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自然農法
自然農法(しぜんのうほう)とは、有機農業の一形態。昭和20年代に岡田茂吉と福岡正信により同名の農法がそれぞれ提唱された。自然農や、自然栽培とは別物である。 法律(JAS法等)で「自然農法」は定義されていない。 1935年から世界救世教教祖の岡田茂吉は「土壌に不純物を入れず清浄に保てば、土壌本来の性能を十分に発揮し作物が栽培できる」という考えのもとで、無農薬・無肥料の栽培を始めた。1936年から東京都世田谷区上野毛の邸宅にて実験的に作物を作り始め、1942年からは水稲にも取り組んだ。1950年(昭和25年)に「無肥料栽培」から「自然農法」へと改称し、1953年に「自然農法普及会」を発足させた。 岡田茂吉の理念は自然農法国際研究開発センター、MOA自然農法文化事業団などに受け継がれている。 1947年、「無から有を生めるのは自然のみで、農家は自然の営みを手伝うだけ」と考えた福岡正信は「不耕起」「無肥料」「無農薬」「無除草」を原則とする自然農法を始めた。具体的な農法として、植物の種子と粘土と混合した粘土団子がある。
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自然農法(しぜんのうほう)とは、有機農業の一形態。昭和20年代に岡田茂吉と福岡正信により同名の農法がそれぞれ提唱された。自然農や、自然栽培とは別物である。 法律(JAS法等)で「自然農法」は定義されていない。
{{Notice|style=important|文章は基本的に[[WP:SOURCES|公表された第三者の資料]]に基づかなければなりません。[[WP:ABOUTSELF|公式サイトなどの情報源]]はできるだけ避けてください。<BR/>[[WP:NOTADVERTISING|ウィキペディアは宣伝・広告の場所ではありません]]。そのような記述は[[WP:NPOV|中立的な観点]]にそぐわないため削除されます。}} '''自然農法'''(しぜんのうほう)とは、[[有機農業]]の一形態。昭和20年代に[[岡田茂吉]]と[[福岡正信]]により同名の農法がそれぞれ提唱された。<!--(要検証)これらの影響を受け派生した農法-->自然農<ref>{{Cite web|和書|title=(ひと)川口由一さん 命の営みを大切にする「自然農」を探し求める:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14797865.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2021-02-12 |access-date=2023-01-10 |language=ja}}</ref>や、自然栽培とは別物である<REF NAME="Asahi20210820"/><REF NAME="Asahi20210818"/>。 法律([[日本農林規格等に関する法律|JAS法]]等)で「自然農法」は定義されていない。 == 岡田茂吉の農法 == <!-- この記事において過剰な記述は各人物記事に移動して下さい。 前後と話が繋がるようにしてください。 --> 1935年から[[世界救世教]]教祖の[[岡田茂吉]]は「土壌に不純物を入れず清浄に保てば、土壌本来の性能を十分に発揮し作物が栽培できる」という考えのもとで、無農薬・無肥料の栽培を始めた<REF NAME="JAHakui2012" />。{{要出典範囲|date=2022年3月|1936年から[[世田谷区|東京都世田谷区]]上野毛の邸宅にて実験的に作物を作り始め、1942年からは[[水稲]]にも取り組んだ。}}1950年(昭和25年)に「無肥料栽培」から「自然農法」へと改称し<REF NAME="INFRC_history" />、[[1953年]]に「自然農法普及会」を発足させた<REF NAME="INFRC_history" />。 岡田茂吉の理念は⾃然農法国際研究開発センター、MOA⾃然農法⽂化事業団などに受け継がれている<REF NAME="JAHakui2012" />。 ==福岡正信の農法== 1947年、「無から有を生めるのは自然のみで、[[農家]]は自然の営みを手伝うだけ」と考えた[[福岡正信]]は「[[不耕起栽培|不耕起]]」「無肥料」「無農薬」「無除草」を原則とする自然農法を始めた<REF NAME="JAHakui2012" />。具体的な農法として、植物の種子と粘土と混合した[[粘土団子]]がある<!--×有名-->{{要出典|date=2023年1月}}。 == 脚注 == {{Reflist|1|refs= <REF NAME="JAHakui2012">{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/hokuriku/seisan/kankyo/attach/pdf/20191209seminar-1.pdf|title=はくい式自然栽培の取組について|website=[https://www.maff.go.jp/ 農林水産省]|publisher=JAはくい 経済課|author=粟木政明|date=2019-12-09|accessdate=2022-11-29}}</REF> <ref NAME="INFRC">{{Cite web|和書|url=http://www.infrc.or.jp/index.html|title=自然農法国際研究開発センター 公式サイト|publisher=自然農法国際研究開発センター|accessdate=2022-11-29}} </ref> <REF NAME="INFRC_history">{{Cite web|和書|url=https://www.infrc.or.jp/information/125/|title=自然農法国際研究開発センター 沿革|publisher=自然農法国際研究開発センター|accessdate=2022-11-29}} </REF> <REF NAME="Asahi20210820">{{Cite news|和書|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP8K7VMJP86PQIP045.html|title=本当に持続可能なのか 「自然栽培」分かれる評価|newspaper=朝日新聞|date=2021-08-20|access-date=2022-11-29}} </REF> <REF NAME="Asahi20210818">{{Cite news|和書|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP8K7VBLP86PQIP043.html?iref=sp_rensai_short_1303_article_1|title=「自然栽培」、農薬の代わりは毎日の観察 JAも協力|newspaper=朝日新聞|date=2021-08-18|access-date=2022-11-29}} </REF> }} == 関連項目 == *[[バイオダイナミック農法]] *[[有機農業]] *[[世界救世教]] - [[岡田茂吉]]が開いた宗教 {{DEFAULTSORT:しせんのうほう}} [[Category:農業技術]] [[Category:有機農法]]
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福岡正信
福岡 正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - 2008年8月16日)は愛媛県出身の農学者。自然農法を提唱した。 愛媛県伊予郡南山崎村(現・伊予市)に生まれる。旧制松山中学校、岐阜高等農林学校(現岐阜大学応用生物科学部)卒。 若い頃は横浜税関の植物検査課に所属していたが、急性肺炎にかかり死に直面すると、「この世には何もない」と悟り、仕事をやめて地元に戻り農業を始めた。「やらなくてもいい」ことを探しながら、自然農法を確立した。 著作の序文では、不耕起(耕さない)、無肥料、無農薬、無除草を特徴とする自然農法を行うとしているが、著作中には肥料と農薬(除草剤、除虫剤)の使用について記述がある。 米麦連続不耕起直播は、稲刈り前に裸麦の種の粘土団子とクローバーの種を蒔き、稲刈り後に稲わらを撒く。麦を刈る前に稲籾の粘土団子を蒔き、刈った後に麦わらを振りまくという栽培技術である。 ケニアなど十数カ国で粘土団子による砂漠緑化を試みた。東南アジア諸国では、粘土団子方式で荒野がバナナ畑や森として甦った。 1988年、ロックフェラー兄弟財団の出資で発足したフィリピンのマグサイサイ賞を受賞。 90歳を過ぎ歩行が困難になっても、中国の要請に応え、粘土団子の技術指導に現地へ飛ぶなど精力的に活動していた。
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福岡 正信は愛媛県出身の農学者。自然農法を提唱した。
{{ 出典の明記|date=2023年1月25日 (水) 06:55 (UTC)}}{{特筆性|date=2023年1月25日 (水) 06:55 (UTC)}}{{ 独自研究|date=2023年1月25日 (水) 06:55 (UTC)}}[[File:Masanobu-Fukuoka.jpg|thumb|2002年10月撮影]] '''福岡 正信'''(ふくおか まさのぶ、[[1913年]][[2月2日]] - [[2008年]][[8月16日]])は[[愛媛県]]出身の[[農学者]]。[[自然農法]]を提唱した。 == 人物 == [[愛媛県]][[伊予郡]][[南山崎村]](現・[[伊予市]])に生まれる。[[愛媛県立松山東高等学校|旧制松山中学校]]、[[岐阜高等農林学校]](現[[岐阜大学]][[応用生物科学部]])卒。 若い頃は[[横浜税関]]の植物検査課に所属していたが、[[急性肺炎]]にかかり死に直面すると、「この世には何もない」と悟り、仕事をやめて地元に戻り農業を始めた。「やらなくてもいい」ことを探しながら、自然農法を確立した<ref>{{Cite book|和書|title=わら一本の革命|author=福岡正信|pages=|year=|publisher=|isbn=}}{{要ページ番号|date=2023年1月}}</ref>。 著作{{どれ|date=2023年1月}}の序文では、[[不耕起栽培|不耕起]](耕さない)、無肥料、無農薬、無除草を特徴とする[[自然農法]]を行うとしているが、著作中には[[肥料]]<ref>『無3-自然農法』によると、稲・麦作に鶏糞、敷藁、麦作の元肥として[[石灰窒素]]、そのほかに[[オガクズ|木鋸屑]]、チップ樹皮屑など。</ref>と[[農薬]]([[除草剤]]、除虫剤)<ref>『無3-自然農法』によると、麦作に[[シアン酸ナトリウム|シアン酸ソーダ]]、柑橘果樹の[[カイガラムシ|ヤノネ貝殻虫]]対策として[[マシン油乳剤]]、[[石灰硫黄合剤]]、やむをえない場合は野菜に銅・亜鉛剤、植物剤([[シロバナムシヨケギク|除虫菊]]、[[ロテノン#植物での存在|デリス]]、[[タバコ|煙草]])、石灰硫黄合剤、動植物油乳剤、マシン油乳剤、燐剤([[リン化亜鉛|ネコイラズ]])などを用いるとある。</ref>の使用について記述がある。 {{要出典範囲|date=2023年1月|米麦連続不耕起直播は、[[稲刈り]]前に[[裸麦]]の種の粘土団子と[[シャジクソウ属|クローバー]]の種を蒔き、稲刈り後に稲わらを撒く。麦を刈る前に稲[[籾]]の粘土団子を蒔き、刈った後に[[麦わら]]を振りまくという栽培技術である。}} ケニアなど十数カ国で[[粘土団子]]による[[砂漠緑化]]を試みた<ref>「粘土団子で虹よ架かれ ケニアの砂漠緑化ストップ 横浜アートプロジェクト」朝日新聞朝刊2006年8月29日 田園・浜・川・2地方 30面</ref><ref>「「種で緑化」支援を 有志ら提供呼びかけ/群馬」朝日新聞朝刊2002年3月22日 群馬 34面</ref><ref>{{Cite news|和書|url=|title=砂漠の団子|newspaper=朝日新聞|date={{ISO dateJA|1999年7月19日}}|at=夕刊1面 窓・論説委員室から}}</ref><ref>「生ごみの種が世界を緑化」朝日新聞朝刊2002年10月28日 15面</ref>。{{要検証範囲|date=2023年1月|1=東南アジア諸国では、粘土団子方式で荒野がバナナ畑や森として甦った<ref name="名前なし-1">朝日新聞2005年「ひと」コラムより</ref>。}} {{要出典範囲|date=2023年1月|1=[[1988年]]、[[ロックフェラー]]兄弟財団の出資で発足したフィリピンの[[マグサイサイ賞]]を受賞}}。 {{要検証範囲|date=2023年1月|1=90歳を過ぎ歩行が困難になっても、[[中華人民共和国|中国]]の要請に応え<ref name="名前なし-1"/>、粘土団子の技術指導に現地へ飛ぶなど精力的に活動していた。}} == 略歴 == *[[1913年]] - [[愛媛県]][[伊予郡]][[南山崎村]] (現・[[伊予市]])に生まれる。 *[[1931年]] - [[愛媛県立松山東高等学校|旧制松山中学校]]卒業。 *[[1933年]] - [[岐阜高等農林学校]] (現[[岐阜大学]][[応用生物科学部]])卒業。 *[[1934年]] - [[横浜税関]]植物検査課に勤務。 *[[急性肺炎]]に罹患。 *[[1937年]] - 故郷で自然農法を始める。 *[[1939年]] - [[高知県]][[農業試験場]](現・高知県農業技術センター)に勤務。 *[[1947年]] - 退職して自然農法の研究に没頭。 *[[1975年]] - 『自然農法・わら一本の革命』を出版。 *[[1988年]] - [[マグサイサイ賞]]「市民による公共奉仕」部門賞、[[デーシコッタム賞]]{{要出典|date=2023年1月}}受賞。 *[[1997年]] - 第1回[[アース・カウンシル賞]]受賞{{要出典|date=2023年1月}}。 *[[2008年]] - 8月16日午前死去。 == 著書 == {{Refbegin}} ===本=== * {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | date = 1947-2-2 | title= 無 | place= 伊予 | publisher= (自費出初版) | url= | isbn= }}<ref name="『無』1947年2月2日">著者自身が『無I神の革命』の増補改訂版で(2004年版 iv-vページ参照)</ref><ref name="いろは革命歌">{{citation |和書 | last1 = 将積 | first1 = 睦 | last2 = 福岡 | first2 = 正信 | chapter = 『いろは革命歌』発刊によせて | editors = 井谷カヨコ、野村美詠子 (翻訳)、矢島三枝子 (翻訳)、益田明美、阿部悦子、将積睦 (解説冊子)、Michael T. Seigel (翻訳): | title = いろは革命歌 Iroha Revolutionary Verses | date = 2009-02-02 | pages = 3・6 | edition = 自費出初 | type = | place = 伊予 | publisher = 自然樹園 (小心舎) | language = 二言語 英語訳 | isbn = 978-4-938743-03-1 }}</ref> * {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | year = 1958 | month = 10 | title= 百姓夜話・「付」自然農法 | series= | place= 伊予 | publisher= (自費出初版) | isbn= }} * {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | year = 1969 | month = 5 | title= 無2 緑の哲学 | series= | place= 伊予 | publisher= (自費出初版) | isbn= }} * {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | date = 1972-4-25 | title= 無3 自然農法(と理論と実際 緑の哲学 実践編) | series= | place= 伊予 | publisher= (自費出初版) | isbn= }} * {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | year = 1973 | month = 7 | title= 無1 神の革命 | series= | place= 伊予 | publisher= (自費出初版) | isbn= }} * {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | year = 1974 | month = 8 | title= 無 別冊 緑の哲学 農業革命論 | series= | place= 伊予 | publisher= (自費出初版) | isbn= }} *'''社会観 『わら一本の革命』''' (分類について<ref name ="本分類">著者自身が『自然に還る』の増補改訂版で(2004年版430ページ参照)、社会観123、人生観123という分類を行っている。</ref>) ** {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | origyear = 1975 | year = 2004 | month = 8 | title= 自然農法・わら一本の革命 | edition= 新 | series= | place= | publisher= [[春秋社]] | url= https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393741412.html | isbn= 978-4-393-74141-2 }}(スタート、序章<ref name ="本分類" />)<br> (初版) [[柏樹社]]、1975年9月。(新版) 春秋社、1983年5月 ISBN 978-4-393-74103-0。 ** {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | origyear = 1984 | year = 2004 | month = 9 | title= 自然に還る | edition= 新 | series= | volume= | place= | publisher= 春秋社 | url= https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393741467.html | isbn= 978-4-393-74146-7 }}(コース、過程編)<br> (初版) 春秋社、1984年8月 ISBN 978-4-393-74104-7。(新版) 春秋社、1993年4月 ISBN 978-4-393-74114-6。 ** {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | origyear = 1987 | year = 1992 | month = 12 | title= 神と自然と人の革命 | edition= 自費出新 | series= | volume= | place= 伊予 | publisher= 自然樹園 | url= | isbn= 4938743019 }}(ゴール、総括編)<br> (自費出初版) 『神と自然と人』1987年 {{NCID|BA83902799}}。(自費出新版) 1991年11月 {{NCID|BN08239853}}。(自費出新版) 1995年。 *'''人生観 『無』''' ** {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | origyear = 1973 | year = 2004 | month = 8 | title= 無Ⅰ 神の革命 | edition= 新 | series= | volume= | type= | place= | publisher= 春秋社 | url= https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393741436.html | isbn= 978-4-393-74143-6 }}(宗教編<ref name ="本分類" /><ref>『神と自然と人の革命』で著者自身が『無』3巻をそれぞれ、宗教編、哲学編、実践編と分類している。</ref>)<br> (自費出初版) 1973年7月。(新版) 春秋社、1985年7月 ISBN 978-4-393-74111-5。 ** {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | origyear = 1969 | year = 2004 | month = 9 | title= 無Ⅱ 無の哲学 | edition= 新 | series= | volume= | type= | place= | publisher= 春秋社 | url= https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393741443.html | isbn= 978-4-393-74144-3 }}(哲学編)<br> (自費出初版) 1969年5月。(新版) 春秋社、1985年7月 ISBN 978-4-393-74112-2。 ** {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | origyear = 1972 | year = 2004 | month = 9 | title= 無Ⅲ 自然農法 | edition= 新 | series= | volume= | type= | place= | publisher= 春秋社 | url= https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393741450.html | isbn= 978-4-393-74145-0 }}(実践編)<br> (自費出初版) 1972年4月25日。(新版) 春秋社、1985年10月 ISBN 978-4-393-74113-9。 * {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | origyear = | year = 1975 | month = 12 | title= 自然農法 緑の哲学の理論と実践 | edition= 初 | series= | volume= | type= | place= | publisher= [[時事通信社]] | url= | isbn= 978-4-7887-7626-5 }} * {{citation |和書 | last = 福岡 | first = 正信 | author-mask = 0 | year = 2001 | month = 5 | title= 粘土団子の旅 わら一本の革命 総括編 | edition= 自費出初 | series= | volume= | type= | place= 伊予 | publisher= 自然樹園 | url= | isbn= 978-4-938743-02-4 }}<br> [https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393741511.html (重版) 春秋社、2010年4月] ISBN 978-4-393-74151-1。 * {{citation |和書 | last1 = 福岡 | first1 = 正信 | author-mask = と&#32; | last2 = 金光 | first2 = 寿郎 | author2-link = 金光寿郎 | origyear = 1997 | year = 2004 | month = 8 | title = 「自然」を生きる | edition = 新装 | series = | volume = | type = | place = | publisher = 春秋社 | url = https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393741474.html | isbn = 978-4-393-74147-4 }}<br> (初版) 春秋社、1997年2月 ISBN 978-4-393-74115-3。 * {{citation |和書 | last1 = 福岡 | first1 = 正信 | author-mask = 0 | origyear = | year = 2005 | month = 1 | title = 自然農法 福岡正信の世界 (DVDブック) | edition = 初 | series = | volume = | type = | place = | publisher = 春秋社 | url = https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393970195.html | isbn = 978-4-393-97019-5 }} * {{citation |和書 | last1 = 福岡 | first1 = 正信 | author-mask = と&#32; | editors = 井谷カヨコ、野村美詠子 (翻訳)、矢島三枝子 (翻訳)、益田明美、阿部悦子、将積睦 (解説冊子)、Michael T. Seigel (翻訳): | origyear = | date = 2009-2-2 | title = いろは革命歌 Iroha Revolutionary Verses | edition = 自費出初 | type = | place = 伊予 | publisher = 自然樹園 (小心舎) | language = 二言語 英語訳 | url = | isbn = 978-4-938743-03-1 }} ===論文=== * {{Citation |和書 |last=福岡 | first=正信 |year=1937 |month=8 |title=柑橘樹脂病特にその完全時代に就て |journal=日本植物病理學會報 |volume=7 |issue=1 |pages=32-33 |place= |publisher=[http://www.ppsj.org/ 日本植物病理学会] |issn=00319473 |url=https://doi.org/10.3186/jjphytopath.7.32 |language=ja |accessdate=2012-07-20}} * {{Citation |和書|last=福岡 | first=正信 |author-mask=0 |year=1941 |title= 農作物 病虫害防除提要 第一編 米麦丿病虫害 |volume= 1 |place= [[長岡村 (高知県)]] |publisher= 高知県立農事試験場楠会 |language= |url= {{NDLDC|1112650}} |type=画像ビューア (絶版古書) |accessdate=2012-07-20}} * {{Citation |和書 |last=福岡 | first=正信 |author-mask=0 |year=1942 |title= 農作物 病虫害防除提要 第二編 蔬菜丿病虫害 |volume= 2 |place= 長岡村 (高知県) |publisher= 高知県立農事試験場楠会 |type= 絶版古書}} * {{Citation |和書|last=福岡 |first=正信 |author-mask=0 |year=1962 |month=5 |title=米麦直播栽培の実際-1- |journal=農業及園芸 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|title=私の農法(講演〔「近代農法の反省と今後の農業」セミナーより〕) |journal=協同組合経営研究月報 |volume=214 |pages=19-36 |publisher=協同組合経営研究所 |place=町田 |issn=09141758 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40000735157/ |accessdate=2012-12-23}} * {{Citation |和書 |last1=福岡 | first1=正信 |author-mask=と |last2=草柳 | first2=大蔵 |date= |year=1975 |month=11 |title=自然農法より工業社会へ愛をこめて(情報の交差点 この人に聞く-8-) |journal=中央公論 |volume=90 |issue=11 |pages=400-407 |publisher=中央公論新社 |place=東京 |issn=05296838 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40002394336/ |accessdate=2012-12-23}} * {{Citation |和書|last=福岡 | first=正信 |author-mask=0 |year=1976 |month=4 |title=無の自然農法 |journal=大法輪 |issue=昭和51年4月 |publisher=大法輪閣 |place=東京 |id={{全国書誌番号|00014366}} |url=http://www.daihorin-kaku.com/magazine/mokuji/syowa51.html |accessdate=2012-12-23}} * {{Citation |和書|last=福岡 |first=正信 |author-mask=0 |year=1981 |month=1 |title=農村に埋もれている哲学の発掘を (新しい農民哲学を求めて<特集>) |journal=農業と経済 |volume=47 |issue=1 |pages=48-55 |issn=00290912 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40003124410 |accessdate=2012-07-20}} * {{Citation |和書|last=福岡 | first=正信 |author-mask=0 |year=1982 |month=7 |title=無の哲学を説く |journal=大法輪 |issue=昭和57年7月 |publisher=大法輪閣 |place=東京 |id={{全国書誌番号|00014366}} |url=http://www.daihorin-kaku.com/magazine/mokuji/syowa57.html |accessdate=2012-12-23 }} * {{Citation |和書 |last=福岡 |first=正信|year=1987 |month=2 |title=自然農法アフリカ・アメリカへ飛ぶ--砂漠に種を蒔く (有機農業の可能性を探る<特集>) |journal=農業と経済 |volume=53 |issue=2 |pages=70-76 |issn=00290912 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40003125593 |accessdate=2012-07-20}} * {{Citation |和書|last=福岡 | first=正信 |author-mask=0 |year=1989 |month=5 |chapter= 生と死 ―私の死生観― |at= 仏教の知 現代の知 159- 頁 |title= 智慧とは何か |url= http://www.hozokan.co.jp/hozo/bookd/bukkyo/i_0207.html |series= 季刊仏教 |volume= 7 |place= 京都市 |publisher= [[法蔵館]] |language= |isbn= 4831802077}} * {{Citation |和書|last=福岡 | first=正信 |author-mask=0 |year=1991 |month=11 |chapter= 砂漠に種を蒔く |at= 生きられる環境とは 52- 頁 |title= いのちの環境 |url= http://www.hozokan.co.jp/hozo/bookd/bukkyo/i_0256.html |series= 季刊仏教・別冊6 |volume= 6 |place= 京都市 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|accessdate=2012-07-20}} * {{Citation |和書 |last=福岡 |first=正信 |date=2001-11-15 |title=自然農法の提唱と砂漠緑化《3》自然農法の哲学と21世紀の農法 |journal=週刊農林 |volume=1804 |pages=6-7 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40001708224 |accessdate=2012-07-20}} * {{Citation |和書|last=福岡 |first=正信 |date=2001-12-25 |title=自然農法の提唱と砂漠緑化 自然農法の哲学と21世紀の農法(4)科学の錯誤 (自然農法の提唱と砂漠緑化(4)) |journal=週刊農林 |volume=1807 |pages=4-6 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40001708246 |accessdate=2012-07-20}} * {{Citation |和書|last=福岡 |first=正信 |year=2001 |month=12 |title=特別インタビュー 自然と人間 福岡正信(自然農法家)--人智を捨て、自然に仕えて生きる (十二月臨時増刊号~長寿と健康 いのち大切に--全篇書き下ろし113人の「元気に生きるヒント」) |journal=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] |volume=79 |issue=15 |pages=98-104 |place=東京 |publisher=[[文藝春秋]] |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40003428991/ |accessdate=2012-07-20}} * {{Citation |和書|last=福岡 |first=正信 |editors=サライ編集部 |year=1998 |month=4 |chapter=鋤、肥料、農薬、除草……一切いらんしかも土は肥えるし、収穫量は2倍これが「自然農法」です |pages=201-214 |title=[[サライ (雑誌)|サライ]]・インタビュー集-紅の巻-上手な老い方 |place=東京 |publisher=[[小学館]] |isbn=978-4-09-343605-2}} ===本の英語訳=== * {{Citation |和書 |last=福岡 |first=正信 |author-mask=&#32; |translator=Chris Pearce、Larry Korn (ed.)、黒沢常道 : |origyear=1975-9 |year=1978 |title=The One-Straw Revolution: An Introduction to Natural Farming |place=USA |publisher=Rodale Press |isbn=0878572201 }} * {{Citation |和書 |author=福岡正信 |author-mask=&#32; |translator=Frederic P. Metreaud : |origyear=1975-12 |year=1987 |title=The Natural Way of Farming: The Theory and Practice of Green Philosophy |edition=新 |place=Tokyo、New York |publisher=Japan publications |isbn=978-0-87040-613-3 }} 1985年(初版) ISBN 0870406132。 * {{Citation |和書 |author=福岡正信 |author-mask=&#32; |translator=Frederic P. Metreaud : |origyear=1984-8 |year=1987 |title=The Road Back to Nature: Regaining the Paradise Lost |place=Tokyo、New York |publisher=Japan publications |isbn=0870406736 }} * {{Citation |和書 |author=福岡正信 |author-mask=&#32; |year=1993 |title=The God's farming |publisher=(自費出初版?) |id={{全国書誌番号|95014988}} }} * {{Citation |和書 |last=福岡 |first=正信 |author-mask=&#32; |editor= |others= |translator=[[アルフレッド・バーンバウム|Alfred Birnbaum]] : |year=1994 |editor2= |others2= |title=Mu 1 ? The God Revolution |url= |format= |edition= |place=Japan |publisher= |language= |origyear=1964 |isbn= |pages= |ref= |author-separator= }}<ref name="Mu 1-The God Revolution-画像">[http://www.amazon.com/gp/product/B000X6K4Y8/ 画像:福岡正信 (英語訳)『''Mu 1-The God Revolution''』、アルフレッド・バーンバウム :訳、日本:?出版元?]、1994年/「1964」。 -Amazon.com</ref> * {{Citation |和書 |author=福岡正信 |author-mask=&#32; |translator= |year=1996 |title=The Ultimatum of God Nature「The One-Straw Revolution」A Recapitulation |url= |format= |edition= |place=伊予 |publisher=Shou Shin Sha (小心舎) (自費出初版) |language= |origyear= |isbn= |pages= |ref= |author-separator= }} {{Refend}} == 脚注== {{reflist}} == 関連文献== * {{Citation |和書|last=木下 | first=泰雄 |year=1970 |month=12 |title=米と柑橘--愛媛県伊予市・福岡正信さんの「自然農法」 |series=無農薬農業の事例をたずねて(ルポ) |journal=協同組合経営研究月報 |volume=207 |pages=85-90 |publisher=協同組合経営研究所 |place=町田 |issn=09141758 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40000735069/ |accessdate=2012-12-23}} * {{Citation |和書|last1=坂本 | first1=慶一 |year=1975 |month=5 |title=日本農業の再生は可能か |journal=中央公論 |volume=90 |issue=5 |pages=58-70 |publisher=中央公論新社 |place=東京 |issn=05296838 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40002394449/ |accessdate=2012-12-23}} * {{Citation |和書| last = 牧野(माकिनो)| first = 財士(साइजी)|date=2010 |title=福岡正信先生とインド インドの緑化につながった“無”の哲学 |publisher=地湧社 |isbn=978-4-88503-211-0}} * {{Cite journal|和書|author=木村武史 |title=自然農法の思想 : 福岡正信の場合 |url=https://hdl.handle.net/2241/117344 |journal=筑波大学地域研究 |issn=0912-1412 |publisher=筑波大学大学院地域研究研究科 |year=2012 |issue=33 |pages=53-69 |naid=40019350284}} == 関連項目 == *[[自然農法]] *[[粘土団子]] *[[岩澤信夫]] - 不耕起移植栽培を提唱し普及活動を展開している農業技術者。福岡の著作から不耕起という概念を学んだ。 == 外部リンク == * {{NHK人物録|D0009072365_00000}} {{Normdaten}} {{people-stub}} {{agri-stub}} {{DEFAULTSORT:ふくおか まさのふ}} [[Category:日本の自然保護活動家]] [[Category:日本の農学者]] [[Category:マグサイサイ賞受賞者]] [[Category:岐阜大学出身の人物]] [[Category:愛媛県立松山東高等学校出身の人物]] [[Category:愛媛県出身の人物]] [[Category:1913年生]] [[Category:2008年没]]
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ロシア帝国
ロシア帝国(ロシアていこく、露: Российская империя ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年11月から1917年9月まで存在した帝国である。現在のロシア連邦を始め、フィンランド、リヴォニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、コーカサス、中央アジア、シベリア、外満洲などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。 通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。 1917年の時点で、ロシア帝国はオーストリア=ハンガリー帝国をしのぐ最大のスラヴ人国家であった。 君主がツァーリを名乗ったそれ以前のロシア・ツァーリ国においても「ロシア帝国」と翻訳されることがあるが、ロシア語では「ツァーリ」(本来は東ローマ皇帝を指したが、やがて一部の国の王、ハーンなどを指す語となった)と「インペラートル」(西ヨーロッパに倣った皇帝を指す語)は異なる称号であるため、留意を要する。 帝政は1721年にツァーリ・ピョートル1世が皇帝(インペラートル)を宣言したことに始まり、第一次世界大戦中の1917年に起こった二月革命でのニコライ2世の退位によって終焉する。 領土は19世紀末の時点において、のちのソビエト連邦の領域にフィンランドとポーランドの一部を加えたものとほぼ一致する面積2000万平方キロメートル超の広域におよび、1億を超える人口を支配した。首都は1712年まで伝統的にモスクワ国家の首府であったモスクワからサンクトペテルブルクに移され、以降帝国の終末まで帝都となった。 政治体制は皇帝による専制君主制であったが、帝政末期には国家基本法(憲法)が公布され、国家評議会とドゥーマからなる二院制議会が設けられて立憲君主制に移行した。20世紀はじめの時点で陸軍の規模は平時110万人、戦時450万人でありヨーロッパ最大であった。海軍力は長い間世界第3位であったが、日露戦争で大損失を出して以降は世界第6位となっている。 宗教はキリスト教正教会(ロシア正教会)が国教ではあるが、領土の拡大に伴い大規模なムスリム社会を内包するようになった。そのほかフィンランドやバルト地方のルター派、旧ポーランド・リトアニアのカトリックそしてユダヤ人コミュニティも存在した。 ロシア帝国の臣民は貴族、聖職者、名誉市民、商人・町人・職人、カザークそして農民といった身分に分けられていた。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる農奴であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持された。シベリアの先住民や中央アジアのムスリムそしてユダヤ人は異族人に区分されていた。 ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。 20世紀初め時点のロシア帝国の規模は世界の陸地の6分の1に当たる約2,280万平方キロメートル(880万平方マイル)に及び、イギリス帝国の規模に匹敵した。しかしながら、この当時は人口の大半がヨーロッパロシアに居住していた。100以上の異なる民族がおり、ロシア人は人口の約43パーセントを占めている。 現代のロシア連邦のほぼ全領土に加えて、1917年以前のロシア帝国はウクライナの大部分(ドニプロ・ウクライナとクリミア)、ベラルーシ、モルドバ(ベッサラビア)、フィンランド(フィンランド大公国)、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージア(ミングレリア(英語版)の大部分を含む)、中央アジア諸国のカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン(トルキスタン総督府)、リトアニア、エストニアとラトビア(バルト諸州)の大部分だけで無く、ポーランド(ポーランド王国)とアルダハン、アルトヴィン、ウードゥル、カルスの相当の部分、そしてオスマン帝国から併合したエルズルムの北東部を含んでいた。 1860年から1905年にかけて、ロシア帝国はトゥヴァ(1944年に併合)、カリーニングラード州(第二次世界大戦後にドイツより併合)そしてクリル列島(第二次世界大戦後に実効支配)を除く現在のロシア連邦の全領土を支配した。サハリン州南部(南樺太、第二次世界大戦後に実効支配)は1905年のポーツマス条約により日本に割譲されている。 1613年に全国会議(ゼムスキー・ソボル)がミハイル・ロマノフをツァーリに選出したことによって300年続くことになるロマノフ朝が開かれた。その孫にあたるピョートル1世(1682年 - 1725年)は近代化改革を断行して、専制体制を確立させた。1721年、大北方戦争(1700年 - 1721年)に勝利したピョートル1世に対して元老院と宗務院が「皇帝」(インペラートル)の称号を贈り、国体を正式に「帝国(インペラートルの国)」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国(インペラートルの国)」と称したことにより、ロシア帝国が成立する。 ピョートル1世の死後、女帝と幼帝が続き、保守派によって改革が軌道修正されることもあったが、ロシアの領土と国力は着実に増しており、エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の時代に参戦した七年戦争(1756年 - 1763年)ではプロイセンを破滅寸前に追い込んでいる。 クーデター(ロシア語版)により、夫ピョートル3世(在位1761年 - 1762年)を廃位して即位したエカチェリーナ2世(1762年 - 1796年)は啓蒙主義に基づく統治を志したが、結果的には貴族の全盛時代をもたらす施策を行っており、農奴制を強化している。彼女の治世にロシアは西方ではポーランド分割に参加し、南方ではオスマン帝国との戦争に勝利してクリミア半島を版図に加え、ロシア帝国の領土を大きく拡大した。 次のパーヴェル1世(1796年 - 1801年)は母帝を否定する政策をとったが、クーデター(ロシア語版)によって殺害された。皇位を継承したアレクサンドル1世(1801年 - 1825年)は自由主義貴族やスペランスキーを起用して改革を志したが、保守層の抵抗を受けて不十分なものに終わっている。彼の治世はフランス革命戦争やナポレオン戦争の時期であり、列強国となっていたロシアもヨーロッパの戦乱に巻き込まれた。ロシアに侵攻したナポレオンに壊滅的な打撃を与えたアレクサンドル1世は神聖同盟を提唱し、戦後のウィーン体制を主導している。 アレクサンドル1世の急死によって即位したニコライ1世(1825年 - 1855年)はその直後にデカブリストの乱に直面した。乱を鎮圧したニコライ1世は「専制、正教、国民性」の標語を掲げて国内の革命運動・自由思想を弾圧し、国外でも反革命外交政策をとった。オスマン帝国との戦争に勝利してバルカン半島への影響力を広げたが、治世末期のクリミア戦争(1853年 - 1856年)ではイギリスとフランスの介入を招く結果となった。 ニコライ1世は戦争中に死去しており、帝位を継いだアレクサンドル2世(1855年 - 1881年)は不利な内容のパリ条約の締結を余儀無くされた。アレクサンドル2世はロシアの後進性を克服するための改革を志し、1861年に農奴解放令を発布したが、地主貴族に配慮した不十分なもので社会問題は解消されなかった。これ以外にも地方行政・司法・教育・軍制の諸改革が実施され、一連の改革は大改革と呼ばれる。オスマン帝国との露土戦争 (1877年-1878年)に勝利してバルカン諸国の独立を実現させるとともに、バルカン半島への影響力も拡大するが、警戒した列強国の干渉を受け、ベルリン会議で譲歩を余儀なくされている。国内の知識人の間では革命思想が広がり、ナロードニキ運動が起こった。政府はこれを弾圧するが、アレクサンドル2世は革命派の爆弾テロで暗殺された。 父の暗殺によって即位したアレクサンドル3世(1881年 - 1894年)は反動政策を行い、革命運動を弾圧したが、彼の時代にロシア経済は大きな躍進を遂げている。最後の皇帝となるニコライ2世(1894年 - 1917年)は専制政治を維持したが、日露戦争(1904 - 1905年)の敗北によって1905年革命が起こり、国民に大幅な譲歩をする十月詔書への署名を余儀なくされた。十月詔書によってドゥーマ(国会(英語版、ロシア語版))が開設され、ロシアは国家基本法の下で立憲君主制に移行したものの、依然として皇帝権が国会に優越したものだった。 ストルイピン首相が強権を伴う国内改革を断行したが、中途で暗殺されて終わり、ロシアは国内が不安定なまま第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎えることになる。ロシア軍は緒戦で惨敗を喫し、ドイツ軍がロシア領に深く侵攻した。ロシアはドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国との総力戦を戦い、2年間の戦闘で530万人もの犠牲者を出している。国民と兵士に厭戦気分が広まり、1917年に首都ペトログラードで労働者が蜂起する二月革命が起こった。兵士は労働者の側について労兵ソビエトを組織し、権力掌握に動いた国会議員団はニコライ2世に退位を勧告した。ニコライ2世はこれを受諾し、ロシアの帝政は終焉した。 1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに推戴されて以降、1917年に帝政が終焉するまでのおよそ300年にわたりロマノフ家がロシアの君主であり続けた。ホルシュタイン=ゴットルプ公だったピョートル3世(在位1761年 - 1762年)が即位して以降はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝(Гольштейн-Готторп-Романовская)とも呼ばれる。 1721年にピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は称号をツァーリから変えて「全ロシアの皇帝」(インペラートル:Император)たるを宣言した。彼の後継者たちも1917年の二月革命で帝政が打倒されるまで、この称号を保ったが、一般的にはツァーリとも呼称されていた。1905年の十月詔書以前、皇帝は絶対君主として君臨しており、基本法(Свод законов)第一条は「ロシア皇帝は独裁にして無限の権を有する君主であり、主権の全体は帝の一身に集中する」と規定している。皇帝は(既存の体制を維持するための)次の2つの事項にのみ制約されていた。一つは皇帝とその配偶者はロシア正教会に属さねばならない。もう一つはパーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)の時に定められた帝位継承法に従わねばならないことである。これ以外のことではロシアの専制君主の統治権は如何なる法律にも制約されず事実上無制限であった。 この状況は1905年10月17日に変化した。1905年革命の結果出された十月詔書以降、皇帝の称号は依然として「全ロシアの皇帝かつ専制者」であり続けるが、1906年4月28日に制定された国家基本法は「無制限」の語を取り除いている。皇帝は自主的に立法権を制限し、いかなる法案も国会(ドゥーマ)の承認なく法制化できなくなった。しかしながら、皇帝は国会の解散権を有しており、彼は一度ならずこれを実行している。加えて皇帝は全ての法案に対する拒否権を有しており、国家基本法を自ら改正することも出来た。大臣は皇帝に対してのみ責任を負っており、国会は問責はできるが解任はできない。このため、皇帝権はある程度は制限されたものの、帝政が終焉するまで強大であり続けた。 ロシア皇帝はフィンランド大公(1809年以降)およびポーランド国王(1815年以降)を兼ねていた。国家基本法第59条はロシア皇帝の正式名称として君臨する50以上の地域名を列挙している(ロシア皇帝を参照)。 アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の時代にスペランスキーの改革の一つとして1811年に設置された国家評議会(Государственный Совет:枢密院とも訳す)は法律の立案および頒布に関して君主に参与すべき審議官である。国家評議会が法案を審議し、皇帝は多数決によるその意見を「傾聴し、決定する」ことになっていたが、実際には決定は皇帝の意思に依った。1890年時点の国家評議会は勅選議員60名から構成され、議長は皇帝もしくは大臣委員会議長その他勅選された者が務めた。 1906年2月20日の国家基本法施行により、国家評議会はドゥーマに関連付けられ、立法機関の上院の役割を果たすこととなった。これ以降、立法権は皇帝が二院と調整した上で実行されることになる。国家評議会はこの目的のために再組織され、勅選議員98名、公選議員98名の計196議員で構成されることとなった。勅任される大臣は国家評議会出身者である。公選議員は6議席が正教会関係、18議席が貴族団、6議席が科学アカデミーと大学関係者、12議席が商工ブルジョワジー、34議席が県ゼムストヴォ、22議席がゼムストヴォのない県の大土地所有者であった。国家評議会は立法機関としてドゥーマと同等の権限を有していたが、立法を率先することは稀であった。二院の一つとなった国家評議会は保守派の牙城となり、ストルイピン大臣会議議長(首相)の土地改革に抵抗している。 ドゥーマ(Ду́ма:国会)は1905年の十月詔書により創設された代議制議会である。ロシア帝国の立法機関は二院制で国家評議会が上院、ドゥーマは下院にあたる。議員数は1907年の時点で442人である。選挙方式は所有財産によって別けられた地主、都市(ブルジョワジー)、農民、労働者の4つのグループからなる複雑な間接選挙方式で、地主やブルジョワジーに極めて有利な制度であった。1906年4月23日に発布された国家基本法(憲法)では皇帝は依然として専制君主と規定されており、法案の拒否権とドゥーマの解散権を留保した。大臣会議議長(首相)と大臣は皇帝の任命によるもので、議会に対して責任を負う責任内閣制でもなかった。また、予算審議権も戦時関係予算や勅令・法律による歳入出はドゥーマの管轄外であるなど制約の多いものであった。 1906年4月27日に開会された国会は地主の1票がブルジョアジーの3票、農民の15票、労働者の45票に相当する選挙制度そして政府の選挙干渉にもかかわらず、自由主義左派の立憲民主党(カデット)が第一党となった。このドゥーマは立憲民主党が地主の土地の強制収用を含む大胆な土地改革を強硬に主張したために紛糾し、7月8日に軍隊が投入されて強制解散された。(第一ドゥーマ) 次の選挙には社会革命党(エスエル)とボリシェヴィキも加わり、その結果、社会主義諸派が議席の40%を占めるより急進的な構成となった。1907年2月20日に開会されたドゥーマはストルイピン大臣会議議長(首相)の土地改革に従おうとせず、6月3日に解散された。(第二ドゥーマ) ストルイピンは解散と同時に新選挙法を発布させ、これは更に地主に有利な制度であり、地主の1票は農民の260票、労働者の540票に相当した(6月3日クーデター(英語版))。1907年11月1日に新選挙法の元で選ばれた政府寄りの自由主義右派10月17日同盟(十月党、オクチャブリスト)を中心とするドゥーマが開会され、1912年6月9日までの会期を全うした。(第三ドゥーマ) 1912年11月に第三国会と同じ選挙法の元で選ばれた第四ドゥーマが開会された。第四ドゥーマ中の1914年に第一次世界大戦が勃発した。戦争指導を巡って政府とドゥーマとの対立が激化し、立憲民主党や十月党左派、その他諸派の中道自由主義者が進歩ブロック(英語版)を結成して信任内閣を要求している。1917年に二月革命が起こると、議員たちは国会臨時委員会(英語版)を組織して権力掌握に動き、社会主義者の労働者・兵士ソビエトと臨時政府を組織してニコライ2世に退位を求め、帝政を崩壊させることとなる。 大臣委員会(Комитет Министров)は国家の高等行政に関する事務を審査をする機関である。アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の改革の一環として、1802年にそれまでの参議会制に代わる省庁制が設けられると同時に大臣委員会が置かれた。ナポレオン戦争期にはその権能が拡張し、皇帝が出征中は国家行政事務の全てを担った。ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に大臣委員会の権能が定められ、第一に各大臣および元老院の権限以外の重要事項について協議すること、第二に公安、公共糧食、正教会の保護および公共交通とくに鉄道敷設の許認可に関することとなった。その他、地方行政の監督も大臣委員会の職責であった。 1905年10月18日法により大臣委員会は改組され、皇帝を補佐する最高行政機関として大臣会議議長(首相に相当)を長とする大臣会議(英語版)(Совета министров)が創設された。これは諸国の内閣に相当するもので、各省大臣と主要行政機関の長によって構成される。1905年にロシア側全権代表として日本とポーツマス条約を締結して帰国したセルゲイ・ヴィッテが初代大臣会議議長となった。 1700年にモスクワ総主教アドリアン(英語版)が死去するとピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は後任の選出を許さず、1721年に正式に総主教座を廃止し、ロシア正教会を統括する最高機関としての宗務院(Святейший Правительствующий Синод:聖宗務院、聖務会院、シノドとも訳される)を設立させた。基本法は「教会の政治に於いては君主の独裁権は宗務院を媒介として行動すべきものである」と規定している。 宗務院の職務は第一に教義の正統解釈と聖職者の監督そして宗教出版物の検閲、第二に宗教教育機関および1885年に設置された教区小学校の管理、第三は行政もしくは司法の全ての教会事務の最高法廷そして婚姻に関する事務の採決である。 宗務院のメンバーは皇帝の代理人である俗人の宗務院総監とモスクワ、サンクトペテルブルク、キエフの3府主教、グルジアのエクザルフそして幾人かの主教が交替で務めた。 1711年にピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は出征中に内政を預かる元老院(英語版)(セナート:сенат)を設けて9人の議員を任命した。当初は臨時の措置であったが、これが常設化して行政・司法の執行に関する監督と立法を司る国政の中心機関となった。エカチェリーナ1世(在位1725年 - 1727年)とピョートル2世(在位1727年 - 1730年)の時代には最高枢密院が権力を握り元老院はこれに従属させられたが、アンナ(在位1730年 - 1740年)は即位直後に最高枢密院を廃止している。エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の時代に元老院は権力を回復した。その後、アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の大臣委員会創設によって権限が減少して、主に最高司法機関として機能するものとなった。 帝政末期の元老院は複数の部から構成され、法律の布告および解釈、地方行政官職の監督、行政裁判、商業裁判所そして刑事および民事の破棄院(最高裁判所)としての広範な権限を有していた。元老院は帝国の行政に関わる全ての紛争に対する最高管轄権を有しており、とりわけ、中央政府の代理人と地方自治機関との間の係争を取り扱っていた。また、元老院は新法の登記と布告を審査する役割を持ち、基本法に反するものを拒否する権限があった。 ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の行政改革の一環として、管轄範囲が明確でないイヴァン4世(在位1533年 - 1584年)以来の官署が廃止されて、新たに北欧諸国の制度に倣った合議制で運営される参議会(ロシア語版)(コレギア:Коллегии)が設置された。外務、陸軍、海軍を「主要」とし、都市、所領、司法、歳出、監査、商業、工業、鉱業といった参議会が設けられている。 その後、参議会は責任の所在が曖昧で非効率になり、パーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)の時代に改革が試みられ、合議制から専決制に代えられた。彼の暗殺後に即位したアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)が参議会を廃止して、陸軍、海軍、外務、司法、内務、大蔵、通商、文部の8部の大臣を任命し、省庁制を発足させた。 帝政末期の20世紀初頭の時点では以下の省庁が存在した。 ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の時代、1722年に14の官等からなる官吏および軍人の位階が定められた(官等表(英語版))。中等教育修了者は官吏になることができ、昇格は勤務年数で決められており、九等官で一代貴族、四等官で世襲貴族になれた。 1899年時点の官等は以下の通り(第11等と第13等は廃止)。 ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は当時の西欧で主流であった糾問主義手続きの司法制度を導入した。民事および刑事の裁判は非公開手続きであった。全ての裁判は書面審理で行われ、判事は判決時にのみ当事者および傍聴人と対面した。この非公開性と判事の報酬が僅かであったことが組み合わさり、贈賄と汚職が蔓延することとなった。法廷の調査は複数回あったが(5、6回またはそれ以上)、悪行の回数を増やすだけであった。証拠書類は法廷から法廷へと積み上げられたが、その書類を書いた事務官だけがその要旨を語ることができる類のものであり、費用がかさんだ。これに加えて、大量の勅令、法令そして慣習法(これらはしばしば矛盾した)により、法廷の運営はよりいっそう遅滞し、混乱した。さらに、司法と行政の線引きはなかった。判事は専門家ではなく、彼らは官吏に過ぎず、偏見と悪徳が蔓延していた。 帝政終焉まで続くロシア帝国の司法制度は「解放皇帝」アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の1864年勅令(英語版)によって成立した。英仏の制度を部分的に取り入れた司法制度は司法と行政の分離、判事と法廷の独立、公開裁判と口頭審理、法の前での全ての身分の平等といった幾つかの大まかな原則によって成立している。その上、弁護士制と陪審制の採用によって民主主義的要素も取り入れられた。これらの諸原則による司法制度の確立は司法を行政の範囲の外に置くことにより、専制に終わらせ、ロシア国家の概念に大きな変化をもたらした。しかしながら、1866年のアレクサンドル2世暗殺未遂事件以降には幾らかの反動が見られるようになった。 1864年勅令によって成立した制度は英仏形式の二つの完全に分けられた法廷から成り、おのおのが独自の上訴裁判所を有し、最高裁判所の役割を果たす元老院にのみ連携する。イギリス形式のものは選挙で選ばれた治安判事(英語版)の法廷で民事刑事の軽微な事件を管轄し、郡治安判事会議に上訴できる。もう一つのフランス形式の任命された判事による普通裁判所は重要事件を扱い、陪審員の置かれた地方裁判所、控訴院そして最高裁判所に当たる元老院の三審制である。また、農民の軽犯罪・民事は農村共同体の郷裁判所において旧来の慣習法で裁かれる。 これらとは別に聖職者の規律や離婚を扱う宗教裁判所、そして軍人に対する軍法会議があり、政治犯は軍法会議で裁かれる。 1914年時点のロシアは81県(グベールニヤ)、20州(オーブラスチ)そして1行政庁(okrug)の行政単位に分かたれていた。ロシア帝国は中央アジアのブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国を保護国としており、1914年にはトゥヴァが加えられている。 11県、17州そしてサハリン行政庁がアジア・ロシアに属している。8県がフィンランド、10県がポーランドである。残りはヨーロッパ・ロシアで59県と1州(ドン軍管州)となる。ドン軍管州は軍事省の管轄下にあり、その他の諸県州には知事と副知事(行政評議会議長)が置かれていた。これに加えて、複数の県を管轄し、駐留軍の指揮権を含む広範な権限を有する総督が置かれている。1906年時点でフィンランド、ワルシャワ(ロシア語版)、イルクーツク、キエフ、モスクワ、アムール(ロシア語版)、トルキスタン、ステップそしてカフカース(英語版)に総督府が存在していた。 サンクトペテルブルク、モスクワ、オデッサ、セヴァストポリ、ケルチ、ニコラエフ、ロストフといった大都市は県知事から独立した独自の行政制度があり、警察署長が長官の役割を果たした。 中央政府の地方組織とともに、ロシアには行政の役割を果たす3つの公選による自治機関が存在する。 その起源が定かではない農村共同体(ミール (農村共同体):Мирまたはオプシチナ:Община)は、村ごとの農民の自治組織である。ミールは村長と各世帯の家長たちからなる村会を持ち、村の行政と司法そして耕地の割替を行っていた。耕地や森林、牧草地は農民個人のものではなくミールの共同所有とされ、政府はミールを利用して徴税や賦役を課しており、農奴解放後も土地の共同所有は変わらず、却ってミールの役割が強化されることとなった。アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の行政改革で、農村共同体を基礎に地方行政の末端機関としての村団(セーリスコエ・オブシチェストヴォ:Cельское общество)が組織された。 幾つかの村団が集まって郷(ヴォロースチ:волость)を構成しており、村団の代表者による集会を持っていた。この集会で郷長が選ばれており、また郷裁判所が持たれ、ここでは軽犯罪や民事訴訟などを取り扱っていた。 アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の行政改革の一環として、1864年に34県とドン軍管州およびこれに属する郡に地方自治機関であるゼムストヴォ(Земство)が設置された。郡ゼムストヴォには住民によって選挙された郡会とこれに指名されたメンバーによる執行機関の郡参事会があった。県ゼムストヴォの県会および参事会は郡会の代表者によって構成される。ゼムストヴォは地主、都市居住民そして郷(ヴォロースチ)が別々に代議員を選挙していた。参事会は次の五つの階級から選出された。(1)590エーカー以上を有する大地主は1議席(2)中小地主および聖職者の代表(3)裕福な都市住民の代表(4)都市中産階級の代表(5)ヴォロースチから選出された農民の代表である。 創設当初のゼムストヴォには地域の課税、教育、保健、道路整備などといった広範な権限が与えられていたが、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代に厳しい制限を加えられている。この結果、郡ゼムストヴォは県知事、県ゼムストヴォは内務省に従属することとなり、ゼムストヴォの決議すべてに県知事・内務省の同意が必要とされ、県知事と内務省は議員たちを統制する強力な権限を有するようになった。 ゼムストヴォの選挙人資格には財産規定があり、このため郡会、県会ともに代議員は貴族・地主が常に優勢であったが、1870年代以降、ゼムストヴォは立憲制を求める自由主義者たちの拠点と化しており、1906年に開設された国会の自由主義政党(立憲民主党や十月党)の母体となった。 1870年の新都市法の発布以降、ヨーロッパ・ロシアの市当局はゼムストヴォと同様の代議制都市自治機関(都市ドゥーマ)を持つようになった。家主、納税している商人・職人・労働者は資産量の順番にリストに記載されていた。財産所有評価によって三つのグループに分かたれ、当然各グループの人数は大きく異なるのだが、各々が同人数の都市ドゥーマ議員を選出する。行政部は選挙された市長や都市ドゥーマから選ばれたメンバーによる都市参事会が執り行った。しかしながら、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の治世にゼムストヴォと同じく、都市ドゥーマは県知事や警察に従属させられた。1894年と1895年にシベリアとカフカースの幾つかの都市に(より一層制限されたものではあるが)都市ドゥーマが設けられている。 17世紀末時点のピョートル1世(在位1682年 - 1725年)のロシア帝国軍は約16万の兵力を有しており、この規模は他のヨーロッパ諸国の軍隊と比べて遜色ないものであった。だが、大北方戦争(1700年 - 1721年)緒戦のナルヴァの戦い(1700年)でロシア軍はカール12世のスウェーデン軍に惨敗を喫してしまう。この後、カール12世がポーランド=リトアニア=ザクセン制圧に転戦したため、ピョートル1世は軍隊を再建する余裕を得ることができた。ピョートル1世は教会の鐘を鋳つぶして大砲を製作するとともに都市民や農民を対象とした本格的な徴兵を開始した。これ以前にも臨時の徴兵は行われていたが、租税民である農民を対象とした恒常的な徴兵制度ははじめてであった。「20世帯につき1人」の兵士供出が各村に命じられたが、兵役は25年であり、事実上生涯に渡って村から切り離されることを意味しており、苛酷で死亡率の高い軍隊勤務は貧農に押しつけられる傾向が強かった。「兵士の滞納」は後を絶たなかったが、それでもピョートル1世はこの徴兵制によって年間2万人以上の新兵を得ることができた。貴族の国家勤務査閲を強化して将校の養成を行い、不足は外国人を雇用していたが、1721年の段階でほぼロシア人将校で充足することができるようになっている。陸軍参議会、海軍参議会、砲兵官庁、兵站部そして参謀本部が設けられ軍事行政も整備された。これら軍制改革で強化されたロシア軍はポルタヴァの戦い(1709年)でロシアに侵攻したスウェーデン軍を壊滅させ、大北方戦争を勝利に導いた。 18世紀のロシア軍は数次にわたるオスマン帝国やペルシアとの戦争に勝利して領土を拡大させ、七年戦争ではプロイセン王フリードリヒ2世を破滅寸前に追い込んでいる。19世紀のナポレオン戦争ではロシア軍はアウステルリッツの戦い(1805年)やフリートラントの戦い(1807年)でナポレオンに敗北したものの、ロシア遠征に向かったナポレオンに壊滅的な打撃を与え、最終的な勝利者となったアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)は「ヨーロッパの救済者」と呼ばれた。「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたニコライ1世(在位1825年 - 1855年)は欧州政治に積極的に介入し、軍事力を持ってポーランドやハンガリーの革命運動を粉砕している。 しかしながら、指揮官の大部分を占める貴族出身の将校で有能な者は一部であり、兵士出身の将校・下士官は教養が低かった。ピョートル1世以来の徴兵制度は25年の兵役を課して社会から切り離すものであり、農民にとっては刑罰同然のものと考えられ、兵士の待遇は劣悪であり貴族の将校は兵士を農奴同様に扱い、軍隊内での体罰や病気での死亡率も高かった。 クリミア戦争(1853年 - 1856年)が勃発した時点のロシア軍は将校27,745人、下士官兵112万人で、ヨーロッパ最大の規模であった。だが、装備は旧式で砲弾も不足しており、加えて国内の鉄道網が未整備で軍隊の急速な展開が不可能な状態にあった。ロシア軍はセヴァストポリ攻囲戦(1854年 - 1855年)で英仏軍に敗れて黒海の非軍事化を含む屈辱的な内容のパリ講和条約を結ばされ、「ヨーロッパ最強国」の自尊心は打ち砕かれた。 敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)は大改革と呼ばれる農奴解放を含んだ行政改革を実施しており、軍制改革もこれに含まれる。この当時、ドイツやフランスの軍隊は国民男子全員に兵役を課して軍隊経験を積ませる国民皆兵であるのに対し、ごく一部の国民に長期の兵役を課す農奴制・身分制的なロシアの軍制は幅広い予備兵力層を欠いており、時代遅れなものになっていた。軍事大臣ミリューチンは軍制の近代化に着手し始め、まず、軍隊内での体罰は禁止された。1861年に兵役は16年に短縮され、1874年には国民皆兵制が施行されて陸軍は兵役6年予備役9年、海軍は兵役7年予備役3年となった。もっとも、家族状況による兵役免除もあって実際の召集率は対象者の25-30%程度に留まっており、また学校教育を受けた者は兵役期間を軽減される規定により裕福な特権階級層は事実上兵役を免れている。初等兵学校、中等兵学校そして士官学校といった教育機関が整備され、貴族以外からの将校への道も広げられた。軍事行政は総合参謀本部と七つの軍事最高機関が設けられ、各部門の長による軍事評議会が組織された。 露土戦争(1877年 - 1878年)でロシア軍はバルカン半島とザカフカースでオスマン軍と戦い、苦戦の末にプレヴェン要塞を陥落させて(英語版)イスタンブールに迫った。オスマン帝国はサン・ステファノ条約によってバルカン半島の大部分の喪失を余儀なくされ、ベルリン会議を経てモンテネグロ、ルーマニアそしてセルビアが独立、ブルガリア公国が成立している。 アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代には総動員に必要とする日数の短縮、戦時における騎兵の即応性および下馬歩兵戦闘への適応(軽騎兵や槍騎兵が竜騎兵に置き換えられた)、国境地帯の要塞および鉄道網の強化そして砲兵および輜重隊の強化が図られている。 ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)の時代にはアジア方面の戦力と即応性が強化され、民兵も再編された。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時、シベリア鉄道はバイカル湖迂回区間が未開通であったためヨーロッパロシアからの兵員輸送に時間を要し、糧食の一部は現地調達に頼らざるを得なかった。戦術思想は銃剣突撃に固執して銃剣を固定した小銃を用いた結果、射撃精度が低下しており、運用もナポレオン戦争と大差ない密集隊形による一斉射撃だった。機関銃は配備されていたがその価値が認められるまでには時間を要した。兵士は困苦欠乏に慣れ、皇帝を素朴に崇拝しており、困難な状況でも頑強に戦ったが、戦争目的を理解していなかった。将校の質は義和団事件(1900年)の際にイギリス軍士官から「(ロシア軍は)ロバに率いられたライオン」と酷評されたもので、一部を除けば無気力で能力も低かった。ロシア陸軍は日本陸軍の攻勢を前に後退を繰り返すことになり、旅順要塞を失陥し、奉天会戦でも敗れた。この敗北が1905年革命を引き起こすことになった。 この時期のロシア軍は正規兵、カザーク(コサック)そして民兵におおまかに区分される。1911年時点の平時戦力は将校42,000、兵110万人(うち戦闘員は95万人)であり、戦時戦力は将校75,000人、兵450万人になっていた。この兵力にほぼ無尽蔵な人的資源を加味すると第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時のロシア軍の規模はヨーロッパ最大であったが、鉄道網の慢性的な不効率はロシアの潜在的戦力を大きく減じていた。高級司令部と兵站部は汚職と不効率によってひどく弱められており、工場生産の不備から武器弾薬が不足していた。将校の質的な弱点は改善されない上に数が不足していた。近代装備についても通信システムが未整備で師団司令部が平文で無線連絡を交わし合う有り様であり、軍の自動車は700台に満たなかった。 第一次世界大戦が開戦するとロシア軍はドイツ軍の予想よりも早く動員を終えて主力が不在の東プロイセンに攻め込んだが、タンネンベルクの戦いで包囲殲滅され大損害を出してしまう。ロシア軍はドイツ軍の攻勢に敗走を余儀なくされ、ポーランド、リトアニアそしてベラルーシ西部を占領された。大戦はドイツ軍、オーストリア・ハンガリー軍そしてオスマン軍を相手の総力戦となり、ロシア軍は1400万人もの動員を行ったが2年間の戦闘で530万人の犠牲者を出している。軍の士気は低下して厭戦気分が広まった。1917年に首都ペトログラードで二月革命が起こると兵士たちは皇帝の命令に従うことを拒否して蜂起した労働者の側に付き、労兵ソビエトを組織して帝政打倒を訴え、ロシア帝国を崩壊に追い込むことになる。 ロシア海軍はピョートル1世(在位1682年 - 1725年)によってつくられた。1695年にオスマン帝国の属国クリミア・ハン国領のアゾフ要塞攻略に失敗したピョートル1世はモスクワ近郊の町やヴォロネジで平底川船1300艘、ガレー船22艘、火船4艘の艦隊を建造し、1696年にこの艦隊を用いて海上補給路を断ち、3か月の包囲戦の末に要塞を陥れて念願の海への出口を手に入れた。スウェーデンとの大北方戦争(1700年 - 1721年)では占領したイングリアやバルト地方にクロンシュタットをはじめとする造船所をつくり、バルチック艦隊を建造した。バルチック艦隊はガングートの海戦(1714年)やグレンガム島沖の海戦(英語版)(1720年)でスウェーデン艦隊に勝利してバルト海の制海権を確保し、戦争の勝利に貢献した。 エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代の第一次露土戦争(1768年 - 1774年)ではクロンシュタットを発したオルロフ提督率いるバルチック艦隊がジブラルタル海峡を経て地中海に入り、オスマン艦隊を撃破してロシアの海軍力を誇示している。戦争に勝利してクリミア・ハン国を併合したエカチェリーナ2世はポチョムキンを新領土総督に任命してクリミア経営にあたらせた。ポチョムキンはセヴァストポリを根拠地とする黒海艦隊を創設する。その後に発生した第二次露土戦争(1787年 - 1792年)やアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の時の第三次露土戦争(1806年 - 1812年)でもロシア艦隊とオスマン艦隊は戦火を交えている。 ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に入るとギリシャ独立戦争(1821年 - 1832年)に介入したロシアは地中海に艦隊を派遣して英仏と連合艦隊を組み、ナヴァリノの海戦(1827年)でオスマン・エジプト連合艦隊を撃滅しており、この勝利によりギリシャを独立へと導いている。 1853年にロシアとオスマン帝国は再び開戦した(クリミア戦争:1853年 - 1856年)。開戦早々にナヒモフ提督の黒海艦隊がスィノプ港に停泊していたオスマン艦隊に奇襲をかけて全滅させ、港湾機能を破壊した(シノープの海戦)。海戦には勝利したが、英仏の新聞が「スィノプの虐殺」と報道したことにより反ロシア的世論を煽る結果となってしまう。参戦した英仏連合艦隊が黒海に入り、黒海艦隊はセヴァストポリに籠城する作戦をとったが、1年以上の包囲戦の末にセヴァストポリは陥落し、黒海艦隊は降伏前に自沈した。パリ講和条約の条項により、黒海の艦艇保有数に厳しい制限がかけられ、艦隊を配備することは禁じられた。 クリミア戦争の敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855-1881)の弟コンスタンチン大公が艦隊の再編と近代化を指揮した。1860年代に帆走軍艦は姿を消し、蒸気軍艦が主体となった。南北戦争でのハンプトン・ローズ海戦(1862年)に関心を持ったロシア海軍はさっそく木造軍艦2隻を装甲艦に改装させ、さらにアメリカの装甲艦モニター号に類した沿岸防衛用のモニター艦を17隻建造している。普仏戦争(1870年 - 1871年)にフランスが敗れて第二帝政が倒れるとロシアはパリ条約を破棄して黒海艦隊を再建した。露土戦争(1877年 - 1878年)では発明されて間もない魚雷を用いてオスマン海軍の船を撃沈することに成功している。 1860年の北京条約で清国から沿海地方を割譲されており、この地に建設されたウラジオストクが太平洋艦隊の根拠地となる。1898年に清国から大連・旅順地域を租借したロシアは旅順要塞を築いて太平洋艦隊の根拠地となし、日本に備えた。 20世紀はじめのロシア海軍はバルチック艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊そしてカスピ海艦隊から成っていた。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時の戦力は戦艦21隻(5隻建造中)、海防戦艦3隻、旧式装甲巡洋艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦13隻(5隻建造中)、軽巡洋艦8隻、駆逐艦49隻(11隻建造中)の主要艦艇からなり、イギリス、ドイツに次ぐ世界第三位の海軍大国であった。 日本の連合艦隊と対することになった太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)は旅順港に封じ込められた。艦隊はウラジオストクへの脱出を図るが黄海海戦で大損害を受けて阻止され、旅順陥落で全滅した。ヨーロッパロシアから長距離の航海を経て極東にたどり着いたバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は日本海海戦(ツシマ海戦)でほぼ全滅する。陸海での敗戦に国内は動揺し、黒海艦隊では戦艦ポチョムキンの反乱が起こっている。この戦争でロシア海軍は戦艦14隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦21隻を失った。 1907年、海軍省は戦艦32隻、巡洋戦艦16隻、巡洋艦36隻、駆逐艦156隻からなる野心的な建艦計画を提出するが、ドゥーマ(国会)の猛反対にあい、縮小した計画も承認を得られず、1909年のドイツとの関係悪化でようやくバルチック艦隊向け弩級戦艦4隻の予算が承認された。日本との関係が緩和する一方で独墺とは険悪化すると1911年に黒海艦隊向けの弩級戦艦3隻その他の予算が承認される。1911年のモロッコ危機で対独関係がさらに悪化すると海軍省は「大建艦計画」と呼ばれる野心的な海軍法をドゥーマに承認させた。これは1927年までに総計戦艦27隻、巡洋戦艦12隻を建造しようとするものであったが、実現することはなかった。 艦隊再建の途上でロシア海軍は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎える。このためバルチック艦隊と黒海艦隊の作戦は機雷戦を中心とした防御的なものになった。ロシア海軍は開戦早々の1914年8月に触雷沈没したドイツの軽巡洋艦マクデブルク(英語版)から暗号表を回収してイギリスへ送り、連合国の戦争努力への大きな貢献を果たしている。戦前に起工された戦艦のうちバルチック艦隊向けのガングート級戦艦4隻と黒海艦隊向けのインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦3隻が大戦中に竣工したが、インペラトリッツァ・マリーヤ級は戦争と内戦の混乱で全て失われた。 1917年の二月革命で帝政が瓦解し、さらに十月革命ではバルチック艦隊の水兵がボリシェヴィキに与し、巡洋艦アヴローラが冬宮を砲撃した。続く内戦の混乱によって海軍の組織は崩壊し、レーニンをはじめとするボリシェヴィキの指導者は海軍の必要性を理解せず、その結果、艦艇の多くが失われるか行動不能になり、建造中の艦は放置されることになる。 西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国と同じくロシアでも19世紀後半から動力飛行機の試みがなされており、ソ連時代には世界初の動力飛行はライト兄弟よりも20年近く早い、1884年のモジャイスキーによるものであると主張されていた。19世紀末にツィオルコフスキーが先進的なロケット技術の諸論文を発表しており、今日では「宇宙ロケットの父」と呼ばれている。1909年には「ロシア航空の父」と呼ばれるジューコフスキーがロシア初の航空団体を設立した。そして、1914年にシコールスキイが世界初の4発飛行機イリヤー・ムーロメツを完成させた。 第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時、陸軍は約250機、海軍は約50機の航空機を保有していた。国産軍用機も存在していたが少数生産に留まっており、ロシア軍は輸入機やライセンス生産機主体で戦った。イリヤー・ムーロメツの爆撃型が製造され、シコールスキイ自身が率いる爆撃隊の活躍があったもの、ロシア軍航空隊は用兵と運用の拙劣さもあってドイツ帝国軍航空隊(英語版)を相手に劣勢を強いられている。 1897年の国勢調査に基づく1905年の報告書によれば、ロシア帝国内の各宗教宗派の概算信者数は右表のとおりである。1905年の「信教の自由に関する勅令」により公的には全ての信仰が認められるようになった。 ロシア帝国の国教は正教会(ギリシャ正教、東方正教会)である。独立教会ロシア正教会の首長は「教会の最高守護者」の称号を有する皇帝であった。皇帝は人事権を有していたが、教義や説教に関する問題を決定することは無かった。 ロシア帝国の多数を占める東スラヴ系のロシア人、小ロシア人(ウクライナ人)、白ロシア人(ベラルーシ人)は正教もしくは無数にあるその分派を信仰している。東スラヴ系以外ではルーマニア人(モルドバ人)、グルジア人も正教である。フィンランドのカレリア地方の正教徒はロシア革命後の1917年に自治教会フィンランド正教会を創設している。ウラル・ヴォルガ地方ではモルドヴィン人のほとんどが正教であり、ウドムルト人、ヴォグル人、チェレミス人(マリ人) とチュヴァシ人も同様であるがキリスト教やイスラム教の影響を受けたシャーマニズムとの混合であった。シベリアではヤクート人が18世紀後半頃に正教に改宗しているが、これもシャーマニズムの要素を残している。 ロシアのキリスト教受容は10世紀頃のことである。以降、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下に置かれ、ほとんどの府主教がギリシャ人であったが、東ローマ帝国が衰退してバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議で東西教会の合同が宣言されたことを受け、1448年にモスクワ府主教座がコンスタンディヌーポリ総主教庁から事実上独立した。東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワはローマ帝国のローマ、東ローマ帝国のコンスタンティノープル(古期ロシア語ではツァリグラードと呼ばれた)に次ぐ「第三のローマ」であるという言説が見られるようになった。1589年にロシア正教会はコンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世より、独立教会の祝福を正式に受け、モスクワ総主教座が成立した。 ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)以前の正教会の修道院・教会は農民の4分の1を支配し、世俗権力から独立した勢力を持っていた。ピョートル1世はロシア正教会をプロテスタント諸国の国教会的な組織に改編すべく、教会改革を断行した。1700年にモスクワ総主教アドリアン(英語版)が死去するとピョートル1世は後任の選出を許さず、皇帝に忠実なフェオファン大主教を起用して1721年に「聖務規則」を作成させ、総主教位を廃止して合議制の宗務院を設け、教会を国家権力の統制下に置かせた。皇帝の代理人である俗人の総監に指導される宗務院は聖務に対する広範な権限を有するようになり、教会は国家の一機関と化した。聖界領地は国家管理とされ(エカチェリーナ2世の時代に国有地化)、独自の収入を断たれた聖職者たちは国家からの給与に依存することになり、従属の度を深めた。 ロシアの東方拡大とともにロシア正教会も東方へと進出し、ウラル・ヴォルガ地方の諸民族そしてシベリア先住民の正教への改宗が進められた。ウドムルト人、チェレミス人、ヤクート人といった民間信仰の民族に対しては正教への改宗は順調だったが、ムスリムに対しては概して上手くゆかなかった。タタール人の上級階級の正教受容は一定の成功を収め、彼らはロシア貴族化したが、民衆はごく一部が改宗したのみで、それも表面的に洗礼を受けただけの者が多く、後に棄教者が続出する事態が起こっている。バシキール人は改宗に強く抵抗して反乱を繰り返し、19世紀後半にロシアの版図に入った中央アジアのトルキスタン総督府では正教会による宣教自体が禁止されていた。このような動きに危機感を持った正教会では、19世紀後半にイリミンスキー(ロシア語版)が洗礼タタール人に対する現地語、習慣を尊重した教育活動を行い、この方式が政府に採用されてイリミンスキー・システムと呼ばれるキリスト教化した異族人全般に対する教育制度が構築されることになる。 帝政時代のロシア正教会の伝道活動は国外にも及んでおり、聖インノケンティ・ヴェニアミノフはロシア領アラスカ初の主教となり、先住民への伝道を行った。1868年にアラスカが売却されるとロシア正教会はアメリカ合衆国へと進出して1872年にサンフランシスコ、1905年にはニューヨークに主教座が設けられている。日本へは、1861年に宣教師ニコライが来日して、後の日本ハリストス正教会の基礎を築いている。 ロシア帝国は征服した土地の異宗派信徒や異教徒の改宗自体はさほど重視していなかったが、ロシア語と正教を強制するロシア化政策が強化された19世紀後半のアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務院総監の指導のもとで、カトリック・プロテスタント・アルメニア教会への規制強化と正教への改宗が促され、中央アジアのタタール人に対しては半ば強制的な正教への改宗が行われた。1905年革命によって信教の自由が認められると多数の人々がカトリック、プロテスタントそしてイスラム教に改宗・復帰している。 帝政下のロシア正教会では綱紀の紊乱や村司祭の貧困といった問題が深刻化しており、19世紀後半になるとこれら諸問題を解決するための教会改革を求める運動が起こり、この動きが1905年革命の際の地方公会(1681年に廃止)再開と総主教制復活の要求に結びついた。二月革命で帝政が倒れた直後の1917年8月に地方公会が開催されてティーホンが総主教に選出されるが、この後、ロシア正教会は無神論のソビエト政権下で厳しい迫害と宗教活動の制約を受けることになる。 20世紀はじめ頃のロシア正教会の上座には3人の府主教(サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフ)、14人の大主教、50人の主教がいた。1912年時点の数値によるとロシア国内には正教会の教会と礼拝堂が60,000、公認された修道院298、女子修道院400があり、司祭45,000人、長司祭2,400人、輔祭15,000人、修道士・修練士17,583人、修道女・見習い修道女52,927人の聖職者がいた。 17世紀の総主教ニーコン(英語版)の典礼改革を巡ってロシアの正教会では分裂が生じ、ツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)と対立したニーコンは失脚したが、同時に改革反対派も正教会から破門を受けた。ロシア伝統の典礼を護持する彼らは古儀式派(スタロオブリャージェストヴォ:Старообрядчество)と呼ばれた。古儀式派は激しい迫害を受けるが、ピョートル1世の教会改革によってロシア正教会に対する統制が強められると勢力を伸ばすようになり、国民の3分の1から5分の1が古儀式派に属するようになった。 古儀式派はロシア正教会から分離した際に主教を欠いていたため司祭の叙階が困難になり、17世紀末頃に司祭の存在を前提とする司祭派(英語版)と無用とする無司祭派とに分裂した。無司祭派は狂信の度を深めて無数に分裂を繰り返し、勢力を弱めている。18世紀後半のエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代には古儀式派に対する弾圧が緩められたが、ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に再び弾圧を受けるようになり、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務総監の指導のもとで迫害が行われた。司祭派はこれらの迫害を耐えて1881年に政府の公認を受けている。1897年の国勢調査によると総人口の15%にあたる1750万人が古儀式派であった。 グルジアには5世紀以来の独立教会グルジア正教会が存在していたが、19世紀にグルジアが併合されるとグルジア正教会の独立が否定されて総主教も廃止されている。ロシア人の大主教が派遣され、礼拝でのグルジア語の使用も制限されており、これに反発した民衆蜂起への報復としてさらなるロシア化が強制されている。グルジア正教会が独立を回復するのは1917年の二月革命後であり、ロシア正教会が正式にこれを認めたのは第二次世界大戦中の1943年のことであった。 ポーランド人とほとんどのリトアニア人はローマ・カトリックである。ウクライナ人、ベラルーシ人の一部は東方典礼カトリック教会、アルメニア人の一部はアルメニア典礼カトリック教会(英語版)に属していた。エストニア人を含む全ての西部フィン人、ドイツ人そしてスウェーデン人はプロテスタントであり、ルター派はバルト地方、イングリアそしてフィンランド大公国での支配的宗派であった。アルメニアには独自のアルメニア使徒教会が存在する。 1721年のニスタット条約でロシアに編入されたバルト地方のルター派教会は存続を保障され、1809年にロシアの属国となったフィンランド大公国の教会も同様の措置が取られた。 18世紀末のポーランド分割で併合されたウクライナおよびベラルーシの合同派教会(ウクライナ東方カトリック教会)に対しては正教会への復帰が強制されており、強い抵抗とこれに対する迫害が繰り返されることになる。1861年にワルシャワにおいて総督府の兵士と民衆との衝突が発生した際にカトリック教会、プロテスタント教会そしてユダヤ教寺院が合同で教会を閉鎖する抗議行動を起こして総督を辞任に追い込んでいる。1863年から1864年にかけてポーランド・リトアニアで起こった大規模な武装蜂起(一月蜂起)が鎮圧されると、ロシア政府は蜂起にカトリック教会の聖職者が関与していたとして規制が強化されて修道院の大半が閉鎖され、弾圧に抗議する司祭が追放されたためポーランド王国内で実質的に活動する教区が僅か1つとなる事態になっている。1882年にアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)と教皇庁との間で政教条約(コンコルダート)が結ばれたものの、ポベドノスツェフ宗務総監の宗教政策により、この合意は無効同然にされた。アレクサンドル3世の時代には、それまで寛容であったバルト地方のルター派教会に対しても規制が強められている。 19世紀にロシアの統治下に入ったアルメニアは4世紀以来の長い歴史を持つ独自のアルメニア使徒教会が存在しており、正教会に併合されることなく存続を許されていた。アレクサンドル3世の時代にはアルメニア使徒教会も迫害を受け、ロシア化政策により1885年に教区学校が閉鎖された。ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)治世には、1896年に図書館・友愛団体も閉鎖され、1903年には教会財産が没収される「アルメニア教会の危機」と呼ばれる事態になっている。 帝政時代のロシアでは霊的キリスト教系のさまざまな諸派(主流派正教会の観点からは異端、分離派あるいはセクト)が生じており、有力なものにはドゥホボール派や信者が100万人に達したモロカン派がある。またこの時代に誕生し極端なセクトと呼ばれていた教派の事例としてはフルイスト派(鞭身派)やスコプツィ派(去勢派)が知られる。これらのセクトは反社会分子として迫害を受けた。だが、現在も存続している。 ヴォルガ・ウラル地方のタタール人とバシキール人そしてアゼルバイジャン人を含むカフカース諸民族の一部、中央アジア諸民族はムスリム(イスラム教徒)であり、この内キルギス人は土俗のシャーマニズムをイスラムの信仰と合わせ持っている。ムスリム以外の非キリスト教徒にはラマ教徒のカルムイク人や、シャーマニズムのサモエード人をはじめとするシベリア諸民族がいた。 16世紀中頃、イヴァン4世(在位1533年 - 1584年)のカザン・ハン国、アストラハン・ハン国の併合以降、ロシアはムスリム社会を内包するようになった。イヴァン4世は征服地にカザン大主教座を置き、強制的な改宗が試みられたが、すぐに撤回している。正教に改宗したタタール人は僅かであり、彼らはクリャシェンと呼ばれた。ピョートル1世はタタール人の司祭をつくるべく神学校を開設させたが失敗した。18世紀に入ると新規改宗者取扱局が置かれてクリャシェンの監督とムスリムに対する抑圧が行われ、カザンでは536あったモスクのうち418が取り壊されている。 エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代にクリミア・ハン国が併合されて多くのクリミア・タタール人がロシアの支配に入った。エカチェリーナ2世は宗教寛容政策を採り、それまでの抑圧策を廃止してムスリムを統治体制に組み込む方針に転換させた。1789年にムスリム宗務協議会がウファに設立され、この行政組織を通じてウラマー(イスラム法学者)の統制やシャリーア (イスラム法)の執行、モスクの管理が行われるようになった。1831年にクリミア地方を管轄するウヴリーダ・ムスリム宗務理事会、1872年にザカフカース・ムスリム宗務理事会がそれぞれ開設されている。 18世紀末から19世紀前半にかけてカフカースが征服され、北カフカースの山岳民族やザカフカースのアゼルバイジャン人といったムスリムがロシアの支配に組み込まれた。アゼルバイジャン人に対する改宗の試みは成果なく、同化政策に対する反発を引き起こしている。北カフカースの山岳民族は長期にわたってロシア人の支配に抵抗した(カフカース戦争)。 早くにロシアの支配に入ったヴォルガ・タタール人の商人や企業家は言語・宗教の同質を利用してイスラム諸国との貿易に活躍して財を蓄え、ロシアにおけるムスリム社会の経済発展そしてイスラム文化復興に貢献している。ロシアのウラマーの多くは中央アジアに留学しており、ブハラ・ハン国で中心的だったスーフィズムがロシアでも盛んになった。19世紀に入ると中央アジア礼賛に批判的なウトゥズ・イマニーや法源を主体的に解釈するイジュティハードを主張するクルサヴィーによるイスラム改革運動が生まれている。この一方で、裕福なタタール商人をはじめとするムスリムの知識階層も形成され、ロシア式教育が行われるようなり、彼らは飲酒をはじめとするロシア文化を受容しており、厳格なスーフィズム教団やウラマーの改革運動とは距離があった。 19世紀後半になるとカフカース戦争の激化とともに政府のムスリムへの警戒が強まり、アラビア文字、トルコ語出版物への規制が行われた。この時期にメルジャーニーやチュクリー、ナースィリーがロシア文化受容を唱え、ウラマーの改革運動とムスリム知識人を取り結ぶ動きが起こっている。そして、ガスプリンスキーがマドラサの伝統教育に代わる近代的な新方式学校の設立と共通トルコ語使用の運動を起こし、これが19世紀末から20世紀のムスリム社会の近代化を目指したジャディード運動に結びついた。 1860年代から1880年代にかけて中央アジアがロシアの版図に組み入れられ、これらの地域のムスリムもロシア帝国の臣民となった。ロシア帝国は彼らを異族人と規定して、ムスリム社会の風俗慣習に基本的に立ち入らない政策を採っている。 1905年革命が起こるとムスリムの政治運動も活発化し、ロシア・ムスリム大会が開催され、ロシア・ムスリム連盟(英語版)が発足した。ロシア・ムスリム連盟は立憲民主党と共同歩調をとり、ドゥーマ(国会)に議員団を送り込んでいる。 13世紀のカリシュ法以降、ユダヤ人に寛容だったポーランド・リトアニアの領土が、18世紀末のポーランド分割でロシアに併合されたことにより、ロシア帝国は世界有数のユダヤ人人口を抱える国となった。ユダヤ人はウクライナ、ベラルーシそしてリトアニアに集中しており、1897年の国勢調査では521万人になっている。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は「ジード」の卑称を用いず「エブレイ」(ヘブライ人)と呼び、ユダヤ人に権利と自由を保証したが、都市行政から排除し、1791年には移動制限を課している。1835年に定住地制度が定められ、ユダヤ人は指定された定住区域に居住することを義務づけられた。ユダヤ人の中には貴族に取り立てられる者や企業活動・芸術分野で活躍する者もいたが国政に参画することは許されなかった。 アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の大改革の際にはユダヤ人に対する規制が緩和されたが、1881年の皇帝暗殺事件の犯人の中にユダヤ人女性が加わっていたことが明らかになるとポーランドやウクライナでユダヤ人を襲撃するポグロムが巻き起こった。ロシア政府はこの事態を黙認する態度をとり、「ユダヤ人=搾取者説」が流布されて虐殺が助長された。事件後にユダヤ人臨時条例が制定されて農村移住・不動産取得が禁止された。19世紀末には中・高等教育機関のユダヤ人の数に制限がかけられ、ゼムストヴォ(地方自治機関)からも排除されている。 1903年から1906年にかけて再び大規模なポグロムがあり、ベッサラビアでのユダヤ人襲撃を契機にウクライナ・ロシア西部に広まった。これには極右団体だけでなく警察や軍隊まで関与している。これらの迫害によって150万人のユダヤ人がロシアを去って北米・西欧へ移住しており、やがてイスラエルの地に祖国の再建を目指すシオニズム運動へとつながることになる。彼らの移住はフランク・ゴールドスミスなどが支援した。また、数多くのユダヤ人が革命運動に参加しており、その中にはカーメネフ、スヴェルドロフそしてトロツキーといったボリシェヴィキの指導者たちもいた。 ロシア帝国の時代には、ロシア固有の文化と西欧の文化が融合した独自の文化が発達した。それらの多くは現代でもロシアの文化を代表するものとして親しまれている。 ロシア帝国の宮廷では教養言語としてフランス語が用いられたが、一方でロシア語での文学活動も活発となっていった。ピョートル1世(大帝)は、キリル文字の改革に取り組み、幾度も改訂を重ねたのち、1710年1月に「新しいアルファベット」を制定した。伝統的なキリル文字の使用は教会関係に限定され、以後、あらゆる機会を通じて「市民的な字体」が普及していくこととなった。 ロシアにおける近代文学の嚆矢とされるのがアレクサンドル・プーシキンである。『ルスラーンとリュドミーラ』や『バフチサライの泉』、ピョートル大帝を描いた『青銅の騎士』などロマン主義的な詩を書き、小説では『スペードの女王』やプガチョフの乱に題材をとった『大尉の娘』をのこした。彼は首都を追放されキシナウを経てオデッサで暮らしたが、皇帝ニコライ1世が彼をサンクトペテルブルクに召喚して「デカブリストの乱のとき帝都にいたらどうしたか」を尋ねたのに対し、「反乱の仲間に加わっていただろう」と答えた逸話で知られる。プーシキンは流刑を解かれたが、『大尉の娘』ではプガチョフを好意的に描き、また、『プガチョフ反乱史』を執筆した。彼は、美しい妻ナターリアをめぐるフランス亡命士官ジョルジュ・ダンテスとの決闘によって1837年に亡くなるまで数々の古典的名作をのこし、文章語としてのロシア語の完成に寄与した。プーシキンはそのため、しばしば「ロシア国民文学の父」と評される。 専制権力との緊張関係を通して文学がその力を得ていき、プーシキンが切り開いた道からは多数の詩人や作家があらわれた。ロマン主義的傾向の強いプーシキンに対し、写実主義の影響を強く受けたのがフョードル・ドストエフスキーとニコライ・ゴーゴリであった。ドストエフスキーは『貧しき人びと』『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などの作品で知られる。ペトロパヴロフスク要塞の監獄やオムスクの監獄に収監されたドストエフスキーは、検閲と戦いながら次々と大作を発表した。ゴーゴリは、『鼻』・『検察官』・『死せる魂』などの作品をのこした。ロシア・リアリズム文学の祖といわれるゴーゴリの作品は、そのの幻想性や細部の誇張、また、グロテスクな描写などでは20世紀文学にあたえた影響も大きい。イワン・トゥルゲーネフもまたリアリズムに立った文学者で、ロシアの農奴制がもつ矛盾や苦悩するインテリゲンツィアの姿を多くの作品で描いた。とくに1852年の『猟人日記』は、皇太子アレクサンドル(のちのアレクサンドル2世)に農奴解放令を決心させた作品といわれ、日本では二葉亭四迷の翻訳『あひゞき』としても知られる。 自然主義の影響を強く受けたレフ・トルストイは、クリミア戦争では将校として従軍し、このときの経験がのちの非暴力主義に影響をあたえたといわれる。『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』などの作品は、世界中に愛読者をもち、何度も演劇化や映画化のされてきた傑作である。トルストイは、1901年、ロシア正教会から破門されたが、作家としての名声は衰えず、読者からの支持はかわらなかった。1909年から1910年にかけてはインドのガンディー(マハトマ・ガンディー)と文通しており、日本の文筆家では徳富蘇峰や徳富蘆花などと面会している。 社会主義リアリズムの手法をはじめたマクシム・ゴーリキーは放浪者や浮浪人など社会の底辺で生きる人びとの人間としての誇りを主題とする多くの作品をのこした。ゴーリキーの作品としては戯曲『どん底』が有名で、日本語にも翻訳されて明治・大正期にかけて日本文学にも影響をあたえたといわれる。レオニド・アンドレーエフも日本文学に影響をあたえたひとりであり、『七死刑囚物語』は翻訳されて、その影響は夏目漱石や志賀直哉作品にもおよんだ。ロシアでは比較的無名なミハイル・アルツィバーシェフも大正期の日本文学に影響をあたえた。 戯曲では自然主義の影響を強く受けたアントン・チェーホフが著名であり、『桜の園』、『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』などの作品を残した。チェーホフは、1890年にはサハリンの流刑囚の生活を調査するためシベリア経由で現地に入り、カードを用いて徹底的に調べあげ、ルポルタージュ作品『サハリン島』を著している。 ロシアでは中世を通じてイコンが描かれ、王侯貴族の肖像画や肖像彫刻さえその制作が禁忌とされてきたが、さかんに西欧化を進めてきたピョートル大帝のころから、世俗絵画が隆盛をみるようになってきた。また、現在のエルミタージュ美術館のコレクションにみられるように、歴代の皇帝や貴族はこぞって西欧の美術品の収集に努めた。 エカチェリーナ2世統治下では、フランスのエティエンヌ・モーリス・ファルコネ(英語版)が啓蒙思想家ドゥニ・ディドロの紹介でロシアに招かれ、女帝の命でピョートル大帝騎馬像(「青銅の騎士」像)を制作した。18世紀ロシア美術は総じてフランスの影響が強かったといえる。 ロシア美術の殿堂としてサンクトペテルブルクに帝国芸術アカデミーが創設されたのは1757年、モスクワに美術・彫刻・建築専門学校が設立されたのは1832年のことであった。1860年代のアレクサンドル1世による「大改革」の時代には、ロシア各地よりさまざまな階層の美術青年が帝国アカデミーに集まったが、イタリアを至高の芸術対象とするアカデミーの教授法・芸術観とのあいだで軋轢が生じ、イワン・クラムスコイをはじめとする14人の画学生が作品の出品を一律なものではなく自由なテーマとするよう求め、それが叶わなければ揃って退学するという示威行動を起こし、結局のところ13人が退学した(「14人の反乱」)。クラムスコイは、美術家たちの同業者団体「美術家組合(ロシア語版)」の事務所とアトリエをペテルブルク郊外のヴァシリエフスキー島(Vasilyevsky Island)に構えて創作活動にいそしんだ。 クラムスコイをリーダーとする一群から、ロシアの歴史や民衆の生活を写実主義的な手法で表現し、社会悪を訴え、各地で移動展覧会をひらく画家グループが登場した。それが移動派である。移動展覧会の提案は、モスクワから「美術家組合」に参加したグリゴリー・ミャソエードフ(ロシア語版)よりなされた。クラムスコイもこれに賛同し、1870年、「移動美術展覧会協会」が設立された。 移動派による移動展覧会は1871年から1923年にかけて48回ひらかれた。開催地もサンクトペテルブルクやモスクワだけではなくキエフやハリコフ、カザン、オリョール、リガ、オデッサなどの諸都市におよんでいる。第1回の展覧会には、ニコライ・ゲー、ミャソエードフ、クラムスコイ、イラリオン・プリャニシニコフ、アレクセイ・サヴラソフなどの作品が出品された。また、第2回の展覧会にはクラムスコイの代表作「荒野のイイスス・ハリストス」が出品されている。民衆の救済のために命を捧げたハリストス(イエス・キリスト)の像は、「ヴ・ナロード(人民のなかへ)」という運動の思潮にも合致していた。 移動派の同人はリアリズムに立つ芸術家として、その活動が世界的にも注目を浴びた。民衆の貧しさだけでなく美しさを、苦しみだけでなく忍耐や力強さを描いた作品は大きな共感をもってむかえられたのである。 移動派の画家のなかで欠くことのできない芸術家としてイリヤ・レーピンがいる。ウクライナのハリコフ県に生まれたレーピンはペテルブルクの美術学校でクラムスコイに才能を見いだされて激励を受け、また、「民族芸術の創造」というクラムスコイの思想にも共鳴して美術家組合にも参加した。1873年にはアカデミーの給費生としてヨーロッパに留学し、フランス印象派の影響も受けたが、それのみには飽きたらず、「ヴォルガの舟曳き」「クールスク県の十字架行進」「農作業をするトルストイ」「イワン雷帝と皇子イワン」「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック」など社会的な大作、また、歴史画や風俗画の数々を発表した。 移動派の中心となったクラムスコイ、レーピン、ゲー、スーリコフらを支援し、作品を購入しつづけたのが、モスクワ在住の豪商パーヴェル・トレチャコフとその兄セルゲイ・トレチャコフであった。兄のコレクションを相続したパーヴェルはのちに美術館をひらき、コレクションも含めてモスクワ市に寄贈した。これが、現在のトレチャコフ美術館である。 同じころ、モスクワのアブラムツェヴォに所在する実業家サーヴァ・マモントフの屋敷では、「ロシアのメディチ」とも呼ばれたマモントフの庇護のもと、ロシアの伝統的な民族文化を保護し、復興させようという美術家集団「美術家連盟」が結成された。イリヤ・レーピンもこれに加わり、ヴァスネツォフ兄弟、ミハイル・ネステロフ、ヴィクトル・ハルトマンらが活動した。このグループは、陶器や工芸品など、その後の造形芸術の発展にも大きく寄与した。 19世紀後半から世紀末にかけてのロシア美術は、激動する社会の影響を受けて多様に展開した。ロシアの印象派を代表するのがコンスタンチン・コローヴィンであり、象徴主義を代表するのがミハイル・ヴルーベリである。1899年に、アレクサンドル・ベノワ、レオン・バクスト、セルゲイ・ディアギレフの3者によってペテルブルクで創刊された美術雑誌「芸術世界」は、移動派批判を展開し、アール・ヌーヴォーの装飾美術や舞台美術を創り出した。「芸術世界派」と呼ばれるアーティストにはコンスタンティン・ソモフ、ワレンチン・セーロフ、ボリス・クストーディエフ、イヴァン・ビリビン、イーゴリ・グラーバリ、セルゲイ・スデイキン、ニコライ・リョーリフらがいる。 19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界ではパブロ・ピカソやアンリ・マティスらをはじめとして多様な抽象芸術が生まれたが、ロシアにおいてもワシリー・カンディンスキーがあらわれ、しばしば抽象絵画の祖といわれる。カンディンスキーは1912年には美術理論書『芸術における精神的なものについて』を刊行し、1914年には連作『コンポジション』を発表した。 帝政時代、ロシアの音楽は飛躍的な発展を遂げた。西欧の音楽技法を受容しつつも、伝統的な音楽の要素を生かし、独自の位置を占めた。 ロシア音楽は16世紀なかばに高名な聖歌の作曲家が輩出し、独特な記譜法を用いて聖歌集が編まれ、そこでは独自の多声法が用いられるなどロシア独自の発展を遂げていたが、17世紀中葉のモスクワ総主教ニーコンの改革などを通して従来の伝統が覆され、ポーランドやウクライナから西欧的な楽曲も流入し、帝政ロシア開始のころには単純な三和音の音楽が広がっていた。 ピョートル1世は直接ヨーロッパ音楽を輸入し、そののち歴代の皇帝はパリやウィーンなどから音楽家や舞踊家を招いてロマノフ朝の宮廷にバレエやオペラを導入した。特に啓蒙専制君主エカチェリーナ2世の時代には、バルダッサーレ・ガルッピ、トンマーゾ・トラエッタ、ジョヴァンニ・パイジエッロ、ジュゼッペ・サルティ、ドメニコ・チマローザなど名だたるイタリア・オペラの作曲家が相次いで宮廷楽長として招かれ、サンクトペテルブルクに長く滞在してロシア人楽士を薫陶した。ロシア人音楽家のなかにはイタリア留学を命じられる者もあり、ウクライナ生まれのマクシム・ベレゾフスキーは1771年にボローニャのアカデミア・フィラルモニカ・ディ・ボローニャの正会員に認められた。楽聖ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが同アカデミアの会員となった翌年のことであり、ベレゾフスキーに出された試験の課題はモーツァルトに出されたものと同じだったという。また、イタリアで研鑽を積み、ロシアで長年宮廷楽長を務めた人物にドミトリー・ボルトニャンスキーがいる。イタリア時代の彼は地元のオペラ劇場で実際に上演されるオペラの作曲をいくつも手がけるほどイタリア・オペラに精通していた。 19世紀、ロシアは音楽文化の面でも国際的な水準の作品を生み出すにいたるが、その最大の功労者がミハイル・グリンカである。グリンカは、ムツィオ・クレメンティとともにペテルブルクに来たアイルランド人ジョン・フィールドにピアノの手ほどきを受け、正規の音楽教育こそ受けなかったもののヴァイオリン、声楽、指揮、作曲などをひととおり学んでイタリアでも勉強してオペラ作曲家として名をあげるようになった。しかし、西欧音楽を吸収していく過程でロシア人音楽家としての自覚が高まり、ロシア的な作品をつくりたいという願いが高まったため、ベルリンで音楽理論家として知られたジークフリート・デーンに師事して音楽理論を大成させたうえで帰国した。しばしば「ロシア近代音楽の父」と称されるグリンカは、愛国的なオペラ「皇帝に捧げた命」に続いて民話に題材をとったオペラ「ルスランとリュドミラ」、さらに管弦楽曲「カマリンスカヤ」などの作曲をおこなった。「ルスランとリュドミラ」では、ロシア民謡のみならず、ロシア帝国内に多数居住するムスリムの諸民族の音楽を取り入れてロシア音楽における一大特徴ともいえるオリエンタリズムの基礎をつくった。 名門貴族の子息として育ったアレクサンドル・ダルゴムイシスキーは、当初サロン音楽の分野で有名であったが、帰国したグリンカと知り合い、その影響下でロシア語のイントネーションを音楽化する方法を研究し、「ルサルカ」「石の客」などのオペラにその成果を反映させた。ダルゴムイシスキーは、音楽史的にはしばしば、グリンカと「ロシア5人組」との橋渡しをした存在と目される。 ユダヤ系の商人の家庭に生まれたアントン・ルビンシテインとニコライ・ルビンシテインの兄弟は、フィールドの弟子のヴィルアーンにピアノを習い、ヨーロッパでデビューしてロシアのピアニストとしてはじめて世界的名声を博した。とくにアントンは、「ピアノの魔術師」フランツ・リストと並び称される巨匠として扱われた。それに対し、弟ニコライはチャイコフキーの親友としても有名である。ライバル同士でもあった2人は、1859年から1860年にかけて、帝室の支援を受けてペテルブルクとモスクワにそれぞれロシア音楽協会を設立し、その附属施設としてペテルブルク音楽院を1862年、モスクワ音楽院を1866年に創設した。ペテルブルクはアントン、モスクワはニコライが主導し、これにより、両首都に定期的な演奏活動が定着し、音楽の職業教育が確立した。 数学を専攻していたカザン大学を退学後、ペテルブルクでグリンカに会い、音楽に進むことを決心したというミリイ・バラキレフは、芸術評論家ウラディーミル・スターソフと親交を結び、1856年に軍事技術アカデミーに勤務する貴族の音楽愛好家ツェーザリ・キュイと出会って積極的な音楽活動をはじめた。バラキレフは、1857年には若い陸軍士官モデスト・ムソルグスキーを弟子として受け入れ、1861年には海軍士官ニコライ・リムスキー=コルサコフを、1862年には医学アカデミーの化学者アレクサンドル・ボロディンを迎え入れて、スターソフの理論的な支援を得て彼らを指導し、ルビンシテイン兄弟主導による官製のロシア音楽協会に対抗した。ペテルブルクに結成されたこの音楽家集団を、バラキレフも含めて「ロシア5人組」または「ロシア国民楽派」と呼んでいる。彼らはみずからを「新ロシア楽派」と称し、反西欧・反プロフェッショナリズム・反アカデミズムを標榜した。1862年にバラキレフとキュイが中心となって始められた無料音楽学校は、広く首都の市民を集めてアマチュアの音楽教育を普及させた。無料音楽学校の運動は財政的基盤に乏しく、経済的にしばしば危機に陥ったが、ロシア革命の起こる直前まで全ロシアで活動をつづけた。彼ら5人はまた、バラキレフをのぞいて、全員が音楽とは別にれっきとした職業をもち、音楽家としてはいわば素人あがりであり、いずれも大貴族の出身であった。ロシア5人組の作品としては、ムスルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」とピアノ組曲「展覧会の絵」、ボロディンのオペラ「イーゴリ公」、R=コルサコフの交響組曲「シェヘラザード」などがとくに有名である。 ペテルブルク音楽院の最初の卒業生となったピョートル・チャイコフスキーは、卒業と同時にモスクワのニコライ・ルビンシテインに招かれ、モスクワ音楽院の教授となった。ロシアが生んだ世界的な作曲家であるチャイコフスキーの音楽は、当初民族主義的傾向の濃厚なものであったが、彼を特徴づけるのはむしろ主観的な叙情性であり、数々の管弦楽曲のほかに「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」などのバレエ音楽で知られる。チャイコフスキーはしばしばロシア5人組と対比されるが、「5人組」がいずれも大貴族出身で音楽を生活を糧にする必要がなく、音楽をむしろ神聖な芸術と考えたのに対し、チャイコフスキーは資産のない官僚上がりの一代貴族の子息であり、商人出身のルビンシテイン兄弟同様、音楽に進んだ以上はそれで生計を立てていかなければならなかった。その意味でチャイコフスキーは、音楽上、職業主義を標榜せざるをえず、音楽に向かう姿勢もまた職人的であった。 アントン・ルビンシテインがペテルブルクを離れて欧米で華々しい演奏活動を開始したのは1867年のことであった。ロシア5人組では、ロシア音楽協会の音楽監督を後継したバラキレフが帝室との関係がうまくいかなくなり、1871年には音楽協会を離れて給与生活者となった。また、音楽院で作曲を担当したR=コルサコフは正規の音楽教育を受けたことがなかったため、しばらく音楽理論の修得に専念しなければならなかった。それに対し、1870年代に円熟期に入ったチャイコフスキーは80年代には世界的な音楽家として知られるようになった。R=コルサコフの作曲活動が円熟期をむかえるには1880年代後半を待たねばならず、それまではチャイコフスキーの作曲活動が目立っていたのである。1893年のチャイコフスキーの死去後、R=コルサコフのオペラ作曲家としての活躍が目立つようになり、その晩年には、毎年のように名作オペラを発表した。 19世紀末から20世紀初頭にかけては、モスクワからセルゲイ・ラフマニノフ、アレクサンドル・スクリャービン、そしてペテルブルクからはイーゴリ・ストラヴィンスキーとセルゲイ・プロコフィエフが登場した。また、世紀末には不世出の名歌手で「歌う俳優」との異名をとったフョードル・シャリアピンが現れている。 19世紀後半はロシアの伝統音楽でも革新のなされた時代であり、「バラライカの父」といわれるワシーリー・アンドレーエフはバラライカの改良に生涯を賭し、それにドムラとグースリの両弦楽器を加えて、1896年、最初のロシア民族楽器オーケストラを結成した。ロシア民謡も得意であった歌手シャリアピンはアンドレーエフと親交をもち、また、バラライカに対する造詣も深かった。 フランスの宮廷文化として発展してきたバレエは、フランスでは大衆化とともに低俗化して廃れたが、ロシアでは、フランスの宮廷バレエが伝わり、貴族のたしなみとしての社交ダンスの奨励と歴代皇帝の舞踊庇護を受けて発展した。 1738年、フランス人ジャン・バティスト・ランデの主唱のもと、女帝アンナ・イワノヴナによってペテルブルクにロシア初のバレエ学校が設立された。それが帝室演劇舞踊学校(現在のロシア国立ワガノワ・バレエ・アカデミー)である。こののち、ロシアのバレエダンサーたちはオーストリア出身のF・ヒルフェルディングやイタリア人G・カンツィアーニなど外国人教師たちの指導のもとでバレエを学んだ。 1783年、エカチェリーナ2世の勅命によってペテルブルクにボリショイ・カーメンヌイ劇場がオペラ・バレエ専用の劇場として建造された。なお、ペテルブルクでは、1859年にマリインスキー劇場が建造され、ボリショイ・カーメンヌイ劇場が老朽化のため取り壊されたあと帝室劇場としての役割をにない、演劇舞踊学校によって育成されたバレエダンサーを中心に帝政ロシアのクラシック・バレエを主導した(マリインスキー・バレエ)。いっぽうのモスクワでも、18世紀中葉にはすでに貴族の邸宅で演劇や舞踊がおこなわれ、専用の劇場としてペトロフスキー劇場(英語版)も設けられて、これらはペテルブルクの帝室劇場の管理下に置かれるようになった。これが現在のボリショイ劇場であり、その起源は1776年にさかのぼる。いわゆる「ボリショイ・バレエ」は、1773年に始まったモスクワでの孤児院の児童へのバレエ教育を起源としており、帝室劇場となったボリショイ劇場が1825年に現在地に建てられ開場したのと同時にその附属のバレエ団として発展した。 1801年、著名なフランス人振付家でダンサーでもあったシャルル・ディドロがペテルブルクを来訪し、ボリショイ・カーメンヌイ劇場を中心に活動し、帝室舞踏学校の指導を引き継いだ。ディドロはナポレオン戦争の際フランスに一時帰国するが、その後も20年以上死去するまでロシアにとどまり、ダンサーのレベルを格段に向上させた。また、振付の才をロシアの地で開花させ、現在「ペテルブルク派」といわれるドラマティックなバレエスタイルの基礎を築いた。ディドロが育てたバレリーナにアフドチア・イストミーナ(ロシア語版)がおり、名花と謳われた。 1847年にペテルブルクを訪れたフランス人バレエ・マスターのマリウス・プティパは、19世紀後半をして「プティパの時代」と称するにふさわしい一時代を築いた。プティパは、マリインスキー劇場ではたらいた約60年のあいだに、チャイコフスキーやアレクサンドル・グラズノフ、チェーザレ・プーニ、レオン・ミンクスら多数の優れた音楽家たちの協力を得て『パキータ』『ジゼル』『ドン・キホーテ』『バヤデルカ』『眠れる森の美女』『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『ライモンダ』など46におよぶバレエ作品と数多くのオペラのための踊りを創作した。この時代はまた、チャイコフスキーが音楽を担当したことで、従来、舞踊の伴奏にすぎなかったバレエ音楽の質を飛躍的に高めた時代でもあった。 プティパの演出のなかでも1890年の『眠れる森の美女』と1895年の『白鳥の湖』第1幕・第3幕はとくに傑作といわれるが、プティパのアシスタントで『白鳥の湖』第2幕を担当したレフ・イワノフによる詩情あふれる振付は今日でもしばしば完璧な演出と評される。 1898年にはミハイル・フォーキンが帝室バレエ学校を卒業し、1904年から1916年にかけて母校で舞踊の指導にあたった。フォーキンは、バレエのフォームにおける真の基礎は人間の自然な動きにあるという信念に則って革新的なバレエ教育を実践した。彼もまた、「ショパニアーナ(レ・シルフィード)」やアンナ・パブロワのために振付けた「瀕死の白鳥」などの名作を残している。この頃活躍したダンサーにはロシア・バレエ界の名花アンナ・パブロワのほか、ヴァーツラフ・ニジンスキーやタマーラ・カルサヴィナ、オリガ・スペシフツェワなどがいる。 20世紀初頭には、雑誌『芸術世界』の発刊者としても知られるイヴェント・メーカーのセルゲイ・ディアギレフによって、マリインスキー劇場のメンバーを中心とした「ロシア・バレエ団」(バレエ・リュス)がヨーロッパ各地で公演をおこなった。ロシア・バレエ団はしだいに西欧の芸術家たちをも巻き込みながら、その活動は大戦と革命をはさんだ20年におよび、芸術界に新風を送り込んだ。この活動は、バレエをオペラの一部としか考えてこなかった西欧人たちに衝撃をあたえ、その試みの斬新さやリヒャルト・シュトラウス、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロなどを含む当代一流の芸術家たちの参加によってヨーロッパの観客を熱狂させたのである。 「ロシア・バレエ団」のパリ公演は1909年に始まったが、そのときの目玉は不世出のバスとして知られた上述のシャリアピンが出演するロシア・オペラであり、当初、バレエは前面に出ていなかった。ただし、ニジンスキーとカルサヴァナが踊った「バラの精」「アルミードの館」はパリの観客にも好評で、ここに「バレエ団」の名が定着したものである。この公演にはアンナ・パブロワも参加したが、のちにディアギレフと不和になり、バレエ団から離脱した。パブロワは、1913年以降はロシアをも離れ、ヨーロッパや北米・南米、さらには日本・中国・インドを含むアジアを巡業してロシア・バレエの精華を各地に伝えると同時にインドや日本では地域伝統の舞踊を学んだ。ここに舞踊という身体表現の相互交流が世界的なスケールで展開されたのである。 ピョートル大帝が建設した首都サンクト・ペテルブルクが西欧の都市計画に従って建設され、さらに西欧各地の様式の建造物が造営された。それを機に、ロシアの建築は宮殿や劇場などを中心にバロック建築、ロココ建築や新古典主義など西欧の様式を取り入れた建造物が建てられた。一方で教会建築はおおむねビザンチン建築に由来する伝統的な様式とバロック・ロココ様式の融合された独自の様式のものが建設された。19世紀の様式氾濫期には他のヨーロッパ諸国同様に、新古典主義様式、ネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式の建造物が建設されたが、西ヨーロッパで見られた西方教会にみられるネオ・ゴシック様式の代わりに東方正教会にみられるビザンチン様式が使用されたことが西ヨーロッパと大きな違いである。 19世紀の自由主義運動・革命的知識人をインテリゲンツィアといい、ツアーリズムや農奴制などロシアの後進性を批判し、社会改革運動の中心となった。インテリゲンツィアはヴ・ナロードを掲げ、啓蒙とツアーリズム打倒の運動を繰り広げたが、農民には受け入れられたものの官憲の弾圧を受け、運動は挫折した。その後、バクーニンらの無政府主義やニヒリズム・テロリズムの活動へと分散した。 自然科学分野では、化学者のドミトリ・メンデレーエフが著名である。元素の周期律表を作成したことで知られるメンデレーエフは、石油産業の発展についても提言し、それまでバクーの発展を妨げていた石油生産地の独占賃貸制度の撤廃を強く訴えて、1872年、その廃止を実現させた。これにより、バクーにはスウェーデンの科学者でロシアで機械工場を所有していたノーベル兄弟がタンク車やタンカーなど機械部門で進出するなど、バクーの石油業が著しく発展した。 また、多段階ロケット理論を提案したコンスタンティン・ツィオルコフスキーもロシア帝国の末期に現れた物理学者である。彼のロケット理論や「地球は人類のゆりかごである。しかしゆりかごで人生を終えるものはいない」と人類の宇宙進出の提唱は当時は受け入れられなかった。しかし彼の思想はのちにソビエト連邦の人類初の人工衛星の打ち上げや有人宇宙飛行の成功に大きく寄与する。 ロシア帝国の臣民は貴族、聖職者、名誉市民、商人、町人、職人、カザーク(コサック)そして農民といった身分(sosloviye)に分けられる。カフカースの先住民やタタールスタン、バシコルトスタン、シベリアそして中央アジアの非ロシア系住民は異族人(英語版)と呼ばれる区分に公的に分類されていた。 1897年の国勢調査の結果によるとロシア帝国の身分別割合は世襲貴族・一代貴族・官吏(1.5%)、聖職者(0.5%)、名誉市民(0.3%)、商人(0.2%)、町人・職人(10.6%)、カザーク(2.3%)、農民(77.1%:都市居住農民を含む)、異族人(6.6%)、フィンランド人、外国人・身分不詳・その他(0.9%)となっている。 ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の改革によって古くからの貴族階層(ボヤール:Боярин)が、モスクワ大公そしてツァーリに奉仕する小領主の士族階層(ドボリャンストボ(英語版):Дворянство)に吸収された。ロシア帝国では官吏や軍人として勤務することにより貴族になる道が開かれていた。官等表で定められた九等官になった文武官は一代貴族、そして武官は六等官以上、文官は四等官以上で世襲貴族になれた。また勲章を得ることでも貴族身分を取得することができ、世襲貴族の多くは受勲によるものである。 ピョートル1世は従来の公爵(クニャージ:Князь)に加えて伯爵(Граф)と男爵(Барон)を設けている。公爵と伯爵は古くからの家柄の貴族と勲功のあった者に授けられ、男爵は主にバルト海沿岸部のドイツ系貴族に与えられており、全体的には爵位のない貴族が多かった。貴族は土地と農奴を所有する権利を有するが、一代貴族は国家勤務の俸給で生活しており土地を持たない者が多く農奴も所有できない。1858年頃のロシア帝国には約100万人の貴族がおり、農奴を所有できる世襲貴族は61万人になり、このうち実際に農奴を所有する者は約9万人であった。貴族として体面を保つには100人以上の農奴が必要とされるが農奴所有貴族のうち約78%は農奴所有数100人以下であり、100人以上の中流貴族は約22%、1000人以上の上流貴族は1%に過ぎない。 ピョートル1世やエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は西欧宮廷文化の輸入・模倣をすすめ、貴族教育の制度も整えられた結果、18世紀末にはロシア貴族は完全に西欧化した。貴族や上流階級の間では当時の国際語であったフランス語やドイツ語が用いられるようになっている。 ピョートル1世は拡大する行政機構の官吏の必要のために貴族の国家勤務を強化して査閲を厳格化し、また「一子相続令」によって家領の分割を禁じ、当主以外の貴族子弟の収入を断ち国家勤務を事実上強制化した。だが、国家勤務は貴族にとって大きな負担であり、貴族の勤務忌避やサボタージュといった抵抗が後をたたず、アンナの時に一子相続令が廃止され、勤務年数も短縮されている。そして、ピョートル3世(在位1761年 - 1762年)が「貴族の自由についての布告」(貴族の解放令)を出して貴族の国家勤務義務が全廃された。上位官職に就いていた貴族は勤務を継続したが、多数の中小領主が地方に移り住み、領地の経営に専念するようになった。しかしながら、18世紀後半には貴族社会の中でも官等表の等級が家柄や財産よりも重んじられるようにもなっており、官吏の半数近くを貴族が占めるようになった。 エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は貴族階層の支持を権力基盤とし、特権認可状が交付され、さらに広大な国有地が下賜されることによって貴族の黄金時代となった。地方行政も貴族に委ねられ、彼らは県・郡ごとに貴族団を組織して大きな影響力を持った。1861年の農奴解放後はその影響力を減じたが、郡・県ゼムストヴォやドゥーマ(国会)でも有利な選挙制度を与えられている。 聖職者身分は公認されたキリスト教の聖職者に与えられ、人頭税、体刑そして徴兵を免除されていた。 正教会の聖職者は独身の黒僧(修道士)と妻帯している白僧(在俗司祭)がいた。上位聖職者は黒僧が占め、白僧は町や村の司祭で叙任時点で妻帯していなければならないが、妻が死去した場合は再婚は許されなかった。在俗司祭の教養は概して低く、軽蔑の対象となっていた。 ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の教会改革の際に「聖務規則」がつくられ、聖職者は皇帝への宣誓を義務づけられている。聖界所領の行政権を国家管理とされ、事実上国有化された結果、修道士たちは国家からの給与によって生活せざるを得なくなった。修道院の新設は禁じられ、修道士数も制限され、活動にも様々な規制が加えられた。世襲が許されていた在俗司祭職についても、新たに神学校での教育が義務づけられたが、ラテン語の暗記教育は効果が薄く、世襲を固定化して身分的閉鎖性を強めるだけの結果になった。 聖職者たちは国家の安全に関わる告解の秘密を報告することを命じられており、帝政時代の教会は国家の「侍女」と化していた。 名誉市民(ロシア語版)(Почётные граждане)はニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代の1832年に勃興しつつあったブルジョワジーに与える目的で創設された身分であり、人頭税、兵役、体刑を免除されていた。一代貴族や聖職者の子には世襲身分として与えられ、また高等教育を受けた者や14等官になった官吏、功労ある商人、芸術家にも終身身分として与えられた。 都市住民の身分には商人、町人そして職人があり、おのおの身分団体を組織していた。 商人(クペーツ:Купчиха)はギルドに所属している裕福な商人や手工業者であり、営業を止めれば身分を失う。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は都市住民を組織化して都市の自治権を裕福な市民に委ねた。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は商人を貴族・聖職者に次ぐ「第3身分」とするべく体刑と人頭税の免除や独占的営業権の特権認可状の付与により保護育成を図っている。やがて、農民身分出身の「農民=商人」(クレチャーニン=クペーツ)の台頭により、従来の商人身分層は衰え、1863年に全ての身分の者が商人身分に転換することが認められた。商人と貴族の一部そして農民身分出身の資本家がロシアにおけるブルジョワジー階層を形成した。商人は流動性の高い身分であったが、人口は20万人程度にとどまっている。 町人(メシチャニーン(ロシア語版):Мещане)と職人はエカチェリーナ2世が1755年に出した詔書により、商人身分から分けられた小売商人や零細手工業者であり、都市住民の大部分である。 18世紀末のロシアの都市住民は198万人で、総人口に占める割合は4.2%に過ぎなかったが、帝政終焉時の1917年には2600万人となり、総人口の15.6%に達している。 15世紀から16世紀に南ロシアやウクライナで形成されたカザーク(Казак:英語読みではコサック)は農業に従事せず漁業、狩猟そして略奪を生業とする軍事共同体であり、ロシア帝国の支配に組み込まれて以降は特別な軍事身分となった。 南ロシア・ドン川流域のドン・カザークはモスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国において有力な政治勢力を形成していた。ツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)の時代にドン・カザーク はラージンの乱(1670年 - 1671年)を起こして政府軍に鎮圧され、以降ドン・カザーク の自治は失われた。ドン・カザーク はピョートル1世(在位1682年 - 1725年)の1707年にもカザークの特権を守るべく蜂起している(ブラーヴィンの乱)。 ヘーチマンを首領とする共同体(ヘーチマン国家)を形成していたウクライナのサポロジェ・カザークは17世紀のツァーリ・アレクセイの時代にポーランドの支配から離れてロシアの保護下に入った。大北方戦争の際にヘーチマン国家の首領イヴァン・マゼーパがロシアから離反したことにより自治が制限された。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の治世に入るとロシアの支配はさらに強められ、1764年にヘーチマン制が正式に廃止され、1785年までにヘーチマン国家体制は完全に廃止されて小ロシアと名付けられ、直轄支配に置かれた。 カザークによる最後の大反乱であるプガチョフの乱(1773年 - 1776年)以降、カザークは中央政府の管理下に置かれるようになった。 南部国境にカザーク軍管区が置かれて行政は軍事省の管轄とされ、騎馬に巧みなカザークは軍役(18歳から20年間)を課される代わりに土地割当の優遇を受けた。1827年以降、ロシア皇太子が全カザーク軍団のアタマン(首長)とされた。ロシア帝国は騎兵の中核戦力としてのカザーク軍団を編成するとともに、辺境防備のためにカザーク集団をシベリア、中央アジアそして極東に植民させている。 1916年時点で13軍管区、443万人(内軍人28万人)のカザークがいた。カザークは革命運動の弾圧に用いられ、ロシア内戦では多くのカザークが白軍に加わって戦っている。 ロシア帝国臣民の大部分は農民(クレチャーニン:Крестьяне)である。農民は国有地農民、聖界領農民(エカチェリーナ2世の時代に国有地化)、御料地(帝室領)農民そして領主農民(農奴)に分けられる。1858年の調査では農民人口の55%が国有地農民(男性9,194,891人)と御料地農民(男性842,740人)であり、45%が農奴(男性10,447,149人)であった。 農民身分では農村共同体(ミールまたはオプシチナ)と農奴解放後に組織された村団そして郷(ヴォロースチ)が身分団体にあたり、新規にこれに登録されることは事実上不可能であった。農村共同体は村長と村会からなる農民の自治組織で耕地、牧畜地そして森林は農村共同体の共同所有とされ、耕作地は村会の決定によって定期的に各農民に割替えられていた。農村共同体は体制側の統治の道具としての側面もあり、納税と徴兵は農村共同体の連帯責任であった。 農民は人頭税に加えて領主(国家、皇族、貴族)に対する貢租(生産物、貨幣)と賦役(労役)の義務を負っていた。伝統的な三圃式農業によるロシアの農業は気候の厳しさに加えて、農村共同体による土地利用は私的意欲が欠如し、機械化も肥料・品種改良の導入も進まず、収穫率は低いままで停滞した。 ロシアの工業化の進展とともに多くの農民が都市で出稼ぎ労働者として働くようになったが、身分は農民のままである。これら農村からの出稼ぎ労働者は工場労働者の主力となり、19世紀末には新たな都市労働者階層を形成することになる。 ロシアの農村共同体の起源については古くから論争が続いており、スラヴ派は原始・古代的共同体の遺制であると唱え、西欧派は近世になって人頭税の導入に関係して発生したとしている。ピョートル1世以前への回帰を唱えるスラヴ派は農村共同体の共同体精神を高く評価し、知識人は農村共同体を社会主義的理想に近似したものと捉え、ナロードニキは農村に入って農民たちに革命思想を啓蒙しようと試みている。 20世紀に入ると農村共同体は専制体制に抵抗する闘争拠点と化し、1905年革命の際には農村共同体が地主の追放を決め地主地を焼き討ちする運動が広まっている。これに加えて共同所有による生産性への弊害も多く、ストルイピン政権は農村共同体を解体して自営農(クラーク)を育成しようとする土地改革を図ったが、農民の強い抵抗を受けており、共同体を離脱した農民は20%程度に留まっている。 ロシアにおける農奴(крепостной крестьянин)は貴族の領地に住む土地に緊縛された農民である。15世紀頃までは農民の移転は自由であったが、農民の逃亡に苦しむ中小領主(士族)を保護すべく、ツァーリ・イヴァン3世(在位1462年 - 1505年)とイヴァン4世(在位1533年 - 1584年)の時代に移転期間制約と移転料が設けられ、やがて全面禁止となった。そして、1649年にツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)が定めた「会議法典」で、逃亡農民の追求権が無期限となったことで農奴制が法的に完成した。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は税収確保のために貴族のホロープ(家内奴隷)にも人頭税をかけてこの制度を消滅させたが、これにより農奴の社会的地位がさらに低下する結果となった。 啓蒙専制君主を自任するエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は即位当初には農奴制の改善を試みる意向を示したものの、貴族の支持を権力基盤とする彼女は農奴制をいっそう強化させている。エカチェリーナ2世は広大な国有地を貴族に賜与して約80万人もの国有地農民を農奴となし、彼女の時代に農奴制の全盛期となった。 国有地農民や御料地農民が人格面では自由であり保有地の処分もできたのに対して、農奴は領主の個人的所有物とみなされており、人格面での隷属を強いられ、領主から刑罰(シベリア流刑も含む)を受ける一方で領主を告訴する権利はなかった。生活に干渉されて結婚を強制されることもあり、農奴は売買の対象とされ、土地や家族と切り離されて売却されることもあった。農奴は国家に対する人頭税の他に領主に対して貢租(オブローク)もしくは賦役(バールシチナ)を課されており、黒土地帯では貢租が、非黒土地帯では賦役が主に課された。いずれも国有地農民や御料地農民よりも苛酷であり、賦役は領主直営地の農作業や工場・鉱山での労働で、週3日からほとんど毎日の場合すらあった。 18世紀後半になると農奴制はロシアの後進性の象徴として批判の対象になり、改革を目指したアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の非公式委員会では農奴制の廃止も議されたが、その実施は限定的で効果のないものに終わった。反動政治を行ったニコライ1世(在位1825年 - 1855年)も農業改革を考え、農奴への模範とするべく、国有地農民・御料地農民の待遇の改善を行い、地主が自発的に土地を農奴に分与する勅令を出したが、これに応じた者は僅かしかいなかった。 クリミア戦争の敗北によって、農奴制への非難が強まり、アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)は改革を決断し、1861年に農奴解放令が公布された。だが、この農奴解放は地主の利益に配慮した不徹底なものであった。農奴は人格的支配から解放され、土地も分与されたものの地主に有利な価格での有償であり、支払い能力のない農奴に代わって国家が立て替えたが、これにより元農奴は国家に対して49年賦の負債を課せられ、これを払い終えるまで一定の義務を負担する一時的義務負担農民となった。土地は個人に対してではなく農村共同体を基礎に新たに組織された村団に分与されて買戻金の支払いは連帯責任となり、農村共同体の役割がさらに強化されることとなった。加えて地主には土地の3分の1から2分の1が保留地とされたことで、元農奴はかなりの土地を切り取られている。元農奴は重い負担と土地不足に苦しめられ、元地主から耕地や金・穀物を借りることになり、その支払いのために元農奴たちは地主の畑を耕作し、農閑期には都市で労働者として働く経済的隷属に陥ることになった(雇役制農業)。 異族人(英語版)(イノロードツィ:Инородцы)は民族的区分の法律用語である。ほとんどの場合、この用語はシベリア、中央アジアそして極東の先住民に対して適用されるものであった。この区分は特定の範疇の住民の扱いに対して、幾つかの帝国の法律を適用することは不適当と見なし、伝統的風俗習慣の保護を含む特別の法的地位を与えるべく導入されたものである。この用語は法令以外の分野で非スラヴ系諸民族に対して拡大的に用いられ、「野蛮人」「駄目な連中」という侮蔑的な意味も込められるようになった。 法的な異族人の定義はスペランスキーのシベリア行政改革の一環として、1822年に出された『異族人統治規約』『シベリア・キルギスに関する規約』が始まりである。異族人に対しては兵役の免除、放牧地の保護そして宗教と内政の自治権を含む特権と特別待遇が与えられていた。異族人の権利と義務は彼らの階級に従いロシア人と同等であるが、彼らの自治に関してロシア人と異なる幾らかの特権を有していた。遊牧を生業とする民族はロシアの農民と同等に取り扱われるが、自治と裁判は中央アジアにおける風俗習慣に従い、また彼らの使用するべきもの、もしくは財産として一定の土地が指定され、ロシア人の入植は禁止されていた。もっとも、現地総督府の農民入植推進の施策によりこの保護策は骨抜きにされている。 1835年にはユダヤ人も異族人に加えられたが、居住制限を受ける一方で兵役は課されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ロシア帝国(ロシアていこく、露: Российская империя ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年11月から1917年9月まで存在した帝国である。現在のロシア連邦を始め、フィンランド、リヴォニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、コーカサス、中央アジア、シベリア、外満洲などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1917年の時点で、ロシア帝国はオーストリア=ハンガリー帝国をしのぐ最大のスラヴ人国家であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "君主がツァーリを名乗ったそれ以前のロシア・ツァーリ国においても「ロシア帝国」と翻訳されることがあるが、ロシア語では「ツァーリ」(本来は東ローマ皇帝を指したが、やがて一部の国の王、ハーンなどを指す語となった)と「インペラートル」(西ヨーロッパに倣った皇帝を指す語)は異なる称号であるため、留意を要する。", "title": "概要と呼称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "帝政は1721年にツァーリ・ピョートル1世が皇帝(インペラートル)を宣言したことに始まり、第一次世界大戦中の1917年に起こった二月革命でのニコライ2世の退位によって終焉する。", "title": "概要と呼称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "領土は19世紀末の時点において、のちのソビエト連邦の領域にフィンランドとポーランドの一部を加えたものとほぼ一致する面積2000万平方キロメートル超の広域におよび、1億を超える人口を支配した。首都は1712年まで伝統的にモスクワ国家の首府であったモスクワからサンクトペテルブルクに移され、以降帝国の終末まで帝都となった。", "title": "概要と呼称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "政治体制は皇帝による専制君主制であったが、帝政末期には国家基本法(憲法)が公布され、国家評議会とドゥーマからなる二院制議会が設けられて立憲君主制に移行した。20世紀はじめの時点で陸軍の規模は平時110万人、戦時450万人でありヨーロッパ最大であった。海軍力は長い間世界第3位であったが、日露戦争で大損失を出して以降は世界第6位となっている。", "title": "概要と呼称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "宗教はキリスト教正教会(ロシア正教会)が国教ではあるが、領土の拡大に伴い大規模なムスリム社会を内包するようになった。そのほかフィンランドやバルト地方のルター派、旧ポーランド・リトアニアのカトリックそしてユダヤ人コミュニティも存在した。", "title": "概要と呼称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ロシア帝国の臣民は貴族、聖職者、名誉市民、商人・町人・職人、カザークそして農民といった身分に分けられていた。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる農奴であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持された。シベリアの先住民や中央アジアのムスリムそしてユダヤ人は異族人に区分されていた。", "title": "概要と呼称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。", "title": "概要と呼称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "20世紀初め時点のロシア帝国の規模は世界の陸地の6分の1に当たる約2,280万平方キロメートル(880万平方マイル)に及び、イギリス帝国の規模に匹敵した。しかしながら、この当時は人口の大半がヨーロッパロシアに居住していた。100以上の異なる民族がおり、ロシア人は人口の約43パーセントを占めている。", "title": "国土" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現代のロシア連邦のほぼ全領土に加えて、1917年以前のロシア帝国はウクライナの大部分(ドニプロ・ウクライナとクリミア)、ベラルーシ、モルドバ(ベッサラビア)、フィンランド(フィンランド大公国)、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージア(ミングレリア(英語版)の大部分を含む)、中央アジア諸国のカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン(トルキスタン総督府)、リトアニア、エストニアとラトビア(バルト諸州)の大部分だけで無く、ポーランド(ポーランド王国)とアルダハン、アルトヴィン、ウードゥル、カルスの相当の部分、そしてオスマン帝国から併合したエルズルムの北東部を含んでいた。", "title": "国土" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1860年から1905年にかけて、ロシア帝国はトゥヴァ(1944年に併合)、カリーニングラード州(第二次世界大戦後にドイツより併合)そしてクリル列島(第二次世界大戦後に実効支配)を除く現在のロシア連邦の全領土を支配した。サハリン州南部(南樺太、第二次世界大戦後に実効支配)は1905年のポーツマス条約により日本に割譲されている。", "title": "国土" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1613年に全国会議(ゼムスキー・ソボル)がミハイル・ロマノフをツァーリに選出したことによって300年続くことになるロマノフ朝が開かれた。その孫にあたるピョートル1世(1682年 - 1725年)は近代化改革を断行して、専制体制を確立させた。1721年、大北方戦争(1700年 - 1721年)に勝利したピョートル1世に対して元老院と宗務院が「皇帝」(インペラートル)の称号を贈り、国体を正式に「帝国(インペラートルの国)」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国(インペラートルの国)」と称したことにより、ロシア帝国が成立する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ピョートル1世の死後、女帝と幼帝が続き、保守派によって改革が軌道修正されることもあったが、ロシアの領土と国力は着実に増しており、エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の時代に参戦した七年戦争(1756年 - 1763年)ではプロイセンを破滅寸前に追い込んでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "クーデター(ロシア語版)により、夫ピョートル3世(在位1761年 - 1762年)を廃位して即位したエカチェリーナ2世(1762年 - 1796年)は啓蒙主義に基づく統治を志したが、結果的には貴族の全盛時代をもたらす施策を行っており、農奴制を強化している。彼女の治世にロシアは西方ではポーランド分割に参加し、南方ではオスマン帝国との戦争に勝利してクリミア半島を版図に加え、ロシア帝国の領土を大きく拡大した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "次のパーヴェル1世(1796年 - 1801年)は母帝を否定する政策をとったが、クーデター(ロシア語版)によって殺害された。皇位を継承したアレクサンドル1世(1801年 - 1825年)は自由主義貴族やスペランスキーを起用して改革を志したが、保守層の抵抗を受けて不十分なものに終わっている。彼の治世はフランス革命戦争やナポレオン戦争の時期であり、列強国となっていたロシアもヨーロッパの戦乱に巻き込まれた。ロシアに侵攻したナポレオンに壊滅的な打撃を与えたアレクサンドル1世は神聖同盟を提唱し、戦後のウィーン体制を主導している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アレクサンドル1世の急死によって即位したニコライ1世(1825年 - 1855年)はその直後にデカブリストの乱に直面した。乱を鎮圧したニコライ1世は「専制、正教、国民性」の標語を掲げて国内の革命運動・自由思想を弾圧し、国外でも反革命外交政策をとった。オスマン帝国との戦争に勝利してバルカン半島への影響力を広げたが、治世末期のクリミア戦争(1853年 - 1856年)ではイギリスとフランスの介入を招く結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ニコライ1世は戦争中に死去しており、帝位を継いだアレクサンドル2世(1855年 - 1881年)は不利な内容のパリ条約の締結を余儀無くされた。アレクサンドル2世はロシアの後進性を克服するための改革を志し、1861年に農奴解放令を発布したが、地主貴族に配慮した不十分なもので社会問題は解消されなかった。これ以外にも地方行政・司法・教育・軍制の諸改革が実施され、一連の改革は大改革と呼ばれる。オスマン帝国との露土戦争 (1877年-1878年)に勝利してバルカン諸国の独立を実現させるとともに、バルカン半島への影響力も拡大するが、警戒した列強国の干渉を受け、ベルリン会議で譲歩を余儀なくされている。国内の知識人の間では革命思想が広がり、ナロードニキ運動が起こった。政府はこれを弾圧するが、アレクサンドル2世は革命派の爆弾テロで暗殺された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "父の暗殺によって即位したアレクサンドル3世(1881年 - 1894年)は反動政策を行い、革命運動を弾圧したが、彼の時代にロシア経済は大きな躍進を遂げている。最後の皇帝となるニコライ2世(1894年 - 1917年)は専制政治を維持したが、日露戦争(1904 - 1905年)の敗北によって1905年革命が起こり、国民に大幅な譲歩をする十月詔書への署名を余儀なくされた。十月詔書によってドゥーマ(国会(英語版、ロシア語版))が開設され、ロシアは国家基本法の下で立憲君主制に移行したものの、依然として皇帝権が国会に優越したものだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ストルイピン首相が強権を伴う国内改革を断行したが、中途で暗殺されて終わり、ロシアは国内が不安定なまま第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎えることになる。ロシア軍は緒戦で惨敗を喫し、ドイツ軍がロシア領に深く侵攻した。ロシアはドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国との総力戦を戦い、2年間の戦闘で530万人もの犠牲者を出している。国民と兵士に厭戦気分が広まり、1917年に首都ペトログラードで労働者が蜂起する二月革命が起こった。兵士は労働者の側について労兵ソビエトを組織し、権力掌握に動いた国会議員団はニコライ2世に退位を勧告した。ニコライ2世はこれを受諾し、ロシアの帝政は終焉した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに推戴されて以降、1917年に帝政が終焉するまでのおよそ300年にわたりロマノフ家がロシアの君主であり続けた。ホルシュタイン=ゴットルプ公だったピョートル3世(在位1761年 - 1762年)が即位して以降はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝(Гольштейн-Готторп-Романовская)とも呼ばれる。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1721年にピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は称号をツァーリから変えて「全ロシアの皇帝」(インペラートル:Император)たるを宣言した。彼の後継者たちも1917年の二月革命で帝政が打倒されるまで、この称号を保ったが、一般的にはツァーリとも呼称されていた。1905年の十月詔書以前、皇帝は絶対君主として君臨しており、基本法(Свод законов)第一条は「ロシア皇帝は独裁にして無限の権を有する君主であり、主権の全体は帝の一身に集中する」と規定している。皇帝は(既存の体制を維持するための)次の2つの事項にのみ制約されていた。一つは皇帝とその配偶者はロシア正教会に属さねばならない。もう一つはパーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)の時に定められた帝位継承法に従わねばならないことである。これ以外のことではロシアの専制君主の統治権は如何なる法律にも制約されず事実上無制限であった。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この状況は1905年10月17日に変化した。1905年革命の結果出された十月詔書以降、皇帝の称号は依然として「全ロシアの皇帝かつ専制者」であり続けるが、1906年4月28日に制定された国家基本法は「無制限」の語を取り除いている。皇帝は自主的に立法権を制限し、いかなる法案も国会(ドゥーマ)の承認なく法制化できなくなった。しかしながら、皇帝は国会の解散権を有しており、彼は一度ならずこれを実行している。加えて皇帝は全ての法案に対する拒否権を有しており、国家基本法を自ら改正することも出来た。大臣は皇帝に対してのみ責任を負っており、国会は問責はできるが解任はできない。このため、皇帝権はある程度は制限されたものの、帝政が終焉するまで強大であり続けた。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ロシア皇帝はフィンランド大公(1809年以降)およびポーランド国王(1815年以降)を兼ねていた。国家基本法第59条はロシア皇帝の正式名称として君臨する50以上の地域名を列挙している(ロシア皇帝を参照)。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の時代にスペランスキーの改革の一つとして1811年に設置された国家評議会(Государственный Совет:枢密院とも訳す)は法律の立案および頒布に関して君主に参与すべき審議官である。国家評議会が法案を審議し、皇帝は多数決によるその意見を「傾聴し、決定する」ことになっていたが、実際には決定は皇帝の意思に依った。1890年時点の国家評議会は勅選議員60名から構成され、議長は皇帝もしくは大臣委員会議長その他勅選された者が務めた。 1906年2月20日の国家基本法施行により、国家評議会はドゥーマに関連付けられ、立法機関の上院の役割を果たすこととなった。これ以降、立法権は皇帝が二院と調整した上で実行されることになる。国家評議会はこの目的のために再組織され、勅選議員98名、公選議員98名の計196議員で構成されることとなった。勅任される大臣は国家評議会出身者である。公選議員は6議席が正教会関係、18議席が貴族団、6議席が科学アカデミーと大学関係者、12議席が商工ブルジョワジー、34議席が県ゼムストヴォ、22議席がゼムストヴォのない県の大土地所有者であった。国家評議会は立法機関としてドゥーマと同等の権限を有していたが、立法を率先することは稀であった。二院の一つとなった国家評議会は保守派の牙城となり、ストルイピン大臣会議議長(首相)の土地改革に抵抗している。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ドゥーマ(Ду́ма:国会)は1905年の十月詔書により創設された代議制議会である。ロシア帝国の立法機関は二院制で国家評議会が上院、ドゥーマは下院にあたる。議員数は1907年の時点で442人である。選挙方式は所有財産によって別けられた地主、都市(ブルジョワジー)、農民、労働者の4つのグループからなる複雑な間接選挙方式で、地主やブルジョワジーに極めて有利な制度であった。1906年4月23日に発布された国家基本法(憲法)では皇帝は依然として専制君主と規定されており、法案の拒否権とドゥーマの解散権を留保した。大臣会議議長(首相)と大臣は皇帝の任命によるもので、議会に対して責任を負う責任内閣制でもなかった。また、予算審議権も戦時関係予算や勅令・法律による歳入出はドゥーマの管轄外であるなど制約の多いものであった。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1906年4月27日に開会された国会は地主の1票がブルジョアジーの3票、農民の15票、労働者の45票に相当する選挙制度そして政府の選挙干渉にもかかわらず、自由主義左派の立憲民主党(カデット)が第一党となった。このドゥーマは立憲民主党が地主の土地の強制収用を含む大胆な土地改革を強硬に主張したために紛糾し、7月8日に軍隊が投入されて強制解散された。(第一ドゥーマ)", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "次の選挙には社会革命党(エスエル)とボリシェヴィキも加わり、その結果、社会主義諸派が議席の40%を占めるより急進的な構成となった。1907年2月20日に開会されたドゥーマはストルイピン大臣会議議長(首相)の土地改革に従おうとせず、6月3日に解散された。(第二ドゥーマ)", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ストルイピンは解散と同時に新選挙法を発布させ、これは更に地主に有利な制度であり、地主の1票は農民の260票、労働者の540票に相当した(6月3日クーデター(英語版))。1907年11月1日に新選挙法の元で選ばれた政府寄りの自由主義右派10月17日同盟(十月党、オクチャブリスト)を中心とするドゥーマが開会され、1912年6月9日までの会期を全うした。(第三ドゥーマ)", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1912年11月に第三国会と同じ選挙法の元で選ばれた第四ドゥーマが開会された。第四ドゥーマ中の1914年に第一次世界大戦が勃発した。戦争指導を巡って政府とドゥーマとの対立が激化し、立憲民主党や十月党左派、その他諸派の中道自由主義者が進歩ブロック(英語版)を結成して信任内閣を要求している。1917年に二月革命が起こると、議員たちは国会臨時委員会(英語版)を組織して権力掌握に動き、社会主義者の労働者・兵士ソビエトと臨時政府を組織してニコライ2世に退位を求め、帝政を崩壊させることとなる。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "大臣委員会(Комитет Министров)は国家の高等行政に関する事務を審査をする機関である。アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の改革の一環として、1802年にそれまでの参議会制に代わる省庁制が設けられると同時に大臣委員会が置かれた。ナポレオン戦争期にはその権能が拡張し、皇帝が出征中は国家行政事務の全てを担った。ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に大臣委員会の権能が定められ、第一に各大臣および元老院の権限以外の重要事項について協議すること、第二に公安、公共糧食、正教会の保護および公共交通とくに鉄道敷設の許認可に関することとなった。その他、地方行政の監督も大臣委員会の職責であった。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1905年10月18日法により大臣委員会は改組され、皇帝を補佐する最高行政機関として大臣会議議長(首相に相当)を長とする大臣会議(英語版)(Совета министров)が創設された。これは諸国の内閣に相当するもので、各省大臣と主要行政機関の長によって構成される。1905年にロシア側全権代表として日本とポーツマス条約を締結して帰国したセルゲイ・ヴィッテが初代大臣会議議長となった。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1700年にモスクワ総主教アドリアン(英語版)が死去するとピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は後任の選出を許さず、1721年に正式に総主教座を廃止し、ロシア正教会を統括する最高機関としての宗務院(Святейший Правительствующий Синод:聖宗務院、聖務会院、シノドとも訳される)を設立させた。基本法は「教会の政治に於いては君主の独裁権は宗務院を媒介として行動すべきものである」と規定している。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "宗務院の職務は第一に教義の正統解釈と聖職者の監督そして宗教出版物の検閲、第二に宗教教育機関および1885年に設置された教区小学校の管理、第三は行政もしくは司法の全ての教会事務の最高法廷そして婚姻に関する事務の採決である。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "宗務院のメンバーは皇帝の代理人である俗人の宗務院総監とモスクワ、サンクトペテルブルク、キエフの3府主教、グルジアのエクザルフそして幾人かの主教が交替で務めた。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1711年にピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は出征中に内政を預かる元老院(英語版)(セナート:сенат)を設けて9人の議員を任命した。当初は臨時の措置であったが、これが常設化して行政・司法の執行に関する監督と立法を司る国政の中心機関となった。エカチェリーナ1世(在位1725年 - 1727年)とピョートル2世(在位1727年 - 1730年)の時代には最高枢密院が権力を握り元老院はこれに従属させられたが、アンナ(在位1730年 - 1740年)は即位直後に最高枢密院を廃止している。エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の時代に元老院は権力を回復した。その後、アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の大臣委員会創設によって権限が減少して、主に最高司法機関として機能するものとなった。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "帝政末期の元老院は複数の部から構成され、法律の布告および解釈、地方行政官職の監督、行政裁判、商業裁判所そして刑事および民事の破棄院(最高裁判所)としての広範な権限を有していた。元老院は帝国の行政に関わる全ての紛争に対する最高管轄権を有しており、とりわけ、中央政府の代理人と地方自治機関との間の係争を取り扱っていた。また、元老院は新法の登記と布告を審査する役割を持ち、基本法に反するものを拒否する権限があった。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の行政改革の一環として、管轄範囲が明確でないイヴァン4世(在位1533年 - 1584年)以来の官署が廃止されて、新たに北欧諸国の制度に倣った合議制で運営される参議会(ロシア語版)(コレギア:Коллегии)が設置された。外務、陸軍、海軍を「主要」とし、都市、所領、司法、歳出、監査、商業、工業、鉱業といった参議会が設けられている。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その後、参議会は責任の所在が曖昧で非効率になり、パーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)の時代に改革が試みられ、合議制から専決制に代えられた。彼の暗殺後に即位したアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)が参議会を廃止して、陸軍、海軍、外務、司法、内務、大蔵、通商、文部の8部の大臣を任命し、省庁制を発足させた。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "帝政末期の20世紀初頭の時点では以下の省庁が存在した。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の時代、1722年に14の官等からなる官吏および軍人の位階が定められた(官等表(英語版))。中等教育修了者は官吏になることができ、昇格は勤務年数で決められており、九等官で一代貴族、四等官で世襲貴族になれた。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1899年時点の官等は以下の通り(第11等と第13等は廃止)。", "title": "政府" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は当時の西欧で主流であった糾問主義手続きの司法制度を導入した。民事および刑事の裁判は非公開手続きであった。全ての裁判は書面審理で行われ、判事は判決時にのみ当事者および傍聴人と対面した。この非公開性と判事の報酬が僅かであったことが組み合わさり、贈賄と汚職が蔓延することとなった。法廷の調査は複数回あったが(5、6回またはそれ以上)、悪行の回数を増やすだけであった。証拠書類は法廷から法廷へと積み上げられたが、その書類を書いた事務官だけがその要旨を語ることができる類のものであり、費用がかさんだ。これに加えて、大量の勅令、法令そして慣習法(これらはしばしば矛盾した)により、法廷の運営はよりいっそう遅滞し、混乱した。さらに、司法と行政の線引きはなかった。判事は専門家ではなく、彼らは官吏に過ぎず、偏見と悪徳が蔓延していた。", "title": "司法制度" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "帝政終焉まで続くロシア帝国の司法制度は「解放皇帝」アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の1864年勅令(英語版)によって成立した。英仏の制度を部分的に取り入れた司法制度は司法と行政の分離、判事と法廷の独立、公開裁判と口頭審理、法の前での全ての身分の平等といった幾つかの大まかな原則によって成立している。その上、弁護士制と陪審制の採用によって民主主義的要素も取り入れられた。これらの諸原則による司法制度の確立は司法を行政の範囲の外に置くことにより、専制に終わらせ、ロシア国家の概念に大きな変化をもたらした。しかしながら、1866年のアレクサンドル2世暗殺未遂事件以降には幾らかの反動が見られるようになった。", "title": "司法制度" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1864年勅令によって成立した制度は英仏形式の二つの完全に分けられた法廷から成り、おのおのが独自の上訴裁判所を有し、最高裁判所の役割を果たす元老院にのみ連携する。イギリス形式のものは選挙で選ばれた治安判事(英語版)の法廷で民事刑事の軽微な事件を管轄し、郡治安判事会議に上訴できる。もう一つのフランス形式の任命された判事による普通裁判所は重要事件を扱い、陪審員の置かれた地方裁判所、控訴院そして最高裁判所に当たる元老院の三審制である。また、農民の軽犯罪・民事は農村共同体の郷裁判所において旧来の慣習法で裁かれる。", "title": "司法制度" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "これらとは別に聖職者の規律や離婚を扱う宗教裁判所、そして軍人に対する軍法会議があり、政治犯は軍法会議で裁かれる。", "title": "司法制度" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1914年時点のロシアは81県(グベールニヤ)、20州(オーブラスチ)そして1行政庁(okrug)の行政単位に分かたれていた。ロシア帝国は中央アジアのブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国を保護国としており、1914年にはトゥヴァが加えられている。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "11県、17州そしてサハリン行政庁がアジア・ロシアに属している。8県がフィンランド、10県がポーランドである。残りはヨーロッパ・ロシアで59県と1州(ドン軍管州)となる。ドン軍管州は軍事省の管轄下にあり、その他の諸県州には知事と副知事(行政評議会議長)が置かれていた。これに加えて、複数の県を管轄し、駐留軍の指揮権を含む広範な権限を有する総督が置かれている。1906年時点でフィンランド、ワルシャワ(ロシア語版)、イルクーツク、キエフ、モスクワ、アムール(ロシア語版)、トルキスタン、ステップそしてカフカース(英語版)に総督府が存在していた。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルク、モスクワ、オデッサ、セヴァストポリ、ケルチ、ニコラエフ、ロストフといった大都市は県知事から独立した独自の行政制度があり、警察署長が長官の役割を果たした。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "中央政府の地方組織とともに、ロシアには行政の役割を果たす3つの公選による自治機関が存在する。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "その起源が定かではない農村共同体(ミール (農村共同体):Мирまたはオプシチナ:Община)は、村ごとの農民の自治組織である。ミールは村長と各世帯の家長たちからなる村会を持ち、村の行政と司法そして耕地の割替を行っていた。耕地や森林、牧草地は農民個人のものではなくミールの共同所有とされ、政府はミールを利用して徴税や賦役を課しており、農奴解放後も土地の共同所有は変わらず、却ってミールの役割が強化されることとなった。アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の行政改革で、農村共同体を基礎に地方行政の末端機関としての村団(セーリスコエ・オブシチェストヴォ:Cельское общество)が組織された。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "幾つかの村団が集まって郷(ヴォロースチ:волость)を構成しており、村団の代表者による集会を持っていた。この集会で郷長が選ばれており、また郷裁判所が持たれ、ここでは軽犯罪や民事訴訟などを取り扱っていた。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の行政改革の一環として、1864年に34県とドン軍管州およびこれに属する郡に地方自治機関であるゼムストヴォ(Земство)が設置された。郡ゼムストヴォには住民によって選挙された郡会とこれに指名されたメンバーによる執行機関の郡参事会があった。県ゼムストヴォの県会および参事会は郡会の代表者によって構成される。ゼムストヴォは地主、都市居住民そして郷(ヴォロースチ)が別々に代議員を選挙していた。参事会は次の五つの階級から選出された。(1)590エーカー以上を有する大地主は1議席(2)中小地主および聖職者の代表(3)裕福な都市住民の代表(4)都市中産階級の代表(5)ヴォロースチから選出された農民の代表である。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "創設当初のゼムストヴォには地域の課税、教育、保健、道路整備などといった広範な権限が与えられていたが、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代に厳しい制限を加えられている。この結果、郡ゼムストヴォは県知事、県ゼムストヴォは内務省に従属することとなり、ゼムストヴォの決議すべてに県知事・内務省の同意が必要とされ、県知事と内務省は議員たちを統制する強力な権限を有するようになった。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ゼムストヴォの選挙人資格には財産規定があり、このため郡会、県会ともに代議員は貴族・地主が常に優勢であったが、1870年代以降、ゼムストヴォは立憲制を求める自由主義者たちの拠点と化しており、1906年に開設された国会の自由主義政党(立憲民主党や十月党)の母体となった。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1870年の新都市法の発布以降、ヨーロッパ・ロシアの市当局はゼムストヴォと同様の代議制都市自治機関(都市ドゥーマ)を持つようになった。家主、納税している商人・職人・労働者は資産量の順番にリストに記載されていた。財産所有評価によって三つのグループに分かたれ、当然各グループの人数は大きく異なるのだが、各々が同人数の都市ドゥーマ議員を選出する。行政部は選挙された市長や都市ドゥーマから選ばれたメンバーによる都市参事会が執り行った。しかしながら、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の治世にゼムストヴォと同じく、都市ドゥーマは県知事や警察に従属させられた。1894年と1895年にシベリアとカフカースの幾つかの都市に(より一層制限されたものではあるが)都市ドゥーマが設けられている。", "title": "地方行政" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "17世紀末時点のピョートル1世(在位1682年 - 1725年)のロシア帝国軍は約16万の兵力を有しており、この規模は他のヨーロッパ諸国の軍隊と比べて遜色ないものであった。だが、大北方戦争(1700年 - 1721年)緒戦のナルヴァの戦い(1700年)でロシア軍はカール12世のスウェーデン軍に惨敗を喫してしまう。この後、カール12世がポーランド=リトアニア=ザクセン制圧に転戦したため、ピョートル1世は軍隊を再建する余裕を得ることができた。ピョートル1世は教会の鐘を鋳つぶして大砲を製作するとともに都市民や農民を対象とした本格的な徴兵を開始した。これ以前にも臨時の徴兵は行われていたが、租税民である農民を対象とした恒常的な徴兵制度ははじめてであった。「20世帯につき1人」の兵士供出が各村に命じられたが、兵役は25年であり、事実上生涯に渡って村から切り離されることを意味しており、苛酷で死亡率の高い軍隊勤務は貧農に押しつけられる傾向が強かった。「兵士の滞納」は後を絶たなかったが、それでもピョートル1世はこの徴兵制によって年間2万人以上の新兵を得ることができた。貴族の国家勤務査閲を強化して将校の養成を行い、不足は外国人を雇用していたが、1721年の段階でほぼロシア人将校で充足することができるようになっている。陸軍参議会、海軍参議会、砲兵官庁、兵站部そして参謀本部が設けられ軍事行政も整備された。これら軍制改革で強化されたロシア軍はポルタヴァの戦い(1709年)でロシアに侵攻したスウェーデン軍を壊滅させ、大北方戦争を勝利に導いた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "18世紀のロシア軍は数次にわたるオスマン帝国やペルシアとの戦争に勝利して領土を拡大させ、七年戦争ではプロイセン王フリードリヒ2世を破滅寸前に追い込んでいる。19世紀のナポレオン戦争ではロシア軍はアウステルリッツの戦い(1805年)やフリートラントの戦い(1807年)でナポレオンに敗北したものの、ロシア遠征に向かったナポレオンに壊滅的な打撃を与え、最終的な勝利者となったアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)は「ヨーロッパの救済者」と呼ばれた。「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたニコライ1世(在位1825年 - 1855年)は欧州政治に積極的に介入し、軍事力を持ってポーランドやハンガリーの革命運動を粉砕している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "しかしながら、指揮官の大部分を占める貴族出身の将校で有能な者は一部であり、兵士出身の将校・下士官は教養が低かった。ピョートル1世以来の徴兵制度は25年の兵役を課して社会から切り離すものであり、農民にとっては刑罰同然のものと考えられ、兵士の待遇は劣悪であり貴族の将校は兵士を農奴同様に扱い、軍隊内での体罰や病気での死亡率も高かった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "クリミア戦争(1853年 - 1856年)が勃発した時点のロシア軍は将校27,745人、下士官兵112万人で、ヨーロッパ最大の規模であった。だが、装備は旧式で砲弾も不足しており、加えて国内の鉄道網が未整備で軍隊の急速な展開が不可能な状態にあった。ロシア軍はセヴァストポリ攻囲戦(1854年 - 1855年)で英仏軍に敗れて黒海の非軍事化を含む屈辱的な内容のパリ講和条約を結ばされ、「ヨーロッパ最強国」の自尊心は打ち砕かれた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)は大改革と呼ばれる農奴解放を含んだ行政改革を実施しており、軍制改革もこれに含まれる。この当時、ドイツやフランスの軍隊は国民男子全員に兵役を課して軍隊経験を積ませる国民皆兵であるのに対し、ごく一部の国民に長期の兵役を課す農奴制・身分制的なロシアの軍制は幅広い予備兵力層を欠いており、時代遅れなものになっていた。軍事大臣ミリューチンは軍制の近代化に着手し始め、まず、軍隊内での体罰は禁止された。1861年に兵役は16年に短縮され、1874年には国民皆兵制が施行されて陸軍は兵役6年予備役9年、海軍は兵役7年予備役3年となった。もっとも、家族状況による兵役免除もあって実際の召集率は対象者の25-30%程度に留まっており、また学校教育を受けた者は兵役期間を軽減される規定により裕福な特権階級層は事実上兵役を免れている。初等兵学校、中等兵学校そして士官学校といった教育機関が整備され、貴族以外からの将校への道も広げられた。軍事行政は総合参謀本部と七つの軍事最高機関が設けられ、各部門の長による軍事評議会が組織された。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "露土戦争(1877年 - 1878年)でロシア軍はバルカン半島とザカフカースでオスマン軍と戦い、苦戦の末にプレヴェン要塞を陥落させて(英語版)イスタンブールに迫った。オスマン帝国はサン・ステファノ条約によってバルカン半島の大部分の喪失を余儀なくされ、ベルリン会議を経てモンテネグロ、ルーマニアそしてセルビアが独立、ブルガリア公国が成立している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代には総動員に必要とする日数の短縮、戦時における騎兵の即応性および下馬歩兵戦闘への適応(軽騎兵や槍騎兵が竜騎兵に置き換えられた)、国境地帯の要塞および鉄道網の強化そして砲兵および輜重隊の強化が図られている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)の時代にはアジア方面の戦力と即応性が強化され、民兵も再編された。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時、シベリア鉄道はバイカル湖迂回区間が未開通であったためヨーロッパロシアからの兵員輸送に時間を要し、糧食の一部は現地調達に頼らざるを得なかった。戦術思想は銃剣突撃に固執して銃剣を固定した小銃を用いた結果、射撃精度が低下しており、運用もナポレオン戦争と大差ない密集隊形による一斉射撃だった。機関銃は配備されていたがその価値が認められるまでには時間を要した。兵士は困苦欠乏に慣れ、皇帝を素朴に崇拝しており、困難な状況でも頑強に戦ったが、戦争目的を理解していなかった。将校の質は義和団事件(1900年)の際にイギリス軍士官から「(ロシア軍は)ロバに率いられたライオン」と酷評されたもので、一部を除けば無気力で能力も低かった。ロシア陸軍は日本陸軍の攻勢を前に後退を繰り返すことになり、旅順要塞を失陥し、奉天会戦でも敗れた。この敗北が1905年革命を引き起こすことになった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "この時期のロシア軍は正規兵、カザーク(コサック)そして民兵におおまかに区分される。1911年時点の平時戦力は将校42,000、兵110万人(うち戦闘員は95万人)であり、戦時戦力は将校75,000人、兵450万人になっていた。この兵力にほぼ無尽蔵な人的資源を加味すると第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時のロシア軍の規模はヨーロッパ最大であったが、鉄道網の慢性的な不効率はロシアの潜在的戦力を大きく減じていた。高級司令部と兵站部は汚職と不効率によってひどく弱められており、工場生産の不備から武器弾薬が不足していた。将校の質的な弱点は改善されない上に数が不足していた。近代装備についても通信システムが未整備で師団司令部が平文で無線連絡を交わし合う有り様であり、軍の自動車は700台に満たなかった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦が開戦するとロシア軍はドイツ軍の予想よりも早く動員を終えて主力が不在の東プロイセンに攻め込んだが、タンネンベルクの戦いで包囲殲滅され大損害を出してしまう。ロシア軍はドイツ軍の攻勢に敗走を余儀なくされ、ポーランド、リトアニアそしてベラルーシ西部を占領された。大戦はドイツ軍、オーストリア・ハンガリー軍そしてオスマン軍を相手の総力戦となり、ロシア軍は1400万人もの動員を行ったが2年間の戦闘で530万人の犠牲者を出している。軍の士気は低下して厭戦気分が広まった。1917年に首都ペトログラードで二月革命が起こると兵士たちは皇帝の命令に従うことを拒否して蜂起した労働者の側に付き、労兵ソビエトを組織して帝政打倒を訴え、ロシア帝国を崩壊に追い込むことになる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ロシア海軍はピョートル1世(在位1682年 - 1725年)によってつくられた。1695年にオスマン帝国の属国クリミア・ハン国領のアゾフ要塞攻略に失敗したピョートル1世はモスクワ近郊の町やヴォロネジで平底川船1300艘、ガレー船22艘、火船4艘の艦隊を建造し、1696年にこの艦隊を用いて海上補給路を断ち、3か月の包囲戦の末に要塞を陥れて念願の海への出口を手に入れた。スウェーデンとの大北方戦争(1700年 - 1721年)では占領したイングリアやバルト地方にクロンシュタットをはじめとする造船所をつくり、バルチック艦隊を建造した。バルチック艦隊はガングートの海戦(1714年)やグレンガム島沖の海戦(英語版)(1720年)でスウェーデン艦隊に勝利してバルト海の制海権を確保し、戦争の勝利に貢献した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代の第一次露土戦争(1768年 - 1774年)ではクロンシュタットを発したオルロフ提督率いるバルチック艦隊がジブラルタル海峡を経て地中海に入り、オスマン艦隊を撃破してロシアの海軍力を誇示している。戦争に勝利してクリミア・ハン国を併合したエカチェリーナ2世はポチョムキンを新領土総督に任命してクリミア経営にあたらせた。ポチョムキンはセヴァストポリを根拠地とする黒海艦隊を創設する。その後に発生した第二次露土戦争(1787年 - 1792年)やアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の時の第三次露土戦争(1806年 - 1812年)でもロシア艦隊とオスマン艦隊は戦火を交えている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に入るとギリシャ独立戦争(1821年 - 1832年)に介入したロシアは地中海に艦隊を派遣して英仏と連合艦隊を組み、ナヴァリノの海戦(1827年)でオスマン・エジプト連合艦隊を撃滅しており、この勝利によりギリシャを独立へと導いている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1853年にロシアとオスマン帝国は再び開戦した(クリミア戦争:1853年 - 1856年)。開戦早々にナヒモフ提督の黒海艦隊がスィノプ港に停泊していたオスマン艦隊に奇襲をかけて全滅させ、港湾機能を破壊した(シノープの海戦)。海戦には勝利したが、英仏の新聞が「スィノプの虐殺」と報道したことにより反ロシア的世論を煽る結果となってしまう。参戦した英仏連合艦隊が黒海に入り、黒海艦隊はセヴァストポリに籠城する作戦をとったが、1年以上の包囲戦の末にセヴァストポリは陥落し、黒海艦隊は降伏前に自沈した。パリ講和条約の条項により、黒海の艦艇保有数に厳しい制限がかけられ、艦隊を配備することは禁じられた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "クリミア戦争の敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855-1881)の弟コンスタンチン大公が艦隊の再編と近代化を指揮した。1860年代に帆走軍艦は姿を消し、蒸気軍艦が主体となった。南北戦争でのハンプトン・ローズ海戦(1862年)に関心を持ったロシア海軍はさっそく木造軍艦2隻を装甲艦に改装させ、さらにアメリカの装甲艦モニター号に類した沿岸防衛用のモニター艦を17隻建造している。普仏戦争(1870年 - 1871年)にフランスが敗れて第二帝政が倒れるとロシアはパリ条約を破棄して黒海艦隊を再建した。露土戦争(1877年 - 1878年)では発明されて間もない魚雷を用いてオスマン海軍の船を撃沈することに成功している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1860年の北京条約で清国から沿海地方を割譲されており、この地に建設されたウラジオストクが太平洋艦隊の根拠地となる。1898年に清国から大連・旅順地域を租借したロシアは旅順要塞を築いて太平洋艦隊の根拠地となし、日本に備えた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "20世紀はじめのロシア海軍はバルチック艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊そしてカスピ海艦隊から成っていた。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時の戦力は戦艦21隻(5隻建造中)、海防戦艦3隻、旧式装甲巡洋艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦13隻(5隻建造中)、軽巡洋艦8隻、駆逐艦49隻(11隻建造中)の主要艦艇からなり、イギリス、ドイツに次ぐ世界第三位の海軍大国であった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "日本の連合艦隊と対することになった太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)は旅順港に封じ込められた。艦隊はウラジオストクへの脱出を図るが黄海海戦で大損害を受けて阻止され、旅順陥落で全滅した。ヨーロッパロシアから長距離の航海を経て極東にたどり着いたバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は日本海海戦(ツシマ海戦)でほぼ全滅する。陸海での敗戦に国内は動揺し、黒海艦隊では戦艦ポチョムキンの反乱が起こっている。この戦争でロシア海軍は戦艦14隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦21隻を失った。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1907年、海軍省は戦艦32隻、巡洋戦艦16隻、巡洋艦36隻、駆逐艦156隻からなる野心的な建艦計画を提出するが、ドゥーマ(国会)の猛反対にあい、縮小した計画も承認を得られず、1909年のドイツとの関係悪化でようやくバルチック艦隊向け弩級戦艦4隻の予算が承認された。日本との関係が緩和する一方で独墺とは険悪化すると1911年に黒海艦隊向けの弩級戦艦3隻その他の予算が承認される。1911年のモロッコ危機で対独関係がさらに悪化すると海軍省は「大建艦計画」と呼ばれる野心的な海軍法をドゥーマに承認させた。これは1927年までに総計戦艦27隻、巡洋戦艦12隻を建造しようとするものであったが、実現することはなかった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "艦隊再建の途上でロシア海軍は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎える。このためバルチック艦隊と黒海艦隊の作戦は機雷戦を中心とした防御的なものになった。ロシア海軍は開戦早々の1914年8月に触雷沈没したドイツの軽巡洋艦マクデブルク(英語版)から暗号表を回収してイギリスへ送り、連合国の戦争努力への大きな貢献を果たしている。戦前に起工された戦艦のうちバルチック艦隊向けのガングート級戦艦4隻と黒海艦隊向けのインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦3隻が大戦中に竣工したが、インペラトリッツァ・マリーヤ級は戦争と内戦の混乱で全て失われた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1917年の二月革命で帝政が瓦解し、さらに十月革命ではバルチック艦隊の水兵がボリシェヴィキに与し、巡洋艦アヴローラが冬宮を砲撃した。続く内戦の混乱によって海軍の組織は崩壊し、レーニンをはじめとするボリシェヴィキの指導者は海軍の必要性を理解せず、その結果、艦艇の多くが失われるか行動不能になり、建造中の艦は放置されることになる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国と同じくロシアでも19世紀後半から動力飛行機の試みがなされており、ソ連時代には世界初の動力飛行はライト兄弟よりも20年近く早い、1884年のモジャイスキーによるものであると主張されていた。19世紀末にツィオルコフスキーが先進的なロケット技術の諸論文を発表しており、今日では「宇宙ロケットの父」と呼ばれている。1909年には「ロシア航空の父」と呼ばれるジューコフスキーがロシア初の航空団体を設立した。そして、1914年にシコールスキイが世界初の4発飛行機イリヤー・ムーロメツを完成させた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時、陸軍は約250機、海軍は約50機の航空機を保有していた。国産軍用機も存在していたが少数生産に留まっており、ロシア軍は輸入機やライセンス生産機主体で戦った。イリヤー・ムーロメツの爆撃型が製造され、シコールスキイ自身が率いる爆撃隊の活躍があったもの、ロシア軍航空隊は用兵と運用の拙劣さもあってドイツ帝国軍航空隊(英語版)を相手に劣勢を強いられている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1897年の国勢調査に基づく1905年の報告書によれば、ロシア帝国内の各宗教宗派の概算信者数は右表のとおりである。1905年の「信教の自由に関する勅令」により公的には全ての信仰が認められるようになった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ロシア帝国の国教は正教会(ギリシャ正教、東方正教会)である。独立教会ロシア正教会の首長は「教会の最高守護者」の称号を有する皇帝であった。皇帝は人事権を有していたが、教義や説教に関する問題を決定することは無かった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ロシア帝国の多数を占める東スラヴ系のロシア人、小ロシア人(ウクライナ人)、白ロシア人(ベラルーシ人)は正教もしくは無数にあるその分派を信仰している。東スラヴ系以外ではルーマニア人(モルドバ人)、グルジア人も正教である。フィンランドのカレリア地方の正教徒はロシア革命後の1917年に自治教会フィンランド正教会を創設している。ウラル・ヴォルガ地方ではモルドヴィン人のほとんどが正教であり、ウドムルト人、ヴォグル人、チェレミス人(マリ人) とチュヴァシ人も同様であるがキリスト教やイスラム教の影響を受けたシャーマニズムとの混合であった。シベリアではヤクート人が18世紀後半頃に正教に改宗しているが、これもシャーマニズムの要素を残している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ロシアのキリスト教受容は10世紀頃のことである。以降、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下に置かれ、ほとんどの府主教がギリシャ人であったが、東ローマ帝国が衰退してバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議で東西教会の合同が宣言されたことを受け、1448年にモスクワ府主教座がコンスタンディヌーポリ総主教庁から事実上独立した。東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワはローマ帝国のローマ、東ローマ帝国のコンスタンティノープル(古期ロシア語ではツァリグラードと呼ばれた)に次ぐ「第三のローマ」であるという言説が見られるようになった。1589年にロシア正教会はコンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世より、独立教会の祝福を正式に受け、モスクワ総主教座が成立した。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)以前の正教会の修道院・教会は農民の4分の1を支配し、世俗権力から独立した勢力を持っていた。ピョートル1世はロシア正教会をプロテスタント諸国の国教会的な組織に改編すべく、教会改革を断行した。1700年にモスクワ総主教アドリアン(英語版)が死去するとピョートル1世は後任の選出を許さず、皇帝に忠実なフェオファン大主教を起用して1721年に「聖務規則」を作成させ、総主教位を廃止して合議制の宗務院を設け、教会を国家権力の統制下に置かせた。皇帝の代理人である俗人の総監に指導される宗務院は聖務に対する広範な権限を有するようになり、教会は国家の一機関と化した。聖界領地は国家管理とされ(エカチェリーナ2世の時代に国有地化)、独自の収入を断たれた聖職者たちは国家からの給与に依存することになり、従属の度を深めた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ロシアの東方拡大とともにロシア正教会も東方へと進出し、ウラル・ヴォルガ地方の諸民族そしてシベリア先住民の正教への改宗が進められた。ウドムルト人、チェレミス人、ヤクート人といった民間信仰の民族に対しては正教への改宗は順調だったが、ムスリムに対しては概して上手くゆかなかった。タタール人の上級階級の正教受容は一定の成功を収め、彼らはロシア貴族化したが、民衆はごく一部が改宗したのみで、それも表面的に洗礼を受けただけの者が多く、後に棄教者が続出する事態が起こっている。バシキール人は改宗に強く抵抗して反乱を繰り返し、19世紀後半にロシアの版図に入った中央アジアのトルキスタン総督府では正教会による宣教自体が禁止されていた。このような動きに危機感を持った正教会では、19世紀後半にイリミンスキー(ロシア語版)が洗礼タタール人に対する現地語、習慣を尊重した教育活動を行い、この方式が政府に採用されてイリミンスキー・システムと呼ばれるキリスト教化した異族人全般に対する教育制度が構築されることになる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "帝政時代のロシア正教会の伝道活動は国外にも及んでおり、聖インノケンティ・ヴェニアミノフはロシア領アラスカ初の主教となり、先住民への伝道を行った。1868年にアラスカが売却されるとロシア正教会はアメリカ合衆国へと進出して1872年にサンフランシスコ、1905年にはニューヨークに主教座が設けられている。日本へは、1861年に宣教師ニコライが来日して、後の日本ハリストス正教会の基礎を築いている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "ロシア帝国は征服した土地の異宗派信徒や異教徒の改宗自体はさほど重視していなかったが、ロシア語と正教を強制するロシア化政策が強化された19世紀後半のアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務院総監の指導のもとで、カトリック・プロテスタント・アルメニア教会への規制強化と正教への改宗が促され、中央アジアのタタール人に対しては半ば強制的な正教への改宗が行われた。1905年革命によって信教の自由が認められると多数の人々がカトリック、プロテスタントそしてイスラム教に改宗・復帰している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "帝政下のロシア正教会では綱紀の紊乱や村司祭の貧困といった問題が深刻化しており、19世紀後半になるとこれら諸問題を解決するための教会改革を求める運動が起こり、この動きが1905年革命の際の地方公会(1681年に廃止)再開と総主教制復活の要求に結びついた。二月革命で帝政が倒れた直後の1917年8月に地方公会が開催されてティーホンが総主教に選出されるが、この後、ロシア正教会は無神論のソビエト政権下で厳しい迫害と宗教活動の制約を受けることになる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "20世紀はじめ頃のロシア正教会の上座には3人の府主教(サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフ)、14人の大主教、50人の主教がいた。1912年時点の数値によるとロシア国内には正教会の教会と礼拝堂が60,000、公認された修道院298、女子修道院400があり、司祭45,000人、長司祭2,400人、輔祭15,000人、修道士・修練士17,583人、修道女・見習い修道女52,927人の聖職者がいた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "17世紀の総主教ニーコン(英語版)の典礼改革を巡ってロシアの正教会では分裂が生じ、ツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)と対立したニーコンは失脚したが、同時に改革反対派も正教会から破門を受けた。ロシア伝統の典礼を護持する彼らは古儀式派(スタロオブリャージェストヴォ:Старообрядчество)と呼ばれた。古儀式派は激しい迫害を受けるが、ピョートル1世の教会改革によってロシア正教会に対する統制が強められると勢力を伸ばすようになり、国民の3分の1から5分の1が古儀式派に属するようになった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "古儀式派はロシア正教会から分離した際に主教を欠いていたため司祭の叙階が困難になり、17世紀末頃に司祭の存在を前提とする司祭派(英語版)と無用とする無司祭派とに分裂した。無司祭派は狂信の度を深めて無数に分裂を繰り返し、勢力を弱めている。18世紀後半のエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代には古儀式派に対する弾圧が緩められたが、ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に再び弾圧を受けるようになり、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務総監の指導のもとで迫害が行われた。司祭派はこれらの迫害を耐えて1881年に政府の公認を受けている。1897年の国勢調査によると総人口の15%にあたる1750万人が古儀式派であった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "グルジアには5世紀以来の独立教会グルジア正教会が存在していたが、19世紀にグルジアが併合されるとグルジア正教会の独立が否定されて総主教も廃止されている。ロシア人の大主教が派遣され、礼拝でのグルジア語の使用も制限されており、これに反発した民衆蜂起への報復としてさらなるロシア化が強制されている。グルジア正教会が独立を回復するのは1917年の二月革命後であり、ロシア正教会が正式にこれを認めたのは第二次世界大戦中の1943年のことであった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ポーランド人とほとんどのリトアニア人はローマ・カトリックである。ウクライナ人、ベラルーシ人の一部は東方典礼カトリック教会、アルメニア人の一部はアルメニア典礼カトリック教会(英語版)に属していた。エストニア人を含む全ての西部フィン人、ドイツ人そしてスウェーデン人はプロテスタントであり、ルター派はバルト地方、イングリアそしてフィンランド大公国での支配的宗派であった。アルメニアには独自のアルメニア使徒教会が存在する。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1721年のニスタット条約でロシアに編入されたバルト地方のルター派教会は存続を保障され、1809年にロシアの属国となったフィンランド大公国の教会も同様の措置が取られた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "18世紀末のポーランド分割で併合されたウクライナおよびベラルーシの合同派教会(ウクライナ東方カトリック教会)に対しては正教会への復帰が強制されており、強い抵抗とこれに対する迫害が繰り返されることになる。1861年にワルシャワにおいて総督府の兵士と民衆との衝突が発生した際にカトリック教会、プロテスタント教会そしてユダヤ教寺院が合同で教会を閉鎖する抗議行動を起こして総督を辞任に追い込んでいる。1863年から1864年にかけてポーランド・リトアニアで起こった大規模な武装蜂起(一月蜂起)が鎮圧されると、ロシア政府は蜂起にカトリック教会の聖職者が関与していたとして規制が強化されて修道院の大半が閉鎖され、弾圧に抗議する司祭が追放されたためポーランド王国内で実質的に活動する教区が僅か1つとなる事態になっている。1882年にアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)と教皇庁との間で政教条約(コンコルダート)が結ばれたものの、ポベドノスツェフ宗務総監の宗教政策により、この合意は無効同然にされた。アレクサンドル3世の時代には、それまで寛容であったバルト地方のルター派教会に対しても規制が強められている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "19世紀にロシアの統治下に入ったアルメニアは4世紀以来の長い歴史を持つ独自のアルメニア使徒教会が存在しており、正教会に併合されることなく存続を許されていた。アレクサンドル3世の時代にはアルメニア使徒教会も迫害を受け、ロシア化政策により1885年に教区学校が閉鎖された。ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)治世には、1896年に図書館・友愛団体も閉鎖され、1903年には教会財産が没収される「アルメニア教会の危機」と呼ばれる事態になっている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "帝政時代のロシアでは霊的キリスト教系のさまざまな諸派(主流派正教会の観点からは異端、分離派あるいはセクト)が生じており、有力なものにはドゥホボール派や信者が100万人に達したモロカン派がある。またこの時代に誕生し極端なセクトと呼ばれていた教派の事例としてはフルイスト派(鞭身派)やスコプツィ派(去勢派)が知られる。これらのセクトは反社会分子として迫害を受けた。だが、現在も存続している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ヴォルガ・ウラル地方のタタール人とバシキール人そしてアゼルバイジャン人を含むカフカース諸民族の一部、中央アジア諸民族はムスリム(イスラム教徒)であり、この内キルギス人は土俗のシャーマニズムをイスラムの信仰と合わせ持っている。ムスリム以外の非キリスト教徒にはラマ教徒のカルムイク人や、シャーマニズムのサモエード人をはじめとするシベリア諸民族がいた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "16世紀中頃、イヴァン4世(在位1533年 - 1584年)のカザン・ハン国、アストラハン・ハン国の併合以降、ロシアはムスリム社会を内包するようになった。イヴァン4世は征服地にカザン大主教座を置き、強制的な改宗が試みられたが、すぐに撤回している。正教に改宗したタタール人は僅かであり、彼らはクリャシェンと呼ばれた。ピョートル1世はタタール人の司祭をつくるべく神学校を開設させたが失敗した。18世紀に入ると新規改宗者取扱局が置かれてクリャシェンの監督とムスリムに対する抑圧が行われ、カザンでは536あったモスクのうち418が取り壊されている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代にクリミア・ハン国が併合されて多くのクリミア・タタール人がロシアの支配に入った。エカチェリーナ2世は宗教寛容政策を採り、それまでの抑圧策を廃止してムスリムを統治体制に組み込む方針に転換させた。1789年にムスリム宗務協議会がウファに設立され、この行政組織を通じてウラマー(イスラム法学者)の統制やシャリーア (イスラム法)の執行、モスクの管理が行われるようになった。1831年にクリミア地方を管轄するウヴリーダ・ムスリム宗務理事会、1872年にザカフカース・ムスリム宗務理事会がそれぞれ開設されている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "18世紀末から19世紀前半にかけてカフカースが征服され、北カフカースの山岳民族やザカフカースのアゼルバイジャン人といったムスリムがロシアの支配に組み込まれた。アゼルバイジャン人に対する改宗の試みは成果なく、同化政策に対する反発を引き起こしている。北カフカースの山岳民族は長期にわたってロシア人の支配に抵抗した(カフカース戦争)。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "早くにロシアの支配に入ったヴォルガ・タタール人の商人や企業家は言語・宗教の同質を利用してイスラム諸国との貿易に活躍して財を蓄え、ロシアにおけるムスリム社会の経済発展そしてイスラム文化復興に貢献している。ロシアのウラマーの多くは中央アジアに留学しており、ブハラ・ハン国で中心的だったスーフィズムがロシアでも盛んになった。19世紀に入ると中央アジア礼賛に批判的なウトゥズ・イマニーや法源を主体的に解釈するイジュティハードを主張するクルサヴィーによるイスラム改革運動が生まれている。この一方で、裕福なタタール商人をはじめとするムスリムの知識階層も形成され、ロシア式教育が行われるようなり、彼らは飲酒をはじめとするロシア文化を受容しており、厳格なスーフィズム教団やウラマーの改革運動とは距離があった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "19世紀後半になるとカフカース戦争の激化とともに政府のムスリムへの警戒が強まり、アラビア文字、トルコ語出版物への規制が行われた。この時期にメルジャーニーやチュクリー、ナースィリーがロシア文化受容を唱え、ウラマーの改革運動とムスリム知識人を取り結ぶ動きが起こっている。そして、ガスプリンスキーがマドラサの伝統教育に代わる近代的な新方式学校の設立と共通トルコ語使用の運動を起こし、これが19世紀末から20世紀のムスリム社会の近代化を目指したジャディード運動に結びついた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1860年代から1880年代にかけて中央アジアがロシアの版図に組み入れられ、これらの地域のムスリムもロシア帝国の臣民となった。ロシア帝国は彼らを異族人と規定して、ムスリム社会の風俗慣習に基本的に立ち入らない政策を採っている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1905年革命が起こるとムスリムの政治運動も活発化し、ロシア・ムスリム大会が開催され、ロシア・ムスリム連盟(英語版)が発足した。ロシア・ムスリム連盟は立憲民主党と共同歩調をとり、ドゥーマ(国会)に議員団を送り込んでいる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "13世紀のカリシュ法以降、ユダヤ人に寛容だったポーランド・リトアニアの領土が、18世紀末のポーランド分割でロシアに併合されたことにより、ロシア帝国は世界有数のユダヤ人人口を抱える国となった。ユダヤ人はウクライナ、ベラルーシそしてリトアニアに集中しており、1897年の国勢調査では521万人になっている。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は「ジード」の卑称を用いず「エブレイ」(ヘブライ人)と呼び、ユダヤ人に権利と自由を保証したが、都市行政から排除し、1791年には移動制限を課している。1835年に定住地制度が定められ、ユダヤ人は指定された定住区域に居住することを義務づけられた。ユダヤ人の中には貴族に取り立てられる者や企業活動・芸術分野で活躍する者もいたが国政に参画することは許されなかった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の大改革の際にはユダヤ人に対する規制が緩和されたが、1881年の皇帝暗殺事件の犯人の中にユダヤ人女性が加わっていたことが明らかになるとポーランドやウクライナでユダヤ人を襲撃するポグロムが巻き起こった。ロシア政府はこの事態を黙認する態度をとり、「ユダヤ人=搾取者説」が流布されて虐殺が助長された。事件後にユダヤ人臨時条例が制定されて農村移住・不動産取得が禁止された。19世紀末には中・高等教育機関のユダヤ人の数に制限がかけられ、ゼムストヴォ(地方自治機関)からも排除されている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1903年から1906年にかけて再び大規模なポグロムがあり、ベッサラビアでのユダヤ人襲撃を契機にウクライナ・ロシア西部に広まった。これには極右団体だけでなく警察や軍隊まで関与している。これらの迫害によって150万人のユダヤ人がロシアを去って北米・西欧へ移住しており、やがてイスラエルの地に祖国の再建を目指すシオニズム運動へとつながることになる。彼らの移住はフランク・ゴールドスミスなどが支援した。また、数多くのユダヤ人が革命運動に参加しており、その中にはカーメネフ、スヴェルドロフそしてトロツキーといったボリシェヴィキの指導者たちもいた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ロシア帝国の時代には、ロシア固有の文化と西欧の文化が融合した独自の文化が発達した。それらの多くは現代でもロシアの文化を代表するものとして親しまれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ロシア帝国の宮廷では教養言語としてフランス語が用いられたが、一方でロシア語での文学活動も活発となっていった。ピョートル1世(大帝)は、キリル文字の改革に取り組み、幾度も改訂を重ねたのち、1710年1月に「新しいアルファベット」を制定した。伝統的なキリル文字の使用は教会関係に限定され、以後、あらゆる機会を通じて「市民的な字体」が普及していくこととなった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "ロシアにおける近代文学の嚆矢とされるのがアレクサンドル・プーシキンである。『ルスラーンとリュドミーラ』や『バフチサライの泉』、ピョートル大帝を描いた『青銅の騎士』などロマン主義的な詩を書き、小説では『スペードの女王』やプガチョフの乱に題材をとった『大尉の娘』をのこした。彼は首都を追放されキシナウを経てオデッサで暮らしたが、皇帝ニコライ1世が彼をサンクトペテルブルクに召喚して「デカブリストの乱のとき帝都にいたらどうしたか」を尋ねたのに対し、「反乱の仲間に加わっていただろう」と答えた逸話で知られる。プーシキンは流刑を解かれたが、『大尉の娘』ではプガチョフを好意的に描き、また、『プガチョフ反乱史』を執筆した。彼は、美しい妻ナターリアをめぐるフランス亡命士官ジョルジュ・ダンテスとの決闘によって1837年に亡くなるまで数々の古典的名作をのこし、文章語としてのロシア語の完成に寄与した。プーシキンはそのため、しばしば「ロシア国民文学の父」と評される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "専制権力との緊張関係を通して文学がその力を得ていき、プーシキンが切り開いた道からは多数の詩人や作家があらわれた。ロマン主義的傾向の強いプーシキンに対し、写実主義の影響を強く受けたのがフョードル・ドストエフスキーとニコライ・ゴーゴリであった。ドストエフスキーは『貧しき人びと』『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などの作品で知られる。ペトロパヴロフスク要塞の監獄やオムスクの監獄に収監されたドストエフスキーは、検閲と戦いながら次々と大作を発表した。ゴーゴリは、『鼻』・『検察官』・『死せる魂』などの作品をのこした。ロシア・リアリズム文学の祖といわれるゴーゴリの作品は、そのの幻想性や細部の誇張、また、グロテスクな描写などでは20世紀文学にあたえた影響も大きい。イワン・トゥルゲーネフもまたリアリズムに立った文学者で、ロシアの農奴制がもつ矛盾や苦悩するインテリゲンツィアの姿を多くの作品で描いた。とくに1852年の『猟人日記』は、皇太子アレクサンドル(のちのアレクサンドル2世)に農奴解放令を決心させた作品といわれ、日本では二葉亭四迷の翻訳『あひゞき』としても知られる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "自然主義の影響を強く受けたレフ・トルストイは、クリミア戦争では将校として従軍し、このときの経験がのちの非暴力主義に影響をあたえたといわれる。『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』などの作品は、世界中に愛読者をもち、何度も演劇化や映画化のされてきた傑作である。トルストイは、1901年、ロシア正教会から破門されたが、作家としての名声は衰えず、読者からの支持はかわらなかった。1909年から1910年にかけてはインドのガンディー(マハトマ・ガンディー)と文通しており、日本の文筆家では徳富蘇峰や徳富蘆花などと面会している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "社会主義リアリズムの手法をはじめたマクシム・ゴーリキーは放浪者や浮浪人など社会の底辺で生きる人びとの人間としての誇りを主題とする多くの作品をのこした。ゴーリキーの作品としては戯曲『どん底』が有名で、日本語にも翻訳されて明治・大正期にかけて日本文学にも影響をあたえたといわれる。レオニド・アンドレーエフも日本文学に影響をあたえたひとりであり、『七死刑囚物語』は翻訳されて、その影響は夏目漱石や志賀直哉作品にもおよんだ。ロシアでは比較的無名なミハイル・アルツィバーシェフも大正期の日本文学に影響をあたえた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "戯曲では自然主義の影響を強く受けたアントン・チェーホフが著名であり、『桜の園』、『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』などの作品を残した。チェーホフは、1890年にはサハリンの流刑囚の生活を調査するためシベリア経由で現地に入り、カードを用いて徹底的に調べあげ、ルポルタージュ作品『サハリン島』を著している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ロシアでは中世を通じてイコンが描かれ、王侯貴族の肖像画や肖像彫刻さえその制作が禁忌とされてきたが、さかんに西欧化を進めてきたピョートル大帝のころから、世俗絵画が隆盛をみるようになってきた。また、現在のエルミタージュ美術館のコレクションにみられるように、歴代の皇帝や貴族はこぞって西欧の美術品の収集に努めた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "エカチェリーナ2世統治下では、フランスのエティエンヌ・モーリス・ファルコネ(英語版)が啓蒙思想家ドゥニ・ディドロの紹介でロシアに招かれ、女帝の命でピョートル大帝騎馬像(「青銅の騎士」像)を制作した。18世紀ロシア美術は総じてフランスの影響が強かったといえる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "ロシア美術の殿堂としてサンクトペテルブルクに帝国芸術アカデミーが創設されたのは1757年、モスクワに美術・彫刻・建築専門学校が設立されたのは1832年のことであった。1860年代のアレクサンドル1世による「大改革」の時代には、ロシア各地よりさまざまな階層の美術青年が帝国アカデミーに集まったが、イタリアを至高の芸術対象とするアカデミーの教授法・芸術観とのあいだで軋轢が生じ、イワン・クラムスコイをはじめとする14人の画学生が作品の出品を一律なものではなく自由なテーマとするよう求め、それが叶わなければ揃って退学するという示威行動を起こし、結局のところ13人が退学した(「14人の反乱」)。クラムスコイは、美術家たちの同業者団体「美術家組合(ロシア語版)」の事務所とアトリエをペテルブルク郊外のヴァシリエフスキー島(Vasilyevsky Island)に構えて創作活動にいそしんだ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "クラムスコイをリーダーとする一群から、ロシアの歴史や民衆の生活を写実主義的な手法で表現し、社会悪を訴え、各地で移動展覧会をひらく画家グループが登場した。それが移動派である。移動展覧会の提案は、モスクワから「美術家組合」に参加したグリゴリー・ミャソエードフ(ロシア語版)よりなされた。クラムスコイもこれに賛同し、1870年、「移動美術展覧会協会」が設立された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "移動派による移動展覧会は1871年から1923年にかけて48回ひらかれた。開催地もサンクトペテルブルクやモスクワだけではなくキエフやハリコフ、カザン、オリョール、リガ、オデッサなどの諸都市におよんでいる。第1回の展覧会には、ニコライ・ゲー、ミャソエードフ、クラムスコイ、イラリオン・プリャニシニコフ、アレクセイ・サヴラソフなどの作品が出品された。また、第2回の展覧会にはクラムスコイの代表作「荒野のイイスス・ハリストス」が出品されている。民衆の救済のために命を捧げたハリストス(イエス・キリスト)の像は、「ヴ・ナロード(人民のなかへ)」という運動の思潮にも合致していた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "移動派の同人はリアリズムに立つ芸術家として、その活動が世界的にも注目を浴びた。民衆の貧しさだけでなく美しさを、苦しみだけでなく忍耐や力強さを描いた作品は大きな共感をもってむかえられたのである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "移動派の画家のなかで欠くことのできない芸術家としてイリヤ・レーピンがいる。ウクライナのハリコフ県に生まれたレーピンはペテルブルクの美術学校でクラムスコイに才能を見いだされて激励を受け、また、「民族芸術の創造」というクラムスコイの思想にも共鳴して美術家組合にも参加した。1873年にはアカデミーの給費生としてヨーロッパに留学し、フランス印象派の影響も受けたが、それのみには飽きたらず、「ヴォルガの舟曳き」「クールスク県の十字架行進」「農作業をするトルストイ」「イワン雷帝と皇子イワン」「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック」など社会的な大作、また、歴史画や風俗画の数々を発表した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "移動派の中心となったクラムスコイ、レーピン、ゲー、スーリコフらを支援し、作品を購入しつづけたのが、モスクワ在住の豪商パーヴェル・トレチャコフとその兄セルゲイ・トレチャコフであった。兄のコレクションを相続したパーヴェルはのちに美術館をひらき、コレクションも含めてモスクワ市に寄贈した。これが、現在のトレチャコフ美術館である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "同じころ、モスクワのアブラムツェヴォに所在する実業家サーヴァ・マモントフの屋敷では、「ロシアのメディチ」とも呼ばれたマモントフの庇護のもと、ロシアの伝統的な民族文化を保護し、復興させようという美術家集団「美術家連盟」が結成された。イリヤ・レーピンもこれに加わり、ヴァスネツォフ兄弟、ミハイル・ネステロフ、ヴィクトル・ハルトマンらが活動した。このグループは、陶器や工芸品など、その後の造形芸術の発展にも大きく寄与した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "19世紀後半から世紀末にかけてのロシア美術は、激動する社会の影響を受けて多様に展開した。ロシアの印象派を代表するのがコンスタンチン・コローヴィンであり、象徴主義を代表するのがミハイル・ヴルーベリである。1899年に、アレクサンドル・ベノワ、レオン・バクスト、セルゲイ・ディアギレフの3者によってペテルブルクで創刊された美術雑誌「芸術世界」は、移動派批判を展開し、アール・ヌーヴォーの装飾美術や舞台美術を創り出した。「芸術世界派」と呼ばれるアーティストにはコンスタンティン・ソモフ、ワレンチン・セーロフ、ボリス・クストーディエフ、イヴァン・ビリビン、イーゴリ・グラーバリ、セルゲイ・スデイキン、ニコライ・リョーリフらがいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界ではパブロ・ピカソやアンリ・マティスらをはじめとして多様な抽象芸術が生まれたが、ロシアにおいてもワシリー・カンディンスキーがあらわれ、しばしば抽象絵画の祖といわれる。カンディンスキーは1912年には美術理論書『芸術における精神的なものについて』を刊行し、1914年には連作『コンポジション』を発表した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "帝政時代、ロシアの音楽は飛躍的な発展を遂げた。西欧の音楽技法を受容しつつも、伝統的な音楽の要素を生かし、独自の位置を占めた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "ロシア音楽は16世紀なかばに高名な聖歌の作曲家が輩出し、独特な記譜法を用いて聖歌集が編まれ、そこでは独自の多声法が用いられるなどロシア独自の発展を遂げていたが、17世紀中葉のモスクワ総主教ニーコンの改革などを通して従来の伝統が覆され、ポーランドやウクライナから西欧的な楽曲も流入し、帝政ロシア開始のころには単純な三和音の音楽が広がっていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "ピョートル1世は直接ヨーロッパ音楽を輸入し、そののち歴代の皇帝はパリやウィーンなどから音楽家や舞踊家を招いてロマノフ朝の宮廷にバレエやオペラを導入した。特に啓蒙専制君主エカチェリーナ2世の時代には、バルダッサーレ・ガルッピ、トンマーゾ・トラエッタ、ジョヴァンニ・パイジエッロ、ジュゼッペ・サルティ、ドメニコ・チマローザなど名だたるイタリア・オペラの作曲家が相次いで宮廷楽長として招かれ、サンクトペテルブルクに長く滞在してロシア人楽士を薫陶した。ロシア人音楽家のなかにはイタリア留学を命じられる者もあり、ウクライナ生まれのマクシム・ベレゾフスキーは1771年にボローニャのアカデミア・フィラルモニカ・ディ・ボローニャの正会員に認められた。楽聖ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが同アカデミアの会員となった翌年のことであり、ベレゾフスキーに出された試験の課題はモーツァルトに出されたものと同じだったという。また、イタリアで研鑽を積み、ロシアで長年宮廷楽長を務めた人物にドミトリー・ボルトニャンスキーがいる。イタリア時代の彼は地元のオペラ劇場で実際に上演されるオペラの作曲をいくつも手がけるほどイタリア・オペラに精通していた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "19世紀、ロシアは音楽文化の面でも国際的な水準の作品を生み出すにいたるが、その最大の功労者がミハイル・グリンカである。グリンカは、ムツィオ・クレメンティとともにペテルブルクに来たアイルランド人ジョン・フィールドにピアノの手ほどきを受け、正規の音楽教育こそ受けなかったもののヴァイオリン、声楽、指揮、作曲などをひととおり学んでイタリアでも勉強してオペラ作曲家として名をあげるようになった。しかし、西欧音楽を吸収していく過程でロシア人音楽家としての自覚が高まり、ロシア的な作品をつくりたいという願いが高まったため、ベルリンで音楽理論家として知られたジークフリート・デーンに師事して音楽理論を大成させたうえで帰国した。しばしば「ロシア近代音楽の父」と称されるグリンカは、愛国的なオペラ「皇帝に捧げた命」に続いて民話に題材をとったオペラ「ルスランとリュドミラ」、さらに管弦楽曲「カマリンスカヤ」などの作曲をおこなった。「ルスランとリュドミラ」では、ロシア民謡のみならず、ロシア帝国内に多数居住するムスリムの諸民族の音楽を取り入れてロシア音楽における一大特徴ともいえるオリエンタリズムの基礎をつくった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "名門貴族の子息として育ったアレクサンドル・ダルゴムイシスキーは、当初サロン音楽の分野で有名であったが、帰国したグリンカと知り合い、その影響下でロシア語のイントネーションを音楽化する方法を研究し、「ルサルカ」「石の客」などのオペラにその成果を反映させた。ダルゴムイシスキーは、音楽史的にはしばしば、グリンカと「ロシア5人組」との橋渡しをした存在と目される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "ユダヤ系の商人の家庭に生まれたアントン・ルビンシテインとニコライ・ルビンシテインの兄弟は、フィールドの弟子のヴィルアーンにピアノを習い、ヨーロッパでデビューしてロシアのピアニストとしてはじめて世界的名声を博した。とくにアントンは、「ピアノの魔術師」フランツ・リストと並び称される巨匠として扱われた。それに対し、弟ニコライはチャイコフキーの親友としても有名である。ライバル同士でもあった2人は、1859年から1860年にかけて、帝室の支援を受けてペテルブルクとモスクワにそれぞれロシア音楽協会を設立し、その附属施設としてペテルブルク音楽院を1862年、モスクワ音楽院を1866年に創設した。ペテルブルクはアントン、モスクワはニコライが主導し、これにより、両首都に定期的な演奏活動が定着し、音楽の職業教育が確立した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "数学を専攻していたカザン大学を退学後、ペテルブルクでグリンカに会い、音楽に進むことを決心したというミリイ・バラキレフは、芸術評論家ウラディーミル・スターソフと親交を結び、1856年に軍事技術アカデミーに勤務する貴族の音楽愛好家ツェーザリ・キュイと出会って積極的な音楽活動をはじめた。バラキレフは、1857年には若い陸軍士官モデスト・ムソルグスキーを弟子として受け入れ、1861年には海軍士官ニコライ・リムスキー=コルサコフを、1862年には医学アカデミーの化学者アレクサンドル・ボロディンを迎え入れて、スターソフの理論的な支援を得て彼らを指導し、ルビンシテイン兄弟主導による官製のロシア音楽協会に対抗した。ペテルブルクに結成されたこの音楽家集団を、バラキレフも含めて「ロシア5人組」または「ロシア国民楽派」と呼んでいる。彼らはみずからを「新ロシア楽派」と称し、反西欧・反プロフェッショナリズム・反アカデミズムを標榜した。1862年にバラキレフとキュイが中心となって始められた無料音楽学校は、広く首都の市民を集めてアマチュアの音楽教育を普及させた。無料音楽学校の運動は財政的基盤に乏しく、経済的にしばしば危機に陥ったが、ロシア革命の起こる直前まで全ロシアで活動をつづけた。彼ら5人はまた、バラキレフをのぞいて、全員が音楽とは別にれっきとした職業をもち、音楽家としてはいわば素人あがりであり、いずれも大貴族の出身であった。ロシア5人組の作品としては、ムスルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」とピアノ組曲「展覧会の絵」、ボロディンのオペラ「イーゴリ公」、R=コルサコフの交響組曲「シェヘラザード」などがとくに有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "ペテルブルク音楽院の最初の卒業生となったピョートル・チャイコフスキーは、卒業と同時にモスクワのニコライ・ルビンシテインに招かれ、モスクワ音楽院の教授となった。ロシアが生んだ世界的な作曲家であるチャイコフスキーの音楽は、当初民族主義的傾向の濃厚なものであったが、彼を特徴づけるのはむしろ主観的な叙情性であり、数々の管弦楽曲のほかに「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」などのバレエ音楽で知られる。チャイコフスキーはしばしばロシア5人組と対比されるが、「5人組」がいずれも大貴族出身で音楽を生活を糧にする必要がなく、音楽をむしろ神聖な芸術と考えたのに対し、チャイコフスキーは資産のない官僚上がりの一代貴族の子息であり、商人出身のルビンシテイン兄弟同様、音楽に進んだ以上はそれで生計を立てていかなければならなかった。その意味でチャイコフスキーは、音楽上、職業主義を標榜せざるをえず、音楽に向かう姿勢もまた職人的であった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "アントン・ルビンシテインがペテルブルクを離れて欧米で華々しい演奏活動を開始したのは1867年のことであった。ロシア5人組では、ロシア音楽協会の音楽監督を後継したバラキレフが帝室との関係がうまくいかなくなり、1871年には音楽協会を離れて給与生活者となった。また、音楽院で作曲を担当したR=コルサコフは正規の音楽教育を受けたことがなかったため、しばらく音楽理論の修得に専念しなければならなかった。それに対し、1870年代に円熟期に入ったチャイコフスキーは80年代には世界的な音楽家として知られるようになった。R=コルサコフの作曲活動が円熟期をむかえるには1880年代後半を待たねばならず、それまではチャイコフスキーの作曲活動が目立っていたのである。1893年のチャイコフスキーの死去後、R=コルサコフのオペラ作曲家としての活躍が目立つようになり、その晩年には、毎年のように名作オペラを発表した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "19世紀末から20世紀初頭にかけては、モスクワからセルゲイ・ラフマニノフ、アレクサンドル・スクリャービン、そしてペテルブルクからはイーゴリ・ストラヴィンスキーとセルゲイ・プロコフィエフが登場した。また、世紀末には不世出の名歌手で「歌う俳優」との異名をとったフョードル・シャリアピンが現れている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "19世紀後半はロシアの伝統音楽でも革新のなされた時代であり、「バラライカの父」といわれるワシーリー・アンドレーエフはバラライカの改良に生涯を賭し、それにドムラとグースリの両弦楽器を加えて、1896年、最初のロシア民族楽器オーケストラを結成した。ロシア民謡も得意であった歌手シャリアピンはアンドレーエフと親交をもち、また、バラライカに対する造詣も深かった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "フランスの宮廷文化として発展してきたバレエは、フランスでは大衆化とともに低俗化して廃れたが、ロシアでは、フランスの宮廷バレエが伝わり、貴族のたしなみとしての社交ダンスの奨励と歴代皇帝の舞踊庇護を受けて発展した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "1738年、フランス人ジャン・バティスト・ランデの主唱のもと、女帝アンナ・イワノヴナによってペテルブルクにロシア初のバレエ学校が設立された。それが帝室演劇舞踊学校(現在のロシア国立ワガノワ・バレエ・アカデミー)である。こののち、ロシアのバレエダンサーたちはオーストリア出身のF・ヒルフェルディングやイタリア人G・カンツィアーニなど外国人教師たちの指導のもとでバレエを学んだ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "1783年、エカチェリーナ2世の勅命によってペテルブルクにボリショイ・カーメンヌイ劇場がオペラ・バレエ専用の劇場として建造された。なお、ペテルブルクでは、1859年にマリインスキー劇場が建造され、ボリショイ・カーメンヌイ劇場が老朽化のため取り壊されたあと帝室劇場としての役割をにない、演劇舞踊学校によって育成されたバレエダンサーを中心に帝政ロシアのクラシック・バレエを主導した(マリインスキー・バレエ)。いっぽうのモスクワでも、18世紀中葉にはすでに貴族の邸宅で演劇や舞踊がおこなわれ、専用の劇場としてペトロフスキー劇場(英語版)も設けられて、これらはペテルブルクの帝室劇場の管理下に置かれるようになった。これが現在のボリショイ劇場であり、その起源は1776年にさかのぼる。いわゆる「ボリショイ・バレエ」は、1773年に始まったモスクワでの孤児院の児童へのバレエ教育を起源としており、帝室劇場となったボリショイ劇場が1825年に現在地に建てられ開場したのと同時にその附属のバレエ団として発展した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "1801年、著名なフランス人振付家でダンサーでもあったシャルル・ディドロがペテルブルクを来訪し、ボリショイ・カーメンヌイ劇場を中心に活動し、帝室舞踏学校の指導を引き継いだ。ディドロはナポレオン戦争の際フランスに一時帰国するが、その後も20年以上死去するまでロシアにとどまり、ダンサーのレベルを格段に向上させた。また、振付の才をロシアの地で開花させ、現在「ペテルブルク派」といわれるドラマティックなバレエスタイルの基礎を築いた。ディドロが育てたバレリーナにアフドチア・イストミーナ(ロシア語版)がおり、名花と謳われた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "1847年にペテルブルクを訪れたフランス人バレエ・マスターのマリウス・プティパは、19世紀後半をして「プティパの時代」と称するにふさわしい一時代を築いた。プティパは、マリインスキー劇場ではたらいた約60年のあいだに、チャイコフスキーやアレクサンドル・グラズノフ、チェーザレ・プーニ、レオン・ミンクスら多数の優れた音楽家たちの協力を得て『パキータ』『ジゼル』『ドン・キホーテ』『バヤデルカ』『眠れる森の美女』『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『ライモンダ』など46におよぶバレエ作品と数多くのオペラのための踊りを創作した。この時代はまた、チャイコフスキーが音楽を担当したことで、従来、舞踊の伴奏にすぎなかったバレエ音楽の質を飛躍的に高めた時代でもあった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "プティパの演出のなかでも1890年の『眠れる森の美女』と1895年の『白鳥の湖』第1幕・第3幕はとくに傑作といわれるが、プティパのアシスタントで『白鳥の湖』第2幕を担当したレフ・イワノフによる詩情あふれる振付は今日でもしばしば完璧な演出と評される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "1898年にはミハイル・フォーキンが帝室バレエ学校を卒業し、1904年から1916年にかけて母校で舞踊の指導にあたった。フォーキンは、バレエのフォームにおける真の基礎は人間の自然な動きにあるという信念に則って革新的なバレエ教育を実践した。彼もまた、「ショパニアーナ(レ・シルフィード)」やアンナ・パブロワのために振付けた「瀕死の白鳥」などの名作を残している。この頃活躍したダンサーにはロシア・バレエ界の名花アンナ・パブロワのほか、ヴァーツラフ・ニジンスキーやタマーラ・カルサヴィナ、オリガ・スペシフツェワなどがいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "20世紀初頭には、雑誌『芸術世界』の発刊者としても知られるイヴェント・メーカーのセルゲイ・ディアギレフによって、マリインスキー劇場のメンバーを中心とした「ロシア・バレエ団」(バレエ・リュス)がヨーロッパ各地で公演をおこなった。ロシア・バレエ団はしだいに西欧の芸術家たちをも巻き込みながら、その活動は大戦と革命をはさんだ20年におよび、芸術界に新風を送り込んだ。この活動は、バレエをオペラの一部としか考えてこなかった西欧人たちに衝撃をあたえ、その試みの斬新さやリヒャルト・シュトラウス、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロなどを含む当代一流の芸術家たちの参加によってヨーロッパの観客を熱狂させたのである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "「ロシア・バレエ団」のパリ公演は1909年に始まったが、そのときの目玉は不世出のバスとして知られた上述のシャリアピンが出演するロシア・オペラであり、当初、バレエは前面に出ていなかった。ただし、ニジンスキーとカルサヴァナが踊った「バラの精」「アルミードの館」はパリの観客にも好評で、ここに「バレエ団」の名が定着したものである。この公演にはアンナ・パブロワも参加したが、のちにディアギレフと不和になり、バレエ団から離脱した。パブロワは、1913年以降はロシアをも離れ、ヨーロッパや北米・南米、さらには日本・中国・インドを含むアジアを巡業してロシア・バレエの精華を各地に伝えると同時にインドや日本では地域伝統の舞踊を学んだ。ここに舞踊という身体表現の相互交流が世界的なスケールで展開されたのである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "ピョートル大帝が建設した首都サンクト・ペテルブルクが西欧の都市計画に従って建設され、さらに西欧各地の様式の建造物が造営された。それを機に、ロシアの建築は宮殿や劇場などを中心にバロック建築、ロココ建築や新古典主義など西欧の様式を取り入れた建造物が建てられた。一方で教会建築はおおむねビザンチン建築に由来する伝統的な様式とバロック・ロココ様式の融合された独自の様式のものが建設された。19世紀の様式氾濫期には他のヨーロッパ諸国同様に、新古典主義様式、ネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式の建造物が建設されたが、西ヨーロッパで見られた西方教会にみられるネオ・ゴシック様式の代わりに東方正教会にみられるビザンチン様式が使用されたことが西ヨーロッパと大きな違いである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "19世紀の自由主義運動・革命的知識人をインテリゲンツィアといい、ツアーリズムや農奴制などロシアの後進性を批判し、社会改革運動の中心となった。インテリゲンツィアはヴ・ナロードを掲げ、啓蒙とツアーリズム打倒の運動を繰り広げたが、農民には受け入れられたものの官憲の弾圧を受け、運動は挫折した。その後、バクーニンらの無政府主義やニヒリズム・テロリズムの活動へと分散した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "自然科学分野では、化学者のドミトリ・メンデレーエフが著名である。元素の周期律表を作成したことで知られるメンデレーエフは、石油産業の発展についても提言し、それまでバクーの発展を妨げていた石油生産地の独占賃貸制度の撤廃を強く訴えて、1872年、その廃止を実現させた。これにより、バクーにはスウェーデンの科学者でロシアで機械工場を所有していたノーベル兄弟がタンク車やタンカーなど機械部門で進出するなど、バクーの石油業が著しく発展した。 また、多段階ロケット理論を提案したコンスタンティン・ツィオルコフスキーもロシア帝国の末期に現れた物理学者である。彼のロケット理論や「地球は人類のゆりかごである。しかしゆりかごで人生を終えるものはいない」と人類の宇宙進出の提唱は当時は受け入れられなかった。しかし彼の思想はのちにソビエト連邦の人類初の人工衛星の打ち上げや有人宇宙飛行の成功に大きく寄与する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "ロシア帝国の臣民は貴族、聖職者、名誉市民、商人、町人、職人、カザーク(コサック)そして農民といった身分(sosloviye)に分けられる。カフカースの先住民やタタールスタン、バシコルトスタン、シベリアそして中央アジアの非ロシア系住民は異族人(英語版)と呼ばれる区分に公的に分類されていた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "1897年の国勢調査の結果によるとロシア帝国の身分別割合は世襲貴族・一代貴族・官吏(1.5%)、聖職者(0.5%)、名誉市民(0.3%)、商人(0.2%)、町人・職人(10.6%)、カザーク(2.3%)、農民(77.1%:都市居住農民を含む)、異族人(6.6%)、フィンランド人、外国人・身分不詳・その他(0.9%)となっている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の改革によって古くからの貴族階層(ボヤール:Боярин)が、モスクワ大公そしてツァーリに奉仕する小領主の士族階層(ドボリャンストボ(英語版):Дворянство)に吸収された。ロシア帝国では官吏や軍人として勤務することにより貴族になる道が開かれていた。官等表で定められた九等官になった文武官は一代貴族、そして武官は六等官以上、文官は四等官以上で世襲貴族になれた。また勲章を得ることでも貴族身分を取得することができ、世襲貴族の多くは受勲によるものである。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "ピョートル1世は従来の公爵(クニャージ:Князь)に加えて伯爵(Граф)と男爵(Барон)を設けている。公爵と伯爵は古くからの家柄の貴族と勲功のあった者に授けられ、男爵は主にバルト海沿岸部のドイツ系貴族に与えられており、全体的には爵位のない貴族が多かった。貴族は土地と農奴を所有する権利を有するが、一代貴族は国家勤務の俸給で生活しており土地を持たない者が多く農奴も所有できない。1858年頃のロシア帝国には約100万人の貴族がおり、農奴を所有できる世襲貴族は61万人になり、このうち実際に農奴を所有する者は約9万人であった。貴族として体面を保つには100人以上の農奴が必要とされるが農奴所有貴族のうち約78%は農奴所有数100人以下であり、100人以上の中流貴族は約22%、1000人以上の上流貴族は1%に過ぎない。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "ピョートル1世やエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は西欧宮廷文化の輸入・模倣をすすめ、貴族教育の制度も整えられた結果、18世紀末にはロシア貴族は完全に西欧化した。貴族や上流階級の間では当時の国際語であったフランス語やドイツ語が用いられるようになっている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "ピョートル1世は拡大する行政機構の官吏の必要のために貴族の国家勤務を強化して査閲を厳格化し、また「一子相続令」によって家領の分割を禁じ、当主以外の貴族子弟の収入を断ち国家勤務を事実上強制化した。だが、国家勤務は貴族にとって大きな負担であり、貴族の勤務忌避やサボタージュといった抵抗が後をたたず、アンナの時に一子相続令が廃止され、勤務年数も短縮されている。そして、ピョートル3世(在位1761年 - 1762年)が「貴族の自由についての布告」(貴族の解放令)を出して貴族の国家勤務義務が全廃された。上位官職に就いていた貴族は勤務を継続したが、多数の中小領主が地方に移り住み、領地の経営に専念するようになった。しかしながら、18世紀後半には貴族社会の中でも官等表の等級が家柄や財産よりも重んじられるようにもなっており、官吏の半数近くを貴族が占めるようになった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は貴族階層の支持を権力基盤とし、特権認可状が交付され、さらに広大な国有地が下賜されることによって貴族の黄金時代となった。地方行政も貴族に委ねられ、彼らは県・郡ごとに貴族団を組織して大きな影響力を持った。1861年の農奴解放後はその影響力を減じたが、郡・県ゼムストヴォやドゥーマ(国会)でも有利な選挙制度を与えられている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "聖職者身分は公認されたキリスト教の聖職者に与えられ、人頭税、体刑そして徴兵を免除されていた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "正教会の聖職者は独身の黒僧(修道士)と妻帯している白僧(在俗司祭)がいた。上位聖職者は黒僧が占め、白僧は町や村の司祭で叙任時点で妻帯していなければならないが、妻が死去した場合は再婚は許されなかった。在俗司祭の教養は概して低く、軽蔑の対象となっていた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の教会改革の際に「聖務規則」がつくられ、聖職者は皇帝への宣誓を義務づけられている。聖界所領の行政権を国家管理とされ、事実上国有化された結果、修道士たちは国家からの給与によって生活せざるを得なくなった。修道院の新設は禁じられ、修道士数も制限され、活動にも様々な規制が加えられた。世襲が許されていた在俗司祭職についても、新たに神学校での教育が義務づけられたが、ラテン語の暗記教育は効果が薄く、世襲を固定化して身分的閉鎖性を強めるだけの結果になった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "聖職者たちは国家の安全に関わる告解の秘密を報告することを命じられており、帝政時代の教会は国家の「侍女」と化していた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "名誉市民(ロシア語版)(Почётные граждане)はニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代の1832年に勃興しつつあったブルジョワジーに与える目的で創設された身分であり、人頭税、兵役、体刑を免除されていた。一代貴族や聖職者の子には世襲身分として与えられ、また高等教育を受けた者や14等官になった官吏、功労ある商人、芸術家にも終身身分として与えられた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "都市住民の身分には商人、町人そして職人があり、おのおの身分団体を組織していた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "商人(クペーツ:Купчиха)はギルドに所属している裕福な商人や手工業者であり、営業を止めれば身分を失う。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は都市住民を組織化して都市の自治権を裕福な市民に委ねた。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は商人を貴族・聖職者に次ぐ「第3身分」とするべく体刑と人頭税の免除や独占的営業権の特権認可状の付与により保護育成を図っている。やがて、農民身分出身の「農民=商人」(クレチャーニン=クペーツ)の台頭により、従来の商人身分層は衰え、1863年に全ての身分の者が商人身分に転換することが認められた。商人と貴族の一部そして農民身分出身の資本家がロシアにおけるブルジョワジー階層を形成した。商人は流動性の高い身分であったが、人口は20万人程度にとどまっている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "町人(メシチャニーン(ロシア語版):Мещане)と職人はエカチェリーナ2世が1755年に出した詔書により、商人身分から分けられた小売商人や零細手工業者であり、都市住民の大部分である。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "18世紀末のロシアの都市住民は198万人で、総人口に占める割合は4.2%に過ぎなかったが、帝政終焉時の1917年には2600万人となり、総人口の15.6%に達している。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "15世紀から16世紀に南ロシアやウクライナで形成されたカザーク(Казак:英語読みではコサック)は農業に従事せず漁業、狩猟そして略奪を生業とする軍事共同体であり、ロシア帝国の支配に組み込まれて以降は特別な軍事身分となった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "南ロシア・ドン川流域のドン・カザークはモスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国において有力な政治勢力を形成していた。ツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)の時代にドン・カザーク はラージンの乱(1670年 - 1671年)を起こして政府軍に鎮圧され、以降ドン・カザーク の自治は失われた。ドン・カザーク はピョートル1世(在位1682年 - 1725年)の1707年にもカザークの特権を守るべく蜂起している(ブラーヴィンの乱)。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "ヘーチマンを首領とする共同体(ヘーチマン国家)を形成していたウクライナのサポロジェ・カザークは17世紀のツァーリ・アレクセイの時代にポーランドの支配から離れてロシアの保護下に入った。大北方戦争の際にヘーチマン国家の首領イヴァン・マゼーパがロシアから離反したことにより自治が制限された。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の治世に入るとロシアの支配はさらに強められ、1764年にヘーチマン制が正式に廃止され、1785年までにヘーチマン国家体制は完全に廃止されて小ロシアと名付けられ、直轄支配に置かれた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "カザークによる最後の大反乱であるプガチョフの乱(1773年 - 1776年)以降、カザークは中央政府の管理下に置かれるようになった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "南部国境にカザーク軍管区が置かれて行政は軍事省の管轄とされ、騎馬に巧みなカザークは軍役(18歳から20年間)を課される代わりに土地割当の優遇を受けた。1827年以降、ロシア皇太子が全カザーク軍団のアタマン(首長)とされた。ロシア帝国は騎兵の中核戦力としてのカザーク軍団を編成するとともに、辺境防備のためにカザーク集団をシベリア、中央アジアそして極東に植民させている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "1916年時点で13軍管区、443万人(内軍人28万人)のカザークがいた。カザークは革命運動の弾圧に用いられ、ロシア内戦では多くのカザークが白軍に加わって戦っている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "ロシア帝国臣民の大部分は農民(クレチャーニン:Крестьяне)である。農民は国有地農民、聖界領農民(エカチェリーナ2世の時代に国有地化)、御料地(帝室領)農民そして領主農民(農奴)に分けられる。1858年の調査では農民人口の55%が国有地農民(男性9,194,891人)と御料地農民(男性842,740人)であり、45%が農奴(男性10,447,149人)であった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "農民身分では農村共同体(ミールまたはオプシチナ)と農奴解放後に組織された村団そして郷(ヴォロースチ)が身分団体にあたり、新規にこれに登録されることは事実上不可能であった。農村共同体は村長と村会からなる農民の自治組織で耕地、牧畜地そして森林は農村共同体の共同所有とされ、耕作地は村会の決定によって定期的に各農民に割替えられていた。農村共同体は体制側の統治の道具としての側面もあり、納税と徴兵は農村共同体の連帯責任であった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "農民は人頭税に加えて領主(国家、皇族、貴族)に対する貢租(生産物、貨幣)と賦役(労役)の義務を負っていた。伝統的な三圃式農業によるロシアの農業は気候の厳しさに加えて、農村共同体による土地利用は私的意欲が欠如し、機械化も肥料・品種改良の導入も進まず、収穫率は低いままで停滞した。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "ロシアの工業化の進展とともに多くの農民が都市で出稼ぎ労働者として働くようになったが、身分は農民のままである。これら農村からの出稼ぎ労働者は工場労働者の主力となり、19世紀末には新たな都市労働者階層を形成することになる。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "ロシアの農村共同体の起源については古くから論争が続いており、スラヴ派は原始・古代的共同体の遺制であると唱え、西欧派は近世になって人頭税の導入に関係して発生したとしている。ピョートル1世以前への回帰を唱えるスラヴ派は農村共同体の共同体精神を高く評価し、知識人は農村共同体を社会主義的理想に近似したものと捉え、ナロードニキは農村に入って農民たちに革命思想を啓蒙しようと試みている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "20世紀に入ると農村共同体は専制体制に抵抗する闘争拠点と化し、1905年革命の際には農村共同体が地主の追放を決め地主地を焼き討ちする運動が広まっている。これに加えて共同所有による生産性への弊害も多く、ストルイピン政権は農村共同体を解体して自営農(クラーク)を育成しようとする土地改革を図ったが、農民の強い抵抗を受けており、共同体を離脱した農民は20%程度に留まっている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "ロシアにおける農奴(крепостной крестьянин)は貴族の領地に住む土地に緊縛された農民である。15世紀頃までは農民の移転は自由であったが、農民の逃亡に苦しむ中小領主(士族)を保護すべく、ツァーリ・イヴァン3世(在位1462年 - 1505年)とイヴァン4世(在位1533年 - 1584年)の時代に移転期間制約と移転料が設けられ、やがて全面禁止となった。そして、1649年にツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)が定めた「会議法典」で、逃亡農民の追求権が無期限となったことで農奴制が法的に完成した。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は税収確保のために貴族のホロープ(家内奴隷)にも人頭税をかけてこの制度を消滅させたが、これにより農奴の社会的地位がさらに低下する結果となった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "啓蒙専制君主を自任するエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は即位当初には農奴制の改善を試みる意向を示したものの、貴族の支持を権力基盤とする彼女は農奴制をいっそう強化させている。エカチェリーナ2世は広大な国有地を貴族に賜与して約80万人もの国有地農民を農奴となし、彼女の時代に農奴制の全盛期となった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "国有地農民や御料地農民が人格面では自由であり保有地の処分もできたのに対して、農奴は領主の個人的所有物とみなされており、人格面での隷属を強いられ、領主から刑罰(シベリア流刑も含む)を受ける一方で領主を告訴する権利はなかった。生活に干渉されて結婚を強制されることもあり、農奴は売買の対象とされ、土地や家族と切り離されて売却されることもあった。農奴は国家に対する人頭税の他に領主に対して貢租(オブローク)もしくは賦役(バールシチナ)を課されており、黒土地帯では貢租が、非黒土地帯では賦役が主に課された。いずれも国有地農民や御料地農民よりも苛酷であり、賦役は領主直営地の農作業や工場・鉱山での労働で、週3日からほとんど毎日の場合すらあった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "18世紀後半になると農奴制はロシアの後進性の象徴として批判の対象になり、改革を目指したアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の非公式委員会では農奴制の廃止も議されたが、その実施は限定的で効果のないものに終わった。反動政治を行ったニコライ1世(在位1825年 - 1855年)も農業改革を考え、農奴への模範とするべく、国有地農民・御料地農民の待遇の改善を行い、地主が自発的に土地を農奴に分与する勅令を出したが、これに応じた者は僅かしかいなかった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "クリミア戦争の敗北によって、農奴制への非難が強まり、アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)は改革を決断し、1861年に農奴解放令が公布された。だが、この農奴解放は地主の利益に配慮した不徹底なものであった。農奴は人格的支配から解放され、土地も分与されたものの地主に有利な価格での有償であり、支払い能力のない農奴に代わって国家が立て替えたが、これにより元農奴は国家に対して49年賦の負債を課せられ、これを払い終えるまで一定の義務を負担する一時的義務負担農民となった。土地は個人に対してではなく農村共同体を基礎に新たに組織された村団に分与されて買戻金の支払いは連帯責任となり、農村共同体の役割がさらに強化されることとなった。加えて地主には土地の3分の1から2分の1が保留地とされたことで、元農奴はかなりの土地を切り取られている。元農奴は重い負担と土地不足に苦しめられ、元地主から耕地や金・穀物を借りることになり、その支払いのために元農奴たちは地主の畑を耕作し、農閑期には都市で労働者として働く経済的隷属に陥ることになった(雇役制農業)。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "異族人(英語版)(イノロードツィ:Инородцы)は民族的区分の法律用語である。ほとんどの場合、この用語はシベリア、中央アジアそして極東の先住民に対して適用されるものであった。この区分は特定の範疇の住民の扱いに対して、幾つかの帝国の法律を適用することは不適当と見なし、伝統的風俗習慣の保護を含む特別の法的地位を与えるべく導入されたものである。この用語は法令以外の分野で非スラヴ系諸民族に対して拡大的に用いられ、「野蛮人」「駄目な連中」という侮蔑的な意味も込められるようになった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "法的な異族人の定義はスペランスキーのシベリア行政改革の一環として、1822年に出された『異族人統治規約』『シベリア・キルギスに関する規約』が始まりである。異族人に対しては兵役の免除、放牧地の保護そして宗教と内政の自治権を含む特権と特別待遇が与えられていた。異族人の権利と義務は彼らの階級に従いロシア人と同等であるが、彼らの自治に関してロシア人と異なる幾らかの特権を有していた。遊牧を生業とする民族はロシアの農民と同等に取り扱われるが、自治と裁判は中央アジアにおける風俗習慣に従い、また彼らの使用するべきもの、もしくは財産として一定の土地が指定され、ロシア人の入植は禁止されていた。もっとも、現地総督府の農民入植推進の施策によりこの保護策は骨抜きにされている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "1835年にはユダヤ人も異族人に加えられたが、居住制限を受ける一方で兵役は課されている。", "title": "社会" } ]
ロシア帝国は、1721年11月から1917年9月まで存在した帝国である。現在のロシア連邦を始め、フィンランド、リヴォニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、コーカサス、中央アジア、シベリア、外満洲などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。 通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。 1917年の時点で、ロシア帝国はオーストリア=ハンガリー帝国をしのぐ最大のスラヴ人国家であった。
