもノルムから定まる位相以外の位相に関しては閉単位球がコンパクトになる事もある:{{math theorem|name=定理|1=
{{mvar|K}}を<math>\mathbb{R}</math>もしくは<math>\mathbb{C}</math>とする。このとき{{mvar|K}}上のノルム空間{{mvar|V}}の[[双対空間]]{{mvar|V{{sup|*}}}}に*弱位相を入れると、({{mvar|V}}が無限次元であっても){{mvar|V{{sup|*}}}}の閉単位球はコンパクトである。
|note='''[[バナッハ=アラオグルの定理|バナッハ・アラオグルの定理]]'''}}ここでノルム空間{{Mvar|V}}の'''双対空間'''{{Mvar|V{{sup|*}}}}は{{Mvar|V}}上の{{Mvar|K}}値連続線形写像全体を関数としての和と定数倍によりベクトル空間とみなしたものであり、[[弱位相|'''*弱位相''']]とは{{Math|''x'' ∈ ''V''}}に対し、
: <math>\mu_x\colon\alpha\in V^* \mapsto \alpha(x)\in K</math>
とするとき、{{Mvar|μ{{sub|x}}}}が全て連続になる{{Mvar|V{{sup|*}}}}上の最弱の位相の事である。なお{{Mvar|V{{sup|*}}}}は[[作用素ノルム]]によりノルム空間とみなせ、上記の定理で言う「閉単位球」はこのノルムに関する閉単位球の事である。
*弱位相はハウスドルフ性を満たす事が知られており、コンパクトな空間の閉部分集合はコンパクトなので、以下の系が成立する:{{math theorem|name=系|1=
{{mvar|V*}}に*弱位相を入れた空間の有界閉集合はコンパクト
}}なお、{{Mvar|V}}が再帰的であれば{{Mvar|V}}上の[[弱位相]]に関しても同様な事が成立する事が知られているが、再帰的でない場合には反例がある事が知られている<ref>[[コンパクト空間#Heil|#Heil]] p.3.</ref>。
注意しなければならないのは、*弱位相における有界閉集合には内点が無く、有界閉集合上の点は必ず境界点になる事である。これはすなわち、たとえ閉単位球がコンパクトであっても*弱位相をいれた{{Mvar|V{{sup|*}}}}が後述する[[局所コンパクト空間|局所コンパクト]]にはなっていない事を意味する。
===コンパクト空間の直積===
本節では位相空間の(有限個または無限個の)直積には2種類の位相が入り、コンパクト空間の無限個の直積に前者の位相を入れた場合はコンパクトになるが、後者の位相を入れた場合はそうなるとは限らない事を見る。
==== 直積位相と箱型積位相 ====
<math>(X_{\lambda})_{\lambda\in\Lambda}</math>を位相空間の族するとき、<math>\prod_{\lambda\in\Lambda}X_{\lambda}</math>には以下の2種類の位相が入る。
{{math theorem|name=定義|1=
<math>(X_{\lambda})_{\lambda\in\Lambda}</math>を位相空間の族とする。このとき、
* 全ての射影<math>p_{\lambda}\colon\prod_{\lambda\in\Lambda}X_{\lambda}\to X_{\lambda} </math>を連続にする最弱の位相を'''[[直積位相]]'''もしくは'''チコノフ位相'''という。
* <math>\{\prod_{\lambda\in\Lambda}O_{\lambda}\mid \forall \lambda\in\Lambda~:~O_{\lambda}\in\mathcal{O}_{\lambda}\}</math>を開基とする位相を'''{{仮リンク|箱型積位相|en|box topology}}'''という<ref>[[位相空間#内田|#内田]] p.95</ref>。
|note='''直積位相、箱型積位相'''}}これら2つの位相は有限個の直積<math>X_1\times\cdots\times X_n</math>を考えている場合は同一であるが、無限積を考えた場合には箱型積位相のほうが直積位相よりも強い(弱くない)位相になる。これを見るために直積位相を具体的に書き表すと、以下のようになる事が知られている:{{math theorem|定理|上の定義と同様に記号を定義するとき、
直積位相は
:<math>\Bigg\{\prod_{\lambda\in\Lambda}O_{\lambda}\ \Bigg|\ O_{\lambda}\in \mathcal{O}_{\lambda}</math>, 有限個のλを除いて<math>O_{\lambda}= X_{\lambda}\Bigg\}</math>
を開基とする。}}Λが無限集合のときは、「有限個のλを除いて…」という条件が原因で、箱型積位相と差が生じる。例えば<math>\mathbb{R}_1,\mathbb{R}_2,\ldots</math>を<math>\mathbb{R}</math>の(可算)無限個のコピーとし、<math>U_1,U_2,\ldots</math>を<math>U=(0,1)</math>の無限個のコピーとするとき、直積
: <math>\prod_{i\in\mathbb{N}}U_i</math>
は直積位相に関して
: <math>\prod_{i\in\mathbb{N}}\mathbb{R}_i</math>
の開集合'''ではない'''。実際、前述の「有限個を除いて…」という条件を満たしておらず、条件をみたすものの和集合としても書けないからである。
==== チコノフの定理 ====
コンパクト空間の(有限個または無限個の)直積に直積位相位相を入れたものはコンパクトである:{{math theorem|name=定理|1=
<math>(X_{\lambda})_{\lambda\in\Lambda}</math>をコンパクトな位相空間の族とする。このとき直積<math>\prod_{\lambda\in\Lambda}X_{\lambda}</math>に直積位相を入れたものはコンパクトである。
|note='''[[チコノフの定理]]'''{{Anchors|チコノフの定理}}}}
なおチコノフの定理は([[ZFC公理系|ZF公理系]]を仮定した上で)選択公理と同値である事が知られている<ref>[[コンパクト空間#内田|#内田]] p.118.</ref>。
チコノフの定理より例えば<math>\mathbb{R}</math>上の単位区間<math>I=[0,1]</math>の無限個のコピー<math>I_1,I_2,\ldots</math>の直積<math>\prod_{i\in\mathbb{N}}I_i</math>に直積位相を入れたものはコンパクトである。
一方<math>\prod_{i\in\mathbb{N}}I_i</math>に箱型積位相を入れたものはコンパクトでは'''ない'''。実際、<math>x=(x_i)_{i\in\mathbb{N}}\in\prod_{i\in\mathbb{N}}I_i</math>に対し、ノルムを
: <math>\|x\|_{\infty}=\sup_i|x_i|</math>
と定義すると、箱型積位相はこのノルムから定まる位相と一致する事を簡単に確かめる事ができる。そこで<math>\mathbb{e}_n=(\delta_{n,k})_{k\in\mathbb{N}}</math>として[[コンパクト空間#無限次元ノルム空間における反例|無限次元ノルム空間の場合]]と同様の議論でコンパクトでない事を示せる。
==コンパクト化==
位相空間''X'' の'''[[コンパクト化]]'''とは ''X'' をコンパクトな位相空間に[[稠密集合|稠密]]に埋め込む操作を指す。コンパクトな空間は数学的に取り扱いやすい為、''X'' をそのような空間に埋め込む事で ''X'' の性質を調べやすくする事ができる。コンパクトでない位相空間に一点付け加えるだけでコンパクト化する方法が必ず存在する(アレクサンドロフの一点コンパクト化)他、いくつかのコンパクト化の方法が知られている。実用上は ''X'' の構造を保つなど、''X'' の性質が調べやすくなるコンパクト化の方法を選ぶ必要がある(例えば ''X'' が多様体であるときにコンパクト化 ''K'' として多様体になるものを選ぶ等)。
{{see also|コンパクト化}}
==関連概念とその関係性==
コンパクト性は位相空間論における重要概念の一つなので、コンパクト性の定義を拡張したり修正したりした概念が複数存在する。本節ではこうした概念を紹介し、それらの関係性を述べる。
=== 可算コンパクト、点列コンパクト、擬コンパクト ===
{{Anchors|点列コンパクトの性質}}これらの概念は以下のように定義される。点列コンパクトの定義は前の章ですでに述べたがが再掲している:
{| class="wikitable"
|+
!名称
!名称(英語)
!定義
|-
|[[可算コンパクト空間|'''可算コンパクト''']]
|[[:en:countably compact space|countably compact space]]
|{{mvar|X}}の任意の可算開被覆<math>\mathcal{S}</math>は有限部分開被覆<math>\mathcal{T}\subset\mathcal{S}</math>を持つ。ここで{{mvar|X}}の'''可算開被覆<math>\mathcal{S}</math>'''とは開被覆で可算集合であるものをいう。
|-
|'''[[点列コンパクト空間|点列コンパクト]]'''
|[[:en:sequentially compact space|sequentially compact space]]
|''X'' 上の任意の点列は収束部分列を持つ事を指す。すなわち ''X'' 上の任意の点列 <math>\{x_n\}_{n\in\mathbb{N}}</math> に対し適当な部分列 <math>\{x_{n_i}\}_{i\in\mathbb{N}}</math> を取れば <math>\{x_{n_i}\}_{i\in\mathbb{N}}</math> は ''X'' 上のいずれかの点に収束する事を指す。点列コンパクト性の事を'''点列に対するボルツァーノ・ワイエルシュトラス性'''とも言う。
|-
|'''擬コンパクト'''
|[[:en:pseudocompact space|pseudocompact]]
|{{Mvar|X}}から実数体への連続関数 ''f'' が必ず有界となる
|}
これらの概念は以下の関係性を満たす:{{math theorem|定理|コンパクト⇒点列コンパクト⇒可算コンパクト⇒擬コンパクト{{refn|「コンパクト⇒点列コンパクト」は定義より明らか。「可算コンパクト⇒擬コンパクト」は[[コンパクト空間#Schechter|#Schechter]] p.468より。「点列コンパクト⇒可算コンパクト」は[[コンパクト空間#Kelly|#Kelly]] p.162より可算コンパクト性は任意の点列が集積点を持つ事と同値なので。ここで点{{math|''x''∈''X''}}が点列<math>(x_n)_{n\in\mathbb{N}}</math>の'''集積点'''であるとは、{{mvar|x}}の任意の近傍{{mvar|N}}に対し、<math>x_n\in N</math>となる{{mvar|n}}が無限個ある事をいう([[コンパクト空間#Kelly|#Kelly]] p.71){{refn|なお、任意の点列が収束部分列を持つこと(すなわち点列コンパクトである事)と集積点を持つ事とは一見同値にみえるが、{{Mvar|X}}が第一可算公理を満たさない場合は前者のほうが後者よりも一般には強い条件である。{{Mvar|X}}が第一可算公理を満たしさえすれば、点列<math>(x_n)_{n\in\mathbb{N}}</math>の集積点{{math|''x''∈''X''}}の加算近傍系<math>\mathcal{B}</math>に属する各近傍から<math>(x_n)_{n\in\mathbb{N}}</math>の元を一つずつ選ぶことで{{Mvar|x}}に収束する部分列を取れるが(具体的には<math>\mathcal{B}=(B_m)_{m\in\mathbb{N}}</math>とするとき、<math>n_m:=\min \{n\in\mathbb{N} \mid x_n\in \cap_{k\le m}B_m\} </math>とすれば、部分列<math>(x_{n_m})_{m\in\mathbb{N}} </math>は{{Mvar|x}}に収束する)、{{Mvar|X}}が第一可算公理を満たさない場合はこのような手法で{{Mvar|x}}に収束する部分列を作る事ができないからである。|group="注"}}。}}。}}
擬距離化可能な空間ではこれら4つの概念は同値である:{{math theorem|定理|<math>(X,\mathcal{O})</math>を位相空間とする。
{{mvar|X}}が擬距離化可能空間であれば、コンパクト、可算コンパクト、点列コンパクト、擬コンパクトは同値<ref name="Schechter470">[[コンパクト空間#Schechter|#Schechter]] p.470</ref>。
|note='''擬距離化可能空間における同値性'''{{Anchors|擬距離化可能空間におけるコンパクト、可算コンパクト、点列コンパクト、擬コンパクトの同値性}}}}{{Mvar|X}}が擬距離化可能とは限らない場合はこれらは同値とは限らないが、以下のような関係を満たす:{{math theorem|定理|<math>(X,\mathcal{O})</math>を位相空間とする。
* {{mvar|X}}が第一可算公理を満せば、{{mvar|X}}の点列コンパクト性と可算コンパクト性は同値<ref name=Kelly162>[[コンパクト空間#Kelly|#Kelly]] p.162.</ref>。
* {{mvar|X}}がパラコンパクト(後述)で擬コンパクトならコンパクト<ref name="Schechter468">[[コンパクト空間#Schechter|#Schechter]] p.468</ref>。}}
=== 局所コンパクト、σ-コンパクト、リンデレーフ、パラコンパクト、メタコンパクト ===
これらは以下のように定義される:
{| class="wikitable"
|+
!名称
!名称(英語)
!定義
|-
|'''[[局所コンパクト]]'''
|[[:en:Locally compact space|locally compact]]
|{{Mvar|X}}の任意の点がコンパクトな近傍を持つ事。
|-
|'''[[シグマコンパクト|σ-コンパクト]]'''(しぐま-)
|[[:en:σ-compact space|σ-compact space]]
|{{Mvar|X}}は可算個のコンパクト集合の和集合として書ける
|-
|'''[[リンデレフ空間|リンデレーフ]]'''
|[[:en:Lindelöf space|Lindelöf space]]
|''X'' の任意の開被覆は可算部分被覆を持つ
|-
|'''[[パラコンパクト]]'''
|[[:en:Paracompact space|paracompact]]
|{{Mvar|X}}はハウスドルフであり、{{Mvar|X}}の任意の開被覆は局所有限な細分を持つ<ref name="Kelly-paracompact">[[コンパクト空間#Kelly|#Kelly]] pp.156-161.</ref>。ここで ''X'' の被覆<math>\mathcal{T}</math>が被覆<math>\mathcal{S}</math>の'''細分'''({{Lang-en-short|refinement}})であるとは、<math>\mathcal{T}</math>の任意の元{{Mvar|T}}に対して<math>\mathcal{S}</math>の元{{Mvar|S}}が存在して{{Math|''T''⊂''S''}}を満たす事を言う<ref name=":0">[[コンパクト空間#Kelly|#Kelly]] pp.126,128.</ref>。また''X'' の被覆<math>\mathcal{T}</math>が'''局所有限'''({{Lang-en-short|locally finite}})であるとは、任意の{{Math|''x'' ∈ ''X''}}に対し、{{Mvar|x}}の近傍{{Mvar|N}}が存在し、<math>N \cap T \neq \emptyset</math>となる<math>T\in\mathcal{T}</math>が有限個しかない事を指す<ref name=":0" />。
|-
|メタコンパクト
|[[:en:metacompact space|metacompact]]
|''X'' の任意の開被覆はpoint finiteな細分を持つ。ここで被覆<math>\mathcal{T}</math>が'''point finite'''であるとは任意の{{Math|''x'' ∈ ''X''}}に対し、{{Math|''x'' ∈ ''T''}}となる<math>T\in\mathcal{T}</math>が有限個である事を言う<ref name=":1">[[コンパクト空間#Kelly|#Kelly]] p.171.</ref>。
|}
σ-コンパクトの定義に関して留意点を述べる。σ-コンパクトは局所コンパクトと違い、コンパクトな近傍(すなわち内点を持つ集合)である事を要求されていない。これが原因でσ-コンパクトであっても局所コンパクトではない事があり得る。例えば有理数の集合<math>\mathbb{Q}</math>は一点集合(これはコンパクトである)の可算和で書けるのでσ-コンパクトだが、<math>\mathbb{Q}</math>の各点のいかなる近傍も距離空間として完備でないのでコンパクトではなく、よって<math>\mathbb{Q}</math>は局所コンパクトではない。
==== 関係性 ====
以上の概念は以下の関係性を満たす:{{math theorem|定理|<math>(X,\mathcal{O})</math>を位相空間とする。
* {{mvar|X}}が[[第二可算公理]]を満たせばリンデレーフ<ref>[[コンパクト空間#Willard2004|#Willard]]、Theorem 16.9, p. 111</ref>
* {{mvar|X}}が距離化可能空間であれば、リンデレーフ性と第二可算公理と可分性は同値<ref>[[コンパクト空間#Willard2004|#Willard]]、Theorem 16.11, p. 112</ref>
* {{mvar|X}}がσコンパクトかつ[[局所コンパクト]]なら[[パラコンパクト]]である<ref>[[#コンパクト空間の直積|#松島]],p. 86.</ref>。
* {{mvar|X}}がσ-コンパクトならリンデレーフ空間<ref name=Kelly172>[[コンパクト空間#Kelly|#Kelly]] p.172.</ref>
* {{mvar|X}}が[[正則空間|正則]]リンデレーフ空間であればパラコンパクト<ref name=Kelly172 />
* {{mvar|X}}が擬距離化可能ならパラコンパクト<ref name="Kelly-paracompact" />
* {{mvar|X}}がメタコンパクトなT<sub>1</sub>空間であれば、可算コンパクト性とコンパクト性は同値<ref>[[コンパクト空間#Kelly|Kelly]] p.171.</ref>。|note='''各種概念の関係性'''}}
==== パラコンパクト ====
以上で述べた概念の中で重要なものの一つにパラコンパクトがある。本節ではパラコンパクトの性質について述べる。なおパラコンパクトの定義において我々は文献[[コンパクト空間#Kelly|Kelly]]に従い、ハウスドルフ性を条件として課したが、書籍によってはハウスドルフ性を仮定していないので、注意が必要である。
パラコンパクトに関しては以下のようにも特徴づけられる。なお(ハウスドルフ性を満たす)パラコンパクトな空間は必ず正規空間になる事が知られている<ref name="Kelly-paracompact" />。
{{math theorem|定理|<math>(X,\mathcal{O})</math>を正則な位相空間とするとき、下記の条件は全て同値である<ref name="Kelly-paracompact" /><ref group="注">[[コンパクト空間#Schechter|#Schechter]] p.449ではパラコンパクト性質の条件としてハウスドルフではなくそれより弱い「preregular」を課しているが、この意味でのパラコンパクト性を満たせばハウスドルフになる事が示されているので定義は同値である</ref>:
* {{mvar|X}}はパラコンパクト
* {{mvar|X}}の任意の開被覆は局所有限で開な細分を持つ
* {{mvar|X}}の任意の開被覆は局所有限で閉な細分を持つ
|note='''パラコンパクトの特徴づけ'''}}
ここで細分が開であるとは細分が開被覆になっている事を意味する。同様に細分が閉であるとは細分が被覆になっている事を意味する。上記の定理はパラコンパクトな空間において開被覆が単に局所有限な細分を持つだけでなく、局所有限でしかも開な細分や閉な細分を持つ事を保証している。
コンパクト性は開被覆が、(開な)部分被覆を持つ事を保証しているので、パラコンパクトな空間において開で局所有限な細分が保証される事は、コンパクト性において成り立っている議論をパラコンパクト性に拡張する際に有益である。
パラコンパクトな空間の重要な性質の一つとして、開被覆に従属する1の分割の存在が保証されるというものがある。この事実を述べるためにまず1の分割の定義、およびそれが開被覆と両立する事の定義を述べる:
{{math theorem|定義|<math>(X,\mathcal{O})</math>を位相空間とする。{{mvar|X}}上の'''1の分割'''({{lang-en-short|partition of unity}})とは{{math|(''f''{{sub|''α''}}){{sub|''α''∈''A''}}}}を{{mvar|X}}から{{math|[0,1]}}区間への連続関数
:<math>f_{\alpha}\colon X\to [0,1]</math>
で、以下の2性質を満たすものを言う<ref name="Schechter445">[[コンパクト空間#Schechter|#Schechter]] p.445.</ref>。
# 集合族<math>\{x\in X \mid f_{\alpha}(x)\neq 0\}_{\alpha\in A}</math>は局所有限
# 任意の{{math|''x''∈''X''}}に対し、<math>\sum_{\alpha}f_{\alpha}(x)=1</math>|note='''1の分割'''}}
なお上述の条件1に対する関連概念として関数の台({{Lang-en-short|support}})
:<math>\mathrm{supp}(f)=\overline{\{x\in X\mid f(x)\neq 0\}}</math>
が存在するが、1の分割の定義では関数の台と違い閉包を取っていない事に注意されたい。また条件2において和を取っているが、この和は条件1より各{{Math|''x''∈''X''}}に対して有限和である事が保証されているので、族{{math|(''f''{{sub|''α''}}){{sub|''α''∈''A''}}}}が仮に非可算無限個の元を持っていても和は意味を持つ。
{{math theorem|定義|<math>(X,\mathcal{O})</math>を位相空間とし、<math>(O_{\tau})_{\tau\in T}</math>を{{mvar|X}}の開被覆とし、{{math|(''f''{{sub|''α''}}){{sub|''α''∈''A''}}}}を{{mvar|X}}の1の分割とする。
* 任意の{{math|''α''∈''A''}}に対し、ある{{math|''τ''∈''B''}}が存在し、<math>\{x\in X \mid f_{\alpha}(x)\neq 0\}\subset O_{\tau}</math>が成立するとき、{{math|(''f''{{sub|''α''}}){{sub|''α''∈''A''}}}}は<math>(O_{\tau})_{\tau\in T}</math>に'''従属する'''({{lang-en-short|subordinate}})という<ref name="Schechter445" />。
* {{math|''A''{{=}}''B''}}であり、任意の{{math|''α''∈''A''{{=}}''B''}}に対し、<math>\{x\in X \mid f_{\alpha}(x)\neq 0\}\subset O_{\alpha}</math>が成立するとき、{{math|(''f''{{sub|''α''}}){{sub|''α''∈''A''}}}}は<math>(O_{\tau})_{\tau\in T}</math>に'''正確に従属する'''({{lang-en-short|precisely subordinate}})という<ref name="Schechter445" />。|note='''開被覆に従属する1の分割'''}}
パラコンパクトな空間は開被覆に従属する1の分割で特徴づけられる:
{{math theorem|定理|<math>(X,\mathcal{O})</math>がハウスドルフ空間であるとき、下記の条件は全て同値である<ref>[[コンパクト空間#Schechter|#Schechter]] p.449.</ref><ref group="注">なお[[コンパクト空間#Schechter|#Schechter]] p.449.ではハウスドルフではなくそれより弱い「preregular」(同文献p.439-440参照)をこの定理に課しているが別の注釈ですでに述べたようにパラコンパクトな空間ではpreregularならハウスドルフである</ref>:
* {{mvar|X}}はパラコンパクト
* {{mvar|X}}の任意の開被覆<math>\mathcal{S}</math>に対し、<math>\mathcal{S}</math>に従属する1の分割が存在する。
* {{mvar|X}}の任意の開被覆<math>\mathcal{S}</math>に対し、<math>\mathcal{S}</math>に正確に従属する1の分割が存在する。|note='''1の分割によるパラコンパクトの特徴づけ'''}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
==参考文献==
* {{Cite book|洋書|title=General Topology|date=1975/6/27|publisher=Springer-Verlag|author=John L. Kelly|ref=Kelly|isbn=978-0387901251|year=|pages=|series=Graduate Texts in Mathematics (27)}}
** Kindle版:ASIN : B06XGRCCJ3
** 翻訳版:{{Cite book|和書|title=位相空間論|date=1979/7/1|year=|publisher=吉岡書店|pages=|author=ジョン・L.ケリー|translator=児玉之宏|isbn=978-4842701318|series=数学叢書}}
* {{Cite book|和書|title=集合と位相|date=1986/11/5|year=|publisher=[[裳華房]]|pages=|ref=内田|series=数学シリーズ|author=内田伏一|isbn=978-4785314019}}
* {{Cite book|title=Handbook of Analysis and its Foundations|date=1997/1/15|year=|publisher=Academic Press|isbn=978-0126227604|author=Eric Schechter|ref=Schechter}}
*{{Cite book|和書|title=General Topology|year=2004|publisher=Dover Publications|author=Stephen Willard|isbn=0-486-43479-6|ref=Willard2004}}
*{{cite book|author=松島与三|title=多様体入門|publisher=裳華房|series=数学選書5|year=2008|edition=37|isbn=978-4-7853-1305-0|ref=松島}}
*{{Cite web|url=https://people.math.gatech.edu/~heil/6338/summer08/section9f.pdf|title=Alaoglu's Theorem|accessdate=2021/03/22|publisher=Georgia Institute of Technology|author=Christopher E. Heil|work=LECTURE NOTES, MATH 6338 (Real Analysis II), Summer 2008|ref=Heil}}
==関連項目==
*[[コンパクト化]]
*[[コンパクト作用素]]
{{Topology}}
{{DEFAULTSORT:こんはくとくうかん}}
[[Category:コンパクト空間|*]]
[[Category:位相幾何学]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-05-24T10:29:55Z | 2023-11-18T04:26:54Z | false | false | false | [
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"Template:Mvar",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88%E7%A9%BA%E9%96%93 |
9,270 | 南極 | 南極(なんきょく、英: Antarctic)とは、地球上の南極点、もしくは南極点を中心とする南極大陸およびその周辺の島嶼・海域(南極海)などを含む地域を言う。南極点を中心に南緯66度33分までの地域については南極圏と呼ぶ。南緯50度から60度にかけて不規則な形状を描く氷塊の不連続線である南極収束線があり、これより南を南極地方とも呼ぶ。南極地方には、南極大陸を中心に南極海を含み、太平洋、インド洋、大西洋の一部も属する。
なお、1961年6月に発効した南極条約により、南緯60度以南の領有権主張は凍結(2021年現在、一部の国が現在も領有権を主張している)されており、軍事利用、核実験なども禁止されている。
南極大陸と南極海からなる。南極大陸は、地球上で最も寒冷な地域の一つであり、およそ3000万年の間降り積もった雪が溶けずに1000~2000メートルの厚い氷の層となった氷雪(氷床)に覆われ一部の沿岸地区の地衣類を除き、植生はほとんどない。陸地はほとんど氷床下にあり、露岩地区は少ない。氷床は氷河となってゆっくりと山の斜面をずり落ちて海に押し出されて流出し、一部では棚氷を形成している。棚氷は沖に押し出され、自らの重さによってひび割れして氷山として海を漂うことになる。
南極大陸は西半球の西南極と東半球の東南極からなり、東南極のほうが面積が大きい。西南極には南極半島があり、この半島の北端は南緯63度付近と南極圏外にある。ツンドラ気候地帯であり、南極のなかでは温暖であるため、観測基地も集中している。
高緯度の極地である南極大陸は日本など低・中緯度地域と比べて地球温暖化等の影響が顕著である。南極半島域の基地での観測では、ファラデー基地で50 年で 2.5 ~ 3°Cの昇温となっているなど、年平均、季節共に温暖化が明瞭である。しかし、一方でそれ以外の地域、特に大陸本体の「東南極」では温暖化も寒冷化もみられない。昭和基地でも 50年間の気温変化の記録でも同様に大きな変化はない 。また、内陸の南極点基地ではむしろ寒冷化(10年間で-0.17 °Cの低下)が見られるほどである。東南極沿岸では、海氷の広がりも縮小はしておらず、逆に面積は増加しているとの報告と整合的である。このように現在のところ半島域以外の地上では、気温や氷床などに温暖化の目立った兆候は見られない。しかし南大洋上の大気の流れによっては、温暖化傾向に向かう可能性がある事には注意が必要である。地上で温暖化傾向が見られない一方で、上空は温暖化している。対流圏全層では気温上昇が明瞭で、特に中層600hPa高度(約4000m高度)では、10年で0.7°Cも上昇している。対流圏全層は温暖化しているといえる。しかし、上の成層圏では気温が低下し寒冷化している。成層圏では、主にオゾンによる紫外線吸収による加熱と二酸化炭素等の温室効果ガスによる赤外線の放射による冷却によりバランスを保っており、二酸化炭素が増加すると赤外冷却効果が強まり寒冷化し、またオゾンが減少すれば、紫外線加熱が減少するので寒冷化する。現在、オゾンホールは回復しておらず、二酸化炭素も増加しているため、成層圏の寒冷化が起こっていると考えられる。また、オゾンホールには南極の温暖化を抑制してきたという一面もあり、 南極のオゾンホールの縮小が、南半球の温暖化を加速する可能性が分かるなど、オゾン層の回復が、今後どのように地球全体に影響を及ぼすのか、継続的な観測が求められている。
近年では氷の大規模な融解が観測されており、2003年1月以降1年間で92±10Gtの氷が失われた。この南極の氷床の減少は主に西南極の氷河として流れ海に突き出した棚氷で起きている。棚氷の下は大地ではなく海であり、温かい海水が流入することにより氷が融解していると考えられている。一方で、東南極は温暖化の傾向はみられず、降雪により氷床の厚みが増しているが、西南極の減少量と速度が増加量と速度を上回っており南極全体としては氷が減少している。もしも、南極の氷が全て溶けたとしたら海水準を約58m上昇させると推定される。また融解速度も速まることで、今世紀中にメートル単位の海面上昇を引き起こす可能性が指摘されている。
1950年代以降に行われた核実験による放射性物質は南極でも検出される。検出される放射性物質のうちトリチウム(三重水素)は分布に濃度差がある、しかし濃度差を生じる理由は未解明である。
この節に記載されていない基地に関しては、南極観測基地の一覧を参照。
南極条約により南極はどこの国の領土でもない。
南極地方各地に散在する各国の観測基地等では、基本的にその地点の経度によりどのタイムゾーンに属するかを各々で定めている。例えば、昭和基地は東経約40度のため、UTC+3時間としている。
南極点は、本来どのタイムゾーンにも拘束されないが、極点にほど近いアムンゼン・スコット基地が主に輸送・連絡されるニュージーランドのタイムゾーン(UTC+12時間、夏時間UTC+13時間)を採用しているため、これに準じることが多い。
地質・化石・岩石に関する報告は昔から行われているが、日本語で要約したものは1957年に立見辰雄・菊池徹・久野久らが地学雑誌で発表した『南極地域の地質』が初出である。
1912年に冒険家のロバート・スコットらの調査隊が、植物の化石を含む16kgの貴重なサンプルを収集し、植物化石についての記述もみられるが調査隊全員が帰国前に死亡して届けられるまで9か月経過した。ただ、植物化石自体は以前から報告されており、1892年に捕鯨船船長カール・アントン・ラーセン(英語版)がシーモア島で珪化木の化石発見をしたのが初出とされる。 | [
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"text": "南極点は、本来どのタイムゾーンにも拘束されないが、極点にほど近いアムンゼン・スコット基地が主に輸送・連絡されるニュージーランドのタイムゾーン(UTC+12時間、夏時間UTC+13時間)を採用しているため、これに準じることが多い。",
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"text": "地質・化石・岩石に関する報告は昔から行われているが、日本語で要約したものは1957年に立見辰雄・菊池徹・久野久らが地学雑誌で発表した『南極地域の地質』が初出である。",
"title": "調査"
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"text": "1912年に冒険家のロバート・スコットらの調査隊が、植物の化石を含む16kgの貴重なサンプルを収集し、植物化石についての記述もみられるが調査隊全員が帰国前に死亡して届けられるまで9か月経過した。ただ、植物化石自体は以前から報告されており、1892年に捕鯨船船長カール・アントン・ラーセン(英語版)がシーモア島で珪化木の化石発見をしたのが初出とされる。",
"title": "調査"
}
] | 南極とは、地球上の南極点、もしくは南極点を中心とする南極大陸およびその周辺の島嶼・海域(南極海)などを含む地域を言う。南極点を中心に南緯66度33分までの地域については南極圏と呼ぶ。南緯50度から60度にかけて不規則な形状を描く氷塊の不連続線である南極収束線があり、これより南を南極地方とも呼ぶ。南極地方には、南極大陸を中心に南極海を含み、太平洋、インド洋、大西洋の一部も属する。 なお、1961年6月に発効した南極条約により、南緯60度以南の領有権主張は凍結(2021年現在、一部の国が現在も領有権を主張している)されており、軍事利用、核実験なども禁止されている。 | {{Otheruses|地球における南極大陸・南極海など}}
[[ファイル:LocationAntarctica.png|250px|thumb|[[南極大陸]]]]<!-- 南極には複数の定義があるため、この図をもって南極の位置とはいえないため -->
[[ファイル:Antarctica_6400px_from_Blue_Marble.jpg|thumb|200px|[[南極大陸]]の[[衛星写真]]]]
[[ファイル:Flag_of_the_Antarctic_Treaty.svg|サムネイル|[[南極の旗の一覧|南極旗]]]]
'''南極'''(なんきょく、{{lang-en-short|Antarctic}})とは、[[地球]]上の[[南極点]]、もしくは南極点を中心とする[[南極大陸]]およびその周辺の[[島嶼]]・[[海域]]([[南極海]])などを含む地域を言う。南極点を中心に[[南緯66度線|南緯66度]]33分までの地域については[[南極圏]]と呼ぶ。[[南緯50度線|南緯50度]]から[[南緯60度線|60度]]にかけて不規則な形状を描く氷塊の不連続線である[[南極収束線]]があり、これより南を南極地方とも呼ぶ。南極地方には、南極大陸を中心に南極海を含み、[[太平洋]]、[[インド洋]]、[[大西洋]]の一部も属する。
なお、[[1961年]]6月に発効した[[南極条約]]により、南緯60度以南の領有権主張は凍結(2021年現在、一部の国が現在も領有権を主張している)されており、軍事利用、[[核実験]]なども禁止されている。
== 地理 ==
{{Main|南極の地理}}
南極大陸と南極海からなる。南極大陸は、地球上で最も寒冷な地域の一つであり、およそ3000万年の間降り積もった雪が溶けずに1000~2000メートルの厚い氷の層となった氷雪(氷床)に覆われ一部の沿岸地区の[[地衣類]]を除き、植生はほとんどない。陸地はほとんど[[氷床]]下にあり、露岩地区は少ない。氷床は[[氷河]]となってゆっくりと山の斜面をずり落ちて海に押し出されて流出し、一部では[[棚氷]]を形成している。棚氷は沖に押し出され、自らの重さによってひび割れして[[氷山]]として海を漂うことになる<ref>谷合稔『たくさんの生命を育む地球のさまざまな謎を解き明かす! 「地球科学」入門」』ソフトバンククリエイティブ 2012年 68ページ</ref>。
南極大陸は[[西半球]]の[[西南極]]と[[東半球]]の[[東南極]]からなり、東南極のほうが面積が大きい。西南極には[[南極半島]]があり、この半島の北端は[[南緯63度線|南緯63度]]付近と南極圏外にある。[[ツンドラ気候]]地帯であり、南極のなかでは温暖であるため、観測基地も集中している。
== 環境問題 ==
{{See also|南極氷床}}
[[ファイル:EmperorPenguin 2005 2592.JPG|thumb|200px|[[コウテイペンギン]]]]
高緯度の極地である南極大陸は[[日本]]など低・中[[緯度]]地域と比べて[[地球温暖化]]等の影響が顕著である。南極半島域の基地での観測では、ファラデー基地で50 年で 2.5 ~ 3℃の昇温となっているなど、年平均、季節共に温暖化が明瞭である。しかし、一方でそれ以外の地域、特に大陸本体の「東南極」では温暖化も寒冷化もみられない。昭和基地でも 50年間の気温変化の記録でも同様に大きな変化はない 。また、内陸の南極点基地ではむしろ寒冷化(10年間で-0.17 ℃の低下)が見られるほどである。東南極沿岸では、海氷の広がりも縮小はしておらず、逆に面積は増加しているとの報告と整合的である。このように現在のところ半島域以外の地上では、気温や氷床などに温暖化の目立った兆候は見られない。しかし南大洋上の大気の流れによっては、温暖化傾向に向かう可能性がある事には注意が必要である<ref>{{Cite web|和書| url = http://polaris.nipr.ac.jp/~pras/aa/antarctica.html | title = 大気と気候の観測って、南極で何をする? |author=平沢尚彦 | publisher=国立極地研究所 | accessdate = 2021-05-15 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nipr.ac.jp/antarctic/science/ippan-glaciology04.html | title = 東南極の大気・氷床表面に現れる温暖化の影響の検出とメカニズムの解明 |author=平沢尚彦 |publisher=国立極地研究所 | accessdate = 2021-05-15 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=平沢尚彦|author2=青木輝夫|author3=林政彦|author4=藤田耕史|author5=飯塚芳徳|author6=栗田直幸|author7=本山秀明|author8=山内恭 |title=東南極の気候変動の検出と解明に向けた大気・氷床・海洋の長期的観測 |month=dec |year=2016 |url=http://id.nii.ac.jp/1291/00013635/ |journal=第7回極域科学シンポジウム/横断セッション:[IL]極域科学における学術の大型研究計画について |publisher=国立極地研究所}}</ref>。地上で温暖化傾向が見られない一方で、上空は温暖化している。対流圏全層では気温上昇が明瞭で、特に中層600hPa高度(約4000m高度)では、10年で0.7℃も上昇している。対流圏全層は温暖化しているといえる。しかし、上の成層圏では気温が低下し寒冷化している<ref>{{Cite journal|和書|title=極地研NEWS 182 |publisher=国立極地研究所 |journal=極地研NEWS |issue=182 |month=jun |year=2007 |pages=1-16 |issn=13476483 |url=http://id.nii.ac.jp/1291/00012459/}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=山内恭 |title=南極・北極に見る地球温暖化の現状と将来 : 南極・北極は本当に温暖化しているのか? |journal=ヒマラヤ学誌 |issn=0914-8620 |publisher=京都大学ヒマラヤ研究会・総合地球環境学研究所「高所プロジェクト」 |year=2009 |month=may |issue=10 |pages=212-220 |naid=120005466104 |doi=10.14989/HSM.10.212 |url=https://hdl.handle.net/2433/185992 |ref=harv }}</ref>。成層圏では、主にオゾンによる紫外線吸収による加熱と二酸化炭素等の[[温室効果ガス]]による赤外線の放射による冷却によりバランスを保っており、二酸化炭素が増加すると赤外冷却効果が強まり寒冷化し、またオゾンが減少すれば、紫外線加熱が減少するので寒冷化する。現在、オゾンホールは回復しておらず、二酸化炭素も増加しているため、成層圏の寒冷化が起こっていると考えられる<ref>{{Cite journal|和書 | author = 山崎孝治 | title = 第 5 章:地球温暖化に伴う大気・海洋の応答と役割 | url = http://wwwoa.ees.hokudai.ac.jp/people/yamazaki/papers/ondanka.pdf | ref = harv }}</ref>。また、オゾンホールには南極の温暖化を抑制してきたという一面もあり<ref>{{Cite press release | 和書 | title = 南極観測 | publisher = 国立極地研究所 | date = 2019 | url = https://www.nipr.ac.jp/kouhou/PDF/kansoku2019.pdf | accessdate = 2021-05-15 }}</ref>、
南極のオゾンホールの縮小が、南半球の温暖化を加速する可能性が分かるなど<ref>{{Cite press release | title = Ozone hole healing could cause further climate warming | publisher = イギリス自然環境研究会議(NERC) | date = 2010-1-26 | url = https://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20130701153447/http://www.nerc.ac.uk/press/releases/2010/03-ozone.asp | accessdate = 2021-05-15 }}</ref>、オゾン層の回復が、今後どのように地球全体に影響を及ぼすのか、継続的な観測が求められている。
近年では氷の大規模な融解が観測されており、2003年1月以降1年間で92±10Gtの氷が失われた<ref>{{Cite journal|洋書| author = Christopher Harig| author2 = Frederik J. Simons| year = 2015| title = Accelerated West Antarctic ice mass loss continues to outpace East Antarctic gains| journal = Earth and Planetary Science Letters| volume = 415| issue = 1 | pages = 134-141 | publisher = Elsevier| doi = 10.1016/j.epsl.2015.01.029| ref = harv}}</ref>。この南極の氷床の減少は主に西南極の氷河として流れ海に突き出した棚氷で起きている。棚氷の下は大地ではなく海であり、温かい海水が流入することにより氷が融解していると考えられている。一方で、東南極は温暖化の傾向はみられず、降雪により氷床の厚みが増しているが、西南極の減少量と速度が増加量と速度を上回っており南極全体としては氷が減少している<ref>{{Cite journal|和書| author = 杉山 慎 | author2 = 箕輪 昌紘| author3 = 伊藤 優人| author4 = 山根 志織| year = 2021| title = 熱水掘削による南極氷床の底面環境探査| journal = 雪氷| volume = 83| issue = 1 | pages = 13-25 | publisher = 日本雪氷学会| doi = 10.5331/seppyo.83.1_13| ref = harv}}</ref><ref>{{Cite journal|和書| author = 川村, 賢二| year = 2018| title = 南極のアイスコアから復元する過去の気候変動| journal = 低温科学| volume = 76| issue = 1 | pages = 145-152 | publisher = 低温科学第76巻編集委員会| doi = 10.14943/lowtemsci.76.145| ref = harv}}</ref>。もしも、南極の氷が全て溶けたとしたら海水準を約58m上昇させると推定される<ref>{{Cite journal|和書| author = 菅沼 悠介| author2 = 石輪 健樹| author3 = 川又 基人| author4 = 奥野 淳一| author5 = 香月 興太| author6 = 板木 拓也| author7 = 関 宰| author8 = 金田 平太郎| author9 = 松井 浩紀| author10 = 羽田 裕貴| author11 = 藤井 昌和| author12 = 平野 大輔| year = 2020| title = 東南極における海域–陸域シームレス堆積物掘削研究の展望| journal = 地学雑誌| volume = 129| issue = 5 | pages = 591-610| publisher = 東京地学協会| doi = 10.5026/jgeography.129.591| ref = harv}}</ref><ref>{{Cite journal|和書| author = P. Fretwell| author2 = H. D. Pritchard et al.| year = 2013| title = Bedmap2: improved ice bed, surface and thickness datasets for Antarctica| journal = Articles| volume = 7| issue = 1 | pages = 375–393| doi = 10.5194/tc-7-375-2013| ref = harv}}</ref>。また融解速度も速まることで、今世紀中にメートル単位の海面上昇を引き起こす可能性が指摘されている<ref name="NatureReport201004">[http://www.nature.com/climate/2010/1004/full/climate.2010.29.html A new view on sea level rise,Stefan Rahmstorf,6 April 2010]</ref>{{Full|date=2021年5月}}。
<!--要出典:比較的[[大陸]]に近い場所では、最高気温が15度を超えたり、[[氷河]]・[[氷棚]]の大規模融解などが深刻になってきている。さらに[[ペンギン]]類の雛が、異常な気温上昇により本来防寒用の羽毛で暑くて死ぬケースがある。また、[[船舶]]等による夏季の観光客の増大もこれらの原因の一因であるとされる。しかし、頻繁に報道されている南極の融解は地球温暖化が予想される前からあったもので、温暖化との直接の因果関係を立証する証拠はない。大陸氷の[[ボーリング]]調査の結果、140年間南極の気温は上昇と下降を繰り返している。-->
=== 放射性物質 ===
1950年代以降に行われた[[核実験]]による[[放射性物質]]は南極でも検出される。検出される放射性物質のうち[[三重水素|トリチウム]](三重水素)は分布に濃度差がある<ref name=神山.1994>{{Cite journal|和書|author=神山孝吉, 渡辺興亜 |title=南極内陸氷床上へ降下・堆積する物質について |journal=南極資料 |issn=0085-7289 |year=1994 |month=nov |volume=38 |issue=3 |pages=232-242 |naid=120005509802 |doi=10.15094/00008863 |url=https://doi.org/10.15094/00008863}}</ref>、しかし濃度差を生じる理由は未解明である<ref name=神山.1994 />。
== 越冬観測基地 == <!--無人基地は越冬?-->
[[ファイル:Antarctica Map ja.png|thumb|200px|南極地方([[ニュージーランド]]、[[オーストラリア]]、[[南アメリカ大陸]]など一部周辺の諸地方を含む)]]
''この節に記載されていない基地に関しては、[[南極観測基地の一覧]]を参照。''
* {{flagicon|JPN}} [[昭和基地]]
* {{flagicon|JPN}} [[みずほ基地]] - 無人
* {{flagicon|JPN}} [[あすか基地]] - 無人
* {{flagicon|JPN}} [[ドームふじ基地]]
* {{flagicon|USA}} [[マクマード基地]]
* {{flagicon|USA}} [[アムンゼン・スコット基地]]
* {{flagicon|RUS}} [[ボストーク基地]]
* {{flagicon|ARG}} [[エスペランサ基地]]
南極条約により南極はどこの国の領土でもない。
== タイムゾーン ==
南極地方各地に散在する各国の観測基地等では、基本的にその地点の経度によりどの[[時間帯 (標準時)|タイムゾーン]]に属するかを各々で定めている。例えば、昭和基地は東経約40度のため、UTC+3時間としている。
[[南極点]]は、本来どのタイムゾーンにも拘束されないが、極点にほど近いアムンゼン・スコット基地が主に輸送・連絡される[[ニュージーランド]]のタイムゾーン(UTC+12時間、夏時間UTC+13時間)を採用しているため、これに準じることが多い。
== 南極に関する協定など ==
{{main|en:Category:Antarctica agreements}}
* [[南極条約]]
* [[南極地域の環境の保護に関する法律]]
* {{ill2|南極のあざらしの保存に関する条約|en|Convention for the Conservation of Antarctic Seals}}(1972年発効)
* {{ill2|南極の海洋生物資源の保存に関する条約|en|Convention for the Conservation of Antarctic Marine Living Resources}}(1980年発効)
* {{ill2|環境保護に関する南極条約議定書|en|Protocol on Environmental Protection to the Antarctic Treaty}}(マドリッド協定議定書、1998年発効)
;失効
* {{ill2|南極鉱物資源活動規制条約|en|Convention on the Regulation of Antarctic Mineral Resource Activities}}(1988年 ‐ 1998年マドリッド協定議定書にて更新)
== 調査 ==
地質・化石・岩石に関する報告は昔から行われているが、日本語で要約したものは1957年に[[立見辰雄]]・[[菊池徹]]・[[久野久 (火山学者)|久野久]]らが[[地学雑誌]]で発表した『南極地域の地質』が初出である<ref>{{Cite journal |last=辰雄 |first=立見 |last2=徹 |first2=菊池 |last3=久 |first3=久野 |date=1957 |title=南極地域の地質 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/66/1/66_1_17/_article/-char/ja/ |journal=地學雜誌 |volume=66 |issue=1 |pages=17–33 |doi=10.5026/jgeography.66.17}}</ref>。
* [[南極隕石]]
=== 南極における化石 ===
{{main|en:Category:Fossils of Antarctica}}
1912年に冒険家の[[ロバート・スコット]]らの調査隊が、植物の化石を含む16kgの貴重なサンプルを収集し、植物化石についての記述もみられるが調査隊全員が帰国前に死亡して届けられるまで9か月経過した。ただ、植物化石自体は以前から報告されており、1892年に捕鯨船船長{{ill2|カール・アントン・ラーセン|en|Carl Anton Larsen}}が[[シーモア島]]で[[珪化木]]の化石発見をしたのが初出とされる<ref>{{Cite web |url=https://www.antarcticreport.com/podcast/Finding-the-oldest-forest-fossils-in-Antarctica |title=The Antarctic Report | Finding the oldest forest fossils in Antarctica - 280 million years old! |access-date=2023-11-17 |website=www.antarcticreport.com}}</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[北極]]
* [[南極地域観測隊]]、{{ill2|南極探検隊の一覧|en|List of Antarctic expeditions}}
* [[南極の交通]]
** [[砕氷船]] : [[宗谷 (船)|砕氷船 宗谷]]、[[ふじ (砕氷艦)|砕氷艦 ふじ]]、[[しらせ|砕氷艦 しらせ]]
** [[南極観測船]]
* [[大和雪原]]
* [[.aq]]
* [[南極関係記事の一覧]]
** [[南極観測基地の一覧]]
** [[南極における領有権主張の一覧]]
* [[ISO 3166-2:AQ]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Antarctic}}
* [https://www.nipr.ac.jp/jare/ 南極観測のホームページ|国立極地研究所]
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/jyoyaku/s_pole.html 南極条約・環境保護に関する南極条約議定書|外務省]
* {{wikiatlas|Antarctica}}{{en icon}}
* {{Osmrelation|2186646}}
* {{Kotobank}}
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{{世界の地理|hemispheres}}
{{南極}}
{{Normdaten}}
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[[Category:南極|*]] | 2003-05-24T12:36:12Z | 2023-12-27T01:43:35Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%A5%B5 |
9,271 | ラジオ番組 | ラジオ番組(ラジオばんぐみ)とは、ラジオ放送またはインターネットラジオ(Webラジオ)における番組の総称である。
日本の放送法5条では、「放送番組の種別」は「教養番組、教育番組、報道番組、娯楽番組等」としている。なお、教養番組と教育番組については法2条に内容の定義があるが、報道番組と娯楽番組についての定義はない。
ラジオ放送局はテレビジョン放送局と異なり、106条・107条に基づく各種別の「相互の間の調和」および、「放送番組の種別の基準」に関する公表の義務を負わないが、自主的に番組種別公表を行っている例がある。
かつて、日本民間放送連盟(民放連)放送基準では、各局の自主的な番組種別公表のため、ラジオ番組をニュース番組、政治番組、社会公共番組、宗教番組、児童向け番組、教育番組、娯楽番組に細分し、各局がこれを準用していた。のちに改正され、この条文はなくなっている。
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] | ラジオ番組(ラジオばんぐみ)とは、ラジオ放送またはインターネットラジオ(Webラジオ)における番組の総称である。 | [[File:Radio Libertaire 3.jpg|thumb|[[ラジオ局]]で[[マイクロフォン]]を使い[[音声]]を入力する]]
{{ウィキポータルリンク|ラジオ}}
{{ウィキプロジェクトリンク|放送番組}}
'''ラジオ番組'''(ラジオばんぐみ)とは、[[ラジオ放送]]または[[インターネットラジオ]](Webラジオ)における[[番組]]の総称である。
== ラジオ番組の分類 (日本) ==
[[日本]]の[[放送法]]5条では、「放送番組の種別」は「[[教養番組]]、[[教育番組]]、[[報道番組#放送法上の種別としての「報道番組」|報道番組]]、[[娯楽番組]]等」としている。なお、教養番組と教育番組については法2条に内容の定義があるが、報道番組と娯楽番組についての定義はない。
[[ラジオ放送局]]は[[テレビジョン放送局]]と異なり、106条・107条に基づく各種別の「相互の間の調和」および、「放送番組の種別の基準」に関する公表の義務を負わないが、自主的に番組種別公表を行っている例がある<ref>{{PDFlink|[https://www.nhk.or.jp/info/pr/syubetsu/assets/pdf/001.pdf 国内放送番組の種別の基準]}} 日本放送協会</ref><ref>[https://www.kbs-kyoto.co.jp/contents/edit/radio.htm ラジオ放送番組の編集に関する基本計画] [[京都放送]]</ref>。
かつて、[[日本民間放送連盟]](民放連)[[番組基準|放送基準]]では、各局の自主的な番組種別公表のため、ラジオ番組をニュース番組、政治番組、社会公共番組、[[宗教番組]]、[[子供番組|児童向け番組]]、教育番組、娯楽番組に細分し、各局がこれを準用していた<ref>{{ws|[[s:日本民間放送連盟放送基準 (昭和26年)|日本民間放送連盟放送基準 (昭和26年)]]}} 底本:日本新聞年鑑1954年版(パブリックドメイン)</ref>。のちに改正され、この条文はなくなっている。
=== ラジオ番組のジャンル ===
{{see also|Category:ラジオ番組のジャンル}}
==== ラジオ番組特有のもの ====
* 報道番組
** [[交通情報]] - カーラジオで聞く人が多いこともあって、ほとんどのラジオ局で頻繁に放送されている。後述の[[ワイド番組]]などに組み込まれていることが多い。
* 娯楽番組
** [[音楽番組]]
*** レコード・CD音源をフル再生する例が多い。また、[[ラジオパーソナリティ]]によるトークがほとんどないか、一切なし(ノンDJ)で音楽のみを流す構成もある。
*** [[リクエスト番組]] - [[聴取者|リスナー]]から[[はがき]]、[[ファクシミリ]]、(20世紀末からは)[[電子メール]]などで、聴取者から楽曲のリクエストを事前に、または放送時間中に募り、それを放送する。カウントダウン番組とバラエティ番組の要素を兼ねている番組もある。
** [[朗読番組]]
** [[ラジオドラマ]]
** [[トーク番組]] - 特に[[深夜放送]]において中心的な地位を占めている。テレビより過激なトークが多く、この種の番組にパーソナリティとして出演してから売れ始めた有名人(お笑いタレント、俳優など)も多い。ハガキ、ファクシミリ、電子メールなどで聴取者からギャグを募集するコーナーが併設されることが多く、[[ハガキ職人]]と称される常連投稿者の中から[[放送作家]]が輩出される例もある。
** [[アニラジ]]
* [[ラジオショッピング]] - ワイド番組等の時間内に内包されたコーナーとしての位置付けが多いが、ラジオ局全体の広告収入が減少しはじめた2000年代中期頃(2004年 - 2006年頃)以降、通販会社が番組枠を買う例が増え、大部分の放送局で放送時間が増加している。パーソナリティと外部の専門業者(一部を除く)とが電話を通じて会話するフォーマットが多い。放送局の子会社がラジオショッピング事業を請け負っている例もある。
==== テレビ番組と共通するもの ====
* 教養番組
** [[宗教番組]] - 早朝を中心に放送されている。
** [[人生相談#メディア上の人生相談|人生相談番組]] - [[リスナー|聴取者]]の人生上における各種の悩みについて相談を受け、解決に向けてのアドバイスを相談員が行うなどの内容となっている。
* 教育番組 - 現在では[[NHKラジオ第2放送]]を中心に放送されている。
* 報道番組
** [[ニュース]]・[[天気予報]]
*** [[ラジオ局ローカルニュースタイトル一覧]]参照。
* 娯楽番組
** 音楽番組
*** [[カウントダウン番組]] - [[J-POP]]、[[洋楽]]、[[演歌]]、[[インディーズ]]など、ジャンルを絞って紹介する番組が多い。
*** [[演奏会|ライブ]]中継
** [[スポーツ中継]]
* [[ワイド番組]] - [[生放送]]で行われる長時間番組。日本の民放ラジオ局の多くが「[[ニッポン放送#オーディエンス・セグメンテーション|オーディエンス・セグメンテーション]]」を取り入れており、平日の昼は主婦や外回りの営業マン向け、平日の夜や週末は若者向けといった具合にターゲット層を分けて編成している。
== 主なラジオ番組 ==
[[:Category:ラジオ局]]および[[:Category:ラジオ番組]]を参照。特にスポーツ番組については[[:Category:ラジオのスポーツ番組]]参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* ラジオ番組を題材とした文芸作品・映像作品等については、[[:Category:ラジオ放送を題材とした作品]]を参照。
* [[番組表]]
* [[ポッドキャスティング]]
* [[ラジオ放送局]]、[[テレビジョン放送局]]、[[ラテ兼営]]
* [[ラジオネットワーク]]
* [[聴取率]]
* [[テレビ番組]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らしおはんくみ}}
[[Category:ラジオ番組|*]] | 2003-05-24T14:14:35Z | 2023-10-04T11:20:11Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:ウィキプロジェクトリンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E7%95%AA%E7%B5%84 |
9,272 | カッサンドラー | カッサンドラー(古代ギリシャ語: Κασσάνδρα、Kassandrā、ラテン語: Cassandra)は、ギリシア神話に登場するイーリオス(トロイアー)の王女である。悲劇の予言者として知られる。日本語では長母音を省略してカッサンドラ、カサンドラと表記されることが多い。
プリアモス王とヘカベーとの間に生まれた。長兄にイーリオスの英雄ヘクトール、兄に「パリスの審判」で知られイーリオスに戦乱(ひいては滅亡)をもたらしたパリスを持つ。同じく予言能力を持つヘレノスとは双子だという。
アポローンに愛され、アポローンの恋人になる代わりに予言能力を授かった。しかし予言の力を授かった瞬間、アポローンの愛が冷めて自分を捨て去ってゆく未来が見えてしまったため、アポローンの愛を拒絶してしまう。憤慨したアポローンは、「カッサンドラーの予言を誰も信じないように」という呪いをかけてしまった。カッサンドラーは、パリスがヘレネーをさらってきたときも、トロイアの木馬をイリオス市民が市内に運び込もうとしたときも、これらが破滅につながることを予言して抗議したが、誰も信じなかった。
イーリオス陥落の際、小アイアースにアテーナーの神殿において凌辱された。小アイアースは、これによってアテーナーの怒りを買い、ギリシアへの航海の途中で溺死させられた。カッサンドラーはアガメムノーンの戦利品となり、ミュケーナイに連れてゆかれた。そして、アガメムノーンとともに、アガメムノーンの妻クリュタイムネーストラーの手にかかり、命を落とした。 | [
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'''カッサンドラー'''({{翻字併記|grc|'''Κασσάνδρα'''|Kassandrā|n|区=、}}、{{lang-la|Cassandra}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[イーリオス]](トロイアー)の王女である。悲劇の[[予言者]]として知られる。[[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''カッサンドラ'''、'''カサンドラ'''と表記されることが多い。
== 概要 ==
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== 系図 ==
{{トロイアの系図}}
== カッサンドラーを扱った文学・芸術 ==
=== 絵画ギャラリー ===
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Cassandra (Stratford Gallery).jpg|Palmer, Henrietta L. (Henrietta Lee), b. 1834『カッサンドラー』
Frederick Sandys - Helen and Cassandra.jpg|{{ill2|フレデリック・サンズ|en|Frederick Sandys}}『ヘレネーとカサンドラ』(1866年)
Dante Gabriel Rossetti - Cassandra.jpg|[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]『カッサンドラー』1861
Lady Emma Hamilton, as Cassandra, by George Romney.jpg|[[ジョージ・ロムニー (画家)|ジョージ・ロムニー]]『カサンドラ役の[[エマ・ハミルトン]]夫人』
</gallery>
=== 現代文学 ===
* 『[[ファイアーブランド]]』([[マリオン・ジマー・ブラッドリー]]の小説)
* 『カッサンドラ』([[クリスタ・ヴォルフ]]の小説)
=== 音楽 ===
* 「カッサンドラの嘆き」(フランチェスコ・カヴァッリの[[オペラ]]中の一曲)
* 「カッサンドラ」([[ヤニス・クセナキス]]の独唱声楽曲)
* 『トロイアの人々』(ベルリオーズのオペラ。前半はカッサンドラが主人公。後半はアェアネス([[アエネイス]]))
* 「カサンドラ」(スウェーデンのポップ・グループ、[[アバ]]の曲)
=== 映画 ===
*『[[カサンドラ・クロス]]』
** 終盤、劇中の舞台の一つである大陸横断特急が通過する橋梁に命名されている。
* 『[[スクリーム (1996年の映画)|スクリーム]]』
** 主人公が大学の演劇部でこの役にキャスティングされる。
* 『[[ウディ・アレンの夢と犯罪]]』
** 原題は"Cassandra's Dream"
=== 経済 ===
* [[アメリカ合衆国]]の[[半導体]]大手[[インテル]]の共同創業者、[[アンドルー・グローヴ|アンディ・グローブ]]は経営戦略の転換に必要な情報を提供する者が企業には必要と考え、「カッサンドラを組織に持て」と唱えている{{要出典|date=2012年10月}}。[[内部告発|ホイッスル・ブロワー]]という考え方の応用。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Cassandra}}
* [[トロイア戦争]]
* [[カサンドラ (比喩)]]
{{イーリアスの登場人物}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ギリシア神話の人物]]
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[[Category:プリアモスの子女]]
[[Category:アポローン]] | 2003-05-24T14:23:01Z | 2023-07-30T09:10:22Z | false | false | false | [
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9,273 | オールナイトニッポン |
『オールナイトニッポン』(英: All Night-NIPPON)は、1967年10月2日から日本のラジオ放送局であるニッポン放送をキーステーションに全国ネットで放送されているラジオの深夜番組である。通称は「オールナイト」「ANN」。ここでは現在の放送枠である25:00 - 27:00(1:00 - 3:00)の内容のほか、主に22:00 - 29:00(5:00)に放送されている「オールナイトニッポン」をタイトル内に含む番組全体の歴史などについても記述する。詳細については枠・番組の記事をそれぞれ参照のこと。
1967年10月2日に開始したラジオの長寿番組であり、2019年10月時点、ニッポン放送制作番組の中で、放送期間は『テレフォン人生相談』(1965年1月30日開始)に次ぐ第2位となっている。
一連のオールナイトニッポンシリーズは生放送をコンセプトとしている。基本的には有楽町(有楽町の本社ビルを建て替える1997年4月から2004年9月まではお台場・FCGビル)のニッポン放送本社ビルからの生放送だが、スケジュールの関係が絡む場合、ネットしている地方局のスタジオや大阪市にあるブリーゼタワーのニッポン放送関西支社に常設されたスタジオから、さらにはラジオパーソナリティが泊まる地方のホテルなどを借りて機材を置いたり、番組の企画も重ねて屋外や海外から中継したりといった形で生放送する場合もある。パーソナリティの意向や、スケジュールなどの関係で生放送ができない場合などの理由で、録音となる場合があるが、録音の場合であってもほとんどは「同時パッケージ」の疑似生放送となる。
1999年より「LF+R」時代の『SUPER!』『.com』『R』『サタデースペシャル』や、「LF+R」後の『いいネ!』『サンデー』『エバーグリーン』『GOLD』『0(ZERO)』『Premium』『X』など「オールナイトニッポン」ブランドで多くの番組が放送されており、本来の25 - 29時枠の他、「LF+R」導入後は22 - 24時枠でも断続的に「オールナイトニッポン」の名を冠す番組が放送されている。2021年4月以降は月-土曜日の夜ワイド番組が「オールナイトニッポン」シリーズとして統一されている。詳しくは「ニッポン放送の夜ワイドの変遷」を参照。
現在は、旧1部(25:00 - 27:00(1:00 - 3:00))を『オールナイトニッポン』、旧2部(27:00 - 29:00(3:00 - 5:00))を『オールナイトニッポン0(ZERO)』と称している。また番組名のタイトルは基本的に「〇〇(パーソナリティー名)のオールナイトニッポン」としている。
2022年6月からradikoにおいて、放送音源のデジタルデータが残っていた2012年以降の分が「ANNJAM」として定額聞き放題のサブスクリプションで配信されている(出演者や音楽の権利関係をクリアしたうえで誤解されかねない発言内容のチェック・編集が行われている)。
ネット詳細は下記参照
(2023年2月現在)
放送開始の背景として、1960年代半ばの不況と、1964年の東京オリンピックによるテレビの躍進により広告収入が激減し、ラジオ業界にとっては新しいリスナーの層と広告主(スポンサー)の開拓を迫られていた(ラジオ離れ#1960年代も参照)事がある。その状況に対し、ニッポン放送は1964年4月より「オーディエンス・セグメンテーション」編成を導入し編成方針を抜本的に見直していたが、その動きが深夜に波及したことにある。
また、当時行われた深夜の聴取率調査において、ニッポン放送が、最下位になったことにより、深夜の時間帯のテコ入れを図ろうと企画されたものでもある。
そこで、当時・ニッポン放送編成部長だった羽佐間重彰が制作したいと思ったのが、若者に向けた深夜の時間帯のワイド番組だった。そこで、当時の上司であるニッポン放送常務の石田達郎に相談を持ち掛けた。
これについて、当時・ニッポン放送編成部長だった羽佐間重彰は「昭和三十四年の皇太子様のご成婚のとき、テレビの受像機の数が全国で二百万台になったんです。その反動でラジオの聴取者は激減しましたね。ウチ、すなわちニッポン放送が日本で初めて二十四時間放送をスタートさせた年ですけど、お客さんがいないんですよ。三十分の音楽番組で、リクエストのハガキが毎週わずかに五枚ぐらいしか来ないんだからね。われわれは危機感を持ったんです。」と述べている。
また、羽佐間はオーディエンス・セグメンテーションについて「それでアメリカの例を見てみると、音楽だけ、ニュースだけ、スポーツだけを一日中放送している、細分化された小さなラジオ局が何十、何百とあることが分かった。英語で言うとステーション・セグメントって言うんです。そのことを、ラジオ局が少ない日本の場合に置き換えてみた。ニッポン放送では、時間帯によって対象とする聴取者を分けていこうと考えたわけです。午前中は主婦、昼間は働いている中小企業の人たち、夜は若者ですよ。オーディエンス・セグメンテーションっていうシステムなんです。」と説明した。
放送が開始された1960年代後半は、いわゆる団塊の世代が大学生生活を送っていた時代であり、『オールナイトニッポン』はそのような大学生、また受験勉強に明け暮れている高校生・中学生にターゲットを絞り、それまでテレビやラジオで流れることはほとんどなかったビートルズやサイモン&ガーファンクル、ボブ・ディランなど海外のポピュラーミュージックからザ・フォーク・クルセダーズなど日本のフォークソングまで、若者世代の最先端を走る音楽をふんだんに流す編成とした。
前身となる番組は、ニッポン放送にて1959年10月10日から放送していた『オールナイトジョッキー』(DJ:糸居五郎)となる。子会社の「株式会社深夜放送」 が制作していたこの番組は、糸居が選曲・ターンテーブルの操作といった通常はスタッフが行う作業を一人でこなすというディスクジョッキースタイルであり、それが局の省力化した番組を作れないかという思惑と合致していたことから、番組を発展させる形で『オールナイトニッポン』は放送を開始した。
1965年8月に、文化放送が、土居まさるをDJとして始めた『真夜中のリクエストコーナー』が「深夜放送の原型」としてみていたのが亀淵昭信だったが、亀淵はのちのインタビューで「土居さんは今の放送では当たり前のように使われている擬音語や擬声語をふんだんに、しかも上手に使って、それまでのアナウンサーのテンポとは全く違う、まるで機関銃のような早口で若者たちに語りかけたのです。ラジオ放送という概念を覆したという意味で、新しい時代の到来を予感させました」と述べている。
放送時間は、当初、午前0時スタートがいいのではないかという議論があったが、1967年の時点で午前0時台には既に多くのスポンサーが入っていたので、放送枠の改変が困難だったため、当初の構想より1時間遅くして、午前1時からのスタートと決定した。また、タイトルについては「オールナイトニッポン放送」という案も上がったが、全国ネット化を見据えているという理由で「放送」を取って『オールナイトニッポン』となった。また、羽佐間は「『オールナイトニッポン』という番組タイトルだけどね。ニッポン放送という名前を広く知ってもらうために、ニッポンと入れたんです」と説明した。さらに、羽佐間は、「『ニッポン放送』が日本テレビと混同されないよう、そしてTBSラジオ、文化放送よりも認知されるよう、とにかく『ニッポン』という言葉を浸透させたかった。」とした上で「朝の番組は『おはようニッポン』、午後は『歌謡曲ニッポン』など様々な番組名に『ニッポン』とつけていく中で、『オールナイトニッポン』という番組名が誕生した」とも説明している。
こうして、企画の骨格が固まっていく中でTBSラジオが1967年8月1日未明(7月31日深夜)に『パックインミュージック』の放送を開始となり、日本て初めての深夜のワイド番組となった。それから、およそ2か月後の1967年10月2日深夜から放送開始。放送時間は月曜日 - 土曜日25:00 - 29:00(翌日未明1:00 - 5:00)。
当初のDJ(「パーソナリティ」と呼ぶようになったのは1969年頃から)はニッポン放送アナウンサーの糸居五郎(月曜日)、斉藤安弘(火曜日)、高岡尞一郎(水曜日)、今仁哲夫(木曜日)、常木建男(金曜日)、高崎一郎(土曜日。アナウンサーではなかったが、プロデューサー兼DJとしてニッポン放送の番組に出演していた)。初回放送のDJは、前身番組『オールナイトジョッキー』のDJだった糸居が務めた。本番組で最初にかかった曲となる、初回の第1曲目はジェファーソン・エアプレインの「あなただけを」だった。このパーソナリティという呼び名について、羽佐間は「当時アナウンサーは無個性と言われていて、個性を出すためアメリカで使われていた『パーソナリティ』という言葉を採用した」と説明している。また、斉藤安弘は「ニッポン放送から、パーソナリティという言葉が始まったんですよ」とも述べている。
これについて、羽佐間は「なにしろ、深夜、受験勉強以外にたいした愉しみもなく、一人で孤独で起きている若者を相手にしようとする番組です。なのにスタジオで男と女がチャラチャラ喋っていたら、聴いているほうは、アタマに来ちゃうと思ったんです。」と一人の男性アナウンサーをこの番組のパーソナリティを据えた理由について述べている。また、初代パーソナリティのラインナップについて羽佐間は「日替わりのメンバーを決めるにあたっては、放送で個性が出やすいようにしたんです。放送上のキャラクターを最初から陰性と陽性に分けて選んだものでした。もちろん企画書にはそんなこと書きませんでしたけどね」とも述べている。つまりは、放送上のキャラクターとしては、今仁哲夫・斉藤安弘・高崎一郎が陽性で、高岡尞一郎・常木建男・糸居五郎が陰性ということになる。
当時編成局長だった石田達郎や当時編成部長だった羽佐間重彰は、番組を立ち上げるに当たって、次のような4つの大原則を立てている。
この4つの大原則について、亀淵昭信はのちのインタビューで「受験戦争と若者。深夜帯にはチャンスがあると思っていたでしょう。すべては石田イズムでもいうのでしょうか、石田常務と彼の右腕の羽佐間編成局長には、ラジオの将来的ビジョンがありました。それが深夜帯の番組開発に繋がっていくわけです。企画段階で、若者、特に中学生や高校生、浪人生、大学生を対象にすることが明確に打ち出されました。そして、若者は出演者の名前じゃない、DJもパーソナリティの知名度じゃないんだ、何を聞かせてくれるかなんだ、ということを肝に銘じだのです。“それなら、ウチの社員が使える”という感じで基本的な枠組みが決まって行きました。それが石田や羽佐間の掲げた4か条です」と述べている。
しかし、羽佐間によれば、この『オールナイトニッポン』の人気が出てきて、それぞれのパーソナリティにスポットライトが当たりはじめると、いわゆる「大原則」をぎりぎりのところまで超えようとする「イタズラや抵抗」を始めてしまったという。これについて、羽佐間は「四時間、自分の思いつくままに何をやってもいいとは言ってありました。ですが、少しはルールを作っておかないと、アイツら、何をするかわからないでしょ」と述べている。また、亀渕によれば、初期のパーソナリティの今仁哲夫は、「エッチな話」を展開していたという。
それに、2023年現在でオールナイトニッポンの中で現役最年長のパーソナリティを務める高嶋ひでたけ(2023年現在は80歳)は「ANNは一番早く始まった深夜放送だった。それで、他の局も深夜放送をやるようになっていった。僕が入社した頃は、アナウンサーって、そんなに活躍していなかったの。だけど、67年の10月に、後の社長で編成部長だった羽佐間重彰さんがANNを始める時に、結構暇してた局アナをDJ(後にパーソナリティー)に起用したんです。夜中の放送に独特の吸引力があって、リスナーからのはがきが殺到して一気にブームになったんです。早かったね」とも述べている。
高嶋ひでたけは2023年現在、ニッポン放送のOBグループのLF会の会長を務めており「LF会でANNを始めたときの編成部長で、後に会長を務めた羽佐間さんをインタビューしたことがある。今は94歳になるけど、頭はシャキッとしている。『20代、30代の若い発想、若い力、とんでもない力を爆発させなきゃラジオに明日はないと思った。知恵とやる気と汗を流して、新しいラジオを始めた。新しいラジオ好きの若者も入ってきて、そういう力を伸ばすようにした』。そう話してくれました」と証言した。
また、高嶋ひでたけは当時の編成局長だった石田達郎について「私が入社した頃のラジオは、テレビに人材を引き抜かれて『もうすぐつぶれるんじゃないか』みたいな危機感があったんです。石田さんは、次々にサテライトスタジオ、ANN、ナイター中継を仕掛けて『つぶれたとしても、最後につぶれる放送局になろう』と意欲的でした。そういった精神は今も変わらずにANNに生きている。食わず嫌いになることなく、自薦、他薦を問わず受け付けてポジションを与えてきた。思えば、オールナイトニッポンのテーマ曲の『ビター・スイート・サンバ』をかけて『君が踊り、僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる』って相も変わらずやってるのは僕だけになりましたね(笑い)」。
また、亀淵昭信によれば「孤独な寂しがり屋の若い人々に、若者の広場をつくろう」というのが、オールナイトニッポンの番組開始当初のコンセプトだったという。
具体的なコンセプトについて、ニッポン放送新入社員で広報部員だった中川公夫は、「基本は音楽番組の発想、何をしゃべるかについては自分で考える。リスナーからのハガキを使ってもいいし、自分の身辺で起こったことでもいい。困ったら曲をかければいいというイージーな部分をありましたね」と話している。番組としてもこれといったコーナーも設けられず、聴取者からのお便り紹介とパーソナリティ自ら選曲した音楽をひたすら流すというシンプルな番組であった。
そのような初期の番組におけるアイデンティティとして、番組の冒頭の「君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を。フレッシュな夜をリードする オールナイトニッポン」というフレーズがあげられる。このフレーズは1980年代まで笑福亭鶴光が大きくアレンジして使っていたほか、初代DJの斉藤安弘がパーソナリティを務める2003年 - 2009年にかけて放送された『オールナイトニッポンエバーグリーン』、全日空国際線の機内プログラム、SKY AUDIOの『オールナイトニッポンClassics』の中で聞くことができた。この口上は、当時の番組構成作家、山之井慎によるものである。
番組開始当初、ニッポン放送の社内では「どうせ誰も聴いていない」と冷めた声が多く聞かれたが、そんな社内の声をよそに、先述の若者をターゲットとした番組は好評を博す。それを表すエピソードとして、1967年9月に解散コンサートを行ったアマチュアグループ・フォーク・クルセダーズが卒業記念に自主制作したアルバムの楽曲『帰ってきたヨッパライ』を、高崎一郎がラジオ関西の深夜番組で評判になったのを聞きつけ、1967年10月13日に、ラジオ関西の関係者から、この曲の原盤を手に入れて、1967年10月14日、すぐに、オールナイトニッポンでオンエアした所、リスナーからの反響が大きく、一晩のうちに同じ曲を何回かにわたって放送するほどとなり、それを切っ掛けに全国圏のブームとなり2か月で180万枚の売り上げを記録したことが挙げられる。ちなみに、この曲をTBSラジオのパックインミュージックでも放送しようと検討したものの、『パック』の提供スポンサーである日産自動車 の存在によって、放送することができなかったという。こういった昼間のラジオ番組では決してかけられないようなマイナーな曲や時に反体制的な曲、海外からの新しい音楽を含む深夜番組ならではの選曲が若者を刺激した。
高嶋ひでたけは「年齢的にいって一番詳しいのは初期の頃」とした上で「(あの当時は)局のアナウンサーやディレクターが担当していた。お金がかからないからね。朝の5時まで毎日4時間、真っ青になりながら喋っていたよ」と振り返り、「その後も、みんながオールナイトニッポンを磨いて、磨いて。本当にオールナイトニッポンは価値のある、磨き抜かれたラジオの財産になった」と話している。
なお、後に『〇〇のオールナイトニッポン』とパーソナリティ名が入った冠番組になるが、ニッポン放送アナウンサーがオールナイトニッポンのパーソナリティを務めていた時代は単に『オールナイトニッポン』というタイトルとしていた。
こうして、リスナーからのハガキの数が、番組開始から3か月で何百通、何千通となり、放送開始から1年で1万通を超え、『オールナイトニッポン』自体が「若者の象徴」になっていった。
そして、「年上のお兄さん」的存在だった気取らないアナウンサーパーソナリティ達の人柄に惹かれて、各パーソナリティ宛には毎週2万枚ものリクエストやお便りが届き、人知れずひっそりと始まった『オールナイトニッポン』は、1年もせず当時の若者層に絶大的な支持を受けるニッポン放送の看板番組に成長、TBS『パックインミュージック』・文化放送『セイ!ヤング』と並んで深夜放送そのものが『深夜の解放区』として一種の社会現象となるに至る。
競合番組が乱立する中、『オールナイトニッポン』は何よりもリスナーとの対話を重視し、サブタイトルに「ビバヤング」(=若者バンザイ!)を採用。前述のオープニングのスタイルもサブタイトルを強調し「“ビバヤング”オールナイトニッポン、この番組は...」となる。また、1968年9月には会報「Viva young」も発行し、発行した5万部は常に完売(ラジオ番組に印刷物というメディアを持ち込んだのも、オールナイトニッポンが最初)。こうして、「ビバヤング」(=若者バンザイ!)は1960年代から1970年代にかけての『オールナイトニッポン』の合言葉となる。
1969年、1月から木曜日担当に高嶋秀武が、10月から土曜日担当に亀渕昭信が参入する。特に、亀渕はアナウンサー出身ではなかったが、月曜未明(日曜深夜)に放送されていた「電話リクエスト」のDJで人気が出て、オールナイトニッポンに起用されることとなった。その亀淵はディレクター出身のパーソナリティとしてマイクの前に座って、それを逆手にスタジオの中を跳んだり走り回ったり、ある日の放送では歌手の沢田研二の自宅から実況中継を行い、トイレに潜入した時に水を流す音まで放送してしまうなど奇抜かつ斬新なDJスタイルをすることで聴取者から注目が集まり、一気に『オールナイトニッポン』の看板パーソナリティとなると共に、深夜放送に新しい息吹を送り込んだ。また、高嶋ひでたけは、パーソナリティの起用のきっかけについて「私は野球の実況アナウンサーだったんですよ。ナイターを終えて会社に帰ると深夜0時近い。家が神奈川の横須賀で、会社を出てANNを聞きながら帰った。そして、直訴して出たいといったんです。ちょうど先輩の“今仁の哲ちゃん”こと今仁哲夫アナウンサーが体調を悪くして代わりを探してたらしくて『ちょうどいい』って起用されたんです」と話している。
さらに、高嶋ひでたけは「当時のANNはアナウンサーやディレクター、いろいろな人がDJを務めた。初代DJの一人の高崎一郎さんは、元々はプロデューサーでした。高崎さんの専属アルバイトが、人気DJだった亀渕昭信さん。早大生のバイトから、僕の1年前にLF(ニッポン放送)に入社して、制作ディレクターをやっていた。“カメちゃん”は、すごく一生懸命に仕事をする人で、ANNのDJに抜てきされてからも、しゃべりのつなぎを工夫したりしてた」と証言した上で、「カメちゃんはセンス抜群でね、哲っちゃんの歌も熱狂的に受けた。ビアフラ紛争の影響で食べるものがない、アフリカの国であるビアフラの子供たちの事も取り上げた。当時余っていた古米をビアフラに送ろうと、リスナーの若者たちに『外務大臣に“お米を送ろう”と手紙を書こう』と呼びかけて、実際に外務大臣に会ったりもしていた。その後、編成、局長となって社長にまでなるんだけど、本当にセンスがあった」とも述べている。
1969年7月には、同じパーソナリティ仲間の斉藤安弘とともに「カメ&アンコー」としてCBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)からザ・フォーク・クルセダーズが別の名義で使っていたザ・ズートルビーの同名の曲である「水虫の唄」という曲のレコードを出し、20万枚を売り上げるスマッシュヒットとなった。この歌は、ベートーベンや、メンデルスゾーンまで取り込んでしまう自在な遊び心と反骨精神が「帰ってきたヨッパライ」に通じていた。
1970年6月30日深夜(7月1日未明)より、全国ネットを開始。この日の 斉藤安弘のオールナイトニッポン では、「STVラジオ」「静岡放送」「ラジオ大阪」の3局をネット局として、協賛スポンサー各社のクレジット読み上げを聞くことができる。また、この日は全国ネット開始の記念放送として、当時の月曜から土曜までのパーソナリティが勢揃いした(火曜深夜・斉藤安弘の他、月曜・糸居五郎、水曜・高岡尞一郎、木曜・天井邦夫、金曜・今仁哲夫、土曜・亀渕昭信)。
更に、1971年には今仁哲夫と天井邦夫(その後ニッポン放送副社長や顧問を歴任し、2009年12月3日死去)が日本全国を縦断してリスナーと交流するという画期的な企画「ビバ栗毛」も行われる。この企画は、もともと学生時代から車好きが高じた天井が、今仁と共に当時発売されたばかりのホンダ1300クーペ9に乗って全国各地でリスナーと握手をするというもので、いわば天井の公私混同である深夜放送ならではの企画だった。ちなみに、天井は大学時代に自動車部のキャプテンを務めていたという。斎藤安弘の記憶では、3か月で64万1780人のリスナーが2人と出会ったという。このクーペ9は、ホンダから提供されたもので、あっという間にリスナーからの書き込みによって、真っ黒になっていったとされる。これについて、高嶋ひでたけは「モータリゼーションの時代を先取りしていましたね。どこの地方に行っても若者たちが殺到して、全国に夜の放送をアピールした。」と証言した。高嶋ひでたけも「60年代のオールナイトニッポンの企画力はすごくて。VIVA YOUNG、“若者万歳”と付けたのもオールナイトニッポン」とした上で「ビバ栗毛」について「あれは好企画でしたね~。本当にいい企画でした」と話している。
また、1971年に50歳を迎えた糸居五郎が1月17日13時30分 - 19日15時30分にかけて放送を続けるといった過酷な企画『50時間マラソンDJ』も行われ、無事完走している。
こうして、最初は関東ローカルであり、協賛スポンサーもニッポン放送サービス(現:ポニーキャニオン)一社だけだった番組も、夜間はラジオの電波が広範囲に届くことから関東のローカル番組であったにもかかわらず日本全国からはがきが届き、それを受けてネット局数が順次増加していき、複数の協賛スポンサーが付くようになった。この時代が『オールナイトニッポン』の第1次黄金期である。これについて、亀淵はのちのインタビューで「実際、開始1年経って番組に力がついてくると、日本を代表するような一流企業が続々協賛スポンサーになってくれました」と述べている。
深夜放送ブームは1970年代に入っても続いていたが、若者層の嗜好の変化や時代の変化(学生運動世代からシラケ世代への移行など)にあわせ、ニッポン放送も新たな放送スタイルを追求し始めることになる。そのため、1972年6月末をもって、亀渕昭信、今仁哲夫、糸居五郎を除くパーソナリティが降板する。
1972年7月からの1年間は亀渕昭信が『ビバカメショー』と称して、毎日25:00 - 27:00を担当した(10月3週目までは月曜日担当の糸居五郎が継続していたため、月曜を除く毎日25:00 - 27:00。10月4週目から月曜を含む毎日25:00 - 27:00となった)。次いで毎日27:00 - 29:00までは最初は今仁哲夫が担当した『ビバテツショー』が、1973年1月からは池田健が担当する『ビバケンショー』が放送された。この時に初めて27時で番組を分割する2部制の概念が生まれる。
この時代はオールナイトニッポンにとっての最初の停滞期となっており、亀渕は「僕一人で週6日番組を担当するのはとてもつらかった。番組は“敗戦処理”みたいな感じで始まったと思います。『オールナイトニッポン』だけじゃなくて、深夜放送全体が駄目になってきていたのね。露出過多っていうか、“晴れの舞台”に出てきてしまった。それじゃ深夜放送になってないんだよね。もう一度変えなきゃいけないと、作り手もしゃべり手も思ってはいたんだが、一度出来上がったものはなかなか変えにくい。ネット局も増えて全員がニッポン放送のアナウンサーというわけにもいかなくなって。でも局アナが基本でしたから、じゃあお前がやれって。形を変えるまでの踊り場みたいな感じかな。それまでは音楽担当の糸居さん、今仁さんみたいな面白いことをやる人の中間みたいな放送をやってたんだけど、『ビバカメショー』になってからはもっと音楽に徹しました。サイモン&ガーファンクルの詞を訳して特集したり、ビートルズの海賊版を流したり、僕自身は楽しかった。テーマの『ビタースイートサンバ』も代えたんだよ。デニス・コフィーというモータウンのファンクギタリストがいて、頼んで作ってもらったり(#テーマ曲参照)。残念ながらレーティング(聴取率)はあんまりよくなかった。でもそれで“よし”としました。とにかく次に大きくジャンプするためには一度縮こまって昔のイメージを壊し、まっさらにするのが僕のやること。今度は制作者としてまったく新しい『オールナイトニッポン』を作ろうと思ったんです」と、当時の苦悩を語っている。
一方で1973年にディレクターになった中川も「転機といえば『ビバカメショー』『ビバテツショー』が始まった段階でステーションのアナウンサーがすっかりやめてしまったときでしょうね」と、転機だったことを明かす。さらに「その後にタレントが入るようになるわけで、番組自体が大きくなって、もっとビックな人でも入ってもらえるようなフィールドができたんです」と1973年のタレントパーソナリティ起用の本音を明かす。
こうして、1973年から亀渕昭信は、それまでのパーソナリティから総合プロデューサー兼チーフディレクターに転身して、オールナイトニッポンの制作に取り組むことになる。パーソナリティの人選について、亀渕は「リスナーは番組名よりパーソナリティの名前を覚える」ために、「鮮度の高い人、面白い人を見つけようと考えました。」という。また、ジングルについても、亀渕は「番組の看板だから新しいのを作ろう。一クールずつ彩りを変えていこう」と考えた。
これについては、文化放送の『セイ!ヤング』のパーソナリティである谷村新司(1972年10月-1978年3月まで担当、その期間の途中にばんばひろふみと共に担当。)が人気を博していたため、オールナイトニッポンが落ち目になっていたことも背景にあった。だからこそ、亀渕は「何とかしなきゃいけないと、柄にもなく頑張っちゃったんですよ。プロダクションに頼まず、自分で足繋ぐコンサートに通ったり、オーディションをやりました。」という。
そして、1973年7月からはタレントや芸人・歌手が従来通り4時間にわたってパーソナリティを担当するという決定的な転機を迎える。このタレントパーソナリティ第1期の布陣は小林克也(月曜日)、泉谷しげる(火曜日)、あのねのね(水曜日)、覆面パーソナリティであるカルメン(金曜日)、岸部シロー(土曜日)である(木曜日は斉藤安弘が一旦復活した。また、カルメンはオールナイト史上初の女性パーソナリティである)。いわば、第二次『オールナイトニッポン』の始まりでもあり、現在のオールナイトニッポンの原型が完成した。
しかし、岸部シローがわずか3か月で降板したのをはじめ、あのねのねを除く各パーソナリティは翌1974年夏までに全て降板し、その後約3年間はパーソナリティが根付かずに短期間で入れ替わる不安定な時代が続く。その原因として、体力的にも話力的にも4時間のロングラン放送に耐えられないという点があった事から、1974年7月からは27時を境にパーソナリティを入れ換える2部制が本格的に導入される。
2部制の導入でパーソナリティの数が足りなくなったことから、1970年代半ばにはタレントや歌手だけでなく一般オーディションの形(オールナイトニッポン主催・「全国DJコンテスト」)でも無名の新人発掘に力を注いでいる。また、番組をネットしていた地方ローカル局のアナウンサーなどにも一時期番組を持たせたこともあった(『飛び出せ!全国DJ諸君』グランプリの柏村武昭など)。一方、タレントパーソナリティ選考に当たっては基本的に番組スタッフが前もってオーディションをした上で採用の合否を決定していったのだが、あくまでラジオ番組をやっていけるだけの話力や実力があるのなら職種や音楽知識の有無に囚われることなくパーソナリティに採用するようになったため、野坂昭如や稲川淳二など本来の『オールナイトニッポン』の流れとは明らかに外れた異色のパーソナリティも登場している。この時点で番組当初のコンセプト(ニッポン放送アナウンサー及び関係者による音楽主体の若者向け4時間枠深夜番組)は失われた が、それでも「若者向け」というコンセプトと、主に歌手が番組を持ったことで「音楽番組」としての体裁はかろうじて保たれた格好となっている。
一方、一旦降板していたDJ・糸居五郎は1975年に金曜2部、さらに水曜を経て1977年10月に古巣である月曜(2部)で復活しており、音楽主体からトーク主体に変わった『オールナイトニッポン』において、唯一開始当初の雰囲気とスピリッツを醸し出していた。糸居五郎の月曜2部は糸居が1981年に定年退職するまで続いた。
迷走状態が続いていた1976年にオールナイトニッポンのチーフディレクターになった岡崎正通によれば、そのときに羽佐間重彰がスタッフを集めて、「君らはとにかく新しいものを作れ。全部任せるから。やってダメだったら、どんどん変えろ。失敗を引きずるな」と話した上で「新人登用も恐れずやれ。パーソナリティが育てば番組も大きくなるんだ」と発言したという。その際に岡崎は「なるべく人口に膾炙していない人材を起用したいな。タレントバリューに負わないほうがいいな、と。世の中には、いろんな人がいます。音楽だけでなく、文学でも政治でも報道でも、未知の人を探し出して活躍してもらう。」とした上で、「番組作りにしても何でもありみたいな。僕の考え方は、きっとフリージャズから得たものが大きいんです。」という。
そして、1970年代中盤から1980年にかけて最初に頭角を現したのがあのねのねや笑福亭鶴光、タモリ、所ジョージ、つボイノリオなどの色物系・コミックソング歌手の担当番組であった。
特に笑福亭鶴光は全て大阪弁で番組を通すという特異性から当初は抗議のはがきが多数寄せられたが、「ミッドナイトストーリー」などのネタコーナー、下ネタを含めた話術の高さもあいまり次第に人気を集め、全盛期には番組に送られてくるはがきは毎週6万枚、ラジオ聴取占有率80%〜90%という看板パーソナリティに成長、他の曜日が2部制になった後も鶴光担当の土曜日は4時間の放送を継続した(一時期金曜も4時間放送にするが、1年半で元の2部制になる)。当時大人気のあのねのねは番組中、原田伸郎が当時せんだみつおが担当していた『セイ!ヤング』の生放送中に文化放送のスタジオに電話をかけ、清水國明も『セイ!ヤング』の生放送中のスタジオに乗り込み電話を通して「あのねのねのオールナイトニッポン」と番組宣伝、番組ジャックを敢行しファンの人気をさらに広めた。番組後半に一般のファンにスタジオを公開して「七不思議のコーナー」などいろんな企画を進行していく「あのねのね・ハッピースタジオ」も人気を博した。タモリは鶴光が同じ話題として取り上げる「なんちゃっておじさん論争」や「NHKつぎはぎニュース」などタモリのアングラなキャラクターを発揮した番組内容で話題となる。
さらに当時全盛であったフォークソングやニューミュージック系シンガーの番組に火がつき、武田鉄矢・南こうせつ・イルカ・山田パンダ・加藤和彦・自切俳人〔ジキルハイド〕(北山修)・桑田佳祐・長渕剛・松山千春・吉田拓郎などそうそうたる顔ぶれが入れ替わりながらパーソナリティを務めていった。これに加え、従来からの流れであるくり万太郎や上柳昌彦などのLFアナウンサーも番組を支え続けた。そして、中島みゆき(1979年- 月曜1部)やビートたけし(1981年- 木曜1部)が登場した1980年代初頭には第2期の黄金時代を迎えることになる。
また1977年以降には『HOUSE ハウス』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『1000年女王』などの映画劇場公開にあわせて、ラジオドラマと出演者やスタッフのトークによる4時間のスペシャルが放送された。のちに文化放送が注力するようになる、アニラジのはしりと言える。
現在のオールナイトニッポンの柱となっている「トーク主体」「コーナー主体」「ネタはがき主体」の番組構成は、この時代に確立したシステムであり、ハガキ職人が幅を利かせるようになったのもこの頃である。このようにオールナイトニッポンが番組内容やDJを大きく変えたことで番組全体に見切りをつけた聴取者もかなり多かったが、逆にそれまでとは違う「パーソナリティそのものの魅力」に惹かれた新規のリスナーを大量に獲得することになり、結果として番組名と放送時間帯、テーマソングだけはそのままに、番組を「作る人」も「聴く人」も、番組の「コンセプト」でさえも時代とともに移り変わっていくという流動的なスタイルが形成されていくことになる。
このスタイルゆえに時代の変化に対応できなかった『パックインミュージック』『セイ!ヤング』のオリジナル放送が1980年代初めに打ち切られる中で『オールナイトニッポン』だけが時代の波にうまく乗りながら、深夜放送の代名詞として唯一生き残り続ける。1973年に第1期黄金期の人気パーソナリティから番組製作・編成部門に戻り、裏方として新時代の『オールナイトニッポン』を模索し続けた亀渕昭信の努力が実を結んだ格好となった。その亀淵は、「僕が番組のチーフプロデューサー時代に、タレント起用が始まった。でも、社員アナウンサー時代の成功と失敗があればこそ、さまざまなことを学ぶことができた」と述べている。また、高嶋ひでたけは「やがてアナウンサーの時代からフォークソングブームなどの波に乗って、DJという呼び名がパーソナリティーとなって、タモリさん、ビートたけしさんといったしゃべりの天才を引っ張ってきた。あと、笑福亭鶴光さんがやった土曜深夜のANNの功績も大きいですね」と述べている。
1980年代中盤以降、約10年間はライバルであるTBSラジオの深夜番組が定着せず迷走し、また文化放送も『ミスDJリクエストパレード』以降長らく深夜放送に力を入れなかったことから、「若者向け深夜放送=オールナイトニッポン」という図式が一番確立していた時代でもある。
1985年に足掛け12年にわたった鶴光のオールナイトが終了し、その後もABブラザーズや圭修が土曜のお笑い枠を引き継いだが(ABブラザーズ時代の1986年4月より土曜も2部制に移行)、1988年からはニューミュージックの大御所・松任谷由実が土曜1部を担当し1999年までの長期にわたる活躍をすることになる。
1986年10月1日には20年目突入を記念して『ALL DOGETHER NOW(オール・ドゲザー・ナウ)』という特別番組が放送され、中島みゆき、とんねるず、小泉今日子、ビートたけし、サンプラザ中野、ABブラザーズの当時の1部パーソナリティ6組が一堂に会した(公式には1985年6月15日開催の国立霞ヶ丘競技場陸上競技場での「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」のスピンオフ企画とされ、DOGETHERは「TOGETHER」と「土下座」の掛け言葉とされる)。
1980年代半ばから1990年代初頭にかけてはバンドブームが沸き起こり、オールナイトのパーソナリティ人選にもその影響が次第に現れてくる。1部ではサンプラザ中野・デーモン小暮・大槻ケンヂ・木根尚登などが、2部では渡瀬マキ(LINDBERG)・寺田恵子(SHOW-YA)・AYAKO(PINK SAPPHIRE)・川村かおり・THE東南西北などが活躍し、ブームの一端を担うことになる。続く1990年代前半も電気グルーヴ、YUKI(JUDY AND MARY)、吉井和哉(THE YELLOW MONKEY)、大江千里、小沢健二とスチャダラパー、EAST END×YURIなどの有名どころから、コアなファンが多い加藤いづみや石川よしひろまで幅広い層のパーソナリティを輩出した。
お笑い系パーソナリティは1985年に火曜1部でとんねるずが登場、さらに1989年には金曜1部でウッチャンナンチャンが登場する。落語家の弟子であった伊集院光が水曜や金曜の2部で活躍し一気にラジオスターとしての頭角を見せたのもこの頃である。1980年代を駆け抜けたビートたけしは途中代役を立てながら1990年まで番組を継続したが、その後はたけし軍団の浅草キッドなども担当。1993年に松村邦洋が、そして1994年には、2014年9月までの長期に渡りパーソナリティを務めたナインティナインが登場する(2014年10月2日から2020年5月7日は岡村隆史が単独で担当し、2020年5月14日から第2期として放送開始となった)。
また、この時代には1970年代の迷走期とは違った意味で、別業種パーソナリティを投入した時代でもある。トップアイドルだった小泉今日子が水曜1部に登場したのは1986年。その後も、女性アイドル担当番組は裕木奈江・穴井夕子など散発的に見受けられる様になった。他に、劇団『第三舞台』を主宰していた鴻上尚史、雑誌『週刊プレイボーイ』編集者の小峯隆生、漫画家さくらももこなど。極め付きは1992年に開催された『全日本パーソナリティ選手権』優勝者で素人であった浪人生松永並子&北原ゆきを水曜2部に起用したことである(前述の穴井夕子は、この2人が受験勉強のために休んだ間の6週間限定での登板であった)。後に芥川賞作家となった辻仁成も、この時代にECHOESのボーカル・「辻 仁成(つじ じんせい)」としてパーソナリティを務めている。福山雅治(1992年1月から1994年6月、同年11月から1998年3月、及び2000年4月から2015年3月まで担当)が、当時若手イケメン俳優・歌手というポジションで認知されていた彼の「素」を本番組で公に広く知らしめた。ただ、この頃になるとオーディションでパーソナリティを発掘し番組で育てていくことよりも、知名度ありきでパーソナリティに採用することが増えてきた。
1991年10月には、25年目突入を記念して、中島みゆき、タモリ、ビートたけし、笑福亭鶴光の各オールナイトニッポンが、一夜限りの復活放送を行った。また、1997年10月から1998年3月まで、番組放送開始30周年を記念して、過去のパーソナリティが担当する『オールナイトニッポンDX』が、19:00 - 21:00に放送されている。
しかし、1990年代中頃になると、テレビの深夜番組の充実化やビデオデッキ、ゲーム機、パソコン、携帯電話の普及などによって、若年層を中心としたラジオ離れが顕著になり、深夜ラジオ全体の長期低落傾向が目に見えて現れて来る。さらに同じラジオ業界内でも1980年代末以降の民放FM局急増、『スーパーFMマガジン』(TOKYO FM)『FMナイトストリート』(JFN)など、民放FM局が深夜帯にAMラジオ的なネタ・トークを中心に据えた番組を制作するようになったことから聴取者全体のパイが分散し、一部の地方局でのCM収入の減少による制作費減少など、AMラジオの深夜放送に対する逆風は強くなっていった。1992年10月改編では「一新」と言われたほどそれまでにかつてなかったレベルのパーソナリティ入れ替えを行い(現状維持はウッチャンナンチャンと松任谷由実のみ、加藤いづみ、電気グルーヴ、福山雅治が2部から1部に昇格、2部は総入れ替え)、更にこの時に立てられた企画としてリスナー間コミュニケーションの強化を目的とした「オールナイトニッポンクラブ(仮)」の設置、新人パーソナリティ発掘のために半年ごとに開催する「ゴールデンベロー賞」の開催、番組ノベルティ販売や番組会報の発行などがあったが、結局これらのほとんどは頓挫した。そして番組に寄せられるはがきやFAXの数も激減し(1997年当時、ナインティナインのオールナイトニッポン宛てに送られてくるはがき・FAXの数はトータルで週3000枚程度であり、1960 - 1970年代の人気番組の7分の1程度にまで落ち込んでいた)、オールナイトニッポンだけでなく、AMラジオの若者向け深夜放送自体の将来に暗雲が垂れ込めていた。その様な中で、ニッポン放送はパソコンや携帯電話、メールなど新しいツールに目をつけ、それらのIT機器とAMラジオの関係を融合させるべく『オールナイトニッポン』を含めた夜帯の大改編を行うことになる。
1998年春の改編では、2部枠(27:00 - 29:00)がR(リラックスの略)がついた『オールナイトニッポンR』に改称。金曜深夜と土曜深夜を除き28:30終了と30分短縮された。この時期にはインターネット放送でのスタジオ同時生中継が試験的に行われ、この試みは後に「LFX488」に生かされた。
1999年春の改編では、開始時間帯を大幅に前倒ししたうえで2部制から3部制になり、夜帯を「LF+R(Love & Friends + Radio)」と称した上で、22:00 - 24:00に今までの旧1部に近い形の『allnightnippon SUPER!』を開始、25:00 - 27:00をインターネットと連動させた『@llnightnippon.com』、27:00 - 29:00、ないし27:00 - 28:30を『allnightnippon-r』と改題したが、「LF+R」開始当初から様々な問題が発生した(LF+Rの項を参考のこと)。
2000年に土曜深夜の23:30 - 25:00の90分枠に『福山雅治のallnightnippon saturday special・魂のラジオ』(『ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!』の後継番組)を立ち上げ、1998年に降板していた福山雅治を再起用した。
2003年春の改編をもって「LF+R」ブランドは終了し、22:00 - 24:00のSUPER枠は『オールナイトニッポンいいネ!』に改題されパーソナリティを一新。com枠である25:00 - 27:00は4年ぶりにタイトルが『オールナイトニッポン』に、『allnightnippon-r』も『オールナイトニッポンR』と1998年から1年間使用していたタイトルに戻った。
若者層を中心としたラジオ離れやテレビの終夜放送が進むなかで、ラジオ業界はかつて1960年代 - 1970年代にラジオを聴いていた団塊の世代など高年齢者を対象とした番組を多数制作するようになる。オールナイトニッポンもTBSラジオ『JUNK』との競争が激化し若者層聴取が先細りする中で、2003年秋の改編では深夜放送に参入したNHKの『ラジオ深夜便』の好調に影響を受け、若者向けであった『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜を打ち切り、代わって中高年層を強く意識した『オールナイトニッポンエバーグリーン』を放送開始、パーソナリティは初代DJの1人である斉藤安弘を再起用した。番組は6年続き、斉藤が2009年春改編にて定年退職で降板した後も、1970年代後半にオールナイトを担当したくり万太郎を起用し『くり万太郎のオールナイトニッポンR』が放送された。
また、2009年11月30日からは22時〜23時台の夜ワイド枠において『オールナイトニッポンGOLD』を開始。深夜枠に放送される本来のオールナイトニッポンよりはやや上の年齢層をターゲットとしたパーソナリティが起用されている。
2006年7月には『オールナイトニッポン』の一部番組でポッドキャストを開始。詳細は「ニッポン放送 ポッドキャスティングステーション」を参照。
2007年10月1日、40周年を記念して週6日放送の生番組では最長であることから、ギネス・ワールド・レコーズに申請した。同日から、『オールナイトニッポンエバーグリーン』は、ニッポン放送では28:30(翌日早朝4:30)で打ち切られるようになった。
一方、2008年1月29日に放送した特別番組『倖田來未のオールナイトニッポン』での倖田の発言が問題となる。番組は事前収録であり、チェック体制が機能しなかったとして、担当プロデューサーの謝罪(『ナインティナインのオールナイトニッポン』・2月8日放送)や制作担当社員のほぼ半数を入れ替える社内処分が行われた。
2007年からディレクターとしてオールナイトニッポンを支え、2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いた冨山雄一は、2000年代後半から2010年代の半ばまでの時期は「辛うじて番組を維持できていた」と述べるように、この時期のオールナイトニッポンは低迷期に入っていた。この時期はエンターテインメントの多様化に加え、若い人たちがラジオを聴かなくなったということが背景にある。さらに、オールナイトニッポン自体、2010年代の半ばには曜日によっては提供スポンサーが無かったりするなど、まさにつらい時期でもあった。さらに、別のインタビューで冨山は「インターネットの時代となり、ラジオ全体があんまり注目されなくなったと感じました。」とした上で、「一回り下の世代になると、ラジオの代わりにパソコンでニコニコ動画を観るのが流行り、新しい音楽もラジオではなくニコ動で知るというのが主流になったんです。」とも述べている。このように、2000年代から2010年代の半ばまで長期凋落傾向が続いていった。
さらに、冨山は「2カ月に一度の聴取率調査週間には、多額の宣伝費をかけて広告を打ったり、豪華ゲストを呼んだりと社内、業界内はお祭り騒ぎで、それなりに盛り上がってはいたんです。ところが、会社を一歩出るとラジオの話なんか誰もしていない。ANNも活気がなく、スポンサーは数えるほど。制作費が圧縮され、生放送の予算が組めない、といった状況でした」と振り返る。
そうした中で、2010年にradikoというサービスが始まったが、冨山によると「最初は若い人の利用者数があんまり伸びなかったんです。パソコンがないと聴けなくてハードルが高かったから。でも、徐々にWi-Fi環境が整い、携帯もスマホが主流となり、radikoがアプリのひとつとなってからは利用者数が劇的に伸びました。」と述べた上で、「そこでANNを初めて聴いた、ラジオ自体を初めて聴いた、という人が増えたんです。」と述べた。さらに冨山は「ラジコに聞き逃し聴取ができるタイムフリー機能が実装された。SNSの利用者が増えて、ラジオの話題が拡散されるようになったことも大きかったですね」とも述べている。また、冨山は「肌感覚だと深夜の番組は95%はスマホで聴かれている感じです。もちろん、ネット局やタイムフリー、ポッドキャストのアーカイブ、違法にアップされたユーチューブを含めてですけど。ラジコはCMもそのままですので、スポンサーにとっては同じです。僕が入社(2007年)したころは、若い人はほぼラジオを持っていなかったので、スマホさえあればラジオ受信機を持っているのと同じ環境になったのが大きいですね。もちろん、朝とか時計代わりに聴いていただける時間帯もありますが。」とも述べている。さらに、冨山は「リアルタイムで聴かれた時代は、夜中の秘密話みたいで、聴いたら終わるものでした。今は基本的にタイムフリーだと1週間は聴き直せます。だから、あまり炎上しないように気にするとか。ただ、僕の感覚だとそれは当然で。昔はいろいろな発言も許されて、甘えてたぐらいな感覚です。」と振り返る。
そして、2012年4月改編から『オールナイトニッポン0(ZERO)』の放送と、並びにNOTTVによるサイマル放送がそれぞれ開始された。この『オールナイトニッポン0(ZERO)』は2003年10月改編をもって『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜の放送枠が終了して以来、8年半ぶりに第2部の位置づけ的な番組の復活となった。この番組のパーソナリティオーディションが、プロ・アマを問わずYouTubeを活用した一般公募という形式で、2012年1月16日12時から2月5日23時59分までの応募期間を設けて実施され、締め切りまでに1609組の応募が集まり、その後、オールナイトニッポンのスタッフによって、トークの内容や再生回数、それに、YouTubeのコメント数を基準にした動画審査(1次審査)が行われた後、59組が2次審査に進出した。その59組は、2次審査のオールナイトニッポンのスタッフによる面接を受け、スタッフによる選考の結果、2012年3月21日に5組のパーソナリティが選出・発表された。選出されたのは、火曜未明(月曜深夜)が和田正人・五十嵐隼士(D-BOYS)、水曜未明(火曜深夜)が久保ミツロウ・能町みね子、木曜未明(水曜深夜)がSPYAIR(当時は5ピースバンドだった。)、金曜未明(木曜深夜)がHi-Hi(お笑いコンビ)、土曜未明(金曜深夜)が本村康祐と西岡隼基(当時・就活生)。特に、2012年3月の頃は、大学3年生で就活生だった本村康祐と西岡隼基は、このパーソナリティオーディションで唯一、一般人(素人)のパーソナリティとして選ばれた。これは、1992年に、オールナイトニッポン放送開始25周年を記念して行われた『全日本パーソナリティ選手権』というオーディションで選ばれ、当時は浪人生だった松永並子と北原ゆき以来、20年ぶりとなった。その本村康祐と西岡隼基は、2012年4月から2013年3月の1年間にわたり土曜日未明(金曜日深夜)の枠で起用された。
『オールナイトニッポン0(ZERO)』の企画立案者で初代チーフディレクターも務めた松岡敦司は「そもそもオールナイトニッポンという番組は、新しい才能をリスナーに紹介する場だったからです。「新しい才能を発掘していくのがオールナイトニッポンだ」という想いが私自身の中にあったのです」と語っていて、1990年代から2000年代にかけて見られた知名度ありきのパーソナリティを起用するという方針から、かつて、1970年代半ばに見られた新人パーソナリティの発掘・育成を図るという方針に転換している事を窺わせている。また、YouTubeを利用した投稿を用いたことについて松岡は「とにかく面白いことができる人であれば何人でもかまわない。とにかく気軽に応募して欲しいということ。これだけインターネットが普及している時代なのでやはり、動画投稿サイトを使うのが良いだろうという結論に達しました」とも語っている。
2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いた冨山雄一は、第1部の起用について、「完成されているというか、良い状態にある旬の人を起用するという考え方」と述べている。対して、第2部は「伸びしろに期待できる若手を積極的に起用」するというようにパーソナリティの起用に幅を持たせているという。さらに冨山は、「今は、かつてのように『誰も聴いてないから好き勝手やっていいよ』というわけにはいきません。広告がしっかりついて、話題を発信できる。グッズ販売やイベント開催につなげることができて、局のデジタル戦略にも合致する人材を求めています。まずは特番で起用して反響を見ます。ギャンブル的に起用して『失敗したらしょうがない』という発想はもはや持ってません。ハードルは格段に上がっています」と、パーソナリティの起用の変化について述べている。それに、冨山は「売れっ子を引っ張るというよりは、順番を踏んでいます。まずは特番で関係性を作ってから。Creepy Nutsさんも4回ほど特番をやってからレギュラーです。テレビ東京の佐久間宣行さんもゲストに出ていただいた時がおもしろく、何度かの特番を経て、秋元康さんの強い推薦もあって今に至ってます。」と順番を踏んで、レギュラーパーソナリティの起用をしていることについて述べている。
特に、2014年4月から2015年3月に放送された『ウーマンラッシュアワーのオールナイトニッポン0(ZERO)』の場合、27時から29時の放送時間帯にもかかわらず、有楽町にあるニッポン放送本社の出入り口には多くの女性ファンが出待ちする中で、NOTTVにチャンネルを合わせて、この番組を見ていたという。
2013年2月22日 22:00 - 2月24日 22:00は『たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル』を放送。同番組は24日 9:00 - 12:00「東京マラソン2013」の生中継などを挟みながら45時間の長時間生放送(一部録音)となった。
2013年4月の改編期には、NOTTVが2012年から始まった『オールナイトニッポン0(ZERO)』の映像配信に続いて、火曜日(久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン)と水曜日(ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン)のオールナイトニッポン1部でも映像付きの同時生放送が1年間にわたって行われた。また、2014年4月の改編期には、金曜日から水曜日に枠が移動となった「AKB48のオールナイトニッポン」をNOTTVで映像付きの同時生放送を行った。
2013年9月16日より21日までの6日間は、「『オールナイトニッポン』×YouTube エンタメウィーク 連動企画」と題して、史上初めて月曜から土曜日まで旧1部、2部の枠全て(土曜2部を除く)が動画配信された。
2015年2月2日から2017年12月27日までニッポン放送と吉本興業が共同で企画制作するインターネット配信番組『オールナイトニッポンw』(月曜から金曜の19時から、10分から15分程度の動画を配信)がYouTubeを用いて配信された。
2015年10月改編から、これまでの『オールナイトニッポンGOLD』の月曜から木曜の放送枠を引き継ぎ『オールナイトニッポン MUSIC10』の放送が始まった。この番組について、冨山は「『ラジオ深夜便』への導入番組と位置付けていて、40代以上の幅広い人が寝る前に聴きやすい番組を目指している」と述べている。
2016年6月末をもって、『オールナイトニッポン0(ZERO)』を同時放送していたNOTTVの放送が終了になったことに伴い、この『オールナイトニッポン0(ZERO)』の動画配信は2016年3月28日の放送分からLINE LIVEに受け継がれた。『AKB48のオールナイトニッポン』は、『オールナイトニッポン0(ZERO)』のLINE LIVE移行後も引き続き放送が続けられたが、NOTTV閉局当日の同年6月30日(6月29日深夜)をもって同時放送を終了し、その後の空白期間を経て、同年8月11日(10日深夜。当日は欅坂46がパーソナリティ。)からSHOWROOMでの映像配信に移行した。
冨山は大きな転機となったことについて問われ「振り返ると、2016年の星野源さん、2017年の菅田将暉さんのパーソナリティー就任だと思います。2人の起用で、新規の若い女性リスナーが劇的に増えました。ラジオの深夜放送って、パーソナリティーと男性のはがき職人の秘密基地、ふとんにくるまってコソコソ聴くといったイメージがありますよね。でも、若い女性が、昼間にタイムフリーで聴いてツイッターでつぶやく。で、ANNがSNSのトレンド入りする、といった現象が起き始めた。それまで、取材なんかほとんど受けたことがなかったけど、今や女性誌やファッション誌までさまざまなメディアが、ANNの特集を組んでくれる。」と述べている。さらに、冨山は「今までは1人で聴いていたのが、みんながSNSで感想を言い合う文化が生まれたのが大きいですね。それも、アプリ内で完結せず拡散する。ただ、星野さんは2008年から4回ほどクリエイターズナイトに出ていただいて、2015年に2回特番をやり、2016年からレギュラーを引き受けていただきました。」と述べている。
また、2016年度から、番組ごとにTwitterアカウントと、そのハッシュタグをそれぞれ設けた。これについて、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「もともとラジオは1人で楽しむのが主流でしたが、Twitter上でみんなで感想を言い合い、リアルタイムで共感し合う流れを生み出せました」と述べている。
2017年10月にオールナイトニッポンが放送開始50年を迎えることを記念した企画の一環として、「オールナイトニッポン50周年記念ロゴ・制作プロジェクト」が発足し、2016年11月10日から2016年12月15日23時59分までの期間を設け、2017年10月2日にオールナイトニッポンが放送開始して50周年を記念するロゴをプロ・アマ問わず一般公募という形でニッポン放送主催によって行い、その結果、応募総数が1081案となり、2017年2月4日に、最終選考結果を『ニッポン放送 オールナイトニッポン50周年 ALL LIVE NIPPON VOL.5』のステージにて発表すると同時に、オールナイトニッポンの放送開始50周年記念ロゴが正式に決定した。応募総数が1081案の中から、オールナイトニッポン50周年記念ロゴに選ばれたのは大分県に住むグラフィックデザイナーがデザインしたロゴで、「ヘッドフォンをつけて、ニヤニヤしながらこっそり聴いているリスナー」だと自らデザインした記念ロゴのイメージについて説明した。また、別のインタビューでは「自分がラジオを聴いていた思いを形にできないかって思って、リスナーさんが夜な夜なイヤホンを付けて、こっそり笑って聴いているっていう」イメージで制作したと説明した上で、「1人でニヤニヤ笑いながら、でも時間だけは共有できている。いろいろなパーソナリティのファンの方がいると思いますが、その中で、みんなで時間共有してるというのは、1つの繋がり、絆みたいなものですよね。そういうものを表現しました」というふうにこのロゴを制作した意図について説明している。
2017年1月14日からはオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』の復活版『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン.TV@J:COM』というJ:COM制作のテレビの「地元密着オトナトークバラエティ」番組として放送。
また、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、2012年以来、5年ぶりに「新たなラジオパーソナリティ発掘」を目的にした、「オールナイトニッポン50周年・パーソナリティオーディション」をプロ・アマ問わず、行われた。応募方法は「LINE LIVE」を用いて、自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る。2017年1月11日から2月5日23時59分の期間で応募を受け付け、2月中旬に、映像をどのぐらい視聴したのかというその数に加え、LINE LIVEの機能の一つである評価した数を考慮したうえで、1次選考を行い、その結果を応募者に連絡し、2月下旬にオールナイトニッポン番組スタッフによる面接を行い、3月22日にこのオーディションに応募した693組の中から新パーソナリティとしてお笑いコンビのランパンプスが選ばれた。また、惜しくも合格できなかった応募した方の中から相席スタート・ランジャタイ・EMILY(HONEBONE)・高須克弥の4組が2017年9月までに『オールナイトニッポンR』のパーソナリティに起用された。
また、2017年3月22日には50周年記念キャッチコピーとして「Live & Fun」を制定した。これは、「Live」=「現在進行形で歴史を作り続けている、生の情報を常に発信している」、「Fun」=「オールナイトニッポンの原点、深夜の解放区、常に若者との絆を大切にするスピリッツ」という意味を込めた。前述のオールナイトニッポン50周年ロゴに「Live & Fun」というキャッチコピーを加えたロゴデザインを同じくオールナイトニッポン50周年ロゴを制作した大分県に住むグラフィックデザイナーが手掛けた。
2017年4月28日に、第54回ギャラクシー賞(放送批評懇談会主催)の入賞作品が発表され、50年の歴史を刻んて来たオールナイトニッポンのパーソナリティとしては初めてとなる「DJパーソナリティ賞」を星野源が受賞した。
2017年6月3日・6月4日には『ALL NIGHT NIPPON 50th Anniversary ブリトニー・スピアーズ -JAPAN TOUR 2017-』と題して、2002年以来の来日となるブリトニー・スピアーズの東京公演を「オールナイトニッポン」という冠を付け、オールナイトニッポン放送開始50周年記念公演として行った。
2017年6月からは『コラボレートニッポン』と題して、オールナイトニッポンでのレギュラーの有無を問わず、毎月一組のパーソナリティが1つの企業と組んでコラボレーションをする3分間のコーナーを開始。このコーナーは土曜日を除く平日の2時台に行われる。
2017年7月15日には『ありがとう!オールナイトニッポン50周年』と題して、5時から13時までのレギュラー番組において、「オールナイトニッポンにまつわる曲」を放送し、13時から17時まではパーソナリティに荘口彰久を迎え、「ありがとう!オールナイトニッポン50周年クロニクル」として放送。
2017年7月31日からオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、ニッポン放送が運営しているWebメディア「allnightnippon.com」の新しいサービスとして『オールナイトニッポンi』の運営を始めた。
2017年8月7日-8月12日にはオールナイトニッポン50周年企画として、「Welcome Ariana!“One Love Manchester” with ALL NIGHT NIPPON」と題して、2017年5月22日にイギリス・マンチェスターのライブ会場で行われたアリアナ・グランデの公演でテロが発生したことを受けて行われているチャリティキャンペーン「One Love Manchester」に、放送開始から50年間にわたり、『音楽』と『若者』を大切にしてきた、オールナイトニッポンが、このキャンペーンに賛同した上で、月曜日から金曜日の『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』、土曜日の『オールナイトニッポンサタデースペシャル 大倉くんと高橋くん』『オードリーのオールナイトニッポン』において、メッセージを受け付け、その寄せられたメッセージを紹介。
また、東京ガールズコレクションと放送開始50周年を迎えるオールナイトニッポンとのコラボレーションが実現し、2017年9月2日に開催の第25回東京ガールズコレクション2017AUTUMN/WINTERの中でオールナイトニッポンについてプロモーションを行った。
また、オールナイトニッポン50周年企画としてYahoo! JAPANの協力により「MY HOMETOWN」をテーマにしたリスナー参加のスマホムービーコンテストを春夏秋冬の4期(2017年10月から2018年9月まで)にわたって行った。
2017年10月から2018年3月のいわゆるナイターオフ期には、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、過去に起用されたオールナイトニッポン歴代パーソナリティを起用した『オールナイトニッポンPremium』を放送。
2017年11月12日は、当番組のベースにしたテレビでの特別番組『<BSフジサンデープレミアム>『熱響の時 オールナイトニッポン50年の系譜』』(21:00 - 22:55。BSフジ)を放送。過去にパーソナリティを務めた上柳昌彦、久保ミツロウ、能町みね子、2017年現在現役の新内眞衣(乃木坂46)が出演した。
オールナイトニッポンが放送開始50周年を迎えるにあたって、2017年1月から2018年10月までの期間中、「50の企画」を行っている。オールナイトニッポンの50周年記念企画は番組初期のパーソナリティが社員アナウンサー・ディレクターがかかわっていたことから、ニッポン放送のすべての社員から募集をかけ、150の企画案の中から「50の企画」が選ばれた。
すでに、「星野源制作による50周年記念ジングル(後述)」「ALL LIVE NIPPON Vol.5」「リスナーの一般公募による50周年記念ロゴ制定」「50周年パーソナリティオーディション」「ブリトニー・スピアーズ JAPAN TOUR 2017」「開局記念日特番「ありがとう!オールナイトニッポン50周年クロニクル」」「Welcome Ariana! One Love Manchester with ANN」「東京ガールズコレクションにオールナイトニッポンのパーソナリティが出演」といった8つの企画を行っている。
その50周年記念企画の一つとして、スマートフォンで録音した30秒程度の「私とオールナイトニッポン」をテーマにした音声メッセージをメールで募り、その音声メッセージをCreepy Nuts作曲のBGMに乗せてスペシャルジングルとして放送する「〜あなたの声がオールナイトニッポンで流れる!〜「私とオールナイトニッポン」リスナージングル」を実施。
また、2017年11月27日から2018年2月25日の3か月間で、リスナーの中からオールナイトニッポンを担当する放送作家を発掘する「50年に一度の天才を探せ!オールナイトニッポン放送作家オーディション」を行う。選考方法は、それぞれの番組の対象となっているコーナーで期間中に採用されたネタの数を集計して、毎週ランキングの発表を行い、最終的に、ランキングが上位に入った方とオールナイトニッポンの番組ディレクター面接を行い、何人かを絞り込んで、2018年4月から、2人がオールナイトニッポンの番組スタッフとして採用された。その2人は、6歳年上の妻を持つ主夫(2018年当時・29歳)とオードリーのオールナイトニッポンのヘビーリスナーで、脱サラして長崎から東京に移った男性(2018年当時・29歳)の2人で、いずれも元ハガキ職人である。
また、2017年に続いて次の時代を築くパーソナリティを一般公募して2018年4月からの『オールナイトニッポン0(ZERO)』のレギュラーパーソナリティに起用することになっている「〜次の50年を担うパーソナリティは誰だ?〜オールナイトニッポン “next50 オーディション”」が行われた。応募方法は「LINE LIVE」を用いて、「自分の残念な話」をテーマにした自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る。期間は2018年1月26日正午から、2018年2月11日23時59分までで、2月中旬に、1次審査を通過した方への連絡をニッポン放送から行い、2月下旬に、2次選考として、面接を行って、3月23日に合格者が四千頭身と、根本宗子と女優の長井短の2組が正式に発表され、2018年4月からの『オールナイトニッポン0(ZERO)』のレギュラーパーソナリティに起用された。また、ターリーターキーと相席スタートが2018年4月からの『オールナイトニッポン0(ZERO)』の土曜週替わり枠で起用された。
また、「オールナイトニッポン」をモチーフに家族を題材にした「鴻上尚史書き下ろしミニドラマ「オールナイトニッポン劇場」」という60秒ラジオドラマを2018年4月2日から12週にわたって放送。これは、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、鴻上尚史が「60秒の連続ミニドラマ」を執筆したもので、放送形式は全6話で、1話ごとに20回放送されることになっている。
そのほか、すでに明らかになっているものとして、
といった企画が用意されている。
2018年2月26日から3月2日の期間中、21時から21時50分の放送枠(関東ローカル、全国ではradikoプレミアムで聴取可能)で、笑福亭鶴光をパーソナリティに迎えて、「オールナイトニッポン50周年スペシャル〜今だから言えるアノ話」と題して、50年の歴史を誇るオールナイトニッポンが巻き起こした社会現象に加えて、当時の担当ディレクターが書いた「始末書」に至るまで、当時のパーソナリティと当時のスタッフの証言から紐解いていくものである。
2018年2月19日から25日の1週間、首都圏のJRと東京メトロの駅で、オールナイトニッポン50周年の記念広告のポスターが貼られることになった。また、これは『#radikoでオールナイトニッポン』キャンペーンの一環として、このポスターを撮影して、ツイッターやインスタグラムで「#radikoでオールナイトニッポン」というハッシュタグを付けて投稿するか、あるいは、SNSの中で、この写真を見つけて、リツイートあるいはリポストすることによって、抽選でオールナイトニッポンとタワーレコードがコラボレーションしたクリアファイルと、radikoオリジナルのブルートゥースイヤフォンをセットにして、50人にプレゼントする企画がある。
2018年3月4日に、日本武道館で「オールナイトニッポン50周年記念 あの素晴しい歌声をもう一度コンサート」がおこなわれた。
2018年3月28日12時から2018年4月4日24時にかけて、放送開始50周年を迎えたオールナイトニッポンとメジャーリーグ通算50勝を達成した田中将大がコラボレーションした50着限定のスタジアムジャンパーが制作・販売されることになった。田中将大は年末年始に「田中将大のオールナイトニッポンNY」のパーソナリティを担当していて、その関わりが深いことからこの企画が実現。田中は「ニッポン放送では毎年、「田中将大のオールナイトニッポンNY」を放送させてもらっています。自分にとっては正月の風物詩のような存在になっていて、楽しみの1つにもなっています。今回、オールナイトニッポン50周年という事で、昨年達成した自分のメジャー50勝とかけて、コラボレーショングッズとしてスタジアムジャンパーを作らせて頂きました。このジャケットは野口強さんとHUMAN MADE®のNIGO®さんが手がけて下さったのですが、とてもカッコよい仕上がりとなっています。ボタンはHUMAN MADE®製で、リバーシブルにもなっており、シリアルナンバーは刺繍されていて、細部にもこだわっています。自分も普段から着こなしたいと思っています。是非このジャケットを着て、スタジアムに遊びに来てください!」と述べている。
2018年4月19日(18日深夜)1時から『菅田将暉のオールナイトニッポン』の中で、オールナイトニッポン50周年スペシャルラジオドラマとして2013年4月から2016年3月までレギュラーとして放送された『アルコ&ピースのオールナイトニッポン』のリスナーを主人公にした小説『明るい夜に出かけて』を、菅田将暉・上白石萌音・山下健二郎・花江夏樹の主要キャストの出演で放送。
2018年4月24日に、ニッポン放送が「オールナイトニッポン50周年企画」の一環として、福岡県の鞍手町に新しく設けられる「くらてブロックチェーンビレッジ」の取り組みに協力することを発表した。
2018年5月19日に行われた一般社団法人「放送人の会」主催の「放送人グランプリ2018」の授賞式において、「オールナイトニッポン50周年」が準グランプリを獲得した。
2018年8月27日から9月1日にかけて、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク』として、『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0(ZERO)』のパーソナリティを12組のお笑い芸人が担当した。
2018年9月28日13:00 - 17:20 には50周年企画の締めくくりとして『ありがとう50周年!垣花正と新内眞衣のオールナイトニッポンミュージックリクエスト』と題し、「『音楽』で『オールナイトニッポン』の50周年」を振り返るもので、「もう一度聴きたい!あの名場面」と「ミュージックリクエスト」、それに、歴代のパーソナリティに話を伺う「あなたとオールナイトニッポン」で番組は構成された。ゲストとして松村邦洋(13時台)、三四郎(14時台)、高嶋秀武(15時台)が出演した。
2018年10月1日から昨年のナイターオフに続いて『オールナイトニッポンPremium』が放送され、放送時間も月曜から金曜の18:00-20:30となり、2017年度と比べると、40分にわたって放送時間が拡大された。特に金曜日は、オールナイトニッポン50周年の歴史でジャニーズのユニットとしては初めてのパーソナリティとしてKis-My-Ft2を起用した。
2018年10月2日には、東京・千代田区の『帝国ホテル』にてオールナイトニッポン50周年の記念企画を支えた関係者が集まってオールナイトニッポン50周年感謝パーティー『オール感謝ニッポン』が行われた。このパーティーにはおよそ500人に及ぶオールナイトニッポンの歴代のパーソナリティと関係者が出席した。この中で、1974年から1985年までオールナイトニッポンを支えた笑福亭鶴光は「28歳から40歳まで人間として大事なときにANNに毒されまして、エロまっしぐら!」とスピーチを行った。また、1988年から1999年までの11年間とオールナイトニッポンの中でも女性パーソナリティの最長出演記録を持つ、松任谷由実は「ANNで人間性を磨かせてもらいました。これからも楽しく続けさせていただきたいです」と決意を新たにした。ビートたけしのオールナイトニッポンを手掛けた高田文夫は「『セイ!ヤング』50年、『パックインミュージック』50年、本当におめでとう!」と深夜放送の黄金時代を支えたオールナイトニッポンと人気を分け合った他局の番組タイトルを引き合いにスピーチを行った。また、オールナイトニッポン初期のパーソナリティ「カメ&アンコー」や、長渕剛のオールナイトニッポンに関わった秋元康もスピーチを行い、さらに、オードリーや三代目 J SOUL BROTHERSの山下健二郎もこのパーティーに駆け付けた。パーティーの最後にはわたなべちひろがジョン・レノンの「imagine」を弾き語りして、オールナイトニッポンの次の50年に向け、新たなスタートを切った。
オールナイトニッポン放送開始50周年記念期間(2017年1月-2018年9月末)の真っただ中だった2018年4月に、オールナイトニッポンのチーフディレクターとして石井玄が就いた。その時期に立てた目標が「ANNの裏番組のTBSラジオ『JUNK』に聴取率で勝つこと」だったという。石井は「ラジオを聴いてない人を取り込むのはもちろん、俳優、アーティスト、アイドル、お笑い芸人とパーソナリティの幅が広い“ANNの強み”を生かそうと考えました。」と述べている。しかし、他のディレクターからは「何でバカなことを言っているの?」や「勝てるわけないでしょう?」といった冷ややかな反応だったという。
その為、毎週行われる会議において、ディレクターと話し合い、どうしたら良くなるのかを議論した。その結果、「毎週の番組の振り返り」「4月に番組のレジェメを書く」「SNSで積極的に告知を行う」「各番組の連動を図るためディレクター同士のコミュニケーションを促す」「裏番組である「JUNK」を研究し、良いところをマネする」といった策をそれぞれ実行に移した。
チーフディレクターの石井が当時心掛けたことは「効果があると思うことは信じてやる」「意味がないと思ったことはやらない」だったという。そして、「オールナイトニッポンが一番」といったおごりを捨てることがディレクターの意識付けの第一歩だったと石井は述べている。これは、50年続くオールナイトニッポンでも、歴代のパーソナリティやスタッフによって成り立っているだけであって、裏番組の「JUNK」に対して負けていることを認めて、いわば「挑戦者」であるということを他のディレクターに意識させた。そして、取り組み始めて、石井が気づいたことというのは「オールナイトニッポンのパーソナリティのパフォーマンスは高いこと」「構成作家は一流の人が揃っていること」というこの2つの要素によっていかに番組が面白くなるということだった。
2018年10月7日(6日深夜)から2021年3月7日(6日深夜)まで、毎月第1土曜日に『AKIのオールナイトニッポン0(ZERO)〜eスポーツSP〜』と題して、オールナイトニッポンの中で初めてeスポーツを取り扱う番組を放送した。
2019年2月1日に、『オールナイトニッポン』のリスナーでもあるイラストレーターの中村佑介が、『オールナイトニッポン』(火曜から日曜の1時から3時(月曜から土曜の深夜))のパーソナリティのオリジナルイラストを手掛けたことが明らかにされ、そのイラストがニッポン放送のタイムテーブル2019年2月号に掲載され、同時に、2月1日から2月28日までオリジナルイラストを描いたポスターがニッポン放送本社1階にて展示。
2019年5月1日、『星野源のオールナイトニッポン』が、平成に替わる新しい元号「令和」の下での最初のオールナイトニッポンとなった。
2019年10月5日から2020年3月21日まで、土曜日の19時から21時までの放送枠に『オールナイトニッポンPremium』が編成され、パーソナリティには2018年度の金曜日のパーソナリティを務めたKis-My-Ft2がリスナーの復活要望に応えて、再び起用された。
2019年10月14日から10月19日の1週間にわたって、ニッポン放送開局65周年を記念して「音楽を大切にする1週間」として『オールナイトニッポン ミュージックウィーク』を展開。
2019年10月14日
2019年10月15日
2019年10月16日
2019年10月17日
2019年10月18日
2019年10月19日
2019年10月24日から2021年3月21日まで、オールナイトニッポンとSCRAPとの共同制作によるリアル脱出ゲーム『オールナイトニッポン 最大の危機からの脱出』というイベントが行われた。
また、2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いた冨山雄一は「僕が『オールナイトニッポン』のプロデューサーに就任してからは、『オールナイトニッポン』はすでに、聴取率とともにradikoの数値を判断基準にしています。radikoには「ライブ(生放送)」と「タイムフリー(聴き逃し)」、その合計である「トータル」という3つの数値があり、それを番組作りの上での評価軸にしています。」と述べている。また、石井は「パーソナリティのみなさんも交流に積極的で、これをきっかけにほかのANNも聞いてくれる人も増えてきました。今まではANNからANN0という縦のつながりだけでしたが、今はradikoのタイムフリー機能で1週間以内ならいつでも聴けるので、横のつながりが効果的になっています。生放送は“ながら聴き”をしたり、消し忘れで数字としてカウントされている人もいると思いますが、タイムフリーは『その番組を聴こう』という人の数字なので、評価基準にしやすいです。(オードリーの)若林さんが結婚を発表した回や、井口さんがゲストのaikoさんと『カブトムシ』を熱唱した回などは、特にタイムフリー再生が多かったですね」と述べている。また、冨山は「実はradikoだけの数値でいうと、この1年前くらい前から非常に伸びています。『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0(ZERO)』の数字は、ここ数年で、タイムフリー数字が生放送の数倍も聴かれていることもあり、トータル数字が非常に底上げされています。」と述べている。さらに、冨山は「ラジコでは、テレビの毎分視聴率のようなデータが取れます。分析すると、おもしろいことが分かってきました。深夜放送は、受験生が勉強しながら聴いているというイメージが強くて、制作側にもANNは10代向けの生放送という先入観があった。しかし、聴取者層は20代が圧倒的で、朝の通勤、通学時間帯にラジコのタイムフリー機能を使って聴いてくれる。さらに上の年代のリスナーもいて、タイムフリーで聴く人が生放送の5~6倍も多いんです」とも述べている。
この時期はパーソナリティが相互に番組に出演し、パーソナリティが『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』にゲストに出演したりした。また、2020年の日本アカデミー賞において、岡村隆史が優秀助演男優賞を受賞し、「話題賞」も狙って、星野源と菅田将暉をライバルとしてけん制していた。
そして、その間の一連の取り組みが功を奏し、2020年2月のビデオリサーチが行っている「首都圏ラジオ聴取率調査」で『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』において、月曜から土曜平均で同じ時間帯で単独首位に立った。この同じ時間帯の単独首位は、2019年12月に行われた「首都圏ラジオ聴取率調査」に続いて2期連続となった。この番組作りの取り組みと聴取率の分析について石井は「JUNKは昔からANNをはじめとする裏番組をしっかり研究していて、『このゲストのときに盛り上がっていた』とか分析をしていた。一方のニッポン放送は、JUNKに聴取率で負けていたのに対策を十分にやっていなかったんです。なので、僕が最初にチーフDになったときに『裏番組をちゃんと気にしましょう。JUNKはいい番組で、どんな企画をやっているのか調べて聴くのも勉強になるし、それを踏まえての戦い方もあるはずです』と話しました。同世代のDが作っているので、ちゃんと聴いていいところは参考にしようと。ANNがナンバーワンという奢りを捨てることから始めました」と述べている。また、石井は「各番組のリスナーはそれぞれのファンが中心ですが、横や縦のつながりで他の番組も聴いてもらえるように意識的に仕掛けて、それが聴取率やradikoの再生数の向上という結果につながっています」とも述べている。また、オールナイトニッポンのリスナーを増やしていったことに伴い、この時期のオールナイトニッポンの提供スポンサーが30社以上になり、21世紀になって提供スポンサーが一番多い状態になった。また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「ANNは36局ネットなので単価も高く、スポンサーにしても一時は4~5社になった時もありますが、今では四十数社に付いていただいています。」と話している。事実、この提供スポンサーの数は、1980年代の全盛期よりも多いという。さらに、冨山は「今までは放送のスポンサー広告しかなかったのですが、イベントを開催することでグッズ展開もできますし、デジタル展開の中で、番組とスポンサーが組んでのタイアップコーナーや、そのための動画を制作したり。CMだけじゃなく、立体的にいわゆる稼ぎどころが増えてきました。ANNとしては55年間で今が一番稼いでいるのでは。」とも話している。
さらに、冨山は「「オールナイトニッポン」といえば、数年でパーソナリティが交代するイメージがありました。最近は比較的、長い期間パーソナリティを務めている人も出てきていますが、そのあたりの状況を教えてください。」という問いに「そうした流れのきっかけのひとつに、2015年から始まった岡村さんの歌謡祭(『岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭』)があると思います。歌謡祭に関わったことで、リスナーの熱量やナイナイさんのラジオを20何年も聴いてくれる人たちの存在を目の当たりにしたのですが、この熱量はなかなか1年や2年では醸成できないと感じました。」とした上で「やっぱり番組が継続することで、番組本がつくれたりイベントができたり、選択肢が広がります。なので、「オールナイトニッポン0(ZERO)は1年、オールナイトニッポンも2~3年が目安だよね」というような改編ありきの考え方もかつてはあったのですが、いまは改編が前提という考えではなくなっています。」とも述べている。さらに、冨山は「パーソナリティが変わらないことで、逆にマンネリ化してしまうという懸念はありませんか。」という問いに「「オールナイトニッポン」は長年、中学生や高校生といった10代をメインターゲットに作ってきました。でもradikoのデータを見ると、リスナーのボリュームゾーンが圧倒的に20代なんです。そういうところでいうと、10代は毎年、進級や進学があって生活サイクルが変わるので、短期間のサイクルでパーソナリティが変わっていくという考え方があったと思うんです。でも20代以上のリスナーの皆さんは、ある程度生活サイクルは変わらないので、番組が長く続いていても生活習慣の一部になります。だから継続的に多くの人に聴いてもらえるという部分では、パーソナリティが変わらないということはメリットとも言えます。」とした上で「その一方で、さまざまなアーティストや芸人の方、佐久間さんのような方がパーソナリティを担当するというのもオールナイトニッポンの魅力だとも感じています。オールナイトニッポンの歴史はパーソナリティが変わっていく新陳代謝の歴史でもあるわけで、そうした要素も理解しつつ、「リスナーファースト」「コンテンツファースト」の視点で考えていければと思います。」と述べている。