{{Otheruses||太平洋上にあるミクロネーション|ロシア帝国 (ミクロネーション)}}{{基礎情報 過去の国 |略名 = ロシア |日本語国名 = ロシア帝国 |公式国名 = {{native name|ru|Российская империя|italic=no}} |建国時期 = [[1721年]] |亡国時期 = [[1917年]] |先代1 = ロシア・ツァーリ国 |先旗1 = Flag of Oryol ship (variant).svg |次代1 = ロシア臨時政府 |次旗1 = Flag of Russia.svg |次代2 = ウクライナ人民共和国 |次旗2 = Flag of Ukrainian People's Republic 1917.svg |次代3 = ポーランド王国 (1916年-1918年) |次旗3 = Flag of Poland (1919–1928).svg |次代3略 = ポーランド王国 |次代4 = フィンランド王国 |次旗4 = Flag of Finland (1918–1920).svg |国旗画像 = Flag of Russia.svg |国旗リンク = |国旗説明 = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = Lesser Coat of Arms of Russian Empire.svg |国章リンク = |国章説明 = 帝国紋章 |国章幅 = |標語 = [[神は我らと共に (プロイセン)|{{Lang|ru|Съ нами Богъ!}}]]{{ru icon}}<br>''神は我らと共に!'' |国歌 = {{Lang|ru|Коль славенъ нашъ Господь в Сіонҍ}}{{ru icon}}<br>''シオンにおける主の栄光は''{{smaller|(1794年-1816年)}}<br>{{center|[[File:How Glorious Is Our Lord in Zion - For 2 Trumpets and 2 Trombones (Synthesized).ogg]]}}<hr>[[ロシア人の祈り|{{Lang|ru|Молитва русских}}]]{{ru icon}}<br/>''ロシア人の祈り''{{smaller|(1816年-1833年)}}<br>{{center| }}<hr>[[神よツァーリを護り給え|{{Lang|ru|Бо́же, Царя́ храни́!}}]]{{ru icon}}<br/>''神よ、ツァーリを護り給え!''{{smaller|(1833年-1917年)}}<br/>{{center|[[File:Bozhe, tsarya khrani!.ogg]]}} |国歌追記 = |位置画像 = Russian Empire (orthographic projection).svg |位置画像説明 = ロシア帝国の最大版図(1866年){{Legend|DarkGreen|領土}}{{Legend|#3BC03B|勢力圏}} |公用語 = [[ロシア語]] |言語 = [[ポーランド語]]<br>[[ドイツ語]](バルト地区)<br>[[フィンランド語]]<br>[[スウェーデン語]]<br>[[ウクライナ語]]<br>[[中国語]]([[大連市]]) |首都 = [[サンクトペテルブルク]]<br>{{smaller|(1713年 - 1728年)}}<br><br>[[モスクワ]]<br>{{smaller|(1728年 - 1730年)}}<br><br>[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]<br>{{smaller|(1730年 - 1917年)}} |国教 = [[正教会]] |宗教 = [[イスラム教]]<br>[[カトリック]]<br>[[ユダヤ教]]<br>[[プロテスタント]]<br>[[アルメニア使徒教会]]<br>など |元首等肩書 = [[ロシア皇帝|皇帝]]([[インペラトル|インペラートル]]) |元首等年代始1 = 1721年 |元首等年代終1 = 1725年 |元首等氏名1 = [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]] |元首等年代始2 = 1894年 |元首等年代終2 = 1917年 |元首等氏名2 = [[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]] |首相等肩書 = [[ロシアの首相|大臣会議議長]] |首相等年代始1 = 1905年 |首相等年代終1 = 1906年 |首相等氏名1 = [[セルゲイ・ウィッテ|セルゲイ・ヴィッテ]] |首相等年代始2 = 1917年 |首相等年代終2 = 1917年 |首相等氏名2 = [[ニコライ・ゴリツィン]] |面積測定時期1 = 1895年 |面積値1 = 22,800,000 |面積測定時期2 = 1914年 |面積値2 = 21,799,825 |人口測定時期1 = 1897年 |人口値1 = 125,640,021 |人口測定時期2 = 1914年 |人口値2 = 165,700,000 |変遷1 = [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が皇帝に即位 |変遷年月日1 = 1721年11月2日 |変遷2 = [[デカブリストの乱]] |変遷年月日2 = 1825年12月14日 |変遷3 = [[農奴解放令]] |変遷年月日3 = 1861年3月3日 |変遷4 = [[ロシア第一革命]] |変遷年月日4 = 1905年-1907年 |変遷5 = [[十月詔書]] |変遷年月日5 = 1905年10月17日 |変遷6 = [[ロシア革命]]により滅亡 |変遷年月日6 = 1917年9月14日 |通貨 = [[ロシア・ルーブル]] |現在 = {{RUS}}<br>{{BLR}}<br>{{UKR}}<br>{{FIN}}<br>{{EST}}<br>{{LVA}}<br>{{LTU}}<br>{{GEO}}<br>{{ARM}}<br>{{AZE}}<br>{{TUR}}<br>{{KAZ}}<br>{{KGZ}}<br>{{UZB}}<br>{{TJK}}<br>{{PRC}}<br>{{TKM}}<br>{{USA}}・{{Flagicon|Alaska}}[[アラスカ州]]<br>{{POL}} |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |注記 = }} {{ロシアの歴史}} '''ロシア帝国'''(ロシアていこく、{{lang-ru-short|Российская империя}} ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、[[1721年]]11月から[[1917年]]9月まで存在した[[帝国]]である。現在の[[ロシア|ロシア連邦]]を始め、[[フィンランド]]、[[リボニア|リヴォニア]]、[[リトアニア]]、[[ベラルーシ]]、[[ウクライナ]]、[[ポーランド]]、[[コーカサス]]、[[中央アジア]]、[[シベリア]]、[[外満洲]]などの[[ユーラシア大陸]]の北部を広く支配していた。'''帝政ロシア'''(ていせいロシア)とも呼ばれる。 {{See also|[[ロシア皇帝|ロシア皇帝(全ロシアのインペラートル]]|ツァーリ}} 通常は1721年の[[ピョートル1世]]即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家の[[ロマノフ家]]にちなんで[[ロマノフ朝]]とも呼ばれるがこちらは[[ミハイル・ロマノフ]]が[[ロシア・ツァーリ国]]の[[ツァーリ]]に即位した[[1613年]]を成立年とする。 [[1917年]]の時点で、ロシア帝国は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]<ref group="n">支配民族であるドイツ人が極度な少数派で、しかも隣の統一ドイツ帝国から取り残されているという特異な多民族国家であった。</ref>をしのぐ最大の[[スラヴ人]]国家であった<ref>Robert A. Kann. [1]. — Berkeley, CA: University of California Press, 1980. — 646 с. — {{ISBN2|0-520-04206-9}}. Pp. 605-608</ref><ref group="n">1897年の国勢調査によると、スラブ人の割合はオーストリアで3,600万人のうち2,100万人、オーストリア=ハンガリー帝国で51,390,000人のうち25,465,000人、ロシア帝国では1億2,920万人のうち1億900万人であった。</ref>。 == 概要と呼称 == 君主が[[ツァーリ]]を名乗ったそれ以前の[[ロシア・ツァーリ国]]においても「ロシア帝国」と翻訳されることがある<ref group=n>"{{lang|ru|Царство}}"に「{{lang|ru|Царь}}の国」「帝国」「治世」などの訳語を当て、"{{lang|ru|Царь}}"に「帝王」「皇帝」「国王」「ロシヤ皇帝」「第一人者」「王」などの訳語を当てている出典:八杉貞利著『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』岩波書店(1465頁、第9刷、1970年11月20日発行)</ref><ref group=n>"{{lang|ru|Царство}}"に「帝国」「王国」「治世」などの訳語を当て、"{{lang|ru|Царь}}"に「(ロシア)皇帝」「ツァーリ」「帝王」「国王」「第一人者」などの訳語を当てている出典:共編『ロシア語ミニ辞典』白水社(414頁、第8刷、2008年2月10日発行)</ref>が、ロシア語では「ツァーリ」<ref>[http://www.gramota.ru/slovari/dic/?word=%F6%E0%F0%FC&all=x&lop=x&bts=x&zar=x&ag=x&ab=x&sin=x&lv=x&az=x&pe=x {{lang|ru|Царь // Справочно-информационный портал ГРАМОТА.РУ }}], [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=38246 {{lang|ru|Царь // Толковый Словарь Русского Языка }}], [http://www.vedu.ru/BigEncDic/enc_searchresult.asp?S=69469 {{lang|ru|Царь // Большой Энциклопедический Словарь }}], [http://vidahl.agava.ru/cgi-bin/dic.cgi?p=244&t=42239 {{lang|ru|Царь // Толковый словарь В. Даля ON-LINE. Современное написание слов. Републикация выполнена на основе II издания (1880-1882 гг.)}}]</ref>(本来は[[東ローマ皇帝]]を指したが、やがて一部の国の[[王]]、[[ハーン]]などを指す語となった)と「インペラートル」(西ヨーロッパに倣った[[皇帝]]を指す語)<ref>[http://www.gramota.ru/slovari/dic/?lop=x&bts=x&zar=x&ag=x&ab=x&sin=x&lv=x&az=x&pe=x&word=%E8%EC%EF%E5%F0%E0%F2%EE%F0 {{lang|ru|Император // Справочно-информационный портал ГРАМОТА.РУ }}], [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=10754 {{lang|ru|Император // Толковый Словарь Русского Языка }}], [http://www.vedu.ru/BigEncDic/enc_searchresult.asp?S=23667 {{lang|ru|Император // Большой Энциклопедический Словарь }}]</ref><ref name="Talina">[https://web.archive.org/web/20100223052546/http://old.portal-slovo.ru/rus/history/87/9256/ {{lang|ru|Г.В. Талина. ''Царская власть в XVII веке: титулование и положение.'' }}]</ref>は異なる称号であるため、留意を要する<ref name="Talina" />。 帝政は[[1721年]]にツァーリ・[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が[[ロシア皇帝|皇帝]]([[インペラートル]])を宣言したことに始まり、[[第一次世界大戦]]中の[[1917年]]に起こった[[2月革命 (1917年)|二月革命]]での[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の退位によって終焉する。 [[領域 (国家)|領土]]は[[19世紀]]末の時点において、のちの[[ソビエト連邦]]の領域に[[フィンランド]]と[[ポーランド]]の一部を加えたものとほぼ一致する面積2000万平方キロメートル超の広域におよび、1億を超える人口を支配した。[[首都]]は[[1712年]]まで伝統的にモスクワ国家の首府であった[[モスクワ]]から[[サンクトペテルブルク]]に移され、以降帝国の終末まで帝都となった<ref name=syuto group=n>ピョートル2世の治世に2年間(1728年-1730年)だけモスクワに還都している。</ref>。 政治体制は皇帝による[[専制政治|専制君主制]]であったが、帝政末期には[[ロシア帝国国家基本法|国家基本法]](憲法)が公布され、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]と[[ドゥーマ]]からなる[[両院制|二院制]]議会が設けられて[[立憲君主制]]に移行した。20世紀はじめの時点で[[#陸軍|陸軍]]の規模は平時110万人、戦時450万人でありヨーロッパ最大であった{{r|Britannica879}}{{r|Livesey13}}。[[#海軍|海軍]]力は長い間世界第3位であったが、[[日露戦争]]で大損失を出して以降は世界第6位となっている{{r|Gardiner291}}。 宗教は[[キリスト教]][[正教会]]([[ロシア正教会]])が[[国教]]ではあるが、領土の拡大に伴い大規模な[[ムスリム]]社会を内包するようになった。そのほかフィンランドやバルト地方の[[ルーテル教会|ルター派]]、旧[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド・リトアニア]]の[[カトリック教会|カトリック]]そして[[ユダヤ人]]コミュニティも存在した。 ロシア帝国の臣民は[[#貴族|貴族]]、[[#聖職者|聖職者]]、[[#名誉市民|名誉市民]]、[[#商人・町人・職人|商人・町人・職人]]、[[#カザーク|カザーク]]そして[[#農民|農民]]といった身分に分けられていた。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる[[#農奴|農奴]]であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持された。[[シベリア]]の[[先住民]]や[[中央アジア]]のムスリムそしてユダヤ人は[[#異族人|異族人]]に区分されていた。 ロシア帝国ではロシア暦([[ユリウス暦]])が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦を[[グレゴリオ暦]](新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.132-133.</ref>。 ==国土== [[ファイル:The Russian Empire-en.svg|thumb|right|300px|{{Legend|#346733|1866年のロシア帝国領域}}{{Legend|#49a646|1800年から1917年までに保護領、租借地、占領地などとした地域}}{{Legend|#48ce46|勢力圏}}]] 20世紀初め時点のロシア帝国の規模は世界の陸地の6分の1に当たる約2,280万平方キロメートル(880万平方マイル)に及び<ref name=Britannica870>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/870/mode/1up|publisher=|page=875|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年5月20日}}</ref>、[[イギリス帝国]]の規模に匹敵した。しかしながら、この当時は人口の大半が[[ヨーロッパロシア]]に居住していた。100以上の異なる[[民族]]がおり、[[ロシア人]]は人口の約43パーセントを占めている<ref group=n>1897年の国勢調査によるとロシア人(大ロシア人)は総人口1億2,896万7,694人の43.2パーセントに当たる5,567万3,408人である。{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/874/mode/1up|publisher=|page=874|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref>。 現代の[[ロシア|ロシア連邦]]のほぼ全領土に加えて、1917年以前のロシア帝国は[[ウクライナ]]の大部分([[ドニプロ・ウクライナ]]と[[クリミア]])、[[ベラルーシ]]、[[モルドバ]]([[ベッサラビア]])、[[フィンランド]]([[フィンランド大公国]])、[[アルメニア]]、[[アゼルバイジャン]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]({{仮リンク|ミングレリア|en|Samegrelo}}の大部分を含む)、[[中央アジア]]諸国の[[カザフスタン]]、[[キルギスタン]]、[[タジキスタン]]、[[トルクメニスタン]]、[[ウズベキスタン]]([[トルキスタン総督府]])、[[リトアニア]]、[[エストニア]]と[[ラトビア]](バルト諸州)の大部分だけで無く、[[ポーランド]]([[ポーランド立憲王国|ポーランド王国]])と[[アルダハン]]、[[アルトヴィン県|アルトヴィン]]、[[ウードゥル県|ウードゥル]]、[[カルス県|カルス]]の相当の部分、そして[[オスマン帝国]]から併合した[[エルズルム]]の北東部を含んでいた。 1860年から1905年にかけて、ロシア帝国は[[トゥヴァ共和国|トゥヴァ]](1944年に併合)、[[カリーニングラード州]]([[第二次世界大戦]]後に[[ドイツ]]より併合)そして[[千島列島|クリル列島]](第二次世界大戦後に[[実効支配]])を除く現在のロシア連邦の全領土を支配した。[[樺太庁|サハリン州南部]](南樺太、第二次世界大戦後に実効支配<ref group=n>日本は[[サンフランシスコ講和条約]]で南樺太の領有権を放棄したが、ロシアの領有は承認していない。{{Cite web|和書|title=樺太- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A8%BA%E5%A4%AA/|author=外川継男・栗生沢猛夫|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年3月8日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>)は1905年の[[ポーツマス条約]]により[[日本]]に割譲されている。 {{-}} === 植民地 === * [[シベリア]](ロシア人の入植によりロシア本土と同化) **ウラル地域 **シベリア地域(狭義) **極東地域 * [[中央アジア]] * [[ロシア領アメリカ]] - [[北アメリカ大陸|北アメリカ]]の[[アラスカ州|アラスカ]]を領有していた([[ロシアによるアメリカ大陸の植民地化]])が、[[1867年]]に[[アメリカ合衆国]]に売却している([[アラスカ購入]])。 * [[天津租界]]地 - [[1858年]]の[[天津条約 (1858年)|天津条約]]により[[清]]から獲得。 * [[漢口租界]]地 - 1858年の天津条約により清から獲得。 * [[旅順]][[租借地]] - [[1898年]]に清から獲得。 * [[大連]]租借地 - 1898年に清から獲得。 == 歴史 == {{main|ロシア帝国の歴史}}[[File:Peter Imperor whole Russia.jpeg|thumb|250px|「全ロシアの皇帝」の称号を贈られるピョートル1世。<br>Boris Chorikov画。]] 1613年に全国会議([[ゼムスキー・ソボル]])が[[ミハイル・ロマノフ]]をツァーリに選出したことによって300年続くことになる[[ロマノフ朝]]が開かれた。その孫にあたる[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](1682年 - 1725年)は[[近代化]]改革を断行して、専制体制を確立させた。1721年、[[大北方戦争]](1700年 - 1721年)に勝利したピョートル1世に対して[[元老院 (ロシア)|元老院]]と[[聖務会院|宗務院]]が「[[皇帝]]」([[インペラトル|インペラートル]])の称号を贈り、[[国体]]を正式に「[[帝国]](インペラートルの国)」と宣言し、対外的な[[国号]]を「ロシア帝国(インペラートルの国)」と称したことにより、ロシア帝国が成立する。 ピョートル1世の死後、[[女帝]]と[[幼帝]]が続き、[[保守]]派によって改革が軌道修正されることもあったが<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.58-59.</ref>、ロシアの領土と国力は着実に増しており、[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]](在位1741年 - 1761年)の時代に参戦した[[七年戦争]](1756年 - 1763年)では[[プロイセン王国|プロイセン]]を破滅寸前に追い込んでいる<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.68.</ref>。 [[File:Catherine II by V.Eriksen (1766-7, Statens Museum for Kunst, Denmark).jpg|thumb|left|175px|エカチェリーナ2世。<br>Vigilius Eriksen画]] {{仮リンク|宮廷クーデター (1762年)|ru|Дворцовый переворот 1762 года|label=クーデター}}により、夫[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]](在位1761年 - 1762年)を廃位して即位した[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](1762年 - 1796年)は[[啓蒙主義]]に基づく統治<ref group=n>当時の様子は「[[北槎聞略]]」からも窺える。桂川甫周『北槎聞略・大黒屋光太夫ロシア漂流記』亀井高孝校訂、岩波書店(岩波文庫)1993年</ref>を志したが、結果的には貴族の全盛時代をもたらす施策を行っており、[[農奴]]制を強化している<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.74;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.242.</ref>。彼女の治世にロシアは西方では[[ポーランド分割]]に参加し、南方では[[オスマン帝国]]との[[露土戦争 (1768年-1774年)|戦争]]に勝利して[[クリミア半島]]を版図に加え、ロシア帝国の領土を大きく拡大した。 次の[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]](1796年 - 1801年)は母帝を否定する[[政策]]をとったが<ref>[[#土肥(2009)|土肥(2009)]],p.51;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.263-264.</ref>、{{仮リンク|パーヴェル1世暗殺事件|ru|Убийство Павла I|label=クーデター}}によって殺害された。皇位を継承した[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]](1801年 - 1825年)は[[自由主義]]貴族や[[ミハイル・スペランスキー|スペランスキー]]を起用して改革を志したが、保守層の抵抗を受けて不十分なものに終わっている<ref>[[#鈴木他(1999)|鈴木他(1999)]],pp.268-273.</ref>。彼の治世は[[フランス革命戦争]]や[[ナポレオン戦争]]の時期であり、列強国となっていたロシアも[[ヨーロッパ]]の戦乱に巻き込まれた。[[1812年ロシア戦役|ロシアに侵攻]]した[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に壊滅的な打撃を与えたアレクサンドル1世は[[神聖同盟]]を提唱し、[[戦後]]の[[ウィーン体制]]を主導している。 アレクサンドル1世の急死によって即位した[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]](1825年 - 1855年)はその直後に[[デカブリストの乱]]に直面した。乱を鎮圧したニコライ1世は「専制、正教、国民性」の標語を掲げて国内の[[革命]]運動・自由思想を弾圧し<ref>倉持俊一【ニコライ[1世]】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.416.</ref>、国外でも[[反革命]][[外交政策]]をとった<ref>{{Cite web|和書|title=ニコライ(1世)- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%EF%BC%881%E4%B8%96%EF%BC%89/|author=外川継男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年4月9日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。オスマン帝国との[[戦争]]に勝利して[[バルカン半島]]への影響力を広げたが、治世末期の[[クリミア戦争]](1853年 - 1856年)では[[イギリス]]と[[フランス]]の介入を招く結果となった。 ニコライ1世は戦争中に死去しており、帝位を継いだ[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](1855年 - 1881年)は不利な内容の[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]の締結を余儀無くされた。アレクサンドル2世はロシアの後進性を克服するための改革を志し、[[1861年]]に[[農奴解放令]]を発布したが<ref group=n>この当時の様子は[[岩倉使節団]]の記録『[[米欧回覧実記]]』にも記載されている。久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、42頁</ref>、地主貴族に配慮した不十分なもので[[社会問題]]は解消されなかった<ref>{{Cite web|和書|title=農奴解放令- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E8%A7%A3%E6%94%BE%E4%BB%A4/|author=栗生沢猛夫|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年1月23日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。これ以外にも地方行政・司法・教育・軍制の諸改革が実施され、一連の改革は[[大改革]]と呼ばれる。オスマン帝国との[[露土戦争 (1877年-1878年)]]に勝利してバルカン諸国の独立を実現させるとともに、バルカン半島への影響力も拡大するが、警戒した列強国の干渉を受け、[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]で譲歩を余儀なくされている。国内の知識人の間では革命思想が広がり、[[ナロードニキ]]運動が起こった。政府はこれを弾圧するが、アレクサンドル2世は革命派の[[アレクサンドル2世暗殺事件 (1881年)|爆弾テロ]]で[[暗殺]]された。 [[File:Отречение Николая II.jpg|thumb|250px|皇帝専用列車内で大臣や将軍らに退位を表明するニコライ2世。]] 父の暗殺によって即位した[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]](1881年 - 1894年)は反動政策を行い、革命運動を弾圧したが、彼の時代にロシア経済は大きな躍進を遂げている<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア史 - 改革と反動 - Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%8F%B2/%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%A8%E5%8F%8D%E5%8B%95/|author=外川継男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年4月9日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。最後の皇帝となる[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]](1894年 - 1917年)は専制政治を維持したが、[[日露戦争]](1904 - 1905年)の敗北によって[[ロシア第一革命|1905年革命]]が起こり、[[国民]]に大幅な譲歩をする[[十月詔書]]への署名を余儀なくされた。十月詔書によって[[ドゥーマ]]({{仮リンク|ドゥーマ (ロシア帝国)|en|State Duma (Russian Empire)|ru|Государственная дума Российской империи|label=国会}})が開設され、ロシアは[[ロシア帝国国家基本法|国家基本法]]の下で[[立憲君主制]]に移行したものの、依然として皇帝権が国会に優越したものだった<ref>[[#鈴木他(1999)|鈴木他(1999)]],p.331.</ref>。 [[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]首相が強権を伴う[[ストルイピン改革|国内改革]]を断行したが、中途で暗殺されて終わり、ロシアは国内が不安定なまま[[第一次世界大戦]](1914年 - 1918年)を迎えることになる。ロシア軍は緒戦で惨敗を喫し、ドイツ軍がロシア領に深く侵攻した。ロシアはドイツ、[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー]]、オスマン帝国との[[総力戦]]を戦い、2年間の戦闘で530万人もの犠牲者を出している<ref name=kuriuzawa116>[[#栗生沢(2010)|栗生沢(2010)]],p.116.</ref>。国民と兵士に厭戦気分が広まり、1917年に首都[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]で[[労働者]]が蜂起する[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が起こった。兵士は労働者の側について労兵[[ソビエト]]を組織し、権力掌握に動いた国会議員団はニコライ2世に退位を勧告した。ニコライ2世はこれを受諾し、ロシアの帝政は終焉した。 {{-}} ==政府== ===皇帝=== [[file:Greater Coat of Arms of the Russian Empire 1700x1767 pix Igor Barbe 2006.jpg|thumb|全ロシアの皇帝かつ専制者であると表示しているロシア帝国の大紋章。]] {{Main|ロシア皇帝|ロマノフ家}} 1613年にミハイル・ロマノフが[[ツァーリ]]に推戴されて以降、1917年に帝政が終焉するまでのおよそ300年にわたり[[ロマノフ家]]がロシアの君主であり続けた。[[シュレースヴィヒとホルシュタインの統治者一覧|ホルシュタイン=ゴットルプ公]]だった[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]](在位1761年 - 1762年)が即位して以降は'''[[ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家|ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝]]'''(''{{lang|ru|Гольштейн-Готторп-Романовская}}'')とも呼ばれる。 1721年に[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は称号をツァーリから変えて「全ロシアの皇帝」([[インペラトル|インペラートル]]:''{{lang|ru|Император}}'')たるを宣言した。彼の後継者たちも1917年の二月革命で帝政が打倒されるまで、この称号を保ったが、一般的にはツァーリとも呼称されていた<ref name=tsar>{{Cite web|和書|title=ツァーリ- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AA/|author=[[伊藤幸男 (歴史家)|伊藤幸男]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年12月31日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。1905年の[[十月詔書]]以前、皇帝は[[絶対君主]]として君臨しており、[[ロシア帝国国家基本法|基本法]](''{{lang|ru|Свод законов}}'')第一条は「ロシア皇帝は独裁にして無限の権を有する君主であり、主権の全体は帝の一身に集中する」と規定している<ref name=rokokujijyou3>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.3.</ref>。皇帝は(既存の体制を維持するための)次の2つの事項にのみ制約されていた{{r|rokokujijyou3}}。一つは皇帝とその配偶者は[[ロシア正教会]]に属さねばならない。もう一つは[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]](在位1796年 - 1801年)の時に定められた[[帝位継承法 (ロシア帝国)|帝位継承法]]に従わねばならないことである。これ以外のことではロシアの専制君主の統治権は如何なる法律にも制約されず事実上無制限であった<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.3-5.</ref>。 この状況は1905年10月17日に変化した。[[ロシア第一革命|1905年革命]]の結果出された十月詔書以降、皇帝の称号は依然として「全ロシアの皇帝かつ専制者」であり続けるが、1906年4月28日に制定された[[ロシア帝国国家基本法|国家基本法]]は「無制限」の語を取り除いている<ref name=tanakata398>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.398.</ref>。皇帝は自主的に立法権を制限し、いかなる法案も国会([[ドゥーマ]])の承認なく法制化できなくなった。しかしながら、皇帝は国会の解散権を有しており、彼は一度ならずこれを実行している。加えて皇帝は全ての法案に対する拒否権を有しており、国家基本法を自ら改正することも出来た。大臣は皇帝に対してのみ責任を負っており、国会は問責はできるが解任はできない。このため、皇帝権はある程度は制限されたものの、帝政が終焉するまで強大であり続けた。 ロシア皇帝は[[フィンランド大公]](1809年以降)および[[ポーランド国王]](1815年以降)を兼ねていた。国家基本法第59条はロシア皇帝の正式名称として君臨する50以上の地域名を列挙している<ref>{{cite web|title=Royal Russia - Russian Fundamental Laws of 1906|url=http://www.angelfire.com/pa/ImperialRussian/royalty/russia/rfl.html|publisher=|page=|accessdate=2012年3月9日}}</ref>([[ロシア皇帝]]を参照<!--日本語表記が分からない地名があり、翻訳できませんでした。-->)。 ==== 歴代皇帝(インペラートル) ==== [[ファイル:Romanofuoutyoukeizu.gif|thumb|right|350px|ロマノフ朝の系図]] [[file:Sadovnikov 1258.jpg|thumb|right|275px|サンクトペテルブルクの[[冬宮殿|冬宮]]は1732年から1917年までロシア帝国の[[宮殿|皇宮]]であった。現在は[[エルミタージュ美術館]]の一部になっている。<br>Vasily Sadovnikov画。1840年代。]] [[File:House of people opened during celebration 300Romanoffs.JPG|thumb|275px|1913年に盛大に祝われた{{仮リンク|ロマノフ朝300年祭|ru|300-летие дома Романовых}}<ref>[[#土肥(2009)|土肥(2009)]],pp.116-117.</ref>。この4年後にロマノフ朝は滅亡した。]] {| class="wikitable" |- ! 歴代 !! 皇帝 !! 在位 !! 備考 |- | 初代 || [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]] ||style="white-space:nowrap"| [[1721年]] - [[1725年]] || ツァーリ即位は1682年。元老院と宗務院より、インペラートルとともに[[大帝]]({{Lang|Ru|Великий}})の称号も受ける。 |- | <span style="color:red">第2代</span> ||style="white-space:nowrap"| [[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]] || [[1725年]] - [[1727年]] || ピョートル1世の皇后。 |- | 第3代 || [[ピョートル2世 (ロシア皇帝)|ピョートル2世]] || [[1727年]] - [[1730年]] || ピョートル1世の孫、廃太子[[アレクセイ・ペトロヴィチ|アレクセイ]]の子。 |- | <span style="color:red">第4代</span> || [[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]] || [[1730年]] - [[1740年]] || ピョートル1世の異母兄[[イヴァン5世]]の子。[[クールラント・ゼムガレン公国|クールラント公]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の未亡人。 |- | 第5代 || [[イヴァン6世 (ロシア皇帝)|イヴァン6世]] || [[1740年]] - [[1741年]] || イヴァン5世の曾孫。{{仮リンク|宮廷クーデター (1741年)|ru|Дворцовый переворот 1741 года|label=宮廷クーデター}}により廃位。1764年に殺害。 |- | <span style="color:red">第6代</span> || [[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]] || [[1741年]] - [[1761年]] || ピョートル1世とエカチェリーナ1世の子。 |- | 第7代 || [[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]] || [[1761年]] - [[1762年]] || エリザヴェータの甥。[[ホルシュタイン=ゴットルプ家|ホルシュタイン=ゴットルプ公]]。{{仮リンク|宮廷クーデター (1762年)|ru|Дворцовый переворот 1762 года|label=宮廷クーデター}}により廃位、後に殺害される。 |- | <span style="color:red">第8代</span> || [[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]] || [[1762年]] - [[1796年]] || ピョートル3世の皇后。[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[アンハルト=ツェルプスト侯領|アンハルト=ツェルプスト侯家]]出身。大帝の称号を受ける。 |- | 第9代 || [[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]] || [[1796年]] - [[1801年]] || ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子。{{仮リンク|パーヴェル1世暗殺事件|ru|Убийство Павла I|label=宮廷クーデター}}により殺害。 |- |style="white-space:nowrap"|第10代 ||style="white-space:nowrap"| [[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]] || [[1801年]] - [[1825年]] || パーヴェル1世の子。 |- | 第11代 || [[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]] || [[1825年]] - [[1855年]] || パーヴェル1世の子、アレクサンドル1世の弟。 |- | 第12代 || [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]] || [[1855年]] - [[1881年]] || ニコライ1世の子。「[[人民の意志]]」派の[[アレクサンドル2世暗殺事件 (1881年)|爆弾テロ]]により暗殺される。 |- | 第13代 || [[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]] || [[1881年]] - [[1894年]] || アレクサンドル2世の子。 |- | 第14代 || [[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]] || [[1894年]] - [[1917年]] || アレクサンドル3世の子。[[2月革命 (1917年)|二月革命]]により退位。1918年に家族とともに殺害される([[ロマノフ家の処刑]])。 |} *代数<span style="color:red">赤文字</span>は女帝。 *在位年は露暦([[ユリウス暦]])による<ref name=koyomi group=n>ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.132-133.</ref>。 {{-}} ===国家評議会=== [[File:Gossovet-27-04-1906.jpg|thumb|275px|国家評議会。1906年撮影。]] {{Main|ロシア帝国国家評議会}} [[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)の時代に[[ミハイル・スペランスキー|スペランスキー]]の改革の一つとして1811年に設置された国家評議会({{Lang|Ru|Государственный Совет}}:枢密院とも訳す)は法律の立案および頒布に関して君主に参与すべき審議官である<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.59.</ref>。国家評議会が法案を審議し、皇帝は多数決によるその意見を「傾聴し、決定する」ことになっていたが、実際には決定は皇帝の意思に依った<ref name=kokkahyougikai>加納格【国家評議会】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.211-212.</ref>。1890年時点の国家評議会は勅選議員60名から構成され、議長は皇帝もしくは大臣委員会議長その他勅選された者が務めた{{r|kokkahyougikai}}。 1906年2月20日の[[ロシア帝国国家基本法|国家基本法]]施行により、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]は[[ドゥーマ]]に関連付けられ、立法機関の上院の役割を果たすこととなった。これ以降、立法権は皇帝が二院と調整した上で実行されることになる<ref>[http://www.angelfire.com/pa/ImperialRussian/royalty/russia/rfl.html Fundamental Laws of the Russian Empire], Chapter 1, Article 7.</ref>。国家評議会はこの目的のために再組織され、勅選議員98名、公選議員98名の計196議員で構成されることとなった。勅任される大臣は国家評議会出身者である。公選議員は6議席が正教会関係、18議席が貴族団、6議席が[[ロシア科学アカデミー|科学アカデミー]]と大学関係者、12議席が商工ブルジョワジー、34議席が県[[ゼムストヴォ]]、22議席がゼムストヴォのない県の大土地所有者であった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.397.</ref>。国家評議会は立法機関としてドゥーマと同等の権限を有していたが、立法を率先することは稀であった<ref name=Britannica873>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/873/mode/1up|publisher=|page=873|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref>。二院の一つとなった国家評議会は[[保守]]派の牙城となり、[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]大臣会議議長(首相)の土地改革に抵抗している{{r|kokkahyougikai}}。 {{-}} ===ドゥーマ=== {{Main|ドゥーマ}} [[File:Зал заседаний государственной думы 1906-1917.jpg|thumb|275px|left|ドゥーマ。1917年撮影。]] ドゥーマ(''{{lang|ru|Ду́ма}}'':国会)は1905年の十月詔書により創設された代議制議会である。ロシア帝国の立法機関は[[二院制]]で国家評議会が上院、ドゥーマは下院にあたる。議員数は1907年の時点で442人である{{r|Britannica873}}。選挙方式は所有[[財産]]によって別けられた地主、[[都市]](ブルジョワジー)、[[農民]]、[[労働者]]の4つのグループからなる複雑な[[間接選挙]]方式で、地主や[[ブルジョワジー]]に極めて有利な制度であった。1906年4月23日に発布された国家基本法(憲法)では皇帝は依然として専制君主と規定されており、法案の[[拒否権]]とドゥーマの解散権を留保した<ref name=iwama410411>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.410-411.</ref>。大臣会議議長(首相)と大臣は皇帝の任命によるもので、議会に対して責任を負う[[議院内閣制|責任内閣制]]でもなかった。また、予算審議権も戦時関係予算や勅令・法律による歳入出はドゥーマの管轄外であるなど制約の多いものであった{{r|tanakata398}}。 1906年4月27日に開会された国会は地主の1票がブルジョアジーの3票、農民の15票、労働者の45票に相当する選挙制度そして政府の選挙干渉にもかかわらず、[[自由主義]][[左派]]の[[立憲民主党 (ロシア)|立憲民主党]](カデット)が第一党となった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.411.</ref><ref name=duma>{{Cite web|和書|title=ドゥーマ- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%9E/|author=木村英亮|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月19日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。このドゥーマは立憲民主党が地主の[[土地]]の強制収用を含む大胆な土地改革を強硬に主張したために紛糾し、7月8日に軍隊が投入されて強制解散された<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.411-412</ref>。('''第一ドゥーマ''') 次の選挙には[[社会革命党]](エスエル)と[[ボリシェヴィキ]]も加わり、その結果、[[社会主義]]諸派が議席の40%を占めるより急進的な構成となった<ref>[[#松田(1990)|松田(1990)]],p.206;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.412.</ref>。1907年2月20日に開会されたドゥーマは[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]大臣会議議長(首相)の土地改革に従おうとせず、6月3日に解散された<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.403-404.</ref>{{r|duma}}。('''第二ドゥーマ''') ストルイピンは解散と同時に新選挙法を発布させ、これは更に地主に有利な制度であり、地主の1票は農民の260票、労働者の540票に相当した({{仮リンク|6月3日クーデター|en|Coup of June 1907}}){{r|iwama410411}}。1907年11月1日に新選挙法の元で選ばれた政府寄りの自由主義[[右派]][[10月17日同盟]](十月党、オクチャブリスト)を中心とするドゥーマが開会され、1912年6月9日までの会期を全うした。('''第三ドゥーマ''') 1912年11月に第三国会と同じ選挙法の元で選ばれた'''第四ドゥーマ'''が開会された。第四ドゥーマ中の1914年に[[第一次世界大戦]]が勃発した。戦争指導を巡って政府とドゥーマとの対立が激化し、立憲民主党や十月党左派、その他諸派の[[中道政治|中道]]自由主義者が{{仮リンク|進歩ブロック (ロシア)|en|Progressive Bloc (Russia)|label=進歩ブロック}}を結成して信任[[内閣]]を要求している<ref>[[#田中他(1997)|田中他(1997)]],p.17;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.429.</ref>。1917年に[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が起こると、議員たちは{{仮リンク|国会臨時委員会|en|Provisional Committee of the State Duma}}を組織して権力掌握に動き、社会主義者の労働者・兵士ソビエトと[[ロシア臨時政府|臨時政府]]を組織してニコライ2世に退位を求め、帝政を崩壊させることとなる。 ===大臣委員会と大臣会議=== [[File:Sergey Yulievich Vitte.jpg|thumb|150px|初代大臣会議議長セルゲイ・ヴィッテ<br>(在任1905年 - 1906年)]] 大臣委員会(''{{lang|ru|Комитет Министров}}'')は国家の高等行政に関する事務を審査をする機関である。[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)の改革の一環として、1802年にそれまでの参議会制に代わる省庁制が設けられると同時に大臣委員会が置かれた。ナポレオン戦争期にはその権能が拡張し、皇帝が出征中は国家行政事務の全てを担った<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],pp.71-72.</ref>。[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)の時代に大臣委員会の権能が定められ、第一に各大臣および元老院の権限以外の重要事項について協議すること、第二に公安、公共糧食、正教会の保護および公共交通とくに鉄道敷設の許認可に関することとなった<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],pp.72-73.</ref>。その他、地方行政の監督も大臣委員会の職責であった<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.73.</ref>。 1905年10月18日法により大臣委員会は改組され、皇帝を補佐する最高行政機関として[[ロシアの首相|大臣会議議長]]([[首相]]に相当)を長とする{{仮リンク|ロシア帝国大臣会議|label=大臣会議|en|Council of Ministers of Russia}}(''{{lang|ru|Совета министров}}'')が創設された。これは諸国の内閣に相当するもので、各省大臣と主要行政機関の長によって構成される。1905年にロシア側全権代表として日本と[[ポーツマス条約]]を締結して帰国したセルゲイ・ヴィッテが初代大臣会議議長となった。 {| class="wikitable" |+ 大臣会議議長(首相) |- ! 歴代 !! 氏名 !! 在任 |- ! 1 | [[セルゲイ・ウィッテ|セルゲイ・ヴィッテ]]|| 1905年10月24日 - 1906年4月22日 |- ! 2 | [[イワン・ゴレムイキン]] || 1906年4月22日 - 1906年7月8日 |- ! 3 | [[ピョートル・ストルイピン]] || 1906年7月8日 - 1911年9月5日 |- ! 4 | [[ウラジーミル・ココツェフ]] || 1911年9月5日 - 1914年1月30日 |- ! 5 | [[イワン・ゴレムイキン]] || 1914年1月30日 - 1916年1月20日 |- ! 6 | [[ボリス・スチュルメル]] || 1916年1月20日 - 1916年11月10日 |- ! 7 | [[アレクサンドル・トレポフ]] || 1916年11月10日 - 1916年12月27日 |- ! 8 | [[ニコライ・ゴリツィン]] || 1916年12月27日 - 1917年2月27日 |- |} *年月日は露暦([[ユリウス暦]])<ref name=koyomi group=n/>。 ===宗務院=== {{Main|聖務会院}} [[file:Senatesynod.jpg|thumb|250px|旧元老院及び宗務院本部。<br>サンクトペテルブルク、[[元老院広場 (サンクトペテルブルク)|元老院広場]]。]] 1700年に[[モスクワ総主教]]{{仮リンク|アドリアン (モスクワ総主教)|label=アドリアン|en|Adrian of Moscow}}が死去すると[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は後任の選出を許さず、1721年に正式に総主教座を廃止し、ロシア正教会を統括する最高機関としての[[聖務会院|宗務院]]<!--ウィキペディア日本語版の項目名は「聖務会院」だが、参考文献のほとんどが全てが「宗務院」、一部が「聖宗務院」、明治期の1件「教務院」、「聖務会院」は高橋保行氏の著作だけであったため、この項目では「宗務院」を用いる。-->(''{{lang|ru|Святейший Правительствующий Синод}}'':聖宗務院、聖務会院、シノドとも訳される)を設立させた<ref name=tanaka42 group=n>1720年の設立当初の名称は「聖職参議会」で、翌1721年に元老院と同格の「宗務院」に改称された。[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.42.</ref><ref>森安達也【シノド】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.246.</ref>。基本法は「教会の政治に於いては君主の独裁権は宗務院を媒介として行動すべきものである」と規定している<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.83.</ref>。 宗務院の職務は第一に教義の正統解釈と聖職者の監督そして宗教出版物の検閲、第二に宗教教育機関および1885年に設置された教区小学校の管理、第三は行政もしくは司法の全ての教会事務の最高法廷そして婚姻に関する事務の採決である<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.84.</ref>。 宗務院のメンバーは皇帝の代理人である俗人の宗務院総監と[[モスクワ総主教・モスクワ府主教の一覧|モスクワ]]、サンクトペテルブルク、キエフの3[[府主教]]、グルジアの[[エクザルフ]]そして幾人かの[[主教]]が交替で務めた{{r|Britannica875}}。 ===元老院=== 1711年に[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は出征中に内政を預かる{{仮リンク|元老院 (ロシア)|label=元老院|en|Governing Senate}}(セナート:''{{lang|ru|сенат}}'')を設けて9人の議員を任命した。当初は臨時の措置であったが、これが常設化して行政・司法の執行に関する監督と立法を司る国政の中心機関となった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.26.</ref>。[[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]](在位1725年 - 1727年)と[[ピョートル2世 (ロシア皇帝)|ピョートル2世]](在位1727年 - 1730年)の時代には[[最高枢密院]]が権力を握り元老院はこれに従属させられたが、[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]](在位1730年 - 1740年)は即位直後に最高枢密院を廃止している。[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]](在位1741年 - 1761年)の時代に元老院は権力を回復した<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.232.</ref>。その後、アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の大臣委員会創設によって権限が減少して、主に最高司法機関として機能するものとなった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.114;[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.80.</ref>。 帝政末期の元老院は複数の部から構成され、法律の布告および解釈、地方行政官職の監督、行政裁判、商業裁判所そして刑事および民事の破棄院([[最高裁判所]])としての広範な権限を有していた<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],pp.80-82.</ref>。元老院は帝国の行政に関わる全ての紛争に対する最高管轄権を有しており、とりわけ、中央政府の代理人と地方自治機関との間の係争を取り扱っていた<ref name=Britannica875>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/875/mode/1up|publisher=|page=875|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref>。また、元老院は新法の登記と布告を審査する役割を持ち、基本法に反するものを拒否する権限があった{{r|Britannica875}}。 ===参議会と省庁=== [[File:VO Universitet 12 Kollegiy 15-04-2004.jpg|thumb|250px|参議会があった{{lang|ru|Двeнaдцaть Коллегий}}(12コレギア館)。1722年から1744年建築。<br>[[サンクトペテルブルク大学]]敷地内。]] [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)の行政改革の一環として、管轄範囲が明確でない[[イヴァン4世]](在位1533年 - 1584年)以来の[[官署制|官署]]が廃止されて、新たに北欧諸国の制度に倣った合議制で運営される{{仮リンク|参議会 (ロシア)|label=参議会|ru|Коллегии (Российская империя)}}(コレギア:''{{lang|ru|Коллегии}}'')が設置された<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.26-27.</ref>。外務、陸軍、海軍を「主要」とし、都市、所領、司法、歳出、監査、商業、工業、鉱業といった参議会が設けられている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.26;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.233.</ref>。 その後、参議会は責任の所在が曖昧で非効率になり、[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]](在位1796年 - 1801年)の時代に改革が試みられ、合議制から専決制に代えられた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.264.</ref><ref>鳥山成人【ロシア帝国】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.682-689.</ref>。彼の暗殺後に即位した[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)が参議会を廃止して、陸軍、海軍、外務、司法、内務、大蔵、通商、文部の8部の大臣を任命し、[[省庁制]]を発足させた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.114;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.268.</ref>。 帝政末期の20世紀初頭の時点では以下の省庁が存在した{{r|Britannica875}}。 *{{仮リンク|宮内省 (ロシア)|label=宮内省|en|Ministry of the Imperial Court}} *{{仮リンク|外務省 (ロシア帝国)|label=外務省|ru|Министерство иностранных дел Российской империи}} *[[ロシア帝国軍事省|軍事省]] *[[ロシア海軍|海軍省]] *{{仮リンク|大蔵省 (ロシア帝国)|label=大蔵省|en|Ministry of Finance of the Russian Empire}} *商工省(1905年創設) *{{仮リンク|内務省 (ロシア帝国)|label=内務省|en|Ministry of the Interior of the Russian Empire}}(警察、保健、検閲と報道、逓信、外国宗教、統計を含む) *[[ロシア帝国国家資産省|国家資産省]](国有財産省、国家資産の管理、国有地農民、農政を担当) *逓信省 *{{仮リンク|司法省 (ロシア帝国)|label=司法省|ru|Министерство юстиции Российской империи}} *{{仮リンク|国民啓蒙省|label=国民教育省|en|List of Ministers of National Enlightenment}} === 官等表 === [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)の時代、1722年に14の官等からなる官吏および軍人の位階が定められた({{仮リンク|官等表|en|Table of Ranks}})。中等教育修了者は官吏になることができ、昇格は勤務年数で決められており、九等官で一代貴族、四等官で世襲貴族になれた<ref>和田春樹【官僚制】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.130.</ref>。 1899年時点の官等は以下の通り(第11等と第13等は廃止)。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 官等表(1899年) !width="11%"| 等級 !! 文官 !! 陸軍武官 !! 海軍武官 !!width="11%"| 宮内官吏 !!width="11%"| 等級に附随したる尊称 |- | 第一等 || 尚書(大臣) {{lang|ru-RU|(Канцлер)}}<br/>若しくは<br/>実権ある一等枢密議官 {{lang|ru-RU|(Действительный тайный советник 1-го класса)}} || 陸軍元帥 {{lang|ru-RU|(Генерал-фельдмаршал )}} || 海軍総督 {{lang|ru-RU|(Генерал-адмирал)}} || - ||rowspan="2"| 高位閣下 |- | 第二等 || 実権ある(現任)枢密議官 {{lang|ru-RU|(Действительный тайный советник)}} || 歩兵大将<br/>騎兵大将<br/>砲兵大将<br/>工兵大将 {{lang|ru-RU|(Генерал)}} || 提督 {{lang|ru-RU|(Адмирал)}} || 侍従長<br/>近衛都督<br/>御猟総官<br/>式部卿<br/>御厩長官<br/>式務卿 |- | 第三等 || 枢密議官 {{lang|ru-RU|(Тайный советник)}} || 中将 {{lang|ru-RU|(Генерал-лейтенант)}} || 副提督 {{lang|ru-RU|(Вице-адмирал)}} || 膳部総官<br/>御猟官<br/>式部官<br/>御厩官<br/>大彫刻官 ||rowspan="2"| 閣下 |- | 第四等 || 実権ある(現任)発事官 {{lang|ru-RU|(Действительный статский советник)}} || 少将 {{lang|ru-RU|(Генерал-майор)}} || 小提督 {{lang|ru-RU|(Контр-адмирал)}} || 侍従 |- | 第五等 || 発事官 {{lang|ru-RU|(Статский советник)}} || 参謀官 || - || 膳部官 || 執事 |- | [[ロシア市民階級第6等|第六等]] || 集議官 {{lang|ru-RU|(Коллежский советник)}} || 大佐 {{lang|ru-RU|(Полковник)}} || 艦長 {{lang|ru-RU|(Капитан 1-го ранга)}} || 接待官 ||rowspan="2"| 貴下 |- | 第七等 || 参事官 {{lang|ru-RU|(Надворный советник)}} || 中佐 {{lang|ru-RU|(Подполковник)}} || 副艦長 {{lang|ru-RU|(Капитан 2-го ранга)}} || - |- | 第八等 || 参事官補 {{lang|ru-RU|(Коллежский асессор)}} || - || - || - ||rowspan="7"| 殿 |- | [[ロシア市民階級第9等|第九等]] || 非役(名義)参事官 {{lang|ru-RU|(Титулярный советник)}} || 大尉 {{lang|ru-RU|(Штабс-капитан)}} || 大尉 {{lang|ru-RU|(Лейтенант)}} || - |- | 第十等 || 書記官 {{lang|ru-RU|(Коллежский секретарь)}} || 中尉 {{lang|ru-RU|(Поручик)}} || - || - |- | 第十一等 || 廃止 || - || - || - |- | 第十二等 || 地方書記官 {{lang|ru-RU|(Губернский секретарь)}} || 少尉 {{lang|ru-RU|(Подпоручик)}} || 士官試補(候補) {{lang|ru-RU|(Унтер-лейтенант)}} || - |- | 第十三等 || 廃止 || - || - || - |- |style="white-space:nowrap"| [[ロシア市民階級第14等|第十四等]] || 録事 {{lang|ru-RU|(Коллежский регистратор)}} || 少尉試補旗頭(少尉補) {{lang|ru-RU|(Фе́ндрик)}} || - || - |} *官職の日本語訳は次による。{{Cite book|和書|author=|translator=民友社|editor=露国政府|year=1899|title=露国事情|series=|publisher=民友社|url={{近代デジタルライブラリーURL|40010729}}|pages=115-116}} ==司法制度== [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は当時の[[西ヨーロッパ|西欧]]で主流であった糾問主義手続きの[[司法|司法制度]]を導入した。民事および刑事の[[裁判]]は非公開手続きであった{{r|Britannica877}}。全ての裁判は書面審理で行われ、判事は[[判決 (国際司法裁判所)|判決]]時にのみ当事者および傍聴人と対面した{{r|Britannica877}}。この非公開性と判事の[[報酬]]が僅かであったことが組み合わさり、[[贈賄]]と[[汚職]]が蔓延することとなった{{r|iwama318}}。法廷の調査は複数回あったが(5、6回またはそれ以上)、悪行の回数を増やすだけであった{{r|Britannica877}}。証拠書類は法廷から法廷へと積み上げられたが、その書類を書いた事務官だけがその要旨を語ることができる類のものであり、費用がかさんだ{{r|Britannica877}}。これに加えて、大量の勅令、法令そして慣習法(これらはしばしば矛盾した)により、法廷の運営はよりいっそう遅滞し、混乱した{{r|Britannica877}}。さらに、司法と行政の線引きはなかった。判事は専門家ではなく、彼らは官吏に過ぎず、偏見と悪徳が蔓延していた<ref name=Britannica877>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/877/mode/1up|publisher=|page=877|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref>。 帝政終焉まで続くロシア帝国の司法制度は「解放皇帝」[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)の{{仮リンク|アレクサンドル2世の司法改革|label=1864年勅令|en|Judicial reform of Alexander II}}によって成立した。英仏の制度を部分的に取り入れた司法制度は司法と行政の分離、判事と法廷の独立、公開裁判と口頭審理、法の前での全ての身分の平等といった幾つかの大まかな原則によって成立している<ref name=iwama318>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.318.</ref>。その上、[[弁護士|弁護士制]]と[[陪審制]]の採用によって[[民主主義]]的要素も取り入れられた。これらの諸原則による司法制度の確立は司法を行政の範囲の外に置くことにより、専制に終わらせ、ロシア国家の概念に大きな変化をもたらした。しかしながら、1866年のアレクサンドル2世暗殺未遂事件以降には幾らかの反動が見られるようになった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.226-227.</ref>。 1864年勅令によって成立した制度は英仏形式の二つの完全に分けられた法廷から成り、おのおのが独自の[[上訴]][[裁判所]]を有し、[[最高裁判所]]の役割を果たす元老院にのみ連携する。[[イギリス]]形式のものは選挙で選ばれた{{仮リンク|治安判事 (ロシア)|label=治安判事|en|justices of the peace (Russia)}}の法廷で民事刑事の軽微な事件を管轄し、郡治安判事会議に上訴できる{{r|iwama318}}。もう一つの[[フランス]]形式の任命された判事による普通裁判所は重要事件を扱い、陪審員の置かれた地方裁判所、控訴院そして最高裁判所に当たる元老院の[[三審制]]である{{r|iwama318}}。また、農民の軽犯罪・民事は農村共同体の郷裁判所において旧来の慣習法で裁かれる<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.215.</ref>。 これらとは別に聖職者の規律や離婚を扱う宗教裁判所、そして軍人に対する軍法会議があり、[[政治犯]]は[[軍法会議]]で裁かれる<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.226;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.318-319.</ref>。 ==地方行政== ===行政区分=== {{main|ロシア帝国の県の一覧|ロシア帝国の州の一覧}} [[file:Subdivisions of the Russian Empire in 1914.svg|thumb|300px|1914年時点のロシア帝国の行政区分。]] 1914年時点のロシアは81県([[グベールニヤ]])、20州([[オーブラスチ]])そして1行政庁([[:en:okrug|okrug]])の行政単位に分かたれていた。ロシア帝国は中央アジアの[[ブハラ・ハン国]]と[[ヒヴァ・ハン国]]を[[保護国]]としており、1914年には[[トゥヴァ共和国|トゥヴァ]]が加えられている。 11県、17州そして[[樺太|サハリン]]行政庁が[[アジア・ロシア]]に属している。8県がフィンランド、10県がポーランドである。残りは[[ヨーロッパ・ロシア]]で59県と1州(ドン軍管州)となる。[[ドン軍管州]]は軍事省の管轄下にあり、その他の諸県州には知事と副知事(行政評議会議長)が置かれていた。これに加えて、複数の県を管轄し、駐留軍の指揮権を含む広範な権限を有する総督が置かれている。1906年時点でフィンランド、{{仮リンク|ワルシャワ総督府|label=ワルシャワ|ru|Варшавское генерал-губернаторство}}、イルクーツク、キエフ、モスクワ、{{仮リンク|沿アムール総督府|label=アムール|ru|Приамурское генерал-губернаторство}}、[[トルキスタン総督府|トルキスタン]]、[[ステップ総督府|ステップ]]そして{{仮リンク|カフカース総督府 (1801年-1917年)|label=カフカース|en|Caucasus Viceroyalty (1801–1917)}}に総督府が存在していた。 サンクトペテルブルク、モスクワ、[[オデッサ]]、[[セヴァストポリ]]、[[ケルチ]]、[[ムィコラーイウ|ニコラエフ]]、[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]といった大都市は県知事から独立した独自の行政制度があり、[[警察署長]]が長官の役割を果たした<ref name=Britannica876>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/876/mode/1up|publisher=|page=876|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref>。 ===地方自治機関=== 中央政府の地方組織とともに、ロシアには行政の役割を果たす3つの公選による自治機関が存在する。 #農村共同体を基礎とした村団と郷。 #ヨーロッパ・ロシア34県に置かれた[[ゼムストヴォ]]。 #都市ドゥーマ。 ====ミールとヴォロースチ==== [[File:KorovinS NaMiru.jpg|thumb|200px|ミール(農村共同体)の集会。<br>[[セルゲイ・コロヴィン]]画。1893年。]] その起源が定かではない農村共同体([[ミール (農村共同体)]]:''{{lang|ru|Мир}}''またはオプシチナ:''{{lang|ru|Община}}'')は、村ごとの農民の自治組織である<ref>{{Cite web|和書|title=ミール- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%88%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93%EF%BC%89/|author=伊藤幸男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月11日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。ミールは村長と各世帯の家長たちからなる村会を持ち、村の行政と司法そして耕地の割替を行っていた<ref name=mir>保田孝一【ミール】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp. 571-572.</ref>。耕地や森林、牧草地は農民個人のものではなくミールの共同所有とされ、政府はミールを利用して徴税や賦役を課しており、農奴解放後も土地の共同所有は変わらず、却ってミールの役割が強化されることとなった{{r|mir}}。[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)の行政改革で、農村共同体を基礎に地方行政の末端機関としての村団(セーリスコエ・オブシチェストヴォ:''{{lang|ru|Cельское общество}}'')が組織された<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.227;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.217-218.</ref>。 幾つかの村団が集まって郷([[ヴォロスチ (行政区画)|ヴォロースチ]]:''{{lang|ru|волость}}'')を構成しており、村団の代表者による集会を持っていた。この集会で郷長が選ばれており、また郷裁判所が持たれ、ここでは軽犯罪や民事訴訟などを取り扱っていた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.318-319.</ref>。 ====ゼムストヴォ==== {{main|ゼムストヴォ}} [[File:Grigorij Grigorjewitsch Mjassojedow 001.jpg|thumb|275px|left|『ゼムストヴォの昼食』<br>[[グレゴリー・ミャソエドフ]]画。1872年。<br>貴族議員が[[食堂]]で[[食事]]をし、農民議員は屋外で食べている。]] [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)の[[行政改革]]の一環として、1864年に34県とドン軍管州およびこれに属する郡に地方自治機関である[[ゼムストヴォ]](''{{lang|ru|Земство}}'')が設置された。郡ゼムストヴォには[[住民]]によって選挙された郡会とこれに指名されたメンバーによる執行機関の郡参事会があった。県ゼムストヴォの県会および参事会は郡会の代表者によって構成される。ゼムストヴォは地主、[[都市]]居住民そして郷(ヴォロースチ)が別々に代議員を選挙していた<ref name=Zemstvo>鈴木健夫【ゼムストボ】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.316.</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ゼムストボ- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9C/|author=外川継男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月11日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。参事会は次の五つの階級から選出された。(1)590エーカー以上を有する大地主は1議席(2)中小地主および聖職者の代表(3)裕福な都市住民の代表(4)都市[[中産階級]]の代表(5)ヴォロースチから選出された農民の代表である{{r|Britannica876}}。 創設当初のゼムストヴォには地域の課税、教育、保健、道路整備などといった広範な権限が与えられていたが、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代に厳しい制限を加えられている。この結果、郡ゼムストヴォは県知事、県ゼムストヴォは内務省に従属することとなり、ゼムストヴォの決議すべてに県知事・内務省の同意が必要とされ、県知事と内務省は議員たちを統制する強力な権限を有するようになった。 ゼムストヴォの選挙人資格には[[財産]]規定があり、このため郡会、県会ともに代議員は貴族・地主が常に優勢であったが、1870年代以降、ゼムストヴォは立憲制を求める自由主義者たちの拠点と化しており、1906年に開設された国会の[[自由主義]][[政党]](立憲民主党や十月党)の母体となった{{r|Zemstvo}}。 {{-}} ====都市ドゥーマ==== 1870年の新都市法の発布以降、ヨーロッパ・ロシアの市当局はゼムストヴォと同様の代議制都市自治機関(都市ドゥーマ)を持つようになった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.224.</ref>。家主、納税している商人・職人・労働者は資産量の順番にリストに記載されていた。財産所有評価によって三つのグループに分かたれ、当然各グループの人数は大きく異なるのだが、各々が同人数の都市ドゥーマ議員を選出する。行政部は選挙された市長や都市ドゥーマから選ばれたメンバーによる都市参事会が執り行った。しかしながら、[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)の治世にゼムストヴォと同じく、都市ドゥーマは県知事や[[警察]]に従属させられた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.225.</ref>。1894年と1895年にシベリアとカフカースの幾つかの都市に(より一層制限されたものではあるが)都市ドゥーマが設けられている。 ==軍事== === 陸軍 === {{multiple image | align = right | direction = horizontal | header = | header_align = center | header_background = | footer = | footer_align = center | footer_background = | width = | image1 = Preobrazhenskiy polk. Ryadovoy-Serjant-Oficer.jpg | width1 = 150 | caption1 = 17世紀末、ピョートル1世時代の歩兵(近衛歩兵)兵士・下士官・将校。 | image2 = Knötel III, 34.jpg | width2 = 150 | alt2 = | caption2 = 18世紀半ば、エカチェリーナ2世時代の歩兵(銃兵・擲弾兵)兵士・下士官・将校。 }} [[File:Самокиш. Атака литовцев.jpg|thumb|300px|1812年の[[ボロジノの戦い]]でのロシア兵。]] {{main|ロシア帝国陸軍}} 17世紀末時点の[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1682年 - 1725年)の[[ロシア帝国軍]]は約16万の兵力を有しており、この規模は他の[[ヨーロッパ]]諸国の軍隊と比べて遜色ないものであった<ref name=tanakata30>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.30.</ref>。だが、[[大北方戦争]](1700年 - 1721年)緒戦の[[ナルヴァの戦い]](1700年)でロシア軍は[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]の[[スウェーデン軍]]に惨敗を喫してしまう。この後、カール12世が[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド=リトアニア=ザクセン]]制圧に転戦したため、ピョートル1世は軍隊を再建する余裕を得ることができた。ピョートル1世は教会の鐘を鋳つぶして大砲を製作するとともに[[都市]]民や[[農民]]を対象とした本格的な徴兵を開始した。これ以前にも臨時の徴兵は行われていたが、租税民である農民を対象とした恒常的な[[徴兵制度]]ははじめてであった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.14-15.</ref>。「20世帯につき1人」の兵士供出が各村に命じられたが、兵役は25年であり、事実上生涯に渡って村から切り離されることを意味しており、苛酷で死亡率の高い軍隊勤務は貧農に押しつけられる傾向が強かった<ref name=doita408409>[[#土肥他(2009b)|土肥他(2009b)]],pp.408-409.</ref>。「兵士の滞納」は後を絶たなかったが、それでもピョートル1世はこの徴兵制によって年間2万人以上の新兵を得ることができた{{r|doita408409}}。貴族の国家勤務査閲を強化して[[将校]]の養成を行い<ref>[[#阿部(1966)|阿部(1966)]],p.129.</ref>、不足は[[外国人]]を[[雇用]]していたが、1721年の段階でほぼ[[ロシア人]]将校で充足することができるようになっている<ref>[[#土肥他(2009b)|土肥他(2009b)]],pp.407-408;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.30.</ref>。陸軍参議会、海軍参議会、砲兵官庁、兵站部そして参謀本部が設けられ軍事行政も整備された{{r|tanakata30}}。これら軍制改革で強化されたロシア軍は[[ポルタヴァの戦い]](1709年)でロシアに侵攻したスウェーデン軍を壊滅させ、大北方戦争を勝利に導いた。 18世紀のロシア軍は数次にわたる[[オスマン帝国]]や[[ペルシア]]との戦争に勝利して領土を拡大させ、[[七年戦争]]では[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]を破滅寸前に追い込んでいる。19世紀の[[ナポレオン戦争]]ではロシア軍は[[アウステルリッツの戦い]](1805年)や[[フリートラントの戦い]](1807年)で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に敗北したものの、[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]に向かったナポレオンに壊滅的な打撃を与え、最終的な勝利者となった[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)は「ヨーロッパの救済者」と呼ばれた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.275</ref>。「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)は欧州[[政治]]に積極的に介入し、軍事力を持って[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]や[[ハンガリー]]の革命運動を粉砕している。 しかしながら、指揮官の大部分を占める貴族出身の将校で有能な者は一部であり<ref>[[#藤沼(1966)|藤沼(1966)]],p.549.</ref>、兵士出身の将校・下士官は教養が低かった<ref name=cyclopediarussia683>鳥山成人【ロシア帝国】[クリミア戦争の敗北と軍制改革][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.683..</ref>。ピョートル1世以来の徴兵制度は25年の兵役を課して社会から切り離すものであり、農民にとっては[[刑罰]]同然のものと考えられ<ref name=iwama319>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.319.</ref>、兵士の待遇は劣悪であり貴族の将校は兵士を農奴同様に扱い、軍隊内での[[体罰]]や病気での死亡率も高かった{{r|cyclopediarussia683}}。 [[クリミア戦争]](1853年 - 1856年)が勃発した時点のロシア軍は将校27,745人、下士官兵112万人で、ヨーロッパ最大の規模であった<ref>[[#和田(1971)|和田(1971)]],p.248.</ref>。だが、装備は旧式で砲弾も不足しており、加えて国内の[[鉄道]]網が未整備で軍隊の急速な展開が不可能な状態にあった<ref>[[#和田(1971)|和田(1971)]],pp.248-249.</ref>。ロシア軍は[[セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年)|セヴァストポリ攻囲戦]](1854年 - 1855年)で[[イギリス軍|英]][[フランス軍|仏軍]]に敗れて[[黒海]]の非軍事化を含む屈辱的な内容の[[パリ条約 (1856年)|パリ講和条約]]を結ばされ<ref>[[#和田(1971)|和田(1971)]],p.251.</ref>、「ヨーロッパ最強国」の自尊心は打ち砕かれた<ref>[[#栗生沢(2010)|栗生沢(2010)]],p.92;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.310;[[#鳥山(1968)|鳥山(1968)]],pp.327-328.</ref>。 [[File:Russian soldiers during January Uprising.jpg|thumb|150px|left|19世紀半ばアレクサンドル2世時代の騎兵と歩兵。]] 敗戦後、[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)は[[大改革]]と呼ばれる[[農奴解放令|農奴解放]]を含んだ[[行政改革]]を実施しており、軍制改革もこれに含まれる。この当時、[[ドイツ帝国|ドイツ]]や[[フランス第三共和政|フランス]]の軍隊は[[国民]]男子全員に兵役を課して軍隊経験を積ませる[[国民皆兵]]であるのに対し、ごく一部の国民に長期の兵役を課す農奴制・身分制的なロシアの軍制は幅広い予備兵力層を欠いており、時代遅れなものになっていた<ref>[[#和田(1971)|和田(1971)]],p.249.</ref>。軍事大臣[[ドミートリー・ミリューチン|ミリューチン]]は軍制の近代化に着手し始め、まず、軍隊内での体罰は禁止された<ref name=tanakaiwama243319>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.243;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.319.</ref>。1861年に兵役は16年に短縮され、1874年には国民皆兵制が施行されて陸軍は兵役6年予備役9年、海軍は兵役7年予備役3年となった{{r|tanakaiwama243319}}。もっとも、家族状況による兵役免除もあって実際の召集率は対象者の25-30%程度に留まっており、また学校教育を受けた者は兵役期間を軽減される規定により裕福な特権階級層は事実上兵役を免れている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.243,280.</ref>。初等兵学校、中等兵学校そして士官学校といった教育機関が整備され<ref name=tanakata243>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.243.</ref>、貴族以外からの将校への道も広げられた{{r|iwama319}}。軍事行政は総合参謀本部と七つの軍事最高機関が設けられ、各部門の長による軍事評議会が組織された{{r|tanakata243}}。 [[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]](1877年 - 1878年)でロシア軍は[[バルカン半島]]とザカフカースでオスマン軍と戦い、苦戦の末に{{仮リンク|プレヴェン包囲戦|label=プレヴェン要塞を陥落させて|en|Siege of Plevna}}[[イスタンブール]]に迫った。オスマン帝国は[[サン・ステファノ条約]]によってバルカン半島の大部分の喪失を余儀なくされ、[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]を経て[[モンテネグロ公国|モンテネグロ]]、[[ルーマニア公国|ルーマニア]]そして[[セルビア公国 (近代)|セルビア]]が独立、[[ブルガリア公国]]が成立している。 [[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)の時代には総動員に必要とする日数の短縮、戦時における騎兵の即応性および下馬歩兵戦闘への適応([[軽騎兵]]や[[槍騎兵]]が[[竜騎兵]]に置き換えられた)、国境地帯の要塞および鉄道網の強化そして砲兵および輜重隊の強化が図られている{{r|Britannica879}}。 [[File:Defenders NGM-v31-p369-A.jpg|thumb|250px|着剣捧げ銃の敬礼を行う第一次世界大戦開戦時のロシア軍歩兵。]] [[File:TzarNicholasAmongTroops.jpeg|thumb|250px|皇帝がかざした[[イコン]]に礼拝する将兵たち。大戦中、ニコライ2世は最高司令官を務めていた。1914年から1917年撮影。]] [[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]](在位1894年 - 1917年)の時代には[[アジア]]方面の戦力と即応性が強化され、民兵も再編された<ref name=Britannica879>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/879/mode/1up|publisher=|page=879|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年3月31日}}</ref>。[[日露戦争]](1904年 - 1905年)開戦時、[[シベリア鉄道]]はバイカル湖迂回区間が未開通であったため[[ヨーロッパロシア]]からの兵員輸送に時間を要し、[[食料|糧食]]の一部は現地調達に頼らざるを得なかった<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],pp.35-35.</ref>。戦術思想は[[銃剣]]突撃に固執して銃剣を固定した小銃を用いた結果、射撃精度が低下しており、運用もナポレオン戦争と大差ない密集隊形による一斉射撃だった<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],p.37.</ref>。[[機関銃]]は配備されていたがその価値が認められるまでには時間を要した<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],p.41.</ref>。兵士は困苦欠乏に慣れ、皇帝を素朴に崇拝しており、困難な状況でも頑強に戦ったが、戦争目的を理解していなかった<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],p.38,.</ref>。将校の質は[[義和団の乱|義和団事件]](1900年)の際にイギリス軍士官から「(ロシア軍は)ロバに率いられたライオン」と酷評されたもので、一部を除けば無気力で能力も低かった<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],pp.38-39.</ref>。ロシア陸軍は[[日本陸軍]]の攻勢を前に後退を繰り返すことになり、[[旅順攻囲戦|旅順要塞]]を失陥し、[[奉天会戦]]でも敗れた。この敗北が[[ロシア第一革命|1905年革命]]を引き起こすことになった。 この時期のロシア軍は正規兵、カザーク([[コサック]])そして民兵におおまかに区分される。1911年時点の平時戦力は将校42,000、兵110万人(うち戦闘員は95万人)であり、戦時戦力は将校75,000人、兵450万人になっていた{{r|Britannica879}}。この兵力にほぼ無尽蔵な人的資源を加味すると[[第一次世界大戦]](1914年 - 1918年)開戦時のロシア軍の規模はヨーロッパ最大であったが、鉄道網の慢性的な不効率はロシアの潜在的戦力を大きく減じていた<ref name=Livesey13>[[#Livesey(1994)|Livesey(1994)]],p.13.</ref>。高級司令部と兵站部は[[汚職]]と不効率によってひどく弱められており、[[工場]][[生産]]の不備から[[武器]][[弾薬]]が不足していた<ref>[[#瀬戸(2011)|瀬戸(2011)]],p.37;[[#Livesey(1994)|Livesey(1994)]],p.13.</ref>。将校の質的な弱点は改善されない上に数が不足していた<ref name=seto37>[[#瀬戸(2011)|瀬戸(2011)]],p.37.</ref>。近代装備についても通信システムが未整備で師団司令部が平文で無線連絡を交わし合う有り様であり、軍の[[自動車]]は700台に満たなかった{{r|seto37}}。 第一次世界大戦が開戦するとロシア軍はドイツ軍の予想よりも早く動員を終えて主力が不在の[[東プロイセン]]に攻め込んだが、[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]で包囲殲滅され大損害を出してしまう。ロシア軍はドイツ軍の攻勢に敗走を余儀なくされ、[[ポーランド]]、[[リトアニア]]そして[[ベラルーシ]]西部を占領された。大戦はドイツ軍、オーストリア・ハンガリー軍そしてオスマン軍を相手の[[総力戦]]となり、ロシア軍は1400万人もの動員を行ったが2年間の戦闘で530万人の犠牲者を出している{{r|kuriuzawa116}}。軍の士気は低下して厭戦気分が広まった<ref>岩間他(1979),p.428.</ref>。1917年に首都[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]で[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が起こると兵士たちは皇帝の命令に従うことを拒否して蜂起した[[労働者]]の側に付き、労兵ソビエトを組織して帝政打倒を訴え、ロシア帝国を崩壊に追い込むことになる。 {{-}} === 海軍 === {{multiple image | align = right | direction = horizontal | header = | header_align = center | header_background = | footer = | footer_align = center | footer_background = | width = | image1 = Полтава1712.jpg | width1 = 150 | caption1 = 1712年に竣工したロシア海軍草創期の戦列艦{{仮リンク|ポルタヴァ (戦列艦)|label=ポルタヴァ|en|Russian ship of the line Poltava (1712)}}。 | image2 = Ship Imperator Aleksandr 1827.jpg | width2 = 150 | alt2 = | caption2 = 19世紀前半の戦列艦インペラートル・アレクサンドル。 }}{{Main|ロシア帝国海軍}} [[ロシア海軍]]は[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1682年 - 1725年)によってつくられた{{r|tanakata30}}。1695年に[[オスマン帝国]]の属国[[クリミア・ハン国]]領の[[アゾフ]]要塞攻略に失敗したピョートル1世は[[モスクワ]]近郊の町や[[ヴォロネジ]]で平底川船1300艘、[[ガレー船]]22艘、[[火船]]4艘の艦隊を建造し、1696年にこの艦隊を用いて海上補給路を断ち、3か月の包囲戦の末に要塞を陥れて念願の海への出口を手に入れた<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.8.</ref>。[[スウェーデン]]との[[大北方戦争]](1700年 - 1721年)では占領した[[イングリア]]やバルト地方に[[クロンシュタット]]をはじめとする造船所をつくり、[[バルチック艦隊]]を建造した<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.9.</ref>。バルチック艦隊は[[ハンゲの海戦|ガングートの海戦]](1714年)や{{仮リンク|グレンガム島沖の海戦|en|Battle of Grengam}}(1720年)で[[スウェーデン海軍|スウェーデン艦隊]]に勝利して[[バルト海]]の[[制海権]]を確保し、[[戦争]]の勝利に貢献した。 [[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)の時代の[[露土戦争 (1768年-1774年)|第一次露土戦争]](1768年 - 1774年)ではクロンシュタットを発した[[アレクセイ・グリゴリエヴィチ・オルロフ|オルロフ]]提督率いるバルチック艦隊が[[ジブラルタル海峡]]を経て[[地中海]]に入り、オスマン艦隊を撃破してロシアの海軍力を誇示している<ref name=tanaka38>[[#田中(2009)|田中(2009)]],p.38.</ref>。戦争に勝利してクリミア・ハン国を併合したエカチェリーナ2世は[[グリゴリー・ポチョムキン|ポチョムキン]]を新領土総督に任命してクリミア経営にあたらせた。ポチョムキンは[[セヴァストポリ]]を根拠地とする[[黒海艦隊]]を創設する{{r|tanaka38}}。その後に発生した[[露土戦争 (1787年-1792年)|第二次露土戦争]](1787年 - 1792年)や[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)の時の[[露土戦争 (1806年-1812年)|第三次露土戦争]](1806年 - 1812年)でもロシア艦隊とオスマン艦隊は戦火を交えている<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.11.</ref>。 [[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)の時代に入ると[[ギリシャ独立戦争]](1821年 - 1832年)に介入したロシアは地中海に艦隊を派遣して[[イギリス|英]][[フランス|仏]]と連合艦隊を組み、[[ナヴァリノの海戦]](1827年)でオスマン・エジプト連合艦隊を撃滅しており、この勝利により[[ギリシャ王国|ギリシャ]]を独立へと導いている<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],pp.11-12.</ref>。 1853年にロシアとオスマン帝国は再び開戦した(クリミア戦争:1853年 - 1856年)。開戦早々に[[パーヴェル・ナヒーモフ|ナヒモフ]]提督の黒海艦隊が[[スィノプ]]港に停泊していたオスマン艦隊に奇襲をかけて全滅させ、[[港湾]]機能を破壊した([[シノープの海戦]])<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],pp.12-13.</ref>。海戦には勝利したが、英仏の新聞が「スィノプの虐殺」と[[報道]]したことにより反ロシア的[[世論]]を煽る結果となってしまう。参戦した英仏連合艦隊が黒海に入り、黒海艦隊はセヴァストポリに籠城する作戦をとったが、1年以上の包囲戦の末にセヴァストポリは陥落し、黒海艦隊は降伏前に自沈した<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.13.</ref>。[[パリ条約 (1856年)|パリ講和条約]]の条項により、黒海の艦艇保有数に厳しい制限がかけられ、艦隊を配備することは禁じられた<ref name=Watts14>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.14.</ref>。 <gallery widths="210px"> Capture of Azov 1696.png|アゾフ攻略(1696年)<br><small>Robert Kerr Porter画。1842年以前。</small> Bogolyubov SrazhPriGangCVMM.jpg|ガングートの海戦(1714年)<br><small>Алексей БОГОЛЮБОВ画。1877年。</small> Navarino-A L Garneray.jpg|ナヴァリノの海戦(1827年)<br><small>Ambroise-Louis Garneray画。1830年頃。</small> Battle of Sinop.jpg|シノープの海戦(1853年)<br><small>[[イヴァン・アイヴァゾフスキー]]画。1853年。</small> </gallery> [[File:Monitor Bronenosets.jpg|thumb|250px|ロシア軍のモニター艦(砲塔装甲艦)。<br>1863年 - 1914年。]] クリミア戦争の敗戦後、[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](在位1855-1881)の弟[[コンスタンチン・ニコラエヴィチ|コンスタンチン大公]]が艦隊の再編と近代化を指揮した{{r|Watts14}}。1860年代に[[帆船|帆走軍艦]]は姿を消し、[[蒸気船|蒸気軍艦]]が主体となった<ref>[[#Conway(1979)|Conway(1979)]],p.171.</ref>。[[南北戦争]]での[[ハンプトン・ローズ海戦]](1862年)に関心を持ったロシア海軍はさっそく木造軍艦2隻を装甲艦に改装させ、さらにアメリカの装甲艦[[モニター (装甲艦)|モニター号]]に類した沿岸防衛用の[[モニター艦]]を17隻建造している<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.14;[[#Conway(1979)|Conway(1979)]],p.172.</ref>。[[普仏戦争]](1870年 - 1871年)にフランスが敗れて[[フランス第二帝政|第二帝政]]が倒れるとロシアはパリ条約を破棄して黒海艦隊を再建した<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],pp.14-15.</ref>。[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]](1877年 - 1878年)では発明されて間もない[[魚雷]]を用いてオスマン海軍の船を撃沈することに成功している<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],pp.15-16.</ref>。 1860年の[[北京条約]]で清国から[[沿海州|沿海地方]]を割譲されており、この地に建設された[[ウラジオストク]]が[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]の根拠地となる。1898年に[[清|清国]]から[[大連市|大連]]・[[旅順口区|旅順]]地域を租借したロシアは[[旅順要塞]]を築いて太平洋艦隊の根拠地となし、日本に備えた。 [[File:Knyaz'Suvorov1904Reval.jpg|thumb|left|200px|バルチック艦隊旗艦[[クニャージ・スヴォーロフ]]。]] 20世紀はじめのロシア海軍はバルチック艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊そして[[カスピ海小艦隊|カスピ海艦隊]]から成っていた。[[日露戦争]](1904年 - 1905年)開戦時の戦力は[[前弩級戦艦|戦艦]]21隻(5隻建造中)、[[海防戦艦]]3隻、旧式[[装甲巡洋艦]]4隻、[[装甲巡洋艦]]8隻、[[防護巡洋艦|巡洋艦]]13隻(5隻建造中)、軽巡洋艦8隻、駆逐艦49隻(11隻建造中)の主要艦艇からなり<ref>[[#オレンダー(2010)|オレンダー(2010)]],p.15.</ref>、イギリス、[[ドイツ帝国|ドイツ]]に次ぐ世界第三位の海軍大国であった{{r|Gardiner291}}。 日本の[[連合艦隊]]と対することになった太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)は[[旅順口攻撃|旅順港に封じ込められた]]。艦隊はウラジオストクへの脱出を図るが[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]で大損害を受けて阻止され、[[旅順攻囲戦|旅順陥落]]で全滅した。[[ヨーロッパロシア]]から長距離の航海を経て極東にたどり着いたバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は[[日本海海戦]](ツシマ海戦)でほぼ全滅する。陸海での敗戦に国内は動揺し、黒海艦隊では[[戦艦ポチョムキンの反乱]]が起こっている。この[[戦争]]でロシア海軍は戦艦14隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦21隻を失った<ref>[[#Conway(1979)|Conway(1979)]],p.172.</ref>。 [[ファイル:Gangut battleship.jpg|thumb|250px|弩級戦艦ガングート。1915年]] 1907年、海軍省は戦艦32隻、巡洋戦艦16隻、巡洋艦36隻、駆逐艦156隻からなる野心的な建艦計画を提出するが、[[ドゥーマ]](国会)の猛反対にあい、縮小した計画も承認を得られず、1909年のドイツとの関係悪化でようやくバルチック艦隊向け[[弩級戦艦]]4隻の予算が承認された<ref name=Gardiner291>[[#Gardiner(1985)|Gardiner(1985)]],p.291.</ref>。日本との関係が緩和する一方で独墺とは険悪化すると1911年に黒海艦隊向けの弩級戦艦3隻その他の予算が承認される。1911年の[[モロッコ事件|モロッコ危機]]で対独関係がさらに悪化すると海軍省は「大建艦計画」と呼ばれる野心的な海軍法をドゥーマに承認させた{{r|Gardiner291}}。これは1927年までに総計戦艦27隻、巡洋戦艦12隻を建造しようとするものであったが、実現することはなかった<ref>[[#パイロンズオフィス(1998)|パイロンズオフィス(1998)]],pp.34-35.</ref>。 艦隊再建の途上でロシア海軍は[[第一次世界大戦]](1914年 - 1918年)を迎える。このためバルチック艦隊と黒海艦隊の作戦は[[機雷戦]]を中心とした防御的なものになった<ref>[[#Gardiner(1985)|Gardiner(1985)]],pp.291-292.</ref>。ロシア海軍は開戦早々の1914年8月に触雷沈没したドイツの軽巡洋艦{{仮リンク|マクデブルク (軽巡洋艦)|label=マクデブルク|en|SMS Magdeburg}}から[[暗号|暗号表]]を回収してイギリスへ送り、連合国の戦争努力への大きな貢献を果たしている<ref>[[#Gardiner(1985)|Gardiner(1985)]],p.292.</ref>。戦前に起工された戦艦のうちバルチック艦隊向けの[[ガングート級戦艦]]4隻と黒海艦隊向けの[[インペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦]]3隻が大戦中に竣工したが、インペラトリッツァ・マリーヤ級は戦争と[[ロシア内戦|内戦]]の混乱で全て失われた。 1917年の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]で帝政が瓦解し、さらに[[十月革命]]ではバルチック艦隊の水兵が[[ボリシェヴィキ]]に与し、巡洋艦[[アヴローラ (防護巡洋艦)|アヴローラ]]が[[冬宮]]を砲撃した。続く内戦の混乱によって海軍の組織は崩壊し、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]をはじめとするボリシェヴィキの指導者は海軍の必要性を理解せず、その結果、艦艇の多くが失われるか行動不能になり、建造中の艦は放置されることになる<ref>[[#ポルトフ(2010)|ポルトフ(2010)]],p.156;[[#Gardiner(1985)|Gardiner(1985)]],pp.292-293.</ref>。 {{-}} === 航空隊 === [[File:Bulla Vityaz.jpg|thumb|200px|世界初の4発爆撃機イリヤー・ムーロメツ]] [[西ヨーロッパ]]諸国や[[アメリカ合衆国]]と同じくロシアでも19世紀後半から動力飛行機の試みがなされており、ソ連時代には世界初の動力飛行は[[ライト兄弟]]よりも20年近く早い、1884年の[[アレクサンドル・モジャイスキー|モジャイスキー]]によるものであると主張されていた<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.15-16.</ref>。19世紀末に[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー|ツィオルコフスキー]]が先進的なロケット技術の諸論文を発表しており、今日では「宇宙ロケットの父」と呼ばれている<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.20-21.</ref>。1909年には「ロシア航空の父」と呼ばれる[[ニコライ・ジュコーフスキー|ジューコフスキー]]がロシア初の航空団体を設立した<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.21-22.</ref>。そして、1914年に[[イーゴリ・シコールスキイ|シコールスキイ]]が世界初の4発飛行機[[イリヤー・ムーロメツ (航空機)|イリヤー・ムーロメツ]]を完成させた。 [[第一次世界大戦]](1914年 - 1918年)開戦時、陸軍は約250機、海軍は約50機の航空機を保有していた<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],p.29.</ref>。国産軍用機も存在していたが少数[[生産]]に留まっており、ロシア軍は輸入機やライセンス生産機主体で戦った<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.29-30.</ref>。イリヤー・ムーロメツの爆撃型が製造され、シコールスキイ自身が率いる爆撃隊の活躍があったもの<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.30-34.</ref>、ロシア軍航空隊は用兵と運用の拙劣さもあって{{仮リンク|ドイツ帝国軍航空隊|en|Luftstreitkräfte}}を相手に劣勢を強いられている<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.28-30.</ref>。 {{-}} ==宗教== {|style="float:right" |style="width:1em"| | {|class="wikitable sortable" style="float:right" !宗教 !信者数{{r|Britannica885}} |- |[[正教会]] |align=right|87,123,604 |- |[[イスラム教]] |align=right|13,906,972 |- |[[カトリック教会|ローマ・カトリック]] |align=right|11,467,994 |- |[[ユダヤ教]] |align=right|5,215,805 |- |[[ルーテル教会|ルター派]] |align=right|3,572,653 |- |[[古儀式派]]と諸セクト<ref>表記は右による。[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.304</ref> |align=right|2,204,596 |- |[[アルメニア使徒教会]] |align=right|1,179,241 |- |[[仏教]]と[[チベット仏教|ラマ教]] |align=right|433,863 |- |その他非キリスト教 |align=right|285,321 |- |[[改革派教会|カルヴァン派]] |align=right|85,400 |- |[[メノナイト]] |align=right|66,564 |- |style="width:12em" | {{仮リンク|アルメニア典礼カトリック教会|en|Armenian Catholic Church}} |align=right|38,840 |- |[[バプテスト教会]] |align=right|38,139 |- |[[カライ派]] |align=right|12,894 |- |[[聖公会]] |align=right|4,183 |- |その他のキリスト教宗派 |align=right|3,952 |} |} 1897年の国勢調査に基づく1905年の報告書によれば、ロシア帝国内の各宗教宗派の概算信者数は右表のとおりである。1905年の「[[信教の自由]]に関する勅令」により公的には全ての信仰が認められるようになった。 === 正教会 === {{main|正教会の歴史|ロシア正教会の歴史|古儀式派}} ロシア帝国の[[国教]]は[[正教会]]([[ギリシャ正教]]、東方正教会)である。[[独立正教会|独立教会]][[ロシア正教会]]の首長は「教会の最高守護者」の称号を有する皇帝であった。皇帝は人事権を有していたが、教義や説教に関する問題を決定することは無かった{{r|Britannica885}}。 [[File:Cathedral of Christ the Saviour 1903.jpg|thumb|left|200px|モスクワの[[救世主ハリストス大聖堂]]。1903年撮影。<br>この聖堂は1931年にスターリンの指令によって爆破されている。]] ロシア帝国の多数を占める[[東スラヴ人|東スラヴ系]]の[[ロシア人]]、[[小ロシア|小ロシア人]]([[ウクライナ人]])、白ロシア人([[ベラルーシ人]])は正教もしくは無数にあるその分派を信仰している。東スラヴ系以外では[[ルーマニア人]]([[モルドバ人]])、[[グルジア人]]も正教である。[[フィンランド大公国|フィンランド]]の[[カレリア]]地方の正教徒はロシア革命後の1917年に[[自治正教会|自治教会]][[フィンランド正教会]]を創設している。ウラル・ヴォルガ地方では[[モルドヴィン人]]のほとんどが正教であり、[[ウドムルト人]]、[[マンシ人|ヴォグル人]]、チェレミス人([[マリ人]]) と[[チュヴァシ人]]も同様であるがキリスト教やイスラム教の影響を受けた[[シャーマニズム]]との混合であった{{r|Britannica885}}。シベリアでは[[ヤクート人]]が18世紀後半頃に正教に改宗しているが、これもシャーマニズムの要素を残している<ref name=Yakuts>加藤九祚【ヤクート族】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.606.</ref>。 ====ロシア正教会==== ロシアのキリスト教受容は10世紀頃のことである。以降、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]の管轄下に置かれ、ほとんどの[[府主教]]がギリシャ人であったが<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],p.74.</ref>、[[東ローマ帝国]]が衰退して[[フィレンツェ公会議|バーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議]]で東西教会の合同が宣言されたことを受け、1448年にモスクワ府主教座がコンスタンディヌーポリ総主教庁から事実上独立した<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.74-75.</ref>。東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワは[[ローマ帝国]]の[[ローマ]]、東ローマ帝国の[[コンスタンティノープル]]([[古期ロシア語]]ではツァリグラードと呼ばれた)に次ぐ「[[モスクワ第3ローマ論|第三のローマ]]」であるという言説が見られるようになった<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.54;[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.76-78..</ref>。1589年にロシア正教会はコンスタンディヌーポリ総主教[[イェレミアス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|イェレミアス2世]]より、独立教会の祝福を正式に受け、[[モスクワ総主教]]座が成立した<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.80-84.</ref>。 [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)以前の正教会の修道院・教会は農民の4分の1を支配し、世俗権力から独立した勢力を持っていた<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.170.</ref>。ピョートル1世はロシア正教会をプロテスタント諸国の[[国教会]]的な組織に改編すべく、教会改革を断行した<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],p.115.</ref>。1700年に[[モスクワ総主教]]{{仮リンク|アドリアン (モスクワ総主教)|label=アドリアン|en|Adrian of Moscow}}が死去するとピョートル1世は後任の選出を許さず、皇帝に忠実な[[フェオファン・プロコポヴィチ|フェオファン]]大主教を起用して1721年に「聖務規則」を作成させ、[[モスクワ総主教|総主教]]位を廃止して合議制の[[聖務会院|宗務院]]を設け<ref name=tanaka42 group=n/>、教会を国家権力の統制下に置かせた<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.118-121.</ref>。皇帝の代理人である俗人の総監に指導される宗務院は聖務に対する広範な権限を有するようになり、教会は国家の一機関と化した<ref name=seikyoukai679>森安達也【ロシア正教会】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.679-680.</ref>。聖界領地は国家管理とされ(エカチェリーナ2世の時代に国有地化)、独自の収入を断たれた聖職者たちは国家からの給与に依存することになり、従属の度を深めた{{r|tanak41}}。 ロシアの東方拡大とともにロシア正教会も東方へと進出し、ウラル・ヴォルガ地方の諸民族そしてシベリア先住民の正教への改宗が進められた。ウドムルト人、チェレミス人、ヤクート人{{r|Yakuts}}といった民間信仰の民族に対しては正教への改宗は順調だったが、[[ムスリム]]に対しては概して上手くゆかなかった<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.63-65.</ref>。[[タタール人]]の上級階級の正教受容は一定の成功を収め、彼らは[[#貴族|ロシア貴族]]化したが<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.51-53.</ref>、民衆はごく一部が改宗したのみで<ref group="n">正教徒となったタタール人は[[クリャシェン]]と呼ばれる。18世紀初頭に2万人前後、19世紀末には11万となったが、その後激減しており、2002年現在は2万5000人程度になっている。[[ロシア帝国#濱本(2011)|濱本(2011)]],p.56.</ref>、それも表面的に洗礼を受けただけの者が多く、後に[[棄教]]者が続出する事態が起こっている<ref>[[#高田(2012)|高田(2012)]],pp.144-147;[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.62-63,93.</ref>。[[バシキール人]]は改宗に強く抵抗して反乱を繰り返し<ref>青木節也【バシキール自治共和国】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.451-452.</ref>、19世紀後半にロシアの版図に入った中央アジアの[[トルキスタン総督府]]では正教会による[[宣教]]自体が禁止されていた<ref>西山克典+宇山智彦【ロシア正教会】『中央ユーラシアを知る事典』(2005),pp.531-534.</ref>。このような動きに危機感を持った正教会では、19世紀後半に{{仮リンク|ニコライ・イヴァーノヴィチ・イリミンスキー|label=イリミンスキー|ru|Ильминский, Николай Иванович}}が洗礼タタール人に対する現地語、習慣を尊重した教育活動を行い、この方式が政府に採用されてイリミンスキー・システムと呼ばれるキリスト教化した異族人全般に対する教育制度が構築されることになる<ref>[[#高田(2012)|高田(2012)]],pp.145-148</ref>。 帝政時代のロシア正教会の伝道活動は国外にも及んでおり、[[アラスカのインノケンティ|聖インノケンティ・ヴェニアミノフ]]はロシア領アラスカ初の主教となり、先住民への伝道を行った。1868年に[[アラスカ購入|アラスカが売却]]されるとロシア正教会は[[アメリカ合衆国]]へと進出して1872年に[[サンフランシスコ]]、1905年には[[ニューヨーク]]に主教座が設けられている<ref>[[#高橋(1980)|高橋(1980)]],p.155.</ref>。日本へは、1861年に宣教師[[ニコライ・カサートキン|ニコライ]]が来日して、後の[[日本ハリストス正教会]]の基礎を築いている。 [[ファイル:Prokudin-Gorsky 20348.jpg|thumb|210px|[[ソロヴェツキー修道院]]。<br>古儀式派の拠点となり、1668年から1676年まで抵抗を続けた。<br>[[セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー]]撮影の最初期のカラー写真。1915年。]]ロシア帝国は征服した土地の異宗派信徒や異教徒の改宗自体はさほど重視していなかったが<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.254.</ref>、ロシア語と正教を強制する[[ロシア化]]政策が強化された19世紀後半の[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)の時代には[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ|ポベドノスツェフ]]宗務院総監の指導のもとで、カトリック・プロテスタント・アルメニア教会への規制強化と正教への改宗が促され、中央アジアの[[タタール人]]に対しては半ば強制的な正教への改宗が行われた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.336-338.</ref>。1905年革命によって信教の自由が認められると多数の人々がカトリック、プロテスタントそしてイスラム教に改宗・復帰している<ref name=CatholicEncyclopedia264>{{cite web|title=the Catholic Encyclopedia Volume13-"Russia"|url=https://archive.org/stream/catholicencyclop13herbuoft#page/264/mode/1up|publisher=New York, The Encyclopedia Press|page=264|accessdate=2012年3月11日}}</ref>。 帝政下のロシア正教会では綱紀の紊乱や村司祭の貧困といった問題が深刻化しており、19世紀後半になるとこれら諸問題を解決するための教会改革を求める運動が起こり、この動きが1905年革命の際の[[地方公会]](1681年に廃止)再開と総主教制復活の要求に結びついた<ref name=hirooka>{{Cite web|和書|title=20世紀のロシア正教会 チーホンからアレクシー2世へ(1)|url=http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/sympo/Proceed97/hiro.html|publisher=[[北海道大学スラブ研究センター|スラブ研究センター]]|author=[[廣岡正久]]|page=|accessdate=2012年3月17日}}</ref>。二月革命で帝政が倒れた直後の1917年8月に地方公会が開催されて[[ティーホン (モスクワ総主教)|ティーホン]]が総主教に選出されるが<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.127-130.</ref>{{r|hirooka}}、この後、ロシア正教会は[[無神論]]の[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]下で厳しい迫害と宗教活動の制約を受けることになる<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア正教会- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A/|author=[[田口貞夫]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年3月12日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。 20世紀はじめ頃のロシア正教会の上座には3人の[[府主教]](サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフ)、14人の[[大主教]]、50人の主教がいた<ref name=Britannica885>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/885/mode/1up|publisher=|page=885|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月23日}}</ref>。1912年時点の数値によるとロシア国内には正教会の教会と[[礼拝堂]]が60,000、公認された[[修道院]]298、[[女子修道院]]400があり、[[司祭]]45,000人、[[長司祭]]2,400人、[[輔祭]]15,000人、[[修道士]]・修練士17,583人、修道女・見習い修道女52,927人の聖職者がいた<ref name=CatholicEncyclopedia263>{{cite web|title=the Catholic Encyclopedia Volume13-"Russia"|url=https://archive.org/stream/catholicencyclop13herbuoft#page/263/mode/1up|publisher=New York, The Encyclopedia Press|page=263|accessdate=2012年3月10日}}</ref>。 ====ロシア正教会以外==== 17世紀の総主教{{仮リンク|ニーコン|en|Patriarch Nikon}}の典礼改革を巡ってロシアの正教会では分裂が生じ、ツァーリ・[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]](在位1645年 - 1676年)と対立したニーコンは失脚したが、同時に改革反対派も正教会から[[破門]]を受けた<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],pp.76-78;廣岡(1993),pp.97-98,112-114..</ref>。ロシア伝統の典礼を護持する彼らは[[古儀式派]](スタロオブリャージェストヴォ:''{{lang|ru|Старообрядчество}}'')<ref group=n>分離派(ラスコーリニキ:''{{lang|ru|раскольники}}'')とも呼ばれる。</ref>と呼ばれた。古儀式派は激しい迫害を受けるが<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.210,254.</ref>、ピョートル1世の教会改革によってロシア正教会に対する統制が強められると勢力を伸ばすようになり、国民の3分の1から5分の1が古儀式派に属するようになった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.43,98-99.</ref>。 古儀式派はロシア正教会から分離した際に主教を欠いていたため司祭の叙階が困難になり、17世紀末頃に司祭の存在を前提とする{{仮リンク|司祭派|en|Popovtsy}}と無用とする[[無司祭派]]とに分裂した{{r|raskoliniki}}。無司祭派は狂信の度を深めて無数に分裂を繰り返し、勢力を弱めている<ref name=raskoliniki>森安達也【ラスコーリニキ】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.617.</ref>。18世紀後半の[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)の時代には古儀式派に対する弾圧が緩められたが<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p254.</ref>、[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)の時代に再び弾圧を受けるようになり、[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務総監の指導のもとで迫害が行われた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.338-339.<br>外川継男【ポベドノスツェフ】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.549.</ref>。司祭派はこれらの迫害を耐えて1881年に政府の公認を受けている{{r|raskoliniki}}。1897年の国勢調査によると総人口の15%にあたる1750万人が古儀式派であった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.339.</ref>。 グルジアには5世紀以来の独立教会[[グルジア正教会]]が存在していたが、19世紀にグルジアが併合されるとグルジア正教会の独立が否定されて総主教も廃止されている<ref name=cyclopediacentraleurasia180>高橋清治【グルジア正教会】『中央ユーラシアを知る事典』(2005),p.180.</ref>。ロシア人の大主教が派遣され、礼拝での[[グルジア語]]の使用も制限されており、これに反発した民衆蜂起への報復としてさらなるロシア化が強制されている{{r|cyclopediacentraleurasia180}}。グルジア正教会が独立を回復するのは1917年の二月革命後であり、ロシア正教会が正式にこれを認めたのは[[第二次世界大戦]]中の1943年のことであった。 === 正教会以外のキリスト教 === [[File:Krakowskie 016.jpg|thumb|200px|ワルシャワの{{仮リンク|聖十字架教会 (ワルシャワ)|label=聖十字架教会|en|Holy Cross Church, Warsaw}}。1890年代撮影]] [[ポーランド人]]とほとんどの[[リトアニア人]]は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]である。ウクライナ人、ベラルーシ人の一部は[[東方典礼カトリック教会]]、アルメニア人の一部は{{仮リンク|アルメニア典礼カトリック教会|en|Armenian Catholic Church}}に属していた。[[エストニア人]]を含む全ての西部[[フィン人]]、[[バルト・ドイツ人|ドイツ人]]そして[[スウェーデン人]]は[[プロテスタント]]であり、[[ルーテル教会|ルター派]]は[[バルト三国|バルト地方]]、[[イングリア]]そして[[フィンランド大公国]]での支配的宗派であった。[[アルメニア]]には独自の[[アルメニア使徒教会]]が存在する。 1721年の[[ニスタット条約]]でロシアに編入されたバルト地方のルター派教会は存続を保障され、1809年にロシアの属国となったフィンランド大公国の教会も同様の措置が取られた。 18世紀末のポーランド分割で併合されたウクライナおよびベラルーシ<ref group=n>ロシア編入時、ベラルーシ住民の75%が合同派教会だった。[[#服部(2004)|服部(2004)]],p.23.</ref>の合同派教会([[ウクライナ東方カトリック教会]])に対しては正教会への復帰が強制されており、強い抵抗とこれに対する迫害が繰り返されることになる<ref>[[#ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)|ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)]],p.160,221.</ref>。1861年にワルシャワにおいて総督府の兵士と民衆との衝突が発生した際にカトリック教会、プロテスタント教会そしてユダヤ教寺院が合同で教会を閉鎖する抗議行動を起こして総督を辞任に追い込んでいる<ref>[[#ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)|ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)]],p.210-211.</ref>。1863年から1864年にかけてポーランド・リトアニアで起こった大規模な武装蜂起([[1月蜂起|一月蜂起]])が鎮圧されると、ロシア政府は蜂起にカトリック教会の聖職者が関与していたとして規制が強化されて修道院の大半が閉鎖され、弾圧に抗議する司祭が追放されたためポーランド王国内で実質的に活動する教区が僅か1つとなる事態になっている<ref>[[#ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)|ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)]],p.220</ref>。1882年に[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)と教皇庁との間で政教条約([[コンコルダート]])が結ばれたものの、ポベドノスツェフ宗務総監の宗教政策により、この合意は無効同然にされた<ref>{{cite web|title=the Catholic Encyclopedia Volume13-"Russia"|url=https://archive.org/stream/catholicencyclop13herbuoft#page/259/mode/1up|publisher=New York, The Encyclopedia Press|page=259|accessdate=2012年3月25日}}</ref>。アレクサンドル3世の時代には、それまで寛容であったバルト地方のルター派教会に対しても規制が強められている<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.337.</ref>。 19世紀にロシアの統治下に入ったアルメニアは4世紀以来の長い歴史を持つ独自の[[アルメニア使徒教会]]が存在しており、正教会に併合されることなく存続を許されていた<ref name=centraleurasia45>吉村貴之【アルメニア教会】『中央ユーラシアを知る事典』(2005),p.45.</ref>。アレクサンドル3世の時代にはアルメニア使徒教会も迫害を受け、ロシア化政策により1885年に教区学校が閉鎖された<ref>[[#中島(2009)|中島(2009)]],p.77;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.338.</ref>。[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]](在位1894年 - 1917年)治世には、1896年に図書館・友愛団体も閉鎖され、1903年には教会財産が没収される「アルメニア教会の危機」と呼ばれる事態になっている<ref>[[#中島(2009)|中島(2009)]],p.77.</ref>{{r|centraleurasia45}}。 帝政時代のロシアでは[[霊的キリスト教]]系のさまざまな諸派(主流派正教会の観点からは異端、分離派あるいは[[セクト]])が生じており、有力なものには[[ドゥホボール派]]<ref>森安達也【ドゥホボル派】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.388.</ref>や信者が100万人に達した[[モロカン派]]<ref>森安達也【モロカン派】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.603-604.</ref>がある。またこの時代に誕生し極端なセクトと呼ばれていた教派の事例としてはフルイスト派(鞭身派)や[[スコプツィ]]派([[去勢派]])が知られる<ref group=n>フルイスト派やスコプツィ派については次の論考を参照。*{{Cite journal|和書|author=青山太郎|year=2001|title=ロシアの性愛論 (7) : 去勢派|journal=言語文化論究|volume=13|pages=121-138|url=https://doi.org/10.15017/5362|publisher=九州大学大学院言語文化研究院|doi=10.15017/5362|ref=}}</ref>。これらのセクトは反社会分子として迫害を受けた<ref>森安達也【キリスト教】[異端諸派][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.152.</ref>。だが、現在も存続している。 === 非キリスト教 === {{main|ロシアにおけるイスラーム}} ヴォルガ・ウラル地方の[[タタール人]]と[[バシキール人]]そして[[アゼルバイジャン人]]を含む[[コーカサス|カフカース]]諸民族の一部、[[中央アジア]]諸民族は[[ムスリム]]([[イスラム教|イスラム教徒]])であり、この内[[キルギス人]]は土俗の[[シャーマニズム]]をイスラムの信仰と合わせ持っている。ムスリム以外の非キリスト教徒には[[チベット仏教|ラマ教徒]]の[[カルムイク人]]や、[[シャーマニズム]]の[[サモエード人]]をはじめとするシベリア諸民族がいた。 ==== イスラム教 ==== [[File:UfaBashkirMosque.jpg|thumb|250px|left|ムスリム宗務協議会によって1830年に建設されたウファのモスク。]] 16世紀中頃、[[イヴァン4世]](在位1533年 - 1584年)の[[カザン・ハン国]]、[[アストラハン・ハン国]]の併合以降、ロシアはムスリム社会を内包するようになった。イヴァン4世は征服地に[[カザン]]大主教座を置き、強制的な改宗が試みられたが、すぐに撤回している<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],p.54.</ref>。正教に改宗したタタール人は僅かであり、彼らは[[クリャシェン]]と呼ばれた<ref>濱本真実【クリャシェン】『中央ユーラシアを知る事典』(2005),pp.174-175.</ref>。ピョートル1世はタタール人の司祭をつくるべく神学校を開設させたが失敗した<ref>[[#山内(1996)|山内(1996)]],p.307.</ref>。18世紀に入ると新規改宗者取扱局が置かれてクリャシェンの監督とムスリムに対する抑圧が行われ、カザンでは536あったモスクのうち418が取り壊されている<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.56-59,61-65.</ref>。 [[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)の時代にクリミア・ハン国が併合されて多くのクリミア・タタール人がロシアの支配に入った。エカチェリーナ2世は宗教寛容政策を採り、それまでの抑圧策を廃止してムスリムを統治体制に組み込む方針に転換させた<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.72-75;[[#山内(1996)|山内(1996)]],pp.309-310.</ref>。1789年に[[オレンブルク・ムスリム宗務局|ムスリム宗務協議会]]が[[ウファ]]に設立され、この行政組織を通じて[[ウラマー]](イスラム法学者)の統制や[[シャリーア]] (イスラム法)の執行、[[モスク]]の管理が行われるようになった<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.75-79.</ref>。1831年にクリミア地方を管轄するウヴリーダ・ムスリム宗務理事会、1872年にザカフカース・ムスリム宗務理事会がそれぞれ開設されている<ref>小松久男【ムスリム宗務局】『中央ユーラシアを知る事典』(2005),pp.498-500.</ref>。 18世紀末から19世紀前半にかけてカフカースが征服され、北カフカースの山岳民族やザカフカースの[[アゼルバイジャン人]]といったムスリムがロシアの支配に組み込まれた。アゼルバイジャン人に対する改宗の試みは成果なく、同化政策に対する反発を引き起こしている<ref>[[#山内(1996)|山内(1996)]],pp.354-355.</ref>。北カフカースの山岳民族は長期にわたってロシア人の支配に抵抗した([[コーカサス戦争|カフカース戦争]])。 [[File:Ismail Gaspirali in 1872.jpg|150px|thumb|ガスプリンスキー<br>1872年撮影。]] 早くにロシアの支配に入った[[タタール商人|ヴォルガ・タタール人の商人や企業家]]は言語・宗教の同質を利用してイスラム諸国との貿易に活躍して財を蓄え、ロシアにおけるムスリム社会の経済発展そしてイスラム文化復興に貢献している<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.79-85.</ref>。ロシアのウラマーの多くは中央アジアに[[留学]]しており、[[ブハラ・ハン国]]で中心的だった[[スーフィズム]]がロシアでも盛んになった<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.81-84.</ref>。19世紀に入ると中央アジア礼賛に批判的な[[ウトゥズ・イマニー]]や法源を主体的に解釈する[[イジュティハード]]を主張する[[アブー・ナスル・アブドゥンナスィール・クルサヴィー|クルサヴィー]]によるイスラム改革運動が生まれている<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.86-92.</ref>。この一方で、裕福なタタール商人をはじめとするムスリムの知識階層も形成され、ロシア式教育が行われるようなり、彼らは飲酒をはじめとするロシア文化を受容しており、厳格なスーフィズム教団やウラマーの改革運動とは距離があった<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.84,96-97.</ref>。 19世紀後半になるとカフカース戦争の激化とともに政府のムスリムへの警戒が強まり、[[アラビア文字]]、[[トルコ語]]出版物への規制が行われた<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.95-96.</ref>。この時期に[[シハーブッディーン・メルジャーニー|メルジャーニー]]や[[ムハマド・アリー・アル・チュクリー|チュクリー]]、[[カイユーム・ナースィリー|ナースィリー]]がロシア文化受容を唱え、ウラマーの改革運動とムスリム知識人を取り結ぶ動きが起こっている<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.97-105.</ref>。そして、[[イスマイル・ガスプリンスキー|ガスプリンスキー]]が[[マドラサ]]の伝統教育に代わる近代的な新方式学校の設立と[[共通トルコ語]]使用の運動を起こし、これが19世紀末から20世紀のムスリム社会の近代化を目指した[[ジャディード運動]]に結びついた<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.105-108;[[#山内(1996)|山内(1996)]],pp.329-332.</ref>。 1860年代から1880年代にかけて中央アジアがロシアの版図に組み入れられ、これらの地域のムスリムもロシア帝国の臣民となった。ロシア帝国は彼らを[[#異族人|異族人]]と規定して、ムスリム社会の風俗慣習に基本的に立ち入らない政策を採っている<ref>[[#山内(1996)|山内(1996)]],pp.362-363.</ref>。 1905年革命が起こるとムスリムの政治運動も活発化し、[[ロシア・ムスリム大会]]が開催され、{{仮リンク|ロシア・ムスリム連盟|en|Ittifaq al-Muslimin}}が発足した<ref>[[#小松他(2000)|小松他(2000)]],pp.385-387.<br>長縄宣博【ロシア・ムスリム大会】『中央ユーラシアを知る事典』(2005),pp.540-541.</ref>。ロシア・ムスリム連盟は立憲民主党と共同歩調をとり、ドゥーマ(国会)に議員団を送り込んでいる<ref>長縄宣博【ロシア・ムスリム連盟】『中央ユーラシアを知る事典』(2005),p.541.</ref>。 {{-}} ==== ユダヤ教 ==== 13世紀の[[カリシュの法令|カリシュ法]]以降、[[ユダヤ人]]に寛容だった[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド・リトアニア]]の領土が、18世紀末のポーランド分割でロシアに併合されたことにより、ロシア帝国は世界有数のユダヤ人人口を抱える国となった{{r|cyclopediarussia610}}。ユダヤ人はウクライナ、ベラルーシそしてリトアニアに集中しており、1897年の国勢調査では521万人になっている<ref name=cyclopediarussia610>原暉之【ユダヤ人】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.610-611.</ref>。[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は「ジード」の卑称を用いず「エブレイ」(ヘブライ人)と呼び、ユダヤ人に権利と自由を保証したが、都市行政から排除し、1791年には移動制限を課している<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.99-100.</ref>。1835年に定住地制度が定められ、ユダヤ人は指定された定住区域に居住することを義務づけられた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.302.</ref>。ユダヤ人の中には貴族に取り立てられる者や企業活動・芸術分野で活躍する者もいたが国政に参画することは許されなかった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.014.</ref>。 [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)の[[大改革]]の際にはユダヤ人に対する規制が緩和されたが、1881年の皇帝暗殺事件の犯人の中にユダヤ人女性が加わっていたことが明らかになるとポーランドやウクライナでユダヤ人を襲撃する[[ポグロム]]が巻き起こった<ref>[[#伊東他(1998)|伊東他(1998)]],p.248;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.339-340.</ref>。ロシア政府はこの事態を黙認する態度をとり、「ユダヤ人=搾取者説」が流布されて虐殺が助長された{{r|cyclopediarussia542}}。事件後にユダヤ人臨時条例が制定されて農村移住・不動産取得が禁止された<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.340;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.291,302.</ref>。19世紀末には中・高等教育機関のユダヤ人の数に制限がかけられ、ゼムストヴォ(地方自治機関)からも排除されている<ref name=iwama340>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.340.</ref>。 1903年から1906年にかけて再び大規模なポグロムがあり、ベッサラビアでのユダヤ人襲撃を契機にウクライナ・ロシア西部に広まった<ref name=cyclopediarussia542>原暉之【ポグロム】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.542.</ref>。これには極右団体だけでなく警察や軍隊まで関与している{{r|iwama340}}。これらの迫害によって150万人のユダヤ人がロシアを去って北米・西欧へ移住しており、やがて[[イスラエル]]の地に祖国の再建を目指す[[シオニズム|シオニズム運動]]へとつながることになる<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.014;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.303.</ref>。彼らの移住は[[フランク・ゴールドスミス]]などが支援した。また、数多くのユダヤ人が革命運動に参加しており<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.298,302-303、329-330.</ref>、その中には[[レフ・カーメネフ|カーメネフ]]、[[ヤーコフ・スヴェルドロフ|スヴェルドロフ]]そして[[レフ・トロツキー|トロツキー]]といった[[ボリシェヴィキ]]の指導者たちもいた。 {{-}} ==文化== ロシア帝国の時代には、ロシア固有の文化と西欧の文化が融合した独自の文化が発達した。それらの多くは現代でもロシアの文化を代表するものとして親しまれている。 === 文学 === {{main|ロシア文学}} [[ファイル:Kiprensky Pushkin.jpg|right|thumb|140px|[[アレクサンドル・プーシキン]]([[オレスト・キプレンスキー]]画)]] [[ファイル:Ilya Efimovich Repin (1844-1930) - Portrait of Leo Tolstoy (1887).jpg|right|thumb|140px|[[レフ・トルストイ]](イリヤ・レーピン画)]] ロシア帝国の宮廷では教養言語として[[フランス語]]が用いられたが、一方で[[ロシア語]]での文学活動も活発となっていった。ピョートル1世(大帝)は、[[キリル文字]]の改革に取り組み、幾度も改訂を重ねたのち、[[1710年]]1月に「新しいアルファベット」を制定した<ref name=doi22>[[#土肥文字|土肥(2009)]],p.22</ref>。伝統的なキリル文字の使用は教会関係に限定され、以後、あらゆる機会を通じて「市民的な字体」が普及していくこととなった{{r|doi22}}。 ロシアにおける近代文学の嚆矢とされるのが[[アレクサンドル・プーシキン]]である。『[[ルスラーンとリュドミーラ]]』や『[[バフチサライの泉]]』、ピョートル大帝を描いた『[[青銅の騎士 (詩)|青銅の騎士]]』など[[ロマン主義]]的な詩を書き、小説では『[[スペードの女王]]』やプガチョフの乱に題材をとった『[[大尉の娘]]』をのこした。彼は首都を追放され[[キシナウ]]を経て[[オデッサ]]で暮らしたが、皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]が彼をサンクトペテルブルクに召喚して「[[デカブリストの乱]]のとき帝都にいたらどうしたか」を尋ねたのに対し、「反乱の仲間に加わっていただろう」と答えた逸話で知られる<ref name=kakkokushi219>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.219-220</ref>。プーシキンは流刑を解かれたが、『大尉の娘』ではプガチョフを好意的に描き、また、『プガチョフ反乱史』を執筆した。彼は、美しい妻[[ナターリア・プーシキナ|ナターリア]]をめぐるフランス亡命士官[[ジョルジュ・ダンテス]]との決闘によって[[1837年]]に亡くなるまで数々の古典的名作をのこし、文章語としてのロシア語の完成に寄与した<ref name=ro88>[[#ロマノフ|『ロマノフ王朝』]],p.88</ref>。プーシキンはそのため、しばしば「ロシア国民文学の父」と評される{{r|kakkokushi219}}。 [[ファイル:Dostoevsky 1872.jpg|left|thumb|140px|[[フョードル・ドストエフスキー]]([[ヴァシリー・ペロフ]]画)]] 専制権力との緊張関係を通して文学がその力を得ていき、プーシキンが切り開いた道からは多数の詩人や作家があらわれた{{r|kakkokushi219}}。ロマン主義的傾向の強いプーシキンに対し、[[写実主義]]の影響を強く受けたのが[[フョードル・ドストエフスキー]]と[[ニコライ・ゴーゴリ]]であった。ドストエフスキーは『[[貧しき人びと]]』『[[罪と罰]]』『[[カラマーゾフの兄弟]]』などの作品で知られる。[[ペトロパヴロフスク要塞]]の監獄や[[オムスク]]の監獄に収監されたドストエフスキーは、[[検閲]]と戦いながら次々と大作を発表した{{r|ro88}}。ゴーゴリは、『[[鼻 (ゴーゴリの小説)|鼻]]』・『[[検察官 (ゴーゴリの小説)|検察官]]』・『[[死せる魂]]』などの作品をのこした。ロシア・リアリズム文学の祖といわれるゴーゴリの作品は、そのの幻想性や細部の誇張、また、[[グロテスク]]な描写などでは20世紀文学にあたえた影響も大きい。[[イワン・トゥルゲーネフ]]もまたリアリズムに立った文学者で、[[ロシアの農奴制]]がもつ矛盾や苦悩する[[インテリゲンツィア]]の姿を多くの作品で描いた<ref name=ro89>[[#ロマノフ|『ロマノフ王朝』]],p.89</ref>。とくに[[1852年]]の『[[猟人日記]]』は、皇太子アレクサンドル(のちのアレクサンドル2世)に農奴解放令を決心させた作品といわれ、日本では[[二葉亭四迷]]の翻訳『あひゞき』としても知られる{{r|ro89}}。 [[自然主義]]の影響を強く受けた[[レフ・トルストイ]]は、クリミア戦争では将校として従軍し、このときの経験がのちの非暴力主義に影響をあたえたといわれる{{r|ro89}}。『[[戦争と平和]]』、『[[アンナ・カレーニナ]]』、『[[復活 (小説)|復活]]』などの作品は、世界中に愛読者をもち、何度も演劇化や映画化のされてきた傑作である。トルストイは、[[1901年]]、[[ロシア正教会]]から[[破門]]されたが、作家としての名声は衰えず、読者からの支持はかわらなかった{{r|ro89}}。[[1909年]]から[[1910年]]にかけてはインドの[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]](マハトマ・ガンディー)と文通しており、日本の文筆家では[[徳富蘇峰]]や[[徳富蘆花]]などと面会している{{r|ro89}}。 [[社会主義リアリズム]]の手法をはじめた[[マクシム・ゴーリキー]]は放浪者や浮浪人など社会の底辺で生きる人びとの人間としての誇りを主題とする多くの作品をのこした<ref>[[#中山|中山(1990)]],p.245</ref>。ゴーリキーの作品としては[[戯曲]]『[[どん底]]』が有名で、[[日本語]]にも翻訳されて[[明治]]・[[大正]]期にかけて[[日本文学]]にも影響をあたえたといわれる<ref name=shimoshima259>[[#下斗米島田|下斗米&島田(2002)]],p.259</ref>。[[レオニド・アンドレーエフ]]も日本文学に影響をあたえたひとりであり、『七死刑囚物語』は翻訳されて、その影響は[[夏目漱石]]や[[志賀直哉]]作品にもおよんだ{{r|shimoshima259}}。ロシアでは比較的無名な[[ミハイル・アルツィバーシェフ]]も大正期の日本文学に影響をあたえた{{r|shimoshima259}}。 [[戯曲]]では自然主義の影響を強く受けた[[アントン・チェーホフ]]が著名であり、『[[桜の園]]』、『[[かもめ (チェーホフ)|かもめ]]』、『[[ワーニャ伯父さん]]』、『[[三人姉妹]]』などの作品を残した<ref name=ro134>[[#ロマノフ|『ロマノフ王朝』]],p.134</ref>。チェーホフは、[[1890年]]には[[樺太|サハリン]]の流刑囚の生活を調査するためシベリア経由で現地に入り、カードを用いて徹底的に調べあげ、[[ルポルタージュ]]作品『[[サハリン島 (ルポルタージュ)|サハリン島]]』を著している{{r|ro134}}。 ===美術=== [[ファイル:Kramskoy_Portrait_of_a_Woman.jpg|200px|left|thumb|ロシアのモナリザといわれる「[[見知らぬ女]]」。移動派の巨匠[[イワン・クラムスコイ]]画。]] ロシアでは中世を通じて[[イコン]]が描かれ、王侯貴族の[[肖像画]]や[[肖像彫刻]]さえその制作が禁忌とされてきたが、さかんに西欧化を進めてきたピョートル大帝のころから、世俗絵画が隆盛をみるようになってきた<ref name=tomita131>[[#富田|富田(1996)]],pp.131-132</ref>。また、現在の[[エルミタージュ美術館]]のコレクションにみられるように、歴代の皇帝や貴族はこぞって西欧の美術品の収集に努めた。 [[ファイル:Ge golgofa.jpg|right|thumb|150px|ニコライ・ゲー「ゴルゴタ」]] エカチェリーナ2世統治下では、フランスの{{仮リンク|エティエンヌ・モーリス・ファルコネ|en|Étienne Maurice Falconet}}が[[啓蒙思想家]][[ドゥニ・ディドロ]]の紹介でロシアに招かれ、女帝の命でピョートル大帝[[騎馬像]](「[[青銅の騎士]]」像)を制作した{{r|tomita131}}。18世紀ロシア美術は総じてフランスの影響が強かったといえる{{r|tomita131}}。 ロシア美術の殿堂としてサンクトペテルブルクに[[サンクトペテルブルク美術大学|帝国芸術アカデミー]]が創設されたのは[[1757年]]、モスクワに美術・彫刻・建築専門学校が設立されたのは[[1832年]]のことであった<ref name=doi86>[[#土肥美術|土肥(2009)]],pp.86-95</ref>。[[1860年代]]のアレクサンドル1世による「大改革」の時代には、ロシア各地よりさまざまな階層の美術青年が帝国アカデミーに集まったが、イタリアを至高の芸術対象とするアカデミーの教授法・芸術観とのあいだで軋轢が生じ、[[イワン・クラムスコイ]]をはじめとする14人の画学生が作品の出品を一律なものではなく自由なテーマとするよう求め、それが叶わなければ揃って退学するという示威行動を起こし、結局のところ13人が退学した(「14人の反乱」){{r|doi86}}。クラムスコイは、美術家たちの同業者団体「{{仮リンク|美術家組合|ru|Артель художников}}」の事務所と[[アトリエ]]をペテルブルク郊外の[[ヴァシリエフスキー島]](Vasilyevsky Island)に構えて創作活動にいそしんだ{{r|doi86}}。 [[ファイル:Surikov streltsi.jpg|right|thumb|300px|移動派のひとり[[ワシーリー・スーリコフ]]による「銃兵処刑の朝」]] クラムスコイをリーダーとする一群から、ロシアの歴史や民衆の生活を[[写実主義]]的な手法で表現し、社会悪を訴え、各地で移動展覧会をひらく画家グループが登場した。それが[[移動派]]である{{r|tomita131}}。移動展覧会の提案は、モスクワから「美術家組合」に参加した{{仮リンク|グリゴリー・ミャソエードフ|ru|Мясоедов, Григорий Григорьевич}}よりなされた{{r|doi86}}。クラムスコイもこれに賛同し、[[1870年]]、「移動美術展覧会協会」が設立された{{r|doi86}}。 [[ファイル:RooksBackOfSavrasov.jpg|left|thumb|160px|アレクセイ・サヴラソフ「ミヤマガラスの飛来」]] 移動派による移動展覧会は[[1871年]]から[[1923年]]にかけて48回ひらかれた。開催地もサンクトペテルブルクやモスクワだけではなく[[キエフ]]や[[ハルキウ|ハリコフ]]、[[カザン]]、[[オリョール]]、[[リガ]]、[[オデッサ]]などの諸都市におよんでいる。第1回の展覧会には、[[ニコライ・ゲー]]、ミャソエードフ、クラムスコイ、[[イラリオン・プリャニシニコフ]]、[[アレクセイ・サヴラソフ]]などの作品が出品された{{r|doi86}}。また、第2回の展覧会にはクラムスコイの代表作「荒野のイイスス・ハリストス」が出品されている{{r|doi86}}。民衆の救済のために命を捧げたハリストス([[イエス・キリスト]])の像は、「[[ヴ・ナロード]](人民のなかへ)」という運動の思潮にも合致していた{{r|doi86}}。 移動派の同人はリアリズムに立つ芸術家として、その活動が世界的にも注目を浴びた{{r|tomita131}}。民衆の貧しさだけでなく美しさを、苦しみだけでなく忍耐や力強さを描いた作品は大きな共感をもってむかえられたのである。 [[ファイル:Ilia Efimovich Repin (1844-1930) - Volga Boatmen (1870-1873).jpg|right|thumb|300px|[[イリヤ・レーピン]]の代表作「[[ヴォルガの船曳き|ヴォルガの舟曳き]]」]] 移動派の画家のなかで欠くことのできない芸術家として[[イリヤ・レーピン]]がいる。[[ウクライナ]]の[[ハリコフ|ハリコフ県]]に生まれたレーピンはペテルブルクの美術学校でクラムスコイに才能を見いだされて激励を受け、また、「民族芸術の創造」というクラムスコイの思想にも共鳴して美術家組合にも参加した{{r|doi86}}。[[1873年]]にはアカデミーの給費生としてヨーロッパに留学し、フランス[[印象派]]の影響も受けたが、それのみには飽きたらず、「ヴォルガの舟曳き」「クールスク県の十字架行進」「農作業をするトルストイ」「イワン雷帝と皇子イワン」「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック」など社会的な大作、また、歴史画や風俗画の数々を発表した{{r|doi86}}。 移動派の中心となったクラムスコイ、レーピン、ゲー、スーリコフらを支援し、作品を購入しつづけたのが、モスクワ在住の豪商[[パーヴェル・トレチャコフ]]とその兄セルゲイ・トレチャコフであった。兄のコレクションを相続したパーヴェルはのちに美術館をひらき、コレクションも含めてモスクワ市に寄贈した。これが、現在の[[トレチャコフ美術館]]である{{r|tomita131}}。 [[ファイル:Fugue.JPG|left|thumb|180px|1914年に描かれた[[ワシリー・カンディンスキー]]「フーガ」]] 同じころ、モスクワの[[アブラムツェヴォ]]に所在する実業家[[サーヴァ・マモントフ]]の屋敷では、「ロシアのメディチ」とも呼ばれたマモントフの庇護のもと、ロシアの伝統的な民族文化を保護し、復興させようという美術家集団「美術家連盟」が結成された{{r|tomita131}}。イリヤ・レーピンもこれに加わり、[[ヴァスネツォフ]]兄弟、[[ミハイル・ネステロフ]]、[[ヴィクトル・ハルトマン]]らが活動した{{r|tomita131}}。このグループは、陶器や工芸品など、その後の造形芸術の発展にも大きく寄与した{{r|tomita131}}。 [[ファイル:Korovin moonlit night.JPG|right|thumb|300px|コンスタンチン・コローヴィン「冬の月夜」]] 19世紀後半から世紀末にかけてのロシア美術は、激動する社会の影響を受けて多様に展開した。ロシアの印象派を代表するのが[[コンスタンチン・コローヴィン]]であり、象徴主義を代表するのが[[ミハイル・ヴルーベリ]]である{{r|tomita131}}。[[1899年]]に、[[アレクサンドル・ベノワ]]、[[レオン・バクスト]]、[[セルゲイ・ディアギレフ]]の3者によってペテルブルクで創刊された美術雑誌「[[芸術世界]]」は、移動派批判を展開し、[[アール・ヌーヴォー]]の装飾美術や舞台美術を創り出した{{r|tomita131}}。「芸術世界派」と呼ばれるアーティストには[[コンスタンティン・ソモフ]]、[[ワレンチン・セーロフ]]、[[ボリス・クストーディエフ]]、[[イヴァン・ビリビン]]、[[イーゴリ・グラーバリ]]、[[セルゲイ・スデイキン]]、[[ニコライ・リョーリフ]]らがいる。 19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界では[[パブロ・ピカソ]]や[[アンリ・マティス]]らをはじめとして多様な抽象芸術が生まれたが、ロシアにおいても[[ワシリー・カンディンスキー]]があらわれ、しばしば抽象絵画の祖といわれる。カンディンスキーは[[1912年]]には美術理論書『芸術における精神的なものについて』を刊行し、[[1914年]]には連作『コンポジション』を発表した<ref name=nakamura>[[#中村|中村(1991)]],pp.738-739</ref>。 ===音楽=== {{main|[[:en:Russian Enlightenment#Music]]|[[:en:Russian Enlightenment#Opera]]|[[:en:Russian Opera]]|[[:en:Pyotr Ilyich Tchaikovsky and The Five]]}} 帝政時代、ロシアの音楽は飛躍的な発展を遂げた。西欧の音楽技法を受容しつつも、伝統的な音楽の要素を生かし、独自の位置を占めた。 ロシア音楽は[[16世紀]]なかばに高名な[[聖歌]]の作曲家が輩出し、独特な[[記譜法]]を用いて聖歌集が編まれ、そこでは独自の[[多声法]]が用いられるなどロシア独自の発展を遂げていたが、[[17世紀]]中葉の[[モスクワ総主教]][[ニーコン (モスクワ総主教)|ニーコン]]の改革などを通して従来の伝統が覆され、[[ポーランド]]やウクライナから西欧的な楽曲も流入し、帝政ロシア開始のころには単純な[[三和音]]の音楽が広がっていた<ref name=morita130>[[#森田|森田(1996)]],pp.130-131</ref>。 [[ファイル:MGlinka.jpg|left|thumb|130px|[[ミハイル・グリンカ]]]] ピョートル1世は直接ヨーロッパ音楽を輸入し、そののち歴代の皇帝は[[パリ]]や[[ウィーン]]などから音楽家や舞踊家を招いてロマノフ朝の宮廷に[[バレエ]]や[[オペラ]]を導入した{{r|morita130}}。特に啓蒙専制君主エカチェリーナ2世の時代には、[[バルダッサーレ・ガルッピ]]、[[トンマーゾ・トラエッタ]]、[[ジョヴァンニ・パイジエッロ]]、[[ジュゼッペ・サルティ]]、[[ドメニコ・チマローザ]]など名だたるイタリア・オペラの作曲家が相次いで宮廷楽長として招かれ、サンクトペテルブルクに長く滞在してロシア人楽士を薫陶した{{r|morita130}}。ロシア人音楽家のなかにはイタリア留学を命じられる者もあり、ウクライナ生まれの[[マクシム・ベレゾフスキー]]は[[1771年]]にボローニャの[[アカデミア・フィラルモニカ・ディ・ボローニャ]]の正会員に認められた。楽聖[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]が同アカデミアの会員となった翌年のことであり、ベレゾフスキーに出された試験の課題はモーツァルトに出されたものと同じだったという{{r|morita130}}。また、イタリアで研鑽を積み、ロシアで長年宮廷楽長を務めた人物に[[ドミトリー・ボルトニャンスキー]]がいる。イタリア時代の彼は地元のオペラ劇場で実際に上演されるオペラの作曲をいくつも手がけるほどイタリア・オペラに精通していた{{r|morita130}}。 19世紀、ロシアは音楽文化の面でも国際的な水準の作品を生み出すにいたるが、その最大の功労者が[[ミハイル・グリンカ]]である<ref name=doi62>[[#土肥音楽|土肥(2009)]],pp.62-63</ref>。グリンカは、[[ムツィオ・クレメンティ]]とともにペテルブルクに来たアイルランド人[[ジョン・フィールド]]にピアノの手ほどきを受け、正規の音楽教育こそ受けなかったものの[[ヴァイオリン]]、声楽、[[指揮]]、作曲などをひととおり学んでイタリアでも勉強してオペラ作曲家として名をあげるようになった{{r|morita130}}。しかし、西欧音楽を吸収していく過程でロシア人音楽家としての自覚が高まり、ロシア的な作品をつくりたいという願いが高まったため、[[ベルリン]]で音楽理論家として知られた[[ジークフリート・デーン]]に師事して音楽理論を大成させたうえで帰国した{{r|morita130}}。しばしば「ロシア近代音楽の父」と称されるグリンカは、愛国的なオペラ「[[皇帝に捧げた命]]」に続いて民話に題材をとったオペラ「[[ルスランとリュドミラ]]」、さらに管弦楽曲「[[カマリンスカヤ]]」などの作曲をおこなった{{r|morita130}}{{r|doi62}}。「ルスランとリュドミラ」では、[[ロシア民謡]]のみならず、ロシア帝国内に多数居住する[[ムスリム]]の諸民族の音楽を取り入れてロシア音楽における一大特徴ともいえる[[オリエンタリズム]]の基礎をつくった{{r|morita130}}。 名門貴族の子息として育った[[アレクサンドル・ダルゴムイシスキー]]は、当初サロン音楽の分野で有名であったが、帰国したグリンカと知り合い、その影響下でロシア語の[[イントネーション]]を音楽化する方法を研究し、「[[ルサルカ (ダルゴムイシスキー)|ルサルカ]]」「[[石の客]]」などのオペラにその成果を反映させた{{r|morita130}}。ダルゴムイシスキーは、音楽史的にはしばしば、グリンカと「ロシア5人組」との橋渡しをした存在と目される。 [[ファイル:Ilja Jefimowitsch Repin 007.jpg|130px|left|thumb|[[アントン・ルビンシテイン]](イリヤ・レーピン画)]] [[ユダヤ系]]の商人の家庭に生まれた[[アントン・ルビンシテイン]]と[[ニコライ・ルビンシテイン]]の兄弟は、フィールドの弟子のヴィルアーンにピアノを習い、ヨーロッパでデビューしてロシアのピアニストとしてはじめて世界的名声を博した{{r|morita130}}。とくにアントンは、「ピアノの魔術師」[[フランツ・リスト]]と並び称される巨匠として扱われた。それに対し、弟ニコライはチャイコフキーの親友としても有名である。ライバル同士でもあった2人は、[[1859年]]から[[1860年]]にかけて、帝室の支援を受けてペテルブルクとモスクワにそれぞれ[[ロシア音楽協会]]を設立し、その附属施設として[[ペテルブルク音楽院]]を[[1862年]]、[[モスクワ音楽院]]を[[1866年]]に創設した{{r|morita130}}。ペテルブルクはアントン、モスクワはニコライが主導し、これにより、両首都に定期的な演奏活動が定着し、音楽の職業教育が確立した{{r|morita130}}。 [[ファイル:Tchaikovsky and The Five 2.PNG|thumb|200px|right|alt=A portrait of a man with gray hair and a beard, wearing a dark jacket, dress shirt and tie. Five smaller portraits surround this one. Four of the men are in dark suits; the fifth wears a military uniform. All of the men have beards; three are balding, while two have dark hair; and two of the men are wearing glasses.|[[ピョートル・チャイコフスキー]](上部左)と[[ロシア5人組]](下から逆時計回りに上へ)の[[ミリイ・バラキレフ|バラキレフ]]、[[ツェーザリ・キュイ|キュイ]]、[[アレクサンドル・ボロディン|ボロディン]]、[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]および[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|R=コルサコフ]]]] [[数学]]を専攻していた[[カザン大学]]を退学後、ペテルブルクでグリンカに会い、音楽に進むことを決心したという[[ミリイ・バラキレフ]]は、芸術評論家[[ウラディーミル・スターソフ]]と親交を結び、[[1856年]]に軍事技術アカデミーに勤務する貴族の音楽愛好家[[ツェーザリ・キュイ]]と出会って積極的な音楽活動をはじめた<ref name=morita118>[[#森田五人組|森田(1996)]],pp.118-119</ref>。バラキレフは、1857年には若い陸軍士官[[モデスト・ムソルグスキー]]を弟子として受け入れ、[[1861年]]には海軍士官[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]]を、[[1862年]]には医学アカデミーの化学者[[アレクサンドル・ボロディン]]を迎え入れて、スターソフの理論的な支援を得て彼らを指導し、ルビンシテイン兄弟主導による官製のロシア音楽協会に対抗した{{r|morita130}}{{r|morita118}}。ペテルブルクに結成されたこの音楽家集団を、バラキレフも含めて「[[ロシア5人組]]」または「ロシア国民楽派」と呼んでいる。彼らはみずからを「新ロシア楽派」と称し、反西欧・反プロフェッショナリズム・反アカデミズムを標榜した。[[1862年]]にバラキレフとキュイが中心となって始められた無料音楽学校は、広く首都の市民を集めて[[アマチュア]]の音楽教育を普及させた{{r|morita118}}。無料音楽学校の運動は財政的基盤に乏しく、経済的にしばしば危機に陥ったが、[[ロシア革命]]の起こる直前まで全ロシアで活動をつづけた{{r|morita130}}。彼ら5人はまた、バラキレフをのぞいて、全員が音楽とは別にれっきとした職業をもち、音楽家としてはいわば素人あがりであり、いずれも大貴族の出身であった{{r|morita118}}。ロシア5人組の作品としては、ムスルグスキーのオペラ「[[ボリス・ゴドゥノフ (オペラ)|ボリス・ゴドゥノフ]]」とピアノ組曲「[[展覧会の絵]]」、ボロディンのオペラ「[[イーゴリ公]]」、R=コルサコフの交響組曲「[[シェヘラザード (リムスキー=コルサコフ)|シェヘラザード]]」などがとくに有名である{{r|doi62}}。 ペテルブルク音楽院の最初の卒業生となった[[ピョートル・チャイコフスキー]]は、卒業と同時にモスクワのニコライ・ルビンシテインに招かれ、モスクワ音楽院の教授となった{{r|morita130}}。ロシアが生んだ世界的な作曲家であるチャイコフスキーの音楽は、当初[[民族主義]]的傾向の濃厚なものであったが、彼を特徴づけるのはむしろ主観的な叙情性であり{{r|doi62}}、数々の管弦楽曲のほかに「[[眠れる森の美女]]」「[[くるみ割り人形]]」や「[[白鳥の湖]]」などの[[バレエ音楽]]で知られる。チャイコフスキーはしばしばロシア5人組と対比されるが、「5人組」がいずれも大貴族出身で音楽を生活を糧にする必要がなく、音楽をむしろ神聖な芸術と考えたのに対し、チャイコフスキーは[[資産]]のない[[官僚]]上がりの一代貴族の子息であり、商人出身のルビンシテイン兄弟同様、音楽に進んだ以上はそれで生計を立てていかなければならなかった{{r|morita118}}。その意味でチャイコフスキーは、音楽上、職業主義を標榜せざるをえず、音楽に向かう姿勢もまた職人的であった{{r|morita118}}。 アントン・ルビンシテインがペテルブルクを離れて欧米で華々しい演奏活動を開始したのは[[1867年]]のことであった。ロシア5人組では、ロシア音楽協会の音楽監督を後継したバラキレフが帝室との関係がうまくいかなくなり、[[1871年]]には音楽協会を離れて給与生活者となった。また、音楽院で作曲を担当したR=コルサコフは正規の音楽教育を受けたことがなかったため、しばらく音楽理論の修得に専念しなければならなかった{{r|morita130}}。それに対し、[[1870年代]]に円熟期に入ったチャイコフスキーは80年代には世界的な音楽家として知られるようになった{{r|doi62}}。R=コルサコフの作曲活動が円熟期をむかえるには[[1880年代]]後半を待たねばならず、それまではチャイコフスキーの作曲活動が目立っていたのである。[[1893年]]のチャイコフスキーの死去後、R=コルサコフのオペラ作曲家としての活躍が目立つようになり、その晩年には、毎年のように名作オペラを発表した{{r|morita130}}。 19世紀末から20世紀初頭にかけては、モスクワから[[セルゲイ・ラフマニノフ]]、[[アレクサンドル・スクリャービン]]、そしてペテルブルクからは[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]と[[セルゲイ・プロコフィエフ]]が登場した。また、世紀末には不世出の名歌手で「歌う俳優」との異名をとった[[フョードル・シャリアピン]]が現れている{{r|doi62}}<ref name=pere>[[#ペレサダ|ペレサダ(2002)]]</ref>。 19世紀後半はロシアの伝統音楽でも革新のなされた時代であり、「バラライカの父」といわれる[[ワシーリー・アンドレーエフ]]は[[バラライカ]]の改良に生涯を賭し、それに[[ドムラ]]と[[グースリ]]の両[[弦楽器]]を加えて、[[1896年]]、最初の[[ロシア民族楽器オーケストラ]]を結成した{{r|pere}}。[[ロシア民謡]]も得意であった歌手シャリアピンはアンドレーエフと親交をもち、また、バラライカに対する造詣も深かった{{r|pere}}。 ===バレエ=== {{See also|バレエ}} フランスの宮廷文化として発展してきた[[バレエ]]は、フランスでは大衆化とともに低俗化して廃れたが、ロシアでは、フランスの宮廷バレエが伝わり、貴族のたしなみとしての社交ダンスの奨励と歴代皇帝の舞踊庇護を受けて発展した。 [[ファイル:Moscow Bolshoi Theatre 2011.JPG|thumb|right|250px|ロシアにおけるバレエの殿堂の一つ、モスクワの[[ボリショイ劇場]]。新古典様式の外観とバロック・ロココの贅を尽くした内装はロシア帝国の建築の精華の一つである。]] [[ファイル:Spb 06-2012 MariinskyTheatre.jpg|right|thumb|250px|帝室劇場として建設されたロシア・バレエの殿堂、サンクトペテルブルクの[[マリインスキー劇場]]]] [[1738年]]、フランス人[[ジャン・バティスト・ランデ]]の主唱のもと、女帝[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ・イワノヴナ]]によってペテルブルクにロシア初のバレエ学校が設立された。それが帝室演劇舞踊学校(現在のロシア国立[[ワガノワ・バレエ・アカデミー]])である<ref name=vaganova>[http://vaganova.jp/history ロシア国立ワガノワ・バレエ・アカデミーの歴史]</ref>。こののち、ロシアの[[バレエダンサー]]たちは[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]出身のF・ヒルフェルディングやイタリア人G・カンツィアーニなど外国人教師たちの指導のもとでバレエを学んだ{{r|vaganova}}。 [[1783年]]、エカチェリーナ2世の勅命によってペテルブルクに[[ボリショイ・カーメンヌイ劇場]]がオペラ・バレエ専用の劇場として建造された。なお、ペテルブルクでは、[[1859年]]に[[マリインスキー劇場]]が建造され、ボリショイ・カーメンヌイ劇場が老朽化のため取り壊されたあと帝室劇場としての役割をにない、演劇舞踊学校によって育成されたバレエダンサーを中心に帝政ロシアの[[クラシック・バレエ]]を主導した([[マリインスキー・バレエ]])。いっぽうのモスクワでも、18世紀中葉にはすでに貴族の邸宅で演劇や舞踊がおこなわれ、専用の劇場として{{仮リンク|ペトロフスキー劇場|en|Michael Maddox}}も設けられて、これらはペテルブルクの帝室劇場の管理下に置かれるようになった。これが現在の[[ボリショイ劇場]]であり、その起源は[[1776年]]にさかのぼる{{r|doi62}}。いわゆる「[[ボリショイ・バレエ]]」は、[[1773年]]に始まったモスクワでの[[孤児院]]の児童へのバレエ教育を起源としており、帝室劇場となったボリショイ劇場が[[1825年]]に現在地に建てられ開場したのと同時にその附属のバレエ団として発展した。 [[1801年]]、著名なフランス人振付家でダンサーでもあった[[シャルル・ディドロ]]がペテルブルクを来訪し、ボリショイ・カーメンヌイ劇場を中心に活動し、帝室舞踏学校の指導を引き継いだ<ref name=murayama36>[[#村山|村山(1996)]],pp.36-37</ref>。ディドロは[[ナポレオン戦争]]の際フランスに一時帰国するが、その後も20年以上死去するまでロシアにとどまり、ダンサーのレベルを格段に向上させた。また、振付の才をロシアの地で開花させ、現在「ペテルブルク派」といわれるドラマティックなバレエスタイルの基礎を築いた{{r|vaganova}}{{r|murayama36}}。ディドロが育てたバレリーナに{{仮リンク|アフドチア・イストミーナ|ru|Истомина, Евдокия Ильинична}}がおり、名花と謳われた{{r|murayama36}}。 [[ファイル:Marius Petipa -1898.jpg|left|thumb|130px|一時代をつくったフランス出身のバレエ振付師[[マリウス・プティパ]](1898年)]] [[1847年]]にペテルブルクを訪れたフランス人バレエ・マスターの[[マリウス・プティパ]]は、19世紀後半をして「プティパの時代」と称するにふさわしい一時代を築いた{{r|vaganova}}。プティパは、マリインスキー劇場ではたらいた約60年のあいだに、チャイコフスキーや[[アレクサンドル・グラズノフ]]、[[チェーザレ・プーニ]]、[[レオン・ミンクス]]ら多数の優れた音楽家たちの協力を得て『[[パキータ]]』『[[ジゼル]]』『[[ドン・キホーテ]]』『[[バヤデルカ]]』『眠れる森の美女』『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『[[ライモンダ]]』など46におよぶバレエ作品と数多くのオペラのための踊りを創作した{{r|vaganova}}。この時代はまた、チャイコフスキーが音楽を担当したことで、従来、舞踊の伴奏にすぎなかったバレエ音楽の質を飛躍的に高めた時代でもあった{{r|murayama36}}。 プティパの演出のなかでも[[1890年]]の『眠れる森の美女』と[[1895年]]の『白鳥の湖』第1幕・第3幕はとくに傑作といわれるが、プティパのアシスタントで『白鳥の湖』第2幕を担当した[[レフ・イワノフ]]による詩情あふれる振付は今日でもしばしば完璧な演出と評される{{r|murayama36}}。 [[ファイル:Anna Pavlova ca.1910-15.jpg|right|thumb|150px|[[アンナ・パヴロワ]]]] 1898年には[[ミハイル・フォーキン]]が帝室バレエ学校を卒業し、1904年から1916年にかけて母校で舞踊の指導にあたった{{r|vaganova}}。フォーキンは、バレエのフォームにおける真の基礎は人間の自然な動きにあるという信念に則って革新的なバレエ教育を実践した{{r|vaganova}}。彼もまた、「ショパニアーナ([[レ・シルフィード]])」や[[アンナ・パブロワ]]のために振付けた「[[瀕死の白鳥]]」などの名作を残している{{r|vaganova}}。この頃活躍したダンサーにはロシア・バレエ界の名花アンナ・パブロワのほか、[[ヴァーツラフ・ニジンスキー]]や[[タマーラ・カルサヴィナ]]、[[オリガ・スペシフツェワ]]などがいる{{r|vaganova}}。 20世紀初頭には、雑誌『芸術世界』の発刊者としても知られるイヴェント・メーカーの[[セルゲイ・ディアギレフ]]によって、マリインスキー劇場のメンバーを中心とした「ロシア・バレエ団」([[バレエ・リュス]])がヨーロッパ各地で公演をおこなった<ref name=tanokura>田之倉(1991)p.759</ref>。ロシア・バレエ団はしだいに西欧の芸術家たちをも巻き込みながら、その活動は大戦と革命をはさんだ20年におよび、芸術界に新風を送り込んだ{{r|murayama36}}<ref name=murayama106>[[#村山2|村山(1996)]],p.106</ref>。この活動は、バレエをオペラの一部としか考えてこなかった西欧人たちに衝撃をあたえ、その試みの斬新さや[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[パブロ・ピカソ]]、[[ジョアン・ミロ]]などを含む当代一流の芸術家たちの参加によってヨーロッパの観客を熱狂させたのである{{r|nakamura}}{{r|murayama106}}。 「ロシア・バレエ団」のパリ公演は1909年に始まったが、そのときの目玉は不世出のバスとして知られた上述のシャリアピンが出演するロシア・オペラであり、当初、バレエは前面に出ていなかった{{r|tanokura}}。ただし、ニジンスキーとカルサヴァナが踊った「[[バラの精]]」「[[アルミードの館]]」はパリの観客にも好評で、ここに「バレエ団」の名が定着したものである{{r|tanokura}}。この公演にはアンナ・パブロワも参加したが、のちにディアギレフと不和になり、バレエ団から離脱した{{r|tanokura}}。パブロワは、1913年以降はロシアをも離れ、ヨーロッパや北米・南米、さらには[[日本]]・[[中国]]・[[インド]]を含む[[アジア]]を巡業してロシア・バレエの精華を各地に伝えると同時にインドや日本では地域伝統の舞踊を学んだ{{r|tanokura}}。ここに舞踊という身体表現の相互交流が世界的なスケールで展開されたのである{{r|tanokura}}。 ==== 関連画像 ==== <gallery> ファイル:Maddox Theatre 41.jpg|モスクワボリショイ劇場の前身ペトロフスキー劇場 ファイル:Performance in the Bolshoi Theatre.JPG|1856年のボリショイ劇場 ファイル:Didelot.jpg|シャルル・ディドロの肖像画(1810年) ファイル:Avdotya Istomina.JPG|アフドチア・イストミーナの肖像画(1815-18年) ファイル:Lev Ivanov -St. Petersburg -circa 1885.JPG|レフ・イワノフの肖像写真(1885年) ファイル:Paquita -Lucien d'Hervilly -Mikhail Fokine -circa 1905.JPG|ミハイル・フォーキン『パキータ』(リュシアン役、1888年) ファイル:Sleeping beauty cast.jpg|『眠れる森の美女』初演時のキャスト(1890年) ファイル:Olga Preobrajnskaya Legat -Nutcracker 1.JPG|オリガ・プレオブラジェンスカヤ&パーヴェル・ゲルト『くるみ割り人形』(1900年) ファイル:Bayaderetrfilova.jpg|ヴェラ・トレフィーロワ『バヤデルカ』(1900年) ファイル:Bayadere Kingdom of the Shades Mathilde Kschessinskaya Pavel Gerdt 1900.jpg|[[マチルダ・クシェシンスカヤ]]&パーヴェル・ゲルト『バヤデルカ』(1900年) ファイル:Mathilde Kschessinska.jpg|マチルダ・クシェシンスカヤの肖像写真(1900年) ファイル:Camargo-Mathilde Kschessinskaya-1897.JPG|マチルダ・クシェシンスカヤ『カマルゴ』(1902年) ファイル:Raymonda -Grand Pas Hongrois -Olga Preobrajeska -1903.jpg|オリガ・プレオブラジェンスカ『ライモンダ』(1903年) ファイル:AP Cygne.jpg|アンナ・パヴロワ『瀕死の白鳥』(1905年) ファイル:Sergej Diaghilev (1872-1929) ritratto da Valentin Aleksandrovich Serov.jpg|セルゲイ・ディアギレフの肖像画(1909年、ヴァレンティン・セローフ) ファイル:Theatre du Chatelet. Saison russe. Mai-Juin.jpg|バレエ・リュスのポスター(1909年、ヴァレンティン・セローフ) ファイル:Balletsrusses.jpg|バレエ・リュス(1909年) ファイル:Léon Bakst 001.jpg|バレエ・リュス『火の鳥』(1910年、レオン・バクスト) ファイル:Karsavina 1.jpg|タマーラ・カルサヴィナ『火の鳥』(1910年) ファイル:Vaslav Nijinsky in Le spectre de la rose 1911 Royal Opera House.jpg|ヴァーツラフ・ニジンスキー『バラの精』(1911年) ファイル:Bakst Nizhinsky.jpg|バレエ・リュス『牧神の午後』のプログラム(1912年、レオン・バクスト) ファイル:Karsavina and Vladimirov.jpg|タマーラ・カルサヴィナ&ピエール・ウラディミロフ『白鳥の湖』(1913年) </gallery> ===建築=== {{main|ロシア建築|ロシア・バロック}} ピョートル大帝が建設した首都サンクト・ペテルブルクが西欧の都市計画に従って建設され、さらに西欧各地の様式の建造物が造営された。それを機に、ロシアの建築は宮殿や劇場などを中心に[[バロック建築]]、[[ロココ建築]]や[[新古典主義]]など西欧の様式を取り入れた建造物が建てられた。一方で教会建築はおおむね[[ビザンチン建築]]に由来する伝統的な様式とバロック・ロココ様式の融合された独自の様式のものが建設された。19世紀の様式氾濫期には他のヨーロッパ諸国同様に、新古典主義様式、[[ネオ・ルネサンス様式]]、[[ネオ・バロック様式]]の建造物が建設されたが、西ヨーロッパで見られた[[西方教会]]にみられる[[ネオ・ゴシック様式]]の代わりに[[東方正教会]]にみられるビザンチン様式が使用されたことが西ヨーロッパと大きな違いである。 === 関連画像 === <gallery> ファイル:Kizhi church 1.jpg|[[キジ島]]の[[顕栄聖堂 (キジ島)|顕栄聖堂]](プレオブラジェンスカヤ教会、1714年)と鐘塔(1874年)。ロシア伝統的木造建築の最高峰である。 ファイル:Peterhof cascade 2048px.jpg|[[ペテルゴフ]]に所在するバロック様式のボリショイ大宮殿(1714年-1725年) ファイル:Petropavlovskaia Krepost aerial.jpg|サンクトペテルブルクの[[ペトロパヴロフスク要塞]](1706年-1740年) ファイル:SPB St. Peter and Paul Cathedral, photochrome 1896-1897 (LoC).jpg|[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|首座使徒ペトル・パウェル大聖堂]]はペトロパヴロフスク要塞内に建てられた「[[ピョートル・バロック]]」に属するバロック様式の建物である(1890-1905年の古写真)。 ファイル:SPb St.Simeon church.jpg|ペテルブルクの聖シモン・アンナ教会は1734年建設のバロック建築。いわゆる「ピョートル・バロック」に属する。 ファイル:Saint Petersburg Kunstkamera view from the front.jpg|ペテルブルクの[[クンストカメラ]]はピョートル1世の蔵書や収集品を収蔵するために建てられた。1718年着工、1727年完成。バロック様式。 ファイル:Smolny Convent 2.JPG|バロック様式の代表作品、ペテルブルクの[[スモーリヌィ修道院]](1748年-1764年) ファイル:Ukraine Kiev StMichael.jpg|キエフの[[聖ムィハイール黄金ドーム修道院]]は[[ウクライナ・バロック]]に属する建物である。 ファイル:2005-08-19 Kiev 063.JPG|キエフの[[聖ソフィア大聖堂 (キエフ)|聖ソフィア大聖堂]]はイヴァン・マゼーパによって改修作業が開始され、1740年に終わった。大聖堂は内部の古来の装飾が保存され、外部だけはウクライナ・バロックの様式で造りかえられた。 ファイル:Dormition Cathedral 2018 G1.jpg|[[キエフ・ペチェールシク大修道院]](キエフ洞窟大修道院)はウクライナ・バロックの建築様式。[[三位一体大門教会]]をともなう。 ファイル:menshikov_tower.jpg|ピョートル大帝の寵臣メンシコフの旧邸[[メンシコフ宮殿]]。メンシコフ塔はメンシコフ宮殿附属の塔でピョートル時代に建てられた(1882年撮影)。 ファイル:WinterPalaceAndAC.jpg|ペテルブルクの[[冬宮殿]]。1754年着工、1762年完成。[[バルトロメオ・ラストレッリ]]設計のバロック様式建築。中央左の円柱は[[1812年ロシア戦役|祖国戦争]](ナポレオン戦争)勝利記念のアレクサンドル円柱である。 ファイル:St-Michael-Castle.jpg|フランス古典主義、イタリア風ルネサンス様式、ゴシック様式などの折衷様式で建てられたペテルブルクの[[ミハイロフスキー城]](1797年-1801年) ファイル:Kazanskiy.jpg|ペテルブルクの[[カザン聖堂]]は[[アンドレイ・ヴォロニーヒン]]設計による[[新古典主義]]の大聖堂で名将[[ミハイル・クトゥーゾフ]]の遺体が安置されている。1801年の着工、1811年の完成(1890-1905年の古写真)。 ファイル:Admiralty.jpg|ペテルブルクの旧海軍省(1732年-1738年、1806年-1823年)はコローボフの作品。ロシア・クラシック様式。 ファイル:Cathédrale Saint-Isaac.png|ペテルブルクの[[聖イサアク大聖堂]]はピョートル大帝の命によって建立され、エカチャリーナ2世の移転改築を経てアレクサンドル1世に改修された大聖堂。仏人モンフェランの設計。1818年着工、1858年完成。ロシア・ビザンティン様式。 ファイル:Moscow Bolshoi Theatre 2011.JPG|モスクワのボリショイ劇場(1821年-1825年) ファイル:Vladimir assumption.jpg|ウラジーミルの[[生神女就寝大聖堂 (ウラジーミル)|生神女就寝大聖堂]]は12世紀に建てられたビザンティン様式の建物。モンゴル人のルーシ侵攻の際、大公一族とともに焼き払われた。黄金門・大聖堂ともに後世の復元である。 ファイル:Church of the Savior on Blood.JPG|ペテルブルクの[[血の上の救世主教会]]は「解放皇帝」アレクサンドル2世受難の地に建てられた。1883年着工、1907年完成。バロック式とも新古典様式とも異なる中世ロシア風の建築。 ファイル:CerkiewChrystusaZbawiciela.JPG|モスクワの[[救世主ハリストス大聖堂]]は1817年着工で1824年に中断、1839年に基礎工事が完成し、1883年のアレクサンドル3世の戴冠式に献堂された。ネオロシアのいわゆる「ロシア・ビザンティン」の建築である。 ファイル:Moscow State Historical Museum Red Square.jpg|[[赤の広場]]よりみたモスクワの国立歴史博物館(1875年—1881年) ファイル:GUM department store exterior.jpg|モスクワの[[グム国立百貨店]](1888年-1893年)のファサード。[[ウラジーミル・シューホフ]]によるネオロシアの作品。 ファイル:Moscow Metro Station 2 Entrance.jpg|モスクワの旧モローゾフ邸(1894年-1898年)は折衷様式の建物 ファイル:First Shukhov Tower Nizhny Novgorod 1896.jpg|[[ニージニー・ノヴゴロド]]の汎ロシア博覧会の給水塔。1896年完成。ウラジミール・シューホフ設計による[[ロシア構成主義]]の建物。 </gallery> ===思想=== 19世紀の自由主義運動・革命的知識人を[[インテリ|インテリゲンツィア]]といい、ツアーリズムや[[ロシアの農奴制|農奴制]]などロシアの後進性を批判し、社会改革運動の中心となった。インテリゲンツィアは[[ナロードニキ|ヴ・ナロード]]を掲げ、啓蒙とツアーリズム打倒の運動を繰り広げたが、農民には受け入れられたものの官憲の弾圧を受け、運動は挫折した。その後、[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]らの無政府主義やニヒリズム・テロリズムの活動へと分散した。 ===自然科学=== 自然科学分野では、[[化学者]]の[[ドミトリ・メンデレーエフ]]が著名である。[[元素]]の[[周期律表]]を作成したことで知られるメンデレーエフは、石油産業の発展についても提言し、それまでバクーの発展を妨げていた石油生産地の独占賃貸制度の撤廃を強く訴えて、1872年、その廃止を実現させた<ref name="和田他2002,p.238">[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.238.</ref>。これにより、バクーにはスウェーデンの科学者でロシアで機械工場を所有していたノーベル兄弟がタンク車やタンカーなど機械部門で進出するなど、バクーの石油業が著しく発展した<ref name="和田他2002,p.238"/>。 また、[[多段階ロケット理論]]を提案した[[コンスタンティン・ツィオルコフスキー]]もロシア帝国の末期に現れた物理学者である。彼のロケット理論や「地球は人類のゆりかごである。しかしゆりかごで人生を終えるものはいない」と人類の宇宙進出の提唱は当時は受け入れられなかった。しかし彼の思想はのちに[[ソビエト連邦]]の人類初の人工衛星の打ち上げや有人宇宙飛行の成功に大きく寄与する。 ==社会== {|style="float:right" |style="width:1em"| | {|class="wikitable sortable" style="float:right" |+ロシア帝国の人口 !年 !!人口!!出典 |- |style="white-space:nowrap" |1724年 |style="text-align:right"|15,580,000 |<ref name=rossiiskaya682>鳥山成人【ロシア帝国】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.682.</ref> |- |style="white-space:nowrap" |1796年 |style="text-align:right;white-space:nowrap"|37,600,000 |<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.157.</ref> |- |style="white-space:nowrap" |1812年 |style="text-align:right"|42,700,000 |{{r|rossiiskaya682}} |- |style="white-space:nowrap" |1851年 |style="text-align:right"|69,000,000 |<ref name=CatholicEncyclopedia233>{{cite web|title=the Catholic Encyclopedia Volume13-"Russia"|url=https://archive.org/stream/catholicencyclop13herbuoft#page/233/mode/1up|publisher=New York, The Encyclopedia Press|page=233|accessdate=2012年3月10日}}</ref> |- |style="white-space:nowrap" |1897年 |style="text-align:right;white-space:nowrap"|128,967,694 |<ref group=n>ロシア初の[[国勢調査]]による数値。</ref> |- |style="white-space:nowrap" |1904年 |style="text-align:right"|146,000,000 |{{r|CatholicEncyclopedia233}} |- |style="white-space:nowrap" |1908年 |style="text-align:right"|154,000,000 |{{r|CatholicEncyclopedia233}} |- |style="white-space:nowrap" |1910年 |style="text-align:right"|158,000,000 |{{r|CatholicEncyclopedia233}} |- |style="white-space:nowrap" |1913年 |style="text-align:right"|159,153,000 |<ref name=rossiiskaya282>島村史郎【人口】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.282-283.</ref> |} |} ロシア帝国の臣民は[[#貴族|貴族]]、[[#聖職者|聖職者]]、[[#名誉市民|名誉市民]]、[[#商人・町人・職人|商人、町人、職人]]、[[#カザーク|カザーク]]([[コサック]])そして[[#農民|農民]]といった身分([[:en:sosloviye|sosloviye]])に分けられる。カフカースの先住民や[[タタールスタン共和国|タタールスタン]]、[[バシコルトスタン共和国|バシコルトスタン]]、シベリアそして中央アジアの非ロシア系住民は{{仮リンク|異族人|en|inorodtsy}}と呼ばれる区分に公的に分類されていた。 1897年の[[国勢調査]]の結果によるとロシア帝国の身分別割合は世襲貴族・一代貴族・官吏(1.5%)、聖職者(0.5%)、名誉市民(0.3%)、商人(0.2%)、町人・職人(10.6%)、カザーク(2.3%)、農民(77.1%:都市居住農民を含む)、異族人(6.6%)、フィンランド人、外国人・身分不詳・その他(0.9%)となっている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.313.</ref>。 === 貴族 === {{multiple image | align = left | direction = horizontal | header = | header_align = center | header_background = | footer = | footer_align = center | footer_background = | width = | image1 = Dmitriy Golitsyn.jpg | width1 = 150 | caption1 = 有力家門{{仮リンク|ゴリツイン家|en|Galitzine}}出身の将軍{{仮リンク|ドミトリー・ヴラディミロヴィチ・ゴリツイン|en|Dmitry Golitsyn}}(1771-1844) | image2 = Golitsyna and Vorontsova Alexander Brullov.jpg | width2 = 150 | alt2 = | caption2 = 貴族の婦人。Alexander Brullov画。1824-25年 }} [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)の改革によって古くからの貴族階層([[ボヤール]]:''{{lang|ru|Боярин}}'')が、モスクワ大公そしてツァーリに奉仕する小領主の士族階層({{仮リンク|ドボリャンストボ|en|Russian nobility}}:''{{lang|ru|Дворянство}}'')に吸収された<ref name=dvoryanstvo>倉持俊一【ドボリャンストボ】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.400-401.</ref>。ロシア帝国では官吏や軍人として勤務することにより貴族になる道が開かれていた。官等表で定められた九等官になった文武官は一代貴族、そして武官は六等官以上、文官は四等官以上で世襲貴族になれた<ref group=n>ピョートル1世が官等表を制定した時点では十四等官で一代貴族、九等官で世襲貴族になれた。[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.256.</ref>{{r|dvoryanstvo}}。また勲章を得ることでも貴族身分を取得することができ、世襲貴族の多くは受勲によるものである<ref>高橋一彦【勲章】[帝政期][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.180.</ref>。 ピョートル1世は従来の公爵([[クニャージ]]:''{{lang|ru|Князь}}'')に加えて伯爵(''{{lang|ru|Граф}}'')と男爵(''{{lang|ru|Барон}}'')を設けている。公爵と伯爵は古くからの家柄の貴族と勲功のあった者に授けられ、男爵は主にバルト海沿岸部のドイツ系貴族に与えられており、全体的には爵位のない貴族が多かった<ref name=kizoku>中村和喜【ロシア帝国】[貴族,地主][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.660.</ref>。貴族は土地と農奴を所有する権利を有するが、一代貴族は国家勤務の俸給で生活しており土地を持たない者が多く農奴も所有できない。1858年頃のロシア帝国には約100万人の貴族がおり、農奴を所有できる世襲貴族は61万人になり、このうち実際に農奴を所有する者は約9万人であった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.296.</ref>。貴族として体面を保つには100人以上の農奴が必要とされるが農奴所有貴族のうち約78%は農奴所有数100人以下であり、100人以上の中流貴族は約22%、1000人以上の上流貴族は1%に過ぎない{{r|kizoku}}<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.296-297.</ref>。 ピョートル1世や[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は西欧宮廷文化の輸入・模倣をすすめ、貴族教育の制度も整えられた結果、18世紀末にはロシア貴族は完全に西欧化した<ref>鳥山成人【ロシア帝国】[宮廷文化と西欧化][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.688.</ref>。貴族や上流階級の間では当時の[[国際語]]であった[[フランス語]]<ref>{{cite web|title=フランス語[国際語としてのフランス語]- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%AA%9E/|author=[[松原秀一]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月24日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>や[[ドイツ語]]が用いられるようになっている<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.260-261.<br>{{Cite web|和書|title=第5回 ロシア人と外国語――欧米文化に復帰するロシア人|url=http://www.tmu.co.jp/feature/hakamada05.html|author=[[袴田茂樹]]|publisher=[http://www.tmu.co.jp/ TMU CONSULTING]|page=|accessdate=2012年2月24日}}</ref>。 ピョートル1世は拡大する行政機構の官吏の必要のために貴族の国家勤務を強化して査閲を厳格化し、また「一子相続令」によって家領の分割を禁じ、当主以外の貴族子弟の収入を断ち国家勤務を事実上強制化した<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.31-33.</ref>。だが、国家勤務は貴族にとって大きな負担であり、貴族の勤務忌避やサボタージュといった抵抗が後をたたず<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.55.</ref>、アンナの時に一子相続令が廃止され、勤務年数も短縮されている<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.179.</ref>。そして、[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]](在位1761年 - 1762年)が「貴族の自由についての布告」(貴族の解放令)を出して貴族の国家勤務義務が全廃された<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.179-180.</ref>。上位官職に就いていた貴族は勤務を継続したが、多数の中小領主が地方に移り住み、領地の経営に専念するようになった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.180;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.70.</ref>。しかしながら、18世紀後半には貴族社会の中でも官等表の等級が家柄や財産よりも重んじられるようにもなっており、官吏の半数近くを貴族が占めるようになった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.180;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.257-259.</ref>。 [[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は貴族階層の支持を権力基盤とし、特権認可状が交付され、さらに広大な国有地が下賜されることによって貴族の黄金時代となった<ref>{{Cite web|和書|title=エカチェリーナ(2世)- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A%EF%BC%882%E4%B8%96%EF%BC%89/|author=伊藤幸男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月21日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。地方行政も貴族に委ねられ、彼らは県・郡ごとに貴族団を組織して大きな影響力を持った<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.190-191.<br>鳥山成人【ロシア帝国】[在地の貴族団の活動][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.686-687.</ref>。1861年の農奴解放後はその影響力を減じたが、郡・県ゼムストヴォやドゥーマ(国会)でも有利な選挙制度を与えられている{{r|dvoryanstvo}}。 === 聖職者 === [[File:Meletiy - Yakimov with priests.jpg|thumb|250px|主教と聖職者。1892年撮影。]] 聖職者身分は公認されたキリスト教の聖職者に与えられ、人頭税、体刑そして徴兵を免除されていた。 [[正教会]]の聖職者は独身の黒僧([[修道士]])と妻帯している白僧([[在俗司祭]])がいた。上位聖職者は黒僧が占め、白僧は町や村の司祭で叙任時点で妻帯していなければならないが、妻が死去した場合は再婚は許されなかった<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],pp.85-86.</ref>。在俗司祭の教養は概して低く、軽蔑の対象となっていた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.98.<br>鳥山成人【ロシア帝国】[聖職者][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.687.</ref>。 [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)の教会改革の際に「聖務規則」がつくられ、聖職者は皇帝への宣誓を義務づけられている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.42.</ref>。聖界所領の行政権を国家管理とされ、事実上国有化された結果、修道士たちは国家からの給与によって生活せざるを得なくなった<ref name=tanak41>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.41-42,98.</ref>。修道院の新設は禁じられ、修道士数も制限され、活動にも様々な規制が加えられた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.43.</ref>。世襲が許されていた在俗司祭職についても、新たに[[神学校]]での教育が義務づけられたが、[[ラテン語]]の暗記教育は効果が薄く、世襲を固定化して身分的閉鎖性を強めるだけの結果になった<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],pp.125-126;[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.171;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.98.</ref>。 聖職者たちは国家の安全に関わる[[告解]]の秘密を報告することを命じられており、帝政時代の教会は国家の「侍女」と化していた<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.126.</ref>。 === 名誉市民 === {{仮リンク|名誉市民 (ロシア)|label=名誉市民|ru|Почётные граждане (сословие)}}(''{{lang|ru|Почётные граждане}}'')はニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代の1832年に勃興しつつあったブルジョワジーに与える目的で創設された身分であり、人頭税、兵役、体刑を免除されていた<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.214.</ref>。一代貴族や聖職者の子には世襲身分として与えられ、また高等教育を受けた者や14等官になった官吏、功労ある商人、芸術家にも終身身分として与えられた<ref>和田春樹【身分】、中村和喜【ロシア】[社会を構成する諸身分][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.569-570,659.</ref>。 === 商人・町人・職人 === [[File:Kustodiyev fair.JPG|thumb|175px|市場。<br>[[ボリス・クストーディエフ|クストーディエフ]]画。1910年。]] 都市住民の身分には商人、町人そして職人があり、おのおの身分団体を組織していた。 商人(クペーツ:''{{lang|ru|Купчиха}}'')は[[ギルド]]に所属している裕福な商人や手工業者であり、営業を止めれば身分を失う。[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は都市住民を組織化して都市の自治権を裕福な市民に委ねた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.39.</ref>。[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は商人を貴族・聖職者に次ぐ「第3身分」とするべく体刑と人頭税の免除や独占的営業権の特権認可状の付与により保護育成を図っている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.88.</ref>。やがて、農民身分出身の「農民=商人」(クレチャーニン=クペーツ)の台頭により、従来の商人身分層は衰え、1863年に全ての身分の者が商人身分に転換することが認められた<ref name=syounin>高田和夫【商人】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.274.</ref>。商人と貴族の一部そして農民身分出身の資本家がロシアにおけるブルジョワジー階層を形成した。商人は流動性の高い身分であったが、人口は20万人程度にとどまっている{{r|syounin}}。 町人({{仮リンク|メシチャニーン|ru|Мещанство}}:''{{lang|ru|Мещане}}'')と職人はエカチェリーナ2世が1755年に出した詔書により、商人身分から分けられた小売商人や零細手工業者であり、都市住民の大部分である<ref>高田和夫【商人】、中村喜和【ロシア】[社会を構成する諸身分][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.274,659.</ref>。 18世紀末のロシアの都市住民は198万人で、総人口に占める割合は4.2%に過ぎなかったが<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.95-97.</ref>、帝政終焉時の1917年には2600万人となり、総人口の15.6%に達している<ref>栗生沢猛夫【都市】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.392-393.</ref>。 {{-}} === カザーク === {{main|コサック}} [[File:Russian Cossaks1914 Postcard.jpg|thumb|250px|ロシア軍のカザーク騎兵。1914年。]] 15世紀から16世紀に南ロシアや[[ウクライナ]]で形成された'''カザーク'''(''{{lang|ru|Казак}}'':英語読みでは[[コサック]])は農業に従事せず<ref group=n>17世紀後半にはカザーク も農耕に従事し始めている。[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.151.</ref>漁業、狩猟そして略奪を生業とする軍事共同体であり、ロシア帝国の支配に組み込まれて以降は特別な軍事身分となった{{r|Cossacks}}。 南ロシア・[[ドン川]]流域の[[ドン・コサック軍|ドン・カザーク]]はモスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国において有力な政治勢力を形成していた。ツァーリ・[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]](在位1645年 - 1676年)の時代にドン・カザーク は[[ラージンの乱]](1670年 - 1671年)を起こして政府軍に鎮圧され、以降ドン・カザーク の自治は失われた<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.148-149.</ref>。ドン・カザーク は[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1682年 - 1725年)の1707年にもカザークの特権を守るべく蜂起している([[ブラーヴィンの乱]])<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.18-19.</ref>。 [[ヘーチマン]]を首領とする共同体([[ヘーチマン国家]])を形成していたウクライナの[[ウクライナ・コサック|サポロジェ・カザーク]]は17世紀のツァーリ・アレクセイの時代にポーランドの支配から離れてロシアの保護下に入った<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.145-146.</ref>。[[大北方戦争]]の際にヘーチマン国家の首領[[イヴァン・マゼーパ]]がロシアから離反したことにより自治が制限された。[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)の治世に入るとロシアの支配はさらに強められ、1764年にヘーチマン制が正式に廃止され、1785年までにヘーチマン国家体制は完全に廃止されて小ロシアと名付けられ、直轄支配に置かれた<ref>[[中井和夫]]【ウクライナ】[民族意識の形成][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.50-51.</ref>。 カザークによる最後の大反乱である[[プガチョフの乱]](1773年 - 1776年)以降、カザークは中央政府の管理下に置かれるようになった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.249.</ref><ref name=Cossacks>{{Cite web|和書|title=- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF/|author=外川継男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月24日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。 南部国境にカザーク軍管区が置かれて行政は軍事省の管轄とされ、騎馬に巧みなカザークは軍役(18歳から20年間)を課される代わりに土地割当の優遇を受けた{{r|Cossacks}}。1827年以降、ロシア皇太子が全カザーク軍団の[[アタマン]](首長)とされた。ロシア帝国は騎兵の中核戦力としてのカザーク軍団を編成するとともに、辺境防備のためにカザーク集団をシベリア、中央アジアそして極東に植民させている<ref name=Kazak>鳥山成人【コサック】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.205-206.</ref>。 1916年時点で13軍管区、443万人(内軍人28万人)のカザークがいた{{r|Cossacks}}。カザークは革命運動の弾圧に用いられ、[[ロシア内戦]]では多くのカザークが[[白軍]]に加わって戦っている{{r|Kazak}}。 === 農民 === [[File:Gorskii 04422u.jpg|thumb|250px|ロシアの農民<br>[[セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー]]撮影の[[カラー写真]]。1909年。]] [[File:A Korzukhin Collecting Arrears 002.jpg|thumb|250px|滞納金の取り立て。<br>Alexey Korzukhin画。1868年。]] [[File:Seeing off a recruit (Repin).jpg|thumb|250px|徴兵された農民との別れ。<br>イリヤ・レーピン画。1879年。]] ロシア帝国臣民の大部分は農民(クレチャーニン:''{{lang|ru|Крестьяне}}'')である。農民は国有地農民、聖界領農民(エカチェリーナ2世の時代に国有地化<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.238,262.</ref>)、御料地(帝室領)農民そして領主農民([[農奴]])に分けられる。1858年の調査では農民人口の55%が国有地農民(男性9,194,891人)と御料地農民(男性842,740人)であり、45%が農奴(男性10,447,149人)であった<ref name=Britannica887>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/887/mode/1up|publisher=|page=887|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月23日}}</ref>。 農民身分では農村共同体(ミールまたはオプシチナ)と農奴解放後に組織された村団そして郷(ヴォロースチ)が身分団体にあたり、新規にこれに登録されることは事実上不可能であった{{r|mibun}}。農村共同体は村長と村会からなる農民の自治組織で耕地、牧畜地そして森林は農村共同体の共同所有とされ、耕作地は村会の決定によって定期的に各農民に割替えられていた<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.181-182;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.192-193.</ref>。農村共同体は体制側の統治の道具としての側面もあり、納税と徴兵は農村共同体の連帯責任であった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.192-193.</ref>。 農民は人頭税に加えて領主(国家、皇族、貴族)に対する貢租(生産物、貨幣)と賦役(労役)の義務を負っていた。伝統的な[[三圃式農業]]によるロシアの農業は気候の厳しさに加えて、農村共同体による土地利用は私的意欲が欠如し、機械化も肥料・品種改良の導入も進まず、収穫率は低いままで停滞した<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.74-75,191,287-288.</ref><ref group=n>18世紀後半のイギリスでははん播種量の10倍の収穫であったのに対して、ロシアでは半分の5倍に留まっている。[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.241.</ref>。 ロシアの工業化の進展とともに多くの農民が都市で出稼ぎ労働者として働くようになったが、身分は農民のままである<ref name=mibun>和田春樹【身分】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.569-570.</ref>。これら農村からの出稼ぎ労働者は工場労働者の主力となり、19世紀末には新たな都市労働者階層を形成することになる<ref>鳥山成人【ロシア帝国】[労働者][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.687-688.</ref>。 ロシアの農村共同体の起源については古くから論争が続いており、[[スラヴ派]]は原始・古代的共同体の遺制であると唱え、[[ザパドニキ|西欧派]]は近世になって[[人頭税]]の導入に関係して発生したとしている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.193.</ref>。ピョートル1世以前への回帰を唱えるスラヴ派は農村共同体の共同体精神を高く評価し<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.301-302.</ref>、知識人は農村共同体を社会主義的理想に近似したものと捉え、[[ナロードニキ]]は農村に入って農民たちに革命思想を啓蒙しようと試みている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.261,265-266.</ref>。 20世紀に入ると農村共同体は専制体制に抵抗する闘争拠点と化し{{r|mir}}、[[ロシア第一革命|1905年革命]]の際には農村共同体が地主の追放を決め地主地を焼き討ちする運動が広まっている<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.264.</ref>。これに加えて共同所有による生産性への弊害も多く、ストルイピン政権は農村共同体を解体して自営農([[クラーク (農家)|クラーク]])を育成しようとする土地改革を図ったが、農民の強い抵抗を受けており、共同体を離脱した農民は20%程度に留まっている<ref>[[#鈴木他(1999)|鈴木他(1999)]],p.332-336.</ref>。 ==== 農奴 ==== {{main|ロシアの農奴制}} ロシアにおける[[ロシアの農奴制|農奴]](''{{lang|ru|крепостной крестьянин}}'')は貴族の領地に住む土地に緊縛された農民である。15世紀頃までは農民の移転は自由であったが、農民の逃亡に苦しむ中小領主(士族)を保護すべく、ツァーリ・[[イヴァン3世]](在位1462年 - 1505年)と[[イヴァン4世]](在位1533年 - 1584年)の時代に移転期間制約と移転料が設けられ、やがて全面禁止となった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.172-174.</ref>。そして、1649年にツァーリ・[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]](在位1645年 - 1676年)が定めた「[[会議法典]]」で、逃亡農民の追求権が無期限となったことで[[農奴制]]が法的に完成した<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.144;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.194.</ref>。[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は税収確保のために貴族の[[ホロープ]](家内奴隷)にも人頭税をかけてこの制度を消滅させたが、これにより農奴の社会的地位がさらに低下する結果となった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.165;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.40.</ref>。 啓蒙専制君主を自任する[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は即位当初には農奴制の改善を試みる意向を示したものの、貴族の支持を権力基盤とする彼女は農奴制をいっそう強化させている<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.186-187;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.242.</ref>。エカチェリーナ2世は広大な国有地を貴族に賜与して約80万人もの国有地農民を農奴となし、彼女の時代に農奴制の全盛期となった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.97.</ref>。 国有地農民や御料地農民が人格面では自由であり保有地の処分もできたのに対して<ref name=iwama252>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.252.</ref>、農奴は領主の個人的所有物とみなされており、人格面での隷属を強いられ、領主から刑罰(シベリア流刑も含む)を受ける一方で領主を告訴する権利はなかった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.198;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.236.</ref>。生活に干渉されて結婚を強制されることもあり<ref name=Serfdom>鈴木健夫【農奴】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.437-438.</ref>、農奴は売買の対象とされ、土地や家族と切り離されて売却されることもあった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.244.</ref>。農奴は国家に対する人頭税の他に領主に対して貢租(オブローク)もしくは賦役(バールシチナ)を課されており、[[黒土地帯]]では貢租が、非黒土地帯では賦役が主に課された{{r|iwama252}}。いずれも国有地農民や御料地農民よりも苛酷であり<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.197.</ref>、賦役は領主直営地の農作業や工場・鉱山での労働で、週3日からほとんど毎日の場合すらあった{{r|iwama252}}。 18世紀後半になると農奴制はロシアの後進性の象徴として批判の対象になり<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.295.</ref>、改革を目指した[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)の非公式委員会では農奴制の廃止も議されたが、その実施は限定的で効果のないものに終わった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.113-114;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.168.</ref>。反動政治を行った[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)も農業改革を考え、農奴への模範とするべく、国有地農民・御料地農民の待遇の改善を行い、地主が自発的に土地を農奴に分与する勅令を出したが、これに応じた者は僅かしかいなかった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.154-157;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.288.</ref>。 [[クリミア戦争]]の敗北によって、農奴制への非難が強まり、[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)は改革を決断し、1861年に[[農奴解放令]]が公布された<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.223-226;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.310-312.</ref>。だが、この農奴解放は地主の利益に配慮した不徹底なものであった。農奴は人格的支配から解放され、土地も分与されたものの地主に有利な価格での有償であり、支払い能力のない農奴に代わって国家が立て替えたが、これにより元農奴は国家に対して49年賦の負債を課せられ、これを払い終えるまで一定の義務を負担する一時的義務負担農民となった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.313-316.</ref>。土地は個人に対してではなく農村共同体を基礎に新たに組織された村団に分与されて買戻金の支払いは連帯責任となり、農村共同体の役割がさらに強化されることとなった。加えて地主には土地の3分の1から2分の1が保留地とされたことで、元農奴はかなりの土地を切り取られている<ref name=noudokaihou>{{Cite web|和書|title=農奴解放令- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E8%A7%A3%E6%94%BE%E4%BB%A4/|author=栗生沢猛夫|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年1月23日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160111183149/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E8%A7%A3%E6%94%BE%E4%BB%A4/|archivedate=2016年1月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.227;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.214-215;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.313.</ref>。元農奴は重い負担と土地不足に苦しめられ、元地主から耕地や金・穀物を借りることになり、その支払いのために元農奴たちは地主の畑を耕作し、農閑期には都市で労働者として働く経済的隷属に陥ることになった(雇役制農業)<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.287-289.</ref>。 === 異族人 === [[File:Перекочевка киргизов.jpg|thumb|250px|キルギスの遊牧民。<br>[[ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン]]画。1869年 - 1870年。]] {{仮リンク|異族人|en|inorodtsy}}(イノロードツィ:''{{lang|ru|Инородцы}}'')は民族的区分の法律用語である。ほとんどの場合、この用語は[[シベリア]]、[[中央アジア]]そして[[極東連邦管区|極東]]の[[先住民]]に対して適用されるものであった。この区分は特定の範疇の住民の扱いに対して、幾つかの帝国の法律を適用することは不適当と見なし、伝統的風俗習慣の保護を含む特別の法的地位を与えるべく導入されたものである。この用語は法令以外の分野で非[[スラヴ人|スラヴ]]系諸民族に対して拡大的に用いられ、「野蛮人」「駄目な連中」という侮蔑的な意味も込められるようになった<ref>[[#高田(2012)|高田(2012)]],pp.81-87,</ref>。 法的な異族人の定義は[[ミハイル・スペランスキー|スペランスキー]]のシベリア行政改革の一環として、1822年に出された『異族人統治規約』『シベリア・キルギスに関する規約』が始まりである。異族人に対しては[[徴兵制度|兵役]]の免除、放牧地の保護そして宗教と内政の自治権を含む特権と特別待遇が与えられていた<ref>[[#Millar(2004)|Millar(2004)]];[[#Slocum(1998)|Slocum(1998)]], pp. 173-190.</ref><ref name=centraleurasia58>宇山智彦【異族人】『中央ユーラシアを知る事典』(2005),pp.58-59.</ref>。異族人の権利と義務は彼らの階級に従いロシア人と同等であるが、彼らの自治に関してロシア人と異なる幾らかの特権を有していた。遊牧を生業とする民族はロシアの農民と同等に取り扱われるが、自治と裁判は中央アジアにおける風俗習慣に従い、また彼らの使用するべきもの、もしくは財産として一定の土地が指定され、ロシア人の入植は禁止されていた<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.53.</ref>。もっとも、現地総督府の農民入植推進の施策によりこの保護策は骨抜きにされている<ref>西山克典【中央アジア入植】『中央ユーラシアを知る事典』(2005),pp.343-344.</ref>。 1835年には[[ユダヤ人]]も異族人に加えられたが、居住制限を受ける一方で兵役は課されている{{r|centraleurasia58}}。 {{-}} === 民族構成 === {| |- |style="vertical-align:top" | {| class="wikitable sortable" style="float:left" |+ 1897年国勢調査での民族構成<ref name=Britannica874>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/874/mode/1up|publisher=|page=874|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref> |- ! 民族 !! 人口 |- | [[ロシア人]] || style="text-align:right" |55,673,408 |- | [[小ロシア|小ロシア人]]([[ウクライナ人]] )|| style="text-align:right" |22,380,551 |- | [[ポーランド人]] || style="text-align:right" |7,931,307 |- | 白ロシア人([[ベラルーシ人]]) || style="text-align:right" |5,885,547 |- | [[ユダヤ人]] || style="text-align:right" |5,063,156 |- | [[キルギス人]] || style="text-align:right" |4,084,139 |- | [[タタール人]] || style="text-align:right" |3,737,627 |- | [[フィン人]] || style="text-align:right" |2,496,058 |- | [[バルト・ドイツ人]] || style="text-align:right" |1,790,489 |- | [[リトアニア人]] || style="text-align:right" |1,658,532 |- | [[バシキール人]] || style="text-align:right" |1,492,983 |- | [[ラトビア人]] || style="text-align:right" |1,435,937 |- | [[グルジア人]] || style="text-align:right" |1,352,455 |- | [[アルメニア人]] || style="text-align:right" |1,173,096 |- | [[ルーマニア人]] || style="text-align:right" |1,134,124 |- | その他カフカース系 || style="text-align:right" |1,091,782 |- | [[モルドヴィン人]] || style="text-align:right" |1,023,841 |- | [[エストニア人]] || style="text-align:right" |1,002,738 |- | [[サルト人]] || style="text-align:right" |968,655 |- | [[チュヴァシ人]] || style="text-align:right" |843,755 |- | [[ウズベク人]] || style="text-align:right" |726,534 |- | その他 || style="text-align:right" |724,039 |- | [[ウドムルト人]] || style="text-align:right" |420,970 |- | [[マリ人|チェレミス人]] || style="text-align:right" |375,439 |- | [[スウェーデン人]] || style="text-align:right" |363,932 |- | [[タジク人]] || style="text-align:right" |350,397 |- | [[ブリヤート人]] || style="text-align:right" |288,663 |- | [[トルクメン人]] || style="text-align:right" |281,357 |- | [[ヤクート人|ヤクート]] || style="text-align:right" |227,384 |- | その他スラヴ系 || style="text-align:right" |224,859 |- | [[トルコ人]] || style="text-align:right" |208,822 |- | [[カレリア人]] || style="text-align:right" |208,101 |- | [[ギリシャ人]] || style="text-align:right" |186,925 |- | [[カルムイク人]] || style="text-align:right" |185,274 |- | [[オセット人]] || style="text-align:right" |171,716 |- | Syryenians<ref group=n>フィン系民族。[http://www.1911encyclopedia.org/Syryenians Syryenians]</ref> || style="text-align:right" |153,618 |- | [[タリッシュ人]]とTates|| style="text-align:right" |130,347 |- | [[カラカルパク人]] || style="text-align:right" |104,274 |- | [[コミ人]] || style="text-align:right" |103,339 |- | [[クルド人]] || style="text-align:right" |99,836 |- | [[漢民族|中国人]]、[[大和民族|日本人]]、[[朝鮮民族|朝鮮人]] || style="text-align:right" |86,113 |- | [[エヴェンキ]] || style="text-align:right" |70,064 |- | その他フィン系 || style="text-align:right" |67,846 |- | [[コリャーク人]], [[チュクチ人]] || style="text-align:right" |39,349 |- | [[ペルシャ人]] || style="text-align:right" |38,923 |- | その他ヨーロッパ系 || style="text-align:right" |34,276 |- | [[ジプシー]] || style="text-align:right" |27,125 |- | [[サモエード人]]([[ネネツ人]]) || style="text-align:right" |15,869 |- | [[サーミ人]] || style="text-align:right" |3,112 |} |style="vertical-align:top"| {|style="float:right;vertical-align:top" |+ '''ロシア帝国の諸民族'''(帝政時代の写真とイラスト) |- |'''ヨーロッパ・ロシアの民族''' |- |style="vertical-align:top"|[[File:Carrick, Kamenka Fair.jpg|thumb|125px|[[ロシア人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Малороссийские типы 033.jpg|thumb|125px|[[ウクライナ人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Baryskavičy, Hanna Kabzar, Łoŭhin Kabzar. Барыскавічы, Ганна Кабзар, Лоўгін Кабзар (I. Sierbaŭ, 1912).jpg|thumb|125px|[[ベラルーシ人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Galicja 1908.jpg|thumb|125px|[[ポーランド人]]]] |- |style="vertical-align:top"|[[File:Talonpoikaisnaisia Ruokolahdelta.jpg|thumb|125px|[[フィン人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Rozentals Pec dievkalpojuma.jpg|thumb|125px|[[ラトビア人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Anseküla mees -Anseküll, EKM40840 G25189 Stern F S Anseküla Saarema rahvaröivaid ATG2118.jpg|thumb|125px|[[エストニア人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Norblin - Peasant from Samogitia 02.jpeg|thumb|125px|[[リトアニア人]]]] |- |'''カフカースの民族''' |- |style="vertical-align:top"|[[File:Portrait of two Georgian men. George Kennan. 1870-1886.jpg|thumb|125px|[[グルジア人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Армянки в коротких курточках и прямых юбках. Армения. Армяне. Фотограф Д.Н. Ермаков. 1881 г.jpg|thumb|125px|[[アルメニア人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Azeris.jpeg|thumb|175px|[[アゼルバイジャン人]]<br><small>タタール人に分類されていた<ref>[[#鈴木(2006)|鈴木(2006)]],p.170.</ref>。</small>]] |style="vertical-align:top"|[[File:Ramonov vano ossetin northern caucasia dress 18 century.jpg|thumb|125px|[[オセット人]]]] |- |'''ヴォルガ・ウラルの民族''' |- |style="vertical-align:top"|[[File:Yeget-1.jpg|thumb|125px|[[タタール人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Bashkirs.jpg|thumb|125px|[[バシキール人]]]] |style="vertical-align:top"| |style="vertical-align:top"|[[File:Черемисы (марийцы)-2.jpg|thumb|125px|チェレミス人([[マリ人]])]] |- |'''中央アジアの民族''' |- |style="vertical-align:top"| |style="vertical-align:top"|[[File:Kurmanjan4.JPG|thumb|125px|[[キルギス人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:SB - Inside a Kazakh yurt.jpg|thumb|175px|[[カザフ人]]<br><small>[[セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー]]撮影の最初期のカラー写真。<br>キルギス人に分類されていた<ref>[[#小松他(2000)|小松他(2000)]],p.324.</ref>。</small>]] |style="vertical-align:top"|[[File:Turkmen man with camel.jpg|thumb|175px|[[トルクメン人]]<br><small>セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影の最初期のカラー写真。</small>]] |- |'''シベリアの民族''' |- |style="vertical-align:top"|[[File:Buriatka.jpg|thumb|125px|[[ブリヤート人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Yakuty okhotniki.jpg|thumb|125px|[[ヤクート人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Koryak armor.jpeg|thumb|125px|[[コリャーク人]]]] |style="vertical-align:top"|[[File:Nenets 1860x by Denier.jpg|thumb|100px|[[サモエード人]]([[ネネツ人]])]] |} |} {{-}} ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="n"|2}} ===出典=== {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == {{refbegin|2}} *{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=和田春樹|editor-link=和田春樹|year=2002|title=ロシア史|series=新版 世界各国史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634415201|ref=和田他(2002)}} *{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=田中陽児, 倉持俊一、和田春樹|year=1994|title=ロシア史〈2〉18~19世紀|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634460706|ref=田中他(1994)}} *{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=田中陽児, 倉持俊一、和田春樹|year=1997|title=ロシア史〈3〉20世紀|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634460805|ref=田中他(1997)}} *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor1-first=香男里|editor1-last=川端|editor1-link=川端香男里|editor2-first=経明|editor2-last=佐藤|editor3-first=喜和|editor3-last=中村|editor3-link=中村喜和|editor4-first=春樹(監修)|editor4-last=和田|year=1989|title=ロシア・ソ連を知る事典|series=|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582126136|ref=『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)}} *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=岩間徹|editor-link=岩間徹|year=1979|title=ロシア史|series=世界各国史 (4)|publisher=山川出版社|isbn=|ref=岩間他(1979)}} *{{Cite book|和書|author=|translator=民友社|editor=露国政府|year=1899|title=露国事情|series=|publisher=[[民友社]]|url={{近代デジタルライブラリーURL|40010729}}|ref=露国事情(1899)}} *{{Cite book|和書|author=|translator=|editors=[[小松久男]]+[[梅村坦]]+[[宇山智彦]]+[[帯谷知可]]+[[堀川徹]]|year=2005|title=中央ユーラシアを知る事典|series=|publisher=平凡社|isbn=978-4582126365|ref=中央ユーラシアを知る事典(2005)}} *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=小松久男|year=2000|title=中央ユーラシア史|series=新版 世界各国史|publisher=山川出版社|isbn=978-4634413405 |ref=小松他(2000)}} *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor1-first=孝之|editor1-last=伊東|editor1-link=伊東孝之|editor2-first=和夫|editor2-last=中井|editor2-link=中井和夫|editor3-first=敏夫|editor3-last=井内|year=1998|title=ポーランド・ウクライナ・バルト史|series=新版 世界各国史|publisher=山川出版社|isbn= 978-4634415003|ref=伊東他(1998)}} *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=パイロンズオフィス|year=1998|title=未完成艦名鑑 1906~45|series=ミリタリーイラストレイテッド|publisher=[[コーエー|光栄]]|isbn=978-4877195328|ref=パイロンズオフィス(1998)}} *{{Cite book|和書|author=ピョートル・オレンダー|translator=平田光夫|editor=|year=2010|title=日露海戦1905〈Vol.1〉旅順編|series=|publisher=[[大日本絵画]]|isbn=978-4499230360|ref=オレンダー(2010)}} *{{Cite book|和書|author=R.M. コナフトン|translator=妹尾作太男|editor=|year=1989|title=ロシアはなぜ敗れたか―日露戦争における戦略・戦術の分析|series=|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=978-4404016928|ref=コナフトン(1989)}} *{{Cite book|和書|author=アンドレイ・V・ポルトフ|translator=|editor=|year=2010|title=ソ連/ロシア巡洋艦建造史|series=世界の艦船増刊 2010年 12月号|publisher=[[海人社]]|isbn=|ref=ポルトフ(2010)}} *{{Cite 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粘土団子
粘土団子(ねんどだんご)は、福岡正信の生んだ自然農法で使われる手法である。次の季節の作物のための百種類以上の種を粘土、堆肥、肥料と混ぜて団子を作る。これを、自然環境に撒いて放置すると自然の状態を種が察して、より適応しやすい時期に発芽するという。また、鳥や虫が嫌う薬草などを混ぜることで、損失を防ぐと言うアイディアも盛り込んである。従来の栽培法よりも、使う土の量が少なく、結果として作物の数は少なくなるが、大きく強くなるという。 砂漠の緑化にも用いられる。ギリシャやスペイン砂漠の緑化、タイでは荒れ地を緑化しマンゴーやバナナが育つ。ケニアの乾燥が進んだ草地に植物を茂らせている。ほかに粘土団子が成功した場所として、インド、ソマリア、中国・アフリカなどの十数カ国とされる。
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粘土団子(ねんどだんご)は、福岡正信の生んだ自然農法で使われる手法である。次の季節の作物のための百種類以上の種を粘土、堆肥、肥料と混ぜて団子を作る。これを、自然環境に撒いて放置すると自然の状態を種が察して、より適応しやすい時期に発芽するという。また、鳥や虫が嫌う薬草などを混ぜることで、損失を防ぐと言うアイディアも盛り込んである。従来の栽培法よりも、使う土の量が少なく、結果として作物の数は少なくなるが、大きく強くなるという。 砂漠の緑化にも用いられる。ギリシャやスペイン砂漠の緑化、タイでは荒れ地を緑化しマンゴーやバナナが育つ。ケニアの乾燥が進んだ草地に植物を茂らせている。ほかに粘土団子が成功した場所として、インド、ソマリア、中国・アフリカなどの十数カ国とされる。
{{単一の出典|date=2017年2月8日 (水) 04:27 (UTC)}} '''粘土団子'''(ねんどだんご)は、[[福岡正信]]の生んだ[[自然農法]]で使われる手法である。次の季節の作物のための百種類以上の[[種子|種]]を[[粘土]]、[[堆肥]]、[[肥料]]と混ぜて団子を作る。これを、自然環境に撒いて放置すると自然の状態を種が察して、より適応しやすい時期に発芽するという<ref name="名前なし-1">「生ごみの種が世界を緑化」朝日新聞朝刊2002年10月28日 15面</ref>。また、鳥や虫が嫌う薬草などを混ぜることで、損失を防ぐと言うアイディアも盛り込んである。{{独自研究範囲|date=2022年3月|従来の栽培法よりも、使う土の量が少なく、結果として作物の数は少なくなるが、大きく強くなるという}}。 [[File:Activities for world environment day in Bhopal (4).jpg|thumb|Activities for world environment day in Bhopal, India]] [[File:Activities for making Mud Seed ball in Bhopal (7).jpg|thumb|Activities for making Mud Seed ball]] [[File:Activities for making Mud Seed ball in Bhopal (8).jpg|thumb|Mud Seed ball]] [[File:Activities for making Mud Seed ball in Bhopal (9).jpg|thumb|drying mud seed balls in the shed]] [[砂漠緑化|砂漠の緑化]]にも用いられる。ギリシャやスペイン砂漠の緑化、タイでは荒れ地を緑化しマンゴーやバナナが育つ<ref>「砂漠の団子(窓・論説委員室から)」朝日新聞夕刊1999年7月19日 1面</ref>。ケニアの乾燥が進んだ草地に植物を茂らせている<ref name="asahi20068">「粘土団子で虹よ架かれ ケニアの砂漠緑化ストップ 横浜アートプロジェクト」朝日新聞朝刊2006年8月29日 田園・浜・川・2地方 30面</ref>。ほかに粘土団子が成功した場所として、インド<ref name="asahi20068" />、ソマリア<ref>「「種で緑化」支援を 有志ら提供呼びかけ/群馬」朝日新聞朝刊2002年3月22日 群馬 34面</ref>、中国・アフリカなどの十数カ国<ref name="名前なし-1"/>とされる。 ==脚注== {{reflist}} == 関連文献 == * {{Cite journal |和書 | last = 水谷 | first = 完治 | date = 2006 | title = 荒廃地における樹林化を目的とした粘土団子種子による試験 | journal = 日本森林学会誌 | volume = 88 | issue = 2 | pages = 126-130 | url = https://doi.org/10.4005/jjfs.88.126 }} ==関連項目== *[[福岡正信]] *[[自然農法]] {{agri-stub}} {{DEFAULTSORT:ねんとたんこ}} [[Category:農業技術]] [[Category:環境技術]] [[Category:緑化]] [[Category:日本の環境保護運動]] [[Category:日本の環境保全プロジェクト]] [[Category:園芸の技法]]
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ヴィクトリア
ヴィクトリア(Victoria, Viktoria)は、ヴィクトルの女性形で、ヨーロッパ系の女性名。地名その他にも多く付けられている。ビクトリアとも表記される。スペイン語の場合は同じ綴りであるが、"v"を[b]で発音するため、日本語の表記ではビクトリアとする慣用となっている。 男性名は、ヴィクター、ビクター(英語: Victor)である。
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'''ヴィクトリア'''(Victoria, Viktoria)は、[[ヴィクトル]]の[[性 (文法)|女性形]]で、[[ヨーロッパ]]系の[[女性]]名。[[地名]]その他にも多く付けられている。'''ビクトリア'''とも表記される。[[スペイン語]]の場合は同じ綴りであるが、"v"を[b]で発音するため、[[日本語]]の表記ではビクトリアとする慣用となっている。 [[男性]]名は、ヴィクター、ビクター(英語: Victor)である。 == 人物 == === 王侯貴族 === * [[ヴィクトリア (イギリス女王)]] * [[ヴィクトリア (ドイツ皇后)]] - ドイツ皇帝[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]の皇后。 * [[アウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク]] - ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の皇后。 * [[アウグステ・ヴィクトリア・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン]] - ポルトガル王[[マヌエル2世 (ポルトガル王)|マヌエル2世]]の妻。 * [[ヴィクトリア・フォン・バーデン]] - スウェーデン王[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]の王妃。 * [[ヴィクトリア・フォン・プロイセン (1866-1929)]] - プロイセン王女。 * [[ヴィクトリア (スウェーデン王太子)]] - スウェーデン王[[カール16世グスタフ (スウェーデン王)|カール16世グスタフ]] の第1王女。 * [[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド]] - イギリス女王ヴィクトリアの母。 * [[ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ]] - スペイン王[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]の王妃(イギリス出身)。 * [[ヴィクトリア・ルイーゼ・フォン・プロイセン]] - ブラウンシュヴァイク公[[エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)|エルンスト・アウグスト]]の妃。 * [[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)]] * [[ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ]] - ヘッセン大公[[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン大公)|エルンスト・ルートヴィヒ]]の妃、のちロシア大公[[キリル・ウラジーミロヴィチ]]の妃。 * [[ヴィクトリア・アーデルハイト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク]] - ザクセン=コーブルク=ゴータ公[[カール・エドゥアルト (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|カール・エドゥアルト]]の妃。 * [[ヴィクトリア (ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人)]] === スポーツ選手 === * [[ビクトリア・アザレンカ]] - ベラルーシのテニス選手。 * [[ヴィクトリア・ガリンド]] - アメリカ合衆国のソフトボール選手。 * [[ビクトリア・クロフォード]] - アメリカ合衆国の女子プロレスラー。 * [[ヴィクトリア・シリアホワ]] - ロシアのフィギュアスケート選手。 * [[ビクトリア・スチオピナ]] - ウクライナの陸上競技選手。 * [[パヴク・ヴィクトーリア]] - ハンガリーのフィギュアスケート選手。 * [[ビクトリア・パブロビッチ]] - ベラルーシの卓球選手。 * [[ヴィクトリア・ヘクト]] - ハンガリーのフィギュアスケート選手。 * [[ヴィクトリア・ヘルゲソン]] - スウェーデンのフィギュアスケート選手。 * [[ヴィクトリア・ペンドルドン]] - イギリスのトラックレース選手。 * [[ヴィクトリア・ボルゼンコワ]] - ロシアのフィギュアスケート選手。 * [[ビクトリア・ボルチコワ]] - ロシアのフィギュアスケート選手。 * [[ヴィクトリア・マキシウタ]] - ウクライナのフィギュアスケート選手。 * [[ビクトリア・ムニス]] - プエルトリコのフィギュアスケート選手。 * [[ヴィクトリア・ライト]] - イギリスのカーリング選手。 * [[ヴィクトリア・ラヴァ]] - フランスのバレーボール選手。 === 音楽家 === * [[ビクトリア・カムヒ]] - スペインのピアニスト。 * [[ヴィクトリア・ポストニコワ]] - ロシアのピアニスト。 * [[ヴィクトリア・ムローヴァ]] - ロシアのヴァイオリニスト。 * [[ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス]] - スペインのソプラノ歌手。 * [[トマス・ルイス・デ・ビクトリア]] - 16世紀スペインの作曲家。 === 芸能人 === * [[ビクトリア (中国の歌手)]] - 大韓民国の歌手グループ[[f(x)]]のメンバー。 * [[ビクトリア・アブリル]] - スペインの俳優。 * [[ヴィクトリア・ジャスティス]] - アメリカ合衆国の歌手・女優。 * [[ヴィクトリア・シルヴステッド]] - スウェーデンのヌードモデル。 * [[ヴィクトリア・ズドロック]] - アメリカ合衆国のポルノ女優。 * [[ヴィクトリア・パリス]] - アメリカ合衆国のポルノ女優。 * [[ヴィクトリア・ベッカム]] - アメリカ合衆国の歌手。 * [[ヴィクトリア・ユキ]] - 日本のAV女優。 === その他 === * [[ヴィクトリア・レジー・ケネディ]] - アメリカ合衆国の弁護士、[[エドワード・ケネディ]]の妻。 === 架空の人名 === * ヴィクトリア・サマナーク - ライトノベル『[[異世界食堂]]』の登場人物。サマナーク公国の姫。 * セラス・ヴィクトリア - 漫画『[[HELLSING]]』及びその派生作品の登場人物。 == 地名 == * [[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)]] - [[カナダ]]の[[ブリティッシュコロンビア州]]の州都。 ** [[ビクトリア国際空港]] - カナダのブリティッシュコロンビア州の空港。 * [[ビクトリア首都地域]] - [[カナダ]]の[[ブリティッシュコロンビア州]]の地方行政区。 * [[ビクトリア島]] - [[カナダ]]北部の島。[[ノースウェスト準州]]と[[ヌナブト準州]]に属する。 * [[ヴィクトリア郡 (ニューブランズウィック州)|ヴィクトリア郡]] - カナダ・[[ニューブランズウィック州]]にある[[カウンティ|郡]]。 * [[ビクトリア (テキサス州)]] - [[ヒューストン]]の南西方向に位置するテキサス州の都市。<!--[[ゴリアドの虐殺]]に記載あり--> * [[ビクトリア州]] - [[オーストラリア]]の州。 * [[ヴィクトリア市]] - イギリス統治時代の[[香港]]の首都。 ** [[ビクトリア・ハーバー]] - [[香港]]にある湾。 ** [[ヴィクトリア・ピーク]] - 香港の山。太平山。 * [[ヴィクトリア山]] - 【曖昧さ回避】ヴィクトリアの名前を冠した山などの地名。 * [[ヴィクトリア・パーク]] - ヴィクトリアの名前を冠した[[公園]]や[[スタジアム]]。 * [[ヴィクトリア (セーシェル)]] - [[セーシェル]]の首都。 * [[ヴィクトリアフォールズ]] - [[ジンバブエ]]の都市。 * [[ヴィクトリア湖]] - [[アフリカ]]東部にある湖。 * [[ヴィクトリアの滝]] - [[ジンバブエ|ジンバブエ共和国]]と[[ザンビア]]の国境にある滝。 * [[ヴィクトリアランド]] - [[南極大陸]]の[[ニュージーランド]]の南にある地域。 * [[ラバト (ゴゾ)|ヴィクトリア]] - [[マルタ共和国]]の町。 * {{仮リンク|ヴィクトリア (ロンドン)|en|Victoria, London}} - [[ロンドン]]、[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]の一地区。 * [[ヴィクトリア (グレナダ)]] == 学校 == * [[ビクトリア大学]] - 【曖昧さ回避】 ** [[ビクトリア大学 (カナダ)]] - [[カナダ]]の[[大学]]。 ** [[ビクトリア大学 (オーストラリア)]] - [[オーストラリア]]の大学。 ** [[ヴィクトリア大学ウェリントン]] - [[ニュージーランド]]の大学。 == ホテル == * [[ホテル・ビクトリア]] - 「ビクトリア・ホテル」なども含む(曖昧さ回避) == 船舶 == * [[クイーン・ヴィクトリア (客船)]] * [[ヴィクトリア (戦艦)]] - [[イギリス海軍]]の戦艦。[[ヴィクトリア級戦艦]]の1番艦。 * [[ビクトリア (フリゲート)]] - [[スペイン海軍]]の戦艦。 * [[ビクトリア号]] - 初の世界一周に成功した[[スペイン]]の[[キャラック船]]。 * ヴィクトリア - [[芦ノ湖]]の[[遊覧船]]を運航する[[箱根観光船]]の海賊船の1つ。 *[[ヴィクトリアI (フェリー)]] - [[タリンク]]が運航しているフェリー == スポーツチーム == * [[ビクトリア・アシャッフェンブルク]] - [[ドイツ]]の[[サッカークラブ]]。 * [[ビクトリア・ユナイテッド]] - [[カナダ]]のサッカークラブ。 * [[ビクトリア・リベルズ]] - カナダの[[カナディアンフットボール]]チーム。 == 映像作品 == * [[ヴィクトリア (1986年の映画)]](原題:''Mesmerized'') - 1986年のイギリス・ニュージーランド・オーストラリア合作の映画。 * [[ヴィクトリア (2015年の映画)]](原題:''Victoria'') - 2015年のドイツの映画。 * [[ビクトリア〜愛と復讐の嵐]](原題:''Olvidarte Jamas'') - 2006年のベネズエラのテレビドラマ。 * [[女王ヴィクトリア 愛に生きる]](原題:''Victoria'') - 2016年から製作されているイギリスのテレビドラマ。 * {{仮リンク|ヴィクトリア 暗闇からの脱走|pt|Carga (filme)}}(原題:''Carga'') - 2018年のポルトガルの映画。 == その他 == * [[ウィクトーリア]] - [[ローマ神話]]の勝利の女神。ギリシャ神話では[[ニーケー]]。 * [[ヴィクトリア朝]] - イギリス女王ヴィクトリアが在位した1837年から1901年の期間。 ** [[ヴィクトリアニズム]] - ヴィクトリア朝期の思想。 * [[ヴィクトリア十字章]] - [[イギリス]]およびイギリス連邦の勲章。 * [[ヴィクトリア線]] - イギリスの[[ロンドン地下鉄]]の路線の一つ。 * [[ヴィクトリア駅]] - 【曖昧さ回避】 * [[Victoria]] - [[スウェーデン]]の[[パラドックスインタラクティブ]]が発売している[[歴史シミュレーションゲーム]]。 * [[ヴィクトリア&アルバート美術館]] - [[ロンドン]]の国立博物館。 * [[ビクトリア (小惑星)]] - [[太陽系]]の[[小惑星]]の一つ。 * [[ビクトリア (ビール)]] - [[メキシコ]]・[[w:Grupo Modelo|モデロ]]社の製造するビール・ブランド。 * [[ヴィクトリア (ティラノサウルス)]] - 2013年に発見された[[ティラノサウルスの標本]]。 *[[ビクトリア観光|ビクトリア(パチスロ)]] - [[北海道]]にてビクトリア観光が運営しているパチスロチェーン * [[ヴィクトリアズ・シークレット]] -[[ アメリカ合衆国]]の企業。 * [[ヴィクトリアダービー]] - [[オーストラリア]]の競馬の競走。 * [[ヴィクトリアパーク (競走馬)]] - [[カナダ]]の競走馬。 * [[ヴィクトリアマイル]] - 日本の[[競馬]]([[日本中央競馬会|JRA]]主催)の[[グレード1|G1]]レース。 * [[フォード・クラウンビクトリア]] - [[フォード・モーター]]が製造し、北米で販売していた[[セダン]]。近年は[[パトカー]]や[[タクシー]]など事業用車として広く使われた。 * [[ヴィクトリア・アコーディオンズ]] - [[イタリア]]の[[アコーディオン]]メーカー。 * [[ゼビオホールディングス#ヴィクトリア|ヴィクトリア(スポーツ用品店)]] - 日本のスポーツ用品店。現在は[[ゼビオホールディングス]]の完全[[子会社]]。 == 関連項目 == * [[ヴィトーリア]] - 【曖昧さ回避】 * [[ヴィクトワール]] - 【曖昧さ回避】 * [[ヴィカ]] - 【曖昧さ回避】 *{{prefix}} *{{intitle}} {{aimai}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=ビクトリア |1-1=スペイン語の女性名 }} {{DEFAULTSORT:ういくとりあ}} [[Category:英語の女性名]] [[Category:ロシア語の女性名]] [[Category:同名の地名]] [[Category:同名の船]]
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職業
職業(しょくぎょう、英: 主にoccupation、他にprofessionやvocationなど)は、生計を維持するために、人が日々従事する仕事。社会的分業の成立している社会において生活を営む人々が、それにつくことによって、その才能と境遇に応じた社会的役割を分担し、これを継続的に遂行し実現しつつ、その代償として収入を得て生活に必要な品々を獲得する、継続的な活動様式。生業(、せいぎょう、なりわい)とも。短く職()とも。 人間の社会の中では、まず食料の収集・栽培・収穫に携わる、狩猟・農業・漁業といった第一次産業が職業として誕生し、そして食品の加工から、その運搬・交換として経済活動に関係した職業が始まり、工場制手工業などの産業革命により、工場労働、労働管理といった新たな職業(第二次産業)が近代の職業を彩った。 19世紀から20世紀にかけては、さらにサービス業や知的専門職といった第三次産業に属する職業がさらに発展した。 職業は生活を支えているだけではなく、それに従事する各人の精神的な支えともなっている事が多い。それは、職業上高い地位を得た者だけが享受しているのではない。職業に従事できている、経済的に自立している、という事自体が、無意識的ではあるものの個人の尊厳を支えている面があるのである。このため、職業を失ってしまうこと(失業)は、経済的な面だけでなく、精神的な面にも悪影響を及ぼし、うつ病や自殺の要因・誘因となる事も稀ではない。 そのため、政府は、経済的な観点からだけでなく、国民の(心の)健康の維持のためにも、失業率を低く抑えるようにつとめるべきだということは言われている。WHOの健康の定義にも、精神的な要素に加えて、経済状況の要素が盛り込まれている。 ワーク・ライフ・バランスとは日本語では「仕事と生活の調和」とも表現されるものである。職業人としての時間と、家庭人(あるいはひとりの人間)としての時間のバランスのことである。 一部の例外を除いて、ほとんどの職業(仕事)には何らかのストレスがつきまとっている。適度なストレスはそれを克服しようとする個人の人間力や能力の拡大を促すきっかけとなるが、過度のストレスは体調・健康に悪影響が出る。ストレス対策には、「気持ちの切り替え」をうまく行なったり「心のゆとり」を持つことが有効である。過剰な残業や休日出勤は精神疾患の温床となることは指摘されている(起きている時間のほとんどすべてが職業のための時間となると、ストレスが大きくなりすぎるのである)。職場を離れた場で、友人と本音で話しあったり、家族と気持ちを通わせたり、気分のリフレッシュにつながる趣味の時間を持つことは、人が健康でいるためには必要であることは言われるようになり、過度な残業・休日出勤をさせ従業員の健康を害した企業は賠償請求をされるケースも出てきている。そのため残業・休日出勤を減らす工夫をする企業も次第に増えてきている。
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職業は、生計を維持するために、人が日々従事する仕事。社会的分業の成立している社会において生活を営む人々が、それにつくことによって、その才能と境遇に応じた社会的役割を分担し、これを継続的に遂行し実現しつつ、その代償として収入を得て生活に必要な品々を獲得する、継続的な活動様式。生業(すぎわい、とも。短く職とも。
{{Otheruses||中学校の旧学習指導要領にあった教科|職業 (教科)}} {{出典の明記|date=2011年11月}} [[Image:Einscharpflug - Farmer plowing in Fahrenwalde, Mecklenburg-Vorpommern, Germany.jpg|thumb|[[農業]]([[農家]])]] '''職業'''(しょくぎょう、{{Lang-en-short|主にoccupation、他にprofessionやvocationなど<ref name="nihondaihyakka">『日本大百科全書』職業</ref>}})は、生計を維持するために、人が日々従事する[[労働|仕事]]<ref name="daijisen">『大辞泉』職業</ref><ref name="kojien">「日常従事する業務。生計を立てるための仕事」『[[広辞苑]]』職業</ref>。社会的[[分業]]の成立している社会において[[生活]]を営む人々が、それにつくことによって、その[[才能]]と境遇に応じた社会的[[役割]]を分担し、これを継続的に遂行し実現しつつ、その[[代償]]として[[収入]]を得て生活に必要な品々を獲得する、継続的な活動様式<ref name="nihondaihyakka" />。{{読み仮名|'''生業'''|すぎわい|せいぎょう、なりわい}}とも。短く{{読み仮名|'''職'''|しょく}}とも。 == 歴史 == [[人間]]の[[社会]]の中では、まず[[食品|食料]]の収集・[[栽培]]・収穫に携わる、[[狩猟]]・[[農業]]・[[漁業]]といった'''[[第一次産業]]'''が職業として誕生し、そして食品の加工から、その[[運搬]]・交換として経済活動に関係した職業が始まり、工場制手工業などの[[産業革命]]により、工場労働、[[管理職|労働管理]]といった新たな職業('''[[第二次産業]]''')が近代の職業を彩った。 19世紀から20世紀にかけては、さらに[[サービス|サービス業]]や知的[[専門職]]といった'''[[第三次産業]]'''に属する職業がさらに発展した。 == 職業の役割 == 職業は生活を支えているだけではなく、それに従事する各人の精神的な支えともなっている事が多い。それは、職業上高い地位を得た者だけが享受しているのではない。職業に従事できている、経済的に自立している、という事自体が、無意識的ではあるものの[[個人の尊厳]]を支えている面があるのである。このため、職業を失ってしまうこと(失業)は、経済的な面だけでなく、精神的な面にも悪影響を及ぼし、[[うつ病]]や[[自殺]]の要因・誘因となる事も稀ではない。 そのため、政府は、経済的な観点からだけでなく、国民の(心の)[[健康]]の維持のためにも、失業率を低く抑えるようにつとめるべきだということは言われている。WHOの[[健康]]の定義にも、[[精神]]的な要素に加えて、経済状況の要素が盛り込まれている。 {{Seealso|失業}} == 職業とワークライフバランス == {{Main|ワーク・ライフ・バランス}} [[ワーク・ライフ・バランス]]とは[[日本語]]では「仕事と生活の調和」とも表現されるものである。職業人としての時間と、家庭人(あるいはひとりの人間)としての時間のバランスのことである。 一部の例外を除いて、ほとんどの職業(仕事)には何らかの[[ストレス (生体)|ストレス]]がつきまとっている。適度なストレスはそれを克服しようとする個人の人間力や能力の拡大を促すきっかけとなるが、過度のストレスは体調・健康に悪影響が出る。ストレス対策には、「気持ちの切り替え」をうまく行なったり「心のゆとり」を持つことが有効である。過剰な[[時間外労働|残業]]や[[休日出勤]]は[[精神疾患]]の温床となることは指摘されている(起きている時間のほとんどすべてが職業のための時間となると、ストレスが大きくなりすぎるのである)。職場を離れた場で、友人と本音で話しあったり、家族と気持ちを通わせたり、気分のリフレッシュにつながる趣味の時間を持つことは、人が健康でいるためには必要であることは言われるようになり、過度な残業・休日出勤をさせ従業員の健康を害した企業は賠償請求をされるケースも出てきている。そのため残業・休日出勤を減らす工夫をする企業も次第に増えてきている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注"}}--> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Occupations}} {{Wiktionary}} *[[使用者]] - [[役職]] - [[管理職]] - [[上司]] *[[業種]] *[[ホワイト企業]] - [[ブラック企業]] *[[職業一覧]] *[[職業訓練]] - [[キャリア教育]] *[[職業指導]] - [[求人情報誌]] - [[公共職業安定所]]- [[職業訓練指導員]] *[[産業]] - [[産業革命]] - [[搾取]] *[[職業病]] *[[専門家]] - [[職業としての学問]] *[[アルバイト]] - [[フリーター]] *[[サラリーマン]] - [[企業戦士]] *[[キャリアウーマン]] *[[仕事中毒]] - [[過労死]] {{就業}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しよくきよう}} [[Category:職業|*]] [[Category:経済]]
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9,511
ポルトーフランス
もしかして のいずれかではありませんか?
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もしかして ポルトープランス ポルトーフランセ のいずれかではありませんか?
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セントクリストファー・ネイビス
セントクリストファー・ネイビス連邦(セントクリストファー・ネイビスれんぽう)、またはセントキッツ・ネイビス連邦は、西インド諸島の小アンティル諸島内のリーワード諸島にあるセントクリストファー島(セントキッツ島)とネイビス島の2つの島からなる、英連邦王国の一国を形成する立憲君主制連邦国家。島国であり、海を隔てて北西にイギリス領アンギラ、東にアンティグア・バーブーダ、南西にイギリス領モントセラトが存在する。首都はバセテール。 英連邦王国およびイギリス連邦加盟国。面積と人口は共に南北中アメリカにおいて一番小さく、ミニ国家のひとつに数えられる。独立年も一番新しく、2021年現在で英連邦王国の最後の加盟国である。 正式名称は Federation of Saint Christopher and Nevis(フェデレイション・オブ・セイント・クリストファー・アンド・ニィヴィス)。しかし現在では Federation of Saint Kitts and Nevis(フェデレイション・オブ・セイント・キッツ・アンド・ニィヴィス)と呼ぶことの方が多くなっている。セントクリストファー・ネイビスの外務省は、どちらも正式名称であるとの立場をとっている。通称は Saint Kitts and Nevis( 発音)が一般的で、St. Kitts & Nevisと表記されることも多い。 日本語では、セントクリストファー・ネイビスが最も一般的な表記である。だが、外務省が編集協力する『世界の国一覧表 2007年版』(世界の動き社)ではセントキッツ・ネービスと表記されている。文部科学省の教科書検定では、首都名は世界の動き社の『世界の国一覧表』に倣うことと指導されているため、検定教科書(社会科・地理歴史科)や地図帳ではセントキッツ・ネービスと表記されている(ただし『世界の国一覧表』が2007年版を最後に廃刊になったため今後の方針は不明、世界史の教科書ではそれほど検定基準が厳格に運用されてはいない)。ネイビスは、ネビス、ネービス、ネイヴィス、ネーヴィスとも表記されている。更に、日本国外務省は、法令上「セントクリストファー・ネーヴィス」としていたものを、2019年2月12日に閣議決定し、国会に提出した法案で、こちらの方が国民に広く通用しているとの理由から、「セントクリストファー・ネービス」に変更するとした。 ふたつある島の大きい方がセントクリストファー島。クリストファー・コロンブスが自身の名の由来でもある聖クリストフォルスの名をこの島に付けた。その英語形がセイントクリストファーだが、クリストファーという人名の短縮形がキッツなので、セイントキッツとも呼ばれるようになった。島民は Kittian キティシャンと呼ばれる。 小さい方がネイビス島。コロンブスらがこの島を発見した時、島の最高峰の頂上が白雲に覆われている様子を見て山頂に雪が積もっていると勘違いしたことから、スペイン語で雪を意味するニエベス (Nieves) と命名された。その英語形がニィヴィスである。島民は Nevisian ニビシアンと呼ばれている。 セントクリストファー・ネイビスは立憲君主制(英連邦王国)、議院内閣制をとる立憲国家である。現行憲法は1983年9月19日の独立に伴い施行されたもの。 国家元首は国王だが、英連邦王国のため、イギリスの国王がセントクリストファー・ネイビスの国王を兼ねる。国王の職務を代行する総督は、国王により任命される。政治の実権は行政府たる内閣にあり、その長である首相は国民議会より選出され、総督により任命される。閣僚は首相の指名に基づき、総督が任命する。総督による任命は形式的なものである。 立法府は一院制で、正式名称は国民議会。定数は14議席で、総督の任命枠3議席、直接選挙枠11議席により構成される。直接選挙枠の選挙制度は小選挙区制である。任期は5年。 連邦国家でもあり、ネイビス島には独自の自治政府と議会(一院制、8議席)が設けられている。ネイビス島議会は3議席が総督の任命枠、5議席が直接選挙枠で、選挙制度は中央の議会と同じ小選挙区制である。任期は5年。行政府の長は首相である。 二大政党制であり、中道左派のセントキッツ・ネイビス労働党(SKNLP。セントキッツはセントクリストファーの別名。セントキッツを用いるのが正式な党名)と中道の人民行動運動(PAM)の力が強い。ネイビス島でも別の政党による二大政党制が確立しており、市民有志運動(CCM)とネイビス改革党(NRP)が力を持っている。CCMとNRPはネイビス島の地域政党ながら、中央の議会選挙にも参加している。 セントクリストファー・ネイビスは中華民国(台湾)を承認している。 セントクリストファー・ネイビスの武装組織としては、セントクリストファー・ネイビス国防軍とロイヤル・セントクリストファー・ネイビス警察隊の二つが存在している。 1983年、地域安全保障システムに加盟した。 セントクリストファー・ネイビスはセントクリストファー島とネイビス島の2島から成る連邦国家である。ただしセントクリストファー島は連邦政府の直轄下にあることから、連邦政府とネイビス政府の連合という変則的な形をとっている。ネイビス政府は自治権を持っており、独自の議会(英語版)を持つ。 各島は行政教区(parish)に分かれている。合計は14教区で、内訳はセントクリストファー島は9教区、ネイビス島は5教区である。行政教区には行政機能はなく、政府が用いる行政上の区画である。 2つの教区に使われているカピステール(Capisterre)は言語変化によるもので、元のフランス語に則ったカペステール(Capesterre)と呼称されることがある。 北リーワード諸島に位置している。面積168kmのセントクリストファー島と面積94kmのネイビス島からなり、幅3kmのナローズ海峡が両島を分断している。両島の間にはブービー島と言う直径100mたらずの小さな岩の島がある。セントクリストファー島は火山島で、標高1156mの休火山リアムイガ山(ミゼリー山)がある。島の最南端の半島にグレート・ソルト池(Great Salt Pond)と言う湖に近い大きな池がある。山がちな島だが、島の南部はとりわけ平地が多く、人口も集中している。半島には白浜の海岸も多い。山がちな島の北部は火山性の黒浜の海岸が多い。姉妹島のネイビス島も火山島で標高985mの休火山ネイビス山があり、島の周囲は珊瑚礁が多い。両島ともほとんど、サトウキビ畑に開墾されているが、うっそうと繁った鮮かで緑豊かな熱帯雨林など豊かな自然も残っている。 道路は約300キロメートルで、セントクリストファー島の道路はほとんどが海岸線に沿って走っている。鉄道も走っており、58キロメートルの路線がセントクリストファー島にある。サトウキビを運ぶ為に建設されたが、現在はセントクリストファー(セントキッツ)観光鉄道として観光用の列車が利用している。フェリーの定期便がセントクリストファー島とネイビス島、2島を結んでいる。 空港はセントクリストファー島に国際線とネイビス島に国内線がある。 伝統的に砂糖を中心とした農業島国だったが、2005年7月をもって生産を停止。現在は観光が主要産業となっている。これは砂糖産業が奴隷制度の象徴であることに加え、1980年代からすでに利益が出なくなっていたためである。サトウキビの生産量は2002年時点で19万トン、砂糖の生産量は同1.9万トン。いずれも農業、工業生産物として最も生産量が多かった。 電気機械の組み立てが産業として確立しているため、輸出に占める電気機械の比率は2001年時点では62.9%に達した。対して砂糖は21.0%だった。主な輸出相手国はアメリカ合衆国で、71.5%を占める。 東カリブ・ドルを発行する東カリブ中央銀行は、この国の首都バセテールに置かれている。 国土が小さい島々で構成されることから持続可能な開発が難しく、小島嶼開発途上国のひとつに数えられる。大きな産業がないため、所得税や相続税などを優遇して海外からの投資家や資金を呼び込む手法が採られタックス・ヘイヴンの一つとされてきた。 住民は、アラワク族、カリブ族(カリナゴ族)らが入植していたが、ついで白人が入植し、現在は奴隷の末裔であるアフリカ系黒人がほとんどで白人は少数である。しかし、奴隷として連れて来られた当初と比べると、かなり混血(ムラート)が進んでいる。 言語は、英語が公用語であり、かつ最も使われている。 宗教は、聖公会、ローマ・カトリック、救世軍など。 セントクリストファー・ネイビスではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1932年にサッカーリーグのSKNFAプレミアリーグ(英語版)が創設された。サッカーセントクリストファー・ネイビス代表は、FIFAワールドカップおよびCONCACAFゴールドカップには未出場である。しかしカリビアンカップには5度出場しており、1997年大会では準優勝に輝いている。 クリケットも人気スポーツの一つである。テスト・クリケットに出場するトップ選手は、他のカリブ海諸国などとの多国籍チームである西インド諸島代表として国際試合を行っている。2013年にカリブ海地域の6カ国が連合になったトゥエンティ20形式のプロリーグであるカリビアン・プレミアリーグが開幕し、セントクリストファー・ネイビス・ペイトリオッツ(英語版)が参加している。 ネイビス島には豊富な温泉源と鉱泉源があり、18世紀以来カリブの温泉地として有名で、1778年に建てられた『バース・ホテル&スプリング・ハウス』と言うカリブで最も古い温泉のリゾートホテルがある。 セントクリストファー・ネイビスには、ユネスコの文化遺産に登録されている『ブリムストーン・ヒル要塞国立公園』がある。
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セントクリストファー・ネイビス連邦(セントクリストファー・ネイビスれんぽう)、またはセントキッツ・ネイビス連邦は、西インド諸島の小アンティル諸島内のリーワード諸島にあるセントクリストファー島(セントキッツ島)とネイビス島の2つの島からなる、英連邦王国の一国を形成する立憲君主制連邦国家。島国であり、海を隔てて北西にイギリス領アンギラ、東にアンティグア・バーブーダ、南西にイギリス領モントセラトが存在する。首都はバセテール。 英連邦王国およびイギリス連邦加盟国。面積と人口は共に南北中アメリカにおいて一番小さく、ミニ国家のひとつに数えられる。独立年も一番新しく、2021年現在で英連邦王国の最後の加盟国である。
{{出典の明記|date=2018-06-18}} {{表記揺れ案内 |表記1= セントクリストファー・ネイビス |表記2= セントクリストファー・ネービス |表記3= セントクリストファー・ネイヴィス |表記4= セントクリストファー・ネーヴィス |表記5= }} {{基礎情報 国 | 略名 =セントクリストファー・ネイビス | 日本語国名 ={{small|セントクリストファー・ネイビス連邦}}<br />{{small|(セントキッツ・ネイビス連邦)}} | 公式国名 ={{small|'''Federation of Saint Christopher and Nevis'''}}<br />{{small|('''Federation of Saint Kitts and Nevis''')}} | 国旗画像 =Flag of Saint Kitts and Nevis.svg | 国章画像 =[[File:Coat of arms of Saint Kitts and Nevis (variant).svg|85px|セントクリストファー・ネイビスの国章]] | 国章リンク =([[セントクリストファー・ネイビスの国章|国章]]) | 標語 =''{{Lang|en|Country Above Self}}''<br />(英語: 私利を超越する国) |国歌=[[おお美しき地|O Land of Beauty!]](英語)<br />おお美しき地<br/>[[File:United States Navy Band - O Land of Beauty.ogg|United States Navy Band - O Land of Beauty]] | 位置画像 =KNA orthographic.svg | 公用語 =[[英語]] | 首都 =[[バセテール]] | 最大都市 =バセテール| ネイビス島はチャールズタウン | 元首等肩書 =[[セントクリストファー・ネイビス国王|国王]] | 元首等氏名 =[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]] | 首相等肩書 =[[セントクリストファー・ネイビス総督|総督]] | 首相等氏名 ={{仮リンク|マルセラ・リバード|en|Marcella Liburd}} | 他元首等肩書1 =[[セントクリストファー・ネイビスの首相|首相]] | 他元首等氏名1 ={{仮リンク|テランス・ドリュー|en|Terrance Drew}} | 面積順位 =206 | 面積大きさ =1 E8西表島とほとんど同じ | 面積値 =261 | 水面積率 =極僅か |面積追記 = <ref name="CIA">{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/saint-kitts-and-nevis/ |title=Saint Kitts and Nevis |publisher=[[中央情報局]] |date=2021-07-29 |accessdate=2021-08-13}}</ref> | 人口統計年 =2021 | 人口順位 =207 | 人口大きさ =1 E4 | 人口値 =54,149 | 人口密度値 =207 |人口追記 = <ref name="CIA" /> |GDP統計年元 = 2020 |GDP値元 = 23億5100万 |GDP元追記 = 推定<ref name="IMF">{{Cite web |url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2020/October/weo-report?c=361,&s=NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,&sy=2018&ey=2023&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1 |title=World Economic Outlook Database |publisher=[[国際通貨基金]] |date=2020-10 |accessdate=2021-08-13}}</ref> | GDP統計年MER =2020 | GDP値MER =8億7100万 |GDP MER/人 = 15,246 |GDPMER追記 =推定<ref name="IMF" /> |GDP統計年 = 2020 |GDP順位 = |GDP値 = 12億100万 |GDP/人 = 21,028 |GDP追記 = 推定<ref name="IMF" /> |建国形態 = [[独立]] |確立形態1 = [[イギリス]]より |確立年月日1 = [[1983年]][[9月19日]] | 通貨 =[[東カリブ・ドル]] | 通貨コード =XEC | 時間帯 =-4 | 夏時間 =なし | ISO 3166-1 = KN / KNA | ccTLD =[[.kn]] | 国際電話番号 =1-869 | 注記 = }} '''セントクリストファー・ネイビス連邦'''(セントクリストファー・ネイビスれんぽう)、または'''セントキッツ・ネイビス連邦'''は、[[西インド諸島]]の[[小アンティル諸島]]内の[[リーワード諸島 (西インド諸島)|リーワード諸島]]にある[[セントクリストファー島]](セントキッツ島)と[[ネイビス島]]の2つの島からなる、[[英連邦王国]]の一国を形成する[[立憲君主制]][[連邦制|連邦]][[国家]]。[[島国]]であり、海を隔てて北西に[[アンギラ|イギリス領アンギラ]]、東に[[アンティグア・バーブーダ]]、南西に[[モントセラト|イギリス領モントセラト]]が存在する。首都は[[バセテール]]。 英連邦王国および[[イギリス連邦]]加盟国。面積と人口は共に南北中アメリカにおいて一番小さく、[[ミニ国家]]のひとつに数えられる。独立年も一番新しく、2021年現在で英連邦王国の最後の加盟国である。 == 国名 == 正式名称は {{Lang|en|Federation of Saint Christopher and Nevis}}(フェデレイション・オブ・セイント・クリストファー・アンド・ニィヴィス)。しかし現在では {{Lang|en|Federation of Saint Kitts and Nevis}}(フェデレイション・オブ・セイント・キッツ・アンド・ニィヴィス)と呼ぶことの方が多くなっている。セントクリストファー・ネイビスの外務省は、どちらも正式名称であるとの立場をとっている。通称は {{Lang|en|Saint Kitts and Nevis}}({{audio|En-us-Saint Kitts and Nevis.ogg|発音|help=no}})が一般的で、{{Lang|en|St. Kitts & Nevis}}と表記されることも多い。 日本語では、'''セントクリストファー・ネイビス<!--(連邦)-->'''が最も一般的な表記である。だが、外務省が編集協力する『[[世界の国一覧表]] 2007年版』(世界の動き社)では'''セントキッツ・ネービス'''と表記されている。文部科学省の教科書検定では、首都名は世界の動き社の『世界の国一覧表』に倣うことと指導されているため、検定教科書(社会科・地理歴史科)や地図帳では'''セントキッツ・ネービス'''と表記されている(ただし『世界の国一覧表』が2007年版を最後に廃刊になったため今後の方針は不明、世界史の教科書ではそれほど検定基準が厳格に運用されてはいない)。ネイビスは、'''ネビス'''、'''ネービス'''、'''ネイヴィス'''、'''ネーヴィス'''とも表記されている。更に、日本国外務省は、法令上「セントクリストファー・ネー'''ヴィ'''ス」としていたものを、2019年2月12日に閣議決定し、国会に提出した法案<ref>在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の一部を改正する法律案</ref>で、こちらの方が国民に広く通用しているとの理由から、「セントクリストファー・ネー'''ビ'''ス」に変更するとした<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/m_c/page25_001824.html 第198回国会提出法律案一覧]</ref>。 ふたつある島の大きい方が[[セントクリストファー島]]。[[クリストファー・コロンブス]]が自身の名の由来でもある[[クリストフォロス|聖クリストフォルス]]の名をこの島に付けた。その英語形がセイントクリストファーだが、クリストファーという[[英語人名の短縮形|人名の短縮形]]がキッツなので、セイントキッツとも呼ばれるようになった。島民は Kittian キティシャンと呼ばれる。 小さい方が[[ネイビス島]]。コロンブスらがこの島を発見した時、島の最高峰の頂上が白雲に覆われている様子を見て山頂に雪が積もっていると勘違いしたことから、[[スペイン語]]で雪を意味するニエベス ({{Lang|es|Nieves}}) と命名された。その英語形がニィヴィスである。島民は Nevisian [[ニビシアン]]と呼ばれている。 == 歴史 == * [[1493年]][[11月12日]] [[クリストファー・コロンブス]]らによってセントクリストファー島(セントキッツ島)とネイビス島が「発見」された。 * [[1623年]] サー・[[トーマス・ワーナー]]、セントクリストファー島に到着する。 * [[1624年]] サー・トーマスがイギリスの入植者一団を連れてセントクリストファー島へ初めて永続的入植をする。 * [[1625年]] [[フランス]]の[[ピエール・ブラン]]もフランスから入植者を引き連れて島に入植。 * [[1626年]] イギリスとフランスの入植者との関係が悪化。先住民のカリブ族(カリナゴ族)は、セントクリストファー島のブラディー・ポイントでイギリスとフランスの入植者によって大虐殺され、生き残った者は島から追われる。 * [[1627年]] イギリス人入植者とフランス入植者との条約によりセントクリストファー島の中部がイギリス、北部と南部がフランスと分割される。 * [[1628年]] セントクリストファー島のイギリス入植者たちがネイビス島へ入植。 * [[1629年]] [[スペイン]]がセントクリストファー島へ侵攻するが、すぐに島から去っていった。 * [[1664年]] この年からイギリスとフランスとの間で島の争奪戦争が起こる。 * [[1671年]] セントクリストファー島とネイビス島はイギリスの知事下で[[リーワード諸島連邦]]の一部になり、[[アンティグア島]]と[[モントセラト]]も加わる。 * [[1713年]] [[ユトレヒト条約]]によりフランス人入植者はイギリス人入植者の領土の主張を認め、セントクリストファー島は完全にイギリス領となる。 [[ファイル:StKitts Brimstomhill.jpg|right|thumb|240px|[[ブリムストーン・ヒル要塞国立公園|ブリムストーン・ヒル要塞]]の戦い(1782年)。]] * [[1782年]] フランスが再び島を襲うが、[[1783年]][[ヴェルサイユ条約 (1783年)|ヴェルサイユ条約]]によりイギリスへ島を返還。 * [[1861年]] セントクリストファー島、ネイビス島、[[アンギラ|アンギラ島]]と、さらに[[イギリス領ヴァージン諸島]]は一つの植民地として[[1871年]]まで管理される。 * [[1882年]] セントクリストファー・ネイビス・アンギラはリーワード諸島連邦内でプレジデンシー (presidency) として確立される。 * [[1932年]] [[セントキッツ・ネイビス労働党|セントキッツ・ネイビス・アンギラ労働党]](SKNLP。現在のセントキッツ・ネイビス労働党)が独立運動を行う。 * [[1958年]] イギリス領[[西インド連邦]]に加盟。 * [[1956年]] セントクリストファー島とネイビス島とアンギラ島は[[セントクリストファー=ネイビス=アンギラ]]となり、別々のイギリスの植民地となる。商業と生産を担当していたセントクリストファー=ネイビス=アンギラの大臣[[ロバート・ブラットショー]]が西インド諸島同盟の会議に当選して、同盟の大蔵大臣になる。 * [[1967年]] セントクリストファー=ネイビス=アンギラとしてイギリス自治領となり、[[イギリス労働党|労働党]]政府のロバート・ブラットショーが初代[[首相]]に就任。[[5月30日]]、アンギラ政府がこの決め付けに不満を抱きアンギラにいる17人のセントクリストファー警察を島から放り出し、[[7月12日]]にアンギラが単独で独立を宣言。 * [[1969年]] アンギラ島政府が[[アンギラ共和国]]の成立を宣言。[[6月19日]]、イギリスが2隻の護衛艦を使いアンギラに軍を派兵。イギリスの植民地統治下に復帰。 * [[1971年]][[8月6日]] 島の管理をイギリスに返したアンギラ法が[[イギリス議会]]で可決する。 * [[1978年]] ブラットショー死亡。同僚のC・ポール・サウスウェルが首相になる。 * [[1979年]][[5月]] サウスウェル死亡。 * [[1980年]] アンギラが正式にセントクリストファー・ネイビスから分離。 * [[1983年]] セントクリストファー・ネイビスとしてイギリスから独立。[[人民行動運動]](PAM)の[[ケネディ・シモンズ]]が独立最初の首相に就任。 * [[1989年]] 大型[[ハリケーン]]「ヒューゴ」に襲われ、国の主産業である[[サトウキビ]]や電力供給に深刻な被害が出る。 * [[1993年]][[11月]] 選挙でシモンズ首相が再任。 * [[1995年]] SKNLPの[[デンジル・ダグラス]]がシモンズを破り首相に就任。 * [[1998年]] ネイビス島の分離独立を伺う住民投票で、賛成票が61.83%と、分離に必要な2/3にわずかにとどかずネイビス島の分離独立は出来ず。 * [[2015年]][[2月]] 総選挙でPAMが2議席伸ばし、同党と市民有志運動 (CCM)、人民労働党 (PLP) の三党連立政権が成立。PLPのティモシー・ハリス党首が首相に就任。 == 政治 == <!-- ''詳細は[[セントクリストファー・ネイビスの政治]]を参照'' --> セントクリストファー・ネイビスは[[立憲君主制]]([[英連邦王国]])、[[議院内閣制]]をとる立憲国家である。現行[[憲法]]は[[1983年]][[9月19日]]の独立に伴い施行されたもの。 [[元首|国家元首]]は国王だが、英連邦王国のため、[[イギリス君主一覧|イギリスの国王]]がセントクリストファー・ネイビスの国王を兼ねる。国王の職務を代行する総督は、国王により任命される。政治の実権は[[政府|行政府]]たる[[内閣]]にあり、その長である[[首相]]は国民議会より選出され、総督により任命される。閣僚は首相の指名に基づき、総督が任命する。総督による任命は形式的なものである。 立法府は[[一院制]]で、正式名称は'''[[国民議会 (セントクリストファー・ネイビス)|国民議会]]'''。定数は14議席で、総督の任命枠3議席、[[直接選挙]]枠11議席により構成される。直接選挙枠の選挙制度は[[小選挙区制]]である。任期は5年。 [[連邦|連邦国家]]でもあり、ネイビス島には独自の自治政府と議会(一院制、8議席)が設けられている。ネイビス島議会は3議席が総督の任命枠、5議席が直接選挙枠で、選挙制度は中央の議会と同じ小選挙区制である。任期は5年。行政府の長は[[ネイビスの首相|首相]]である。 [[二大政党制]]であり、[[中道左派]]の[[セントキッツ・ネイビス労働党]](SKNLP。'''セントキッツ'''は'''セントクリストファー'''の別名。セントキッツを用いるのが正式な党名)と[[中道政治|中道]]の[[人民行動運動]](PAM)の力が強い。[[ネイビス島]]でも別の政党による二大政党制が確立しており、[[市民有志運動]](CCM)と[[ネイビス改革党]](NRP)が力を持っている。CCMとNRPはネイビス島の地域政党ながら、中央の議会選挙にも参加している。 セントクリストファー・ネイビスは[[中華民国]]([[台湾]])を承認している。 ; 加盟している地域機関 * [[カリブ諸国連合]] (ACS) * [[カリブ共同体]] (CARICOM) * [[ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体]] (CELAC) * [[東カリブ諸国機構]] (OECS) - 東カリブドルを発行 == 軍事 == {{Main|セントクリストファー・ネイビスの軍事}} セントクリストファー・ネイビスの武装組織としては、[[セントクリストファー・ネイビス国防軍]]とロイヤル・セントクリストファー・ネイビス警察隊の二つが存在している。 1983年、[[地域安全保障システム]]に加盟した。 == 地方行政区分 == {{Main|セントクリストファー・ネイビスの行政区画}} [[ファイル:StKitts-Nevis Parishes.png|right|thumb|300px|セントクリストファー・ネイビスの行政教区]] セントクリストファー・ネイビスはセントクリストファー島とネイビス島の2島から成る連邦国家である。ただしセントクリストファー島は連邦政府の直轄下にあることから、連邦政府とネイビス政府の連合という変則的な形をとっている<ref>{{Cite web |url=https://www.gov.kn/ |title=Parliament > The Constitution |publisher=セントクリストファー・ネイビス政府 |accessdate=2021-08-11}}</ref>。ネイビス政府は自治権を持っており、独自の{{仮リンク|ネイビス島議会|label=議会|en|Nevis Island Assembly}}を持つ。 各島は[[行政教区]](parish)に分かれている。合計は14教区で、内訳はセントクリストファー島は9教区、ネイビス島は5教区である。行政教区には行政機能はなく、政府が用いる行政上の区画である<ref>{{Cite web |url=https://www.clgf.org.uk/default/assets/File/Country_profiles/Saint_Kitts_and_Nevis.pdf |title=Saint Kitts and Nevis |publisher=イギリス連邦地方自治体フォーラム |date=2019 |accessdate=2021-07-03}}</ref>。 # [[クライストチャーチ・ニコラタウン教区]](Christ Church Nichola Town) # [[セントアン・サンディポイント教区]](Saint Anne Sandy Point) # [[セントジョージ・バセテール教区]](Saint George Basseterre) # [[セントジョージ・ジンジャーランド教区]](Saint George Gingerland) # [[セントジェームズ・ウィンドワード教区]](Saint James Windward) # [[セントジョン・カピステール教区]](Saint John Capisterre) # [[セントジョン・フィグツリー教区]](Saint John Figtree) # [[セントメアリー・ケイオン教区]](Saint Mary Cayon) # [[セントポール・カピステール教区]](Saint Paul Capisterre) # [[セントポール・チャールズタウン教区]](Saint Paul Charlestown) # [[セントピーター・バセテール教区]](Saint Peter Basseterre) # [[セントトーマス・ローランド教区]](Saint Thomas Lowland) # [[セントトーマス・ミドルアイランド教区]](Saint Thomas Middle Island) # [[トリニティ・パルメットポイント教区]](Trinity Palmett Point) 2つの教区に使われているカピステール(Capisterre)は[[言語変化]]によるもので、元のフランス語に則ったカペステール(Capesterre)と呼称されることがある<ref name="CIA" />。 == 地理 == [[ファイル:Saint Kitts and Nevis-CIA WFB Map Japanese.png|right|thumb|300px|セントクリストファー・ネイビスの地図<br/>{{small|図中の「[[ソンブレロ島]]」は[[アンギラ]]領。}}]] 北リーワード諸島に位置している。面積168km{{sup|2}}のセントクリストファー島と面積94km{{sup|2}}のネイビス島からなり、幅3kmのナローズ[[海峡]]が両島を分断している。両島の間には[[ブービー島]]と言う直径100mたらずの小さな岩の島がある。セントクリストファー島は[[火山島]]で、標高1156mの休火山[[リアムイガ山]](ミゼリー山)がある。島の最南端の半島に[[グレート・ソルト池]](Great Salt Pond)と言う湖に近い大きな[[池]]がある。山がちな島だが、島の南部はとりわけ平地が多く、人口も集中している。半島には白浜の海岸も多い。山がちな島の北部は火山性の黒浜の海岸が多い。姉妹島のネイビス島も火山島で標高985mの休火山[[ネイビス山]]があり、島の周囲は珊瑚礁が多い。両島ともほとんど、[[サトウキビ]]畑に開墾されているが、うっそうと繁った鮮かで緑豊かな[[熱帯雨林]]など豊かな自然も残っている。 === 交通 === 道路は約300キロメートルで、セントクリストファー島の道路はほとんどが海岸線に沿って走っている。鉄道も走っており、58キロメートルの路線がセントクリストファー島にある。サトウキビを運ぶ為に建設されたが、現在は[[セントクリストファー・シーニック鉄道|セントクリストファー(セントキッツ)観光鉄道]]として観光用の列車が利用している。フェリーの定期便がセントクリストファー島とネイビス島、2島を結んでいる。 空港はセントクリストファー島に国際線とネイビス島に国内線がある。 * [[ロバート・L・ブラッドショー国際空港]](別名ゴールデン・ロック国際空港) - セントクリストファー島にある。 * [[バーンス・W・アモリー国際空港]] - ネイビス島にある。 == 経済 == [[File:Basseterre.jpeg|thumb|240px|首都[[バセテール]]]] 伝統的に[[砂糖]]を中心とした農業島国だったが、2005年7月をもって生産を停止。現在は観光が主要産業となっている。これは砂糖産業が[[奴隷]]制度の象徴であることに加え、1980年代からすでに利益が出なくなっていたためである。サトウキビの生産量は2002年時点で19万トン、砂糖の生産量は同1.9万トン。いずれも農業、工業生産物として最も生産量が多かった。 電気機械の組み立てが産業として確立しているため、輸出に占める電気機械の比率は2001年時点では62.9%に達した。対して砂糖は21.0%だった。主な輸出相手国はアメリカ合衆国で、71.5%を占める。 [[東カリブ・ドル]]を発行する[[東カリブ中央銀行]]は、この国の首都[[バセテール]]に置かれている。 国土が小さい島々で構成されることから[[持続可能な開発]]が難しく、[[小島嶼開発途上国]]のひとつに数えられる。大きな産業がないため、[[所得税]]や[[相続税]]などを優遇して海外からの[[投資家]]や資金を呼び込む手法が採られ[[タックス・ヘイヴン]]の一つとされてきた<ref>{{Cite web|和書|date=2012年11月30日|url=https://diamond.jp/articles/-/28731?page=3 |title=セントクリストファー・ネイビスの市民権を得るメリットは何か? |publisher=Diamond |accessdate=2021-01-26}}</ref>。 == 国民 == 住民は、[[アラワク族]]、[[カリブ族]]([[カリナゴ族]])らが入植していたが、ついで[[コーカソイド|白人]]が入植し、現在は奴隷の末裔であるアフリカ系[[ネグロイド|黒人]]がほとんどで白人は少数である。しかし、奴隷として連れて来られた当初と比べると、かなり[[混血]]([[ムラート]])が進んでいる。 言語は、[[英語]]が[[公用語]]であり、かつ最も使われている。 宗教は、[[聖公会]]、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]、救世軍など。 == 文化 == === スポーツ === {{main|{{仮リンク|セントクリストファー・ネイビスのサッカー|en|Football in Saint Kitts and Nevis}}}} セントクリストファー・ネイビスでは[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1932年]]にサッカーリーグの{{仮リンク|SKNFAプレミアリーグ|en|SKNFA Premier League}}が創設された。[[サッカーセントクリストファー・ネイビス代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]および[[CONCACAFゴールドカップ]]には未出場である。しかし[[カリビアンカップ]]には5度出場しており、[[1997年]]大会では[[準優勝]]に輝いている。 [[クリケット]]も人気スポーツの一つである。[[テスト・クリケット]]に出場するトップ選手は、他のカリブ海諸国などとの多国籍チームである[[クリケット西インド諸島代表|西インド諸島代表]]として国際試合を行っている。2013年に[[カリブ海地域]]の6カ国が連合になった[[トゥエンティ20]]形式のプロリーグである[[カリビアン・プレミアリーグ]]が開幕し、{{仮リンク|セントクリストファー・ネイビス・ペイトリオッツ|en|St Kitts & Nevis Patriots}}が参加している。 === 温泉文化 === ネイビス島には豊富な[[温泉]]源と[[鉱泉]]源があり、[[18世紀]]以来カリブの温泉地として有名で、[[1778年]]に建てられた『バース・ホテル&スプリング・ハウス』と言うカリブで最も古い温泉のリゾートホテルがある。 === 世界遺産 === [[File:BrimstoneHill01.jpg|thumb|[[ブリムストーン・ヒル要塞国立公園]]]] セントクリストファー・ネイビスには、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]に登録されている『[[ブリムストーン・ヒル要塞国立公園]]』がある。 == 出身者 == {{Main|Category:セントクリストファー・ネイビスの人物}} * [[アレクサンダー・ハミルトン]] - [[政治家]]、[[哲学者]] * [[キース・ガンブス]] - 元[[サッカー選手]] * [[キム・コリンズ]] - [[陸上競技]]選手 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == {{節スタブ}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Saint Kitts and Nevis|Saint Kitts and Nevis}} * [[グロクスター]] * [[セントクリストファー・ネイビスのイスラム教]] == 外部リンク == ; 政府 :* [http://www.gov.kn/ セントクリストファー・ネイビス連邦政府] {{en icon}} ; 日本政府 :* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/scn/ 日本外務省 - セントクリストファー・ネイビス] {{ja icon}} :* [https://www.tt.emb-japan.go.jp/houjin-page.htm 在トリニダード・トバゴ日本国大使館] - 在セントクリストファー・ネイビス大使館を兼轄 ; 観光 :* [https://www.stkittstourism.kn/ セントクリストファー観光局] {{en icon}} :* [https://www.nevisisland.com/ ネイビス観光局] {{en icon}} ; その他 :* {{Kotobank|セント・クリストファー・ネイビス}} {{アメリカ}} {{イギリス連邦}} {{Normdaten}} {{Country-stub}} ---- ''このページは[[プロジェクト:国|ウィキプロジェクト 国]]のテンプレートを使用しています。'' {{デフォルトソート:せんとくりすとふああねいひす}} [[Category:セントクリストファー・ネイビス|*]] [[Category:北アメリカの国]] [[Category:カリブ海地域の国]] [[Category:島国]] [[Category:連邦制国家]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:英連邦王国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:軍隊非保有国]]
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イデアル (環論)
抽象代数学の分野である環論におけるイデアル(英: ideal, 独: Ideal)は環の特別な部分集合である。整数全体の成す環における、偶数全体の成す集合や 3 の倍数全体の成す集合などの持つ性質を一般化したもので、その部分集合に属する任意の元の和と差に関して閉じていて、なおかつ環の任意の元を掛けることについても閉じているものをイデアルという。 整数の場合であれば、イデアルと非負整数とは一対一に対応する。即ち整数環 Z の任意のイデアルは、それぞれただ一つの整数の倍数すべてからなる主イデアルになる。しかしそれ以外の一般の環においてはイデアルと環の元とは全く異なるものを指しうるもので、整数のある種の性質を一般の環に対して一般化する際に、環の元を考えるよりもそのイデアルを考えるほうが自然であるということがある。例えば、環の素イデアルは素数の環における対応物であり、中国の剰余定理もイデアルに対するものに一般化することができる。素因数分解の一意性もデデキント環のイデアルに対応するものが存在し、数論において重要な役割を持つ。 イデアルは整数の算術から定義される合同算術の方法と同様の剰余環(商環)の構成にも用いられる、この点において群論で剰余群(商群)の構成に用いられる正規部分群と同様のものと理解することができる。 順序集合に対する順序イデアル(英語版)の概念は環論におけるこのイデアルの概念に由来する。またイデアルの概念を一般化して分数イデアルの概念を考えることもでき、それとの区別のためここで扱う通常のイデアルは整イデアルと呼ばれることもある。 環 R の部分集合 I が、加法群としての部分群であり、R のどの元を左からかけても、また I に含まれるとき、I を左イデアル (left ideal) という。同様に任意の R の元を右からかけたものが I に含まれるとき、I を右イデアル (right ideal) という。言い換えると、R の部分集合 I が左(右)イデアルであるとは、I が R の左(右)加群としての部分加群であることをいう。左イデアルかつ右イデアルであるものを、両側イデアル (two–sided ideal) または単にイデアルという。R が可換環である場合はこれらの概念は全て一致するため、単にイデアルと呼ばれる。以下に述べるように、群を正規部分群で類別することによって剰余群を得るのと同様に、環を両側イデアルで類別することによって剰余環を得る。 I を環 R の両側イデアルとする。 によって二項関係 ~ を定義すると、これは同値関係になる。この同値関係による商集合には自然に演算が定義できて、環になることが分かる。新しく作られたこの環を R のイデアル I による剰余環と呼び、R/I と書く。商環と呼ばれる場合もある。 環の準同型の核はイデアルであり、逆にイデアルはある環準同型の核になる。群の場合と同じように、環についても準同型定理が成り立つ。すなわち、 環構造と両立する同値関係である合同関係とイデアルとの間には一対一対応が存在する。即ち、環 R のイデアル I が与えられたとき、x ~ y ⇔ x − y ∈ I で定義される関係 ~ は R 上の合同関係であり、逆に R 上の合同関係 ~ が与えられたとき I = {x : x ~ 0} は R 上のイデアルになる。 R を(必ずしも単位的でない)環とする。R の空でない左イデアルの族の交わりはまた左イデアルになる。R の任意の部分集合 X に対し、R の X を含む任意のイデアル全ての交わり I はやはり X を含む左イデアルであって、また明らかにそのようなイデアルの中で最小である。このイデアル I を X によって生成された左イデアルと呼ぶ。左イデアルの代わりに右イデアルもしくは両側イデアルをそれぞれ考えることにより、それぞれ同様の概念が定義される。 R が単位的ならば、R の部分集合 X が生成する左、右、両側イデアルは内部的な演算によって記述することができる。即ち、X の生成する左イデアルは によって与えられる。実際これが左イデアルを成し、これらの元が X を含む任意のイデアルに属することは明らかであるから、確かにこれは X の生成する左イデアルである。同様に X の生成する右、両側イデアルはそれぞれ によって与えられる。 規約として、0 は0 項からなる和と見做すことにより、イデアル {0} は空集合 ∅ の生成する R のイデアルと考える。 R の左イデアル I が R の有限集合 F によって生成されるならば、イデアル I は有限生成であるという。有限集合で生成される右イデアル、両側イデアルについても同様である。 生成系 X が R の適当な元 a のみからなる単元集合 {a} とすると、X = {a} の生成する各イデアルは簡単に と言う形に書くことができる。これらは a によって生成される左、右、両側の主イデアル(単項イデアル)と呼ばれる。a の生成する両側イデアルを簡単に (a ) と書くことも広く行われている。 上で述べたことは、単位的でない環 R に対しては少しく変更が必要である。X の元の有限積和に加えて、任意の自然数 n と X の元 x に対して、x の n-重和 x + x + ... + x および (−x) + (−x) + ... + (−x) を考えるのである。単位的環 R に対してはこの余分な仮定は過剰な条件になる。 I, J を環 R の左(右)イデアルとする。I, J の和を で定義すると、これは I, J を含む左(右)イデアルのうち最小のものである。また、I と J の積集合 I ∩ J は I, J に含まれる左(右)イデアルのうち、最大のものである。しかし、和集合 I ∪ J は必ずしもイデアルにならない。I と J が共に両側イデアルのとき、それらの積を で定義すると、これはまた両側イデアルであり、I ∩ J に含まれる。積の定義は、単なる I の元と J の元の積ではなく、その有限和全体の集合であることに注意する必要がある。これらの間の包含関係をまとめると次のようになる。 ただし、最初の包含関係は、I, J が両側イデアルの場合である。 イデアルの重要性は、それが環準同型の核となることであり、また剰余環を定義することができることにある。異なる種類の剰余環が定義できると言うことに従って、様々な種類のイデアルが考えられる。 必ずしも環の中で閉じているわけではないが、「イデアル」と呼ばれる重要な例を二つ挙げる。詳細はそれぞれの項を参照。 通説にしたがってイデアルの成立史を述べる。19世紀のドイツの数学者であるクンマーはフェルマーの最終定理を証明しようと研究していた。その中で彼は、代数的整数に関しては有理整数の場合のような素因数分解の一意性が必ずしも成り立たないという問題に直面した。 有理整数環 Z においては 6 = 2 × 3 であって、順序の入れ替え (3 × 2) を除いては他の素因数分解は存在しない。しかし、代数的整数の場合はそうではない。 クンマーが扱ったのは奇素数 p に対する p-分体の整数環の場合であったが、以下ではより単純な例として次のような環を考える。ただし、i は虚数単位である。 この環には 6 の分解は 2 通り存在する。 1 ± √5i がこれ以上分解できないことは、乗算における絶対値に注目すれば容易に証明できる。 クンマーは、これはまだ分解が十分でないために起きると考えた。例えば有理整数環 Z においても、12 = 3 × 4 = 2 × 6 のように、分解が十分でなければ 2 通りの分解が発生する。これは 12 = 2 × 2 × 3 と完全に分解しなければならない。これと同様に、上記の環 R においてもより根元的な分解 6 = A × B × C × D が存在し、 なのであろうというのがクンマーの基本的な発想である。 もちろん A, B, C, D は R の元ではありえない。クンマーは、x + 1 の分解のためには −1 の平方根を含むより広い領域が必要となるように、R の元が上のように完全に分解されるより広い領域が存在すると考えた。そしてこの A, B, C, D のような理想的な分解を与える因子を理想(複素)数 (ideale complexe Zahl) あるいは理想因子 (ideal Primfactor) と名付けて、理想数の理論を築いた。 クンマーの理想数の理論は非常に形式的で、とても難解なものであった。後になってデデキントは理想数の理論を整理することによってイデアルを考案した。イデアル (Ideal) という名称は、理想数に由来する名前である。 現代の環論の言葉で言うなら、先の 6 の分解に対するクンマーの考えは次のようなことに相当する。 とすれば、 であり、 すなわち、6 という元の素因数分解を考えるのではなく、6 により生成されるイデアルの素イデアル分解を考えることが適当だったのである。 また、現代の環論では 2, 3, 1 + √5i, 1 − √5i はそもそも R における 6 の素因数ではない。これらのように「これ以上分解できない元」は既約元と呼ばれ、素数の一般の概念である素元とは区別される。詳しくは環 (数学)を参照のこと。 なお、理想数の理論の考え方は、現代ではイデアル論の他に p-進体の理論にも継承されている。
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抽象代数学の分野である環論におけるイデアルは環の特別な部分集合である。整数全体の成す環における、偶数全体の成す集合や 3 の倍数全体の成す集合などの持つ性質を一般化したもので、その部分集合に属する任意の元の和と差に関して閉じていて、なおかつ環の任意の元を掛けることについても閉じているものをイデアルという。 整数の場合であれば、イデアルと非負整数とは一対一に対応する。即ち整数環 Z の任意のイデアルは、それぞれただ一つの整数の倍数すべてからなる主イデアルになる。しかしそれ以外の一般の環においてはイデアルと環の元とは全く異なるものを指しうるもので、整数のある種の性質を一般の環に対して一般化する際に、環の元を考えるよりもそのイデアルを考えるほうが自然であるということがある。例えば、環の素イデアルは素数の環における対応物であり、中国の剰余定理もイデアルに対するものに一般化することができる。素因数分解の一意性もデデキント環のイデアルに対応するものが存在し、数論において重要な役割を持つ。 イデアルは整数の算術から定義される合同算術の方法と同様の剰余環(商環)の構成にも用いられる、この点において群論で剰余群(商群)の構成に用いられる正規部分群と同様のものと理解することができる。 順序集合に対する順序イデアルの概念は環論におけるこのイデアルの概念に由来する。またイデアルの概念を一般化して分数イデアルの概念を考えることもでき、それとの区別のためここで扱う通常のイデアルは整イデアルと呼ばれることもある。
{{redirect|イデアル|その他}} [[抽象代数学]]の分野である[[環論]]における'''イデアル'''({{lang-en-short|ideal}}, {{lang-de-short|Ideal}})は[[環 (数学)|環]]の特別な[[部分集合]]である。[[整数]]全体の成す環における、[[偶数]]全体の成す集合や {{math|3}} の倍数全体の成す集合などの持つ性質を一般化したもので、その部分集合に属する任意の元の和と差に関して閉じていて、なおかつ環の任意の元を掛けることについても閉じている[[空集合|空]]でない部分集合をイデアルという。 整数の場合であれば、イデアルと[[非負整数]]とは一対一に対応する。即ち整数環 {{math|'''Z'''}} の任意のイデアルは、それぞれただ一つの整数の倍数すべてからなる[[主イデアル]]になる。しかしそれ以外の一般の環においてはイデアルと環の元とは全く異なるものを指しうるもので、整数のある種の性質を一般の環に対して一般化する際に、環の元を考えるよりもそのイデアルを考えるほうが自然であるということがある。例えば、環の[[素イデアル]]は[[素数]]の環における対応物であり、[[中国の剰余定理]]もイデアルに対するものに一般化することができる。[[算術の基本定理|素因数分解の一意性]]も[[デデキント環]]のイデアルに対応するものが存在し、[[数論]]において重要な役割を持つ。 イデアルは整数の算術から定義される[[合同算術]]の方法と同様の[[剰余環]](商環)の構成にも用いられる、この点において[[群論]]で[[剰余群]](商群)の構成に用いられる[[正規部分群]]と同様のものと理解することができる。 [[順序集合]]に対する{{仮リンク|順序イデアル|en|order ideal}}の概念は環論におけるこのイデアルの概念に由来する。またイデアルの概念を一般化して[[分数イデアル]]の概念を考えることもでき、それとの区別のためここで扱う通常のイデアルは'''整イデアル'''と呼ばれることもある。 == 定義 == [[環 (数学)|環]] {{mvar|R}} の部分集合 {{mvar|I}} が、[[加法群]]としての部分[[群 (数学)|群]]であり、{{mvar|R}} のどの[[元 (数学)|元]]を左からかけても、また {{mvar|I}} に含まれるとき、{{mvar|I}} を'''左イデアル''' ({{en|left ideal}}) という。同様に任意の {{mvar|R}} の元を右からかけたものが {{mvar|I}} に含まれるとき、{{mvar|I}} を'''右イデアル''' ({{en|right ideal}}) という。言い換えると、{{mvar|R}} の部分集合 {{mvar|I}} が左(右)イデアルであるとは、{{mvar|I}} が {{mvar|R}} の左(右)[[環上の加群|加群]]としての部分加群であることをいう。左イデアルかつ右イデアルであるものを、'''両側イデアル''' ({{en|two&ndash;sided ideal}}) または単に'''イデアル'''という。{{mvar|R}} が[[可換環]]である場合はこれらの概念は全て一致するため、単にイデアルと呼ばれる。以下に述べるように、群を[[正規部分群]]で類別することによって剰余群を得るのと同様に、環を両側イデアルで類別することによって剰余環を得る。 {{mvar|I}} を環 {{mvar|R}} の両側イデアルとする。 : <math>a \sim b \iff a - b \in I</math> によって[[二項関係]] {{math|&#xFF5E;}} を定義すると、これは[[同値関係]]になる。この同値関係による[[商集合]]には自然に演算が定義できて、環になることが分かる。新しく作られたこの環を {{mvar|R}} のイデアル {{mvar|I}} による'''[[剰余環]]'''と呼び、{{math|''R''/''I''}} と書く。'''商環'''と呼ばれる場合もある。 環の[[準同型]]の[[核 (代数学)|核]]はイデアルであり、逆にイデアルはある環準同型の核になる。群の場合と同じように、環についても準同型定理が成り立つ。すなわち、 :{{math|''f'' : ''R'' {{sub|1}} → ''R'' {{sub|2}}}} が準同型ならば、{{math|''R'' {{sub|1}}}} の核による剰余環 {{math|''R'' {{sub|1}}/Ker ''f''}} は準同型の像 {{math|Im ''f''}} と同型である。 == イデアルと合同関係 == 環構造と両立する同値関係である[[合同関係]]とイデアルとの間には一対一対応が存在する。即ち、環 {{mvar|R}} のイデアル {{mvar|I}} が与えられたとき、{{math|''x'' &#xFF5E; ''y'' ⇔ ''x'' − ''y'' ∈ ''I''}} で定義される関係 {{math|&#xFF5E;}} は {{mvar|R}} 上の合同関係であり、逆に {{mvar|R}} 上の合同関係 {{math|&#xFF5E;}} が与えられたとき {{math|''I'' {{=}} {{(}}''x'' : ''x'' &#xFF5E; 0{{)}}}} は {{mvar|R}} 上のイデアルになる。 == イデアルの生成 == {{mvar|R}} を(必ずしも[[単位的環|単位的]]でない)環とする。{{mvar|R}} の[[空集合|空]]でない左イデアルの族の交わりはまた左イデアルになる。{{mvar|R}} の任意の部分集合 {{mvar|X}} に対し、{{mvar|R}} の {{mvar|X}} を含む任意のイデアル全ての交わり {{mvar|I}} はやはり {{mvar|X}} を含む左イデアルであって、また明らかにそのようなイデアルの中で最小である。このイデアル {{mvar|I}} を {{mvar|X}} によって'''生成'''された左イデアルと呼ぶ。左イデアルの代わりに右イデアルもしくは両側イデアルをそれぞれ考えることにより、それぞれ同様の概念が定義される。 {{mvar|R}} が単位的ならば、{{mvar|R}} の部分集合 {{mvar|X}} が生成する左、右、両側イデアルは内部的な演算によって記述することができる。即ち、{{mvar|X}} の生成する左イデアルは : <math>\{r_1x_1+\dots+r_nx_n \mid n\in\mathbb{N}, r_i\in R, x_i\in X\}</math> によって与えられる。実際これが左イデアルを成し、これらの元が {{mvar|X}} を含む任意のイデアルに属することは明らかであるから、確かにこれは {{mvar|X}} の生成する左イデアルである。同様に {{mvar|X}} の生成する右、両側イデアルはそれぞれ :<math>\{x_1r_1+\dots+x_nr_n \mid n\in\mathbb{N}, r_i \in R, x_i\in X\},</math> :<math>\{r_1x_1s_1+\dots+r_nx_ns_n \mid n\in\mathbb{N}, r_i\in R,s_i\in R, x_i\in X\}</math> によって与えられる。 規約として、{{math|0}} は[[空和|0 項からなる和]]と見做すことにより、イデアル {{math|{{(}}0{{)}}}} は空集合 {{math|&empty;}} の生成する {{mvar|R}} のイデアルと考える。 {{mvar|R}} の左イデアル {{mvar|I}} が {{mvar|R}} の有限集合 {{mvar|F}} によって生成されるならば、イデアル {{mvar|I}} は[[有限生成加群|有限生成]]であるという。有限集合で生成される右イデアル、両側イデアルについても同様である。 生成系 {{mvar|X}} が {{mvar|R}} の適当な元 {{mvar|a}} のみからなる[[単元集合]] {{math|{{mset|''a''}}}} とすると、{{math|''X'' {{=}} {{mset|''a''}}}} の生成する各イデアルは簡単に :<math>Ra=\{ra \mid r\in R\},</math> :<math>aR=\{ar \mid r\in R\},</math> :<math>RaR=\{r_1as_1+\dots+r_nas_n \mid n\in \mathbb{N}, r_i\in R,s_i\in R\}</math> と言う形に書くことができる。これらは {{mvar|a}} によって生成される左、右、両側の[[主イデアル]](単項イデアル)と呼ばれる。{{mvar|a}} の生成する両側イデアルを簡単に {{math|(''a'' )}} と書くことも広く行われている。 上で述べたことは、単位的でない環 {{mvar|R}} に対しては少しく変更が必要である。{{mvar|X}} の元の有限積和に加えて、任意の自然数 {{mvar|n}} と {{mvar|X}} の元 {{mvar|x}} に対して、{{mvar|x}} の {{mvar|n}}-重和 {{math2|''x'' + ''x'' + … + ''x''}} および {{math|(&minus;''x'') + (&minus;''x'') + … + (&minus;''x'')}} を考えるのである。単位的環 {{mvar|R}} に対してはこの余分な仮定は過剰な条件になる。 * 整数環 {{math|'''Z'''}} はその任意のイデアルがただ一つの数で生成され(したがって {{math|'''Z'''}} は[[主イデアル整域]])、主イデアル {{math|''n'''''Z'''}} の生成元は {{mvar|n}} または {{math|&minus;''n''}} のちょうど二つである(その意味ではイデアルと整数との差異はこの環ではほぼ分からない)。任意の整域において {{math|''aR''&nbsp;{{=}}&nbsp;''bR''}} は、適当な[[単元 (代数学)|単元]] {{mvar|u}} が存在して {{math2|1=''au'' = ''b''}} を満たすことを意味し、逆に任意の単元 {{mvar|u}} に対して {{math2|1=''aR'' = ''auu''{{sup|−1}}''R'' = ''auR''}} が満たされる。故に可換主イデアル整域において、主イデアル {{mvar|aR}} を任意の単元 {{mvar|u}} に対する {{mvar|au}} が生成することができる。{{math|'''Z'''}} の単元は {{math|1}} と {{math|&minus;1}} の二つのみであるから、これは {{math|'''Z'''}} の場合をも含んでいる。 == イデアルの演算 == {{math2|''I'', ''J''}} を[[環 (数学)|環]] {{mvar|R}} の左(右)イデアルとする。{{math2|''I'', ''J''}} の和を :<math>I+J:=\{a+b \mid a \in I,\, b \in J\}</math> で定義すると、これは {{math2|''I'', ''J''}} を含む左(右)イデアルのうち最小のものである。また、{{mvar|I}} と {{mvar|J}} の積集合 {{math|''I'' ∩ ''J''}} は {{math|''I'', ''J''}} に含まれる左(右)イデアルのうち、最大のものである。しかし、和集合 {{math|''I'' ∪ ''J''}} は必ずしもイデアルにならない。{{mvar|I}} と {{mvar|J}} が共に両側イデアルのとき、それらの積を :<math>IJ:=\{a_1b_1+ \cdots + a_nb_n \mid n \in \mathbb{N},\, a_i \in I,\,b_i \in J\}</math> で定義すると、これはまた両側イデアルであり、{{math|''I'' ∩ ''J''}} に含まれる。積の定義は、単なる {{mvar|I}} の元と {{mvar|J}} の元の積ではなく、その有限和全体の集合であることに注意する必要がある。これらの間の包含関係をまとめると次のようになる。 :<math>IJ \subset I \cap J \subset I,\, J \subset I \cup J \subset I+J</math> ただし、最初の包含関係は、{{math2|''I'', ''J''}} が両側イデアルの場合である。 == 性質 == * 任意の環 {{mvar|R}} において {{math|{{mset|0}}}} および {{mvar|R}} はイデアルになる。{{mvar|R}} が[[可除環]]または[[可換体|体]]ならば、そのイデアルはこれらのみである。イデアル {{mvar|R}} は'''単位イデアル''' (''{{en|unit ideal}}'' )、イデアル {{math|{{mset|0}}}} は'''零イデアル''' (''{{en|zero ideal}}'' ) と呼ばれ、これらは'''自明なイデアル''' (''{{en|trivial ideal}}'' ) と総称される。イデアル {{mvar|I}} が'''真のイデアル''' (''{{en|proper ideal}}'' ) とはそれが {{mvar|R}} の真の部分集合となること、つまり {{mvar|R}} と異なるイデアルとなることを言う<ref>{{harvnb|Lang|2005|loc=Section III.2}}</ref>。 * [[正規部分群]]が群準同型の[[核 (代数学)|核]]となることとまったく同じように、イデアルを準同型の核として捉えることができる。{{mvar|R}} の空でない部分集合 {{mvar|A}} について ** {{mvar|A}} が {{mvar|R}} のイデアルとなる必要十分条件はそれが適当な環準同型の核となることである。 ** {{mvar|A}} が {{mvar|R}} の右イデアルとなる必要十分条件はそれが右 {{mvar|R}} &ndash;加群 {{mvar|R{{sub|R}}}} から別の適当な右 {{mvar|R}} &ndash;加群への適当な加群準同型の核となることである。 ** {{mvar|A}} が {{mvar|R}} の左イデアルとなる必要十分条件はそれが左 {{mvar|R}} &ndash;加群 {{mvar|{{sub|R}}R}} から別の適当な左 {{mvar|R}} &ndash;加群への適当な加群準同型の核となることである。 * [[剰余類]]とイデアルとの間の関係は、乗法と加法を剰余環へ写せることとして理解することができる。 * 環が単位元を持つとき、イデアルが真のイデアルとなる必要十分条件は、それが単位元を含まないこと、従って任意の単元を含まないことである。 * 任意の環において、そのイデアル全体の成す集合は[[包含関係]]に関して[[半順序集合]]を成す。実はこれはさらに、[[完備束|完備]]{{仮リンク|モジュラー束|en|Modular lattice}}でイデアルの和を{{仮リンク|結び演算|en|Join and meet}}に、集合の交わりを{{仮リンク|交わり演算|en|Join and meet}}に持つ。このとき自明なイデアルは最小元(零イデアル)と最大元(単位イデアル)を与える。この束は一般には{{仮リンク|分配束|en|Distributive lattice}}にならない。 * {{mvar|R}} の真のイデアル全体の成す集合を考えるのには[[ツォルンの補題]]を必要としないが、{{mvar|R}} が単位元 {{math|1}} を持つとき「{{math|1}} を含まないイデアル全体の成す集合」を考えるならば、ツォルンの補題を適用して、帰結として真の極大イデアルの存在を確かめることができる。より明確に言えば、任意の真のイデアルに対して、それを含む極大イデアルが存在することが示せる([[極大イデアル]]の項の[[クルルの定理]]を参照)。 * 環 {{mvar|R}} をそれ自身左 {{mvar|R}}-加群と見做すことができるが、このとき {{mvar|R}} の左イデアルはその {{mvar|R}} に含まれる左 {{mvar|R}}-[[環上の加群#部分加群と準同型|部分加群]]と見做される。同様に右イデアルも、自身の上の右加群と見た {{mvar|R}} の右 {{mvar|R}}-部分加群であり、両側イデアルは {{mvar|R}}-[[両側加群]]としての {{mvar|R}} の {{mvar|R}}-部分加群である。{{mvar|R}} が可換の時はイデアルがそうであるように、これら三種の加群はすべて一致する。 * 任意のイデアルは[[擬環]]である。 * 環 {{mvar|R}} のイデアル全体はイデアルの和と積に関して({{mvar|R}} を単位元とする)[[半環]]になる。 == イデアルの種類 == :以下簡単のため[[可換環]]でのみ考えることにして、非可換版の詳しい話は各項に譲る。 イデアルの重要性は、それが環準同型の核となることであり、また[[剰余環]]を定義することができることにある。異なる種類の剰余環が定義できると言うことに従って、様々な種類のイデアルが考えられる。 ; [[極大イデアル]] :真のイデアル {{mvar|I}} が'''極大イデアル''' (''{{en|maximal ideal}}'') とは、{{mvar|I}} を真に含む真のイデアル {{mvar|J}} が存在しないことを言う。極大イデアルによる商は一般には[[単純環]]、可換環の場合は[[可換体|体]]になる<ref>可換単純環は体である。See Lam (2001), {{Google books quote|id=f15FyZuZ3-4C|page=39|text=simple commutative rings|p. 39}}.</ref>。 ; [[極小イデアル]] :ゼロでないイデアルが'''極小''' (''{{en|minimal}}'') であるとは、それが零でも自身でもないイデアルを含まないことを言う。 ; [[素イデアル]] :真のイデアル {{mvar|I}} が'''素イデアル''' (''{{en|prime ideal}}'') とは、{{mvar|R}} の元 {{math2|''a'', ''b''}} が {{math2|''ab'' ∈ ''I''}} を満たすならば必ず {{mvar|a}} と {{mvar|b}} の少なくとも一方が {{mvar|I}} に属すことを言う。素イデアルによる商は一般には[[素環]]、可換の場合は[[整域]]となる。 ; [[根基イデアル]]または[[半素イデアル]] :真のイデアル {{mvar|I}} が'''根基''' (''{{en|radical}}'') または'''半素''' (''{{en|semiprime}}'') であるとは、{{mvar|R}} の任意の元 {{mvar|a}} に対してその適当な[[冪]] {{mvar|a{{sup|n}}}} が {{mvar|I}} に属すならば {{math|''a'' ∈ ''I''}} となることを言う。根基イデアルによる商は、一般には[[半素環]]であり、可換の場合は[[被約環]]になる。 ; [[準素イデアル]] :イデアル {{mvar|I}} が'''準素イデアル''' (''{{en|primary ideal}}'') とは、{{mvar|R}} の元 {{math2|''a'', ''b''}} が {{math|''ab'' ∈ ''I''}} を満たすとき、{{math|''a'' ∉ ''I''}} ならば {{math|''b{{sup|n}}'' ∈ ''I''}} が適当な正の整数 {{mvar|n}} に対して成り立つことを言う。任意の素イデアルは準素イデアルだが逆は必ずしも成り立たない。半素な準素イデアルは素イデアルである。 ; [[主イデアル]] :単項生成なイデアル。 ; 有限生成イデアル :[[環上の加群|加群]]として[[有限生成加群|有限生成な]]イデアル。 ; [[原始イデアル]] :左[[単純加群|単純]][[環上の加群|加群]]の[[零化イデアル|零化域]]を左原始イデアルと呼ぶ。右原始イデアルも同様。しかしその名称にも拘らず、左または右原始イデアルは実は常に両側イデアルになる。原始イデアルは素イデアルである。左(または右)原始イデアルによる商は左(または右)[[原始環]]と言う。可換環の場合は原始イデアルは極大であり、従って原始環は体になる。 ; [[既約イデアル]] :イデアルが既約 (''{{en|irreducible}}'') であるとは、それがそれを真に含むイデアルの交わりに書けないことを言う。 ; 互いに素なイデアル :2つのイデアル {{math2|''I'', ''J''}} が互いに素 (''{{en|coprime, comaximal}}'') であるとは {{math|''I'' + ''J'' {{=}} ''R''}} となることを言う。 ; {{仮リンク|正則イデアル|en|Regular ideal}} :いくつか異なる流儀がある。 ; {{仮リンク|冪零元イデアル|en|Nil ideal}} :イデアルが冪零元イデアル (''{{en|nil ideal}}'') とは、その任意の元が[[冪零]]であることを言う。 必ずしも環の中で閉じているわけではないが、「イデアル」と呼ばれる重要な例を二つ挙げる。詳細はそれぞれの項を参照。 * [[分数イデアル]]:通常は {{mvar|R}} が[[商体]] {{mvar|K}} を持つ可換整域である場合に定義される。名前が示唆する通り、分数イデアル (''{{en|fractional ideal}}'' ) は {{mvar|K}} の特別な性質を持つ {{mvar|R}} &ndash;部分加群である。分数イデアルが完全に {{mvar|R}} に含まれる時には、真に {{mvar|R}} のイデアルを成す。 * [[可逆イデアル]]:通常は、可逆イデアル (''{{en|invertible ideal}}'') {{mvar|A}} は分数イデアルであって、別の分数イデアル {{mvar|B}} で {{math|''AB'' {{=}} ''BA'' {{=}} ''R''}} を満たすものが取れるものと定義される。文献によっては、{{mvar|R}} が整域ではなく一般の環で、通常のイデアル {{math2|''A'', ''B''}} が {{math2|1=''AB'' = ''BA'' = ''R''}} を満たすときに、「可逆イデアル」と言う呼称を用いるものがある。 == 歴史 == 通説にしたがってイデアルの成立史を述べる{{Sfn|高木|1931|pp=[{{NDLDC|1174277/168}} 321-323]}}{{Efn|ここで述べる通説には細部において批判的意見も提出されているが、それについては適宜脚注にて記載する。[[理想数]]も参照のこと。}}。[[19世紀]]の[[ドイツ]]の数学者である[[エルンスト・クンマー|クンマー]]は[[フェルマーの最終定理]]を証明しようと研究していた{{Efn| クンマーの主な動機は高次相互法則であり、フェルマーの最終定理ではなかった、という指摘がある。Harold M. Edwards, {{Google books|_IxN-5PW8asC|Fermat's Last Theorem: A Genetic Introduction to Algebraic Number Theory|page=79}} }}。その中で彼は、[[代数的整数]]に関しては[[整数|有理整数]]の場合のような[[素因数分解]]の一意性が必ずしも成り立たないという問題に直面した。 [[整数環|有理整数環]] '''{{mvar|Z}}''' においては {{math|6 {{=}} 2 × 3}} であって、順序の入れ替え {{math|(3 × 2)}} を除いては他の素因数分解は存在しない。しかし、代数的整数の場合はそうではない。 クンマーが扱ったのは奇素数 {{mvar|p}} に対する [[円分体|{{mvar|p}}-分体]]の整数環の場合であったが、以下ではより単純な例として次のような環を考える。ただし、{{mvar|i}} は[[虚数単位]]である。 :<math>R = \mathbb{Z}[\sqrt{5}\,i] = \left\{a+b\sqrt{5}\,i\mid a,b\in\mathbb{Z}\right\}</math> この環には {{math|6}} の分解は 2 通り存在する。 * {{math|6 {{=}} 2 × 3}} * {{math|6 {{=}} (1 + {{sqrt|5}}''i'' ) × (1 &minus; {{sqrt|5}}''i'' )}} {{math|1 ± {{sqrt|5}}''i''}} がこれ以上分解できないことは、乗算における絶対値に注目すれば容易に証明できる。 クンマーは、これはまだ分解が十分でないために起きると考えた。例えば有理整数環 '''{{mvar|Z}}''' においても、{{math|12 {{=}} 3 × 4 {{=}} 2 × 6}} のように、分解が十分でなければ 2 通りの分解が発生する。これは {{math|12 {{=}} 2 × 2 × 3}} と完全に分解しなければならない。これと同様に、上記の環 {{mvar|R}} においてもより根元的な分解 {{math|6 {{=}} ''A'' × ''B'' × ''C'' × ''D''}} が存在し、 : {{math|2 {{=}} ''A'' × ''B''}} : {{math|3 {{=}} ''C'' × ''D''}} : {{math|1 + {{sqrt|5}}''i'' {{=}} ''A'' × ''C''}} : {{math|1 &minus; {{sqrt|5}}''i'' {{=}} ''B'' × ''D''}} なのであろうというのがクンマーの基本的な発想である。 もちろん {{math2|''A'', ''B'', ''C'', ''D''}} は {{mvar|R}} の元ではありえない。クンマーは、{{math|''x''{{sup|2}} + 1}} の分解のためには {{math|&minus;1}} の平方根を含むより広い領域が必要となるように、{{mvar|R}} の元が上のように完全に分解されるより広い領域が存在すると考えた。そしてこの {{math2|''A'', ''B'', ''C'', ''D''}} のような理想的な分解を与える因子を[[理想数|'''理想(複素)数''']] (''{{de|ideale complexe Zahl}}'') あるいは'''理想因子''' (''{{de|ideal Primfactor}}'') と名付けて、理想数の理論を築いた。 クンマーの理想数の理論は非常に形式的で、とても難解なものであった{{Efn| クンマーの論文は「理想数」を「イデアル」に置き換えることで容易に読むことができる、という主張もある。{{Cite arXiv| last = Lemmermeyer| first = Franz| title = Jacobi and Kummer's Ideal Numbers| date = 2011| eprint=1108.6066 | page = 2}}また、[[アンドレ・ヴェイユ]]によれば、クンマーの論文は驚くほど間違いが少ない。{{Cite journal| volume = 83| issue = 5| pages = 976–988| last = Mazur| first = Barry| title = Review: André Weil, Ernst Edward Kummer, Collected Papers| journal = Bulletin of the American Mathematical Society| date = 1977| url = https://projecteuclid.org/journals/bulletin-of-the-american-mathematical-society/volume-83/issue-5/Review-Andr%c3%a9-Weil-Ernst-Edward-Kummer-Collected-Papers/bams/1183539459.full page = 980}} }}。後になって[[リヒャルト・デーデキント|デデキント]]は理想数の理論を整理することによって'''イデアル'''を考案した{{Sfn|高木|1931|p=[{{NDLDC|1174277/169}} 323]}}<ref> {{Google books|AVmEDwAAQBAJ|The Story of Algebraic Numbers in the First Half of the 20th Century: From Hilbert to Tate|page=43}} </ref><ref> {{Cite book| | last1 = Dirichlet | last2 = Dedekind | title = Vorlesungen über Zahlentheorie | edition = 2 | date = 1871 | url = https://gdz.sub.uni-goettingen.de/id/PPN30976923X | page = 452 }} </ref>。'''イデアル''' ({{de|Ideal}}) という名称は、理想数に由来する名前である{{Sfn|高木|1931|p=[{{NDLDC|1174277/169}} 323]}}。 現代の環論の言葉で言うなら、先の {{math|6}} の分解に対するクンマーの考えは次のようなことに相当する。 : {{math|''A'' {{=}} 2''R'' + (1 + {{sqrt|5}}''i'')''R''}}, : {{math|''B'' {{=}} 2''R'' + (1 &minus; {{sqrt|5}}''i'')''R''}}, : {{math|''C'' {{=}} 3''R'' + (1 + {{sqrt|5}}''i'')''R''}}, : {{math|''D'' {{=}} 3''R'' + (1 &minus; {{sqrt|5}}''i'')''R''}} とすれば、 : {{math|6''R'' {{=}} ''A'' × ''B'' × ''C'' × ''D''}} であり、 : {{math|2''R'' {{=}} ''A'' × ''B''}}, : {{math|3''R'' {{=}} ''C'' × ''D''}}, : {{math|(1 + {{sqrt|5}}''i'')''R'' {{=}} ''A'' × ''C''}}, : {{math|(1 &minus; {{sqrt|5}}''i'')''R'' {{=}} ''B'' × ''D''}}, すなわち、{{math|6}} という元の素因数分解を考えるのではなく、{{math|6}} により生成されるイデアルの素イデアル分解を考えることが適当だったのである。 また、現代の環論では {{math|2, 3, 1 + {{sqrt|5}}''i'', 1 &minus; {{sqrt|5}}''i''}} はそもそも {{mvar|R}} における {{math|6}} の'''素因数'''ではない。これらのように「これ以上分解できない元」は'''既約元'''と呼ばれ、素数の一般の概念である'''素元'''とは区別される。詳しくは[[環 (数学)]]を参照のこと。 なお、理想数の理論の考え方は、現代ではイデアル論の他に [[P進数|{{mvar|p}}-進体]]の理論にも継承されている。 == 関連項目 == * [[合同算術]] * [[ネーターの同型定理]] * {{仮リンク|ブールの素イデアル定理|en|Boolean prime ideal theorem}} * {{仮リンク|イデアル論|en|Ideal theory}} * [[イデアル商]] * {{仮リンク|イデアルノルム|en|Ideal norm}} * {{仮リンク|アルティンイデアル|en|Artinian ideal}} * [[可換環]] * [[非可換環]] * {{仮リンク|正則イデアル|en|Regular ideal}} * {{仮リンク|イデアル化半群|en|Idealizer}} * [[束 (束論)]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{Reflist}} {{Refbegin}} * {{Cite book |author=[[Serge Lang]] |title=Undergraduate Algebra |edition=Third |publisher=[[Springer-Verlag]] |isbn=978-0-387-22025-3 |year=2005 |ref=harv |postscript=<!-- Bot inserted parameter. Either remove it; or change its value to "." for the cite to end in a ".", as necessary. --><!--{{inconsistent citations}}-->}} * {{Cite book |author=[[:en:Michiel_Hazewinkel|Michiel Hazewinkel]], Nadiya Gubareni, Nadezhda Mikhaĭlovna Gubareni, Vladimir V. Kirichenko |title=Algebras, rings and modules |volume=1 |year=2004 |publisher=Springer&ndash;Verlag |isbn=1-4020-2690-0}} * {{Cite book|和書|year=1931|author=高木貞治|author-link=高木貞治|title=初等整数論講義|publisher=共立社書店|id={{NDLDC|1174277|format=NDLJP}} | ref = {{SfnRef|高木|1931}}}} {{Refend}} * Marco Fontana, Evan Houston, Thomas Lucas: "Factoring Ideals in Integral Domains", Springer, ISBN 978-3-642-31711-8 (2013). {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いてある}} [[Category:環論]] [[Category:代数的整数論]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-05-28T22:02:02Z
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'''環''' {{Wiktionarypar|環}} ==環(かん、わ)== * '''数学:''' 加法と乗法について閉じている代数的構造を持つ集合。{{main|[[環 (数学)]]}} * '''天文学:''' [[惑星]]の周囲に分布する小天体からなるリング状の構造。{{main|[[環 (天体)]]}} * '''化学:''' [[ベンゼン]]などに見られる、3個以上の[[原子]]が環状に結合した構造。{{main|[[環式有機化合物]]}} * 漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場する[[架空の通貨]]。読みは「かん」。 ==環(たまき)== * 円形で中央に穴のある[[玉]]のこと。 * [[環村]] -- [[千葉県]][[君津郡]]にあった村。現[[富津市]]。 * 日本の人名。男女ともに使われる。 ** [[今井環]] -- [[日本放送協会|NHK]]報道局編集主幹。元『[[ニュース10]]』[[ニュースキャスター|キャスター]](男性)。 ** [[斎藤環]] -- [[精神科医]]、[[評論家]](男性)。 ** [[仲西環]] -- [[声優]](女性)。 ** [[三浦環]] -- [[明治]]~[[昭和]]の[[オペラ]][[歌手]](女性)。 ** [[石垣環]] -- [[漫画家]]。下記の架空の人物とは同姓同名の別人。 ** 架空の人物 *** 石垣環 -- [[漫画]]および[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[大正野球娘。]]』の登場人物(女性)。 *** 大神環 -- [[コンピュータゲーム|ゲーム]]『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』の登場人物(女性)。 *** 向坂環 -- ゲームおよびアニメ『[[ToHeart2]]』の登場人物(女性)。 *** 胡ノ宮環 -- ゲームおよびアニメ『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』の登場人物(女性)。 *** 須王環 -- 漫画およびアニメ『[[桜蘭高校ホスト部]]』の登場人物(男性)。 *** 四葉環 --ゲーム『[[アイドリッシュセブン]]』の登場人物(男性)。 ==環(ファン、かん、たまき)== * [[中国]]・[[台湾]]、日本の人[[姓]]。環姓は、中国では[[周]]の時代より記録がある。 ** [[環夫人]] -- 中国・[[魏 (三国)|魏]]の[[曹操]]の側室の一人。[[曹沖]]・[[曹据]]・[[曹宇]]の母。 ** [[環昌一]] -- 日本の最高裁判事。 ** 架空の人物 *** 環いろは -- [[スマートフォン]]向け[[ゲームソフト|アプリケーションゲーム]]『[[マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝]]』の登場人物。 == 関連項目 == * [[放射線・環状線]] * [[トーラス]] *[[輪]] *[[リング]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:かん}} [[Category:日本語の姓|たまき]] [[Category:日本語の男性名|たまき]] [[Category:日本語の女性名|たまき]]
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西欧
西欧(せいおう)
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西欧(せいおう) 西ヨーロッパ - 対照語は北欧・中欧・南欧・東欧 ヨーロッパ全体 - 対義語は東亜 西洋(Occident) - 対義語は東洋(Orient)
'''西欧'''(せいおう) * [[西ヨーロッパ]] - 対照語は[[北ヨーロッパ|北欧]]・[[中央ヨーロッパ|中欧]]・[[南ヨーロッパ|南欧]]・[[東ヨーロッパ|東欧]] * [[ヨーロッパ]]全体 - 対義語は[[東亜]] * [[西洋]](Occident) - 対義語は[[東洋]](Orient) {{Aimai}} {{デフォルトソート:せいおう}}
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ポルトガル語
ポルトガル語(ポルトガルご、português [puɾtuˈgeʃ]/[poɾtuˈge(j)s], língua portuguesa)は、主にポルトガル及びブラジルとその他の9の国と地域で公用語として使われている言語である。俗ラテン語から発展して形成されたロマンス語の1つで、スペイン語などと共にインド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する。 スペインの作家セルバンテスはポルトガル語を「甘美な言語」と評し、ブラジルの詩人オラーヴォ・ビラックは「ラティウムの最後の、粗野で美しい花」と評している。 ポルトガル語は、大航海時代のポルトガル海上帝国の成長とともにアジア・アフリカ地域に広まった。日本では最初に伝播したヨーロッパの言語であり、古くからの外来語として定着しているいくつかの単語は、ポルトガル語由来である。代表的な例として「パン」があり、戦国時代にキリスト教と共に伝わった。漢字表記では葡萄牙語、蒲麗都家語であり、省略形は葡語及び蒲語。 ポルトガル語を母語とする人口は、約2億5000万人である。ポルトガルの人口は1000万人程度だが、約2億人の人口を抱えるブラジルの公用語になっているため、話者人口は多い。81%(約2億人)がブラジル国内で、残りの5,000万人は、ポルトガルおよびその旧植民地に分布し、世界で7番目または8番目に大きな話者人口を有する。複数の大陸にまたがって話される数少ない言語の1つでもある。現在ポルトガル語を公用語としているのは、以下の諸国と地域である。 この6か国は、ポルトガル語公用語アフリカ諸国(Países Africanos de Língua Oficial Portuguesa、PALOP)と総称される。ただし赤道ギニアについては主要公用語はスペイン語だが、ポルトガル領であった歴史もある事や赤道ギニアに属するアンノボン島がかつてポルトガルの植民地であった事と島民がポルトガル語を話す事などから2007年にポルトガル語が公用語に追加された。 上記のポルトガル語を公用語とする国及びポルトガル語話者の非常に多い地域は合わせてルゾフォニア(ポルトガルの古称であるルシタニアからとられた言葉で、「ルシタニア語(ポルトガル語)の世界」を指す)と呼ばれ、1990年代以降ポルトガル主導のもとで連携を強めている。ポルトガル語を公用語とする国家のうち、マカオと赤道ギニアを除く8カ国は1996年にポルトガル語諸国共同体を結成し、政治・経済・文化各面での協力及びポルトガル語の普及において協力体制を構築している。2006年に第1回大会がマカオで開催され、以降4年に1度開催されているポルトガル語圏競技大会などの交流も盛んに行われている。ポルトガル語による文学も盛んであり、多くの文学作品が輩出されている。ポルトガル語で書かれた作品を対象にポルトガルとブラジルが共同で選出するカモンイス賞は、ポルトガル語世界において最も権威のある文学賞であるとされる。 ほかにカリブ海の諸島やポルトガル語公用語アフリカ諸国などにおいては、ポルトガル語と現地の諸言語が接触し形成されたクレオール言語(crioulos)が、ポルトガル語と並んで話される地域もある。こうしたポルトガル語をベースとしたクレオール言語としては、オランダ領西インド諸島のアルバ島とボネール島、そしてキュラソー島(ABC諸島)で話されるパピアメント語や、カーボベルデのカーボベルデ・クレオール語、ギニアビサウのギニアビサウ・クレオール語、サントメ・プリンシペのフォロ語、アンゴラ語、プリンシペ・クレオール語、赤道ギニアのアノボネセ語、マカオのマカオ語などがある。このほか、欧州連合の公用語としても扱われている。 ポルトガル語と最も近い主要言語は隣国のスペイン語である。ポルトガルは1129年にレオン王国から独立した国家であり、現在のポルトガル語の祖先は、ドウロ川以北のポルトガル北部と、隣接するスペイン北西部のガリシア地方にあたる古代ローマの属州ガラエキアで話されていた俗ラテン語である。したがってガリシア州で話されているガリシア語とは極めて近い関係にある。現在、ガリシア語はガリシア州の公用語となっており、ポルトガル語との、特に北部ポルトガルで話されているポルトガル語との差異は小さい。ただし、16世紀以降ポルトガルの中心地域はポルトガル北部から首都リスボンを中心とするポルトガル中南部へと移り、この過程で現在のポルトガル語の祖形が成立した。現在、イベリアポルトガル語の標準はポルトガル中南部方言に基づいている。 ポルトガル語圏で最大の人口を擁するブラジルとそれ以外では、文法や語法などに若干の違いが生じている。その違いに配慮しつつ、以下ポルトガル語の特徴を記す。 記号が2つ並んでいるものは、右が円唇、左が非円唇。 二重母音: 記号が2つ並んでいるものは、右が有声音、左が無声音。網掛けは調音が不可能と考えられる部分。 強勢の位置は、必ず語末から1~3番目の音節にある。アクセント符号などがないときは、2番目にある。語末に子音 l, r, z や、 i, u の口母音または鼻母音、ã またはティルの付いた二重母音字がある場合は、語末に強勢がおかれる。他の音節に強勢が来る場合は、アクセント符号が付く。語末の s の有無は強勢位置の変化に影響しない。 例1「技術」 例2「歴史・物語」 例3「警察」 例4「民主主義」 p, b の後の l の多くは r へと変化した。 子音のところでも記述した通り、ポルトガルとブラジルでは違う綴りで書かれる単語が少なくないが、2008年5月にポルトガル議会は今後6年かけて綴りを現在のものからブラジル風のものに変更する法案を可決した。旧植民地での表記法に旧宗主国が従うという珍しい事態になっているが、これはポルトガル語圏におけるブラジルの圧倒的な人口から来る経済的・文化的・学術的影響力を反映したものである。ブラジルでも2008年9月に大統領令として公布され、2012年末までの移行期間を経た上で2013年以降はこの新正書法が採用される。この正書法により、今後は一部の単語を除いて以下のような綴りとなる。 ただ、新正書法の施行後も、ポルトガル式とブラジル式の綴りの間では相違が残る。mおよびnの前のoおよびeに強勢が来る場合、両国における発音の差を反映して、ポルトガルではóおよびéが、ブラジルではôおよびêが使用される。例: アントニオ(人名): António(ポルトガル)、Antônio(ブラジル) 参考として、食べ物を表すポルトガル語とラテン語、そして英語の単語を示す。順にポルトガル語、ラテン語、英語、日本語である。 ポルトガル語もスペイン語と同様にアラビア語からの借用語はあるが、スペイン語に比べて少ない。レコンキスタが早期に完了したポルトガルではイスラム教徒の強制改宗や追放などもスペインより早く行われ、それに伴いアラビア語系の借用語も追放されていった。現在でもポルトガル人がスペイン人を指して「あいつ等スペイン人はモーロ人との混血だ」と優越感に浸る事があるという(同様の感情は、アンダルシア、ムルシア人に対するスペインの他の地域の住民の反応にも見られる)。 16世紀中頃にポルトガル人が種子島に漂着した(鉄砲伝来)。それ以来、イエズス会によるキリシタン布教とマラッカ・マカオを相手とする南蛮貿易(主に近畿から九州地方)において、ポルトガル人が主要な役割を果たした。ポルトガル語は日本に最も早く伝来したヨーロッパの言語の一つであり、この時代に入った文物とともに、名詞などが日本語に定着した(「オランダ」や「イギリス」といった日本語固有の外国名の慣用も、多くがポルトガル語に由来する)。英語やフランス語など、主に19世紀以降に流入した外来語はもっぱら片仮名で表記されるのに対し、ポルトガル語由来の借用語は漢字の当て字や平仮名で表記する名詞も多く、深い浸透が窺える。アゴスティニョ(小西行長)、内藤如安、細川ガラシャなど、当時のキリシタンの洗礼名もポルトガル語に由来する。 1603年から1604年にかけて長崎でイエズス会によって出版された『日葡辞書』は、出版されたものとしては最古の日葡辞典であり、当時の日本語の語彙や発音を知る上で貴重な資料となっている。 16世紀末から、マニラ貿易およびフランシスコ会・ドミニコ会などの布教活動を通じてスペイン人との接触も密になった。そのため、ポルトガル語とスペイン語には同源・同形の単語も多いのでいずれが起源か判別しがたく、両者から同時に広まった可能性が高いものもある。 詳細: en:Differences_between_Spanish_and_Portuguese ポルトガル語は同じイベロ・ロマンス語のスペイン語に非常に似ている言語である。発音や綴りが似ていたり、単語や語彙の意味が共通しているなど至るところに類似点が見られる。 スペイン語の表現から引用。 比較すると綴りにはかなりの類似点が見られる。ただし、スペイン語の挨拶では上記のように複数形が用いられるのに対し、ポルトガル語では単数形を用いる。 スペイン語とポルトガル語の話者は双方の言語を理解でき、概ね相互に意思の疎通が可能であることが多い。ブラジルの放送では、スペイン語諸国の大統領演説などは翻訳なしで流される。ウルグアイのリベラとブラジルのサンタナ・ド・リブラメントとの国境周辺にて、ポルトガル語とスペイン語の混合方言フロンテイリソが話されている。 スペイン語とポルトガル語の違いについて、以下、主な点を列挙する。 現在では、ブラジルやポルトガルでは若年層がスペイン語を勉強し、またスペイン語圏でも特にパラグアイやアルゼンチン、ウルグアイなどではポルトガル語学習熱が高まっている。英語を習得するよりはるかに楽に習得できると言われている。
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ポルトガル語は、主にポルトガル及びブラジルとその他の9の国と地域で公用語として使われている言語である。俗ラテン語から発展して形成されたロマンス語の1つで、スペイン語などと共にインド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する。 スペインの作家セルバンテスはポルトガル語を「甘美な言語」と評し、ブラジルの詩人オラーヴォ・ビラックは「ラティウムの最後の、粗野で美しい花」と評している。 ポルトガル語は、大航海時代のポルトガル海上帝国の成長とともにアジア・アフリカ地域に広まった。日本では最初に伝播したヨーロッパの言語であり、古くからの外来語として定着しているいくつかの単語は、ポルトガル語由来である。代表的な例として「パン」があり、戦国時代にキリスト教と共に伝わった。漢字表記では葡萄牙語、蒲麗都家語であり、省略形は葡語及び蒲語。
{{Infobox Language |nativename={{lang|pt|Português}} |name = ポルトガル語 |pronunciation={{IPA|puɾtuˈgeʃ}}/{{IPA|poɾtuˈge(j)s}} |familycolor=インド・ヨーロッパ語族 |states=[[ポルトガル語#話者分布]]を参照 |speakers=約2億5000万人 |rank= |fam1=[[インド・ヨーロッパ語族]] |fam2=[[イタリック語派]] |fam3=[[ロマンス諸語]] |fam4=[[イタロ・西ロマンス語]] |fam5=[[西ロマンス語]] |fam6={{仮リンク|ガロ・イベリア語|en|Gallo-Iberian languages}} |fam7=[[イベロ・ロマンス語]] |fam8={{仮リンク|西イベリア語|en|West Iberian languages}} |fam9=[[ガリシア・ポルトガル語]] |script=[[ラテン文字]] |nation=話者分布参照 |agency={{仮リンク|国際ポルトガル語研究所|en|International Portuguese Language Institute|pt|Instituto Internacional da Língua}} |iso1=pt |iso2=por |iso3=por }} '''ポルトガル語'''(ポルトガルご、{{lang|pt|'''português'''}} {{IPA-pt|puɾtuˈgeʃ|}}/{{IPA-pt|poɾtuˈge(j)s|}}, {{lang|pt|'''língua portuguesa'''}})は、主に[[ポルトガル]]及び[[ブラジル]]とその他の9の国と地域で[[公用語]]として使われている言語である。[[俗ラテン語]]から発展して形成された[[ロマンス語]]の1つで、[[スペイン語]]などと共に[[インド・ヨーロッパ語族]][[イタリック語派]]に属する。 [[スペイン]]の作家[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]はポルトガル語を「甘美な言語」と評し、[[ブラジル]]の詩人[[:pt:Olavo Bilac|オラーヴォ・ビラック]]は「[[ラテン|ラティウム]]の最後の、粗野で美しい花」と評している。 ポルトガル語は、[[大航海時代]]の[[ポルトガル海上帝国]]の成長とともにアジア・アフリカ地域に広まった。日本では最初に伝播したヨーロッパの言語であり、古くからの外来語として定着しているいくつかの単語は、ポルトガル語由来である。代表的な例として「[[パン]]」があり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にキリスト教と共に伝わった。漢字表記では'''葡萄牙語'''、'''蒲麗都家語'''であり、省略形は'''葡語'''及び'''蒲語'''。 == 話者分布 == {{色}} {| class="wikitable" border=1 cellpadding=2 cellspacing=2 style="text-align:center; margin:1em auto; font-size:small" | '''ポルトガル語の分布''' |- |colspan="4"|[[File:Detailed SVG map of the Lusophone world.svg|340px|]] |- |colspan="4" style="text-align:center;"|ポルトガル語の話される地域 |- !bgcolor=#DDDDDD| '''国または地域''' !bgcolor=#DDDDDD|母語話者<br/> !bgcolor=#DDDDDD|話者 !bgcolor=#DDDDDD|人口<br/> (2005年) |- !colspan="4" |[[アフリカ|アフリカ州]] |- |{{Flagicon|アンゴラ}}[[アンゴラ]]<ref group="表1" name="1-1" /><ref group="表1" name="1-7" /> | style="text-align:right;" | 60% | style="text-align:right;" | 約80% | style="text-align:right;" | 11,190,786 |- |{{Flagicon|カーボベルデ}}[[カーボベルデ]]<ref group="表1" name="1-5" /> | style="text-align:right;" | 4% | style="text-align:right;" | 72% | style="text-align:right;" | 418,224 |- |{{Flagicon|ギニアビサウ}}[[ギニアビサウ]]<ref group="表1" name="1-2" /><ref group="表1" name="1-6" /> | style="text-align:right;" | 不明 | style="text-align:right;" | 14% | style="text-align:right;" | 1,416,027 |- |{{Flagicon|モザンビーク}}[[モザンビーク]]<ref group="表1" name="1-1" /> | style="text-align:right;" | 9% | style="text-align:right;" | 40% | style="text-align:right;" | 19,406,703 |- |{{Flagicon|サントメ・プリンシペ}}[[サントメ・プリンシペ]]<ref group="表1" name="1-2" /><ref group="表1" name="1-5" /> | style="text-align:right;" | 50% | style="text-align:right;" | 95% | style="text-align:right;" | 187,410 |- |{{Flagicon|赤道ギニア}}[[赤道ギニア]]<ref group="表1" name="1-2" /><ref group="表1" name="1-5" /> | style="text-align:right;" | 50% | style="text-align:right;" | 95% | style="text-align:right;" | 523,040 |- |{{Flagicon|ナミビア}}[[ナミビア]]<ref group="表1" name="1-2" /><ref group="表1" name="1-3" /> | style="text-align:right;" | 20% | style="text-align:right;" | 20% | style="text-align:right;" | 2,030,692 |- |{{Flagicon|南アフリカ}}[[南アフリカ共和国]]<ref group="表1" name="1-3" /> | style="text-align:right;" | 2% | style="text-align:right;" | 2% | style="text-align:right;" | 44,344,136 |- !colspan="4" |[[アジア|アジア州]] |- |{{Flagicon|日本}}[[日本]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 0 | style="text-align:right;" | 0.21% | style="text-align:right;" | 127,214,499 |- |{{Flagicon|東ティモール}}[[東ティモール]]<ref group="表1" name="1-2" /> | style="text-align:right;" | 不明 | style="text-align:right;" | 15% | style="text-align:right;" | 1,040,880 |- |{{Flagicon|中華人民共和国}}[[中華人民共和国]]({{Flagicon|マカオ}}[[マカオ]]を含む) | style="text-align:right;" | 2% | style="text-align:right;" | 3% | style="text-align:right;" | 1,395,380,000 |- |[[ダマン・ディーウ連邦直轄領|ダマン・ディーウ]], {{Flagicon|インド}}[[インド]]<ref group="表1" name="1-2" /> | style="text-align:right;" | 10% | style="text-align:right;" | 10% | style="text-align:right;" | 不明 |- |[[ゴア州|ゴア]], [[インド]] | style="text-align:right;" | 3-5% | style="text-align:right;" | 5% | style="text-align:right;" | 不明 |- !colspan="4" |[[ヨーロッパ|ヨーロッパ州]] |- |{{Flagicon|ポルトガル}}[[ポルトガル]] | style="text-align:right;" | 100% | style="text-align:right;" | 100% | style="text-align:right;" | 10,566,212 |- |{{Flagicon|ルクセンブルク}}[[ルクセンブルク]]<ref group="表1" name="1-3" /> | style="text-align:right;" | 14% | style="text-align:right;" | 14% | style="text-align:right;" | 468,571 |- |{{Flagicon|アンドラ}}[[アンドラ]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 4-13% | style="text-align:right;" | 4-13% | style="text-align:right;" | 70,549 |- |{{Flagicon|フランス}}[[フランス]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 2% | style="text-align:right;" | 2% | style="text-align:right;" | 60,656,178 |- |{{Flagicon|スイス}}[[スイス]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 2% | style="text-align:right;" | 2% | style="text-align:right;" | 7,489,370 |- !colspan="4" |[[アメリカ州]] |- |{{Flagicon|ブラジル}}[[ブラジル]] | style="text-align:right;" | 98-99% | style="text-align:right;" | 100% | style="text-align:right;" | 194,000,000 |- |{{Flagicon|パラグアイ}}[[パラグアイ]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 7% | style="text-align:right;" | 7% | style="text-align:right;" | 6,347,884 |- |{{Flagicon|バミューダ諸島}}[[バミューダ諸島|バミューダ]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 4% | style="text-align:right;" | 4% | style="text-align:right;" | 65,365 |- |{{Flagicon|ベネズエラ}}[[ベネズエラ]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 1-2% | style="text-align:right;" | 1-2% | style="text-align:right;" | 25,375,281 |- |{{Flagicon|カナダ}}[[カナダ]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 1-2% | style="text-align:right;" | 1-2% | style="text-align:right;" | 32,805,041 |- |{{Flagicon|オランダ領アンティル}}[[オランダ領アンティル]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 1% | style="text-align:right;" | 1% | style="text-align:right;" | 219,958 |- |{{Flagicon|アメリカ合衆国}}[[アメリカ合衆国]]<ref group="表1" name="1-4" /> | style="text-align:right;" | 0.5-0.7% | style="text-align:right;" | 0.5-0.7% | style="text-align:right;" | 295,900,500 |- |colspan="4" style="background-color:#f9f9f9; text-align:left;" | {{reflist |group = 表1 |refs = <ref group="表1" name="1-1">公式統計、モザンビーク - 1997年; アンゴラ - 1983年</ref> <ref group="表1" name="1-2">政府、カトリック教会による予測</ref> <ref group="表1" name="1-3">公的なポルトガル語教育</ref> <ref group="表1" name="1-4">移民の人数から</ref> <ref group="表1" name="1-5">ポルトガル語系[[クレオール言語]]の話者数</ref> <ref group="表1" name="1-6">ポルトガル語系クレオール言語話者の大部分</ref> <ref group="表1" name="1-7">ポルトガル語系[[ピジン言語]]と簡易ポルトガル語が共通語として他部族とのやり取りに使われている。アンゴラ人の30%はポルトガル語のみを解する[[モノリンガル]]である。他の国民もポルトガル語を[[第二言語]]とする。</ref> }} |} ポルトガル語を母語とする人口は、約2億5000万人である。[[ポルトガル]]の人口は1000万人程度だが、約2億人の人口を抱える[[ブラジル]]の[[公用語]]になっているため、話者人口は多い。81%(約2億人)がブラジル国内で、残りの5,000万人は、ポルトガルおよびその旧植民地に分布し、世界で7番目または8番目に多い話者人口を有する。複数の大陸にまたがって話される数少ない言語の1つでもある。現在ポルトガル語を[[公用語]]としているのは、以下の諸国と地域である。 *ヨーロッパ<br/>{{PRT}} *南アメリカ<br/>{{BRA}} *アフリカ<br/>{{AGO}}<br/>{{CPV}}<br/>{{GNB}}<br/>{{STP}}<br/>{{MOZ}}<br/>{{GNQ}} この6か国は、[[ポルトガル語公用語アフリカ諸国]]('''P'''aíses '''A'''fricanos de '''L'''íngua '''O'''ficial '''P'''ortuguesa、'''PALOP''')と総称される。ただし赤道ギニアについては主要公用語はスペイン語だが、ポルトガル領であった歴史もある事や赤道ギニアに属する[[アンノボン島]]がかつてポルトガルの植民地であった事と島民がポルトガル語を話す事などから2007年にポルトガル語が公用語に追加された。 *アジア<br/>{{TLS}}<br/>{{MAC}} 上記のポルトガル語を公用語とする国及びポルトガル語話者の非常に多い地域は合わせて[[ルゾフォニア]](ポルトガルの古称である[[ルシタニア]]からとられた言葉で、「ルシタニア語(ポルトガル語)の世界」を指す)と呼ばれ、[[1990年代]]以降ポルトガル主導のもとで連携を強めている。ポルトガル語を公用語とする国家のうち、マカオと赤道ギニアを除く8カ国は[[1996年]]に[[ポルトガル語諸国共同体]]を結成し、政治・経済・文化各面での協力及びポルトガル語の普及において協力体制を構築している。[[2006年]]に第1回大会がマカオで開催され、以降4年に1度開催されている[[ポルトガル語圏競技大会]]などの交流も盛んに行われている。[[ポルトガル語文学|ポルトガル語による文学]]も盛んであり、多くの文学作品が輩出されている。ポルトガル語で書かれた作品を対象にポルトガルとブラジルが共同で選出する[[カモンイス賞]]は、ポルトガル語世界において最も権威のある文学賞であるとされる。 ほかに[[カリブ海]]の諸島やポルトガル語公用語アフリカ諸国などにおいては、ポルトガル語と現地の諸言語が接触し形成された[[クレオール|クレオール言語]]('''crioulos''')が、ポルトガル語と並んで話される地域もある。こうしたポルトガル語をベースとしたクレオール言語としては、[[オランダ]]領[[西インド諸島]]の[[アルバ島]]と[[ボネール島]]、そして[[キュラソー島]]([[ABC諸島]])で話される[[パピアメント語]]や、カーボベルデの[[カーボベルデ・クレオール語]]、ギニアビサウの[[ギニアビサウ・クレオール語]]、サントメ・プリンシペの[[フォロ語]]、[[アンゴラ語]]、[[プリンシペ・クレオール語]]、赤道ギニアのアノボネセ語、マカオの[[マカオ語]]などがある。このほか、[[欧州連合]]の公用語としても扱われている。 ポルトガル語と最も近い主要言語は隣国のスペイン語である。ポルトガルは[[1129年]]に[[レオン王国]]から独立した国家であり、現在のポルトガル語の祖先は、[[ドウロ川]]以北のポルトガル北部と、隣接するスペイン北西部の[[ガリシア州|ガリシア]]地方にあたる古代ローマの[[属州]][[ガラエキア]]で話されていた[[俗ラテン語]]である。したがってガリシア州で話されている[[ガリシア語]]とは極めて近い関係にある。現在、ガリシア語はガリシア州の公用語となっており、ポルトガル語との、特に北部ポルトガルで話されているポルトガル語との差異は小さい。ただし、[[16世紀]]以降ポルトガルの中心地域はポルトガル北部から首都[[リスボン]]を中心とするポルトガル中南部へと移り、この過程で現在のポルトガル語の祖形が成立した。現在、イベリアポルトガル語の標準はポルトガル中南部方言に基づいている<ref>「事典世界のことば141」p459 梶茂樹・中島由美・林徹編 大修館書店 2009年4月20日初版第1刷</ref>。 == 方言 == *[[イベリアポルトガル語]] - ポルトガルで話されるポルトガル語を指す。「ポルトガルポルトガル語」ともいう<ref>{{Cite web|和書|title=東外大言語モジュール|ポルトガル語|url=http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/pt/|website=www.coelang.tufs.ac.jp|accessdate=2020-09-07}}</ref>。 *{{仮リンク|アフリカポルトガル語|en|Portuguese language in Africa}} - 1970年代までポルトガル植民地だったこともあり、ブラジルポルトガル語よりもイベリアポルトガル語のほうに近いが、独自の単語もある。 *[[ブラジルポルトガル語]] - ブラジルのポルトガル語では、イベリアポルトガル語と異なる発音や単語、用法も多い。ただ、ポルトガルよりもブラジルとのつながりのほうが圧倒的に強い日本では、こちらが教えられていることが多い{{要出典|date=2020年9月}}。「ブラポル語」と略されることもある<ref>{{Cite web|和書|title=ブラジルで話されている「ブラポル語」豆知識 {{!}} 翻訳会社アークコミュニケーションズ|url=https://www.arc-c.jp/translation/blog/20140919_3/|website=www.arc-c.jp|accessdate=2020-09-07|language=ja}}</ref>。 {{節スタブ}} == 音韻と表記 == ポルトガル語圏で最多の人口を擁するブラジルとそれ以外では、文法や語法などに若干の違いが生じている。その違いに配慮しつつ、以下ポルトガル語の特徴を記す。 === 母音 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ポルトガル語の[[母音]] |-style="width:2.5em" ! !style="width:2.5em"|[[前舌母音|前舌]] !style="width:2.5em"|[[中舌母音|中舌]] !style="width:2.5em"|[[後舌母音|後舌]] |- ![[狭母音|狭]] |{{IPA2|i}} || ({{IPA2|&#616;}}) ||{{IPA2|u}} |- ![[狭半母音|半狭]] | {{IPA2|e}} || rowspan="2"| {{IPA2|&#592;}} || {{IPA2|o}} |- ![[広半母音|半広]] | {{IPA2|&#603;}} || {{IPA2|&#596;}} |- ![[広母音|広]] | || {{IPA2|a}} || |} 記号が2つ並んでいるものは、右が[[円唇母音|円唇]]、左が[[非円唇母音|非円唇]]。 *ブラジルではイの音になりがちな語末の e がポルトガルでは[[非円唇中舌狭母音]]になる。 **例: tarde - {{ipa|ˈtaɾdɨ}}(Pt), {{ipa|ˈtaɾdʒi}}(Br) *多くの母音が無[[強勢]]部で[[狭母音]]になる。以下は無強勢部の発音。 **a: {{ipa|ɐ}} **e: 語頭 {{ipa|i}}, 他の位置{{ipa|ɨ}} **i: 全ての位置 {{ipa|i}} **o: 語頭の o, ho- {{ipa|ɔ}}, 他の位置・"honesto" とその派生語 {{ipa|u}} **u: 全ての位置 {{ipa|u}} **: pronúncia {{ipa|pɾuˈnũsiɐ}}, elemento {{ipa|ilɨˈme&#771;tu}} **ポルトガルでは語末の e, o が発音されないことがある。 *強勢のある {{ipa|ɐ}} は、a または â で書かれ、多く鼻音の前に現れる。 二重母音: *ai: {{ipa|aj}} *ei: {{ipa|ɐj}} *êi: {{ipa|ej}} *éi: {{ipa|ɛj}} *oi: {{ipa|oj}} *ói: {{ipa|ɔj}} *ui: {{ipa|uj}} *au: {{ipa|aw}} *eu: {{ipa|ew}} *éu: {{ipa|ɛw}} *iu: {{ipa|iw}} *ポルトガルでは ei は「アイ」のように発音される。 **例:não sei {{ipa|nɐ̃w̃ sɐj}} *ou は二重母音だったが、今は普通単母音 /o/ で発音される。(ブラジルでは必ずしもこの限りではなく、例えば動詞soubesseを/su'bεssi/のように発音をする人もいれば全ての単語でそのままouと発音する人もいる。) === 鼻母音 === *{{ipa|i&#771;}} *{{ipa|e&#771;}}: en *{{ipa|u&#771;}}: un *{{ipa|ɐ̃}}: an *{{ipa|o&#771;}}: on *ã の発音は、ブラジルでは後舌のア(暗いア)の鼻母音なのに対し、ポルトガルでは前舌のア(明るいア)の鼻母音であるが、両者共に {{ipa|ɐ̃}} で表される。 *ão, 語末-am {{ipa|ɐ̃w̃}} *ãe, ãi {{ipa|ɐ̃j̃}} *ãe {{ipa|e&#771;j̃}} *õe {{ipa|õj̃}} *ui {{ipa|ũj̃}} *フランス語同様[[鼻母音]]を有するが、二重鼻母音はポルトガル語独自である。 **bom dia {{ipa|bõ di.ɐ}}(Pt), {{ipa|bõ dʒi.a}}(Br) **muitas estações {{ipa|mũj̃tɐz iʃtɐsõj̃ʃ}}(Pt), {{ipa|mũj̃tas estasõj̃s}}(Br) === 子音 === {| class=wikitable style="text-align:center" |- |+ポルトガル語の[[子音]]の[[国際音声記号|IPA]]表<ref name="ReferenceA">{{Harvcoltxt|Cruz-Ferreira|1995|p=91}}</ref><ref name="labialized velar - Carvalho">[http://cl.up.pt/elingup/vol4n1/article/article_2.pdf Sobre os Ditongos do Português Europeu]. Carvalho, Joana. Faculdade de Letras da Universidade do Porto. ページ 20. '''引用: ''' ''A conclusão será que nos encontramos em presença de dois segmentos fonológicos /kʷ/ e /ɡʷ/, respetivamente, com uma articulação vocálica. Bisol (2005:122), tal como Freitas (1997), afirma que não estamos em presença de um ataque ramificado. Neste caso, a glide, juntamente com a vogal que a sucede, forma um ditongo no nível pós-lexical. Esta conclusão implica um aumento do número de segmentos no inventário segmental fonológico do português.''</ref><ref name="labialized velar - Bisol">{{Harvcoltxt|Bisol|2005|p=122}}. '''引用:''' ''A proposta é que a sequencia consoante velar + glide posterior seja indicada no léxico como uma unidade monofonemática /kʷ/ e /ɡʷ/. O glide que, nete caso, situa-se no ataque não-ramificado, forma com a vogal seguinte um ditongo crescente em nível pós lexical. Ditongos crescentes somente se formam neste nível. Em resumo, a consoante velar e o glide posterior, quando seguidos de a/o, formam uma só unidade fonológica, ou seja, um segmento consonantal com articulação secundária vocálica, em outros termos, um segmento complexo.''</ref> ! colspan=2 rowspan=2 | ! rowspan=2| [[唇音]] ! rowspan=2| [[歯音]]/<br />[[歯茎音]] ! colspan=2| [[舌背音]] ! rowspan=2| [[後部歯茎音]] |- ! {{small|無唇音化}} ! {{small|[[唇音化]]}} |- !colspan=2| [[鼻音]] | {{IPA link|m}} | {{IPA link|n}} | {{IPA link|ɲ}} | | |- !rowspan=2| [[破裂音]] ! {{small|[[無声音]]}} | {{IPA link|p}} | {{IPA link|t}} | {{IPA link|k}} | {{IPA link|kʷ}} | ({{IPA link|tʃ}}) |- ! {{small|[[有声音]]}} | {{IPA link|b}} | {{IPA link|d}} | {{IPA link|ɡ}} | {{IPA link|ɡʷ}} | ({{IPA link|dʒ}}) |- !rowspan=2| [[摩擦音]] ! {{small|[[無声音]]}} | {{IPA link|f}} | {{IPA link|s}} | | | {{IPA link|ʃ}} |- ! {{small|[[有声音]]}} | {{IPA link|v}} | {{IPA link|z}} | | | {{IPA link|ʒ}} |- !rowspan=2| [[接近音]] ! {{small|[[半母音]]}} | | | {{IPA link|j}} | {{IPA link|w}} | |- ! {{small|[[側面音]]}} | | {{IPA link|l}} | {{IPA link|ʎ}} | | |- ! rowspan="2" |[[R音]] ! {{small|[[ふるえ音]]/[[摩擦音]]}} | | colspan="2" |{{IPA link|ʁ}} | | |- ! {{small|[[はじき音]]}} | | {{IPA link|ɾ}} | | | |} 記号が2つ並んでいるものは、右が[[有声音]]、左が[[無声音]]。網掛けは[[調音]]が不可能と考えられる部分。 *ti や di, あるいは語末の te や de はブラジルではチやヂという発音になるが、ポルトガルではティやディ(あるいはトゥやドゥ)のままである。 *音節末の s や z は、リオやポルトガルではシュの発音になる。 *R はスペイン語とほぼ同じ。すなわち、語頭の r と 他の位置での rr は {{ipa|r}} で、語頭以外の r は {{ipa|ɾ}} で発音される。ただし、ブラジルでは {{ipa|r}} は {{IPA|x, h}} と発音する(もとは[[有声口蓋垂摩擦音]]やそれが無声化した[χ]でも発音した)ので、特にブラジル音の表記には {{ipa|x}} を用いる。なお、近年ポルトガルでもブラジル式に発音する傾向がある。 *ポルトガル綴り(旧正書法のみ)における音節末の c, p は、ブラジル綴りでは脱落する。これらの多くはポルトガル、ブラジルともに読まない。また、新正書法の場合、ポルトガルでもこれら子音は記さない。ブラジル綴りで脱落しないものは常に発音するが、ポルトガルでは一定しない。またこの子音字の前の母音は、ポルトガルでは無強勢部でも必ず a {{ipa|a}}, e {{ipa|ɛ}}, o {{ipa|ɔ}} で読む。 **例:acção(ポルトガル)、ação(ブラジル){{ipa|aˈsɐ̃w̃}} *語頭で無声子音の前の ex- は、ポルトガルでは "ech" または "eich" のように読む。 **expôr {{ipa|ɨʃˈpoɾ}} または {{ipa|ɐjʃˈpoɾ}} *[[硬口蓋音]] ch {{ipa|ʃ}}, j {{ipa|ʒ}}, lh {{ipa|ʎ}}, nh {{ipa|ɲ}} の前の強勢のある e は、ポルトガルでは {{ipa|ɐ}} と読む。 *qu はポルトガルでは前母音(e, i)の前で /k/ とも /[[唇音化|kʷ]]/ とも読むが、ブラジルでは /[[唇音化|kʷ]]/ は qü と書く。/[[唇音化|ɡʷ/]] も同様。{{要出典|date=2018年10月}} *音節末のLは、いわゆる[[有声歯・歯茎・後部歯茎側面接近音|dark L]](暗いL)で発音するが、ブラジルではウと発音することがある。 **Pt: Portugal {{ipa|puɾtuˈɣaɫ}} ** Br: Brasil {{ipa|bɾaˈziɫ}}, {{ipa|bɾaˈziw}} *ポルトガルではスペイン語と同様に /b/, /d/, /g/ が[[広母音]]間で摩擦音 [β], [ð], {{IPA|ɣ}} になる。前後に鼻母音がある場合は摩擦音にならない。 *e, i の前で c は /s/, g は {{ipa|ʒ}}で発音する。 **engenheiro {{ipa|e&#771;ʒɨˈɲɐjɾu}} === 強勢 === 強勢の位置は、必ず語末から1~3番目の音節にある。アクセント符号などがないときは、2番目にある。語末に子音 l, r, z や、 i, u の口母音または[[鼻母音]]、ã またはティルの付いた二重母音字がある場合は、語末に強勢がおかれる。他の音節に強勢が来る場合は、アクセント符号が付く。語末の s の有無は強勢位置の変化に影響しない。 *スペイン語学で a, e, o を強母音、i, u を弱母音というが、ポルトガル語学では「全て強母音」である。すなわち「―学」を意味する接尾語は -logia だが、強勢は -gi- にある。 例1「技術」 *ポ tecnologia 「テクヌル'''ジ'''ア(テクノロ'''ジ'''ア)」・・・アクセントの位置は太字で記載。以下同様。 *ス tecnología 「テクノロ'''ヒ'''ア」。仮にアクセント記号がなければ、「テクノ'''ロ'''ヒア」。 例2「歴史・物語」 *ポ história 「イス'''ト'''リア」。仮にアクセント記号がなければ、「イスト'''リ'''ア」。 *ス historia 「イス'''ト'''リア」 例3「警察」 *ポ polícia 「プ'''リ'''シア」。仮にアクセント記号がなければ、「プリ'''シ'''ア」。 *ス policía 「ポリ'''シ'''ア」。仮にアクセント記号がなければ、「ポ'''リ'''シア」。 例4「民主主義」 *ポ democracia 「デムクラ'''シ'''ア」。 *ス democracia 「デモク'''ラ'''シア」。上記3例と違い、スペルは全く同じ。 *標準的ではないが、(例えばサンパウロ方言に於いて)アクセントのある音節が s あるいは z で終わる語はブラジルではイが付いた発音になることがある。 **例:vocês {{ipa|voˈsejs}} rapaz {{ipa|xaˈpajs}} português /portug'ejs/ inglês /ingl'ejs/ === 音韻対応 === p, b の後の l の多くは r へと変化した。 *例(スペイン語との比較) **blanco(西)- branco(ポ)「白」 **playa(西)- praia(ポ)「浜辺」 === アルファベット === {{Main|ポルトガル語アルファベット}} {{ポルトガル語アルファベット}} === ポルトガル語の新正書法 === 子音のところでも記述した通り、ポルトガルとブラジルでは違う綴りで書かれる単語が少なくないが、[[2008年]][[5月]]に[[共和国議会 (ポルトガル)|ポルトガル議会]]は今後6年かけて綴りを現在のものからブラジル風のものに変更する法案を可決した<ref>http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7405985.stm</ref><ref>http://www.afpbb.com/articles/-/2704072 「ポルトガル語圏で「ブラジル式」に表記統一へ、国民は混乱」 AFPBB 2010年03月02日 2015年6月20日閲覧</ref>。旧植民地での表記法に旧宗主国が従うという珍しい事態になっているが、これはポルトガル語圏におけるブラジルの圧倒的な人口から来る経済的・文化的・学術的影響力を反映したものである。ブラジルでも2008年9月に大統領令として公布され、2012年末までの移行期間を経た上で2013年以降はこの新正書法が採用される。この正書法により、今後は一部の単語を除いて以下のような綴りとなる。 *従来ôoと綴っていた単語が、単にooとなる(例:vôo(フライト)>voo) *二重母音eiあるいはoiに強勢が来る場合、従来つけていたアクセント記号が不要となる(例: Coréia(韓国)>Coreia、apóio(支援)>apoio) *ポルトガル式では発音されないにもかかわらずに表記されていた子音が表記されなくなる(例: acção (行動) > ação) *ブラジル式では従来使用されていたトレマが廃止され、qüi, qüe, güi, güeがqui, que, gui, gueという表記に変わる。 ただ、新正書法の施行後も、ポルトガル式とブラジル式の綴りの間では相違が残る。mおよびnの前のoおよびeに強勢が来る場合、両国における発音の差を反映して、ポルトガルではóおよびéが、ブラジルではôおよびêが使用される。例: アントニオ(人名): António(ポルトガル)、Antônio(ブラジル) == 文法 == *名詞と形容詞は性数[[一致]]する。複数形は他の西ロマンス語と同様、語末に -s または -es をつける。ただし -al, el など l で終わるものは -l を -is に変え、 -ais, -eis などにするが、-il はその語末音節に強勢があれば -is, なければ -eis となる。また -ão は基本的に -ões になるが、-ães または -ãos になるものもある。女性形はスペイン語と同様、男性形が -o に終わるものは -a に変え、子音で終わるものは -o をつける。-ão の女性形は -ã か -ona となる。-es や -a などを付加した結果音節が増えた場合、単数形にあったアクセント記号はなくなることがある。綴字 m による鼻母音で終わる語は、-ns になる。 *ポルトガルでは2人称代名詞としての[[親称]] tu(単数)と vos(複数)が残っているが、ブラジルでは3人称の活用になる você(s) のみにほぼ代替されている。そのため、ブラジル式で勉強する場合、動詞の活用は各時制ごとに6つではなく4つ覚えればよい。ただし、2人称目的格の te は用いるなど、同じ相手に対して(文法上の)2人称と3人称の混同使用も見られる。また、ブラジル南部の移民は[[アルゼンチン]]なまりのためしばしば2人称単数代名詞として vos を用いる。 *英語では be + 現在分詞で表現する現在進行形を、ブラジルでは estar + 現在分詞で表す。一方、ポルトガルでは estar a + 不定詞と言う。 **例:Sandra está cantando.(ブラジル)、Sandra está a cantar.(ポルトガル)。意味はどちらも「サンドラは歌っている」 *ラテン語になかった接続法未来が存在する(この時制は中世[[ガリシア語]]、[[中世スペイン語]]では使用されたが、現在では一部の格言などに残っているだけで、日常生活では使わない)。 **例:Liguem-me quando vocês chegarem à França.(きみたちがフランスに着いたら電話をしてくれ) *[[不定詞]]に人称語尾の付いた「[[人称不定詞]]」がある。規則動詞では接続法未来と同形である。 **例:É natural ficarmos tristes após a morte do nosso melhor amigo.(われわれの最良の友人の死をわれわれが悲しむのは当然です) == 語彙 == 参考として、食べ物を表すポルトガル語と[[ラテン語]]、そして英語の単語を示す。順にポルトガル語、ラテン語、英語、日本語である。 *água aqua water [[水]] *limão citreum lemon [[レモン]] *manteiga butyrum butter [[バター]] *pão panis bread [[パン]] *queijo caseus cheese [[チーズ]] *sal sal salt [[塩]] *vinho vinum wine [[ワイン]] ポルトガル語も[[スペイン語]]と同様に[[アラビア語]]からの借用語はあるが、スペイン語に比べて少ない。[[レコンキスタ]]が早期に完了したポルトガルでは[[イスラム教徒]]の強制改宗や追放などもスペインより早く行われ、それに伴いアラビア語系の借用語も追放されていった。現在でもポルトガル人がスペイン人を指して「あいつ等スペイン人は[[モーロ人]]との混血だ」と優越感に浸る事があるという(同様の感情は、アンダルシア、ムルシア人に対するスペインの他の地域の住民の反応にも見られる)。 == 挨拶 == *Bom dia. - おはようございます *Boa tarde. - こんにちは *Boa noite. - こんばんは、おやすみなさい(両方の意味で用いる) *Durma bem. - おやすみなさい *Tchau. / Adeus. - さようなら<ref group="注" name="別れの挨拶">ブラジルでは「さようなら」の挨拶としては「Tchau.」をよく用いる。「Adeus.」はポルトガルでの「さようなら」の挨拶で、ブラジルでは永遠の別れを意味するので使用は控えたほうがよい。「Passe bem.」、「Fique bem.」は「ごきげんよう」といった挨拶で、ややフォーマル。「Até amanhã.」は直訳すると「明日まで」で、次も会うことが決まっている場合。「また来週」なら「Até semana que vem.」(直訳すると「来たる週まで」)。</ref> *Passe bem. / Fique bem. - お元気で<ref group="注" name="別れの挨拶" /> *Até amanhã. - また明日<ref group="注" name="別れの挨拶" /> *Obrigado. (男性形) / Obrigada. (女性形) - ありがとう *Tudo bem? - お元気ですか?(「調子はどう?」といった(英語におけるHow are you?のような)挨拶にも用いる) *Tudo bem. / Bem. / Mais ou menos. / Mal. / Tudo mal. - 元気です / 良好です / まあまあです / 悪いです / 最悪です *(Há) Quanto tempo! - お久しぶりです(Quanto tempo não o vejo!の略) *Quem está a falar? (葡) / Quem está falando? (伯) - どちら様ですか?(電話を受けたとき等。直訳すると「誰が話していますか?」) *Quem é você? - どちら様ですか?(見知らぬ人と遭遇したとき) *Socorro! - 助けて! *Pare com isso! - 止めろ! *Vem cá! - こっちに来い! == 日本語との関係 == [[ファイル:Multilingual Emergency Assembly Area Sign in Oizumi.JPG|250px|thumb|[[在日ブラジル人]]向けに日本語とポルトガル語が併記されている[[群馬県]][[大泉町]]の標識]] [[16世紀]]中頃にポルトガル人が[[種子島]]に漂着した([[鉄砲伝来]])。それ以来、[[イエズス会]]による[[キリシタン]]布教と[[マラッカ]]・[[マカオ]]を相手とする[[南蛮貿易]](主に[[近畿]]から[[九州]]地方)において、ポルトガル人が主要な役割を果たした。ポルトガル語は日本に最も早く伝来したヨーロッパの言語の一つであり、この時代に入った文物とともに、[[名詞]]などが[[日本語]]に定着した(「オランダ」や「イギリス」といった日本語固有の外国名の慣用も、多くがポルトガル語に由来する)。[[英語]]や[[フランス語]]など、主に19世紀以降に流入した外来語はもっぱら[[片仮名]]で表記されるのに対し、ポルトガル語由来の借用語は漢字の当て字や平仮名で表記する名詞も多く、深い浸透が窺える。アゴスティニョ([[小西行長]])、[[内藤如安]]、[[細川ガラシャ]]など、当時のキリシタンの洗礼名もポルトガル語に由来する。 [[1603年]]から[[1604年]]にかけて[[長崎市|長崎]]でイエズス会によって出版された『[[日葡辞書]]』は、出版されたものとしては最古の日葡辞典であり、当時の日本語の語彙や発音を知る上で貴重な資料となっている。 16世紀末から、[[マニラ]]貿易および[[フランシスコ会]]・[[ドミニコ会]]などの布教活動を通じて[[スペイン人]]との接触も密になった。そのため、ポルトガル語と[[スペイン語]]には同源・同形の単語も多いのでいずれが起源か判別しがたく、両者から同時に広まった可能性が高いものもある。 {{Anchors|ポルトガル語から日本語への借用語}} === ポルトガル語から日本語への借用の例 === {{出典の明記| date = 2022年10月}} {| class="wikitable" ! style="width:15%"| 日本語 ! 漢字による当て字 ! ポルトガル語 ! 備考 |- |[[有平糖|アルヘイトウ]] |有平糖 |alféloa |「[[アルフェニン]](alfenim)」に由来するという説もある。 |- |[[イギリス]] |英吉利 |inglês | |- |イルマン |伊留満、入満、由婁漫 |irmão |助修士、平修道士。バテレンの下。 |- |[[オラショ]] | |oratio | |- |[[オランダ]] |和蘭陀 |Holanda | |- |[[オルガン]] | |órgão | |- |[[合羽|カッパ]] |合羽 |capa | |- |[[カボチャ]] |南瓜 |abóbora |「ぼうぶら」「ボーボラ」などの地方名も、ポルトガル語でカボチャやウリ類を意味する「abóbora」に由来するとされる。 |- |[[カステラ]] | |Castela |[[カスティーリャ王国]]のこと。[[パン・デ・ロー]]を「ボロ・デ・カステラ(Bolo de Castella、カスティーリャ王国の菓子)」と説明したものが菓子の名として広まったとされている。 |- |[[カピタン]] |甲比丹 |capitão | |- |[[かるた|カルタ]] |歌留多 |cartas | |- |[[カルメラ]]/[[キャラメル]] | |caramelo | |- |[[ガラス|ギヤマン]] | |diamante |元は原義と同じく[[ダイヤモンド]]を意味し、[[切子]]細工にそれを用いたことに由来する。 |- |[[キリシタン]] |切支丹 |cristão | |- |[[ギリシャ]] | |Grécia | |- |[[イエス・キリスト|キリスト]] | |Cristo | |- |[[十字架|クルス]] |久留子 |cruz | |- |[[コレジオ]] | |colégio | |- |[[コロッケ]] | |croquete |[[オランダ語]]に由来するという説もある。 |- |[[金平糖|コンペイトー]] |金平糖 |confeito | |- |[[更紗|サラサ]] |更紗 |saraça | |- |[[ザボン]] |朱欒、謝文 |zamboa | |- |[[石鹸|シャボン]] | |sabão | |- |[[襦袢|ジバン]] |襦袢 |gibão | |- |[[じょうろ|ジョウロ]] |如雨露 |jarro |異説あり。 |- |[[セミナリヨ]] | |seminário | |- |[[タバコ]] |煙草 |tabaco | |- |[[チャルメラ]] | |charamela | |- |[[ウェストコート|チョッキ]] | |jaque |英語の「jacket」に由来するという説もある。 |- |[[デウス]] | |deus | |- |[[天ぷら|テンプラ]] |天麩羅、天婦羅 |tempero |当時のイエズス会宣教師達が行なっていた肉を断食する儀式、またその時期に食べていた[[精進料理]]に似た揚げ物「Têmporas」に由来するという説もある。 |- |[[トタン]] | |tutanaga | |- |[[トルコ]] |土耳古 |turco | |- |[[ノビシャド]] | |noviciado | |- |[[宣教師|バテレン]] |伴天連、破天連 |padre | |- |[[寿司#大阪寿司|バッテラ]] | |bateira | |- |[[パン]] |麺麭 |pão | |- |バンコ | |banco |[[縁台]]、腰掛けを指す[[九州|九州地方]]の方言。 |- |[[ビードロ]] | |vidro |[[ビー玉]]も同語源。 |- |[[ビスケット]] | |biscoito | |- |[[ミャンマー|ビルマ]] | |Birma |[[オランダ語]]に由来するという説もある。 |- |[[ビロード]] | |veludo | |- |[[ピン]] | |pinta |「賽の目の一の数」「最上等のもの」を意味する方。[[ピン芸人]]はこれに由来。 |- |[[フラスコ]] | |frasco | |- |[[ブランコ]] | |balanço |擬態語の「ぶらり」や「ぶらん」に由来するという説もある。 |- |[[ベランダ]] | |varanda | |- |[[ボーロ]] | |bolo | |- |[[ボタン (服飾)|ボタン]] |釦 |botão | |- |[[先斗町]] | |ponto |「先(岬のように尖った地形)」を意味する「ponta」に由来するとも言われる。 |- |[[マルメロ]] | |marmelo | |- |[[マント]] | |manto |オランダ語の「mantel」が先に[[オランダ語から日本語への借用|由来した]]という説もある。 |- |[[ミイラ]] |木乃伊 |mirra | |- |[[メリヤス]] |莫大小 |meias | |- |[[モール]] | |mogol | |- |[[羅紗|ラシャ]] |羅紗 |raxa | |- |[[ランビキ]] | |alambique | |- |[[ロザリオ]] | |rosário | |- |} == スペイン語との比較 == 詳細: [[:en:Differences_between_Spanish_and_Portuguese]] ポルトガル語は同じ[[イベロ・ロマンス語]]の[[スペイン語]]に非常に似ている言語である。発音や綴りが似ていたり、単語や語彙の意味が共通しているなど至るところに類似点が見られる。 [[スペイン語]]の表現から引用。 *「Buenos días」(ブエノス・ディアス)= おはようございます。(お昼ご飯を食べるまで) *「Buenas tardes」(ブエナス・タルデス)= こんにちは(日がある間)。 *「Buenas noches」(ブエナス・ノーチェス)= おやすみなさい。 *「Hola」 (オラ)= こんにちは。 比較すると綴りにはかなりの類似点が見られる。ただし、スペイン語の挨拶では上記のように複数形が用いられるのに対し、ポルトガル語では単数形を用いる。 スペイン語とポルトガル語の話者は双方の言語を理解でき、概ね相互に意思の疎通が可能であることが多い。ブラジルの放送では、スペイン語諸国の大統領演説などは翻訳なしで流される。ウルグアイの[[リベラ (ウルグアイ)|リベラ]]とブラジルの[[サンタナ・ド・リブラメント]]との国境周辺にて、ポルトガル語とスペイン語の混合方言[[フロンテイリソ]]が話されている。 スペイン語とポルトガル語の違いについて、以下、主な点を列挙する。 === 発音の違い === *ポルトガル語にはeやoに2通りの発音(é/ê, ó/ô: ポルトガルではこれにあいまい母音化したeが加わる)があるが、スペイン語は1通りの発音(日本語のエやオと同じ発音)しかない。 *ポルトガル語には[[鼻母音]]があるが、スペイン語にはない。 *ポルトガル語ではchはシャ行の発音だが、スペイン語ではチャ行の発音である。 *ポルトガル語では上記のchの他、語末や破裂音の前のsやxを{{ipa|ʃ}}と発音し、ポルトガル語ではこの音は頻出するが、スペイン語の音素には存在しない。しかし、カスティーリャ地方では/s/を発音する際舌を凹状にするためやや[ʃ]に近い。 *ポルトガル語ではジャ行の発音となるge/gi/jは、スペイン語ではハ行の音に近い音(日本語にはない音で、日本語のハ行と同音ではない)である。 *ポルトガル語では音節末のlがウに近い発音になるが、スペイン語ではそのような変化は起きていない。 *ポルトガル語のlhはリャ行の発音を留めているが、本来はこれと同じ発音だったスペイン語のllはほぼ全ての方言でジャ行あるいはヤ行(スペイン語話者はこれらの音の区別は困難。ブエノスアイレスではシャ行)に変化している。 *ポルトガル語ではハ行で発音される語頭のrやrrは、スペイン語では巻き舌で発音される。 *スペイン語にはザ行の発音がなくsとzはサ行の発音となる(Brasilを「ブラシル」、Venezuela を「ベネスエラ」と発音) *スペイン語ではvとbの発音は区別がなく常にbの発音だがポルトガル語ではイタリア語やフランス語と同様に区別される。([[カーボヴェルデ|Cabo Verde]]はスペイン語だと"カーボベルデ"と表記出来、ポルトガル語だと"カーボヴェルデ"と表記出来る<ref group="注">Cabo Verdeは本来ポルトガル語 (緑の岬 の意味)だが、スペイン語でも同じCabo Verdeである。スペイン語、ポルトガル語両方ともCaboは"岬"、Verdeは"緑色の"という意味である。</ref>) *スペイン語ではxはs(子音の前あるいは語頭)あるいはks(母音の前)と発音されるが、メキシコ関係の地名ではハ行で発音される(Méxicoメヒコ、Oaxacaオアハカなど)。 *ポルトガル語・スペイン語間で同源同義の単語で子音交替が起こることがある。 **l と r :「白」はポルトガル語で branco、スペイン語で blanco。「南」はポルトガル語で sul、スペイン語で sur。「[[サーベル]]」はポルトガル語でsable、スペイン語でsabreである。 **b と v :「本」はポルトガル語で livro、スペイン語で libro。「バニラ」はポルトガル語で baunilha、スペイン語で vainilla。 *ポルトガル語・スペイン語ともにk, w は外来語にしか使われない。yはポルトガル語では外来語にしか使わないが、スペイン語では頻繁に使われる(ヤ行またはジャ行の発音)。 === 文法の違い === *現在ブラジルでは使われなくなった親称二人称単数tuが、スペイン語圏では幅広く使われている(コロンビアやコスタリカなどを除く。またアルゼンチンや中米などではtuのかわりにvosを使う地域もある)が、親称二人称複数であるvosotros/-asは中南米では使われず、もっぱらスペインでのみ使われる。このためブラジル・ポルトガル語では活用形は事実上4つ(eu、ele/ela、nós、eles/elas)である。これに加え、ポルトガルのポルトガル語では二人称単数が加わり、二人称複数は事実上ほぼ使われないため、動詞活用形は5つである。中南米のスペイン語圏では活用形は5つ(yo、tú、él/ella/usted、nosotros/-as、ellos/-as)、スペインではこれに加えてvosotros/-asに対応する動詞活用がある。つまり、三つの人称の単数、複数の計6つの活用形が存在する。また近年、ブラジル北部や南部、リオデジャネイロを中心に、文法上は正しくないが tu を用いながら活用形は三人称を用いるという現象も起こっている。また、ポルトガル語では目上の人に対して一般名詞的なo senhor, a senhoraを二人称として用いることがある。 *現在進行形を表す動詞迂言法は、ポルトガルのポルトガル語ではestar a+不定詞(例: estou a cozinhar)で表すが、スペイン語ではブラジル・ポルトガル語同様estar+現在分詞(例: estoy cocinando)の形で表す。ただし、スペイン語では現在形で現在進行の意味を表すことが多く、英語ほど多用されない。 *ポルトガル語では過去完了単純形となる活用(tivera, tivera, tivéramos, tiveram)は、スペイン語では接続法過去の-ra形となる。スペインではtuviera, tuvieras...とtuviese, tuvieses...(-se形)の両方が使われるが、特に中南米では-ra形しか使われない。 *ポルトガル語では接続法未来(例: quando vier ao Japão(日本に来る場合には))が頻繁に使われるが、スペイン語では接続法未来は古文調の言い回しを除いて使われない。 現在では、ブラジルやポルトガルでは若年層がスペイン語を勉強し、またスペイン語圏でも特に[[パラグアイ]]や[[アルゼンチン]]、[[ウルグアイ]]などではポルトガル語学習熱が高まっている。英語を習得するよりはるかに楽に習得できると言われている{{要出典|date=2023年1月}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == *『現代日葡辞典』 ISBN 4095153512 *{{citation |last=Bisol |first=Leda |year=2005 |title=Introdução a estudos de fonologia do português brasileiro |place=Porto Alegre - Rio Grande do Sul |publisher=EDIPUCRS |language=Portuguese |isbn=85-7430-529-4 |url=https://books.google.co.jp/books?id=TFzWAq-S7I0C&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja }} * {{citation |last=Cruz-Ferreira |first=Madalena |year= 1995 |title=European Portuguese |journal=Journal of the International Phonetic Association |volume=25 |issue=2 |pages=90–94 |doi=10.1017/S0025100300005223 }} == 関連項目 == *[[ルゾフォニア]] *[[スペイン語]] *[[ポルトガル語新辞典]] *[[イベリア半島の言語純化運動]] *[[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat}} {{Wikipedia|pt}} {{ウィキポータルリンク|言語学|[[画像:Logo sillabazione.png|none|38px]]}} *[http://www.dicionarios-online.com Dicionários-Online.com]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }} Dicionários em português/A directory of dictionaries and other reference works in Portuguese. *[http://www.qasana.com/cgi/content.pl?skin=jpn&lng=por カサーナ] ポルトガル語単語暗記システム(日本語) *[http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=POR Ethnologue report for language code: POR] *[https://groups.google.com/g/portugues_asia?hl=pt-BR Promoting and restoring the use of the Portuguese language in Asia] *[http://translation.infoseek.co.jp/?ac=Text&lng=pt ポルトガル語翻訳(infoseek マルチ辞書)] *[http://www.scribd.com/doc/7492805/Guia-Pratico-da-Nova-Ortografia-Brasileira-2009 ポルトガル語の新正書法について](ブラジル式、ポルトガル語) *[http://www.nippo.com.pt オンライン日葡辞書] *[https://vocapp.com VocApp] ポルトガルと他の言語を無料で学ぶ * {{Kotobank}} {{アフリカ連合の言語}} {{ロマンス諸語}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほるとかるこ}} [[Category:ポルトガル語|*]] [[Category:ポルトガルの言語]] [[Category:ブラジルの言語]] [[Category:アンゴラの言語]] [[Category:モザンビークの言語]] [[Category:インド・ヨーロッパ語族]] [[Category:ロマンス諸語]]
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猪八戒
猪 八戒(ちょ はっかい、繁体字: 豬八戒; 簡体字: 猪八戒; 拼音: Zhū Bājiè; ウェード式: Chu Pa Chieh; 粤拼: zyu1 baat gaai、タイ語: ตือโป๊ยก่าย、ベトナム語: Trư Bát Giới)は、中国の四大奇書小説『西遊記』に登場する主要登場キャラクターの一人である妖仙。台湾などでは豬哥神()という神として崇拝されている。 中国語では家猪はブタ、野猪がイノシシを意味し、単に「猪」といえば通常はブタのことをさす。元代の西遊記とみられる逸話をもつ朝鮮の『朴通事諺解』(1677年)では、「猪」と近似した発音の「朱」を名字としていたが、明代に皇帝の姓が「朱」であったため、避諱により元の意の通り「猪」を用い、猪八戒となった。 元々は、北極紫微大帝の配下で天界で天の川を管理し水軍を指揮する天蓬元帥()だった。西遊記よりも古い西遊雑劇などの設定では摩利支天の配下・御車将軍であったともされる。女癖の悪さで知られ、蟠桃会の折に酔った勢いで嫦娥()に強引に言い寄った為、鎚で2000回打たれる刑罰をうけ、さらに天界を追われて地上に落とされた。 地上では真っ当に生きようと人間に生まれ変わるはずが、誤って雌豚の胎内に入り、黒豚の妖怪となってしまった。雌豚の腹を噛み破って生まれ、群れの他の豚も打ち殺して、福陵山で人食い妖怪となる。その後、武芸をたしなむことを見初められ、福陵山雲桟洞の女妖怪であった卯二姐()に婿として迎えられるが、一年余りで妻とは死別し、彼女の財産を使い果たすと、また人を喰らうようになった。 ある日、天竺に経典を取りに行く人物を探していた観音菩薩と恵岸に出会い、菩薩と知らずに最初は襲撃するが、知って慈悲を乞う。菩薩は猪悟能()という名を与えて、取経者の弟子となるように諭した。それで改心して人食いを止め、自らの意志で斎()を守って五葷()三厭()(八戒)を断つ決心をして、精進料理だけの食生活をして待っていた。 しかし待ちくたびれて人里におりていき、猪剛鬣()と名乗って、烏斯蔵()国高老荘の商家に強引に婿入りし、高太公の末娘の高翠蘭を娶る。ただし娘に危害は加えておらず、大変な大飯喰らいだが、酒や葷()は食さずに精進を貫き、家業にも励んで財産をなしていたという。ところが、化け物を婿にとったというのでは世間への体裁が悪いという、高太公が玄奘三蔵に頼んで、孫悟空に退治させることになった。悟空と戦うが、相手が観音菩薩の予告した取経者の一行だと知ると降参し、ねぐらの雲桟洞を焼き払って、三蔵に弟子入りした。 三蔵は、五葷三厭を食べないでいたことに感心し、念願が叶ったので物忌をもう止め普通に食べたいという猪悟能をおしとどめて、猪八戒という別名を与え、以後も戒めは守り続けるように諭した。彼はこれを嬉々として受け入れる。以後、孫悟空、沙悟浄らと共に天竺まで経典を求めて旅をする。 原作においては、敬虔な仏教徒ないし僧として描かれ、煩悩と戦いながらも飲酒(ただし般若湯と憚って飲むシーンはある)・生臭食・女犯(前述の通り婿入りしたことはある)を犯すことは無く、僧としての義務である八斎戒も守っていた。三蔵一行のなかでコミカルな役回りが多く、明るく単純な性格に描写され、悟空によくからかわれる。豚そのものの醜い姿で、頭髪はない。 西域より帰還の後、未来世に浄壇使者(じょうだんししゃ)となることを釈迦如来より約束される。三蔵法師は旃檀功徳仏、孫悟空は闘戦勝仏、沙悟浄は金身羅漢であり、3人は仏や聖者なのに自分だけ「使者」である事に猪八戒は不平を漏らすが、釈迦如来曰く、法事の祭壇を清める(つまり供物の残りを好きなだけ食べられる)役という事で、猪八戒の大食に配慮しての事であった。 日本で初めて猪八戒をブタであると正しく訳したのは、新聞記者・随筆家の弓館小鰐である。東京日日新聞に連載され、1931年に改造社から刊行された弓館訳『西遊記』の中で使われた。それ以前の『通俗西遊記』(1858年)などにおいては、イノシシであると訳されていた。ただしその『通俗西遊記』の挿絵は、中国の書物を真似て、毛のない豚の姿で描かれているので、違いはすでに認識されていた可能性はある。 前述のように原作や中国では豚そのものの醜い姿で、八戒のイメージは豚のイメージと被る。しかも時代が経るに従ってえびすのように恰幅の良い腹の出た姿になり、神像となっていった。日本で人間化された姿で描写されることがあるのとはかなりイメージが異なる。また作中での役回りは道化役であり、八戒が失敗したり愚かだったりするのは、物語の構成上必要なものである。 日本ではネガティブに見られることもある上記の性質であるが、その自由奔放で人間くさい性格から、中国では孫悟空以上の人気を誇り、タンキーによく降ろされる神仙でもある。また、中国では「猪八戒吃人参果(猪八戒が人参果(架空の不老長寿の果実)を食べる)」(猪八戒は人参果の味が分からないので、物の価値や有難みを理解しないこと、日本の「猫に小判」「豚に真珠」と同義)など、猪八戒を題材とする諺も生まれた。 西遊記を元本とする物語では悟空一人で格闘、殺陣を担当し残りの三人はコメディーリリーフとなる話も多いが原作では八戒も何人かの敵妖怪と対峙し討ち取っている。以下はその妖怪たちである。
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猪 八戒は、中国の四大奇書小説『西遊記』に登場する主要登場キャラクターの一人である妖仙。台湾などでは豬哥神という神として崇拝されている。
[[Image:Xiyou2.PNG|thumb|西遊原旨の挿絵より。文字通りの豚の姿が原作のイメージ]] {{中華圏の事物 |タイトル= 猪八戒 |画像種別= |画像= [[File:猪八戒吃西瓜.jpg|200px]] |画像の説明= [[剪紙]][[アニメーション]]『猪八戒吃西瓜』<br />([[1958年]]制作)の一場面 |英文= |簡体字= 猪八戒 |繁体字= 豬八戒 |ピン音= Zhū Bājiè |通用 = |注音符号= ㄓㄨㄅㄚㄐㄧㄝˋ |ラテン字= Chu<sup>1</sup> Pa<sup>1</sup>-chieh<sup>4</sup> |広東語ピン音= Zyu<sup>1</sup> Baat<sup>3</sup> Gaai<sup>3</sup> |広東語= |上海語= |閩南語白話字= Tu Pat-kài |台湾語= |カタカナ= ヂュ バージェ |ひらがな= ちょ はっかい}} '''猪 八戒'''(ちょ はっかい、{{Lang-zh | t=豬八戒| s=猪八戒| hp=Zhū Bājiè||w =Chu Pa Chieh |j =zyu¹ baat{{sup|3}} gaai{{sup|3}} | first=t}}、{{Lang-th|ตือโป๊ยก่าย}}、{{Lang-vi|Trư Bát Giới}})は、[[中国]]の[[四大奇書]][[小説]]『[[西遊記]]』に登場する主要登場[[キャラクター]]の一人である妖仙。[[台湾]]などでは{{読み仮名|{{lang|zh-hant|'''豬哥神'''}}|{{ピン音|Zhū gē shēn}}}}という神として崇拝されている<ref>[http://taiwanpedia.culture.tw/web/content?ID=12018&Keyword=%E7%A5%96%E5%B8%AB%E7%88%BA 豬哥神(豬八戒) - 台灣大百科全書]</ref>。<!--{{記事名の制約|title={{lang|zh-hant|豬八戒}}}}現状でも問題ないと考えられるのでコメントアウト--> == 概要 == 中国語では家猪は[[ブタ]]、野猪が[[イノシシ]]を意味し、単に「猪」といえば通常はブタのことをさす。[[元 (王朝)|元代]]の西遊記とみられる逸話をもつ朝鮮の『朴通事諺解』([[1677年]])では、「猪」と近似した発音の「朱」を名字としていたが、[[明]]代に[[皇帝]]の姓が「朱」であったため、[[避諱]]により元の意の通り「猪」を用い、猪八戒となった。 元々は、[[北極紫微大帝]]の配下で天界で[[天の川]]を管理し水軍を指揮する{{読み仮名|'''天蓬元帥'''|てんぽうげんすい}}だった。西遊記よりも古い[[雑劇|西遊雑劇]]などの設定では[[摩利支天]]の配下・御車将軍であったともされる。女癖の悪さで知られ、[[蟠桃会]]の折に酔った勢いで{{読み仮名|[[嫦娥]]|じょうが}}に強引に言い寄った為、鎚で2000回打たれる刑罰をうけ、さらに天界を追われて地上に落とされた。 地上では真っ当に生きようと人間に生まれ変わるはずが、誤って雌豚の胎内に入り、黒豚の[[妖怪]]となってしまった。雌豚の腹を噛み破って生まれ、群れの他の豚も打ち殺して、福陵山で人食い妖怪となる。その後、武芸をたしなむことを見初められ、福陵山雲桟洞の女妖怪であった{{読み仮名|'''卯二姐'''|マオアールジェ}}に婿として迎えられるが、一年余りで妻とは死別し、彼女の財産を使い果たすと、また人を喰らうようになった。 ある日、[[天竺]]に[[経典]]を取りに行く人物を探していた[[観音菩薩]]と恵岸に出会い、菩薩と知らずに最初は襲撃するが、知って慈悲を乞う。菩薩は{{読み仮名|'''猪悟能'''|ちょごのう}}という名を与えて、取経者の弟子となるように諭した。それで改心して人食いを止め、自らの意志で{{読み仮名|斎|とき}}を守って{{読み仮名|五葷|ごくん}}{{読み仮名|三厭|さんえん}}<ref>通例では反対だが、「五葷三厭」は原作の通りの順。平凡社版の脚注によると、五葷は五辛とも言い、[[ニンニク]]や[[ニラ]]のような辛い野菜をさす。三厭は忌んで食べないものの意で、雁には夫婦の倫があり、{{読み仮名|狗|イヌ}} には{{読み仮名|扈主|こしゅ}} の誼(=主に従うの意味)あり、烏魚(=[[ボラ]]のこと)は忠敬の心あり、として鴨肉、犬肉、ボラの3つの肉をさす。</ref>(八戒<ref>ここでは仏教の[[八斎戒]]の意味ではなく、前述の8つの食べていけない食物をさす。</ref>)を断つ決心をして、精進料理だけの食生活をして待っていた。 しかし待ちくたびれて人里におりていき、{{読み仮名|'''猪剛鬣'''|ちょごうりょう}}と名乗って、{{読み仮名|[[烏斯蔵]]|うしぞう}}国高老荘の商家に強引に婿入りし、高太公の末娘の'''高翠蘭'''を娶る。ただし娘に危害は加えておらず、大変な大飯喰らいだが、酒や{{読み仮名|葷|なまぐさ}}は食さずに精進を貫き、家業にも励んで財産をなしていたという。ところが、化け物を婿にとったというのでは世間への体裁が悪いという、高太公が[[玄奘三蔵]]に頼んで、[[孫悟空]]に退治させることになった。悟空と戦うが、相手が観音菩薩の予告した取経者の一行だと知ると降参し、ねぐらの雲桟洞を焼き払って、三蔵に弟子入りした。 三蔵は、五葷三厭を食べないでいたことに感心し、念願が叶ったので物忌をもう止め普通に食べたいという猪悟能をおしとどめて、'''猪八戒'''という別名を与え、以後も戒めは守り続けるように諭した。彼はこれを嬉々として受け入れる。以後、[[孫悟空]]、[[沙悟浄]]らと共に天竺まで経典を求めて旅をする。 原作においては、敬虔な[[仏教徒]]ないし[[僧]]として描かれ、煩悩と戦いながらも飲酒(ただし般若湯と憚って飲むシーンはある)・生臭食・[[女犯]](前述の通り婿入りしたことはある)を犯すことは無く、僧としての義務である[[八斎戒]]も守っていた。三蔵一行のなかでコミカルな役回りが多く、明るく単純な性格に描写され、悟空によくからかわれる。豚そのものの醜い姿で、頭髪はない。 西域より帰還の後、未来世に浄壇使者(じょうだんししゃ)となることを釈迦如来より約束される。三蔵法師は旃檀功徳仏、孫悟空は闘戦勝仏、沙悟浄は金身[[阿羅漢|羅漢]]であり、3人は仏や聖者なのに自分だけ「使者」である事に猪八戒は不平を漏らすが、釈迦如来曰く、法事の祭壇を清める(つまり供物の残りを好きなだけ食べられる)役という事で、猪八戒の大食に配慮しての事であった。 == 一般的なイメージ == 日本で初めて猪八戒をブタであると正しく訳したのは、新聞記者・随筆家の[[弓館小鰐]]である。[[東京日日新聞]]に連載され、[[1931年]]に改造社から刊行された弓館訳『西遊記』の中で使われた。それ以前の『通俗西遊記』([[1858年]])などにおいては、イノシシであると訳されていた。ただしその『通俗西遊記』の挿絵は、中国の書物を真似て、毛のない豚の姿で描かれているので、違いはすでに認識されていた可能性はある。 前述のように原作や中国では豚そのものの醜い姿で、八戒のイメージは豚のイメージと被る。しかも時代が経るに従って[[えびす]]のように恰幅の良い腹の出た姿になり、[[神像]]となっていった。日本で人間化された姿で描写されることがあるのとはかなりイメージが異なる。また作中での役回りは道化役であり、八戒が失敗したり愚かだったりするのは、物語の構成上必要なものである。 * 太鼓腹に長い鼻のある豚の顔 * 怪力 * 好色 * 食欲旺盛 * 楽天的 * 欲が深い * 怠け者 * [[馬鹿|愚か]] * 武器は釘鈀(ていは)。9本の歯を持つ、熊手を思わせる[[馬鍬]]風の[[農具]]で、[[太上老君]]の作。材質は神氷鉄。元帥昇進の祝いに天帝から下された物。重量は[[経蔵 (建築)|経蔵]]1つ分の経典と同じ、5040[[斤]]<ref>これは沙悟浄の“降魔の宝杖”も同じ</ref>(約3トン)。ほとんど振るわれることはないが、本気で使うと火炎旋風を巻き起こすという。 * 孫悟空同様に雲に乗って空を飛べる<ref>速度は孫悟空より遅いが、孫悟空は天上天下で最強の神仙であるので、当然といえば当然</ref> 日本ではネガティブに見られることもある上記の性質であるが、その自由奔放で人間くさい性格から、中国では孫悟空以上の人気を誇り<ref>[[2006年]][[1月7日]]放送の[[SmaSTATION!!|SmaSTATION-5]]より{{要高次出典|date=2016-12-09}}</ref>、[[タンキー]]によく降ろされる神仙でもある。また、中国では「猪八戒吃人参果(猪八戒が人参果(架空の不老長寿の果実)を食べる)」(猪八戒は人参果の味が分からないので、物の価値や有難みを理解しないこと、[[日本]]の「猫に小判」「豚に真珠」と同義)など、猪八戒を題材とする[[諺]]も生まれた。 ==八戒が倒した妖怪== [[File:天篷元帥(tian peng yuan shuai).jpeg|thumb|180px|天蓬元帥]] 西遊記を元本とする物語では悟空一人で格闘、殺陣を担当し残りの三人はコメディーリリーフとなる話も多いが原作では八戒も何人かの敵妖怪と対峙し討ち取っている。以下はその妖怪たちである。 *虎先鋒 *狐阿七大王 *蠍の精 *万聖公主 *十八公ら木の精 *美后 *南山大王 *辟暑大王 *辟塵大王 == 名前の遍歴 == * 天蓬元帥(天帝の任命職名) * 猪悟能(観音菩薩が名づけた法名) * 猪剛鬣(婿養子の際の自称) * 猪八戒(玄奘三蔵による[[通称]]) * 浄壇使者(釈迦如来の任命 仏に捧げられたお供え物の始末を一手に引き受ける、即ち自分で食べてしまってもよい) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Zhu Bajie}} * [[西遊記の成立史]] * [[八斎戒]] * [[梅山豚]] - モデルになったとされる中国の[[太湖豚]]系の原種豚の品種名。 {{西遊記}} {{DEFAULTSORT:ちよはつかい}} [[Category:西遊記]] [[Category:架空のブタ]] [[Category:架空の僧]] [[Category:フィクションの妖怪]]
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H-Iロケット
H-Iロケット(エイチワンロケット、エイチいちロケット)は、宇宙開発事業団(NASDA)と三菱重工業がN-IロケットとN-IIロケットに続いて開発し、三菱重工業が製造した人工衛星打上げ用液体燃料ロケットである。名称の頭文字「H」は水素の元素記号に由来し、第2段の燃料に液体水素を使用することから名付けられた。 Nロケットに引き続き、一部がブラックボックスの条件で米国のデルタロケットの技術を導入し開発された。第2段と第3段ロケットや慣性誘導装置を国産化しており、デルタロケットの技術導入を行った3種類のロケットの中では国産比率が最も高く、N-IIでは54%から61%だった国産化率がH-Iでは78%から98%まで向上した。次世代のH-IIロケットへの重要なステップとなったが、第1段が自主技術で開発したものではないために、N-IやN-IIと同様にデルタロケットの亜種として分類される。名称はH-IIと類似しているが、N-IIと共通の第1段を用いている等、技術的な類似点はN-IIの方が多い。 第2段用に液体酸素と液体水素を推進剤とするLE-5型エンジンを自主技術で開発できたことは、次世代のH-IIロケットの第1段用LE-7型エンジンの実現に道筋をつけた点で意義が大きい。LE-7の実用化にはそれにもかかわらず大変な努力を要したわけであるが、LE-5の経験が無ければさらに難易度が高くなったといえる。 1981年(昭和56年)に開発が開始され、1986年(昭和61年)8月13日にH-I試験機(第1号機)の打ち上げに成功、1992年(平成4年)まで合計9機を打ち上げ、すべて成功した。これにより「さくら」「ひまわり」「ゆり」など実用静止衛星の打上げを順調にこなし、さらに複数衛星の同時打上げの技術習得も行った。 関係機関の一部ではH-IAとも呼称されていたこともあり、後継として静止軌道に800kgの打上げ能力をもつH-IBロケット(後述)を開発する予定であった。しかし、2t級静止衛星の需要増加や国内技術の進歩のために計画を発展的に解消し、H-IIロケットの開発へと移行することになった。 Nロケットの打ち上げ能力不足を背景として1975年(昭和50年)から以下のような基本的な枠組みの元に調査研究が開始された。 この研究において上段の構成要素はほぼ決定されていたが、第1段をどういったものにするかが争点となった。第1段を新規開発するのであれば開発計画に間に合わず、N-IIの流用とすると新規開発要素が少ないために開発計画には間に合うが打ち上げ能力が計画値の下限にとなる等、それぞれ問題があった。最終的にはN-IIの第1段を流用した500kg級のロケットH-IA(後のH-Iに該当)をまず開発し、その後800kgまで能力を増強したH-IBを開発するという計画に落ち着いた(後にH-IBは計画中止)。 3段式の液体+固体ロケット 注:LEO:低軌道、GSO:静止軌道 Hロケットの開発計画において800kgの静止衛星打上げ能力をもつロケットとして計画されていたのがH-IBロケットである。固体補助ロケットのキャスターIVクラスへの大型化、MB-3-3エンジンのクラスタ化、新大型第1段エンジンの開発、推力偏向機能付大型固体補助ロケットを採用する等、幅広く検討が行われ、第3段をLOX/LH2エンジンに置き換える案が有力となった。第3段を置き換える案は詳細な設計検討まで行われ、1989年の試験1号機打ち上げを目指していた。しかし、急速な2t級静止衛星の需要増加により、1982年(昭和57年)頃に計画はH-IIロケットへと発展的に解消する方向性が示され、最終的に1984年(昭和59年)2月の宇宙開発政策大綱改訂によって書類上からも計画は消滅した。 H-Iロケットの実物大展示模型が、1989年3月から宮崎科学技術館に設置されている。
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H-Iロケット(エイチワンロケット、エイチいちロケット)は、宇宙開発事業団(NASDA)と三菱重工業がN-IロケットとN-IIロケットに続いて開発し、三菱重工業が製造した人工衛星打上げ用液体燃料ロケットである。名称の頭文字「H」は水素の元素記号に由来し、第2段の燃料に液体水素を使用することから名付けられた。
{{ロケット |名称 = H-I |画像名 = H-I-FullScaledModel-20090827.jpg |画像サイズ = 250px |画像の注釈 = H-Iロケット(実物大模型) |基本データ = 基本データ |運用国 = {{JPN}} |開発者 = [[宇宙開発事業団|NASDA]]<br>[[三菱重工業|三菱重工]]<br>[[マクドネル・ダグラス]] |運用機関 = [[宇宙開発事業団|NASDA]] |使用期間 = [[1986年]] - [[1992年]] |射場 = [[種子島宇宙センター]]大崎射点 |打ち上げ数 = 9回 |成功数 = 9回 |開発費用 = 約1600億円<ref>研究・技術計画学会 第2回年次学術大会講演要旨集 [https://ci.nii.ac.jp/naid/110003735074/ 2A6 H-Iロケットの開発] - 十亀英司</ref> |打ち上げ費用 = 150億円 |原型 = [[N-IIロケット]] |姉妹型 = |発展型 = |公式ページ = https://www.jaxa.jp/projects/rockets/h1/ |公式ページ名 = JAXA - H-Iロケット |物理的特徴 = 物理的特徴 |段数 = 2段または3段 |ブースター = 6基または9基 |総質量 = 139.9 トン |空虚質量 = |全長 = 40.3 m |直径 = 2.44 m(第1段コア) |軌道投入能力 = 軌道投入能力 |低軌道 = 2,200 kg |低軌道詳細 = 300km / 30度 (2段式) |中軌道 = |中軌道詳細 = |極軌道 = |極軌道詳細 = |太陽同期軌道 = |太陽同期軌道詳細 = |静止移行軌道 = 1,100 kg |静止移行軌道詳細 = |静止軌道 = 550 kg<br />(燃焼後アポジモータ質量含) |静止軌道詳細 = |その他軌道名 = 地球重力圏脱出軌道 |その他軌道 = 770 kg |その他軌道詳細 = |その他軌道名2 = |その他軌道2 = |その他軌道詳細2 = |表の脚注 = }} '''H-Iロケット'''(エイチワンロケット、エイチいちロケット)は、[[宇宙開発事業団]](NASDA)と[[三菱重工業]]が[[N-Iロケット]]と[[N-IIロケット]]に続いて開発し、三菱重工業が製造した[[人工衛星]]打上げ用[[液体燃料ロケット]]である。名称の頭文字「H」は[[水素]]の[[元素記号]]に由来し、第2段の燃料に[[液体水素]]を使用することから名付けられた<ref>[https://fanfun.jaxa.jp/faq/detail/301.html ファン!ファン!JAXA! FAQ ロケットの名前はどのようにして決まるのですか?] JAXA公式サイト</ref>。 == 概要 == Nロケットに引き続き、一部が[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]の条件で[[アメリカ合衆国|米国]]の[[デルタロケット]]の技術を導入し開発された。第2段と第3段ロケットや[[慣性誘導装置]]を国産化しており、デルタロケットの技術導入を行った3種類のロケットの中では国産比率が最も高く、N-IIでは54%から61%だった[[国産化率]]がH-Iでは78%から98%まで向上した。次世代の[[H-IIロケット]]への重要なステップとなったが、第1段が自主技術で開発したものではないために、N-IやN-IIと同様にデルタロケットの亜種として分類される。名称はH-IIと類似しているが、N-IIと共通の第1段を用いている等、技術的な類似点はN-IIの方が多い。 第2段用に[[液体酸素]]と[[液体水素]]を[[ロケットエンジンの推進剤|推進剤]]とする[[LE-5]]型エンジンを自主技術で開発できたことは、次世代の[[H-IIロケット]]の第1段用[[LE-7]]型エンジンの実現に道筋をつけた点で意義が大きい。LE-7の実用化にはそれにもかかわらず大変な努力を要したわけであるが、LE-5の経験が無ければさらに難易度が高くなったといえる。 [[1981年]](昭和56年)に開発が開始され<ref>[http://www.jaxa.jp/about/history/nasda/index_j.html 宇宙開発事業団(NASDA)沿革] JAXA公式サイト</ref>、[[1986年]](昭和61年)[[8月13日]]にH-I試験機(第1号機)の打ち上げに成功、[[1992年]](平成4年)まで合計9機を打ち上げ、すべて成功した。これにより「さくら」「ひまわり」「ゆり」など実用[[静止衛星]]の打上げを順調にこなし、さらに複数衛星の同時打上げの技術習得も行った。 関係機関の一部ではH-IAとも呼称されていたこともあり、後継として[[静止軌道]]に800kgの打上げ能力をもつH-IBロケット(後述)を開発する予定であった。しかし、2t級静止衛星の需要増加や国内技術の進歩のために計画を発展的に解消し、H-IIロケットの開発へと移行することになった<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=110113928X00519840427 第101回国会 科学技術特別委員会 第5号]</ref>。 == 開発計画の背景 == Nロケットの打ち上げ能力不足を背景として[[1975年]](昭和50年)から以下のような基本的な枠組みの元に調査研究が開始された。 # 昭和60年代初頭から10年以上主力機として使用することが可能であること。 # 静止軌道上に500から800kgの人工衛星を打ち上げることが可能であること。 # 昭和60年代後半の宇宙輸送系の技術基盤を蓄積できるものであること。 # 原則として自主技術を用いること。 この研究において上段の構成要素はほぼ決定されていたが、第1段をどういったものにするかが争点となった。第1段を新規開発するのであれば開発計画に間に合わず、N-IIの流用とすると新規開発要素が少ないために開発計画には間に合うが打ち上げ能力が計画値の下限にとなる等、それぞれ問題があった。最終的にはN-IIの第1段を流用した500kg級のロケットH-IA(後のH-Iに該当)をまず開発し、その後800kgまで能力を増強したH-IBを開発するという計画に落ち着いた(後にH-IBは計画中止)<ref name="航空宇宙36">日本航空宇宙学会誌 第36巻 第418号 ''「H-Iロケット」'' - 十亀英司 1988年11月</ref>。 == 諸元と構成 == [[画像:H-I.svg|160px|thumb|right|H-I]] === 主要諸元 === {|class="wikitable" style="text-align:center;" |+'''主要諸元一覧'''<ref name="航空宇宙36" /> |- !colspan="2"|諸元\各段 !第1段 !補助ロケット !第2段 !第3段 !フェアリング |- !rowspan="3"|寸<br />法 !長さ(m) |22.44 |7.25 |10.32 |2.34 |7.91 |- !全長(m) |colspan="5"|40.3 |- !外径(m) |2.44 |0.79 |2.49 |1.34 |2.44 |- !rowspan="2"|重<br />量 !各段全備重量(t) |85.8<br />(段間部含む) |40.3<br />(9本) |10.6 |2.2 |0.6 |- !全段重量(t) |colspan="5"|139.9<br />(衛星除く) |- !rowspan="8"|エ<br />ン<br />ジ<br />ン !名称 |MB-3-3 |[[キャスター (ロケットモータ)#キャスターII|キャスターII]] |[[LE-5]] |UM-129A |rowspan="8"|N/A |- !型式 |液体ロケット |固体ロケット |液体ロケット |固体ロケット |- !推進薬種類<br/>(酸化剤/燃料) |LOX/[[ケロシン|RJ-1]] |HTPB |LOX/LH2 |HTPB |- !推進薬重量(t) |81.4 |33.6<br />(9本) |8.8 |1.8 |- !比推力(s) |249<br />(海面上) |238<br />(海面上) |442<br />(真空中) |288<br />(真空中) |- !平均推力(tf) |78.0<br />(海面上) |22.5<br />(海面上)(1本分) |10.5<br />(真空中) |7.9<br />(真空中) |- !燃焼時間(s) |273 |38 |364 |66 |- !推進薬供給方式 |ターボポンプ |N/A |ターボポンプ |N/A |- !rowspan="2"|制御<br />シス<br />テム !ピッチ<br />ヨー |ジンバル |rowspan="2"|N/A |ジンバル(推力飛行中)<br />ガスジェット(慣性飛行中) |rowspan="2"|スピン安定 |rowspan="2"|N/A |- !ロール |バーニアエンジン |ガスジェット |- |} === 構成 === [[ファイル:LE-5.JPG|160px|thumb|right|LE-5エンジン展示モデル]] 3段式の液体+固体ロケット * 第1段: MB-3-3型エンジン *: 推進剤に[[ケロシン]]と[[液体酸素]]を使用した、N-IIとほぼ同じライセンス生産品。7号機以降はデルタIIと同様にタンクの塗装が省かれ、緑色の防錆塗料が露出している。 * [[固体ロケットブースタ|第1段補助ブースタ]](SOB): [[キャスター (ロケットモータ)#キャスターII|キャスターII]] *: N-IIロケット同様に[[日産自動車]](現・[[IHIエアロスペース]])がライセンス生産したもの。9基もしくは6基を搭載。 * 第2段: [[LE-5]]型液体ロケットエンジン *: NASDAと三菱重工業、[[石川島播磨重工業]]、[[航空宇宙技術研究所]]が開発したもので、推進剤は[[液体酸素]]・[[液体水素]]を搭載し、軌道上再着火が可能。 * 第3段: UM-129A *: 日産自動車が製造する国産球形固体ロケットモータ。HTPB系[[コンポジット推進薬]]を使用する。GTO投入時に用いられ、LEOへの打ち上げでは用いられない。 * [[ペイロードフェアリング]] *: N-IIと同型のマクドネル・ダグラス製のデルタ用[[炭素繊維強化プラスチック|CFRP]]フェアリングを完成品で輸入。 * 誘導装置: [[慣性誘導装置]] *: 国産化したステーブル・プラットフォーム方式のものを第2段に搭載。 == 打ち上げ実績 == {| border="1" cellpadding="4" class="wikitable" |- !機体 !打上げ年月日 !段数 !補助ブースタ !成否 !積荷 !命名前 !目的 !軌道 !備考 |- |rowspan="3"|試験機1号機<br/>(H15F) |rowspan="3"|[[1986年]][[8月13日]] |rowspan="3"|2段式 |rowspan="3"|9基 |rowspan="3" bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[あじさい (人工衛星)|あじさい]] |EGS |測地実験衛星 |LEO | |- |[[じんだい]] |MABES |磁気軸受フライホイール実験装置 |LEO | |- |[[ふじ1号|ふじ]] |JAS-1 |[[アマチュア衛星]]1号 |LEO |Fuji-Oscar-12, FO-12<BR>日本初の[[ピギーバック衛星]] |- |試験機2号機<br/>(H17F) |[[1987年]][[8月27日]] |3段式 |9基 |bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[きく5号]] |ETS-V |技術試験衛星V型 |GSO | |- |3号機<br/>(H18F) |[[1988年]][[2月19日]] |3段式 |9基 |bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[さくら3号a]] |CS-3a |[[通信衛星]]3号-a |GSO | |- |4号機<br/>(H19F) |1988年[[9月16日]] |3段式 |9基 |bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[さくら3号b]] |CS-3b |通信衛星3号-b |GSO | |- |5号機<br/>(H20F) |[[1989年]][[9月6日]] |3段式 |6基 |bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[ひまわり4号]] |GMS-4 |静止[[気象衛星]] |GSO | |- |rowspan="3"|6号機<br/>(H21F) |rowspan="3"|[[1990年]][[2月7日]] |rowspan="3"|2段式 |rowspan="3"|9基 |rowspan="3" bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[もも1号b]] |MOS-1b |海洋観測衛星1号-b |LEO | |- |[[おりづる (人工衛星)|おりづる]] |DEBUT |進展展開機能実験ペイロード |LEO | |- |[[ふじ2号]] |JAS-1b |アマチュア衛星1号-b |LEO |Fuji-Oscar-20, FO-20 |- |7号機<br/>(H22F) |1990年[[8月28日]] |3段式 |9基 |bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[ゆり3号a]] |BS-3a |放送衛星3号-a |GSO | |- |8号機<br/>(H23F) |[[1991年]][[8月25日]] |3段式 |9基 |bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[ゆり3号b]] |BS-3b |放送衛星3号-b |GSO | |- |9号機<br/>(H24F) |[[1992年]][[2月11日]] |2段式 |9基 |bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[ふよう1号]] |JERS-1 |地球資源衛星1号 |LEO | |} 注:LEO:[[低軌道]]、GSO:[[静止軌道]] == H-IBロケット == Hロケットの開発計画において800kgの静止衛星打上げ能力をもつロケットとして計画されていたのがH-IBロケットである。固体補助ロケットの[[キャスター (ロケットモータ)#キャスターIV|キャスターIV]]クラスへの大型化、MB-3-3エンジンのクラスタ化、新大型第1段エンジンの開発、推力偏向機能付大型固体補助ロケットを採用する等、幅広く検討が行われ、第3段をLOX/LH2エンジンに置き換える案が有力となった<ref name="航空宇宙36" />。第3段を置き換える案は詳細な設計検討まで行われ、1989年の試験1号機打ち上げを目指していた<ref>宇宙開発事業団技術報告 TR-17 「後段階H-Iロケットのシステム研究」 : 3段に液酸・液水ステージを使用した場合 - 渡辺篤太郎, 柴藤羊二, 田中俊輔, 只川嗣朗, 永井啓一, 鈴木秀人, 加山昭, 五代富文, 松田敬 / [[1983年]]5月</ref>。しかし、急速な2t級静止衛星の需要増加により、[[1982年]](昭和57年)頃に計画はH-IIロケットへと発展的に解消する方向性が示され、最終的に[[1984年]](昭和59年)2月の[[宇宙開発政策大綱]]改訂によって書類上からも計画は消滅した。 === 主要諸元 === * 全長:41.5m * 最大径:3.0m * 全備重量:140.9t === 第3段LOX/LH2エンジン === ; A案(ペリジ・アポジキックステージ) * 全長:3.1m * 直径:2.45m * 重量:2.3t * 推進薬重量:2.0t * 燃焼方式:[[エキスパンダーサイクル]] * 真空推力:1tf * 真空比推力:462s * 燃焼時間:840 - 900s ; B案(ペリジキックステージ) * 全長:2.76m * 直径:2.45m * 重量:2.3t * 推進薬重量:2.0t * 燃焼方式:[[エキスパンダーサイクル#エキスパンダブリードサイクル|エキスパンダブリードサイクル]] * 真空推力:1tf(0.5tf × 2) * 真空比推力:462s * 燃焼時間:840 - 900s === その他の変更点 === ; フェアリング : 第3段の直径増大に伴って直径3mのフェアリングを使用する予定であった。 ; 第1段制御部 : 3mフェアリングの採用によって飛翔時の外乱が増加し、最悪の場合には第1段の制御能力を上回ることが指摘された。これによって第1段制御能力の向上が検討され、メインエンジンジンバル舵角限界の改善及びロードリリーフ制御系の採用が決定された。 == 実物大展示模型 == H-Iロケットの実物大展示模型が、1989年3月から宮崎科学技術館に設置されている。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|H-I}} * [[宇宙開発事業団]] * [[デルタロケット]] == 外部リンク == * [http://www.hess.jp/Search/data/12-01-021.pdf H-Iロケットについて] {{日本の衛星打ち上げロケット|before=[[N-IIロケット]]|after=[[H-IIロケット]]}} {{Expendable launch systems}} {{三菱重工業}} {{デフォルトソート:H-I}} [[Category:日本のロケット]] [[Category:三菱重工業の製品]]
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ヘーラクレース
ヘーラクレース (古希: ̔Ηρακλής, Hēraklēs) は、ギリシア神話の英雄。ギリシア神話に登場する多くの半神半人の英雄の中でも最大の存在である。のちにオリュンポスの神に連なったとされる。ペルセウスの子孫であり、ミュケーナイ王家の血を引く。幼名をアルケイデース(Ἀλκείδης, Alkeidēs)といい、祖父の名のままアルカイオス(Ἀλκαῖος, Alkaios)とも呼ばれていた。後述する12の功業を行う際、ティーリュンスに居住するようになった彼をデルポイの巫女が 「ヘーラーの栄光」を意味するヘーラクレースと呼んでからそう名乗るようになった。キュノサルゲス等、古代ギリシア各地で神として祀られ、古代ローマに於いても盛んに信仰された。その象徴は弓矢、棍棒、鎌、獅子の毛皮である。 ローマ神話(ラテン語)名は Hercules (ヘルクレース)で、星座名のヘルクレス座はここから来ている。 英語名はギリシア神話ではHeracles(ヘラクリーズ)、ローマ神話ではHercules(ハーキュリーズ)。イタリア語名はギリシア神話ではEracle(エーラクレ)、ローマ神話では Ercole(エールコレ)。フランス語名はギリシア神話では Héraclès (エラクレス)、ローマ神話では Hercule (エルキュール)という。なお、欧米ではローマ神話名の方が一般的に用いられている。 日本語では長母音を省略してヘラクレスとも表記される。 ヘーラクレースはゼウスとアルクメーネー(ペルセウスの孫に当たる)の子。アルクメーネーを見初めたゼウスは、様々に言い寄ったが、アルクメーネーはアムピトリュオーンとの結婚の約束を守り、決してなびかなかった。そこでゼウスはアムピトリュオーンが戦いに出かけて不在のおり、アムピトリュオーンの姿をとって遠征から帰ったように見せかけ、ようやく思いを遂げ、1夜を3倍にして楽しんだ。アルクメーネーは次の日に本当の夫を迎え、神の子ヘーラクレースと人の子イーピクレースの双子の母となった。 アルクメーネーが産気づいたとき、ゼウスは「今日生まれる最初のペルセウスの子孫が全アルゴスの支配者となる」と宣言した。それを知ったゼウスの妻ヘーラーは、出産を司る女神エイレイテュイアを遣わして双子の誕生を遅らせ、もう一人のペルセウスの子孫でまだ7か月のエウリュステウスを先に世に出した。こうしてヘーラクレースは誕生以前からヘーラーの憎しみを買うことになった。 ヘーラクレースの誕生後、ゼウスはヘーラクレースに不死の力を与えようとして、眠っているヘーラーの乳を吸わせた。ヘーラクレースが乳を吸う力が強く、痛みに目覚めたヘーラーは赤ん坊を突き放した。このとき飛び散った乳が天の川(galaxyは「乳のサイクル」Milky Wayは「乳の道」)になったという。一説にはアルクメーネーはヘーラーの迫害を恐れて赤ん坊のヘーラクレースを城外の野原に捨てた。ゼウスがアテーナーに命じて、ヘーラーを赤ん坊の捨てられた野原に連れて行くと、アテーナーは赤ん坊を拾い、赤ん坊に母乳を与えるように勧めた。赤ん坊の来歴が知らされていないヘーラーは哀れに思い、母乳を与えた。最後にアテーナーは不死の力を得た赤ん坊をアルクメーネーの元へ返し大切に育てるよう告げる。 これを恨んだヘーラーは密かに二匹の蛇を双子が寝ている揺り籠に放ったが、赤ん坊のヘーラクレースは素手でこれを絞め殺した。 ヘーラクレースはアムピトリュオーンから戦車の扱いを、アウトリュコスからレスリングを、エウリュトスから弓術、カストールから武器の扱いを、リノスから竪琴の扱いを学んだ。しかしリノスに殴られた際ヘーラクレースは激怒し、リノスを竪琴で殴り殺してしまう。そしてケンタウロス族のケイローンに武術を師事して、剛勇無双となった。キタイローン山のライオンを退治し、以後ライオンの頭と皮を兜・鎧のように身につけて戦うようになる。 ヘーラクレースは義父アムピトリュオーンが属するテーバイを助けてオルコメノスの軍と戦い、これを倒した。クレオーン王は娘メガラーを妻としてヘーラクレースに与え、二人の間には3人の子供が生まれた。しかし、ヘーラーがヘーラクレースに狂気を吹き込み、ヘーラクレースは我が子とイーピクレースの子を炎に投げ込んで殺してしまった。正気に戻ったヘーラクレースは、罪を償うためにデルポイに赴き、アポローンの神託を伺った。神託は「ミュケーナイ王エウリュステウスに仕え、10の勤めを果たせ」というものだった。ヘーラクレースはこれに従い、本来なら自分がなっているはずのミュケーナイ王に仕えることになった。「ヘラクレスの選択」といえば、敢えて苦難の道を歩んで行くことをいう。 エウリュステウスがヘーラクレースに命じた仕事は次の通り。 ネメアーの獅子は刃物を通さない強靭な皮を持っており、矢を撃っても傷一つつかなかった。ヘーラクレースは棍棒で殴って悶絶させ、洞窟へと追い込んだ。そこで洞窟の入り口を大岩で塞いで逃げられないようにし、三日間の格闘の末に絞め殺した。この獅子は後にしし座となった。あらゆる武器を弾く毛皮は獅子の爪によって加工され、彼はその皮を頭からかぶり、鎧として用いた。獅子が英雄のシンボルになったのもこのためである。 ヒュドラーは、レルネーの沼に住み、9つの(百とも言われる)頭を持った水蛇である。触れただけで生きとし生けるものを絶命させる世界最強の猛毒を有していた。ヘーラクレースはヒュドラーの吐く毒気にやられないように口と鼻を布で覆いながら戦わねばならなかった。ヘーラクレースは始め、鉄の鎌でヒュドラーの首を切っていったが、切った後からさらに2つの首が生えてきて収拾がつかない。しかも頭のひとつは不死だった。従者のイオラオス(双子の兄弟イピクレスの子)がヒュドラーの傷口を松明の炎で焼いて新しい首が生えるのを妨げてヘーラクレースを助けた。最後に残った不死の頭は岩の下に埋め、見事ヒュドラーを退治した。そしてヒュドラーはうみへび座となった。また、この戦いで、ヘーラーがヒュドラーに加勢させるべく送り込んだ巨大な化け蟹を、ヘーラクレースはあっさり踏みつぶしてしまった。この蟹がその後かに座となった。 エウリュステウスは、従者から助けられたことを口実にして、功績を無効としたため、功業が1つ増えることになった。またヘーラクレースはヒュドラーの猛毒を矢に塗って使うようになった。 アカイア地方のケリュネイアの鹿(牝鹿)は女神アルテミスの聖獣で黄金の角と青銅のひづめを持っていた。4頭の兄弟がおり、アルテミスに生け捕られ、彼女の戦車を引いていたが、この5頭目の鹿は狩猟の女神をもってしても捕らえる事ができないほどの脚の速さを誇った。女神から傷つけることを禁じられたため、ヘーラクレースは1年間追い回した末に鹿を生け捕りにした。その後この鹿はアルテミスに捧げられ、他の4頭とともに戦車を牽くこととなった。 エリュマントス山に住む人食いの怪物、大猪を生け捕りにした。生け捕り自体はさしたる問題なく片づいたが、このとき、ヘーラクレースはケンタウロスのポロスに助力を求めていた。ポロスが預かっていたケンタウロス一族の共有していた酒をヘーラクレースが飲んだ事により、ケンタウロス一族と争いになった。その戦いで、誤って武術の師であるケイローンにヒュドラーの毒矢を放ってしまった。ケイローンは不死の力を与えられていたが、毒の苦しみに耐えきれず、不死の力をプロメーテウスに譲渡して死を選んだ。この時にケイローンの不死の力を受け入れてもらうために、ヘーラクレースがカウカーソス山に縛り付けられていたプロメーテウスを解放したとされる。この後、ケイローンの死を惜しんだゼウスは、彼をいて座にしたという。 エーリス王アウゲイアースは3,000頭の牛を持ち、その牛小屋は30年間掃除されたことがなかった。ヘーラクレースはアウゲイアースに「1日で掃除したら、牛の10分の1をもらう」という条件を持ちかけ、アウゲイアースは承知した。ヘーラクレースはアルペイオス川とペネイオス川の2つの川の流れを強引に変え、小屋に引き込んで30年分の汚物をいっぺんに洗い流した。しかし、おかげでこの川の流れは狂ってしまい、たびたび洪水を引き起こすようになったという。 エウリュステウスは、罪滅ぼしなのに報酬を要求したとして(川の神の力を借りたため、とする説もある)これをノーカウントにしたため、さらに功業が1つ増えることとなった。また、アウゲイアースは約束を守らず、知らないふりをした。ヘーラクレースはこのことを忘れず、後になってアウゲイアースを攻略した。 「家畜の汚物処理」という後年使われる英雄のステレオタイプとしてのヘーラクレース像としては似つかわしくない雑業であり、単独の美術題材として用いられることが極めて少ないエピソードとして有名。 ステュムパーロスの鳥は、翼、爪、くちばしが青銅でできていた。ヘーラクレースはこの恐ろしい怪鳥を驚かせて飛び立たせるため、ヘーパイストスからとてつもなく大きな音を立てるガラガラ(彼の工房のキュクロープス達の目覚まし用)を借り受け、音に驚いて飛び立ったところをヒュドラーの毒矢で射落とした。また、矢が効かないので彼に襲い掛かってくるところを、1羽ずつ捕らえて絞め殺したとも言われている。 クレータ島の王ミーノースを罰するためにポセイドーンの送り込んだクレータの牡牛を生け捕りにした。この牡牛はミーノータウロスの父親であり、美しいが猛々しく、極めて凶暴であった。ヘーラクレースはミーノース王に協力を求めるが拒否され、結局素手で格闘してこの牡牛をおとなしくさせ、アルゴスまで連行した。 ディオメーデースの人喰い馬は、トラーキア王ディオメーデースはアレースの子で、旅人を捕らえて自分の馬に食わせていた。 シケリアのディオドーロスによれば、ヘーラクレースは逆にディオメーデースを馬に食わせてしまい、馬は生け捕りにした。 またアポロドーロスによれば、ヘーラクレースが馬を奪った後にディオメーデースが軍勢を率いて馬を奪還しようとしたため、ヘーラクレースは若衆の従者アブデーロスに馬の番をさせて戦いに出かけた。しかしヘーラクレースがディオメーデースを戦いで殺害して戻ってくると、少年は走る馬に大地の上を引きずられて死んでいた。ただしアブデーロスは馬に食い殺されたとする伝承も多い。 エウリュステウスの娘アドメーテーがアマゾーン女王ヒッポリュテーの腰帯を欲しがったために、これを持ってくることを命じられた。ヘーラクレースはアマゾーンとの戦いになると考え、テーセウスらの勇士を集めて敵地に乗り込んだが、交渉したところ、ヒッポリュテーは強靭な肉体のヘーラクレース達を見て、自分達との間に丈夫な子を作ることを条件に腰帯を渡すことを承諾した。ところがヘーラーがアマゾーンの一人に変じて「ヘーラクレースが女王を拉致しようとしている」と煽ったため、アマゾーン達はヘーラクレースを攻撃した。ヘーラクレースは最初の甘言は罠であったと考え、ヒッポリュテーを殺害して腰帯を持ち帰った。 一説ではヘーラーが変装したのはヒッポリュテー本人で、彼女に変装したヘーラーが『ヘーラクレース達が国を乗っ取ろうとしている』と他のアマゾーン族を唆し襲撃させた。突如襲撃されたヘーラクレースは激怒。ヒッポリュテーに攻め寄り、必死に身の潔白を訴えるヒッポリュテーを殴り殺してしまった。冷静さを取り戻したヘーラクレースは、ヒッポリュテーの目は嘘を言っているように見えなかったと、話も聞かず殺してしまったことを後悔した。 ゲーリュオーンの飼う紅い牛を求めるのだが、ゲーリュオーンは、メドゥーサがペルセウスに殺されたときに血潮とともに飛び出したクリューサーオールの息子で、大洋オーケアノスの西の果てに浮かぶ島エリュテイアに住んでおり、常人は行き着くことができなかった。 アフリカに行き着いたヘーラクレースが太陽の熱気に怒り、太陽神ヘーリオスに矢を射掛けたため、ヘーリオスは、その剛気を嘉して黄金の盃を与えた。別の説では、ヘーラクレースは矢で太陽を射落としてみせ、ヘーリオスに無理矢理黄金の盃を貸させた。ヘーラクレースは盃に乗ってオーケアノスを渡ることができた。 エリュテイアでは双頭の犬オルトロスが牛を守っていたが、ヘーラクレースはオルトロスや牛の番人エウリュティオーンを棍棒で打ち殺して、紅い牛とともに牛の群れを奪った。そして牛を奪い返さんと追ってきたゲーリュオーンを射殺した。 ヘーラクレースは冒険の途次、ジブラルタル海峡を通過した際に海峡の両岸に「ヘラクレスの柱」を残した。また、登るのが面倒な高い山脈を叩き割って大陸であった場所に海峡を作り、割れた山脈の両辺をヘラクレスの柱としたとも言われる。 ヘスペリデスの居場所を知らないヘーラクレースは水神ネーレウスと取っ組み合い、これを捕まえた。ネーレウスは怪物や水、火などに変身して逃れようとしたが、ヘーラクレースが捕らえて離さなかったため、やむなく場所を教えた。黄金の林檎は百の頭を持つ竜ラードーンが守っていたが、ヘーラクレースはこれを倒して林檎を手に入れた。ラードーンは、りゅう座となった。 一方アポロドーロスは全く異なる伝説を伝えている。ヘーラクレースは、人間に火の使い方を教えたためにゼウスに罰せられてカウカーソス山に縛り付けられていたプロメーテウスを救い出して、助言を請うた。プロメーテウスは「ヘスペリデスはアトラースの娘たちだから、アトラースに取りに行かせるべきである」と答えた。アトラースは神々との戦いに敗れ、天空を担ぎ続けていた。ヘーラクレースがアトラースのところに赴き、ヘーラクレースが天空を担いでいる間に林檎を取ってくるよう頼むと、アトラースはこれに従い林檎を持ち帰った。しかし、再び天空を担いで身動きできなくなるのを嫌って、自分が林檎をミュケーナイに届けると言い出した。ヘーラクレースは一計を案じ、頭に円座を装着してから天空を支えたいので少しの間天空を持っていてほしいと頼んだ。承知したアトラースが天空を担いだところでヘーラクレースは林檎を取って立ち去った。 ケルベロスはオルトロスの兄貴分であり、3つの頭を持つ犬の化け物。ヘーラクレースは冥界に入ってハーデースから「傷つけたり殺したりしない」という条件で許可をもらい、ケルベロスを生け捕りにした。その際、ペルセポネーを略奪しようとして「忘却の椅子」に捕らわれていたテーセウスとペイリトオスを助け出した。また、地上に引きずり出されたケルベロスは太陽の光を浴びた時、狂乱して涎を垂らした。その涎から毒草のトリカブトが生まれたという。 ヘーラクレースは十二の功業の一つであるゲーリュオーンの牛を取りに行く途中に、巨大な山脈を登らねばならなかったが、それは非常に面倒なことであったので、近道をしようと考えた。山脈さえ無くなれば道のりを短縮できると考えたヘーラクレースは、巨大な山脈をその怪力で砕くことにした。ヘーラクレースは棍棒で山脈を叩き、その圧倒的な怪力で山脈を真っ二つにした。それだけではなく、山脈の下に横たわる大地もヘーラクレースの怪力に耐え切れずに吹き飛んだ。その結果、大西洋と地中海がジブラルタル海峡で繋がった。以降、分かれた2つの山脈をひとまとめにして、ヘーラクレースの柱と呼ぶようになった。 また、元々ジブラルタル海峡があったが、あまりにも幅が広く、このままでは海の怪物たちが地中海に押し寄せてきてしまうため、ヘーラクレースが大陸そのものを動かしてこの海峡を狭くしたとする説もある。 十二の功業の他にも、ヘーラクレースは壮大な冒険を繰り広げた。 リビアに住んでいたアンタイオスは、ポセイドーンとガイアの息子であり、大地に触れている間は無敵の力を得ることができた。彼は通りかかる旅人に戦いを挑んでは殺し、その髑髏や持っていた宝物を父ポセイドーンの神殿に飾っていた。彼は通りかかったヘーラクレースにも戦いを挑んだ。ヘーラクレースは何度もアンタイオスを打ち倒すが、その度に復活し、力が無限に増すアンタイオスに苦戦を強いられた。最終的に、ヘーラクレースは大地に触れていなければ無限の力が得られないという彼の弱点に気付き、ヘーラクレースはアンタイオスを持ち上げ、そのまま彼を絞め殺した。 ペライの王であるアドメートスに死期が迫った時、その妻のアルケースティスは、死に瀕した夫のために命を投げ出した。アドメートスが死ぬ時、家族の誰かが身代わりになって命を落とせば、彼は死なずに済むという約束を運命の女神モイライと交わしていたからである。この時、ヘーラクレースが通りかかり、事の次第を聞いて、正義感からアルケースティスを死なせてはならないとして彼女の霊魂を追った。アルケースティスは死の神タナトスによって冥界に送られるところだったが、ヘーラクレースはその腕力で死の神を打ち倒し、彼女の魂を奪い取った。ヘーラクレースのおかげでアルケースティスは生き返り、運命の女神との約束によってアドメートスも生き長らえることができた。 また、アルケースティスの霊魂を追って冥界にまで行き、ハーデースと格闘して奪い取ったとする説もある。 ヘーラクレースがカリュドーン王オイネウスの娘デーイアネイラに求婚していた時、河の神アケローオスもデーイアネイラに求婚をしていた。両者はデーイアネイラを巡って激しい戦いを繰り広げた。アケローオスは濁流を打ち付け、様々な姿に変身してヘーラクレースを翻弄したが、雄牛の姿になったとき、片方の角をヘーラクレースに折られてしまった。アケローオスはその腕力に降参し、その後はアケロースの川底で傷口を癒した。 河の神に勝利したヘーラクレースはデーイアネイラと結婚することになり、彼女との間に子供をもうけた。河の神アケローオスは大人しくなったが、毎年春になると傷跡からこの戦いでの敗北を思い出し、怒りのあまり洪水を引き起こすという。 ヘーラクレースは狂気によって親友イピトスを殺してしまい、そのせいで病に取り憑かれていた。治癒のためにデルポイを訪れるが、巫女は彼に会ってすらくれなかった。これに腹を立てたヘーラクレースは、デルポイの宝でもあり、神託に必要不可欠な道具でもある三脚の鼎を奪おうとした。デルポイの守護神であるアポローンはこれに立腹して自ら姿を現し、ヘーラクレースと闘った。これを見たゼウスは、双方の間に落雷を投じて引き分けにさせた。その時アポローンは、「お前の病は、殺人の償いとして、丸三年の間(一説には一年間)奴隷として仕えれば回復するであろう」と予言した。これを受けてヘーラクレースは、ヘルメースに連れられてリューディアの女主人オムパレーの元へと赴き、病回復のために奴隷として彼女に仕えることとなった。 エジプトでは、ブーシーリス王のもと、豊作を願って異邦人を捕まえては生け贄に捧げるという風習が行われていた。近くを旅していたヘーラクレースはエジプト人に捕まり、生け贄の祭壇に連れて来られた。そこでヘーラクレースは彼らの思惑を知り、その怪力で大暴れした。エジプト軍は彼によって尽く殺戮され、エジプトは壊滅状態になってしまった。 ヘーラクレースがトロイアを訪れた時、トロイア王ラーオメドーンは高潮と共に現れる強大な海の怪物に悩まされていた。この怪物は、奴隷に扮したポセイドーンがトロイアの城壁を築いた折、ラーオメドーンが約束の報酬を支払わなかったため、ポセイドーンが罰としてトロイアに送り込んだ怪物であった。この怪物を鎮めるために、ラーオメドーンの娘であるヘーシオネーが岩に縛り付けられ、生け贄に捧げられるところであった。 ヘーラクレースはガニュメーデースの代償にゼウスがトロイアに送った神馬が欲しいと思っていたので、この神馬と引き換えに海の怪物を討伐することを約束した。ヘーラクレースは巨大な怪物の腹の中に入り込み、三日も胃袋に居座って暴れ続けた。内臓を滅茶苦茶にされた怪物は死んだが、胃酸によってヘーラクレースの毛髪が溶け、禿げてしまった。ヘーラクレースは報酬の神馬を貰いに行ったが、ラーオメドーンは約束を反故にして拒絶した。当時はまだ十二の功業の最中であり、時間があまり残されていなかったため、ヘーラクレースは必ず復讐すると言い残してトロイアを去った。 時が経ち、ヘーラクレースは仲間たちと共にトロイアへと攻め入った。ラーオメドーンは大軍勢でそれに応えたが、ヘーラクレースの怪力には敵わなかった。ヘーラクレース軍は城壁を包囲し、それを乗り越えてトロイアを攻略した。ラーオメドーンは射殺され、ヘーラクレースの復讐は遂げられた。 十二の功業中にエーリス王アウゲイアースに報酬を踏み倒されたことの復讐として、後にヘーラクレースはエーリスに攻め入った。エーリス軍にはモリオネという双子(一説には結合双生児)の英雄がおり、彼らはポセイドーンの息子でカリュドーンの猪狩りに参加するほど武勇に優れ、怪力も有していた。双子であるが故に二対一の戦いとなり、剛勇無双のヘーラクレースといえども苦戦を強いられた。攻防戦の最中にヘーラクレースは病にかかり、休戦協定を結んだが、モリオネはそれを破って攻撃を止めず、ヘーラクレースは撤退せざるを得なくなった。その後、ヘーラクレースはモリオネがイストミア大祭に参加するという報せを聞き、その道中に待ち伏せしてモリオネを毒矢で射殺した。ヘーラクレースは強力な英雄を失ったエーリスを攻略し、この勝利を記念してオリュンピアにゼウス神殿を建て、その地で競技会を行った。以後、この競技会は4年に1度開催されるようになり、やがて古代オリンピックになった。 後世の古代オリンピックではヘーラクレースの末裔と信じられたテオゲネスが華々しい結果を残した。テオゲネスは記録に残っているだけでもボクシングなどの種目で1,300戦全勝し、古代オリンピックだけではなくあらゆる競技会で優勝を繰り返し、生涯無敗であった。ちなみに、この人物は神話上の存在ではなく実在した人物である。 コルキスの金羊の毛皮を求めるイアーソーンの呼びかけに応じて、ヘーラクレースも数多の英雄と共にアルゴー船に乗り込んだ。レームノス島の女たちの誘惑にも打ち勝ち、快楽に耽っていた他の英雄たちを叱咤して再び出航させるなど、ヘーラクレースはアルゴナウタイの中でも抜きん出た存在であった。しかし、ミューシアーにおいてヘーラクレースの愛していたヒュラースが水のニュンペーに攫われてしまい、ヒュラースを探している内にアルゴー船は出航してしまった。置き去りにされたヘーラクレースは、アルゴー船を追うのを止め、アルゴスへと帰還した。ヘーラクレースは最強の存在でありながら、アルゴナウタイから脱落してしまったのである。 一説には、このとき一部の乗組員はヘーラクレースを乗船させるためにティーピスに船を戻させようとしたが、カライスとゼーテースがこれを妨害した。このことを恨んだヘーラクレースは、後に二人をテーノス島で殺したという。 全宇宙を揺るがす大戦争に、ヘーラクレースは神々と共に参戦した。ガイアはゼウスたちオリュンポスの神々から宇宙の支配権を奪い取るために、ギガースという山よりも巨大な怪力の巨人たちを送り、ギガントマキアーと呼ばれる大戦を勃発させた。ギガースたちは神々には殺されないという不思議な力を有していたため、ゼウスは半神半人であるヘーラクレースをオリュンポス側として参戦させた。 ギガースはあらゆる地形を引き裂いて突き進み、大岩や山脈、島を投げ飛ばして攻撃した。神々もそれに応戦し、戦闘の衝撃によって天地は轟き、全宇宙が震えた。凄まじい戦いが繰り広げられたが、神々の方が優勢であり、ギガースは次々に敗北していった。弱ったギガースをヘーラクレースの毒矢が襲い、ヘーラクレースにとどめを刺されたギガースは絶命した。パレーネーの地に触れている限り無敵の力を得る最強の巨人もいたが、ヘーラクレースの圧倒的な怪力によってその地から引き剥がされ、彼の剛腕によって殺された。 ヘーラクレースの活躍もあり、ギガントマキアは神々の圧勝に終わった。 ヘーラクレースとその妻デーイアネイラは、彼らの子供であるヒュロスを連れて旅をしていた。ある日、ヘーラクレースは川を渡ろうとしたが、家族と共に渡るにはあまりにも流れが激しすぎた。ちょうどそのとき川辺にいたケンタウロスのネッソスがデーイアネイラを担ぐと申し出たので、ヘーラクレースがヒュロスを担ぎ、ネッソスがデーイアネイラを担いで激流の川を渡った。しかし、早く向こう岸に着いたネッソスがデーイアネイラを犯そうとしたためにヘーラクレースはヒュドラーの毒矢でこれを射殺した。ネッソスはいまわの際に、「自分の血は媚薬になるので、ヘーラクレースの愛が減じたときに衣服をこれに浸して着せれば効果がある」と言い残した。デーイアネイラはその言葉を信じ、ネッソスの血を採っておいた。 後にヘーラクレースがオイカリアの王女イオレーを手に入れようとしているのを察したデーイアネイラは、ネッソスの血に浸した服をリカースに渡してヘーラクレースに送った。ヘーラクレースがこれを身につけたところ、たちまちヒュドラーの猛毒が回って体が焼けただれ始めて苦しみ、怒って無実のリカースを海に投げて殺した。ヒュドラーの毒矢で死んだネッソスの血は、ヒュドラーの毒と同じ効果を示したのだった。あまりの苦痛に耐えかねたヘーラクレースは薪を積み上げてその上に身を横たえ、ポイアースに弓を与え(後にこの弓はポイアースの息子ピロクテーテースのものになる)、火を点けるように頼んだ(火を点けたのはピロクテーテースだともいわれる)。こうしてヘーラクレースは生きながら火葬されて死んだ。これを知ったデーイアネイラは自殺した。 ヘーラクレースは死後、神の座に上った。このときに至ってようやくヘーラーもヘーラクレースを許し、娘のヘーベーを妻に与えたという。そしてヘーベーとの間にアレクシアレースとアニーケートスという二柱の息子を儲けた。 ヘーラクレースの子孫たちは、ヘーラクレイダイと呼ばれた。 ヘーラクレースの死後、その子供たちがミュケーナイの王位を望むことを恐れたエウリュステウスは、ヒュロスらを殺そうとして追い回した。アルクメーネーとヒュロスらは、アテーナイのデーモポーンに助けられた。エウリュステウスはヒュロスらの身の受け渡しを要求し、それに応じないアテーナイと戦った。この戦争の中でヒュロスはエウリュステウスの子をすべて討ち取り、エウリュステウスは捕らわれて殺された。 ヒュロスたちはエウリュステウスとの戦争に勝ったが、故郷であるペロポネソス半島に未だに戻れずにいた。しかし、ヒュロスの孫たちはミケーネやアルゴスを打ち破り、遂にペロポネソス半島へと帰還することができた。その際、テーメノスがアルゴスを、アリストデーモスがスパルタを、クレスポンテースがメッセニアを支配することになった。この内、テーメノスの子供であるペルディッカスは、アルゴスの王位継承争いに敗れて追放され、ギリシア北方の地にマケドニア王国を建国した。したがって、アルゴス人やスパルタ人、マケドニア人はヘーラクレースの子孫とされた。また、彼らは皆ドーリス系ギリシア人であったので、ヘーラクレイダイの帰還はドーリス人のギリシア侵入と関連付けられている。 アガサ・クリスティーが生み出した名探偵エルキュール・ポアロのファーストネームHerculeは、ヘーラクレースのフランス語形である。これにちなんで、アガサには「ヘラクレスの冒険」という短編集もあり、ヘーラクレースの古典的物語と関連づけられている。 その他、多くのものがヘーラクレースにちなみ、その名を冠している。これらについては、ヘラクレス (曖昧さ回避)及び英語名ハーキュリーズを参照のこと。
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"ヘーラクレースはゼウスとアルクメーネー(ペルセウスの孫に当たる)の子。アルクメーネーを見初めたゼウスは、様々に言い寄ったが、アルクメーネーはアムピトリュオーンとの結婚の約束を守り、決してなびかなかった。そこでゼウスはアムピトリュオーンが戦いに出かけて不在のおり、アムピトリュオーンの姿をとって遠征から帰ったように見せかけ、ようやく思いを遂げ、1夜を3倍にして楽しんだ。アルクメーネーは次の日に本当の夫を迎え、神の子ヘーラクレースと人の子イーピクレースの双子の母となった。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アルクメーネーが産気づいたとき、ゼウスは「今日生まれる最初のペルセウスの子孫が全アルゴスの支配者となる」と宣言した。それを知ったゼウスの妻ヘーラーは、出産を司る女神エイレイテュイアを遣わして双子の誕生を遅らせ、もう一人のペルセウスの子孫でまだ7か月のエウリュステウスを先に世に出した。こうしてヘーラクレースは誕生以前からヘーラーの憎しみを買うことになった。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースの誕生後、ゼウスはヘーラクレースに不死の力を与えようとして、眠っているヘーラーの乳を吸わせた。ヘーラクレースが乳を吸う力が強く、痛みに目覚めたヘーラーは赤ん坊を突き放した。このとき飛び散った乳が天の川(galaxyは「乳のサイクル」Milky Wayは「乳の道」)になったという。一説にはアルクメーネーはヘーラーの迫害を恐れて赤ん坊のヘーラクレースを城外の野原に捨てた。ゼウスがアテーナーに命じて、ヘーラーを赤ん坊の捨てられた野原に連れて行くと、アテーナーは赤ん坊を拾い、赤ん坊に母乳を与えるように勧めた。赤ん坊の来歴が知らされていないヘーラーは哀れに思い、母乳を与えた。最後にアテーナーは不死の力を得た赤ん坊をアルクメーネーの元へ返し大切に育てるよう告げる。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "これを恨んだヘーラーは密かに二匹の蛇を双子が寝ている揺り籠に放ったが、赤ん坊のヘーラクレースは素手でこれを絞め殺した。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースはアムピトリュオーンから戦車の扱いを、アウトリュコスからレスリングを、エウリュトスから弓術、カストールから武器の扱いを、リノスから竪琴の扱いを学んだ。しかしリノスに殴られた際ヘーラクレースは激怒し、リノスを竪琴で殴り殺してしまう。そしてケンタウロス族のケイローンに武術を師事して、剛勇無双となった。キタイローン山のライオンを退治し、以後ライオンの頭と皮を兜・鎧のように身につけて戦うようになる。", "title": "成長と狂気" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースは義父アムピトリュオーンが属するテーバイを助けてオルコメノスの軍と戦い、これを倒した。クレオーン王は娘メガラーを妻としてヘーラクレースに与え、二人の間には3人の子供が生まれた。しかし、ヘーラーがヘーラクレースに狂気を吹き込み、ヘーラクレースは我が子とイーピクレースの子を炎に投げ込んで殺してしまった。正気に戻ったヘーラクレースは、罪を償うためにデルポイに赴き、アポローンの神託を伺った。神託は「ミュケーナイ王エウリュステウスに仕え、10の勤めを果たせ」というものだった。ヘーラクレースはこれに従い、本来なら自分がなっているはずのミュケーナイ王に仕えることになった。「ヘラクレスの選択」といえば、敢えて苦難の道を歩んで行くことをいう。", "title": "成長と狂気" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "エウリュステウスがヘーラクレースに命じた仕事は次の通り。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ネメアーの獅子は刃物を通さない強靭な皮を持っており、矢を撃っても傷一つつかなかった。ヘーラクレースは棍棒で殴って悶絶させ、洞窟へと追い込んだ。そこで洞窟の入り口を大岩で塞いで逃げられないようにし、三日間の格闘の末に絞め殺した。この獅子は後にしし座となった。あらゆる武器を弾く毛皮は獅子の爪によって加工され、彼はその皮を頭からかぶり、鎧として用いた。獅子が英雄のシンボルになったのもこのためである。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ヒュドラーは、レルネーの沼に住み、9つの(百とも言われる)頭を持った水蛇である。触れただけで生きとし生けるものを絶命させる世界最強の猛毒を有していた。ヘーラクレースはヒュドラーの吐く毒気にやられないように口と鼻を布で覆いながら戦わねばならなかった。ヘーラクレースは始め、鉄の鎌でヒュドラーの首を切っていったが、切った後からさらに2つの首が生えてきて収拾がつかない。しかも頭のひとつは不死だった。従者のイオラオス(双子の兄弟イピクレスの子)がヒュドラーの傷口を松明の炎で焼いて新しい首が生えるのを妨げてヘーラクレースを助けた。最後に残った不死の頭は岩の下に埋め、見事ヒュドラーを退治した。そしてヒュドラーはうみへび座となった。また、この戦いで、ヘーラーがヒュドラーに加勢させるべく送り込んだ巨大な化け蟹を、ヘーラクレースはあっさり踏みつぶしてしまった。この蟹がその後かに座となった。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "エウリュステウスは、従者から助けられたことを口実にして、功績を無効としたため、功業が1つ増えることになった。またヘーラクレースはヒュドラーの猛毒を矢に塗って使うようになった。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アカイア地方のケリュネイアの鹿(牝鹿)は女神アルテミスの聖獣で黄金の角と青銅のひづめを持っていた。4頭の兄弟がおり、アルテミスに生け捕られ、彼女の戦車を引いていたが、この5頭目の鹿は狩猟の女神をもってしても捕らえる事ができないほどの脚の速さを誇った。女神から傷つけることを禁じられたため、ヘーラクレースは1年間追い回した末に鹿を生け捕りにした。その後この鹿はアルテミスに捧げられ、他の4頭とともに戦車を牽くこととなった。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "エリュマントス山に住む人食いの怪物、大猪を生け捕りにした。生け捕り自体はさしたる問題なく片づいたが、このとき、ヘーラクレースはケンタウロスのポロスに助力を求めていた。ポロスが預かっていたケンタウロス一族の共有していた酒をヘーラクレースが飲んだ事により、ケンタウロス一族と争いになった。その戦いで、誤って武術の師であるケイローンにヒュドラーの毒矢を放ってしまった。ケイローンは不死の力を与えられていたが、毒の苦しみに耐えきれず、不死の力をプロメーテウスに譲渡して死を選んだ。この時にケイローンの不死の力を受け入れてもらうために、ヘーラクレースがカウカーソス山に縛り付けられていたプロメーテウスを解放したとされる。この後、ケイローンの死を惜しんだゼウスは、彼をいて座にしたという。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "エーリス王アウゲイアースは3,000頭の牛を持ち、その牛小屋は30年間掃除されたことがなかった。ヘーラクレースはアウゲイアースに「1日で掃除したら、牛の10分の1をもらう」という条件を持ちかけ、アウゲイアースは承知した。ヘーラクレースはアルペイオス川とペネイオス川の2つの川の流れを強引に変え、小屋に引き込んで30年分の汚物をいっぺんに洗い流した。しかし、おかげでこの川の流れは狂ってしまい、たびたび洪水を引き起こすようになったという。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "エウリュステウスは、罪滅ぼしなのに報酬を要求したとして(川の神の力を借りたため、とする説もある)これをノーカウントにしたため、さらに功業が1つ増えることとなった。また、アウゲイアースは約束を守らず、知らないふりをした。ヘーラクレースはこのことを忘れず、後になってアウゲイアースを攻略した。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「家畜の汚物処理」という後年使われる英雄のステレオタイプとしてのヘーラクレース像としては似つかわしくない雑業であり、単独の美術題材として用いられることが極めて少ないエピソードとして有名。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ステュムパーロスの鳥は、翼、爪、くちばしが青銅でできていた。ヘーラクレースはこの恐ろしい怪鳥を驚かせて飛び立たせるため、ヘーパイストスからとてつもなく大きな音を立てるガラガラ(彼の工房のキュクロープス達の目覚まし用)を借り受け、音に驚いて飛び立ったところをヒュドラーの毒矢で射落とした。また、矢が効かないので彼に襲い掛かってくるところを、1羽ずつ捕らえて絞め殺したとも言われている。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "クレータ島の王ミーノースを罰するためにポセイドーンの送り込んだクレータの牡牛を生け捕りにした。この牡牛はミーノータウロスの父親であり、美しいが猛々しく、極めて凶暴であった。ヘーラクレースはミーノース王に協力を求めるが拒否され、結局素手で格闘してこの牡牛をおとなしくさせ、アルゴスまで連行した。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ディオメーデースの人喰い馬は、トラーキア王ディオメーデースはアレースの子で、旅人を捕らえて自分の馬に食わせていた。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "シケリアのディオドーロスによれば、ヘーラクレースは逆にディオメーデースを馬に食わせてしまい、馬は生け捕りにした。 またアポロドーロスによれば、ヘーラクレースが馬を奪った後にディオメーデースが軍勢を率いて馬を奪還しようとしたため、ヘーラクレースは若衆の従者アブデーロスに馬の番をさせて戦いに出かけた。しかしヘーラクレースがディオメーデースを戦いで殺害して戻ってくると、少年は走る馬に大地の上を引きずられて死んでいた。ただしアブデーロスは馬に食い殺されたとする伝承も多い。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "エウリュステウスの娘アドメーテーがアマゾーン女王ヒッポリュテーの腰帯を欲しがったために、これを持ってくることを命じられた。ヘーラクレースはアマゾーンとの戦いになると考え、テーセウスらの勇士を集めて敵地に乗り込んだが、交渉したところ、ヒッポリュテーは強靭な肉体のヘーラクレース達を見て、自分達との間に丈夫な子を作ることを条件に腰帯を渡すことを承諾した。ところがヘーラーがアマゾーンの一人に変じて「ヘーラクレースが女王を拉致しようとしている」と煽ったため、アマゾーン達はヘーラクレースを攻撃した。ヘーラクレースは最初の甘言は罠であったと考え、ヒッポリュテーを殺害して腰帯を持ち帰った。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一説ではヘーラーが変装したのはヒッポリュテー本人で、彼女に変装したヘーラーが『ヘーラクレース達が国を乗っ取ろうとしている』と他のアマゾーン族を唆し襲撃させた。突如襲撃されたヘーラクレースは激怒。ヒッポリュテーに攻め寄り、必死に身の潔白を訴えるヒッポリュテーを殴り殺してしまった。冷静さを取り戻したヘーラクレースは、ヒッポリュテーの目は嘘を言っているように見えなかったと、話も聞かず殺してしまったことを後悔した。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ゲーリュオーンの飼う紅い牛を求めるのだが、ゲーリュオーンは、メドゥーサがペルセウスに殺されたときに血潮とともに飛び出したクリューサーオールの息子で、大洋オーケアノスの西の果てに浮かぶ島エリュテイアに住んでおり、常人は行き着くことができなかった。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "アフリカに行き着いたヘーラクレースが太陽の熱気に怒り、太陽神ヘーリオスに矢を射掛けたため、ヘーリオスは、その剛気を嘉して黄金の盃を与えた。別の説では、ヘーラクレースは矢で太陽を射落としてみせ、ヘーリオスに無理矢理黄金の盃を貸させた。ヘーラクレースは盃に乗ってオーケアノスを渡ることができた。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "エリュテイアでは双頭の犬オルトロスが牛を守っていたが、ヘーラクレースはオルトロスや牛の番人エウリュティオーンを棍棒で打ち殺して、紅い牛とともに牛の群れを奪った。そして牛を奪い返さんと追ってきたゲーリュオーンを射殺した。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースは冒険の途次、ジブラルタル海峡を通過した際に海峡の両岸に「ヘラクレスの柱」を残した。また、登るのが面倒な高い山脈を叩き割って大陸であった場所に海峡を作り、割れた山脈の両辺をヘラクレスの柱としたとも言われる。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ヘスペリデスの居場所を知らないヘーラクレースは水神ネーレウスと取っ組み合い、これを捕まえた。ネーレウスは怪物や水、火などに変身して逃れようとしたが、ヘーラクレースが捕らえて離さなかったため、やむなく場所を教えた。黄金の林檎は百の頭を持つ竜ラードーンが守っていたが、ヘーラクレースはこれを倒して林檎を手に入れた。ラードーンは、りゅう座となった。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "一方アポロドーロスは全く異なる伝説を伝えている。ヘーラクレースは、人間に火の使い方を教えたためにゼウスに罰せられてカウカーソス山に縛り付けられていたプロメーテウスを救い出して、助言を請うた。プロメーテウスは「ヘスペリデスはアトラースの娘たちだから、アトラースに取りに行かせるべきである」と答えた。アトラースは神々との戦いに敗れ、天空を担ぎ続けていた。ヘーラクレースがアトラースのところに赴き、ヘーラクレースが天空を担いでいる間に林檎を取ってくるよう頼むと、アトラースはこれに従い林檎を持ち帰った。しかし、再び天空を担いで身動きできなくなるのを嫌って、自分が林檎をミュケーナイに届けると言い出した。ヘーラクレースは一計を案じ、頭に円座を装着してから天空を支えたいので少しの間天空を持っていてほしいと頼んだ。承知したアトラースが天空を担いだところでヘーラクレースは林檎を取って立ち去った。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ケルベロスはオルトロスの兄貴分であり、3つの頭を持つ犬の化け物。ヘーラクレースは冥界に入ってハーデースから「傷つけたり殺したりしない」という条件で許可をもらい、ケルベロスを生け捕りにした。その際、ペルセポネーを略奪しようとして「忘却の椅子」に捕らわれていたテーセウスとペイリトオスを助け出した。また、地上に引きずり出されたケルベロスは太陽の光を浴びた時、狂乱して涎を垂らした。その涎から毒草のトリカブトが生まれたという。", "title": "十二の功業" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースは十二の功業の一つであるゲーリュオーンの牛を取りに行く途中に、巨大な山脈を登らねばならなかったが、それは非常に面倒なことであったので、近道をしようと考えた。山脈さえ無くなれば道のりを短縮できると考えたヘーラクレースは、巨大な山脈をその怪力で砕くことにした。ヘーラクレースは棍棒で山脈を叩き、その圧倒的な怪力で山脈を真っ二つにした。それだけではなく、山脈の下に横たわる大地もヘーラクレースの怪力に耐え切れずに吹き飛んだ。その結果、大西洋と地中海がジブラルタル海峡で繋がった。以降、分かれた2つの山脈をひとまとめにして、ヘーラクレースの柱と呼ぶようになった。", "title": "ヘーラクレースの柱" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、元々ジブラルタル海峡があったが、あまりにも幅が広く、このままでは海の怪物たちが地中海に押し寄せてきてしまうため、ヘーラクレースが大陸そのものを動かしてこの海峡を狭くしたとする説もある。", "title": "ヘーラクレースの柱" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "十二の功業の他にも、ヘーラクレースは壮大な冒険を繰り広げた。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "リビアに住んでいたアンタイオスは、ポセイドーンとガイアの息子であり、大地に触れている間は無敵の力を得ることができた。彼は通りかかる旅人に戦いを挑んでは殺し、その髑髏や持っていた宝物を父ポセイドーンの神殿に飾っていた。彼は通りかかったヘーラクレースにも戦いを挑んだ。ヘーラクレースは何度もアンタイオスを打ち倒すが、その度に復活し、力が無限に増すアンタイオスに苦戦を強いられた。最終的に、ヘーラクレースは大地に触れていなければ無限の力が得られないという彼の弱点に気付き、ヘーラクレースはアンタイオスを持ち上げ、そのまま彼を絞め殺した。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ペライの王であるアドメートスに死期が迫った時、その妻のアルケースティスは、死に瀕した夫のために命を投げ出した。アドメートスが死ぬ時、家族の誰かが身代わりになって命を落とせば、彼は死なずに済むという約束を運命の女神モイライと交わしていたからである。この時、ヘーラクレースが通りかかり、事の次第を聞いて、正義感からアルケースティスを死なせてはならないとして彼女の霊魂を追った。アルケースティスは死の神タナトスによって冥界に送られるところだったが、ヘーラクレースはその腕力で死の神を打ち倒し、彼女の魂を奪い取った。ヘーラクレースのおかげでアルケースティスは生き返り、運命の女神との約束によってアドメートスも生き長らえることができた。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、アルケースティスの霊魂を追って冥界にまで行き、ハーデースと格闘して奪い取ったとする説もある。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースがカリュドーン王オイネウスの娘デーイアネイラに求婚していた時、河の神アケローオスもデーイアネイラに求婚をしていた。両者はデーイアネイラを巡って激しい戦いを繰り広げた。アケローオスは濁流を打ち付け、様々な姿に変身してヘーラクレースを翻弄したが、雄牛の姿になったとき、片方の角をヘーラクレースに折られてしまった。アケローオスはその腕力に降参し、その後はアケロースの川底で傷口を癒した。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "河の神に勝利したヘーラクレースはデーイアネイラと結婚することになり、彼女との間に子供をもうけた。河の神アケローオスは大人しくなったが、毎年春になると傷跡からこの戦いでの敗北を思い出し、怒りのあまり洪水を引き起こすという。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースは狂気によって親友イピトスを殺してしまい、そのせいで病に取り憑かれていた。治癒のためにデルポイを訪れるが、巫女は彼に会ってすらくれなかった。これに腹を立てたヘーラクレースは、デルポイの宝でもあり、神託に必要不可欠な道具でもある三脚の鼎を奪おうとした。デルポイの守護神であるアポローンはこれに立腹して自ら姿を現し、ヘーラクレースと闘った。これを見たゼウスは、双方の間に落雷を投じて引き分けにさせた。その時アポローンは、「お前の病は、殺人の償いとして、丸三年の間(一説には一年間)奴隷として仕えれば回復するであろう」と予言した。これを受けてヘーラクレースは、ヘルメースに連れられてリューディアの女主人オムパレーの元へと赴き、病回復のために奴隷として彼女に仕えることとなった。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "エジプトでは、ブーシーリス王のもと、豊作を願って異邦人を捕まえては生け贄に捧げるという風習が行われていた。近くを旅していたヘーラクレースはエジプト人に捕まり、生け贄の祭壇に連れて来られた。そこでヘーラクレースは彼らの思惑を知り、その怪力で大暴れした。エジプト軍は彼によって尽く殺戮され、エジプトは壊滅状態になってしまった。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースがトロイアを訪れた時、トロイア王ラーオメドーンは高潮と共に現れる強大な海の怪物に悩まされていた。この怪物は、奴隷に扮したポセイドーンがトロイアの城壁を築いた折、ラーオメドーンが約束の報酬を支払わなかったため、ポセイドーンが罰としてトロイアに送り込んだ怪物であった。この怪物を鎮めるために、ラーオメドーンの娘であるヘーシオネーが岩に縛り付けられ、生け贄に捧げられるところであった。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースはガニュメーデースの代償にゼウスがトロイアに送った神馬が欲しいと思っていたので、この神馬と引き換えに海の怪物を討伐することを約束した。ヘーラクレースは巨大な怪物の腹の中に入り込み、三日も胃袋に居座って暴れ続けた。内臓を滅茶苦茶にされた怪物は死んだが、胃酸によってヘーラクレースの毛髪が溶け、禿げてしまった。ヘーラクレースは報酬の神馬を貰いに行ったが、ラーオメドーンは約束を反故にして拒絶した。当時はまだ十二の功業の最中であり、時間があまり残されていなかったため、ヘーラクレースは必ず復讐すると言い残してトロイアを去った。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "時が経ち、ヘーラクレースは仲間たちと共にトロイアへと攻め入った。ラーオメドーンは大軍勢でそれに応えたが、ヘーラクレースの怪力には敵わなかった。ヘーラクレース軍は城壁を包囲し、それを乗り越えてトロイアを攻略した。ラーオメドーンは射殺され、ヘーラクレースの復讐は遂げられた。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "十二の功業中にエーリス王アウゲイアースに報酬を踏み倒されたことの復讐として、後にヘーラクレースはエーリスに攻め入った。エーリス軍にはモリオネという双子(一説には結合双生児)の英雄がおり、彼らはポセイドーンの息子でカリュドーンの猪狩りに参加するほど武勇に優れ、怪力も有していた。双子であるが故に二対一の戦いとなり、剛勇無双のヘーラクレースといえども苦戦を強いられた。攻防戦の最中にヘーラクレースは病にかかり、休戦協定を結んだが、モリオネはそれを破って攻撃を止めず、ヘーラクレースは撤退せざるを得なくなった。その後、ヘーラクレースはモリオネがイストミア大祭に参加するという報せを聞き、その道中に待ち伏せしてモリオネを毒矢で射殺した。ヘーラクレースは強力な英雄を失ったエーリスを攻略し、この勝利を記念してオリュンピアにゼウス神殿を建て、その地で競技会を行った。以後、この競技会は4年に1度開催されるようになり、やがて古代オリンピックになった。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "後世の古代オリンピックではヘーラクレースの末裔と信じられたテオゲネスが華々しい結果を残した。テオゲネスは記録に残っているだけでもボクシングなどの種目で1,300戦全勝し、古代オリンピックだけではなくあらゆる競技会で優勝を繰り返し、生涯無敗であった。ちなみに、この人物は神話上の存在ではなく実在した人物である。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "コルキスの金羊の毛皮を求めるイアーソーンの呼びかけに応じて、ヘーラクレースも数多の英雄と共にアルゴー船に乗り込んだ。レームノス島の女たちの誘惑にも打ち勝ち、快楽に耽っていた他の英雄たちを叱咤して再び出航させるなど、ヘーラクレースはアルゴナウタイの中でも抜きん出た存在であった。しかし、ミューシアーにおいてヘーラクレースの愛していたヒュラースが水のニュンペーに攫われてしまい、ヒュラースを探している内にアルゴー船は出航してしまった。置き去りにされたヘーラクレースは、アルゴー船を追うのを止め、アルゴスへと帰還した。ヘーラクレースは最強の存在でありながら、アルゴナウタイから脱落してしまったのである。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一説には、このとき一部の乗組員はヘーラクレースを乗船させるためにティーピスに船を戻させようとしたが、カライスとゼーテースがこれを妨害した。このことを恨んだヘーラクレースは、後に二人をテーノス島で殺したという。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "全宇宙を揺るがす大戦争に、ヘーラクレースは神々と共に参戦した。ガイアはゼウスたちオリュンポスの神々から宇宙の支配権を奪い取るために、ギガースという山よりも巨大な怪力の巨人たちを送り、ギガントマキアーと呼ばれる大戦を勃発させた。ギガースたちは神々には殺されないという不思議な力を有していたため、ゼウスは半神半人であるヘーラクレースをオリュンポス側として参戦させた。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ギガースはあらゆる地形を引き裂いて突き進み、大岩や山脈、島を投げ飛ばして攻撃した。神々もそれに応戦し、戦闘の衝撃によって天地は轟き、全宇宙が震えた。凄まじい戦いが繰り広げられたが、神々の方が優勢であり、ギガースは次々に敗北していった。弱ったギガースをヘーラクレースの毒矢が襲い、ヘーラクレースにとどめを刺されたギガースは絶命した。パレーネーの地に触れている限り無敵の力を得る最強の巨人もいたが、ヘーラクレースの圧倒的な怪力によってその地から引き剥がされ、彼の剛腕によって殺された。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースの活躍もあり、ギガントマキアは神々の圧勝に終わった。", "title": "その他の冒険" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースとその妻デーイアネイラは、彼らの子供であるヒュロスを連れて旅をしていた。ある日、ヘーラクレースは川を渡ろうとしたが、家族と共に渡るにはあまりにも流れが激しすぎた。ちょうどそのとき川辺にいたケンタウロスのネッソスがデーイアネイラを担ぐと申し出たので、ヘーラクレースがヒュロスを担ぎ、ネッソスがデーイアネイラを担いで激流の川を渡った。しかし、早く向こう岸に着いたネッソスがデーイアネイラを犯そうとしたためにヘーラクレースはヒュドラーの毒矢でこれを射殺した。ネッソスはいまわの際に、「自分の血は媚薬になるので、ヘーラクレースの愛が減じたときに衣服をこれに浸して着せれば効果がある」と言い残した。デーイアネイラはその言葉を信じ、ネッソスの血を採っておいた。", "title": "ヘーラクレースの最期" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "後にヘーラクレースがオイカリアの王女イオレーを手に入れようとしているのを察したデーイアネイラは、ネッソスの血に浸した服をリカースに渡してヘーラクレースに送った。ヘーラクレースがこれを身につけたところ、たちまちヒュドラーの猛毒が回って体が焼けただれ始めて苦しみ、怒って無実のリカースを海に投げて殺した。ヒュドラーの毒矢で死んだネッソスの血は、ヒュドラーの毒と同じ効果を示したのだった。あまりの苦痛に耐えかねたヘーラクレースは薪を積み上げてその上に身を横たえ、ポイアースに弓を与え(後にこの弓はポイアースの息子ピロクテーテースのものになる)、火を点けるように頼んだ(火を点けたのはピロクテーテースだともいわれる)。こうしてヘーラクレースは生きながら火葬されて死んだ。これを知ったデーイアネイラは自殺した。", "title": "ヘーラクレースの最期" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースは死後、神の座に上った。このときに至ってようやくヘーラーもヘーラクレースを許し、娘のヘーベーを妻に与えたという。そしてヘーベーとの間にアレクシアレースとアニーケートスという二柱の息子を儲けた。", "title": "ヘーラクレースの最期" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースの子孫たちは、ヘーラクレイダイと呼ばれた。", "title": "ヘーラクレイダイ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ヘーラクレースの死後、その子供たちがミュケーナイの王位を望むことを恐れたエウリュステウスは、ヒュロスらを殺そうとして追い回した。アルクメーネーとヒュロスらは、アテーナイのデーモポーンに助けられた。エウリュステウスはヒュロスらの身の受け渡しを要求し、それに応じないアテーナイと戦った。この戦争の中でヒュロスはエウリュステウスの子をすべて討ち取り、エウリュステウスは捕らわれて殺された。", "title": "ヘーラクレイダイ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ヒュロスたちはエウリュステウスとの戦争に勝ったが、故郷であるペロポネソス半島に未だに戻れずにいた。しかし、ヒュロスの孫たちはミケーネやアルゴスを打ち破り、遂にペロポネソス半島へと帰還することができた。その際、テーメノスがアルゴスを、アリストデーモスがスパルタを、クレスポンテースがメッセニアを支配することになった。この内、テーメノスの子供であるペルディッカスは、アルゴスの王位継承争いに敗れて追放され、ギリシア北方の地にマケドニア王国を建国した。したがって、アルゴス人やスパルタ人、マケドニア人はヘーラクレースの子孫とされた。また、彼らは皆ドーリス系ギリシア人であったので、ヘーラクレイダイの帰還はドーリス人のギリシア侵入と関連付けられている。", "title": "ヘーラクレイダイ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アガサ・クリスティーが生み出した名探偵エルキュール・ポアロのファーストネームHerculeは、ヘーラクレースのフランス語形である。これにちなんで、アガサには「ヘラクレスの冒険」という短編集もあり、ヘーラクレースの古典的物語と関連づけられている。", "title": "大衆文化への影響" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その他、多くのものがヘーラクレースにちなみ、その名を冠している。これらについては、ヘラクレス (曖昧さ回避)及び英語名ハーキュリーズを参照のこと。", "title": "大衆文化への影響" } ]
ヘーラクレース は、ギリシア神話の英雄。ギリシア神話に登場する多くの半神半人の英雄の中でも最大の存在である。のちにオリュンポスの神に連なったとされる。ペルセウスの子孫であり、ミュケーナイ王家の血を引く。幼名をアルケイデースといい、祖父の名のままアルカイオスとも呼ばれていた。後述する12の功業を行う際、ティーリュンスに居住するようになった彼をデルポイの巫女が 「ヘーラーの栄光」を意味するヘーラクレースと呼んでからそう名乗るようになった。キュノサルゲス等、古代ギリシア各地で神として祀られ、古代ローマに於いても盛んに信仰された。その象徴は弓矢、棍棒、鎌、獅子の毛皮である。 ローマ神話(ラテン語)名は Hercules (ヘルクレース)で、星座名のヘルクレス座はここから来ている。 英語名はギリシア神話ではHeracles(ヘラクリーズ)、ローマ神話ではHercules(ハーキュリーズ)。イタリア語名はギリシア神話ではEracle(エーラクレ)、ローマ神話では Ercole(エールコレ)。フランス語名はギリシア神話では Héraclès (エラクレス)、ローマ神話では Hercule (エルキュール)という。なお、欧米ではローマ神話名の方が一般的に用いられている。 日本語では長母音を省略してヘラクレスとも表記される。
{{Redirect|ヘラクレス|その他|ヘラクレス (曖昧さ回避)}} {{Infobox deity | type = Greek | name = ヘーラクレース<br/>Ηρακλής | image = Hercules Statue.jpg | image_size = 200px | caption = {{small|{{仮リンク|ファルネーゼのヘラクレス|en|Farnese Hercules}}<br/>オリジナルは[[カラカラ浴場]]にあったヘーラクレース像。現存する大理石の複製は[[ナポリ国立考古学博物館]]にある。}} | deity_of = | birth_place = | death_place = | cult_center = | affiliation = | abode = [[オリュムポス]] | weapon = | symbol = 弓矢, 棍棒, 鎌, 獅子の毛皮 | consort = [[ヘーベー]] | parents = [[ゼウス]], [[アルクメーネー]] | siblings = | children = [[メガラー]]との間:テーリマコス、クレオンティアデース、デーイコオーン<br/>[[オムパレー]]との間:[[アゲラーオス]], ラモス, ラーオメドーン<br/>[[デーイアネイラ]]との間:[[ヒュロス]], [[グレーノス]], [[クテーシッポス]], [[オネイテース]], [[マカリアー]]<br/>ヘーベーとの間:アレクシアレースとアニーケートス<br/>[[アウゲー]]との間:[[テーレポス]]<br/>[[アステュオケー]]との間:[[トレーポレモス]] | mount = | Roman_equivalent = [[:en:Hercules|Hercules]] | festivals = }} {{Greek mythology}} '''ヘーラクレース''' ({{lang-grc-short|'''῾Ηρακλής''', ''Hēraklēs''}}) は、[[ギリシア神話]]の英雄。ギリシア神話に登場する多くの[[半神]]半人の[[英雄]]の中でも最大の存在である。のちに[[オリンポス山|オリュンポス]]の神に連なったとされる。[[ペルセウス]]の子孫であり、[[ミケーネ|ミュケーナイ]]王家の血を引く。幼名を'''アルケイデース'''({{lang|grc|'''Ἀλκείδης''', ''Alkeidēs''}})といい、祖父の名のまま'''アルカイオス'''({{lang|grc|'''Ἀλκαῖος''', ''Alkaios''}})とも呼ばれていた。後述する12の功業を行う際、[[ティリンス|ティーリュンス]]に居住するようになった彼を[[デルポイ]]の[[巫女]]が 「[[ヘーラー]]の栄光」を意味するヘーラクレースと呼んでからそう名乗るようになった。[[キュノサルゲス]]等、古代ギリシア各地で神として祀られ、[[古代ローマ]]に於いても盛んに信仰された。その象徴は弓矢、棍棒、鎌、獅子の毛皮である。 [[ローマ神話]]([[ラテン語]])名は Hercules (ヘルクレース)で、[[星座]]名の[[ヘルクレス座]]はここから来ている。 [[英語]]名はギリシア神話ではHeracles(ヘラクリーズ)、ローマ神話ではHercules(ハーキュリーズ)。[[イタリア語]]名はギリシア神話ではEracle(エーラクレ)、ローマ神話では Ercole(エールコレ)。[[フランス語]]名はギリシア神話では Héraclès (エラクレス)、ローマ神話では Hercule (エルキュール)という。なお、欧米ではローマ神話名の方が一般的に用いられている。 [[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''ヘラクレス'''とも表記される。 == 生い立ち == [[File:Herakles snake Musei Capitolini MC247.jpg|thumb|left|[[ローマ]]・[[カピトリーノ美術館]]にあるヘーラクレースと二匹の蛇の像。]] [[file:Jacopo Tintoretto - The Origin of the Milky Way - Yorck Project.jpg|thumb|[[ティントレット]]の絵画『[[天の川の起源 (ティントレット)|天の川の起源]]』(1575年 - 1580年頃)。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]所蔵。<ref group="注">ヘーラーを表す[[クジャク]]を伴うヘーラーの母乳が天に飛び、銀河となる。鷲はゼウスを表し、サソリのような雷電を掴む。わが子を餓死させまいと必死に母乳に向ける。</ref><br />1800年にロンドンで50ギニーで購入された絵画。[[ジャン=バプティスト・コルベール]]のコレクションを経て[[オルレアン・コレクション]]となった。]] ヘーラクレースは[[ゼウス]]と[[アルクメーネー]](ペルセウスの孫に当たる)の子。アルクメーネーを見初めたゼウスは、様々に言い寄ったが、アルクメーネーは[[アムピトリュオーン]]との結婚の約束を守り、決してなびかなかった。そこでゼウスはアムピトリュオーンが戦いに出かけて不在のおり、アムピトリュオーンの姿をとって遠征から帰ったように見せかけ、ようやく思いを遂げ、1夜を3倍にして楽しんだ。アルクメーネーは次の日に本当の夫を迎え、神の子ヘーラクレースと人の子[[イーピクレース]]の[[双生児|双子]]の母となった。 アルクメーネーが産気づいたとき、ゼウスは「今日生まれる最初のペルセウスの子孫が全[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]の支配者となる」と宣言した。それを知ったゼウスの妻ヘーラーは、出産を司る女神[[エイレイテュイア]]を遣わして双子の誕生を遅らせ、もう一人のペルセウスの子孫でまだ7か月の[[エウリュステウス]]を先に世に出した。こうしてヘーラクレースは誕生以前からヘーラーの憎しみを買うことになった。 ヘーラクレースの誕生後、ゼウスはヘーラクレースに不死の力を与えようとして、眠っているヘーラーの乳を吸わせた。ヘーラクレースが乳を吸う力が強く、痛みに目覚めたヘーラーは赤ん坊を突き放した。このとき飛び散った乳が[[天の川]](galaxyは「乳のサイクル」Milky Wayは「乳の道」)になったという。一説にはアルクメーネーはヘーラーの迫害を恐れて赤ん坊のヘーラクレースを城外の野原に捨てた。ゼウスが[[アテーナー]]に命じて、ヘーラーを赤ん坊の捨てられた野原に連れて行くと、アテーナーは赤ん坊を拾い、赤ん坊に母乳を与えるように勧めた。赤ん坊の来歴が知らされていないヘーラーは哀れに思い、母乳を与えた。最後にアテーナーは不死の力を得た赤ん坊をアルクメーネーの元へ返し大切に育てるよう告げる。 これを恨んだヘーラーは密かに二匹の蛇を双子が寝ている揺り籠に放ったが、赤ん坊のヘーラクレースは素手でこれを絞め殺した。 == 成長と狂気 == ヘーラクレースはアムピトリュオーンから戦車の扱いを、[[アウトリュコス]]からレスリングを、[[エウリュトス]]から弓術、[[カストール]]から武器の扱いを、[[リノス]]から竪琴の扱いを学んだ。しかしリノスに殴られた際ヘーラクレースは激怒し、リノスを竪琴で殴り殺してしまう。そして[[ケンタウロス]]族の[[ケイローン]]に武術を師事して、剛勇無双となった。[[キサイロナス|キタイローン]]山のライオンを退治し、以後ライオンの頭と皮を兜・鎧のように身につけて戦うようになる。 ヘーラクレースは義父アムピトリュオーンが属する[[テーバイ]]を助けて[[オルコメノス]]の軍と戦い、これを倒した。[[クレオーン]]王は娘[[メガラー]]を妻としてヘーラクレースに与え、二人の間には3人の子供が生まれた。しかし、ヘーラーがヘーラクレースに[[狂気]]を吹き込み、ヘーラクレースは我が子と[[イーピクレース]]の子を炎に投げ込んで殺してしまった。正気に戻ったヘーラクレースは、罪を償うためにデルポイに赴き、[[アポローン]]の神託を伺った。神託は「ミュケーナイ王エウリュステウスに仕え、10の勤めを果たせ」というものだった。ヘーラクレースはこれに従い、本来なら自分がなっているはずのミュケーナイ王に仕えることになった。「ヘラクレスの選択」といえば、敢えて苦難の道を歩んで行くことをいう。 == 十二の功業 == {{Anchors|ヘーラクレースの12の功業}}エウリュステウスがヘーラクレースに命じた仕事は次の通り。 === ネメアーの獅子 === [[File:ネメアーのライオン.JPG|thumb|ネメアーの獅子を絞め殺すヘーラクレース([[大英博物館]]蔵)。]] [[ネメアーの獅子]]は刃物を通さない強靭な皮を持っており、矢を撃っても傷一つつかなかった。ヘーラクレースは棍棒で殴って悶絶させ、洞窟へと追い込んだ。そこで洞窟の入り口を大岩で塞いで逃げられないようにし、三日間の格闘の末に絞め殺した。この獅子は後に[[しし座]]となった。あらゆる武器を弾く毛皮は獅子の爪によって加工され、彼はその皮を頭からかぶり、鎧として用いた。獅子が英雄のシンボルになったのもこのためである。 === レルネーのヒュドラー === [[File:レルネーのヒュドラと戦うヘーラクレース.jpg|thumb|left|レルネーのヒュドラーと戦うヘーラクレース。]] [[File:Antonio_del_Pollaiolo_-_Ercole_e_l'Idra_e_Ercole_e_Anteo_-_Google_Art_Project.jpg|180px|thumb|left|[[アントニオ・デル・ポッライオーロ]]作『ヘラクレスとヒュドラ』]] [[ヒュドラー]]は、レルネーの沼に住み、9つの(百とも言われる)頭を持った水蛇である。触れただけで生きとし生けるものを絶命させる世界最強の猛毒を有していた。ヘーラクレースはヒュドラーの吐く毒気にやられないように口と鼻を布で覆いながら戦わねばならなかった。ヘーラクレースは始め、鉄の鎌でヒュドラーの首を切っていったが、切った後からさらに2つの首が生えてきて収拾がつかない。しかも頭のひとつは不死だった。従者の[[イオラーオス|イオラオス]](双子の兄弟イピクレスの子)がヒュドラーの傷口を[[たいまつ|松明]]の炎で焼いて新しい首が生えるのを妨げてヘーラクレースを助けた。最後に残った不死の頭は岩の下に埋め、見事ヒュドラーを退治した。そしてヒュドラーは[[うみへび座]]となった。また、この戦いで、[[ヘーラー]]がヒュドラーに加勢させるべく送り込んだ巨大な化け蟹を、ヘーラクレースはあっさり踏みつぶしてしまった。この蟹がその後[[かに座]]となった。 エウリュステウスは、従者から助けられたことを口実にして、功績を無効としたため、功業が1つ増えることになった。またヘーラクレースはヒュドラーの猛毒を矢に塗って使うようになった。 === ケリュネイアの鹿 === [[アハイア県|アカイア]]地方の[[ケリュネイアの鹿]](牝鹿)は女神[[アルテミス]]の聖獣で黄金の角と青銅のひづめを持っていた。4頭の兄弟がおり、アルテミスに生け捕られ、彼女の戦車を引いていたが、この5頭目の鹿は狩猟の女神をもってしても捕らえる事ができないほどの脚の速さを誇った。女神から傷つけることを禁じられたため、ヘーラクレースは1年間追い回した末に鹿を生け捕りにした。その後この鹿はアルテミスに捧げられ、他の4頭とともに戦車を牽くこととなった。 === エリュマントスの猪 === エリュマントス山に住む人食いの怪物、[[エリュマントスの猪|大猪]]を生け捕りにした。生け捕り自体はさしたる問題なく片づいたが、このとき、ヘーラクレースは[[ケンタウロス]]の[[ポロス]]に助力を求めていた。ポロスが預かっていたケンタウロス一族の共有していた酒をヘーラクレースが飲んだ事により、ケンタウロス一族と争いになった。その戦いで、誤って武術の師である[[ケイローン]]に[[ヒュドラー]]の毒矢を放ってしまった。ケイローンは不死の力を与えられていたが、毒の苦しみに耐えきれず、不死の力を[[プロメーテウス]]に譲渡して死を選んだ。この時にケイローンの不死の力を受け入れてもらうために、ヘーラクレースが[[コーカサス山脈|カウカーソス山]]に縛り付けられていたプロメーテウスを解放したとされる。この後、ケイローンの死を惜しんだゼウスは、彼を[[いて座]]にしたという。 === アウゲイアースの家畜小屋 === [[エーリス]]王[[アウゲイアース]]は3,000頭の牛を持ち、その牛小屋は30年間掃除されたことがなかった。ヘーラクレースはアウゲイアースに「1日で掃除したら、牛の10分の1をもらう」という条件を持ちかけ、アウゲイアースは承知した。ヘーラクレースは[[アルペイオス川]]とペネイオス川の2つの川の流れを強引に変え、小屋に引き込んで30年分の汚物をいっぺんに洗い流した。しかし、おかげでこの川の流れは狂ってしまい、たびたび洪水を引き起こすようになったという。 [[エウリュステウス]]は、罪滅ぼしなのに報酬を要求したとして(川の神の力を借りたため、とする説もある)これをノーカウントにしたため、さらに功業が1つ増えることとなった。また、アウゲイアースは約束を守らず、知らないふりをした。ヘーラクレースはこのことを忘れず、後になってアウゲイアースを攻略した。 {{要出典範囲|date=2021年5月|「家畜の汚物処理」という後年使われる英雄のステレオタイプとしてのヘーラクレース像としては似つかわしくない雑業であり、単独の美術題材として用いられることが極めて少ないエピソードとして有名}}。 === ステュムパーロスの鳥 === [[File:ステュムパーリデスの鳥.JPG|thumb|ステュムパーロスの鳥を撃ち落とすヘーラクレース(大英博物館蔵)。]] [[ステュムパーロスの鳥]]は、翼、[[爪]]、くちばしが[[青銅]]でできていた。ヘーラクレースはこの恐ろしい怪鳥を驚かせて飛び立たせるため、[[ヘーパイストス]]からとてつもなく大きな音を立てるガラガラ(彼の工房の[[キュクロープス]]達の目覚まし用)を借り受け、音に驚いて飛び立ったところをヒュドラーの毒矢で射落とした。また、矢が効かないので彼に襲い掛かってくるところを、1羽ずつ捕らえて絞め殺したとも言われている。 === クレータの牡牛 === [[クレタ島|クレータ島]]の王[[ミーノース]]を罰するために[[ポセイドーン]]の送り込んだ[[クレータの牡牛]]を生け捕りにした。この牡牛は[[ミーノータウロス]]の父親であり、美しいが猛々しく、極めて凶暴であった。ヘーラクレースはミーノース王に協力を求めるが拒否され、結局素手で格闘してこの牡牛をおとなしくさせ、アルゴスまで連行した。 === ディオメーデースの人喰い馬 === [[ディオメーデースの人喰い馬]]は、[[トラキア|トラーキア]]王ディオメーデースは[[アレース]]の子で、旅人を捕らえて自分の[[ディオメーデースの人喰い馬|馬]]に食わせていた。 [[シケリアのディオドーロス]]によれば、ヘーラクレースは逆にディオメーデースを馬に食わせてしまい、馬は生け捕りにした<ref>シケリアのディオドーロス、4巻15・3。</ref>。 また[[アポロドーロス]]によれば、ヘーラクレースが馬を奪った後にディオメーデースが軍勢を率いて馬を奪還しようとしたため、ヘーラクレースは[[少年愛|若衆]]の従者[[アブデーロス]]に馬の番をさせて戦いに出かけた。しかしヘーラクレースがディオメーデースを戦いで殺害して戻ってくると、少年は走る馬に大地の上を引きずられて死んでいた<ref>アポロドーロス、2巻5・8。</ref>。ただしアブデーロスは馬に食い殺されたとする伝承も多い<ref>ストラボーン、7巻8・43。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ピロストラトス『エイコネス』2巻25・1 |accessdate=2022/05/12 |url=https://topostext.org/work/225#2.25.1 |publisher=ToposText}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ツェツェース『キリアデス』2巻304行-306行 |accessdate=2022/05/12 |url=https://www.theoi.com/Text/TzetzesChiliades2.html |publisher=Theoi Project}}</ref>。 === アマゾーンの女王の腰帯 === エウリュステウスの娘[[アドメーテー]]が[[アマゾーン]]女王[[ヒッポリュテー]]の腰帯を欲しがったために、これを持ってくることを命じられた。ヘーラクレースはアマゾーンとの戦いになると考え、[[テーセウス]]らの勇士を集めて敵地に乗り込んだが、交渉したところ、ヒッポリュテーは強靭な肉体のヘーラクレース達を見て、自分達との間に丈夫な子を作ることを条件に腰帯を渡すことを承諾した。ところがヘーラーがアマゾーンの一人に変じて「ヘーラクレースが女王を拉致しようとしている」と煽ったため、アマゾーン達はヘーラクレースを攻撃した。ヘーラクレースは最初の甘言は罠であったと考え、ヒッポリュテーを殺害して腰帯を持ち帰った。 一説ではヘーラーが変装したのはヒッポリュテー本人で、彼女に変装したヘーラーが『ヘーラクレース達が国を乗っ取ろうとしている』と他のアマゾーン族を唆し襲撃させた。突如襲撃されたヘーラクレースは激怒。ヒッポリュテーに攻め寄り、必死に身の潔白を訴えるヒッポリュテーを殴り殺してしまった。冷静さを取り戻したヘーラクレースは、ヒッポリュテーの目は嘘を言っているように見えなかったと、話も聞かず殺してしまったことを後悔した。 === ゲーリュオーンの牛 === [[File:ヘラクレスVSゲリュオン.JPG|thumb|ゲーリュオーンと戦うヘーラクレース(大英博物館蔵)。]] [[ゲーリュオーン]]の飼う紅い牛を求めるのだが、ゲーリュオーンは、[[メドゥーサ]]がペルセウスに殺されたときに血潮とともに飛び出した[[クリューサーオール]]の息子で、大洋[[オーケアノス]]の西の果てに浮かぶ島エリュテイアに住んでおり、常人は行き着くことができなかった。 アフリカに行き着いたヘーラクレースが太陽の熱気に怒り、太陽神[[ヘーリオス]]に矢を射掛けたため、ヘーリオスは、その剛気を嘉して黄金の盃を与えた。別の説では、ヘーラクレースは矢で太陽を射落としてみせ、ヘーリオスに無理矢理黄金の盃を貸させた。ヘーラクレースは盃に乗ってオーケアノスを渡ることができた。 エリュテイアでは双頭の犬[[オルトロス]]が牛を守っていたが、ヘーラクレースはオルトロスや牛の番人[[エウリュティオーン]]を棍棒で打ち殺して、紅い牛とともに牛の群れを奪った。そして牛を奪い返さんと追ってきたゲーリュオーンを射殺した。 ヘーラクレースは冒険の途次、[[ジブラルタル海峡]]を通過した際に海峡の両岸に「[[ヘラクレスの柱]]」を残した。また、登るのが面倒な高い山脈を叩き割って大陸であった場所に海峡を作り、割れた山脈の両辺をヘラクレスの柱としたとも言われる。 === ヘスペリデスの黄金の林檎 === [[Image:Hercules and the Hesperides by Giovanni Antonio Pellegrini.jpg|thumb|{{仮リンク|ジョヴァンニ・アントニオ・ペレグリーニ|en|Giovanni Antonio Pellegrini}}の絵画『ヘーラクレースとヘスペリデス』。{{仮リンク|ヴァイセンシュタイン城|en|Schloss Weißenstein}}所蔵。]] [[ヘスペリデス]]の居場所を知らないヘーラクレースは水神[[ネーレウス (ギリシア神話の神)|ネーレウス]]と取っ組み合い、これを捕まえた。ネーレウスは怪物や水、火などに変身して逃れようとしたが、ヘーラクレースが捕らえて離さなかったため、やむなく場所を教えた。[[黄金の林檎]]は百の頭を持つ竜[[ラードーン]]が守っていたが、ヘーラクレースはこれを倒して林檎を手に入れた。ラードーンは、[[りゅう座]]となった。 一方アポロドーロスは全く異なる伝説を伝えている。ヘーラクレースは、人間に火の使い方を教えたためにゼウスに罰せられて[[コーカサス山脈|カウカーソス山]]に縛り付けられていた[[プロメーテウス]]を救い出して、助言を請うた。プロメーテウスは「ヘスペリデスは[[アトラース]]の娘たちだから、アトラースに取りに行かせるべきである」と答えた。アトラースは神々との戦いに敗れ、天空を担ぎ続けていた。ヘーラクレースがアトラースのところに赴き、ヘーラクレースが天空を担いでいる間に林檎を取ってくるよう頼むと、アトラースはこれに従い林檎を持ち帰った。しかし、再び天空を担いで身動きできなくなるのを嫌って、自分が林檎をミュケーナイに届けると言い出した。ヘーラクレースは一計を案じ、頭に円座を装着してから天空を支えたいので少しの間天空を持っていてほしいと頼んだ。承知したアトラースが天空を担いだところでヘーラクレースは林檎を取って立ち去った。 === 地獄の番犬ケルベロス === [[ケルベロス]]は[[オルトロス]]の兄貴分であり、3つの頭を持つ犬の化け物。ヘーラクレースは冥界に入って[[ハーデース]]から「傷つけたり殺したりしない」という条件で許可をもらい、ケルベロスを生け捕りにした。その際、[[ペルセポネー]]を略奪しようとして「忘却の椅子」に捕らわれていたテーセウスと[[ペイリトオス]]を助け出した。また、地上に引きずり出されたケルベロスは太陽の光を浴びた時、狂乱して涎を垂らした。その涎から毒草の[[トリカブト]]が生まれたという。 ==ヘーラクレースの柱== [[Image:De Zuilen van Hercules Gibraltar en Ceuta.jpg|thumb|ヘーラクレースの柱。ジブラルタル(手前の岩山)とセウタ(海の向こう側の岩山)の間がヘーラクレースによって砕かれて海になった。]] ヘーラクレースは十二の功業の一つである[[ゲーリュオーン]]の牛を取りに行く途中に、巨大な山脈を登らねばならなかったが、それは非常に面倒なことであったので、近道をしようと考えた。山脈さえ無くなれば道のりを短縮できると考えたヘーラクレースは、巨大な山脈をその怪力で砕くことにした。ヘーラクレースは棍棒で山脈を叩き、その圧倒的な怪力で山脈を真っ二つにした。それだけではなく、山脈の下に横たわる大地もヘーラクレースの怪力に耐え切れずに吹き飛んだ。その結果、大西洋と地中海が[[ジブラルタル海峡]]で繋がった。以降、分かれた2つの山脈をひとまとめにして、[[ヘラクレスの柱|ヘーラクレースの柱]]と呼ぶようになった<ref>Seneca, Hercules Furens 235ff.; Seneca, Hercules Oetaeus 1240; Pliny, Nat. Hist. iii.4.</ref>。 また、元々ジブラルタル海峡があったが、あまりにも幅が広く、このままでは海の怪物たちが地中海に押し寄せてきてしまうため、ヘーラクレースが大陸そのものを動かしてこの海峡を狭くしたとする説もある<ref>シケリアのディオドーロス、4巻18・5。</ref>。 == その他の冒険 == 十二の功業の他にも、ヘーラクレースは壮大な冒険を繰り広げた。 === アンタイオスとの対決 === [[リビア]]に住んでいた[[アンタイオス]]は、ポセイドーンとガイアの息子であり、大地に触れている間は無敵の力を得ることができた。彼は通りかかる旅人に戦いを挑んでは殺し、その髑髏や持っていた宝物を父ポセイドーンの神殿に飾っていた。彼は通りかかったヘーラクレースにも戦いを挑んだ。ヘーラクレースは何度もアンタイオスを打ち倒すが、その度に復活し、力が無限に増すアンタイオスに苦戦を強いられた。最終的に、ヘーラクレースは大地に触れていなければ無限の力が得られないという彼の弱点に気付き、ヘーラクレースはアンタイオスを持ち上げ、そのまま彼を絞め殺した。 === 死の神との対決 === ペライの王である[[アドメートス]]に死期が迫った時、その妻の[[アルケースティス]]は、死に瀕した夫のために命を投げ出した。アドメートスが死ぬ時、家族の誰かが身代わりになって命を落とせば、彼は死なずに済むという約束を運命の女神[[モイライ]]と交わしていたからである。この時、ヘーラクレースが通りかかり、事の次第を聞いて、正義感からアルケースティスを死なせてはならないとして彼女の霊魂を追った。アルケースティスは死の神[[タナトス]]によって冥界に送られるところだったが、ヘーラクレースはその腕力で死の神を打ち倒し、彼女の魂を奪い取った。ヘーラクレースのおかげでアルケースティスは生き返り、運命の女神との約束によってアドメートスも生き長らえることができた。 また、アルケースティスの霊魂を追って冥界にまで行き、ハーデースと格闘して奪い取ったとする説もある。 === 河の神との対決 === ヘーラクレースが[[カリュドーン]]王[[オイネウス]]の娘[[デーイアネイラ]]に求婚していた時、河の神[[アケローオス]]もデーイアネイラに求婚をしていた。両者はデーイアネイラを巡って激しい戦いを繰り広げた。アケローオスは濁流を打ち付け、様々な姿に変身してヘーラクレースを翻弄したが、雄牛の姿になったとき、片方の角をヘーラクレースに折られてしまった。アケローオスはその腕力に降参し、その後はアケロースの川底で傷口を癒した。 河の神に勝利したヘーラクレースはデーイアネイラと結婚することになり、彼女との間に子供をもうけた。河の神アケローオスは大人しくなったが、毎年春になると傷跡からこの戦いでの敗北を思い出し、怒りのあまり洪水を引き起こすという。 === アポローンとの対決 === ヘーラクレースは狂気によって親友[[イピトス]]を殺してしまい、そのせいで病に取り憑かれていた。治癒のためにデルポイを訪れるが、巫女は彼に会ってすらくれなかった。これに腹を立てたヘーラクレースは、デルポイの宝でもあり、神託に必要不可欠な道具でもある三脚の鼎を奪おうとした。デルポイの守護神であるアポローンはこれに立腹して自ら姿を現し、ヘーラクレースと闘った。これを見たゼウスは、双方の間に落雷を投じて引き分けにさせた。その時アポローンは、「お前の病は、殺人の償いとして、丸三年の間(一説には一年間)奴隷として仕えれば回復するであろう」と予言した。これを受けてヘーラクレースは、ヘルメースに連れられてリューディアの女主人[[オムパレー]]の元へと赴き、病回復のために奴隷として彼女に仕えることとなった。 === エジプト攻略 === [[エジプト]]では、[[ブーシーリス]]王のもと、豊作を願って異邦人を捕まえては生け贄に捧げるという風習が行われていた。近くを旅していたヘーラクレースはエジプト人に捕まり、生け贄の祭壇に連れて来られた。そこでヘーラクレースは彼らの思惑を知り、その怪力で大暴れした。エジプト軍は彼によって尽く殺戮され、エジプトは壊滅状態になってしまった。 === トロイア攻略 === ヘーラクレースが[[トロイア]]を訪れた時、トロイア王[[ラーオメドーン]]は高潮と共に現れる強大な海の怪物に悩まされていた。この怪物は、奴隷に扮したポセイドーンがトロイアの城壁を築いた折、ラーオメドーンが約束の報酬を支払わなかったため、ポセイドーンが罰としてトロイアに送り込んだ怪物であった。この怪物を鎮めるために、ラーオメドーンの娘であるヘーシオネーが岩に縛り付けられ、生け贄に捧げられるところであった。 ヘーラクレースは[[ガニュメーデース]]の代償にゼウスがトロイアに送った神馬が欲しいと思っていたので、この神馬と引き換えに海の怪物を討伐することを約束した。ヘーラクレースは巨大な怪物の腹の中に入り込み、三日も胃袋に居座って暴れ続けた。内臓を滅茶苦茶にされた怪物は死んだが、胃酸によってヘーラクレースの毛髪が溶け、禿げてしまった。ヘーラクレースは報酬の神馬を貰いに行ったが、ラーオメドーンは約束を反故にして拒絶した。当時はまだ十二の功業の最中であり、時間があまり残されていなかったため、ヘーラクレースは必ず復讐すると言い残してトロイアを去った。 時が経ち、ヘーラクレースは仲間たちと共にトロイアへと攻め入った。ラーオメドーンは大軍勢でそれに応えたが、ヘーラクレースの怪力には敵わなかった。ヘーラクレース軍は城壁を包囲し、それを乗り越えてトロイアを攻略した。ラーオメドーンは射殺され、ヘーラクレースの復讐は遂げられた。 === 古代オリンピックの創始 === [[File:Pillars Olympia.JPG|thumb|オリュンピア遺跡の列柱。]] 十二の功業中にエーリス王アウゲイアースに報酬を踏み倒されたことの復讐として、後にヘーラクレースはエーリスに攻め入った。エーリス軍には[[モリオネ]]という双子(一説には[[結合双生児]])の英雄がおり、彼らはポセイドーンの息子で[[カリュドーンの猪]]狩りに参加するほど武勇に優れ、怪力も有していた。双子であるが故に二対一の戦いとなり、剛勇無双のヘーラクレースといえども苦戦を強いられた。攻防戦の最中にヘーラクレースは病にかかり、休戦協定を結んだが、モリオネはそれを破って攻撃を止めず、ヘーラクレースは撤退せざるを得なくなった。その後、ヘーラクレースはモリオネが[[イストミア大祭]]に参加するという報せを聞き、その道中に待ち伏せしてモリオネを毒矢で射殺した。ヘーラクレースは強力な英雄を失ったエーリスを攻略し、この勝利を記念して[[オリュンピア]]に[[ゼウス神殿]]を建て、その地で競技会を行った。以後、この競技会は4年に1度開催されるようになり、やがて[[古代オリンピック]]になった。 後世の古代オリンピックではヘーラクレースの末裔と信じられた[[テオゲネス]]が華々しい結果を残した。テオゲネスは記録に残っているだけでも[[古代ギリシアのボクシング|ボクシング]]などの種目で1,300戦全勝し、古代オリンピックだけではなくあらゆる競技会で優勝を繰り返し、生涯無敗であった。ちなみに、この人物は神話上の存在ではなく実在した人物である。 === アルゴナウタイ === コルキスの金羊の毛皮を求める[[イアーソーン]]の呼びかけに応じて、ヘーラクレースも数多の英雄と共に[[アルゴー船]]に乗り込んだ。[[レームノス島]]の女たちの誘惑にも打ち勝ち、快楽に耽っていた他の英雄たちを叱咤して再び出航させるなど、ヘーラクレースは[[アルゴナウタイ]]の中でも抜きん出た存在であった。しかし、ミューシアーにおいてヘーラクレースの愛していたヒュラースが水の[[ニュンペー]]に攫われてしまい、ヒュラースを探している内にアルゴー船は出航してしまった。置き去りにされたヘーラクレースは、アルゴー船を追うのを止め、アルゴスへと帰還した。ヘーラクレースは最強の存在でありながら、アルゴナウタイから脱落してしまったのである。 一説には、このとき一部の乗組員はヘーラクレースを乗船させるためにティーピスに船を戻させようとしたが、[[カライス]]と[[ゼーテース]]がこれを妨害した。このことを恨んだヘーラクレースは、後に二人をテーノス島で殺したという。 === ギガントマキア === 全宇宙を揺るがす大戦争に、ヘーラクレースは神々と共に参戦した。[[ガイア]]はゼウスたちオリュンポスの神々から宇宙の支配権を奪い取るために、[[ギガース]]という山よりも巨大な怪力の巨人たちを送り、[[ギガントマキアー]]と呼ばれる大戦を勃発させた。ギガースたちは神々には殺されないという不思議な力を有していたため、ゼウスは半神半人であるヘーラクレースをオリュンポス側として参戦させた。 ギガースはあらゆる地形を引き裂いて突き進み、大岩や山脈、島を投げ飛ばして攻撃した。神々もそれに応戦し、戦闘の衝撃によって天地は轟き、全宇宙が震えた。凄まじい戦いが繰り広げられたが、神々の方が優勢であり、ギガースは次々に敗北していった。弱ったギガースをヘーラクレースの毒矢が襲い、ヘーラクレースにとどめを刺されたギガースは絶命した。パレーネーの地に触れている限り無敵の力を得る最強の巨人もいたが、ヘーラクレースの圧倒的な怪力によってその地から引き剥がされ、彼の剛腕によって殺された。 ヘーラクレースの活躍もあり、ギガントマキアは神々の圧勝に終わった。 == ヘーラクレースの最期 == [[ファイル:Hercules on the pyre by Luca Giordano.jpg|thumb|[[ルカ・ジョルダーノ]]の1697-1700年頃の絵画『ヘーラクレースの火葬』。{{仮リンク|カシータ・デル・プリンシペ|en|Casita del Príncipe (El Escorial)}}所蔵。]] [[ファイル:Noël Coypel, Story of Hercules - The Apotheosis of Hercules, 1700.jpg|thumb|[[ノエル・コワペル]]の1700年頃の絵画『神格化されたヘーラクレース』。[[ベルサイユ宮殿]]所蔵。]] ヘーラクレースとその妻デーイアネイラは、彼らの子供であるヒュロスを連れて旅をしていた。ある日、ヘーラクレースは川を渡ろうとしたが、家族と共に渡るにはあまりにも流れが激しすぎた。ちょうどそのとき川辺にいたケンタウロスの[[ネッソス]]がデーイアネイラを担ぐと申し出たので、ヘーラクレースがヒュロスを担ぎ、ネッソスがデーイアネイラを担いで激流の川を渡った。しかし、早く向こう岸に着いたネッソスがデーイアネイラを犯そうとしたためにヘーラクレースはヒュドラーの毒矢でこれを射殺した。ネッソスはいまわの際に、「自分の血は媚薬になるので、ヘーラクレースの愛が減じたときに衣服をこれに浸して着せれば効果がある」と言い残した。デーイアネイラはその言葉を信じ、ネッソスの血を採っておいた。 後にヘーラクレースがオイカリアの王女[[イオレー]]を手に入れようとしているのを察したデーイアネイラは、ネッソスの血に浸した服を[[リカース]]に渡してヘーラクレースに送った。ヘーラクレースがこれを身につけたところ、たちまちヒュドラーの猛毒が回って体が焼けただれ始めて苦しみ、怒って無実のリカースを海に投げて殺した。ヒュドラーの毒矢で死んだネッソスの血は、ヒュドラーの毒と同じ効果を示したのだった。あまりの苦痛に耐えかねたヘーラクレースは薪を積み上げてその上に身を横たえ、[[ポイアース]]に弓を与え(後にこの弓はポイアースの息子[[ピロクテーテース]]のものになる)、火を点けるように頼んだ(火を点けたのはピロクテーテースだともいわれる)。こうしてヘーラクレースは生きながら[[火葬]]されて死んだ。これを知ったデーイアネイラは自殺した。 ヘーラクレースは死後、神の座に上った。このときに至ってようやくヘーラーもヘーラクレースを許し、娘の[[ヘーベー]]を妻に与えたという。そしてヘーベーとの間にアレクシアレースとアニーケートスという二柱の息子を儲けた。<!-- ゼウスの長姉である[[ヘスティアー]]がその座を譲り、オリュムポスの十二神の一柱として迎え入れられた、とする説もある{{要出典|date=2008年2月}}。 --> == ヘーラクレイダイ == ヘーラクレースの子孫たちは、[[ヘーラクレイダイ]]と呼ばれた。 ヘーラクレースの死後、その子供たちがミュケーナイの王位を望むことを恐れたエウリュステウスは、[[ヒュロス]]らを殺そうとして追い回した。アルクメーネーとヒュロスらは、[[アテナイ|アテーナイ]]の[[デーモポーン]]に助けられた。エウリュステウスはヒュロスらの身の受け渡しを要求し、それに応じないアテーナイと戦った。この戦争の中でヒュロスはエウリュステウスの子をすべて討ち取り、エウリュステウスは捕らわれて殺された。 ヒュロスたちはエウリュステウスとの戦争に勝ったが、故郷である[[ペロポネソス半島]]に未だに戻れずにいた。しかし、ヒュロスの孫たちはミケーネやアルゴスを打ち破り、遂にペロポネソス半島へと帰還することができた。その際、テーメノスがアルゴスを、[[アリストデーモス]]が[[スパルタ]]を、[[クレスポンテース]]が[[メッセニア]]を支配することになった。この内、テーメノスの子供である[[ペルディッカス1世|ペルディッカス]]は、アルゴスの王位継承争いに敗れて追放され、ギリシア北方の地に[[マケドニア王国]]を建国した。したがって、アルゴス人やスパルタ人、マケドニア人はヘーラクレースの子孫とされた。また、彼らは皆ドーリス系ギリシア人であったので、ヘーラクレイダイの帰還は[[ドーリス人]]のギリシア侵入と関連付けられている。 == 系図 == {{ヘラクレスの系図}} == 大衆文化への影響 == [[アガサ・クリスティ|アガサ・クリスティー]]が生み出した名探偵[[エルキュール・ポアロ]]の[[人名|ファーストネーム]]Herculeは、ヘーラクレースのフランス語形である。これにちなんで、アガサには「[[ヘラクレスの冒険]]」という短編集もあり、ヘーラクレースの古典的物語と関連づけられている。 その他、多くのものがヘーラクレースにちなみ、その名を冠している。これらについては、[[ヘラクレス (曖昧さ回避)]]及び英語名[[ハーキュリーズ]]を参照のこと。 == 関連作品 == * [[ヘラクレスの青年時代]] - ヘーラクレースにちなむ[[交響詩]]。 * [[ヘラクレス (1958年の映画)]] - ヘーラクレースが登場する1957年公開のイタリア映画。 * [[アーノルド・シュワルツェネッガーのSF超人ヘラクレス]] - ヘーラクレースが登場する1970年公開のアメリカ映画。 * [[超人ヘラクレス]] - ヘーラクレースが登場する1983年公開のイタリア映画。 * [[ヘラクレス (1997年の映画)]] - ヘーラクレースが登場する1997年公開のアニメーション映画。 * [[ヘラクレス (2014年の映画)]] - ヘーラクレースが登場する2014年公開のアメリカ映画。 * [[ザ・ヘラクレス]] - ヘーラクレースが登場する2014年公開のアメリカ映画。 * [[ヘラクレス 帝国の侵略]] - ヘーラクレースが登場する2014年公開のアメリカ映画。 * [[ヘラクレスの栄光]] - ヘーラクレースが登場する[[コンピュータRPG]]のシリーズ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === <references/> == 参考文献 == * [[アポロドーロス]]『ギリシア神話』[[高津春繁]]訳、[[岩波文庫]](1953年) * [[シケリアのディオドロス|ディオドロス]]『神代地誌』飯尾都人訳、龍溪書舎(1999年) * [[ストラボン]]『[[地理誌|ギリシア・ローマ世界地誌]]』飯尾都人訳、龍溪書舎(1994年) == 関連項目 == {{Commonscat|Heracles}} * [[ヘーラクレイダイ]] * [[ヘルクレス座]] * [[キュノサルゲス]] * [[ヘラクレイオス]] * [[大乗仏教]]の[[金剛力士]] * [[ヘラクレスオオカブト]] - ヘーラクレースにちなんで名付けられた。 * [[アルキデスヒラタクワガタ]] - ヘーラクレースの幼名・アルケイデースが名前の由来。 {{ヘーラクレースの12の難行}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へらくれす}} [[Category:ヘーラクレース|*]] [[Category:半神]] [[Category:神話・伝説の弓術家]]
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オセアニア