また、2020年で、radikoがサービスを始めて10年となったので、石井は「極端に言うと、僕がやってる番組はradikoで聴く人をターゲットにしていますし、ANNでは従来の聴取率ではなくradikoの数字が完全な判断基準になっています。ラジオ局全体としては従来のラジオで聴いてくださる方も対象にして番組作りをしますが、ANNとしてはそこを考えなくていい」と述べている。また、冨山は「radikoの登場で、今までのアナログラジオの要素に加えて、デジタルコンテンツの文脈で制作をしています。だからSNSも活用するし、タイムフリーでいつ聴かれてもいいという考え方で。」とした上で「若い人たちとラジオの接点が見つからないという問題点があるなかで、スマホの中にradikoアプリが入ると1人1台、ラジオが入っているのと一緒になるというのはラジオ業界にとって21世紀で最も大きな出来事だと思います。このデジタルと融合することで一番良いのは、ラジオを知らない人との新しい接点と拡散だと思います。」とも述べている。さらに、冨山は「2016年にradikoのタイムフリーが始まったことも大きな影響があると思います。SNSで放送内容が拡散したり、その放送を後から追えることで、より多くの方にオールナイトニッポンというコンテンツに接していただける環境が整っています。ニッポン放送がまずやらなければいけないことはいいコンテンツをリスナーに届けるということで、そういう意味では「リスナーファースト」「コンテンツファースト」の考え方になったと思います。」とも述べている。
さらに、石井は「ラジオ業界が厳しいことは間違いないので、若いDや放送作家がラジオで生活できるために、コンテンツを制作する人に正しくお金が入る仕組みを作りたいです。ANNは初めてラジオに触れる人の入り口であることが多いので、その突破口になればいいなと。 ANNは“肩書きにとらわれず時代の顔である人が面白いことを話す”というコンセプトは守りながら、いろいろ挑戦していきたい。」と気合を見せた。
また、冨山は「数年前に、佐久間(宣行)さんの「オールナイトニッポン0(ZERO)」イベントでおぎやはぎの小木さんが「(当時テレビ東京社員だった佐久間さんのパーソナリティ起用について)ニッポン放送がすごいことをしたという感じがする」という予言めいたことも言っていましたが、このように近年フィーチャーされるようになった理由をどのように捉えていますか。」という問いに「ちょっと前までは、他のメディアや他局の話題を出すことはタブーに近かったのですが、『面白いことか』『リスナーが盛り上がってくれるか』を最優先にいろんなことを仕掛けることが出来始めて、自由にやる空気が醸成されていった感じです。その結果が、佐久間宣行さんがAKB48のオールナイトニッポンへのゲスト出演だったり、秋元康さんの後押しもあってその後のレギュラー起用につながったと思います。」とした上で「その後、佐久間さんの番組に伊集院光さんをゲストに来ていただいたり、テレビ朝日の弘中(綾香)アナで特番実施など、佐久間さん起用がきっかけでタブーが崩壊した形です(笑)。だから佐久間さんがエポックメイキングなのは間違いないですね。」とも述べている。
冨山は、半世紀以上にわたって続いているオールナイトニッポンについて、「苦しい時代を含め、何度かやめるタイミングはあったと思うんです。実際、他局の名物だった深夜番組は終わってしまいました。ANNだけはそのスタイルを守り続けたんです。だって、55年前からやってることは変わらないんですよ。生放送で、パーソナリティがリスナーからきたハガキやメールをリアルタイムで読むという。時代が何周もしてようやくラジオに追いついたというか、戻ったというか。」と述べている。
そうした中で、2020年4月23日に生放送された『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』で、パーソナリティの岡村隆史が番組の中で女性軽蔑の不適切発言をしたとしてネット上で問題視された。これを受けて、ニッポン放送では、2020年4月27日に、この不適切発言をめぐり、「現在のコロナ禍に対する認識の不足による発言、また、女性の尊厳と職業への配慮に欠ける発言がございました。放送をお聴きになって不快に感じられた皆様、関係の皆様にお詫び申し上げます。」というお詫びコメントを報道機関にリリースした。オールナイトニッポンにおける不適切発言の問題が起きたのは、2008年1月29日に放送された単発特番「倖田來未のオールナイトニッポン」(この時は録音放送だったが、ニッポン放送側が倖田が行った問題の発言を見落とし、そのまま放送に至った為、ネット上で炎上が発生したもの。)以来、およそ12年3か月ぶりとなった。その後、2020年4月30日に岡村がリスナーや関係各位に対し、お詫びしたが、その際、矢部浩之が生出演して、岡村に対し「公開説教」を行った。翌週の5月7日にも、矢部が岡村に対して再び「公開説教」を行った。そして、その翌週の5月14日をもって、およそ5年半ぶりに矢部が本格的にパーソナリティとして復帰し、旧題の『ナインティナインのオールナイトニッポン』に戻してコンビとしての放送が再開された。その後、2020年7月8日に行われたニッポン放送の定例会見で社長の檜原麻希が「女性の尊厳と配慮に欠ける発言だった。今回の発言についておわび申し上げたい」をしたうえで、番組の制作に関わっているニッポン放送の社員や系列の制作会社であるミックスゾーンに所属するディレクターに、この度の「一連の経緯や問題点」をまとめて、それを資料として作り、注意喚起を行ったことを記者会見の場で明らかにした。その上で、「われわれスタッフも本人も真摯にすべてのご批判を受け止めている。リスナーの皆さんからは温かいリアクションをいただき、感謝の気持ちでいっぱいです」と感謝の意を述べた。さらに、生放送の形式に戻すかどうかについて「岡村さんもいい大人ですから、本人もよくよく理解して対応されている。」とした上で、「今、どうしても大河ドラマ(の『麒麟が来る』)とか(岡村の)いろいろなスケジュールや矢部さんも加わったということで、収録にさせていただいていますけど、早期に時間があれば生放送に戻す」としている。その後、2021年4月2日(1日深夜)の放送で生放送の形式に戻った。
2020年9月21日-9月26日の1週間に亘って、2018年以来、2年ぶりにお笑い芸人がパーソナリティを務める『オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク』が行われた。
2020年9月21日
2020年9月22日
2020年9月23日
2020年9月24日
2020年9月25日
2020年9月26日
2020年10月3日から2021年3月27日まで『オールナイトニッポンPremium』が土曜日の19時から21時の放送枠で編成されることとなり、パーソナリティには2018年度・2019年度に続いて、Kis-My-Ft2がパーソナリティを務めた。ただし、ニッポン放送では、2020年10月・11月に「ニッポン放送ショウアップナイター」を編成していたため、当初は、ストリーミングサービス「SHOWROOM」において、音声という形で配信を行っていた。
2021年1月に配信という形で行われた『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) リスナー小感謝祭 2021~Believe~』は「元々有観客と配信のハイブリッドで準備はしていたのですが、緊急事態宣言を受けて配信のみということになって。ありがたいことに配信のみで17,000枚を超えるチケットが売れました。当初の東京国際フォーラム・ホールAで開催する予定だったチケットは完売していたものの、数としてはコロナ対策があったのでキャパシティの半分の2500枚くらいでした。それを遥かに上回る売り上げだったのでこれは社内的にも驚きでしたね。配信イベントでこんなにチケットが売れた前例がなかったので。」と、反響が大きく「イベントの後、中止になっていた他番組のイベントも配信で開催できたりと、今では配信は当たり前になりましたね。会場に実際に来れる人は生で楽しめて、地方などで足を運べない人は配信で楽しむという形が定着してきて、世界が広がった感じはします。」とニッポン放送エンターテインメント開発部のプロデューサー・石井玄は話す。さらに、「11月の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) リスナー大感謝祭2021~freedom fanfare~』もかなり多くのチケットが売れていましたが、佐久間さんだからこそ成功できたこともあるのでしょうか?」という問いに「佐久間さんは作り手でもあるので、番組の仕組みをよく分かっていらっしゃる。だから1月のイベントのように中止が決定してもすぐに配信イベントに切り替えて実施できたり、11月のイベントでは、出演予定だったサンボマスターさんが直前で出られなくなってしまったのですが、急遽DJ松永(Creepy Nuts)くんが出てくださって、その上で進行できたりだとか。現役のプロデューサーでもあるから、対応してくださる幅が広く、スピード感が違ってくるので、トラブルが発生しても乗り越えられているのは制作側としてはとても助かっています。佐久間さんが作り手としての裏側を知っているからこそできることも多々あり、それが配信イベントに影響して人気が出るひとつの要因になっているかもしれませんね。」と石井は話す。
2021年1月から3月にかけて、日曜未明に放送されている『オールナイトニッポン0(ZERO)』の土曜版の中で、月1回、『LIVE in smash.』という番組として、『オールナイトニッポン0(ZERO)』の土曜版とSHOWROOMが開発した「スマホに特化した短尺のバーティカルシアターアプリ」である『smash.』とが手を組み、現在のコロナ禍の中で、観客を入れてのライブの制限がある中で、音声と「スマホで楽しめる動画」アプリである『smash.』の特徴をそれぞれ活かして、複数人がパーソナリティを務め、トークに加えて、ライブも展開していく番組を放送した。
2021年1月30日
2021年2月27日
2021年3月27日
2021年4月改編(2021年3月30日(29日深夜))をもって、『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0(ZERO』に続く、第3のオールナイトニッポンとして、2021年3月26日(25日深夜)をもって終了した『ミューコミプラス』と、2021年3月27日をもって、放送枠が移動した『三代目 J SOUL BROTHERS 山下健二郎のZERO BASE』の後番組として、火曜日から土曜日の0時枠に、新しいオールナイトニッポンブランドの生ワイド番組『オールナイトニッポンX』が放送されている。なお、火曜日から金曜日の0時台は年越し特番などの特例がない限り『オールナイトニッポン』ブランドの番組が放送されたことはなく、2021年10月で55年目を迎えるオールナイトニッポンの歴史で初めてのことになる。ラジオやradikoに加えSHOWROOMが手がけるバーティカルシアターアプリの「smash.」と連動させ、スタジオの様子もを同時配信して、音声と動画をリアルタイムとアーカイブで楽しめるような形式とする。このブランドの概要は2021年3月16日に明らかにされた。
2021年10月改編では、半年間限定で、新たに『なにわ男子のオールナイトニッポンPremium』としてレギュラー番組を編成したが、ニッポン放送の場合は2021年10月・11月に『ショウアップナイター』を編成するため、ストリーミングサービス「SHOWROOM」において、音声という形で配信を行った。
2021年10月4日から、『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』『オールナイトニッポンX』に次ぐ「第4のオールナイトニッポン」として、『オールナイトニッポンPODCAST』のサービスが開始された。これについて、ニッポン放送ビジネス開発局デジタルビジネス室長の浜原晋介は「海外、特にアメリカでは6年ほど前からポッドキャストの広告が急激に伸びています。リスナーに合わせて広告を切り替えるなど、デジタルメディアならではの技術も広がってきた。(2022年)現在はまだ将来に向けての投資段階ではありますが、すでにオリジナル番組だけの広告主もついています。ポッドキャストのオリジナル番組は今後も増やしていきたいと考えています」と話している。
オールナイトニッポンのプロデューサーの冨山雄一は、このブランドを立ち上げた狙いについて「『オールナイトニッポン』でパーソナリティをやっていただきたい魅力的な人はたくさんいますが、放送枠の関係などで、お願いしたくてもできないという現状があります。そんな人たちの番組を配信という形でやろう、ということで始めました。」と述べている。また、各コンテンツとも配信時間が30分になっていることについてデジタルビジネス部の澤田真吾は「データによると、配信の放送を聴くのは通勤、通学中の人が多い。深夜の『オールナイトニッポン』みたいに2時間も放送すると、行き帰りの時間だけでは聴くことができない人もいる。だから、帰りの時間に聴けるサイズにしようと。」という風に述べている。また、今後の展望について冨山は「最近は、配信アプリを使って、魅力的なトークを発信する人が増えています。そんな誰もがラジオパーソナリティになれる時代ですが「ディレクターや、放送作家の力が加わるともっと輝くのではないか?」という人を見つけて『オールナイトニッポンPODCAST』で育てていきたいです。そして番組で力をつけて『オールナイトニッポン』で活躍するようなパーソナリティを生み出せたらいいなと思います。」と述べている。
前述したように「『オールナイトニッポン』は配信イベント、『smash.』や『ミクチャ』などの同時ライブ配信、『オールナイトニッポンPODCAST』などテクノロジーを駆使して様々な新しいことを進められていますが、こちらの背景についていかがでしょうか。」という問いに冨山は「『オールナイトニッポン』は芸人さん、俳優さん、アーティストさんなど様々な分野で活躍しているスペシャリストの方々をパーソナリティに立てて番組を放送しているというコンセプトがあり、そのラジオの広がりみたいなところを様々な形で表現していきたいという思いがあります。その一環で、音声だけでなく動画でも配信してみようということから、『smash.』や『ミクチャ』での配信や、『オールナイトニッポン』というブランドがPodcastとしてアウトプットしたらどうなるのかという挑戦で『オールナイトニッポンPODCAST』を立ち上げたりと、様々なテクノロジーとの掛け算をして最大化を図っているところです。」とした上で「あとは『smash.』に出向している『オールナイトニッポン』の元チーフディレクターである松岡敦司や、イベント事業を担当している石井との連携など、『オールナイトニッポン』を起点に各企業や各部署と横の繋がりで仕事ができているので、オールナイトニッポンのコンテンツが広がっていっているのだと思います。」とも述べている。
2021年11月25日22時から0時までは、『前澤友作×オールナイトニッポン宇宙プロジェクト』の一環として『前澤友作のオールナイトニッポンGOLD』をロシアからリモートという形で放送。これは、1990年以来、日本人による民間人の宇宙飛行士になる前澤友作が2021年12月にロシア所有の宇宙船に乗り、そこで、宇宙旅行を行うことを受け、『オールナイトニッポン』が「宇宙から若者にメッセージを発信しないか?」という依頼して、実現したもの。そして、2021年12月13日1時30分から3時(12日深夜)の放送時間で『宇宙から生放送!前澤友作のオールナイトニッポンスペシャル』が放送され、国際宇宙ステーションに滞在している前澤友作の声を伝えることになっていて、有楽町のニッポン放送のスタジオには音楽プロデューサーの亀田誠治、それに、ニッポン放送アナウンサーの東島衣里が出演した。当初、放送では、国際宇宙ステーションの軌道の関係上、2時45分から15分間にわたって、前澤が国際宇宙ステーションから出演することになっていたが、実際は、出演開始時間が2時55分にずれ込んだものの、リスナーから寄せられた質問に答えた。その為、この番組の放送終了時間が3時10分に急遽変更された。この番組について、ニッポン放送社長の檜原麻希は2022年1月12日に行われた定例会見で「奇想天外な発想の持ち主で、次なる企画が楽しみ。また機会があれば一緒に番組などをやっていきたい」と述べている。
この時期のオールナイトニッポンの好調について、あるラジオ関係者は「ニッポン放送は50代や60代のパーソナリティを22時台の『オールナイトニッポンGOLD』に持ってきています。また、24時台に『オールナイトニッポンX』、深夜3時台に『オールナイトニッポン0』という予備軍を置き、深夜1時台の『オールナイトニッポン』が新陳代謝しやすい環境を整えています。55年続いているオールナイトニッポンブランドを生かして、同じ冠名の派生番組をたくさん作って、それぞれに役割を持たせてうまく回している。『オールナイトニッポン』の好調が局の浮上につながっている面はあると思います」と述べている。事実、このオールナイトニッポンのブランドを活かした戦略によって、2022年4月と6月で、radikoの『総聴取分数』というデータで、ライブとタイムフリーの合計において、ニッポン放送は首都圏ラジオの全局の中において首位を獲得している。
2022年4月から2023年3月まで『オールナイトニッポン55周年記念』の期間として、特別番組・イベントに加え、コラボレーション企画を行った。この『オールナイトニッポン55周年記念』の企画立案・検討は、ニッポン放送社内に発足したプロジェクトチームが担った。
その55周年記念企画の第1弾として、2021年11月24日18時に『オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』』という舞台公演の企画が明らかにされた。この作品のテーマは「オールナイトニッポンに関わるパーソナリティの、スタッフの、そしてリスナーの「あの夜」」である。この舞台作品は、千葉雄大と髙橋ひかるのダブル主演で、2022年3月20日と3月27日に、配信形式の演劇作品として制作するもので、ニッポン放送の社内を舞台に繰り広げ、その模様を生配信という形式で送るもの。この舞台作品の総合演出はテレビプロデューサーの佐久間宣行が、プロデューサーは石井玄が、演出は小御門優一郎がそれぞれ手掛ける。また、この舞台公演では、メインキャストを決めるオーディションを実施し、書類審査を通過したものにはオーディション(演技審査)を行う。そして、この公演の主題歌として、水曜未明(火曜日)のオールナイトニッポン0(ZERO)を担当しているCreepy Nutsと、水曜未明(火曜日)のオールナイトニッポンXを担当しているYOASOBIのコンポーザーのAyaseと、ボーカルのikuraとして活動しているシンガーソングライターの幾田りらによるコラボレーションでの「オールナイトニッポン55周年を盛り上げるコラボ楽曲」が制作される。このコラボレーションのきっかけはCreepy Nutsの2人がYOASOBIのオールナイトニッポンXに2回にわたってゲストとして出演したことをきっかけに意気投合し、今回のコラボレーションにつながった。その後、2022年3月15日に曲のタイトルが『ばかまじめ』と発表されると共に、アーティスト写真とジャケット写真、並びに発売日が2022年3月20日と明らかにされた。そして、この公演の特別ポットキャスト番組として、『あの夜のはなし』が2021年12月27日からの予告編を皮切りに配信されることになった。この番組では、パーソナリティに、この公演のプロデューサーの石井玄と脚本と演出を手掛ける小御門優一郎が務め、この公演の舞台裏や、その舞台公演の想いについてもトークを繰り広げ、この舞台公演の関係者を迎えて、印象に残るラジオ番組の放送回についてトークを繰り広げることになっている。また、リスナーから「心に残っている「あの夜」」をメールで募り、この配信番組において採用されたエピソードから、実際に舞台公演の内容に反映される可能性がある。その後、2022年2月2日に、およそ1500人の応募の中からメインキャストのオーディションで選ばれた吉田悟郎・山口森広・工藤遥・入江甚儀・鳴海唯・山川ありその6人を含むメインキャストとその役柄が発表された。また、三四郎の相田周二がプロデューサー役として特別出演する。さらに、2022年3月10日にDJ松永(Creepy Nuts)、久保史緒里(乃木坂46)、ぺこぱ、小宮浩信(三四郎)が特別出演することが発表された。そして声の出演として、新内眞衣、構成作家の寺坂直毅が登場することも発表された。この「前代未聞の試み」に、2022年3月25日の時点で2022年3月20日に行われた公演の配信チケットの販売数が累計で1万6千枚を突破した。そして、2022年3月20日・3月27日に行われた公演の配信チケットの販売数が累計で1万8千人となった。その後の集計で、2022年3月20日と2022年3月27日のチケットの購入人数は、合計で2万3千人を超えた。そして、2022年6月11日に東京国際フォーラム・ホールAで「一夜限りの上映会」が行われることになり、上映の終了後にアフタートークとして、相田周二(三四郎)・山口森広・鳴海唯、さらに、脚本・演出の小御門優一郎が登壇して、事前に寄せられた感想や質問・疑問に答えた。その上映会で、オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』がBlu-rayとして2022年内の発売予定で作品化されることが発表され、その後、このBlu-rayが2022年12月7日に通常版と豪華版BOXの2種類で発売されることになった。そして、この作品が『2022 62nd ACC TOKYO CREATIVITY AWARDS』のメディアクリエイティブ部門において、総務大臣賞/ACCグランプリを、ランデッド・コミュニケーション部門のAカテゴリーにおいてシルバーを、それぞれ受賞した。この配信舞台について、ニッポン放送のエンターテインメント開発部プロデューサーの石井玄は、「(これまでのオールナイトニッポンの)イベントは従来のファンの皆さんには喜んでいただけますが、ラジオファンのすそ野を広げることにはなかなかつながらない。新しい接点が必要だと考えていたところに、劇団ノーミーツさんから『ANNと組んだ配信の演劇をやりたい』という提案をいただいたんです。2万4000枚ものチケットが売れ、演劇好きな方、主演の千葉雄大さんと高橋ひかるさんのファンの方など、従来のリスナーさん以外にも届いた実感があります。」と述べた上で「僕個人としては、今回の演劇のように、番組にひもづいたものではないけれども、ラジオの魅力を伝えるイベントを作っていくことが次の段階として必要だと考えています」とも述べている。そして、この『あの夜を覚えてる』のノベライズが2023年9月に発行されることになった。また、この『あの夜を覚えてる』の舞台の模様がWOWOWで2023年10月9日14時に放送・配信されることになった。
2022年3月8日19時から21時にかけて、オールナイトニッポン55周年記念特別番組の第一弾として、『三浦知良のオールナイトニッポンPremium』が放送された。これは、2022年2月26日に55歳になった三浦知良と2022年10月に放送55周年を迎える『オールナイトニッポン』が、ともに1967年の生まれという共通点を持っていた為、ニッポン放送が三浦知良にオファーをし、その三浦知良が「サッカー、三重県鈴鹿市、JFLをカズ直接の言葉で全国のリスナーに発信する」ということから、この特別番組が実現したもの。なお、現役のプロサッカー選手がJFLの開幕4日前にラジオ番組のパーソナリティを務めるのは「超異例」だという。
2022年3月18日、大宮エリーデザインの『オールナイトニッポン』55周年記念のオフィシャルロゴをお披露目した。大宮エリーによれば、この記念のオフィシャルロゴは「オールナイトニッポンは各パーソナリティの個性が色とりどりでいろんな国に旅行にいくようなきもちになります。また、深夜の生放送はこころの解放区。リゾート地のきもちいいプールサイドをオールナイトニッポンのロゴにして、開放感、癒し、わくわくを、表現しました。」と説明している。
2022年3月28日から3月31日まで、佐久間宣行をCMキャラクターに起用されたオールナイトニッポン55周年の特別なテレビCMをBSテレ東で放送された。
2022年4月22日22時から翌0時にはオールナイトニッポン55周年記念特別番組として『長渕剛のオールナイトニッポンGOLD』を放送。長渕剛がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めるのは、2003年12月以来となる。
2022年5月9日から5月17日まで、銀座・博品館劇場において、81プロデュースの所属の声優が日替わりで出演するオールナイトニッポン55周年記念公演の朗読劇『太陽のかわりに音楽を。2022』が上演された。この朗読劇は「オールナイトニッポン」の制作現場を舞台にしたオールナイトニッポン50周年記念舞台「太陽のかわりに音楽を。」を朗読劇にしたもの。
また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一に言わせれば、この時期の「オールナイトニッポン」のデジタル戦略は「フロー型からストック型への転換」だという。これについて、冨山は「ユーチューブは映像を見ながらそこにコメントを書くじゃないですか。でもラジコはチャット機能がないので、みんなツイッターに書くんです。すると星野源さんとかナイナイさんとか、放送内容がSNSで流れると、聴いていなかった人がラジコで聴いてくれる。フロー型から、今やストック型になっています。放送したら終わりではなく、ポッドキャストはじめ、全部デジタルで残りますから。」と説明している。
その一環として、2022年5月30日から、オールナイトニッポンの中から人気の6つの番組が、再編集した上で、Spotifyで独占配信されることになった。その番組は『ナインティナインのオールナイトニッポン』『霜降り明星のオールナイトニッポン』『フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO)』『ぺこぱのオールナイトニッポン0(ZERO)』『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)』『マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0(ZERO)』で、特に、『ナインティナインのオールナイトニッポン』に関しては、『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』を含めると、1994年4月の番組の放送が開始して29年目で初めてのポッドキャストでの配信となった。また、『霜降り明星のオールナイトニッポン』は2021年11月1日時点でSpotifyが調べた「国内で最も聴取時間の長かったポッドキャスト番組」の部門で1位に選出されている。これについて、ニッポン放送ビジネス開発局長の節丸雅矛は、「Spotifyさんとニッポン放送さんは、最近ですと『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』のPodcast独占配信だったりと、距離がかなり近いように思えますが、音声コンテンツを作る側と広げる側として、お互いをどういう風に見ていますか?」という問いに「弊社は24時間あらゆるコンテンツを生み続けているので、元々制作マンだった身としては「一度きりの放送」で終わるのがもったいなくてしょうがない、という気持ちがすごくありました。ですから、それをポッドキャストにすることは自分たちからするとありがたい話でもあって。オールナイトニッポンとSpotifyさんの相性は本当に抜群で、僕らも本当に驚きましたから。」と述べている。また、ニッポン放送ビジネス開発局デジタルビジネス室長の浜原晋介は「放送の二次利用という形でポッドキャストは早くから活用してきました。現在、ニッポン放送の番組全体では月間1400万~1500万ダウンロードされています。ストリーミングサービスでは、レコメンド機能が働くので、普段聴いている音楽の視聴傾向から偶然『ANN』に出合うといった、これまでとは異なるリスナーの獲得につながっています」とも語る。さらに、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一はポットキャストについて「参考にしているのは、デジタル化にいち早く成功した『少年ジャンプ+』です。若いディレクターに聞くと、ジャンプと言えば紙の週刊誌よりもアプリの『少年ジャンプ+』のことなんですよね。地上波に加え、デジタルでも『ANN』のコンテンツを楽しむことができる環境づくりを意識しています」と語る。
さらに、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山は、「深夜番組のため、もともとのメーンリスナー層は中高生でした。しかし、radikoやポッドキャストでの配信視聴が増え、今は20代がメーン層となり、さらに30代、40代といった社会人にまで幅広くリスナー層が広がっています」とこのTwitterとポットキャストなどのデジタル戦略によってリスナー層が拡大していったことについて述べている。それに、冨山は「radikoのタイムフリーの聴取数ランキングでは、上位に『ANN0』の各番組もランクインしています。こうした好影響は地上波にも波及して、『ANN0』のネット局は4年前(2018年)の11局から(2022年)現在は31局に急増、『ANN』の36局に迫ります。深夜3時台のため、広告がなかなか入らなかったのですが、タイアップ企画など広告も激増しています」と、動画という形で同時生配信の展開によって、1部の『オールナイトニッポン』と2部の『オールナイトニッポン0(ZERO)』の環境がほぼ同じになった影響についても述べている。
また、2022年6月20日から、オールナイトニッポンの放送開始55周年プロジェクトの「目玉企画」として、2000年以降にオールナイトニッポンで人気を博した30組のパーソナリティの音源が聴き放題となるアーカイブサブスクリプション・サービス『オールナイトニッポンJAM』がスタートした。
番組のアーカイブの活用については、以前から検討課題となっていた。これについて、ニッポン放送デジタルビジネス部の浜原晋介は「2年前(2020年頃)から構想があったのですが、その頃と今ではいい意味で状況が変わってきていて。音声メディアへの追い風が今までにないくらいの勢いがあります。それに伴って、関係者も取り組みに関する理解が明らかに変わってきている印象を受けます。この流れに乗って、みなさんの期待を裏切らないように、楽しんでいただけるようにしたいです。新しいシステムを作って、みんながハッピーになれるというのが一番大きなミッションだと思っています」とオールナイトニッポン放送開始55周年の節目に加え、「音声メディアに対する潮流の変化」があることを述べた。
2020年初夏にこのプロジェクトが本格的に始動したが、この頃は、新型コロナウイルスの影響により、ニッポン放送の主催イベントが軒並み中止となる中で、浜原は「世の中の動きが完全に止まった時にどうしようかと。新しいビジネスモデルを考えなくては、というところからスタートしました」と述べ、ニッポン放送デジタルビジネス部の澤田真吾は「コロナで広告案件がなくなり、広告収入だけでは安定しないよねと。BtoC(消費者向け)モデルをやろうと、今回のサブスクになりました」と述べた。また、浜原は「当時は音声配信について、出演者や権利関係の方もピンと来ていない部分が多かった」と振り返っていた。
また、澤田は権利関係と番組内容における時代の適応に関して、「各事務所のみなさんと交渉していきましたが、協力的なお言葉をたくさんいただきました。『こういうことをやったほうがいいと思っていました』『僕も聴きたいです』と言ってくださったり...。ただ、昔と今とでイメージが変わっている方の場合は、ちょっと乖離しすぎて、ファンの方を混乱させてしまうのでは...という部分の話はありました。」と述べた上で「今の時代と照らし合わせると、ちょっと受け止められ方が変わってしまうものもあるかもしれませんが、できる限り、当時の雰囲気を残しつつ、すべて聴いて、それでもちょっとこれは...という内容は、やむなくカットするという判断も出てくると思います」とも述べている。この背景には、新型コロナ禍で在宅勤務が増加し、ライフスタイルが変わったことにより、音声コンテンツに注目が集まったためだという。
こうして、オールナイトニッポンのプロデューサーを交えながら、出演者の交渉を進めた結果、『オールナイトニッポン』に加え、姉妹番組の『オールナイトニッポン0(ZERO)』と『オールナイトニッポンGOLD』の中から30番組が配信されたものの、往年のオールナイトニッポンに関して、浜原は「2000年以前は音源がデジタル化されていなかった」と述べるように、録音テープが残っていればいいが、その番組の音源が残っている確証がないため、澤田も「倉庫をあさって探すしかない」と述べるにとどめている。
このオールナイトニッポンJAMでは初回の放送から順次アップロードしているものの、編集作業にかかる労力によって、一括配信が難しいという。まず、過去に放送した内容が、現在の社会情勢にあっているかを確認する、いわゆる「検聴」を行い、権利の関係上、流す事ができないBGMや楽曲を削除し、その上で、著作権が自由なBGMを重ねる。この作業について、浜原は「21世紀とは思えない作業」だとしている。浜原は「時代背景もあるので発言が誤解されないように、二重三重でチェックしている。配信されることを想定して放送されたわけではないので、一番気を使う部分だ」と述べている。
さらに、澤田は「僕自身もくりぃむさんのANNなどを聴いて育った世代で、当時の音源をもう一度聴きたいというリスナーの気持ちもわかるので、サービスを届けたいなという気持ちがずっとありました。違法ではなく、公式で出して、ニッポン放送だけではなくて、パーソナリティーのみなさん、制作スタッフさんにも分配するという仕組みを整えていきます。みなさんの中にも『ちゃんと公式で聴かないと...』という意識が根付いているので、我々がその気持ちに応えていかなければと考えています」と一つ一つの番組について数十人のスタッフが作業に当たっていることについても述べている。また、YouTubeなど、違法アップロードは後を絶たないものの、澤田は「ユーザーさんのリテラシーもだいぶ上がってきていて、そこには手を出したくないと言ってくれる人も結構いる。そういった人たちのためにコンテンツを届けるには公式が汗をかいて、努力するしかない。ちゃんとしたものを作りたかった」と力を込めた。
また、澤田は「ラジオが今後、ストックされていくという常識ができていけばと考えています。YouTubeでも、ストックされたコンテンツが収益を上げるというモデルがあるので、ラジオもそうなっていけばいいなと。放送する、そのコンテンツが残る、それが収益を上げ続けるということで、全体が潤っていかなければいけないという気持ちはあります。今後の環境変化に耐えていくためにも、会社の柱のひとつにしていきたいです」と意気込みを示した。このANNJAMはリスナーが直接課金をしている為、浜原は「番組は私たちにとって、最も価値の高い資産。デジタルかつオンデマンドでのサービスを提供することで、新しいリスナーに届けられる可能性が広がった」と述べた上で、「パーソナリティーとリスナーの特別な関係性で成り立っているANNはアーカイブ音源でも色あせることなく、幅広い世代に支持されるコンテンツなのでは」とも述べている。
実際、このANNJAMのユーザーは10代・20代で合わせて47%となり、30代でも29%となっている。これまで、公式なアーカイブが存在していなかったこともあり、利用者の中には、「違法アップロードを聞かなくて済む」といった声が聞かれた。
さらに、オールナイトニッポンのプロデューサーである冨山雄一は「今の若い人が、YouTubeとかいろんなものに触れていて(コンテンツが)残ることが当たり前という文化になっていると感じています。ANNで特番をやっていただく時に、若いパーソナリティーの方から『全国すべてのエリアでは聴けない』『1週間で聴けなくなる』ということを説明しても『わからない』と言われることもありまして...。昔から聴いてくださっていた方に向けてスタートする部分もありますが、新しくラジオに触れる方にとっても、自然と選択してもらえるものになればいいですね。最終的には『ラジオJAM』みたいになれば...とも思っていて、ラジオ局全体がフロー型からストック型への模索が始まっている中でのチャレンジなので、オールナイトニッポンから切り開いていけたらと考えています」と述べている。当初、想定していたこのサービスのメインターゲットは、かつてのオールナイトニッポンを懐かしむ、30代から40代を想定していたが、有料会員の半数が20代となっている。これについて、浜原は「いわゆるZ世代がお金を払ってくれている。この方向性は間違っていなかったんだと。『オールナイト』が彼らにとってのラジオの原体験になっているのかもしれないと考えるとすごく勇気づけられるし、数字として見えてくると励まされます」とした上で「推しのパーソナリティーはもちろん、他の番組も聞いて欲しい。たまたまつけたラジオにハマって、以後毎週聞くようになることがあるじゃないですか。そういう体験を『JAM』でも実現できたら」と、パーソナリティの顔ぶれの多様さによって、「偶然の出会い」も提供したいと意気込む。
また、このサービスの今後について、澤田は「対象を『オールナイト』に限らなくてもいいのかなと。面白い30分の箱番組(週1回放送の番組)もあるので、そういったものも出していきたい」と述べた上で、「まずは『オールナイト』という分かりやすいブランドでラジオがストックされていくことが当たり前になる文化を作っていった上で、どんどん広げていけたらと思っています」と述べている。
なお、オールナイトニッポンのオープニング曲として有名である「ビタースウィート・サンバ」は、権利処理が発生するサブスクリプション形態のサービスでありながら同サービスではフルで聞くことが可能であり、これについては、アメリカにいる同曲の権利者とニッポン放送が交渉を重ねた上で使用許諾が出された。これについて、浜原は「場合によっては(曲を手がけた)ご本人に会いに行こうかなという話までしていたくらい本気でした。代理人の方と『こういう条件だったらということで...』と、締結することができまして、初めて、放送以外で『ビタースウィート・サンバ』が使うことができるようになりました。今までは、大人の事情で、放送以外の場面では『ビタースウィート・サンバ』の原曲でないバージョンが使われてきたことを考えると、かなりの出来事かなと思っています」と述べている。このアメリカにいる権利者にたどり着くまでには、1年以上もかかったという。
しかし、先述したように、著作権の都合により削除された音楽入りの「完全形」を求めているリスナーからのニーズは根強くあるため、浜原は、「音楽団体には今後も協力を働きかけていきたい」としている。
ラジオに関連した書籍を書いているライターの村上謙三久は「今までラジオのアーカイブを聞くという選択肢がなかったので、サービスが始まった意味は大きい」と述べた上で、「時間をかけてコンテンツが増えていったら利用しようと思っている人も多いのでは」と述べているが、「ANNはパーソナリティー同士のつながりも活発なので、この番組とこの番組はつながっているといった物語性を打ち出したり、キュレーション(選択・分類・提示など)的な機能があったりすれば、もっと利用しやすいかもしれない」と提案している。
これについて、あるラジオ関係者は、「最近のニッポン放送は攻めています。過去の音源は許可取りが大変だと思いますが、これも『オールナイトニッポン』ブランドを生かした戦略です。新しいことに挑戦する姿勢がradikoでの結果にもつながっていると思います」と話している。
2022年6月21日22時から翌0時まで、オールナイトニッポン放送開始55周年記念特別番組として、『山下達郎のオールナイトニッポンGOLD』が放送された。なお、山下達郎がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めるのは、ソロデビュー直後の1976年1月から9月まで放送された3時から5時までの『2部』(山下達郎のオールナイトニッポン)を担当して以来、およそ46年ぶりとなる。ニッポン放送では、ロシアによるウクライナの侵攻を受けて「達郎さんの声と音楽で〝温かく柔らかい思い〟を全国に届けたい」と山下達郎に対してオファーをして、山下達郎もオリジナルアルバムである「SOFTLY」に収録された「OPPRESSION BLUES(弾圧のブルース)」を創っていて、ニッポン放送側とのコンセプトが一致したこともあって実現したもの。
2022年8月8日から8月13日にかけて、2020年以来2年ぶりに、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、お笑い芸人がパーソナリティを務める『オールナイトニッポン55周年記念 お笑いラジオスターウィーク』が行われた。なお、オールナイトニッポンの3ブランド(X、1部、0(ZERO))での『お笑いラジオスターウィーク』はこれが初めてとなる。
2022年8月8日
2022年8月9日
2022年8月10日
2022年8月11日
2022年8月12日
2022年8月13日
2022年9月9日には、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念してオールナイトニッポンのパーソナリティを陰で支えている10人の放送作家を取り上げた『深解釈オールナイトニッポン ~10人の放送作家から読み解くラジオの今~』という書籍が発売された。その書籍は、初版の1万部発売から3日経った、2022年9月12日の段階で早くも重版が決まった。また、発売する前からAmazonランキングで1位を獲得し、主要な書店では、「オールナイトニッポンの関連特集」が組まれた。
2022年9月12日から9月17日までにかけて、2019年以来、3年ぶりに音楽アーティストがパーソナリティを務める『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン MUSIC WEEK』が行われた。なお、オールナイトニッポンの3ブランド(X、1部、0(ZERO))での『MUSIC WEEK』はこれが初めてとなる。
2022年9月12日
2022年9月13日
2022年9月14日
2022年9月15日
2022年9月16日
2022年9月17日
2022年10月1日から、『オールナイトニッポンPremium』が2022年度のナイターオフに編成されることになったが、これまでの形式を一新し、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、週替わりで歴代のオールナイトニッポンのパーソナリティや「“いま”オールナイトニッポンでしゃべって欲しいという話題の人」を起用する週替わり枠として放送される。
2022年10月1日にはオールナイトニッポン55周年記念として、『マヂカルラブリーのオールナイトニッポンZEROII’~でっかいフォーラムでーす~』が、翌2022年10月2日(オールナイトニッポン放送開始記念日)には、『オールナイトニッポン55周年記念 Creepy Nutsのオールナイトニッポン『THE LIVE 2022』~オレらの Roots はあくまでラジオだとは言っ・て・お・き・たい ぜ!~』がいずれも東京国際フォーラム・ホールAを会場として行われた。特に後者は全国99の映画館でライブビューイングが行われた。
このイベントに関して、ニッポン放送のエンターテインメント開発部プロデューサーの石井玄によれば、「かつては、パーソナリティーや歌手の方が集うフェススタイルが中心でしたが、最近増えているのは、番組ごとの単独イベントです。これは個人的な意見ですが、転機となったのは2014~15年頃かなと。14年9月にオードリーさんが東京国際フォーラム・ホールAにて『ニッポン放送開局60周年記念 オードリーのオールナイトニッポン5周年記念 史上最大のショーパブ祭り』を、15年11月には当時は1人でパーソナリティーを務めていたナインティナインの岡村(隆史)さんが『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン1周年記念 岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭 in 横浜アリーナ』を開催したんです。それまでも、ももいろクローバーZさんなどと組んで大きな会場でイベントを行ったことはあるのですが、ライブでの動員実績のあるアーティストさんでなくても、番組の単独企画で5000人や1万人を集客できると分かりました」と、イベントの変化について述べている。さらに、石井によれば、「以前は、番組単体イベントでも、集客力のあるアーティストなどをゲストに呼んでイベントを成立させようという発想だったのですが、今、『ANN』のイベントは、番組ゆかりの人だけで構成するという、番組リスナーに寄せた作りが主流です」とイベントの構成について述べている。それに、石井は「大会場なので、せっかくなら普段できないことを大々的にやろうと考えてしまうのですが、それをやってもあまり喜んでもらえない。そういうのは、他のイベントで見られるからいらないと(笑)。普段のラジオ番組に、エンタテインメント要素を加えて、より濃くしたほうが喜んでいただけるんです。イベントグッズの制作も考え方は同じですね。22年10月29日の佐久間(宣行)さんのイベントでは、『チュロス型ペンライト』を販売したんですが、これは21年11月のイベントで盛り上がった『チュロス上げゲーム』をグッズにしたんです。番組を知らないと、一体何なんだっていう話ですよね(笑)」と、イベントグッズについて述べた上で、「昔から番組作りの基本として、『内輪に寄りすぎるな』と言われてきましたが、今のラジオでは内輪を大事することが重要ではないかと思っています。放送やイベントを通じて濃いファンになっていただければと取り組んでいます」とも述べている。また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「金もうけというベクトルではなく、リスナーへのファンサービスというのが原点です。SNSで盛りあがったので、一堂に会してみんなで聴くみたいな。要はラジオのオフ会。マネタイズとかグッズを売ろうみたいのが、先にあったわけではありません。ただ、オードリーさんは日本武道館で、三四郎は国際フォーラムのホールAでやりました。特別なことをやるのではなく、ラジオのリスナーしかわからない企画で、ラジオを聴いてない人が来ても意味がないんです」と述べている。
2022年10月3日1時から3時(10月2日深夜)に、オールナイトニッポン初代パーソナリティを務めた斉藤安弘がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン55周年記念特別番組『1967年10月2日 オールナイトニッポンが生まれた日』」が生放送された。また、ニッポン放送出身のフリーアナウンサーの垣花正もパーソナリティに加わる。この番組では、パーソナリティのアンコーこと斉藤安弘が進行役を務め、1967年10月2日月曜日の夜はどんなものだったかを関係者の証言と音楽によって紐解くもの。さらに、ニッポン放送の有楽町社屋の地下4階から見つかった、2000年に収録されたニッポン放送の編成部長だった羽佐間重彰の30分間にわたって行われた「貴重なインタビュー」を紹介したり、テーマ曲である『ビター・スウィート・サンバ』の選定に関与した朝妻一郎のインタビューを送った。
2022年10月29日には『オールナイトニッポン55周年記念 佐久間宣行のオールナイトニッポン0 presents ドリームエンターテインメントライブ in 横浜アリーナ』が行われた。また、2022年10月30日には『オールナイトニッポン55周年記念 ナインティナインのオールナイトニッポン歌謡祭』が横浜アリーナで行われた。
2022年11月19日から2022年12月25日までオールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、ユナイテッドアローズが展開している「ビューティ&ユース ユナイテッドアローズ」とコラボレーションしたファッションアイテム7種の予約販売を行った。
2023年1月15日には、「オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポンXスペシャルライブ2023」が、横浜アリーナで行われた。
2023年1月24日11時30分から、QuizKnockが問題の制作を手掛ける歴代のオールナイトニッポンにまつわるオリジナル検定『全国統一オールナイトニッポン検定 supported by Galaxy』の受付を5万5千人限定で開始され、その受験期間は2023年2月13日11時30分から2月26日23時59分までとなった。
2023年2月10日から2月20日まで、大宮エリーデザインの「オールナイトニッポン55周年 オフィシャルロゴ」と、シリアルナンバーを刻んでいる「オールナイトニッポン55周年記念『オリジナル純金1gカード』」をニッポン放送の「ニッポン放送ただいま営業中」というツイッターアカウントをフォローして、プレゼント企画の応募ツイートをリツイートする方法で応募した方の中から抽選で55名にプレゼントするキャンペーンを行った。
2023年2月10日から2月28日まで有楽町マルイの8階イベントスペースで、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して『オールナイトニッポンミュージアム』が期間限定で開設された。
2023年2月17日18時から20日1時(19日深夜)までの55時間に『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』という大型特番が放送された。これは、2008年2月にオールナイトニッポン放送開始40周年を記念して『俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル』を、2013年2月にはオールナイトニッポン放送開始45周年を記念して『たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル』をそれぞれ放送しており、今回、10年ぶりにこのような大型特番を放送することになったもの。なお、この大型特番のエグゼクティブプロデューサーに秋元康が就くことになった。これについて、ニッポン放送社長の檜原麻希は2022年9月14日に行われた定例会見の中で、「高校2年生の時にニッポン放送に放送原稿を送ってきて、そこからニッポン放送で作家デビューされた。その縁で今回のキャスティングになった」と述べている。また、オールナイトニッポンが55年にわたってリスナーから愛されていることに関し、檜原は「長寿番組というものは歴史の中でアッブダウンがあり、もう次に行ったほうがいいんじゃないかという意見もその都度あるが、それを超えて継承されてきたのは、支持するリスナーが必ずいたから」と感謝の意を述べた上で「ラジコ以降、若者がたくさん戻ってきてくれている」とした上で「この先100年続くように、しっかり継承していきたい」と抱負を述べている。また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「40周年も45周年も特番をやりましたが、ニッポン放送界わいだけで盛りあがった感じでした。55周年特番の出演者を発表したら、SNSですさまじく拡散されて。10年前にはなかったことだと思います。」と述べている。
冨山は、「プロデューサーとして大切にしていること」について問われ「(2023年)現在はすべてのメディアがスマホの奪い合いですよね。インスタがあってユーチューブ、ライン、ツイッター、ティクトックがあって。他局がライバルではなく、スマホの中にあるアプリが全部ライバル。聴きに来てもらう間口は増えましたが、聴いてもらうのが難しい時代だなって思います。だから、リアルタイムで同じ時間を過ごそうとしてくるリスナーは、めちゃ大事に思っています。そのリスナーがどう思うかとか、喜んでくれるかな、みたいなところがベースです。」と答えた。
2023年3月4日と5日に日本武道館において、オールナイトニッポン55周年記念公演として、『東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない』が行われた。
2023年3月から4月の間に、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、ヨーロッパ企画の上田誠の新作として『たぶんこれ銀河鉄道の夜』という舞台を東京・愛知・高知・大阪で上演した。また、2023年1月27日には、公演の完売が多数になるという好評を受けて、東京での追加公演と共に、おまけとして、ゲストを招いてのトークショーを行うことを発表した。
2022年3月から4月の間にオールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、かつて、オールナイトニッポン放送開始50周年のスペシャルラジオドラマとして放送された『明るい夜に出かけて』が舞台として上演された。
2023年9月11日から9月16日にかけて、お笑い芸人がパーソナリティを務める『オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク2023』が行われた。
2023年9月11日
2023年9月12日
2023年9月13日
2023年9月14日
2023年9月15日
2023年9月16日
2023年10月14日・15日には、多数の続編制作の待望の声を受けて『オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』の続編・『あの夜であえたら』を上演した。前作に続いて、脚本・演出を小御門優一郎、プロデュースを石井玄、そして監修を佐久間宣行がそれぞれ務めた。また、前作に続いて、メインキャストの追加のオーディションを行った。また、この公演の主題歌はAdoが歌う『オールナイトレディオ』で、この楽曲の作詞・作曲・編曲をポカロPのMitchie Mが手掛けている。この起用については、「綾川千歳(演:井上音生)が大ファンであり、綾川たっての希望によるもの」だという。この劇中のラジオ番組・『綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)』が、実際に2023年8月14日の3時から5時(13日深夜)に生放送された。2023年8月14日には、オールナイトニッポンの現役パーソナリティとして、2023年10月14日にオードリーとあのが、10月15日に小宮浩信(三四郎)と松田好花(日向坂46)がそれぞれ映像という形で出演した。また、この舞台の監修をしている佐久間宣行が10月14日・15日の両日に特別に出演する。2023年10月2日の3時から5時(1日深夜)には、『綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)』が実際に生放送される。また、実際にゲストとして、藤尾涼太(演:千葉雄大)が出演することも発表されると共に、スタジオブースの中で、構成作家の神田龍二(演:入江甚儀)がその放送の様子を見守るという設定で実際の生放送が進行していった。千穐楽の10月15日には、その公演の終了後、会場限定でアフタートークを開催し、公演直後にトークを行った。このアフタートークでは、髙橋ひかる・千葉雄大・工藤遥・相田周二(三四郎)に加えて、脚本・演出の小御門優一郎・監修・特別出演の佐久間宣行が登壇した。
2024年2月18日には、オールナイトニッポン史上初めて東京ドームでの番組イベントとして『オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム』が開催される。また、星野源が、このイベントのテーマソングを手掛けることが2023年9月3日未明(2日深夜)に明らかにされ、2023年12月3日未明(2日深夜)に放送されたオードリーのオールナイトニッポンにて、星野源が手掛けた『おともだち』が、初解禁された。また、このイベントは全国の47都道府県で合わせて200館の映画館、並びにLINE CUBE SHIBUYAでライブビューイングが実施される。
これについて、ニッポン放送のエンターテインメント開発部の石井玄によれば、2019年に行われた「オードリーのオールナイトニッポン10周年全国ツアー in 日本武道館」というライブにおいて、観客1万2000人とライブビューイング1万人の合わせて2万2000人を動員して、大成功を収めたことのその興奮の余波によって、「次は東京ドームじゃないの?(笑)」という軽いノリから始まったという。その後、「15周年記念のときはどこでやろうか」「やっぱり東京ドームでできないかな」という話になって、いろんな人に「東京ドームの予算ってどんな感じですか?」と聞いたら、東京ドームなどの大きな会場は、基本的に2日間のイベントで開催しないと予算が成立しないことが判明したという。しかしながら、機材や人員を他のイベントと共有することによって、1日のイベントでも予算が成立する見込みが立ったため、何とか開催できる形になったという。
日曜深夜にも1984年以前に『オールナイトニッポン電話リクエスト』という、糸居五郎や木藤隆雄、はたえ金次郎(波多江孝文)などが担当した電話リクエスト番組があった。歴代担当者は以下の通り。
1984年4月以降はオールナイトニッポンを冠しない、女性アーティストやアイドルが担当する番組となった(最初の番組は『タッチ・ミー・EPO』)。
その後、オールナイトニッポン30年を迎えた1997年10月に日曜日の電話リクエストが復活。以降、LF+Rの期間を含め以下のような番組を行っていた。
他にオールナイトニッポンを冠した番組として、2008年4月 - 2009年3月には、『上原隆のオールナイトニッポン サポーターズ』(25:00 - 25:30)が、2009年10月11日 - 2010年9月12日には、『オールナイトニッポンサンデー』が放送されている。
その後、単発で放送された 『ROLLYと谷山浩子のオールナイトニッポンR』(2012年10月14日、27:00 - 29:00)以外は日曜日のオールナイトニッポンは放送されていなかったが、2013年4月改編から2018年10月改編にかけて『中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ』が放送された。日曜のオールナイトニッポンレギュラー枠では、2003年3月に『中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER!』と『飯島愛の@llnightnippon Sunday.com』が終わって以来、10年ぶりとなる。また『中島みゆきの月イチ』は、一部の局ではあるがネットされており、サンデースペシャルが放送される時間帯はほとんどの局では他番組の遅れネットやプロダクション制作の番組の放送、あるいはメンテナンスに充てることがほとんどのため、日曜日の枠が全国ネット(一部)がなされるのは初めてのこととなった。
2019年4月からは月に一度、25:30 - 27:00に『WANIMAのオールナイトニッポン 〜にちようび〜』 を、27:00 - 29:00に『高嶋ひでたけのオールナイトニッポン月イチ』 を放送開始した。WANIMAは土曜の月一放送からのスライドとなり、高嶋は1972年以来、47年ぶりにオールナイトニッポンに復帰した。その後、2020年2月19日の放送分をもって『WANIMAのオールナイトニッポン 〜にちようび〜』が終了し、2020年9月現在は『高嶋ひでたけのオールナイトニッポン月イチ』が放送されているほか、前述の『綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)』も日曜深夜にあたるこの時間帯に放送されている。。
テーマ曲として採用された経緯については諸説ある。
CM前とCM明けのジングルを数々のアーティストが手がけており、放送開始から40周年・45周年・50周年・55周年を記念した特別番組・特別企画においてはこれらのジングルが様々使用された(1990年代後半のものなど、使用されなかったジングルも多い)。現在の通常放送でも、ディレクターの意向により現在使用されていないジングルを放送する場合もある。下記のものは22時・23時台の『SUPER!!』から『MUSIC10』を除く番組で流れた共通ジングル。CM前にこちらを流し、CM明けにそれぞれの番組のジングルを流すパターンもある。ウッチャンナンチャンや松任谷由実など一部パーソナリティは「オールナイトニッポン」と歌う部分の前に「〇〇の!」とコールする音声を入れていた(それで「〇〇のオールナイトニッポン」となる仕組み)。
現在、『オールナイトニッポン(1部)』は全国36局ネットであり、放送対象地域上では全ての都道府県で聴取可能な番組である。地方でのネット局は、主にニッポン放送がキー局を務めている全国ラジオネットワーク(NRN)の加盟系列局が多いが、3部制となった1999年のLF+R時代以降、時間帯によってネット局が変わるなど状況が複雑化した。2019年10月現在、日本の民間AM局のうち、ニッポン放送のエリア以外で『オールナイトニッポン』シリーズを一切放送していないのは岐阜放送(ぎふチャン)、MBSラジオ、琉球放送(RBCiラジオ)の3局のみとなっている。
ネット局で年末年始特番が行われる場合があるほか、地元のプロ野球チームが優勝した日は優勝記念特別番組放送が編成され、いずれも休止となる場合がある。一例として、
などが挙げられる。
愛知・岐阜・三重県では1部枠をJRN単独系列のCBCラジオ(以下「CBC」)で放送している関係から、CBCはニッポン放送の音声を東京都千代田区九段のCBC東京支社を経由してネットしている(伝送にはNTTコミュニケーションズの帯域保証のIP回線を使用)。これは、ANNの開始当初に放送地域の拡大を試み、NRN系列の東海ラジオに放送を依頼したが、自社制作の人気番組『ミッドナイト東海』(現在の『東海ラジオミッドナイトスペシャル』)を放送している関係からネットを断られ、CBCに依頼したためである。CBCは当時放送していた自社制作番組『CBCビップ・ヤング』が『ミッドナイト東海』の後塵を拝していたことに加え、社内部より深夜労働に対する反発があったことなどから放送が了承された。その後、東海ラジオは1999年に『サタデースペシャル』、1999年10月に22時枠、2021年に27時枠(後述)をそれぞれネット開始したため、中京広域圏では番組シリーズが局を超越して放送される事態となった。
CBCは1部のみの放送、かつ東海ラジオは平日27・28時台に『日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲』(文化放送)をネットしていたため、中京広域圏では27時以降の枠が放送されていなかったが、『走れ!歌謡曲』の2021年3月での終了を契機に、同年4月から平日27時以降の枠をネット開始した。
京阪神地区で本番組をネット受けしていたのは、長らくラジオ大阪(以下、OBC)とKBS京都(以下、KBS)であったが、2001年4月から3年にわたり独立局のAM KOBE(以下、AMK、現在のCRK・ラジオ関西)でも『SUPER!』→『いいネ!』がネットされた。それまでは自社制作の深夜ワイド番組『神戸アコースティックストーリー』を放送していたが、ニッポン放送からの番販購入の形でこの番組を同時ネット受けすることになった。また、2007年4月からは変則的に『エバーグリーン』の飛び乗りネットを開始し、10月以降は27時からのフルネットに枠拡大、その後継枠である『くり万太郎のオールナイトニッポンR』『オールナイトニッポン0(ZERO)』もネットを継続している。CRKは全国のラジオ局の中で25時 - 28時台をTBS『JUNK』→LF『オールナイトニッポン0(ZERO)』の順で編成している唯一の局である。
2009年7月、京阪神地区で長年22時台に独自の夜ワイド番組『ABCミュージックパラダイス』を制作していた朝日放送(以下、ABC、現在の朝日放送ラジオ)は、月曜 - 木曜の自社制作を打ち切り、ニッポン放送の『銀河に吠えろ!宇宙GメンTAKUYA』をネットすることになった。この枠は2009年11月に『オールナイトニッポンGOLD』に移行したため、在阪局ではOBCに次いで、ABCでも本番組シリーズがネットされることになった。ただし、当該時間帯におけるABCのニッポン放送からのネット受け開始を受けて、CRKとKBSは『TAKUYA』の途中の2009年10月改編で当該時間帯のネット受けを撤退し、KBSは金曜を除いて文化放送の裏番組『レコメン!』を全編ネット受けに切り替え、CRKは当該時間帯の自社制作を再開 している。また、2010年4月からは『サタデースペシャル』枠の『魂のラジオ』もABCラジオでネット開始され、その後継枠である『大倉くんと高橋くん』も引き続きネットを継続している。
2013年10月からは『中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ』を、大阪のFM局FM COCOLO がネットすることとなり、本番組の歴史上、初めてFM局でネットされることとなった。さらに2014年4月改編からは『オールナイトニッポンGOLD』のABCのネット終了を受ける形で、FM COCOLOでネットすることとなった(金曜を除く。2015年10月からの『オールナイトニッポン MUSIC10』も引き続きネット)。
この結果、2022年10月編成時点で京阪神地区においては、『MUSIC10』はFM COCOLO、1部はOBCとKBS、『0(ZERO)』はCRKとKBS、『Premium』はKBS、『サタデースペシャル』はABCとKBSというように、番組ごとにネット局が変わる事態となった。
KBSは1部を1978年4月に開始しているが、ネット開始する以前(1976年7月当時)は『日本列島ズバリリクエスト』(23:00 - 26:00)と『ミュージック・オン・ステージ』(26:00 - 29:00 木曜 - 土曜は別番組の関係で時差開始)を放送していた。
土曜 23:30 - 25:00の『サタデースペシャル』枠(『魂のラジオ』→『大倉くんと高橋くん』)はもともとの『ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!』がオールナイトニッポン枠でなかったことも影響しさらにネット局事情が複雑化している。
北海道では、以前は25:00 - 29:00枠と同様STVラジオがネットしていたが、2002年3月に打ち切ったため、1年半のブランクを置いて、2003年10月より競合局の北海道放送(HBC)でネットしている。福岡県でも同様に、22:00 - 23:00枠、25:00 - 29:00枠(月イチも含む)は全て九州朝日放送(KBC)で流れているにもかかわらず、『サタデースペシャル』枠だけはRKB毎日放送がネットするという現象が起きている。特に、RKBラジオはNRNには加盟していないため、CBC同様特殊なケースとなっている。東海地区では、『ジャンベルジャン』枠を引き継いだ東海ラジオが『魂のラジオ』放送開始時からネット、2010年4月からは上記の通りABCでもネットを開始しているなど、特に都市圏における『サタデースペシャル』枠は1部のネット局とは異なっている状況である。
12月25日 1:00(新聞上は12月24日の放送欄)からの本番組は『オールナイトニッポン ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』として放送される(ラジオ・チャリティー・ミュージックソンの一環)。以前は、ニッポン放送は関東ローカル独自の放送のため放送されず、裏送りのみされたが、2007年度以降は、ニッポン放送発の番組をミュージックソン非参加局を含む各ネット局がネットしている。一方、独自で『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の企画番組を放送する中国放送などのネット局は、この日に限りネットは返上し、1部の協賛社は企画番組のスポンサーとしてCMのみネットする代替対応を取る。
ワールド・ベースボール・クラシックやFIFAワールドカップなど、日本時間の深夜に日本あるいは海外で行なわれる野球・サッカー中継をニッポン放送が中継・ネットする当日に、本番組の放送と重なる場合は、本番組を放送せず、裏送りのみを行なう。その際、放送される試合によっては放送権の関係でradikoでの放送はできないため、フィラー音楽とその間にニッポン放送のアナウンサーによる「放送権の都合によりradikoでの放送は行ないません。地上波でお聴きください」という説明が放送される。また、NRN系の多くの局も試合の中継を優先するため、本番組は放送されない(場合によっては飛び乗り)。そのため、場合によってはネット受けがラジオ大阪とCBCの2局のみの時もある(中京広域圏では東海ラジオ、関西広域圏はABCでサッカー中継をネットすることが多いため)。
放送時間以前に自然災害(地震・台風・大雨・風水害)が発生した場合でも、基本的には一部の例外を除き本番組のシリーズを通常通り放送することが多いが、その自然災害の被災地ではその日の放送は返上という形になる場合もある(例として、2016年の熊本地震時においての熊本をはじめとする九州の一部地域が該当)。 | [
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"text": "『オールナイトニッポン』(英: All Night-NIPPON)は、1967年10月2日から日本のラジオ放送局であるニッポン放送をキーステーションに全国ネットで放送されているラジオの深夜番組である。通称は「オールナイト」「ANN」。ここでは現在の放送枠である25:00 - 27:00(1:00 - 3:00)の内容のほか、主に22:00 - 29:00(5:00)に放送されている「オールナイトニッポン」をタイトル内に含む番組全体の歴史などについても記述する。詳細については枠・番組の記事をそれぞれ参照のこと。",
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"text": "1967年10月2日に開始したラジオの長寿番組であり、2019年10月時点、ニッポン放送制作番組の中で、放送期間は『テレフォン人生相談』(1965年1月30日開始)に次ぐ第2位となっている。",
"title": "概要"
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"text": "一連のオールナイトニッポンシリーズは生放送をコンセプトとしている。基本的には有楽町(有楽町の本社ビルを建て替える1997年4月から2004年9月まではお台場・FCGビル)のニッポン放送本社ビルからの生放送だが、スケジュールの関係が絡む場合、ネットしている地方局のスタジオや大阪市にあるブリーゼタワーのニッポン放送関西支社に常設されたスタジオから、さらにはラジオパーソナリティが泊まる地方のホテルなどを借りて機材を置いたり、番組の企画も重ねて屋外や海外から中継したりといった形で生放送する場合もある。パーソナリティの意向や、スケジュールなどの関係で生放送ができない場合などの理由で、録音となる場合があるが、録音の場合であってもほとんどは「同時パッケージ」の疑似生放送となる。",
"title": "概要"
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"text": "1999年より「LF+R」時代の『SUPER!』『.com』『R』『サタデースペシャル』や、「LF+R」後の『いいネ!』『サンデー』『エバーグリーン』『GOLD』『0(ZERO)』『Premium』『X』など「オールナイトニッポン」ブランドで多くの番組が放送されており、本来の25 - 29時枠の他、「LF+R」導入後は22 - 24時枠でも断続的に「オールナイトニッポン」の名を冠す番組が放送されている。2021年4月以降は月-土曜日の夜ワイド番組が「オールナイトニッポン」シリーズとして統一されている。詳しくは「ニッポン放送の夜ワイドの変遷」を参照。",
"title": "概要"
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"text": "現在は、旧1部(25:00 - 27:00(1:00 - 3:00))を『オールナイトニッポン』、旧2部(27:00 - 29:00(3:00 - 5:00))を『オールナイトニッポン0(ZERO)』と称している。また番組名のタイトルは基本的に「〇〇(パーソナリティー名)のオールナイトニッポン」としている。",
"title": "概要"
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"text": "2022年6月からradikoにおいて、放送音源のデジタルデータが残っていた2012年以降の分が「ANNJAM」として定額聞き放題のサブスクリプションで配信されている(出演者や音楽の権利関係をクリアしたうえで誤解されかねない発言内容のチェック・編集が行われている)。",
"title": "概要"
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"text": "ネット詳細は下記参照",
"title": "放送時間"
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"text": "(2023年2月現在)",
"title": "現在のパーソナリティ"
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"text": "放送開始の背景として、1960年代半ばの不況と、1964年の東京オリンピックによるテレビの躍進により広告収入が激減し、ラジオ業界にとっては新しいリスナーの層と広告主(スポンサー)の開拓を迫られていた(ラジオ離れ#1960年代も参照)事がある。その状況に対し、ニッポン放送は1964年4月より「オーディエンス・セグメンテーション」編成を導入し編成方針を抜本的に見直していたが、その動きが深夜に波及したことにある。",
"title": "歴史"
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"text": "また、当時行われた深夜の聴取率調査において、ニッポン放送が、最下位になったことにより、深夜の時間帯のテコ入れを図ろうと企画されたものでもある。",
"title": "歴史"
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"text": "そこで、当時・ニッポン放送編成部長だった羽佐間重彰が制作したいと思ったのが、若者に向けた深夜の時間帯のワイド番組だった。そこで、当時の上司であるニッポン放送常務の石田達郎に相談を持ち掛けた。",
"title": "歴史"
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"text": "これについて、当時・ニッポン放送編成部長だった羽佐間重彰は「昭和三十四年の皇太子様のご成婚のとき、テレビの受像機の数が全国で二百万台になったんです。その反動でラジオの聴取者は激減しましたね。ウチ、すなわちニッポン放送が日本で初めて二十四時間放送をスタートさせた年ですけど、お客さんがいないんですよ。三十分の音楽番組で、リクエストのハガキが毎週わずかに五枚ぐらいしか来ないんだからね。われわれは危機感を持ったんです。」と述べている。",
"title": "歴史"
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"text": "また、羽佐間はオーディエンス・セグメンテーションについて「それでアメリカの例を見てみると、音楽だけ、ニュースだけ、スポーツだけを一日中放送している、細分化された小さなラジオ局が何十、何百とあることが分かった。英語で言うとステーション・セグメントって言うんです。そのことを、ラジオ局が少ない日本の場合に置き換えてみた。ニッポン放送では、時間帯によって対象とする聴取者を分けていこうと考えたわけです。午前中は主婦、昼間は働いている中小企業の人たち、夜は若者ですよ。オーディエンス・セグメンテーションっていうシステムなんです。」と説明した。",
"title": "歴史"
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"text": "放送が開始された1960年代後半は、いわゆる団塊の世代が大学生生活を送っていた時代であり、『オールナイトニッポン』はそのような大学生、また受験勉強に明け暮れている高校生・中学生にターゲットを絞り、それまでテレビやラジオで流れることはほとんどなかったビートルズやサイモン&ガーファンクル、ボブ・ディランなど海外のポピュラーミュージックからザ・フォーク・クルセダーズなど日本のフォークソングまで、若者世代の最先端を走る音楽をふんだんに流す編成とした。",
"title": "歴史"
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"text": "前身となる番組は、ニッポン放送にて1959年10月10日から放送していた『オールナイトジョッキー』(DJ:糸居五郎)となる。子会社の「株式会社深夜放送」 が制作していたこの番組は、糸居が選曲・ターンテーブルの操作といった通常はスタッフが行う作業を一人でこなすというディスクジョッキースタイルであり、それが局の省力化した番組を作れないかという思惑と合致していたことから、番組を発展させる形で『オールナイトニッポン』は放送を開始した。",
"title": "歴史"
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"text": "1965年8月に、文化放送が、土居まさるをDJとして始めた『真夜中のリクエストコーナー』が「深夜放送の原型」としてみていたのが亀淵昭信だったが、亀淵はのちのインタビューで「土居さんは今の放送では当たり前のように使われている擬音語や擬声語をふんだんに、しかも上手に使って、それまでのアナウンサーのテンポとは全く違う、まるで機関銃のような早口で若者たちに語りかけたのです。ラジオ放送という概念を覆したという意味で、新しい時代の到来を予感させました」と述べている。",
"title": "歴史"
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"text": "放送時間は、当初、午前0時スタートがいいのではないかという議論があったが、1967年の時点で午前0時台には既に多くのスポンサーが入っていたので、放送枠の改変が困難だったため、当初の構想より1時間遅くして、午前1時からのスタートと決定した。また、タイトルについては「オールナイトニッポン放送」という案も上がったが、全国ネット化を見据えているという理由で「放送」を取って『オールナイトニッポン』となった。また、羽佐間は「『オールナイトニッポン』という番組タイトルだけどね。ニッポン放送という名前を広く知ってもらうために、ニッポンと入れたんです」と説明した。さらに、羽佐間は、「『ニッポン放送』が日本テレビと混同されないよう、そしてTBSラジオ、文化放送よりも認知されるよう、とにかく『ニッポン』という言葉を浸透させたかった。」とした上で「朝の番組は『おはようニッポン』、午後は『歌謡曲ニッポン』など様々な番組名に『ニッポン』とつけていく中で、『オールナイトニッポン』という番組名が誕生した」とも説明している。",
"title": "歴史"
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"text": "こうして、企画の骨格が固まっていく中でTBSラジオが1967年8月1日未明(7月31日深夜)に『パックインミュージック』の放送を開始となり、日本て初めての深夜のワイド番組となった。それから、およそ2か月後の1967年10月2日深夜から放送開始。放送時間は月曜日 - 土曜日25:00 - 29:00(翌日未明1:00 - 5:00)。",
"title": "歴史"
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"text": "当初のDJ(「パーソナリティ」と呼ぶようになったのは1969年頃から)はニッポン放送アナウンサーの糸居五郎(月曜日)、斉藤安弘(火曜日)、高岡尞一郎(水曜日)、今仁哲夫(木曜日)、常木建男(金曜日)、高崎一郎(土曜日。アナウンサーではなかったが、プロデューサー兼DJとしてニッポン放送の番組に出演していた)。初回放送のDJは、前身番組『オールナイトジョッキー』のDJだった糸居が務めた。本番組で最初にかかった曲となる、初回の第1曲目はジェファーソン・エアプレインの「あなただけを」だった。このパーソナリティという呼び名について、羽佐間は「当時アナウンサーは無個性と言われていて、個性を出すためアメリカで使われていた『パーソナリティ』という言葉を採用した」と説明している。また、斉藤安弘は「ニッポン放送から、パーソナリティという言葉が始まったんですよ」とも述べている。",
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"text": "これについて、羽佐間は「なにしろ、深夜、受験勉強以外にたいした愉しみもなく、一人で孤独で起きている若者を相手にしようとする番組です。なのにスタジオで男と女がチャラチャラ喋っていたら、聴いているほうは、アタマに来ちゃうと思ったんです。」と一人の男性アナウンサーをこの番組のパーソナリティを据えた理由について述べている。また、初代パーソナリティのラインナップについて羽佐間は「日替わりのメンバーを決めるにあたっては、放送で個性が出やすいようにしたんです。放送上のキャラクターを最初から陰性と陽性に分けて選んだものでした。もちろん企画書にはそんなこと書きませんでしたけどね」とも述べている。つまりは、放送上のキャラクターとしては、今仁哲夫・斉藤安弘・高崎一郎が陽性で、高岡尞一郎・常木建男・糸居五郎が陰性ということになる。",
"title": "歴史"
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"text": "当時編成局長だった石田達郎や当時編成部長だった羽佐間重彰は、番組を立ち上げるに当たって、次のような4つの大原則を立てている。",
"title": "歴史"
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"text": "この4つの大原則について、亀淵昭信はのちのインタビューで「受験戦争と若者。深夜帯にはチャンスがあると思っていたでしょう。すべては石田イズムでもいうのでしょうか、石田常務と彼の右腕の羽佐間編成局長には、ラジオの将来的ビジョンがありました。それが深夜帯の番組開発に繋がっていくわけです。企画段階で、若者、特に中学生や高校生、浪人生、大学生を対象にすることが明確に打ち出されました。そして、若者は出演者の名前じゃない、DJもパーソナリティの知名度じゃないんだ、何を聞かせてくれるかなんだ、ということを肝に銘じだのです。“それなら、ウチの社員が使える”という感じで基本的な枠組みが決まって行きました。それが石田や羽佐間の掲げた4か条です」と述べている。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、羽佐間によれば、この『オールナイトニッポン』の人気が出てきて、それぞれのパーソナリティにスポットライトが当たりはじめると、いわゆる「大原則」をぎりぎりのところまで超えようとする「イタズラや抵抗」を始めてしまったという。これについて、羽佐間は「四時間、自分の思いつくままに何をやってもいいとは言ってありました。ですが、少しはルールを作っておかないと、アイツら、何をするかわからないでしょ」と述べている。また、亀渕によれば、初期のパーソナリティの今仁哲夫は、「エッチな話」を展開していたという。",
"title": "歴史"
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"text": "それに、2023年現在でオールナイトニッポンの中で現役最年長のパーソナリティを務める高嶋ひでたけ(2023年現在は80歳)は「ANNは一番早く始まった深夜放送だった。それで、他の局も深夜放送をやるようになっていった。僕が入社した頃は、アナウンサーって、そんなに活躍していなかったの。だけど、67年の10月に、後の社長で編成部長だった羽佐間重彰さんがANNを始める時に、結構暇してた局アナをDJ(後にパーソナリティー)に起用したんです。夜中の放送に独特の吸引力があって、リスナーからのはがきが殺到して一気にブームになったんです。早かったね」とも述べている。",
"title": "歴史"
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"text": "高嶋ひでたけは2023年現在、ニッポン放送のOBグループのLF会の会長を務めており「LF会でANNを始めたときの編成部長で、後に会長を務めた羽佐間さんをインタビューしたことがある。今は94歳になるけど、頭はシャキッとしている。『20代、30代の若い発想、若い力、とんでもない力を爆発させなきゃラジオに明日はないと思った。知恵とやる気と汗を流して、新しいラジオを始めた。新しいラジオ好きの若者も入ってきて、そういう力を伸ばすようにした』。そう話してくれました」と証言した。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "また、高嶋ひでたけは当時の編成局長だった石田達郎について「私が入社した頃のラジオは、テレビに人材を引き抜かれて『もうすぐつぶれるんじゃないか』みたいな危機感があったんです。石田さんは、次々にサテライトスタジオ、ANN、ナイター中継を仕掛けて『つぶれたとしても、最後につぶれる放送局になろう』と意欲的でした。そういった精神は今も変わらずにANNに生きている。食わず嫌いになることなく、自薦、他薦を問わず受け付けてポジションを与えてきた。思えば、オールナイトニッポンのテーマ曲の『ビター・スイート・サンバ』をかけて『君が踊り、僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる』って相も変わらずやってるのは僕だけになりましたね(笑い)」。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "また、亀淵昭信によれば「孤独な寂しがり屋の若い人々に、若者の広場をつくろう」というのが、オールナイトニッポンの番組開始当初のコンセプトだったという。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "具体的なコンセプトについて、ニッポン放送新入社員で広報部員だった中川公夫は、「基本は音楽番組の発想、何をしゃべるかについては自分で考える。リスナーからのハガキを使ってもいいし、自分の身辺で起こったことでもいい。困ったら曲をかければいいというイージーな部分をありましたね」と話している。番組としてもこれといったコーナーも設けられず、聴取者からのお便り紹介とパーソナリティ自ら選曲した音楽をひたすら流すというシンプルな番組であった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "そのような初期の番組におけるアイデンティティとして、番組の冒頭の「君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を。フレッシュな夜をリードする オールナイトニッポン」というフレーズがあげられる。このフレーズは1980年代まで笑福亭鶴光が大きくアレンジして使っていたほか、初代DJの斉藤安弘がパーソナリティを務める2003年 - 2009年にかけて放送された『オールナイトニッポンエバーグリーン』、全日空国際線の機内プログラム、SKY AUDIOの『オールナイトニッポンClassics』の中で聞くことができた。この口上は、当時の番組構成作家、山之井慎によるものである。",
"title": "歴史"
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"text": "番組開始当初、ニッポン放送の社内では「どうせ誰も聴いていない」と冷めた声が多く聞かれたが、そんな社内の声をよそに、先述の若者をターゲットとした番組は好評を博す。それを表すエピソードとして、1967年9月に解散コンサートを行ったアマチュアグループ・フォーク・クルセダーズが卒業記念に自主制作したアルバムの楽曲『帰ってきたヨッパライ』を、高崎一郎がラジオ関西の深夜番組で評判になったのを聞きつけ、1967年10月13日に、ラジオ関西の関係者から、この曲の原盤を手に入れて、1967年10月14日、すぐに、オールナイトニッポンでオンエアした所、リスナーからの反響が大きく、一晩のうちに同じ曲を何回かにわたって放送するほどとなり、それを切っ掛けに全国圏のブームとなり2か月で180万枚の売り上げを記録したことが挙げられる。ちなみに、この曲をTBSラジオのパックインミュージックでも放送しようと検討したものの、『パック』の提供スポンサーである日産自動車 の存在によって、放送することができなかったという。こういった昼間のラジオ番組では決してかけられないようなマイナーな曲や時に反体制的な曲、海外からの新しい音楽を含む深夜番組ならではの選曲が若者を刺激した。",
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"text": "高嶋ひでたけは「年齢的にいって一番詳しいのは初期の頃」とした上で「(あの当時は)局のアナウンサーやディレクターが担当していた。お金がかからないからね。朝の5時まで毎日4時間、真っ青になりながら喋っていたよ」と振り返り、「その後も、みんながオールナイトニッポンを磨いて、磨いて。本当にオールナイトニッポンは価値のある、磨き抜かれたラジオの財産になった」と話している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "なお、後に『〇〇のオールナイトニッポン』とパーソナリティ名が入った冠番組になるが、ニッポン放送アナウンサーがオールナイトニッポンのパーソナリティを務めていた時代は単に『オールナイトニッポン』というタイトルとしていた。",
"title": "歴史"
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"text": "こうして、リスナーからのハガキの数が、番組開始から3か月で何百通、何千通となり、放送開始から1年で1万通を超え、『オールナイトニッポン』自体が「若者の象徴」になっていった。",
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"paragraph_id": 34,
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"text": "そして、「年上のお兄さん」的存在だった気取らないアナウンサーパーソナリティ達の人柄に惹かれて、各パーソナリティ宛には毎週2万枚ものリクエストやお便りが届き、人知れずひっそりと始まった『オールナイトニッポン』は、1年もせず当時の若者層に絶大的な支持を受けるニッポン放送の看板番組に成長、TBS『パックインミュージック』・文化放送『セイ!ヤング』と並んで深夜放送そのものが『深夜の解放区』として一種の社会現象となるに至る。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "競合番組が乱立する中、『オールナイトニッポン』は何よりもリスナーとの対話を重視し、サブタイトルに「ビバヤング」(=若者バンザイ!)を採用。前述のオープニングのスタイルもサブタイトルを強調し「“ビバヤング”オールナイトニッポン、この番組は...」となる。また、1968年9月には会報「Viva young」も発行し、発行した5万部は常に完売(ラジオ番組に印刷物というメディアを持ち込んだのも、オールナイトニッポンが最初)。こうして、「ビバヤング」(=若者バンザイ!)は1960年代から1970年代にかけての『オールナイトニッポン』の合言葉となる。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "1969年、1月から木曜日担当に高嶋秀武が、10月から土曜日担当に亀渕昭信が参入する。特に、亀渕はアナウンサー出身ではなかったが、月曜未明(日曜深夜)に放送されていた「電話リクエスト」のDJで人気が出て、オールナイトニッポンに起用されることとなった。その亀淵はディレクター出身のパーソナリティとしてマイクの前に座って、それを逆手にスタジオの中を跳んだり走り回ったり、ある日の放送では歌手の沢田研二の自宅から実況中継を行い、トイレに潜入した時に水を流す音まで放送してしまうなど奇抜かつ斬新なDJスタイルをすることで聴取者から注目が集まり、一気に『オールナイトニッポン』の看板パーソナリティとなると共に、深夜放送に新しい息吹を送り込んだ。また、高嶋ひでたけは、パーソナリティの起用のきっかけについて「私は野球の実況アナウンサーだったんですよ。ナイターを終えて会社に帰ると深夜0時近い。家が神奈川の横須賀で、会社を出てANNを聞きながら帰った。そして、直訴して出たいといったんです。ちょうど先輩の“今仁の哲ちゃん”こと今仁哲夫アナウンサーが体調を悪くして代わりを探してたらしくて『ちょうどいい』って起用されたんです」と話している。",
"title": "歴史"
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"text": "さらに、高嶋ひでたけは「当時のANNはアナウンサーやディレクター、いろいろな人がDJを務めた。初代DJの一人の高崎一郎さんは、元々はプロデューサーでした。高崎さんの専属アルバイトが、人気DJだった亀渕昭信さん。早大生のバイトから、僕の1年前にLF(ニッポン放送)に入社して、制作ディレクターをやっていた。“カメちゃん”は、すごく一生懸命に仕事をする人で、ANNのDJに抜てきされてからも、しゃべりのつなぎを工夫したりしてた」と証言した上で、「カメちゃんはセンス抜群でね、哲っちゃんの歌も熱狂的に受けた。ビアフラ紛争の影響で食べるものがない、アフリカの国であるビアフラの子供たちの事も取り上げた。当時余っていた古米をビアフラに送ろうと、リスナーの若者たちに『外務大臣に“お米を送ろう”と手紙を書こう』と呼びかけて、実際に外務大臣に会ったりもしていた。その後、編成、局長となって社長にまでなるんだけど、本当にセンスがあった」とも述べている。",
"title": "歴史"
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"text": "1969年7月には、同じパーソナリティ仲間の斉藤安弘とともに「カメ&アンコー」としてCBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)からザ・フォーク・クルセダーズが別の名義で使っていたザ・ズートルビーの同名の曲である「水虫の唄」という曲のレコードを出し、20万枚を売り上げるスマッシュヒットとなった。この歌は、ベートーベンや、メンデルスゾーンまで取り込んでしまう自在な遊び心と反骨精神が「帰ってきたヨッパライ」に通じていた。",
"title": "歴史"
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"text": "1970年6月30日深夜(7月1日未明)より、全国ネットを開始。この日の 斉藤安弘のオールナイトニッポン では、「STVラジオ」「静岡放送」「ラジオ大阪」の3局をネット局として、協賛スポンサー各社のクレジット読み上げを聞くことができる。また、この日は全国ネット開始の記念放送として、当時の月曜から土曜までのパーソナリティが勢揃いした(火曜深夜・斉藤安弘の他、月曜・糸居五郎、水曜・高岡尞一郎、木曜・天井邦夫、金曜・今仁哲夫、土曜・亀渕昭信)。",
"title": "歴史"
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"text": "更に、1971年には今仁哲夫と天井邦夫(その後ニッポン放送副社長や顧問を歴任し、2009年12月3日死去)が日本全国を縦断してリスナーと交流するという画期的な企画「ビバ栗毛」も行われる。この企画は、もともと学生時代から車好きが高じた天井が、今仁と共に当時発売されたばかりのホンダ1300クーペ9に乗って全国各地でリスナーと握手をするというもので、いわば天井の公私混同である深夜放送ならではの企画だった。ちなみに、天井は大学時代に自動車部のキャプテンを務めていたという。斎藤安弘の記憶では、3か月で64万1780人のリスナーが2人と出会ったという。このクーペ9は、ホンダから提供されたもので、あっという間にリスナーからの書き込みによって、真っ黒になっていったとされる。これについて、高嶋ひでたけは「モータリゼーションの時代を先取りしていましたね。どこの地方に行っても若者たちが殺到して、全国に夜の放送をアピールした。」と証言した。高嶋ひでたけも「60年代のオールナイトニッポンの企画力はすごくて。VIVA YOUNG、“若者万歳”と付けたのもオールナイトニッポン」とした上で「ビバ栗毛」について「あれは好企画でしたね~。本当にいい企画でした」と話している。",
"title": "歴史"
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"text": "また、1971年に50歳を迎えた糸居五郎が1月17日13時30分 - 19日15時30分にかけて放送を続けるといった過酷な企画『50時間マラソンDJ』も行われ、無事完走している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "こうして、最初は関東ローカルであり、協賛スポンサーもニッポン放送サービス(現:ポニーキャニオン)一社だけだった番組も、夜間はラジオの電波が広範囲に届くことから関東のローカル番組であったにもかかわらず日本全国からはがきが届き、それを受けてネット局数が順次増加していき、複数の協賛スポンサーが付くようになった。この時代が『オールナイトニッポン』の第1次黄金期である。これについて、亀淵はのちのインタビューで「実際、開始1年経って番組に力がついてくると、日本を代表するような一流企業が続々協賛スポンサーになってくれました」と述べている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "深夜放送ブームは1970年代に入っても続いていたが、若者層の嗜好の変化や時代の変化(学生運動世代からシラケ世代への移行など)にあわせ、ニッポン放送も新たな放送スタイルを追求し始めることになる。そのため、1972年6月末をもって、亀渕昭信、今仁哲夫、糸居五郎を除くパーソナリティが降板する。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "1972年7月からの1年間は亀渕昭信が『ビバカメショー』と称して、毎日25:00 - 27:00を担当した(10月3週目までは月曜日担当の糸居五郎が継続していたため、月曜を除く毎日25:00 - 27:00。10月4週目から月曜を含む毎日25:00 - 27:00となった)。次いで毎日27:00 - 29:00までは最初は今仁哲夫が担当した『ビバテツショー』が、1973年1月からは池田健が担当する『ビバケンショー』が放送された。この時に初めて27時で番組を分割する2部制の概念が生まれる。",
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"paragraph_id": 45,
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"text": "この時代はオールナイトニッポンにとっての最初の停滞期となっており、亀渕は「僕一人で週6日番組を担当するのはとてもつらかった。番組は“敗戦処理”みたいな感じで始まったと思います。『オールナイトニッポン』だけじゃなくて、深夜放送全体が駄目になってきていたのね。露出過多っていうか、“晴れの舞台”に出てきてしまった。それじゃ深夜放送になってないんだよね。もう一度変えなきゃいけないと、作り手もしゃべり手も思ってはいたんだが、一度出来上がったものはなかなか変えにくい。ネット局も増えて全員がニッポン放送のアナウンサーというわけにもいかなくなって。でも局アナが基本でしたから、じゃあお前がやれって。形を変えるまでの踊り場みたいな感じかな。それまでは音楽担当の糸居さん、今仁さんみたいな面白いことをやる人の中間みたいな放送をやってたんだけど、『ビバカメショー』になってからはもっと音楽に徹しました。サイモン&ガーファンクルの詞を訳して特集したり、ビートルズの海賊版を流したり、僕自身は楽しかった。テーマの『ビタースイートサンバ』も代えたんだよ。デニス・コフィーというモータウンのファンクギタリストがいて、頼んで作ってもらったり(#テーマ曲参照)。残念ながらレーティング(聴取率)はあんまりよくなかった。でもそれで“よし”としました。とにかく次に大きくジャンプするためには一度縮こまって昔のイメージを壊し、まっさらにするのが僕のやること。今度は制作者としてまったく新しい『オールナイトニッポン』を作ろうと思ったんです」と、当時の苦悩を語っている。",
"title": "歴史"
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"text": "一方で1973年にディレクターになった中川も「転機といえば『ビバカメショー』『ビバテツショー』が始まった段階でステーションのアナウンサーがすっかりやめてしまったときでしょうね」と、転機だったことを明かす。さらに「その後にタレントが入るようになるわけで、番組自体が大きくなって、もっとビックな人でも入ってもらえるようなフィールドができたんです」と1973年のタレントパーソナリティ起用の本音を明かす。",
"title": "歴史"
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"text": "こうして、1973年から亀渕昭信は、それまでのパーソナリティから総合プロデューサー兼チーフディレクターに転身して、オールナイトニッポンの制作に取り組むことになる。パーソナリティの人選について、亀渕は「リスナーは番組名よりパーソナリティの名前を覚える」ために、「鮮度の高い人、面白い人を見つけようと考えました。」という。また、ジングルについても、亀渕は「番組の看板だから新しいのを作ろう。一クールずつ彩りを変えていこう」と考えた。",
"title": "歴史"
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"text": "これについては、文化放送の『セイ!ヤング』のパーソナリティである谷村新司(1972年10月-1978年3月まで担当、その期間の途中にばんばひろふみと共に担当。)が人気を博していたため、オールナイトニッポンが落ち目になっていたことも背景にあった。だからこそ、亀渕は「何とかしなきゃいけないと、柄にもなく頑張っちゃったんですよ。プロダクションに頼まず、自分で足繋ぐコンサートに通ったり、オーディションをやりました。」という。",
"title": "歴史"
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"text": "そして、1973年7月からはタレントや芸人・歌手が従来通り4時間にわたってパーソナリティを担当するという決定的な転機を迎える。このタレントパーソナリティ第1期の布陣は小林克也(月曜日)、泉谷しげる(火曜日)、あのねのね(水曜日)、覆面パーソナリティであるカルメン(金曜日)、岸部シロー(土曜日)である(木曜日は斉藤安弘が一旦復活した。また、カルメンはオールナイト史上初の女性パーソナリティである)。いわば、第二次『オールナイトニッポン』の始まりでもあり、現在のオールナイトニッポンの原型が完成した。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、岸部シローがわずか3か月で降板したのをはじめ、あのねのねを除く各パーソナリティは翌1974年夏までに全て降板し、その後約3年間はパーソナリティが根付かずに短期間で入れ替わる不安定な時代が続く。その原因として、体力的にも話力的にも4時間のロングラン放送に耐えられないという点があった事から、1974年7月からは27時を境にパーソナリティを入れ換える2部制が本格的に導入される。",
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"text": "2部制の導入でパーソナリティの数が足りなくなったことから、1970年代半ばにはタレントや歌手だけでなく一般オーディションの形(オールナイトニッポン主催・「全国DJコンテスト」)でも無名の新人発掘に力を注いでいる。また、番組をネットしていた地方ローカル局のアナウンサーなどにも一時期番組を持たせたこともあった(『飛び出せ!全国DJ諸君』グランプリの柏村武昭など)。一方、タレントパーソナリティ選考に当たっては基本的に番組スタッフが前もってオーディションをした上で採用の合否を決定していったのだが、あくまでラジオ番組をやっていけるだけの話力や実力があるのなら職種や音楽知識の有無に囚われることなくパーソナリティに採用するようになったため、野坂昭如や稲川淳二など本来の『オールナイトニッポン』の流れとは明らかに外れた異色のパーソナリティも登場している。この時点で番組当初のコンセプト(ニッポン放送アナウンサー及び関係者による音楽主体の若者向け4時間枠深夜番組)は失われた が、それでも「若者向け」というコンセプトと、主に歌手が番組を持ったことで「音楽番組」としての体裁はかろうじて保たれた格好となっている。",
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"text": "一方、一旦降板していたDJ・糸居五郎は1975年に金曜2部、さらに水曜を経て1977年10月に古巣である月曜(2部)で復活しており、音楽主体からトーク主体に変わった『オールナイトニッポン』において、唯一開始当初の雰囲気とスピリッツを醸し出していた。糸居五郎の月曜2部は糸居が1981年に定年退職するまで続いた。",
"title": "歴史"
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"text": "迷走状態が続いていた1976年にオールナイトニッポンのチーフディレクターになった岡崎正通によれば、そのときに羽佐間重彰がスタッフを集めて、「君らはとにかく新しいものを作れ。全部任せるから。やってダメだったら、どんどん変えろ。失敗を引きずるな」と話した上で「新人登用も恐れずやれ。パーソナリティが育てば番組も大きくなるんだ」と発言したという。その際に岡崎は「なるべく人口に膾炙していない人材を起用したいな。タレントバリューに負わないほうがいいな、と。世の中には、いろんな人がいます。音楽だけでなく、文学でも政治でも報道でも、未知の人を探し出して活躍してもらう。」とした上で、「番組作りにしても何でもありみたいな。僕の考え方は、きっとフリージャズから得たものが大きいんです。」という。",
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"text": "そして、1970年代中盤から1980年にかけて最初に頭角を現したのがあのねのねや笑福亭鶴光、タモリ、所ジョージ、つボイノリオなどの色物系・コミックソング歌手の担当番組であった。",
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"text": "特に笑福亭鶴光は全て大阪弁で番組を通すという特異性から当初は抗議のはがきが多数寄せられたが、「ミッドナイトストーリー」などのネタコーナー、下ネタを含めた話術の高さもあいまり次第に人気を集め、全盛期には番組に送られてくるはがきは毎週6万枚、ラジオ聴取占有率80%〜90%という看板パーソナリティに成長、他の曜日が2部制になった後も鶴光担当の土曜日は4時間の放送を継続した(一時期金曜も4時間放送にするが、1年半で元の2部制になる)。当時大人気のあのねのねは番組中、原田伸郎が当時せんだみつおが担当していた『セイ!ヤング』の生放送中に文化放送のスタジオに電話をかけ、清水國明も『セイ!ヤング』の生放送中のスタジオに乗り込み電話を通して「あのねのねのオールナイトニッポン」と番組宣伝、番組ジャックを敢行しファンの人気をさらに広めた。番組後半に一般のファンにスタジオを公開して「七不思議のコーナー」などいろんな企画を進行していく「あのねのね・ハッピースタジオ」も人気を博した。タモリは鶴光が同じ話題として取り上げる「なんちゃっておじさん論争」や「NHKつぎはぎニュース」などタモリのアングラなキャラクターを発揮した番組内容で話題となる。",
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"text": "さらに当時全盛であったフォークソングやニューミュージック系シンガーの番組に火がつき、武田鉄矢・南こうせつ・イルカ・山田パンダ・加藤和彦・自切俳人〔ジキルハイド〕(北山修)・桑田佳祐・長渕剛・松山千春・吉田拓郎などそうそうたる顔ぶれが入れ替わりながらパーソナリティを務めていった。これに加え、従来からの流れであるくり万太郎や上柳昌彦などのLFアナウンサーも番組を支え続けた。そして、中島みゆき(1979年- 月曜1部)やビートたけし(1981年- 木曜1部)が登場した1980年代初頭には第2期の黄金時代を迎えることになる。",
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"text": "また1977年以降には『HOUSE ハウス』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『1000年女王』などの映画劇場公開にあわせて、ラジオドラマと出演者やスタッフのトークによる4時間のスペシャルが放送された。のちに文化放送が注力するようになる、アニラジのはしりと言える。",
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"text": "現在のオールナイトニッポンの柱となっている「トーク主体」「コーナー主体」「ネタはがき主体」の番組構成は、この時代に確立したシステムであり、ハガキ職人が幅を利かせるようになったのもこの頃である。このようにオールナイトニッポンが番組内容やDJを大きく変えたことで番組全体に見切りをつけた聴取者もかなり多かったが、逆にそれまでとは違う「パーソナリティそのものの魅力」に惹かれた新規のリスナーを大量に獲得することになり、結果として番組名と放送時間帯、テーマソングだけはそのままに、番組を「作る人」も「聴く人」も、番組の「コンセプト」でさえも時代とともに移り変わっていくという流動的なスタイルが形成されていくことになる。",
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"paragraph_id": 59,
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"text": "このスタイルゆえに時代の変化に対応できなかった『パックインミュージック』『セイ!ヤング』のオリジナル放送が1980年代初めに打ち切られる中で『オールナイトニッポン』だけが時代の波にうまく乗りながら、深夜放送の代名詞として唯一生き残り続ける。1973年に第1期黄金期の人気パーソナリティから番組製作・編成部門に戻り、裏方として新時代の『オールナイトニッポン』を模索し続けた亀渕昭信の努力が実を結んだ格好となった。その亀淵は、「僕が番組のチーフプロデューサー時代に、タレント起用が始まった。でも、社員アナウンサー時代の成功と失敗があればこそ、さまざまなことを学ぶことができた」と述べている。また、高嶋ひでたけは「やがてアナウンサーの時代からフォークソングブームなどの波に乗って、DJという呼び名がパーソナリティーとなって、タモリさん、ビートたけしさんといったしゃべりの天才を引っ張ってきた。あと、笑福亭鶴光さんがやった土曜深夜のANNの功績も大きいですね」と述べている。",
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"text": "1980年代中盤以降、約10年間はライバルであるTBSラジオの深夜番組が定着せず迷走し、また文化放送も『ミスDJリクエストパレード』以降長らく深夜放送に力を入れなかったことから、「若者向け深夜放送=オールナイトニッポン」という図式が一番確立していた時代でもある。",
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"paragraph_id": 61,
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"text": "1985年に足掛け12年にわたった鶴光のオールナイトが終了し、その後もABブラザーズや圭修が土曜のお笑い枠を引き継いだが(ABブラザーズ時代の1986年4月より土曜も2部制に移行)、1988年からはニューミュージックの大御所・松任谷由実が土曜1部を担当し1999年までの長期にわたる活躍をすることになる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "1986年10月1日には20年目突入を記念して『ALL DOGETHER NOW(オール・ドゲザー・ナウ)』という特別番組が放送され、中島みゆき、とんねるず、小泉今日子、ビートたけし、サンプラザ中野、ABブラザーズの当時の1部パーソナリティ6組が一堂に会した(公式には1985年6月15日開催の国立霞ヶ丘競技場陸上競技場での「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」のスピンオフ企画とされ、DOGETHERは「TOGETHER」と「土下座」の掛け言葉とされる)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "1980年代半ばから1990年代初頭にかけてはバンドブームが沸き起こり、オールナイトのパーソナリティ人選にもその影響が次第に現れてくる。1部ではサンプラザ中野・デーモン小暮・大槻ケンヂ・木根尚登などが、2部では渡瀬マキ(LINDBERG)・寺田恵子(SHOW-YA)・AYAKO(PINK SAPPHIRE)・川村かおり・THE東南西北などが活躍し、ブームの一端を担うことになる。続く1990年代前半も電気グルーヴ、YUKI(JUDY AND MARY)、吉井和哉(THE YELLOW MONKEY)、大江千里、小沢健二とスチャダラパー、EAST END×YURIなどの有名どころから、コアなファンが多い加藤いづみや石川よしひろまで幅広い層のパーソナリティを輩出した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 64,
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"text": "お笑い系パーソナリティは1985年に火曜1部でとんねるずが登場、さらに1989年には金曜1部でウッチャンナンチャンが登場する。落語家の弟子であった伊集院光が水曜や金曜の2部で活躍し一気にラジオスターとしての頭角を見せたのもこの頃である。1980年代を駆け抜けたビートたけしは途中代役を立てながら1990年まで番組を継続したが、その後はたけし軍団の浅草キッドなども担当。1993年に松村邦洋が、そして1994年には、2014年9月までの長期に渡りパーソナリティを務めたナインティナインが登場する(2014年10月2日から2020年5月7日は岡村隆史が単独で担当し、2020年5月14日から第2期として放送開始となった)。",
"title": "歴史"
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"text": "また、この時代には1970年代の迷走期とは違った意味で、別業種パーソナリティを投入した時代でもある。トップアイドルだった小泉今日子が水曜1部に登場したのは1986年。その後も、女性アイドル担当番組は裕木奈江・穴井夕子など散発的に見受けられる様になった。他に、劇団『第三舞台』を主宰していた鴻上尚史、雑誌『週刊プレイボーイ』編集者の小峯隆生、漫画家さくらももこなど。極め付きは1992年に開催された『全日本パーソナリティ選手権』優勝者で素人であった浪人生松永並子&北原ゆきを水曜2部に起用したことである(前述の穴井夕子は、この2人が受験勉強のために休んだ間の6週間限定での登板であった)。後に芥川賞作家となった辻仁成も、この時代にECHOESのボーカル・「辻 仁成(つじ じんせい)」としてパーソナリティを務めている。福山雅治(1992年1月から1994年6月、同年11月から1998年3月、及び2000年4月から2015年3月まで担当)が、当時若手イケメン俳優・歌手というポジションで認知されていた彼の「素」を本番組で公に広く知らしめた。ただ、この頃になるとオーディションでパーソナリティを発掘し番組で育てていくことよりも、知名度ありきでパーソナリティに採用することが増えてきた。",
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"text": "1991年10月には、25年目突入を記念して、中島みゆき、タモリ、ビートたけし、笑福亭鶴光の各オールナイトニッポンが、一夜限りの復活放送を行った。また、1997年10月から1998年3月まで、番組放送開始30周年を記念して、過去のパーソナリティが担当する『オールナイトニッポンDX』が、19:00 - 21:00に放送されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 67,
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"text": "しかし、1990年代中頃になると、テレビの深夜番組の充実化やビデオデッキ、ゲーム機、パソコン、携帯電話の普及などによって、若年層を中心としたラジオ離れが顕著になり、深夜ラジオ全体の長期低落傾向が目に見えて現れて来る。さらに同じラジオ業界内でも1980年代末以降の民放FM局急増、『スーパーFMマガジン』(TOKYO FM)『FMナイトストリート』(JFN)など、民放FM局が深夜帯にAMラジオ的なネタ・トークを中心に据えた番組を制作するようになったことから聴取者全体のパイが分散し、一部の地方局でのCM収入の減少による制作費減少など、AMラジオの深夜放送に対する逆風は強くなっていった。1992年10月改編では「一新」と言われたほどそれまでにかつてなかったレベルのパーソナリティ入れ替えを行い(現状維持はウッチャンナンチャンと松任谷由実のみ、加藤いづみ、電気グルーヴ、福山雅治が2部から1部に昇格、2部は総入れ替え)、更にこの時に立てられた企画としてリスナー間コミュニケーションの強化を目的とした「オールナイトニッポンクラブ(仮)」の設置、新人パーソナリティ発掘のために半年ごとに開催する「ゴールデンベロー賞」の開催、番組ノベルティ販売や番組会報の発行などがあったが、結局これらのほとんどは頓挫した。そして番組に寄せられるはがきやFAXの数も激減し(1997年当時、ナインティナインのオールナイトニッポン宛てに送られてくるはがき・FAXの数はトータルで週3000枚程度であり、1960 - 1970年代の人気番組の7分の1程度にまで落ち込んでいた)、オールナイトニッポンだけでなく、AMラジオの若者向け深夜放送自体の将来に暗雲が垂れ込めていた。その様な中で、ニッポン放送はパソコンや携帯電話、メールなど新しいツールに目をつけ、それらのIT機器とAMラジオの関係を融合させるべく『オールナイトニッポン』を含めた夜帯の大改編を行うことになる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 68,
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"text": "1998年春の改編では、2部枠(27:00 - 29:00)がR(リラックスの略)がついた『オールナイトニッポンR』に改称。金曜深夜と土曜深夜を除き28:30終了と30分短縮された。この時期にはインターネット放送でのスタジオ同時生中継が試験的に行われ、この試みは後に「LFX488」に生かされた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1999年春の改編では、開始時間帯を大幅に前倒ししたうえで2部制から3部制になり、夜帯を「LF+R(Love & Friends + Radio)」と称した上で、22:00 - 24:00に今までの旧1部に近い形の『allnightnippon SUPER!』を開始、25:00 - 27:00をインターネットと連動させた『@llnightnippon.com』、27:00 - 29:00、ないし27:00 - 28:30を『allnightnippon-r』と改題したが、「LF+R」開始当初から様々な問題が発生した(LF+Rの項を参考のこと)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 70,
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"text": "2000年に土曜深夜の23:30 - 25:00の90分枠に『福山雅治のallnightnippon saturday special・魂のラジオ』(『ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!』の後継番組)を立ち上げ、1998年に降板していた福山雅治を再起用した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2003年春の改編をもって「LF+R」ブランドは終了し、22:00 - 24:00のSUPER枠は『オールナイトニッポンいいネ!』に改題されパーソナリティを一新。com枠である25:00 - 27:00は4年ぶりにタイトルが『オールナイトニッポン』に、『allnightnippon-r』も『オールナイトニッポンR』と1998年から1年間使用していたタイトルに戻った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "若者層を中心としたラジオ離れやテレビの終夜放送が進むなかで、ラジオ業界はかつて1960年代 - 1970年代にラジオを聴いていた団塊の世代など高年齢者を対象とした番組を多数制作するようになる。オールナイトニッポンもTBSラジオ『JUNK』との競争が激化し若者層聴取が先細りする中で、2003年秋の改編では深夜放送に参入したNHKの『ラジオ深夜便』の好調に影響を受け、若者向けであった『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜を打ち切り、代わって中高年層を強く意識した『オールナイトニッポンエバーグリーン』を放送開始、パーソナリティは初代DJの1人である斉藤安弘を再起用した。番組は6年続き、斉藤が2009年春改編にて定年退職で降板した後も、1970年代後半にオールナイトを担当したくり万太郎を起用し『くり万太郎のオールナイトニッポンR』が放送された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 73,
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"text": "また、2009年11月30日からは22時〜23時台の夜ワイド枠において『オールナイトニッポンGOLD』を開始。深夜枠に放送される本来のオールナイトニッポンよりはやや上の年齢層をターゲットとしたパーソナリティが起用されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 74,
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"text": "2006年7月には『オールナイトニッポン』の一部番組でポッドキャストを開始。詳細は「ニッポン放送 ポッドキャスティングステーション」を参照。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2007年10月1日、40周年を記念して週6日放送の生番組では最長であることから、ギネス・ワールド・レコーズに申請した。同日から、『オールナイトニッポンエバーグリーン』は、ニッポン放送では28:30(翌日早朝4:30)で打ち切られるようになった。",
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"paragraph_id": 76,
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"text": "一方、2008年1月29日に放送した特別番組『倖田來未のオールナイトニッポン』での倖田の発言が問題となる。番組は事前収録であり、チェック体制が機能しなかったとして、担当プロデューサーの謝罪(『ナインティナインのオールナイトニッポン』・2月8日放送)や制作担当社員のほぼ半数を入れ替える社内処分が行われた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 77,
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"text": "2007年からディレクターとしてオールナイトニッポンを支え、2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いた冨山雄一は、2000年代後半から2010年代の半ばまでの時期は「辛うじて番組を維持できていた」と述べるように、この時期のオールナイトニッポンは低迷期に入っていた。この時期はエンターテインメントの多様化に加え、若い人たちがラジオを聴かなくなったということが背景にある。さらに、オールナイトニッポン自体、2010年代の半ばには曜日によっては提供スポンサーが無かったりするなど、まさにつらい時期でもあった。さらに、別のインタビューで冨山は「インターネットの時代となり、ラジオ全体があんまり注目されなくなったと感じました。」とした上で、「一回り下の世代になると、ラジオの代わりにパソコンでニコニコ動画を観るのが流行り、新しい音楽もラジオではなくニコ動で知るというのが主流になったんです。」とも述べている。このように、2000年代から2010年代の半ばまで長期凋落傾向が続いていった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "さらに、冨山は「2カ月に一度の聴取率調査週間には、多額の宣伝費をかけて広告を打ったり、豪華ゲストを呼んだりと社内、業界内はお祭り騒ぎで、それなりに盛り上がってはいたんです。ところが、会社を一歩出るとラジオの話なんか誰もしていない。ANNも活気がなく、スポンサーは数えるほど。制作費が圧縮され、生放送の予算が組めない、といった状況でした」と振り返る。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 79,
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"text": "そうした中で、2010年にradikoというサービスが始まったが、冨山によると「最初は若い人の利用者数があんまり伸びなかったんです。パソコンがないと聴けなくてハードルが高かったから。でも、徐々にWi-Fi環境が整い、携帯もスマホが主流となり、radikoがアプリのひとつとなってからは利用者数が劇的に伸びました。」と述べた上で、「そこでANNを初めて聴いた、ラジオ自体を初めて聴いた、という人が増えたんです。」と述べた。さらに冨山は「ラジコに聞き逃し聴取ができるタイムフリー機能が実装された。SNSの利用者が増えて、ラジオの話題が拡散されるようになったことも大きかったですね」とも述べている。また、冨山は「肌感覚だと深夜の番組は95%はスマホで聴かれている感じです。もちろん、ネット局やタイムフリー、ポッドキャストのアーカイブ、違法にアップされたユーチューブを含めてですけど。ラジコはCMもそのままですので、スポンサーにとっては同じです。僕が入社(2007年)したころは、若い人はほぼラジオを持っていなかったので、スマホさえあればラジオ受信機を持っているのと同じ環境になったのが大きいですね。もちろん、朝とか時計代わりに聴いていただける時間帯もありますが。」とも述べている。さらに、冨山は「リアルタイムで聴かれた時代は、夜中の秘密話みたいで、聴いたら終わるものでした。今は基本的にタイムフリーだと1週間は聴き直せます。だから、あまり炎上しないように気にするとか。ただ、僕の感覚だとそれは当然で。昔はいろいろな発言も許されて、甘えてたぐらいな感覚です。」と振り返る。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "そして、2012年4月改編から『オールナイトニッポン0(ZERO)』の放送と、並びにNOTTVによるサイマル放送がそれぞれ開始された。この『オールナイトニッポン0(ZERO)』は2003年10月改編をもって『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜の放送枠が終了して以来、8年半ぶりに第2部の位置づけ的な番組の復活となった。この番組のパーソナリティオーディションが、プロ・アマを問わずYouTubeを活用した一般公募という形式で、2012年1月16日12時から2月5日23時59分までの応募期間を設けて実施され、締め切りまでに1609組の応募が集まり、その後、オールナイトニッポンのスタッフによって、トークの内容や再生回数、それに、YouTubeのコメント数を基準にした動画審査(1次審査)が行われた後、59組が2次審査に進出した。その59組は、2次審査のオールナイトニッポンのスタッフによる面接を受け、スタッフによる選考の結果、2012年3月21日に5組のパーソナリティが選出・発表された。選出されたのは、火曜未明(月曜深夜)が和田正人・五十嵐隼士(D-BOYS)、水曜未明(火曜深夜)が久保ミツロウ・能町みね子、木曜未明(水曜深夜)がSPYAIR(当時は5ピースバンドだった。)、金曜未明(木曜深夜)がHi-Hi(お笑いコンビ)、土曜未明(金曜深夜)が本村康祐と西岡隼基(当時・就活生)。特に、2012年3月の頃は、大学3年生で就活生だった本村康祐と西岡隼基は、このパーソナリティオーディションで唯一、一般人(素人)のパーソナリティとして選ばれた。これは、1992年に、オールナイトニッポン放送開始25周年を記念して行われた『全日本パーソナリティ選手権』というオーディションで選ばれ、当時は浪人生だった松永並子と北原ゆき以来、20年ぶりとなった。その本村康祐と西岡隼基は、2012年4月から2013年3月の1年間にわたり土曜日未明(金曜日深夜)の枠で起用された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "『オールナイトニッポン0(ZERO)』の企画立案者で初代チーフディレクターも務めた松岡敦司は「そもそもオールナイトニッポンという番組は、新しい才能をリスナーに紹介する場だったからです。「新しい才能を発掘していくのがオールナイトニッポンだ」という想いが私自身の中にあったのです」と語っていて、1990年代から2000年代にかけて見られた知名度ありきのパーソナリティを起用するという方針から、かつて、1970年代半ばに見られた新人パーソナリティの発掘・育成を図るという方針に転換している事を窺わせている。また、YouTubeを利用した投稿を用いたことについて松岡は「とにかく面白いことができる人であれば何人でもかまわない。とにかく気軽に応募して欲しいということ。これだけインターネットが普及している時代なのでやはり、動画投稿サイトを使うのが良いだろうという結論に達しました」とも語っている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いた冨山雄一は、第1部の起用について、「完成されているというか、良い状態にある旬の人を起用するという考え方」と述べている。対して、第2部は「伸びしろに期待できる若手を積極的に起用」するというようにパーソナリティの起用に幅を持たせているという。さらに冨山は、「今は、かつてのように『誰も聴いてないから好き勝手やっていいよ』というわけにはいきません。広告がしっかりついて、話題を発信できる。グッズ販売やイベント開催につなげることができて、局のデジタル戦略にも合致する人材を求めています。まずは特番で起用して反響を見ます。ギャンブル的に起用して『失敗したらしょうがない』という発想はもはや持ってません。ハードルは格段に上がっています」と、パーソナリティの起用の変化について述べている。それに、冨山は「売れっ子を引っ張るというよりは、順番を踏んでいます。まずは特番で関係性を作ってから。Creepy Nutsさんも4回ほど特番をやってからレギュラーです。テレビ東京の佐久間宣行さんもゲストに出ていただいた時がおもしろく、何度かの特番を経て、秋元康さんの強い推薦もあって今に至ってます。」と順番を踏んで、レギュラーパーソナリティの起用をしていることについて述べている。",
"title": "歴史"
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"text": "特に、2014年4月から2015年3月に放送された『ウーマンラッシュアワーのオールナイトニッポン0(ZERO)』の場合、27時から29時の放送時間帯にもかかわらず、有楽町にあるニッポン放送本社の出入り口には多くの女性ファンが出待ちする中で、NOTTVにチャンネルを合わせて、この番組を見ていたという。",
"title": "歴史"
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"text": "2013年2月22日 22:00 - 2月24日 22:00は『たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル』を放送。同番組は24日 9:00 - 12:00「東京マラソン2013」の生中継などを挟みながら45時間の長時間生放送(一部録音)となった。",
"title": "歴史"
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"text": "2013年4月の改編期には、NOTTVが2012年から始まった『オールナイトニッポン0(ZERO)』の映像配信に続いて、火曜日(久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン)と水曜日(ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン)のオールナイトニッポン1部でも映像付きの同時生放送が1年間にわたって行われた。また、2014年4月の改編期には、金曜日から水曜日に枠が移動となった「AKB48のオールナイトニッポン」をNOTTVで映像付きの同時生放送を行った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 86,
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"text": "2013年9月16日より21日までの6日間は、「『オールナイトニッポン』×YouTube エンタメウィーク 連動企画」と題して、史上初めて月曜から土曜日まで旧1部、2部の枠全て(土曜2部を除く)が動画配信された。",
"title": "歴史"
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"text": "2015年2月2日から2017年12月27日までニッポン放送と吉本興業が共同で企画制作するインターネット配信番組『オールナイトニッポンw』(月曜から金曜の19時から、10分から15分程度の動画を配信)がYouTubeを用いて配信された。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "2015年10月改編から、これまでの『オールナイトニッポンGOLD』の月曜から木曜の放送枠を引き継ぎ『オールナイトニッポン MUSIC10』の放送が始まった。この番組について、冨山は「『ラジオ深夜便』への導入番組と位置付けていて、40代以上の幅広い人が寝る前に聴きやすい番組を目指している」と述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 89,
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"text": "2016年6月末をもって、『オールナイトニッポン0(ZERO)』を同時放送していたNOTTVの放送が終了になったことに伴い、この『オールナイトニッポン0(ZERO)』の動画配信は2016年3月28日の放送分からLINE LIVEに受け継がれた。『AKB48のオールナイトニッポン』は、『オールナイトニッポン0(ZERO)』のLINE LIVE移行後も引き続き放送が続けられたが、NOTTV閉局当日の同年6月30日(6月29日深夜)をもって同時放送を終了し、その後の空白期間を経て、同年8月11日(10日深夜。当日は欅坂46がパーソナリティ。)からSHOWROOMでの映像配信に移行した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "冨山は大きな転機となったことについて問われ「振り返ると、2016年の星野源さん、2017年の菅田将暉さんのパーソナリティー就任だと思います。2人の起用で、新規の若い女性リスナーが劇的に増えました。ラジオの深夜放送って、パーソナリティーと男性のはがき職人の秘密基地、ふとんにくるまってコソコソ聴くといったイメージがありますよね。でも、若い女性が、昼間にタイムフリーで聴いてツイッターでつぶやく。で、ANNがSNSのトレンド入りする、といった現象が起き始めた。それまで、取材なんかほとんど受けたことがなかったけど、今や女性誌やファッション誌までさまざまなメディアが、ANNの特集を組んでくれる。」と述べている。さらに、冨山は「今までは1人で聴いていたのが、みんながSNSで感想を言い合う文化が生まれたのが大きいですね。それも、アプリ内で完結せず拡散する。ただ、星野さんは2008年から4回ほどクリエイターズナイトに出ていただいて、2015年に2回特番をやり、2016年からレギュラーを引き受けていただきました。」と述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "また、2016年度から、番組ごとにTwitterアカウントと、そのハッシュタグをそれぞれ設けた。これについて、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「もともとラジオは1人で楽しむのが主流でしたが、Twitter上でみんなで感想を言い合い、リアルタイムで共感し合う流れを生み出せました」と述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "2017年10月にオールナイトニッポンが放送開始50年を迎えることを記念した企画の一環として、「オールナイトニッポン50周年記念ロゴ・制作プロジェクト」が発足し、2016年11月10日から2016年12月15日23時59分までの期間を設け、2017年10月2日にオールナイトニッポンが放送開始して50周年を記念するロゴをプロ・アマ問わず一般公募という形でニッポン放送主催によって行い、その結果、応募総数が1081案となり、2017年2月4日に、最終選考結果を『ニッポン放送 オールナイトニッポン50周年 ALL LIVE NIPPON VOL.5』のステージにて発表すると同時に、オールナイトニッポンの放送開始50周年記念ロゴが正式に決定した。応募総数が1081案の中から、オールナイトニッポン50周年記念ロゴに選ばれたのは大分県に住むグラフィックデザイナーがデザインしたロゴで、「ヘッドフォンをつけて、ニヤニヤしながらこっそり聴いているリスナー」だと自らデザインした記念ロゴのイメージについて説明した。また、別のインタビューでは「自分がラジオを聴いていた思いを形にできないかって思って、リスナーさんが夜な夜なイヤホンを付けて、こっそり笑って聴いているっていう」イメージで制作したと説明した上で、「1人でニヤニヤ笑いながら、でも時間だけは共有できている。いろいろなパーソナリティのファンの方がいると思いますが、その中で、みんなで時間共有してるというのは、1つの繋がり、絆みたいなものですよね。そういうものを表現しました」というふうにこのロゴを制作した意図について説明している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "2017年1月14日からはオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』の復活版『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン.TV@J:COM』というJ:COM制作のテレビの「地元密着オトナトークバラエティ」番組として放送。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "また、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、2012年以来、5年ぶりに「新たなラジオパーソナリティ発掘」を目的にした、「オールナイトニッポン50周年・パーソナリティオーディション」をプロ・アマ問わず、行われた。応募方法は「LINE LIVE」を用いて、自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る。2017年1月11日から2月5日23時59分の期間で応募を受け付け、2月中旬に、映像をどのぐらい視聴したのかというその数に加え、LINE LIVEの機能の一つである評価した数を考慮したうえで、1次選考を行い、その結果を応募者に連絡し、2月下旬にオールナイトニッポン番組スタッフによる面接を行い、3月22日にこのオーディションに応募した693組の中から新パーソナリティとしてお笑いコンビのランパンプスが選ばれた。また、惜しくも合格できなかった応募した方の中から相席スタート・ランジャタイ・EMILY(HONEBONE)・高須克弥の4組が2017年9月までに『オールナイトニッポンR』のパーソナリティに起用された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "また、2017年3月22日には50周年記念キャッチコピーとして「Live & Fun」を制定した。これは、「Live」=「現在進行形で歴史を作り続けている、生の情報を常に発信している」、「Fun」=「オールナイトニッポンの原点、深夜の解放区、常に若者との絆を大切にするスピリッツ」という意味を込めた。前述のオールナイトニッポン50周年ロゴに「Live & Fun」というキャッチコピーを加えたロゴデザインを同じくオールナイトニッポン50周年ロゴを制作した大分県に住むグラフィックデザイナーが手掛けた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2017年4月28日に、第54回ギャラクシー賞(放送批評懇談会主催)の入賞作品が発表され、50年の歴史を刻んて来たオールナイトニッポンのパーソナリティとしては初めてとなる「DJパーソナリティ賞」を星野源が受賞した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "2017年6月3日・6月4日には『ALL NIGHT NIPPON 50th Anniversary ブリトニー・スピアーズ -JAPAN TOUR 2017-』と題して、2002年以来の来日となるブリトニー・スピアーズの東京公演を「オールナイトニッポン」という冠を付け、オールナイトニッポン放送開始50周年記念公演として行った。",
"title": "歴史"
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"text": "2017年6月からは『コラボレートニッポン』と題して、オールナイトニッポンでのレギュラーの有無を問わず、毎月一組のパーソナリティが1つの企業と組んでコラボレーションをする3分間のコーナーを開始。このコーナーは土曜日を除く平日の2時台に行われる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 99,
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"text": "2017年7月15日には『ありがとう!オールナイトニッポン50周年』と題して、5時から13時までのレギュラー番組において、「オールナイトニッポンにまつわる曲」を放送し、13時から17時まではパーソナリティに荘口彰久を迎え、「ありがとう!オールナイトニッポン50周年クロニクル」として放送。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 100,
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"text": "2017年7月31日からオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、ニッポン放送が運営しているWebメディア「allnightnippon.com」の新しいサービスとして『オールナイトニッポンi』の運営を始めた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "2017年8月7日-8月12日にはオールナイトニッポン50周年企画として、「Welcome Ariana!“One Love Manchester” with ALL NIGHT NIPPON」と題して、2017年5月22日にイギリス・マンチェスターのライブ会場で行われたアリアナ・グランデの公演でテロが発生したことを受けて行われているチャリティキャンペーン「One Love Manchester」に、放送開始から50年間にわたり、『音楽』と『若者』を大切にしてきた、オールナイトニッポンが、このキャンペーンに賛同した上で、月曜日から金曜日の『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』、土曜日の『オールナイトニッポンサタデースペシャル 大倉くんと高橋くん』『オードリーのオールナイトニッポン』において、メッセージを受け付け、その寄せられたメッセージを紹介。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "また、東京ガールズコレクションと放送開始50周年を迎えるオールナイトニッポンとのコラボレーションが実現し、2017年9月2日に開催の第25回東京ガールズコレクション2017AUTUMN/WINTERの中でオールナイトニッポンについてプロモーションを行った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "また、オールナイトニッポン50周年企画としてYahoo! JAPANの協力により「MY HOMETOWN」をテーマにしたリスナー参加のスマホムービーコンテストを春夏秋冬の4期(2017年10月から2018年9月まで)にわたって行った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "2017年10月から2018年3月のいわゆるナイターオフ期には、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、過去に起用されたオールナイトニッポン歴代パーソナリティを起用した『オールナイトニッポンPremium』を放送。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "2017年11月12日は、当番組のベースにしたテレビでの特別番組『<BSフジサンデープレミアム>『熱響の時 オールナイトニッポン50年の系譜』』(21:00 - 22:55。BSフジ)を放送。過去にパーソナリティを務めた上柳昌彦、久保ミツロウ、能町みね子、2017年現在現役の新内眞衣(乃木坂46)が出演した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "オールナイトニッポンが放送開始50周年を迎えるにあたって、2017年1月から2018年10月までの期間中、「50の企画」を行っている。オールナイトニッポンの50周年記念企画は番組初期のパーソナリティが社員アナウンサー・ディレクターがかかわっていたことから、ニッポン放送のすべての社員から募集をかけ、150の企画案の中から「50の企画」が選ばれた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "すでに、「星野源制作による50周年記念ジングル(後述)」「ALL LIVE NIPPON Vol.5」「リスナーの一般公募による50周年記念ロゴ制定」「50周年パーソナリティオーディション」「ブリトニー・スピアーズ JAPAN TOUR 2017」「開局記念日特番「ありがとう!オールナイトニッポン50周年クロニクル」」「Welcome Ariana! One Love Manchester with ANN」「東京ガールズコレクションにオールナイトニッポンのパーソナリティが出演」といった8つの企画を行っている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "その50周年記念企画の一つとして、スマートフォンで録音した30秒程度の「私とオールナイトニッポン」をテーマにした音声メッセージをメールで募り、その音声メッセージをCreepy Nuts作曲のBGMに乗せてスペシャルジングルとして放送する「〜あなたの声がオールナイトニッポンで流れる!〜「私とオールナイトニッポン」リスナージングル」を実施。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 109,
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"text": "また、2017年11月27日から2018年2月25日の3か月間で、リスナーの中からオールナイトニッポンを担当する放送作家を発掘する「50年に一度の天才を探せ!オールナイトニッポン放送作家オーディション」を行う。選考方法は、それぞれの番組の対象となっているコーナーで期間中に採用されたネタの数を集計して、毎週ランキングの発表を行い、最終的に、ランキングが上位に入った方とオールナイトニッポンの番組ディレクター面接を行い、何人かを絞り込んで、2018年4月から、2人がオールナイトニッポンの番組スタッフとして採用された。その2人は、6歳年上の妻を持つ主夫(2018年当時・29歳)とオードリーのオールナイトニッポンのヘビーリスナーで、脱サラして長崎から東京に移った男性(2018年当時・29歳)の2人で、いずれも元ハガキ職人である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "また、2017年に続いて次の時代を築くパーソナリティを一般公募して2018年4月からの『オールナイトニッポン0(ZERO)』のレギュラーパーソナリティに起用することになっている「〜次の50年を担うパーソナリティは誰だ?〜オールナイトニッポン “next50 オーディション”」が行われた。応募方法は「LINE LIVE」を用いて、「自分の残念な話」をテーマにした自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る。期間は2018年1月26日正午から、2018年2月11日23時59分までで、2月中旬に、1次審査を通過した方への連絡をニッポン放送から行い、2月下旬に、2次選考として、面接を行って、3月23日に合格者が四千頭身と、根本宗子と女優の長井短の2組が正式に発表され、2018年4月からの『オールナイトニッポン0(ZERO)』のレギュラーパーソナリティに起用された。また、ターリーターキーと相席スタートが2018年4月からの『オールナイトニッポン0(ZERO)』の土曜週替わり枠で起用された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "また、「オールナイトニッポン」をモチーフに家族を題材にした「鴻上尚史書き下ろしミニドラマ「オールナイトニッポン劇場」」という60秒ラジオドラマを2018年4月2日から12週にわたって放送。これは、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、鴻上尚史が「60秒の連続ミニドラマ」を執筆したもので、放送形式は全6話で、1話ごとに20回放送されることになっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "そのほか、すでに明らかになっているものとして、",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "といった企画が用意されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "2018年2月26日から3月2日の期間中、21時から21時50分の放送枠(関東ローカル、全国ではradikoプレミアムで聴取可能)で、笑福亭鶴光をパーソナリティに迎えて、「オールナイトニッポン50周年スペシャル〜今だから言えるアノ話」と題して、50年の歴史を誇るオールナイトニッポンが巻き起こした社会現象に加えて、当時の担当ディレクターが書いた「始末書」に至るまで、当時のパーソナリティと当時のスタッフの証言から紐解いていくものである。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 115,
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"text": "2018年2月19日から25日の1週間、首都圏のJRと東京メトロの駅で、オールナイトニッポン50周年の記念広告のポスターが貼られることになった。また、これは『#radikoでオールナイトニッポン』キャンペーンの一環として、このポスターを撮影して、ツイッターやインスタグラムで「#radikoでオールナイトニッポン」というハッシュタグを付けて投稿するか、あるいは、SNSの中で、この写真を見つけて、リツイートあるいはリポストすることによって、抽選でオールナイトニッポンとタワーレコードがコラボレーションしたクリアファイルと、radikoオリジナルのブルートゥースイヤフォンをセットにして、50人にプレゼントする企画がある。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "2018年3月4日に、日本武道館で「オールナイトニッポン50周年記念 あの素晴しい歌声をもう一度コンサート」がおこなわれた。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "2018年3月28日12時から2018年4月4日24時にかけて、放送開始50周年を迎えたオールナイトニッポンとメジャーリーグ通算50勝を達成した田中将大がコラボレーションした50着限定のスタジアムジャンパーが制作・販売されることになった。田中将大は年末年始に「田中将大のオールナイトニッポンNY」のパーソナリティを担当していて、その関わりが深いことからこの企画が実現。田中は「ニッポン放送では毎年、「田中将大のオールナイトニッポンNY」を放送させてもらっています。自分にとっては正月の風物詩のような存在になっていて、楽しみの1つにもなっています。今回、オールナイトニッポン50周年という事で、昨年達成した自分のメジャー50勝とかけて、コラボレーショングッズとしてスタジアムジャンパーを作らせて頂きました。このジャケットは野口強さんとHUMAN MADE®のNIGO®さんが手がけて下さったのですが、とてもカッコよい仕上がりとなっています。ボタンはHUMAN MADE®製で、リバーシブルにもなっており、シリアルナンバーは刺繍されていて、細部にもこだわっています。自分も普段から着こなしたいと思っています。是非このジャケットを着て、スタジアムに遊びに来てください!」と述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 118,