オセアニア(英語: Oceania)は、六大州の一つ。大洋州(たいようしゅう)。太平洋上の大陸、島嶼の地域を指し、一般的な解釈では、16か国(オーストラリア連邦、キリバス共和国、クック諸島、サモア独立国、ソロモン諸島、ツバル、トンガ王国、ナウル共和国、ニウエ、ニュージーランド、バヌアツ共和国、パプアニューギニア独立国、パラオ共和国、フィジー共和国、マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦)、および25の保護領(右国数欄参照)を指す。 また、最も広く解釈すると太平洋上のすべての島国を指して使われ、この場合日本、台湾、フィリピン、インドネシアまで含まれる。 オセアニアは六大州中の最小の州であり、その小さな陸地面積のうちオーストラリア大陸が86%を占め、さらに島々の中で最も大きなニューギニア島とニュージーランドを含めると98%にもなる。残りは、太平洋の中に点在する小さな島々であり、それがオセアニア(大洋の州)との州名の由来にもなった。これらの諸島は陸地面積こそ小さいものの、マレー・ポリネシア系民族が独特の航海術によって隅々まで植民しており、独自の海洋文明を築いていた。 2022年時点のオセアニアの人口は約4,440万人である。 一般的に、オセアニアはオーストラリア大陸、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアの4つの地域に区分される。 メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアの3地域の名称は、ヨーロッパ人探検家たちによる命名が始まりである。1756年、フランス人探検家シャルル・ド・ブロスが「多くの島々」を意味するギリシャ語の「ポリネシア」を太平洋全島々の総称として用いたのがはじまりである。その後、同じくフランスの探検家ジュール・セバスティアン・セザール・デュモン・デュルヴィルがオセアニア島嶼部を3地区に分けることを考えだし、1831年にパリの地理学会で公表した。現在は、この案を基本的に踏襲している。「メラネシア」はギリシャ語で「黒い島々」を意味し、「ミクロネシア」はギリシャ語で「小さな島々」を意味することから名づけられた。 オセアニアを区分する新しい概念として、近オセアニア(英語版)と遠オセアニア(英語版)がある。これらは、1973年にロジャー・カーティス・グリーン(英語版)とアンドリュー・パウリー(英語版)によって提唱された区分で、人類集団史に基づいたものである。近オセアニアはおよそ45,000年前に人類が到達した地域で、その範囲はニューギニア島、ビスマルク諸島、ソロモン諸島(ただし、サンタクルーズ諸島を除く)を含み、場合によってはオーストラリア大陸を含める場合もある。遠オセアニアは3,500年以内に人類が定住した地域を指しており、その範囲は近オセアニア以外のオセアニアの島々、すなわちミクロネシア、サンタクルーズ諸島、バヌアツ、フィジー、ニューカレドニア、ポリネシアを含む。 オセアニアは、南西端にある一つの巨大な陸塊であるオーストラリア大陸と、オーストラリアの北に位置するニューギニア島と同じく東に位置するニュージーランド南北島というやや大きな2つの島、そしてその北から東にかけて広がる広大な太平洋と、その中に点在する無数の小さな島々からなる。この島々は、もっとも北に位置しほとんどが小さな環礁からなるミクロネシア、オーストラリアとミクロネシアの間に位置し、ニューギニア島を含み、やや大きな火山島や標高の高い島々が多数を占めるメラネシア、そしてオセアニアの東半分を占め、ニュージーランドやハワイ諸島などの大きな島々から小さな環礁までさまざまなタイプの島々が広大な海域に点在するポリネシアの3つの地域に区分されている。 地質学的には、オーストラリア大陸はいわゆる安定陸塊であり、東端を南北に走るグレートディバイディング山脈のみが古期造山帯に属する。これに対し、ニューギニア島からメラネシア全域を通りニュージーランドまでは環太平洋造山帯に属し、火山活動が活発な地域である。しばしば大きな地震が起きる。ハワイ諸島は太平洋プレートの中心に位置しているもののホットスポットであり、非常に活発な火山活動が今もなお続いている。 気候的には、オーストラリア大陸の大部分は亜熱帯高気圧に覆われるため、非常に乾燥した砂漠気候となっている。ただしグレートディバイディング山脈の東側および南側には十分な降雨があり、北がサバナ気候、中央部が温暖湿潤気候、南部およびタスマニア島が西岸海洋性気候、南西部が地中海性気候となっていて、オーストラリアの人口の大半はこの地域に居住する。また、大陸南西端のパース周辺は大陸西部としては例外的にやや湿潤であり、地中海性気候となっている。太平洋上の島々やニューギニア島は緯度の低いことや海からの水蒸気が大量の降雨をもたらすため、多くは熱帯雨林気候となっている。ただし、降雨量は火山島とサンゴ礁島では異なり、火山島の方がより多い降雨に恵まれることが多い。これは海からの風は火山島にあたって大量の降雨をもたらすのに対し、標高の低いサンゴ礁島ではそういったことが起こらないためである。また、サンゴ礁島は地質が石灰岩であるため土壌の透水性が高く、少ない降雨も多くがすぐに地中に浸透してしまうため、水資源の確保が困難な島々が多い。 ニュージーランドは降雨量は多いものの緯度が高いために気温が低く、全島が西岸海洋性気候となっている。 約5~6万年前から3万5000年前、東南アジア方面から現在のオーストラリアやニューギニアの内陸部や沿岸部へ住み始めたのはオーストラロ・メラネシア系(オーストラロイド)の人々であったといわれている。これらの人々は、このオセアニアに移住する前は、東南アジアの島々や東アジア大陸に居住し、狩猟採集しながら暮らしていた。 ところで、約5~3万年前は、更新世の最終氷期の時代であり、地球規模で気温がさがり、海面も現在の海面よりも最大で150メートルも下がり、島々は大陸とつながっていた。たとえば、ボルネオ島やジャワ島などはアジア大陸(スンダ陸棚)と、オーストラリアはニューギニアと陸続き(サフル大陸)であった。しかし、この両者(スンダ陸棚とサフル大陸)はこの時代も海によって隔てられており、多くの島々が存在した。ウォーラシア海域と呼ばれ、最短でも直線で100キロメートルほど離れていた。 人々は海を渡り、各島へ移住していったのは約3万5000年前のことといわれる。これらのことを示す証拠として有袋類のクスクスや黒曜石が多数出土している。しかし、ソロモン諸島より東への移住はこの時代でなく、はるか後の約3300年前にまで下がってくる。 そこからオーストロネシア語系の言語を持つモンゴロイド系のラピタ人と呼ばれる人々は、パプアニューギニアのビスマーク諸島から東南方向に島伝いで移動しフィジーにたどり着いた。そこから南西方向(ヴァヌアツとニューカレドニア)と南東方向(トンガとサモア)の二方向に分かれて遠くまで移動を続けた。こうしてトンガやサモアにたどりついたラピタ人は、そこで1000年ほど留まり今のポリネシア文化の祖形を作り上げた。そして、ポリネシア人へと変容した。およそ2000年前に移動を再開し、1600年前ごろにはハワイ諸島やイースター島まで到達していた。さらに、彼らポリネシア人は、800年前にはニュージーランドにたどり着いている。これらの島々は船によって緊密な連絡を相互に保っており、950年ごろに成立したトンガ大首長国は北のサモアや西のフィジーまでを支配下におさめた一大帝国を1500年ごろまで維持していた。 初めてこの地域に白人が訪れたのは、大航海時代さなかの16世紀初頭のことである。1521年にはフェルディナンド・マゼランがヨーロッパ人として初めて太平洋を横断した。この時以降しばらくの間は太平洋は東から西に進む航路しか存在しなかったが、1564年にはアンドレス・デ・ウルダネータがフィリピンからアカプルコへと向かう航路を開拓し、これによって太平洋を往復する航路が確立された。これを使用して1565年にはマニラ・ガレオンがアカプルコとマニラの間を往復するようになった。その後、17世紀にはアベル・タスマンによってニュージーランドとタスマニアが発見されるなど徐々に地理的知識は蓄積されていったが、領土進出という点ではスペインがマリアナ諸島とカロリン諸島を領有した程度で、それほど積極的に進出してはいなかった。また、地理的にもいまだ発見されていない島が多数存在しており、オセアニアの南部には広大な南方大陸が存在していると考えているものも多かった。18世紀に入ると徐々に探検が進んでいったが、太平洋における地理的「発見」の最後を飾ったのはジェームズ・クックである。彼の1768年からの三回の探検によって、オセアニアの地理はほぼ完全に明らかとなった。 ヨーロッパ人による植民が本格的にはじまったのは、1788年1月26日にイギリスからの最初の植民船団(ファースト・フリート)がオーストラリア大陸南東部のシドニー湾に到達してからのことである。これ以降オーストラリアには続々と移民が送り込まれ、先住のアボリジニを駆逐しながら植民地化が進められていった。初期はオーストラリア東岸の降雨量の多い地域のみの植民であったが、1813年にはグレゴリー・ブラックスランドらの探検隊によって山脈西側に草原が発見され、以後内陸部の開発も進むようになった。 19世紀初頭にはニュージーランドもヨーロッパ人が多く進出するようになり、1840年にはワイタンギ条約が締結されてニュージーランドもイギリス領となった。19世紀後半には太平洋諸島も分割が進み、19世紀末にはすべての島々が植民地化された。 1851年にオーストラリア南東部で金が発見されるとゴールドラッシュが起き、オーストラリアの人口は急増した。1860年から1861年にかけてはオーストラリア内陸部の状況を調べるためにバーク・ウィルズ探検隊が送られ、悲劇的な結果に終わったものの内陸部の状況は明らかになった。1901年にはオーストラリア大陸にあった諸植民地が合同し、オーストラリア連邦が誕生した。 ミクロネシアやメラネシアが太平洋戦争(大東亜戦争)の時、主戦場の一つであった。日本がアメリカとオーストラリアの共同作戦を阻止するために、ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)と当時イギリス領であったフィジー・サモア、同フランス領ニューカレドニアを攻略する作戦(FS作戦)を計画した。 第二次世界大戦後の植民地独立の波を受け、オセアニアにおいても1962年の西サモア(現サモア)の独立を皮切りに、1968年にはナウルが、1970年にはトンガとフィジーが、1975年にはパプアニューギニアが、1978年にはソロモン諸島とツバルが、1979年にはキリバスが、1980年にはバヌアツがそれぞれ独立した。一方で、フランス領ポリネシアやニューカレドニアのようにフランスの海外県にとどまるところや、ハワイのように本国の一州として加入するもの、またマーシャル諸島やミクロネシア連邦、パラオ、クック諸島、ニウエのように自由連合の形をとり、独立はするものの軍権や外交権は旧宗主国が統括する国々も現れた。こうした国々は地形的、言語的、文化的、民族的に多様性に富み、国家の誕生に大変苦しんでいる。当初は島嶼部の大半の地域で政治的安定が保たれていたが、2000年ごろを境として、フィジーやソロモン諸島、パプアニューギニア、トンガなどのように政情が不安定になり、クーデターや暴動が発生した国家も存在する。 オセアニア諸国の政治・経済状況は、オーストラリアおよびニュージーランドとその他島嶼国群とに大きく二分される。オーストラリアとニュージーランドは19世紀に入って植民したイギリス系の住民が多数を占め、政治的には入植初期から民主主義が発達し、経済的にも先進国の一員となっている極めて安定した豊かな国家である。これに対し、島嶼国群は1970年代以降に独立した新興国が多く、人口も少なく面積も少ないうえ可住地が広い範囲に点在している、いわゆる小島嶼開発途上国に分類される国家が多いため、経済開発がうまく進んでいない国家が多い。 政治的には面積・人口・経済力で他を圧倒しているオーストラリアがこの地域のリーダー格であり、ニュージーランドもイギリスから引き継いだ属領諸島をいくつか島嶼部に持ち、影響力を持っている。島嶼諸国のリーダー格は人口・経済力的にフィジーが務めることが多かったが、1980年代以降フィジー人とインド人との対立によってクーデターが多発するようになり、政治的影響力を減退させた。 この地域の地域協力機関として最も古いものは、1947年にイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドの6ヶ国が設立した南太平洋委員会である。メンバーはこの地域に植民地を持つ宗主国によって占められ、のちに独立した域内諸国が加盟したものの、どちらかといえば旧宗主国主導の色合いが濃い国際機関だった。これに対し、独立した小島嶼国が主体として1971年に設立された国際機関が南太平洋フォーラムである。のちに、2000年に南太平洋フォーラムは太平洋諸島フォーラムに、南太平洋委員会は1998年に太平洋共同体にそれぞれ改組された。また、1985年に南太平洋フォーラムの加盟8か国によって南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)が締結され、2009年には13か国がこの条約に加盟している。 経済的にも、この地域で圧倒的な力をもつのはオーストラリアである。オーストラリア経済はもともとヒツジやウシを中心とする牧畜と、コムギを中心とする大規模農業を基盤としていた。牧羊はオーストラリア大陸中西部のやや乾燥した地域を中心に、コムギ農業はそれより東側のやや湿潤な地域を中心に行われている。こうした農牧業は現代でも高い生産性を保ち、羊毛や農作物は日本をはじめとして世界各国に輸出されているが、第二次世界大戦後は大陸西部の鉄鉱石や大陸東部の石炭を中心に各種鉱業が発達し、あらたなオーストラリア経済の柱となった。ニュージーランドは資源はほとんど産出しないものの、世界有数の生産性を誇るヒツジやウシの牧畜業や農業に支えられ、経済的には非常に豊かである。 この2国に対し、パプアニューギニアや太平洋諸島はそれほど産業が発達しておらず、パプアニューギニアの銅やニューカレドニアのニッケルのように地下資源に頼る国もあるが、多くは自給農業を行っているところが多い。こうした島々の多くでは、換金作物はココヤシから作るコプラ程度である。なお、例外的にフィジーにおいてはサトウキビのプランテーションが特に乾燥したビティレブ島西部に多数存在しており、フィジー経済の柱となっている。また、20世紀後半以降、先進各国の生活水準の向上と飛行機の発達によって観光産業が急速に発達し、美しい海を持つ太平洋諸島のなかにはタヒチやニューカレドニア、フィジー、ハワイ、グアム、パラオなどのように観光を経済の柱とする地域も多く存在するようになった。 オセアニア最大の都市はオーストラリアのシドニーであり、人口は530万人(2019年)を超える。次いで大きな都市は同じくオーストラリアのメルボルンである。シドニーとメルボルンは歴史的にライバル関係にあり、オーストラリア連邦成立時にも両都市が首都の座を争った挙句、中間地点に新首都であるキャンベラを建設したいきさつがある。オーストラリア大陸東岸から南岸東部にかけてはオセアニアで最も人口の集中する地域であり、北からブリスベン、ゴールドコースト、ニューカッスル、シドニー、キャンベラ、メルボルン、アデレードといった人口30万から100万以上の都市が並んでいる。同国の100万都市としてはほかに大陸西端にパースが存在するが、この都市は地理的に非常に孤立しており、周囲にほかの都市圏は全く存在せず、最も近い100万都市であるアデレードからも2000km以上離れている。 オーストラリア以外で最も大きな都市はニュージーランドの北島北部に位置するオークランドであり、アメリカ・ハワイ州のホノルルやパプアニューギニアのポートモレスビーがこれに次ぐ。ニュージーランドにはほかに、南島中央部にあり南部の中心都市であるクライストチャーチと、北島南端にあり同国の首都であるウェリントンがあり、オークランドと合わせ3大都市となっている。 島嶼部において、南太平洋諸国の中心的な役割を果たしているのはフィジーの首都であるスバである。スバの都市圏は近隣のナウソリなどを合わせ33万人にのぼり、島嶼諸国最大の都市圏を形成している。このほか、ニューカレドニアのヌメアも10万人程度の人口を有する。島嶼部においてはこれ以外に人口10万を超える都市は存在せず、各国の首都でも人口は数万人にとどまり、なかにはツバルやナウルのように明確な首都的都市が存在しない国家も存在する。もっとも、これはフィジーとソロモン諸島を除く島嶼諸国の人口規模そのものが小さいためであり、首都や都市への人口集中自体は他地域と同様に起こっている。 本来この地域で話されていた言語は、オーストロネシア語族、パプア諸語、オーストラリア諸語の3つの言語群に属する言語のみである。その名の通りオーストラリア諸語はオーストラリア大陸のアボリジニが使用していた言語であり、パプア諸語はニューギニア島にて使用されていた諸言語の総称である。この2つの言語群内部において系統性は立証されておらず、そのため語族ではなく諸言語の集合という扱いとなっている。これに対し、オーストロネシア語族は東南アジアから太平洋の諸島群に進出したメラネシア人やポリネシア人の言語であり、系統性は明確に立証されている。その後、19世紀にオーストラリアとニュージーランドに進出したイギリス人が両国で増加したため、話者数的には現代ではインド・ヨーロッパ語族に属する話者が圧倒的に多い。この語族の言語のうち最も多く話されるものは英語であり、フランス領の島々ではフランス語も広く使われるが、他に同じく19世紀にイギリスによってフィジーに移民したインド人も、ヒンディー語を母体としたフィジー・ヒンディー語を話す。オーストラリア諸語の話者は英国系住民に圧倒されて話者数が非常に減少し、絶滅が危惧されている言語も多い。これに対し、パプア諸語はニューギニア島で、オーストロネシア語族は太平洋諸島において、いまだ多数派を占めている。 文化的にも、この地域はオーストラリア・ニュージーランドの英国系植民者中心の地域とそれ以外の島嶼地域とに大別できる。島嶼地域においては、ポリネシアは非常に広大な地域であるのにもかかわらずかなり同質性が高い。これは植民がポリネシア人という一民族によって行われたうえ、植民後も船によって緊密な連絡が保たれた地域が多く、祖形が同じなうえに分化があまり進まなかったためである。これに対し、メラネシアはかなり分化が進んでおり、多様な文化が存在する。これはメラネシアは地形が険しく、自然環境もポリネシアやミクロネシアに比べ多様であり、画一化が進まなかったためである。ミクロネシアは島々によってメラネシアやポリネシアなど影響を受けた地域が異なり、ミクロネシア全体に共通する文化は多くない。 食文化においては、オーストラリア・ニュージーランドはヨーロッパ系食文化を祖形として持つ。これにたいし、島嶼部はタロイモ・ヤムイモを農耕の基盤とし、メラネシアはバナナがこれに加わる。土地が豊かで降水量の多い火山島ではこれら作物が主力となるものの、地味が貧しく水も少ないサンゴ礁島においてはこれらの栽培が困難であることも多く、このためこうした島々ではパンノキが主力となっているところもある。また、特にサンゴ礁島においてココヤシは非常に有用な植物であり、油脂源・調味料・食糧、そしてなによりも飲料水の供給源として重要である。 宗教的には、ほとんどの地域でキリスト教、とくにプロテスタント諸派がほとんどを占める。これはオーストラリア・ニュージーランドにおいては主流となった英国系移民が従来の英国国教会の信仰をそのまま持ち込んだためであり、また島嶼部においては19世紀後半においてプロテスタント諸派が盛んに宣教師を派遣し地元住民への布教を進めたためである。 地球温暖化に伴う海面上昇は、海抜の低い小島嶼国家の存立に深刻な影響を与える。IPCC(気候変動に関する政府間パネル、Intergovermental Panel on Climate Change)の報告書はミクロネシアのマーシャル諸島共和国について、環礁の約8割が海面下になる可能性を警告している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オセアニア(英語: Oceania)は、六大州の一つ。大洋州(たいようしゅう)。太平洋上の大陸、島嶼の地域を指し、一般的な解釈では、16か国(オーストラリア連邦、キリバス共和国、クック諸島、サモア独立国、ソロモン諸島、ツバル、トンガ王国、ナウル共和国、ニウエ、ニュージーランド、バヌアツ共和国、パプアニューギニア独立国、パラオ共和国、フィジー共和国、マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦)、および25の保護領(右国数欄参照)を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "また、最も広く解釈すると太平洋上のすべての島国を指して使われ、この場合日本、台湾、フィリピン、インドネシアまで含まれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "オセアニアは六大州中の最小の州であり、その小さな陸地面積のうちオーストラリア大陸が86%を占め、さらに島々の中で最も大きなニューギニア島とニュージーランドを含めると98%にもなる。残りは、太平洋の中に点在する小さな島々であり、それがオセアニア(大洋の州)との州名の由来にもなった。これらの諸島は陸地面積こそ小さいものの、マレー・ポリネシア系民族が独特の航海術によって隅々まで植民しており、独自の海洋文明を築いていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2022年時点のオセアニアの人口は約4,440万人である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一般的に、オセアニアはオーストラリア大陸、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアの4つの地域に区分される。 メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアの3地域の名称は、ヨーロッパ人探検家たちによる命名が始まりである。1756年、フランス人探検家シャルル・ド・ブロスが「多くの島々」を意味するギリシャ語の「ポリネシア」を太平洋全島々の総称として用いたのがはじまりである。その後、同じくフランスの探検家ジュール・セバスティアン・セザール・デュモン・デュルヴィルがオセアニア島嶼部を3地区に分けることを考えだし、1831年にパリの地理学会で公表した。現在は、この案を基本的に踏襲している。「メラネシア」はギリシャ語で「黒い島々」を意味し、「ミクロネシア」はギリシャ語で「小さな島々」を意味することから名づけられた。", "title": "地域区分" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "オセアニアを区分する新しい概念として、近オセアニア(英語版)と遠オセアニア(英語版)がある。これらは、1973年にロジャー・カーティス・グリーン(英語版)とアンドリュー・パウリー(英語版)によって提唱された区分で、人類集団史に基づいたものである。近オセアニアはおよそ45,000年前に人類が到達した地域で、その範囲はニューギニア島、ビスマルク諸島、ソロモン諸島(ただし、サンタクルーズ諸島を除く)を含み、場合によってはオーストラリア大陸を含める場合もある。遠オセアニアは3,500年以内に人類が定住した地域を指しており、その範囲は近オセアニア以外のオセアニアの島々、すなわちミクロネシア、サンタクルーズ諸島、バヌアツ、フィジー、ニューカレドニア、ポリネシアを含む。", "title": "地域区分" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "オセアニアは、南西端にある一つの巨大な陸塊であるオーストラリア大陸と、オーストラリアの北に位置するニューギニア島と同じく東に位置するニュージーランド南北島というやや大きな2つの島、そしてその北から東にかけて広がる広大な太平洋と、その中に点在する無数の小さな島々からなる。この島々は、もっとも北に位置しほとんどが小さな環礁からなるミクロネシア、オーストラリアとミクロネシアの間に位置し、ニューギニア島を含み、やや大きな火山島や標高の高い島々が多数を占めるメラネシア、そしてオセアニアの東半分を占め、ニュージーランドやハワイ諸島などの大きな島々から小さな環礁までさまざまなタイプの島々が広大な海域に点在するポリネシアの3つの地域に区分されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "地質学的には、オーストラリア大陸はいわゆる安定陸塊であり、東端を南北に走るグレートディバイディング山脈のみが古期造山帯に属する。これに対し、ニューギニア島からメラネシア全域を通りニュージーランドまでは環太平洋造山帯に属し、火山活動が活発な地域である。しばしば大きな地震が起きる。ハワイ諸島は太平洋プレートの中心に位置しているもののホットスポットであり、非常に活発な火山活動が今もなお続いている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "気候的には、オーストラリア大陸の大部分は亜熱帯高気圧に覆われるため、非常に乾燥した砂漠気候となっている。ただしグレートディバイディング山脈の東側および南側には十分な降雨があり、北がサバナ気候、中央部が温暖湿潤気候、南部およびタスマニア島が西岸海洋性気候、南西部が地中海性気候となっていて、オーストラリアの人口の大半はこの地域に居住する。また、大陸南西端のパース周辺は大陸西部としては例外的にやや湿潤であり、地中海性気候となっている。太平洋上の島々やニューギニア島は緯度の低いことや海からの水蒸気が大量の降雨をもたらすため、多くは熱帯雨林気候となっている。ただし、降雨量は火山島とサンゴ礁島では異なり、火山島の方がより多い降雨に恵まれることが多い。これは海からの風は火山島にあたって大量の降雨をもたらすのに対し、標高の低いサンゴ礁島ではそういったことが起こらないためである。また、サンゴ礁島は地質が石灰岩であるため土壌の透水性が高く、少ない降雨も多くがすぐに地中に浸透してしまうため、水資源の確保が困難な島々が多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ニュージーランドは降雨量は多いものの緯度が高いために気温が低く、全島が西岸海洋性気候となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "約5~6万年前から3万5000年前、東南アジア方面から現在のオーストラリアやニューギニアの内陸部や沿岸部へ住み始めたのはオーストラロ・メラネシア系(オーストラロイド)の人々であったといわれている。これらの人々は、このオセアニアに移住する前は、東南アジアの島々や東アジア大陸に居住し、狩猟採集しながら暮らしていた。 ところで、約5~3万年前は、更新世の最終氷期の時代であり、地球規模で気温がさがり、海面も現在の海面よりも最大で150メートルも下がり、島々は大陸とつながっていた。たとえば、ボルネオ島やジャワ島などはアジア大陸(スンダ陸棚)と、オーストラリアはニューギニアと陸続き(サフル大陸)であった。しかし、この両者(スンダ陸棚とサフル大陸)はこの時代も海によって隔てられており、多くの島々が存在した。ウォーラシア海域と呼ばれ、最短でも直線で100キロメートルほど離れていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "人々は海を渡り、各島へ移住していったのは約3万5000年前のことといわれる。これらのことを示す証拠として有袋類のクスクスや黒曜石が多数出土している。しかし、ソロモン諸島より東への移住はこの時代でなく、はるか後の約3300年前にまで下がってくる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "そこからオーストロネシア語系の言語を持つモンゴロイド系のラピタ人と呼ばれる人々は、パプアニューギニアのビスマーク諸島から東南方向に島伝いで移動しフィジーにたどり着いた。そこから南西方向(ヴァヌアツとニューカレドニア)と南東方向(トンガとサモア)の二方向に分かれて遠くまで移動を続けた。こうしてトンガやサモアにたどりついたラピタ人は、そこで1000年ほど留まり今のポリネシア文化の祖形を作り上げた。そして、ポリネシア人へと変容した。およそ2000年前に移動を再開し、1600年前ごろにはハワイ諸島やイースター島まで到達していた。さらに、彼らポリネシア人は、800年前にはニュージーランドにたどり着いている。これらの島々は船によって緊密な連絡を相互に保っており、950年ごろに成立したトンガ大首長国は北のサモアや西のフィジーまでを支配下におさめた一大帝国を1500年ごろまで維持していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": 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"政治的には面積・人口・経済力で他を圧倒しているオーストラリアがこの地域のリーダー格であり、ニュージーランドもイギリスから引き継いだ属領諸島をいくつか島嶼部に持ち、影響力を持っている。島嶼諸国のリーダー格は人口・経済力的にフィジーが務めることが多かったが、1980年代以降フィジー人とインド人との対立によってクーデターが多発するようになり、政治的影響力を減退させた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この地域の地域協力機関として最も古いものは、1947年にイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドの6ヶ国が設立した南太平洋委員会である。メンバーはこの地域に植民地を持つ宗主国によって占められ、のちに独立した域内諸国が加盟したものの、どちらかといえば旧宗主国主導の色合いが濃い国際機関だった。これに対し、独立した小島嶼国が主体として1971年に設立された国際機関が南太平洋フォーラムである。のちに、2000年に南太平洋フォーラムは太平洋諸島フォーラムに、南太平洋委員会は1998年に太平洋共同体にそれぞれ改組された。また、1985年に南太平洋フォーラムの加盟8か国によって南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)が締結され、2009年には13か国がこの条約に加盟している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "経済的にも、この地域で圧倒的な力をもつのはオーストラリアである。オーストラリア経済はもともとヒツジやウシを中心とする牧畜と、コムギを中心とする大規模農業を基盤としていた。牧羊はオーストラリア大陸中西部のやや乾燥した地域を中心に、コムギ農業はそれより東側のやや湿潤な地域を中心に行われている。こうした農牧業は現代でも高い生産性を保ち、羊毛や農作物は日本をはじめとして世界各国に輸出されているが、第二次世界大戦後は大陸西部の鉄鉱石や大陸東部の石炭を中心に各種鉱業が発達し、あらたなオーストラリア経済の柱となった。ニュージーランドは資源はほとんど産出しないものの、世界有数の生産性を誇るヒツジやウシの牧畜業や農業に支えられ、経済的には非常に豊かである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この2国に対し、パプアニューギニアや太平洋諸島はそれほど産業が発達しておらず、パプアニューギニアの銅やニューカレドニアのニッケルのように地下資源に頼る国もあるが、多くは自給農業を行っているところが多い。こうした島々の多くでは、換金作物はココヤシから作るコプラ程度である。なお、例外的にフィジーにおいてはサトウキビのプランテーションが特に乾燥したビティレブ島西部に多数存在しており、フィジー経済の柱となっている。また、20世紀後半以降、先進各国の生活水準の向上と飛行機の発達によって観光産業が急速に発達し、美しい海を持つ太平洋諸島のなかにはタヒチやニューカレドニア、フィジー、ハワイ、グアム、パラオなどのように観光を経済の柱とする地域も多く存在するようになった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "オセアニア最大の都市はオーストラリアのシドニーであり、人口は530万人(2019年)を超える。次いで大きな都市は同じくオーストラリアのメルボルンである。シドニーとメルボルンは歴史的にライバル関係にあり、オーストラリア連邦成立時にも両都市が首都の座を争った挙句、中間地点に新首都であるキャンベラを建設したいきさつがある。オーストラリア大陸東岸から南岸東部にかけてはオセアニアで最も人口の集中する地域であり、北からブリスベン、ゴールドコースト、ニューカッスル、シドニー、キャンベラ、メルボルン、アデレードといった人口30万から100万以上の都市が並んでいる。同国の100万都市としてはほかに大陸西端にパースが存在するが、この都市は地理的に非常に孤立しており、周囲にほかの都市圏は全く存在せず、最も近い100万都市であるアデレードからも2000km以上離れている。", "title": "都市" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "オーストラリア以外で最も大きな都市はニュージーランドの北島北部に位置するオークランドであり、アメリカ・ハワイ州のホノルルやパプアニューギニアのポートモレスビーがこれに次ぐ。ニュージーランドにはほかに、南島中央部にあり南部の中心都市であるクライストチャーチと、北島南端にあり同国の首都であるウェリントンがあり、オークランドと合わせ3大都市となっている。", "title": "都市" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "島嶼部において、南太平洋諸国の中心的な役割を果たしているのはフィジーの首都であるスバである。スバの都市圏は近隣のナウソリなどを合わせ33万人にのぼり、島嶼諸国最大の都市圏を形成している。このほか、ニューカレドニアのヌメアも10万人程度の人口を有する。島嶼部においてはこれ以外に人口10万を超える都市は存在せず、各国の首都でも人口は数万人にとどまり、なかにはツバルやナウルのように明確な首都的都市が存在しない国家も存在する。もっとも、これはフィジーとソロモン諸島を除く島嶼諸国の人口規模そのものが小さいためであり、首都や都市への人口集中自体は他地域と同様に起こっている。", "title": "都市" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "本来この地域で話されていた言語は、オーストロネシア語族、パプア諸語、オーストラリア諸語の3つの言語群に属する言語のみである。その名の通りオーストラリア諸語はオーストラリア大陸のアボリジニが使用していた言語であり、パプア諸語はニューギニア島にて使用されていた諸言語の総称である。この2つの言語群内部において系統性は立証されておらず、そのため語族ではなく諸言語の集合という扱いとなっている。これに対し、オーストロネシア語族は東南アジアから太平洋の諸島群に進出したメラネシア人やポリネシア人の言語であり、系統性は明確に立証されている。その後、19世紀にオーストラリアとニュージーランドに進出したイギリス人が両国で増加したため、話者数的には現代ではインド・ヨーロッパ語族に属する話者が圧倒的に多い。この語族の言語のうち最も多く話されるものは英語であり、フランス領の島々ではフランス語も広く使われるが、他に同じく19世紀にイギリスによってフィジーに移民したインド人も、ヒンディー語を母体としたフィジー・ヒンディー語を話す。オーストラリア諸語の話者は英国系住民に圧倒されて話者数が非常に減少し、絶滅が危惧されている言語も多い。これに対し、パプア諸語はニューギニア島で、オーストロネシア語族は太平洋諸島において、いまだ多数派を占めている。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "文化的にも、この地域はオーストラリア・ニュージーランドの英国系植民者中心の地域とそれ以外の島嶼地域とに大別できる。島嶼地域においては、ポリネシアは非常に広大な地域であるのにもかかわらずかなり同質性が高い。これは植民がポリネシア人という一民族によって行われたうえ、植民後も船によって緊密な連絡が保たれた地域が多く、祖形が同じなうえに分化があまり進まなかったためである。これに対し、メラネシアはかなり分化が進んでおり、多様な文化が存在する。これはメラネシアは地形が険しく、自然環境もポリネシアやミクロネシアに比べ多様であり、画一化が進まなかったためである。ミクロネシアは島々によってメラネシアやポリネシアなど影響を受けた地域が異なり、ミクロネシア全体に共通する文化は多くない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "食文化においては、オーストラリア・ニュージーランドはヨーロッパ系食文化を祖形として持つ。これにたいし、島嶼部はタロイモ・ヤムイモを農耕の基盤とし、メラネシアはバナナがこれに加わる。土地が豊かで降水量の多い火山島ではこれら作物が主力となるものの、地味が貧しく水も少ないサンゴ礁島においてはこれらの栽培が困難であることも多く、このためこうした島々ではパンノキが主力となっているところもある。また、特にサンゴ礁島においてココヤシは非常に有用な植物であり、油脂源・調味料・食糧、そしてなによりも飲料水の供給源として重要である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "宗教的には、ほとんどの地域でキリスト教、とくにプロテスタント諸派がほとんどを占める。これはオーストラリア・ニュージーランドにおいては主流となった英国系移民が従来の英国国教会の信仰をそのまま持ち込んだためであり、また島嶼部においては19世紀後半においてプロテスタント諸派が盛んに宣教師を派遣し地元住民への布教を進めたためである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "地球温暖化に伴う海面上昇は、海抜の低い小島嶼国家の存立に深刻な影響を与える。IPCC(気候変動に関する政府間パネル、Intergovermental Panel on Climate Change)の報告書はミクロネシアのマーシャル諸島共和国について、環礁の約8割が海面下になる可能性を警告している。", "title": "海面上昇" } ]
オセアニアは、六大州の一つ。大洋州(たいようしゅう)。太平洋上の大陸、島嶼の地域を指し、一般的な解釈では、16か国(オーストラリア連邦、キリバス共和国、クック諸島、サモア独立国、ソロモン諸島、ツバル、トンガ王国、ナウル共和国、ニウエ、ニュージーランド、バヌアツ共和国、パプアニューギニア独立国、パラオ共和国、フィジー共和国、マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦)、および25の保護領(右国数欄参照)を指す。 また、最も広く解釈すると太平洋上のすべての島国を指して使われ、この場合日本、台湾、フィリピン、インドネシアまで含まれる。
{{Infobox Continent |title = オセアニア |image = [[ファイル:Oceania (centered orthographic projection).svg|200px|]]<br />オセアニア(大洋州) |area = {{convert|8,525,989|km2|abbr=on}} |population = 44,491,724 (2021年, 6位) |density = {{convert|4.19|/km2|abbr=on}} |demonym = Oceanian (オセアニアン) |countries = {{Collapsible list | title = 独立国(14) | {{AUS}} |{{KIR}} |{{WSM}} |{{SLB}} |{{TUV}} |{{TON}} |{{NRU}} |{{NZL}} |{{VUT}} |{{PNG}} |{{PLW}} |{{FJI}} |{{MHL}}|{{FSM}}}} {{Collapsible list | title = 自由連合 (2) |{{flag|Cook Islands}} |{{flag|Niue}}}} |list_countries = |dependencies = {{Collapsible list | title = 属領 (21) | [[アメリカ領サモア]] |[[アシュモア・カルティエ諸島]] |[[ベーカー島]] |[[クリッパートン島]] |[[クリスマス島 (オーストラリア)|クリスマス島]] |[[ココス諸島]] |[[コーラル・シー諸島]] |[[フランス領ポリネシア]] |[[グアム]] |[[ハウランド島]] | [[ジャービス島]] | [[ジョンストン島]] |[[キングマン・リーフ]] |[[ミッドウェー島]] |[[ニューカレドニア]] |[[ノーフォーク島]] |[[北マリアナ諸島]] |[[ピトケアン諸島]] |[[トケラウ]] |[[ウェーク島]] |[[ウォリス=フツナ]]}} {{Collapsible list | title = 国内 (4)| [[イースター島]] |[[ハワイ]]| [[ファン・フェルナンデス諸島]] |[[パルミラ環礁]]}} |languages = {{Collapsible list | title = 28 |(公用語および非公用語) |[[英語]] |[[ビスラマ語]] |[[カロリン語]] |[[チャモロ語]] |[[ラロトンガ語]] |[[フィジー語]] |[[フランス語]] |[[フツナ語]] (非公用語) |[[キリバス語]] |[[ハワイ語]] |[[ヒンディー語]] |[[ヒリモツ語]] |[[マオリ語]] |[[マーシャル語]] |[[ナウル語]] |[[ニウエ語]] |[[パラオ語]] |[[ピトケアン語]] (非公用語) |[[ロツマ語]] (非公用語) |[[サモア語]] |[[スペイン語]] |[[タヒチ語]] (非公用語) |[[トケラウ語]] |[[トンガ語 (ポリネシア)|トンガ語]] |[[トク・ピシン]] |[[ツバル語]] |[[ウォリス語]] (非公用語)}} |unrecognized = |time = [[UTC+14]] ([[キリバス]])から[[UTC-11]] ([[アメリカ領サモア]] & [[ニウエ]]) (最西端から最東端) |cities = {{flagicon|Australia}} [[シドニー]] }} [[ファイル:United Nations geographical subregions.png|thumb|[[国連による世界地理区分]]]] '''オセアニア'''({{Lang-en|Oceania}})は、[[六大州]]の一つ。'''大洋州'''(たいようしゅう)。太平洋上の大陸、島嶼の地域を指し、一般的な解釈では、16か国([[オーストラリア連邦]]、[[キリバス共和国]]、[[クック諸島]]、[[サモア独立国]]、[[ソロモン諸島]]、[[ツバル]]、[[トンガ王国]]、[[ナウル共和国]]、[[ニウエ]]、[[ニュージーランド]]、[[バヌアツ共和国]]、[[パプアニューギニア独立国]]、[[パラオ共和国]]、[[フィジー共和国]]、[[マーシャル諸島共和国]]、[[ミクロネシア連邦]])、および25の保護領(右国数欄参照)を指す。 また、最も広く解釈すると太平洋上のすべての島国を指して使われ、この場合日本、台湾、フィリピン、インドネシアまで含まれる。 == 概要 == オセアニアは六大州中の最小の州であり、その小さな陸地面積のうち[[オーストラリア大陸]]が86%を占め、さらに島々の中で最も大きな[[ニューギニア島]]と[[ニュージーランド]]を含めると98%にもなる{{Sfn|小林泉ほか|1990|p=65}}。残りは、太平洋の中に点在する小さな島々であり、それがオセアニア([[大洋]]の州)との州名の由来にもなった。これらの[[諸島]]は陸地面積こそ小さいものの、[[オーストロネシア語族|マレー・ポリネシア系民族]]が独特の[[航海術]]によって隅々まで植民しており、独自の海洋文明を築いていた。 [[2022年]]時点のオセアニアの人口は約4,440万人である。 == 地域区分 == 一般的に、オセアニアは[[オーストラリア大陸]]、[[メラネシア]]、[[ミクロネシア]]、[[ポリネシア]]の4つの地域に区分される。 メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアの3地域の名称は、ヨーロッパ人探検家たちによる命名が始まりである。1756年、フランス人探検家[[シャルル・ド・ブロス]]が「多くの島々」を意味するギリシャ語の「ポリネシア{{efn|ギリシャ語「ポリ」(poly、多くの)と「ネソス」(nesos、島々){{Sfn|棚橋|2005|p=178}}。}}」を太平洋全島々の総称として用いたのがはじまりである{{Sfn|棚橋|2005|p=178}}。その後、同じくフランスの探検家'''[[ジュール・デュモン・デュルヴィル|ジュール・セバスティアン・セザール・デュモン・デュルヴィル]]'''がオセアニア島嶼部を3地区に分けることを考えだし、1831年にパリの地理学会で公表した。現在は、この案を基本的に踏襲している。「メラネシア{{efn|地域の先住民の肌が比較的黒いことに由来し、「メロス」(Melos、黒い)と「ネソス」から命名された{{Sfn|棚橋|2005|p=180}}。}}」はギリシャ語で「黒い島々」を意味し、「ミクロネシア{{efn|「ミクロス」(micros、小さい)と「ネソス」から命名された{{Sfn|棚橋|2005|p=180}}。}}」はギリシャ語で「小さな島々」を意味することから名づけられた{{Sfn|棚橋|2005|p=178}}。 [[ファイル:Map of Near and Remote Oceania and location of Efate Island, Vanuatu.tif|thumb|279x279px|近オセアニアと遠オセアニアの境界]] オセアニアを区分する新しい概念として、{{仮リンク|近オセアニア|en|Near Oceania}}と{{仮リンク|遠オセアニア|en|Remote Oceania}}がある。これらは、1973年に{{仮リンク|ロジャー・カーティス・グリーン|en|Roger Curtis Green}}と{{仮リンク|アンドリュー・パウリー|en|Andrew Pawley}}によって提唱された区分で<ref>Green & Pawley, 1973, "Dating the Dispersal of the Oceanic Languages"</ref>、人類集団史に基づいたものである<ref name=Genomic>{{Cite web|和書|url=https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/pr-highlights/13654|title=遺伝学:太平洋地域の人類集団の祖先を読み解く|publisher=nature asia|access-date=2021-9-8}}</ref>。近オセアニアはおよそ45,000年前に人類が到達した地域で<ref name=Genomic/>、その範囲は[[ニューギニア島]]、[[ビスマルク諸島]]、[[ソロモン諸島]](ただし、[[サンタクルーズ諸島]]を除く)を含み、場合によってはオーストラリア大陸を含める場合もある<ref name=Steadman>Steadman, 2006. ''Extinction & biogeography of tropical Pacific birds''</ref>。遠オセアニアは3,500年以内に人類が定住した地域を指しており、その範囲は近オセアニア以外のオセアニアの島々、すなわちミクロネシア、サンタクルーズ諸島、バヌアツ、フィジー、ニューカレドニア、ポリネシアを含む<ref name=Steadman/>。 == 地理 == [[ファイル:Pacific Culture Areas.jpg|thumb|360px|ポリネシア(紫),[[ミクロネシア]](赤),[[メラネシア]](青)]]{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} オセアニアは、南西端にある一つの巨大な[[陸塊]]であるオーストラリア大陸と、オーストラリアの北に位置する[[ニューギニア島]]と同じく東に位置するニュージーランド南北島というやや大きな2つの島、そしてその北から東にかけて広がる広大な[[太平洋]]と、その中に点在する無数の小さな島々からなる。この島々は、もっとも北に位置しほとんどが小さな[[環礁]]からなるミクロネシア、オーストラリアとミクロネシアの間に位置し、ニューギニア島を含み、やや大きな[[火山島]]や標高の高い島々が多数を占めるメラネシア、そしてオセアニアの東半分を占め、ニュージーランドやハワイ諸島などの大きな島々から小さな環礁までさまざまなタイプの島々が広大な海域に点在するポリネシアの3つの地域に区分されている。 地質学的には、オーストラリア大陸はいわゆる安定陸塊であり、東端を南北に走る[[グレートディバイディング山脈]]のみが[[古期造山帯]]に属する。これに対し、ニューギニア島からメラネシア全域を通りニュージーランドまでは[[環太平洋造山帯]]に属し、火山活動が活発な地域である。しばしば大きな[[地震]]が起きる。[[ハワイ諸島]]は[[太平洋プレート]]の中心に位置しているものの[[ホットスポット (地学)|ホットスポット]]であり、非常に活発な火山活動が今もなお続いている{{Sfn|菊地・小田|2014|pp=2-3}}。 気候的には、オーストラリア大陸の大部分は亜熱帯高気圧に覆われるため、非常に乾燥した[[砂漠気候]]となっている。ただしグレートディバイディング山脈の東側および南側には十分な降雨があり、北が[[サバナ気候]]、中央部が[[温暖湿潤気候]]、南部および[[タスマニア島]]が[[西岸海洋性気候]]、南西部が[[地中海性気候]]となっていて、オーストラリアの人口の大半はこの地域に居住する。また、大陸南西端の[[パース (西オーストラリア州)|パース]]周辺は大陸西部としては例外的にやや湿潤であり、地中海性気候となっている。太平洋上の島々やニューギニア島は緯度の低いことや海からの水蒸気が大量の降雨をもたらすため、多くは[[熱帯雨林気候]]となっている。ただし、降雨量は火山島とサンゴ礁島では異なり、火山島の方がより多い降雨に恵まれることが多い。これは海からの風は火山島にあたって大量の降雨をもたらすのに対し、標高の低いサンゴ礁島ではそういったことが起こらないためである。また、サンゴ礁島は地質が[[石灰岩]]であるため土壌の透水性が高く、少ない降雨も多くがすぐに地中に浸透してしまうため、水資源の確保が困難な島々が多い。 ニュージーランドは降雨量は多いものの緯度が高いために気温が低く、全島が西岸海洋性気候となっている{{Sfn|菊地・小田|2014|p=7}}。 == 歴史 == {{main|オセアニアの歴史|[[太平洋の諸島の歴史]]}} === 先史時代 === {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} 約5~6万年前から3万5000年前、東南アジア方面から現在の[[オーストラリア]]や[[ニューギニア]]の内陸部や沿岸部へ住み始めたのはオーストラロ・メラネシア系([[オーストラロイド]])の人々であったといわれている。これらの人々は、このオセアニアに移住する前は、東南アジアの島々や東アジア大陸に居住し、狩猟採集しながら暮らしていた。 ところで、約5~3万年前は、[[更新世]]の[[最終氷期]]の時代であり、地球規模で気温がさがり、海面も現在の海面よりも最大で150メートルも下がり、島々は大陸とつながっていた。たとえば、ボルネオ島やジャワ島などはアジア大陸([[スンダ陸棚]])と、オーストラリアはニューギニアと陸続き([[サフル大陸]])であった。しかし、この両者(スンダ陸棚とサフル大陸)はこの時代も海によって隔てられており、多くの島々が存在した。[[ウォーラシア海域]]と呼ばれ、最短でも直線で100キロメートルほど離れていた。 人々は海を渡り、各島へ移住していったのは約3万5000年前のことといわれる。これらのことを示す証拠として有袋類の[[クスクス科|クスクス]]や[[黒曜石]]が多数出土している。しかし、ソロモン諸島より東への移住はこの時代でなく、はるか後の約3300年前にまで下がってくる{{Sfn|小野|2010|pp=50-52}}。 そこからオーストロネシア語系の言語を持つモンゴロイド系の[[ラピタ人]]と呼ばれる人々は、パプアニューギニアのビスマーク諸島から東南方向に島伝いで移動しフィジーにたどり着いた。そこから南西方向(ヴァヌアツとニューカレドニア)と南東方向(トンガとサモア)の二方向に分かれて遠くまで移動を続けた。こうしてトンガやサモアにたどりついたラピタ人は、そこで1000年ほど留まり今のポリネシア文化の祖形を作り上げた。そして、ポリネシア人へと変容した。およそ2000年前に移動を再開し、1600年前ごろにはハワイ諸島やイースター島まで到達していた。さらに、彼らポリネシア人は、800年前にはニュージーランドにたどり着いている{{Sfn|棚橋|2005|pp=180-181}}。これらの島々は船によって緊密な連絡を相互に保っており、[[950年]]ごろに成立した[[トンガ大首長国]]は北のサモアや西のフィジーまでを支配下におさめた一大帝国を[[1500年]]ごろまで維持していた。 === ヨーロッパとの接触 === {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} 初めてこの地域に白人が訪れたのは、[[大航海時代]]さなかの16世紀初頭のことである。[[1521年]]には[[フェルディナンド・マゼラン]]がヨーロッパ人として初めて太平洋を横断した。この時以降しばらくの間は太平洋は東から西に進む航路しか存在しなかったが、[[1564年]]には[[アンドレス・デ・ウルダネータ]]が[[フィリピン]]から[[アカプルコ]]へと向かう航路を開拓し、これによって太平洋を往復する航路が確立された。これを使用して[[1565年]]には[[マニラ・ガレオン]]が[[アカプルコ]]と[[マニラ]]の間を往復するようになった。その後、17世紀には[[アベル・タスマン]]によってニュージーランドと[[タスマニア]]が発見されるなど徐々に地理的知識は蓄積されていったが、領土進出という点ではスペインが[[マリアナ諸島]]と[[カロリン諸島]]を領有した程度で、それほど積極的に進出してはいなかった。また、地理的にもいまだ発見されていない島が多数存在しており、オセアニアの南部には広大な[[南方大陸]]が存在していると考えているものも多かった。18世紀に入ると徐々に探検が進んでいったが、太平洋における地理的「発見」の最後を飾ったのは[[ジェームズ・クック]]である。彼の[[1768年]]からの三回の探検によって、オセアニアの地理はほぼ完全に明らかとなった。 ヨーロッパ人による植民が本格的にはじまったのは、[[1788年]]1月26日にイギリスからの最初の植民船団([[ファースト・フリート]])がオーストラリア大陸南東部の[[シドニー湾]]に到達してからのことである。これ以降オーストラリアには続々と移民が送り込まれ、先住のアボリジニを駆逐しながら植民地化が進められていった。初期はオーストラリア東岸の降雨量の多い地域のみの植民であったが、[[1813年]]には[[グレゴリー・ブラックスランド]]らの探検隊によって山脈西側に草原が発見され、以後内陸部の開発も進むようになった。 19世紀初頭にはニュージーランドもヨーロッパ人が多く進出するようになり、[[1840年]]には[[ワイタンギ条約]]が締結されてニュージーランドもイギリス領となった。19世紀後半には太平洋諸島も分割が進み、19世紀末にはすべての島々が植民地化された。 [[1851年]]にオーストラリア南東部で[[金]]が発見されると[[ゴールドラッシュ]]が起き、オーストラリアの人口は急増した。1860年から1861年にかけてはオーストラリア内陸部の状況を調べるために[[バーク・ウィルズ探検隊]]が送られ、悲劇的な結果に終わったものの内陸部の状況は明らかになった。[[1901年]]にはオーストラリア大陸にあった諸植民地が合同し、[[オーストラリア連邦]]が誕生した<ref>[[#地球を旅する地理の本 6 1993|『地球を旅する地理の本 6』 1993]], p. 189.</ref>。 === 第二次世界大戦 === {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} ミクロネシアやメラネシアが[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の時、主戦場の一つであった。日本がアメリカとオーストラリアの共同作戦を阻止するために、ポートモレスビー攻略作戦([[MO作戦]])と当時イギリス領であったフィジー・サモア、同フランス領ニューカレドニアを攻略する作戦([[FS作戦]])を計画した。 === 国々の誕生(現代) === 第二次世界大戦後の植民地独立の波を受け、オセアニアにおいても[[1962年]]の西サモア(現サモア)の独立を皮切りに、[[1968年]]にはナウルが、[[1970年]]にはトンガとフィジーが、[[1975年]]にはパプアニューギニアが、[[1978年]]にはソロモン諸島とツバルが、[[1979年]]にはキリバスが、[[1980年]]にはバヌアツがそれぞれ独立した<ref>[[#地球を旅する地理の本 7 1993|『地球を旅する地理の本 7』 1993]], p. 210.</ref>。一方で、フランス領ポリネシアやニューカレドニアのようにフランスの海外県にとどまるところや、ハワイのように本国の一州として加入するもの、またマーシャル諸島やミクロネシア連邦、パラオ、クック諸島、ニウエのように[[自由連合 (国家間関係)|自由連合]]の形をとり、独立はするものの軍権や外交権は旧宗主国が統括する国々も現れた。こうした国々は地形的、言語的、文化的、民族的に多様性に富み、国家の誕生に大変苦しんでいる{{Sfn|江戸|2010|pp=64-67}}{{Sfn|高橋|2005|pp=184-187}}。当初は島嶼部の大半の地域で政治的安定が保たれていたが、[[2000年]]ごろを境として、フィジーやソロモン諸島、パプアニューギニア、トンガなどのように政情が不安定になり、[[クーデター]]や暴動が発生した国家も存在する{{Sfn|丹羽・石森|2013|p=2}}。 == オセアニア諸国 == {{main|オセアニアの主権国家及び属領の一覧}} [[ファイル:Oceania_without_Asian_country_codes.jpg|thumb|center|660px|オセアニア全体の面積は約850万[[平方キロメートル|km{{sup|2}}]]である]] === 独立国 === {| class="wikitable" |- ![[ISO 3166-1|記号]]!!国名!!首都!!面積!!人口(2018年) |- |style="text-align:center"|AU |{{flagicon|Australia}} [[オーストラリア|オーストラリア連邦]] |[[キャンベラ]] |style="text-align:right"|768万6850&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|24,898,152人 |- |style="text-align:center"|CK |{{flagicon|Cook Islands}} [[クック諸島]] |[[アバルア]] |style="text-align:right"|237&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|17,518人 |- |style="text-align:center"|FJ |{{flagicon|Fiji}} [[フィジー|フィジー共和国]] |[[スバ]] |style="text-align:right"|1万8270&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|883,483人 |- |style="text-align:center"|FM |{{FSM}} |[[パリキール]] |style="text-align:right"|702&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|112,640人 |- |style="text-align:center"|KI |{{flagicon|Kiribati}} [[キリバス|キリバス共和国]] |[[タラワ]] |style="text-align:right"|811&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|115,847人 |- |style="text-align:center"|MH |{{flagicon|Marshall Islands}} [[マーシャル諸島|マーシャル諸島共和国]] |[[マジュロ]] |style="text-align:right"|326&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|58,413人 |- |style="text-align:center"|NR |{{flagicon|Nauru}} [[ナウル|ナウル共和国]] |[[ヤレン地区]]{{small|(政庁所在地)}} |style="text-align:right"|21&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|10,670人 |- |style="text-align:center"|NU |{{flagicon|Niue}} [[ニウエ]] |[[アロフィ]] |style="text-align:right"|260&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|1,620人 |- |style="text-align:center"|NZ |{{flagicon|New Zealand}} [[ニュージーランド]] |[[ウェリントン]] |style="text-align:right"|26万8680&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|4,743,131人 |- |style="text-align:center"|PG | nowrap="nowrap" |{{flagicon|Papua New Guinea}} [[パプアニューギニア|パプアニューギニア独立国]] | nowrap="nowrap" |[[ポートモレスビー]] |style="text-align:right"|46万2840&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|8,606,323人 |- |style="text-align:center"|PW |{{flagicon|Palau}} [[パラオ|パラオ共和国]] |[[マルキョク]] |style="text-align:right"|458&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|17,907人 |- |style="text-align:center"|SB |{{flagicon|Solomon Islands}} [[ソロモン諸島]] |[[ホニアラ]] |style="text-align:right"|2万8450&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|652,857人 |- |style="text-align:center"|TO |{{flagicon|Tonga}} [[トンガ|トンガ王国]] |[[ヌクアロファ]] |style="text-align:right"|748&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|103,197人 |- |style="text-align:center"|TV |{{flagicon|Tuvalu}} [[ツバル]] |[[フナフティ]] |style="text-align:right"|26&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|11,508人 |- |style="text-align:center"|VU |{{flagicon|Vanuatu}} [[バヌアツ|バヌアツ共和国]] |[[ポートビラ]] |style="text-align:right"|1万2200&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|292,680人 |- |style="text-align:center"|WS |{{flagicon|Samoa}} [[サモア|サモア独立国]] |[[アピア]] |style="text-align:right"|2944&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|196,129人 |} === 主な各国領 === {| class="wikitable" |- ![[ISO 3166-1|記号]]!!領名!!首府!!面積!!人口(2018年) |- |style="text-align:center"|AS | nowrap="nowrap" |{{flagicon|American Samoa}} [[アメリカ領サモア]] <!----><br />{{small| アメリカ準州}} |[[パゴパゴ]] |style="text-align:right"|199&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|55,465人 |- |style="text-align:center"|CC |{{flagicon|CCK}} [[ココス諸島|ココス(キーリング)諸島]]<br />{{small| オーストラリア領}} |[[ウェスト島]]{{small|(中心街)}} |style="text-align:right"|14&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|544人 |- |style="text-align:center"|CX |[[ファイル:Flag of Christmas Island.svg|border|25x20px]] [[クリスマス島 (オーストラリア)|クリスマス島]]<br />{{small| オーストラリア領}} | nowrap="nowrap" |[[フライング・フィッシュ・コーブ|フライングフィッシュ<br />コーブ]] |style="text-align:right"|143&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|1843人 |- |style="text-align:center"|GU |{{flagicon|Guam}} [[グアム]]<br />{{small| アメリカ準州}} |[[ハガニア]] |style="text-align:right"|549&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|165,768人 |- |style="text-align:center"|ID |[[ファイル:Morning Star flag.svg|25x20px|border|西パプアの旗]] [[パプア州]]・[[西パプア州]]<br />{{small| インドネシア州}} |[[ジャヤプラ]] |style="text-align:right"|42万540&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|3,486,432人<br />(パプア州)<br />760,855人<br />(西パプア州) |- |style="text-align:center"|MP |{{flagicon|Northern Mariana Islands}} [[北マリアナ諸島]]<br />{{small| アメリカ自治領}} |[[ススペ]] |style="text-align:right"|477&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|56,882人 |- |style="text-align:center"|NC |{{flagicon|NCL}} [[ニューカレドニア]]<br />{{small| フランス領}} |[[ヌーメア]] |style="text-align:right"|1万9000&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|279,993人 |- |style="text-align:center"|NF |{{flagicon|NFK}} [[ノーフォーク島]]<br />{{small| オーストラリア領}} |[[キングストン (ノーフォーク島)|キングストン]] |style="text-align:right"|35&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|2,302人 |- |style="text-align:center"|PF |{{flagicon|PYF}} [[フランス領ポリネシア|仏領ポリネシア]]<br />{{small| フランス海外領邦}} |[[パペーテ]] |style="text-align:right"|4167&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|277,679人 |- |style="text-align:center"|PN |{{flagicon|PCN}} [[ピトケアン諸島]]<br />{{small| イギリス領}} |[[アダムスタウン (ピトケアン)|アダムスタウン]] |style="text-align:right"|47&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|47人 |- |style="text-align:center"|TK |{{flagicon|Tokelau}} [[トケラウ|トケラウ諸島]]<br />{{small| ニュージーランド領}} |[[アタフ島]]<small>(中心街)</small> |style="text-align:right"|10&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|1,319人 |- |style="text-align:center"|US |{{flagicon|Hawaii}} [[ハワイ州]]<br />{{small| アメリカ合衆国州}} |[[ホノルル]] |style="text-align:right"|1万6635&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|1,360,301人 |- |style="text-align:center"|WF |[[ファイル:Flag of Wallis and Futuna.svg|border|25x20px]] [[ウォリス・フツナ|ウォリス=フツナ]]<br />{{small| フランス領}} |[[マタウトゥ]] |style="text-align:right"|274&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|11,661人 |- |style="text-align:center"|UM |[[ファイル:Flag of Wake Island.svg|border|25x20px]] [[ウェーク島]]<br />{{small| [[合衆国領有小離島|アメリカ領有]]}} | |style="text-align:right"|7&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|約150人<ref name="通年平均">通年平均。</ref> |- |style="text-align:center"|UM |[[ジョンストン島|ジョンストン環礁]]<br />{{small| アメリカ領有}} | |style="text-align:right"|3&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|無人<ref>{{Wayback|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/um.html |title=CIA World Factbook|date=20070612195503}}</ref> |- |style="text-align:center"|UM |[[ファイル:Flag of the Midway Islands (local).svg|border|25x20px]] [[ミッドウェー島]]<br />{{small| アメリカ領有}} | |style="text-align:right"|6&nbsp;km{{sup|2}} |style="text-align:right"|約40人{{r|通年平均}} |} {{注| km<sup>2</sup>未満は四捨五入}} == 政治 == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} オセアニア諸国の政治・経済状況は、オーストラリアおよびニュージーランドとその他島嶼国群とに大きく二分される。オーストラリアとニュージーランドは[[19世紀]]に入って植民したイギリス系の住民が多数を占め、政治的には入植初期から[[民主主義]]が発達し、経済的にも[[先進国]]の一員となっている極めて安定した豊かな国家である。これに対し、島嶼国群は[[1970年代]]以降に独立した新興国が多く、人口も少なく面積も少ないうえ可住地が広い範囲に点在している、いわゆる[[小島嶼開発途上国]]に分類される国家が多いため、経済開発がうまく進んでいない国家が多い。 政治的には面積・人口・経済力で他を圧倒しているオーストラリアがこの地域のリーダー格であり、ニュージーランドもイギリスから引き継いだ属領諸島をいくつか島嶼部に持ち、影響力を持っている。島嶼諸国のリーダー格は人口・経済力的にフィジーが務めることが多かったが、1980年代以降[[フィジー人]]と[[インド人]]との対立によって[[クーデター]]が多発するようになり、政治的影響力を減退させた。 この地域の地域協力機関として最も古いものは、1947年にイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドの6ヶ国が設立した[[南太平洋委員会]]である。メンバーはこの地域に植民地を持つ宗主国によって占められ、のちに独立した域内諸国が加盟したものの、どちらかといえば旧宗主国主導の色合いが濃い国際機関だった。これに対し、独立した小島嶼国が主体として1971年に設立された国際機関が[[南太平洋フォーラム]]である。のちに、[[2000年]]に南太平洋フォーラムは[[太平洋諸島フォーラム]]に、南太平洋委員会は[[1998年]]に[[太平洋共同体]]にそれぞれ改組された。また、[[1985年]]に南太平洋フォーラムの加盟8か国によって[[南太平洋非核地帯条約]](ラロトンガ条約)が締結され{{Sfn|ヴィクトルほか|2007|p=27}}、2009年には13か国がこの条約に加盟している。 == 経済 == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} 経済的にも、この地域で圧倒的な力をもつのはオーストラリアである。オーストラリア経済はもともと[[ヒツジ]]や[[ウシ]]を中心とする牧畜と、[[コムギ]]を中心とする大規模農業を基盤としていた。牧羊はオーストラリア大陸中西部のやや乾燥した地域を中心に、コムギ農業はそれより東側のやや湿潤な地域を中心に行われている。こうした農牧業は現代でも高い生産性を保ち、[[羊毛]]や農作物は日本をはじめとして世界各国に輸出されているが、第二次世界大戦後は大陸西部の[[鉄鉱石]]や大陸東部の[[石炭]]を中心に各種鉱業が発達し、あらたなオーストラリア経済の柱となった。ニュージーランドは資源はほとんど産出しないものの、世界有数の生産性を誇るヒツジやウシの牧畜業や農業に支えられ、経済的には非常に豊かである。 この2国に対し、パプアニューギニアや太平洋諸島はそれほど産業が発達しておらず、パプアニューギニアの[[銅]]やニューカレドニアの[[ニッケル]]のように地下資源に頼る国もあるが、多くは自給農業を行っているところが多い。こうした島々の多くでは、換金作物は[[ココヤシ]]から作る[[コプラ]]程度である。なお、例外的にフィジーにおいては[[サトウキビ]]の[[プランテーション]]が特に乾燥した[[ビティレブ島]]西部に多数存在しており、フィジー経済の柱となっている{{Sfn|菊地・小田|2014|p=30}}。また、20世紀後半以降、先進各国の生活水準の向上と[[飛行機]]の発達によって[[観光産業]]が急速に発達し、美しい海を持つ太平洋諸島のなかにはタヒチやニューカレドニア、フィジー、ハワイ、グアム、パラオなどのように観光を経済の柱とする地域も多く存在するようになった。 == 都市 == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} オセアニア最大の都市はオーストラリアの[[シドニー]]であり、人口は530万人(2019年)を超える。次いで大きな都市は同じくオーストラリアの[[メルボルン]]である。シドニーとメルボルンは歴史的にライバル関係にあり、オーストラリア連邦成立時にも両都市が首都の座を争った挙句、中間地点に新首都である[[キャンベラ]]を建設したいきさつがある。オーストラリア大陸東岸から南岸東部にかけてはオセアニアで最も人口の集中する地域であり、北から[[ブリスベン]]、[[ゴールドコースト (クイーンズランド州)|ゴールドコースト]]、[[ニューカッスル (ニューサウスウェールズ州)|ニューカッスル]]、シドニー、キャンベラ、メルボルン、[[アデレード]]といった人口30万から100万以上の都市が並んでいる。同国の100万都市としてはほかに大陸西端に[[パース (西オーストラリア州)|パース]]が存在するが、この都市は地理的に非常に孤立しており、周囲にほかの都市圏は全く存在せず、最も近い100万都市であるアデレードからも2000km以上離れている。 オーストラリア以外で最も大きな都市はニュージーランドの北島北部に位置する[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]であり、アメリカ・ハワイ州の[[ホノルル]]やパプアニューギニアの[[ポートモレスビー]]がこれに次ぐ。ニュージーランドにはほかに、南島中央部にあり南部の中心都市である[[クライストチャーチ]]と、北島南端にあり同国の首都である[[ウェリントン]]があり、オークランドと合わせ3大都市となっている。 島嶼部において、南太平洋諸国の中心的な役割を果たしているのはフィジーの首都である[[スバ]]である。スバの都市圏は近隣の[[ナウソリ]]などを合わせ33万人にのぼり、島嶼諸国最大の都市圏を形成している。このほか、ニューカレドニアの[[ヌメア]]も10万人程度の人口を有する。島嶼部においてはこれ以外に人口10万を超える都市は存在せず、各国の首都でも人口は数万人にとどまり、なかにはツバルやナウルのように明確な首都的都市が存在しない国家も存在する。もっとも、これはフィジーとソロモン諸島を除く島嶼諸国の人口規模そのものが小さいためであり、首都や都市への人口集中自体は他地域と同様に起こっている。 == 言語 == {{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} 本来この地域で話されていた言語は、[[オーストロネシア語族]]、[[パプア諸語]]、[[オーストラリア諸語]]の3つの言語群に属する言語のみである。その名の通りオーストラリア諸語はオーストラリア大陸の[[アボリジニ]]が使用していた言語であり、パプア諸語はニューギニア島にて使用されていた諸言語の総称である。この2つの言語群内部において系統性は立証されておらず、そのため語族ではなく諸言語の集合という扱いとなっている。これに対し、オーストロネシア語族は東南アジアから太平洋の諸島群に進出したメラネシア人やポリネシア人の言語であり、系統性は明確に立証されている。その後、19世紀にオーストラリアとニュージーランドに進出したイギリス人が両国で増加したため、話者数的には現代では[[インド・ヨーロッパ語族]]に属する話者が圧倒的に多い。この語族の言語のうち最も多く話されるものは[[英語]]であり、フランス領の島々では[[フランス語]]も広く使われるが、他に同じく19世紀にイギリスによってフィジーに移民した[[インド人]]も、[[ヒンディー語]]を母体とした[[フィジー・ヒンディー語]]を話す。オーストラリア諸語の話者は英国系住民に圧倒されて話者数が非常に減少し、絶滅が危惧されている言語も多い。これに対し、パプア諸語はニューギニア島で、オーストロネシア語族は太平洋諸島において、いまだ多数派を占めている。 == 文化 == {{Main|{{仮リンク|オセアニアの文化|en|Culture of Oceania}}}} {{See also|{{仮リンク|オセアニア料理|en|Oceanic cuisine}}}}{{出典の明記| date = 2023年9月| section = 1}} 文化的にも、この地域はオーストラリア・ニュージーランドの英国系植民者中心の地域とそれ以外の島嶼地域とに大別できる。島嶼地域においては、ポリネシアは非常に広大な地域であるのにもかかわらずかなり同質性が高い。これは植民が[[ポリネシア人]]という一民族によって行われたうえ、植民後も船によって緊密な連絡が保たれた地域が多く、祖形が同じなうえに分化があまり進まなかったためである。これに対し、メラネシアはかなり分化が進んでおり、多様な文化が存在する。これはメラネシアは地形が険しく、自然環境もポリネシアやミクロネシアに比べ多様であり、画一化が進まなかったためである。ミクロネシアは島々によってメラネシアやポリネシアなど影響を受けた地域が異なり、ミクロネシア全体に共通する文化は多くない{{Sfn|菊地・小田|2014|pp=106-107}}。 食文化においては、オーストラリア・ニュージーランドはヨーロッパ系食文化を祖形として持つ。これにたいし、島嶼部は[[タロイモ]]・[[ヤムイモ]]を農耕の基盤とし、メラネシアは[[バナナ]]がこれに加わる。土地が豊かで降水量の多い火山島ではこれら作物が主力となるものの、地味が貧しく水も少ないサンゴ礁島においてはこれらの栽培が困難であることも多く、このためこうした島々では[[パンノキ]]が主力となっているところもある。また、特にサンゴ礁島において[[ココヤシ]]は非常に有用な植物であり、油脂源・調味料・食糧、そしてなによりも飲料水の供給源として重要である。 宗教的には、ほとんどの地域で[[キリスト教]]、とくに[[プロテスタント]]諸派がほとんどを占める。これはオーストラリア・ニュージーランドにおいては主流となった英国系移民が従来の[[英国国教会]]の信仰をそのまま持ち込んだためであり、また島嶼部においては19世紀後半においてプロテスタント諸派が盛んに[[宣教師]]を派遣し地元住民への布教を進めたためである。 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|オセアニアのスポーツ|en|Sport in Oceania}}}} {{See also|オセアニアサッカー連盟|OFCネイションズカップ}} == 海面上昇 == [[地球温暖化]]に伴う[[海面上昇]]は、海抜の低い小島嶼国家の存立に深刻な影響を与える。IPCC([[気候変動に関する政府間パネル]]、Intergovermental Panel on Climate Change)の報告書はミクロネシアのマーシャル諸島共和国について、環礁の約8割が海面下になる可能性を警告している{{Sfn|柄木田|2005|pp=209-210}}。 == 地域機構 == * [[アジア太平洋経済協力]] * [[太平洋共同体]] * [[太平洋諸島フォーラム]] * [[南太平洋委員会]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == ; 書籍 *<!--いんとう-->{{Cite book |和書 |author=印東道子 編著|authorlink=印東道子 |date=2005-11-01 |title=ミクロネシアを知るための58章 |edition= |publisher=明石書店 |series=エリア・スタディーズ |isbn=4-7503-2222-9 |isbn-13 978-4-7503-2222-3 |oclc=62397978 |ref={{SfnRef|印東|2005}} }}ISBN 978-4-7503-2222-3。 ** <!--からきた-->{{Wikicite |ref={{SfnRef|柄木田|2005}} |reference=柄木田康之「海面上昇と島嶼国家の危機」}} ** <!--たかはし-->{{Wikicite |ref={{SfnRef|高橋|2005}} |reference=高橋康唱「独立国家への道」}} *<!--ヴィクトル-->{{Cite book |和書 |author=ジャン=クリストフ・ヴィクトル |authorlink=:en:Jean-Christophe Victor |author2=ヴィルジニー・レッソン |author3=フランク・テタール |author4=フレデリック・レルヌー |translator=[[鳥取絹子]] |date=2007-08-16 |title=地図で読む世界情勢 第2部 これから世界はどうなるか |origdate=2009 |publisher=[[草思社]] |isbn=4-7942-1610-6 |oclc=317580805 |ref={{SfnRef|ヴィクトルほか|2007}} }}ISBN 978-4-7942-1610-6。 ** 原著:<!--Victor-->{{Cite book |last=Victor |first=Jean-Christophe |author=Jean-Christophe Victor |authorlink=:en:Jean-Christophe Victor |last2=Raisson |first2=Virginie |author2=[[:fr:Virginie Raisson|Virginie Raisson]] |last3=Tétart |first3=Frank |author3=[[:fr:Frank Tétart|Frank Tétart]] |last4=Lernoud |first4=Frédéric |author4=Frédéric Lernoud |date=19 Mar 2009 |title=Le dessous des cartes : Tome 2 : Atlas d'un monde qui change |location=[[パリ|Paris]] |publisher=[[:fr:Éditions Tallandier|Éditions Tallandier]] |language=fr |isbn=978-2-8473-4304-5 |oclc=300500794 |ref={{SfnRef|Victor ''et al.''|2009}} }} *<!--きくち-->{{Cite book |和書 |editor1=菊地俊夫|editor2=小田宏信|editor2-link=小田宏信 |date=2014-06-10 |title=東南アジア・オセアニア |edition=初版第1刷 |publisher=朝倉書店 |series=世界地誌シリーズ 7 |isbn=4-254-16927-2 |oclc=885404355 |ref={{SfnRef|菊地・小田|2014}} }}ISBN 978-4-254-16927-0。 *<!--こばやしいずみ-->{{Cite book |和書 |editors=[[小林泉]]・加藤めぐみ・[[石川栄吉]]・[[越智道雄]]・[[百々佑利子]](監修)|date=1990-08-01 |title=オセアニアを知る事典 |edition=初版第1刷 |publisher=[[平凡社]] |isbn=4-582-12617-0 |oclc=26211522 |ref={{SfnRef|小林泉ほか|1990}} }}ISBN 978-4-582-12617-4。 *<!--にわ-->{{Cite book |和書 |editor=丹羽典生・石森大知 |date=2013-04-22 |title=現代オセアニアの“紛争”―脱植民地期以降のフィールドから |edition=初版第1刷 |publisher=[[昭和堂]] |isbn=4-8122-1255-3 |oclc=839209708 |ref={{SfnRef|丹羽・石森|2013}} }}ISBN 978-4-8122-1255-4。 *<!--よしおか-->{{Cite book |和書 |author1=吉岡政德 編著 |author2=石森大知 編著 |date=2010-09-29 |title=南太平洋を知るための58章―メラネシア ポリネシア― |publisher=明石書店 |series=エリア・スタディーズ 82 |isbn=4-7503-3275-5 |oclc=668184789 |ref={{SfnRef|吉岡・石森|2010}} }}ISBN 978-4-7503-3275-8。 ** <!--えど-->{{Wikicite |ref={{SfnRef|江戸|2010}} |reference=江戸淳子「ミニ国家の誕生」}} ** <!--おの-->{{Wikicite |ref={{SfnRef|小野|2010}} |reference=小野林太郎「島じまの発見者」}} <!--※以下は法人。--> *<!--ちきゅうを… -->{{Cite book |和書 |author1=小島晃 |author2=高木正 |author3=小山昌矩 |date=1993-06 |title=北アメリカ・オーストラリア |edition=第1刷 |publisher=[[大月書店]] |series=地球を旅する地理の本 6 |isbn=4-272-50166-6 |oclc=674964966 |ref=地球を旅する地理の本 6 1993 }}ISBN 978-4272501663。 * {{Cite book |和書 |author1=小林汎 |author2=岩淵孝 |author3=谷洋之 |author4=伊香祝子、ほか |date=1993-12 |title=中南アメリカ |edition=第1刷 |publisher=大月書店 |series=地球を旅する地理の本 7 |isbn=4-272-50167-4 |oclc=674793287 |ref=地球を旅する地理の本 7 1993 }}ISBN 978-4272501670。 * <!--ブリタニカ… -->{{Cite book |和書 |editor=フランク・B・ギブニー|editor-link=:en:Frank Gibney |date=1995 |title=[[ブリタニカ国際大百科事典]] |edition=第3巻 |publisher=[[TBSブリタニカ|ティビーエス・ブリタニカ]] |isbn= |oclc= |ref=ブリタニカ国際大百科事典 1955 }} ; 論文 * <!--あやべ-->{{Cite journal |和書 |editor=[[綾部恒雄]](監修)、前川啓治・[[棚橋訓]](編集)|date=2005-09 |title=09 オセアニア |url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA73573271 |publisher=明石書店 |journal=講座世界の先住民族 -ファースト・ピープルズの現在- |volume= |issue= |ncid=BA73573271 |ref={{SfnRef|綾部ほか|2005}} }} ** <!--たなはし-->{{Wikicite |ref={{SfnRef|棚橋|2005}} |reference=棚橋訓「解説 オセアニア島嶼部」}} == 関連項目 == {{Commonscat|Oceania}} {{Wikibooks|中学校社会 地理/オセアニア州}} {{WikinewsPortal}} {{Wikivoyage|Oceania|オセアニア{{en icon}}}} * [[国の一覧]] * [[国の一覧 (大陸別)]] * [[海外領土・自治領の一覧]] * [[国の面積順リスト]] * [[国の人口順リスト]] * [[国の人口密度順リスト]] * [[国の国内総生産順リスト]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{大州横}} {{世界の地理}} {{オセアニア}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おせあにあ}} [[Category:オセアニア|*]]
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マンハッタン
マンハッタン(Manhattan、英語発音: [mænˈhætn])は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市の地区。 ハドソン川河口部の中州であるマンハッタン島 (Manhattan Island)、あるいは、マンハッタン島が大部分を占めるマンハッタン区 (Manhattan Borough) のことである。ニューヨーク州のニューヨーク郡 (New York County) の郡域もマンハッタン区と同じである。マンハッタンはニューヨーク市の中心街とされる。 ニューヨーク州の行政上の州都はニューヨーク市の北233キロメートルにあるオールバニに置かれているが、アメリカ最大の都市圏人口を背景にした経済・文化面の影響力により、ウォール街を擁するニューヨーク市のマンハッタンがニューヨーク州の中心であるといえる。 ニューヨーク市を構成する5つの行政区の1つであり、ニューヨーク市役所の所在地である。他の4区はクイーンズ区・ブルックリン区・ブロンクス区・スタテンアイランド区である。 5番街やタイムズスクエアなどの繁華街があり、世界中からの観光客をひきつけている他、世界を代表する金融街の一つであるウォール街がある。また国連本部はマンハッタン島に置かれているが、この土地は全加盟国で共有する国際領土となっている。一般的に「ニューヨーク」と言えば、ニューヨーク州ではなく、ニューヨーク市とりわけマンハッタンを意味することが多い。 マンハッタンはアメリカ最大の都市圏人口を持つニューヨーク市(約800万人)の中心であり人口は約160万人と推定されている。イタリア系やユダヤ系、中国系、プエルトリコ系など多くの人種が混在する街であり、地域ごとに異なった文化が形成されている。また、「人種のるつぼ」「ビッグ・アップル」などと称される。 またニューヨークではシカゴとともに19世紀後半から世界に先駆けて高層ビルの建設が始まり、マンハッタンには多数の超高層ビルが密集している。これらは『摩天楼』と呼ばれ、象徴的なマンハッタンの景観を形成している。 マンハッタン区は、マンハッタン島と小さな諸島(ルーズベルト島、ガバナーズ島、エリス島、ランドールズ島、ワーズ島、ミル・ロック、ウ・タント島)、そして北米大陸のごく一部地域(マーブル・ヒル(英語版))からなる。 マンハッタン島は、西をハドソン川、東をイースト川とハーレム川、北をスパイテン・ダイヴィル川(およびハーレム川運河)、南をアッパー・ニューヨーク湾によって囲まれている。幅は約4 km、長さ約20 kmで、ほぼ南北方向に細長い形状をしている。面積は58.8 kmで、東京の山手線の内側(約64 km)にほぼ相当する。ブロンクスに隣接するマーブル・ヒル(英語版)もかつてはマンハッタン島の一部であったが、スパイテン・ダイヴィル川の付け替えにより現在はマンハッタン島から分離している。 マンハッタン島は1枚の岩盤から構成されており、島の大部分を構成している基盤岩はマンハッタン片岩 (Manhattan Schist) と呼ばれる雲母の結晶片岩である。この岩は強度が高く、その構成成分の変成岩はパンゲア大陸が形成された過程で作られた。この岩盤上は高層ビルの建設に適しており、ダウンタウンとミッドタウンの表面はこの岩石に富んでいるためこれらのエリアには高層ビルが多く建ち並んでいる。セントラルパークにはマンハッタン片岩の露頭があり、ラット・ロック(英語版)はその一例である。 地形は沿岸部に向かって極緩い傾斜があるほか、ダウンタウンからアップタウンに向けては緩やかに上る地形となっている。これはコロンビア大学付近を頂上とし、モーニングサイド・ハイツなどの高所を抜けると北に向けて大きく下がり125丁目が谷間となる。そこから北は再び高度は上がり、マンハッタン北部のインウッドまで高台が続く。埋め立ては、沿岸の埠頭部分などに限られている。 ルーズベルト島は、マンハッタン島の東を流れるイースト川の中州であり、南北に細長い島である。その先はクイーンズ区となる。ニューヨーク市地下鉄の駅があり、マンハッタン島とはルーズベルト・アイランド・トラムウェイ(ロープウェイ)でも結ばれている。 ガバナーズ島はマンハッタン島の南のニューヨーク湾にある。かつては、マンハッタン島の至近距離にありながら、沿岸警備隊の中枢施設があり公共輸送機関はなかった。しかし、2003年1月に国から州および市へ1ドルで売却され、一般に開放されて、現在ではマンハッタン島南端のバッテリー・パークからフェリーが運航されている。イギリス植民地時代の総督の保養地であり、独立戦争では対英軍のための要塞、南北戦争では南軍の捕虜収容所となった。 エリス島は、マンハッタン島の南西部ハドソン川河口付近にあり、移民博物館となっている。こちらへもバッテリー・パークからフェリーが運航されている。 いずれの島も、マンハッタン島との間の橋はない。ルーズベルト島は、クイーンズに繋がる橋がある。橋の数が少ないのは意図的なものでマンハッタンからの経済流出を防ぐためである。そのため、マンハッタン区とその他のニューヨーク市区域の光景は大きく異なる。東側のイースト川には、クイーンズ/ブルックリン地区と結ぶ5本の橋が、ハーレム川には15本の橋が架かっている。また、地下鉄の線路が7本走る。これに対しニュージャージー州(西側・ハドソン川)には橋が1本、道路トンネルが2箇所、鉄道トンネルが2本通っているのみである。これは、イースト川は市内を流れる川であるのに対し、ハドソン川は州を区切る川であることによる。合衆国において、州が独立性の高い構成単位であることを示していると言われる。 Manhattanの名はインディアン部族のデラウェア(レナペ)語の「丘の多い島」を意味する "Mannahate"、"Manna-hata" に由来するとされる。一方、レナペ族は宣教師のジョン・ヘッケウェルダーに、"Manahachtanienk"(マナハクタニエンク)から来たと説明している。これは「我々がみな、酔っぱらいにされた島」という意味である。 緯度としては日本の青森県に位置し、やや冷涼な気候ではあるが、区分上は温帯気候である。 ハリケーンの進路に当たることもあるが、大西洋岸を北上する途中で勢力を弱めることが多い。夏場には夕立が多い。梅雨がないので降雨量は日本に比べ少ない。冬場の冷え込みは厳しいが、降雪はそれほど多くない。降った場合でも街の熱と除雪により直ぐに除去される。気温は日中でも摂氏マイナス10〜15度ほどになる。沿岸都市のため、海から吹く風が強い日が秋を中心に見られ、体感温度を下げる。湿度は比較的低い。都市部特有のヒートアイランド現象の影響がある。秋・冬は北方からの冷たい空気、夏は大西洋南方からの暖かい空気により気温の変化がもたらされる。 以下はマンハッタンの人種別の人口構成。 マンハッタンは宗教的に多様である。 2000年に最大の宗教的所属はカトリック教会で、564,505人の支持者(人口の36%以上)で、110の会衆を維持していた。 ユダヤ人は、102の会衆で314,500人(20.5%)の2番目に大きい宗教グループを構成した。3番目はプロテスタント、139,732人のフォロワー(9.1%)、4番目はイスラム教徒、37,078(2.4%)である。 ヒンズー教、無神論および無宗教を含む他の宗教的所属が、残りの大半を構成した。 2010年時点で、5歳以上のマンハッタン居住者の59.98%(902,267人)は自宅で英語のみを話し、23.07%(347,033人)スペイン語、5.33%(80,240人)中国語、2.03%(30,567人)フランス語、0.78%(11,776人)日本語 、0.77%(11,517人)ロシア語、0.72%(10,788人)韓国語、0.70%(10,496人)ドイツ語、0.66%(9,868人)イタリア語、0.64%(9,555人)ヘブライ語、0.48%(7,158人)自宅でアフリカ言語を話している。 合計で、5歳以上のマンハッタンの人口の40.02%(602,058人)は、自宅で英語以外の言語を話した。 ニューヨーク州はアメリカ建国13州のうちの11番目の州である。 もともとこの地には、レナペ族(デラウェア族)、ワッピンガー族などのインディアン部族がウィグワムによる移動型集落を形成し、トウモロコシや豆、カボチャなどを栽培し、狩猟採集の生活を営んでいた。領土的にはレナペ族がほぼ独占していた。 (2)タイムワーナーセンター (3)en:220 Central Park South (4)セントラル・パーク・タワー (5)ワン 57 (6)432 パーク・アベニュー (7)en:53W53 (8)クライスラー・ビルディング (9)バンク・オブ・アメリカ・タワー (10)4 タイムズスクエア (11)ニューヨーク・タイムズ・ビルディング (12)エンパイア・ステート・ビルディング (13)マンハッタン・ウエスト (14)A: en:55 Hudson Yards、B: en:35 Hudson Yards、C: 10 ハドソン・ヤード D: en:15 Hudson Yards (15)56 レオナード・ストリート (16)8 スプルース・ストリート (17)ウールワース・ビルディング (18)アメリカン・インターナショナル・ビルディング (19)30 パーク・プレイス (20)40 ウォール・ストリート (21)3 ワールドトレードセンター (22)4 ワールドトレードセンター (23)1 ワールドトレードセンター 地図上の南北をあらわす向きから、マンハッタン島内の最南端ロウアーマンハッタンを中心に「ダウンタウン」と呼び、北側を「ミッドタウン」および「アップタウン」と呼ぶ。ニューヨーク市地下鉄などの交通機関での行先・方面表示にもダウンタウン・アップタウンの表記が使われる。一方、マンハッタン島内の東西に走るバスや地下鉄などは「クロスタウン(英語版)」とよばれる。ブロードウェイはマンハッタン島の最南端から最北端まで貫く通りで、元々はインディアンの小道であった。 日本語では、マンハッタンにおける東西方向の道(クロスタウン・ストリート)に付けられる名称「Street(ストリート)」を「――丁目」、南北方向の道である「Avenue(アベニュー)」を「――番街」と呼称するのが慣例となっている。有名な5番街 (マンハッタン)は「フィフス・アベニュー」である。ニューヨークに関する著作の多い作家、常盤新平は、次のように述べている。 (マンハッタンの)数字のストリートについては僕は丁目と訳してきた。たとえば、フォーティー・セカンド・ストリートを42丁目と訳せるのが嬉しいのだ。ストリートに対応する『丁目』というのがあるのは素晴らしいことだと思う。(中略)ニューヨークを舞台にした小説を読んでいて、57番ストリートとか、42番ストリートと訳してあるのをみると、とたんにページを閉じてしまいたくなる。 フィフス・アヴェニューは、僕は5番街と書く。パーク・アヴェニューはパーク・アヴェニューで、パーク街と書くことはない。パーク街ではなんだかみすぼらしい感じがする。マディスン・アヴェニューは、マディスン街と書くこともある。 マンハッタン島内で一番大きな数字の通りは、ストリートは220丁目(マーブル・ヒル(英語版)まで含めたマンハッタン区では228丁目)でアベニューは13番街である。当初の1811年委員会計画では115丁目までの予定だったが、後にマンハッタンの北端の220丁目まで格子状道路は拡張された。東から西へ、または南から北へ進むにつれて数字は増えていく。 これらのアベニューの道幅は100フィート (30 m)で、クロスタウン・ストリートの道幅は通常60フィート (18 m)だが、そのうち15は100フィート (30 m)の道幅で作られている。両方向通行の34丁目、42丁目、57丁目や125丁目などがそうで、これらの通りはショップが充実している。クロスタウン・ストリート間のブロックの幅は約200フィート (60 m)で、アベニュー間のブロックの幅は約は800フィート (240 m)である。 マンハッタンの大部分の通りは厳密な格子状に計画的に作られた結果、マンハッタンヘンジ(ストーンヘンジの派生語)と呼ばれる現象を年に二回見ることができる。これは、その東西の通りは真の東西方向から約28.9°傾いているため、夏至を挟んで約20日前後の日は太陽が東西の通りのちょうど中心に沿った地平線に沈むという現象である。マンハッタンヘンジが起きる日没時には、ビルの間をまっすぐ太陽の光が伸びてくるのを目にすることができる。 マンハッタンはその特徴などから、さらに細かく特定のエリア(ネイバーフッド)を指して以下のような名称(愛称)が付けられている。 地区毎の特徴はリンク先項目およびマンハッタンの地区名の一覧を参照のこと。 マンハッタン島内における主要な通りの住所を見つけるにはマンハッタン住所算法が一般に用いられる。これはニューヨーク市の電話帳やガイドブックの他、MTAバスの地図でも用いられている。 ニューヨーク証券取引所やウォール街が代表するように、シティグループやCBS、メットライフやモルガン・スタンレーなどがひしめく、アメリカの経済の中心地であり、アメリカを代表する大企業の本社が多数存在する。メディア、ファッションや広告業界の世界的な中心地のひとつであり、また、芸術面でも大きな影響力を持つと評価されている。 マンハッタンには多くの世界的に有名な美術館や博物館が所在しており、その芸術コレクションは世界有数である。また劇場やコンサートホールなどの文化施設も充実している。 ニューヨークはシカゴとともに1880年頃から1930年頃までに建てられた初期の高層ビルが多く存在する街である。このためマンハッタンでは、ネオゴシック様式、ボザール様式やアールデコ様式といった特徴的な初期の高層建築を近代的なビルとともに見ることができる。クライスラー・ビルディングとエンパイア・ステート・ビルディングはアールデコ様式の代表作であり、リーバ・ハウス、国連本部ビルとシーグラム・ビルディングはインターナショナルスタイルの代表作であるとされる。シカゴのシアーズ・タワーが1973年に完成するまで、世界一高い高層ビルの多くはマンハッタンに建てられたビルであった。 マンハッタン内および周辺エリアの住人の平均収入が高い上、世界各国から観光客が集まるため、これらの高所得層をターゲットにしたデパートやブティック、ショッピングモールが多数存在する。 アメリカの金融、メディアの中心地であるだけでなく、上記のように多数の観光名所があるので、ランドマーク的な最高級ホテルから国際チェーンの大規模ホテル、デザイナーズホテル、長期滞在用の格安ホテルまで揃っている。ビジネス、観光客のいずれもが年間を通じて訪れるので、ホテルの稼働率はきわめて高い。特に高級ホテルは国連総会の期間中の稼働率が高くなる。 マンハッタンは、全米で最も自動車の所有率が低い地域として原油価格の高騰などでも他の地域に比べれば、比較的経済的ショックを受けにくい耐久力を持つと言われる。アメリカの都市では例外的に、公共交通機関が発達している点が理由として指摘される。 マンハッタンの公共交通機関は、MTA (Metropolitan Transportation Authority) が運営する地下鉄とバスが主である。 料金は、地下鉄・バス共に1回2.75ドルの固定運賃製で、1回乗車券のほか、一定金額をプリペイド方式でチャージ可能なペイ・パー・ライド、1日乗車券・期間乗車券・定期券に相当するアンリミッテッド・メトロカード(期間内制限無しに乗車可能)が7日31ドル、30日116.5ドルで販売されている。乗車から2時間以内にされる対向方向以外への乗り換えであれば、追加料金は掛からずに乗換えることができる。 地下鉄・バス共に、ラッシュ時の混雑は余り酷いものではない。朝のラッシュ時でも乗車率は約120%で、身をひしめき合わせるほどではない。その他の時間帯の乗車率はおよそ60%である。タイムズスクエア駅などが比較的大きいが、新宿駅の5分の1程度の大きさである。 地下鉄でのアナウンスは少ない。旧来型の車両の場合、地下鉄の車掌が早口で次の駅名とドアが閉まることを告げるが聞き取りにくことが多い。新しい車両の場合には、録音音声によりアナウンスされ、車内に設置されたディスプレイでの表示と併せ、改善が見られる。地下鉄駅のプラットホームでのアナウンスは例外的で、車両が到着する際の案内はほぼない。また、バスの車内ではアナウンスは原則ない。乗車時に運転手に依頼すれば、特定の目的地に到着した際に教えてはくれる。 マンハッタンには地下鉄が張り巡らされている。地上の交通が交通渋滞によりスムーズでない場合には、一番速い移動手段となることも多い。他区を走る(Gを除く)全ての地下鉄はマンハッタンに通じている。各路線は1・2・3、N・R・Wなどの記番号と路線の色で区別されている。同じ区間を走っている場合でも、ローカル(各駅停車)とエクスプレス(急行)には別の記番号が振られている。例えばRとNは同じ路線を走る各駅停車と急行である。原則として終日運転である。 時刻表はウェブサイトなどに存在するが、駅構内などに掲示はなく、運行上も時刻を意識しているようには見えず、列車の運行頻度を予測するのに役立つ程度である。列車の運転間隔がまちまちになりやすく、時間調整のための長時間停車や、運転間隔を詰めるための停車駅通過などが行われる。これらは随時行われるが、通過運転を開始する際には駅停車中にアナウンスがある。また、ホームに進入してきた列車が警笛を散発的に鳴らしている場合には、停車予定の車両がそのまま通過することが多い。 マンハッタンを南北に走る路線は、南行をDowntown(都心)方面、北行をUptown(郊外)方面と呼称される。マンハッタンを東西に横切る場合や、マンハッタンを離れて走る場合には、Bronx方面などの地区名で指定されることもある。終着駅が明示されることは少なく、従来型の車両では上り下りの表示の区別はされていない。 地下鉄は治安や衛生の点で悪名が高いが、治安や車両の衛生面は近年改善されている。車体・車内への落書きもかなり目立たなくなっている。ただ、駅施設は全般的に古く、汚いことが多い。マンハッタン内では日中に危険を感じる場面は少ないが、深夜・早朝などは利用者の数が少なく、運行本数が減少するため危険な場所であると理解されている。また、死角などになる場合を避けるため、閑散時にはホーム中心部などの指定場所にて待つことが推奨されている。ターミナルなどの大きな駅を除けば、公共用のトイレはほぼ設置されていない。 地下鉄の車両は、徐々に更新されており比較的新しい車両が多い路線もある。従来型の車両は非常に古く、汚れていることも多い。イスは全てプラスチック製でクッションはなく、手すりはあるがつり革はない。冷暖房が壊れていることも多くある。ドアの開閉は無造作で無理やり閉じるドアに身体をこじ入れる駆け込み乗車も見られる。車掌はほぼ中央の車両に乗っている。 エレベーターが未だ設置されていない駅も多い為、車椅子の乗客が階段の上、または下にいる場合、1番近くにいる男性客4人が手助けをすることが規範であるとされ、進んで実践する人々も多い。 アメリカの多くの都市におけるバスは自家用車を所有できない貧困層や学生、新住居者の移動手段であることが多いが、例外的にマンハッタンでは一般住民や旅行者にも広く使われる公共交通となっている。地上を走っているため明るく、比較的安全な乗り物と考えられている。車両は標準的な車両が用いられており、比較的古いものではないことが多い。 地下鉄同様に24時間運行され、全てのバスが障害者・高齢者や車椅子のための昇降機を備えている。 必ず、車椅子の乗客を最初に乗降させる決まりがあり、運転手が車椅子の乗客の乗降をサポートする(車椅子用乗降エレベーターは後部ドアに設置)。盲目者の乗客が停留所にいる場合、盲目者に合わせて停車する。 地下鉄と共通のプリペイドカードを使用でき、相互の乗り換えも可能な場合がある。マンハッタン内部では短い間隔で停留所が設置されているが、停留所名は一般になく案内する車内アナウンスもない。馴れていない場所などでは、乗車中も自ら現在地を把握している必要がある。 中心部などでは、交通渋滞や路上駐車などが原因で、慢性的に交通の流れが悪い箇所が多数あるため、時間帯などによっては、極端に時間を要するルートもある。 エクスプレスというバスが運行しており、地下鉄が通じていないスタテンアイランド区などとを往復している。観光バスのようなバスでの運行が多いが、乗車料金が5ドルで、アンリミテッド・カードは使用できない。地下鉄が運休などをした時には振替バスが走る時がある。 ニューヨークを特徴付ける黄色の車両のタクシーは、中心部の日中であれば、相当の台数が走っており、街角で空車を見つけて利用することも容易である。夕刻の劇場周辺や雨天時など、多くの人間が集まるエリアや状況、時間帯には極端に空車が少なくなることも多い。慢性的に交通渋滞や混雑が発生しているので、所要時間を読みにくいが、ドア・ツー・ドアで滞在地から目的地まで車で移動できるため地下鉄・バスに比べ安全性は高い。 日本でのタクシー料金に比べて運賃は割安である。料金は初乗りが2.50ドル。その後は5分の1マイル (321 m) ごとに40セントが追加され、低速で走行している場合には時間制として60秒に40セント追加される。深夜料金は50セント割り増しのほか、平日夕方のラッシュ時には追加料金として1ドルが請求される。橋、トンネルや高速道路の料金は別途請求される。また、チップとして一般に運賃の10〜20%を追加して支払う。通常は「Keep your change(おつりは取っておいて)」と言って、お釣りがないようにして支払うケースが多い。100ドルなどの高額紙幣での支払いは、運賃が高額でお釣りが少ない場合などを除き拒絶されることも多い。 マンハッタン以外の他区や、マンハッタンでも治安が悪い場所にはほとんど走っていない。屋根の上のタクシーの番号を示す部分のランプが付いているのが空車だが、OFF DUTYのランプも点灯している場合は回送である。ドアは自分で開閉する。人数や行き先などで公然と乗車拒否されることも珍しくないが、チップの交渉により乗車できる場合もある。目的地がニューアーク空港などの州外になる場合には、州外の営業が禁止されているため帰りの費用相当として二倍の運賃を求められることもある(この場合、州外へ出る橋やトンネルまでの分は無関係であるため、そこまでの料金を確認する習慣がある)。 タクシーの運転手は70%強が移民1世であるといわれ、あまり英語がきれいでない場合も多い。「16」と「60」(「シックスティーン」と「シクスティ」)のように紛らわしい言葉は、「ワン・シックス」、「シックス・ゼロ」などと確認したほうが無難である。また、観光客だけでなく地元民にとってさえ著名な建物やホテル名などを目的地として告げても理解されないことも多く、中心部であれば番街と丁目で指定し、それ以外であれば道路名と番地に加え、大まかな位置は指示できるようにしておく必要がある。紙に番地を書いて見せたり、地図を指したりすればより間違いない。 日本のタクシーとサービス面で大きく異なるのは、乗車拒否が日常的にあることである。特に深夜などに顕著であり、運転手は車を止め窓だけを開けて、目的地を客に尋ねる。そして、目的地がマンハッタン以外や治安の悪い場所の場合「No!」といってそのまま走り去ることがある。ニュージャージー州などには深夜は100%乗車拒否されるといっても過言ではないため、滞在地がマンハッタンでない場合は、深夜の交通手段は、他の帰宅方法を用意しておく必要がある。 2007年末よりカーナビを搭載した車両が出始め、後部座席で現在地の確認、ニュースなど複数の情報が見られるディスプレイが設置された。数年後には全てのタクシーに設置する予定である。しかし現在カーナビを搭載していない車両も多く、ニューヨークのタクシードライバーは近年の東京の新人ドライバーと比べても劣るほど道を知らない為、利用者も最低限の道案内をできるようにしたほうがよい。 空港などでは、正式な認可を受けていないジプシーキャブ(白タク)といわれる違法タクシーが客引きがトラブルの原因と考えられている。正式な認可を受けたタクシーは全て黄色に塗装されている。正式なタクシーの場合でもメーターが正常に作動しているかを確認すべきであり、運転手がメーターの不作動や遠回りなどの違法行為を行った際は登録番号を控え通報することで対応をしてもらうことができる。 マンハッタンでの自家用車の保有率はアメリカで最も低いが、面積が狭く人口密度が高いため、交通量は多い。車両は右側通行である。マンハッタン内の道路の多くは一方通行であり、対面通行は一部の比較的大きな通りに限られる。アメリカでの一般とは異なり、マンハッタン内では赤信号時の右折は禁止されている。 警察官による駐車違反の取り締まりは厳しい。また、「トラフィック・ポリス」という警官がおり、交差点で笛を吹き自動車を誘導する。信号機が動作していても、渋滞緩和のため、時間帯によって交通量の多い車線を信号が赤であっても通行させて交通の流れを向上させる役割を担う。 短期滞在なら国際運転免許証と他国の免許証により自動車を運転することが認められるが、ニューヨーク市で車を所有するにはニューヨーク州の免許が必要となり、アメリカのいくつかの州と同じく他州の免許証を保持していても認められない。他州の免許からの書き換え以外は、他国の免許からの書換えであっても新規取得と全く同じ手続きや講習が必要である。 バイクの数が非常に少ない。理由は、盗難に遭いやすいこと、強盗などから運転者の保護がなされないこと、マンハッタンの交通事情から危険であることなどが挙げられる。そのほかには、アメリカではバイクは日常的な乗り物ではなく、娯楽的な乗り物の扱いであることなども考えられる。 マンハッタンは南北に長く東西に短い島のため、東西への移動距離は少ないので、東西に走るクロスタウン・トラフィックは基本的に道幅が狭い。東西方向の高速道路はトランス・マンハッタン高速道路(英語版)のみで、過去に持ち上がったミッド・マンハッタン高速道路(英語版)とロウワー・マンハッタン高速道路(英語版)の計画は破棄された。 近年、マンハッタン内の道路脇に自転車道の整備が進んできている。 マンハッタン島の東、イースト川を越えた土地は、クイーンズ、ブルックリンなどを含む東京都程の東西に伸びる細長く大きな島ロングアイランドである。その島を走る鉄道がロングアイランド鉄道である。 ロングアイランドにはニューヨーカーに人気のジョーンズビーチなどがあり、彼らの気軽な海水浴、ピクニックの場所となっている他、ロングアイランド鉄道は毎日740本の運行本数と26万人にも上る乗客数で通勤としても使用されている全米最大の鉄道である。 マンハッタンからの乗車は7番ストリート&33丁目のペンシルベニア駅(通称「ペンステーション」)から乗車できる。この駅は他の電車も発着しているが、名前の頭文字をとったLIRRという電車に乗る。地下鉄の駅と接続されているが、地下鉄が汚く古い駅なのに対し、ペン駅は近年改装を終えたばかりの非常に綺麗で清潔な場所である。しかしトイレの汚さは想像を絶するものがある。 切符は駅の窓口のほか電車内でも購入できるが、窓口が開いている時間は3ドル割り増しになる。地下鉄と違い料金は行き先によって異なる。ラッシュアワー(平日午前6〜10時・午後4〜8時)以外のOFF PEAKチケットは30%割引になる。5〜11歳は半額。65歳以上は各種割引がある。 グランドセントラル駅から発着しており、NY州アップステイト、コネティカット州、マサチューセッツ州など北方に向かう鉄道である。 Harlem Line Hudson Line New Heaven Line ニュージャージー州はマンハッタンの真隣にある州であり、そこからの通勤者、通学者も非常に多いが、ニューヨークとは州が違うため、ニューヨーク市地下鉄は通っていない。そのため、ハドソン川を越える交通機関がある。 PATH鉄道 (Port Authority Trans-Hudson) ニュージャージー交通 (New Jersey Transit) バス フェリー マンハッタンの南、自由の女神が立つリバティ島のさらに南にニューヨーク市のスタテンアイランド区がある。アメリカならではの住宅街が広がる完全な島であり、マンハッタンとを結ぶ橋・トンネルはなくブルックリンに巨大な橋が架かっているのみである。スタテンアイランド・フェリーは全て無料。マンハッタンの夜景や自由の女神を横切って走るフェリーはニューヨーカー達のビュースポットでもある。2〜3台運行しており、20分間隔程で往復している。 同島に陸路で行くルート例としては、地下鉄でブルックリンまで行き、そこからバスで橋を渡る。 イースト川のピア6にあるマンハッタンの公営ヘリポート(ダウンタウン・マンハッタン・ヘリポート)と、ニュージャージー州のニューアーク国際空港との間をヘリコプターシャトルが8-10分で結んでいる。 マンハッタン区の教育は多くの公立および私立の機関によって行われている。区内の公立学校は、アメリカで最も大きな公立学校システムであるニューヨーク市教育局によって実施されている。チャーター・スクールにはハーレム・サクセス・アカデミー(英語版)やガールズ・プレップ(英語版)がある。また、2011年時点ではノーベル賞受賞者の輩出数が世界一多いコロンビア大学を始め、その他大学がマンハッタン区に校舎を構えている。 主な教育機関
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マンハッタン(Manhattan、英語発音: [mænˈhætn])は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市の地区。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ハドソン川河口部の中州であるマンハッタン島 (Manhattan Island)、あるいは、マンハッタン島が大部分を占めるマンハッタン区 (Manhattan Borough) のことである。ニューヨーク州のニューヨーク郡 (New York County) の郡域もマンハッタン区と同じである。マンハッタンはニューヨーク市の中心街とされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ニューヨーク州の行政上の州都はニューヨーク市の北233キロメートルにあるオールバニに置かれているが、アメリカ最大の都市圏人口を背景にした経済・文化面の影響力により、ウォール街を擁するニューヨーク市のマンハッタンがニューヨーク州の中心であるといえる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ニューヨーク市を構成する5つの行政区の1つであり、ニューヨーク市役所の所在地である。他の4区はクイーンズ区・ブルックリン区・ブロンクス区・スタテンアイランド区である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "5番街やタイムズスクエアなどの繁華街があり、世界中からの観光客をひきつけている他、世界を代表する金融街の一つであるウォール街がある。また国連本部はマンハッタン島に置かれているが、この土地は全加盟国で共有する国際領土となっている。一般的に「ニューヨーク」と言えば、ニューヨーク州ではなく、ニューヨーク市とりわけマンハッタンを意味することが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "マンハッタンはアメリカ最大の都市圏人口を持つニューヨーク市(約800万人)の中心であり人口は約160万人と推定されている。イタリア系やユダヤ系、中国系、プエルトリコ系など多くの人種が混在する街であり、地域ごとに異なった文化が形成されている。また、「人種のるつぼ」「ビッグ・アップル」などと称される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "またニューヨークではシカゴとともに19世紀後半から世界に先駆けて高層ビルの建設が始まり、マンハッタンには多数の超高層ビルが密集している。これらは『摩天楼』と呼ばれ、象徴的なマンハッタンの景観を形成している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "マンハッタン区は、マンハッタン島と小さな諸島(ルーズベルト島、ガバナーズ島、エリス島、ランドールズ島、ワーズ島、ミル・ロック、ウ・タント島)、そして北米大陸のごく一部地域(マーブル・ヒル(英語版))からなる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "マンハッタン島は、西をハドソン川、東をイースト川とハーレム川、北をスパイテン・ダイヴィル川(およびハーレム川運河)、南をアッパー・ニューヨーク湾によって囲まれている。幅は約4 km、長さ約20 kmで、ほぼ南北方向に細長い形状をしている。面積は58.8 kmで、東京の山手線の内側(約64 km)にほぼ相当する。ブロンクスに隣接するマーブル・ヒル(英語版)もかつてはマンハッタン島の一部であったが、スパイテン・ダイヴィル川の付け替えにより現在はマンハッタン島から分離している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "マンハッタン島は1枚の岩盤から構成されており、島の大部分を構成している基盤岩はマンハッタン片岩 (Manhattan Schist) と呼ばれる雲母の結晶片岩である。この岩は強度が高く、その構成成分の変成岩はパンゲア大陸が形成された過程で作られた。この岩盤上は高層ビルの建設に適しており、ダウンタウンとミッドタウンの表面はこの岩石に富んでいるためこれらのエリアには高層ビルが多く建ち並んでいる。セントラルパークにはマンハッタン片岩の露頭があり、ラット・ロック(英語版)はその一例である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "地形は沿岸部に向かって極緩い傾斜があるほか、ダウンタウンからアップタウンに向けては緩やかに上る地形となっている。これはコロンビア大学付近を頂上とし、モーニングサイド・ハイツなどの高所を抜けると北に向けて大きく下がり125丁目が谷間となる。そこから北は再び高度は上がり、マンハッタン北部のインウッドまで高台が続く。埋め立ては、沿岸の埠頭部分などに限られている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ルーズベルト島は、マンハッタン島の東を流れるイースト川の中州であり、南北に細長い島である。その先はクイーンズ区となる。ニューヨーク市地下鉄の駅があり、マンハッタン島とはルーズベルト・アイランド・トラムウェイ(ロープウェイ)でも結ばれている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ガバナーズ島はマンハッタン島の南のニューヨーク湾にある。かつては、マンハッタン島の至近距離にありながら、沿岸警備隊の中枢施設があり公共輸送機関はなかった。しかし、2003年1月に国から州および市へ1ドルで売却され、一般に開放されて、現在ではマンハッタン島南端のバッテリー・パークからフェリーが運航されている。イギリス植民地時代の総督の保養地であり、独立戦争では対英軍のための要塞、南北戦争では南軍の捕虜収容所となった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "エリス島は、マンハッタン島の南西部ハドソン川河口付近にあり、移民博物館となっている。こちらへもバッテリー・パークからフェリーが運航されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "いずれの島も、マンハッタン島との間の橋はない。ルーズベルト島は、クイーンズに繋がる橋がある。橋の数が少ないのは意図的なものでマンハッタンからの経済流出を防ぐためである。そのため、マンハッタン区とその他のニューヨーク市区域の光景は大きく異なる。東側のイースト川には、クイーンズ/ブルックリン地区と結ぶ5本の橋が、ハーレム川には15本の橋が架かっている。また、地下鉄の線路が7本走る。これに対しニュージャージー州(西側・ハドソン川)には橋が1本、道路トンネルが2箇所、鉄道トンネルが2本通っているのみである。これは、イースト川は市内を流れる川であるのに対し、ハドソン川は州を区切る川であることによる。合衆国において、州が独立性の高い構成単位であることを示していると言われる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "Manhattanの名はインディアン部族のデラウェア(レナペ)語の「丘の多い島」を意味する \"Mannahate\"、\"Manna-hata\" に由来するとされる。一方、レナペ族は宣教師のジョン・ヘッケウェルダーに、\"Manahachtanienk\"(マナハクタニエンク)から来たと説明している。これは「我々がみな、酔っぱらいにされた島」という意味である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "緯度としては日本の青森県に位置し、やや冷涼な気候ではあるが、区分上は温帯気候である。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ハリケーンの進路に当たることもあるが、大西洋岸を北上する途中で勢力を弱めることが多い。夏場には夕立が多い。梅雨がないので降雨量は日本に比べ少ない。冬場の冷え込みは厳しいが、降雪はそれほど多くない。降った場合でも街の熱と除雪により直ぐに除去される。気温は日中でも摂氏マイナス10〜15度ほどになる。沿岸都市のため、海から吹く風が強い日が秋を中心に見られ、体感温度を下げる。湿度は比較的低い。都市部特有のヒートアイランド現象の影響がある。秋・冬は北方からの冷たい空気、夏は大西洋南方からの暖かい空気により気温の変化がもたらされる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "以下はマンハッタンの人種別の人口構成。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "マンハッタンは宗教的に多様である。 2000年に最大の宗教的所属はカトリック教会で、564,505人の支持者(人口の36%以上)で、110の会衆を維持していた。 ユダヤ人は、102の会衆で314,500人(20.5%)の2番目に大きい宗教グループを構成した。3番目はプロテスタント、139,732人のフォロワー(9.1%)、4番目はイスラム教徒、37,078(2.4%)である。 ヒンズー教、無神論および無宗教を含む他の宗教的所属が、残りの大半を構成した。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2010年時点で、5歳以上のマンハッタン居住者の59.98%(902,267人)は自宅で英語のみを話し、23.07%(347,033人)スペイン語、5.33%(80,240人)中国語、2.03%(30,567人)フランス語、0.78%(11,776人)日本語 、0.77%(11,517人)ロシア語、0.72%(10,788人)韓国語、0.70%(10,496人)ドイツ語、0.66%(9,868人)イタリア語、0.64%(9,555人)ヘブライ語、0.48%(7,158人)自宅でアフリカ言語を話している。 合計で、5歳以上のマンハッタンの人口の40.02%(602,058人)は、自宅で英語以外の言語を話した。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ニューヨーク州はアメリカ建国13州のうちの11番目の州である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "もともとこの地には、レナペ族(デラウェア族)、ワッピンガー族などのインディアン部族がウィグワムによる移動型集落を形成し、トウモロコシや豆、カボチャなどを栽培し、狩猟採集の生活を営んでいた。領土的にはレナペ族がほぼ独占していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "(2)タイムワーナーセンター (3)en:220 Central Park South (4)セントラル・パーク・タワー (5)ワン 57 (6)432 パーク・アベニュー (7)en:53W53 (8)クライスラー・ビルディング (9)バンク・オブ・アメリカ・タワー (10)4 タイムズスクエア (11)ニューヨーク・タイムズ・ビルディング (12)エンパイア・ステート・ビルディング (13)マンハッタン・ウエスト (14)A: en:55 Hudson Yards、B: en:35 Hudson Yards、C: 10 ハドソン・ヤード D: en:15 Hudson Yards (15)56 レオナード・ストリート (16)8 スプルース・ストリート (17)ウールワース・ビルディング (18)アメリカン・インターナショナル・ビルディング (19)30 パーク・プレイス (20)40 ウォール・ストリート (21)3 ワールドトレードセンター (22)4 ワールドトレードセンター (23)1 ワールドトレードセンター", "title": "マンハッタンのスカイライン" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "地図上の南北をあらわす向きから、マンハッタン島内の最南端ロウアーマンハッタンを中心に「ダウンタウン」と呼び、北側を「ミッドタウン」および「アップタウン」と呼ぶ。ニューヨーク市地下鉄などの交通機関での行先・方面表示にもダウンタウン・アップタウンの表記が使われる。一方、マンハッタン島内の東西に走るバスや地下鉄などは「クロスタウン(英語版)」とよばれる。ブロードウェイはマンハッタン島の最南端から最北端まで貫く通りで、元々はインディアンの小道であった。", "title": "地区" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本語では、マンハッタンにおける東西方向の道(クロスタウン・ストリート)に付けられる名称「Street(ストリート)」を「――丁目」、南北方向の道である「Avenue(アベニュー)」を「――番街」と呼称するのが慣例となっている。有名な5番街 (マンハッタン)は「フィフス・アベニュー」である。ニューヨークに関する著作の多い作家、常盤新平は、次のように述べている。", "title": "地区" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "(マンハッタンの)数字のストリートについては僕は丁目と訳してきた。たとえば、フォーティー・セカンド・ストリートを42丁目と訳せるのが嬉しいのだ。ストリートに対応する『丁目』というのがあるのは素晴らしいことだと思う。(中略)ニューヨークを舞台にした小説を読んでいて、57番ストリートとか、42番ストリートと訳してあるのをみると、とたんにページを閉じてしまいたくなる。", "title": "地区" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "フィフス・アヴェニューは、僕は5番街と書く。パーク・アヴェニューはパーク・アヴェニューで、パーク街と書くことはない。パーク街ではなんだかみすぼらしい感じがする。マディスン・アヴェニューは、マディスン街と書くこともある。", "title": "地区" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "マンハッタン島内で一番大きな数字の通りは、ストリートは220丁目(マーブル・ヒル(英語版)まで含めたマンハッタン区では228丁目)でアベニューは13番街である。当初の1811年委員会計画では115丁目までの予定だったが、後にマンハッタンの北端の220丁目まで格子状道路は拡張された。東から西へ、または南から北へ進むにつれて数字は増えていく。", "title": "地区" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "これらのアベニューの道幅は100フィート (30 m)で、クロスタウン・ストリートの道幅は通常60フィート (18 m)だが、そのうち15は100フィート (30 m)の道幅で作られている。両方向通行の34丁目、42丁目、57丁目や125丁目などがそうで、これらの通りはショップが充実している。クロスタウン・ストリート間のブロックの幅は約200フィート (60 m)で、アベニュー間のブロックの幅は約は800フィート (240 m)である。", "title": "地区" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "マンハッタンの大部分の通りは厳密な格子状に計画的に作られた結果、マンハッタンヘンジ(ストーンヘンジの派生語)と呼ばれる現象を年に二回見ることができる。これは、その東西の通りは真の東西方向から約28.9°傾いているため、夏至を挟んで約20日前後の日は太陽が東西の通りのちょうど中心に沿った地平線に沈むという現象である。マンハッタンヘンジが起きる日没時には、ビルの間をまっすぐ太陽の光が伸びてくるのを目にすることができる。", "title": "地区" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "マンハッタンはその特徴などから、さらに細かく特定のエリア(ネイバーフッド)を指して以下のような名称(愛称)が付けられている。 地区毎の特徴はリンク先項目およびマンハッタンの地区名の一覧を参照のこと。", "title": "地区" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "マンハッタン島内における主要な通りの住所を見つけるにはマンハッタン住所算法が一般に用いられる。これはニューヨーク市の電話帳やガイドブックの他、MTAバスの地図でも用いられている。", "title": "地区" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ニューヨーク証券取引所やウォール街が代表するように、シティグループやCBS、メットライフやモルガン・スタンレーなどがひしめく、アメリカの経済の中心地であり、アメリカを代表する大企業の本社が多数存在する。メディア、ファッションや広告業界の世界的な中心地のひとつであり、また、芸術面でも大きな影響力を持つと評価されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "マンハッタンには多くの世界的に有名な美術館や博物館が所在しており、その芸術コレクションは世界有数である。また劇場やコンサートホールなどの文化施設も充実している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ニューヨークはシカゴとともに1880年頃から1930年頃までに建てられた初期の高層ビルが多く存在する街である。このためマンハッタンでは、ネオゴシック様式、ボザール様式やアールデコ様式といった特徴的な初期の高層建築を近代的なビルとともに見ることができる。クライスラー・ビルディングとエンパイア・ステート・ビルディングはアールデコ様式の代表作であり、リーバ・ハウス、国連本部ビルとシーグラム・ビルディングはインターナショナルスタイルの代表作であるとされる。シカゴのシアーズ・タワーが1973年に完成するまで、世界一高い高層ビルの多くはマンハッタンに建てられたビルであった。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "マンハッタン内および周辺エリアの住人の平均収入が高い上、世界各国から観光客が集まるため、これらの高所得層をターゲットにしたデパートやブティック、ショッピングモールが多数存在する。", "title": "ショッピング" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アメリカの金融、メディアの中心地であるだけでなく、上記のように多数の観光名所があるので、ランドマーク的な最高級ホテルから国際チェーンの大規模ホテル、デザイナーズホテル、長期滞在用の格安ホテルまで揃っている。ビジネス、観光客のいずれもが年間を通じて訪れるので、ホテルの稼働率はきわめて高い。特に高級ホテルは国連総会の期間中の稼働率が高くなる。", "title": "ホテル" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "マンハッタンは、全米で最も自動車の所有率が低い地域として原油価格の高騰などでも他の地域に比べれば、比較的経済的ショックを受けにくい耐久力を持つと言われる。アメリカの都市では例外的に、公共交通機関が発達している点が理由として指摘される。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "マンハッタンの公共交通機関は、MTA (Metropolitan Transportation Authority) が運営する地下鉄とバスが主である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "料金は、地下鉄・バス共に1回2.75ドルの固定運賃製で、1回乗車券のほか、一定金額をプリペイド方式でチャージ可能なペイ・パー・ライド、1日乗車券・期間乗車券・定期券に相当するアンリミッテッド・メトロカード(期間内制限無しに乗車可能)が7日31ドル、30日116.5ドルで販売されている。乗車から2時間以内にされる対向方向以外への乗り換えであれば、追加料金は掛からずに乗換えることができる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "地下鉄・バス共に、ラッシュ時の混雑は余り酷いものではない。朝のラッシュ時でも乗車率は約120%で、身をひしめき合わせるほどではない。その他の時間帯の乗車率はおよそ60%である。タイムズスクエア駅などが比較的大きいが、新宿駅の5分の1程度の大きさである。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "地下鉄でのアナウンスは少ない。旧来型の車両の場合、地下鉄の車掌が早口で次の駅名とドアが閉まることを告げるが聞き取りにくことが多い。新しい車両の場合には、録音音声によりアナウンスされ、車内に設置されたディスプレイでの表示と併せ、改善が見られる。地下鉄駅のプラットホームでのアナウンスは例外的で、車両が到着する際の案内はほぼない。また、バスの車内ではアナウンスは原則ない。乗車時に運転手に依頼すれば、特定の目的地に到着した際に教えてはくれる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "マンハッタンには地下鉄が張り巡らされている。地上の交通が交通渋滞によりスムーズでない場合には、一番速い移動手段となることも多い。他区を走る(Gを除く)全ての地下鉄はマンハッタンに通じている。各路線は1・2・3、N・R・Wなどの記番号と路線の色で区別されている。同じ区間を走っている場合でも、ローカル(各駅停車)とエクスプレス(急行)には別の記番号が振られている。例えばRとNは同じ路線を走る各駅停車と急行である。原則として終日運転である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "時刻表はウェブサイトなどに存在するが、駅構内などに掲示はなく、運行上も時刻を意識しているようには見えず、列車の運行頻度を予測するのに役立つ程度である。列車の運転間隔がまちまちになりやすく、時間調整のための長時間停車や、運転間隔を詰めるための停車駅通過などが行われる。これらは随時行われるが、通過運転を開始する際には駅停車中にアナウンスがある。また、ホームに進入してきた列車が警笛を散発的に鳴らしている場合には、停車予定の車両がそのまま通過することが多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "マンハッタンを南北に走る路線は、南行をDowntown(都心)方面、北行をUptown(郊外)方面と呼称される。マンハッタンを東西に横切る場合や、マンハッタンを離れて走る場合には、Bronx方面などの地区名で指定されることもある。終着駅が明示されることは少なく、従来型の車両では上り下りの表示の区別はされていない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "地下鉄は治安や衛生の点で悪名が高いが、治安や車両の衛生面は近年改善されている。車体・車内への落書きもかなり目立たなくなっている。ただ、駅施設は全般的に古く、汚いことが多い。マンハッタン内では日中に危険を感じる場面は少ないが、深夜・早朝などは利用者の数が少なく、運行本数が減少するため危険な場所であると理解されている。また、死角などになる場合を避けるため、閑散時にはホーム中心部などの指定場所にて待つことが推奨されている。ターミナルなどの大きな駅を除けば、公共用のトイレはほぼ設置されていない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "地下鉄の車両は、徐々に更新されており比較的新しい車両が多い路線もある。従来型の車両は非常に古く、汚れていることも多い。イスは全てプラスチック製でクッションはなく、手すりはあるがつり革はない。冷暖房が壊れていることも多くある。ドアの開閉は無造作で無理やり閉じるドアに身体をこじ入れる駆け込み乗車も見られる。車掌はほぼ中央の車両に乗っている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "エレベーターが未だ設置されていない駅も多い為、車椅子の乗客が階段の上、または下にいる場合、1番近くにいる男性客4人が手助けをすることが規範であるとされ、進んで実践する人々も多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アメリカの多くの都市におけるバスは自家用車を所有できない貧困層や学生、新住居者の移動手段であることが多いが、例外的にマンハッタンでは一般住民や旅行者にも広く使われる公共交通となっている。地上を走っているため明るく、比較的安全な乗り物と考えられている。車両は標準的な車両が用いられており、比較的古いものではないことが多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "地下鉄同様に24時間運行され、全てのバスが障害者・高齢者や車椅子のための昇降機を備えている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "必ず、車椅子の乗客を最初に乗降させる決まりがあり、運転手が車椅子の乗客の乗降をサポートする(車椅子用乗降エレベーターは後部ドアに設置)。盲目者の乗客が停留所にいる場合、盲目者に合わせて停車する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "地下鉄と共通のプリペイドカードを使用でき、相互の乗り換えも可能な場合がある。マンハッタン内部では短い間隔で停留所が設置されているが、停留所名は一般になく案内する車内アナウンスもない。馴れていない場所などでは、乗車中も自ら現在地を把握している必要がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "中心部などでは、交通渋滞や路上駐車などが原因で、慢性的に交通の流れが悪い箇所が多数あるため、時間帯などによっては、極端に時間を要するルートもある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "エクスプレスというバスが運行しており、地下鉄が通じていないスタテンアイランド区などとを往復している。観光バスのようなバスでの運行が多いが、乗車料金が5ドルで、アンリミテッド・カードは使用できない。地下鉄が運休などをした時には振替バスが走る時がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ニューヨークを特徴付ける黄色の車両のタクシーは、中心部の日中であれば、相当の台数が走っており、街角で空車を見つけて利用することも容易である。夕刻の劇場周辺や雨天時など、多くの人間が集まるエリアや状況、時間帯には極端に空車が少なくなることも多い。慢性的に交通渋滞や混雑が発生しているので、所要時間を読みにくいが、ドア・ツー・ドアで滞在地から目的地まで車で移動できるため地下鉄・バスに比べ安全性は高い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "日本でのタクシー料金に比べて運賃は割安である。料金は初乗りが2.50ドル。その後は5分の1マイル (321 m) ごとに40セントが追加され、低速で走行している場合には時間制として60秒に40セント追加される。深夜料金は50セント割り増しのほか、平日夕方のラッシュ時には追加料金として1ドルが請求される。橋、トンネルや高速道路の料金は別途請求される。また、チップとして一般に運賃の10〜20%を追加して支払う。通常は「Keep your change(おつりは取っておいて)」と言って、お釣りがないようにして支払うケースが多い。100ドルなどの高額紙幣での支払いは、運賃が高額でお釣りが少ない場合などを除き拒絶されることも多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "マンハッタン以外の他区や、マンハッタンでも治安が悪い場所にはほとんど走っていない。屋根の上のタクシーの番号を示す部分のランプが付いているのが空車だが、OFF DUTYのランプも点灯している場合は回送である。ドアは自分で開閉する。人数や行き先などで公然と乗車拒否されることも珍しくないが、チップの交渉により乗車できる場合もある。目的地がニューアーク空港などの州外になる場合には、州外の営業が禁止されているため帰りの費用相当として二倍の運賃を求められることもある(この場合、州外へ出る橋やトンネルまでの分は無関係であるため、そこまでの料金を確認する習慣がある)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "タクシーの運転手は70%強が移民1世であるといわれ、あまり英語がきれいでない場合も多い。「16」と「60」(「シックスティーン」と「シクスティ」)のように紛らわしい言葉は、「ワン・シックス」、「シックス・ゼロ」などと確認したほうが無難である。また、観光客だけでなく地元民にとってさえ著名な建物やホテル名などを目的地として告げても理解されないことも多く、中心部であれば番街と丁目で指定し、それ以外であれば道路名と番地に加え、大まかな位置は指示できるようにしておく必要がある。紙に番地を書いて見せたり、地図を指したりすればより間違いない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本のタクシーとサービス面で大きく異なるのは、乗車拒否が日常的にあることである。特に深夜などに顕著であり、運転手は車を止め窓だけを開けて、目的地を客に尋ねる。そして、目的地がマンハッタン以外や治安の悪い場所の場合「No!」といってそのまま走り去ることがある。ニュージャージー州などには深夜は100%乗車拒否されるといっても過言ではないため、滞在地がマンハッタンでない場合は、深夜の交通手段は、他の帰宅方法を用意しておく必要がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2007年末よりカーナビを搭載した車両が出始め、後部座席で現在地の確認、ニュースなど複数の情報が見られるディスプレイが設置された。数年後には全てのタクシーに設置する予定である。しかし現在カーナビを搭載していない車両も多く、ニューヨークのタクシードライバーは近年の東京の新人ドライバーと比べても劣るほど道を知らない為、利用者も最低限の道案内をできるようにしたほうがよい。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "空港などでは、正式な認可を受けていないジプシーキャブ(白タク)といわれる違法タクシーが客引きがトラブルの原因と考えられている。正式な認可を受けたタクシーは全て黄色に塗装されている。正式なタクシーの場合でもメーターが正常に作動しているかを確認すべきであり、運転手がメーターの不作動や遠回りなどの違法行為を行った際は登録番号を控え通報することで対応をしてもらうことができる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "マンハッタンでの自家用車の保有率はアメリカで最も低いが、面積が狭く人口密度が高いため、交通量は多い。車両は右側通行である。マンハッタン内の道路の多くは一方通行であり、対面通行は一部の比較的大きな通りに限られる。アメリカでの一般とは異なり、マンハッタン内では赤信号時の右折は禁止されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "警察官による駐車違反の取り締まりは厳しい。また、「トラフィック・ポリス」という警官がおり、交差点で笛を吹き自動車を誘導する。信号機が動作していても、渋滞緩和のため、時間帯によって交通量の多い車線を信号が赤であっても通行させて交通の流れを向上させる役割を担う。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "短期滞在なら国際運転免許証と他国の免許証により自動車を運転することが認められるが、ニューヨーク市で車を所有するにはニューヨーク州の免許が必要となり、アメリカのいくつかの州と同じく他州の免許証を保持していても認められない。他州の免許からの書き換え以外は、他国の免許からの書換えであっても新規取得と全く同じ手続きや講習が必要である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "バイクの数が非常に少ない。理由は、盗難に遭いやすいこと、強盗などから運転者の保護がなされないこと、マンハッタンの交通事情から危険であることなどが挙げられる。そのほかには、アメリカではバイクは日常的な乗り物ではなく、娯楽的な乗り物の扱いであることなども考えられる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "マンハッタンは南北に長く東西に短い島のため、東西への移動距離は少ないので、東西に走るクロスタウン・トラフィックは基本的に道幅が狭い。東西方向の高速道路はトランス・マンハッタン高速道路(英語版)のみで、過去に持ち上がったミッド・マンハッタン高速道路(英語版)とロウワー・マンハッタン高速道路(英語版)の計画は破棄された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "近年、マンハッタン内の道路脇に自転車道の整備が進んできている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "マンハッタン島の東、イースト川を越えた土地は、クイーンズ、ブルックリンなどを含む東京都程の東西に伸びる細長く大きな島ロングアイランドである。その島を走る鉄道がロングアイランド鉄道である。", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ロングアイランドにはニューヨーカーに人気のジョーンズビーチなどがあり、彼らの気軽な海水浴、ピクニックの場所となっている他、ロングアイランド鉄道は毎日740本の運行本数と26万人にも上る乗客数で通勤としても使用されている全米最大の鉄道である。", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "マンハッタンからの乗車は7番ストリート&33丁目のペンシルベニア駅(通称「ペンステーション」)から乗車できる。この駅は他の電車も発着しているが、名前の頭文字をとったLIRRという電車に乗る。地下鉄の駅と接続されているが、地下鉄が汚く古い駅なのに対し、ペン駅は近年改装を終えたばかりの非常に綺麗で清潔な場所である。しかしトイレの汚さは想像を絶するものがある。", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "切符は駅の窓口のほか電車内でも購入できるが、窓口が開いている時間は3ドル割り増しになる。地下鉄と違い料金は行き先によって異なる。ラッシュアワー(平日午前6〜10時・午後4〜8時)以外のOFF PEAKチケットは30%割引になる。5〜11歳は半額。65歳以上は各種割引がある。", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "グランドセントラル駅から発着しており、NY州アップステイト、コネティカット州、マサチューセッツ州など北方に向かう鉄道である。", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "Harlem Line", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "Hudson Line", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "New Heaven Line", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ニュージャージー州はマンハッタンの真隣にある州であり、そこからの通勤者、通学者も非常に多いが、ニューヨークとは州が違うため、ニューヨーク市地下鉄は通っていない。そのため、ハドソン川を越える交通機関がある。", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "PATH鉄道 (Port Authority Trans-Hudson)", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ニュージャージー交通 (New Jersey Transit)", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "バス", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "フェリー", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "マンハッタンの南、自由の女神が立つリバティ島のさらに南にニューヨーク市のスタテンアイランド区がある。アメリカならではの住宅街が広がる完全な島であり、マンハッタンとを結ぶ橋・トンネルはなくブルックリンに巨大な橋が架かっているのみである。スタテンアイランド・フェリーは全て無料。マンハッタンの夜景や自由の女神を横切って走るフェリーはニューヨーカー達のビュースポットでもある。2〜3台運行しており、20分間隔程で往復している。", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "同島に陸路で行くルート例としては、地下鉄でブルックリンまで行き、そこからバスで橋を渡る。", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "イースト川のピア6にあるマンハッタンの公営ヘリポート(ダウンタウン・マンハッタン・ヘリポート)と、ニュージャージー州のニューアーク国際空港との間をヘリコプターシャトルが8-10分で結んでいる。", "title": "島外(市外)との交通" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "マンハッタン区の教育は多くの公立および私立の機関によって行われている。区内の公立学校は、アメリカで最も大きな公立学校システムであるニューヨーク市教育局によって実施されている。チャーター・スクールにはハーレム・サクセス・アカデミー(英語版)やガールズ・プレップ(英語版)がある。また、2011年時点ではノーベル賞受賞者の輩出数が世界一多いコロンビア大学を始め、その他大学がマンハッタン区に校舎を構えている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "主な教育機関", "title": "教育" } ]
マンハッタン(Manhattan、)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市の地区。 ハドソン川河口部の中州であるマンハッタン島、あるいは、マンハッタン島が大部分を占めるマンハッタン区 のことである。ニューヨーク州のニューヨーク郡 の郡域もマンハッタン区と同じである。マンハッタンはニューヨーク市の中心街とされる。 ニューヨーク州の行政上の州都はニューヨーク市の北233キロメートルにあるオールバニに置かれているが、アメリカ最大の都市圏人口を背景にした経済・文化面の影響力により、ウォール街を擁するニューヨーク市のマンハッタンがニューヨーク州の中心であるといえる。
{{Otheruses}} {{世界の市 |正式名称 = マンハッタン区(ニューヨーク市)<br />ニューヨーク郡(ニューヨーク州) |公用語名称 = Manhattan Borough<br />New York County |愛称 = The City |標語 = |画像 = Above_Gotham.jpg |画像サイズ指定 = |画像の見出し = |市旗 = Flag of the Borough of Manhattan.svg |市章 = |位置図 =New_York_City_location_Manhattan.svg |位置図サイズ指定 =200px |位置図の見出し =マンハッタン区 / ニューヨーク郡 |下位区分名 = {{USA}}<!--必須--> |下位区分種類1 = 州 |下位区分名1 = [[ニューヨーク州]] |下位区分種類2 = 市 |下位区分名2 = [[ニューヨーク|ニューヨーク市]] |最高行政執行者称号 =[[区長]] |最高行政執行者名 ={{仮リンク|スコット・ストリンガー|en|Scott Stringer}}<!-- 日本語表記の用例あり --> |最高行政執行者所属党派 = [[民主党 (アメリカ)|民主党]] |成立区分 = |成立日 = |規模 =区/郡 |総面積(平方キロ) =87.46 |総面積(平方マイル) = |陸上面積(平方キロ) =59.47 |陸上面積(平方マイル) = |水面面積(平方キロ) =28.0 |水面面積(平方マイル) = |水面面積比率 =31.2 |市街地面積(平方キロ) = |市街地面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = |都市圏面積(平方マイル) = |人口の時点 =2020年 |人口に関する備考 =<ref>{{citeweb|url=https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/newyorkcountynewyork/PST045222|title=Quickfacts.census.gov|accessdate=12 August 2023}}</ref> |総人口 =1,694,251 |人口密度(平方キロ当たり) =28,873 |人口密度(平方マイル当たり) = |都市圏人口 = |都市圏人口密度(平方キロ)= |都市圏人口密度(平方マイル)= |市街地人口 = |等時帯 =[[東部標準時]] |協定世界時との時差 =-5 |夏時間の等時帯 =[[東部夏時間]] |夏時間の協定世界時との時差=-4 |緯度度=40 |緯度分=47 |緯度秒=25 |N(北緯)及びS(南緯)=N |経度度=73 |経度分=57 |経度秒=35 |E(東経)及びW(西経)=W |標高(メートル) = |標高(フィート) = |公式ウェブサイト =[http://www.mbpo.org Manhattan Borough President]<!-- 区長の名前をサイトネームに含めるのは避ける --> |備考 =マンハッタン区はニューヨーク市の[[行政区]]、ニューヨーク郡はニューヨーク州の[[郡 (アメリカ合衆国)|郡]]。両者の領域は同じ。 }} [[File:Hamilton Park, Jersey City.JPG|right|220px|thumb|{{仮リンク|ハミルトン・パーク|en|Hamilton Park, (Weehawken, New Jersey)}}から望むマンハッタン島]] '''マンハッタン'''(Manhattan、{{IPA-en|mænˈhætn}})は、[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]]の地区。 [[ハドソン川]][[河口]]部の[[中州]]である'''マンハッタン島''' (Manhattan Island)、あるいは、マンハッタン島が大部分を占める'''マンハッタン区''' (Manhattan Borough) <!-- 「マンハッタン区」に対応する名称は確認しがたいが、http://www.mbpo.org/ では“Manhattan Borough President”, “Office of Manhattan Borough”としており、http://www.nyc.gov/html/nypd/html/transit_bureau/borough_manhattan.shtml にも“Manhattan Borough”の用例がある -->のことである。ニューヨーク州の'''ニューヨーク[[郡 (アメリカ合衆国)|郡]]''' (New York County) の郡域もマンハッタン区と同じである。マンハッタンはニューヨーク市の中心街とされる。 ニューヨーク州の行政上の[[州都]]はニューヨーク市の北233[[キロメートル]]にある[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]に置かれているが、アメリカ最大の[[都市圏人口]]を背景にした経済・文化面の影響力により、[[ウォール街]]を擁するニューヨーク市のマンハッタンがニューヨーク州の中心であるといえる。 == 概要 == [[File:Manhattan2 2 amk.jpg|right|220px|thumb|摩天楼]] [[ニューヨーク市]]を構成する5つの[[行政区 (ニューヨーク)|行政区]]の1つであり、[[ニューヨーク市役所]]の所在地である。他の4区は[[クイーンズ区]]・[[ブルックリン区]]・[[ブロンクス区]]・[[スタテンアイランド区]]である。 [[5番街 (マンハッタン) |5番街]]や[[タイムズスクエア]]などの繁華街があり、世界中からの観光客をひきつけている他、世界を代表する金融街の一つである[[ウォール街]]がある。また[[国連本部]]はマンハッタン島に置かれているが、この土地は全加盟国で共有する国際領土となっている。一般的に「ニューヨーク」と言えば、ニューヨーク州ではなく、ニューヨーク市とりわけマンハッタンを意味することが多い。 マンハッタンはアメリカ最大の都市圏人口を持つニューヨーク市(約800万人)の中心であり人口は約160万人と推定されている。[[イタリア]]系や[[ユダヤ]]系、[[中華人民共和国|中国]]系、[[プエルトリコ]]系など多くの人種が混在する街であり、地域ごとに異なった文化が形成されている。また、「[[人種のるつぼ]]」「[[ビッグ・アップル (ニューヨーク市)|ビッグ・アップル]]」などと称される。 また[[ニューヨーク]]では[[シカゴ]]とともに19世紀後半から世界に先駆けて[[高層ビル]]の建設が始まり、マンハッタンには多数の超高層ビルが密集している。これらは『[[超高層建築物|摩天楼]]』と呼ばれ、象徴的なマンハッタンの景観を形成している。 == 地理 == {{Main|[[ニューヨーク市の地理]]}} [[File:New York STS058-081-038.jpg|thumb|220px|right|衛星写真]] [[File:Aster_newyorkcity_lrg.jpg|thumb|ニューヨークの大都市圏]] マンハッタン区は、マンハッタン島と小さな諸島([[ルーズベルト島]]、[[ガバナーズ島]]、[[エリス島]]、[[ランドールズ島]]、[[ワーズ島]]、[[ミル・ロック]]、[[ウ・タント島]])、そして北米大陸のごく一部地域({{仮リンク|マーブル・ヒル|en|Marble Hill, Manhattan}})からなる{{efn|ニューヨークのシンボルである[[自由の女神像]]が建つ[[リバティ島]]はニューヨーク市ではなく連邦政府の直轄区域である。他方、エリス島の一部はニュージャージー州の領域である}}。 === マンハッタン島 === マンハッタン島は、西を[[ハドソン川]]、東を[[イースト川]]と[[ハーレム川]]、北を[[スパイテン・ダイヴィル川]](および[[ハーレム川運河]])、南を[[アッパー・ニューヨーク湾]]によって囲まれている。幅は約4 km、長さ約20 kmで、ほぼ南北方向に細長い形状をしている。面積は58.8 km{{sup|2}}で、東京の山手線の内側(約64 km{{sup|2}})にほぼ相当する。[[ブロンクス区|ブロンクス]]に隣接する{{仮リンク|マーブル・ヒル|en|Marble Hill, Manhattan}}もかつてはマンハッタン島の一部であったが、スパイテン・ダイヴィル川の付け替えにより現在はマンハッタン島から分離している。 マンハッタン島は1枚の岩盤から構成されており、島の大部分を構成している[[基盤岩]]はマンハッタン片岩 (''Manhattan Schist'') と呼ばれる[[雲母]]の[[結晶片岩]]である。この岩は強度が高く、その構成成分の[[変成岩]]は[[パンゲア大陸]]が形成された過程で作られた。この岩盤上は高層ビルの建設に適しており、[[ロウワー・マンハッタン|ダウンタウン]]と[[ミッドタウン]]の表面はこの岩石に富んでいるためこれらのエリアには高層ビルが多く建ち並んでいる<ref>{{cite web | title= How ancient collision shaped New York skyline | first=Helen | last=Quinn | url= http://www.bbc.co.uk/news/science-environment-22798563 | work=BBC Science | publisher= BBC.co.uk | date= 2013-06-06 | accessdate=2013-06-13 }}</ref><ref> [http://andromeda.rutgers.edu/~jmbarr/skyscrapers/bedrockJuly2010.pdf]</ref>。[[セントラルパーク]]にはマンハッタン片岩の[[露頭]]があり、{{仮リンク|ラット・ロック|en|Rat Rock}}はその一例である<ref>John H. Betts ''[http://www.johnbetts-fineminerals.com/jhbnyc/articles/nycminerals1.htm The Minerals of New York City]'' originally published in Rocks & Minerals magazine, Volume 84, No. 3 pages 204–252 (2009).</ref><ref>{{cite web | first=Andrea | last=Samuels | url=http://www.microscopy-uk.org.uk/mag/artnov08macro/Samuels/ | title=An Examination of Mica Schist by Andrea Samuels, Micscape magazine. Photographs of Manhattan schist | publisher=Microscopy-uk.org.uk | date= | accessdate=2013-04-20 }}</ref>。 地形は沿岸部に向かって極緩い傾斜があるほか、[[ロウワー・マンハッタン|ダウンタウン]]から[[アッパー・マンハッタン|アップタウン]]に向けては緩やかに上る地形となっている。これは[[コロンビア大学]]付近を頂上とし、[[モーニングサイド・ハイツ (マンハッタン)|モーニングサイド・ハイツ]]などの高所を抜けると北に向けて大きく下がり[[125丁目 (マンハッタン)|125丁目]]が谷間となる。そこから北は再び高度は上がり、マンハッタン北部の[[インウッド (マンハッタン)|インウッド]]まで高台が続く。埋め立ては、沿岸の埠頭部分などに限られている。 === その他の小島 === [[ルーズベルト島]]は、マンハッタン島の東を流れるイースト川の中州であり、南北に細長い島である。その先は[[クイーンズ区]]となる。[[ニューヨーク市地下鉄]]の駅があり、マンハッタン島とは[[ルーズベルト・アイランド・トラムウェイ]]([[索道|ロープウェイ]])でも結ばれている。 [[ガバナーズ島]]はマンハッタン島の南の[[ニューヨーク湾]]にある。かつては、マンハッタン島の至近距離にありながら、[[沿岸警備隊]]の中枢施設があり公共輸送機関はなかった。しかし、2003年1月に国から州および市へ1ドルで売却され、一般に開放されて、現在ではマンハッタン島南端の[[バッテリー・パーク]]からフェリーが運航されている。イギリス植民地時代の総督の保養地であり、独立戦争では対英軍のための要塞、南北戦争では南軍の捕虜収容所となった。 [[エリス島]]は、マンハッタン島の南西部ハドソン川河口付近にあり、移民博物館となっている。こちらへもバッテリー・パークからフェリーが運航されている。 いずれの島も、マンハッタン島との間の橋はない。ルーズベルト島は、[[クイーンズ区|クイーンズ]]に繋がる橋がある。橋の数が少ないのは意図的なものでマンハッタンからの経済流出を防ぐためである。そのため、マンハッタン区とその他のニューヨーク市区域の光景は大きく異なる。東側のイースト川には、クイーンズ/ブルックリン地区と結ぶ5本の橋が、ハーレム川には15本の橋が架かっている。また、地下鉄の線路が7本走る。これに対し[[ニュージャージー州]](西側・ハドソン川)には橋が1本、道路トンネルが2箇所、鉄道トンネルが2本通っているのみである。これは、イースト川は市内を流れる川であるのに対し、ハドソン川は州を区切る川であることによる。合衆国において、州が独立性の高い構成単位であることを示していると言われる。 {{See also|ニューヨーク市の橋とトンネル}} ;地名 Manhattanの名は[[インディアン]]部族<!--[[アメリカ先住民]]は民族名ではありません-->の[[レナペ|デラウェア]](レナペ)語の「丘の多い島」を意味する "Mannahate"、"Manna-hata" に由来するとされる。一方、レナペ族は宣教師のジョン・ヘッケウェルダーに、"Manahachtanienk"(マナハクタニエンク)から来たと説明している。これは「我々がみな、酔っぱらいにされた島」という意味である。 == 気候 == [[File:East Village in 2006 blizzard 06.jpg|right|220px|thumb|2006年降雪]] 緯度としては日本の[[青森県]]に位置し、やや冷涼な気候ではあるが、区分上は温帯気候である。 * '''春''':冬の期間が長く、春は4月頃から始まる。 * '''夏''':気温は最高でも摂氏約33〜5度程度であるが、多湿であり、体感温度は高い。いわゆる盛夏は1か月程度である。6月くらいから9月中旬。 * '''秋''':9月下旬から10月の短い期間。 * '''冬''':11月〜3月までと冬は比較的長い。セントラルパークの沼が完全に凍るなど冷え込みは厳しく摂氏-10度程になり、海からの風により体感温度は最低-25度近くになることもある。 [[ハリケーン]]の進路に当たることもあるが、大西洋岸を北上する途中で勢力を弱めることが多い。夏場には夕立が多い。梅雨がないので降雨量は日本に比べ少ない。冬場の冷え込みは厳しいが、降雪はそれほど多くない。降った場合でも街の熱と除雪により直ぐに除去される。気温は日中でも摂氏マイナス10〜15度ほどになる。沿岸都市のため、海から吹く風が強い日が秋を中心に見られ、体感温度を下げる。湿度は比較的低い。都市部特有の[[ヒートアイランド現象]]の影響がある。秋・冬は北方からの冷たい空気、夏は大西洋南方からの暖かい空気により気温の変化がもたらされる。 == 人口 == <div style="float: right; margin-left:15px"> {|class="wikitable" style="font-size:90%;width:80;text-align:right" !統計年!!人口!!増減率 |- |1656||1,000||- |- |1698||6,788||+578.8% |- |1711 |10,538 | +55.2% |- |1730 |11,963 | +13.5% |- |1731 |8,628 |−27.9% |- |1756 |15,710 | +82.1% |- |1773 |21,876 | +39.2% |- |1774 |23,600 | +7.9% |- |1782 |29,363 | +24.4% |- |1790 |33,131 | +12.8% |- |1800 |60,489 | +82.6% |- |1810 |96,373 | +59.3% |- |1820 |123,706 | +28.4% |- |1830 |202,589 | +63.8% |- |1840 |312,710 | +54.4% |- |1850 |515,547 | +64.9% |- |1860 |813,669 | +57.8% |- |1870 |942,292 | +15.8% |- |1880 |1,164,674 | +23.6% |- |1890 |1,441,216 | +23.7% |- |1900 |1,850,093 | +28.4% |- |1910 |2,331,542 | +26.0% |- |1920 |2,284,103 |−2.0% |- |1930 |1,867,312 |−18.2% |- |1940 |1,889,924 | +1.2% |- |1950 |1,960,101 | +3.7% |- |1960 |1,698,281 |−13.4% |- |1970 |1,539,233 |−9.4% |- |1980 |1,428,285 |−7.2% |- |1990 |1,487,536 | +4.1% |- |2000 |1,537,195 | +3.3% |- |2010 |1,585,873 | +3.2% |- |2018 |1,628,701 | +2.7% |- | colspan="3" |参考文献<ref name=ManhattanQuickFacts>{{cite web|url=https://www.census.gov/quickfacts/table/PST045216/36061,00|title=New York County (Manhattan Borough), New York State & County QuickFacts|publisher=United States Census Bureau|accessdate=March 25, 2018}}</ref><ref>{{cite web |url=https://www.census.gov/population/www/documentation/twps0027/twps0027.html |title=Population of the 100 largest cities and other urban places in the United States: 1790 to 1990 |author=Campbell Gibson |publisher=United States Bureau of the Census |accessdate= |deadlinkdate=2022-04-10}}</ref><ref name="USCensusEst2016">{{cite web|url=https://factfinder.census.gov/bkmk/table/1.0/en/PEP/2016/PEPANNRES/0500000US36061|title=Annual Estimates of the Resident Population: April 1, 2010 to July 1, 2016 Population Estimates – New York County, New York|publisher=[[United States Census Bureau]]|accessdate=June 11, 2017}}</ref> |- | colspan="3" |[[アメリカ合衆国国勢調査局]]<ref name="DecennialCensus">{{cite web|url=https://www.census.gov/prod/www/decennial.html|title=Census of Population and Housing|publisher=Census.gov|accessdate=June 4, 2016}}</ref> |} </div> 以下はマンハッタンの人種別の人口構成。 {| class="wikitable sortable mw-collapsible" style="font-size: 90%;" |- ! 人口構成 !2018年<ref>{{Cite web|url=https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/richmondcountystatenislandboroughnewyork,bronxcountybronxboroughnewyork,newyorkcountymanhattanboroughnewyork,queenscountyqueensboroughnewyork,kingscountybrooklynboroughnewyork/PST045218#qf-headnote-b|title=U.S. Census Bureau QuickFacts: Richmond County (Staten Island Borough), New York; Bronx County (Bronx Borough), New York; New York County (Manhattan Borough), New York; Queens County (Queens Borough), New York; Kings County (Brooklyn Borough), New York|website=www.census.gov|language=en|access-date=2019-10-16}}</ref>!! 2010年<ref>{{Cite web|url=https://factfinder.census.gov/faces/tableservices/jsf/pages/productview.xhtml?src=CF|title=American FactFinder - Results|last=Bureau|first=U. S. Census|website=factfinder.census.gov|language=en|access-date=2019-10-16}}</ref>!! 1990年<ref name="census1">{{cite web |title=New York&nbsp;– Race and Hispanic Origin for Selected Cities and Other Places: Earliest Census to 1990 |publisher=U.S. Census Bureau |url=https://www.census.gov/population/www/documentation/twps0076/twps0076.html |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120812191959/http://www.census.gov/population/www/documentation/twps0076/twps0076.html |archivedate=August 12, 2012 |df= |accessdate=2022-04-10}}</ref>!! 1950年<ref name="census1"/>!! 1900年<ref name="census1"/> |- |[[コーカソイド]](白人) |64.5%|| 57.4% || 58.3% || 79.4% || 97.8% |- |&nbsp;他の人(ヒスパニック系ではない) |47%|| 48% || 48.9% || 不明 || 不明 |- |[[アフリカ系アメリカ人]](黒人) |17.9%|| 15.6% || 22.0% || 19.6% || 2.0% |- |[[ヒスパニック]](人種は様々) |25.9%|| 25.4% || 26.0% || 不明 || 不明 |- |[[アジア系アメリカ人|アジア系]] |12.8%|| 11.3% || 7.4% || 0.8% || 0.3% |} === 宗教 === マンハッタンは宗教的に多様である。 2000年に最大の宗教的所属は[[カトリック教会]]で、564,505人の支持者(人口の36%以上)で、110の会衆を維持していた。 [[ユダヤ系アメリカ人|ユダヤ人]]は、102の会衆で314,500人(20.5%)の2番目に大きい宗教グループを構成した。3番目は[[プロテスタント]]、139,732人のフォロワー(9.1%)、4番目は[[ムスリム|イスラム]]教徒、37,078(2.4%)である<ref>[http://www.thearda.com/mapsReports/reports/counties/36061_2000.asp New York County, New York, Association of Religion Data Archives]. Accessed September 10, 2006.</ref>。 [[ヒンズー教]]、[[無神論]]および[[無宗教]]を含む他の宗教的所属が、残りの大半を構成した。 === 言語 === 2010年時点で、5歳以上のマンハッタン居住者の59.98%(902,267人)は自宅で英語のみを話し、23.07%(347,033人)スペイン語、5.33%(80,240人)中国語、2.03%(30,567人)フランス語、0.78%(11,776人)日本語 、0.77%(11,517人)ロシア語、0.72%(10,788人)韓国語、0.70%(10,496人)ドイツ語、0.66%(9,868人)イタリア語、0.64%(9,555人)ヘブライ語、0.48%(7,158人)自宅でアフリカ言語を話している。 合計で、5歳以上のマンハッタンの人口の40.02%(602,058人)は、自宅で英語以外の言語を話した。<ref>{{cite web|url=http://www.mla.org/map_data |title=MLA Language Map Data Center |publisher=[[Modern Language Association]]|accessdate=December 20, 2013}} Enter New York County, New York, 2010 in data entry.</ref> == 歴史 == {{Main|ニューヨーク市の歴史}} [[File:Lenapehoking.png|left|200px|thumb|かつての[[レナペ|レナペ族]](デラウェア族)インディアンの勢力範囲]] [[File:Castelloplan.jpg|left|200px|thumb|1660年当時、マンハッタンは[[ニューアムステルダム]]の一部だった。右側が北。]] ニューヨーク州はアメリカ建国13州のうちの11番目の州である。 もともとこの地には、[[レナペ|レナペ族]](デラウェア族)、[[ワッピンガー|ワッピンガー族]]などの[[インディアン]]部族が[[ウィグワム]]による移動型集落を形成し、トウモロコシや豆、カボチャなどを栽培し、狩猟採集の生活を営んでいた。領土的にはレナペ族がほぼ独占していた。 * [[1524年]]:レナペ族の乗るカヌーが、探検家[[ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ]]の船と現在でいう[[ニューヨーク港]]で出会っている。彼は[[ロングアイランド]]と[[スタテンアイランド]]を発見したが、[[マンハッタン島]]には到達しなかった。 * [[1609年]]:[[オランダ]]人の資金援助でマンハッタンにたどり着いた[[ヘンリー・ハドソン]]の名が[[ハドソン川]]の由来となっている。ハドソンの船の乗組員のロバート・ジュエットは、この島について航海日誌に「マンナ・ハッタ (Manna-hata)」と記述している。 * [[1613年]]:[[オランダ]]人の毛皮取引商[[:en:Juan (Jan) Rodriguez|Juan Rodriguez]]が、商売のためにマンハッタン島に到達し、ヨーロッパ人で初めて現在の[[ニューヨーク]]市域内の住人となった。 * [[1614年]]:オランダ人[[アドリアン・ブロック]]の探検したエリア(ニューヨークを含む)に、祖国の名にちなんだ[[ニューネーデルラント|ニーウ・ネーデルラント]]の設立が宣言された。 * [[1624年]]:[[ガバナーズ島]]がニーウ・ネーデルラントの最初の恒久的入植地となる。 * [[1625年]]:マンハッタン島最南端に[[フォート・アムステルダム]]が建設され、ニーウ・ネーデルラントの首都として[[ニューアムステルダム|ニーウ・アムステルダム]]がこの場所に設立された。この年が、ニューヨーク市の公式創立年となっている。 * [[1626年]]:この年、[[オランダ西インド会社]]がマンハッタンを「[[インディアン]]たち<!--[[ネイティブアメリカン]]は民族名ではありません-->から24ドル相当で買い取った」と一般に言われている。が、これは実際には、60ギルダー分の交易品との交換だった。60ギルダーがどれくらいの価値かというと、「1626年当時に、ビールの大ジョッキを2400杯買うことができるくらいの金額」である。ただしオランダ人入植者に「マンハッタンを売った」という部族は、レナペ族ではなく、実はマンハッタン島を縄張りにしておらず、レナペ族とオランダ人の抗争の漁夫の利を狙って騙したのだった。また、そもそもインディアンには「土地を金で売る」という文化は無かったので、この取引自体理解していたかどうか疑わしい。実際、島を買い取ったと思い込んだオランダ人とレナペ族とは長く抗争が続いた。 * [[1664年]]:[[イングランド]]国王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の弟、[[ヨーク公]]ジェームズ(後の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])が{{仮リンク|第二次英蘭戦争|en|Second Anglo-Dutch War|redirect=1}}に勝利し、この地を制し、現在の市名ニューヨークに改名した。 [[File:Mulberry Street NYC c1900 LOC 3g04637u.jpg|right|220px|thumb|[[1900年]]のマンハッタン。現在もこのような景色は至る所に残る]] [[File:Manhattan_1931.jpg|thumb|220px|right|[[1931年]]撮影]] * [[1776年]]:[[アメリカ独立戦争]][[ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦]]においてマンハッタンは、[[キップス湾の上陸戦]]([[9月15日]])、[[ハーレムハイツの戦い]]([[9月16日]])および[[ワシントン砦の戦い]]([[11月16日]])の舞台となった。これらの戦いの後、ニューヨークはイギリス軍に占領された。 * [[1783年]]:イギリス軍がニューヨークから撤退({{仮リンク|撤収の日 (ニューヨーク州)|label=撤収の日|en|Evacuation Day (New York)}}参照)。 * [[1785年]]-[[1788年]]:[[連合規約]]の下で、ニューヨークが第5代目の首都となる。 * [[1789年]]:[[アメリカ東海岸|東海岸]]の都市の中でも発展を見せていたニューヨークは、[[ジョージ・ワシントン]]が初代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に就任した年、わずか1年だけ[[合衆国憲法]]の下で最初の[[首都]]となった(その後、[[フィラデルフィア]]、続いて[[ワシントンD.C.]]へ移動)。 * [[1792年]]:[[すずかけ協定]]によって[[ニューヨーク証券取引所]]が設立される。 * [[1811年]]:ニューヨーク州政府が、マンハッタン島北部の都市計画「[[1811年委員会計画]]」を策定。これにより、マンハッタンの農場を結ぶブルーミングデール・ロード(現在の[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]])を除き、地形や旧道に関係なくグリッド状の街区が形成されることとなる。 * [[1853年]]:ニューヨーク州議会により正式に[[セントラル・パーク]]が公園用地として指定される。 * [[1870年]]:[[メトロポリタン美術館]]が開館。 * [[1886年]]:[[エリー運河]]の開通以降、市には続々と[[移民]]が押し寄せ大都市へと発展した。移民を迎え入れる自由の国の象徴として[[フランス]]より[[自由の女神像]]が贈呈された。 * [[1898年]]:マンハッタンと{{仮リンク|ウェスト・ブロンクス|en|West Bronx}}(1873年にマンハッタンだけであったニューヨーク市に併合、1895年にもウェスト・ブロンクスの残りの地区が併合される)だけであったニューヨーク市が、{{仮リンク|イースト・ブロンクス|en|East Bronx}}、[[ブルックリン区|ブルックリン]]、[[クイーンズ区|クイーンズ]]、および[[スタテンアイランド]]を併合し現在と同じ範囲となる([[シティ・オブ・グレーター・ニューヨーク]]参照)。 * [[1904年]]:[[ニューヨーク市地下鉄]]の最初の路線がマンハッタン島を南北に開通。 * [[1929年]]:[[10月24日]]にニューヨーク株式市場([[ウォール街]])で株価が大暴落したことに端を発した[[世界恐慌]]が起こる。 * [[1931年]]:[[エンパイア・ステート・ビルディング]]が完成。 * [[1945年]]:エンパイア・ステート・ビルディングにアメリカ陸軍航空隊の[[B-25 (航空機)|B-25]][[爆撃機]]が激突。 * [[1998年]]:ニューヨーク市は[[市制]]に移行して200年、5区になって100年を迎えた。 * [[2001年]]:[[9月11日]]に[[アメリカ同時多発テロ事件]]が起こり、[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センタービル]]の両棟が破壊された。 * [[2022年]]:[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]などを要因に[[インフレーション|インフレ]]が進行。家賃相場の例では前年に比べ30%近く上昇し平均5000ドル、中央値でも4000ドルを上回った<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/business/35190526.html |title=米マンハッタンの平均家賃、過去最高の月5000ドルに |publisher=CNN |date=2022-07-15 |accessdate=2022-11-09}}</ref>。一方で新型コロナウイルス感染症拡大、それに伴う[[テレワーク]]の増加はオフィス需要にも及び、家賃が高騰したまま需要自体は減る現象が見られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/usa-property-manhattan-idJPKBN2YT09L |title=アングル:米マンハッタンのオフィス市場、コロナ終息後も低迷 |publisher=ロイター |date=2023-07-16 |accessdate=2023-07-17}}</ref>。 == マンハッタンのスカイライン == {{Wide image|10 mile panorama of NYC, Feb., 2018.jpg|1800px|3=[[マンハッタンの通りの一覧|120丁目]]から[[バッテリー・パーク|バッテリー]]までの10マイルのマンハッタン[[スカイライン (風景)|スカイライン]]パノラマ(2018年2月21日)。 {{flatlist| (1)[[:en:Riverside Church]] (2)[[タイムワーナーセンター]] (3)[[:en:220 Central Park South]] (4)[[セントラル・パーク・タワー]] (5)[[ワン 57]] (6)[[432 パーク・アベニュー]] (7)[[:en:53W53]] (8)[[クライスラー・ビルディング]] (9)[[バンク・オブ・アメリカ・タワー (ニューヨーク)|バンク・オブ・アメリカ・タワー]] (10)[[4 タイムズスクエア]] (11)[[ニューヨーク・タイムズ・ビルディング]] (12)[[エンパイア・ステート・ビルディング]] (13)[[マンハッタン・ウエスト]] (14)A: [[:en:55 Hudson Yards]]、B: [[:en:35 Hudson Yards]]、C: [[10 ハドソン・ヤード]] D: [[:en:15 Hudson Yards]] (15)[[56 レオナード・ストリート]] (16)[[8 スプルース・ストリート]] (17)[[ウールワース・ビルディング]] (18)[[アメリカン・インターナショナル・ビルディング]] (19)[[30 パーク・プレイス]] (20)[[40 ウォール・ストリート]] (21)[[3 ワールドトレードセンター]] (22)[[4 ワールドトレードセンター]] (23)[[1 ワールドトレードセンター]]}} |align-cap=center}} == 地区 == [[File:Chelsea1183.JPG|right|220px|thumb|チェルシー]] [[File:Upper West Side - Broadway.jpg|right|220px|thumb|セントラルパーク・ウェスト]] [[File:Harlem - Morningside.jpg|right|220px|thumb|モーニングサイドハイツ]] [[File:Harlem - W125st - Madison Avenue.jpg|right|220px|thumb|ウェスト・ハーレム]] [[File:Ninth-north.jpg|right|220px|thumb|ヘルズ・キッチン]] [[File:Washington square park.jpg|upright|220px|thumb|ワシントン・スクエア]] === 通り === {{See also|マンハッタンの通りの一覧}} 地図上の南北をあらわす向きから、マンハッタン島内の最南端[[ロウアーマンハッタン]]を中心に「[[ダウンタウン (マンハッタン)|ダウンタウン]]」と呼び、北側を「[[ミッドタウン]]」および「[[アップタウン (マンハッタン)|アップタウン]]」と呼ぶ。[[ニューヨーク市地下鉄]]などの交通機関での行先・方面表示にもダウンタウン・アップタウンの表記が使われる。一方、マンハッタン島内の東西に走るバスや地下鉄などは「{{仮リンク|クロスタウン|en|Crosstown traffic (Manhattan)}}」とよばれる。[[ブロードウェイ]]はマンハッタン島の最南端から最北端まで貫く通りで、元々はインディアンの小道であった。 日本語では、マンハッタンにおける東西方向の道(クロスタウン・ストリート)に付けられる名称「Street(ストリート)」を「――丁目」、南北方向の道である「Avenue(アベニュー)」を「――番街」と呼称するのが慣例となっている。有名な[[5番街 (マンハッタン)]]は「フィフス・アベニュー」である。ニューヨークに関する著作の多い作家、[[常盤新平]]は、次のように述べている<ref name="tokiwa" />。 <blockquote> (マンハッタンの)数字のストリートについては僕は丁目と訳してきた。たとえば、フォーティー・セカンド・ストリートを42丁目と訳せるのが嬉しいのだ。ストリートに対応する『丁目』というのがあるのは素晴らしいことだと思う。(中略)ニューヨークを舞台にした小説を読んでいて、57番ストリートとか、42番ストリートと訳してあるのをみると、とたんにページを閉じてしまいたくなる<ref name="tokiwa">常盤新平 『キミと歩くマンハッタン』 [[講談社]]、1988年、P116-7</ref>。 </blockquote> <blockquote> フィフス・アヴェニューは、僕は5番街と書く。パーク・アヴェニューはパーク・アヴェニューで、パーク街と書くことはない。パーク街ではなんだかみすぼらしい感じがする。マディスン・アヴェニューは、マディスン街と書くこともある。 </blockquote> マンハッタン島内で一番大きな[[マンハッタンの通りの一覧|数字の通り]]は、ストリートは220丁目({{仮リンク|マーブル・ヒル|en|Marble Hill, Manhattan}}まで含めたマンハッタン区では228丁目)でアベニューは[[13番街]]である{{efn|[[アルファベット・シティ]]には追加の[[アベニューA]]から[[アベニューD|D]]がある。}}。当初の[[1811年委員会計画]]では115丁目までの予定だったが<ref>[http://www.nytimes.com/2005/10/23/realestate/23scap.html Are Manhattan's Right Angles Wrong, by Christopher Gray]</ref>、後にマンハッタンの北端の220丁目まで格子状道路は拡張された。東から西へ、または南から北へ進むにつれて数字は増えていく。 これらのアベニューの道幅は{{convert|100|ft|m|-1}}で、クロスタウン・ストリートの道幅は通常{{convert|60|ft|m|0}}だが、そのうち15は{{convert|100|ft|m|-1}}の道幅で作られている。両方向通行の[[34丁目]]、[[42丁目]]、[[57丁目]]や[[125丁目 (マンハッタン)|125丁目]]などがそうで、これらの通りはショップが充実している<ref>[http://www.library.cornell.edu/Reps/DOCS/nyc1811.htm Remarks of the Commissioners for laying out streets and roads in the City of New York, under the Act of April 3, 1807] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070610165318/http://www.library.cornell.edu/Reps/DOCS/nyc1811.htm |date=2007年6月10日 }}, [[Cornell University]]. Accessed May 2, 2007. "これらの通りは基本的に60フィート幅だが、14、23、34、42、57、72、79、86、96、106、116、125、135、145、155丁目は100フィート幅になっており、これらの通りのブロックの幅は約200フィートである。"</ref>。クロスタウン・ストリート間のブロックの幅は約{{convert|200|ft|m|-1}}で、アベニュー間のブロックの幅は約は{{convert|800|ft|m|-1}}である。 マンハッタンの大部分の通りは厳密な格子状に計画的に作られた結果、[[マンハッタンヘンジ]]([[ストーンヘンジ]]の派生語)と呼ばれる現象を年に二回見ることができる。これは、その東西の通りは真の東西方向から約28.9°傾いているため、[[夏至]]を挟んで約20日前後の日は太陽が東西の通りのちょうど中心に沿った地平線に沈むという現象である。マンハッタンヘンジが起きる日没時には、ビルの間をまっすぐ太陽の光が伸びてくるのを目にすることができる。 === ネイバーフッド === {{See also|マンハッタンの近隣住区の一覧}} マンハッタンはその特徴などから、さらに細かく特定のエリア(ネイバーフッド)を指して以下のような名称(愛称)が付けられている。 地区毎の特徴はリンク先項目および[[マンハッタンの近隣住区の一覧|マンハッタンの地区名の一覧]]を参照のこと。 * [[フィナンシャル・ディストリクト (マンハッタン)|フィナンシャル・ディストリクト]] * [[シヴィック・センター (マンハッタン)|シヴィック・センター]] * [[サウス・ストリート・シーポート]] * [[トライベッカ (マンハッタン)|トライベッカ]] * [[チャイナタウン (マンハッタン)|チャイナ・タウン]] * [[リトル・イタリー (マンハッタン)|リトル・イタリー]] * [[ソーホー (ニューヨーク)|ソーホー]] * [[ロウアー・イースト・サイド]] * [[グリニッジ・ヴィレッジ]] * [[イースト・ヴィレッジ]] * {{仮リンク|ミートパッキング・ディストリクト|en|Meatpacking District, Manhattan}} : [[14丁目]]の西端付近一帯をいう。かつてはガンゼヴォート・マーケットとして知られていたが、20世紀前半に精肉業種の工場などが多く立地したことからこの地域呼称が付けられた。1990年代後半から高級化が進み、有名ブランド店やレストランなど注目が集まるような出店があったことからエリアとしての認識が高まった。 * [[チェルシー (ニューヨーク)|チェルシー]] * [[グラマシー]] * {{仮リンク|フラットアイアン・ディストリクト|en|Flatiron District}} : [[マディソン・スクエア・パーク]]の南の一帯をいう。ハイテク産業が多く集まっていたことから、[[シリコン・バレー]]をもじった[[シリコン・アレー]]がこの地から広まった。 * {{仮リンク|ノマド (マンハッタン)|label=ノマド|en|NoMad, Manhattan}} : [[マディソン・スクエア・パーク]]の北の一帯 (NOrth of MADison Square Park) をいう。一時は廃れていたが、近年ブティックやレストラン街として再び活性化してきている。 * [[キップス・ベイ (マンハッタン)|キップス・ベイ]] * [[マーリー・ヒル (マンハッタン)|マーリー・ヒル]] * {{仮リンク|タートル・ベイ|en|Turtle Bay, Manhattan}} : 41丁目から53丁目付近のレキシントン街より東の一帯をいう。[[グランドセントラル駅]]のすぐ東のエリアで、[[国連本部]]も所在するオフィス街である。日本企業のオフィスも多く、そのため日系レストランや居酒屋も多く所在する。[[2番街 (マンハッタン) |2番街]]沿いには[[バー (酒場)|バー]]が多く並ぶ。 * {{仮リンク|ガーメント・ディストリクト|en| Garment District, Manhattan}} : 34丁目から42丁目、5番街から[[9番街 (マンハッタン) |9番街]]に囲まれた一帯をいう。ガーメントとは[[衣服]]のことであり、多くのファッション関連産業がこのエリアに集まっている。 * [[シアター・ディストリクト]] * [[ヘルズ・キッチン]] * [[アッパー・イースト・サイド]] * [[アッパー・ウェスト・サイド]] * [[モーニングサイド・ハイツ (マンハッタン)|モーニングサイド・ハイツ]] * [[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]] * [[ワシントンハイツ (マンハッタン)|ワシントンハイツ]] * [[インウッド (マンハッタン)|インウッド]] === 住所 === {{main|マンハッタン住所算法}} マンハッタン島内における主要な通りの住所を見つけるには[[マンハッタン住所算法]]が一般に用いられる。これはニューヨーク市の電話帳やガイドブックの他、[[MTAバス]]の地図でも用いられている。 == 経済 == {{Main|ニューヨーク市の経済}} [[File:Citigroup_center.jpg|right|220px|thumb|[[シティグループ・センター]]]] [[File:Time-Warner-Center.JPG|right|220px|thumb|[[タイム・ワーナー・センター]]]] [[ニューヨーク証券取引所]]や[[ウォール街]]が代表するように、[[シティグループ]]や[[CBS]]、[[メットライフ]]や[[モルガン・スタンレー]]などがひしめく、アメリカの経済の中心地であり、アメリカを代表する大企業の本社が多数存在する。メディア、ファッションや広告業界の世界的な中心地のひとつであり、また、[[芸術]]面でも大きな影響力を持つと評価されている。 === マンハッタンに本拠を置く企業 === * [[シティグループ]] * [[JPモルガン・チェース]] * [[アメリカン・エキスプレス]] * [[メットライフ]] * [[モルガン・スタンレー]] * [[ゴールドマン・サックス]] * [[メリルリンチ]] * [[ダウ・ジョーンズ]] * [[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] * [[ニューヨーク・タイムズ]] * [[CBS]] * [[タイム・ワーナー]] * [[オグルヴィー&メイザー]] * [[マッキャンエリクソン・ワールドワイド]] * [[ラルフ・ローレン]] * [[トミーヒルフィガー]] * [[ダナ・キャラン]] * [[ディーン・アンド・デルーカ]] == 文化 == {{Main|[[ニューヨーク市の文化]]}} マンハッタンには多くの世界的に有名な美術館や博物館が所在しており、その芸術コレクションは世界有数である。また劇場やコンサートホールなどの文化施設も充実している。 === 文化施設 === ;劇場・コンサートホール・スタジアム * [[リンカーン・センター]] * [[カーネギー・ホール]] * [[ラジオシティ・ミュージックホール]](ロックフェラー・センター内) * [[ブロードウェイ・シアター]] * [[マディソン・スクエア・ガーデン]] * [[アポロ・シアター]] ;美術館・博物館 * [[メトロポリタン美術館]] * [[ニューヨーク近代美術館]] (MoMA) * [[グッゲンハイム美術館]] * [[ホイットニー美術館]] * [[クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館]] * [[アメリカ自然史博物館]] * [[イントレピッド海上航空宇宙博物館]] === マンハッタンに本拠を置くスポーツチーム === * [[ニューヨーク・ニックス]] (NBA) * [[ニューヨーク・レンジャース]] (NHL) * [[ニューヨーク・リバティ]](WNBA、ホームスタジアムは[[プルデンシャル・センター]]だがマディソン・スクエアガーデンをホームとして使用することもある) ;かつてマンハッタンに本拠を置いていたスポーツチーム * ニューヨーク・ジャイアンツ(MLB、現[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]) * [[ニューヨーク・ヤンキース]] (MLB) * [[ニューヨーク・メッツ]] (MLB) * [[ニューヨーク・ジャイアンツ]] (NFL) * [[ニューヨーク・ジェッツ]] (NFL) * [[ニューヨーク・コスモス]] (NASL) == 観光 == [[File:UN building.jpg|thumb|right|220px|国連本部ビル]] [[File:Museum of Modern Art New York 2005-04-28.jpg|right|220px|thumb|ニューヨーク近代美術館]] === ランドマークと見どころ === * [[セントラル・パーク]] * [[国際連合本部ビル|国連本部ビル]] * [[メトロポリタン美術館]] * [[ニューヨーク近代美術館]] (MoMA) * [[アメリカ自然史博物館]] * [[5番街 (マンハッタン) |5番街]] * [[グランド・セントラル・ターミナル]] * [[ロックフェラーセンター]] * [[リンカーン・センター]] * [[カーネギー・ホール]] * {{仮リンク|ゲデス・フォークシティ|en|Gerde's Folk City}} * [[マディソン・スクエア・ガーデン]] * [[ブロードウェイ]] * [[タイムズスクエア]] * [[ワシントン・スクエア公園|ワシントン・スクエア]] * [[ハイライン]] * [[クライスラー・ビルディング]] * [[エンパイア・ステート・ビルディング]] * [[フラットアイアンビルディング]] * [[ウォール街]] * [[ニューヨーク証券取引所]] * [[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]] * [[ダコタ・ハウス]] * [[グリニッジ・ヴィレッジ]] * [[リトル・イタリー (マンハッタン)|リトル・イタリー]] * [[チャイナ・タウン]] ;教会 * [[セント・パトリック大聖堂 (ニューヨーク)|セント・パトリック大聖堂]] * [[トリニティ教会 (ニューヨーク市)|トリニティ教会]] * [[ニューヨーク大聖堂]] ;パブリックアート * [[Love (彫刻)|LOVEオブジェ]] * [[チャージング・ブル]] === 公園 === {{Main|ニューヨーク市の公園一覧}} * [[セントラル・パーク]] ** [[コロンバス・サークル]] ** [[グランド・アーミー・プラザ (マンハッタン)|グランド・アーミー・プラザ]] ** [[ストロベリー・フィールズ (記念碑)|ストロベリー・フィールズ]] * [[マディソン・スクエア]] * [[ユニオンスクエア (ニューヨーク市)|ユニオン・スクエア]] * [[ワシントン・スクエア]] * [[ハイライン]] * [[ニューヨーク市庁舎|シティ・ホール・パーク]] * [[バッテリー・パーク]] ;[[アメリカ合衆国ナショナル・モニュメント]] * [[アフリカ人墓地ナショナル・モニュメント]] * [[キャッスル・クリントン|クリントン城ナショナル・モニュメント]] * [[フェデラル・ホール]]国定記念物 * {{仮リンク|グラント将軍国定記念物|en|General Grant National Memorial}} * {{仮リンク|ガバナーズ島ナショナル・モニュメント|en|Governors Island National Monument}} * {{仮リンク|ハミルトン・グレインジ国定記念物|en|Hamilton Grange National Memorial}} * {{仮リンク|ロウワー・イースト・サイド・テネメント記念館|en|Lower East Side Tenement Museum}} * {{仮リンク|自由の女神ナショナル・モニュメント|en|Statue of Liberty National Monument}}(エリス島およびリバティ島を含む国定歴史保護地区。このうちエリス島の一部はマンハッタン区に含まれる。) * {{仮リンク|セオドア・ルーズベルト生誕地国立史跡|en|Theodore Roosevelt Birthplace National Historic Site}} <!--* {{仮リンク|パブリック・スクール14|en|Public School 14}}--> === 建築 === {{Main|ニューヨーク市の建築}} ニューヨークは[[シカゴ]]とともに1880年頃から1930年頃までに建てられた初期の[[高層ビル]]が多く存在する街である。このためマンハッタンでは、[[ネオゴシック様式]]、[[ボザール様式]]や[[アール・デコ|アールデコ様式]]といった特徴的な初期の高層建築を近代的なビルとともに見ることができる。[[クライスラー・ビルディング]]と[[エンパイア・ステート・ビルディング]]はアールデコ様式の代表作であり、[[リーバ・ハウス]]、[[国連本部ビル]]と[[シーグラム・ビルディング]]は[[インターナショナルスタイル]]の代表作であるとされる。シカゴの[[シアーズ・タワー]]が1973年に完成するまで、世界一高い高層ビルの多くはマンハッタンに建てられたビルであった。 ;かつて世界一高かった高層ビル * [[ニューヨークワールドビル]](1955年解体) * [[マンハッタンライフビル]](1930年解体) * [[パークロウビル]] * [[シンガービル]](1968年解体) * [[メトロポリタンライフタワー]] * [[トランプビル]] * [[ウールワースビル]] * [[クライスラー・ビルディング]] * [[エンパイア・ステート・ビルディング]] * 旧[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]](2001年[[アメリカ同時多発テロ事件]]により倒壊) ;20世紀後半の特徴的な高層ビル * [[メットライフビル]] * [[シティグループ・センター]] * [[ソニービル (ニューヨーク)|ソニービル]] ;高層ビル登場以前の古い建築 * [[フランシス・タバーン]] - 1719年築。現存するマンハッタン最古の建築物をうたっているが、1832年から1852年にかけて火災の修復のため大部分が改築されている{{efn|現存するニューヨーク市最古の建築物は、1652年築の[[ブルックリン区|ブルックリン]]の[[:en:Wyckoff House|ワイコフ・ハウス]]。}}。 * [[セント・ポール教会]] - 1764年築。現存するマンハッタン最古の[[教会堂]]。ニューヨーク市の教会堂の中でも三番目に古い{{efn|現存するニューヨーク市最古の教会堂はFlushing Friends Meeting House(1694年)、次いで[[スタテンアイランド]]のSt. Andrew's Church(1709年)。建物は現存していないが、ニューヨーク市で最初期に設立された教会は[[協同改革派プロテスタント・オランダ教会]](1633年)}}。 * [[モリス=ジュメイル・マンション]] ([[:en:Morris–Jumel Mansion|en]]) - 1765年築。 * [[ダイクマン・ハウス]] - 1784年築。マンハッタンに現存する唯一の[[農家]]。 * [[エドワード・ムーニー・ハウス]] - 1785年築。現存するマンハッタン最古の[[テラスハウス]]。 * [[ブリッジ・カフェ]] - 1795年築。現存するマンハッタン最古の木造建築。 * [[グレイシー・マンション]] - 1799年築。[[ニューヨーク市長]]官邸。 <!-- 19世紀 * [[ハミルトン・グレインジ]] ([[:en:Hamilton Grange National Memorial|en]]) - 1802年築。 * [[J.クルー|J. Crew]] Liquor Store - 1809年築。235 W Broadwayに所在。 * [[:en:Angel Orensanz Center|Anshe Slonim Synagogue]] - 1849年築。現存するマンハッタン最古の[[シナゴーグ]]。--> == ショッピング == マンハッタン内および周辺エリアの住人の平均収入が高い上、世界各国から観光客が集まるため、これらの高所得層をターゲットにしたデパートやブティック、ショッピングモールが多数存在する。 === デパートおよびショッピングモール === [[File:Bergdorf Goodman.jpg|right|220px|thumb|バーグドルフ・グッドマン]] [[File:MacysDepartmentStoreNewyork.jpg|right|220px|thumb|メイシーズ]] * [[サックス・フィフス・アヴェニュー]] * {{仮リンク|バーグドルフ・グッドマン|en|Bergdorf Goodman}} * [[ブルーミングデールズ]] * [[バーニーズ・ニューヨーク]] * [[メイシーズ]] * [[ロード・アンド・テイラー]] * {{仮リンク|ヘンリ・ベンデル|en|Henri Bendel}} * [[トランプ・タワー]] * [[タイム・ワーナー・センター]] === ブランド店 === * [[ティファニー]] * [[ハリー・ウィンストン]] * [[ブルックス・ブラザーズ]] * [[ラルフ・ローレン]] * [[アバクロンビー&フィッチ]] * [[マックスマーラ]] === その他 === * {{仮リンク|チェルシー・マーケット|en|Chelsea Market}} * {{仮リンク|ライムライト・マーケットプレイス|en|Limelight Marketplace}} * [[ディーン・アンド・デルーカ]] == ホテル == {{Main|ニューヨーク市のホテル}} アメリカの金融、メディアの中心地であるだけでなく、上記のように多数の観光名所があるので、ランドマーク的な最高級[[ホテル]]から国際チェーンの大規模ホテル、[[デザイナーズホテル]]、長期滞在用の格安ホテルまで揃っている。ビジネス、観光客のいずれもが年間を通じて訪れるので、ホテルの稼働率はきわめて高い。特に高級ホテルは国連総会の期間中の稼働率が高くなる。 === 最高級ホテル === [[File:Waldorf-park.jpg|right|220px|thumb|ウォルドルフ=アストリア]] * [[ウォルドルフ=アストリア]] * {{仮リンク|プラザ・アテネ|en|Plaza Athénée}}・ニューヨーク * [[プラザホテル]] * {{仮リンク|ザ・ピエール|en|The Pierre}} * [[ジュメイラ・インターナショナル|ジュメイラ]]・[[エセックスハウス]]ホテル * [[セント・レジス]] * [[フォーシーズンズ・ホテル]]・ニューヨーク * マーク * {{仮リンク|シェリー・ネザーランド|en|Sherry Netherland Hotel}} * [[トランプインターナショナル・ホテル・ニューヨーク]] * [[リッツ・カールトン]]・ニューヨーク * [[マンダリン・オリエンタルホテルグループ|マンダリン・オリエンタル]]・ニューヨーク * [[香港&上海ホテルズ|ペニンシュラ]]・ニューヨーク * {{仮リンク|ザ・セタイ・フィフスアベニュー|en|The Setai Fifth Avenue}} === 高級ホテル === * ニューヨーク・[[ヒルトン]] * ニューヨーク・[[マリオット・マーキス]] * [[シェラトン]]・マンハッタン・アット・タイムズスクエア * シェラトン・ニューヨーク・ホテル&タワーズ * [[ダブリュー・ホテル|W]]ニューヨーク * [[ハイアットホテルアンドリゾーツ|グランド・ハイアット]] * [[ソフィテル]]・ニューヨーク * [[ミレニアム&コプトーン・ホテルズ|ミレニアム]]・ブロードウェイ * [[ウェスティン]]・ブロードウェイ * {{仮リンク|アルゴンキン・ホテル|en|Algonquin Hotel}} * キタノ・ニューヨーク * {{仮リンク|ル・パーカー・メリディアン|en|Le Parker Meridien}} === 中級ホテル === * {{仮リンク|ニューヨーク・ヘルムズレイ|en|The New York Helmsley Hotel}} * ヘルムズレイ・ミドルタウン・ホテル * ミレニアム・UNプラザ * [[ホリデイ・イン]]・ミッドタウン・マンハッタン * ホリディ・イン・ブロードウェイ * [[ノボテル]]・ニューヨーク * コンフォート・イン・マンハッタン * {{仮リンク|ミルフォードプラザ|en|Milford Plaza Hotel}}・アット・タイムズスクエア * {{仮リンク|ルーズベルト・ホテル (ニューヨーク)|label=ルーズベルト・ホテル|en|The Roosevelt Hotel (New York)}} === 一般ホテル === * [[デイズ・イン]]・ホテル・ニューヨークシティ・ブロードウェイ * [[ベストウエスタンホテルズ|ベストウエスタン・プレジデント・ホテル]] * {{仮リンク|エコノロッジ|en|Econo Lodge}}・タイムズスクエア * {{仮リンク|ホテル・ペンシルベニア|en|Hotel Pennsylvania}} * ウエリントン・ホテル === デザイナーズホテル === * {{仮リンク|パラマウント・ホテル|en|Paramount Hotel}} * {{仮リンク|ロイヤルトン・ホテル|en|Royalton Hotel}} * ハドソン * アレックス * ソーホー・グランド・ホテル == 交通 == {{Main|ニューヨーク市の交通}} マンハッタンは、全米で最も自動車の所有率が低い地域として[[原油価格]]の高騰などでも他の地域に比べれば、比較的経済的ショックを受けにくい耐久力を持つと言われる。アメリカの都市では例外的に、公共交通機関が発達している点が理由として指摘される。 === MTA交通網 === [[File:NYC subway simplified map 50pct-optimized.png|220px|right|thumb|市内全域の地下鉄路線図]] {{See also|メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティ}} マンハッタンの公共交通機関は、MTA (Metropolitan Transportation Authority) が運営する地下鉄とバスが主である。 料金は、地下鉄・バス共に1回2.75ドルの固定運賃製で、1回乗車券のほか、一定金額をプリペイド方式でチャージ可能なペイ・パー・ライド、1日乗車券・期間乗車券・定期券に相当するアンリミッテッド・メトロカード(期間内制限無しに乗車可能)が7日31ドル、30日116.5ドルで販売されている。乗車から2時間以内にされる対向方向以外への乗り換えであれば、追加料金は掛からずに乗換えることができる。 地下鉄・バス共に、ラッシュ時の混雑は余り酷いものではない。朝のラッシュ時でも乗車率は約120%で、身をひしめき合わせるほどではない。その他の時間帯の乗車率はおよそ60%である。タイムズスクエア駅などが比較的大きいが、[[新宿駅]]の5分の1程度の大きさである。 地下鉄でのアナウンスは少ない。旧来型の車両の場合、地下鉄の車掌が早口で次の駅名とドアが閉まることを告げるが聞き取りにくことが多い。新しい車両の場合には、録音音声によりアナウンスされ、車内に設置されたディスプレイでの表示と併せ、改善が見られる。地下鉄駅のプラットホームでのアナウンスは例外的で、車両が到着する際の案内はほぼない。また、バスの車内ではアナウンスは原則ない。乗車時に運転手に依頼すれば、特定の目的地に到着した際に教えてはくれる。 ==== 地下鉄 (Subway) ==== [[File:NYCSub 7 Grand Central.jpg|220px|thumb|right|地下鉄駅]] [[File:Empty_subway_in_NYC.jpg|220px|right|thumb|新型の地下鉄車両]] [[File:R44 Interior.jpg|220px|thumb|right|旧型の地下鉄車両]] {{See also|ニューヨーク市地下鉄|マンハッタンのニューヨーク市地下鉄駅の一覧}} マンハッタンには地下鉄が張り巡らされている。地上の交通が交通渋滞によりスムーズでない場合には、一番速い移動手段となることも多い。他区を走る(Gを除く)全ての地下鉄はマンハッタンに通じている。各路線は1・2・3、N・R・Wなどの記番号と路線の色で区別されている。同じ区間を走っている場合でも、ローカル(各駅停車)とエクスプレス(急行)には別の記番号が振られている。例えばRとNは同じ路線を走る各駅停車と急行である。原則として終日運転である。 時刻表はウェブサイトなどに存在するが、駅構内などに掲示はなく、運行上も時刻を意識しているようには見えず、列車の運行頻度を予測するのに役立つ程度である。列車の運転間隔がまちまちになりやすく、時間調整のための長時間停車や、運転間隔を詰めるための停車駅通過などが行われる。これらは随時行われるが、通過運転を開始する際には駅停車中にアナウンスがある。また、ホームに進入してきた列車が警笛を散発的に鳴らしている場合には、停車予定の車両がそのまま通過することが多い。 マンハッタンを南北に走る路線は、南行をDowntown(都心)方面、北行をUptown(郊外)方面と呼称される。マンハッタンを東西に横切る場合や、マンハッタンを離れて走る場合には、Bronx方面などの地区名で指定されることもある。終着駅が明示されることは少なく、従来型の車両では上り下りの表示の区別はされていない。 地下鉄は治安や衛生の点で悪名が高いが、治安や車両の衛生面は近年改善されている。車体・車内への落書きもかなり目立たなくなっている。ただ、駅施設は全般的に古く、汚いことが多い。マンハッタン内では日中に危険を感じる場面は少ないが、深夜・早朝などは利用者の数が少なく、運行本数が減少するため危険な場所であると理解されている。また、死角などになる場合を避けるため、閑散時にはホーム中心部などの指定場所にて待つことが推奨されている。ターミナルなどの大きな駅を除けば、公共用のトイレはほぼ設置されていない。 地下鉄の車両は、徐々に更新されており<!--[[川崎重工業|カワサキ]]製の(注:カワサキだけでなく、ボンバルディアやGE製の新しい車両もある)-->比較的新しい車両が多い路線もある。従来型の車両は非常に古く、汚れていることも多い。イスは全てプラスチック製でクッションはなく、手すりはあるがつり革はない。冷暖房が壊れていることも多くある。ドアの開閉は無造作で無理やり閉じるドアに身体をこじ入れる駆け込み乗車も見られる。車掌はほぼ中央の車両に乗っている。 エレベーターが未だ設置されていない駅も多い為、車椅子の乗客が階段の上、または下にいる場合、1番近くにいる男性客4人が手助けをすることが規範であるとされ、進んで実践する人々も多い。 ==== バス ==== [[File:NYCTA_Orion_7_HEV_6702.jpg|right|220px|thumb|[[MTAバス]]]] {{See also|MTAリージョナル・バス・オペレーションズ|マンハッタンのバス路線の一覧}} アメリカの多くの都市におけるバスは[[自家用車]]を所有できない[[貧困層]]や学生、新住居者の移動手段であることが多いが、例外的にマンハッタンでは一般住民や旅行者にも広く使われる公共交通となっている。地上を走っているため明るく、比較的安全な乗り物と考えられている。車両は標準的な車両が用いられており、比較的古いものではないことが多い。 地下鉄同様に24時間運行され、全てのバスが[[障害者]]・[[高齢者]]や[[車椅子]]のための昇降機を備えている<ref>[http://www.mta.info/nyct/facts/ffbus.htm]</ref>。 必ず、車椅子の乗客を最初に乗降させる決まりがあり、運転手が車椅子の乗客の乗降をサポートする(車椅子用乗降エレベーターは後部ドアに設置)。盲目者の乗客が停留所にいる場合、盲目者に合わせて停車する。 地下鉄と共通の[[プリペイドカード]]を使用でき、相互の乗り換えも可能な場合がある。マンハッタン内部では短い間隔で停留所が設置されているが、停留所名は一般になく案内する車内アナウンスもない。馴れていない場所などでは、乗車中も自ら現在地を把握している必要がある。 中心部などでは、交通渋滞や路上駐車などが原因で、慢性的に交通の流れが悪い箇所が多数あるため、時間帯などによっては、極端に時間を要するルートもある。 エクスプレスというバスが運行しており、地下鉄が通じていないスタテンアイランド区などとを往復している。観光バスのようなバスでの運行が多いが、乗車料金が5ドルで、アンリミテッド・カードは使用できない。[[地下鉄]]が運休などをした時には振替バスが走る時がある。 === タクシー (Yellow Cab) === [[File:Cabs.jpg|right|220px|thumb|[[イエローキャブ (タクシー)|イエロー・キャブ]]]] {{Main|{{仮リンク|ニューヨーク市のタクシー|en|Taxicabs of New York City}}}} :''ニューヨークのタクシーについては「[[イエローキャブ (タクシー)|イエローキャブ]]」の記事も参照'' ニューヨークを特徴付ける黄色の車両のタクシーは、中心部の日中であれば、相当の台数が走っており、街角で空車を見つけて利用することも容易である。夕刻の劇場周辺や雨天時など、多くの人間が集まるエリアや状況、時間帯には極端に空車が少なくなることも多い。慢性的に交通渋滞や混雑が発生しているので、所要時間を読みにくいが、ドア・ツー・ドアで滞在地から目的地まで車で移動できるため地下鉄・バスに比べ安全性は高い。 日本でのタクシー料金に比べて運賃は割安である。料金は初乗りが2.50ドル。その後は5分の1マイル (321 m) ごとに40セントが追加され、低速で走行している場合には時間制として60秒に40セント追加される。深夜料金は50セント割り増しのほか、平日夕方のラッシュ時には追加料金として1ドルが請求される。橋、トンネルや高速道路の料金は別途請求される。また、チップとして一般に運賃の10〜20%を追加して支払う。通常は「Keep your change(おつりは取っておいて)」と言って、お釣りがないようにして支払うケースが多い。100ドルなどの高額紙幣での支払いは、運賃が高額でお釣りが少ない場合などを除き拒絶されることも多い。 マンハッタン以外の他区や、マンハッタンでも治安が悪い場所にはほとんど走っていない。屋根の上のタクシーの番号を示す部分のランプが付いているのが空車だが、OFF DUTYのランプも点灯している場合は回送である。ドアは自分で開閉する。人数や行き先などで公然と乗車拒否されることも珍しくないが、チップの交渉により乗車できる場合もある。目的地がニューアーク空港などの州外になる場合には、州外の営業が禁止されているため帰りの費用相当として二倍の運賃を求められることもある(この場合、州外へ出る橋やトンネルまでの分は無関係であるため、そこまでの料金を確認する習慣がある)。 タクシーの運転手は70%強が移民1世であるといわれ、あまり英語がきれいでない場合も多い。「16」と「60」(「シックスティーン」と「シクスティ」)のように紛らわしい言葉は、「ワン・シックス」、「シックス・ゼロ」などと確認したほうが無難である。また、観光客だけでなく地元民にとってさえ著名な建物やホテル名などを目的地として告げても理解されないことも多く、中心部であれば番街と丁目で指定し、それ以外であれば道路名と番地に加え、大まかな位置は指示できるようにしておく必要がある。紙に番地を書いて見せたり、地図を指したりすればより間違いない。 日本のタクシーとサービス面で大きく異なるのは、乗車拒否が日常的にあることである。特に深夜などに顕著であり、運転手は車を止め窓だけを開けて、目的地を客に尋ねる。そして、目的地がマンハッタン以外や治安の悪い場所の場合「No!」といってそのまま走り去ることがある。ニュージャージー州などには深夜は100%乗車拒否されるといっても過言ではないため、滞在地がマンハッタンでない場合は、深夜の交通手段は、他の帰宅方法を用意しておく必要がある。 2007年末よりカーナビを搭載した車両が出始め、後部座席で現在地の確認、ニュースなど複数の情報が見られるディスプレイが設置された。数年後には全てのタクシーに設置する予定である。しかし現在カーナビを搭載していない車両も多く、ニューヨークのタクシードライバーは近年の東京の新人ドライバーと比べても劣るほど道を知らない為、利用者も最低限の道案内をできるようにしたほうがよい。 空港などでは、正式な認可を受けていないジプシーキャブ(白タク)といわれる違法タクシーが客引きがトラブルの原因と考えられている。正式な認可を受けたタクシーは全て黄色に塗装されている。正式なタクシーの場合でもメーターが正常に作動しているかを確認すべきであり、運転手がメーターの不作動や遠回りなどの違法行為を行った際は登録番号を控え通報することで対応をしてもらうことができる。 === 自動車の運転 === [[File:0460New York City NYPD.JPG|right|thumb|200px|ニューヨーク市警パトカーとマンハッタンの一般的な道路]] マンハッタンでの自家用車の保有率はアメリカで最も低いが、面積が狭く[[人口密度]]が高いため、交通量は多い。車両は右側通行である。マンハッタン内の道路の多くは[[一方通行]]であり、対面通行は一部の比較的大きな通りに限られる。アメリカでの一般とは異なり、マンハッタン内では赤信号時の右折は禁止されている。 警察官による駐車違反の取り締まりは厳しい。また、「トラフィック・ポリス」という警官がおり、交差点で笛を吹き自動車を誘導する。信号機が動作していても、渋滞緩和のため、時間帯によって交通量の多い車線を信号が赤であっても通行させて交通の流れを向上させる役割を担う。 短期滞在なら[[国際運転免許証]]と他国の免許証により自動車を運転することが認められるが、ニューヨーク市で車を所有するにはニューヨーク州の免許が必要となり、アメリカのいくつかの州と同じく他州の免許証を保持していても認められない。他州の免許からの書き換え以外は、他国の免許からの書換えであっても新規取得と全く同じ手続きや講習が必要である。 [[オートバイ|バイク]]の数が非常に少ない。理由は、盗難に遭いやすいこと、強盗などから運転者の保護がなされないこと、マンハッタンの交通事情から危険であることなどが挙げられる。そのほかには、アメリカではバイクは日常的な乗り物ではなく、娯楽的な乗り物の扱いであることなども考えられる。 マンハッタンは南北に長く東西に短い島のため、東西への移動距離は少ないので、東西に走るクロスタウン・トラフィックは基本的に道幅が狭い。東西方向の高速道路は{{仮リンク|トランス・マンハッタン高速道路|en|Trans-Manhattan Expressway}}のみで、過去に持ち上がった{{仮リンク|ミッド・マンハッタン高速道路|en|Mid-Manhattan Expressway}}と{{仮リンク|ロウワー・マンハッタン高速道路|en|Lower Manhattan Expressway}}の計画は破棄された。 === サイクリング === {{See also|{{仮リンク|ニューヨーク市のサイクリング|en|Cycling in New York City}}}} 近年、マンハッタン内の道路脇に自転車道の整備が進んできている。 == 島外(市外)との交通 == === ロングアイランド鉄道 (Long Island Rail Road) === [[File:LIRR map.svg|right|220px|thumb|ロングアイランド鉄道路線]] [[File:NJT railmap.svg|right|thumb|220px|ニュージャージー鉄道路線図]] [[File:PATH 836.JPG|right|220px|thumb|PATH鉄道]] [[File:Staten island ferry verrazano.jpg|right|220px|thumb|スタテンアイランド・フェリー]] {{See also|ロングアイランド鉄道}} マンハッタン島の東、イースト川を越えた土地は、クイーンズ、ブルックリンなどを含む東京都程の東西に伸びる細長く大きな島[[ロングアイランド]]である。その島を走る鉄道が[[ロングアイランド鉄道]]である。 ロングアイランドにはニューヨーカーに人気のジョーンズビーチなどがあり、彼らの気軽な海水浴、ピクニックの場所となっている他、ロングアイランド鉄道は毎日740本の運行本数と26万人にも上る乗客数で通勤としても使用されている全米最大の鉄道である。 マンハッタンからの乗車は7番ストリート&33丁目の[[ペンシルベニア駅 (ニューヨーク)|ペンシルベニア駅]](通称「ペンステーション」)から乗車できる。この駅は他の電車も発着しているが、名前の頭文字をとった'''LIRR'''という電車に乗る。地下鉄の駅と接続されているが、地下鉄が汚く古い駅なのに対し、ペン駅は近年改装を終えたばかりの非常に綺麗で清潔な場所である。しかしトイレの汚さは想像を絶するものがある。 切符は駅の窓口のほか電車内でも購入できるが、窓口が開いている時間は3ドル割り増しになる。地下鉄と違い料金は行き先によって異なる。ラッシュアワー(平日午前6〜10時・午後4〜8時)以外のOFF PEAKチケットは30%割引になる。5〜11歳は半額。65歳以上は各種割引がある。 === メトロノース鉄道 (Metro-North Rail Road) === {{See also|メトロノース鉄道}} [[グランドセントラル駅]]から発着しており、NY州アップステイト、コネティカット州、マサチューセッツ州など北方に向かう鉄道である。 '''Harlem Line''' * ウェストチェスター (Westchester)、ペルハム (Pelham)、パーチェス (Purchase) などに伸びる。日本人駐在員が多く在住するスカースデールやハーツデール、ヨンカーズなどの近郊住宅地との間を結ぶことから日本人の乗客も多く、「オリエント・エクスプレス」との異名を取ったこともある。 '''Hudson Line''' * ダッチェス地区に伸びる。 '''New Heaven Line''' * [[コネティカット州]]に向かい[[ボストン]]市方面に伸びる。 === ニュージャージー (Transportation to New Jersey) === ニュージャージー州はマンハッタンの真隣にある州であり、そこからの通勤者、通学者も非常に多いが、ニューヨークとは州が違うため、ニューヨーク市地下鉄は通っていない。そのため、ハドソン川を越える交通機関がある。 '''[[パストレイン|PATH鉄道]] (Port Authority Trans-Hudson)''' * マンハッタンからは33丁目、23丁目、14丁目、9丁目などに駅があり、料金は距離に関係なく2.75ドル(5歳以下無料)。 '''[[ニュージャージー・トランジット|ニュージャージー交通]] (New Jersey Transit)''' * 広範囲にNJをカバーする鉄道網で、マンハッタンの[[ペンシルベニア駅 (ニューヨーク)|ペンシルベニア駅]]に発着。 * ラッシュアワー以外の乗車料金は25%割引。 '''バス''' * [[ポート・オーソリティ・ターミナル|ポート・オーソリティ・バス・ターミナル]]と{{仮リンク|ジョージ・ワシントン・ブリッジ・バス・ステーション|en|George Washington Bridge Bus Station}}から出ている。 * 行き先は40本近くある。 * いったんマンハッタンを出たらニューヨークとはシステムが異なる。ニュージャージーのバスは、乗ったらまず運転手に行き先を告げる。そしてその区画の料金を支払う。 '''フェリー''' * マンハッタンから2箇所運行しており、AM6〜PM0まで10〜15分間隔で、通勤・通学の足としても使われている。 === スタテンアイランド・フェリー (Staten Island Ferry) === {{See also|スタテン島フェリー}} マンハッタンの南、自由の女神が立つリバティ島のさらに南にニューヨーク市のスタテンアイランド区がある。アメリカならではの住宅街が広がる完全な島であり、マンハッタンとを結ぶ橋・トンネルはなくブルックリンに巨大な橋が架かっているのみである。スタテンアイランド・フェリーは全て無料。マンハッタンの夜景や自由の女神を横切って走るフェリーはニューヨーカー達のビュースポットでもある。2〜3台運行しており、20分間隔程で往復している。 同島に陸路で行くルート例としては、地下鉄でブルックリンまで行き、そこからバスで橋を渡る。 === ヘリコプター === イースト川のピア6にあるマンハッタンの公営ヘリポート([[ダウンタウン・マンハッタン・ヘリポート]])と、ニュージャージー州の[[ニューアーク国際空港]]との間を[[ヘリコプター]]シャトルが8-10分で結んでいる。 == 教育 == [[File:New York Public Library May 2011.JPG|thumb|[[ニューヨーク公共図書館]] ]] {{Main|{{仮リンク|ニューヨーク市の教育|en|Education in New York City}}}} マンハッタン区の教育は多くの公立および私立の機関によって行われている。区内の公立学校は、アメリカで最も大きな公立学校システムである[[ニューヨーク市教育局]]によって実施されている<ref>[http://www.city-data.com/us-cities/The-Northeast/New-York-Education-and-Research.html New York: Education and Research], City Data. Retrieved September 10, 2006.</ref>。[[チャーター・スクール]]には{{仮リンク|ハーレム・サクセス・アカデミー|en|Harlem Success Academy}}や{{仮リンク|パブリック・プレップ|label=ガールズ・プレップ|en|Public Prep}}がある。また、2011年時点では[[ノーベル賞]]受賞者の輩出数が世界一多い[[コロンビア大学]]を始め、その他[[大学]]がマンハッタン区に校舎を構えている。 主な教育機関 * [[イェシーバー大学]] * [[コロンビア大学]] * [[ジュリアード音楽院]] * [[セント・ジョーンズ大学]] * [[マウントサイナイ医科大学]] * [[マンハッタン音楽学校]] * [[ニュースクール大学]] * [[ニューヨーク大学]] * [[ニューヨーク州立大学]] * [[ニューヨーク市立大学]] * [[ロックフェラー大学]] * [[フォーダム大学]] * ペース大学 == ギャラリー == [[File:Skyline-New-York-City.jpg|center|thumb|1000px|マンハッタン全貌(2005年)]] [[File:26_-_New_York_-_Octobre_2008.jpg|center|thumb|750px|[[セントラルパーク]]園内(2008年)]] [[File:NYC Top of the Rock Pano.jpg|center|thumb|600px|マンハッタン夜景(2005年)]] [[File:New_York_Midtown_Skyline_at_night_-_Jan_2006_edit1.jpg|center|thumb|500px|[[エンパイア・ステート・ビルディング]]から撮影した夜の[[ミッドタウン]](2006年)]] <gallery mode="packed"> File:Manhattan amk.jpg|ダウンタウン方面 File:New-York-Jan2005.jpg|アップタウン方面 File:NYC wideangle south from Top of the Rock.jpg|[[ミッドタウン]] File:Brooklyn from the Air.jpg|ブルックリン方面から File:Vista aérea de Times Square desde el Empire State Building.jpg|タイムズスクエア夜景 File:Lower Manhattan by night.jpg|ダウンタウン夜景 File:Wtc-2004-memorial.jpg|9.11記念式典 File:Empire State Building Feb 2006.jpg|[[エンパイア・ステート・ビルディング]] File:Chrysler Building 2007.JPG|[[クライスラー・ビルディング]] File:GE Building by David Shankbone.JPG|[[ロックフェラーセンター]] File:Ground Zero.jpg|[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センタービル]]跡地 File:CentralParkFromAboveCropped.jpg|[[セントラルパーク]] File:1_times_square_night_2013.jpg|[[タイムズスクエア]] File:Photos NewYork1 032.jpg|[[ニューヨーク証券取引所]] File:MET NYC.jpg|[[メトロポリタン美術館]] File:Columbia University 01.jpg|[[コロンビア大学]] File:Grand Central Station Main Concourse Rectilinear projection Jan 2006.jpg|[[グランド・セントラル駅]] File:Carnegie Hall-I.JPG|[[カーネギーホール]] File:Union Square.jpg|[[ユニオンスクエア (ニューヨーク市)|ユニオン・スクエア]] File:ColumbusCirclefromTimeWarnerCenterNYC20050807.jpg|[[コロンバス・サークル]] File:5_Av_51_St_North_March_2015b_jeh.jpg|[[5番街 (マンハッタン) |5番街]] File:GreenwichVillage.JPG|[[グリニッジ・ヴィレッジ]] File:Cooper Union by David Shankbone.jpg|[[イースト・ヴィレッジ]] File:Mercer6630.JPG|[[ソーホー (ニューヨーク)|ソーホー]] </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{関連項目過剰|date=2020年7月}} {{Commonscat|Manhattan, New York City}} === 人物 === * [[マイケル・ブルームバーグ]] * [[ドナルド・トランプ]] * [[カーイン・リョン]] * [[ウディ・アレン]] * [[フランク・シナトラ]] * [[ロバート・デニーロ]] * [[エド・サリヴァン]] * [[デビッド・レターマン]] * [[ジェイ・レノ]] *[[ティモシー・ケラー]] === その他 === * [[ニューヨーク州の郡一覧]] * [[アメリカ同時多発テロ]] * [[リムジン]] ;番組・映画・小説 * [[レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン]] * [[セックス・アンド・ザ・シティ]] * [[ティファニーで朝食を]] *[[ゴシップガール]] ;マンハッタンを冠するもの * [[マンハッタン化]] * [[マンハッタン計画]] * [[マンハッタンカフェ]] * [[シバーム|砂漠のマンハッタン]] * [[マンハッタン (カクテル)]] * [[マンハッタン (歌)]] * [[マンハッタン (映画)]] == 外部リンク == * [http://www.nylovesyou.com/ ニューヨークトラベル情報] * [http://life.time.com/history/lower-manhattan-before-9-11-classic-photos-of-downtown-new-york/?iid=lf%7Cmostpop#1 Lower Manhattan: Where New York Was Born] - ''LIFE.TIME.com([[ライフ (雑誌)|ライフ]])''.画像アーカイブ.2013年9月10日閲覧. {{ニューヨーク}} {{ニューヨーク州}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まんはつたん}} [[Category:マンハッタン|*]] [[Category:ニューヨーク州の郡]] [[Category:中州]]
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電磁場
電磁場(でんじば, 英語: electromagnetic field, EMF)、あるいは電磁界(でんじかい)は、電場(電界)と磁場(磁界)の総称。 電場と磁場は時間的に変化しないような静的な場合を除いて必ず同時に存在し、マクスウェル方程式で関連づけられる。電場、磁場が時間的に一定で 0 でない場合、それぞれは分離され、静電場、静磁場として別々に扱われる。 電磁場の変動が波動として空間中を伝播するとき、これを電磁波という。 電磁場という用語を単なる概念として用いる場合と、物理量として用いる場合がある。 概念として用いる場合は、電場の強度と電束密度、あるいは磁場の強度と磁束密度を明確に区別せずに用いるが、物理量として用いる場合は電場の強度と磁束密度の組であることが多い。 また、これらの物理量は電磁ポテンシャルによっても記述され、ラグランジュ形式などで扱う場合は電磁ポテンシャルが基本的な物理量として扱われる。このような場合には電磁ポテンシャルを指して電磁場という事もある。CGS単位系では電場と磁場は同一の物理次元を持つが、MKSA単位系では [ E ] = c [ B ] {\displaystyle [E]=c[B]} となっている ( c {\displaystyle c} は光速)。 電磁場のふるまいは、マクスウェルの方程式、あるいは量子電磁力学 (QED) によって記述される。マクスウェルの方程式を解いて、電磁場のふるまいについて解析することを電磁場解析と言う。 電場と磁場はローレンツ変換により互いに移り合う。座標系 O で電場 E {\displaystyle \mathbf {E} } , 磁場(磁束密度) B {\displaystyle \mathbf {B} } が存在するとき、x軸方向に速度 v で運動する座標系 O' では次の電磁場 E ′ {\displaystyle \mathbf {E} '} , B ′ {\displaystyle \mathbf {B} '} として観測される。 特に v / c ≪ 1 {\displaystyle v/c\ll 1} のとき、これらの等式は次の公式に帰着される。 また、 E 2 − c 2 B 2 {\displaystyle \mathbf {E} ^{2}-c^{2}\mathbf {B} ^{2}} と E ⋅ B {\displaystyle \mathbf {E} \cdot \mathbf {B} } というふたつのスカラー量はローレンツ不変である。なお電場と磁場は電磁テンソルという単一の反対称テンソルとして統一的に扱うことができる。 電磁場はそれ自体エネルギーと運動量を担い、その密度 (エネルギー密度 u {\displaystyle u} と運動量密度 p {\displaystyle \mathbf {p} } ) は次式で与えられる。 ここに S {\displaystyle \mathbf {S} } はポインティング・ベクトルである。その保存則として次の連続の式が成り立つ。 従ってポインティングベクトルは電磁場の運動量密度を表すと同時に、電磁場のエネルギー流速密度をも表している。また σ {\displaystyle \sigma } はマクスウェルの応力テンソルである。
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電磁場、あるいは電磁界(でんじかい)は、電場(電界)と磁場(磁界)の総称。 電場と磁場は時間的に変化しないような静的な場合を除いて必ず同時に存在し、マクスウェル方程式で関連づけられる。電場、磁場が時間的に一定で 0 でない場合、それぞれは分離され、静電場、静磁場として別々に扱われる。 電磁場の変動が波動として空間中を伝播するとき、これを電磁波という。
'''電磁場'''(でんじば, {{Lang-en|electromagnetic field}}, EMF)、あるいは'''電磁界'''(でんじかい)は、[[電場]](電界)と[[磁場]](磁界)の総称<ref name="tele.soumu">{{Cite web|和書|url=https://www.tele.soumu.go.jp/resource/j/material/dwn/guide38.pdf |title=電波防護指針 |publisher=総務省 |accessdate=2019-11-24}}</ref>。 電場と磁場は時間的に変化しないような静的な場合を除いて必ず同時に存在し、[[マクスウェル方程式]]で関連づけられる<ref name="tele.soumu" />。電場、磁場が時間的に一定で 0 でない場合、それぞれは分離され、[[静電場]]、[[静磁場]]として別々に扱われる。 電磁場の変動が[[波動]]として[[空間]]中を伝播するとき、これを[[電磁波]]という。 == 概念 == 電磁場という用語を単なる[[概念]]として用いる場合と、[[物理量]]として用いる場合がある。 概念として用いる場合は、[[電場|電場の強度]]と[[電束密度]]、あるいは[[磁場|磁場の強度]]と[[磁束密度]]を明確に区別せずに用いるが、物理量として用いる場合は電場の強度と磁束密度の組であることが多い。 また、これらの物理量は[[電磁ポテンシャル]]によっても記述され、[[ラグランジュ形式]]などで扱う場合は電磁ポテンシャルが基本的な物理量として扱われる。このような場合には電磁ポテンシャルを指して電磁場という事もある。[[CGS単位系]]では電場と磁場は同一の[[物理次元]]を持つが、[[MKSA単位系]]では <math>[ E ] = c [ B ]</math> となっている (<math>c</math> は[[光速]])。 電磁場のふるまいは、'''[[マクスウェルの方程式]]'''、あるいは'''[[量子電磁力学]]''' (QED) によって記述される。[[マクスウェルの方程式]]を解いて、電磁場のふるまいについて解析することを[[電磁場解析]]と言う。 == 電場と磁場の関係 == 電場と磁場は[[ローレンツ変換]]により互いに移り合う。座標系 O で電場 <math>\mathbf{E}</math>, 磁場(磁束密度) <math>\mathbf{B}</math> が存在するとき、x軸方向に速度 v で運動する座標系 O' では次の電磁場 <math>\mathbf{E}'</math>, <math>\mathbf{B}'</math> として観測される<ref>{{cite book|和書 |last1=ランダウ |first1=L. D. |authorlink1=レフ・ランダウ |last2=リフシッツ |first2=E. M. |authorlink2=エフゲニー・リフシッツ |title=場の古典論 |others=恒藤 敏彦(訳)|publisher=東京図書 |date=1978-10-30 |pages=69-73 |isbn=978-4-489-01161-0}}</ref>。 :<math>E'_x = E_x, \ \ E'_y = \frac{ E_y - v B_z }{ \sqrt{ 1 - v^2/c^2 } } , \ \ E'_z = \frac{ E_z + v B_y }{ \sqrt{ 1 - v^2/c^2 } }</math> :<math>B'_x = B_x, \ \ B'_y = \frac{ B_y + v c^{-2} E_z }{ \sqrt{ 1 - v^2/c^2 } } , \ \ B'_z = \frac{ B_z - v c^{-2} E_y }{ \sqrt{ 1 - v^2/c^2 } }</math> 特に <math>v / c \ll 1</math> のとき、これらの等式は次の公式に帰着される。 :<math>\mathbf{E}' = \mathbf{E} - \mathbf{B} \times \mathbf{v} , \ \ \mathbf{B}' = \mathbf{B} + \frac{ 1 }{ c^2 } \mathbf{E} \times \mathbf{v}</math> また、<math>\mathbf{E}^2 - c^2 \mathbf{B}^2</math> と <math>\mathbf{E} \cdot \mathbf{B}</math> というふたつのスカラー量はローレンツ不変である。なお電場と磁場は[[電磁テンソル]]という単一の反対称テンソルとして統一的に扱うことができる。 == 電磁場のエネルギーと運動量 == 電磁場はそれ自体[[エネルギー]]と[[運動量]]を担い、その密度 (エネルギー密度 <math>u</math> と運動量密度 <math>\mathbf{p}</math>) は次式で与えられる<ref>{{cite book|和書 |last1=ランダウ |first1=L. D. |authorlink1=レフ・ランダウ |last2=リフシッツ |first2=E. M. |authorlink2=エフゲニー・リフシッツ |title=場の古典論 |others=恒藤 敏彦(訳)|publisher=東京図書 |date=1978-10-30 |pages=85-93 |isbn=978-4-489-01161-0}}</ref><ref>{{Cite book |last=Griffiths |first=David J. |year=2008 |title=Introduction to Electrodynamics |publisher=Pearson |edition=3 |page=345-356 |isbn=9780139199608}}</ref>。 :<math>u = \frac{ \varepsilon_0 }{ 2 } \mathbf{E}^2 + \frac{ 1 }{ 2 \mu_0 } \mathbf{B}^2</math> :<math>\mathbf{p} = c^2 \mathbf{S} , \ \ \mathbf{S} = \frac{ 1 }{ \mu_0 } \mathbf{E} \times \mathbf{B}</math> ここに <math>\mathbf{S}</math> は[[ポインティング・ベクトル]]である。その保存則として次の連続の式が成り立つ。 :<math>\frac{ \partial u }{ \partial t } + \nabla \cdot \mathbf{S} = 0 , \ \ \frac{ \partial \mathbf{p} }{ \partial t } + \nabla \cdot \sigma = 0</math> 従ってポインティングベクトルは電磁場の運動量密度を表すと同時に、電磁場のエネルギー流速密度をも表している。また <math>\sigma</math> は[[マクスウェルの応力テンソル]]である<ref group="注釈">Griffiths ではマクスウェルの応力テンソルを反対の符号に定義しているが、ここではランダウ&リフシッツ「場の古典論」での定義に従った。</ref>。 :<math>\sigma_{i j} = \varepsilon_0 \left( - E_i E_j + \frac{ 1 }{ 2 } \delta_{i j} \mathbf{E}^2 \right) + \frac{ 1 }{ \mu_0 } \left( - B_i B_j + \frac{ 1 }{ 2 } \delta_{i j} \mathbf{B}^2 \right)</math> {{see also|エネルギー・運動量テンソル#電磁場のエネルギー・運動量テンソル}} == 量子化された電磁場 == {{main|電磁場の量子化}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === <references /> == 関連項目 == * [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]] * [[ポインティング・ベクトル]] * [[電磁ポテンシャル]] {{電磁気学}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:てんしは}} [[Category:電磁気学]] [[Category:物理量]] [[Category:時空]] [[Category:エネルギー]]
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マクスウェルの方程式
マクスウェルの方程式(マクスウェルのほうていしき、英: Maxwell's equations、マクスウェル方程式とも)は、電磁場を記述する古典電磁気学の基礎方程式である。マイケル・ファラデーが幾何学的考察から見出した電磁力に関する法則が1864年にジェームズ・クラーク・マクスウェルによって数学的形式として整理された。マクスウェルの方程式はマックスウェルの方程式とも表記される。マクスウェル-ヘルツの電磁方程式、電磁方程式などとも呼ばれる。 これらの方程式系に整理されたことから、電場と磁場の統一(電磁場)、光が電磁波であることなどが導かれ、その時空論としての特殊相対性理論に至る。後年、アインシュタインは特殊相対性理論の起源はマクスウェルの電磁場方程式である旨を明言している。 マクスウェルが導出した方程式はベクトルの各成分をあたかも互いに独立な量であるかのように別々の文字で表して書かれており、現代の洗練された形式ではなかった。これを1884年にヘヴィサイドがベクトル解析の記法を適用して現在の見やすい形に書き改めた。しかも彼は既にそこで電磁ポテンシャルが消去出来ることを示して、方程式系を今日我々が知る形に整理していた。しかし、その意義は直ちには認められるに至らなかった。 ベクトル記法が一般化し始めるのは 1890年代半ばであって、ヘルツの論文ではまだそれを使っていない。いずれにせよ、このベクトル解析の記法の採用は場における様々な対称性を一目で見ることを可能にし、物理現象の理解に大いに役立った。 真空中の電磁気学に限れば、マクスウェルの方程式の一般解は、ジェフィメンコ方程式として与えられる。 なお電磁気学の単位系は国際単位系に発展したMKSA単位系のほかガウス単位系などがあり、単位系によってマクスウェルの方程式の表式における係数が異なるが、以下では原則として国際単位系を用いることとする。 (微分形による)マクスウェルの方程式は、以下の4つの連立偏微分方程式である。記号「 ∇ ⋅ {\displaystyle \nabla \cdot } 」、「 ∇ × {\displaystyle \nabla \times } 」はそれぞれベクトル場の発散 (div) と回転 (rot) である。 また、一般の媒質の構成方程式は(E-B対応では)以下である。 ここで E {\displaystyle {\boldsymbol {E}}} は電場の強度、 D {\displaystyle {\boldsymbol {D}}} は電束密度、 B {\displaystyle {\boldsymbol {B}}} は磁束密度、 H {\displaystyle {\boldsymbol {H}}} は磁場の強度、 P {\displaystyle {\boldsymbol {P}}} は分極、 M {\displaystyle {\boldsymbol {M}}} は磁化を表す。また、 ε 0 {\displaystyle \varepsilon _{0}} は真空の誘電率、 μ 0 {\displaystyle \mu _{0}} は真空の透磁率、 ρ {\displaystyle \rho } は電荷密度、 j {\displaystyle {\boldsymbol {j}}} は電流密度を表す。真空中では P = M = 0 {\displaystyle {\boldsymbol {P}}={\boldsymbol {M}}={\boldsymbol {0}}} となる。 次に、4つの個々の方程式(成分表示で8つの式、テンソル表示で2つの式)について説明する。 積分形で表すと次の式になる。 ここでdS は、閉曲面 S 上の面素ベクトルである。 構造的に見て磁力線が閉曲線でなければならないことを意味する。この式は電場の積分形と同様に、閉曲面上を積分したときにのみ意味がある。 これらの式は、磁気単極子(モノポール)が存在しないことを前提としており、もし磁気単極子が発見されたならば、上の式は次のように変更されなければならない。 ここで ρm は磁気単極子の磁荷密度である。 この式を積分形で表すと次の式になる。 ただし、 ここで、(向きのついた)閉曲線を C 、C を縁とする曲面を S として、 φ {\displaystyle \phi } は曲面 S を通過する磁束、V は経路 C に沿った(誘導)起電力である。 ファラデー-マクスウェルの式の積分形で時間微分を積分の外に置く場合、経路 C と曲面 S は時間変化しないものとする。 一方、「ファラデーの電磁誘導の法則」は導線が動くケースにも適用されることがある。 なお、式中の負号があるため、磁束密度の時間微分の向きと電場の「渦」の向きの関係は「左ねじ」になる。 上の式は、電束は電荷の存在するところで発生・消滅し、それ以外のところでは保存されることを意味している。 マクスウェル-ガウスの式を積分形で表すと次の式になる。 ここで dS は、閉曲面 S 上の面素ベクトルであり、Qencl は閉曲面 S で囲まれた領域内の電荷である。この積分形は、閉曲面上を積分したときにのみ意味があり、ガウスの法則としてよく知られている。 積分形は次のようになる。 C は曲面 S の縁となる閉曲線である。 右辺の第2項は変位電流項と呼ばれる。変位電流は媒質が普通の金属ならばまず無視できる。電場の変動の角周波数 ω が電気伝導度 σ と誘電率 ε の比より十分小さければよい。普通の金属の電気伝導度は σ 〜 10 S/m 程度で、誘電率は真空とさほど変わらない ε 〜 10 F/mから となり、ω がTHz単位でも条件を満たしている。 変位電流が無視できるような電流を準定常電流という。 マクスウェルの方程式は、次の2つの組に分類されることが多い。 第1の組は、 である。この式は電磁場の拘束条件を与える式である(ビアンキ恒等式)。 この式は E , B {\displaystyle {\boldsymbol {E}},~{\boldsymbol {B}}} を電磁ポテンシャル φ , A {\displaystyle \phi ,~{\boldsymbol {A}}} により、 と表せば恒等的に満たすように出来る。 マクスウェル自身の原著論文『電磁場の動力学的理論』(1865年)や原著教科書『電気磁気論』(1873年)では上記のように表されていたが、1890年になってヘルツが改めて理論構成を考察し、上記2式から電磁ポテンシャルを消去し(1a), (1b) を基本方程式とすることを要請した。このヘルツによる電磁ポテンシャルを消去した形をマクスウェルの方程式と見なすのが現在の主流となっている。この見かたでは (0a) と (0b) は電磁場の定義式と見なされる。 また、電磁場はローレンツ力 により電荷、電流の分布を変動させる。 第2の組は、 である。電荷、電流の分布が電磁場の源となっていることを表す式である(電磁場の運動方程式)。 電磁場の微分(左辺)が電荷、電流の分布(右辺)によって書かれており、電荷、電流の分布を与えると電磁場の形が分かる方程式になっている。 この式から、電荷、電流の分布には電気量保存則(連続の方程式) が成り立つことが導かれる。 それぞれの組は時間微分を片側に移し、 と変形すれば、時間発展の方程式とその初期条件と見ることができる。 媒質の構成方程式は、それぞれ別の方法で定義された源場( D , H {\displaystyle {\boldsymbol {D}},~{\boldsymbol {H}}} )と力場( E , B {\displaystyle {\boldsymbol {E}},~{\boldsymbol {B}}} )を関連付ける方程式である。 電荷密度と電流密度が作る場である D , H {\displaystyle {\boldsymbol {D}},~{\boldsymbol {H}}} と、電荷密度と電流密度に力を及ぼす場である E , B {\displaystyle {\boldsymbol {E}},~{\boldsymbol {B}}} は分極 P {\displaystyle {\boldsymbol {P}}} と磁化 M {\displaystyle {\boldsymbol {M}}} を介して以下のように関連付けられる。 真空中では P = M = 0 {\displaystyle {\boldsymbol {P}}={\boldsymbol {M}}={\boldsymbol {0}}} となる。 E-H対応の場合は磁気に関する構成方程式が B = μ 0 H + P m {\displaystyle {\boldsymbol {B}}=\mu _{0}{\boldsymbol {H}}+{\boldsymbol {P}}_{\mathrm {m} }} となる。 P m {\displaystyle {\boldsymbol {P}}_{\mathrm {m} }} は磁気分極(または単に磁化)と呼ばれ、 M {\displaystyle {\boldsymbol {M}}} とは違う次元をもつ。 構成方程式による源場( D , H {\displaystyle {\boldsymbol {D}},~{\boldsymbol {H}}} )と力場( E , B {\displaystyle {\boldsymbol {E}},~{\boldsymbol {B}}} )の関係を使ってマクスウェル方程式の源場に関する式を力場で表すと となる。さらに分極電荷密度、分極電流密度、磁化電流密度を として導入すれば、方程式は以下のように書ける。 誘電体に生じる分極は媒質によって異なり、結晶のような方向性がある場合では一般に P {\displaystyle {\boldsymbol {P}}} の向きと E {\displaystyle {\boldsymbol {E}}} の向きは異なるが、等方性のある物質で電場があまり強くない場合は分極は電場に比例し、 となる。 χ e {\displaystyle \chi _{\mathrm {e} }} は電気感受率である。 また、磁性体に生じる磁化も強磁性でない物質で磁場があまり強くない場合は分極は磁場に比例し、 となる。 χ m {\displaystyle \chi _{\mathrm {m} }} は磁化率である。 このとき、構成方程式は ここで とすると と表せる。ここで ε , μ {\displaystyle \varepsilon ,~\mu } はそれぞれその媒質の誘電率と透磁率であり、媒質の性質を特徴付ける物性値である。これらは等方的な媒質ではスカラーであるが、一般にはテンソルとなる。 媒質が存在しない真空中(自由空間中)においては、 P = M = 0 {\displaystyle {\boldsymbol {P}}={\boldsymbol {M}}={\boldsymbol {0}}} となり、真空の構成方程式は となる。また、光速度 c 0 {\displaystyle c_{0}} と真空のインピーダンス Z 0 {\displaystyle Z_{0}} を用いて以下のようにまとめられる。 以下のローレンツ条件 における電磁ポテンシャル(ベクトルポテンシャル A {\displaystyle {\boldsymbol {A}}} とスカラーポテンシャル φ {\displaystyle \phi } )を用いて、マクスウェル方程式は以下の2組の方程式として表すことができる。 いずれの式も左辺は線形演算子のダランベルシアン□が作用しており、右辺は片やスカラー値の、片やベクトル値の連続関数である。ベクトルについては各々の成分について適用して考えることでスカラーの場合と同様に考えることができる。線形微分方程式に対してはグリーン関数法を考えることで解くことができる。すなわち、 ( Δ − 1 c 2 ∂ 2 ∂ t 2 ) G ( x , t ) = − δ ( x , t ) {\displaystyle \left(\Delta -{\frac {1}{c^{2}}}{\frac {\partial ^{2}}{\partial t^{2}}}\right)G({\boldsymbol {x}},t)=-\delta ({\boldsymbol {x}},t)} の解となる関数(グリーン関数) G ( x , t ) {\displaystyle G({\boldsymbol {x}},t)} を求めることで一般に ( Δ − 1 c 2 ∂ 2 ∂ t 2 ) f ( x , t ) = − ρ ( x , t ) {\displaystyle \left(\Delta -{\frac {1}{c^{2}}}{\frac {\partial ^{2}}{\partial t^{2}}}\right)f({\boldsymbol {x}},t)=-\rho ({\boldsymbol {x}},t)} なる方程式に対して f ( x , t ) = ∫ d 3 x ′ d t ′ G ( x − x ′ , t − t ′ ) ρ ( x ′ , t ′ ) {\displaystyle f({\boldsymbol {x}},t)=\int \mathrm {d} ^{3}x'\mathrm {d} t'\ G({\boldsymbol {x}}-{\boldsymbol {x}}',t-t')\rho ({\boldsymbol {x}}',t')} として求めることができる。このときのグリーン関数は先進グリーン関数と遅延グリーン関数の2つを得るが、物理的に意味のある遅延グリーン関数を採用することで遅延ポテンシャルを得ることができる。 遅延ポテンシャルを元に電場や磁場を計算するのが一般に運動している物体についての電磁場を検討する際に楽な方法であり、結果としてジェフィメンコ方程式を得ることになる。 マクスウェルの方程式から、電磁波の伝播についての記述を得ることができる。真空または電荷分布がない絶縁体では、電場と磁場が次の波動方程式 を満たすことがマクスウェル方程式から示される。これは電磁場が媒質中を速さ で伝搬する波動であることを意味する。媒質の屈折率 を導入すれば、 v {\displaystyle v} は とも表される。 ここで、真空の誘電率と真空の透磁率の各値から導かれる定数 c {\displaystyle c} の値が光速度の値とほとんど一致することから、マクスウェルは光は電磁波ではないかという予測を行った。その予測は1888年にハインリヒ・ヘルツによって実証された。ヘルツはマクスウェルの方程式の研究に貢献したので、マクスウェルの方程式はマクスウェル-ヘルツの(電磁)方程式と呼ばれることもある。 19世紀後半を通じて物理学者の大半は、マクスウェルの方程式において光速度が全ての観測者に対して不変になるという予測と、ニュートン力学の運動法則がガリレイ変換に対して不変を保つことが矛盾することから、これらの方程式は電磁場の近似的なものに過ぎないと考えた。しかし、1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を提出したことによって、マクスウェルの方程式が正確で、ニュートン力学の方を修正すべきだったことが明確になった。これらの電磁場の方程式は、特殊相対性理論と密接な関係にあり、ローレンツ変換に対する不変性(共変性)を満たす。磁場の方程式は、光速度に比べて小さい速度では、相対論的変換による電場の方程式の変形に結び付けられる。 電場と磁場による表現では、共変性が見にくいため、4元ポテンシャル A を考える。 A μ = ( φ / c , A ) , A μ = η μ ν A ν = ( φ / c , − A ) {\displaystyle A^{\mu }=(\phi /c,{\boldsymbol {A}}),~A_{\mu }=\eta _{\mu \nu }A^{\nu }=(\phi /c,-{\boldsymbol {A}})} 但し、重複するギリシャ文字に対してはアインシュタインの縮約記法に従って和をとるものとし、計量テンソルは ημν = diag(1, −1, −1, −1) で与えるものとする。また、各ギリシャ文字は 0,1,2,3 の値を取り、0は時間成分、1,2,3は空間成分を表すものとする。特に時空の座標については (x, x, x, x) = (ct, x, y, z) である。 電磁ポテンシャルから構成される電磁場テンソル F μ ν ≡ ∂ μ A ν − ∂ ν A μ = − F ν μ {\displaystyle F_{\mu \nu }\equiv \partial _{\mu }A_{\nu }-\partial _{\nu }A_{\mu }=-F_{\nu \mu }} (0a,0bに対応) を導入する。電場、磁場との対応関係は ( F 01 , F 02 , F 03 ) = ( E 1 / c , E 2 / c , E 3 / c ) , ( F 32 , F 13 , F 21 ) = ( B 1 , B 2 , B 3 ) {\displaystyle (F_{01},F_{02},F_{03})=(E_{1}/c,E_{2}/c,E_{3}/c),~(F_{32},F_{13},F_{21})=(B_{1},B_{2},B_{3})} となる。 このとき、マクスウェル方程式はローレンツ変換に対しての共変性が明確な形式で、次のような2つの方程式にまとめられる。 ∂ ρ F μ ν + ∂ μ F ν ρ + ∂ ν F ρ μ = 0 {\displaystyle \partial _{\rho }F_{\mu \nu }+\partial _{\mu }F_{\nu \rho }+\partial _{\nu }F_{\rho \mu }=0} (1a,1bに対応) ∂ μ F μ ν = μ 0 j ν {\displaystyle \partial _{\mu }F^{\mu \nu }=\mu _{0}j^{\nu }} (2a,2bに対応) 但し、j は4元電流密度 j μ = ( c ρ , j ) {\displaystyle j^{\mu }=(c\rho ,{\boldsymbol {j}})} である。このとき、電荷の保存則は ∂ μ j μ = 0 {\displaystyle \partial _{\mu }j^{\mu }=0} (3に対応) と表される。なお、4元ポテンシャルで表現すると、マクスウェル方程式は次の一つの方程式にまとめられる。 ◻ A μ − ∂ μ ∂ ν A ν = μ 0 j μ {\displaystyle \Box A^{\mu }-\partial ^{\mu }\partial _{\nu }A^{\nu }=\mu _{0}j^{\mu }} ここで、□はダランベルシアンである。 マクスウェルの方程式は多様体理論における微分形式によって簡明に表現することができる。 まず電磁ポテンシャル A により、1次微分形式 A = A μ d x μ = φ d t − A x d x − A y d y − A z d z {\displaystyle A=A_{\mu }\mathrm {d} x^{\mu }=\phi \,\mathrm {d} t-A_{x}\,\mathrm {d} x-A_{y}\,\mathrm {d} y-A_{z}\,\mathrm {d} z} を導入する。これに外微分を作用させることで2次微分形式 F ≡ d A = 1 2 ( ∂ μ A ν − ∂ ν A μ ) d x μ ∧ d x ν = 1 2 F μ ν d x μ ∧ d x ν = E x d t ∧ d x + E y d t ∧ d y + E z d t ∧ d z − B x d y ∧ d z − B y d z ∧ d x − B z d x ∧ d y {\displaystyle {\begin{aligned}F&\equiv \mathrm {d} A={\tfrac {1}{2}}(\partial _{\mu }A_{\nu }-\partial _{\nu }A_{\mu })\,\mathrm {d} x^{\mu }\wedge \mathrm {d} x^{\nu }\\&={\tfrac {1}{2}}F_{\mu \nu }\,\mathrm {d} x^{\mu }\wedge \mathrm {d} x^{\nu }\\&=E_{x}\,\mathrm {d} t\wedge \mathrm {d} x+E_{y}\,\mathrm {d} t\wedge \mathrm {d} y+E_{z}\,\mathrm {d} t\wedge \mathrm {d} z-B_{x}\,\mathrm {d} y\wedge \mathrm {d} z-B_{y}\,\mathrm {d} z\wedge \mathrm {d} x-B_{z}\,\mathrm {d} x\wedge \mathrm {d} y\end{aligned}}} が定義される。 さらに F のホッジ双対として 2次微分形式 H ≡ 1 μ 0 F ∗ = 1 4 μ 0 ε μ ν ρ σ F μ ν d x ρ ∧ d x σ = 1 2 H μ ν d x μ ∧ d x ν = H x c d t ∧ d x + H y c d t ∧ d y + H z c d t ∧ d z + D x c d y ∧ d z + D y c d z ∧ d x + D z c d x ∧ d y {\displaystyle {\begin{aligned}H&\equiv {\tfrac {1}{\mu _{0}}}F^{*}={\tfrac {1}{4\mu _{0}}}\epsilon _{\mu \nu \rho \sigma }F^{\mu \nu }\mathrm {d} x^{\rho }\wedge \mathrm {d} x^{\sigma }\\&={\tfrac {1}{2}}H_{\mu \nu }\,\mathrm {d} x^{\mu }\wedge \mathrm {d} x^{\nu }\\&=H_{x}\,c\mathrm {d} t\wedge \mathrm {d} x+H_{y}\,c\mathrm {d} t\wedge \mathrm {d} y+H_{z}\,c\mathrm {d} t\wedge \mathrm {d} z+D_{x}c\,\mathrm {d} y\wedge \mathrm {d} z+D_{y}c\,\mathrm {d} z\wedge \mathrm {d} x+D_{z}c\,\mathrm {d} x\wedge \mathrm {d} y\end{aligned}}} が定義される。 4元電流密度により1次微分形式 J = j μ d x μ = ρ c 2 d t − j x d x − j y d y − j z d z {\displaystyle J=j_{\mu }\mathrm {d} x^{\mu }=\rho c^{2}\mathrm {d} t-j_{x}\mathrm {d} x-j_{y}\mathrm {d} y-j_{z}\mathrm {d} z} を導入し、これのホッジ双対により3次微分形式 J ∗ = 1 3 ! ε μ ν ρ σ j μ d x ν ∧ d x ρ ∧ d x σ = ρ c d x ∧ d y ∧ d z − j x c d t ∧ d y ∧ d z − j y c d t ∧ d z ∧ d x − j z c d t ∧ d x ∧ d y {\displaystyle {\begin{aligned}J^{*}&={\tfrac {1}{3!}}\epsilon _{\mu \nu \rho \sigma }j^{\mu }\mathrm {d} x^{\nu }\wedge \mathrm {d} x^{\rho }\wedge \mathrm {d} x^{\sigma }\\&=\rho c\,\mathrm {d} x\wedge \mathrm {d} y\wedge \mathrm {d} z-j_{x}\,c\mathrm {d} t\wedge \mathrm {d} y\wedge \mathrm {d} z-j_{y}\,c\mathrm {d} t\wedge \mathrm {d} z\wedge \mathrm {d} x-j_{z}\,c\mathrm {d} t\wedge \mathrm {d} x\wedge \mathrm {d} y\end{aligned}}} を定義すれば、外微分の作用により運動方程式(2a,2b)に対応して d H = J ∗ {\displaystyle \mathrm {d} H=J^{*}} となる。 外微分の性質 ddξ=0 から(1a,1b)に対応する d F = d d A = 0 {\displaystyle \mathrm {d} F=\mathrm {dd} A=0} と、連続の方程式に対応する d J ∗ = d d H = 0 {\displaystyle \mathrm {d} J^{*}=\mathrm {dd} H=0} が得られる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マクスウェルの方程式(マクスウェルのほうていしき、英: Maxwell's equations、マクスウェル方程式とも)は、電磁場を記述する古典電磁気学の基礎方程式である。マイケル・ファラデーが幾何学的考察から見出した電磁力に関する法則が1864年にジェームズ・クラーク・マクスウェルによって数学的形式として整理された。マクスウェルの方程式はマックスウェルの方程式とも表記される。マクスウェル-ヘルツの電磁方程式、電磁方程式などとも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "これらの方程式系に整理されたことから、電場と磁場の統一(電磁場)、光が電磁波であることなどが導かれ、その時空論としての特殊相対性理論に至る。後年、アインシュタインは特殊相対性理論の起源はマクスウェルの電磁場方程式である旨を明言している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "マクスウェルが導出した方程式はベクトルの各成分をあたかも互いに独立な量であるかのように別々の文字で表して書かれており、現代の洗練された形式ではなかった。これを1884年にヘヴィサイドがベクトル解析の記法を適用して現在の見やすい形に書き改めた。しかも彼は既にそこで電磁ポテンシャルが消去出来ることを示して、方程式系を今日我々が知る形に整理していた。しかし、その意義は直ちには認められるに至らなかった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ベクトル記法が一般化し始めるのは 1890年代半ばであって、ヘルツの論文ではまだそれを使っていない。いずれにせよ、このベクトル解析の記法の採用は場における様々な対称性を一目で見ることを可能にし、物理現象の理解に大いに役立った。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "真空中の電磁気学に限れば、マクスウェルの方程式の一般解は、ジェフィメンコ方程式として与えられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお電磁気学の単位系は国際単位系に発展したMKSA単位系のほかガウス単位系などがあり、単位系によってマクスウェルの方程式の表式における係数が異なるが、以下では原則として国際単位系を用いることとする。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "(微分形による)マクスウェルの方程式は、以下の4つの連立偏微分方程式である。記号「 ∇ ⋅ {\\displaystyle \\nabla \\cdot } 」、「 ∇ × {\\displaystyle \\nabla \\times } 」はそれぞれベクトル場の発散 (div) と回転 (rot) である。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、一般の媒質の構成方程式は(E-B対応では)以下である。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ここで E {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}}} は電場の強度、 D {\\displaystyle {\\boldsymbol {D}}} は電束密度、 B {\\displaystyle {\\boldsymbol {B}}} は磁束密度、 H {\\displaystyle {\\boldsymbol {H}}} は磁場の強度、 P {\\displaystyle {\\boldsymbol {P}}} は分極、 M {\\displaystyle {\\boldsymbol {M}}} は磁化を表す。また、 ε 0 {\\displaystyle \\varepsilon _{0}} は真空の誘電率、 μ 0 {\\displaystyle \\mu _{0}} は真空の透磁率、 ρ {\\displaystyle \\rho } は電荷密度、 j {\\displaystyle {\\boldsymbol {j}}} は電流密度を表す。真空中では P = M = 0 {\\displaystyle {\\boldsymbol {P}}={\\boldsymbol {M}}={\\boldsymbol {0}}} となる。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "次に、4つの個々の方程式(成分表示で8つの式、テンソル表示で2つの式)について説明する。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "積分形で表すと次の式になる。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ここでdS は、閉曲面 S 上の面素ベクトルである。 構造的に見て磁力線が閉曲線でなければならないことを意味する。この式は電場の積分形と同様に、閉曲面上を積分したときにのみ意味がある。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これらの式は、磁気単極子(モノポール)が存在しないことを前提としており、もし磁気単極子が発見されたならば、上の式は次のように変更されなければならない。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ここで ρm は磁気単極子の磁荷密度である。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この式を積分形で表すと次の式になる。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ただし、", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ここで、(向きのついた)閉曲線を C 、C を縁とする曲面を S として、 φ {\\displaystyle \\phi } は曲面 S を通過する磁束、V は経路 C に沿った(誘導)起電力である。 ファラデー-マクスウェルの式の積分形で時間微分を積分の外に置く場合、経路 C と曲面 S は時間変化しないものとする。 一方、「ファラデーの電磁誘導の法則」は導線が動くケースにも適用されることがある。 なお、式中の負号があるため、磁束密度の時間微分の向きと電場の「渦」の向きの関係は「左ねじ」になる。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "上の式は、電束は電荷の存在するところで発生・消滅し、それ以外のところでは保存されることを意味している。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "マクスウェル-ガウスの式を積分形で表すと次の式になる。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ここで dS は、閉曲面 S 上の面素ベクトルであり、Qencl は閉曲面 S で囲まれた領域内の電荷である。この積分形は、閉曲面上を積分したときにのみ意味があり、ガウスの法則としてよく知られている。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "積分形は次のようになる。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "C は曲面 S の縁となる閉曲線である。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "右辺の第2項は変位電流項と呼ばれる。変位電流は媒質が普通の金属ならばまず無視できる。電場の変動の角周波数 ω が電気伝導度 σ と誘電率 ε の比より十分小さければよい。普通の金属の電気伝導度は σ 〜 10 S/m 程度で、誘電率は真空とさほど変わらない ε 〜 10 F/mから", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "となり、ω がTHz単位でも条件を満たしている。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "変位電流が無視できるような電流を準定常電流という。", "title": "4つの方程式" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "マクスウェルの方程式は、次の2つの組に分類されることが多い。", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第1の組は、", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "である。この式は電磁場の拘束条件を与える式である(ビアンキ恒等式)。", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この式は E , B {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}},~{\\boldsymbol {B}}} を電磁ポテンシャル φ , A {\\displaystyle \\phi ,~{\\boldsymbol {A}}} により、", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "と表せば恒等的に満たすように出来る。", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "マクスウェル自身の原著論文『電磁場の動力学的理論』(1865年)や原著教科書『電気磁気論』(1873年)では上記のように表されていたが、1890年になってヘルツが改めて理論構成を考察し、上記2式から電磁ポテンシャルを消去し(1a), (1b) を基本方程式とすることを要請した。このヘルツによる電磁ポテンシャルを消去した形をマクスウェルの方程式と見なすのが現在の主流となっている。この見かたでは (0a) と (0b) は電磁場の定義式と見なされる。", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、電磁場はローレンツ力", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "により電荷、電流の分布を変動させる。", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "第2の組は、", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "である。電荷、電流の分布が電磁場の源となっていることを表す式である(電磁場の運動方程式)。 電磁場の微分(左辺)が電荷、電流の分布(右辺)によって書かれており、電荷、電流の分布を与えると電磁場の形が分かる方程式になっている。", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この式から、電荷、電流の分布には電気量保存則(連続の方程式)", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "が成り立つことが導かれる。", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "それぞれの組は時間微分を片側に移し、", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "と変形すれば、時間発展の方程式とその初期条件と見ることができる。", "title": "それぞれの式の解釈" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "媒質の構成方程式は、それぞれ別の方法で定義された源場( D , H {\\displaystyle {\\boldsymbol {D}},~{\\boldsymbol {H}}} )と力場( E , B {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}},~{\\boldsymbol {B}}} )を関連付ける方程式である。", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "電荷密度と電流密度が作る場である D , H {\\displaystyle {\\boldsymbol {D}},~{\\boldsymbol {H}}} と、電荷密度と電流密度に力を及ぼす場である E , B {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}},~{\\boldsymbol {B}}} は分極 P {\\displaystyle {\\boldsymbol {P}}} と磁化 M {\\displaystyle {\\boldsymbol {M}}} を介して以下のように関連付けられる。", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "真空中では P = M = 0 {\\displaystyle {\\boldsymbol {P}}={\\boldsymbol {M}}={\\boldsymbol {0}}} となる。", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "E-H対応の場合は磁気に関する構成方程式が B = μ 0 H + P m {\\displaystyle {\\boldsymbol {B}}=\\mu _{0}{\\boldsymbol {H}}+{\\boldsymbol {P}}_{\\mathrm {m} }} となる。 P m {\\displaystyle {\\boldsymbol {P}}_{\\mathrm {m} }} は磁気分極(または単に磁化)と呼ばれ、 M {\\displaystyle {\\boldsymbol {M}}} とは違う次元をもつ。", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "構成方程式による源場( D , H {\\displaystyle {\\boldsymbol {D}},~{\\boldsymbol {H}}} )と力場( E , B {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}},~{\\boldsymbol {B}}} )の関係を使ってマクスウェル方程式の源場に関する式を力場で表すと", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "となる。さらに分極電荷密度、分極電流密度、磁化電流密度を", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "として導入すれば、方程式は以下のように書ける。", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "誘電体に生じる分極は媒質によって異なり、結晶のような方向性がある場合では一般に P {\\displaystyle {\\boldsymbol {P}}} の向きと E {\\displaystyle {\\boldsymbol {E}}} の向きは異なるが、等方性のある物質で電場があまり強くない場合は分極は電場に比例し、", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "となる。 χ e {\\displaystyle \\chi _{\\mathrm {e} }} は電気感受率である。", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、磁性体に生じる磁化も強磁性でない物質で磁場があまり強くない場合は分極は磁場に比例し、", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "となる。 χ m {\\displaystyle \\chi _{\\mathrm {m} }} は磁化率である。", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "このとき、構成方程式は", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ここで", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "とすると", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "と表せる。ここで ε , μ {\\displaystyle \\varepsilon ,~\\mu } はそれぞれその媒質の誘電率と透磁率であり、媒質の性質を特徴付ける物性値である。これらは等方的な媒質ではスカラーであるが、一般にはテンソルとなる。", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "媒質が存在しない真空中(自由空間中)においては、 P = M = 0 {\\displaystyle {\\boldsymbol {P}}={\\boldsymbol {M}}={\\boldsymbol {0}}} となり、真空の構成方程式は", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "となる。また、光速度 c 0 {\\displaystyle c_{0}} と真空のインピーダンス Z 0 {\\displaystyle Z_{0}} を用いて以下のようにまとめられる。", "title": "媒質の構成方程式" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "以下のローレンツ条件", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "における電磁ポテンシャル(ベクトルポテンシャル A {\\displaystyle {\\boldsymbol {A}}} とスカラーポテンシャル φ {\\displaystyle \\phi } )を用いて、マクスウェル方程式は以下の2組の方程式として表すことができる。", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "いずれの式も左辺は線形演算子のダランベルシアン□が作用しており、右辺は片やスカラー値の、片やベクトル値の連続関数である。ベクトルについては各々の成分について適用して考えることでスカラーの場合と同様に考えることができる。線形微分方程式に対してはグリーン関数法を考えることで解くことができる。すなわち、", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "( Δ − 1 c 2 ∂ 2 ∂ t 2 ) G ( x , t ) = − δ ( x , t ) {\\displaystyle \\left(\\Delta -{\\frac {1}{c^{2}}}{\\frac {\\partial ^{2}}{\\partial t^{2}}}\\right)G({\\boldsymbol {x}},t)=-\\delta ({\\boldsymbol {x}},t)}", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "の解となる関数(グリーン関数) G ( x , t ) {\\displaystyle G({\\boldsymbol {x}},t)} を求めることで一般に", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "( Δ − 1 c 2 ∂ 2 ∂ t 2 ) f ( x , t ) = − ρ ( x , t ) {\\displaystyle \\left(\\Delta -{\\frac {1}{c^{2}}}{\\frac {\\partial ^{2}}{\\partial t^{2}}}\\right)f({\\boldsymbol {x}},t)=-\\rho ({\\boldsymbol {x}},t)}", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "なる方程式に対して", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "f ( x , t ) = ∫ d 3 x ′ d t ′ G ( x − x ′ , t − t ′ ) ρ ( x ′ , t ′ ) {\\displaystyle f({\\boldsymbol {x}},t)=\\int \\mathrm {d} ^{3}x'\\mathrm {d} t'\\ G({\\boldsymbol {x}}-{\\boldsymbol {x}}',t-t')\\rho ({\\boldsymbol {x}}',t')}", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "として求めることができる。このときのグリーン関数は先進グリーン関数と遅延グリーン関数の2つを得るが、物理的に意味のある遅延グリーン関数を採用することで遅延ポテンシャルを得ることができる。", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "遅延ポテンシャルを元に電場や磁場を計算するのが一般に運動している物体についての電磁場を検討する際に楽な方法であり、結果としてジェフィメンコ方程式を得ることになる。", "title": "ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "マクスウェルの方程式から、電磁波の伝播についての記述を得ることができる。真空または電荷分布がない絶縁体では、電場と磁場が次の波動方程式", "title": "電磁波の波動方程式" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "を満たすことがマクスウェル方程式から示される。これは電磁場が媒質中を速さ", "title": "電磁波の波動方程式" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "で伝搬する波動であることを意味する。媒質の屈折率", "title": "電磁波の波動方程式" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "を導入すれば、 v {\\displaystyle v} は", "title": "電磁波の波動方程式" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "とも表される。", "title": "電磁波の波動方程式" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ここで、真空の誘電率と真空の透磁率の各値から導かれる定数 c {\\displaystyle c} の値が光速度の値とほとんど一致することから、マクスウェルは光は電磁波ではないかという予測を行った。その予測は1888年にハインリヒ・ヘルツによって実証された。ヘルツはマクスウェルの方程式の研究に貢献したので、マクスウェルの方程式はマクスウェル-ヘルツの(電磁)方程式と呼ばれることもある。", "title": "電磁波の波動方程式" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "19世紀後半を通じて物理学者の大半は、マクスウェルの方程式において光速度が全ての観測者に対して不変になるという予測と、ニュートン力学の運動法則がガリレイ変換に対して不変を保つことが矛盾することから、これらの方程式は電磁場の近似的なものに過ぎないと考えた。しかし、1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を提出したことによって、マクスウェルの方程式が正確で、ニュートン力学の方を修正すべきだったことが明確になった。これらの電磁場の方程式は、特殊相対性理論と密接な関係にあり、ローレンツ変換に対する不変性(共変性)を満たす。磁場の方程式は、光速度に比べて小さい速度では、相対論的変換による電場の方程式の変形に結び付けられる。", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "電場と磁場による表現では、共変性が見にくいため、4元ポテンシャル A を考える。", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "A μ = ( φ / c , A ) , A μ = η μ ν A ν = ( φ / c , − A ) {\\displaystyle A^{\\mu }=(\\phi /c,{\\boldsymbol {A}}),~A_{\\mu }=\\eta _{\\mu \\nu }A^{\\nu }=(\\phi /c,-{\\boldsymbol {A}})}", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "但し、重複するギリシャ文字に対してはアインシュタインの縮約記法に従って和をとるものとし、計量テンソルは ημν = diag(1, −1, −1, −1) で与えるものとする。また、各ギリシャ文字は 0,1,2,3 の値を取り、0は時間成分、1,2,3は空間成分を表すものとする。特に時空の座標については (x, x, x, x) = (ct, x, y, z) である。", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "電磁ポテンシャルから構成される電磁場テンソル", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "F μ ν ≡ ∂ μ A ν − ∂ ν A μ = − F ν μ {\\displaystyle F_{\\mu \\nu }\\equiv \\partial _{\\mu }A_{\\nu }-\\partial _{\\nu }A_{\\mu }=-F_{\\nu \\mu }} (0a,0bに対応)", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "を導入する。電場、磁場との対応関係は", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "( F 01 , F 02 , F 03 ) = ( E 1 / c , E 2 / c , E 3 / c ) , ( F 32 , F 13 , F 21 ) = ( B 1 , B 2 , B 3 ) {\\displaystyle (F_{01},F_{02},F_{03})=(E_{1}/c,E_{2}/c,E_{3}/c),~(F_{32},F_{13},F_{21})=(B_{1},B_{2},B_{3})}", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "このとき、マクスウェル方程式はローレンツ変換に対しての共変性が明確な形式で、次のような2つの方程式にまとめられる。", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "∂ ρ F μ ν + ∂ μ F ν ρ + ∂ ν F ρ μ = 0 {\\displaystyle \\partial _{\\rho }F_{\\mu \\nu }+\\partial _{\\mu }F_{\\nu \\rho }+\\partial _{\\nu }F_{\\rho \\mu }=0} (1a,1bに対応)", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "∂ μ F μ ν = μ 0 j ν {\\displaystyle \\partial _{\\mu }F^{\\mu \\nu }=\\mu _{0}j^{\\nu }} (2a,2bに対応)", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "但し、j は4元電流密度", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "j μ = ( c ρ , j ) {\\displaystyle j^{\\mu }=(c\\rho ,{\\boldsymbol {j}})}", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "である。このとき、電荷の保存則は", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "∂ μ j μ = 0 {\\displaystyle \\partial _{\\mu }j^{\\mu }=0} (3に対応)", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "と表される。なお、4元ポテンシャルで表現すると、マクスウェル方程式は次の一つの方程式にまとめられる。", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "◻ A μ − ∂ μ ∂ ν A ν = μ 0 j μ {\\displaystyle \\Box A^{\\mu }-\\partial ^{\\mu }\\partial _{\\nu }A^{\\nu }=\\mu _{0}j^{\\mu }}", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ここで、□はダランベルシアンである。", "title": "マクスウェルの方程式と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "マクスウェルの方程式は多様体理論における微分形式によって簡明に表現することができる。", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "まず電磁ポテンシャル A により、1次微分形式", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "A = A μ d x μ = φ d t − A x d x − A y d y − A z d z {\\displaystyle A=A_{\\mu }\\mathrm {d} x^{\\mu }=\\phi \\,\\mathrm {d} t-A_{x}\\,\\mathrm {d} x-A_{y}\\,\\mathrm {d} y-A_{z}\\,\\mathrm {d} z}", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "を導入する。これに外微分を作用させることで2次微分形式", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "F ≡ d A = 1 2 ( ∂ μ A ν − ∂ ν A μ ) d x μ ∧ d x ν = 1 2 F μ ν d x μ ∧ d x ν = E x d t ∧ d x + E y d t ∧ d y + E z d t ∧ d z − B x d y ∧ d z − B y d z ∧ d x − B z d x ∧ d y {\\displaystyle {\\begin{aligned}F&\\equiv \\mathrm {d} A={\\tfrac {1}{2}}(\\partial _{\\mu }A_{\\nu }-\\partial _{\\nu }A_{\\mu })\\,\\mathrm {d} x^{\\mu }\\wedge \\mathrm {d} x^{\\nu }\\\\&={\\tfrac {1}{2}}F_{\\mu \\nu }\\,\\mathrm {d} x^{\\mu }\\wedge \\mathrm {d} x^{\\nu }\\\\&=E_{x}\\,\\mathrm {d} t\\wedge \\mathrm {d} x+E_{y}\\,\\mathrm {d} t\\wedge \\mathrm {d} y+E_{z}\\,\\mathrm {d} t\\wedge \\mathrm {d} z-B_{x}\\,\\mathrm {d} y\\wedge \\mathrm {d} z-B_{y}\\,\\mathrm {d} z\\wedge \\mathrm {d} x-B_{z}\\,\\mathrm {d} x\\wedge \\mathrm {d} y\\end{aligned}}}", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "が定義される。 さらに F のホッジ双対として 2次微分形式", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "H ≡ 1 μ 0 F ∗ = 1 4 μ 0 ε μ ν ρ σ F μ ν d x ρ ∧ d x σ = 1 2 H μ ν d x μ ∧ d x ν = H x c d t ∧ d x + H y c d t ∧ d y + H z c d t ∧ d z + D x c d y ∧ d z + D y c d z ∧ d x + D z c d x ∧ d y {\\displaystyle {\\begin{aligned}H&\\equiv {\\tfrac {1}{\\mu _{0}}}F^{*}={\\tfrac {1}{4\\mu _{0}}}\\epsilon _{\\mu \\nu \\rho \\sigma }F^{\\mu \\nu }\\mathrm {d} x^{\\rho }\\wedge \\mathrm {d} x^{\\sigma }\\\\&={\\tfrac {1}{2}}H_{\\mu \\nu }\\,\\mathrm {d} x^{\\mu }\\wedge \\mathrm {d} x^{\\nu }\\\\&=H_{x}\\,c\\mathrm {d} t\\wedge \\mathrm {d} x+H_{y}\\,c\\mathrm {d} t\\wedge \\mathrm {d} y+H_{z}\\,c\\mathrm {d} t\\wedge \\mathrm {d} z+D_{x}c\\,\\mathrm {d} y\\wedge \\mathrm {d} z+D_{y}c\\,\\mathrm {d} z\\wedge \\mathrm {d} x+D_{z}c\\,\\mathrm {d} x\\wedge \\mathrm {d} y\\end{aligned}}}", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "が定義される。", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "4元電流密度により1次微分形式", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "J = j μ d x μ = ρ c 2 d t − j x d x − j y d y − j z d z {\\displaystyle J=j_{\\mu }\\mathrm {d} x^{\\mu }=\\rho c^{2}\\mathrm {d} t-j_{x}\\mathrm {d} x-j_{y}\\mathrm {d} y-j_{z}\\mathrm {d} z}", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "を導入し、これのホッジ双対により3次微分形式", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "J ∗ = 1 3 ! ε μ ν ρ σ j μ d x ν ∧ d x ρ ∧ d x σ = ρ c d x ∧ d y ∧ d z − j x c d t ∧ d y ∧ d z − j y c d t ∧ d z ∧ d x − j z c d t ∧ d x ∧ d y {\\displaystyle {\\begin{aligned}J^{*}&={\\tfrac {1}{3!}}\\epsilon _{\\mu \\nu \\rho \\sigma }j^{\\mu }\\mathrm {d} x^{\\nu }\\wedge \\mathrm {d} x^{\\rho }\\wedge \\mathrm {d} x^{\\sigma }\\\\&=\\rho c\\,\\mathrm {d} x\\wedge \\mathrm {d} y\\wedge \\mathrm {d} z-j_{x}\\,c\\mathrm {d} t\\wedge \\mathrm {d} y\\wedge \\mathrm {d} z-j_{y}\\,c\\mathrm {d} t\\wedge \\mathrm {d} z\\wedge \\mathrm {d} x-j_{z}\\,c\\mathrm {d} t\\wedge \\mathrm {d} x\\wedge \\mathrm {d} y\\end{aligned}}}", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "を定義すれば、外微分の作用により運動方程式(2a,2b)に対応して", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "d H = J ∗ {\\displaystyle \\mathrm {d} H=J^{*}}", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "外微分の性質 ddξ=0 から(1a,1b)に対応する", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "d F = d d A = 0 {\\displaystyle \\mathrm {d} F=\\mathrm {dd} A=0}", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "と、連続の方程式に対応する", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "d J ∗ = d d H = 0 {\\displaystyle \\mathrm {d} J^{*}=\\mathrm {dd} H=0}", "title": "微分形式による表現" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "が得られる。", "title": "微分形式による表現" } ]
マクスウェルの方程式は、電磁場を記述する古典電磁気学の基礎方程式である。マイケル・ファラデーが幾何学的考察から見出した電磁力に関する法則が1864年にジェームズ・クラーク・マクスウェルによって数学的形式として整理された。マクスウェルの方程式はマックスウェルの方程式とも表記される。マクスウェル-ヘルツの電磁方程式、電磁方程式などとも呼ばれる。 これらの方程式系に整理されたことから、電場と磁場の統一(電磁場)、光が電磁波であることなどが導かれ、その時空論としての特殊相対性理論に至る。後年、アインシュタインは特殊相対性理論の起源はマクスウェルの電磁場方程式である旨を明言している。 マクスウェルが導出した方程式はベクトルの各成分をあたかも互いに独立な量であるかのように別々の文字で表して書かれており、現代の洗練された形式ではなかった。これを1884年にヘヴィサイドがベクトル解析の記法を適用して現在の見やすい形に書き改めた。しかも彼は既にそこで電磁ポテンシャルが消去出来ることを示して、方程式系を今日我々が知る形に整理していた。しかし、その意義は直ちには認められるに至らなかった。 ベクトル記法が一般化し始めるのは 1890年代半ばであって、ヘルツの論文ではまだそれを使っていない。いずれにせよ、このベクトル解析の記法の採用は場における様々な対称性を一目で見ることを可能にし、物理現象の理解に大いに役立った。 真空中の電磁気学に限れば、マクスウェルの方程式の一般解は、ジェフィメンコ方程式として与えられる。 なお電磁気学の単位系は国際単位系に発展したMKSA単位系のほかガウス単位系などがあり、単位系によってマクスウェルの方程式の表式における係数が異なるが、以下では原則として国際単位系を用いることとする。
{{混同|マクスウェルの関係式}} {{脚注の不足|date=2022年7月}} '''マクスウェルの方程式'''(マクスウェルのほうていしき、{{lang-en-short|Maxwell's equations}}、マクスウェル方程式とも)は、[[電磁場]]を記述する古典[[電磁気学]]の[[基礎方程式]]である。[[マイケル・ファラデー]]が幾何学的考察から見出した[[電磁相互作用|電磁力]]に関する法則が[[1864年]]に[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]によって数学的形式として整理された<ref>{{Harvtxt|Maxwell|1865}}</ref>。マクスウェルの方程式は'''マックスウェルの方程式'''とも表記される。'''マクスウェル-ヘルツの電磁方程式'''、'''電磁方程式'''などとも呼ばれる。 これらの方程式系に整理されたことから、電場と磁場の統一([[電磁場]])、[[光]]が[[電磁波]]であることなどが導かれ、その時空論としての[[特殊相対性理論]]に至る。後年、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]は特殊相対性理論の起源はマクスウェルの電磁場方程式である旨を明言している。 マクスウェルが導出した方程式はベクトルの各成分をあたかも互いに独立な量であるかのように別々の文字で表して書かれており、現代の洗練された形式ではなかった。これを[[1884年]]に[[オリヴァー・ヘヴィサイド|ヘヴィサイド]]が[[ベクトル解析]]の記法を適用して現在の見やすい形に書き改めた。しかも彼は既にそこで電磁ポテンシャルが消去出来ることを示して、方程式系を今日我々が知る形に整理していた。しかし、その意義は直ちには認められるに至らなかった。 ベクトル記法が一般化し始めるのは 1890年代半ばであって、ヘルツの論文ではまだそれを使っていない。いずれにせよ、このベクトル解析の記法の採用は[[場]]における様々な対称性を一目で見ることを可能にし、物理現象の理解に大いに役立った<ref>{{Harvtxt|広重|1968|loc=&sect;10.6-8}}</ref>。 真空中の電磁気学に限れば、マクスウェルの方程式の一般解は、[[ジェフィメンコ方程式]]として与えられる。 なお[[電磁気学の単位系]]は[[国際単位系]]に発展した[[MKSA単位系]]のほか[[ガウス単位系]]などがあり、単位系によってマクスウェルの方程式の表式における係数が異なるが、以下では原則として国際単位系を用いることとする。 == 4つの方程式 == [[File:Maxwell's equations.svg|thumb|right|マクスウェルの方程式の図示]] (微分形による)マクスウェルの方程式は、以下の4つの連立[[偏微分方程式]]である。記号「<math>\nabla\cdot</math>」、「<math>\nabla\times</math>」はそれぞれベクトル場の[[発散_(ベクトル解析)|発散 (div)]] と[[回転_(ベクトル解析)|回転 (rot)]] である。 :<math>\begin{cases}\begin{align} \nabla\cdot\boldsymbol{B}(t,\boldsymbol{x})&=0\\ \nabla\times\boldsymbol{E}(t,\boldsymbol{x})&=-\dfrac{\partial\boldsymbol{B}(t,\boldsymbol{x})}{\partial t}\\ \nabla\cdot\boldsymbol{D}(t,\boldsymbol{x})&=\rho(t,\boldsymbol{x})\\ \nabla\times\boldsymbol{H}(t,\boldsymbol{x})&=\boldsymbol{j}(t,\boldsymbol{x})+\dfrac{\partial\boldsymbol{D}(t,\boldsymbol{x})}{\partial t} \end{align}\end{cases}</math> また、一般の媒質の[[構成方程式]]は(E-B対応では)以下である。 :<math>\begin{align} \boldsymbol{D} &= \varepsilon_0 \boldsymbol{E} + \boldsymbol{P}\\ \boldsymbol{H} &= \mu_0^{-1} \boldsymbol{B} - \boldsymbol{M} \end{align}</math> ここで<math>\boldsymbol{E}</math>は[[電場|電場の強度]]、<math>\boldsymbol{D}</math>は[[電束密度]]、<math>\boldsymbol{B}</math>は[[磁束密度]]、<math>\boldsymbol{H}</math>は[[磁場|磁場の強度]]、<math>\boldsymbol{P}</math>は[[誘電分極|分極]]、<math>\boldsymbol{M}</math>は[[磁化]]を表す。また、<math>\varepsilon_0</math>は[[真空の誘電率]]、<math>\mu_0</math>は[[真空の透磁率]]、<math>\rho</math>は[[電荷密度]]、<math>\boldsymbol{j}</math>は[[電流密度]]を表す。真空中では<math>\boldsymbol{P}=\boldsymbol{M}=\boldsymbol{0}</math>となる。 次に、4つの個々の方程式(成分表示で8つの式、テンソル表示で2つの式)について説明する。 === 磁束保存の式 === <!-- 磁場の構造 --> :<math>\nabla\cdot\boldsymbol{B}=0</math>(微分形の[[磁束]]保存の式) 積分形で表すと次の式になる。 :<math>\oint_S\boldsymbol{B}\cdot\mathrm{d}\boldsymbol{S}=0</math> ここで{{Math|d'''''S'''''}} は、閉曲面 S 上の面素ベクトルである。 <!-- 領域の表面 S から出入りする磁束の総和が0 与えられるどんな[[体積要素]]についても -->構造的に見て[[磁力線]]が[[曲線|閉曲線]]でなければならないことを意味する。この式は電場の積分形と同様に、[[線積分|閉曲面上を積分した]]ときにのみ意味がある。 これらの式は、[[磁気単極子]](モノポール)が存在しないことを前提としており、もし磁気単極子が発見されたならば、上の式は次のように変更されなければならない。 :<math>\nabla\cdot\boldsymbol{B}=\rho_\mathrm{m}</math> ここで {{Math|''&rho;''<sub>m</sub>}} は磁気単極子の[[磁荷密度]]である。 {{see also|ガウスの法則 (磁場)}} === ファラデー-マクスウェルの式 === <!-- 磁場の変化と電場 --> :<math>\nabla\times\boldsymbol{E}=-\frac{\partial\boldsymbol{B}}{\partial t}</math>(微分形のファラデー-マクスウェルの式) この式を積分形で表すと次の式になる。 :<math>\oint_C\boldsymbol{E}\cdot\mathrm{d}\boldsymbol{l}=-\frac{\mathrm{d}\phi}{\mathrm{d}t}</math><!--([[レンツの法則]])←関係はあるがこれそのものがレンツの法則ではないと思う。--> ただし、 :<math>\phi=\int_{S}\boldsymbol{B}\cdot\mathrm{d}\boldsymbol{S}</math> ここで、(向きのついた)閉曲線を {{Mvar|C}} 、{{Mvar|C}} を縁とする曲面を {{Mvar|S}} とし、<math>\phi</math> は曲面 {{Mvar|S}} を通過する磁束、{{Mvar|V}} は経路 {{Mvar|C}} に沿った(誘導)[[起電力]]である。<!-- この式は閉じていない曲面 S について 起電力はその曲面 S の縁に沿って測定される -->ファラデー-マクスウェルの式の積分形で時間微分を積分の外に置く場合には、経路 {{Mvar|C}} と曲面 {{Mvar|S}} は時間変化しないものとする。よって、導体が動く場合についてはこの式の対象ではない{{efn2|「ファラデーの電磁誘導の法則」は導線が動くケースに適用されることがある。}}。式中の負号については、しばしば<u>磁場の増減に対する起電力は磁場源となる電流が減増する向き</u>といった説明がなされる。 <!-- いくつかの[[電気工学]]の文献では、曲面 S の縁に巻かれた[[コイル]]の巻数 N を磁束の導関数の前に用いてこの積分形式を表現している。 --> === マクスウェル-ガウスの式 === <!-- 電場と電荷 --> :<math>\nabla\cdot\boldsymbol{D}=\rho</math>(微分形のマクスウェル-ガウスの式) 上の式は、[[電束]]が電荷の存在するところで増減(発生・消滅)し、それ以外のところでは保存されることを示す。 積分形で表すと次の式になる。<!-- E は線積分される量であり、D は面積分される量であるから、D = εE が成り立つ場合でも ∫E=Q/ε などとしてはならない。--> :<math>\oint_S\boldsymbol{D}\cdot\mathrm{d}\boldsymbol{S}=Q_{\rm encl}</math> ここで {{Math|d'''''S'''''}} は、閉曲面 S 上の面素ベクトルであり、{{Math|''Q''<sub>encl</sub>}} は閉曲面 S で囲まれた領域内の電荷である。この積分形は、閉曲面上を積分したときにのみ意味があり、[[ガウスの法則]]としてよく知られている。 === アンペール-マクスウェルの式 === <!-- 電場の変化と磁場と電流 --> :<math>\nabla\times\boldsymbol{H}=\boldsymbol{j}+\frac{\partial\boldsymbol{D}}{\partial t}</math>(微分形のアンペール-マクスウェルの式) 積分形は次のようになる。<!-- H は線積分される量であり、B は面積分される量である。--> :<math>\oint_C\boldsymbol{H}\cdot\mathrm{d}\boldsymbol{l}=\int_S\boldsymbol{j}+\frac{\partial\boldsymbol{D}}{\partial t}\cdot\mathrm{d}\boldsymbol{S}</math> {{Mvar|C}} は曲面 S の縁となる閉曲線である。 右辺の第2項は[[変位電流]]項と呼ばれる。工学上は、変位電流は媒質が普通の金属ならばまず無視できる。電場の変動の角周波数 {{mvar|&omega;}} が電気伝導度 {{mvar|&sigma;}} と誘電率 {{mvar|&epsilon;}} の比より十分小さければよい。普通の金属の電気伝導度は {{mvar|&sigma;}} 〜 {{val|e=7|u=S/m}} 程度で、誘電率は真空とさほど変わらない {{mvar|&epsilon;}} 〜 {{val|e=-11|u=F/m}}から :<math>\omega\ll\frac{\sigma}{\varepsilon}\ \sim \ 10^{18}\ \text{s}^{-1}</math> となり、{{mvar|&omega;}} がTHz単位でも条件を満たしている。 変位電流が無視できるような電流を準定常電流という。 == それぞれの式の解釈 == ;磁束保存の式 : 磁力線はどこかを起点とすることも終点とすることもできない、すなわち[[磁気単極子]](モノポール)が存在しないことを示している。[[ガウスの法則 (磁場)|磁場のガウスの法則]]。 ;ファラデー-マクスウェルの式 : 磁場の時間変化があるところには巻いた電場があることを示している。導線の動きがない場合の[[ファラデーの電磁誘導の法則]]に相当する。 : <!-- [[電磁誘導]]は[[発電機]]に応用されている。--><!-- [[電動機]](モータ)や[[発電機]]など非常に多くの実用的な応用に関係している。←多くの応用に関係しているのは他の式もそうであって、ここだけ特別に書くのは奇妙。--> ;ガウス-マクスウェルの式 : 電場の源は電荷であり、電荷の無いところでの電束保存を示している。電場の[[ガウスの法則]]。 ;アンペール-マクスウェルの式 : [[電流]]または[[変位電流]]の周りには[[磁場]]が巻いていることを示す。 : この式は、電流によって磁場が生じるという[[アンペールの法則]]に[[変位電流]]を加えたものである。 : マクスウェルの方程式は、次の2つの組に分類されることが多い。 === 力場に関する方程式 === 第1の組は、 {{Numblk|:|<math>\nabla\cdot\boldsymbol{B}=0</math>|{{EquationRef|1a}}}} {{Numblk|:|<math>\nabla\times\boldsymbol{E}=-\frac{\partial\boldsymbol{B}}{\partial t}</math>|{{EquationRef|1b}}}} である。この式は電磁場の拘束条件を与える式である([[ビアンキ恒等式]])。 この式は <math>\boldsymbol{E},~\boldsymbol{B}</math> を[[電磁ポテンシャル]] <math>\phi,~\boldsymbol{A}</math>により、 {{Numblk|:|<math>\boldsymbol{E}=-\nabla\phi-\frac{\partial\boldsymbol{A}}{\partial t}</math>|{{EquationRef|0a}}}} {{Numblk|:|<math>\boldsymbol{B}=\nabla\times\boldsymbol{A}</math>|{{EquationRef|0b}}}} と表せば恒等的に満たすように出来る。 マクスウェル自身の原著論文『[[電磁場の動力学的理論]]』(1865年)や原著教科書『[[電気磁気論]]』(1873年)では上記のように表されていたが、1890年になって[[ハインリヒ・ヘルツ|ヘルツ]]が改めて理論構成を考察し、上記2式から[[電磁ポテンシャル]]を消去し{{EquationNote|1a|(1a)}}, {{EquationNote|1b|(1b)}} を基本方程式とすることを要請した。このヘルツによる電磁ポテンシャルを消去した形をマクスウェルの方程式と見なすのが現在の主流となっている。この見かたでは {{EquationNote|0a|(0a)}} と {{EquationNote|0b|(0b)}} は電磁場の定義式と見なされる。 また、電磁場は[[ローレンツ力]] :<math>\rho\boldsymbol{E}+\boldsymbol{j}\times\boldsymbol{B}</math> により電荷、電流の分布を変動させる。 === 源場に関する方程式 === 第2の組は、 {{Numblk|:|<math>\nabla\cdot\boldsymbol{D}=\rho</math>|{{EquationRef|2a}}}} {{Numblk|:|<math>\nabla\times\boldsymbol{H}=\boldsymbol{j}+\frac{\partial\boldsymbol{D}}{\partial t}</math>|{{EquationRef|2b}}}} である。電荷、電流の分布が電磁場の源となっていることを表す式である(電磁場の[[運動方程式]])。 電磁場の微分(左辺)が電荷、電流の分布(右辺)によって書かれており、電荷、電流の分布を与えると電磁場の形が分かる方程式になっている。 この式から、電荷、電流の分布には[[電気量]]保存則([[連続の方程式]]) :<math>\frac{\partial\rho}{\partial t}+\nabla\cdot\boldsymbol{j}=0</math> が成り立つことが導かれる。 それぞれの組は時間微分を片側に移し、 :<math>\begin{align} \frac{\partial\boldsymbol{B}}{\partial t} &= -\nabla\times\boldsymbol{E}\ ,&\nabla\cdot\boldsymbol{B} &= 0\\ \frac{\partial\boldsymbol{D}}{\partial t} &= \nabla\times\boldsymbol{H}-\boldsymbol{j}\ ,&\nabla\cdot\boldsymbol{D} &= \rho \end{align}</math> と変形すれば、時間発展の方程式とその初期条件と見ることができる。 == 媒質の構成方程式 == 媒質の[[構成方程式]]は、それぞれ別の方法で定義された源場(<math>\boldsymbol{D},~\boldsymbol{H}</math>)と力場(<math>\boldsymbol{E},~\boldsymbol{B}</math>)を関連付ける方程式である<ref>[[#『新SI単位と電磁気学』佐藤文隆、北野正雄 2018]] p.65</ref>。 === 一般の媒質中 === 電荷密度と電流密度が作る場である <math>\boldsymbol{D},~\boldsymbol{H}</math> と、電荷密度と電流密度に力を及ぼす場である <math>\boldsymbol{E},~\boldsymbol{B}</math> は[[誘電分極|分極]] <math>\boldsymbol{P}</math> と[[磁化]] <math>\boldsymbol{M}</math> を介して以下のように関連付けられる。 :<math>\begin{align} \boldsymbol{D} &= \varepsilon_0 \boldsymbol{E} + \boldsymbol{P}\\ \boldsymbol{H} &= \mu_0^{-1} \boldsymbol{B} - \boldsymbol{M} \end{align}</math> 真空中では<math>\boldsymbol{P}=\boldsymbol{M}=\boldsymbol{0}</math>となる。 E-H対応の場合は磁気に関する構成方程式が<math>\boldsymbol{B} = \mu_0 \boldsymbol{H} + \boldsymbol{P}_\mathrm{m}</math>となる<ref>[https://teamcoil.sp.u-tokai.ac.jp/lectures/EM1/E-H/index.html E-H対応の電磁気学] 東海大学理学部物理学科 遠藤研究室</ref>。<math>\boldsymbol{P}_\mathrm{m}</math>は[[磁気分極]](または単に磁化)と呼ばれ、<math>\boldsymbol{M}</math>とは違う次元をもつ。 {{see also|E-B対応とE-H対応}} 構成方程式による源場(<math>\boldsymbol{D},~\boldsymbol{H}</math>)と力場(<math>\boldsymbol{E},~\boldsymbol{B}</math>)の関係を使ってマクスウェル方程式の源場に関する式を力場で表すと :<math>\begin{cases} \nabla\cdot\boldsymbol{E}=\dfrac{1}{\varepsilon_0}(\rho -\nabla\cdot\boldsymbol{P})\\ \nabla\times\boldsymbol{B}-\mu_0\varepsilon_0\dfrac{\partial\boldsymbol{E}}{\partial t}=\mu_0\left(\boldsymbol{j}+\dfrac{\partial\boldsymbol{P}}{\partial t}+\nabla\times\boldsymbol{M}\right) \end{cases}</math> となる。さらに分極電荷密度、分極電流密度、磁化電流密度を :<math>\begin{align} \rho_P &= -\nabla\cdot\boldsymbol{P}\\ \boldsymbol{j}_P &= \frac{\partial\boldsymbol{P}}{\partial t}\\ \boldsymbol{j}_M &= \nabla\times\boldsymbol{M} \end{align}</math> として導入すれば、方程式は以下のように書ける。 :<math>\begin{cases} \nabla\cdot\boldsymbol{E}=\dfrac{1}{\varepsilon_0}(\rho +\rho_P)\\ \nabla\times\boldsymbol{B}-\mu_0\varepsilon_0\dfrac{\partial\boldsymbol{E}}{\partial t}=\mu_0\left(\boldsymbol{j}+\boldsymbol{j}_P+\boldsymbol{j}_M\right) \end{cases}</math> === 線型媒質中 === 誘電体に生じる分極は媒質によって異なり、結晶のような方向性がある場合では一般に <math>\boldsymbol{P}</math> の向きと <math>\boldsymbol{E}</math> の向きは異なるが、等方性のある物質で電場があまり強くない場合は分極は電場に比例し、 :<math>\boldsymbol{P}=\chi_\mathrm{e}\boldsymbol{E}</math> となる。<math>\chi_\mathrm{e}</math> は[[電気感受率]]である。 また、磁性体に生じる磁化も強磁性でない物質で磁場があまり強くない場合は分極は磁場に比例し、 :<math>\boldsymbol{M}=\chi_\mathrm{m}\boldsymbol{H}</math> となる。<math>\chi_\mathrm{m}</math> は[[磁化率]]である。 このとき、構成方程式は :<math>\begin{align} &\boldsymbol{D} = (\varepsilon_0+\chi_\mathrm{e})\boldsymbol{E}\\ &\mu_0(1+\chi_\mathrm{m})\boldsymbol{H} = \boldsymbol{B} \end{align}</math> ここで :<math>\varepsilon=\varepsilon_0+\chi_\mathrm{e},\quad \mu=\mu_0(1+\chi_\mathrm{m})</math> とすると :<math>\begin{align} \boldsymbol{D} &= \varepsilon \boldsymbol{E}\\ \boldsymbol{H} &= \mu^{-1} \boldsymbol{B} \end{align}</math> と表せる。ここで <math>\varepsilon,~\mu</math> はそれぞれその媒質の[[誘電率]]と[[透磁率]]であり、媒質の性質を特徴付ける[[物性値]]である。これらは等方的な媒質では[[スカラー (物理学)|スカラー]]であるが、一般には[[テンソル]]となる。 === 真空中 === 媒質が存在しない真空中(自由空間中)においては、<math>\boldsymbol{P}=\boldsymbol{M}=\boldsymbol{0}</math> となり、真空の構成方程式は :<math>\begin{align} \boldsymbol{D}&=\varepsilon_0\boldsymbol{E}\\ \boldsymbol{H}&=\mu_0^{-1}\boldsymbol{B} \end{align}</math> となる。また、[[真空中の光速度|光速度]] <math>c_0</math> と[[真空のインピーダンス]] <math>Z_0</math> を用いて以下のようにまとめられる。 :<math>\begin{bmatrix} \boldsymbol{E} \\ c_0\boldsymbol{B} \end{bmatrix}= Z_0 \begin{bmatrix} c_0\boldsymbol{D} \\ \boldsymbol{H} \end{bmatrix} </math> == ローレンツゲージでのマクスウェルの方程式 == {{Main|電磁ポテンシャル}} 以下の[[ローレンツ条件]] :<math>\nabla \cdot \boldsymbol{A}+\frac{1}{c^2}\frac{\partial\phi}{\partial t}=0</math> における電磁ポテンシャル(ベクトルポテンシャル <math>\boldsymbol{A}</math> とスカラーポテンシャル <math>\phi</math>)を用いて、マクスウェル方程式{{efn2|name=真空中}}は以下の2組の方程式として表すことができる。 :<math>\begin{cases} \left(\triangle-\dfrac{1}{c^2}\dfrac{\partial^{2}}{\partial t^2}\right)\phi&=-\dfrac{\rho}{\varepsilon_0}\\ \left(\triangle-\dfrac{1}{c^2}\dfrac{\partial^{2}}{\partial t^2}\right)\boldsymbol{A}&=-\mu_0\boldsymbol{j} \end{cases}</math> いずれの式も左辺は線形演算子の[[ダランベール演算子|ダランベルシアン]]□が作用しており、右辺は片やスカラー値の、片やベクトル値の連続関数である。ベクトルについては各々の成分について適用して考えることでスカラーの場合と同様に考えることができる。線形微分方程式に対してはグリーン関数法を考えることで解くことができる。すなわち、 <math>\left(\Delta-\frac{1}{c^{2}}\frac{\partial^{2}}{\partial t^{2}}\right)G(\boldsymbol{x},t)=-\delta(\boldsymbol{x},t)</math> の解となる関数(グリーン関数)<math>G(\boldsymbol{x},t)</math>を求めることで一般に <math>\left(\Delta-\frac{1}{c^{2}}\frac{\partial^{2}}{\partial t^{2}}\right)f(\boldsymbol{x},t)=-\rho(\boldsymbol{x},t)</math> なる方程式に対して <math>f(\boldsymbol{x},t)=\int \mathrm{d}^{3}x' \mathrm{d}t'\ G(\boldsymbol{x}-\boldsymbol{x}',t-t')\rho(\boldsymbol{x}',t')</math> として求めることができる。このときのグリーン関数は先進グリーン関数と遅延グリーン関数の2つを得るが、物理的に意味のある[[遅延グリーン関数]]を採用することで遅延ポテンシャルを得ることができる。 遅延ポテンシャルを元に電場や磁場を計算するのが一般に運動している物体についての電磁場を検討する際に楽な方法であり、結果として[[ジェフィメンコ方程式]]を得ることになる。 == 電磁波の波動方程式 == マクスウェルの方程式から、電磁波の伝播についての記述を得ることができる<ref>{{Harvtxt|Jackson|2002|loc=第7章}}</ref>。[[真空]]または電荷分布がない[[絶縁体]]では、電場と磁場が次の[[波動方程式]] :<math> \nabla^2 \boldsymbol{E}-\mu \varepsilon \frac{\partial^2\boldsymbol{E}}{\partial t^2}=0</math> :<math> \nabla^2 \boldsymbol{H}-\mu \varepsilon \frac{\partial^2\boldsymbol{H}}{\partial t^2}=0</math> を満たすことがマクスウェル方程式から示される。これは電磁場が[[媒質]]中を速さ :<math>v=\frac{1}{\sqrt{\mu \varepsilon}}</math> で伝搬する[[波動]]であることを意味する。媒質の[[屈折率]] :<math>n=\sqrt{\frac{\mu \varepsilon}{\mu_0 \varepsilon_0}}=c\sqrt{\mu \varepsilon}</math> を導入すれば、<math>v</math>は :<math>v=\frac{c}n</math> とも表される。 {{main2|導出の詳しい過程|b:電磁波の式の導出|正確な[[ウィキペディア|Wikipedia]]の[[Help:ページの編集#マークアップ|マークアップ]]での表示|利用者:知識熊/sandbox/電磁波の波動方程式の導出}} ここで、[[真空の誘電率]]と[[真空の透磁率]]の各値から導かれる定数 <math>c</math> の値が[[光速|光速度]]の値とほとんど一致する<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=78}}</ref>ことから、マクスウェルは[[光]]は電磁波ではないかという予測を行った。その予測は[[1888年]]に[[ハインリヒ・ヘルツ]]によって実証された。ヘルツはマクスウェルの方程式の研究に貢献したので、マクスウェルの方程式は'''マクスウェル-ヘルツの(電磁)方程式'''と呼ばれることもある。 == マクスウェルの方程式と特殊相対性理論 == [[19世紀]]後半を通じて物理学者の大半は、マクスウェルの方程式において[[光速度]]が全ての観測者に対して不変になるという予測と、[[ニュートン力学]]の運動法則が[[ガリレイ変換]]に対して不変を保つことが矛盾することから、これらの方程式は電磁場の近似的なものに過ぎないと考えた。しかし、1905年にアインシュタインが[[特殊相対性理論]]を提出したことによって、マクスウェルの方程式が正確で、ニュートン力学の方を修正すべきだったことが明確になった。これらの電磁場の方程式は、特殊相対性理論と密接な関係にあり、[[ローレンツ変換]]に対する不変性(共変性)を満たす。磁場の方程式は、光速度に比べて小さい速度では、相対論的変換による電場の方程式の変形に結び付けられる。 電場と磁場による表現では、共変性が見にくいため、'''[[電磁ポテンシャル|4元ポテンシャル]]''' {{Mvar|A<sup>&mu;</sup>}} を考える。 {{Indent|<math>A^\mu=(\phi/c,\boldsymbol{A}),~A_\mu=\eta_{\mu\nu}A^\nu=(\phi/c,-\boldsymbol{A})</math>}} 但し、重複するギリシャ文字に対しては[[アインシュタインの縮約記法]]に従って和をとるものとし、[[計量テンソル]]は {{Math|''&eta;<sub>&mu;&nu;</sub>'' {{=}} [[対角行列|diag]](1, &minus;1, &minus;1, &minus;1)}} で与えるものとする。また、各ギリシャ文字は 0,1,2,3 の値を取り、0は時間成分、1,2,3は空間成分を表すものとする。特に時空の座標については {{Math|(''x''<sup>0</sup>, ''x''<sup>1</sup>, ''x''<sup>2</sup>, ''x''<sup>3</sup>) {{=}} (''ct'', ''x'', ''y'', ''z'')}} である。 電磁ポテンシャルから構成される'''[[電磁場テンソル]]''' {{Indent|<math>F_{\mu\nu}\equiv\partial_\mu A_\nu-\partial_\nu A_\mu=-F_{\nu\mu}</math>({{EquationNote|0a}},{{EquationNote|0b}}に対応)}} を導入する。電場、磁場との対応関係は {{Indent|<math>(F_{01},F_{02},F_{03})=(E_1/c, E_2/c, E_3/c),~(F_{32},F_{13},F_{21})=(B_1,B_2,B_3)</math>}} となる。 このとき、マクスウェル方程式{{efn2|name=真空中|真空中のマクスウェル方程式。}}はローレンツ変換に対しての共変性が明確な形式で、次のような2つの方程式にまとめられる。 {{Indent|<math>\partial_\rho F_{\mu\nu}+\partial_\mu F_{\nu\rho}+\partial_\nu F_{\rho\mu}=0</math>({{EquationNote|1a}},{{EquationNote|1b}}に対応)}} {{Indent|<math>\partial_{\mu}F^{\mu\nu}=\mu_0 j^\nu</math>({{EquationNote|2a}},{{EquationNote|2b}}に対応)}} 但し、{{Mvar|j<sup>&mu;</sup>}} は'''[[電荷・電流密度|4元電流密度]]''' {{Indent|<math>j^\mu=(c\rho,\boldsymbol{j})</math>}} である。このとき、電荷の保存則は {{Indent|<math>\partial_\mu j^\mu=0</math>(3に対応)}} と表される。なお、4元ポテンシャルで表現すると、マクスウェル方程式は次の一つの方程式にまとめられる。 {{Indent|<math>\Box A^\mu -\partial^\mu\partial_\nu A^\nu=\mu_0 j^\mu</math>}} ここで、□は[[ダランベルシアン]]である。 {{see also|古典電磁気学の共変定式}} == 微分形式による表現 == {{See also|p-形式電磁気学}} マクスウェルの方程式は[[多様体]]理論における[[微分形式]]によって簡明に表現することができる<ref>{{Harvtxt|Flanders|1989|loc=&sect;4.6}}</ref>。 まず電磁ポテンシャル {{Mvar|A{{sup|&mu;}}}} により、1次微分形式 {{Indent|<math>A=A_\mu \mathrm{d}x^\mu=\phi\,\mathrm{d}t-A_x\,\mathrm{d}x-A_y\,\mathrm{d}y-A_z\,\mathrm{d}z</math>}} を導入する。これに[[微分形式#外微分|外微分]]を作用させることで2次微分形式 {{Indent|<math>\begin{align}F&\equiv \mathrm{d}A=\tfrac{1}{2}(\partial_\mu A_\nu-\partial_\nu A_\mu)\,\mathrm{d}x^\mu\wedge \mathrm{d}x^\nu\\ &=\tfrac{1}{2}F_{\mu\nu}\, \mathrm{d}x^\mu\wedge \mathrm{d}x^\nu\\ &=E_x\,\mathrm{d}t\wedge \mathrm{d}x+E_y\,\mathrm{d}t\wedge \mathrm{d}y+E_z\,\mathrm{d}t\wedge \mathrm{d}z-B_x\,\mathrm{d}y\wedge \mathrm{d}z-B_y\,\mathrm{d}z\wedge \mathrm{d}x-B_z\,\mathrm{d}x\wedge \mathrm{d}y\end{align}</math>}} が定義される。 さらに F の[[ホッジ双対]]として 2次微分形式 {{Indent|<math>\begin{align}H&\equiv \tfrac{1}{\mu_0}F^*=\tfrac{1}{4\mu_0}\epsilon_{\mu\nu\rho\sigma}F^{\mu\nu}\mathrm{d}x^\rho\wedge \mathrm{d}x^\sigma\\ &=\tfrac{1}{2}H_{\mu\nu}\,\mathrm{d}x^\mu\wedge \mathrm{d}x^\nu\\ &=H_x\,c\mathrm{d}t\wedge \mathrm{d}x+H_y\,c\mathrm{d}t\wedge \mathrm{d}y+H_z\,c\mathrm{d}t\wedge \mathrm{d}z+D_xc\,\mathrm{d}y\wedge \mathrm{d}z+D_yc\,\mathrm{d}z\wedge \mathrm{d}x+D_zc\,\mathrm{d}x\wedge \mathrm{d}y\end{align}</math>}} が定義される。 4元電流密度により1次微分形式 {{Indent|<math>J=j_\mu \mathrm{d}x^\mu=\rho c^2\mathrm{d}t-j_x \mathrm{d}x-j_y \mathrm{d}y-j_z \mathrm{d}z</math>}} を導入し、これのホッジ双対により3次微分形式 {{Indent|<math>\begin{align}J^*&=\tfrac{1}{3!}\epsilon_{\mu\nu\rho\sigma}j^\mu \mathrm{d}x^\nu\wedge \mathrm{d}x^\rho\wedge \mathrm{d}x^\sigma\\ &=\rho c\,\mathrm{d}x \wedge \mathrm{d}y\wedge \mathrm{d}z-j_x\,c\mathrm{d}t \wedge \mathrm{d}y\wedge \mathrm{d}z-j_y\,c\mathrm{d}t\wedge \mathrm{d}z\wedge \mathrm{d}x-j_z\,c\mathrm{d}t\wedge \mathrm{d}x\wedge \mathrm{d}y\end{align}</math>}} を定義すれば、外微分の作用により運動方程式({{EquationNote|2a}},{{EquationNote|2b}})に対応して {{Indent|<math>\mathrm{d}H=J^*</math>}} となる。 外微分の性質 dd&xi;=0 から({{EquationNote|1a}},{{EquationNote|1b}})に対応する {{Indent|<math>\mathrm{d}F=\mathrm{dd}A=0</math>}} と、連続の方程式に対応する {{Indent|<math>\mathrm{d}J^*=\mathrm{dd}H=0</math>}} が得られる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist2}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == === 原論文 === * {{Cite journal |first=J. C. |last=Maxwell |authorlink=ジェームズ・クラーク・マクスウェル |title=A dynamical theory of the electromagnetic field |trans-title=電磁場の動力学的理論 |journal=[[フィロソフィカル・トランザクションズ|Phil. Trans. R. Soc.]] |publisher=Royal Society |location=London |volume=155 |pages=459-512 |url=http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/A_Dynamical_Theory_of_the_Electromagnetic_Field.pdf |format=[[Portable Document Format|PDF]] |date=1865-1-1 |doi=10.1098/rstl.1865.0008 |jstor=108892 |ref=harv }} === 書籍 === * {{Cite book|和書 |first=H.A. |last=Lorentz |authorlink=ヘンドリック・ローレンツ |title=ローレンツ 電子論 |editor=広重徹|editor-link=広重徹 |date=1973 |ref=harv }} * {{Cite book|和書 |last=広重 |first=徹 |title=物理学史Ⅱ |series=新物理学シリーズ |publisher=[[培風館]] |date=1968-03 |id={{全国書誌番号|68001733}} |isbn=978-4563024062 |ncid=BN00957321 |oclc=673599647 |asin=4563024066 |ref=harv }} * {{Cite book|和書 |first1=L.D. |last1=Landau |first2=E.M. |last2=Lifshitz |authorlink1=レフ・ランダウ |authorlink2=エフゲニー・リフシッツ |title=場の古典論:電気力学, 特殊および一般相対性理論 |translator=[[恒藤敏彦]], 広重徹 |series=ランダウ=リフシッツ[[理論物理学教程]] |publisher=[[東京図書]] |date=1978-10 |edition=原書第6版 |id={{全国書誌番号|79000237}} |isbn=978-4489011610 |ncid=BN00890297 |oclc=841897028 |asin=448901161X |ref=harv }} * {{Cite book|和書 |last=砂川 |first=重信 |authorlink=砂川重信 |title=理論電磁気学 |publisher=[[紀伊國屋書店]] |edition=第3版 |date=1999-09 |id={{全国書誌番号|99125994}} |isbn=978-4314008549 |ncid=BA43015728 |oclc=675159672 |asin=4314008547 |ref=harv }} * {{Cite book|和書 |first=J.D. |last=Jackson |authorlink=:en:John David Jackson (physicist) |title=電磁気学 |volume=上巻 |translator=西田稔 |series=物理学叢書 |publisher=[[吉岡書店]] |date=2002-07 |edition=原書第3版 |id={{全国書誌番号|20301816}} |isbn=978-4842703053 |ncid=BA57742913 |oclc=123038116 |asin=4842703059 |ref=harv }} *{{Cite book |first=Harley |last=Flanders |title=Differential Forms with Applications to the Physical Sciences |publisher=Dover Publications |date=1989 |isbn=0486661695 |ref=harv }} * {{Cite book|和書 |author1=佐藤文隆 |author2=北野正雄 |authorlink1=佐藤文隆 |authorlink2=北野正雄 |title=新SI単位と電磁気学 |publisher=[[岩波書店]] |date=2018-06-19 |isbn=9784000612616 |ref=『新SI単位と電磁気学』佐藤文隆、北野正雄 2018 }} == 関連項目 == *数学関係 **[[ガウスの定理]] **[[ストークスの定理]] *物理学関係 **[[電場]]、[[磁束密度]]、[[電束密度]]、[[磁場]] **[[電荷の保存則|電荷保存の法則]] **[[先進波]]、[[光学]] **[[アハラノフ=ボーム効果]] == 外部リンク == * {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}} {{Physics-footer}} {{電磁気学}} {{相対性理論}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まくすうえるのほうていしき}} [[Category:マクスウェルの方程式|*]] [[Category:電気理論]] [[Category:自然科学の法則]] [[Category:マイケル・ファラデー]]
2003-05-29T13:34:07Z
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ストロンチウム
ストロンチウム(ラテン語: strontium)は原子番号38の元素で、元素記号は Sr である。軟らかく銀白色のアルカリ土類金属で、化学反応性が高い。空気にさらされると、表面が黄味を帯びてくる。天然には天青石やストロンチアン石などの鉱物中に存在する。放射性同位体のストロンチウム90 (Sr) は放射性降下物に含まれ、その半減期は28.90年である。 元素名は、1787年に発見されたストロンチアン石(ストロンチウムを含む鉱物)の産出地、スコットランドのストロンチアン(英語版)(英語: Strontian、スコットランド・ゲール語: Sron an t-Sìthein)という村にちなむ。。 結晶構造は温度、圧力条件により異なる3種類を取り得る。常温、常圧で安定なものは面心立方格子構造 (FCC, α-Sr)、213°C〜621°Cの間では六方最密充填構造(HCP,β-Sr)、621°C〜769°Cの間では体心立方格子(BCC,γ-Sc)がそれぞれ最も安定となる。銀白色の金属で、比重は2.63、融点は777 °C、沸点は1382 °C。炎色反応で赤色を呈する。空気中では灰白色の酸化物被膜を生じる。水とは激しく反応し水酸化ストロンチウムと水素を生成する。 生理的にはカルシウムに良く似た挙動を示し、骨格に含まれる。 酸化ストロンチウムのアルミニウムによる還元、および塩化ストロンチウムなどの溶融塩電解により金属単体が製造され、蒸留により精製される。 炎色反応が赤であるため、花火や発炎筒の炎の赤い色の発生には塩化ストロンチウムなどが用いられる。そのほか、高温超伝導体の材料として使われる。 炭酸ストロンチウムは、ブラウン管などの陰極線管のガラスに添加される。また、フェライトなどの磁性材料の原料としても用いられる。 単体のストロンチウムは酸素などとの反応性が高いため、真空装置中のガスを吸着するゲッターとして用いられる。 ウランの核分裂生成物など、人工的に作られる代表的な物質放射性同位体としてヨウ素131、セシウム137と共にストロンチウム90 (Sr) がある。ストロンチウム90は、半減期が28.8年でベータ崩壊を起こして、イットリウム90に変わる。原子力電池の放射線エネルギー源として使われる。体内に入ると電子配置・半径が似ているため、骨の中のカルシウムと置き換わって体内に蓄積し長期間にわたって放射線を出し続ける。このため大変危険であるが、揮発性化合物を作りにくく原発事故で放出される量はセシウム137と比較すると少ない。 地質学においては、ルビジウム87からβ崩壊により半減期4.9×10年でストロンチウム87が生成されることを利用して、主に数千万年以前の岩石の年代測定に用いられる。(Rb-Sr法) 骨に吸収されやすいという性質を生かして、別の放射性同位体であるストロンチウム89は骨腫瘍の治療に用いられる。ストロンチウム89の半減期は50.52日と短く比較的短期間で崩壊するため、短期間に強力な放射線を患部に直接照射させることができる。 骨に吸収されやすいので自然界で見つかるのとほぼ同じ比率で、4つ全ての安定同位体が取り込まれている。また、同位体の分布比率は地理的な場所によって異なる傾向がある。 これによって古代における人間の移動や、戦場の埋葬地に混在する人間の起源を特定することに役立つ。 ストロンチウム90は骨に蓄積されることで生物学的半減期が長くなる(長年、体内にとどまる)ため、ストロンチウム90は、ベータ線を放出する放射性物質のなかでも人体に対する危険が大きいとされている。 1957年から北海道で行われた調査では、1960年代から1970年代に北海道のウシやウマの骨に蓄積されていた放射性ストロンチウム (Sr) は2,000-4,000 mBq/gを記録していたが、大気圏内核実験の禁止後は次第に減少し、現在では100 mBq以下程度まで減少している。また、ウシとウマではウマの方がより高濃度で蓄積をしていて加齢と蓄積量には相関関係があるとしている。屋外の牧草を直接食べるウシとウマは、放射能汚染をトレースするための良い生物指標となる。 1960年代、米ソを中心に大気圏内の核実験が盛んに行われた。これに伴い、体内に取り込まれた放射性物質の除去剤や排泄促進法に関する研究も数多く行われている。放射性ストロンチウムは生体内ではカルシウムと同じような挙動をとる。IAEA(国際原子力機関)は放射性ストロンチウムを大量に摂取した場合、アルギン酸の投与を考慮するように勧告している。アルギン酸は褐藻類の細胞間を充填する粘質多糖で、カルシウムよりもストロンチウムに対する親和性が高いことが知られている。ヒトにアルギン酸を経口投与してから放射性ストロンチウムを投与すると、投与していない場合と比べて体内残留量が約1⁄8になることが報告されている。また動物実験でも同様の効果があることが確かめられている。 1790年、バリウムの調合に携わった医師であるAdair Crawfordと同僚のWilliam Cruickshankがストロンチアン石が他の重晶石("heavy spars")の元となる石の特性とは異なる特性を示すことを認識した。これによりAdairは355ページで「・・・実際にこのスコットランドの鉱物はこれまで十分に調べられていない新種の土類である可能性が高い」と締めくくっている。医師で鉱物収集家であるFriedrich Gabriel Sulzerはヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハとともにストロンチアン産の鉱物を分析しストロンチアナイトと名付けた。また、毒重石(英語版)とは異なり新たな土類(neue Grunderde)を含んでいるという結論を出した。1793年、グラスゴー大学の化学教授Thomas Charles Hopeがストロンタイト(strontites)という名前を提案する。1808年にハンフリー・デービー卿により、塩化ストロンチウムと酸化水銀(II)を含む混合物の電気分解により最終的に分離され、1808年6月30日の王立協会での講演で発表された。他のアルカリ土類の名前に合わせ、名前をストロンチウムに変更した。 ストロンチウムの最初の大規模な適用は、テンサイからの砂糖の生産であった。水酸化ストロンチウムを用いた結晶化プロセスは1849年にAugustin-Pierre Dubrunfautにより特許がとられたが、1870年代初期にプロセスが改善されたことで大規模な導入が行われた。ドイツの砂糖工業は20世紀までこのプロセスをうまく利用していた。第一次世界大戦前、テンサイの砂糖産業はこのプロセスに年間10万から15万トンの水酸化ストロンチウムを使用していた。水酸化ストロンチウムはこのプロセスでリサイクルされたが、製造中の損失を補う需要はミュンスターランドでストロンチアナイトの採掘を始める大きな需要を生み出すほど高かった。ドイツのストロンチアナイトの採掘はグロスタシャーで天青石鉱床の採掘が始まると終了した。これらの鉱山は1884年から1941年までの世界のストロンチウム供給のほとんどを賄った。グラナダ盆地の天青石鉱床はしばらくの間知られていたが、大規模な採掘は1950年代より前には始まっていない。 大気圏内核実験による核分裂生成物の中に、ストロンチウム90が比較的多いことが観察された。カルシウムとの化学的動態の類似性からストロンチウム90が骨に蓄積する可能性が考えられ、ストロンチウムの代謝に関する研究が重要なトピックとなった。 2015年現在の天青石としてのストロンチウムの3つの主要産出国は、中国(150,000 t)、スペイン(90,000 t)、メキシコ(70,000 t)であり、アルゼンチン(10,000 t)やモロッコ(2,500 t)は小規模産出国である。ストロンチウム鉱床はアメリカに広く存在しているが、1959年以降採掘されていない。 採掘される天青石(SrSO4)の大部分は2つのプロセスにより炭酸塩に変換される。天青石を炭酸ナトリウム溶液で直接浸出するか、石炭で焙煎し硫化物を作る。2番目の段階では主に硫化ストロンチウム含む暗色の物質が作られる。このいわゆる「黒灰」(ブラックアッシュ)は水に溶けて濾過される。炭酸ストロンチウムは二酸化炭素を入れることにより硫化ストロンチウム溶液から沈殿する。硫酸塩は炭素還元により硫化物に還元される。 毎年30万トンにこのプロセスが行われている。 ストロンチウム金属は、商業的には酸化ストロンチウムをアルミニウムで還元することにより製造されている。混合物から蒸留される。溶融塩化カリウム中の塩化ストロンチウム溶液の電気分解により小規模で調製することもできる。
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ストロンチウムは原子番号38の元素で、元素記号は Sr である。軟らかく銀白色のアルカリ土類金属で、化学反応性が高い。空気にさらされると、表面が黄味を帯びてくる。天然には天青石やストロンチアン石などの鉱物中に存在する。放射性同位体のストロンチウム90 (90Sr) は放射性降下物に含まれ、その半減期は28.90年である。
{{Elementbox |name=strontium |japanese name=ストロンチウム |pronounce={{IPAc-en|ˈ|s|t|r|ɒ|n|ʃ|i|əm}}<br />{{respell|STRON|shee-əm}};<br />{{IPAc-en|ˈ|s|t|r|ɒ|n|t|i|əm}}<br />{{respell|STRON|tee-əm}};<br />{{IPAc-en|ˈ|s|t|r|ɒ|n|ʃ|əm}} {{respell|STRON|shəm}} |number=38 |symbol=Sr |left=[[ルビジウム]] |right=[[イットリウム]] |above=[[カルシウム|Ca]] |below=[[バリウム|Ba]] |series=アルカリ土類金属 |group=2 |period=5 |block=s |image name=Strontium-1.jpg |appearance=銀白色 |atomic mass=87.62 |electron configuration=&#91;[[クリプトン|Kr]]&#93; 5s<sup>2</sup> |electrons per shell=2, 8, 18, 8, 2 |phase=固体 |density gpcm3nrt=2.64 |density gpcm3mp=2.375 |melting point K=1050 |melting point C=777 |melting point F=1431 |boiling point K=1655 |boiling point C=1382 |boiling point F=2520 |heat fusion=7.43 |heat vaporization=136.9 |heat capacity=26.4 |vapor pressure 1=796 |vapor pressure 10=882 |vapor pressure 100=990 |vapor pressure 1 k=1139 |vapor pressure 10 k=1345 |vapor pressure 100 k=1646 |vapor pressure comment= |crystal structure=face-centered cubic |japanese crystal structure=面心立方格子構造 |oxidation states='''2''', 1<ref>{{cite journal|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0022285296900193|title=High-Resolution Infrared Emission Spectrum of Strontium Monofluoride|journal=J. Molecular Spectroscopy| volume =175|page=158|year=1996|author= P. Colarusso ''et al.''}}</ref>(強[[塩基]]性酸化物) |electronegativity=0.95 |number of ionization energies=3 |1st ionization energy=549.5 |2nd ionization energy=1064.2 |3rd ionization energy=4138 |atomic radius=[[1 E-10 m|215]] |covalent radius=[[1 E-10 m|195±10]] |Van der Waals radius=[[1 E-10 m|249]] |magnetic ordering=[[常磁性]] |electrical resistivity at 20=132 n |thermal conductivity=35.4 |thermal expansion at 25=22.5 |Shear modulus=6.1 |Poisson ratio=0.28 |Mohs hardness=1.5 |CAS number=7440-24-6 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ストロンチウム82|82]] | sym=Sr | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|25.36 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=- | pn=[[ルビジウム82|82]] | ps= [[ルビジウム|Rb]]}} {{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[ストロンチウム83|83]] | sym=Sr | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|1.35 d]] | dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=- | pn1=[[ルビジウム83|83]] | ps1=[[ルビジウム|Rb]] | dm2=[[陽電子放出|β<sup>+</sup>]] | de2=1.23 | pn2=[[ルビジウム83|83]] | ps2=[[ルビジウム|Rb]] | dm3=[[γ崩壊|γ]] | de3=0.76, 0.36 | pn3= | ps3=-}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[ストロンチウム84|84]] | sym=Sr | na=0.56% | n=46}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ストロンチウム85|85]] | sym=Sr | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|64.84 d]] | dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=- | pn1=[[ルビジウム85|85]] | ps1=[[ルビジウム|Rb]] | dm2=[[γ崩壊|γ]] | de2=0.514 [[遅延放射線|D]] | pn2= | ps2=-}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[ストロンチウム86|86]] | sym=Sr | na=9.86% | n=48}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[ストロンチウム87|87]] | sym=Sr | na=7.0% | n=49}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[ストロンチウム88|88]] | sym=Sr | na=82.58% | n=50}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ストロンチウム89|89]] | sym=Sr | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|50.52 d]] | dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=1.49 | pn1=[[ルビジウム89|89]] | ps1=[[ルビジウム|Rb]] | dm2=[[β崩壊|β<sup>-</sup>]] | de2=0.909 [[遅延放射線|D]] | pn2=[[イットリウム89|89]] | ps2=[[イットリウム|Y]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ストロンチウム90|90]] | sym=Sr | na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=[[1 E8 s|28.90 y]] | dm=[[β崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.546 | pn=[[イットリウム90|90]] | ps=[[イットリウム|Y]]}} |isotopes comment= }} '''ストロンチウム'''({{lang-la|strontium}}<ref>[http://www.encyclo.co.uk/webster/S/213 WEBSTER'S DICTIONARY, 1913]</ref>)は[[原子番号]]38の[[元素]]で、[[元素記号]]は '''Sr''' である。軟らかく銀白色の[[アルカリ土類金属]]で、化学反応性が高い。[[空気]]にさらされると、表面が黄味を帯びてくる。天然には[[天青石]]や[[ストロンチアン石]]などの鉱物中に存在する。[[放射性同位体]]の[[ストロンチウム90]] (<sup>90</sup>Sr) は[[放射性降下物]]に含まれ、その[[半減期]]は28.90年である。 == 名称 == 元素名は、[[1787年]]に発見されたストロンチアン石(ストロンチウムを含む鉱物)の産出地、[[スコットランド]]の{{仮リンク|ストロンチアン|en|Strontian|label=}}({{lang-en|Strontian}}、{{lang-gd|Sron an t-Sìthein}})という村にちなむ。<ref name="str">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 195|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。 == 性質 == [[ファイル:Strontium 1.jpg|thumb|left|酸化ストロンチウムの[[デンドライト]]]] 結晶構造は温度、圧力条件により異なる3種類を取り得る。常温、常圧で安定なものは[[面心立方格子構造]] (FCC, α-Sr)、213℃〜621℃の間では六方最密充填構造(HCP,β-Sr)、621℃〜769℃の間では体心立方格子(BCC,γ-Sc)がそれぞれ最も安定となる。銀白色の[[金属]]で、比重は2.63、[[融点]]は777 {{℃}}、[[沸点]]は1382 {{℃}}。[[炎色反応]]で赤色を呈する。空気中では灰白色の[[酸化物]]被膜を生じる。[[水]]とは激しく反応し[[水酸化ストロンチウム]]と[[水素]]を生成する。 : <chem>Sr + 2 H2O -> Sr(OH)2 + H2</chem> 生理的には[[カルシウム]]に良く似た挙動を示し、[[骨格]]に含まれる。 [[酸化ストロンチウム]]の[[アルミニウム]]による[[還元]]、および[[塩化ストロンチウム]]などの[[溶融塩電解]]により金属単体が製造され、蒸留により精製される。 : <chem>4SrO + 2 Al -> 3Sr + SrAl2O4</chem> == 用途 == [[炎色反応]]が赤であるため、[[花火]]や[[発炎筒]]の炎の赤い色の発生には[[塩化ストロンチウム]]などが用いられる。そのほか、[[高温超伝導|高温超伝導体]]の材料として使われる。 [[炭酸ストロンチウム]]は、[[ブラウン管]]などの[[陰極線管]]の[[ガラス]]に添加される。また、[[フェライト (磁性材料)|フェライト]]などの磁性材料の原料としても用いられる。 単体のストロンチウムは酸素などとの反応性が高いため、[[真空|真空装置]]中の[[気体|ガス]]を吸着する[[ゲッター]]として用いられる。 == 同位体 == {{Main|ストロンチウムの同位体|ストロンチウム90}} [[ウラン]]の[[核分裂反応|核分裂]]生成物など、人工的に作られる代表的な物質[[放射性同位体]]として[[ヨウ素131]]、[[セシウム137]]と共にストロンチウム90 (<sup>90</sup>Sr) がある。ストロンチウム90は、[[半減期]]が28.8年で[[ベータ崩壊]]を起こして、[[イットリウム|イットリウム90]]に変わる。[[原子力電池]]の放射線エネルギー源として使われる。体内に入ると電子配置・半径が似ているため、骨の中の[[カルシウム]]と置き換わって体内に蓄積し長期間にわたって放射線を出し続ける。このため大変危険であるが、揮発性化合物を作りにくく<ref name="Sr90"/>[[原子力事故|原発事故]]で放出される量はセシウム137と比較すると少ない。 [[地質学]]においては、[[ルビジウム|ルビジウム87]]から[[ベータ崩壊|β崩壊]]により[[半減期]]4.9×10<sup>10</sup>年でストロンチウム87が生成されることを利用して、主に数千万年以前の岩石の年代測定に用いられる。([[Rb-Sr法]])<ref>{{Cite journal|author=柴田 賢|year=1985|title=Rb-Sr法|journal=地学雑誌|volume=94-7|page=102-106}}</ref> 骨に吸収されやすいという性質を生かして、別の放射性同位体であるストロンチウム89は[[骨腫瘍]]の治療に用いられる。ストロンチウム89の半減期は50.52日と短く比較的短期間で崩壊するため、短期間に強力な放射線を患部に直接照射させることができる。 骨に吸収されやすいので自然界で見つかるのとほぼ同じ比率で、4つ全ての安定同位体が取り込まれている。また、同位体の分布比率は地理的な場所によって異なる傾向がある。<ref name="PriceSchoeninger1985">{{cite journal|last1=Price|first1=T. Douglas|last2=Schoeninger|first2=Margaret J.|author2-link=Margaret Schoeninger|last3=Armelagos|first3=George J.|title=Bone chemistry and past behavior: an overview|journal=Journal of Human Evolution|volume=14|issue=5|year=1985|pages=419–47|doi=10.1016/S0047-2484(85)80022-1}}</ref><ref name="SteadmanBrudevold1958">{{cite journal|last1=Steadman|first1=Luville T.|last2=Brudevold|first2=Finn|last3=Smith|first3=Frank A.|title=Distribution of strontium in teeth from different geographic areas|journal=The Journal of the American Dental Association|volume=57|issue=3|year=1958|pages=340–44|doi=10.14219/jada.archive.1958.0161|pmid=13575071}}</ref> これによって古代における人間の移動や、戦場の埋葬地に混在する人間の起源を特定することに役立つ。 <ref name="SchweissingGrupe2003">{{cite journal|last1=Schweissing|first1=Matthew Mike|last2=Grupe|first2=Gisela|title=Stable strontium isotopes in human teeth and bone: a key to migration events of the late Roman period in Bavaria|journal=Journal of Archaeological Science|volume=30|issue=11|year=2003|pages=1373–83|doi=10.1016/S0305-4403(03)00025-6}}</ref> === 生体に対する影響 === ストロンチウム90は骨に蓄積されることで生物学的半減期が長くなる(長年、体内にとどまる)ため、ストロンチウム90は、ベータ線を放出する放射性物質のなかでも人体に対する危険が大きいとされている<ref name="Sr90">[http://www.cnic.jp/knowledge/2590 ストロンチウム-90] [[原子力資料情報室]] (CNIC)</ref>。 ==== 家畜への蓄積 ==== 1957年から[[北海道]]で行われた調査では、[[1960年代]]から[[1970年代]]に北海道の[[ウシ]]や[[ウマ]]の骨に蓄積されていた放射性ストロンチウム (<sup>90</sup>Sr) は2,000-4,000 mBq/gを記録していたが、[[大気圏]]内[[核実験]]の禁止後は次第に減少し、現在では100 mBq以下程度まで減少している。また、ウシとウマではウマの方がより高濃度で蓄積をしていて加齢と蓄積量には相関関係があるとしている。屋外の牧草を直接食べるウシとウマは、放射能汚染をトレースするための良い生物指標となる<ref>近山之雄, 八木行雄, 塩野浩紀 ほか、「[https://doi.org/10.3769/radioisotopes.48.283 北海道における<sup>90</sup>Srの牛馬骨への蓄積状況] 『RADIOISOTOPES』 1999年 48巻 4号 p.283-287、日本アイソトープ協会</ref>。 ==== 放射性ストロンチウムの体外排泄 ==== 1960年代、米ソを中心に大気圏内の核実験が盛んに行われた。これに伴い、体内に取り込まれた放射性物質の除去剤や排泄促進法に関する研究も数多く行われている。放射性ストロンチウムは生体内ではカルシウムと同じような挙動をとる。IAEA([[国際原子力機関]])は放射性ストロンチウムを大量に摂取した場合、[[アルギン酸]]の投与を考慮するように勧告している<ref>IAEA Safety Series 47 (1978)</ref>。[[アルギン酸]]は[[褐藻]]類の細胞間を充填する粘質[[多糖]]で、カルシウムよりもストロンチウムに対する親和性が高いことが知られている。ヒトにアルギン酸を経口投与してから放射性ストロンチウムを投与すると、投与していない場合と比べて体内残留量が約{{分数|1|8}}になることが報告されている<ref>Hesp R. and Ramsbottom, B., Nature (1965)</ref><ref>市川竜資「[https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu1962.7.208 放射性ストロンチウムとアルギン酸]」『化学と生物』1969年 7巻 4号 p.208-211, {{doi|10.1271/kagakutoseibutsu1962.7.208}}</ref>。また動物実験でも同様の効果があることが確かめられている<ref>西村義一, 魏仁善, 金絖崙 ほか、「[https://doi.org/10.3769/radioisotopes.40.6_244 放射性Srの代謝に及ぼすキトサンとアルギン酸の影響について]」『RADIOISOTOPES』 1991年 40巻 6号 p.244-247, {{doi|10.3769/radioisotopes.40.6_244}}</ref>。 == 歴史 == [[Image:FlammenfärbungSr.png|thumb|left|upright=0.6|ストロンチウムの炎色試験]] 1790年、バリウムの調合に携わった医師である[[Adair Crawford]]と同僚の[[William Cruickshank (chemist)|William Cruickshank]]がストロンチアン石が他の重晶石("heavy spars")の元となる石の特性とは異なる特性を示すことを認識した<ref>{{cite journal | first = Adair | last = Crawford | date= 1790 | title = On the medicinal properties of the muriated barytes | journal = Medical Communications| volume = 2 | pages = 301–59 | url = https://books.google.com/books?id=bHI_AAAAcAAJ&pg=P301}}</ref>。これによりAdairは355ページで「・・・実際にこのスコットランドの鉱物はこれまで十分に調べられていない新種の土類である可能性が高い」と締めくくっている。医師で鉱物収集家である[[Friedrich Gabriel Sulzer]]は[[ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ]]とともにストロンチアン産の鉱物を分析しストロンチアナイトと名付けた。また、{{仮リンク|毒重石|en|witherite}}とは異なり新たな土類(neue Grunderde)を含んでいるという結論を出した<ref>{{cite journal | url =https://books.google.com/books?id=gCY7AAAAcAAJ&pg=PA433 | journal =Bergmännisches Journal | title = Über den Strontianit, ein Schottisches Foßil, das ebenfalls eine neue Grunderde zu enthalten scheint| last1 =Sulzer| first1 =Friedrich Gabriel | first2 = Johann Friedrich | last2 = Blumenbach| date =1791 | pages = 433–36}}</ref>。1793年、グラスゴー大学の化学教授Thomas Charles Hopeがストロンタイト(''strontites'')という名前を提案する<ref>Although Thomas C. Hope had investigated strontium ores since 1791, his research was published in: {{cite journal | first =Thomas Charles | last =Hope | date = 1798 | title = Account of a mineral from Strontian and of a particular species of earth which it contains | journal = Transactions of the Royal Society of Edinburgh| volume = 4 | issue = 2 | pages =3–39| url = https://books.google.com/books?id=5TEeAQAAMAAJ&pg=RA1-PA3 | doi =10.1017/S0080456800030726}}</ref><ref>{{cite journal |author=Murray, T. |date=1993| title= Elementary Scots: The Discovery of Strontium |journal = Scottish Medical Journal| volume = 38 |pages = 188–89 |pmid=8146640 |issue=6 |doi=10.1177/003693309303800611}}</ref><ref>{{cite web| url = http://www.chem.ed.ac.uk/about/professors/hope.html| author = Doyle, W.P.| title = Thomas Charles Hope, MD, FRSE, FRS (1766–1844)| publisher = The University of Edinburgh| url-status = dead| archiveurl = https://web.archive.org/web/20130602122314/http://www.chem.ed.ac.uk/about/professors/hope.html| archivedate = 2 June 2013| df = dmy-all|accessdate=2020-03}}</ref><ref>{{cite journal | first =Thomas Charles | last =Hope | date = 1794 | title = Account of a mineral from Strontian and of a particular species of earth which it contains | journal = Transactions of the Royal Society of Edinburgh| volume = 3 | issue = 2 | pages =141–49| url =https://books.google.com/books?id=7StFAAAAcAAJ&pg=PA143 | doi =10.1017/S0080456800020275}}</ref><!--https://books.google.com/books?id=3GQ7AQAAIAAJ&pg=PA134-->。1808年に[[ハンフリー・デービー]]卿により、[[塩化ストロンチウム]]と[[酸化水銀(II)]]を含む混合物の[[電気分解]]により最終的に分離され、1808年6月30日の王立協会での講演で発表された<ref>{{cite journal | last1 = Davy | first1 = H. | date = 1808 | title = Electro-chemical researches on the decomposition of the earths; with observations on the metals obtained from the alkaline earths, and on the amalgam procured from ammonia | url = https://books.google.com/books?id=gpwEAAAAYAAJ&pg=102#v=onepage&q&f=false | journal = Philosophical Transactions of the Royal Society of London | volume = 98 | pages = 333–70 | doi=10.1098/rstl.1808.0023}}</ref>。他のアルカリ土類の名前に合わせ、名前をストロンチウムに変更した<ref>{{cite web|url=http://www.lochaber-news.co.uk/news/fullstory.php/aid/2644/Strontian_gets_set_for_anniversary.html|author=Taylor, Stuart|title=Strontian gets set for anniversary|publisher=Lochaber News|date=19 June 2008|url-status=bot: unknown|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090113005443/http://www.lochaber-news.co.uk/news/fullstory.php/aid/2644/Strontian_gets_set_for_anniversary.html|archivedate=13 January 2009|df=dmy-all|accessdate=2020-03}}</ref><ref>{{cite journal |author = Weeks, Mary Elvira |authorlink=Mary Elvira Weeks|title = The discovery of the elements: X. The alkaline earth metals and magnesium and cadmium |journal = Journal of Chemical Education |date = 1932 |volume = 9 |pages = 1046–57 |doi = 10.1021/ed009p1046 |issue = 6 |bibcode = 1932JChEd...9.1046W }}</ref><ref>{{cite journal |doi = 10.1080/00033794200201411 |title = The early history of strontium |date = 1942 |last1 = Partington |first1 = J. R. |journal = Annals of Science |volume = 5 |page = 157 |issue = 2}}</ref><ref>{{cite journal | doi = 10.1080/00033795100202211 | title = The early history of strontium. Part II | date = 1951 | last1 = Partington | first1 = J. R. | journal = Annals of Science | volume = 7 | page = 95}}</ref><!-- The google book https://books.google.com/books?id=LagWAAAAYAAJ&pg=PA139 could help with original literature--><ref>Many other early investigators examined strontium ore, among them: '''(1)''' Martin Heinrich Klaproth, "Chemische Versuche über die Strontianerde" (Chemical experiments on strontian ore), ''Crell's Annalen'' (September 1793) no. ii, pp. 189–202 ; and "Nachtrag zu den Versuchen über die Strontianerde" (Addition to the Experiments on Strontian Ore), ''Crell's Annalen'' (February 1794) no. i, p. 99 ; also '''(2)''' {{cite journal | last1 = Kirwan | first1 = Richard | date = 1794 | title = Experiments on a new earth found near Stronthian in Scotland | journal = The Transactions of the Royal Irish Academy | volume = 5 | pages = 243–56 }}</ref>。 ストロンチウムの最初の大規模な適用は、[[テンサイ]]からの砂糖の生産であった。水酸化ストロンチウムを用いた結晶化プロセスは1849年に[[Augustin-Pierre Dubrunfaut]]により特許がとられたが<ref name="Metalle in der Elektrochemie">{{cite book | url = https://books.google.com/?id=xDkoAQAAIAAJ&q=dubrunfaut+strontium&dq=dubrunfaut+strontium| title =Metalle in der Elektrochemie | pages = 158–62 | author1 = Fachgruppe Geschichte Der Chemie, Gesellschaft Deutscher Chemiker | date = 2005}}</ref>、1870年代初期にプロセスが改善されたことで大規模な導入が行われた。ドイツの[[砂糖工業]]は20世紀までこのプロセスをうまく利用していた。[[第一次世界大戦]]前、テンサイの砂糖産業はこのプロセスに年間10万から15万トンの水酸化ストロンチウムを使用していた<ref name="books.google.de">{{cite book | chapter = strontium saccharate process | chapter-url = https://books.google.com/books?id=-vd_cn4K8NUC&pg=PA341 | isbn = 978-1-4437-2504-0 | title = Manufacture of Sugar from the Cane and Beet | author1 = Heriot, T. H. P | date = 2008}}</ref>。水酸化ストロンチウムはこのプロセスでリサイクルされたが、製造中の損失を補う需要は[[ミュンスター行政管区|ミュンスターランド]]でストロンチアナイトの採掘を始める大きな需要を生み出すほど高かった。ドイツのストロンチアナイトの採掘は[[グロスタシャー]]で[[天青石]]鉱床の採掘が始まると終了した<ref>{{cite web | url = http://www.lwl.org/LWL/Kultur/Westfalen_Regional/Wirtschaft/Bergbau/Strontianitbergbau/ | title = Der Strontianitbergbau im Münsterland | first = Martin | last = Börnchen | accessdate = 9 November 2010 | url-status = dead | archiveurl = https://web.archive.org/web/20141211085517/http://www.lwl.org/LWL/Kultur/Westfalen_Regional/Wirtschaft/Bergbau/Strontianitbergbau/ | archivedate = 11 December 2014 | df = dmy-all }}</ref>。これらの鉱山は1884年から1941年までの世界のストロンチウム供給のほとんどを賄った。グラナダ盆地の天青石鉱床はしばらくの間知られていたが、大規模な採掘は1950年代より前には始まっていない<ref>{{cite journal | doi = 10.1016/0037-0738(84)90055-1 | title = Genesis and evolution of strontium deposits of the granada basin (Southeastern Spain): Evidence of diagenetic replacement of a stromatolite belt | date = 1984 | last1 = Martin | first1 = Josèm | last2 = Ortega-Huertas | first2 = Miguel | last3 = Torres-Ruiz | first3 = Jose | journal = Sedimentary Geology | volume = 39 | issue = 3–4 | page = 281|bibcode = 1984SedG...39..281M }}</ref>。 [[大気圏内核実験]]による[[核分裂生成物]]の中に、ストロンチウム90が比較的多いことが観察された。カルシウムとの化学的動態の類似性からストロンチウム90が骨に蓄積する可能性が考えられ、ストロンチウムの代謝に関する研究が重要なトピックとなった<ref>{{cite web | url = http://www-nds.iaea.org/sgnucdat/c1.htm | publisher = iaea.org| title = Chain Fission Yields |accessdate=2020-03}}</ref><ref>{{cite journal | pmc = 1985251 | date = 1968 | last1 = Nordin | first1 = B. E. | title = Strontium Comes of Age | volume = 1 | issue = 5591 | page = 566 | journal = British Medical Journal | doi = 10.1136/bmj.1.5591.566}}</ref>。 ==産出== [[File:World Strontium Production 2014.svg|upright=1.6|thumb|2014年のストロンチウムの生産国<ref name="usgs15">{{cite web |publisher = United States Geological Survey |accessdate = 26 March 2016 |title = Mineral Commodity Summaries 2015: Strontium |first = Joyce A. |last = Ober |url = http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/strontium/mcs-2015-stron.pdf }}</ref>|alt=Grey and white world map with China colored green representing 50%, Spain colored blue-green representing 30%, Mexico colored light blue representing 20%, Argentina colored dark blue representing below 5% of strontium world production.]] 2015年現在の天青石としてのストロンチウムの3つの主要産出国は、中国(150,000&nbsp;[[トン|t]])、スペイン(90,000&nbsp;t)、メキシコ(70,000&nbsp;t)であり、アルゼンチン(10,000&nbsp;t)やモロッコ(2,500&nbsp;t)は小規模産出国である。ストロンチウム鉱床はアメリカに広く存在しているが、1959年以降採掘されていない<ref name="usgs15"/>。 採掘される天青石(SrSO<sub>4</sub>)の大部分は2つのプロセスにより炭酸塩に変換される。天青石を炭酸ナトリウム溶液で直接浸出するか、石炭で焙煎し硫化物を作る。2番目の段階では主に[[硫化ストロンチウム]]を含む暗色の物質が作られる。このいわゆる「黒灰」(ブラックアッシュ)は水に溶けて濾過される。炭酸ストロンチウムは[[二酸化炭素]]を入れることにより硫化ストロンチウム溶液から沈殿する<ref>{{cite book | url = https://books.google.com/books?id=5smDPzkw0wEC&pg=PA401 | title = Production of SrCO<sub>3</sub> by black ash process: Determination of reductive roasting parameters| page = 401 | isbn = 978-90-5410-829-0 | last1 = Kemal | first1 = Mevlüt | last2 = Arslan | first2 = V. | last3 = Akar | first3 = A. | last4 = Canbazoglu | first4 = M. | date = 1996}}</ref>。硫酸塩は炭素還元により[[硫化物]]に還元される。 :SrSO<sub>4</sub> + 2 C → SrS + 2 CO<sub>2</sub> 毎年30万トンにこのプロセスが行われている<ref name=Ullmann>MacMillan, J. Paul; Park, Jai Won; Gerstenberg, Rolf; Wagner, Heinz; Köhler, Karl and Wallbrecht, Peter (2002) "Strontium and Strontium Compounds" in ''Ullmann's Encyclopedia of Industrial Chemistry'', Wiley-VCH, Weinheim. {{DOI|10.1002/14356007.a25_321}}.</ref>。 ストロンチウム金属は、商業的には酸化ストロンチウムを[[アルミニウム]]で還元することにより製造されている。混合物から[[蒸留]]される<ref name=Ullmann/>。溶融[[塩化カリウム]]中の[[塩化ストロンチウム]]溶液の[[電気分解]]により小規模で調製することもできる<ref name=Greenwood111>Greenwood and Earnshaw, p. 111</ref>。 :Sr<sup>2+</sup> + 2 e<sup>-</sup> → Sr :2 Cl<sup>−</sup> → Cl<sub>2</sub> + 2 e<sup>-</sup> == ストロンチウムの化合物 == * [[酸化ストロンチウム]] (SrO) - [[塩基性酸化物]] * [[水酸化ストロンチウム]] (Sr(OH)<sub>2</sub>) - [[強塩基]] * [[チタン酸ストロンチウム]] (SrTiO<sub>3</sub>) - [[常誘電体]] * [[クロム酸ストロンチウム]] (SrCrO<sub>4</sub>) - [[黄色]][[顔料]]・[[ストロンチウムクロメート]](ストロンチウムイエロー、ストロンシャンイエロー)の主成分。 * [[ストロンチアン石]] (SrCO<sub>3</sub>) - 主成分[[炭酸ストロンチウム]] * [[天青石]] (SrSO<sub>4</sub>) - 主成分[[硫酸ストロンチウム]] * [[硝酸ストロンチウム]] (Sr(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>) * [[塩化ストロンチウム]] (SrCl<sub>2</sub>) * [[水素化ストロンチウム]](SrH₂) * [[リン酸水素ストロンチウム]] (SrHPO<sub>4</sub>) - [[蛍光体]] == 参考書籍 == * 『放射化学』著:古川路明 出版:朝倉書店 1994年03月25日 ISBN 978-4-254-14545-8 C3343 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|Strontium}} * {{仮リンク|ルビジウム-ストロンチウム年代測定|en|Rubidium-strontium dating}} * [[光格子時計]] * [[原子時計#ストロンチウム格子時計|ストロンチウム格子時計]] == 外部リンク == * {{ICSC|1534}} * {{Kotobank}} {{元素周期表}} {{ストロンチウムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すとろんちうむ}} [[Category:ストロンチウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:アルカリ土類金属]] [[Category:第5周期元素]]
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セレーネー
セレーネー(古代ギリシア語: Σελήνη〈ギリシア語ラテン翻字: Selēnē〉)は、ギリシア神話の月の女神である。長母音を省略してセレネ、セレーネとも表記される。聖獣は馬、驢馬、白い牡牛。ローマ神話のルーナと同一視される。 ヘーシオドスの『神統記』によると、ティーターン神族のヒュペリーオーンとテイアーの娘で、太陽神ヘーリオス、曙の女神エーオースと兄弟である。その他、父親に関してはメガメーデースの子パラース、あるいはヘーリオスともいわれる。母親に関してはアイトレーともバシレイアともいわれる。ゼウスとの間に娘パンディーア、ヘルセー、ネメアーがいる。一説によると兄弟であるヘーリオスとの子供に四季の女神ホーラーたちがおり、彼女たちはヘーラーに仕える4人の侍女であるともいわれる。さらにエピメニデースによると、不死身の怪物であるネメアーのライオンを生んだのはセレーネーであり、月が恐ろしい身震いをしたときに地上に降ってきたと語られている。ヒュギーヌスによるとネメアーのライオンを洞窟で育てたのはセレーネーである。セレーネーは伝説的な詩人ムーサイオスの母と言われることもあり、相手についてはエレウシースの王エウモルポスあるいはアンティペーモスと言われる。 輝く黄金の冠を戴き、額に月をつけた絶世の美女で、銀の馬車に乗って夜空を馳せ行き、柔らかな月光の矢を放つ。「華やかな夜の女王」、「星の女王」、「全能の女神」など呼び名がある。月経と月との関連から動植物の性生活・繁殖に影響力を持つとされた。また、常に魔法と関係付けられており、ヘレニズム時代には月は霊魂の棲む所とも考えられていた。後にアルテミスやヘカテーと同一視された。女神自身が3つの顔を持つという形で表現されることがあり、新月、半月、輝く満月の3つの月相を永遠に繰り返した。その他、月は3つの「顔」を持ち、それが新しく生まれる三日月のアルテミス(処女・乙女)、満ちる豊穣の月のセレーネー(夫人・成熟した女性・母)、欠けていく暗い月のへカテー(老女)であるとされている。 ギガントマキアーではセレーネーは兄弟たちとともにゼウスに協力し、ギガースたちの味方をする大地母神ガイアが薬草を見つけられないように空に現れなかったと伝えられている。 最も有名なセレーネーの神話は美青年エンデュミオーンとの恋物語である。セレーネーは彼を愛し、ゼウスに願って(一説には彼女自身)エンデュミオーンに不老不死の永遠の眠りを与えたと言われる。一説によるとこの出来事は小アジアのラトモス山で起きたことになっている。セレーネーがエンデュミオーンの臥所を訪ねた際、夜空を行く月がラトモス山の陰に隠れてしまった。魔女メーデイアはこれを利用して、月のない闇夜を欲する時にはセレーネーに魔法をかけてエンデュミオーンへの恋心を掻き立て、それから月が夜空から消えた。あるいはセレーネーはエンデュミオーンと交わりを重ねて50人の娘・暦月の女神メーネーたちを生んだ。セレーネーは、メーネーとも呼ばれる。 他には、牧神パーンもセレーネーの美貌に魅了され、恋い焦がれたことがあった。そこでパーンは純白の羊毛皮でセレーネーを誘惑したが、毛皮の美しさに魅了されたセレーネーは拒まなかったという。しかしこの恋物語にはいくつか異なるものがあり、パーン自ら純白の羊毛皮に変身し、毛皮に魅了されたセレーネーが地上に降りてきたところをアルカディアの森の奥に連れて関係を持ったとも、純白の羊をプレゼントして関係を持ったとも伝えられている。
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セレーネーは、ギリシア神話の月の女神である。長母音を省略してセレネ、セレーネとも表記される。聖獣は馬、驢馬、白い牡牛。ローマ神話のルーナと同一視される。
{{otheruses|[[ギリシア神話]]の月の女神|その他|セレーネ}} {{Infobox deity | type = Greek | name = セレーネー<br>Σελήνη | image = Altar Selene Louvre Ma508.jpg | image_size = 300px | caption = {{small|セレーネー、[[ヘスペロス]]、[[ポースポロス]]<br>[[ローマ時代]]の[[祭壇]] [[ルーヴル美術館]]所蔵}} | deity_of = {{small|[[月神|月の女神]]}} | birth_place = | death_place = | cult_center = | affiliation = [[ティーターン]] | abode = 天空 | weapon = | symbol = 月、馬、驢馬、牡牛 | consort = | parents = [[ヒュペリーオーン]]、[[テイアー]] | siblings = [[ヘーリオス]]、[[エーオース]] | children = {{plainlist| *'''[[ゼウス]]の子''' *:[[パンディーア]] *:[[ヘルセー]] *:ネメア *'''[[ヘーリオス]]の子''' *:[[ホーラー]] *'''不明''' *:[[ネメアーのライオン]] *'''[[エンデュミオーン]]の子''' *:50人の娘 *:[[ナルキッソス]]<ref>[[ノンノス]]『[[ディオニュソス譚]]』48巻582行。</ref> }} | mount = | Roman_equivalent = [[ルーナ]] | festivals = }} '''セレーネー'''({{lang-grc|Σελήνη}}〈{{Lang-*-Latn|el|Selēnē}}〉)は、[[ギリシア神話]]の[[月]]の[[女神]]である。[[長母音]]を省略して'''セレネ'''、'''セレーネ'''とも表記される。聖獣は[[ウマ|馬]]、[[ロバ|驢馬]]、白い[[ウシ|牡牛]]。[[ローマ神話]]の[[ルーナ]]と同一視される。 == 概要 == [[ヘーシオドス]]の『[[神統記]]』によると、[[ティーターン]]神族の[[ヒュペリーオーン]]と[[テイアー]]の娘で、[[太陽神]][[ヘーリオス]]、曙の女神[[エーオース]]と兄弟である<ref>ヘーシオドス『神統記』371行-374行。</ref><ref>アポロドーロス、1巻2・2。</ref>。その他、父親に関してはメガメーデースの子[[パラス|パラース]]<ref>『ホメーロス風讃歌』第4歌「ヘルメース讃歌」100行。</ref>、あるいはヘーリオスともいわれる<ref>[[エウリーピデース]]『[[フェニキアの女たち]]』175行。</ref><ref>Pierre Grimal 1986, p.415.</ref>。母親に関してはアイトレーとも<ref>ヒュギーヌス、序文。</ref>バシレイアともいわれる<ref>シケリアのディオドロス、3巻57・4。</ref>。[[ゼウス]]との間に娘[[パンディーア]]<ref>『ホメーロス風讃歌』第32歌「セレーネー讃歌」19行-20行。</ref>、[[ヘルセー]]<ref>アルクマーン断片57([[プルタルコス]]『モラリア』による引用)。</ref>、ネメアーがいる<!--<ref>ピンダロス『ネメア祝勝歌』。</ref>-->。一説によると兄弟であるヘーリオスとの子供に[[四季]]の女神[[ホーラー]]たちがおり、彼女たちは[[ヘーラー]]に仕える4人の侍女であるともいわれる<ref>[[スミュルナのコイントス]]、10巻334行-336行。</ref>。さらに[[エピメニデース]]によると、不死身の怪物である[[ネメアーのライオン]]を生んだのはセレーネーであり、月が恐ろしい身震いをしたときに地上に降ってきたと語られている<ref>エピメニデース断片2([[アイリアーノス]]『動物の特性について』7巻7。)</ref>。[[ヒュギーヌス]]によるとネメアーのライオンを洞窟で育てたのはセレーネーである<ref>ヒュギーヌス、30話。</ref>。セレーネーは伝説的な詩人ムーサイオスの母と言われることもあり<ref>[[マウルス・セルウィウス・ホノラトゥス|セルウィウス]]『アエネーイス注解』6巻667行。</ref>、相手については[[エレウシース]]の王[[エウモルポス]]<ref>[[アリストパネース]]『[[蛙 (喜劇)|蛙]]』1033行への古註。</ref>あるいはアンティペーモスと言われる<ref>『[[スーダ]]』ムーサイオスの項。</ref>。 輝く黄金の冠を戴き、額に月をつけた絶世の美女で、銀の馬車に乗って夜空を馳せ行き、柔らかな月光の矢を放つ。「華やかな夜の女王」、「星々の女王」、「全能の女神」など呼び名がある<ref>『オルペウス賛歌』(IX セレーネー)。</ref>。[[月経]]と月との関連から動植物の性生活・繁殖に影響力を持つとされた<ref name="T">高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』143頁。</ref>。また、常に[[魔術|魔法]]と関係付けられており<ref name="T"></ref>、[[ヘレニズム]]時代には月は[[霊魂]]の棲む所とも考えられていた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%8D-87909 セレネ - 日本大百科全書(ニッポニカ)] コトバンク</ref>。後に[[アルテミス]]や[[ヘカテー]]と同一視された<ref>[[松村一男]]/監修『知っておきたい 世界と日本の神々』 西東社、43頁。</ref>。女神自身が3つの顔を持つという形で表現されることがあり、[[朔|新月]]、[[半月]]、輝く[[満月]]の3つの[[月相]]を永遠に繰り返した<ref>ノンノス『ディオニュソス譚』4巻279行。</ref>。その他、月は3つの「顔」を持ち、それが新しく生まれる三日月のアルテミス(処女・乙女)、満ちる豊穣の月のセレーネー(夫人・成熟した女性・母)、欠けていく暗い月のへカテー(老女)であるとされている<ref>[[石井ゆかり (占星術師)|石井ゆかり]]『月のとびら』、[[CCCメディアハウス]]、73,83頁。</ref>。 == 神話 == [[File:Edward Poynter - The Visions of Endymion, 1902.jpg|thumb|200px|[[エドワード・ポインター]]の1902年の絵画『夢の中のエンデュミオーン』。[[マンチェスター市立美術館]]所蔵。]] [[ギガントマキアー]]ではセレーネーは兄弟たちとともにゼウスに協力し、[[ギガース]]たちの味方をする[[大地母神]][[ガイア]]が[[薬草]]を見つけられないように空に現れなかったと伝えられている<ref>アポロドーロス、1巻6・1。</ref>。 ===エンデュミオーン=== 最も有名なセレーネーの神話は美青年[[エンデュミオーン]]との恋物語である。セレーネーは彼を愛し、ゼウスに願って(一説には彼女自身<ref>高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』76頁。</ref><ref>[[山室静]]『ギリシャ神話 付・北欧神話』82頁。</ref>)エンデュミオーンに[[不老不死]]の永遠の眠りを与えたと言われる<ref>アポロドーロス、1巻7・5。</ref>。一説によるとこの出来事は[[小アジア]]のラトモス山で起きたことになっている<ref>[[ロドスのアポローニオス]]、4巻57行。</ref>。セレーネーがエンデュミオーンの臥所を訪ねた際、夜空を行く月がラトモス山の陰に隠れてしまった。[[魔女]][[メーデイア]]はこれを利用して、月のない闇夜を欲する時にはセレーネーに魔法をかけてエンデュミオーンへの恋心を掻き立て、それから月が夜空から消えた<ref>ロドスのアポローニオス、4巻55行-66行。</ref>。あるいはセレーネーはエンデュミオーンと交わりを重ねて50人の娘<ref>パウサニアス、5巻1・4。</ref>・[[月 (暦)|暦月]]の女神メーネーたちを生んだ。セレーネーは、メーネーとも呼ばれる<ref>フェリックス・ギラン『ギリシア神話』172頁。</ref>。 ===パーン=== 他には、牧神[[パーン (ギリシア神話)|パーン]]もセレーネーの美貌に魅了され、恋い焦がれたことがあった。そこでパーンは純白の羊毛皮でセレーネーを誘惑したが、毛皮の美しさに魅了されたセレーネーは拒まなかったという<ref>ウェルギリウス『農耕詩』3巻391行-93行。</ref>。しかしこの恋物語にはいくつか異なるものがあり、パーン自ら純白の羊毛皮に変身し、毛皮に魅了されたセレーネーが地上に降りてきたところを[[アルカディア]]の森の奥に連れて関係を持ったとも、純白の羊をプレゼントして関係を持ったとも伝えられている<ref>河津千代による『農耕詩』訳注、p.309。</ref>。 {{-}} == ギャラリー == <gallery style="margin: 0 auto" widths="140px" heights="130px" perrow="5"> Annibale Carracci - Homage to Diana - WGA04460.jpg|{{small|[[アンニーバレ・カラッチ]]『パンとセレネ』(1597-1602年頃) [[パラッツォ・ファルネーゼ]]所蔵}} Hans von Aachen - Pan and Selene.jpg|{{small|[[ハンス・フォン・アーヘン]]『パンとセレネ』(1600年と1605年の間) 個人蔵}} Diane et Endymion 1630 Detroit Institute of Art.jpg|{{small|[[ニコラ・プッサン]]『セレネとエンデュミオン』(1628-1630年頃) [[デトロイト美術館]]所蔵}} Selene by Pietro della Vecchia.jpg|{{small|[[ピエトロ・デラ・ヴェッキア]]『セレネ』(日付不明) {{仮リンク|キングストン・レイシー|en|Kingston Lacy}}所蔵}} Filippo Lauri - Pan and Diana.jpg|{{small|{{仮リンク|フィリッポ・ラウリ|en|Filippo Lauri}}『パンとセレネ』(17世紀) {{仮リンク|アルスター国立博物館|en|Ulster Museum}}所蔵}} Selene and Endymion by Victor Florence Pollett.jpg|{{small|{{仮リンク|ビクター・フローレンス・ポレット|de|Victor Florence Pollet}}『セレネとエンデュミオン』(1850年から1860年の間)}} Albert Aublet - Selene.jpg|{{small|{{仮リンク|アルベール・オーブレ|en|Albert Aublet}}『セレネ』(1880年) 個人蔵}} Clipeus Selene Terme.jpg|{{small|セレネ像(3世紀) [[ディオクレティアヌス浴場]]所蔵}} Diana-selene, da originale ellenistico, da porta s. sebastiano 02.JPG|{{small|セレネ像(4世紀) [[カピトリーノ美術館]]所蔵}} Sarcophagus Selene Endymion Met 47.100.4ab n03.jpg|{{small|セレネとエンデュミオンの像(3世紀) [[メトロポリタン美術館]]所蔵}} </gallery> == 出典 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[アポロドーロス]]『ギリシア神話』[[高津春繁]]訳、[[岩波文庫]](1953年) * [[アルクマン]]他『ギリシア合唱抒情詩集』[[丹下和彦]]訳、[[京都大学学術出版会]](2002年) * 『[[オデュッセイア]]/[[アルゴナウティカ]]』[[松平千秋]]・[[岡道男]]訳、[[講談社]](1982年) * [[ウェルギリウス]]『[[牧歌 (ウェルギリウス)|牧歌]]・[[農耕詩]]』河津千代訳、[[未来社]](1981年) * [[スミュルナのコイントス|クイントゥス]]『トロイア戦記』[[松田治]]訳、[[講談社学術文庫]](2000年) * [[シケリアのディオドロス|ディオドロス]]『神代地誌』飯尾都人訳、龍溪書舎(1999年) * 『[[ソクラテス]]以前哲学者断片集 第1分冊』「[[エピメニデス]]」山口義久、[[岩波書店]](1996年) * 『ソクラテス以前哲学者断片集 第1分冊』「[[アクゥシラオス]]」丸橋裕訳、岩波書店(1996年) * [[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年) * [[ヒュギーヌス]]『ギリシャ神話集』[[松田治]]・青山照男訳、[[講談社学術文庫]](2005年) * [[ヘシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]]訳、岩波文庫(1984年) * [[ホメーロス]]『ホメーロスの諸神讃歌』[[沓掛良彦]]訳、[[ちくま学芸文庫]](2004年) * [[高津春繁]]『ギリシア・ローマ神話辞典』[[岩波書店]](1960年) * フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、[[青土社]](1991年) * [[ピエール・グリマル|Pierre Grimal]], ''The Dictionary of Classical Mythology''. Blackwell Publishers, 1986. == 関連項目 == {{Commonscat|Selene}} {{Wiktionary|セレーネー}} * [[月神]] {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せれえねえ}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:月神]] [[Category:女神]]
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カバー
カバー、カヴァー(英: cover)は、ポピュラー音楽の分野で、過去に他人が発表した曲を歌唱・編曲・演奏して発表することである。元は代役を意味する言葉である。聞き手に新たな解釈を提示したもの。本人が発表した曲の場合はセルフカバーという。 カバーとはある楽曲が複数の歌手に共有される現象である。動機としては、カバーしようとする歌手がその楽曲を純粋に好んで歌うため・持ち歌不足を補うため・他人への提供楽曲をファンや音楽会社の要望で録音を行うため・有名な曲をカバーすることで宣伝効果が得られるため、等々がある。そのため、歌詞やタイトルが変更されることもある。 日本では法的には日本音楽著作権協会(JASRAC)などの音楽著作権管理団体の管理楽曲であれば、その団体に申請し所定の著作権使用料を支払う事でカバーできる。ただし、原曲に新たに編曲(アレンジ)を加えて使用する場合は注意を要する。楽曲を編曲する権利(翻案権)は著作権者が専有しており(著作権法27条)、著作者は自身の「意に反する」改変を禁じる権利(同一性保持権)を有している(著作権法20条)。これらのJASRACが管理していない権利(著作者人格権、楽曲の翻案権など)については、それぞれの権利者に許諾を得る必要がある。そのため、PE'Zの「大地讃頌」のように、編曲に対して著作者である佐藤眞から同一性保持権の侵害が申し立てられた結果、CDの販売停止と同曲の演奏禁止という事態に発展した事例もある(大地讃頌事件を参照)。 日本では、1936年のポリドールの正月新譜として『名曲玉手箱』が発表されている。これは当時のポリドールの花形歌手が他の歌手のヒット曲を一番ずつ歌うという企画であった。 1955年、日本の童謡である「証城寺の狸囃子」(1929年の平井英子版が著名)を、米国のアーサー・キットが『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon) 』として歌唱し、日本国内で20万枚近くを売り上げるヒットとなった。また同曲は、朝鮮民主主義人民共和国でもその旋律が流用されており、『北岳山の歌(북악산의 노래)』という童謡に改編されている。 1960年、小林旭の「ズンドコ節」、井上ひろしの「雨に咲く花」(関種子のカバー)など、過去のヒット曲のカバー・リメイク曲が次々とヒットし、1960年〜61年頃にかけて日本の歌謡界にリバイバルブームが起こった。 1960年代にはシャンソンブームが到来し、フランス由来の楽曲の日本語カバーで越路吹雪による「愛の讃歌」、「サン・トワ・マミー」が著名となった。「ラストダンスは私に」など米国由来の楽曲でもシャンソンとして認知されている場合もある。 1970年代以降、多くの日本歌謡曲が香港や台湾でカバーされ人気を博した。(後半の項に詳述。)複数の歌詞で、あるいは複数の歌手が同じ曲を競作でカバーすることもある。逆にアジア由来のメロディとしては、韓国トロットを源流とする「釜山港へ帰れ」や、中国歌謡から戦後輸入カバーされ、中華圏のビジネスマン接待等カラオケで人気となった「夜来香」があり、認知度の高い楽曲である。 1971年、尾崎紀世彦は全曲洋楽のカバーアルバム『尾崎紀世彦ファースト・アルバム』を発売、オリコンチャート2位、年間10位のヒットとなる。シャンソンの「雪が降る」(サルヴァトール・アダモ)のカバーでも人気を博した。 1975年、かぐや姫の「なごり雪」をイルカがカバーし、大ヒットする。 1977年、吉田拓郎のカバーアルバム『ぷらいべえと』がカバーアルバムとして初のオリコン1位を獲得。 1979年、西城秀樹がヴィレッジ・ピープルの「Y.M.C.A.」を「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーし、大ヒット。洋楽のカバー曲として初めて日本歌謡大賞を受賞した。これを切っ掛けとして1980年代に欧米のディスコ・ミュージックに日本語詞を付けるカバー曲が流行した。中でも荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)」は1986年から流行し、所収のアルバム『NON-STOPPER』は1987年度のオリコンアルバム売上年間1位を記録、2010年代にもリバイバルで再注目された。 1980年代に一世を風靡した大映ドラマの主題歌には、洋楽のカバーが多数起用され、麻倉未稀の「What a feeling 〜フラッシュダンス」・「ヒーロー」、MIEの「NEVER」、椎名恵の「今夜はANGEL」・「愛は眠らない」などヒットを量産した。 1984年、イタリアのガゼボの名曲をカバーした「雨音はショパンの調べ」(小林麻美)がヒットし、3週連続オリコン1位となった。 1988年、薬師丸ひろ子が中島みゆきの「時代」をカバーし、ヒット。続いて1989年、斉藤由貴が井上陽水の「夢の中へ」を、森高千里が南沙織の「17才」をカバーしそれぞれ大ヒット。これをきっかけとして当時の若手歌手が過去のヒット曲をカバーすることが流行した。 1980年代末〜1990年代前半には、欧米のアーティストがJ-POPの楽曲をカバーしたいわゆる「逆カバー」がブームになった。ブームのきっかけは1989年にレイ・チャールズがサザンオールスターズの「いとしのエリー」を「Ellie My Love」としてカバーしヒットしたことだとも、1990年に発売されたA.S.A.P.が松任谷由実の楽曲をカバーしたアルバム『GRADUATION』がヒットしたことだとも言われる。 1994年、中森明菜がカバーアルバム『歌姫』を発売、30万枚のヒット。2002年と2004年には続編も発表され、累計で100万枚を売り上げる。 1997年頃から、往年の大スターの曲を聴いて育った世代のミュージシャンたちが、オリジナルを自身のアレンジで吹き込み直し、そのスターに捧げるという意味でのカバーバージョン集「トリビュート・アルバム」が増える。 森山良子による1998年初出の楽曲『涙そうそう』(作曲:BEGIN)は、BEGIN自身によるシングル化を経て、夏川りみによる2001年のカバーに火がつき、JASRAC賞(著作権分配額を表彰する)で2004年度の銀賞となるなど、国民的に著名な楽曲となった。 2000年代初頭の日本の音楽業界では、CD不況の影響を受けてCDが売れないため、レコードを多く買っていた団塊の世代を狙った形での過去のヒット曲のカバーが非常に増えた。2000年代初頭の日本の音楽業界におけるカバーブームのきっかけとなったとされるのは、2001年に発売された井上陽水のカバーアルバム『UNITED COVER』である。同年には坂本九の「明日があるさ」をウルフルズやRe:Japanらがカバーしてヒットさせた。2002年にはヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」を島谷ひとみがカバーしてヒットさせ、また様々なアーティストがカバーアルバムを発表。さらにはテレビ東京で『カヴァーしようよ!』が放送された。 2005年9月に発売された、徳永英明が女性アーティストの曲をカバーしたアルバム『VOCALIST』は、日本ゴールドディスク大賞『企画アルバム・オブ・ザ・イヤー』を受賞。『VOCALIST 2』『VOCALIST 3』『VOCALIST 4』も含めて大ヒットした。 2005年秋から翌年にかけ、映画『NANA-ナナ-』の劇中歌として大ヒットした伊藤由奈の『ENDLESS STORY』は、元々1993年のアメリカ映画「Indecent Proposal」(邦題:幸福の条件)の劇中歌“If I'm Not in Love With You”であったが、1998年のジョディ・ワトリーや1999年のフェイス・ヒルらによって相次いでカバーされていた楽曲である。 2000年代後半には、J-POPの楽曲をボサノヴァやレゲエ風のソフトアレンジでカバーしたアルバムが多く発売される。代表的なアーティストとしてSOTTE BOSSEがある。 2006年、アリスターが日本向け企画アルバムとして発売した『Guilty Pleasures』がヒットし、欧米アーティストがJ-POPの楽曲をカバーした作品が再び注目されるようになる。2008年11月元MR. BIGヴォーカリスト、エリック・マーティンによる日本の女性ヴォーカルの曲をカバーしたアルバム『MR.VOCALIST』が話題になる。 2010年には男性デュオコブクロが40万枚限定で『ALL COVERS BEST』を発売し、オリコンチャートの初動売り上げで29.1万枚を記録。同チャートにてカバーアルバム史上最高の初動売り上げとなった。 2013年、クリス・ハートがJ-POPの楽曲をカバーしたアルバム『Heart Song』を発売。続編を含めると、累計で100万枚を超える出荷枚数を記録している。 2018年、イタリアのジョー・イエローが1992年にリリース発売した「U.S.A.」を、DA PUMPが、シングルカバー曲として発売。「いいねポーズ」や「ヒゲダンス」など真似しやすい振り付けを取り入れたMVの再生回数は1億回を突破するなど、大ヒットした。共に1980年代ユーロビートの再来を彷彿とさせた。 2020年、松原みきの「真夜中のドア〜Stay With Me」(1979年初出)が、インドネシアの歌手でYouTuberであるRainychによりカバーされた事が要因の1つとなって、同楽曲の人気に火が付き、41年の時を経て世界各国のサブスクリプションで上位にランクイン、また日本のシティポップの世界的なブームの火付け役ともなった。 2021年3月22日、天月-あまつき-がMONGOL800の「小さな恋のうた」をカバーした動画が、カバー曲の動画(歌ってみた動画)として日本人初の1億回再生を突破したと発表された。 1980年代には千昌夫の「北国の春」、谷村新司の「昴」、喜納昌吉の「花〜すべての人の心に花を〜」が中華圏・東南アジア全域でヒットし、多くの歌手にカバーされた。 1990年代以降には、日本発のドラマコンテンツ、またアニメなどが運び手となり、多くの日本発祥楽曲がカバーされるようになった。 その他、アジア各国では日本アニメが国民的に浸透しており、アニメ主題歌は現地語バージョンが作られる場合もあり、浸透度は極めて高い。 欧米では、坂本九の「上を向いて歩こう」は本家版が全米1位となった1963年から時を経て、カバーしたテイスト・オブ・ハニー版も1981年にビルボード3位に入ったほか、欧州・南米でもカバーされ世界的スタンダードナンバーとなっている。また、YMOの「ビハインド・ザ・マスク」はマイケル・ジャクソン、のちにエリック・クラプトンによってカバーされた稀有な例である。
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カバー、カヴァーは、ポピュラー音楽の分野で、過去に他人が発表した曲を歌唱・編曲・演奏して発表することである。元は代役を意味する言葉である。聞き手に新たな解釈を提示したもの。本人が発表した曲の場合はセルフカバーという。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2018年12月}} {{wiktionary|カバー}} '''カバー'''、'''カヴァー'''({{lang-en-short|cover}})は、[[ポピュラー音楽]]の分野で、過去に他人が発表した曲を[[歌唱]]・[[編曲]]・[[演奏]]して発表することである。元は[[代役]]を意味する言葉である。聞き手に新たな解釈を提示したもの。本人が発表した曲の場合は[[セルフカバー]]という。 == 概要 == {{出典の明記|date=2018年12月|section=1}} カバーとはある[[楽曲]]が複数の[[歌手]]に[[共有]]される現象である。動機としては、カバーしようとする歌手がその楽曲を純粋に好んで歌うため・持ち歌不足を補うため・他人への提供楽曲をファンや音楽会社の要望で録音を行うため・有名な曲をカバーすることで宣伝効果が得られるため、等々がある。そのため、歌詞やタイトルが変更されることもある。 == 著作権との関係 == {{law|section=1}} [[日本]]では法的には[[日本音楽著作権協会]](JASRAC){{要検証範囲|など|date=2022年2月}}の音楽[[著作権管理団体]]の管理楽曲であれば、その団体に申請し所定の[[著作権]]使用料を支払う事でカバーできる。ただし、原曲に新たに[[編曲]](アレンジ)を加えて使用する場合は注意を要する。楽曲を編曲する権利([[翻案権]])は[[著作権者]]が専有しており([[著作権法]]27条)、[[著作者]]は自身の「意に反する」改変を禁じる権利([[同一性保持権]])を有している(著作権法20条)。これらのJASRACが管理していない権利(著作者人格権、楽曲の翻案権など)については、それぞれの権利者に許諾を得る必要がある。そのため、[[PE'Z]]の「[[大地讃頌]]」のように、編曲に対して著作者である[[佐藤眞]]から同一性保持権の侵害が申し立てられた結果、CDの販売停止と同曲の演奏禁止という事態に発展した事例もある([[大地讃頌事件]]を参照)。 == 歴史 == === 日本 === 日本では、1936年の[[ユニバーサルミュージック (日本)|ポリドール]]の正月新譜として『名曲玉手箱』が発表されている。これは当時のポリドールの花形歌手が他の歌手のヒット曲を一番ずつ歌うという企画であった<ref>LPレコード『懐かしのメロデー 日本歌謡史 第5集 昭和11年』([[国際情報社]])付属[[ライナーノーツ]]、18頁。(同ページの著者は[[森一也]])</ref>。 1955年、日本の童謡である「[[証城寺の狸囃子]]」(1929年の[[平井英子]]版が著名)を、米国の[[アーサー・キット]]が『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon) 』として歌唱し、日本国内で20万枚近くを売り上げるヒットとなった。また同曲は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]でもその旋律が流用されており、『北岳山の歌(북악산의 노래)』という童謡に改編されている。<ref>北朝鮮では、[[鉄道唱歌]]もカバーされているが、こちらは"反日革命歌"となっている。https://www.youtube.com/watch?v=Usi-YZH5gWw</ref> 1960年、[[小林旭]]の「[[ズンドコ節]]」、[[井上ひろし]]の「雨に咲く花」([[関種子]]のカバー)など、過去のヒット曲のカバー・リメイク曲が次々とヒットし<ref>『[[読売新聞]]』1960年11月7日付夕刊、5頁。</ref>、1960年〜61年頃にかけて日本の歌謡界にリバイバルブームが起こった<ref name="jiyu">[https://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200502/topics01/topic01_08.html 戦後60年に去来したブームたち 音楽のブーム]、月刊基礎知識 2005年2月号、自由国民社</ref>。 1960年代には[[シャンソン]]ブームが到来し、フランス由来の楽曲の日本語カバーで[[越路吹雪]]による「[[愛の讃歌]]」、「[[サン・トワ・マミー]]」が著名となった。「[[ラストダンスは私に]]」、「[[オー・シャンゼリゼ]]」など米英由来の楽曲でもシャンソンとして認知されている場合もある。 1970年代以降、多くの日本歌謡曲が香港や台湾でカバーされ人気を博した。(後半の項に詳述。)複数の歌詞で、あるいは複数の歌手が同じ曲を競作でカバーすることもある。逆にアジア由来のメロディとしては、韓国[[トロット]]を源流とする「[[釜山港へ帰れ]]」や、中国歌謡から戦後輸入カバーされ、中華圏のビジネスマン接待等カラオケで人気となった「[[夜来香]]」があり、認知度の高い楽曲である。 1971年、[[尾崎紀世彦]]は全曲[[洋楽]]のカバーアルバム『[[尾崎紀世彦ファースト・アルバム]]』を発売、[[オリコンチャート]]2位、年間10位のヒットとなる。シャンソンの「[[雪が降る]]」([[サルヴァトール・アダモ]])のカバーでも人気を博した。 1975年、[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]の「[[なごり雪]]」を[[イルカ (歌手) |イルカ]]がカバーし、大ヒットする。 1977年、[[吉田拓郎]]のカバーアルバム『[[ぷらいべえと]]』がカバーアルバムとして初のオリコン1位を獲得<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/47344/ 徳永英明、カバー作で15年10ヶ月ぶりの1位獲得! ニュース-ORICON STYLE]</ref>。 1979年、[[西城秀樹]]が[[ヴィレッジ・ピープル]]の「[[YMCA (曲)|Y.M.C.A.]]」を「[[YOUNG MAN (Y.M.C.A.)]]」としてカバーし、大ヒット。洋楽のカバー曲として初めて[[日本歌謡大賞]]を受賞した。これを切っ掛けとして1980年代に欧米の[[ディスコ (音楽)|ディスコ・ミュージック]]に日本語詞を付けるカバー曲が流行した。中でも[[荻野目洋子]]の「[[ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)]]」は1986年から流行し、所収のアルバム『[[NON-STOPPER]]』は1987年度のオリコンアルバム売上年間1位を記録、2010年代にも[[ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)#バブリー・ダンスとしてリバイバルヒット|リバイバル]]で再注目された。 1980年代に一世を風靡した[[大映テレビ#1980年代|大映ドラマ]]の主題歌には、洋楽のカバーが多数起用され、[[麻倉未稀]]の「[[フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング#主なカバー|What a feeling 〜フラッシュダンス]]」・「[[ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO|ヒーロー]]」、[[未唯mie|MIE]]の「[[NEVER]]」、[[椎名恵]]の「[[今夜はANGEL]]」・「[[そよ風の誘惑|愛は眠らない]]」などヒットを量産した。 1984年、イタリアの[[ガゼボ (歌手)|ガゼボ]]の名曲をカバーした「[[雨音はショパンの調べ]]」([[小林麻美]])がヒットし、3週連続オリコン1位となった。 1988年、[[薬師丸ひろ子]]が[[中島みゆき]]の「[[時代 (中島みゆきの曲)|時代]]」をカバーし、ヒット<ref name="post890630">「井上陽水、南沙織の『リメーク曲』がモテるわけ」『[[週刊ポスト]]』1989年6月30日号、65-66頁。</ref>。続いて1989年、[[斉藤由貴]]が[[井上陽水]]の「[[夢の中へ]]」を、[[森高千里]]が[[南沙織]]の「[[17才 (南沙織の曲)|17才]]」をカバーしそれぞれ大ヒット<ref name="post890630" /><ref name="kindai_8909">「ザ・トレンド 歌謡界のリバイバルブーム」『近代中小企業』1989年9月号、13頁。{{NDLJP|2653866/7}}</ref>。これをきっかけとして当時の若手歌手が過去のヒット曲をカバーすることが流行した<ref name="post890630" /><ref name="kindai_8909" />。 1980年代末〜1990年代前半には、[[欧米]]のアーティストが[[J-POP]]の楽曲をカバーしたいわゆる「逆カバー」がブームになった<ref>『[[朝日新聞]]』1991年8月10日付夕刊、12頁。</ref><ref name="iizuka_229">[[飯塚恆雄]]『ニッポンのうた漂流記 ロカビリーから美空ひばりまで』2004年、[[河出書房新社]]、229-230頁。ISBN 4-309-01659-6。</ref>。ブームのきっかけは[[1989年]]に[[レイ・チャールズ]]が[[サザンオールスターズ]]の「[[いとしのエリー]]」を「Ellie My Love」としてカバーしヒットしたことだとも<ref>「日本の音楽洋才で サザン、ユーミンに英語版」『[[日経MJ|日経流通新聞]]』1990年6月14日付、27頁。</ref>、1990年に発売された[[A.S.A.P. (グループ)|A.S.A.P.]]が[[松任谷由実]]の楽曲をカバーしたアルバム『GRADUATION』がヒットしたことだとも言われる<ref name="iizuka_229" />。 1994年、[[中森明菜]]がカバーアルバム『[[歌姫 (中森明菜のアルバム)|歌姫]]』を発売、30万枚のヒット。2002年と2004年には続編も発表され、累計で100万枚を売り上げる<ref>[http://www.bunkatsushin.com/varieties/article.aspx?bc=1&id=755 デビュー30周年を目前に…。記録以上に記憶に残る“歌姫・中森明菜”の衝撃!!]、文化通信.com、2010年10月28日。(2010/12/28閲覧)</ref>。 1997年頃から、往年の大スターの曲を聴いて育った世代のミュージシャンたちが、オリジナルを自身のアレンジで吹き込み直し、そのスターに捧げるという意味でのカバーバージョン集「[[トリビュート・アルバム]]」が増える<ref>{{cite news |title=トリビュート・アルバムー古い音源への興味高まる(ヒット直送便) |newspaper=[[日本経済新聞]] |location=東京 |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=1997-08-16 |page=31}}</ref>。 [[森山良子]]による1998年初出の楽曲『[[涙そうそう]]』(作曲:[[BEGIN]])は、BEGIN自身によるシングル化を経て、[[夏川りみ]]による2001年のカバーに火がつき、[[JASRAC賞]](著作権分配額を表彰する)で2004年度の銀賞となるなど、国民的に著名な楽曲となった。 2000年代初頭の日本の音楽業界では、[[CD不況]]の影響を受けて[[コンパクトディスク|CD]]が売れないため、レコードを多く買っていた[[団塊の世代]]を狙った形での過去のヒット曲のカバーが非常に増えた。2000年代初頭の日本の音楽業界におけるカバーブームのきっかけとなったとされるのは、2001年に発売された[[井上陽水]]のカバーアルバム『[[UNITED COVER]]』である<ref name="jiyu" /><ref>[http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/scramble/scramble2002/20020727.html 街にあふれるカバー曲/懐かしい歌、若者には新鮮]、[[東奥日報]]、2002年7月27日。</ref><ref name="imidas">[https://imidas.jp/ryuko/detail/S-01-6-076-03.html カバーブーム|時事用語事典]、情報・知識&オピニオン imidas - 2021年8月12日閲覧。</ref>。同年には[[坂本九]]の「[[明日があるさ]]」を[[ウルフルズ]]や[[Re:Japan]]らがカバーしてヒットさせた<ref name="imidas" />。2002年には[[ヴィレッジ・シンガーズ]]の「[[亜麻色の髪の乙女 (ヴィレッジ・シンガーズの曲)|亜麻色の髪の乙女]]」を[[島谷ひとみ]]がカバーしてヒットさせ、また<!--[[福山雅治]]の『[[「福山エンヂニヤリング」サウンドトラック The Golden Oldies]]』など、-->様々なアーティストがカバーアルバムを発表<ref name="imidas" />。さらには[[テレビ東京]]で『[[カヴァーしようよ!]]』が放送された<ref name="imidas" />。 2005年9月に発売された、[[徳永英明]]が女性アーティストの曲をカバーしたアルバム『[[VOCALIST]]』は、日本ゴールドディスク大賞『企画アルバム・オブ・ザ・イヤー』を受賞。『[[VOCALIST 2]]』『[[VOCALIST 3]]』『[[VOCALIST 4]]』も含めて大ヒットした。 2005年秋から翌年にかけ、映画『[[NANA#NANA|NANA-ナナ-]]』の劇中歌として大ヒットした[[伊藤由奈]]の『[[ENDLESS STORY (伊藤由奈の曲)|ENDLESS STORY]]』は、元々1993年のアメリカ映画「Indecent Proposal」(邦題:[[幸福の条件]])の劇中歌''“If I'm Not in Love With You”''であったが、1998年の[[ジョディ・ワトリー]]や1999年の[[フェイス・ヒル]]らによって相次いでカバーされていた楽曲である。 2000年代後半には、J-POPの楽曲を[[ボサノヴァ]]や[[レゲエ]]風のソフトアレンジでカバーしたアルバムが多く発売される。代表的なアーティストとして[[SOTTE BOSSE]]がある<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20071130/1004924/ J-POPのカバーで脅威の70万枚ヒット! 「Sotte Bosse」の人気のワケは?]、日経トレンディネット、2007年12月3日。</ref>。 2006年、[[アリスター]]が日本向け企画アルバムとして発売した『[[Guilty Pleasures]]』がヒットし、欧米アーティストがJ-POPの楽曲をカバーした作品が再び注目されるようになる<ref name=yomiuri20090130>[http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/music/future/20090130et08.htm J・ポップに新たな命 欧米の人気歌手がカバー]、[[読売新聞]]、2009年1月30日。</ref>。2008年11月元[[MR. BIG (アメリカのバンド)|MR. BIG]]ヴォーカリスト、[[エリック・マーティン]]による日本の女性ヴォーカルの曲をカバーしたアルバム『MR.VOCALIST』が話題になる<ref>[http://biz.oricon.co.jp/news/enter.asp?no=4&newsk=1 “邦楽カバー・マーケット”を大きく拡大 エリック・マーティンのヒット]、[[オリコンチャート|オリコン]]、2009年3月3日(元記事は『ORICON BiZ』2009年3月2日号)。</ref>。 2010年には男性デュオ[[コブクロ]]が40万枚限定で『[[ALL COVERS BEST]]』を発売し、[[オリコンチャート]]の初動売り上げで29.1万枚を記録。同チャートにてカバーアルバム史上最高の初動売り上げとなった。 2013年、[[クリス・ハート]]がJ-POPの楽曲をカバーしたアルバム『[[Heart Song]]』を発売。続編を含めると、累計で100万枚を超える出荷枚数を記録している<ref>[https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_2572f510-36c9-47c1-b8e9-89c08bb6ee12.html?detail=true クリス・ハート、5年ぶりのオリジナルアルバム『COMPLEX』7月14日リリース 9月からは発売を記念した全国ホールツアーもスタート]、[[ぴあ]]、2021年5月7日。</ref>。 2018年、イタリアの[[ジョー・イエロー]]が1992年にリリース発売した「[[U.S.A. (曲)|U.S.A.]]」を、[[DA PUMP]]が、シングルカバー曲として発売。「いいねポーズ」や「ヒゲダンス」など真似しやすい振り付けを取り入れたMVの再生回数は1億回を突破する<ref>[https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/69202 DA PUMP「U.S.A.」YouTube再生数1億回を突破]、Billboard Japan、2018年10月27日。</ref>など、大ヒットした。共に1980年代ユーロビートの再来を彷彿とさせた。 2020年、[[松原みき]]の「[[真夜中のドア〜Stay With Me]]」(1979年初出)が、インドネシアの歌手で[[YouTuber]]である[[Rainych]]によりカバーされた事が要因の1つとなって、同楽曲の人気に火が付き、41年の時を経て世界各国のサブスクリプションで上位にランクイン、また日本の[[シティポップ]]の世界的なブームの火付け役ともなった。 2021年3月22日、[[天月-あまつき-]]が[[MONGOL800]]の「[[小さな恋のうた]]」をカバーした動画が、カバー曲の動画([[歌ってみた]]動画)として日本人初の1億回再生を突破したと発表された<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2188008/full/ 天月-あまつき-の「歌ってみた」動画、日本初1億回再生突破 活動の“原動力”であるファンに感謝]、ORICON NEWS、2021年3月22日。</ref><ref>[https://hochi.news/articles/20210322-OHT1T50153.html 天月の「小さな恋のうた」、カバー曲として日本人初の再生1億回]、[[スポーツ報知]]、2021年3月22日。</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/03/22/kiji/20210322s00041000518000c.html 天月「小さな恋のうた」カバー動画で日本人初の再生1億回!発表5年で大台到達]、[[スポーツニッポン]]、2021年3月22日。</ref>。 === 日本発祥の楽曲の外国語カバー === 1980年代には[[千昌夫]]の「[[北国の春]]」、[[谷村新司]]の「[[昴 (谷村新司の曲)|昴]]」、[[喜納昌吉]]の「[[花〜すべての人の心に花を〜]]」が中華圏・東南アジア全域でヒットし、多くの歌手にカバーされた。 1990年代以降には、日本発のドラマコンテンツ、またアニメなどが運び手となり、多くの日本発祥楽曲がカバーされるようになった。 *『[[:zh:我等你|後來]]』([[劉若英]]) - 「[[未来へ (Kiroroの曲)|未来へ]]」([[Kiroro]])のカバー。台湾で卒業シーズンに唄われ、全国民的な知名度がある。 *『[[流星雨 (F4のアルバム)|流星雨]]』([[F4 (ユニット)|F4]]) - 「[[Gaining through losing]]」([[平井堅]])のカバー。台湾で記録的なヒットドラマとなった「[[流星花園]]」([[花より男子]])の主題歌。 *『李香蘭(広東語カバー)』または『秋意濃(北京語カバー)』([[ジャッキー・チュン]]) - 「[[行かないで (玉置浩二の曲)|行かないで]]」([[玉置浩二]])のカバー。香港で国民的ヒットとなる。 *『[[:zh:容易受傷的女人|容易受傷的女人]]』([[王菲]]) - 「[[ルージュ (曲)|ルージュ]]」([[ちあきなおみ]])のカバー。原曲は[[中島みゆき]]作詞・作曲。 *『[[:ko:눈의 꽃|눈의 꽃]]』([[パク・ヒョシン]]) - 「[[雪の華 (曲)|雪の華]]」([[中島美嘉]])のカバー。韓国ドラマ「[[ごめん、愛してる]]」主題歌として大ヒットした。 *『I love you』([[:ko:포지션 (음악 그룹)|Position]]) - [[尾崎豊]]の[[I LOVE YOU (尾崎豊の曲)|同名曲]]のカバー。所収アルバムは韓国内で70万枚の大ヒットとなった。 *『[[ラブ・ソングス (シェネルのアルバム)|ベイビー・アイラブユー]]』([[シェネル]]) - [[TEE (歌手)|TEE]]の[[ベイビー・アイラブユー|同名曲]]の英語カバー。日本国内でフル配信100万DLに迫るヒットとなった。 その他、アジア各国では日本アニメが国民的に浸透しており、アニメ主題歌は現地語バージョンが作られる場合もあり、浸透度は極めて高い。 *『[[:zh:大家來跳舞|稍息立正站好]]』([[范暁萱]])- 「[[おどるポンポコリン]]」([[B.B.クィーンズ]])のカバー。「櫻桃小丸子」([[ちびまる子ちゃん]])主題歌。 *『요괴 워치』(韓国)または『妖怪手錶』(台湾) - 「[[妖怪ウォッチ]]」のエンディング「[[Break Out/ようかい体操第一|ようかい体操第一]]」は各国語版が作られており、高い知名度を誇る。 欧米では、[[坂本九]]の「[[上を向いて歩こう]]」は本家版が全米1位となった1963年から時を経て、カバーした[[テイスト・オブ・ハニー (バンド)|テイスト・オブ・ハニー]]版も1981年にビルボード3位に入ったほか、欧州・南米でもカバーされ世界的スタンダードナンバーとなっている。また、[[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]]の「[[ビハインド・ザ・マスク (曲)|ビハインド・ザ・マスク]]」は[[ビハインド・ザ・マスク (マイケル・ジャクソンの曲)|マイケル・ジャクソン]]、のちに[[エリック・クラプトン]]によってカバーされた稀有な例である。 <!-- === アメリカ合衆国 === 1992年、[[ドリー・パートン]]の「[[オールウェイズ・ラヴ・ユー]]」を、[[ホイットニー・ヒューストン]]が映画『[[ボディガード (1992年の映画)|ボディガード]]』の主題歌としてカバーし、大ヒットする。--> == 主な年間チャート上位曲(日本) == === オリコンシングルランキング === {| class="wikitable" ! 曲名 !! 歌手名 !! 原曲歌手名 !! チャート |- |[[黒ネコのタンゴ]] || [[皆川おさむ]] || ヴィンチェンツァ・パストレッリ || 1969年度5位<br />1970年度1位 |- |ドリフの[[ズンドコ節]] || [[ザ・ドリフターズ]] || [[田端義夫]] || 1970年度2位 |- |[[圭子の夢は夜ひらく]] || [[藤圭子]] || [[園まり]] || 1970年度3位 |- |[[京都の恋]] || [[渚ゆう子]] || [[ザ・ベンチャーズ]] || 1970年度10位 |- |[[知床旅情]] || [[加藤登紀子]] || [[森繁久彌]] || 1971年度2位 |- |[[また逢う日まで (尾崎紀世彦の曲)|また逢う日まで]] || [[尾崎紀世彦]] || [[ズー・ニー・ヴー]] || 1971年度3位 |- |[[別れの朝]] || [[ペドロ&カプリシャス]] || [[ウド・ユルゲンス]] || 1972年度8位 |- |[[22才の別れ]] || [[風 (歌手)|風]] || [[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]] || 1975年度7位 |- |[[岸壁の母]] || [[二葉百合子]] || [[菊池章子]] || 1976年度5位 |- |[[愛のフィーリング|フィーリング]] || [[ハイ・ファイ・セット]] || [[モーリス・アルバート]] || 1977年度10位 |- |[[Mr.サマータイム]] || [[サーカス (コーラスグループ)|サーカス]] || {{仮リンク|ミッシェル・フュガン|fr|Michel Fugain}} || 1978年度8位 |- |[[YOUNG MAN (Y.M.C.A.)]] || [[西城秀樹]] || [[ヴィレッジ・ピープル]] || 1979年度7位 |- |[[みちづれ (牧村三枝子の曲)|みちづれ]] || [[牧村三枝子]] || [[渡哲也]] || 1979年度9位 |- |[[別れても好きな人]] || [[ロス・インディオス]] & [[シルヴィア (歌手)|シルヴィア]] || 松平ケメ子 || 1980年度8位 |- |[[哀愁でいと]] || [[田原俊彦]] || [[レイフ・ギャレット]] || 1980年度10位 |- |[[矢切の渡し (曲)|矢切の渡し]] || [[細川たかし]] || [[ちあきなおみ]] || 1983年度2位 |- |[[CHA-CHA-CHA]] || [[石井明美]] || フィンツィ・コンティーニ || 1986年度1位 |- |[[愛が止まらない 〜Turn it into love〜]] || [[Wink]] || [[カイリー・ミノーグ]] || 1989年度5位 |- |[[涙をみせないで 〜Boys Don't Cry〜]] || Wink || {{仮リンク|ムーラン・ルージュ (バンド)|en|Moulin Rouge (band)|label=ムーラン・ルージュ}} || 1989年度10位 |- |[[全部だきしめて/青の時代|全部だきしめて]] || [[KinKi Kids]] || [[吉田拓郎]]と[[LOVE LOVE ALL STARS|LOVE2 ALL STARS]] || 1998年度10位 |- |[[大きな古時計]] || [[平井堅]] || || 2002年度7位 |- |[[Jupiter (平原綾香の曲)|Jupiter]] || [[平原綾香]] || || 2004年度3位 |- |[[ロコローション]] || [[ORANGE RANGE]] || [[リトル・エヴァ]] || 2004年度7位 |- |[[Mickey (曲)|Mickey]] || [[松浦ゴリエ|Gorie]] with [[ジャスミン・S|Jasmin]] & [[ジョアン (タレント)|Joann]] || レイシー<br />[[トニー・バジル]] || 2004年度10位 |- |[[千の風になって (秋川雅史のシングル)|千の風になって]] || [[秋川雅史]] || [[新井満]] || 2007年度1位 |} === RIAJ有料音楽配信チャート === {| class="wikitable" ! 曲名 !! 歌手名 !! 原曲歌手名 !! チャート |- | [[Lifetime Respect|Lifetime Respect -女編-]] || [[RSP (音楽グループ)|RSP]] || [[三木道三]] || 2007年度7位(着うたフル)<ref>[https://web.archive.org/web/20080324225243/http://www.riaj.or.jp/release/2008/chart2007_2.html 2007年有料音楽配信チャート(通称:レコ協チャート)(「着うたフル(R)」)]、日本レコード協会、2008年3月21日。</ref> |- | [[また君に恋してる]] || [[坂本冬美]] || [[ビリー・バンバン]] || 2010年度6位(着うたフル)<ref>[https://web.archive.org/web/20101223033852/http://riaj.or.jp/release/2010/pdf/pr101220.pdf レコード協会調べ 2009年12月16日~2010年12月14日「着うたフル(R)」 2010年有料音楽配信「年間チャート」(通称:レコ協チャート)]、日本レコード協会、2010年12月20日。</ref> |} === Billboard Japan Hot 100 === {| class="wikitable" ! 曲名 !! 歌手名 !! 原曲歌手名 !! チャート |- |[[レット・イット・ゴー (ディズニーの曲)|レット・イット・ゴー〜ありのままで〜]] || [[松たか子]] || [[イディナ・メンゼル]] || 2014年度7位<ref>[https://www.billboard-japan.com/charts/detail?a=hot100_year&year=2014 Billboard Japan Hot 100 Year End 2014]、Billborad JAPAN - 2019年3月31日閲覧。</ref> |- |[[U.S.A. (曲)|U.S.A.]] || [[DA PUMP]] || [[ジョー・イエロー]] || 2018年度2位<ref>[https://www.billboard-japan.com/charts/detail?a=hot100_year&year=2018 Billboard Japan Hot 100 Year End 2018]、Billborad JAPAN - 2019年3月31日閲覧。</ref><br />2019年度9位<ref>[https://www.billboard-japan.com/charts/detail?a=hot100_year&year=2019 Billboard Japan Hot 100 Year End 2019]、Billborad JAPAN - 2020年6月25日閲覧。</ref> |} チャートの説明は[[Billboard Japan Hot 100]]を参照。 == フル配信ミリオン認定作品(日本レコード協会) == {| class="wikitable" ! 曲名 !! 歌手名 !! 原曲歌手名 !! 認定月 |- | [[また君に恋してる]] || [[坂本冬美]] || [[ビリー・バンバン]] || 2014年1月 |- |[[レット・イット・ゴー (ディズニーの曲)|レット・イット・ゴー〜ありのままで〜]] || [[松たか子]] || [[イディナ・メンゼル]] || 2014年6月 |- |[[アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士]] || [[DJ OZMA]] || [[ボニーM]]<br />[[DJ DOC]] || 2014年12月 |- |[[銀河鉄道999 (ゴダイゴの曲)|銀河鉄道999]] || [[EXILE]] feat.[[VERBAL]]([[m-flo]])|| [[ゴダイゴ]] || 2017年3月 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[リメイク#音楽のリメイク作品|リメイク]] * [[バージョン]] * [[サンプリング]] * [[トリビュート]] * [[オマージュ]] * [[盗作]] * [[アンサーソング]] * [[歌ってみた]] {{音楽}} {{DJとターンテーブリズム}}{{芸術における流用}}{{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かはあ}} [[Category:カバー・アルバム|*]] [[Category:ポピュラー音楽]] [[Category:楽曲]] [[Category:歌の形式]]
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ルーナ
ルーナ(ラテン語:Lūna)は、ローマ神話に登場する月の女神であり、その名は月を意味するラテン語に由来する。日本語では長母音を省略し、ルナともいう。 神殿はローマ市内にあったが、早くからディアーナに吸収された。ルーナ独自の神話は持たなかった。また、ギリシア神話のセレーネーと同一視された。
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ルーナは、ローマ神話に登場する月の女神であり、その名は月を意味するラテン語に由来する。日本語では長母音を省略し、ルナともいう。 神殿はローマ市内にあったが、早くからディアーナに吸収された。ルーナ独自の神話は持たなかった。また、ギリシア神話のセレーネーと同一視された。
{{Redirect|ルナ}} [[File:Luna statue.jpg|thumb|280px|ルーナ像。]] '''ルーナ'''([[ラテン語]]:'''{{Lang|ja|Lūna}}''')は、[[ローマ神話]]に登場する[[月]]の[[女神]]<ref name="G">[[高津春繁]]『ギリシア・ローマ神話辞典』[[岩波書店]]1960年、305頁。</ref>であり、その名は月を意味するラテン語に由来する。[[日本語]]では[[長母音]]を省略し、'''ルナ'''ともいう<ref>マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『ギリシア・ローマ神話事典』[[大修館書店]]1988年</ref>。 神殿は[[ローマ]]市内にあったが、早くから[[ディアーナ]]に吸収された<ref name="G"/>。ルーナ独自の神話は持たなかった<ref name="G"/>。また、[[ギリシア神話]]の[[セレーネー]]と同一視された<ref name="G"/>。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Luna (mythology)}} * [[ソール (ローマ神話)|ソール]]([[ヘーリオス]]) * [[ディアーナ]]([[アルテミス]]) * [[ヘカテー]] * [[ルナー]](曖昧さ回避) {{ローマ神話}} {{Myth-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:るうな}} [[Category:ローマ神話の神]] [[Category:月神]] [[Category:女神]]
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半群
数学における半群(はんぐん、英: semigroup)は、集合 S とその上の結合的二項演算とをあわせて考えた代数的構造である。言い換えれば、半群とは演算が結合的なマグマである。「半群」という名は群に由来する。群と異なり半群では、単位元が存在するとは限らず、また各元は必ずしも逆元を持たない。 半群の演算は多くの場合乗法的に書く(順序対 (x, y) に演算を施した結果を x • y あるいは単に xy と表す)。 半群について本格的な研究が行われるようになるのは20世紀に入ってからである。半群は、「無記憶」系 ("memoryless" system) すなわち各反復時点でゼロから開始される時間依存系 (time-dependent system) の抽象代数的な定式化の基盤であり、数学の様々な分野において重要な概念となっている。応用数学においては、半群は線型時間不変系(英語版)の基本モデルである。また偏微分方程式論では、半群は空間発展的かつ時間非依存な任意の方程式に対応している。有限半群論は1950年代以降、有限半群と有限オートマトンとの間の自然な関連性から、理論計算機科学の分野で特に重要となっている。確率論では半群はマルコフ過程に関連付けられる (Feller 1971)。 集合 S とその上の二項演算 • : S × S → S の対 (S, • ) が以下の条件を満たすとき、これを半群という。 S を半群 (S, •) の台集合とよぶ。また誤解のおそれがなければ「半群 S」のように台集合と同じ記号で半群を表す。 台集合が有限集合である半群を有限半群 (finite semigroup) または有限位数を持つ半群 (semigroup with finite order)、台集合が無限集合である半群を無限半群 (infinite semigroup) または無限位数を持つ半群 (semigroup with infinite order)という。 任意の半群が持つことのできる単位元は高々ひとつである(これは任意のマグマについても成り立つ)。単位元を持つ半群は、単位的半群あるいはモノイドと呼ばれる。半群 S にS のどの元とも異なる元 e を添加して S ∪ {e} の各元 s に対して es = se = s と定めることによって、半群をモノイドに埋め込むことができる。S に単位元を添加して得られるモノイドを S で表し、S の単位元添加あるいは 1-添加と呼ぶ(誤解のおそれがなければ、S の 1-添加も同じ記号 S で表すこともある)。したがって、任意の可換半群をグロタンディーク構成を通じて群に埋め込むことができる。 任意のマグマが持ちうる吸収元は高々一つであり、半群ではそれを零元と呼ぶ。零元を持たない半群 S に S に属さない元 0 を添加して、零元付き半群 S に S を埋め込むことができる。S を S の零元添加あるいは 0-添加と呼ぶ。 半群 (S, ∗) の部分集合 A, B が与えられたとき、A ∗ B (あるいは単に AB) で表される S の部分集合を と定める。この記法を用いれば、半群 S の部分集合 A について A が左イデアルかつ右イデアルであるとき、A を両側イデアル (two-sided ideal) あるいは単にイデアル (ideal) と言う。 半群 S の部分半群からなる族の交わりは再び S の部分半群となる。すなわち、S の部分半群の全体は完備束を成す。 極小イデアル(包含関係に関して極小なイデアル)を持たない半群の例は、正の整数全体が加法に関して成す半群 N である。可換半群の極小イデアルは(存在するならば)群を成す。 元をそれが生成する主イデアルの言葉で特徴付ける、五つの同値関係からなるグリーンの関係式(英語版)は半群のイデアルや関連する構造概念を調べる重要な道具である。 半群の準同型 (semigroup homomorphism) とは半群構造を保つ写像のことである。2つの半群 S, T の間の写像 f: S → T が準同型であるとは、等式 が S の各元 a, b に対して成立することを言う。つまり(S の中で)積をとってから f で写しても、f で写してから(T のなかで)積をとっても同一の結果が得られると言うことである。半群が単位元を持つ場合でも、半群準同型は必ずしも単位元を単位元に移すとは限らない。 ふたつの半群 S, T が同型であるとは、全単射の半群準同型(すなわち半群同型写像)f: S ↔ T が存在することを言う。同型な半群は、半群として同一の構造を持つ。 半群合同 (semigroup congruence) ∼ は、半群演算と両立する同値関係である。つまり、半群合同 ∼ (⊂ S × S) は S 上の同値関係であって、かつ が S の任意の元 x, y, u, v に対して成立するものを言う。任意の同値関係と同じく半群合同 ∼ は合同類 を定めるが、さらに合同類の間の二項演算 ∘ を で定めるとこれは矛盾無く定義できて半群演算となる。これにより、半群合同 ∼ による合同類の全体 S/∼ は ∘ を演算として半群を成す。この半群を剰余半群 (residue class semigroup)、商半群 (quotient semigroup, factor semigroup) などと呼ぶ。自然な写像 は全射半群準同型であり、商写像などと呼ばれる。S がモノイドならばその剰余半群は S の単位元の属する合同類を単位元とするモノイドを成す。逆に、任意の半群準同型の核は半群合同を与える。これらの結果は、普遍代数学における第一同型定理の特別な場合にほかならない。 半群の任意のイデアル I は、 で定まる半群合同 ρ に関するリース剰余半群(英語版)として部分半群を誘導する。 S の任意の部分集合 A に対し、A を含むような S の最小の部分半群 T が存在する。この T を A が生成する (generate) 部分半群という。S の一つの元 x が(つまり単元集合 {x} が)生成する部分半群(の台集合) { x | n は正の整数} が有限集合であるとき、x は有限な位数を持つ、あるいは位数有限 (finite order) であるといい、そうでないとき無限位数を持つあるいは位数無限 (infinite order) であるという。 半群が周期的 (periodic) あるいはねじれ半群 (torsion semigroup) であるとは、その任意の元が位数有限であるときに言う。また、ただ一つの元から生成される半群は単項生成または巡回半群であるという。巡回半群が位数無限ならばそれは正の整数全体が加法に関して成す半群に同型であり、位数有限かつ空でないならば少なくとも一つは冪等元を含まねばならない。したがって、任意の空でない周期的半群は少なくともひとつの冪等元を含む。 半群の部分半群は、それ自身が群を成すならば部分群と呼ばれる。半群の部分群と半群の冪等元の間には近しい関係が存在する。半群の各部分群はちょうど一つの冪等元を含み、それはつまり部分群の単位元である。逆に、半群の各冪等元 e に対し、e を含む極大部分群が唯一つ存在する。半群の各極大部分群は必ずこのやり方で得ることができ、したがって半群の極大部分群と冪等元との間に一対一対応がとれる。ここでの、極大部分群は群論における標準的な語法とは異なる。 位数有限の場合にはさらにいろいろなことが言える。例えば、任意の空でない有限半群は、周期的で、極小イデアルを持ち、少なくとも一つの冪等元を持つ。さらなる有限半群の構造についての議論はKrohn-Rhodes理論(英語版)の項を参照せよ。 半群 S の分数群あるいは商の群 (group of fractions) G = G(S) とは、S の元全体で生成され、S において成立する xy = z の形の等式すべてを基本関係とするような群である。商の群は S から群への射に対する普遍性を示す。 明らかに S の各元を G(S) の中の対応する生成元に写す写像が存在する。重要な問題として、この写像が埋め込みとなるような半群の特徴づけの問題がある。必ずしも埋め込みとならないことの例として、S をある集合 X の部分集合が交わりを演算として成す半群がある(実は半束を成す)。これは、S の任意の元が AA = A を満たすから G(S) の生成元もすべてそうでなければならず、したがって G(S) は自明群となっている。問題の写像 S → G(S) が埋め込みとなるためには S が消約律を満たすことが必要となるのは明らかである。S が可換ならばそれは十分条件にもなり、かつ半群のグロタンディーク群が分数群の構成を与える。非可換半群に対するこの問題は半群について本格的にあつかった最初の論文 (Suschkewitsch 1928) で追求されている。アナトリー・マルチェフ(英語版)は1937年に埋め込み可能性についての必要条件を与えている。 半群論は、偏微分方程式論においてもある種の問題の研究のために用いられる。大雑把にいえば、半群を使った手法というのは偏微分方程式をある種の函数空間上の常微分方程式とみなすことである。例えば、次のような空間的な区間 (0, 1) ⊂ R と時間 t ≥ 0 上の熱方程式の初期値/境界値問題 を考える。X をL((0, 1); R) とし、A を を定義域とする二階微分作用素とすれば、先ほどの初期値/境界値問題は空間 X 上の常微分方程式の初期値問題 として解釈することができる。発見的方法のレベルでいえば、この問題の解は u(t) = exp(tA)u0 という形をしている「はず」である。しかし厳密に言えば tA の冪とは何であるかということに意味を与えなければならない。t の函数としては、exp(tA) は X から X への作用素からなる半群であり、時刻 t = t0 において初期状態 u0 をとり、任意の時刻 t において状態 u(t) = exp(tA)u0 をとるものである。このとき、作用素 A はこの半群の無限小生成作用素と呼ばれる。 半群の研究は、群や環といったより複雑な公理から決まるほかの代数的構造からすると、随分と若い。いくつかの文献 によれば、半群に対応する用語が用いられた最初はフランス語で、1904年に J.-A. de Séguier の著した Élements de la Théorie des Groupes Abstraits(『抽象群原論』)においてである。 Anton Suschkewitschは半群についてのそれなりに意味のある結果を得た最初の人で、1928年の論文 Über die endlichen Gruppen ohne das Gesetz der eindeutigen Umkehrbarkeit(『一意可逆性の条件を外した有限群について』)で有限単純半群の構造を決定し、有限半群の極小イデアル(あるいはグリーンの関係式の J-系列)が単純であることを示した。そういったことからすれば、有限群論の基礎付けが行われるのは随分と後になってからのことで、デヴィット・リース、ジェイムス・アレクサンダー・グリーン、Evgenii Sergeevich Lyapin、アルフレッド・クリフォードおよびゴードン・プレストンらによる。最後の二者は半群論に関する二巻のモノグラフを1961年と1967年にそれぞれ出版している。1970年には『半群フォーラム』という定期刊行雑誌(現在はシュプリンガー・フェアラークが編集)が発行され、半群論全般を扱う数少ない数学雑誌の一つとなっている。 近年の在野の研究ではより分化が進んでおり、(逆半群のような)半群の重要なクラスに焦点を当てたモノグラフや、代数的オートマトン理論(特に有限オートマトン)や函数解析学における応用などに焦点を当てたものなども現れている。 半群から演算の結合性の公理を落とせば、マグマが得られる。これは 二項演算 M × M → M を備えた集合 M という意味以上のものではない。 別な方向での一般化として、n-項半群 (n-ary semigroup) あるいはn-半群 (n-semigroup)、多重項半群 (polyadic semigroup) とか多項半群 (multiary semigroup) などと呼ばれるタイプの一般化がある。これは演算のアリティを変更し、二項演算の替わりに多項演算を備えた「半群」G を考えるものである。結合律の一般化は、たとえば三項版の結合律が つまり文字列のどの隣り合う三つを括弧で括ったものも相等しい、というふうに与えられる。一般の n-項版は n + (n − 1) の長さの文字列のどの隣り合う n-項を括っても相等しいとなる。2-半群が通常の半群である。詳細は多項群(英語版) を参照
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に関するリース剰余半群(英語版)として部分半群を誘導する。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "S の任意の部分集合 A に対し、A を含むような S の最小の部分半群 T が存在する。この T を A が生成する (generate) 部分半群という。S の一つの元 x が(つまり単元集合 {x} が)生成する部分半群(の台集合) { x | n は正の整数} が有限集合であるとき、x は有限な位数を持つ、あるいは位数有限 (finite order) であるといい、そうでないとき無限位数を持つあるいは位数無限 (infinite order) であるという。 半群が周期的 (periodic) あるいはねじれ半群 (torsion semigroup) であるとは、その任意の元が位数有限であるときに言う。また、ただ一つの元から生成される半群は単項生成または巡回半群であるという。巡回半群が位数無限ならばそれは正の整数全体が加法に関して成す半群に同型であり、位数有限かつ空でないならば少なくとも一つは冪等元を含まねばならない。したがって、任意の空でない周期的半群は少なくともひとつの冪等元を含む。", "title": "半群の構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "半群の部分半群は、それ自身が群を成すならば部分群と呼ばれる。半群の部分群と半群の冪等元の間には近しい関係が存在する。半群の各部分群はちょうど一つの冪等元を含み、それはつまり部分群の単位元である。逆に、半群の各冪等元 e に対し、e を含む極大部分群が唯一つ存在する。半群の各極大部分群は必ずこのやり方で得ることができ、したがって半群の極大部分群と冪等元との間に一対一対応がとれる。ここでの、極大部分群は群論における標準的な語法とは異なる。", "title": "半群の構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "位数有限の場合にはさらにいろいろなことが言える。例えば、任意の空でない有限半群は、周期的で、極小イデアルを持ち、少なくとも一つの冪等元を持つ。さらなる有限半群の構造についての議論はKrohn-Rhodes理論(英語版)の項を参照せよ。", "title": "半群の構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "半群 S の分数群あるいは商の群 (group of fractions) G = G(S) とは、S の元全体で生成され、S において成立する xy = z の形の等式すべてを基本関係とするような群である。商の群は S から群への射に対する普遍性を示す。", "title": "分数群" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "明らかに S の各元を G(S) の中の対応する生成元に写す写像が存在する。重要な問題として、この写像が埋め込みとなるような半群の特徴づけの問題がある。必ずしも埋め込みとならないことの例として、S をある集合 X の部分集合が交わりを演算として成す半群がある(実は半束を成す)。これは、S の任意の元が AA = A を満たすから G(S) の生成元もすべてそうでなければならず、したがって G(S) は自明群となっている。問題の写像 S → G(S) が埋め込みとなるためには S が消約律を満たすことが必要となるのは明らかである。S が可換ならばそれは十分条件にもなり、かつ半群のグロタンディーク群が分数群の構成を与える。非可換半群に対するこの問題は半群について本格的にあつかった最初の論文 (Suschkewitsch 1928) で追求されている。アナトリー・マルチェフ(英語版)は1937年に埋め込み可能性についての必要条件を与えている。", "title": "分数群" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "半群論は、偏微分方程式論においてもある種の問題の研究のために用いられる。大雑把にいえば、半群を使った手法というのは偏微分方程式をある種の函数空間上の常微分方程式とみなすことである。例えば、次のような空間的な区間 (0, 1) ⊂ R と時間 t ≥ 0 上の熱方程式の初期値/境界値問題", "title": "偏微分方程式の半群法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "を考える。X をL((0, 1); R) とし、A を", "title": "偏微分方程式の半群法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "を定義域とする二階微分作用素とすれば、先ほどの初期値/境界値問題は空間 X 上の常微分方程式の初期値問題", "title": "偏微分方程式の半群法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "として解釈することができる。発見的方法のレベルでいえば、この問題の解は u(t) = exp(tA)u0 という形をしている「はず」である。しかし厳密に言えば tA の冪とは何であるかということに意味を与えなければならない。t の函数としては、exp(tA) は X から X への作用素からなる半群であり、時刻 t = t0 において初期状態 u0 をとり、任意の時刻 t において状態 u(t) = exp(tA)u0 をとるものである。このとき、作用素 A はこの半群の無限小生成作用素と呼ばれる。", "title": "偏微分方程式の半群法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "半群の研究は、群や環といったより複雑な公理から決まるほかの代数的構造からすると、随分と若い。いくつかの文献 によれば、半群に対応する用語が用いられた最初はフランス語で、1904年に J.-A. de Séguier の著した Élements de la Théorie des Groupes Abstraits(『抽象群原論』)においてである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Anton Suschkewitschは半群についてのそれなりに意味のある結果を得た最初の人で、1928年の論文 Über die endlichen Gruppen ohne das Gesetz der eindeutigen Umkehrbarkeit(『一意可逆性の条件を外した有限群について』)で有限単純半群の構造を決定し、有限半群の極小イデアル(あるいはグリーンの関係式の J-系列)が単純であることを示した。そういったことからすれば、有限群論の基礎付けが行われるのは随分と後になってからのことで、デヴィット・リース、ジェイムス・アレクサンダー・グリーン、Evgenii Sergeevich Lyapin、アルフレッド・クリフォードおよびゴードン・プレストンらによる。最後の二者は半群論に関する二巻のモノグラフを1961年と1967年にそれぞれ出版している。1970年には『半群フォーラム』という定期刊行雑誌(現在はシュプリンガー・フェアラークが編集)が発行され、半群論全般を扱う数少ない数学雑誌の一つとなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "近年の在野の研究ではより分化が進んでおり、(逆半群のような)半群の重要なクラスに焦点を当てたモノグラフや、代数的オートマトン理論(特に有限オートマトン)や函数解析学における応用などに焦点を当てたものなども現れている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "半群から演算の結合性の公理を落とせば、マグマが得られる。これは 二項演算 M × M → M を備えた集合 M という意味以上のものではない。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "別な方向での一般化として、n-項半群 (n-ary semigroup) あるいはn-半群 (n-semigroup)、多重項半群 (polyadic semigroup) とか多項半群 (multiary semigroup) などと呼ばれるタイプの一般化がある。これは演算のアリティを変更し、二項演算の替わりに多項演算を備えた「半群」G を考えるものである。結合律の一般化は、たとえば三項版の結合律が", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "つまり文字列のどの隣り合う三つを括弧で括ったものも相等しい、というふうに与えられる。一般の n-項版は n + (n − 1) の長さの文字列のどの隣り合う n-項を括っても相等しいとなる。2-半群が通常の半群である。詳細は多項群(英語版) を参照", "title": "一般化" } ]
数学における半群(はんぐん、英: semigroup)は、集合 S とその上の結合的二項演算とをあわせて考えた代数的構造である。言い換えれば、半群とは演算が結合的なマグマである。「半群」という名は群に由来する。群と異なり半群では、単位元が存在するとは限らず、また各元は必ずしも逆元を持たない。 半群の演算は多くの場合乗法的に書く(順序対 (x, y) に演算を施した結果を x • y あるいは単に xy と表す)。 半群について本格的な研究が行われるようになるのは20世紀に入ってからである。半群は、「無記憶」系 ("memoryless" system) すなわち各反復時点でゼロから開始される時間依存系 (time-dependent system) の抽象代数的な定式化の基盤であり、数学の様々な分野において重要な概念となっている。応用数学においては、半群は線型時間不変系の基本モデルである。また偏微分方程式論では、半群は空間発展的かつ時間非依存な任意の方程式に対応している。有限半群論は1950年代以降、有限半群と有限オートマトンとの間の自然な関連性から、理論計算機科学の分野で特に重要となっている。確率論では半群はマルコフ過程に関連付けられる (Feller 1971)。
{{Otheruses|代数的構造|微分方程式の半群法|C0-半群}} {{代数的構造}} [[数学]]における'''半群'''(はんぐん、{{lang-en-short|''semigroup''}})は、[[集合]] ''S'' とその上の[[結合法則|結合的]][[二項演算]]とをあわせて考えた[[代数的構造]]である。言い換えれば、半群とは演算が結合的な[[マグマ (数学)|マグマ]]である。「半群」という名は[[群 (数学)|群]]に由来する。群と異なり半群では、単位元が存在するとは限らず、また各元は必ずしも逆元を持たない。 半群の演算は多くの場合乗法的に書く(順序対 (''x'', ''y'') に演算を施した結果を ''x'' &bull; ''y'' あるいは単に ''xy'' と表す)。 半群について本格的な研究が行われるようになるのは20世紀に入ってからである。半群は、「無記憶」系 {{lang|en|("memoryless" system)}} すなわち各反復時点でゼロから開始される時間依存系 {{lang|en|(time-dependent system)}} の抽象代数的な定式化の基盤であり、数学の様々な分野において重要な概念となっている。応用数学においては、半群は{{仮リンク|線型時間不変系|en|linear time-invariant system}}の基本モデルである。また[[偏微分方程式]]論では、半群は空間発展的かつ時間非依存な任意の方程式に対応している。有限半群論は1950年代以降、有限半群と[[有限オートマトン]]との間の自然な関連性から、[[理論計算機科学]]の分野で特に重要となっている<!-- ({{harvnb|Eilenberg|1973}}, [[#CITEREFEilenberg1976|1976]])-->。[[確率論]]では半群は[[マルコフ過程]]に関連付けられる {{harv|Feller|1971}}。 == 定義 == [[集合]] ''S'' とその上の[[二項演算]] &bull; : S × S → S の対 (''S'', &bull; ) が以下の条件を満たすとき、これを'''半群'''という。 ; [[結合法則|結合律]]: ''S'' の各元 ''a'', ''b'', ''c'' に対して、等式 (''a'' &bull; ''b'') &bull; ''c'' = ''a'' &bull; (''b'' &bull; ''c'') が成り立つ。 ''S'' を半群 (''S'', &bull;) の台集合とよぶ。また誤解のおそれがなければ「半群 ''S''」のように台集合と同じ記号で半群を表す。 台集合が有限集合である半群を'''有限半群''' {{lang|en|(''finite semigroup'')}} または有限位数を持つ半群 {{lang|en|(semigroup with finite order)}}、台集合が無限集合である半群を'''無限半群''' {{lang|en|(''infinite semigroup'')}} または無限位数を持つ半群 {{lang|en|(semigroup with infinite order)}}という。 == 半群の例 == * [[空半群]]: 空集合は空写像を演算として半群を成す。半群の定義に台集合が空でないことを課して、空半群を除外することもある。 * [[一元半群]]: [[一元集合]] {''a''} に ''aa'' = ''a'' で演算を定めたものは、ただひとつの元からなる半群となる。これは(同型の違いを除けば)本質的に一つしか存在しない。しばしばこれを'''自明半群''' {{lang|en|(''trivial semigroup'')}} と呼ぶ。 * [[二元半群]]: 台集合が2元からなる半群は同型を除いて5種類の異なったものが存在する。 * [[自然数|正の整数]]全体の成す集合 '''N''' は加法に関して半群を成す。 * [[非負行列|非負正方行列]](すべての成分が非負であるような正方行列)の全体に行列の積を与えたものは半群を成す。 * 第一列が全て0であるような2次正方行列全体に行列の積を与えたものは半群を成す。 * 任意の[[環のイデアル]]は[[環 (数学)|環]]の乗法に関する半群である。 * 文字集合 &Sigma; を固定して、その上の有限[[文字列]]全体を考えると、[[文字列の連接]]を演算とする半群が得られる。これを &Sigma; 上の[[自由半群]]という。[[空文字列]]をも含めて考えるとこの半群は &Sigma; 上の[[自由モノイド]]となる。 * [[確率分布]] ''F'' に対して、''F'' の畳み込み冪全体の成す集合に畳み込みを演算として考えたものは半群を成す。これは畳み込み半群 {{lang|en|(convolution semigroup)}} と呼ばれる。 * 任意の[[モノイド]]は単位元を持つ半群である。 * 任意の[[群 (数学)|群]]は各元が[[逆元]]を持つモノイドである。 * [[繰り込み群]]は、繰り込み変換からなる半群である(群ではないが慣用的にこのように呼ばれる)。 == 基本的な概念 == === 単位元と零元 === 任意の半群が持つことのできる[[単位元]]は高々ひとつである(これは任意のマグマについても成り立つ)。単位元を持つ半群は、単位的半群あるいは[[モノイド]]と呼ばれる。半群 ''S'' に''S'' のどの元とも異なる元 ''e'' を添加して ''S'' &cup; {''e''} の各元 ''s'' に対して ''es'' = ''se'' = ''s'' と定めることによって、半群をモノイドに[[埋め込み (数学)|埋め込む]]ことができる。''S'' に単位元を添加して得られるモノイドを ''S''<sup>1</sup> で表し、''S'' の単位元添加あるいは '''1-添加'''と呼ぶ(誤解のおそれがなければ、''S'' の 1-添加も同じ記号 ''S'' で表すこともある)。したがって、任意の可換半群を[[グロタンディーク構成]]を通じて群に埋め込むことができる。 任意のマグマが持ちうる[[吸収元]]は高々一つであり、半群ではそれを[[零元]]と呼ぶ。零元を持たない半群 ''S'' に ''S'' に属さない元 0 を添加して、零元付き半群 ''S''<sup>0</sup> に ''S'' を埋め込むことができる。''S''<sup>0</sup> を ''S'' の零元添加あるいは '''0-添加'''と呼ぶ。 === 部分半群とイデアル === 半群 (''S'', &lowast;) の部分集合 ''A'', ''B'' が与えられたとき、''A'' &lowast; ''B'' (あるいは単に ''AB'') で表される ''S'' の部分集合を : <math> AB := \{ab \mid a\in A,\,b\in B\}</math> と定める。この記法を用いれば、半群 ''S'' の部分集合 ''A'' について * ''A'' が ''S'' の'''部分半群''' {{lang|en|(''subsemigroup'')}} であるとは、''AA'' &sub; ''A'' であることを言う。 * ''A'' が ''S'' の'''右イデアル''' {{lang|en|(''right ideal'')}} であるとは、''AS'' &sub; ''A'' であることを言う。 * ''A'' が ''S'' の'''左イデアル''' {{lang|en|(''left ideal'')}} であるとは、''SA'' &sub; ''A'' であることを言う。 ''A'' が左イデアルかつ右イデアルであるとき、''A'' を'''両側イデアル''' {{lang|en|(''two-sided ideal'')}} あるいは単に'''イデアル''' {{lang|en|(''ideal'')}} と言う。 半群 ''S'' の部分半群からなる族の交わりは再び ''S'' の部分半群となる。すなわち、''S'' の部分半群の全体は[[完備束]]を成す。 極小イデアル(包含関係に関して極小なイデアル)を持たない半群の例は、正の整数全体が加法に関して成す半群 '''N''' である。可換半群の極小イデアルは(存在するならば)群を成す。 元をそれが生成する[[主イデアル]]の言葉で特徴付ける、五つの[[同値関係]]からなる{{仮リンク|グリーンの関係式|en|Green's relations}}は半群のイデアルや関連する構造概念を調べる重要な道具である。 === 半群準同型と半群合同 === '''半群の準同型''' {{lang|en|(''semigroup homomorphism'')}} とは半群構造を保つ写像のことである。2つの半群 {{mvar|S, T}} の間の写像 {{math|''f'': ''S'' &rarr; ''T''}} が[[準同型]]であるとは、等式 : {{math|1=''f''(''ab'') = ''f''(''a'')''f''(''b'')}} が {{mvar|S}} の各元 {{mvar|a, b}} に対して成立することを言う。つまり({{mvar|S}} の中で)積をとってから {{mvar|f}} で写しても、{{mvar|f}} で写してから({{mvar|T}} のなかで)積をとっても同一の結果が得られると言うことである。半群が単位元を持つ場合でも、半群準同型は必ずしも単位元を単位元に移すとは限らない。 ふたつの半群 {{mvar|S, T}} が[[同型]]であるとは、[[全単射]]の半群準同型(すなわち半群同型写像){{math|''f'': ''S'' &harr; ''T''}} が存在することを言う。同型な半群は、半群として同一の構造を持つ。 '''半群合同''' {{lang|en|(''semigroup congruence'')}} {{math|&sim;}} は、半群演算と両立する[[同値関係]]である。つまり、半群合同 {{math|&sim; (&sub; ''S'' &times; ''S'')}} は {{mvar|S}} 上の同値関係であって、かつ : {{math|[''x'' &sim; ''y'' かつ ''u'' &sim; ''v'']}} ならば {{math|''xu'' &sim; ''yv''}} が {{mvar|S}} の任意の元 {{mvar|x, y, u, v}} に対して成立するものを言う。任意の同値関係と同じく半群合同 {{math|&sim;}} は[[同値類|合同類]] : <math>[a] = \{x\in S\mid x\sim a\}</math> を定めるが、さらに合同類の間の二項演算 {{math|∘}} を : <math>[u]\circ [v] = [uv]</math> で定めるとこれは[[well-defined|矛盾無く定義できて]]半群演算となる。これにより、半群合同 {{math|&sim;}} による合同類の全体 {{math|''S''/&sim;}} は {{math|∘}} を演算として半群を成す。この半群を'''剰余半群''' {{lang|en|(''residue class semigroup'')}}、'''商半群''' {{lang|en|(''quotient semigroup'', ''factor semigroup'')}} などと呼ぶ。自然な写像 : <math>S\to S/{\sim}\,;\; x \mapsto [x]</math> は全射半群準同型であり、[[商写像]]などと呼ばれる。{{mvar|S}} がモノイドならばその剰余半群は {{mvar|S}} の単位元の属する合同類を単位元とするモノイドを成す。逆に、任意の半群準同型の[[核 (代数学)|核]]は半群合同を与える。これらの結果は、[[普遍代数学]]における[[第一同型定理]]の特別な場合にほかならない。 半群の任意のイデアル ''I'' は、 : <math>x\,\rho\, y \iff x = y \text{ or } x, y \in I</math> で定まる半群合同 {{mvar|&rho;}} に関する{{仮リンク|リース剰余半群|en|Rees factor semigroup}}として部分半群を誘導する。 {{seealso|正規部分群|剰余群|環のイデアル|剰余環}} == 半群の構造 == ''S'' の任意の部分集合 ''A'' に対し、''A'' を含むような ''S'' の最小の部分半群 ''T'' が存在する。この ''T'' を ''A'' が'''生成する''' {{lang|en|(''generate'')}} 部分半群という。''S'' の一つの元 ''x'' が(つまり単元集合 {''x''} が)生成する部分半群(の台集合) { ''x''<sup>''n''</sup> | ''n'' は正の整数} が有限集合であるとき、''x'' は有限な位数を持つ、あるいは'''位数有限''' {{lang|en|(''finite order'')}} であるといい、そうでないとき無限位数を持つあるいは'''位数無限''' {{lang|en|(''infinite order'')}} であるという。 半群が'''周期的''' {{lang|en|(''periodic'')}} あるいは'''ねじれ半群''' {{lang|en|(''torsion semigroup'')}} であるとは、その任意の元が位数有限であるときに言う。また、ただ一つの元から生成される半群は[[単項生成半群|単項生成]]または[[巡回半群]]であるという。巡回半群が位数無限ならばそれは正の整数全体が加法に関して成す半群に同型であり、位数有限かつ空でないならば少なくとも一つは[[冪等元]]を含まねばならない。したがって、任意の空でない周期的半群は少なくともひとつの冪等元を含む。 半群の部分半群は、それ自身が群を成すならば'''[[部分群]]'''と呼ばれる。半群の部分群と半群の冪等元の間には近しい関係が存在する。半群の各部分群はちょうど一つの冪等元を含み、それはつまり部分群の単位元である。逆に、半群の各冪等元 ''e'' に対し、''e'' を含む極大部分群が唯一つ存在する。半群の各極大部分群は必ずこのやり方で得ることができ、したがって半群の極大部分群と冪等元との間に[[全単射|一対一対応]]がとれる。ここでの、[[極大部分群]]は群論における標準的な語法とは異なる。 位数有限の場合にはさらにいろいろなことが言える。例えば、任意の空でない有限半群は、周期的で、極小イデアルを持ち、少なくとも一つの冪等元を持つ。さらなる有限半群の構造についての議論は{{仮リンク|Krohn-Rhodes理論|en|Krohn-Rhodes theory}}の項を参照せよ。 == 半群のクラス == <!--{{Main|Special classes of semigroups}}--> * [[モノイド]]は単位的半群である。 * 部分半群は半群の[[部分集合]]であって、もとの半群の演算について閉じているようなものである。部分半群が[[群 (数学)|群]]を成すならば、それをもとの半群の[[部分群]]と呼ぶ。 * [[帯 (代数学)|帯]]はその演算が[[冪等]]であるような半群である。 * [[消約半群]]は左消約律「''ab'' = ''ac'' ならば ''b'' = ''c''」かつ右消約律「''ba'' = ''ca'' ならば ''b'' = ''c''」を満たす半群である<ref>{{harv|Clifford|Preston|1967|p=3}}</ref>。 * [[半束]]はその演算が冪等かつ可換な半群である。 * [[0-単純]]半群 * [[変換半群]]は何らかの集合上の変換からなる、写像の合成を積とする半群である。任意の有限半群 ''S'' は高々 |''S''| + 1 個の状態をもつ(状態)集合 ''Q'' 上の変換半群として表現することができる。''S'' の各元 ''x'' は ''Q'' をそれ自身に写す写像 ''x'': ''Q'' &rarr; ''Q'' であり、列 ''xy'' は ''Q'' の各元 ''q'' に対して ''q''(''xy'') = (''qx'')''y'' と定義される。変換の列を作る操作は明らかに結合的演算で、ここでは[[写像の合成]]と等価である。この表現は任意の[[オートマトン]]あるいは[[有限状態機械]] (FSM) に対する基本である。 * {{仮リンク|双巡回半群|en|bicyclic semigroup}}(実はモノイド)は、二つの生成元 ''p'', ''q'' が生成する[[自由半群]]を基本関係式 ''pq'' = 1 で割ったものとして得られる。 * [[C0-半群|''C''<sub>0</sub>-半群]]は[[発展方程式]]の[[解]]の時間発展を表す半群である。これは[[解析学]]における半群の代表例である。 * [[正則半群]]は各元 ''x'' が少なくとも一つの一般化逆元 ''y''(''xyx''=''x'' かつ ''yxy''=''y'' を満たす元)を持つ半群である。このとき元 ''x'' および ''y'' は「互いに逆である」{{lang|en|("mutually inverse")}} ということもある。 * [[逆半群]]は任意の原がちょうど一つの一般化逆元をもつような正則半群である。あるいは、正則半群が逆半群となるために必要十分な条件として、任意の二つの冪等元が互いに可換となることが挙げられる。 * '''アフィン半群'''は '''Z'''<sup>''d''</sup> の有限生成部分半群に同型な半群である。アフィン半群は[[可換環論]]に応用を持つ。 == 分数群 == 半群 ''S'' の'''分数群'''あるいは'''商の群''' {{lang|en|(''group of fractions'')}} ''G'' = ''G''(''S'') とは、''S'' の元全体で生成され、''S'' において成立する ''xy'' = ''z'' の形の等式すべてを基本関係とするような群である<ref>B. Farb, ''Problems on mapping class groups and related topics'' (Amer. Math. Soc., 2006) page 357. ISBN 0821838385</ref>。商の群は ''S'' から群への射に対する普遍性を示す<ref>M. Auslander and D.A. Buchsbaum, ''Groups, rings, modules'' (Harper&Row, 1974) page 50. ISBN 006040387X</ref>。 明らかに ''S'' の各元を ''G''(''S'') の中の対応する生成元に写す写像が存在する。重要な問題として、この写像が埋め込みとなるような半群の特徴づけの問題がある。必ずしも埋め込みとならないことの例として、''S'' をある集合 ''X'' の部分集合が[[共通部分 (数学)|交わり]]を演算として成す半群がある(実は[[半束]]を成す)。これは、''S'' の任意の元が ''AA'' = ''A'' を満たすから ''G''(''S'') の生成元もすべてそうでなければならず、したがって ''G''(''S'') は[[自明群]]となっている。問題の写像 ''S'' &rarr; ''G''(''S'') が埋め込みとなるためには ''S'' が[[簡約法則|消約律]]を満たすことが必要となるのは明らかである。''S'' が可換ならばそれは十分条件にもなり<ref>{{harv|Clifford|Preston|1961|p=34}}</ref>、かつ半群の[[グロタンディーク群]]が分数群の構成を与える。非可換半群に対するこの問題は半群について本格的にあつかった最初の論文 {{harv|Suschkewitsch|1928}} で追求されている<ref>{{cite web|url=http://www.gap-system.org/~history/Extras/Preston_semigroups.html|title=Personal reminiscences of the early history of semigroups|author=[[Gordon Preston|G. B. Preston]]|year=1990|accessdate=2009-05-12}}</ref>。{{仮リンク|アナトリー・マルチェフ (数学者)|label=アナトリー・マルチェフ|en|Anatoly Maltsev}}は1937年に埋め込み可能性についての必要条件を与えている<ref>{{cite journal | last=Maltsev | first=A. | authorlink=Anatoly Maltsev | journal=Math. Annalen | volume=113 | year=1937 | pages=686–691}}</ref>。 {{seealso|商体|環の局所化}} == 偏微分方程式の半群法 == {{Further|[[C0半群]]}} 半群論は、[[偏微分方程式]]論においてもある種の問題の研究のために用いられる。大雑把にいえば、半群を使った手法というのは偏微分方程式をある種の函数空間上の[[常微分方程式]]とみなすことである。例えば、次のような空間的な[[区間 (数学)|区間]] (0, 1) &sub; '''R''' と時間 ''t'' &ge; 0 上の[[熱方程式]]の初期値/境界値問題 :<math>\begin{cases} \partial_{t} u(t, x) = \partial_{x}^{2} u(t, x), & (x \in (0, 1), t > 0); \\ u(t, x) = 0, & (x \in \{ 0, 1 \}, t > 0); \\ u(t, x) = u_{0} (x), & (x \in (0, 1), t = 0) \end{cases}</math> を考える。''X'' を[[Lp空間|''L''<sup>2</sup>((0, 1); '''R''')]] とし、''A'' を :<math>D(A) = \{ u \in H^{2}((0, 1); \mathbf{R}) \mid u(0) = u(1) = 0 \}</math> を[[定義域]]とする二階微分作用素とすれば、先ほどの初期値/境界値問題は空間 ''X'' 上の常微分方程式の初期値問題 :<math>\begin{cases} \dot{u}(t) = A u (t); \\ u(0) = u_{0} \end{cases}</math> として解釈することができる。発見的方法のレベルでいえば、この問題の解は ''u''(''t'') = exp(''tA'')''u''<sub>0</sub> という形をしている「はず」である。しかし厳密に言えば ''tA'' の[[指数函数|冪]]とは何であるかということに意味を与えなければならない。''t'' の函数としては、exp(''tA'') は ''X'' から ''X'' への作用素からなる半群であり、時刻 ''t'' = ''t''<sub>0</sub> において初期状態 ''u''<sub>0</sub> をとり、任意の時刻 ''t'' において状態 ''u''(''t'') = exp(''tA'')''u''<sub>0</sub> をとるものである。このとき、作用素 ''A'' はこの半群の[[無限小生成作用素]]と呼ばれる。 == 歴史 == 半群の研究は、[[群 (数学)|群]]や[[環 (数学)|環]]といったより複雑な公理から決まるほかの代数的構造からすると、随分と若い。いくつかの文献<ref>[http://jeff560.tripod.com/s.html Earliest Known Uses of Some of the Words of Mathematics]</ref><ref name=Hollings>[http://uk.geocities.com/cdhollings/suschkewitsch3.pdf An account of Suschkewitsch's paper by Christopher Hollings]</ref> によれば、半群に対応する用語が用いられた最初はフランス語で、1904年に J.-A. de Séguier の著した ''Élements de la Théorie des Groupes Abstraits''(『抽象群原論』)においてである。<!-- 英語で用いられた最初は1908年、ハロルド・ヒントンの ''Theory of Groups of Finite Order''(有限位数の群論)である。[日本語での初出用例を挙げるべきなのだろうが調べてもいないし知らん] --> [[Anton Suschkewitsch]]は半群についてのそれなりに意味のある結果を得た最初の人で、1928年の論文 ''Über die endlichen Gruppen ohne das Gesetz der eindeutigen Umkehrbarkeit''(『一意可逆性の条件を外した有限群について』)で有限[[単純半群]]の構造を決定し、有限半群の極小イデアル(あるいは[[グリーンの関係式]]の ''J''-系列)が単純であることを示した<ref name=Hollings/>。そういったことからすれば、有限群論の基礎付けが行われるのは随分と後になってからのことで、[[デヴィット・リース (数学者)|デヴィット・リース]]、[[ジェイムス・アレクサンダー・グリーン]]、[[Evgenii Sergeevich Lyapin]]、[[アルフレッド・クリフォード]]および[[ゴードン・プレストン]]らによる。最後の二者は半群論に関する二巻のモノグラフを1961年と1967年にそれぞれ出版している。1970年には『[[半群フォーラム]]』という定期刊行雑誌(現在は[[シュプリンガー・フェアラーク]]が編集)が発行され、半群論全般を扱う数少ない数学雑誌の一つとなっている。 近年の在野の研究ではより分化が進んでおり、([[逆半群]]のような)半群の重要なクラスに焦点を当てたモノグラフや、[[代数的オートマトン理論]](特に有限オートマトン)や[[函数解析学]]における応用などに焦点を当てたものなども現れている。 == 一般化 == <!--{{Group-like structures}}--> 半群から演算の結合性の公理を落とせば、[[マグマ (数学)|マグマ]]が得られる。これは 二項演算 ''M'' &times; ''M'' &rarr; ''M'' を備えた集合 ''M'' という意味以上のものではない。 別な方向での一般化として、'''''n''-項半群''' {{lang|en|(''n''-''ary semigroup'')}} あるいは'''''n''-半群''' {{lang|en|(''n''-''semigroup'')}}、'''多重項半群''' {{lang|en|(''polyadic semigroup'')}} とか'''多項半群''' {{lang|en|(''multiary semigroup'')}} などと呼ばれるタイプの一般化がある。これは演算の[[アリティ]]を変更し、二項演算の替わりに[[算法|多項演算]]を備えた「半群」''G'' を考えるものである<ref>{{Citation| last=Dudek |first=W.A. |title=On some old problems in n-ary groups |url=http://www.quasigroups.eu/contents/contents8.php?m=trzeci |journal=Quasigroups and Related Systems |year=2001 |volume=8 |pages= 15–36}}</ref>。結合律の一般化は、たとえば三項版の結合律が : (''abc'')''de'' = ''a''(''bcd'')''e'' = ''ab''(''cde'') つまり文字列のどの隣り合う三つを括弧で括ったものも相等しい、というふうに与えられる。一般の ''n''-項版は ''n'' + (''n'' − 1) の長さの文字列のどの隣り合う ''n''-項を括っても相等しいとなる。2-半群が通常の半群である。詳細は{{仮リンク|多項群|en|n-ary group}} を参照 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 全般 === *{{citation|title=The algebraic theory of semigroups|volume=volume 1|first1=A. H.|last1=Clifford|authorlink1= Alfred H. Clifford |first2=G. B.|last2=Preston|authorlink2=Gordon Preston|publisher=American Mathematical Society|year=1961|edition=2nd UK|isbn=978-0-8218-0271-7}}. *{{citation|title=The algebraic theory of semigroups|volume=volume 2|first1=A. H.|last1=Clifford|authorlink1= Alfred H. Clifford |first2=G. B.|last2=Preston|authorlink2=Gordon Preston|publisher=American Mathematical Society|year=1967|isbn=978-0-8218-0272-4}}. *{{citation|title=Semigroups: an introduction to the structure theory|first=Pierre Antoine|last=Grillet|publisher=Marcel Dekker, Inc.|year=1995|isbn=978-0-471-25243-6}} *{{citation|last= Howie|first= John M.|authorlink=John Mackintosh Howie|title=Fundamentals of Semigroup Theory|year=1995|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Clarendon Press]]|isbn=978-0-19-851194-6}}. *{{Cite book|和書|author=田村孝行|title=半群論|series=復刊|publisher=共立出版|date=2001-05|isbn=978-4-320-01676-7}} === 各論 === <!-- there's not enough here about connections with automata to use these as references. *{{citation|last=Eilenberg|first=Samuel|authorlink=Samuel Eilenberg|title=Automata, Languages, and Machines (Vol.A)|publisher=[[Academic Press]]|year= 1973|isbn=0-12-234001-9}} *{{citation|last=Eilenberg|first=Samuel|authorlink=Samuel Eilenberg|title=Automata, Languages, and Machines (Vol.B)|publisher=Academic Press|year= 1976|isbn=0-12-234002-7}} --> *{{Citation | last1=Feller | first1=William | author1-link=William Feller | title=An introduction to probability theory and its applications. Vol. II. | publisher=[[John Wiley & Sons]] | location=New York | series=Second edition | id={{MathSciNet | id = 0270403}} | year=1971}}. *{{Citation | last1=Hille | first1=Einar | authorlink1=Einar Hille | last2=Phillips | first2=Ralph S. | authorlink2=Ralph Phillips (mathematician) | title=Functional analysis and semi-groups | publisher=[[American Mathematical Society]] | location=Providence, R.I. | id={{MathSciNet | id = 0423094}} | year=1974}}. *{{Citation | last1=Kantorovitz | first1=Shmuel | title=Topics in Operator Semigroups.| publisher=Birkhauser | location=Boston, MA |series=Progress in Mathematics Volume 281 |year=2010 |isbn=978-0-8176-4931-9}}. *{{Citation | last1=Suschkewitsch | first1=Anton | title=Über die endlichen Gruppen ohne das Gesetz der eindeutigen Umkehrbarkeit | doi=10.1007/BF01459084 | id={{MathSciNet | id = 1512437}} | year=1928 | journal=[[Mathematische Annalen]] | issn=0025-5831 | volume=99 | issue=1 | pages=30–50}}. == 関連項目 == {{Div col}} *[[吸収元]] *[[空半群]] *{{仮リンク|弱逆元|en|Weak inverse}} *[[単位元]] *{{仮リンク|ライトの結合性判定法|en|Light's associativity test}} *{{仮リンク|両順序集合|en|Biordered set}} {{Div col end}} == 外部リンク == *{{Kotobank|半群|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}} *{{MathWorld|title=Semigroup|urlname=Semigroup}} {{DEFAULTSORT:はんくん}} [[Category:関数解析学]] [[Category:代数的構造]] [[Category:半群論|*]] [[Category:数学に関する記事]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E7%BE%A4
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ホヤ
ホヤ(海鞘、老海鼠、保夜)は、尾索動物亜門ホヤ綱に属する海産動物の総称。2000種以上が知られる。「海のパイナップル」とも呼ばれている。 成長過程で変態する動物として知られ、幼生はオタマジャクシ様の形態を示し遊泳する。幼生は眼点、平衡器、背側神経、筋肉、脊索などの組織をもつ。 成体は海底の岩などに固着し、植物の一種とさえ誤認されるような外観を持つ。成体は、脊索動物の特徴である内柱や鰓裂をはじめ、心臓、生殖器官、神経節、消化器官などをもつ。脊椎動物に近縁であり、生物学の研究材料として有用。血液(血球中)にバナジウムを高濃度に含む種類がある(Michibata et. al., 1991など)。現在確認されている中では、体内でセルロースを生成することのできる唯一の動物であり、これは遺伝子の水平伝播を示唆していると考えられている。 生活様式は、群体で生活するものと単体で生活するものがある。単体ホヤは有性生殖を行い、群体ホヤは有性生殖、無性生殖の両方を行う。世界中の海に生息し、生息域は潮下帯から深海まで様々。多くのホヤは植物プランクトンやデトリタスを餌としている。 漢字による表記では、古くには「老海鼠」、「富也」、「保夜」などの表記も見られる。ホヤの名は、「ランプシェードに当たる火屋(ほや)にかたちが似ている」から、または「ヤドリギ(ほや)にそのかたちが似ている」から。またマボヤはその形状から「海のパイナップル」と呼ばれることもある。 なお、俗称でホヤガイ(海鞘貝、ホヤ貝)と呼ばれることがあるが、軟体動物の一群に別けられる貝類とは全く分類が異なっている。 ホヤの卵は「モザイク卵」として知られている。つまり、初期発生中の割球を解離したり破壊すると、決まった運命の組織にしか分化しない(Conklin;1905など)。加えて受精後すぐの卵に明確な境界がみられ、それぞれの領域が将来の各組織に受け継がれることから、母性細胞分化決定因子の存在が示唆されてきた。筋肉細胞分化決定因子について、細胞質移植実験などにより、特にその存在が研究され(Deno and Satoh; 1984, Marikawa et. al., 1995)、2001年にNishida and Sawadaによりマボヤからmacho-1が同定された。 ただし、筋肉や表皮などは、自立分化能を持つが、脊索は誘導を必要とすることが示されている(Nishida;2005など)。発生中の各割球が将来どの組織に分化するかを示した「細胞系譜」は、マボヤではNishidaらによって詳細に示されている(Nishida;1987など)。 ホヤの属する脊索動物門には、ヒトを含む脊椎動物亜門が含まれており、遺伝子を操作したホヤを使えば、脊椎動物が進化する過程の再現実験にも利用できる。 カタユウレイボヤ(Ciona intestinalis)は組織の構造が単純で成長が早く、養殖が可能で安価に入手できるなど実験動物としての利点が多数あるため、生物学において発生学の発生のモデル生物として用いられる。東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所ではナショナルバイオリソースプロジェクト事業に基づいてカタユウレイボヤの野生型個体を供給している。 2002年にはドラフトゲノム配列が決定された(Dehal et. al.,)。動物としては7番目となる。さらに近縁種のユウレイボヤ(C. savignyi)でもゲノムプロジェクトが行われている。 ホヤの幼生には臭いを感知する胚組織が存在し、生殖に関わるホルモンを分泌する細胞との関わりから生殖や嗅覚の遺伝病の治療に関する研究への寄与が指摘されている。 上記以外にも、様々な分野においてホヤを用いた研究は世界中で盛んに行われている。 Kott(1992)ら別の分類体系を主張するものもあるが、ここではN.Satoh著"Developmental Biology of Ascidians"(1994)に紹介されているものを用いる。和名は日本海洋データベースに基づく。 Order Enterogona マメボヤ目(ヒメボヤ目、腸性目) Order Pleurogona マボヤ目 ホヤは日本、韓国、フランスやチリなどで食材として用いられている。海産物らしい香りが強く、ミネラル分が豊富である。マボヤとアカホヤは亜鉛・鉄分・EPA(エイコサペンタエン酸)・カリウム・ビタミンB12・ビタミンEなど豊富な栄養素、味覚の基本要素の全てが一度に味わえる食材となっている。またマボヤの筋膜体に含まれるグルタミン酸と 5'-GMP の割合がうま味を増強する濃度比であるため、旨味が強い。一部の種はミネラル分が濃く、食べると内臓(特に腎臓)に障害をもたらすため、「毒ホヤ」と通称される。 日本では主にマボヤ科のマボヤ(Halocynthia roretzi)とアカボヤ(H. aurantium)が食用にされている。古くからホヤの食用が広く行われ多く流通するのは主に東北地方北部沿岸の三陸地方。水揚げ量の多い石巻漁港がある宮城県では酒の肴として一般的である。また北海道でも一般的に食用の流通がある。多いのはマボヤであり、アカボヤの食用流通は北海道などであるが少ない。東京圏で食用が広まり多く流通するようになったのは近年である。中部地方以西・西日本各地では、2020年時点においてもなお極めて少ない。 食用に供される種であるマボヤは、日本では太平洋側は牡鹿半島、日本海側は男鹿半島以北の近海産が知られる。天然物と養殖により供給されている。 特にワタと呼ばれる肝臓や腸には独特の匂いがあり、愛好家はこの匂いを好むこともある。ワタを除去して調理すると独特の匂いがかなり抑えられる。ホヤの中の水(ホヤ水)にもホヤ特有の香りがあり、刺身を作る際はホヤ水を使って身を洗ったり、独特の香りを好むものは、醤油の代わりにホヤ水にワタを溶いたものをつけて食べる。新鮮なホヤはあまり臭わないが、鮮度落ちが早く、時間が経つにつれて金属臭もしくはガソリン臭と形容されるような独特の臭いを強く発するようになる。冷たい海水に浸しておくと鮮度が落ちにくい。首都圏で出回るものは鮮度が悪く全体に独特の匂いが強まっており、好き嫌いが分かれる要因のひとつとなっている。 ホヤを好む人は、五つの味(甘味、塩味、苦味、酸味、うま味)を兼ね備えると形容し、形から「海のパイナップル」に譬えられることもある。独特の風味が酒の肴として好まれ、刺身、酢の物、焼き物、フライとして調理され、塩辛、干物に加工される。また、このわたと共に塩辛にしたものを莫久来(ばくらい)という。 ※生食の場合、好みにより内臓を取り除かずに食したり、調味料として三杯酢、醤油の他、殻の中の液(前述のホヤ水)を用いたりすることもある。 2011年の東日本大震災で三陸の養殖施設は一時ほぼ全滅した。震災前、三陸産ホヤの多くは韓国に輸出され、キムチの具や刺身として食べられていた。震災に伴う福島第一原子力発電所事故による海洋汚染を懸念した韓国政府は、2013年に東日本太平洋岸7県からの水産物輸入禁止を決定した。その後、養殖施設は再建されたが韓国への輸出は再開されておらず、2016年に宮城県で生産された1万3,200トンのうち、約6割(7,600トン)が焼却処分された。東京電力の補償対象だが、漁業者らにとっては苦渋の決断であった。このため、宮城県と宮城県漁業協同組合や震災後の2014年に結成され愛好家団体「ほやほや学会」などが、首都圏などの消費者や飲食店にホヤの売り込みを強化した。震災前は年間あたり2,000トン程度だったホヤの国内出荷量は、2016年には約5,500トンに増加した。新鮮なうちに冷凍して臭いを抑える取り組みや、韓国以外への輸出開拓も試みられている。
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ホヤ(海鞘、老海鼠、保夜)は、尾索動物亜門ホヤ綱に属する海産動物の総称。2000種以上が知られる。「海のパイナップル」とも呼ばれている。
{{Otheruses|海産動物}} {{生物分類表 | 名称 = ホヤ綱 |色 = 動物界 | 画像 = [[ファイル:SeasquirtJI1.jpg|210px]] | 画像キャプション = ホヤの一種のマボヤ ''Halocynthia roretzi'' | 界 = [[動物界]] {{Sname||Animalia}} | 門 = [[脊索動物門]] {{Sname||Chordata}} | 亜門 = [[尾索動物亜門]] {{Sname||Urochordata}} | 綱 = '''ホヤ綱''' {{Sname||Ascidiacea}} | 下位分類名 = [[目 (分類学)|目]] | 下位分類 = * マメボヤ目 [[:w:Enterogona|Enterogona]] * マボヤ目 Pleurogona | 英名 = [[:en:ascidian|ascidian, Sea Pineapple, sea squirt]] | 学名 = Ascidiacea <small>Nielsen, 1995</small> }} '''ホヤ'''(海鞘、老海鼠、保夜)は、[[尾索動物]]亜門ホヤ綱に属する海産[[動物]]の総称。2000種以上が知られる。「海の[[パイナップル]]」とも呼ばれている。 == 概要 == 成長過程で[[変態]]する動物として知られ、[[幼生]]はオタマジャクシ様の形態を示し遊泳する。幼生は[[目|眼点]]、[[平衡器]]、背側[[神経]]、[[筋肉]]、[[脊索]]などの組織をもつ。 成体は海底の岩などに固着し、植物の一種とさえ誤認されるような外観を持つ。成体は、[[脊索動物]]の特徴である[[内柱]]や[[えら|鰓裂]]をはじめ、心臓、生殖器官、神経節、消化器官などをもつ。[[脊椎動物]]に近縁であり、生物学の研究材料として有用。血液(血球中)に[[バナジウム]]を高濃度に含む種類がある(Michibata et. al., 1991など)。現在確認されている中では、体内で[[セルロース]]を生成することのできる唯一の動物であり、これは[[遺伝子の水平伝播]]を示唆していると考えられている。 生活様式は、群体で生活するものと単体で生活するものがある。単体ホヤは有性生殖を行い、群体ホヤは[[有性生殖]]、[[無性生殖]]の両方を行う。世界中の海に生息し、生息域は潮下帯から深海まで様々。多くのホヤは植物[[プランクトン]]や[[デトリタス]]を餌としている。 漢字による表記では、古くには「老海鼠」、「富也」、「保夜」などの表記も見られる。ホヤの名は、「[[ランプシェード]]に当たる[[ホヤ (曖昧さ回避)|火屋]](ほや)にかたちが似ている」から、または「[[ヤドリギ]](ほや)にそのかたちが似ている」から。またマボヤはその形状から「海の[[パイナップル]]」と呼ばれることもある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=池袋経済新聞|url=https://ikebukuro.keizai.biz/|website=池袋経済新聞|accessdate=2019-08-03}}</ref>。 なお、俗称で'''ホヤガイ'''(海鞘貝、ホヤ貝)と呼ばれることがあるが、[[軟体動物]]の一群に別けられる[[貝]]類とは全く分類が異なっている<ref name=":1" />。 ==生物的特性 == === 初期発生 === ホヤの卵は「[[モザイク卵]]」として知られている。つまり、初期発生中の割球を解離したり破壊すると、決まった運命の組織にしか[[分化]]しない(Conklin;1905など)。加えて受精後すぐの卵に明確な境界がみられ、それぞれの領域が将来の各組織に受け継がれることから、母性細胞分化決定因子の存在が示唆されてきた。筋肉細胞分化決定因子について、[[細胞質]]移植実験などにより、特にその存在が研究され(Deno and Satoh; 1984, Marikawa et. al., 1995)、2001年にNishida and Sawadaによりマボヤからmacho-1が同定された。 ただし、筋肉や表皮などは、自立分化能を持つが、脊索は[[誘導]]を必要とすることが示されている(Nishida;2005など)。発生中の各割球が将来どの組織に分化するかを示した「細胞系譜」は、マボヤではNishidaらによって詳細に示されている(Nishida;1987など)。 === モデル生物として === ホヤの属する脊索動物門には、ヒトを含む脊椎動物亜門が含まれており、遺伝子を操作したホヤを使えば、脊椎動物が進化する過程の再現実験にも利用できる<ref name=koube />。 カタユウレイボヤ(''Ciona intestinalis'')は組織の構造が単純で成長が早く<ref name=koube />、養殖が可能で安価に入手できるなど[[実験動物]]としての利点が多数あるため、[[生物学]]において[[発生学]]の発生の[[モデル生物]]として用いられる。[[東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所]]では[[ナショナルバイオリソースプロジェクト]]事業に基づいてカタユウレイボヤの野生型個体を供給している<ref>[https://www.mmbs.s.u-tokyo.ac.jp/jp/news/nbrp.html カタユウレイボヤの供給について - 東京大学三崎臨海実験所]</ref>。 2002年にはドラフト[[ゲノム]]配列が決定された(Dehal et. al.,)。動物としては7番目となる。さらに近縁種のユウレイボヤ(''C. savignyi'')でもゲノムプロジェクトが行われている。 === その他の研究 === ホヤの幼生には臭いを感知する胚組織が存在し、生殖に関わる[[ホルモン]]を分泌する細胞との関わりから生殖や嗅覚の遺伝病の治療に関する研究への寄与が指摘されている<ref name=koube>[http://www.kobe-np.co.jp/news/iryou/201508/0008293428.shtml 神戸新聞NEXT|医療ニュース|ホヤにも「鼻」の起源細胞 「脊椎動物だけ」定説覆す 甲南大教授らが発見] [[神戸新聞]]</ref>。 上記以外にも、様々な分野においてホヤを用いた研究は世界中で盛んに行われている。 * 免疫に関する研究(自己−非自己認識に関する研究)De Tomaso et. al., 2005など * ホヤから抽出される薬品;石橋正己、2005などを参照のこと * 海産無脊椎動物には[[アルツハイマー病]]等と関連すると考えられている神経保護物質である[[プラズマローゲン]](PlsEtn)が多く含まれているが、ホヤ類の内臓は特にこの物質の含量が多いとされる<ref>{{cite journal|doi=10.1007/s11745-015-4112-y|title=Analysis of Plasmalogen Species in Foodstuffs|date=February 2016|volume=51|issues=2|authors=Shinji Yamashita, Susumu Kanno, Ayako Honjo, Yurika Otoki, Kiyotaka Nakagawa, Mikio Kinoshita, Teruo Miyazawa|journal=Lipids}}</ref>。 === 分類 === Kott(1992)ら別の分類体系を主張するものもあるが、ここではN.Satoh著"Developmental Biology of Ascidians"(1994)に紹介されているものを用いる。和名は日本海洋データベース<ref>[http://www.godac.jamstec.go.jp/bismal/j/JODC_J-DOSS 日本海洋データベース] - 国立研究開発法人海洋研究開発機構</ref>に基づく。 ==== Order Enterogona ==== Order Enterogona [[マメボヤ目]](ヒメボヤ目、腸性目) * Suborder Aplosobranchiata マンジュウボヤ亜目 ** Family Polyclinidae [[マンジュウボヤ科]] ** Family Diemnidae ** Family Polycitoridae [[ヘンゲボヤ科]] - [[ヘンゲボヤ]] * Suborder Phlebobranchiata マメボヤ亜目 ** Family Cionidae [[ユウレイボヤ科]] - カタユウレイボヤ ** Family Octacnemidae [[オオグチボヤ科]] - [[オオグチボヤ]] ** Family Perophoridae [[マメボヤ科]] ** Family Ascidiidae [[ナツメボヤ科]] ** Family Agnesiidae [[ヒメボヤ科]] ** Family Corellidae [[ドロボヤ科]] ==== Order Pleurogona ==== Order Pleurogona [[マボヤ目]] * Suborder Stolidobranchiata [[マボヤ亜目]] ** Family Botryllidae ** Family Styelidae [[シロボヤ科]] ** Family Pyuridae [[マボヤ科]] - マボヤ ** Family Molguidae [[フクロボヤ科]] * Suborder Aspiculata ** Family Hexacrobylidae === ギャラリー === :ホヤの仲間は世界の各海洋に存在しており、代表的なものは以下が存在する。 <gallery> File:Ascidia involuta.jpg|{{Snamei||Ascidia involuta}} File:Botryllus leachii.jpg|{{Snamei||Botrylloides leachii}} File:Botryllus schlosseri.jpg|{{Snamei||Botryllus schlosseri}} File:Cionaintestinalis.jpg |{{Snamei||Ciona intestinalis}} File:Clavelina lepadiformis.jpg|{{Snamei||Clavelina lepadiformis}} File:Halocynthia papillosa.jpg|{{Snamei||Halocynthia papillosa}} File:Halocynthia roretzi-Sea pineapples at Tsukiji Market-01.jpg|{{Snamei||Halocynthia roretzi}} File:Phallusia mammillata.jpg|{{Snamei||Phallusia mammillata}} File:Pyura spinifera.jpg|{{Snamei||Pyura spinifera}} </gallery> == 食材 == [[File:Sea Pineapple Sashimi.jpg|thumb|240px|right|マボヤの刺身]] ホヤは[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]、[[フランス共和国|フランス]]<ref>アメリカ映画『[[フレンチ・コネクション]]』では密輸王のシャルニエ([[フェルナンド・レイ]])が[[モンテ・クリスト伯]]が幽閉されたシャトー・ディフで運び屋と打合せする時に足元の潮溜りから何かを拾い上げ、ポケットからナイフを出して切り、歩きながら中身をむしゃむしゃ食べ、皮を投げ捨てる。これがホヤで、[[奥本大三郎]]はこのエッセイを中心に『マルセイユの海鞘』([[中央公論新社]])を出版している。</ref>や[[チリ共和国|チリ]]などで食材として用いられている。海産物らしい香りが強く、ミネラル分が豊富である。マボヤとアカホヤは亜鉛・鉄分・EPA(エイコサペンタエン酸)・カリウム・ビタミンB12・ビタミンE<ref>ほやって実はすごい!?知られざる5つの魅力[https://www.yotsume-holdings.com/sea-nutrition/hoya/]</ref>など豊富な栄養素、味覚の基本要素の全てが一度に味わえる食材となっている<ref>{{Cite web|和書|title=池袋で「ホヤ」グルメイベント 宮城ふるさとプラザで試食会や直売会など|url=https://ikebukuro.keizai.biz/headline/2282/|website=池袋経済新聞|accessdate=2019-08-03}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=「ホヤ」が美味しい季節到来 実は女性に嬉しい栄養素がたっぷり|url=https://weathernews.jp/s/topics/201906/030215/|website=ウェザーニュース|accessdate=2019-08-03|language=ja}}</ref>。またマボヤの筋膜体に含まれるグルタミン酸と 5'-GMP の割合がうま味を増強する濃度比であるため、旨味が強い<ref>(連携)事業実績 - 青森県立保健大学 地域食材の特産化活動を介した地域コミュニケーションの発展 事業[https://www.auhw.ac.jp/renkei/jichitai/files/28_zisseki_chiikishokuzai.pdf]</ref>。一部の種はミネラル分が濃く、食べると内臓(特に腎臓)に障害をもたらすため、「毒ホヤ」と通称される。 日本では主に[[マボヤ科]]のマボヤ(''Halocynthia roretzi'')とアカボヤ(''H. aurantium'')が食用にされている。古くからホヤの食用が広く行われ多く流通するのは主に[[東北地方]]北部沿岸の[[三陸地方]]。水揚げ量の多い[[石巻漁港]]がある宮城県では酒の肴として一般的である。また[[北海道]]でも一般的に食用の流通がある。多いのはマボヤであり、アカボヤの食用流通は北海道などであるが少ない。[[首都圏 (日本)|東京圏]]で食用が広まり多く流通するようになったのは近年{{いつ|date=2010年7月}}である。[[中部地方]]以西・[[西日本]]各地では、2020年時点においてもなお極めて少ない。 食用に供される種である'''マボヤ'''は、日本では[[太平洋]]側は[[牡鹿半島]]、[[日本海]]側は[[男鹿半島]]以北の近海産が知られる。天然物と[[養殖]]により供給されている。 特にワタと呼ばれる肝臓や腸には独特の匂いがあり、愛好家はこの匂いを好むこともある。ワタを除去して調理すると独特の匂いがかなり抑えられる。ホヤの中の水(ホヤ水)にもホヤ特有の香りがあり、刺身を作る際はホヤ水を使って身を洗ったり、独特の香りを好むものは、醤油の代わりにホヤ水にワタを溶いたものをつけて食べる。新鮮なホヤはあまり臭わないが、鮮度落ちが早く、時間が経つにつれて金属臭もしくは[[ガソリン]]臭と形容されるような独特の臭いを強く発するようになる。冷たい海水に浸しておくと鮮度が落ちにくい。[[首都圏 (日本)|首都圏]]で出回るものは鮮度が悪く全体に独特の匂いが強まっており、好き嫌いが分かれる要因のひとつとなっている。 ホヤを好む人は、五つの味([[甘味]]、塩味、[[苦味]]、[[酸味]]、[[うま味]])を兼ね備えると形容し、形から「海の[[パイナップル]]」に譬えられることもある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO90076140T00C15A8NZ1P00/ 「宮城・ホヤ、一口で5つの味 とれたてほやほやが命」]『日本経済新聞』夕刊2015年8月4日(2018年9月5日閲覧)。</ref>。独特の風味が酒の肴として好まれ、[[刺身]]、[[酢の物]]、[[焼く (調理)|焼き物]]、[[フライ (料理)|フライ]]として調理され、[[塩辛]]、[[干物]]に加工される。また、[[このわた]]と共に塩辛にしたものを[[莫久来]](ばくらい)という。 === 調理の一例 === # 頭部の2つの突起(入水口と出水口)を切り落とす。 # 切り落とした部分から縦方向に包丁を入れて殻(被嚢)を切り開く。 # 殻を開いて、指でオレンジ色の身を取り出す。 # 身を裏返し、黒い内臓を取り除く。 # 袋状になっている腸に包丁を入れて開き、内容物を水で洗い流す。 # 身全体を水できれいに洗い、食べやすいサイズに切る。 ※生食の場合、好みにより内臓を取り除かずに食したり、調味料として三杯酢、醤油の他、殻の中の液(前述のホヤ水)を用いたりすることもある。 ===東日本大震災後=== 2011年の[[東日本大震災]]で三陸の養殖施設は一時ほぼ全滅した。震災前、三陸産ホヤの多くは韓国に輸出され、[[キムチ]]の具や刺身として食べられていた。震災に伴う[[福島第一原子力発電所事故]]による海洋汚染を懸念した韓国政府は、2013年に東日本太平洋岸7県からの水産物輸入禁止を決定した。その後、養殖施設は再建されたが韓国への輸出は再開されておらず、2016年に宮城県で生産された1万3,200[[トン]]のうち、約6割(7,600トン)が焼却処分された。[[東京電力]]の補償対象だが、漁業者らにとっては苦渋の決断<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170721-W4M56QWDGVKXPPDJ4KBJFZ6IYA/|title=【震災真論・深論】捨てるのか、ホヤは食べてなんぼだ/韓国禁輸、東電が買い取り「宮城の味」を消費者に|work=|publisher=『[[産経新聞]]』朝刊|date=2017年7月21日}}</ref>であった。このため、宮城県と宮城県漁業協同組合や震災後の2014年に結成され愛好家団体「ほやほや学会」<ref>【震災7年】三陸ホヤ食べて応援/愛好家尽力、国内消費4倍『[[読売新聞]]』朝刊2018年3月22日(都民面)</ref>などが、首都圏などの消費者や飲食店にホヤの売り込みを強化した。震災前は年間あたり2,000トン程度だったホヤの国内出荷量は、2016年には約5,500トンに増加した。新鮮なうちに冷凍して臭いを抑える取り組みや、韓国以外への輸出開拓も試みられている<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/nkd/company/article/?DisplayType=1&ng=DGKKZO18887540U7A710C1ML0000&scode=9501|title=【列島追跡】三陸のホヤ、廃棄処分防げ 海外開拓や冷凍保存|work=|publisher=『[[日本経済新聞]]』朝刊|date=2017年7月17日}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == * [[佐藤矩行]] 編 『ホヤの[[生物学]]』 [[東京大学出版会]]、1998年、258頁。 * N. Satoh, Developmental Biology of ascidians, Cambridge university press, 1994, p. 234 * 生物学御研究所編 『相模湾産海鞘類図譜』岩波書店, 1953 * E. G. Conklin,"Mosaic development in ascidian eggs", J. Exp. Zool. 2, 1905, PP146-223. * T. Deno and N. Satoh, "Studies on the cytoplasmic determinant for muscle cell differentiation in ascidian embryos; an attempt at transplantation of the myoplasm", Develop. Growth Differ.26, 1984, PP43-48 * Y. Marikawa et. al., "Development of egg fragments of the ascidian Ciona savignyi: the cytoplasmic factors resposible for muscle differentiation are separated into a specific fragment.", Dev. Biol. 162, 1994, PP134-142. * H. Nishida and K. Sawada, "macho-1 encodes a localized mRNA in ascidian eggs that specifies muscle fate during embryogenesis. Nature 409, 2001, PP724-729. * H. Nishida "Specification of embryonic axis and mosaic development in ascidians.", Develop. Dyn. 233, 2005, PP1177-1193. * H. Nishida, "Cell lineage analysis in ascidian embryos by intracellular injection of tracer enzyme. III. Up to the tissue restricted stage.", Dev. Biol. 121, 1987, pp 526-541. * P. Dehal et. al., "The draft genome of Ciona intestinalis: Insights into chordate and vertebrate origins." Science 298, 2002, pp2079-2270. * Michibata et. al., "Isolation of highly acidic and vanadium-containing blood cells from among several types of blood cell from Ascidiiae species by density gradient centrifugation.", J. Exp. Zool., 257, 1991, pp306-313. * P. Kott," The Australian Ascidiacea part 3, Aplousobranchia (2)." Mem. Queensland Museum, 32, 1992, pp375-620. * A. W. de Tomaso et. al., "Isolation and characterization of a protochordate histocompatibility locus" Nature 438, 2005, pp454-459. * 石橋正己、"原索動物および魚類"、海洋生物成分の利用, 伏谷伸宏編, シーエムシー, 2005, 159-177 == 関連項目 == * [[ヘモバナジン]] - ホヤの血液中に含まれる淡緑色の色素。 * [[ホヤぼーや]] - [[宮城県]][[気仙沼市]]の観光キャラクター。 * [[ほや雑煮]] - 石巻市の一部地域で食されているホヤを用いた[[雑煮]]。<ref>{{Cite news|language=ja|newspaper=[[河北新報]]|url=https://kahoku.news/articles/20230404khn000016.html|title=ほや雑煮「100年フード」に 石巻地方の正月料理、文化庁が認定|date=2023-04-04|accessdate=2023-12-29}}</ref> * {{仮リンク|ピュラチレンシス|en|Pyura chilensis|it|Pyura chilensis|fr|Pyura chilensis|es|Pyura chilensis}} - 海外で食されるホヤの一種で、[[太平洋]]の南東に広く分布する。一般的に[[チリ]]と[[ペルー]]の[[海岸]]に生息するものが知られている * [[サルパ]] - 尾索動物の一種。生物学上はホヤの仲間に分類される * [[4月8日#記念日・年中行事|4月8日]] - 「'''ホヤの日'''」として宮城県仙台市の料理店「まぼ屋」が制定し、[[記念日#一般社団法人日本記念日協会|日本記念日協会]]に申請。2018年7月に認定登録を受けたもの<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190406/k00/00m/040/027000c 4月8日は「ほやの日」 宮城の「宝」刺し身や空揚げ楽しんで] 毎日新聞(2019年4月6日掲載、2023年4月11日閲覧)</ref>。 == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20200325075115/https://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/650754.pdf 宮城県の伝統的漁具漁法 9 養殖編(ほや・ほたてがい)] - 宮城県水産研究開発センター * [http://kccn.konan-u.ac.jp/bio/dev/menu.html カタユウレイボヤの発生過程の観察(甲南大学)] * {{Wayback|url=http://www7b.biglobe.ne.jp/~tunicates/Contents.htm |title=ホヤの解説と飼育 |date=20110217020837}} * [http://www.aniseed.cnrs.fr/ ANISEED] Ascidian Network for ''In Situ'' Expression and Embryological Data * [http://www.biology.tohoku.ac.jp/lab-www/asamushi/asamushi_archive/urochordata.html 浅虫生物アーカイブ 尾索動物] - [[東北大学]]大学院生命科学研究科付属浅虫海洋生物学教育研究センター * [http://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no56/ 発生から進化へ ホヤから見えた生きものの時間] - [[佐藤矩行]]へのインタビュー記事 * [http://hoya-hoya.com/ ほやほや学会] - ほやの認知度向上と、消費拡大を目指すネットワーク {{食肉}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほや}} {{Animal-stub}} [[Category:脊索動物]] [[Category:水産物]] [[Category:東北地方の食文化]] [[Category:モデル生物]] [[Category:原索動物]] [[Category:プライドフィッシュ]]
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ヒルベルト・プログラム
ヒルベルト・プログラムとは、ダフィット・ヒルベルトによって提唱された、数学を形式化しようとする試みのことをいう。ヒルベルト計画とも呼ばれる。 ヒルベルトは、その証明を形式化することで、数学全体の完全性と無矛盾性を示そうと考えた。具体的には、 という事実を、有限の立場と呼ばれる確かな方法を用いて証明しようとする計画である。有名なヒルベルトの23の問題の2番目で、実数論の無矛盾性の証明を挙げている(よく自然数論の無矛盾性をさすものと誤解されている)。 1900年をはさんだ数年間に、数学の一部である集合論においていくつもの矛盾(パラドックスと呼ばれる。集合論の項を参照)が発見された。ヒルベルト・プログラムは、単にその矛盾を取り除く(=無矛盾性)だけではなく、今後二度とこのような矛盾が現われないように、数学全体に確固とした基盤(=完全性)を与える目的があった。 この計画は、1930年にクルト・ゲーデルが発表した不完全性定理により深刻な影響を受けた。とりわけ「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば自身の無矛盾性を証明できない(第2不完全性定理)」は、有限な立場のみではあらゆる公理系の無矛盾性を証明できないとするもので、ヒルベルト・プログラムでは自然数論だけでなく、実数論、さらには集合論全体の無矛盾性をも、自然数論のような基本的な体系の上で示すことを目的としていたため、この定理によって大きな修正を迫られることになった。 ただしヒルベルト・プログラムは否定されたわけではなく、現在でも研究が続けられている。 自然数論の無矛盾性については、1934年にゲルハルト・ゲンツェンによって、証明の正規化(カット除去定理)を用いることによって示されたとされた。しかしこの方法では、証明の正規化手続きの終了性がε0までの超限帰納法によってなされている。この証明方法の正しさは、ヒルベルトのような「有限の立場」に立っていると主張する研究者が、手続きが実行可能である点をその根拠としているが、ε0までの超限帰納法が「有限の立場」で正当な原理であるかは議論の余地がある。 実数論に関しては、ゲーデルに師事した竹内外史により、1954年に高階述語論理における証明の正規化によって無矛盾性が証明されることが示されており、さらに後にDag Prawitzおよび高橋元男によって、任意の証明に対してその正規化が存在することが示されている。しかしこの場合も証明の正規化手続き自体が知られているわけではないので、存在する事実だけでは有限の立場とはみなされない。
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ヒルベルト・プログラムとは、ダフィット・ヒルベルトによって提唱された、数学を形式化しようとする試みのことをいう。ヒルベルト計画とも呼ばれる。
{{出典の明記|date=2019年6月16日 (日) 12:20 (UTC)}} '''ヒルベルト・プログラム'''とは、[[ダフィット・ヒルベルト]]によって提唱された、数学を形式化しようとする試みのことをいう。ヒルベルト計画とも呼ばれる。 == 概要 == ヒルベルトは、その証明を[[形式主義 (数学)|形式化]]することで、数学全体の[[完全性]]と[[無矛盾性]]を示そうと考えた。具体的には、 # 数学において[[真理|真]]である[[命題]]は必ず[[証明 (数学)|証明]]できること # [[公理]]から形式化された推論をどれだけ行っても、矛盾が示されることは絶対にないということ という事実を、'''有限の立場'''と呼ばれる確かな方法を用いて証明しようとする計画である。有名な[[ヒルベルトの23の問題]]の2番目で、[[実数]]論の無矛盾性の証明を挙げている(よく[[自然数]]論の無矛盾性をさすものと誤解されている)。 1900年をはさんだ数年間に、数学の一部である集合論においていくつもの矛盾(''パラドックス''と呼ばれる。[[集合論]]の項を参照)が発見された。ヒルベルト・プログラムは、単にその矛盾を取り除く(=無矛盾性)だけではなく、今後二度とこのような矛盾が現われないように、数学全体に確固とした基盤(=完全性)を与える目的があった。 この計画は、[[1930年]]に[[クルト・ゲーデル]]が発表した[[ゲーデルの不完全性定理|不完全性定理]]により深刻な影響を受けた。とりわけ「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば自身の無矛盾性を証明できない(第2不完全性定理)」は、有限な立場のみではあらゆる公理系の無矛盾性を証明できないとするもので、ヒルベルト・プログラムでは自然数論だけでなく、実数論、さらには集合論全体の無矛盾性をも、自然数論のような基本的な体系の上で示すことを目的としていたため、この定理によって大きな修正を迫られることになった。 ただしヒルベルト・プログラムは否定されたわけではなく、現在でも研究が続けられている。 {{See also|[[ゲーデルの不完全性定理#不完全性定理が成立しない体系|不完全性定理が成立しない体系]]|ゲーデルの完全性定理}} 自然数論の無矛盾性については、[[1934年]]に[[ゲルハルト・ゲンツェン]]によって、証明の正規化([[カット除去定理]])を用いることによって示されたとされた。しかしこの方法では、証明の正規化手続きの終了性が[[エプシロン・ノート|ε<sub>0</sub>]]までの[[数学的帰納法#超限帰納法|超限帰納法]]によってなされている。この証明方法の正しさは、ヒルベルトのような「有限の立場」に立っていると主張する研究者が、手続きが実行可能である点をその根拠としているが、ε<sub>0</sub>までの超限帰納法が「有限の立場」で正当な原理であるかは議論の余地がある。 実数論に関しては、ゲーデルに師事した[[竹内外史]]により、[[1954年]]に[[高階述語論理]]における証明の正規化によって無矛盾性が証明されることが示されており、さらに後に[[Dag Prawitz]]および[[高橋元男]]によって、任意の証明に対してその正規化が存在することが示されている。しかしこの場合も証明の正規化手続き自体が知られているわけではないので、存在する事実だけでは有限の立場とはみなされない。 == 関連項目 == * [[幾何学基礎論]] * [[ゲーデルの完全性定理]] * [[公理的集合論]] * [[証明論]] * [[数学基礎論]] * [[数理論理学]] * [[逆数学]] == 外部リンク == {{SEP|hilbert-program/|Hilbert's Program}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ひるへるとふろくらむ}} [[Category:数理論理学]] [[Category:否定された仮説]] [[Category:ヒルベルトの23の問題]] [[Category:ダフィット・ヒルベルト]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数学のエポニム]]
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直観主義 (数学の哲学)
数学の哲学において、直観主義(ちょっかんしゅぎ、英: Intuitionism)とは、数学の基礎を数学者の直観におく立場のことを指す。 これに類する主張は、カントールの集合論に対抗する形でクロネッカーやポアンカレによってもなされていたが、最も明確に表明したのはオランダの位相幾何学者ブラウワーである。ブラウワーの立場に対してポアンカレらの立場は前直観主義と言われることがある。ブラウワーは、数学的概念とは数学者の精神の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合において背理法によって非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった。それゆえ、無限集合において「排中律」、すなわちある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるという推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。 ヒルベルトの形式主義は、直接的にはブラウワーからの批判的主張に対し排中律を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる。 ブラウワーの主張は感覚的で分かりにくかったが、その後ハイティング等によって整備され、結果的には古典論理から排中律を除いた形で形式化されたものが今日、直観主義論理として受け入れられている。 現代では直観主義論理は、数学の証明は全て構成的に為されなければならないという主張(数学的構成主義)と関連が深いと考えられている。 直観主義論理に基づく数学によって得られる成果は、古典論理に基づく数学に比べて制限されたものにならざるを得ない。具体的には、ab = 0 から a = 0 または b = 0 を直接結論することはできない。なぜなら、直観主義においては、「a = 0 または b = 0」が証明できるというのは、「a = 0」が証明できるか、または「b = 0」が証明できることを意味するからである。また、ワイエルシュトラスによる実数体の任意の有界な部分集合は上限を持つという定理が証明できない。 しかし、直観主義は単なる思想としてだけではなく、数学基礎論や計算機科学に様々な影響を与えている。 ブラウワーは「AであるかAでないかが分からない場合もある」を説明する例として、「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうか分からない」というものをあげていた。 ある学会でブラウワーがこの話をしたとき、「しかし神なら100個続く部分があるかどうか分かるのでは?」という質問を受けたが、ブラウワーはそれに対し「残念ながら我々は神と交信する方法を知りません」と答えた。 日本語のオープンアクセス文献
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数学の哲学において、直観主義とは、数学の基礎を数学者の直観におく立場のことを指す。
[[数学の哲学]]において、'''直観主義'''(ちょっかんしゅぎ、{{lang-en-short|Intuitionism}})とは、[[数学基礎論|数学の基礎]]を数学者の[[直観]]におく立場のことを指す。 == 来歴と評価 == これに類する主張は、[[ゲオルク・カントール|カントール]]の[[集合論]]に対抗する形で[[レオポルト・クロネッカー|クロネッカー]]や[[アンリ・ポアンカレ|ポアンカレ]]によってもなされていたが、最も明確に表明したのは[[オランダ]]の[[位相幾何学|位相幾何学者]][[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー|ブラウワー]]である。ブラウワーの立場に対してポアンカレらの立場は前直観主義と言われることがある。ブラウワーは、数学的概念とは数学者の精神の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合において[[背理法]]によって非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった。それゆえ、無限集合において「[[排中律]]」、すなわちある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるという推論法則を捨てるべきだと主張し、[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]との間に有名な論争を引き起こした。 ヒルベルトの[[形式主義 (数学)|形式主義]]は、直接的にはブラウワーからの批判的主張に対し排中律を守り、数学の[[無矛盾性]]を示すためのものと考えることができる<ref>{{Cite book|和書 |others = [[林晋]]・[[八杉満利子]]訳・解説 |title = ゲーデル 不完全性定理 |year = 2006 |month = 9 |publisher = 岩波書店 |series = 岩波文庫 |isbn = 4-00-339441-0 |chapter = 第Ⅱ部 解説 5 数学基礎論論争 1904-1931 }} </ref>。 ブラウワーの主張は感覚的で分かりにくかったが、その後[[アレン・ハイティング|ハイティング]]等によって整備され、結果的には古典論理から排中律を除いた形で形式化されたものが今日、[[直観主義論理]]として受け入れられている。 現代では直観主義論理は、数学の証明は全て構成的に為されなければならないという主張([[構成主義 (数学)|数学的構成主義]])と関連が深いと考えられている。 直観主義論理に基づく数学によって得られる成果は、古典論理に基づく数学に比べて制限されたものにならざるを得ない。具体的には、''ab'' = 0 から ''a'' = 0 または ''b'' = 0 を直接結論することはできない。なぜなら、直観主義においては、「''a'' = 0 または ''b'' = 0」が証明できるというのは、「''a'' = 0」が証明できるか、または「''b'' = 0」が証明できることを意味するからである。また、[[カール・ワイエルシュトラス|ワイエルシュトラス]]による[[実数|実数体]]の任意の有界な部分集合は上限を持つという定理が証明できない。 しかし、直観主義は単なる思想としてだけではなく、[[数学基礎論]]や[[計算機科学]]に様々な影響を与えている。 == 逸話 == ブラウワーは「AであるかAでないかが分からない場合もある」を説明する例として、「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうか分からない」というものをあげていた。 ある学会でブラウワーがこの話をしたとき、「しかし神なら100個続く部分があるかどうか分かるのでは?」という質問を受けたが、ブラウワーはそれに対し「残念ながら我々は神と交信する方法を知りません」と答えた。 == 関連項目 == *[[直観主義論理]] == 参考文献 == <references /> == 関連文献 == 日本語のオープンアクセス文献 * 前原昭二 「側面より見た直観主義の立場」 [[科学基礎論研究]] '''Vol.2''', No.1 (1955) pp.201-209 [http://www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=kisoron1954&cdvol=2&noissue=1&startpage=201&lang=ja PDF] == 外部リンク == {{SEP|intuitionism|Intuitionism}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すうかくてきちよつかんしゆき}} [[Category:直観主義|*]] [[Category:数学基礎論]] [[Category:数学に関する記事]] [[pms:Antuissionism]]
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形式主義 (数学)
数学における形式主義(英: formalism)とは、数学における命題を少数の記号によって表し、証明において使われる推論を純粋に記号の操作と捉える考え方のことを指す。 形式主義の最も原理的な見方では、数学は決められたルール(公理と推論法則)に従って行われるゲームであり、ルールを取り替えることによってできる異なるゲームは、それぞれ同等である。 形式主義は、ダフィット・ヒルベルトによって主張された。その目的は数学をゲームと考えることによって、数学的実在に直接関わることなく、数学の無矛盾性を証明するためであった。(ヒルベルト・プログラム)上記の点から、ヒルベルトの形式主義は、ブルバキの公理論とは異なるものである。 形式主義によると、数学的命題は確実な文字列処理ルールを必要とする命題と考えられる。例として、(「公理」と呼ばれる文字列と、与えられた公理から新しい文字列を生成する「推論規則」からなるものとして見られる)ユークリッド幾何学の「ゲーム」では、ピタゴラスの定理が有効であることを証明できる(それは、あなたが、ピタゴラスの定理に対応する文字列を生成できることである)。数学的真理は、数や集合や三角形やそのようなものについてのものではない。実際、それは何に「ついて(about)」のものでもない。 もうひとつの形式主義は演繹主義としてよく知られる。演繹主義では、ピタゴラスの定理は絶対的真実ではなく、相対的なものだが、もしあなたがゲームのルールが真実となるといった方法で文字列を考えているならば(いいかえれば、真の命題は公理に割り当てられ、推論と真実の保存のルールに割り当てられる)、そのときあなたは、その理論を受け入れなければならない。いやむしろ、あなたがそれに与えた解釈は真の命題でなければならない。同値はすべての他の数学的記述に関して真であると見なされる。従って、形式主義は数学が無意味な象徴ゲームでしかないことを意味する必要はない。それは通常、ゲームに適用するルールの様々な解釈が存在することが望まれている。(構造主義をこの立場になぞらえる) しかし、数学者が仕事を継続し哲学者や科学者にそのような問題を残すことは、数学者が働くことを可能にする。多くの形式主義者らは、実際に、研究された公理体系は、科学への要求や数学以外の分野によって提案されると言うだろう。 形式主義の偉大なる初期の発案者はダフィット・ヒルベルトであった。彼の計画は完全でかつ一貫性(consistent)のある数学の全ての公理化を目的としていた。(「一貫性、無矛盾性(consistent)」ここでは、システムに由来しうる矛盾がないことを意味する。) ヒルベルトは、「有限算術(finitary arithmetic)」(哲学的議論にならないために選ばれた自然数の通例の算術のサブシステム)に矛盾がないという仮説から数学的体系の一貫性を示すことを目標とした。完全かつ矛盾のない数学システムを作るヒルベルトの目標は、十分に表現の富んだ矛盾のない公理体系はそれ自体の無矛盾性を決して証明できないことを述べたゲーデルの第二不完全性定理によって致命的な打撃を受けた。そのような公理体系はサブシステムとして有限算術を含んでいるため、ゲーデルの定理はそのような体系の有限算術に対する相対無矛盾性を証明できないことを含意する(もし証明できたとすると、その体系自体の無矛盾性を証明できたことになるが、ゲーデルの定理はこれが不可能であることを示しているためである)。従って、数学の任意の公理システムが実際に無矛盾であることを示すためには、その体系よりもある意味で強い体系の無矛盾性をまず仮定する必要がある。 ヒルベルトは最初は演繹主義者だった。しかし、上記から明白に、彼は、本質的に意味のある結果をもたらすために、確実な超数学的方法(metamathematical method)を熟考した。また、彼は有限算術に関しては現実主義者であった。後に、彼は解釈にかかわらずどんなものであれ、他の意味にある数学はないと考えた。 ルドルフ・カルナップ、アルフレト・タルスキ、ハスケル・カリーのようなその他の形式主義者は、形式的な公理体系の研究であるべき数学を考えた。数理論理学者は形式的な体系を研究するが、彼らは現実主義者であると同時に形式主義者でもある。 形式主義者は通常、非常に寛容で論理学、非標準記数法、新しい集合論など、新しい試みを惹き付ける。我々が研究するゲームはよりよいものである。しかしながら、これらの例の三つすべてにおいて、自発性は既存の数学や哲学関連を題材にしている。「ゲーム」は普通、恣意的なものではない。 形式主義の主な評論はゲーム以上の文字列操作から遠くかけ離れた数学者を占有する現実の数学的アイデアである。 (もし正しければ)公開された証明は、これらのゲームの言葉で言えば、原理上体系立てられるが、その取り組みは、時間的にも空間的にも、恐ろしく手が出せないものを要求した(『プリンキピア・マテマティカ』序論を見よ)。加えて、そのルールはこれらの証明の初期の生成には必ずしも重要なものではない。形式主義は、公理体系を研究すべきだという疑問には無言でもある。
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数学における形式主義とは、数学における命題を少数の記号によって表し、証明において使われる推論を純粋に記号の操作と捉える考え方のことを指す。
{{Rough translation|英語}} 数学における'''形式主義'''({{Lang-en-short|formalism}})とは、[[数学]]における命題を少数の記号によって表し、証明において使われる推論を純粋に記号の操作と捉える考え方のことを指す。 == 概要 == 形式主義の最も原理的な見方では、数学は決められたルール(''公理''と''推論法則'')に従って行われるゲームであり、ルールを取り替えることによってできる異なるゲームは、それぞれ同等である。 形式主義は、[[ダフィット・ヒルベルト]]によって主張された。その目的は数学をゲームと考えることによって、数学的実在に直接関わることなく、数学の無矛盾性を証明するためであった。([[ヒルベルト・プログラム]])上記の点から、ヒルベルトの形式主義は、[[ブルバキ]]の[[公理論]]とは異なるものである。 形式主義によると、数学的命題は確実な文字列処理ルールを必要とする命題と考えられる。例として、(「公理」と呼ばれる文字列と、与えられた公理から新しい文字列を生成する「[[推論規則]]」からなるものとして見られる)[[ユークリッド幾何学]]の「ゲーム」では、[[ピタゴラスの定理]]が有効であることを証明できる(それは、あなたが、ピタゴラスの定理に対応する文字列を生成できることである)。数学的[[真理]]は、[[数]]や[[集合論|集合]]や三角形やそのようなものについてのものではない。実際、それは何に「ついて({{Lang|en|about}})」のものでもない。 もうひとつの形式主義は[[演繹主義]]としてよく知られる。演繹主義では、ピタゴラスの定理は絶対的真実ではなく、相対的なものだが、もしあなたがゲームのルールが真実となるといった方法で文字列を考えているならば(いいかえれば、真の命題は公理に割り当てられ、推論と真実の保存のルールに割り当てられる)、そのときあなたは、その理論を受け入れなければならない。いやむしろ、あなたがそれに与えた解釈は真の命題でなければならない。[[同値]]はすべての他の数学的記述に関して真であると見なされる。従って、形式主義は数学が無意味な象徴ゲームでしかないことを意味する必要はない。それは通常、ゲームに適用するルールの様々な解釈が存在することが望まれている。([[構造主義]]をこの立場になぞらえる) しかし、数学者が仕事を継続し[[哲学者]]や[[科学者]]にそのような問題を残すことは、数学者が働くことを可能にする。多くの形式主義者らは、実際に、研究された公理体系は、科学への要求や数学以外の分野によって提案されると言うだろう。 [[File:Hilbert.jpg|thumb|[[ダフィット・ヒルベルト]]]] 形式主義の偉大なる初期の発案者はダフィット・ヒルベルトであった。彼の計画は[[ゲーデルの不完全性定理|完全]]でかつ[[無矛盾性|一貫性({{Lang|en|consistent}})]]のある数学の全ての公理化を目的としていた。(「一貫性、無矛盾性({{Lang|en|consistent}})」ここでは、システムに由来しうる矛盾がないことを意味する。) ヒルベルトは、「有限算術({{Lang|en|finitary arithmetic}})」([[哲学]]的議論にならないために選ばれた[[自然数]]の通例の[[算術]]のサブシステム)に矛盾がないという仮説から数学的体系の一貫性を示すことを目標とした。完全かつ矛盾のない数学システムを作るヒルベルトの目標は、十分に表現の富んだ矛盾のない公理体系はそれ自体の無矛盾性を決して証明できないことを述べた[[ゲーデルの不完全性定理|ゲーデルの第二不完全性定理]]によって致命的な打撃を受けた。そのような公理体系はサブシステムとして有限算術を含んでいるため、ゲーデルの定理はそのような体系の有限算術に対する相対無矛盾性を証明できないことを含意する(もし証明できたとすると、その体系自体の無矛盾性を証明できたことになるが、ゲーデルの定理はこれが不可能であることを示しているためである)。従って、数学の任意の公理システムが実際に無矛盾であることを示すためには、その体系よりもある意味で強い体系の無矛盾性をまず仮定する必要がある。 ヒルベルトは最初は[[演繹主義]]者だった。しかし、上記から明白に、彼は、本質的に意味のある結果をもたらすために、確実な超数学的方法({{Lang|en|metamathematical method}})を熟考した。また、彼は有限算術に関しては[[リアリズム|現実主義]]者であった。後に、彼は解釈にかかわらずどんなものであれ、他の意味にある数学はないと考えた。 [[ルドルフ・カルナップ]]、[[アルフレト・タルスキ]]、[[ハスケル・カリー]]のようなその他の形式主義者は、形式的な公理体系の研究であるべき数学を考えた。[[数理論理学]]者は形式的な体系を研究するが、彼らは[[真理の対応説#一致としての対応|現実主義者]]であると同時に形式主義者でもある。 形式主義者は通常、非常に寛容で論理学、非標準記数法、新しい集合論など、新しい試みを惹き付ける。我々が研究するゲームはよりよいものである。しかしながら、これらの例の三つすべてにおいて、自発性は既存の数学や哲学関連を題材にしている。「ゲーム」は普通、恣意的なものではない。 形式主義の主な評論はゲーム以上の文字列操作から遠くかけ離れた数学者を占有する現実の数学的アイデアである。 (もし正しければ)公開された証明は、これらのゲームの言葉で言えば、原理上体系立てられるが、その取り組みは、時間的にも空間的にも、恐ろしく手が出せないものを要求した(『[[プリンキピア・マテマティカ]]』序論を見よ)。加えて、そのルールはこれらの証明の初期の生成には必ずしも重要なものではない。形式主義は、公理体系を研究すべきだという疑問には無言でもある。 == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=クルト・ゲーデル|authorlink=クルト・ゲーデル|others=[[林晋]]・[[八杉満利子]]訳|year=2006|month=9|title=ゲーデル 不完全性定理|chapter=第II部 解説|series=[[岩波文庫]] 青944-1|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339441-0|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/0/3394410.html|pages=73-309|ref=ゲーデル2006}} - 第I部がゲーデルの論文の翻訳、第II部が数学基礎論の歴史を解説したもの。 *{{Cite book|和書|editor1=佐々木力|editor1-link=佐々木力|editor2=彌永昌吉|editor2-link=彌永昌吉|year=1986|month=11|title=現代数学対話|chapter=III 数学基礎論の世界|publisher=朝倉書店|isbn=4-254-11045-6|pages=149-221|ref=佐々木&彌永1986}} *{{Cite book|和書|author=ソーンダース・マックレーンほか|authorlink=ソーンダース・マックレーン|others=[[田中一之]]編・監訳|year=1999|month=2|title=数学の基礎をめぐる論争 21世紀の数学と数学基礎論のあるべき姿を考える|chapter=第I部 数学の健康 マックレーン氏の意見とその反論|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|isbn=4-431-70797-2|url=http://www.springer.jp/978-4-431-70797-4|ref=マックレーン1999}} == 関連項目 == * [[直観主義 (数学の哲学)|直観主義]] * [[哲学]] == 外部リンク == * {{SEP|formalism-mathematics|Formalism}} {{デフォルトソート:けいしきしゆき}} [[Category:形式主義 (演繹推論)|*]] [[Category:形式主義|*]] [[Category:数学基礎論]] [[Category:数学の哲学]] [[Category:数学に関する記事]] [[en:Philosophy_of_mathematics#Formalism]] [[es:Filosofía_de_las_matemáticas]] [[tr:Matematik_Felsefesi]]
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論理主義 (数学)
数学についての論理主義(ろんりしゅぎ、英: Logicism、仏: Logicism、独: Logizismus)は、数学全体を論理学の一部とみなし、数学を基礎付け、数学を論理学へと還元できるとする立場である。方法的には、論理学の諸規則から数学のそれを演繹することが出来ると主張する。 なお、哲学では、強力な還元主義が主要な立場になることは稀である。 ゴットロープ・フレーゲの先駆的な論理主義の仕事を受けて、特にバートランド・ラッセルやアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドによって唱えられた。彼らはその主張を3巻に及ぶ大部の書物『プリンキピア・マテマティカ』(Principia Mathematica, 1910年 - 1913年)のうちである程度実現してみせた。 フレーゲの『算術の基本法則』第2巻が刊行直前に控えていた1903年に、ラッセルから後にラッセルのパラドックスと呼ばれるパラドックスの指摘が来たため、フレーゲはパラドックス解消を目指すが、最終的には数学的な方法の徹底を放棄した。ラッセルはフレーゲとは独立に、型の理論(タイプ理論)と呼ばれる方法で、彼自身が発見したパラドックスを避けることに成功したが、その無矛盾性および完全性が証明されていなかった。 彼らの仕事を受けてヒルベルトは形式主義、ブラウワーは直観主義でパラドックス解消と数学の基礎付けを目指すが、1931年のゲーデルによる不完全性定理の証明によりその不可能性が指摘された。