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"text": "2018年4月19日(18日深夜)1時から『菅田将暉のオールナイトニッポン』の中で、オールナイトニッポン50周年スペシャルラジオドラマとして2013年4月から2016年3月までレギュラーとして放送された『アルコ&ピースのオールナイトニッポン』のリスナーを主人公にした小説『明るい夜に出かけて』を、菅田将暉・上白石萌音・山下健二郎・花江夏樹の主要キャストの出演で放送。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "2018年4月24日に、ニッポン放送が「オールナイトニッポン50周年企画」の一環として、福岡県の鞍手町に新しく設けられる「くらてブロックチェーンビレッジ」の取り組みに協力することを発表した。",
"title": "歴史"
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"text": "2018年5月19日に行われた一般社団法人「放送人の会」主催の「放送人グランプリ2018」の授賞式において、「オールナイトニッポン50周年」が準グランプリを獲得した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 121,
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"text": "2018年8月27日から9月1日にかけて、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク』として、『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0(ZERO)』のパーソナリティを12組のお笑い芸人が担当した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 122,
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"text": "2018年9月28日13:00 - 17:20 には50周年企画の締めくくりとして『ありがとう50周年!垣花正と新内眞衣のオールナイトニッポンミュージックリクエスト』と題し、「『音楽』で『オールナイトニッポン』の50周年」を振り返るもので、「もう一度聴きたい!あの名場面」と「ミュージックリクエスト」、それに、歴代のパーソナリティに話を伺う「あなたとオールナイトニッポン」で番組は構成された。ゲストとして松村邦洋(13時台)、三四郎(14時台)、高嶋秀武(15時台)が出演した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "2018年10月1日から昨年のナイターオフに続いて『オールナイトニッポンPremium』が放送され、放送時間も月曜から金曜の18:00-20:30となり、2017年度と比べると、40分にわたって放送時間が拡大された。特に金曜日は、オールナイトニッポン50周年の歴史でジャニーズのユニットとしては初めてのパーソナリティとしてKis-My-Ft2を起用した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "2018年10月2日には、東京・千代田区の『帝国ホテル』にてオールナイトニッポン50周年の記念企画を支えた関係者が集まってオールナイトニッポン50周年感謝パーティー『オール感謝ニッポン』が行われた。このパーティーにはおよそ500人に及ぶオールナイトニッポンの歴代のパーソナリティと関係者が出席した。この中で、1974年から1985年までオールナイトニッポンを支えた笑福亭鶴光は「28歳から40歳まで人間として大事なときにANNに毒されまして、エロまっしぐら!」とスピーチを行った。また、1988年から1999年までの11年間とオールナイトニッポンの中でも女性パーソナリティの最長出演記録を持つ、松任谷由実は「ANNで人間性を磨かせてもらいました。これからも楽しく続けさせていただきたいです」と決意を新たにした。ビートたけしのオールナイトニッポンを手掛けた高田文夫は「『セイ!ヤング』50年、『パックインミュージック』50年、本当におめでとう!」と深夜放送の黄金時代を支えたオールナイトニッポンと人気を分け合った他局の番組タイトルを引き合いにスピーチを行った。また、オールナイトニッポン初期のパーソナリティ「カメ&アンコー」や、長渕剛のオールナイトニッポンに関わった秋元康もスピーチを行い、さらに、オードリーや三代目 J SOUL BROTHERSの山下健二郎もこのパーティーに駆け付けた。パーティーの最後にはわたなべちひろがジョン・レノンの「imagine」を弾き語りして、オールナイトニッポンの次の50年に向け、新たなスタートを切った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "オールナイトニッポン放送開始50周年記念期間(2017年1月-2018年9月末)の真っただ中だった2018年4月に、オールナイトニッポンのチーフディレクターとして石井玄が就いた。その時期に立てた目標が「ANNの裏番組のTBSラジオ『JUNK』に聴取率で勝つこと」だったという。石井は「ラジオを聴いてない人を取り込むのはもちろん、俳優、アーティスト、アイドル、お笑い芸人とパーソナリティの幅が広い“ANNの強み”を生かそうと考えました。」と述べている。しかし、他のディレクターからは「何でバカなことを言っているの?」や「勝てるわけないでしょう?」といった冷ややかな反応だったという。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "その為、毎週行われる会議において、ディレクターと話し合い、どうしたら良くなるのかを議論した。その結果、「毎週の番組の振り返り」「4月に番組のレジェメを書く」「SNSで積極的に告知を行う」「各番組の連動を図るためディレクター同士のコミュニケーションを促す」「裏番組である「JUNK」を研究し、良いところをマネする」といった策をそれぞれ実行に移した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "チーフディレクターの石井が当時心掛けたことは「効果があると思うことは信じてやる」「意味がないと思ったことはやらない」だったという。そして、「オールナイトニッポンが一番」といったおごりを捨てることがディレクターの意識付けの第一歩だったと石井は述べている。これは、50年続くオールナイトニッポンでも、歴代のパーソナリティやスタッフによって成り立っているだけであって、裏番組の「JUNK」に対して負けていることを認めて、いわば「挑戦者」であるということを他のディレクターに意識させた。そして、取り組み始めて、石井が気づいたことというのは「オールナイトニッポンのパーソナリティのパフォーマンスは高いこと」「構成作家は一流の人が揃っていること」というこの2つの要素によっていかに番組が面白くなるということだった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "2018年10月7日(6日深夜)から2021年3月7日(6日深夜)まで、毎月第1土曜日に『AKIのオールナイトニッポン0(ZERO)〜eスポーツSP〜』と題して、オールナイトニッポンの中で初めてeスポーツを取り扱う番組を放送した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "2019年2月1日に、『オールナイトニッポン』のリスナーでもあるイラストレーターの中村佑介が、『オールナイトニッポン』(火曜から日曜の1時から3時(月曜から土曜の深夜))のパーソナリティのオリジナルイラストを手掛けたことが明らかにされ、そのイラストがニッポン放送のタイムテーブル2019年2月号に掲載され、同時に、2月1日から2月28日までオリジナルイラストを描いたポスターがニッポン放送本社1階にて展示。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "2019年5月1日、『星野源のオールナイトニッポン』が、平成に替わる新しい元号「令和」の下での最初のオールナイトニッポンとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "2019年10月5日から2020年3月21日まで、土曜日の19時から21時までの放送枠に『オールナイトニッポンPremium』が編成され、パーソナリティには2018年度の金曜日のパーソナリティを務めたKis-My-Ft2がリスナーの復活要望に応えて、再び起用された。",
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"text": "2019年10月14日から10月19日の1週間にわたって、ニッポン放送開局65周年を記念して「音楽を大切にする1週間」として『オールナイトニッポン ミュージックウィーク』を展開。",
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"text": "2019年10月14日",
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"text": "2019年10月15日",
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"text": "2019年10月16日",
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"text": "2019年10月17日",
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"text": "2019年10月18日",
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"text": "2019年10月19日",
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"text": "2019年10月24日から2021年3月21日まで、オールナイトニッポンとSCRAPとの共同制作によるリアル脱出ゲーム『オールナイトニッポン 最大の危機からの脱出』というイベントが行われた。",
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"text": "また、2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いた冨山雄一は「僕が『オールナイトニッポン』のプロデューサーに就任してからは、『オールナイトニッポン』はすでに、聴取率とともにradikoの数値を判断基準にしています。radikoには「ライブ(生放送)」と「タイムフリー(聴き逃し)」、その合計である「トータル」という3つの数値があり、それを番組作りの上での評価軸にしています。」と述べている。また、石井は「パーソナリティのみなさんも交流に積極的で、これをきっかけにほかのANNも聞いてくれる人も増えてきました。今まではANNからANN0という縦のつながりだけでしたが、今はradikoのタイムフリー機能で1週間以内ならいつでも聴けるので、横のつながりが効果的になっています。生放送は“ながら聴き”をしたり、消し忘れで数字としてカウントされている人もいると思いますが、タイムフリーは『その番組を聴こう』という人の数字なので、評価基準にしやすいです。(オードリーの)若林さんが結婚を発表した回や、井口さんがゲストのaikoさんと『カブトムシ』を熱唱した回などは、特にタイムフリー再生が多かったですね」と述べている。また、冨山は「実はradikoだけの数値でいうと、この1年前くらい前から非常に伸びています。『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0(ZERO)』の数字は、ここ数年で、タイムフリー数字が生放送の数倍も聴かれていることもあり、トータル数字が非常に底上げされています。」と述べている。さらに、冨山は「ラジコでは、テレビの毎分視聴率のようなデータが取れます。分析すると、おもしろいことが分かってきました。深夜放送は、受験生が勉強しながら聴いているというイメージが強くて、制作側にもANNは10代向けの生放送という先入観があった。しかし、聴取者層は20代が圧倒的で、朝の通勤、通学時間帯にラジコのタイムフリー機能を使って聴いてくれる。さらに上の年代のリスナーもいて、タイムフリーで聴く人が生放送の5~6倍も多いんです」とも述べている。",
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"text": "この時期はパーソナリティが相互に番組に出演し、パーソナリティが『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』にゲストに出演したりした。また、2020年の日本アカデミー賞において、岡村隆史が優秀助演男優賞を受賞し、「話題賞」も狙って、星野源と菅田将暉をライバルとしてけん制していた。",
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"text": "そして、その間の一連の取り組みが功を奏し、2020年2月のビデオリサーチが行っている「首都圏ラジオ聴取率調査」で『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』において、月曜から土曜平均で同じ時間帯で単独首位に立った。この同じ時間帯の単独首位は、2019年12月に行われた「首都圏ラジオ聴取率調査」に続いて2期連続となった。この番組作りの取り組みと聴取率の分析について石井は「JUNKは昔からANNをはじめとする裏番組をしっかり研究していて、『このゲストのときに盛り上がっていた』とか分析をしていた。一方のニッポン放送は、JUNKに聴取率で負けていたのに対策を十分にやっていなかったんです。なので、僕が最初にチーフDになったときに『裏番組をちゃんと気にしましょう。JUNKはいい番組で、どんな企画をやっているのか調べて聴くのも勉強になるし、それを踏まえての戦い方もあるはずです』と話しました。同世代のDが作っているので、ちゃんと聴いていいところは参考にしようと。ANNがナンバーワンという奢りを捨てることから始めました」と述べている。また、石井は「各番組のリスナーはそれぞれのファンが中心ですが、横や縦のつながりで他の番組も聴いてもらえるように意識的に仕掛けて、それが聴取率やradikoの再生数の向上という結果につながっています」とも述べている。また、オールナイトニッポンのリスナーを増やしていったことに伴い、この時期のオールナイトニッポンの提供スポンサーが30社以上になり、21世紀になって提供スポンサーが一番多い状態になった。また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「ANNは36局ネットなので単価も高く、スポンサーにしても一時は4~5社になった時もありますが、今では四十数社に付いていただいています。」と話している。事実、この提供スポンサーの数は、1980年代の全盛期よりも多いという。さらに、冨山は「今までは放送のスポンサー広告しかなかったのですが、イベントを開催することでグッズ展開もできますし、デジタル展開の中で、番組とスポンサーが組んでのタイアップコーナーや、そのための動画を制作したり。CMだけじゃなく、立体的にいわゆる稼ぎどころが増えてきました。ANNとしては55年間で今が一番稼いでいるのでは。」とも話している。",
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"text": "さらに、冨山は「「オールナイトニッポン」といえば、数年でパーソナリティが交代するイメージがありました。最近は比較的、長い期間パーソナリティを務めている人も出てきていますが、そのあたりの状況を教えてください。」という問いに「そうした流れのきっかけのひとつに、2015年から始まった岡村さんの歌謡祭(『岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭』)があると思います。歌謡祭に関わったことで、リスナーの熱量やナイナイさんのラジオを20何年も聴いてくれる人たちの存在を目の当たりにしたのですが、この熱量はなかなか1年や2年では醸成できないと感じました。」とした上で「やっぱり番組が継続することで、番組本がつくれたりイベントができたり、選択肢が広がります。なので、「オールナイトニッポン0(ZERO)は1年、オールナイトニッポンも2~3年が目安だよね」というような改編ありきの考え方もかつてはあったのですが、いまは改編が前提という考えではなくなっています。」とも述べている。さらに、冨山は「パーソナリティが変わらないことで、逆にマンネリ化してしまうという懸念はありませんか。」という問いに「「オールナイトニッポン」は長年、中学生や高校生といった10代をメインターゲットに作ってきました。でもradikoのデータを見ると、リスナーのボリュームゾーンが圧倒的に20代なんです。そういうところでいうと、10代は毎年、進級や進学があって生活サイクルが変わるので、短期間のサイクルでパーソナリティが変わっていくという考え方があったと思うんです。でも20代以上のリスナーの皆さんは、ある程度生活サイクルは変わらないので、番組が長く続いていても生活習慣の一部になります。だから継続的に多くの人に聴いてもらえるという部分では、パーソナリティが変わらないということはメリットとも言えます。」とした上で「その一方で、さまざまなアーティストや芸人の方、佐久間さんのような方がパーソナリティを担当するというのもオールナイトニッポンの魅力だとも感じています。オールナイトニッポンの歴史はパーソナリティが変わっていく新陳代謝の歴史でもあるわけで、そうした要素も理解しつつ、「リスナーファースト」「コンテンツファースト」の視点で考えていければと思います。」と述べている。",
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"text": "また、2020年で、radikoがサービスを始めて10年となったので、石井は「極端に言うと、僕がやってる番組はradikoで聴く人をターゲットにしていますし、ANNでは従来の聴取率ではなくradikoの数字が完全な判断基準になっています。ラジオ局全体としては従来のラジオで聴いてくださる方も対象にして番組作りをしますが、ANNとしてはそこを考えなくていい」と述べている。また、冨山は「radikoの登場で、今までのアナログラジオの要素に加えて、デジタルコンテンツの文脈で制作をしています。だからSNSも活用するし、タイムフリーでいつ聴かれてもいいという考え方で。」とした上で「若い人たちとラジオの接点が見つからないという問題点があるなかで、スマホの中にradikoアプリが入ると1人1台、ラジオが入っているのと一緒になるというのはラジオ業界にとって21世紀で最も大きな出来事だと思います。このデジタルと融合することで一番良いのは、ラジオを知らない人との新しい接点と拡散だと思います。」とも述べている。さらに、冨山は「2016年にradikoのタイムフリーが始まったことも大きな影響があると思います。SNSで放送内容が拡散したり、その放送を後から追えることで、より多くの方にオールナイトニッポンというコンテンツに接していただける環境が整っています。ニッポン放送がまずやらなければいけないことはいいコンテンツをリスナーに届けるということで、そういう意味では「リスナーファースト」「コンテンツファースト」の考え方になったと思います。」とも述べている。",
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"text": "さらに、石井は「ラジオ業界が厳しいことは間違いないので、若いDや放送作家がラジオで生活できるために、コンテンツを制作する人に正しくお金が入る仕組みを作りたいです。ANNは初めてラジオに触れる人の入り口であることが多いので、その突破口になればいいなと。 ANNは“肩書きにとらわれず時代の顔である人が面白いことを話す”というコンセプトは守りながら、いろいろ挑戦していきたい。」と気合を見せた。",
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"text": "また、冨山は「数年前に、佐久間(宣行)さんの「オールナイトニッポン0(ZERO)」イベントでおぎやはぎの小木さんが「(当時テレビ東京社員だった佐久間さんのパーソナリティ起用について)ニッポン放送がすごいことをしたという感じがする」という予言めいたことも言っていましたが、このように近年フィーチャーされるようになった理由をどのように捉えていますか。」という問いに「ちょっと前までは、他のメディアや他局の話題を出すことはタブーに近かったのですが、『面白いことか』『リスナーが盛り上がってくれるか』を最優先にいろんなことを仕掛けることが出来始めて、自由にやる空気が醸成されていった感じです。その結果が、佐久間宣行さんがAKB48のオールナイトニッポンへのゲスト出演だったり、秋元康さんの後押しもあってその後のレギュラー起用につながったと思います。」とした上で「その後、佐久間さんの番組に伊集院光さんをゲストに来ていただいたり、テレビ朝日の弘中(綾香)アナで特番実施など、佐久間さん起用がきっかけでタブーが崩壊した形です(笑)。だから佐久間さんがエポックメイキングなのは間違いないですね。」とも述べている。",
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"text": "冨山は、半世紀以上にわたって続いているオールナイトニッポンについて、「苦しい時代を含め、何度かやめるタイミングはあったと思うんです。実際、他局の名物だった深夜番組は終わってしまいました。ANNだけはそのスタイルを守り続けたんです。だって、55年前からやってることは変わらないんですよ。生放送で、パーソナリティがリスナーからきたハガキやメールをリアルタイムで読むという。時代が何周もしてようやくラジオに追いついたというか、戻ったというか。」と述べている。",
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"text": "そうした中で、2020年4月23日に生放送された『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』で、パーソナリティの岡村隆史が番組の中で女性軽蔑の不適切発言をしたとしてネット上で問題視された。これを受けて、ニッポン放送では、2020年4月27日に、この不適切発言をめぐり、「現在のコロナ禍に対する認識の不足による発言、また、女性の尊厳と職業への配慮に欠ける発言がございました。放送をお聴きになって不快に感じられた皆様、関係の皆様にお詫び申し上げます。」というお詫びコメントを報道機関にリリースした。オールナイトニッポンにおける不適切発言の問題が起きたのは、2008年1月29日に放送された単発特番「倖田來未のオールナイトニッポン」(この時は録音放送だったが、ニッポン放送側が倖田が行った問題の発言を見落とし、そのまま放送に至った為、ネット上で炎上が発生したもの。)以来、およそ12年3か月ぶりとなった。その後、2020年4月30日に岡村がリスナーや関係各位に対し、お詫びしたが、その際、矢部浩之が生出演して、岡村に対し「公開説教」を行った。翌週の5月7日にも、矢部が岡村に対して再び「公開説教」を行った。そして、その翌週の5月14日をもって、およそ5年半ぶりに矢部が本格的にパーソナリティとして復帰し、旧題の『ナインティナインのオールナイトニッポン』に戻してコンビとしての放送が再開された。その後、2020年7月8日に行われたニッポン放送の定例会見で社長の檜原麻希が「女性の尊厳と配慮に欠ける発言だった。今回の発言についておわび申し上げたい」をしたうえで、番組の制作に関わっているニッポン放送の社員や系列の制作会社であるミックスゾーンに所属するディレクターに、この度の「一連の経緯や問題点」をまとめて、それを資料として作り、注意喚起を行ったことを記者会見の場で明らかにした。その上で、「われわれスタッフも本人も真摯にすべてのご批判を受け止めている。リスナーの皆さんからは温かいリアクションをいただき、感謝の気持ちでいっぱいです」と感謝の意を述べた。さらに、生放送の形式に戻すかどうかについて「岡村さんもいい大人ですから、本人もよくよく理解して対応されている。」とした上で、「今、どうしても大河ドラマ(の『麒麟が来る』)とか(岡村の)いろいろなスケジュールや矢部さんも加わったということで、収録にさせていただいていますけど、早期に時間があれば生放送に戻す」としている。その後、2021年4月2日(1日深夜)の放送で生放送の形式に戻った。",
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"text": "2020年9月21日-9月26日の1週間に亘って、2018年以来、2年ぶりにお笑い芸人がパーソナリティを務める『オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク』が行われた。",
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"text": "2020年9月21日",
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"text": "2020年9月22日",
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"text": "2020年9月23日",
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"text": "2020年9月24日",
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"text": "2020年9月25日",
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"text": "2020年9月26日",
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"text": "2020年10月3日から2021年3月27日まで『オールナイトニッポンPremium』が土曜日の19時から21時の放送枠で編成されることとなり、パーソナリティには2018年度・2019年度に続いて、Kis-My-Ft2がパーソナリティを務めた。ただし、ニッポン放送では、2020年10月・11月に「ニッポン放送ショウアップナイター」を編成していたため、当初は、ストリーミングサービス「SHOWROOM」において、音声という形で配信を行っていた。",
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"text": "2021年1月に配信という形で行われた『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) リスナー小感謝祭 2021~Believe~』は「元々有観客と配信のハイブリッドで準備はしていたのですが、緊急事態宣言を受けて配信のみということになって。ありがたいことに配信のみで17,000枚を超えるチケットが売れました。当初の東京国際フォーラム・ホールAで開催する予定だったチケットは完売していたものの、数としてはコロナ対策があったのでキャパシティの半分の2500枚くらいでした。それを遥かに上回る売り上げだったのでこれは社内的にも驚きでしたね。配信イベントでこんなにチケットが売れた前例がなかったので。」と、反響が大きく「イベントの後、中止になっていた他番組のイベントも配信で開催できたりと、今では配信は当たり前になりましたね。会場に実際に来れる人は生で楽しめて、地方などで足を運べない人は配信で楽しむという形が定着してきて、世界が広がった感じはします。」とニッポン放送エンターテインメント開発部のプロデューサー・石井玄は話す。さらに、「11月の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) リスナー大感謝祭2021~freedom fanfare~』もかなり多くのチケットが売れていましたが、佐久間さんだからこそ成功できたこともあるのでしょうか?」という問いに「佐久間さんは作り手でもあるので、番組の仕組みをよく分かっていらっしゃる。だから1月のイベントのように中止が決定してもすぐに配信イベントに切り替えて実施できたり、11月のイベントでは、出演予定だったサンボマスターさんが直前で出られなくなってしまったのですが、急遽DJ松永(Creepy Nuts)くんが出てくださって、その上で進行できたりだとか。現役のプロデューサーでもあるから、対応してくださる幅が広く、スピード感が違ってくるので、トラブルが発生しても乗り越えられているのは制作側としてはとても助かっています。佐久間さんが作り手としての裏側を知っているからこそできることも多々あり、それが配信イベントに影響して人気が出るひとつの要因になっているかもしれませんね。」と石井は話す。",
"title": "歴史"
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"text": "2021年1月から3月にかけて、日曜未明に放送されている『オールナイトニッポン0(ZERO)』の土曜版の中で、月1回、『LIVE in smash.』という番組として、『オールナイトニッポン0(ZERO)』の土曜版とSHOWROOMが開発した「スマホに特化した短尺のバーティカルシアターアプリ」である『smash.』とが手を組み、現在のコロナ禍の中で、観客を入れてのライブの制限がある中で、音声と「スマホで楽しめる動画」アプリである『smash.』の特徴をそれぞれ活かして、複数人がパーソナリティを務め、トークに加えて、ライブも展開していく番組を放送した。",
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"text": "2021年1月30日",
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"text": "2021年2月27日",
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"text": "2021年3月27日",
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"text": "2021年4月改編(2021年3月30日(29日深夜))をもって、『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0(ZERO』に続く、第3のオールナイトニッポンとして、2021年3月26日(25日深夜)をもって終了した『ミューコミプラス』と、2021年3月27日をもって、放送枠が移動した『三代目 J SOUL BROTHERS 山下健二郎のZERO BASE』の後番組として、火曜日から土曜日の0時枠に、新しいオールナイトニッポンブランドの生ワイド番組『オールナイトニッポンX』が放送されている。なお、火曜日から金曜日の0時台は年越し特番などの特例がない限り『オールナイトニッポン』ブランドの番組が放送されたことはなく、2021年10月で55年目を迎えるオールナイトニッポンの歴史で初めてのことになる。ラジオやradikoに加えSHOWROOMが手がけるバーティカルシアターアプリの「smash.」と連動させ、スタジオの様子もを同時配信して、音声と動画をリアルタイムとアーカイブで楽しめるような形式とする。このブランドの概要は2021年3月16日に明らかにされた。",
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"text": "2021年10月改編では、半年間限定で、新たに『なにわ男子のオールナイトニッポンPremium』としてレギュラー番組を編成したが、ニッポン放送の場合は2021年10月・11月に『ショウアップナイター』を編成するため、ストリーミングサービス「SHOWROOM」において、音声という形で配信を行った。",
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"text": "2021年10月4日から、『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』『オールナイトニッポンX』に次ぐ「第4のオールナイトニッポン」として、『オールナイトニッポンPODCAST』のサービスが開始された。これについて、ニッポン放送ビジネス開発局デジタルビジネス室長の浜原晋介は「海外、特にアメリカでは6年ほど前からポッドキャストの広告が急激に伸びています。リスナーに合わせて広告を切り替えるなど、デジタルメディアならではの技術も広がってきた。(2022年)現在はまだ将来に向けての投資段階ではありますが、すでにオリジナル番組だけの広告主もついています。ポッドキャストのオリジナル番組は今後も増やしていきたいと考えています」と話している。",
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"text": "オールナイトニッポンのプロデューサーの冨山雄一は、このブランドを立ち上げた狙いについて「『オールナイトニッポン』でパーソナリティをやっていただきたい魅力的な人はたくさんいますが、放送枠の関係などで、お願いしたくてもできないという現状があります。そんな人たちの番組を配信という形でやろう、ということで始めました。」と述べている。また、各コンテンツとも配信時間が30分になっていることについてデジタルビジネス部の澤田真吾は「データによると、配信の放送を聴くのは通勤、通学中の人が多い。深夜の『オールナイトニッポン』みたいに2時間も放送すると、行き帰りの時間だけでは聴くことができない人もいる。だから、帰りの時間に聴けるサイズにしようと。」という風に述べている。また、今後の展望について冨山は「最近は、配信アプリを使って、魅力的なトークを発信する人が増えています。そんな誰もがラジオパーソナリティになれる時代ですが「ディレクターや、放送作家の力が加わるともっと輝くのではないか?」という人を見つけて『オールナイトニッポンPODCAST』で育てていきたいです。そして番組で力をつけて『オールナイトニッポン』で活躍するようなパーソナリティを生み出せたらいいなと思います。」と述べている。",
"title": "歴史"
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"text": "前述したように「『オールナイトニッポン』は配信イベント、『smash.』や『ミクチャ』などの同時ライブ配信、『オールナイトニッポンPODCAST』などテクノロジーを駆使して様々な新しいことを進められていますが、こちらの背景についていかがでしょうか。」という問いに冨山は「『オールナイトニッポン』は芸人さん、俳優さん、アーティストさんなど様々な分野で活躍しているスペシャリストの方々をパーソナリティに立てて番組を放送しているというコンセプトがあり、そのラジオの広がりみたいなところを様々な形で表現していきたいという思いがあります。その一環で、音声だけでなく動画でも配信してみようということから、『smash.』や『ミクチャ』での配信や、『オールナイトニッポン』というブランドがPodcastとしてアウトプットしたらどうなるのかという挑戦で『オールナイトニッポンPODCAST』を立ち上げたりと、様々なテクノロジーとの掛け算をして最大化を図っているところです。」とした上で「あとは『smash.』に出向している『オールナイトニッポン』の元チーフディレクターである松岡敦司や、イベント事業を担当している石井との連携など、『オールナイトニッポン』を起点に各企業や各部署と横の繋がりで仕事ができているので、オールナイトニッポンのコンテンツが広がっていっているのだと思います。」とも述べている。",
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"text": "2021年11月25日22時から0時までは、『前澤友作×オールナイトニッポン宇宙プロジェクト』の一環として『前澤友作のオールナイトニッポンGOLD』をロシアからリモートという形で放送。これは、1990年以来、日本人による民間人の宇宙飛行士になる前澤友作が2021年12月にロシア所有の宇宙船に乗り、そこで、宇宙旅行を行うことを受け、『オールナイトニッポン』が「宇宙から若者にメッセージを発信しないか?」という依頼して、実現したもの。そして、2021年12月13日1時30分から3時(12日深夜)の放送時間で『宇宙から生放送!前澤友作のオールナイトニッポンスペシャル』が放送され、国際宇宙ステーションに滞在している前澤友作の声を伝えることになっていて、有楽町のニッポン放送のスタジオには音楽プロデューサーの亀田誠治、それに、ニッポン放送アナウンサーの東島衣里が出演した。当初、放送では、国際宇宙ステーションの軌道の関係上、2時45分から15分間にわたって、前澤が国際宇宙ステーションから出演することになっていたが、実際は、出演開始時間が2時55分にずれ込んだものの、リスナーから寄せられた質問に答えた。その為、この番組の放送終了時間が3時10分に急遽変更された。この番組について、ニッポン放送社長の檜原麻希は2022年1月12日に行われた定例会見で「奇想天外な発想の持ち主で、次なる企画が楽しみ。また機会があれば一緒に番組などをやっていきたい」と述べている。",
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"paragraph_id": 168,
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"text": "この時期のオールナイトニッポンの好調について、あるラジオ関係者は「ニッポン放送は50代や60代のパーソナリティを22時台の『オールナイトニッポンGOLD』に持ってきています。また、24時台に『オールナイトニッポンX』、深夜3時台に『オールナイトニッポン0』という予備軍を置き、深夜1時台の『オールナイトニッポン』が新陳代謝しやすい環境を整えています。55年続いているオールナイトニッポンブランドを生かして、同じ冠名の派生番組をたくさん作って、それぞれに役割を持たせてうまく回している。『オールナイトニッポン』の好調が局の浮上につながっている面はあると思います」と述べている。事実、このオールナイトニッポンのブランドを活かした戦略によって、2022年4月と6月で、radikoの『総聴取分数』というデータで、ライブとタイムフリーの合計において、ニッポン放送は首都圏ラジオの全局の中において首位を獲得している。",
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"paragraph_id": 169,
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"text": "2022年4月から2023年3月まで『オールナイトニッポン55周年記念』の期間として、特別番組・イベントに加え、コラボレーション企画を行った。この『オールナイトニッポン55周年記念』の企画立案・検討は、ニッポン放送社内に発足したプロジェクトチームが担った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "その55周年記念企画の第1弾として、2021年11月24日18時に『オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』』という舞台公演の企画が明らかにされた。この作品のテーマは「オールナイトニッポンに関わるパーソナリティの、スタッフの、そしてリスナーの「あの夜」」である。この舞台作品は、千葉雄大と髙橋ひかるのダブル主演で、2022年3月20日と3月27日に、配信形式の演劇作品として制作するもので、ニッポン放送の社内を舞台に繰り広げ、その模様を生配信という形式で送るもの。この舞台作品の総合演出はテレビプロデューサーの佐久間宣行が、プロデューサーは石井玄が、演出は小御門優一郎がそれぞれ手掛ける。また、この舞台公演では、メインキャストを決めるオーディションを実施し、書類審査を通過したものにはオーディション(演技審査)を行う。そして、この公演の主題歌として、水曜未明(火曜日)のオールナイトニッポン0(ZERO)を担当しているCreepy Nutsと、水曜未明(火曜日)のオールナイトニッポンXを担当しているYOASOBIのコンポーザーのAyaseと、ボーカルのikuraとして活動しているシンガーソングライターの幾田りらによるコラボレーションでの「オールナイトニッポン55周年を盛り上げるコラボ楽曲」が制作される。このコラボレーションのきっかけはCreepy Nutsの2人がYOASOBIのオールナイトニッポンXに2回にわたってゲストとして出演したことをきっかけに意気投合し、今回のコラボレーションにつながった。その後、2022年3月15日に曲のタイトルが『ばかまじめ』と発表されると共に、アーティスト写真とジャケット写真、並びに発売日が2022年3月20日と明らかにされた。そして、この公演の特別ポットキャスト番組として、『あの夜のはなし』が2021年12月27日からの予告編を皮切りに配信されることになった。この番組では、パーソナリティに、この公演のプロデューサーの石井玄と脚本と演出を手掛ける小御門優一郎が務め、この公演の舞台裏や、その舞台公演の想いについてもトークを繰り広げ、この舞台公演の関係者を迎えて、印象に残るラジオ番組の放送回についてトークを繰り広げることになっている。また、リスナーから「心に残っている「あの夜」」をメールで募り、この配信番組において採用されたエピソードから、実際に舞台公演の内容に反映される可能性がある。その後、2022年2月2日に、およそ1500人の応募の中からメインキャストのオーディションで選ばれた吉田悟郎・山口森広・工藤遥・入江甚儀・鳴海唯・山川ありその6人を含むメインキャストとその役柄が発表された。また、三四郎の相田周二がプロデューサー役として特別出演する。さらに、2022年3月10日にDJ松永(Creepy Nuts)、久保史緒里(乃木坂46)、ぺこぱ、小宮浩信(三四郎)が特別出演することが発表された。そして声の出演として、新内眞衣、構成作家の寺坂直毅が登場することも発表された。この「前代未聞の試み」に、2022年3月25日の時点で2022年3月20日に行われた公演の配信チケットの販売数が累計で1万6千枚を突破した。そして、2022年3月20日・3月27日に行われた公演の配信チケットの販売数が累計で1万8千人となった。その後の集計で、2022年3月20日と2022年3月27日のチケットの購入人数は、合計で2万3千人を超えた。そして、2022年6月11日に東京国際フォーラム・ホールAで「一夜限りの上映会」が行われることになり、上映の終了後にアフタートークとして、相田周二(三四郎)・山口森広・鳴海唯、さらに、脚本・演出の小御門優一郎が登壇して、事前に寄せられた感想や質問・疑問に答えた。その上映会で、オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』がBlu-rayとして2022年内の発売予定で作品化されることが発表され、その後、このBlu-rayが2022年12月7日に通常版と豪華版BOXの2種類で発売されることになった。そして、この作品が『2022 62nd ACC TOKYO CREATIVITY AWARDS』のメディアクリエイティブ部門において、総務大臣賞/ACCグランプリを、ランデッド・コミュニケーション部門のAカテゴリーにおいてシルバーを、それぞれ受賞した。この配信舞台について、ニッポン放送のエンターテインメント開発部プロデューサーの石井玄は、「(これまでのオールナイトニッポンの)イベントは従来のファンの皆さんには喜んでいただけますが、ラジオファンのすそ野を広げることにはなかなかつながらない。新しい接点が必要だと考えていたところに、劇団ノーミーツさんから『ANNと組んだ配信の演劇をやりたい』という提案をいただいたんです。2万4000枚ものチケットが売れ、演劇好きな方、主演の千葉雄大さんと高橋ひかるさんのファンの方など、従来のリスナーさん以外にも届いた実感があります。」と述べた上で「僕個人としては、今回の演劇のように、番組にひもづいたものではないけれども、ラジオの魅力を伝えるイベントを作っていくことが次の段階として必要だと考えています」とも述べている。そして、この『あの夜を覚えてる』のノベライズが2023年9月に発行されることになった。また、この『あの夜を覚えてる』の舞台の模様がWOWOWで2023年10月9日14時に放送・配信されることになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 171,
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"text": "2022年3月8日19時から21時にかけて、オールナイトニッポン55周年記念特別番組の第一弾として、『三浦知良のオールナイトニッポンPremium』が放送された。これは、2022年2月26日に55歳になった三浦知良と2022年10月に放送55周年を迎える『オールナイトニッポン』が、ともに1967年の生まれという共通点を持っていた為、ニッポン放送が三浦知良にオファーをし、その三浦知良が「サッカー、三重県鈴鹿市、JFLをカズ直接の言葉で全国のリスナーに発信する」ということから、この特別番組が実現したもの。なお、現役のプロサッカー選手がJFLの開幕4日前にラジオ番組のパーソナリティを務めるのは「超異例」だという。",
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{
"paragraph_id": 172,
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"text": "2022年3月18日、大宮エリーデザインの『オールナイトニッポン』55周年記念のオフィシャルロゴをお披露目した。大宮エリーによれば、この記念のオフィシャルロゴは「オールナイトニッポンは各パーソナリティの個性が色とりどりでいろんな国に旅行にいくようなきもちになります。また、深夜の生放送はこころの解放区。リゾート地のきもちいいプールサイドをオールナイトニッポンのロゴにして、開放感、癒し、わくわくを、表現しました。」と説明している。",
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"text": "2022年3月28日から3月31日まで、佐久間宣行をCMキャラクターに起用されたオールナイトニッポン55周年の特別なテレビCMをBSテレ東で放送された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 174,
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"text": "2022年4月22日22時から翌0時にはオールナイトニッポン55周年記念特別番組として『長渕剛のオールナイトニッポンGOLD』を放送。長渕剛がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めるのは、2003年12月以来となる。",
"title": "歴史"
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"text": "2022年5月9日から5月17日まで、銀座・博品館劇場において、81プロデュースの所属の声優が日替わりで出演するオールナイトニッポン55周年記念公演の朗読劇『太陽のかわりに音楽を。2022』が上演された。この朗読劇は「オールナイトニッポン」の制作現場を舞台にしたオールナイトニッポン50周年記念舞台「太陽のかわりに音楽を。」を朗読劇にしたもの。",
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"text": "また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一に言わせれば、この時期の「オールナイトニッポン」のデジタル戦略は「フロー型からストック型への転換」だという。これについて、冨山は「ユーチューブは映像を見ながらそこにコメントを書くじゃないですか。でもラジコはチャット機能がないので、みんなツイッターに書くんです。すると星野源さんとかナイナイさんとか、放送内容がSNSで流れると、聴いていなかった人がラジコで聴いてくれる。フロー型から、今やストック型になっています。放送したら終わりではなく、ポッドキャストはじめ、全部デジタルで残りますから。」と説明している。",
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"paragraph_id": 177,
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"text": "その一環として、2022年5月30日から、オールナイトニッポンの中から人気の6つの番組が、再編集した上で、Spotifyで独占配信されることになった。その番組は『ナインティナインのオールナイトニッポン』『霜降り明星のオールナイトニッポン』『フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO)』『ぺこぱのオールナイトニッポン0(ZERO)』『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)』『マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0(ZERO)』で、特に、『ナインティナインのオールナイトニッポン』に関しては、『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』を含めると、1994年4月の番組の放送が開始して29年目で初めてのポッドキャストでの配信となった。また、『霜降り明星のオールナイトニッポン』は2021年11月1日時点でSpotifyが調べた「国内で最も聴取時間の長かったポッドキャスト番組」の部門で1位に選出されている。これについて、ニッポン放送ビジネス開発局長の節丸雅矛は、「Spotifyさんとニッポン放送さんは、最近ですと『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』のPodcast独占配信だったりと、距離がかなり近いように思えますが、音声コンテンツを作る側と広げる側として、お互いをどういう風に見ていますか?」という問いに「弊社は24時間あらゆるコンテンツを生み続けているので、元々制作マンだった身としては「一度きりの放送」で終わるのがもったいなくてしょうがない、という気持ちがすごくありました。ですから、それをポッドキャストにすることは自分たちからするとありがたい話でもあって。オールナイトニッポンとSpotifyさんの相性は本当に抜群で、僕らも本当に驚きましたから。」と述べている。また、ニッポン放送ビジネス開発局デジタルビジネス室長の浜原晋介は「放送の二次利用という形でポッドキャストは早くから活用してきました。現在、ニッポン放送の番組全体では月間1400万~1500万ダウンロードされています。ストリーミングサービスでは、レコメンド機能が働くので、普段聴いている音楽の視聴傾向から偶然『ANN』に出合うといった、これまでとは異なるリスナーの獲得につながっています」とも語る。さらに、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一はポットキャストについて「参考にしているのは、デジタル化にいち早く成功した『少年ジャンプ+』です。若いディレクターに聞くと、ジャンプと言えば紙の週刊誌よりもアプリの『少年ジャンプ+』のことなんですよね。地上波に加え、デジタルでも『ANN』のコンテンツを楽しむことができる環境づくりを意識しています」と語る。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 178,
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"text": "さらに、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山は、「深夜番組のため、もともとのメーンリスナー層は中高生でした。しかし、radikoやポッドキャストでの配信視聴が増え、今は20代がメーン層となり、さらに30代、40代といった社会人にまで幅広くリスナー層が広がっています」とこのTwitterとポットキャストなどのデジタル戦略によってリスナー層が拡大していったことについて述べている。それに、冨山は「radikoのタイムフリーの聴取数ランキングでは、上位に『ANN0』の各番組もランクインしています。こうした好影響は地上波にも波及して、『ANN0』のネット局は4年前(2018年)の11局から(2022年)現在は31局に急増、『ANN』の36局に迫ります。深夜3時台のため、広告がなかなか入らなかったのですが、タイアップ企画など広告も激増しています」と、動画という形で同時生配信の展開によって、1部の『オールナイトニッポン』と2部の『オールナイトニッポン0(ZERO)』の環境がほぼ同じになった影響についても述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "また、2022年6月20日から、オールナイトニッポンの放送開始55周年プロジェクトの「目玉企画」として、2000年以降にオールナイトニッポンで人気を博した30組のパーソナリティの音源が聴き放題となるアーカイブサブスクリプション・サービス『オールナイトニッポンJAM』がスタートした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 180,
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"text": "番組のアーカイブの活用については、以前から検討課題となっていた。これについて、ニッポン放送デジタルビジネス部の浜原晋介は「2年前(2020年頃)から構想があったのですが、その頃と今ではいい意味で状況が変わってきていて。音声メディアへの追い風が今までにないくらいの勢いがあります。それに伴って、関係者も取り組みに関する理解が明らかに変わってきている印象を受けます。この流れに乗って、みなさんの期待を裏切らないように、楽しんでいただけるようにしたいです。新しいシステムを作って、みんながハッピーになれるというのが一番大きなミッションだと思っています」とオールナイトニッポン放送開始55周年の節目に加え、「音声メディアに対する潮流の変化」があることを述べた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 181,
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"text": "2020年初夏にこのプロジェクトが本格的に始動したが、この頃は、新型コロナウイルスの影響により、ニッポン放送の主催イベントが軒並み中止となる中で、浜原は「世の中の動きが完全に止まった時にどうしようかと。新しいビジネスモデルを考えなくては、というところからスタートしました」と述べ、ニッポン放送デジタルビジネス部の澤田真吾は「コロナで広告案件がなくなり、広告収入だけでは安定しないよねと。BtoC(消費者向け)モデルをやろうと、今回のサブスクになりました」と述べた。また、浜原は「当時は音声配信について、出演者や権利関係の方もピンと来ていない部分が多かった」と振り返っていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 182,
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"text": "また、澤田は権利関係と番組内容における時代の適応に関して、「各事務所のみなさんと交渉していきましたが、協力的なお言葉をたくさんいただきました。『こういうことをやったほうがいいと思っていました』『僕も聴きたいです』と言ってくださったり...。ただ、昔と今とでイメージが変わっている方の場合は、ちょっと乖離しすぎて、ファンの方を混乱させてしまうのでは...という部分の話はありました。」と述べた上で「今の時代と照らし合わせると、ちょっと受け止められ方が変わってしまうものもあるかもしれませんが、できる限り、当時の雰囲気を残しつつ、すべて聴いて、それでもちょっとこれは...という内容は、やむなくカットするという判断も出てくると思います」とも述べている。この背景には、新型コロナ禍で在宅勤務が増加し、ライフスタイルが変わったことにより、音声コンテンツに注目が集まったためだという。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 183,
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"text": "こうして、オールナイトニッポンのプロデューサーを交えながら、出演者の交渉を進めた結果、『オールナイトニッポン』に加え、姉妹番組の『オールナイトニッポン0(ZERO)』と『オールナイトニッポンGOLD』の中から30番組が配信されたものの、往年のオールナイトニッポンに関して、浜原は「2000年以前は音源がデジタル化されていなかった」と述べるように、録音テープが残っていればいいが、その番組の音源が残っている確証がないため、澤田も「倉庫をあさって探すしかない」と述べるにとどめている。",
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"paragraph_id": 184,
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"text": "このオールナイトニッポンJAMでは初回の放送から順次アップロードしているものの、編集作業にかかる労力によって、一括配信が難しいという。まず、過去に放送した内容が、現在の社会情勢にあっているかを確認する、いわゆる「検聴」を行い、権利の関係上、流す事ができないBGMや楽曲を削除し、その上で、著作権が自由なBGMを重ねる。この作業について、浜原は「21世紀とは思えない作業」だとしている。浜原は「時代背景もあるので発言が誤解されないように、二重三重でチェックしている。配信されることを想定して放送されたわけではないので、一番気を使う部分だ」と述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "さらに、澤田は「僕自身もくりぃむさんのANNなどを聴いて育った世代で、当時の音源をもう一度聴きたいというリスナーの気持ちもわかるので、サービスを届けたいなという気持ちがずっとありました。違法ではなく、公式で出して、ニッポン放送だけではなくて、パーソナリティーのみなさん、制作スタッフさんにも分配するという仕組みを整えていきます。みなさんの中にも『ちゃんと公式で聴かないと...』という意識が根付いているので、我々がその気持ちに応えていかなければと考えています」と一つ一つの番組について数十人のスタッフが作業に当たっていることについても述べている。また、YouTubeなど、違法アップロードは後を絶たないものの、澤田は「ユーザーさんのリテラシーもだいぶ上がってきていて、そこには手を出したくないと言ってくれる人も結構いる。そういった人たちのためにコンテンツを届けるには公式が汗をかいて、努力するしかない。ちゃんとしたものを作りたかった」と力を込めた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 186,
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"text": "また、澤田は「ラジオが今後、ストックされていくという常識ができていけばと考えています。YouTubeでも、ストックされたコンテンツが収益を上げるというモデルがあるので、ラジオもそうなっていけばいいなと。放送する、そのコンテンツが残る、それが収益を上げ続けるということで、全体が潤っていかなければいけないという気持ちはあります。今後の環境変化に耐えていくためにも、会社の柱のひとつにしていきたいです」と意気込みを示した。このANNJAMはリスナーが直接課金をしている為、浜原は「番組は私たちにとって、最も価値の高い資産。デジタルかつオンデマンドでのサービスを提供することで、新しいリスナーに届けられる可能性が広がった」と述べた上で、「パーソナリティーとリスナーの特別な関係性で成り立っているANNはアーカイブ音源でも色あせることなく、幅広い世代に支持されるコンテンツなのでは」とも述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "実際、このANNJAMのユーザーは10代・20代で合わせて47%となり、30代でも29%となっている。これまで、公式なアーカイブが存在していなかったこともあり、利用者の中には、「違法アップロードを聞かなくて済む」といった声が聞かれた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "さらに、オールナイトニッポンのプロデューサーである冨山雄一は「今の若い人が、YouTubeとかいろんなものに触れていて(コンテンツが)残ることが当たり前という文化になっていると感じています。ANNで特番をやっていただく時に、若いパーソナリティーの方から『全国すべてのエリアでは聴けない』『1週間で聴けなくなる』ということを説明しても『わからない』と言われることもありまして...。昔から聴いてくださっていた方に向けてスタートする部分もありますが、新しくラジオに触れる方にとっても、自然と選択してもらえるものになればいいですね。最終的には『ラジオJAM』みたいになれば...とも思っていて、ラジオ局全体がフロー型からストック型への模索が始まっている中でのチャレンジなので、オールナイトニッポンから切り開いていけたらと考えています」と述べている。当初、想定していたこのサービスのメインターゲットは、かつてのオールナイトニッポンを懐かしむ、30代から40代を想定していたが、有料会員の半数が20代となっている。これについて、浜原は「いわゆるZ世代がお金を払ってくれている。この方向性は間違っていなかったんだと。『オールナイト』が彼らにとってのラジオの原体験になっているのかもしれないと考えるとすごく勇気づけられるし、数字として見えてくると励まされます」とした上で「推しのパーソナリティーはもちろん、他の番組も聞いて欲しい。たまたまつけたラジオにハマって、以後毎週聞くようになることがあるじゃないですか。そういう体験を『JAM』でも実現できたら」と、パーソナリティの顔ぶれの多様さによって、「偶然の出会い」も提供したいと意気込む。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "また、このサービスの今後について、澤田は「対象を『オールナイト』に限らなくてもいいのかなと。面白い30分の箱番組(週1回放送の番組)もあるので、そういったものも出していきたい」と述べた上で、「まずは『オールナイト』という分かりやすいブランドでラジオがストックされていくことが当たり前になる文化を作っていった上で、どんどん広げていけたらと思っています」と述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "なお、オールナイトニッポンのオープニング曲として有名である「ビタースウィート・サンバ」は、権利処理が発生するサブスクリプション形態のサービスでありながら同サービスではフルで聞くことが可能であり、これについては、アメリカにいる同曲の権利者とニッポン放送が交渉を重ねた上で使用許諾が出された。これについて、浜原は「場合によっては(曲を手がけた)ご本人に会いに行こうかなという話までしていたくらい本気でした。代理人の方と『こういう条件だったらということで...』と、締結することができまして、初めて、放送以外で『ビタースウィート・サンバ』が使うことができるようになりました。今までは、大人の事情で、放送以外の場面では『ビタースウィート・サンバ』の原曲でないバージョンが使われてきたことを考えると、かなりの出来事かなと思っています」と述べている。このアメリカにいる権利者にたどり着くまでには、1年以上もかかったという。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 191,
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"text": "しかし、先述したように、著作権の都合により削除された音楽入りの「完全形」を求めているリスナーからのニーズは根強くあるため、浜原は、「音楽団体には今後も協力を働きかけていきたい」としている。",
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"paragraph_id": 192,
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"text": "ラジオに関連した書籍を書いているライターの村上謙三久は「今までラジオのアーカイブを聞くという選択肢がなかったので、サービスが始まった意味は大きい」と述べた上で、「時間をかけてコンテンツが増えていったら利用しようと思っている人も多いのでは」と述べているが、「ANNはパーソナリティー同士のつながりも活発なので、この番組とこの番組はつながっているといった物語性を打ち出したり、キュレーション(選択・分類・提示など)的な機能があったりすれば、もっと利用しやすいかもしれない」と提案している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 193,
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"text": "これについて、あるラジオ関係者は、「最近のニッポン放送は攻めています。過去の音源は許可取りが大変だと思いますが、これも『オールナイトニッポン』ブランドを生かした戦略です。新しいことに挑戦する姿勢がradikoでの結果にもつながっていると思います」と話している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "2022年6月21日22時から翌0時まで、オールナイトニッポン放送開始55周年記念特別番組として、『山下達郎のオールナイトニッポンGOLD』が放送された。なお、山下達郎がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めるのは、ソロデビュー直後の1976年1月から9月まで放送された3時から5時までの『2部』(山下達郎のオールナイトニッポン)を担当して以来、およそ46年ぶりとなる。ニッポン放送では、ロシアによるウクライナの侵攻を受けて「達郎さんの声と音楽で〝温かく柔らかい思い〟を全国に届けたい」と山下達郎に対してオファーをして、山下達郎もオリジナルアルバムである「SOFTLY」に収録された「OPPRESSION BLUES(弾圧のブルース)」を創っていて、ニッポン放送側とのコンセプトが一致したこともあって実現したもの。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 195,
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"text": "2022年8月8日から8月13日にかけて、2020年以来2年ぶりに、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、お笑い芸人がパーソナリティを務める『オールナイトニッポン55周年記念 お笑いラジオスターウィーク』が行われた。なお、オールナイトニッポンの3ブランド(X、1部、0(ZERO))での『お笑いラジオスターウィーク』はこれが初めてとなる。",
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"text": "2022年8月8日",
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"text": "2022年8月9日",
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"text": "2022年8月10日",
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"text": "2022年8月11日",
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"text": "2022年8月12日",
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"text": "2022年8月13日",
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"text": "2022年9月9日には、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念してオールナイトニッポンのパーソナリティを陰で支えている10人の放送作家を取り上げた『深解釈オールナイトニッポン ~10人の放送作家から読み解くラジオの今~』という書籍が発売された。その書籍は、初版の1万部発売から3日経った、2022年9月12日の段階で早くも重版が決まった。また、発売する前からAmazonランキングで1位を獲得し、主要な書店では、「オールナイトニッポンの関連特集」が組まれた。",
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"paragraph_id": 203,
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"text": "2022年9月12日から9月17日までにかけて、2019年以来、3年ぶりに音楽アーティストがパーソナリティを務める『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン MUSIC WEEK』が行われた。なお、オールナイトニッポンの3ブランド(X、1部、0(ZERO))での『MUSIC WEEK』はこれが初めてとなる。",
"title": "歴史"
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"text": "2022年9月12日",
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"text": "2022年9月13日",
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"text": "2022年9月14日",
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"text": "2022年9月15日",
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"text": "2022年9月16日",
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"text": "2022年9月17日",
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"paragraph_id": 210,
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"text": "2022年10月1日から、『オールナイトニッポンPremium』が2022年度のナイターオフに編成されることになったが、これまでの形式を一新し、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、週替わりで歴代のオールナイトニッポンのパーソナリティや「“いま”オールナイトニッポンでしゃべって欲しいという話題の人」を起用する週替わり枠として放送される。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 211,
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"text": "2022年10月1日にはオールナイトニッポン55周年記念として、『マヂカルラブリーのオールナイトニッポンZEROII’~でっかいフォーラムでーす~』が、翌2022年10月2日(オールナイトニッポン放送開始記念日)には、『オールナイトニッポン55周年記念 Creepy Nutsのオールナイトニッポン『THE LIVE 2022』~オレらの Roots はあくまでラジオだとは言っ・て・お・き・たい ぜ!~』がいずれも東京国際フォーラム・ホールAを会場として行われた。特に後者は全国99の映画館でライブビューイングが行われた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 212,
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"text": "このイベントに関して、ニッポン放送のエンターテインメント開発部プロデューサーの石井玄によれば、「かつては、パーソナリティーや歌手の方が集うフェススタイルが中心でしたが、最近増えているのは、番組ごとの単独イベントです。これは個人的な意見ですが、転機となったのは2014~15年頃かなと。14年9月にオードリーさんが東京国際フォーラム・ホールAにて『ニッポン放送開局60周年記念 オードリーのオールナイトニッポン5周年記念 史上最大のショーパブ祭り』を、15年11月には当時は1人でパーソナリティーを務めていたナインティナインの岡村(隆史)さんが『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン1周年記念 岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭 in 横浜アリーナ』を開催したんです。それまでも、ももいろクローバーZさんなどと組んで大きな会場でイベントを行ったことはあるのですが、ライブでの動員実績のあるアーティストさんでなくても、番組の単独企画で5000人や1万人を集客できると分かりました」と、イベントの変化について述べている。さらに、石井によれば、「以前は、番組単体イベントでも、集客力のあるアーティストなどをゲストに呼んでイベントを成立させようという発想だったのですが、今、『ANN』のイベントは、番組ゆかりの人だけで構成するという、番組リスナーに寄せた作りが主流です」とイベントの構成について述べている。それに、石井は「大会場なので、せっかくなら普段できないことを大々的にやろうと考えてしまうのですが、それをやってもあまり喜んでもらえない。そういうのは、他のイベントで見られるからいらないと(笑)。普段のラジオ番組に、エンタテインメント要素を加えて、より濃くしたほうが喜んでいただけるんです。イベントグッズの制作も考え方は同じですね。22年10月29日の佐久間(宣行)さんのイベントでは、『チュロス型ペンライト』を販売したんですが、これは21年11月のイベントで盛り上がった『チュロス上げゲーム』をグッズにしたんです。番組を知らないと、一体何なんだっていう話ですよね(笑)」と、イベントグッズについて述べた上で、「昔から番組作りの基本として、『内輪に寄りすぎるな』と言われてきましたが、今のラジオでは内輪を大事することが重要ではないかと思っています。放送やイベントを通じて濃いファンになっていただければと取り組んでいます」とも述べている。また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「金もうけというベクトルではなく、リスナーへのファンサービスというのが原点です。SNSで盛りあがったので、一堂に会してみんなで聴くみたいな。要はラジオのオフ会。マネタイズとかグッズを売ろうみたいのが、先にあったわけではありません。ただ、オードリーさんは日本武道館で、三四郎は国際フォーラムのホールAでやりました。特別なことをやるのではなく、ラジオのリスナーしかわからない企画で、ラジオを聴いてない人が来ても意味がないんです」と述べている。",
"title": "歴史"
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"text": "2022年10月3日1時から3時(10月2日深夜)に、オールナイトニッポン初代パーソナリティを務めた斉藤安弘がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン55周年記念特別番組『1967年10月2日 オールナイトニッポンが生まれた日』」が生放送された。また、ニッポン放送出身のフリーアナウンサーの垣花正もパーソナリティに加わる。この番組では、パーソナリティのアンコーこと斉藤安弘が進行役を務め、1967年10月2日月曜日の夜はどんなものだったかを関係者の証言と音楽によって紐解くもの。さらに、ニッポン放送の有楽町社屋の地下4階から見つかった、2000年に収録されたニッポン放送の編成部長だった羽佐間重彰の30分間にわたって行われた「貴重なインタビュー」を紹介したり、テーマ曲である『ビター・スウィート・サンバ』の選定に関与した朝妻一郎のインタビューを送った。",
"title": "歴史"
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"text": "2022年10月29日には『オールナイトニッポン55周年記念 佐久間宣行のオールナイトニッポン0 presents ドリームエンターテインメントライブ in 横浜アリーナ』が行われた。また、2022年10月30日には『オールナイトニッポン55周年記念 ナインティナインのオールナイトニッポン歌謡祭』が横浜アリーナで行われた。",
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"text": "2022年11月19日から2022年12月25日までオールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、ユナイテッドアローズが展開している「ビューティ&ユース ユナイテッドアローズ」とコラボレーションしたファッションアイテム7種の予約販売を行った。",
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"text": "2023年1月15日には、「オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポンXスペシャルライブ2023」が、横浜アリーナで行われた。",
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"text": "2023年1月24日11時30分から、QuizKnockが問題の制作を手掛ける歴代のオールナイトニッポンにまつわるオリジナル検定『全国統一オールナイトニッポン検定 supported by Galaxy』の受付を5万5千人限定で開始され、その受験期間は2023年2月13日11時30分から2月26日23時59分までとなった。",
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"text": "2023年2月10日から2月20日まで、大宮エリーデザインの「オールナイトニッポン55周年 オフィシャルロゴ」と、シリアルナンバーを刻んでいる「オールナイトニッポン55周年記念『オリジナル純金1gカード』」をニッポン放送の「ニッポン放送ただいま営業中」というツイッターアカウントをフォローして、プレゼント企画の応募ツイートをリツイートする方法で応募した方の中から抽選で55名にプレゼントするキャンペーンを行った。",
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"text": "2023年2月10日から2月28日まで有楽町マルイの8階イベントスペースで、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して『オールナイトニッポンミュージアム』が期間限定で開設された。",
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"text": "2023年2月17日18時から20日1時(19日深夜)までの55時間に『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』という大型特番が放送された。これは、2008年2月にオールナイトニッポン放送開始40周年を記念して『俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル』を、2013年2月にはオールナイトニッポン放送開始45周年を記念して『たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル』をそれぞれ放送しており、今回、10年ぶりにこのような大型特番を放送することになったもの。なお、この大型特番のエグゼクティブプロデューサーに秋元康が就くことになった。これについて、ニッポン放送社長の檜原麻希は2022年9月14日に行われた定例会見の中で、「高校2年生の時にニッポン放送に放送原稿を送ってきて、そこからニッポン放送で作家デビューされた。その縁で今回のキャスティングになった」と述べている。また、オールナイトニッポンが55年にわたってリスナーから愛されていることに関し、檜原は「長寿番組というものは歴史の中でアッブダウンがあり、もう次に行ったほうがいいんじゃないかという意見もその都度あるが、それを超えて継承されてきたのは、支持するリスナーが必ずいたから」と感謝の意を述べた上で「ラジコ以降、若者がたくさん戻ってきてくれている」とした上で「この先100年続くように、しっかり継承していきたい」と抱負を述べている。また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「40周年も45周年も特番をやりましたが、ニッポン放送界わいだけで盛りあがった感じでした。55周年特番の出演者を発表したら、SNSですさまじく拡散されて。10年前にはなかったことだと思います。」と述べている。",
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"text": "冨山は、「プロデューサーとして大切にしていること」について問われ「(2023年)現在はすべてのメディアがスマホの奪い合いですよね。インスタがあってユーチューブ、ライン、ツイッター、ティクトックがあって。他局がライバルではなく、スマホの中にあるアプリが全部ライバル。聴きに来てもらう間口は増えましたが、聴いてもらうのが難しい時代だなって思います。だから、リアルタイムで同じ時間を過ごそうとしてくるリスナーは、めちゃ大事に思っています。そのリスナーがどう思うかとか、喜んでくれるかな、みたいなところがベースです。」と答えた。",
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"paragraph_id": 222,
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"text": "2023年3月4日と5日に日本武道館において、オールナイトニッポン55周年記念公演として、『東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない』が行われた。",
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"text": "2023年3月から4月の間に、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、ヨーロッパ企画の上田誠の新作として『たぶんこれ銀河鉄道の夜』という舞台を東京・愛知・高知・大阪で上演した。また、2023年1月27日には、公演の完売が多数になるという好評を受けて、東京での追加公演と共に、おまけとして、ゲストを招いてのトークショーを行うことを発表した。",
"title": "歴史"
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"text": "2022年3月から4月の間にオールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、かつて、オールナイトニッポン放送開始50周年のスペシャルラジオドラマとして放送された『明るい夜に出かけて』が舞台として上演された。",
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"text": "2023年9月11日から9月16日にかけて、お笑い芸人がパーソナリティを務める『オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク2023』が行われた。",
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"text": "2023年9月11日",
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"text": "2023年9月12日",
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"text": "2023年9月13日",
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"text": "2023年9月14日",
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"text": "2023年9月15日",
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"text": "2023年9月16日",
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"text": "2023年10月14日・15日には、多数の続編制作の待望の声を受けて『オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』の続編・『あの夜であえたら』を上演した。前作に続いて、脚本・演出を小御門優一郎、プロデュースを石井玄、そして監修を佐久間宣行がそれぞれ務めた。また、前作に続いて、メインキャストの追加のオーディションを行った。また、この公演の主題歌はAdoが歌う『オールナイトレディオ』で、この楽曲の作詞・作曲・編曲をポカロPのMitchie Mが手掛けている。この起用については、「綾川千歳(演:井上音生)が大ファンであり、綾川たっての希望によるもの」だという。この劇中のラジオ番組・『綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)』が、実際に2023年8月14日の3時から5時(13日深夜)に生放送された。2023年8月14日には、オールナイトニッポンの現役パーソナリティとして、2023年10月14日にオードリーとあのが、10月15日に小宮浩信(三四郎)と松田好花(日向坂46)がそれぞれ映像という形で出演した。また、この舞台の監修をしている佐久間宣行が10月14日・15日の両日に特別に出演する。2023年10月2日の3時から5時(1日深夜)には、『綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)』が実際に生放送される。また、実際にゲストとして、藤尾涼太(演:千葉雄大)が出演することも発表されると共に、スタジオブースの中で、構成作家の神田龍二(演:入江甚儀)がその放送の様子を見守るという設定で実際の生放送が進行していった。千穐楽の10月15日には、その公演の終了後、会場限定でアフタートークを開催し、公演直後にトークを行った。このアフタートークでは、髙橋ひかる・千葉雄大・工藤遥・相田周二(三四郎)に加えて、脚本・演出の小御門優一郎・監修・特別出演の佐久間宣行が登壇した。",
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"paragraph_id": 233,
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"text": "2024年2月18日には、オールナイトニッポン史上初めて東京ドームでの番組イベントとして『オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム』が開催される。また、星野源が、このイベントのテーマソングを手掛けることが2023年9月3日未明(2日深夜)に明らかにされ、2023年12月3日未明(2日深夜)に放送されたオードリーのオールナイトニッポンにて、星野源が手掛けた『おともだち』が、初解禁された。また、このイベントは全国の47都道府県で合わせて200館の映画館、並びにLINE CUBE SHIBUYAでライブビューイングが実施される。",
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"paragraph_id": 234,
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"text": "これについて、ニッポン放送のエンターテインメント開発部の石井玄によれば、2019年に行われた「オードリーのオールナイトニッポン10周年全国ツアー in 日本武道館」というライブにおいて、観客1万2000人とライブビューイング1万人の合わせて2万2000人を動員して、大成功を収めたことのその興奮の余波によって、「次は東京ドームじゃないの?(笑)」という軽いノリから始まったという。その後、「15周年記念のときはどこでやろうか」「やっぱり東京ドームでできないかな」という話になって、いろんな人に「東京ドームの予算ってどんな感じですか?」と聞いたら、東京ドームなどの大きな会場は、基本的に2日間のイベントで開催しないと予算が成立しないことが判明したという。しかしながら、機材や人員を他のイベントと共有することによって、1日のイベントでも予算が成立する見込みが立ったため、何とか開催できる形になったという。",
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"paragraph_id": 235,
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"text": "日曜深夜にも1984年以前に『オールナイトニッポン電話リクエスト』という、糸居五郎や木藤隆雄、はたえ金次郎(波多江孝文)などが担当した電話リクエスト番組があった。歴代担当者は以下の通り。",
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"paragraph_id": 236,
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"text": "1984年4月以降はオールナイトニッポンを冠しない、女性アーティストやアイドルが担当する番組となった(最初の番組は『タッチ・ミー・EPO』)。",
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"paragraph_id": 237,
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"text": "その後、オールナイトニッポン30年を迎えた1997年10月に日曜日の電話リクエストが復活。以降、LF+Rの期間を含め以下のような番組を行っていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 238,
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"text": "他にオールナイトニッポンを冠した番組として、2008年4月 - 2009年3月には、『上原隆のオールナイトニッポン サポーターズ』(25:00 - 25:30)が、2009年10月11日 - 2010年9月12日には、『オールナイトニッポンサンデー』が放送されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 239,
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"text": "その後、単発で放送された 『ROLLYと谷山浩子のオールナイトニッポンR』(2012年10月14日、27:00 - 29:00)以外は日曜日のオールナイトニッポンは放送されていなかったが、2013年4月改編から2018年10月改編にかけて『中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ』が放送された。日曜のオールナイトニッポンレギュラー枠では、2003年3月に『中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER!』と『飯島愛の@llnightnippon Sunday.com』が終わって以来、10年ぶりとなる。また『中島みゆきの月イチ』は、一部の局ではあるがネットされており、サンデースペシャルが放送される時間帯はほとんどの局では他番組の遅れネットやプロダクション制作の番組の放送、あるいはメンテナンスに充てることがほとんどのため、日曜日の枠が全国ネット(一部)がなされるのは初めてのこととなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 240,
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"text": "2019年4月からは月に一度、25:30 - 27:00に『WANIMAのオールナイトニッポン 〜にちようび〜』 を、27:00 - 29:00に『高嶋ひでたけのオールナイトニッポン月イチ』 を放送開始した。WANIMAは土曜の月一放送からのスライドとなり、高嶋は1972年以来、47年ぶりにオールナイトニッポンに復帰した。その後、2020年2月19日の放送分をもって『WANIMAのオールナイトニッポン 〜にちようび〜』が終了し、2020年9月現在は『高嶋ひでたけのオールナイトニッポン月イチ』が放送されているほか、前述の『綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)』も日曜深夜にあたるこの時間帯に放送されている。。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 241,
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"text": "テーマ曲として採用された経緯については諸説ある。",
"title": "テーマ曲"
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"paragraph_id": 242,
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"text": "CM前とCM明けのジングルを数々のアーティストが手がけており、放送開始から40周年・45周年・50周年・55周年を記念した特別番組・特別企画においてはこれらのジングルが様々使用された(1990年代後半のものなど、使用されなかったジングルも多い)。現在の通常放送でも、ディレクターの意向により現在使用されていないジングルを放送する場合もある。下記のものは22時・23時台の『SUPER!!』から『MUSIC10』を除く番組で流れた共通ジングル。CM前にこちらを流し、CM明けにそれぞれの番組のジングルを流すパターンもある。ウッチャンナンチャンや松任谷由実など一部パーソナリティは「オールナイトニッポン」と歌う部分の前に「〇〇の!」とコールする音声を入れていた(それで「〇〇のオールナイトニッポン」となる仕組み)。",
"title": "番組ジングル"
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{
"paragraph_id": 243,
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"text": "現在、『オールナイトニッポン(1部)』は全国36局ネットであり、放送対象地域上では全ての都道府県で聴取可能な番組である。地方でのネット局は、主にニッポン放送がキー局を務めている全国ラジオネットワーク(NRN)の加盟系列局が多いが、3部制となった1999年のLF+R時代以降、時間帯によってネット局が変わるなど状況が複雑化した。2019年10月現在、日本の民間AM局のうち、ニッポン放送のエリア以外で『オールナイトニッポン』シリーズを一切放送していないのは岐阜放送(ぎふチャン)、MBSラジオ、琉球放送(RBCiラジオ)の3局のみとなっている。",
"title": "ネット局"
},
{
"paragraph_id": 244,
"tag": "p",
"text": "ネット局で年末年始特番が行われる場合があるほか、地元のプロ野球チームが優勝した日は優勝記念特別番組放送が編成され、いずれも休止となる場合がある。一例として、",
"title": "ネット局"
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{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "などが挙げられる。",
"title": "ネット局"
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{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "愛知・岐阜・三重県では1部枠をJRN単独系列のCBCラジオ(以下「CBC」)で放送している関係から、CBCはニッポン放送の音声を東京都千代田区九段のCBC東京支社を経由してネットしている(伝送にはNTTコミュニケーションズの帯域保証のIP回線を使用)。これは、ANNの開始当初に放送地域の拡大を試み、NRN系列の東海ラジオに放送を依頼したが、自社制作の人気番組『ミッドナイト東海』(現在の『東海ラジオミッドナイトスペシャル』)を放送している関係からネットを断られ、CBCに依頼したためである。CBCは当時放送していた自社制作番組『CBCビップ・ヤング』が『ミッドナイト東海』の後塵を拝していたことに加え、社内部より深夜労働に対する反発があったことなどから放送が了承された。その後、東海ラジオは1999年に『サタデースペシャル』、1999年10月に22時枠、2021年に27時枠(後述)をそれぞれネット開始したため、中京広域圏では番組シリーズが局を超越して放送される事態となった。",
"title": "ネット局"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "CBCは1部のみの放送、かつ東海ラジオは平日27・28時台に『日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲』(文化放送)をネットしていたため、中京広域圏では27時以降の枠が放送されていなかったが、『走れ!歌謡曲』の2021年3月での終了を契機に、同年4月から平日27時以降の枠をネット開始した。",
"title": "ネット局"
},
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"paragraph_id": 248,
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"text": "京阪神地区で本番組をネット受けしていたのは、長らくラジオ大阪(以下、OBC)とKBS京都(以下、KBS)であったが、2001年4月から3年にわたり独立局のAM KOBE(以下、AMK、現在のCRK・ラジオ関西)でも『SUPER!』→『いいネ!』がネットされた。それまでは自社制作の深夜ワイド番組『神戸アコースティックストーリー』を放送していたが、ニッポン放送からの番販購入の形でこの番組を同時ネット受けすることになった。また、2007年4月からは変則的に『エバーグリーン』の飛び乗りネットを開始し、10月以降は27時からのフルネットに枠拡大、その後継枠である『くり万太郎のオールナイトニッポンR』『オールナイトニッポン0(ZERO)』もネットを継続している。CRKは全国のラジオ局の中で25時 - 28時台をTBS『JUNK』→LF『オールナイトニッポン0(ZERO)』の順で編成している唯一の局である。",
"title": "ネット局"
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"paragraph_id": 249,
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"text": "2009年7月、京阪神地区で長年22時台に独自の夜ワイド番組『ABCミュージックパラダイス』を制作していた朝日放送(以下、ABC、現在の朝日放送ラジオ)は、月曜 - 木曜の自社制作を打ち切り、ニッポン放送の『銀河に吠えろ!宇宙GメンTAKUYA』をネットすることになった。この枠は2009年11月に『オールナイトニッポンGOLD』に移行したため、在阪局ではOBCに次いで、ABCでも本番組シリーズがネットされることになった。ただし、当該時間帯におけるABCのニッポン放送からのネット受け開始を受けて、CRKとKBSは『TAKUYA』の途中の2009年10月改編で当該時間帯のネット受けを撤退し、KBSは金曜を除いて文化放送の裏番組『レコメン!』を全編ネット受けに切り替え、CRKは当該時間帯の自社制作を再開 している。また、2010年4月からは『サタデースペシャル』枠の『魂のラジオ』もABCラジオでネット開始され、その後継枠である『大倉くんと高橋くん』も引き続きネットを継続している。",
"title": "ネット局"
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"paragraph_id": 250,
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"text": "2013年10月からは『中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ』を、大阪のFM局FM COCOLO がネットすることとなり、本番組の歴史上、初めてFM局でネットされることとなった。さらに2014年4月改編からは『オールナイトニッポンGOLD』のABCのネット終了を受ける形で、FM COCOLOでネットすることとなった(金曜を除く。2015年10月からの『オールナイトニッポン MUSIC10』も引き続きネット)。",
"title": "ネット局"
},
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"paragraph_id": 251,
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"text": "この結果、2022年10月編成時点で京阪神地区においては、『MUSIC10』はFM COCOLO、1部はOBCとKBS、『0(ZERO)』はCRKとKBS、『Premium』はKBS、『サタデースペシャル』はABCとKBSというように、番組ごとにネット局が変わる事態となった。",
"title": "ネット局"
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"paragraph_id": 252,
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"text": "KBSは1部を1978年4月に開始しているが、ネット開始する以前(1976年7月当時)は『日本列島ズバリリクエスト』(23:00 - 26:00)と『ミュージック・オン・ステージ』(26:00 - 29:00 木曜 - 土曜は別番組の関係で時差開始)を放送していた。",
"title": "ネット局"
},
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"paragraph_id": 253,
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"text": "土曜 23:30 - 25:00の『サタデースペシャル』枠(『魂のラジオ』→『大倉くんと高橋くん』)はもともとの『ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!』がオールナイトニッポン枠でなかったことも影響しさらにネット局事情が複雑化している。",
"title": "ネット局"
},
{
"paragraph_id": 254,
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"text": "北海道では、以前は25:00 - 29:00枠と同様STVラジオがネットしていたが、2002年3月に打ち切ったため、1年半のブランクを置いて、2003年10月より競合局の北海道放送(HBC)でネットしている。福岡県でも同様に、22:00 - 23:00枠、25:00 - 29:00枠(月イチも含む)は全て九州朝日放送(KBC)で流れているにもかかわらず、『サタデースペシャル』枠だけはRKB毎日放送がネットするという現象が起きている。特に、RKBラジオはNRNには加盟していないため、CBC同様特殊なケースとなっている。東海地区では、『ジャンベルジャン』枠を引き継いだ東海ラジオが『魂のラジオ』放送開始時からネット、2010年4月からは上記の通りABCでもネットを開始しているなど、特に都市圏における『サタデースペシャル』枠は1部のネット局とは異なっている状況である。",
"title": "ネット局"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "12月25日 1:00(新聞上は12月24日の放送欄)からの本番組は『オールナイトニッポン ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』として放送される(ラジオ・チャリティー・ミュージックソンの一環)。以前は、ニッポン放送は関東ローカル独自の放送のため放送されず、裏送りのみされたが、2007年度以降は、ニッポン放送発の番組をミュージックソン非参加局を含む各ネット局がネットしている。一方、独自で『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の企画番組を放送する中国放送などのネット局は、この日に限りネットは返上し、1部の協賛社は企画番組のスポンサーとしてCMのみネットする代替対応を取る。",
"title": "ネット局"
},
{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "ワールド・ベースボール・クラシックやFIFAワールドカップなど、日本時間の深夜に日本あるいは海外で行なわれる野球・サッカー中継をニッポン放送が中継・ネットする当日に、本番組の放送と重なる場合は、本番組を放送せず、裏送りのみを行なう。その際、放送される試合によっては放送権の関係でradikoでの放送はできないため、フィラー音楽とその間にニッポン放送のアナウンサーによる「放送権の都合によりradikoでの放送は行ないません。地上波でお聴きください」という説明が放送される。また、NRN系の多くの局も試合の中継を優先するため、本番組は放送されない(場合によっては飛び乗り)。そのため、場合によってはネット受けがラジオ大阪とCBCの2局のみの時もある(中京広域圏では東海ラジオ、関西広域圏はABCでサッカー中継をネットすることが多いため)。",
"title": "ネット局"
},
{
"paragraph_id": 257,
"tag": "p",
"text": "放送時間以前に自然災害(地震・台風・大雨・風水害)が発生した場合でも、基本的には一部の例外を除き本番組のシリーズを通常通り放送することが多いが、その自然災害の被災地ではその日の放送は返上という形になる場合もある(例として、2016年の熊本地震時においての熊本をはじめとする九州の一部地域が該当)。",
"title": "ネット局"
}
] | 『オールナイトニッポン』は、1967年10月2日から日本のラジオ放送局であるニッポン放送をキーステーションに全国ネットで放送されているラジオの深夜番組である。通称は「オールナイト」「ANN」。ここでは現在の放送枠である25:00 - 27:00の内容のほか、主に22:00 - 29:00(5:00)に放送されている「オールナイトニッポン」をタイトル内に含む番組全体の歴史などについても記述する。詳細については枠・番組の記事をそれぞれ参照のこと。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{otheruses|ニッポン放送が制作するラジオ番組|略称として同じ「ANN」を使用するテレビ朝日をキー局とするニュースネットワーク|オールニッポン・ニュースネットワーク|}}
{{Notice|スポンサーを記述しないでください(この記事の番組は、一社協賛番組でも冠スポンサー番組でもない、複数社協賛番組です。このような記述は削除されます)。|注意|attention}}
{{複数の問題|参照方法=2013年2月|大言壮語=2013年2月|内容過剰=2013年2月}}
{{基礎情報 ラジオ番組
| 番組名 = オールナイトニッポン
| 愛称 = オールナイト、ANN、1部
| ジャンル = [[帯番組]] / 深夜トーク番組
| 放送方式 = [[生放送]]([[収録|録音]]の場合あり)
| 放送時間 = 月 - 土曜 25:00 - 27:00(火 - 日曜[[未明]]1:00 - 3:00、120分)
| パーソナリティ = [[Adoのオールナイトニッポン|【月】]][[Ado]]<br />[[星野源のオールナイトニッポン|【火】]][[星野源]]<br />[[乃木坂46のオールナイトニッポン|【水】]][[乃木坂46]]<br />[[ナインティナインのオールナイトニッポン|【木】]][[ナインティナイン]] <br />[[霜降り明星のオールナイトニッポンシリーズ|【金】]][[霜降り明星]]<br />[[オードリーのオールナイトニッポン|【土】]][[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]
| テーマ曲 = 『[[BITTERSWEET SAMBA]]』<br />[[ハーブ・アルパート]]と<br />ティファナ・ブラス
| 放送局 = [[ニッポン放送]]ほか
| ネットワーク = [[全国ラジオネットワーク|NRN]]他(詳細は[[#一覧|下記へ]])
| 制作 = ニッポン放送
| 放送期間 = [[1967年]][[10月2日]] -<br />([[1999年]][[3月29日]] - [[2003年]][[3月29日]]の間、[[@llnightnippon.com]]など)
| 放送回数 =
| 公式サイト = https://www.allnightnippon.com/
| 特記事項 = この番組では、[[暦日]]([[深夜]]0時区切り)での[[火曜日]][[未明]]を「[[月曜日]]」([[深夜]])などと表現している。<br />1998年3月まで、広義の放送時間は25:00 - 29:00(240分)であり、その中で25:00 - 27:00を「第1部」、27:00 - 29:00を「第2部」(現『[[オールナイトニッポン0(ZERO)]]』)として放送。<br />各曜日の番組内容については各記事を参照。
}}
『'''オールナイトニッポン'''』({{Lang-en-short|''All Night-NIPPON''}})は、[[1967年]][[10月2日]]から[[日本のラジオ放送局]]である[[ニッポン放送]]を[[キーステーション]]に全国[[ネットワーク (放送)|ネット]]で放送されているラジオの[[深夜番組]]である。通称は「オールナイト」「ANN{{efn2|アルファベットの頭文字をとった略称。[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日のニュースネットワーク]](ANN)とは別。|group="注"}}」。ここでは現在の放送枠である25:00 - 27:00(1:00 - 3:00)の内容のほか、主に22:00 - 29:00(5:00)に放送されている「オールナイトニッポン」をタイトル内に含む番組全体の歴史などについても記述する。詳細については枠・番組の記事をそれぞれ参照のこと。
== 概要 ==
[[1967年]][[10月2日]]に開始した[[ラジオ]]の[[長寿番組の一覧|長寿番組]]であり、2019年10月時点、[[ニッポン放送]]制作番組の中で、放送期間は『[[テレフォン人生相談]]』(1965年1月30日開始)に次ぐ第2位となっている<ref>[[花輪如一]]『プロが教えるラジオの教科書』pp.199-203</ref>。
一連のオールナイトニッポンシリーズは[[生放送]]をコンセプトとしている<ref name="sponichi_20200708">{{Cite news|和書|title=ニッポン放送社長「ナイナイANN」は「早期に生放送に戻す」|newspaper=[[スポーツニッポン]]|date=2020-07-08|author=|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/07/08/kiji/20200708s00041000198000c.html|accessdate=2020-09-25}}</ref>。基本的には[[有楽町]](有楽町の本社ビルを建て替える1997年4月から2004年9月までは[[お台場]]・[[FCGビル]])のニッポン放送本社ビルからの生放送だが、スケジュールの関係が絡む場合、ネットしている地方局のスタジオや[[大阪市]]にある[[ブリーゼタワー]]のニッポン放送[[関西]]支社に常設されたスタジオから、さらには[[ラジオパーソナリティ]]が泊まる地方のホテルなどを借りて機材を置いたり、番組の企画も重ねて屋外や海外から中継したりといった形で生放送する場合もある<ref group="注">いずれの場合も通常使うニッポン放送本社のスタジオは[[バックグラウンドミュージック|BGM]]や[[コマーシャルメッセージ|CM]]出しのための受けサブとして使われ、不測の事態に備え、ニッポン放送のアナウンサーまたは第2部を担当するパーソナリティが中継に向かわない番組スタッフとともに待機する。</ref>。パーソナリティの意向や、スケジュールなどの関係で生放送ができない場合などの理由で、録音となる場合がある<ref name="sponichi_20200708" />が、録音の場合であってもほとんどは「[[同時パッケージ]]」の疑似生放送となる。
1999年より「[[LF+R]]」時代の『[[allnightnippon SUPER!|SUPER!]]』『[[@llnightnippon.com|.com]]』『[[オールナイトニッポンR|R]]』『[[オールナイトニッポンサタデースペシャル|サタデースペシャル]]』や、「LF+R」後の『[[オールナイトニッポンいいネ!|いいネ!]]』『[[オールナイトニッポンサンデー|サンデー]]』『[[オールナイトニッポンエバーグリーン|エバーグリーン]]』『[[オールナイトニッポンGOLD|GOLD]]』『[[オールナイトニッポン0(ZERO)|0(ZERO)]]』『[[オールナイトニッポンPremium|Premium]]』『[[オールナイトニッポンX|X]]』など「オールナイトニッポン」ブランドで多くの番組が放送されており、本来の25 - 29時枠の他、「LF+R」導入後は22 - 24時枠でも断続的に「オールナイトニッポン」の名を冠す番組が放送されている。2021年4月以降は月-土曜日の夜ワイド番組が「オールナイトニッポン」シリーズとして統一されている。詳しくは「[[ニッポン放送の夜ワイドの変遷]]」を参照。
現在は、旧1部(25:00 - 27:00(1:00 - 3:00))を『オールナイトニッポン』、旧2部(27:00 - 29:00(3:00 - 5:00))を『オールナイトニッポン0(ZERO)』と称している。また番組名のタイトルは基本的に「'''〇〇(パーソナリティー名)のオールナイトニッポン'''<ref group="注">この後ろに、25-27時を除き時間帯ごとの副題。一部はさらに「〇曜日」とタイムテーブル上の曜日を付け加える場合もある。</ref>」としている。
2022年6月から[[radiko]]において、放送音源のデジタルデータが残っていた2012年以降の分が「[[オールナイトニッポンJAM|ANNJAM]]」として定額聞き放題の[[サブスクリプション]]で配信されている(出演者や音楽の権利関係をクリアしたうえで誤解されかねない発言内容のチェック・編集が行われている)<ref>人気深夜ラジオ オールナイトニッポン サブスク「再放送」好評『[[産経新聞]]』朝刊2023年2月15日(文化面)</ref>。
== 現在放送及び配信中の番組枠一覧 ==
;2023年度秋改編以降(2023年10月2日 - )
{| class="wikitable" style="text-align: center; margin: 0 auto"
|-
!放送時間!! style="width:12em" |月曜日 - 木曜日!!style="width:12em" |金曜日!!style="width:12em" |土曜日!!style="width:12em" |日曜日(月一回)
|-
!18:00頃<br />-<br />配信予定
|colspan="3"|オールナイトニッポンPODCAST||rowspan="6" style="background-color:silver"|別番組
<!--|-
!19:00<br />-<br />21:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポンPremium-->
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="3"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />24:58
|オールナイトニッポンX(クロス)||rowspan="2"|オールナイトニッポンX(クロス)
|-
!24:58<br />-<br />25:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="3"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"|一部のネット局は29:00まで。}}||rowspan="3"|高嶋ひでたけの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />28:50
|rowspan="2" style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!28:50<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
|}
== 放送時間 ==
;現在放送および配信中の放送(配信)時間一覧 (2023年10月2日 - )
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto"
|-
!番組名!!style="width:8em" |月曜日 - 木曜日!!style="width:8em" |金曜日!!style="width:8em" |土曜日!!style="width:8em" |日曜日(月一回)
|-
!PODCAST
|colspan="3"|18:00頃 - 配信<br />(配信終了時間未定)||style="background-color:silver"|(配信なし)
|-
!MUSIC10
|22:00 - 24:00<br />(120分)||colspan="3" style="background-color:silver"|(放送なし)
|-
!GOLD
|style="background-color:silver"|(放送なし)||22:00 - 24:00<br />(120分)||colspan="2"rowspan="2" style="background-color:silver"|(放送なし)
|-
!X
|24:00 - 24:58<br />(58分)||24:00 - 25:00<br />(60分)
|-
!オールナイトニッポン
|colspan="3"|25:00 - 27:00<br />(120分)||rowspan="3" style="border-bottom:none;background-color:silver"|(放送なし)
|-
!0(ZERO)
|27:00 - 28:30<br />(90分)|||27:00 - 29:00<br />(120分)||27:00 - 28:50<br />(110分){{efn2|一部のネット局は120分。}}
|-
!サタデースペシャル
|colspan="2" style="background-color:silver"|(放送なし)||23:30 - 25:00<br />(90分)
|-
!月イチ
|colspan="3" style="background-color:silver"|(放送なし)||27:00 - 29:00<br />(120分)
|-
|}
ネット詳細は[[#ネット局|下記]]参照{{efn2|ネット局数にはニッポン放送自身も含む。}}
; オールナイトニッポン
* 月曜 - 土曜 25:00 - 27:00(36局ネット)
; [[オールナイトニッポン0(ZERO)]]
* 月曜 - 木曜 27:00 - 28:30、金曜 27:00 - 29:00(33局ネット)
* 土曜 27:00 - 29:00(25局ネット、[[IBC岩手放送]]、[[山形放送]]、[[和歌山放送]]は28:00、[[ラジオ関西]]、ニッポン放送は28:50に飛び降り)
; [[オールナイトニッポン MUSIC10]]
* 月曜 - 木曜 22:00 - 24:00(19局ネット(東北放送は月曜のみ自社制作番組放送のため非ネット)。火曜 - 木曜は東北放送が23:50飛び降り)
; [[オールナイトニッポンGOLD]]
* 金曜 22:00 - 24:00(18局ネット、[[東北放送]]は23:50に飛び降り)
; [[オールナイトニッポンX]]
* 月曜 - 木曜 24:00 - 24:58、金曜 24:00 - 25:00(月 - 木曜は2局ネット、金曜は関東ローカル)
; [[オールナイトニッポンサタデースペシャル]]
* 土曜 23:30 - 25:00(34局ネット)
; [[オールナイトニッポン月イチ]]
* 日曜 27:00 - 29:00(関東ローカル)
; [[オールナイトニッポンPODCAST]]
* 月曜 - 土曜 18:00配信(ニッポン放送PODCAST STATIONほかにて配信)
== 現在のパーソナリティ ==
{{See also|オールナイトニッポンのパーソナリティ一覧}}
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:95%"
!放送曜日!!名称!!パーソナリティ!!放送方式!!番組開始日
|-
!colspan="5"|オールナイトニッポン PODCAST(月曜-土曜 18:00頃 - 配信)
|-
|月曜日
|[[トータルテンボスのぬきさしならナイト!|<small>オールナイトニッポンPODCAST</small>トータルテンボスのぬきさしならナイト! Season2]]
|style="text-align:left"|[[トータルテンボス]]||rowspan="6"|録音(配信)||2020年5月18日
|-
|火曜日
|[[蛙亭のオールナイトニッポンシリーズ|<small>オールナイトニッポンPODCAST</small> 蛙亭のトノサマラジオ]]
|style="text-align:left"|[[蛙亭]]||2021年10月5日
|-
|水曜日
|[[銀シャリのオールナイトニッポンシリーズ|<small>オールナイトニッポンPODCAST</small>銀シャリのおトぎばなし]]
|style="text-align:left"|[[銀シャリ (お笑いコンビ)|銀シャリ]]||2021年3月3日
|-
|木曜日
|[[オールナイトニッポンPODCAST アンガールズのジャンピン|<small>オールナイトニッポンPODCAST</small>アンガールズのジャンピン]]
|style="text-align:left"|[[アンガールズ]]||2021年10月7日
|-
|金曜日
|[[オールナイトニッポンPODCAST トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画|<small>オールナイトニッポンPODCAST</small>トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画]]
|style="text-align:left"|[[トム・ブラウン (お笑いコンビ)|トム・ブラウン]]||2021年10月8日
|-
|土曜日
|○○(パーソナリティー名)のオールナイトニッポンPODCAST
|style="text-align:left"|(月替わり)||2021年10月9日
|-
!colspan="5"|オールナイトニッポン MUSIC10(月曜-木曜 22:00 - 24:00)
|-
|月曜日
|rowspan="6"|[[オールナイトニッポン MUSIC10]]{{efn2|2020年4 - 9月は、第5水曜日がある月の場合、当該日は「オールナイトニッポン MUSIC10」スペシャルパーソナリティが担当。2020年10月以降の第5水曜日がある月は「MUSIC10」の放送を休止し「オールナイトニッポンGOLD」名で特別番組を放送}}
|style="text-align:left"|[[森山良子]]||rowspan="6"|生放送||2015年9月28日
|-
|火曜日
|style="text-align:left"|[[鈴木杏樹]]||2015年9月30日{{efn2|2020年3月までは水曜日。}}
|-
|第1・3水曜日
|style="text-align:left"|[[名取裕子]]||2015年9月29日{{efn2|2020年3月までは火曜日。}}
|-
|第2水曜日
|style="text-align:left"|[[森高千里]]||2020年4月8日
|-
|第4水曜日
|style="text-align:left"|[[岸谷香]]||2020年4月22日
|-
|木曜日
|style="text-align:left"|[[渡辺満里奈]]||2018年1月4日
|-
!colspan="5"|オールナイトニッポンGOLD(金曜 22:00 - 24:00){{efn2|毎週金曜の放送のほか、2020年10月以降の第5水曜日がある月は「MUSIC10」の放送を休止し「オールナイトニッポンGOLD」名でスペシャルパーソナリティを起用し放送}}
|-
|第1金曜日
|[[あいみょんのオールナイトニッポンGOLD]]
|style="text-align:left"|[[あいみょん]]||rowspan="4"|生放送or録音||2023年4月7日
|-
|第2・4金曜日
|オールナイトニッポンGOLD スペシャルナイト{{efn2|『○○(パーソナリティー名)のオールナイトニッポンGOLD』として放送。}}
|style="text-align:left"|(週替わり)||2013年10月11日
|-
|第3金曜日
|[[松任谷由実のオールナイトニッポン|松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD]]
|style="text-align:left"|[[松任谷由実]]||2016年4月22日
|-
|最終金曜日
|[[ラブライブ!シリーズのオールナイトニッポンGOLD]]
|style="text-align:left"|[[ラブライブ!シリーズ]]||2020年7月24日{{efn2|第2期の開始日。第1期は2019年7月 - 2020年3月に放送された。}}
|-
!colspan="5"|オールナイトニッポンX(月曜-木曜 24:00 - 24:58/金曜 24:00 - 25:00)
|-
|月曜日
|[[山田裕貴のオールナイトニッポンX]]
|style="text-align:left"|[[山田裕貴]]||rowspan="6"|生放送||2022年4月4日
|-
|火曜日
|[[緑黄色社会・長屋晴子のオールナイトニッポンX]]
|style="text-align:left"|[[長屋晴子]]([[緑黄色社会]])||2022年4月5日
|-
|水曜日
|[[JO1のオールナイトニッポンX]]
|style="text-align:left"|[[JO1]](レギュラー:[[白岩瑠姫]])||2022年4月6日
|-
|木曜日
|○○(パーソナリティー名)のオールナイトニッポンX
|style="text-align:left"|(週替わり)||2022年4月7日{{efn2|2022年3月までは金曜日に放送。}}
|-
|最終木曜日
|[[高橋文哉のオールナイトニッポンX]]
|style="text-align:left"|[[高橋文哉]]|||2022年5月26日
|-
|金曜日
|[[EXITのオールナイトニッポンX]]
|style="text-align:left"|[[EXIT (お笑いコンビ)|EXIT]]||2022年4月8日
|-
!colspan="5"|オールナイトニッポン(月曜-土曜 25:00 - 27:00)
|-
|月曜日
|[[Adoのオールナイトニッポン]]
|style="text-align:left"|[[Ado]]||rowspan="6"|生放送||2023年4月3日
|-
|火曜日
|[[星野源のオールナイトニッポン]]
|style="text-align:left"|[[星野源]]||2016年3月28日{{efn2|2017年3月までは月曜日。}}
|-
|水曜日
|[[乃木坂46のオールナイトニッポン]]
|style="text-align:left"|[[乃木坂46]](レギュラー:[[久保史緒里]]{{efn2|放送開始から2022年2月10日までは[[新内眞衣]]、2022年2月17日から久保史緒里。}})||2019年4月3日
|-
|木曜日
|[[ナインティナインのオールナイトニッポン]]
|style="text-align:left"|[[ナインティナイン]]||2020年5月14日{{efn2|第2シーズンの開始日。第1シーズンは1994年4月から2014年9月まで放送された。}}
|-
|金曜日
|[[霜降り明星のオールナイトニッポンシリーズ|霜降り明星のオールナイトニッポン]]
|style="text-align:left"|[[霜降り明星]]||2021年4月3日
|-
|土曜日
|[[オードリーのオールナイトニッポン|<small>ニチレイ presents</small>オードリーのオールナイトニッポン]]
|style="text-align:left"|[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]||2009年10月10日
|-
!colspan="5"|オールナイトニッポン0(ZERO)(月曜-木曜 27:00 - 28:30/金曜 27:00 - 29:00/土曜 27:00 - 28:50)
|-
|月曜日
|[[フワちゃんのオールナイトニッポンシリーズ|フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO)]]
|style="text-align:left"|[[フワちゃん]]||rowspan="5"|生放送||2022年4月4日
|-
|火曜日
|[[あののオールナイトニッポン0(ZERO)]]
|style="text-align:left"|[[あの]]||2023年4月4日
|-
|水曜日
|[[佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)]]
|style="text-align:left"|[[佐久間宣行]]||2019年4月3日
|-
|木曜日
|[[マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0(ZERO)]]
|style="text-align:left"|[[マヂカルラブリー]]||2021年4月1日
|-
|金曜日
|[[三四郎のオールナイトニッポンシリーズ|三四郎のオールナイトニッポン0(ZERO)]]
|style="text-align:left"|[[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]]||2021年4月2日{{efn2|第2期の開始日。第1期は2015年4月から2019年3月まで放送された。}}
|-
|土曜日
|○○(パーソナリティー名)のオールナイトニッポン0(ZERO)
|style="text-align:left"|(週替わり)||生放送or録音||2018年4月7日
|-
|最終土曜日
|[[日向坂46 松田好花のオールナイトニッポン0(ZERO)|日向坂46・松田好花のオールナイトニッポン0(ZERO)]]
|style="text-align:left"|[[松田好花]]([[日向坂46]])||生放送||2023年10月28日
|-
!colspan="5"|オールナイトニッポンサタデースペシャル(土曜 23:30 - 25:00)
|-
|土曜日
|[[SixTONESのオールナイトニッポンサタデースペシャル]]
|style="text-align:left"|[[SixTONES]](レギュラー:[[田中樹]])|||生放送||2020年4月4日
|-
!colspan="5"|オールナイトニッポン月イチ(日曜 27:00 - 29:00)
|-
|日曜日(毎月1回)
|[[高嶋ひでたけのオールナイトニッポン|高嶋ひでたけのオールナイトニッポン月イチ]]
|style="text-align:left"|[[高嶋ひでたけ]]||生放送or録音||2019年4月14日
|-
|}
=== 記録 (アナウンサーは含まない)===
(2023年2月現在)
{| class="wikitable" font-size:smaller"
!colspan="5"|出演期間{{efn2|放送時間では4時間放送していた[[笑福亭鶴光]]が最長である。またアナウンサーを含めると、[[斉藤安弘]]は5年半の期間を毎週4時間、エバーグリーンとして5年半、週4日を2時間放送(更に増刊号放送もある)したのが放送時間最長となるほか、[[糸居五郎]]は11年半の期間DJを務めている。}}
|-
!記録!!パーソナリティ!!開始年月!!終了年月!!出演期間
|-
!最長レギュラーパーソナリティ
|岡村隆史
|1994年{{0}}4月
|担当中
|28年{{0}}10か月-{{efn2|2014年10月から2020年5月までは単独で、それ以外はコンビ([[ナインティナイン]])で担当。2010年7月 - 11月は体調不良のため休演}}
|-
!colspan="5"|昇格関連
|-
!記録!!パーソナリティ!!開始年月!!昇格年月!!出演期間
|-
!番組初昇格
|イルカ
|1974年{{0}}7月
|1975年{{0}}1月
|rowspan="2"|{{0}}0年{{0}}6か月
|-
!-R初昇格
|ゆず
|1998年{{0}}4月
|1998年10月
|-
!-ZERO初昇格
|久保ミツロウ&能町みね子
|2012年{{0}}4月
|2013年{{0}}4月
|{{0}}1年{{0}}0か月
|-
!rowspan="2"|最短期間での昇格
|ダディ竹千代
|1980年{{0}}4月
|1980年{{0}}7月
|rowspan="2"|{{0}}0年{{0}}3か月
|-
|ナインティナイン
|1994年{{0}}4月
|1994年{{0}}7月
|-
!rowspan="2"|最長期間での昇格
|三四郎
|2015年{{0}}3月
|2019年{{0}}4月
|rowspan="2"|{{0}}4年{{0}}0か月
|-
|Creepy Nuts
|2018年{{0}}4月
|2022年{{0}}4月
|-
!colspan="5"|復帰関連{{efn2|アナウンサーを含めると、番組初復帰は今仁哲夫(1969年10月)である。}}
|-
!記録!!パーソナリティ!!終了年月!!復帰年月!!中断期間
|-
!番組初復帰
|あのねのね
|1973年12月
|1974年10月
|{{0}}0年{{0}}9か月
|-
!rowspan="2"|最短期間での復帰
|松村邦洋
|1996年{{0}}6月
|1996年10月
|rowspan="2"|{{0}}0年{{0}}3か月
|-
|村本大輔
|2015年{{0}}3月
|2015年{{0}}7月
|-
!最長期間での復帰{{efn2|アナウンサーを含めると、最長期間での復帰は高嶋秀武の47年3か月である。}}
|鴻上尚史
|1989年{{0}}3月
|2018年{{0}}1月
|28年{{0}}9か月
|}
== 変遷 ==
=== 番組枠の変遷 ===
{{See|ニッポン放送の夜ワイドの変遷#オールナイトニッポン}}
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:100%;text-align:center;font-size:small;"
|-style="text-align:center;"
!colspan="13" style="text-align:center" |過去に放送された番組枠変遷一覧
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |4時間時代(1967年 - 1974年)
|-
!放送時間!!月曜日 - 木曜日!!金曜日!!土曜日!!日曜日
|-
!colspan="5"|1967年10月 - 1968年03月
|-
!25:00<br />-<br />29:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン||style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|1968年04月 - 1968年09月
|-
!23:30<br />-<br />25:00
|colspan="3" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />電話リクエスト
|-
!25:00<br />-<br />26:00
|colspan="3"rowspan="2"|オールナイトニッポン
|-
!26:00<br />-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|1968年10月 - 1972年09月
|-
!24:30<br />-<br />25:00
|colspan="3" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />電話リクエスト
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"rowspan="2"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!放送時間!!月曜日 - 木曜日!!金曜日!!土曜日!!日曜日
|-
!colspan="5"|1972年10月 - 1972年12月
|-
!24:05<br />-<br />24:30
|colspan="3"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />電話リクエスト<ref name="電リク">時期によって放送時間が異なる。</ref>
|-
!24:30<br />-<br />25:00
|rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン ビバカメショー<br />(亀渕昭信)
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン ビバテツショー<br />(今仁哲夫)
|-
!colspan="5"|1973年01月 - 1973年06月
|-
!24:05<br />-<br />24:30
|colspan="3"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />電話リクエスト<ref name="電リク"/>
|-
!24:30<br />-<br />25:00
|rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン ビバカメショー
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン ビバケンショー<br />(池田健)
|-
!colspan="5"|1973年07月 - 1974年06月
|-
!24:05<br />-<br />24:30
|colspan="3"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />電話リクエスト<ref name="電リク"/>
|-
!24:30<br />-<br />25:00
|rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />29:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!colspan="5"|1974年07月 - 1977年03月
|-
!24:05<br />-<br />24:30
|colspan="3"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />電話リクエスト<ref name="電リク"/>
|-
!24:30<br />-<br />25:00
|rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="2"|オールナイトニッポン<br />第1部||rowspan="2"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|colspan="2"|オールナイトニッポン<br />第2部
|-
!colspan="5"|1977年04月 - 1978年09月
|-
!24:05<br />-<br />24:30
|colspan="3"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />電話リクエスト<ref name="電リク"/>
|-
!24:30<br />-<br />25:00
|rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|オールナイトニッポン<br />第1部||colspan="2"rowspan="2"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|オールナイトニッポン<br />第2部
|-
!colspan="5"|1978年10月 - 1984年03月
|-
!24:05<br />-<br />24:30
|colspan="3"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />電話リクエスト<ref name="電リク"/>
|-
!24:30<br />-<br />25:00
|rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="2"|オールナイトニッポン<br />第1部||rowspan="2"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|colspan="2"|オールナイトニッポン<br />第2部
|-
!colspan="5"|1984年04月 - 1986年03月
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="2"|オールナイトニッポン<br />第1部||rowspan="2"|オールナイトニッポン||rowspan="2" style="background-color:silver"|‐
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|colspan="2"|オールナイトニッポン<br />第2部
|-
! colspan="12" style="text-align:center" |2部構成(1986年 - 1999年)
|-
!放送時間!!月曜日 - 木曜日!!金曜日!!土曜日!!日曜日
|-
!colspan="5"|1986年04月 - 1997年09月
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン<br />第1部||rowspan="2" style="background-color:silver"|‐
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン<br />第2部
|-
!colspan="5"|1997年10月 - 1998年03月
|-
!19:00<br />-<br />21:00
|colspan="2"|オールナイトニッポンDX||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!21:00<br />-<br />23:00
|colspan="2"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:00<br />-<br />25:00
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />電話リクエスト
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />第1部||rowspan="3"|T.M.Revolution西川貴教の<br />オールナイトニッポン<br />Music Revolution||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />第1部
|-
!25:30<br />-<br />27:00
|rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|オールナイトニッポン<br />第2部||オールナイトニッポン<br />第2部
|-
!colspan="5"|1998年04月 - 1999年03月
|-
!23:00<br />-<br />25:00
|colspan="3" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />電話リクエスト
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|colspan="3"rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />第1部
|-
!25:30<br />-<br />27:30
|rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポンR||colspan="2"rowspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
! colspan="12" style="text-align:center" |LF+R(1999年 - 2003年)
|-
!放送時間!!月曜日 - 木曜日!!金曜日!!土曜日!!日曜日
|-
!colspan="5"|1999年04月 - 2000年03月
|-
!22:00<br />-<br />23:00
|colspan="2"rowspan="2"|allnightnippon SUPER!||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組||style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:00<br />-<br />24:00
|rowspan="2"|@llnightnippon.com
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|@llnightnippon.com||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|allnightnippon-r||colspan="2"rowspan="2"|allnightnippon-r
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2000年04月 - 2001年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|colspan="2"rowspan="2"|allnightnippon SUPER!||colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="2"|allnightnippon<br />Saturday Special||rowspan="2"|allnightnippon<br />Sunday Special
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|@llnightnippon.com||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|allnightnippon-r||colspan="2"rowspan="2"|allnightnippon-r
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2001年10月 - 2002年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:00
|colspan="2"rowspan="3"|allnightnippon SUPER!||rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:00<br />-<br />23:30
|rowspan="3"|allnightnippon<br /> Sunday SUPER!
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="3"|allnightnippon<br />Saturday Special
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!24:30<br />-<br />25:00
|rowspan="2"|@llnightnippon<br />Sunday.com
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|colspan="3"rowspan="2"|@llnightnippon.com
|-
!25:30<br />-<br />27:00
|rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|allnightnippon-r||colspan="2"rowspan="2"|allnightnippon-r
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2002年10月 - 2003年03月
|-
!22:00<br />-<br />23:00
|rowspan="3"|allnightnippon<br />SUPER!||rowspan="5"|allnightnippon<br />SUPER FRIDAY!<ref>一部のネット局は24:00まで。</ref>||rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:00<br />-<br />23:30
|rowspan="3"|allnightnippon<br /> Sunday SUPER!