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数学についての論理主義は、数学全体を論理学の一部とみなし、数学を基礎付け、数学を論理学へと還元できるとする立場である。方法的には、論理学の諸規則から数学のそれを演繹することが出来ると主張する。 なお、哲学では、強力な還元主義が主要な立場になることは稀である。
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石川五右衛門
石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、弘治4年〈1558年〉? - 文禄3年8月24日〈1594年10月8日〉、12月12日とも)は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。 従来、その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。 江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。 安土桃山時代に出没した盗賊。都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による。 下記に石川五右衛門に関する記述がある史料を示す。史料に残された石川五右衛門の記録は、何れも彼の処刑に関わるものである。 まず、安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、 と記している。 また、公家の山科言経の日記『言経卿記』には、文禄3年8月24日(1594年10月8日)の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るものの1642年(寛永19年)に編纂された『豊臣秀吉譜』(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている。 また、(以下、「一」、「二」、「レ」は漢文の返り点)、『続本朝通鑑』(寛文10年(1670年)成立)には、 とある。 『歴朝要紀』(天保3年(1832年)草稿完成)には、 とある。 出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地三太夫の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。 丹後国の伊久知城を本拠とした豪族丹後石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正10年(1582年)、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の謀略を引き受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門の次男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる。 また一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも。 前述以外にも、その生涯についてはさまざまな説がある。 江戸時代には伝説の大泥棒として認知され、数多くの創作作品が生まれた。 1776年(安永5年)以前成立の実録本『賊禁秘誠談』は石川五右衛門が大盗賊へ成長していく様子を武勇伝のように描き、五右衛門を小気味よい反逆者として描いた作品である。この『賊禁秘誠談』の内容を典拠として、歌舞伎『楼門五三桐』が生み出された。 歌舞伎『楼門五三桐』で、五右衛門を明国高官宋蘇卿(実在の貿易家宋素卿のもじり)の遺児とする設定は、謡曲「唐船」を参考にしたものである。また、「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)は有名で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両......」と科白を廻し、辞世の歌といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻した後、山門の上下で「天地の見得」を切る。この場面の金襴褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、今日では一般的な五右衛門像となっている。ただし、実際の南禅寺三門は文安4年(1447年)に焼失、再建は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)であるため、五右衛門の存命中には存在していない。 戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。これは処刑された盗賊としては破格の極めて立派な戒名である。 一方で彼の実際の行動について記録されている史料は少ない。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては古今数多くのフィクションが生み出されている。 その他
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石川 五右衛門は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。 従来、その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。 江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。
{{出典の明記|date=2016年6月}} {{脚注の不足|date=2021-03}} {{Otheruseslist|実在の盗賊|[[TXN|テレビ東京系列]]『[[金曜8時のドラマ]]』の作品|石川五右衛門 (テレビドラマ)|漫画『[[ルパン三世]]』の登場人物|石川五ェ門 (ルパン三世)}} [[File:Excecution of Goemon Ishikawa.jpg|thumb|250px|五右衛門の処刑 ---- <small>[[歌川国貞|一陽斎豊国]] 画『石川五右衛門と一子五郎市』</small>]] '''石川 五右衛門'''(いしかわ ごえもん、[[弘治 (日本)|弘治]]4年〈[[1558年]]〉? - [[文禄]]3年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]〈[[1594年]][[10月8日]]〉、12月12日とも)は、[[安土桃山時代]]の[[盗賊]]の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で[[釜茹で|煎り殺された]]<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 93頁。</ref>。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。 従来、その実在が疑問視されてきたが、[[イエズス会]]の[[宣教師]]の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。 {{要出典|date=2016年1月}} [[江戸時代]]に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。 == 一般に知られる大盗賊「石川五右衛門」 == {{出典の明記| section = 1| date=2021年3月}} [[安土桃山時代]]に出没した盗賊。都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である[[豊臣秀吉]]の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の[[大雲院 (京都市)|大雲院]]にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に[[引導]]を渡された縁による。 == 史料に残る五右衛門 == {{出典の明記| section = 1| date = 2016年6月}} 下記に石川五右衛門に関する記述がある史料を示す。史料に残された石川五右衛門の記録は、何れも彼の処刑に関わるものである。 === ペドロ・モレホン === まず、安土桃山時代から[[江戸時代]]初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していた[[ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン]]の記した『日本王国記』<ref>Avila Giron "Relación del Reino de Nippon a que llaman Corruptante Japon(転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告)"</ref>によると、かつて都([[京都]])を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していた[[ペドロ・モレホン]]が注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、{{Quotation|「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった」}}と記している<ref>{{Cite book|和書 |author=佐久間正,他 |year=1965 |title=[[大航海時代叢書]]11 日本王国記・[[日欧文化比較]] |pages=226-227 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-008511-5 }}</ref>。 === 山科言経 === また、公家の[[山科言経]]の日記『[[言経卿記]]』には、文禄3年8月24日(1594年10月8日)の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るものの[[1642年]](寛永19年)に編纂された『豊臣秀吉譜』([[林羅山]]編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)[[前田玄以]]に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている。 === 続本朝通鑑 === また、(以下、「<sub>一</sub>」、「<sub>二</sub>」、「<sub>レ</sub>」は漢文の返り点)、『続本朝通鑑』(寛文10年(1670年)成立)には、{{Quotation|「頃年、有<sub>二</sub>石川五右衛門者<sub>一</sub>、或穿窬或強盗不<sub>レ</sub>止矣、秀吉令<sub>二</sub>京尹前田玄以遍捜<sub>一レ</sub>之、遂捕<sub>二</sub>石川<sub>一</sub>、且縛二其母竝同類二十人許一烹<sub>二</sub>殺之三条河原<sub>一</sub>」|續本朝通鑑}}とある。 === 歴朝要紀 === 『歴朝要紀』(天保3年(1832年)草稿完成)には、{{Quotation|「所司代法印前田玄以、捕<sub>二</sub>賊石川五右衛門竝其母及其党二十<sub>一</sub>烹<sub>二</sub>殺于三条河原<sub>一</sub>」|歴朝要紀}}とある。 == 伝説の五右衛門 == {{出典の明記| section = 1| date = 2016年6月}} 出生地は[[伊賀国]]・[[遠江国]](現[[浜松市]])・[[河内国]]・[[丹後国]]などの諸説があり、[[伊賀流]][[忍者]]の[[抜け忍]]で[[百地三太夫]]の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。 丹後国の[[伊久知城]]を本拠とした豪族[[石川氏 (丹後国)|丹後石川氏]]の出であるとする説がある。石川氏は丹後の[[守護大名]][[一色氏]]の[[家老]]職を務めていたが、天正10年([[1582年]])、[[一色義定]]の代の頃、[[石川秀門|石川左衛門尉秀門]]<ref group="注釈">石川秀廉とその子とされる。</ref>は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の謀略を引き受けた[[細川幽斎|細川藤孝]]の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門の次男の'''五良右衛門'''が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる。 また一説に「[[三好氏]]の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも。 === 様々な伝説 === 前述以外にも、その生涯についてはさまざまな説がある。 *幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し、14歳か15歳の頃に父母を亡くす。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」や「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがある。 *[[百地三太夫]]([[百地丹波]])について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られている。 *その後手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返す。相手は権力者のみの[[義賊]]だったため、当時は[[豊臣政権]]が嫌われていた事もあり、庶民の英雄的存在になっていた。 *[[金の鯱]](名古屋城・大坂城など諸説あり)を盗もうとしたとも伝わるが、これは別の盗賊団の混同かと思われる。([[柿木金助]]参照) *京都市伏見区の[[藤森神社]]に石川五右衛門寄進という手水鉢の受け台石がある。前田玄以配下に追われた五右衛門が神社に逃げ込んだ際、神社が管轄が違うと引き渡しに直ぐに応じなかったため、まんまと逃げおおせた。そのお礼として[[宇治市|宇治]][[塔の島]]の石造十三重塔(現重要文化財)の笠石を盗んで台石として寄進したものという。そのため、塔の島石塔の上から三番目の笠石は他のものに比べて新しいのだという。 *五右衛門の隠れ家は、[[方広寺]]大仏殿([[京の大仏]])門前にあった[[大仏餅屋]]にあったという。そこから[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]河原に通じる抜け穴もあったという。 *秀吉の甥・[[豊臣秀次]]の家臣・[[木村重茲|木村常陸介]]から秀吉暗殺を依頼されるが<ref>{{Cite book|和書|author=矢野龍渓|year=1915|title=出たらめの記|publisher=東亜堂書房|pages=P.18}}</ref>秀吉の寝室に忍び込んだ際、[[千鳥の香炉]]が鳴いて知らせたため捕えられる。その後、捕えられた配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれてしまう。 *三条河原で煎り殺されたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいる。<!--その主張から考えると、石川五右衛門は油で煮殺されたということになる。--><!--重複-->母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。 *有名な[[釜茹で]]についてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力)がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。 *鴨川の七条辺に釜が淵と呼ばれる場所があるが、五右衛門の処刑に使われた釜が流れ着いた場所だという。なお、五右衛門処刑の釜といわれるものは江戸時代以降長らく法務関係局に保管されていたが、最後は名古屋刑務所にあり戦後の混乱の中で行方不明になった。(南区コラム 【京都市公式】京都観光Navi- によれば「釜ヶ淵」の場所を鴨川と高瀬川の合流点あたりとしており、かつ元々はその地点から北へ約300m上流がその場所であったとしている。) *処刑される前に「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」と[[辞世]]の歌を詠んだという。([[古今和歌集]]の[[仮名序]]に、たとへ歌として挙げられている「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂(まさご)はよみ尽くすとも」の本歌取か。) *処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もある<ref>『知識の王様 歴史 ボク&わたし 知っているつもり?』150頁。</ref>。 *『一色軍記』では当時[[伏見城]]の築城に関わっていた[[仙石秀久]]が五右衛門を捕縛したという記述が残されている。 === 創作文芸 === 江戸時代には伝説の大泥棒として認知され、数多くの創作作品が生まれた。 [[1776年]](安永5年)以前成立の[[実録本]]『賊禁秘誠談』は石川五右衛門が大盗賊へ成長していく様子を武勇伝のように描き、五右衛門を小気味よい反逆者として描いた作品である<ref>{{Cite|和書|author=菊池庸介|title=近世実録の研究 -成長と展開-|date=2008-02|publisher=汲古書院|pages=101-118|ref=harv}}</ref>。この『賊禁秘誠談』の内容を典拠として、[[歌舞伎]]『[[楼門五三桐]]』が生み出された<ref>{{Cite|和書|author=菊池庸介|title=近世実録の研究 -成長と展開-|date=2008-02|publisher=汲古書院|pages=203-211|ref=harv}}</ref>。 歌舞伎『楼門五三桐』で、五右衛門を明国高官宋蘇卿(実在の貿易家[[宋素卿]]のもじり)の遺児とする設定は、謡曲「唐船」を参考にしたものである<ref>{{Cite|和書|author=日本古典文学大辞典編集委員会|title=日本古典文学大辞典|date=1984-01|publisher=岩波書店|pages=264-265|ref=harv}}</ref>。また、「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)は有名で、[[煙管]]片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と[[科白]]を廻し、<!--楼門の場の科白で釜煎りにされながら詠む--><!--???-->辞世の歌といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻した後、山門の上下で「天地の[[見得]]」を切る。この場面の金襴[[丹前|褞袍]](きんらんどてら)に大百日[[鬘]](だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、今日では一般的な五右衛門像となっている。ただし、実際の[[南禅寺#境内|南禅寺三門]]は文安4年(1447年)に焼失、再建は五右衛門の死後30年以上経った[[寛永]]5年(1628年)であるため、五右衛門の存命中には存在していない。 [[戒名]]は「融仙院良岳寿感禅定門」。これは処刑された盗賊としては破格の極めて立派な戒名である。 一方で彼の実際の行動について記録されている史料は少ない。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては古今数多くの[[フィクション]]が生み出されている。 == 石川五右衛門が登場する作品 == === 古典 === ;浄瑠璃・人形浄瑠璃 *石川五右衛門 *傾城吉岡染([[近松門左衛門]]作) *釜淵双級巴 *木下蔭狭間合戦 ;歌舞伎 *[[楼門五三桐]](金門五山桐、1778年初演、演:[[嵐小六 (3代目)|初代嵐雛助]]) *高麗大和皇白浪(1809年初演、演:[[松本幸四郎 (5代目)|五代目松本幸四郎]]) *楼門詠千本(1838年初演、演:[[中村歌右衛門 (4代目)|四代目中村歌右衛門]]) *他に書替え狂言多数 ;文学 *『本朝二十不孝』([[井原西鶴]]著)巻二の一 *[[実録本]]『賊禁秘誠談』 ;落語 *『[[お血脈]]』 *『[[釜泥]]』 *『[[骨つり]]』 *『[[強情灸]]』 === 現代 === ;小説 :*石川五右衛門([[村上浪六]]) :*石川五右衛門([[塚原渋柿園]] 隆文館 1908) :*石川五右衛門の生立([[上司小剣]]) :*真説石川五右衛門([[檀一雄]]、1951)第24回[[直木賞]]受賞 :*石川五右衛門([[白井喬二]]) :*[[戦国風流武士 前田慶次郎]]([[海音寺潮五郎]]) :*[[梟の城]]([[司馬遼太郎]]) :*[[忍びの者]]([[村山知義]] 1962) :*[[黄金の日日]]([[城山三郎]] 1978) :*忍法秘巻([[早乙女貢]] 双葉文庫 1985) :*石川五右衛門 秘剣忍法帖([[桜井滋人]] 広済堂文庫 1989) :*石川五右衛門([[赤木駿介]] 光文社文庫 2005) :*大盗賊石川五右衛門([[長尾剛]] 汐文社 2008) :*[[太閤暗殺]]([[岡田秀文]]) ;新歌舞伎・新作歌舞伎 :再演は除く。 :*[[浜千鳥真砂白浪]](1883年初演、演:[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]) :*[[五右衛門の釜]](1927年初演、演:[[松本幸四郎 (7代目)|七代目松本幸四郎]]) :*[[石川五右衛門 (テレビドラマ)|石川五右衛門]](2009年初演、演:[[市川海老蔵 (11代目)|十一代目市川海老蔵]]) :*GOEMON 石川五右衛門(2011年初演、演:[[片岡愛之助 (6代目)|六代目片岡愛之助]]) ;新劇・現代劇 :再演は除く。 :*[[淀君と五右衛門]](1923年初演、演:[[市川寿三郎|市川壽三郎]]) :*[[忍びの者]](1963年初演、演:[[保科三良]]、原作:村山知義) :*[[長屋太閤記]](1963年初演、演:[[八波むと志]]) :*[[喜劇戦国迷々伝 秀吉と五右衛門をつくった男]](1972年初演、演:[[中村賀津雄]]) :*[[黄金の日日]](1979年初演、演:[[坂東三津五郎 (10代目)|五代目坂東八十助]]、原作:城山三郎) :*[[石川五右衛門 (演劇)|石川五右衛門]](1980年初演、演:[[若山富三郎]]) :*[[花吹雪恋吹雪|花吹雪 恋吹雪]](2000年初演、演:[[安蘭けい]]、[[宝塚歌劇団]]) :*[[五右衛門ロック]](2008年初演、演:[[古田新太]]、[[劇団☆新感線]]) :**薔薇とサムライ〜GoemonRock OverDrive(2010年初演、演:古田新太) :**ZIPANG PUNK〜五右衛門ロックⅢ(2012年初演、演:古田新太) :* GO!GO!BREEZE!(2018年初演、演:[[かいざ]]) ;映画 :*[[石川五右衛門一代記]](1912年公開、演:[[尾上松之助]]) :*[[石川五右衛門 (1917年の映画)|石川五右衛門]](1917年公開、演:[[市川海老十郎]]) :*[[石川五右衛門 (1921年の映画)|石川五右衛門]](1921年公開、演:[[嵐璃徳]]) :*[[石川五右衛門と秀次]](1921年公開、演:[[市川莚十郎]]) :*[[石川五右衛門 (1922年の映画)|石川五右衛門]](1922年公開、演:尾上松之助) :*[[曽呂利と五右衛門]](1923年公開、演:[[片岡市太郎]]) :*[[夜叉王 前後篇]](1926年公開、演:[[市川右太衛門]]) :*[[石川五右衛門 (1926年の映画)|石川五右衛門]](1926年公開、演:市川右太衛門) :*[[石川五右衛門の法事]](1930年公開、演:[[横尾泥海男]]) :*[[石川五右衛門 (1931年の映画)|石川五右衛門]](1931年公開、演:[[光岡龍三郎]]) :*[[石川五右衛門 (1937年の映画)|石川五右衛門]](1937年公開、演:[[阿部九州男]]) :*[[ロッパの大久保彦左衛門]](1939年公開、演:[[上田吉二郎]]) :*[[エノケンの怪盗伝 石川五右衛門|エノケンの怪盗伝 石川五右衛門(エノケンの石川五右衛門)]](1951年公開、演:[[榎本健一]]) :*[[真説石川五右衛門]](1951年公開、演:[[萩原満]]) :*[[猿飛佐助 (1955年の映画)|猿飛佐助]](1955年公開、演:[[水島道太郎]]) :*[[忍術御前試合]](1957年公開、演:[[富田仲次郎]]) :*[[大盗小盗]](1958年公開、演:[[伴淳三郎]]) :*[[東海道弥次喜多珍道中]](1959年公開、演:[[亜木一路]]) :*[[忍びの者]](1962年公開、演:[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]、原作:村山知義、監督:[[山本薩夫]]) :**[[続忍びの者]](1963年公開、演:市川雷蔵) :**[[新・忍びの者|新忍びの者]](1963年公開、演:市川雷蔵) :*[[梟の城#忍者秘帖 梟の城|忍者秘帖 梟の城]](1963年公開、演:[[大木実]]、原作:司馬遼太郎) :*[[大日本コソ泥伝]](1964年公開、演:[[藤田まこと]]) :*[[梟の城#梟の城 owl's castle|梟の城]](1999年公開、演:[[上川隆也]]、原作:司馬遼太郎) :*[[奇説 魔界転生]](2004年公開、演:[[土屋大輔]]) :*[[笑の大学#映画|笑の大学]](2005年公開、演:[[黒田裕久]]) :*[[GOEMON (映画)|GOEMON]](2009年公開、演:[[江口洋介]]) ;テレビドラマ :*[[三菱ダイヤモンド劇場|直木賞シリーズ]]「[[梟の城#テレビドラマ|梟の城]]」(1960年放映、演:[[南原宏治]]、原作:司馬遼太郎) :*[[コメディフランキーズ]] 実録石川五右衛門(1963年放映、演:[[フランキー堺]]) :*[[忍びの者]](1964年放映、演:[[品川隆二]]、原作:村山知義) :*[[うそ八万騎]](1964年放映、演:[[天知茂]]、原作:[[尾崎士郎]]) :*[[大坂城の女]](1970年放映、演:[[秋山勝俊]]) :*[[大河ドラマ]](NHK) :**[[黄金の日日]](1978年放映、演:[[根津甚八 (俳優)|根津甚八]]、原作:城山三郎) :**[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]](1996年放映、演:[[赤井英和]]、原作:[[堺屋太一]]) :*[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]「[[五右衛門 (1994年のテレビドラマ)|五右衛門]]」(1994年放映、NHK総合、演:[[片岡鶴太郎]]) :*[[時空警察#シリーズ|時空警察PART5]](2006年放映、演:[[金山一彦]]) :*[[日本史サスペンス劇場]] 今夜は御用心! 伝説の大泥棒ベスト3 天下を盗もうとした男 石川五右衛門の謎(2009年放映、演:[[高知東生]]) :*[[新解釈・日本史]] 第8話第2部(2014年放映、演:[[ムロツヨシ]]) :* [[仮面ライダーゴースト]](2015 - 2016年、[[テレビ朝日]]、声:[[関智一]]) :*[[石川五右衛門 (テレビドラマ)|石川五右衛門]](2016年10月14日 - 12月2日、テレビ東京、演:[[市川海老蔵 (11代目)|市川海老蔵]])<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2064888/full/ |title= 市川海老蔵、13年ぶり連続ドラマ主演 天下の大泥棒・石川五右衛門役 | newspaper= ORICON STYLE |publisher= 株式会社oricon ME |date= 2016-01-06 |accessdate= 2016-01-06 }}</ref> ;漫画 :*[[ルパン三世]] ([[モンキー・パンチ]]作)<ref group="注釈" name="lupin3">十三代目の子孫という設定の[[石川五ェ門 (ルパン三世)|石川五ェ門]]が登場</ref> :*[[YAIBA]]([[青山剛昌]]作) :*[[MISTERジパング]]([[椎名高志]]作) :*[[風が如く]]([[米原秀幸]]作) :*[[戦国ARMORS]]([[榊ショウタ]]作) :*[[信長協奏曲]]([[石井あゆみ]]作) :*[[ONE PIECE]]([[尾田栄一郎]]作) ;音楽 :*[[LET'S ONDO AGAIN#収録曲|河原の石川五右衛門]](歌:長万部キャッツ([[シンガーズ・スリー]]の別名)。[[ピンク・レディー]]『[[渚のシンドバッド]]』の[[替え歌]]) ;*[[ムキシ|GOEMON]](歌:[[レキシ]] FEAT. ビッグ門左衛門([[三浦大知]]の別名)) ;アニメ :*ルパン三世 (モンキー・パンチ漫画原作)<ref group="注釈" name="lupin3" /> :*[[タイムボカン]](1975年、[[声優|声]]:[[富山敬]]) :*[[まんが日本絵巻]] 第43回「釜ゆでなんかこわくない! 石川五右衛門」(1978年、声:[[荒木真一]]) :*[[アニメがんばれゴエモン]] (1997年、声:[[松本保典]]) :*[[ダイバージェンス・イヴ]] (2003年・2004年、声:[[矢尾一樹]]) ;ラジオドラマ :*[[新釈石川五右衛門 忍者と忍術使い]](1964年、声:[[稲垣昭三]]) ;テレビ人形劇 :*[[真田十勇士 (NHK人形劇)|真田十勇士]](1975年、声:[[名古屋章]]) ;ゲーム :*[[Mr.五右衛門]]([[アーケードゲーム]]) - 後のがんばれゴエモンシリーズの原型となった。 :*[[がんばれゴエモン]]([[ファミリーコンピュータ]]等) :*[[戦国サイバー 藤丸地獄変]]([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント|SCE]]) :*[[戦国無双シリーズ]]([[PlayStation 2]]他、[[コーエー]]、声:[[江川央生]]) :*[[天下一★戦国lovers DS]]([[ニンテンドーDS]]、[[ロケットカンパニー]]) :*[[戦国伝承2001]] :*[[パズル&ドラゴンズ]] :*[[戦国美少女絵巻 空を斬る!!]](1998年、声:[[鈴置洋孝]]) :*[[モンスターストライク]] :*[[ペルソナ5]] :*[[AMBITIOUS MISSION]] (2022年、[[SAGA PLANETS]]) ヒロインである石川弥栄が16代目の石川五右衛門であるとされている。<ref>{{Cite web|和書|title=トップページ|url=https://sagapla.net/works/ambitious/|website=AMBITIOUS MISSION|SAGA PLANETS|accessdate=2021-12-25|language=ja}}</ref> :* 天獄ストラグル -strayside- ;ライトノベル :*壬生一郎『信長の庶子』(2019年~、既刊5巻)イラスト:[[土田健太]]<br /> その他 :*[[水無瀬神宮]] - [[大阪府]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]]にある神社で、境内に石川五右衛門がつけたといわれる手形が残る。 :*[[風呂#五右衛門風呂|五右衛門風呂]] - 釜茹でにされたという故事から、風呂釜を直火で温めた風呂のことをいう。 :*[[ゴエモンコシオリエビ]] - [[熱水噴出孔]]のすぐ近くで生活していることから、釜茹でに因んでゴエモンの名が冠せられた。 :*[[GOEMON (プロレスラー)|GOEMON]] - 石川五右衛門をモチーフとした男性[[プロレスラー]]。 :* 洋麺屋五右衛門 - [[日本レストランシステム]]が展開する和風[[スパゲティ]]専門店。スパゲティを大きな釜(五右衛門釜)で茹でて調理しているほか、店舗シンボルに石川五右衛門を採用している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commons|Category:Ishikawa Goemon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いしかわこえもん}} [[Category:16世紀の歌人]] [[Category:盗賊]] [[Category:歴史上の忍者]] [[Category:安土桃山時代の人物]] [[Category:1594年没]] [[Category:刑死した日本の人物]]
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インド洋
インド洋(印度洋、インドよう、英: Indian Ocean、羅: Oceanus Indicus オーケアヌス・インディクス)は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7355万平方キロメートル (km) である。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。インド洋の推定水量は2億9213万1000立方キロメートルである。 北はインド、パキスタン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカから、西はアラビア半島およびアフリカに接し、紅海とつながる。東はマレー半島、スマトラ島、ジャワ島の線、およびオーストラリア西岸および南岸、南は遠く南極海に囲まれた海洋である。大西洋との境界はアガラス岬から延びる東経20度線、太平洋との境界は東経146度55分線である。インド洋で最も北の場所はペルシャ湾にあり、およそ北緯30度である。 インド洋上にはほかマダガスカル島、コモロ諸島、マスカリン諸島、セーシェル諸島、チャゴス諸島、ソコトラ島、モルジブ諸島、セイロン島、アンダマン・ニコバル諸島、ココス諸島、クリスマス島などがある(Category:インド洋の島参照)。 深さは平均3,890メートル。最深部はディアマンティナ断裂帯(英語版)のディアマンティナ海淵(英語版)で水深8,047 mである。 主なチョークポイントは、バブ・エル・マンデブ海峡、ホルムズ海峡、マラッカ海峡、スエズ運河の南側入り口、ロンボク海峡。インド洋にはアンダマン海、アラビア海、ベンガル湾、グレートオーストラリア湾、アデン湾、オマーン湾、ラッカディブ海、モザンビーク海峡、ペルシャ湾、紅海を含む。 大西洋のハリケーン、太平洋の台風に対し、インド洋で発生する熱帯低気圧はサイクロンと呼ばれる。サイクロンが多く発生するのはベンガル湾付近であり、4月から5月と10月から11月に多く発生する。サイクロンが北上してバングラデシュやインドを襲った場合、多くの死傷者が出ることがある。なかでもバングラデシュはほぼ全域がガンジス川のデルタの上にできた国であり、標高が低く無数の河川が網の目のように走っているため、サイクロンによる高潮、洪水、強風、および高潮による塩害はしばしば大被害をもたらす。 インド洋の海底には、ほぼ東西に走る南西インド洋海嶺と南東インド洋海嶺、南北に走る中央インド洋海嶺の3つの海嶺が存在する。これらの海嶺はモーリシャス領であるロドリゲス島の沖にあるロドリゲス三重点にてつながっている。南西インド洋海嶺の北はアフリカプレート、南は南極プレートであり、南極プレートは南東インド洋海嶺の南にも続いている。南東インド洋海嶺の北はオーストラリアプレートである。中央インド洋海嶺の西はアフリカプレート、東はオーストラリアプレートならびにインドプレートとなっている。オーストラリアプレートとインドプレートは同一のプレートでインド・オーストラリアプレートと称されるが、このプレートは2つに分裂しつつあるとされ、2012年4月のスマトラ島沖地震はこのプレートの分裂過程において引き起こされたとの研究もある。上記の3海嶺は新しい地殻の生み出される場所であり、これらの働きによってインド洋は徐々に拡大する傾向にある。また、東経90度海嶺は南北に直線状に発達する特徴的な海底地形で、白亜紀からのインド亜大陸北上が形成したと考えられる。 他の海洋と同じように、インド洋においても流入河川からのシルトが陸地沿岸で大量に堆積している。最もシルト流入量が大きいのはガンジス川であり、年に32億トンものシルトが流入する。これは世界の全河川の中で最大で、ベンガル湾には厚い陸源堆積層がある。 太平洋や大西洋と同じく、インド洋にも環流・南赤道海流・赤道反流・北赤道海流といった3海域共通の海流は存在する。太平洋や大西洋との違いは、インド洋には北半球に属する部分が非常に小さいため、環流が南半球のインド洋亜熱帯循環ひとつしかないことである。このインド洋亜熱帯循環は、オーストラリア沿岸から赤道の南をアフリカ東岸やマダガスカル近くまで流れる暖流の南赤道海流、アフリカ東岸やマダガスカルから南下しアフリカ大陸南端近くのアガラス岬付近まで流れる暖流のアガラス海流、アフリカ南端から南極環流の北縁を西に流れオーストラリア西部に達する寒流の南インド洋海流、そしてオーストラリア西岸を北上する寒流の西オーストラリア海流からなる。南半球の環流であるので、コリオリの力に伴いこの環流は反時計回りとなっている。 もう一つのインド洋の海流の特徴は、季節風が非常に強いために季節によって海流の流れが異なる地域があることである。インド洋の北部海域がそれに当たり、夏は南西から北東に、冬は北東から南西に風が吹くのにともなって、海流もその方向に流れる。このため、冬季には東から西に流れる北赤道海流が存在するのに対し、夏季にはその海流が消滅してしまう。そのかわり、夏季には南西から北東に季節風海流が流れる。赤道反流は冬季には北赤道海流と並行して流れるが、夏季にはアフリカ東岸でソマリ海流となって北へ向けて流れ、季節風海流につながって反転する。季節風によって形成される海流はほかの海域にも存在するが、海流自体が季節によって消滅し反転することはインド洋海域の著しい特徴である。 こういった表層の海流のほかに、深層で起こる熱塩循環と表層で起こる風成循環のあわさった、いわゆる海洋大循環もインド洋を通過している。北大西洋で沈み込んだ北大西洋深層水は大西洋を南下してインド洋へと入り、インド洋南部から南極海を西から東へと流れる。このうち一部は北上して海面に浮上し、温められて表層水となる。深層水の主流は太平洋で浮上して表層水となり、今度は東から西へと流れ、そのままインド洋を通過して大西洋へと入り、北大西洋で冷やされてまた沈み込む。 インド洋にはガンジス川をはじめ、エーヤワディー川、ナルマダ川、インダス川、チグリス川とユーフラテス川をあわせたシャットゥルアラブ川、ジュバ川、ザンベジ川、リンポポ川などの多くの河川が流れ込む。なかでももっとも水量および土砂の量が多いのはガンジス川であり、このためにガンジス川の流れこむベンガル湾北部の塩分濃度は3.1%とかなり低いものになっている。逆にシャットゥルアラブ川以外に大きな河川の流れ込まないペルシャ湾の塩分濃度は3.65%とやや高く、ほとんど流入河川が存在しないうえに高温乾燥地帯にあり、さらに非常に狭く浅いバブ・エル・マンデブ海峡でしか外海との接点のない紅海の塩分濃度は4.06%と非常に高くなっている。この高い塩分濃度のため、紅海から流れ出た海水はインド洋本体部に入ってもほかの海水とは容易にはまじりあわず、比重が重いために3000m付近にまで沈み込み、紅海中層水という水塊を形成する。 インド洋から西太平洋の低緯度海域は、共通の生物が多く生息しており、生物学的にはある程度の共通性を持つ海域となっている。そのため、この海域を指す「インド太平洋」という言葉が海洋学や海洋生物学などの自然科学分野でしばしば用いられる。 「インド洋」の名はインドに由来する。 明代末の中国では1602年にイエズス会士マテオ・リッチが世界地図『坤輿万国全図』を作成した。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものでインドの西海岸には「小西洋」という記述がある。マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた渋川春海の『世界図』ではインド洋には「小西洋」と記されている。一方、1708年の稲垣光朗『世界万国地球図』にはインド洋に「小東洋」と記されている。 1869年の福沢諭吉『世界国尽』ではインド洋は「インド海」と記されている。 インド洋はスエズ運河によって地中海と通じてヨーロッパと、マラッカ海峡から太平洋を通じて東アジアやアメリカ大陸とつながっているため、東西両洋を結ぶ主要な交易路となっている。単に東アジアとヨーロッパ間の交易路としても非常に重要性が高いうえ、インド洋沿岸のペルシャ湾やインドネシアからの石油および石油製品の運送路としても重要なうえ、近年の東南アジアやインドといった沿海地域の経済発展によってインド洋航路の重要性は増している。1967年には第三次中東戦争によってスエズ運河が封鎖されたが、スエズ運河経由の東西交易は喜望峰回りでインド洋中央部を通過するようになり、インド洋の重要性は変化しなかった。1975年にスエズ運河が再開されると、航路は再びインド洋北部を通過するものに戻った。 またサウジアラビア、イラン、インド、西オーストラリア沿岸部には豊富な石油・天然ガスの埋蔵が確認されている。世界の海上石油生産の約40%はインド洋で行われている。 インド洋沿海諸都市・諸港のうち特に大きなものは、ミャンマーのヤンゴン、バングラデシュのチッタゴン、インドのムンバイやチェンナイ、コルカタ、スリランカのコロンボ、パキスタンのカラチ、アラブ首長国連邦のドバイやアブダビ、オマーンのマスカット、イエメンのアデン、ジブチのジブチ市、ソマリアのモガディシュ、ケニアのモンバサ、タンザニアのダルエスサラームやザンジバルシティ、モザンビークのマプト、南アフリカ共和国のダーバンやイーストロンドン、ポートエリザベス、モーリシャスのポートルイス、そしてオーストラリアのパースの外港であるフリーマントルなどがある。マラッカ海峡の東端に位置するシンガポールは、太平洋とインド洋とを結ぶ結節点として重要な港湾都市である。また、縁海である紅海の北端にはスエズの街があるが、ここはスエズ運河の南端に位置し、運河の入り口となる要衝である。 ゴンドワナ大陸が分裂し始めた2億年前にテチス海が存在した。インド亜大陸がアフリカから分裂、北上し、ユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成したプレート運動で、インド洋が形成され始め、海嶺が形成されると共に海底が拡大し、アフリカ、アラビア、インド、オーストラリアなどのプレートが現在の形になっていった。 インド洋北部は、モンスーン(季節風)の影響が強く、夏は南西から北東に(東アフリカ方面からアラビア・インド方面に)、冬は北東から南西に風が吹く。海流も季節風の影響を強く受けて、夏は時計回りに、冬は反時計回りに海流が生まれる。 この時期によって一定の方向へ向かう風と海流は帆船の航行に向いていた。さらに、季節によって方向が変わるので、ある季節に出かけた船は、風向きが変わる季節に帰ってくることができる。この季節風の性質を利用して、東アフリカ・アラビア・インド間で紀元前から交易が行われてきた。 まず最初にインド洋で貿易が始まったのは、メソポタミア文明とインダス文明の間においてだった。ウルなどメソポタミア文明の諸都市からは、船によって運ばれたハラッパー製の人工物が発掘されている。紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によってアラビア半島からインダス川の探検が行われ、さらにアケメネス朝を征服したアレクサンドロス大王もインダス川からユーフラテス川までのインド洋をネアルコスに航海させている。こうした探検の結果、インド洋交易は盛んになっていった。 このころまではインド洋交易は大陸沿岸に沿って進むものであったが、紀元前120年から紀元前110年の間に、キュジコスのオイドクサスという航海者が紅海から大陸沿岸を経由せず直接インドへと向かう航路を開発し、以後この沖乗り航路が有力な航路となっていく。紀元1、2世紀ごろに書かれた『周遊記』によれば、ギリシアの商人ヒッパルスがインド洋の季節風を利用し、アラビアからインドへ沖合を航海したことから、南西風をヒッパルスの風と呼んでいたとされる。 そして、紀元後40年から70年ごろに『エリュトゥラー海案内記』が書かれる。この本には当時ローマ帝国領であったエジプトの紅海沿岸からアラビア半島、インド西海岸にいたる紅海ルートと貿易港が記載され、当時季節風を利用したローマ帝国と南インドのサータヴァーハナ朝などの諸王朝との交易の実態を示している。他にもアラビアのモカ(イエメン)の港から、多数の船が東アフリカに向かっていたこと、インド、マレー半島、中国の記述がある。 インドからマレー半島へと向かうベンガル湾の航路、およびそこから中国へと向かう航路もほどなくして確立され、ここに「海のシルクロード」と呼ばれる東西通商路が完成した。166年には大秦国王安敦(ローマ皇帝アントニヌス・ピウス、またはマルクス・アウレリウス・アントニヌスに比定される)からの使者と称するものが後漢王朝最南端の地である日南郡(現在のベトナム・フエ周辺)に到着したとの記述が後漢書にあり、この時までにはインド洋の横断交易ルートは確立していたことがうかがえる。 5世紀初頭には法顕が、セイロン島からの帰路に海路を取り、ベンガル湾から広東へとたどりついた。671年には義浄が広東からシュリーヴィジャヤを通り、インドのナーランダ僧院で仏典を学んだ後シュリーヴィジャヤ経由で帰国し、『南海寄帰内法伝』や『大唐西域求法高僧伝』を著した。また、この航路によりインドから東南アジアにヒンドゥー教や仏教が伝わった。 一方、1世紀ごろからは、インドネシア中部のボルネオ島のマレー系の人々がインド洋中南部を突っ切り、インド洋西端のマダガスカル島への移民が行われるようになった。沿岸諸地域にマレー系民族の上陸した痕跡がないため、ボルネオの人々はジャワ島やスマトラ島で補給を行った後、南東貿易風に乗って一気にインド洋を直航したと考えられている。この移住は数百年間続き、マダガスカル全島はほぼマレー系によって支配された。のちにインド洋交易によってやってきたアラブ人や対岸のモザンビーク付近から移住したバントゥー系諸民族がマダガスカルにやってきたものの、マダガスカルの基層文化はこのマレー人移住によって形成され、現在でも言語・文化・民族など多くの面でインドネシアやマレーシアといったマレー系民族の国家と多くの共通点を持っている。 アッバース朝以降には、ダウ船と呼ばれた木製の帆船により、インドの香辛料だけではなく中国の絹や陶磁器が西へ運ばれた。西の東アフリカからは象牙・犀の角・鼈甲が、北はヨーロッパやオリエントからガラス製品・葡萄酒が交易されていた。内陸部の交易路シルクロードに対して、海上交易路を海の道、あるいは海のシルクロードと呼んでいる。インド洋はその海の道の主要部を成していた。 アッバース朝はバグダードを首都としたので、首都に近いペルシア湾を中心に交易が発達した。しかし、アッバース朝の衰退・滅亡や、エジプトのファーティマ朝やマムルーク朝の繁栄にともない、紅海を中心に帆船が行き来するようになった。これらのイスラム諸王朝を起点として多くのアラブ人商人がインド洋交易を担うようになり、10世紀以降徐々にアフリカの東海岸においてイスラム教が勢力を拡大していき、15世紀ごろまでには東アフリカの諸都市はほぼイスラム化した。このイスラム化を基に、沿岸諸都市にはスワヒリと呼ばれるイスラムの影響の強いバントゥー系文化が成立しはじめた。アフリカのインド洋交易の南端はザンベジ川河口にほど近いソファラであり、それ以南においては海上交易ルートは到達していなかった。 一方インド洋東部においては、7世紀ごろにスマトラ島に成立したシュリーヴィジャヤ王国がマラッカ海峡を押さえ、中国とインドの間の交易を押さえて繁栄した。しかしシュリーヴィジャヤ王国は、インド南部に本拠を置くチョーラ朝と対立するようになり、1025年にはチョーラ朝のラージェーンドラ1世が海軍を遠征させてシュリーヴィジャヤを占領し、以後インド洋東部の制海権はチョーラ朝が握ることとなった。チョーラ朝は強力な海軍を持っており、ベンガル湾やモルディブ諸島にまで影響力を拡大させていた。チョーラ朝は13世紀に滅亡するが、以後もパーンディヤ朝やヴィジャヤナガル王国など南インドに勢力を持った諸王朝は積極的にインド洋交易をおこなった。13世紀末以降、インドネシアやマレーシアにはイスラム教が伝わるようになり、やがて仏教やヒンドゥー教に代わってこの地域の支配的な宗教となっていった。 13世紀にはモンゴル帝国がユーラシア大陸中央部をほぼ制圧するが、これによってユーラシア全域の交流が盛んになり、インド洋交易もさらに隆盛に向かった。モンゴル帝国自体も海路をよく使用し、マルコ・ポーロも元王朝の使者に随伴して中国から海路インドを経由しイランのイル・ハン国へ向かい、ここからヴェネツィアへと帰還している。1331年以降、イブン・バットゥータも東アフリカ沿岸やモルディブ諸島、インド、中国など各地を歴訪し、「三大陸周遊記」に多くの記述が残されている。 中国明朝の永楽帝は、朝貢貿易の再開を目的に1405年以降、7回にわたって鄭和に数十隻の艦隊を与え、東南アジアからインド洋に派遣した。鄭和の艦隊は第3回航海まではインドのカリカット(コーリコード)までしか来なかったが、第4回以降はアラビア半島まで航海し、別働隊は東アフリカまで来航した。この航海によって中国とインド洋沿岸諸国との交流は一時増大したが、鄭和没後は明は海禁政策を取ったためこのような大艦隊を派遣することはなくなり、交流は再び縮小していった。 1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルのリスボンを出発した。ガマの艦隊は喜望峰を回り、1498年4月13日にマリンディに到着した。マリンディで雇った水先案内人に導かれ、5月20日にカリカットに到着した。この航海により喜望峰回り航路を確立したポルトガルは、以後積極的に艦隊をインドへと送り、急速にインド洋での地歩を確立していった。それまでインド洋交易を握っていたイスラム諸国はこれに危機感を抱き、ペルシア湾を支配するオスマン帝国やインド洋交易西端の要衝エジプトを支配するマムルーク朝、それにインドのグジャラート・スルタン国が連合艦隊を組織したものの、1509年のディーウ沖海戦でこの連合艦隊はポルトガルに敗れ、ポルトガルはインド洋の制海権を確立した。以降ポルトガルは積極的にインド洋沿いの要衝の攻略を進め、ゴア(インド)、マラッカ(マレーシア)、モンバサ(ケニア)、ホルムズ(イラン)などを支配下に置き、インド洋交易を支配した。このポルトガル支配はアラブ人商人の影響力を一時的に減退させ、東アフリカにおいてはそれまで交易用言語として使用されていたアラビア語に代わり、ザンジバル周辺で成立していたスワヒリ語が使用されるようになり、やがて東アフリカ全体の交易用言語となっていった。しかし、ポルトガルは16世紀を通じてインド洋交易で優位を保ったものの、完全に統制下に置くことまではできなかった。ポルトガル本国の人口が少なく、広大なインド洋諸海域の隅々にまで目を光らせることができなかったうえ、1513年に要衝アデンを攻略することに失敗したため、紅海を通じてのエジプト・オスマン帝国への交易ルートを掌握することに失敗したためである。このルートを通じて地中海に到達する従来の交易ルートは1530年ごろには復活し、以後は喜望峰ルートと紅海ルートの2ルートが併存する形となった。 日本人のインド洋航海で氏名がはっきりしている最初のものは、1582年にキリシタン大名大友宗麟・有馬晴信・大村純忠らが派遣した天正遣欧使節である。伊東マンショ・千々石ミゲルら4人の使節団は、インド洋を横断し、1585年にローマに着いた。なお、これより早く1549年にスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが日本人ヤジロウを伴い、インドのゴアを出発し日本へ向かった。 1580年にポルトガルがいったんスペインに併合され、さらに1600年にイギリスがイギリス東インド会社を、1602年にオランダがオランダ東インド会社を設立してインド洋への進出を本格化させると、ポルトガルのインド洋への影響力は衰退していった。ポルトガルに代わってインド洋交易を支配したのはオランダで、1617年に建設されたバタヴィア(現ジャカルタ)を拠点として勢力を拡大していった。1640年にポルトガルは再独立するものの衰運は挽回できず、1641年にはマラッカを押さえ、17世紀のほぼ1世紀にわたってオランダの時代が続いた。この時期はオランダ、イギリスのほか、ややおくれてデンマークが1612年に設立したデンマーク東インド会社や、フランスが実質的には1664年に設立したフランス東インド会社など、複数のヨーロッパ諸国の東インド会社がインド洋貿易に進出した。 17世紀初頭にはオマーンにヤアーリバ朝が成立し、1650年にはオマーンの出入口にあたる良港マスカット(マスカト)をポルトガルから奪還した。その後、オマーンはマスカットを拠点としてインド洋交易に乗り出し、ポルトガルと激しく争うようになった。特にオマーンが目標としたのは東アフリカの交易諸都市であり、各都市では両国の戦闘がしばしばおこるようになった。 1698年にポルトガルの支配拠点であったモンバサの要塞フォート・ジーザスがオマーンの攻撃により陥落し(ジェズス要塞包囲戦)、オマーン帝国によるアラビアから東アフリカまでの交易支配権が確立するかに見えた。しかし、1720年代にオマーンで内戦が始まり、その勢力は一時弱まった。モンバサをはじめとするスワヒリ諸港はオマーン貴族のもと独立していったが、ザンジバルのみはオマーン本国の元にとどまった。 やがてブーサイード族のアフマド・ブン・サイードがオマーンの支配権を確立し、ブーサイード朝を創設した。ブーサイード朝の第5代スルタンであるサイイド・サイードの時代に、オマーンは東アフリカに再び進出を開始する。1828年には親征を行って東アフリカ諸港を屈服させ、1830年代には東アフリカの覇権を確立した。1840年にはサイードはザンジバル諸島(タンザニア)にストーン・タウンを建設して居を移し、ザンジバルシティがオマーンの首都となった。しかし1856年にはサイードの死によって国はマスカット・オマーン・スルターン国(英語版)とザンジバル・スルターン国に分割され、さらに帆船の時代から蒸気船の時代へ移ると共にイギリスの勢力が強くなり、オマーン・ザンジバル両国ともに船団を失うとともにイギリスの保護国となっていった。これに伴い、インド洋交易は完全に西洋勢力の手に握られることとなった。 18世紀に入ると、オランダの国力衰退に乗じてイギリスがこの地域での勢力を拡大していく。1700年にイギリスはインドから現在のカルカッタ(コルカタ)の元となる地域を得て、しばしばインドの政治に介入した。一方、1661年にポルトガルからイギリスに割譲されたボンベイには、イギリス東インド会社海軍の根拠地が置かれ、この海軍がイギリスの勢力増大とともに強力なものとなっていく。1757年プラッシーの戦いでフランスを追い出し、1820年ごろにはインドのほぼ全域を支配下においた。また、このインドへのルートを確保するため、1814年にはモーリシャス島とセイシェル諸島を、1815年にはケープ植民地を、それぞれ正式にイギリスは獲得する。19世紀に入るとイギリス東インド会社はインド洋地域における貿易独占権を喪失し、P&O社などによる汽船航路網が整備されていったが、この汽船航路においてもイギリスは圧倒的な強さを誇っていた。1869年11月17日にスエズ運河が開通したことにより、イギリスのインド洋での覇権はさらに強まった。スエズ運河の開通はヨーロッパとアジアの距離を半分近くにまで縮めたため、インドやマレー半島などインド洋沿岸地域の貿易が活発化した。しかし、第二次世界大戦後、イギリスはインドを始めとする植民地を失い、イギリスは覇権を失った。 イギリスに代わってこの地域の覇権を握ったのはアメリカ合衆国であり、ソヴィエト連邦との冷戦に備えるべくディエゴガルシア島などの各地に基地を置いた。1990年代以降、ソマリア政府の崩壊とそれに続くソマリア内戦によって地域の秩序が崩壊し、ソマリア沖を中心とするインド洋北東部においてソマリア沖の海賊が猛威を振るうようになった。これに対処するため、2008年以降世界各国が共同してこの海域に艦船を派遣し、海賊の取り締まりを行っている。 インド洋沿岸諸国は、地域内での貿易と投資の活性化を目指して1995年に環インド洋地域協力連合を設立した。この組織は2013年に環インド洋連合へと改称された。インド洋南西部にある島嶼国と地域は、1979年以降数年おき(2003年以降は4年おき)にインド洋諸島ゲームズと呼ばれる総合スポーツ大会を開催している。2011年には、この大会にはマダガスカル、レユニオン、モーリシャス、セーシェル、コモロ、マヨット、モルディブの7か国が参加した。 2004年12月26日、スマトラ島北西沖のインド洋でマグニチュード 9.3 の地震が発生した。これにより起こった津波はインド洋沿岸各国で甚大な被害を出した。死者は翌2005年1月19日までに合計で226,566人、また被災者は500万人に達している。これほど被害が大きくなった原因は などが挙げられる。 太平洋で発生するエルニーニョに似た大気海洋相互作用現象で、発生海域名称を冠しインド洋ダイポールモード現象(IOD)とも呼ばれる。アフリカとインドネシアの気候に大きな影響を与えている。 インド洋に接する国々は、南アフリカ共和国よりおおむね時計回りに次のとおりである。
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"他の海洋と同じように、インド洋においても流入河川からのシルトが陸地沿岸で大量に堆積している。最もシルト流入量が大きいのはガンジス川であり、年に32億トンものシルトが流入する。これは世界の全河川の中で最大で、ベンガル湾には厚い陸源堆積層がある。", "title": "地質" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "太平洋や大西洋と同じく、インド洋にも環流・南赤道海流・赤道反流・北赤道海流といった3海域共通の海流は存在する。太平洋や大西洋との違いは、インド洋には北半球に属する部分が非常に小さいため、環流が南半球のインド洋亜熱帯循環ひとつしかないことである。このインド洋亜熱帯循環は、オーストラリア沿岸から赤道の南をアフリカ東岸やマダガスカル近くまで流れる暖流の南赤道海流、アフリカ東岸やマダガスカルから南下しアフリカ大陸南端近くのアガラス岬付近まで流れる暖流のアガラス海流、アフリカ南端から南極環流の北縁を西に流れオーストラリア西部に達する寒流の南インド洋海流、そしてオーストラリア西岸を北上する寒流の西オーストラリア海流からなる。南半球の環流であるので、コリオリの力に伴いこの環流は反時計回りとなっている。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "もう一つのインド洋の海流の特徴は、季節風が非常に強いために季節によって海流の流れが異なる地域があることである。インド洋の北部海域がそれに当たり、夏は南西から北東に、冬は北東から南西に風が吹くのにともなって、海流もその方向に流れる。このため、冬季には東から西に流れる北赤道海流が存在するのに対し、夏季にはその海流が消滅してしまう。そのかわり、夏季には南西から北東に季節風海流が流れる。赤道反流は冬季には北赤道海流と並行して流れるが、夏季にはアフリカ東岸でソマリ海流となって北へ向けて流れ、季節風海流につながって反転する。季節風によって形成される海流はほかの海域にも存在するが、海流自体が季節によって消滅し反転することはインド洋海域の著しい特徴である。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "こういった表層の海流のほかに、深層で起こる熱塩循環と表層で起こる風成循環のあわさった、いわゆる海洋大循環もインド洋を通過している。北大西洋で沈み込んだ北大西洋深層水は大西洋を南下してインド洋へと入り、インド洋南部から南極海を西から東へと流れる。このうち一部は北上して海面に浮上し、温められて表層水となる。深層水の主流は太平洋で浮上して表層水となり、今度は東から西へと流れ、そのままインド洋を通過して大西洋へと入り、北大西洋で冷やされてまた沈み込む。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "インド洋にはガンジス川をはじめ、エーヤワディー川、ナルマダ川、インダス川、チグリス川とユーフラテス川をあわせたシャットゥルアラブ川、ジュバ川、ザンベジ川、リンポポ川などの多くの河川が流れ込む。なかでももっとも水量および土砂の量が多いのはガンジス川であり、このためにガンジス川の流れこむベンガル湾北部の塩分濃度は3.1%とかなり低いものになっている。逆にシャットゥルアラブ川以外に大きな河川の流れ込まないペルシャ湾の塩分濃度は3.65%とやや高く、ほとんど流入河川が存在しないうえに高温乾燥地帯にあり、さらに非常に狭く浅いバブ・エル・マンデブ海峡でしか外海との接点のない紅海の塩分濃度は4.06%と非常に高くなっている。この高い塩分濃度のため、紅海から流れ出た海水はインド洋本体部に入ってもほかの海水とは容易にはまじりあわず、比重が重いために3000m付近にまで沈み込み、紅海中層水という水塊を形成する。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "インド洋から西太平洋の低緯度海域は、共通の生物が多く生息しており、生物学的にはある程度の共通性を持つ海域となっている。そのため、この海域を指す「インド太平洋」という言葉が海洋学や海洋生物学などの自然科学分野でしばしば用いられる。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「インド洋」の名はインドに由来する。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "明代末の中国では1602年にイエズス会士マテオ・リッチが世界地図『坤輿万国全図』を作成した。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものでインドの西海岸には「小西洋」という記述がある。マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた渋川春海の『世界図』ではインド洋には「小西洋」と記されている。一方、1708年の稲垣光朗『世界万国地球図』にはインド洋に「小東洋」と記されている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1869年の福沢諭吉『世界国尽』ではインド洋は「インド海」と記されている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "インド洋はスエズ運河によって地中海と通じてヨーロッパと、マラッカ海峡から太平洋を通じて東アジアやアメリカ大陸とつながっているため、東西両洋を結ぶ主要な交易路となっている。単に東アジアとヨーロッパ間の交易路としても非常に重要性が高いうえ、インド洋沿岸のペルシャ湾やインドネシアからの石油および石油製品の運送路としても重要なうえ、近年の東南アジアやインドといった沿海地域の経済発展によってインド洋航路の重要性は増している。1967年には第三次中東戦争によってスエズ運河が封鎖されたが、スエズ運河経由の東西交易は喜望峰回りでインド洋中央部を通過するようになり、インド洋の重要性は変化しなかった。1975年にスエズ運河が再開されると、航路は再びインド洋北部を通過するものに戻った。", "title": "経済活動" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "またサウジアラビア、イラン、インド、西オーストラリア沿岸部には豊富な石油・天然ガスの埋蔵が確認されている。世界の海上石油生産の約40%はインド洋で行われている。", "title": "経済活動" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "インド洋沿海諸都市・諸港のうち特に大きなものは、ミャンマーのヤンゴン、バングラデシュのチッタゴン、インドのムンバイやチェンナイ、コルカタ、スリランカのコロンボ、パキスタンのカラチ、アラブ首長国連邦のドバイやアブダビ、オマーンのマスカット、イエメンのアデン、ジブチのジブチ市、ソマリアのモガディシュ、ケニアのモンバサ、タンザニアのダルエスサラームやザンジバルシティ、モザンビークのマプト、南アフリカ共和国のダーバンやイーストロンドン、ポートエリザベス、モーリシャスのポートルイス、そしてオーストラリアのパースの外港であるフリーマントルなどがある。マラッカ海峡の東端に位置するシンガポールは、太平洋とインド洋とを結ぶ結節点として重要な港湾都市である。また、縁海である紅海の北端にはスエズの街があるが、ここはスエズ運河の南端に位置し、運河の入り口となる要衝である。", "title": "経済活動" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ゴンドワナ大陸が分裂し始めた2億年前にテチス海が存在した。インド亜大陸がアフリカから分裂、北上し、ユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成したプレート運動で、インド洋が形成され始め、海嶺が形成されると共に海底が拡大し、アフリカ、アラビア、インド、オーストラリアなどのプレートが現在の形になっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "インド洋北部は、モンスーン(季節風)の影響が強く、夏は南西から北東に(東アフリカ方面からアラビア・インド方面に)、冬は北東から南西に風が吹く。海流も季節風の影響を強く受けて、夏は時計回りに、冬は反時計回りに海流が生まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この時期によって一定の方向へ向かう風と海流は帆船の航行に向いていた。さらに、季節によって方向が変わるので、ある季節に出かけた船は、風向きが変わる季節に帰ってくることができる。この季節風の性質を利用して、東アフリカ・アラビア・インド間で紀元前から交易が行われてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "まず最初にインド洋で貿易が始まったのは、メソポタミア文明とインダス文明の間においてだった。ウルなどメソポタミア文明の諸都市からは、船によって運ばれたハラッパー製の人工物が発掘されている。紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によってアラビア半島からインダス川の探検が行われ、さらにアケメネス朝を征服したアレクサンドロス大王もインダス川からユーフラテス川までのインド洋をネアルコスに航海させている。こうした探検の結果、インド洋交易は盛んになっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このころまではインド洋交易は大陸沿岸に沿って進むものであったが、紀元前120年から紀元前110年の間に、キュジコスのオイドクサスという航海者が紅海から大陸沿岸を経由せず直接インドへと向かう航路を開発し、以後この沖乗り航路が有力な航路となっていく。紀元1、2世紀ごろに書かれた『周遊記』によれば、ギリシアの商人ヒッパルスがインド洋の季節風を利用し、アラビアからインドへ沖合を航海したことから、南西風をヒッパルスの風と呼んでいたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "そして、紀元後40年から70年ごろに『エリュトゥラー海案内記』が書かれる。この本には当時ローマ帝国領であったエジプトの紅海沿岸からアラビア半島、インド西海岸にいたる紅海ルートと貿易港が記載され、当時季節風を利用したローマ帝国と南インドのサータヴァーハナ朝などの諸王朝との交易の実態を示している。他にもアラビアのモカ(イエメン)の港から、多数の船が東アフリカに向かっていたこと、インド、マレー半島、中国の記述がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "インドからマレー半島へと向かうベンガル湾の航路、およびそこから中国へと向かう航路もほどなくして確立され、ここに「海のシルクロード」と呼ばれる東西通商路が完成した。166年には大秦国王安敦(ローマ皇帝アントニヌス・ピウス、またはマルクス・アウレリウス・アントニヌスに比定される)からの使者と称するものが後漢王朝最南端の地である日南郡(現在のベトナム・フエ周辺)に到着したとの記述が後漢書にあり、この時までにはインド洋の横断交易ルートは確立していたことがうかがえる。 5世紀初頭には法顕が、セイロン島からの帰路に海路を取り、ベンガル湾から広東へとたどりついた。671年には義浄が広東からシュリーヴィジャヤを通り、インドのナーランダ僧院で仏典を学んだ後シュリーヴィジャヤ経由で帰国し、『南海寄帰内法伝』や『大唐西域求法高僧伝』を著した。また、この航路によりインドから東南アジアにヒンドゥー教や仏教が伝わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方、1世紀ごろからは、インドネシア中部のボルネオ島のマレー系の人々がインド洋中南部を突っ切り、インド洋西端のマダガスカル島への移民が行われるようになった。沿岸諸地域にマレー系民族の上陸した痕跡がないため、ボルネオの人々はジャワ島やスマトラ島で補給を行った後、南東貿易風に乗って一気にインド洋を直航したと考えられている。この移住は数百年間続き、マダガスカル全島はほぼマレー系によって支配された。のちにインド洋交易によってやってきたアラブ人や対岸のモザンビーク付近から移住したバントゥー系諸民族がマダガスカルにやってきたものの、マダガスカルの基層文化はこのマレー人移住によって形成され、現在でも言語・文化・民族など多くの面でインドネシアやマレーシアといったマレー系民族の国家と多くの共通点を持っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アッバース朝以降には、ダウ船と呼ばれた木製の帆船により、インドの香辛料だけではなく中国の絹や陶磁器が西へ運ばれた。西の東アフリカからは象牙・犀の角・鼈甲が、北はヨーロッパやオリエントからガラス製品・葡萄酒が交易されていた。内陸部の交易路シルクロードに対して、海上交易路を海の道、あるいは海のシルクロードと呼んでいる。インド洋はその海の道の主要部を成していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アッバース朝はバグダードを首都としたので、首都に近いペルシア湾を中心に交易が発達した。しかし、アッバース朝の衰退・滅亡や、エジプトのファーティマ朝やマムルーク朝の繁栄にともない、紅海を中心に帆船が行き来するようになった。これらのイスラム諸王朝を起点として多くのアラブ人商人がインド洋交易を担うようになり、10世紀以降徐々にアフリカの東海岸においてイスラム教が勢力を拡大していき、15世紀ごろまでには東アフリカの諸都市はほぼイスラム化した。このイスラム化を基に、沿岸諸都市にはスワヒリと呼ばれるイスラムの影響の強いバントゥー系文化が成立しはじめた。アフリカのインド洋交易の南端はザンベジ川河口にほど近いソファラであり、それ以南においては海上交易ルートは到達していなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方インド洋東部においては、7世紀ごろにスマトラ島に成立したシュリーヴィジャヤ王国がマラッカ海峡を押さえ、中国とインドの間の交易を押さえて繁栄した。しかしシュリーヴィジャヤ王国は、インド南部に本拠を置くチョーラ朝と対立するようになり、1025年にはチョーラ朝のラージェーンドラ1世が海軍を遠征させてシュリーヴィジャヤを占領し、以後インド洋東部の制海権はチョーラ朝が握ることとなった。チョーラ朝は強力な海軍を持っており、ベンガル湾やモルディブ諸島にまで影響力を拡大させていた。チョーラ朝は13世紀に滅亡するが、以後もパーンディヤ朝やヴィジャヤナガル王国など南インドに勢力を持った諸王朝は積極的にインド洋交易をおこなった。13世紀末以降、インドネシアやマレーシアにはイスラム教が伝わるようになり、やがて仏教やヒンドゥー教に代わってこの地域の支配的な宗教となっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "13世紀にはモンゴル帝国がユーラシア大陸中央部をほぼ制圧するが、これによってユーラシア全域の交流が盛んになり、インド洋交易もさらに隆盛に向かった。モンゴル帝国自体も海路をよく使用し、マルコ・ポーロも元王朝の使者に随伴して中国から海路インドを経由しイランのイル・ハン国へ向かい、ここからヴェネツィアへと帰還している。1331年以降、イブン・バットゥータも東アフリカ沿岸やモルディブ諸島、インド、中国など各地を歴訪し、「三大陸周遊記」に多くの記述が残されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中国明朝の永楽帝は、朝貢貿易の再開を目的に1405年以降、7回にわたって鄭和に数十隻の艦隊を与え、東南アジアからインド洋に派遣した。鄭和の艦隊は第3回航海まではインドのカリカット(コーリコード)までしか来なかったが、第4回以降はアラビア半島まで航海し、別働隊は東アフリカまで来航した。この航海によって中国とインド洋沿岸諸国との交流は一時増大したが、鄭和没後は明は海禁政策を取ったためこのような大艦隊を派遣することはなくなり、交流は再び縮小していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルのリスボンを出発した。ガマの艦隊は喜望峰を回り、1498年4月13日にマリンディに到着した。マリンディで雇った水先案内人に導かれ、5月20日にカリカットに到着した。この航海により喜望峰回り航路を確立したポルトガルは、以後積極的に艦隊をインドへと送り、急速にインド洋での地歩を確立していった。それまでインド洋交易を握っていたイスラム諸国はこれに危機感を抱き、ペルシア湾を支配するオスマン帝国やインド洋交易西端の要衝エジプトを支配するマムルーク朝、それにインドのグジャラート・スルタン国が連合艦隊を組織したものの、1509年のディーウ沖海戦でこの連合艦隊はポルトガルに敗れ、ポルトガルはインド洋の制海権を確立した。以降ポルトガルは積極的にインド洋沿いの要衝の攻略を進め、ゴア(インド)、マラッカ(マレーシア)、モンバサ(ケニア)、ホルムズ(イラン)などを支配下に置き、インド洋交易を支配した。このポルトガル支配はアラブ人商人の影響力を一時的に減退させ、東アフリカにおいてはそれまで交易用言語として使用されていたアラビア語に代わり、ザンジバル周辺で成立していたスワヒリ語が使用されるようになり、やがて東アフリカ全体の交易用言語となっていった。しかし、ポルトガルは16世紀を通じてインド洋交易で優位を保ったものの、完全に統制下に置くことまではできなかった。ポルトガル本国の人口が少なく、広大なインド洋諸海域の隅々にまで目を光らせることができなかったうえ、1513年に要衝アデンを攻略することに失敗したため、紅海を通じてのエジプト・オスマン帝国への交易ルートを掌握することに失敗したためである。このルートを通じて地中海に到達する従来の交易ルートは1530年ごろには復活し、以後は喜望峰ルートと紅海ルートの2ルートが併存する形となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本人のインド洋航海で氏名がはっきりしている最初のものは、1582年にキリシタン大名大友宗麟・有馬晴信・大村純忠らが派遣した天正遣欧使節である。伊東マンショ・千々石ミゲルら4人の使節団は、インド洋を横断し、1585年にローマに着いた。なお、これより早く1549年にスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが日本人ヤジロウを伴い、インドのゴアを出発し日本へ向かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1580年にポルトガルがいったんスペインに併合され、さらに1600年にイギリスがイギリス東インド会社を、1602年にオランダがオランダ東インド会社を設立してインド洋への進出を本格化させると、ポルトガルのインド洋への影響力は衰退していった。ポルトガルに代わってインド洋交易を支配したのはオランダで、1617年に建設されたバタヴィア(現ジャカルタ)を拠点として勢力を拡大していった。1640年にポルトガルは再独立するものの衰運は挽回できず、1641年にはマラッカを押さえ、17世紀のほぼ1世紀にわたってオランダの時代が続いた。この時期はオランダ、イギリスのほか、ややおくれてデンマークが1612年に設立したデンマーク東インド会社や、フランスが実質的には1664年に設立したフランス東インド会社など、複数のヨーロッパ諸国の東インド会社がインド洋貿易に進出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "17世紀初頭にはオマーンにヤアーリバ朝が成立し、1650年にはオマーンの出入口にあたる良港マスカット(マスカト)をポルトガルから奪還した。その後、オマーンはマスカットを拠点としてインド洋交易に乗り出し、ポルトガルと激しく争うようになった。特にオマーンが目標としたのは東アフリカの交易諸都市であり、各都市では両国の戦闘がしばしばおこるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1698年にポルトガルの支配拠点であったモンバサの要塞フォート・ジーザスがオマーンの攻撃により陥落し(ジェズス要塞包囲戦)、オマーン帝国によるアラビアから東アフリカまでの交易支配権が確立するかに見えた。しかし、1720年代にオマーンで内戦が始まり、その勢力は一時弱まった。モンバサをはじめとするスワヒリ諸港はオマーン貴族のもと独立していったが、ザンジバルのみはオマーン本国の元にとどまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "やがてブーサイード族のアフマド・ブン・サイードがオマーンの支配権を確立し、ブーサイード朝を創設した。ブーサイード朝の第5代スルタンであるサイイド・サイードの時代に、オマーンは東アフリカに再び進出を開始する。1828年には親征を行って東アフリカ諸港を屈服させ、1830年代には東アフリカの覇権を確立した。1840年にはサイードはザンジバル諸島(タンザニア)にストーン・タウンを建設して居を移し、ザンジバルシティがオマーンの首都となった。しかし1856年にはサイードの死によって国はマスカット・オマーン・スルターン国(英語版)とザンジバル・スルターン国に分割され、さらに帆船の時代から蒸気船の時代へ移ると共にイギリスの勢力が強くなり、オマーン・ザンジバル両国ともに船団を失うとともにイギリスの保護国となっていった。これに伴い、インド洋交易は完全に西洋勢力の手に握られることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "18世紀に入ると、オランダの国力衰退に乗じてイギリスがこの地域での勢力を拡大していく。1700年にイギリスはインドから現在のカルカッタ(コルカタ)の元となる地域を得て、しばしばインドの政治に介入した。一方、1661年にポルトガルからイギリスに割譲されたボンベイには、イギリス東インド会社海軍の根拠地が置かれ、この海軍がイギリスの勢力増大とともに強力なものとなっていく。1757年プラッシーの戦いでフランスを追い出し、1820年ごろにはインドのほぼ全域を支配下においた。また、このインドへのルートを確保するため、1814年にはモーリシャス島とセイシェル諸島を、1815年にはケープ植民地を、それぞれ正式にイギリスは獲得する。19世紀に入るとイギリス東インド会社はインド洋地域における貿易独占権を喪失し、P&O社などによる汽船航路網が整備されていったが、この汽船航路においてもイギリスは圧倒的な強さを誇っていた。1869年11月17日にスエズ運河が開通したことにより、イギリスのインド洋での覇権はさらに強まった。スエズ運河の開通はヨーロッパとアジアの距離を半分近くにまで縮めたため、インドやマレー半島などインド洋沿岸地域の貿易が活発化した。しかし、第二次世界大戦後、イギリスはインドを始めとする植民地を失い、イギリスは覇権を失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イギリスに代わってこの地域の覇権を握ったのはアメリカ合衆国であり、ソヴィエト連邦との冷戦に備えるべくディエゴガルシア島などの各地に基地を置いた。1990年代以降、ソマリア政府の崩壊とそれに続くソマリア内戦によって地域の秩序が崩壊し、ソマリア沖を中心とするインド洋北東部においてソマリア沖の海賊が猛威を振るうようになった。これに対処するため、2008年以降世界各国が共同してこの海域に艦船を派遣し、海賊の取り締まりを行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "インド洋沿岸諸国は、地域内での貿易と投資の活性化を目指して1995年に環インド洋地域協力連合を設立した。この組織は2013年に環インド洋連合へと改称された。インド洋南西部にある島嶼国と地域は、1979年以降数年おき(2003年以降は4年おき)にインド洋諸島ゲームズと呼ばれる総合スポーツ大会を開催している。2011年には、この大会にはマダガスカル、レユニオン、モーリシャス、セーシェル、コモロ、マヨット、モルディブの7か国が参加した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2004年12月26日、スマトラ島北西沖のインド洋でマグニチュード 9.3 の地震が発生した。これにより起こった津波はインド洋沿岸各国で甚大な被害を出した。死者は翌2005年1月19日までに合計で226,566人、また被災者は500万人に達している。これほど被害が大きくなった原因は", "title": "インド洋大地震" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "などが挙げられる。", "title": "インド洋大地震" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "太平洋で発生するエルニーニョに似た大気海洋相互作用現象で、発生海域名称を冠しインド洋ダイポールモード現象(IOD)とも呼ばれる。アフリカとインドネシアの気候に大きな影響を与えている。", "title": "ダイポールモード" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "インド洋に接する国々は、南アフリカ共和国よりおおむね時計回りに次のとおりである。", "title": "インド洋に接する国々" } ]
インド洋は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7355万平方キロメートル (km2) である。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。インド洋の推定水量は2億9213万1000立方キロメートルである。
{{出典の明記|date=2023年2月}} [[ファイル:Indianocean.png|right|thumb|250px|インド洋]] {{五大洋}} '''インド洋'''('''印度洋'''、インドよう、{{lang-en-short|Indian Ocean}}、{{lang-la-short|Oceanus Indicus}} オーケアヌス・インディクス)は、[[太平洋]]、[[大西洋]]と並ぶ[[大洋|三大洋]]の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7355万[[平方キロメートル]] (km<sup>2</sup>) である<ref>[http://www.enchantedlearning.com/subjects/ocean/ Earth's Oceans]. EnchantedLearning.com. Retrieved on 2013-07-16.</ref>。地球表面の水の約20パーセントが含まれる<ref name="Rasul">{{cite book|first=Rais, Rasul Bux |title= The Indian Ocean and the Superpowers|publisher=Routledge|date=1986|isbn=0-7099-4241-9|url=https://books.google.co.jp/books?id=2pMOAAAAQAAJ&pg=PA33&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。インド洋の推定水量は2億9213万1000[[立方キロメートル]]である<ref name="Bibliography">{{cite book|last=Donald W. Gotthold|first=Julia J. Gotthold|title=Indian Ocean: Bibliography|publisher=Clio Press|date=1988|isbn=1-85109-034-7|url=https://books.google.co.jp/books?id=ujoRAAAAYAAJ&q=292,131,000+cubic+kilometers&dq=292,131,000+cubic+kilometers&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。 == 地理 == 北は[[インド]]、[[パキスタン]]、[[バングラデシュ]]、[[ミャンマー]]、[[スリランカ]]から、西は[[アラビア半島]]および[[アフリカ]]に接し、[[紅海]]とつながる。東は[[マレー半島]]、[[スマトラ島]]、[[ジャワ島]]の線、および[[オーストラリア]]西岸および南岸、南は遠く[[南極海]]に囲まれた[[海洋]]である。大西洋との境界は[[アガラス岬]]から延びる[[東経20度線]]、太平洋との境界は東経146度55分線<ref>[http://www.iho.shom.fr/publicat/free/files/S23_1953.pdf ''Limits of Oceans and Seas'']. International Hydrographic Organization Special Publication No. 23, 1953.</ref>である。インド洋で最も北の場所は[[ペルシャ湾]]にあり、およそ北緯30度である。 インド洋上にはほか[[マダガスカル島]]、[[コモロ諸島]]、[[マスカリン諸島]]、[[セーシェル諸島]]、[[チャゴス諸島]]、[[ソコトラ島]]、[[モルジブ諸島]]、[[セイロン島]]、[[アンダマン・ニコバル諸島]]、[[ココス諸島]]、[[クリスマス島 (オーストラリア)|クリスマス島]]などがある([[:Category:インド洋の島]]参照)。 深さは平均3,890メートル。最深部は{{仮リンク|ディアマンティナ断裂帯|en|Diamantina Fracture Zone}}の{{仮リンク|ディアマンティナ海淵|en|Diamantina Deep}}で水深8,047 mである<ref>Stow, D. A. V. (2006) ''Oceans: an illustrated reference.'' Chicago: University of Chicago Press, {{ISBN2|0-226-77664-6}} - page 127 for map of Indian Ocean and pp. 34-37 regarding trenches - but due to the recent discovery, some texts and maps are yet to include the feature.</ref>。 主な[[チョークポイント]]は、[[バブ・エル・マンデブ海峡]]、[[ホルムズ海峡]]、[[マラッカ海峡]]、[[スエズ運河]]の南側入り口、[[ロンボク海峡]]。インド洋には[[アンダマン海]]、[[アラビア海]]、[[ベンガル湾]]、[[グレートオーストラリア湾]]、[[アデン湾]]、[[オマーン湾]]、[[ラッカディブ海]]、[[モザンビーク海峡]]、[[ペルシャ湾]]、[[紅海]]を含む。 大西洋の[[ハリケーン]]、太平洋の[[台風]]に対し、インド洋で発生する[[熱帯低気圧]]は[[サイクロン]]と呼ばれる。サイクロンが多く発生するのはベンガル湾付近であり、4月から5月と10月から11月に多く発生する。サイクロンが北上してバングラデシュやインドを襲った場合、多くの死傷者が出ることがある。なかでも[[バングラデシュ]]はほぼ全域がガンジス川のデルタの上にできた国であり、標高が低く無数の河川が網の目のように走っているため、サイクロンによる[[高潮]]、[[洪水]]、強風、および高潮による[[塩害]]はしばしば大被害をもたらす<ref>大橋正明、村山真弓編著、2003年8月8日初版第1刷、『バングラデシュを知るための60章』p51-55、明石書店 </ref>。 == 地質 == インド洋の海底には、ほぼ東西に走る[[南西インド洋海嶺]]と[[南東インド洋海嶺]]、南北に走る[[中央インド洋海嶺]]の3つの[[海嶺]]が存在する。これらの海嶺は[[モーリシャス]]領である[[ロドリゲス島]]の沖にある[[ロドリゲス三重点]]にてつながっている。南西インド洋海嶺の北は[[アフリカプレート]]、南は[[南極プレート]]であり、南極プレートは南東インド洋海嶺の南にも続いている。南東インド洋海嶺の北は[[オーストラリアプレート]]である。中央インド洋海嶺の西はアフリカプレート、東はオーストラリアプレートならびに[[インドプレート]]となっている。オーストラリアプレートとインドプレートは同一のプレートでインド・オーストラリアプレートと称されるが、このプレートは2つに分裂しつつあるとされ、[[2012年]]4月のスマトラ島沖地震はこのプレートの分裂過程において引き起こされたとの研究もある<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2904202 「インド洋海底のプレートが「2つに分裂」、4月スマトラ島沖地震で割れ目」AFPBB 2012年09月27日 2015年3月1日閲覧</ref>。上記の3海嶺は新しい地殻の生み出される場所であり、これらの働きによってインド洋は徐々に拡大する傾向にある。また、[[東経90度海嶺]]は南北に直線状に発達する特徴的な海底地形で、[[白亜紀]]からのインド亜大陸北上が形成したと考えられる。 他の海洋と同じように、インド洋においても流入河川からの[[シルト]]が陸地沿岸で大量に堆積している。最もシルト流入量が大きいのはガンジス川であり、年に32億トンものシルトが流入する。これは世界の全河川の中で最大で<ref>「海洋学 原著第4版」p115 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>、ベンガル湾には厚い陸源堆積層がある。 == 海流 == 太平洋や大西洋と同じく、インド洋にも[[環流]]・[[南赤道海流]]・[[赤道反流]]・[[北赤道海流]]といった3海域共通の海流は存在する。太平洋や大西洋との違いは、インド洋には北半球に属する部分が非常に小さいため、環流が南半球のインド洋亜熱帯循環ひとつしかないことである。このインド洋亜熱帯循環は、オーストラリア沿岸から赤道の南をアフリカ東岸やマダガスカル近くまで流れる[[暖流]]の[[南赤道海流]]、アフリカ東岸やマダガスカルから南下しアフリカ大陸南端近くのアガラス岬付近まで流れる暖流の[[アガラス海流]]、アフリカ南端から[[南極環流]]の北縁を西に流れオーストラリア西部に達する[[寒流]]の南インド洋海流、そしてオーストラリア西岸を北上する寒流の[[西オーストラリア海流]]からなる。南半球の環流であるので、[[コリオリの力]]に伴いこの環流は反時計回りとなっている<ref>「海洋学 原著第4版」p201 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>。 もう一つのインド洋の海流の特徴は、[[季節風]]が非常に強いために季節によって海流の流れが異なる地域があることである。インド洋の北部海域がそれに当たり、夏は南西から北東に、冬は北東から南西に風が吹くのにともなって、海流もその方向に流れる。このため、冬季には東から西に流れる北赤道海流が存在するのに対し、夏季にはその海流が消滅してしまう。そのかわり、夏季には南西から北東に[[季節風海流]]が流れる<ref>「世界地理12 両極・海洋」p267 [[福井英一郎]]編 朝倉書店 昭和58年9月10日</ref>。赤道反流は冬季には北赤道海流と並行して流れるが、夏季にはアフリカ東岸でソマリ海流となって北へ向けて流れ、季節風海流につながって反転する。季節風によって形成される海流はほかの海域にも存在するが、海流自体が季節によって消滅し反転することはインド洋海域の著しい特徴である。 [[ファイル:Weltfoerderband.png|right|400px|thumb|海洋大循環の図。濃い青が深層水、明るい青が表層水である。]] こういった表層の海流のほかに、深層で起こる[[熱塩循環]]と表層で起こる[[風成循環]]のあわさった、いわゆる海洋大循環もインド洋を通過している。北大西洋で沈み込んだ北大西洋深層水は大西洋を南下してインド洋へと入り、インド洋南部から南極海を西から東へと流れる。このうち一部は北上して海面に浮上し、温められて表層水となる。深層水の主流は太平洋で浮上して表層水となり、今度は東から西へと流れ、そのままインド洋を通過して大西洋へと入り、北大西洋で冷やされてまた沈み込む<ref>「海洋学 原著第4版」p223 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>。 インド洋には[[ガンジス川]]をはじめ、[[エーヤワディー川]]、[[ナルマダ川]]、[[インダス川]]、[[チグリス川]]と[[ユーフラテス川]]をあわせた[[シャットゥルアラブ川]]、[[ジュバ川]]、[[ザンベジ川]]、[[リンポポ川]]などの多くの河川が流れ込む。なかでももっとも水量および土砂の量が多いのはガンジス川であり、このためにガンジス川の流れこむベンガル湾北部の塩分濃度は3.1%とかなり低いものになっている<ref>「世界地理12 両極・海洋」p259 福井英一郎編 朝倉書店 昭和58年9月10日</ref>。逆にシャットゥルアラブ川以外に大きな河川の流れ込まないペルシャ湾の塩分濃度は3.65%とやや高く、ほとんど流入河川が存在しないうえに高温乾燥地帯にあり、さらに非常に狭く浅い[[バブ・エル・マンデブ海峡]]でしか外海との接点のない紅海の塩分濃度は4.06%と非常に高くなっている。この高い塩分濃度のため、紅海から流れ出た海水はインド洋本体部に入ってもほかの海水とは容易にはまじりあわず、比重が重いために3000m付近にまで沈み込み、紅海中層水という水塊を形成する<ref>「海洋学 原著第4版」p220 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行</ref>。 インド洋から[[西太平洋]]の低緯度海域は、共通の生物が多く生息しており、生物学的にはある程度の共通性を持つ海域となっている。そのため、この海域を指す「[[インド太平洋]]」という言葉が[[海洋学]]や[[海洋生物学]]などの自然科学分野でしばしば用いられる。 == 名称 == 「インド洋」の名は[[インド]]に由来する<ref>{{cite web|url=http://www.etymonline.com/index.php?search=indian+ocean&searchmode=none|title=Online Etymology Dictionary|last=Harper|first=Douglas|work=[[Online Etymology Dictionary]]|accessdate=18 January 2011}}</ref><ref>{{cite book|author=Mathur, Anand |title=Indo-American Relations: Foreign Policy Orientations and Perspectives of P.V. Narasimha Rao and Bill Clinton|url=https://books.google.com/books?id=pTR2AAAAMAAJ+|date=2003|publisher=Scientific Publishers (India)|isbn=978-81-7233-336-2|page =138|quote=India occupies the central position in the Indian Ocean region that is why the Ocean was named after India}}</ref><ref>{{cite book|author=Váli, F. A. |title=Politics of the Indian Ocean Region: The Balances of Power|url=https://books.google.co.jp/books?id=_P4MAAAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja|date=1976|publisher=Free Press|isbn=978-0-02-933080-7|page= 25}}</ref><ref>{{cite book|author=Hussain|title=Geography Of India For Civil Ser Exam|url=https://books.google.co.jp/books?id=wUzKCZxvNQoC&pg=SA12-PA251&redir_esc=y&hl=ja|publisher=Tata McGraw-Hill Education|isbn=978-0-07-066772-3|pages=12–251; ''"India and the Geo–Politics of the Indian Ocean"''(16–33)}}</ref>。 明代末の中国では1602年にイエズス会士[[マテオ・リッチ]]が世界地図『坤輿万国全図』を作成した<ref name="sato">{{Cite web |author=佐藤正幸 |url=http://www.yamanashi-ken.ac.jp/wp-content/uploads/kgk2014003.pdf|title=明治初期の英語導入に伴う日本語概念表記の変容に関する研究|publisher=山梨県立大学 |accessdate=2020-01-18}}</ref>。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものでインドの西海岸には「小西洋」という記述がある<ref name="sato" />。マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた[[渋川春海]]の『世界図』ではインド洋には「小西洋」と記されている<ref name="sato" />。一方、1708年の稲垣光朗『世界万国地球図』にはインド洋に「小東洋」と記されている<ref name="sato" />。 1869年の[[福沢諭吉]]『[[世界国尽]]』ではインド洋は「インド海」と記されている<ref name="sato" />。 == 経済活動 == インド洋は[[スエズ運河]]によって[[地中海]]と通じて[[ヨーロッパ]]と、[[マラッカ海峡]]から太平洋を通じて[[東アジア]]や[[アメリカ大陸]]とつながっているため、東西両洋を結ぶ主要な交易路となっている。単に東アジアとヨーロッパ間の交易路としても非常に重要性が高いうえ、インド洋沿岸の[[ペルシャ湾]]や[[インドネシア]]からの[[石油]]および石油製品の[[運送路]]としても重要なうえ、近年の[[東南アジア]]やインドといった沿海地域の経済発展によってインド洋航路の重要性は増している。[[1967年]]には[[第三次中東戦争]]によってスエズ運河が封鎖されたが、スエズ運河経由の東西交易は[[喜望峰]]回りでインド洋中央部を通過するようになり、インド洋の重要性は変化しなかった。[[1975年]]にスエズ運河が再開されると、航路は再びインド洋北部を通過するものに戻った。 また[[サウジアラビア]]、[[イラン]]、[[インド]]、西[[オーストラリア]]沿岸部には豊富な石油・[[天然ガス]]の埋蔵が確認されている。世界の海上石油生産の約40%はインド洋で行われている<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/xo.html The World Factbook]. Cia.gov. Retrieved on 2013-07-16.</ref>。 インド洋沿海諸都市・諸港のうち特に大きなものは、[[ミャンマー]]の[[ヤンゴン]]、[[バングラデシュ]]の[[チッタゴン]]、[[インド]]の[[ムンバイ]]や[[チェンナイ]]、[[コルカタ]]、[[スリランカ]]の[[コロンボ]]、[[パキスタン]]の[[カラチ]]、[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]や[[アブダビ]]、[[オマーン]]の[[マスカット]]、[[イエメン]]の[[アデン]]、[[ジブチ]]の[[ジブチ市]]、[[ソマリア]]の[[モガディシュ]]、[[ケニア]]の[[モンバサ]]、[[タンザニア]]の[[ダルエスサラーム]]や[[ザンジバルシティ]]、[[モザンビーク]]の[[マプト]]、[[南アフリカ共和国]]の[[ダーバン]]や[[イーストロンドン]]、[[ポートエリザベス]]、[[モーリシャス]]の[[ポートルイス]]、そして[[オーストラリア]]の[[パース (西オーストラリア州)|パース]]の外港である[[フリーマントル (西オーストラリア州)|フリーマントル]]などがある。マラッカ海峡の東端に位置する[[シンガポール]]は、太平洋とインド洋とを結ぶ結節点として重要な港湾都市である。また、縁海である紅海の北端には[[スエズ]]の街があるが、ここはスエズ運河の南端に位置し、運河の入り口となる要衝である。 == 歴史 == === 地質時代 === [[ゴンドワナ大陸]]が分裂し始めた2億年前に[[テチス海]]が存在した。[[インド亜大陸]]がアフリカから分裂、北上し、[[ユーラシア大陸]]に衝突し、[[ヒマラヤ山脈]]を形成した[[プレート]]運動で、インド洋が形成され始め、[[海嶺]]が形成されると共に海底が拡大し、アフリカ、[[アラビアプレート|アラビア]]、[[インド・オーストラリアプレート|インド、オーストラリア]]などのプレートが現在の形になっていった。 === モンスーンの海 === インド洋北部は、[[モンスーン]](季節風)の影響が強く、夏は南西から北東に(東アフリカ方面からアラビア・インド方面に)、冬は北東から南西に風が吹く。海流も季節風の影響を強く受けて、夏は時計回りに、冬は反時計回りに[[海流]]が生まれる。 この時期によって一定の方向へ向かう風と海流は[[帆船]]の航行に向いていた。さらに、季節によって方向が変わるので、ある季節に出かけた船は、風向きが変わる季節に帰ってくることができる。この季節風の性質を利用して、東アフリカ・アラビア・インド間で紀元前から交易が行われてきた。 まず最初にインド洋で貿易が始まったのは、[[メソポタミア文明]]と[[インダス文明]]の間においてだった。[[ウル]]などメソポタミア文明の諸都市からは、船によって運ばれた[[ハラッパー]]製の人工物が発掘されている。[[紀元前6世紀]]には[[アケメネス朝]]ペルシアの[[ダレイオス1世]]によって[[アラビア半島]]から[[インダス川]]の探検が行われ、さらにアケメネス朝を征服したアレクサンドロス大王もインダス川から[[ユーフラテス川]]までのインド洋を[[ネアルコス]]に航海させている。こうした探検の結果、インド洋交易は盛んになっていった。 このころまではインド洋交易は大陸沿岸に沿って進むものであったが、[[紀元前120年]]から[[紀元前110年]]の間に、キュジコスのオイドクサスという航海者が紅海から大陸沿岸を経由せず直接インドへと向かう航路を開発し、以後この沖乗り航路が有力な航路となっていく<ref>「海を渡った人類の遙かな歴史 名もなき古代の海洋民はいかに航海したのか」p174 ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出書房新社 2013年5月30日初版</ref>。紀元1、2世紀ごろに書かれた『周遊記』によれば、ギリシアの商人[[ヒッパルス]]がインド洋の季節風を利用し、アラビアからインドへ沖合を航海したことから、南西風をヒッパルスの風と呼んでいたとされる。 そして、紀元後[[40年]]から[[70年]]ごろに『[[エリュトゥラー海案内記]]』が書かれる。この本には当時[[ローマ帝国]]領であったエジプトの紅海沿岸からアラビア半島、インド西海岸にいたる紅海ルートと貿易港が記載され、当時季節風を利用したローマ帝国と南インドの[[サータヴァーハナ朝]]などの諸王朝との交易の実態を示している。他にもアラビアのモカ([[イエメン]])の港から、多数の船が東アフリカに向かっていたこと、インド、マレー半島、中国の記述がある。 インドから[[マレー半島]]へと向かう[[ベンガル湾]]の航路、およびそこから[[中国]]へと向かう航路もほどなくして確立され、ここに「[[海のシルクロード]]」と呼ばれる東西通商路が完成した。166年には大秦国王安敦([[ローマ皇帝]][[アントニヌス・ピウス]]、または[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]に比定される)からの使者と称するものが[[後漢]]王朝最南端の地である日南郡(現在の[[ベトナム]]・[[フエ]]周辺)に到着したとの記述が[[後漢書]]にあり<ref>{{Cite wikisource|title=後漢書/卷88|author=范曄 司馬彪|wslanguage=zh}} 西域傳 第七十八 大秦国:「{{Lang-zh-tw|至桓帝延熹九年、大秦王安敦遣使自日南徼外獻象牙﹑犀角﹑輂瑁 始乃一通焉}}」</ref>、この時までにはインド洋の横断交易ルートは確立していたことがうかがえる。 5世紀初頭には[[法顕]]が、[[セイロン島]]からの帰路に海路を取り、ベンガル湾から[[広東]]へとたどりついた。[[671年]]には[[義浄]]が広東からシュリーヴィジャヤを通り、インドの[[ナーランダ僧院]]で仏典を学んだ後シュリーヴィジャヤ経由で帰国し、『南海寄帰内法伝』や『大唐西域求法高僧伝』を著した<ref>「世界の歴史 第13巻 アジアの多島海」p56 永積昭 講談社 昭和52年11月20日第1刷</ref>。また、この航路によりインドから東南アジアに[[ヒンドゥー教]]や[[仏教]]が伝わった。 === マレー系のマダガスカル移住 === 一方、[[1世紀]]ごろからは、インドネシア中部の[[ボルネオ島]]の[[マレー系]]の人々がインド洋中南部を突っ切り、インド洋西端の[[マダガスカル島]]への移民が行われるようになった。沿岸諸地域にマレー系民族の上陸した痕跡がないため、ボルネオの人々は[[ジャワ島]]や[[スマトラ島]]で補給を行った後、南東[[貿易風]]に乗って一気にインド洋を直航したと考えられている。この移住は数百年間続き、マダガスカル全島はほぼマレー系によって支配された。のちにインド洋交易によってやってきたアラブ人や対岸のモザンビーク付近から移住した[[バントゥー系]]諸民族がマダガスカルにやってきたものの、マダガスカルの基層文化はこのマレー人移住によって形成され、現在でも言語・文化・民族など多くの面で[[インドネシア]]や[[マレーシア]]といったマレー系民族の国家と多くの共通点を持っている。 === 海の道 === [[Image:Lamu dhow 5.JPG|right|thumbnail|200px|[[ラム (ケニア)]]近くのダウ船]] [[アッバース朝]]以降には、[[ダウ船]]と呼ばれた木製の帆船により、インドの[[香辛料]]だけではなく中国の[[絹]]や[[陶磁器]]が西へ運ばれた。西の東アフリカからは[[象牙]]・犀の角・[[鼈甲]]が、北は[[ヨーロッパ]]や[[オリエント]]から[[ガラス]]製品・[[葡萄酒]]が交易されていた。内陸部の交易路[[シルクロード]]に対して、海上交易路を[[海の道]]、あるいは[[海のシルクロード]]と呼んでいる。インド洋はその海の道の主要部を成していた。 アッバース朝は[[バグダード]]を首都としたので、[[首都]]に近いペルシア湾を中心に交易が発達した。しかし、アッバース朝の衰退・滅亡や、エジプトの[[ファーティマ朝]]や[[マムルーク朝]]の繁栄にともない、紅海を中心に帆船が行き来するようになった。これらのイスラム諸王朝を起点として多くのアラブ人商人がインド洋交易を担うようになり、10世紀以降徐々にアフリカの東海岸においてイスラム教が勢力を拡大していき、15世紀ごろまでには東アフリカの諸都市はほぼイスラム化した<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p243</ref>。このイスラム化を基に、沿岸諸都市には[[スワヒリ]]と呼ばれるイスラムの影響の強い[[バントゥー系]]文化が成立しはじめた。アフリカのインド洋交易の南端はザンベジ川河口にほど近い[[ソファラ]]であり、それ以南においては海上交易ルートは到達していなかった。 一方インド洋東部においては、[[7世紀]]ごろにスマトラ島に成立した[[シュリーヴィジャヤ王国]]がマラッカ海峡を押さえ、中国とインドの間の交易を押さえて繁栄した。しかしシュリーヴィジャヤ王国は、インド南部に本拠を置く[[チョーラ朝]]と対立するようになり、[[1025年]]にはチョーラ朝の[[ラージェーンドラ1世]]が海軍を遠征させてシュリーヴィジャヤを占領し<ref>「世界の歴史 第13巻 アジアの多島海」pp83 永積昭 講談社 昭和52年11月20日第1刷</ref>、以後インド洋東部の制海権はチョーラ朝が握ることとなった。チョーラ朝は強力な海軍を持っており、ベンガル湾やモルディブ諸島にまで影響力を拡大させていた。チョーラ朝は13世紀に滅亡するが、以後も[[パーンディヤ朝]]や[[ヴィジャヤナガル王国]]など[[南インド]]に勢力を持った諸王朝は積極的にインド洋交易をおこなった。13世紀末以降、インドネシアやマレーシアにはイスラム教が伝わるようになり、やがて仏教やヒンドゥー教に代わってこの地域の支配的な宗教となっていった。 [[13世紀]]には[[モンゴル帝国]]が[[ユーラシア大陸]]中央部をほぼ制圧するが、これによってユーラシア全域の交流が盛んになり、インド洋交易もさらに隆盛に向かった。モンゴル帝国自体も海路をよく使用し、[[マルコ・ポーロ]]も[[元王朝]]の使者に随伴して中国から海路インドを経由し[[イラン]]の[[イル・ハン国]]へ向かい、ここから[[ヴェネツィア]]へと帰還している。[[1331年]]以降、[[イブン・バットゥータ]]も東アフリカ沿岸や[[モルディブ諸島]]、インド、中国など各地を歴訪し、「[[三大陸周遊記]]」に多くの記述が残されている。 [[中国]][[明|明朝]]の[[永楽帝]]は、[[朝貢貿易]]の再開を目的に[[1405年]]以降、7回にわたって[[鄭和]]に数十隻の艦隊を与え、[[東南アジア]]からインド洋に派遣した。鄭和の艦隊は第3回航海まではインドのカリカット([[コーリコード]])までしか来なかったが、第4回以降はアラビア半島まで航海し、別働隊は東アフリカまで来航した。この航海によって中国とインド洋沿岸諸国との交流は一時増大したが、鄭和没後は明は[[海禁]]政策を取ったためこのような大艦隊を派遣することはなくなり、交流は再び縮小していった。 === ポルトガル艦隊の登場 === [[image:A chegada de Vasco da Gama a Calicute em 1498.jpg|left|thumbnail|200px|カリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマ一行]] [[1497年]]7月8日、[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]は[[ポルトガル]]の[[リスボン]]を出発した。ガマの艦隊は[[喜望峰]]を回り、[[1498年]]4月13日に[[マリンディ]]に到着した。マリンディで雇った水先案内人に導かれ、5月20日にカリカットに到着した。この航海により喜望峰回り航路を確立したポルトガルは、以後積極的に艦隊をインドへと送り、急速にインド洋での地歩を確立していった。それまでインド洋交易を握っていたイスラム諸国はこれに危機感を抱き、ペルシア湾を支配する[[オスマン帝国]]やインド洋交易西端の要衝[[エジプト]]を支配する[[マムルーク朝]]、それにインドのグジャラート・スルタン国が連合艦隊を組織したものの、[[1509年]]の[[ディーウ沖海戦]]でこの連合艦隊はポルトガルに敗れ、ポルトガルはインド洋の制海権を確立した<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p222</ref>。以降ポルトガルは積極的にインド洋沿いの要衝の攻略を進め、[[ゴア州|ゴア]](インド)、[[マラッカ]]([[マレーシア]])、[[モンバサ]]([[ケニア]])、ホルムズ([[イラン]])などを支配下に置き、インド洋交易を支配した。このポルトガル支配はアラブ人商人の影響力を一時的に減退させ、東アフリカにおいてはそれまで交易用言語として使用されていた[[アラビア語]]に代わり、ザンジバル周辺で成立していた[[スワヒリ語]]が使用されるようになり、やがて東アフリカ全体の交易用言語となっていった。しかし、ポルトガルは16世紀を通じてインド洋交易で優位を保ったものの、完全に統制下に置くことまではできなかった。ポルトガル本国の人口が少なく、広大なインド洋諸海域の隅々にまで目を光らせることができなかったうえ、[[1513年]]に要衝[[アデン]]を攻略することに失敗したため、紅海を通じてのエジプト・オスマン帝国への交易ルートを掌握することに失敗したためである。このルートを通じて地中海に到達する従来の交易ルートは[[1530年]]ごろには復活し、以後は喜望峰ルートと紅海ルートの2ルートが併存する形となった<ref>「商業史」p73 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷</ref>。 [[日本人]]のインド洋航海で氏名がはっきりしている最初のものは、[[1582年]]に[[キリシタン大名]][[大友義鎮|大友宗麟]]・[[有馬晴信]]・[[大村純忠]]らが派遣した[[天正遣欧使節]]である。[[伊東マンショ]]・[[千々石ミゲル]]ら4人の使節団は、インド洋を横断し、[[1585年]]に[[ローマ]]に着いた。なお、これより早く[[1549年]]に[[スペイン]]人[[宣教師]][[フランシスコ・ザビエル]]が日本人[[ヤジロウ]]を伴い、インドのゴアを出発し[[日本]]へ向かった。 === オランダの時代 === [[1580年]]にポルトガルがいったん[[スペイン]]に併合され、さらに[[1600年]]に[[イギリス]]が[[イギリス東インド会社]]を、[[1602年]]に[[オランダ]]が[[オランダ東インド会社]]を設立してインド洋への進出を本格化させると、ポルトガルのインド洋への影響力は衰退していった。ポルトガルに代わってインド洋交易を支配したのはオランダで、[[1617年]]に建設されたバタヴィア(現[[ジャカルタ]])を拠点として勢力を拡大していった。[[1640年]]にポルトガルは再独立するものの衰運は挽回できず、[[1641年]]には[[マラッカ]]を押さえ、17世紀のほぼ1世紀にわたってオランダの時代が続いた。この時期はオランダ、イギリスのほか、ややおくれて[[デンマーク]]が[[1612年]]に設立した[[デンマーク東インド会社]]や、[[フランス]]が実質的には[[1664年]]に設立した[[フランス東インド会社]]<ref>「商業史」p96 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷</ref>など、複数のヨーロッパ諸国の[[東インド会社]]がインド洋貿易に進出した。 === オマーンによる覇権 === [[image:Sultan's Palace, Zanzibar.JPG|right|thumbnail|200px|ザンジバルにある[[スルタン]]の宮殿]] [[17世紀]]初頭には[[オマーン]]に[[ヤアーリバ朝]]が成立し、[[1650年]]にはオマーンの出入口にあたる良港[[マスカット]](マスカト)をポルトガルから奪還した。その後、オマーンはマスカットを拠点としてインド洋交易に乗り出し、ポルトガルと激しく争うようになった。特にオマーンが目標としたのは東アフリカの交易諸都市であり、各都市では両国の戦闘がしばしばおこるようになった。 [[1698年]]にポルトガルの支配拠点であったモンバサの要塞[[ジーザス要塞|フォート・ジーザス]]がオマーンの攻撃により陥落し([[ジェズス要塞包囲戦]])<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p226</ref>、[[オマーン帝国]]によるアラビアから東アフリカまでの交易支配権が確立するかに見えた。しかし、1720年代にオマーンで[[内戦]]が始まり、その勢力は一時弱まった。モンバサをはじめとするスワヒリ諸港はオマーン貴族のもと独立していったが、ザンジバルのみはオマーン本国の元にとどまった。 やがてブーサイード族のアフマド・ブン・サイードがオマーンの支配権を確立し、[[ブーサイード朝]]を創設した。ブーサイード朝の第5代スルタンである[[サイイド・サイード]]の時代に、オマーンは東アフリカに再び進出を開始する。[[1828年]]には親征を行って東アフリカ諸港を屈服させ<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p230</ref>、[[1830年代]]には東アフリカの覇権を確立した。[[1840年]]にはサイードは[[ザンジバル諸島]]([[タンザニア]])に[[ストーン・タウン]]を建設して居を移し、[[ザンジバルシティ]]がオマーンの首都となった。しかし[[1856年]]にはサイードの死によって国は{{仮リンク|マスカット・オマーン・スルターン国|en|Muscat and Oman}}と[[ザンジバル・スルターン国]]に分割され、さらに帆船の時代から[[蒸気船]]の時代へ移ると共にイギリスの勢力が強くなり、オマーン・ザンジバル両国ともに船団を失うとともにイギリスの[[保護国]]となっていった。これに伴い、インド洋交易は完全に西洋勢力の手に握られることとなった。 === イギリスの支配 === [[18世紀]]に入ると、オランダの国力衰退に乗じてイギリスがこの地域での勢力を拡大していく。[[1700年]]にイギリスはインドから現在のカルカッタ([[コルカタ]])の元となる地域を得て、しばしばインドの政治に介入した。一方、[[1661年]]にポルトガルからイギリスに割譲された[[ボンベイ]]には、[[イギリス東インド会社]]海軍の根拠地が置かれ、この海軍がイギリスの勢力増大とともに強力なものとなっていく。[[1757年]][[プラッシーの戦い]]でフランスを追い出し、[[1820年]]ごろにはインドのほぼ全域を支配下においた。また、このインドへのルートを確保するため、[[1814年]]には[[モーリシャス島]]と[[セイシェル諸島]]を、[[1815年]]には[[ケープ植民地]]を、それぞれ正式にイギリスは獲得する。[[19世紀]]に入るとイギリス東インド会社はインド洋地域における貿易独占権を喪失し、[[P&O]]社などによる汽船航路網が整備されていったが、この汽船航路においてもイギリスは圧倒的な強さを誇っていた<ref>横井勝彦著 『アジアの海の大英帝国』 講談社 p230-232 ISBN 978-4061596412</ref>。[[1869年]]11月17日に[[スエズ運河]]が開通したことにより、イギリスのインド洋での覇権はさらに強まった。スエズ運河の開通はヨーロッパとアジアの距離を半分近くにまで縮めたため、インドや[[マレー半島]]などインド洋沿岸地域の貿易が活発化した<ref>「商業史」p260-261 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷</ref>。しかし、[[第二次世界大戦]]後、イギリスはインドを始めとする[[植民地]]を失い、イギリスは覇権を失った。 === 現代 === [[image:USS Saratoga (CV-60) moored December 1985.jpg|right|thumbnail|200px|ディエゴガルシア島に停泊する[[サラトガ (CV-60)]]。1985年12月]]イギリスに代わってこの地域の覇権を握ったのは[[アメリカ合衆国]]であり、[[ソヴィエト連邦]]との[[冷戦]]に備えるべく[[ディエゴガルシア島]]などの各地に基地を置いた。[[1990年代]]以降、[[ソマリア]]政府の崩壊とそれに続く[[ソマリア内戦]]によって地域の秩序が崩壊し、ソマリア沖を中心とするインド洋北東部において[[ソマリア沖の海賊]]が猛威を振るうようになった。これに対処するため、[[2008年]]以降世界各国が共同してこの海域に艦船を派遣し、海賊の取り締まりを行っている。 == 国際関係 == インド洋沿岸諸国は、地域内での貿易と投資の活性化を目指して[[1995年]]に[[環インド洋地域協力連合]]を設立した。この組織は[[2013年]]に環インド洋連合へと改称された。インド洋南西部にある島嶼国と地域は、[[1979年]]以降数年おき(2003年以降は4年おき)に[[インド洋諸島ゲームズ]]と呼ばれる[[総合スポーツ大会]]を開催している。[[2011年]]には、この大会には[[マダガスカル]]、[[レユニオン]]、[[モーリシャス]]、[[セーシェル]]、[[コモロ]]、[[マヨット]]、[[モルディブ]]の7か国が参加した。 == インド洋大地震 == [[ファイル:2004 Indian Ocean earthquake - affected countries.png|thumb|right|220px|被害を受けたインド洋沿岸14カ国]] {{Main|スマトラ島沖地震 (2004年)}} [[2004年]][[12月26日]]、[[スマトラ島]]北西沖のインド洋でマグニチュード 9.3 の地震が発生した。これにより起こった[[津波]]はインド洋沿岸各国で甚大な被害を出した。死者は翌2005年1月19日までに合計で226,566人、また被災者は500万人に達している。これほど被害が大きくなった原因は * 太平洋には整備されている津波警報国際ネットワークが、インド洋にはなかったこと * [[マングローブ]]が減っていたこと * 津波に対する経験と知識が不足していたこと などが挙げられる。 == ダイポールモード == [[太平洋]]で発生する[[エルニーニョ]]に似た大気海洋相互作用現象で、発生海域名称を冠しインド洋ダイポールモード現象(IOD)とも呼ばれる。アフリカとインドネシアの気候に大きな影響を与えている。 {{Main|ダイポールモード現象}} ==インド洋に接する国々== インド洋に接する国々は、[[南アフリカ共和国]]よりおおむね時計回りに次のとおりである。 ===アフリカ=== *{{ZAF}} *{{MOZ}} *{{MDG}} *''{{ATF}}'' (フランス領) *{{REU}}(フランス領) *{{MUS}} *''{{IOT}}'' (イギリス領) *''{{flagicon|Mayotte}}'' [[マヨット]] (フランス領) *{{COM}} *{{TZA}} *{{SEY}} *{{KEN}} *{{SOM}} *{{DJI}} *{{ERI}} *{{SUD}} *{{EGY}} ===アジア=== *{{ISR}} *{{JOR}} *{{SAU}} *{{YEM}} *{{OMA}} *{{UAE}} *{{QAT}} *{{BHR}} *{{KUW}} *{{IRQ}} *{{IRN}} *{{PAK}} *{{IND}} *{{MDV}} *{{LKA}} *{{BGD}} *{{BIR}} *{{THA}} *{{MYS}} *{{SIN}} *{{IDN}} *''{{CXR}}'' (オーストラリア領) *''{{CCK}}'' (オーストラリア領) *{{TLS}} ===オセアニア=== *{{flagicon|AUS}} ''[[アシュモア・カルティエ諸島]]'' (オーストラリア領) *{{AUS}} ===インド洋南部=== *{{flagicon|AUS}} ''[[ハード島とマクドナルド諸島]]'' (オーストラリア領) *''{{ATF}}'' (フランス領) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Indian_Ocean|Indian_Ocean}} * {{Kotobank}} {{世界の地理}} {{海}} {{Normdaten}} {{Coord|20|S|80|E|type:waterbody_scale:100000000|display=title}} {{DEFAULTSORT:いんとよう}} [[Category:インド洋|*]] [[Category:大洋]] [[Category:交易の歴史]]
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ペイロード
ペイロード(英語:Payload)とは、直訳的には「対価(運賃)を取る荷物」のことであるが、転じて次のように用いられる。
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ジルコニウム
ジルコニウム(ラテン語: zirconium ラテン語発音: [zɪrˈkoː.ni.ʊ̃ˑ] ズィルコーニウム、英語発音: [zɜːɹˈkoʊniəm])は、原子番号40の元素。元素記号は Zr。チタン族元素の1つ、遷移金属でもある。常温で安定な結晶構造は、六方最密充填構造 (HCP) のα型。862 °C以上で体心立方構造 (BCC) のβ型へ転移する。比重は6.5、融点は1852 °C。銀白色の金属で、常温で酸、アルカリに対して安定。耐食性があり、空気中では酸化被膜ができ内部が侵されにくくなる。高温では、酸素、窒素、水素、ハロゲンなどと反応して、多様な化合物を形成する。 元素名は、宝石のジルコン(アラビア語で金色を表す zarqun)が語源。 ジルコニウムは金属の中で熱中性子の吸収断面積が最小のため、ジルカロイと呼ばれるジルコニウム合金が原子炉の燃料棒の被覆材料(燃料被覆管)や沸騰水型原子炉用燃料集合体のチャンネルボックスの材料として利用される。燃料被覆管を形成する際には、原子炉に入れたときにα相(稠密六方格子)の底面に水素化物が析出しやすく、それが原因で被覆管が破損する可能性があるため、ロールダイスにより管を回転往復させながら圧延するピルガー式圧延法を用いる。沸騰水型軽水炉ではα領域内の高温 (580 °C) で最終真空中で焼鈍した再結晶材を使用し、加圧水型軽水炉では再結晶が生じていない450 °C程度真空中で焼鈍を行った歪み取り焼鈍材を使用する。 二酸化ジルコニウムは、白色顔料などに使われている他、圧電素子、コンデンサー、ガラス、差し歯や歯のブリッジ、ボールベアリング、セラミックの刃物など、あるいは陽極酸化によって発色する特性を活かして宝飾品などに使われている。 1798年、マルティン・ハインリヒ・クラプロートがジルコンから発見。1824年にイェンス・ベルセリウスにより、フッ化カリウムジルコニウムをカリウムで還元することによって初めて金属分離された。 1944年、福島県塙町真名畑鉱山でジルコニウムの鉱脈が初めて発見される。第二次世界大戦中のことでもあり、国内で希元素が確保されたという点で話題となった。 高温での酸化反応、および陽極酸化反応は次式で表される。 2011年における国別の産出量は以下の通りである(2011)。
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ジルコニウムは、原子番号40の元素。元素記号は Zr。チタン族元素の1つ、遷移金属でもある。常温で安定な結晶構造は、六方最密充填構造 (HCP) のα型。862 ℃以上で体心立方構造 (BCC) のβ型へ転移する。比重は6.5、融点は1852 ℃。銀白色の金属で、常温で酸、アルカリに対して安定。耐食性があり、空気中では酸化被膜ができ内部が侵されにくくなる。高温では、酸素、窒素、水素、ハロゲンなどと反応して、多様な化合物を形成する。
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近代音楽
近代音楽(きんだいおんがく)は、西洋のクラシック音楽においておおよそ20世紀初頭(あるいは19世紀末)頃から第二次世界大戦の終わり頃までの音楽を指す。 それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれるが、本稿で扱う近代音楽に対しての現代音楽との境界は現在も議論が続き、第二次世界大戦後、1950年などいくつかの意見がある。また、このような分類をしないで20世紀以降を全てまとめて現代音楽とするという考えもある。本稿では冒頭の通り、20世紀初頭から第二次世界大戦の終わりまでを近代音楽と定義する。 20世紀初頭から第一次世界大戦までは、後期ロマン派の延長上にある音楽がドイツ語圏、特にオーストリアのウィーンを中心に多く作られた。マーラーやリヒャルト・シュトラウスなどがその代表と言える。またツェムリンスキーから新ウィーン楽派の初期にかけてが、この後期ロマン派の最後期と見てよい。シェーンベルクの「浄夜」「ペレアスとメリザンド」「グレの歌」、ベルクの「ピアノソナタ」、ヴェーベルンの「夏風の中で」などがそれにあたる。 シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンはそれらの初期作品の後、1908年頃から徐々に調性を放棄し無調による表現主義と呼ばれる作風へ至った。また1920年代にはそれを組織化する手段として十二音技法を生み出し、以後この技法による表現の可能性を各人がそれぞれ独自性をも示しつつ探求した。 これに対し、ツェムリンスキーやシュレーカーは機能和声からは離脱し、部分的には複調も取り入れつつも、その後も後期ロマン派の香りを留めた調的作品を残した。 新ウィーン楽派の影響を受けたその後の世代の作曲家にはクレネクやアイスラーがいる。クレネクは若い頃は新古典主義様式による歌劇を大ヒットさせたりしていたが、1930年代後半からは十二音技法を取り入れた。アイスラーは無調や十二音技法の影響をうけつつも、政治的作品を多く残し、大衆への訴えのために平明な調的語法も用いた。 新ウィーン楽派以外の動向では、拡大された調性によるネオ・バオック的新即物主義、新古典主義のヒンデミットがドイツ語圏では最も強い影響力を持っていた。そのほか、近代的な味付けを施して後期ロマン派を継続させたコルンゴルト、無調や複調を用いて20世紀の不安を暴力的に描くK・A・ハルトマン、独特なオスティナート語法が特徴的なカール・オルフなどが挙げられる。その後の世代としては、ブラッハー、アイネムなどがヒンデミット的な全音階的調的語法を受け継いだ。 フランスではサン=サーンス、フォーレ、ショーソンといった19世紀後半より活躍した作曲家たちが、ワーグナーの影響を受けながらもフランス独特の音楽様式を確立していた。その様式のエスプリ(精神)は保ちながらも、音楽的には機能和声の放棄というまったく新しい語法を開拓したのがドビュッシーであり、ラヴェルと共に美術の印象派(印象主義)になぞらえて「印象主義の音楽」と呼ばれた。(どちらが先かという問題に対しては、関係項目を参照)。彼らは感覚的ではあるが高次倍音を取り込んだ新たな和声や、聴き手に視覚的な印象を想起させる色彩的で遠近法的な管弦楽法を生み出した。またドビュッシーによってはじめて多用された全音音階は、調性感覚を薄める音楽語法の一つとして注目され、以後多くの作曲家が追随した(全音音階は部分的な使用についてはグリンカなどにも先例があるが、繰り返し使用して一般に認知されたのはドビュッシーからである)。 フランス六人組と呼ばれる作曲家およびその周辺の同世代の作曲家(イベールやルーセルなど)は、年長のサティを旗印とし(ただし後に一部は絶交)、美術家のピカソや詩人コクトーらとも関わりながら新古典主義の音楽活動を展開した。 フランス楽派と呼ばれる演奏流儀が、パリ音楽院の器楽科を中心として20世紀初頭ごろより勃興した。特に木管楽器は楽器の改良と共に奏者の技術も目覚しく発展し、それに伴い多くのフランスの作曲家が、日々進歩する楽器の性能を駆使しつつ多くの新しい曲を生み出した。木管楽器奏者のソロや室内楽のレパートリーには、現在もなおこの時代のフランスの音楽が多い。 またオルガン音楽もこの頃特に盛んであった。オルガンは主に教会のミサで演奏されることが多く(フランスはカトリック国であり、ほとんどの教会はカトリックのしきたりに沿ってミサを行う)、司祭をはじめ会場の動きや時間配分に合わせて即興演奏を行う必要がある。よってオルガンには即興演奏が付きものなのだが、19世紀のフランク以来の流儀を引き継いで、フランスのオルガン音楽は即興のみならず目覚しい発展を遂げた。またもちろん、優れた即興を書き留めてそれを元に作品を練り上げることもあった。この分野ではデュプレをはじめ、後述のトゥルヌミールやジャン・アラン、さらにヴィドール、デュリュフレなどが挙げられる。メシアンもオルガニストとして活躍し、生涯の広範囲にわたって多くの優れたオルガン音楽を作曲している。 フランス六人組よりもさらに若い世代として、ジュヌ・フランス(若きフランス)と呼ばれる作曲家グループが結成された。主要なメンバーはメシアン、デュティユー、ジョリヴェである。彼らはその活動の最初期において、フランス近代音楽の潮流を引き継ぎつつも、調性音楽からの乖離を試みた。しかし新ウィーン楽派のように、旋法性などをも全面的に否定した訳ではなかった。その他、オルガン音楽の分野で有名なトゥルヌミール、ジュアン・アランらもメンバーであった。ジュアン・アランはオルガニスト・マリー=クレール・アランの兄であり、彼自身もオルガン曲を中心に活発な作曲活動をしていたが、第二次世界大戦で戦死した。 特筆すべきは、メシアンが1930年代に本格的な作曲活動を開始したばかりの頃、同時期に生まれたばかりの新しい電子楽器オンド・マルトノを複数用いて作曲していることが挙げられる。委嘱による機会ではあったが、その中の1曲「美しき水の祭典」は、その後彼が第二次世界大戦で捕虜となった際に書かれて代表作の1つとなった「世の終わりのための四重奏曲」に転用している。ジョリヴェも戦後まもなく「オンド・マルトノ協奏曲」を作曲した。 オペラにおいては、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の大成功(1890年)を受け、ヴェリズモ・オペラの流行が起きた。同作およびレオンカヴァッロの「道化師」の2作がその傾向の代表作とされる。彼らと同世代に属するプッチーニはもともとヴェリズモの影響を受けつつ後期ロマン派の作風から出発したが、20世紀に入ると全音音階や激しい不協和音・平行5度を多用するなど、部分的には同時代の先端の技法を取り入れていて、イタリア印象主義音楽の先駆者となった。 イタリアの音楽界は圧倒的にオペラ中心であり、演奏会用の管弦楽や室内楽を積極的に書く作曲家はなかなか現れなかった。そこに現れたのがレスピーギである。中でも「ローマの松」において、実際の鳥の声を録音したものを上演中に再生して使用する試みは注目に値する。レスピーギはまた旋法の復興にも熱心であり、この点では同時代のフランス音楽とも共通する語法を探求したと言える。レスピーギと同世代のカゼッラ、マリピエロ、ピツェッティの3人は複調や新古典主義などの近代的語法をより本格的に取り入れ、イタリア近代音楽に大きく貢献した。 前衛的な活動としてはダラピッコラによって、イタリアにおける最初期の十二音技法の試行が挙げられる。実際は同時期にシェルシによっても同様の試みが行われていたが、シェルシにとって十二音技法は自己の語法とあまりにかけ離れており、結果的に精神的破綻を起こしてしまう。以後は異なる作風に転向した。シェルシの音楽は1980年代のケルンのISCMの現代音楽祭でツェンダーにより指揮され、ようやく世界的に認識された。 19世紀の音楽はドイツ語圏が大きな中心となっていた。それに対していわゆる周辺国の作曲家が独自の民族的な音楽語法を探索する動きもすでに起こっていたが、20世紀以降に新たな展開を見せた。 日本においても伊福部昭などにより民族主義が試みられているが、これは概論(日本)において記す。 北欧では、フィンランドのシベリウスが帝政ロシア支配下のフィンランドで民族的な題材やメッセージを込めた音楽を多く世界に発信し、その後独自の音楽語法を発展させて、フィンランドの国民的作曲家となっていたが、そのスタイルは後期ロマン派と伝統的調性から大きく離れるものではなかった。デンマークのニールセンも同様に後期ロマン派様式を基本としていたものの、リズムの扱いや複調の導入などでより近代的な面を持っている。この1860年代から1870年代生まれの世代には、他にもスウェーデンのアルヴェーンやステンハンマルなどがいるが、いずれも後期ロマン派様式の範疇にある。北欧の音楽がより近代音楽としての性格を持ち始めるのは、より後の世代の作曲家からである。アーッレ・メリカントはフィンランドにいながらにして、世界的に見ても最も前衛的な立場を取る作曲家の1人であった。ノルウェーのヴァーレン(英語版)は無調や十二音技法による作品を残し、「北欧のシェーンベルク」などとも呼ばれた。スウェーデンのアラン・ペッタションは17曲に及ぶ無調の長大な交響曲を残している。 中欧・東欧ではまずハンガリーのバルトークとコダーイの2人が挙げられる。特にバルトークは民族的な語法から純粋な音楽現象としての作曲理論を確立させ、調性音楽における転調理論の極限までの発展と、新ウィーン楽派の十二音技法とは別の流儀での12半音階の完全組織化を試み中心軸システムと呼ばれる音組織やフィボナッチ数列を用いた独自の作品を残した。 チェコではシュレーカーやニールセンと同様の後期ロマン派と近代の架け橋的存在としてスーク、ノヴァーク、より民族主義的独自性の強いヤナーチェクがおり、より後の世代としては新古典主義に進んだマルティヌー、微分音を追求したハーバがいる。ポーランドではシマノフスキが重要な存在で、ポーランド楽派の基礎となった。一連の交響曲などによって民族的でありながら同時に極めて印象主義的な作風を示している。 ロシアの近代音楽に相当するのは国民楽派以後の作曲家だが、とりわけスクリャービン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、それにショスタコーヴィチが代表的な存在である。 スクリャービンは前期においてはショパンやワーグナーの影響を示す後期ロマン派様式の作品を書いていたが、やがて独自の神秘和音などの技法を発展させて機能和声から離脱し、晩年には無調に到達した。 ロシア革命前後のソ連では、前衛的社会を建設しようとする社会気風と相まってロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる前衛的な芸術運動が生まれ、音楽においてはロースラヴェツやモソロフらがスクリャービンの後期の様式をもとに前衛的な作品を生み出したが、スターリン体制の成立と共に前衛的芸術活動は弾圧され、作風の変更を余儀なくされた。 またこの頃ディアギレフが主宰するロシア・バレエ団(バレエ・リュス)がパリで活躍し、多くの作曲家にバレエ音楽を委嘱した。前述のフランスのドビュッシーやラヴェルも、彼らの代表作の1つとなるような作品を残したが、このバレエ団によって世にその名を轟かせたのはなんといっても、この時代にロシア革命を逃れてフランスで活動したストラヴィンスキーだろう。初期三大バレエと呼ばれる「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」を続けて発表するが、3作目の「春の祭典」はあまりにショッキングな作風のため、会場のシャンゼリゼ劇場は演奏中から乱闘騒ぎを起こし、空前絶後の混乱に陥った(ただし、パリ市民の音楽界での乱闘騒ぎは、過去にワーグナーの「タンホイザー」パリ初演などの例がある)。しかし翌年演奏会形式で再演したときには好評を持って迎え入れられ、新たな音楽の潮流として世に認められた。ストラヴィンスキーはその後1920年代には新古典主義に転向し、1939年アメリカへ渡ると、1950年代からは音列技法へ進んだ。 プロコフィエフは初期にはストラヴィンスキーの原始主義に接近して交響曲第2番、第3番などを書き、また同時に新古典主義様式の「古典交響曲」などを作曲していたが、亡命先からロシアへ帰国した後は、新ロマン主義的ともいえる社会主義リアリズムの作風に進んだ。ハチャトゥリアンはアルメニアの民族音楽と深く結びついた社会主義リアリズムの作風を持つ。ショスタコーヴィッチはシェルシのような即興音楽と深い関係があり、バッハの対位法やベートーヴェンの動機展開なども独特に駆使したが、政治的圧力との戦いによって後に前衛的な手法を放棄または隠すざるを得なかった、運命的に後のユン・イサンやノーノに見られる政治音楽の先駆者でもある。 エルガーのような純粋に後期ロマン派の作曲家よりも後の世代では、「イギリス印象派」とも呼べる作曲家たちを挙げる事ができる。すなわちヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ディーリアスらである。ディーリアスのみが完全な印象主義の手法で作品を発表しているが、他の作曲家はロマン派との手法が混在している。これに対し、ウォルトンはより不協和で近代的な作風を持ち、さらに後の世代ではティペットやブリテンが重要な存在である。 この項のいずれの作曲家もスペインの民族音楽と深く結びついている。また、主要な作曲家全員がパリで学んでおり、印象主義を始めとしたフランス音楽の要素を自らの作品に取り込んでいる。 後期のアルベニスは教会旋法や2度和音を活用した非常に斬新なピアノ作品をいくつか手がけた。代表曲は「イベリア」である。 ファリャは「三角帽子」における運命の動機の引用や「クラヴサン協奏曲」等、新古典主義の傾向見られる。 他にロマン主義的な作風を最後まで貫いたグラナドス、「イベリア」やとりわけ同世代のフランス音楽の影響が強いトゥリーナ、印象主義的な静謐な作風の曲を多く手がけたモンポウらがいる。 アメリカで新しく生まれた音楽として、ジャズが挙げられる。一般的にはクラシック音楽とジャズは切り離して語られるものであり、詳細はジャズの項に譲るが、このジャズ(最初期のディキシーランド・ジャズやスウィング・ジャズ)をたくみに取り入れた作曲家としてガーシュウィンが挙げられる。 ガーシュウィンはジャズを取り入れた「ラプソディー・イン・ブルー」によって一躍有名となり、後には「パリのアメリカ人」や歌劇「ポーギーとベス」やミュージカルなどを書くが、多忙が祟って39歳で病死した。 ガーシュウィンと同じくユダヤ人のアーロン・コープランドは1900年の生まれだが、様式的には近代音楽に入れられる。アメリカ人で最初のアメリカらしい作品を書いたことで有名で、「エル・サロン・メヒコ」などのようにラテン音楽からのイディオムも使ってはいるが、多くは三大バレエのように映画音楽からの敷衍である。これらを総合した物に交響曲第3番がある。その同じユダヤ系の弟子のレナード・バーンスタインは「ウェスト・サイド・ストーリー」のようにむしろポピュラー系のミュージカルによって圧倒的に知られているが、本人の志向していたのはむしろ別で、3つの交響曲などの近代・現代手法の混合したテクニックによる一流の構成法で垣間見る事ができる。 アイヴズ、エリオット・カーター、ヴァレーズなど戦前の前衛音楽については現代音楽に分類される事が多い。 ここでは明治維新以降の西洋音楽の受容から民族主義、戦時中の動向について記す。 日本では1879年(明治12年)に東京藝術大学の前身である音楽取調掛が設けられ、音楽研究および西洋音楽をベースとした音楽教育(唱歌教育)の形成の取り組みが始められた。1881年(明治14年)に『小学唱歌集』初編の出版届け出がなされる。 音楽取調掛を率いたのは伊沢修二だが、ほかに神津仙三郎(専三郎とも)、山勢松韻、内田彌一、芝葛鎮(ふじつね)、上眞行(うえ・さねみち)らの名を挙げることができる。後に近代的な日本美術の形成に力を尽くすことになる岡倉覚三(岡倉天心)は、音楽取調掛の最初期に通訳としてかかわった。 さらに、米国の音楽教育家であるメーソンの存在を忘れるわけにはいかない。メーソンは1880年(明治13年)の春に来日、1882年(明治15年)の夏まで滞日して、明治国家の西洋音楽受容に一定の役割を果たしたと言える。メーソン離日後、しばらく後任はいなかった。1883年(明治16年)6月からは、かねてより海軍軍楽隊教師として滞日していたエッケルト(ドイツ)が、音楽取調掛を指導するようになる。日本のドイツ音楽偏重志向はこのときから始まると言えるかもしれない。 音楽取調掛は一時音楽取調所と称されるが、またすぐに元に戻る。1887年(明治20年)には東京音楽学校に昇格した。 のちに瀧廉太郎がドイツへ留学し、日本人による初の西洋音楽の様式による作曲が行われる。滝が世に出した器楽曲はピアノのためのメヌエットと憾みの2つであった。滝は留学直前に多くの唱歌(幼稚園唱歌、小学唱歌など)を作曲するが、ライプツィヒ留学中に結核に罹り、中退・帰国後に夭折してしまう。 滝の跡を継いで日本の洋楽シーンを牽引したのは山田耕筰である。山田はドイツに留学し、日本人初のオーケストラ曲「序曲ニ長調」、交響曲「勝鬨(かちどき)と平和」といういずれもドイツ中期ロマン派の伝統を継ぐ師のブルッフの語法に沿った作品を相次いで発表する。その後、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスなど後期ロマン派の影響を受けた音詩『曼陀羅の華』、『暗い扉』などを発表。帰国後に指揮者としてまず日本のオーケストラ運動を興すが挫折し、アメリカへ渡って自作を紹介するなどして成功した後に日本で作曲と指揮の両面で活動を再開、日本で初めての本格的なオペラ「黒船」を作曲するなど多方面で活動した。 明治以降日本の洋楽シーンはドイツ偏重だったが、池内友次郎はフランスに渡り、近代フランス音楽の様式を日本に持ち込んだ。 諸井三郎などのドイツ派、池内友次郎などのフランス派の2大アカデミズムが東京音楽学校において日本の洋楽シーンを席巻していたが、一方で昭和に入ると、松平頼則、伊福部昭、早坂文雄のように独学や東京音楽学校とは無縁の出自を持つ作曲家も現れた。彼らは戦後まもなく新作曲派協会を結成することになる。 複数の分野にまたがる作曲家を含む。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "近代音楽(きんだいおんがく)は、西洋のクラシック音楽においておおよそ20世紀初頭(あるいは19世紀末)頃から第二次世界大戦の終わり頃までの音楽を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれるが、本稿で扱う近代音楽に対しての現代音楽との境界は現在も議論が続き、第二次世界大戦後、1950年などいくつかの意見がある。また、このような分類をしないで20世紀以降を全てまとめて現代音楽とするという考えもある。本稿では冒頭の通り、20世紀初頭から第二次世界大戦の終わりまでを近代音楽と定義する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "20世紀初頭から第一次世界大戦までは、後期ロマン派の延長上にある音楽がドイツ語圏、特にオーストリアのウィーンを中心に多く作られた。マーラーやリヒャルト・シュトラウスなどがその代表と言える。またツェムリンスキーから新ウィーン楽派の初期にかけてが、この後期ロマン派の最後期と見てよい。シェーンベルクの「浄夜」「ペレアスとメリザンド」「グレの歌」、ベルクの「ピアノソナタ」、ヴェーベルンの「夏風の中で」などがそれにあたる。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンはそれらの初期作品の後、1908年頃から徐々に調性を放棄し無調による表現主義と呼ばれる作風へ至った。また1920年代にはそれを組織化する手段として十二音技法を生み出し、以後この技法による表現の可能性を各人がそれぞれ独自性をも示しつつ探求した。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "これに対し、ツェムリンスキーやシュレーカーは機能和声からは離脱し、部分的には複調も取り入れつつも、その後も後期ロマン派の香りを留めた調的作品を残した。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "新ウィーン楽派の影響を受けたその後の世代の作曲家にはクレネクやアイスラーがいる。クレネクは若い頃は新古典主義様式による歌劇を大ヒットさせたりしていたが、1930年代後半からは十二音技法を取り入れた。アイスラーは無調や十二音技法の影響をうけつつも、政治的作品を多く残し、大衆への訴えのために平明な調的語法も用いた。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "新ウィーン楽派以外の動向では、拡大された調性によるネオ・バオック的新即物主義、新古典主義のヒンデミットがドイツ語圏では最も強い影響力を持っていた。そのほか、近代的な味付けを施して後期ロマン派を継続させたコルンゴルト、無調や複調を用いて20世紀の不安を暴力的に描くK・A・ハルトマン、独特なオスティナート語法が特徴的なカール・オルフなどが挙げられる。その後の世代としては、ブラッハー、アイネムなどがヒンデミット的な全音階的調的語法を受け継いだ。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "フランスではサン=サーンス、フォーレ、ショーソンといった19世紀後半より活躍した作曲家たちが、ワーグナーの影響を受けながらもフランス独特の音楽様式を確立していた。その様式のエスプリ(精神)は保ちながらも、音楽的には機能和声の放棄というまったく新しい語法を開拓したのがドビュッシーであり、ラヴェルと共に美術の印象派(印象主義)になぞらえて「印象主義の音楽」と呼ばれた。(どちらが先かという問題に対しては、関係項目を参照)。彼らは感覚的ではあるが高次倍音を取り込んだ新たな和声や、聴き手に視覚的な印象を想起させる色彩的で遠近法的な管弦楽法を生み出した。またドビュッシーによってはじめて多用された全音音階は、調性感覚を薄める音楽語法の一つとして注目され、以後多くの作曲家が追随した(全音音階は部分的な使用についてはグリンカなどにも先例があるが、繰り返し使用して一般に認知されたのはドビュッシーからである)。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "フランス六人組と呼ばれる作曲家およびその周辺の同世代の作曲家(イベールやルーセルなど)は、年長のサティを旗印とし(ただし後に一部は絶交)、美術家のピカソや詩人コクトーらとも関わりながら新古典主義の音楽活動を展開した。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "フランス楽派と呼ばれる演奏流儀が、パリ音楽院の器楽科を中心として20世紀初頭ごろより勃興した。特に木管楽器は楽器の改良と共に奏者の技術も目覚しく発展し、それに伴い多くのフランスの作曲家が、日々進歩する楽器の性能を駆使しつつ多くの新しい曲を生み出した。木管楽器奏者のソロや室内楽のレパートリーには、現在もなおこの時代のフランスの音楽が多い。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "またオルガン音楽もこの頃特に盛んであった。オルガンは主に教会のミサで演奏されることが多く(フランスはカトリック国であり、ほとんどの教会はカトリックのしきたりに沿ってミサを行う)、司祭をはじめ会場の動きや時間配分に合わせて即興演奏を行う必要がある。よってオルガンには即興演奏が付きものなのだが、19世紀のフランク以来の流儀を引き継いで、フランスのオルガン音楽は即興のみならず目覚しい発展を遂げた。またもちろん、優れた即興を書き留めてそれを元に作品を練り上げることもあった。この分野ではデュプレをはじめ、後述のトゥルヌミールやジャン・アラン、さらにヴィドール、デュリュフレなどが挙げられる。メシアンもオルガニストとして活躍し、生涯の広範囲にわたって多くの優れたオルガン音楽を作曲している。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "フランス六人組よりもさらに若い世代として、ジュヌ・フランス(若きフランス)と呼ばれる作曲家グループが結成された。主要なメンバーはメシアン、デュティユー、ジョリヴェである。彼らはその活動の最初期において、フランス近代音楽の潮流を引き継ぎつつも、調性音楽からの乖離を試みた。しかし新ウィーン楽派のように、旋法性などをも全面的に否定した訳ではなかった。その他、オルガン音楽の分野で有名なトゥルヌミール、ジュアン・アランらもメンバーであった。ジュアン・アランはオルガニスト・マリー=クレール・アランの兄であり、彼自身もオルガン曲を中心に活発な作曲活動をしていたが、第二次世界大戦で戦死した。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "特筆すべきは、メシアンが1930年代に本格的な作曲活動を開始したばかりの頃、同時期に生まれたばかりの新しい電子楽器オンド・マルトノを複数用いて作曲していることが挙げられる。委嘱による機会ではあったが、その中の1曲「美しき水の祭典」は、その後彼が第二次世界大戦で捕虜となった際に書かれて代表作の1つとなった「世の終わりのための四重奏曲」に転用している。ジョリヴェも戦後まもなく「オンド・マルトノ協奏曲」を作曲した。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "オペラにおいては、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の大成功(1890年)を受け、ヴェリズモ・オペラの流行が起きた。同作およびレオンカヴァッロの「道化師」の2作がその傾向の代表作とされる。彼らと同世代に属するプッチーニはもともとヴェリズモの影響を受けつつ後期ロマン派の作風から出発したが、20世紀に入ると全音音階や激しい不協和音・平行5度を多用するなど、部分的には同時代の先端の技法を取り入れていて、イタリア印象主義音楽の先駆者となった。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "イタリアの音楽界は圧倒的にオペラ中心であり、演奏会用の管弦楽や室内楽を積極的に書く作曲家はなかなか現れなかった。そこに現れたのがレスピーギである。中でも「ローマの松」において、実際の鳥の声を録音したものを上演中に再生して使用する試みは注目に値する。レスピーギはまた旋法の復興にも熱心であり、この点では同時代のフランス音楽とも共通する語法を探求したと言える。レスピーギと同世代のカゼッラ、マリピエロ、ピツェッティの3人は複調や新古典主義などの近代的語法をより本格的に取り入れ、イタリア近代音楽に大きく貢献した。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前衛的な活動としてはダラピッコラによって、イタリアにおける最初期の十二音技法の試行が挙げられる。実際は同時期にシェルシによっても同様の試みが行われていたが、シェルシにとって十二音技法は自己の語法とあまりにかけ離れており、結果的に精神的破綻を起こしてしまう。以後は異なる作風に転向した。シェルシの音楽は1980年代のケルンのISCMの現代音楽祭でツェンダーにより指揮され、ようやく世界的に認識された。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "19世紀の音楽はドイツ語圏が大きな中心となっていた。それに対していわゆる周辺国の作曲家が独自の民族的な音楽語法を探索する動きもすでに起こっていたが、20世紀以降に新たな展開を見せた。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本においても伊福部昭などにより民族主義が試みられているが、これは概論(日本)において記す。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "北欧では、フィンランドのシベリウスが帝政ロシア支配下のフィンランドで民族的な題材やメッセージを込めた音楽を多く世界に発信し、その後独自の音楽語法を発展させて、フィンランドの国民的作曲家となっていたが、そのスタイルは後期ロマン派と伝統的調性から大きく離れるものではなかった。デンマークのニールセンも同様に後期ロマン派様式を基本としていたものの、リズムの扱いや複調の導入などでより近代的な面を持っている。この1860年代から1870年代生まれの世代には、他にもスウェーデンのアルヴェーンやステンハンマルなどがいるが、いずれも後期ロマン派様式の範疇にある。北欧の音楽がより近代音楽としての性格を持ち始めるのは、より後の世代の作曲家からである。アーッレ・メリカントはフィンランドにいながらにして、世界的に見ても最も前衛的な立場を取る作曲家の1人であった。ノルウェーのヴァーレン(英語版)は無調や十二音技法による作品を残し、「北欧のシェーンベルク」などとも呼ばれた。スウェーデンのアラン・ペッタションは17曲に及ぶ無調の長大な交響曲を残している。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "中欧・東欧ではまずハンガリーのバルトークとコダーイの2人が挙げられる。特にバルトークは民族的な語法から純粋な音楽現象としての作曲理論を確立させ、調性音楽における転調理論の極限までの発展と、新ウィーン楽派の十二音技法とは別の流儀での12半音階の完全組織化を試み中心軸システムと呼ばれる音組織やフィボナッチ数列を用いた独自の作品を残した。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "チェコではシュレーカーやニールセンと同様の後期ロマン派と近代の架け橋的存在としてスーク、ノヴァーク、より民族主義的独自性の強いヤナーチェクがおり、より後の世代としては新古典主義に進んだマルティヌー、微分音を追求したハーバがいる。ポーランドではシマノフスキが重要な存在で、ポーランド楽派の基礎となった。一連の交響曲などによって民族的でありながら同時に極めて印象主義的な作風を示している。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ロシアの近代音楽に相当するのは国民楽派以後の作曲家だが、とりわけスクリャービン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、それにショスタコーヴィチが代表的な存在である。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "スクリャービンは前期においてはショパンやワーグナーの影響を示す後期ロマン派様式の作品を書いていたが、やがて独自の神秘和音などの技法を発展させて機能和声から離脱し、晩年には無調に到達した。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ロシア革命前後のソ連では、前衛的社会を建設しようとする社会気風と相まってロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる前衛的な芸術運動が生まれ、音楽においてはロースラヴェツやモソロフらがスクリャービンの後期の様式をもとに前衛的な作品を生み出したが、スターリン体制の成立と共に前衛的芸術活動は弾圧され、作風の変更を余儀なくされた。", "title": "概論(ヨーロッパ)" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": 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近代音楽(きんだいおんがく)は、西洋のクラシック音楽においておおよそ20世紀初頭(あるいは19世紀末)頃から第二次世界大戦の終わり頃までの音楽を指す。 それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれるが、本稿で扱う近代音楽に対しての現代音楽との境界は現在も議論が続き、第二次世界大戦後、1950年などいくつかの意見がある。また、このような分類をしないで20世紀以降を全てまとめて現代音楽とするという考えもある。本稿では冒頭の通り、20世紀初頭から第二次世界大戦の終わりまでを近代音楽と定義する。
{{出典の明記|date=2012年10月1日 (月) 07:12 (UTC)}} {{Portal クラシック音楽}} '''近代音楽'''(きんだいおんがく)は、[[西洋]]の[[クラシック音楽]]においておおよそ[[20世紀]]初頭(あるいは[[19世紀]]末)頃から[[第二次世界大戦]]の終わり頃までの音楽を指す。 それ以降の音楽は[[現代音楽]]と呼ばれるが、本稿で扱う近代音楽に対しての現代音楽との境界は現在も議論が続き、[[第二次世界大戦]]後、[[1950年]]などいくつかの意見がある。また、このような分類をしないで20世紀以降を全てまとめて現代音楽とするという考えもある。本稿では冒頭の通り、[[1901年|20世紀初頭]]から[[第二次世界大戦]]の終わりまでを近代音楽と定義する。 == 概論(ヨーロッパ) == === ドイツ語圏 === ==== 後期ロマン派の延長から無調音楽へ ==== [[20世紀]]初頭から[[第一次世界大戦]]までは、[[後期ロマン派]]の延長上にある音楽が[[ドイツ語圏]]、特に[[オーストリア]]の[[ウィーン]]を中心に多く作られた。[[グスタフ・マーラー|マーラー]]や[[リヒャルト・シュトラウス]]などがその代表と言える。また[[アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー|ツェムリンスキー]]から[[新ウィーン楽派]]の初期にかけてが、この後期ロマン派の最後期と見てよい。[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]の「[[浄められた夜|浄夜]]」「[[ペレアスとメリザンド (シェーンベルク)|ペレアスとメリザンド]]」「[[グレの歌]]」、[[アルバン・ベルク|ベルク]]の「[[ピアノソナタ (ベルク)|ピアノソナタ]]」、[[アントン・ヴェーベルン|ヴェーベルン]]の「[[夏風の中で]]」などがそれにあたる。 シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンはそれらの初期作品の後、[[1908年]]頃から徐々に調性を放棄し[[無調]]による[[表現主義音楽|表現主義]]と呼ばれる作風へ至った。また1920年代にはそれを組織化する手段として[[十二音技法]]を生み出し、以後この技法による表現の可能性を各人がそれぞれ独自性をも示しつつ探求した。 これに対し、ツェムリンスキーや[[フランツ・シュレーカー|シュレーカー]]は[[機能和声]]からは離脱し、部分的には[[複調]]も取り入れつつも、その後も後期ロマン派の香りを留めた調的作品を残した。 新ウィーン楽派の影響を受けたその後の世代の作曲家には[[エルンスト・クルシェネク|クレネク]]や[[ハンス・アイスラー|アイスラー]]がいる。クレネクは若い頃は[[新古典主義音楽|新古典主義]]様式による歌劇を大ヒットさせたりしていたが、1930年代後半からは十二音技法を取り入れた。アイスラーは無調や十二音技法の影響をうけつつも、政治的作品を多く残し、大衆への訴えのために平明な調的語法も用いた。 ==== その他のドイツ語圏の動向 ==== 新ウィーン楽派以外の動向では、拡大された調性によるネオ・バオック的[[新即物主義]]、[[新古典主義音楽|新古典主義]]の[[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]]がドイツ語圏では最も強い影響力を持っていた。そのほか、近代的な味付けを施して後期ロマン派を継続させた[[エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト|コルンゴルト]]、無調や[[複調]]を用いて20世紀の不安を暴力的に描く[[カール・アマデウス・ハルトマン|K・A・ハルトマン]]、独特なオスティナート語法が特徴的な[[カール・オルフ]]などが挙げられる。その後の世代としては、[[ボリス・ブラッハー|ブラッハー]]、[[ゴットフリート・フォン・アイネム|アイネム]]などがヒンデミット的な[[全音階]]的調的語法を受け継いだ。 === フランスおよびフランス語圏 === ==== 印象主義、原始主義の音楽とロシア・バレエ団 ==== [[フランス]]では[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]、[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]、[[エルネスト・ショーソン|ショーソン]]といった19世紀後半より活躍した作曲家たちが、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響を受けながらもフランス独特の音楽様式を確立していた。その様式のエスプリ(精神)は保ちながらも、音楽的には[[機能和声]]の放棄というまったく新しい語法を開拓したのが[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]であり、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]と共に美術の[[印象派]](印象主義)になぞらえて「[[印象主義音楽|印象主義の音楽]]」と呼ばれた。(どちらが先かという問題に対しては、関係項目を参照)。彼らは感覚的ではあるが高次倍音を取り込んだ新たな和声や、聴き手に視覚的な印象を想起させる色彩的で遠近法的な管弦楽法を生み出した。またドビュッシーによってはじめて多用された[[全音音階]]は、調性感覚を薄める音楽語法の一つとして注目され、以後多くの作曲家が追随した(全音音階は部分的な使用については[[ミハイル・グリンカ|グリンカ]]などにも先例があるが、繰り返し使用して一般に認知されたのはドビュッシーからである)。 ==== 新古典主義 ==== [[フランス六人組]]と呼ばれる作曲家およびその周辺の同世代の作曲家([[ジャック・イベール|イベール]]や[[アルベール・ルーセル|ルーセル]]など)は、年長の[[エリック・サティ|サティ]]を旗印とし(ただし後に一部は絶交)、美術家の[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]や詩人[[ジャン・コクトー|コクトー]]らとも関わりながら新古典主義の音楽活動を展開した。 ==== 木管楽器の音楽とオルガン音楽の発展 ==== フランス楽派と呼ばれる演奏流儀が、[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]の器楽科を中心として20世紀初頭ごろより勃興した。特に[[木管楽器]]は楽器の改良と共に奏者の技術も目覚しく発展し、それに伴い多くのフランスの作曲家が、日々進歩する楽器の性能を駆使しつつ多くの新しい曲を生み出した。木管楽器奏者のソロや室内楽のレパートリーには、現在もなおこの時代のフランスの音楽が多い。 また[[オルガン]]音楽もこの頃特に盛んであった。オルガンは主に教会の[[ミサ]]で演奏されることが多く(フランスは[[カトリック教会|カトリック]]国であり、ほとんどの教会はカトリックのしきたりに沿ってミサを行う)、[[司祭]]をはじめ会場の動きや時間配分に合わせて[[即興演奏]]を行う必要がある。よってオルガンには即興演奏が付きものなのだが、[[19世紀]]の[[セザール・フランク|フランク]]以来の流儀を引き継いで、フランスのオルガン音楽は即興のみならず目覚しい発展を遂げた。またもちろん、優れた即興を書き留めてそれを元に作品を練り上げることもあった。この分野では[[マルセル・デュプレ|デュプレ]]をはじめ、後述の[[シャルル・トゥルヌミール|トゥルヌミール]]や[[ジャン・アラン]]、さらに[[シャルル=マリー・ヴィドール|ヴィドール]]、[[モーリス・デュリュフレ|デュリュフレ]]などが挙げられる。[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]もオルガニストとして活躍し、生涯の広範囲にわたって多くの優れたオルガン音楽を作曲している。 ==== ジュヌ・フランス ==== フランス六人組よりもさらに若い世代として、[[ジュヌ・フランス]](若きフランス)と呼ばれる作曲家グループが結成された。主要なメンバーは[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]、[[アンリ・デュティユー|デュティユー]]、[[アンドレ・ジョリヴェ|ジョリヴェ]]である。彼らはその活動の最初期において、フランス近代音楽の潮流を引き継ぎつつも、調性音楽からの乖離を試みた。しかし新ウィーン楽派のように、旋法性などをも全面的に否定した訳ではなかった。その他、オルガン音楽の分野で有名な[[シャルル・トゥルヌミール|トゥルヌミール]]、[[ジュアン・アラン]]らもメンバーであった。ジュアン・アランはオルガニスト・[[マリー=クレール・アラン]]の兄であり、彼自身もオルガン曲を中心に活発な作曲活動をしていたが、[[第二次世界大戦]]で戦死した。 特筆すべきは、メシアンが[[1930年代]]に本格的な作曲活動を開始したばかりの頃、同時期に生まれたばかりの新しい電子楽器[[オンド・マルトノ]]を複数用いて作曲していることが挙げられる。委嘱による機会ではあったが、その中の1曲「[[美しき水の祭典]]」は、その後彼が第二次世界大戦で捕虜となった際に書かれて代表作の1つとなった「[[世の終わりのための四重奏曲]]」に転用している。ジョリヴェも戦後まもなく「オンド・マルトノ協奏曲」を作曲した。 === イタリア === オペラにおいては、[[ピエトロ・マスカーニ|マスカーニ]]の「[[カヴァレリア・ルスティカーナ]]」の大成功([[1890年]])を受け、[[ヴェリズモ・オペラ]]の流行が起きた。同作および[[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ|レオンカヴァッロ]]の「[[道化師 (オペラ)|道化師]]」の2作がその傾向の代表作とされる。彼らと同世代に属する[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]はもともとヴェリズモの影響を受けつつ後期ロマン派の作風から出発したが、[[20世紀]]に入ると[[全音音階]]や激しい[[不協和音]]・[[平行5度]]を多用するなど、部分的には同時代の先端の技法を取り入れていて、イタリア印象主義音楽の先駆者となった。 [[イタリア]]の音楽界は圧倒的に[[オペラ]]中心であり、演奏会用の管弦楽や室内楽を積極的に書く作曲家はなかなか現れなかった。そこに現れたのが[[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]である。中でも「[[ローマの松]]」において、実際の鳥の声を録音したものを上演中に再生して使用する試みは注目に値する。レスピーギはまた[[旋法]]の復興にも熱心であり、この点では同時代のフランス音楽とも共通する語法を探求したと言える。レスピーギと同世代の[[アルフレード・カゼッラ|カゼッラ]]、[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ|マリピエロ]]、[[イルデブランド・ピツェッティ|ピツェッティ]]の3人は複調や新古典主義などの近代的語法をより本格的に取り入れ、イタリア近代音楽に大きく貢献した。 前衛的な活動としては[[ルイジ・ダラピッコラ|ダラピッコラ]]によって、イタリアにおける最初期の[[十二音技法]]の試行が挙げられる。実際は同時期に[[ジャチント・シェルシ|シェルシ]]によっても同様の試みが行われていたが、シェルシにとって十二音技法は自己の語法とあまりにかけ離れており、結果的に精神的破綻を起こしてしまう。以後は異なる作風に転向した。シェルシの音楽は[[1980年代]]の[[ケルン]]の[[ISCM]]の現代音楽祭で[[ハンス・ツェンダー|ツェンダー]]により指揮され、ようやく世界的に認識された。 === 北欧と中欧・東欧 === [[19世紀]]の音楽はドイツ語圏が大きな中心となっていた。それに対していわゆる周辺国の作曲家が独自の民族的な音楽語法を探索する動きもすでに起こっていたが、[[20世紀]]以降に新たな展開を見せた。 日本においても[[伊福部昭]]などにより民族主義が試みられているが、これは概論(日本)において記す。 ==== 北欧 ==== [[北欧]]では、[[フィンランド]]の[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]が[[ロシア帝国|帝政ロシア]]支配下のフィンランドで民族的な題材やメッセージを込めた音楽を多く世界に発信し、その後独自の音楽語法を発展させて、フィンランドの国民的作曲家となっていたが、そのスタイルは後期ロマン派と伝統的調性から大きく離れるものではなかった。[[デンマーク]]の[[カール・ニールセン|ニールセン]]も同様に後期ロマン派様式を基本としていたものの、リズムの扱いや複調の導入などでより近代的な面を持っている。この1860年代から1870年代生まれの世代には、他にも[[スウェーデン]]の[[ヒューゴ・アルヴェーン|アルヴェーン]]や[[ヴィルヘルム・ステーンハンマル|ステンハンマル]]などがいるが、いずれも後期ロマン派様式の範疇にある。北欧の音楽がより近代音楽としての性格を持ち始めるのは、より後の世代の作曲家からである。[[アーッレ・メリカント]]はフィンランドにいながらにして、世界的に見ても最も前衛的な立場を取る作曲家の1人であった。[[ノルウェー]]の{{仮リンク|ヴァーレン|en|Fartein Valen}}は無調や十二音技法による作品を残し、「北欧のシェーンベルク」などとも呼ばれた。スウェーデンの[[アラン・ペッタション]]は17曲に及ぶ無調の長大な交響曲を残している。 ==== 中欧、東欧 ==== [[中欧]]・[[東欧]]ではまず[[ハンガリー]]の[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]と[[コダーイ・ゾルターン|コダーイ]]の2人が挙げられる。特にバルトークは民族的な語法から純粋な音楽現象としての作曲理論を確立させ、調性音楽における転調理論の極限までの発展と、新ウィーン楽派の[[十二音技法]]とは別の流儀での12半音階の完全組織化を試み[[中心軸システム]]と呼ばれる音組織や[[フィボナッチ数列]]を用いた独自の作品を残した。 [[チェコ]]ではシュレーカーやニールセンと同様の後期ロマン派と近代の架け橋的存在として[[ヨセフ・スク (作曲家)|スーク]]、[[ヴィーチェスラフ・ノヴァーク|ノヴァーク]]、より民族主義的独自性の強い[[レオシュ・ヤナーチェク|ヤナーチェク]]がおり、より後の世代としては新古典主義に進んだ[[ボフスラフ・マルティヌー|マルティヌー]]、[[微分音]]を追求した[[アロイス・ハーバ|ハーバ]]がいる。[[ポーランド]]では[[カロル・シマノフスキ|シマノフスキ]]が重要な存在で、[[ポーランド楽派]]の基礎となった。一連の[[交響曲]]などによって民族的でありながら同時に極めて印象主義的な作風を示している。 === ロシア(ソ連) === [[ロシア]]の近代音楽に相当するのは[[国民楽派]]以後の作曲家だが、とりわけ[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]、[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]、それに[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]が代表的な存在である。 スクリャービンは前期においては[[フレデリック・ショパン|ショパン]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響を示す後期ロマン派様式の作品を書いていたが、やがて独自の[[神秘和音]]などの技法を発展させて機能和声から離脱し、晩年には無調に到達した。 [[ロシア革命]]前後のソ連では、前衛的社会を建設しようとする社会気風と相まって[[ロシア・アヴァンギャルド]]と呼ばれる前衛的な芸術運動が生まれ、音楽においては[[ニコライ・ロスラヴェッツ|ロースラヴェツ]]や[[アレクサンドル・モソロフ|モソロフ]]らがスクリャービンの後期の様式をもとに前衛的な作品を生み出したが、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]体制の成立と共に前衛的芸術活動は弾圧され、作風の変更を余儀なくされた。 またこの頃[[セルゲイ・ディアギレフ|ディアギレフ]]が主宰するロシア・バレエ団([[バレエ・リュス]])がパリで活躍し、多くの作曲家にバレエ音楽を委嘱した。前述のフランスのドビュッシーやラヴェルも、彼らの代表作の1つとなるような作品を残したが、このバレエ団によって世にその名を轟かせたのはなんといっても、この時代にロシア革命を逃れてフランスで活動した[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]だろう。初期三大バレエと呼ばれる「[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]]」「[[ペトルーシュカ]]」「[[春の祭典]]」を続けて発表するが、3作目の「春の祭典」はあまりにショッキングな作風のため、会場の[[シャンゼリゼ劇場]]は演奏中から乱闘騒ぎを起こし、空前絶後の混乱に陥った(ただし、パリ市民の音楽界での乱闘騒ぎは、過去に[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の「[[タンホイザー]]」パリ初演などの例がある)。しかし翌年演奏会形式で再演したときには好評を持って迎え入れられ、新たな音楽の潮流として世に認められた。ストラヴィンスキーはその後1920年代には新古典主義に転向し、1939年アメリカへ渡ると、1950年代からは音列技法へ進んだ。 プロコフィエフは初期にはストラヴィンスキーの原始主義に接近して[[交響曲第2番 (プロコフィエフ)|交響曲第2番]]、[[交響曲第3番 (プロコフィエフ)|第3番]]などを書き、また同時に新古典主義様式の「[[交響曲第1番 (プロコフィエフ)|古典交響曲]]」などを作曲していたが、亡命先からロシアへ帰国した後は、新ロマン主義的ともいえる[[社会主義リアリズム]]の作風に進んだ。ハチャトゥリアンは<!--故郷の(厳密にはグルジア出身)-->[[アルメニア]]の民族音楽と深く結びついた社会主義リアリズムの作風を持つ。ショスタコーヴィッチは[[ジャチント・シェルシ|シェルシ]]のような[[即興音楽]]と深い関係があり、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の対位法や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の動機展開なども独特に駆使したが、政治的圧力との戦いによって後に前衛的な手法を放棄または隠すざるを得なかった、運命的に後の[[尹伊桑|ユン・イサン]]や[[ルイジ・ノーノ|ノーノ]]に見られる[[政治音楽]]の先駆者でもある。 === イギリス === [[エドワード・エルガー|エルガー]]のような純粋に後期ロマン派の作曲家よりも後の世代では、「イギリス印象派」とも呼べる作曲家たちを挙げる事ができる。すなわち[[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ|ヴォーン・ウィリアムズ]]、[[グスターヴ・ホルスト|ホルスト]]、[[フレデリック・ディーリアス|ディーリアス]]らである。ディーリアスのみが完全な印象主義の手法で作品を発表しているが、他の作曲家はロマン派との手法が混在している。これに対し、[[ウィリアム・ウォルトン|ウォルトン]]はより不協和で近代的な作風を持ち、さらに後の世代では[[マイケル・ティペット|ティペット]]や[[ベンジャミン・ブリテン|ブリテン]]が重要な存在である。 === スペイン === この項のいずれの作曲家もスペインの民族音楽と深く結びついている。また、主要な作曲家全員がパリで学んでおり、印象主義を始めとしたフランス音楽の要素を自らの作品に取り込んでいる。 後期の[[イサーク・アルベニス|アルベニス]]は教会旋法や2度和音を活用した非常に斬新なピアノ作品をいくつか手がけた。代表曲は「[[イベリア (アルベニス)|イベリア]]」である。 [[マヌエル・デ・ファリャ|ファリャ]]は「[[三角帽子 (ファリャ)|三角帽子]]」における[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|運命]]の動機の引用や「[[クラヴサン協奏曲 (ファリャ)|クラヴサン協奏曲]]」等、新古典主義の傾向見られる。 他にロマン主義的な作風を最後まで貫いた[[エンリケ・グラナドス|グラナドス]]、「イベリア」やとりわけ同世代のフランス音楽の影響が強い[[ホアキン・トゥリーナ|トゥリーナ]]、印象主義的な静謐な作風の曲を多く手がけた[[フェデリコ・モンポウ|モンポウ]]らがいる。 === バルカン諸国 === {{節スタブ}} == 概論(アメリカ) == アメリカで新しく生まれた音楽として、[[ジャズ]]が挙げられる。一般的にはクラシック音楽とジャズは切り離して語られるものであり、詳細は[[ジャズ]]の項に譲るが、このジャズ(最初期の[[ディキシーランド・ジャズ]]や[[スウィング・ジャズ]])をたくみに取り入れた作曲家として[[ジョージ・ガーシュウィン|ガーシュウィン]]が挙げられる。<!--(※[[ディキシーランド・ジャズ]]は[[ニューオーリンズ・ジャズ]]と、[[スウィング・ジャズ]]は[[ビッグバンド・ジャズ]]とそれぞれ同義語。名称の違いは、前者はこの当時白人が演奏する場合、後者は黒人が演奏する場合である。これについての詳細は各項に譲る。)--> ガーシュウィンはジャズを取り入れた「[[ラプソディー・イン・ブルー]]」によって一躍有名となり、後には「[[パリのアメリカ人]]」や歌劇「[[ポーギーとベス]]」やミュージカルなどを書くが、多忙が祟って39歳で病死した。 ガーシュウィンと同じく[[ユダヤ人]]の[[アーロン・コープランド]]は[[1900年]]の生まれだが、様式的には近代音楽に入れられる。アメリカ人で最初のアメリカらしい作品を書いたことで有名で、「[[エル・サロン・メヒコ]]」などのようにラテン音楽からのイディオムも使ってはいるが、多くは三大バレエのように[[映画音楽]]からの敷衍である。これらを総合した物に[[交響曲第3番 (コープランド)|交響曲第3番]]がある。その同じユダヤ系の弟子の[[レナード・バーンスタイン]]は「[[ウエスト・サイド物語|ウェスト・サイド・ストーリー]]」のようにむしろポピュラー系の[[ミュージカル]]によって圧倒的に知られているが、本人の志向していたのはむしろ別で、3つの交響曲などの近代・現代手法の混合したテクニックによる一流の構成法で垣間見る事ができる。 <!--イタリアより移民した[[ジャン=カルロ・メノッティ|メノッティ]]が歌劇「電話」を作曲しているが、これは最先端文明社会となった当時のアメリカを象徴しているとも言える。(電話を用いるオペラとしては、後年作曲された[[フランシス・プーランク]]の「人間の声」もある。こちらは悲劇。)※年代的には近代音楽の範囲外--> [[チャールズ・アイヴズ|アイヴズ]]、[[エリオット・カーター]]、[[エドガー・ヴァレーズ|ヴァレーズ]]など戦前の前衛音楽については[[現代音楽]]に分類される事が多い。 == 概論(日本) == ここでは[[明治維新]]以降の西洋音楽の受容から民族主義、戦時中の動向について記す。 日本では1879年(明治12年)に[[東京藝術大学]]の前身である[[音楽取調掛]]が設けられ、音楽研究および西洋音楽をベースとした音楽教育(唱歌教育)の形成の取り組みが始められた。1881年(明治14年)に『小学唱歌集』初編の出版届け出がなされる。 音楽取調掛を率いたのは[[伊沢修二]]だが、ほかに[[神津専三郎|神津仙三郎]](専三郎とも)、[[山勢松韻]]、[[内田彌一]]、[[芝葛鎮]](ふじつね)、[[上眞行]](うえ・さねみち)らの名を挙げることができる。後に近代的な日本美術の形成に力を尽くすことになる[[岡倉覚三]]([[岡倉天心]])は、音楽取調掛の最初期に通訳としてかかわった。 さらに、米国の音楽教育家である[[ルーサー・ホワイティング・メーソン|メーソン]]の存在を忘れるわけにはいかない。メーソンは1880年(明治13年)の春に来日、1882年(明治15年)の夏まで滞日して、明治国家の西洋音楽受容に一定の役割を果たしたと言える。メーソン離日後、しばらく後任はいなかった。1883年(明治16年)6月からは、かねてより海軍軍楽隊教師として滞日していた[[フランツ・エッケルト|エッケルト]](ドイツ)が、音楽取調掛を指導するようになる。日本のドイツ音楽偏重志向はこのときから始まると言えるかもしれない。 音楽取調掛は一時[[音楽取調所]]と称されるが、またすぐに元に戻る。1887年(明治20年)には[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]に昇格した。 のちに[[瀧廉太郎]]が[[ドイツ]]へ留学し、日本人による初の西洋音楽の様式による作曲が行われる。滝が世に出した器楽曲は[[メヌエット (瀧廉太郎)|ピアノのためのメヌエット]]と[[憾 (瀧廉太郎)|憾み]]の2つであった。滝は留学直前に多くの唱歌(幼稚園唱歌、小学唱歌など)を作曲するが、ライプツィヒ留学中に[[結核]]に罹り、中退・帰国後に夭折してしまう。 滝の跡を継いで日本の洋楽シーンを牽引したのは[[山田耕筰]]である。山田はドイツに留学し、日本人初のオーケストラ曲「序曲ニ長調」、交響曲「[[勝鬨と平和|勝鬨(かちどき)と平和]]」といういずれもドイツ中期ロマン派の伝統を継ぐ師の[[マックス・ブルッフ|ブルッフ]]の語法に沿った作品を相次いで発表する。その後、ワーグナーや[[リヒャルト・シュトラウス]]など後期ロマン派の影響を受けた音詩『[[曼陀羅の華]]』、『[[暗い扉]]』などを発表。帰国後に指揮者としてまず日本のオーケストラ運動を興すが挫折し、アメリカへ渡って自作を紹介するなどして成功した後に日本で作曲と指揮の両面で活動を再開、日本で初めての本格的なオペラ「[[黒船 (山田耕筰)|黒船]]」を作曲するなど多方面で活動した。 明治以降日本の洋楽シーンはドイツ偏重だったが、[[池内友次郎]]はフランスに渡り、近代フランス音楽の様式を日本に持ち込んだ。 [[諸井三郎]]などのドイツ派、池内友次郎などのフランス派の2大アカデミズムが東京音楽学校において日本の洋楽シーンを席巻していたが、一方で昭和に入ると、[[松平頼則]]、[[伊福部昭]]、[[早坂文雄]]のように独学や東京音楽学校とは無縁の出自を持つ作曲家も現れた。彼らは戦後まもなく[[新作曲派協会]]を結成することになる。 == 近代音楽の代表的な作曲家 == 複数の分野にまたがる作曲家を含む。 === 1890年代あたり === {{節スタブ}} === 1919年以前 === {{節スタブ}} === 1944年以前 === * [[新古典派音楽|新古典派]] ** [[フランス6人組|六人組]]の作曲家 ** [[エリック・サティ]] ** [[パウル・ヒンデミット]] ** [[イーゴリ・ストラヴィンスキー]] * [[社会主義リアリズム]] ** [[セルゲイ・プロコフィエフ]] ** [[アラム・ハチャトゥリアン]] ** [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]] * [[新ウィーン楽派]](参照:[[十二音音楽]]) ** [[ヨーゼフ・マティアス・ハウアー]] ** [[アルノルト・シェーンベルク]] ** [[アルバン・ベルク]] ** [[アントン・ヴェーベルン]] * 新[[民族音楽]]主義 ** [[バルトーク・ベーラ|ベーラ・バルトーク]] ** [[伊福部昭]] ** [[ニコス・スカルコッタス]] ** [[カロル・シマノフスキ]] ** [[フェデリコ・モンポウ]] == 関連項目 == * [[ロマン派音楽]] * [[現代音楽]] * [[印象主義音楽]] * [[新古典主義音楽]] * [[新ウィーン楽派]] * [[近現代音楽の作曲家一覧]] * [[20世紀のクラシック音楽作曲家一覧]] {{音楽}} {{クラシック音楽-フッター}} {{近代音楽と現代音楽}} {{classic-stub}} {{DEFAULTSORT:きんたいおんかく}} [[Category:現代音楽]] [[Category:クラシック音楽史]] [[Category:モダニズム]] [[zh:現代音樂]]
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モノポール
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* [[単極子]] - 物理学の概念。 ** [[磁気単極子]] - 単極子のうち、特に磁気に関するもの。 * [[モノポール (ワイン)]] * [[鉄塔|モノポール鉄塔(モノポールてっとう)]] ** 部材が1本の鋼管柱から成る鉄塔。都市部や住宅地に多く、土地の節約にもなっている。環境調和型鉄塔に分類される。 {{aimai}} {{デフォルトソート:ものほおる}}
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レニングラード (曖昧さ回避)
レニングラード(ロシア語:Ленинград リニングラート)。
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レニングラード。 ロシア連邦の都市サンクトペテルブルクのソビエト連邦時代の名称。「レーニンの町」を意味する地名。 以下の名前は全てこれに由来。 レニングラード州 - ロシア連邦の州。州都はサンクトペテルブルク。 レニングラード (カメラ) - 旧ソビエト連邦のカメラブランド。 ドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲第7番の表題。 1999年生まれの日本中央競馬会に所属した競走馬。 ビリー・ジョエルの楽曲。アルバム『ストーム・フロント』(1989)に収録。
'''レニングラード'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Ленинград}}'''<small> リニングラート</small>)。 * [[ロシア]]の都市・[[サンクトペテルブルク]]の[[ソビエト連邦]]時代の名称。「[[ウラジーミル・レーニン]]の町」を意味する地名。 *: 以下の名前は全てこれに由来。 * [[レニングラード州]] - [[ロシア|ロシア連邦]]の州。州都はサンクトペテルブルク。 * [[レニングラード (カメラ)]] - 旧ソビエト連邦のカメラブランド。 * [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]の[[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第7番]]の表題。 * [[1999年]]生まれの[[日本中央競馬会]]に所属した[[競走馬]](主な勝鞍:[[アルゼンチン共和国杯]])。 * [[ビリー・ジョエル]]の楽曲。アルバム『[[ストーム・フロント]]』([[1989年|1989]])に収録。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:れにんくらあと}} [[Category:同名の作品]]
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フォント
フォント(英: font) は、本来「同じサイズで、書体デザインの同じ活字のひとそろい」を意味するが、現在では画面に表示したり、書籍など紙面に印刷したりするためにコンピュータ上で利用できるようにした書体データを指す。金属活字や写真植字など先行する印刷技術の歴史を踏まえる場合、データとしてのフォントは特にデジタルフォント(digital font)と区別して呼ぶ。これに対して活字や写植文字盤によるものをアナログフォント(analogue font)というレトロニムで呼ぶこともある。 書体という言葉は、現在ではフォント(の使用ライセンス数)を数える単位としても用いられるが、ここでは分けて考えることとする。(書体参照) フォントは特定の書体の文字を内包しており、活字体やブロック体や筆記体などさまざまな書体のものが存在する。フォントを使う文字の種類の違いなどにより、一つの書体に対し複数のフォントが用意されていることもある(日本語向けと中国語向けなど)。 よく混植される複数の書体をひとまとめにしてフォントファミリーにするということが行われている。欧文書体のフォントファミリーでは正体に加えて、ボールド体(太字)、イタリック体、ボールドイタリック体の用意されていることが多い。なお日本語フォントの制作元では、別ファミリーとも考えられる明朝体とゴシック体をセットにし、両者の混植を意識してデザインすることがしばしば見られる。 活字体の代表的なものにはセリフ(ウロコ)のあるセリフ体(明朝体)と、セリフ(ウロコ)のないサンセリフ体(ゴシック体)が存在する。 セリフ体とサンセリフ体の中間はセミセリフ体やセミサン体と呼ばれる。OpenTypeのOpenType Font Variations仕様を使って、セリフ体からサンセリフ体まで連続的に変形できるようにしたフォントも存在する(Foredayなど)。 セリフ体(明朝体)は一般的にコントラスト(抑揚; 縦線と横線などの太さの比)が付いている。明朝体では30%から50%のコントラストが一般的とされる。伝統的なサンセリフ体(ゴシック体)にはコントラストが付いていないものの、コントラストを付けて人間味を持たせたヒューマニスト・サンセリフ体の一種(タイポス系書体)も存在している(欧文書体ではOptima、和文書体ではタイポスなど)。 一般的な明朝体よりもコントラストを下げた横太明朝体もある。ゴシック体のように横太な明朝体には秀英横太明朝、TB横太明朝およびそのUD版であるTBUD明朝などが存在する。その他のUD明朝フォントも非UD版より横線が太いものとなっている。 コントラスト(抑揚)のバリエーションが用意されているフォントも存在している。これには例えばタイポス、TPスカイ、TPスカイラウンド、TP明朝、黎ミン、Adobe Variable Font Prototype(CNTR軸タグ)などがある。 コントラストを逆に付けた逆コントラスト書体(英語版)という欧文書体も存在する。和文書体にもタイポス系書体の太さを反転させたようなファンテール体がある。 ゴシック体の角を丸くした丸ゴシック体は広く普及しており、ゴシック体フォントのバリエーションの一つとして丸ゴシック体のフォントの用意されているフォントファミリーが多い。タイポス系書体の角を丸くしたフォントもある(タイポス系丸ゴシック)。 角の全体ではなく角の隅だけを丸くした「すみ丸角ゴシック体」もあり、すみ丸角ゴシック体は鉄道やデザイン雑誌AXISなどに使われている。丸ゴシック体とすみ丸角ゴシック体の両方のフォントを用意しているフォントファミリーも出てきている(AXISラウンド100とAXISラウンド50、TPスカイラウンド100とTPスカイラウンド50など)。 明朝体の角を丸くした丸明朝体や、明朝体を活版印刷のようににじませた「にじみ明朝体」(秀英にじみ明朝など) も登場している。 一般的なゴシック体にはゲタ(突き出し)が付く一方、一般的な丸ゴシック体にはゲタが付かない。ただしゴシック体でもUDフォント(後述)ではゲタの付いていないものが多い。丸ゴシック体にもゲタの付いたものが存在する(モリサワのソフトゴシックなど)。 手書き書体は筆記具による手書きを模したものである。フォーマルなものとカジュアル(インフォーマル)なもの、単調(モノトーン)なものとブラシ調のもの、放ち書き (Unjoined) なものと続け字(連綿体、Joined)のものが存在する。 手書き書体には西洋の葦ペン・羽ペン・万年筆によるカリグラフィーを模したイタリック体、ブラックレター体、カッパープレート体(英語版)、(いわゆるスクリプト体)の筆記体フォント(日本語書体では後述の西洋レトロなフォントや欧風花体/金花体など)、東洋の毛筆による書道を模した楷書体、行書体、草書体の毛筆フォント、楷書よりも形や線の太さが整った教科書体フォント、ボールペンやサインペンで書いたようなペン字体フォントなどが存在する。 金属活字の時代からスクリプト体の活字や連綿体の連綿活字は存在していたが、組み合わせによって活字が変わるため使用が複雑であった。OpenTypeフォントではフィーチャータグにより文脈依存字形(caltタグ)、標準合字(ligaタグ)、任意合字(dligタグ)などに対応しているため、スクリプト体や連綿体の使用が容易となっている。 Unicodeの数学用英数字記号にはイタリック体とスクリプト体とフラクトゥール体のラテン文字およびイタリック体のギリシャ文字が割り当てられており、これらは一つのフォントに含めることが可能となっている。 Unicodeの漢字や変体仮名には漢字の崩し字と同形の文字が一部含まれている(𬼂(也の草体)など)。 筑紫Q明朝や「みちくさ」など明朝体と筆書体の中間のようなフォントも登場している。 OpenTypeのOpenType Font Variations仕様を使って、フォーマルからカジュアルまで連続的に変形できるようにしたフォントも存在する(Recursiveなど)。 トラディショナルに感じられる日本語書体はふところが狭く、モダンに感じられる日本語書体はふところが広い。 ふところの狭い明朝体には本明朝(Classic Mac OS搭載)とその派生のMS 明朝(Microsoft Windows搭載)/HG 明朝(Microsoft Office搭載)、リュウミン(Classic Mac OS搭載)、筑紫明朝(フォントワークス)などがある。ふところの狭いゴシック体には中ゴシックBBB(Classic Mac OS搭載)、イワタゴシック(イワタ)、筑紫ゴシック(フォントワークス)、ゴシックMB101(モリサワ)などがある。 ふところの広い明朝体には平成明朝(macOS搭載)、小塚明朝(Adobe Acrobatなどに搭載)、黎ミン(モリサワ)などがある。ふところの広いゴシック体には新ゴや小塚ゴシック(Adobe Acrobatなどに搭載)などがある。 ふところの広さのバリエーションが用意されているフォントファミリーも存在する(TP スカイ/TPスカイ クラシック/TPスカイ モダンなど)。 その他オールドスタイルの書体も存在する。オールドスタイルの書体は大きさなどが揃っておらず、癖の強いものとなっている。オールドスタイルの明朝体には筑紫オールド明朝(フォントワークス)、ZENオールド明朝(エイワン)、A1明朝(モリサワ)、秀英明朝(モリサワ)、S明朝(ニィス)、イワタ明朝体オールド(イワタ)、きざはし金陵(モリサワ)、解ミン 宙(モリサワ)、霞青藍(モリサワ)、霞白藤(モリサワ)、丸明オールド(砧書体制作所〈発表当初はカタオカデザインワークス〉)、筑紫アンティーク明朝(フォントワークス)、欅明朝 Oldstyle(モリサワ)、貂明朝(Adobe)などがある。オールドスタイルのゴシック体にはイワタゴシック体オールド(イワタ)、ヒラギノ角ゴ オールド(SCREEN)、筑紫アンティークゴシック(フォントワークス)、欅角ゴシック Oldstyle(モリサワ)などがある。またオールドスタイルの丸ゴシック体にはヒラギノ丸ゴ オールド (SCREEN)などがある。 大正ロマン・昭和モダン・西洋レトロ・レトロ可愛いを意識したレトロモダンな書体も存在する。これにはダイナフォントのロマン風書体シリーズ(ロマン鳳、ロマン輝、ロマン雪)、MPC(解散後六歌仙が引き継ぎ)の昭和モダン体、モリサワの赤のアリス・白のアリス・オズ・翠流ネオロマン・翠流デコロマン(アーフィックのAR浪漫明朝体ベース)・月下香、フォントワークスのパルレトロン、視覚デザイン研究所の黒明朝やG明朝、各種シネマ書体などがある。 英語のセリフ体にもオールドスタイル、モダン (ディドーン(英語版))、その中間体であるトランジショナルが存在する。サンセリフ体にもトラディショナルなグロテスク・サンセリフ体とモダンなネオ・グロテスク体が存在する。 未来を思わせるフォントも存在し、未来を印象づけるブランドや未来が舞台のコンテンツなどで使われている。欧文ではEurostile(英語版)やFuturaなどのジオメトリックサンセリフ体が相当する。和文ではDF綜藝体が使われている。また綜藝体に類似するフォントには創挙蘭(2021年現在DTPフォント化されていない)やAR新藝体(かなを変更した花風テクノや翠流アトラスもある)が存在する。 なお、ここでいう新旧はスタイルのことであり漢字の字体・字形とは関係しない。漢字の字体・字形の新旧についてはOpenTypeフォントがフィーチャータグにより旧字体(tradタグ)、印刷標準字体(nlckタグ)、JIS78字形(jp78タグ)、JIS83字形(jp83タグ)、JIS90字形(jp90タグ)、JIS2004字形(jp04タグ)の切り替えを可能としている。またUnicodeの異体字シーケンス(SVSやIVS)に対応しているフォントとアプリケーションの組み合わせでは対象文字の後ろに異体字セレクタを付けることによっても切り替えが可能となる。ここでの字形には明朝体の単なるデザイン差とされる筆押さえのような装飾の違いも含んでいる。伝統的な明朝体には装飾として筆押さえが付いていたものの、近年の明朝体では筆押さえを付けることが減っているとされているが、一部の文字の筆押さえも異体字セレクタなどを使うことで変更することが可能となっている。 数字字形の新旧についてもOpenTypeフォントがフィーチャータグによりライニング体(lnumタグ)とオールドスタイルのノンライニング体(英語版)(onumタグ)の切り替えを可能としている。OpenTypeフォントではフィーチャータグのsaltタグとss##タグにより任意の代替スタイル字形への切り替えが可能となっており、古い字形と新しい字形を含めたさまざまな字形に切り替えられるフォントが存在する。 トラディショナルな書体とモダンな書体の乖離が大きい文字体系も存在する。例えばタイ文字ではトラディショナルな書体がループ付きの文字な一方、モダンな書体がループ無しの文字となっている。両者の乖離が大きいため、両方の書体のフォントを提供する多言語フォントファミリーがある(MonotypeのNeue Frutiger Thai TraditionalとNeue Frutiger Thai Modern、モリサワのClarimo UD ThaiとClarimo UD ThaiModern、ダイナコムウェアのDF King Gothic TH10とDF King Gothic THM10など)。 フォントには本文用と見出し用のものとが存在する。 本文用の明朝体は伝統的に見出しまで共用できるよう作られているものが多いとされる。例えばモトヤ明朝では細字を本文用として小さくても潰れないようにし、太字を見出し用として楷書に寄せた柔らかいものにしている。 一方、凸版文久体では本文用と見出し用でフォントが分かれており、本文用の凸版文久明朝/凸版文久ゴシックでは読みやすさを、見出し用の凸版文久見出し明朝/凸版文久見出しゴシックではインパクトを重視するものとなっている。 小さな文字は潰れたり見分けが難しくなったりするため、文字サイズにより複数のデザインのあるフォントも存在する。例えばAdobeのOpenTypeフォントではCaption(キャプション用・6〜8ポイント向け)、Regular(一般用・9〜13ポイント向け)、Subhead(小見出し用・14〜24ポイント向け)、Display(タイトル用・25〜72ポイント向け)のバリアントが用意されている。 OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様が存在し、opsz軸タグを使ってオプティカルサイズを連続的に変えられるようにすることも可能となっている。 日本語では漢字などに読み仮名として小さなルビを振ることが行われるが、一部の日本語のOpenTypeフォントはフィーチャータグによりルビ用字形(rubyタグ)への切り替えが可能となっている。小さいサイズでも読みやすいように細めの本文書体でルビ用仮名が太めに作られるなど、標準仮名とルビ用仮名とではデザインが異なる。かつては、ルビ用字形では拗促音などを示す小書きの仮名も標準サイズとされた。これは活字組版ではルビ用の小書き仮名が用意されなかったことの名残であると考えられる。商用日本語OpenTypeフォントの文字セットとして事実上の標準となっているAdobe-Japan1では、2000年の追補4(Adobe-Japan1-4)でCID 12639〜12869に、2002年の追補5(Adobe-Japan1-5)でCID 16412〜16468にルビ用字形を割り当てている。これらのルビ用字形には、JIS X 0208に収録されたすべての小書きの仮名(追補4)とJIS X 0213に収録されたすべての小書きの仮名(追補5)が含まれる。2010年代初めまでには、書籍でルビに小書きの仮名を使用する例が増えている。 ユニバーサルデザイン書体(UD書体)とは、誰にでも読みやすいようなデザインの書体のことであり、UD書体のフォントはUDフォントと呼ぶ。例えば数字の「6」、「9」や「8」、「3」はフォントによっては非常に判別がしづらい。このような読みづらい文字を判別しやすいようにしたのがユニバーサルフォントである。UDフォントは見やすさのため、多くがふところの広いモダンな書体となっている。ゲタ(突き出し)の付いていないデザインが多いものの、ゲタの付いてるデザインの書体もある。 ゴシック体のUDフォントにはUD新ゴ(モリサワ)、TBUDゴシック(モリサワ)、イワタUDゴシック(イワタ)、イワタUD新聞ゴシック(イワタ)、みんなの文字ゴシック(UCDA/イワタ/電通)、UD角ゴ_ラージ/UD角ゴ_スモール(フォントワークス)、ヒラギノUD角ゴ/ヒラギノUD角ゴF(SCREEN)、NUDモトヤシーダ(モトヤ)、UD モトヤ新聞ゴシック(モトヤ)、UDゴシック体(ダイナコムウェア)、NIS_UDゴシック(ニィス)などがある。 丸ゴシック体のUDフォントにはUD新丸ゴ(モリサワ)、TBUD丸ゴシック(モリサワ)、イワタUD丸ゴシック(イワタ)、UD丸ゴ_ラージ/UD丸ゴ_スモール(フォントワークス)、ヒラギノUD丸ゴ(SCREEN)、NUDモトヤマルベリ(モトヤ)、UD丸ゴシック体(ダイナコムウェア)などがある。 明朝体のUDフォントにはUD黎ミン(モリサワ)、TBUD明朝(モリサワ)、イワタUD明朝(イワタ)、イワタUD新聞明朝(イワタ)、みんなの文字明朝(UCDA/イワタ/電通)、UD明朝(フォントワークス)、ヒラギノUD明朝(SCREEN)、NUDモトヤ明朝(モトヤ)、UD モトヤ新聞明朝(モトヤ)、UD明朝体(ダイナコムウェア)などがある。 UDのタイポス系書体(UDタイポス、NUDモトヤアポロなど)やUDの教科書体も登場している(UDデジタル教科書体など)。 学参フォントは、文部科学省により小学校学習指導要領の学年別漢字配当表に示された「代表的な字形」に準拠したフォントである。既存の明朝体・ゴシック体・丸ゴシック体をベースに制作されるフォントで、主に文字の学習段階である小学生向けの教科書などに使用される。教科書・参考書・児童書などの分野に関係しないデザイナーに学参フォントが浸透するにつれて、テレビや新聞の広告、注意書きなど、年齢層に関係ないものでも使用される例が出てきた。教科書体においても、モリサワの「教科書ICA」に対する「学参 教科書ICA」「学参 常改教科書ICA」のように、代表字形との差異があるものについては、学参フォントが用意されている場合がある。 筆順フォントは、既存の教科書体を基にした筆順を示すためのフォントで、漢字ドリルや字典などの漢字の解説で使用されている。1画ずつ分解したもの(Aタイプ/TypeA/エレメントなど)と筆順に沿って1画ずつ増やしたもの(Bタイプ/TypeB/ヒツジュンなど)が存在し、両者は筆順を表現するために組み合わせて使用される。 それぞれの文字の幅が統一されているフォントを等幅フォント、そうでないフォントをプロポーショナルフォントと呼ぶ。一般にプロポーショナルフォントの方が自然で読みやすいとされるが、初期のデジタルフォントでは技術的制約から等幅フォントが多用された。 日本の文字コードやUnicodeには半角英数と全角英数の両方の文字が含まれているが、プロポーショナルフォントには半角英数のみがプロポーショナルで全角英数が等幅となっているものがある。Unicodeの数学用英数字記号には等幅のアルファベットが含まれている。 OpenTypeフォントではフィーチャータグにより、全角字形(fwidタグ)、半角字形(hwidタグ)、プロポーショナル字形(pwidタグ)の切り替えが可能となっている。数字用のフィーチャータグも存在し、等幅数値字形(tnumタグ)とプロポーショナル数値字形(pnumタグ)を切り替えることが可能となっている。文字詰めもタグによって可能となっている(横組用のpaltタグ、縦組用のvpalタグ)。WebページではCSSのfont-feature-settingsプロパティにそれらタグを指定することで等幅とプロポーショナルの切り替えが可能となっている。 一部のTrueTypeフォントファミリーでは等幅フォントとプロポーショナルフォントが別個に提供されている。一部のフォントファミリーは等幅フォントの名前が無印となっており、プロポーショナルフォントの名前にPが入っている(等幅の「MS ゴシック」、プロポーショナルの「MS Pゴシック」など)。一部のフォントファミリーは等幅フォントの名前に「等幅」が入っており、プロポーショナルフォントの名前が無印となっている(等幅の「ヒラギノ角ゴ3等幅」、プロポーショナルの「ヒラギノ角ゴ3」など)。 OpenTypeのOpenType Font Variations仕様を使って、プロポーショナルから等幅まで連続的に変形できるようにしたフォントも存在する(Recursiveなど)。 コンデンス体(長体、堅形)はスペースの少ない箇所で多く使われており、エクステンド体(平体、平形)は新聞の本文用に使われていた。活版印刷では専用の活字が用意されており、写真植字ではレンズにより変形処理が行われ、ワードプロセッサではデジタル処理により縦倍角化・横倍角化が行われていた。その後、長体や平体に最適化したフォントも登場している(前者はAXIS Fontコンデンス/コンプレス、UD新ゴ コンデンス、UD角ゴ コンデンス、TPスカイ コンデンス/コンプレス、TBゴシックforコンデンス、SST JPコンデンス、金剛黒体コンデンスなど、後者は新聞用本文書体の各種フォントなど)。 OpenTypeフォントではフィーチャータグにより、全角字形(fwidタグ)、半角字形(hwidタグ)、1/3角字形(twidタグ)、1/4角字形(qwid)の切り替えが可能となっているものの、対応文字種は少ない。 OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様も存在し、wdth軸タグを使って幅を連続的に変えられるようにできる。これに対応する日本語フォントとしては例えば「金剛黒体VF」がある。 フォントにより縦組横組両用、縦組向け、横組向けが存在する。 Adobe-Japan1対応のOpenTypeフォントは横組用・縦組用の両方のグリフを含んでいる。OpenTypeフォントには縦組用字形へと切り替えるためのvertタグが存在する。OpenTypeフォントには横組用かなへ切り替えるためのhknaタグと縦組用かなへ切り替えるためのvknaタグが存在し、一部フォントは縦組用かなと横組用かなの両方を含んでいる。 縦組向けと横組向けで別のフォントとなっている書体(游教科書体など)や横組用かなを別のフォントとしても用意する書体(ヒラギノ明朝体横組用仮名)もある。 大がなはラインが揃うものの、小がなの方が日本語の可読性は高いとされる。 一部のフォントファミリーは大がなフォントと小がなフォントの両方が用意されている(リュウミンL-KLとリュウミンL-KS、本明朝-L 標準がな/新がなと本明朝-L 小がな/新小がな、など)。 ポップなフォントとしてPOP広告などに使われるポップ体フォント(創英角ポップ体やPopハッピネスなど)が、またホラーなフォントとしてホラー漫画などに使われるホラー系フォント(万葉古印ラージやコミックミステリなど)が存在する。 そのほか色んな感情を表現するフォントがあり、大日本印刷は字幕向けに自動でフォントを選択する「感情表現字幕システム」を開発している。 一般的な日本語フォントには和文書体だけでなく従属欧文書体も付属しているが、フォントに含まれる和文書体と従属欧文書体には書体の印象差が存在している。混植では一般的に和文と従属欧文の調和融合が良いとされているが、游明朝など和文と従属欧文にあえて印象に差を付けたフォントも存在している。また書体にはお国柄というものも存在している。 和文がセンター揃えであるのに対し欧文がベースライン揃えであるため、混植では書体間でうまく調和をとる必要があり、例えば欧文書体のベースラインを下げてエックスハイト(英語版)が高くなるよう長体を掛けて和文書体との調和を取ったフォント(写植でいうところのE欧文; 小塚ゴシックなど)や、和文書体のベースラインを上げて枠に収まるよう平体を掛けて欧文書体との調和と取ったフォント(メイリオなど)などが存在している。 多言語のテキストを表示・印刷する場合、異なる書体の混植が行われてきた。フォントエンジンには、フォントに欠けているグリフを別のフォントで補うフォントフォールバック機能やフォントリンク機能が搭載されているものもある。 フォントはそれぞれ対応文字種および対応言語が異なっており、一つのフォントファミリーに複数の異なる文字種のフォントが含まれているものも存在する。 欧文フォントファミリーでも昔は地域ごとにフォントが分かれていた。例えばWindows 95の「多国語サポート」では西ヨーロッパ諸語(無印、Windows-1252)、中央ヨーロッパ諸語(CE、Windows-1250)、バルト諸語(Baltic、Windows-1257)、キリル諸語(Cyr、Windows-1251)、ギリシャ語(Greek、Windows-1253)、トルコ語(TUR、Windows-1254)でフォントが分かれており、Microsoftはこれらの文字全てを包括するグリフセットとしてWindows Glyph List 4(英語版)(WGL4)を定めた。WGL4に似たコンセプトのグリフセットとしてWorld glyph set(英語版) 1(W1G)およびそれにベトナム語やヘブライ語を追加したW2Gも存在し、一部のフォントベンダーはこちらを実装している。 一方、Adobeも独自にラテングリフセットを定めている。Adobe Latin 1は西ヨーロッパ諸語のみであり、Adobe Latin 2 (Std)はそれに数学記号を追加し、Adobe Latin 3 (Pro)はそれに中央ヨーロッパ諸語(バルト諸語・トルコ語含む)を追加し、Adobe Latin 4はそれにベトナム語などを追加し、Adobe Latin 5はそれに国際音声記号(IPA)などを追加している。なお、キリル諸語のグリフセットはAdobe Cyrillic 1〜3で、ギリシャ語のグリフセットはAdobe Greek 1〜2で定められている。 近年は日本語および中国語を含む多言語のフォントファミリーも登場している: その他の日本語を含む多言語のフォントファミリーには以下がある: 日本語を含まない多言語のフォントファミリーには以下がある: 例えば組み込み機器ではAndroidはRoboto/Noto Sans CJKを、PlayStation 4はSSTフォントを、Nintendo SwitchはUD新ゴを採用している。 漢字は地域によって字形が異なっているものの、Unicodeのコードポイントは同一となっている (Unihan)。OpenTypeフォントではloclタグによって同じコードポイントでの言語ごとに異なるグリフを一つのフォントへと詰め込むことが可能となっており、これにより漢字の日本字形、中国字形、台湾字形、香港字形、韓国字形、マカオ字形の全てに対応することができる(「Source LOCL Test」や「花園明朝・AFDKO版」がこれを採用している)。Adobeはフォント共通のデータを共有してファイルサイズを小さくしたフォントコレクション形式のSuper OTCで多言語フォントのSource Han Sans/Serifを提供している。 しかしながら一般的なフォント形式にはグリフ数の限界があり、未だ日本語と中国語でフォントの分かれているフォントファミリーが多い。字体数問題を解決するBoring Expansionも提案されており、HarfBuzz 5.0以降などが対応しているもののまだ普及には至っていない。 また、キリル文字でも字形がロシア語とブルガリア語とセルビア語(sr-Cyrl)で異なっており、loclタグがその切り替えに使われている(FS Sally Proなどが対応)。 ラテン文字でもloclタグがポーランド語のkreskaアクセント、ルーマニア語アルファベットのコンマビロー、オランド語のアクセント付き「ij」、トルコ語の「fi」合字抑制などのために使われている。 またその他にも地域によって様々な異体が存在し、フォントではそれらを指し示すのに OpenType の Language System Tags が使われている。一方、Webページに使われるHTML言語ではlang属性にIETF言語タグを指定することで字体の切り替えが可能となっている。 フォントには細字から太字までさまざまなウェイトのフォントが存在し、フォントファミリーによっては一つの書体に対し複数のウェイトのフォントが用意されている。 Windowsの一部の実装系はOS/2テーブルのウェイト名に加えて、Extra Black (Ultra Black、font-weight: 950;)を実装している。なお、OpenTypeのPCLストロークウェイトでは-7(Ultra Thin)から7(Ultra Black)まで存在するものの、広く使われてはいない。 OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様も存在し、wght軸タグを使ってウェイトを連続的に変えられるようにできる。これに対応する日本語フォントとしては例えば「源ノ角ゴシック VF」「源ノ明朝 VF」やM+ FONTS(M PLUS 1、M PLUS 2など)、「Shorai Sans Variable」、「イワタUDゴシックバリアブル」、「金剛黒体VF」が存在する。 ロゴGブラック(視覚デザイン研究所)、ロゴJrブラック(視覚デザイン研究所)、ラグランUB(フォントワークス)、ラグランパンチUB(フォントワークス)、ボルクロイド(モリサワ)のような極太書体や、重ね丸ゴシック体のような食い込ませ書体も存在する。 斜体にはイタリック体とオブリーク体が存在し、欧文で良く使われている。日本語でも広告などに使われることがある。 OpenTypeフォントではフィーチャータグにより、イタリック字形(italタグ)への切り替えが可能となっている。Unicodeの数学用英数字記号にはセリフおよびサンセリフのイタリック体のアルファベットが含まれている。 OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様が存在し、slnt軸タグを使って傾斜角度を連続的に変えられるようにできる。 モダンなフォント形式ではグリフに多数の色を入れることが可能となっている。これは主に絵文字で使われているが、普通の文字でも色を使うことができる。普通の文字で色に対応するフォントとしてはGilbert、Utopian、TRAJAN Colorなどがある。 ドットの組み合わせで文字を表現したフォントで、初期のコンピュータには、容量の節減および描画速度の確保のためビットマップフォントを利用した。日本語文字においては、当時はフォントを全て記憶するには記憶容量(RAM)が少なかった上に、かといって逐次必要なフォントをフロッピーディスクドライブから読み出すのも速度的に問題があるので、漢字ROMにビットマップフォントを格納して運用されることが多かった。現在でも、スケーラブルフォントからビットマップフォントを生成するとき、文字が小さいと線間の調整ができずに潰れて読めなくなってしまうことが多いため、小さな文字ではビットマップフォントが使われることもあるが、フォントヒンティングで対応することもある。 8ドットサイズの英字、カタカナ文字が利用できるフォント。400ラインのディスプレイの普及や、漢字が扱えるようになり、16ドットサイズのフォントがコンピュータに搭載されるようになった。印刷では、ワープロ専用機を中心に24ドット、48ドットなどのフォントも利用され始め、スケーラブルフォントへ移行していった。 線の位置や形、長さなどで文字の形を作るため、拡大縮小しても、ビットマップフォントとは違い字形に影響がない。そのためスケーラブル、拡縮自由などと冠される。拡縮自由なフォントとしては、ストロークフォントやアウトラインフォントがある。 文字の形状を、中心線だけの情報で保持するフォント形式。線の太さなどは扱わないためデータ量は軽く、かつ出力デバイスの解像度に依存しない。CADシステムやプロッタなどで使用される。なお「ストロークフォント」という言葉は、文字をストロークごとに分解して管理する作成・生成・管理システム(それをフォントプログラムとして実装した例としてはダイナコムのストロークベーステクノロジなど)や、派生した形式(一つの骨格からファミリーを生成する技術など)を指すこともある。アルファブレンドの三次ベジェ曲線で構成され筆順を持つストロークフォントはASPで利用可能である。 文字の輪郭線の形状を、関数曲線の情報として持つフォント形式。実際に画面や紙に出力する際には、解像度に合わせてビットマップ状に塗り潰すラスタライズが必要になる。 日本ではワープロやDTPを中心にアウトラインフォントの利用が普及し、WYSIWYGが普及したために、コンピュータ画面でもスケーラブルラインフォントの利用が広がった(当初のDTPは、プリントアウトにはアウトラインフォントを使い、画面表示にはビットマップフォントを使用するワークフローが基本だった)。 フォントの太さ、幅、傾斜などが可変のアウトラインフォントである。バリアブルフォント登場以前のフォントは基本的には拡大と縮小のみであったため、フォントの太さ、幅、傾斜などが異なるスタイルのフォントを個別に用意しなければならなかったのに対して、バリアブルフォントではそれらが可変であるため単一のフォントファイルで複数のスタイルに対応できフォントのファイルサイズを小さくできる。 ビットマップの埋め込みができる形式も多い。 Windowsで合成フォント(フォントリンク機能)を使うためにはOSのレジストリに登録する必要があり、レジストリへの登録を自動化した.regファイルが付属するフォントもある。LinuxではFontconfigの.confファイルを使ってフォント合成が可能。 企業が自社向けのフォントを作ることも増えており、これはコーポレートフォントと呼ばれている。外販されているコーポレートフォントも存在する。また特定のブランドに限定したブランドフォントも存在する。代表的なフォントには以下がある。 また特定の都市のブランド化を目指した都市フォントも存在する。 Webサイトで用いられる書体はCSSのfont-familyプロパティによって指定され表示される。 CSSで指定できるフォントの種類を以下に示す。フォントは表示するクライアント環境にインストールされているか、Webサイトをロードした際にWebフォントとして同時にフォントファイルを読み込むことが前提となる。このことから、同じCSSの指定でも閲覧環境のOSやブラウザにより表示が異なる。 Webフォントは閲覧環境に存在しない書体を表示するために、Webサイトと同時に読み込まれるフォントである。Webフォントは幅広いブラウザで表示することができるため、デバイス間の文字表示の差異を吸収する役割をもたらす。画像による文字の表示よりもセマンティックにコンテンツを表現することができる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フォント(英: font) は、本来「同じサイズで、書体デザインの同じ活字のひとそろい」を意味するが、現在では画面に表示したり、書籍など紙面に印刷したりするためにコンピュータ上で利用できるようにした書体データを指す。金属活字や写真植字など先行する印刷技術の歴史を踏まえる場合、データとしてのフォントは特にデジタルフォント(digital font)と区別して呼ぶ。これに対して活字や写植文字盤によるものをアナログフォント(analogue font)というレトロニムで呼ぶこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "書体という言葉は、現在ではフォント(の使用ライセンス数)を数える単位としても用いられるが、ここでは分けて考えることとする。(書体参照)", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "フォントは特定の書体の文字を内包しており、活字体やブロック体や筆記体などさまざまな書体のものが存在する。フォントを使う文字の種類の違いなどにより、一つの書体に対し複数のフォントが用意されていることもある(日本語向けと中国語向けなど)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "よく混植される複数の書体をひとまとめにしてフォントファミリーにするということが行われている。欧文書体のフォントファミリーでは正体に加えて、ボールド体(太字)、イタリック体、ボールドイタリック体の用意されていることが多い。なお日本語フォントの制作元では、別ファミリーとも考えられる明朝体とゴシック体をセットにし、両者の混植を意識してデザインすることがしばしば見られる。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "活字体の代表的なものにはセリフ(ウロコ)のあるセリフ体(明朝体)と、セリフ(ウロコ)のないサンセリフ体(ゴシック体)が存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "セリフ体とサンセリフ体の中間はセミセリフ体やセミサン体と呼ばれる。OpenTypeのOpenType Font Variations仕様を使って、セリフ体からサンセリフ体まで連続的に変形できるようにしたフォントも存在する(Foredayなど)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "セリフ体(明朝体)は一般的にコントラスト(抑揚; 縦線と横線などの太さの比)が付いている。明朝体では30%から50%のコントラストが一般的とされる。伝統的なサンセリフ体(ゴシック体)にはコントラストが付いていないものの、コントラストを付けて人間味を持たせたヒューマニスト・サンセリフ体の一種(タイポス系書体)も存在している(欧文書体ではOptima、和文書体ではタイポスなど)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一般的な明朝体よりもコントラストを下げた横太明朝体もある。ゴシック体のように横太な明朝体には秀英横太明朝、TB横太明朝およびそのUD版であるTBUD明朝などが存在する。その他のUD明朝フォントも非UD版より横線が太いものとなっている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "コントラスト(抑揚)のバリエーションが用意されているフォントも存在している。これには例えばタイポス、TPスカイ、TPスカイラウンド、TP明朝、黎ミン、Adobe Variable Font Prototype(CNTR軸タグ)などがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "コントラストを逆に付けた逆コントラスト書体(英語版)という欧文書体も存在する。和文書体にもタイポス系書体の太さを反転させたようなファンテール体がある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ゴシック体の角を丸くした丸ゴシック体は広く普及しており、ゴシック体フォントのバリエーションの一つとして丸ゴシック体のフォントの用意されているフォントファミリーが多い。タイポス系書体の角を丸くしたフォントもある(タイポス系丸ゴシック)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "角の全体ではなく角の隅だけを丸くした「すみ丸角ゴシック体」もあり、すみ丸角ゴシック体は鉄道やデザイン雑誌AXISなどに使われている。丸ゴシック体とすみ丸角ゴシック体の両方のフォントを用意しているフォントファミリーも出てきている(AXISラウンド100とAXISラウンド50、TPスカイラウンド100とTPスカイラウンド50など)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "明朝体の角を丸くした丸明朝体や、明朝体を活版印刷のようににじませた「にじみ明朝体」(秀英にじみ明朝など) も登場している。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一般的なゴシック体にはゲタ(突き出し)が付く一方、一般的な丸ゴシック体にはゲタが付かない。ただしゴシック体でもUDフォント(後述)ではゲタの付いていないものが多い。丸ゴシック体にもゲタの付いたものが存在する(モリサワのソフトゴシックなど)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "手書き書体は筆記具による手書きを模したものである。フォーマルなものとカジュアル(インフォーマル)なもの、単調(モノトーン)なものとブラシ調のもの、放ち書き (Unjoined) なものと続け字(連綿体、Joined)のものが存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "手書き書体には西洋の葦ペン・羽ペン・万年筆によるカリグラフィーを模したイタリック体、ブラックレター体、カッパープレート体(英語版)、(いわゆるスクリプト体)の筆記体フォント(日本語書体では後述の西洋レトロなフォントや欧風花体/金花体など)、東洋の毛筆による書道を模した楷書体、行書体、草書体の毛筆フォント、楷書よりも形や線の太さが整った教科書体フォント、ボールペンやサインペンで書いたようなペン字体フォントなどが存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "金属活字の時代からスクリプト体の活字や連綿体の連綿活字は存在していたが、組み合わせによって活字が変わるため使用が複雑であった。OpenTypeフォントではフィーチャータグにより文脈依存字形(caltタグ)、標準合字(ligaタグ)、任意合字(dligタグ)などに対応しているため、スクリプト体や連綿体の使用が容易となっている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "Unicodeの数学用英数字記号にはイタリック体とスクリプト体とフラクトゥール体のラテン文字およびイタリック体のギリシャ文字が割り当てられており、これらは一つのフォントに含めることが可能となっている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Unicodeの漢字や変体仮名には漢字の崩し字と同形の文字が一部含まれている(𬼂(也の草体)など)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "筑紫Q明朝や「みちくさ」など明朝体と筆書体の中間のようなフォントも登場している。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "OpenTypeのOpenType Font Variations仕様を使って、フォーマルからカジュアルまで連続的に変形できるようにしたフォントも存在する(Recursiveなど)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "トラディショナルに感じられる日本語書体はふところが狭く、モダンに感じられる日本語書体はふところが広い。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ふところの狭い明朝体には本明朝(Classic Mac OS搭載)とその派生のMS 明朝(Microsoft Windows搭載)/HG 明朝(Microsoft Office搭載)、リュウミン(Classic Mac OS搭載)、筑紫明朝(フォントワークス)などがある。ふところの狭いゴシック体には中ゴシックBBB(Classic Mac OS搭載)、イワタゴシック(イワタ)、筑紫ゴシック(フォントワークス)、ゴシックMB101(モリサワ)などがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ふところの広い明朝体には平成明朝(macOS搭載)、小塚明朝(Adobe Acrobatなどに搭載)、黎ミン(モリサワ)などがある。ふところの広いゴシック体には新ゴや小塚ゴシック(Adobe Acrobatなどに搭載)などがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ふところの広さのバリエーションが用意されているフォントファミリーも存在する(TP スカイ/TPスカイ クラシック/TPスカイ モダンなど)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その他オールドスタイルの書体も存在する。オールドスタイルの書体は大きさなどが揃っておらず、癖の強いものとなっている。オールドスタイルの明朝体には筑紫オールド明朝(フォントワークス)、ZENオールド明朝(エイワン)、A1明朝(モリサワ)、秀英明朝(モリサワ)、S明朝(ニィス)、イワタ明朝体オールド(イワタ)、きざはし金陵(モリサワ)、解ミン 宙(モリサワ)、霞青藍(モリサワ)、霞白藤(モリサワ)、丸明オールド(砧書体制作所〈発表当初はカタオカデザインワークス〉)、筑紫アンティーク明朝(フォントワークス)、欅明朝 Oldstyle(モリサワ)、貂明朝(Adobe)などがある。オールドスタイルのゴシック体にはイワタゴシック体オールド(イワタ)、ヒラギノ角ゴ オールド(SCREEN)、筑紫アンティークゴシック(フォントワークス)、欅角ゴシック Oldstyle(モリサワ)などがある。またオールドスタイルの丸ゴシック体にはヒラギノ丸ゴ オールド (SCREEN)などがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大正ロマン・昭和モダン・西洋レトロ・レトロ可愛いを意識したレトロモダンな書体も存在する。これにはダイナフォントのロマン風書体シリーズ(ロマン鳳、ロマン輝、ロマン雪)、MPC(解散後六歌仙が引き継ぎ)の昭和モダン体、モリサワの赤のアリス・白のアリス・オズ・翠流ネオロマン・翠流デコロマン(アーフィックのAR浪漫明朝体ベース)・月下香、フォントワークスのパルレトロン、視覚デザイン研究所の黒明朝やG明朝、各種シネマ書体などがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "英語のセリフ体にもオールドスタイル、モダン (ディドーン(英語版))、その中間体であるトランジショナルが存在する。サンセリフ体にもトラディショナルなグロテスク・サンセリフ体とモダンなネオ・グロテスク体が存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "未来を思わせるフォントも存在し、未来を印象づけるブランドや未来が舞台のコンテンツなどで使われている。欧文ではEurostile(英語版)やFuturaなどのジオメトリックサンセリフ体が相当する。和文ではDF綜藝体が使われている。また綜藝体に類似するフォントには創挙蘭(2021年現在DTPフォント化されていない)やAR新藝体(かなを変更した花風テクノや翠流アトラスもある)が存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、ここでいう新旧はスタイルのことであり漢字の字体・字形とは関係しない。漢字の字体・字形の新旧についてはOpenTypeフォントがフィーチャータグにより旧字体(tradタグ)、印刷標準字体(nlckタグ)、JIS78字形(jp78タグ)、JIS83字形(jp83タグ)、JIS90字形(jp90タグ)、JIS2004字形(jp04タグ)の切り替えを可能としている。またUnicodeの異体字シーケンス(SVSやIVS)に対応しているフォントとアプリケーションの組み合わせでは対象文字の後ろに異体字セレクタを付けることによっても切り替えが可能となる。ここでの字形には明朝体の単なるデザイン差とされる筆押さえのような装飾の違いも含んでいる。伝統的な明朝体には装飾として筆押さえが付いていたものの、近年の明朝体では筆押さえを付けることが減っているとされているが、一部の文字の筆押さえも異体字セレクタなどを使うことで変更することが可能となっている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "数字字形の新旧についてもOpenTypeフォントがフィーチャータグによりライニング体(lnumタグ)とオールドスタイルのノンライニング体(英語版)(onumタグ)の切り替えを可能としている。OpenTypeフォントではフィーチャータグのsaltタグとss##タグにより任意の代替スタイル字形への切り替えが可能となっており、古い字形と新しい字形を含めたさまざまな字形に切り替えられるフォントが存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "トラディショナルな書体とモダンな書体の乖離が大きい文字体系も存在する。例えばタイ文字ではトラディショナルな書体がループ付きの文字な一方、モダンな書体がループ無しの文字となっている。両者の乖離が大きいため、両方の書体のフォントを提供する多言語フォントファミリーがある(MonotypeのNeue Frutiger Thai TraditionalとNeue Frutiger Thai Modern、モリサワのClarimo UD ThaiとClarimo UD ThaiModern、ダイナコムウェアのDF King Gothic TH10とDF King Gothic THM10など)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "フォントには本文用と見出し用のものとが存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "本文用の明朝体は伝統的に見出しまで共用できるよう作られているものが多いとされる。例えばモトヤ明朝では細字を本文用として小さくても潰れないようにし、太字を見出し用として楷書に寄せた柔らかいものにしている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一方、凸版文久体では本文用と見出し用でフォントが分かれており、本文用の凸版文久明朝/凸版文久ゴシックでは読みやすさを、見出し用の凸版文久見出し明朝/凸版文久見出しゴシックではインパクトを重視するものとなっている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "小さな文字は潰れたり見分けが難しくなったりするため、文字サイズにより複数のデザインのあるフォントも存在する。例えばAdobeのOpenTypeフォントではCaption(キャプション用・6〜8ポイント向け)、Regular(一般用・9〜13ポイント向け)、Subhead(小見出し用・14〜24ポイント向け)、Display(タイトル用・25〜72ポイント向け)のバリアントが用意されている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様が存在し、opsz軸タグを使ってオプティカルサイズを連続的に変えられるようにすることも可能となっている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本語では漢字などに読み仮名として小さなルビを振ることが行われるが、一部の日本語のOpenTypeフォントはフィーチャータグによりルビ用字形(rubyタグ)への切り替えが可能となっている。小さいサイズでも読みやすいように細めの本文書体でルビ用仮名が太めに作られるなど、標準仮名とルビ用仮名とではデザインが異なる。かつては、ルビ用字形では拗促音などを示す小書きの仮名も標準サイズとされた。これは活字組版ではルビ用の小書き仮名が用意されなかったことの名残であると考えられる。商用日本語OpenTypeフォントの文字セットとして事実上の標準となっているAdobe-Japan1では、2000年の追補4(Adobe-Japan1-4)でCID 12639〜12869に、2002年の追補5(Adobe-Japan1-5)でCID 16412〜16468にルビ用字形を割り当てている。これらのルビ用字形には、JIS X 0208に収録されたすべての小書きの仮名(追補4)とJIS X 0213に収録されたすべての小書きの仮名(追補5)が含まれる。2010年代初めまでには、書籍でルビに小書きの仮名を使用する例が増えている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ユニバーサルデザイン書体(UD書体)とは、誰にでも読みやすいようなデザインの書体のことであり、UD書体のフォントはUDフォントと呼ぶ。例えば数字の「6」、「9」や「8」、「3」はフォントによっては非常に判別がしづらい。このような読みづらい文字を判別しやすいようにしたのがユニバーサルフォントである。UDフォントは見やすさのため、多くがふところの広いモダンな書体となっている。ゲタ(突き出し)の付いていないデザインが多いものの、ゲタの付いてるデザインの書体もある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ゴシック体のUDフォントにはUD新ゴ(モリサワ)、TBUDゴシック(モリサワ)、イワタUDゴシック(イワタ)、イワタUD新聞ゴシック(イワタ)、みんなの文字ゴシック(UCDA/イワタ/電通)、UD角ゴ_ラージ/UD角ゴ_スモール(フォントワークス)、ヒラギノUD角ゴ/ヒラギノUD角ゴF(SCREEN)、NUDモトヤシーダ(モトヤ)、UD モトヤ新聞ゴシック(モトヤ)、UDゴシック体(ダイナコムウェア)、NIS_UDゴシック(ニィス)などがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "丸ゴシック体のUDフォントにはUD新丸ゴ(モリサワ)、TBUD丸ゴシック(モリサワ)、イワタUD丸ゴシック(イワタ)、UD丸ゴ_ラージ/UD丸ゴ_スモール(フォントワークス)、ヒラギノUD丸ゴ(SCREEN)、NUDモトヤマルベリ(モトヤ)、UD丸ゴシック体(ダイナコムウェア)などがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "明朝体のUDフォントにはUD黎ミン(モリサワ)、TBUD明朝(モリサワ)、イワタUD明朝(イワタ)、イワタUD新聞明朝(イワタ)、みんなの文字明朝(UCDA/イワタ/電通)、UD明朝(フォントワークス)、ヒラギノUD明朝(SCREEN)、NUDモトヤ明朝(モトヤ)、UD モトヤ新聞明朝(モトヤ)、UD明朝体(ダイナコムウェア)などがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "UDのタイポス系書体(UDタイポス、NUDモトヤアポロなど)やUDの教科書体も登場している(UDデジタル教科書体など)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "学参フォントは、文部科学省により小学校学習指導要領の学年別漢字配当表に示された「代表的な字形」に準拠したフォントである。既存の明朝体・ゴシック体・丸ゴシック体をベースに制作されるフォントで、主に文字の学習段階である小学生向けの教科書などに使用される。教科書・参考書・児童書などの分野に関係しないデザイナーに学参フォントが浸透するにつれて、テレビや新聞の広告、注意書きなど、年齢層に関係ないものでも使用される例が出てきた。教科書体においても、モリサワの「教科書ICA」に対する「学参 教科書ICA」「学参 常改教科書ICA」のように、代表字形との差異があるものについては、学参フォントが用意されている場合がある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "筆順フォントは、既存の教科書体を基にした筆順を示すためのフォントで、漢字ドリルや字典などの漢字の解説で使用されている。1画ずつ分解したもの(Aタイプ/TypeA/エレメントなど)と筆順に沿って1画ずつ増やしたもの(Bタイプ/TypeB/ヒツジュンなど)が存在し、両者は筆順を表現するために組み合わせて使用される。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "それぞれの文字の幅が統一されているフォントを等幅フォント、そうでないフォントをプロポーショナルフォントと呼ぶ。一般にプロポーショナルフォントの方が自然で読みやすいとされるが、初期のデジタルフォントでは技術的制約から等幅フォントが多用された。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本の文字コードやUnicodeには半角英数と全角英数の両方の文字が含まれているが、プロポーショナルフォントには半角英数のみがプロポーショナルで全角英数が等幅となっているものがある。Unicodeの数学用英数字記号には等幅のアルファベットが含まれている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "OpenTypeフォントではフィーチャータグにより、全角字形(fwidタグ)、半角字形(hwidタグ)、プロポーショナル字形(pwidタグ)の切り替えが可能となっている。数字用のフィーチャータグも存在し、等幅数値字形(tnumタグ)とプロポーショナル数値字形(pnumタグ)を切り替えることが可能となっている。文字詰めもタグによって可能となっている(横組用のpaltタグ、縦組用のvpalタグ)。WebページではCSSのfont-feature-settingsプロパティにそれらタグを指定することで等幅とプロポーショナルの切り替えが可能となっている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一部のTrueTypeフォントファミリーでは等幅フォントとプロポーショナルフォントが別個に提供されている。一部のフォントファミリーは等幅フォントの名前が無印となっており、プロポーショナルフォントの名前にPが入っている(等幅の「MS ゴシック」、プロポーショナルの「MS Pゴシック」など)。一部のフォントファミリーは等幅フォントの名前に「等幅」が入っており、プロポーショナルフォントの名前が無印となっている(等幅の「ヒラギノ角ゴ3等幅」、プロポーショナルの「ヒラギノ角ゴ3」など)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "OpenTypeのOpenType Font Variations仕様を使って、プロポーショナルから等幅まで連続的に変形できるようにしたフォントも存在する(Recursiveなど)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "コンデンス体(長体、堅形)はスペースの少ない箇所で多く使われており、エクステンド体(平体、平形)は新聞の本文用に使われていた。活版印刷では専用の活字が用意されており、写真植字ではレンズにより変形処理が行われ、ワードプロセッサではデジタル処理により縦倍角化・横倍角化が行われていた。その後、長体や平体に最適化したフォントも登場している(前者はAXIS Fontコンデンス/コンプレス、UD新ゴ コンデンス、UD角ゴ コンデンス、TPスカイ コンデンス/コンプレス、TBゴシックforコンデンス、SST JPコンデンス、金剛黒体コンデンスなど、後者は新聞用本文書体の各種フォントなど)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "OpenTypeフォントではフィーチャータグにより、全角字形(fwidタグ)、半角字形(hwidタグ)、1/3角字形(twidタグ)、1/4角字形(qwid)の切り替えが可能となっているものの、対応文字種は少ない。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様も存在し、wdth軸タグを使って幅を連続的に変えられるようにできる。これに対応する日本語フォントとしては例えば「金剛黒体VF」がある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "フォントにより縦組横組両用、縦組向け、横組向けが存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "Adobe-Japan1対応のOpenTypeフォントは横組用・縦組用の両方のグリフを含んでいる。OpenTypeフォントには縦組用字形へと切り替えるためのvertタグが存在する。OpenTypeフォントには横組用かなへ切り替えるためのhknaタグと縦組用かなへ切り替えるためのvknaタグが存在し、一部フォントは縦組用かなと横組用かなの両方を含んでいる。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "縦組向けと横組向けで別のフォントとなっている書体(游教科書体など)や横組用かなを別のフォントとしても用意する書体(ヒラギノ明朝体横組用仮名)もある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "大がなはラインが揃うものの、小がなの方が日本語の可読性は高いとされる。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "一部のフォントファミリーは大がなフォントと小がなフォントの両方が用意されている(リュウミンL-KLとリュウミンL-KS、本明朝-L 標準がな/新がなと本明朝-L 小がな/新小がな、など)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ポップなフォントとしてPOP広告などに使われるポップ体フォント(創英角ポップ体やPopハッピネスなど)が、またホラーなフォントとしてホラー漫画などに使われるホラー系フォント(万葉古印ラージやコミックミステリなど)が存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "そのほか色んな感情を表現するフォントがあり、大日本印刷は字幕向けに自動でフォントを選択する「感情表現字幕システム」を開発している。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "一般的な日本語フォントには和文書体だけでなく従属欧文書体も付属しているが、フォントに含まれる和文書体と従属欧文書体には書体の印象差が存在している。混植では一般的に和文と従属欧文の調和融合が良いとされているが、游明朝など和文と従属欧文にあえて印象に差を付けたフォントも存在している。また書体にはお国柄というものも存在している。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "和文がセンター揃えであるのに対し欧文がベースライン揃えであるため、混植では書体間でうまく調和をとる必要があり、例えば欧文書体のベースラインを下げてエックスハイト(英語版)が高くなるよう長体を掛けて和文書体との調和を取ったフォント(写植でいうところのE欧文; 小塚ゴシックなど)や、和文書体のベースラインを上げて枠に収まるよう平体を掛けて欧文書体との調和と取ったフォント(メイリオなど)などが存在している。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "多言語のテキストを表示・印刷する場合、異なる書体の混植が行われてきた。フォントエンジンには、フォントに欠けているグリフを別のフォントで補うフォントフォールバック機能やフォントリンク機能が搭載されているものもある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "フォントはそれぞれ対応文字種および対応言語が異なっており、一つのフォントファミリーに複数の異なる文字種のフォントが含まれているものも存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "欧文フォントファミリーでも昔は地域ごとにフォントが分かれていた。例えばWindows 95の「多国語サポート」では西ヨーロッパ諸語(無印、Windows-1252)、中央ヨーロッパ諸語(CE、Windows-1250)、バルト諸語(Baltic、Windows-1257)、キリル諸語(Cyr、Windows-1251)、ギリシャ語(Greek、Windows-1253)、トルコ語(TUR、Windows-1254)でフォントが分かれており、Microsoftはこれらの文字全てを包括するグリフセットとしてWindows Glyph List 4(英語版)(WGL4)を定めた。WGL4に似たコンセプトのグリフセットとしてWorld glyph set(英語版) 1(W1G)およびそれにベトナム語やヘブライ語を追加したW2Gも存在し、一部のフォントベンダーはこちらを実装している。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "一方、Adobeも独自にラテングリフセットを定めている。Adobe Latin 1は西ヨーロッパ諸語のみであり、Adobe Latin 2 (Std)はそれに数学記号を追加し、Adobe Latin 3 (Pro)はそれに中央ヨーロッパ諸語(バルト諸語・トルコ語含む)を追加し、Adobe Latin 4はそれにベトナム語などを追加し、Adobe Latin 5はそれに国際音声記号(IPA)などを追加している。なお、キリル諸語のグリフセットはAdobe Cyrillic 1〜3で、ギリシャ語のグリフセットはAdobe Greek 1〜2で定められている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "近年は日本語および中国語を含む多言語のフォントファミリーも登場している:", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "その他の日本語を含む多言語のフォントファミリーには以下がある:", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "日本語を含まない多言語のフォントファミリーには以下がある:", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "例えば組み込み機器ではAndroidはRoboto/Noto Sans CJKを、PlayStation 4はSSTフォントを、Nintendo SwitchはUD新ゴを採用している。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "漢字は地域によって字形が異なっているものの、Unicodeのコードポイントは同一となっている (Unihan)。OpenTypeフォントではloclタグによって同じコードポイントでの言語ごとに異なるグリフを一つのフォントへと詰め込むことが可能となっており、これにより漢字の日本字形、中国字形、台湾字形、香港字形、韓国字形、マカオ字形の全てに対応することができる(「Source LOCL Test」や「花園明朝・AFDKO版」がこれを採用している)。Adobeはフォント共通のデータを共有してファイルサイズを小さくしたフォントコレクション形式のSuper OTCで多言語フォントのSource Han Sans/Serifを提供している。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "しかしながら一般的なフォント形式にはグリフ数の限界があり、未だ日本語と中国語でフォントの分かれているフォントファミリーが多い。字体数問題を解決するBoring Expansionも提案されており、HarfBuzz 5.0以降などが対応しているもののまだ普及には至っていない。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "また、キリル文字でも字形がロシア語とブルガリア語とセルビア語(sr-Cyrl)で異なっており、loclタグがその切り替えに使われている(FS Sally Proなどが対応)。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ラテン文字でもloclタグがポーランド語のkreskaアクセント、ルーマニア語アルファベットのコンマビロー、オランド語のアクセント付き「ij」、トルコ語の「fi」合字抑制などのために使われている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "またその他にも地域によって様々な異体が存在し、フォントではそれらを指し示すのに OpenType の Language System Tags が使われている。一方、Webページに使われるHTML言語ではlang属性にIETF言語タグを指定することで字体の切り替えが可能となっている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "フォントには細字から太字までさまざまなウェイトのフォントが存在し、フォントファミリーによっては一つの書体に対し複数のウェイトのフォントが用意されている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "Windowsの一部の実装系はOS/2テーブルのウェイト名に加えて、Extra Black (Ultra Black、font-weight: 950;)を実装している。なお、OpenTypeのPCLストロークウェイトでは-7(Ultra Thin)から7(Ultra Black)まで存在するものの、広く使われてはいない。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様も存在し、wght軸タグを使ってウェイトを連続的に変えられるようにできる。これに対応する日本語フォントとしては例えば「源ノ角ゴシック VF」「源ノ明朝 VF」やM+ FONTS(M PLUS 1、M PLUS 2など)、「Shorai Sans Variable」、「イワタUDゴシックバリアブル」、「金剛黒体VF」が存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ロゴGブラック(視覚デザイン研究所)、ロゴJrブラック(視覚デザイン研究所)、ラグランUB(フォントワークス)、ラグランパンチUB(フォントワークス)、ボルクロイド(モリサワ)のような極太書体や、重ね丸ゴシック体のような食い込ませ書体も存在する。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "斜体にはイタリック体とオブリーク体が存在し、欧文で良く使われている。日本語でも広告などに使われることがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "OpenTypeフォントではフィーチャータグにより、イタリック字形(italタグ)への切り替えが可能となっている。Unicodeの数学用英数字記号にはセリフおよびサンセリフのイタリック体のアルファベットが含まれている。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様が存在し、slnt軸タグを使って傾斜角度を連続的に変えられるようにできる。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "モダンなフォント形式ではグリフに多数の色を入れることが可能となっている。これは主に絵文字で使われているが、普通の文字でも色を使うことができる。普通の文字で色に対応するフォントとしてはGilbert、Utopian、TRAJAN Colorなどがある。", "title": "外形による分類" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ドットの組み合わせで文字を表現したフォントで、初期のコンピュータには、容量の節減および描画速度の確保のためビットマップフォントを利用した。日本語文字においては、当時はフォントを全て記憶するには記憶容量(RAM)が少なかった上に、かといって逐次必要なフォントをフロッピーディスクドライブから読み出すのも速度的に問題があるので、漢字ROMにビットマップフォントを格納して運用されることが多かった。現在でも、スケーラブルフォントからビットマップフォントを生成するとき、文字が小さいと線間の調整ができずに潰れて読めなくなってしまうことが多いため、小さな文字ではビットマップフォントが使われることもあるが、フォントヒンティングで対応することもある。", "title": "データ形式による分類" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "8ドットサイズの英字、カタカナ文字が利用できるフォント。400ラインのディスプレイの普及や、漢字が扱えるようになり、16ドットサイズのフォントがコンピュータに搭載されるようになった。印刷では、ワープロ専用機を中心に24ドット、48ドットなどのフォントも利用され始め、スケーラブルフォントへ移行していった。", "title": "データ形式による分類" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "線の位置や形、長さなどで文字の形を作るため、拡大縮小しても、ビットマップフォントとは違い字形に影響がない。そのためスケーラブル、拡縮自由などと冠される。拡縮自由なフォントとしては、ストロークフォントやアウトラインフォントがある。", "title": "データ形式による分類" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "文字の形状を、中心線だけの情報で保持するフォント形式。線の太さなどは扱わないためデータ量は軽く、かつ出力デバイスの解像度に依存しない。CADシステムやプロッタなどで使用される。なお「ストロークフォント」という言葉は、文字をストロークごとに分解して管理する作成・生成・管理システム(それをフォントプログラムとして実装した例としてはダイナコムのストロークベーステクノロジなど)や、派生した形式(一つの骨格からファミリーを生成する技術など)を指すこともある。アルファブレンドの三次ベジェ曲線で構成され筆順を持つストロークフォントはASPで利用可能である。", "title": "データ形式による分類" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "文字の輪郭線の形状を、関数曲線の情報として持つフォント形式。実際に画面や紙に出力する際には、解像度に合わせてビットマップ状に塗り潰すラスタライズが必要になる。", "title": "データ形式による分類" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "日本ではワープロやDTPを中心にアウトラインフォントの利用が普及し、WYSIWYGが普及したために、コンピュータ画面でもスケーラブルラインフォントの利用が広がった(当初のDTPは、プリントアウトにはアウトラインフォントを使い、画面表示にはビットマップフォントを使用するワークフローが基本だった)。", "title": "データ形式による分類" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "フォントの太さ、幅、傾斜などが可変のアウトラインフォントである。バリアブルフォント登場以前のフォントは基本的には拡大と縮小のみであったため、フォントの太さ、幅、傾斜などが異なるスタイルのフォントを個別に用意しなければならなかったのに対して、バリアブルフォントではそれらが可変であるため単一のフォントファイルで複数のスタイルに対応できフォントのファイルサイズを小さくできる。", "title": "データ形式による分類" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ビットマップの埋め込みができる形式も多い。", "title": "ファイル形式(または利用できるシステム)による分類" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "Windowsで合成フォント(フォントリンク機能)を使うためにはOSのレジストリに登録する必要があり、レジストリへの登録を自動化した.regファイルが付属するフォントもある。LinuxではFontconfigの.confファイルを使ってフォント合成が可能。", "title": "ファイル形式(または利用できるシステム)による分類" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "企業が自社向けのフォントを作ることも増えており、これはコーポレートフォントと呼ばれている。外販されているコーポレートフォントも存在する。また特定のブランドに限定したブランドフォントも存在する。代表的なフォントには以下がある。", "title": "コーポレートフォント / ブランドフォント" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "また特定の都市のブランド化を目指した都市フォントも存在する。", "title": "コーポレートフォント / ブランドフォント" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "Webサイトで用いられる書体はCSSのfont-familyプロパティによって指定され表示される。", "title": "Webサイトでのフォント使用" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "CSSで指定できるフォントの種類を以下に示す。フォントは表示するクライアント環境にインストールされているか、Webサイトをロードした際にWebフォントとして同時にフォントファイルを読み込むことが前提となる。このことから、同じCSSの指定でも閲覧環境のOSやブラウザにより表示が異なる。", "title": "Webサイトでのフォント使用" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "Webフォントは閲覧環境に存在しない書体を表示するために、Webサイトと同時に読み込まれるフォントである。Webフォントは幅広いブラウザで表示することができるため、デバイス間の文字表示の差異を吸収する役割をもたらす。画像による文字の表示よりもセマンティックにコンテンツを表現することができる。", "title": "Webサイトでのフォント使用" } ]
フォント は、本来「同じサイズで、書体デザインの同じ活字のひとそろい」を意味するが、現在では画面に表示したり、書籍など紙面に印刷したりするためにコンピュータ上で利用できるようにした書体データを指す。金属活字や写真植字など先行する印刷技術の歴史を踏まえる場合、データとしてのフォントは特にデジタルフォントと区別して呼ぶ。これに対して活字や写植文字盤によるものをアナログフォントというレトロニムで呼ぶこともある。 書体という言葉は、現在ではフォント(の使用ライセンス数)を数える単位としても用いられるが、ここでは分けて考えることとする。(書体参照)
{{otheruses|コンピュータ上の書体データ|ベトナムの地方自治体|フォントー県}} '''フォント'''({{Lang-en-short|font}}) は、本来「同じサイズで、[[書体]]デザインの同じ[[活字]]のひとそろい」を意味するが、現在では[[ディスプレイ (コンピュータ)|画面]]に表示したり、[[本|書籍]]など[[紙]]面に[[印刷]]したりするために[[コンピュータ]]上で利用できるようにした書体[[データ]]を指す。[[活字|金属活字]]や[[写真植字]]など先行する印刷技術の歴史を踏まえる場合、データとしてのフォントは特に'''デジタルフォント'''({{Lang|en|digital font}})と区別して呼ぶ。これに対して活字や写植文字盤によるものをアナログフォント({{Lang|en|analogue font}})という[[レトロニム]]で呼ぶこともある<ref>日本規格協会「標準情報(TR) TR X 0003:2000 フォント情報処理用語」</ref>。 [[書体]]という言葉は、現在ではフォント(の使用[[ライセンス]]数)を数える[[単位]]としても用いられるが、ここでは分けて考えることとする。([[書体]]参照) == 外形による分類 == {{節スタブ}} {{main|書体|書体の一覧|レタリング}} [[File:Ming_serif.svg|thumb|right|150px|左:明朝体の[[セリフ (文字)|ウロコ]]、中央:明朝体、右:ゴシック体]] {{multiple image | align = right | direction = vertical | image1 = Serif and sans-serif 02.svg | alt1 = ラテン文字のセリフ体 | image2 = Serif and sans-serif 01.svg | alt2 = ラテン文字のサンセリフ体 | footer = [[ラテン文字]]のセリフ体(上)とサンセリフ体(下) }} フォントは特定の書体の文字を内包しており、活字体やブロック体や筆記体など[[書体の一覧|さまざまな書体]]のものが存在する。フォントを使う文字の種類の違いなどにより、一つの書体に対し複数のフォントが用意されていることもある(日本語向けと中国語向けなど)。 よく混植される複数の書体をひとまとめにして'''フォントファミリー'''にするということが行われている。[[欧文]]書体のフォントファミリーでは正体<ref group="注">そのフォントファミリーの'''基本の書体'''</ref>に加えて、ボールド体([[太字]])、[[イタリック体]]<ref group="注">'''[[斜体]]'''と'''イタリック体'''は厳密には異なり、斜体は'''[[オブリーク体]]'''と呼ばれる。</ref>、ボールドイタリック体<ref group="注">''イタリック体''を'''太字'''にしたもの、{{lang|en|'''''Bold Italic'''''}}のようになる。</ref>の用意されていることが多い。なお日本語フォントの制作元では、別ファミリーとも考えられる明朝体とゴシック体をセットにし、両者の混植を意識してデザインすることがしばしば見られる。 === セリフ体 (明朝体) とサンセリフ体 (ゴシック体) === 活字体の代表的なものにはセリフ(ウロコ)のある[[セリフ (文字)|セリフ]]体([[明朝体]])と、セリフ(ウロコ)のない[[サンセリフ]]体([[ゴシック体]])が存在する。 セリフ体とサンセリフ体の中間はセミセリフ体やセミサン体と呼ばれる<ref>『Digital typography sourcebook』 Marvin Bryan 1996年11月29日 ISBN 978-0471148111</ref>。[[OpenType]]のOpenType [[OpenType#特徴|Font Variations]]仕様を使って、セリフ体からサンセリフ体まで連続的に変形できるようにしたフォントも存在する(Foredayなど)<ref>[https://create.adobe.com/2018/5/22/variable_fonts_are_t.html Variable Fonts Are the Future of Web Type] Adobe 2018年5月22日</ref>。 === コントラスト (抑揚) === {{see also|タイポス系書体}} [[File:Optima_font.svg|thumb|right|150px|セリフ体のようにコントラストの付いたヒューマニスト・サンセリフ体の一種([[Optima]])]] セリフ体([[明朝体]])は一般的にコントラスト(抑揚; 縦線と横線などの太さの比)が付いている。明朝体では30%から50%のコントラストが一般的とされる<ref name="iwata-ud-hist">[http://www.hi-ho.ne.jp/y-komachi/committees/vma/confs/vma42/vma42-3.pdf UDフォント開発の歴史と今後の展開] p.21 画像電子学会/イワタ 2016年</ref>。伝統的なサンセリフ体([[ゴシック体]])にはコントラストが付いていないものの、コントラストを付けて人間味を持たせた[[サンセリフ#ヒューマニスト・サンセリフ (Humanist Sans-Serif)|ヒューマニスト・サンセリフ体]]の一種([[タイポス系書体]])も存在している(欧文書体では[[Optima]]、和文書体ではタイポスなど)。 一般的な明朝体よりもコントラストを下げた横太明朝体もある。ゴシック体のように横太な明朝体には秀英横太明朝<ref>[http://www.dnp.co.jp/shueitai/news/20140617.html 『秀英横太明朝』本年9月にモリサワから発売] 大日本印刷 2014年6月17日</ref>、TB横太明朝<ref>[https://www.typebank.co.jp/fontfamily/tbyokobutomincho/ TB横太明朝] タイプバンク</ref>およびそのUD版であるTBUD明朝<ref>[https://www.morisawa.co.jp/fonts/specimen/1673 TBUD明朝] モリサワ</ref>などが存在する。その他のUD明朝フォントも非UD版より横線が太いものとなっている<ref>[https://news.mynavi.jp/article/font-history-50/ 明朝体からもっとも離れた究極の形--UD明朝] マイナビ 2020年6月30日</ref><ref name="iwata-ud-hist"/><ref name="screen-ud"/><ref name="dyna-ud-mincho"/>。 コントラスト(抑揚)のバリエーションが用意されているフォントも存在している。これには例えばタイポス<ref>[https://news.mynavi.jp/article/font-history-17/ タイポスの登場] マイナビ 2018年11月20日</ref>、TPスカイ<ref>[https://typeproject.com/story/2710 次世代フォントを考える TPスカイ] タイププロジェクト 2018年4月16日</ref><ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20170417-a088/ 明朝体でもゴシック体でもない第3のフォント「TPスカイ」発売] マイナビ 2017年4月17日</ref>、TPスカイラウンド、TP明朝、黎ミン、Adobe Variable Font Prototype(CNTR軸タグ)などがある。 [[File:French_Clarendon.png|thumb|250px|逆コントラスト書体(上/{{仮リンク|Clarendon#French Clarendon|en|Clarendon (typeface)#French_Clarendon|label=French Clarendon}})と順コントラスト書体(下/{{仮リンク|Clarendon|en|Clarendon (typeface)}})]] コントラストを逆に付けた{{仮リンク|逆コントラスト書体|en|Reverse-contrast typefaces}}という欧文書体も存在する。和文書体にも[[タイポス系書体]]の太さを反転させたような[[ファンテール体]]がある<ref name="fanran">[https://news.mynavi.jp/article/font-history-33/ ファン蘭――「写研」ロゴの文字] マイナビ 2019年7月16日</ref>。 === ラウンドとすみ丸とにじみ === {{see also|丸ゴシック体}} ゴシック体の角を丸くした丸ゴシック体は広く普及しており、ゴシック体フォントのバリエーションの一つとして丸ゴシック体のフォントの用意されているフォントファミリーが多い。タイポス系書体の角を丸くしたフォントもある([[タイポス系書体#タイポス系丸ゴシック|タイポス系丸ゴシック]])。 角の全体ではなく角の隅だけを丸くした「すみ丸角ゴシック体」もあり、すみ丸角ゴシック体は鉄道<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/251768 駅の鉄道文字、手書きでなくても「味」はある p.1] 東洋経済 2018年11月30日</ref>やデザイン雑誌[[AXIS (雑誌)|AXIS]]<ref>[https://www.axismag.jp/posts/2017/09/80265.html デザイン誌「AXIS」の本文フォントが変わった! 基本フォントとなった「AXIS ラウンド50」とは?] AXIS 2017年9月14日</ref>などに使われている。丸ゴシック体とすみ丸角ゴシック体の両方のフォントを用意しているフォントファミリーも出てきている(AXISラウンド100とAXISラウンド50<ref>[http://nichiin.co.jp/archives/26204/ タイププロジェクト、AXISラウンドシリーズフォントのコンデンスとコンプレスを発売開始] 日本印刷新聞社 2017年11月6日</ref>、TPスカイラウンド100とTPスカイラウンド50<ref>[http://nichiin.co.jp/archives/34933/ タイププロジェクト、TPスカイファミリーのラウンドフォントを発表] 日本印刷新聞社 2019年5月16日</ref>など)。 明朝体の角を丸くした[[丸明朝体]]や、明朝体を活版印刷のようににじませた「にじみ明朝体」(秀英にじみ明朝<ref>[http://nichiin.co.jp/archives/24355/ モリサワ、A1ゴシックなど新17書体を発表] 日本印刷新聞社 2017年8月18日</ref>など) も登場している。 === ゲタ (突き出し) === {{節スタブ}} 一般的なゴシック体にはゲタ(突き出し)が付く<ref name="eg-udfont">[http://echographica.com/echofont01.html 1. UDフォントをめぐる] エコーグラフィカ</ref>一方、一般的な丸ゴシック体にはゲタが付かない<ref name="morisawa-softgothic">[https://resources.morisawa.co.jp/uploads/tmg_block_page_image/file/4831/Mn_no168_a4_web.pdf MORISAWA news no.168] モリサワ 2019年3月</ref>。ただしゴシック体でもUDフォント(後述)ではゲタの付いていないものが多い<ref name="eg-udfont"/><ref name="hiragino-ud"/>。丸ゴシック体にもゲタの付いたものが存在する(モリサワのソフトゴシック<ref name="morisawa-softgothic"/>など)。 === 手書き書体と連綿体 === 手書き書体は[[筆記具]]による手書きを模したものである。フォーマルなものとカジュアル(インフォーマル)なもの<ref name="iso9541-1-1991-script"/>、単調(モノトーン)なものとブラシ調のもの<ref name="iso9541-1-1991-script"/>、放ち書き (Unjoined) なものと続け字([[連綿体]]、Joined)のものが存在する<ref name="iso9541-1-1991-script">『ISO/IEC 9541-1:1991 - Annex A: Typeface design grouping』 P.68-70 [[ISO/IEC JTC 1]] 1991年</ref>。<!--TODO: 筆記体寄りのものと活字体寄りのものもある? --> 手書き書体には西洋の[[葦ペン]]・[[羽ペン]]・[[万年筆]]による[[カリグラフィー]]を模した[[イタリック体]]、[[ブラックレター]]体、{{仮リンク|カッパープレート体|en|Copperplate script}}、(いわゆる[[スクリプト (書体)|スクリプト]]体)の[[筆記体]]フォント(日本語書体では後述の西洋レトロなフォントや[[欧風花体]]<ref>[https://www.dynacw.co.jp/product/product_download_detail.aspx?sid=3903 欧風花体] ダイナコムウェア</ref>/[[金花体]]<ref>[https://www.mdn.co.jp/news/1485 金花体など19書体が「DynaSmart V」に新登場] MdN 2021年10月29日</ref>など)、東洋の[[筆|毛筆]]による[[書道]]を模した[[楷書体]]、[[行書体]]、[[草書体]]の毛筆フォント、楷書よりも形や線の太さが整った[[教科書体]]フォント<ref name="iso9541-1-1991-script"/>、ボールペンやサインペンで書いたような[[ペン字体]]フォントなどが存在する。 金属活字の時代からスクリプト体の活字や[[連綿体]]の連綿活字は存在していたが、組み合わせによって活字が変わるため使用が複雑であった。OpenTypeフォントではフィーチャータグにより文脈依存字形(caltタグ)、標準合字(ligaタグ)、任意合字(dligタグ)などに対応している<ref name="adobe-css-gsub"/>ため、スクリプト体や連綿体の使用が容易となっている。 [[Unicode]]の[[数学用英数字記号]]にはイタリック体とスクリプト体と[[フラクトゥール]]体のラテン文字およびイタリック体のギリシャ文字が割り当てられており、これらは一つのフォントに含めることが可能となっている。 Unicodeの漢字や[[変体仮名]]には漢字の崩し字と同形の文字が一部含まれている([[なり (仮名)|{{拡張漢字|F|&#x2cf02;}}(也の草体)]]など)。 筑紫Q明朝や「みちくさ」など明朝体と筆書体の中間のようなフォントも登場している<ref>[https://fontworks.co.jp/fontsearch/tsukuqminlstd-l/ 筑紫Q明朝L L] フォントワークス</ref><ref>[http://www.morisawa.co.jp/about/news/3603 モリサワ 2017年の新書体を発表] モリサワ 2017年7月28日</ref>。<!--TODO: Half Italic (Half Roman) 体はほぼ無い?--> [[OpenType]]のOpenType Font Variations仕様を使って、フォーマルからカジュアルまで連続的に変形できるようにしたフォントも存在する(Recursiveなど)<ref name="google-fonts-variable"/>。 === モダンとトラディショナルとオールドスタイルと未来風 ===<!--TODO: ブラックレター?--> {{節スタブ}}<!--TODO: ヒラギノ明朝、平成ゴシック/Osaka、MSゴシック--> {{multiple image | align = right | direction = horizonal | width = 150 | image1 = 02 Garalda.svg | alt1 = オールドスタイルのセリフ体(Bembo) | image2 = 04 Didona.svg | alt2 = モダンなセリフ体(Bodoni) | footer = セリフ体のオールドスタイル(左/{{仮リンク|Bembo|en|Bembo}})とモダン(右/[[Bodoni]]) }} {{multiple image | align = right | direction = horizonal | width1 = 110 | image1 = Geometric.jpg | alt1 = ジオメトリックサンセリフ体(Futura) | width2 = 130 | image2 = Zongyitif.svg | alt2 = 綜藝体 | footer = 未来的な印象を持つジオメトリックサンセリフ体(左/[[Futura]])と綜藝体(右) }} [[File:Akzidenz1.svg|thumb|right|120px|モダンなネオ・グロテスク体(左/[[Helvetica]])とトラディショナルなグロテスク・サンセリフ体(右/{{仮リンク|Akzidenz-Grotesk|en|Akzidenz-Grotesk|label=アクチデンツ}})]] トラディショナルに感じられる日本語書体はふところが狭く<ref name="nishiduka-p2"/>、モダンに感じられる日本語書体はふところが広い<ref name="nishiduka-p2">[https://ascii.jp/elem/000/000/917/917366/2/ 「源ノ角ゴシック」を実現させたアドビ西塚氏の勘と感覚 p.2] ASCII 2014年7月29日</ref><ref name="mynavi-futokoro">[https://book.mynavi.jp/macfan/detail_summary/id=56341 【鉄則1】書体の「ふところ」を理解して書体を選ぶ] マイナビ 2016年8月16日</ref>。 ふところの狭い明朝体には[[本明朝]]<ref name="ja-and-zh-mix">楊寧, 伊原久裕, 「[https://doi.org/10.24520/designresearch.66.0_76 中国語と日本語本文書体の 調和ある混植のための書体類似性評価]」『芸術工学会誌』 66巻 p.76-83, 2014年 {{doi|10.24520/designresearch.66.0_76}}。</ref>([[Classic Mac OS]]搭載)とその派生の[[MS 明朝]]([[Microsoft Windows]]搭載)/HG 明朝([[Microsoft Office]]搭載)、[[リュウミン]]<ref name="mynavi-futokoro"/><ref name="ja-and-zh-mix"/>([[Classic Mac OS]]搭載)、[[筑紫明朝]]<ref name="ja-and-zh-mix"/>(フォントワークス)などがある。ふところの狭いゴシック体には[[中ゴシックBBB]]<ref name="ja-and-zh-mix"/>([[Classic Mac OS]]搭載)、[[イワタゴシック]]<ref name="ja-and-zh-mix"/>(イワタ)、[[筑紫ゴシック]]<ref name="ja-and-zh-mix"/>(フォントワークス)、[[ゴシックMB101]]<ref name="ja-and-zh-mix"/>(モリサワ)などがある。 ふところの広い明朝体には[[平成明朝]]([[macOS]]搭載)、[[小塚明朝]]<ref name="mynavi-futokoro"/>([[Adobe Acrobat]]などに搭載)、[[黎ミン]]<ref>[https://www.mdn.co.jp/di/newstopics/56882/ VRでも高い視認性を誇るモリサワフォント「UD新ゴ」と「黎ミン」を検証。「黎ミン」はギネス認定も!] MdN Design Interactive 2018年1月19日</ref>(モリサワ)などがある。ふところの広いゴシック体には[[新ゴ]]<ref name="nishiduka-p2"/>や[[小塚ゴシック]]([[Adobe Acrobat]]などに搭載)などがある。 ふところの広さのバリエーションが用意されているフォントファミリーも存在する(TP スカイ/TPスカイ クラシック/TPスカイ モダン<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000028.000020509.html タイププロジェクト、フトコロ軸を導入した「TPスカイ クラシック ローコントラスト」を発表] PR TIMES 2021年6月21日</ref><ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000026.000020509.html タイププロジェクト、極太フォントの「TPスカイ モダン Blk」を発表] PR TIMES 2020年12月1日</ref>など)。 その他オールドスタイルの書体も存在する。オールドスタイルの書体は大きさなどが揃っておらず、癖の強いものとなっている<ref name="enj-old-mincho">[https://careerhack.en-japan.com/report/detail/945 ちょっとクセのある明朝体がトレンド、2018年のフォント事情 - キャリアハック] [[エン・ジャパン]] 2018年4月10日</ref>。オールドスタイルの明朝体には[[筑紫オールド明朝]]<ref name="enj-old-mincho"/>(フォントワークス)、[[ZENオールド明朝]]<ref name="enj-old-mincho"/>(エイワン)、[[A1明朝]]<ref name="enj-old-mincho"/><ref name="morisawa-reimin-grad"/>(モリサワ)、[[秀英明朝]]<ref name="enj-old-mincho"/><ref name="morisawa-reimin-grad">[https://www.morisawa.co.jp/culture/inside-story/2001 第六回 黎ミン グラデーションファミリー] モリサワ</ref>(モリサワ)、[[S明朝]]<ref name="enj-old-mincho"/>(ニィス)、[[イワタ明朝体オールド]](イワタ)、[[きざはし金陵]]<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1073057.html モリサワ、2017年秋にリリースする新しいフォント17書体を発表] 窓の杜 2017年7月28日</ref><ref name="enj-old-mincho"/>(モリサワ)、[[解ミン 宙]]<ref name="enj-old-mincho"/>(モリサワ)、霞青藍<ref>[https://www.morisawa.co.jp/topic/upg2022/detail/kasumiseiran/ 霞青藍 - 2022 モリサワ新書体] モリサワ</ref>(モリサワ)、霞白藤<ref>[https://www.morisawa.co.jp/topic/upg2022/detail/kasumishirafuji/ 霞白藤 - 2022 モリサワ新書体] モリサワ</ref>(モリサワ)、[[丸明朝体|丸明オールド]]<ref name="enj-old-mincho"/>(砧書体制作所〈発表当初はカタオカデザインワークス〉)、[[筑紫アンティーク明朝]]<ref name="enj-old-mincho"/>(フォントワークス)、[[欅明朝 Oldstyle]](モリサワ)、[[貂明朝]]<ref name="enj-old-mincho"/>(Adobe)などがある。オールドスタイルのゴシック体には[[イワタゴシック体オールド]](イワタ)、[[ヒラギノ#ヒラギノ角ゴ オールド|ヒラギノ角ゴ オールド]](SCREEN)、[[筑紫アンティークゴシック]](フォントワークス)、[[欅角ゴシック Oldstyle]](モリサワ)などがある。またオールドスタイルの丸ゴシック体には[[ヒラギノ#ヒラギノ丸ゴ オールド|ヒラギノ丸ゴ オールド]] (SCREEN)などがある。<!--TODO: ニュートラル? クラシカル? 活版書体と写植書体、オールドスタイル手書き書体(白妙 オールド)--> [[大正ロマン]]・[[昭和モダン]]・西洋レトロ・レトロ可愛い<ref name="morisawa-new2022wa"/>を意識したレトロモダンな書体も存在する。これにはダイナフォントのロマン風書体シリーズ([[ロマン鳳]]、[[ロマン輝]]、[[ロマン雪]])<ref>[https://www.dynacw.co.jp/fontstory/fontstory_detail.aspx?s=239 DynaFont PICK UP書体-ロマン雪] ダイナコムウェア 2017年7月14日</ref>、MPC(解散後[[六歌仙]]が引き継ぎ)の[[昭和モダン体]]、モリサワの[[赤のアリス]]<ref>[https://ascii.jp/elem/000/004/003/4003770/ MORISAWA PASSPORT製品にて「赤のアリス」など新書体の提供を開始] ASCII 2020年2月20日</ref>・[[白のアリス]]<ref name="morisawa-new2022wa">[https://note.morisawa.co.jp/n/n0289d6ef788b え?こんなデザインも使えるの?! ジャンル別にわかる、モリサワ新書体2022【和文編】] モリサワ 2022年6月23日</ref>・[[オズ]]<ref name="morisawa-new2022wa"/>・[[翠流ネオロマン]]<ref name="morisawa-new2022wa"/>・[[翠流デコロマン]]<ref name="morisawa-new2022wa"/>(アーフィックのAR浪漫明朝体ベース<ref>[https://www.morisawa.co.jp/fonts/specimen/7688 翠流ネオロマン] モリサワ</ref><ref>[https://www.morisawa.co.jp/fonts/specimen/7687 翠流デコロマン] モリサワ</ref>)・[[月下香 (書体)|月下香]]、フォントワークスの[[パルレトロン]]<ref>[https://fontworks.co.jp/column/427/ 「パル」シリーズ第二弾は、西洋レトロとゴスロリがモチーフの「パルレトロン」] フォントワークス 2019年7月23日</ref>、視覚デザイン研究所の黒明朝やG明朝、各種シネマ書体などがある。<!--TODO: 海外での分類は? Mackellar, Smiths & Jordan CoのPICA ORNATE辺り--> 英語のセリフ体にも[[セリフ (文字)#オールド・フェイス|オールドスタイル]]、モダン ({{仮リンク|ディドーン|en|Didone (typography)}})、その中間体である[[セリフ (文字)#トランジショナル|トランジショナル]]が存在する。サンセリフ体にもトラディショナルな[[サンセリフ#グロテスク・サンセリフ (Grotesque Sans-Serif)|グロテスク・サンセリフ]]体とモダンな[[サンセリフ#リアリスト・サンセリフ (Realist Sans-Serif)|ネオ・グロテスク体]]が存在する。 未来を思わせるフォントも存在し、未来を印象づけるブランドや未来が舞台のコンテンツなどで使われている。欧文では{{仮リンク|Eurostile|en|Eurostile}}や[[Futura]]などの[[サンセリフ#ジオメトリックサンセリフ|ジオメトリックサンセリフ]]体が相当する。和文では[[創挙蘭#類似コンセプトの書体|DF綜藝体]]が使われている<ref>[http://dengekionline.com/elem/000/001/306/1306488/ 【電撃PS】海外のビッグタイトルを手掛けたローカライザーたちによるスペシャル鼎談、その全文を掲載!(前編)] 電撃オンライン 2016年6月29日</ref><ref>『+DESIGNING VOLUME 48』 P.10 マイナビ出版 2019年9月28日 ISBN 978-4839970758</ref>。また綜藝体に類似するフォントには[[創挙蘭]]<ref name="wabunfont-arphic2">[http://wabunfont.so.land.to/wabunfont/library/arphic/arphic2.html アーフィック/デザイン・POP書体] 和文フォント大図鑑</ref>(2021年現在[[DTP]]フォント化されていない)やAR新藝体<ref name="wabunfont-arphic2"/>(かなを変更した花風テクノ<ref>[https://fontworks.co.jp/fontsearch/kafutechnostd-u/ 花風テクノ U] フォントワークス</ref>や翠流アトラスもある<ref>[https://www.morisawa.co.jp/topic/upg2022/detail/suiryuatlas/ 翠流アトラス - 2022 モリサワ新書体] モリサワ</ref>)が存在する。<!--TODO: 他にも未来的なフォントがあるはず。ナショ文字、コメット、カラット、廻想体、視覚デザイン研究所のライン/ギガ、フォントワークスの奈あたり? 出典を探す。既にレトロフューチャーになってるものもある? --> なお、ここでいう新旧はスタイルのことであり漢字の字体・字形とは関係しない。漢字の字体・字形の新旧についてはOpenTypeフォントがフィーチャータグにより[[字体#旧字体|旧字体]](tradタグ)、[[国語国字問題#表外漢字字体表|印刷標準字体]](nlckタグ)、[[JIS X 0208#第1次規格|JIS78字形]](jp78タグ)、[[JIS X 0208#第2次規格|JIS83字形]](jp83タグ)、[[JIS X 0208#第3次規格|JIS90字形]](jp90タグ)、[[JIS X 0213#JIS X 0213:2004の改正|JIS2004字形]](jp04タグ)の切り替えを可能としている<ref name="adobe-css-gsub"/>。またUnicodeの異体字シーケンス(SVSやIVS)に対応しているフォントとアプリケーションの組み合わせでは対象文字の後ろに[[異体字セレクタ]]を付けることによっても切り替えが可能となる。ここでの字形には明朝体の単なるデザイン差とされる筆押さえのような装飾の違いも含んでいる<ref name="asahi-ivs-4">[http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/moji/2013020300003.html Win8で味わう「IVS」・その四] 朝日新聞 2013年2月4日</ref>。伝統的な明朝体には装飾として筆押さえが付いていたものの、近年の明朝体では筆押さえを付けることが減っているとされている<ref>[https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/hokoku/pdf/jitai_jikei_shishin.pdf 常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)] p.35-36 文化審議会国語分科会 2016年2月29日</ref>が、一部の文字の筆押さえも異体字セレクタなどを使うことで変更することが可能となっている<ref name="asahi-ivs-4"/>。 数字字形の新旧についてもOpenTypeフォントがフィーチャータグによりライニング体(lnumタグ)とオールドスタイルの{{仮リンク|ノンライニング体|en|Text figures}}(onumタグ)の切り替えを可能としている<ref name="adobe-css-gsub"/>。OpenTypeフォントではフィーチャータグのsaltタグとss##タグにより任意の代替スタイル字形への切り替えが可能となっており<ref name="adobe-css-gsub"/>、古い字形と新しい字形を含めたさまざまな字形に切り替えられるフォントが存在する。 トラディショナルな書体とモダンな書体の乖離が大きい文字体系も存在する。例えば[[タイ文字]]ではトラディショナルな書体がループ付きの文字な一方、モダンな書体がループ無しの文字となっている<ref>[https://www.morisawa.co.jp/fonts/multilingual/typesetting/pdf/th_multilingualtypesetting_1802.pdf タイ語 - 英中韓組版ルールブック(タイ語含む)] P.1 モリサワ</ref>。両者の乖離が大きいため、両方の書体のフォントを提供する多言語フォントファミリーがある(MonotypeのNeue Frutiger Thai TraditionalとNeue Frutiger Thai Modern、モリサワのClarimo UD ThaiとClarimo UD ThaiModern、ダイナコムウェアのDF King Gothic TH10とDF King Gothic THM10など)。 <gallery widths="300px"> File:Mediaevalziffern.svg|オールドスタイルの数字字体(ノンライニング体) File:Q_typographic_styles.svg|さまざまな「Q」の字形スタイル File:พรบ typeface comparison.png|タイ文字のモダン書体(上)とトラディショナル書体(下) </gallery> === 本文用と見出し用とキャプション用 === {{節スタブ}} フォントには本文用と見出し用のものとが存在する。 本文用の明朝体は伝統的に見出しまで共用できるよう作られているものが多いとされる<ref>[https://www.jagat.or.jp/past_archives/story/8674.html 活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(27)― フォント千夜一夜物語(60)] 日本印刷技術協会 2005年2月19日</ref>。例えばモトヤ明朝では細字を本文用として小さくても潰れないようにし、太字を見出し用として楷書に寄せた柔らかいものにしている<ref>[https://www.motoyafont.jp/font-list/mincho.html モトヤ明朝] モトヤ</ref>。<!--TODO: 他の例 --> 一方、凸版文久体では本文用と見出し用でフォントが分かれており、本文用の凸版文久明朝/凸版文久ゴシックでは読みやすさを、見出し用の凸版文久見出し明朝/凸版文久見出しゴシックではインパクトを重視するものとなっている<ref>[https://www.toppan.co.jp/bunkyutai/ 凸版文久体] 凸版印刷</ref>。 ==== オプティカルサイズ ==== 小さな文字は潰れたり見分けが難しくなったりするため、文字サイズにより複数のデザインのあるフォントも存在する。例えばAdobeのOpenTypeフォントではCaption(キャプション用・6〜8ポイント向け)、Regular(一般用・9〜13ポイント向け)、Subhead(小見出し用・14〜24ポイント向け)、Display(タイトル用・25〜72ポイント向け)のバリアントが用意されている<ref>[https://www.adobe.com/products/type/opentype.html OpenType fonts features] Adobe Systems</ref>。 OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様が存在し、opsz軸タグを使ってオプティカルサイズを連続的に変えられるようにすることも可能となっている<ref name="otf-fvar"/><ref name="otf-fvar-axis"/>。 ==== ルビ用字形 ==== 日本語では漢字などに読み仮名として小さな[[ルビ]]を振ることが行われるが、一部の日本語のOpenTypeフォントはフィーチャータグによりルビ用字形(rubyタグ)への切り替えが可能となっている<ref name="adobe-css-gsub"/>。小さいサイズでも読みやすいように細めの本文書体でルビ用仮名が太めに作られるなど、標準仮名とルビ用仮名とではデザインが異なる<ref name="ken-cjkv-p310">[[ケン・ランディ|Ken Lunde]]著、小松章・逆井克己訳『CJKV 日中韓越情報処理』 p.310 [[オライリー・ジャパン]] 2002年12月 ISBN 978-4873111087</ref>。かつては、ルビ用字形では拗促音などを示す[[捨て仮名|小書きの仮名]]も標準サイズとされた<ref name="ken-cjkv-p310"/>。これは活字組版ではルビ用の小書き仮名が用意されなかった<ref name="jagat2012">{{Cite web|和書|author=小林敏 |url=https://www.jagat.or.jp/past_archives/content/view/3455.html |title=小書きの仮名 【日本語組版とつきあう 7】 |publisher=公益社団法人日本印刷技術協会 |date=2012-02-19 |accessdate=2021-08-22}}</ref>ことの名残であると考えられる。商用日本語OpenTypeフォントの文字セットとして[[デファクトスタンダード|事実上の標準]]となっている[[Adobe-Japan1]]では、2000年の追補4(Adobe-Japan1-4)でCID 12639〜12869に、2002年の追補5(Adobe-Japan1-5)でCID 16412〜16468にルビ用字形を割り当てている<ref>{{Cite web|和書|url=https://github.com/adobe-type-tools/Adobe-Japan1/blob/master/README-JP.md#ルビグリフ |title=Adobe-Japan1-7 文字コレクション#ルビグリフ |author=Adobe |accessdate=2021-08-22}}</ref>。これらのルビ用字形には、[[JIS X 0208]]に収録されたすべての小書きの仮名(追補4)と[[JIS X 0213]]に収録されたすべての小書きの仮名(追補5)が含まれる。2010年代初めまでには、書籍でルビに小書きの仮名を使用する例が増えている<ref name="jagat2012" />。 === ユニバーサルデザイン === [[File:Ud-font-3-6-8-読みやすさ比較.png|thumb|200px|一般ゴシックフォント(新ゴ M)とUDゴシックフォント(UD新ゴ M)の比較(水色の数字は「8」)。]] ユニバーサルデザイン書体(UD書体)とは、誰にでも読みやすいようなデザインの書体のことであり、UD書体のフォントはUDフォントと呼ぶ。例えば数字の「6」、「9」や「8」、「3」はフォントによっては非常に判別がしづらい。このような読みづらい文字を判別しやすいようにしたのがユニバーサルフォントである<ref>[https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15529973861480 行方市、全国初 UDフォント一体導入 行政・教育、文書活用に]</ref><ref>[https://www.projectdesign.jp/201810/new-market-learning/005472.php 奈良県教育委員会×モリサワ 教育の現場でのUDフォントの可能性]</ref>。UDフォントは見やすさのため、多くがふところの広いモダンな書体となっている<ref name="hiragino-ud">[http://www.cbc-net.com/dots/taro_yumiba/5/ 5. ヒラギノUDについて聞いてみた@字游工房] Cinra 2010年8月5日</ref><ref>[https://www.justmyshop.com/camp/morisawa/vol1.html あなたの知らないフォントの世界・前編] ジャストシステム 2020年</ref><ref name="iwata-ud">[https://www.iwatafont.co.jp/ud/ イワタUDフォント] イワタ</ref><ref name="nis-ud">[https://www.nisfont.co.jp/about/series_ud.html NIS Fontの魅力] ニィス</ref><ref name="dyna-ud-mincho">[https://www.dynacw.co.jp/fontstory/fontstory_detail.aspx?s=441 DynaFont PICK UP書体-UD明朝体]</ref>。ゲタ(突き出し)の付いていないデザインが多いものの、ゲタの付いてるデザインの書体もある<ref name="eg-udfont"/><ref name="hiragino-ud"/>。 ゴシック体のUDフォントには[[新ゴ#UD新ゴ|UD新ゴ]]<ref name="morisawa-ud">[https://www.morisawa.co.jp/fonts/udfont/lineup/ UD書体のラインナップ] モリサワ</ref>(モリサワ)、TBUDゴシック<ref name="morisawa-ud"/>(モリサワ)、イワタUDゴシック<ref name="iwata-ud"/>(イワタ)、イワタUD新聞ゴシック<ref name="iwata-ud"/>(イワタ)、みんなの文字ゴシック({{abbr|UCDA|ユニバーサルコミュニケーションデザイン協会}}/イワタ/電通)<ref name="minmoji">[https://minmoji.ucda.jp/ UCDAフォント みんなの文字] ユニバーサルコミュニケーションデザイン協会</ref>、UD角ゴ_ラージ/UD角ゴ_スモール<ref name="fontworks-ud">[https://fontworks.co.jp/fonts/ud/ 九州大学との共同研究報告 vol.1 〜 ユニバーサルデザイン(UD)フォントの評価に関して 〜] フォントワークス</ref>(フォントワークス)、ヒラギノUD角ゴ/ヒラギノUD角ゴF<ref name="screen-ud"/>(SCREEN)、NUDモトヤシーダ<ref name="motoya-ud">[http://www.motoyafont.jp/common/pdf/catalog_udfont.pdf モトヤ UD 対応フォント] モトヤ</ref>(モトヤ)、UD モトヤ新聞ゴシック<ref name="motoya-ud"/>(モトヤ)、UDゴシック体<ref name="dsv-202006">[https://www.mdn.co.jp/di/newstopics/73253/ ダイナコムウェア、年間ライセンス「DynaSmart V」のアップグレードで57書体を追加] MdN Design Interactive 2020年6月5日</ref>(ダイナコムウェア)、NIS_UDゴシック<ref name="nis-ud"/>(ニィス)などがある。 丸ゴシック体のUDフォントにはUD新丸ゴ<ref name="morisawa-ud"/>(モリサワ)、TBUD丸ゴシック<ref name="morisawa-ud"/>(モリサワ)、イワタUD丸ゴシック<ref name="iwata-ud"/>(イワタ)、UD丸ゴ_ラージ/UD丸ゴ_スモール<ref name="fontworks-ud"/>(フォントワークス)、ヒラギノUD丸ゴ<ref name="screen-ud">[https://www.screen-hiragino.jp/lineup/hirud/ UD書体] SCREEN</ref>(SCREEN)、NUDモトヤマルベリ<ref name="motoya-ud"/>(モトヤ)、UD丸ゴシック体<ref name="dyna-ud-mincho"/>(ダイナコムウェア)などがある。 明朝体のUDフォントにはUD黎ミン<ref name="morisawa-ud"/>(モリサワ)、TBUD明朝<ref name="morisawa-ud"/>(モリサワ)、イワタUD明朝<ref name="iwata-ud"/>(イワタ)、イワタUD新聞明朝<ref name="iwata-ud"/>(イワタ)、みんなの文字明朝({{abbr|UCDA|ユニバーサルコミュニケーションデザイン協会}}/イワタ/電通)<ref name="minmoji"/>、UD明朝<ref name="fontworks-ud"/>(フォントワークス)、ヒラギノUD明朝<ref name="screen-ud"/>(SCREEN)、NUDモトヤ明朝<ref name="motoya-ud"/>(モトヤ)、UD モトヤ新聞明朝<ref name="motoya-ud"/>(モトヤ)、UD明朝体<ref name="dsv-202006"/><ref name="dyna-ud-mincho"/>(ダイナコムウェア)などがある。 UDの[[タイポス系書体]](UDタイポス<ref name="morisawa-ud"/>、NUDモトヤアポロ<ref name="motoya-ud"/>など)やUDの教科書体も登場している([[UDデジタル教科書体]]<ref name="morisawa-ud"/>など)。<!--TODO:TBUD学参丸ゴシック--> === 学参フォント ===<!-- 独立項目にならない限り「学参フォント」の見出しは残してください --> {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+主な学参フォント・筆順フォント ! style="white-space:nowrap" |メーカー !! 教科書体 !! 筆順フォント !!style="white-space:nowrap" | 学参明朝体 !! 学参ゴシック体 !! 学参丸ゴシック体 |- ! モリサワ<ref group="注">モリサワの学参フォントは、OpenTypeのフォントメニュー名が「G-OTF 〜」となっている。表中に挙げた「学参 常改〜」書体は2010年の常用漢字表改定に対応したもの。以前の仕様の「学参 〜」書体もある。</ref> | style="white-space:nowrap" | 学参 常改教科書ICA<ref group="注" name="kana-prepared"/> || 筆順ICA/筆順2 ICA<ref>[https://www.morisawa.co.jp/support/faq/154 筆順フォントとはなんですか?] モリサワ</ref> || style="white-space:nowrap" | 学参 常改リュウミン、<br>学参かな アンチックAN<ref group="注" name="kana-only" /> ||style="white-space:nowrap" | 学参 常改新ゴ<ref group="注" name="kana-prepared">かなのみの製品「学参かな 〜」も存在する。</ref>、<br>学参 常改太ゴB101、<br>学参 常改中ゴシックBBB、<br>学参かな ネオツデイ<ref group="注" name="kana-only">「かな書体」であるため漢字は含まず、他書体の漢字と合わせて使う。</ref> || style="white-space:nowrap" | 学参 常改新丸ゴ<ref group="注" name="kana-prepared"/>、<br>学参 常改じゅん |- ! (タイプバンク) | [[UDデジタル教科書体]] || UDデジタル教科書体 筆順フォント TypeA/TypeB<ref name="morisawa-faq6472">[https://www.morisawa.co.jp/support/faq/6472 UDデジタル教科書体 筆順フォント(OpenType)を使うにはどうしたらいいですか?] モリサワ</ref> || || || [[UDデジタル教科書体#TBUD学参丸ゴシック|TBUD学参丸ゴシック]] |- ! 字游工房 | 游教科書体<ref group="注">教科書大手[[東京書籍]]との共同開発による書体で、同社の2020年度版小学校教科書に採用されている([https://twitter.com/jiyu_kobo/status/1153143636122431488 字游工房のツイート])</ref> || || || || |- ! イワタ | G-イワタ教科書体、<br>イワタ学参新教科書体 || イワタ筆順フォント 教科書体 Aタイプ/Bタイプ<ref name="iwata-hitsujun"/>、<br>イワタ筆順フォント 新教科書体 Aタイプ/Bタイプ<ref name="iwata-hitsujun">[https://www.iwatafont.co.jp/font/hitsp.html 筆順フォント 書体仕様] イワタ</ref> || G-イワタ明朝体 || G-イワタゴシック体、<br>G-イワタ新ゴシック体 || G-イワタ丸ゴシック体 |- ! モトヤ | モトヤKJ教科書、<br>モトヤICT教科書 || モトヤK2 ヒツジュン/エレメント<ref name="motoya-gakusan">[https://www.motoyafont.jp/font-list/gakusan.html 学参フォント] モトヤ</ref>、<br>モトヤICT教科書 ヒツジュン/エレメント<ref>[https://www.motoyafont.jp/font-list/ict-kyotai.html モトヤICT教科書体] モトヤ</ref> || モトヤKJ学参明朝 || モトヤKJ学参ゴシック || |- ! style="white-space:nowrap" | ダイナコムウェア | DF教科書体<ref group="注">「学参」を名乗っていないが、学習指導要領準拠を謳う。</ref> || || || || |- ! フォントワークス | || || || || 学参丸ゴ<ref group="注">この書体は、フォントワークスの会員制サービスである「LETS」や「mojimo-live」で提供されている。</ref> |} '''学参フォント'''は、文部科学省により小学校[[学習指導要領]]の[[学年別漢字配当表]]に示された「代表的な字形」に準拠したフォントである。既存の明朝体・ゴシック体・丸ゴシック体をベースに制作されるフォントで、主に文字の学習段階である小学生向けの教科書などに使用される。教科書・参考書・児童書などの分野に関係しないデザイナーに学参フォントが浸透するにつれて、テレビや新聞の広告、注意書きなど、年齢層に関係ないものでも使用される例が出てきた。教科書体においても、モリサワの「教科書ICA」に対する「学参 教科書ICA」「学参 常改教科書ICA」のように、代表字形との差異があるものについては、学参フォントが用意されている場合がある。 ==== 筆順フォント ==== '''筆順フォント'''は、既存の教科書体を基にした筆順を示すためのフォントで、[[漢字ドリル]]や[[字典]]などの漢字の解説で使用されている。1画ずつ分解したもの(Aタイプ<ref name="iwata-hitsujun"/>/TypeA<ref name="morisawa-faq6472"/>/エレメント<ref name="motoya-gakusan"/>など)と筆順に沿って1画ずつ増やしたもの(Bタイプ<ref name="iwata-hitsujun"/>/TypeB<ref name="morisawa-faq6472"/>/ヒツジュン<ref name="motoya-gakusan"/>など)が存在し、両者は筆順を表現するために組み合わせて使用される。 === 等幅フォントとプロポーショナルフォント === [[File:Propvsmono.svg|thumb|right|プロポーショナル(可変幅)とモノスペース(等幅)]] * [[等幅フォント]](モノスペースフォント) * [[プロポーショナルフォント]](可変幅フォント) それぞれの文字の幅が統一されているフォントを等幅フォント、そうでないフォントをプロポーショナルフォントと呼ぶ。一般にプロポーショナルフォントの方が自然で読みやすいとされるが、初期のデジタルフォントでは技術的制約から等幅フォントが多用された。 日本の文字コードや[[Unicode]]には半角英数と全角英数の両方の文字が含まれているが、プロポーショナルフォントには半角英数のみがプロポーショナルで全角英数が等幅となっているものがある。[[Unicode]]の[[数学用英数字記号]]には等幅のアルファベットが含まれている。 OpenTypeフォントではフィーチャータグにより、[[全角と半角|全角]]字形(fwidタグ)、[[半角]]字形(hwidタグ)、プロポーショナル字形(pwidタグ)の切り替えが可能となっている<ref name="adobe-css-gsub"/>。数字用のフィーチャータグも存在し、等幅数値字形(tnumタグ)とプロポーショナル数値字形(pnumタグ)を切り替えることが可能となっている<ref name="adobe-css-gsub"/>。文字詰めもタグによって可能となっている(横組用のpaltタグ、縦組用のvpalタグ)。WebページではCSSのfont-feature-settingsプロパティにそれらタグを指定することで等幅とプロポーショナルの切り替えが可能となっている<ref name="adobe-css-gsub">[https://helpx.adobe.com/jp/fonts/using/open-type-syntax.html CSS での OpenType 機能の構文 CSS での OpenType 機能の構文] Adobe</ref>。 一部の[[TrueType]]フォントファミリーでは等幅フォントとプロポーショナルフォントが別個に提供されている。一部のフォントファミリーは等幅フォントの名前が無印となっており、プロポーショナルフォントの名前にPが入っている(等幅の「MS ゴシック」、プロポーショナルの「MS Pゴシック」など)。一部のフォントファミリーは等幅フォントの名前に「等幅」が入っており、プロポーショナルフォントの名前が無印となっている(等幅の「ヒラギノ角ゴ3等幅」、プロポーショナルの「ヒラギノ角ゴ3」など)。 [[OpenType]]のOpenType Font Variations仕様を使って、プロポーショナルから等幅まで連続的に変形できるようにしたフォントも存在する(Recursiveなど)<ref name="google-fonts-variable"/>。 === 長体・平体フォント === [[File:Skia_variants.png|thumb|right|横軸は正体とブラック体(極太字体)、縦軸はコンデンス体(長体)と正体とエクステンド体(平体)]] コンデンス体(長体、堅形<ref name="tsukiji">[{{NDLDC|854017/21}} 東京築地活版製造所 活版見本 P.81] 野村宗十郎 1903年11月</ref>)はスペースの少ない箇所で多く使われており、エクステンド体(平体、平形<ref name="tsukiji"/>)は新聞の本文用に使われていた。[[活版印刷]]では専用の[[活字]]が用意されており<ref name="tsukiji"/>、[[写真植字]]ではレンズにより変形処理が行われ、[[ワードプロセッサ]]ではデジタル処理により縦倍角化・横倍角化が行われていた。その後、長体や平体に最適化したフォントも登場している(前者はAXIS Fontコンデンス/コンプレス、UD新ゴ コンデンス、UD角ゴ コンデンス、TPスカイ コンデンス/コンプレス、TBゴシックforコンデンス、SST JPコンデンス、金剛黒体コンデンスなど、後者は新聞用本文書体の各種フォントなど)。 OpenTypeフォントではフィーチャータグにより、全角字形(fwidタグ)、半角字形(hwidタグ)、1/3角字形(twidタグ)、1/4角字形(qwid)の切り替えが可能となっている<ref name="adobe-css-gsub"/>ものの、対応文字種は少ない。 OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様も存在し、wdth軸タグを使って幅を連続的に変えられるようにできる<ref name="otf-fvar"/><ref name="otf-fvar-axis"/>。これに対応する日本語フォントとしては例えば「金剛黒体VF」がある<ref name="kongou-vf">[https://www.dynacw.co.jp/news/news_detail.aspx?s=986 呼吸するバリアブルフォント「金剛黒体VF」を「DynaSmart V」に11月24日から提供] ダイナコムウェア 2022年11月21日</ref>。 === 縦組用・横組用フォント === フォントにより縦組横組両用、縦組向け、横組向けが存在する。 Adobe-Japan1対応のOpenTypeフォント<ref>フォント名にStd/Pro/StdN/ProN等の付属することが多い</ref>は横組用・縦組用の両方のグリフを含んでいる。OpenTypeフォントには縦組用字形へと切り替えるためのvertタグが存在する<ref name="adobe-css-gsub"/>。OpenTypeフォントには横組用かなへ切り替えるためのhknaタグと縦組用かなへ切り替えるためのvknaタグが存在し<ref name="adobe-css-gsub"/>、一部フォントは縦組用かなと横組用かなの両方を含んでいる。 縦組向けと横組向けで別のフォントとなっている書体([[游書体#游教科書体|游教科書体]]など)や横組用かなを別のフォントとしても用意する書体(ヒラギノ明朝体横組用仮名)もある。 === 大がな・小がなフォント === {{節スタブ}} 大がなはラインが揃うものの、小がなの方が日本語の可読性は高いとされる<ref name="ryumin-kana">[https://www.morisawa.co.jp/culture/inside-story/1999 第四回 リュウミンのかな] モリサワ</ref>。 一部のフォントファミリーは大がなフォントと小がなフォントの両方が用意されている(リュウミンL-KLとリュウミンL-KS<ref name="ryumin-kana"/>、本明朝-L 標準がな/新がなと本明朝-L 小がな/新小がな、など)。 === 感情とフォント === {{節スタブ}} ポップなフォントとして[[POP広告]]などに使われる[[POP広告#ポップ体|ポップ体]]フォント([[創英角ポップ体]]や[[Popハッピネス]]など)<ref>[https://goworkship.com/magazine/font-pop/ 【商用OK/無料多】ポップなフォント40選!手書き風から漢字までかわいい&元気なものを網羅] GiG 2021年11月4日</ref><ref>[https://fontdasu.com/875 ゴカールに一番近いデジタルフォントを考える] Fontdasu 2017年5月27日</ref><ref>[https://www.akibatec.net/wabunfont/category/pop.html 【POP体】チラシやPOP広告でよく使われる、親しみやすい書体。] 和文フォント大図鑑</ref>が、またホラーなフォントとして[[ホラー漫画]]などに使われるホラー系フォント([[万葉古印ラージ]]<ref>[https://www.itmedia.co.jp/ebook/articles/1503/20/news097.html 無料マンガ制作ソフト「クラウドアルパカ」、マンガに適した10書体を提供開始] ITmedia 2015年3月20日</ref>や[[コミックミステリ]]<ref>[https://ha.athuman.com/manga/list/topics/051290.php フォントだけで漫画の雰囲気が「ガラリ」と変わる!] [[ヒューマンホールディングス|ヒューマンアカデミー]]</ref>など)が存在する。 そのほか色んな感情を表現するフォントがあり、[[大日本印刷]]は字幕向けに自動でフォントを選択する「感情表現字幕システム」を開発している<ref>[https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1272456.html 感情に合わて字幕のフォントを変える「感情表現字幕システム」。DNPとNHK] Impress 2020年8月24日</ref>。 === 従属欧文および多言語フォント === 一般的な日本語フォントには和文書体だけでなく従属欧文書体も付属しているが、フォントに含まれる和文書体と従属欧文書体には書体の印象差が存在している<ref name="yamamoto-2005">山本政幸, [https://doi.org/10.11247/jssd.52.0.126.0 日本語タイポグラフィにおける和欧書体混植の調和について]」『日本デザイン学会研究発表大会概要集』 2005年 52巻 日本デザイン学会 第52回研究発表大会, p.126, {{doi|10.11247/jssd.52.0.126.0}}。</ref>。混植では一般的に和文と従属欧文の調和融合が良いとされているが、[[游書体#游明朝体|游明朝]]など和文と従属欧文にあえて印象に差を付けたフォントも存在している<ref name="yamamoto-2005"/>。また書体にはお国柄というものも存在している<ref>小林章 『欧文書体―その背景と使い方』美術出版社 2005年6月16日 ISBN 978-4568502770</ref>。<!--TODO: 漢字と仮名の印象差--> 和文がセンター揃えであるのに対し欧文がベースライン揃えである<ref>[https://www.jagat.or.jp/past_archives/story/2091.html 和欧混植の問題点 - 欧文フォントと組版(4)] 日本印刷技術協会 2000年7月2日</ref><ref name="dtp-expert-er">『DTPエキスパート用語辞典』 P.262 澤田善彦、玉虫幸雄 2002年12月9日 ISBN 978-4889830767</ref>ため、混植では書体間でうまく調和をとる必要があり、例えば欧文書体のベースラインを下げて{{仮リンク|エックスハイト|en|x-height}}が高くなるよう長体を掛けて和文書体との調和を取ったフォント(写植でいうところのE欧文<ref name="dtp-expert-er"/>; 小塚ゴシックなど)や、和文書体のベースラインを上げて枠に収まるよう平体を掛けて欧文書体との調和と取ったフォント([[メイリオ]]など)などが存在している<ref>[https://www.atmarkit.co.jp/news/201001/07/meiryo.html 実はメイリオまだ進化中! 誕生秘話を河野氏に聞いた] ITmedia 2010年1月7日</ref>。 多言語のテキストを表示・印刷する場合、異なる書体の混植が行われてきた。フォントエンジンには、フォントに欠けているグリフを別のフォントで補うフォントフォールバック機能やフォントリンク機能<ref>[https://docs.microsoft.com/ja-jp/previous-versions/cms2002/cc400750%28v=msdn.10%29 Web Author] Microsoft</ref>が搭載されているものもある。 ==== 対応文字種 ====<!--TODO: [[タイ語]]、[[アラビア語]]、JIS非漢字、[[Adobe-Japan1]]、[[GB 2312]]/[[GB 18030]]、Big5、HKSCS?--> フォントはそれぞれ対応文字種および対応言語が異なっており、一つのフォントファミリーに複数の異なる文字種のフォントが含まれているものも存在する。 欧文フォントファミリーでも昔は地域ごとにフォントが分かれていた。例えばWindows 95の「多国語サポート」では西ヨーロッパ諸語(無印、[[Windows-1252]])、中央ヨーロッパ諸語(CE、[[Windows-1250]])、[[バルト三国|バルト諸語]]<ref group="注">エストニア語を含むのでバルト語派ではない</ref>(Baltic、[[Windows-1257]])、[[キリル文字|キリル諸語]](Cyr、[[Windows-1251]])、[[ギリシャ語]](Greek、[[Windows-1253]])、[[トルコ語]](TUR、[[Windows-1254]])でフォントが分かれており<ref>『Language International Vol.11』 J. Benjamins 1999年 {{ISSN|0923-182X}}</ref>、Microsoftはこれらの文字全てを包括するグリフセットとして{{仮リンク|Windows Glyph List 4|en|Windows Glyph List 4}}(WGL4)を定めた<ref>『Multilingual Communications & Technology Vol.8』 Multilingual Computing 1996年 {{ISSN|1098-7665}}</ref>。WGL4に似たコンセプトのグリフセットとして{{仮リンク|World glyph set|en|World glyph set}} 1(W1G)およびそれに[[ベトナム語]]や[[ヘブライ語]]を追加したW2G<ref>[https://lets-site.jp/lets/monotypelets/font 仕様 - Monotype LETS] フォントワークス</ref>も存在し、一部のフォントベンダーはこちらを実装している。 一方、Adobeも独自にラテングリフセットを定めている。Adobe Latin 1は西ヨーロッパ諸語のみであり、Adobe Latin 2 (Std)はそれに数学記号を追加し、Adobe Latin 3 (Pro)はそれに中央ヨーロッパ諸語(バルト諸語・トルコ語含む)を追加し、Adobe Latin 4はそれに[[ベトナム語]]などを追加し、Adobe Latin 5はそれに[[国際音声記号]](IPA)などを追加している<ref>[https://github.com/adobe-type-tools/adobe-latin-charsets Adobe Latin Character Sets] Adobe</ref>。なお、キリル諸語のグリフセットはAdobe Cyrillic 1〜3で<ref>[https://github.com/adobe-type-tools/adobe-cyrillic-charsets Adobe Cyrillic Character Sets] Adobe</ref>、ギリシャ語のグリフセットはAdobe Greek 1〜2で<ref>[https://github.com/adobe-type-tools/adobe-greek-charsets Adobe Greek Character Sets] Adobe</ref>定められている。<!--TODO: ヘブライ語? AGLFN?--> 近年は日本語および中国語を含む多言語のフォントファミリーも登場している: * モリサワ: [[新ゴ#UD新ゴ|UD新ゴ]](森泽UD新黑)/Clarimo UD<ref>[https://webtan.impress.co.jp/n/2019/11/08/34462 モリサワがウェブフォントサービス「TypeSquare」に新書体「Clarimo UD」シリーズ追加] Impress 2019年11月8日</ref>、UD[[黎ミン]](森泽UD黎明体)/Lutes UD<ref>[https://www.mdn.co.jp/di/newstopics/73661/ モリサワ、2020年秋にリリース予定の新書体を発表] MdN Design Interactive 2020年6月26日</ref> * SCREEN: [[ヒラギノ]]角ゴ(冬青黑体) * イワタ: [[みんなの文字ゴシック]]<ref>[https://ucda.jp/wp-content/uploads/minmoji_190719.pdf UCDA認証フォント「みんなの文字グローバル」と新JIS対応の「みんなの文字ゴシック0213N」を新発売] ユニバーサルコミュニケーションデザイン協会 2019年7月19日</ref> * ダイナコムウェア: [[金剛黒体]]<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20170117-a308/ 液晶画面に適したゴシック体フォント「金剛黒体」6種をリリース] マイナビ 2017年1月17日</ref>(華康金剛黑)、UDゴシック体<ref name="dsv-202006"/>(華康UD黑)、青花ゴシック体(華康青花黑)、娥眉明朝体(華康愛情體<ref>[https://www.dynacw.co.jp/news/news_detail.aspx?s=686 華康愛情体チョコレートが2019年度「iFデザイン賞(iF Design Award)」を受賞] ダイナコムウェア 2019年2月1日</ref>)、クラフト遊(華康娃娃體)など<!--TODO: 華康明朝体(華康明體)、華康ゴシック体(華康黑體)、DF丸ゴシック体(華康圓體)、DFP古籍銀杏(華康古籍銀杏)、華康楷書體、華康勘亭流、華康新綜藝體など。一部は繁体字のみ? 出典となる本を探す。--> * フォントワークス/方正電子: 筑紫明朝<ref name="fw-housei"/>、筑紫A見出ミン(筑紫A标题明朝)<ref name="fw-housei"/>、筑紫Aオールド明朝(筑紫A老明朝)<ref name="fw-housei">[https://fontworks.co.jp/news/2021/06/22/10346/ 【方正LETS】方正電子と共同開発した「筑紫書体シリーズ」などの簡体字書体を提供開始] フォントワークス 2021年6月22日</ref>、筑紫ゴシック(筑紫黑)<ref name="fw-housei"/>、筑紫オールドゴシック(筑紫老式黑体)<ref name="fw-housei"/>、筑紫アンティークS明朝(筑紫古典S明朝)<ref name="fw-housei"/>、筑紫アンティークL明朝(筑紫古典L明朝)<ref name="fw-housei"/>、筑紫A丸ゴシック(筑紫A圆)<ref name="fw-housei"/>、パール(珍珠体)<ref name="fw-housei"/>、ハミング(轻吟体)<ref name="fw-housei"/>、パルラムネ(欢乐体)<ref name="fw-housei"/>、ベビポップ(童趣POP体)<ref name="fw-housei"/> * Monotype: [[たづがね角ゴシック]]/M XiangHe Hei(翔鶴黑體)/Seol Sans/[[Frutiger|Neue Frutiger World]]<ref>[https://fontworks.co.jp/news/2019/02/01/5133/ 【提供開始】「Monotype LETS」の新書体を2019年2月1日より提供開始] フォントワークス 2019年2月1日</ref> * Dalton Maag: Aktiv Grotesk <!--* URW: {{仮リンク|Nimbus Sans|en|Nimbus Sans}} Global → 削除された?--> * Adobe: [[Myriad]]/[[小塚ゴシック]]/Adobe Heiti(Adobe 黑体) * Adobe/Google: [[源ノ角ゴシック]]/[[Noto]] Sans CJK、[[源ノ明朝]]/Noto Serif CJK その他の日本語を含む多言語のフォントファミリーには以下がある: * フォントワークス: UD角ゴ_ラージ/FWThai/FWHebrew/FWArabic/FWHindi * Monotype: SST<ref>[https://fontworks.co.jp/news/2018/07/11/5055/ 【新書体情報】「Monotype LETS」「モトヤLETS」「イワタLETS」の新書体を2018年7月18日より提供開始] フォントワークス 2018年7月11日</ref>、Shorai Sans/{{仮リンク|Avenir|en|Avenir (typeface)|label=Avenir Next World}}<ref>[https://designpocket.jp/static/dpnews/220405shoraisans.html Shorai Sans:ジオメトリックな要素と可読性を両立した日本語書体] デザインポケット </ref> * IBM: IBM Plex(中国語は2022年予定) 日本語を含まない多言語のフォントファミリーには以下がある: * Monotype: Neue Helvetica World<ref>[https://www.linotype.com/8312/neue-helvetica-world.html Neue Helvetica World: the standard in sans serif design for international corporate communications!] ライノタイプ</ref>、[[Univers]] Next Paneuropean/Cyrillic/Arabic、DIN Next Paneuropean/Cyrillic/Devanagari 例えば組み込み機器では[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]はRoboto/Noto Sans CJKを、[[PlayStation 4]]はSSTフォントを<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/series/rt/631479.html ソニーが考える「ウェアラブル」「ビジュアル」の進化] Impress 2014年1月21日</ref>、[[Nintendo Switch]]はUD新ゴを採用している<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1103120.html “フォント”のモリサワ、Taipei Game Show 2018に初出展] Impress 2018年1月25日</ref>。 ==== 地域による字形の違い ==== {{see also|Unihan|:en:Variant Chinese characters}} [[File:Source_Han_Sans_Version_Difference.svg|thumb|right|400px|地域による漢字字体の違い(左から[[簡体字]](中国)、[[繁体字]](台湾)、繁体字(香港)、[[新字体]](日本)、[[朝鮮における漢字#字体|韓国字体]])]] [[File:Cyrillic_alternates.svg|thumb|right|150px|地域によるキリル文字の違い(左からロシア語の正体、同イタリック体、ブルガリア語の正体、同イタリック体、セルビア語の正体、同イタリック体)]] 漢字は地域によって字形が異なっている<ref>[https://heistak.github.io/your-code-displays-japanese-wrong/ Your Code Displays Japanese Wrong] Kenji Iguchi</ref>ものの、Unicodeのコードポイントは同一となっている ([[Unihan]])。OpenTypeフォントではloclタグによって同じコードポイントでの言語ごとに異なるグリフを一つのフォントへと詰め込むことが可能となっており、これにより漢字の日本字形、中国字形、台湾字形、香港字形、韓国字形、マカオ字形の全てに対応することができる(「[[Source LOCL Test]]」<ref>[https://ccjktype.fonts.adobe.com/2019/02/source-locl-test.html Source LOCL Test] Adobe 2019年2月25日</ref>や「[[花園明朝・AFDKO版]]」がこれを採用している)。Adobeはフォント共通のデータを共有してファイルサイズを小さくしたフォントコレクション形式のSuper OTCで多言語フォントのSource Han Sans/Serifを提供している<ref>[https://blogs.adobe.com/CCJKType/2014/09/shs-otf-or-otc.html Source Han Sans: OTF, OTC, Super OTC, or Subset OTF?] Adobe 2014年9月14日</ref>。 しかしながら一般的なフォント形式にはグリフ数の限界があり、未だ日本語と中国語でフォントの分かれているフォントファミリーが多い。字体数問題を解決するBoring Expansionも提案されており<ref name="be"/>、[[HarfBuzz]] 5.0以降などが対応している<ref name="be"/>もののまだ普及には至っていない。 {| class="wikitable" |- ! 規格 !! Adobe-Japan1-7<br />(日本) !! Adobe-GB1-5<br />(簡体字) !! Adobe-CNS1-7<br />(繁体字) !! Adobe-KR-9<br />(韓国) !! Source LOCL Test<br />(参考用) |- | グリフ数 || 23,060 || 30,284 || 19,179 || 22,897 || 65,534 |} また、[[キリル文字]]でも字形がロシア語とブルガリア語とセルビア語(sr-Cyrl)で異なっており、loclタグがその切り替えに使われている(FS Sally Proなどが対応)<ref>[https://www.fontsmith.com/blog/2016/10/12/cyrillic-script-variations-and-the-importance-of-localisation Cyrillic script variations and the importance of localisation] Monotype 2016年10月12日</ref><!--TODO: チュヴァシ語、バシキール語-->。 [[ラテン文字]]でもloclタグが[[ポーランド語]]のkreskaアクセント<ref>[https://glyphsapp.com/learn/localize-your-font-polish-kreska Localize Your Font: Polish Kreska] Glyphs GmbH</ref>、[[ルーマニア語アルファベット]]の[[コンマビロー]]{{efn2|loclタグはコンマビローとセディーユがコードポイントを共有していた時代の古いルーマニア語テキスト向けであり、Unicode環境ではコンマビローに独自のコードポイントが割り当てられてそれが普及している。}}<ref>[https://glyphsapp.com/learn/localize-your-font-romanian-and-moldovan Localize Your Font: Romanian and Moldovan Comma Accent] Glyphs GmbH</ref>、オランド語のアクセント付き「{{lang|nl|[[IJ|ij]]}}」{{efn2|アクセント付き「{{lang|nl|ij}}」はアクセント付き「i」とアクセント無し「j」より変換を行う。Unicode環境ではアクセント付き「j」も直接入力可能となっているが、それはあまり使われないとされる。}}<ref>[https://glyphsapp.com/learn/localize-your-font-accented-dutch-ij Localize Your Font: Accented Dutch ij] Glyphs GmbH</ref><ref>[https://www.underware.nl/blog/2014/10/typesetting-the-dutch-ij/ Typesetting the Dutch IJ] Underware 2014年10月8日</ref><!--TODO: IJ合字の問題(単語に依る)-->、[[トルコ語]]の「fi」[[合字]]抑制{{efn2|トルコ語では[[I#特殊なI|点付きの「{{lang|nl|İ}}」「i」と点無しの「I」「{{lang|tr|ı}}」を区別]]するため、「fi」合字で「i」の点が消失すると問題となる。}}などのために使われている<ref>[https://localfonts.eu/typography-basics/fonts-the-importance-of-localisation/local-features/turkish-feature-locl/ Turkish Feature Locl] Local Fonts</ref>。<!--TODO: フランス語のアポストロフィとカーニング--> <gallery widths="200px"> File:Virguliţa şi sedila.svg|ルーマニア語の[[コンマビロー]](上)とコードポイントを共有していた[[セディーユ]](下) File:Bijna.png|オランダ語の「{{lang|nl|íj&#x0301;}}」を含む用例(「{{lang|nl|í}}」→「j」と入力する) File:Ligature_fi.svg|トルコ語で別字(「i」→「ı」)となってしまう「fi」合字 </gallery> またその他にも地域によって様々な異体が存在し、フォントではそれらを指し示すのに OpenType の Language System Tags が使われている。一方、Webページに使われる[[HyperText Markup Language|HTML言語]]ではlang属性に[[IETF言語タグ]]を指定することで字体の切り替えが可能となっている。 === ウェイト (太字フォント・細字フォント) === {{節スタブ}} フォントには細字から太字までさまざまなウェイトのフォントが存在し、フォントファミリーによっては一つの書体に対し複数のウェイトのフォントが用意されている。 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |- ! 数値表記 !! ISO/IEC 9541-1のウェイト名<ref group="n">対応するJIS規格はJIS X 4161。日本語のウェイト名はTR X 0003:2000から。</ref> !! OpenTypeのOS/2テーブルのウェイト名 (ISO/IEC 14496-22)<ref group="n">CSS規格にも一般的なウェイト名として記載されている</ref> !! Apple !! CSS |- | || || || Ultra Light<ref name="apple-weight">[https://developer.apple.com/documentation/appkit/nsfontmanager/1462321-convertweight?language=objc convertWeight:ofFont: - NSFont Manager] Apple</ref> || {{?}} |- | W1 || Ultra light(極細、UL)|| Thin<ref name="css-fonts">[https://www.w3.org/TR/2018/REC-css-fonts-3-20180920/ CSS Fonts Module Level 3 - W3C Recommendation 20 September 2018]</ref> || Thin<ref name="apple-weight"/> || font-weight: 100;<ref name="css-fonts"/> |- | W2 || Extra light(特細、EL)|| Extra Light (Ultra Light)<ref name="css-fonts"/> || Light、Extra Light<ref name="apple-weight"/> || font-weight: 200;<ref name="css-fonts"/> |- | W3 || Light(細、L)|| Light<ref name="css-fonts"/> || Book<ref name="apple-weight"/> || font-weight: 300;<ref name="css-fonts"/> |- | W4 || Semi light(中細、SL)|| Normal<ref name="css-fonts"/> (Regular) || Regular、Plain、Display、Roman<ref name="apple-weight"/> || font-weight: 400;又はfont-weight: normal;<ref name="css-fonts"/> |- | W5 || Medium(中、M)|| Medium<ref name="css-fonts"/> || Medium<ref name="apple-weight"/> || font-weight: 500;<ref name="css-fonts"/> |- | || || || Demi、Demi Bold<ref name="apple-weight"/> || {{?}} |- | W6 || Semi bold(中太、SB)|| Semi Bold (Demi Bold)<ref name="css-fonts"/> || Semi、Semi Bold<ref name="apple-weight"/> || font-weight: 600;<ref name="css-fonts"/> |- | W7 || Bold(太、B)|| Bold<ref name="css-fonts"/> || Bold<ref name="apple-weight"/> || font-weight: 700;又はfont-weight: bold;<ref name="css-fonts"/> |- | W8 || Extra bold(特太、EB)|| Extra Bold (Ultra Bold)<ref name="css-fonts"/> || Extra、Extra Bold<ref name="apple-weight"/> || font-weight: 800;<ref name="css-fonts"/> |- | || || || Heavy、Heavy Face<ref name="apple-weight"/> || {{?}} |- | W9 || Ultra bold(極太、UB)|| Black (Heavy)<ref name="css-fonts"/> || Black、Super<ref name="apple-weight"/> || font-weight: 900;<ref name="css-fonts"/> |- | || || || Ultra、Ultra Black、Fat<ref name="apple-weight"/> || {{?}} |- | || || || Extra Black、Obese、Nord<ref name="apple-weight"/> || {{?}} |} <references group="n"/> Windowsの一部の実装系はOS/2テーブルのウェイト名に加えて、Extra Black (Ultra Black、font-weight: 950;)を実装している<ref>[https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/api/system.windows.fontweights?view=netframework-4.8 FontWeights FontWeights FontWeights FontWeights Class] Microsoft</ref>。なお、OpenTypeのPCLストロークウェイトでは-7(Ultra Thin)から7(Ultra Black)まで存在するものの、広く使われてはいない。 OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様も存在し、wght軸タグを使ってウェイトを連続的に変えられるようにできる<ref name="otf-fvar">[https://docs.microsoft.com/en-us/typography/opentype/spec/otvaroverview OpenType Font Variations Overview] Microsoft</ref><ref name="otf-fvar-axis">[https://docs.microsoft.com/ja-jp/typography/opentype/spec/dvaraxisreg OpenType Design-Variation Axis Tag Registry] Microsoft</ref>。これに対応する日本語フォントとしては例えば「源ノ角ゴシック VF」<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1317619.html 「Source Han Sans/源ノ角ゴシック」がバリアブルフォントに 〜サイズは1/10以下、可能性は無限大] Impress 2021年4月9日</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2104/13/news073_4.html 「フォントの日」で驚かされた、草を生やすカラーフォントと日本語バリアブルフォント p.4] ITmedia 2021年4月13日</ref>「源ノ明朝 VF」<ref>[https://blog.adobe.com/jp/publish/2021/10/27/cc-design-adobefonts-source-han-serif 「源ノ明朝」が大幅アップデート。香港グリフの対応と、バリアブルフォントとしても提供開始。] アドビ 2021年10月27日</ref>や[[M+ FONTS]](M PLUS 1、M PLUS 2など)<ref name="google-fonts-variable">[https://fonts.google.com/variablefonts Variable fonts] Google</ref>、「Shorai Sans Variable」、「イワタUDゴシックバリアブル」、「金剛黒体VF」<ref name="kongou-vf"/>が存在する。 [[ロゴGブラック]](視覚デザイン研究所)、[[ロゴJrブラック]](視覚デザイン研究所)、[[ラグランUB]](フォントワークス)、[[ラグランパンチUB]](フォントワークス)、[[ボルクロイド]](モリサワ)のような極太書体や、[[丸ゴシック体#重ね丸ゴシック体|重ね丸ゴシック体]]のような食い込ませ書体も存在する。 === 斜体フォント === {{main|斜体}} [[斜体]]にはイタリック体とオブリーク体が存在し、欧文で良く使われている。日本語でも広告などに使われることがある。 OpenTypeフォントではフィーチャータグにより、イタリック字形(italタグ)への切り替えが可能となっている<ref name="adobe-css-gsub"/>。[[Unicode]]の[[数学用英数字記号]]にはセリフおよびサンセリフのイタリック体のアルファベットが含まれている。 OpenTypeにはOpenType Font Variationsという仕様が存在し、slnt軸タグを使って傾斜角度を連続的に変えられるようにできる<ref name="otf-fvar"/><ref name="otf-fvar-axis"/>。 === カラー === {{節スタブ}} モダンなフォント形式ではグリフに多数の色を入れることが可能となっている。これは主に絵文字で使われているが、普通の文字でも色を使うことができる。普通の文字で色に対応するフォントとしてはGilbert、Utopian、TRAJAN Colorなどがある<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2104/13/news073_2.html 「フォントの日」で驚かされた、草を生やすカラーフォントと日本語バリアブルフォント p.2] ITmedia 2021年4月13日</ref>。 == データ形式による分類 == === ビットマップフォント === [[ファイル:Bitmapfont.png|thumb|right|150px|ビットマップフォントの例]] ドットの組み合わせで文字を表現したフォントで、初期のコンピュータには、容量の節減および描画速度の確保のため[[ビットマップ (情報技術)|ビットマップ]]フォントを利用した。[[日本語文字]]においては、当時はフォントを全て記憶するには記憶容量([[Random Access Memory|RAM]])が少なかった上に、かといって逐次必要なフォントを[[フロッピーディスクドライブ]]から読み出すのも速度的に問題があるので、[[漢字ROM]]にビットマップフォントを格納して運用されることが多かった。現在でも、スケーラブルフォントからビットマップフォントを生成するとき、文字が小さいと線間の調整ができずに潰れて読めなくなってしまうことが多いため、小さな文字ではビットマップフォントが使われることもある<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.ricoh.co.jp/font/related_info/mail/20041117.html |title = 表示用ビットマップフォントの工夫 |publisher = [[リコー]] |date = 2004-11-17 |accessdate = 2012-02-24 }}</ref>が、[[フォントヒンティング]]で対応することもある。 8ドットサイズの英字、[[カタカナ]]文字が利用できるフォント。400ラインのディスプレイの普及や、漢字が扱えるようになり、16ドットサイズのフォントがコンピュータに搭載されるようになった。印刷では、[[ワードプロセッサ|ワープロ]]専用機を中心に24ドット、48ドットなどのフォントも利用され始め、スケーラブルフォントへ移行していった。 === スケーラブルフォント === 線の位置や形、長さなどで文字の形を作るため、拡大縮小しても、ビットマップフォントとは違い[[字形]]に影響がない。そのためスケーラブル、拡縮自由などと冠される。拡縮自由なフォントとしては、ストロークフォントやアウトラインフォントがある。 ==== ストロークフォント ==== 文字の形状を、中心線だけの情報で保持するフォント形式。線の太さなどは扱わないためデータ量は軽く、かつ出力デバイスの解像度に依存しない。CADシステムや[[プロッタ]]などで使用される。なお「ストロークフォント」という言葉は、文字をストロークごとに分解して管理する作成・生成・管理システム(それをフォントプログラムとして実装した例としてはダイナコムのストロークベーステクノロジなど)や、派生した形式(一つの骨格からファミリーを生成する技術など)を指すこともある。アルファブレンドの三次ベジェ曲線で構成され筆順を持つストロークフォントはASPで利用可能である。 ==== アウトラインフォント(袋文字) ==== 文字の輪郭線の形状を、関数曲線の情報として持つフォント形式<ref>[http://e-words.jp/w/アウトラインフォント.html アウトラインフォント【 outline font 】]</ref>。実際に画面や紙に出力する際には、解像度に合わせてビットマップ状に塗り潰す[[ラスタライズ]]が必要になる。 日本では[[ワードプロセッサ|ワープロ]]や[[DTP]]を中心にアウトラインフォントの利用が普及し、[[WYSIWYG]]が普及したために、コンピュータ画面でもスケーラブルラインフォントの利用が広がった(当初のDTPは、プリントアウトにはアウトラインフォントを使い、画面表示にはビットマップフォントを使用する[[ワークフロー]]が基本だった)。 ==== バリアブルフォント ==== フォントの太さ、幅、傾斜などが可変のアウトラインフォントである。バリアブルフォント登場以前のフォントは基本的には拡大と縮小のみであったため、フォントの太さ、幅、傾斜などが異なるスタイルのフォントを個別に用意しなければならなかったのに対して、バリアブルフォントではそれらが可変であるため単一のフォントファイルで複数のスタイルに対応できフォントのファイルサイズを小さくできる。 == ファイル形式(または利用できるシステム)による分類 == === フォントコレクション形式 === * TrueType Collection (TTC) / OpenType Collection (OTC) ** 前者は複数のTrueTypeフォントを、後者は複数のOpenTypeフォントを一つにまとめたフォントコレクション形式。コレクション内のフォント間でグリフを共有することも可能となっている。ただしOTCは対応OSが限られる。 === アウトライン形式 === ビットマップの埋め込みができる形式も多い。 ; [[TrueType|TrueTypeフォント]](TTF) : [[Microsoft Windows|Windows]]、[[Macintosh]]共通で利用できることを想定したフォント。[[Linux]]および[[FreeBSD]]でも利用可能。[[macOS]]でも、そのままWindows用TrueTypeを扱うことができる。2次[[B-スプライン曲線]]で字形を制御する。ビットマップフォントを内蔵できる。TrueTypeフォントを[[PostScript]][[プリンター|プリンタ]]で処理するための形式をType42という。 : ; TrueType GX : {{仮リンク|QuickDraw GX|en|QuickDraw GX}}向けのフォント形式であった。フォントバリエーションのための仕様を含んでいた<ref name="otf-fvar"/>。 : ; [[PostScriptフォント]] : Macintoshで普及し使われるフォントで、三次[[ベジェ曲線]]で字形を制御する。 : ; Type1フォント :* 1バイト言語用のフォントで、256文字まで格納できる。 :* 一般にType1と呼ばれていても、実際にはType3や5のものなどがあるので注意が必要。詳しくは[[PostScriptフォント]]を参照。 : ; Type 1 GX : {{仮リンク|QuickDraw GX|en|QuickDraw GX}}向けのフォント形式であった。{{仮リンク|Multiple master fonts|en|Multiple master fonts}} - フォントバリエーションのための仕様を含んでいた。 : ; [[OCFフォント]] : 2バイト言語用のフォントで、Type1フォントを多数積み重ねた構造をしている。PostScriptのタイプ別でいうと、Type0(Type1や3を組み合わせた形式)に当たる。 : ; [[CIDフォント]] : OCFフォントを改良し、CIDコードとCMap/cmapなど、2バイト言語用に簡素化した構造を採用したフォント。異体字切り替え機能を有する。一部仕様が変わった拡張CID(sfntCID)という規格もあり、[[モリサワ]]のNewCIDフォントはこれに当たる。PostScriptのタイプ別でいうと、Type9に当たるものが多い(TrueTypeベースのCIDフォントなどは例外)。 : ; [[OpenType|OpenTypeフォント]] :* Windows、Macintoshでの互換性を実現したフォントで、TrueType(OpenType/TTF)とPostScript(OpenType/{{abbr|CFF|Compact Font Format}})の二つの形式がある。CIDよりも強力な異体字切り替え機能や、フォントレベルでの[[ダイナミックダウンロード]]対応(= [[プリンタフォント]]が不要)などが特徴。PostScriptのタイプ別でいうと、Type2(データサイズを抑えることのできる形式)に当たる。 :* OpenType形式はOFF(Open Font Format)としてISOで標準化されている(ISO/IEC 14496-22:2019)。 :* グリフ数は他の形式と同程度の65535個までとなっているが、その制限を超えるためのBoring Expansion (BE) が2022年現在[[HarfBuzz]]のチームによって開発中となっている<ref name="be">[https://www.phoronix.com/news/HarfBuzz-5.0-Released HarfBuzz 5.0 Released With Progress On Supporting The "Boring Expansion" Font Spec] Phoronix 2022年7月23日</ref>。 : ; EOT(Embedded OpenType)フォント : 無圧縮のEOT Liteと圧縮版のEOT compressedが存在する。Microsoftがウェブフォントとして採用しており、W3Cで仕様が公開されている<ref>[http://www.w3.org/Submission/2008/SUBM-EOT-20080305/]</ref>。 : ; [[METAFONT]] : 組版システムの[[TeX|{{TeX}}]]とともに[[ドナルド・クヌース]]が開発したフォント用の[[プログラミング言語]]。[[Computer Modern]]のデザインに使われた。 : ; WIFEフォント : Windows上で日本語などの2バイトフォントを扱うための機構の一つである、WIFE(Windows Intelligent Font Environment)の仕様に基づいて作られたフォント。Windowsにはラスタライザは付属せず、[[サードパーティー]]各社から発売されたラスタライザを入手する必要があった。各ラスタライザ間の互換性はなく、それぞれのラスタライザに対応するフォントしか使用できなかった。[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]時代に普及したが、Windows 3.1で標準装備されたTrueTypeの普及などにより、次第に利用されなくなった。 : ; 書体倶楽部形式 : ; [[Web Open Font Format]](WOFF) : 多くのブラウザで使われている[[Webフォント]]形式。 : ; SFD(Spline Font Database File Format) : FontForgeで使われるフォントの保存形式。全てがASCIIで表現されるためサイズは大きいが、diffを取りやすいなどの理由により開発に使われることが多い。 : ; SVGフォント : [[Scalable Vector Graphics|SVG]]ではフォントを定義することができ、そのフォントをSVGフォントと呼ぶ。しかしながら、仕様にはシステムフォントへの変換はしてはならないとある。 : ; [[ベンダー]]独自 : [[写研]]の[[Cフォント]]、[[モリサワ]]のKeiTypeなどのベンダーで閉じた独自形式のものが存在する。 === ストローク形式 === ; [[SHXフォント]] : CADで使われるストロークフォント形式。 ; LCフォント : [[シャープ]]の組み込み向けフォント<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/1113/sharp2.htm シャープ、小型液晶に適したリアルタイムフォント生成技術] Impress 2003年11月13日</ref>。 === ビットマップ形式 === ; [[BDF]] : [[UNIX]]で標準的に使用されたビットマップフォント用の形式。 ; 丸漢フォント : [[Macintosh]]で標準的に使用されたビットマップフォント用の形式。 ; SNF(Server Natural Format) ; PCF(Portable Compiled Format) ; HBF(Hanzi Bitmap Font) === 合成フォント形式 === Windowsで合成フォント(フォントリンク機能)を使うためにはOSの[[レジストリ]]に登録する必要があり、レジストリへの登録を自動化した.regファイルが付属するフォントもある。Linuxでは[[Fontconfig]]の.confファイルを使ってフォント合成が可能。 ; Composite Font Representation(CFR) : ISOで標準化されているXMLベースの合成フォント形式(ISO/IEC 14496-28:2012)。拡張子は.sfont。Mac OS X 10.8以降で使用可能<ref>[https://blogs.adobe.com/CCJKType/2012/07/cfr-support-in-mountain-lion.html CFR Support in Mac OS X Version 10.8 (Mountain Lion)] Adobe 2012年7月27日</ref>。 == フォントが持つデータ構造 == === グリフデータ === * [[エンコード]] * [[ビットマップ]]や制御点の位置 === 組版のためのデータ === * 字送り量 * [[カーニング]]情報 * [[合字]]情報 == 法的保護 == {{最高裁判例 |事件名 = 著作権侵害差止等請求本訴、同反訴事件 |事件番号 = 平成10(受)332 |裁判年月日 = 平成12年09月07日 |判例集 = 民集 第54巻7号2481頁 |裁判要旨 = 印刷用書体が著作権法二条一項一号にいう著作物に該当するためには、従来の印刷用書体に比して顕著な特徴を有するといった独創性及びそれ自体が美術鑑賞の対象となり得る美的特性を備えていなければならない。 |法廷名 = 最高裁判所第一小法廷 |裁判長 = 井嶋一友 |陪席裁判官 = 遠藤光男 藤井正雄 大出峻郎 町田顯 |多数意見 = |意見 = 全員一致 |反対意見 = |参照法条 = |url = https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=54774 }} {{Quote|一 著作権法二条一項一号は、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」を著作物と定めるところ、印刷用書体がここにいう著作物に該当するというためには、それが従来の印刷用書体に比して顕著な特徴を有するといった独創性を備えることが必要であり、かつ、それ自体が美術鑑賞の対象となり得る美的特性を備えていなければならないと解するのが相当である。この点につき、印刷用書体について右の独創性を緩和し、又は実用的機能の観点から見た美しさがあれば足りるとすると、この印刷用書体を用いた小説、論文等の印刷物を出版するためには印刷用書体の著作者の氏名の表示及び著作権者の許諾が必要となり、これを複製する際にも著作権者の許諾が必要となり、既存の印刷用書体に依拠して類似の印刷用書体を制作し又はこれを改良することができなくなるなどのおそれがあり(著作権法一九条ないし二一条、二七条)、著作物の公正な利用に留意しつつ、著作者の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与しようとする著作権法の目的に反することになる。印刷用書体は、文字の有する情報伝達機能を発揮する必要があるために、必然的にその形態には一定の制約を受けるものであるところ、これが一般的に著作物として保護されるものとすると、著作権の成立に審査及び登録を要せず、著作権の対外的な表示も要求しない我が国の著作権制度の下においては、わずかな差異を有する無数の印刷用書体について著作権が成立することとなり、権利関係が複雑となり、混乱を招くことが予想される。|民集 第54巻7号2481頁}} {{節スタブ}} {{-}}<!-- == フォントの製作 == --> == 代表的なフォントベンダー == === 多言語 === {{Div col|colwidth=30em}} * [[アドビ]] {{Div col end}} === 和文 === {{Div col|colwidth=30em}} * [[イワタ]] * [http://www.kinkido.net/ 欣喜堂] * [[写研]]([[DTP]]用はリリースしていない) * [[SCREENホールディングス|SCREEN]]グラフィックソリューションズ * [[ダイナコムウェア]] * [[タイププロジェクト]] * [[ニィス]] * [[フォントワークス]] * [[モトヤ]] * [[モリサワ]] - [[リョービ]]イマジクスのフォント事業の買収も行った<ref>[https://www.morisawa.co.jp/about/news/1003 モリサワ リョービ株式会社ならびにリョービイマジクス株式会社からのフォント事業譲渡を発表] モリサワ 2011年8月10日</ref>。 ** [[タイプバンク]] ** [[字游工房]] ** [[リムコーポレーション]]([[組み込みシステム|組み込み機器]]専門) * [[リコー]] - [[創英企画]]の全書体の買収も行った<ref>[http://www.rins.ricoh.co.jp/info/20161122.html 創英書体の字母権利取得により、フォントのラインナップ強化へ] リコーインダストリアルソリューションズ 2016年11月22日</ref>。 * [[視覚デザイン研究所]] * [[シーアンドジイ]] <!--メイリオ@Windows--> * [[スキルインフォメーションズ]] {{Div col end}} === 中文 === * 森澤(モリサワ) ** {{仮リンク|文鼎科技|zh|文鼎科技}}(アーフィック) * [[:zh:蒙納公司|蒙納公司]]({{仮リンク|モノタイプ・イメージング|en|Monotype Imaging}}) ** Monotype Hong Kong(旧中國字體設計{{efn2|China Type Design Limited (CTDL) としても知られていた。}}) * {{仮リンク|常州華文印刷新技術|fr|Changzhou SinoType Technology}}(サイノタイプ) * [[:zh:威鋒數位|威鋒數位]]([[ダイナコムウェア]]、旧名華康科技) * {{仮リンク|漢儀科印|zh|汉仪科印}}(ハンイ) * {{仮リンク|方正集団|zh|方正集團|label=方正電子}}(ファウンダー) === 欧文 === {{Div col|colwidth=30em}} * [[エミグレ (企業)|エミグレ]] * {{仮リンク|モノタイプ・イメージング|en|Monotype Imaging}} - 2022年には{{仮リンク|Berthold Type Foundry|en|Berthold Type Foundry}}の書体も買収した<ref>[https://www.prnewswire.com/news-releases/monotype-acquires-bertholds-renowned-typeface-inventory-301612732.html Monotype Acquires Berthold's Renowned Typeface Inventory] PRNewswire 2022年8月25日</ref>。 ** {{仮リンク|インターナショナル・タイプフェイス・コーポレーション|en|International Typeface Corporation}}(ITC) ** [[ライノタイプ・ライブラリ]] ** [[ビットストリーム (企業)|ビットストリーム]] ** {{仮リンク|アセンダー・コーポレーション|en|Ascender Corporation}} ** {{仮リンク|FontShop International|en|FontShop International}} ** Fontsmith ** {{仮リンク|URW Type Foundry|en|URW Type Foundry}}(旧URW++ Design & Development) ** {{仮リンク|Hoefler & Co.|en|Hoefler & Co.}} * {{仮リンク|Parachute Type foundry|en|Parachute Type foundry}} * {{仮リンク|Dalton Maag|en|Dalton Maag}} * {{仮リンク|House Industries|en|House Industries}} * {{仮リンク|Klim Type Foundry|en|Klim Type Foundry}} * {{仮リンク|Typotheque|en|Typotheque}} * {{仮リンク|Font Bureau|en|Font Bureau}} * Rosetta Type Foundry * [[モリサワ]] ** Occupant<ref>[https://designlog.borndigital.jp/?p=12914 韓国チョロンテックの全書体と米国Occupantの全書体ライセンス及びブランドを買収(モリサワ)] ボーンデジタル 2017年9月15日</ref> {{Div col end}} === 韓文 === * {{仮リンク|サンドル (会社)|ko|산돌커뮤니케이션|label=サンドル}} * {{仮リンク|フォントリックス|ko|폰트릭스}} * YoonDesign Group - フォントワークスがYOON LETSを提供している。 === アラビア文 === * Monotype Imaging ** Linotype - {{仮リンク|簡体アラビア文字|en|Simplified Arabic}}を広めた<ref name="wired-ar">[https://wired.jp/2015/11/06/arabic-typefaces/ アラビア文字フォントをデザインするのは、かくも難しい] WIRED.JP 2015年11月6日</ref>。 * TPTQ Arabic<ref name="wired-ar"/> * Rosetta Type Foundry === インド文 === * {{仮リンク|Indian Type Foundry|fr|Indian Type Foundry}} * Rosetta Type Foundry === タイ文 === * Cadson Demak - モリサワが同社製フォントをMORISAWA PASSPORT経由で提供している<ref name="morisawa-thai">[https://www.morisawa.co.jp/about/news/3220 モリサワ 2016年の新書体にタイ文字60書体の提供を発表] モリサワ 2016年6月29日</ref>。 * DB Designs - 同上<ref name="morisawa-thai"/>。 * Katatrad Aksorn - 同上<ref name="morisawa-thai"/>。 === ヘブライ文 === * Fontef Type Foundry == コーポレートフォント / ブランドフォント ==<!--TODO: 分量増えたらページ分割する、日産/ボッシュのような車系フォント--> {{see also|:en:Category:Corporate_typefaces}} 企業が自社向けのフォントを作ることも増えており、これはコーポレートフォントと呼ばれている。外販されているコーポレートフォントも存在する。また特定のブランドに限定したブランドフォントも存在する。代表的なフォントには以下がある。 * Monotype製作 ** Sony - SSTフォント<ref>[https://www.sony.com/ja/SonyInfo/design/stories/sst-font/ SST Type Project] Sony</ref>(和文はSST JP<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1065233.html ソニー製品に使われているフォント「SST JP」、タイププロジェクトが発売] Impress 2017年6月14日</ref>) ** [[テンセント]] - TTTGB<ref>[https://www.monotype.com/resources/case-studies/tencent-expands-global-presence Tencent expands global presence with a new brand identity and typeface.] Monotype 2017年11月4日</ref> ** [[メルカリ]] - Mercari Sans<ref>[https://design.mercari.com/mercari-sans/ Hello Mercari Sans] メルカリ</ref> ** [[ブリヂストン]] - Bridgestone Type<ref>[https://www.bridgestone.co.jp/corporate/news/2021102001.html ブリヂストンのコーポレートフォントと自転車が「2021年度グッドデザイン賞」を受賞] ブリヂストン 2021年10月20日</ref>(和文はType Project開発のBridgestoneType TP<ref>[https://www.oricon.co.jp/pressrelease/1322426/ タイププロジェクト、ブリヂストンに和文コーポレートフォント「BridgestoneType TP」を提供] オリコン 2022年10月4日</ref>) * Type Project製作 ** [[さくらインターネット]] - Haru TP<ref>[http://osd.ndc.co.jp/harutp/ Haru TP - さくらインターネット株式会社] 日本デザインセンター</ref> ** [[TBS]] - TBSゴシック TP、TBS明朝 TP<ref>[https://typeproject.com/story/3981 コーポレートフォントとブランディングフォント 株式会社TBSホールディングス/株式会社TBSテレビ] Type Project</ref> ** [[日本の国立公園|国立公園]]([[環境省]]) - TP国立公園明朝<ref>[https://typeproject.com/fonts/jpn-nationalparks TP国立公園明朝] Type Project</ref> ** [[AXIS (雑誌)|AXIS]]([[アクシス (企業)|アクシス社]]) - AXISフォント<ref>[https://www.axismag.jp/posts/2009/07/2525.html 雑誌の“声”をつくる、デザイン誌 「AXIS」オリジナル書体開発ストーリー] AXIS 2009年7月14日</ref> ** [[デンソー]] - DENSO TP 2017、DENSO Sans TP(欧文部分はKontrapunkt制作)<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20170704-a094/ デンソーのコーポレートフォントにAXIS Fontのカスタマイズ版が採用] マイナビ 2017年7月4日</ref> * モリサワ製作 ** [[Chatwork (企業)|Chatwork]] - Chatwork Sans<ref>[https://www.mdn.co.jp/news/3772 Chatwork、リブランディングの一環として新コーポレートフォントをモリサワと共同開発] MdN 2022年7月28日</ref> * フォントワークス製作 ** [[テレビ朝日]] - テレ朝UD<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20221007-2474618/ フォントワークス、テレビ朝日の独自フォント「テレ朝UD」開発] マイナビ 2022年10月7日</ref> ** [[クックパッド]] - Cookpad Sans<ref>[https://webtan.impress.co.jp/n/2022/07/22/43097 クックパッドが新コーポレートブランドデザインとオリジナル書体「Cookpad Sans」を作成] Impress 2022年7月22日</ref> * その他 ** Adobe - Adobe [[Garamond]]、Adobe Clearフォントファミリ<ref>[https://spectrum.adobe.com/page/fonts/ Fonts - Spectrum] Adobe</ref> ** 凸版印刷 - 凸版文久ゴシック、凸版文久明朝<ref>[http://type-glasses.jp/culture/interview_ito.html 「生」と向き合うタイポグラフィ] Oh My Glasses</ref> ** [[富士通]] - Fujitsu Infinity Pro(和文はモリサワのUD新ゴを採用)<ref>[https://www.morisawa.co.jp/about/news/6681 富士通の新コーポレートフォント和文にモリサワのUD新ゴが採用] モリサワ 2022年1月5日</ref> ** [[パナソニック]] - イワタUDゴシック<ref>[https://www.iwatafont.co.jp/ud/jirei_01.html UDフォント採用実績] イワタ</ref><ref>[https://barrierfree.nict.go.jp/topic/service/20130314/page1.html 文字のユニバーサルデザイン 「イワタUDフォント」の開発(1/5)] イワタ</ref><ref group="注">イワタと共同開発であり、パナソニック側は同書体をPUDフォントと称している。([https://holdings.panasonic/jp/corporate/universal-design/research.html UD(ユニバーサルデザイン)商品を実現させるための研究活動])</ref> ** [[楽天]] - Rakuten Font<ref>[https://corp.rakuten.co.jp/design/rakuten-font/ Rakuten Font] 楽天</ref><ref>[https://www.axismag.jp/posts/2020/07/239127.html 楽天、グローバルフォントのデザインを一新 佐藤可士和と英フォントデザインスタジオDalton Maagが新フォントを設計] AXIS 2020年7月3日</ref> ** [[LINE (企業)|LINE]] - LINE Seed Sans(和文はフォントワークス共同開発のLINE Seed JP<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20221025-2492145/ LINEのオリジナル日本語フォントを無料配布、フォントワークスが共同開発] マイナビ 2022年10月25日</ref>) ** [[アリババグループ]] - Alibaba Sans、Alibaba PuHuiTi<ref>[https://jp.alibabanews.com/alibaba_puhuiti_sans_202208/ アリババ、商用可能なフリーフォント「Alibaba Sans」の派生フォントを拡充、フォント著作権確認ツールも提供] アリババグループ 2022年8月22日</ref> ** [[Microsoft]] - [[Segoe]] ** [[Ubuntu]] ([[カノニカル]]) - [[Ubuntu (書体)|Ubuntuフォントファミリ]] ** [[Apple]] - Apple [[Garamond]]、[[Myriad]] Apple、[[San Francisco (2014年の書体)|San Francisco]]<ref name="idg-custom-typefaces"/><ref>[https://book.mynavi.jp/macfan/detail_summary/id=72159 AppleのコーポレートフォントがMyriadからSan Franciscoへ] マイナビ 2017年4月7日</ref>([[:en:Typography of Apple Inc.]]も参照) ** [[Google]] - {{仮リンク|Product Sans|en|Product Sans|label=Product Sans/Google Sans}}<ref name="idg-custom-typefaces"/> *** [[YouTube]] - Youtube Sans<ref name="idg-custom-typefaces">[https://www.digitalartsonline.co.uk/news/typography/8-digital-companies-that-designed-custom-typefaces-to-save-millions/ 8 digital brands that designed custom typefaces to save millions] [[IDG]] 2018年3月23日</ref> ** [[Netflix]] - Netflix Sans<ref name="idg-custom-typefaces"/> ** [[IBM]] - [[IBM Plex]] ** [[英国放送協会]] - BBC Reith<ref name="idg-custom-typefaces"/><ref>[https://www.bbc.com/news/uk-40825885 The changing nature of typefaces] BBC 2017年8月5日</ref> ** [[ノキア]] - Nokia Sans、{{仮リンク|Nokia Pure|en|Nokia Pure}}<ref name="idg-custom-typefaces"/> ** [[Twitter]] - Chirp ** [[Airbnb]] - Airbnb Cereal ** [[サムスングループ]] - SamsungOne<ref name="idg-custom-typefaces"/> ** [[OPPO]] - OPPO Sans ** [[ファーウェイ]] - HarmonyOS Sans ** [[Xiaomi]] - MiSans また特定の都市のブランド化を目指した都市フォントも存在する<ref>[http://www.cityfont.com/casestudy/ cityfont.com - 世界の都市フォント] Type Project</ref>。 == Webサイトでのフォント使用 == === CSSでのフォント指定 === Webサイトで用いられる書体は[[Cascading Style Sheets|CSS]]のfont-familyプロパティによって指定され表示される。 CSSで指定できるフォントの種類を以下に示す。フォントは表示するクライアント環境にインストールされているか、Webサイトをロードした際に[[Webフォント]]として同時にフォントファイルを読み込むことが前提となる。このことから、同じCSSの指定でも閲覧環境のOSやブラウザにより表示が異なる<ref>[https://gray-code.com/html_css/specify-font-by-css/ どの環境でも綺麗なゴシック体、明朝体のフォントを指定する | GRAYCODE HTML&CSS]</ref>。 ;system-ui システムデフォルト :<span style="font-family: system-ui; font-size:150%">0123 abcdefg абвгдеёж αβγδεζη ひらがなカタカナ日本語</span> ;sans-serif ゴシック体、サンセリフ体 :<span style="font-family: sans-serif; font-size:150%">0123 abcdefg абвгдеёж αβγδεζη ひらがなカタカナ日本語</span> ;serif 明朝体、ローマン体 :<span style="font-family: serif; font-size:150%">0123 abcdefg абвгдеёж αβγδεζη ひらがなカタカナ日本語</span> ;monospace 等幅フォント :<span style="font-family: monospace; font-size:150%">0123 abcdefg абвгдеёж αβγδεζη ひらがなカタカナ日本語</span> ;fantasy 装飾的フォント :<span style="font-family: fantasy; font-size:150%">0123 abcdefg абвгдеёж αβγδεζη ひらがなカタカナ日本語</span> ;cursive 草書体 :<span style="font-family: cursive; font-size:150%">0123 abcdefg абвгдеёж αβγδεζη ひらがなカタカナ日本語</span> === Webフォント === [[Webフォント]]は閲覧環境に存在しない書体を表示するために、Webサイトと同時に読み込まれるフォントである。Webフォントは幅広い[[ウェブブラウザ|ブラウザ]]で表示することができるため、デバイス間の文字表示の差異を吸収する役割をもたらす。画像による文字の表示よりも[[セマンティック・ウェブ|セマンティック]]にコンテンツを表現することができる。 == 注釈 == <references group="注"/> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Fonts}} {{Div col|colwidth=15em}} * [[活字]] * [[印刷]] * [[DTP]] * [[書体]] * [[レタリング]] * [[文字コード]] * [[仮想フォント]] * [[フリーフォント]] * [[フォントヒンティング]] {{Div col end}} == 外部リンク == * [https://www.jagat.or.jp/archives/7443 【DTP玉手箱】【フォント千夜一夜物語】澤田善彦 コラム集 | JAGAT] * [https://www.cinra.net/column/morisawa 『嘘じゃない、フォントの話』supported by モリサワ(CINRA.NET連載企画)] {{タイポグラフィ用語}} {{デフォルトソート:ふおんと}} [[Category:DTP]] [[Category:書体|**ふおんと]] [[Category:グラフィカルユーザインタフェース]]
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イリヤ・プリゴジン
イリヤ・プリゴジン(Ilya Prigogine [prɪˈɡoʊʒiːn];, 1917年1月25日 - 2003年5月28日)は、ロシア出身のベルギーの化学者・物理学者。非平衡熱力学の研究で知られ、散逸構造の理論で1977年のノーベル化学賞を受賞した。統計物理学でも大きな足跡を残し、「エントロピー生成極小原理」はよく知られている。 モスクワに生まれ、1921年に家族とともにドイツに移住。1929年にはベルギーのブリュッセルに移住した。ブリュッセル自由大学でテオフィル・ド・ドンデに師事して数理化学を学び、1941年に博士号を取得、1947年から同大学の教授となった。1953年には、国際理論物理学会(東京&京都)で来日した。その会議の終了後、仲間のカークウッドらと全国の高校をまわって講演し、その当時日本の物理学では素粒子論が主流を占めていたにもかかわらず、これからはトランジスタなどの物性物理学が主流を占めるはずだと予言して日本の若者達を鼓舞し、今日の技術国日本の礎を作ったと、常々満足げに話していた逸話が残っている。その業績のみならず日本の物理学界の多くの指導者を育成した業績が称えられ、日本政府から勲二等旭日瑞宝章が贈られている。1959年からアメリカ合衆国のテキサス大学オースティン校、1961年からシカゴ大学の教授を併任し、のちに彼の名前を冠することになる研究所の創設にも関わった。 プリゴジンは自然科学ばかりでなく他の分野でも活躍し、彼の先コロンブス期の石像収集を称えて考古学の名誉博士号が贈られている。さらに、モスクワ音楽院のピアノ科を卒業した母親に4歳のときからピアノを習い始め、その後、世界的なピアニストのウラディーミル・アシュケナージの父でやはりピアニストのダヴィッド・アシュケナージに師事して、大学就学前にピアノ国際コンクールで優勝している。2003年ブリュッセルで死去した。 プリゴジンは、化学平衡から遠い状態にある溶液について研究した。溶液が平衡状態にあるときは、温度や圧力などの物理学的性質は変化せず、また系への物質やエネルギーの出入りもないはずである。実際には溶液中では恒常的に変化が起こっているにも拘らず、系としてある程度の秩序は保たれている。 溶液の温度を低温から急に上昇させると、溶液の小さい部分部分(セルとよんだ)が秩序を保ちながら全体の中を動くことを発見した。それまで非平衡状態では予想可能な秩序が生じることはないと考えられていた。またプリゴジンはこの現象は不可逆であり、つまり溶液を冷却しても逆の現象は生じないことを発見した。 こうした非平衡系における秩序の仕組みとして「散逸構造」という概念を提唱した。 周囲の環境と共存した状態で存在する散逸系を考え、物質とエネルギーがたがいに作用しあってより秩序性の高い状態になる現象を数量的に研究するプリゴジンの理論や思想は、物理化学の研究のみならず、社会学や生態学、経済学や気象学、人口動態学のモデルとしても応用されている。 ノーベル賞受賞後は、彼が以前から興味を抱いていた物理学の最も基本的な問題の一つである時間の対称性の破れの問題に生涯を捧げた。そして、その対称性の破れが、ボルツマンの立場、すなわち、多自由度系に対する我々の制御不可能性に基づいて引き起こされると言う立場ではなく、それよりももっと基本的に、物理学の基本的法則の帰結として古典力学および量子力学の力学的性質として導き出されるという立場からの論文を数多く残している。 著書「混沌からの秩序」(1979年)は科学の専門家でない一般向けに、彼の理論を理解してもらおうと書かれたものである。そのほかの著書として、「存在から発展へ」(1980年)や「複雑性の探究」(1989年)などがある。科学思想のみならず時代思潮に与えた影響もきわめて大きい。 一方で、プリゴジンの主張は既存の物理を過度に否定的に捉えており、また既存の物理に代わるとする彼の提案もレトリカルな部分が多く本質を捉え損ねている、という批判は物理学者の中からも出ており、評価が非常に分かれている。
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イリヤ・プリゴジンは、ロシア出身のベルギーの化学者・物理学者。非平衡熱力学の研究で知られ、散逸構造の理論で1977年のノーベル化学賞を受賞した。統計物理学でも大きな足跡を残し、「エントロピー生成極小原理」はよく知られている。
{{Otheruses|ベルギーの化学者、物理学者|ロシアの民間軍事会社創設者|エフゲニー・プリゴジン}} {{Infobox scientist | name = Ilya Prigogine<br>イリヤ・プリゴジン | image = Ilya Prigogine 1977b.jpg | image_size =200px | caption = イリヤ・プリゴジン( 1977) | birth_name = Ilya Romanovich Prigogine | birth_date = {{birth date|1917|1|25|df=y}} | birth_place = {{RUS1883}}、[[モスクワ]] | death_date = {{death date and age|2003|5|28|1917|1|25|df=y}} | death_place = {{BEL}}、[[ブリュッセル]] | nationality = {{BEL}} | field = | workplaces = [[テキサス大学オースティン校]]  | alma_mater =[[ブリュッセル自由大学]]   | doctoral_advisor = [[テオフィル・ド・ドンデ]]  | doctoral_students = | influences = [[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]<br> [[アラン・チューリング]] | influenced = [[イマニュエル・ウォーラーステイン]] | known_for = [[散逸構造]] | prizes = [[ノーベル化学賞]](1977) }} {{thumbnail:begin}} {{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1977年|ノーベル化学賞|非平衡熱力学、とくに散逸構造の研究}} {{thumbnail:end}} '''イリヤ・プリゴジン'''(Ilya Prigogine {{IPAc-en|p|r|ɪ|ˈ|ɡ|oʊ|ʒ|iː|n}};, [[1917年]][[1月25日]] - [[2003年]][[5月28日]])は、[[ロシア]]出身の[[ベルギー]]の[[化学者]]・[[物理学者]]。[[非平衡]][[熱力学]]の研究で知られ、[[散逸構造]]の理論で[[1977年]]の[[ノーベル化学賞]]を受賞した。[[統計力学|統計物理学]]でも大きな足跡を残し、「[[エントロピー]]生成極小原理」はよく知られている。 == 生涯 == [[モスクワ]]に生まれ、[[1921年]]に[[家族]]とともにドイツに移住。[[1929年]]には[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]に[[移住]]した。[[ブリュッセル自由大学]]で[[テオフィル・ド・ドンデ]]に師事して数理[[化学]]を学び、[[1941年]]に[[博士号]]を取得、[[1947年]]から同大学の[[教授]]となった。[[1953年]]には、[[国際理論物理学会]]([[東京]]&[[京都]])で来日した。その[[会議]]の終了後、仲間の[[ジョン・G・カークウッド|カークウッド]]らと全国の[[高等学校|高校]]をまわって講演し、その当時[[日本]]の[[物理学]]では[[素粒子論]]が主流を占めていたにもかかわらず、これからは[[トランジスタ]]などの[[物性物理学]]が主流を占めるはずだと[[予言]]して日本の若者達を鼓舞し、今日の技術国日本の礎を作ったと、常々満足げに話していた逸話が残っている。その業績のみならず日本の物理学界の多くの指導者を育成した業績が称えられ、日本政府から[[勲二等]]旭日[[瑞宝章]]が贈られている。[[1959年]]から[[アメリカ合衆国]]の[[テキサス大学オースティン校]]、[[1961年]]から[[シカゴ大学]]の教授を併任し、のちに彼の名前を冠することになる研究所の創設にも関わった。 プリゴジンは[[自然科学]]ばかりでなく他の分野でも活躍し、彼の[[先コロンブス期]]の石像収集を称えて[[考古学]]の[[名誉博士号]]が贈られている。さらに、[[モスクワ音楽院]]の[[ピアノ]]科を卒業した[[母親]]に4歳のときからピアノを習い始め、その後、世界的な[[ピアニスト]]の[[ウラディーミル・アシュケナージ]]の父でやはりピアニストの[[ダヴィッド・アシュケナージ]]に師事して、大学就学前にピアノ国際[[コンクール]]{{何の|date=2023年1月}}で優勝している。[[2003年]]ブリュッセルで[[死去]]した。 == 業績 == プリゴジンは、[[化学平衡]]から遠い状態にある[[溶液]]について研究した。溶液が平衡状態にあるときは、[[温度]]や[[圧力]]などの物理学的性質は変化せず、また[[系 (自然科学)|系]]への[[物質]]や[[エネルギー]]の出入りもないはずである。実際には溶液中では恒常的に変化が起こっているにも拘らず、系としてある程度の[[秩序]]は保たれている。 溶液の温度を[[低温]]から急に上昇させると、溶液の小さい部分部分(セルとよんだ)が秩序を保ちながら全体の中を動くことを発見した。それまで非平衡状態では予想可能な秩序が生じることはないと考えられていた。またプリゴジンはこの現象は[[不可逆]]であり、つまり溶液を[[冷却]]しても逆の現象は生じないことを発見した。 こうした非平衡系における秩序の仕組みとして「[[散逸構造]]」という概念を提唱した。 周囲の[[環境]]と共存した状態で存在する[[散逸系]]を考え、物質とエネルギーがたがいに作用しあってより秩序性の高い状態になる現象を[[数量]]的に研究するプリゴジンの理論や思想は、物理化学の研究のみならず、[[社会学]]や[[生態学]]、[[経済学]]や[[気象学]]、[[人口動態学]]の[[モデル (自然科学)|モデル]]としても応用されている。 ノーベル賞受賞後は、彼が以前から興味を抱いていた物理学の最も基本的な問題の一つである[[T対称性|時間の対称性]]の破れの問題に生涯を捧げた。そして、その対称性の破れが、[[ボルツマン]]の立場、すなわち、多自由度系に対する我々の制御不可能性に基づいて引き起こされると言う立場ではなく、それよりももっと基本的に、物理学の基本的法則の帰結として[[古典力学]]および[[量子力学]]の力学的性質として導き出されるという立場からの論文を数多く残している。 著書「混沌からの秩序」([[1979年]])は[[科学]]の専門家でない一般向けに、彼の理論を理解してもらおうと書かれたものである。そのほかの著書として、「存在から発展へ」([[1980年]])や「複雑性の探究」([[1989年]])などがある。[[科学思想]]のみならず時代思潮に与えた影響もきわめて大きい。 == 批判 == 一方で、プリゴジンの主張は既存の物理を過度に否定的に捉えており、また既存の物理に代わるとする彼の提案もレトリカルな部分が多く本質を捉え損ねている、という批判は物理学者の中からも出ており<ref>田崎晴明{{Cite journal |year=1999 |title=書評:I. Prigogine 著, 安孫子誠也, 谷口佳津宏訳, 確実性の終焉; 時間と量子論, 二つのパラドクスの解決, みすず書房, 東京, 1997, |journal=日本物理學會誌 |volume=54 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110002077431 |publisher=日本物理学会 }}</ref><ref>{{cite|和書 |editor= |author=大野克嗣 |title=非線形な世界 |edition= |publisher=東京大学出版会 |year=2009 |isbn=978-4-13-063352-9 |page=237-238}}</ref>、評価が非常に分かれている。 == 著書 == *『化学熱力学』-R.デフェイとの共著 [[みすず書房]]刊、ISBN 4622024071 *『構造・安定性・ゆらぎ:その熱力学的理論』-P.グランスドルフとの共著 みすず書房刊、ISBN 4622025310 *『散逸構造:自己秩序形成の物理学的基礎』-G.ニコリスとの共著 岩波書店刊、ISBN 4000053965 *『混沌からの秩序』 - イザベル・スタンジェールとの共著 みすず書房刊、 ISBN 4622016931 *『存在から発展へ:物理科学における時間と多様性』 - みすず書房刊、ISBN 4622025426 *『複雑性の探究』- G.ニコリスとの共著 みすず書房刊、ISBN 4622040891 *『確実性の終焉:時間と量子論, 二つのパラドクスの解決』 みすず書房刊、ISBN 4622041081 *『現代熱力学:熱機関から散逸構造へ』 -ディリプ・コンデプディとの共著 朝倉書店刊 *『自己組織化する宇宙』エリッヒ・ヤンツ著・序文 工作舎 1986 ISBN 978-4-87502-124-7 == 受賞歴 == *1955年 - [[フランキ賞]] *1976年 - [[ランフォード・メダル]] *1977年 - ノーベル化学賞 *1983年 - [[本田賞]] == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1977/prigogine/facts/ Ilya Prigogine Facts] Nobel Foundation {{ノーベル化学賞受賞者 (1976年-2000年)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふりこしん いりや}} [[Category:20世紀の物理学者]] [[Category:20世紀の化学者]] [[Category:ベルギーの物理学者]] [[Category:ベルギーの化学者]] [[Category:複雑系科学者]] [[Category:ベルギーのシステム科学者]] [[Category:ノーベル化学賞受賞者]] [[Category:米国科学アカデミー外国人会員]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:ソビエト連邦科学アカデミー外国人会員]] [[Category:ロシア科学アカデミー外国人会員]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] [[Category:DDR科学アカデミー会員]] [[Category:スウェーデン王立科学アカデミー会員]] [[Category:ウクライナ科学アカデミー正会員]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:友好勲章受章者 (ロシア連邦)]] [[Category:ブリュッセル自由大学の教員]] [[Category:シカゴ大学の教員]] [[Category:テキサス大学オースティン校の教員]] [[Category:ロシア帝国のユダヤ人]] [[Category:ユダヤ系ベルギー人]] [[Category:ロシア系ベルギー人]] [[Category:ユダヤ人の科学者]] [[Category:ロシアの亡命者]] [[Category:ベルギーに帰化した人物]] [[Category:モスクワ県出身の人物]] [[Category:モスクワ出身の人物]] [[Category:1917年生]] [[Category:2003年没]]
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細菌
細菌(さいきん、真正細菌、ラテン語: bacterium、複数形 bacteria、バクテリア)とは、古細菌、真核生物とともに全生物界を三分する、生物の主要な系統(ドメイン)の一つである。語源はギリシャ語の「小さな杖」(βακτήριον)に由来する。細菌は大腸菌、枯草菌、藍色細菌(シアノバクテリア)など様々な系統を含む生物群である。通常1-10 μmほどの微生物であり、球菌や桿菌、螺旋菌など様々な形状が知られている。真核生物と比較した場合、非常に単純な構造を持つ一方で、はるかに多様な代謝系や栄養要求性を示す。細菌を研究する科学分野は微生物学(または細菌学)と呼ばれる。 細菌と古細菌は合わせて原核生物と呼ばれる。核を持たないという点で古細菌と類似するが、古細菌と細菌の分岐は古い。古細菌と比較して、遺伝システムやタンパク質合成系の一部に異なる機構を採用し、ペプチドグリカンより構成される細胞壁や、エステル型脂質より構成される細胞膜を持っているという点からも細菌は古細菌と区別される。1977年までは古細菌は細菌に含まれると考えられていたが、現在では両者はドメインレベルで別の生物とされる。 細菌の生息環境は非常に広く、例えば土壌、淡水・海水、酸性温泉、放射性廃棄物、そして地殻地下生物圏といった極限環境に至るまで、地球上のあらゆる環境(生物圏)に存在している。地球上の全細胞数は5×10に及ぶと推定されており、その生物量は膨大である。また、その代謝系は非常に多様であり、細菌は光合成や窒素固定、有機物の分解過程など、物質循環において非常に重要な位置を占めている。熱水噴出孔や冷水湧出帯などの環境では、硫化水素やメタンなどの海水中に溶解した化学化合物が細菌によりエネルギーに変換され、近隣環境に生息する様々な生物が必要とする栄養素を供給している。植物や動物と共生・寄生の関係になる細菌系統も多く知られている。地球上に存在する細菌種の大半は、未だ十分に研究がされておらず、その生態や物質循環における役割が不明である。研究報告がなされた細菌種は全体の約2%に過ぎないとも推定され、実験室での培養系が確立していないものが大半である。 腸内細菌や発酵細菌、病原菌など、ヒト(人間)をはじめとする他の生物との関わりも深い。通常、ヒトなどの大型生物は、何百万もの常在菌と共存している。例えば腸内細菌群は、多くの動物において食物の消化過程に欠かすことのできない要素である。ヒト共生細菌の大半は無害であるか、免疫系の保護効果によって無害になっている。多くの細菌、特に腸内細菌は宿主となる動物にとって有益な存在である。共生細菌に限らず、細菌の大半は病気などを引き起こす存在とは考えられていない。 しかし極一部のものは病原細菌として、ヒトや動物の感染症の原因になる。例えばコレラ、梅毒、炭疽菌、ハンセン病、腺ペスト、呼吸器感染症など病原性を持ち感染症を引き起こす細菌が知られている。このような感染症を治療するために、ストレプトマイシンやクロラムフェニコール、テトラサイクリンなど、様々な細菌由来の抗生物質が探索され発見されてきた。抗生物質は細菌感染症の治療や農業で広く使用されている一方、病原性細菌の抗生物質耐性の獲得が社会的な問題となっている。 また、下水処理や流出油の分解、鉱業における金・パラジウム・銅等の金属回収などにも、細菌は広く応用利用されている。食品関係においては、微生物学が展開するはるか以前から、人類はチーズ、納豆、ヨーグルトなどの発酵過程において微生物を利用している。 細菌は対立遺伝子を持たず、遺伝子型がそのまま表現型をとり、世代時間が短く変異体が得られやすく、さらに形質転換系の確立によって遺伝子操作が容易である。このような理由から、近年の分子生物学を中心とした生物学は、細菌を中心に研究が発展してきた。特に大腸菌などは、分子生物学の有用なツールとして現在でも頻繁に使用されている。 各言語での呼称は、ラテン語が Bacterium、日本語および中国語が「細菌」である。1828年、クリスチャン・ゴットフリート・エーレンベルクが、顕微鏡で観察した微生物が細い棒状であったため、古代ギリシア語で「小さな杖」を意味する βακτήριον (baktḗrion)から造語し、ラテン語で “Bacterium” と呼んだことに由来する。この複数形が Bacteria である。日本語の「細菌」の語の発案者は不明であるが、1895年(明治28年)には『細菌学雑誌』が創刊され、19世紀末には既に使われていた。 なお、「細菌」には「菌」という漢字が使用されているが、狭義の菌類(真菌)には含まれない。同様に、細菌とは別グループの生物である「古細菌」には細菌という語が使われているが、この記事が説明する狭義の細菌に含まれない。分類学上の「菌類」(Fungi)、「細菌」(Bacteria)、「古細菌」(Archaea)は、別々の独立した生物である。 このほかの呼称としては、真正細菌(Eubacteria)や Monera(モネラ)などがあるが、いずれも古い用語であり、使用頻度は下がっている。真正細菌(Eubacteria)は、かつて古細菌が細菌とみなされていた時代に(Archaeabacteria と呼ばれていた)、これと区別するために使用されていた単語である。ただし、現在でもトーマス・キャバリエ=スミスら著名な研究者の一部がこの語を用いている。 地球上において、細菌は古細菌とともに生命発生の最初期の頃から存在すると考えられている。ストロマトライトなどの細菌由来と想定される化石が存在しているものの、大部分が単細胞性で極めて小さく、独自の特徴的な形態などを持っていないため、地質学的に細菌の進化史を解明するには多くの困難がある。一方で、現生の細菌がもつゲノム情報を検討することで、細菌の系統学的な進化プロセスが推定されており、細菌と古細菌の分岐は真核生物の誕生よりも前に遡るが示されている。 細菌と古細菌の共通祖先(最終共通祖先(英語版)、LUCA)は、35-40億年前頃に生息していた超好熱菌の一種であるとする仮説が出されている。ただし、それら初期生命体の生息環境が海であったのか陸地であったのかさえ定説は存在しない。 細菌は、古細菌とともに真核生物の誕生と進化に深く関与している。例えば、アルファプロテオバクテリア網に属する細菌が、真核生物の祖先となる古細菌内に細胞内共生ののち細胞内器官として取り込まれ、現在の全ての真核生物が持つミトコンドリアやハイドロジェノソームの元となった、というシナリオが考えられている。さらには、ミトコンドリアを既に保持していた一部の真核生物が新たにシアノバクテリアを細胞内に取り込み、今日の藻類や植物が持つ葉緑体を形成したと考えられている。これは一次共生(primary endosymbiosis)として知られている。 細菌は、通常の土壌や湖沼はもちろん、地殻、大気圏、熱水鉱床、水深1万m以上の深海底、南極の氷床といった、生物圏とされている地球上のほぼ全ての環境に分布する。地球上には、約2×10細胞もの細菌が存在していると見積もられている。 細菌は湖や海、北極の氷、さらには地熱温泉などでも豊富に見られ、温泉環境などでは硫化水素やメタンなどの溶解した化合物をエネルギーに変換することで、生命を維持するために必要な栄養素を作り出している。特に土壌は細菌が非常に豊富に存在する環境であり、数グラムに約1億個の細菌が含まれている。細菌は有毒な廃棄物を分解し、栄養素をリサイクルする存在として、土壌生態学の観点からも不可欠な存在である。 細菌は大気中にも見られ、1立方メートルの空気中には約1億個の細菌細胞が存在している。海洋には約3×10細胞もの細菌が存在しており、これらの一部が行う光合成によって、人間が呼吸する酸素の最大50%が供給されていると見積もられている。 一部の細菌は芽胞という乾燥に強い形態を取ることも知られている。 また多細胞生物体内部や表面にも多数の細菌が付着生育しており、共生関係にある。ただし、健康な生物体の血液中、筋肉、骨格など消化管以外の臓器からはほとんど検出されない。消化管においては、食物の分解プロセスの一部を細菌が担っている。共生の例は、ルーメンやマメ科植物の根圏における窒素固定菌の共生などに見ることができる。また、一部の昆虫類では菌細胞と呼ばれる共生細菌を維持するための細胞を分化させ、その細胞質内に細菌を共生させるが、これら細胞質内共生細菌のなかには、カルソネラ・ルディアイ(Candidatus Carsonella ruddii)のように宿主の細胞外で生存あるいは増殖が出来ないものがある。 バイオマスの観点では、細菌は植物を超える存在である。土壌では、4000mあたり2トンの微生物(真菌、古細菌を含む)が含まれていると見積もられている。また海洋においては、栄養状態にかかわらず1ミリリットル(mL)あたり50細胞程度の細菌が存在しており(沿岸や生物の死体周辺ではmLあたり10細胞以上生息している)、海洋だけでも地上の真核生物量をはるかに凌駕する計算がなされている。 細菌は様々な細胞形態や配置を示す。一般に、大きさはおおむね0.5-5 μm程度であり、古細菌と同規模で真核生物よりは一桁小さい。桿菌の中では、長いものは15 μmほどになる。さらに肉眼でも見ることができるサイズになるものもあり、例えばThiomargarita namibiensisは500 μmほどに、Epulopiscium fishelsoniは700 μm程度にも達する。最大で2 cmにもなる細菌も発見されている。逆に最小のバクテリアとしては、わずか0.3 μmのマイコプラズマ属の種が知られている。これよりも小さい細菌が存在する可能性も示唆されているが、支持されていない。 細菌の細胞は、藍藻類など一部を除いて、多くの場合種同士で見分けが付かない。古細菌の細胞とも酷似している。ただしドメイン全体で見ると、らせん菌など様々な形態が存在する。桿菌ではしばしば細胞壁が連なって長大な糸状になる。一部は多細胞性を示し、群体や菌糸を形成する。なかでも粘液細菌は細胞性粘菌とよく似た生活環を持つことで知られる。大半の細菌種は、球状の球菌(ギリシャ語のkókkosから、coccusと呼ばれる)や棒状の桿菌(ラテン語のbaculusから、bacillusと呼ばれる)のいずれの形態をとる。他のものとしては、ビブリオ属などの細菌はわずかに湾曲した棒状の形をとる他、spirillaはらせん状の形態をもち、特にスピロヘータはしっかりと巻かれた螺旋状の形態を取る。また、星型など、他にも珍しい形状を持つ細菌種が知られている。このような形状の多様性は、細菌の細胞壁と細胞骨格によって決定されており、それぞれの形状は細菌が栄養素を獲得したり、表面に付着し、液体を泳ぎ、捕食者から逃れたりする能力などに影響を与える可能性があるため、生態的にも重要である。 多くの細菌種は単一の細胞として存在しているが、例外も知られている。例えばナイセリア属(Neisseria)は二倍体(ペア)を形成し、連鎖球菌はその名の通り鎖状の構造をとり、ブドウ球菌も名の通りブドウの房のようなクラスター構造を取る。他にも、放線菌に見られるような細長いフィラメント状になったり、粘液細菌種のように凝集体を構築したり、ストレプトマイセス属種のように複雑な菌糸を出したりなど、より大きな多細胞構造を形成するための機能をもっているものも知られている。このような多細胞構造は、しばしば特定の条件でのみ見られることがある。たとえば粘液細菌は、生育環境中のアミノ酸が不足するとクオラムセンシングと呼ばれるプロセスを通じて周囲の細胞を認識し、互いに向かい合うように移動し、約100,000個の細菌細胞が凝集して長さ最大500マイクロメートル程度の子実体を形成する。これらの子実体では、凝集した細胞は別々の機能を担う。たとえば、細胞の約10分の1が子実体の上部に移動し、乾燥やその他の悪環境条件に対してより耐性のある粘液胞子と呼ばれる特殊な休眠状態に分化する。 細菌はしばしば何かしらの物質の表面に付着し、バイオフィルムと呼ばれる密集した凝集体を形成して大きな形成物(微生物マット)を形成する。バイオフィルムは数マイクロメートルから最大0.5メートル程度までの厚さを持ち、複数の種類の細菌や原生生物、古細菌が混合している場合がある。バイオフィルムに生息する細菌は、細胞と細胞外成分が複雑に絡み合い、マイクロコロニーなどの二次構造を形成している。この構造を介して、栄養素をより良い形で拡散するようなネットワークを形成している。土壌や植物の表面などの自然環境では、細菌の大部分はバイオフィルムの表面に結合している。臨床分野においても、バイオフィルムは、例えば慢性的な細菌感染症や人体に埋め込まれた医療機器を介した感染症において良く見られる。バイオフィルムの内部は外部刺激から保護されている状態であるため、単独で存在する細菌細胞と比べて殺菌することがはるかに困難である。 細菌の細胞は、鞭毛、線毛、莢膜、細胞壁、ペリプラズム、細胞膜、細胞質などから構成されており、主にリン脂質からできている細胞膜に囲まれている。この膜は細胞の内容物を囲み、細胞内細胞質に栄養素やタンパク質、その他の必須成分を保持するためのバリアとして機能する。真核細胞とは異なり、一般的に細菌は核やミトコンドリア、葉緑体および他の細胞小器官など、真核細胞に存在するような大きな膜結合組織を欠いている。ただし例外として、一部の細菌はカルボキシソームのような、細胞質内にタンパク質に結合した細胞小器官を持っている。さらに、細菌は、細胞内のタンパク質と核酸の局在を制御し、細胞分裂を駆動するための多成分から成る細胞骨格を持っている。 エネルギー生成などの多くの重要な生化学反応は、膜全体の濃度勾配に基づいて発生し、バッテリーのように電気化学ポテンシャルを生み出す。一般的な細菌では電子伝達などの反応は細胞質と細胞の外側やペリプラズムとの間で細胞膜を横切るようにして発生する。多くの光合成細菌では、原形質膜は高度に折りたたまれており、細胞の大部分が集光膜の層で満たされている。これらの集光性複合体は、緑色硫黄細菌のクロロソームと呼ばれる脂質で囲まれた構造を形成することもある。 細菌は通常、膜で閉ざされた核のような構造物を持たない。DNAなどの遺伝物質は単一の環状細菌染色体であり、細胞質の中で核様体と呼ばれる不規則な形状を取っている。核様体には、染色体とそれに関連するタンパク質およびRNAが含まれている。他のすべての生物と同様に、細菌にはタンパク質を生成するためのリボソームが含まれているが、細菌のリボソームの構造は真核生物や古細菌の構造とは異なっている。 一部の細菌は、グリコーゲン、ポリリン酸塩、硫黄、またはポリヒドロキシアルカノエートなどの細胞内栄養素貯蔵顆粒を生成する(例えば、ポリリン酸蓄積細菌)。光合成シアノバクテリアなどの細菌は、細胞質に液胞を作り、これを利用してさまざまな光強度と栄養レベルの水層に上下に移動できるように浮力を調整している。 細胞膜の外周には細胞壁がある。細菌の細胞壁はペプチドグリカン(ムレイン)でできており、D-アミノ酸を含むペプチドによって架橋された多糖鎖から作られている。これは、細胞壁が主にセルロースからできている植物や、キチンでできている菌類とは異なる特徴である。また、ペプチドグリカンを含まない古細菌の細胞壁とも異なる特徴である。細胞壁は多くの細菌にとって生存に不可欠である。抗生物質の一種であるペニシリン(ペニシリウムと呼ばれる真菌によって産生される)は、ペプチドグリカンの合成段階を阻害することによって細菌を殺すことができる。 細菌は、細胞壁がグラム染色で染色されるタイプとされないタイプの2種類に大きく分類することができる。それぞれのタイプの細菌グループは、グラム陽性菌とグラム陰性菌と呼ばれ、この特徴は細菌種を分類するために利用されている。 グラム陽性菌は、ペプチドグリカンとタイコ酸から成る層を複数含む、厚い細胞壁を持っている。対照的にグラム陰性菌は、リポ多糖とリポタンパク質を含む2番めの脂質膜(外膜)と内膜とも呼ばれる細胞質膜の間に囲まれたペリプラズム(空間)と呼ばれる間隙に、数層の薄いペプチドグリカンを持つ。大半の細菌はグラム陰性であり、ファーミキューテスと放線菌(以前はそれぞれ低GCグラム陽性細菌と高GCグラム陽性細菌と呼ばれていた)のみがグラム陽性細菌である。細胞壁の構造の違いにより、抗生物質感受性に違いが出ることが知られている。たとえばバンコマイシンはグラム陽性菌のみを殺すことができインフルエンザ菌や緑膿菌などのグラム陰性病原菌に対しては効果がない。また、一部の細菌は、古典的なグラム陽性菌でもグラム陰性菌でもない細胞壁構造を持っている。これには、グラム陽性菌のように厚いペプチドグリカン細胞壁を持ち、同時に脂質からなる2番目の外層も持つ、マイコバクテリアなどの臨床的に重要な細菌が含まれている。 多くの細菌では、堅く配列されたタンパク質分子のS層が細胞の外側を覆っている。この層は、細胞表面を化学的および物理的に保護し、高分子の拡散バリアとして機能している。S層は多様な機能を持ち、例えばカンピロバクターでは病原性因子として作用し、バチルス・ステアロサーモフィラス(Bacillus stearothermophilus)では表面酵素を含んでいることが知られている。 鞭毛は堅いタンパク質構造で、直径は約20ナノメートル、最大20マイクロメートルになる。細菌の運動(遊泳)に使用される。フラジェリンというタンパク質が重合した鞭毛は螺旋状の繊維であり、細胞膜を横切る電気化学的勾配に沿って引き起こされるイオンの移動(水素イオン濃度勾配やナトリウムイオン濃度勾配)に伴うエネルギーによって駆動される。古細菌の鞭毛と見た目は酷似するが、その起源と構造は異なると考えられている。 鞭毛よりも小型の繊維構造として、線毛がある。線毛(「付着線毛」と呼ばれることもある)は、ピリンというタンパク質が主要構成分の細いフィラメントで、通常は直径2〜10ナノメートル、長さは最大数マイクロメートル程度である。それらは細胞の表面全体に分布しており、電子顕微鏡で見ると細い毛のように見える。線毛は、固体表面または他の細胞への付着に関与していると考えられており、いくつかの細菌性病原体の病原性に不可欠である。細胞から突起している、繊毛よりも若干大きいような線毛は、細胞接合を通じて細胞間で遺伝物質を転送することができるような繊毛である。これは共役線毛又は性線毛と呼ばれる。また、タイプIV線毛と呼ばれる繊毛では、細胞の運動性を作り出すこともできる。 グリコカリックスは多くの細菌で見られ、細胞を取り囲むように生成される。構造化されていない無秩序な粘液層による細胞外高分子物質から、高度に構造化された莢膜まで、多様な複雑さの構造が見られる。これらの構造は、マクロファージ(ヒト免疫系の一部)などの真核細胞による飲み込みから細胞の保護に役立つ。それらはまた、抗原として作用し、細胞認識に関与するだけでなく、表面への付着やバイオフィルム形成に寄与する。 このような細胞外構造の形成には、分泌システムが大きく関係している。分泌システムはタンパク質を細胞質からペリプラズムまたは細胞周辺の環境に移動させる機能を持つ。多くの種類の分泌システムが知られており、これらの構造は病原体の病原性に不可欠であることが多いため、集中的に研究されている。 細胞膜は真核生物と同じくsn-グリセロール3-リン酸に脂肪酸が結合したエステル型脂質であり、sn-グリセロール1-リン酸にイソプレノイドアルコールが結合している古細菌とは明確に区別される(古細菌の項も参照)。細胞膜には電子伝達系や各種輸送体、各種センサーなどに関連するタンパク質が分布している。内部構造は真核生物の様な明瞭な単位膜系はあまりないが、種によってはチラコイド、DNAを包む核膜様構造が見られることもある(PVCグループの一部)。DNAはHUと呼ばれるタンパク質と結合して核様態という形で凝集しているが、真核生物や古細菌の様にヒストンに巻きついてクロマチン構造をとることはない。DNAは環状一分子が一般的だが、稀に直線状のDNAを持つ細菌や、複数のDNAを持つ細菌もいる。 バチルス、クロストリジウム、Sporohalobacter、Anaerobacter、Heliobacteriumなどのグラム陽性菌のいくつかの属は、内生胞子(芽胞、endospore)と呼ばれる非常に耐性のある休眠構造を形成することがある。内生胞子は細胞の細胞質内で発達する。一般的に、各細胞ごとに単一の内生胞子が発生する。各内生胞子は皮質層に囲まれ、ペプチドグリカンや様々なタンパク質で構成される多層の堅いコートで保護されたDNAとリボソームのコアを含んでいる。 内生胞子からは代謝活動は検出されず、高レベルの紫外線やガンマ線、洗剤、消毒剤、熱、凍結、圧力、乾燥などの極端な物理的および化学的ストレスに耐えることができる。この休眠状態において、これらの生物は、何百万年も「生存」し続けることができる。さらに、内生胞子は宇宙空間の真空や放射線にも耐えることができるため、細菌は宇宙ダストや流星物質、小惑星、彗星、プラネトイド、有向パンスペルミアなどを通じて、宇宙空間中を移動し分散することも可能なのではないかと考えられている。内生胞子を形成する細菌にはまた、疾患引き起こすものが知られている。例えば炭疽症は吸入された炭疽菌(Bacillus anthracis)の内生胞子によって引き起こされることがある。破傷風は破傷風菌の芽胞が原因で引き起こされることがあり、これと類似してボツリヌス症も芽胞から成長した細胞が分泌する毒素によって引き起こされる。医療現場で問題となるクロストリジウム・ディフィシル感染症も胞子形成細菌によって引き起こされる場合がある。 バクテリアは非常に多種多様な代謝を示す。細菌のグループ内の代謝特性の分布は、伝統的に細菌の分類法を定義する際に利用されてきました。ただしこれらの特性は、現在主流となっている遺伝学的な系統分類法とは対応がつかないものも多い。細菌の代謝はエネルギー源、電子供与体、および成長に使用される炭素源、という3つの主要な基準に基づいた栄養グループに分類される。それぞれの資源としてどのようなものを利用できるかによって以下のような分類がある。(詳細は「栄養的分類」参照) これらの、エネルギー源および炭素源の組み合わせによって、多くの生物の栄養要求性を説明できる。動物は主として有機物を酸化してエネルギーを得る化学合成従属栄養生物であり、植物は光エネルギーにて二酸化炭素を還元して固定する光合成独立栄養生物である。しかしながら微生物には、これら以外にも光合成従属栄養性と化学合成独立栄養性を示す生物群がいる。この二つの特徴ある生物群のうち、化学合成独立栄養性を示すものについては物質循環の中でも重要な役割を担っている。また硫黄酸化細菌、水素細菌などは、太陽エネルギーに依存しない生態系である深海熱水孔や地下生物圏での一次生産者の役割を果たしていると考えられている。 細菌は、太陽光から光合成を通じて得られたエネルギーを利用するもの(光栄養生物;phototrophy)や、化学化合物を酸化反応によってエネルギーを獲得するもの(化学合成生物;chemotrophy)が含まれる。化学合成生物は、酸化還元反応により特定の電子供与体から末端電子受容体に電子を移動させることにより、エネルギー源として化学化合物を利用している。化学栄養生物は、電子を伝達するために利用している化合物の種類によって、さらに細かく分類される。例えば電子源として水素や一酸化炭素、アンモニアなどの無機化合物を使用する細菌はリソトロフ(lithotrophs)と呼ばれ、有機化合物を利用するものはオルガノトロフ(organotrophs)と呼ばれる。電子を受け取るために使用される化合物もまた、細菌の分類にも利用されている。例えば好気性生物と呼ばれるグループは末端電子受容体として酸素を利用し、嫌気性生物は硝酸塩、硫酸塩、二酸化炭素などの他の化合物を使用する。 有機化合物から炭素を取得し細胞生育に利用する細菌グループは、従属栄養と呼ばれる。一方で、シアノバクテリアや一部の紅色細菌などの細菌は独立栄養性であり、二酸化炭素を固定することで細胞生育に利用する炭素を獲得する。特殊な環境において見られるメタノトロフと呼ばれるグループでは、ガス状のメタンを炭素源として使用し、かつ電子供与体として活用している。 細菌の代謝は、生態学的安定性を与えるとともに、人間社会にも役立っている。例えば、窒素固定菌(diazotrophs)は、空気中に安定して存在している窒素をニトロゲナーゼを利用して窒素固定する機能を持つ。この環境的に重要な特性を持つような細菌種は、上記の表中のほぼすべての代謝タイプで知られている。窒素固定の機能は、脱窒や硫酸塩還元、酢酸生成といった生態学的に重要な下流のプロセスにつながる。また、窒素はタンパク質のアミノ基に含まれるなど生物体の構成要素として非常に重要である。 細菌の代謝過程は、汚染に対する生物学的反応においても重要である。たとえば硫酸塩還元細菌は、環境中での毒性の高い形態の水銀(メチル水銀およびジメチル水銀)の生成に大きく関与している。非呼吸性嫌気性菌は発酵を利用してエネルギーを獲得し、代謝副産物(醸造中のエタノールなど)を廃棄物として分泌する。通性嫌気性菌は、自分自身がいる環境条件に応じて、発酵と異なる末端電子受容体を切り替えることができる。 細菌は生物量としても真核生物を凌駕しており、またその呼吸活性においても同様で、多細胞生物体と細菌1gの呼吸活性を比較すると細菌のほうが数百倍大きいと言われている。肥沃な土壌4000mあたりの細菌の呼吸活性は数万人の人間に等しいとされる。これは細胞が小さく体積あたりの呼吸活性を示す表面積の割合が大きいこと、世代時間が短いことがその要因であろう。呼吸速度(炭素、水素、酸素の循環)のみならず、生物を構成している窒素、硫黄の地球全体の物質循環に寄与しているが、後者の多くは酸素を嫌う嫌気性呼吸を伴う。 硫黄は主に地殻中に豊富に存在し、元素状硫黄は不溶性だが、これも光反応や高熱により硫化水素や硫酸イオンとして自然界に存在する。これを有機物の形で取り入れ、再び水溶性の硫酸塩や硫化水素として排出していく過程を硫黄循環と呼ぶ。有機物中に存在する硫黄は反応性が高く重要なアミノ酸に含まれている(メチオニン、システインなど)。硫酸塩のみが植物によって同化されるが、有機物態硫黄の分解(最終産物は硫化水素)、硫黄酸化(硫化水素から硫酸塩に戻す)、硫酸還元(硫酸塩を異化的に還元する)などは細菌に特有な代謝系である(古細菌にもこのような代謝系を有するものが見つかっている)。 多細胞生物とは異なり、単細胞生物では細胞サイズの増加(細胞増殖)と細胞分裂は密接に関連している。細菌細胞は一定のサイズに成長し、その後、無性生殖の一形態である二分裂によって細胞数を増加させる。最適な条件下では細菌は非常に急速に分裂増殖し、ある種の細菌では17分ごとに2倍のスピードで増殖することが知られている。細胞分裂では、2つの同一のクローン娘細胞が生成される。一部の細菌はより複雑な生殖構造を形成し、新しく形成された娘細胞を分散させる。例えば、粘液細菌による子実体の形成や、ストレプトマイセス種による気中菌糸の形成、または出芽などが挙げられる。出芽には、細胞が突起を形成し、それが壊れて娘細胞を生成する形態も知られている。また、同時に3つ以上に分裂する場合や、出芽によって増えるもの、接合してDNAの一部を交換するもの、芽胞などを形成するものが存在する。 増殖に際してはDNA複製が行われる。DNA複製は真核生物、細菌で異なる点がある(古細菌ではよく分かっていないが真核生物に類似すると考えられている)。細菌では大腸菌で最もDNA複製機構の研究が進んでいる。複製はDNA上に一箇所存在する複製開始点から開始され、双方向へ複製が進んでいく。 実験室では、細菌は通常、固体または液体の培地を利用して培養する。寒天プレートなどの固体培地は、細菌株の純粋な培養物を分離するために使用される。一方で液体培地は、大量の細胞が必要となる場合に利用される。液体培地での培養では細菌細胞が均一に懸濁されるため、その中から単一の細菌種を分離することは困難である、培養物を簡単に分割したり移動させることができます。選択培地(特定の栄養素を追加したり不足させたりしている培地や、抗生物質などが添加されている培地)を使用すると、特定の機能を持つ生物種だけを選択的に培養させることができる。 実験室においては多くの場合、非常に富栄養な培地を利用して大量の細胞を安価かつ迅速に生産するように培養することが一般的である。しかしながら本来の自然環境では栄養素は限られており、細菌が無期限に繁殖し続けることができない。この栄養制限は、さまざまな成長戦略の進化をもたらしてきており、例えばR-K選択説などが有名である。夏期に湖で頻繁に発生する藻類(およびシアノバクテリア)の異常発生などに見られるように、環境中で利用可能な栄養素が増加することで、一部の生物は非常に急速に成長することがある。また別の戦略として、放線菌などに見られるように複数の抗生物質を生産などして、競合する微生物の成長を阻害する戦略で過酷な環境に適応するものもいる。自然界では多くの微生物は、栄養素の供給を増やし環境ストレスから保護することができるようなコミュニティ(バイオフィルムなど)に生息している。このような関係は、特定の細菌系統において生育に不可欠な要素であることがあり、栄養共生(syntrophy)と呼ばれる。 細菌の増殖は4つの段階をたどる。細菌集団が最初に高栄養環境に晒されると、細胞はその新しい環境に適応する必要がある。そのため、成長の最初の段階は遅滞期であり、これは細胞が高栄養環境に適応し、急速な成長の準備をしているときのゆっくりとした成長期間であるとみなせる。遅滞期は、急速な成長に必要なタンパク質が生成されるため、生合成速度が高まる。成長の第2段階は対数増殖段階であり、指数増殖段階とも呼ばれる。対数期は急速な指数関数的成長によって特徴づけられる。この段階で細胞が成長する速度は成長速度(k)と呼ばれ、細胞が2倍になるのにかかる時間は生成時間(g)と呼ばれる。対数期の間、栄養素が枯渇し成長に制限がかかり始めるまで、栄養素は最大速度で代謝され続ける。成長の第3段階は定常期であり、栄養素の枯渇によって引き起こされる。細胞は代謝活性を低下させ、必須ではない細胞タンパク質を消費してゆく。定常期は急速な成長からストレス反応への状態移行であり、DNA修復、抗酸化代謝、栄養素輸送に関与する遺伝子の発現が増加する。最終段階は、細菌が全ての栄養素を使い果たして死ぬ段階である。 ほとんどの細菌は単一の環状染色体を持っており、そのサイズは、内共生細菌Carsonella ruddiiではわずか160,000塩基対であるのに対し、土壌性細菌Sorangium cellulosumでは12,200,000塩基対(12.2 Mbp)と、さまざまである。また染色体の形と数にも例外が知られており、たとえば一部のストレプトマイセス属とボレリア属の種は単一の線形染色体を持ち、一部のビブリオ属種は複数の染色体を持っている。細菌はまた、プラスミドなどのDNAの小さな染色体外分子を持ち、ここに抗生物質耐性、代謝能力、病原性因子などの様々な機能遺伝子を含むことがある。 細菌ゲノムは通常、数百から数千の遺伝子をコードしている。細菌ゲノムにおいては通常、遺伝子は単純に連続してDNA状に分布しているが、まれに異なるタイプのイントロンが存在するものもある。 細菌は無性生物であり、細胞分裂の際には親のゲノムと同一のコピーを継承するクローン体である。 しかし、全ての細菌は、遺伝子組換えや突然変異によって遺伝物質DNAに変化が引き起こされ、その変異が選択されることによって進化してゆく。突然変異は、DNAの複製中に生じたエラーや変異原物質(例えば紫外線や放射線など)への曝露によって生じる。突然変異率は、細菌の種類によって大きく異なり、また単一細菌のクローン内であっても大きく異なる。細菌ゲノムの遺伝的変化は、複製中のランダムな突然変異以外にも、ストレス指向性の突然変異からも生じ、この場合、特定の成長制限プロセスに関与する遺伝子の突然変異率が高くなる。 一部の細菌は、細胞間で遺伝物質を移動させる。これには、主に3つの方法が知られている。 多くの細菌には運動性があり、様々なメカニズムを使用して自分自身を動かすことができる。最もよく研究されている運動機構は鞭毛である。これは、分子モーターによって回転する長いフィラメント状の組織であり、プロペラのような動きを生み出すことで推進力を得るものである。細菌のべん毛は約20のタンパク質でできており、その調節と組み立てにはさらに約30のタンパク質が必要である。べん毛は、ベースとなる可逆モーターによって駆動される回転構造をとり、細胞膜を貫通する電気化学的勾配を利用してエネルギーを供給している。 細菌は様々な方法で鞭毛を使用することで、多様な種類の動きを生み出すことができる。大腸菌などの多くの細菌は、前進(遊泳)とタンブリング(回転)という2つの異なる移動モードがあります。タンブリングにより細菌は移動方向を変えることができ、3次元空間をランダムウォークすることができる。細菌の種によって、表面のべん毛の数と配置は異なり、単一の鞭毛を持つ単毛性(monotrichous)、細胞の各端部に一本ずつ鞭毛を持つ両毛性(amphitrichous)、細胞の片極に多数の鞭毛を持つ叢毛性(lophotrichous)、細胞の表面全体に鞭毛が分布している周毛性、に分類される。他にも、スピロヘータの鞭毛は、ペリプラズム空間の2つの膜の間に見られ、細胞がねじれながら移動するような独特の螺旋状の細胞形状をとっている。 他のタイプの細菌の動きとしては、IV型線毛と呼ばれる構造に依存する痙攣運動と、また別のメカニズムを利用した滑走運動と呼ばれる運動が知られている。痙攣運動では、棒状の線毛が細胞から伸び、基質との結合と収縮を繰り返すことで、細胞を前方に引っ張ることで移動する。 運動性細菌は、走光性、磁気走性、走化性など、特定の刺激に対して引き寄せられたり逃げ出したりする「走性」と呼ばれる行動パターンを示す。また走性以外としては、粘液細菌で見られるように、個々の細菌が一緒に移動して細胞の波を形成し、次に分化して胞子を含む子実体を形成するような例も知られている。粘液細菌は、液体・固体の両方の培地で運動性を示す大腸菌のような細菌とは異なり、固体表面上でのみ運動性を示す。 リステリア菌と赤痢菌のいくつかの種は、細胞骨格を利用して宿主細胞内を移動する。細胞骨格は通常、細胞内の細胞小器官を移動させるために使用される機関である。細菌細胞の一方の極でアクチン重合を促進させることで、宿主細胞の細胞質内を移動するような「尾」を形成することができる。 細菌の一部には、生物発光の化学システムを持つものが知られている。例えば魚と共生している発光細菌では、魚はその光を利用して、他の魚や動物を引き付け捕食することに役立てている。 細菌はしばしば、多細胞凝集体(バイオフィルム)という構造をとり、様々な分子シグナルを交換し合う細胞間コミュニケーションを行い、協調した多細胞行動をとっている 。多細胞間で協力し合うことは、細胞間での分業を可能にしたり、単一細胞では効果的に使用できないリソースを分配することに役立つほか、拮抗薬に対する集合的な防御や、異なる細胞型への分化による集団生存の最適化にも寄与している。たとえば、バイオフィルム内の細菌は、同じ種の個々の浮遊性(自由生活性)細菌よりも抗菌剤に対する耐性が500倍以上高くなる例が報告されている。 分子信号による細胞間コミュニケーションの1つのタイプは、クオラムセンシングと呼ばれている。これは、ある特定の生物プロセスを実施するのに十分な細胞密度がその環境に存在しているのか、を判断する際に利用される。具体的には、細菌が細胞分裂を繰り返し、ある程度の密度に達した際に初めて消化酵素を分泌したり発光を始めたりする例が知られており、この生物プロセスの開始タイミングの調整にクオラムセンシングが利用されている。クオラムセンシングにより、細菌は遺伝子発現を調整し、細胞集団の成長とともに蓄積する自己誘導物質やフェロモンを生成、放出、および検出することができる。 類似性に基づいて生物に名前を付けてグループ化し、細菌種の多様性を説明しようとすることは、分類と呼ばれる。細菌は、細胞構造(直接観察による構造的・解剖学的性質)、細胞代謝(最終電子受容体など、代謝系に関わる生理・生化学的性質)、あるいはDNAや脂肪酸、色素、抗原、キノン、などの細胞成分の違いに基づいて分類することができる。このスキームは細菌株の識別と分類を可能にしたが、実際のところこのような観察可能な違いは、種間の違いを表しているのか、あるいは同じ種内での株間の違いを表しているに過ぎないのか、などを判断することは困難である。このような不確実性が生まれる原因としては、ほとんどの細菌は特徴的な構造を持っていないことや、無関係の種間でも遺伝子水平伝播が発生していまうことが挙げられる。また逆に、遺伝子の水平伝播により、密接に関連する細菌であっても、形態や代謝が大きく異なるものも知られている。 このような不確実性を克服するために、現代の細菌分類では、DNA中のグアニン・シトシンの比率(GC含量)やゲノム-ゲノムハイブリダイゼーション(DNA-DNA分子交雑法)などの遺伝学的手法、およびrRNA遺伝子のように水平伝播が発生しにくく生物に保存されやすい遺伝子の配列情報を利用して、分子系統を解析することが広く行われている。細菌の分類は、International Journal of Systematic Bacteriology およびBergey's Manual of Systematic Bacteriologyに掲載されることで定義される。国際原核生物分類命名委員会(International Committee on Systematics of Prokaryotes; ICSP)は、細菌や分類学的カテゴリの命名とその階層化のための国際ルールを、国際細菌命名規約として策定している。分類には属以上の単位として科、目、綱、門、界、ドメインなどが与えられている。 歴史的には、バクテリアはかつて植物界であるPlantaeの一部と見なされ、「Schizomycetes」(分裂菌)と呼ばれていた。そのため、宿主内の集団細菌やその他の微生物は、しばしば"flora"(「植物相」)と呼ばれる。また、「細菌」という用語は伝統的に、全ての微視的な単一細胞の原核生物に適用されていた。しかしながら分子分類学の発展により、原核生物には2つの別々のドメインから構成されていることが分かっている。この2つのドメインは、元々は真正細菌(Eubacteria )と古細菌(Archaebacteria)と呼ばれていたが、現在は細菌(Bacteria)と古細菌(Archaea)と呼ばれて、両者は共通祖先から分岐し独立に進化してきたものだと考えられている。そして真核生物は、細菌よりも古細菌により近縁なドメインであると考えられている。細菌と古細菌という2つのドメインは、真核生物と併せて、3ドメイン説の基礎となっており、今日の微生物学分野においても最も一般的に受け入れられている分類システムである。とはいえ、分子系統学は比較的近年に導入された手法であり、利用可能なゲノム配列の数は今日でも急速に増加しているため、細菌分類は頻繁に変更され拡大している分野である。 医学分野においては、感染を引き起こす細菌種によって異なる治療法が選択されることがあるため、実験室での細菌の同定が重要になる。そのため、「人間の病原体を特定する」ということは、細菌を特定する技術を開発する上で主要な推進力となってきた。 1884年にハンス・クリスチャン・グラムによって開発されたグラム染色法は、細胞壁の構造的特徴に基づいて細菌を特徴づけることができる。グラム陽性細菌では細胞壁のペプチドグリカンの厚い層は紫色に染まり、逆にグラム陰性細菌の薄い細胞壁はピンク色に見える。細胞形態とグラム染色を組み合わせることにより、ほとんどの細菌は、4つのグループ(グラム陽性球菌、グラム陽性桿菌、グラム陰性球菌、およびグラム陰性桿菌)のいずれかに属するものとして分類することができる。いくつかの系統ではグラム染色以外の染色方法がより同定に適していることが知られている。例えばマイコバクテリアやノカルジアは抗酸菌であり、抗酸染色によって識別することができる。細菌系統によっては単純な染色では同定できず、特別な培地での培養や血清学などの他の技術も利用する必要がある場合もある。 培養は、サンプル内で他の細菌の増殖を制限しながら、特定の細菌のみ増殖を促進し識別できるようにするための技法である。これらの技術はしばしば、特定の検体サンプルを対象として設計される場合がある。たとえば、肺炎の原因菌を特定するために喀痰サンプルを利用する手法や、下痢の原因菌を特定するために便検体を選択培地で培養する手法などがある。一方で、血液、尿、髄液など、通常は無菌である検体は、考えられる全ての生物を増殖させるように設計された条件下で培養される。病原性生物が分離されると、その形態、成長パターン(好気性または嫌気性成長など)、溶血のパターン、および染色によって、さらに詳細な特徴づけが可能となる。 細菌の分類と同様に、細菌の同定にも分子生物学的な手法や質量分析法を利用した手法が使われる。地球上の大半の細菌は未だ特徴付けられておらず、また実験室で培養することが困難であると考えられている。ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)などのDNAベースの診断手法は、培養ベースの方法と比較して特異性や診断時間の短縮化の点で優位である。これらの方法はまた、代謝的に活性であるが分裂しない生存可能であるが培養不可能な細胞(VNC)の検出と同定も可能にする。しかし、これらの改良された方法を使用しても、膨大に存在すると考えられる細菌種の総数を見積もることは困難である。2011年の段階で、細菌や古細菌には9,300弱の原核生物種が分類として報告され登録されている。しかし、細菌多様性の真数を推定した研究では合計で10~10種いると予想されており、さらにはこの数字でさえ何桁も過小評価している可能さえある。 近年では、16SrRNAだけでなくゲノム規模の比較に基づいてより正確な分類を目指す動きが活発となっている(例えばGTDB)。その結果、古典的によく知られた細菌の分類が解体されることも珍しくなく、現在も絶えず新しいグループの追加と既存のグループの書き換えが進んでいる(例えばデルタプロテオバクテリア)。GTDBによれば、2021年7月時点で、127の門(Phylum)が記載されている。 細菌は系統学的に分類されているが、メタゲノム情報の蓄積などにより新しく発見される種も増え続けており、分類体系は確立していない。大まかな枠組みは以下の通りである。 これらの枠組みに含まれない種も多数存在する(英語版記事「Bacterial phyla」などを参照)。 細菌は他の生物と複雑に相互作用することが知られている。このような共生的な相互作用は、寄生、相利共生、片利共生の3種類に分類することができる。 片利共生(commensalism)という言葉は、「同じ食卓で食べる」という意味のcommensalに由来しており 、あらゆる動植物には片利共生細菌が存在している。例えば人間や他の動物においては、何百万もの細菌が、皮膚や気道、腸、その他の開口部に生息している 。常在菌(normal flora) や片利共生体(commensals)と呼ばれるこれらの細菌は、通常は害を及ぼすことはないが、場合によっては体内に侵入して感染症を引き起こす可能性がある。例えば大腸菌は人間の腸内でよく見られる共生生物の一種であるが、尿路感染症を引き起こすものが知られている。同様に、正常なヒトの口腔内で一般的に見られる連鎖球菌は、心臓病(亜急性細菌性心内膜炎)を引き起こす可能性がある。 一部の細菌種は、他の微生物を殺して消化吸収するため、捕食性細菌と呼ばれる。例えば、Myxococcus xanthusは集合体を形成し、接触した他の細菌を捕食する。他には、獲物の細胞に付着して消化し栄養素を吸収するものや、細胞に侵入して細胞質内で増殖するような捕食性細菌が知られている。これらの略奪的な細菌は、死んだ微生物を消費したサプロファージから、他の生物を捕らえて殺すことができるように適応することによって進化したと考えられている。 特定の細菌は、生存に不可欠な密接した空間的相互作用を形成し、これは相利共生と呼ばれる。例えば種間水素移動(interspecies hydrogen transfer)と呼ばれる相互作用では、酪酸やプロピオン酸などの有機酸を消費して水素を生成する嫌気性細菌クラスターと、水素を消費するメタン生成古細菌との間で発生する。この関係性において、水素生成細菌は自身が生成した水素が細胞外に蓄積してしまうため、有機物を周辺環境から吸収し消費することができなくなってしまう。そのため、水素を消費する古細菌と相互作用することによって、成長できる程度に細胞周辺の水素濃度を低く保っている。 土壌では、根圏(根の表面や近接する土壌)に存在する微生物が窒素固定を行い、窒素ガスを窒素化合物に変換する。これは、窒素自体を固定できない多くの植物に、吸収しやすい形の窒素を提供するのに役立っている。他の多くの細菌は、人間や他の生物の共生細菌として発見されている。例えば、正常なヒトにおいて1,000以上の細菌種が腸内細菌として存在しており、それらはの腸は、腸免疫や、葉酸、ビタミンK、ビオチンなどを含むビタミンの合成、乳糖の乳酸への変換(ラクトバチルスを参照)、複雑な難消化性炭水化物の発酵、など様々なプロセスに寄与している。この腸内細菌叢の存在はまた、潜在的に競合相手の排除などによって病原性細菌の増殖を阻害しており、このような有益な細菌は実際にプロバイオティクス栄養補助食品として市販されている。 一部の共生細菌および古細菌はビタミンB 12(コバラミン)合成に必要な酵素遺伝子を有しており、ほぼ全ての動物は食物連鎖を通してこのような細菌が生産するビタミンの恩恵を受けている。ビタミンB 12は水溶性ビタミンであり、DNA合成や脂肪酸代謝、アミノ酸代謝における補因子として、ヒトのあらゆる細胞の代謝に関与している。ミエリンの合成における役割のため、神経系の正常な機能においても重要である。 ヒトや動物の体は、皮膚や粘膜で成長する有益な共生細菌や、主に土壌や腐生植物で成長する腐生細菌など、多くの種類の細菌に常にさらされている。血液や組織液には、多くの細菌の成長を維持するのに十分な栄養素が含まれている。体には、微生物が組織内に侵入することに対抗し、多くの微生物に対する自然免疫を獲得するといった、防御機構が存在する。ウイルスとは異なり細菌は比較的ゆっくりと進化するため、ある動物に感染する細菌が異なる種の動物にも感染することも良く見られる。 細菌が他の生物と寄生的な関係を形成する場合、それらは病原体として分類される。様々な病原性細菌がヒトの病気や死を引き起こすことが知られている。例えば、破傷風(破傷風菌)、腸チフス、ジフテリア、梅毒、コレラ、食中毒、ハンセン病(Micobacterium(らい菌))、結核(結核菌)、などが代表的である。ヘリコバクター・ピロリによる消化性潰瘍の場合のように、既知の医学的疾患の病原性の原因が何年も後に発見される可能性もある。細菌性疾患はまた農業分野においても重要であり、例えばすすかび病や火傷病、ヨーネ病、乳腺炎などを引き起こす細菌の存在や、家畜に感染するサルモネラや炭疽菌などの存在が知られている。 それぞれの病原体は、その宿主であるヒトとの間で、特徴的な相互作用を引き起こす。ブドウ球菌や連鎖球菌などの一部の生物は、皮膚感染症、肺炎、髄膜炎、敗血症、全身性炎症反応によるショックを引き起こし、大量の血管拡張、そして死を引き起こす可能性がある。しかし、これらの細菌は通常のヒト常在菌の一部でもあり、普段は病気をまったく引き起こすことなく皮膚や鼻に存在している。また他の例としては、他の生物の細胞内でのみ成長および繁殖することができる細胞内寄生細菌であるリケッチアが挙げられる。リケッチアの1つの種は発疹チフスを引き起こし、別の種はロッキー山紅斑熱を引き起こす。別の門の細胞内寄生細菌であるクラミジアは、肺炎や尿路感染症を引き起こす可能性があり、冠状動脈性心臓病に関与している可能性のある種が含まれている。緑膿菌(Pseudomonas aeruginosa),やBurkholderia cenocepacia、Mycobacterium avium,などの一部の種は日和見病原体であり、主に免疫抑制や嚢胞性線維症に苦しむ人々に対して病気を引き起こす。一部の細菌は毒素を産生し、それが病気を引き起こす。これらには、壊れた細菌細胞に由来するエンドトキシンと、細胞外に分泌されるエキソトキシンが含まれる。たとえばボツリヌス菌は呼吸麻痺を引き起こす強力なエキソトキシンを生成し、サルモネラ菌は胃腸炎を引き起こすエンドトキシンを生成する。一部のエンドトキシンはトキソイドに変換することができ、トキソイドは病気を予防するためのワクチンとして使用される場合がある。 多くの細菌感染症は、抗生物質で治療することができる。抗生物質は、細菌を殺す場合は殺菌性、細菌の増殖を防ぐだけの場合は静菌性に分類される。抗生物質には多くの種類があり、それぞれは宿主には悪影響を与えず、病原体が行う生物プロセスのみを阻害する。例えば、クロラムフェニコールとピューロマイシンは細菌のリボソームを阻害するが、構造的に異なる真核生物のリボソームは阻害しないため、細菌に対して選択的に毒性が発揮される。抗生物質は、人間の病気治療や集約農業、動物の成長促進などの目的で使用される。抗生物質は、その乱用と繁用により細菌集団における抗生物質耐性の急速な発達に寄与していると指摘されている。すなわち抗生物質が「効かない」例が激増している。 感染は、注射器の針で皮膚を刺す前に皮膚を殺菌するなどといったような消毒によっても防ぐことができる。細菌による汚染を防ぐために、外科用や歯科用の器具は常に使用前に滅菌されている。漂白剤などの消毒剤も、物体表面の細菌やその他の病原体を殺して汚染を防ぎ、感染のリスクをさらに減らすために使用される。 ラクトバチルスやラクトコッカスといった乳酸菌は、酵母やカビなどと組み合わせられて、チーズや漬物、醤油、ザワークラウト、酢、ワイン、ヨーグルトといった様々な発酵食品の生産において何千年もの間使用されてきた。 また、細菌が様々な有機化合物を分解する能力は顕著であり、廃棄物処理やバイオレメディエーションにも使用されている。石油に含まれる炭化水素を消化することができる細菌は、石油流出の浄化によく利用されている。プリンス・ウィリアム湾では、1989年のエクソンバルディーズ号原油流出事故後、自然発生する石油分解細菌の成長を促進するために肥料が追加された。これは、油であまり厚く覆われていないビーチにおいては効果的であった。細菌はさらに、産業毒性廃棄物のバイオレメディエーションにも使用される。化学産業において、医薬品や農薬として利用できるような鏡像異性的を持つ純粋化学物質の生産においても、細菌は重要な存在である。 細菌は、生物的害虫駆除において農薬の代わりに使用することもできる。これには通常、グラム陽性の土壌に生息する細菌であるバチルス・チューリンゲンシス(Bacillus thuringiensis、BTとも呼ばれる)が含まれる。この細菌の亜種は、DipelやThuricideなどの商品名で、鱗翅目特有の殺虫剤として使用されている。それらの特異性のために、人間、野生生物、花粉交配者、および他のほとんどの益虫にほとんど影響を与えないため、これらの農薬は環境にやさしいと見なされている。 細菌は急速に成長する能力を持ち、操作が比較的容易であるため、分子生物学、遺伝学、生化学など分野で頻繁に利用される。例えば細菌のDNAを変異させ、その表現型を調べることで、細菌の遺伝子、酵素、代謝経路の機能を調べることができ、得られた知識をより複雑な生物に適用することができる。細胞の生化学を理解することで、様々な生物において、大量の酵素動態や遺伝子発現データに基づく数学的モデルを作ることができる。いくつかのよく研究された細菌では研究が進められており、例えば大腸菌の代謝モデルが作成され検証が進められている。細菌の代謝や遺伝学の理解は、インスリンや成長因子、抗体などの治療用タンパク質の生産のために細菌を利用するという、バイオエンジニアリングのためのバイオテクノロジーに繋がる。 細菌株のサンプルは研究において重要であるため、生物学的リソースセンター(Biological Resource Centers)で分離および保存される。これにより、世界中の科学者が菌株を確実に入手できる体制が整っている。 発酵は古代利用されていたが、細菌の発見は17世紀に遡る。1676年にアントニ・ファン・レーウェンフックによって発見され原生動物と合わせて“animalcules”(微小動物)と呼ばれた。この時は、彼自身が設計した単一レンズの顕微鏡を使用して最初に観察された。その後、彼はロンドン王立学会に一連の手紙で彼の観察を発表した。バクテリアは、レーウェンフックの最も注目すべき顕微鏡的発見であった。ただし、細菌は彼の作成した単純なレンズが見ることができる限界のサイズであったため、他の誰も1世紀以上それらを再び見ることができず、科学の歴史の中で最も印象的な休止の1つであったと言える。彼の観察には、彼がアニマルキュールと呼んだ原生動物も含まれており、後世に提案された細胞説に併せて彼の発見は再度注目されることになった。 1828年、クリスチャン・ゴットフリート・エーレンベルクは、顕微鏡で観察した微生物が細い棒状であったため、ギリシア語で「小さな杖」を意味するβακτήριονから“Bacterium”と呼んだ。しかしながら実際に彼が観察した「Bacterium」は、非芽胞形成の桿菌を含んだ属であり、これは1835年にエーレンバーグ自身によって芽胞形成桿菌属であるバチルス(Bacillus)として定義された。 1859年にはルイ・パスツールが、アルコール発酵が微生物によって引き起こされることを示し、さらに発酵が自然発生的な現象ではないことを示すことで、自然発生説を否定した。このとき、パスツールは発酵を起こす微生物を細菌だと考えたが、実際には菌類である(発酵に関連するものは細菌ではなく、一般的には酵母やカビといった真菌である)。ロベルト・コッホとともに、パスツールは病原菌理論の初期の提唱者であった。ただし、彼らの以前にも、センメルヴェイス・イグナーツとジョゼフ・リスターによって、医療業務における手指の消毒の重要性は認識されていた。センメルヴェイズのアイデアは却下され、このトピックに関する彼の本は医学界によって当時は非難されたが、その後にリスターが1870年代から手の消毒を始めた。 1840年代に病院での手洗いに関する規則から始めたセンメルワイスは、細菌自体に関する考えの先駆者であった。後にリスターは、病気は「動物の有機物の分解」に起因すると考えて消毒の重要性を説いた。 細菌培養法の基礎は、医療微生物学のパイオニアであるロベルト・コッホによって確立され、一連の研究により炭疽菌、結核菌、コレラ菌が病原性の細菌によって引き起こされることが証明された。特に結核に関する彼の研究により、コッホはついに病原菌理論を証明し、1905年にノーベル賞を受賞した。また、コッホの原則という、生物が病気の原因であるかどうかをテストするための基準が提唱され、これは今日でも使用されているものである。 フェルディナント・コーンは細菌学の創始者であり、1870年から細菌を研究していた。コーンは、細菌をその形態に基づいて分類した最初の人物である。 19世紀には多くの研究により、細菌が様々な病気の原因であることが判明したが、効果的な抗菌治療法は不明であり、対症療法しか存在しなかった。20世紀に入ると培養法が確立されたことも相まって、細菌の研究が進んでいく。1910年、 パウル・エールリヒは、梅毒トレポネーマ(梅毒の原因となるスピロヘータを選択的に染色する染料を、病原体を選択的に殺す化合物に変えることにより、最初の抗生物質を開発した。エーリッヒは、免疫学の研究で1908年のノーベル賞を受賞し、細菌を検出および識別するための染色の使用を開拓し、グラム染色と抗酸染色の基礎となった。1910年、パウル・エールリヒと秦佐八郎によって初の抗菌剤サルバルサンが開発され、1929年にはアレクサンダー・フレミングによって抗生物質ペニシリンが発見された。 細菌についての知識が深まるにつれ、分類学上での細菌の位置づけはしばしば変更されている。発見時は2界説に従い植物界に振り分けられ、1866年にはエルンスト・ヘッケルによって単細胞生物をまとめた原生生物界に組み入れられた(3界説)。1930年頃になると原核生物と真核生物の違いが認識され、2帝説原核生物帝(1937年)、次いで4界説(のち5界説)モネラ界(1956年)が提唱された。現在に至る一般の細菌のイメージは5界説における原核生物に対応している(藍色細菌は、旧名藍藻の概念としては除くこともある)。 しかし、1977年、カール・ウーズらによって原生生物界の単系統性に疑問が投げかけられ、メタン生成菌(のち高度好塩菌と一部の好熱菌も)を除く原核生物として、Kingdom Eubacteria(真正細菌界)が定義された。1990年には16S rRNA配列に基づいて、当時の古細菌(メタン生成菌、高度好塩菌、一部の好熱菌)を除く原核生物としてDomain Bacteria(細菌ドメイン)が定義され、同時に古細菌はDomain Archaea (古細菌ドメイン)として新たに定義される、3ドメイン説が提唱された。 カール・ウーズにより提唱された3ドメイン説(細菌、古細菌、真核生物)は現在も広い支持を得ているが、各ドメインの進化上の関係性は現在も議論が続いている。近年になって分子系統解析の進歩、および真核生物に非常に近縁の古細菌(アスガルド古細菌)が発見されるに至って、真核生物は古細菌の一部から進化したとする説が優勢になりつつある(2ドメイン説とも呼ばれる)。2ドメイン説では、細菌は原始の地球に出現した生命体の2つのグループの内の一つということになる(もう一つは古細菌)。さらに近年では、それまで知られていた細菌のグループとは全く別系統に属する新種の細菌グループ(Candidate Phyla Radiation;CPR)が見つかり、その規模は既知の細菌全体に匹敵するとも推測されている。そのため細菌ドメインの範囲は現在もさらに拡大している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "細菌(さいきん、真正細菌、ラテン語: bacterium、複数形 bacteria、バクテリア)とは、古細菌、真核生物とともに全生物界を三分する、生物の主要な系統(ドメイン)の一つである。語源はギリシャ語の「小さな杖」(βακτήριον)に由来する。細菌は大腸菌、枯草菌、藍色細菌(シアノバクテリア)など様々な系統を含む生物群である。通常1-10 μmほどの微生物であり、球菌や桿菌、螺旋菌など様々な形状が知られている。真核生物と比較した場合、非常に単純な構造を持つ一方で、はるかに多様な代謝系や栄養要求性を示す。細菌を研究する科学分野は微生物学(または細菌学)と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "細菌と古細菌は合わせて原核生物と呼ばれる。核を持たないという点で古細菌と類似するが、古細菌と細菌の分岐は古い。古細菌と比較して、遺伝システムやタンパク質合成系の一部に異なる機構を採用し、ペプチドグリカンより構成される細胞壁や、エステル型脂質より構成される細胞膜を持っているという点からも細菌は古細菌と区別される。1977年までは古細菌は細菌に含まれると考えられていたが、現在では両者はドメインレベルで別の生物とされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "細菌の生息環境は非常に広く、例えば土壌、淡水・海水、酸性温泉、放射性廃棄物、そして地殻地下生物圏といった極限環境に至るまで、地球上のあらゆる環境(生物圏)に存在している。地球上の全細胞数は5×10に及ぶと推定されており、その生物量は膨大である。また、その代謝系は非常に多様であり、細菌は光合成や窒素固定、有機物の分解過程など、物質循環において非常に重要な位置を占めている。熱水噴出孔や冷水湧出帯などの環境では、硫化水素やメタンなどの海水中に溶解した化学化合物が細菌によりエネルギーに変換され、近隣環境に生息する様々な生物が必要とする栄養素を供給している。植物や動物と共生・寄生の関係になる細菌系統も多く知られている。地球上に存在する細菌種の大半は、未だ十分に研究がされておらず、その生態や物質循環における役割が不明である。研究報告がなされた細菌種は全体の約2%に過ぎないとも推定され、実験室での培養系が確立していないものが大半である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "腸内細菌や発酵細菌、病原菌など、ヒト(人間)をはじめとする他の生物との関わりも深い。通常、ヒトなどの大型生物は、何百万もの常在菌と共存している。例えば腸内細菌群は、多くの動物において食物の消化過程に欠かすことのできない要素である。ヒト共生細菌の大半は無害であるか、免疫系の保護効果によって無害になっている。多くの細菌、特に腸内細菌は宿主となる動物にとって有益な存在である。共生細菌に限らず、細菌の大半は病気などを引き起こす存在とは考えられていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しかし極一部のものは病原細菌として、ヒトや動物の感染症の原因になる。例えばコレラ、梅毒、炭疽菌、ハンセン病、腺ペスト、呼吸器感染症など病原性を持ち感染症を引き起こす細菌が知られている。このような感染症を治療するために、ストレプトマイシンやクロラムフェニコール、テトラサイクリンなど、様々な細菌由来の抗生物質が探索され発見されてきた。抗生物質は細菌感染症の治療や農業で広く使用されている一方、病原性細菌の抗生物質耐性の獲得が社会的な問題となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、下水処理や流出油の分解、鉱業における金・パラジウム・銅等の金属回収などにも、細菌は広く応用利用されている。食品関係においては、微生物学が展開するはるか以前から、人類はチーズ、納豆、ヨーグルトなどの発酵過程において微生物を利用している。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "細菌は対立遺伝子を持たず、遺伝子型がそのまま表現型をとり、世代時間が短く変異体が得られやすく、さらに形質転換系の確立によって遺伝子操作が容易である。このような理由から、近年の分子生物学を中心とした生物学は、細菌を中心に研究が発展してきた。特に大腸菌などは、分子生物学の有用なツールとして現在でも頻繁に使用されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "各言語での呼称は、ラテン語が Bacterium、日本語および中国語が「細菌」である。1828年、クリスチャン・ゴットフリート・エーレンベルクが、顕微鏡で観察した微生物が細い棒状であったため、古代ギリシア語で「小さな杖」を意味する βακτήριον (baktḗrion)から造語し、ラテン語で “Bacterium” と呼んだことに由来する。この複数形が Bacteria である。日本語の「細菌」の語の発案者は不明であるが、1895年(明治28年)には『細菌学雑誌』が創刊され、19世紀末には既に使われていた。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、「細菌」には「菌」という漢字が使用されているが、狭義の菌類(真菌)には含まれない。同様に、細菌とは別グループの生物である「古細菌」には細菌という語が使われているが、この記事が説明する狭義の細菌に含まれない。分類学上の「菌類」(Fungi)、「細菌」(Bacteria)、「古細菌」(Archaea)は、別々の独立した生物である。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このほかの呼称としては、真正細菌(Eubacteria)や Monera(モネラ)などがあるが、いずれも古い用語であり、使用頻度は下がっている。真正細菌(Eubacteria)は、かつて古細菌が細菌とみなされていた時代に(Archaeabacteria と呼ばれていた)、これと区別するために使用されていた単語である。ただし、現在でもトーマス・キャバリエ=スミスら著名な研究者の一部がこの語を用いている。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "地球上において、細菌は古細菌とともに生命発生の最初期の頃から存在すると考えられている。ストロマトライトなどの細菌由来と想定される化石が存在しているものの、大部分が単細胞性で極めて小さく、独自の特徴的な形態などを持っていないため、地質学的に細菌の進化史を解明するには多くの困難がある。一方で、現生の細菌がもつゲノム情報を検討することで、細菌の系統学的な進化プロセスが推定されており、細菌と古細菌の分岐は真核生物の誕生よりも前に遡るが示されている。", "title": "起源と初期の進化" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "細菌と古細菌の共通祖先(最終共通祖先(英語版)、LUCA)は、35-40億年前頃に生息していた超好熱菌の一種であるとする仮説が出されている。ただし、それら初期生命体の生息環境が海であったのか陸地であったのかさえ定説は存在しない。", "title": "起源と初期の進化" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "細菌は、古細菌とともに真核生物の誕生と進化に深く関与している。例えば、アルファプロテオバクテリア網に属する細菌が、真核生物の祖先となる古細菌内に細胞内共生ののち細胞内器官として取り込まれ、現在の全ての真核生物が持つミトコンドリアやハイドロジェノソームの元となった、というシナリオが考えられている。さらには、ミトコンドリアを既に保持していた一部の真核生物が新たにシアノバクテリアを細胞内に取り込み、今日の藻類や植物が持つ葉緑体を形成したと考えられている。これは一次共生(primary endosymbiosis)として知られている。", "title": "起源と初期の進化" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "細菌は、通常の土壌や湖沼はもちろん、地殻、大気圏、熱水鉱床、水深1万m以上の深海底、南極の氷床といった、生物圏とされている地球上のほぼ全ての環境に分布する。地球上には、約2×10細胞もの細菌が存在していると見積もられている。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "細菌は湖や海、北極の氷、さらには地熱温泉などでも豊富に見られ、温泉環境などでは硫化水素やメタンなどの溶解した化合物をエネルギーに変換することで、生命を維持するために必要な栄養素を作り出している。特に土壌は細菌が非常に豊富に存在する環境であり、数グラムに約1億個の細菌が含まれている。細菌は有毒な廃棄物を分解し、栄養素をリサイクルする存在として、土壌生態学の観点からも不可欠な存在である。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "細菌は大気中にも見られ、1立方メートルの空気中には約1億個の細菌細胞が存在している。海洋には約3×10細胞もの細菌が存在しており、これらの一部が行う光合成によって、人間が呼吸する酸素の最大50%が供給されていると見積もられている。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一部の細菌は芽胞という乾燥に強い形態を取ることも知られている。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また多細胞生物体内部や表面にも多数の細菌が付着生育しており、共生関係にある。ただし、健康な生物体の血液中、筋肉、骨格など消化管以外の臓器からはほとんど検出されない。消化管においては、食物の分解プロセスの一部を細菌が担っている。共生の例は、ルーメンやマメ科植物の根圏における窒素固定菌の共生などに見ることができる。また、一部の昆虫類では菌細胞と呼ばれる共生細菌を維持するための細胞を分化させ、その細胞質内に細菌を共生させるが、これら細胞質内共生細菌のなかには、カルソネラ・ルディアイ(Candidatus Carsonella ruddii)のように宿主の細胞外で生存あるいは増殖が出来ないものがある。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "バイオマスの観点では、細菌は植物を超える存在である。土壌では、4000mあたり2トンの微生物(真菌、古細菌を含む)が含まれていると見積もられている。また海洋においては、栄養状態にかかわらず1ミリリットル(mL)あたり50細胞程度の細菌が存在しており(沿岸や生物の死体周辺ではmLあたり10細胞以上生息している)、海洋だけでも地上の真核生物量をはるかに凌駕する計算がなされている。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "細菌は様々な細胞形態や配置を示す。一般に、大きさはおおむね0.5-5 μm程度であり、古細菌と同規模で真核生物よりは一桁小さい。桿菌の中では、長いものは15 μmほどになる。さらに肉眼でも見ることができるサイズになるものもあり、例えばThiomargarita namibiensisは500 μmほどに、Epulopiscium fishelsoniは700 μm程度にも達する。最大で2 cmにもなる細菌も発見されている。逆に最小のバクテリアとしては、わずか0.3 μmのマイコプラズマ属の種が知られている。これよりも小さい細菌が存在する可能性も示唆されているが、支持されていない。", "title": "形状・サイズ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "細菌の細胞は、藍藻類など一部を除いて、多くの場合種同士で見分けが付かない。古細菌の細胞とも酷似している。ただしドメイン全体で見ると、らせん菌など様々な形態が存在する。桿菌ではしばしば細胞壁が連なって長大な糸状になる。一部は多細胞性を示し、群体や菌糸を形成する。なかでも粘液細菌は細胞性粘菌とよく似た生活環を持つことで知られる。大半の細菌種は、球状の球菌(ギリシャ語のkókkosから、coccusと呼ばれる)や棒状の桿菌(ラテン語のbaculusから、bacillusと呼ばれる)のいずれの形態をとる。他のものとしては、ビブリオ属などの細菌はわずかに湾曲した棒状の形をとる他、spirillaはらせん状の形態をもち、特にスピロヘータはしっかりと巻かれた螺旋状の形態を取る。また、星型など、他にも珍しい形状を持つ細菌種が知られている。このような形状の多様性は、細菌の細胞壁と細胞骨格によって決定されており、それぞれの形状は細菌が栄養素を獲得したり、表面に付着し、液体を泳ぎ、捕食者から逃れたりする能力などに影響を与える可能性があるため、生態的にも重要である。", "title": "形状・サイズ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "多くの細菌種は単一の細胞として存在しているが、例外も知られている。例えばナイセリア属(Neisseria)は二倍体(ペア)を形成し、連鎖球菌はその名の通り鎖状の構造をとり、ブドウ球菌も名の通りブドウの房のようなクラスター構造を取る。他にも、放線菌に見られるような細長いフィラメント状になったり、粘液細菌種のように凝集体を構築したり、ストレプトマイセス属種のように複雑な菌糸を出したりなど、より大きな多細胞構造を形成するための機能をもっているものも知られている。このような多細胞構造は、しばしば特定の条件でのみ見られることがある。たとえば粘液細菌は、生育環境中のアミノ酸が不足するとクオラムセンシングと呼ばれるプロセスを通じて周囲の細胞を認識し、互いに向かい合うように移動し、約100,000個の細菌細胞が凝集して長さ最大500マイクロメートル程度の子実体を形成する。これらの子実体では、凝集した細胞は別々の機能を担う。たとえば、細胞の約10分の1が子実体の上部に移動し、乾燥やその他の悪環境条件に対してより耐性のある粘液胞子と呼ばれる特殊な休眠状態に分化する。", "title": "形状・サイズ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "細菌はしばしば何かしらの物質の表面に付着し、バイオフィルムと呼ばれる密集した凝集体を形成して大きな形成物(微生物マット)を形成する。バイオフィルムは数マイクロメートルから最大0.5メートル程度までの厚さを持ち、複数の種類の細菌や原生生物、古細菌が混合している場合がある。バイオフィルムに生息する細菌は、細胞と細胞外成分が複雑に絡み合い、マイクロコロニーなどの二次構造を形成している。この構造を介して、栄養素をより良い形で拡散するようなネットワークを形成している。土壌や植物の表面などの自然環境では、細菌の大部分はバイオフィルムの表面に結合している。臨床分野においても、バイオフィルムは、例えば慢性的な細菌感染症や人体に埋め込まれた医療機器を介した感染症において良く見られる。バイオフィルムの内部は外部刺激から保護されている状態であるため、単独で存在する細菌細胞と比べて殺菌することがはるかに困難である。", "title": "形状・サイズ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "細菌の細胞は、鞭毛、線毛、莢膜、細胞壁、ペリプラズム、細胞膜、細胞質などから構成されており、主にリン脂質からできている細胞膜に囲まれている。この膜は細胞の内容物を囲み、細胞内細胞質に栄養素やタンパク質、その他の必須成分を保持するためのバリアとして機能する。真核細胞とは異なり、一般的に細菌は核やミトコンドリア、葉緑体および他の細胞小器官など、真核細胞に存在するような大きな膜結合組織を欠いている。ただし例外として、一部の細菌はカルボキシソームのような、細胞質内にタンパク質に結合した細胞小器官を持っている。さらに、細菌は、細胞内のタンパク質と核酸の局在を制御し、細胞分裂を駆動するための多成分から成る細胞骨格を持っている。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "エネルギー生成などの多くの重要な生化学反応は、膜全体の濃度勾配に基づいて発生し、バッテリーのように電気化学ポテンシャルを生み出す。一般的な細菌では電子伝達などの反応は細胞質と細胞の外側やペリプラズムとの間で細胞膜を横切るようにして発生する。多くの光合成細菌では、原形質膜は高度に折りたたまれており、細胞の大部分が集光膜の層で満たされている。これらの集光性複合体は、緑色硫黄細菌のクロロソームと呼ばれる脂質で囲まれた構造を形成することもある。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "細菌は通常、膜で閉ざされた核のような構造物を持たない。DNAなどの遺伝物質は単一の環状細菌染色体であり、細胞質の中で核様体と呼ばれる不規則な形状を取っている。核様体には、染色体とそれに関連するタンパク質およびRNAが含まれている。他のすべての生物と同様に、細菌にはタンパク質を生成するためのリボソームが含まれているが、細菌のリボソームの構造は真核生物や古細菌の構造とは異なっている。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一部の細菌は、グリコーゲン、ポリリン酸塩、硫黄、またはポリヒドロキシアルカノエートなどの細胞内栄養素貯蔵顆粒を生成する(例えば、ポリリン酸蓄積細菌)。光合成シアノバクテリアなどの細菌は、細胞質に液胞を作り、これを利用してさまざまな光強度と栄養レベルの水層に上下に移動できるように浮力を調整している。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "細胞膜の外周には細胞壁がある。細菌の細胞壁はペプチドグリカン(ムレイン)でできており、D-アミノ酸を含むペプチドによって架橋された多糖鎖から作られている。これは、細胞壁が主にセルロースからできている植物や、キチンでできている菌類とは異なる特徴である。また、ペプチドグリカンを含まない古細菌の細胞壁とも異なる特徴である。細胞壁は多くの細菌にとって生存に不可欠である。抗生物質の一種であるペニシリン(ペニシリウムと呼ばれる真菌によって産生される)は、ペプチドグリカンの合成段階を阻害することによって細菌を殺すことができる。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "細菌は、細胞壁がグラム染色で染色されるタイプとされないタイプの2種類に大きく分類することができる。それぞれのタイプの細菌グループは、グラム陽性菌とグラム陰性菌と呼ばれ、この特徴は細菌種を分類するために利用されている。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "グラム陽性菌は、ペプチドグリカンとタイコ酸から成る層を複数含む、厚い細胞壁を持っている。対照的にグラム陰性菌は、リポ多糖とリポタンパク質を含む2番めの脂質膜(外膜)と内膜とも呼ばれる細胞質膜の間に囲まれたペリプラズム(空間)と呼ばれる間隙に、数層の薄いペプチドグリカンを持つ。大半の細菌はグラム陰性であり、ファーミキューテスと放線菌(以前はそれぞれ低GCグラム陽性細菌と高GCグラム陽性細菌と呼ばれていた)のみがグラム陽性細菌である。細胞壁の構造の違いにより、抗生物質感受性に違いが出ることが知られている。たとえばバンコマイシンはグラム陽性菌のみを殺すことができインフルエンザ菌や緑膿菌などのグラム陰性病原菌に対しては効果がない。また、一部の細菌は、古典的なグラム陽性菌でもグラム陰性菌でもない細胞壁構造を持っている。これには、グラム陽性菌のように厚いペプチドグリカン細胞壁を持ち、同時に脂質からなる2番目の外層も持つ、マイコバクテリアなどの臨床的に重要な細菌が含まれている。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "多くの細菌では、堅く配列されたタンパク質分子のS層が細胞の外側を覆っている。この層は、細胞表面を化学的および物理的に保護し、高分子の拡散バリアとして機能している。S層は多様な機能を持ち、例えばカンピロバクターでは病原性因子として作用し、バチルス・ステアロサーモフィラス(Bacillus stearothermophilus)では表面酵素を含んでいることが知られている。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "鞭毛は堅いタンパク質構造で、直径は約20ナノメートル、最大20マイクロメートルになる。細菌の運動(遊泳)に使用される。フラジェリンというタンパク質が重合した鞭毛は螺旋状の繊維であり、細胞膜を横切る電気化学的勾配に沿って引き起こされるイオンの移動(水素イオン濃度勾配やナトリウムイオン濃度勾配)に伴うエネルギーによって駆動される。古細菌の鞭毛と見た目は酷似するが、その起源と構造は異なると考えられている。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "鞭毛よりも小型の繊維構造として、線毛がある。線毛(「付着線毛」と呼ばれることもある)は、ピリンというタンパク質が主要構成分の細いフィラメントで、通常は直径2〜10ナノメートル、長さは最大数マイクロメートル程度である。それらは細胞の表面全体に分布しており、電子顕微鏡で見ると細い毛のように見える。線毛は、固体表面または他の細胞への付着に関与していると考えられており、いくつかの細菌性病原体の病原性に不可欠である。細胞から突起している、繊毛よりも若干大きいような線毛は、細胞接合を通じて細胞間で遺伝物質を転送することができるような繊毛である。これは共役線毛又は性線毛と呼ばれる。また、タイプIV線毛と呼ばれる繊毛では、細胞の運動性を作り出すこともできる。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "グリコカリックスは多くの細菌で見られ、細胞を取り囲むように生成される。構造化されていない無秩序な粘液層による細胞外高分子物質から、高度に構造化された莢膜まで、多様な複雑さの構造が見られる。これらの構造は、マクロファージ(ヒト免疫系の一部)などの真核細胞による飲み込みから細胞の保護に役立つ。それらはまた、抗原として作用し、細胞認識に関与するだけでなく、表面への付着やバイオフィルム形成に寄与する。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "このような細胞外構造の形成には、分泌システムが大きく関係している。分泌システムはタンパク質を細胞質からペリプラズムまたは細胞周辺の環境に移動させる機能を持つ。多くの種類の分泌システムが知られており、これらの構造は病原体の病原性に不可欠であることが多いため、集中的に研究されている。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "細胞膜は真核生物と同じくsn-グリセロール3-リン酸に脂肪酸が結合したエステル型脂質であり、sn-グリセロール1-リン酸にイソプレノイドアルコールが結合している古細菌とは明確に区別される(古細菌の項も参照)。細胞膜には電子伝達系や各種輸送体、各種センサーなどに関連するタンパク質が分布している。内部構造は真核生物の様な明瞭な単位膜系はあまりないが、種によってはチラコイド、DNAを包む核膜様構造が見られることもある(PVCグループの一部)。DNAはHUと呼ばれるタンパク質と結合して核様態という形で凝集しているが、真核生物や古細菌の様にヒストンに巻きついてクロマチン構造をとることはない。DNAは環状一分子が一般的だが、稀に直線状のDNAを持つ細菌や、複数のDNAを持つ細菌もいる。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "バチルス、クロストリジウム、Sporohalobacter、Anaerobacter、Heliobacteriumなどのグラム陽性菌のいくつかの属は、内生胞子(芽胞、endospore)と呼ばれる非常に耐性のある休眠構造を形成することがある。内生胞子は細胞の細胞質内で発達する。一般的に、各細胞ごとに単一の内生胞子が発生する。各内生胞子は皮質層に囲まれ、ペプチドグリカンや様々なタンパク質で構成される多層の堅いコートで保護されたDNAとリボソームのコアを含んでいる。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "内生胞子からは代謝活動は検出されず、高レベルの紫外線やガンマ線、洗剤、消毒剤、熱、凍結、圧力、乾燥などの極端な物理的および化学的ストレスに耐えることができる。この休眠状態において、これらの生物は、何百万年も「生存」し続けることができる。さらに、内生胞子は宇宙空間の真空や放射線にも耐えることができるため、細菌は宇宙ダストや流星物質、小惑星、彗星、プラネトイド、有向パンスペルミアなどを通じて、宇宙空間中を移動し分散することも可能なのではないかと考えられている。内生胞子を形成する細菌にはまた、疾患引き起こすものが知られている。例えば炭疽症は吸入された炭疽菌(Bacillus anthracis)の内生胞子によって引き起こされることがある。破傷風は破傷風菌の芽胞が原因で引き起こされることがあり、これと類似してボツリヌス症も芽胞から成長した細胞が分泌する毒素によって引き起こされる。医療現場で問題となるクロストリジウム・ディフィシル感染症も胞子形成細菌によって引き起こされる場合がある。", "title": "細胞構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "バクテリアは非常に多種多様な代謝を示す。細菌のグループ内の代謝特性の分布は、伝統的に細菌の分類法を定義する際に利用されてきました。ただしこれらの特性は、現在主流となっている遺伝学的な系統分類法とは対応がつかないものも多い。細菌の代謝はエネルギー源、電子供与体、および成長に使用される炭素源、という3つの主要な基準に基づいた栄養グループに分類される。それぞれの資源としてどのようなものを利用できるかによって以下のような分類がある。(詳細は「栄養的分類」参照)", "title": "代謝と物質循環" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "これらの、エネルギー源および炭素源の組み合わせによって、多くの生物の栄養要求性を説明できる。動物は主として有機物を酸化してエネルギーを得る化学合成従属栄養生物であり、植物は光エネルギーにて二酸化炭素を還元して固定する光合成独立栄養生物である。しかしながら微生物には、これら以外にも光合成従属栄養性と化学合成独立栄養性を示す生物群がいる。この二つの特徴ある生物群のうち、化学合成独立栄養性を示すものについては物質循環の中でも重要な役割を担っている。また硫黄酸化細菌、水素細菌などは、太陽エネルギーに依存しない生態系である深海熱水孔や地下生物圏での一次生産者の役割を果たしていると考えられている。", "title": "代謝と物質循環" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "細菌は、太陽光から光合成を通じて得られたエネルギーを利用するもの(光栄養生物;phototrophy)や、化学化合物を酸化反応によってエネルギーを獲得するもの(化学合成生物;chemotrophy)が含まれる。化学合成生物は、酸化還元反応により特定の電子供与体から末端電子受容体に電子を移動させることにより、エネルギー源として化学化合物を利用している。化学栄養生物は、電子を伝達するために利用している化合物の種類によって、さらに細かく分類される。例えば電子源として水素や一酸化炭素、アンモニアなどの無機化合物を使用する細菌はリソトロフ(lithotrophs)と呼ばれ、有機化合物を利用するものはオルガノトロフ(organotrophs)と呼ばれる。電子を受け取るために使用される化合物もまた、細菌の分類にも利用されている。例えば好気性生物と呼ばれるグループは末端電子受容体として酸素を利用し、嫌気性生物は硝酸塩、硫酸塩、二酸化炭素などの他の化合物を使用する。", "title": "代謝と物質循環" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "有機化合物から炭素を取得し細胞生育に利用する細菌グループは、従属栄養と呼ばれる。一方で、シアノバクテリアや一部の紅色細菌などの細菌は独立栄養性であり、二酸化炭素を固定することで細胞生育に利用する炭素を獲得する。特殊な環境において見られるメタノトロフと呼ばれるグループでは、ガス状のメタンを炭素源として使用し、かつ電子供与体として活用している。", "title": "代謝と物質循環" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "細菌の代謝は、生態学的安定性を与えるとともに、人間社会にも役立っている。例えば、窒素固定菌(diazotrophs)は、空気中に安定して存在している窒素をニトロゲナーゼを利用して窒素固定する機能を持つ。この環境的に重要な特性を持つような細菌種は、上記の表中のほぼすべての代謝タイプで知られている。窒素固定の機能は、脱窒や硫酸塩還元、酢酸生成といった生態学的に重要な下流のプロセスにつながる。また、窒素はタンパク質のアミノ基に含まれるなど生物体の構成要素として非常に重要である。", "title": "代謝と物質循環" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "細菌の代謝過程は、汚染に対する生物学的反応においても重要である。たとえば硫酸塩還元細菌は、環境中での毒性の高い形態の水銀(メチル水銀およびジメチル水銀)の生成に大きく関与している。非呼吸性嫌気性菌は発酵を利用してエネルギーを獲得し、代謝副産物(醸造中のエタノールなど)を廃棄物として分泌する。通性嫌気性菌は、自分自身がいる環境条件に応じて、発酵と異なる末端電子受容体を切り替えることができる。", "title": "代謝と物質循環" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "細菌は生物量としても真核生物を凌駕しており、またその呼吸活性においても同様で、多細胞生物体と細菌1gの呼吸活性を比較すると細菌のほうが数百倍大きいと言われている。肥沃な土壌4000mあたりの細菌の呼吸活性は数万人の人間に等しいとされる。これは細胞が小さく体積あたりの呼吸活性を示す表面積の割合が大きいこと、世代時間が短いことがその要因であろう。呼吸速度(炭素、水素、酸素の循環)のみならず、生物を構成している窒素、硫黄の地球全体の物質循環に寄与しているが、後者の多くは酸素を嫌う嫌気性呼吸を伴う。", "title": "代謝と物質循環" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "硫黄は主に地殻中に豊富に存在し、元素状硫黄は不溶性だが、これも光反応や高熱により硫化水素や硫酸イオンとして自然界に存在する。これを有機物の形で取り入れ、再び水溶性の硫酸塩や硫化水素として排出していく過程を硫黄循環と呼ぶ。有機物中に存在する硫黄は反応性が高く重要なアミノ酸に含まれている(メチオニン、システインなど)。硫酸塩のみが植物によって同化されるが、有機物態硫黄の分解(最終産物は硫化水素)、硫黄酸化(硫化水素から硫酸塩に戻す)、硫酸還元(硫酸塩を異化的に還元する)などは細菌に特有な代謝系である(古細菌にもこのような代謝系を有するものが見つかっている)。", "title": "代謝と物質循環" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "多細胞生物とは異なり、単細胞生物では細胞サイズの増加(細胞増殖)と細胞分裂は密接に関連している。細菌細胞は一定のサイズに成長し、その後、無性生殖の一形態である二分裂によって細胞数を増加させる。最適な条件下では細菌は非常に急速に分裂増殖し、ある種の細菌では17分ごとに2倍のスピードで増殖することが知られている。細胞分裂では、2つの同一のクローン娘細胞が生成される。一部の細菌はより複雑な生殖構造を形成し、新しく形成された娘細胞を分散させる。例えば、粘液細菌による子実体の形成や、ストレプトマイセス種による気中菌糸の形成、または出芽などが挙げられる。出芽には、細胞が突起を形成し、それが壊れて娘細胞を生成する形態も知られている。また、同時に3つ以上に分裂する場合や、出芽によって増えるもの、接合してDNAの一部を交換するもの、芽胞などを形成するものが存在する。", "title": "成長と増殖" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "増殖に際してはDNA複製が行われる。DNA複製は真核生物、細菌で異なる点がある(古細菌ではよく分かっていないが真核生物に類似すると考えられている)。細菌では大腸菌で最もDNA複製機構の研究が進んでいる。複製はDNA上に一箇所存在する複製開始点から開始され、双方向へ複製が進んでいく。", "title": "成長と増殖" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "実験室では、細菌は通常、固体または液体の培地を利用して培養する。寒天プレートなどの固体培地は、細菌株の純粋な培養物を分離するために使用される。一方で液体培地は、大量の細胞が必要となる場合に利用される。液体培地での培養では細菌細胞が均一に懸濁されるため、その中から単一の細菌種を分離することは困難である、培養物を簡単に分割したり移動させることができます。選択培地(特定の栄養素を追加したり不足させたりしている培地や、抗生物質などが添加されている培地)を使用すると、特定の機能を持つ生物種だけを選択的に培養させることができる。", "title": "成長と増殖" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "実験室においては多くの場合、非常に富栄養な培地を利用して大量の細胞を安価かつ迅速に生産するように培養することが一般的である。しかしながら本来の自然環境では栄養素は限られており、細菌が無期限に繁殖し続けることができない。この栄養制限は、さまざまな成長戦略の進化をもたらしてきており、例えばR-K選択説などが有名である。夏期に湖で頻繁に発生する藻類(およびシアノバクテリア)の異常発生などに見られるように、環境中で利用可能な栄養素が増加することで、一部の生物は非常に急速に成長することがある。また別の戦略として、放線菌などに見られるように複数の抗生物質を生産などして、競合する微生物の成長を阻害する戦略で過酷な環境に適応するものもいる。自然界では多くの微生物は、栄養素の供給を増やし環境ストレスから保護することができるようなコミュニティ(バイオフィルムなど)に生息している。このような関係は、特定の細菌系統において生育に不可欠な要素であることがあり、栄養共生(syntrophy)と呼ばれる。", "title": "成長と増殖" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "細菌の増殖は4つの段階をたどる。細菌集団が最初に高栄養環境に晒されると、細胞はその新しい環境に適応する必要がある。そのため、成長の最初の段階は遅滞期であり、これは細胞が高栄養環境に適応し、急速な成長の準備をしているときのゆっくりとした成長期間であるとみなせる。遅滞期は、急速な成長に必要なタンパク質が生成されるため、生合成速度が高まる。成長の第2段階は対数増殖段階であり、指数増殖段階とも呼ばれる。対数期は急速な指数関数的成長によって特徴づけられる。この段階で細胞が成長する速度は成長速度(k)と呼ばれ、細胞が2倍になるのにかかる時間は生成時間(g)と呼ばれる。対数期の間、栄養素が枯渇し成長に制限がかかり始めるまで、栄養素は最大速度で代謝され続ける。成長の第3段階は定常期であり、栄養素の枯渇によって引き起こされる。細胞は代謝活性を低下させ、必須ではない細胞タンパク質を消費してゆく。定常期は急速な成長からストレス反応への状態移行であり、DNA修復、抗酸化代謝、栄養素輸送に関与する遺伝子の発現が増加する。最終段階は、細菌が全ての栄養素を使い果たして死ぬ段階である。", "title": "成長と増殖" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ほとんどの細菌は単一の環状染色体を持っており、そのサイズは、内共生細菌Carsonella ruddiiではわずか160,000塩基対であるのに対し、土壌性細菌Sorangium cellulosumでは12,200,000塩基対(12.2 Mbp)と、さまざまである。また染色体の形と数にも例外が知られており、たとえば一部のストレプトマイセス属とボレリア属の種は単一の線形染色体を持ち、一部のビブリオ属種は複数の染色体を持っている。細菌はまた、プラスミドなどのDNAの小さな染色体外分子を持ち、ここに抗生物質耐性、代謝能力、病原性因子などの様々な機能遺伝子を含むことがある。", "title": "ゲノムと遺伝子" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "細菌ゲノムは通常、数百から数千の遺伝子をコードしている。細菌ゲノムにおいては通常、遺伝子は単純に連続してDNA状に分布しているが、まれに異なるタイプのイントロンが存在するものもある。", "title": "ゲノムと遺伝子" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "細菌は無性生物であり、細胞分裂の際には親のゲノムと同一のコピーを継承するクローン体である。", "title": "ゲノムと遺伝子" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "しかし、全ての細菌は、遺伝子組換えや突然変異によって遺伝物質DNAに変化が引き起こされ、その変異が選択されることによって進化してゆく。突然変異は、DNAの複製中に生じたエラーや変異原物質(例えば紫外線や放射線など)への曝露によって生じる。突然変異率は、細菌の種類によって大きく異なり、また単一細菌のクローン内であっても大きく異なる。細菌ゲノムの遺伝的変化は、複製中のランダムな突然変異以外にも、ストレス指向性の突然変異からも生じ、この場合、特定の成長制限プロセスに関与する遺伝子の突然変異率が高くなる。", "title": "ゲノムと遺伝子" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "一部の細菌は、細胞間で遺伝物質を移動させる。これには、主に3つの方法が知られている。", "title": "ゲノムと遺伝子" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "多くの細菌には運動性があり、様々なメカニズムを使用して自分自身を動かすことができる。最もよく研究されている運動機構は鞭毛である。これは、分子モーターによって回転する長いフィラメント状の組織であり、プロペラのような動きを生み出すことで推進力を得るものである。細菌のべん毛は約20のタンパク質でできており、その調節と組み立てにはさらに約30のタンパク質が必要である。べん毛は、ベースとなる可逆モーターによって駆動される回転構造をとり、細胞膜を貫通する電気化学的勾配を利用してエネルギーを供給している。", "title": "運動性" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "細菌は様々な方法で鞭毛を使用することで、多様な種類の動きを生み出すことができる。大腸菌などの多くの細菌は、前進(遊泳)とタンブリング(回転)という2つの異なる移動モードがあります。タンブリングにより細菌は移動方向を変えることができ、3次元空間をランダムウォークすることができる。細菌の種によって、表面のべん毛の数と配置は異なり、単一の鞭毛を持つ単毛性(monotrichous)、細胞の各端部に一本ずつ鞭毛を持つ両毛性(amphitrichous)、細胞の片極に多数の鞭毛を持つ叢毛性(lophotrichous)、細胞の表面全体に鞭毛が分布している周毛性、に分類される。他にも、スピロヘータの鞭毛は、ペリプラズム空間の2つの膜の間に見られ、細胞がねじれながら移動するような独特の螺旋状の細胞形状をとっている。", "title": "運動性" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "他のタイプの細菌の動きとしては、IV型線毛と呼ばれる構造に依存する痙攣運動と、また別のメカニズムを利用した滑走運動と呼ばれる運動が知られている。痙攣運動では、棒状の線毛が細胞から伸び、基質との結合と収縮を繰り返すことで、細胞を前方に引っ張ることで移動する。", "title": "運動性" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "運動性細菌は、走光性、磁気走性、走化性など、特定の刺激に対して引き寄せられたり逃げ出したりする「走性」と呼ばれる行動パターンを示す。また走性以外としては、粘液細菌で見られるように、個々の細菌が一緒に移動して細胞の波を形成し、次に分化して胞子を含む子実体を形成するような例も知られている。粘液細菌は、液体・固体の両方の培地で運動性を示す大腸菌のような細菌とは異なり、固体表面上でのみ運動性を示す。", "title": "運動性" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "リステリア菌と赤痢菌のいくつかの種は、細胞骨格を利用して宿主細胞内を移動する。細胞骨格は通常、細胞内の細胞小器官を移動させるために使用される機関である。細菌細胞の一方の極でアクチン重合を促進させることで、宿主細胞の細胞質内を移動するような「尾」を形成することができる。", "title": "運動性" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "細菌の一部には、生物発光の化学システムを持つものが知られている。例えば魚と共生している発光細菌では、魚はその光を利用して、他の魚や動物を引き付け捕食することに役立てている。", "title": "細胞間コミュニケーション" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "細菌はしばしば、多細胞凝集体(バイオフィルム)という構造をとり、様々な分子シグナルを交換し合う細胞間コミュニケーションを行い、協調した多細胞行動をとっている 。多細胞間で協力し合うことは、細胞間での分業を可能にしたり、単一細胞では効果的に使用できないリソースを分配することに役立つほか、拮抗薬に対する集合的な防御や、異なる細胞型への分化による集団生存の最適化にも寄与している。たとえば、バイオフィルム内の細菌は、同じ種の個々の浮遊性(自由生活性)細菌よりも抗菌剤に対する耐性が500倍以上高くなる例が報告されている。", "title": "細胞間コミュニケーション" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "分子信号による細胞間コミュニケーションの1つのタイプは、クオラムセンシングと呼ばれている。これは、ある特定の生物プロセスを実施するのに十分な細胞密度がその環境に存在しているのか、を判断する際に利用される。具体的には、細菌が細胞分裂を繰り返し、ある程度の密度に達した際に初めて消化酵素を分泌したり発光を始めたりする例が知られており、この生物プロセスの開始タイミングの調整にクオラムセンシングが利用されている。クオラムセンシングにより、細菌は遺伝子発現を調整し、細胞集団の成長とともに蓄積する自己誘導物質やフェロモンを生成、放出、および検出することができる。", "title": "細胞間コミュニケーション" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "類似性に基づいて生物に名前を付けてグループ化し、細菌種の多様性を説明しようとすることは、分類と呼ばれる。細菌は、細胞構造(直接観察による構造的・解剖学的性質)、細胞代謝(最終電子受容体など、代謝系に関わる生理・生化学的性質)、あるいはDNAや脂肪酸、色素、抗原、キノン、などの細胞成分の違いに基づいて分類することができる。このスキームは細菌株の識別と分類を可能にしたが、実際のところこのような観察可能な違いは、種間の違いを表しているのか、あるいは同じ種内での株間の違いを表しているに過ぎないのか、などを判断することは困難である。このような不確実性が生まれる原因としては、ほとんどの細菌は特徴的な構造を持っていないことや、無関係の種間でも遺伝子水平伝播が発生していまうことが挙げられる。また逆に、遺伝子の水平伝播により、密接に関連する細菌であっても、形態や代謝が大きく異なるものも知られている。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "このような不確実性を克服するために、現代の細菌分類では、DNA中のグアニン・シトシンの比率(GC含量)やゲノム-ゲノムハイブリダイゼーション(DNA-DNA分子交雑法)などの遺伝学的手法、およびrRNA遺伝子のように水平伝播が発生しにくく生物に保存されやすい遺伝子の配列情報を利用して、分子系統を解析することが広く行われている。細菌の分類は、International Journal of Systematic Bacteriology およびBergey's Manual of Systematic Bacteriologyに掲載されることで定義される。国際原核生物分類命名委員会(International Committee on Systematics of Prokaryotes; ICSP)は、細菌や分類学的カテゴリの命名とその階層化のための国際ルールを、国際細菌命名規約として策定している。分類には属以上の単位として科、目、綱、門、界、ドメインなどが与えられている。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "歴史的には、バクテリアはかつて植物界であるPlantaeの一部と見なされ、「Schizomycetes」(分裂菌)と呼ばれていた。そのため、宿主内の集団細菌やその他の微生物は、しばしば\"flora\"(「植物相」)と呼ばれる。また、「細菌」という用語は伝統的に、全ての微視的な単一細胞の原核生物に適用されていた。しかしながら分子分類学の発展により、原核生物には2つの別々のドメインから構成されていることが分かっている。この2つのドメインは、元々は真正細菌(Eubacteria )と古細菌(Archaebacteria)と呼ばれていたが、現在は細菌(Bacteria)と古細菌(Archaea)と呼ばれて、両者は共通祖先から分岐し独立に進化してきたものだと考えられている。そして真核生物は、細菌よりも古細菌により近縁なドメインであると考えられている。細菌と古細菌という2つのドメインは、真核生物と併せて、3ドメイン説の基礎となっており、今日の微生物学分野においても最も一般的に受け入れられている分類システムである。とはいえ、分子系統学は比較的近年に導入された手法であり、利用可能なゲノム配列の数は今日でも急速に増加しているため、細菌分類は頻繁に変更され拡大している分野である。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "医学分野においては、感染を引き起こす細菌種によって異なる治療法が選択されることがあるため、実験室での細菌の同定が重要になる。そのため、「人間の病原体を特定する」ということは、細菌を特定する技術を開発する上で主要な推進力となってきた。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1884年にハンス・クリスチャン・グラムによって開発されたグラム染色法は、細胞壁の構造的特徴に基づいて細菌を特徴づけることができる。グラム陽性細菌では細胞壁のペプチドグリカンの厚い層は紫色に染まり、逆にグラム陰性細菌の薄い細胞壁はピンク色に見える。細胞形態とグラム染色を組み合わせることにより、ほとんどの細菌は、4つのグループ(グラム陽性球菌、グラム陽性桿菌、グラム陰性球菌、およびグラム陰性桿菌)のいずれかに属するものとして分類することができる。いくつかの系統ではグラム染色以外の染色方法がより同定に適していることが知られている。例えばマイコバクテリアやノカルジアは抗酸菌であり、抗酸染色によって識別することができる。細菌系統によっては単純な染色では同定できず、特別な培地での培養や血清学などの他の技術も利用する必要がある場合もある。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "培養は、サンプル内で他の細菌の増殖を制限しながら、特定の細菌のみ増殖を促進し識別できるようにするための技法である。これらの技術はしばしば、特定の検体サンプルを対象として設計される場合がある。たとえば、肺炎の原因菌を特定するために喀痰サンプルを利用する手法や、下痢の原因菌を特定するために便検体を選択培地で培養する手法などがある。一方で、血液、尿、髄液など、通常は無菌である検体は、考えられる全ての生物を増殖させるように設計された条件下で培養される。病原性生物が分離されると、その形態、成長パターン(好気性または嫌気性成長など)、溶血のパターン、および染色によって、さらに詳細な特徴づけが可能となる。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "細菌の分類と同様に、細菌の同定にも分子生物学的な手法や質量分析法を利用した手法が使われる。地球上の大半の細菌は未だ特徴付けられておらず、また実験室で培養することが困難であると考えられている。ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)などのDNAベースの診断手法は、培養ベースの方法と比較して特異性や診断時間の短縮化の点で優位である。これらの方法はまた、代謝的に活性であるが分裂しない生存可能であるが培養不可能な細胞(VNC)の検出と同定も可能にする。しかし、これらの改良された方法を使用しても、膨大に存在すると考えられる細菌種の総数を見積もることは困難である。2011年の段階で、細菌や古細菌には9,300弱の原核生物種が分類として報告され登録されている。しかし、細菌多様性の真数を推定した研究では合計で10~10種いると予想されており、さらにはこの数字でさえ何桁も過小評価している可能さえある。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "近年では、16SrRNAだけでなくゲノム規模の比較に基づいてより正確な分類を目指す動きが活発となっている(例えばGTDB)。その結果、古典的によく知られた細菌の分類が解体されることも珍しくなく、現在も絶えず新しいグループの追加と既存のグループの書き換えが進んでいる(例えばデルタプロテオバクテリア)。GTDBによれば、2021年7月時点で、127の門(Phylum)が記載されている。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "細菌は系統学的に分類されているが、メタゲノム情報の蓄積などにより新しく発見される種も増え続けており、分類体系は確立していない。大まかな枠組みは以下の通りである。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "これらの枠組みに含まれない種も多数存在する(英語版記事「Bacterial phyla」などを参照)。", "title": "系統分類と同定" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "細菌は他の生物と複雑に相互作用することが知られている。このような共生的な相互作用は、寄生、相利共生、片利共生の3種類に分類することができる。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "片利共生(commensalism)という言葉は、「同じ食卓で食べる」という意味のcommensalに由来しており 、あらゆる動植物には片利共生細菌が存在している。例えば人間や他の動物においては、何百万もの細菌が、皮膚や気道、腸、その他の開口部に生息している 。常在菌(normal flora) や片利共生体(commensals)と呼ばれるこれらの細菌は、通常は害を及ぼすことはないが、場合によっては体内に侵入して感染症を引き起こす可能性がある。例えば大腸菌は人間の腸内でよく見られる共生生物の一種であるが、尿路感染症を引き起こすものが知られている。同様に、正常なヒトの口腔内で一般的に見られる連鎖球菌は、心臓病(亜急性細菌性心内膜炎)を引き起こす可能性がある。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "一部の細菌種は、他の微生物を殺して消化吸収するため、捕食性細菌と呼ばれる。例えば、Myxococcus xanthusは集合体を形成し、接触した他の細菌を捕食する。他には、獲物の細胞に付着して消化し栄養素を吸収するものや、細胞に侵入して細胞質内で増殖するような捕食性細菌が知られている。これらの略奪的な細菌は、死んだ微生物を消費したサプロファージから、他の生物を捕らえて殺すことができるように適応することによって進化したと考えられている。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "特定の細菌は、生存に不可欠な密接した空間的相互作用を形成し、これは相利共生と呼ばれる。例えば種間水素移動(interspecies hydrogen transfer)と呼ばれる相互作用では、酪酸やプロピオン酸などの有機酸を消費して水素を生成する嫌気性細菌クラスターと、水素を消費するメタン生成古細菌との間で発生する。この関係性において、水素生成細菌は自身が生成した水素が細胞外に蓄積してしまうため、有機物を周辺環境から吸収し消費することができなくなってしまう。そのため、水素を消費する古細菌と相互作用することによって、成長できる程度に細胞周辺の水素濃度を低く保っている。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "土壌では、根圏(根の表面や近接する土壌)に存在する微生物が窒素固定を行い、窒素ガスを窒素化合物に変換する。これは、窒素自体を固定できない多くの植物に、吸収しやすい形の窒素を提供するのに役立っている。他の多くの細菌は、人間や他の生物の共生細菌として発見されている。例えば、正常なヒトにおいて1,000以上の細菌種が腸内細菌として存在しており、それらはの腸は、腸免疫や、葉酸、ビタミンK、ビオチンなどを含むビタミンの合成、乳糖の乳酸への変換(ラクトバチルスを参照)、複雑な難消化性炭水化物の発酵、など様々なプロセスに寄与している。この腸内細菌叢の存在はまた、潜在的に競合相手の排除などによって病原性細菌の増殖を阻害しており、このような有益な細菌は実際にプロバイオティクス栄養補助食品として市販されている。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "一部の共生細菌および古細菌はビタミンB 12(コバラミン)合成に必要な酵素遺伝子を有しており、ほぼ全ての動物は食物連鎖を通してこのような細菌が生産するビタミンの恩恵を受けている。ビタミンB 12は水溶性ビタミンであり、DNA合成や脂肪酸代謝、アミノ酸代謝における補因子として、ヒトのあらゆる細胞の代謝に関与している。ミエリンの合成における役割のため、神経系の正常な機能においても重要である。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ヒトや動物の体は、皮膚や粘膜で成長する有益な共生細菌や、主に土壌や腐生植物で成長する腐生細菌など、多くの種類の細菌に常にさらされている。血液や組織液には、多くの細菌の成長を維持するのに十分な栄養素が含まれている。体には、微生物が組織内に侵入することに対抗し、多くの微生物に対する自然免疫を獲得するといった、防御機構が存在する。ウイルスとは異なり細菌は比較的ゆっくりと進化するため、ある動物に感染する細菌が異なる種の動物にも感染することも良く見られる。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "細菌が他の生物と寄生的な関係を形成する場合、それらは病原体として分類される。様々な病原性細菌がヒトの病気や死を引き起こすことが知られている。例えば、破傷風(破傷風菌)、腸チフス、ジフテリア、梅毒、コレラ、食中毒、ハンセン病(Micobacterium(らい菌))、結核(結核菌)、などが代表的である。ヘリコバクター・ピロリによる消化性潰瘍の場合のように、既知の医学的疾患の病原性の原因が何年も後に発見される可能性もある。細菌性疾患はまた農業分野においても重要であり、例えばすすかび病や火傷病、ヨーネ病、乳腺炎などを引き起こす細菌の存在や、家畜に感染するサルモネラや炭疽菌などの存在が知られている。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "それぞれの病原体は、その宿主であるヒトとの間で、特徴的な相互作用を引き起こす。ブドウ球菌や連鎖球菌などの一部の生物は、皮膚感染症、肺炎、髄膜炎、敗血症、全身性炎症反応によるショックを引き起こし、大量の血管拡張、そして死を引き起こす可能性がある。しかし、これらの細菌は通常のヒト常在菌の一部でもあり、普段は病気をまったく引き起こすことなく皮膚や鼻に存在している。また他の例としては、他の生物の細胞内でのみ成長および繁殖することができる細胞内寄生細菌であるリケッチアが挙げられる。リケッチアの1つの種は発疹チフスを引き起こし、別の種はロッキー山紅斑熱を引き起こす。別の門の細胞内寄生細菌であるクラミジアは、肺炎や尿路感染症を引き起こす可能性があり、冠状動脈性心臓病に関与している可能性のある種が含まれている。緑膿菌(Pseudomonas aeruginosa),やBurkholderia cenocepacia、Mycobacterium avium,などの一部の種は日和見病原体であり、主に免疫抑制や嚢胞性線維症に苦しむ人々に対して病気を引き起こす。一部の細菌は毒素を産生し、それが病気を引き起こす。これらには、壊れた細菌細胞に由来するエンドトキシンと、細胞外に分泌されるエキソトキシンが含まれる。たとえばボツリヌス菌は呼吸麻痺を引き起こす強力なエキソトキシンを生成し、サルモネラ菌は胃腸炎を引き起こすエンドトキシンを生成する。一部のエンドトキシンはトキソイドに変換することができ、トキソイドは病気を予防するためのワクチンとして使用される場合がある。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "多くの細菌感染症は、抗生物質で治療することができる。抗生物質は、細菌を殺す場合は殺菌性、細菌の増殖を防ぐだけの場合は静菌性に分類される。抗生物質には多くの種類があり、それぞれは宿主には悪影響を与えず、病原体が行う生物プロセスのみを阻害する。例えば、クロラムフェニコールとピューロマイシンは細菌のリボソームを阻害するが、構造的に異なる真核生物のリボソームは阻害しないため、細菌に対して選択的に毒性が発揮される。抗生物質は、人間の病気治療や集約農業、動物の成長促進などの目的で使用される。抗生物質は、その乱用と繁用により細菌集団における抗生物質耐性の急速な発達に寄与していると指摘されている。すなわち抗生物質が「効かない」例が激増している。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "感染は、注射器の針で皮膚を刺す前に皮膚を殺菌するなどといったような消毒によっても防ぐことができる。細菌による汚染を防ぐために、外科用や歯科用の器具は常に使用前に滅菌されている。漂白剤などの消毒剤も、物体表面の細菌やその他の病原体を殺して汚染を防ぎ、感染のリスクをさらに減らすために使用される。", "title": "他の生物との相互作用" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ラクトバチルスやラクトコッカスといった乳酸菌は、酵母やカビなどと組み合わせられて、チーズや漬物、醤油、ザワークラウト、酢、ワイン、ヨーグルトといった様々な発酵食品の生産において何千年もの間使用されてきた。", "title": "産業技術への応用" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "また、細菌が様々な有機化合物を分解する能力は顕著であり、廃棄物処理やバイオレメディエーションにも使用されている。石油に含まれる炭化水素を消化することができる細菌は、石油流出の浄化によく利用されている。プリンス・ウィリアム湾では、1989年のエクソンバルディーズ号原油流出事故後、自然発生する石油分解細菌の成長を促進するために肥料が追加された。これは、油であまり厚く覆われていないビーチにおいては効果的であった。細菌はさらに、産業毒性廃棄物のバイオレメディエーションにも使用される。化学産業において、医薬品や農薬として利用できるような鏡像異性的を持つ純粋化学物質の生産においても、細菌は重要な存在である。", "title": "産業技術への応用" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "細菌は、生物的害虫駆除において農薬の代わりに使用することもできる。これには通常、グラム陽性の土壌に生息する細菌であるバチルス・チューリンゲンシス(Bacillus thuringiensis、BTとも呼ばれる)が含まれる。この細菌の亜種は、DipelやThuricideなどの商品名で、鱗翅目特有の殺虫剤として使用されている。それらの特異性のために、人間、野生生物、花粉交配者、および他のほとんどの益虫にほとんど影響を与えないため、これらの農薬は環境にやさしいと見なされている。", "title": "産業技術への応用" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "細菌は急速に成長する能力を持ち、操作が比較的容易であるため、分子生物学、遺伝学、生化学など分野で頻繁に利用される。例えば細菌のDNAを変異させ、その表現型を調べることで、細菌の遺伝子、酵素、代謝経路の機能を調べることができ、得られた知識をより複雑な生物に適用することができる。細胞の生化学を理解することで、様々な生物において、大量の酵素動態や遺伝子発現データに基づく数学的モデルを作ることができる。いくつかのよく研究された細菌では研究が進められており、例えば大腸菌の代謝モデルが作成され検証が進められている。細菌の代謝や遺伝学の理解は、インスリンや成長因子、抗体などの治療用タンパク質の生産のために細菌を利用するという、バイオエンジニアリングのためのバイオテクノロジーに繋がる。", "title": "産業技術への応用" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "細菌株のサンプルは研究において重要であるため、生物学的リソースセンター(Biological Resource Centers)で分離および保存される。これにより、世界中の科学者が菌株を確実に入手できる体制が整っている。", "title": "産業技術への応用" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "発酵は古代利用されていたが、細菌の発見は17世紀に遡る。1676年にアントニ・ファン・レーウェンフックによって発見され原生動物と合わせて“animalcules”(微小動物)と呼ばれた。この時は、彼自身が設計した単一レンズの顕微鏡を使用して最初に観察された。その後、彼はロンドン王立学会に一連の手紙で彼の観察を発表した。バクテリアは、レーウェンフックの最も注目すべき顕微鏡的発見であった。ただし、細菌は彼の作成した単純なレンズが見ることができる限界のサイズであったため、他の誰も1世紀以上それらを再び見ることができず、科学の歴史の中で最も印象的な休止の1つであったと言える。彼の観察には、彼がアニマルキュールと呼んだ原生動物も含まれており、後世に提案された細胞説に併せて彼の発見は再度注目されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1828年、クリスチャン・ゴットフリート・エーレンベルクは、顕微鏡で観察した微生物が細い棒状であったため、ギリシア語で「小さな杖」を意味するβακτήριονから“Bacterium”と呼んだ。しかしながら実際に彼が観察した「Bacterium」は、非芽胞形成の桿菌を含んだ属であり、これは1835年にエーレンバーグ自身によって芽胞形成桿菌属であるバチルス(Bacillus)として定義された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1859年にはルイ・パスツールが、アルコール発酵が微生物によって引き起こされることを示し、さらに発酵が自然発生的な現象ではないことを示すことで、自然発生説を否定した。このとき、パスツールは発酵を起こす微生物を細菌だと考えたが、実際には菌類である(発酵に関連するものは細菌ではなく、一般的には酵母やカビといった真菌である)。ロベルト・コッホとともに、パスツールは病原菌理論の初期の提唱者であった。ただし、彼らの以前にも、センメルヴェイス・イグナーツとジョゼフ・リスターによって、医療業務における手指の消毒の重要性は認識されていた。センメルヴェイズのアイデアは却下され、このトピックに関する彼の本は医学界によって当時は非難されたが、その後にリスターが1870年代から手の消毒を始めた。 1840年代に病院での手洗いに関する規則から始めたセンメルワイスは、細菌自体に関する考えの先駆者であった。後にリスターは、病気は「動物の有機物の分解」に起因すると考えて消毒の重要性を説いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "細菌培養法の基礎は、医療微生物学のパイオニアであるロベルト・コッホによって確立され、一連の研究により炭疽菌、結核菌、コレラ菌が病原性の細菌によって引き起こされることが証明された。特に結核に関する彼の研究により、コッホはついに病原菌理論を証明し、1905年にノーベル賞を受賞した。また、コッホの原則という、生物が病気の原因であるかどうかをテストするための基準が提唱され、これは今日でも使用されているものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "フェルディナント・コーンは細菌学の創始者であり、1870年から細菌を研究していた。コーンは、細菌をその形態に基づいて分類した最初の人物である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "19世紀には多くの研究により、細菌が様々な病気の原因であることが判明したが、効果的な抗菌治療法は不明であり、対症療法しか存在しなかった。20世紀に入ると培養法が確立されたことも相まって、細菌の研究が進んでいく。1910年、 パウル・エールリヒは、梅毒トレポネーマ(梅毒の原因となるスピロヘータを選択的に染色する染料を、病原体を選択的に殺す化合物に変えることにより、最初の抗生物質を開発した。エーリッヒは、免疫学の研究で1908年のノーベル賞を受賞し、細菌を検出および識別するための染色の使用を開拓し、グラム染色と抗酸染色の基礎となった。1910年、パウル・エールリヒと秦佐八郎によって初の抗菌剤サルバルサンが開発され、1929年にはアレクサンダー・フレミングによって抗生物質ペニシリンが発見された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "細菌についての知識が深まるにつれ、分類学上での細菌の位置づけはしばしば変更されている。発見時は2界説に従い植物界に振り分けられ、1866年にはエルンスト・ヘッケルによって単細胞生物をまとめた原生生物界に組み入れられた(3界説)。1930年頃になると原核生物と真核生物の違いが認識され、2帝説原核生物帝(1937年)、次いで4界説(のち5界説)モネラ界(1956年)が提唱された。現在に至る一般の細菌のイメージは5界説における原核生物に対応している(藍色細菌は、旧名藍藻の概念としては除くこともある)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "しかし、1977年、カール・ウーズらによって原生生物界の単系統性に疑問が投げかけられ、メタン生成菌(のち高度好塩菌と一部の好熱菌も)を除く原核生物として、Kingdom Eubacteria(真正細菌界)が定義された。1990年には16S rRNA配列に基づいて、当時の古細菌(メタン生成菌、高度好塩菌、一部の好熱菌)を除く原核生物としてDomain Bacteria(細菌ドメイン)が定義され、同時に古細菌はDomain Archaea (古細菌ドメイン)として新たに定義される、3ドメイン説が提唱された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "カール・ウーズにより提唱された3ドメイン説(細菌、古細菌、真核生物)は現在も広い支持を得ているが、各ドメインの進化上の関係性は現在も議論が続いている。近年になって分子系統解析の進歩、および真核生物に非常に近縁の古細菌(アスガルド古細菌)が発見されるに至って、真核生物は古細菌の一部から進化したとする説が優勢になりつつある(2ドメイン説とも呼ばれる)。2ドメイン説では、細菌は原始の地球に出現した生命体の2つのグループの内の一つということになる(もう一つは古細菌)。さらに近年では、それまで知られていた細菌のグループとは全く別系統に属する新種の細菌グループ(Candidate Phyla Radiation;CPR)が見つかり、その規模は既知の細菌全体に匹敵するとも推測されている。そのため細菌ドメインの範囲は現在もさらに拡大している。", "title": "歴史" } ]
細菌(さいきん、真正細菌、ラテン語: bacterium、複数形 bacteria、バクテリア)とは、古細菌、真核生物とともに全生物界を三分する、生物の主要な系統(ドメイン)の一つである。語源はギリシャ語の「小さな杖」(βακτήριον)に由来する。細菌は大腸菌、枯草菌、藍色細菌(シアノバクテリア)など様々な系統を含む生物群である。通常1-10 µmほどの微生物であり、球菌や桿菌、螺旋菌など様々な形状が知られている。真核生物と比較した場合、非常に単純な構造を持つ一方で、はるかに多様な代謝系や栄養要求性を示す。細菌を研究する科学分野は微生物学(または細菌学)と呼ばれる。 細菌と古細菌は合わせて原核生物と呼ばれる。核を持たないという点で古細菌と類似するが、古細菌と細菌の分岐は古い。古細菌と比較して、遺伝システムやタンパク質合成系の一部に異なる機構を採用し、ペプチドグリカンより構成される細胞壁や、エステル型脂質より構成される細胞膜を持っているという点からも細菌は古細菌と区別される。1977年までは古細菌は細菌に含まれると考えられていたが、現在では両者はドメインレベルで別の生物とされる。 細菌の生息環境は非常に広く、例えば土壌、淡水・海水、酸性温泉、放射性廃棄物、そして地殻地下生物圏といった極限環境に至るまで、地球上のあらゆる環境(生物圏)に存在している。地球上の全細胞数は5×1030に及ぶと推定されており、その生物量は膨大である。また、その代謝系は非常に多様であり、細菌は光合成や窒素固定、有機物の分解過程など、物質循環において非常に重要な位置を占めている。熱水噴出孔や冷水湧出帯などの環境では、硫化水素やメタンなどの海水中に溶解した化学化合物が細菌によりエネルギーに変換され、近隣環境に生息する様々な生物が必要とする栄養素を供給している。植物や動物と共生・寄生の関係になる細菌系統も多く知られている。地球上に存在する細菌種の大半は、未だ十分に研究がされておらず、その生態や物質循環における役割が不明である。研究報告がなされた細菌種は全体の約2%に過ぎないとも推定され、実験室での培養系が確立していないものが大半である。 腸内細菌や発酵細菌、病原菌など、ヒト(人間)をはじめとする他の生物との関わりも深い。通常、ヒトなどの大型生物は、何百万もの常在菌と共存している。例えば腸内細菌群は、多くの動物において食物の消化過程に欠かすことのできない要素である。ヒト共生細菌の大半は無害であるか、免疫系の保護効果によって無害になっている。多くの細菌、特に腸内細菌は宿主となる動物にとって有益な存在である。共生細菌に限らず、細菌の大半は病気などを引き起こす存在とは考えられていない。 しかし極一部のものは病原細菌として、ヒトや動物の感染症の原因になる。例えばコレラ、梅毒、炭疽菌、ハンセン病、腺ペスト、呼吸器感染症など病原性を持ち感染症を引き起こす細菌が知られている。このような感染症を治療するために、ストレプトマイシンやクロラムフェニコール、テトラサイクリンなど、様々な細菌由来の抗生物質が探索され発見されてきた。抗生物質は細菌感染症の治療や農業で広く使用されている一方、病原性細菌の抗生物質耐性の獲得が社会的な問題となっている。 また、下水処理や流出油の分解、鉱業における金・パラジウム・銅等の金属回収などにも、細菌は広く応用利用されている。食品関係においては、微生物学が展開するはるか以前から、人類はチーズ、納豆、ヨーグルトなどの発酵過程において微生物を利用している。 細菌は対立遺伝子を持たず、遺伝子型がそのまま表現型をとり、世代時間が短く変異体が得られやすく、さらに形質転換系の確立によって遺伝子操作が容易である。このような理由から、近年の分子生物学を中心とした生物学は、細菌を中心に研究が発展してきた。特に大腸菌などは、分子生物学の有用なツールとして現在でも頻繁に使用されている。
{{Otheruses|バクテリア|広義の細菌|原核生物}} {{生物分類表 | 名称 = 細菌 | 画像 = [[ファイル:EscherichiaColi NIAID.jpg|210px]] | 画像キャプション = [[大腸菌]](''Escherichia coli'') | 色 = lightgrey | 地質時代 = [[太古代]]([[先カンブリア時代|先カンブリア代]]) | 地質時代2 = PR | ドメイン = '''細菌''' [[:species:Bacteria|Bacteria]] | 和名 = 細菌/真正細菌 |下位分類名 = 門 |下位分類 = * [[アシドバクテリア門]] * [[アクウィフェクス門]] * [[アルマティモナス門]] * [[イグナウィバクテリウム門]] * [[ウェルコミクロビウム門]] * [[エルシミクロビウム門]] * [[カルディセリクム門]] * [[カルディトリクス門]] * [[キリティマティエッラ・グリュコウォランス|キリティマティエッラ門]] * [[クラミジア門]] * [[クロロビウム門]] * [[クロロフレクサス門]] * [[クリシオゲネス門]] * [[ゲンマティモナス・アウランティアカ|ゲンマティモナス門]] * [[コプロテルモバクテル・プロテオリュティクス|コプロテルモバクテル門]] * [[サーモデスルフォバクテリア門]] * [[シネルギステス門]] * [[スピロヘータ門]] * [[ディクチオグロムス門]] * [[デイノコックス・テルムス門]] * [[テネリクテス門]] * [[デフェリバクター科|デフェリバクテル門]] * [[テルモトガ門]] * [[ニトロスピラ門]] * [[バクテロイデス門]] * [[バルネオラ門]] * [[フィブロバクター属|フィブロバクター門]] * [[ファーミキューテス門]] * [[プランクトミケス門]] * [[プロテオバクテリア門]] * [[フソバクテリウム門]] * [[放線菌|放線菌門]] * [[藍藻|藍色細菌門]] * [[レンティスファエラ門]] * [[ロドテルムス門]] }} '''細菌'''(さいきん、'''真正細菌'''、{{lang-la|bacterium}}、複数形 bacteria、'''バクテリア''')とは、[[古細菌]]、[[真核生物]]とともに全生物界を三分する、[[生物]]の主要な系統([[ドメイン (分類学)|ドメイン]])の一つである。語源は[[ギリシャ語]]の「小さな杖」({{lang|el|βακτήριον}})に由来する<ref>[http://www.etymonline.com/index.php?term=bacteria bacteria (n.)]Online Etymology Dictionary</ref>。細菌は[[大腸菌]]、[[枯草菌]]、藍色細菌([[藍藻|シアノバクテリア]])など様々な系統を含む生物群である。通常1-10 [[マイクロメートル|µm]]ほどの[[微生物]]であり、[[球菌]]や[[桿菌]]、螺旋菌など様々な形状が知られている。真核生物と比較した場合、非常に単純な構造を持つ一方で、はるかに多様な[[代謝]]系や栄養要求性を示す。細菌を研究する科学分野は[[微生物学]](または[[細菌学]])と呼ばれる。 細菌と古細菌は合わせて[[原核生物]]と呼ばれる。核を持たないという点で古細菌と類似するが、古細菌と細菌の分岐は古い。古細菌と比較して、遺伝システムや[[タンパク質]]合成系の一部に異なる機構を採用し、[[ペプチドグリカン]]より構成される[[細胞壁]]や、[[エステル型脂質]]より構成される[[細胞膜]]を持っているという点からも細菌は古細菌と区別される。1977年までは古細菌は細菌に含まれると考えられていたが、現在では両者は[[ドメイン (分類学)|ドメイン]]レベルで別の生物とされる。 細菌の生息環境は非常に広く、例えば[[土壌]]、[[淡水]]・[[海水]]、[[熱水泉|酸性温泉]]、[[放射性廃棄物]]、そして[[地球の地殻|地殻]]地下生物圏といった[[極限環境微生物|極限環境]]に至るまで、[[地球]]上のあらゆる環境([[生物圏]])に存在している。地球上の全細胞数は5×10<sup>30</sup>に及ぶと推定されており、その[[生物量]]は膨大である。また、その[[代謝]]系は非常に多様であり、細菌は[[光合成]]や[[窒素固定]]、[[有機物]]の分解過程など、物質循環において非常に重要な位置を占めている。[[熱水噴出孔]]や[[冷水湧出帯]]などの環境では、[[硫化水素]]や[[メタン]]などの海水中に溶解した化学化合物が細菌によりエネルギーに変換され、近隣環境に生息する様々な生物が必要とする栄養素を供給している。植物や動物と[[共生]]・[[寄生]]の関係になる細菌系統も多く知られている。地球上に存在する細菌種の大半は、未だ十分に研究がされておらず、その生態や物質循環における役割が不明である。研究報告がなされた細菌種は全体の約2%に過ぎないとも推定され{{Sfn|Krasner|2014|p=38}}、実験室での[[培養]]系が確立していないものが大半である。 [[腸内細菌]]や[[発酵]]細菌、[[病原体|病原菌]]など、[[ヒト]](人間)をはじめとする他の生物との関わりも深い。通常、ヒトなどの大型生物は、何百万もの[[常在菌]]と共存している。例えば[[腸内細菌]]群は、多くの動物において食物の[[消化]]過程に欠かすことのできない要素である。ヒト共生細菌の大半は無害であるか、[[免疫系]]の保護効果によって無害になっている。多くの細菌、特に腸内細菌は宿主となる動物にとって有益な存在である。共生細菌に限らず、細菌の大半は病気などを引き起こす存在とは考えられていない。 しかし極一部のものは病原細菌として、ヒトや動物の[[感染症]]の原因になる。例えば[[コレラ]]、[[梅毒]]、[[炭疽症|炭疽菌]]、[[ハンセン病]]、[[腺ペスト]]、[[気道感染|呼吸器感染症]]など[[病原性細菌|病原性]]を持ち[[感染|感染症]]を引き起こす細菌が知られている。このような感染症を治療するために、[[ストレプトマイシン]]や[[クロラムフェニコール]]、[[テトラサイクリン]]など、様々な細菌由来の[[抗生物質]]が探索され発見されてきた。抗生物質は細菌感染症の治療や農業で広く使用されている一方、病原性細菌の[[抗生物質耐性]]の獲得が社会的な問題となっている。 また、[[下水処理]]や[[石油流出|流出油]]の分解、[[鉱業]]における[[金]]・[[パラジウム]]・[[銅]]等の[[金属]]回収などにも、細菌は広く応用利用されている。[[食品]]関係においては、[[微生物学]]が展開するはるか以前から、人類は[[チーズ]]、[[納豆]]、[[ヨーグルト]]などの発酵過程において微生物を利用している。 細菌は[[対立遺伝子]]を持たず、遺伝子型がそのまま表現型をとり、世代時間が短く変異体が得られやすく、さらに形質転換系の確立によって遺伝子操作が容易である。このような理由から、近年の[[分子生物学]]を中心とした[[生物学]]は、細菌を中心に研究が発展してきた。特に[[大腸菌]]などは、分子生物学の有用なツールとして現在でも頻繁に使用されている。 == 呼称 == 各言語での呼称は、[[ラテン語]]が Bacterium、[[日本語]]および[[中国語]]が「細菌」である。[[1828年]]、[[クリスチャン・ゴットフリート・エーレンベルク]]が、[[顕微鏡]]で観察した微生物が細い棒状であったため、[[古代ギリシア語]]で「小さな杖」を意味する {{lang|el|βακτήριον }}({{transl|el|''baktḗrion''}})から造語し、ラテン語で “Bacterium” と呼んだことに由来する。この複数形が Bacteria である<ref>{{cite web|url=https://www.etymonline.com/word/bacteria|title=bacteria &#x7c; Origin and meaning of bacteria by Online Etymology Dictionary|publisher=Online Etymology Dictionary|accessdate=2020-04-18}}</ref><ref>{{LSJ|bakthri/a|βακτηρία|shortref}}.</ref><ref>{{OEtymD|bacteria}}</ref>。日本語の「細菌」の語の発案者は不明であるが、[[1895年]]([[明治]]28年)には『細菌学雑誌』が創刊され、19世紀末には既に使われていた{{要出典|date=2020年2月}}。 なお、「細菌」には「菌」という漢字が使用されているが、狭義の[[菌類]](真菌)には含まれない。同様に、細菌とは別グループの生物である「古細菌」には細菌という語が使われているが、この記事が説明する狭義の細菌に含まれない。[[分類学]]上の「[[菌類]]」(Fungi)、「細菌」(Bacteria)、「[[古細菌]]」(Archaea)は、別々の独立した生物である。 このほかの呼称としては、真正細菌(Eubacteria)や Monera(モネラ)などがあるが、いずれも古い用語であり、使用頻度は下がっている{{要出典|date=2020年2月}}。真正細菌(Eubacteria)は、かつて古細菌が細菌とみなされていた時代に(Archaeabacteria と呼ばれていた)、これと区別するために使用されていた単語である。ただし、現在でも[[トーマス・キャバリエ=スミス]]ら著名な研究者の一部がこの語を用いている{{要出典|date=2020年2月}}。 == 起源と初期の進化 == [[ファイル:PhylogeneticTree,_Woese_1990.PNG|右|サムネイル|細菌、古細菌、真核生物の[[系統樹]]。下部の縦線は最終普遍共通祖先(LUCA)を表している<ref name="pmid2112744">{{Cite journal|author=C R Woese, O Kandler, M L Wheelis |date=June 1990|title=Towards a natural system of organisms: proposal for the domains Archaea, Bacteria, and Eucarya|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America|volume=87|issue=12|pages=4576–79|bibcode=1990PNAS...87.4576W|DOI=10.1073/pnas.87.12.4576|PMID=2112744|PMC=54159}}</ref>。各ドメイン内の分岐順序については多くの異説があることに注意。]] 地球上において、細菌は古細菌とともに生命発生の最初期の頃から存在すると考えられている<ref name="pmid314752122">{{Cite journal|author=Filipa Godoy-Vitorino|date=July 2019|title=Human microbial ecology and the rising new medicine|journal=Annals of Translational Medicine|volume=7|issue=14|pages=342|DOI=10.21037/atm.2019.06.56|PMID=31475212|PMC=6694241}}</ref><ref>{{Cite journal|author=J W Schopf|date=July 1994|title=Disparate rates, differing fates: tempo and mode of evolution changed from the Precambrian to the Phanerozoic|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America|volume=91|issue=15|pages=6735–42|bibcode=1994PNAS...91.6735S|DOI=10.1073/pnas.91.15.6735|PMID=8041691|PMC=44277}}</ref><ref>{{Cite journal|date=August 2001|author=Edward F. DeLong, Norman R. Pace|title=Environmental diversity of bacteria and archaea|url=https://doi.org/10.1080/10635150118513|journal=Systematic Biology|volume=50|issue=4|pages=470-478|DOI=10.1080/10635150118513}}</ref>。[[ストロマトライト]]などの細菌由来と想定される[[化石]]が存在しているものの、大部分が[[単細胞生物|単細胞性]]で極めて小さく、独自の特徴的な[[形態学 (生物学)|形態]]などを持っていないため、地質学的に細菌の[[進化]]史を解明するには多くの困難がある。一方で、現生の細菌がもつ[[ゲノム]]情報を検討することで、細菌の[[系統学]]的な進化プロセスが推定されており、細菌と古細菌の分岐は真核生物の誕生よりも前に遡ることが示されている<ref>{{Cite journal|author=J R Brown, W F Doolittle|date=December 1997|title=Archaea and the prokaryote-to-eukaryote transition|url=https://doi.org/10.1128/mmbr.61.4.456-502.1997|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=61|issue=4|pages=456-502|DOI=10.1128/mmbr.61.4.456-502.1997}}</ref>。 細菌と古細菌の[[共通祖先]]({{仮リンク|最終共通祖先|en|Last universal common ancestor}}、LUCA)は、35-40億年前頃に生息していた[[好熱菌|超好熱菌]]の一種であるとする仮説が出されている<ref name="pmid298942972">{{Cite journal|author=Bertram Daum, Vicki Gold|date=June 2018|title=Twitch or swim: towards the understanding of prokaryotic motion based on the type IV pilus blueprint|journal=Biological Chemistry|volume=399|issue=7|pages=799-808|DOI=10.1515/hsz-2018-0157|PMID=29894297}}</ref><ref>{{Cite journal|date=December 2003|title=The universal ancestor and the ancestor of bacteria were hyperthermophiles|journal=Journal of Molecular Evolution|volume=57|issue=6|pages=721–30|bibcode=2003JMolE..57..721D|DOI=10.1007/s00239-003-2522-6|PMID=14745541}}</ref><ref>{{Cite journal|author1=Battistuzzi, Fabia U.|author2=Feijao, Andreia|author3=Hedges, S. Blair|date=November 2004|title=A genomic timescale of prokaryote evolution: insights into the origin of methanogenesis, phototrophy, and the colonization of land|journal=BMC Evolutionary Biology|volume=4|page=44|DOI=10.1186/1471-2148-4-44|PMID=15535883|PMC=533871}}</ref>。ただし、それら初期生命体の生息環境が海であったのか陸地であったのかさえ定説は存在しない<ref name="NG-201807232">{{Cite journal|last=Homann, Martin|date=23 July 2018|title=Microbial life and biogeochemical cycling on land 3,220 million years ago|url=https://hal.univ-brest.fr/hal-01901955/file/Homann%20et%20al.%202018%20-%20accepted-1.pdf|journal=[[Nature Geoscience]]|volume=11|issue=9|pages=665–671|bibcode=2018NatGe..11..665H|DOI=10.1038/s41561-018-0190-9|postscript=et al.}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Van Kranendonk|first=Martin J.|last2=Baumgartner|first2=Raphael|last3=Djokic|first3=Tara|last4=Ota|first4=Tsutomu|last5=Steller|first5=Luke|last6=Garbe|first6=Ulf|last7=Nakamura|first7=Eizo|date=2021-01-01|title=Elements for the Origin of Life on Land: A Deep-Time Perspective from the Pilbara Craton of Western Australia|url=https://www.liebertpub.com/doi/10.1089/ast.2019.2107|journal=Astrobiology|volume=21|issue=1|pages=39–59|language=en|doi=10.1089/ast.2019.2107|issn=1531-1074}}</ref>。 細菌は、古細菌とともに真核生物の誕生と進化に深く関与している<ref>{{Cite journal|last=López-García|first=Purificación|last2=Moreira|first2=David|date=2020-05|title=The Syntrophy hypothesis for the origin of eukaryotes revisited|url=https://www.nature.com/articles/s41564-020-0710-4|journal=Nature Microbiology|volume=5|issue=5|pages=655–667|language=en|doi=10.1038/s41564-020-0710-4|issn=2058-5276}}</ref>。例えば、[[アルファプロテオバクテリア綱|アルファプロテオバクテリア網]]に属する細菌が、真核生物の祖先となる古細菌内に細胞内共生ののち細胞内器官として取り込まれ、現在の全ての真核生物が持つ[[ミトコンドリア]]や[[ハイドロジェノソーム]]の元となった、というシナリオが考えられている。さらには、ミトコンドリアを既に保持していた一部の真核生物が新たに[[藍藻|シアノバクテリア]]を細胞内に取り込み、今日の藻類や植物が持つ[[葉緑体]]を形成したと考えられている。これは[[一次共生]]([[:en:Primary_endosymbiosis|primary endosymbiosis]])として知られている<ref name="pmid34018613">{{Cite journal|date=May 2021|title=Why is primary endosymbiosis so rare?|journal=The New Phytologist|volume=231|issue=5|pages=1693–1699|DOI=10.1111/nph.17478|PMID=34018613}}</ref>。 == 生育環境 == 細菌は、通常の土壌や湖沼はもちろん、地殻、[[大気圏]]、[[熱水鉱床]]、水深1万m以上の深海底、[[南極]]の[[氷床]]といった、[[生物圏]]とされている地球上のほぼ全ての環境に分布する<ref name="pmid33114255">{{Cite journal|author=Stephens, Timothy G. and Gabr, Arwa and Calatrava, Victoria and Grossman, Arthur R. and Bhattacharya, Debashish|date=October 2020|title=Extremophilic Microorganisms for the Treatment of Toxic Pollutants in the Environment|journal=Molecules (Basel, Switzerland)|volume=25|issue=21|page=4916|DOI=10.3390/molecules25214916|PMID=33114255|PMC=7660605}}</ref><ref name="pmid17331729">{{Cite journal|date=April 2007|title=Life in acid: pH homeostasis in acidophiles|journal=Trends in Microbiology|volume=15|issue=4|pages=165–71|DOI=10.1016/j.tim.2007.02.005|PMID=17331729}}</ref>。地球上には、約2×10<sup>30</sup>細胞もの細菌が存在していると見積もられている<ref name="pmid30760902">{{Cite journal|author1=Flemming, Hans-Curt|author2=Wuertz, Stefan|date=April 2019|title=Bacteria and archaea on Earth and their abundance in biofilms|journal=Nature Reviews. Microbiology|volume=17|issue=4|pages=247–260|DOI=10.1038/s41579-019-0158-9|PMID=30760902}}</ref>。 細菌は湖や海、北極の氷、さらには[[熱水泉|地熱温泉]]{{sfn|Wheelis|2008|page=362}}などでも豊富に見られ、温泉環境などでは[[硫化水素]]や[[メタン]]などの溶解した[[化合物]]をエネルギーに変換することで、生命を維持するために必要な栄養素を作り出している<ref name="pmid34203823">{{Cite journal|author=Kushkevych, Ivan and Procházka, Jiří and Gajdács, Márió and Rittmann, Simon K.-M. R. and Vítězová, Monika|date=June 2021|title=Molecular Physiology of Anaerobic Phototrophic Purple and Green Sulfur Bacteria|journal=International Journal of Molecular Sciences|volume=22|issue=12|page=6398|DOI=10.3390/ijms22126398|PMID=34203823|PMC=8232776}}</ref>。特に土壌は細菌が非常に豊富に存在する環境であり、数グラムに約1億個の細菌が含まれている{{Sfn|Pommerville|2014|p=3–6}}。細菌は有毒な廃棄物を分解し、栄養素をリサイクルする存在として、土壌生態学の観点からも不可欠な存在である。 細菌は大気中にも見られ、1立方メートルの空気中には約1億個の細菌細胞が存在している{{Sfn|Pommerville|2014|p=3–6}}。海洋には約3×10<sup>26</sup>細胞もの細菌が存在しており、これらの一部が行う[[光合成]]によって、人間が呼吸する[[酸素]]の最大50%が供給されていると見積もられている{{Sfn|Pommerville|2014|p=3–6}}。 一部の細菌は[[芽胞]]という乾燥に強い形態を取ることも知られている<ref name="hiramatsu">{{Cite book|和書|title=標準微生物学|author=平松啓一・中込治 編集|edition=10|year=2009|ISBN=978-4-260-00638-5|chapter=第III章 細菌学総論}}</ref>。 また[[多細胞生物]]体内部や表面にも多数の細菌が付着生育しており、[[共生]]関係にある。ただし、健康な生物体の[[血液]]中、[[筋肉]]、[[骨格]]など[[消化管]]以外の臓器からはほとんど検出されない{{要出典|date=2020年2月}}。消化管においては、食物の分解プロセスの一部を細菌が担っている。共生の例は、[[ルーメン (解剖学)|ルーメン]]や[[マメ科]][[植物]]の[[根]]圏における[[窒素固定菌]]の共生などに見ることができる{{要出典|date=2020年2月}}。また、一部の[[昆虫]]類では菌細胞と呼ばれる共生細菌を維持するための細胞を分化させ、その細胞質内に細菌を共生させるが、これら細胞質内共生細菌のなかには、[[カルソネラ・ルディアイ]](''Candidatus'' Carsonella ruddii)のように宿主の細胞外で生存あるいは増殖が出来ないものがある{{要出典|date=2020年2月}}。 [[バイオマス]]の観点では、細菌は植物を超える存在である<ref name="Bar-On">{{Cite journal|author=Yinon M. Bar-On, Rob Phillips, Ron Milo|date=June 2018|title=The biomass distribution on Earth|url=https://doi.org/10.1073/pnas.1711842115|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America|volume=115|issue=25|pages=6506–11|DOI=10.1073/pnas.1711842115|PMID=29784790|PMC=6016768}}</ref>。土壌では、4000m<sup>2</sup>あたり2トンの[[微生物]](真菌、古細菌を含む)が含まれていると見積もられている{{要出典|date=2020年2月}}。また海洋においては、栄養状態にかかわらず1ミリ[[リットル]](mL)あたり50細胞程度の細菌が存在しており(沿岸や生物の死体周辺ではmLあたり10<sup>5</sup>細胞以上生息している)、海洋だけでも地上の真核生物量をはるかに凌駕する計算がなされている{{要出典|date=2020年2月}}。 == 形状・サイズ == [[ファイル:Bacteria shape.png|thumb|200px|様々な形態を持つ細菌]] [[ファイル:Bacterial_morphology_diagram.svg|代替文=細胞の形態と配置|左|サムネイル|{{Sfn|Krasner|2014|p=74}}]] 細菌は様々な細胞[[形態学 (生物学)|形態]]や配置を示す。一般に、大きさはおおむね0.5-5 µm程度であり、[[古細菌]]と同規模で真核生物よりは一桁小さい。[[桿菌]]の中では、長いものは15 µmほどになる。さらに肉眼でも見ることができるサイズになるものもあり、例えば''Thiomargarita namibiensis''は500 µmほどに<ref>{{cite journal|year=2001|author1=Heide N. Schulz|author2=Bo Barker Jørgensen|title=Big bacteria|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=55|pages=105–37|doi=10.1146/annurev.micro.55.1.105|pmid=11544351|s2cid=18168018}}</ref>、''[[:en:Epulopiscium_fishelsoni|Epulopiscium fishelsoni]]''は700 µm程度にも達する<ref name="Williams2011">{{cite journal|last=Williams|first=Caroline|year=2011|title=Who are you calling simple?|journal=New Scientist|volume=211|issue=2821|pages=38–41|doi=10.1016/S0262-4079(11)61709-0|name-list-style=vanc}}</ref>。最大で2 cmにもなる細菌も発見されている<ref>{{Cite journal |author=Jean-Marie Volland and Silvina Gonzalez-Rizzo and Olivier Gros and Tomáš Tyml and Natalia Ivanova and Frederik Schulz and Danielle Goudeau and Nathalie H. Elisabeth and Nandita Nath and Daniel Udwary and Rex R. Malmstrom and Chantal Guidi-Rontani and Susanne Bolte-Kluge and Karen M. Davies and Maïtena R. Jean and Jean-Louis Mansot and Nigel J. Mouncey and Esther R. Angert and Tanja Woyke and Shailesh V. Date |year=2022 |title=A centimeter-long bacterium with DNA contained in metabolically active, membrane-bound organelles |journal=Science |volume=376 |issue=6600 |pages=1453-1458 |doi=10.1126/science.abb3634 |url=https://doi.org/10.1126/science.abb3634}}</ref>。逆に最小のバクテリアとしては、わずか0.3 µmの[[マイコプラズマ]]属の種が知られている<ref>{{Cite journal|author=J Robertson, M Gomersall, P Gill|date=November 1975|title=Mycoplasma hominis: growth, reproduction, and isolation of small viable cells|journal=Journal of Bacteriology|volume=124|issue=2|pages=1007–18|DOI=10.1128/JB.124.2.1007-1018.1975|PMID=1102522|PMC=235991}}</ref>。これよりも小さい細菌が存在する可能性も示唆されているが、支持されていない<ref name="Velimirov2001">{{Cite journal|author=Branko Velimirov|year=2001|title=Nanobacteria, Ultramicrobacteria and Starvation Forms: A Search for the Smallest Metabolizing Bacterium|journal=Microbes and Environments|volume=16|issue=2|pages=67–77|DOI=10.1264/jsme2.2001.67}}</ref>。 細菌の細胞は、藍藻類など一部を除いて、多くの場合種同士で見分けが付かない。古細菌の細胞とも酷似している。ただしドメイン全体で見ると、らせん菌など様々な形態が存在する。桿菌ではしばしば細胞壁が連なって長大な糸状になる。一部は[[多細胞生物|多細胞性]]を示し、群体や[[菌糸]]を形成する。なかでも[[粘液細菌]]は[[細胞性粘菌]]とよく似た生活環を持つことで知られる。大半の細菌種は、球状の[[球菌]](ギリシャ語のkókkosから、coccusと呼ばれる)や棒状の[[桿菌]](ラテン語のbaculusから、bacillusと呼ばれる)のいずれの形態をとる<ref>Dusenbery, David B (2009).</ref>。他のものとしては、[[ビブリオ属|ビブリオ]]属などの細菌はわずかに湾曲した棒状の形をとる他、[[:en:Spiral_bacteria#Spirillum|spirilla]]はらせん状の形態をもち、特に[[スピロヘータ門|スピロヘータ]]はしっかりと巻かれた[[螺旋]]状の形態を取る。また、星型など、他にも珍しい形状を持つ細菌種が知られている<ref>{{Cite journal|author=Desirée C. Yang, Kris M. Blair, Nina R. Salama|date=March 2016|title=Staying in Shape: the Impact of Cell Shape on Bacterial Survival in Diverse Environments|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=80|issue=1|pages=187–203|DOI=10.1128/MMBR.00031-15|PMID=26864431|PMC=4771367}}</ref>。このような形状の多様性は、細菌の[[細胞壁]]と[[細胞骨格]]によって決定されており、それぞれの形状は細菌が栄養素を獲得したり、表面に付着し、液体を泳ぎ、[[捕食|捕食者]]から逃れたりする能力などに影響を与える可能性があるため、生態的にも重要である<ref>{{Cite journal|date=August 2005|title=Bacterial cell shape|journal=Nature Reviews. Microbiology|volume=3|issue=8|pages=601–10|DOI=10.1038/nrmicro1205|PMID=16012516}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Kevin D. Young|date=September 2006|title=The selective value of bacterial shape|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=70|issue=3|pages=660–703|DOI=10.1128/MMBR.00001-06|PMID=16959965|PMC=1594593}}</ref>。 [[ファイル:Relative_scale.svg|サムネイル|生物および生体分子のサイズ比較。[[原核生物]](Prokaryotes)が細菌と古細菌に当たる{{Sfn|Crawford|2007|p=xi}}。真核生物はEukaryotesにあたる。]] 多くの細菌種は単一の細胞として存在しているが、例外も知られている。例えば[[ナイセリア属]]([[:en:Neisseria|Neisseria]])は二倍体(ペア)を形成し、[[連鎖球菌]]はその名の通り鎖状の構造をとり、[[ブドウ球菌]]も名の通りブドウの房のようなクラスター構造を取る。他にも、[[放線菌]]に見られるような細長いフィラメント状になったり、[[粘液細菌]]種のように凝集体を構築したり、[[ストレプトマイセス属]]種のように複雑な菌糸を出したりなど、より大きな多細胞構造を形成するための機能をもっているものも知られている<ref>{{Cite journal|author1=Claessen, Dennis|author2=Rozen, Daniel E.|author3=Kuipers, Oscar P.|author4=Søgaard-Andersen, Lotte|author5=van Wezel, Gilles P.|date=February 2014|title=Bacterial solutions to multicellularity: a tale of biofilms, filaments and fruiting bodies|url=https://doi.org/10.1038/nrmicro3178|journal=Nature Reviews. Microbiology|volume=12|issue=2|pages=115–24|DOI=10.1038/nrmicro3178|PMID=24384602}}</ref>。このような多細胞構造は、しばしば特定の条件でのみ見られることがある。たとえば粘液細菌は、生育環境中の[[アミノ酸]]が不足すると[[クオラムセンシング]]と呼ばれるプロセスを通じて周囲の細胞を認識し、互いに向かい合うように移動し、約100,000個の細菌細胞が凝集して長さ最大500マイクロメートル程度の子実体を形成する<ref>{{Cite journal|author=Lawrence J. Shimkets|year=1999|title=Intercellular signaling during fruiting-body development of Myxococcus xanthus|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=53|pages=525–49|DOI=10.1146/annurev.micro.53.1.525|PMID=10547700}}</ref>。これらの子実体では、凝集した細胞は別々の機能を担う。たとえば、細胞の約10分の1が子実体の上部に移動し、乾燥やその他の悪環境条件に対してより耐性のある粘液胞子と呼ばれる特殊な休眠状態に分化する<ref name="Kaiser">{{Cite journal|author=Dale Kaiser|year=2004|title=Signaling in myxobacteria|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=58|pages=75–98|DOI=10.1146/annurev.micro.58.030603.123620|PMID=15487930}}</ref>。 細菌はしばしば何かしらの物質の表面に付着し、[[バイオフィルム]]と呼ばれる密集した凝集体を形成して大きな形成物(微生物マット)を形成する{{Sfn|Wheelis|2008|p=75}}<ref name="pmid34153859">{{Cite journal|author=Abhishek Mandal, Ahana Dutta, Reshmi Das, Joydeep Mukherjee|date=June 2021|title=Role of intertidal microbial communities in carbon dioxide sequestration and pollutant removal: A review|journal=Marine Pollution Bulletin|volume=170|issue=|pages=112626|DOI=10.1016/j.marpolbul.2021.112626|PMID=34153859}}</ref>。バイオフィルムは数マイクロメートルから最大0.5メートル程度までの厚さを持ち、複数の種類の細菌や[[原生生物]]、古細菌が混合している場合がある。バイオフィルムに生息する細菌は、細胞と細胞外成分が複雑に絡み合い、マイクロコロニーなどの二次構造を形成している。この構造を介して、栄養素をより良い形で拡散するようなネットワークを形成している<ref>{{Cite journal|author=Rodney M. Donlan|date=September 2002|title=Biofilms: microbial life on surfaces|journal=Emerging Infectious Diseases|volume=8|issue=9|pages=881–90|DOI=10.3201/eid0809.020063|PMID=12194761|PMC=2732559}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Steven S. Branda, Åshild Vik, Lisa Friedman, Roberto Kolter|date=January 2005|title=Biofilms: the matrix revisited|journal=Trends in Microbiology|volume=13|issue=1|pages=20–26|DOI=10.1016/j.tim.2004.11.006|PMID=15639628}}</ref>。土壌や植物の表面などの自然環境では、細菌の大部分はバイオフィルムの表面に結合している<ref name="Davey">{{Cite journal|author=Mary Ellen Davey, George A. O'toole|date=December 2000|title=Microbial biofilms: from ecology to molecular genetics|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=64|issue=4|pages=847–67|DOI=10.1128/MMBR.64.4.847-867.2000|PMID=11104821|PMC=99016}}</ref>。[[臨床]]分野においても、バイオフィルムは、例えば慢性的な細菌感染症や人体に埋め込まれた[[医療機器]]を介した感染症において良く見られる。バイオフィルムの内部は外部刺激から保護されている状態であるため、単独で存在する細菌細胞と比べて[[殺菌]]することがはるかに困難である<ref>{{Cite journal|author=Rodney M. Donlan and J. William Costerton|date=April 2002|title=Biofilms: survival mechanisms of clinically relevant microorganisms|journal=Clinical Microbiology Reviews|volume=15|issue=2|pages=167–93|DOI=10.1128/CMR.15.2.167-193.2002|PMID=11932229|PMC=118068}}</ref>。 == 細胞構造 == [[File:Prokaryote cell.svg|320px|thumb|細菌の基本的な構造。細胞膜の外側には細胞壁(この画像ではそのさらに外側に莢膜)がある。細胞内小器官は存在せず内容物は混ざっている。]] {{main|細菌の細胞構造}} 細菌の細胞は、[[鞭毛]]、[[線毛]]、[[莢膜]]、[[細胞壁]]、[[ペリプラズム]]、[[細胞膜]]、[[細胞質]]などから構成されており、主に[[リン脂質]]からできている細胞膜に囲まれている。この膜は細胞の内容物を囲み、細胞内細胞質に栄養素やタンパク質、その他の必須成分を保持するためのバリアとして機能する<ref>{{Cite book|title=Microbiology : an Evolving Science|date=2013|publisher=W W Norton|location=New York|isbn=978-0393123678|edition=Third|page=82}}</ref>。[[真核生物|真核細胞]]とは異なり、一般的に細菌は核や[[ミトコンドリア]]、[[葉緑体]]および他の細胞小器官など、真核細胞に存在するような大きな膜結合組織を欠いている<ref name="pmid28664324">{{Cite journal|author1=Feijoo-Siota, Lucía|author2=Rama, José Luis R.|author3=Sánchez-Pérez, Angeles|author4=Villa, Tomás G.|date=July 2017|title=Considerations on bacterial nucleoids|journal=Applied Microbiology and Biotechnology|volume=101|issue=14|pages=5591–602|DOI=10.1007/s00253-017-8381-7|PMID=28664324}}</ref>。ただし例外として、一部の細菌は[[カルボキシソーム]]のような、細胞質内にタンパク質に結合した細胞小器官を持っている<ref name="Bobik2006">{{Cite journal|author=Thomas A. Bobik|date=May 2006|title=Polyhedral organelles compartmenting bacterial metabolic processes|journal=Applied Microbiology and Biotechnology|volume=70|issue=5|pages=517–25|DOI=10.1007/s00253-005-0295-0|PMID=16525780}}</ref><ref>{{Cite journal|author1=Yeates, Todd O.|author2=Kerfeld, Cheryl A.|author3=Heinhorst, Sabine|author4=Cannon, Gordon C.|author5=Shively, Jessup M.|date=September 2008|title=Protein-based organelles in bacteria: carboxysomes and related microcompartments|journal=Nature Reviews. Microbiology|volume=6|issue=9|pages=681–91|DOI=10.1038/nrmicro1913|PMID=18679172}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Kerfeld, Cheryl A and Sawaya, Michael R and Tanaka, Shiho and Nguyen, Chau V and Phillips, Martin and Beeby, Morgan and Yeates, Todd O|date=August 2005|title=Protein structures forming the shell of primitive bacterial organelles|journal=Science|volume=309|issue=5736|pages=936–38|bibcode=2005Sci...309..936K|DOI=10.1126/science.1113397|PMID=16081736}}</ref>。さらに、細菌は、細胞内のタンパク質と[[核酸]]の局在を制御し、細胞分裂を駆動するための多成分から成る細胞骨格を持っている<ref name="Gitai Z 2005 577–86">{{Cite journal|author=Gitai, Zemer|date=March 2005|title=The new bacterial cell biology: moving parts and subcellular architecture|journal=Cell|volume=120|issue=5|pages=577–86|DOI=10.1016/j.cell.2005.02.026|PMID=15766522}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Yu-Ling Shih, Lawrence Rothfield|date=September 2006|title=The bacterial cytoskeleton|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=70|issue=3|pages=729–54|DOI=10.1128/MMBR.00017-06|PMID=16959967|PMC=1594594}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Norris, Vic and Den Blaauwen, Tanneke and Cabin-Flaman, Armelle and Doi, Roy H and Harshey, Rasika and Janniere, Laurent and Jimenez-Sanchez, Alfonso and Jin, Ding Jun and Levin, Petra Anne and Mileykovskaya, Eugenia and others|date=March 2007|title=Functional taxonomy of bacterial hyperstructures|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=71|issue=1|pages=230–53|DOI=10.1128/MMBR.00035-06|PMID=17347523|PMC=1847379}}</ref>。 [[ファイル:Carboxysomes_EM_ptA.jpg|サムネイル|内部にカルボキシソームを持つ''[[Halothiobacillus neapolitanus|Halothiobacillu sneapolitanus]]''細胞の[[電子顕微鏡|電子顕微鏡写真]]。矢印はカルボキシソームを示している。スケールバーは100nmを示す。]] エネルギー生成などの多くの重要な[[生化学]]反応は、膜全体の[[拡散|濃度勾配]]に基づいて発生し、バッテリーのように[[電気化学ポテンシャル]]を生み出す。一般的な細菌では[[電子伝達系|電子伝達]]などの反応は細胞質と細胞の外側や[[ペリプラズム]]との間で細胞膜を横切るようにして発生する{{Sfn|Pommerville|2014|pp=120–121}}。多くの光合成細菌では、原形質膜は高度に折りたたまれており、細胞の大部分が集光膜の層で満たされている<ref name="bryantfrigaard">{{Cite journal|author=Bryant, Donald A and Frigaard, Niels-Ulrik|date=November 2006|title=Prokaryotic photosynthesis and phototrophy illuminated|journal=Trends in Microbiology|volume=14|issue=11|pages=488–96|DOI=10.1016/j.tim.2006.09.001|PMID=16997562}}</ref>。これらの集光性複合体は、[[緑色硫黄細菌]]の[[クロロソーム]]と呼ばれる脂質で囲まれた構造を形成することもある<ref>{{Cite journal|author=Pšenčík, J., et al.|date=August 2004|title=Lamellar organization of pigments in chlorosomes, the light harvesting complexes of green photosynthetic bacteria|journal=Biophysical Journal|volume=87|issue=2|pages=1165–72|bibcode=2004BpJ....87.1165P|DOI=10.1529/biophysj.104.040956|PMID=15298919|PMC=1304455}}</ref>。 細菌は通常、膜で閉ざされた核のような構造物を持たない。[[デオキシリボ核酸|DNA]]などの[[遺伝子|遺伝]]物質は単一の環状細菌[[染色体]]であり、細胞質の中で[[核様体]]と呼ばれる不規則な形状を取っている<ref>{{Cite journal|author=Martin Thanbichler, Sherry C. Wang, Lucy Shapiro|date=October 2005|title=The bacterial nucleoid: a highly organized and dynamic structure|journal=Journal of Cellular Biochemistry|volume=96|issue=3|pages=506–21|DOI=10.1002/jcb.20519|PMID=15988757}}</ref>。核様体には、染色体とそれに関連するタンパク質および[[リボ核酸|RNA]]が含まれている。他のすべての生物と同様に、細菌にはタンパク質を生成するための[[リボソーム]]が含まれているが、細菌のリボソームの構造は[[真核生物]]や古細菌の構造とは異なっている<ref>{{Cite journal|author=Poehlsgaard, Jacob and Douthwaite, Stephen|date=November 2005|title=The bacterial ribosome as a target for antibiotics|journal=Nature Reviews. Microbiology|volume=3|issue=11|pages=870–81|DOI=10.1038/nrmicro1265|PMID=16261170}}</ref>。 一部の細菌は、[[グリコーゲン]]<ref>{{Cite journal|author=Yeo, Marcus and Chater, Keith|date=March 2005|title=The interplay of glycogen metabolism and differentiation provides an insight into the developmental biology of Streptomyces coelicolor|url=https://doi.org/10.1099/mic.0.27428-0|journal=Microbiology|volume=151|issue=Pt 3|pages=855–61|DOI=10.1099/mic.0.27428-0|PMID=15758231}}</ref>、[[ポリリン酸]]塩<ref>{{Cite journal|author=Shiba, T and Tsutsumi, K and Ishige, K and Noguchi, T|date=March 2000|title=Inorganic polyphosphate and polyphosphate kinase: their novel biological functions and applications|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/10739474/|journal=Biochemistry. Biokhimiia|volume=65|issue=3|pages=315–23|PMID=10739474}}</ref>、[[硫黄]]<ref>{{Cite journal|author=Brune, Daniel C|date=June 1995|title=Isolation and characterization of sulfur globule proteins from ''Chromatium vinosum'' and ''Thiocapsa roseopersicina''|journal=Archives of Microbiology|volume=163|issue=6|pages=391–99|DOI=10.1007/BF00272127|PMID=7575095}}</ref>、または[[Polyhydroxyalkanoates|ポリヒドロキシアルカノエート]]<ref>{{Cite journal|author1=Kadouri, Daniel|author2=Jurkevitch, Edouard|author3=Okon, Yaacov|author4=Castro-Sowinski, Susana|year=2005|title=Ecological and agricultural significance of bacterial polyhydroxyalkanoates|journal=Critical Reviews in Microbiology|volume=31|issue=2|pages=55–67|DOI=10.1080/10408410590899228|PMID=15986831}}</ref>などの細胞内栄養素貯蔵顆粒を生成する(例えば、[[ポリリン酸蓄積細菌]])。[[光合成]][[藍藻|シアノ]]バクテリアなどの細菌は、細胞質に[[液胞]]を作り、これを利用してさまざまな光強度と栄養レベルの水層に上下に移動できるように浮力を調整している<ref>{{Cite journal|author=A E Walsby|date=March 1994|title=Gas vesicles|journal=Microbiological Reviews|volume=58|issue=1|pages=94–144|DOI=10.1128/MMBR.58.1.94-144.1994|PMID=8177173|PMC=372955}}</ref>。 === 細胞膜外構造 === 細胞膜の外周には[[細胞壁]]がある。細菌の細胞壁は[[ペプチドグリカン]](ムレイン)でできており、D-アミノ酸を含む[[ペプチド]]によって架橋された多糖鎖から作られている<ref>{{Cite journal|author=Heijenoort, Jean van|date=March 2001|title=Formation of the glycan chains in the synthesis of bacterial peptidoglycan|journal=Glycobiology|volume=11|issue=3|pages=25R–36R|DOI=10.1093/glycob/11.3.25R|PMID=11320055}}</ref>。