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="3"|allnightnippon<br />Saturday Special
|-
!24:00<br />-<br />24:00
|rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!24:30<br />-<br />25:00
|rowspan="2"|@llnightnippon<br />Sunday.com
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|colspan="3"rowspan="2"|@llnightnippon.com
|-
!25:30<br />-<br />27:00
|rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|allnightnippon-r||colspan="2"rowspan="2"|allnightnippon-r
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
! colspan="12" style="text-align:center" |LF+R終了後(2003年 - 2012年)
|-
!放送時間!!月曜日 - 木曜日!!金曜日!!土曜日!!日曜日
|-
!colspan="5"|2003年04月 - 2003年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>いいネ!||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>フライデースペシャル||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="6" style="background-color:silver"|‐
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポンR||colspan="2"rowspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2003年10月 - 2004年03月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>いいネ!||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>フライデースペシャル||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="5" style="background-color:silver"|‐
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|オールナイトニッポン<br />エバーグリーン||colspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!colspan="5"|2004年04月 - 2006年03月
|-
!23:30<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル||rowspan="3" style="background-color:silver"|‐
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|オールナイトニッポン<br />エバーグリーン||colspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!colspan="5"|2006年04月 - 2007年09月
|-
!23:30<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル||rowspan="3" style="background-color:silver"|‐
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|オールナイトニッポン<br />エバーグリーン||オリエンタルラジオの<br />オールナイトニッポンR||オールナイトニッポンR
|-
!colspan="5"|2006年10月 - 2007年03月
|-
!19:00<br />-<br />20:00
|colspan="2"rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br/>アゲイン
|-
!20:00<br />-<br />23:00
|rowspan="4" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />25:00
|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|オールナイトニッポン<br />エバーグリーン||オリエンタルラジオの<br />オールナイトニッポンR||オールナイトニッポンR
|-
!colspan="5"|2007年04月- 2007年09月
|-
!23:30<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル|| style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|colspan="3"rowspan="2"|オールナイトニッポン||上原隆の<br/>オールナイトニッポン<br/>サポーターズ<ref name="スペシャルウィーク期間は26:00まで放送。">スペシャルウィーク期間は26:00まで放送。</ref>
|-
!25:30<br />-<br />27:00
|rowspan="2" style="background-color:silver"|放送休止
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|オールナイトニッポン<br />エバーグリーン||オリエンタルラジオの<br />オールナイトニッポンR||オールナイトニッポンR
|-
!colspan="5"|2007年10月 - 2009年03月
|-
!23:30<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル||style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|colspan="3"rowspan="2 "|オールナイトニッポン||上原隆の<br/>オールナイトニッポン<br/>サポーターズ<ref name="スペシャルウィーク期間は26:00まで放送。"/>
|-
!25:30<br />-<br />27:00
|rowspan="3" style="background-color:silver"|放送休止
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン<br />エバーグリーン{{efn2|name="29時"}}||rowspan="2"|オリエンタルラジオの<br />オールナイトニッポンR||rowspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!28:30<br/>-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2009年04月 - 2009年10月
|-
!23:30<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル||rowspan="4" style="background-color:silver"|‐
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3" |オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|くり万太郎の<br />オールナイトニッポンR{{efn2|name="29時"}}||colspan="2"rowspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!28:30<br/>-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2009年11月
|-
!18:00<br />-<br />19:30
|colspan="2"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br/>サンデー
|-
!19:30<br />-<br />22:00
|rowspan="7" style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||オールナイトニッポン<br />GOLD
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|くり万太郎の<br />オールナイトニッポンR{{efn2|name="29時"}}||colspan="2"rowspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!28:30<br/>-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2009年12月 - 2010年01月
|-
!18:00<br />-<br />19:30
|colspan="2"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />サンデー
|-
!19:30<br />-<br />22:00
|rowspan="7" style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />22:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||オールナイトニッポン<br />GOLD
|-
!23:30<br />-<br />23:45
|style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:45<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|くり万太郎の<br />オールナイトニッポンR{{efn2|name="29時"}}||colspan="2"rowspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!28:30<br/>-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2010年01月 - 2010年03月
|-
!18:00<br />-<br />19:30
|colspan="2"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />サンデー
|-
!19:30<br />-<br />22:00
|rowspan="7" style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||オールナイトニッポン<br />GOLD
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|くり万太郎の<br />オールナイトニッポンR{{efn2|name="29時"}}||colspan="2"rowspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!28:30<br/>-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2010年04月 - 2010年06月
|-
!18:30<br />-<br />20:00
|colspan="2"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />サンデー<ref name="ナイター">ナイター中継ない場合。</ref>
|-
!20:30<br />-<br />22:00
|rowspan="7" style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||オールナイトニッポン<br />GOLD
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|くり万太郎の<br />オールナイトニッポンR{{efn2|name="29時"}}||colspan="2"rowspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!28:30<br/>-<br />29:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2010年07月 - 2010年09月
|-
!18:30<br />-<br />20:00
|colspan="2"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />サンデー<ref name="ナイター"/>
|-
!20:00<br />-<br />22:00
|rowspan="6" style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||オールナイトニッポン<br />GOLD
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|くり万太郎の<br />オールナイトニッポンR||colspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
!colspan="5"|2010年10月 - 2012年03月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="5" style="background-color:silver"|‐
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|くり万太郎の<br />オールナイトニッポンR||colspan="2"|オールナイトニッポンR
|-
! colspan="12" style="text-align:center" |タイトルを変えての8年半ぶりの2部制復活(2012年 - 現在)
|-
!放送時間!!月曜日 - 木曜日!!金曜日!!土曜日!!日曜日(月一回)
|-
!colspan="5"|2012年04月 - 2013年03月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|colspan="2"rowspan="2"|オールナイトニッポンGOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="5" style="background-color:silver"|‐
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|colspan="2"|オールナイトニッポン0(ZERO)||オールナイトニッポンR
|-
!colspan="5"|2013年04月 - 2013年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>GOLD||オールナイトニッポン<br/>GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="4" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|colspan="2"|オールナイトニッポン0(ZERO)||オールナイトニッポンR||中島みゆきの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!colspan="5"|2013年10月 - 2014年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>GOLD||オールナイトニッポン<br/>GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="4" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />29:00
|colspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||オールナイトニッポンR||中島みゆきの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!colspan="5"|2014年10月 - 2015年03月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="4" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br />(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポンR||rowspan="2"|中島みゆきの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2015年4月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"colspan="2"|オールナイトニッポンGOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="4" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br />(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポンR||rowspan="2"|中島みゆきの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2015年05月 - 2015年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>GOLD||オールナイトニッポン<br/>GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="4" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />25:00
|オールナイトニッポンGOLD<br/>吉田尚記 dスタジオ
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:00
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポンR||rowspan="2"|中島みゆきの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2015年10月 - 2016年03月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>GOLD||rowspan="3"|オールナイトニッポン<br/>GOLD||style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組||rowspan="5" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|rowspan="3"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />24:00
|オールナイトニッポンGOLD<br/>吉田尚記 dスタジオ
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:00
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポンR||rowspan="2"|中島みゆきの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2016年04月 - 2017年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="3"|オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="5" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|rowspan="3"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />24:00
|オールナイトニッポン<br />MUSIC10<br/>中村雅俊 出逢いに感謝
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:00
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポンR||rowspan="2"|中島みゆきの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2017年10月 - 2018年03月
|-
!19:00<br />-<br />20:50
|colspan="2"|オールナイトニッポンPremium||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="7" style="background-color:silver"|別番組
|-
!20:50<br />-<br />22:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="3"|オールナイトニッポン<br />GOLD
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|rowspan="3"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />24:00
|オールナイトニッポン<br />MUSIC10<br/>中村雅俊 出逢いに感謝
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:00
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポンR||rowspan="2"|中島みゆきの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2018年04月 - 2018年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="3"|オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="5" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|rowspan="3"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />24:00
|オールナイトニッポン<br />MUSIC10<br/>中村雅俊 出逢いに感謝
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"}}||rowspan="2"|中島みゆきの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組||style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2018年10月 - 2019年03月
|-
!18:00<br />-<br />20:30
|colspan="2"|オールナイトニッポンPremium||rowspan="3" style="background-color:silver"|別番組||rowspan="9" style="background-color:silver"|‐
|-
!20:30<br />-<br />23:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="3"|オールナイトニッポン<br />GOLD
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|rowspan="3"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />24:00
|オールナイトニッポン<br />MUSIC10<br/>中村雅俊 出逢いに感謝
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"}}
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組||style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2019年04月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="3"|オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="5" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />23:50
|rowspan="3"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!23:50<br />-<br />24:00
|オールナイトニッポン<br />MUSIC10<br/>中村雅俊 出逢いに感謝
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|colspan="3"rowspan="2"|オールナイトニッポン
|-
!25:30<br />-<br />27:00
|WANIMAの<br/>オールナイトニッポン<br/>〜にちようび〜
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"}}||rowspan="2"|高嶋ひでたけの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組||style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2019年05月 - 2019年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="4" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|colspan="3"rowspan="2"|オールナイトニッポン
|-
!25:30<br />-<br />27:00
|WANIMAの<br/>オールナイトニッポン<br/>〜にちようび〜
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"}}||rowspan="2"|高嶋ひでたけの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組||style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2019年10月 - 2020年03月
|-
!19:00<br />-<br />21:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />Premium||rowspan="6" style="background-color:silver"|別番組
|-
!21:00<br />-<br />22:00
|colspan="3" style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|colspan="3"rowspan="2"|オールナイトニッポン
|-
!25:30<br />-<br />27:00
|WANIMAの<br/>オールナイトニッポン<br/>〜にちようび〜
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"}}||rowspan="2"|高嶋ひでたけの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組||style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2020年04月 - 2020年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="5" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />25:30
|colspan="3"rowspan="2"|オールナイトニッポン
|-
!25:30<br />-<br />27:00
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"}}||rowspan="2"|高嶋ひでたけの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組||style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2020年10月 - 2021年03月
|-
!19:00<br />-<br />21:00
|colspan="2"style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />Premium{{efn2|name="psat"|プロ野球ナイターオフシーズンのみ放送。ニッポン放送で特別編成によりプロ野球ナイター中継が行われる場合、ネット局には[[裏送り]]を行い、別途インターネット配信が行われる場合がある。}}||rowspan="6" style="background-color:silver"|別番組
|-
!21:00<br />-<br />22:00
|colspan="3"style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"|一部のネット局は29:00まで。}}||rowspan="2"|高嶋ひでたけの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組||style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2021年04月 - 2021年09月
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD||style="background-color:silver"|別番組||rowspan="5" style="background-color:silver"|別番組
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="4"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />24:53
|colspan="2"|オールナイトニッポンX
|-
!24:53<br />-<br />25:00
|colspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="3"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"|一部のネット局は29:00まで。}}||rowspan="3"|高嶋ひでたけの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />28:50
|rowspan="2" style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!28:50<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!colspan="5"|2021年10月 - 現在
|-
!18:00頃<br />-<br />配信予定
|colspan="3"|オールナイトニッポンPODCAST<ref name="pcas">ニッポン放送PODCAST STATIONほかにて配信することになっている。</ref>||rowspan="9" style="background-color:silver"|別番組
|-
!19:00<br />-<br />21:00
|colspan="2"rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組||オールナイトニッポン<br />Premium{{efn2|name="psat"}}
|-
!21:00<br />-<br />22:00
|rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!22:00<br />-<br />23:30
|rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />MUSIC10||rowspan="2"|オールナイトニッポン<br />GOLD
|-
!23:30<br />-<br />24:00
|rowspan="4"|オールナイトニッポン<br/>サタデースペシャル
|-
!24:00<br />-<br />24:53
|rowspan="2"|オールナイトニッポンX(クロス)|||オールナイトニッポンX(クロス)
|-
!24:53<br />-<br />24:58
|rowspan="2" style="background-color:silver"|別番組
|-
!24:58<br />-<br />25:00
|style="background-color:silver"|別番組
|-
!25:00<br />-<br />27:00
|colspan="3"|オールナイトニッポン
|-
!27:00<br />-<br />28:30
|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="3"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO)||rowspan="2"|オールナイトニッポン0<br/>(ZERO){{efn2|name="29時"|一部のネット局は29:00まで。}}||rowspan="3"|高嶋ひでたけの<br/>オールナイトニッポン<br/>月イチ
|-
!28:30<br />-<br />28:50
|rowspan="2" style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
!28:50<br />-<br />29:00
|style="border-bottom:none;background-color:silver"|別番組
|-
|}
=== 放送時間の変遷 ===
* 同時間帯のオールナイトニッポンを冠した放送枠としての変遷であり、オールナイトニッポンを冠していれば別タイトルでの放送を含む。タイトル表記は現在放送中の番組のみ表記。
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto"
!colspan="6" style="text-align:center" |「第1部」
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:16em" |月曜日||style="width:16em" |火曜日 - 金曜日||style="width:16em" |土曜日||style="width:16em" |日曜日
|-
!1969.10.02!!1972.09.30
|colspan="3"| 25:00 - 29:00(240分)||rowspan="4"style="background-color:silver"|‐
|-
!1972.10.02!!1973.06.30
|colspan="3"| 25:00 - 27:00(120分)
|-
!1973.07.02!!1974.06.29
|colspan="3"| 25:00 - 29:00(240分)
|-
!1974.07.01!!1977.04.02
|colspan="2"|25:00 - 27:00(120分)||25:00 - 29:00(240分)
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em" |月曜日 - 木曜日||style="width:13em" |金曜日||style="width:13em" |土曜日||style="width:13em" |日曜日
|-
!1977.04.04!!1978.09.30
|25:00 - 27:00(120分)||colspan="2"|25:00 - 29:00(240分)||rowspan="5"style="background-color:silver"|‐
|-
!1978.10.02!!1986.03.29
|colspan="2"|25:00 - 27:00(120分)||25:00 - 29:00(240分)
|-
!1986.03.31!!1997.09.29
|colspan="3"|25:00 - 27:00(120分)
|-
!1997.09.29!!1998.03.28
|25:00 - 27:00(120分)||25:00 - 29:00(240分)||25:00 - 27:00(120分)
|-
!1998.03.30 !!2019.04.06
|colspan="3"|25:00 - 27:00(120分)<ref name="program">曜日によって箱番組を内包。</ref><ref name="Monday">2001年10月から2002年03月まで月曜日のみ1時間交代。</ref>
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em" |月曜日 - 木曜日||style="width:13em" |金曜日||style="width:13em" |土曜日||style="width:13em" |日曜日(月一回)
|-
!2019.04.08!!2020.02.16
|colspan="3"rowspan="2" |25:00 - 27:00(120分)||25:30 - 27:00(90分)
|-
!2020.02.17!!現在
|style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="6" style="text-align:center" |「第2部」0(ZERO)(月~土)/月イチ(月1日曜日)
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em" |月曜日!!style="width:13em" |火曜日 - 金曜日!!style="width:13em" |土曜日!!style="width:13em" |日曜日
|-
!1972.10.02 !!1973.06.30
|colspan="3"|27:00 - 29:00(120分)||rowspan="3"style="background-color:silver"|‐
|-
!1978.10.02!!1986.03.29
|colspan="2"|27:00 - 29:00(120分)||25:00 - 29 :00(240分)
|-
!1986.03.31!!1997.09.27
|colspan="3"|27:00 - 29:00(120分)
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em" |月曜日 - 木曜日||style="width:13em" |金曜日||tyle="width:13em" |土曜日||style="width:13em" |日曜日
|-
!1997.09.29!!1998.03.28
|27:00 - 29:00(120分)||25:00 - 29:00(240分)||27:00 - 29:00(120分)||rowspan="4"style="background-color:silver"|‐
|-
!1998.03.30!!2007.09.30
|colspan="3"|27:00 - 29:00(120分)
|-
!2007.10.01!!2010.06.26
|27:00 - 28:30(90分)||colspan="2"|27:00 - 29:00(120分)
|-
!2010.06.28!!2013.04.06
|colspan="3"|27:00 - 29:00(120分)<ref>ニッポン放送では2012年11月24日 - 12月22日までは28:00に飛び降り。</ref>
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em" |月曜日 - 木曜日!!style="width:13em" |金曜日!!style="width:13em" |土曜日!!style="width:13em" |日曜日(月1日曜日)
|-
!2013.04.08!!2018.03.31
|rowspan="4"|27:00 - 28:30(90分)||colspan="2"|27:00 - 29:00(120分)||27:00 - 29:00(120分)
|-
!2018.04.02!!2019.04.06
|rowspan="3"|27:00 - 29:00(120分)||rowspan="2"|27:00 - 28:30(90分){{efn2|name="29時"|一部のネット局は29:00まで。}}||style="background-color:silver"|‐
|-
!2019.04.08!!2021.03.27
|rowspan="2"|27:00 - 29:00(120分)
|-
!2021.03.29!!現在
|27:00 - 28:50(110分){{efn2|name="29時"|一部のネット局は29:00まで。}}
|-
!colspan="6" style="text-align:center" |「夜ワイド/日曜日」MUSIC10(月~木)/GOLD(金曜日)/サタデースペシャル(土曜日)
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em" |月曜日 - 木曜日!!style="width:13em" |金曜日!!style="width:13em" |土曜日!!style="width:13em" |日曜日
|-
!1968.04.07!!1968.10.06
|colspan="3" rowspan="4"rowspan="4"style="background-color:silver"|‐||23:30 - 26:00(150分)
|-
!1968.10.13!!1972.10.14
|24:30 - 27:00(90分)
|-
!1972.10.21!!1984.04.01
|24:05 - 25:30(145分)<ref name="電リク">時期によって放送時間が異なる。</ref>
|-
!1997.10.12 !!1999.03.28
|23:00 - 25:30(90分)
|-
!1999.03.29 !!2000.03.19
|colspan="2" rowspan="5"|22:00 - 24:00(120分)||rowspan="4"style="background-color:silver"|‐||23:00 - 25:00(120分)
|-
!2000.03.20!!2001.03.25
|colspan="2"|23:30 - 25:00(90分)
|-
!2001.03.26 !!2001.04.07
|23:30 - 25:00(90分)
|-
!2001.04.09!!2001.09.23
|colspan="2"|23:30 - 25:00(90分)
|-
!2001.10.01!!2002.09.29
|rowspan="13"|23:30 - 25:00(90分)||rowspan="2"|23:00 - 24:30(90分)<hr/> 24:30 - 25:30(60分) <ref name="local week">関東ローカル</ref>
|-
!2002.09.30!!2003.03.30
|22:00 - 24:00(120分)||22:00 - 25:00(150分)
|-
!2003.03.31!!2004.03.27
|colspan="2" |22:00 - 24:00(120分)||rowspan="11"style="background-color:silver"|‐
|-
!2004.04.03!!2009.11.28
|colspan="2" style="background-color:silver"|‐
|-
!2009.11.30!!2010.12.04
|22:00 - 23:50(110分)||rowspan="3"|22:00 - 23:30(90分)
|-
!2010.12.06!!2011.01.29
|22:00 - 23:45(105分)
|-
!2011.01.31!!2012.03.31
|22:00 - 23:50(110分)
|-
!2012.04.02!!2013.03.30
|colspan="2" |22:00 - 23:50(110分)
|-
!2013.04.01!!2013.09.28
|22:00 - 23:50(110分)||rowspan="2"|22:00 - 23:30(90分)
|-
!2013.09.30!!2015.03.28
|22:00 - 24:00(120分)
|-
!2015.03.30!!2015.05.02
|colspan="2" |22:00 - 24:00(120分)
|-
!2015.05.04!!2015.09.26
|22:00 - 23:50(110分)||22:00 - 24:00(120分)
|-
!2015.10.02!!現在
|colspan="2" |22:00 - 24:00(120分)
|-
!colspan="6" style="text-align:center" |「24時台」X(クロス)(月~金)
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em"|月曜日 - 木曜日!!style="width:13em"|金曜日!!style="width:13em"|土曜日!!style="width:13em"|日曜日
|-
!2021.03.29!!2021.10.01
| colspan="2" |24:00 - 24:53(53分)|| colspan="2" rowspan="2" style="background-color:silver" |‐
|-
!2021.10.04
!現在
|24:00 - 24:58(58分)
|24:00 - 24:53(53分)
|-
!colspan="6" style="text-align:center" |「ナイターオフ」Premium(土曜日)
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em"| 月曜日 - 木曜日!!style="width:13em"|金曜日!!style="width:13em" |土曜日!!style="width:13em" |日曜日
|-
!1997.10.06!!1998.03.27
|colspan="2"|19:00 - 21:00(120分)||colspan="2" style="background-color:silver"|‐
|-
!2009.10.11!!2010.09.12
|colspan="3" style="background-color:silver"|‐||18:30 - 20:00(90分){{efn2|ナイターシーズンも中継のない日に[[サウンドコレクション|ナイタースペシャル]]扱いで放送}}
|-
!2017.10.02!!2018.03.23
|colspan="2"|19:00 - 20:50(110分)||rowspan="2"colspan="2"style="background-color:silver"|-
|-
!2018.10.01!!2019.03.22
|colspan="2"|18:00 - 20:30(150分)
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em"| 月曜日 - 木曜日!!style="width:13em"|金曜日!!style="width:13em" |土曜日!!style="width:13em" |日曜日
|-
!2019.10.05!!2020.03.21
|rowspan="4"colspan="2"style="background-color:silver"|-||rowspan="4"|19:00 - 21:00(120分)||rowspan="4"style="background-color:silver"|‐
|-
!2020.10.03!!2021.03.27
|-
!2021.10.02!!2022.03.26
|-
!2022.10.01!!2023.03.25
|-
!colspan="6" style="text-align:center" |「その他」PODCAST(月~土)
|-
!colspan="2"|期間!!style="width:13em"| 月曜日 - 木曜日!!style="width:13em"|金曜日!!style="width:13em" |土曜日!!style="width:13em" |日曜日
|-
!2021.10.04!!現在
|colspan="3"|18:00頃 配信(配信終了時間未定)||style="background-color:silver"|‐
|-
|}
*ニッポン放送(関東ローカル)のみ、1977年頃、日曜日深夜0:05 - 1:30まで、「[[オールナイトニッポン電話リクエスト]]」(パーソナリティー:木藤隆雄)を放送していた<ref>『東奥日報』1977年7月と8月付け朝刊「深夜ラジオ欄」より。</ref><!----「オールナイトニッポン電話リクエスト」の放送期間に関する資料をお持ちの方の加筆をお願いします。-->。
== パーソナリティの変遷 ==
{{See also|オールナイトニッポンのパーソナリティ一覧|ニッポン放送の夜ワイドの変遷#オールナイトニッポン}}
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:100%;text-align:center;font-size:small;"
|-style="text-align:center;"
! colspan="13" style="text-align:center" |過去に放送された番組歴代パーソナリティ一覧
|-
! colspan="13" style="text-align:center" |25:00 - 27:00「第1部」
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |4時間時代 (1967年10月 - 1974年06月)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1967年10月 - 1972年09月<br />月 - 土 オールナイトニッポン/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1967.10.02<br />-<br />1968.10.12
|rowspan="9" |糸居五郎||rowspan="9" |斉藤安弘||rowspan="5" |高岡尞一郎||rowspan="2" |今仁哲夫||常木建男||rowspan="3" |高崎一郎||rowspan="9"style="background-color:silver"|‐
|-
!1968.10.14<br />-<br />1968.12.28
|rowspan="2" |梶幹雄
|-
!1968.12.30<br />-<br />1969.10.11
|rowspan="2" |高嶋秀武
|-
!1969.10.13<br />-<br />1970.04.04
|rowspan="6" |今仁哲夫||rowspan="6" |亀渕昭信
|-
!1970.04.06<br />-<br />1970.10.10
|rowspan="2" |天井邦夫
|-
!1970.10.12<br />-<br />1971.04.17
|高嶋秀武
|-
!1971.04.19<br />-<br />1972.01.01
|天井邦夫||rowspan="2" |高嶋秀武
|-
!1972.01.03<br />-<br />1972.01.29
|rowspan="2" |市川光興
|-
!1972.01.31<br />-<br />1972.07.01
|山田晃市
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1972年07月 - 1972年10月<br /> 月曜日 オールナイトニッポン/火 - 土 オールナイトニッポンビバ○○ショー/日曜日 放送なし
|-
!1972.07.03<br />-<br />1972.10.21
|糸居五郎||colspan="5"| 25:00 - 27:00 ビバカメショー(亀渕昭信)<br />27:00 - 29:00 ビバテツショー(今仁哲夫)||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1972年10月 - 1973年06月<br /> 月 - 土 オールナイトニッポンビバ○○ショー/日曜日 放送なし
|-
!1972.10.23<br />-<br />1972.12.30
|colspan="6"| 25:00 - 27:00 ビバカメショー(亀渕昭信)<br />27:00 - 29:00 ビバテツショー(今仁哲夫)||rowspan="2"style="background-color:silver"|‐
|-
!1973.01.02<br />-<br />1973.06.30
|colspan="6"| 25:00 - 27:00 ビバカメショー(亀渕昭信)<br />27:00 - 29:00 ビバケンショー(池田健)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1973年07月 - 1974年06月<br />月 - 土 オールナイトニッポン/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1973.07.02<br />-<br />1973.09.29
|rowspan="2" |小林克也||rowspan="3" |泉谷しげる||あのねのね||rowspan="3" |斉藤安弘||rowspan="4" |カルメン||岸部シロー||rowspan="4"style="background-color:silver"|‐
|-
!1973.10.01<br />-<br />1973.12.29
|rowspan="2"| 毛利久||rowspan="3"| あのねのね
|-
!1974.01.02<br />-<br />1974.03.30
|rowspan="2"| 及川伸一
|-
!1974.04.01<br />-<br />1974.06.29
|諸口あきら||笑福亭鶴光||海援隊
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2部構成(1974年07月 - 1999年03月)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1974年07月 - 1977年09月<br />月 - 金 オールナイトニッポン第1部/土曜日 オールナイトニッポン<ref name="Niku">29:00まで。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1974.07.01<br />-<br />1974.09.28
|カルメン||rowspan="4"|諸口あきら||湯浅明||海援隊||及川伸一||rowspan="10"|笑福亭鶴光||rowspan="11"style="background-color:silver"|‐
|-
!1974.09.30<br />-<br />1974.12.28
|rowspan="5"|吉田拓郎||あのねのね||rowspan="2"|湯浅明||カルメン
|-
!1975.01.06<br />-<br />1975.03.29
|rowspan="3"|イルカ||rowspan="2"|いづみ朱子
|-
!1975.03.31<br />-<br />1975.06.28
|rowspan="6"|南こうせつ
|-
!1975.06.30<br />-<br />1975.09.27
|高信太郎||rowspan="3"|武田鉄矢
|-
!1975.09.29<br />-<br />1975.12.31
|rowspan="2"|小林麻美||rowspan="2"|田畑達志
|-
!1976.01.05<br />-<br />1976.04.03
|rowspan="2"|加藤和彦
|-
!1976.04.05<br />-<br />1976.10.02
|宇崎竜童||あのねのね||rowspan="3"|吉村達也
|-
!1976.10.04<br />-<br />1977.01.01
|rowspan="2"|河野嘉之||rowspan="2"|くり万太郎||rowspan="2"|タモリ
|-
!1977.01.03<br />-<br />1977.04.02
|自切俳人
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1977年04月 - 1978年09月<br />月 - 木 オールナイトニッポン第1部/金・土 オールナイトニッポン<ref name="Niku">29:00まで。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1977.04.03<br />-<br />1977.10.01
|河野嘉之||くり万太郎||rowspan="3"|タモリ||rowspan="2"|自切俳人||湯浅明<br />田畑達志||rowspan="3"|笑福亭鶴光||rowspan="3"style="background-color:silver"|‐
|-
!1977.10.03<br />-<br />1978.04.01
|くり万太郎||rowspan="2"|所ジョージ||rowspan="2"|つボイノリオ
|-
!1978.04.03<br />-<br />1978.09.30
|松山千春||南こうせつ
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1978年10月 - 1986年03月<br />月 - 金 オールナイトニッポン第1部/土曜日 オールナイトニッポン<ref name="Niku">29:00まで。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1978.10.02<br />-<br />1979.03.31
|松山千春||rowspan="3"|所ジョージ||rowspan="11"|タモリ||南こうせつ||つボイノリオ||rowspan="15"|笑福亭鶴光||rowspan="16"style="background-color:silver"|‐
|-
!1979.04.02<br />-<br />1979.09.29
|rowspan="15"|中島みゆき||rowspan="3"|桑田佳祐||近田春夫<br />コッペ
|-
!1979.10.01<br />-<br />1980.03.29
|rowspan="3"|長渕剛
|-
!1980.03.31<br />-<br />1980.06.28
|rowspan="4"|松山千春
|-
!1980.06.30<br />-<br />1980.09.27
|rowspan="2"|ダディ竹千代
|-
!1980.09.29<br />-<br />1980.12.31
|rowspan="3"|吉田拓郎
|-
!1981.01.05<br />-<br />1981.03.28
|rowspan="10"|ビートたけし
|-
!1981.03.30<br />-<br />1982.04.03
|所ジョージ
|-
!1982.04.05<br />-<br />1982.10.30
|rowspan="2"|坂崎幸之助||ラジオっ娘
|-
!1982.11.01<br />-<br />1983.04.02
|rowspan="5"|山口良一
|-
!1983.04.04<br />-<br />1983.10.01
|rowspan="2"|高橋幸宏
|-
!1983.10.03<br />-<br />1983.12.31
|rowspan="2"|野村義男
|-
!1984.01.03<br />-<br />1984.03.31
|rowspan="3"|桑田佳祐
|-
!1984.04.02<br />-<br />1985.03.30
|THE ALFEE
|-
!1985.04.01<br />-<br />1985.09.28
|rowspan="2"|小峯隆生||rowspan="2"|サンプラザ中野
|-
!1985.09.30<br />-<br />1986.03.29
|とんねるず||ABブラザーズ
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1986年04月 - 1999年03月<br />月 - 土 オールナイトニッポン第1部/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1986.03.31<br />-<br />1987.04.04
|中島みゆき||rowspan="13"|とんねるず||rowspan="5"|小泉今日子||rowspan="9"|ビートたけし||rowspan="3"|サンプラザ中野||rowspan="2"|ABブラザーズ||rowspan="26"style="background-color:silver"|‐
|-
!1987.04.06<br />-<br />1987.07.25
|rowspan="7"|デーモン小暮
|-
!1987.07.27<br />-<br />1987.10.10
|rowspan="2"|圭修
|-
!1987.10.12<br />-<br />1988.04.09
|rowspan="3"|鴻上尚史
|-
!1988.04.11<br />-<br />1988.10.01
|rowspan="21"|松任谷由実
|-
!1988.10.03<br />-<br />1989.04.01
|大槻ケンヂ
|-
!1989.04.03<br />-<br />1989.12.30
|藤井郁弥||rowspan="13"|ウッチャンナンチャン
|-
!1990.01.08<br />-<br />1990.06.02
|rowspan="3"|木根尚登
|-
!1990.06.04<br />-<br />1990.12.29
|rowspan="3"|大槻ケンヂ
|-
!1991.01.03<br />-<br />1991.02.02
|rowspan="4"|古田新太
|-
!1991.02.04<br />-<br />1991.09.28
|rowspan="2"|大江千里
|-
!1991.09.30<br />-<br />1992.03.28
|rowspan="2"|さくらももこ
|-
!1992.03.30<br />-<br />1992.10.03
|Toshl<br />(X)
|-
!1992.10.05<br />-<br />1993.10.02
|rowspan="2"|加藤いづみ||rowspan="3"|電気グルーヴ||裕木奈江||rowspan="4"|福山雅治
|-
!1993.10.04<br />-<br />1993.11.13
|rowspan="8"|松村邦洋
|-
!1993.11.15<br />-<br />1994.04.02
|rowspan="3"|中居正広
|-
!1994.04.04<br />-<br />1994.07.02
|rowspan="4"|石川よしひろ
|-
!1994.07.04<br />-<br />1994.11.05
|rowspan="8"|ナインティナイン
|-
!1994.11.07<br />-<br />1995.04.01
|rowspan="7"|福山雅治
|-
!1995.04.03<br />-<br />1995.09.30
|rowspan="2"|YUKI<br />(JUDY AND MARY)
|-
!1995.10.09<br />-<br />1996.03.30
|rowspan="3"|吉井和哉
|-
!1996.04.01<br />-<br />1996.06.29
|rowspan="3"|KYOYA
|-
!1996.07.01<br />-<br />1996.09.28
|rowspan="3"|つんく
|-
!1996.09.30<br />-<br />1997.03.29
|rowspan="2"|松村邦洋
|-
!1997.03.31<br />-<br />1997.09.27
|平野友康
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1997年10月 - 1998年03月<br />月 - 木・土 オールナイトニッポン第1部/金曜日 オールナイトニッポンMusic Revolution<ref name="Niku">29:00まで。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1997.09.29<br />-<br />1998.03.28
|福山雅治||松村邦洋||イマヤス<br />(スキップカウズ)||ナインティナイン||Music Revolution<br />(西川貴教)||松任谷由実||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1997年10月 - 1998年03月<br /> 月 - 土 オールナイトニッポン第1部/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1998.03.30<br />-<br />1998.10.03
|rowspan="2"|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||rowspan="2"|松村邦洋||イマヤス<br />(スキップカウズ)||rowspan="2"|ナインティナイン||rowspan="2"|西川貴教||rowspan="2"|松任谷由実||rowspan="2"style="background-color:silver"|‐
|-
!1998.10.05<br />-<br />1999.03.27
|ゆず
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |LF+R(1999年04月 - 2003年03月)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1999年04月 - 2003年03月 <br />月 - 土 @llnightnippon.com<ref name="program">曜日によって箱番組を内包。</ref><ref name="Monday">2001年10月から2002年03月まで月曜日のみ1時間交代。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1999.03.29<br />-<br />1999.10.02
|rowspan="5"|ココリコ||U-turn||井手功二||荘口彰久||SILVA||LFクールK<br />(垣花正)||rowspan="13"style="background-color:silver"|‐
|-
!1999.10.04<br />-<br />1999.11.13
|rowspan="7"|加藤晴彦||週替わり||rowspan="12"|ナインティナイン||rowspan="5"|竹村あきら||rowspan="2"|U-turn
|-
!1999.11.15<br />-<br />2000.04.01
|rowspan="11"|aiko
|-
!2000.04.03<br />-<br />2000.09.30
|玉川美沙
|-
!2000.10.02<br />-<br />2001.03.31
|rowspan="5"|たまそう音楽堂<br />(玉川美沙・荘口彰久)
|-
!2001.04.02<br />-<br />2001.06.30
|rowspan="3"|RIZE
|-
!2001.07.02<br />-<br />2001.09.01
|週替わり
|-
!2001.09.03<br />-<br />2001.09.30
|CHEMISTRY
|-
!2001.10.01<br />-<br />2001.10.27
|rowspan="2"|藤井隆<hr/>ガレッジセール||rowspan="2"|コブクロ||rowspan="3"|ビビる
|-
!2001.10.29<br />-<br />2002.03.30
|河村隆一
|-
!2002.04.01<br />-<br />2002.05.04
|rowspan="3"|Gackt||rowspan="2"|押尾学||rowspan="2"|藤井隆
|-
!2002.05.06<br />-<br />2002.09.28
|ビビる大木
|-
!2002.09.30<br />-<br />2003.03.29
|土屋礼央||綾小路セロニアス翔<br />(氣志團)||リスナーズBEST<br />(吉田尚記)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |LF+R終了以降(2003年04月 - 現在)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2003年04月 - 2019年03月<br />月 - 土 オールナイトニッポン第1部/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2003.03.31<br />-<br />2003.09.27
|rowspan="6"|西川貴教||rowspan="5"|土屋礼央||rowspan="2"|堀内健<br />ビビる大木||rowspan="19"|ナインティナイン||綾小路セロニアス翔<br />(氣志團)||rowspan="2"|リスナーズBEST<br />(吉田尚記)|| rowspan="25" style="background-color:silver" |‐
|-
!2003.09.29<br />-<br />2004.03.27
|週替わり
|-
!2004.03.29<br />-<br />2004.09.25
|坂崎幸之助||田村淳<br /><small>(ロンドンブーツ1号2号)</small>||rowspan="5"|SHOGO
|-
!2004.09.27<br />-<br />2005.03.26
|ビビる大木||笹川美和
|-
!2005.03.28<br />-<br />2005.07.02
|rowspan="4"|松浦亜弥||rowspan="3"|本谷有希子
|-
!2005.07.04<br />-<br />2005.10.01
|rowspan="6"|くりぃむしちゅー
|-
!2005.10.03<br />-<br />2006.04.01
|rowspan="2"|春風亭昇太
|-
!2006.04.03<br />-<br />2006.12.30
|rowspan="2"|ますだおかだ||rowspan="2"|アンダーグラフ
|-
!2007.01.01<br />-<br />2007.03.31
|rowspan="3"|ヒダカトオル<br /><small>(BEAT CRUSADERS)</small>||rowspan="5"|小栗旬
|-
!2007.04.02<br />-<br />2008.04.26
|有楽町音楽室<br />(バカボン鬼塚)||rowspan="2"|岡野昭仁<br />(ポルノグラフィティ)
|-
!2008.04.28<br />-<br />2008.12.27
|クリエイターズナイト<br />(週替わり)
|-
!2009.01.05<br />-<br />2009.10.03
|rowspan="3"|城田優||rowspan="2"|岡野昭仁<br />(ポルノグラフィティ)||rowspan="2"|吉岡聖恵<br />(いきものがかり)||半田健人
|-
!2009.10.05<br />-<br />2010.04.02
|rowspan="13"|オードリー
|-
!2010.04.04<br />-<br />2011.01.01
|rowspan="2"|はんにゃ||吉岡聖恵<br />(いきものがかり)||rowspan="5"|AKB48
|-
!2011.01.03<br />-<br />2011.04.02
|rowspan="2"|大宮エリー||rowspan="2"|鬼龍院翔<br />(ゴールデンボンバー)
|-
!2011.04.04<br />-<br />2011.12.31
|rowspan="2"|miwa
|-
!2012.01.02<br />-<br />2013.03.30
|rowspan="5"|鬼龍院翔<br />(ゴールデンボンバー)||NESMITH<br />(EXILE)
|-
!2013.04.01<br />-<br />2014.03.29
|久保ミツロウ<br />能町みね子||大谷ノブ彦<br />(ダイノジ)
|-
!2014.03.31<br />-<br />2014.09.27
|rowspan="5"|back number||rowspan="6"|AKB48||rowspan="2"|アルコ&ピース
|-
!2014.09.29<br />-<br />2015.03.28
|rowspan="6"|岡村隆史<br />(ナインティナイン)
|-
!2015.03.30<br />-<br />2015.07.04
|rowspan="5"|山下健二郎<br /><small>(三代目 J Soul Brothers)</small>
|-
!2015.07.06<br />-<br />2016.03.26
|村本大輔<br /><small>(ウーマンラッシュアワー)</small>
|-
!2016.03.28<br />-<br />2017.04.01
|星野源
|-
!2017.04.03<br />-<br />2019.03.30
|rowspan="2"|菅田将暉||rowspan="2"|星野源
|-
!2019.04.01<br />-<br />2019.04.06
|乃木坂46<br /><small>(レギュラー:新内眞衣)</small>
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2019年04月 - 2020年02月<br />月 - 土 オールナイトニッポン第1部/日曜日 オールナイトニッポン~にちようび~<ref>月一回、25:30 - 27:00まで。</ref>
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2019.04.08<br />-<br />2020.02.16
|菅田将暉||星野源||乃木坂46<br /><small>(レギュラー:新内眞衣)</small>||岡村隆史<br />(ナインティナイン)||三四郎||オードリー||~にちようび~<br />(WANIMA)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2020年02月 - 現在<br />月 - 土 オールナイトニッポン第1部/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2020.02.17<br />-<br />2020.05.09
|rowspan="4"|菅田将暉||rowspan="6"|星野源||rowspan="3"|乃木坂46<br /><small>(レギュラー:新内眞衣)</small>||岡村隆史<br />(ナインティナイン)||rowspan="2"|三四郎||rowspan="6"|オードリー||rowspan="6"style="background-color:silver"|‐
|-
!2020.05.11<br />-<br />2021.03.27
|rowspan="5"|ナインティナイン
|-
!2021.03.29<br />-<br />2022.02.12
|rowspan="4"|霜降り明星
|-
!2022.02.14<br />-<br />2022.04.09
|rowspan="3"|乃木坂46<br /><small>(レギュラー:久保史緒里)</small>
|-
!2022.04.11<br />-<br />2023.04.01
|Creepy Nuts
|-
!2023.04.03<br />-<br />現在
|Ado
|-
! colspan="13" style="text-align:center" |27:00 - 29:00「第2部」
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2部構成(1974年07月 - 1999年03月)
|-
! colspan="13" style="text-align:center" |1974年07月 - 1977年09月<br />月 - 金 オールナイトニッポン第2部/土曜日 オールナイトニッポン/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1974.07.01<br />-<br />1974.12.27
|木藤隆雄||rowspan="2"|宮崎文子||木原早苗||田畑達志||イルカ||rowspan="9" |笑福亭鶴光||rowspan="9" style="background-color:silver" |‐
|-
!1975.01.06<br />-<br />1975.03.29
|rowspan="2"|山田パンダ||rowspan="3"|田畑達志||rowspan="2"|木原早苗||rowspan="8" |糸居五郎
|-
!1975.03.31<br />-<br />1975.06.28
|rowspan="2"|柏村武昭
|-
!1975.06.30<br />-<br />1975.09.27
|ふくやまゆきお||カッコマン<br />(伊藤政則)
|-
!1975.09.29<br />-<br />1976.01.03
|rowspan="2" |那須恵理子||rowspan="3" |高橋良一||カッコマン<br />(伊藤政則)||rowspan="3" |和田まこと
|-
!1976.01.06<br />-<br />1976.04.03
|山下達郎
|-
!1976.04.05<br />-<br />1976.10.02
|山下達郎||稲川淳二
|-
!1976.10.04<br />-<br />1977.02.26
|rowspan="2"|稲川淳二||rowspan="2"|天野滋||rowspan="2"|志賀まさひろ||<small>NRN系列局アナウンサー</small>
|-
!1977.02.28<br />-<br />1977.04.02
|尾崎亜美
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1977年04月 - 1978年09月<br />月 - 木 オールナイトニッポン第2部/金・土 オールナイトニッポン/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1977.04.04<br />-<br />1977.10.01
|稲川淳二||志賀まさひろ||糸居五郎||rowspan="2"|尾崎亜美||湯浅明<br />田畑達志||rowspan="4"|笑福亭鶴光||rowspan="4" style="background-color:silver" |‐
|-
!1977.10.03<br />-<br />1977.12.31
|rowspan="3"|糸居五郎||rowspan="3"|近田春夫||rowspan="2"|松山千春||rowspan="3"|つボイノリオ
|-
!1978.01.03<br />-<br />1978.04.01
|週替わり
|-
!1978.04.03<br />-<br />1978.09.30
|コッペ||塚越孝
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1978年10月 - 1986年03月<br />月 - 金 オールナイトニッポン第2部/土曜日 オールナイトニッポン/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1978.10.02<br />-<br />1979.03.31
|rowspan="7"|糸居五郎||近田春夫||コッペ||塚越孝||深野義和||rowspan="15"|笑福亭鶴光||rowspan="16" style="background-color:silver" |‐
|-
!1979.04.02<br />-<br />1979.09.29
|rowspan="2"|山崎ハコ||長渕剛||円広志||rowspan="2"|神谷明
|-
!1979.10.01<br />-<br />1980.03.29
|清須邦義||rowspan="4"|明石家さんま
|-
!1980.03.31<br />-<br />1980.06.28
|rowspan="5"|坂崎幸之助||ダディ竹千代||清須邦義
|-
!1980.06.30<br />-<br />1980.08.02
|rowspan="4"|かぜ耕士||西崎義展
|-
!1980.08.04<br />-<br />1981.03.28
|rowspan="4"|瀬戸龍介
|-
!1981.03.30<br />-<br />1981.06.27
|rowspan="3"|永井龍雲
|-
!1981.06.29<br />-<br />1981.10.03
|rowspan="3"|上村貢聖
|-
!1981.10.05<br />-<br />1982.04.03
|阿呆鳥||伊丹哲也
|-
!1982.04.05<br />-<br />1982.10.30
|山口良一||rowspan="3"|阿呆鳥||rowspan="7"|谷山浩子||FAY'S
|-
!1982.11.01<br />-<br />1983.04.02
|小林みちひろ||rowspan="3"|エド山口||rowspan="3"|ニャンコ<br />(斉藤美和子)
|-
!1983.04.04<br />-<br />1983.07.02
|rowspan="5"|上柳昌彦
|-
!1983.07.04<br />-<br />1983.10.01
|rowspan="2"|小山茉美
|-
!1983.10.03<br />-<br />1985.03.30
|rowspan="3"|白井貴子||鴻上尚史
|-
!1985.04.01<br />-<br />1985.09.28
|rowspan="2"|バブルガムブラザーズ||rowspan="2"|中村あゆみ
|-
!1985.09.30<br />-<br />1986.03.29
|ABブラザーズ
|-
! colspan="13" style="text-align:center" |1986年04月 - 1997年09月<br />月 - 土 オールナイトニッポン第2部/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1986.03.31<br />-<br />1986.10.04
|杉山清貴||白井貴子||THE 東南西北||rowspan="4"|寺田恵子||rowspan="2"|中村あゆみ||rowspan="3"|いんぐりもんぐり||rowspan="33"style="background-color:silver"|‐
|-
!1986.10.06<br />-<br />1987.01.31
|rowspan="3"|うじきつよし||rowspan="3"|越前屋俵太||rowspan="3"|ちわきまゆみ
|-
!1987.02.02<br />-<br />1987.05.30
|rowspan="4"|久本雅美
|-
!1987.06.01<br />-<br />1987.10.03
|rowspan="5"|田中義剛
|-
!1987.10.05<br />-<br />1987.12.31
|rowspan="6"|辻仁成||rowspan="3"|寺内たけし||rowspan="3"|小峯隆生||うじきつよし
|-
!1988.01.04<br />-<br />1988.07.02
|rowspan="4"|片桐麻美
|-
!1988.07.04<br />-<br />1988.10.01
|rowspan="4"|PLI:Z
|-
!1988.10.03<br />-<br />1989.04.01
|rowspan="4"|森若香織||rowspan="4"|伊集院光
|-
!1989.04.03<br />-<br />1989.05.27
|rowspan="7"|川村かおり
|-
!1989.05.29<br />-<br />1989.09.30
|rowspan="2"|彦摩呂
|-
!1989.10.02<br />-<br />1990.03.31
|rowspan="3"|寺内たけし||ヒルビリー・バップス
|-
!1990.04.02<br />-<br />1990.09.29
|曽我部哲弥||rowspan="9"|真璃子||rowspan="6"|渡瀬マキ||伊集院光
|-
!1990.10.01<br />-<br />1990.12.29
|rowspan="4"|AYA<br /><small>(PINK SAPPHIRE)</small>||rowspan="2"|TAKU<br />(THE FUSE)
|-
!1991.01.03<br />-<br />1991.03.30
|rowspan="3"|SHO<br />(BY-SEXUAL)
|-
!1991.04.01<br />-<br />1991.06.01
|rowspan="2"|平松愛理
|-
!1991.06.03<br />-<br />1991.09.28
|rowspan="5"|電気グルーヴ
|-
!1991.09.30<br />-<br />1991.12.28
|rowspan="2"|浅草キッド||rowspan="4"|槇原敬之||rowspan="3"|Sepia'n Roses
|-
!1992.01.06<br />-<br />1992.03.28
|rowspan="3"|福山雅治
|-
!1992.03.30<br />-<br />1992.05.30
|rowspan="2"|月替わり
|-
!1992.06.01<br />-<br />1992.10.03
|加藤いづみ
|-
!1992.10.05<br />-<br />1993.04.03
|rowspan="3"|石川よしひろ||rowspan="3"|清水宏||松永並子<br />北原ゆき||rowspan="3"|久保コージ||rowspan="2"|橘いずみ||rowspan="2"|2・3's
|-
!1993.04.05<br />-<br />1993.10.02
|松村邦洋
|-
!1993.10.04<br />-<br />1994.04.02
|rowspan="5"|篠原美也子||柿島伸次||rowspan="4"|佐伯進
|-
!1994.04.04<br />-<br />1994.07.02
|ナインティナイン||rowspan="3"|YUKI<br /><small>(JUDY AND MARY)</small>||rowspan="3"|山本シュウ||rowspan="4"|週替わり
|-
!1994.07.04<br />-<br />1994.10.01
|小沢健二<br />スチャダラパー
|-
!1994.10.03<br />-<br />1995.04.01
|rowspan="2"|垣花正
|-
!1995.04.03<br />-<br />1995.09.30
|rowspan="4"|<small>EAST END×YURI</small>||rowspan="4"|ぜんじろう||rowspan="4"|佐伯進<br />CHACK
|-
!1995.10.09<br />-<br />1996.03.30
|堂島孝平||rowspan="6"|古内東子||rowspan="2"|ゆき丸<br />(The JUICE)<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />週替わり
|-
!1996.04.01<br />-<br />1996.06.29
|rowspan="3"|園田利隆
|-
!1996.07.01<br />-<br />1996.09.28
|rowspan="3"|船江修<br />(the OYSTARS)
|-
!1996.09.30<br />-<br />1996.12.28
|rowspan="3 "|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||rowspan="2"|U-turn||rowspan="3 "|荘口彰久
|-
!1997.01.06<br />-<br />1997.03.29
|rowspan="2"|西川貴教
|-
!1997.03.31<br />-<br />1997.09.27
|ホフディラン||NOB<br />(CURIO)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1997年10月 - 1998年03月<br />月 - 木・土 オールナイトニッポン第2部/金曜日 オールナイトニッポンMusic Revolution<ref name="Niku">29:00まで。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1997.09.29<br />-<br />1998.03.28
|つぶやきシロー||<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||鳥羽潤||週替わり||Music Revolution<br />(西川貴教)||荘口彰久||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1998年04月 - 1999年03月<br />月 - 土 オールナイトニッポンR/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1998.03.30<br />-<br />1998.05.02
|rowspan="4"|ゆず||rowspan="2"|pee-ka-boo||rowspan="6"|鳥羽潤||rowspan="5"|桃乃未琴||hide||rowspan="6"|平野友康||rowspan="6"style="background-color:silver"|‐
|-
!1998.05.04 <br />-<br />1998.05.30
|rowspan="2"|週替わり
|-
!1998.06.01<br />-<br />1998.08.29
|rowspan="4"|荘口彰久
|-
!1998.08.31 <br />-<br />1998.10.03
|rowspan="3"|木村世治<br /><small>(ZEPPET STORE)</small>
|-
!1998.10.05 <br />-<br />1998.12.26
|rowspan="2"|イルミナ
|-
!1999.01.04 <br />-<br />1999.03.27
|<small>TRICERATOPS</small>
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |LF+R(1999年04月 - 2003年03月)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1999年04月 - 2000年09月<br />月 - 土 allnightnippon-r <ref name="program">曜日によって箱番組を内包。</ref><ref>1999年10月から2000年9月まで火曜日は30分から1時間番組を3本放送。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1999.03.29<br />-<br />1999.10.02
|rowspan="3"|<small>TRICERATOPS</small>||ガレッジセール<br />お笑い<br />植田朝日||rowspan="4"|週替わり||rowspan="4"|<small>プロデューサーズナイト</small><br />(週替わり)||rowspan="4"|いしのだなつよ||GIRL POP STREET||rowspan="4"style="background-color:silver"|‐
|-
!1999.10.04<br />-<br />2000.04.01
|ガレッジセール<br />FEEL<br />ジャンヌダルク||rowspan="3"|荘口彰久
|-
!2000.04.03<br />-<br />2000.04.29
|rowspan="2"|ジャンヌダルク<br />ガレッジセール<br />GAGナイト
|-
!2000.05.01<br />-<br />2000.09.30
||<small>Dope HEADz</small>
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2000年10月 - 2001年10月<br />月 - 金 allnightnippon-r/土曜日 allnightnippon-r たまそう音楽堂<ref name="program">曜日によって箱番組を内包。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2000.10.02<br />-<br />2001.09.29
|TAKUI||ガレッジセール||rowspan="2"|週替わり||ビビる||GO!GO!7188||rowspan="2"|たまそう音楽堂<br />(玉川美沙・荘口彰久)||rowspan="2"style="background-color:silver"|‐
|-
!2001.10.01<br />-<br />2001.10.27
|Λucifer||なおと<br /><small>(ナオト・インティライミ)</small>||石井和義||綾小路セロニアス翔<br />(氣志團)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2001年10月 - 2002年03月<br />月 - 金 allnightnippon-r/土曜日 allnightnippon-r プロデューサーズナイト<ref name="program">曜日によって箱番組を内包。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2001.10.29<br />-<br />2001.11.17
|rowspan="2"|Λucifer||なおと<br /><small>(ナオト・インティライミ)</small>||rowspan="2"|週替わり||rowspan="2"|石井和義||rowspan="2"|綾小路セロニアス翔<br />(氣志團)||rowspan="2"|<small>プロデューサーズナイト</small><br />(週替わり)||rowspan="2"style="background-color:silver"|‐
|-
!2001.11.19<br />-<br />2002.03.30
|BUMP OF CHICKEN
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2002年04月 - 2002年09月<br />月 - 金 allnightnippon-r/土曜日 allnightnippon-r LF+R RECORD SPECIAL<ref name="program">曜日によって箱番組を内包。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2002.04.01<br />-<br />2002.09.28
|小久保淳平||土屋礼央||週替わり||石井和義||綾小路セロニアス翔<br />(氣志團)||RECORD SPECIAL<br />(吉田尚記)||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2002年10月 - 2003年03月<br />月 - 水・金 allnightnippon-r/木曜日 allnightnippon-r 芸人魂〜dead or alive〜/土曜日 allnightnippon-r LF+R RECORD SPECIAL<ref name="program">曜日によって箱番組を内包。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:13em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:12em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:12em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:12em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:12em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:12em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:12em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2002.09.30<br />-<br />2003.03.29
|小久保淳平||SHOGO||週替わり||芸人魂||シーモネーター<br />DJ TAKI-SHIT||RECORD SPECIAL<br />(吉田尚記)||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |LF+R終了以降(2003年04月 - 2012年03月)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2003年04月 - 2003年09月<br />月 - 水・金 オールナイトニッポンR/木曜日 オールナイトニッポンR アイドル総合研究所/土曜日 オールナイトニッポンレコード<ref name="program">曜日によって箱番組を内包。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2003.03.31<br />-<br />2003.09.27
|小久保淳平||SHOGO||より子。||アイドル総合研究所<br />(藤井隆)||週替わり<br /><small>ゲームナイトニッポン</small><ref name="last week">最終週のみ</ref>||レコード<br />(吉田尚記)||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2003年04月 - 2003年09月<br />月 - 木 オールナイトニッポンエバーグリーン/金曜日 オールナイトニッポンR/土曜日 オールナイトニッポンレコード<ref name="program">曜日によって箱番組を内包。</ref>/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2003.09.29<br />-<br />2004.03.27
|colspan="4"|斉藤安弘||週替わり<br /><small>ゲームナイトニッポン</small><ref name="last week">最終週のみ</ref>||レコード<br />(吉田尚記)||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2004年04月 - 2009年03月<br />月 - 木 オールナイトニッポンエバーグリーン/金・土 オールナイトニッポンR/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2004.03.29<br />-<br />2005.03.26
|colspan="4"rowspan="8"|斉藤安弘||rowspan="2"|週替わり||グローバー||rowspan="9"style="background-color:silver"|‐
|-
!2005.03.28<br />-<br />2006.04.01
|週替わり
|-
!2006.04.03<br />-<br />2006.06.24
|rowspan="4"|オリエンタルラジオ||週替わり<br />有楽町音楽室<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2006.06.26<br />-<br />2006.09.30
|山里亮太<br />(南海キャンディーズ)<br />有楽町音楽室<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2006.10.02<br />-<br />2007.03.31
|週替わり<br />有楽町音楽室<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2007.04.02<br />-<br />2008.04.26
|rowspan="2"|週替わり
|-
!2008.04.28<br />-<br />2008.12.27
|rowspan="2"|オリエンタルラジオ<br />スペシャルナイト<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2009.01.05<br />-<br />2009.03.28
|角田龍平
|-
!colspan="12" style="text-align:center" |2009年04月 - 2012年03月<br />月 - 土 オールナイトニッポンR/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2009.03.30<br />-<br />2009.06.27
|colspan="5"|くり万太郎||rowspan="3"|角田龍平<br />よしもと浅草花月<ref name="last week">最終週のみ</ref><br />(飯田浩司)||rowspan="7"style="background-color:silver"|‐
|-
!2009.06.29<br />-<br />2009.10.24
|colspan="4"rowspan="6"|くり万太郎||くり万太郎<br />はる<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2009.10.26<br />-<br />2009.10.31
|週替わり<br />はる<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2009.11.02<br />-<br />2010.01.02
|rowspan="2"|週替わり<br />よしもと浅草花月<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />はる<ref name="last week">最終週のみ</ref>||角田龍平
|-
!2010.01.04<br />-<br />2010.04.02
|rowspan="2"|週替わり
|-
!2010.04.04<br />-<br />2011.10.01
|週替わり<br />はる<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2011.10.03<br />-<br />2012.03.31
|colspan="2"|週替わり
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |8年半ぶりの2部制復活(2012年04月 - 現在)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2012年04月 - 2013年04月<br />月 - 金 オールナイトニッポン0(ZERO)/土曜日 オールナイトニッポンR/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2012.04.02<br />-<br />2013.03.30
|和田正人<br />五十嵐隼士||久保ミツロウ<br />能町みね子||SPYAIR||Hi-Hi||本村康祐<br />西岡隼基||rowspan="2"|<small>オールナイトニッポンR</small><br />(週替わり)||rowspan="2"style="background-color:silver"|‐
|-
!2013.04.01<br />-<br />2013.04.06
|団長<br />(NoGoD)||moto||シシド・カフカ||アルコ&ピース||宇野常寛
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2013年04月 - 2018年03月<br />月 - 金 オールナイトニッポン0(ZERO)/土曜日 オールナイトニッポンR/日曜日 オールナイトニッポン月イチ<ref name="local week">関東ローカル</ref><ref name="part2 week">月一回、25:00 - 27:00まで。</ref>
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2013.04.08<br />-<br />2014.03.29
|団長<br />(NoGoD)||moto||シシド・カフカ||アルコ&ピース||宇野常寛||rowspan="7"|<small>オールナイトニッポンR</small><br />(週替わり)||rowspan="7"|<small>月イチ</small><br />(中島みゆき)
|-
!2014.03.31<br />-<br />2014.07.05
|大原櫻子||rowspan="3"|<small>Czecho No Republic</small>||rowspan="2"|USAG||rowspan="3"|<small>ウーマンラッシュアワー</small>||rowspan="3"|ラブレターズ
|-
!2014.07.07<br />-<br />2014.09.27
|高松豪<br />たかまつなな
|-
!2014.09.29<br />-<br />2015.03.28
|赤い公園||<small>チャラン・ポ・ランタン</small>
|-
!2015.03.30<br />-<br />2016.03.26
|Shiggy Jr.||三四郎||吉田山田||アルコ&ピース||朝井リョウ<br />加藤千恵
|-
!2016.03.28<br />-<br />2017.04.01
|井上苑子||rowspan="2"|WANIMA||rowspan="2"|新内眞衣<br />(乃木坂46)||ニューヨーク||rowspan="2"|三四郎
|-
!2017.04.03<br />-<br />2018.03.31
|ランパンプス||渋谷龍太<br />(SUPER BEAVER)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2018年04月 - 2018年09月<br />月 - 土 オールナイトニッポン0(ZERO)/日曜日 オールナイトニッポン月イチ<ref name="local week">関東ローカル</ref><ref name="part2 week">月一回、25:00 - 27:00まで。</ref>
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2018.04.02<br />-<br />2018.09.16
|根本宗子<br />長井短||Creepy Nuts||新内眞衣<br />(乃木坂46)||四千頭身||三四郎||週替わり<br />健太郎<ref name="three week">第3週のみ</ref><br />WANIMA<ref name="last week">最終週のみ</ref>||<small>月イチ</small><br />(中島みゆき)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2018年09月 - 2019年03月<br />月 - 土 オールナイトニッポン0(ZERO)/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2018.09.17<br />-<br />2018.09.29
|rowspan="2"|根本宗子<br />長井短||rowspan="3"|Creepy Nuts||rowspan="2"|新内眞衣<br />(乃木坂46)||rowspan="2"|四千頭身||rowspan="2"|三四郎||週替わり<br />健太郎<ref name="three week">第3週のみ</ref><br />WANIMA<ref name="last week">最終週のみ</ref>||rowspan="3"style="background-color:silver"|‐
|-
!2018.10.01<br />-<br />2019.03.30
|週替わり
|-
!2019.04.01<br />-<br />2019.04.06
|伊藤健太郎||佐久間宣行||井口理<br />(King Gnu)||霜降り明星||週替わり<br />AKI<ref name="First week">第1週のみ</ref>
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2019年04月 - 現在<br />月 - 土 オールナイトニッポン0(ZERO)/日曜日 オールナイトニッポン月イチ<ref name="local week">関東ローカル</ref><ref name="part2 week">月一回、25:00 - 27:00まで。</ref>
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2019.04.08<br />-<br />2020.03.28
|伊藤健太郎||rowspan="5"|Creepy Nuts||rowspan="8"|佐久間宣行||井口理<br />(King Gnu)||rowspan="2"|霜降り明星||rowspan="2"|週替わり<br />AKI<ref name="First week">第1週のみ</ref>||rowspan="8"|<small>月イチ</small><br />(高嶋ひでたけ)
|-
!2020.03.30<br />-<br />2021.03.27
|rowspan="4"|<small>ファーストサマーウイカ</small>||水溜りボンド
|-
!2021.03.29<br />-<br />2021.04.25
|rowspan="6"|マヂカルラブリー||rowspan="6"|三四郎||週替わり<br />水溜りボンド<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2021.04.26<br />-<br />2021.10.02
|<small>サタデーナイト</small><ref name="First week">第1週のみ</ref><br />(SKE48)<br />週替わり<br />水溜りボンド<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2021.10.04<br />-<br />2022.04.02
|週替わり<br />水溜りボンド<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2022.04.04<br />-<br />2023.04.01
|rowspan="3"|フワちゃん||ぺこぱ||rowspan="2"|週替わり
|-
!2023.04.03<br />-<br />2023.10.21
|rowspan="2"|あの
|-
!2023.10.23<br />-<br />現在
|週替わり<br />松田好花<br />(日向坂46)<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
! colspan="13" style="text-align:center" |25:00 - 25:53「24時台」
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2021年04月 - 現在<br />月 - 金 オールナイトニッポンX/土 - 日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2021.03.29<br />-<br />2021.09.10
|ENHYPEN||rowspan="3"|YOASOBI||rowspan="3"|フワちゃん||rowspan="3"|ぺこぱ||rowspan="3"|週替わり||rowspan="5"colspan="2"style="background-color:silver"|-
|-
!2021.09.13<br />-<br />2021.10.01
|週替わり<ref group="注">ENHYPENのメンバーであるJUNGWON・HEESEUNG・JAY・JAKE・SUNGHOONが9月2日に、NI-KIが9月5日に、それぞれ、新型コロナウイルスの感染が明らかになったため、2021年9月7日の放送をもって、当面の間、番組の放送をお休みになった。その後、2021年9月16日に、メンバー全員が完治したため、2021年10月5日(4日深夜)に放送が再開された。番組休止中は、週替わりでゲストが担当した。</ref>
|-
!2021.10.04<br />-<br />2022.04.01
|ENHYPEN
|-
!2022.04.04<br />-<br />2022.05.20
|rowspan="2"|山田裕貴||rowspan="2"|長屋晴子<br />(緑黄色社会)||rowspan="2"|JO1<br /><small>(レギュラー:白岩瑠姫)</small>||週替わり||rowspan="2"|EXIT
|-
!2022.05.23<br />-<br />現在
|週替わり<br />高橋文哉<ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
! colspan="13" style="text-align:center" |夜のワイド番組
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1968年04月 - 1984年03月<br />月 - 土 放送なし/日曜日 オールナイトニッポン電話リクエスト
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1968.04.07<br />-<br />1968.10.06
| colspan="6" rowspan="7" style="background-color:silver" |‐||亀渕昭信
|-
!1968.10.13<br />-<br />1970.03.08
|菊池貞武
|-
!1970.03.15<br />-<br />1970.04.12
|瀬戸将男
|-
!1970.04.19<br />-<br />1972.10.15
|広見忠雄
|-
!1972.10.21<br />-<br />1974.12.29
|糸居五郎
|-
!1975.01.05<br />-<br />1980.03.30
|木藤隆雄
|-
!1980.04.06<br />-<br />1984.04.01
|はたえ金次郎
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1997年04月 - 1999年03月<br />月 - 土 放送なし/日曜日 オールナイトニッポン電話リクエスト
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1997.10.12<br />-<br />1999.03.28
|colspan="6"style="background-color:silver"|‐||赤坂泰彦
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |LF+R(1999年04月 - 2003年03月)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1999年04月 - 2000年03月<br />月 - 金 allnightnippon SUPER!/土曜日 放送なし/日曜日 @llnightnippon.com
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1999.03.29<br />-<br />1999.10.03
|rowspan="2"|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||rowspan="2"|西川貴教||rowspan="2"|ゆず||ナインティナイン||rowspan="2"|ネプチューン||rowspan="2"style="background-color:silver"|‐||荘口彰久
|-
!1999.10.04<br />-<br />2000.03.19
|SILVA||桃乃未琴
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2000年03月<br />月 - 金 allnightnippon SUPER!/土曜日 allnightnippon Saturday Special/日曜日 @llnightnippon.com
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2000.03.20<br />-<br />2000.03.26
|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||西川貴教||ゆず||SILVA||ネプチューン||福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)||桃乃未琴
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2000年04月 - 2001年03月<br />月 - 金 allnightnippon SUPER!/土曜日 allnightnippon Saturday Special/日曜日 allnightnippon Sunday Special
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2000.03.27<br />-<br />2000.10.29
|rowspan="3"|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||rowspan="3"|西川貴教||ゆず||rowspan="3"|中澤裕子||rowspan="3"|ネプチューン||rowspan="3"|福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)||rowspan="3"|SILVA
|-
!2000.10.30<br />-<br />2000.12.31
|週替わり
|-
!2001.01.02<br />-<br />2001.03.25
|ポルノグラフィティ
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2001年03月- 2001年04月<br />月 - 金 allnightnippon SUPER!/土曜日 allnightnippon Saturday Special/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2001.03.26<br />-<br />2001.03.31
|rowspan="2"|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||rowspan="2"|西川貴教||rowspan="2"|ポルノグラフィティ||中澤裕子||rowspan="2"|ネプチューン||rowspan="2"|福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)</small>||rowspan="2"style="background-color:silver"|‐
|-
!2001.04.02<br />-<br />2001.04.07
|矢口真里
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2001年04月 - 2001年09月<br />月 - 金 allnightnippon SUPER!/土曜日 allnightnippon Saturday Special/日曜日 allnightnippon Sunday Special
|-
!2001.04.09<br />-<br />2001.09.23
|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||西川貴教||ポルノグラフィティ||矢口真里||ネプチューン||福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)</small>||中澤裕子
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2001年09月<br />月 - 金 allnightnippon SUPER!/土曜日 allnightnippon Saturday Special/日曜日 放送なし
|-
!2001.09.24 <br />-<br />2001.09.29
|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||西川貴教||ポルノグラフィティ||矢口真里||ネプチューン||福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)</small>||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="12" style="text-align:center" |2001年10月 - 2002年09月<br />月 - 金 allnightnippon SUPER!/土曜日 allnightnippon Saturday Special/日曜日 allnightnippon Sunday SUPER!<ref name="a">23:00 - 24:30</ref>(@llnightnippon Sunday.com)<ref name="b">24:30 - 25:30</ref><ref name="local week">関東ローカル</ref>
|-
!2001.10.01<br />-<br />2002.09.29
|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||西川貴教||ポルノグラフィティ||矢口真里||ネプチューン||福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)</small>||中澤裕子<hr/>飯島愛
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2002年10月 - 2003年03月<br />月 - 木 allnightnippon SUPER!/金曜日 allnightnippon SUPER FRIDAY!/土曜日 allnightnippon Saturday Special<br />日曜日 allnightnippon Sunday SUPER!<ref name="a">23:00 - 24:30</ref>(@llnightnippon Sunday.com)<ref name="b">24:30 - 25:30</ref><ref name="local week">関東ローカル</ref>
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2002.09.30<br />-<br />2003.03.30
|<small>ロンドンブーツ1号2号</small>||西川貴教||ポルノグラフィティ||矢口真里||堀内健<br />ビビる大木||福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)</small>||中澤裕子<hr/>飯島愛
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |LF+R終了後(2003年04月 - 現在)
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2003年04月 - 2001年09月<br />月 - 木 オールナイトニッポンいいネ!/金曜日 オールナイトニッポンフライデースペシャル/土曜日 オールナイトニッポンサタデースペシャル/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2002.03.31<br />-<br />2003.09.27
|田村淳<br /><small>(ロンドンブーツ1号2号)</small>||木下明水||TAKEMURA<br />(SNAIL RAMP)||グローバー||長渕剛||福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)</small>||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2003年10月<br />月 - 木 オールナイトニッポンいいネ!/金曜日 オールナイトニッポン FRIDAY SPECIAL/土曜日 オールナイトニッポンサタデースペシャル/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2003.09.28<br />-<br />2003.11.01
|田村淳<br /><small>(ロンドンブーツ1号2号)</small>||木下明水||TAKEMURA<br />(SNAIL RAMP)||グローバー||週替わり||福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)</small>||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2003年11月 - 2004年03月<br />月 - 木 オールナイトニッポンいいネ!/金曜日 オールナイトニッポンフライデースペシャル/土曜日 オールナイトニッポンサタデースペシャル/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2003.11.03<br />-<br />2004.03.27
|田村淳<br /><small>(ロンドンブーツ1号2号)</small>||木下明水||TAKEMURA<br />(SNAIL RAMP)||グローバー||SHOGO||福山雅治||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2004年04月 - 2009年11月<br />月 - 金・日 放送なし/土曜日 オールナイトニッポンサタデースペシャル
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2004.04.03<br />-<br />2009.11.28
|colspan="5"style="background-color:silver"|‐||福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)</small>||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center"|2009年12月 - 2015年09月<br />月 - 金 オールナイトニッポンGOLD/土曜日 オールナイトニッポンサタデースペシャル/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2009.11.30<br />-<br />2009.12.26
|rowspan="8"|坂崎幸之助<br />吉田拓郎||rowspan="9"|ゆず||rowspan="4"|ピストン西沢||rowspan="2"|所ジョージ||週替わり||rowspan="11"|福山雅治<br /><small>(アシスタント:荘口彰久)</small>||rowspan="12"style="background-color:silver"|‐
|-
!2009.12.28<br />-<br />2011.01.01
|rowspan="2"|新保友映
|-
!2011.01.03<br />-<br />2011.03.26
|rowspan="6"|大竹しのぶ
|-
!2011.03.28<br />-<br />2011.04.02
|rowspan="2"|週替わり
|-
!2011.04.04<br />-<br />2011.04.09
|rowspan="3"|広瀬香美
|-
!2011.04.11<br />-<br />2012.03.31
|app10.jp<br />(吉田尚記)
|-
!2012.04.02<br />-<br />2013.03.30
|rowspan="2"|45周年特別企画<br />(週替わり)
|-
!2013.04.01<br />-<br />2013.10.05
|小島慶子
|-
!2013.10.07<br />-<br />2013.11.02
|rowspan="4"|バカリズム||rowspan="2"|小島慶子<br />ミッツ・マングローブ||宮藤官九郎||rowspan="3"|週替わり
|-
!2013.11.04<br />-<br />2015.01.03
|rowspan="3"|宮藤官九郎||rowspan="2"|ゆず
|-
!2015.01.05<br />-<br />2015.03.28
|rowspan="2"|ミッツ・マングローブ
|-
!2015.03.30<br />-<br />2015.09.26
|久保ミツロウ<br />能町みね子||週替わり<br />広瀬香美<ref name="Irregular">不定期担当</ref>||大倉忠義<br />(関ジャニ∞)<br />高橋優
|-
!colspan="13" style="text-align:center"|2015年10月 - 現在<br />月 - 木 オールナイトニッポン MUSIC10/金曜日 オールナイトニッポンGOLD/土曜日 オールナイトニッポンサタデースペシャル/日曜日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2015.09.28<br />-<br />2016.03.26
|rowspan="13"|森山良子||rowspan="5"|名取裕子<br />松田聖子<ref name="Monthly">月1回担当</ref>||rowspan="7"|鈴木杏樹||rowspan="3"|斉藤由貴||週替わり<br />宮藤官九郎<ref name="First week">第1週のみ</ref>||rowspan="7"|大倉忠義<br />(関ジャニ∞)<br />高橋優||rowspan="13"style="background-color:silver"|‐
|-
!2016.03.28<br />-<br />2016.10.01
|週替わり<br />宮藤官九郎<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />松任谷由実<ref name="fourth week">第4週のみ</ref>
|-
!2016.10.03<br />-<br />2017.09.09
|rowspan="4"|週替わり<br />宮藤官九郎<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />古舘伊知郎<ref name="three week">第3週のみ</ref><br />松任谷由実<ref name="fourth week">第4週のみ</ref>
|-
!2017.09.11<br />-<br />2017.12.30
|週替わり
|-
!2018.01.01<br />-<br />2018.03.30
|rowspan="9"|渡辺満里奈
|-
!2018.04.02<br />-<br />2019.06.29
|rowspan="2"|名取裕子
|-
!2019.07.01<br />-<br />2020.03.28
|週替わり<br />宮藤官九郎<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />古舘伊知郎<ref name="three week">第3週のみ</ref><br />松任谷由実<ref name="fourth week">第4週のみ</ref><br /><small>ラブライブ!シリーズ</small><ref name="Monthly">月1回担当</ref>
|-
!2020.03.30<br />-<br />2020.06.27
|rowspan="6"|鈴木杏樹||rowspan="6"|名取裕子<br />森高千里<ref name="second week">第2週のみ</ref><br />岸谷香<ref name="fourth week">第4週のみ</ref>||週替わり<br />古舘伊知郎<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />吉田拓郎<ref name="second week">第2週のみ</ref><br />松任谷由実<ref name="fourth week">第4週のみ</ref>||rowspan="6"|SixTONES<br /><small>(レギュラー:田中樹)</small>
|-
!2020.06.29<br />-<br />2022.03.05
|週替わり<br />古舘伊知郎<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />吉田拓郎<ref name="second week">第2週のみ</ref><br />松任谷由実<ref name="fourth week">第4週のみ</ref><br /><small>ラブライブ!シリーズ</small><ref name="Monthly">月1回担当</ref>
|-
!2022.03.07 <br />-<br />2022.03.26
|週替わり<br />吉田拓郎<ref name="second week">第2週のみ</ref><br />松任谷由実<ref name="fourth week">第4週のみ</ref><br /><small>ラブライブ!シリーズ</small><ref name="Monthly">月1回担当</ref>
|-
!2022.03.28<br />-<br />2022.12.17
|週替わり<br />MISIA<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />吉田拓郎<ref name="second week">第2週のみ</ref><br />松任谷由実<ref name="three week">第3週のみ</ref><br /><small>ラブライブ!シリーズ</small><ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2022.12.19<br />-<br />2023.04.01
|週替わり<br />MISIA<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />松任谷由実<ref name="three week">第3週のみ</ref><br /><small>ラブライブ!シリーズ</small><ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!2023.04.03<br />-<br />現在
|週替わり<br />あいみょん<ref name="First week">第1週のみ</ref><br />松任谷由実<ref name="three week">第3週のみ</ref><br /><small>ラブライブ!シリーズ</small><ref name="last week">最終週のみ</ref>
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |ナイターオフシーズン
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |1997年10月 - 1998年03月<br />月 - 金 オールナイトニッポンDX/土 ・ 日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!1997.10<br />-<br />1998.03
|吉田拓郎||ねのね<br />(あのねのね 原田伸郎)||泉谷しげる||松山千春||週替わり||colspan="2"style="background-color:silver"|-
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2017年10月 - 2018年03月<br />月 - 金 オールナイトニッポンPremium/土・日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2017.10<br />-<br />2017.12
|綾小路翔<br />(氣志團)||ココリコ||藤井フミヤ||デーモン閣下||藤井隆||rowspan="2"colspan="2"style="background-color:silver"|-
|-
!2018.01<br />-<br />2018.03
|Toshl<br />(X JAPAN)||鴻上尚史||miwa||バカリズム||大槻ケンヂ
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2018年10月 - 2019年03月<br />月 - 金 オールナイトニッポンPremium/土・日 放送なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2018.10<br />-<br />2019.03
|ココリコ||中川家||中田敦彦<br />(オリエンタルラジオ)||よゐこ||Kis-My-Ft2||colspan="2"style="background-color:silver"|-
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2019年10月 - 2020年03月<br />月 - 金・日 放送なし/土曜日 オールナイトニッポンPremium
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2019.10<br />-<br />2020.03
|colspan="5"style="background-color:silver"|‐||Kis-My-Ft2||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2020年10月 - 2021年03月<br />月 - 金・日 放送なし/土曜日 オールナイトニッポンPremium
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2020.10<br />-<br />2021.03
|colspan="5"style="background-color:silver"|‐||Kis-My-Ft2||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2021年10月 - 2022年3月 <br />月 - 金・日 放送なし/土曜日 オールナイトニッポンPremium
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2021.10<br />-<br />2022.03
|colspan="5"style="background-color:silver"|‐||なにわ男子||style="background-color:silver"|‐
|-
!colspan="13" style="text-align:center" |2022年10月 - 現在 <br />月 - 金・日 放送なし/土曜日 オールナイトニッポンPremium
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2022.10<br />-<br />2023.03
|colspan="5"style="background-color:silver"|‐||週替わり||style="background-color:silver"|‐
|-
! colspan="12" style="text-align:center" |その他
|-
!colspan="12" style="text-align:center" |2021年10月 - 現在 <br />月 - 土 オールナイトニッポンPODCAST/日曜日 配信なし
|-
!期間!! style="width:11.5em" |月曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |火曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |水曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |木曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |金曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |土曜日<small>担当</small>!! style="width:11.5em" |日曜日<small>担当</small>
|-
!2021.10.04<br />-<br />現在
|トータルテンボス||蛙亭||銀シャリ||アンガールズ||トム・ブラウン||月替わり||style="background-color:silver"|-
|-
|}
== 歴史 ==
=== 月曜日 - 土曜日 ===
==== 番組黎明期 ====
放送開始の背景として、[[1960年代]]半ばの[[不況]]と、[[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]による[[テレビ]]の躍進により[[広告]][[収入]]が激減し、[[ラジオ]]業界にとっては新しい[[リスナー]]の層と広告主([[スポンサー]])の開拓を迫られていた([[ラジオ離れ#1960年代]]も参照)事がある<ref>セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、オールナイトニッポン編・14ページより。</ref>。その状況に対し、[[ニッポン放送]]は1964年4月より「[[ニッポン放送#オーディエンス・セグメンテーション|オーディエンス・セグメンテーション]]」編成を導入し編成方針を抜本的に見直していたが、その動きが深夜に波及したことにある。
また、当時行われた[[深夜]]の[[聴取率]]調査において、ニッポン放送が、最下位になったことにより、深夜の時間帯の[[テコ入れ]]を図ろうと企画されたものでもある<ref name="sanspo_20180304">{{Cite news |和書|title= 【オールナイトニッポン 青春ON AIR】スタートは社員パーソナリティー!?|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2018-03-04|author= 小山理絵|url= https://www.sanspo.com/article/20180304-Q5FTWO2X7BOMLG2OJTNBPY5MQ4/|access-date=2022-08-18}}</ref>。
そこで、当時・ニッポン放送編成部長だった羽佐間重彰が制作したいと思ったのが、若者に向けた深夜の時間帯のワイド番組だった<ref name="秘伝_13">{{Cite book |和書 |author= 亀渕昭信|title= 秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか|publisher= 小学館|year= 2023|page= 13|isbn=}}</ref>。そこで、当時の上司であるニッポン放送常務の石田達郎に相談を持ち掛けた<ref name="秘伝_13"/>。
これについて、当時・ニッポン放送編成部長だった[[羽佐間重彰]]は「昭和三十四年の皇太子様のご成婚のとき、テレビの受像機の数が全国で二百万台になったんです。その反動でラジオの聴取者は激減しましたね。ウチ、すなわちニッポン放送が日本で初めて二十四時間放送をスタートさせた年ですけど、お客さんがいないんですよ。三十分の音楽番組で、リクエストのハガキが毎週わずかに五枚ぐらいしか来ないんだからね。われわれは危機感を持ったんです。」と述べている<ref>深夜放送がボクらの先生だった・72ページより。</ref>。
また、羽佐間はオーディエンス・セグメンテーションについて「それでアメリカの例を見てみると、音楽だけ、ニュースだけ、スポーツだけを一日中放送している、細分化された小さなラジオ局が何十、何百とあることが分かった。英語で言うとステーション・セグメントって言うんです。そのことを、ラジオ局が少ない日本の場合に置き換えてみた。ニッポン放送では、時間帯によって対象とする聴取者を分けていこうと考えたわけです。午前中は主婦、昼間は働いている中小企業の人たち、夜は若者ですよ。オーディエンス・セグメンテーションっていうシステムなんです。」と説明した<ref>深夜放送がボクらの先生だった・73ページ-74ページより。</ref>。
放送が開始された[[1960年代]]後半は、いわゆる[[団塊の世代]]が大学生生活を送っていた時代であり、『オールナイトニッポン』はそのような大学生、また受験勉強に明け暮れている高校生・中学生にターゲットを絞り、それまでテレビやラジオで流れることはほとんどなかった[[ビートルズ]]や[[サイモン&ガーファンクル]]、[[ボブ・ディラン]]など海外の[[ポピュラーミュージック]]から[[ザ・フォーク・クルセダーズ]]など日本の[[フォークソング]]まで、若者世代の最先端を走る音楽をふんだんに流す編成とした。
前身となる番組は、ニッポン放送にて[[1959年]][[10月10日]]から放送していた『[[オールナイトジョッキー]]』(DJ:[[糸居五郎]])となる。子会社の「株式会社深夜放送」<ref>現・フジサンケイエージェンシー。現在は保険代理店とイベント関連のみで、制作事業からは手を引いている</ref> が制作していたこの番組は、糸居が選曲・ターンテーブルの操作といった通常はスタッフが行う作業を一人でこなすという[[ディスクジョッキー]]スタイルであり、それが局の省力化した番組を作れないかという思惑と合致していたことから、番組を発展させる形で『オールナイトニッポン』は放送を開始した。
[[1965年]][[8月]]に、[[文化放送]]が、[[土居まさる]]をDJとして始めた『[[真夜中のリクエストコーナー]]』が「深夜放送の原型」としてみていたのが[[亀淵昭信]]だったが、亀淵はのちのインタビューで「土居さんは今の放送では当たり前のように使われている擬音語や擬声語をふんだんに、しかも上手に使って、それまでのアナウンサーのテンポとは全く違う、まるで機関銃のような早口で若者たちに語りかけたのです。ラジオ放送という概念を覆したという意味で、新しい時代の到来を予感させました」と述べている<ref>パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、113ページ-114ページ。</ref>。
放送時間は、当初、午前0時スタートがいいのではないかという議論があったが、1967年の時点で午前0時台には既に多くのスポンサーが入っていたので、放送枠の改変が困難だったため、当初の構想より1時間遅くして、午前1時からのスタートと決定した<ref name=radipara9002>[[ラジオパラダイス]] 1990年2月号 83ページ「ドン上野のHistory of Radio」</ref>。また、タイトルについては「オールナイトニッポン放送」という案も上がったが、全国ネット化を見据えているという理由で「放送」を取って『オールナイトニッポン』となった{{efn2|[[上野修 (ラジオプロデューサー)|上野修(ドン上野)]]はこれについて「簡単に決まった」と述べている<ref name=radipara9002/>。}}。また、羽佐間は「『オールナイトニッポン』という番組タイトルだけどね。ニッポン放送という名前を広く知ってもらうために、ニッポンと入れたんです」と説明した<ref name="boku_74">深夜放送がボクらの先生だった・74ページより。</ref>。さらに、羽佐間は、「『ニッポン放送』が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]と混同されないよう、そしてTBSラジオ、文化放送よりも認知されるよう、とにかく『ニッポン』という言葉を浸透させたかった。」とした上で「朝の番組は『おはようニッポン』、午後は『歌謡曲ニッポン』など様々な番組名に『ニッポン』とつけていく中で、『オールナイトニッポン』という番組名が誕生した」とも説明している<ref name="LF_20221003"/>。
こうして、企画の骨格が固まっていく中でTBSラジオが1967年8月1日未明(7月31日深夜)に『[[パックインミュージック]]』の放送を開始となり、日本て初めての深夜のワイド番組となった<ref name="秘伝_13"/>。それから、およそ2か月後の1967年10月2日深夜から放送開始。放送時間は月曜日 - 土曜日25:00 - 29:00(翌日未明1:00 - 5:00)。
当初のDJ(「[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]」と呼ぶようになったのは1969年頃から)はニッポン放送アナウンサーの糸居五郎(月曜日)、[[斉藤安弘]](火曜日)、[[高岡尞一郎]](水曜日)、[[今仁哲夫]](木曜日)、[[常木建男]](金曜日)、[[高崎一郎]](土曜日。アナウンサーではなかったが、プロデューサー兼DJとしてニッポン放送の番組に出演していた)。初回放送のDJは、前身番組『オールナイトジョッキー』のDJだった糸居が務めた。本番組で最初にかかった曲となる、初回の第1曲目は[[ジェファーソン・エアプレイン]]の「あなただけを」だった<ref>『月刊[[ラジオパラダイス]]』1987年4月号『深夜放送20周年ぐらふぃてぃ』24ページより。</ref>。このパーソナリティという呼び名について、羽佐間は「当時アナウンサーは無個性と言われていて、個性を出すためアメリカで使われていた『パーソナリティ』という言葉を採用した」と説明している<ref name="LF_20221003"/>。また、斉藤安弘は「ニッポン放送から、パーソナリティという言葉が始まったんですよ」とも述べている<ref name="LF_20221003"/>。
これについて、羽佐間は「なにしろ、深夜、受験勉強以外にたいした愉しみもなく、一人で孤独で起きている若者を相手にしようとする番組です。なのにスタジオで男と女がチャラチャラ喋っていたら、聴いているほうは、アタマに来ちゃうと思ったんです。」と一人の男性アナウンサーをこの番組のパーソナリティを据えた理由について述べている<ref name="boku_74"/>。また、初代パーソナリティのラインナップについて羽佐間は「日替わりのメンバーを決めるにあたっては、放送で個性が出やすいようにしたんです。放送上のキャラクターを最初から陰性と陽性に分けて選んだものでした。もちろん企画書にはそんなこと書きませんでしたけどね」とも述べている<ref name="boku_76">深夜放送がボクらの先生だった・76ページより。</ref>。つまりは、放送上のキャラクターとしては、[[今仁哲夫]]・[[斉藤安弘]]・[[高崎一郎]]が陽性で、[[高岡尞一郎]]・[[常木建男]]・糸居五郎が陰性ということになる<ref name="boku_76"/>。
当時編成局長だった[[石田達郎]]や当時編成部長だった[[羽佐間重彰]]は、番組を立ち上げるに当たって、次のような4つの大原則を立てている<ref>パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、107ページ。</ref>。
* 外部のタレントではなく、アナウンサーやディレクターといったニッポン放送内部の人間を起用する
** これについて、羽佐間は「まず、外部のタレントは使わないってこと。だって毎晩のことだから出演料がかかりますからね。だから、ニッポン放送のアナウンサーとか、ディレクターとか、番組制作にタッチしている男性を使う。それから、女性は使わないってことです。夜中だし女性は扱いづらいですからね。わかるでしょう」と述べている<ref>深夜放送がボクらの先生だった・75ページより。</ref>。
* スポンサーを付けない
** 提供スポンサーから番組内容に口出しされることを嫌ったため、番組開始後半年間から1年間はスポンサーを付けなかった<ref name="puck"/><ref name="boku_78"/>。のちにスポンサーを付ける際にも、「協賛スポンサー」という形で、番組内容にはタッチしないことを条件としており、パーソナリティがスポンサー名を読み上げる際、「以上各社の'''協賛'''で…」と付け加えるのはこの原則に由来している。この原則は2023年現在も守られているが、[[とんねるずのオールナイトニッポン|とんねるず]]や『SUPER!』では「以上各社の'''提供'''で」と読み上げていたほか、『X』については通常のスポンサー読みとなっていて、「…(スポンサー名)がお送りします(しています)。」となっている。
** これについて、羽佐間は「われわれのところにも、ある飲料メーカーが一社提供をしたいって言ってきたけど、それも断っちゃった。」と述べた上で「だからニッポン放送内でも、営業部とは大ゲンカになりました。でもぼくはスポンサーの影響で番組の自由度が奪われるのを、絶対に避けたかったんですよね」と述べる<ref name="boku_78">深夜放送がボクらの先生だった・78ページより。</ref>。さらに、羽佐間は「『オールナイトニッポン』がスタートする以前、その時間帯の営業収入が七百万円ありました。それがなくなっちゃうんだから。営業部長が怒るのは当たり前ですよ」とも述べている<ref>深夜放送がボクらの先生だった・79ページより。</ref>。
** また、斉藤安弘は「いまだから言えるけど、番組が始まってから半年ぐらいは、スポンサーが付かなかったんですよ。だからぼくたちは、自由にいろんなことが言えたんですよ。怪我の功名だったよね」とも述べている<ref name="boku_78"/>。
** また、亀淵はのちのインタビューで「番組の自由度を保持するためにはスポンサーに縛られたくはない。とはいっても、無名の番組は安い値段でしか売れない。人気があれば高く売れる。番組を安売りするぐらいだったら無理やりスポンサーを付ける必要はない。良い番組を作って、良い放送をすれば、黙っていてもカロリーの高いスポンサーが付いてくるはずだ。」と述べている<ref name="puck">パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、115ページ。</ref>。
** 高嶋ひでたけは「引き合いはたくさんあったんですよ。営業マンはCMを出したいって言ってるのに、そこを抑えていた。半年後にドンと一流のスポンサーがずらりと並んだ。一流企業ばっかりで、始まる前は訳がわからない事ばっかりだったけど、誰がDJをやっても大丈夫な番組になった」とも述べている<ref name="nikkan_20230214"/>。
** 協賛の原則は守っているものの、1988年に始まった『[[松任谷由実のオールナイトニッポン]]』以降、土曜'''のみ'''のスポンサー起用がはじまることになる。1999年の『[[タイトー]] [[クールKのウルトラカウントダウン|サタデースペシャル クールKのウルトラカウントダウン]]』からは冠スポンサーがつくようになり、2002年の『[[TOSHIBA Presents オールナイトニッポンリスナーズBEST|TOSHIBA Presents @llnightnippon.com LF+R リスナーズBEST!]]』以降、土曜のオールナイトニッポンは"'''○○ presents''' ××のオールナイトニッポン"を正式な番組タイトルとしている(ただし、期間中でもついていないシーズンもある)。
* 狭いスタジオを使う、ゲストは呼ばない
** 狭いスタジオに閉じこめ孤独感を味わわせることで、聴取者と一対一で喋っているような感覚にさせる。同様にゲストを呼ぶことも禁止した。生放送時のスタッフもディレクターのみと最小限の人数であった{{#tag:ref|その時の放送中のスタジオの様子について、1968年に入社し、後に泉谷しげる、あのねのね、笑福亭鶴光のオールナイトニッポンのディレクターとして名をはせる鈴木隆は「(有楽町の旧社屋の)第5スタジオというのが4階にあって、そこで『オールナイト』をやっていたんだけど、とにかく静かでしたよ。なぜかというと、ディレクターが一人しかいない。ミキサーも兼ねているわけですから。構成作家もいないし、しゃべり手が自分でハガキを選んで曲を決める。基本的にそれだけだし、ちょっと、仕掛けを考えるのも本人ですし。それが第一次黄金時代のパターンですよ。だから、ディレクターにも責任があるし、緊張感ありますよね。僕らが夜中に通ってもスタジオには入れなかったんですもん。外から覗いて『やってるな』という印象は強烈にありましたね」と語っている<ref>セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、オールナイトニッポン編19ページ-20ページより。</ref>。|group="注"}}。
** これについて、羽佐間は「それは、ぼくの作戦だったんですよ。パーソナリティを狭いスタジオに閉じ込めて、孤独感でいっぱいにさせたんです。広いスタジオだったら気分も開放的になっちゃうでしょう」と説明している<ref name="boku_82">深夜放送がボクらの先生だった・82ページより。</ref>。また、羽佐間は「だから、編成部長のぼくだって、『オールナイトニッポン』の生放送をやっているスタジオの副調整室、サブには、一回も行ったことがありません。僕がスタジオに行ったら、孤独感なんてすぐになくなっちゃうでしょう」とも述べている<ref name="boku_83">深夜放送がボクらの先生だった・83ページより。</ref>。さらに、羽佐間は「緊張感があふれかえって、喋りが急にぎこちなくなちゃったりしますよね。哲ちゃんがあとあと別の番組で言っていました。スタジオのサブに知らない人が入ってきた気配を感じるだけで、自分の喋りのテンポが影響を受けますよね。私も実感しています」とも述べている<ref name="boku_83"/>。
** この効果について、羽佐間は「孤独に追い込んでおいたからこそ、全国からのハガキは、パーソナリティの重要な心のよりどころになっていたんです。本当に全国の皆さんからのハガキだけが頼りですっていう精神状態になっていました。」と説明している<ref>深夜放送がボクらの先生だった・84ページより。</ref>。
** 当時の『オールナイトニッポン』を放送していたスタジオは四畳半の広さだったという<ref>深夜放送がボクらの先生だった・81ページより。</ref>。羽佐間によれば、このスタジオは「送り出しと言って、ふだんはアナウンサーが一人入って、ニュースを読むだけの狭いスタジオなんですよ」と説明している<ref name="boku_82"/>。
* [[下ネタ]]はやらない
** 『オールナイトニッポン』開始前は、深夜帯はお色気番組全盛だった。高崎も懇意にしていた[[盛田昭夫]]から「これでは[[ソニー]]の[[トランジスタラジオ]]が売りにくい」と苦言を呈されていたという。
** 40周年となった2007年10月1日、『[[BEAT CRUSADERS ヒダカトオルのオールナイトニッポン]]』に特別出演した斉藤安弘は、「ニッポン放送の品位に関わることであって、それで他局に負けてはならないということで、下ネタはやらなかった。そのため、相手を置かずに一人でやった」と語った。その一方、「下ネタはやらない代わりに、自分は26時になると、トイレの話を専門にしていた」とも言った。
この4つの大原則について、亀淵昭信はのちのインタビューで「受験戦争と若者。深夜帯にはチャンスがあると思っていたでしょう。すべては石田イズムでもいうのでしょうか、石田常務と彼の右腕の羽佐間編成局長には、ラジオの将来的ビジョンがありました。それが深夜帯の番組開発に繋がっていくわけです。企画段階で、若者、特に中学生や高校生、浪人生、大学生を対象にすることが明確に打ち出されました。そして、若者は出演者の名前じゃない、DJもパーソナリティの知名度じゃないんだ、何を聞かせてくれるかなんだ、ということを肝に銘じだのです。“それなら、ウチの社員が使える”という感じで基本的な枠組みが決まって行きました。それが石田や羽佐間の掲げた4か条です」と述べている<ref>パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、114ページ。</ref>。
しかし、羽佐間によれば、この『オールナイトニッポン』の人気が出てきて、それぞれのパーソナリティにスポットライトが当たりはじめると、いわゆる「大原則」をぎりぎりのところまで超えようとする「イタズラや抵抗」を始めてしまったという<ref name="boku_85">深夜放送がボクらの先生だった・85ページより。</ref>。これについて、羽佐間は「四時間、自分の思いつくままに何をやってもいいとは言ってありました。ですが、少しはルールを作っておかないと、アイツら、何をするかわからないでしょ」と述べている<ref name="boku_85"/>。また、亀渕によれば、初期のパーソナリティの今仁哲夫は、「エッチな話」を展開していたという<ref>{{Cite book |和書 |author= 亀渕昭信|title= 秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか|publisher= 小学館|year= 2023|page= 14|isbn=}}</ref>。
それに、2023年現在でオールナイトニッポンの中で現役最年長のパーソナリティを務める高嶋ひでたけ(2023年現在は80歳)は「ANNは一番早く始まった深夜放送だった。それで、他の局も深夜放送をやるようになっていった。僕が入社した頃は、アナウンサーって、そんなに活躍していなかったの。だけど、67年の10月に、後の社長で編成部長だった羽佐間重彰さんがANNを始める時に、結構暇してた局アナをDJ(後にパーソナリティー)に起用したんです。夜中の放送に独特の吸引力があって、リスナーからのはがきが殺到して一気にブームになったんです。早かったね」とも述べている<ref name="nikkan_20230214">{{Cite news |和書 |title= 現役最年長「オールナイトニッポン」パーソナリティー、80歳の高嶋ひでたけが55周年振り返る|newspaper= 日刊スポーツ|date= 2023-02-14|author= |url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202302140000021.html|access-date=2023-02-14}}</ref>。
高嶋ひでたけは2023年現在、ニッポン放送のOBグループのLF会の会長を務めており「LF会でANNを始めたときの編成部長で、後に会長を務めた羽佐間さんをインタビューしたことがある。今は94歳になるけど、頭はシャキッとしている。『20代、30代の若い発想、若い力、とんでもない力を爆発させなきゃラジオに明日はないと思った。知恵とやる気と汗を流して、新しいラジオを始めた。新しいラジオ好きの若者も入ってきて、そういう力を伸ばすようにした』。そう話してくれました」と証言した<ref name="nikkan_20230214"/>。
また、高嶋ひでたけは当時の編成局長だった石田達郎について「私が入社した頃のラジオは、テレビに人材を引き抜かれて『もうすぐつぶれるんじゃないか』みたいな危機感があったんです。石田さんは、次々にサテライトスタジオ、ANN、ナイター中継を仕掛けて『つぶれたとしても、最後につぶれる放送局になろう』と意欲的でした。そういった精神は今も変わらずにANNに生きている。食わず嫌いになることなく、自薦、他薦を問わず受け付けてポジションを与えてきた。思えば、オールナイトニッポンのテーマ曲の『ビター・スイート・サンバ』をかけて『君が踊り、僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる』って相も変わらずやってるのは僕だけになりましたね(笑い)」<ref name="nikkan_20230214"/>。
また、亀淵昭信によれば「孤独な寂しがり屋の若い人々に、若者の広場をつくろう」というのが、オールナイトニッポンの番組開始当初のコンセプトだったという<ref name="tokyo_20170108">{{Cite news|title=オールナイトニッポン 深夜 若者くすぐり半世紀|newspaper=東京新聞|date=2017-01-08|author=|url=https://web.archive.org/web/20170108190042/http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2017010802000159.html|accessdate=2017-01-08}}</ref>。
具体的なコンセプトについて、ニッポン放送新入社員で広報部員だった中川公夫は、「基本は音楽番組の発想、何をしゃべるかについては自分で考える。リスナーからのハガキを使ってもいいし、自分の身辺で起こったことでもいい。困ったら曲をかければいいというイージーな部分をありましたね」と話している<ref>セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、オールナイトニッポン編・13ページより。</ref>。番組としてもこれといったコーナーも設けられず、聴取者からのお便り紹介とパーソナリティ自ら選曲した音楽をひたすら流すというシンプルな番組であった。
そのような初期の番組におけるアイデンティティとして、番組の冒頭の「'''君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を。フレッシュな夜<ref group="注">糸居五郎は「新しい時代の夜」、また「エバーグリーン」当時の斉藤安弘は「フレッシュな夜明け」と言っていた。このように、パーソナリティによっては部分的にアレンジして使うこともあった。</ref>をリードする オールナイトニッポン'''」というフレーズがあげられる。このフレーズは1980年代まで笑福亭鶴光が大きくアレンジして使っていたほか、初代DJの斉藤安弘がパーソナリティを務める2003年 - 2009年にかけて放送された『[[オールナイトニッポンエバーグリーン]]』、[[全日本空輸|全日空]]国際線の機内プログラム、SKY AUDIOの『オールナイトニッポンClassics』の中で聞くことができた。この口上は、当時の番組構成作家、山之井慎によるものである<ref>{{Cite book|和書|author=上野修 著|title=ミスター・ラジオが通る|publisher=[[実業之日本社]]|date=1986-06-20|pages=23|id={{NDLJP|12276169/14}}}}</ref><ref>『月刊[[ラジオパラダイス]]』1989年8月号『ニッポン放送35周年グラフィティ』29ページより。</ref>。
番組開始当初、ニッポン放送の社内では「どうせ誰も聴いていない」と冷めた声が多く聞かれたが<ref name="sanspo_20180304"/>、そんな社内の声をよそに、先述の若者をターゲットとした番組は好評を博す。それを表すエピソードとして、1967年9月に解散コンサートを行ったアマチュアグループ・[[ザ・フォーク・クルセダーズ|フォーク・クルセダーズ]]が卒業記念に自主制作したアルバムの楽曲『帰ってきたヨッパライ』を、[[高崎一郎]]が[[ラジオ関西]]の深夜番組で評判になったのを聞きつけ、1967年10月13日に、ラジオ関西の関係者から、この曲の原盤を手に入れて、1967年10月14日、すぐに、オールナイトニッポンでオンエアした所、リスナーからの反響が大きく、一晩のうちに同じ曲を何回かにわたって放送するほどとなり、それを切っ掛けに全国圏のブームとなり2か月で180万枚の売り上げを記録したことが挙げられる<ref>パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、108ページ-109ページ。</ref>。ちなみに、この曲をTBSラジオの[[パックインミュージック]]でも放送しようと検討したものの、『パック』の提供スポンサーである[[日産自動車]] <ref group="注">この曲は「酔っ払らい運転で事故を起こして死んだ男の天国での愚行、そして天国から追放されて生還するまでの顛末」を歌ったものであり、飲酒運転を容認してはならない、撲滅するべき立場にある自動車メーカーがスポンサーの番組で流すには相応しくないことも理由に挙げられる。なお、日産は1971年の秋をもって『パック』の提供スポンサーから降板している。</ref> の存在によって、放送することができなかったという<ref>パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、109ページ-110ページ。</ref>。こういった昼間のラジオ番組では決してかけられないようなマイナーな曲や時に反体制的{{#tag:ref|ある日の放送で[[ザ・フォーク・クルセダーズ]]の「[[イムジン河]]」をサンプル盤として放送したこともあったが、これについて斉藤安弘は「反体制までいかないけど、放送局の自主規制に突っかかっていた。安保闘争など世の中が騒然として活気があり、面白いことをやろうという深夜放送を、受け入れてくれる素地がありました」と当時の時代背景を振り返る<ref name="tokyo_20170108"/>。|group="注"}}な曲、海外からの新しい音楽を含む深夜番組ならではの選曲が若者を刺激した{{#tag:ref|初代のパーソナリティの1人である斉藤安弘は「多岐にわたる選曲で、音楽の世界になじんだ人がいっぱいいた。[[さだまさし]]も私の放送をよく聞いて、リクエストはがきを何十枚も出したそうです」と番組初期の当時のエピソードを語る<ref name="tokyo_20170108"/>。|group="注"}}。
高嶋ひでたけは「年齢的にいって一番詳しいのは初期の頃」とした上で「(あの当時は)局のアナウンサーやディレクターが担当していた。お金がかからないからね。朝の5時まで毎日4時間、真っ青になりながら喋っていたよ」と振り返り、「その後も、みんながオールナイトニッポンを磨いて、磨いて。本当にオールナイトニッポンは価値のある、磨き抜かれたラジオの財産になった」と話している<ref name="LF_20230214">{{Cite news |和書 |title= 「あれは本当にいい企画」 オールナイトニッポン創世記、熱狂を生んだ“企画力”を高嶋ひでたけが語る|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-02-14|author= |url= https://news.1242.com/article/418654?_ga=2.68553489.1200600650.1669841981-10928544.1629059104|access-date=2023-02-15}}</ref>。
なお、後に『〇〇のオールナイトニッポン』とパーソナリティ名が入った冠番組になるが、ニッポン放送アナウンサーがオールナイトニッポンのパーソナリティを務めていた時代は単に『'''オールナイトニッポン'''』というタイトルとしていた。
==== 第1次黄金期(1968年 - 1971年) ====
こうして、リスナーからのハガキの数が、番組開始から3か月で何百通、何千通となり、放送開始から1年で1万通を超え、『オールナイトニッポン』自体が「若者の象徴」になっていった<ref name="sanspo_20180304"/>。
そして、「年上のお兄さん」的存在だった気取らないアナウンサーパーソナリティ達の人柄に惹かれて、各パーソナリティ宛には毎週2万枚ものリクエストやお便りが届き、人知れずひっそりと始まった『オールナイトニッポン』は、1年もせず当時の若者層に絶大的な支持を受けるニッポン放送の看板番組に成長、TBS『[[パックインミュージック]]』・文化放送『[[セイ!ヤング]]』と並んで深夜放送そのものが『深夜の解放区』として一種の社会現象となるに至る。
競合番組が乱立する中、『オールナイトニッポン』は何よりもリスナーとの対話を重視し、サブタイトルに「'''ビバヤング'''」(=若者バンザイ!)を採用。前述のオープニングのスタイルもサブタイトルを強調し「“ビバヤング”オールナイトニッポン、この番組は…<ref>1974年頃までは「“ビバヤング”オールナイトニッポン、この時間は…」と言っていた。</ref>」となる。また、1968年9月には会報「Viva young」も発行し、発行した5万部は常に完売(ラジオ番組に印刷物というメディアを持ち込んだのも、オールナイトニッポンが最初)。こうして、「ビバヤング」(=若者バンザイ!)は1960年代から[[1970年代]]にかけての『オールナイトニッポン』の合言葉となる。
[[1969年]]、1月から木曜日担当に[[高嶋秀武]]が、10月から土曜日担当に亀渕昭信が参入する。特に、亀渕はアナウンサー出身ではなかったが、月曜未明(日曜深夜)に放送されていた「電話リクエスト」のDJで人気が出て、オールナイトニッポンに起用されることとなった<ref name="sankei_20171128">{{Cite news|title=【ZOOM】「オールナイトニッポン」50周年 9人目DJ・亀渕昭信「深夜放送は今のSNS」|newspaper=産経新聞|date=2017-11-28|url=https://www.sankei.com/article/20171128-OUJSYZJOEJJ2ZHJIKBWZKYUJAM/|agency=産経デジタル|accessdate=2017-12-02}}</ref>。その亀淵はディレクター出身のパーソナリティとしてマイクの前に座って、それを逆手にスタジオの中を跳んだり走り回ったり、ある日の放送では歌手の[[沢田研二]]の自宅から実況中継を行い、トイレに潜入した時に水を流す音まで放送してしまう{{#tag:ref|これについては亀淵自身が「くだらないことがいくらでもできた。テレビと違ってスターが“化粧”をしないラジオで、普段の声を伝えたかった」と、当時このような放送をした意図について語っている<ref name="tokyo_20170108"/>。|group="注"}}など奇抜かつ斬新なDJスタイルをすることで聴取者から注目が集まり、一気に『オールナイトニッポン』の看板パーソナリティとなると共に、深夜放送に新しい息吹を送り込んだ{{#tag:ref|亀渕は当時について、「僕は、女の子3人組、モコ・ビーバー・オリーブの『[[ザ・パンチ・パンチ・パンチ]]』とか、前田武彦さんの『[[ヤング・ヤング・ヤング]]』といった番組を作っていたんですけど、よくしゃべるし、面白いからお前がしゃべれよと。自由にさせてもらったし、いい時代だったと思いますね」「僕は“制作上がり”でしたから、“てをには”とか早口言葉とかがうまくないわけ。その分、ほかでカバーしないと追いつかない。立ってしゃべったらとか、走り回ったらとか、ハガキを放り投げたら(当時リスナーから届いた2万枚のはがきをスタジオに放り投げ、一番遠くに飛んだハガキ(リスナー)に1万円をプレゼントしていた)とか、一生懸命いろんなことをやりましたね。演出感覚ですね、それがちょっと違ってたんじゃないでしょうか」と語っている<ref>セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、オールナイトニッポン編・16ページ、18ページより。</ref>。さらに、亀淵は、「特に、常木さんや高岡さんには感謝している。お二人のベースの路線がしっかりあったからこそ、僕やアンコー(斉藤)さんが“ハネた”放送をしても番組がもった。そういうものばかりでは番組は長続きしないから」と述べている<ref name="sankei_20171128"/>。|group="注"}}。また、高嶋ひでたけは、パーソナリティの起用のきっかけについて「私は野球の実況アナウンサーだったんですよ。ナイターを終えて会社に帰ると深夜0時近い。家が神奈川の横須賀で、会社を出てANNを聞きながら帰った。そして、直訴して出たいといったんです。ちょうど先輩の“今仁の哲ちゃん”こと今仁哲夫アナウンサーが体調を悪くして代わりを探してたらしくて『ちょうどいい』って起用されたんです」と話している<ref name="nikkan_20230214"/>。
さらに、高嶋ひでたけは「当時のANNはアナウンサーやディレクター、いろいろな人がDJを務めた。初代DJの一人の高崎一郎さんは、元々はプロデューサーでした。高崎さんの専属アルバイトが、人気DJだった亀渕昭信さん。早大生のバイトから、僕の1年前にLF(ニッポン放送)に入社して、制作ディレクターをやっていた。“カメちゃん”は、すごく一生懸命に仕事をする人で、ANNのDJに抜てきされてからも、しゃべりのつなぎを工夫したりしてた」と証言した上で、「カメちゃんはセンス抜群でね、哲っちゃんの歌も熱狂的に受けた。ビアフラ紛争の影響で食べるものがない、アフリカの国であるビアフラの子供たちの事も取り上げた。当時余っていた古米をビアフラに送ろうと、リスナーの若者たちに『外務大臣に“お米を送ろう”と手紙を書こう』と呼びかけて、実際に外務大臣に会ったりもしていた。その後、編成、局長となって社長にまでなるんだけど、本当にセンスがあった」とも述べている<ref name="nikkan_20230214"/>。
1969年7月には、同じパーソナリティ仲間の[[斉藤安弘]]とともに「'''[[カメ&アンコー]]'''」としてCBS・ソニーレコード(現:[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])からザ・フォーク・クルセダーズが別の名義で使っていたザ・ズートルビーの同名の曲である「[[水虫の唄]]」という曲のレコードを出し、20万枚を売り上げるスマッシュヒットとなった。この歌は、ベートーベンや、メンデルスゾーンまで取り込んでしまう自在な遊び心と反骨精神が「帰ってきたヨッパライ」に通じていた。
1970年6月30日深夜(7月1日未明)より、'''全国ネット'''を開始。この日の [https://www.youtube.com/watch?v=4h-JTQ7nEIY 斉藤安弘のオールナイトニッポン] では、'''「STVラジオ」「静岡放送」「ラジオ大阪」の3局'''をネット局として、協賛スポンサー各社のクレジット読み上げを聞くことができる。また、この日は全国ネット開始の記念放送として、当時の月曜から土曜までのパーソナリティが勢揃いした(火曜深夜・斉藤安弘の他、月曜・糸居五郎、水曜・高岡尞一郎、木曜・天井邦夫、金曜・今仁哲夫、土曜・亀渕昭信)。
更に、1971年には今仁哲夫と[[天井邦夫]](その後ニッポン放送副社長や顧問を歴任し、2009年12月3日死去<ref>[https://web.archive.org/web/20131203002105/http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009120401000963.html 天井邦夫氏死去 元ニッポン放送副社長] - [[47NEWS]]</ref>)が日本全国を縦断してリスナーと交流するという画期的な企画「'''ビバ栗毛'''」も行われる<ref name="nikkan_20230214"/><ref name="70_20">セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、オールナイトニッポン編・20ページより。</ref>。この企画は、もともと学生時代から車好きが高じた天井が、今仁と共に当時発売されたばかりの[[ホンダ・1300|ホンダ1300クーペ9]]に乗って全国各地でリスナーと握手をするというもので、いわば天井の公私混同である深夜放送ならではの企画だった<ref name="70_20"/>。ちなみに、天井は大学時代に自動車部のキャプテンを務めていたという<ref name="LF_20230214"/>。斎藤安弘の記憶では、3か月で64万1780人のリスナーが2人と出会ったという<ref name="70_20"/>。このクーペ9は、ホンダから提供されたもので、あっという間にリスナーからの書き込みによって、真っ黒になっていったとされる<ref>セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、オールナイトニッポン編・21ページより。</ref>。これについて、高嶋ひでたけは「モータリゼーションの時代を先取りしていましたね。どこの地方に行っても若者たちが殺到して、全国に夜の放送をアピールした。」と証言した<ref name="nikkan_20230214"/>。高嶋ひでたけも「60年代のオールナイトニッポンの企画力はすごくて。VIVA YOUNG、“若者万歳”と付けたのもオールナイトニッポン」とした上で「ビバ栗毛」について「あれは好企画でしたね~。本当にいい企画でした」と話している<ref name="LF_20230214"/>。
また、1971年に50歳を迎えた糸居五郎が1月17日13時30分 - 19日15時30分にかけて放送を続けるといった過酷な企画『[[50時間マラソンジョッキー|50時間マラソンDJ]]』も行われ、無事完走している。
こうして、最初は関東ローカルであり、協賛スポンサーもニッポン放送サービス(現:[[ポニーキャニオン]])一社だけだった番組も、夜間はラジオの電波が広範囲に届くことから関東の[[ローカル番組]]であったにもかかわらず日本全国からはがきが届き、それを受けてネット局数が順次増加していき、複数の協賛スポンサーが付くようになった。この時代が『オールナイトニッポン』の第1次黄金期である。これについて、亀淵はのちのインタビューで「実際、開始1年経って番組に力がついてくると、日本を代表するような一流企業が続々協賛スポンサーになってくれました」と述べている<ref name="puck"/>。
==== タレントパーソナリティ/2部制導入(1972年 - 1985年) ====
深夜放送ブームは1970年代に入っても続いていたが、若者層の嗜好の変化や時代の変化(学生運動世代から[[しらけ世代|シラケ世代]]への移行など)にあわせ、ニッポン放送も新たな放送スタイルを追求し始めることになる。そのため、1972年6月末をもって、亀渕昭信、今仁哲夫、糸居五郎を除くパーソナリティが降板する。
[[1972年]]7月<ref>『会報「Viva young」』No.48 72年7月号より。HPや55周年など後年ニッポン放送が作成した年表などでは10月からの表記となっているが、当時の会報や新聞番組欄によると7月からが正しい。</ref>からの1年間は亀渕昭信が『'''ビバカメショー'''』と称して、毎日25:00 - 27:00を担当した(10月3週目までは月曜日担当の糸居五郎が継続していたため、月曜を除く毎日25:00 - 27:00。10月4週目から月曜を含む毎日25:00 - 27:00となった)<ref>セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、オールナイトニッポン編22ページ-23ページより。</ref>。次いで毎日27:00 - 29:00までは最初は今仁哲夫が担当した『'''ビバテツショー'''』が、[[1973年]]1月からは[[池田健]]{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}が担当する『'''ビバケンショー'''』が放送された。この時に初めて27時で番組を分割する2部制の概念が生まれる。
この時代はオールナイトニッポンにとっての最初の停滞期となっており、亀渕は「僕一人で週6日番組を担当するのはとてもつらかった。番組は“敗戦処理”みたいな感じで始まったと思います。『オールナイトニッポン』だけじゃなくて、深夜放送全体が駄目になってきていたのね。露出過多っていうか、“晴れの舞台”に出てきてしまった。それじゃ深夜放送になってないんだよね。もう一度変えなきゃいけないと、作り手もしゃべり手も思ってはいたんだが、一度出来上がったものはなかなか変えにくい。ネット局も増えて全員がニッポン放送のアナウンサーというわけにもいかなくなって。でも局アナが基本でしたから、じゃあお前がやれって。形を変えるまでの踊り場みたいな感じかな。それまでは音楽担当の糸居さん、今仁さんみたいな面白いことをやる人の中間みたいな放送をやってたんだけど、『ビバカメショー』になってからはもっと音楽に徹しました。[[サイモン&ガーファンクル]]の詞を訳して特集したり、ビートルズの海賊版を流したり、僕自身は楽しかった。テーマの『ビタースイートサンバ』も代えたんだよ。[[Dennis Coffey|デニス・コフィー]]というモータウンのファンクギタリストがいて、頼んで作ってもらったり([[#テーマ曲]]参照)。残念ながらレーティング(聴取率)はあんまりよくなかった。でもそれで“よし”としました。とにかく次に大きくジャンプするためには一度縮こまって昔のイメージを壊し、まっさらにするのが僕のやること。今度は制作者としてまったく新しい『オールナイトニッポン』を作ろうと思ったんです」と、当時の苦悩を語っている<ref>セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、オールナイトニッポン編・23ページより。</ref>。
一方で1973年にディレクターになった中川も「転機といえば『ビバカメショー』『ビバテツショー』が始まった段階でステーションのアナウンサーがすっかりやめてしまったときでしょうね」と、転機だったことを明かす<ref name="70_24">セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、オールナイトニッポン編・24ページより。</ref>。さらに「その後にタレントが入るようになるわけで、番組自体が大きくなって、もっとビックな人でも入ってもらえるようなフィールドができたんです」と1973年のタレントパーソナリティ起用の本音を明かす<ref name="70_24"/>。
こうして、1973年から亀渕昭信は、それまでのパーソナリティから総合プロデューサー兼チーフディレクターに転身して、オールナイトニッポンの制作に取り組むことになる<ref name="ナタリー_20190905">{{Cite news |和書|title= 「アナザーストーリーズ」でオールナイトニッポン特集|newspaper= お笑いナタリー|date= 2019-09-05|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/346406|accessdate=2019-09-05}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 亀渕昭信|title= 秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか|publisher= 小学館|year= 2023|page= 18|isbn=}}</ref>。パーソナリティの人選について、亀渕は「リスナーは番組名よりパーソナリティの名前を覚える」ために、「鮮度の高い人、面白い人を見つけようと考えました。」という<ref name="秘伝_19">{{Cite book |和書 |author= 亀渕昭信|title= 秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか|publisher= 小学館|year= 2023|page= 19|isbn=}}</ref>。また、ジングルについても、亀渕は「番組の看板だから新しいのを作ろう。一クールずつ彩りを変えていこう」と考えた<ref name="秘伝_19"/>。
これについては、文化放送の『セイ!ヤング』のパーソナリティである[[谷村新司]](1972年10月-1978年3月まで担当、その期間の途中に[[ばんばひろふみ]]と共に担当。)が人気を博していたため、オールナイトニッポンが落ち目になっていたことも背景にあった<ref name="秘伝_19"/>。だからこそ、亀渕は「何とかしなきゃいけないと、柄にもなく頑張っちゃったんですよ。プロダクションに頼まず、自分で足繋ぐコンサートに通ったり、オーディションをやりました。」という<ref name="秘伝_19"/>。
そして、1973年7月からはタレントや芸人・歌手が従来通り4時間にわたってパーソナリティを担当するという決定的な転機を迎える。このタレントパーソナリティ第1期の布陣は[[小林克也]](月曜日)、[[泉谷しげる]](火曜日)、[[あのねのね]](水曜日)、覆面パーソナリティである[[カルメンのオールナイトニッポン|カルメン]](金曜日)、[[岸部四郎|岸部シロー]](土曜日)である(木曜日は斉藤安弘が一旦復活した。また、カルメンは'''オールナイト史上初の女性パーソナリティである''')。いわば、第二次『オールナイトニッポン』の始まりでもあり、現在のオールナイトニッポンの原型が完成した。
しかし、岸部シローがわずか3か月で降板したのをはじめ、あのねのねを除く各パーソナリティは翌[[1974年]]夏までに全て降板し、その後約3年間はパーソナリティが根付かずに短期間で入れ替わる不安定な時代が続く。その原因として、体力的にも話力的にも4時間のロングラン放送に耐えられないという点があった事から、1974年7月からは27時を境にパーソナリティを入れ換える'''2部制が本格的に導入'''される。
2部制の導入でパーソナリティの数が足りなくなったことから、1970年代半ばにはタレントや歌手だけでなく一般オーディションの形(オールナイトニッポン主催・「全国DJコンテスト」)でも無名の新人発掘に力を注いでいる。また、番組をネットしていた地方ローカル局のアナウンサーなどにも一時期番組を持たせたこともあった(『[[飛び出せ!全国DJ諸君]]』グランプリの[[柏村武昭]]など)。一方、タレントパーソナリティ選考に当たっては基本的に番組スタッフが前もってオーディションをした上で採用の合否を決定していったのだが、あくまでラジオ番組をやっていけるだけの話力や実力があるのなら職種や音楽知識の有無に囚われることなくパーソナリティに採用するようになったため、[[野坂昭如]]や[[稲川淳二]]など本来の『オールナイトニッポン』の流れとは明らかに外れた異色のパーソナリティも登場している。この時点で番組当初のコンセプト(ニッポン放送アナウンサー及び関係者による音楽主体の若者向け4時間枠深夜番組)は失われた<ref group="注">上記、オールナイト初期のオープニングキャッチである「君が踊り僕が歌うとき・・・」の口上はタレントパーソナリティ投入後にはほとんど使用されなくなり、かろうじて笑福亭鶴光とあのねのねだけがパロディ化し原型を大きく崩す形で継続した。ただし、1985年の鶴光ANNの最終回の際はパロディにせず、ほぼオリジナルそのままに読み上げた。一方で同じオールナイト初期の代名詞である「ビバヤング」のキャッチは比較的長く生き残り、タレント導入後もジングルや提供読みのときにそのフレーズを聴くことができたが、1980年代後半にはほぼ使われることはなくなった。</ref> が、それでも「若者向け」というコンセプトと、主に歌手が番組を持ったことで「音楽番組」としての体裁はかろうじて保たれた格好となっている。
一方、一旦降板していたDJ・糸居五郎は[[1975年]]に金曜2部、さらに水曜を経て[[1977年]]10月に古巣である月曜(2部)で復活しており、音楽主体からトーク主体に変わった『オールナイトニッポン』において、唯一開始当初の雰囲気とスピリッツを醸し出していた。[[糸居五郎のオールナイトニッポン|糸居五郎の月曜2部]]は糸居が1981年に定年退職するまで続いた。
迷走状態が続いていた1976年にオールナイトニッポンのチーフディレクターになった岡崎正通によれば、そのときに羽佐間重彰がスタッフを集めて、「君らはとにかく新しいものを作れ。全部任せるから。やってダメだったら、どんどん変えろ。失敗を引きずるな」と話した上で「新人登用も恐れずやれ。パーソナリティが育てば番組も大きくなるんだ」と発言したという<ref>{{Cite book |和書 |author= 亀渕昭信|title= 秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか|publisher= 小学館|year= 2023|page= 37-38|isbn=}}</ref>。その際に岡崎は「なるべく人口に膾炙していない人材を起用したいな。タレントバリューに負わないほうがいいな、と。世の中には、いろんな人がいます。音楽だけでなく、文学でも政治でも報道でも、未知の人を探し出して活躍してもらう。」とした上で、「番組作りにしても何でもありみたいな。僕の考え方は、きっとフリージャズから得たものが大きいんです。」という<ref>{{Cite book |和書 |author= 亀渕昭信|title= 秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか|publisher= 小学館|year= 2023|page= 38|isbn=}}</ref>。
そして、1970年代中盤から[[1980年]]にかけて最初に頭角を現したのが[[あのねのねのオールナイトニッポン|あのねのね]]や[[笑福亭鶴光]]、[[タモリ]]、[[所ジョージのオールナイトニッポン|所ジョージ]]、[[つボイノリオのオールナイトニッポン|つボイノリオ]]などの[[色物]]系・[[コミックソング]]歌手の担当番組であった。
特に[[笑福亭鶴光のオールナイトニッポン|笑福亭鶴光]]は全て大阪弁で番組を通すという特異性から当初は抗議のはがきが多数寄せられたが、「ミッドナイトストーリー」などのネタコーナー、[[下ネタ]]を含めた話術の高さもあいまり次第に人気を集め、全盛期には番組に送られてくるはがきは毎週6万枚、ラジオ聴取占有率80%〜90%という看板パーソナリティに成長、他の曜日が2部制になった後も鶴光担当の土曜日は4時間の放送を継続した(一時期金曜も4時間放送にするが、1年半で元の2部制になる)。当時大人気のあのねのねは番組中、[[原田伸郎]]が当時[[せんだみつお]]が担当していた『[[セイ!ヤング]]』の生放送中に[[文化放送]]のスタジオに電話をかけ、[[清水國明]]も『セイ!ヤング』の生放送中のスタジオに乗り込み電話を通して「[[あのねのねのオールナイトニッポン]]」と番組宣伝、番組ジャックを敢行しファンの人気をさらに広めた。番組後半に一般のファンにスタジオを公開して「七不思議のコーナー」などいろんな企画を進行していく「あのねのね・ハッピースタジオ」も人気を博した。[[タモリのオールナイトニッポン|タモリ]]は鶴光が同じ話題として取り上げる「[[なんちゃっておじさん]]論争」や「NHKつぎはぎニュース」などタモリのアングラなキャラクターを発揮した番組内容で話題となる。
さらに当時全盛であった[[フォークソング]]や[[ニューミュージック]]系シンガーの番組に火がつき、[[武田鉄矢]]・[[南こうせつ]]・[[イルカ (歌手)|イルカ]]・[[山田パンダ]]・[[加藤和彦]]・自切俳人〔ジキルハイド〕([[北山修]])・[[桑田佳祐]]・[[長渕剛]]・[[松山千春]]・[[吉田拓郎]]などそうそうたる顔ぶれが入れ替わりながらパーソナリティを務めていった。これに加え、従来からの流れである[[くり万太郎]]や[[上柳昌彦]]などのLFアナウンサーも番組を支え続けた。そして、[[中島みゆきのオールナイトニッポン|中島みゆき]]([[1979年]]- 月曜1部)や[[ビートたけしのオールナイトニッポン|ビートたけし]]([[1981年]]- 木曜1部)が登場した1980年代初頭には第2期の黄金時代を迎えることになる<ref name="nikkan_20220404"/>。
また[[1977年]]以降には『[[ハウス (映画)|HOUSE ハウス]]』『[[宇宙戦艦ヤマト]]』『[[銀河鉄道999]]』『[[新竹取物語 1000年女王|1000年女王]]』などの映画劇場公開にあわせて、ラジオドラマと出演者やスタッフのトークによる4時間のスペシャルが放送された。のちに文化放送が注力するようになる、'''[[アニラジ]]'''のはしりと言える。
現在のオールナイトニッポンの柱となっている'''「トーク主体」「コーナー主体」「ネタはがき主体」の番組構成は、この時代に確立したシステム'''であり、[[ハガキ職人]]が幅を利かせるようになったのもこの頃である。このようにオールナイトニッポンが番組内容やDJを大きく変えたことで番組全体に見切りをつけた聴取者もかなり多かったが、逆にそれまでとは違う「パーソナリティそのものの魅力」に惹かれた新規のリスナーを大量に獲得することになり、結果として番組名と放送時間帯、テーマソングだけはそのままに、番組を「作る人」も「聴く人」も、番組の「コンセプト」でさえも時代とともに移り変わっていくという流動的なスタイルが形成されていくことになる。
このスタイルゆえに時代の変化に対応できなかった『パックインミュージック』『セイ!ヤング』のオリジナル放送が1980年代初めに打ち切られる中で『オールナイトニッポン』だけが時代の波にうまく乗りながら、深夜放送の代名詞として唯一生き残り続ける。1973年に第1期黄金期の人気パーソナリティから番組製作・編成部門に戻り、裏方として新時代の『オールナイトニッポン』を模索し続けた亀渕昭信の努力が実を結んだ格好となった<ref name="ナタリー_20190905"/>。その亀淵は、「僕が番組のチーフプロデューサー時代に、タレント起用が始まった。でも、社員アナウンサー時代の成功と失敗があればこそ、さまざまなことを学ぶことができた」と述べている<ref name="sankei_20171128"/>。また、高嶋ひでたけは「やがてアナウンサーの時代からフォークソングブームなどの波に乗って、DJという呼び名がパーソナリティーとなって、タモリさん、ビートたけしさんといったしゃべりの天才を引っ張ってきた。あと、笑福亭鶴光さんがやった土曜深夜のANNの功績も大きいですね」と述べている<ref name="nikkan_20230214"/>。
==== 安定期間から深夜放送長期低落傾向へ(1986年 - 1999年) ====
1980年代中盤以降、約10年間はライバルであるTBSラジオの深夜番組が定着せず迷走し、また文化放送も『[[ミスDJリクエストパレード]]』以降長らく深夜放送に力を入れなかったことから、「若者向け深夜放送=オールナイトニッポン」という図式が一番確立していた時代でもある。
[[1985年]]に足掛け12年にわたった鶴光のオールナイトが終了し、その後もABブラザーズや[[圭修]]が土曜のお笑い枠を引き継いだが(ABブラザーズ時代の[[1986年]]4月より土曜も2部制に移行)、[[1988年]]からはニューミュージックの大御所・[[松任谷由実のオールナイトニッポン|松任谷由実]]が土曜1部を担当し[[1999年]]までの長期にわたる活躍をすることになる。
[[1986年]][[10月1日]]には20年目突入を記念して『ALL DOGETHER NOW(オール・ドゲザー・ナウ)』という特別番組が放送され、[[中島みゆき]]、[[とんねるず]]、[[小泉今日子]]、[[ビートたけし]]、[[サンプラザ中野くん|サンプラザ中野]]、[[ABブラザーズ]]の当時の1部パーソナリティ6組が一堂に会した(公式には[[1985年]][[6月15日]]開催の[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]での「[[国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW]]」の[[スピンオフ]]企画とされ、DOGETHERは「TOGETHER」と「土下座」の掛け言葉とされる)。
1980年代半ばから1990年代初頭にかけては[[バンドブーム]]が沸き起こり、オールナイトのパーソナリティ人選にもその影響が次第に現れてくる。1部では[[サンプラザ中野のオールナイトニッポン|サンプラザ中野]]・[[デーモン小暮のオールナイトニッポン|デーモン小暮]]・[[大槻ケンヂのオールナイトニッポン|大槻ケンヂ]]・[[木根尚登]]などが、2部では[[リンドバーグ (バンド)#メンバー|渡瀬マキ]]([[リンドバーグ (バンド)|LINDBERG]])・[[寺田恵子のオールナイトニッポン|寺田恵子]]([[SHOW-YA]])・[[PINK SAPPHIRE#元メンバー|AYAKO<!--塚田彩湖-->]]([[PINK SAPPHIRE]])・[[川村かおりのオールナイトニッポン|川村かおり]]・[[THE東南西北]]などが活躍し、ブームの一端を担うことになる。続く1990年代前半も[[電気グルーヴのオールナイトニッポン|電気グルーヴ]]、[[YUKI (歌手)|YUKI]]([[JUDY AND MARY]])、[[吉井和哉]]([[THE YELLOW MONKEY]])、[[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]、[[小沢健二]]と[[スチャダラパー]]、[[EAST END×YURI]]などの有名どころから、コアなファンが多い[[加藤いづみ]]や[[石川よしひろのオールナイトニッポン|石川よしひろ]]まで幅広い層のパーソナリティを輩出した。
お笑い系パーソナリティは1985年に火曜1部で[[とんねるずのオールナイトニッポン|とんねるず]]が登場、さらに[[1989年]]には金曜1部で[[ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン|ウッチャンナンチャン]]が登場する。落語家の弟子であった[[伊集院光のオールナイトニッポン|伊集院光]]が水曜や金曜の2部で活躍し一気にラジオスターとしての頭角を見せたのもこの頃である。1980年代を駆け抜けた[[ビートたけし]]は途中代役を立てながら[[1990年]]まで番組を継続したが、その後は[[たけし軍団]]の[[浅草キッドのオールナイトニッポン|浅草キッド]]なども担当。[[1993年]]に[[松村邦洋のオールナイトニッポン|松村邦洋]]が、そして[[1994年]]には、2014年9月までの長期に渡りパーソナリティを務めた[[ナインティナインのオールナイトニッポン|ナインティナイン]]が登場する(2014年10月2日から2020年5月7日は[[ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン|岡村隆史]]が単独で担当し、2020年5月14日から第2期として放送開始となった)。
また、この時代には1970年代の迷走期とは違った意味で、別業種パーソナリティを投入した時代でもある。トップアイドルだった[[小泉今日子]]が水曜1部に登場したのは1986年。その後も、女性アイドル担当番組は[[裕木奈江]]・[[穴井夕子]]など散発的に見受けられる様になった。他に、劇団『[[第三舞台]]』を主宰していた[[鴻上尚史のオールナイトニッポン|鴻上尚史]]、雑誌『[[週刊プレイボーイ]]』編集者の[[小峯隆生]]、漫画家[[さくらももこのオールナイトニッポン|さくらももこ]]など。極め付きは1992年に開催された『全日本パーソナリティ選手権{{efn2|オールナイトニッポン25周年記念企画。雑誌「[[宝島 (雑誌)|宝島]]」との[[コラボレーション]]で開催された。}}』優勝者で素人であった浪人生[[松永並子]]&[[北原ゆき]]を水曜2部に起用したことである(前述の穴井夕子は、この2人が受験勉強のために休んだ間の6週間限定での登板であった)。後に[[芥川龍之介賞|芥川賞]]作家となった[[辻仁成のオールナイトニッポン|辻仁成]]も、この時代に[[ECHOES]]のボーカル・「辻 仁成(つじ じんせい)」としてパーソナリティを務めている。[[福山雅治]](1992年1月から1994年6月、同年11月から1998年3月、及び2000年4月から2015年3月まで担当)が、当時若手イケメン俳優・歌手というポジションで認知されていた彼の「素」を本番組で公に広く知らしめた。ただ、この頃になるとオーディションでパーソナリティを発掘し番組で育てていくことよりも、知名度ありきでパーソナリティに採用することが増えてきた。
[[1991年]]10月には、25年目突入を記念して、中島みゆき、タモリ、ビートたけし、笑福亭鶴光の各オールナイトニッポンが、一夜限りの復活放送を行った。また、[[1997年]]10月から[[1998年]]3月まで、番組放送開始30周年を記念して、過去のパーソナリティが担当する『[[オールナイトニッポンDX]]』が、19:00 - 21:00に放送されている。
しかし、1990年代中頃になると、テレビの深夜番組の充実化や[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]、[[ゲーム機]]、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]、[[携帯電話]]の普及などによって、若年層を中心とした[[ラジオ離れ]]が顕著になり、深夜ラジオ全体の長期低落傾向が目に見えて現れて来る。さらに同じラジオ業界内でも1980年代末以降の民放FM局急増、『[[スーパーFMマガジン]]』([[エフエム東京|TOKYO FM]])『[[FMナイトストリート]]』([[全国FM放送協議会|JFN]])など、民放FM局が深夜帯にAMラジオ的なネタ・トークを中心に据えた番組を制作するようになった{{efn2|このうち『FMナイトストリート』の喋り手の一人であった[[赤坂泰彦]]曰く「FMでも深夜放送をやろう、AMに対するアンチテーゼとして、FMでもトーク主体の深夜番組をやろう。」ということである。なお、この番組の立ち上げには当番組の立ち上げにも携わったドン上野がかかわった。}}ことから聴取者全体のパイが分散し、一部の地方局でのCM収入の減少による制作費減少など、AMラジオの深夜放送に対する逆風は強くなっていった。1992年10月改編では「一新」と言われたほどそれまでにかつてなかったレベルのパーソナリティ入れ替えを行い{{efn2|パーソナリティ「一新」となったことから、1992年10月14日(水曜日)深夜3時 - 5時には新パーソナリティ陣などを紹介する「'''オールナイトニッポン新パーソナリティ前夜祭'''」が放送された。}}(現状維持は[[ウッチャンナンチャン]]と[[松任谷由実]]のみ、[[加藤いづみ]]、[[電気グルーヴ]]、[[福山雅治]]が2部から1部に昇格、2部は総入れ替え)、更にこの時に立てられた企画としてリスナー間コミュニケーションの強化を目的とした「オールナイトニッポンクラブ(仮)」の設置、新人パーソナリティ発掘のために半年ごとに開催する「ゴールデンベロー賞」の開催、番組[[ノベルティ]]販売や番組会報の発行などがあったが<ref>[[ラジオ番組表|ラジオ新番組速報版]]([[三才ブックス]])1992年秋号 3頁「26年目に突入した『オールナイトニッポン』のパーソナリティが一新」</ref>、結局これらのほとんどは頓挫した。そして番組に寄せられるはがきやFAXの数も激減し(1997年当時、[[ナインティナインのオールナイトニッポン]]宛てに送られてくるはがき・FAXの数はトータルで週3000枚程度であり、1960 - 1970年代の人気番組の7分の1程度にまで落ち込んでいた)、オールナイトニッポンだけでなく、AMラジオの若者向け深夜放送自体の将来に暗雲が垂れ込めていた。その様な中で、ニッポン放送はパソコンや携帯電話、メールなど新しいツールに目をつけ、それらのIT機器とAMラジオの関係を融合させるべく『オールナイトニッポン』を含めた夜帯の大改編を行うことになる。
[[1998年]]春の改編では、2部枠(27:00 - 29:00)が'''R(リラックスの略)'''がついた『[[オールナイトニッポンR]]』に改称。金曜深夜と土曜深夜を除き28:30終了と30分短縮された。この時期には[[インターネット放送]]でのスタジオ同時生中継が試験的に行われ、この試みは後に「[[LFX488]]」に生かされた。
==== LF+R(1999年 - 2003年) ====
[[1999年]]春の改編では、開始時間帯を大幅に前倒ししたうえで2部制から3部制になり、夜帯を「'''[[LF+R]](Love & Friends + Radio)'''」と称した上で、22:00 - 24:00に今までの旧1部に近い形の『'''[[allnightnippon SUPER!]]'''』を開始、25:00 - 27:00をインターネットと連動させた『'''[[@llnightnippon.com]]'''』、27:00 - 29:00、ないし27:00 - 28:30を『'''allnightnippon-r'''』と改題したが、「LF+R」開始当初から様々な問題が発生した([[LF+R]]の項を参考のこと)。
2000年に土曜深夜の23:30 - 25:00の90分枠に『'''[[福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル・魂のラジオ|福山雅治のallnightnippon saturday special・魂のラジオ]]'''』(『[[ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!]]』の後継番組)を立ち上げ、1998年に降板していた[[福山雅治]]を再起用した。
[[2003年]]春の改編をもって「LF+R」ブランドは終了し、22:00 - 24:00のSUPER枠は『'''[[オールナイトニッポンいいネ!]]'''』に改題されパーソナリティを一新。com枠である25:00 - 27:00は4年ぶりにタイトルが『オールナイトニッポン』に、『allnightnippon-r』も『オールナイトニッポンR』と1998年から1年間使用していたタイトルに戻った。
==== LF+R終了後(2003年 - 2012年) ====
若者層を中心とした[[ラジオ離れ]]やテレビの終夜放送が進むなかで、ラジオ業界はかつて1960年代 - 1970年代にラジオを聴いていた団塊の世代など高年齢者を対象とした番組を多数制作するようになる。オールナイトニッポンも[[TBSラジオ]]『[[JUNK]]』との競争が激化し若者層聴取が先細りする中で、2003年秋の改編では深夜放送に参入した[[日本放送協会|NHK]]の『[[ラジオ深夜便]]』の好調に影響を受け、若者向けであった『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜を打ち切り、代わって中高年層を強く意識した『'''オールナイトニッポンエバーグリーン'''』を放送開始、パーソナリティは初代DJの1人である斉藤安弘を再起用した。番組は6年続き、斉藤が2009年春改編にて定年退職で降板した後も、1970年代後半にオールナイトを担当した[[くり万太郎]]を起用し『[[くり万太郎のオールナイトニッポンR]]』が放送された。
また、2009年11月30日からは22時〜23時台の夜ワイド枠において『'''[[オールナイトニッポンGOLD]]'''』を開始。深夜枠に放送される本来のオールナイトニッポンよりはやや上の年齢層をターゲットとしたパーソナリティが起用されている。
2006年7月には『オールナイトニッポン』の一部番組で[[ポッドキャスト]]を開始。''詳細は「[[ニッポン放送 ポッドキャスティングステーション]]」を参照''。
2007年[[10月1日]]、40周年を記念して週6日放送の生番組では最長であることから、[[ギネス世界記録|ギネス・ワールド・レコーズ]]に申請した。同日から、『オールナイトニッポンエバーグリーン』は、ニッポン放送では28:30(翌日早朝4:30)で打ち切られるようになった。
一方、2008年1月29日に放送した特別番組『[[倖田來未]]のオールナイトニッポン』での倖田の発言が問題となる。番組は事前収録であり、チェック体制が機能しなかったとして、担当プロデューサーの謝罪(『ナインティナインのオールナイトニッポン』・2月8日放送)や制作担当社員のほぼ半数を入れ替える社内処分が行われた。
==== 8年半ぶりの2部制復活(2012年 - 2016年) ====
2007年からディレクターとしてオールナイトニッポンを支え、2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いた[[冨山雄一]]は、2000年代後半から2010年代の半ばまでの時期は「辛うじて番組を維持できていた」と述べるように、この時期のオールナイトニッポンは低迷期に入っていた<ref name="nikkei_T_202010">{{Cite journal |和書|title = 54年目のオールナイトニッポンが絶頂期を迎えているワケ|date = 2020-10-04|publisher = 日経BP社|journal = 日経トレンディ|issue = 468|pages = 36-38|ref = harv}}</ref>。この時期はエンターテインメントの多様化に加え、若い人たちがラジオを聴かなくなったということが背景にある<ref name="nikkei_T_202010"/>。さらに、オールナイトニッポン自体、2010年代の半ばには曜日によっては提供スポンサーが無かったりするなど、まさにつらい時期でもあった<ref name="nikkei_T_202010"/>。さらに、別のインタビューで冨山は「インターネットの時代となり、ラジオ全体があんまり注目されなくなったと感じました。」とした上で、「一回り下の世代になると、ラジオの代わりにパソコンで[[ニコニコ動画]]を観るのが流行り、新しい音楽もラジオではなくニコ動で知るというのが主流になったんです。」とも述べている<ref name="GINZA_202106">{{Cite journal |和書|title = 有楽町からわんばんこ オールナイトニッポンへ潜入!|date = 2021-05-12|publisher = マガジンハウス|journal = GINZA|issue = 288|pages = 122-123|ref = harv}}</ref>。このように、2000年代から2010年代の半ばまで長期凋落傾向が続いていった<ref name="nikkan_20220404">{{Cite news |和書|title= 第3期黄金時代ANN ラジコ登場で長期低迷脱出、星野源や菅田将暉で若い女性リスナーが激増|newspaper= 日刊スポーツ|date= 2022-04-04|author= 秋山惣一郎|url= https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202204040000137.html|accessdate=2022-04-04}}</ref>。
さらに、冨山は「2カ月に一度の聴取率調査週間には、多額の宣伝費をかけて広告を打ったり、豪華ゲストを呼んだりと社内、業界内はお祭り騒ぎで、それなりに盛り上がってはいたんです。ところが、会社を一歩出るとラジオの話なんか誰もしていない。ANNも活気がなく、スポンサーは数えるほど。制作費が圧縮され、生放送の予算が組めない、といった状況でした」と振り返る<ref name="nikkan_20220404"/>。
そうした中で、2010年に[[radiko]]というサービスが始まったが、冨山によると「最初は若い人の利用者数があんまり伸びなかったんです。パソコンがないと聴けなくてハードルが高かったから。でも、徐々にWi-Fi環境が整い、携帯もスマホが主流となり、radikoがアプリのひとつとなってからは利用者数が劇的に伸びました。」と述べた上で、「そこでANNを初めて聴いた、ラジオ自体を初めて聴いた、という人が増えたんです。」と述べた<ref name="GINZA_202106"/>。さらに冨山は「ラジコに聞き逃し聴取ができるタイムフリー機能が実装された。SNSの利用者が増えて、ラジオの話題が拡散されるようになったことも大きかったですね」とも述べている<ref name="nikkan_20220404"/>。また、冨山は「肌感覚だと深夜の番組は95%はスマホで聴かれている感じです。もちろん、ネット局やタイムフリー、ポッドキャストのアーカイブ、違法にアップされたユーチューブを含めてですけど。ラジコはCMもそのままですので、スポンサーにとっては同じです。僕が入社(2007年)したころは、若い人はほぼラジオを持っていなかったので、スマホさえあればラジオ受信機を持っているのと同じ環境になったのが大きいですね。もちろん、朝とか時計代わりに聴いていただける時間帯もありますが。」とも述べている<ref name="nikan_20230211">{{Cite news |和書 |title= オールナイトニッポンはどうやって生き残ったか「デジタル」で盛り返し 冨山Pに聞く|newspaper= 日刊スポーツ|date= 2023-02-11|author= 竹村章|url= https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202302110000100.html|access-date=2023-02-11}}</ref>。さらに、冨山は「リアルタイムで聴かれた時代は、夜中の秘密話みたいで、聴いたら終わるものでした。今は基本的にタイムフリーだと1週間は聴き直せます。だから、あまり炎上しないように気にするとか。ただ、僕の感覚だとそれは当然で。昔はいろいろな発言も許されて、甘えてたぐらいな感覚です。」と振り返る<ref name="nikan_20230211"/>。
そして、[[2012年]]4月改編から『[[オールナイトニッポン0(ZERO)]]』{{#tag:ref|2012年4月の番組開始当初の放送時間は火曜-土曜 3:00 - 5:00(月曜から金曜の深夜)だった。|group="注"}}の放送と、並びに[[NOTTV]]による[[サイマル放送]]がそれぞれ開始された{{#tag:ref|『オールナイトニッポン0(ZERO)』の番組開始の当初は携帯端末向け[[マルチメディア放送]]として新たにスタートした[[NOTTV]]のサービスの目玉の一つとして位置付けられていた<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/494254.html スマホ向け放送「NOTTV」は月額420円で4月1日に開始] - AV Watch・2011年11月29日</ref>。|group="注"|}}。この『オールナイトニッポン0(ZERO)』は2003年10月改編をもって『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜の放送枠が終了して以来、8年半ぶりに第2部の位置づけ的な番組の復活となった。この番組のパーソナリティオーディションが、プロ・アマを問わず[[YouTube]]を活用した一般公募という形式で、2012年1月16日12時から2月5日23時59分までの応募期間を設けて実施され、締め切りまでに1609組の応募が集まり、その後、オールナイトニッポンのスタッフによって、トークの内容や再生回数、それに、YouTubeのコメント数を基準にした動画審査(1次審査)が行われた後、59組が2次審査に進出した。その59組は、2次審査のオールナイトニッポンのスタッフによる面接を受け、スタッフによる選考の結果、2012年3月21日に5組のパーソナリティが選出・発表された<ref>{{Cite news |和書|title= SPYAIRがANN新番組を担当「楽しむことに専念したい」|newspaper= 音楽ナタリー|date= 2012-03-21|author= |url= https://natalie.mu/music/news/66446|accessdate=2019-09-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20120119074728/http://www.allnightnippon.com:80/audition/|title= オールナイトニッポン0(ZERO)・パーソナリティオーディション|publisher= ニッポン放送|date= |accessdate=2021-08-26}}</ref>。選出されたのは、火曜未明(月曜深夜)が[[和田正人]]・[[五十嵐隼士]]([[D-BOYS]])、水曜未明(火曜深夜)が[[久保ミツロウ]]・[[能町みね子]]、木曜未明(水曜深夜)が[[SPYAIR]](当時は5ピースバンドだった。)、金曜未明(木曜深夜)が[[Hi-Hi]](お笑いコンビ)、土曜未明(金曜深夜)が[[本村康祐]]と西岡隼基(当時・就活生)。特に、2012年3月の頃は、大学3年生{{#tag:ref|2人とも2012年4月に大学4年生となった。|group="注"}}で就活生だった[[本村康祐]]と西岡隼基は、このパーソナリティオーディションで唯一、一般人(素人)のパーソナリティとして選ばれた。これは、1992年に、オールナイトニッポン放送開始25周年を記念して行われた『全日本パーソナリティ選手権』というオーディションで選ばれ、当時は浪人生だった松永並子と北原ゆき以来、20年ぶりとなった。その[[本村康祐]]と西岡隼基は、2012年4月から2013年3月の1年間にわたり土曜日未明(金曜日深夜)の枠で起用された。
『オールナイトニッポン0(ZERO)』の企画立案者で初代チーフディレクターも務めた[[松岡敦司]]は「そもそもオールナイトニッポンという番組は、新しい才能をリスナーに紹介する場だったからです。「新しい才能を発掘していくのがオールナイトニッポンだ」という想いが私自身の中にあったのです」と語っていて<ref name="mynavi_2016">{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20160306005710/https://job.mynavi.jp/16/pc/search/corp58310/premium.html|title= ラジオの枠を超えて、世界を広げていく。ニッポン放送で働く魅力はこれに尽きる。|accessdate=2015-01-30}}</ref>、1990年代から2000年代にかけて見られた知名度ありきのパーソナリティを起用するという方針から、かつて、1970年代半ばに見られた新人パーソナリティの発掘・育成を図るという方針に転換している事を窺わせている。また、YouTubeを利用した投稿を用いたことについて松岡は「とにかく面白いことができる人であれば何人でもかまわない。とにかく気軽に応募して欲しいということ。これだけインターネットが普及している時代なのでやはり、動画投稿サイトを使うのが良いだろうという結論に達しました」とも語っている<ref name="mynavi_2016" />。
2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いた冨山雄一は、第1部の起用について、「完成されているというか、良い状態にある旬の人を起用するという考え方」と述べている<ref name="nikkei_T_202010"/>。対して、第2部は「伸びしろに期待できる若手を積極的に起用」するというようにパーソナリティの起用に幅を持たせているという<ref name="nikkei_T_202010"/>。さらに冨山は、「今は、かつてのように『誰も聴いてないから好き勝手やっていいよ』というわけにはいきません。広告がしっかりついて、話題を発信できる。グッズ販売やイベント開催につなげることができて、局のデジタル戦略にも合致する人材を求めています。まずは特番で起用して反響を見ます。ギャンブル的に起用して『失敗したらしょうがない』という発想はもはや持ってません。ハードルは格段に上がっています」と、パーソナリティの起用の変化について述べている<ref name="nikkan_20220404"/>。それに、冨山は「売れっ子を引っ張るというよりは、順番を踏んでいます。まずは特番で関係性を作ってから。[[Creepy Nuts]]さんも4回ほど特番をやってからレギュラーです。[[テレビ東京]]の[[佐久間宣行]]さんもゲストに出ていただいた時がおもしろく、何度かの特番を経て、[[秋元康]]さんの強い推薦もあって今に至ってます。」と順番を踏んで、レギュラーパーソナリティの起用をしていることについて述べている<ref name="nikan_20230211"/>。
特に、2014年4月から2015年3月に放送された『[[ウーマンラッシュアワーのオールナイトニッポン0(ZERO)]]』の場合、27時から29時の放送時間帯にもかかわらず、有楽町にあるニッポン放送本社の出入り口には多くの女性ファンが出待ちする中で、NOTTVにチャンネルを合わせて、この番組を見ていたという<ref name="mmbi_20150921">{{Cite web|和書|date = 2015-09-21|url = http://info.nottv.jp/nottv/upload/NOTTV%20Press%20Release_%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E6%9D%91%E6%9C%AC%E3%81%AEANN.pdf|title = ニッポン放送「ウーマンラッシュアワー村本大輔のオールナイトニッポン」 9月28日(月)からNOTTVで映像付き同時生放送決定!|format = PDF|publisher = 株式会社mmbi|accessdate = 2015-10-12}}</ref>。
2013年2月22日 22:00 - 2月24日 22:00は『[[たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル]]』を放送。同番組は24日 9:00 - 12:00「[[東京マラソン]]2013」の生中継などを挟みながら45時間の長時間生放送(一部録音)となった。
2013年4月の改編期には、NOTTVが2012年から始まった『オールナイトニッポン0(ZERO)』の映像配信に続いて、火曜日([[久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン0(ZERO)|久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン]])と水曜日([[ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン]])のオールナイトニッポン1部でも映像付きの同時生放送が1年間にわたって行われた<ref>{{Cite web|和書|date= 2013-03-29|url= http://info.nottv.jp/nottv/upload/%E2%97%86NOTTV%20Pless%20Release_2013%E5%B9%B44%E6%9C%88%E6%94%B9%E7%B7%A8.pdf|title= NOTTV 2013年4月からの主な番組|format=PDF |publisher= 株式会社mmbi|accessdate=2013-03-29}}</ref>。また、2014年4月の改編期には、金曜日から水曜日に枠が移動となった「[[AKB48のオールナイトニッポン]]」をNOTTVで映像付きの同時生放送を行った<ref>{{Cite news |title= ニッポン放送「AKB48のオールナイトニッポン」4月からNOTTV同時生放送決定!|newspaper= 株式会社mmbi|date= 2014-04-01|author= |url= http://info.nottv.jp/nottv/2014/04/01/0419.html|accessdate=2014-04-01}}</ref>。
2013年9月16日より21日までの6日間は、「『オールナイトニッポン』×YouTube エンタメウィーク<ref>2013年9月14日より9月23日までの10日間、総合プロデューサーに[[高須光聖]]を迎えて開催される、『エンターテイメントコンテンツの祭典』</ref><ref name="ANN_YouTube_2">{{Cite news |title= 鬼龍院翔、AKB48、ナイナイほか『オールナイトニッポン』をYouTubeで観る1週間|newspaper= BARKS|date= 2013-09-04|author= |url= https://www.barks.jp/news/?id=1000094101|accessdate=2013-09-09}}</ref> 連動企画」と題して、史上初めて月曜から土曜日まで旧1部、2部の枠全て(土曜2部を除く)が動画配信された<ref name="ANN_YouTube_2" /><ref name="ANN_YouTube">{{Cite news |title= オールナイトニッポンが1週間限定でYouTube同時配信|newspaper= お笑いナタリー|date= 2013-09-02|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/98553|accessdate=2013-09-03}}</ref>。
2015年2月2日から2017年12月27日までニッポン放送と[[吉本興業]]が共同で企画制作するインターネット配信番組『[[オールナイトニッポンw]]』(月曜から金曜の19時から、10分から15分程度の動画を配信)がYouTubeを用いて配信された<ref>{{Cite news |title= 橋本環奈 ユニットでユーチューブ版ANN初回MC|newspaper= スポーツニッポン|date= 2015-01-31|author= |url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/01/31/kiji/K20150131009724620.html|accessdate=2015-01-31}}</ref>。
2015年10月改編から、これまでの『[[オールナイトニッポンGOLD]]』の月曜から木曜の放送枠を引き継ぎ『[[オールナイトニッポン MUSIC10]]』の放送が始まった<ref name="nikkei_T_202010"/>。この番組について、冨山は「『[[ラジオ深夜便]]』への導入番組と位置付けていて、40代以上の幅広い人が寝る前に聴きやすい番組を目指している」と述べている<ref name="nikkei_T_202010"/>。
2016年6月末をもって、『オールナイトニッポン0(ZERO)』を同時放送していたNOTTVの放送が終了になったことに伴い<ref>{{Cite web|和書|url= http://info.nottv.jp/mmbi/2015/11/27/1196.html|title= 「NOTTV」サービス及び「モバキャス」サービスの終了について|accessdate=2016-03-23}}</ref>、この『オールナイトニッポン0(ZERO)』の動画配信は2016年3月28日の放送分から[[LINE LIVE]]に受け継がれた<ref>{{Cite tweet |title=3/28からのオールナイトニッポン0は…|user=LINELIVE_JP |number=712515582248271872 |date=2016-03-23 |accessdate=2022-03-11}}</ref>。『AKB48のオールナイトニッポン』は、『オールナイトニッポン0(ZERO)』のLINE LIVE移行後も引き続き放送が続けられたが、NOTTV閉局当日の同年6月30日(6月29日深夜)をもって同時放送を終了し、その後の空白期間を経て、同年8月11日(10日深夜。当日は[[欅坂46]]がパーソナリティ。)から[[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]]での映像配信に移行した<ref>{{Cite news|author=工藤ひろえ|url=https://netatopi.jp/article/1014874.html|title=ニッポン放送とSHOWROOMがコラボ! 「AKB48のオールナイトニッポン」をSHOWROOMが360°VR映像で毎週生配信|newspaper=ネタとぴ|publisher=インプレス|date=2016-08-11|accessdate=2016-09-02}}</ref><ref>{{Cite news|author=築島渉|url=https://www.rbbtoday.com/article/2016/08/09/144222.html|title=欅坂46「オールナイトニッポン」生放送初挑戦!ネットでは360°映像も!|newspaper=RBB TODAY|publisher=イード|date=2016-08-09|accessdate=2016-09-02}}</ref>。
冨山は大きな転機となったことについて問われ「振り返ると、2016年の[[星野源]]さん、2017年の[[菅田将暉]]さんのパーソナリティー就任だと思います。2人の起用で、新規の若い女性リスナーが劇的に増えました。ラジオの深夜放送って、パーソナリティーと男性のはがき職人の秘密基地、ふとんにくるまってコソコソ聴くといったイメージがありますよね。でも、若い女性が、昼間にタイムフリーで聴いてツイッターでつぶやく。で、ANNがSNSのトレンド入りする、といった現象が起き始めた。それまで、取材なんかほとんど受けたことがなかったけど、今や女性誌やファッション誌までさまざまなメディアが、ANNの特集を組んでくれる。」と述べている<ref name="nikkan_20220404"/>。さらに、冨山は「今までは1人で聴いていたのが、みんながSNSで感想を言い合う文化が生まれたのが大きいですね。それも、アプリ内で完結せず拡散する。ただ、星野さんは2008年から4回ほどクリエイターズナイトに出ていただいて、2015年に2回特番をやり、2016年からレギュラーを引き受けていただきました。」と述べている<ref name="nikan_20230211"/>。
また、2016年度から、番組ごとにTwitterアカウントと、そのハッシュタグをそれぞれ設けた<ref name="nikkeiX_20221104">{{Cite news |和書|title= リスナー&広告拡大 オールナイトニッポンが示すラジオの可能性|newspaper= 日経クロストレンド|date= 2022-11-04|author= 中桐基善|url= https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00640/00006/|access-date=2022-11-04}}</ref>。これについて、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「もともとラジオは1人で楽しむのが主流でしたが、Twitter上でみんなで感想を言い合い、リアルタイムで共感し合う流れを生み出せました」と述べている<ref name="nikkeiX_20221104"/>。
==== 放送開始50周年(2016年 - 2018年) ====
2017年10月にオールナイトニッポンが放送開始50年を迎えることを記念した企画の一環として、「'''オールナイトニッポン50周年記念ロゴ・制作プロジェクト'''」が発足し、2016年11月10日から2016年12月15日23時59分までの期間を設け、2017年10月2日にオールナイトニッポンが放送開始して50周年を記念するロゴをプロ・アマ問わず一般公募という形でニッポン放送主催によって行い<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.allnightnippon.com/50th/20161110-772/|title= 【たくさんのご応募ありがとうございました】「オールナイトニッポン50周年ロゴ」公募|accessdate=2017-01-02}}</ref>、その結果、応募総数が1081案となり、2017年2月4日に、最終選考結果を『ニッポン放送 オールナイトニッポン50周年 ALL LIVE NIPPON VOL.5』のステージにて発表すると同時に、オールナイトニッポンの放送開始50周年記念ロゴが正式に決定した<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.allnightnippon.com/50th/20170113-1781/|title= オールナイトニッポン50周年ロゴ公募に、1081件の応募!2月4日に採用作品発表予定!|accessdate=2017-01-17}}</ref><ref name="ANN_50_3">{{Cite news |title= オールナイトニッポン50周年ロゴ決定!「不安な夜にオールナイトニッポンで元気になれた」|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-02-04|author= |url= https://news.1242.com/article/111533|accessdate=2017-02-04}}</ref>。応募総数が1081案の中から、オールナイトニッポン50周年記念ロゴに選ばれたのは大分県に住むグラフィックデザイナーがデザインしたロゴで、「ヘッドフォンをつけて、ニヤニヤしながらこっそり聴いているリスナー」だと自らデザインした記念ロゴのイメージについて説明した<ref name="ANN_50_3" />。また、別のインタビューでは「自分がラジオを聴いていた思いを形にできないかって思って、リスナーさんが夜な夜なイヤホンを付けて、こっそり笑って聴いているっていう」イメージで制作したと説明した上で、「1人でニヤニヤ笑いながら、でも時間だけは共有できている。いろいろなパーソナリティのファンの方がいると思いますが、その中で、みんなで時間共有してるというのは、1つの繋がり、絆みたいなものですよね。そういうものを表現しました」というふうにこのロゴを制作した意図について説明している<ref>{{Cite news |title= オールナイトニッポン50周年記念ロゴ制作秘話「ラジオリスナーの“絆”を表現しました」|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-02-09|author= allnightnippon.com編集部 高野光一|url= https://news.1242.com/article/111808|accessdate=2017-02-09}}</ref>。
2017年1月14日からはオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『[[笑福亭鶴光のオールナイトニッポン]]』の復活版『[[笑福亭鶴光のオールナイトニッポン.TV@J:COM]]』という[[J:COM]]制作のテレビの「'''地元密着オトナトークバラエティ'''」番組として放送<ref>{{Cite news |title= 「鶴光のオールナイトニッポン」J:COMテレビで復活、なんちゅう無謀なことを|newspaper= お笑いナタリー|date= 2017-12-12|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/212905|accessdate=2017-01-13}}</ref>。
また、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、2012年以来、5年ぶりに「新たなラジオパーソナリティ発掘」を目的にした、「'''オールナイトニッポン50周年・パーソナリティオーディション'''」をプロ・アマ問わず、行われた<ref name="ANN_50">{{Cite news |title= プロ・アマ不問!「オールナイトニッポン」パーソナリティオーディション開催!一次選考は「LINE LINE」と連動した動画審査|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-01-11|author= |url= https://news.1242.com/article/110144|accessdate=2017-01-11}}</ref><ref name="ANN_50_2">{{Cite news |title= 「オールナイトニッポン」パーソナリティーオーディション開催|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2017-01-12|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20170112-UBJRN4K5YZMTTA5QKQPOMLLBPA/|accessdate=2017-01-17}}</ref>。応募方法は「LINE LIVE」を用いて、自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る<ref name="ANN_50" /><ref name="ANN_50_2" />。2017年1月11日から2月5日23時59分の期間で応募を受け付け<ref name="ANN_50" /><ref name="ANN_50_2" />、2月中旬に、映像をどのぐらい視聴したのかというその数に加え、LINE LIVEの機能の一つである評価した数を考慮したうえで、1次選考を行い、その結果を応募者に連絡し、2月下旬にオールナイトニッポン番組スタッフによる面接を行い<ref name="ANN_50" />、3月22日にこのオーディションに応募した693組の中から新パーソナリティとしてお笑いコンビの[[ランパンプス]]が選ばれた<ref>{{Cite news |title= ランパンプスが「オールナイトニッポン0」月曜担当、693組から選ばれた|newspaper= お笑いナタリー|date= 2017-03-22|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/225426|accessdate=2017-03-22}}</ref>。また、惜しくも合格できなかった応募した方の中から[[相席スタート]]・[[ランジャタイ]]・EMILY([[HONEBONE]])・[[高須克弥]]の4組が2017年9月までに『[[オールナイトニッポンR]]』のパーソナリティに起用された<ref>{{Cite news |title= オーディション応募者の中から、相席スタート・ランジャタイ・吉澤エミリ・高須克弥の4組を「オールナイトニッポンR」で単発起用決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-03-27|author= |url= https://news.1242.com/article/114121|accessdate=2017-03-27}}</ref><ref>{{Cite news |title= 最終選考まで残った、相席スタートとランジャタイがANNRお試しパーソナリティ|newspaper= お笑いナタリー|date= 2017-03-29|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/226527|accessdate=2017-03-29}}</ref>。
また、2017年3月22日には50周年記念キャッチコピーとして「'''Live & Fun'''」を制定した<ref name="ANN_50_4">{{Cite news |title= オールナイトニッポン「50周年キャッチコピー」決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-03-22|author= |url= https://news.1242.com/article/113975|accessdate=2017-03-22}}</ref>。これは、「'''Live'''」=「現在進行形で歴史を作り続けている、生の情報を常に発信している」、「'''Fun'''」=「オールナイトニッポンの原点、深夜の解放区、常に若者との絆を大切にするスピリッツ」という意味を込めた<ref name="ANN_50_4"/>。前述のオールナイトニッポン50周年ロゴに「'''Live & Fun'''」というキャッチコピーを加えたロゴデザインを同じくオールナイトニッポン50周年ロゴを制作した大分県に住むグラフィックデザイナーが手掛けた<ref name="ANN_50_4"/>。
2017年4月28日に、第54回[[ギャラクシー賞]]([[放送批評懇談会]]主催)の入賞作品が発表され、50年の歴史を刻んて来たオールナイトニッポンのパーソナリティとしては初めてとなる「'''DJパーソナリティ賞'''」を[[星野源]]が受賞した<ref>{{Cite news |title= 星野源、ギャラクシー賞ラジオ部門「DJパーソナリティ賞」受賞 ANN50年の歴史で初|newspaper= オリコンニュース|date= 2017-04-28|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2089975/full/|accessdate=2017-04-28}}</ref>。
2017年6月3日・6月4日には『'''ALL NIGHT NIPPON 50th Anniversary ブリトニー・スピアーズ -JAPAN TOUR 2017-'''』と題して、2002年以来の来日となるブリトニー・スピアーズの東京公演を「オールナイトニッポン」という冠を付け、オールナイトニッポン放送開始50周年記念公演として行った<ref>{{Cite news |title= ブリトニー・スピアーズ、15年ぶりの来日公演決定!東京公演は「オールナイトニッポン50周年」記念公演!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-03-31|author= |url= https://news.1242.com/article/114305|accessdate=2017-03-31}}</ref>。
2017年6月からは『'''コラボレートニッポン'''』と題して、オールナイトニッポンでのレギュラーの有無を問わず、毎月一組のパーソナリティが1つの企業と組んでコラボレーションをする3分間のコーナーを開始。このコーナーは土曜日を除く平日の2時台に行われる。
2017年7月15日には『'''ありがとう!オールナイトニッポン50周年'''』と題して、5時から13時までのレギュラー番組において、「オールナイトニッポンにまつわる曲」を放送し、13時から17時まではパーソナリティに[[荘口彰久]]を迎え、「'''ありがとう!オールナイトニッポン50周年クロニクル'''」として放送<ref>{{Cite news |title= アナタの「オールナイトニッポン」の思い出を教えてください!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-07-04|author= |url= https://news.1242.com/article/120328|accessdate=2017-07-04}}</ref>。
2017年7月31日からオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、ニッポン放送が運営しているWebメディア「allnightnippon.com」の新しいサービスとして『[[オールナイトニッポンi]]』の運営を始めた<ref>{{Cite news |title= 若手俳優がペアで語り合うWebラジオスタート、松田凌「おもろい番組にしたい」|newspaper= ステージナタリー|date= 2017-07-10|author= |url= https://natalie.mu/stage/news/240128|accessdate=2017-07-10}}</ref><ref>{{Cite news |title= ニッポン放送「ANN」50周年で新サービス 人気若手俳優の新番組もスタート|newspaper= オリコンニュース|date= 2017-07-10|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2093868/full/|accessdate=2017-07-10}}</ref>。
2017年8月7日-8月12日にはオールナイトニッポン50周年企画として、「'''Welcome Ariana!“One Love Manchester” with ALL NIGHT NIPPON'''」と題して、2017年5月22日に[[イギリス]]・[[マンチェスター]]のライブ会場で行われた[[アリアナ・グランデ]]の公演でテロが発生したことを受けて行われているチャリティキャンペーン「'''One Love Manchester'''」に、放送開始から50年間にわたり、『音楽』と『若者』を大切にしてきた、オールナイトニッポンが、このキャンペーンに賛同した上で、月曜日から金曜日の『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』、土曜日の『オールナイトニッポンサタデースペシャル 大倉くんと高橋くん』『オードリーのオールナイトニッポン』において、メッセージを受け付け、その寄せられたメッセージを紹介<ref>{{Cite news |title= オールナイトニッポンで、アリアナ・グランデのチャリティ・キャンペーンを応援!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-08-04|author= |url= https://news.1242.com/article/122601|accessdate=2017-08-04}}</ref><ref>{{Cite news |title= 『オールナイトニッポン』がアリアナのチャリティー応援|newspaper= オリコンニュース|date= 2017-08-04|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2095159/full/|accessdate=2017-08-04}}</ref><ref>{{Cite news |title= オールナイトニッポン×アリアナ“コラボ企画”!放送50周年記念|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2017-08-04|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20170804-5KH7IFMKNFJA5LRISBOUHARYHY/|accessdate=2017-08-04}}</ref>。
また、[[東京ガールズコレクション]]と放送開始50周年を迎えるオールナイトニッポンとのコラボレーションが実現し、2017年9月2日に開催の第25回東京ガールズコレクション2017AUTUMN/WINTERの中でオールナイトニッポンについてプロモーションを行った<ref>{{Cite news |title= オールナイトニッポン50周年で「第25回東京ガールズコレクション2017AUTUMN/WINTER」と初のコラボレーション決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-08-30|author= |url= https://news.1242.com/article/124271|accessdate=2017-08-30}}</ref>。
また、オールナイトニッポン50周年企画として[[Yahoo! JAPAN]]の協力により「MY HOMETOWN」をテーマにしたリスナー参加のスマホムービーコンテストを春夏秋冬の4期(2017年10月から2018年9月まで)にわたって行った<ref>{{Cite news |title= グランプリは賞金50万円!”日本の魅力の再発見”がテーマのスマホムービーコンテスト開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-09-13|author= |url= https://news.1242.com/article/125343|accessdate=2017-09-13}}</ref>。
2017年10月から2018年3月のいわゆるナイターオフ期には、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、過去に起用されたオールナイトニッポン歴代パーソナリティを起用した『'''[[オールナイトニッポンPremium]]'''』を放送<ref>{{Cite news |title= オールナイトニッポン50周年記念 「オールナイトニッポンプレミアム」10月から放送決定!パーソナリティは、綾小路 翔、ココリコ、藤井フミヤ、デーモン閣下、藤井隆!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-07-12|author= |url= https://news.1242.com/article/121011|accessdate=2017-07-12}}</ref>。
2017年11月12日は、当番組のベースにしたテレビでの特別番組『[http://www.bsfuji.tv/allnightnippon50anniversary/pub/index.html '''<BSフジサンデープレミアム>『熱響の時 オールナイトニッポン50年の系譜』''']』(21:00 - 22:55。[[BSフジ]])を放送。過去にパーソナリティを務めた[[上柳昌彦]]<ref>[http://www.1242.com/blog/ueyanagi/2017-11-10/23:59:00/ テレビのスタジオ]</ref>、[[久保ミツロウ]]、[[能町みね子]]<ref>{{Cite tweet |title=先日収録しました…|user=oretachi_detox |number=927462340496257024 |date=2017-11-06 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、2017年現在現役の[[新内眞衣]]([[乃木坂46]])が出演した{{efn2|上柳は1983年4月-86年3月まで月曜2部を担当。久保と能町は2012年4月-2013年3月まで火曜ZERO、2013年4月-2014年3月まで火曜1部、2015年4月-9月まで木曜GOLDを担当。新内は2016年4月から水曜ZEROを担当中。}}。
オールナイトニッポンが放送開始50周年を迎えるにあたって、2017年1月から2018年10月までの期間中、「50の企画」を行っている<ref name="LF_20170913">{{Cite news |title= オールナイトニッポン50周年を記念して、1年間に50の企画を発信!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-09-13|author= |url= https://news.1242.com/article/125335|accessdate=2017-09-13}}</ref><ref name="NHKbunken_201712"/>。オールナイトニッポンの50周年記念企画は番組初期のパーソナリティが社員アナウンサー・ディレクターがかかわっていたことから、ニッポン放送のすべての社員から募集をかけ、150の企画案の中から「50の企画」が選ばれた<ref name="LF_20170913"/><ref name="NHKbunken_201712">{{Cite web|和書|url= https://www.nhk.or.jp/bunken/research/focus/f20171201_4.html|title= 『オールナイトニッポン』,放送開始から50年 刊行物『放送研究と調査』2017年12月号 掲載 |accessdate=2017-12-03}}</ref>。
すでに、「星野源制作による50周年記念ジングル(後述)」「ALL LIVE NIPPON Vol.5」「リスナーの一般公募による50周年記念ロゴ制定」「50周年パーソナリティオーディション」「ブリトニー・スピアーズ JAPAN TOUR 2017」「開局記念日特番「ありがとう!オールナイトニッポン50周年クロニクル」」「Welcome Ariana! One Love Manchester with ANN」「東京ガールズコレクションにオールナイトニッポンのパーソナリティが出演」といった8つの企画を行っている<ref name="LF_20170913"/>。
その50周年記念企画の一つとして、スマートフォンで録音した30秒程度の「私とオールナイトニッポン」をテーマにした音声メッセージをメールで募り、その音声メッセージを[[Creepy Nuts(R-指定&DJ松永)|Creepy Nuts]]作曲のBGMに乗せてスペシャルジングルとして放送する「〜あなたの声がオールナイトニッポンで流れる!〜「私とオールナイトニッポン」リスナージングル」を実施<ref name="LF_20170913"/><ref>{{Cite news |title= あなたの声がオールナイトニッポンで流れる!リスナーの声を大募集!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-09-25|author= |url= https://news.1242.com/article/126116|accessdate=2017-09-26}}</ref>。
また、2017年11月27日から2018年2月25日の3か月間で、リスナーの中からオールナイトニッポンを担当する放送作家を発掘する「50年に一度の天才を探せ!オールナイトニッポン放送作家オーディション」を行う<ref name="LF_20170913"/>。選考方法は、それぞれの番組の対象となっているコーナーで期間中に採用されたネタの数を集計して、毎週ランキングの発表を行い、最終的に、ランキングが上位に入った方とオールナイトニッポンの番組ディレクター面接を行い、何人かを絞り込んで、2018年4月から、2人がオールナイトニッポンの番組スタッフとして採用された<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.allnightnippon.com/50sakka/|title= 50年に一度の天才を探せ!オールナイトニッポン放送作家オーディション!|accessdate=2017-11-23}}</ref><ref name="sanspo_20180520">{{Cite news |和書|title= 【オールナイトニッポン 青春ON AIR】はがき職人だった男が作るANN|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2018-05-20|author= 小山理絵|url= https://www.sanspo.com/article/20180520-OM5G5PIFG5JH7KWCLTNTI7AKXA/|access-date=2022-08-18}}</ref>。その2人は、6歳年上の妻を持つ主夫(2018年当時・29歳)とオードリーのオールナイトニッポンのヘビーリスナーで、脱サラして長崎から東京に移った男性(2018年当時・29歳)の2人で、いずれも元ハガキ職人である<ref name="sanspo_20180520"/>。
また、2017年に続いて次の時代を築くパーソナリティを一般公募して2018年4月からの『オールナイトニッポン0(ZERO)』のレギュラーパーソナリティに起用することになっている「〜次の50年を担うパーソナリティは誰だ?〜オールナイトニッポン “next50 オーディション”」が行われた<ref name="LF_20170913"/>。応募方法は「LINE LIVE」を用いて、「自分の残念な話」をテーマにした自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る<ref name="ANN_20180126">{{Cite news |title= プロ・アマ不問!「オールナイトニッポン」パーソナリティオーディション開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-01-26|author= |url= https://news.1242.com/article/135533|accessdate=2018-01-26}}</ref><ref name="natalie_20180126">{{Cite news |title= 「オールナイトニッポン」パーソナリティオーディション開催|newspaper= お笑いナタリー|date= 2018-01-26|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/266823|accessdate=2018-01-26}}</ref><ref name="daily_20180126">{{Cite news |title= ANNがパーソナリティーオーディション実施 プロアマ不問、熱意あれば…|newspaper= デイリースポーツ|date= 2018-01-26|author= |url= https://www.daily.co.jp/gossip/2018/01/26/0010930826.shtml|accessdate=2018-01-26}}</ref>。期間は2018年1月26日正午から、2018年2月11日23時59分までで、2月中旬に、1次審査を通過した方への連絡をニッポン放送から行い、2月下旬に、2次選考として、面接を行って<ref name="ANN_20180126"/><ref name="natalie_20180126"/><ref name="daily_20180126"/>、3月23日に合格者が[[四千頭身]]と、[[根本宗子]]と女優の[[長井短]]の2組が正式に発表され、2018年4月からの『オールナイトニッポン0(ZERO)』のレギュラーパーソナリティに起用された<ref name="LF_20180323">{{Cite news |title= CreepyNuts、根本宗子&長井短、四千頭身!「オールナイトニッポン0」の新パーソナリティが決定|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-03-23|author= |url= https://news.1242.com/article/139964|accessdate=2018-03-23}}</ref>。また、[[ターリーターキー]]と[[相席スタート]]が2018年4月からの『オールナイトニッポン0(ZERO)』の土曜週替わり枠で起用された<ref name="LF_20180323"/>。
また、「オールナイトニッポン」をモチーフに家族を題材にした「鴻上尚史書き下ろしミニドラマ「オールナイトニッポン劇場」」という60秒ラジオドラマを2018年4月2日から12週にわたって放送<ref name="LF_20170913"/><ref name="LF_20180402">{{Cite news |title= 松井玲奈・長野里美・藤井隆らが出演、鴻上尚史作のラジオミニドラマが放送決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-04-02|author= |url= https://news.1242.com/article/140753|accessdate=2018-04-06}}</ref>。これは、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、鴻上尚史が「60秒の連続ミニドラマ」を執筆したもので、放送形式は全6話で、1話ごとに20回放送されることになっている<ref name="LF_20180402"/>。
そのほか、すでに明らかになっているものとして、
* オールナイトニッポンなどの番組の裏話やオフショットをつづる「オールナイトニッポン オフィシャルTwitter&Instagramアカウント開設」<ref name="LF_20170913"/>
* 50年の歴史を「知られざるエピソード」でつづる「オールナイトニッポン サイドストーリー」<ref name="LF_20170913"/>
* オールナイトニッポンのレギュラーパーソナリティが月替わりで登場して、応募した日本全国の学校の中から、毎月抽選で10校限定で、その学校のみ流れる番組を制作し校内放送で流す「オールナイトニッポン in 校内放送」<ref name="LF_20170913"/><ref group="注">担当パーソナリティは2017年10月は[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]が、2017年11月は[[山下健二郎]]([[三代目 J SOUL BROTHERS]])が、2017年12月は[[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]]が、2018年1月は[[WANIMA]]が、2018年2月は[[SUPER BEAVER]]の渋谷龍太が、2018年3月は[[ランパンプス]]がそれぞれ務めた。</ref><ref>{{Cite news |title= オードリーが「オールナイトニッポン in 校内放送」パーソナリティを担当!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-09-16|author= |url= https://news.1242.com/article/125563|accessdate=2017-09-17}}</ref><ref>{{Cite news |title= 三代目 J SOUL BROTHERS 山下健二郎があなたの学校の校内放送を担当!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-10-25|author= |url= https://news.1242.com/article/128370|accessdate=2017-10-25}}</ref><ref>{{Cite news |title= 三四郎があなたの学校の校内放送を担当!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-11-06|author= |url= https://news.1242.com/article/129348|accessdate=2017-11-06}}</ref><ref>{{Cite news |title= 紅白初出場のWANIMAが「あなたの学校の校内放送」を担当!|newspaper= ニッポン放送|date= 2017-12-07|author= |url= https://news.1242.com/article/131865|accessdate=2017-12-08}}</ref><ref>{{Cite news |title= SUPER BEAVER 渋谷龍太が「あなたの学校の校内放送」を担当!|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-01-30|author= |url= https://news.1242.com/article/135809|accessdate=2018-01-30}}</ref>
* 50年間にわたり放送してきたジングルを放送する「もう一度聴きたい! オールナイトニッポン ジングルライブラリー」<ref name="LF_20170913"/>
* 岡村隆史がプロデュースするライブイベント「岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭 in 横浜アリーナ2017」<ref name="LF_20170913"/>
* 森山良子と行く自身の「ライブ&ディナー」を含めた台湾ツアーを行う「森山良子 音楽的晩餐会 オトナ旅 in 台湾 3泊4日の旅」<ref name="LF_20170913"/>
* オールナイトニッポンのパーソナリティが集う初の2日間のライブイベント「ALL LIVE NIPPON Vol.6」<ref name="LF_20170913"/>
* オールナイトニッポンとセイコーのコラボレーションが実現した限定500個の「大人の腕時計」「オールナイトニッポン50周年記念限定モデル クロノグラフ腕時計」<ref name="LF_20170913"/>
といった企画が用意されている。
2018年2月26日から3月2日の期間中、21時から21時50分の放送枠(関東ローカル、全国ではradikoプレミアムで聴取可能)で、笑福亭鶴光をパーソナリティに迎えて、「'''オールナイトニッポン50周年スペシャル〜今だから言えるアノ話'''」と題して、50年の歴史を誇るオールナイトニッポンが巻き起こした社会現象に加えて、当時の担当ディレクターが書いた「始末書」に至るまで、当時のパーソナリティと当時のスタッフの証言から紐解いていくものである<ref>{{Cite news |title= 笑福亭鶴光が5夜連続で登場!『オールナイトニッポン50周年スペシャル〜今だから言えるアノ話』放送決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-02-16|author= |url= https://news.1242.com/article/137262|accessdate=2018-02-17}}</ref>。
2018年2月19日から25日の1週間、首都圏のJRと東京メトロの駅で、オールナイトニッポン50周年の記念広告のポスターが貼られることになった<ref name="LF_20180217">{{Cite news |title= 「#radikoでオールナイトニッポン」キャンペーン実施決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-02-16|author= |url= https://news.1242.com/article/137298|accessdate=2018-02-17}}</ref>。また、これは『'''[https://www.allnightnippon.com/radiko-ann50/ #radikoでオールナイトニッポン]'''』キャンペーンの一環として、このポスターを撮影して、ツイッターやインスタグラムで「#radikoでオールナイトニッポン」というハッシュタグを付けて投稿するか、あるいは、SNSの中で、この写真を見つけて、リツイートあるいはリポストすることによって、抽選でオールナイトニッポンとタワーレコードがコラボレーションしたクリアファイルと、radikoオリジナルのブルートゥースイヤフォンをセットにして、50人にプレゼントする企画がある<ref name="LF_20180217"/>。
2018年3月4日に、[[日本武道館]]で「オールナイトニッポン50周年記念 あの素晴しい歌声をもう一度コンサート」がおこなわれた<ref>2018年6月25日ファミリー劇場」EPGより</ref>。
2018年3月28日12時から2018年4月4日24時にかけて、放送開始50周年を迎えたオールナイトニッポンとメジャーリーグ通算50勝を達成した[[田中将大]]がコラボレーションした50着限定のスタジアムジャンパーが制作・販売されることになった<ref name="LF_20180314">{{Cite news |title= ANN50周年記念 「田中将大投手 × オールナイトニッポン」 コラボレーション・スタジアムジャンパーを限定販売決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-03-14|author= |url= https://news.1242.com/article/139245|accessdate=2018-03-14}}</ref>。田中将大は年末年始に「田中将大のオールナイトニッポンNY」のパーソナリティを担当していて、その関わりが深いことからこの企画が実現<ref name="LF_20180314"/>。田中は「ニッポン放送では毎年、「田中将大のオールナイトニッポンNY」を放送させてもらっています。自分にとっては正月の風物詩のような存在になっていて、楽しみの1つにもなっています。今回、オールナイトニッポン50周年という事で、昨年達成した自分のメジャー50勝とかけて、コラボレーショングッズとしてスタジアムジャンパーを作らせて頂きました。このジャケットは野口強さんとHUMAN MADE®のNIGO®さんが手がけて下さったのですが、とてもカッコよい仕上がりとなっています。ボタンはHUMAN MADE®製で、リバーシブルにもなっており、シリアルナンバーは刺繍されていて、細部にもこだわっています。自分も普段から着こなしたいと思っています。是非このジャケットを着て、スタジアムに遊びに来てください!」と述べている<ref name="LF_20180314"/>。
2018年4月19日(18日深夜)1時から『菅田将暉のオールナイトニッポン』の中で、オールナイトニッポン50周年スペシャルラジオドラマとして2013年4月から2016年3月までレギュラーとして放送された『[[アルコ&ピースのオールナイトニッポンシリーズ|アルコ&ピースのオールナイトニッポン]]』のリスナーを主人公にした小説『[[明るい夜に出かけて]]』を、[[菅田将暉]]・[[上白石萌音]]・[[山下健二郎]]・[[花江夏樹]]の主要キャストの出演で放送<ref>{{Cite news |title= 菅田将暉・上白石萌音・山下健二郎・花江夏樹らが出演!ラジオドラマ「明るい夜に出かけて」放送決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-03-19|author= |url= https://news.1242.com/article/139607|accessdate=2018-03-19}}</ref><ref>{{Cite news |title= ANN50周年ラジオドラマ 菅田将暉、上白石萌音、山下健二郎、花江夏樹ら出演|newspaper= オリコンニュース|date= 2018-03-19|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2107800/full/|accessdate=2018-03-19}}</ref>。
2018年4月24日に、ニッポン放送が「オールナイトニッポン50周年企画」の一環として、[[福岡県]]の[[鞍手町]]に新しく設けられる「くらて[[ブロックチェーン]]ビレッジ」の取り組みに協力することを発表した<ref>{{Cite news |title= ニッポン放送「オールナイトニッポン」が「くらてブロックチェーンビレッジ」とコラボレーション!|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-04-24|author= |url= https://news.1242.com/article/142526|accessdate=2018-04-25}}</ref>。
2018年5月19日に行われた一般社団法人「放送人の会」主催の「放送人グランプリ2018」の授賞式において、「オールナイトニッポン50周年」が準グランプリを獲得した<ref>{{Cite news |title= “オールナイトニッポン50周年”が「放送人グランプリ」準グランプリを受賞|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-05-23|author= |url= https://news.1242.com/article/144943|accessdate=2018-05-24}}</ref>。
2018年8月27日から9月1日にかけて、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『'''[https://www.allnightnippon.com/radiostar/ オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク]'''』として、『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0(ZERO)』のパーソナリティを12組のお笑い芸人が担当した<ref>{{Cite news |title= くりぃむ、バカリ、フット、さまぁ〜ず三村… オールナイトニッポンで芸人尽くしの「お笑いラジオスターウィーク」放送決定|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-08-14|author= |url= https://news.1242.com/article/152423|accessdate=2018-08-13}}</ref>。
* 8月27日・ANN:[[バカリズム]]・ANN0:[[東京ホテイソン]]
* 8月28日・ANN:[[さまぁ〜ず]][[三村マサカズ]]・ANN0:[[さすらいラビー]]
* 8月29日・ANN:[[フットボールアワー]]・ANN0:[[ミキ (お笑いコンビ)|ミキ]]
* 8月30日・ANN:[[ナインティナイン]][[岡村隆史]]・ANN0:[[四千頭身]]
* 8月31日・ANN:[[くりぃむしちゅー]]・ANN0:[[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]]
* 9月1日・ANN:[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]・ANN0:[[次長課長]]
2018年9月28日13:00 - 17:20<ref group="注">13:42 - 13:49にミニ番組『[[ニッポンチャレンジドアスリート]]』14:30頃に『[[ニッポン放送ショウアップナイター|ショウアップナイター]]一番ノリ!』、15:26頃 - 15:33頃に通販番組『[[快適生活ラジオショッピング]]』、16:42 - 16:48に『[[トヨタ街角ステーション|街角ステーション]]〜噂を求めてどこまでも』をそれぞれ途中挿入。</ref> には50周年企画の締めくくりとして『'''ありがとう50周年!垣花正と新内眞衣のオールナイトニッポンミュージックリクエスト'''<ref group="注">当初は上柳昌彦が新内と共にパーソナリティを担当する予定だったが、上柳が喉の不調により出演を辞退したため垣花正が代役を務めた。それに伴ってタイトルも一部変更された。</ref>』と題し、「『音楽』で『オールナイトニッポン』の50周年」を振り返るもので、「もう一度聴きたい!あの名場面」と「ミュージックリクエスト」、それに、歴代のパーソナリティに話を伺う「あなたとオールナイトニッポン」で番組は構成された<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.allnightnippon.com/annspecial/|title= 『ありがとう50周年!上柳昌彦と新内眞衣のオールナイトニッポンミュージックリクエスト』公式サイトより|accessdate=2018-09-18}}</ref>。ゲストとして[[松村邦洋]](13時台)、[[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]](14時台)、[[高嶋秀武]](15時台)が出演した。
2018年10月1日から昨年のナイターオフに続いて『[[オールナイトニッポンPremium]]』が放送され、放送時間も月曜から金曜の18:00-20:30となり、2017年度と比べると、40分にわたって放送時間が拡大された<ref>{{Cite news |title= ニッポン放送、新番組「オールナイトニッポンPremium」10・1スタート|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2018-09-12|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20180912-5NXTIP3UZNIR7JQSP3A6TJMMLI/|accessdate=2018-09-12}}</ref>。特に金曜日は、オールナイトニッポン50周年の歴史でジャニーズのユニットとしては初めてのパーソナリティとして[[Kis-My-Ft2]]を起用した<ref>{{Cite news |title= Kis-My-Ft2 が金曜パーソナリティ 〜新番組「オールナイトニッポン Premium」|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-09-18|author= |url= https://news.1242.com/article/155583|accessdate=2018-09-18}}</ref>。
2018年10月2日には、東京・[[千代田区]]の『[[帝国ホテル]]』にてオールナイトニッポン50周年の記念企画を支えた関係者が集まってオールナイトニッポン50周年感謝パーティー『'''オール感謝ニッポン'''』が行われた<ref name="LF_20181003">{{Cite news |title= これからの50年も新しい挑戦を!〜オールナイトニッポン50周年感謝パーティー「オール感謝ニッポン」盛大に開催|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-10-03|author= |url= https://news.1242.com/article/156953|accessdate=2018-10-03}}</ref>。このパーティーにはおよそ500人に及ぶオールナイトニッポンの歴代のパーソナリティと関係者が出席した<ref>{{Cite news |title= 「オールナイトニッポン」50周年で感謝パーティー ユーミン「人間性磨かせてもらった」|newspaper= 産経新聞社|date= 2018-10-03|author= |url= https://www.sankei.com/article/20181003-4VZRLDPHSVMYZFKTJOCTYQ4MGE/|accessdate=2018-10-03}}</ref>。この中で、1974年から1985年までオールナイトニッポンを支えた[[笑福亭鶴光]]は「28歳から40歳まで人間として大事なときにANNに毒されまして、エロまっしぐら!」とスピーチを行った<ref name="sanspo_20181003">{{Cite news |title= ユーミンのボケ炸裂!ANN放送50周年記念パーティーに爆笑レジェンド集結|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2018-10-03|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20181003-HHD47OXCJJMTXKN23GDFW3NO7Y/|accessdate=2018-10-03}}</ref>。また、1988年から1999年までの11年間とオールナイトニッポンの中でも女性パーソナリティの最長出演記録を持つ、[[松任谷由実]]は「ANNで人間性を磨かせてもらいました。これからも楽しく続けさせていただきたいです」と決意を新たにした<ref name="sanspo_20181003"/>。[[ビートたけしのオールナイトニッポン]]を手掛けた[[高田文夫]]は「『[[セイ!ヤング]]』50年、『[[パックインミュージック]]』50年、本当におめでとう!」と深夜放送の黄金時代を支えたオールナイトニッポンと人気を分け合った他局の番組タイトルを引き合いにスピーチを行った<ref name="sanspo_20181003"/>。また、オールナイトニッポン初期のパーソナリティ「[[カメ&アンコー]]」や、[[長渕剛]]のオールナイトニッポンに関わった[[秋元康]]もスピーチを行い、さらに、[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]や[[三代目 J SOUL BROTHERS]]の[[山下健二郎]]もこのパーティーに駆け付けた<ref name="sanspo_20181003"/>。パーティーの最後には[[わたなべちひろ]]が[[ジョン・レノン]]の「[[イマジン (ジョン・レノンの曲)|imagine]]」を弾き語りして、オールナイトニッポンの次の50年に向け、新たなスタートを切った<ref name="LF_20181003"/>。
==== 平成の時代から令和の時代へ(2018年 - 2021年) ====
オールナイトニッポン放送開始50周年記念期間(2017年1月-2018年9月末)の真っただ中だった2018年4月に、オールナイトニッポンのチーフディレクターとして[[石井玄]]が就いた<ref name="sanyo_20200404">{{Cite news |和書|title= 好調『ANN』番組同士の積極交流で新規開拓 狙いは「完全にradikoリスナー」|newspaper= 山陽新聞|date= 2020-04-04|author= |url= https://www.sanyonews.jp/article/1000538|accessdate=2020-04-04}}</ref>。その時期に立てた目標が「ANNの裏番組の[[TBSラジオ]]『[[JUNK]]』に聴取率で勝つこと」だったという<ref name="sanyo_20200404"/>。石井は「ラジオを聴いてない人を取り込むのはもちろん、俳優、アーティスト、アイドル、お笑い芸人とパーソナリティの幅が広い“ANNの強み”を生かそうと考えました。」と述べている<ref name="sanyo_20200404"/>。しかし、他のディレクターからは「何でバカなことを言っているの?」や「勝てるわけないでしょう?」といった冷ややかな反応だったという<ref>{{Cite book|和書|author = [[石井玄]]|year = 2021|title = アフタートーク|publisher = [[KADOKAWA]]|page = 63|isbn = 978-4-04-680590-4}}</ref>。
その為、毎週行われる会議において、ディレクターと話し合い、どうしたら良くなるのかを議論した<ref>{{Cite book|和書|author = [[石井玄]]|year = 2021|title = アフタートーク|publisher = [[KADOKAWA]]|page = 64|isbn = 978-4-04-680590-4}}</ref>。その結果、「毎週の番組の振り返り」「4月に番組のレジェメを書く」「SNSで積極的に告知を行う」「各番組の連動を図るためディレクター同士のコミュニケーションを促す」「裏番組である「JUNK」を研究し、良いところをマネする」といった策をそれぞれ実行に移した<ref>{{Cite book|和書|author = [[石井玄]]|year = 2021|title = アフタートーク|publisher = [[KADOKAWA]]|page = 65-66|isbn = 978-4-04-680590-4}}</ref>。
チーフディレクターの石井が当時心掛けたことは「効果があると思うことは信じてやる」「意味がないと思ったことはやらない」だったという<ref>{{Cite book|和書|author = [[石井玄]]|year = 2021|title = アフタートーク|publisher = [[KADOKAWA]]|page = 66|isbn = 978-4-04-680590-4}}</ref>。そして、「オールナイトニッポンが一番」といったおごりを捨てることがディレクターの意識付けの第一歩だったと石井は述べている。これは、50年続くオールナイトニッポンでも、歴代のパーソナリティやスタッフによって成り立っているだけであって、裏番組の「JUNK」に対して負けていることを認めて、いわば「挑戦者」であるということを他のディレクターに意識させた<ref>{{Cite book|和書|author = [[石井玄]]|year = 2021|title = アフタートーク|publisher = [[KADOKAWA]]|page = 66-67|isbn = 978-4-04-680590-4}}</ref>。そして、取り組み始めて、石井が気づいたことというのは「オールナイトニッポンのパーソナリティのパフォーマンスは高いこと」「構成作家は一流の人が揃っていること」というこの2つの要素によっていかに番組が面白くなるということだった<ref>{{Cite book|和書|author = [[石井玄]]|year = 2021|title = アフタートーク|publisher = [[KADOKAWA]]|page = 67|isbn = 978-4-04-680590-4}}</ref>。
2018年10月7日(6日深夜)から2021年3月7日(6日深夜)まで、毎月第1土曜日に『[[AKIのオールナイトニッポン0(ZERO)〜eスポーツSP〜]]』と題して、オールナイトニッポンの中で初めて[[エレクトロニック・スポーツ|eスポーツ]]を取り扱う番組を放送した<ref>{{Cite news |title= 新番組「AKIのオールナイトニッポン0 〜eスポーツSP〜」が10月6日(土)スタート! 金爆・歌広場淳もレギュラーで登場!|newspaper= ニッポン放送|date= 2018-10-01|author= |url= https://news.1242.com/article/156674|accessdate=2018-10-03}}</ref>。
2019年2月1日に、『オールナイトニッポン』のリスナーでもあるイラストレーターの[[中村佑介]]が、『オールナイトニッポン』(火曜から日曜の1時から3時(月曜から土曜の深夜))のパーソナリティのオリジナルイラストを手掛けたことが明らかにされ、そのイラストがニッポン放送のタイムテーブル2019年2月号に掲載され、同時に、2月1日から2月28日までオリジナルイラストを描いたポスターがニッポン放送本社1階にて展示<ref>{{Cite news |title= 人気イラストレーター・中村佑介氏と「オールナイトニッポン」のコラボ企画がスタート!|newspaper= ニッポン放送|date= 2019-02-01|author= |url= https://news.1242.com/article/167032|accessdate=2019-02-01}}</ref><ref>{{Cite news |title= 中村佑介が星野源、菅田将暉、山下健二郎らをイラスト化 『ANN』とコラボ|newspaper= CINRA.NET(シンラドットネット|date= 2019-02-01|author= |url= https://www.cinra.net/news/20190201-ann|accessdate=2019-02-01}}</ref><ref>{{Cite news |title= 中村佑介、ANNパーソナリティーをイラスト化 きっかけは三四郎|newspaper= オリコンニュース|date= 2019-02-01|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2128624/full/|accessdate=2019-02-01}}</ref><ref>{{Cite news |title= イラストレーター・中村佑介と『ANN』コラボで星野源、菅田将暉、山下健二郎らイラスト化|newspaper= rockinon.com|date= 2019-02-01|author= |url= https://rockinon.com/news/detail/183621|accessdate=2019-02-02}}</ref>。
[[2019年]][[5月1日]]、『[[星野源のオールナイトニッポン]]』が、[[平成]]に替わる新しい元号「[[令和]]」の下での最初のオールナイトニッポンとなった。
2019年10月5日から2020年3月21日まで、土曜日の19時から21時までの放送枠に『[[オールナイトニッポンPremium]]』が編成され、パーソナリティには2018年度の金曜日のパーソナリティを務めた[[Kis-My-Ft2]]がリスナーの復活要望に応えて、再び起用された<ref>{{Cite news |和書|title= Kis-My-Ft2がオールナイトニッポンに帰ってくる! 『Kis-My-Ft2のオールナイトニッポンPremium』 期間限定で復活決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2019-09-14|author= |url= https://news.1242.com/article/184784|accessdate=2019-09-14}}</ref>。
2019年10月14日から10月19日の1週間にわたって、ニッポン放送開局65周年を記念して「音楽を大切にする1週間」として『'''[https://www.allnightnippon.com/musicweek65th/ オールナイトニッポン ミュージックウィーク]'''』を展開<ref>{{Cite news |和書|title= ニッポン放送開局65周年を記念!「オールナイトニッポン ミュージックウィーク」放送決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2019-09-30|author= |url= https://news.1242.com/article/185987|accessdate=2019-09-30}}</ref>。
'''2019年10月14日'''
* ANN:[[菅田将暉]]・ゲスト:[[TOSHI-LOW]]([[BRAHMAN]]/[[OVERGROUND ACOUSTIC UNDERGROUND|OAU]])
* ANN0:[[ハマ・オカモト]]([[OKAMOTO'S|OKAMOTO’S]])
'''2019年10月15日'''
* ANN:[[星野源]]
* ANN0:[[Creepy Nuts(R-指定&DJ松永)|Creepy Nuts]]
'''2019年10月16日'''
* ANN:[[坂道グループ]]([[乃木坂46]]・[[欅坂46]]・[[日向坂46]])
* ANN0:[[打首獄門同好会]]
'''2019年10月17日'''
* ANN:[[サカナクション]]・[[山口一郎 (歌手)|山口一郎]]
* ANN0:[[King Gnu]]・井口理
'''2019年10月18日'''
* ANN:[[WANIMA]]
* ANN0:[[TENDOUJI]]
'''2019年10月19日'''
* ANN:[[西川貴教]]
* ANN0:[[銀杏BOYZ]]・[[峯田和伸]]、[[サンボマスター]]・[[山口隆 (ミュージシャン)|山口隆]]
2019年10月24日から2021年3月21日まで、オールナイトニッポンと[[SCRAP]]との共同制作による[[リアル脱出ゲーム]]『'''[https://mysterycircus.jp/ann/ オールナイトニッポン 最大の危機からの脱出]'''』というイベントが行われた<ref>{{Cite news |和書|title= ANN×脱出ゲーム、三四郎小宮が会見でリスナーに「これをきっかけに外に出て」|newspaper= お笑いナタリー|date= 2019-10-23|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/352502|accessdate=2019-10-23}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title= 三四郎ANNに届いた時限爆弾を解除せよ!霜降りや佐久間Pらと協力する脱出ゲーム|newspaper= お笑いナタリー|date= 2019-07-20|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/340472|accessdate=2019-10-23}}</ref>。
また、2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いた[[冨山雄一]]は「僕が『オールナイトニッポン』のプロデューサーに就任してからは、『オールナイトニッポン』はすでに、聴取率とともにradikoの数値を判断基準にしています。radikoには「ライブ(生放送)」と「タイムフリー(聴き逃し)」、その合計である「トータル」という3つの数値があり、それを番組作りの上での評価軸にしています。」と述べている<ref name="mynavi_20200401">{{Cite news |和書|title= 『ANN』が重視する数値&聴取率調査変更の影響は…番組Pが明かす|newspaper= マイナビニュース|date= 2020-04-01|author= 佐野裕亮|url= https://news.mynavi.jp/article/20200401-1007868/|accessdate=2020-04-04}}</ref>。また、石井は「パーソナリティのみなさんも交流に積極的で、これをきっかけにほかのANNも聞いてくれる人も増えてきました。今まではANNからANN0という縦のつながりだけでしたが、今はradikoのタイムフリー機能で1週間以内ならいつでも聴けるので、横のつながりが効果的になっています。生放送は“ながら聴き”をしたり、消し忘れで数字としてカウントされている人もいると思いますが、タイムフリーは『その番組を聴こう』という人の数字なので、評価基準にしやすいです。([[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]の)若林さんが結婚を発表した回や、井口さんがゲストの[[aiko]]さんと『[[カブトムシ (aikoの曲)|カブトムシ]]』を熱唱した回などは、特にタイムフリー再生が多かったですね」と述べている<ref name="sanyo_20200404"/>。また、冨山は「実はradikoだけの数値でいうと、この1年前くらい前から非常に伸びています。『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0(ZERO)』の数字は、ここ数年で、タイムフリー数字が生放送の数倍も聴かれていることもあり、トータル数字が非常に底上げされています。」と述べている<ref name="mynavi_20200401"/>。さらに、冨山は「ラジコでは、テレビの毎分視聴率のようなデータが取れます。分析すると、おもしろいことが分かってきました。深夜放送は、受験生が勉強しながら聴いているというイメージが強くて、制作側にもANNは10代向けの生放送という先入観があった。しかし、聴取者層は20代が圧倒的で、朝の通勤、通学時間帯にラジコのタイムフリー機能を使って聴いてくれる。さらに上の年代のリスナーもいて、タイムフリーで聴く人が生放送の5~6倍も多いんです」とも述べている<ref name="nikkan_20220404"/>。
この時期はパーソナリティが相互に番組に出演し、パーソナリティが『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』にゲストに出演したりした<ref name="sanyo_20200404"/>。また、2020年の[[日本アカデミー賞]]において、[[岡村隆史]]が優秀助演男優賞を受賞し、「話題賞」も狙って、[[星野源]]と[[菅田将暉]]をライバルとしてけん制していた<ref name="sanyo_20200404"/>。
そして、その間の一連の取り組みが功を奏し、2020年2月のビデオリサーチが行っている「首都圏ラジオ聴取率調査」で『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』において、月曜から土曜平均で同じ時間帯で単独首位に立った<ref name="sanyo_20200404"/>。この同じ時間帯の単独首位は、2019年12月に行われた「首都圏ラジオ聴取率調査」に続いて2期連続となった<ref name="mynavi_20200401"/>。この番組作りの取り組みと聴取率の分析について石井は「JUNKは昔からANNをはじめとする裏番組をしっかり研究していて、『このゲストのときに盛り上がっていた』とか分析をしていた。一方のニッポン放送は、JUNKに聴取率で負けていたのに対策を十分にやっていなかったんです。なので、僕が最初にチーフDになったときに『裏番組をちゃんと気にしましょう。JUNKはいい番組で、どんな企画をやっているのか調べて聴くのも勉強になるし、それを踏まえての戦い方もあるはずです』と話しました。同世代のDが作っているので、ちゃんと聴いていいところは参考にしようと。ANNがナンバーワンという奢りを捨てることから始めました」と述べている<ref name="sanyo_20200404"/>。また、石井は「各番組のリスナーはそれぞれのファンが中心ですが、横や縦のつながりで他の番組も聴いてもらえるように意識的に仕掛けて、それが聴取率やradikoの再生数の向上という結果につながっています」とも述べている<ref name="sanyo_20200404"/>。また、オールナイトニッポンのリスナーを増やしていったことに伴い、この時期のオールナイトニッポンの提供スポンサーが30社以上になり、21世紀になって提供スポンサーが一番多い状態になった<ref name="nikkei_T_202010"/>。また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「ANNは36局ネットなので単価も高く、スポンサーにしても一時は4~5社になった時もありますが、今では四十数社に付いていただいています。」と話している<ref name="nikan_20230211"/>。事実、この提供スポンサーの数は、1980年代の全盛期よりも多いという<ref name="nikkan_20220404"/><ref name="nikan_20230211"/>。さらに、冨山は「今までは放送のスポンサー広告しかなかったのですが、イベントを開催することでグッズ展開もできますし、デジタル展開の中で、番組とスポンサーが組んでのタイアップコーナーや、そのための動画を制作したり。CMだけじゃなく、立体的にいわゆる稼ぎどころが増えてきました。ANNとしては55年間で今が一番稼いでいるのでは。」とも話している<ref name="nikan_20230211"/>。
さらに、冨山は「「オールナイトニッポン」といえば、数年でパーソナリティが交代するイメージがありました。最近は比較的、長い期間パーソナリティを務めている人も出てきていますが、そのあたりの状況を教えてください。」という問いに「そうした流れのきっかけのひとつに、2015年から始まった岡村さんの歌謡祭(『岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭』)があると思います。歌謡祭に関わったことで、リスナーの熱量やナイナイさんのラジオを20何年も聴いてくれる人たちの存在を目の当たりにしたのですが、この熱量はなかなか1年や2年では醸成できないと感じました。」とした上で「やっぱり番組が継続することで、番組本がつくれたりイベントができたり、選択肢が広がります。なので、「オールナイトニッポン0(ZERO)は1年、オールナイトニッポンも2~3年が目安だよね」というような改編ありきの考え方もかつてはあったのですが、いまは改編が前提という考えではなくなっています。」とも述べている<ref name="thetv_20211118"/>。さらに、冨山は「パーソナリティが変わらないことで、逆にマンネリ化してしまうという懸念はありませんか。」という問いに「「オールナイトニッポン」は長年、中学生や高校生といった10代をメインターゲットに作ってきました。でもradikoのデータを見ると、リスナーのボリュームゾーンが圧倒的に20代なんです。そういうところでいうと、10代は毎年、進級や進学があって生活サイクルが変わるので、短期間のサイクルでパーソナリティが変わっていくという考え方があったと思うんです。でも20代以上のリスナーの皆さんは、ある程度生活サイクルは変わらないので、番組が長く続いていても生活習慣の一部になります。だから継続的に多くの人に聴いてもらえるという部分では、パーソナリティが変わらないということはメリットとも言えます。」とした上で「その一方で、さまざまなアーティストや芸人の方、佐久間さんのような方がパーソナリティを担当するというのもオールナイトニッポンの魅力だとも感じています。オールナイトニッポンの歴史はパーソナリティが変わっていく新陳代謝の歴史でもあるわけで、そうした要素も理解しつつ、「リスナーファースト」「コンテンツファースト」の視点で考えていければと思います。」と述べている<ref name="thetv_20211118"/>。
また、2020年で、[[radiko]]がサービスを始めて10年となったので、石井は「極端に言うと、僕がやってる番組はradikoで聴く人をターゲットにしていますし、ANNでは従来の聴取率ではなくradikoの数字が完全な判断基準になっています。ラジオ局全体としては従来のラジオで聴いてくださる方も対象にして番組作りをしますが、ANNとしてはそこを考えなくていい」と述べている<ref name="sanyo_20200404"/>。また、冨山は「radikoの登場で、今までのアナログラジオの要素に加えて、デジタルコンテンツの文脈で制作をしています。だからSNSも活用するし、タイムフリーでいつ聴かれてもいいという考え方で。」とした上で「若い人たちとラジオの接点が見つからないという問題点があるなかで、スマホの中にradikoアプリが入ると1人1台、ラジオが入っているのと一緒になるというのはラジオ業界にとって21世紀で最も大きな出来事だと思います。このデジタルと融合することで一番良いのは、ラジオを知らない人との新しい接点と拡散だと思います。」とも述べている<ref name="mynavi_20200401"/>。さらに、冨山は「2016年にradikoのタイムフリーが始まったことも大きな影響があると思います。SNSで放送内容が拡散したり、その放送を後から追えることで、より多くの方にオールナイトニッポンというコンテンツに接していただける環境が整っています。ニッポン放送がまずやらなければいけないことはいいコンテンツをリスナーに届けるということで、そういう意味では「リスナーファースト」「コンテンツファースト」の考え方になったと思います。」とも述べている<ref name="thetv_20211118"/>。
さらに、石井は「ラジオ業界が厳しいことは間違いないので、若いDや放送作家がラジオで生活できるために、コンテンツを制作する人に正しくお金が入る仕組みを作りたいです。ANNは初めてラジオに触れる人の入り口であることが多いので、その突破口になればいいなと。 ANNは“肩書きにとらわれず時代の顔である人が面白いことを話す”というコンセプトは守りながら、いろいろ挑戦していきたい。」と気合を見せた<ref>{{Cite news |和書|title= ラジオファンを熱くさせた『ANN』統括Dのツイートの真意 発端は“ラジオ業界”への怒り|newspaper= オリコンニュース|date= 2020-04-05|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2159154/full/|accessdate=2020-04-05}}</ref>。
また、冨山は「数年前に、[[佐久間宣行|佐久間(宣行)]]さんの「オールナイトニッポン0(ZERO)」イベントで[[おぎやはぎ]]の小木さんが「(当時テレビ東京社員だった佐久間さんのパーソナリティ起用について)ニッポン放送がすごいことをしたという感じがする」という予言めいたことも言っていましたが、このように近年フィーチャーされるようになった理由をどのように捉えていますか。」という問いに「ちょっと前までは、他のメディアや他局の話題を出すことはタブーに近かったのですが、『面白いことか』『リスナーが盛り上がってくれるか』を最優先にいろんなことを仕掛けることが出来始めて、自由にやる空気が醸成されていった感じです。その結果が、佐久間宣行さんがAKB48のオールナイトニッポンへのゲスト出演だったり、秋元康さんの後押しもあってその後のレギュラー起用につながったと思います。」とした上で「その後、佐久間さんの番組に[[伊集院光]]さんをゲストに来ていただいたり、テレビ朝日の[[弘中綾香|弘中(綾香)]]アナで特番実施など、佐久間さん起用がきっかけでタブーが崩壊した形です(笑)。だから佐久間さんがエポックメイキングなのは間違いないですね。」とも述べている<ref name="thetv_20211118">{{Cite news |和書|title= 『オールナイトニッポン』が貫くリスナーファースト、佐久間宣行氏の起用で“コラボ加速化”「タブーが崩壊」|newspaper= ザテレビジョンweb|date= 2021-11-18|author= |url= https://thetv.jp/news/detail/1057376/|accessdate=2021-11-18}}</ref>。
冨山は、半世紀以上にわたって続いているオールナイトニッポンについて、「苦しい時代を含め、何度かやめるタイミングはあったと思うんです。実際、他局の名物だった深夜番組は終わってしまいました。ANNだけはそのスタイルを守り続けたんです。だって、55年前からやってることは変わらないんですよ。生放送で、パーソナリティがリスナーからきたハガキやメールをリアルタイムで読むという。時代が何周もしてようやくラジオに追いついたというか、戻ったというか。」と述べている<ref name="GINZA_202106"/>。
そうした中で、2020年4月23日に生放送された『[[ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン]]』で、パーソナリティの[[岡村隆史]]が番組の中で女性軽蔑の不適切発言をしたとしてネット上で問題視された。これを受けて、ニッポン放送では、2020年4月27日に、この不適切発言をめぐり、「現在の[[コロナ禍]]に対する認識の不足による発言、また、女性の尊厳と職業への配慮に欠ける発言がございました。放送をお聴きになって不快に感じられた皆様、関係の皆様にお詫び申し上げます。」というお詫びコメントを報道機関にリリースした<ref>{{Cite web|和書|date= 2020-04-27|url= https://www.allnightnippon.com/topics/52464/|title= 4月23日『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』での発言について|publisher= ニッポン放送|accessdate=2020-09-20}}</ref>。オールナイトニッポンにおける不適切発言の問題が起きたのは、2008年1月29日に放送された単発特番「倖田來未のオールナイトニッポン」(この時は録音放送だったが、ニッポン放送側が倖田が行った問題の発言を見落とし、そのまま放送に至った為、ネット上で炎上が発生したもの。)以来、およそ12年3か月ぶりとなった。その後、2020年4月30日に岡村がリスナーや関係各位に対し、お詫びしたが、その際、矢部浩之が生出演して、岡村に対し「公開説教」を行った。翌週の5月7日にも、矢部が岡村に対して再び「公開説教」を行った。そして、その翌週の5月14日をもって、およそ5年半ぶりに矢部が本格的にパーソナリティとして復帰し、旧題の『[[ナインティナインのオールナイトニッポン]]』に戻してコンビとしての放送が再開された。その後、2020年7月8日に行われたニッポン放送の定例会見で社長の[[檜原麻希]]が「女性の尊厳と配慮に欠ける発言だった。今回の発言についておわび申し上げたい」をしたうえで、番組の制作に関わっているニッポン放送の社員や系列の制作会社である[[ミックスゾーン (ラジオ番組制作会社)|ミックスゾーン]]に所属するディレクターに、この度の「一連の経緯や問題点」をまとめて、それを資料として作り、注意喚起を行ったことを記者会見の場で明らかにした<ref name="sanspo_20200708">{{Cite news |和書|title= ニッポン放送、岡村隆史の不適切発言を改めて謝罪|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2020-07-08|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20200708-D6GACZDU5JLLPLBB7VPRY26YWA/|accessdate=2020-09-20}}</ref>。その上で、「われわれスタッフも本人も真摯にすべてのご批判を受け止めている。リスナーの皆さんからは温かいリアクションをいただき、感謝の気持ちでいっぱいです」と感謝の意を述べた<ref name="sanspo_20200708"/>。さらに、生放送の形式に戻すかどうかについて「岡村さんもいい大人ですから、本人もよくよく理解して対応されている。」とした上で<ref>{{Cite news |和書|title= ニッポン放送社長、岡村隆史の「女性蔑視」発言を謝罪「局としても反省しております」|newspaper= スポーツ報知|date= 2020-07-08|author= |url= https://hochi.news/articles/20200708-OHT1T50083.html|accessdate=2020-09-20}}</ref>、「今、どうしても大河ドラマ(の『麒麟が来る』)とか(岡村の)いろいろなスケジュールや矢部さんも加わったということで、収録にさせていただいていますけど、早期に時間があれば生放送に戻す」としている<ref name="sponichi_20200708"/>。その後、2021年4月2日(1日深夜)の放送で生放送の形式に戻った<ref>{{Cite news |和書|title= 『ナイナイANN』生放送復活 TOKIO「宙船」のカバーを反省|newspaper= オリコンニュース|date= 2021-04-02|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2189250/full/|accessdate=2021-04-02}}</ref>。
2020年9月21日-9月26日の1週間に亘って、2018年以来、2年ぶりにお笑い芸人がパーソナリティを務める『'''[https://www.allnightnippon.com/radiostar2020/ オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク]'''』が行われた<ref>{{Cite news |和書|title= 2年ぶりの開催! 1週間全番組をお笑い芸人が担当 『オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク』|newspaper= ニッポン放送|date= 2020-09-14|author= |url= https://news.1242.com/article/244441|accessdate=2020-09-14}}</ref>。
'''2020年9月21日'''
* ANN・[[東野幸治]]
* ANN0・[[マヂカルラブリー]]
'''2020年9月22日'''
* ANN・[[くりぃむしちゅー]]
* ANN0・コント村([[ゾフィー (お笑いコンビ)|ゾフィー]]×[[ハナコ (お笑いトリオ)|ハナコ]]×[[ザ・マミィ]]×[[かが屋]]・賀屋)
'''2020年9月23日'''
* ANN・漫才サミット([[中川家]]×[[サンドウィッチマン (お笑いコンビ)|サンドウィッチマン]]×[[ナイツ (お笑いコンビ)|ナイツ]])
* ANN0・[[フワちゃん]]
'''2020年9月24日'''
* ANN・[[ナインティナイン]]
* ANN0・[[オズワルド (お笑いコンビ)|オズワルド]]
'''2020年9月25日'''
* ANN・[[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]]
* ANN0・[[霜降り明星]]
'''2020年9月26日'''
* ANN・[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]
* ANN0・[[アンガールズ]]
2020年10月3日から2021年3月27日まで『[[オールナイトニッポンPremium]]』が土曜日の19時から21時の放送枠で編成されることとなり、パーソナリティには2018年度・2019年度に続いて、Kis-My-Ft2がパーソナリティを務めた<ref name="LF_20200923">{{Cite news |和書|title= Kis-My-Ft2がオールナイトニッポンに帰ってくる!「僕らは“ラジオ”が大好きです」|newspaper= ニッポン放送|date= 2020-09-23|author= |url= https://news.1242.com/article/245871|accessdate=2020-09-23}}</ref>。ただし、ニッポン放送では、2020年10月・11月に「[[ニッポン放送ショウアップナイター]]」を編成していたため、当初は、ストリーミングサービス「[[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]]」において、音声という形で配信を行っていた<ref name="LF_20200923"/><ref>{{Cite press release|和書|title= SHOWROOMにて『Kis-My-Ft2のオールナイトニッポンPremium』の2ヶ月限定ラジオ配信が決定!|date= 2020-09-23|publisher= SHOWROOM株式会社|url= https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000425.000026205.html|accessdate=2020-09-23}}</ref>。
2021年1月に配信という形で行われた『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) リスナー小感謝祭 2021~Believe~』は「元々有観客と配信のハイブリッドで準備はしていたのですが、緊急事態宣言を受けて配信のみということになって。ありがたいことに配信のみで17,000枚を超えるチケットが売れました。当初の東京国際フォーラム・ホールAで開催する予定だったチケットは完売していたものの、数としてはコロナ対策があったのでキャパシティの半分の2500枚くらいでした。それを遥かに上回る売り上げだったのでこれは社内的にも驚きでしたね。配信イベントでこんなにチケットが売れた前例がなかったので。」と、反響が大きく「イベントの後、中止になっていた他番組のイベントも配信で開催できたりと、今では配信は当たり前になりましたね。会場に実際に来れる人は生で楽しめて、地方などで足を運べない人は配信で楽しむという形が定着してきて、世界が広がった感じはします。」とニッポン放送エンターテインメント開発部のプロデューサー・石井玄は話す<ref name="RS_20211230">{{Cite news |和書|title= 声とテクノロジーで変革する“メディアの未来”(第八回)ニッポン放送・冨山雄一と石井玄に聞く“音声業界のこれから” 「改編ありき」ではない新たな可能性への挑戦|newspaper= リアルサウンド|date= 2021-12-30|author= |url= https://realsound.jp/tech/2021/12/post-936869.html|accessdate=2021-12-30}}</ref>。さらに、「11月の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) リスナー大感謝祭2021~freedom fanfare~』もかなり多くのチケットが売れていましたが、佐久間さんだからこそ成功できたこともあるのでしょうか?」という問いに「佐久間さんは作り手でもあるので、番組の仕組みをよく分かっていらっしゃる。だから1月のイベントのように中止が決定してもすぐに配信イベントに切り替えて実施できたり、11月のイベントでは、出演予定だったサンボマスターさんが直前で出られなくなってしまったのですが、急遽DJ松永(Creepy Nuts)くんが出てくださって、その上で進行できたりだとか。現役のプロデューサーでもあるから、対応してくださる幅が広く、スピード感が違ってくるので、トラブルが発生しても乗り越えられているのは制作側としてはとても助かっています。佐久間さんが作り手としての裏側を知っているからこそできることも多々あり、それが配信イベントに影響して人気が出るひとつの要因になっているかもしれませんね。」と石井は話す<ref name="RS_20211230"/>。
2021年1月から3月にかけて、日曜未明に放送されている『オールナイトニッポン0(ZERO)』の土曜版の中で、月1回、『'''LIVE in smash.'''』という番組として、『オールナイトニッポン0(ZERO)』の土曜版と[[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]]が開発した「[[スマホ]]に特化した短尺のバーティカルシアター[[アプリ]]」である『'''smash.'''』とが手を組み、現在の[[コロナ禍]]の中で、観客を入れてのライブの制限がある中で、音声と「[[スマホ]]で楽しめる動画」アプリである『'''smash.'''』の特徴をそれぞれ活かして、複数人がパーソナリティを務め、トークに加えて、ライブも展開していく番組を放送した<ref>{{Cite news |和書|title= 『オールナイトニッポン0(ZERO) LIVE in smash.』ラジオとスマホ動画配信でライブを届ける新番組スタート!|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-01-19|author= |url= https://news.1242.com/article/268000|accessdate=2021-01-23}}</ref>。
'''2021年1月30日'''
* [[眉村ちあき]]
* [[川崎鷹也]]
* [[ひらめ (シンガーソングライター)|ひらめ]]
'''2021年2月27日'''
* [[Mega Shinnosuke]]
* [[Kroi]]
* [[小林私]]
'''2021年3月27日'''
* [[Awesome City Club]]
* [[illiomote]]
* [[Rin音]]
2021年4月改編(2021年3月30日(29日深夜))をもって、『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0(ZERO』に続く、第3のオールナイトニッポンとして、2021年3月26日(25日深夜)をもって終了した『[[ミューコミプラス]]』と、2021年3月27日をもって、放送枠が移動した『[[三代目 J SOUL BROTHERS 山下健二郎のZERO BASE]]』の後番組として、火曜日から土曜日の0時枠に、新しいオールナイトニッポンブランドの生ワイド番組『[[オールナイトニッポンX]]』が放送されている<ref>{{Cite news |和書|title= 第3の「オールナイトニッポン」平日24時台に誕生、明日パーソナリティ発表会見|newspaper= お笑いナタリー|date= 2021-03-15|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/420149|accessdate=2021-03-15}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title= ニッポン放送、平日深夜0時台に『ANN』新ブランド アプリ「smash.」で同時動画配信も|newspaper= オリコンニュース|date= 2021-03-15|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2187316/full/|accessdate=2021-03-15}}</ref><ref name="LF_20210315">{{Cite news |和書|title= この春『”第3の”オールナイトニッポン』が誕生! 新ブランド名・パーソナリティ発表の瞬間を「smash.」で生配信!|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-03-15|author= |url= https://news.1242.com/article/277756|accessdate=2021-03-15}}</ref>。なお、火曜日から金曜日の0時台は年越し特番などの特例がない限り『オールナイトニッポン』ブランドの番組が放送されたことはなく<ref group="注">土曜日の0時台はニッポン放送ローカルで「[[堀内健とビビる大木のオールナイトニッポン|堀内健とビビる大木のallnightnippon SUPER FRIDAY!]]」(金曜日22:00-1:00、2002年10月~2003年3月)が放送されていた。</ref>、2021年10月で55年目を迎えるオールナイトニッポンの歴史で初めてのことになる。ラジオや[[radiko]]に加えSHOWROOMが手がけるバーティカルシアターアプリの「[[smash.]]」と連動させ、スタジオの様子もを同時配信して、音声と動画をリアルタイムとアーカイブで楽しめるような形式とする<ref name="LF_20210315"/>。このブランドの概要は2021年3月16日に明らかにされた<ref>{{Cite news |和書|title= ニッポン放送、新ブランド『ANNX』立ち上げ|newspaper= オリコンニュース|date= 2021-03-16|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2187328/full/|accessdate=2021-03-16}}</ref>。
2021年10月改編では、半年間限定で、新たに『[[なにわ男子]]の[[オールナイトニッポンPremium]]』としてレギュラー番組を編成したが、ニッポン放送の場合は2021年10月・11月に『[[ショウアップナイター]]』を編成するため、ストリーミングサービス「[[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]]」において、音声という形で配信を行った<ref>{{Cite news |和書|title= この秋CDデビューの「なにわ男子」が、ニッポン放送でグループ初の冠レギュラーラジオ番組を担当!|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-09-20|author= |url= https://news.1242.com/article/315650|accessdate=2021-09-20}}</ref>。
2021年10月4日から、『オールナイトニッポン』『[[オールナイトニッポン0(ZERO)]]』『[[オールナイトニッポンX]]』に次ぐ「第4のオールナイトニッポン」として、『[[オールナイトニッポンPODCAST]]』のサービスが開始された<ref>{{Cite news |和書|title= ”第4のオールナイトニッポン”誕生! 「いつでも」「どこでも」聴ける『オールナイトニッポンPODCAST』10月4日(月)スタート|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-10-04|author= |url= https://news.1242.com/article/318262|accessdate=2021-10-04}}</ref>。これについて、ニッポン放送ビジネス開発局デジタルビジネス室長の浜原晋介は「海外、特にアメリカでは6年ほど前からポッドキャストの広告が急激に伸びています。リスナーに合わせて広告を切り替えるなど、デジタルメディアならではの技術も広がってきた。(2022年)現在はまだ将来に向けての投資段階ではありますが、すでにオリジナル番組だけの広告主もついています。ポッドキャストのオリジナル番組は今後も増やしていきたいと考えています」と話している<ref name="nikkei_X_20221227"/>。
オールナイトニッポンのプロデューサーの冨山雄一は、このブランドを立ち上げた狙いについて「『オールナイトニッポン』でパーソナリティをやっていただきたい魅力的な人はたくさんいますが、放送枠の関係などで、お願いしたくてもできないという現状があります。そんな人たちの番組を配信という形でやろう、ということで始めました。」と述べている<ref name="dime_20211222">{{Cite web|和書|url= https://dime.jp/genre/1267850/|title= 55年目を迎えた深夜の解放区がディープに進化!オールナイトニッポンが仕掛けるブランド戦略|publisher= @DIME|date= 2021-12-22|accessdate=2022-02-18}}</ref>。また、各コンテンツとも配信時間が30分になっていることについてデジタルビジネス部の澤田真吾は「データによると、配信の放送を聴くのは通勤、通学中の人が多い。深夜の『オールナイトニッポン』みたいに2時間も放送すると、行き帰りの時間だけでは聴くことができない人もいる。だから、帰りの時間に聴けるサイズにしようと。」という風に述べている<ref name="dime_20211222"/>。また、今後の展望について冨山は「最近は、配信アプリを使って、魅力的なトークを発信する人が増えています。そんな誰もがラジオパーソナリティになれる時代ですが「ディレクターや、放送作家の力が加わるともっと輝くのではないか?」という人を見つけて『オールナイトニッポンPODCAST』で育てていきたいです。そして番組で力をつけて『オールナイトニッポン』で活躍するようなパーソナリティを生み出せたらいいなと思います。」と述べている<ref name="dime_20211222"/>。
前述したように「『オールナイトニッポン』は配信イベント、『smash.』や『ミクチャ』などの同時ライブ配信、『オールナイトニッポンPODCAST』などテクノロジーを駆使して様々な新しいことを進められていますが、こちらの背景についていかがでしょうか。」という問いに冨山は「『オールナイトニッポン』は芸人さん、俳優さん、アーティストさんなど様々な分野で活躍しているスペシャリストの方々をパーソナリティに立てて番組を放送しているというコンセプトがあり、そのラジオの広がりみたいなところを様々な形で表現していきたいという思いがあります。その一環で、音声だけでなく動画でも配信してみようということから、『smash.』や『ミクチャ』での配信や、『オールナイトニッポン』というブランドがPodcastとしてアウトプットしたらどうなるのかという挑戦で『オールナイトニッポンPODCAST』を立ち上げたりと、様々なテクノロジーとの掛け算をして最大化を図っているところです。」とした上で「あとは『smash.』に出向している『オールナイトニッポン』の元チーフディレクターである松岡敦司や、イベント事業を担当している石井との連携など、『オールナイトニッポン』を起点に各企業や各部署と横の繋がりで仕事ができているので、オールナイトニッポンのコンテンツが広がっていっているのだと思います。」とも述べている<ref name="RS_20211230"/>。
2021年11月25日22時から0時までは、『'''[[前澤友作]]×オールナイトニッポン宇宙プロジェクト'''』の一環として『前澤友作のオールナイトニッポンGOLD』をロシアからリモートという形で放送<ref name="LF_20211112_2">{{Cite news |和書|title= ロシアからの特番&宇宙滞在中のラジオ出演が決定!『前澤友作×オールナイトニッポン宇宙プロジェクト』|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-11-12|author= |url= https://news.1242.com/article/325615|accessdate=2021-11-12}}</ref>。これは、[[1990年]]以来、日本人による民間人の[[宇宙飛行士]]になる[[前澤友作]]が2021年12月にロシア所有の宇宙船に乗り、そこで、宇宙旅行を行うことを受け、『オールナイトニッポン』が「宇宙から若者にメッセージを発信しないか?」という依頼して、実現したもの<ref name="LF_20211112_2"/>。そして、2021年12月13日1時30分から3時(12日深夜)の放送時間で『'''宇宙から生放送!前澤友作のオールナイトニッポンスペシャル'''』が放送され、国際宇宙ステーションに滞在している前澤友作の声を伝えることになっていて、有楽町のニッポン放送のスタジオには音楽プロデューサーの[[亀田誠治]]、それに、ニッポン放送アナウンサーの[[東島衣里]]が出演した<ref>{{Cite news |和書|title= 前澤友作が宇宙から『オールナイトニッポン』生放送! 国際宇宙ステーションから出演!|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-12-10|author= |url= https://news.1242.com/article/331362|accessdate=2021-12-10}}</ref>。当初、放送では、国際宇宙ステーションの軌道の関係上、2時45分から15分間にわたって、前澤が国際宇宙ステーションから出演することになっていたが、実際は、出演開始時間が2時55分にずれ込んだものの、リスナーから寄せられた質問に答えた<ref>{{Cite news |和書|title= 前澤友作氏“宇宙から”『ANN』生出演 前代未聞の試みが実現「宇宙なうです」|newspaper= オリコンニュース|date= 2021-12-13|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2217342/full/|accessdate=2021-12-13}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title= 前澤友作氏 宇宙からANN生出演「本当に地球きれいです」、次の夢は「深海にでも潜ってみようかと」|newspaper= スポーツニッポン|date= 2021-12-13|author= |url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/12/13/kiji/20211213s00041000156000c.html|accessdate=2021-12-13}}</ref><ref name="LF_20211213">{{Cite news |和書|title= 前澤友作、宇宙からメディア初出演!生放送で若者へメッセージを発信!|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-12-13|author= |url= https://news.1242.com/article/331796|accessdate=2021-12-13}}</ref>。その為、この番組の放送終了時間が3時10分に急遽変更された<ref name="LF_20211213"/>。この番組について、ニッポン放送社長の檜原麻希は2022年1月12日に行われた定例会見で「奇想天外な発想の持ち主で、次なる企画が楽しみ。また機会があれば一緒に番組などをやっていきたい」と述べている<ref>{{Cite news |和書|title= ニッポン放送社長、宇宙から生出演の前澤友作氏にラブコール 「また一緒に番組を」|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2022-01-12|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20220112-GXMZGKPBYFN2LN3B7VKUCKCCJE/|accessdate=2022-01-12}}</ref>。
この時期のオールナイトニッポンの好調について、あるラジオ関係者は「ニッポン放送は50代や60代のパーソナリティを22時台の『オールナイトニッポンGOLD』に持ってきています。また、24時台に『オールナイトニッポンX』、深夜3時台に『オールナイトニッポン0』という予備軍を置き、深夜1時台の『オールナイトニッポン』が新陳代謝しやすい環境を整えています。55年続いているオールナイトニッポンブランドを生かして、同じ冠名の派生番組をたくさん作って、それぞれに役割を持たせてうまく回している。『オールナイトニッポン』の好調が局の浮上につながっている面はあると思います」と述べている<ref name="postseven_20220818">{{Cite news |和書|title= ニッポン放送好調を牽引する『ANN』ブランド TBSラジオ『JUNK』との差は|newspaper= NEWSポストセブン|date= 2022-08-18|author= |url= https://www.news-postseven.com/archives/20220818_1785352.html?DETAIL|access-date=2022-08-19}}</ref>。事実、このオールナイトニッポンのブランドを活かした戦略によって、2022年4月と6月で、radikoの『総聴取分数』というデータで、ライブとタイムフリーの合計において、ニッポン放送は首都圏ラジオの全局の中において首位を獲得している<ref name="postseven_20220818"/>。
==== 放送開始55周年(2022年 - 2023年) ====
2022年4月から2023年3月まで『'''オールナイトニッポン55周年記念'''』の期間として、特別番組・イベントに加え、コラボレーション企画を行った<ref name="LF_20211112">{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン 55周年YEAR 2022年4月スタート!|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-11-12|author= |url= https://news.1242.com/article/325613|accessdate=2021-11-12}}</ref><ref name="oricon_20211112">{{Cite news |和書|title= ニッポン放送『ANN』来年4月から“55周年YEAR”スタート 特番・イベント・コラボ企画も予定|newspaper= オリコンニュース|date= 2021-11-12|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2213663/full/|accessdate=2021-11-12}}</ref>。この『オールナイトニッポン55周年記念』の企画立案・検討は、ニッポン放送社内に発足したプロジェクトチームが担った<ref name="LF_20211112"/><ref name="oricon_20211112"/>。
その55周年記念企画の第1弾として、2021年11月24日18時に『'''[https://event.1242.com/special/ann55th_anoyoru/ オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる]』'''』という舞台公演の企画が明らかにされた<ref>{{Cite tweet |title=【予告】…|user=Ann_Since1967 |number=1463069811374706694 |date=2021-11-23 |accessdate=2022-03-04}}</ref><ref name="LF_20211124">{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』2022年3月上演決定! 千葉雄大&髙橋ひかるのW主演、メインキャストオーディションも開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-11-24|author= |url= https://news.1242.com/article/327740|accessdate=2021-11-24}}</ref>。この作品のテーマは「オールナイトニッポンに関わるパーソナリティの、スタッフの、そしてリスナーの「あの夜」」である<ref name="LF_20211124"/>。この舞台作品は、[[千葉雄大]]と[[髙橋ひかる]]のダブル主演で、2022年3月20日と3月27日に、配信形式の演劇作品として制作するもので、ニッポン放送の社内を舞台に繰り広げ、その模様を生配信という形式で送るもの<ref name="LF_20211124"/>。この舞台作品の総合演出はテレビプロデューサーの[[佐久間宣行]]が、プロデューサーは[[石井玄]]が、演出は[[小御門優一郎]]がそれぞれ手掛ける<ref name="LF_20211124"/>。また、この舞台公演では、メインキャストを決めるオーディションを実施し、書類審査を通過したものにはオーディション(演技審査)を行う<ref name="LF_20211124"/>。そして、この公演の主題歌として、水曜未明(火曜日)のオールナイトニッポン0(ZERO)を担当している[[Creepy Nuts]]と、水曜未明(火曜日)のオールナイトニッポンXを担当している[[YOASOBI]]のコンポーザーの[[Ayase]]と、ボーカルのikuraとして活動しているシンガーソングライターの[[幾田りら]]によるコラボレーションでの「オールナイトニッポン55周年を盛り上げるコラボ楽曲」が制作される<ref>{{Cite news |和書|title= Creepy Nuts×Ayase×幾田りら、「オールナイトニッポン」55周年記念公演『あの夜を覚えてる』主題歌でコラボ決定|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-12-21|author= |url= https://news.1242.com/article/333503|accessdate=2021-12-22}}</ref>。このコラボレーションのきっかけは[[Creepy Nuts]]の2人がYOASOBIのオールナイトニッポンXに2回にわたってゲストとして出演したことをきっかけに意気投合し、今回のコラボレーションにつながった<ref>{{Cite news |和書|title= Creepy Nuts&YOASOBI・Ayase&幾田りら、ラジオきっかけに初タッグ 『ANN』55周年記念舞台で主題歌担当|newspaper= オリコンニュース|date= 2021-12-21|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2218519/full/|accessdate=2021-12-22}}</ref>。その後、2022年3月15日に曲のタイトルが『'''[[ばかまじめ]]'''』と発表されると共に、アーティスト写真とジャケット写真、並びに発売日が2022年3月20日と明らかにされた<ref>{{Cite news |和書|title= Creepy Nuts×Ayase×幾田りらのコラボ楽曲「ばかまじめ」完成! Creepy Nuts・YOASOBIの冠ラジオで先行オンエア!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-03-15|author= |url= https://news.1242.com/article/349152?_ga=2.187071914.349658409.1641091853-10928544.1629059104|accessdate=2022-03-15}}</ref>。そして、この公演の特別ポットキャスト番組として、『あの夜のはなし』が2021年12月27日からの予告編を皮切りに配信されることになった<ref name="LF_20211227">{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』制作秘話がポッドキャストで聴ける!|newspaper= ニッポン放送|date= 2021-12-27|author= |url= https://news.1242.com/article/334993|accessdate=2021-12-28}}</ref>。この番組では、パーソナリティに、この公演のプロデューサーの石井玄と脚本と演出を手掛ける小御門優一郎が務め、この公演の舞台裏や、その舞台公演の想いについてもトークを繰り広げ、この舞台公演の関係者を迎えて、印象に残るラジオ番組の放送回についてトークを繰り広げることになっている<ref name="LF_20211227"/>。また、リスナーから「心に残っている「あの夜」」をメールで募り、この配信番組において採用されたエピソードから、実際に舞台公演の内容に反映される可能性がある<ref name="LF_20211227"/>。その後、2022年2月2日に、およそ1500人の応募の中からメインキャストのオーディションで選ばれた[[吉田悟郎 (俳優)|吉田悟郎]]・[[山口森広]]・[[工藤遥]]・[[入江甚儀]]・[[鳴海唯]]・[[山川ありそ]]の6人を含むメインキャストとその役柄が発表された<ref name="LF_20220202">{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念公演、メインキャスト9人が決定! 三四郎・相田もプロデューサー役で特別出演!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-02-02|author= |url= https://news.1242.com/article/341403|accessdate=2022-02-02}}</ref>。また、[[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]]の[[相田周二]]がプロデューサー役として特別出演する<ref name="LF_20220202"/>。さらに、2022年3月10日に[[DJ松永]]([[Creepy Nuts]])、[[久保史緒里]]([[乃木坂46]])、[[ぺこぱ]]、[[小宮浩信]]([[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]])が特別出演することが発表された<ref name="LF_20220310">{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』にオールナイトニッポンファミリーの特別出演決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-03-10|author= |url= https://news.1242.com/article/348190|accessdate=2022-03-11}}</ref>。そして声の出演として、[[新内眞衣]]、構成作家の[[寺坂直毅]]が登場することも発表された<ref name="LF_20220310"/>。この「前代未聞の試み」に、2022年3月25日の時点で2022年3月20日に行われた公演の配信チケットの販売数が累計で1万6千枚を突破した<ref>{{Cite news |和書|title= 『ANN』55周年記念公演『あの夜を覚えてる』“ラジオ愛”が広げる輪 チケット1万3000枚を突破|newspaper= オリコンニュース|date= 2022-03-26|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2229283/full/|accessdate=2022-03-26}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title= 千葉雄大×高橋ひかるW主演『ANN』55周年記念『あの夜を覚えてる』千秋楽 前代未聞の試みが大団円|newspaper= オリコンニュース|date= 2022-03-27|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2229405/full/|accessdate=2022-03-28}}</ref>。そして、2022年3月20日・3月27日に行われた公演の配信チケットの販売数が累計で1万8千人となった<ref>{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』千穐楽閉幕 生配信舞台総動員数18,000人突破! リスナーと一緒に作った物語、大反響の中で幕を閉じる|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-03-28|author= |url= https://news.1242.com/article/351852?_ga=2.141554352.349658409.1641091853-10928544.1629059104|accessdate=2022-03-28}}</ref>。その後の集計で、2022年3月20日と2022年3月27日のチケットの購入人数は、合計で2万3千人を超えた<ref name="LF_20221007"/>。そして、2022年6月11日に[[東京国際フォーラム]]・ホールAで「一夜限りの上映会」が行われることになり、上映の終了後にアフタートークとして、相田周二(三四郎)・山口森広・鳴海唯、さらに、脚本・演出の小御門優一郎が登壇して、事前に寄せられた感想や質問・疑問に答えた<ref>{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念公演、一夜限りの上映会が決定! キャスト登壇アフタートークも開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-05-25|author= |url= https://news.1242.com/article/362978|access-date=2022-05-26}}</ref>。その上映会で、オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』がBlu-rayとして2022年内の発売予定で作品化されることが発表され<ref>{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』Blu-ray制作決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-06-11|author= |url= https://news.1242.com/article/366695|access-date=2022-06-12}}</ref>、その後、このBlu-rayが2022年12月7日に通常版と豪華版BOXの2種類で発売されることになった<ref name="LF_20221007">{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』Blu-rayの発売が決定! 通常版と豪華版BOXの2タイプ!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-10-07|author= |url= https://news.1242.com/article/391246|access-date=2022-10-07}}</ref>。そして、この作品が『2022 62nd [[ACC TOKYO CREATIVITY AWARDS]]』のメディアクリエイティブ部門において、総務大臣賞/ACCグランプリを、ランデッド・コミュニケーション部門のAカテゴリーにおいてシルバーを、それぞれ受賞した<ref>{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』ACCのメディアクリエイティブ部門で総務大臣賞/ACCグランプリ受賞!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-11-02|author= |url= https://news.1242.com/article/396552|access-date=2022-11-03}}</ref>。この配信舞台について、ニッポン放送のエンターテインメント開発部プロデューサーの石井玄は、「(これまでのオールナイトニッポンの)イベントは従来のファンの皆さんには喜んでいただけますが、ラジオファンのすそ野を広げることにはなかなかつながらない。新しい接点が必要だと考えていたところに、劇団ノーミーツさんから『ANNと組んだ配信の演劇をやりたい』という提案をいただいたんです。2万4000枚ものチケットが売れ、演劇好きな方、主演の千葉雄大さんと高橋ひかるさんのファンの方など、従来のリスナーさん以外にも届いた実感があります。」と述べた上で「僕個人としては、今回の演劇のように、番組にひもづいたものではないけれども、ラジオの魅力を伝えるイベントを作っていくことが次の段階として必要だと考えています」とも述べている<ref name="NIKKEIX_20230104"/>。そして、この『あの夜を覚えてる』の[[ノベライズ]]が2023年9月に発行されることになった<ref>{{Cite news |和書 |title= “オールナイトニッポン”部隊の生配信舞台演劇ドラマ「あの夜を覚えてる」ノベライズが9月に刊行決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-06-28|author= |url= https://news.1242.com/article/446343|access-date=2023-06-28}}</ref>。また、この『あの夜を覚えてる』の舞台の模様が[[WOWOW]]で2023年10月9日14時に放送・配信されることになった<ref>{{Cite news |和書 |title= オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』 WOWOWでの放送・配信が決定! WOD期間限定配信も!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-08-27|author= |url= https://news.1242.com/article/459357|access-date=2023-08-27}}</ref>。
2022年3月8日19時から21時にかけて、オールナイトニッポン55周年記念特別番組の第一弾として、『[[三浦知良]]の[[オールナイトニッポンPremium]]』が放送された<ref name="LF_20220301">{{Cite news |和書|title= 「たくさんの質問お待ちしております!」三浦知良、初のラジオパーソナリティに挑戦!『三浦知良のオールナイトニッポンPremium』|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-03-01|author= |url= https://news.1242.com/article/346123|accessdate=2022-03-01}}</ref><ref name="sanspo_20220301">{{Cite news |和書|title= 三浦知良がラジオパーソナリティ初挑戦 ANN55周年記念番組に55歳のキングが55の質問にナマで答える|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2022-03-01|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20220301-LMREAC5VQRLSJOBN64RZZCQEUM/|accessdate=2022-03-01}}</ref><ref name="oricon_20220301">{{Cite news |和書|title= 三浦知良、ラジオパーソナリティー初挑戦 “55”つながりで『ANN』生特番【コメントあり】|newspaper= オリコンニュース|date= 2022-03-01|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2226229/full/|accessdate=2022-03-01}}</ref>。これは、2022年2月26日に55歳になった三浦知良と2022年10月に放送55周年を迎える『オールナイトニッポン』が、ともに1967年の生まれという共通点を持っていた為、ニッポン放送が三浦知良にオファーをし、その三浦知良が「サッカー、[[三重県]][[鈴鹿市]]、[[日本フットボールリーグ|JFL]]をカズ直接の言葉で全国のリスナーに発信する」ということから、この特別番組が実現したもの<ref name="LF_20220301"/><ref name="sanspo_20220301"/><ref name="oricon_20220301"/>。なお、現役のプロサッカー選手が[[第24回日本フットボールリーグ|JFL]]の開幕4日前にラジオ番組のパーソナリティを務めるのは「超異例」だという<ref name="sanspo_20220301"/>。
2022年3月18日、[[大宮エリー]]デザインの『オールナイトニッポン』55周年記念のオフィシャルロゴをお披露目した<ref name="LF_20220318">{{Cite news |和書|title= 大宮エリーがデザイン、『オールナイトニッポン55周年イヤー』オフィシャルロゴが完成!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-03-18|author= |url= https://news.1242.com/article/350016?_ga=2.87842074.349658409.1641091853-10928544.1629059104|accessdate=2022-03-18}}</ref>。大宮エリーによれば、この記念のオフィシャルロゴは「オールナイトニッポンは各パーソナリティの個性が色とりどりでいろんな国に旅行にいくようなきもちになります。また、深夜の生放送はこころの解放区。リゾート地のきもちいいプールサイドをオールナイトニッポンのロゴにして、開放感、癒し、わくわくを、表現しました。」と説明している<ref name="LF_20220318"/>。
2022年3月28日から3月31日まで、[[佐久間宣行]]をCMキャラクターに起用されたオールナイトニッポン55周年の特別なテレビCMを[[BSテレビ東京|BSテレ東]]で放送された<ref>{{Cite news |和書|title= 「まさか、古巣の局で……」 佐久間宣行が出演! オールナイトニッポン55周年記念特別テレビCM、BSテレ東で期間限定の放送決定|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-03-24|author= |url= https://news.1242.com/article/351267?_ga=2.175061664.349658409.1641091853-10928544.1629059104|accessdate=2022-03-24}}</ref>。
2022年4月22日22時から翌0時にはオールナイトニッポン55周年記念特別番組として『[[長渕剛]]の[[オールナイトニッポンGOLD]]』を放送<ref name="LF_20220414">{{Cite news |和書|title= 長渕剛 18年ぶりに「オールナイトニッポン」に登場|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-04-14|author= |url= https://news.1242.com/article/355193|access-date=2022-04-14}}</ref>。長渕剛がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めるのは、2003年12月以来となる<ref name="LF_20220414"/>。
2022年5月9日から5月17日まで、銀座・[[博品館劇場]]において、[[81プロデュース]]の所属の声優が日替わりで出演するオールナイトニッポン55周年記念公演の朗読劇『太陽のかわりに音楽を。2022』が上演された<ref name="LF_20220317">{{Cite news |和書|title= 81プロデュース所属の人気声優による、オールナイトニッポン55周年記念公演朗読劇が上演決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-03-17|author= |url= https://news.1242.com/article/349709?_ga=2.20328890.349658409.1641091853-10928544.1629059104|accessdate=2022-03-16}}</ref>。この朗読劇は「オールナイトニッポン」の制作現場を舞台にしたオールナイトニッポン50周年記念舞台「太陽のかわりに音楽を。」を朗読劇にしたもの<ref name="LF_20220317"/>。
また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一に言わせれば、この時期の「オールナイトニッポン」のデジタル戦略は「フロー型からストック型への転換」だという<ref name="nikkei_X_20221227">{{Cite news |和書 |title= オールナイトニッポンが広げるラジオ 第3回 オールナイトニッポンのデジタル戦略 フロー型からストック型へ|newspaper= 日経クロストレンド|date= 2022-12-27|author= |url= https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00754/00003/|access-date=2022-12-27}}</ref>。これについて、冨山は「ユーチューブは映像を見ながらそこにコメントを書くじゃないですか。でもラジコはチャット機能がないので、みんなツイッターに書くんです。すると星野源さんとかナイナイさんとか、放送内容がSNSで流れると、聴いていなかった人がラジコで聴いてくれる。フロー型から、今やストック型になっています。放送したら終わりではなく、ポッドキャストはじめ、全部デジタルで残りますから。」と説明している<ref name="nikan_20230211"/>。
その一環として、2022年5月30日から、オールナイトニッポンの中から人気の6つの番組が、再編集した上で、[[Spotify]]で独占配信されることになった<ref name="oricon_20220526">{{Cite news |和書|title= 放送29年目『ナイナイANN』初配信 『ANN』人気6番組がSpotify独占配信|newspaper= オリコンニュース|date= 2022-05-26|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2236201/full/|access-date=2022-05-26}}</ref><ref name="natalie_20220526">{{Cite news |和書|title= 「オールナイトニッポン」6番組ポッドキャストがSpotifyで独占配信へ|newspaper= お笑いナタリー|date= 2022-05-26|author= |url= https://natalie.mu/owarai/news/479000|access-date=2022-05-26}}</ref>。その番組は『[[ナインティナインのオールナイトニッポン]]』『[[霜降り明星のオールナイトニッポンシリーズ|霜降り明星のオールナイトニッポン]]』『[[フワちゃんのオールナイトニッポンシリーズ|フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO)]]』『[[ぺこぱのオールナイトニッポンシリーズ|ぺこぱのオールナイトニッポン0(ZERO)]]』『[[佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)]]』『[[マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0(ZERO)]]』で、特に、『ナインティナインのオールナイトニッポン』に関しては、『[[ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン]]』を含めると、1994年4月の番組の放送が開始して29年目で初めての[[ポッドキャスト]]での配信となった<ref name="oricon_20220526"/><ref name="natalie_20220526"/>。また、『霜降り明星のオールナイトニッポン』は2021年11月1日時点でSpotifyが調べた「国内で最も聴取時間の長かったポッドキャスト番組」の部門で1位に選出されている<ref>{{Cite news |和書|title= 深夜ラジオの代名詞『オールナイトニッポン』人気6番組のポッドキャストがSpotifyで独占配信!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-05-26|author= |url= https://news.1242.com/article/363292?_ga=2.86856730.349658409.1641091853-10928544.1629059104|access-date=2022-05-26}}</ref>。これについて、ニッポン放送ビジネス開発局長の[[節丸雅矛]]は、「Spotifyさんとニッポン放送さんは、最近ですと『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0(ZERO)』のPodcast独占配信だったりと、距離がかなり近いように思えますが、音声コンテンツを作る側と広げる側として、お互いをどういう風に見ていますか?」という問いに「弊社は24時間あらゆるコンテンツを生み続けているので、元々制作マンだった身としては「一度きりの放送」で終わるのがもったいなくてしょうがない、という気持ちがすごくありました。ですから、それをポッドキャストにすることは自分たちからするとありがたい話でもあって。オールナイトニッポンとSpotifyさんの相性は本当に抜群で、僕らも本当に驚きましたから。」と述べている<ref>{{Cite news |和書|title= 映画レベルの音声コンテンツはどのように作られた? 『BATMAN 葬られた真実』の鍵を握る三人に訊いた|newspaper= リアルサウンド|date= 2022-08-15|author= 中村拓海|url= https://realsound.jp/tech/2022/08/post-1100103.html|access-date=2022-08-15}}</ref>。また、ニッポン放送ビジネス開発局デジタルビジネス室長の浜原晋介は「放送の二次利用という形でポッドキャストは早くから活用してきました。現在、ニッポン放送の番組全体では月間1400万~1500万ダウンロードされています。ストリーミングサービスでは、レコメンド機能が働くので、普段聴いている音楽の視聴傾向から偶然『ANN』に出合うといった、これまでとは異なるリスナーの獲得につながっています」とも語る<ref name="nikkei_X_20221227"/>。さらに、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一はポットキャストについて「参考にしているのは、デジタル化にいち早く成功した『[[少年ジャンプ+]]』です。若いディレクターに聞くと、ジャンプと言えば紙の週刊誌よりもアプリの『少年ジャンプ+』のことなんですよね。地上波に加え、デジタルでも『ANN』のコンテンツを楽しむことができる環境づくりを意識しています」と語る<ref name="nikkeiX_20221104"/>。
さらに、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山は、「深夜番組のため、もともとのメーンリスナー層は中高生でした。しかし、radikoやポッドキャストでの配信視聴が増え、今は20代がメーン層となり、さらに30代、40代といった社会人にまで幅広くリスナー層が広がっています」とこのTwitterとポットキャストなどのデジタル戦略によってリスナー層が拡大していったことについて述べている<ref name="nikkeiX_20221104"/>。それに、冨山は「radikoのタイムフリーの聴取数ランキングでは、上位に『ANN0』の各番組もランクインしています。こうした好影響は地上波にも波及して、『ANN0』のネット局は4年前(2018年)の11局から(2022年)現在は31局に急増、『ANN』の36局に迫ります。深夜3時台のため、広告がなかなか入らなかったのですが、タイアップ企画など広告も激増しています」と、動画という形で同時生配信の展開によって、1部の『オールナイトニッポン』と2部の『オールナイトニッポン0(ZERO)』の環境がほぼ同じになった影響についても述べている<ref name="nikkeiX_20221104"/>。
また、2022年6月20日から、オールナイトニッポンの放送開始55周年プロジェクトの「目玉企画」として、2000年以降にオールナイトニッポンで人気を博した30組のパーソナリティの音源が聴き放題となるアーカイブサブスクリプション・サービス『[[オールナイトニッポンJAM]]』がスタートした<ref name="sanspo_20220620">{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン人気30番組の過去の音源が聴き放題! サブスクサービス「オールナイトニッポンJAM」が20日からスタート|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2022-06-20|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20220620-AFHW66QVCRKYLIDNQ6LEAVGECE/|access-date=2022-06-20}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title= 『オールナイトニッポンJAM』ついに誕生! ラジオ番組サブスクサービスが本日スタート! 寝落ちした夜を取り戻せ!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-06-20|author= |url= https://news.1242.com/article/367929?_ga=2.8481011.750873128.1654809789-10928544.1629059104|access-date=2022-06-20}}</ref>。
番組のアーカイブの活用については、以前から検討課題となっていた<ref name="sankei_20230224">{{Cite news |和書 |title= オールナイトニッポンのサブスク「再放送」好評 新たな収益源に|newspaper= 産経ニュース|date= 2023-02-24|author= 油原聡子|url= https://www.sankei.com/article/20230224-GSY5APKUSZKC5CQBUP3CFA2EUE/|access-date=2023-02-24}}</ref>。これについて、ニッポン放送デジタルビジネス部の浜原晋介は「2年前(2020年頃)から構想があったのですが、その頃と今ではいい意味で状況が変わってきていて。音声メディアへの追い風が今までにないくらいの勢いがあります。それに伴って、関係者も取り組みに関する理解が明らかに変わってきている印象を受けます。この流れに乗って、みなさんの期待を裏切らないように、楽しんでいただけるようにしたいです。新しいシステムを作って、みんながハッピーになれるというのが一番大きなミッションだと思っています」とオールナイトニッポン放送開始55周年の節目に加え、「音声メディアに対する潮流の変化」があることを述べた<ref name="oricon_20220623">{{Cite news |和書|title= 【ANN55周年連載Vol.2】ラジオ界の歴史を変える『ANN』サブスク化 “ストック型”への挑戦で「全体が潤っていかなければ」|newspaper= オリコンニュース|date= 2022-06-23|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2239702/full/?utm_source=Twitter&utm_medium=social&ref_cd=twshare|access-date=2022-06-23}}</ref>。
2020年初夏にこのプロジェクトが本格的に始動したが、この頃は、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の影響により、ニッポン放送の主催イベントが軒並み中止となる中で、浜原は「世の中の動きが完全に止まった時にどうしようかと。新しいビジネスモデルを考えなくては、というところからスタートしました」と述べ、ニッポン放送デジタルビジネス部の澤田真吾は「コロナで広告案件がなくなり、広告収入だけでは安定しないよねと。BtoC(消費者向け)モデルをやろうと、今回のサブスクになりました」と述べた<ref name="nikkan_20220831">{{Cite news |和書|title= 「オールナイトニッポン」サブスク解禁 ラジオ初、特定番組の聞き放題/担当を直撃|newspaper= 日刊スポーツ|date= 2022-08-31|author= 遠藤尚子|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202208310000072.html|access-date=2022-08-31}}</ref>。また、浜原は「当時は音声配信について、出演者や権利関係の方もピンと来ていない部分が多かった」と振り返っていた<ref name="sankei_20230224"/>。
また、澤田は権利関係と番組内容における時代の適応に関して、「各事務所のみなさんと交渉していきましたが、協力的なお言葉をたくさんいただきました。『こういうことをやったほうがいいと思っていました』『僕も聴きたいです』と言ってくださったり…。ただ、昔と今とでイメージが変わっている方の場合は、ちょっと乖離しすぎて、ファンの方を混乱させてしまうのでは…という部分の話はありました。」と述べた上で「今の時代と照らし合わせると、ちょっと受け止められ方が変わってしまうものもあるかもしれませんが、できる限り、当時の雰囲気を残しつつ、すべて聴いて、それでもちょっとこれは…という内容は、やむなくカットするという判断も出てくると思います」とも述べている<ref name="oricon_20220623"/>。この背景には、新型コロナ禍で在宅勤務が増加し、ライフスタイルが変わったことにより、音声コンテンツに注目が集まったためだという<ref name="sankei_20230224"/>。
こうして、オールナイトニッポンのプロデューサーを交えながら、出演者の交渉を進めた結果、『オールナイトニッポン』に加え、姉妹番組の『オールナイトニッポン0(ZERO)』と『オールナイトニッポンGOLD』の中から30番組が配信されたものの、往年のオールナイトニッポンに関して、浜原は「2000年以前は音源がデジタル化されていなかった」と述べるように、録音テープが残っていればいいが、その番組の音源が残っている確証がないため、澤田も「倉庫をあさって探すしかない」と述べるにとどめている<ref name="nikkan_20220831"/>。
このオールナイトニッポンJAMでは初回の放送から順次アップロードしているものの、編集作業にかかる労力によって、一括配信が難しいという<ref name="nikkan_20220831"/>。まず、過去に放送した内容が、現在の社会情勢にあっているかを確認する、いわゆる「検聴」を行い、権利の関係上、流す事ができないBGMや楽曲を削除し、その上で、著作権が自由なBGMを重ねる<ref name="nikkan_20220831"/>。この作業について、浜原は「21世紀とは思えない作業」だとしている<ref name="nikkan_20220831"/>。浜原は「時代背景もあるので発言が誤解されないように、二重三重でチェックしている。配信されることを想定して放送されたわけではないので、一番気を使う部分だ」と述べている<ref name="sankei_20230224"/>。
さらに、澤田は「僕自身も[[くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン|くりぃむさんのANN]]などを聴いて育った世代で、当時の音源をもう一度聴きたいというリスナーの気持ちもわかるので、サービスを届けたいなという気持ちがずっとありました。違法ではなく、公式で出して、ニッポン放送だけではなくて、パーソナリティーのみなさん、制作スタッフさんにも分配するという仕組みを整えていきます。みなさんの中にも『ちゃんと公式で聴かないと…』という意識が根付いているので、我々がその気持ちに応えていかなければと考えています」と一つ一つの番組について数十人のスタッフが作業に当たっていることについても述べている<ref name="oricon_20220623"/>。また、YouTubeなど、違法アップロードは後を絶たないものの、澤田は「ユーザーさんのリテラシーもだいぶ上がってきていて、そこには手を出したくないと言ってくれる人も結構いる。そういった人たちのためにコンテンツを届けるには公式が汗をかいて、努力するしかない。ちゃんとしたものを作りたかった」と力を込めた<ref name="nikkan_20220831"/>。
また、澤田は「ラジオが今後、ストックされていくという常識ができていけばと考えています。YouTubeでも、ストックされたコンテンツが収益を上げるというモデルがあるので、ラジオもそうなっていけばいいなと。放送する、そのコンテンツが残る、それが収益を上げ続けるということで、全体が潤っていかなければいけないという気持ちはあります。今後の環境変化に耐えていくためにも、会社の柱のひとつにしていきたいです」と意気込みを示した<ref name="oricon_20220623"/>。このANNJAMはリスナーが直接課金をしている為、浜原は「番組は私たちにとって、最も価値の高い資産。デジタルかつオンデマンドでのサービスを提供することで、新しいリスナーに届けられる可能性が広がった」と述べた上で、「パーソナリティーとリスナーの特別な関係性で成り立っているANNはアーカイブ音源でも色あせることなく、幅広い世代に支持されるコンテンツなのでは」とも述べている<ref name="sankei_20230224"/>。
実際、このANNJAMのユーザーは10代・20代で合わせて47%となり、30代でも29%となっている<ref name="sankei_20230224"/>。これまで、公式なアーカイブが存在していなかったこともあり、利用者の中には、「違法アップロードを聞かなくて済む」といった声が聞かれた<ref name="sankei_20230224"/>。
さらに、オールナイトニッポンのプロデューサーである冨山雄一は「今の若い人が、YouTubeとかいろんなものに触れていて(コンテンツが)残ることが当たり前という文化になっていると感じています。ANNで特番をやっていただく時に、若いパーソナリティーの方から『全国すべてのエリアでは聴けない』『1週間で聴けなくなる』ということを説明しても『わからない』と言われることもありまして…。昔から聴いてくださっていた方に向けてスタートする部分もありますが、新しくラジオに触れる方にとっても、自然と選択してもらえるものになればいいですね。最終的には『ラジオJAM』みたいになれば…とも思っていて、ラジオ局全体がフロー型からストック型への模索が始まっている中でのチャレンジなので、オールナイトニッポンから切り開いていけたらと考えています」と述べている<ref name="oricon_20220623"/>。当初、想定していたこのサービスのメインターゲットは、かつてのオールナイトニッポンを懐かしむ、30代から40代を想定していたが、有料会員の半数が20代となっている。これについて、浜原は「いわゆるZ世代がお金を払ってくれている。この方向性は間違っていなかったんだと。『オールナイト』が彼らにとってのラジオの原体験になっているのかもしれないと考えるとすごく勇気づけられるし、数字として見えてくると励まされます」とした上で「推しのパーソナリティーはもちろん、他の番組も聞いて欲しい。たまたまつけたラジオにハマって、以後毎週聞くようになることがあるじゃないですか。そういう体験を『JAM』でも実現できたら」と、パーソナリティの顔ぶれの多様さによって、「偶然の出会い」も提供したいと意気込む<ref name="nikkan_20220831"/>。
また、このサービスの今後について、澤田は「対象を『オールナイト』に限らなくてもいいのかなと。面白い30分の箱番組(週1回放送の番組)もあるので、そういったものも出していきたい」と述べた上で、「まずは『オールナイト』という分かりやすいブランドでラジオがストックされていくことが当たり前になる文化を作っていった上で、どんどん広げていけたらと思っています」と述べている<ref name="nikkan_20220831"/>。
なお、オールナイトニッポンのオープニング曲として有名である「ビタースウィート・サンバ」は、権利処理が発生するサブスクリプション形態のサービスでありながら同サービスではフルで聞くことが可能であり、これについては、アメリカにいる同曲の権利者とニッポン放送が交渉を重ねた上で使用許諾が出された<ref name="sanspo_20220620"/>。これについて、浜原は「場合によっては(曲を手がけた)ご本人に会いに行こうかなという話までしていたくらい本気でした。代理人の方と『こういう条件だったらということで…』と、締結することができまして、初めて、放送以外で『ビタースウィート・サンバ』が使うことができるようになりました。今までは、大人の事情で、放送以外の場面では『ビタースウィート・サンバ』の原曲でないバージョンが使われてきたことを考えると、かなりの出来事かなと思っています」と述べている<ref name="oricon_20220623"/>。このアメリカにいる権利者にたどり着くまでには、1年以上もかかったという<ref name="sankei_20230224"/>。
しかし、先述したように、著作権の都合により削除された音楽入りの「完全形」を求めているリスナーからのニーズは根強くあるため、浜原は、「音楽団体には今後も協力を働きかけていきたい」としている<ref name="nikkan_20220831"/>。
ラジオに関連した書籍を書いているライターの村上謙三久は「今までラジオのアーカイブを聞くという選択肢がなかったので、サービスが始まった意味は大きい」と述べた上で、「時間をかけてコンテンツが増えていったら利用しようと思っている人も多いのでは」と述べているが、「ANNはパーソナリティー同士のつながりも活発なので、この番組とこの番組はつながっているといった物語性を打ち出したり、キュレーション(選択・分類・提示など)的な機能があったりすれば、もっと利用しやすいかもしれない」と提案している<ref name="sankei_20230224"/>。
これについて、あるラジオ関係者は、「最近のニッポン放送は攻めています。過去の音源は許可取りが大変だと思いますが、これも『オールナイトニッポン』ブランドを生かした戦略です。新しいことに挑戦する姿勢がradikoでの結果にもつながっていると思います」と話している<ref name="postseven_20220818"/>。
2022年6月21日22時から翌0時まで、オールナイトニッポン放送開始55周年記念特別番組として、『[[山下達郎]]の[[オールナイトニッポンGOLD]]』が放送された<ref name="LF_20220525">{{Cite news |和書|title= 山下達郎、46年ぶりにオールナイトニッポンを担当!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-05-25|author= |url= https://news.1242.com/article/362892?_ga=2.183891236.349658409.1641091853-10928544.1629059104|access-date=2022-05-25}}</ref><ref name="sanspo_20220525">{{Cite news |和書|title= 山下達郎が46年ぶりオールナイトニッポンのパーソナリティー 6・21放送|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2022-05-25|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20220525-ANWT6SWNOJNY7PF2M2RWDDEAXY/|access-date=2022-05-25}}</ref>。なお、山下達郎がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めるのは、ソロデビュー直後の1976年1月から9月まで放送された3時から5時までの『2部』([[山下達郎のオールナイトニッポン]])を担当して以来、およそ46年ぶりとなる<ref name="LF_20220525"/><ref name="sanspo_20220525"/>。ニッポン放送では、ロシアによるウクライナの侵攻を受けて「達郎さんの声と音楽で〝温かく柔らかい思い〟を全国に届けたい」と山下達郎に対してオファーをして、山下達郎もオリジナルアルバムである「[[SOFTLY]]」に収録された「OPPRESSION BLUES(弾圧のブルース)」を創っていて、ニッポン放送側とのコンセプトが一致したこともあって実現したもの<ref name="sanspo_20220525"/>。
2022年8月8日から8月13日にかけて、2020年以来2年ぶりに、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、お笑い芸人がパーソナリティを務める『'''[https://www.allnightnippon.com/radiostar2022/ オールナイトニッポン55周年記念 お笑いラジオスターウィーク]'''』が行われた<ref name="LF_202200801">{{Cite news |和書|title= 史上最多17組のお笑い芸人が登場!『オールナイトニッポン55周年記念 お笑いスターウィーク』|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-08-01|author= |url= https://news.1242.com/article/377037?_ga=2.239615814.439670733.1658262469-10928544.1629059104|access-date=2022-08-01}}</ref>。なお、オールナイトニッポンの3ブランド(X、1部、0(ZERO))での『お笑いラジオスターウィーク』はこれが初めてとなる<ref name="LF_202200801"/>。
'''2022年8月8日'''
* ANNX:[[ジェラードン]]
* ANN:[[千原兄弟]]
* ANN0:[[フワちゃん]]
'''2022年8月9日'''
* ANNX:[[モグライダー]]
* ANN:[[極楽とんぼ]]
* ANN0:[[ぺこぱ]]
'''2022年8月10日'''
* ANNX:[[マユリカ]]
* ANN:[[東京03]]
* ANN0:[[なすなかにし]]
'''2022年8月11日'''
* ANNX:[[ランジャタイ]]
* ANN:[[ナインティナイン]]
* ANN0:[[マヂカルラブリー]]
'''2022年8月12日'''
* ANNX:[[EXIT (お笑いコンビ)|EXIT]]
* ANN:[[霜降り明星]]
* ANN0:[[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]]
'''2022年8月13日'''
* ANN:[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]
* ANN0:[[鬼越トマホーク]]
2022年9月9日には、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念してオールナイトニッポンのパーソナリティを陰で支えている10人の放送作家を取り上げた『'''深解釈オールナイトニッポン ~10人の放送作家から読み解くラジオの今~'''』という書籍が発売された<ref>{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン公式裏本 10人の放送作家に迫る『深解釈オールナイトニッポン』発売決定! ナイナイ・佐久間宣行のSPインタビューも収録|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-07-25|author= |url= https://news.1242.com/article/375563?_ga=2.242237255.439670733.1658262469-10928544.1629059104|access-date=2022-07-25}}</ref>。その書籍は、初版の1万部発売から3日経った、2022年9月12日の段階で早くも重版が決まった<ref name="LF_20220914_3">{{Cite news |和書|title= 初版1万部、発売3日で重版決定! オールナイトニッポン公式裏本『深解釈オールナイトニッポン』|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-09-14|author= |url= https://news.1242.com/article/386737?_ga=2.218559452.439670733.1658262469-10928544.1629059104|access-date=2022-09-14}}</ref>。また、発売する前からAmazonランキングで1位を獲得し、主要な書店では、「オールナイトニッポンの関連特集」が組まれた<ref name="LF_20220914_3"/>。
2022年9月12日から9月17日までにかけて、2019年以来、3年ぶりに音楽アーティストがパーソナリティを務める『'''[https://www.allnightnippon.com/musicweek2022/ オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン MUSIC WEEK]'''』が行われた<ref name="LF_20220905">{{Cite news |和書|title= 史上最多の17組のアーティストが登場!『オールナイトニッポン MUSIC WEEK』3年ぶりに開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-09-05|author= |url= https://news.1242.com/article/384441?_ga=2.142982128.439670733.1658262469-10928544.1629059104|access-date=2022-09-05}}</ref>。なお、オールナイトニッポンの3ブランド(X、1部、0(ZERO))での『MUSIC WEEK』はこれが初めてとなる<ref name="LF_20220905"/>。
'''2022年9月12日'''
* ANNX:[[水曜日のカンパネラ]]
* ANN:[[Creepy Nuts]]
* ANN0:[[WurtS]]
'''2022年9月13日'''
* ANNX:[[緑黄色社会]]
* ANN:[[星野源]]
* ANN0:[[どんぐりず]]
'''2022年9月14日'''
* ANNX:[[JO1]]
* ANN:[[Ado]]
* ANN0:[[Vaundy]]
'''2022年9月15日'''
* ANNX:[[DISH//]]
* ANN:[[YUKI (歌手)|YUKI]]
* ANN0:[[iri]]
'''2022年9月16日'''
* ANNX:[[TOMORROW X TOGETHER]]
* ANN:[[YOASOBI]]
* ANN0:[[マカロニえんぴつ]]・はっとり
'''2022年9月17日'''
* ANN:[[ナンバーガール|NUMBER GIRL]]
* ANN0:[[くるり]]
2022年10月1日から、『[[オールナイトニッポンPremium]]』が2022年度のナイターオフに編成されることになったが、これまでの形式を一新し、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、週替わりで歴代のオールナイトニッポンのパーソナリティや「“いま”オールナイトニッポンでしゃべって欲しいという話題の人」を起用する週替わり枠として放送される<ref>{{Cite news |和書|title= 豪華パーソナリティが週末の夜を彩る『オールナイトニッポンPremium』放送決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-09-14|author= |url= https://news.1242.com/article/386705?_ga=2.183320419.439670733.1658262469-10928544.1629059104|access-date=2022-09-14}}</ref>。
2022年10月1日にはオールナイトニッポン55周年記念として、『マヂカルラブリーのオールナイトニッポンZEROⅡ’~でっかいフォーラムでーす~』が<ref>{{Cite news |和書|title= 『マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0(ZERO)』初の番組イベント、東京国際フォーラムで開催決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-08-05|author= |url= https://news.1242.com/article/377912|access-date=2022-08-16}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title= マヂラブ、番組開始わずか1年半でイベント開催 マグロ解体から野田ゲーまで、リスナーたちが大熱狂!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-10-01|author= |url= https://news.1242.com/article/389944|access-date=2022-10-02}}</ref>、翌2022年10月2日(オールナイトニッポン放送開始記念日)には、『オールナイトニッポン55周年記念 Creepy Nutsのオールナイトニッポン『THE LIVE 2022』~オレらの Roots はあくまでラジオだとは言っ・て・お・き・たい ぜ!~』がいずれも[[東京国際フォーラム]]・ホールAを会場として行われた<ref>{{Cite news |和書|title= 『Creepy Nutsのオールナイトニッポン』が、“記念すべき日”に東京国際フォーラム・ホールAでイベント開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-07-12|author= |url= https://news.1242.com/article/372868|access-date=2022-08-16}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title= Creepy Nuts、番組5周年を記念したイベント開催! 全国のリスナー1万5000人以上が集結!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-10-03|author= |url= https://news.1242.com/article/390049?_ga=2.184777449.1751727817.1664493234-10928544.1629059104|access-date=2022-10-03}}</ref>。特に後者は全国99の映画館でライブビューイングが行われた<ref>{{Cite news |和書|title= 『Creepy Nutsのオールナイトニッポン』番組イベントのライブ・ビューイング開催が決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-08-16|author= |url= https://news.1242.com/article/379964?_ga=2.188095597.439670733.1658262469-10928544.1629059104|access-date=2022-08-16}}</ref><ref>[https://twitter.com/creepynuts_ann/status/1566826861115899904 Creepy Nutsのオールナイトニッポン公式ツイッター、2022年9月6日発信]</ref>。
このイベントに関して、ニッポン放送のエンターテインメント開発部プロデューサーの石井玄によれば、「かつては、パーソナリティーや歌手の方が集うフェススタイルが中心でしたが、最近増えているのは、番組ごとの単独イベントです。これは個人的な意見ですが、転機となったのは2014~15年頃かなと。14年9月にオードリーさんが東京国際フォーラム・ホールAにて『'''ニッポン放送開局60周年記念 オードリーのオールナイトニッポン5周年記念 史上最大のショーパブ祭り'''』を、15年11月には当時は1人でパーソナリティーを務めていたナインティナインの岡村(隆史)さんが『'''ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン1周年記念 岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭 in 横浜アリーナ'''』を開催したんです。それまでも、ももいろクローバーZさんなどと組んで大きな会場でイベントを行ったことはあるのですが、ライブでの動員実績のあるアーティストさんでなくても、番組の単独企画で5000人や1万人を集客できると分かりました」と、イベントの変化について述べている<ref name="NIKKEIX_20230104">{{Cite news |和書 |title= オールナイトニッポンが広げるラジオ 第5回 オールナイトニッポンのイベント展開 あえて“内輪”を大切に|newspaper= 日経クロストレンド|date= 2023-01-04|author= 羽田健治|url= https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00754/00005/|access-date=2023-01-06}}</ref>。さらに、石井によれば、「以前は、番組単体イベントでも、集客力のあるアーティストなどをゲストに呼んでイベントを成立させようという発想だったのですが、今、『ANN』のイベントは、番組ゆかりの人だけで構成するという、番組リスナーに寄せた作りが主流です」とイベントの構成について述べている<ref name="NIKKEIX_20230104"/>。それに、石井は「大会場なので、せっかくなら普段できないことを大々的にやろうと考えてしまうのですが、それをやってもあまり喜んでもらえない。そういうのは、他のイベントで見られるからいらないと(笑)。普段のラジオ番組に、エンタテインメント要素を加えて、より濃くしたほうが喜んでいただけるんです。イベントグッズの制作も考え方は同じですね。22年10月29日の佐久間(宣行)さんのイベントでは、『チュロス型ペンライト』を販売したんですが、これは21年11月のイベントで盛り上がった『チュロス上げゲーム』をグッズにしたんです。番組を知らないと、一体何なんだっていう話ですよね(笑)」と、イベントグッズについて述べた上で、「昔から番組作りの基本として、『内輪に寄りすぎるな』と言われてきましたが、今のラジオでは内輪を大事することが重要ではないかと思っています。放送やイベントを通じて濃いファンになっていただければと取り組んでいます」とも述べている<ref name="NIKKEIX_20230104"/>。また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「金もうけというベクトルではなく、リスナーへのファンサービスというのが原点です。SNSで盛りあがったので、一堂に会してみんなで聴くみたいな。要はラジオのオフ会。マネタイズとかグッズを売ろうみたいのが、先にあったわけではありません。ただ、オードリーさんは日本武道館で、三四郎は国際フォーラムのホールAでやりました。特別なことをやるのではなく、ラジオのリスナーしかわからない企画で、ラジオを聴いてない人が来ても意味がないんです」と述べている<ref name="nikan_20230211"/>。
2022年10月3日1時から3時(10月2日深夜)に、オールナイトニッポン初代パーソナリティを務めた[[斉藤安弘]]がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン55周年記念特別番組『'''1967年10月2日 オールナイトニッポンが生まれた日'''』」が生放送された<ref name="LF_20220914">{{Cite news |和書|title= オールナイトニッポン55周年記念特別番組『1967年10月2日 オールナイトニッポンが生まれた日』|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-09-14|author= |url= https://news.1242.com/article/386726?_ga=2.183320419.439670733.1658262469-10928544.1629059104|access-date=2022-09-14}}</ref>。また、ニッポン放送出身のフリーアナウンサーの[[垣花正]]もパーソナリティに加わる<ref name="LF_20220923">{{Cite web|和書|url= https://www.1242.com/information/282954/|title= オールナイトニッポン55周年記念特別番組「1967年10月2日 オールナイトニッポンが生まれた日」 10月2日(日)25時~27時 生放送!|publisher= ニッポン放送|date= 2022-09-23|accessdate=2022-09-23}}</ref>。この番組では、パーソナリティのアンコーこと斉藤安弘が進行役を務め、1967年10月2日月曜日の夜はどんなものだったかを関係者の証言と音楽によって紐解くもの<ref name="LF_20220914"/>。さらに、ニッポン放送の有楽町社屋の地下4階から見つかった、2000年に収録されたニッポン放送の編成部長だった羽佐間重彰の30分間にわたって行われた「貴重なインタビュー」を紹介したり、テーマ曲である『ビター・スウィート・サンバ』の選定に関与した[[朝妻一郎]]のインタビューを送った<ref name="LF_20220923"/><ref>{{Cite news |和書|title= 今日は「オールナイトニッポン」放送開始記念日! 「オールナイトニッポン」が生まれた55年前の今日はどのような夜だったのか、 貴重な証言と音楽で綴っていく2時間|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-10-02|author= |url= https://news.1242.com/article/389878?_ga=2.143233909.1751727817.1664493234-10928544.1629059104|access-date=2022-10-02}}</ref>。
2022年10月29日には『オールナイトニッポン55周年記念 佐久間宣行のオールナイトニッポン0 presents ドリームエンターテインメントライブ in [[横浜アリーナ]]』が行われた<ref>{{Cite news |和書|title= 佐久間宣行が横浜アリーナで音楽イベントを開催! RHYMESTER・サンボマスター・花澤香菜の出演も決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-06-02|author= |url= https://news.1242.com/article/364739|access-date=2022-08-16}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title= RHYMESTER、サンボマスター、花澤香菜、しゅーじまん、はんにゃ金田、森三中黒沢! テレビプロデューサー佐久間宣行が今見たいアーティストが集結!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-10-29|author= |url= https://news.1242.com/article/395457?_ga=2.111888132.1063521163.1667160771-10928544.1629059104|access-date=2022-10-31}}</ref>。また、2022年10月30日には『オールナイトニッポン55周年記念 ナインティナインのオールナイトニッポン歌謡祭』が横浜アリーナで行われた<ref>{{Cite news |和書|title= 「ナインティナインオールナイトニッポン歌謡祭」横浜アリーナで開催決定! 第1弾ゲストも発表!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-07-01|author= |url= https://news.1242.com/article/370868|access-date=2022-08-16}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title= 【オフィシャルレポート】木梨憲武、TRF、西川貴教ら、ナイナイならではの豪華コラボが満載!『ナイナイ歌謡祭』横浜アリーナで開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-10-30|author= |url= https://news.1242.com/article/395950?_ga=2.2780336.1063521163.1667160771-10928544.1629059104|access-date=2022-10-31}}</ref>。
2022年11月19日から2022年12月25日までオールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、[[ユナイテッドアローズ]]が展開している「ビューティ&ユース ユナイテッドアローズ」とコラボレーションしたファッションアイテム7種の予約販売を行った<ref>{{Cite news |和書|title= 藤井フミヤデザインTシャツも! オールナイトニッポン×ビューティ&ユース ユナイテッドアローズ コラボアイテム7種発売!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-11-18|author= |url= https://news.1242.com/article/399960?_ga=2.5746294.430850386.1668289098-10928544.1629059104|access-date=2022-11-19}}</ref>。
2023年1月15日には、「'''オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポンXスペシャルライブ2023'''」が、横浜アリーナで行われた<ref>{{Cite news |和書|title= 緑黄色社会・EXIT・超特急・&TEAMが出演! 『オールナイトニッポンX(クロス)』初のライブイベント開催決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-11-15|author= |url= https://news.1242.com/article/399309?_ga=2.17853308.430850386.1668289098-10928544.1629059104|access-date=2022-11-16}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title= 横浜アリーナに、EXIT・&TEAM・ JO1・超特急・緑黄色社会が集結!「オールナイトニッポンXスペシャルライブ2023」開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-01-15|author= |url= https://news.1242.com/article/412279?_ga=2.127256333.1200600650.1669841981-10928544.1629059104|access-date=2023-01-15}}</ref>。
2023年1月24日11時30分から、[[QuizKnock]]が問題の制作を手掛ける歴代のオールナイトニッポンにまつわるオリジナル検定『'''全国統一オールナイトニッポン検定 supported by [[Galaxy]]'''』の受付を5万5千人限定で開始され、その受験期間は2023年2月13日11時30分から2月26日23時59分までとなった<ref>{{Cite news |和書 |title= 先着55,000人限定! オールナイトニッポン史上初、QuizKnockとコラボしたのオリジナル検定の申し込みがスタート!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-01-24|author= |url= https://news.1242.com/article/413943|access-date=2023-01-24}}</ref>。
2023年2月10日から2月20日まで、大宮エリーデザインの「オールナイトニッポン55周年 オフィシャルロゴ」と、シリアルナンバーを刻んでいる「オールナイトニッポン55周年記念『オリジナル純金1gカード』」をニッポン放送の「ニッポン放送ただいま営業中」というツイッターアカウントをフォローして、プレゼント企画の応募ツイートをリツイートする方法で応募した方の中から抽選で55名にプレゼントするキャンペーンを行った<ref>{{Cite web|和書|url= https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000038.000031501.html|title= 「オールナイトニッポン」55周年を記念しオールナイトニッポン55周年 オフィシャルロゴをデザインしたオリジナル純金1gカード55枚を提供 ~55名様にプレゼント~|publisher= TANAKAホールディングス株式会社|date= 2023-02-08|accessdate=2023-02-08}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title= 田中貴金属グループ×ニッポン放送 オールナイトニッポン55周年を記念した「オリジナル純金1gカード」55 枚をプレゼント!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-02-13|author= |url= https://news.1242.com/article/418270?_ga=2.121120648.1200600650.1669841981-10928544.1629059104|access-date=2023-02-14}}</ref>。
2023年2月10日から2月28日まで[[有楽町マルイ]]の8階イベントスペースで、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して『オールナイトニッポンミュージアム』が期間限定で開設された<ref>{{Cite news |和書 |title= オールナイトニッポン55年の歴史を体感できる“オールナイトニッポンミュージアム”が有楽町マルイに出現! 秘蔵グッズや非公開音源も!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-02-09|author= |url= https://news.1242.com/article/417579|access-date=2023-02-09}}</ref>。
2023年2月17日18時から20日1時(19日深夜)までの55時間に『'''[[オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル]]'''』という大型特番が放送された<ref name="LF_20220914_2">{{Cite news |和書|title= 『オールナイトニッポン』55時間にわたる大型特番、2023年2月に放送決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-09-14|author= |url= https://news.1242.com/article/386701?_ga=2.183320419.439670733.1658262469-10928544.1629059104|access-date=2022-09-14}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title= 「オールナイトニッポン55時間スペシャル」第一弾出演者36組が判明 大御所から初代のニッポン放送アナ、現役パーソナリティーまで大集合|newspaper= サンケイスポーツ|date= 2023-01-23|author= |url= https://www.sanspo.com/article/20230123-OFLBD7CXLZNAFDAPVGMJGZ4KYY/|access-date=2023-01-23}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title= 55時間一挙放送! ”オールナイトニッポン”のレジェンドから現役パーソナリティまで!『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』 2月17日(金)18時~2月19日(日)25時放送!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-01-23|author= |url= https://news.1242.com/article/413528?_ga=2.120382344.1200600650.1669841981-10928544.1629059104|access-date=2023-01-23}}</ref>。これは、2008年2月にオールナイトニッポン放送開始40周年を記念して『[[俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル]]』を、2013年2月にはオールナイトニッポン放送開始45周年を記念して『[[たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル]]』をそれぞれ放送しており、今回、10年ぶりにこのような大型特番を放送することになったもの<ref name="LF_20220914_2"/>。なお、この大型特番のエグゼクティブプロデューサーに[[秋元康]]が就くことになった<ref name="LF_20220914_2"/>。これについて、ニッポン放送社長の[[檜原麻希]]は2022年9月14日に行われた定例会見の中で、「高校2年生の時にニッポン放送に放送原稿を送ってきて、そこからニッポン放送で作家デビューされた。その縁で今回のキャスティングになった」と述べている<ref name="nikkan_20220914">{{Cite news |和書|title= ANN55周年大型特番「55時間スペシャル」来年2月に放送、歴代パーソナリティー続々登場|newspaper= 日刊スポーツ|date= 2022-09-14|author= |url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202209140000655.html|access-date=2022-09-14}}</ref>。また、オールナイトニッポンが55年にわたってリスナーから愛されていることに関し、檜原は「長寿番組というものは歴史の中でアッブダウンがあり、もう次に行ったほうがいいんじゃないかという意見もその都度あるが、それを超えて継承されてきたのは、支持するリスナーが必ずいたから」と感謝の意を述べた上で「[[Radiko|ラジコ]]以降、若者がたくさん戻ってきてくれている」とした上で「この先100年続くように、しっかり継承していきたい」と抱負を述べている<ref name="nikkan_20220914"/>。また、オールナイトニッポンプロデューサーの冨山雄一は「40周年も45周年も特番をやりましたが、ニッポン放送界わいだけで盛りあがった感じでした。55周年特番の出演者を発表したら、SNSですさまじく拡散されて。10年前にはなかったことだと思います。」と述べている<ref name="nikan_20230211"/>。
冨山は、「プロデューサーとして大切にしていること」について問われ「(2023年)現在はすべてのメディアがスマホの奪い合いですよね。[[Instagram|インスタ]]があって[[YouTube|ユーチューブ]]、[[LINE (アプリケーション)|ライン]]、[[Twitter|ツイッター]]、[[TikTok|ティクトック]]があって。他局がライバルではなく、スマホの中にあるアプリが全部ライバル。聴きに来てもらう間口は増えましたが、聴いてもらうのが難しい時代だなって思います。だから、リアルタイムで同じ時間を過ごそうとしてくるリスナーは、めちゃ大事に思っています。そのリスナーがどう思うかとか、喜んでくれるかな、みたいなところがベースです。」と答えた<ref name="nikan_20230211"/>。
2023年3月4日と5日に[[日本武道館]]において、オールナイトニッポン55周年記念公演として、『東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない』が行われた<ref>{{Cite news |和書|title= 東京03×Creepy Nutsの豪華コラボレーションが誕生! コントとHIP HOP、異色の2組が日本武道館でイベント開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-10-18|author= |url= https://news.1242.com/article/393418?_ga=2.222319451.1751727817.1664493234-10928544.1629059104|access-date=2022-10-18}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title= 東京03×Creepy Nutsの日本武道館コントライブ 新しい“括れない”エンターテインメントに3万6千人が熱狂!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-03-06|author= |url= https://news.1242.com/article/422505?_ga=2.132442638.1200600650.1669841981-10928544.1629059104|access-date=2023-03-06}}</ref>。
2023年3月から4月の間に、オールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、[[ヨーロッパ企画]]の[[上田誠]]の新作として『'''たぶんこれ銀河鉄道の夜'''』という舞台を東京・愛知・高知・大阪で上演した<ref>{{Cite news |和書|title= ニッポン放送×ヨーロッパ企画・上田誠 オールナイトニッポン55周年記念公演『たぶんこれ銀河鉄道の夜』上演決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-11-16|author= |url= https://news.1242.com/article/399482?_ga=2.47138786.430850386.1668289098-10928544.1629059104|access-date=2022-11-17}}</ref>。また、2023年1月27日には、公演の完売が多数になるという好評を受けて、東京での追加公演と共に、おまけとして、ゲストを招いてのトークショーを行うことを発表した<ref>{{Cite news |和書 |title= オールナイトニッポン55周年記念公演『たぶんこれ銀河鉄道の夜』追加公演&おまけトークショー決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-01-27|author= |url= https://news.1242.com/article/415055|access-date=2023-01-28}}</ref>。
2022年3月から4月の間にオールナイトニッポン放送開始55周年を記念して、かつて、オールナイトニッポン放送開始50周年のスペシャルラジオドラマとして放送された『'''[[明るい夜に出かけて]]'''』が舞台として上演された<ref>{{Cite news |和書 |title= 7 MEN 侍/ジャニーズJr.の今野大輝、初の単独主演舞台『明るい夜に出かけて』2023年3月・4 月上演決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-12-01|author= |url= https://news.1242.com/article/402489?_ga=2.131460623.1200600650.1669841981-10928544.1629059104|access-date=2022-12-01}}</ref>。
==== 放送開始56年目以降の取り組み(2023年 - ) ====
2023年9月11日から9月16日にかけて、お笑い芸人がパーソナリティを務める『'''[https://www.allnightnippon.com/radiostar2023/ オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク2023]'''』が行われた<ref>{{Cite news |和書 |title= 陣内智則&バカリズム・バイきんぐ・神田伯山……全17組が登場!『オールナイトニッポン お笑いラジオスターウィーク2023』開催!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-09-03|author= |url= https://news.1242.com/article/460882|access-date=2023-09-03}}</ref>。
'''2023年9月11日'''
* ANNX:[[令和ロマン]]
* ANN:[[陣内智則]]&[[バカリズム]]
* ANN0:[[さや香]]
'''2023年9月12日'''
* ANNX:[[男性ブランコ]]
* ANN:[[バイきんぐ]]
* ANN0:[[みなみかわ]]
'''2023年9月13日'''
* ANNX:[[ヨネダ2000]]
* ANN:[[神田伯山 (6代目)|神田伯山]]
* ANN0:[[吉住 (お笑い芸人)|吉住]]
'''2023年9月14日'''
* ANNX:[[ランジャタイ]]
* ANN:[[ナインティナイン]]
* ANN0:[[マヂカルラブリー]]
'''2023年9月15日'''
* ANNX:[[EXIT (お笑いコンビ)|EXIT]]
* ANN:[[霜降り明星]]
* ANN0:[[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]]
'''2023年9月16日'''
* ANN:[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]
* ANN0:[[マシンガンズ]]
2023年10月14日・15日には、多数の続編制作の待望の声を受けて『オールナイトニッポン55周年記念公演『あの夜を覚えてる』の続編・『'''[https://event.1242.com/events/anoyoru2/ あの夜であえたら]'''』を上演した<ref name="LF_20221102">{{Cite news |和書|title= “オールナイトニッポン”が舞台の生配信舞台演劇ドラマ『あの夜を覚えてる』続編制作決定! 2023年10月上演予定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-11-02|author= |url= https://news.1242.com/article/396754?_ga=2.182201511.1063521163.1667160771-10928544.1629059104|access-date=2022-11-03}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title= 高橋ひかる・千葉雄大が続投、オールナイトニッポン55周年記念公演の続編「あの夜であえたら」|newspaper= ステージナタリー|date= 2023-05-16|author= |url= https://natalie.mu/stage/news/524668|access-date=2023-05-16}}</ref>。前作に続いて、脚本・演出を小御門優一郎、プロデュースを石井玄、そして監修を佐久間宣行がそれぞれ務めた<ref name="LF_20221102"/>。また、前作に続いて、メインキャストの追加のオーディションを行った<ref>{{Cite news |和書 |title= 「あの夜を覚えてる」続編のキャストオーディションが決定|newspaper= ステージナタリー|date= 2022-12-16|author= |url= https://natalie.mu/stage/news/505376|access-date=2022-12-16}}</ref>。また、この公演の主題歌は[[Ado]]が歌う『オールナイトレディオ』で、この楽曲の作詞・作曲・編曲をポカロPの[[Mitchie M]]が手掛けている<ref>{{Cite news |和書 |title= 主題歌はAdoに決定! ラジオの奇跡「あの夜を覚えてる」待望の続編『あの夜であえたら』2023年10月東京国際フォーラム・ホールAにて上演!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-07-17|author= |url= https://news.1242.com/article/449975|access-date=2023-07-17}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title= AdoがMitchie M提供曲「オールナイトレディオ」配信、今夜ANNでフル尺オンエア|newspaper= 音楽ナタリー|date= 2023-10-09|author= |url= https://natalie.mu/music/news/544288|access-date=2023-10-09}}</ref>。この起用については、「綾川千歳(演:[[井上音生]])が大ファンであり、綾川たっての希望によるもの」だという<ref>{{Cite news |和書 |title= Ado、ニッポン放送×ノーミーツ特別公演『あの夜であえたら』主題歌を担当 作中キャラ 綾川千歳きっての希望で抜擢|newspaper= リアルサウンド|date= 2023-07-18|author= |url= https://realsound.jp/2023/07/post-1378199.html|access-date=2023-07-19}}</ref>。この劇中のラジオ番組・『'''綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)'''』が、実際に2023年8月14日の3時から5時(13日深夜)に生放送された<ref>{{Cite news |和書 |title= ”本当に”地上波で生放送!「綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)」|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-07-28|author= |url= https://news.1242.com/article/453001|access-date=2023-07-28}}</ref>。2023年8月14日には、オールナイトニッポンの現役パーソナリティとして、2023年10月14日に[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]と[[あの]]が、10月15日に[[小宮浩信]]([[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]])と[[松田好花]]([[日向坂46]])がそれぞれ映像という形で出演した<ref name="LF_20230814">{{Cite news |和書 |title= オードリー、あの、三四郎・小宮、日向坂46・松田好花、佐久間宣行の参加が決定! 舞台演劇番組イベント生配信ドラマ『あの夜であえたら』|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-08-14|author= |url= https://news.1242.com/article/456408|access-date=2023-08-14}}</ref>。また、この舞台の監修をしている佐久間宣行が10月14日・15日の両日に特別に出演する<ref name="LF_20230814"/>。2023年10月2日の3時から5時(1日深夜)には、『'''綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)'''』が実際に生放送される<ref name="LF_20230923">{{Cite news |和書 |title= 『あの夜であえたら』前日譚の物語「綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)」が、“本当に”地上波生放送!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-09-23|author= |url= https://news.1242.com/article/464365|access-date=2023-09-23}}</ref>。また、実際にゲストとして、藤尾涼太(演:[[千葉雄大]])が出演することも発表されると共に、スタジオブースの中で、構成作家の神田龍二(演:[[入江甚儀]])がその放送の様子を見守るという設定で実際の生放送が進行していった<ref name="LF_20230923"/>。千穐楽の10月15日には、その公演の終了後、会場限定でアフタートークを開催し、公演直後にトークを行った<ref name="LF_20230916">{{Cite news |和書 |title= 髙橋ひかる、千葉雄大、工藤遥、三四郎・相田周二らが登壇 舞台演劇番組イベント生配信ドラマ『あの夜であえたら』千穐楽会場限定アフタートーク開催決定!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-09-16|author= |url= https://news.1242.com/article/463859|access-date=2023-09-16}}</ref>。このアフタートークでは、髙橋ひかる・千葉雄大・工藤遥・相田周二(三四郎)に加えて、脚本・演出の小御門優一郎・監修・特別出演の佐久間宣行が登壇した<ref name="LF_20230916"/>。
2024年2月18日には、オールナイトニッポン史上初めて[[東京ドーム]]での番組イベントとして『[[オードリーのオールナイトニッポン]] in 東京ドーム』が開催される<ref>{{Cite news |和書 |title= 『オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム』開催決定! ~オールナイトニッポン史上初! 東京ドームでの番組イベント|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-03-19|author= |url= https://news.1242.com/article/425131|access-date=2023-03-19}}</ref>。また、星野源が、このイベントのテーマソングを手掛けることが2023年9月3日未明(2日深夜)に明らかにされ<ref>{{Cite news |和書 |title= オードリー、星野源の東京ドームライブ主題歌担当決定に大感激「ありがとうございます!」|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-09-08|author= |url= https://news.1242.com/article/462169|access-date=2023-09-08}}</ref>、2023年12月3日未明(2日深夜)に放送されたオードリーのオールナイトニッポンにて、星野源が手掛けた『おともだち』が、初解禁された<ref>{{Cite news |和書 |title= 星野源が歌う『オードリーANN』東京ドーム主題歌ついに解禁! 若林&春日がしびれ、サトミツは涙|newspaper= オリコンニュース|date= 2023-12-03|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2304994/full/|access-date=2023-12-03}}</ref><ref>[https://twitter.com/AudreyTokyoDome/status/1731010600443302398 オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム公式X(旧Twitter)アカウントより、2023年12月3日発信]</ref>。また、このイベントは全国の47都道府県で合わせて200館の映画館、並びに[[渋谷公会堂|LINE CUBE SHIBUYA]]でライブビューイングが実施される<ref>{{Cite news |和書 |title= 『オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム ライブビューイング』詳細発表!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-12-09|author= |url= https://news.1242.com/article/483034|access-date=2023-12-10}}</ref>。
これについて、ニッポン放送のエンターテインメント開発部の石井玄によれば、2019年に行われた「オードリーのオールナイトニッポン10周年全国ツアー in [[日本武道館]]」というライブにおいて、観客1万2000人とライブビューイング1万人の合わせて2万2000人を動員して、大成功を収めたことのその興奮の余波によって、「次は東京ドームじゃないの?(笑)」という軽いノリから始まったという<ref name="MN_20230927">{{Cite web|和書|url= https://marketingnative.jp/sp16/|title= 全てはラジオの未来のために ラジオのリスナーと収入を増やす、型破りな仕掛けと取り組み――ニッポン放送・石井玄インタビュー|publisher= MarketingNative|date= 2023-09-27|accessdate=2023-09-27}}</ref>。その後、「15周年記念のときはどこでやろうか」「やっぱり東京ドームでできないかな」という話になって、いろんな人に「東京ドームの予算ってどんな感じですか?」と聞いたら、東京ドームなどの大きな会場は、基本的に2日間のイベントで開催しないと予算が成立しないことが判明したという<ref name="MN_20230927"/>。しかしながら、機材や人員を他のイベントと共有することによって、1日のイベントでも予算が成立する見込みが立ったため、何とか開催できる形になったという<ref name="MN_20230927"/>。
=== 日曜日 ===
日曜深夜にも1984年以前に『[[オールナイトニッポン電話リクエスト]]』という、糸居五郎や[[木藤たかお|木藤隆雄]]、はたえ金次郎([[波多江孝文]])などが担当した電話リクエスト番組があった。歴代担当者は以下の通り。
* [[亀渕昭信]](1968年4月 - 1968年10月)
* [[菊池貞武]](1968年10月<ref>『会報「Viva young」』No.4 より。</ref> - 1970年3月)
* [[瀬戸将男]](1970年3月15日<ref>『会報「Viva young」』No.20 より。</ref> - 1971年4月)
* [[広見忠雄]](1971年4月19日<ref>『会報「Viva young」』No.34 より。</ref> - 1972年10月)
* [[糸居五郎]](1972年10月 - 1974年12月)
* [[木藤たかお|木藤隆雄]](1975年1月5日<ref name="『朝日新聞縮刷版』番組欄より。">『朝日新聞縮刷版』番組欄より。</ref> - 1980年3月)
* [[波多江孝文|はたえ金次郎]](1980年4月6日<ref name="『朝日新聞縮刷版』番組欄より。"/> - 1984年4月1日)
1984年4月以降はオールナイトニッポンを冠しない、女性アーティストやアイドルが担当する番組となった(最初の番組は『タッチ・ミー・EPO』)。
その後、オールナイトニッポン30年を迎えた1997年10月に日曜日の電話リクエストが復活。以降、LF+Rの期間を含め以下のような番組を行っていた。
* [[赤坂泰彦]]のオールナイトニッポン電話リクエスト(1997年10月12日 - 1999年3月28日、23:00 - 25:30)
* @llnightnippon.com HYPER REQUEST SUNDAY!([[荘口彰久]])(1999年4月4日 - 1999年10月3日、23:00 - 25:00)
* [[桃乃未琴]]の@llnightnippon.com Sunday Request Night(1999年10月10日 - 2000年3月26日、23:00 - 25:00)
* [[SILVA]]のallnightnippon Sunday Special “Luv mode”(2000年4月2日 - 2001年3月25日、23:30 - 25:00)
* [[中澤裕子]]のallnightnippon Sunday Special(2001年4月15日 - 2001年9月23日、23:30 - 25:00)
* 中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER!(2001年10月7日 - 2003年3月30日、23:00 - 24:30)
* [[飯島愛]]の@llnightnippon Sunday.com(2001年10月7日 - 2003年3月30日、24:30 - 25:30)
<!--* [[安倍なつみ]]のオールナイトニッポン サンデースペシャル(2004年3月14日、23:00 - 24:30)同じ時間に生放送される「[[あなたがいるから、矢口真里]]」のパーソナリティ[[矢口真里|矢口]]の急病にともなうものなので、コメントアウトとしました。 -->
他にオールナイトニッポンを冠した番組として、2008年4月 - 2009年3月には、『[[上原隆のオールナイトニッポン サポーターズ]]』(25:00 - 25:30)が、2009年10月11日 - 2010年9月12日には、『[[オールナイトニッポンサンデー]]』が放送されている。
その後、単発で放送された 『[[ROLLY]]と[[谷山浩子]]のオールナイトニッポンR』(2012年10月14日、27:00 - 29:00)以外は日曜日のオールナイトニッポンは放送されていなかったが、2013年4月改編から2018年10月改編にかけて『[[中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ]]』が放送された。日曜のオールナイトニッポンレギュラー枠では、2003年3月に『中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER!』と『飯島愛の@llnightnippon Sunday.com』が終わって以来、10年ぶりとなる。また『中島みゆきの月イチ』は、一部の局ではあるがネットされており、サンデースペシャルが放送される時間帯はほとんどの局では他番組の遅れネットやプロダクション制作の番組の放送、あるいはメンテナンスに充てることがほとんどのため、日曜日の枠が全国ネット(一部)がなされるのは初めてのこととなった。
2019年4月からは月に一度、25:30 - 27:00に『[[WANIMAのオールナイトニッポン0(ZERO)|WANIMAのオールナイトニッポン 〜にちようび〜]]』<ref>[https://twitter.com/wanima_ann/status/1110013758028435456 WANIMAのANN]</ref> を、27:00 - 29:00に『[[高嶋ひでたけのオールナイトニッポン|高嶋ひでたけのオールナイトニッポン月イチ]]』<ref>[https://news.1242.com/article/171814 高嶋ひでたけ、およそ50年ぶりに「オールナイトニッポン」をレギュラーで担当!]</ref> を放送開始した。WANIMAは土曜の月一放送からのスライドとなり、高嶋は1972年以来、47年ぶりにオールナイトニッポンに復帰した。その後、2020年2月19日の放送分をもって『WANIMAのオールナイトニッポン 〜にちようび〜』が終了し、2020年9月現在は『高嶋ひでたけのオールナイトニッポン月イチ』が放送されているほか、前述の『綾川千歳のオールナイトニッポンN(ニュー)』も日曜深夜にあたるこの時間帯に放送されている。。
== テーマ曲 ==
* 『[[BITTERSWEET SAMBA]](ビタースウィート・サンバ)』
** 作曲:[[:en:Sol Lake|ソル・レイク]]
** 演奏:[[ハーブ・アルパート]]とティファナ・ブラス
** 収録アルバム:『[[:en:Whipped Cream & Other Delights|Whipped Cream & Other Delights]]』(1965年、[[A&Mレコード]]よりリリース)
** 原曲は演奏時間1分46秒だが、番組用に長く編集されている。
=== 採用の経緯 ===
テーマ曲として採用された経緯については諸説ある。
* 実際はA面だった曲(「ティファナ・タクシー」)を使用していたが、[[高崎一郎]]の番組スタッフが誤ってB面の「ビタースウィート・サンバ」を流したところ、高崎が気に入ってこの曲に変更された(ただし「ビタースウィート・サンバ」はアルバム『Whipped Cream & Other Delights』のA面4曲目。「ティファナ・タクシー」は別のアルバム『Going Places!!』のA面1曲目であり、間違えるはずはないという指摘もある<ref>{{Cite album-notes|和書|work = オールナイトニッポン Radio Days Sweet Hits|title-link = |year = 2005|title = EPISODE1 真相はいまだ不明?『ビタースウィート・サンバ』の謎|pages = 6ページ|publisher = ユニバーサルミュージック}}</ref>。編集盤やシングル盤という可能性もあるが詳細は不明)。また、TBSラジオの[[爆笑問題の日曜サンデー]](2021年5月16日放送)に斉藤安弘がゲストとして出演した際には、「これ、間違えちゃったんですよね、最初の日の人が。(レコードの)針を乗っけるんで。この曲じゃなかった」と述べた上で、「もともと同バンドの別の曲をテーマに使うはずだったが、スタッフがレコードをかけ間違えてこの曲が流れてしまった」というが、「だけども、結果的にこっちの方がいいじゃない?って言って『ビタースイート・サンバ』に(定着した)」と当時のエピソードを話した<ref name="sponichi_20210517">{{Cite news |和書|title= 「オールナイトニッポン」テーマ曲の意外な裏話 “アンコー”斉藤康弘アナ「間違えちゃったんです」|newspaper= スポーツニッポン|date= 2021-05-17|author= |url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/05/17/kiji/20210517s00041000348000c.html|accessdate=2021-05-18}}</ref>。
* 違う曲(「レモン・ツリー」または「ティファナ・タクシー」)をテーマ曲候補としていたが、収録されたレコードの同じ面に収録されていた「ビタースウィート・サンバ」が誤って流れ、曲を聴いた高崎一郎がテーマ曲として決定した<ref group="注">「ビタースウィート・サンバ」と「レモン・ツリー」は同一アルバム内、A面の4曲目と5曲目</ref>。
* 上記の説を否定する証言が存在する。
** 1970年代から1980年代にかけてプロデューサーをつとめた近衛正通(岡崎正通)は、高崎一郎からテーマ曲選びを依頼された[[朝妻一郎]]が、最初から「ビタースウィート・サンバ」を選んだのに過ぎず、上記のかけ間違え説は高崎が「都市伝説みたいなストーリーを作った」という証言を行っている<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/3616?page=3 オールナイトニッポン50年 黄金期プロデューサーが語る「たけし伝説」(3ページ目)] [[文藝春秋|文春オンライン]]、2017年8月20日</ref>。
** 斉藤安弘は「もともとこの曲をテーマにする予定だったと聞いていた」と、自身の番組『[[オールナイトニッポンエバーグリーン]]』で発言している{{信頼性要検証|date=2017-08}}。
** 『オールナイトニッポン40周年記念!笑福亭鶴光と松本ひでおの深夜放送ヒット電話リクエスト』(2007年2月19日放送分){{信頼性要検証|date=2017-08}}の中で、[[松本ひでお]]が、スタッフの間違いではなく高崎一郎が初めから決めていたことだと明らかにし、同時に「スタッフ間違え説」を否定した。
** [[栃木放送]]開局50周年ラジオスペシャル『真夜中のビター・スウィート・サンバ』(2014年3月23日放送)<ref>[https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=164533 公益財団法人 放送番組センター「放送ライブラリー」真夜中のビター・スウィート・サンバ/栃木放送開局50周年ラジオスペシャル] 2019年8月19日閲覧。</ref>{{Refnest|group="注"|2014年 日本民間放送連盟賞優秀賞受賞作品。[[放送ライブラリー]]の視聴ブースで聴取可能。}}にて、朝妻一郎が栃木放送・川島育郎からのインタビューでこのことに触れており、高崎からテーマ曲の候補を探すよう依頼され、朝妻の会社(ニッポン放送子会社のパシフィック音楽出版(PMP)(現[[フジパシフィックミュージック]]))が著作権を持っている曲の中から選んで高崎に視聴させたところ、「演奏はよいがリズム感が......これじゃないだろう」と言われ、高崎自身が同じ盤の他の曲の中で「ビタースイート・サンバ」を選んだという。その後、高崎が逸話として話を面白くするため「盤を裏返しに…」と話したそうである。 [[WP:V#SP]]→ <ref>[http://tanoshi-irie.cocolog-nifty.com/umai/2015/02/post-fe87.html]</ref>
** 朝妻一郎が回顧録の中で、最初に高崎にテーマ曲の候補として聴かせたのは前掲アルバムからの「あめんぼうとバラ (Lollipops And Roses)」だった。結局、高崎がPMPの楽曲ではない「ビタースイート・サンバ」を選んだため、朝妻は当時のティファナ・ブラスの発売元であるキングレコードの寒梅賢氏に頼んで「あめんぼうとバラ」をシングル盤のB面(B面でもA面と同額の印税が入ってくるため)にしてもらったという<ref>{{Cite book | 和書 | author=朝妻一郎 | year=2022 | title=高鳴る心の歌 ヒット曲の伴走者として | publisher=アルテスパブリッシング | pages=22 | isbn=978-4865592511}}</ref>。
** 2022年10月3日(2日深夜)に放送されたオールナイトニッポン55周年記念特別番組『1967年10月2日 オールナイトニッポンが生まれた日』において[[垣花正]]が朝妻一郎にインタビューした内容によると、「初代パーソナリティの1人であり上司だった高崎より「『オールナイトニッポン』のテーマ曲を探せ」と命令を受けた朝妻は、最初にマッコイズの『カム・オン・レッツ・ゴー』を持っていったが高崎のイメージと合わず、ハーブアルパート&ティファナブラスの『あめんぼうとバラ』を聴かせても興味を示さなかった。高崎が同曲の収録されたアルバム『ホイップド・クリーム&アザー・ディライツ』を1曲ずつ聴いていく中で『ビタースウィート・サンバ』を聴き「お前コレだよコレ!」との発言により決まった」というのが真実だと明かした<ref name="LF_20221003">{{Cite news |和書|title= “かけ間違え”ではなかった! 『オールナイトニッポン』のテーマ曲が『ビタースウィート・サンバ』に決まった真相が明らかに|newspaper= ニッポン放送|date= 2022-10-03|author= |url= https://news.1242.com/article/390416?_ga=2.221519448.1751727817.1664493234-10928544.1629059104|access-date=2022-10-04}}</ref>。さらに朝妻は「それではエピソードとしては普通すぎるということで、話として盛り上げるため、高崎の発案で『ビバ・ヤング』に掲載する逸話を用意。1969年11月号の中で、「『ビタースウィート・サンバ』をテーマ曲にしたのは誰か?」という問い合わせに答える形で、「『これぞアメリアッチ/ザ・ティファーナ・ブラス』というLPの中から『レモン・ツリー』という曲を推薦したのは高崎だった。ところが、そそっかしい初代デスクのT氏がもう1つ内側のミゾの曲を聴いて決定してしまった。その曲が『ビタースウィート・サンバ』だったのである」と掲載し、それが定説となっていった」とも明らかにしている<ref name="LF_20221003"/>。
==== 備考 ====
* 『[[タモリのオールナイトニッポン]]』において、ハーブ・アルパートが特別ゲストとして招かれたとき、その当時のテーマ曲のバージョンを、トーク無しのフル演奏で流したことがある。
* 1973年 - 1974年頃のオープニングには、前述のデニス・コフィー(正確には「デニス・コフィー&ザ・デトロイト・ギター・バンド」)による演奏(1973年に[[キングレコード]]より国内向けにリリース。原曲は演奏時間2分40秒。<!--[http://hiptankrecords.com/?pid=67507344]-->テーマ曲として使われた時の[[イントロ]]は原曲を多少アレンジしてある)でアレンジされた「ビタースイート・サンバ」<!--[https://www.youtube.com/watch?v=392z772lP_g]-->を採用。[[ロック (音楽)|ロック]]調または[[ディスコ]]調ヴァージョン、特にイントロは[[エレクトリックギター]]で演奏され、現在使用されているテーマ曲とは異なるリズムで、他の楽器として[[ボンゴ]]を使用している(本楽曲は海外向けに、A&Mレコードが1973年にリリースしてB面に収録されている<!--[http://images.45cat.com/dennis-coffey-bittersweet-samba-am-sussex.jpg]--><ref>1973年12月30日放送の『[[あのねのねのオールナイトニッポン]]』のオープニング<!--[http://www.youtube.com/watch?v=U2m8NoSJCRw] (冒頭午前1時の時報から1分29秒より当時のテーマ曲。イントロから清水國明と原田伸郎のトーク、女性アナウンサーによるスポンサー及びネット局(当時15局ネット)紹介、再度清水と原田のトークまで約1分50秒間聴くことが出来る。このテーマ曲はのちの『タモリのオールナイトニッポン』スペシャルで、[[おすぎ]]をゲストに招き、[[ディスコ]]ファン中心のリスナー公開で放送されたときのオープニングに、約4年ぶりにイントロをアレンジしていない原曲が使用された。海外向けにリリースされたレコードのA面は『Theme From Enter The Dragon([[燃えよドラゴン]]のテーマ)』)-->より。</ref>)。しかし、後にオリジナル(ハーブ・アルパート)版へ随時戻されるようになり、「デニス・コフィー&ザ・デトロイト・ギター・バンド」ヴァージョンの使用は1974年末頃の土曜深夜『[[笑福亭鶴光のオールナイトニッポン]]』までとなった。
* かつては、ネット局により午前3時(第1部終了)までの局(全ての局ではないが、CBCラジオや[[大阪放送|ラジオ大阪]]など)はそれぞれの局において、第2部のオープニング(午前3時の時報)までにかかる繋ぎの曲の途中からカットインしエンディングとして流し、各局のアナウンサーが番組協賛[[スポンサー]]及び番組終了のアナウンスを入れていた。現在は行われておらず、次番組が始まるまでに繋ぎの曲(つまり、第1部のエンディング曲)をフェードアウトしてから[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]などが入るようになった。
** [[CBCラジオ]]の場合、3時で飛び降りる時に前述の「デニス・コフィー&ザ・デトロイト・ギター・バンド」ヴァージョンが使用されていた(2時58分30秒頃から、約1分20秒程)。1986年までは『ビバヤング、オールナイトニッポン。この番組は○○......』のように協賛スポンサーの読み上げも流されていたが、1987年頃は『ビバヤング、オールナイトニッポン。それでは今日はこの辺で。』のみのナレーションが入っていた{{efn2|これについて、生放送でトークが続いていてもこのオリジナルエンディングのために強制的にカットされるために、[[1988年]][[1月8日]]放送の[[ビートたけしのオールナイトニッポン]]のエンディングコメントが全部放送されなかったことや<ref>[[ラジオパラダイス]] 1988年3月号 p.107「RADIPARA READERS CLUB・オレは知ってるぜコーナー」</ref>、極めつけは[[1989年]][[4月1日]]放送の[[鴻上尚史のオールナイトニッポン]]最終回での最後の言葉「泣かないように、負けないように、いい夢を見てください」がこのエンディングでカットされたことを「この責任は重大です」として<ref>ラジオパラダイス 1989年6月号 p.101「らじぱらりーだーずくらぶ・いちゃもんつけさせてもらいますコーナー」</ref>、月刊[[ラジオパラダイス]]宛にこの件で苦情が寄せられたことがある。}}。[[1990年代]]頃から使用されなくなり、現在のように各CMが流れて3時を迎えている。
* また、現在は、木曜日の『[[ナインティナインのオールナイトニッポン]]』、土曜日の『[[オードリーのオールナイトニッポン]]』などで一節が繰り返されている物のフル演奏を聴くことができる。また、一部の番組では、先のものとは別の部分を延々繰り返している物を曲紹介・スポンサー読み・コーナー呼び込みまで掛ける事もある。
* 第2部では番組設置の経緯(4時間の大きな放送枠を便宜上二つに分ける)から、オープニングでは流さず、エンディングに流し、曲の終了と共に番組も終了するというスタイルが長らく続いていた<ref group="注">しかし、一部のパーソナリティ([[田中義剛のオールナイトニッポン|田中義剛]]・[[川村かおりのオールナイトニッポン|川村かおり]]・[[浅草キッドのオールナイトニッポン|浅草キッド]]・[[電気グルーヴのオールナイトニッポン|電気グルーヴ]]等)では、第1部と同じくオープニングに「ビタースウィート・サンバ」を流して番組を始めており、例外も存在している。</ref> が、「R」では旧オールナイトニッポンとは別の番組枠となったとしてオープニングにもかけられる場合が多数となった他、エンディングも単なるフェードアウトとなる場合が多くなった(土曜単独となっても行われる。また週によってはニッポン放送飛び降りのところで流されることもある)。「ZERO」では旧・第2部の復活という理由付けを行い、旧第2部と同じ構成で曲が使われている。
* 1988年10月から1989年1月にかけて、[[昭和天皇]]の体調の悪化で日本国内が自粛ムードに包まれ、その間全く異なるBGMに差し替えた。
* 2014年、ニッポン放送開局60周年企画の1つとして行われた投票企画「あなたが『オールナイトニッポン』で出会った忘れられぬミュージックランキング」にて1位を獲得したが、この旨をハーブ・アルパートに連絡したところ「使用されていたこと自体を知らなかった」事が発覚した<ref>2014年12月19日放送「オールナイトニッポンGOLD 忘れられぬミュージックスペシャル」にて吉田尚記が発言</ref>。また、斉藤はハーブ・アルパートが来日した時に初めて対面を果たし、「この『ティファナ・ブラス』の曲を2回やってくれた。楽屋に行って、『こういう深夜番組があって、テーマソングで使っている』』って(聞いた)。『知ってる』と」ハーブ・アルパート自身が認知していたことを明らかにした<ref name="sponichi_20210517"/>。
{{hidden end}}
==== 現在放送中の各曜日のテーマ曲一覧(オープニング・エンディング) ====
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto"
|-
!名称!!放送曜日!!style="width:25em" |オープニング!!style="width:25em" |エンディング
|-
!rowspan="7"|オールナイトニッポン
|-
!月曜日
|rowspan="10"|『BITTERSWEET SAMBA』<br />(Herb Alpert & The Tijuana)||『夜のくじら』<br />(クワガタP feat. [[初音ミク]])
|-
!火曜日
|『Friend Ship』<br />(星野源)
|-
!水曜日
|『[[虹色の魚/Open Happiness/MONSTER|虹色の魚]]』<br />([[MONKEY MAJIK]])
|-
!木曜日
|『明日にだって』<br/>([[ネクライトーキー]])
|-
!金曜日
|『C'est La Vie』<br/>([[MIYAVI|Stereophonics]])
|-
!土曜日
|『A Heady Tale』<br/>([[ザ・フラテリス]])
|-
!GOLD
!金曜日
|rowspan="4" style="border-bottom:none;background-color:silver"| -
|-
!Premium
!土曜日
|-
!月イチ
!日曜日(月一回)
|-
! rowspan="6" |0(ZERO)
!土曜日
|-
!月曜日
|『First Name Initial』<br/>([[アネット・ファニセロ]])|| rowspan="5" |『BITTERSWEET SAMBA』<br />(Herb Alpert & The Tijuana)
|-
!火曜日
|『[[発光体 (曲)|発光体]]』<br/>([[ゆらゆら帝国]])
|-
!水曜日
|『Waiting For Love』<br/>([[Avicii]])
|-
!木曜日
|『[[ファイナルファンタジーVII|ゴールドソーサー]]』<br/>(植松伸夫)
|-
!金曜日
|『Ahead Of The Light』<br/>([[MIYAVI]])
|-
!X
!月 - 金
|『Bitter Sweet Samba』 -Ayase Remix-<br/>([[Ayase]](YOASOBI)編曲)||rowspan="2" style="border-bottom:none;background-color:silver"| -
|-
!サタデースペシャル
!土曜日
|『BITTERSWEET SAMBA』REMIXバージョン<br/>(編曲:DJ松永(Creepy Nuts))
|-
!MUSIC10
!月 ‐ 木
|『Selangkah Keseberang 』([[:en:Fariz RM|Fariz RM]])<br/>([[:en:White Shoes & The Couples Company]])||『This One's for You』<br/>([[スタッフ (バンド)|staff]])
|}
== ウィークリーソング ==
* 週替わりで各曜日にかかわらず「オールナイトニッポンプッシュ」(以前は「ニッポン放送ディレクターズプッシュ」)としてヘビーローテーションで新譜が流される。 これはかつて月間(月間時のヘビロテの名称は「オールナイトニッポン・スーパーディスク」)であった。
* 2012年4月から当番組の推薦曲がエンディングで流されるようになったこともある。
== 番組ジングル ==
CM前とCM明けの[[ジングル (ラジオ)|ジングル]]を数々のアーティストが手がけており、放送開始から40周年・45周年・50周年・55周年を記念した特別番組・特別企画においてはこれらのジングルが様々使用された(1990年代後半のものなど、使用されなかったジングルも多い)。現在の通常放送でも、ディレクターの意向により現在使用されていないジングルを放送する場合もある。下記のものは22時・23時台の『SUPER!!』から『MUSIC10』を除く番組で流れた共通ジングル。CM前にこちらを流し、CM明けにそれぞれの番組のジングルを流すパターンもある。ウッチャンナンチャンや松任谷由実など一部パーソナリティは「オールナイトニッポン」と歌う部分の前に「〇〇の!」とコールする音声を入れていた(それで「〇〇のオールナイトニッポン」となる仕組み)。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 担当 !! 担当期間 !! 備考
|-
|nowrap|[[スリー・グレイセス]]||nowrap|1967年10月2日-<br/>1982年||放送開始から1970年代は「♪'''オールナーイトニーッポーン'''♪」や「♪'''ビバーヤング! パヤパヤ ビバヤーング'''♪」のジングルが主流であった。<br/>このジングルは、他の担当者では使われなくなっても、[[笑福亭鶴光のオールナイトニッポン]]では[[1982年]]まで使用され続けたうえ、鶴光自身が歌ったものも存在し、それは2020年以降の『[[鶴光・美和子噂のゴールデンリクエスト|鶴光の噂のゴールデンリクエスト]]』で使用中。<br/>一時期、全ての番組で使用されなくなったが、[[サンプラザ中野のオールナイトニッポン|サンプラザ中野]]担当回では当時唯一「ビバ!ヤング」をタイトルに付けていたため、全国一斉放送のCMの時のみ(毎時00分から30分頃)使用されていた。<br/>その後、糸居五郎死去の際の追悼番組で流された。過去には[[くり万太郎]]が担当する『[[くり万太郎のオールナイトニッポンR]]』や斉藤安弘が担当する『[[オールナイトニッポンエバーグリーン]]』でも流れていた。<br/>1970年代、亀渕昭信が担当していた『ビバ・カメショー』にも「'''カメ、カメー'''」や、斉藤安弘が担当していた頃の「'''オールナイートニーッポン、アンコー(アンコーさーん)'''」などの担当DJ専用ジングルもあった。
|-
|nowrap|[[大橋純子]]||nowrap|1977年4月-<br/>1982年10月||
|-
|nowrap|[[EPO]]||nowrap|1982年10月-<br/>1986年4月12日||
|-
|nowrap|不定||nowrap|1980年代||[[山下達郎]]・[[竹内まりや]]・[[大貫妙子]]・[[中島みゆき]]・[[谷山浩子]]が担当した。
|-
|nowrap|[[角松敏生]]||nowrap|1986年4月14日-<br/>1989年1月6日||20周年記念バージョンのジングルで「'''20th Anniversary'''」のフレーズが入っている。<br/>20周年目以降も該当部分を削除して使用を継続。
|-
|nowrap|[[クレヨン社]]||nowrap|1989年1月9日-<br/>1992年3月14日||
|-
|nowrap|[[To Be Continued]]||nowrap|1992年3月16日-<br/>1992年7月11日||[[AMステレオ放送]]開始とともに使用。
|-
|nowrap|[[中西圭三]]||nowrap|1992年7月13日-<br/>1993年2月27日||25周年記念バージョンのジングルで「'''25th Anniversary'''」のフレーズが入っている。
|-
|nowrap|[[Selfish (バンド)|Selfish]]|| nowrap="" |1993年3月1日-<br/>1994年5月14日||
|-
|nowrap|[[L⇔R]]||nowrap|1994年5月16日-<br/>1995年10月7日||このうちの1パターンは『くり万太郎のオールナイトニッポンR』で使用。
|-
|nowrap|[[平井堅]]||nowrap|1995年10月9日-<br/>1997年7月19日||
|-
|nowrap|[[チャーミースマイル&グリーンヘッド]]||nowrap|1997年7月21日-<br/>1997年11月1日||30周年記念バージョンのジングルで「'''thirty Years'''」のフレーズが入っている。
|-
|nowrap|[[Ram Jam World]]||nowrap|1997年11月3日-<br/>1999年3月27日||
|-
|nowrap|不明||nowrap|1999年3月29日-<br/>2001年3月31日||『LF+R』の初期
|-
|nowrap|[[smorgas]]||nowrap|2001年4月2日-<br/>2001年12月||
|-
|nowrap|[[savage genius]]||nowrap rowspan="2"|2002年1月-<br/>2003年3月||担当当時はボーカル&歌詞を担当する"ああ"とギター&作曲のtakumiのユニットだった。<br/>「SUPER!」で使用。
|-
|nowrap|[[myco#Changin' My Life|チェンジング・マイ・ライフ]]||ボーカル・作詞の[[myco]]、キーボードの[[辺見鑑孝]]、作曲・ギターの[[田辺晋太郎]]。<br/>「.com」で使用。
|-
|nowrap|[[sum 41|サム41]]||nowrap|2003年3月31日-<br/>2008年9月18日||海外のアーティストがこの番組の[[ジングル (ラジオ)|ジングル]]を手がけるのはこれが初。<br/>毎日使用していたのは2005年7月1日までであるが、ナインティナイン担当回では2008年9月18日まで1パターンのみ使用され続いた。
|-
|nowrap|[[川瀬智子|Tommy february6]]||nowrap|2003年7月7日-<br/>2007年4月12日||毎日使用していたのは2005年7月1日までであるが、木・金のみ2007年4月12日まで使用され続けた。
|-
|nowrap|[[B-DASH]]||nowrap|2003年10月3日-<br/>2009年10月3日||金・土の「R」専用ジングル。<br/>「オールナイトニッポンR〜」と歌っているもの。<br/>「ANN」は全て2009年10月9日より25時台と同じものへ統一されたため、「R」専用のジングルは消滅した。
|-
|nowrap|[[奥華子]]||nowrap|2005年7月4日-<br/>2007年4月10日||
|-
|nowrap|[[!wagero!|倭製ジェロニモ&ラブゲリラエクスペリエンス]]||nowrap|2006年5月19日-<br/>2007年4月11日||
|-
|nowrap|[[Remark Spirits]]||nowrap|2007年4月13日-<br/>2008年9月30日||40周年記念バージョンのジングルで「'''40th'''」もしくは「'''40th Anniversary'''」のフレーズが入っている。<!-- 40周年ジングルにはmihimaru GTに似たボーカルのバージョンもあったが、mihimaru GTは無関係(2007年7月10日放送『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン』にRemark Spiritsがゲスト出演した際のトーク内容でそれが伺える)。 -->
|-
|nowrap|[[GIRL NEXT DOOR]]||nowrap|2008年10月1日-<br/>2009年10月3日||
|-
|nowrap|[[さかいゆう]]||nowrap|2009年10月5日-<br/>2011年12月31日||
|-
|nowrap|[[MAN WITH A MISSION]]||nowrap|2012年1月2日-<br/>2013年3月30日||45周年記念バージョンのジングルで「'''45th Anniversary'''」などのフレーズが織り込まれている。
|-
|nowrap|kz(livetune)×八王子P(ボーカル:[[初音ミク]])||2013年4月2日未明<ref group="注">編成上は4月1日深夜</ref>-<br/>2017年1月3日1時台前半<ref group="注" name="0102hoshino">編成上は1月2日25時台後半</ref>||使用開始日に「[[ゴールデンボンバー鬼龍院翔のオールナイトニッポン]]」にて発表<ref>{{Cite news |title= livetuneと八王子P、オールナイトニッポンをジングルで彩る |newspaper= 音楽ナタリー|date= 2013-04-02|author= |url= https://natalie.mu/music/news/87941|accessdate=2022-10-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.allnightnippon.com/program/gb/2013/04/108pkz.html|title= #108【八王子Pさん、Kzさんとキスミー☆】(ゴールデンボンバー 鬼龍院翔のオールナイトニッポン公式サイトより)|accessdate=2022-10-05}}</ref>。<br/>後任が使用開始日の放送途中にサプライズ発表となった関係で、発表の直前まで使用された。
|-
|rowspan="2"|[[星野源]]||nowrap|2017年1月3日1時台後半<ref group="注" name="0102hoshino" />-<br/>2022年10月5日「ANN」||当初は「'''50周年'''」などのフレーズが織り込まれた50周年記念バージョンのジングルとして使用され、その後歌詞を一部変更して使用を継続。<br/>『[[星野源のオールナイトニッポン]]』の放送途中から使用開始となり、星野の作であることが併せて発表された<ref>{{Cite news |title= 星野源『オールナイトニッポン』50周年ジングルを制作 ファンクやメタル調も |newspaper= オリコンスタイル|date= 2017-01-03|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2084059/full/|accessdate=2017-01-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.allnightnippon.com/hoshinogen/2017-01-02/01:00:00/|title= 第40回 「重大発表!」(星野源のオールナイトニッポン公式サイトより)|accessdate=2017-01-08}}</ref><ref>{{Cite news |title= 星野源「オールナイトニッポン」ジングル作成|newspaper= Narinari.com|date= 2017-01-03|author= |url= https://www.narinari.com/Nd/20170141604.html|accessdate=2017-01-03}}</ref>。<br/>新しい番組ジングルを発表した星野源のオールナイトニッポンの放送終了まで使用された。
|-
|nowrap|2022年10月5日「ANN0」-||2017年1月から5年9か月使用してきた番組ジングルが55周年を記念して刷新されることになった<ref name="sponichi_20221003">{{Cite news |和書|title= 星野源が「オールナイトニッポン」55周年記念ジングル制作!4日深夜の星野源ANNで初披露|newspaper= スポーツニッポン|date= 2022-10-03|author= |url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/10/03/kiji/20221003s00041000374000c.html|access-date=2022-10-03}}</ref><ref name="oricon_20221003">{{Cite news |和書|title= 星野源『ANN』55周年ジングル制作 4日深夜放送の番組内で初披露へ|newspaper= オリコンニュース|date= 2022-10-03|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2251564/full/|access-date=2022-10-03}}</ref>。<br>今回刷新されたジングルは『ANN』『ANN0』『ANNX』『ANN Premium』『ANNサタデースペシャル』の共通ジングルとして使用される<ref name="sponichi_20221003"/><ref name="oricon_20221003"/>。<br>なお、2023年1月18日(17日深夜)に放送される『[[星野源のオールナイトニッポン]]』において、2021年9月8日(7日深夜)にゲストとして出演した[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]の[[若林正恭]]との共演がきっかけでコラボレーションが実現した55周年記念ジングルが追加されることになり、そのジングルが披露された<ref>{{Cite news |和書 |title= 星野源×若林正恭がコラボ! 『オールナイトニッポン55周年記念ジングル』今夜の「星野源のオールナイトニッポン」で初披露!|newspaper= ニッポン放送|date= 2023-01-17|author= |url= https://news.1242.com/article/412636?_ga=2.156639803.1200600650.1669841981-10928544.1629059104|access-date=2023-01-17}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title= 星野源×若林正恭『ANN』コラボジングル初披露で反響相次ぐ「しびれる」【リリックあり】|newspaper= オリコンニュース|date= 2023-01-18|author= |url= https://www.oricon.co.jp/news/2264454/full/|access-date=2023-01-18}}</ref>。なお、今回追加されるジングルは、2023年1月24日(23日深夜)から使用が開始された。<br>なお、2023年10月3日(2日深夜)からは、「'''55周年'''」などのフレーズを削除して、この番組ジングルの使用を継続している。
|}
== CD・レコード ==
=== シングル ===
* 今、僕たちにできる事([[ポニーキャニオン]])- 歌:オールナイトニッポン・パーソナリティーズ(1992年10月期当時のパーソナリティ全員<ref group="注">この企画に反感を持っていた電気グルーヴは不参加(ただし、CDのクレジットとジャケット裏面の寄せ書きには電気グルーヴの名も入っている)。</ref> が参加 対[[後天性免疫不全症候群]]運動のために制作された。なお、1993年5月〜1994年4月までは全番組のCMフィラーにてインスト版が使われた)
* ビタースウィート・サンバ([[ユニバーサルミュージック (日本)|ポリドール]]) - 演奏:ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス(1994年10月26日発売。当初テーマ曲の予定だったティファナ・タクシーも収録。廃盤)
=== アルバム ===
* オールナイトニッポン(LP盤)([[ポニーキャニオン|キャニオン・レコード]] : 1970年12月)- 最初のオールナイトニッポンのアルバム、当時のパーソナリティ全員参加
* 海賊放送局(LP盤)([[ポニーキャニオン|キャニオン・レコード]] : 1971年11月)- 今仁哲夫と天井邦夫によるビバ栗毛の珍道中記、パーソナリティ全員参加のラジオドラマ、カメカメ合唱団の歌
* 深夜放送グラフティ オールナイト・ニッポン([[エピックレコードジャパン|エピック・ソニーレコード]] : 1991年11月)- 糸居五郎、ビバ・カメショー(ゲスト:あのねのね - オールナイトニッポンに初めてゲストに招かれ、のちパーソナリティとなるきっかけとなった貴重な録音)、斉藤安弘(最終回、電話出演で翌週から木曜深夜のパーソナリティを引き継ぐ[[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]の[[武田鉄矢]]の他、スタジオゲストに[[水沢アキ]]、[[菅原孝]](ビリーバンバン))のそれぞれの抜粋を収録
* オールナイトニッポン Radio Days Bitter Hits(東芝EMI(現[[EMIミュージック・ジャパン]]))
* オールナイトニッポン Radio Days Sweet Hits([[ユニバーサルミュージック (日本)|UM3/USM Japan]])
* オールナイトニッポン パーソナリティーズヒッツ〜青春 ON AIR〜(ポニーキャニオン)
: 以上の3作品は、2003年に発売した35周年記念のコンピレーションアルバム
* オールナイトニッポン EVERGREEN(EMIミュージック・ジャパン、[[ビクターエンタテインメント]]ほか) - 2008年1月23日に6枚同時発売した40周年記念のコンピレーションアルバム
== 商品 ==
* 青春のオールナイトニッポン([[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]])
: BCLラジオのフィギュア。つまみを模したボタンを押すと、ジングルや糸居五郎や笑福亭鶴光らの番組の一部音声が流れる。ビタースウィートサンバはオリジナル。2004年発売。
* 懐かしのオールナイトニッポンキャンデー([[ブルボン]])
: 番組内容の一部とパーソナリティの持ち歌で構成した8cmCD付きのコーヒーキャンデー([[食玩]])。2004年発売。
* [[オールナイトニッポンスーパーマリオブラザーズ|オールナイトニッポン スーパーマリオブラザーズ]]([[任天堂]])
: [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]用ゲームとして、有名なゲーム『[[スーパーマリオブラザーズ]]』の一部キャラクターのグラフィックを、当時のパーソナリティの顔に差し替えたもの。1987年、番組放送開始20周年を記念して任天堂と共同製作した。
* オールナイトニッポン40周年記念カップ麺が日清食品、明星食品の制作で[[サークルKサンクス|サークルK/サンクス]]にて2007年10月31日発売 [https://web.archive.org/web/*/http://www.circleksunkus.jp/data/up/file14716d4d4233ad.pdf]<!--サークルKサンクス内HPより-->。
* オールナイトニッポンを作ろう!(ニッポン放送、フジミック)
:自分で番組運営ができるほか、多彩なゲストと魅力的なスポンサー集め、他のユーザーとの交流や名刺の奪い合い、携帯電話のGPS機能を利用した位置でエリア拡大などを詰め込んだ番組運営シミュレーションソーシャルゲーム。2011年、[[mobage]]にて提供。
* オールナイトニッポン最大の危機からの脱出([[SCRAP]])
:[[体験型ゲーム|体験型ゲームイベント]]が東京ミステリーサーカスで2019年~2021年3月まで開催。
== ネット局 ==
現在、『オールナイトニッポン(1部)』は全国36局ネットであり、放送対象地域上では全ての都道府県で聴取可能な番組である。地方でのネット局は、主にニッポン放送がキー局を務めている[[全国ラジオネットワーク|全国ラジオネットワーク(NRN)]]の加盟系列局が多いが、3部制となった[[1999年]]の[[LF+R]]時代以降、時間帯によってネット局が変わるなど状況が複雑化した。2019年10月現在、日本の民間AM局のうち、ニッポン放送のエリア以外で『オールナイトニッポン』シリーズを一切放送していないのは[[岐阜放送ラジオ|岐阜放送]](ぎふチャン)、[[MBSラジオ]]、[[琉球放送]](RBCiラジオ)の3局のみとなっている。
=== 一覧 ===
*表中「放送番組」欄については以下の通り。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!略称!!名称!!放送日時!!放送局数
|-
|10||[[オールナイトニッポンMUSIC10]]<br />[[オールナイトニッポンGOLD]]||月 - 木 22:00 - 24:00<br />金曜日 22:00 - 24:00||月・金 18局<br />火 - 木 19局<ref group="注" name="放送時間">地域によって放送時間が異なる。</ref>
|-
|A1||オールナイトニッポン||月 - 土 25:00 - 27:00||36局
|-
|A0||[[オールナイトニッポン0(ZERO)]] 平日||月 - 木 27:00 - 28:30<br />金曜日 27:00 - 29:00||33局
|-
|0S||オールナイトニッポン0(ZERO) 土曜日||土曜日 27:00 - 29:00||25局<ref group="注" name="放送時間" />
<!-- |-
|AP||オールナイトニッポンPremium||年度下半期の土曜日 19:00 - 21:00||8局 -->
|-
|SS||[[オールナイトニッポンサタデースペシャル]]||土曜日 23:30 - 25:00||34局
|-
!colspan="4"|備考
|-
|※||colspan="3"|かつて同時間帯の番組をネットしていたが打ち切りとなった枠<ref group="注">"10"・"SS"については『オールナイトニッポン』の冠がついた番組・枠に<!--、"AP"については『オールナイトニッポン』の冠がついてからの土曜週1回の放送枠に-->限る。</ref>。
|}
;2023年度 秋改編以降(2023年10月2日 - )
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!放送対象地域!!放送局!!系列!! colspan="5"<!--"6"--> |放送番組!!備考!!ネット開始年月
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]||[[ニッポン放送]]|| rowspan="2" |[[全国ラジオネットワーク|NRN]]||rowspan="2"|10||rowspan="2"|A1||rowspan="2"|A0||rowspan="2"|0S<!--||rowspan="2"|AP-->||SS||'''制作局'''<br /><ref group="注">0Sは1998年4月(当時「土曜R」) - 2020年12月は4:30飛び降り。2021年1月からは4:50飛び降り。</ref>||1967年10月2日
|-
| rowspan="2" |[[北海道]]||[[STVラジオ]]||※||<ref group="注">オールナイトニッポンXもネット(月 - 木曜)。</ref><br/><ref group="注">SSは2002年3月終了。</ref>||1970年6月30日
|-
|[[HBCラジオ|北海道放送]]|| rowspan="7" |NRN / [[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]||colspan="4"|-||<!--rowspan="5"|-||-->rowspan="7"|SS|| ||2003年10月
|-
|[[青森県]]||[[青森放送]]||rowspan="3"|10||rowspan="15"|A1||rowspan="4"|A0||※||<ref group="注">10は2000年10月(当時「SUPER」)開始。</ref><br /><ref group="注">A0は1977年7月29日(当時「第2部」)終了<!---東奥日報1977年7月と8月付け朝刊青森放送ラジオ欄と同年8月1日付け朝刊16面青森放送ラジオ欄及び「今週の新番組」より。後者は『いすゞ歌うヘッドライト』(TBSラジオ)放送開始の記載あり。--->。2021年3月29日再開。</ref><br /><ref group="注">0Sは2001年3月(当時「土曜R」)終了。</ref>||1973年7月3日<ref>{{Cite|和書|author=青森放送株式会社|title=青森放送50年史|date=2004|pages=77}}</ref>
|-
|[[岩手県]]||[[IBC岩手放送]]||0S||<ref group="注">10は2001年10月(当時「SUPER」)開始。金曜のみ23:00飛び乗り(2012年10月 - 2013年3月はフルネット)。2023年4月7日から金曜もフルネット。</ref><br /><ref group="注" name="R0">A0は1980年3月(当時「第2部」)終了。2022年9月26日よりネット再開。</ref><br /><ref group="注" name="R4">0Sは2005年4月(当時「土曜R」)から4:00飛び降り。</ref>||1972年4月
|-
|[[宮城県]]||[[東北放送]]||※||<ref group="注">10は2013年4月2日(当時「GOLD」)開始。火 - 金曜のみ放送で、23:50飛び降り(開始 - 2016年3月の金曜は23:30飛び降り)。</ref><br /><ref group="注">A0・0Sは1977年3月(当時「第2部」)終了。2013年4月よりA0のネット再開。</ref><br/><ref group="注">SSは2000年10月開始。</ref>||1970年10月
|-
|[[秋田県]]||[[秋田放送]]||-||-||<ref group="注"> A0は2022年3月28日からネット開始。</ref>||1979年10月
|-
|[[山形県]]||[[山形放送]]||10||-||rowspan="5"|0S||<!--AP||--><ref group="注">0Sは1983年以降(当時「第2部」)に開始(詳細は不明)。2005年4月(当時「土曜R」)から4:00飛び降り。</ref>||1977年4月
|-
|[[福島県]]||[[ラジオ福島]]||※||rowspan="11"|A0||<!-- -|| --><ref group="注">10は2000年1月(当時「SUPER」)開始。2011年9月(当時「GOLD」)終了。</ref><br/><ref group="注">A0は2022年3月28日からネット開始。0Sは2022年4月2日からネット開始。</ref>||1982年4月
|-
|[[栃木県]]||[[栃木放送]]|| rowspan="2" |NRN||-||<!--rowspan="2"|-||-->-|| ||1995年7月
|-
|[[茨城県]]||[[茨城放送]]||※||rowspan="9"|SS||<!--※||--><ref group="注">10は2009年11月30日(当時「GOLD」)開始。平日22時台はANNの冠が付かない時期の2004年9月27日からネットされていた。金曜は2020年9月25日終了。月 - 木曜は2021年3月25日終了。</ref><br/><ref group="注">SSは2004年10月開始。</ref>||2001年4月
|-
|[[新潟県]]||[[新潟放送]]||rowspan="7"|NRN / JRN||-||<ref group="注">A0・0Sは1976年6月(当時「第2部」)開始、1993年9月終了。2020年3月30日よりA0のネット再開。2023年4月より0Sのネット再開。</ref>||1976年6月
|-
|[[長野県]]||[[信越放送]]||rowspan="2"|10||rowspan="2"|※||<!--※||--><ref group="注">10は1999年10月(当時「SUPER!」)開始(2000年11月 - 2004年3月にかけては火 - 金曜のみネット)。</ref><br /><ref group="注">A0は1980年3月(当時「第2部」)終了。2020年9月28日に再開。</ref><br /><ref group="注">0Sは1980年3月(当時「2部」)に終了。1982年10月に再開。2005年4月(当時「土曜R」)から4:00飛び降り。2012年3月に打ち切り後に2014年4月に4:00飛び降りで再開、2015年3月に再度打ち切り。</ref>||1970年10月8日<ref>1970年10月8日 信濃毎日新聞 ラジオ欄</ref>
|-
|[[山梨県]]||[[山梨放送]]||<ref group="注">1980年3月31日 - 1983年3月31日にA1をネットしていた事がある。なお、1983年3月でネットは終了していたが、同年7月中旬まで番組内では山梨放送を含めたネット局数を読み上げていた。その後1991年4月にネット再開した。</ref><br/><ref group="注">A0は1980年3月31日 - 1983年3月31日(当時「第2部」)に放送していた。2021年9月27日に再開。</ref><br/><ref group="注">0Sは1980年3月31日 - 1983年3月31日(当時「第2部」)に放送していた。1996年4月に再開。2005年4月(当時「土曜R」)から4:00飛び降り。2015年3月終了。</ref><br/><ref group="注">SSは2002年4月開始。</ref>||1980年3月 - 1983年3月<br />1991年4月
|-
|[[富山県]]||[[北日本放送]]||※||rowspan="4"|0S||<!--※||--><ref group="注">10は2000年4月 - 2004年3月(当時「SUPER」および「いいネ!」)放送。ANNの冠が付かない平日 22時台のネットは2005年3月まで。</ref><br /><ref group="注">A0は2020年9月28日開始。0Sは2023年10月7日開始。</ref>||1977年4月
|-
|[[石川県]]||[[北陸放送]]||rowspan="2"|10||<!--rowspan="3"|-||--><ref group="注">10は2002年4月(当時「SUPER」)開始。金曜は2018年3月終了。2018年4月から月 - 木曜のみネット(2018年4月 - 2020年9月は23:49飛び降り)。2022年4月1日から金曜のネット再開。</ref><br /><ref group="注">0Sは1994年4月(当時「第2部」)開始。2005年4月(当時「土曜R」)から4:00飛び降り。2005年9月終了。2022年10月1日よりネット再開。</ref><br /><ref group="注">A0は2021年9月27日から開始。</ref>||1982年3月
|-
|[[福井県]]||[[福井放送]]||<ref group="注">10は2000年4月(当時「SUPER」)開始。</ref><br /><ref group="注">A0は1995年9月(当時「第2部」)終了、2022年9月26日よりネット再開。</ref><br /><ref group="注">0Sは2005年4月(当時「土曜R」)から4:00で飛び降りていたが、2022年10月1日よりフルネット再開。</ref>||1981年4月
|-
|[[静岡県]]||[[静岡放送]]||※||<!--AP||--><ref group="注">10は2000年10月 - 2004年3月(当時「SUPER及びいいネ!」)放送。ANNの冠の付かない平日22時台のネットは2008年3月27日まで。</ref><br/><ref group="注">A0は1977年3月(当時「第2部」)終了。2021年3月29日再開。</ref><br/><ref group="注">0Sは2003年3月(当時「土曜R」)終了。2021年4月再開。</ref>||1970年7月1日<ref>{{Cite|和書|author=静岡放送50年史編纂委員会/編|title=静岡放送50年史|date=2002|publisher=静岡放送|pages=57,212}}</ref>
|-
| rowspan="2" |[[中京広域圏]]||[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]||NRN||10||-||colspan="2"|-||<ref group="注">A0は2021年3月29日開始(金曜は2023年3月24日まで4:30飛び降り)。</ref><br/><ref group="注">SSは2000年3月の放送開始から。また、ネット開始の時の放送枠は22時枠(当時「SUPER」)。</ref>||1999年10月
|-
|[[CBCラジオ]]||JRN||-||rowspan="3"|A1||colspan="2"|※||<!--colspan="2"|-->-||<ref group="注">A0は1974年4月8日 - 同年8月(当時「第2部」)放送。2009年4月 - 2010年3月(当時「くり万太郎R・金曜R」)4:00飛び降りで放送。</ref><br /><ref group="注">0Sは1974年4月13日(当時「第2部」)開始。2005年4月(当時「土曜R」)からは4:00飛び降り。2017年4月1日終了。</ref>||1972年10月10日
|-
|[[京都府]]・[[滋賀県]]||[[京都放送|KBS京都]]<br />([[KBS滋賀]])||rowspan="2"|NRN||※||A0||0S||<!--AP||-->SS||<ref group="注">10は1999年10月 - 2004年3月(当時「SUPER及びいいネ!」)放送。ANNの冠の付かない平日22時台のネットは2008年12月まで。</ref><br/><ref group="注">SSは2005年10月開始。</ref>||1978年4月
|-
|rowspan="3"|[[近畿広域圏]]||[[大阪放送|ラジオ大阪]]||-||rowspan="3"colspan="2"|-||<!--rowspan="5"|-||-->-|| ||1970年6月30日
|-
|[[朝日放送ラジオ]]||NRN / JRN||※||rowspan="3"|-||SS||<ref group="注">10は2009年11月30日(当時「GOLD」)開始、ANNの冠の付かない平日22時台は同年7月からネット開始されていた。月 - 木曜のみ。2014年3月終了。</ref><br /><ref group="注">SSは2010年4月開始。</ref>||2009年11月
|-
|[[FM COCOLO]]||[[MegaNet]]||10||rowspan="2"|-||<ref group="注">オールナイトニッポンとその関連番組のネット局の中で、唯一の[[超短波放送|FM]]放送局。</ref><br /><ref group="注">10は2014年3月31日(当時「GOLD」)開始。月 - 木曜のみ。</ref><br /><ref group="注">正確な放送対象地域は、[[大阪府]][[大阪市]]・[[堺市]]・[[東大阪市]]・[[関西国際空港]]、[[兵庫県]][[神戸市]]・[[尼崎市]]、[[京都府]][[京都市]]、[[奈良県]][[奈良市]]。</ref>||2013年10月<ref group="注">ネット開始年月は『[[中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ]]』の開始日を起点。</ref>
|-
|[[兵庫県]]||[[ラジオ関西]]||独立局||※||A0||rowspan="2"|0S||<ref group="注">10は2001年4月 - 2004年3月(当時は「SUPER及びいいネ!」)放送。ANNの冠の付かない平日22時台のネットは2009年9月まで。</ref><br/><ref group="注">A0は2007年4月(当時「エバーグリーン」)から月 - 木曜のネット開始(2007年9月までは4:00飛び乗り)、金曜は2012年10月からネット開始。</ref><br/><ref group="注">0Sは2021年1月ネット開始。2023年4月1日から4:50飛び降り。</ref>||2001年4月 - 2004年3月<br />2007年4月
|-
|[[和歌山県]]||[[和歌山放送]]||rowspan="9"|NRN / JRN||10||rowspan="10"|A1||※||※||<ref group="注">10は2000年1月 - 2004年3月(当時「SUPER及びいいネ!」)放送。ANNの冠の付かない平日 22時台のネットは2007年3月まで、2010年4月(当時「GOLD」)再開。</ref><br /><ref group="注">A0は1995年9月(当時「第2部」)終了。</ref><br /><ref group="注" name="R4" /><br /><ref group="注">SSは2009年3月終了。</ref>||1981年4月
|-
|[[鳥取県]]・[[島根県]]||[[山陰放送]]||※||rowspan="4"|A0||rowspan="2"|-||<!--AP||-->rowspan="8"|SS||<ref group="注">10は2001年4月(当時「SUPER」)開始。2010年3月(当時「GOLD」)終了。</ref><br /><ref group="注">A0は2022年9月26日よりネット開始。</ref>||1985年4月
|-
|[[岡山県]]||[[RSKラジオ|RSK山陽放送]]||10||<!--rowspan="2"|-||--><ref group="注">10は2015年3月30日(当時「GOLD」)開始。</ref><br /><ref group="注">A0は2023年10月2日開始。</ref>||1997年10月
|-
|[[広島県]]||[[中国放送]]||※||※||<ref group="注">10は2000年4月 - 2004年3月(当時「SUPER及びいいネ!」)放送。ANNの冠の付かない平日22時台のネットは2004年7月まで。</ref><br /><ref group="注">A0・0S(当時「第2部」)も放送していたが、1976年12月4日に打ち切り。2023年3月27日よりA0のネット再開。</ref><br/><ref group="注">SSは2002年4月開始。</ref>||1970年10月
|-
|[[山口県]]||[[山口放送]]||10||<!--rowspan="2"|AP||-->rowspan="6"|0S||<ref group="注">0Sは1995年4月(当時「第2部」)開始。2005年4月 - 2013年3月(当時「土曜R」)は4:00飛び降り。</ref><br /><ref group="注">A0は2022年3月28日からネット開始。</ref>||1988年4月
|-
|[[徳島県]]||[[四国放送]]||-||-||<ref group="注">0Sは1980年4月(当時「第2部」)開始。2005年4月 - 2013年3月(当時「土曜R」)は4:00飛び降り。</ref>||1977年4月
|-
|[[香川県]]||[[西日本放送ラジオ|西日本放送]]||rowspan="3"|※||rowspan="4"|A0||<!--rowspan="3"|-||--><ref group="注" name="G 2010.9END">10は2001年10月(当時「SUPER」)開始。2010年9月(当時「GOLD」)終了。</ref><br /><ref group="注" >A0は2004年4月(当時「エバーグリーン」・「金曜R」) - 2021年3月26日は4:00飛び降り。</ref><br /><ref group="注">0Sは2005年4月(当時「土曜R」) - 2021年3月27日は4:00飛び降り。</ref>||1971年4月
|-
|[[愛媛県]]||[[南海放送]]||<ref group="注">10は2000年10月 - 2004年3月(当時「SUPER及びいいネ!」)まで放送。</ref><br /><ref group="注">A0は1998年10月(当時「R」)開始。2004年4月(当時「エバーグリーン」・「金曜R」) - 2020年9月25日は4:00飛び降り(2013年4月 - 2015年9月は金曜のみフルネット)。</ref><br /><ref group="注" name="Z4 - 2013/3">0Sは2005年4月 - 2013年3月(当時「土曜R」)は4:00飛び降り。</ref>||1979年4月
|-
|[[高知県]]||[[高知放送]]||<ref group="注" name="G 2010.9END" /><br /><ref group="注">A0は1995年9月(当時「第2部」)に一時終了したのち、1998年10月(当時「R」)再開。2004年4月(当時「エバーグリーン」・「金曜R」) - 2013年3月は4:00飛び降り。</ref><br /><ref group="注" name="Z4 - 2013/3" />||1971年4月
|-
|rowspan="2"|[[福岡県]]||[[KBCラジオ|九州朝日放送]]||NRN||10||<!--※||-->-||<ref group="注">10は1999年10月 - 2004年3月(当時「SUPER及びいいネ!」)放送。ANNの冠の付かない平日22時台のネットは2008年3月まで。2010年10月(当時は「GOLD」)再開。</ref><br /><ref group="注">0Sは2008年4月 - 9月(当時「土曜R」)は4:30飛び降り。</ref>||1970年7月15日
|-
|[[RKBラジオ|RKB毎日放送]]||JRN||colspan="4"|-||<!--rowspan="7"|-||-->rowspan="7"|SS|| ||2000年3月
|-
|[[長崎県]]・[[佐賀県]]||[[長崎放送]]<br />([[NBCラジオ佐賀]])||rowspan="5"|NRN / JRN||10||rowspan="6"|A1||rowspan="6"|A0||0S||<ref group="注">10は2000年4月(当時「SUPER」)開始。</ref><br/><ref group="注">A0は1982年3月(当時「第2部」)終了。2021年3月29日再開。</ref><br/><ref group="注">0S(当時「土曜R」)は長崎エリア2005年4月 - 2014年3月、佐賀エリア2005年4月 - 2013年3月は4:00飛び降り。</ref>||1970年10月3日<ref>{{Cite|和書|author=長崎放送株式会社 編|title=長崎放送50年史|date=2002|publisher=長崎放送|pages=172}}</ref>
|-
|[[熊本県]]||[[熊本放送]]||※||※||<ref group="注">10は2000年1月 - 2004年3月(当時「SUPER及びいいネ!」)放送。ANNの冠の付かない平日 22時台のネットは2009年10月2日まで。</ref><br/><ref group="注">A0は1980年3月(当時「第2部」)終了。2010年4月(当時「くり万太郎R・金曜R」)から4:00飛び降りで再開。2015年3月終了。2022年3月28日からネット再開。</ref><br /><ref group="注">0Sは2005年4月(当時「土曜R」)から4:00飛び降り。2015年3月終了。</ref>||1971年3月31日
|-
|[[大分県]]||[[大分放送]]||rowspan="2"|10||rowspan="3"|0S||<ref group="注">10は2001年4月(当時「SUPER」)開始。</ref><br/><ref group="注">0Sは2013年4月(当時「土曜R」)開始。</ref><br /><ref group="注">A0は2022年9月26日よりネット開始。</ref>||1979年4月
|-
|[[宮崎県]]||[[宮崎放送]]||<ref group="注">0Sは2009年10月(当時「土曜R」)開始。 2019年9月までは4:00飛び降り。</ref><br/><ref group="注">A0は2022年3月28日から開始。</ref>||1977年4月
|-
|[[鹿児島県]]||[[南日本放送]]||※||<ref group="注">10は2003年4月 - 9月の金曜のみ(当時「フライデースペシャル」)放送。</ref><br/><ref group="注">A0は2021年9月27日から開始。</ref><br /><ref group="注">0Sは1992年4月(当時「第2部」)開始。2005年4月(当時「土曜R」)から4:00で飛び降りていたが、2022年10月よりフルネット再開。</ref><br /><ref group="注">SSは2000年10月開始。</ref>||1979年10月
|-
|[[沖縄県]]||[[ラジオ沖縄]]||NRN||-||-||<ref group="注">A0は2021年3月29日開始。</ref><br/><ref group="注">SSは2004年4月開始。2009年3月に打ち切り後、2012年4月に再開。</ref>||1977年4月
|}
ネット局で年末年始特番が行われる場合があるほか、地元のプロ野球チームが優勝した日は優勝記念特別番組放送が編成され、いずれも休止となる場合がある。一例として、
*2013年9月26日:東北放送 - [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]のリーグ優勝時、「GOLD」~「0(ZERO)」を休止
*2016年9月10日:中国放送 - [[広島東洋カープ]]のリーグ優勝時、「サタデースペシャル 大倉くんと高橋くん」を休止
*2016年10月29日:北海道放送 - [[北海道日本ハムファイターズ]]の日本シリーズ制覇時、「サタデースペシャル 大倉くんと高橋くん」を休止
などが挙げられる。
=== 中京広域圏 ===
[[愛知県|愛知]]・[[岐阜県|岐阜]]・[[三重県]]では1部枠を[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]単独系列の[[CBCラジオ]](以下「CBC」)で放送している関係から、CBCはニッポン放送の音声を東京都[[千代田区]]九段の[[千代田会館|CBC東京支社]]を経由してネットしている(伝送には[[NTTコミュニケーションズ]]の帯域保証のIP回線を使用<ref>[[中部日本放送]] 編「CBC技術報告会」第55回、中部日本放送、2012年3月</ref>)。これは、ANNの開始当初に放送地域の拡大を試み、NRN系列の東海ラジオに放送を依頼したが、自社制作の人気番組『[[ミッドナイト東海]]』(現在の『[[東海ラジオミッドナイトスペシャル]]』)を放送している関係からネットを断られ、CBCに依頼したためである。CBCは当時放送していた自社制作番組『[[CBCビップ・ヤング]]』が『ミッドナイト東海』の後塵を拝していたことに加え、社内部より深夜労働に対する反発があったことなどから放送が了承された。その後、東海ラジオは1999年に『サタデースペシャル』、1999年10月に22時枠、2021年に27時枠(後述)をそれぞれネット開始したため、中京広域圏では番組シリーズが局を超越して放送される事態となった。
CBCは1部のみの放送{{efn2|2017年4月まで土曜はRを27時台のみ放送。2003年3月までは27:00 - 29:00に放送。2009年4月 - 2010年3月は平日にRを28:00までネットしていた}}、かつ東海ラジオは平日27・28時台に『[[日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲]]』([[文化放送]])をネットしていたため、中京広域圏では27時以降の枠が放送されていなかったが、『走れ!歌謡曲』の2021年3月での終了を契機に、同年4月から平日27時以降の枠をネット開始した。
=== 京阪神地区 ===
[[京阪神地区]]で本番組をネット受けしていたのは、長らくラジオ大阪(以下、OBC)とKBS京都(以下、KBS)であったが、2001年4月から3年にわたり独立局のAM KOBE(以下、AMK、現在のCRK・[[ラジオ関西]])でも『SUPER!』→『いいネ!』がネットされた。それまでは自社制作の深夜ワイド番組『[[神戸アコースティックストーリー]]』を放送していたが、ニッポン放送からの番販購入の形でこの番組を同時ネット受けすることになった。また、2007年4月からは変則的に『エバーグリーン』の飛び乗りネットを開始し、10月以降は27時からのフルネットに枠拡大、その後継枠である『くり万太郎のオールナイトニッポンR』『オールナイトニッポン0(ZERO)』もネットを継続している。CRKは全国のラジオ局の中で25時 - 28時台をTBS『[[JUNK]]』→LF『オールナイトニッポン0(ZERO)』の順で編成している唯一の局である。
2009年7月、京阪神地区で長年22時台に独自の夜ワイド番組『[[ABCミュージックパラダイス]]』を制作していた朝日放送(以下、ABC、現在の[[朝日放送ラジオ]])は、月曜 - 木曜の自社制作を打ち切り、ニッポン放送の『[[銀河に吠えろ!宇宙GメンTAKUYA]]』をネットすることになった。この枠は2009年11月に『オールナイトニッポンGOLD』に移行したため、在阪局ではOBCに次いで、ABCでも本番組シリーズがネットされることになった。ただし、当該時間帯におけるABCのニッポン放送からのネット受け開始を受けて、CRKとKBSは『TAKUYA』の途中の2009年10月改編で当該時間帯のネット受けを撤退し、KBSは金曜を除いて文化放送の裏番組『[[レコメン!]]』を全編ネット受けに切り替え、CRKは当該時間帯の自社制作を再開<ref>2021年現在は、金曜を除いて文化放送の『[[レコメン!]]』を全編ネット受け</ref> している。また、2010年4月からは『サタデースペシャル』枠の『魂のラジオ』もABCラジオでネット開始され、その後継枠である『大倉くんと高橋くん』も引き続きネットを継続している。
2013年10月からは『中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ』を、大阪のFM局[[FM COCOLO]]{{efn2|現在の運営会社である[[FM802]]はニッポン放送が筆頭株主という資本的繋がりがある。}} がネットすることとなり<ref name="miyukiofficial">[http://www.miyuki.jp/media/?cat=3 MEDIA INFO - NAKAJIMA MIYUKI OFFICIAL SITE]</ref>、本番組の歴史上、初めてFM局でネットされることとなった。さらに2014年4月改編からは『オールナイトニッポンGOLD』のABCのネット終了を受ける形で、FM COCOLOでネットすることとなった(金曜を除く。2015年10月からの『オールナイトニッポン MUSIC10』も引き続きネット)<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000101539 史上初、『オールナイトニッポンGOLD』がFM COCOLOでもレギュラー放送開始],BARKS,2014年3月18日</ref>。
この結果、2022年10月編成時点で京阪神地区においては、『MUSIC10』はFM COCOLO、1部はOBCとKBS、『0(ZERO)』はCRKとKBS、『Premium』はKBS、『サタデースペシャル』はABCとKBSというように、番組ごとにネット局が変わる事態となった。
KBSは1部を[[1978年]]4月に開始しているが、ネット開始する以前(1976年7月当時)は『[[日本列島ズバリリクエスト]]』(23:00 - 26:00)と『ミュージック・オン・ステージ』(26:00 - 29:00 木曜 - 土曜は別番組の関係で時差開始)を放送していた。
=== サタデースペシャル ===
土曜 23:30 - 25:00の『サタデースペシャル』枠(『魂のラジオ』→『大倉くんと高橋くん』)はもともとの『[[ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!]]』がオールナイトニッポン枠でなかったことも影響しさらにネット局事情が複雑化している。
北海道では、以前は25:00 - 29:00枠と同様STVラジオがネットしていたが、2002年3月に打ち切ったため、1年半のブランクを置いて、[[2003年]]10月より競合局の北海道放送(HBC)でネットしている。福岡県でも同様に、22:00 - 23:00枠、25:00 - 29:00枠(月イチも含む)は全て九州朝日放送(KBC)で流れているにもかかわらず、『サタデースペシャル』枠だけはRKB毎日放送がネットするという現象が起きている。特に、RKBラジオはNRNには加盟していないため、CBC同様特殊なケースとなっている。東海地区では、『ジャンベルジャン』枠を引き継いだ東海ラジオが『魂のラジオ』放送開始時からネット、2010年4月からは上記の通りABCでもネットを開始しているなど、特に都市圏における『サタデースペシャル』枠は1部のネット局とは異なっている状況である。
=== ネット局での番組返上時の対応 ===
12月25日 1:00(新聞上は12月24日の放送欄)からの本番組は『[[オールナイトニッポン ラジオ・チャリティー・ミュージックソン]]』として放送される([[ラジオ・チャリティー・ミュージックソン]]の一環)。以前は、ニッポン放送は関東ローカル独自の放送のため放送されず、裏送りのみされたが、2007年度以降は、ニッポン放送発の番組をミュージックソン非参加局を含む各ネット局がネットしている。一方、独自で『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の企画番組を放送する中国放送などのネット局は、この日に限りネットは返上し、1部の協賛社は企画番組のスポンサーとしてCMのみネットする代替対応を取る。
[[ワールド・ベースボール・クラシック]]や[[FIFAワールドカップ]]など、日本時間の深夜に日本あるいは海外で行なわれる野球・サッカー中継をニッポン放送が中継・ネットする当日に、本番組の放送と重なる場合は、本番組を放送せず、裏送りのみを行なう。その際、放送される試合によっては[[放映権|放送権]]の関係で[[radiko]]での放送はできないため、フィラー音楽とその間にニッポン放送のアナウンサーによる「''放送権の都合によりradikoでの放送は行ないません。地上波でお聴きください''」という説明が放送される。また、NRN系の多くの局も試合の中継を優先するため、本番組は放送されない(場合によっては飛び乗り)。そのため、場合によってはネット受けがラジオ大阪とCBCの2局のみの時もある(中京広域圏では東海ラジオ、関西広域圏はABCでサッカー中継をネットすることが多いため)。
放送時間以前に[[自然災害]]([[地震]]・[[台風]]・[[大雨]]・[[風水害]])が発生した場合でも、基本的には一部の例外<ref group="注>[[東日本大震災]]など被害があまりにも甚大な場合や、[[令和元年東日本台風]]など交通事情や安全確保の都合でパーソナリティーのニッポン放送来社が難しい場合は休止する場合がある。</ref>を除き本番組のシリーズを通常通り放送することが多いが、その自然災害の被災地ではその日の放送は返上という形になる場合もある(例として、[[熊本地震 (2016年)|2016年の熊本地震]]時においての熊本をはじめとする九州の一部地域が該当)。
== 備考 ==
* いわゆる「1部」の枠では協賛スポンサー名が読み上げられるが、協賛スポンサー名の読み上げはパーソナリティ自身が生放送で読み上げている{{efn2|ニッポン放送の他の番組ではアシスタントやアナウンサーが読み上げを担当し、パーソナリティは読まない。}}。オールナイトニッポンのネットが始まってからはニッポン放送の所在地と放送日時点のネット局の数も併せて読み上げられる(読み上げ内容は「'''『○○のオールナイトニッポン』、この番組は…以上各社の協賛で、東京都千代田区有楽町{{efn2|FCGビルに本社があった期間は「'''東京港区台場'''」}}・ニッポン放送をキーステーションに全国36局ネットでお送りします(しました)。'''」で固定されている。)。この体制は当時から一貫して変わっていないが、オールナイトニッポンのネットが始まって間もない1970年代は、ネット局を北から1つずつ紹介していた時期もあった。なお、パーソナリティによっては事前に録音したものを流すパーソナリティもいたり、ピンチヒッターの場合はニッポン放送のアナウンサーが同じ内容を読み上げた事前録音のアナウンスとなるケースもある。
* 2021年現在平日(月曜~金曜)1部のCM枠は25時台4枠、26時台3枠で、協賛スポンサーのネットセールス枠は25時台の前半2枠と26時台の前半2枠、そのうち、1部各番組の25時台後半は「'''CM連打'''」として間にジングルを2回挿入する形でCMを集中的に放送する長めのCM枠となっている。また、26時台の1枠目は2017年6月からANN50周年企画として始まった本編とは別のパーソナリティが担当し、毎月提供スポンサーが変わるインフォマーシャル「'''コラボレートニッポン'''」として放送されている。土曜日の1部については25時台3枠、26時台4枠となっているが、1988年4月から平日と違って冠スポンサーがついている。CM数が多かった1970年代には25時台~28時台、1980年代~1990年代は25時台及び26時台それぞれ6枠でネットセールス枠が3枠ずつあったが、2000年代から全体のCM数が減少していったため、徐々にネットセールスのCM枠数が削減されていき、現在の枠数となっている。ただし、ネットセールス以外のCM枠および「ZERO」ではネット局で各自ローカルCMを放送する枠になっていて、この間、ネット回線からは[[CMフィラー]]としてCM枠ごとに違う楽曲が流されるが、流される曲は歴代パーソナリティ・スタッフの趣味趣向・パーソナリティにちなんだ楽曲など工夫を凝らした選曲になっており、パーソナリティによっては自身が選曲した音楽を流している場合もある。なお、番組のQシートではネットセールス枠は上述の「ビバ!ヤング」から取った「VIVA」、ローカルCMを放送する枠は単に「PT」{{efn2|[[パーティシペーション]]の略。協賛スポンサーのCM以外を放送することを指す。}}と記載されている。
* いわゆる「1部」の放送時間は3:00までだが、一部ネット局(主に「オールナイトニッポン0(ZERO)」非ネット局)では、[[スポットCM|ステーションブレイク]]を挿入するため2時59分頃にフェードアウトして終了する。このため、2時59分までには必ず放送を終了するように(大概は2時58分前後に喋り終えている。Qシート上では2時58分までに必ず終了するように記載されている)構成されている。これは金曜と土曜の「ZERO」においても同様であるが、多くの局は5:00が24時間放送の基点時間としているため、局名告知の時間を設ける都合上、4:58までにはコメントを切り上げるようにされている{{efn2|月〜木は「ZERO」は4:30で終わるが、そのあとの番組である『[[上柳昌彦 あさぼらけ]]』が同じような構成にしている。なお、「2部」が全曜日5:00で終わっていた時代は全局でこの措置をとり、ニッポン放送は局名告知・君が代の演奏を挟んで次の番組に移っていた。}}。なお、ニッポン放送など一部の局では「1部」の終わりで各パーソナリティによるタイトルコール音源が入って時報へつなぎ、「ZERO」となる(ステブレレス)。非ネット局でもCMを入れずに時報まで放送し、[[TBSラジオ]]や[[文化放送]]の番組に切り替える局がある。
* 現在「ZERO」を放送しているいわゆる「2部」の枠ではこの時報の後にパーソナリティが「1部」のパーソナリティに向けて「〇〇さん、お疲れ様でした。」と挨拶をしてから始まるのが長らく慣例になっている(これを言わずに始まるパーソナリティもいる)。そのほか「ANNX」「サタデースペシャル」から「1部」のパーソナリティを、さらに「1部」から「ZERO」のパーソナリティを紹介することや『[[上柳昌彦 あさぼらけ]]』と「ZERO」の相互で番組紹介を行うことがある。これらはネット局によっては枠ごとのネットの有無や同一エリア内でネット局自体が異なるなどの理由により、話がかみ合わない事態が起こる場合がある。
* ニッポン放送のスタジオにはサブのガラスの向正面に地震発生時のアナウンスが掲示されている。『オールナイトニッポン』では放送時の地震発生などの緊急時にはアナウンサーが安全確保のため、リスナーに注意を呼びかけるが、ベテランパーソナリティの場合、本人が注意事項を暗記しているため、アナウンサーを介さずに注意を呼びかけている。
* ニッポン放送と[[BSフジ]]([[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BSデジタル]][[テレビ局]])共同制作の番組『お笑いネクストブレーカー』の番組内で[[お笑い芸人]]が出されたテーマに、オールナイトニッポンをベースにトークをするコーナー「オールナイトニッポンへの道」があった。
* [[CBCラジオ]]では、2009年2月1日から2月28日まで、[[親局]]である[[CBCラジオ長島送信所|長島送信所]]の施設改修工事に伴い、午前0時から午前4時までの間放送が休止されたため、1か月間オールナイトニッポンの放送が休止となった(協賛部分のみ休止直前の番組でCMとして流した)。
* [[信越放送]]では2009年4月 - 9月の間、経費削減などのため停波を伴う放送休止時間を設定することに伴い、祝日に当たる日のみ、オールナイトニッポンの放送を休止とした。協賛各社のCMのみ、休止直前と再開直後にまとめて放送していた。
* [[KBCラジオ]]では、北部九州ローカル番組で、月に1回、[[オールナイトKBC]]という番組が放送されている。
* ホームページ・メールアドレスは基本的にニッポン放送の深夜放送の番組(オールナイトニッポンの冠が入っていない番組も含む)で使用される「allnightnippon.com」のドメインが使われているが、一部の派生番組(MUSIC10・サンデーなど)では通常番組のドメイン「1242.com」が使われる番組もある。
== 関連項目 ==
* [[ニッポン放送]]
* [[ニッポン放送番組一覧]]
* [[オールナイトニッポンのパーソナリティ一覧]]
* [[LF+R]] (1999年3月から2003年3月まで実施されたオールナイトニッポンを含む大きな編成改革)
=== テレビ番組 ===
* [[オールナイトニッポンTV]]
* [[笑福亭鶴光のオールナイトニッポン.TV@J:COM]](2017年-) - [[ジュピターテレコム|J:COM]]の[[J:COMチャンネル]]で放送しているテレビ番組
=== 企画・イベント ===
* [[オールナイトニッポン ラジオ・チャリティー・ミュージックソン]] - 毎年・日曜深夜(月曜未明)以外の12月24日(12月25日未明)に放送
* [[セイ!ヤング・オールナイトニッポン Are you ready? Oh!]](2010年 - 2011年)- 1960年代末期から1980年代初期まで当番組の裏番組として放送の『セイ!ヤング』(文化放送)とタッグを組んだ番組。放送は、土曜日の20時30分-21時30分で、21時まで文化放送で放送して、時報の後21時からニッポン放送で放送するというリレー放送である。
* [[オールナイトニッポン45周年特別企画]]
* [[オールナイトニッポン高校水泳部]]
=== サービス ===
* [[オールナイトニッポンモバイル]] - 携帯電話専用ウェブサイトとレコチョクで配信されているダウンロード販売ラジオ番組
* [[オールナイトニッポンi]]
* [[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]]
* [[Spotify]] - 一部番組がポッドキャスト形式で独占配信されている<ref>{{Cite web|和書| url=https://natalie.mu/owarai/news/479000| title=「オールナイトニッポン」6番組ポッドキャストがSpotifyで独占配信へ| publisher=ナターシャ| website=[[ナタリー (ニュースサイト)|お笑いナタリー]]| date=2022-05-26| accessdate=2022-05-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=https://natalie.mu/music/news/492744| title=「星野源のオールナイトニッポン」Spotifyで配信スタート| publisher=ナターシャ| website=[[ナタリー (ニュースサイト)|お笑いナタリー]]| date=2022-09-07| accessdate=2023-01-17}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 夜明けの紙風船(ペップ出版、1975年刊行)
* 夜明けの紙風船 パート2(ペップ出版、1977年刊行)
* オールナイトニッポン大百科([[主婦の友社]]、1997年刊行)- オールナイトニッポン30周年記念。
* [[村野まさよし]]『深夜放送がボクらの先生だった』([[実業之日本社]]、2008年刊行)
* 文化放送&ニッポン放送&田家英樹『セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説』([[扶桑社]]、2011年刊行)
* 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』([[ディスクユニオン]](DU BOOKS)、2015年刊行)
== 外部リンク ==
* 公式サイト
** [https://www.allnightnippon.com/ オールナイトニッポン.com ニッポン放送](オールナイトニッポン・ニッポン放送夜の番組ページ)
** [https://www.allnightnippon.com/50th/ 50周年特設サイト | オールナイトニッポン.com ラジオAM1242+FM93]
** [https://www.1242.com/info/ann/parsonality.pdf オールナイトニッポンヒストリー 1967 ‐ 2022]
** {{Twitter|Ann_Since1967|オールナイトニッポン}}
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9,277 | 週 | 週(しゅう)とは、7日を1周期とする時間の単位である。7日のそれぞれは曜日と呼ばれ、日本語ではそれぞれ七曜の名を冠して日曜日、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日と呼ばれる。7日を1週とする単位の由来は極めて古く、古代バビロニアに遡ると考えられている。
ちなみに、ローマ歴では当初1週間を8日とする制度(英語版)とするヌンディナエ(英語版) が使用され、古代エジプト・古代ギリシアやフランス革命暦では10日、ソビエト連邦暦では5日や6日を1週間とした。
キリスト教圏では、旧約聖書の『創世記』を引用して、創造主が世界を6日間で創り上げ7日目に休暇をとったことに由来すると説明されることが多い。また、バビロン捕囚によって週の習慣がユダヤ人に伝わったともいわれる説がある。天球上を移動する太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の7つの天体、いわゆる七曜が由来であるとも、太陰暦の1か月を4等分したことに由来するともいわれる。
現代の日本においては、カレンダーは日曜日から、予定を記入する手帳は月曜日から週を始めることが多い。後者の代表的な製品の一つである能率手帳は、週休二日制の定着に伴い1989年から月曜日始まりに変更された。
フランスで1793年11月24日から1805年12月31日まで(グレゴリオ暦)施行されたフランス革命暦では、従来の週を廃し、1か月を10日ずつの3つのデカード (décade) に分けた。これはフランス語で週を意味するスメヌ (semaine) とは別語だが、「週」と和訳されることがある。また、旬と訳すこともある。合理化を追求したためだが、苦痛に感じる国民が多かったため、デカード制は革命暦終了に先立って1802年に廃止された。
ソビエト連邦で1929年から1940年まで施行されたソビエト革命暦では、従来の週を廃し、黄曜日、桃曜日、赤曜日、紫曜日、緑曜日からなる5日ずつの週に分けられた。しかし不評であったため、1931年12月1日からは6日ずつの週に変更された。だがこれも不評であったため、1940年に廃止された。 | [
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] | 週(しゅう)とは、7日を1周期とする時間の単位である。7日のそれぞれは曜日と呼ばれ、日本語ではそれぞれ七曜の名を冠して日曜日、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日と呼ばれる。7日を1週とする単位の由来は極めて古く、古代バビロニアに遡ると考えられている。 ちなみに、ローマ歴では当初1週間を8日とする制度とするヌンディナエ が使用され、古代エジプト・古代ギリシアやフランス革命暦では10日、ソビエト連邦暦では5日や6日を1週間とした。 | {{単位|名称=週|記号=w|単位系=[[暦法]]|物理量=[[時間]]|定義=7[[日]]|SI=604800[[秒]]|画像=[[Image:Weekday heptagram.svg|200px]]}}
'''週'''(しゅう)とは、7[[日]]を1周期とする[[時間]]の単位である。7日のそれぞれは[[曜日]]と呼ばれ、日本語ではそれぞれ[[七曜]]の名を冠して[[日曜日]]、[[月曜日]]、[[火曜日]]、[[水曜日]]、[[木曜日]]、[[金曜日]]、[[土曜日]]と呼ばれる。7日を1週とする単位の由来は極めて古く、古代[[バビロニア]]に遡ると考えられている。
ちなみに、ローマ歴では当初{{ill2|1週間を8日とする制度|en|Eight-day week}}とする{{ill2|ヌンディナエ|en|Nundinae}} が使用され、古代エジプト・古代ギリシアや[[フランス革命暦]]では10日、[[ソビエト連邦暦]]では5日や6日を1週間とした<ref>{{Cite web|和書|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CDD7C1C72F1BDB5B4D6A4C8A4CFA1A92FC6FCCDCBC6FC.html#i500d98b |title=暦Wiki/要素/1週間とは?/日曜日 - 国立天文台暦計算室 |access-date=2023-05-16 |website=eco.mtk.nao.ac.jp}}</ref>。
== 歴史 ==
[[キリスト教]]圏では、[[旧約聖書]]の『[[創世記]]』を引用して、[[神|創造主]]<ref>{{lang-he|אֱלֹהִ֑ים}}, ’ĕ·lō·hîm, [[エロヒム]](『[[創世記]]』第2章第2節。[https://biblehub.com/interlinear/genesis/2-2.htm Genesis 2:2] Interlinear, Bible Hub)。</ref>が世界を6日間で創り上げ7日目に休暇をとったことに由来する<ref>[[渡邊敏夫|渡辺敏夫]]「[https://kotobank.jp/word/%E9%80%B1-76699#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 週]」『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』[[小学館]]/[[コトバンク]](2021年7月2日閲覧)</ref>と説明されることが多い。また、[[バビロン捕囚]]によって週の習慣が[[ユダヤ人]]に伝わったともいわれる説がある。[[天球]]上を移動する[[太陽]]、[[月]]、[[火星]]、[[水星]]、[[木星]]、[[金星]]、[[土星]]の7つの[[天体]]、いわゆる七曜が由来であるとも、[[太陰暦]]の1[[月 (暦)|か月]]を4等分したことに由来するともいわれる。
*[[月相|月の満ち欠け]]がもとになったといわれ、[[新月]]、[[上弦の月]]、[[満月]]、[[下弦の月]]はおおよそ7日ごとに移り変わる。
*7日単位で週を定義する習慣の起源は諸説あるが、遅くとも古代[[バビロニア]]では既に導入されていた。古代バビロニアでは新月を基準に、[[朔望月]]の周期を4等分して、毎月7、14、21、28日を[[休日]]にした<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000048153 |title=一週間が七日なのはなぜか。 |accessdate=2022-01-01 |last=国立国会図書館 |website=レファレンス協同データベース |quote=『暦(こよみ)入門』p.30から「週の起源」について次のように書かれている。「…。週の起源は古く,…。バビロニヤの発掘物の研究の結果によると,バビロニヤでは太陰暦を用いて,新月から日を29日,または30日まで数えて7日,14日,21日,28日を安息日としていたということである。…」また,『時と暦』にはp.98から「週と世界暦」について次のように書かれている。「七日という周期は朔望月の四分の一に関係あるわけで,太陰暦を用いていた古代バビロニアに起こり,それがユダヤ暦に入ったものと思われます。…」 |language=ja}}</ref>。ただし、1か月は28日ではないので、厳密に7日周期の週が成立したとはいい難い。
* ユダヤ人は7日毎に神の休日、[[安息日]]を守ってきた。このような週の習慣は1世紀以降、キリスト教の「[[主日|主の日]]」によって受け継がれた。
== 週の始まりと曜日の順序 ==
{{main|曜日}}
現代の[[日本]]においては、[[カレンダー]]は日曜日から、予定を記入する[[手帳]]は月曜日から週を始めることが多い。後者の代表的な製品の一つである[[能率手帳]]は、[[週休二日制]]の定着に伴い[[1989年]]から月曜日始まりに変更された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15052592.html |title=週の始まりは月曜日?それとも日曜日? 手帳評論家・舘神龍彦さんに聞く |accessdate=2021年10月5日 |website=朝日新聞デジタル |work=論の芽 |language=ja}}『[[朝日新聞]]』朝刊2021年9月23日オピニオン面</ref>。
== 革命暦の週 ==
=== フランス革命暦の週 ===
{{main|フランス革命暦}}
[[フランス]]で[[1793年]][[11月24日]]から[[1805年]][[12月31日]]まで([[グレゴリオ暦]])施行された[[フランス革命暦]]では、従来の週を廃し、1か月を10日ずつの3つのデカード (décade) に分けた。これはフランス語で週を意味するスメヌ (semaine) とは別語だが、「週」と和訳されることがある。また、[[旬 (単位)|旬]]と訳すこともある。合理化を追求したためだが、苦痛に感じる国民が多かったため、デカード制は革命暦終了に先立って[[1802年]]に廃止された。
=== ソビエト革命暦の週 ===
{{main|ソビエト連邦暦}}
[[ソビエト連邦]]で[[1929年]]から[[1940年]]まで施行された[[ソビエト連邦暦|ソビエト革命暦]]では、従来の週を廃し、黄曜日、桃曜日、赤曜日、紫曜日、緑曜日からなる5日ずつの週に分けられた。しかし不評であったため、[[1931年]][[12月1日]]からは6日ずつの週に変更された。だがこれも不評であったため、1940年に廃止された。
== 週に関する作品 ==
=== 音楽 ===
* 一週間に十日来い - [[五月みどり]](作詞: 小島胡秋、作曲: 遠藤実)
* [[一週間 (ロシア民謡)|一週間]] - [[ロシア民謡]](訳詞: 音楽舞踊団カチューシャ)
* [[ウンジャラゲ]] - [[ハナ肇とクレージーキャッツ]](作詞: 藤田敏雄、作曲: [[宮川泰]])
* [[エイト・デイズ・ア・ウィーク]] - [[ビートルズ]](作詞・作曲: [[レノン=マッカートニー]])
* everyday - [[飯塚雅弓]](作詞:岡崎律子、作曲:岡崎律子、編曲:長谷川智樹)
* 月火水木金土日のうた(作詞: [[谷川俊太郎]]、作曲: [[服部公一]])
* [[月月火水木金金]](作詞:高橋俊策、作曲:[[江口夜詩|江口源吾(夜詩)]])
*ぼくらそろって一週間 - こおろぎ'73、ヤング・フレッシュ(作詞: 若林一郎、作曲・編曲: 菊池俊輔)
*[[weeeek]] - [[NEWS (グループ)|NEWS]](作詞・作曲: 作詞・作曲:[[GReeeeN]]、編曲:鈴木雅也、[[JIN (ミュージシャン)|JIN]])
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|週}}
* [[曜日]]
* [[半月 (期間)]]
* [[旬 (単位)]]、[[假]](け/か)
* [[七曜]]
* [[六曜]]
* [[日本の週間一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CDD7C1C72F1BDB5B4D6A4C8A4CFA1A9.html 1週間とは? - 国立天文台]
{{曜日}}
{{Time topics}}
{{Time measurement and standards}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆう}}
[[Category:週|*]]
[[Category:時間の単位]] | 2003-05-24T15:02:06Z | 2023-12-03T04:17:06Z | false | false | false | [
"Template:単位",
"Template:Ill2",
"Template:Reflist",
"Template:曜日",
"Template:Time topics",
"Template:Main",
"Template:Cite web",
"Template:Lang-he",
"Template:Wiktionary",
"Template:Time measurement and standards",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1 |
9,278 | ヘレネー | ヘレネー(古代ギリシャ語: Ἑλένη, Helenē、ラテン語: Helena、英語: Helen)は、ギリシア神話に登場する女性である。長母音を省略してヘレネとも表記される。元来はスパルタで信仰された樹木崇拝に関わる女神だったと考えられている。
表向きはスパルタ王テュンダレオースと王妃レーダーの娘であるが、実父はゼウスであり、実母はネメシスともされる。兄にディオスクーロイ(カストールとポリュデウケース)兄弟、姉にクリュタイムネーストラーがいる。メネラーオスの妻となったが、イーリオス(トロイア)の王子パリスにさらわれ、トロイア戦争の原因となった。
ヘレネーは成長すると、地上で最も美しい絶世の美女となった。アテネ王テーセウスは彼女をさらって母アイトラーのもとにあずけたが、ディオスクーロイにアイトラーごと取り返された。アイトラーは、この後ヘレネーに召し使われてイーリオスまでついて行き、イーリオス陥落の際にテーセウスの息子のデーモポーンとアカマースに再会した。
ヘレネーの結婚に際しては、求婚者がギリシア中から集まった。ヘレネーの義父テュンダレオース(一説ではオデュッセウスとも)は、彼らの中の誰を結婚相手に選んでも、それ以外の男たちの恨みを買う恐れがあるため、あらかじめ「誰が選ばれるにしても、その男が困難な状況に陥った場合には、全員がその男を助ける」という約束をさせ、彼らの中からスパルタ王メネラーオスを選んだ。
メネラーオスの妻となったヘレネーは、イーリオスの王子パリスの訪問を受けた。パリスは美の審判の際に、アプロディーテーからヘレネーを妻にするようそそのかされていたのである。ヘレネーはパリスに魅了され、娘ヘルミオネーを捨てて、イーリオスまでついていってしまった。
メネラーオスとその兄アガメムノーンらは、ヘレネーを取り返すべく、求婚者仲間たちを集めてイーリオスに攻め寄せた。元求婚者たちは、前の約束があるためにこれを断ることができず、トロイア戦争に参加した。
トロイア戦争では、ヘレネーを返してギリシア勢に引き上げてもらおうという提案がなされるが、パリスが反論して沙汰やみになった。パリスの死後は、パリスの弟のヘレノスとデーイポボスがヘレネーをめぐって争いをおこし、ヘレネーはデーイポボスの妻になることとなった。ヘレノスは弟にヘレネーを奪われたことをうらみ、戦闘に参加するのをやめて市外に逃れた。その後ヘレノスはオデュッセウスに捕まって説得され、ギリシア勢に味方することになった。ヘレノスは予言能力によりイーリオス陥落に必要な条件を教え、その滅亡を助けた。
イーリオス陥落の際、木馬の中にいたメネラーオスは、デーイポボスの館に駆けつけてデーイポボスを殺した。そしてヘレネーも殺そうとするが、恋情やみがたく殺すことができなかった。ヘレネーはメネラーオスと共にスパルタに帰った。
後日談では、再びスパルタの王妃として、かつての求婚者たちの許しを得て平穏に暮らしたとされる。また、別の話ではアガメムノーンの息子オレステースによって殺されたとある。オレステースは、密通の果てに夫アガメムノーンを殺した母クリュタイムネーストラーを自らの手にかけたが、叔母であるヘレネーをも「父アガメムノーンを10年に及ぶ戦争に連れ出し、家族崩壊の原因を作った不義の女」として成敗した。ギリシア悲劇でもしばしば扱われたが、三大作家の一人エウリーピデースによる悲劇『ヘレネー』が現存している。
ヘロドトスはその著書『歴史』で、エジプトで得た知識としてこれらの通説とは異なる話を記載している。
それによると、パリスの船が風の影響でエジプトに来航した際に、彼の従者が神殿に駆け込んで主人のヘレネー誘拐を暴露した為、パリス一行はエジプトの官憲に逮捕されてしまう。当時のエジプトには「漂着者は丁重に保護する」という規則があった為、パリスは命だけは助けられたものの、ヘレネーと彼女と共に略奪したスパルタ王室の宝物をエジプト王室の管理下に置かれた上で国外追放の判決が下された。事態を知らされたパリスの父でトロイ王プリアモスはスパルタに事情を説明するが、激怒したメネラーオスはトロイ側の話をトロイが落城するまで信用せず、エジプトに問い合わせすらしなかった。トロイが占領されるに至って、トロイからヘレネーの姿も痕跡も発見されず、尚且つ生き残った捕虜もプリアモスの話を繰り返すだけであった事から、漸くメネラーオスはエジプトを来訪。エジプトのファラオから歓待を受けた上、丁重に扱われていたヘレネーと厳重に保管されていた宝物の返還を受けた。しかしながら、帰国を焦るメネラーオスが航海安全祈願の生贄の為に現地民の子供を誘拐した事が発覚した為、慌てて出航したスパルタ人はリビア方面に流されてしまい、却って帰国に手間取ることになってしまった。
ヘロドトスは、もし実際にヘレネーがイーリオスにいたのであれば、パリスの意思に係わらず返還されていたであろうし、プリアモスがいくらパリスをかわいがっていようとも、王族を含む大量の戦死者が出ている状況であれば返さないはずがないとの考えを記している。
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] | ヘレネーは、ギリシア神話に登場する女性である。長母音を省略してヘレネとも表記される。元来はスパルタで信仰された樹木崇拝に関わる女神だったと考えられている。 表向きはスパルタ王テュンダレオースと王妃レーダーの娘であるが、実父はゼウスであり、実母はネメシスともされる。兄にディオスクーロイ(カストールとポリュデウケース)兄弟、姉にクリュタイムネーストラーがいる。メネラーオスの妻となったが、イーリオス(トロイア)の王子パリスにさらわれ、トロイア戦争の原因となった。 | {{otheruses|[[ギリシア神話]]に登場する女性|左記ヘレネーに由来する名前の[[土星]]の[[衛星]]|ヘレネ (衛星)}}
[[ファイル:Helene Paris David.jpg|300px|thumb|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の1788年の絵画『ヘレネーとパリスの愛』の一部。[[パリ]]、[[ルーヴル美術館]]所蔵。]]
'''ヘレネー'''({{翻字併記|grc|'''Ἑλένη'''|Helenē|n}}、{{lang-la|Helena}}、{{lang-en|Helen}})は、[[ギリシア神話]]に登場する女性である。[[長母音]]を省略して'''ヘレネ'''とも表記される。元来は[[スパルタ]]で信仰された樹木崇拝に関わる女神だったと考えられている<ref>[[里中満智子]] 『マンガ ギリシア神話7 トロイの木馬』 [[中央公論新社]]</ref>。
表向きはスパルタ王[[テュンダレオース]]と王妃[[レーダー (ギリシア神話)|レーダー]]の娘であるが、実父は[[ゼウス]]であり、実母は[[ネメシス]]ともされる。兄に[[ディオスクーロイ]]([[カストール]]と[[ポリュデウケース]])兄弟、姉に[[クリュタイムネーストラー]]がいる。[[メネラーオス]]の妻となったが、[[イリオス|イーリオス]](トロイア)の王子[[パリス]]にさらわれ、[[トロイア戦争]]の原因となった。
== 神話 ==
ヘレネーは成長すると、地上で最も美しい絶世の美女となった。[[アテネ]]王[[テーセウス]]は彼女をさらって母[[アイトラー]]のもとにあずけたが、[[ディオスクーロイ]]にアイトラーごと取り返された。アイトラーは、この後ヘレネーに召し使われてイーリオスまでついて行き、イーリオス陥落の際にテーセウスの息子の[[デーモポーン]]と[[アカマース]]に再会した。
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ヘレネーの結婚に際しては、求婚者がギリシア中から集まった。ヘレネーの義父テュンダレオース(一説では[[オデュッセウス]]とも)は、彼らの中の誰を結婚相手に選んでも、それ以外の男たちの恨みを買う恐れがあるため、あらかじめ「誰が選ばれるにしても、その男が困難な状況に陥った場合には、全員がその男を助ける」という約束をさせ、彼らの中から[[スパルタ]]王[[メネラーオス]]を選んだ。
メネラーオスの妻となったヘレネーは、イーリオスの王子パリスの訪問を受けた。パリスは[[パリスの審判|美の審判]]の際に、[[アプロディーテー]]からヘレネーを妻にするようそそのかされていたのである。ヘレネーはパリスに魅了され、娘[[ヘルミオネー]]を捨てて、イーリオスまでついていってしまった。
メネラーオスとその兄[[アガメムノーン]]らは、ヘレネーを取り返すべく、求婚者仲間たちを集めてイーリオスに攻め寄せた。元求婚者たちは、前の約束があるためにこれを断ることができず、トロイア戦争に参加した。
トロイア戦争では、ヘレネーを返してギリシア勢に引き上げてもらおうという提案がなされるが、パリスが反論して沙汰やみになった。パリスの死後は、パリスの弟の[[ヘレノス]]と[[デーイポボス]]がヘレネーをめぐって争いをおこし、ヘレネーはデーイポボスの妻になることとなった。ヘレノスは弟にヘレネーを奪われたことをうらみ、戦闘に参加するのをやめて市外に逃れた。その後ヘレノスは[[オデュッセウス]]に捕まって説得され、ギリシア勢に味方することになった。ヘレノスは予言能力によりイーリオス陥落に必要な条件を教え、その滅亡を助けた。
イーリオス陥落の際、[[トロイアの木馬|木馬]]の中にいたメネラーオスは、デーイポボスの館に駆けつけてデーイポボスを殺した。そしてヘレネーも殺そうとするが、恋情やみがたく殺すことができなかった。ヘレネーはメネラーオスと共にスパルタに帰った。
後日談では、再びスパルタの王妃として、かつての求婚者たちの許しを得て平穏に暮らしたとされる。また、別の話ではアガメムノーンの息子[[オレステース]]によって殺されたとある。オレステースは、密通の果てに夫アガメムノーンを殺した母クリュタイムネーストラーを自らの手にかけたが、叔母であるヘレネーをも「父アガメムノーンを10年に及ぶ戦争に連れ出し、家族崩壊の原因を作った不義の女」として成敗した。ギリシア悲劇でもしばしば扱われたが、三大作家の一人[[エウリーピデース]]による悲劇『[[ヘレネ (エウリピデス)|ヘレネー]]』が現存している<ref>{{Cite book|和書| translator = 細井敦子 | title = ヘレネー |series = 『ギリシア悲劇全集』第8巻「エウリーピデース4」 | publisher = 岩波書店 | year = 2007 | isbn = 4000916084 }}</ref>。
[[ヘロドトス]]はその著書『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』で、エジプトで得た知識としてこれらの通説とは異なる話を記載している。
それによると、パリスの船が風の影響でエジプトに来航した際に、彼の従者が神殿に駆け込んで主人のヘレネー誘拐を暴露した為、パリス一行はエジプトの官憲に逮捕されてしまう。当時のエジプトには「漂着者は丁重に保護する」という規則があった為、パリスは命だけは助けられたものの、ヘレネーと彼女と共に略奪したスパルタ王室の宝物をエジプト王室の管理下に置かれた上で国外追放の判決が下された。事態を知らされたパリスの父でトロイ王[[プリアモス]]はスパルタに事情を説明するが、激怒したメネラーオスはトロイ側の話をトロイが落城するまで信用せず、エジプトに問い合わせすらしなかった。トロイが占領されるに至って、トロイからヘレネーの姿も痕跡も発見されず、尚且つ生き残った捕虜もプリアモスの話を繰り返すだけであった事から、漸くメネラーオスはエジプトを来訪。エジプトの[[ファラオ]]から歓待を受けた上、丁重に扱われていたヘレネーと厳重に保管されていた宝物の返還を受けた。しかしながら、帰国を焦るメネラーオスが航海安全祈願の生贄の為に現地民の子供を誘拐した事が発覚した為、慌てて出航したスパルタ人は[[リビア]]方面に流されてしまい、却って帰国に手間取ることになってしまった。
ヘロドトスは、もし実際にヘレネーがイーリオスにいたのであれば、パリスの意思に係わらず返還されていたであろうし、プリアモスがいくらパリスをかわいがっていようとも、王族を含む大量の戦死者が出ている状況であれば返さないはずがないとの考えを記している<ref>『歴史』巻2</ref>。
== 影響 ==
[[土星]]の第12[[衛星]][[ヘレネ (衛星)|ヘレネ]]はヘレネーにちなんで名付けられた。
== 系図 ==
{{ラケダイモーンの系図}}
== ギャラリー ==
<gallery heights="160px">
Theseus pursuit Louvre G423.jpg|{{small|[[赤絵式]]ベル[[クラテール]](紀元前440年頃から430年頃)テセウスがヘレネーをさらう様子}}
Leda and the Swan 1505-1510.jpg|{{small|{{ill2|チェザーレ・ダ・セスト|en|Cesare da Sesto}}『[[レダと白鳥]]』(1506年-1510年頃)ヘレネー誕生の場面}}
Enlèvement d'Hélène, Reni (Louvre INV 539) 09.jpg|{{small|[[グイド・レーニ]]『ヘレネーの略奪』の一部(1631年)}}
Helen of Troy.jpg|{{small|[[イーヴリン・ド・モーガン]]『トロイのヘレネー』(1898年)}}
Helen Moreau.jpg|{{small|[[ギュスターヴ・モロー]]『トロイの城壁のヘレネー』(19世紀後半)}}
</gallery>
[[File:Maerten van Heemskerck - Panorama with the Abduction of Helen Amidst the Wonders of the Ancient World - Google Art Project.jpg|center|thumb|550px|[[マールテン・ファン・ヘームスケルク]]の 1535年の絵画『古代世界の驚異の中のヘレネの略奪のある風景』。[[ウォルターズ美術館]]所蔵。]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Helen}}
* [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト 第二部]]』
* [[ヘレナ (小惑星)]]
* [[トロイのヘレン]]
* {{仮リンク|トロイ ザ・ウォーズ|en|Helen of Troy (miniseries)}}
* [[美しきエレーヌ]]
{{ギリシア神話}}
{{イーリアスの登場人物}}
{{オデュッセイアの登場人物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:へれねえ}}
[[Category:ギリシア神話の神]]
[[Category:ギリシア神話の人物]]
[[Category:イーリアスの登場人物]]
[[Category:オデュッセイアの登場人物]] | 2003-05-24T15:42:49Z | 2023-12-02T04:26:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%8D%E3%83%BC |
9,280 | データ | データ(英: data)は、個々の事実・数値、情報、統計、変数の項目である。より厳密には、データとは1人または複数の人や物や事象に関する定性的または定量的な値の集まりである。dataの単数形のデータム(英: datum)は、ある事実、情報、変数の単一の数値または非数値である。
「データ」と「情報」は同じ意味で使われることがあるが、これらの用語には明確な意味がある。一般の出版物では、データは文脈内において表示または分析するときに情報に変換される、と言われることがある。しかし、学術的な扱いでは、主題のデータは単なる情報の一群とされる。データの用途は、科学研究、経営管理(例: 販売、収益、利益、株価)、金融、統治(例: 犯罪率(英語版)、失業率、識字率)、および事実上あらゆる形態の人間の組織活動(例: NPOによるホームレスの数の調査)におよぶ。
一般に、データは意思決定の要素である。推論、議論、計算の基礎として使用できる事実情報の最小単位である。データは、抽象的なアイデアから具体的な測定値、さらには統計に至るまで多岐にわたる。データは測定・収集・報告(英語版)・分析され、グラフ・表・画像などのデータ視覚化のために使われる。一般的な概念としてのデータは、既存の情報や知識が、より適切な用途や処理に適した形で表現・コード化されていることを指す。生データ(英語版)(未処理データ)とは、研究者によって洗浄・修正される前の数値や文字の集まりのことである。外れ値や明らかな機器またはデータ入力のエラー(例えば、北極圏の屋外に置かれた温度計が、熱帯の気温を記録している)を除去するためには、生データを修正する必要がある。データ処理は一般に、段階的に行われ、ある段階の「加工データ」は次の段階の「生データ」と見なされることがある。実地データは、制御されていない現場の(in situ)環境で収集された生データである。実験データ~(英語版)とは、科学的調査の活動内で、観察と記録によって生成されるデータである。
データは「デジタル経済(英語版)の新しい石油」と呼ばれている。
データ、情報、知識、知恵は密接に関連した概念であるが、それぞれに役割があり、それぞれの用語には意味がある。一般的な見方では、データは収集され、分析される。データは何らかの形で分析されて初めて意思決定を行うのに適した情報となる。つまり、あるデータ集合が誰かにとって有益であるかどうかは、その人がどの程度予期していたかによる。データストリームに含まれる情報量は、そのシャノンエントロピーによって特徴付けられることがある。
知識とは、ある主題に関する情報を扱った、豊富な経験に基づく理解のことである。たとえば、エベレストの高さは、一般にデータとみなされる。その高さは高度計で正確に測定し、データベースに入力することができる。このデータを、エベレストに関する他のデータと一緒に本に掲載することで、エベレストに登るための最適な方法を決めたい人に役立つように、山を説明することができる。エベレスト山頂に到達するための方法をアドバイスできるような登山経験に基づいた理解も「知識」と見なせるかもしれない。そして、この知識に基づいたエベレスト山頂への実際の登山は「知恵」と見ることができる。言い換えれば、知恵とは、人が持っている知識を、良い結果が得られるような状況で実践することである。このように知恵は、「データ」「情報」「知識」という抽象化された一連の概念を補完し、完結させるものである。
データは最も抽象度が低い概念で、情報はその次に抽象度が高く、知識は最も抽象的な概念とされることが多い。この見方では、データは解釈を加えることによって情報に変わる。たとえば、エベレストの高さは一般に「データ」とされ、エベレストの地質学的特徴に関する書籍は「情報」とされ、エベレスト山頂に到達するための最適な方法に関する実用的な情報を含む登山ガイドブックは「知識」と見なされる。「情報」とは、日常的な使用から専門的な使用まで、さまざまな意味を持っている。しかし、こうした見方は、「データ」が「情報」が作られ、「情報」から「知識」が作られることを逆手に取った主張とも言える。一般的に言えば、情報という概念は、制約、コミュニケーション、制御、データ、形式、指示、知識、意味、精神的刺激、パターン、知覚、および表現の概念と密接に関係している。バイノン・デイヴィス(英語版)はデータと情報を区別するために記号の概念を用いている。データは一連の記号であるが、情報はその記号が何かを参照するために使われたときに生まれる。
計算装置や機械が開発される以前は、人々は手作業でデータを収集し、それにパターンを当てはめる必要があった。しかし、計算装置や機械が発達し、これらのデバイスがデータを収集できるようになった。2010年代には、マーケティングや市民による社会福祉の利用状況の分析、科学研究に至るまで、さまざまな分野でデータを収集し、分類や加工するためにコンピュータが広く使われている。データ上におけるこうしたパターンは、知識を高めるための情報と見なされている。これらのパターンは「真理」として解釈されることもあり(ただし「真理」は主観的な概念となることもある)、一部の分野や文化では美的および倫理的基準として承認されることもある。知覚可能な物理的または仮想的な標識を残す出来事は、データを通して遡ることができる。標識と観察との間の関係が切れると、標識はもはやデータとはみなされなくなる。
アナログ計算機は、データを電圧、距離、位置、または他の物理量として表現する。デジタルコンピュータは、固定されたアルファベットから取った記号の並びとしてデータを表現する。最も一般的なデジタルコンピュータは、二進数アルファベット、つまり、通常「0」と「1」で表される2文字のアルファベットを使用する。次に、数字や文字などの身近な表現は、この二進数アルファベットから構築される。データの中には特殊な形式もあって区別される。コンピュータプログラムはデータの集まりであり、命令として解釈することができる。ほとんどのコンピュータ言語では、プログラムと、プログラムが操作する他のデータとを区別しているが、Lispやそれに類する言語では、プログラムは他のデータと本質的に区別できない。また、メタデータ、すなわち他のデータの説明も区別することも有用である。メタデータに類似した、以前の用語は、補助データ(ancillary data)である。メタデータの原型の例は、書籍の内容の説明である図書館目録である。
データを登録する必要がある場合は必ず、データドキュメント(data documents)という形式のデータが存在する。データドキュメントには次のような種類がある。
これらのデータドキュメントの一部(データリポジトリ、データスタディ、データセット、ソフトウェア)はデータ・サイテーション・インデックスに、データペーパーは従来の書誌データベース、たとえばサイエンス・サイテーション・インデックスに索引付けされている。
データの収集は、一次資料(研究者が最初にデータを入手する)または二次資料(科学雑誌で発表されたデータなど、他の資料によって既に収集されているデータを研究者が入手する)を通じて行うことができる。データ分析の方法論はさまざまで、データ・トライアンギュレーションやデータ・パーコレーションが含まれる。前者は、研究の客観性を最大化し、調査対象の現象をできるだけ完全に理解するために、定性的および定量的方法、文献レビュー(学術論文を含む)、専門家へのインタビュー、コンピュータシミュレーションの5つの分析角度(少なくとも3つ)からデータを収集、分類、分析する方法を明確にしたものである。その後、後者は、最も関連性の高い情報を抽出するために、あらかじめ決められた一連のステップでデータを「浸透」させます。
国際標準化機構の「ISO/IEC 2382-1」および日本工業規格の「X0001 情報処理用語-基本用語」において、「データ」の用語定義は "A reinterpretable representation of information in a formalized manner suitable for communication, interpretation, or processing."「情報の表現であって、伝達、解釈または処理に適するように形式化され、再度情報として解釈できるもの」とされている。
電子データは、コンピュータ内にあるか、コンピュータに取り込める形になったデータである。例えば、単なる印刷物上の文字データと区別して、文字コードに変換された文字データ、単なる印刷物上の画像データと区別して、ビットマップデータやJPEG方式の画像に変換された画像データなどをいう。コンピュータ内部の情報処理の場合は、わざわざ電子データと称することはほとんどない。
日本では刑法条文などで用いられている法律用語の「電磁的記録」は電子データおよび磁気データとほぼ同じ意味である。
ネットワークを介してCPUやハードディスクなどに流れ込む整理されているデータや整理されていないデータの幅広く性質の異なる変動性、速度、量で、企業はそれをビジネスアドバイスに変換する。
磁気データは、磁気記録されているデータである。磁気テープ、磁気ディスクなどのコンピュータ用の媒体や、ビデオテープ、定期券などの磁気ストライプに蓄えられる。近くに強力な磁石があると影響を受けて変化することがある。
データは、関連するものがひとまとまりにされ、整理されて保管されることが多い。これをデータ保管とよぶ。そこで保管されたデータの集まりをファイルと呼ぶ。
データの流れは、データフローと呼ばれ、データフローダイアグラムなどを用いて記述される。
処理の対象にされるデータの集合のことを、データベースとよぶ。
コンピュータの場合には、データはプログラム以外のものをさし、その形態は、文書、映像、音声など様々である。直接スイッチなどを使ってメモリ上に書き込む場合も有るが、大抵はプログラムによって出力され、他のプログラムなどで読み込み使われる。コンパイラなどの処理ではプログラムをインタプリタやコンパイラのデータとして扱う場合もある。またデータの中にプログラムを含むことも可能。x86などではプログラムとデータは同一のメモリー空間に配置され、設計者の意図によって区別される。
データは、レジストリやファイルやデータベース、などに収めることができる。
他の分野でもデータの活用が進んでいるが、その高度な説明的な性質は、データを「与えられたもの」とする倫理観と対立する可能性が指摘されている。ピーター・チェックランド(英語版)は、膨大な数の可能なデータと、注意を向けているそれらのサブセットを区別するために、capta(ラテン語の capere、「取る」に由来)という用語を導入した。ヨハンナ・ドラッカー(英語版)は、人文科学が知識の生産を「立場的、部分的、構成的」なものと断言している以上、data を用いることは、たとえば現象が離散的であるとか観察者に依存しないといった逆効果となる臆説を広めかねないと論じている。人文科学における視覚的表現のための data に代わるものとして、観察という行為を構成的なものとして強調する capta という用語が提案されている。
英語で初めて「data」という単語が使われたのは1640年代である。1946年に「データ」という言葉が「伝達可能で保存可能なコンピュータ情報」という意味で初めて使われた。「データ処理」(data processing)という表現が初めて使われたのは1954年である。英語の「data」は、「datum」の複数形で、ラテン語・イタリア語の dare(ダーレ、「与える」)を語源とする。英語の data はこの意味で複数名詞として使われることがあり、特に20世紀や21世紀の多くでは、自然科学、生命科学、社会科学に携わる作家は datum を単数形で、data を複数形で使っている(たとえば、APAスタイル(第7版)ではまだ data は複数形が要求されている)。しかし、日常会話、ソフトウェア開発、コンピュータサイエンスの世界では、data は不可算名詞として単数形で使われることがほとんどである。ビッグデータという用語は単数形をとっている。
中国語では「資料(ツーリャオ)」または「數據(シューチー)」ともいう。 | [
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"text": "データ(英: data)は、個々の事実・数値、情報、統計、変数の項目である。より厳密には、データとは1人または複数の人や物や事象に関する定性的または定量的な値の集まりである。dataの単数形のデータム(英: datum)は、ある事実、情報、変数の単一の数値または非数値である。",
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"text": "「データ」と「情報」は同じ意味で使われることがあるが、これらの用語には明確な意味がある。一般の出版物では、データは文脈内において表示または分析するときに情報に変換される、と言われることがある。しかし、学術的な扱いでは、主題のデータは単なる情報の一群とされる。データの用途は、科学研究、経営管理(例: 販売、収益、利益、株価)、金融、統治(例: 犯罪率(英語版)、失業率、識字率)、および事実上あらゆる形態の人間の組織活動(例: NPOによるホームレスの数の調査)におよぶ。",
"title": "概要"
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"text": "一般に、データは意思決定の要素である。推論、議論、計算の基礎として使用できる事実情報の最小単位である。データは、抽象的なアイデアから具体的な測定値、さらには統計に至るまで多岐にわたる。データは測定・収集・報告(英語版)・分析され、グラフ・表・画像などのデータ視覚化のために使われる。一般的な概念としてのデータは、既存の情報や知識が、より適切な用途や処理に適した形で表現・コード化されていることを指す。生データ(英語版)(未処理データ)とは、研究者によって洗浄・修正される前の数値や文字の集まりのことである。外れ値や明らかな機器またはデータ入力のエラー(例えば、北極圏の屋外に置かれた温度計が、熱帯の気温を記録している)を除去するためには、生データを修正する必要がある。データ処理は一般に、段階的に行われ、ある段階の「加工データ」は次の段階の「生データ」と見なされることがある。実地データは、制御されていない現場の(in situ)環境で収集された生データである。実験データ~(英語版)とは、科学的調査の活動内で、観察と記録によって生成されるデータである。",
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"text": "データは「デジタル経済(英語版)の新しい石油」と呼ばれている。",
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"text": "データ、情報、知識、知恵は密接に関連した概念であるが、それぞれに役割があり、それぞれの用語には意味がある。一般的な見方では、データは収集され、分析される。データは何らかの形で分析されて初めて意思決定を行うのに適した情報となる。つまり、あるデータ集合が誰かにとって有益であるかどうかは、その人がどの程度予期していたかによる。データストリームに含まれる情報量は、そのシャノンエントロピーによって特徴付けられることがある。",
"title": "意味"
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"text": "知識とは、ある主題に関する情報を扱った、豊富な経験に基づく理解のことである。たとえば、エベレストの高さは、一般にデータとみなされる。その高さは高度計で正確に測定し、データベースに入力することができる。このデータを、エベレストに関する他のデータと一緒に本に掲載することで、エベレストに登るための最適な方法を決めたい人に役立つように、山を説明することができる。エベレスト山頂に到達するための方法をアドバイスできるような登山経験に基づいた理解も「知識」と見なせるかもしれない。そして、この知識に基づいたエベレスト山頂への実際の登山は「知恵」と見ることができる。言い換えれば、知恵とは、人が持っている知識を、良い結果が得られるような状況で実践することである。このように知恵は、「データ」「情報」「知識」という抽象化された一連の概念を補完し、完結させるものである。",
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"text": "データは最も抽象度が低い概念で、情報はその次に抽象度が高く、知識は最も抽象的な概念とされることが多い。この見方では、データは解釈を加えることによって情報に変わる。たとえば、エベレストの高さは一般に「データ」とされ、エベレストの地質学的特徴に関する書籍は「情報」とされ、エベレスト山頂に到達するための最適な方法に関する実用的な情報を含む登山ガイドブックは「知識」と見なされる。「情報」とは、日常的な使用から専門的な使用まで、さまざまな意味を持っている。しかし、こうした見方は、「データ」が「情報」が作られ、「情報」から「知識」が作られることを逆手に取った主張とも言える。一般的に言えば、情報という概念は、制約、コミュニケーション、制御、データ、形式、指示、知識、意味、精神的刺激、パターン、知覚、および表現の概念と密接に関係している。バイノン・デイヴィス(英語版)はデータと情報を区別するために記号の概念を用いている。データは一連の記号であるが、情報はその記号が何かを参照するために使われたときに生まれる。",
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"text": "計算装置や機械が開発される以前は、人々は手作業でデータを収集し、それにパターンを当てはめる必要があった。しかし、計算装置や機械が発達し、これらのデバイスがデータを収集できるようになった。2010年代には、マーケティングや市民による社会福祉の利用状況の分析、科学研究に至るまで、さまざまな分野でデータを収集し、分類や加工するためにコンピュータが広く使われている。データ上におけるこうしたパターンは、知識を高めるための情報と見なされている。これらのパターンは「真理」として解釈されることもあり(ただし「真理」は主観的な概念となることもある)、一部の分野や文化では美的および倫理的基準として承認されることもある。知覚可能な物理的または仮想的な標識を残す出来事は、データを通して遡ることができる。標識と観察との間の関係が切れると、標識はもはやデータとはみなされなくなる。",
"title": "意味"
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"text": "アナログ計算機は、データを電圧、距離、位置、または他の物理量として表現する。デジタルコンピュータは、固定されたアルファベットから取った記号の並びとしてデータを表現する。最も一般的なデジタルコンピュータは、二進数アルファベット、つまり、通常「0」と「1」で表される2文字のアルファベットを使用する。次に、数字や文字などの身近な表現は、この二進数アルファベットから構築される。データの中には特殊な形式もあって区別される。コンピュータプログラムはデータの集まりであり、命令として解釈することができる。ほとんどのコンピュータ言語では、プログラムと、プログラムが操作する他のデータとを区別しているが、Lispやそれに類する言語では、プログラムは他のデータと本質的に区別できない。また、メタデータ、すなわち他のデータの説明も区別することも有用である。メタデータに類似した、以前の用語は、補助データ(ancillary data)である。メタデータの原型の例は、書籍の内容の説明である図書館目録である。",
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"text": "データを登録する必要がある場合は必ず、データドキュメント(data documents)という形式のデータが存在する。データドキュメントには次のような種類がある。",
"title": "データドキュメント"
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"text": "これらのデータドキュメントの一部(データリポジトリ、データスタディ、データセット、ソフトウェア)はデータ・サイテーション・インデックスに、データペーパーは従来の書誌データベース、たとえばサイエンス・サイテーション・インデックスに索引付けされている。",
"title": "データドキュメント"
},
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"text": "データの収集は、一次資料(研究者が最初にデータを入手する)または二次資料(科学雑誌で発表されたデータなど、他の資料によって既に収集されているデータを研究者が入手する)を通じて行うことができる。データ分析の方法論はさまざまで、データ・トライアンギュレーションやデータ・パーコレーションが含まれる。前者は、研究の客観性を最大化し、調査対象の現象をできるだけ完全に理解するために、定性的および定量的方法、文献レビュー(学術論文を含む)、専門家へのインタビュー、コンピュータシミュレーションの5つの分析角度(少なくとも3つ)からデータを収集、分類、分析する方法を明確にしたものである。その後、後者は、最も関連性の高い情報を抽出するために、あらかじめ決められた一連のステップでデータを「浸透」させます。",
"title": "データの収集と分析"
},
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"text": "国際標準化機構の「ISO/IEC 2382-1」および日本工業規格の「X0001 情報処理用語-基本用語」において、「データ」の用語定義は \"A reinterpretable representation of information in a formalized manner suitable for communication, interpretation, or processing.\"「情報の表現であって、伝達、解釈または処理に適するように形式化され、再度情報として解釈できるもの」とされている。",
"title": "コンピューティング分野では"
},
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"text": "電子データは、コンピュータ内にあるか、コンピュータに取り込める形になったデータである。例えば、単なる印刷物上の文字データと区別して、文字コードに変換された文字データ、単なる印刷物上の画像データと区別して、ビットマップデータやJPEG方式の画像に変換された画像データなどをいう。コンピュータ内部の情報処理の場合は、わざわざ電子データと称することはほとんどない。",
"title": "コンピューティング分野では"
},
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"text": "日本では刑法条文などで用いられている法律用語の「電磁的記録」は電子データおよび磁気データとほぼ同じ意味である。",
"title": "コンピューティング分野では"
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"text": "ネットワークを介してCPUやハードディスクなどに流れ込む整理されているデータや整理されていないデータの幅広く性質の異なる変動性、速度、量で、企業はそれをビジネスアドバイスに変換する。",
"title": "コンピューティング分野では"
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"text": "磁気データは、磁気記録されているデータである。磁気テープ、磁気ディスクなどのコンピュータ用の媒体や、ビデオテープ、定期券などの磁気ストライプに蓄えられる。近くに強力な磁石があると影響を受けて変化することがある。",
"title": "コンピューティング分野では"
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"text": "データは、関連するものがひとまとまりにされ、整理されて保管されることが多い。これをデータ保管とよぶ。そこで保管されたデータの集まりをファイルと呼ぶ。",
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"text": "データの流れは、データフローと呼ばれ、データフローダイアグラムなどを用いて記述される。",
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"text": "処理の対象にされるデータの集合のことを、データベースとよぶ。",
"title": "コンピューティング分野では"
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"text": "コンピュータの場合には、データはプログラム以外のものをさし、その形態は、文書、映像、音声など様々である。直接スイッチなどを使ってメモリ上に書き込む場合も有るが、大抵はプログラムによって出力され、他のプログラムなどで読み込み使われる。コンパイラなどの処理ではプログラムをインタプリタやコンパイラのデータとして扱う場合もある。またデータの中にプログラムを含むことも可能。x86などではプログラムとデータは同一のメモリー空間に配置され、設計者の意図によって区別される。",
"title": "コンピューティング分野では"
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"text": "データは、レジストリやファイルやデータベース、などに収めることができる。",
"title": "コンピューティング分野では"
},
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"text": "他の分野でもデータの活用が進んでいるが、その高度な説明的な性質は、データを「与えられたもの」とする倫理観と対立する可能性が指摘されている。ピーター・チェックランド(英語版)は、膨大な数の可能なデータと、注意を向けているそれらのサブセットを区別するために、capta(ラテン語の capere、「取る」に由来)という用語を導入した。ヨハンナ・ドラッカー(英語版)は、人文科学が知識の生産を「立場的、部分的、構成的」なものと断言している以上、data を用いることは、たとえば現象が離散的であるとか観察者に依存しないといった逆効果となる臆説を広めかねないと論じている。人文科学における視覚的表現のための data に代わるものとして、観察という行為を構成的なものとして強調する capta という用語が提案されている。",
"title": "議論"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "英語で初めて「data」という単語が使われたのは1640年代である。1946年に「データ」という言葉が「伝達可能で保存可能なコンピュータ情報」という意味で初めて使われた。「データ処理」(data processing)という表現が初めて使われたのは1954年である。英語の「data」は、「datum」の複数形で、ラテン語・イタリア語の dare(ダーレ、「与える」)を語源とする。英語の data はこの意味で複数名詞として使われることがあり、特に20世紀や21世紀の多くでは、自然科学、生命科学、社会科学に携わる作家は datum を単数形で、data を複数形で使っている(たとえば、APAスタイル(第7版)ではまだ data は複数形が要求されている)。しかし、日常会話、ソフトウェア開発、コンピュータサイエンスの世界では、data は不可算名詞として単数形で使われることがほとんどである。ビッグデータという用語は単数形をとっている。",
"title": "語源と用語"
},
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"text": "中国語では「資料(ツーリャオ)」または「數據(シューチー)」ともいう。",
"title": "語源と用語"
}
] | データは、個々の事実・数値、情報、統計、変数の項目である。より厳密には、データとは1人または複数の人や物や事象に関する定性的または定量的な値の集まりである。dataの単数形のデータムは、ある事実、情報、変数の単一の数値または非数値である。 | {{otheruses||コンピュータが取り扱う量/文字/記号など|データ (コンピュータ)|ドラマの登場人物|データ (スタートレック)}}
'''データ'''({{lang-en-short|links=no|data}})は、個々の[[事実]]・[[数値]]、[[情報]]、[[統計]]、[[変数]]の項目である<ref name="oecd">{{cite book|和書|title=OECD Glossary of Statistical Terms|page=119|date=2008|publisher=OECD|isbn=978-92-64-025561|url=https://stats.oecd.org/glossary/detail.asp?ID=532}}</ref>。より厳密には、データとは1人または複数の人や物や事象に関する[[定性的研究|定性的]]または[[定量的研究|定量的]]な値の集まりである<ref name="oecd"/>。dataの単数形の'''データム'''({{lang-en-short|links=no|datum}})は、ある事実、情報、変数の単一の数値または非数値である<ref>{{cite web |url=https://www.abs.gov.au/websitedbs/a3121120.nsf/home/statistical+language+-+what+are+data |title=Statistical Language - What are Data? |date=2013-07-13 |website=Australian Bureau of Statistics |access-date=2020-03-09 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20190419010315/http://www.abs.gov.au/websitedbs/a3121120.nsf/home/statistical+language+-+what+are+data |archive-date=2019-04-19}}</ref>。
== 概要 ==
「データ」と「情報」は同じ意味で使われることがあるが、これらの用語には明確な意味がある。一般の出版物では、データは文脈内において表示または分析するときに情報に変換される、と言われることがある<ref>{{Cite web |url=https://www.diffen.com/difference/Data_vs_Information |title=Data vs Information - Difference and Comparison {{!}} Diffen |website=www.diffen.com |language=en |access-date=2018-12-11}}</ref>。しかし、学術的な扱いでは、主題のデータは単なる情報の一群とされる。データの用途は、[[科学的方法|科学研究]]、経営管理(例: 販売、収益、利益、[[株価]])、[[金融]]、統治(例: {{Ill2|犯罪統計学|en|Crime statistics|label=犯罪率}}、[[失業率]]、[[識字率]])、および事実上あらゆる形態の人間の組織活動(例: [[NPO]]による[[ホームレス]]の数の調査)におよぶ。
一般に、データは意思決定の要素である。推論、議論、計算の基礎として使用できる事実情報の最小単位である。データは、抽象的なアイデアから具体的な測定値、さらには統計に至るまで多岐にわたる。データは[[測定]]・収集・{{仮リンク|データ報告|en|data reporting|label=報告}}・[[データ解析|分析]]され、グラフ・表・画像などの[[データ視覚化]]のために使われる。一般的な[[概念]]としてのデータは、既存の[[情報]]や[[知識]]が、より適切な用途や処理に適した形で[[知識表現|表現]]・[[符号|コード化]]されていることを指す。{{仮リンク|生データ|en|raw data}}(未処理データ)とは、研究者によって洗浄・修正される前の数値や文字の集まりのことである。[[外れ値]]や明らかな機器またはデータ入力のエラー(例えば、北極圏の屋外に置かれた温度計が、熱帯の気温を記録している)を除去するためには、生データを修正する必要がある。データ処理は一般に、段階的に行われ、ある段階の「加工データ」は次の段階の「生データ」と見なされることがある。[[フィールドワーク|実地データ]]は、制御されていない現場の([[in situ]])環境で収集された生データである。{{仮リンク|実験データ~|en|experimental data}}とは、[[科学]]的調査の活動内で、観察と記録によって生成されるデータである。
データは「{{Ill2|デジタル経済|en|Digital economy}}の新しい[[石油]]」と呼ばれている<ref>{{Cite magazine|last=Yonego|first=Joris Toonders|date=July 23, 2014|title=Data Is the New Oil of the Digital Economy|url=https://www.wired.com/insights/2014/07/data-new-oil-digital-economy/|magazine=Wired|via=www.wired.com}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://spotlessdata.com/blog/data-new-oil |title=Data is the new oil |date=July 16, 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180716224058/https://spotlessdata.com/blog/data-new-oil |archive-date=2021-10-27 |accessdate=2022-04-03}}</ref>。
== 意味 ==
[[ファイル:Philosophical Transactions - Volume 001.djvu|リンク=[[:ファイル:Philosophical Transactions - Volume 001.djvu
?page=60]]|ページ=60|右|サムネイル|[[アドリアン・オーズー]]の「対物レンズの開口数表。[[フィロソフィカル・トランザクションズ]]に掲載された論文(1665年)]]
{{See also|en:DIKW pyramid}}データ、[[情報]]、[[知識]]、[[知恵]]は密接に関連した概念であるが、それぞれに役割があり、それぞれの用語には意味がある。一般的な見方では、データは収集され、分析される。データは何らかの形で分析されて初めて意思決定を行うのに適した情報となる<ref>{{cite web |title=Joint Publication 2-0, Joint Intelligence |url=http://www.jcs.mil/Portals/36/Documents/Doctrine/pubs/jp2_0.pdf |work=Joint Chiefs of Staff, Joint Doctrine Publications |publisher=Department of Defense |access-date=July 17, 2018 |pages=I-1 |date=23 October 2013}}</ref>。つまり、あるデータ集合が誰かにとって有益であるかどうかは、その人がどの程度予期していたかによる。データストリームに含まれる情報量は、その[[シャノンエントロピー]]によって特徴付けられることがある。
知識とは、ある主題に関する情報を扱った、豊富な経験に基づく理解のことである。たとえば、[[エベレスト]]の高さは、一般にデータとみなされる。その高さは[[高度計]]で正確に測定し、データベースに入力することができる。このデータを、エベレストに関する他のデータと一緒に本に掲載することで、エベレストに登るための最適な方法を決めたい人に役立つように、山を説明することができる。エベレスト山頂に到達するための方法をアドバイスできるような登山経験に基づいた理解も「知識」と見なせるかもしれない。そして、この知識に基づいたエベレスト山頂への実際の登山は「知恵」と見ることができる。言い換えれば、知恵とは、人が持っている知識を、良い結果が得られるような状況で実践することである。このように知恵は、「データ」「情報」「知識」という抽象化された一連の概念を補完し、完結させるものである。
データは最も抽象度が低い概念で、情報はその次に抽象度が高く、知識は最も抽象的な概念とされることが多い<ref>{{cite web |author=Akash Mitra |year=2011 |title=Classifying data for successful modeling |url=https://dwbi.org/data-modelling/dimensional-model/16-classifying-data-for-successful-modeling |access-date=2017-11-05 |archive-date=2017-11-07 |archive-url=https://web.archive.org/web/20171107030817/https://dwbi.org/data-modelling/dimensional-model/16-classifying-data-for-successful-modeling |url-status=dead}}</ref>。この見方では、データは解釈を加えることによって情報に変わる。たとえば、エベレストの高さは一般に「データ」とされ、エベレストの地質学的特徴に関する書籍は「情報」とされ、エベレスト山頂に到達するための最適な方法に関する実用的な情報を含む登山ガイドブックは「知識」と見なされる。「情報」とは、日常的な使用から専門的な使用まで、さまざまな意味を持っている。しかし、こうした見方は、「データ」が「情報」が作られ、「情報」から「知識」が作られることを逆手に取った主張とも言える<ref>{{cite journal|last=Tuomi|first=Ilkka|date=2000|title=Data is more than knowledge|journal=Journal of Management Information Systems|volume=6|issue=3|pages=103–117|doi=10.1080/07421222.1999.11518258}}</ref>。一般的に言えば、情報という概念は、制約、コミュニケーション、制御、データ、形式、指示、知識、意味、精神的刺激、パターン、知覚、および表現の概念と密接に関係している。{{Ill2|バイノン・デイヴィス|en|Paul Beynon-Davies}}はデータと情報を区別するために[[記号]]の概念を用いている。データは一連の記号であるが、情報はその記号が何かを参照するために使われたときに生まれる<ref>{{cite book|author=P. Beynon-Davies|year=2002|title=Information Systems: An introduction to informatics in organisations|publisher=[[Palgrave Macmillan]]|location=Basingstoke, UK|isbn=0-333-96390-3}}</ref><ref>{{cite book|author=P. Beynon-Davies|year=2009|title=Business information systems|publisher=Palgrave|location=Basingstoke, UK|isbn=978-0-230-20368-6}}</ref>。
計算装置や機械が開発される以前は、人々は手作業でデータを収集し、それにパターンを当てはめる必要があった。しかし、計算装置や機械が発達し、これらのデバイスがデータを収集できるようになった。2010年代には、[[マーケティング]]や市民による[[社会福祉]]の利用状況の分析、科学研究に至るまで、さまざまな分野でデータを収集し、分類や加工するためにコンピュータが広く使われている。データ上におけるこうしたパターンは、知識を高めるための情報と見なされている。これらのパターンは「[[真理]]」として解釈されることもあり(ただし「真理」は主観的な概念となることもある)、一部の分野や文化では美的および倫理的基準として承認されることもある。知覚可能な物理的または仮想的な標識を残す出来事は、データを通して遡ることができる。標識と観察との間の関係が切れると、標識はもはやデータとはみなされなくなる<ref>{{cite book|author=Sharon Daniel|title=The Database: An Aesthetics of Dignity}}</ref>。
[[アナログ計算機]]は、データを電圧、距離、位置、または他の物理量として表現する。デジタルコンピュータは、固定された[[アルファベット]]から取った記号の並びとしてデータを表現する。最も一般的な[[デジタルコンピュータ]]は、二進数アルファベット、つまり、通常「0」と「1」で表される2文字のアルファベットを使用する。次に、数字や文字などの身近な表現は、この二進数アルファベットから構築される。データの中には特殊な形式もあって区別される。[[コンピュータプログラム]]はデータの集まりであり、命令として解釈することができる。ほとんどのコンピュータ言語では、プログラムと、プログラムが操作する他のデータとを区別しているが、[[LISP|Lisp]]やそれに類する言語では、プログラムは他のデータと本質的に区別できない。また、[[メタデータ]]、すなわち他のデータの説明も区別することも有用である。メタデータに類似した、以前の用語は、補助データ(ancillary data)である。メタデータの原型の例は、書籍の内容の説明である図書館目録である。
== データドキュメント ==
データを登録する必要がある場合は必ず、データドキュメント(''data documents'')という形式のデータが存在する。データドキュメントには次のような種類がある。
* {{Ill2|データライブラリ|en|Data library|label=データリポジトリ}}
* [[データスタディ]]
* [[データセット]]
* [[ソフトウェア]]
* {{Ill2|データ公開|en|Data publishing|label=データペーパー}}
* [[データベース]]
* [[データハンドブック]]
* {{Ill2|データ公開|en|Data publishing|label=データジャーナル}}
これらのデータドキュメントの一部(データリポジトリ、データスタディ、データセット、ソフトウェア)はデータ・[[サイテーションインデックス|サイテーション・インデックス]]に、データペーパーは従来の書誌データベース、たとえば[[サイエンス・サイテーション・インデックス]]に索引付けされている<ref>Schöpfel et al. 2020. "Data Documents". ''ISKO Encyclopedia of Knowledge Organization'' https://www.isko.org/cyclo/data_documents</ref>。
== データの収集と分析 ==
データの収集は、一次資料(研究者が最初にデータを入手する)または二次資料(科学雑誌で発表されたデータなど、他の資料によって既に収集されているデータを研究者が入手する)を通じて行うことができる。データ分析の方法論はさまざまで、データ・トライアンギュレーションやデータ・パーコレーションが含まれる<ref>Mesly, Olivier (2015). ''Creating Models in Psychological Research.'' États-Unis : Springer Psychology : 126 pages. {{ISBN2|978-3-319-15752-8}}</ref>。前者は、研究の客観性を最大化し、調査対象の現象をできるだけ完全に理解するために、定性的および定量的方法、文献レビュー(学術論文を含む)、専門家へのインタビュー、コンピュータシミュレーションの5つの分析角度(少なくとも3つ)からデータを収集、分類、分析する方法を明確にしたものである。その後、後者は、最も関連性の高い情報を抽出するために、あらかじめ決められた一連のステップでデータを「浸透」させます。
== コンピューティング分野では ==
{{Main|データ (コンピュータ)}}
=== 規格上の定義 ===
[[国際標準化機構]]の「ISO/IEC 2382-1」および[[日本工業規格]]の「X0001 情報処理用語-基本用語」において、「データ」の用語定義は "A reinterpretable representation of information in a formalized manner suitable for communication, interpretation, or processing."「情報の表現であって、伝達、解釈または処理に適するように形式化され、再度情報として解釈できるもの」とされている。
=== 電子データ ===
'''電子データ'''は、[[コンピュータネットワーク|コンピュータ]]内にあるか、コンピュータに取り込める形になったデータである。例えば、単なる印刷物上の文字データと区別して、[[文字コード]]に変換された文字データ、単なる印刷物上の画像データと区別して、[[ビットマップ]]データや[[JPEG]]方式の画像に変換された画像データなどをいう。コンピュータ内部の情報処理の場合は、わざわざ電子データと称することはほとんどない。
日本では刑法条文などで用いられている法律用語の「[[電磁的記録]]」は電子データおよび磁気データとほぼ同じ意味である。
ネットワークを介して[[プロセッサ|CPU]]やハードディスクなどに流れ込む整理されているデータや整理されていないデータの幅広く性質の異なる変動性、速度、量で、企業はそれをビジネスアドバイスに変換する<ref>{{Cite book|title=Foundations of modern networking : SDN, NFV, QoE, IoT, and Cloud|url=https://www.worldcat.org/oclc/927715441|date=2016|location=Indianapolis, Indiana|isbn=978-0-13-417547-8|oclc=927715441|others=Florence Agboma, Sofiene Jelassi|first=William|last=Stallings}}</ref>。
=== 磁気データ ===
'''磁気データ'''は、[[磁気記録]]されているデータである。[[磁気テープ]]、[[磁気ディスク]]などのコンピュータ用の媒体や、[[ビデオテープ]]、定期券などの[[磁気ストライプ]]に蓄えられる。近くに強力な磁石があると影響を受けて変化することがある。
=== モデリング ===
データは、関連するものがひとまとまりにされ、整理されて保管されることが多い。これを[[データ保管]]とよぶ。そこで保管されたデータの集まりを''[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]''と呼ぶ。
データの流れは、[[データフロー]]と呼ばれ、[[データフローダイアグラム]]などを用いて記述される。
処理の対象にされるデータの集合のことを、[[データベース]]とよぶ。
=== 処理系 ===
[[コンピュータ]]の場合には、データは[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]以外のものをさし、その形態は、文書、映像、音声など様々である。直接スイッチなどを使ってメモリ上に書き込む場合も有るが、大抵はプログラムによって出力され、他のプログラムなどで読み込み使われる。コンパイラなどの処理ではプログラムを[[インタプリタ]]や[[コンパイラ]]のデータとして扱う場合もある。またデータの中にプログラムを含むことも可能。[[x86]]などではプログラムとデータは同一のメモリー空間に配置され、設計者の意図によって区別される。
データは、[[レジストリ]]や[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]や[[データベース]]、などに収めることができる。
== 議論 ==
他の分野でもデータの活用が進んでいるが、その高度な説明的な性質は、データを「与えられたもの」とする倫理観と対立する可能性が指摘されている。{{Ill2|ピーター・チェックランド|en|Peter Checkland}}は、膨大な数の可能なデータと、注意を向けているそれらのサブセットを区別するために、''capta''(ラテン語の ''capere''、「取る」に由来)という用語を導入した<ref>{{cite book|author=P. Checkland and S. Holwell|title=Information, Systems, and Information Systems: Making Sense of the Field.|year=1998|publisher=John Wiley & Sons|location=Chichester, West Sussex|isbn=0-471-95820-4|pages=86–89}}</ref>。{{Ill2|ヨハンナ・ドラッカー|en|Johanna Drucker}}は、人文科学が知識の生産を「立場的、部分的、構成的」なものと断言している以上、''data'' を用いることは、たとえば現象が離散的であるとか観察者に依存しないといった逆効果となる臆説を広めかねないと論じている<ref>{{cite journal|author=Johanna Drucker|year=2011|title=Humanities Approaches to Graphical Display|url=http://www.digitalhumanities.org/dhq/vol/5/1/000091/000091.html|journal=Digital Humanities Quarterly|volume=005|issue=1}}</ref>。人文科学における視覚的表現のための ''data'' に代わるものとして、観察という行為を構成的なものとして強調する ''capta'' という用語が提案されている。
== 語源と用語 ==
英語で初めて「{{lang|en|data}}」という単語が使われたのは1640年代である。1946年に「データ」という言葉が「伝達可能で保存可能なコンピュータ情報」という意味で初めて使われた。「データ処理」({{lang|en|data processing}})という表現が初めて使われたのは1954年である<ref name="EOL">{{Cite web |url=https://www.etymonline.com/word/data |title=data | Origin and meaning of data by Online Etymology Dictionary |website=www.etymonline.com |accessdate=2022-04-03}}</ref>。英語の「{{lang|en|data}}」は、「{{lang|en|datum}}」の複数形で、ラテン語・イタリア語の {{lang|la|dare}}(ダーレ、「与える」)を語源とする<ref name="EOL" />。英語の {{lang|en|data}} はこの意味で複数名詞として使われることがあり、特に20世紀や21世紀の多くでは、自然科学、生命科学、社会科学に携わる作家は {{lang|en|datum}} を単数形で、{{lang|en|data}} を複数形で使っている(たとえば、[[APAスタイル]](第7版)ではまだ {{lang|en|data}} は複数形が要求されている<ref>{{Cite book|author=American Psychological Association|section=6.11|title=Publication Manual of the American Psychological Association: the official guide to APA style|publisher=American Psychological Association|year=2020|isbn=9781433832161}}</ref>)。しかし、日常会話、[[ソフトウェア開発]]、[[コンピュータサイエンス]]の世界では、{{lang|en|data}} は不可算名詞として単数形で使われることがほとんどである。[[ビッグデータ]]という用語は単数形をとっている。
中国語では「{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|zh|資料}}|ツーリャオ}}」または「{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|zh|數據}}|シューチー}}」ともいう。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[アーカイブ (コンピュータ)]]
*[[暗号化]]
*[[検索]]
*[[コンテンツ]]
*[[情報処理用語規格]]
*[[データ圧縮]]
*[[データ型]]
*[[データ構造]]
*[[データ処理]]
*[[データベース]]
*[[データ量の比較]]
*[[デジタル化]]
*[[電子データ交換]]
*[[ビッグデータ]]
*[[ファイルフォーマット]]
*[[メタデータ]]
== 外部リンク==
*  [http://purl.org/nxg/note/singular-data Data is a singular noun (データは単数名詞)] - 詳細な評価{{En icon}}
{{Wiktionary}}
{{Commons category}}
{{Data}}
{{Statistics}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てえた}}
[[Category:データ|*]]
[[Category:情報]]
[[Category:資料学]]
[[Category:英語の語句]]
[[Category:ラテン語からの借用語]] | 2003-05-24T16:00:01Z | 2023-10-21T20:15:17Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF |
9,281 | 仙元誠三 | 仙元 誠三(せんげん せいぞう、1938年7月23日 - 2020年3月1日)は、日本の映画カメラマン、撮影監督。日本映画撮影監督協会(J.S.C.)賛助会員。
京都府出身。同志社大学中退。1958年8月1日、松竹に入社。松竹京都撮影所にて撮影助手を務める。1967年にフリーとなり、1969年の『新宿泥棒日記』で撮影監督としてデビュー。以来、主に村川透、澤井信一郎、工藤栄一、きうちかずひろらの監督作品を数多く手掛ける。特に照明技師の渡辺三雄とコンビを組む機会が多く、仙元ブルーと呼ばれる独特の色彩で個性を発揮した。
デビュー前はプロ野球選手を志しており、阪神タイガースの入団テストを受けた経歴を持つ。
2014年、平成26年度文化庁映画賞の功労賞を受賞した。
2015年11月からは山形県東置賜郡川西町に在住。
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] | 仙元 誠三は、日本の映画カメラマン、撮影監督。日本映画撮影監督協会(J.S.C.)賛助会員。 | {{ActorActress
| 芸名 = 仙元 誠三
| ふりがな = せんげん せいぞう
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| 本名 =
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
| 出生地 = {{JPN}} [[京都府]]
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| 生年 = 1938
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| 職業 = [[撮影監督]]
| ジャンル = [[映画]]、[[オリジナルビデオ]]、[[テレビドラマ]]
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| 著名な家族 = <!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意。 -->
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| 主な作品 = <!-- 主演映画・主演テレビドラマなど。脇役の場合、大ヒットした作品で重要な役割であった、またはその出演功績を認められたもの。例えば、日本アカデミー賞優秀助演男優(女優)賞を受賞したような役の作品を入力 -->
| アカデミー賞 =
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| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 = '''[[ヨコハマ映画祭]]'''<br />'''撮影賞'''<br>[[1980年]]『[[白昼の死角]]』
| 備考 =
}}
'''仙元 誠三'''(せんげん せいぞう、[[1938年]][[7月23日]] - [[2020年]][[3月1日]]<ref name="hochi">{{Cite news|title=撮影監督の仙元誠三さん死去、81歳…松田優作さん主演「蘇える金狼」などで活躍|url=https://hochi.news/articles/20200305-OHT1T50158.html|newspaper=スポーツ報知|date=2020-3-5|accessdate=2020-3-5}}</ref>)は、[[日本]]の[[撮影技師|映画カメラマン]]、[[撮影監督]]。[[日本映画撮影監督協会]](J.S.C.)賛助会員<ref name="jsc">{{Cite web|和書|date=2017年5月20日|url=http://www.jsc.or.jp/jp/member/member.html|title=日本映画撮影監督協会メンバーリスト|publisher=[[日本映画撮影監督協会|J.S.C.]]|accessdate=2018年4月2日}}</ref>。
== 経歴 ==
[[京都府]]出身。[[同志社大学]]中退。[[1958年]][[8月1日]]、[[松竹]]に入社。[[松竹京都撮影所]]にて撮影助手を務める。[[1967年]]にフリーとなり、[[1969年]]の『新宿泥棒日記』で撮影監督としてデビュー。以来、主に[[村川透]]、[[澤井信一郎]]、[[工藤栄一]]、[[きうちかずひろ]]らの監督作品を数多く手掛ける。特に照明技師の[[渡辺三雄]]とコンビを組む機会が多く、仙元ブルーと呼ばれる独特の色彩で個性を発揮した。
デビュー前はプロ野球選手を志しており、[[阪神タイガース]]の入団テストを受けた経歴を持つ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2017/03/04/0009949628.shtml|accessdate=2017-03-05|title=【芸能】阪神の入団テストを受けていた伝説の名カメラマンとは|publisher=[[デイリースポーツ]] online|date=2017-03-04}}</ref>。
[[2014年]]、平成26年度文化庁映画賞の功労賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bunka.go.jp/geijutsu_bunka/03eigashou/12th_eigashou.html|accessdate=2015-03-19|title=平成26年度文化庁映画賞について|publisher=[[文化庁]]|date=2014-09-12}}</ref><ref>{{cite news|url=https://animeanime.jp/article/2014/10/01/20351.html|accessdate=2015-03-19|title=文化庁映画賞にアニメ美術の半藤克美氏、ポスタービジュアルの生頼範義氏ら |newspaper= アニメ!アニメ! |publisher= イード |date=2014-10-01}}</ref>。
[[2015年]]11月からは[[山形県]][[東置賜郡]][[川西町 (山形県)|川西町]]に在住<ref>{{Cite web|和書|url=http://zawa21.net/ht-2nd.html|accessdate=2018-05-25|title=第2回 仙元誠三さん・温香さん夫妻【東沢地区に移住してきた皆さんを紹介するページ】|publisher=はっぴぃたーんず東沢|date=2016-05-31}}</ref>。
2020年3月1日、死去<ref name="hochi"/>。81歳没。
== 主な撮影作品 ==
=== 劇場映画 ===
*[[新宿泥棒日記]](1969年)
*[[書を捨てよ町へ出よう]](1971年)
*[[龍村仁#NHKキャロル事件|キャロル]](1974年)
*[[キタキツネ物語]](1978年)
*[[最も危険な遊戯]](1978年)
*[[殺人遊戯]](1978年)
*[[処刑遊戯]](1979年)
*[[蘇える金狼]](1979年)
*[[白昼の死角]](1979年)
*[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし]](1980年)
*[[ヨコハマBJブルース]](1981年)
*[[セーラー服と機関銃 (映画)|セーラー服と機関銃]](1981年)
*[[獣たちの熱い眠り]](1981年)
*[[野獣刑事]](1982年)
*[[汚れた英雄]](1982年)
*[[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]](1983年)
*[[探偵物語 (1983年の映画)|探偵物語]](1983年)
*[[愛情物語 (1984年の映画)|愛情物語]](1984年)
*[[Wの悲劇 (映画)|Wの悲劇]](1984年)
*[[早春物語]](1985年)
*[[めぞん一刻]](1986年)
*[[キャバレー (小説)|キャバレー]](1986年)
*[[ア・ホーマンス]](1986年)
*[[この愛の物語]](1987年)
*[[恋人たちの時刻]](1987年)
*[[ラブ・ストーリーを君に]](1988年)
*[[いこかもどろか]](1988年)
*[[愛と平成の色男]](1989年)
*[[ウォータームーン]](1989年)
*[[オルゴール (映画)|オルゴール]](1989年)
*[[キッチン (小説)|キッチン]](1989年)
*[[ジュリエット・ゲーム]](1989年)
*[[バカヤロー!3 へんな奴ら]](1990年)
*[[女がいちばん似合う職業]](1990年)
*[[福沢諭吉 (映画)|福沢諭吉]](1991年)
*[[極道戦争 武闘派]](1991年)
*[[継承盃]](1992年)
*[[赤と黒の熱情]](1992年)
*[[リング・リング・リング|リング・リング・リング 涙のチャンピオンベルト]](1993年)
*[[免許がない!]](1994年)
*[[BE-BOP-HIGHSCHOOL (1994年の映画)|BE-BOP-HIGHSCHOOL]](1994年)
*[[あぶない刑事リターンズ]](1996年)
*[[極道の妻たち|極道の妻たち・決着〈けじめ〉]](1997年)
*[[義務と演技]](1997年)
*[[鉄と鉛STEEL&RED]](1997年)
*[[あぶない刑事フォーエヴァー|あぶない刑事フォーエヴァー THE MOVIE]](1998年)
*[[共犯者 (1999年の映画)|共犯者]](1999年)
*[[侠道]]シリーズ(2000~2001年)
*[[実録安藤組外伝 餓狼の掟]](2002年)
*[[凶気の桜]](2002年)
*[[プレイガール (テレビドラマ)|プレイガール]](2003年)
*[[まだまだあぶない刑事]](2005年)
*[[フライ,ダディ,フライ]](2005年)
*[[TANNKA 短歌]](2006年)
*[[笑う警官 (佐々木譲)|笑う警官]](2009年)
*[[行きずりの街]](2010年)
*[[さらば あぶない刑事]](2016年)
=== TVドラマ ===
*[[大都会 PARTII]](NTV)
*[[大都会 PARTIII]](NTV)
*[[探偵物語]](NTV)
*[[西部警察 (PART1)|西部警察]](EX)
*[[大激闘マッドポリス'80]](NTV)
*[[ザ・ハングマン]](ABC)
*[[あぶない刑事]](NTV)
*[[勝手にしやがれヘイ!ブラザー]](NTV)
*[[西部警察 SPECIAL]](EX)
*[[白虎隊]](EX)
== 著書 ==
*『キャメラを抱いて走れ!: 撮影監督 仙元誠三』([[佐藤洋笑]]、[[山本俊輔]]との共著) [[国書刊行会]] (2022/6/24) ISBN 978-4336070333
== 受賞歴 ==
* 1980年 第1回[[ヨコハマ映画祭]]:技術賞(撮影)『蘇える金狼』『白昼の死角』他
* 1990年 [[第13回日本アカデミー賞]]:優秀撮影賞『愛と平成の色男』『オルゴール』『キッチン』『ジュリエット・ゲーム』
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[セントラルアーツ]]
*[[村川透]]
*[[松田優作]]
*[[角川春樹]]
*[[澤井信一郎]]
*[[森田芳光]]
*[[一倉治雄]]
*[[成田裕介]]
*[[鹿島勤]]
*[[福岡芳穂]]
*[[きうちかずひろ]]
*[[鳥井邦男]]
*[[渡辺三雄]]
*[[今村力]]
*[[三石千尋]]
*[[大友千秋]]
*[[三池崇史]]
*[[日本の映画スタッフ一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Jmdb name|0230300|仙元誠三}}
* {{allcinema name|123314|仙元誠三}}
* {{kinejun name|86746|仙元誠三}}
* {{Tvdrama-db name}}
* {{imdb name|id=0635357|name=Seizô Sengen}}
{{ヨコハマ映画祭撮影賞}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せんけん せいそう}}
[[Category:撮影技師]]
[[Category:日本の映像技術者]]
[[Category:日本の撮影監督]]
[[Category:西部警察]]
[[Category:京都府出身の人物]]
[[Category:1938年生]]
[[Category:2020年没]] | 2003-05-24T16:15:45Z | 2023-11-12T22:56:44Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%85%83%E8%AA%A0%E4%B8%89 |
9,282 | 前田米造 | 前田 米造(まえだ よねぞう、1935年10月23日 - 2021年7月6日)は、日本の映画カメラマン。
東京府出身。
1954年、撮影助手として日活撮影所に入社し経験を積む。
1972年、『たそがれの情事』(西村昭五郎監督)でカメラマンとしてデビューし、以降様々な作品の撮影を手掛ける。
1985年、『それから』(森田芳光監督)で日本アカデミー賞最優秀撮影賞を受賞し、1990年には『天と地と』(角川春樹監督)で同じく日本アカデミー賞優秀撮影賞を受賞した。また多くの伊丹十三作品でカメラマンを務め、2007年には芸術文化に対する多大なる貢献を讃えられ旭日小綬章を受章。70歳を越えても現役で活躍していた。日活芸術学院映像科専任講師・顧問。
2021年7月6日、誤嚥性肺炎のため東京都内の病院で死去。85歳没。 | [
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] | 前田 米造は、日本の映画カメラマン。 | {{別人|前田米蔵|x1=政治家の}}
{{ActorActress
| 芸名 = 前田米造
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| 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]]
| 生年 = 1935
| 生月 = 10
| 生日 = 23
| 没年 = 2021
| 没月 = 7
| 没日 = 6
| 職業 = 映画カメラマン、撮影監督
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀撮影賞'''<br>[[1985年]]『[[それから]]』<br />'''優秀撮影賞'''<br>[[1990年]]『[[天と地と]]』<hr />'''会長功労賞'''<br>[[2021年]]<ref>[https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/44.html 第44回 日本アカデミー賞 優秀賞決定!]、日本アカデミー賞公式サイト、2021年2月17日閲覧。</ref>
}}
'''前田 米造'''(まえだ よねぞう、[[1935年]][[10月23日]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nihoneiga.info/classic/0015/07.html |title=撮影 前田米造 監督 伊丹十三特集 |website=日本映画劇場 |accessdate=2021-07-13}}{{信頼性要検証|date=2021年7月}}</ref> - [[2021年]][[7月6日]])は、日本の[[撮影監督|映画カメラマン]]。
== 経歴・人物 ==
[[東京府]]出身<ref name="kumanichi">{{Cite news2|url= https://kumanichi.com/articles/313097|title= 前田米造氏死去 |newspaper= くまにちコム |agency= 熊本日日新聞社 |date= 2021-07-13 |accessdate= 2021-07-13 }}</ref>。
[[1954年]]、撮影助手として[[日活撮影所]]に入社し経験を積む。
[[1972年]]、『[[たそがれの情事]]』([[西村昭五郎]]監督)でカメラマンとしてデビューし、以降様々な作品の撮影を手掛ける。
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2021年7月6日、[[誤嚥性肺炎]]のため東京都内の病院で死去<ref>{{Cite news2 |title=映画撮影監督の前田米造氏死去 |url=https://www.sankei.com/article/20210713-GNUN3V35YFLV3FQJ5HJU6BJ66Q/ |newspaper=産経ニュース |agency=産経新聞社 |date=2021-07-13 |accessdate=2021-07-13}}</ref><ref name="kumanichi"/><ref>{{Cite news2 |title=映画撮影監督の前田米造さん死去 |newspaper=時事通信 |date=2021-07-13 |author= |url=https://web.archive.org/web/20210724040018/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021071301049 |accessdate=2021-07-24}}</ref>。{{没年齢|1935|10|23|2021|7|6}}。
== 主な撮影作品 ==
=== 劇場映画 ===
* [[女地獄 森は濡れた]](1973年)
* [[陽は沈み陽は昇る]](1973年)
* [[野球狂の詩]](1977年)
* [[霧の旗#1977年|霧の旗]](1977年)
* [[女教師 (1977年の映画) |女教師]](1977年)
* [[帰らざる日々 (映画)|帰らざる日々]](1978年)
* [[もっとしなやかに もっとしたたかに]](1979年)
* [[赫い髪の女]](1979年)
* [[天使のはらわた 赤い淫画]](1981年)
* [[キャバレー日記]](1982年)
* [[犯され志願]](1982年)
* [[女猫 (1983年の映画)|女猫]](1983年)
* [[俺っちのウエディング]](1983年)
* [[家族ゲーム]](1983年)
* [[セーラー服 百合族]] (1983年)
* [[メイン・テーマ (映画)|メイン・テーマ]](1984年)
* [[ときめきに死す]](1984年)
* [[お葬式]](1984年)
* [[人魚伝説 (映画)|人魚伝説]](1984年)
* [[それから]](1985年)
* [[CHECKERS IN TAN TAN たぬき]](1985年)
* [[野蛮人のように]](1985年)
* [[そろばんずく]](1986年)
* [[時計 Adieu l'Hiver]](1986年)
* [[マルサの女]](1987年)
* [[悲しい色やねん]](1988年)
* [[マルサの女2]](1988年)
* [[スウィートホーム (映画)|スウィートホーム]](1989年)
* [[天と地と]](1990年)
* [[どっちもどっち]](1990年)
* [[おいしい結婚]](1991年)
* [[ミンボーの女]](1992年)
* [[夜逃げ屋本舗]](1992年)
* [[未来の想い出|未来の想い出 Last Christmas]](1992年)
* [[大病人]](1993年)
* [[怖がる人々]](1994年)
* [[静かな生活]](1995年)
* [[スーパーの女]](1996年)
* [[お墓がない!]](1997年)
* [[鍵 (1997年の映画)|鍵]](1997年)
* [[マルタイの女]](1997年)
* [[おしまいの日。]](1999年)
* [[月 (2000年の映画)|月]](2000年)
* [[ピストルオペラ]](2001年)
* [[ラストシーン (映画)|ラストシーン]](2002年)
* [[オペレッタ狸御殿]](2004年)
* [[蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜]](2007年)
* [[ひまわり〜沖縄は忘れない あの日の空を〜]](2013年)
=== テレビドラマ ===
* [[大都会 闘いの日々]](1976年、NTV)
* [[火曜サスペンス劇場]] [[ハムレットは行方不明]](1981年、NTV)
* [[キャンパス・アクション 探偵同盟]](1981年、CX)
* [[プロハンター]](1981年、NTV)
== 色彩計測 ==
* [[若い人]](1962年 日活撮影所)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* {{allcinema name|122598|前田米造}}
* {{Kinejun name|87040|前田米造}}
* {{JMDb name|0239310|前田米造}}
* {{Japanese-cinema-db name|staff}}
* {{IMDb name|0535357|Yonezô Maeda}}
{{毎日映画コンクール撮影賞}}
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[[Category:日本の映像技術者]]
[[Category:撮影技師]]
[[Category:日本の撮影監督]]
[[Category:旭日小綬章受章者]]
[[Category:日活の人物]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:1935年生]]
[[Category:2021年没]] | 2003-05-24T16:26:28Z | 2023-12-25T19:08:26Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%B1%B3%E9%80%A0 |
9,283 | イラン暦 | イラン暦(イランれき、ペルシア語: سالنمای هجری شمسی؛ گاهشماری هجری خورشیدی)は、イランを中心にペルシャ語圏で使われている暦法。ヒジュラ紀元の太陽暦で春分を新年とする。
ペルシア暦、ペルシャ暦、イラン太陽暦とも呼ばれる。欧米では“anno Persico/anno Persarum”(英訳「Persian year」)を略してA.P.や、Solar Hijri calendarやShamsi Hijri calendarを略してSHと表記する。
紀元を預言者ムハンマドのヒジュラの年(西暦622年)に置くため、ヒジュラ太陽暦(Solar Hijri calendar)とも呼ばれる。また、アフガニスタンで公式に採用されたものはアフガン暦とも呼ばれる。
各月の日数は、前半の6か月が31日、それに続く5か月が30日、最後の月は平年は29日(閏年は30日)となる。
現行の暦は1925年に定められ、春分に最も近い午前0時がファルヴァルディーン月1日の始まりとされた。
新年はファルヴァルディーン月1日と同時に始まるのではなく、太陽が春分点を通過する瞬間とされる。ファルヴァルディーン月1日の午前0時が春分の場合、その年の至点・分点に最も近い日付の変わり目は、対応する月の1日午前0時となる。
閏年は、アケメネス朝の頃には120年に1回置かれた。
ウマル・ハイヤームの『ジャラーリー暦』では閏年を33年に8回置き、後のグレゴリオ暦(400年に97回閏年を置く)よりも正確な暦を実現した。
現在は、天文学的計算によって閏年を求めていて、近年は33年周期で安定している。一方、閏年の設定に複雑な計算を要するため、簡便に求める方法として、Birashkによる2820年周期などが提案されている。
ペルシア(イラン)ではアケメネス朝時代までバビロニアから伝わった太陰太陽暦を用いていたが、その後、新たにエジプト由来の太陽暦が伝わった。
ペルシア暦は、サーサーン朝が国教としたゾロアスター教の宗教儀礼と密接な関係を持つ。春分の祭りノウルーズ(「新しい日」の意)と秋分の祭りメフラガーン(ミフラジャーンとも。本来は「ミスラ祭」の意)という二大祭礼を持ち、時代と暦法の種別によってそのどちらかが新年の最初の日となる。
イスラム化以降、ペルシアにはヒジュラ暦が導入されるが、ノウルーズの祭礼は農事暦上の春分の祝いとして純粋太陰暦であるヒジュラ暦によらずに存続した。
11世紀ごろからは、ノウルーズを新年とし、ヒジュラを紀元とする太陽暦が再び作られるようになり、セルジューク朝期のウマル・ハイヤームらの天文学者によって改良が施されてきた。
1906年には、ファルヴァルディーン月1日(ノウルーズ)がグレゴリオ暦の3月21日と一致するよう定められ、西暦と日付が完全に対応することになった。
1975年にはモハンマド・レザー・パフラヴィー国王のもと、アケメネス朝のキュロス大王がメディアを滅ぼしてペルシア帝国を建国した年(紀元前550年)からの2500周年を祝うイラン建国2500年祭がとり行なわれ、イラン暦がヒジュラ暦に代わる国家の公式の暦に採用されるとともに、イラン暦の紀元がヒジュラ紀元からキュロスの建国の年を元年とするキュロス紀元に改められた。1979年にイラン革命が起こってパフラヴィー朝の王制が廃止されるとキュロス紀元から再びヒジュラ紀元に戻されたが、イラン暦はそのままイランの公式暦として使用されている。
また、アフガニスタンでもヒジュラ紀元のペルシア暦が公式の暦として採用されている。
イラン太陽暦とヒジュラ暦では月名が異なる。
月名は、イランではゾロアスター教に由来するペルシア語による名前を持つ。歴史的にはイスラム化の進展でアラビア語による黄道十二宮名が広く使われていた時期もあり、アフガニスタンでは現在でも黄道十二宮名を月名として用いている。 | [
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] | イラン暦は、イランを中心にペルシャ語圏で使われている暦法。ヒジュラ紀元の太陽暦で春分を新年とする。 ペルシア暦、ペルシャ暦、イラン太陽暦とも呼ばれる。欧米では“anno Persico/anno Persarum”を略してA.P.や、Solar Hijri calendarやShamsi Hijri calendarを略してSHと表記する。 紀元を預言者ムハンマドのヒジュラの年(西暦622年)に置くため、ヒジュラ太陽暦(Solar Hijri calendar)とも呼ばれる。また、アフガニスタンで公式に採用されたものはアフガン暦とも呼ばれる。 | {{複数の問題
|出典の明記=2022年12月
|独自研究=2022年12月}}
{{特殊文字|説明=[[ペルシア語]]}}
{{Today/CE/SH/AH}}
{{ウィキプロジェクトリンク|紀年法|[[画像:Nuvola apps date.svg|34px]]}}
'''イラン暦'''(イランれき、{{lang-fa| سالنمای هجری شمسی؛ گاهشماری هجری خورشیدی}})は、[[イラン]]を中心にペルシャ語圏で使われている[[暦法]]。[[ヒジュラ紀元]]の太陽暦で<REF NAME="tbias" />[[春分]]を新年とする。
'''ペルシア暦'''、'''ペルシャ暦'''、'''イラン太陽暦'''とも呼ばれる。欧米では“anno Persico/anno Persarum”(英訳「Persian year」)を略して'''A.P.'''や、Solar Hijri calendarやShamsi Hijri calendarを略して'''SH'''と表記する。
[[紀元]]を[[預言者ムハンマド]]の[[ヒジュラ]]の年(西暦[[622年]])に置くため、'''ヒジュラ太陽暦'''([[:en:Solar Hijri calendar|Solar Hijri calendar]])とも呼ばれる<ref GROUP="注釈">太陽暦であるため、[[閏月]]を置かない[[太陰暦]]である[[イスラム暦]]とは紀元は同じでも年数が異なる。</ref>。また、アフガニスタンで公式に採用されたものは'''アフガン暦'''とも呼ばれる。
==暦法==
各月の日数は、前半の6か月が31日、それに続く5か月が30日、最後の月は平年は29日([[閏年]]は30日)となる。
現行の暦は[[1925年]]に定められ、'''[[春分]]に最も近い午前0時がファルヴァルディーン月1日の始まり'''とされた<REF GROUP="注釈" NAME="">ファルヴァルディーン月1日は、春分が含まれる日である日本の[[春分の日]]とは定義が半日異なる(時差を無視した場合)。</REF>。
新年はファルヴァルディーン月1日と同時に始まるのではなく、[[太陽]]が[[春分点]]を通過する瞬間とされる。ファルヴァルディーン月1日の午前0時が[[春分]]の場合、その年の[[至点]]・[[分点]]に最も近い日付の変わり目は、対応する月の1日午前0時となる。
===閏年===
[[閏年]]は、[[アケメネス朝]]の頃には'''120年に1回'''置かれた。
[[ウマル・ハイヤーム]]の『ジャラーリー暦』では閏年を'''33年に8回'''置き、後の[[グレゴリオ暦]](400年に97回閏年を置く)よりも正確な暦を実現した。
現在は、天文学的計算によって閏年を求めていて、近年は33年周期で安定している。一方、閏年の設定に複雑な計算を要するため、簡便に求める方法として、Birashkによる2820年周期などが提案されている。
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
[[ペルシア]](イラン)では[[アケメネス朝]]時代まで[[バビロニア]]から伝わった[[太陰太陽暦]]を用いていたが、その後、新たにエジプト由来の[[太陽暦]]が伝わった。
ペルシア暦は、[[サーサーン朝]]が国教とした[[ゾロアスター教]]の宗教儀礼と密接な関係を持つ。[[春分]]の祭り[[ノウルーズ]](「新しい日」の意)と[[秋分]]の祭り[[メフラガーン]](ミフラジャーンとも。本来は「[[ミスラ]]祭」の意)という二大祭礼を持ち、時代と暦法の種別によってそのどちらかが新年の最初の日となる。
イスラム化以降、ペルシアには[[ヒジュラ暦]]が導入されるが、ノウルーズの祭礼は[[農事暦]]上の春分の祝いとして[[太陰暦|純粋太陰暦]]であるヒジュラ暦によらずに存続した。
[[11世紀]]ごろからは、ノウルーズを新年とし、ヒジュラを紀元とする太陽暦が再び作られるようになり、[[セルジューク朝]]期の[[ウマル・ハイヤーム]]らの[[天文学者]]によって改良が施されてきた。
[[1906年]]には、ファルヴァルディーン月1日(ノウルーズ)が[[グレゴリオ暦]]の3月21日と一致するよう定められ、西暦と日付が完全に対応することになった。
[[1975年]]には[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]国王のもと、アケメネス朝の[[キュロス2世|キュロス大王]]が[[メディア王国|メディア]]を滅ぼしてペルシア帝国を建国した年([[紀元前550年]])からの2500周年を祝う[[イラン建国二千五百年祭典|イラン建国2500年祭]]がとり行なわれ、イラン暦がヒジュラ暦に代わる国家の公式の暦に採用されるとともに、イラン暦の紀元がヒジュラ紀元からキュロスの建国の年を元年とするキュロス紀元に改められた。[[1979年]]に[[イラン革命]]が起こって[[パフラヴィー朝]]の王制が廃止されるとキュロス紀元から再びヒジュラ紀元に戻されたが、イラン暦はそのままイランの公式暦として使用されている。
また、アフガニスタンでもヒジュラ紀元のペルシア暦が公式の暦として採用されている。
== 月名 ==
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:small;"
|-
! !! !! 月の名称<REF NAME="tbias" /> !! 月名の[[語源]] !! [[平年]]の[[グレゴリオ暦]]で相当する日付<REF NAME="tbias" /><br />{{nobold|([[十二宮]]の日付と概ね一致)}}
|-
| 1 || ۱ || ファルヴァルディーン(فروردین Farvardīn) || [[フラワシ]]の月 || 3/21-4/20
|-
| 2 || ۲ || オルディーベヘシュト(اردیبهشت Ordībehesht)|| [[アシャ・ワヒシュタ]]の月 || 4/21-5/21
|-
| 3 || ۳ || ホルダード (خرداد Khordād)|| [[ハルワタート]]の月 || 5/22-6/21
|-
| 4 || ۴ || ティール (تیر Tīr)|| [[ティシュトリヤ]]の月 || 6/22-7/22
|-
| 5 || ۵ || モルダード (مرداد Mordād)|| [[アムルタート]]の月 || 7/23-8/22
|-
| 6 || ۶ || シャハリーヴァル (شهریور Shahrīvar) || [[フシャスラ・ワルヤ]]の月 || 8/23-9/22
|-
| 7 || ۷ || メフル (مهر Mehr)|| [[ミスラ]]の月 || 9/23-10/22
|-
| 8 || ۸ || アーバーン (آبان Ābān) || 水神 ([[アープ (水神)|アープ]]、 または[[アナーヒター]])の月 || 10/23-11/21
|-
| 9 || ۹ || アーザル (آذر Āzar)|| [[アータル]]の月 || 11/22-12/21
|-
| 10 || ۱۰ || デイ (دی Dei) || 創造主 ([[アフラ・マズダー]])の月 || 12/22-1/20
|-
| 11 || ۱۱ || バフマン (بهمن Bahman) || [[ウォフ・マナフ]]の月 || 1/21-2/19
|-
| 12 || ۱۲ || エスファンド (اسفند Esfand) || [[スプンタ・アールマティ]]の月 || 2/20-3/20
|}
イラン太陽暦とヒジュラ暦では月名が異なる<REF NAME="tbias" />。
月名は、イランでは[[ゾロアスター教]]に由来する[[ペルシア語]]による名前を持つ。歴史的にはイスラム化の進展で[[アラビア語]]による[[黄道十二宮]]名が広く使われていた時期もあり、アフガニスタンでは現在でも黄道十二宮名を月名として用いている<REF GROUP="注釈">[[ダリー語]]ではアラビア語名をそのまま使用し、[[パシュトー語]]ではパシュトー語訳を使用</REF>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|1|refs=
<REF NAME="tbias">{{Cite web|和書|url=http://tbias.jp/materials/reference_tools#calender|title=イスラーム地域研究資料参考#暦|publisher=公益財団法人 東洋文庫|date=|accessdate=2022-12-11}}</REF>
}}
==外部リンク==
*[https://keisan.casio.jp/exec/system/1343025617 CASIO 西暦からイラン暦変換] - ユリウス暦・グレゴリオ暦からイラン暦とヒジュラ暦への変換サイト
{{暦}}
{{Asia-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:いらんれき}}
[[category:太陽暦]]
[[Category:紀年法]]
[[Category:イラン]]
[[Category:アフガニスタン]] | 2003-05-24T16:48:03Z | 2023-10-08T05:27:18Z | false | false | false | [
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"Template:Today/CE/SH/AH",
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"Template:脚注ヘルプ",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E6%9A%A6 |
9,284 | 大阪ドーム | 大阪ドーム(おおさかドーム)は、大阪府大阪市西区にある多目的ドーム球場兼複合レジャー施設。施設命名権の売却により、2006年7月1日から呼称を京セラドーム大阪(きょうセラドームおおさか)としている(後述)。
プロ野球・パシフィック・リーグ(パ・リーグ)のオリックス・バファローズが本拠地として使用している。なお、阪神タイガースも選抜高等学校野球大会および全国高等学校野球選手権大会(甲子園)の開催期間中、本拠地である阪神甲子園球場を使用できないといった背景などから本ドームを事実上の準本拠地としている。
大阪市がパシフィック・リーグの大阪近鉄バファローズを誘致し、その本拠地(専用球場)として大阪市主体の第三セクター・大阪シティドームによって建設された多目的ドームである。後に大阪近鉄を吸収合併した当時のオリックス・ブルーウェーブがオリックス・バファローズと名前を変えこちらを本拠地として使用している。オリックスの他にも、セントラル・リーグの阪神タイガース(阪神甲子園球場が高校野球で使用ができない期間)や読売ジャイアンツ(東京ドームが都市対抗野球で使用ができない期間)が、2014年からはオリックスと同じパシフィック・リーグの球団で、かつて大阪に本拠地を置いていた福岡ソフトバンクホークスが、それぞれ主催試合を開催している。
アマチュア野球では社会人野球日本選手権大会や、全国高等学校野球選手権大阪大会の開会式とその直後の2試合がそれぞれ行われている。
野球の試合以外でもコンサート、展示会などのイベントが開催されるほか、草野球利用目的の一般貸し出しも行われている。
大阪市による経営は上手くいかず、のちに施設はオリックス不動産に売却され、大阪シティドームはオリックス不動産などの出資する管理運営会社に変更されている。
近畿地方では敷地などの面積を示す際に慣用単位として「阪神甲子園球場○個分」と言われることが多いが、「大阪ドーム○個分」という表現を用いることもある。
大阪政財界の建設を求める声に応える形で大阪シティドームが設立されドームの建設が開始、1997年2月20日に大阪ガスの工場跡地に完成、東京ドーム、福岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場として3月1日に開場し、パシフィック・リーグの大阪近鉄バファローズの本拠地(専用球場)となった。設計は大林組と竹中工務店、建設には両社を含め10社以上の企業が参加した。また同年には中日ドラゴンズの本拠地ナゴヤドームも開場した。
当初はドーム内でのイベント日以外にも商業施設として機能させるべくショッピングモールやアミューズメント施設(ドーム内2階の「グリンドムモール」およびドーム内9階の「フェスタモール」、ドーム前千代崎駅がある東側の「Padou」)を作り営業していた。しかし、イベントが無い日はほとんど来場者が無く相当数のテナントが撤退していくことになった。また、その利用者を見越して造られた立体式地下駐車場も、利用の低迷と維持管理費の削減のために建設当時の台数の半分近くが解体の上、埋められてしまった。さらに近鉄の観客動員も初年度以外は伸び悩み、コンサートの利用数も振るわずと赤字が続き、大阪市のドーム建設計画の甘さが露呈、大阪市の税金の無駄遣いの典型と批判された。
経営破綻が危ぶまれていた最中の2004年6月、近鉄がオリックス・ブルーウェーブとの球団合併計画を発表し、ドーム経営の先行きはさらに不透明となっていく。結局2004年11月に大阪シティドームは特定調停を申請、事実上の経営破綻に陥った。
合併したオリックスは大阪ドームを本拠地に選択し、初年度は旧オリックスの本拠地であるスカイマークスタジアム(現:ほっともっとフィールド神戸)と主催試合をほぼ半数に振り分け(大阪:34試合、神戸:32試合)、最終的には神戸での試合数を削減する方針であった(大阪ドームでの主催公式戦、当初案は2006年:42試合→2007年:54試合→2008年:60試合)。またこれに伴ってオリックスと阪神の保護地域は2007年までの3シーズンの間、大阪府と兵庫県の2府県とする暫定措置が採られた(ダブルフランチャイズ制)。
2005年10月、大阪シティドームはさらなる負担を避けようとする大阪市の求めに応じて特定調停を取り下げ、会社更生法の適用を申請した。その後のドームの運営体制が不確定な事態となった影響から、オリックスは2006年シーズンの専用球場の登録をスカイマークスタジアムに変更し、主催公式戦を半数ずつ開催する措置を採った。
2006年4月、オリックス(直接はオリックス子会社のオリックス・リアルエステート、現在のオリックス不動産)が大阪ドームの施設買収と大阪シティドーム社の株式取得に乗り出し、6月になって5から10年後に大阪市へ寄付することを視野に入れてシティドーム社から施設を90億円で買収、シティドーム社を100%減資した上で新たな募集株式をオリックスが取得した(詳細は大阪シティドーム参照)。これを受けてオリックスは2007年、再びドームを専用球場として登録。同年はオリックス主催公式戦のうち48試合が大阪で開催された。2008年に前述の暫定措置が延長されなかったものの、オリックスは本拠地の一本化を取りやめて試合数は2007年のままとした。この件とは別に施設命名権の売却が行われ、2006年7月から「京セラドーム大阪」を名乗ることとなった(後述)。
施設買収後、オリックスは積極的に施設の改修を行っている。広告やイベント貸出日の増加、固定資産税(家屋のみ)全額免除など大阪市の支援もあり、シティドーム社の経営は黒字でドームの寄付も先延ばしとなっている。
一方で周囲は再開発が進み、新たな商業施設が続々と設立されている。Padouは阪神なんば線ドーム前駅の建設工事の作業拠点とするため、2007年に解体された。跡地にはイオンを誘致する計画があったもののしばらくは更地のままであったが「イオンモール大阪ドームシティ」として2013年5月31日にオープンした。またドーム西隣にも大和ハウス工業による健康、スポーツ関連の複合商業施設「フォレオ大阪ドームシティ」と病院が開業、ドーム南隣にはホームセンター「スーパービバホーム」が開業した。
2015年1月30日、京セラドーム大阪の周辺にあった大阪ガス施設が再開発され、大阪ガスの展示、イベント施設「ハグミュージアム」が開館した。
京セラ傘下の京セラドキュメントソリューションズは、2003年4月から大阪ドームの場内に広告を掲出している。このことから2006年1月中旬頃、大阪シティドームが京セラに施設命名権(ネーミングライツ)の売却を打診したところ、京セラ側がこれに応じ、大阪シティドームと京セラは同年3月2日付で命名権契約に基本合意し、同年4月1日付で呼称を「京セラドーム大阪」に変更することが決定した。当初、京セラ側は呼称を単に「京セラドーム」とする意向であったが、地元商店街や周辺住民などから「大阪の名を残してほしい」と請願があったことなどに鑑みて「大阪」の名が残ることになった。しかし大阪シティドームは当時会社更生法による更生手続きの最中であり、経営再建に向けた手続きの絡みなどもあって正式な契約書の締結が遅れたため、実際の呼称変更は予定より3ヶ月遅れの7月1日までずれ込んだ。なお契約期間は2011年3月31日までの5年間。契約金額は非公表だが、年額数億円と推定されている。なお、京セラは当時の大阪シティドームの経営再建問題には一切関与していない。
大阪シティドームと京セラは、1回目の契約満了を前にした2011年1月11日に、同年4月1日から2014年3月31日までの3年を対象に命名権契約を更新したことを公表。さらに京セラは、2013年12月11日に、2014年4月1日から2017年3月31日までの3年間にわたる命名権契約の締結で大阪シティドームと合意したことを発表した。ただし、上記の契約ではいずれも、契約金額を明らかにしていない。なお京セラでは、命名権契約を2度更新したことへの狙いについて、「ドームには来場者が多く、企業イメージの向上を図ることができる」とのコメントを出している。2017年4月以降も継続して名称を使用しているが、契約更新に関する発表はされていない。
基本構造は横浜スタジアムや福岡 PayPayドームのような円形球場であるが、可動席は外野スタンドと外野フェンスを分割することによって独自の方式を採用している。
現在の1試合あたりの球場使用料は不明だが、かつての本拠地球団である大阪近鉄バファローズは年間使用料として管理費込みで11億円を支払っていた。この高額な年間使用料が当時の近鉄球団の経営に致命傷を負わせたともいわれる。
一塁側から、毎日放送(ラジオ)、ラジオ大阪、テレビ用放送室1、テレビ用放送室2、朝日放送(ラジオ)、NHK、ラジオ放送室(予備)の配置。
スタンドは真円形となっており、全ての座席が球場の中心点、二塁ベースのやや後方に向いている。通常の円形球場ではドーナツ形の固定スタンド内側に弓形あるいは三日月形の可動スタンドを備えているが、当ドームでは固定スタンドの外野スタンド前部が削られた形となっており、フェンスが別になっている。ドーナツ形固定スタンドの内径は他より小さく、可動席はやや小さくなっている。可動スタンドは弓形の形状で内野側と外野側の2つに分かれており、外野側のみがずれると3階コンコースに通じる階段への入り口が現れる仕組みとなっており、アリーナが観客に開放されるイベント時に使われる。ファウルポール付近にも小さな可動スタンドがあり、センター方向へ移動させてその間に仮設スタンドを設置することができる。外野スタンドの最前列にはそれに使用するための扉が設置されている。可動スタンドはそれぞれ2本のレールの上を動く仕組みとなっている。元々は弓形の可動席内野側も外野側へ移動させてサッカーのフィールドが設置できるようになっているが実施されたことはない。アメリカンフットボールの場合は野球場の配置のままでもフィールドが設置できるため、そのままで行われている。
野球場として使用する場合、スコアボード直下(センター)の座席はバックスクリーンの役割とするため立ち入り禁止となるが、開設当初はその部分を黒のシートで覆っていた。現在は他の座席(水色)とは区分けするため座席を濃い青色に塗り直している。また上段席(5階席)は使用されないイベントでは閉鎖される。
野球場としてはスタンドが高くなり死角が多くなるのが円形球場の特徴であるが、独特のスタンド配置により当ドームは特にその欠点が目立つようになっている。また外野ファウルゾーンが狭いことも影響してファウルポール際が見えない席が多くなっている。自分の席に近い塀際の死角が大きく、バックネットに近い内野席ではホームベースが、一塁(三塁)側内野席では一塁(三塁)ベースが見えにくい座席がある。また外野席は下段ではメインスコアボードが見えない上に上段の圧迫感が強く、上段では開放感はあるが外野フェンス際が見えないためホームランかどうか打球判断ができない。
同じく円形2層式のスタンドを持つナゴヤドームと比較すると、上段席の最前列が球場中心部に近く、スタンドの傾斜がきつい。外野席は下段最前列でも高い位置にあり、上段最前列が下段最前列の真上にあるため死角がより大きくなっている。逆にいえばよりコンパクトにまとまっており、コンサート会場としては優秀といえる。なおファウルポール際に関しては、内野席の外野側をバッテリー間方向に向け、外野側のファウルゾーンを狭くする近年の球場ではどこでも見えにくくなっている。なおサイドビジョンはメインスコアボードが見えない外野席の正面になるように設置されている。
座席はバックネット裏が水色でやや大型なものが配置され、他の内野席が青色の背もたれあり、外野席が青色の背もたれなしとなっていたが、2011年からバックネット裏中央の前列が160席のソファーシートに変更されている。オリックス主催試合では「エクセレントシート」と称される年間指定席となっている。
開場当初はバックネットが吊り下げ式、内野下段席最前列の防球ネットが支柱式で、イベント時などには取り外していた。2009年からバックネットを東洋紡のダイニーマ(現:イザナス)製で取り外し時には天井へ収納されるものに変更し、さらに内野下段席最前列の防球ネットも2010年から支柱の無い吊り下げ式に変更された(天井への収納機能無し)。
スタンド内には2つのホームランの着弾点に記念するものが残されている。1つ目は鈴木貴久の公式戦初ホームランでレフト下段に記念プレートが設置されている。2つ目はタフィ・ローズのシーズン55号ホームランで一塁側内野席の座席の一つがバラ色のものに取り替えられており、ボールの形も刻まれている。
空席が目立つのを逆手に取った営業策として、混雑が予想される試合を除いたバファローズ公式戦で外野側の上段内野席が閉鎖され、横断幕形式の広告スペースとなっている。3塁側は2010年4月13日から3年間、通信販売業「ワンステップ」が運営する通販サイト「KILAT」の広告が出される。サイズは全長横100m、幅12m(座席2000席分)と屋外を含めた球場の広告物としては国内最大のサイズで、2013年以降も、広告契約の更新によって掲示を継続。2013年からは、3塁外野寄りのビスタルームの利用を停止した上で、広告掲示スペースに充てている。1塁側については、一時CNプレイガイドの広告が出ていたが、広告契約の有無については非公表。広告主の募集期間中には、監督と主力選手の写真を並べた幕や、バファローズの球団スローガンを大きく記したイラストの幕を掲示している。ただし、1塁側内野席の混雑状況が球団の予測を上回った場合には、球団の判断で開場後に広告幕を撤去することがある。広告掲示は2015年まで継続され、2016年以降は掲示していない。
バルコニー席は外野2階と内野6・7・8階にある。2階はレストラン、6・7・8階は特別観覧席のものとなっている。2階には防球ネットが張られているが、2012年に入れ替わったライト側の1店舗はネットを設置していない。
2010年3月20日のパシフィックリーグ開幕戦・オリックス対楽天戦から、プロ野球の試合日にのみ、可動席の内側にフィールドシートを仮設している。ただし、可動席の移動の障害になるため、イベントでアリーナを使用する場合には取り外す。また社会人野球日本選手権大会などのアマチュア野球の試合でも使用されておらず、前後の使用状況によってシートが設置されているかは異なる。
フィールドシートでは、1・3塁側とも、ホームベースに近いゾーン (A) と外野スタンドに近いゾーン (B) に区別。ゾーンAでは、旅客機のファーストクラスと同じ材質の座席と、座席単位で専用テーブルを設けている関係でゾーンBより料金を高く設定している。また、いずれのシートにも、グラウンドと接する面には下部にラバーフェンスしか設けていない。このため、試合中には観客に対して、付属のヘルメットの着用を義務付けている。
その一方で、オリックス主催試合開催日の試合前に有料で2-3回実施している「ドームツアー」には、一塁側のフィールドシートから1時間にわたって同球団の練習の模様を観覧できるプランを用意。シートで試合を観戦できなくても、ツアースタッフの同行・ヘルメットの着用を条件に、シートへ座ったりゾーン内で写真を撮影したりすることが認められている。
なお、フィールドシートには、スポンサー契約による命名権を設定。2010年から3年間は、アヴァンス法務事務所が命名権を取得していた関係で、「アヴァンスシート」と名付けられた。2013年には、「モバプロ」(オンラインでの無料プロ野球シミュレーションゲーム)を運営するモブキャストと契約を結んだことから、「モバプロシート」に改称。大阪商業大学(大商大)OBの谷佳知が8年振りにオリックスへ復帰した2014年には、同大学を運営する谷岡学園が命名権を取得したことから、「大商大シート」という名称で運用する。命名権の契約期間中でも、他球団の主催試合では「フィールドシート」と称することがある。
両翼100m、中堅122mの国際規格となっている。外野席最前列は8m程の高さにあるが、外野フェンスは少し内側で別になっており高さは4.2mとなっている。外野側のファウルゾーンは狭くなっており、アメリカの流れをいち早く採り入れたといえる。グラウンドには全面に人工芝を採用している。開場当初は巻き取り式のショートパイル人工芝だったが、2003年シーズンよりロングパイル人工芝に切り替えた。その後、2007年からは内野部分のみを入れ替え、塁間部などを赤茶色の人工芝に変更して総天然芝に見えるようにしている。更に2011年シーズンからは全面をアストロ社製の新型人工芝「アストロピッチSL-KDV」に張り替えている。ファウルゾーンは円形球場としては狭く、フィールドシートの設置によりさらに狭くなっている。そして2018年シーズンからは、ミズノ社と積水樹脂社が共同開発した野球専用人工芝「MS Craft Baseball Turf」に張り替えている。
フェンスは2012年のシーズン開幕前に改修し、選手の安全確保を目的として「ソフトラバーフェンス」と呼ばれるクッション性の高いフェンスを採用するとともに、これまで15年間使ってきた水色から濃い紺色(オリックス・バファローズのチームカラー)に変更した。さらに翌年には水色を残していたスタンド上部のフェンスも同色に塗り替えた。
開場当初はメインとサブの、2台の全面LED式ビジョンのスコアボードを設置した。
2008年にビジョンが拡張・リニューアルされ、幅約34メートル、高さ約8・5メートルのサイズとなった。さらに、ライト側、レフト側応援団からは真正面に近い位置にあるビスタルーム部分に、新たにサブビジョンが2台設置された。また場内撮影用のテレビカメラがハイビジョンカメラとなった。
スコアボードの表示方法の変遷は以下の通りである。
メインビジョンはハイビジョン映像(16:9の画面)2画面同時表現可能である。なお、場内撮影用カメラで撮影された映像は、4:3画面時もハイビジョン画質の映像(16:9映像の両端をサイドカットした映像)である。サイドビジョンの映像部はハイビジョン映像(16:9の画面)の2画面同時表現が可能である。映像部と別に、上部に文字表示部があり固定文字、流し文字などの表現や図形の組み合わせ表示が可能であり、リボンビジョンとほぼ同じ用途で使われている。ビジョンはパナソニック製であり広告も入っていたが、パナソニックの製造撤退などもあり消されている。現在は映像送出を担当しているソニービジネスソリューションの広告がサブスコアボード両脇に存在する。
屋根は周回部分が「スカイホール」に当たり、波打った独特の形状をしている。中央部の直径76mの部分はポリカーボネートになっており、自然光を取り入れることが可能になっている。屋根の最高部は地上からの高さ83mとなっている。
天井の中央部には「スーパーリング」と呼ばれる反響板と遮光板を兼ねたものが吊り下げられている。外側の6つのリング状のものと中央の1つの皿状のものからなり、一番外側のものは固定され他の6つのものが上下する仕組みとなっている。内側に向かって下る傾斜がつけられており、全て上に引き上げられた場合はその隙間から自然光を取り入れることができる。この時のグラウンドからの天井高は72mとなる。内側から4枚目のリングに合わせて内側3枚のリングを下げれば光を漏らさない状態となり、この時の天井高は60mである。固定式の外側のリングの高さに全ての高さを揃えれば自然光を取り入れつつ空白感を軽減する展示会モードとなる。外側のリングに合わせて6枚のリングの端をそろえるように下げていくと天井高が36mとなり、残響時間を減らすことができる。このシステムは音響の面からアーティストに好評であった。
しかし、このシステムの制御装置の電子部品が製造中止となり、万が一故障した場合修理に多大な時間と費用が掛かることになること、天井が低い位置で停止した場合には野球開催に、高い位置で停止した場合は昼間のコンサート開催に支障が出るために、2004年8月頃から高さ60mの位置で固定してこのシステムは使用していない。ただし、中央のものにはスピーカーが備えられていることもあり、現在も補修・取替えのために地表面まで降ろすことがある。
中央部からバックスクリーン方向にかけては「グリッドトラス」と呼称される鉄骨を吊り下げることができる。下面にはフックがつけられており、ウインチなどを介して照明やスピーカーなど用のバトンを吊り下げることができる。ただし、規模が小さい、他のドームには同等のシステムが無いなどの理由で単発コンサートでの利用が多い。未使用時はバックスクリーンの上部辺りの天井に収納されており、取り付け位置を変更する際はグラウンドを転がす。そのため方向固定式のタイヤがつけられている。フックはスーパーリングにも設けられているが現在では固定されたために使用できない。
開業当初は天井高を36mまで下げた状態でスーパーリングに「ウォールカーテン」と呼ばれる仕切り幕を吊り下げ、ドーム内を二分した状態でコンサートを行う想定もあった。
場内で在阪のAMラジオ放送がFM電波を使用して再送信されており、FM放送を受信できる機器の周波数を下記に合わせることで聴取可能だった。大阪近鉄バファローズが本拠地としていた時には、ファンを対象とした冊子に掲載されていたが、オリックス・バファローズが本拠地としている現在は、冊子に掲載されていない。
攻守交代の間にスコアボードに表示されることがあった。周波数は以下の通り。
現在は全てのビジョンにおいて表示されていない。ただし、阪神が主催ゲームを行う場合には、ビジョンで案内されている。
試合開催日の「練習見学ツアー」と、非イベント開催日の「ドームツアー」が開催されている。グラウンド・ベンチ・ブルペン、練習風景等を見学する事が出来る。
本塁後方には上下2ヶ所にフルカラーLED広告板が設けられている。開場当初は従来の広告板であり、2010年までは回転式広告板であった。2011年にはセンターバックスクリーンの2階部分にもLEDによる広告看板を設置した。
大阪ドームのある千代崎三丁目は、もともと寺島(千代崎一丁目・千代崎二丁目方面)と勘助島(大正区方面)に挟まれた川とも芦原ともつかないような場所で、1757年(宝暦7年)に前田屋新田、1773年(安永2年)に岩崎新田が開墾されて漸次陸地化した経緯を持っており、地盤は軟弱である。加えて、1952年(昭和27年)に尻無川の上流区間が埋め立てられたが、大阪ドームはその埋め立てられた川跡にまたがって立地している。
かつてGLAYなどの縦ノリが行われるコンサートを開催した際、ドーム周辺の住宅地において震度1~3程度の揺れを感じることがあったため、縦ノリを行うコンサートには使用を規制している。縦ノリを行わないコンサートでも、ジャンプ等は行わないよう、公演前に必ず観客に向けて念入りに注意を呼びかけており、観客席への通路にはその他の禁止行為を示す絵と文章が書かれている(野球でのジャンプ応援も同様に禁止される)。この縦ノリ問題が大きく取り上げられるようになったのは、2003年末頃からである。
GLAYは2005年に5大ドームツアー(札幌・東京・名古屋・大阪・福岡)を計画していたが、大阪ドームについてはこの縦ノリ騒動が発端となり、最後まで交渉を重ねたものの結局は決裂し、その代替会場としてインテックス大阪でライブを開催した経緯がある。このため、集客力の劣る同会場での開催が決定した後、GLAYは大阪公演だけは4日間と他会場より公演数を多めに設定し、かつ各日それぞれ違った構成でライブを開催した。
また、地元・大阪出身の歌手である矢井田瞳も2001年と2002年の大晦日にカウントダウンライブを行ったが、2004年については大晦日ではなく12月18日に開催し、ライブも夜9時までに終わらせるようにした。また、この年の公演は“地震”対策として、グラウンド部分に設置するアリーナ席を大幅に減らし、縦ノリしにくい選曲でライブが構成されるまでに至った。さらに、このライブをもって矢井田は、今後ドーム公演を行わない方針を明かした。ただし、この件に関して矢井田本人のコメントによると、大阪ドームの縦ノリが原因ではなく、観客とよりダイレクトな空間でライブを行いたいために以前から決意していたことであり、大阪ドームでの縦ノリとは無関係であるとしている。
UVERworldは、2014年に開催したライブでジャンピング行為を煽ってファンがジャンプする行為を行った結果、京セラドーム大阪を出入り禁止となったことを2015年10月6日に行われたライブのMCで公表している。
ドーム球場の天井に当たった打球の扱いは、公認野球規則で統一的なルールはなく、基本的に各球場における「特別グラウンドルール」に従うことになっている。そのため、京セラドームには天井にある円形の構造物「スーパーリング」に打球が挟まった場合の取り扱いなど特殊なグラウンドルールがある。ルールは以下の通り
阪神タイガースは親会社の阪神電気鉄道が旧運営会社(第三セクター)に出資した経緯があり、本拠地の阪神甲子園球場に近いことや西大阪線の延伸予定地(現:阪神なんば線)に近かったことから開場以来、地方開催扱いで主催試合を行っている。ただし、対戦相手が読売ジャイアンツとの試合は開催されていない。
当初は梅雨の時期と全国高等学校野球選手権大会の時期に1カードずつであったが、2007年以降現在は、開幕直後の選抜高等学校野球大会開催期間中に1カード、8月の全国高等学校野球選手権大会開催期間中に2カード、計8ないし9試合というのが通例になっている(他の時期に1カード追加されたシーズンあり)。これにより死のロードの負担が軽減されている。
2007年から2009年の3年間のシーズンオフにかけて行われた甲子園球場の改修工事に伴い、阪神が10月以降の公式戦およびクライマックスシリーズ・日本シリーズに進出した場合に甲子園が使用できないこととなったため、スカイマークスタジアム(現:ほっともっとフィールド神戸)と共に代替球場として挙げられた。実際に2008年10月のクライマックスシリーズファーストステージの3試合が京セラドームで行われた(2008年10月の公式戦はスカイマークで開催)。2009年10月の公式戦は工期の見直し等により甲子園球場で開催された。
オープン戦での主催試合は2004年以前も年度により対近鉄戦のうち1試合を阪神主催にして行われていたが、2005年以降は連続して行われており、最終戦になることが多い。例年春分の日前後の週末に組まれており、2013年以降はその年のオープン戦最終3連戦がオリックス戦となっている。例年2戦目(土曜日)の1試合のみ阪神主催としており、ユニフォームもホームとビジターとで変えている上、スコアボードのデザインは2019年以前のものを継続使用(ただしフォント等は新表示に準拠)しているほか、場内アナウンスやスコアボード表示の演出およびグラウンド上のパフォーマンスなども甲子園球場に準じた形式に改められているものの、ベンチは入れ替えておらず3試合ともオリックスが1塁側を使用する。なお、2020年のみ1戦目が阪神主催であった(新型コロナウイルス感染拡大を受けて無観客開催)。この場合、2017年まではオリックスのラッキー7でも『SKY』が流れなかったが、2018年からは過去にヤクルト主催試合で使われていた短縮編集版が、2023年からはオリックス主催時と同一のものが流れるようになった。
1997年以後ほぼ毎年、読売ジャイアンツ主催の公式戦が年1-2試合行われている。関西での巨人主催の試合はフランチャイズ制が敷かれる前は複数あったが、フランチャイズ制が確立された1952年以後では、1955年10月11日に和歌山県営向ノ芝野球場での対広島ダブルヘッダー、1950年代の大阪スタヂアムや西京極球場でのオープン戦などわずかであった。しかし大阪ドームが誕生した1997年は読売新聞大阪本社が創刊45周年となったことから、これを記念して大阪での巨人主催試合が企画された。これ以後、1999年と2001年以後の毎年(2011年・2020年は開催せず)、原則として7月中旬ないし下旬(都市対抗野球開催期間中の長期ロード)に2試合を開催している。なお、主催試合においては阪神との対戦実績はない。
2020年は巨人がリーグ優勝し日本シリーズ進出が決定したものの、本拠地の東京ドームが都市対抗野球開催期間中のため使用できない関係で大阪ドームにて代替で開催された。
オリックスと同じくパ・リーグに所属する福岡ソフトバンクホークスも、「鷹の祭典」シリーズの一環として、2014年8月18日に大阪ドームで初めての公式戦である対西武戦を開催した。ソフトバンクとしては大阪で公式戦を開催するのは初であったが、前身球団を含めたホークスの主催試合としては、大阪市を本拠地(1938年 - 1988年まで大阪府が保護地域。本拠地球場は大阪球場)としていた南海ホークス時代の1988年以来26年ぶりの開催となった。2015年以降も毎年(地方開催を行わなかった2020年は除く)1試合を大阪ドームにてオリックス以外の球団との公式戦を1試合開催している。なお、かつてはオリックスもブルーウェーブ時代の1999年6月に、福岡ドームにて1カード3試合の主催試合を行ったこともあった。
2017年6月25日には、オリックスと女子プロ野球とのスペシャルコラボマッチにより、当日のオリックスの試合(デーゲーム)終了後に女子プロ野球公式戦・兵庫ディオーネ対埼玉アストライアが初めて開催された。また、翌2018年も同様の企画で、9月1日にオリックスの試合(デーゲーム)終了後に京都フローラ対埼玉アストライアの試合が行われた。
ドーム初使用順に掲載。赤色の年は開催予定であることを表す。
ドーム初使用順に掲載。赤色の年は開催予定であることを表す。
なお、滋賀県東近江市にある「京セラ前駅」(近江鉄道本線)を当球場の最寄駅と誤解する観客が少なからず存在するため、近江鉄道の主要駅では「京セラドーム大阪の最寄り駅は京セラ前ではありません」という注意書きが掲出されている。 | [
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"text": "大阪ドーム(おおさかドーム)は、大阪府大阪市西区にある多目的ドーム球場兼複合レジャー施設。施設命名権の売却により、2006年7月1日から呼称を京セラドーム大阪(きょうセラドームおおさか)としている(後述)。",
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"text": "プロ野球・パシフィック・リーグ(パ・リーグ)のオリックス・バファローズが本拠地として使用している。なお、阪神タイガースも選抜高等学校野球大会および全国高等学校野球選手権大会(甲子園)の開催期間中、本拠地である阪神甲子園球場を使用できないといった背景などから本ドームを事実上の準本拠地としている。",
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"text": "大阪市がパシフィック・リーグの大阪近鉄バファローズを誘致し、その本拠地(専用球場)として大阪市主体の第三セクター・大阪シティドームによって建設された多目的ドームである。後に大阪近鉄を吸収合併した当時のオリックス・ブルーウェーブがオリックス・バファローズと名前を変えこちらを本拠地として使用している。オリックスの他にも、セントラル・リーグの阪神タイガース(阪神甲子園球場が高校野球で使用ができない期間)や読売ジャイアンツ(東京ドームが都市対抗野球で使用ができない期間)が、2014年からはオリックスと同じパシフィック・リーグの球団で、かつて大阪に本拠地を置いていた福岡ソフトバンクホークスが、それぞれ主催試合を開催している。",
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"text": "アマチュア野球では社会人野球日本選手権大会や、全国高等学校野球選手権大阪大会の開会式とその直後の2試合がそれぞれ行われている。",
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"text": "大阪市による経営は上手くいかず、のちに施設はオリックス不動産に売却され、大阪シティドームはオリックス不動産などの出資する管理運営会社に変更されている。",
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"text": "近畿地方では敷地などの面積を示す際に慣用単位として「阪神甲子園球場○個分」と言われることが多いが、「大阪ドーム○個分」という表現を用いることもある。",
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"text": "大阪政財界の建設を求める声に応える形で大阪シティドームが設立されドームの建設が開始、1997年2月20日に大阪ガスの工場跡地に完成、東京ドーム、福岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場として3月1日に開場し、パシフィック・リーグの大阪近鉄バファローズの本拠地(専用球場)となった。設計は大林組と竹中工務店、建設には両社を含め10社以上の企業が参加した。また同年には中日ドラゴンズの本拠地ナゴヤドームも開場した。",
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"text": "当初はドーム内でのイベント日以外にも商業施設として機能させるべくショッピングモールやアミューズメント施設(ドーム内2階の「グリンドムモール」およびドーム内9階の「フェスタモール」、ドーム前千代崎駅がある東側の「Padou」)を作り営業していた。しかし、イベントが無い日はほとんど来場者が無く相当数のテナントが撤退していくことになった。また、その利用者を見越して造られた立体式地下駐車場も、利用の低迷と維持管理費の削減のために建設当時の台数の半分近くが解体の上、埋められてしまった。さらに近鉄の観客動員も初年度以外は伸び悩み、コンサートの利用数も振るわずと赤字が続き、大阪市のドーム建設計画の甘さが露呈、大阪市の税金の無駄遣いの典型と批判された。",
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"text": "経営破綻が危ぶまれていた最中の2004年6月、近鉄がオリックス・ブルーウェーブとの球団合併計画を発表し、ドーム経営の先行きはさらに不透明となっていく。結局2004年11月に大阪シティドームは特定調停を申請、事実上の経営破綻に陥った。",
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"text": "2006年4月、オリックス(直接はオリックス子会社のオリックス・リアルエステート、現在のオリックス不動産)が大阪ドームの施設買収と大阪シティドーム社の株式取得に乗り出し、6月になって5から10年後に大阪市へ寄付することを視野に入れてシティドーム社から施設を90億円で買収、シティドーム社を100%減資した上で新たな募集株式をオリックスが取得した(詳細は大阪シティドーム参照)。これを受けてオリックスは2007年、再びドームを専用球場として登録。同年はオリックス主催公式戦のうち48試合が大阪で開催された。2008年に前述の暫定措置が延長されなかったものの、オリックスは本拠地の一本化を取りやめて試合数は2007年のままとした。この件とは別に施設命名権の売却が行われ、2006年7月から「京セラドーム大阪」を名乗ることとなった(後述)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "施設買収後、オリックスは積極的に施設の改修を行っている。広告やイベント貸出日の増加、固定資産税(家屋のみ)全額免除など大阪市の支援もあり、シティドーム社の経営は黒字でドームの寄付も先延ばしとなっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "一方で周囲は再開発が進み、新たな商業施設が続々と設立されている。Padouは阪神なんば線ドーム前駅の建設工事の作業拠点とするため、2007年に解体された。跡地にはイオンを誘致する計画があったもののしばらくは更地のままであったが「イオンモール大阪ドームシティ」として2013年5月31日にオープンした。またドーム西隣にも大和ハウス工業による健康、スポーツ関連の複合商業施設「フォレオ大阪ドームシティ」と病院が開業、ドーム南隣にはホームセンター「スーパービバホーム」が開業した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2015年1月30日、京セラドーム大阪の周辺にあった大阪ガス施設が再開発され、大阪ガスの展示、イベント施設「ハグミュージアム」が開館した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "京セラ傘下の京セラドキュメントソリューションズは、2003年4月から大阪ドームの場内に広告を掲出している。このことから2006年1月中旬頃、大阪シティドームが京セラに施設命名権(ネーミングライツ)の売却を打診したところ、京セラ側がこれに応じ、大阪シティドームと京セラは同年3月2日付で命名権契約に基本合意し、同年4月1日付で呼称を「京セラドーム大阪」に変更することが決定した。当初、京セラ側は呼称を単に「京セラドーム」とする意向であったが、地元商店街や周辺住民などから「大阪の名を残してほしい」と請願があったことなどに鑑みて「大阪」の名が残ることになった。しかし大阪シティドームは当時会社更生法による更生手続きの最中であり、経営再建に向けた手続きの絡みなどもあって正式な契約書の締結が遅れたため、実際の呼称変更は予定より3ヶ月遅れの7月1日までずれ込んだ。なお契約期間は2011年3月31日までの5年間。契約金額は非公表だが、年額数億円と推定されている。なお、京セラは当時の大阪シティドームの経営再建問題には一切関与していない。",
"title": "施設命名権"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "大阪シティドームと京セラは、1回目の契約満了を前にした2011年1月11日に、同年4月1日から2014年3月31日までの3年を対象に命名権契約を更新したことを公表。さらに京セラは、2013年12月11日に、2014年4月1日から2017年3月31日までの3年間にわたる命名権契約の締結で大阪シティドームと合意したことを発表した。ただし、上記の契約ではいずれも、契約金額を明らかにしていない。なお京セラでは、命名権契約を2度更新したことへの狙いについて、「ドームには来場者が多く、企業イメージの向上を図ることができる」とのコメントを出している。2017年4月以降も継続して名称を使用しているが、契約更新に関する発表はされていない。",
"title": "施設命名権"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "基本構造は横浜スタジアムや福岡 PayPayドームのような円形球場であるが、可動席は外野スタンドと外野フェンスを分割することによって独自の方式を採用している。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "現在の1試合あたりの球場使用料は不明だが、かつての本拠地球団である大阪近鉄バファローズは年間使用料として管理費込みで11億円を支払っていた。この高額な年間使用料が当時の近鉄球団の経営に致命傷を負わせたともいわれる。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "一塁側から、毎日放送(ラジオ)、ラジオ大阪、テレビ用放送室1、テレビ用放送室2、朝日放送(ラジオ)、NHK、ラジオ放送室(予備)の配置。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "スタンドは真円形となっており、全ての座席が球場の中心点、二塁ベースのやや後方に向いている。通常の円形球場ではドーナツ形の固定スタンド内側に弓形あるいは三日月形の可動スタンドを備えているが、当ドームでは固定スタンドの外野スタンド前部が削られた形となっており、フェンスが別になっている。ドーナツ形固定スタンドの内径は他より小さく、可動席はやや小さくなっている。可動スタンドは弓形の形状で内野側と外野側の2つに分かれており、外野側のみがずれると3階コンコースに通じる階段への入り口が現れる仕組みとなっており、アリーナが観客に開放されるイベント時に使われる。ファウルポール付近にも小さな可動スタンドがあり、センター方向へ移動させてその間に仮設スタンドを設置することができる。外野スタンドの最前列にはそれに使用するための扉が設置されている。可動スタンドはそれぞれ2本のレールの上を動く仕組みとなっている。元々は弓形の可動席内野側も外野側へ移動させてサッカーのフィールドが設置できるようになっているが実施されたことはない。アメリカンフットボールの場合は野球場の配置のままでもフィールドが設置できるため、そのままで行われている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "野球場として使用する場合、スコアボード直下(センター)の座席はバックスクリーンの役割とするため立ち入り禁止となるが、開設当初はその部分を黒のシートで覆っていた。現在は他の座席(水色)とは区分けするため座席を濃い青色に塗り直している。また上段席(5階席)は使用されないイベントでは閉鎖される。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "野球場としてはスタンドが高くなり死角が多くなるのが円形球場の特徴であるが、独特のスタンド配置により当ドームは特にその欠点が目立つようになっている。また外野ファウルゾーンが狭いことも影響してファウルポール際が見えない席が多くなっている。自分の席に近い塀際の死角が大きく、バックネットに近い内野席ではホームベースが、一塁(三塁)側内野席では一塁(三塁)ベースが見えにくい座席がある。また外野席は下段ではメインスコアボードが見えない上に上段の圧迫感が強く、上段では開放感はあるが外野フェンス際が見えないためホームランかどうか打球判断ができない。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "同じく円形2層式のスタンドを持つナゴヤドームと比較すると、上段席の最前列が球場中心部に近く、スタンドの傾斜がきつい。外野席は下段最前列でも高い位置にあり、上段最前列が下段最前列の真上にあるため死角がより大きくなっている。逆にいえばよりコンパクトにまとまっており、コンサート会場としては優秀といえる。なおファウルポール際に関しては、内野席の外野側をバッテリー間方向に向け、外野側のファウルゾーンを狭くする近年の球場ではどこでも見えにくくなっている。なおサイドビジョンはメインスコアボードが見えない外野席の正面になるように設置されている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "座席はバックネット裏が水色でやや大型なものが配置され、他の内野席が青色の背もたれあり、外野席が青色の背もたれなしとなっていたが、2011年からバックネット裏中央の前列が160席のソファーシートに変更されている。オリックス主催試合では「エクセレントシート」と称される年間指定席となっている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "開場当初はバックネットが吊り下げ式、内野下段席最前列の防球ネットが支柱式で、イベント時などには取り外していた。2009年からバックネットを東洋紡のダイニーマ(現:イザナス)製で取り外し時には天井へ収納されるものに変更し、さらに内野下段席最前列の防球ネットも2010年から支柱の無い吊り下げ式に変更された(天井への収納機能無し)。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "スタンド内には2つのホームランの着弾点に記念するものが残されている。1つ目は鈴木貴久の公式戦初ホームランでレフト下段に記念プレートが設置されている。2つ目はタフィ・ローズのシーズン55号ホームランで一塁側内野席の座席の一つがバラ色のものに取り替えられており、ボールの形も刻まれている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "空席が目立つのを逆手に取った営業策として、混雑が予想される試合を除いたバファローズ公式戦で外野側の上段内野席が閉鎖され、横断幕形式の広告スペースとなっている。3塁側は2010年4月13日から3年間、通信販売業「ワンステップ」が運営する通販サイト「KILAT」の広告が出される。サイズは全長横100m、幅12m(座席2000席分)と屋外を含めた球場の広告物としては国内最大のサイズで、2013年以降も、広告契約の更新によって掲示を継続。2013年からは、3塁外野寄りのビスタルームの利用を停止した上で、広告掲示スペースに充てている。1塁側については、一時CNプレイガイドの広告が出ていたが、広告契約の有無については非公表。広告主の募集期間中には、監督と主力選手の写真を並べた幕や、バファローズの球団スローガンを大きく記したイラストの幕を掲示している。ただし、1塁側内野席の混雑状況が球団の予測を上回った場合には、球団の判断で開場後に広告幕を撤去することがある。広告掲示は2015年まで継続され、2016年以降は掲示していない。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "バルコニー席は外野2階と内野6・7・8階にある。2階はレストラン、6・7・8階は特別観覧席のものとなっている。2階には防球ネットが張られているが、2012年に入れ替わったライト側の1店舗はネットを設置していない。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2010年3月20日のパシフィックリーグ開幕戦・オリックス対楽天戦から、プロ野球の試合日にのみ、可動席の内側にフィールドシートを仮設している。ただし、可動席の移動の障害になるため、イベントでアリーナを使用する場合には取り外す。また社会人野球日本選手権大会などのアマチュア野球の試合でも使用されておらず、前後の使用状況によってシートが設置されているかは異なる。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "フィールドシートでは、1・3塁側とも、ホームベースに近いゾーン (A) と外野スタンドに近いゾーン (B) に区別。ゾーンAでは、旅客機のファーストクラスと同じ材質の座席と、座席単位で専用テーブルを設けている関係でゾーンBより料金を高く設定している。また、いずれのシートにも、グラウンドと接する面には下部にラバーフェンスしか設けていない。このため、試合中には観客に対して、付属のヘルメットの着用を義務付けている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "その一方で、オリックス主催試合開催日の試合前に有料で2-3回実施している「ドームツアー」には、一塁側のフィールドシートから1時間にわたって同球団の練習の模様を観覧できるプランを用意。シートで試合を観戦できなくても、ツアースタッフの同行・ヘルメットの着用を条件に、シートへ座ったりゾーン内で写真を撮影したりすることが認められている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "なお、フィールドシートには、スポンサー契約による命名権を設定。2010年から3年間は、アヴァンス法務事務所が命名権を取得していた関係で、「アヴァンスシート」と名付けられた。2013年には、「モバプロ」(オンラインでの無料プロ野球シミュレーションゲーム)を運営するモブキャストと契約を結んだことから、「モバプロシート」に改称。大阪商業大学(大商大)OBの谷佳知が8年振りにオリックスへ復帰した2014年には、同大学を運営する谷岡学園が命名権を取得したことから、「大商大シート」という名称で運用する。命名権の契約期間中でも、他球団の主催試合では「フィールドシート」と称することがある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "両翼100m、中堅122mの国際規格となっている。外野席最前列は8m程の高さにあるが、外野フェンスは少し内側で別になっており高さは4.2mとなっている。外野側のファウルゾーンは狭くなっており、アメリカの流れをいち早く採り入れたといえる。グラウンドには全面に人工芝を採用している。開場当初は巻き取り式のショートパイル人工芝だったが、2003年シーズンよりロングパイル人工芝に切り替えた。その後、2007年からは内野部分のみを入れ替え、塁間部などを赤茶色の人工芝に変更して総天然芝に見えるようにしている。更に2011年シーズンからは全面をアストロ社製の新型人工芝「アストロピッチSL-KDV」に張り替えている。ファウルゾーンは円形球場としては狭く、フィールドシートの設置によりさらに狭くなっている。そして2018年シーズンからは、ミズノ社と積水樹脂社が共同開発した野球専用人工芝「MS Craft Baseball Turf」に張り替えている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "フェンスは2012年のシーズン開幕前に改修し、選手の安全確保を目的として「ソフトラバーフェンス」と呼ばれるクッション性の高いフェンスを採用するとともに、これまで15年間使ってきた水色から濃い紺色(オリックス・バファローズのチームカラー)に変更した。さらに翌年には水色を残していたスタンド上部のフェンスも同色に塗り替えた。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "開場当初はメインとサブの、2台の全面LED式ビジョンのスコアボードを設置した。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2008年にビジョンが拡張・リニューアルされ、幅約34メートル、高さ約8・5メートルのサイズとなった。さらに、ライト側、レフト側応援団からは真正面に近い位置にあるビスタルーム部分に、新たにサブビジョンが2台設置された。また場内撮影用のテレビカメラがハイビジョンカメラとなった。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "スコアボードの表示方法の変遷は以下の通りである。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "メインビジョンはハイビジョン映像(16:9の画面)2画面同時表現可能である。なお、場内撮影用カメラで撮影された映像は、4:3画面時もハイビジョン画質の映像(16:9映像の両端をサイドカットした映像)である。サイドビジョンの映像部はハイビジョン映像(16:9の画面)の2画面同時表現が可能である。映像部と別に、上部に文字表示部があり固定文字、流し文字などの表現や図形の組み合わせ表示が可能であり、リボンビジョンとほぼ同じ用途で使われている。ビジョンはパナソニック製であり広告も入っていたが、パナソニックの製造撤退などもあり消されている。現在は映像送出を担当しているソニービジネスソリューションの広告がサブスコアボード両脇に存在する。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "屋根は周回部分が「スカイホール」に当たり、波打った独特の形状をしている。中央部の直径76mの部分はポリカーボネートになっており、自然光を取り入れることが可能になっている。屋根の最高部は地上からの高さ83mとなっている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "天井の中央部には「スーパーリング」と呼ばれる反響板と遮光板を兼ねたものが吊り下げられている。外側の6つのリング状のものと中央の1つの皿状のものからなり、一番外側のものは固定され他の6つのものが上下する仕組みとなっている。内側に向かって下る傾斜がつけられており、全て上に引き上げられた場合はその隙間から自然光を取り入れることができる。この時のグラウンドからの天井高は72mとなる。内側から4枚目のリングに合わせて内側3枚のリングを下げれば光を漏らさない状態となり、この時の天井高は60mである。固定式の外側のリングの高さに全ての高さを揃えれば自然光を取り入れつつ空白感を軽減する展示会モードとなる。外側のリングに合わせて6枚のリングの端をそろえるように下げていくと天井高が36mとなり、残響時間を減らすことができる。このシステムは音響の面からアーティストに好評であった。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "しかし、このシステムの制御装置の電子部品が製造中止となり、万が一故障した場合修理に多大な時間と費用が掛かることになること、天井が低い位置で停止した場合には野球開催に、高い位置で停止した場合は昼間のコンサート開催に支障が出るために、2004年8月頃から高さ60mの位置で固定してこのシステムは使用していない。ただし、中央のものにはスピーカーが備えられていることもあり、現在も補修・取替えのために地表面まで降ろすことがある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "中央部からバックスクリーン方向にかけては「グリッドトラス」と呼称される鉄骨を吊り下げることができる。下面にはフックがつけられており、ウインチなどを介して照明やスピーカーなど用のバトンを吊り下げることができる。ただし、規模が小さい、他のドームには同等のシステムが無いなどの理由で単発コンサートでの利用が多い。未使用時はバックスクリーンの上部辺りの天井に収納されており、取り付け位置を変更する際はグラウンドを転がす。そのため方向固定式のタイヤがつけられている。フックはスーパーリングにも設けられているが現在では固定されたために使用できない。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "開業当初は天井高を36mまで下げた状態でスーパーリングに「ウォールカーテン」と呼ばれる仕切り幕を吊り下げ、ドーム内を二分した状態でコンサートを行う想定もあった。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "場内で在阪のAMラジオ放送がFM電波を使用して再送信されており、FM放送を受信できる機器の周波数を下記に合わせることで聴取可能だった。大阪近鉄バファローズが本拠地としていた時には、ファンを対象とした冊子に掲載されていたが、オリックス・バファローズが本拠地としている現在は、冊子に掲載されていない。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "攻守交代の間にスコアボードに表示されることがあった。周波数は以下の通り。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "現在は全てのビジョンにおいて表示されていない。ただし、阪神が主催ゲームを行う場合には、ビジョンで案内されている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "試合開催日の「練習見学ツアー」と、非イベント開催日の「ドームツアー」が開催されている。グラウンド・ベンチ・ブルペン、練習風景等を見学する事が出来る。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "本塁後方には上下2ヶ所にフルカラーLED広告板が設けられている。開場当初は従来の広告板であり、2010年までは回転式広告板であった。2011年にはセンターバックスクリーンの2階部分にもLEDによる広告看板を設置した。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "大阪ドームのある千代崎三丁目は、もともと寺島(千代崎一丁目・千代崎二丁目方面)と勘助島(大正区方面)に挟まれた川とも芦原ともつかないような場所で、1757年(宝暦7年)に前田屋新田、1773年(安永2年)に岩崎新田が開墾されて漸次陸地化した経緯を持っており、地盤は軟弱である。加えて、1952年(昭和27年)に尻無川の上流区間が埋め立てられたが、大阪ドームはその埋め立てられた川跡にまたがって立地している。",
"title": "周辺地域の振動問題"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "かつてGLAYなどの縦ノリが行われるコンサートを開催した際、ドーム周辺の住宅地において震度1~3程度の揺れを感じることがあったため、縦ノリを行うコンサートには使用を規制している。縦ノリを行わないコンサートでも、ジャンプ等は行わないよう、公演前に必ず観客に向けて念入りに注意を呼びかけており、観客席への通路にはその他の禁止行為を示す絵と文章が書かれている(野球でのジャンプ応援も同様に禁止される)。この縦ノリ問題が大きく取り上げられるようになったのは、2003年末頃からである。",
"title": "周辺地域の振動問題"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "GLAYは2005年に5大ドームツアー(札幌・東京・名古屋・大阪・福岡)を計画していたが、大阪ドームについてはこの縦ノリ騒動が発端となり、最後まで交渉を重ねたものの結局は決裂し、その代替会場としてインテックス大阪でライブを開催した経緯がある。このため、集客力の劣る同会場での開催が決定した後、GLAYは大阪公演だけは4日間と他会場より公演数を多めに設定し、かつ各日それぞれ違った構成でライブを開催した。",
"title": "周辺地域の振動問題"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、地元・大阪出身の歌手である矢井田瞳も2001年と2002年の大晦日にカウントダウンライブを行ったが、2004年については大晦日ではなく12月18日に開催し、ライブも夜9時までに終わらせるようにした。また、この年の公演は“地震”対策として、グラウンド部分に設置するアリーナ席を大幅に減らし、縦ノリしにくい選曲でライブが構成されるまでに至った。さらに、このライブをもって矢井田は、今後ドーム公演を行わない方針を明かした。ただし、この件に関して矢井田本人のコメントによると、大阪ドームの縦ノリが原因ではなく、観客とよりダイレクトな空間でライブを行いたいために以前から決意していたことであり、大阪ドームでの縦ノリとは無関係であるとしている。",
"title": "周辺地域の振動問題"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "UVERworldは、2014年に開催したライブでジャンピング行為を煽ってファンがジャンプする行為を行った結果、京セラドーム大阪を出入り禁止となったことを2015年10月6日に行われたライブのMCで公表している。",
"title": "周辺地域の振動問題"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ドーム球場の天井に当たった打球の扱いは、公認野球規則で統一的なルールはなく、基本的に各球場における「特別グラウンドルール」に従うことになっている。そのため、京セラドームには天井にある円形の構造物「スーパーリング」に打球が挟まった場合の取り扱いなど特殊なグラウンドルールがある。ルールは以下の通り",
"title": "天井に関する特別グラウンドルール"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "阪神タイガースは親会社の阪神電気鉄道が旧運営会社(第三セクター)に出資した経緯があり、本拠地の阪神甲子園球場に近いことや西大阪線の延伸予定地(現:阪神なんば線)に近かったことから開場以来、地方開催扱いで主催試合を行っている。ただし、対戦相手が読売ジャイアンツとの試合は開催されていない。",
"title": "開催イベント"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "当初は梅雨の時期と全国高等学校野球選手権大会の時期に1カードずつであったが、2007年以降現在は、開幕直後の選抜高等学校野球大会開催期間中に1カード、8月の全国高等学校野球選手権大会開催期間中に2カード、計8ないし9試合というのが通例になっている(他の時期に1カード追加されたシーズンあり)。これにより死のロードの負担が軽減されている。",
"title": "開催イベント"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2007年から2009年の3年間のシーズンオフにかけて行われた甲子園球場の改修工事に伴い、阪神が10月以降の公式戦およびクライマックスシリーズ・日本シリーズに進出した場合に甲子園が使用できないこととなったため、スカイマークスタジアム(現:ほっともっとフィールド神戸)と共に代替球場として挙げられた。実際に2008年10月のクライマックスシリーズファーストステージの3試合が京セラドームで行われた(2008年10月の公式戦はスカイマークで開催)。2009年10月の公式戦は工期の見直し等により甲子園球場で開催された。",
"title": "開催イベント"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "オープン戦での主催試合は2004年以前も年度により対近鉄戦のうち1試合を阪神主催にして行われていたが、2005年以降は連続して行われており、最終戦になることが多い。例年春分の日前後の週末に組まれており、2013年以降はその年のオープン戦最終3連戦がオリックス戦となっている。例年2戦目(土曜日)の1試合のみ阪神主催としており、ユニフォームもホームとビジターとで変えている上、スコアボードのデザインは2019年以前のものを継続使用(ただしフォント等は新表示に準拠)しているほか、場内アナウンスやスコアボード表示の演出およびグラウンド上のパフォーマンスなども甲子園球場に準じた形式に改められているものの、ベンチは入れ替えておらず3試合ともオリックスが1塁側を使用する。なお、2020年のみ1戦目が阪神主催であった(新型コロナウイルス感染拡大を受けて無観客開催)。この場合、2017年まではオリックスのラッキー7でも『SKY』が流れなかったが、2018年からは過去にヤクルト主催試合で使われていた短縮編集版が、2023年からはオリックス主催時と同一のものが流れるようになった。",
"title": "開催イベント"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1997年以後ほぼ毎年、読売ジャイアンツ主催の公式戦が年1-2試合行われている。関西での巨人主催の試合はフランチャイズ制が敷かれる前は複数あったが、フランチャイズ制が確立された1952年以後では、1955年10月11日に和歌山県営向ノ芝野球場での対広島ダブルヘッダー、1950年代の大阪スタヂアムや西京極球場でのオープン戦などわずかであった。しかし大阪ドームが誕生した1997年は読売新聞大阪本社が創刊45周年となったことから、これを記念して大阪での巨人主催試合が企画された。これ以後、1999年と2001年以後の毎年(2011年・2020年は開催せず)、原則として7月中旬ないし下旬(都市対抗野球開催期間中の長期ロード)に2試合を開催している。なお、主催試合においては阪神との対戦実績はない。",
"title": "開催イベント"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2020年は巨人がリーグ優勝し日本シリーズ進出が決定したものの、本拠地の東京ドームが都市対抗野球開催期間中のため使用できない関係で大阪ドームにて代替で開催された。",
"title": "開催イベント"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "オリックスと同じくパ・リーグに所属する福岡ソフトバンクホークスも、「鷹の祭典」シリーズの一環として、2014年8月18日に大阪ドームで初めての公式戦である対西武戦を開催した。ソフトバンクとしては大阪で公式戦を開催するのは初であったが、前身球団を含めたホークスの主催試合としては、大阪市を本拠地(1938年 - 1988年まで大阪府が保護地域。本拠地球場は大阪球場)としていた南海ホークス時代の1988年以来26年ぶりの開催となった。2015年以降も毎年(地方開催を行わなかった2020年は除く)1試合を大阪ドームにてオリックス以外の球団との公式戦を1試合開催している。なお、かつてはオリックスもブルーウェーブ時代の1999年6月に、福岡ドームにて1カード3試合の主催試合を行ったこともあった。",
"title": "開催イベント"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2017年6月25日には、オリックスと女子プロ野球とのスペシャルコラボマッチにより、当日のオリックスの試合(デーゲーム)終了後に女子プロ野球公式戦・兵庫ディオーネ対埼玉アストライアが初めて開催された。また、翌2018年も同様の企画で、9月1日にオリックスの試合(デーゲーム)終了後に京都フローラ対埼玉アストライアの試合が行われた。",
"title": "開催イベント"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ドーム初使用順に掲載。赤色の年は開催予定であることを表す。",
"title": "コンサート"
},
{
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"text": "ドーム初使用順に掲載。赤色の年は開催予定であることを表す。",
"title": "音楽イベント"
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{
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"text": "なお、滋賀県東近江市にある「京セラ前駅」(近江鉄道本線)を当球場の最寄駅と誤解する観客が少なからず存在するため、近江鉄道の主要駅では「京セラドーム大阪の最寄り駅は京セラ前ではありません」という注意書きが掲出されている。",
"title": "交通機関"
}
] | 大阪ドーム(おおさかドーム)は、大阪府大阪市西区にある多目的ドーム球場兼複合レジャー施設。施設命名権の売却により、2006年7月1日から呼称を京セラドーム大阪(きょうセラドームおおさか)としている(後述)。 プロ野球・パシフィック・リーグ(パ・リーグ)のオリックス・バファローズが本拠地として使用している。なお、阪神タイガースも選抜高等学校野球大会および全国高等学校野球選手権大会(甲子園)の開催期間中、本拠地である阪神甲子園球場を使用できないといった背景などから本ドームを事実上の準本拠地としている。 | <!--注意 この項目名は「大阪ドーム」です。命名権取得後の「京セラドーム大阪」に編集・移動しないで下さい。-->
{{混同|サンガスタジアム by KYOCERA|x1=同じく京セラが命名権を取得した}}
{{野球場情報ボックス
|スタジアム名称 = 大阪ドーム<br />(京セラドーム大阪)
|愛称 =
|画像 = [[ファイル:Kyocera Dome Osaka1.jpg|300px]]<br />外観<br />[[ファイル:京セラドーム大阪20120629.jpg|300px]]<br />フィールド全景
{{Infobox mapframe|zoom=12|type=point}}
|所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]][[千代崎]]三丁目中2番1号
|緯度度 = 34 |緯度分 = 40 |緯度秒 = 9.48
|経度度 = 135 |経度分 = 28 |経度秒 = 33.97
|起工 = [[1994年]]7月
|開場 = [[1997年]][[3月1日]]
|所有者 = [[オリックス (企業)|オリックス]]グループ
|グラウンド = 野球専用[[人工芝]]「MS Craft Baseball Turf」
|ダグアウト= ホーム:一塁側<br />ビジター:三塁側
|照明 =
* 照明灯:天井全周型・596灯
* 照度<br />バッテリー間:3000Lx、内野:2600Lx、外野:1800Lx
|建設費 = 約498億円
|設計者 = [[日建設計]](協力:[[竹中工務店]]、[[大林組]]、[[電通]])
|建設者 = 大阪ドーム建設共同企業体連合
|使用チーム、大会 = [[大阪近鉄バファローズ]](開場 - 2004年)<br />[[オリックス・バファローズ]](2005年 - 現在、本拠地)<br />[[阪神タイガース]](開場 - 現在、準本拠地、年間10試合、[[阪神甲子園球場]]の[[高校野球]]の状況に応じる)<br />[[社会人野球日本選手権大会]](開場・第24回大会 - 現在、2011年は中止)<br />[[全国高等学校野球選手権大阪大会]](開場・第79回大会 - 現在、開会式とその直後の2試合のみ)
|収容能力 = 36,220人<br />(プロ野球開催時の最大席数、2019年より)<br />45,000人<br />(コンサート開催時)
|規模 = 両翼 - 100 m(約328.1 ft)<br />中堅 - 122 m(約400.3 ft)<br />左右中間 - 116 m(約380.6 ft)<br />バックストップ - 18.3m<br />屋根の高さ - 60 m(約196.9 ft)<br />グラウンド面積 - 13,200[[平方メートル|m{{sup|2}}]]
|フェンスの高さ = 4.2 m(約13.8 ft)
}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 株式会社大阪シティドーム
|英文社名 = Osaka City Dome Co., Ltd.
|ロゴ =
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 =
|略称 = 大阪ドーム
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 550-0023
|本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]][[千代崎]]三丁目中2番1号
|設立 = [[1992年]]1月
|業種 = サービス業
|法人番号 = 4120001048881
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = 野球場「大阪ドーム=京セラドーム大阪」、「[[オリックス劇場]]」(旧:[[オリックス劇場#大阪厚生年金会館|大阪厚生年金会館]])、「[[大阪文化館・天保山]]」の管理運営
|代表者 = 小畠弘行([[代表取締役]][[会長]])<br />湊通夫(代表取締役[[社長]])
|資本金 = 2億5000万円(2010年3月31日時点)
|売上高 =
|純利益 = 20億0100万円(2021年03月31日時点)<ref name="catr">[https://catr.jp/companies/8d2db/26002 株式会社大阪シティドームの情報 : 官報決算データベース]</ref>
|純資産 = 110億0500万円(2021年03月31日時点)<ref name="catr"/>
|総資産 = 139億5600万円(2021年03月31日時点)<ref name="catr"/>
|従業員数 =
|決算期 = [[3月31日|3月末日]]
|主要株主 = [[オリックス不動産]] 90%<br />[[関西電力]] 2%<br />[[大阪瓦斯]] 2%<br />[[近畿日本鉄道]] 2%<br />[[ダイキン工業]] 2%<br />[[西日本電信電話]] 2%
|主要子会社 =
|関係する人物 =
|外部リンク = https://www.kyoceradome-osaka.jp/
|特記事項 = 会社設立時は[[大阪府]]、[[大阪市]]、ならびに大阪府内企業など出資による[[第三セクター]]。2005年、[[会社更生法]]申請。2006年100%減資を行い、オリックス不動産株式会社(当時の社名:オリックスリアルエステート株式会社)より資本出資を受ける。2007年1月会社更生法終結
}}
'''大阪ドーム'''(おおさかドーム)は、[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]にある多目的[[ドーム球場]]兼複合レジャー施設。[[命名権|施設命名権]]の売却により、2006年7月1日から呼称を'''京セラドーム大阪'''(きょうセラドームおおさか)としている([[#施設命名権|後述]])。
[[日本プロ野球|プロ野球]]・[[パシフィック・リーグ]](パ・リーグ)の[[オリックス・バファローズ]]が本拠地として使用している。なお、[[阪神タイガース]]も[[選抜高等学校野球大会]]および[[全国高等学校野球選手権大会]](甲子園)の開催期間中、本拠地である[[阪神甲子園球場]]を使用できないといった背景などから本ドームを事実上の準本拠地としている。
== 概要 ==
大阪市がパシフィック・リーグの[[大阪近鉄バファローズ]]を誘致し、その本拠地([[専用球場]])として大阪市主体の[[第三セクター]]・[[大阪シティドーム]]によって建設された多目的ドームである。後に大阪近鉄を吸収合併した当時のオリックス・ブルーウェーブがオリックス・バファローズと名前を変えこちらを本拠地として使用している。オリックスの他にも、[[セントラル・リーグ]]の[[阪神タイガース]]([[阪神甲子園球場]]が[[高校野球]]で使用ができない期間)や[[読売ジャイアンツ]]([[東京ドーム]]が[[都市対抗野球大会|都市対抗野球]]で使用ができない期間)が、2014年からはオリックスと同じパシフィック・リーグの球団で、かつて大阪に本拠地を置いていた[[福岡ソフトバンクホークス]]が、それぞれ主催試合を開催している。
アマチュア野球では[[社会人野球日本選手権大会]]や、[[全国高等学校野球選手権大阪大会]]の開会式とその直後の2試合がそれぞれ行われている。
野球の試合以外でも[[演奏会|コンサート]]、展示会などのイベントが開催されるほか、[[草野球]]利用目的の一般貸し出しも行われている。
大阪市による経営は上手くいかず、のちに施設は[[オリックス不動産]]に売却され、大阪シティドームはオリックス不動産などの出資する管理運営会社に変更されている。
近畿地方では敷地などの面積を示す際に慣用単位として「阪神甲子園球場○個分」と言われることが多いが、「'''大阪ドーム○個分'''」という表現を用いることもある。
横山ノック知事の時代に完成し、東京ドームが「ビッグエッグ」の愛称で呼ばれるのに対し、ノック知事の髪型と似てることから「ビッグノック」と揶揄されることもあった。
== 歴史 ==
=== 近鉄の本拠地として開場 ===
大阪政財界の建設を求める声に応える形で[[大阪シティドーム]]が設立されドームの建設が開始、1997年2月20日に[[大阪瓦斯|大阪ガス]]の工場跡地に完成、[[東京ドーム]]、[[福岡ドーム]]に次ぐ日本3番目のドーム球場として3月1日に開場し、[[パシフィック・リーグ]]の[[大阪近鉄バファローズ]]の本拠地([[専用球場]])となった。設計は[[大林組]]と[[竹中工務店]]、建設には両社を含め10社以上の企業が参加した。また同年には[[中日ドラゴンズ]]の本拠地[[ナゴヤドーム]]も開場した。
当初はドーム内でのイベント日以外にも商業施設として機能させるべく[[ショッピングモール]]やアミューズメント施設(ドーム内2階の「グリンドムモール」およびドーム内9階の「フェスタモール」、ドーム前千代崎駅がある東側の「Padou」)を作り営業していた。しかし、イベントが無い日はほとんど来場者が無く相当数の[[テナント]]が撤退していくことになった。また、その利用者を見越して造られた立体式地下駐車場も、利用の低迷と維持管理費の削減のために建設当時の台数の半分近くが解体の上、埋められてしまった。さらに近鉄の観客動員も初年度以外は伸び悩み、コンサートの利用数も振るわずと赤字が続き、大阪市のドーム建設計画の甘さが露呈、大阪市の税金の無駄遣いの典型と批判された。
=== 体制の転換 ===
経営破綻が危ぶまれていた最中の2004年6月、近鉄がオリックス・ブルーウェーブとの[[プロ野球再編問題 (2004年)|球団合併計画を発表し]]、ドーム経営の先行きはさらに不透明となっていく。結局2004年11月に大阪シティドームは[[特定調停]]を申請、事実上の経営破綻に陥った。
合併したオリックスは大阪ドームを本拠地に選択し、初年度は旧オリックスの本拠地である[[神戸総合運動公園野球場|スカイマークスタジアム]](現:ほっともっとフィールド神戸)と主催試合をほぼ半数に振り分け(大阪:34試合、神戸:32試合)、最終的には神戸での試合数を削減する方針であった(大阪ドームでの主催公式戦、当初案は2006年:42試合→2007年:54試合→2008年:60試合)。またこれに伴ってオリックスと阪神の[[プロ野球地域保護権|保護地域]]は2007年までの3シーズンの間、大阪府と兵庫県の2府県とする暫定措置が採られた(ダブルフランチャイズ制)。
2005年10月、大阪シティドームはさらなる負担を避けようとする大阪市の求めに応じて特定調停を取り下げ、[[会社更生法]]の適用を申請した。その後のドームの運営体制が不確定な事態となった影響から、オリックスは2006年シーズンの専用球場の登録をスカイマークスタジアムに変更し、主催公式戦を半数ずつ<ref group="注">野球協約の規定では半数以上を専用球場で開催しなければならない。</ref>開催する措置を採った。
2006年4月、オリックス(直接はオリックス子会社のオリックス・リアルエステート、現在のオリックス不動産)が大阪ドームの施設買収と大阪シティドーム社の株式取得に乗り出し、6月になって5から10年後に大阪市へ寄付することを視野に入れてシティドーム社から施設を90億円で買収、シティドーム社を100%減資した上で新たな募集株式をオリックスが取得した<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/shiseikaikakushitsu/page/0000034497.html 大阪シティドームの更生計画案について] 大阪市</ref>(詳細は[[大阪シティドーム]]参照)。これを受けてオリックスは2007年、再びドームを専用球場として登録。同年はオリックス主催公式戦のうち48試合が大阪で開催された。2008年に前述の暫定措置が延長されなかったものの、オリックスは本拠地の一本化を取りやめて試合数は2007年のままとした。この件とは別に[[命名権|施設命名権]]の売却が行われ、2006年7月から「京セラドーム大阪」を名乗ることとなった(後述)。
=== 周辺の再開発 ===
施設買収後、オリックスは積極的に施設の改修を行っている。広告やイベント貸出日の増加、[[固定資産税]](家屋のみ)全額免除など大阪市の支援もあり<ref>[https://www.city.osaka.lg.jp/zaisei/cmsfiles/contents/0000178/178910/00itiran.pdf 大阪市・減免措置一覧表]</ref>、シティドーム社の経営は黒字でドームの寄付も先延ばしとなっている<ref>[https://www.jiji.com/jc/v?p=baseball_keiei0009 借り物の厳しさ切実 =経営左右する「マイホーム」=] 時事ドットコム</ref>。
一方で周囲は再開発が進み、新たな商業施設が続々と設立されている。Padouは阪神なんば線ドーム前駅の建設工事の作業拠点とするため、2007年に解体された。跡地には[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]を誘致する計画があった<ref>京セラドーム隣にイオン誘致――阪神新線と相乗、09年春開業目指す 『日経ネット関西版』2007年10月4日</ref>もののしばらくは更地のままであったが「[[イオンモール大阪ドームシティ]]」として2013年5月31日にオープンした。またドーム西隣<ref group="注">旧:[[大阪市営バス]]九条営業所跡地。2000年に[[港区 (大阪市)|港区]]に[[大阪市営バス港営業所|港営業所]]を新設し移転。</ref>にも[[大和ハウス工業]]による健康、スポーツ関連の複合商業施設「[[フォレオ大阪ドームシティ]]」と病院が開業、ドーム南隣には[[ホームセンター]]「スーパー[[ビバホーム]]」が開業した。
2015年1月30日、京セラドーム大阪の周辺にあった大阪ガス施設が再開発され、大阪ガスの展示、イベント施設「[https://www.osakagas.co.jp/company/efforts/hugmuseum/index.html ハグミュージアム]」が開館した。
== 施設命名権 ==
=== 施設命名権による名称 ===
* 京セラドーム大阪(2006年7月1日 - )
[[京セラ]]傘下の[[京セラドキュメントソリューションズ]]は、2003年4月から大阪ドームの場内に広告を掲出している。このことから2006年1月中旬頃、大阪シティドームが京セラに[[命名権|施設命名権]](ネーミングライツ)の売却を打診したところ、京セラ側がこれに応じ、大阪シティドームと京セラは同年3月2日付で命名権契約に基本合意し、同年4月1日付で呼称を「'''京セラドーム大阪'''」に変更することが決定した。当初、京セラ側は呼称を単に「'''京セラドーム'''」とする意向であったが、地元商店街や周辺住民などから「大阪の名を残してほしい」と請願があったことなどに鑑みて「大阪」の名が残ることになった<ref>[http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/200603/news0311.html 大阪の名、残った「京セラドーム大阪」]『大阪日日新聞』2006年3月11日</ref>。しかし大阪シティドームは当時[[会社更生法]]による更生手続きの最中であり、経営再建に向けた手続きの絡みなどもあって正式な契約書の締結が遅れたため、実際の呼称変更は予定より3ヶ月遅れの7月1日までずれ込んだ。なお契約期間は2011年3月31日までの5年間。契約金額は非公表だが、年額数億円と推定されている。なお、京セラは当時の大阪シティドームの経営再建問題には一切関与していない。
大阪シティドームと京セラは、1回目の契約満了を前にした2011年1月11日に、同年4月1日から2014年3月31日までの3年を対象に命名権契約を更新したことを公表。さらに京セラは、2013年12月11日に、2014年4月1日から2017年3月31日までの3年間にわたる命名権契約の締結で大阪シティドームと合意したことを発表した。ただし、上記の契約ではいずれも、契約金額を明らかにしていない。なお京セラでは、命名権契約を2度更新したことへの狙いについて、「ドームには来場者が多く、企業イメージの向上を図ることができる」とのコメントを出している<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20131211-1230051.html 京セラドームの名称2017年まで継続]『日刊スポーツ』2013年12月11日</ref>。2017年4月以降も継続して名称を使用しているが、契約更新に関する発表はされていない。
== 施設 ==
基本構造は[[横浜スタジアム]]や[[福岡ドーム|福岡 PayPayドーム]]のような[[野球場#アメフト兼用球場(円形兼用球場)|円形球場]]であるが、可動席は外野スタンドと外野フェンスを分割することによって独自の方式を採用している。
[[ファイル:大阪ドーム040924.jpg|600px|thumb|center|三塁側から見たドーム内(2004年9月24日の大阪近鉄バファローズ球団最終公式戦)]]
[[ファイル:Kyocera Dome Osaka.jpg|600px|thumb|center|グラウンドレベルから見たドーム内(2010年9月)]]
=== 施設データ ===
* 所在地:大阪府大阪市西区千代崎三丁目中2番1号
* 構造:地下1階(駐車場)、地上9階
* 総工費:696億円<ref name="nikkei492034">『日経ビジネス』2004年9月20日号 p.34</ref>
* 高さ:83 m
* 建築面積:33,800 m{{sup|2}}
* 延床面積:156,409 m{{sup|2}}
* 天井高:36 – 72 m(現在は60mで固定)
* アリーナ面積:13,200 m{{sup|2}}
* コンコース一周距離:約600 m
* 収容人数
** 最大収容人数:45,000人(アリーナ面を含む)
** プロ野球開催時観戦最大席数:36,220席(2019年より)
* フィールドデータ:野球専用[[人工芝]]([[ミズノ]]社製 MS Craft Baseball Turf、ミズノ社・[[積水樹脂]]社の共同開発)両翼100 m、中堅122 m、左右中間116m
* スタンド:内外野2層式
* 電光掲示板:4基(広告専用のものを除く)
** メインビジョン(メインスコアボード):縦8.7m×横34.0m([[パナソニック]]製・[[アストロビジョン]])
** サブスコアボード:縦2.6m×横14.9m(バックネット後方内野9階部分)
** サイドビジョン(2基):映像部縦4.0m×横14.4m+文字部縦0.9m×横20m(一塁側、三塁側のそれぞれ内野7、8階部分)
現在の1試合あたりの球場使用料は不明だが、かつての本拠地球団である大阪近鉄バファローズは年間使用料として管理費込みで11億円を支払っていた<ref name="nikkei492034"/>。この高額な年間使用料が当時の近鉄球団の経営に致命傷を負わせたともいわれる<ref group="注">旧本拠地である[[藤井寺球場]]は近鉄関連会社の所有であり、年間6000万円ほどであった。</ref>。
=== 各階 ===
; 地下1階
: 駐車場、エントランス、多目的ヤード、荷捌場などがある。
; 1階
: アリーナ、グラウンド、関係者用スペース。
; 2階:スタジアムモール(旧:グリンドムモール)
: 入場無料の[[ショッピングモール]]となっており、バファローズオフィシャルショップ「Bs SHOP」もここに所在する。ただし、開業当初の店舗が撤退して空いたままのスペースも多い。[[飲食店]]を中心に残っている店舗もあるが、ランチタイムのみの営業やイベント開催日のみの営業となっているものが多い。開業前(1995年)から営業していた[[マクドナルド]]も2022年12月15日に契約満了のため閉店している。なお[[ファーストフード]]以外の飲食店4店はアリーナが見えるテラス席を持っている(試合開催時は要チケット)。9階「スカイホール」直通[[エレベーター]]やコンサートを実施したアーティストの手形コレクションなどもある。
: 2014年3月4日からは、手形コレクションの展示スペース付近に、(前身球団からの)オリックス・バファローズの歴史に関する展示スペース「B's SQUARE」をオープン。同球団主催試合の開催日のみ、試合開始予定時刻の3時間前から試合終了30分後まで開放している。また、同スペースのオープンを機に、フロアの掲示を大きな文字と判別しやすい配色に一新した。
; 3階
: 場外に施設の外周を一周する歩行者専用のデッキが設けられており、場内コンコースへの入場ゲート、9階「スカイホール」直通[[エスカレーター]]、ビスタルームへの入り口などがある。デッキは[[イオンモール大阪ドームシティ]]の2階と直結しており、雨天時はドーム前駅・ドーム前千代崎駅からイオンモール店内を通り抜ければほぼ傘を差さずにドームへと辿り着ける(イベントによっては閉鎖などの処置がある)。場内コンコースには観客向けの飲食売店と、下段スタンドとアリーナ(野球時は閉鎖)への入場口がある。入場ゲートは1ゲートから14ゲートまであり、開催内容により使用ゲートが異なる。入場ゲートには大小があり、5ゲートの様に使用頻度の低い小さなゲートもある。大多数の来場者が使用する東口から来場すると4、6ゲートが最寄である。4ゲートは隣接する3ゲートと、6ゲートは隣接する7ゲートと一体として使用されることも多い。
: プロ野球試合開催日の開場後には、2階へ通じるエスカレーター前で待機するスタッフに当該試合のチケットを提示すれば、そのエスカレーターでコンコースと「スタジアムモール」を往復することが可能である。2階へ降りる際には、チケットを提示すると、スタッフが再入場の識別を目的に(特殊な青色光にのみ反応する)透明なスタンプを手の甲に押下。2階から3階へ戻る際には、チケットの再提示、手荷物検査への協力、スタンプによる確認を求められる。
; 4階
: 下段スタンドの最上段であり、アリーナが見えるコンコースと車イス席になっているが、バックネット裏付近は「オープンデッキ」と称される飲食エリアになっており、オリックスの主催試合ではバックネットエリアの観客に対して開放している(阪神も使用実績あり)。開業当初はグリンドムモールの施設であるレストラン「DOME GRILL」で、スタンドとは区切られており試合のない日も営業していた。その後2010年までは「アリーナビューシート」という食事付き年間指定席とされていた。
; 5階
: 一周できる場内コンコースがあり観客向けの飲食売店と上段スタンドへの入場口がある。
; 6階、7階、8階
: ビスタルームと呼ばれるバルコニー席付き特別観覧席で、企業向けに販売が行われ入り口も別に設けられている<ref>2011年6月28日のオリックス・バファローズ対[[埼玉西武ライオンズ]]の試合で、1回表・[[中島裕之]]の打席でドアを開放していたため中島に西日が当たり、試合が一時中断した。→{{Youtube|kvJD_6xk__Q|中島を襲った京セラドームの思わぬ"罠" 6月28日 オリックス-西武}}</ref>。6階のバックネット裏は報道関係者・記者席と実況ブースとなる(大部分はスタンド内に位置)。
: 6階の実況ブースは他球場と比べると高い位置にあるため、裸眼では球種などを判別することが困難であることから、多くはモニターを見ながら実況する形となっている。
一塁側から、毎日放送(ラジオ)、ラジオ大阪、テレビ用放送室①、テレビ用放送室②、朝日放送(ラジオ)、NHK、ラジオ放送室(予備)の配置。
; 9階
: かつては「フェスタモール」と呼ばれ、アミューズメントパーク「シムランドQ」やビアレストランがテナントとして出店していたが、全て撤退。現在は多目的スペース「スカイホール」として展示会などに利用されている。
=== スタンド ===
スタンドは真円形となっており、全ての座席が球場の中心点、二塁ベースのやや後方に向いている。通常の円形球場ではドーナツ形の固定スタンド内側に弓形あるいは三日月形の可動スタンドを備えているが、当ドームでは固定スタンドの外野スタンド前部が削られた形となっており、フェンスが別になっている。ドーナツ形固定スタンドの内径は他より小さく、可動席はやや小さくなっている。可動スタンドは弓形の形状で内野側と外野側の2つに分かれており、外野側のみがずれると3階コンコースに通じる階段への入り口が現れる仕組みとなっており、アリーナが観客に開放されるイベント時に使われる。ファウルポール付近にも小さな可動スタンドがあり、センター方向へ移動させてその間に仮設スタンドを設置することができる。外野スタンドの最前列にはそれに使用するための扉が設置されている。可動スタンドはそれぞれ2本のレールの上を動く仕組みとなっている。元々は弓形の可動席内野側も外野側へ移動させて[[サッカー]]のフィールドが設置できるようになっているが実施されたことはない。アメリカンフットボールの場合は野球場の配置のままでもフィールドが設置できるため、そのままで行われている。
野球場として使用する場合、スコアボード直下(センター)の座席は[[バックスクリーン]]の役割とするため立ち入り禁止となるが、開設当初はその部分を黒のシートで覆っていた。現在は他の座席(水色)とは区分けするため座席を濃い青色に塗り直している。また上段席(5階席)は使用されないイベントでは閉鎖される。
野球場としてはスタンドが高くなり死角が多くなるのが円形球場の特徴であるが、独特のスタンド配置により当ドームは特にその欠点が目立つようになっている。また外野ファウルゾーンが狭いことも影響してファウルポール際が見えない席が多くなっている。自分の席に近い塀際の死角が大きく、バックネットに近い内野席ではホームベースが、一塁(三塁)側内野席では一塁(三塁)ベースが見えにくい座席がある。また外野席は下段ではメインスコアボードが見えない上に上段の圧迫感が強く、上段では開放感はあるが外野フェンス際が見えないためホームランかどうか打球判断ができない。
同じく円形2層式のスタンドを持つ[[ナゴヤドーム]]と比較すると、上段席の最前列が球場中心部に近く、スタンドの傾斜がきつい。外野席は下段最前列でも高い位置にあり、上段最前列が下段最前列の真上にあるため死角がより大きくなっている。逆にいえばよりコンパクトにまとまっており、コンサート会場としては優秀といえる。なおファウルポール際に関しては、内野席の外野側をバッテリー間方向に向け、外野側のファウルゾーンを狭くする近年の球場ではどこでも見えにくくなっている。なおサイドビジョンはメインスコアボードが見えない外野席の正面になるように設置されている。
座席はバックネット裏が水色でやや大型なものが配置され、他の内野席が青色の背もたれあり、外野席が青色の背もたれなしとなっていたが、2011年からバックネット裏中央の前列が160席のソファーシートに変更されている。オリックス主催試合では「エクセレントシート」と称される年間指定席となっている。
開場当初はバックネットが吊り下げ式、内野下段席最前列の防球ネットが支柱式で、イベント時などには取り外していた。2009年からバックネットを[[東洋紡績|東洋紡]]のダイニーマ(現:イザナス)製<ref>[https://www.toyobo.co.jp/products/hp_fiber/news/2009/release_863.html 「イザナス®」糸を使用した防球ネットが、京セラドーム大阪のバックネットに採用] - 東洋紡HP</ref>で取り外し時には天井へ収納されるものに変更し、さらに内野下段席最前列の防球ネットも2010年から支柱の無い吊り下げ式に変更された(天井への収納機能無し)。
スタンド内には2つのホームランの着弾点に記念するものが残されている。1つ目は[[鈴木貴久]]の公式戦初ホームランでレフト下段に記念プレートが設置されている。2つ目は[[タフィ・ローズ]]のシーズン55号ホームランで一塁側内野席の座席の一つがバラ色のものに取り替えられており、ボールの形も刻まれている。
空席が目立つのを逆手に取った営業策として、混雑が予想される試合を除いたバファローズ公式戦で外野側の上段内野席が閉鎖され、[[横断幕]]形式の広告スペースとなっている。3塁側は2010年4月13日から3年間、通信販売業「ワンステップ」が運営する通販サイト「KILAT」の広告が出される。サイズは全長横100m、幅12m(座席2000席分)と屋外を含めた球場の広告物としては国内最大のサイズ<ref>[https://www.buffaloes.co.jp/news/detail/1051.html 京セラドーム大阪内に巨大広告が登場!] オリックス・バファローズ公式HP、2010年4月11日閲覧</ref>で、2013年以降も、広告契約の更新によって掲示を継続。2013年からは、3塁外野寄りのビスタルームの利用を停止した上で、広告掲示スペースに充てている。1塁側については、一時[[コミュニティネットワーク|CNプレイガイド]]の広告が出ていたが、広告契約の有無については非公表。広告主の募集期間中には、監督と主力選手の写真を並べた幕<ref>[http://osaka.yomiuri.co.jp/sports/baseball/buffaloes/20100414-OYO8T00310.htm 読売新聞関西版]</ref>や、バファローズの球団スローガンを大きく記したイラストの幕を掲示している。ただし、1塁側内野席の混雑状況が球団の予測を上回った場合には、球団の判断で開場後に広告幕を撤去することがある。広告掲示は2015年まで継続され、2016年以降は掲示していない。
バルコニー席は外野2階と内野6・7・8階にある。2階はレストラン、6・7・8階は特別観覧席のものとなっている。2階には防球ネットが張られているが、2012年に入れ替わったライト側の1店舗はネットを設置していない。
==== フィールドシート ====
2010年3月20日のパシフィックリーグ開幕戦・オリックス対楽天戦から、プロ野球の試合日にのみ、可動席の内側に[[フィールドシート]]を仮設している。ただし、可動席の移動の障害になるため、イベントでアリーナを使用する場合には取り外す。また[[社会人野球日本選手権大会]]などの[[アマチュア野球]]の試合でも使用されておらず、前後の使用状況によってシートが設置されているかは異なる。
フィールドシートでは、1・3塁側とも、ホームベースに近いゾーン (A) と外野スタンドに近いゾーン (B) に区別。ゾーンAでは、旅客機の[[ファーストクラス]]と同じ材質の座席と、座席単位で専用テーブルを設けている関係でゾーンBより料金を高く設定している。また、いずれのシートにも、グラウンドと接する面には下部にラバーフェンスしか設けていない。このため、試合中には観客に対して、付属のヘルメットの着用を義務付けている。
その一方で、オリックス主催試合開催日の試合前に有料で2-3回実施している「ドームツアー」には、一塁側のフィールドシートから1時間にわたって同球団の練習の模様を観覧できるプランを用意。シートで試合を観戦できなくても、ツアースタッフの同行・ヘルメットの着用を条件に、シートへ座ったりゾーン内で写真を撮影したりすることが認められている。
なお、フィールドシートには、スポンサー契約による命名権を設定。2010年から3年間は、[[アヴァンス法務事務所]]が命名権を取得していた関係で、「アヴァンスシート」と名付けられた。2013年には、「[[モブキャストホールディングス|モバプロ]]」(オンラインでの無料[[プロ野球]][[シミュレーションゲーム]])を運営する[[モブキャスト]]と契約を結んだことから、「モバプロシート」に改称。[[大阪商業大学]](大商大)OBの[[谷佳知]]が8年振りにオリックスへ復帰した2014年には、同大学を運営する[[谷岡学園]]が命名権を取得したことから、「大商大シート」という名称で運用する。命名権の契約期間中でも、他球団の主催試合では「フィールドシート」と称することがある。
=== フィールド ===
両翼100m、中堅122mの国際規格となっている。外野席最前列は8m程の高さにあるが、外野フェンスは少し内側で別になっており高さは4.2mとなっている。外野側のファウルゾーンは狭くなっており、アメリカの流れをいち早く採り入れたといえる。グラウンドには全面に[[人工芝]]を採用している。開場当初は巻き取り式のショートパイル人工芝だったが、2003年シーズンよりロングパイル人工芝に切り替えた。その後、2007年からは内野部分のみを入れ替え、塁間部などを赤茶色の人工芝に変更して総天然芝に見えるようにしている。更に2011年シーズンからは全面をアストロ社製の新型人工芝「アストロピッチSL-KDV」に張り替えている<ref>[http://www.kyoceradome-osaka.jp/topics/topics_101128.html 2011年、人工芝の全面リニューアルについて] 京セラドーム大阪(2010年11月28日告知)</ref>。ファウルゾーンは円形球場としては狭く、フィールドシートの設置によりさらに狭くなっている。そして2018年シーズンからは、[[ミズノ]]社と[[積水樹脂]]社が共同開発した野球専用人工芝「MS Craft Baseball Turf」に張り替えている<ref>{{Cite web|和書|url=https://sp.buffaloes.co.jp/news/detail/00001087.html |title=京セラドーム大阪の人工芝リニューアルのお知らせ |accessdate=2018-06-17 |publisher=}}</ref>。
フェンスは2012年のシーズン開幕前に改修し、選手の安全確保を目的として「ソフトラバーフェンス」と呼ばれるクッション性の高いフェンスを採用するとともに、これまで15年間使ってきた水色から濃い紺色(オリックス・バファローズのチームカラー)に変更した。さらに翌年には水色を残していたスタンド上部のフェンスも同色に塗り替えた。
=== スコアボード ===
開場当初はメインとサブの、2台の全面LED式ビジョンのスコアボードを設置した。
2008年にビジョンが拡張・リニューアルされ、幅約34メートル、高さ約8・5メートルのサイズとなった<ref name="spn230403">{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/04/03/kiji/20230403s00001173414000c.html |title=オリックス 京セラDの巨大ビジョン演出公開!ウイングV新設、4日の本拠地開幕戦でお披露目 |newspaper=[[スポーツニッポン]] |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2023-04-03 |accessdate=2023-04-03 }}</ref>。さらに、ライト側、レフト側応援団からは真正面に近い位置にあるビスタルーム部分に、新たにサブビジョンが2台設置された。また場内撮影用のテレビカメラがハイビジョンカメラとなった。
スコアボードの表示方法の変遷は以下の通りである。
[[ファイル:大阪ドーム旧スコアボード.JPG|400px|thumb|center|2013年6月16日の「Legend Of Bs」で2007年までのメインスコアボードが復刻された(フォントは[[Arial]]が用いられている)]]
[[ファイル:Osakadome scoreboard(2010〜).jpg|700px|thumb|center|2011年当時のメインスコアボード]]
* 2007年
** メインスコアボードは上段に9イニングスまでのスコア(10回以降は一旦表示をクリアした上で1回のところから書き直す)と打席に立っている選手の個人成績(打率、ホームラン)を表示。得点が入ると、その部分が回転する。イニングス表示は上部にあった。スコア表示の下段、縦書き、横スクロールで出場選手、審判団の表示。映像は個人成績や審判団の部分に表示していた。時計とボールカウンターはスコアボードの右隣に設置されていた。
** サブスコアボードは主に9イニングスまでのスコアを表示し、オーダーを選手交代時だけでなく打順が変わった時も頻繁に表示させていた。晩年は時計とボールカウンターの間に、「[[ウエックス|TWO DOWN]]」の広告があった。
* 2008年
** 時計とボールカウンターの部分もビジョンに変更され、映像で表示。スコアは右半分に縮小し、従来通り9回まで表示。イニングス表示は[[明治神宮野球場]]と同じようにスコアの中央部に表示。スコア表示下(右側中段)には打席に立っている選手の個人成績とともに投手の個人成績と投球数(総投球数、ストライク、ボール)も表示し、さらにその下に京セラドームの表記、審判、球速、判定 (H、E、Fc) を表示。映像はボード左端で、スコア表示との中間に選手名表示を横書き・縦スクロールで表記し、ポジション表記は数字から英語略称(P、SSなど)に変更。プロ野球開催時のみ攻守交代時や投手交代時に表示される、タイムカウンターの表示は時計の上にデジタル表示で被せる形となった。右端中央には、以前と同様、「[[ウエックス|TWO DOWN]]」の広告(2011年頃まで)があった。
** サブスコアボードは映像も表示されるようになった。オーダー表示切替は試合開始前や選手交代時のみに限定された。
** サイドビジョン文字部には選手の経歴などを表示、映像部には広告や選手の顔写真などを表示。
* 2008年後期
** スコア表示が見えづらかったためイニングス表示を上部へ移し打者、投手の成績表示部分まで上下を拡大。ビジター側の選手名表示を左端へ、映像部分をその分だけ中央に移動させその下部に打者、投手の成績表示を行うようにした。ポジション表記も数字へ戻している。この変更は当初オリックス主催試合のみであったが、阪神主催試合でも遅れてこの表記に変更された。ただし、アマチュアの試合ではイニングス表示を中央部とするものが使用されることもある。
* 2010年
** 時計をスコアボードの上(位置は右端)に新設し、メインスコアボードでの時計表示を廃止した。スコアボードで時計を表示していた部分は、プロ野球開催時のみ表示される攻守交代時のタイムカウンターのみの表示となった。
* 2011年
** 国際大会の慣習に合わせて、ボールカウンターの表示を『SBO』から『BSO』に変更。バックネット裏下段部分にあったボールカウンターは撤去。
* 2020年
** ビジョン設備を更新し、オリックス主催ゲーム時のメインスコアボードでの表示を一新。よりカラフルな表示となった<ref>{{Cite tweet |title=練習中、京セラドームの電光掲示板は、見やすくなった新バージョンの動作チェックが行われてました。ファンの方へのお披露目は、開幕後ですね‥|user=sanspo_orix_bs |number=1234758097022808064 |date=2020-03-03 |accessdate=2020-03-03}}</ref>。今までオリックス主催試合時はオリックスのスタメン発表時を除き、演出時はボールカウンター及びタイムカウンター以外をフル表示していたが、全てのフル画面演出が全画面表示となった。なお、[[阪神タイガース]]・[[読売ジャイアンツ]]・[[福岡ソフトバンクホークス]]主催試合(阪神主催は対オリックス戦も含む)では従来通りのデザインを継続しているが、数字などのフォントは新表示に準じたものに変更された。
* 2023年
** メインスコアボードの左右にあった広告枠部分にウイングビジョン(左右共通で幅約15メートル、高さ約8.6メートル)を新設し、メインビジョンは3面ビジョンとなりサイズが約2倍に拡大した。なお、ビジョン化された旧広告枠部分は、通常時は従来と同様に縦長の広告を3つ並列して表示する<ref>{{Cite news |url=https://hochi.news/articles/20230403-OHT1T51131.html?page=1 |title=【オリックス】京セラドーム、大型ビジョンに新システム導入 本拠地開幕の4日に選手、観客にお披露目 |newspaper=[[スポーツ報知]] |publisher=[[報知新聞社]] |date=2023-04-03 |accessdate=2023-04-03 }}</ref><ref name="spn230403" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://sports.yahoo.co.jp/official/detail/2023041100046-spnaviow |title=京セラドーム大阪のビジョンがパワーアップ! 演出担当者の新たな挑戦に迫る |publisher=sportsnavi |date=2023-04-11 |accessdate=2023-04-11 }}</ref>。
メインビジョンはハイビジョン映像([[画面アスペクト比|16:9]]の画面)2画面同時表現可能である。なお、場内撮影用カメラで撮影された映像は、4:3画面時もハイビジョン画質の映像(16:9映像の両端をサイドカットした映像)である。サイドビジョンの映像部はハイビジョン映像(16:9の画面)の2画面同時表現が可能である。映像部と別に、上部に文字表示部があり固定文字、流し文字などの表現や図形の組み合わせ表示が可能であり、[[オーロラビジョン#オーロラリボン|リボンビジョン]]とほぼ同じ用途で使われている。ビジョンはパナソニック製であり広告も入っていたが、パナソニックの製造撤退などもあり消されている。現在は映像送出を担当している[[ソニービジネスソリューション]]の広告がサブスコアボード両脇に存在する。
=== 屋根、天井 ===
屋根は周回部分が「スカイホール」に当たり、波打った独特の形状をしている。中央部の直径76mの部分は[[ポリカーボネート]]になっており、自然光を取り入れることが可能になっている。屋根の最高部は地上からの高さ83mとなっている。
天井の中央部には「スーパーリング」と呼ばれる[[反響板]]と遮光板を兼ねたものが吊り下げられている。外側の6つのリング状のものと中央の1つの皿状のものからなり、一番外側のものは固定され他の6つのものが上下する仕組みとなっている。内側に向かって下る傾斜がつけられており、全て上に引き上げられた場合はその隙間から自然光を取り入れることができる。この時のグラウンドからの天井高は72mとなる。内側から4枚目のリングに合わせて内側3枚のリングを下げれば光を漏らさない状態となり、この時の天井高は60mである。固定式の外側のリングの高さに全ての高さを揃えれば自然光を取り入れつつ空白感を軽減する展示会モードとなる。外側のリングに合わせて6枚のリングの端をそろえるように下げていくと天井高が36mとなり、[[残響時間]]を減らすことができる。このシステムは音響の面からアーティストに好評であった。
しかし、このシステムの制御装置の電子部品が製造中止となり<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/soichiromatsutani/20150710-00047396 スタジアムの建設費はどのくらい?――予算2520億円の新国立競技場はいかに高いか] Yahoo!ニュース(松谷創一郎)2015年7月10日。</ref>、万が一故障した場合修理に多大な時間と費用が掛かることになること、天井が低い位置で停止した場合には野球開催に、高い位置で停止した場合は昼間のコンサート開催に支障が出るために、2004年8月頃から高さ60mの位置で固定してこのシステムは使用していない。ただし、中央のものにはスピーカーが備えられていることもあり、現在も補修・取替えのために地表面まで降ろすことがある。
中央部からバックスクリーン方向にかけては「グリッドトラス」と呼称される鉄骨を吊り下げることができる。下面にはフックがつけられており、[[ウインチ]]などを介して照明やスピーカーなど用の[[バトン]]を吊り下げることができる。ただし、規模が小さい、他のドームには同等のシステムが無いなどの理由で単発コンサートでの利用が多い。未使用時はバックスクリーンの上部辺りの天井に収納されており、取り付け位置を変更する際はグラウンドを転がす。そのため方向固定式のタイヤがつけられている。フックはスーパーリングにも設けられているが現在では固定されたために使用できない。
開業当初は天井高を36mまで下げた状態でスーパーリングに「ウォールカーテン」と呼ばれる仕切り幕を吊り下げ、ドーム内を二分した状態でコンサートを行う想定もあった。
=== 場内でのAMラジオ再送信 ===
場内で在阪の[[中波|AM]][[ラジオ]]放送が[[超短波|FM電波]]を使用して再送信されており、FM放送を受信できる機器の周波数を下記に合わせることで聴取可能だった。[[大阪近鉄バファローズ]]が本拠地としていた時には、ファンを対象とした冊子に掲載されていたが、[[オリックス・バファローズ]]が本拠地としている現在は、冊子に掲載されていない。
攻守交代の間にスコアボードに表示されることがあった。周波数は以下の通り。
# [[NHK大阪放送局|NHK大阪]] 77.5MHz
# [[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]] 81.5MHz
# [[MBSラジオ]] 84.5MHz
# [[大阪放送|ラジオ大阪]] 89.0MHz
現在は全てのビジョンにおいて表示されていない。ただし、阪神が主催ゲームを行う場合には、ビジョンで案内されている。
=== ドームツアー ===
試合開催日の「練習見学ツアー」と、非イベント開催日の「ドームツアー」が開催されている。グラウンド・ベンチ・ブルペン、練習風景等を見学する事が出来る。
=== 広告 ===
本塁後方には上下2ヶ所にフルカラー[[発光ダイオード|LED]]広告板が設けられている。開場当初は従来の広告板であり、2010年までは回転式広告板であった。2011年にはセンターバックスクリーンの2階部分にもLEDによる広告看板を設置した。
== 周辺地域の振動問題 ==
大阪ドームのある[[千代崎]]三丁目は、もともと寺島(千代崎一丁目・千代崎二丁目方面)と勘助島([[大正区]]方面)に挟まれた川とも芦原ともつかないような場所で、1757年([[宝暦]]7年)に前田屋[[新田]]、1773年([[安永 (元号)|安永]]2年)に岩崎新田が開墾されて漸次陸地化した経緯を持っており、[[地盤]]は軟弱である。加えて、1952年([[昭和]]27年)に[[尻無川 (大阪府)|尻無川]]の上流区間が埋め立てられたが、大阪ドームはその埋め立てられた川跡にまたがって立地している。
かつて[[GLAY]]などの[[縦ノリ]]が行われるコンサートを開催した際、ドーム周辺の住宅地において[[震度]]1~3程度の揺れを感じることがあったため、縦ノリを行うコンサートには使用を規制している。縦ノリを行わないコンサートでも、ジャンプ等は行わないよう、公演前に必ず観客に向けて念入りに注意を呼びかけており、観客席への通路にはその他の禁止行為を示す絵と文章が書かれている(野球でのジャンプ応援も同様に禁止される)。この縦ノリ問題が大きく取り上げられるようになったのは、2003年末頃からである。
GLAYは2005年に5大ドームツアー(札幌・東京・名古屋・大阪・福岡)を計画していたが、大阪ドームについてはこの縦ノリ騒動が発端となり、最後まで交渉を重ねたものの結局は決裂し、その代替会場として[[大阪国際見本市会場|インテックス大阪]]でライブを開催した経緯がある<ref>[http://j.peopledaily.com.cn/2004/12/25/jp20041225_46348.html ロックコンサート、「縦ノリ」震度4 揺れる大阪ドーム] 人民日報社:2004年12月25日</ref>。このため、集客力の劣る同会場での開催が決定した後、GLAYは大阪公演だけは4日間と他会場より公演数を多めに設定し、かつ各日それぞれ違った構成でライブを開催した。
また、地元・大阪出身の歌手である[[矢井田瞳]]も2001年と2002年の[[大晦日]]にカウントダウンライブを行ったが、2004年については大晦日ではなく12月18日に開催し、ライブも夜9時までに終わらせるようにした。また、この年の公演は“地震”対策として、グラウンド部分に設置するアリーナ席を大幅に減らし、縦ノリしにくい選曲でライブが構成されるまでに至った<ref>[http://www.nikkansports.com/osaka/wak/wak-09-et01.html ヤイコ、大阪ドームで“地震”対策ライブ] ヤイコ、大阪ドームで“地震”対策ライブ</ref>。さらに、このライブをもって矢井田は、今後ドーム公演を行わない方針を明かした。ただし、この件に関して矢井田本人のコメントによると、大阪ドームの縦ノリが原因ではなく、観客とよりダイレクトな空間でライブを行いたいために以前から決意していたことであり、大阪ドームでの縦ノリとは無関係であるとしている<ref>[http://www.nikkansports.com/osaka/wak/wak-19-et01.html ヤイコさびしい「ドーム公演」卒業…周辺住民に配慮] 大阪日刊スポーツ:ヤイコさびしい「ドーム公演」卒業…周辺住民に配慮</ref>。
[[UVERworld]]は、2014年に開催したライブでジャンピング行為を煽ってファンがジャンプする行為を行った結果、京セラドーム大阪を出入り禁止となったことを2015年10月6日に行われたライブのMCで公表している。
== 天井に関する特別グラウンドルール ==
ドーム球場の天井に当たった打球の扱いは、公認野球規則で統一的なルールはなく、基本的に各球場における「特別グラウンドルール」に従うことになっている<ref>[https://npb.jp/npb/20120222release.html ドーム球場の特別グラウンドルールの統一について]</ref>。そのため、京セラドームには天井にある円形の構造物「スーパーリング」に打球が挟まった場合の取り扱いなど特殊なグラウンドルールがある。ルールは以下の通り<ref>[https://www.sanspo.com/article/20221025-XSBFWXVBJZNINMRGJHZDPNANBM/?outputType=theme_swallows ヤクルト・高津臣吾監督が試合前に京セラドームのグラウンドルール確認]</ref><ref>[http://archive.jaba.or.jp/taikai/2013/syakaijin/pdf/d5.pdf 京セラドーム 特別ルール]</ref>
* 打球がフェア地域、ファウル地域の区別なくプレイングフィールド上の天井もしくはスーパーリング(外周照明含まず)に当たった場合、またはスーパーリングの内側に入り直ぐに落ちてきた場合はボールインプレイで、地上に落ちる前に野手が捕球すれば打者アウトになる。
* 打球がフェア地域内にあるスーパーリングの内側に入り落下しない場合はボールデッドとして、打者及び走者には投球当時を基準にして二個の安全進塁権が与えられる。
* 打球がフェア地域上にある一番外側のスーパーリングに当たった場合、および中堅のフェンス上の天井にある懸垂物に当たった場合は本塁打とする。
* 打球がフェア地域上にある一番外側のスーパーリングと次のスーパーリングの間に当たった場合は、本塁打とする。
== 開催イベント ==
=== 野球 ===
====プロ野球====
;レギュラーシーズン以外のもの
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]
**[[1997年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1997年]](近鉄主管扱い)
**[[2003年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2003年]](近鉄主管扱いとして最後の試合だったが、パ・リーグチーム先攻として行った)
**[[2008年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2008年]](以下はオリックス主管扱い)
**[[2012年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2012年]]
**[[2018年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2018年]]
:※すべて第1戦
*[[クライマックスシリーズ]]
**[[2008年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2008年セ]]ファーストステージ [[阪神タイガース]]対[[中日ドラゴンズ]]戦(甲子園球場改修工事のため阪神主管で使用)
**[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2008年パ]]ファーストステージ [[オリックス・バファローズ]](以下主管チーム同文)対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦
**[[2014年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2014年パ]]ファーストステージ 対北海道日本ハムファイターズ戦
**[[2021年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2021年パ]]ファイナルステージ 対[[千葉ロッテマリーンズ]]戦
**[[2022年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2022年パ]]ファイナルステージ 対[[福岡ソフトバンクホークス]]戦
**[[2023年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2023年パ]]ファイナルステージ 対千葉ロッテマリーンズ戦
*[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]
**[[2001年の日本シリーズ|2001年]] [[大阪近鉄バファローズ]]対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦(近鉄主管の第1・2戦)
**[[2020年の日本シリーズ|2020年]] [[読売ジャイアンツ]]対福岡ソフトバンクホークス戦(巨人主管の第1・2戦<ref group="注">東京ドームが同時期に都市対抗野球大会を行った関係による特例処置。第6・7戦があれば同文だったが、ソフトバンクが4連勝のため行われなかった。</ref>)
**[[2021年の日本シリーズ|2021年]] オリックス・バファローズ対東京ヤクルトスワローズ戦(オリックス主管の第1・2戦<ref group="注">第6・7戦はAAAのコンサートと日程が重複したため、ほっともっと神戸で主催。ただし雨天順延で11月29・30日に第6・7戦が行われる状態であればほっともっと神戸での開催となっていたが、第8戦以後が必要な場合は京セラドームを使用することが規定されていた。</ref>)
**[[2022年の日本シリーズ|2022年]] 対戦組み合わせ同上(オリックス主管の第3・4・5戦)
**[[2023年の日本シリーズ|2023年]] オリックス・バファローズ対阪神タイガース戦(オリックス主管の第1・2・6・7戦)
====ナショナルチーム====
* [[2017 ワールド・ベースボール・クラシック]] B組 公式練習試合(2017年)
* [[2023 ワールド・ベースボール・クラシック]] 強化試合(日本・韓国vs[[阪神タイガース|阪神]]・[[オリックス・バファローズ|オリックス]](2023年)
====アマチュア野球====
* [[全国高等学校野球選手権大阪大会]](開場・第79回大会 - 現在、開会式とその直後の2試合のみ)
* [[社会人野球日本選手権大会]](開場・第24回大会 - 現在、2011年・2020年は中止)
: 2009年までは1回戦から決勝までのすべての試合を開催した。
: 2010年のみ、「第1ステージ」(1回戦)は京セラドーム以外の全国4球場に分散して開催し、京セラドームでは2回戦以後の「決勝ステージ」の会場となった。2011年は次の詳述のとおり単独開催は中止、2012年から再び京セラドーム1箇所を基本とするが、2021年は日程の関係で1回戦は[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]で開催された。
* [[都市対抗野球大会]]([[第82回都市対抗野球大会|2011年]])
: 本来は8月に[[東京ドーム]]で行うとされていたが、[[東北地方太平洋沖地震]]による[[巨大津波|大津波]]を起因とする[[福島第一原子力発電所事故]]による節電のため開催を延期し、会場を当球場に移し、本大会としては初めて関東地方(過去[[明治神宮野球場|神宮]]、[[後楽園球場|後楽園]]の開催あり)以外で開催することを決めた。
* 野球博 in Japan(2000年)
* [[全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップ]]([[ストロングリーグ]]主催)(2004年 - 現在)
* 京セラドーム大阪杯([[ストロングリーグ]]主催)(2005年 - 現在)
==== 阪神主催試合 ====
阪神タイガースは親会社の[[阪神電気鉄道]]が旧運営会社([[第三セクター]])に出資した経緯があり、本拠地の阪神甲子園球場に近いことや西大阪線の延伸予定地(現:[[阪神なんば線]])に近かったことから開場以来、地方開催扱いで主催試合を行っている。ただし、対戦相手が[[読売ジャイアンツ]]との試合は開催されていない<ref group="注">2008年には甲子園球場の改修工事に伴い阪神は2位を確保したものの[[2008年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ第1ステージ]]では使用できなかったため京セラドームでの開催となった。もしこの年阪神がリーグ優勝を果たし、第2ステージからの対戦で[[読売ジャイアンツ|巨人]]が第1ステージを勝ち上がった場合や、阪神が2位で巨人が3位だった場合は「'''京セラドームでの阪神対巨人'''」の試合が実現していた。また仮に阪神が[[2008年の日本シリーズ|日本シリーズ]]に進出していれば、第1・2・6・7戦は京セラドームでの開催となるため、対戦相手が[[オリックス・バファローズ|オリックス]]なら「'''日本シリーズが7試合全て京セラドームでの開催'''」となる可能性もあった。</ref>。
当初は[[梅雨]]の時期と[[全国高等学校野球選手権大会]]の時期に1カードずつであったが、2007年以降現在は、開幕直後の[[選抜高等学校野球大会]]開催期間中に1カード、8月の全国高等学校野球選手権大会開催期間中に2カード、計8ないし9試合というのが通例になっている(他の時期に1カード追加されたシーズンあり)。これにより[[死のロード]]の負担が軽減されている。
2007年から2009年の3年間のシーズンオフにかけて行われた甲子園球場の改修工事に伴い、阪神が10月以降の公式戦およびクライマックスシリーズ・日本シリーズに進出した場合に甲子園が使用できないこととなったため、スカイマークスタジアム(現:ほっともっとフィールド神戸)と共に代替球場として挙げられた。実際に2008年10月のクライマックスシリーズファーストステージの3試合が京セラドームで行われた(2008年10月の公式戦はスカイマークで開催)。2009年10月の公式戦は工期の見直し等により甲子園球場で開催された。
[[オープン戦]]での主催試合は2004年以前も年度により対近鉄戦のうち1試合を阪神主催にして行われていたが、2005年以降は連続して行われており、最終戦になることが多い。例年[[春分の日]]前後の週末に組まれており、2013年以降はその年のオープン戦最終3連戦がオリックス戦となっている。例年2戦目(土曜日)の1試合のみ阪神主催としており、ユニフォームもホームとビジターとで変えている上、スコアボードのデザインは2019年以前のものを継続使用(ただしフォント等は新表示に準拠)しているほか、場内アナウンスやスコアボード表示の演出およびグラウンド上のパフォーマンスなども甲子園球場に準じた形式に改められているものの、ベンチは入れ替えておらず3試合ともオリックスが1塁側を使用する。なお、2020年のみ1戦目が阪神主催であった(新型コロナウイルス感染拡大を受けて無観客開催)。この場合、2017年まではオリックスのラッキー7でも『[[SKY (MEGA STOPPERの曲)|SKY]]』が流れなかったが、2018年からは過去にヤクルト主催試合で使われていた短縮編集版が、2023年からはオリックス主催時と同一のものが流れるようになった。
==== 巨人主催試合 ====
1997年以後ほぼ毎年、[[読売ジャイアンツ]]主催の公式戦が年1-2試合行われている。関西での巨人主催の試合はフランチャイズ制が敷かれる前は複数あったが、フランチャイズ制が確立された1952年以後では、1955年[[10月11日]]に[[和歌山県営向ノ芝野球場]]での対広島ダブルヘッダー、1950年代の[[大阪スタヂアム]]や[[京都市西京極総合運動公園野球場|西京極球場]]でのオープン戦などわずかであった。しかし大阪ドームが誕生した1997年は[[読売新聞大阪本社]]が創刊45周年となったことから、これを記念して大阪での巨人主催試合が企画された。これ以後、1999年と2001年以後の毎年(2011年・2020年は開催せず)、原則として7月中旬ないし下旬([[都市対抗野球大会|都市対抗野球]]開催期間中の長期ロード)に2試合を開催している<ref group="注">2023年は8月末に開催するなど例外もある。大阪ドームでの2試合に加えて、移動日を挟まず東海・近畿・中国・四国いずれかの地方球場1試合とで1カード3連戦としている(他球場・大阪ドーム・大阪ドーム、または、大阪ドーム・大阪ドーム・他球場のパターン)。</ref>。なお、主催試合においては阪神との対戦実績はない。
2020年は巨人がリーグ優勝し日本シリーズ進出が決定したものの、本拠地の[[東京ドーム]]が都市対抗野球開催期間中のため使用できない関係で大阪ドームにて代替で開催された<ref>[https://www.daily.co.jp/baseball/2020/10/05/0013758188.shtml?ph=2 巨人 日本S進出なら京セラドーム大阪での開催が決定 本拠地以外40年ぶり] デイリースポーツ(デイリースポーツ)</ref>。
==== ソフトバンク主催試合 ====
オリックスと同じく[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]に所属する[[福岡ソフトバンクホークス]]も、「鷹の祭典」シリーズの一環<ref>[https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/10653.html 2014年鷹の祭典専用ユニフォームは「カチドキレッド2014」] ソフトバンク球団公式HP、2014年3月25日</ref>として、2014年8月18日に大阪ドームで初めての公式戦である対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦を開催した。ソフトバンクとしては大阪で公式戦を開催するのは初であったが、前身球団を含めたホークスの主催試合としては、大阪市を本拠地(1938年 - 1988年まで大阪府が[[プロ野球地域保護権|保護地域]]。本拠地球場は[[大阪スタヂアム|大阪球場]])としていた南海ホークス時代の1988年以来26年ぶりの開催となった{{refnest |group="注" |公式戦の日程が発表されるまでは、ホークスの対戦相手がオリックスと報じられていた<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/01/05/kiji/K20140105007322290.html ソフトB ユニホーム配布イベントを初めて大阪で開催へ] スポニチアネックス(スポーツニッポン、2014年1月5日)</ref>。}}。2015年以降も毎年(地方開催を行わなかった2020年は除く)1試合を大阪ドームにてオリックス以外の球団との公式戦を1試合開催している<ref group="注">2023年までは7月ないし8月に開催された。特に2021年から2023年にかけては、月曜に大阪ドームで開催し、翌火曜を移動日として、水曜(・木曜)を北九州や福岡で開催する変則日程とした。2024年は例年より早く5月22日(水曜日)に開催(前日は福岡ドームで開催)。</ref>。なお、かつてはオリックスもブルーウェーブ時代の1999年6月に、[[オリックス・バファローズ#敵地での主催ゲーム|福岡ドームにて1カード3試合の主催試合を行った]]こともあった。
<!--2015年は7月9日に対[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]戦、2016年は8月18日に対西武戦、2017年は8月14日に日本ハム戦を、2018年は7月24日に[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦を、それぞれ開催。-->
==== 女子プロ野球 ====
2017年6月25日には、オリックスと[[日本女子プロ野球機構|女子プロ野球]]とのスペシャルコラボマッチにより、当日のオリックスの試合(デーゲーム)終了後に女子プロ野球公式戦・[[愛知ディオーネ|兵庫ディオーネ]]対[[埼玉アストライア]]が初めて開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jwbl.jp/news/detail/id/6057 |title=試合情報 6/25(日)はオリックス・バファローズとのスペシャルコラボマッチ! |publisher=[[日本女子プロ野球機構|JWBL]] |date=2017-03-31 |accessdate=2018-09-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jwbl.jp/news/detail/id/6331 |title=試合情報【兵庫VS埼玉第12戦】試合結果 |publisher=[[日本女子プロ野球機構|JWBL]] |date=2017-06-25 |accessdate=2018-09-02}}</ref>。また、翌2018年も同様の企画で、9月1日にオリックスの試合(デーゲーム)終了後に[[京都フローラ]]対[[埼玉アストライア]]の試合が行われた<ref>[http://www.jwbl2016.info/jwblnews330 女子プロ野球ニュース 2018年9月2日発行] JWBL公式ホームページ、2018年9月2日</ref>。
=== 展示会 ===
* [[毎日コミュニケーションズ|Mac Fan]] Expo in Kansai '97(1997年12月12日・13日・14日)
* [[大阪オートメッセ|大阪オートメッセ1998]]
* スーパーキャラドーム2006&2008
* [[次世代ワールドホビーフェア]]
* 関西けもケット
* [[関西コレクション]]
=== 格闘技 ===
* [[K-1]] WORLD GP(2003年・2005年開幕戦)
* [[Dynamite!! 〜勇気のチカラ〜|K-1 PREMIUM Dynamite!!]](2004年 - 2007年)
* [[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]([[PRIDE GRANDPRIX 2005 開幕戦|GP2005]]・[[PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦|2006開幕戦]])
* プロボクシング・[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界[[バンタム級]]タイトルマッチ「[[ウィラポン・ナコンルアンプロモーション]]VS[[辰吉丈一郎]]」(1999年8月29日)
* [[新日本プロレス]](1997年・1998年・2001年・2004年)
=== その他 ===
* [[全国健康福祉祭|ねんりんピック2000大阪]]総合開会式
* [[東アジア競技大会]]開会式(2001年)
* 第85回[[ライオンズクラブ]]国際大会(2002年)
* [[ハロー!プロジェクトスポーツフェスティバル|2002年ハロー!プロジェクト大運動会]](2002年11月3日)
* [[ハロー!プロジェクトスポーツフェスティバル|ハロー!プロジェクト スポーツフェスティバル2003]](2003年11月16日)
* [[タケモトピアノ]]Presents [[3000人の吹奏楽]](2003年 - )[[阪急西宮スタジアム]]開催から引き継ぎ2代目の開催地
* ハウスバーモントカレースペシャル [[キンダーフェスティバル]](2003年 - 2011年)阪急西宮球場開催から引き継ぎ
* 第95回[[国際ロータリー]]年次大会(2004年)
* [[立命館大学]]入学式(2004年 - 2011年)
* AIR-X(2005年2月26日)
* [[Xリーグ#ジャパンエックスボウル|ジャパンXボウル]]決勝戦(2006年、2008年)
** [[関西学生アメリカンフットボール連盟]]も開催実績がある。
* [[安藤百福]]([[日清食品]]創業者)社葬(2007年)
* 史上最大のワンピースイベント!「[[ONE PIECE|ワンピース]]ドームツアー」(2011年)
* [[進撃の巨人]]×[[リアル脱出ゲーム]] ある城塞都市からの脱出大阪公演(2014年)
* [[興國高等学校]]体育祭(2011年 - )※毎年6月頃に開催。[[ジャンクSPORTS]]で取り上げられたこともある
* [[清風中学校・高等学校|清風中学校]]体育祭
== コンサート ==
ドーム初使用順に掲載<ref>[https://www.kyoceradome-osaka.jp/schedule/ スケジュール] 京セラドーム大阪公式サイト</ref>。{{Color|red|赤色}}の年は開催予定であることを表す。
=== 国内アーティスト ===
* [[globe]]{{small|(1997年<ref group="注">[[こけら落とし]]公演</ref>)}}
* [[B'z]]{{small|(1997年、1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2005年、2006年、2010年、2011年、2013年、2015年、2018年)}}
* [[安室奈美恵]]{{small|(1997年、2012年、2018年)}}
* [[SMAP]]{{small|(1997年、1998年、1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2005年、2006年、2008年、2010年、2012年、2014年)}}
* [[SPEED]]{{small|(1998年、1999年)}}
* [[L'Arc〜en〜Ciel]]{{small|(1998年、2000年、2008年、2011年)}}
* [[GLAY]]<ref group="注">2005年にも開催予定であったが、[[#周辺地域の振動問題]]によりドーム側から使用許可が下りなかった。代替施設として[[大阪国際見本市会場|インテックス大阪]]で5公演を開催した。</ref>{{small|(1999年、2001年)}}
* [[サザンオールスターズ]]{{small|(1999年、2005年、2015年、2019年)}}
* [[KinKi Kids]]{{small|(1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2012年、2013年、2014年、2015年、2017年、2018年、{{Color|red|2023年}})}}
* [[DREAMS COME TRUE]]{{small|(1999年、2007年、2011年<ref group="注">台風の影響により中止となった[[長居陸上競技場|長居スタジアム]]公演の振替公演として開催。</ref>、2015年、2019年、2023年)}}
* [[ジャニーズJr.]]{{small|(2000年)}}
* [[THE YELLOW MONKEY]]{{small|(2001年、2020年)}}
* [[福山雅治]]{{small|(2001年、2014年、2018年)}}
* [[浜崎あゆみ]]{{small|(2001年)}}
* [[矢井田瞳]]{{small|(2001年<ref name="カウントダウン" group="注">カウントダウン・ライブ</ref>、2002年<ref name="カウントダウン" group="注"></ref>、2004年)}}
* [[桑田佳祐]]<ref group="注">2010年にも開催予定であったが、自身の病気療養のため全国ツアーが開催中止になった。</ref>{{small|(2002年、2017年、2022年)}}
* [[タッキー&翼]]{{small|(2002年<ref group="注">「タッキー&翼 with allジャニーズ Jr.」名義でのコンサート。</ref>)}}
* [[MISIA]]{{small|(2004年)}}
* [[Mr.Children]]{{small|(2005年、2009年、2011年<ref group="注">2011年は[[東日本大震災]]による[[大阪城ホール]]・[[和歌山ビッグホエール]]公演の振替公演として開催。</ref>、2012年、2015年、2017年、2019年、2022年)}}
* [[関ジャニ∞]]{{small|(2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2012年、2013年、2014年、2015年、2016年、2017年、2018年<ref group="注">初日(8月23日)のみ台風の影響により中止。</ref>、2019年、2023年)}}
* [[嵐 (グループ)|嵐]]{{small|(2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2012年、2013年、2014年、2015年、2016年、2018年、2019年)}}
* [[KAT-TUN]]{{small|(2008年、2009年、2010年、2012年、2013年、2014年、2016年)}}
* [[EXILE]]{{small|(2008年、2011年、2012年<ref group="注" name="exiletribe">[[EXILE TRIBE]]としての開催。</ref>、2013年、2014年<ref group="注" name="exiletribe"/>、2015年、2016年<ref group="注">[[HiGH&LOW]]としての開催。</ref>、2018年、2019年、2020年、2022年}})
* [[小田和正]]{{small|(2008年、2011年)}}
*[[沢田研二]]{{small|(2008年)}}
* [[NEWS (グループ)|NEWS]]{{small|(2009年、2010年、2018年、2019年)}}
* [[Hey! Say! JUMP]]{{small|(2010年、2011年、2012年、2013年、2015年<ref group="注">Hey!Say!JUMP 大阪ドーム Countdown Concert 2015-2016を開催</ref>、2017年、2018年、2019年)}}
* [[平井堅]]{{small|(2010年)}}
* [[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]{{small|(2012年、2017年、2019年)}}
* [[コブクロ]]{{small|(2013年、2014年、2015年、2016年、2017年、2018年、2019年)}}
* [[AKB48]]{{small|(2013年<ref group="注">[[NMB48]]も出演した。この他にも握手会イベントとして開催実績がある。</ref>)}}
* [[Perfume]]{{small|(2013年、2016年)}}
* [[Kis-My-Ft2]]{{small|(2013年、2014年、2015年、2016年、2018年、2019年、2022年)}}
* [[ザ・タイガース]]{{small|(2013年)}}
* [[UVERworld]]{{small|(2014年)}}
* [[三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE]]{{small|(2015年、2016年、2017年、2019年、2021年、2023年)}}
* [[ナオト・インティライミ]]{{small|(2015年)}}
* [[ももいろクローバーZ]]{{small|(2016年)}}
* [[BUMP OF CHICKEN]]{{small|(2016年、2019年)}}
* [[氷室京介]]{{small|(2016年)}}
* [[EXILE ATSUSHI]]{{small|(2016年、2018年)}}
* [[AAA (音楽グループ)|AAA]]{{small|(2016年、2017年、2018年<ref group="注">2日目(9月30日)のみ台風の影響により中止。</ref>、2019年、2021年)}}
* [[ジャニーズWEST]]<ref group="注">2020年にも開催予定だったが、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の影響により中止になった。</ref>{{small|(2016年、2022年)}}
* [[SEKAI NO OWARI]]{{small|(2017年、2022年)}}
* [[西野カナ]]{{small|(2017年)}}
* [[ONE OK ROCK]]{{small|(2018年、2023年)}}
* [[GENERATIONS from EXILE TRIBE]]{{small|(2018年、2019年)}}
* [[矢沢永吉]]{{small|(2018年、2022年)}}
* [[back number]]{{small|(2018年、{{Color|red|2023年}})}}
* [[星野源]]{{small|(2019年)}}
* [[乃木坂46]]{{small|(2019年)}}
* Nissy(AAA [[西島隆弘]]){{small|(2019年)}}
* [[アイドルマスター シンデレラガールズ]]{{small|(2020年<ref group="注">アニメ・ゲーム関係の歌手や声優が当球場でコンサートを行う初めてのケースとなる。野球場でアニメ・ゲーム関係の歌手や声優がコンサートを実施する場合、[[水樹奈々]]が初めて開催し、その後に他のアーティストが続くことが通例となっていたが、当球場はそれが当てはまらないケースとなる。(水樹は関西地区では2016年に[[阪神甲子園球場]]でコンサートを開催している。)</ref>)}}
* [[すとぷり]]{{small|(2022年)}}
* [[虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]{{small|(2022年)}}
* [[King & Prince]]{{small|(2022年)}}
* [[NiziU]]{{small|(2022年)}}
* [[Sexy Zone]]{{small|(2022年)}}
* [[SixTONES]]{{small|(2023年)}}
* [[Snow Man]]{{small|({{Color|red|2023年}})}}
* [[JO1]]{{small|({{Color|red|2023年}})}}
* [[King Gnu]]{{small|({{Color|red|2024年}})}}
=== 国外アーティスト ===
* [[エアロスミス]]{{small|(1998年、1999年、2002年、2004年、2011年)}}
* [[U2]]{{small|(1998年)}}
* [[ローリング・ストーンズ|ザ・ローリング・ストーンズ]]{{small|(1998年、2003年)}}
* [[エルトン・ジョン]]・[[ビリー・ジョエル]]{{small|(1998年<ref group="注">ジョイント・コンサート。</ref>)}}
* [[セリーヌ・ディオン]]<ref group="注">2014年にも開催予定だったが、マネージャーでもある夫の看病・自身の健康を考慮し来日自体が中止。</ref>{{small|(1999年、2008年)}}
* [[マライア・キャリー]]{{small|(2000年)}}
* [[ボン・ジョヴィ]]{{small|(2000年、2001年、2003年、2006年、2008年、2013年)}}
* [[バックストリート・ボーイズ]]{{small|(2001年、2006年)}}
* [[ポール・マッカートニー]]{{small|(2002年、2013年)}}
* [[マドンナ (歌手)|マドンナ]]{{small|(2006年)}}
* ビリー・ジョエル{{small|(2006年<ref group="注">1998年にエルトン・ジョンとジョイント・コンサートを開催したが、当ドーム単独公演するのはこの時が初めてであった。</ref>)}}
* [[レッド・ホット・チリ・ペッパーズ]]{{small|(2007年<ref group="注">当初は3月19日に開催予定であったが、[[アンソニー・キーディス]]の急性肺炎により来日直前の3月17日に急遽延期が発表された。</ref>)}}
* [[サイモン&ガーファンクル]]{{small|(2009年)}}
* [[ガンズ・アンド・ローゼズ]]{{small|(2009年、2017年)}}
* [[AC/DC]]{{small|(2010年)}}
* [[スーパージュニア]]{{small|(2011年、2013年、2014年)}}
* [[東方神起]]{{small|(2012年、2013年、2014年、2015年、2017年、2018年、2019年)}}
* [[BIGBANG]]{{small|(2012年、2013年、2014年、2015年、2017年、2019年)}}
* G-DRAGON{{small|(2013年、2017年)}}
* [[JYJ]]{{small|(2010年、2014年)}}
* [[ワン・ダイレクション]]{{small|(2015年)}}
* [[EXO]]{{small|(2015年、2016年、2018年)}}
* [[SHINee]]{{small|(2016年、2017年、2018年)}}
* [[D-LITE]]{{small|(2017年)}}
* [[iKON]]{{small|(2017年、2018年)}}
* [[BTS (音楽グループ)|防弾少年団]]{{small|(2017年、2018年)}}
* SMTOWN{{small|(2018年)}}
* [[BLACKPINK]]{{small|(2018年、2020年)}}
* [[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]]{{small|(2019年)}}
* [[エド・シーラン]]{{small|(2019年)}}
* [[キッス|KISS]]{{small|(2019年)}}
* [[NCT (音楽グループ)|NCT 127]]{{small|(2022年)}}
* [[SEVENTEEN (音楽グループ)|SEVENTEEN]]{{small|(2022年)}}
* [[ブルーノ・マーズ]]{{small|(2022年)}}
* [[マルーン5]]{{small|(2022年)}}
* [[Stray Kids]]{{small|({{Color|red|2023年}})}}
* [[ENHYPEN]]{{small|({{Color|red|2023年}})}}
* [[TREASURE (音楽グループ)|TREASURE]]{{small|({{Color|red|2023年}})}}
* [[BLACKPINK]]{{small|({{Color|red|2023年}})}}
* [[クイーン+アダム・ランバート]] {{small|(2020年, {{Color|red|2024年}})}}
== 音楽イベント ==
ドーム初使用順に掲載<ref>[https://www.kyoceradome-osaka.jp/schedule/ スケジュール] 京セラドーム大阪公式サイト</ref>。{{Color|red|赤色}}の年は開催予定であることを表す。
=== 国内アーティスト ===
* 琉球フェスティバル{{small|(1997年、1998年、2004年、2005年、2006年、2007年)}}
* [[POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004]]{{small|(2004年<ref group="注">[[ウドー音楽事務所]]主催のイベント。[[横浜国際総合競技場]]と同時開催された。</ref>)}}
=== 国外アーティスト ===
* Super Concert in Osaka Dome{{small|(1997年<ref group="注">[[ホセ・カレーラス]]、[[プラシド・ドミンゴ]]、[[ダイアナ・ロス]]らが出演した[[ガラコンサート]]。</ref>)}}
* ミレニアム・カウントダウン・ライヴ{{small|(1999年<ref group="注">カウントダウン・イベント。[[バックチェリー]]、[[MR. BIG (アメリカのバンド)|MR. BIG]]、エアロスミスが出演した。</ref>)}}
* YG Family Concert in Japan<ref group="注">[[YGエンターテインメント]]所属アーティストによるライブイベント。</ref>{{small|(2012年、2014年)}}
* [[Mnet Asian Music Awards|MAMA AWARDS]]{{small|(2022年)}}
== ドームでの出来事 ==
* 1997年3月に開かれた大阪ドーム開設記念「[[コナミ]]プロ野球トーナメント大会」において、[[読売ジャイアンツ]]・[[清原和博]]がスーパーリングの屋根の中にボールを飛ばすファウルを打ち込んだ。公式戦では、2006年9月10日のオリックス対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦で日本ハム・[[小笠原道大]]が打ち込んでいる。また2001年8月22日の近鉄対オリックス戦で近鉄・[[中村紀洋]]がスーパーリングの1番外側に打ち込む認定本塁打を放っている。オールスターゲームでは、[[2012年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2012年第1戦(7月20日)]]で日本ハム・[[中田翔]]が認定二塁打を放っている。日本シリーズでは、[[2023年]][[10月28日]]に行われた[[2023年の日本シリーズ|第1戦]]にてオリックス・[[森友哉]]が認定二塁打を放っている。<ref>{{Cite web|和書|title=オリックス・森、天井直撃!認定二塁打「明日に向けて切り替えます」(サンケイスポーツ) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/f58561bbc0c437c976b37ef995abc624b0493152 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-10-29 |language=ja}}</ref>なお、スーパーリングに当たった打球がグラウンドへ落下してきたケースとしては、公式戦の2000年7月4日の阪神対[[広島東洋カープ]]戦で阪神・[[新庄剛志]]が適時打を、2010年8月15日の阪神対[[東京ヤクルトスワローズ]]戦で阪神・[[金本知憲]]がファウル打球を放った(この金本の打球はフェアゾーンに落下しており、グラウンドルールに従えば本来はフェアとなる)。ちなみに金本はその打席で本塁打を放っている。
* 1997年4月8日 - 大阪ドーム公式戦開幕戦(対オリックス戦<神戸>が雨天順延→近鉄対ロッテ戦)にて[[鈴木貴久]]が同球場公式初ホームランを記録。
* 1997年8月24日、近鉄は対[[千葉ロッテマリーンズ]]戦で10点差を逆転、11対10で延長12回サヨナラ勝ちを収めている。これはプロ野球史上3度目、パ・リーグ史上唯一の出来事である(2018年シーズン終了現在)。
* 1999年11月21日、近鉄球団創立50周年記念として巨人とのOB戦を開催(主催は[[読売新聞]])。両軍の往年のスターが多数出場した。
* 2000年6月20日、近鉄の[[ナルシソ・エルビラ]]が対西武戦で大阪ドーム初のノーヒットノーランを達成した。
* 2001年9月24日、近鉄のタフィ・ローズが西武の松坂大輔から王貞治の持つシーズン本塁打記録に並ぶ55号本塁打を放つ。なお、試合は中村紀洋のサヨナラ2点本塁打で近鉄が勝利した。
* 2001年9月26日、近鉄対オリックス戦で[[北川博敏]]が優勝決定試合では史上唯一となる[[北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打|代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打]]を放っている。
* 2003年7月1日、近鉄対ダイエー戦で[[村松有人]]が[[サイクルヒット]]を達成。
* 2008年9月3日、巨人対[[広島東洋カープ]]18回戦で[[小笠原道大]]がサイクルヒットを達成。
* 2009年10月14日、[[岡田彰布]]のオリックス監督就任会見がマウンド付近に会見席を設ける形で実施された。
* 2009年12月16日、アメリカのロックバンド[[ガンズ・アンド・ローゼズ]]が公演を行ったが、この日はオープニング・アクトを務めた[[MUCC|ムック]]の演奏終了後、機材トラブルにより開演時間が遅れて午後9時に開演。その後3時間演奏を行い、終演時間が翌17日午前0時1分となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000056545 |title=ガンズ・アンド・ローゼズ大阪公演、3時間超の熱狂 |publisher=[[BARKS]] |date=2009-12-17 |accessdate=2022-03-17}}</ref>。
* 2010年8月25日、阪神対広島戦で、[[城島健司]]、金本知憲、[[浅井良]]、[[鳥谷敬]]、[[桧山進次郎]]のホームランなどで阪神が22得点を挙げ、球団記録を更新。
* 2014年5月31日、オリックス対巨人戦で、[[金子千尋]]が9回まで4与四球1失策の無安打無得点に抑えていたが、味方の援護がなく、パ・リーグの主催試合では投手が打席に立つというこの年の交流戦特別ルールにより、9回裏一死二塁の金子の打席で代打が送られた。その後延長戦に突入したため、無安打無得点のまま降板し単独でのノーヒットノーラン達成を逃した。9回以上を無安打無得点で降板したのは2006年の[[八木智哉]]以来NPB史上2人目で、代打を送られての降板は同史上初。試合は0対1でオリックスが敗れた<ref>朝日新聞2014年6月1日スポーツ面</ref><ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/06/01/kiji/K20140601008276290.html 金子 9回無安打、幻ノーヒッター 外野へ飛んだのは1本だけ] スポーツニッポン2014年6月1日配信</ref>。
* 2015年5月3日、オリックス対ソフトバンク戦で、大阪ドームにおけるオリックス主催の公式戦としては史上最多となる3万6154人の観客動員数を記録した。これは野球仕様において定数ギリギリの動員数であった。
* 2017年6月6日、オリックス対阪神戦で、多数の観客が相次いで[[急性アルコール中毒]]の症状を訴え、[[救急車]]で病院へ搬送されたり[[タクシー]]で病院へ向かったりした。同球場では、この年の両チームの対戦においては、[[ビール]]の飲み放題チケットの販売席数を通常の4倍に当たる1,200席としていた<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170607/k00/00e/040/248000c 京セラドーム 「大トラ」続出、救急車7台 阪神大勝で?] 毎日新聞 2017年6月7日</ref>。
* 2017年7月9日、この日行われたオリックス対ロッテ戦の試合前にドームの大型ビジョン下部に掲出される広告を交換する工事を行っていたところ、工事現場から長さ2メートルの鉄パイプ1本がスタンドを滑り落ちて外野フィールドへ落下して跳ね返り、そこでストレッチを行っていたオリックスの内野手[[中島宏之]]を直撃する事故が発生。幸い中島は打撲傷で済んだ。事故原因は作業中のミスで、球団は再発防止に努める旨のコメントを出した<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/168260/ オリ中島負傷 京セラドーム「鉄パイプ落下」の波紋] [[東京スポーツ|東スポWeb]](2017年7月10日)、同日閲覧。</ref>。
* 2017年9月30日、オリックス対ソフトバンク戦で、6回表に先頭打者の[[髙谷裕亮]]が放った打球が投手の[[小林慶祐]]の顔面に直撃、小林は出血を伴いながらその場で倒れこんだ。約10分後に救急車を直接グラウンドに入れるという異例の措置がとられ、小林はそのまま病院へ搬送された<ref>{{Cite news |url=https://www.sanspo.com/article/20170930-74LD2RCEVBL4RDGHDJ5LFK4OH4/ |title=救急車が外野からグラウンドに オリ・小林、打球が右眼瞼部上付近に直撃で救急搬送 |newspaper=[[サンケイスポーツ]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=2017-09-30 |accessdate=2017-10-01}}</ref>。
== その他 ==
[[ファイル:Osaka Dome from shin naniwa suji.JPG|300px|thumb|桜川駅付近(新なにわ筋)から見た京セラドーム大阪(2013年4月)]]
* [[Osaka Metro中央線]][[九条駅 (大阪府)|九条駅]]から大阪ドームへ至る商店街は、「'''バファロード'''」の愛称で親しまれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://kujoh.com/ |title=ナインモール商店街 |accessdate=2014-05-28}}</ref>。
* 大阪ドームのテーマソングが開場時に作られ、コンコース内で流されていた。
* フェンス広告も近鉄グループ関連の広告もあるが、近鉄球団時代の面影もあった。
* 日本の球場として初めて[[スマートフォン]]を使用して球場内案内や売り子を呼び出すシステムを採用している<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/663411.html “ビールの売り子”をスマホで呼べる〜京セラドーム大阪球場]</ref>。
== 交通機関 ==
; 地下鉄
* [[Osaka Metro長堀鶴見緑地線]] [[ドーム前千代崎駅]]、徒歩すぐ
* Osaka Metro長堀鶴見緑地線 [[大正駅 (大阪府)|大正駅]]、徒歩約7分
* [[Osaka Metro中央線]] [[九条駅 (大阪府)|九条駅]]、徒歩9分
* [[Osaka Metro千日前線]] [[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]、徒歩約10分
; [[西日本旅客鉄道|JR]]
* [[大阪環状線]] 大正駅、徒歩約7分
; 私鉄
* [[阪神電気鉄道]] [[阪神なんば線]] [[ドーム前千代崎駅#阪神電気鉄道(ドーム前駅)|ドーム前駅]]、徒歩すぐ
* 阪神電気鉄道 阪神なんば線 九条駅、徒歩約9分
* 阪神電気鉄道 阪神なんば線 桜川駅、徒歩約10分
* [[南海電気鉄道]] [[南海高野線|高野線(汐見橋線)]] [[汐見橋駅]]、徒歩約10分
なお、[[滋賀県]][[東近江市]]にある「[[京セラ前駅]]」([[近江鉄道]][[近江鉄道本線|本線]])を当球場の最寄駅と誤解する観客が少なからず存在するため、近江鉄道の主要駅では「'''京セラドーム大阪の最寄り駅は京セラ前ではありません'''」という注意書きが掲出されている。
; 路線バス
* [[大阪シティバス]]
** 「ドーム前千代崎」停留所下車、徒歩すぐ(注:この停留所へ向かうバス路線は、西船町・鶴町4丁目方面からが多い)
** 境川停留所下車、徒歩約5分
*** 境川までは地下鉄[[難波駅 (Osaka Metro)|なんば駅]]、[[近畿日本鉄道|近鉄]]・阪神[[大阪難波駅]]、[[JR難波駅]]から[[大阪シティバス鶴町営業所#60号系統|60号系統]]([[天保山]]行き)に乗り約17分([[Osaka Metro千日前線]][[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]からも接続)
*** 境川までは[[天保山ハーバービレッジ|天保山]]から60号系統([[難波駅 (南海)|なんば]]行き)に乗り約22分
** 大正橋停留所下車、徒歩約6分
; 車
* [[阪神高速道路]] [[阪神高速16号大阪港線|16号大阪港線]]「[[九条出口]]」または「[[波除出入口|波除出口]]」、約5分
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Wikinews|大阪ドームの命名権正式締結、「京セラドーム大阪」に}}
{{Commons|Category:Kyocera Dome Osaka}}
* [[Tigers-ai]]
* [[日本の野球場一覧]]
* [[大阪シティドーム]](現:一般社団法人ドームの会)
; 周辺施設
* [[イオンモール大阪ドームシティ]]
* [[フォレオ大阪ドームシティ]]
* [[スーパービバホーム]]大阪ドームシティ店
* [[社会医療法人]]きつこう会[[多根総合病院]][[災害拠点病院]]として京セラドームと災害時は連携
== 外部リンク ==
* [https://www.kyoceradome-osaka.jp/ 京セラドーム大阪]
* {{Twitter|Kyocera_Dome_|【公式】京セラドーム大阪}}
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{{本拠地の変遷|[[藤井寺球場]]|1984|1996|[[大阪近鉄バファローズ]]|1997|2004|n/a| | }}
{{本拠地の変遷|[[神戸総合運動公園野球場]]|1991|2004<br />2006|[[オリックス・バファローズ]]|2005<br />2007|現在|n/a| | }}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0 |
9,286 | トロイアの木馬 | トロイアの木馬(トロイアのもくば:英 Trojan Horse)は、ギリシア神話のトロイア戦争において、トロイア(イーリオス)を陥落させる決め手となったとされる装置である。トロイの木馬とも言われる。木でできており、中に人が隠れることができるようになっていた。 転じて、内通者や巧妙に相手を陥れる罠を指して「トロイの木馬」と呼ぶことがある。
この伝説の主な典拠はウェルギリウスの『アエネーイス』である。またホメロスの『オデュッセイア』でも言及されている。
トロイア戦争において、ギリシア勢の攻撃が手詰まりになってきたとき、オデュッセウスが木馬を作って人を潜ませ、それをイーリオス市内に運び込ませることを提案した。参加して日の浅いネオプトレモスとピロクテーテースは戦いに飢えていたので反対したが、戦いに倦んでいた他の諸将は賛成した。これはトロイア戦争の始まる前、3つの神託がギリシア勢に下されたためである。その神託とは、ネオプトレモスの戦争への参加、イーリオスにあるアテーナー神殿にある神像(パラディオン)がトロイアの外に持ち出されること、イーリオス城正門の鴨居が壊されることで、この3つが果たされなければイーリオス城が陥落することは無いとのものであった。この時点でネオプトレモスは戦争に参加していたため、オデュッセウスとディオメーデースがパラディオンを盗み出し、巨大な木馬を製作して、トロイア人がこれを城内に入れる際、自ら進んで門を破壊するよう仕向ける事にしたのである。
このため、強くはなくとも大工の技に長けていたエペイオスが木馬の製作を指揮することとなった。エペイオスはイーデー山から木を切り出させ(自軍の船の木材を転用したとも)それを材料に木馬を組み立てた。木馬作成の過程は、トリピオドーロス(英語版)の『トロイア落城』に最も詳しく書かれている。
木馬が完成すると、ネオプトレモス、メネラーオス、オデュッセウス、ディオメーデース、ピロクテーテース、小アイアースらが乗り込み、最後にエペイオスが乗り込んで扉を閉じた。木馬をイーリオス市内に運び込ませるためには、トロイア人に顔を知られていない者が1人で残り、敵を欺く必要があった。この役にはシノーンが立候補した。残りのギリシア勢は寝泊りしていた小屋を焼き払い、船で近くのテネドス島に移動した。
夜が明けると、トロイア人は、ギリシア人が消えうせ、後に木馬が残されていることに気がついた。ギリシア人が去って勝利がもたらされたと信じたトロイア人は、市内から出てきて木馬の周りに集まり、シノーンを発見した。トロイア人たちはシノーンを拷問し、ギリシア人の行方や木馬の作られたいきさつを問いただしたが、シノーンは正しいことを言わず、「ギリシア人は逃げ去った。木馬はアテーナーの怒りを鎮めるために作ったものだ。そして、なぜこれほど巨大なのかといえば、この木馬がイーリオス城内に入ると、この戦争にギリシア人が負けると予言者カルカースに予言されたためである」としてトロイア人を欺き通した。
欺かれたトロイア人たちは木馬を引いて市内に運び込んだ。ラーオコオーンとカッサンドラーが市民たちをいさめ、木馬に槍を投げつけた。その直後、海から2匹の大蛇が現れ、ラーオコオーンとその二人の息子をくびり殺したため、市民たちは考えを変えた。門は木馬を通すには狭かったので、壊して通した。そして、アテーナーの神殿に奉納した。トロイア人はその後、市を挙げて宴会を開き、人々が寝静まり、守衛さえも手薄になっていた。
それを好機と木馬からオデュッセウスたちが出てきた。そして計画どおり松明でテネドス島のギリシア勢に合図を送り、彼らを引き入れた。その後ギリシア勢はイーリオス市内をあばれまわった。酔って眠りこけていたトロイア人たちは反撃することができず、アイネイアースなどの例外を除いて討たれてしまった。トロイアの王プリアモスもネオプトレモスに殺され、ここにトロイアは滅亡した。 | [
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] | トロイアの木馬は、ギリシア神話のトロイア戦争において、トロイア(イーリオス)を陥落させる決め手となったとされる装置である。トロイの木馬とも言われる。木でできており、中に人が隠れることができるようになっていた。
転じて、内通者や巧妙に相手を陥れる罠を指して「トロイの木馬」と呼ぶことがある。 この伝説の主な典拠はウェルギリウスの『アエネーイス』である。またホメロスの『オデュッセイア』でも言及されている。 | {{Otheruses||その他の用法|トロイの木馬 (曖昧さ回避)}}
[[File:Giovanni Domenico Tipeolo, Procession of the Trojan Horse in Troy, 1760.jpg|thumb|300px|『トロイアの木馬の行進』、[[ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ]]画]]
'''トロイアの木馬'''(トロイアのもくば:英 Trojan Horse)は、[[ギリシア神話]]の[[トロイア戦争]]において、[[イリオス|トロイア(イーリオス)]]を陥落させる決め手となったとされる装置である<ref>世界大百科事典 第2版 株式会社平凡社</ref>。'''トロイの木馬'''とも言われる<ref>「とっさの日本語便利帳」朝日新聞出版発行</ref>。木でできており、中に人が隠れることができるようになっていた。
転じて、内通者や巧妙に相手を陥れる[[罠]]を指して「トロイの木馬」と呼ぶことがある。
この伝説の主な典拠は[[ウェルギリウス]]の『[[アエネーイス]]』である。また[[ホメロス]]の『[[オデュッセイア]]』でも言及されている。
== 背景 ==
トロイア戦争において、ギリシア勢の攻撃が手詰まりになってきたとき、[[オデュッセウス]]が木馬を作って人を潜ませ、それをイーリオス市内に運び込ませることを提案した。参加して日の浅い[[ネオプトレモス]]と[[ピロクテーテース]]は戦いに飢えていたので反対したが、戦いに倦んでいた他の諸将は賛成した。これはトロイア戦争の始まる前、3つの[[神託]]がギリシア勢に下されたためである。その神託とは、ネオプトレモスの戦争への参加、イーリオスにある[[アテーナー]]神殿にある神像([[パラディオン]])がトロイアの外に持ち出されること、イーリオス城正門の鴨居が壊されることで、この3つが果たされなければイーリオス城が陥落することは無いとのものであった。この時点でネオプトレモスは戦争に参加していたため、オデュッセウスと[[ディオメーデース]]がパラディオンを盗み出し、巨大な木馬を製作して、トロイア人がこれを城内に入れる際、自ら進んで門を破壊するよう仕向ける事にしたのである。
このため、強くはなくとも大工の技に長けていた[[エペイオス]]が木馬の製作を指揮することとなった。エペイオスは[[カズ・ダー|イーデー山]]から木を切り出させ(自軍の船の木材を転用したとも)それを材料に木馬を組み立てた。木馬作成の過程は、{{ill2|トリピオドーロス|en|Tryphiodorus}}の『トロイア落城』に最も詳しく書かれている。
== 木馬の完成 ==
木馬が完成すると、ネオプトレモス、[[メネラーオス]]、オデュッセウス、ディオメーデース、ピロクテーテース、[[小アイアース]]らが乗り込み、最後にエペイオスが乗り込んで扉を閉じた。木馬をイーリオス市内に運び込ませるためには、トロイア人に顔を知られていない者が1人で残り、敵を欺く必要があった。この役には[[シノーン]]が立候補した。残りのギリシア勢は寝泊りしていた小屋を焼き払い、船で近くの[[テネドス島]]に移動した。
== トロイアの滅亡 ==
[[Image:Trojan horse Çanakkale.jpg|right|200px|thumb|映画『[[トロイ (映画)|トロイ]]』に登場した木馬。現在はイーリオスに近い[[チャナッカレ]]([[トルコ]])に展示されている]]
夜が明けると、トロイア人は、ギリシア人が消えうせ、後に木馬が残されていることに気がついた。ギリシア人が去って勝利がもたらされたと信じたトロイア人は、市内から出てきて木馬の周りに集まり、シノーンを発見した。トロイア人たちはシノーンを拷問し、ギリシア人の行方や木馬の作られたいきさつを問いただしたが、シノーンは正しいことを言わず、「ギリシア人は逃げ去った。木馬はアテーナーの怒りを鎮めるために作ったものだ。そして、なぜこれほど巨大なのかといえば、この木馬がイーリオス城内に入ると、この戦争にギリシア人が負けると予言者[[カルカース]]に予言されたためである」としてトロイア人を欺き通した。
欺かれたトロイア人たちは木馬を引いて市内に運び込んだ。[[ラーオコオーン]]と[[カッサンドラー]]が市民たちをいさめ、木馬に[[槍]]を投げつけた。その直後、[[海]]から2匹の[[大蛇]]<!--([[リヴァイアサン]]とされる)?-->が現れ、ラーオコオーンとその二人の息子をくびり殺したため、市民たちは考えを変えた。門は木馬を通すには狭かったので、壊して通した。そして、アテーナーの神殿に奉納した。トロイア人はその後、市を挙げて宴会を開き、人々が寝静まり、守衛さえも手薄になっていた。
それを好機と木馬からオデュッセウスたちが出てきた。そして計画どおり[[松明]]でテネドス島のギリシア勢に合図を送り、彼らを引き入れた。その後ギリシア勢はイーリオス市内をあばれまわった。酔って眠りこけていたトロイア人たちは反撃することができず、[[アイネイアース]]などの例外を除いて討たれてしまった。トロイアの王[[プリアモス]]もネオプトレモスに殺され、ここにトロイアは滅亡した。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Trojan horse}}
* [[トロイの木馬 (ソフトウェア)]]
* [[欺瞞作戦]]
{{Normdaten}}
{{ギリシア神話}}
{{DEFAULTSORT:とろいあのもくは}}
[[Category:ギリシア神話]]
[[Category:神話・伝説の道具]]
[[Category:馬に関する文化]]
[[Category:トロイア戦争]] | null | 2023-03-03T20:26:04Z | false | false | false | [
"Template:Otheruses",
"Template:Ill2",
"Template:Commonscat",
"Template:Normdaten",
"Template:ギリシア神話"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%9C%A8%E9%A6%AC |
9,291 | ラーオコオーン | ラーオコオーン(古代ギリシャ語: Λαοκόων, Lāokoōn、 ラテン語: Laocoon)は、ギリシア神話に登場する、イーリオス(トロイア)の神官である。長母音を省略してラオコオンとも表記される。
神話によれば、アポローン神殿(『アエネーイス』などではポセイドーン神殿)の神官ラーオコオーンは、トロイア戦争の際、トロイアの木馬をイーリオス市内に運び込もうとする市民たちをいさめたが、この行為はアテーナーの怒りを買った。アテーナーはラーオコオーンの両目を潰し、さらに海に潜む2頭の蛇の怪物を使ってラーオコオーンを襲わせた。ラーオコオーンは子供たちと一緒にいたが、子供たちは2人とも怪物に食われてしまった。このことは『アエネーイス』の第2巻などに歌われている。また、蛇を送ってラーオコオーン親子を殺させたのはポセイドーンないしアポローンだともいわれる(アポローンはトロイア戦争に於いてイーリオス側に味方した神だがラーオコオーンがかつて自分の神殿内で妻と交わったためこの時罰を与えた)。
上の場面を題材にした美術作品では、バチカン美術館に所蔵される彫像が有名である。1506年、トラヤヌス浴場付近の地中から発見されたもので、発掘の様子を見学に来たミケランジェロに、大きな感銘を与えた。時の教皇ユリウス2世によって、バチカン宮殿に搬送された。(トラヤヌス浴場は皇帝ネロの黄金宮(ドムス・アウレア)跡である)
これを賞賛したヴィンケルマンに対して、レッシングは『ラオコオン』を著して反駁した。これを「ラオコオン論争」と呼び、ジャンル論を生んだ契機として有名である。
古代ローマの博物学者プリニウスの著書に、ローマ皇帝ティトゥス(在位79-81年)の宮殿にあったラーオコオーン像に関する記述があり、ロドス出身の3人の作者名が挙げられている。これは1506年に発掘された彫刻と同一のものと考えられる。
ヘレニズム芸術のひとつとされているが、ラーオコオーン像が元々ギリシアで造られた彫刻をローマ時代(1世紀)に模刻したものか、それともローマ独自の作品かどうか、については議論がある。 | [
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"text": "ラーオコオーン(古代ギリシャ語: Λαοκόων, Lāokoōn、 ラテン語: Laocoon)は、ギリシア神話に登場する、イーリオス(トロイア)の神官である。長母音を省略してラオコオンとも表記される。",
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] | ラーオコオーンは、ギリシア神話に登場する、イーリオス(トロイア)の神官である。長母音を省略してラオコオンとも表記される。 神話によれば、アポローン神殿(『アエネーイス』などではポセイドーン神殿)の神官ラーオコオーンは、トロイア戦争の際、トロイアの木馬をイーリオス市内に運び込もうとする市民たちをいさめたが、この行為はアテーナーの怒りを買った。アテーナーはラーオコオーンの両目を潰し、さらに海に潜む2頭の蛇の怪物を使ってラーオコオーンを襲わせた。ラーオコオーンは子供たちと一緒にいたが、子供たちは2人とも怪物に食われてしまった。このことは『アエネーイス』の第2巻などに歌われている。また、蛇を送ってラーオコオーン親子を殺させたのはポセイドーンないしアポローンだともいわれる(アポローンはトロイア戦争に於いてイーリオス側に味方した神だがラーオコオーンがかつて自分の神殿内で妻と交わったためこの時罰を与えた)。 | {{Redirect|ラオコーン|エル・グレコの絵画|ラオコーン (エル・グレコ)}}
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[[ファイル:Laocoon and His Sons.jpg|サムネイル|380x380ピクセル|蛇に襲われるラーオコオーンと2人の息子]]
'''ラーオコオーン'''({{翻字併記|grc|'''Λαοκόων'''|''Lāokoōn''|n}}、 {{lang-la|Laocoon}})は、[[ギリシア神話]]に登場する、[[イーリオス]](トロイア)の[[神官]]である。[[長母音]]を省略して'''ラオコオン'''とも表記される。
神話によれば、[[アポローン]]神殿(『[[アエネーイス]]』などでは[[ポセイドーン]]神殿)の神官ラーオコオーンは、[[トロイア戦争]]の際、[[トロイアの木馬]]をイーリオス市内に運び込もうとする市民たちをいさめたが、この行為は[[アテーナー]]の怒りを買った。アテーナーはラーオコオーンの両目を潰し、さらに[[海]]に潜む2頭の[[ヘビ|蛇]]の[[怪物]]を使ってラーオコオーンを襲わせた。ラーオコオーンは子供たちと一緒にいたが、子供たちは2人とも怪物に食われてしまった。このことは『アエネーイス』の第2巻などに歌われている。また、蛇を送ってラーオコオーン親子を殺させたのはポセイドーンないしアポローンだともいわれる(アポローンはトロイア戦争に於いてイーリオス側に味方した神だがラーオコオーンがかつて自分の神殿内で妻と交わったためこの時罰を与えた)。
== ラオコーン像 ==
{{main|ラオコーン像}}
上の場面を題材にした美術作品では、[[バチカン美術館]]に所蔵される<!---[[ヘレニズム]]期のものとされる--->彫像が有名である。[[1506年]]、トラヤヌス浴場付近の地中から発見されたもので、発掘の様子を見学に来た[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]に、大きな感銘を与えた。時の教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]によって、[[バチカン宮殿]]に搬送された。<!---[[ローマ]]の路傍で発見した。--->([[トラヤヌス浴場]]は皇帝[[ネロ]]の黄金宮([[ドムス・アウレア]])跡である)
これを賞賛した[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン|ヴィンケルマン]]に対して、[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]は『ラオコオン』を著して反駁した。これを「[[ラオコオン論争]]」と呼び、ジャンル論を生んだ契機として有名である。
[[古代ローマ]]の博物学者[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]の著書に、ローマ皇帝[[ティトゥス]](在位79-81年)の宮殿にあったラーオコオーン像に関する記述があり、[[ロドス]]出身の3人の作者名が挙げられている。これは1506年に発掘された彫刻と同一のものと考えられる。
ヘレニズム芸術のひとつとされているが、ラーオコオーン像が元々[[ギリシア]]で造られた彫刻をローマ時代(1世紀)に模刻したものか、それともローマ独自の作品かどうか、については議論がある。
== ギャラリー ==
<gallery>
File:Claesz Soutman Laocoön.jpg|[[ピーテル・サウトマン]]「ヘビに噛まれたラオコンとその息子たち 」(1610)
File:El Greco (Domenikos Theotokopoulos) - Laocoön - Google Art Project.jpg|[[エル・グレコ]]「[[ラオコーン (エル・グレコ)|ラオコーン]]」(1610 ~1614 )
File:Francesco Hayez - Laocoonte.jpg|[[フランチェスコ・アイエツ]]「[[:it:Laocoonte (Hayez)|Laocoonte]]」(1812)
'Наполеон продает с молотка похищенные им антики' рис.Теребенев Иван И. 1813г. e1.jpg|{{ill2|テレベネフ・イワン・イワノビッチ|ru|Теребенёв, Иван Иванович}}「'Наполеон продает с молотка похищенные им антики'(ナポレオンはハンマーで盗んだ骨董品を売っている)」([[1812年ロシア戦役]]題材)
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==脚注==
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[[Category:ギリシア神話の人物]]
[[Category:トロイア戦争の人物]]
[[Category:トロイア人]] | 2003-05-24T17:31:11Z | 2023-11-07T03:40:42Z | false | false | false | [
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