これは、細胞壁が主に[[セルロース]]からできている[[植物]]や、[[キチン]]でできている菌類とは異なる特徴である<ref name="Koch">{{Cite journal|author=Arthur L. Koch|date=October 2003|title=Bacterial wall as target for attack: past, present, and future research|journal=Clinical Microbiology Reviews|volume=16|issue=4|pages=673–87|DOI=10.1128/CMR.16.4.673-687.2003|PMID=14557293|PMC=207114}}</ref>。また、ペプチドグリカンを含まない古細菌の細胞壁とも異なる特徴である。細胞壁は多くの細菌にとって生存に不可欠である。抗生物質の一種である[[ペニシリン]]([[アオカビ|ペニシリウム]]と呼ばれる真菌によって産生される)は、ペプチドグリカンの合成段階を阻害することによって細菌を殺すことができる<ref name="Koch" />。 細菌は、細胞壁が[[グラム染色]]で染色されるタイプとされないタイプの2種類に大きく分類することができる。それぞれのタイプの細菌グループは、[[グラム陽性菌]]と[[グラム陰性菌]]と呼ばれ、この特徴は細菌種を分類するために利用されている<ref name="Gram">{{Cite journal|last=Gram|first=H Christian|author-link=Hans Christian Gram|year=1884|title=Über die isolierte Färbung der Schizomyceten in Schnitt- und Trockenpräparaten|journal=Fortschr. Med.|volume=2|pages=185–89}}</ref>。 グラム陽性菌は、ペプチドグリカンと[[タイコ酸]]から成る層を複数含む、厚い細胞壁を持っている。対照的にグラム陰性菌は、リポ多糖と[[リポタンパク質]]を含む2番めの脂質膜(外膜)と内膜とも呼ばれる細胞質膜の間に囲まれた[[ペリプラズム]](空間)と呼ばれる間隙に、数層の薄いペプチドグリカンを持つ<ref name="hiramatsu"/>。大半の細菌はグラム陰性であり、[[ファーミキューテス門|ファーミキューテス]]と[[放線菌]](以前はそれぞれ低GCグラム陽性細菌と高GCグラム陽性細菌と呼ばれていた)のみがグラム陽性細菌である<ref>{{Cite journal|author=Hugenholtz, Philip|year=2002|title=Exploring prokaryotic diversity in the genomic era|journal=Genome Biology|volume=3|issue=2|pages=1-8|DOI=10.1186/gb-2002-3-2-reviews0003|PMID=11864374|PMC=139013|publisher=Springer}}</ref>。細胞壁の構造の違いにより、抗生物質感受性に違いが出ることが知られている。たとえば[[バンコマイシン]]はグラム陽性菌のみを殺すことができ[[インフルエンザ菌]]や[[緑膿菌]]などのグラム陰性病原菌に対しては効果がない<ref>{{Cite journal|author=Fiona M Walsh and Sebastian GB Amyes|date=October 2004|title=Microbiology and drug resistance mechanisms of fully resistant pathogens|url=https://doi.org/10.1016/j.mib.2004.08.007|journal=Current Opinion in Microbiology|volume=7|issue=5|pages=439–44|DOI=10.1016/j.mib.2004.08.007|PMID=15451497}}</ref>。また、一部の細菌は、古典的なグラム陽性菌でもグラム陰性菌でもない細胞壁構造を持っている。これには、グラム陽性菌のように厚いペプチドグリカン細胞壁を持ち、同時に脂質からなる2番目の外層も持つ、[[マイコバクテリウム属|マイコバクテリア]]などの臨床的に重要な細菌が含まれている<ref>{{Cite journal|author=Alderwick, Luke J and Harrison, James and Lloyd, Georgina S and Birch, Helen L|date=March 2015|title=The Mycobacterial Cell Wall – Peptidoglycan and Arabinogalactan|journal=Cold Spring Harbor Perspectives in Medicine|volume=5|issue=8|page=a021113|DOI=10.1101/cshperspect.a021113|PMID=25818664|PMC=4526729}}</ref>。 [[ファイル:Streptococcus_mutans_Gram.jpg|代替文=blue stain of Streptococcus mutans|サムネイル|グラム染色で細胞染色された''Streptococcus mutans。'']] 多くの細菌では、堅く配列されたタンパク質分子のS層が細胞の外側を覆っている<ref name="pmid24509785">{{Cite journal|author=Alderwick, Luke J and Harrison, James and Lloyd, Georgina S and Birch, Helen L|date=March 2014|title=Biogenesis and functions of bacterial S-layers|url=https://doi.org/10.1038/nrmicro3213|journal=Nature Reviews. Microbiology|volume=12|issue=3|pages=211–22|DOI=10.1038/nrmicro3213|PMID=24509785}}</ref>。この層は、細胞表面を化学的および物理的に保護し、[[高分子]]の拡散バリアとして機能している。S層は多様な機能を持ち、例えば[[カンピロバクター]]では病原性因子として作用し、[[Bacillus stearothermophilus|バチルス・ステアロサーモフィラス]](''Bacillus stearothermophilus'')では表面[[酵素]]を含んでいることが知られている<ref name="pmid16013216">{{Cite journal|author=Thompson, Stuart A|date=December 2002|title=Campylobacter surface-layers (S-layers) and immune evasion|journal=Annals of Periodontology|volume=7|issue=1|pages=43-53|DOI=10.1902/annals.2002.7.1.43|PMID=16013216|PMC=2763180}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Beveridge TJ, Pouwels PH, Sára M, et al.|date=June 1997|title=Functions of S-layers|journal=FEMS Microbiology Reviews|volume=20|issue=1–2|pages=99-149|DOI=10.1111/j.1574-6976.1997.tb00305.x|PMID=9276929}}</ref>。 [[ファイル:EMpylori.jpg|代替文=Helicobacter pylori electron micrograph, showing multiple flagella on the cell surface|左|サムネイル|[[ヘリコバクター・ピロリ]]の電子顕微鏡写真、細胞表面に複数のべん毛を見られる。]] 鞭毛は堅いタンパク質構造で、直径は約20ナノメートル、最大20マイクロメートルになる。細菌の[[運動性|運動]](遊泳)に使用される。[[フラジェリン]]というタンパク質が重合した鞭毛は螺旋状の繊維であり、細胞膜を横切る[[電気化学的勾配]]に沿って引き起こされる[[イオン]]の移動([[水素]]イオン濃度勾配や[[ナトリウム]]イオン濃度勾配)に伴うエネルギーによって駆動される<ref>{{Cite book|author=Seiji Kojima, David F Blair|title=The bacterial flagellar motor: structure and function of a complex molecular machine|volume=233|pages=93–134|year=2004|pmid=15037363|doi=10.1016/S0074-7696(04)33003-2|isbn=978-0-12-364637-8|series=International Review of Cytology}}</ref>。古細菌の鞭毛と見た目は酷似するが、その起源と構造は異なると考えられている{{要出典|date=2020年2月}}。 鞭毛よりも小型の繊維構造として、線毛がある。[[性繊毛|線毛]](「付着線毛」と呼ばれることもある)は、[[ピリン]]というタンパク質が主要構成分の細いフィラメントで、通常は直径2〜10ナノメートル、長さは最大数マイクロメートル程度である。それらは細胞の表面全体に分布しており、[[電子顕微鏡]]で見ると細い毛のように見える{{Sfn|Wheelis|2008|p=76}}<ref name="hiramatsu"/>。線毛は、固体表面または他の細胞への付着に関与していると考えられており、いくつかの細菌性病原体の病原性に不可欠である<ref name="pmid33614531">{{Cite journal|author=Cheng, Rachel A and Wiedmann, Martin|date=2020|title=Recent Advances in Our Understanding of the Diversity and Roles of Chaperone-Usher Fimbriae in Facilitating Salmonella Host and Tissue Tropism|journal=Frontiers in Cellular and Infection Microbiology|volume=10|issue=|pages=628043|DOI=10.3389/fcimb.2020.628043|PMID=33614531|PMC=7886704}}</ref>。細胞から突起している、[[繊毛]]よりも若干大きいような[[性繊毛|線毛]]は、細胞接合を通じて細胞間で遺伝物質を転送することができるような繊毛である。これは[[性繊毛|共役線毛]]又は性線毛と呼ばれる<ref>{{Cite journal|date=February 1997|title=Towards a structural biology of bacterial conjugation|journal=Molecular Microbiology|volume=23|issue=3|pages=423–29|DOI=10.1046/j.1365-2958.1997.2411604.x|PMID=9044277}}</ref>。また、タイプIV線毛と呼ばれる繊毛では、細胞の運動性を作り出すこともできる<ref>{{Cite journal|date=June 2015|title=Secretion systems in Gram-negative bacteria: structural and mechanistic insights|journal=Nature Reviews. Microbiology|volume=13|issue=6|pages=343–59|DOI=10.1038/nrmicro3456|PMID=25978706}}</ref>。 [[グリコカリックス]]は多くの細菌で見られ、細胞を取り囲むように生成される<ref name="pmid34130219">{{Cite journal|date=July 2021|title=Dismantling the bacterial glycocalyx: Chemical tools to probe, perturb, and image bacterial glycans|journal=Bioorganic & Medicinal Chemistry|volume=42|issue=|pages=116268|DOI=10.1016/j.bmc.2021.116268|ISSN=0968-0896|PMID=34130219|PMC=8276522}}</ref>。構造化されていない無秩序な粘液層による[[細胞外高分子物質]]から、高度に構造化された[[莢膜]]まで、多様な複雑さの構造が見られる。これらの構造は、[[マクロファージ]](ヒト[[免疫系]]の一部)などの真核細胞による飲み込みから細胞の保護に役立つ<ref>{{Cite journal|date=October 2004|title=The glycan-rich outer layer of the cell wall of Mycobacterium tuberculosis acts as an antiphagocytic capsule limiting the association of the bacterium with macrophages|journal=Infection and Immunity|volume=72|issue=10|pages=5676–86|DOI=10.1128/IAI.72.10.5676-5686.2004|PMID=15385466|PMC=517526}}</ref>。それらはまた、[[抗原]]として作用し、細胞認識に関与するだけでなく、表面への付着やバイオフィルム形成に寄与する<ref name="pmid31320388">{{Cite journal|date=July 2019|title=The Mycobacterium tuberculosis capsule: a cell structure with key implications in pathogenesis|journal=The Biochemical Journal|volume=476|issue=14|pages=1995–2016|DOI=10.1042/BCJ20190324|PMID=31320388|PMC=6698057}}</ref>。 このような細胞外構造の形成には、[[分泌]]システムが大きく関係している。分泌システムはタンパク質を細胞質からペリプラズムまたは細胞周辺の環境に移動させる機能を持つ。多くの種類の分泌システムが知られており、これらの構造は病原体の病原性に不可欠であることが多いため、集中的に研究されている<ref name="pmid313203882">{{Cite journal|author=Kalscheuer, Rainer, et al.|date=July 2019|title=The Mycobacterium tuberculosis capsule: a cell structure with key implications in pathogenesis|journal=The Biochemical Journal|volume=476|issue=14|pages=1995–2016|DOI=10.1042/BCJ20190324|PMID=31320388|PMC=6698057}}</ref>。 === 細胞膜内構造 === [[ファイル:Dvulgaris micrograph.JPG|230px|thumb|''Desulfovibrio vulgaris''(グラム陰性菌)]] 細胞膜は[[真核生物]]と同じく''sn''-[[グリセロール3-リン酸]]に[[脂肪酸]]が結合した[[エステル]]型[[脂質]]であり、''sn''-[[グリセロール1-リン酸]]に[[テルペン|イソプレノイド]][[アルコール]]が結合している古細菌とは明確に区別される([[古細菌#細胞膜|古細菌の項]]も参照)<ref>{{Cite journal|last=Koga|first=Yosuke|date=2011-03-01|title=Early Evolution of Membrane Lipids: How did the Lipid Divide Occur?|url=https://doi.org/10.1007/s00239-011-9428-5|journal=Journal of Molecular Evolution|volume=72|issue=3|pages=274–282|language=en|doi=10.1007/s00239-011-9428-5|issn=1432-1432}}</ref>。細胞膜には電子伝達系や各種輸送体、各種センサーなどに関連するタンパク質が分布している{{要出典|date=2020年2月}}。内部構造は真核生物の様な明瞭な単位膜系はあまりないが、種によっては[[チラコイド]]、DNAを包む核膜様構造が見られることもある([[PVC群|PVCグループ]]の一部)<ref>{{Cite journal|last=Fuerst|first=John A.|last2=Sagulenko|first2=Evgeny|date=2011-06|title=Beyond the bacterium: planctomycetes challenge our concepts of microbial structure and function|url=http://www.nature.com/articles/nrmicro2578|journal=Nature Reviews Microbiology|volume=9|issue=6|pages=403–413|language=en|doi=10.1038/nrmicro2578|issn=1740-1526}}</ref>。DNAはHU<ref>{{Cite journal|last=Azam|first=Talukder Ali|last2=Ishihama|first2=Akira|date=1999-11-12|title=Twelve Species of the Nucleoid-associated Protein from Escherichia coli: SEQUENCE RECOGNITION SPECIFICITY AND DNA BINDING AFFINITY *|url=https://www.jbc.org/article/S0021-9258(17)46620-8/abstract|journal=Journal of Biological Chemistry|volume=274|issue=46|pages=33105–33113|language=English|doi=10.1074/jbc.274.46.33105|issn=0021-9258|pmid=10551881}}</ref>と呼ばれるタンパク質と結合して核様態という形で凝集しているが、真核生物や古細菌の様に[[ヒストン]]に巻きついて[[クロマチン]]構造をとることはない{{要出典|date=2020年2月}}。DNAは環状一分子が一般的だが、稀に直線状のDNAを持つ細菌や、複数のDNAを持つ細菌もいる{{要出典|date=2020年2月}}。 === 内生胞子 === [[ファイル:Gram_Stain_Anthrax.jpg|代替文=Anthrax stained purple|右|サムネイル|[[脳脊髄液|脳脊髄液中]]で''増殖する[[炭疽菌]]''(紫色に染色されたもの)<ref name="pmid11747719">{{Cite journal|author=Jernigan, John A., et al.|date=2001|title=Bioterrorism-Related Inhalational Anthrax: The First 10 Cases Reported in the United States|journal=Emerging Infectious Diseases|volume=7|issue=6|pages=933–44|DOI=10.3201/eid0706.010604|PMID=11747719|PMC=2631903}}</ref>]] [[バシラス属|バチルス]]、[[クロストリジウム属|クロストリジウム]]、''[[:en:Sporohalobacter|Sporohalobacter]]''、''[[:en:Anaerobacter|Anaerobacter]]''、''[[:en:Heliobacteria|Heliobacterium]]''などのグラム陽性菌のいくつかの[[属 (分類学)|属]]は、内生胞子(芽胞、endospore)と呼ばれる非常に耐性のある休眠構造を形成することがある<ref>{{Cite journal|author=Nicholson, Wayne L and Munakata, Nobuo and Horneck, Gerda and Melosh, Henry J and Setlow, Peter|date=September 2000|title=Resistance of ''Bacillus'' endospores to extreme terrestrial and extraterrestrial environments|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=64|issue=3|pages=548–72|DOI=10.1128/MMBR.64.3.548-572.2000|PMID=10974126|PMC=99004}}</ref>。内生胞子は細胞の細胞質内で発達する。一般的に、各細胞ごとに単一の内生胞子が発生する<ref name="McKenney">{{Cite journal|date=January 2013|title=The Bacillus subtilis endospore: assembly and functions of the multilayered coat|journal=Nature Reviews. Microbiology|volume=11|issue=1|pages=33–44|DOI=10.1038/nrmicro2921|PMID=23202530}}</ref>。各内生胞子は皮質層に囲まれ、[[ペプチドグリカン]]や様々なタンパク質で構成される多層の堅いコートで保護された[[デオキシリボ核酸|DNA]]と[[リボソーム]]のコアを含んでいる<ref name="McKenney" />。 内生胞子からは代謝活動は検出されず、高レベルの紫外線や[[ガンマ線]]、[[洗剤]]、[[消毒薬|消毒剤]]、熱、凍結、圧力、[[乾燥]]などの極端な物理的および化学的ストレスに耐えることができる<ref>{{Cite journal|date=August 2002|title=Bacterial endospores and their significance in stress resistance|journal=Antonie van Leeuwenhoek|volume=81|issue=1–4|pages=27–32|DOI=10.1023/A:1020561122764|PMID=12448702}}</ref>。この休眠状態において、これらの生物は、何百万年も「生存」し続けることができる<ref>{{Cite journal|date=October 2000|title=Isolation of a 250 million-year-old halotolerant bacterium from a primary salt crystal|journal=Nature|volume=407|issue=6806|pages=897–900|bibcode=2000Natur.407..897V|DOI=10.1038/35038060|PMID=11057666}}</ref><ref>{{Cite journal|date=May 1995|title=Revival and identification of bacterial spores in 25- to 40-million-year-old Dominican amber|journal=Science|volume=268|issue=5213|pages=1060–64|bibcode=1995Sci...268.1060C|DOI=10.1126/science.7538699|PMID=7538699}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/1375505.stm|title=Row over ancient bacteria|date=7 June 2001|newspaper=[[英国放送協会|BBC News]]|accessdate=26 April 2020|language=en-GB}}</ref>。さらに、内生胞子は[[宇宙空間]]の[[真空]]や放射線にも耐えることができるため、細菌は[[宇宙]]ダストや[[流星物質]]、[[小惑星]]、[[彗星]]、[[太陽系小天体|プラネトイド]]、有向[[パンスペルミア]]などを通じて、宇宙空間中を移動し分散することも可能なのではないかと考えられている<ref>{{Cite journal|date=April 2005|title=The solar UV environment and bacterial spore UV resistance: considerations for Earth-to-Mars transport by natural processes and human spaceflight|journal=Mutation Research|volume=571|issue=1–2|pages=249–64|DOI=10.1016/j.mrfmmm.2004.10.012|PMID=15748651}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.economist.com/science-and-technology/2018/04/12/colonising-the-galaxy-is-hard-why-not-send-bacteria-instead|title=Colonising the galaxy is hard. Why not send bacteria instead?|date=12 April 2018|newspaper=The Economist|accessdate=26 April 2020|issn=0013-0613}}</ref>。内生胞子を形成する細菌にはまた、疾患引き起こすものが知られている。例えば[[炭疽症]]は吸入された[[炭疽菌]](''Bacillus anthracis'')の内生胞子によって引き起こされることがある。破傷風は[[破傷風菌]]の芽胞が原因で引き起こされることがあり、これと類似して[[ボツリヌス症]]も芽胞から成長した細胞が分泌する毒素によって引き起こされる<ref name="pmid31111816">{{Cite journal|date=May 2019|title=Virulence Plasmids of the Pathogenic Clostridia|journal=Microbiology Spectrum|volume=7|issue=3|pages=|DOI=10.1128/microbiolspec.GPP3-0034-2018|PMID=31111816}}</ref>。医療現場で問題となる[[クロストリジウム・ディフィシル]]感染症も胞子形成細菌によって引き起こされる場合がある<ref name="pmid34245901">{{Cite journal|date=July 2021|title=How to: prophylactic interventions for prevention of Clostridioides difficile infection|journal=Clinical Microbiology and Infection|volume=27|issue=12|pages=1777–1783|DOI=10.1016/j.cmi.2021.06.037|PMID=34245901}}</ref>。 == 代謝と物質循環 == バクテリアは非常に多種多様な[[代謝]]を示す<ref>{{Cite journal|date=January 1999|title=Post-Viking microbiology: new approaches, new data, new insights|journal=Origins of Life and Evolution of the Biosphere|volume=29|issue=1|pages=73–93|bibcode=1999OLEB...29...73N|DOI=10.1023/A:1006515817767|PMID=11536899}}</ref>。細菌のグループ内の代謝特性の分布は、伝統的に細菌の[[分類学|分類法]]を定義する際に利用されてきました。ただしこれらの特性は、現在主流となっている[[遺伝学]]的な系統分類法とは対応がつかないものも多い<ref>{{Cite journal|date=June 2006|title=Microbial ecology in the age of genomics and metagenomics: concepts, tools, and recent advances|journal=Molecular Ecology|volume=15|issue=7|pages=1713–31|DOI=10.1111/j.1365-294X.2006.02882.x|PMID=16689892}}</ref>。細菌の代謝はエネルギー源、[[電子供与体]]、および成長に使用される[[炭素]]源、という3つの主要な基準に基づいた[[栄養的分類|栄養グループ]]に分類される<ref>{{Cite journal|date=December 1991|title=Comparative biochemistry of Archaea and Bacteria|journal=Current Opinion in Genetics & Development|volume=1|issue=4|pages=544–51|DOI=10.1016/S0959-437X(05)80206-0|PMID=1822288}}</ref>。それぞれの資源としてどのようなものを利用できるかによって以下のような分類がある。(詳細は「[[栄養的分類]]」参照) * エネルギー源 ** 光栄養生物 - 光をエネルギー源として利用できる([[光化学反応|光リン酸化]]を行う) ** 化学栄養生物 - 化学エネルギーをエネルギー源として依存する([[呼吸鎖複合体|酸化的リン酸化]]を行う) * 炭素源 ** [[独立栄養生物|独立栄養]] - 炭素源として[[二酸化炭素]]を利用できる([[炭素固定]]と呼ばれる) ** [[従属栄養生物|従属栄養]] - 炭素源として[[有機物]]に依存する ** [[混合栄養]] - 独立栄養および従属栄養の混在したもの これらの、エネルギー源および炭素源の組み合わせによって、多くの生物の栄養要求性を説明できる。動物は主として有機物を酸化してエネルギーを得る化学合成従属栄養生物であり、植物は光エネルギーにて二酸化炭素を還元して固定する光合成独立栄養生物である。しかしながら微生物には、これら以外にも光合成従属栄養性と化学合成独立栄養性を示す生物群がいる。この二つの特徴ある生物群のうち、化学合成独立栄養性を示すものについては物質循環の中でも重要な役割を担っている。また[[硫黄酸化細菌]]、[[水素細菌]]などは、太陽エネルギーに依存しない生態系である[[熱水噴出孔|深海熱水孔]]や地下生物圏での[[一次生産者]]の役割を果たしていると考えられている{{要出典|date=2020年2月}}。 細菌は、太陽光から[[光合成]]を通じて得られたエネルギーを利用するもの([[光栄養生物]];[[:en:Phototrophy|phototrophy]])や、化学化合物を酸化反応によってエネルギーを獲得するもの([[化学合成生物]];chemotrophy)が含まれる<ref name="MicroMetab">{{Cite book|title=Microbiology: An Evolving Science|edition=3|publisher=WW Norton & Company|pages=491–44}}</ref>。化学合成生物は、[[酸化還元反応]]により特定の[[電子受容体|電子供与体]]から末端電子受容体に電子を移動させることにより、エネルギー源として化学化合物を利用している。化学栄養生物は、電子を伝達するために利用している化合物の種類によって、さらに細かく分類される。例えば[[電子供与体|電子源]]として水素や[[一酸化炭素]]、[[アンモニア]]などの無機化合物を使用する細菌は[[Lithotroph|リソトロフ]]([[:en:Lithotroph|lithotrophs]])と呼ばれ、有機化合物を利用するものはオルガノトロフ([[:en:Organotroph|organotrophs]])と呼ばれる<ref name="MicroMetab" />。電子を受け取るために使用される化合物もまた、細菌の分類にも利用されている。例えば[[好気性生物]]と呼ばれるグループは末端電子受容体として[[酸素]]を利用し、[[嫌気性生物]]は[[硝酸塩]]、[[硫酸塩]]、二酸化炭素などの他の化合物を使用する<ref name="MicroMetab" />。 [[有機化合物]]から炭素を取得し細胞生育に利用する細菌グループは、[[従属栄養生物|従属栄養]]と呼ばれる。一方で、[[藍藻|シアノバクテリア]]や一部の[[紅色細菌]]などの細菌は[[独立栄養生物|独立栄養性]]であり、[[二酸化炭素]]を[[炭素固定|固定]]することで細胞生育に利用する炭素を獲得する<ref>{{Cite journal|year=1994|title=Photobiology of bacteria|url=http://dare.uva.nl/personal/pure/en/publications/photobiology-of-bacteria(61d4ae31-4ab8-4c2c-aeed-f9d9143155ca).html|journal=Antonie van Leeuwenhoek|volume=65|issue=4|pages=331–47|DOI=10.1007/BF00872217|PMID=7832590}}</ref>。特殊な環境において見られる[[メタノトロフ]]と呼ばれるグループでは、ガス状の[[メタン]]を炭素源として使用し、かつ[[電子]]供与体として活用している<ref>{{Cite journal|date=June 2005|title=The Leeuwenhoek Lecture 2000 the natural and unnatural history of methane-oxidizing bacteria|journal=Philosophical Transactions of the Royal Society of London. Series B, Biological Sciences|volume=360|issue=1458|pages=1207–22|DOI=10.1098/rstb.2005.1657|PMID=16147517|PMC=1569495}}</ref>。 {| class="wikitable" style="margin-left: auto; margin-right: auto;" !栄養タイプ !エネルギー源 !炭素源 !例 |- |[[光栄養生物|光合成生物]] | style="text-align:center;" |日光 | style="text-align:center;" |有機化合物(光合成従属栄養生物)または炭素固定(光合成従属栄養生物) |[[藍藻|シアノバクテリア]]、[[緑色硫黄細菌]]、[[クロロフレクサス門|クロロフレクサス]]菌、[[紅色細菌]] |- |リソトロフ | style="text-align:center;" |無機化合物 | style="text-align:center;" |有機化合物(リソヘテロトロフ)または炭素固定(リソオートトロフ) |[[サーモデスルフォバクテリア門|サーモデスルフォバクテリア]]、[[ヒドロゲノフィラス]]、[[ニトロスピラ門|ニトロスピラ]] |- |[[有機栄養素]] | style="text-align:center;" |有機化合物 | style="text-align:center;" |有機化合物(化学ヘテロトロフ)または炭素固定(化学オートトロフ) |''[[バシラス属|Bacillus]]''、''[[クロストリジウム属|Clostridium]]''、[[腸内細菌科|Enterobacteriaceae]]など |} 細菌の代謝は、生態学的安定性を与えるとともに、人間社会にも役立っている。例えば、[[窒素固定菌]](diazotrophs)は、空気中に安定して存在している窒素を[[ニトロゲナーゼ]]を利用して[[窒素固定]]する機能を持つ<ref name="pmid34108945">{{Cite journal|date=2021|title=Diazotrophs for Lowering Nitrogen Pollution Crises: Looking Deep Into the Roots|journal=Frontiers in Microbiology|volume=12|issue=|pages=637815|DOI=10.3389/fmicb.2021.637815|PMID=34108945|PMC=8180554}}</ref>。この環境的に重要な特性を持つような細菌種は、上記の表中のほぼすべての代謝タイプで知られている<ref>{{Cite journal|date=July 2003|title=Nitrogenase gene diversity and microbial community structure: a cross-system comparison|journal=Environmental Microbiology|volume=5|issue=7|pages=539–54|DOI=10.1046/j.1462-2920.2003.00451.x|PMID=12823187}}</ref>。窒素固定の機能は、[[脱窒]]や硫酸塩還元、[[酢酸]]生成といった生態学的に重要な下流のプロセスにつながる<ref name="pmid32559887">{{Cite journal|date=October 2020|title=Wastewater Treatment using the "Sulfate Reduction, DenitrificationAnammox and Partial Nitrification (SRDAPN)" Process|journal=Chemosphere|volume=256|issue=|pages=127092|bibcode=2020Chmsp.256l7092K|DOI=10.1016/j.chemosphere.2020.127092|PMID=32559887}}</ref>。また、窒素はタンパク質の[[アミノ基]]に含まれるなど生物体の構成要素として非常に重要である。 細菌の代謝過程は、汚染に対する生物学的反応においても重要である。たとえば硫酸塩還元細菌は、環境中での毒性の高い形態の水銀([[メチル水銀]]および[[ジメチル水銀]])の生成に大きく関与している<ref>{{Cite journal|year=1998|title=The chemical cycle and bioaccumulation of mercury|journal=[[Annual Review of Ecology and Systematics]]|volume=29|pages=543–66|DOI=10.1146/annurev.ecolsys.29.1.543}}</ref>。非呼吸性嫌気性菌は[[発酵]]を利用してエネルギーを獲得し、代謝副産物([[醸造]]中の[[エタノール]]など)を廃棄物として分泌する。[[通性嫌気性生物|通性嫌気性菌]]は、自分自身がいる環境条件に応じて、[[電子受容体|発酵と異なる末端電子受容体]]を切り替えることができる<ref name="pmid30862543">{{Cite journal|date=August 2019|title=How to define obligatory anaerobiosis? An evolutionary view on the antioxidant response system and the early stages of the evolution of life on Earth|journal=Free Radical Biology & Medicine|volume=140|pages=61–73|DOI=10.1016/j.freeradbiomed.2019.03.004|PMID=30862543}}</ref>。 細菌は生物量としても真核生物を凌駕しており、またその[[呼吸]]活性においても同様で、多細胞生物体と細菌1gの呼吸活性を比較すると細菌のほうが数百倍大きいと言われている{{要出典|date=2020年2月}}。肥沃な土壌4000m<sup>2</sup>あたりの細菌の呼吸活性は数万人の人間に等しいとされる{{要出典|date=2020年2月}}。これは細胞が小さく体積あたりの呼吸活性を示す表面積の割合が大きいこと、世代時間が短いことがその要因であろう{{要出典|date=2020年2月}}。呼吸速度([[炭素]]、[[水素]]、[[酸素]]の循環)のみならず、生物を構成している[[窒素]]、[[硫黄]]の地球全体の物質循環に寄与しているが、後者の多くは酸素を嫌う[[嫌気呼吸|嫌気性呼吸]]を伴う{{要出典|date=2020年2月}}。 === 硫黄循環 === 硫黄は主に地殻中に豊富に存在し、元素状硫黄は不溶性だが、これも光反応や高熱により[[硫化水素]]や[[硫酸イオン]]として自然界に存在する。これを有機物の形で取り入れ、再び水溶性の硫酸塩や硫化水素として排出していく過程を[[硫黄循環]]と呼ぶ。有機物中に存在する硫黄は反応性が高く重要なアミノ酸に含まれている([[メチオニン]]、[[システイン]]など)。硫酸塩のみが植物によって同化されるが、有機物態硫黄の分解(最終産物は[[硫化水素]])、硫黄酸化(硫化水素から硫酸塩に戻す)、硫酸還元(硫酸塩を異化的に還元する)などは細菌に特有な代謝系である(古細菌にもこのような代謝系を有するものが見つかっている){{要出典|date=2020年2月}}。 == 成長と増殖 == [[ファイル:Three_cell_growth_types.svg|代替文=drawing of showing the processes of binary fission, mitosis, and meiosis|サムネイル|多くの細菌は、真核生物に見られる[[有糸分裂]]や[[減数分裂|減数]]分裂(右)とは異なり、複製されたDNAの二分割(左)によって増殖をする。]] 多細胞生物とは異なり、単細胞生物では細胞サイズの増加(細胞増殖)と[[細胞分裂]]は密接に関連している。細菌細胞は一定のサイズに成長し、その後、[[無性生殖]]の一形態である[[分裂|二分裂]]によって細胞数を増加させる<ref>{{Cite journal|year=2002|title=Control of the bacterial cell cycle by cytoplasmic growth|journal=Critical Reviews in Microbiology|volume=28|issue=1|pages=61–77|DOI=10.1080/1040-840291046696|PMID=12003041}}</ref>。最適な条件下では細菌は非常に急速に分裂増殖し、ある種の細菌では17分ごとに2倍のスピードで増殖することが知られている{{Sfn|Pommerville|2014|p=138}}。細胞分裂では、2つの同一の[[分子クローニング|クローン]]娘細胞が生成される。一部の細菌はより複雑な生殖構造を形成し、新しく形成された娘細胞を分散させる。例えば、[[粘液細菌]]による子実体の形成や、''[[ストレプトマイセス属|ストレプトマイセス]]''[[菌糸|種による気中菌糸の]]形成、または出芽などが挙げられる。出芽には、細胞が突起を形成し、それが壊れて娘細胞を生成する形態も知られている{{Sfn|Pommerville|2014|p=557}}。また、同時に3つ以上に分裂する場合や、[[出芽]]によって増えるもの、[[接合 (生物)|接合]]してDNAの一部を交換するもの、[[芽胞]]などを形成するものが存在する{{要出典|date=2020年2月}}。 増殖に際しては[[DNA複製]]が行われる。DNA複製は真核生物、細菌で異なる点がある(古細菌ではよく分かっていないが真核生物に類似すると考えられている{{要出典|date=2020年2月}})。細菌では大腸菌で最もDNA複製機構の研究が進んでいる{{要出典|date=2020年2月}}。複製はDNA上に一箇所存在する[[複製開始点]]から開始され、双方向へ複製が進んでいく。 実験室では、細菌は通常、固体または液体の培地を利用して培養する{{Sfn|Wheelis|2008|p=42}}。[[寒天培地|寒天プレート]]などの固体[[培地]]は、細菌株の純粋な培養物を分離するために使用される。一方で液体培地は、大量の細胞が必要となる場合に利用される。液体培地での培養では細菌細胞が均一に懸濁されるため、その中から単一の細菌種を分離することは困難である、培養物を簡単に分割したり移動させることができます。選択培地(特定の栄養素を追加したり不足させたりしている培地や、抗生物質などが添加されている培地)を使用すると、特定の機能を持つ生物種だけを選択的に培養させることができる<ref name="Thomson">{{Cite journal|date=December 2001|title=Laboratory diagnosis of central nervous system infections|journal=Infectious Disease Clinics of North America|volume=15|issue=4|pages=1047–71|DOI=10.1016/S0891-5520(05)70186-0|PMID=11780267}}</ref>。 実験室においては多くの場合、非常に富栄養な培地を利用して大量の細胞を安価かつ迅速に生産するように培養することが一般的である{{Sfn|Wheelis|2008|p=42}}。しかしながら本来の自然環境では栄養素は限られており、細菌が無期限に繁殖し続けることができない。この栄養制限は、さまざまな成長戦略の進化をもたらしてきており、例えば[[R-K戦略説|R-K選択説]]などが有名である。夏期に湖で頻繁に発生する[[水の華|藻類]](およびシアノバクテリア)の異常発生などに見られるように、環境中で利用可能な栄養素が増加することで、一部の生物は非常に急速に成長することがある<ref>{{Cite journal|date=April 2001|title=Harmful freshwater algal blooms, with an emphasis on cyanobacteria|journal=TheScientificWorldJournal|volume=1|pages=76–113|DOI=10.1100/tsw.2001.16|PMID=12805693|PMC=6083932}}</ref>。また別の戦略として、放線菌などに見られるように複数の抗生物質を生産などして、競合する微生物の成長を阻害する戦略で過酷な環境に適応するものもいる<ref>{{Cite journal|date=November 2003|title=Synergy and contingency as driving forces for the evolution of multiple secondary metabolite production by Streptomyces species|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America|volume=100 Suppl 2|issue=90002|pages=14555–61|bibcode=2003PNAS..10014555C|DOI=10.1073/pnas.1934677100|PMID=12970466|PMC=304118}}</ref>。自然界では多くの微生物は、栄養素の供給を増やし環境ストレスから保護することができるようなコミュニティ([[バイオフィルム]]など)に生息している<ref name="Davey2">{{Cite journal|date=December 2000|title=Microbial biofilms: from ecology to molecular genetics|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=64|issue=4|pages=847–67|DOI=10.1128/MMBR.64.4.847-867.2000|PMID=11104821|PMC=99016}}</ref>。このような関係は、特定の細菌系統において生育に不可欠な要素であることがあり、栄養共生(syntrophy)と呼ばれる<ref>{{Cite journal|date=August 2003|title=Quantitative steps in symbiogenesis and the evolution of homeostasis|journal=Biological Reviews of the Cambridge Philosophical Society|volume=78|issue=3|pages=435–63|DOI=10.1017/S1464793102006127|PMID=14558592}}</ref>。 細菌の増殖は4つの段階をたどる。細菌集団が最初に高栄養環境に晒されると、細胞はその新しい環境に適応する必要がある。そのため、成長の最初の段階は[[増殖曲線|遅滞期]]であり、これは細胞が高栄養環境に適応し、急速な成長の準備をしているときのゆっくりとした成長期間であるとみなせる。遅滞期は、急速な成長に必要なタンパク質が生成されるため、生合成速度が高まる<ref>{{Cite journal|year=2019|title=Lag Phase is a Dynamic, Organized, Adaptive, and Evolvable Period that Prepares Bacteria for Cell Division|journal=Journal of Bacteriology|volume=201|issue=7|pages=e00697-18|DOI=10.1128/JB.00697-18|PMID=30642990|PMC=6416914}}</ref><ref>{{Cite journal|date=August 2006|title=Individual-based modelling of bacterial cultures to study the microscopic causes of the lag phase|journal=Journal of Theoretical Biology|volume=241|issue=4|pages=939–53|bibcode=2006JThBi.241..939P|DOI=10.1016/j.jtbi.2006.01.029|PMID=16524598}}</ref>。成長の第2段階は[[増殖曲線|対数増殖段階]]であり、指数増殖段階とも呼ばれる。対数期は急速な[[指数関数的成長]]によって特徴づけられる。この段階で細胞が''成長する速度''は成長速度(''k'')と呼ばれ、細胞が2倍になるのにかかる''時間は生成時間''(''g'')と呼ばれる。対数期の間、栄養素が枯渇し成長に制限がかかり始めるまで、栄養素は最大速度で代謝され続ける。成長の第3段階は''[[増殖曲線|定常期で]]''あり、栄養素の枯渇によって引き起こされる。細胞は代謝活性を低下させ、必須ではない細胞タンパク質を消費してゆく。定常期は急速な成長からストレス反応への状態移行であり[[DNA修復|、DNA修復]]、[[抗酸化物質|抗酸化代謝]]、[[能動輸送|栄養素輸送]]に関与する[[遺伝子発現|遺伝子の発現]]が増加する<ref>{{Cite book|title=General stress response of Bacillus subtilis and other bacteria|volume=44|pages=35–91|year=2001|pmid=11407115|doi=10.1016/S0065-2911(01)44011-2|isbn=978-0-12-027744-5|series=Advances in Microbial Physiology}}</ref>。最終段階は、細菌が全ての栄養素を使い果たして死ぬ段階である<ref>{{Cite book|title=Microbiology: An Evolving Science|edition=3|publisher=WW Norton & Company|page=143}}</ref>。 == ゲノムと遺伝子 == [[ファイル:Escherichia_coli_with_phages.jpg|サムネイル|大腸菌に感染する[[T4ファージ]]を示す[[走査型ヘリウムイオン顕微鏡|ヘリウムイオン顕微鏡]]画像。付着したファージのいくつかは尾が収縮しており、DNAを宿主に注入したことを示している。細菌細胞の幅は約0.5µmである <ref>{{Cite journal|last=Leppänen|first=Miika|last2=Sundberg|first2=Lotta-Riina|last3=Laanto|first3=Elina|last4=De Freitas Almeida|first4=Gabriel Magno|last5=Papponen|first5=Petri|last6=Maasilta|first6=Ilari J.|year=2017|title=Imaging Bacterial Colonies and Phage-Bacterium Interaction at Sub-Nanometer Resolution Using Helium-Ion Microscopy|url=http://urn.fi/URN:NBN:fi:jyu-202006043941|journal=Advanced Biosystems|volume=1|issue=8|pages=e1700070|DOI=10.1002/adbi.201700070|PMID=32646179}}</ref>。]] ほとんどの細菌は単一の環状[[染色体]]を持っており、そのサイズは、[[内生生物|内共生]]細菌''[[カルソネラ・ルディアイ|Carsonella ruddii]]''ではわずか160,000塩基対<ref>{{Cite journal|date=October 2006|title=The 160-kilobase genome of the bacterial endosymbiont Carsonella|journal=Science|volume=314|issue=5797|page=267|DOI=10.1126/science.1134196|PMID=17038615}}</ref>であるのに対し、土壌性細菌''[[ソランギウム|Sorangium cellulosum]]''では12,200,000塩基対(12.2 Mbp)と、さまざまである<ref>{{Cite journal|date=December 2002|title=Characterisation, genome size and genetic manipulation of the myxobacterium Sorangium cellulosum So ce56|journal=Archives of Microbiology|volume=178|issue=6|pages=484–92|DOI=10.1007/s00203-002-0479-2|PMID=12420170}}</ref>。また染色体の形と数にも例外が知られており、たとえば一部の[[ストレプトマイセス属]]と[[ボレリア]]属の種は単一の線形染色体を持ち<ref name=":02">{{Cite journal|date=December 1993|title=Linear plasmids and chromosomes in bacteria|url=https://zenodo.org/record/1230611|journal=Molecular Microbiology|volume=10|issue=5|pages=917–22|DOI=10.1111/j.1365-2958.1993.tb00963.x|PMID=7934868}}</ref><ref>{{Cite journal|date=December 1993|title=The chromosomal DNA of Streptomyces lividans 66 is linear|journal=Molecular Microbiology|volume=10|issue=5|pages=923–33|DOI=10.1111/j.1365-2958.1993.tb00964.x|PMID=7934869}}</ref>、一部の[[ビブリオ属|ビブリオ]]属種は複数の染色体を持っている<ref name=":1">{{Cite journal|date=December 2014|title=Management of multipartite genomes: the Vibrio cholerae model|url=https://hal-pasteur.archives-ouvertes.fr/pasteur-01163283/document|journal=Current Opinion in Microbiology|volume=22|pages=120–26|DOI=10.1016/j.mib.2014.10.003|PMID=25460805}}</ref>。細菌はまた、[[プラスミド]]などのDNAの小さな染色体外分子を持ち、ここに[[抗生物質耐性]]、代謝能力、[[ビルレンス|病原性因子]]などの様々な機能遺伝子を含むことがある<ref name="pmid26104369">{{Cite journal|date=October 2014|title=Historical events that spawned the field of plasmid biology|journal=Microbiology Spectrum|volume=2|issue=5|pages=3|DOI=10.1128/microbiolspec.PLAS-0019-2013|PMID=26104369}}</ref>。 細菌[[ゲノム]]は通常、数百から数千の遺伝子をコードしている。細菌ゲノムにおいては通常、遺伝子は単純に連続してDNA状に分布しているが、まれに異なるタイプのイントロンが存在するものもある<ref>{{Cite journal|date=July 1995|title=Prokaryotic introns and inteins: a panoply of form and function|journal=Journal of Bacteriology|volume=177|issue=14|pages=3897–903|DOI=10.1128/jb.177.14.3897-3903.1995|PMID=7608058|PMC=177115}}</ref>。 細菌は無性生物であり、細胞分裂の際には親のゲノムと同一のコピーを継承する[[クローン]]体である。 しかし、全ての細菌は、遺伝子組換えや[[突然変異]]によって[[デオキシリボ核酸|遺伝物質DNA]]に変化が引き起こされ、その変異が選択されることによって進化してゆく。突然変異は、DNAの複製中に生じたエラーや[[変異原]]物質(例えば[[紫外線]]や放射線など)への曝露によって生じる。突然変異率は、細菌の種類によって大きく異なり、また単一細菌のクローン内であっても大きく異なる<ref>{{Cite journal|date=May 2006|title=Evolution of mutation rates in bacteria|journal=Molecular Microbiology|volume=60|issue=4|pages=820–27|DOI=10.1111/j.1365-2958.2006.05150.x|PMID=16677295}}</ref>。細菌ゲノムの遺伝的変化は、複製中のランダムな突然変異以外にも、ストレス指向性の突然変異からも生じ、この場合、特定の成長制限プロセスに関与する遺伝子の突然変異率が高くなる<ref>{{Cite journal|date=May 2004|title=Stress-directed adaptive mutations and evolution|journal=Molecular Microbiology|volume=52|issue=3|pages=643–50|DOI=10.1111/j.1365-2958.2004.04012.x|PMID=15101972}}</ref>。 一部の細菌は、細胞間で遺伝物質を移動させる。これには、主に3つの方法が知られている。 * 1つ目は[[形質転換]]と呼ばれるプロセスで、細胞外の外因性DNAを取り込む仕組みである<ref>{{Cite journal|date=March 2004|title=DNA uptake during bacterial transformation|journal=Nature Reviews. Microbiology|volume=2|issue=3|pages=241–49|DOI=10.1038/nrmicro844|PMID=15083159}}</ref>。多くの細菌はこの取り込み機能を持っているが、DNAを取り込むためには化学的な誘導が必要となる細菌もいる<ref>{{Cite journal|date=December 2007|title=Natural genetic transformation: prevalence, mechanisms and function|journal=Research in Microbiology|volume=158|issue=10|pages=767–78|DOI=10.1016/j.resmic.2007.09.004|PMID=17997281}}</ref>。自然界でのDNA取り込み能力の発達は、環境からのストレスの多さと関連しており、細胞のDNA損傷の修復を促進するための適応であると考えられている<ref>Bernstein H, Bernstein C, Michod RE (2012).</ref>。 * 2番めは形質導入と呼ばれるプロセスであり、これは[[ファージ|バクテリオファージ]]の感染によって外来DNAの遺伝物質が細胞内の染色体に導入されるものである。非常に多様なバクテリオファージが存在することが知られており、それらには[[宿主]]細菌に感染して溶菌してしまうものもあれば、プロファージとして細菌の染色体に挿入されるものもある<ref>{{Cite journal|date=September 2004|title=Phages and the evolution of bacterial pathogens: from genomic rearrangements to lysogenic conversion|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=68|issue=3|pages=560–602, table of contents|DOI=10.1128/MMBR.68.3.560-602.2004|PMID=15353570|PMC=515249}}</ref>。バクテリアは、外来DNAを分解する[[制限修飾系|制限修飾システム]]<ref>{{Cite journal|date=June 1993|title=Biology of DNA restriction|journal=Microbiological Reviews|volume=57|issue=2|pages=434–50|DOI=10.1128/MMBR.57.2.434-450.1993|PMID=8336674|PMC=372918}}</ref>や、バクテリアが過去に接触したファージのゲノムの断片を保持するために[[CRISPR]]<!-- 配列を使用した[[RNAi|RNA干渉]]など (CRISPR-CasはRNAiとは仕組みが全く異なります) -->-Casシステムを通じて、ファージ感染に抵抗する<ref>{{Cite journal|date=March 2007|title=CRISPR provides acquired resistance against viruses in prokaryotes|journal=Science|volume=315|issue=5819|pages=1709–12|bibcode=2007Sci...315.1709B|DOI=10.1126/science.1138140|PMID=17379808}}</ref><ref>{{Cite journal|date=August 2008|title=Small CRISPR RNAs guide antiviral defense in prokaryotes|journal=Science|volume=321|issue=5891|pages=960–64|bibcode=2008Sci...321..960B|DOI=10.1126/science.1159689|PMID=18703739|PMC=5898235}}</ref>。 * 遺伝子導入の3番目の方法は[[接合 (生物)|接合]]とよばれるプロセスであり、DNAは細胞接触によって他の細菌細胞から直接導入される。通常の状況では、形質導入、接合、および形質転換には、同じ種間でのDNA移動が含まれるほか、異なる細菌種の個体間での移動も発生する場合があり、これは抗生物質耐性の移動などの重大な結果をもたらす可能性がある<ref>{{Cite journal|date=May 2008|title=Adaptive value of sex in microbial pathogens|url=http://www.hummingbirds.arizona.edu/Faculty/Michod/Downloads/IGE%20review%20sex.pdf|journal=Infection, Genetics and Evolution|volume=8|issue=3|pages=267–85|DOI=10.1016/j.meegid.2008.01.002|PMID=18295550}}</ref><ref>{{Cite journal|date=September 2004|title=Antibiotic-induced lateral transfer of antibiotic resistance|journal=Trends in Microbiology|volume=12|issue=9|pages=401–14|DOI=10.1016/j.tim.2004.07.003|PMID=15337159}}</ref>。このような場合、他の細菌や環境からの遺伝子獲得は[[遺伝子の水平伝播|遺伝子水平伝播]]と呼ばれ、自然条件下で広範に発生していると考えられている<ref>{{Cite journal|date=September 1999|title=Genetic exchange between bacteria in the environment|journal=Plasmid|volume=42|issue=2|pages=73–91|DOI=10.1006/plas.1999.1421|PMID=10489325}}</ref>。 == 運動性 == [[ファイル:Dvulgaris_micrograph.JPG|サムネイル|細胞の一端に単一の鞭毛を示す''Desulfo vibriovulgarisの''透過型電子顕微鏡写真。スケールバーの長さは0.5マイクロメートル。]] 多くの細菌には[[運動性]]があり、様々なメカニズムを使用して自分自身を動かすことができる。最もよく研究されている運動機構は[[鞭毛]]である。これは、[[分子モーター]]によって回転する長い[[フィラメント]]状の組織であり、[[プロペラ]]のような動きを生み出すことで推進力を得るものである<ref name="Bardy">{{Cite journal|date=December 2017|title=Electron microscopic observations of prokaryotic surface appendages|journal=Journal of Microbiology (Seoul, Korea)|volume=55|issue=12|pages=919–26|DOI=10.1007/s12275-017-7369-4|PMID=29214488}}</ref>。細菌のべん毛は約20のタンパク質でできており、その調節と組み立てにはさらに約30のタンパク質が必要である<ref name="Bardy" />。べん毛は、ベースとなる可逆モーターによって駆動される回転構造をとり、細胞膜を貫通する[[電気化学的勾配]]を利用してエネルギーを供給している<ref>{{Cite journal|date=December 1999|title=The bacterial flagellum: reversible rotary propellor and type III export apparatus|journal=Journal of Bacteriology|volume=181|issue=23|pages=7149–53|DOI=10.1128/JB.181.23.7149-7153.1999|PMID=10572114|PMC=103673}}</ref>。 [[ファイル:Flagella.svg|サムネイル|細菌べん毛のさまざまな配置:A-単毛(Monotrichous); B-叢毛(Lophotrichous); C-両毛(Amphitrichous); D-周毛(Peritrichous)]] 細菌は様々な方法で鞭毛を使用することで、多様な種類の動きを生み出すことができる。''[[大腸菌]]''などの多くの細菌は、前進(遊泳)とタンブリング(回転)という2つの異なる移動モードがあります。タンブリングにより細菌は移動方向を変えることができ、3次元空間を[[ランダムウォーク]]することができる<ref>{{Cite journal|date=July 2006|title=Collective bacterial dynamics revealed using a three-dimensional population-scale defocused particle tracking technique|journal=Applied and Environmental Microbiology|volume=72|issue=7|pages=4987–94|bibcode=2006ApEnM..72.4987W|DOI=10.1128/AEM.00158-06|PMID=16820497|PMC=1489374}}</ref>。細菌の種によって、表面のべん毛の数と配置は異なり、単一の鞭毛を持つ単毛性(monotrichous)、細胞の''各端部に一本ずつ鞭毛を持つ両毛性(amphitrichous)、細胞の片極に多数の鞭毛を持つ叢毛性(lophotrichous)、細胞の表面全体に鞭毛が分布している''[[鞭毛|周毛]]性、に分類される''。他にも、[[スピロヘータ]]の鞭毛は、ペリプラズム空間の2つの膜の間に見られ、細胞がねじれながら移動するような独特の螺旋状の細胞形状をとっている<ref name="Bardy2">{{Cite journal|date=December 2017|title=Electron microscopic observations of prokaryotic surface appendages|journal=Journal of Microbiology (Seoul, Korea)|volume=55|issue=12|pages=919–26|DOI=10.1007/s12275-017-7369-4|PMID=29214488}}</ref>。 他のタイプの細菌の動きとしては、[[性繊毛|IV型線毛]]と呼ばれる構造に依存する痙攣運動<ref>{{Cite journal|last=Mattick|first=John S|year=2002|title=Type IV Pili and Twitching Motility|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=56|pages=289–314|DOI=10.1146/annurev.micro.56.012302.160938|PMID=12142488}}</ref>と、また別のメカニズムを利用した滑走運動と呼ばれる運動が知られている。痙攣運動では、棒状の線毛が細胞から伸び、基質との結合と収縮を繰り返すことで、細胞を前方に引っ張ることで移動する<ref>{{Cite journal|date=September 2000|title=Pilus retraction powers bacterial twitching motility|journal=Nature|volume=407|issue=6800|pages=98–102|bibcode=2000Natur.407...98M|DOI=10.1038/35024105|PMID=10993081}}</ref>。 運動性細菌は、[[走光性]]、[[磁気走性]]、[[走化性]]など、特定の刺激に対して引き寄せられたり逃げ出したりする「''[[走性]]」''と呼ばれる行動パターンを示す<ref>{{Cite journal|date=July 2004|title=Chemotaxis-guided movements in bacteria|journal=Critical Reviews in Oral Biology and Medicine|volume=15|issue=4|pages=207–20|DOI=10.1177/154411130401500404|PMID=15284186}}</ref><ref>{{Cite journal|date=July 2010|title=Bacterial energy taxis: a global strategy?|journal=Archives of Microbiology|volume=192|issue=7|pages=507–20|DOI=10.1007/s00203-010-0575-7|PMID=20411245|PMC=2886117}}</ref><ref>{{Cite journal|date=August 1997|title=Magneto-aerotaxis in marine coccoid bacteria|journal=Biophysical Journal|volume=73|issue=2|pages=994–1000|bibcode=1997BpJ....73..994F|DOI=10.1016/S0006-3495(97)78132-3|PMID=9251816|PMC=1180996}}</ref>。また走性以外としては、粘液細菌で見られるように、個々の細菌が一緒に移動して細胞の波を形成し、次に分化して胞子を含む子実体を形成するような例も知られている<ref name="Kaiser2">{{Cite journal|year=2004|title=Signaling in myxobacteria|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=58|pages=75–98|DOI=10.1146/annurev.micro.58.030603.123620|PMID=15487930}}</ref>。粘液細菌は、液体・固体の両方の培地で運動性を示す''大腸菌のような細菌''とは異なり、固体表面上でのみ運動性を示す<ref name="pmid21910630">{{Cite journal|date=2011|title=Uncovering the mystery of gliding motility in the myxobacteria|journal=[[Annual Review of Genetics]]|volume=45|pages=21–39|DOI=10.1146/annurev-genet-110410-132547|PMID=21910630|PMC=3397683}}</ref>。 ''[[リステリア]]''菌と''[[赤痢菌]]の''いくつかの種は、[[細胞骨格]]を利用して宿主細胞内を移動する。細胞骨格は通常、細胞内の細胞[[細胞小器官|小器官]]を移動させるために使用される機関である。細菌細胞の一方の極で[[アクチン]][[生体高分子|重合]]を促進させることで、宿主細胞の細胞質内を移動するような「尾」を形成することができる<ref>{{Cite journal|date=December 2001|title=Actin-based motility of intracellular microbial pathogens|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=65|issue=4|pages=595–626, table of contents|DOI=10.1128/MMBR.65.4.595-626.2001|PMID=11729265|PMC=99042}}</ref>。 == 細胞間コミュニケーション == 細菌の一部には、[[生物発光]]の化学システムを持つものが知られている。例えば魚と共生している発光細菌では、魚はその光を利用して、他の魚や動物を引き付け捕食することに役立てている<ref name="pmid31817999">{{Cite journal|date=December 2019|title=Bacterial Semiochemicals and Transkingdom Interactions with Insects and Plants|journal=Insects|volume=10|issue=12|page=441|DOI=10.3390/insects10120441|PMID=31817999|PMC=6955855}}</ref>。 細菌はしばしば、多細胞凝集体(バイオフィルム)という構造をとり、様々な分子シグナルを交換し合う細胞間コミュニケーションを行い、協調した多細胞行動をとっている<ref name="shapiro1">{{Cite journal|year=1998|title=Thinking about bacterial populations as multicellular organisms|url=http://www.sci.uidaho.edu/newton/math501/Sp05/Shapiro.pdf|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=52|pages=81–104|DOI=10.1146/annurev.micro.52.1.81|PMID=9891794}}</ref> <ref name="costerton1">{{Cite journal|year=1995|title=Microbial biofilms|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=49|pages=711–45|DOI=10.1146/annurev.mi.49.100195.003431|PMID=8561477}}</ref>。多細胞間で協力し合うことは、細胞間での分業を可能にしたり、単一細胞では効果的に使用できないリソースを分配することに役立つほか、拮抗薬に対する集合的な防御や、異なる細胞型への分化による集団生存の最適化にも寄与している<ref name="shapiro12">{{Cite journal|year=1998|title=Thinking about bacterial populations as multicellular organisms|url=http://www.sci.uidaho.edu/newton/math501/Sp05/Shapiro.pdf|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=52|pages=81–104|DOI=10.1146/annurev.micro.52.1.81|PMID=9891794}}</ref>。たとえば、バイオフィルム内の細菌は、同じ種の個々の浮遊性(自由生活性)細菌よりも[[抗菌薬|抗菌]]剤に対する耐性が500倍以上高くなる例が報告されている<ref name="costerton12">{{Cite journal|year=1995|title=Microbial biofilms|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=49|pages=711–45|DOI=10.1146/annurev.mi.49.100195.003431|PMID=8561477}}</ref>。 分子信号による細胞間コミュニケーションの1つのタイプは、[[クオラムセンシング]]と呼ばれている。これは、ある特定の生物プロセスを実施するのに十分な細胞密度がその環境に存在しているのか、を判断する際に利用される。具体的には、細菌が細胞分裂を繰り返し、ある程度の密度に達した際に初めて消化酵素を分泌したり発光を始めたりする例が知られており、この生物プロセスの開始タイミングの調整にクオラムセンシングが利用されている<ref name="pmid31732932">{{Cite journal|date=2019|title=Signaling systems in oral bacteria|journal=Advances in Experimental Medicine and Biology|volume=1197|issue=|pages=27–43|DOI=10.1007/978-3-030-28524-1_3|ISBN=978-3-030-28523-4|PMID=31732932}}</ref><ref name="pmid29789364">{{Cite journal|date=May 2018|title=Bacterial Quorum sensing and microbial community interactions|journal=mBio|volume=9|issue=3|DOI=10.1128/mBio.02331-17|PMID=29789364|PMC=5964356}}</ref>。クオラムセンシングにより、細菌は[[遺伝子発現]]を調整し、細胞集団の成長とともに蓄積する[[クオルモン|自己誘導物質]]や[[フェロモン]]を生成、放出、および検出することができる<ref name="pmid11544353">{{Cite journal|year=2001|title=Quorum sensing in bacteria|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=55|pages=165–99|DOI=10.1146/annurev.micro.55.1.165|PMID=11544353}}</ref>。 == 系統分類と同定 == [[File:TOL20161114.png|thumb|400px|全生物の系統樹の例。この系統樹では、古細菌・真核生物の系統に対して、細菌(真正細菌)が圧倒的に優勢となっている。<br />※細菌の右半分(紫色)を占めるCPR群は、2010年代に報告された未培養系統群。]] [[ファイル:Anillo_de_la_vida.png|サムネイル|300x300ピクセル|種の系統樹。2019年のゲノム分に基づき、細菌は3つの主要なスーパーグループ([[CPR群|CPR]][[超微小細菌|超]]微小細菌、[[テッラバクテリア]]、およびグラシリキュート(Gracilicutes))によって表されている<ref name="Zhu">{{Cite journal|last=Zhu|first=Qiyun|last2=Mai|first2=Uyen|last3=Pfeiffer|first3=Wayne|last4=Janssen|first4=Stefan|last5=Asnicar|first5=Francesco|last6=Sanders|first6=Jon G.|last7=Belda-Ferre|first7=Pedro|last8=Al-Ghalith|first8=Gabriel A.|last9=Kopylova|first9=Evguenia|year=2019|title=Phylogenomics of 10,575 genomes reveals evolutionary proximity between domains Bacteria and Archaea|journal=Nature Communications|volume=10|issue=1|page=5477|bibcode=2019NatCo..10.5477Z|DOI=10.1038/s41467-019-13443-4|PMID=31792218|PMC=6889312|deadlinkdate=Xu}}</ref>。]] 類似性に基づいて生物に名前を付けてグループ化し、細菌種の多様性を説明しようとすることは、[[分類学|分類]]と呼ばれる。細菌は、細胞構造(直接観察による構造的・解剖学的性質)、[[代謝|細胞代謝]]([[最終電子受容体]]など、代謝系に関わる生理・生化学的性質)、あるいは[[デオキシリボ核酸|DNA]]や[[脂肪酸]]、色素、[[抗原]]、[[キノン]]、などの細胞成分の違いに基づいて分類することができる<ref name="Thomson2">{{Cite journal|date=December 2001|title=Laboratory diagnosis of central nervous system infections|journal=Infectious Disease Clinics of North America|volume=15|issue=4|pages=1047–71|DOI=10.1016/S0891-5520(05)70186-0|PMID=11780267}}</ref>。このスキームは細菌株の識別と分類を可能にしたが、実際のところこのような観察可能な違いは、種間の違いを表しているのか、あるいは同じ種内での株間の違いを表しているに過ぎないのか、などを判断することは困難である。このような不確実性が生まれる原因としては、ほとんどの細菌は特徴的な構造を持っていないことや、無関係の種間でも遺伝子水平伝播が発生していまうことが挙げられる<ref>{{Cite journal|year=2003|title=Lateral gene transfer and the origins of prokaryotic groups|journal=[[Annual Review of Genetics]]|volume=37|pages=283–328|DOI=10.1146/annurev.genet.37.050503.084247|PMID=14616063}}</ref>。また逆に、遺伝子の水平伝播により、密接に関連する細菌であっても、形態や代謝が大きく異なるものも知られている。 このような不確実性を克服するために、現代の細菌分類では、DNA中の[[グアニン]]・[[シトシン]]の比率([[GC含量]])やゲノム-ゲノムハイブリダイゼーション([[DNA - DNA分子交雑法|DNA-DNA分子交雑法]])などの遺伝学的手法、および[[リボソームDNA|rRNA遺伝子]]のように水平伝播が発生しにくく生物に保存されやすい遺伝子の配列情報を利用して、分子系統を解析することが広く行われている<ref>{{Cite journal|date=January 1994|title=The winds of (evolutionary) change: breathing new life into microbiology|journal=Journal of Bacteriology|volume=176|issue=1|pages=1–6|DOI=10.2172/205047|PMID=8282683|PMC=205007}}</ref>。細菌の分類は、International Journal of Systematic Bacteriology <ref>{{Cite web|url=http://ijs.sgmjournals.org/|title=IJSEM Home|publisher=Ijs.sgmjournals.org|date=28 October 2011|accessdate=4 November 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111019160924/http://ijs.sgmjournals.org/|archivedate=19 October 2011}}</ref>およびBergey's Manual of Systematic Bacteriologyに掲載されることで定義される<ref>{{Cite web|url=http://www.bergeys.org/|title=Bergey's Manual Trust|publisher=Bergeys.org|accessdate=4 November 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111107002356/http://www.bergeys.org/|archivedate=7 November 2011}}</ref>。[[国際原核生物分類命名委員会]](International Committee on Systematics of Prokaryotes; ICSP)は、細菌や分類学的カテゴリの命名とその階層化のための国際ルールを、[[国際原核生物命名規約|国際細菌命名規約]]として策定している<ref name="pmid25921438">{{Cite journal|date=June 2015|title=The changing landscape of microbial biodiversity exploration and its implications for systematics|journal=Systematic and Applied Microbiology|volume=38|issue=4|pages=231–36|DOI=10.1016/j.syapm.2015.03.003|PMID=25921438}}</ref>。[[生物の分類|分類]]には属以上の単位として科、目、綱、門、界、ドメインなどが与えられている。 歴史的には、バクテリアはかつて植物界であるPlantaeの一部と見なされ、「Schizomycetes」(分裂菌)と呼ばれていた<ref>"Schizomycetes.”</ref>。そのため、宿主内の集団細菌やその他の微生物は、しばしば"flora"(「植物相」)と呼ばれる<ref name="pmid33180890">{{Cite journal|date=November 2020|title=Staphylococcus epidermidis-Skin friend or foe?|journal=PLOS Pathogens|volume=16|issue=11|pages=e1009026|DOI=10.1371/journal.ppat.1009026|PMID=33180890|PMC=7660545}}</ref>。また、「細菌」という用語は伝統的に、全ての微視的な単一細胞の原核生物に適用されていた。しかしながら分子分類学の発展により、原核生物には2つの別々の[[ドメイン (分類学)|ドメイン]]から構成されていることが分かっている。この2つのドメインは、元々は真正細菌(Eubacteria )と古細菌(Archaebacteria)と呼ばれていたが、現在は細菌(Bacteria)と古細菌(Archaea)と呼ばれて、両者は共通祖先から分岐し独立に進化してきたものだと考えられている{{Sfn|Hall|2008|p=145}}。そして真核生物は、細菌よりも古細菌により近縁なドメインであると考えられている。細菌と古細菌という2つのドメインは、真核生物と併せて、3ドメイン説の基礎となっており、今日の微生物学分野においても最も一般的に受け入れられている分類システムである<ref name="Gupta">{{Cite journal|year=2000|title=The natural evolutionary relationships among prokaryotes|journal=Critical Reviews in Microbiology|volume=26|issue=2|pages=111–31|DOI=10.1080/10408410091154219|PMID=10890353}}</ref>。とはいえ、分子系統学は比較的近年に導入された手法であり、利用可能なゲノム配列の数は今日でも急速に増加しているため、細菌分類は頻繁に変更され拡大している分野である<ref name="Rappe">{{Cite journal|year=2003|title=The uncultured microbial majority|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=57|pages=369–94|DOI=10.1146/annurev.micro.57.030502.090759|PMID=14527284}}</ref><ref>{{Cite journal|date=June 2005|title=Evolutionary aspects of whole-genome biology|journal=Current Opinion in Structural Biology|volume=15|issue=3|pages=248–53|DOI=10.1016/j.sbi.2005.04.001|PMID=15963888}}</ref>。 医学分野においては、感染を引き起こす細菌種によって異なる治療法が選択されることがあるため、実験室での細菌の同定が重要になる。そのため、「人間の病原体を特定する」ということは、細菌を特定する技術を開発する上で主要な推進力となってきた{{Sfn|Pommerville|2014|p=15−31}}。 [[ファイル:Phylogenetic Tree of Prokaryota-ja.png|thumb|450px|原核生物の主要系統を描いた系統樹の例<ref>{{cite journal | author = Castelle, C.J., Banfield, J.F. | title = Major New Microbial Groups Expand Diversity and Alter our Understanding of the Tree of Life | journal = Cell |date= 2018-03-08 | pages = 1181-1197 | doi = 10.1016/j.cell.2018.02.016 | url = | volume = 172 | issue = 6 | pmid = 29522741 }}</ref>。左側が細菌(バクテリア)。この系統樹では、グラム陽性菌がある程度系統的にまとまっている。]] 1884年に[[ハンス・クリスチャン・グラム]]によって開発された''[[グラム染色]]法''は、細胞壁の構造的特徴に基づいて細菌を特徴づけることができる{{Sfn|Krasner|2014|p=77}}<ref name="Gram2">{{Cite journal|last=Gram|first=HC|author-link=Hans Christian Gram|year=1884|title=Über die isolierte Färbung der Schizomyceten in Schnitt- und Trockenpräparaten|journal=Fortschr. Med.|volume=2|pages=185–89}}</ref>。グラム陽性細菌では細胞壁のペプチドグリカンの厚い層は紫色に染まり、逆にグラム陰性細菌の薄い細胞壁はピンク色に見える{{Sfn|Krasner|2014|p=77}}。細胞形態とグラム染色を組み合わせることにより、ほとんどの細菌は、4つのグループ(グラム陽性球菌、グラム陽性桿菌、グラム陰性球菌、およびグラム陰性桿菌)のいずれかに属するものとして分類することができる。いくつかの系統ではグラム染色以外の染色方法がより同定に適していることが知られている。例えばマイコバクテリアや''ノカルジアは[[抗酸菌]]であり、[[抗酸染色]]''によって識別することができる<ref>{{Cite journal|date=July 1996|title=Detection of infection or infectious agents by use of cytologic and histologic stains|journal=Clinical Microbiology Reviews|volume=9|issue=3|pages=382–404|DOI=10.1128/CMR.9.3.382|PMID=8809467|PMC=172900}}</ref>。細菌系統によっては単純な染色では同定できず、特別な培地での培養や血清学などの他の技術も利用する必要がある場合もある<ref name="pmid31354679">{{Cite journal|date=2019|title=Assessment and Comparison of Molecular Subtyping and Characterization Methods for Salmonella|journal=Frontiers in Microbiology|volume=10|pages=1591|DOI=10.3389/fmicb.2019.01591|PMID=31354679|PMC=6639432}}</ref>。 [[培養]]は、サンプル内で他の細菌の増殖を制限しながら、特定の細菌のみ増殖を促進し識別できるようにするための技法である{{Sfn|Krasner|2014|p=87–89}}。これらの技術はしばしば、特定の検体サンプルを対象として設計される場合がある。たとえば、[[肺炎]]の原因菌を特定するために[[喀痰]]サンプルを利用する手法や、[[下痢|下痢の]]原因菌を特定するために[[糞|便]]検体を選択培地で培養する手法などがある。一方で、[[血液]]、[[尿]]、[[脳脊髄液|髄液]]など、通常は無菌である検体は、考えられる全ての生物を増殖させるように設計された条件下で培養される<ref name="Thomson3">{{Cite journal|date=December 2001|title=Laboratory diagnosis of central nervous system infections|journal=Infectious Disease Clinics of North America|volume=15|issue=4|pages=1047–71|DOI=10.1016/S0891-5520(05)70186-0|PMID=11780267}}</ref><ref>{{Cite journal|date=March 1994|title=Clinical importance of blood cultures|journal=Clinics in Laboratory Medicine|volume=14|issue=1|pages=9–16|DOI=10.1016/S0272-2712(18)30390-1|PMID=8181237}}</ref>。病原性生物が分離されると、その形態、成長パターン([[好気性生物|好気性]]または[[嫌気性生物|嫌気性]]成長など)、溶血のパターン、および染色によって、さらに詳細な特徴づけが可能となる<ref name="pmid30387415">{{Cite journal|date=November 2018|title=Laboratory Methods in Molecular Epidemiology: Bacterial Infections|journal=Microbiology Spectrum|volume=6|issue=6|DOI=10.1128/microbiolspec.AME-0004-2018|PMID=30387415}}</ref>。 細菌の分類と同様に、細菌の同定にも[[分子生物学]]的な手法や<ref name="pmid33809163">{{Cite journal|date=March 2021|title=The Loop-Mediated Isothermal Amplification Technique in Periodontal Diagnostics: A Systematic Review|journal=Journal of Clinical Medicine|volume=10|issue=6|page=1189|DOI=10.3390/jcm10061189|PMID=33809163|PMC=8000232}}</ref>質量分析法を利用した手法が使われる<ref name="pmid34041492">{{Cite journal|date=2021|title=MALDI-TOF Mass Spectroscopy Applications in Clinical Microbiology|url=|journal=Advances in Pharmacological and Pharmaceutical Sciences|volume=2021|issue=|pages=9928238|DOI=10.1155/2021/9928238|PMID=34041492|PMC=8121603}}</ref>。地球上の大半の細菌は未だ特徴付けられておらず、また実験室で培養することが困難であると考えられている<ref name="Dudek">{{Cite journal|year=2017|title=Novel Microbial Diversity and Functional Potential in the Marine Mammal Oral Microbiome|url=https://escholarship.org/content/qt1w91s3vq/qt1w91s3vq.pdf?t=pghuwe|journal=Current Biology|volume=27|issue=24|pages=3752–62|DOI=10.1016/j.cub.2017.10.040|PMID=29153320}}</ref>。[[ポリメラーゼ連鎖反応]](PCR)などのDNAベースの診断手法は、培養ベースの方法と比較して特異性や診断時間の短縮化の点で優位である<ref>{{Cite journal|date=August 2000|title=The role of DNA amplification technology in the diagnosis of infectious diseases|url=http://www.cmaj.ca/cgi/content/full/163/3/301|journal=CMAJ|volume=163|issue=3|pages=301–09|DOI=10.1016/s1381-1169(00)00220-x|PMID=10951731|PMC=80298}}</ref>。これらの方法はまた、代謝的に活性であるが分裂しない生存可能であるが培養不可能な細胞([[VNC (微生物学)|VNC]])の検出と同定も可能にする<ref>{{Cite journal|date=February 2005|title=The viable but nonculturable state in bacteria|url=http://www.msk.or.kr/jsp/view_old_journalD.jsp?paperSeq=2134|journal=Journal of Microbiology|volume=43 Spec No|pages=93–100|PMID=15765062}}</ref>。しかし、これらの改良された方法を使用しても、膨大に存在すると考えられる細菌種の総数を見積もることは困難である。2011年の段階で、細菌や古細菌には9,300弱の原核生物種が分類として報告され登録されている<ref>{{Cite web|date=8 December 2011|url=http://www.bacterio.cict.fr/number.html|title=Number of published names|website=List of Prokaryotic names with Standing in Nomenclature|accessdate=10 December 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120119210136/http://www.bacterio.cict.fr/number.html|archivedate=19 January 2012}}</ref>。しかし、細菌多様性の真数を推定した研究では合計で10<sup><sup>7</sup></sup>~10<sup><sup>10</sup></sup>種いると予想されており、さらにはこの数字でさえ何桁も過小評価している可能さえある<ref>{{Cite journal|date=August 2002|title=Estimating prokaryotic diversity and its limits|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America|volume=99|issue=16|pages=10494–99|bibcode=2002PNAS...9910494C|DOI=10.1073/pnas.142680199|PMID=12097644|PMC=124953}}</ref><ref>{{Cite journal|date=December 2004|title=Status of the microbial census|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=68|issue=4|pages=686–91|DOI=10.1128/MMBR.68.4.686-691.2004|PMID=15590780|PMC=539005}}</ref>。 近年では、16SrRNAだけでなくゲノム規模の比較に基づいてより正確な分類を目指す動きが活発となっている(例えば[https://gtdb.ecogenomic.org/ GTDB])。その結果、古典的によく知られた細菌の分類が解体されることも珍しくなく、現在も絶えず新しいグループの追加と既存のグループの書き換えが進んでいる(例えば[[プロテオバクテリア|デルタプロテオバクテリア]])。GTDBによれば、2021年7月時点で、127の門(Phylum)が記載されている。 === 細菌ドメインの主な分類 === 細菌は系統学的に分類されているが、[[メタゲノミクス|メタゲノム]]情報の蓄積などにより新しく発見される種も増え続けており、分類体系は確立していない。大まかな枠組みは以下の通りである<ref name=":0">{{Cite journal|last=Hug|first=Laura A.|last2=Baker|first2=Brett J.|last3=Anantharaman|first3=Karthik|last4=Brown|first4=Christopher T.|last5=Probst|first5=Alexander J.|last6=Castelle|first6=Cindy J.|last7=Butterfield|first7=Cristina N.|last8=Hernsdorf|first8=Alex W.|last9=Amano|first9=Yuki|date=2016-05|title=A new view of the tree of life|url=http://www.nature.com/articles/nmicrobiol201648|journal=Nature Microbiology|volume=1|issue=5|pages=16048|language=en|doi=10.1038/nmicrobiol.2016.48|issn=2058-5276}}</ref>。 * [[テッラバクテリア|テラバクテリア]] * [[:en:Planctobacteria|PVCグループ]] * [[:en:Sphingobacteria_(phylum)|FCBグループ]] * [[プロテオバクテリア]](α、β、γ綱) * [[CPR群|CPR]] これらの枠組みに含まれない種も多数存在する(英語版記事「[[:en:Bacterial_phyla|Bacterial phyla]]」などを参照)。 == 他の生物との相互作用 == [[ファイル:Bacterial_infections_and_involved_species.png|代替文=chart showing bacterial infections upon various parts of human body|サムネイル|細菌感染症と関与する主な種の概要<ref name="Microbiology33">{{Cite book|last=Fisher|first=Bruce|last2=Harvey|first2=Richard P|last3=Champe|first3=Pamela C|title=Lippincott's Illustrated Reviews: Microbiology (Lippincott's Illustrated Reviews Series)|publisher=Lippincott Williams & Wilkins|location=Hagerstwon, MD|year=2007|chapter=Chapter 33|pages=367–92|isbn=978-0-7817-8215-9}}</ref>]] 細菌は他の生物と複雑に相互作用することが知られている。このような[[共生]]的な相互作用は、[[寄生]]、[[相利共生]]、[[片利共生]]の3種類に分類することができる<ref name="pmid26568407">{{Cite journal|date=January 2016|title=Rethinking "mutualism" in diverse host-symbiont communities|journal=BioEssays|volume=38|issue=1|pages=100–8|DOI=10.1002/bies.201500074|PMID=26568407}}</ref>。 === 共生 === 片利共生(commensalism)という言葉は、「同じ食卓で食べる」という意味のcommensalに由来しており<ref>{{OEtymD|commensalism}}</ref> 、あらゆる動植物には片利共生細菌が存在している。例えば人間や他の動物においては、何百万もの細菌が、皮膚や気道、腸、その他の開口部に生息している<ref>{{Cite journal|date=October 2005|title=A dynamic partnership: celebrating our gut flora|journal=Anaerobe|volume=11|issue=5|pages=247–51|DOI=10.1016/j.anaerobe.2005.05.001|PMID=16701579}}</ref><ref name="pmid31214175">{{Cite journal|date=2019|title=Commensal Bacteria: An Emerging Player in Defense Against Respiratory Pathogens|journal=Frontiers in Immunology|volume=10|issue=|pages=1203|DOI=10.3389/fimmu.2019.01203|PMID=31214175|PMC=6554327}}</ref> 。常在菌(normal flora) <ref name="pmid3074102">{{Cite journal|date=March 1988|title=Normal flora and mucosal immunity of the head and neck|url=|journal=Infectious Disease Clinics of North America|volume=2|issue=1|pages=1–19|DOI=10.1016/S0891-5520(20)30163-X|PMID=3074102}}</ref>や片利共生体(commensals)<ref name="pmid34329585">{{Cite journal|date=July 2021|title=Commensal bacteria and fungi differentially regulate tumor responses to radiation therapy|url=|journal=Cancer Cell|volume=39|issue=9|pages=1202–1213.e6|DOI=10.1016/j.ccell.2021.07.002|PMID=34329585}}</ref>と呼ばれるこれらの細菌は、通常は害を及ぼすことはないが、場合によっては体内に侵入して感染症を引き起こす可能性がある。例えば''[[大腸菌]]''は人間の腸内でよく見られる共生生物の一種であるが、[[尿路感染症]]を引き起こすものが知られている<ref name="pmid33575225">{{Cite journal|date=2021|title=MALT Lymphoma of the Urinary Bladder Shows a Dramatic Female Predominance, Uneven Geographic Distribution, and Possible Infectious Etiology|journal=Research and Reports in Urology|volume=13|issue=|pages=49–62|DOI=10.2147/RRU.S283366|PMID=33575225|PMC=7873029}}</ref>。同様に、正常なヒトの口腔内で一般的に見られる[[レンサ球菌|連鎖球菌]]は、心臓病([[亜急性細菌性心内膜炎]])を引き起こす可能性がある<ref name="pmid33852085">{{Cite journal|date=April 2021|title=Infective endocarditis in paediatric population|journal=European Journal of Pediatrics|volume=180|issue=10|pages=3089–3100|DOI=10.1007/s00431-021-04062-7|PMID=33852085}}</ref>。 === 捕食 === 一部の細菌種は、他の微生物を殺して消化吸収するため、''捕食性細菌''と呼ばれる<ref>{{Cite journal|date=September 2002|title=Predatory prokaryotes: an emerging research opportunity|journal=Journal of Molecular Microbiology and Biotechnology|volume=4|issue=5|pages=467–77|PMID=12432957}}</ref>。例えば、''[[Myxococcus xanthus]]は集合体を形成し、接触した他の細菌を捕食する''<ref>{{Cite journal|date=August 2002|title=Experimental social evolution with Myxococcus xanthus|journal=Antonie van Leeuwenhoek|volume=81|issue=1–4|pages=155–64|DOI=10.1023/A:1020546130033|PMID=12448714}}</ref>。他には、獲物の細胞に付着して消化し栄養素を吸収するものや、細胞に侵入して細胞質内で増殖するような捕食性細菌が知られている<ref name="pmid34010833">{{Cite journal|date=May 2021|title=Bacterial Predation on Cyanobacteria|journal=Microbial Physiology|volume=31|issue=2|pages=99–108|DOI=10.1159/000516427|ISSN=2673-1665|PMID=34010833}}</ref>。これらの略奪的な細菌は、死んだ微生物を消費した[[サプロファージ]]から、他の生物を捕らえて殺すことができるように適応することによって進化したと考えられている<ref name="pmid19174136">{{Cite journal|date=January 2009|title=Bacterial predators|journal=Current Biology|volume=19|issue=2|pages=R55–56|DOI=10.1016/j.cub.2008.10.043|PMID=19174136}}</ref>。 === 相利共生者 === 特定の細菌は、生存に不可欠な密接した空間的相互作用を形成し、これは相利共生と呼ばれる。例えば種間水素移動(interspecies hydrogen transfer)と呼ばれる相互作用では、[[酪酸]]や[[プロピオン酸]]などの[[有機酸]]を消費して水素を生成する[[嫌気性生物|嫌気性細菌]]クラスターと、[[水素]]を消費する[[メタン生成古細菌]]との間で発生する<ref>{{Cite journal|date=March 2006|title=Exocellular electron transfer in anaerobic microbial communities|journal=Environmental Microbiology|volume=8|issue=3|pages=371–82|DOI=10.1111/j.1462-2920.2006.00989.x|PMID=16478444}}</ref>。この関係性において、水素生成細菌は自身が生成した水素が細胞外に蓄積してしまうため、有機物を周辺環境から吸収し消費することができなくなってしまう。そのため、水素を消費する古細菌と相互作用することによって、成長できる程度に細胞周辺の水素濃度を低く保っている<ref name="pmid29411546">{{Cite journal|date=August 2018|title=Cross-protection from hydrogen peroxide by helper microbes: the impacts on the cyanobacterium Prochlorococcus and other beneficiaries in marine communities|journal=Environmental Microbiology Reports|volume=10|issue=4|pages=399–411|DOI=10.1111/1758-2229.12625|PMID=29411546}}</ref>。 土壌では、[[根圏]](根の表面や近接する土壌)に存在する微生物が窒素固定を行い、窒素ガスを窒素化合物に変換する<ref>{{Cite journal|date=July 2005|title=Microbial co-operation in the rhizosphere|journal=Journal of Experimental Botany|volume=56|issue=417|pages=1761–78|DOI=10.1093/jxb/eri197|PMID=15911555}}</ref>。これは、窒素自体を固定できない多くの植物に、吸収しやすい形の窒素を提供するのに役立っている。他の多くの細菌は[[ヒトマイクロバイオーム|、人間]]や他の生物の共生細菌として発見されている。例えば、正常なヒトにおいて1,000以上の細菌種が[[腸内細菌]]として存在しており、それらはの[[消化管|腸は、腸]]免疫や、[[葉酸]]、[[ビタミンK]]、[[ビオチン]]などを含む[[ビタミン]]の合成、[[乳糖]]の[[乳酸]]への変換(''[[ラクトバシラス属|ラクトバチルス]]を参照'')、複雑な難消化性[[炭水化物]]の発酵、など様々なプロセスに寄与している<ref>{{Cite journal|date=July 2006|title=The gut flora as a forgotten organ|journal=EMBO Reports|volume=7|issue=7|pages=688–93|DOI=10.1038/sj.embor.7400731|PMID=16819463|PMC=1500832}}</ref><ref>{{Cite journal|date=March 2006|title=A microbial world within us|journal=Molecular Microbiology|volume=59|issue=6|pages=1639–50|DOI=10.1111/j.1365-2958.2006.05056.x|PMID=16553872}}</ref><ref>{{Cite journal|date=February 1990|title=Lactic acid bacteria and human health|journal=Annals of Medicine|volume=22|issue=1|pages=37–41|DOI=10.3109/07853899009147239|PMID=2109988}}</ref>。この腸内細菌叢の存在はまた、潜在的に[[競争排除則|競合相手の排除]]などによって病原性細菌の増殖を阻害しており、このような有益な細菌は実際に[[プロバイオティクス]][[サプリメント|栄養補助食品]]として市販されている<ref>{{Cite journal|date=May 2005|title=Probiotics that modify disease risk|journal=The Journal of Nutrition|volume=135|issue=5|pages=1294–98|DOI=10.1093/jn/135.5.1294|PMID=15867327}}</ref>。 一部の共生細菌および[[古細菌]]は[[コバラミン|ビタミンB <sub>12</sub>]]([[コバラミン]])合成に必要な酵素遺伝子を有しており、ほぼ全ての動物は食物連鎖を通してこのような細菌が生産するビタミンの恩恵を受けている。ビタミンB <sub>12</sub>は水溶性[[ビタミン]]であり、[[DNA複製|DNA合成]]や脂肪酸代謝、アミノ酸代謝における[[補因子]]として、ヒトのあらゆる細胞の代謝に関与している。ミエリンの合成における役割のため、[[神経系]]の正常な機能においても重要である<ref name="pmid29216732">{{Cite journal|date=January 2018|title=Vitamin B12 sources and microbial interaction|journal=Experimental Biology and Medicine (Maywood, N.J.)|volume=243|issue=2|pages=148–58|DOI=10.1177/1535370217746612|PMID=29216732|PMC=5788147}}</ref>。 === 病原性細菌 === [[ファイル:SalmonellaNIAID.jpg|代替文=Color-enhanced scanning electron micrograph of red Salmonella typhimurium in yellow human cells|サムネイル|培養ヒト細胞に侵入している''[[サルモネラ属のチフス菌|Salmonella typhimurium]]'' (赤)を示す走査型電子顕微鏡写真]] ヒトや動物の体は、皮膚や粘膜で成長する有益な共生細菌や、主に土壌や腐生植物で成長する腐生細菌など、多くの種類の細菌に常にさらされている。血液や組織液には、多くの細菌の成長を維持するのに十分な栄養素が含まれている。体には、微生物が組織内に侵入することに対抗し、多くの[[微生物]]に対する自然免疫を獲得するといった、防御機構が存在する{{Sfn|Pommerville|2014|pp=16–21}}。[[ウイルス]]とは異なり細菌は比較的ゆっくりと進化するため、ある動物に感染する細菌が異なる種の動物にも感染することも良く見られる{{Sfn|Clark|2010|p=215}}。 細菌が他の生物と寄生的な関係を形成する場合、それらは病原体として分類される{{Sfn|Wheelis|2008|p=44}}。様々な病原性細菌がヒトの病気や死を引き起こすことが知られている。例えば、[[破傷風]](''破傷風菌'')、[[腸チフス]]、[[ジフテリア]]、[[梅毒]]、[[コレラ]]、[[食中毒]]、[[ハンセン病]]''(Micobacterium(らい菌))、''[[結核]](''結核菌'')、などが代表的である{{Sfn|Clark|2010|pp=30, 195, 233,236}}。''ヘリコバクター・ピロリによる''消化性潰瘍の場合のように、''既知の医学的疾患の病原性の原因が''何年も後に発見される可能性もある<ref name="pmid34244666">{{Cite journal|date=July 2021|title=Helicobacter pylori infection causes both protective and deleterious effects in human health and disease|journal=Genes and Immunity|volume=22|issue=4|pages=218–226|DOI=10.1038/s41435-021-00146-4|PMID=34244666|PMC=8390445}}</ref>。細菌性疾患はまた農業分野においても重要であり、例えば[[すすかび病]]や[[火傷病]]、[[ヨーネ病]]、[[乳牛の乳腺炎|乳腺炎]]などを引き起こす細菌の存在や、家畜に感染する[[サルモネラ症|サルモネラ]]や[[炭疽症|炭疽菌]]などの存在が知られている<ref name="pmid27660260">{{Cite journal|date=October 2016|title=40 years of veterinary papers in JAC – what have we learnt?|journal=The Journal of Antimicrobial Chemotherapy|volume=71|issue=10|pages=2681–90|DOI=10.1093/jac/dkw363|PMID=27660260}}</ref>。 [[ファイル:Normal_and_BV_flora.jpg|代替文=Gram-stained micrograph of bacteria from the vagina|右|サムネイル|[[細菌性膣炎]]では、膣内の有益な細菌(上)が病原体(下)に置き換わる。グラム染色画像。]] それぞれの病原体は、その宿主であるヒトとの間で、特徴的な相互作用を引き起こす。''[[ブドウ球菌]]''や''[[レンサ球菌|連鎖球菌]]''などの一部の生物は、[[肺炎|皮膚感染症、肺炎]]、[[髄膜炎]]、[[敗血症]]、全身性[[炎症|炎症反応]]によるショックを引き起こし、大量の[[血管拡張薬|血管拡張]]、そして死を引き起こす可能性がある<ref>{{Cite journal|date=February 2002|title=Optimal antimicrobial therapy for sepsis|journal=American Journal of Health-System Pharmacy|volume=59 Suppl 1|pages=S13–19|DOI=10.1093/ajhp/59.suppl_1.S13|PMID=11885408}}</ref>。しかし、これらの細菌は通常のヒト常在菌の一部でもあり、普段は病気をまったく引き起こすことなく皮膚や鼻に存在している。また他の例としては、他の生物の細胞内でのみ成長および繁殖することができる細胞内寄生細菌である[[リケッチア]]が挙げられる。リケッチアの1つの種は[[発疹チフス]]を引き起こし、別の種は[[ロッキー山紅斑熱]]を引き起こす。別の門の細胞内寄生細菌である''[[クラミジア科|クラミジア]]は、''[[肺炎]]や[[尿路感染症]]を引き起こす可能性があり、冠状動脈性心臓病に関与している可能性のある種が含まれている<ref>{{Cite journal|date=February 2004|title=Chlamydia pneumoniae and atherosclerosis|journal=Cellular Microbiology|volume=6|issue=2|pages=117–27|DOI=10.1046/j.1462-5822.2003.00352.x|PMID=14706098}}</ref>。''[[緑膿菌]]([[:en:Pseudomonas_aeruginosa|Pseudomonas aeruginosa]])'',や''[[:en:Burkholderia_cenocepacia|Burkholderia cenocepacia]]、[[:en:Mycobacterium_avium_complex|Mycobacterium avium]]'',などの一部の種は[[日和見感染|日和見病原体]]であり、主に免疫抑制や[[嚢胞性線維症]]に苦しむ人々に対して病気を引き起こす<ref>{{Cite journal|date=February 1982|title=Diseases associated with immunosuppression|journal=Environmental Health Perspectives|volume=43|pages=9–19|DOI=10.2307/3429162|JSTOR=3429162|PMID=7037390|PMC=1568899}}</ref><ref name="Saiman">{{Cite journal|year=2004|title=Microbiology of early CF lung disease|journal=Paediatric Respiratory Reviews|volume=5 Suppl A|pages=S367–69|DOI=10.1016/S1526-0542(04)90065-6|PMID=14980298}}</ref>。一部の細菌は毒素を産生し、それが病気を引き起こす{{Sfn|Pommerville|2014|p=118}}。これらには、壊れた細菌細胞に由来する[[リポ多糖|エンドトキシン]]と、細胞外に分泌される[[外毒素|エキソトキシン]]が含まれる{{Sfn|Pommerville|2014|pp=646–47}}。たとえば''[[ボツリヌス菌]]''は呼吸麻痺を引き起こす強力な[[外毒素|エキソトキシン]]を生成し、サルモネラ菌は胃腸炎を引き起こす[[リポ多糖|エンドトキシン]]を生成する{{Sfn|Pommerville|2014|pp=646–47}}。一部の[[リポ多糖|エンドトキシン]]は[[トキソイド]]に変換することができ、トキソイドは病気を予防するためのワクチンとして使用される場合がある{{Sfn|Krasner|2014|pp=165, 369}}。 多くの細菌感染症は、抗生物質で治療することができる。[[抗生物質]]は、細菌を殺す場合は殺菌性、細菌の増殖を防ぐだけの場合は静菌性に分類される。抗生物質には多くの種類があり、それぞれは宿主には悪影響を与えず、病原体が行う生物プロセスのみを阻害する。例えば、[[クロラムフェニコール]]と[[ピューロマイシン]]は細菌の[[リボソーム]]を阻害するが、構造的に異なる真核生物のリボソームは阻害しないため、細菌に対して選択的に毒性が発揮される<ref>{{Cite journal|year=2004|title=Ribosomal crystallography: initiation, peptide bond formation, and amino acid polymerization are hampered by antibiotics|journal=[[Annual Review of Microbiology]]|volume=58|pages=233–51|DOI=10.1146/annurev.micro.58.030603.123822|PMID=15487937}}</ref>。抗生物質は、人間の病気治療や[[集約農業]]、動物の成長促進などの目的で使用される。抗生物質は、その乱用と繁用により細菌集団における抗生物質耐性の急速な発達に寄与していると指摘されている<ref>{{Cite journal|date=November 1998|title=Agricultural use of antibiotics and the evolution and transfer of antibiotic-resistant bacteria|journal=CMAJ|volume=159|issue=9|pages=1129–36|PMID=9835883|PMC=1229782}}</ref>。すなわち抗生物質が「効かない」例が激増している。 感染は、注射器の針で皮膚を刺す前に皮膚を殺菌するなどといったような[[殺菌剤 (医薬品)|消毒]]によっても防ぐことができる。細菌による汚染を防ぐために、外科用や歯科用の器具は常に使用前に滅菌されている。[[漂白剤]]などの消毒剤も、物体表面の細菌やその他の病原体を殺して汚染を防ぎ、感染のリスクをさらに減らすために使用される<ref name="pmid28954657">{{Cite journal|date=October 2017|title=Disinfection Processes|journal=Water Environment Research|volume=89|issue=10|pages=1206–44|DOI=10.2175/106143017X15023776270278|PMID=28954657}}</ref>。 == 産業技術への応用 == ''[[ラクトバシラス属|ラクトバチルス]]や[[ラクトコッカス属|ラクトコッカス]]といった[[乳酸菌]]は、''[[酵母]]や[[カビ]]などと組み合わせられて、[[チーズ]]や[[漬物]]、[[醤油]]、[[ザワークラウト]]、[[酢]]、[[ワイン]]、[[ヨーグルト]]といった様々な[[発酵食品]]の生産において何千年もの間使用されてきた<ref>{{Cite journal|date=April 2006|title=Major technological advances and trends in cheese|journal=Journal of Dairy Science|volume=89|issue=4|pages=1174–78|DOI=10.3168/jds.S0022-0302(06)72186-5|PMID=16537950}}</ref>{{Sfn|Krasner|2014|pp=25–26}}。 また、細菌が様々な有機化合物を分解する能力は顕著であり、廃棄物処理や[[バイオレメディエーション]]にも使用されている。[[石油]]に含まれる[[炭化水素]]を消化することができる細菌は、[[石油流出]]の浄化によく利用されている<ref>{{Cite journal|date=December 2002|title=Bioremediation of oil by marine microbial mats|url=http://revistes.iec.cat/index.php/IM/article/view/9381|journal=International Microbiology|volume=5|issue=4|pages=189–93|DOI=10.1007/s10123-002-0089-5|PMID=12497184}}</ref>。[[プリンス・ウィリアム湾]]では、''1989年の[[エクソンバルディーズ号原油流出事故|エクソンバルディーズ号原油]]''[[エクソンバルディーズ号原油流出事故|流出事故]]後、自然発生する石油分解細菌の成長を促進するために肥料が追加された。これは、油であまり厚く覆われていないビーチにおいては効果的であった。細菌はさらに、産業毒性廃棄物の[[バイオレメディエーション]]にも使用される<ref>{{Cite journal|year=2006|title=Biofiltration methods for the removal of phenolic residues|journal=Applied Biochemistry and Biotechnology|volume=129–132|issue=1–3|pages=130–52|DOI=10.1385/ABAB:129:1:130|PMID=16915636}}</ref>。[[化学工業|化学産業]]において、医薬品や農薬として利用できるような鏡像異性的を持つ純粋化学物質の生産においても、細菌は重要な存在である<ref>{{Cite journal|date=December 1999|title=Production of fine chemicals using biocatalysis|journal=Current Opinion in Biotechnology|volume=10|issue=6|pages=595–603|DOI=10.1016/S0958-1669(99)00040-3|PMID=10600695}}</ref>。 細菌は、[[生物的防除|生物的害虫駆除]]において農薬の代わりに使用することもできる。これには通常、グラム陽性の土壌に生息する細菌である''[[バチルス・チューリンゲンシス]]([[:en:Bacillus_thuringiensis|Bacillus thuringiensis]]、BTとも呼ばれる)が含まれる。''この細菌の亜種は、DipelやThuricideなどの商品名で、[[チョウ目|鱗翅目]]特有の殺虫剤として使用されている<ref>{{Cite journal|date=February 2001|title=Why Bacillus thuringiensis insecticidal toxins are so effective: unique features of their mode of action|journal=FEMS Microbiology Letters|volume=195|issue=1|pages=1–8|DOI=10.1111/j.1574-6968.2001.tb10489.x|PMID=11166987}}</ref>。それらの特異性のために、人間、野生生物、[[送粉者|花粉交配者]]、および他のほとんどの[[益虫]]にほとんど影響を与えないため、これらの農薬は環境にやさしいと見なされている<ref>{{Cite journal|date=July 2006|title=Susceptibility of adult Coccinella septempunctata (Coleoptera: Coccinellidae) to insecticides with different modes of action|journal=Pest Management Science|volume=62|issue=7|pages=651–54|DOI=10.1002/ps.1221|PMID=16649191}}</ref><ref>{{Cite journal|year=2004|title=Bacterial insecticidal toxins|journal=Critical Reviews in Microbiology|volume=30|issue=1|pages=33–54|DOI=10.1080/10408410490270712|PMID=15116762}}</ref>。 細菌は急速に成長する能力を持ち、操作が比較的容易であるため、[[分子生物学]]、[[遺伝学]]、[[生化学]]など分野で頻繁に利用される。例えば細菌のDNAを変異させ、その表現型を調べることで、細菌の遺伝子、酵素、[[代謝経路]]の機能を調べることができ、得られた知識をより複雑な生物に適用することができる<ref>{{Cite journal|year=2001|title=A functional update of the Escherichia coli K-12 genome|journal=Genome Biology|volume=2|issue=9|page=RESEARCH0035|DOI=10.1186/gb-2001-2-9-research0035|PMID=11574054|PMC=56896}}</ref>。細胞の生化学を理解することで、様々な生物において、大量の[[酵素反応速度論|酵素動態]]や[[遺伝子発現]]データに基づく数学的モデルを作ることができる。いくつかのよく研究された細菌では研究が進められており、例えば''大腸菌の''代謝モデルが作成され検証が進められている<ref name="pmid14985762">{{Cite journal|date=February 2004|title=Global organization of metabolic fluxes in the bacterium Escherichia coli|journal=Nature|volume=427|issue=6977|pages=839–43|arxiv=q-bio/0403001|bibcode=2004Natur.427..839A|DOI=10.1038/nature02289|PMID=14985762}}</ref><ref>{{Cite journal|year=2003|title=An expanded genome-scale model of Escherichia coli K-12 (iJR904 GSM/GPR)|journal=Genome Biology|volume=4|issue=9|page=R54|DOI=10.1186/gb-2003-4-9-r54|PMID=12952533|PMC=193654}}</ref>。細菌の代謝や遺伝学の理解は、[[インスリン]]や[[成長因子]]、[[抗体]]などの治療用タンパク質の生産のために細菌を利用するという、[[生物工学|バイオエンジニアリング]]のための[[バイオテクノロジー]]に繋がる<ref>{{Cite journal|date=April 2005|title=Therapeutic insulins and their large-scale manufacture|journal=Applied Microbiology and Biotechnology|volume=67|issue=2|pages=151–59|DOI=10.1007/s00253-004-1809-x|PMID=15580495}}</ref><ref>{{Cite journal|date=February 2006|title=Manufacturing of recombinant therapeutic proteins in microbial systems|journal=Biotechnology Journal|volume=1|issue=2|pages=164–86|DOI=10.1002/biot.200500051|PMID=16892246}}</ref>。 細菌株のサンプルは研究において重要であるため、生物学的リソースセンター([[:en:Biological_Resource_Centers|Biological Resource Centers]])で分離および保存される。これにより、世界中の科学者が菌株を確実に入手できる体制が整っている<ref name="pmid14766539">{{Cite journal|date=February 2004|title=Diversity of phage types among archived cultures of the Demerec collection of Salmonella enterica serovar Typhimurium strains|journal=Applied and Environmental Microbiology|volume=70|issue=2|pages=664–69|bibcode=2004ApEnM..70..664R|DOI=10.1128/aem.70.2.664-669.2004|PMID=14766539|PMC=348941}}</ref>。 == 歴史 == [[ファイル:Jan Verkolje - Antonie van Leeuwenhoek.jpg|thumb|240px|right|自作の顕微鏡を用いて初めて微生物を観察した[[アントニ・ファン・レーウェンフック]]]] [[発酵]]は古代利用されていたが、細菌の発見は[[17世紀]]に遡る。[[1676年]]に[[アントニ・ファン・レーウェンフック]]によって発見され原生動物と合わせて“animalcules”(微小動物)と呼ばれた。この時は、彼自身が設計した単一レンズの顕微鏡を使用して最初に観察された。その後、彼はロンドン王立学会に一連の手紙で彼の観察を発表した{{Sfn|Wheelis|2008|p=}}。バクテリアは、レーウェンフックの最も注目すべき顕微鏡的発見であった。ただし、細菌は彼の作成した単純なレンズが見ることができる限界のサイズであったため、他の誰も1世紀以上それらを再び見ることができず、科学の歴史の中で最も印象的な休止の1つであったと言える<ref>{{Cite book|author-link=Isaac Asimov|year=1982|title=Asimov's Biographical Encyclopedia of Science and Technology|edition=2nd|location=Garden City, NY|publisher=Doubleday and Company|page=143]}}</ref>。彼の観察には、彼がアニマルキュールと呼んだ原生動物も含まれており、後世に提案された[[細胞説]]に併せて彼の発見は再度注目されることになった{{Sfn|Pommerville|2014|p=7}}。 [[1828年]]、[[クリスチャン・ゴットフリート・エーレンベルク]]は、[[顕微鏡]]で観察した微生物が細い棒状であったため、ギリシア語で「小さな杖」を意味する{{lang|el|βακτήριον}}から“Bacterium”と呼んだ。しかしながら実際に彼が観察した「Bacterium」は、非芽胞形成の桿菌を含んだ属であり<ref name="status">{{Cite journal|date=May 1936|title=The Status of the Generic Term Bacterium Ehrenberg 1828|journal=Journal of Bacteriology|volume=31|issue=5|pages=517–18|DOI=10.1128/jb.31.5.517-518.1936|PMID=16559906|PMC=543738}}</ref>''、これは''1835年にエーレンバーグ自身によって芽胞形成桿菌属である''バチルス(Bacillus)として''定義された<ref>{{Cite book|title=Dritter Beitrag zur Erkenntniss grosser Organisation in der Richtung des kleinsten Raumes.|trans-title=Third contribution to the knowledge of great organization in the direction of the smallest space|language=de|publisher=Physikalische Abhandlungen der Koeniglichen Akademie der Wissenschaften|location=Berlin|year=1835|pages=143–336}}</ref>。 [[1859年]]には[[ルイ・パスツール]]が、[[アルコール発酵]]が微生物によって引き起こされることを示し、さらに発酵が自然発生的な現象ではないことを示すことで、[[自然発生説]]を否定した。このとき、パスツールは発酵を起こす微生物を細菌だと考えたが、実際には[[菌類]]である(発酵に関連するものは細菌ではなく、一般的には[[酵母]]や[[カビ]]といった[[真菌]]である)。[[ロベルト・コッホ]]とともに、パスツールは[[病気の病原体説|病原菌理論]]の初期の提唱者であった<ref>{{Cite web |url=http://biotech.law.lsu.edu/cphl/history/articles/pasteur.htm#paperII |title=Pasteur's Papers on the Germ Theory |publisher=LSU Law Center's Medical and Public Health Law Site, Historic Public Health Articles |accessdate=23 November 2006 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061218123426/http://biotech.law.lsu.edu/cphl/history/articles/pasteur.htm |archivedate=18 December 2006}}</ref>。ただし、彼らの以前にも、[[センメルヴェイス・イグナーツ]]と[[ジョゼフ・リスター]]によって、医療業務における手指の消毒の重要性は認識されていた。センメルヴェイズのアイデアは却下され、このトピックに関する彼の本は医学界によって当時は非難されたが、その後にリスターが1870年代から手の消毒を始めた。 1840年代に病院での手洗いに関する規則から始めたセンメルワイスは、細菌自体に関する考えの先駆者であった。後にリスターは、病気は「動物の有機物の分解」に起因すると考えて消毒の重要性を説いた<ref>''[https://www.nationalgeographic.com/history/article/handwashing-once-controversial-medical-advice ‘Wash your hands’ was once controversial medical advice]'', [[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|National Geographic]].</ref>。 細菌培養法の基礎は、医療微生物学のパイオニアである[[ロベルト・コッホ]]によって確立され、一連の研究により[[炭疽菌]]、[[結核菌]]、[[コレラ菌]]が[[病原性]]の細菌によって引き起こされることが証明された。特に結核に関する彼の研究により、コッホはついに病原菌理論を証明し、1905年に[[ノーベル生理学・医学賞|ノーベル賞]]を受賞した<ref>{{Cite web |url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1905/ |title=The Nobel Prize in Physiology or Medicine 1905 |publisher=Nobelprize.org |accessdate=22 November 2006 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061210184150/http://nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1905/ |archivedate=10 December 2006}}</ref>。また、[[コッホの原則]]という、生物が病気の原因であるかどうかをテストするための基準が提唱され、これは今日でも使用されているものである<ref>{{Cite journal|date=October 1996|title=HIV causes AIDS: Koch's postulates fulfilled|url=https://zenodo.org/record/1260157|journal=Current Opinion in Immunology|volume=8|issue=5|pages=613–18|DOI=10.1016/S0952-7915(96)80075-6|PMID=8902385}}</ref>。 [[フェルディナント・コーン]]は細菌学の創始者であり、1870年から細菌を研究していた。コーンは、細菌をその形態に基づいて分類した最初の人物である<ref name="Chung">{{Cite web |author=Chung |first=King-Thom |accessdate=2019-03-23|url=http://www.pnf.org/compendium/Ferdinand_Julius_Cohn.pdf |title=Ferdinand Julius Cohn (1828–1898): Pioneer of Bacteriology |publisher=Department of Microbiology and Molecular Cell Sciences, The University of Memphis |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727180844/http://www.pnf.org/compendium/Ferdinand_Julius_Cohn.pdf |archivedate=27 July 2011}}</ref><ref name="microbeworld1">{{Cite journal|last=Drews, Gerhart|year=1999|title=Ferdinand Cohn, a founder of modern microbiology|url=http://www.microbeworld.org/images/stories/history_pdfs/f3.pdf|journal=ASM News|volume=65|issue=8|pages=547–52}}</ref>。 19世紀には多くの研究により、細菌が様々な病気の原因であることが判明したが、効果的な[[殺菌剤 (医薬品)|抗菌]]治療法は不明であり、[[対症療法]]しか存在しなかった<ref>{{Cite journal|date=December 2000|title=Of blood, inflammation and gunshot wounds: the history of the control of sepsis|journal=The Australian and New Zealand Journal of Surgery|volume=70|issue=12|pages=855–61|DOI=10.1046/j.1440-1622.2000.01983.x|PMID=11167573}}</ref>。20世紀に入ると培養法が確立されたことも相まって、細菌の研究が進んでいく。1910年、 [[パウル・エールリヒ]]は、''[[梅毒トレポネーマ]]''([[梅毒]]の原因となる[[スピロヘータ]]を選択的に染色する染料を、病原体を選択的に殺す化合物に変えることにより、最初の抗生物質を開発した<ref>{{Cite journal|date=March 2004|title=Paul Ehrlich's magic bullets|journal=The New England Journal of Medicine|volume=350|issue=11|pages=1079–80|DOI=10.1056/NEJMp048021|PMID=15014180}}</ref>。エーリッヒは、免疫学の研究で1908年の[[ノーベル賞]]を受賞し、細菌を検出および識別するための染色の使用を開拓し、[[グラム染色]]と[[抗酸染色]]の基礎となった<ref>{{Cite web |url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1908/ehrlich-bio.html |title=Biography of Paul Ehrlich |publisher=Nobelprize.org |accessdate=26 November 2006 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061128093700/http://nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1908/ehrlich-bio.html |archivedate=28 November 2006}}</ref>。[[1910年]]、[[パウル・エールリヒ]]と[[秦佐八郎]]によって初の[[抗菌剤]][[サルバルサン]]が開発され、[[1929年]]には[[アレクサンダー・フレミング]]によって[[抗生物質]][[ペニシリン]]が発見された。 細菌についての知識が深まるにつれ、[[分類学]]上での細菌の位置づけはしばしば[[変更]]されている。発見時は2界説に従い植物界に振り分けられ、[[1866年]]には[[エルンスト・ヘッケル]]によって単細胞生物をまとめた原生生物界に組み入れられた(3界説)。[[1930年]]頃になると原核生物と[[真核生物]]の違いが認識され、2帝説[[原核生物|原核生物帝]]([[1937年]])、次いで4界説(のち5界説)[[モネラ界]]([[1956年]])が提唱された。現在に至る一般の細菌のイメージは5界説における原核生物に対応している([[藍藻|藍色細菌は、旧名藍藻]]の概念としては除くこともある{{要出典|date=2020年2月}})。 しかし、[[1977年]]、[[カール・ウーズ]]らによって原生生物界の単系統性に疑問が投げかけられ、メタン生成菌(のち[[高度好塩菌]]と一部の[[好熱菌]]も)を除く原核生物として、Kingdom Eubacteria(真正細菌界)が定義された<ref name="Woese1977">{{Cite journal|date=November 1977|title=Phylogenetic structure of the prokaryotic domain: the primary kingdoms|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America|volume=74|issue=11|pages=5088–90|bibcode=1977PNAS...74.5088W|DOI=10.1073/pnas.74.11.5088|PMID=270744|PMC=432104}}</ref>。[[1990年]]には[[16S rRNA系統解析|16S rRNA配列]]に基づいて、当時の古細菌(メタン生成菌、高度好塩菌、一部の好熱菌)を除く原核生物としてDomain Bacteria(細菌ドメイン)が定義され、同時に古細菌はDomain Archaea (古細菌ドメイン)として新たに定義される、[[3ドメイン説]]が提唱された{{Sfn|Hall|2008|p=145}}。 カール・ウーズにより提唱された3ドメイン説(細菌、古細菌、真核生物)は現在も広い支持を得ているが、各ドメインの進化上の関係性は現在も議論が続いている。近年になって[[分子系統学|分子系統解析]]の進歩、および真核生物に非常に近縁の古細菌([[アスガルド古細菌]])が発見されるに至って<ref>{{Cite journal|last=Zaremba-Niedzwiedzka|first=Katarzyna|last2=Caceres|first2=Eva F.|last3=Saw|first3=Jimmy H.|last4=Bäckström|first4=Disa|last5=Juzokaite|first5=Lina|last6=Vancaester|first6=Emmelien|last7=Seitz|first7=Kiley W.|last8=Anantharaman|first8=Karthik|last9=Starnawski|first9=Piotr|date=2017-01|title=Asgard archaea illuminate the origin of eukaryotic cellular complexity|url=http://www.nature.com/articles/nature21031|journal=Nature|volume=541|issue=7637|pages=353–358|language=en|doi=10.1038/nature21031|issn=0028-0836}}</ref>、真核生物は古細菌の一部から進化したとする説が優勢になりつつある(2ドメイン説とも呼ばれる)。2ドメイン説では、細菌は原始の地球に出現した生命体の2つのグループの内の一つということになる(もう一つは古細菌)。さらに近年では、それまで知られていた細菌のグループとは全く別系統に属する新種の細菌グループ(Candidate Phyla Radiation;CPR)が見つかり、その規模は既知の細菌全体に匹敵するとも推測されている<ref name=":0" />。そのため細菌ドメインの範囲は現在もさらに拡大している。 == 脚注 == === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Bacteria}} {{Wikispecies|Bacteria}} * [[細菌学]] * [[微生物学]] * [[微生物生態学]] *[[口腔細菌学]] {{自然}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さいきん}} [[Category:細菌|*]]
2003-05-31T07:29:00Z
2023-11-13T22:17:52Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%8F%8C
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ロードランナー
『ロードランナー』(Lode Runner)は、ダグラス・E・スミスにより考案され、ブローダーバンドから1983年に発売されたアクションパズルゲーム。『バンゲリング ベイ』『チョップリフター』とともに、バンゲリング帝国三部作の一つである。後に上級編として『チャンピオンシップロードランナー』も発売された。なおタイトルの「ロード」の綴りは''Road''(道)、''Load''(負荷)ではなく ''Lode''(熱水鉱脈)である。 ゲームの目的はステージ内にある金塊を敵に捕まらずに回収し脱出すること。金塊を全て回収した状態でステージ最上部に達すればステージクリアとなる。 ランナー君(プレイヤーキャラクター)は穴を掘るためのレーザーガンを装備しており、床に穴をあけて下の階層に移動したり、掘った穴に敵を落としたりして障害をクリアしていく。アクションゲームにして、パズル性も兼ね備えている。 Apple IIシリーズ用が有名だが、各種パソコン・ゲーム機やアーケードゲームなど、様々な機種に移植されている。 2012年(平成24年)11月15日、オールタイム100ビデオゲームに選ばれた。 プロトタイプは1982年の夏休みに制作された、Pascalで書かれたPrime Computer 550用プログラムに源を発するという。また初期のプログラムは、VAX用にFORTRANで書かれていた。 これが学生の間で評判となり、友人のApple IIを借りて移植、ブローダーバンドに応募したが、カラーモニターが無かったため白黒画面で作った、キャラクターが小さい、ジョイスティックに非対応などの理由で没となる。それらの欠点を改良し、エディタなども付けた上で再度応募したところ採用となり、1982年12月30日にブローダーバンドと契約。翌1983年6月23日に同社から発売された。地形パーツのトラップは、ブローダーバンドからの要請で製品化時に組み込んだものとされる。 媒体は5インチフロッピーで、アメリカでの価格は39.95ドル。日本国内での輸入販売価格は11,000円程度だった。 スミスは別述した1985年のイベントに合わせて来日した際、インタビューで「おかげで寝室4つにプール付きの家、モーターボート、ポルシェ2台が手に入った」と語っている。この時点での販売本数はアメリカで約15万本、日本で約200万本(ファミコン版を含む)だった。 ステージを構成するパーツで、各作品共通で登場するものは以下のとおり 。 主人公の邪魔をして来る唯一の敵。「衛兵」「番兵」もしくは単に「敵」とも呼ばれる。他のゲームの敵キャラのように、異なるスペックや能力などは持たず、すべて同じである。若干速度が遅く、レンガを掘れないほかは主人公とほぼ同じ能力を持ち、常に主人公を追いかけてくる。じつは、初代ボンバーマンで出てくるボンバーマンと同じ。 日本では、ハドソンがファミリーコンピュータ用に移植したものが特に知名度が高い。同社の『ナッツ&ミルク』とともに、ファミコン初のサードパーティー製ソフトとして知られている。 またファミコン初のスクロール画面(横)を備えたゲームでもある。オリジナルのApple版ではキャラクターが半角1カーソル分と非常に小さく、1画面にマップを全て表示できていたためスクロールの必要はなかったが、ファミコン版では低年齢層への配慮もありキャラクターサイズを大きくしたため1画面に表示し切れず、Apple版とは異なる画面構成(横28×縦13サイズ)になったうえ、左右スクロールが採用されることとなった。1画面に表示しきれないことでパズル性を損ねる懸念もあり、ブローダーバンド社からはNGが出たが、当時の工藤取締役と高橋名人(当時はまだ宣伝部に移って名人としての活動を始める前で、営業部員の頃である)が説得にあたり、発売にこぎつけたという。 1画面分(横14×縦13サイズ)のステージが作れるエディットモードが搭載されており、ファミリーベーシック用のデータレコーダを使用することでデータを保存することも出来た。『チャンピオンシップロードランナー』の登場以降は、時間差や敵(他機種版では「盗賊」と呼称されているものもあるが、本作では「ロボット」と呼称された)の頭上渡りなどの技を多用する者も多くなり、様々な遊び方ができるため、ゲーム発売後何年も長く親しまれた。また、ハドソンが発売していたカセットテープ付き雑誌『カセットメディア』では、オリジナルステージの投稿を募集し、優秀作品を付録のカセットテープに収録するという試みも行われた。 レンガを掘った穴が埋まる直前にもう一度掘ると透明になる、掘った穴の下のはしごからランナーが背中を向けて静止している状態で埋まるのを待つとそのレンガはすり抜けられるようになるなど様々なバグがあった。また最後の金塊を取る前にロボットをある数以上埋めると、その数により最後の金塊を取った時に様々なフルーツ型のボーナスアイテムが短い時間だけ最後から2番目に取った金塊の位置に出現する。ステージセレクト画面でセレクトボタンを押しながらAボタンを押すと、押した回数だけ速くなり、Bボタンだと遅くなるという、いわゆるゲームスピード調整があった(スピード調整は説明書に記載されていた)。 後発の『チャンピオンシップロードランナー』では上記の裏技の内のステージセレクト画面でセレクトボタンを押しながらAボタンまたはBボタンでの『ゲームスピード調整』以外は全て撤廃されたが、2006年に発売されたニンテンドーDS版ではこれらの裏技を再現できる設定がオプションで可能となっている。 また2006年に発売されたニンテンドーDS版では先発版でのエディットモードが復刻されており、こちらは横28×縦13サイズまでの作成が可能(=横2画面サイズ×縦1画面サイズ)で、敵の配置数が最大5体までとなっている。掘ったレンガの復旧速度は先発版と後発版とで異なっている(先発版は若干速く埋まり、後発版では若干遅く埋まる)が、エディット版は全て先発版(=速く埋まる)を基準にしている。 第2弾の『チャンピオンシップロードランナー』はオリジナル同様の画面構成(横28×縦16サイズ)を再現したが、その分今度は上下方向にも収まりきらなくなり、上下左右スクロールとなった(これに対する救済策として、本作ではポーズ中にスクロールさせて見渡すことができるようになっている)。 本作では全ステージクリアしたプレイヤーに「チャンピオンカード」という認定証が贈られるキャンペーンが実施され話題となった(PC版でも各メーカー毎に実施されている)。毛利名人は、このキャンペーンの3,000人目の認定者となり、同社の広告に登場したのがきっかけで名人としての活動を開始することとなった。 このゲームの主人公ランナー君が、かつては悪の手先として働かされていたロボット(グラフィックはこのゲームの敵キャラのもの)だったというスピンオフストーリーが、初代『ボンバーマン』である。PCエンジン用に発売された『バトルロードランナー』では、ブラックボンバーマン(黒ボン)が敵役として客演している。 また1991年(平成3年)10月4日には、当時ハドソンの創立20周年を記念してこのファミコン版が再版された。その際の広告にはお笑い芸人のダウンタウンが起用されていた。なお松本人志は大阪時代、アイレムのアーケード版を頻繁にプレイしていたという。 日本での累計出荷本数は110万本。
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『ロードランナー』は、ダグラス・E・スミスにより考案され、ブローダーバンドから1983年に発売されたアクションパズルゲーム。『バンゲリング ベイ』『チョップリフター』とともに、バンゲリング帝国三部作の一つである。後に上級編として『チャンピオンシップロードランナー』も発売された。なおタイトルの「ロード」の綴りは''Road''(道)、''Load''(負荷)ではなく ''Lode''(熱水鉱脈)である。
{{Otheruses|コンピュータゲーム}} {{出典の明記|date=2017年7月}} {{コンピュータゲーム | Title = ロードランナー | Genre = [[アクションパズル]] | Plat = [[Apple II]] (APII){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[Atari 8ビット・コンピュータ]] (A8)<br />[[コモドール64]] (C64)<br />VIC-20<br />[[ZX Spectrum]] (ZX)<br />[[PC-100]]<br />[[PC-9801]] (PC98)<br />[[PC-8000シリーズ|PC-8001mkII]] (PC80)<br />[[PC-6001]] (PC60)<br />[[PC-6601]] (PC66)<br />[[アーケードゲーム|アーケード]] (AC)<br />[[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[FM-7]]<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]]<br />[[SG-1000]] (SG)<br />[[MSX]]<br />[[Classic Mac OS]] (MAC)<br />[[MZ-1500]] (MX15)<br />[[PC-8800シリーズ|PC-8801]] (PC88)<br />[[SMC-777]]<br />[[BBC Micro]] (BBC)<br />PC-8801mk2SR/TR/FR/MR<br />[[MZ-2500]] (MZ25)<br />PC-9801(保存版)<br />[[電子手帳]]<br />[[ゲームボーイアドバンス]] (GBA)<br />[[iアプリ]]<br />[[ニンテンドーDS]] (DS)<br />[[Wii]]<br />[[iOS]]<br />[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]<br />[[Wii U]]}} | Dev = [[ブローダーバンド]] | Pub = ブローダーバンド | producer = | director = | designer = [[ダグラス・E・スミス]] | writer = | programmer = | composer = | artist = | license = | series = [[バンゲリング帝国三部作]] | Ver = | Play = 1人 | Media = [[フロッピーディスク]] | Date = {{vgrelease new|NA|1983年}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''A8,C64,VIC-20,ZX'''<br />{{vgrelease new|NA|1983年}}'''PC-100'''<br />{{vgrelease new|JP|1983-10-13}}'''PC98'''<br />{{vgrelease new|JP|1983-10-30}}'''PC80'''<br />{{vgrelease new|JP|December 1983}}'''PC60,PC66'''<br />{{vgrelease new|JP|1984年}}'''AC'''<br />{{vgrelease new|JP|July 1984}}'''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1984-7-20}}'''FM-7,X1'''<br />{{vgrelease new|JP|November 1984}}'''SG'''<br />{{vgrelease new|JP|November 1984}}'''MSX'''<br />{{vgrelease new|JP|1984年}}'''MAC'''<br />{{vgrelease new|NA|1984年}}'''MZ15'''<br />{{vgrelease new|JP|1985年2月}}'''PC88'''<br >{{vgrelease new|JP|1985年2月}}'''SMC-777'''<br />{{vgrelease new|JP|1985年}}'''BBC'''<br />{{vgrelease new|NA|1985年}}'''PC-8801mk2SR/TR/FR/MR'''<br />{{vgrelease new|NA|January 1986}}'''MZ25'''<br />{{vgrelease new|JP|March 1986}}'''PC98(保存版)'''<br />{{vgrelease new|JP|June 1989}}'''電子手帳'''<br />{{vgrelease new|JP|1990年}}'''GBA'''<br />{{vgrelease new|JP|2003-2-21}}'''iアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2003-9-12}}'''DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2006-10-26}}'''Wii'''<br />{{vgrelease new|JP|2007-3-6}}'''iOS'''<br />{{vgrelease new|INT|2013-1-16}}'''Android'''<br />{{vgrelease new|INT|2013-1-17}}'''Wii U'''<br />{{vgrelease new|JP|2014-9-17}}}} | Rating = | ContentsIcon = | Download content = | Device = | Spec = | Engine = | aspect ratio = | resolution = | Sale = | etc = }} 『'''ロードランナー'''』('''Lode Runner''')は、[[ダグラス・E・スミス]]により考案され、[[ブローダーバンド]]から[[1983年]]に発売された[[アクションパズル]][[コンピューターゲーム|ゲーム]]。『[[バンゲリング ベイ]]』『[[チョップリフター]]』とともに、'''[[バンゲリング帝国三部作]]'''の一つである。後に上級編として『[[チャンピオンシップロードランナー]]』も発売された。なおタイトルの「ロード」の綴りは<nowiki>''Road''(道)、''Load''(負荷)ではなく ''Lode''</nowiki>([[熱水鉱脈]])である。 == 概要 == {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}} ゲームの目的は[[ステージ (コンピュータゲーム)|ステージ]]内にある金塊を敵に捕まらずに回収し脱出すること。金塊を全て回収した状態でステージ最上部に達すればステージクリアとなる。 ランナー君(プレイヤーキャラクター)は穴を掘るためのレーザーガンを装備しており、床に穴をあけて下の階層に移動したり、掘った穴に敵を落としたりして障害をクリアしていく。アクションゲームにして、パズル性も兼ね備えている<ref name="Miyasako050729">[http://www.ss-alpha.co.jp/column/200507.html#20050729 往年の名作ゲーム【その2】(2005.7.29)] - システムソフト・アルファー(宮迫プロデューサーの時事コラム)、2015年6月21日閲覧。</ref>。 [[Apple II]]シリーズ用が有名だが、各種[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]・[[ゲーム機]]や[[アーケードゲーム]]など、様々な機種に移植されている。 2012年(平成24年)11月15日、[[オールタイム100ビデオゲーム]]に選ばれた。 == 制作の過程 == プロトタイプは1982年の夏休みに制作された、[[Pascal]]で書かれた[[Prime Computer 550]]用プログラムに源を発するという<ref>[https://web.archive.org/web/20120117162929/http://ww3.tiki.ne.jp/~maclr/lr/lrdoc/briefhistory.html Lode Runner Online(2010-10-12閲覧)](2012年1月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref>『ロードランナーファンブック』P. 66</ref>。また初期のプログラムは、[[VAX]]用に[[FORTRAN]]で書かれていた<ref>作者のページ[http://entropymine.com/jason/lr/misc/ldhist.html Lode Runner: Ancient History!](2010-10-12閲覧)には、VAX1との表記が見える。<!-- しかしこれはVAX-11の誤記かもしれない。 --></ref>。 これが学生の間で評判となり、友人の[[Apple II]]を借りて移植、[[ブローダーバンド]]に応募したが、カラーモニターが無かったため白黒画面で作った、キャラクターが小さい、ジョイスティックに非対応などの理由で没となる。それらの欠点を改良し、エディタなども付けた上で再度応募したところ採用となり、[[1982年]][[12月30日]]にブローダーバンドと契約。翌[[1983年]][[6月23日]]に同社から発売された<ref name="beep198510">月刊『Beep』1985年10月号、[[日本ソフトバンク]]、27-29頁。</ref>。地形パーツのトラップは、ブローダーバンドからの要請で製品化時に組み込んだものとされる<ref name="beep198510"/>。 媒体は5インチフロッピーで、アメリカでの価格は39.95ドル。日本国内での輸入販売価格は11,000円程度だった<ref name="login198504_beep198505">月刊『ログイン』1985年4月号(アスキー)、月刊『Beep』1985年5月号(日本ソフトバンク)ほか、当時のゲーム雑誌の輸入ソフト販売ランキングの記述による。</ref>。 スミスは別述した1985年のイベントに合わせて来日した際、インタビューで「おかげで寝室4つにプール付きの家、モーターボート、ポルシェ2台が手に入った」と語っている<ref name="beep198510"/>。この時点での販売本数はアメリカで約15万本、日本で約200万本(ファミコン版を含む)だった<ref name="beep198510"/>。 == こぼれ話 == * [[1985年]]の[[国際科学技術博覧会|つくば万博]]で、ソニーは2000インチの巨大[[テレビ]]([[ジャンボトロン]])を展示し、これを用いたゲーム大会を1985年(昭和60年)8月11日開催、使われたのがMSX版のロードランナーだった<ref name="beep198510"/>。参加者は小学校4年生から中学校3年生までの男女が、事前申込から抽選で選ばれた。 * 本作品には、「敵の頭渡り」など数々のテクニックがあるが、スミスいわく「最初から考えて付けたものではなく、本当はバグであった」と語っている。敵の動きは、基本的には「プレイヤーと高さを揃えて距離をつめてくる」というアルゴリズムだったが、ある地点でプレイヤーが止まるとかえって遠ざかっていくようになってしまうバグが出ていた。そこでこのバグを修正したところ、先の展開が読めすぎて全くつまらないものになってしまったため、バグを元に戻してこちらを完成バージョンとしたとのこと。 == ゲーム内容 == === 地形 === ステージを構成するパーツで、各作品共通で登場するものは以下のとおり<ref name="funbook5">『ロードランナーファンブック』p. 5-6</ref> 。 ; 空白 : 何もない場所。落下中に左右に移動することはできない。ただし、敵に乗りながら落下している場合は左右に移動が出来る。 ; [[煉瓦|レンガ]] : 足場となる地形。主人公はレーザーガンで隣の足元のレンガを掘ることができる。敵はこれに落ちるとしばらく動けなくなるが、主人公は下に何も無ければこれを通過できる。一定時間が経つと再生し(作品によって時間は異なる)、これに巻き込まれるとアウト。テクニックを応用すれば、タイミングをずらして掘ったりできる(通称、時間差掘り<ref name="funbook24">『ロードランナーファンブック 』p. 24-27</ref>)。 ; ブロック : 足場となる地形。レンガと違い掘る事は不可能。初期の[[#ハドソン版|ハドソン版]]では「[[コンクリート]]」、[[パトラ (ゲーム会社)|パトラ]]/[[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]]が発売した[[Presage Software]]版『〜レジェンドリターンズ』『〜エクストラ』では「岩盤」と、呼称の異なる作品もある。 ; [[梯子|ハシゴ]] : ランナーが上下方向に移動するために使う。左右移動も可能である。本作にはジャンプというアクションが存在しないため、上方へ移動するには基本的にこれを使うしかない。なお、ハシゴのすぐ下にあるレンガは掘れない。 ; 隠れハシゴ : 金塊を全て集めると出現する、画面の最上段に届くハシゴ。「脱出ハシゴ」「出口ハシゴ」などとも呼ばれる。出現前であれば出現場所のすぐ下にあるレンガを掘ることは可能であるが、出現後以降は掘ることは不可能となる。 ; バー : 空中に設置されている棒。これを伝って左右に移動することができる。方向キー下で、手を離して飛び降りることも可能。すぐ下にあるレンガは掘れない<ref group="注釈">ただし、アイレムが開発したアーケード版の1作目のみ、バーの真下にあるレンガを掘る事が可能で、実際にそれを知らないとクリア出来ないステージも存在する。</ref>。 ; トラップ : 見た目はレンガと同じだが、踏み込むと落ちる落とし穴。この中からレンガを掘ることもできる。横から入ることはできないが、作品によっては下から入ることができる。トラップ自体は掘れない。 ==== 一部作品に登場する地形 ==== ; 隠しブロック : [[アイレムソフトウェアエンジニアリング|アイレム]]版シリーズなどに登場。アーケード版では掘れないブロックとなっており、上に乗ることで出現する。[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]版『スーパーロードランナー』では「見えない'''レンガ'''」と呼ばれ、掘ることが可能。一度掘ると姿を現す。どちらも見えないというだけで、足場としての判定は出現前から存在する。 ; 動かせるブロック : アイレム版『帝国からの脱出』に登場。主人公が押すことで左右に動かせるブロックで、掘ることはできない。押している時は移動速度が低下する。空中に持っていっても落ちることなくそのまま浮く。ハシゴやバーを通過させることはできるが、金塊や掘ったレンガの場所を通過させることはできない。また、敵はこのブロック越しに押すことが可能。 ; [[乾留液|タール]]の地面 : パトラ/サクセス版『〜レジェンドリターンズ』『〜エクストラ』に登場。主人公・敵ともに撒かれたタールに足を取られ、移動速度が低下する。掘ることはできない。 === ロボット === 主人公の邪魔をして来る唯一の敵。「衛兵」「番兵」もしくは単に「敵」とも呼ばれる。他のゲームの敵キャラのように、異なるスペックや能力などは持たず、すべて同じである。若干速度が遅く、レンガを掘れないほかは主人公とほぼ同じ能力を持ち、常に主人公を追いかけてくる。じつは、初代ボンバーマンで出てくるボンバーマンと同じ。 ; 出現数 : 出現数はステージによって決まっており、初期の作品では1ステージにつき最大3体(『チャンピオンシップロードランナー』では最大5体)という制限があったが、昨今の作品ではこれによらない場合も多い。1度でも触れてしまうとアウトだが、ロボットの上に乗った場合はミスにならず、足場代わりに使うことが可能。 ; 倒し方 : レンガに埋めて倒す事が出来るが、倒してもステージ上部<ref group="注釈">出現位置はランダムでステージ上部が金塊やハシゴ、バー等の障害物で埋め尽くされているような状況だとそれより下の空間で出現することがある。またステージ上部で倒した際、主人公がいる場所に出現して出会い頭でアウトとなってしまうことも有り得るので、ステージ上部で倒すのはこのようなリスクが伴うことも常に考慮しなければならない。</ref>から復活する。レーザーガンで直接撃って倒すようなことはできない。 ; その他 : ステージ上の金塊を持ち去ることもあり(一度に1個だけ)、この場合はしばらく歩かせるか、掘った穴に落とせば金塊を放す。 : 主人公と違い、掘った穴に落ちても一定時間後に這い上がってくる他、掘った穴の直下が空間であってもそれより下に落ちることがない。また、二段以上に積み重なっているレンガの下の段で掘った穴に落とした場合は、這い上がることが出来ず確実に倒せるほか、金塊を持っていた場合は回収(ただし得点は加算されない)扱いとなる。 == 他機種版 == {{出典の明記|date=2023年12月|section=1}} {| class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%" ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 売上本数 ! 備考 |- | style="text-align:right" |1 ! LODE RUNNER | {{vgrelease new|NA|1983年<ref name="mobygames_A8">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/atari-8-bit/lode-runner |title=Lode Runner for i 8-bit (1983) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref><ref name="mobygames_C64">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/c64/lode-runner |title=Lode Runner for Commodore 64 (1983) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref><ref name="mobygames_V20">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/vic-20/lode-runner |title=Lode Runner for VIC-20 (1983) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref><ref name="mobygames_ZX">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/zx-spectrum/lode-runner |title=Lode Runner for Spectrum (1984) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref> }} | [[Atari 8ビット・コンピュータ]]<br />[[コモドール64]]<br />VIC-20<br />[[ZX Spectrum]] | ブローダーバンド | ブローダーバンド | [[フロッピーディスク]] | - | - | |- | style="text-align:right" |2 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1983-10-13}} | [[PC-100]] | ブローダーバンド | システムソフト | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |3 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1983年10月30日<ref name="mobygames_PC98">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/pc98/lode-runner |title=Lode Runner for PC-98 (1983) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[PC-9801]] | ブローダーバンド | システムソフト | カセットテープ<br />フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |4 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1983年12月<ref name="mobygames_PC88">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/pc88/lode-runner |title=Lode Runner for PC-88 (1983) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[PC-8000シリーズ|PC-8001mkII]] | ブローダーバンド | システムソフト | カセットテープ<br />フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |5 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1984年<ref name="mobygames_PC60">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/pc-6001/lode-runner |title=Lode Runner for PC-6001 (1984) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[PC-6001]]<br />[[PC-6601]] | ブローダーバンド | システムソフト | カセットテープ<br />フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |6 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1984年7月<ref name="mobygames_AC">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/arcade/lode-runner |title=Lode Runner for Arcade (1984) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[アーケードゲーム|アーケード]] | [[アピエス|アイレム]] | アイレム | [[アーケードゲーム基板|業務用基板]] | - | - | |- | style="text-align:right" |7 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1984年7月20日<ref>『[[ハドソンベストコレクション|ハドソンベストコレクションVol.2 ロードランナーコレクション]]』より。</ref>|NA|1987年9月<ref name="mobygames_NES">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/nes/lode-runner |title=Lode Runner for NES (1984) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[ファミリーコンピュータ]] | ハドソン | ハドソン | [[ロムカセット]] | {{vgrelease new|JP|HFC-LR|NA|NES-LO}} | 110万本<ref name="geimin"/> | |- | style="text-align:right" |8 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1984年9月15日<ref>{{Cite journal|和書|title=ブローダーバンド社 副社長が来日|journal=トイズマガジン|publisher=トイズマガジン社|issue=1984年10月号|pages=86}}<!-- 1984年9月15日のソース --></ref><ref>{{Cite news|和書|title=セガ社家庭用ソフト70種|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19860501p.pdf|newspaper=[[ゲームマシン]]|issue=283|agency=[[アミューズメント通信社]]|date=1986-05-01|page=10|archivedate=2019-11-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191102030941/http://onitama.tv/gamemachine/pdf/19860501p.pdf|url-status=live}}</ref>}} | [[SC-3000]]/[[SG-1000]] | [[コンパイル (企業)|コンパイル]]<ref name="completecompile_gamelist">{{Cite journal|和書|title=コンパイルゲーム16年史|journal=コンプリート・コンパイル|publisher=エクシードプレス|editor=ゲークラ編集部|date=1998-10-01|ISBN=9784893696458|page=10-11}}</ref> | [[セガ]] | ロムカセット | G-1031 | - | |- | style="text-align:right" |9 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1984年11月<ref name="mobygames_FM7">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/fm-7/lode-runner |title=Lode Runner for FM-7 (1984) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref><ref name="mobygames_X1">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/sharp-x1/lode-runner |title=Lode Runner for Sharp X1 (1984) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[FM-7]]<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]] | ブローダーバンド | ソフトプロ | カセットテープ<br />フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |10 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1984年11月{{R|completecompile_gamelist}}}} | [[MSX]] | コンパイル{{R|completecompile_gamelist}} | [[ソニー]] | ロムカセット | HBS-G047C | - | フロッピーディスク版は1985年[[6月21日]]発売 |- | style="text-align:right" |11 ! LODE RUNNER | {{vgrelease new|NA|1984年<ref name="mobygames_MAC">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/macintosh/lode-runner |title=Lode Runner for PC-88 (1984) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[Classic Mac OS]] | ブローダーバンド | ブローダーバンド | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |12 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1985年2月}} | [[MZ-1500]] | ブローダーバンド | ユニバース(コスモス岡山) | [[クイックディスク]] | - | - | |- | style="text-align:right" |13 ! ロードランナー オリジナル追加面 | {{vgrelease new|JP|1985年}} | [[PC-8800シリーズ|PC-8801]] | ブローダーバンド | 国際パソコンセンター | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |14 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1985年}} | [[SMC-777]] | ブローダーバンド | ソニー | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |15 ! LODE RUNNER | {{vgrelease new|NA|1985年}} | [[BBC Micro]] | ブローダーバンド | ソフトウェアプロジェクト | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |16 ! ロードランナー | {{vgrelease new|NA|January 1986}} | PC-8801mk2SR/TR/FR/MR | ブローダーバンド | システムソフト | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |17 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|March 1986}} | [[MZ-2500]] | ブローダーバンド | ソフトプロ | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |18 ! 保存版ロードランナー | {{vgrelease new|JP|June 1989}} | PC-9801 | ブローダーバンド | システムソフト | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" |19 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|1990年}} | [[電子手帳]] | [[ナグザット]] | ナグザット | 内蔵ゲーム | PA-3C30S | - | |- | style="text-align:right" |20 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|2003-2-21}} | [[ゲームボーイアドバンス]] | [[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]] | サクセス | ロムカセット | - | - | |- | style="text-align:right" |21 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|2003年9月12日<ref>{{Cite web|和書 |author= |date=2003-9-12 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/0309/12/n_hud.html |title=ハドソン、「ロードランナー」のiアプリを配信 |website=[[ITmedia|ITmedia Mobile]] |publisher=アイティメディア |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[iアプリ]] | ハドソン | ハドソン | [[ダウンロード販売|ダウンロード]] | - | - | |- | style="text-align:right" |22 ! ハドソンベストコレクション Vol.2<br />ロードランナーコレクション | {{vgrelease new|JP|2005-12-22}} | ゲームボーイアドバンス | ハドソン | ハドソン | ロムカセット | AGB-P-B72J | - | ファミリーコンピュータ版の移植,「チャンピオンシップロードランナー」同時収録 |- | style="text-align:right" |23 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|2006-10-26}} | [[ニンテンドーDS]] | ハドソン | ハドソン | DSカード | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植+アレンジ移植,「チャンピオンシップロードランナー」同時収録 |- | style="text-align:right" |24 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|2007年3月6日<ref>{{Cite web|和書 |author= |date= |url=https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_lr/index.html |title=VC ロードランナー |website=任天堂ホームページ |publisher=[[任天堂]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>|NA|2007年6月11日<ref name="mobygames_Wii">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/wii/lode-runner |title=Lode Runner for Wii (2007) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[Wii]] | ハドソン | ハドソン | ダウンロード<br />([[バーチャルコンソール]]) | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |- | style="text-align:right" |25 ! ロードランナー クラシック | {{vgrelease new|INT|2013年1月16日<ref name="mobygames_iphone">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/iphone/lode-runner |title=Lode Runner for iPhone (2013) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[iOS]] | Tozai Games | Tozai Games | ダウンロード | - | - | Apple II版の移植 |- | style="text-align:right" |26 ! ロードランナー クラシック | {{vgrelease new|INT|2013年1月17日<ref name="mobygames_AND">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/android/lode-runner |title=The Lode Runner for Android (2013) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[Android (オペレーティングシステム)|Android]] | Tozai Games | Tozai Games | ダウンロード | - | - | Apple II版の移植 |- | style="text-align:right" |27 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|2014年9月17日<ref>{{Cite web|和書 |author= |date= |url=https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000002704 |title=ロードランナー|Wii U |website=任天堂ホームページ |publisher=[[任天堂]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>|NA|2014年12月4日<ref name="mobygames_WiiU">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/wii-u/lode-runner |title=Lode Runner for Wii U (2014) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}} | [[Wii U]] | ハドソン | [[コナミデジタルエンタテインメント|KDE]] | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |} === システムソフト === ; PC-100版 : PC-100付属のディスクに同梱されていた<ref name="funbook122">『ロードランナーファンブック』p. 122-123 </ref><ref name="Miyasako050627">[http://www.ss-alpha.co.jp/column/200506.html#20050627 往年の名作ゲーム【その1】(2005.6.27)] - システムソフト・アルファー(宮迫プロデューサーの時事コラム)、2015年6月21日閲覧。</ref>。 ; PC-8001mkII版 : テープ版とFD版が発売された。Apple版同様の画面構成(横28×縦16サイズ)を再現している。 ; PC-6001、PC-6601版 : テープ版とFD版が発売された。FD版は8001版同様、Apple版同様の画面構成(横28×縦16サイズ)を再現し、Apple版同様のカラー描画となっている。テープ版に関しては10ステージクリアする毎にテープをロードする必要があり、画面はモノクロ描画であった。 ; PC-9801版『ロードランナー』、『保存版ロードランナー』 : いずれも[[PC-9801]]用[[ソフトウェア|ソフト]]。PC-8801版と同様、Apple版に比べて画面の横キャラクタ数が少なくなっている。(横26×縦16サイズ) : 保存版は初代の150ステージ+チャンピオンシップの50ステージに新規追加100ステージを加え、全300ステージが収録されている。また、FM音源によるBGMが追加され、画面もカラフルになったほか、メニュー等も日本語にローカライズされている。 ; PC-8801版 : Apple版より画面の横キャラクタ数が少なくなっている。(横26×縦16サイズ) ; PC-8801mk2SR/TR/FR/MR版 : 専用ソフト。 ; X68000版 : PC-9801版『ロードランナー』がベースになっている。 : Apple版より画面の横キャラクタ数が少なくなっている。(横26×縦16サイズ) : 初代の150ステージ+新規追加の100ステージの全250ステージで構成されている。チャンピオンシップの50ステージは収録されていない。 === NEC === ; PC-100版 : 同社製の[[PC-100]]に付属した国産機初の移植版。開発は[[システムソフト]]<ref name="funbook122"/><ref name="Miyasako050627"/>。 === ソフトプロ === ; FM-7版 : テープ版およびFD版。Apple版より画面の縦横キャラクタ数が少なかった(横26×縦15サイズ)のに伴い、敵ロボットのアルゴリズムも若干変更されている。 : ステージ数はApple版同様それぞれ150ステージと50ステージだが、一部がオリジナルステージに差し替えられている。 ; X1版 : テープ版およびFD版。FM-7版同様、画面の縦横キャラクタ数が少なかった(横26×縦15サイズ)のに伴い、敵ロボットのアルゴリズムも若干変更されている。 : キャラクターグラフィックにカラー3色が用いられており、他機種版より多少カラフルであった。 ; [[MZ-2500]]版 ; [[MB-S1]]版 ; [[FM16π]]用 マイクロカセット版 ; [[B16]]版 === ソニー === ; SMC-777版 : FD版で発売された。Apple版同様の画面構成(横28×縦16サイズ)を再現している。 : 『ロードランナー』にはオリジナルステージが追加されており、全175ステージとなっている。 ; MSX版 : [[MSX]]用ソフト。開発担当は[[コンパイル (企業)|コンパイル]]。Apple版同様の画面構成(横28×縦16サイズ)を再現している。 : ROM版が全76ステージ(Apple版150ステージからの抜粋59ステージ+オリジナルステージ17)、FD版が全181ステージ(Apple版150ステージから1削除した149ステージ+オリジナルステージ32)だった。また、ROM版にはエディット機能がなかった。 : ソニーのMSXパソコンHB-10にはROM版が同梱されていた。 : 外部ジョイパッドの規格が確定前だったので、無印,IIとも多くのジョイパッドで掘る側のボタンと掘れる方向が逆になってしまう。 === ユニバース(コスモス岡山) === ;MZ-1500版 :QD([[クイックディスク]])で発売。Apple版同様の画面構成(横28×縦16サイズ)を再現している。 === ハドソン === ; ファミリーコンピュータ版 : [[ファミリーコンピュータ]]用ソフト詳細は[[#ハドソン版]]にて。 ; 携帯アプリ版 : 全80面。エディット機能もある。 ; ゲームボーイアドバンス版『ロードランナーコレクション』 : [[ハドソンベストコレクション]]のラインナップのひとつ。ファミコン版のロードランナーとチャンピオンシップロードランナー(以下'''チャンピオン'''と略する)を収録。 ; ニンテンドーDS版 : DSの下画面に従来のスクロール画面、上画面にステージ全体を表示。グラフィックは3パターン(FCオリジナル版とDSアレンジ版2種)から選択可能。ロードランナー初心者のためのチュートリアルモードも実装。ファミコン版2作の全ステージ(「ロードランナー」と「チャンピオン」)とパズル要素に特化した「詰めロードランナー」を収録した、「50+50+30」の計130ステージ構成。エディット機能はタッチペン対応。またエディット機能はFC版オリジナルでは1画面分のみであったが本作では2画面分の作成が可能、また敵の配置数がFC版オリジナルでは3体までだったものが本作ではチャンピオンと同じ5体まで配置可能となっている。エディットセーブファイルは10個。ローカル通信機能により作成したステージは他のプレイヤーへの配信が可能。 : FC版ロードランナーのステージ6の敵の配置数がDS版では'''4'''体<ref group="注釈">ロードランナーでは最大3体まで、チャンピオンでは最大5体までとなっているが、ここでは前者の最大3体まで</ref>に変更されており、これによりチャンピオンではない方で唯一4体以上の配置となっている。 === アイレム === ; アーケード版 : アーケードゲームであるため時間制限が存在し、タイマーが0になることでもミスになる。その代わりステージクリア時に残りタイムが得点に換算される、金塊を持ち去った敵が点滅して容易に判別できるといったフィーチャーもある。またタイムボーナス以外にも光る金塊(最初に取ると高得点)やハイドキャラ(特定のレンガを掘ると現れる敵。再び穴に落とすと高得点のアイテムを出す)、敵の頭上に乗る、敵を倒さないでステージクリアなど多彩なボーナス得点が用意されている。 :3ステージクリアするごとに主人公がその境界を通るデモ画面が挿入され、敵の種類が変化する(本シリーズではこの1区切りを「ブロック」と呼ぶ)。敵キャラにはハシゴやバーの切れ目での挙動など、若干の性能差がある。 === セガ === ; SC-3000/SG-1000版 * 開発は[[コンパイル (企業)|コンパイル]]が担当{{R|completecompile_gamelist}}。全80ステージ(Apple版150ステージからの抜粋78、オリジナルステージが2)だが、画面構成が横30×縦11サイズという歪なものになっているため、Apple版の原型を留めていないステージもある。 * セガ版「チャンピオンシップロードランナー」の説明書には、キャラクター紹介のページが在り、主人公は銀河パトロール隊員で名前はキーンであり、敵キャラはバンゲリング帝国の衛兵であると表記されているが、本作の説明書には、主人公は「プレイヤー」、敵キャラは「敵」と表記されているだけである。 * 両作品のパケ絵は同じ物が使われており、主人公(と思われる人物)も同一人物である。しかし、本作のパケ絵では、その人物は向かって右を向いているが、「チャンピオンシップロードランナー」のパケ絵では、向かって左向きである。しかも、後者の服の左腕のマークは、前者の服の右腕のマーク(アルファベットのRがデザインされている)の左右逆の形になっている。 * レンガの上から右側に飛び降りる瞬間、左側を掘ると、そのレンガを掘る事が出来てしまうというバグ(バグであるという根拠は、1.左側に飛び降りる時は出来ない。2.この技を使わないとクリア出来ないステージが存在しない。3.セガ版『チャンピオンシップロードランナー』ではこの技が使えない)が存在する。この為、本来の解き方通りでなくてもステージクリア出来てしまう。 * キーボードのある機種(SC-3000系や外付けキーボードSK-1100を接続したSG-1000系)のみエディット機能が使えた。 * プレイ中にジョイスティックの左右のボタンを同時に暫く押し続けていると、コマンド画面が現れる。ジョイスティックのレバーを上下に動かし、任意の数字を点滅させ、以下の操作を行う。 : 1. PLAY LEVEL  ステージを変更出来る。左のボタンを押すと次に進み、右のボタンを押すと前に戻る。 : 2. ADDITIONAL PLAYERS  プレイヤーの数を999人まで増やせる。左右どちらかのボタンを押すと、1人ずつ増える。 : 3. ESCAPE  身動きが取れなくなったり、クリア出来ない時に自殺する。左右どちらかのボタンを押す。 : 4. RETURN  ゲームに戻る。左右どちらかのボタンを押す。 * 但し、キーボードにジョイスティックを繋げている場合は、前項の操作は受け付けない。キーボードで以下の操作を行う。 : CTRLキーと6を同時に押す  次のステージに進む。 : CTRLキーと2を同時に押す  プレイヤーの数を999人まで増やせる。 : CTRLキーとAを同時に押す  自殺する。 : CTRLキーとRを同時に押す  ゲームオーバーにして、プレイ前のデモ画面に戻す。 : 任意のステージを選びたい時は、 : デモ画面の時  CTRLキーとEを同時に押す : プレイ中の時  CTRLキーとRを同時に押してゲームオーバーにして、デモ画面に戻り、CTRLキーとEを同時に押す : スタート・ボタンを押した後、プレイを始める前  CTRLキーとEを同時に押して、カーソル・キーかHOME CLRキーかINS DELキーを押すか、ジョイスティックのレバーを操作するか、左右どちらかのボタンを押す : 次の表示が現れる。 : LODE RUNNER BOARD EDITOR  Pを押す : 次の表示が現れる。 : PLAY LEVEL  001から080のステージ番号を入力してCRキーを押す * BGMは無い。 * 1984年末までの期間にSC-3000、SC-3000Hの購入者を対象にSC-3000/SG-1000版『ロードランナー』をプレゼントするキャンペーンが実施されていた<ref>{{Cite journal|和書|title=ロードランナー プレゼントキャンペーン実施|journal=トイズマガジン|publisher=トイズマガジン社|issue=1984年12月号|pages=114}}</ref>。 ; SF-7000版 : カートリッジ版と内容が異なるとされており、1984年春にセガに入社したばかりの[[中裕司]]がステージ作成とチェックに参加していた<ref name="segameisaku_0103">{{Cite web|和書|language=ja|author=中裕司|title=名作アルバム - 『ガールズガーデン』 - 3|date=2002-05-14|url=https://www.sega.jp/fb/album/01_gg/03.html|page=3|website=セガ名作アルバム|publisher=セガ|accessdate=2023-12-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140407154411/http://sega.jp/fb/album/01_gg/03.html|archivedate=2014-04-07}}</ref>。SF-7000自体ほとんど市場に出回らなかったこともあり、[[中裕司]]本人も、単体発売されたのかSF-7000に同梱されたのか分からないと発言している{{R|segameisaku_0103}}。 === 国際パソコンセンター === ; PC-8801版『ロードランナー オリジナル追加面』 : 1985年。オリジナル150面。 === ナグザット === ; 電子手帳版 : シャープ社製の電子手帳用ソフト。4行機種(またはそれ以上)で動作する。 === サクセス === ; ゲームボーイアドバンス版 === Tozai Games === ; [[スマートフォン]]([[iOS]]/[[Android (オペレーティングシステム)|Android]])版『ロードランナー クラシック』 : Apple II版のオリジナル150面を収録。プラットフォームに合わせ、画面のスライドや傾きによる操作を採用。 : ステージ64はゲームスピードを2以上に設定していないとクリアが不可能。 ; [[Steam]]([[Windows]])/ [[Nintendo Switch]]版『ロードランナー・レガシー』 : 新たに作成されたアドベンチャーステージ50面、敵のいないパズルステージ50面、懐かしのクラシックモード150面を収録。 : ユーザがエディットしたステージ、キャラクター、金塊をSteamワークショップにシェアし、遊ぶことができるエディットモードを収録。 == ハドソン版 == 日本では、[[ハドソン]]が[[ファミリーコンピュータ]]用に移植したものが特に知名度が高い。同社の『[[ナッツ&ミルク]]』とともに、ファミコン初の[[サードパーティー]]製ソフトとして知られている。 またファミコン初の[[スクロール]]画面(横)を備えたゲームでもある。オリジナルのApple版ではキャラクターが半角1カーソル分と非常に小さく、1画面にマップを全て表示できていたためスクロールの必要はなかったが、ファミコン版では低年齢層への配慮もありキャラクターサイズを大きくしたため1画面に表示し切れず、Apple版とは異なる画面構成(横28×縦13サイズ)になったうえ、左右スクロールが採用されることとなった。{{要出典範囲|date=2021年10月|1画面に表示しきれないことでパズル性を損ねる懸念もあり、ブローダーバンド社からはNGが出たが、当時の工藤取締役と[[高橋名人]](当時はまだ宣伝部に移って名人としての活動を始める前で、営業部員の頃である)が説得にあたり、発売にこぎつけたという}}。 1画面分(横14×縦13サイズ)のステージが作れるエディットモードが搭載されており、[[ファミリーベーシック]]用の[[データレコーダ]]を使用することでデータを保存することも出来た。『[[チャンピオンシップロードランナー]]』の登場以降は、時間差や敵(他機種版では「盗賊」と呼称されているものもあるが、本作では「ロボット」と呼称された)の頭上渡りなどの技を多用する者も多くなり、様々な遊び方ができるため、ゲーム発売後何年も長く親しまれた。また、ハドソンが発売していたカセットテープ付き雑誌『カセットメディア』では、オリジナルステージの投稿を募集し、優秀作品を付録のカセットテープに収録するという試みも行われた。 レンガを掘った穴が埋まる直前にもう一度掘ると透明になる、掘った穴の下のはしごからランナーが背中を向けて静止している状態で埋まるのを待つとそのレンガはすり抜けられるようになるなど様々なバグがあった。また最後の金塊を取る前にロボットをある数以上埋めると、その数により最後の金塊を取った時に様々なフルーツ型のボーナスアイテムが短い時間だけ最後から2番目に取った金塊の位置に出現する。ステージセレクト画面でセレクトボタンを押しながらAボタンを押すと、押した回数だけ速くなり、Bボタンだと遅くなるという、いわゆる'''ゲームスピード調整'''があった(スピード調整は説明書に記載されていた)。 後発の『チャンピオンシップロードランナー』では上記の裏技の内のステージセレクト画面でセレクトボタンを押しながらAボタンまたはBボタンでの『ゲームスピード調整』以外は全て撤廃されたが、2006年に発売されたニンテンドーDS版ではこれらの裏技を再現できる設定がオプションで可能となっている。 また2006年に発売されたニンテンドーDS版では先発版でのエディットモードが復刻されており、こちらは横28×縦13サイズまでの作成が可能(=横2画面サイズ×縦1画面サイズ)で、敵の配置数が最大5体までとなっている。掘ったレンガの復旧速度は先発版と後発版とで異なっている(先発版は若干速く埋まり、後発版では若干遅く埋まる)が、エディット版は全て先発版(=速く埋まる)を基準にしている。 第2弾の『チャンピオンシップロードランナー』はオリジナル同様の画面構成(横28×縦16サイズ)を再現したが、その分今度は上下方向にも収まりきらなくなり、上下左右スクロールとなった(これに対する救済策として、本作ではポーズ中にスクロールさせて見渡すことができるようになっている)。 本作では全ステージクリアしたプレイヤーに「チャンピオンカード」という認定証が贈られるキャンペーンが実施され話題となった(PC版でも各メーカー毎に実施されている)。{{要出典範囲|date=2021年10月|[[毛利名人]]は、このキャンペーンの3,000人目の認定者となり、同社の広告に登場したのがきっかけで名人としての活動を開始することとなった}}。 このゲームの主人公ランナー君が、かつては悪の手先として働かされていたロボット(グラフィックはこのゲームの敵キャラのもの)だったというスピンオフストーリーが、初代『[[ボンバーマン (ファミリーコンピュータ)|ボンバーマン]]』である。[[PCエンジン]]用に発売された『バトルロードランナー』では、ブラックボンバーマン(黒ボン)が敵役として客演している。 また1991年(平成3年)10月4日には、当時ハドソンの創立20周年を記念してこのファミコン版が再版された。その際の広告にはお笑い芸人の[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]が起用されていた。なお[[松本人志]]は大阪時代、アイレムのアーケード版を頻繁にプレイしていたという<ref>[https://www.asahi.co.jp/matsumoto/onair/201609.html 松本家の休日・過去の放送内容]</ref>。 日本での累計出荷本数は110万本<ref name="geimin">[https://web.archive.org/web/20161101133440/http://geimin.net/da/db/m_domestic/index.php GEIMIN.NET/国内歴代ミリオン出荷タイトル一覧]、GEIMIN.NET、(2016年11月1日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])。</ref>。 == 続編・アレンジ作品 == ; ロードランナーII([[1985年]][[10月21日]]発売、ソニー) : [[MSX]]用ソフト。開発担当はコンパイル。Apple版同様の画面構成(横28×縦16サイズ)を再現している。 : ROM版、全50ステージ(Apple版150ステージからの抜粋28ステージ+オリジナルステージ22)。「上級者への道」という副題がつけられていた。データレコーダがあれば、エディット面はカセットテープに保存できた。 ;ロードランナー バンゲリング帝国の逆襲(1985年1月稼動開始、アイレム) ;ロードランナー 魔神の復活(1985年11月稼動開始、アイレム) ;ロードランナー 帝国からの脱出(1986年10月稼動開始、アイレム) : いずれも[[アーケードゲーム]]。それぞれ『ロードランナーII』『ロードランナーIII』『ロードランナーIV』とも呼ばれる。 : 1作目は大半がApple版150ステージからのアレンジで占められた全24ステージ構成で、オリジナルステージはわずか3面のみだったが、『II』以降はオリジナルステージ中心の全30ステージ構成となった。 : シリーズを追うごとに新要素が付加されてゆき、『II』ではトラップ<ref group="注釈">1作目では登場しない。なお、本シリーズでは一度通過したトラップは色が変化して視認できるようになっている。</ref>、『IV』では隠しブロック・動くブロックが登場。それと同時にステージ構成もアクション主体から難解なパズル面主体へと変化していき、難易度も急上昇していく。しかしそれと反比例するかのようにBGMはどんどん明るく陽気なものとなっていった。 : 『IV』では2人同時の協力プレイ(専用のステージが18面用意されている)も可能で、バーにつかまった相棒の足にぶら下がるといった特殊なアクションが可能。2人で息を合わせなければ解けないステージが多く、こちらも難易度は高いが、[[ダブルプレイ]]でのクリアもできる。 ; スーパーロードランナー([[1987年]][[3月5日]]発売、アイレム) : [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]用ソフト。上記のアーケード版4作がベースとなっており、「スペシャル金塊(最初に取ると高得点)」や「敵を倒さないでクリアのボーナス」など、特徴的なシステムを一部受け継いでいる。 : アーケード版『IV』と同様の2人協力プレイモードも搭載しており、敵キャラやステージもアーケード版4作から選りすぐられたものとなっている(ステージは若干のアレンジが加えられたものや本作オリジナルのものもある)。ただし敵の行動パターンはアーケード版と異なり、地形に関係なくひたすら主人公に向かってくるような単純なものになっている。敵の種類は5ステージごとに変化するが、アーケード版のような中間デモは無く、敵による性能差も存在しない。 : ステージのエディット機能が搭載されており、通常のステージと同様の広さのものを1人プレイ用・2人プレイ用それぞれ5面ずつ作成できる。作成したステージはディスクカードに保存が可能。 ; スーパーロードランナーII([[1987年]][[8月25日]]発売、アイレム) : ファミリーコンピュータ ディスクシステム用ソフト。基本的な仕様は前作『スーパーロードランナー』と同じだが、敵とステージは完全オリジナルとなっており、エンディングの曲などが新規作成されている。 : また2人プレイモードのステージは前作の発売直後にユーザーから募集したもので構成されている。但し'''最終面を含めて'''2つほどクリア不可能な面がある。 ; スーパーロードランナー(1987年7月発売、アイレム) : [[MSX2]]用ソフト。こちらも上記のアーケード版がベースとなっている。[[MSXturboR]]では動作しない。 ; ハイパーロードランナー([[1989年]][[9月21日]]発売、[[バンダイ]]) : バンダイ初の[[ゲームボーイ]]用ソフト。アーケード版と比べて自機の移動スピードがはるかにアップしておりプレーしやすさが格段に増した。殆どのステージに「[[鍵]]」と「[[扉]]」があり、扉を開けて入ると裏ステージに行くことが出来るが、この裏ステージの金塊も全部集めないとステージクリアとはならない。裏ステージには時間制限があり、一定時間が経過すると扉が閉まって戻れなくなり、クリア不可能となってしまう<ref name="natsukashiGB">M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、74ページ</ref>。ただし扉をくぐって再度入りなおせば時間はリセットされる。 : ステージのエディット機能は本作にも搭載されており、通常のステージと同様の広さのものを4面分作成することができる<ref name="natsukashiGB"/>。扉と鍵を配置して裏ステージを作ることも可能だが、自作ステージの保存はできない。クリア後表示のパスワードを使って任意の面から開始できる。 ; ロードランナー 〜失われた迷宮〜([[1990年]][[7月27日]]発売、[[パック・イン・ビデオ]]) : PCエンジン用ソフト。背景は変化しないが、敵の姿が4面ごとに変化する。またステージのエディット機能も搭載している。この時期のゲームには珍しく、ステージ中で[[背景音楽|BGM]]が流れない。 ; バトルロードランナー([[1993年]][[2月10日]]発売、ハドソン) : [[PCエンジン]]用ソフト。タイトルの通り、相手プレイヤーを倒すことが目的の「サバイバル」「タッグマッチ」とアイテムを手に入れ脱出することが目的の「エスケープ」という3つの対戦モードが用意されており、『ボンバーマン』と同様に[[PCエンジン#コントローラ拡張|マルチタップ]]を使うことで最大5人までの対戦が可能。 : 通常の一人用ゲームモードは「パズルモード」と名づけられている。[[タイムマシン]][[研究所]]の資金である金塊が、黒ボンバーマンの一味に強奪され様々な[[時代]]へ隠されてしまい、主人公「ランナー93」が研究所のタイムマシンで取り戻しに向かうというストーリーになっており、10ステージごとに[[タイムトラベル|タイムスリップ]]したという設定で背景や敵の姿が変化する([[ランダム]]に、前述の黒ボンバーマンに変化することもある)。本作に限り、ハシゴの頂上で待っていれば下から来た敵に押し上げてもらえるという独自の仕様があり(他の作品ではミスになる)、これを利用しないと解けないステージもある。また他作品ではプレイヤー・敵ともそれぞれ落下と移動の速度が同じであることが多いが、本作では落下の速度がとても速くなっている。 : ファミコン版と同様、本作にもステージのエディット機能が搭載されており、ステージの広さは3種類の中から選ぶことができる。作成したステージはPCエンジン用バックアップユニットを使うことで保存が可能で、保存できるステージ数は選んだステージの広さにより異なる。 : [[2007年]][[5月29日]]にはWiiの、[[2016年]][[12月21日]]にはWii Uのバーチャルコンソールで配信開始された。 ; ロードランナーツイン ジャスティとリバティの大冒険([[1994年]][[7月29日]]発売、[[T&Eソフト]]) :[[スーパーファミコン]]用ソフト。「パラルランド」の[[シンボル]]となる[[像]]が何者かに破壊されてバラバラになり、「ジャスティ」と「リバティ」の[[兄妹]]がそれの修復に向かうというストーリー(金塊にあたるアイテムは、シンボルの破片が変化したものという設定になっている)。主人公は[[魔法使い]]で、ステージの背景も[[菓子|お菓子]]や[[玩具|おもちゃ]]の世界など、他作品とは一風変わったメルヘンチックなものになっている。 : ストーリーに沿って順番に進めていくためのステージと、ストーリーに関係なく自由に選んでプレイできるステージとがあり、前者の方では10ステージごとに会話シーンが挿入され背景や敵の姿が変化する。プレイヤー二人による協力プレイや対戦プレイも可能で、それゆえかアクション主体のステージ構成となっており、難解なパズル面はほとんど無い。 ;[[:en:Lode Runner: The Legend Returns|ロードランナー レジェンドリターンズ]](PS用[[1996年]][[2月16日]]発売、SS用[[1996年]][[3月8日]]発売、パトラ) : 米国の[[Presage Software]]社が[[1994年]]に開発し、同年に[[シエラオンライン]]から米国でWindows版とMac版にて発売されていた、『Lode Runner:Legend Returns』のPSとSSへの移植。またPC版は日本でもシエラオンラインジャパンにより発売されている。米国ではPS版のみの販売で[[ナツメアタリ|NATSUME INC.]]が[[1998年]]に『Lode Runner』のタイトルで『Lode Runner:The Legend Returns』と『Lode Runner:Extra』の2つのシナリオを収録して発売された。日本版では別々でパトラから発売。ステージ数150以上、2人同時プレイ専用ステージも30用意されている。米国では大ヒットし、PCなどで続編が幾つか出た。 ; ロードランナー エクストラ(PS用・SS用ともに[[1997年]][[1月10日]]発売、パトラ) : 上記の『ロードランナー レジェンドリターンズ』の拡張パック。米国ではPS版のみのリリースで、NATSUME INC.が1998年に『Lode Runner』のタイトルで『Lode Runner:The Legend Returns』と共に収録して発売された。日本国内ではパトラから『〜レジェンドリターンズ』とは別々の単体でPS版とSS版で発売されている。『〜レジェンドリターンズ』の続編に当たる内容となっている。開発は同じく米国のPresage Software社。2人同時プレイモード搭載。 ;[[:en:Lode Runner Online: The Mad Monks' Revenge|Lode Runner Online: The Mad Monks' Revenge]](WindowsとMacにて[[1995年]]に発売) : 米国のPresage Software社が[[1993年]]に[[ダグラス・E・スミス]]のロードランナーのゲーム開発の利権を得て、現代の機種での新しいロードランナーのゲームとして[[1994年]]に開発した『Lode Runner: The Legend Returns』の成功で、1995年に続編となるこのゲームを開発。マルチプレイが可能で、ネットワークでのオンラインで2人同時プレイが可能。 ;[[:en:Lode Runner 2|Lode Runner 2]](Mac OSとWindowsにて[[1998年]]に北米で発売) : Presage Software社が開発した『Lode Runner:The Legend Returns』の続編。ゲームシステムは2Dだが、3Dグラフィックを使用している。 ; POWERロードランナー([[1999年]][[1月1日]]書き換え開始、[[任天堂]]) : スーパーファミコン用ソフト([[ニンテンドウパワー]]書き換え専用)。 ; SuperLite1500シリーズ ロードランナー レジェンドリターンズ([[1999年]][[7月1日]]発売、サクセス) : PlayStation用ソフト。1996年にパトラから発売されたものの廉価版。 ;[[:en:Lode Runner 3-D|ロードランナー3D]]([[1999年]]7月30日発売、[[バンプレスト]]) :[[Big Bang]]が開発した[[NINTENDO64]]用ソフト。 ; ロードランナー ザ・ディグファイト(2000年2月稼動開始、[[彩京]]) ; ロードランナー ザ・ディグファイト VER.B : ともにアーケードゲーム。漫画家の[[吉崎観音]]が操作性や敵のアルゴリズムなどのゲームバランス部分の監修を行った。 :[[自機#プレイヤーストック|残機]]制ではなくなっており、ギブアップやミスで持ち時間が大幅に減らされ(VER.Bに限り、ギブアップの持ち時間減少が極端に少なくなっている)、持ち時間がなくなることでゲームオーバーとなる。特殊な要素として、押して動かせるブロックが存在したり、掘った穴を手動で埋めることができるようになっている。また、敵に捕まった場合はミスにはなるものの、その場で復活してプレイが続行される。 ; SuperLite1500シリーズ ロードランナー2([[2000年]][[3月30日]]発売、サクセス) : PlayStation用ソフト。1997年にパトラから発売された『ロードランナー エクストラ』の廉価版。ステージ数130以上、エディット機能、2人同時プレイモード搭載。 ; ロードランナー for WonderSwan([[2000年]][[4月20日]]発売、バンプレスト) :[[ワンダースワン]]用ソフト。 ; ロードランナードムドム団のやぼう([[2000年]][[4月28日]]発売、エクシングエンタテイメント) : ゲームボーイ用ソフト。[[ゲームボーイカラー]]にも対応している。 ; キュービックロードランナー([[2003年]]発売、ハドソン) :[[ニンテンドーゲームキューブ]]・[[PlayStation 2]]用ソフト。過去作のリメイクである「ハドソンセレクション」のラインナップとして発売され、3D見下ろし型のステージになっている。全60+20面。エディット機能もある。 ; ロードランナー([[2009年]][[4月22日]]配信開始、[[マイクロソフト]]) :[[Xbox 360]]([[Xbox Live Arcade]])用。要1200マイクロソフトポイント。開発は[[Tozai Games]]および[[SouthEnd Interactive]]。 : ステージを順にクリアしていく「[[冒険]]モード」、次第に増えていく敵をかわしながら金塊を集め、耐えた時間を競う「耐久モード」、定められた手順でのみクリアできるステージで構成された「パズルモード」の3つのゲームモードを搭載。特殊な地形として、1つを壊すと隣接したものが次々と壊れていく「[[雪]]ブロック」とぶら下がっているブロックを崩すと落下して下のブロックを破壊する「[[鍾乳石]]」が登場する。 == 亜流作品 == ; ブギウギジャングル<ref name="MSXマガジン1984年1月号">「MSXソフトレビュー ブギウギジャングル」『[[MSXマガジン]]』1984年1月号、p.74。ロードランナーはブギウギジャングルとスーパードランカーの原型にあたると紹介している。</ref>([[1983年]]発売、[[アンプルソフトウェア]]) : [[MSX]]用ソフト。ジャングルが舞台。穴掘りはできず、敵をしばらく動かなくできるボールを武器にアイテムを集める。 ; スーパードリンカー<ref name="MSXマガジン1984年1月号" />(1983年発売、[[アスキー (企業)|アスキー]]) : MSX用ソフト。ブロックとハシゴで構成された面の中を警官から逃げながら、画面中の酒のボトルを全て集めることでクリア。ジャンプできること、ボトルを集めた個数で酩酊により移動スピードが変化することがオリジナルと異なる。全20面。 ; スタコラCRUSH([[1984年]]発売、[[ジャコム]]) : [[FM-7]]用ソフト。オリジナルとの違いはハシゴ、爆弾、橋、ハサミなどのアイテムが使えること。テープ版30面、ディスク版100面。 ; ファンキーモンキー(1984年3月発売、[[ポリシー]]<ref name="AH20190918">{{Cite web|和書|title=基本ゲームシステムはロードランナーと同じ!? 『ファンキーモンキー』|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrosoft/1183472.html|website=AKIBA PC Hotline!|date=2019-09-18|accessdate=2020-11-27|author=佐々木 潤last=インプレス}}</ref>) : [[PC-8801]]用ソフト{{R|AH20190918}}。サルを操ってリンゴを集める。画面が六分割され、このうち一ヶ所だけ赤い四角になっており、主人公だけでなくこの赤い四角も操作する必要がある{{R|AH20190918}}。プレイヤーは敵である飼育員につかまるだけでなく、赤い四角に入ってしまってもミスで、ミス時は画面全体が徐々に赤くなる。テープ版の他に、ステージ作成機能を搭載したディスク版が発売された{{R|AH20190918}}。 ; ライズアウト(1984年発売、アスキー) : MSX用ソフト。[[大坂城]]の地下が舞台。穴掘りはできず、左右に弾が出る銃を使う。敵を倒したり壁を崩したりしながら、千両箱の中にある鍵をみつけ、ハシゴを上に上がればクリア。全20面。作者は[[五代響]]<ref name="Mマガ永久保存版">「ゴキゲン8bitゲーム ライズアウト 作者から一言」『MSXマガジン永久保存版』アスキー、2002年、p.33</ref>。ソフトレビューではロードランナーの真似だと指摘され<ref>「ゲームソフトランキング36 2位:ライズアウト」『MSXパソコン比較大図鑑 全機種・全ソフト徹底ガイド』学習研究社編、[[学研ホールディングス|学習研究社]]、1984年、p.97</ref>、五代によればクレームを受けたという<ref name="Mマガ永久保存版" />。1984年12月頃にソニーからMSX版ロードランナーが発売されると<ref>『MSXマガジン』1985年1月号、pp.30-31。ソニー広告頁。</ref>、1985年2月には在庫が全てなくなったとして追加生産せず絶版扱いとなった<ref>「MSX MAGAZINE HOTLINE」『MSXマガジン』1985年3月号、p.212</ref>。後に五代は家庭用ゲーム機へのロードランナーの移植を手がけた<ref name="Mマガ永久保存版" />。 == 注釈 == {{Reflist|group="注釈"}} == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author = 福田史裕 |date = 1985-02-20 |title = ロードランナーファンブック 全世界のロードランナーファンに贈る |publisher = システムソフト |isbn = 4-88235-012-2}} == 外部リンク == * [https://tozaigames.co.jp/products/loderunner_history/ Tozai Games公式サイト] * {{Twitter|LodeRunner_JP|ロードランナー公式}} * {{facebook|loderunner.tozaigames}} * {{MobyGames|id=/243/lode-runner/|name=Lode Runner}} === 作品別公式サイト === * {{Wayback |url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/index.cgi?mode=info&f=LodeRunner |title=ロードランナー - FC版(ハドソンゲームナビ)|date=20040505154701}} * {{Wayback |url=http://www.hudson.co.jp/gamenavi/gamedb/index.cgi?mode=info&f=BattleLodeRunner |title=バトルロードランナー(ハドソンゲームナビ)|date=20040815041317}} * {{Wayback |url=http://www.hudson.co.jp/gamenavi/gamedb/softinfo/hu_select/load/load1.html |title=キュービックロードランナー公式サイト |date=20100314134022}} * {{Wayback |url=http://www.hudson.co.jp/gamenavi/hbc/html/index.html |title=ハドソンベストコレクション |date=20090919063930}} * {{Webarchive |url=https://archive.is/20060819040751/http://www.hudson.co.jp/puzzle/loderunner/ |title=ロードランナー(DS版) |date=2006年8月19日}} * {{Wiiバーチャルコンソール|lr|ロードランナー(FC版)}} * {{Wii Uバーチャルコンソール|favj|ロードランナー(FC版)}} * [https://www.amusement-center.com/project/egg/cgi/ecatalog-detail.cgi?contcode=7&product_id=997 スーパーロードランナー for MSX2(プロジェクトEGG)] * [http://www.zxgames.com/jp/index.shtml ロードランナーZX Games(ZX Spectrum版の復刻バージョン - PC用)] * [https://marketplace.xbox.com/ja-JP/Product/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC/66acd000-77fe-1000-9115-d8025841085b XBLA版 ロードランナー] * {{Wayback |url=http://vc-pce.com/jpn/j/title/battle_loder.html |title=Wiiバーチャルコンソール バトルロードランナー(ハドソン公式サイト)|date=20090414183921}} * [https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000025809 Wii Uバーチャルコンソール バトルロードランナー] * {{Wayback |url=http://ww3.tiki.ne.jp/~maclr/lr/lr.html |title=Lode Runner Online |date=20140813001940}} * [http://store.steampowered.com/app/628660/Lode_Runner_Legacy/ Steam版ロードランナー・レガシー] * [https://ec.nintendo.com/JP/ja/titles/70010000005604 Nintendo Switch版ロードランナー・レガシー] {{デフォルトソート:ろおとらんなあ}} {{Video-game-stub}} [[Category:1983年のコンピュータゲーム]] [[Category:1983年のパソコンゲーム]] [[Category:Amstrad CPC用ゲームソフト]] [[Category:Apple II用ゲームソフト]] [[Category:Atari 8ビット・コンピュータ用ゲームソフト]] [[Category:Atari ST用ゲームソフト]] [[Category:DOSのゲームソフト]] [[Category:FM-7シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:Classic Mac OS用ゲームソフト]] [[Category:MSX/MSX2用ソフト]] [[Category:MZ用ゲームソフト]] [[Category:PC-6000/6600用ゲームソフト]] [[Category:PC-8001用ゲームソフト]] [[Category:PC-8800用ゲームソフト]] [[Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:SG-1000用ソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:X1用ゲームソフト]] [[Category:Xbox Live Arcade対応ソフト]] [[Category:ZX Spectrum用ゲームソフト]] [[Category:アイレムのゲームソフト]] [[Category:アクションパズル]] [[Category:アメリカで開発されたコンピュータゲーム]] [[Category:彩京のゲームソフト]] [[Category:エクシングのゲームソフト]] [[Category:オールタイム100ビデオゲーム選出]] [[Category:コモドール64用ゲームソフト]] [[Category:コンパイルのゲームソフト]] [[Category:サクセスのゲームソフト]] [[Category:セガのゲームソフト]] [[Category:ソニーのゲームソフト]] [[Category:T&E SOFTのゲームソフト]] [[Category:ディスクシステム用ソフト]] [[Category:ハドソンのゲームソフト]] [[Category:ニンテンドーDS用ソフト]] [[Category:任天堂のゲームソフト]] [[Category:バンプレストのゲームソフト]] [[Category:ブローダーバンドのゲームソフト]] [[Category:マーベラスのゲームソフト]] [[Category:マイクロソフトのゲームソフト]] [[Category:ワンダースワン用ソフト]] [[Category:プロジェクトEGG対応ソフト]] [[Category:ミリオンセラーのゲームソフト]] [[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]] [[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]]
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H-IIロケット
H-IIロケット(エイチツーロケット、エイチにロケット)は、宇宙開発事業団 (NASDA) と三菱重工が開発し、三菱重工が製造した人工衛星打上げ用ロケット。日本の人工衛星打ち上げ用液体燃料ロケットとしては初めて主要技術の全てが国内開発された。 科学衛星打ち上げを目的とした宇宙科学研究所の一連の固体燃料ロケットでは、日本が世界4番目の人工衛星打ち上げ国となる等、国産技術による開発が進んでいたが、科学衛星に比べて大型の通信、放送、気象などの実用衛星を打ち上げる液体燃料ロケットの開発を担当することになった宇宙開発事業団では3世代目のH-Iロケットまで、アメリカのデルタロケットの技術を導入して主要部のライセンス生産をしていた。例えば、H-Iロケットで国内開発が実現していた主要部位は第2段・第3段用エンジンや慣性誘導装置等のみで、最も重要な第1段用エンジンはアメリカのものであった。 こうした状況の中、国内技術の進歩を図って高い信頼性と低コストで打上げを可能にし、1990年以降の2t級静止衛星の需要増加に適応することを目標に、1984年(昭和59年)にH-IIロケットの「開発研究」が、1986年に「開発」が開始された。これと同時にLE-5開発の経験を基に初の国産第1段用エンジンLE-7の開発も開始され、開発試験中の一人の死亡事故を含む爆発・火災事故などの難航を経て1994年に完成した。また、固体補助ロケットブースターも国産化し、初めて純国産液体燃料ロケットの開発に成功した。また、H-IIを使用した衛星打ち上げを請け負う民間ロケット会社『ロケットシステム(RSC)』を1990年に設立している。(1995年の試験3号機から請負。) そして、1994年(平成6年)2月4日午前7時20分、第1号機の打ち上げに成功した。LE-7の開発が難航したため予定より2年遅れての打ち上げであった。この打ち上げで、搭載した性能確認用衛星(VEP、のちに「みょうじょう」と命名)と、軌道再突入実験機(OREX、のちに「りゅうせい」と命名)の地球周回軌道投入に成功した。 その後1997年まで合計5機の連続打ち上げに成功したが、打上げコストは1機あたり190億円でアリアンなどの諸外国製ロケットより遥かに高く、100億円以下が標準とされる国際市場での競争力は無かった。これはH-IIの開発検討が始まった1982年当時の1ドル240円のレートから円高が急激に進んだためであり、1号機が打ち上がった1994年には、1ドル100円台前半であった。このため打上げコストを半減するため次世代のH-IIAロケットを開発することが決まった。 1998年の5号機、翌年の8号機と連続で打上げに失敗したため、原因究明とH-IIA開発にリソースを集中するため、7号機(打上げ順序を変更して第8回目になる予定だった)の打上げをキャンセルし運用を終了することになった。 開発費は約2,700億円で、同じく全段を新規開発した欧州宇宙機関 (ESA) の主力ロケットのアリアン5シリーズの開発費、約8800億円から9900億円の3分の1以下である。 上段に用いられていた液体酸素・液体水素の組み合わせを、第1段と第2段両方に利用する大型実用ロケットは、H-IIが世界初であった(スペースシャトルはメインエンジンが液体酸素・液体水素だが第1段式)。この推進剤の組み合わせは比推力(燃料効率を示す尺度)が高く、燃焼後に水蒸気しか発生しないためオゾン層への悪影響がほとんどなく環境との親和性が高いのが特徴である。ただし、大出力のエンジンが作りにくく推力が不足するときにはブースターが使用されるが、ブースターの固体燃料に含まれる過塩素酸アンモニウムの塩素成分はオゾン層に悪影響を与えるほか、燃焼時に毒性が強い塩化水素ガスを大量に生じさせる。 H-IIロケットを元に全面改良された次世代のH-IIAロケットとは基本的な要求性能が同じなので、8号機の2段目はH-IIAロケットの2段目に置き換えられ使用されている。また、J-Iロケットの1号機には一段目にH-IIのSRBが使用されているが、2号機ではH-IIAのSRBが使用されている。HOPE(H‐II Orbiting Plane)や、宇宙ステーション補給機(H-II Transfer Vehicle、略称: HTV)はH-IIの時に計画が始まりH-IIAに(名称にはH-IIが含まれたまま)引き継がれている。 世界的にも少ない液体酸素と液体水素を推進剤とする液体燃料ロケットエンジンを2段式ロケットの両段に備え、1段目には推力増強のための大型固体ロケットブースターが2本取り付けられている。全体構成について、以下に下から順に示す。 注:LEO:低軌道、GSO:静止軌道、GTO:静止トランスファ軌道 打上げ中止後、第一段および第二段機体がJAXA種子島宇宙センターの大崎第一事務所(ロケットガレージに改称)に保管されたままとなっており、2023年現在も、施設案内ツアーで見ることができる。2008年10月9日、国立科学博物館の重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)第00023号として登録された。 H-II開発時の試験機体の第一段が種子島宇宙センターに、第二段が三菱重工飛島工場(愛知県)、衛星フェアリングは角田宇宙センター(宮城県)、SRBはアイ・エイチ・アイ・エアロスペース富岡事業所(群馬県)にそれぞれ保管されていた。保管にかかる費用などが負担になり一時は廃棄することも検討されたが、2007年4月21日に行われた筑波宇宙センターの特別公開に合わせて約1億円をかけて輸送し屋外特別展示され、特別公開後はそのまま常設展示されている。展示されているのは本体(第一段、第二段、フェアリング、LE-7型エンジン)およびSRB 1機(これは7号機のもの)である。設置当初は、LE-7は装着されない状態であったが、2007年10月20日の筑波宇宙センター一般公開に間に合わせる形で、後からLE-7が装着された。LE-7装着部のカバーは部分的に透明の板になっており、配管の様子を見ることができる。また、試験時に接続するケーブルなどの部分もビニール袋などで簡易な防水処理だけが行われている。 なお、上述の展示に供された機体とは別に、実機と同じ構造で製作されたH-II地上試験機(GTV)は、試験後フライトモデルへと改修のうえ4号機として打ち上げられている。 上記2機は実機を展示しているが、展示用の実物大模型としては、種子島宇宙センターの公園内にもう1機の展示用模型が設置されている。また、つくばエキスポセンター(元は横浜博覧会のYES'89宇宙館の展示物)と、JAXA角田宇宙センターのある角田市スペースタワー・コスモハウスと、栃木県の栃木県子ども総合科学館と、鹿児島県の錦江湾公園の4箇所にもH-IIロケットが立てられた状態で屋外展示されている。 NASDAではH-IIの読みを「えいちつー」で統一しているが規定ではない。「えいちに」という読みや「H-2」という表記も認めており、これらを使っても誤りとはいえない。NHKでは「えいちに」で統一している。文化放送の梶原しげるの本気でDONDONでH-IIを特集した日に、番組開始当初は「えいちつー」と呼んでいたが、番組の途中で「えいちに」が正しいとした。以後、文化放送では「えいちに」で統一されている。
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H-IIロケット(エイチツーロケット、エイチにロケット)は、宇宙開発事業団 (NASDA) と三菱重工が開発し、三菱重工が製造した人工衛星打上げ用ロケット。日本の人工衛星打ち上げ用液体燃料ロケットとしては初めて主要技術の全てが国内開発された。
{{ロケット |名称 = H-II |画像名 = H-ii rocket.gif |画像サイズ = 200px |画像の注釈 = H-II GTV |基本データ = |運用国 = {{JPN}} |開発者 = [[宇宙開発事業団|NASDA]]<br /> [[三菱重工業|三菱重工]] |運用機関 = NASDA →[[ロケットシステム|RSC]] |使用期間 = [[1994年]] - [[1999年]] |射場 = [[種子島宇宙センター]] 吉信射点 |打ち上げ数 = 7回 |成功数 = 5回 |開発費用 = 2,750億円 |打ち上げ費用 = 190億円 |原型 = |姉妹型 = |発展型 = [[H-IIAロケット]] |公式ページ = https://www.jaxa.jp/projects/rockets/h2/ |公式ページ名 = JAXA - H-IIロケット |物理的特徴 = |段数 = 2段 |ブースター = 2基 |総質量 = 264 トン |空虚質量 = |全長 = 49.9 m |直径 = 4.0 m(本体部分) |軌道投入能力 = |低軌道 = 10,000 kg<ref name = "はじめての宇宙工学"/> |低軌道詳細 = 300km / 30.4度 |中軌道 = 5,000 kg |中軌道詳細 = 1,000km / 30.4度 |極軌道 = |極軌道詳細 = |太陽同期軌道 = 4,000 kg |太陽同期軌道詳細 = 800km / 99度 |静止移行軌道 = 3,800 kg<ref name = "はじめての宇宙工学"/> |静止移行軌道詳細 = 250km x 36,226km / 28.5度 |静止軌道 = |静止軌道詳細 = |その他軌道名 = 地球脱出軌道 |その他軌道 = 2,000 kg |その他軌道詳細 = |その他軌道名2 = 宇宙基地軌道<ref>宇宙開発事業団史編纂委員会 「宇宙開発事業団史」、宇宙開発事業団、2003年9月、257頁</ref> |その他軌道2 = 9,000 kg |その他軌道詳細2 = 250km / 51.6度 |表の脚注 = }} '''H-IIロケット'''(エイチツーロケット、エイチにロケット)は、[[宇宙開発事業団]] (NASDA) と[[三菱重工]]が開発し、三菱重工が製造した[[人工衛星]]打上げ用[[ロケット]]。日本の人工衛星打ち上げ用[[液体燃料ロケット]]としては初めて主要技術の全てが国内開発された。 == 概要 == 科学衛星打ち上げを目的とした[[宇宙科学研究所]]の一連の[[固体燃料ロケット]]では、日本が世界4番目の人工衛星打ち上げ国となる等、国産技術による開発が進んでいたが、科学衛星に比べて大型の通信、放送、気象などの実用衛星を打ち上げる液体燃料ロケットの開発を担当することになった宇宙開発事業団では3世代目の[[H-Iロケット]]まで、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[デルタロケット]]の技術を導入して主要部のライセンス生産をしていた。例えば、H-Iロケットで国内開発が実現していた主要部位は第2段・第3段用エンジンや[[慣性誘導装置]]等のみで、最も重要な第1段用エンジンはアメリカのものであった。 こうした状況の中、国内技術の進歩を図って高い信頼性と低コストで打上げを可能にし、[[1990年]]以降の2t級静止衛星の需要増加に適応することを目標に、[[1984年]](昭和59年)にH-IIロケットの「開発研究」が<ref>宇宙開発における計画管理は進捗によって「研究(研究→概念設計)」→「開発研究(予備設計)」→「開発(基本設計→詳細設計→維持設計)」→「運用」の4つの段階(フェーズ)に分かれている。要求に基づき仕様や計画を決めるのが「研究」、使用や計画を詳細に文書化し、新技術の試作をし実現性の目処を付け、開発体制を構築するのが「開発研究」、設計についての各種解析をし全体の試作品から実機を作るまでが「開発」である。「開発研究」までが企画立案フェーズ、「開発」以降が実施フェーズである。宇宙開発委員会は各フェーズアップに対する審査を行う。この一連の開発手法はNASAではPPP(Phased Project Planning)と呼び、NASDAが取り入れたものである。[http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/uchuu/reports/07060610/005.htm 5.評価実施のための原則(文部科学省公式サイト)]、[http://www.kumikomi.net/archives/2006/03/05qual.php?page=4 設計品質確保の思想 航空宇宙エレクトロニクスに学ぶ「信頼性設計」(Tech Village 2006年3月28日)]、[http://202.232.86.81/b_menu/shingi/uchuu/reports/05051001/021/001.pdf 図1 宇宙開発委員会における宇宙開発プロジェクトの評価システム(宇宙開発委員会公式サイト)]を参照。</ref>、[[1986年]]に「開発」が開始された<ref>[http://www.jaxa.jp/about/history/nasda/index_j.html 宇宙開発事業団(NASDA)沿革] JAXA公式サイト</ref>。これと同時に[[LE-5]]開発の経験を基に初の国産第1段用エンジン[[LE-7]]の開発も開始され、開発試験中の一人の死亡事故を含む爆発・火災事故などの難航を経て[[1994年]]に完成した。また、固体補助ロケットブースターも国産化し、初めて純国産液体燃料ロケットの開発に成功した<ref name="jaxa">[https://www.jaxa.jp/projects/rockets/h2/index_j.html H-IIロケット]、[[宇宙航空研究開発機構]]。</ref>。また、H-IIを使用した衛星打ち上げを請け負う民間ロケット会社『[[ロケットシステム]](RSC)』を[[1990年]]に設立している。(1995年の試験3号機から請負。) そして、[[1994年]](平成6年)[[2月4日]]午前7時20分、第1号機の打ち上げに成功した。LE-7の開発が難航したため予定より2年遅れての打ち上げであった。この打ち上げで、搭載した性能確認用衛星(VEP、のちに「みょうじょう」と命名)と、軌道再突入実験機(OREX、のちに「りゅうせい」と命名)の地球周回軌道投入に成功した。 その後[[1997年]]まで合計5機の連続打ち上げに成功したが、打上げコストは1機あたり190億円で[[アリアン]]などの諸外国製ロケットより遥かに高く、100億円以下が標準とされる国際市場での競争力は無かった。これはH-IIの開発検討が始まった[[1982年]]当時の1ドル240円の[[為替レート|レート]]から円高が急激に進んだためであり、1号機が打ち上がった1994年には、1ドル100円台前半であった。このため打上げコストを半減するため次世代の[[H-IIAロケット]]を開発することが決まった。 [[1998年]]の[[H-IIロケット5号機|5号機]]、翌年の[[H-IIロケット8号機|8号機]]と連続で打上げに失敗したため、原因究明とH-IIA開発にリソースを集中するため、7号機(打上げ順序を変更して第8回目になる予定だった)の打上げをキャンセルし運用を終了することになった<ref name="jaxa"/>。 開発費は約2,700億円で、同じく全段を新規開発した[[欧州宇宙機関]] (ESA) の主力ロケットの[[アリアン#アリアン5|アリアン5]]シリーズの開発費、約8800億円から9900億円の3分の1以下である<ref name="戦略2324">[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/utyuu/senmon/dai12/siryou3_2.pdf わが国の宇宙輸送系の現状と今後の方向性 平成23年2月24日](首相官邸公式サイト 宇宙開発戦略本部)</ref>。 上段に用いられていた液体酸素・液体水素の組み合わせを、第1段と第2段両方に利用する大型実用ロケットは、H-IIが世界初であった([[スペースシャトル]]はメインエンジンが液体酸素・液体水素だが第1段式)。この推進剤の組み合わせは[[比推力]](燃料効率を示す尺度)が高く、燃焼後に水蒸気しか発生しないため[[オゾン層]]への悪影響がほとんどなく環境との親和性が高いのが特徴である。ただし、大出力のエンジンが作りにくく推力が不足するときにはブースターが使用されるが、ブースターの固体燃料に含まれる過塩素酸アンモニウムの塩素成分はオゾン層に悪影響を与えるほか、燃焼時に毒性が強い塩化水素ガスを大量に生じさせる。 H-IIロケットを元に全面改良された次世代のH-IIAロケットとは基本的な要求性能が同じなので、8号機の2段目はH-IIAロケットの2段目に置き換えられ使用されている。また、[[J-Iロケット]]の1号機には一段目にH-IIのSRBが使用されているが、2号機ではH-IIAのSRBが使用されている。[[HOPE (宇宙往還機)|HOPE]](H‐II Orbiting Plane)や、[[宇宙ステーション補給機]](H-II Transfer Vehicle、略称: HTV)はH-IIの時に計画が始まりH-IIAに(名称にはH-IIが含まれたまま)引き継がれている。 {{-}} == 構成と諸元 == === 主要諸元一覧 === {|class="wikitable" style="text-align:center;" |+'''主要諸元一覧''' !段数(Stage) !第1段 !固体ロケット<br />ブースタ !第2段 !フェアリング |- !全長 |35 m |23 m |11 m |12 m |- !外径 |4.0 m |1.8 m |4.0 m |4.1 m |- !各段質量 |98 t |70.5 t |20 t |1.4 t |- !使用エンジン |[[LE-7]] |SRB |[[LE-5A]] |rowspan="9"|N/A |- !推進薬 |液体酸素<br />液体水素<br />(LOX/LH2) |ポリブタジエン系<br />コンポジット推進薬 |液体酸素<br />液体水素<br />(LOX/LH2) |- !推進薬供給方式 |ターボポンプ |N/A |ターボポンプ |- !推進薬質量 |86 t |59 t |17 t |- !真空中推力 |1,079 kN(110.1 tf) |1,765kN(180.1 tf) |122 kN(12.4 tf) |- !真空中比推力 |445 s |273 s |452 s |- !燃焼時間 |345 s |93 s |598 s |- !姿勢制御 |エンジンジンバル<br />補助エンジン |ジンバル |ジンバル<br />ガスジェット |- !搭載電子機器類 |<small>・横加速度計測装置<br />・制御電子パッケージ<br />・PCMテレメータパッケージ</small> |<small>・PCMテレメータパッケージ</small> |<small>・慣性誘導計算機<br />・慣性センサユニット<br />・データ・インタフェース・ユニット<br />・制御電子パッケージ<br />・計測制御装置<br />・PCMテレメータパッケージ<br />・テレメータ送信装置<br />・レーダトランスポンダ<br />・指令破壊受信機(2台)</small> |- |} === 構成 === <!-- 画像のノートのほうで疑義が出ていますのでコメントアウトします。問題が解決されるまで復帰しないでください。 [[ファイル:H-II (cut view).PNG|thumb|200px|right|H-IIロケットの構成概略]] --> [[ファイル:LE-7 rocket engine.jpg|thumb|150px|right|日本初の第1段用大型液体燃料エンジンのLE-7]] 世界的にも少ない[[液体酸素]]と[[液体水素]]を推進剤とする液体燃料ロケットエンジンを2段式ロケットの両段に備え、1段目には推力増強のための大型固体ロケットブースターが2本取り付けられている<ref name="はじめての宇宙工学">鈴木弘一著 『はじめての宇宙工学』 森北出版 2007年4月25日第1版第1刷発行 ISBN 978-4-627-69071-4</ref>。全体構成について、以下に下から順に示す。 ;第1段機体 LE-7エンジン :1段目のエンジンには、NASDAと[[航空宇宙技術研究所]]と三菱重工と[[石川島播磨重工]]が共同開発した、液体酸素と液体水素を推進剤とする[[二段燃焼サイクル]]の[[LE-7]]エンジンを使用する。 :技術テレメータ送信機をオプションで備えることが出来る。 ;第2段機体 LE-5Aエンジン :2段目のエンジンには、再着火能力を保有し液体酸素と液体水素を推進剤とする[[エキスパンダーサイクル|エキスパンダーブリードサイクル]]の[[LE-5A]]エンジンを使用する。ただし高度化機体の8号機のみは[[H-IIAロケット]]の第2段を使用し、エンジンには[[LE-5B]]を使用した<ref>{{Cite press release|和書|title = 運輸多目的衛星(MTSAT)/H-IIロケット8号機の打上げ計画書及びH-IIロケット8号機の開発状況報告|archiveurl = https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/233892/www.nasda.go.jp/press/1999/06/h28_990609_j.html|url = http://www.nasda.go.jp/press/1999/06/h28_990609_j.html|archivedate = 2003-09-30|date=1999-06-09|accessdate = 2016-08-07}}</ref>。 :テレメータ送信機、レーダートランスポンダ2基、指令破壊受信機2基を備える。 ;固体ロケットブースタ SRB :[[日産自動車]](後の[[IHIエアロスペース]])が開発した大型の固体ロケットブースタのSRBを2本使用する。分離方式確認のために[[TR-Iロケット]](その後[[TR-IAロケット]]に発展)が開発された。<ref>松尾弘毅・監修 「ロケット工学」 コロナ社、[[2001年]]、191頁、ISBN 978-4-339-01222-4。</ref>1基70.5tの内、59tを占めるポリブタジエン系コンポジット固体燃料により、1,560kN(海面上)×2基の推力を生み出し、94秒間程燃焼した後は数秒後に分離投棄される。比推力は273秒(真空中)であり、可動式ノズルによって姿勢制御を行なう<ref name = "はじめての宇宙工学"/>。打ち上げ能力向上のためSRBを6本使用する構想もあった。 ;固体補助ロケット SSB :[[日産自動車]](後の[[IHIエアロスペース]])が開発した小型の固体補助ロケットのSSBを2本使用する。TR-Iロケットのコアモータとほぼ同一のものであり、試験3号機のみに使用された。離床後10秒で空中点火される。 ;ペイロード・フェアリング :[[川崎重工]]が開発した[[ペイロードフェアリング|フェアリング]]は外径4.1mから5.1mまで、ペイロードである衛星の大きさに合わせて複数種が使用される。 ;誘導装置 :ストラップダウン式[[慣性誘導装置]]<ref name="jaxa"/>([[日本電気|NEC]]・日本航空電子が開発)とリング・レーザー・ジャイロを搭載している<ref name = "はじめての宇宙工学"/>。 == 開発史 == *[[1984年]] **「開発研究」スタート。 *[[1986年]] **「開発」スタート。 *[[1987年]] **フェアリング分離試験。 *[[1988年]] **詳細設計終了。 *[[1988年]] - [[1989年]] **H-IIロケットの4分の1モデルである[[TR-Iロケット]]による(同じく4分の1のダミーSRBを使用した)固体ロケット分離試験および飛行特性などの空力特性確認が行われる。<ref>[[大澤弘之]]・監修 「新版 日本ロケット物語」 [[誠文堂新光社]]、[[2003年]]、206頁、ISBN 978-4-416-20305-7。</ref> *[[1990年]] **固体ロケット開発完了。 *[[1991年]] **LE-7エンジン主噴射器の加圧試験で配管が破裂。吹き飛ばされた試験チャンバーのドアが直撃し三菱重工業の技術者1人が死亡。 *[[1992年]] **GTVによる地上試験。 *[[1994年]] **初打ち上げ。 == 打上げ実績 == {|class="wikitable" style="font-size: 95%;" !機体 !打上げ年月日 !フェアリング !成否 !積荷 !目的 !衛星軌道 !備考 |- |rowspan="2"|試験機1号機 |rowspan="2"|[[1994年]][[2月4日]] |rowspan="2"|4S |rowspan="2" bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[りゅうせい]] (OREX) |[[HOPE (宇宙往還機)#OREX|軌道再突入実験機]] |LEO |地球周回軌道を約1周してから逆噴射を行い[[大気圏再突入]]し実験成功 |- |[[みょうじょう]] (VEP) |性能確認用ペイロード |GTO |H-IIロケットの衛星軌道投入精度、打上げ時の機械環境条件等の測定 |- |試験機2号機 |[[1994年]][[8月28日]] |4S |bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[きく6号]] (ETS-VI) |[[きく (人工衛星)|技術試験衛星]]VI型 |GSO |SRB点火せず一時打ち上げ延期<br/>二液式[[アポジエンジン]]の不調でGSO投入を断念し楕円軌道で通信実験を実施 |- |rowspan="2"|試験機3号機 |rowspan="2"|[[1995年]][[3月18日]] |rowspan="2"|5/4D |rowspan="2" bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[ひまわり5号]] (GMS-5) |静止[[気象衛星]]5号 |GSO |rowspan="2"|[[ロケットシステム|RSC]]が請け負った最初の打ち上げ<br/>固体補助ロケットSSBを2本使用 |- |[[SFU (人工衛星)|SFU]] |宇宙実験・観測フリーフライヤ |LEO |- |rowspan="2"|4号機 |rowspan="2"|[[1996年]][[8月17日]] |rowspan="2"|5S |rowspan="2" bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[みどり (人工衛星)|みどり]] (ADEOS) |地球観測プラットフォーム技術衛星 |LEO |地球環境観測、次世代観測システムに必要なデータ収集、軌道間データ中継技術等の開発 |- |[[ふじ3号]] (JAS-2) |[[アマチュア衛星]]3号 |LEO |Fuji-Oscar-29, FO-29 |- |rowspan="2"|6号機 |rowspan="2"|[[1997年]][[11月28日]] |rowspan="2"|4/4D |rowspan="2" bgcolor = "#90ff90"|成功 |[[熱帯降雨観測衛星|TRMM]] |熱帯降雨観測衛星 |LEO |熱帯の降雨観測 |- |[[きく7号]] (ETS-VII) |技術試験衛星VII型 |LEO |おりひめ・ひこぼしの愛称で無人ドッキング試験に成功 |- |[[H-IIロケット5号機|5号機]] |[[1998年]][[2月21日]] |4S |bgcolor = "#ffffdd"|'''一部失敗''' |[[かけはし]] (COMETS) |通信放送技術衛星 |GSO |2段目エンジンの燃焼が予定より早く(192sに対し47s)停止しGTO投入に失敗<br/>衛星のアポジエンジンにより[[準回帰軌道]]へ投入{{詳細記事|H-IIロケット5号機}} |- |[[H-IIロケット8号機|8号機]] |[[1999年]][[11月15日]] |5S |bgcolor = "#ff9090"|'''失敗''' |命名されず ([[MTSAT]]-1) |運輸多目的衛星1号 |GSO |1段目エンジンが破損し推力を失ったため指令破壊<br/>父島の北西約380kmの海上に落下<br/>公募による名称は「みらい」{{詳細記事|H-IIロケット8号機}} |- |rowspan="2"|7号機 |rowspan="2"|平成12年度<ref>{{Cite web|和書|url=http://yyy.tksc.nasda.go.jp/Home/Press/Press-j/launchhistory1_j.html|title=これからのロケット・人工衛星等の打上げ|publisher=[[NASDA]]|date=1991-11|accessdate=2012-07-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/19991113072640/http://yyy.tksc.nasda.go.jp/Home/Press/Press-j/launchhistory1_j.html|archivedate=1999-11-13}}</ref> |rowspan="2"|4/4D |rowspan="2"|中止<br/>展示 |([[つばさ (人工衛星)|MDS-1]]) |民生部品・コンポーネント実証衛星 |GTO |rowspan="2"|[[H-IIAロケット]]2号機の打ち上げ後の2001年に打ち上げる予定が、8号機の失敗を受けて製作・打上げを中止 |- |([[こだま (人工衛星)|DRTS-W]]) |データ中継技術衛星 |GSO |} <small>注:LEO:[[低軌道]]、GSO:[[静止軌道]]、GTO:[[静止トランスファ軌道]]</small><br /> == H-II 展示機 == [[ファイル:H-II-GTV.jpg|200px|thumb|right|筑波宇宙センターの展示機]] [[ファイル:LE-7-join-to-H-II-GTV.jpg|200px|thumb|right|展示機に接続されたLE-7型エンジン<small>(2007年10月20日撮影)</small>]] === H-IIロケット7号機 === 打上げ中止後、第一段および第二段機体が[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]][[種子島宇宙センター]]の大崎第一事務所(ロケットガレージに改称)に保管されたままとなっており、2023年現在も、施設案内ツアーで見ることができる<ref>{{Cite web|和書|url=https://fanfun.jaxa.jp/visit/tanegashima/facility.html|title=ファン!ファン!JAXA! 種子島宇宙センター 施設紹介|publisher=JAXA|date=2017|accessdate=2018-10-08}}</ref>。[[2008年]][[10月9日]]、[[国立科学博物館]]の[[重要科学技術史資料]](通称:未来技術遺産)第00023号として登録された<ref>[https://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/17924.pdf 重要科学技術史資料(愛称:未来技術遺産)の登録制度と第1回の登録証授与式について] 、国立科学博物館、2008.10.3</ref><ref>{{Cite web|url=https://fanfun.jaxa.jp/c/media/file/media_jaxas_jaxas023.pdf|title=JAXA's 023|publisher=JAXA|date=2008-12-01|accessdate=2018-11-08}}</ref>。 === 筑波宇宙センター === H-II開発時の試験機体の第一段が種子島宇宙センターに、第二段が三菱重工飛島工場([[愛知県]])、衛星フェアリングは角田宇宙センター(宮城県)、SRBはアイ・エイチ・アイ・エアロスペース富岡事業所(群馬県)にそれぞれ保管されていた<ref name="hii tsukuba">「H2ロケット復元へ 宇宙開発“実物”でアピール 」. 産経新聞. 2007年1月7日。</ref>。保管にかかる費用などが負担になり一時は廃棄することも検討されたが、[[2007年]][[4月21日]]に行われた[[筑波宇宙センター]]の特別公開に合わせて約1億円をかけて輸送し<ref name="hii tsukuba"/>屋外特別展示され、特別公開後はそのまま常設展示されている<ref name="robotwatch"> 森山和道、[https://robot.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/04/24/460.html JAXA、H-IIロケットを一般公開]、ロボットWatch、2007年4月24日。</ref><ref>{{Cite web|url=https://fanfun.jaxa.jp/c/media/file/media_jaxas_jaxas014.pdf|title=JAXA's 014|publisher=JAXA|date=2007-06-01|accessdate=2018-11-08}}</ref>。展示されているのは本体(第一段、第二段、フェアリング、[[LE-7|LE-7型エンジン]])およびSRB 1機(これは7号機のもの)である。設置当初は、LE-7は装着されない状態であったが、2007年10月20日の筑波宇宙センター一般公開に間に合わせる形で、後からLE-7が装着された<ref>{{Cite web|url=https://fanfun.jaxa.jp/c/media/file/media_jaxas_jaxas018.pdf|title=JAXA's 018|publisher=JAXA|date=2008-02-01|accessdate=2018-11-08}}</ref>。LE-7装着部のカバーは部分的に透明の板になっており、配管の様子を見ることができる。また、試験時に接続するケーブルなどの部分もビニール袋などで簡易な防水処理だけが行われている。<!--ちなみに展示のためにかかった輸送費は約1億円。 --> なお、上述の展示に供された機体とは別に、実機と同じ構造で製作されたH-II地上試験機(GTV)は、試験後フライトモデルへと改修のうえ4号機として打ち上げられている<ref>[[笹本祐一]]著「宇宙へのパスポート」朝日ソノラマ、2002年、46頁、ISBN 4-257-03649-4 {{マンガ図書館Z作品|45381|宇宙へのパスポート}}(外部リンク)</ref>。 === 実物大模型=== 上記2機は実機を展示しているが、展示用の実物大模型としては、種子島宇宙センターの公園内にもう1機の展示用模型が設置されている。また、[[つくばエキスポセンター]](元は[[横浜博覧会]]のYES'89宇宙館の展示物)と、JAXA[[角田宇宙センター]]のある角田市スペースタワー・コスモハウスと、栃木県の[[栃木県子ども総合科学館]]と、鹿児島県の[[錦江湾公園]]の4箇所にもH-IIロケットが立てられた状態で屋外展示されている。 <gallery> File:H-II rocket full‐size model, TSUKUBA EXPO CENTER.jpg|つくばエキスポセンター File:ロケット - panoramio.jpg|角田市スペースタワー・コスモハウス File:Tochigi Science Museum H-II mock-up 1.jpg|栃木県子ども総合科学館 File:錦江湾公園その3 - panoramio.jpg|錦江湾公園 </gallery> == 名称 == NASDAではH-IIの読みを「えいちつー」で統一しているが規定ではない。「えいちに」という読みや「H-2」という表記も認めており、これらを使っても誤りとはいえない。[[日本放送協会|NHK]]では「えいちに」で統一している。[[文化放送]]の[[梶原しげるの本気でDONDON]]でH-IIを特集した日に、番組開始当初は「えいちつー」と呼んでいたが、番組の途中で「えいちに」が正しいとした。以後、文化放送では「えいちに」で統一されている。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|H-II}} * [[宇宙開発]] * [[宇宙開発事業団]] * [[ロケット]] * 小型ロケット ** [[TR-Iロケット]] ** [[TR-IAロケット]] * [[人工衛星]] ** [[人工衛星の軌道]] * [[つくばエキスポセンター]] - [[横浜博覧会]]で展示された模型を屋外展示している。 {{日本の衛星打ち上げロケット|before=[[H-Iロケット]]|after=[[H-IIAロケット]]}} {{Expendable launch systems}} {{Rocket families}} {{三菱重工業}} {{デフォルトソート:H-II000}} [[Category:日本のロケット]] [[Category:三菱重工業の製品]] [[Category:重要科学技術史資料]]
2003-05-31T10:32:28Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/H-II%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88
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トロイオンス
トロイオンス(troy ounce)は、貴金属や宝石の原石の計量に用いられるヤード・ポンド法の質量の単位であり、1トロイオンス = 正確に 31.103 4768グラムである。金衡オンス(きんこうオンス)ともいう。日本では、特殊の計量である「金貨の質量の計量」にのみ限定して使用できる法定計量単位であり、その定義値がわずかに異なる(後述)。金の1トロイオンスはISO 4217ではXAUで表され、銀の1トロイオンスはXAGで表される。 トロイオンスの単位記号は、oz tr、oz t や ozt が用いられる。ただし、日本の計量法が認めているのは、oz のみである。なお常用オンスの、計量法における単位記号も oz であり、全く同一である。 明治時代の日本の文献では、漢字で「兮」と書かれている場合がある。 1トロイオンスは、480グレーンであり、1959年以降、正確に 31.103 4768グラムである。 これは、1958年に米、英、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの6カ国の国際協定が締結され、1959年7月1日以降、1ポンドが正確に 0.453 592 37 キログラム、1グレーンが正確に64.798 91ミリグラムと定められたからである。 常用オンス(437.5グレーン)が正確に 28.349 523 125グラムであるので、約9.7%重いことになる。トロイオンスは、貴金属(金や銀)の計量に用いられるが、日本国内ではグラムやキログラムも用いられる。 日本の計量法では、「金貨の質量の計量」に限定してトロイオンスの使用を認めている。ただし、計量法体系では上記の国際定義値の桁数を6桁に丸めて、31.1035グラムと定義している。 トロイオンスはヤード・ポンド法のトロイ衡という単位系の単位の一つであるが、トロイ衡の単位は現在ではトロイオンスしか使われていない。トロイ衡に対して通常使われるオンス、ポンドなどは常衡という。トロイ衡は、ウィリアム1世によるイングランド征服の時代にまで遡る。その名前は、中世において重要な商都であったフランス・シャンパーニュ地方の町トロワに由来する。 金地金の取引について述べる。国際価格は「米ドル/トロイオンス」で表示される。一方、日本国内価格は「日本円/グラム」で表示される。
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トロイオンス(troy ounce)は、貴金属や宝石の原石の計量に用いられるヤード・ポンド法の質量の単位であり、1トロイオンス = 正確に 31.103 4768グラムである。金衡オンス(きんこうオンス)ともいう。日本では、特殊の計量である「金貨の質量の計量」にのみ限定して使用できる法定計量単位であり、その定義値がわずかに異なる(後述)。金の1トロイオンスはISO 4217ではXAUで表され、銀の1トロイオンスはXAGで表される。
{{単位| 名称=トロイオンス (troy ounce)| 記号=oz tr,oz t, ozt(日本の計量法では oz) | 単位系=[[ヤード・ポンド法]](トロイ衡)| 物理量=[[質量]]| 定義=480グレーン| SI= 正確に 31.103 4768 g、(日本の計量法では、正確に 31.1035g)| 画像=[[File:Ingots of Ge, Fe, Al, Re, Os, one troy ounce each (2).jpg|250px|1ozの金属隗]]<br/>1 mm間隔格子上の1 ozの金属<br />左から[[ゲルマニウム]]、[[レニウム]]、[[鉄]]、[[オスミウム]]、[[アルミニウム]]}} '''トロイオンス'''(troy ounce)は、[[貴金属]]や[[宝石]]の原石の[[計量]]に用いられる[[ヤード・ポンド法]]の[[質量]]の[[単位]]であり、1トロイオンス = 正確に 31.103 4768[[グラム]]である。'''金衡オンス'''(きんこうオンス)ともいう。日本では、特殊の[[計量]]である「[[金貨]]の[[質量]]の計量」にのみ限定して使用できる[[法定計量単位]]であり、その定義値がわずかに異なる(後述)。金の1トロイオンスは[[ISO 4217]]ではXAUで表され、銀の1トロイオンスはXAGで表される。 == 記号 == トロイオンスの単位記号は、oz tr、oz t や ozt が用いられる。ただし、日本の計量法が認めているのは、oz のみである<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#93 計量単位規則 別表第4(第2条関係)]金貨の質量の計量、トロイオンスの欄</ref>。なお[[常用オンス]]の、計量法における単位記号も oz であり、全く同一である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#95 計量単位規則 別表第6(第2条関係)]質量、オンスの欄</ref>。 明治時代の日本の文献では、漢字で「兮」と書かれている場合がある。 == 定義 == [[File:1000oz.silver.bullion.bar.underneath.jpg|thumb|200px|1000 ozの[[銀]][[地金]]]] 1トロイオンスは、480[[グレーン]]であり、1959年以降、正確に 31.103 4768[[グラム]]である。 これは、1958年に米、英、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの6カ国の国際協定が締結され、1959年7月1日以降、1ポンドが正確に 0.453 592 37 [[キログラム]]、1[[グレーン]]が正確に64.798 91[[ミリグラム]]と定められた<ref>[http://www.nist.gov/pml/wmd/metric/upload/frn-59-5442-1959.pdf Refinement of Values for the Yard and Pound] Federal Register, July 1, 1959</ref><ref>[http://www.legislation.gov.uk/uksi/1995/1804/schedule/made The Units of Measurement Regulations 1995 No.1804 SCHEDULE]</ref>からである。 常用[[オンス]](437.5グレーン)が正確に 28.349 523 125グラムであるので、約9.7%重いことになる。トロイオンスは、[[貴金属]]([[金]]や[[銀]])の計量に用いられるが、日本国内では[[グラム]]や[[キログラム]]も用いられる。 日本の[[計量法]]では、「金貨の質量の計量」に限定してトロイオンスの使用を認めている。ただし、計量法体系では上記の国際定義値の桁数を6桁に丸めて、31.1035[[グラム]]と定義している<ref> [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#82 計量単位令 別表第6]項番5 「キログラムの〇・〇三一一〇三五倍」となっている。</ref>。 トロイオンスは[[ヤード・ポンド法]]の[[トロイ衡]]という[[単位系]]の[[単位]]の一つであるが、トロイ衡の単位は現在ではトロイオンスしか使われていない。トロイ衡に対して通常使われる[[オンス]]、[[ポンド (質量)|ポンド]]などは[[常衡]]という。トロイ衡は、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]による[[ノルマン・コンクエスト|イングランド征服]]の時代にまで遡る。その名前は、中世において重要な商都であったフランス・シャンパーニュ地方の町[[トロワ]]に由来する<ref>{{Cite book |和書 |author= [[コーネリアス・ウォルフォード|コルネリウス・ウォルフォード]]|year= 1984|title= 市の社会史―ヨーロッパ商業史の一断章|translator= [[中村勝 (歴史学者)|中村勝]]|publisher= そしえて|page= 268|isbn= 978-4881697504}}</ref>。 {{See|トロイ衡}} == 使用 == 金地金の取引について述べる。国際価格は「[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]/トロイオンス」で表示される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGR09H3G_Z00C17A8000000/|title=欧州市場の主要指標11時半 円109円台後半に大幅続伸、英株は反落|accessdate=2017-08-10|date=2017-08-10|publisher=[[日本経済新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810072550/http://www.nikkei.com/article/DGXLASGR09H3G_Z00C17A8000000/|archivedate=2017-08-10}}</ref>。一方、日本国内価格は「[[円 (通貨)|日本円]]/グラム」で表示される。<ref>{{Cite web|和書|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/386620/|title=金の取引単位、国際価格トロイオンスと国内価格グラム(筆者:横山利香)|accessdate=2017-08-10|date=2011-10-21|publisher=[[All About]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810070300/https://allabout.co.jp/gm/gc/386620/|archivedate=2017-08-10}}</ref> <gallery> File:Gold1oz.jpg|1 ozの金地金 File:Kinebar.jpg | カードに封入された1 ozの金地金 |1 ozの[[地金型金貨]]<br />直径30 mm、厚さ2.8 mm </gallery> == 注釈 == <references /> == 関連項目 == *[[単位の換算]] [[Category:質量の単位|とろいおんす]] [[Category:ヤード・ポンド法|とろいおんす]]
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カツオ
カツオ(鰹、松魚、堅魚、英: skipjack tuna、学名 Katsuwonus pelamis)は、スズキ目・サバ科に属する魚の一種。暖海・外洋性の大型肉食魚で、1属1種(カツオ属 Katsuwonus)を構成する。 地方名やマナガツオ、ソウダガツオやハガツオとの判別名として、ホンガツオやマガツオ(各地)、コヤツやビンゴ(仙台 : 若魚)、ヤタ(仙台 : 成魚)、サツウ(小名浜)、マンダラ(北陸)、スジガツオ(和歌山県・高知県)などがある。 大型のものは全長1m・体重18〜20kgに達するが、漁獲が多いのは全長40cm程である。体は紡錘形で尾鰭以外の各鰭は小さい。鱗は目の後方から胸鰭・側線周辺だけにある。 背側は濃い藍色で、腹側は無地の銀白色。興奮すると腹側に4-10条の横縞が浮き出る。死ぬと横縞が消え、縦縞が現れる。ヒラソウダ、マルソウダ、スマ、ハガツオなどの類似種は腹側に縞模様が出ないので区別できる。さらにスマは背中側後半部に斜めの縞模様があること、ハガツオは顎ががっしりしていて背中側に細い縦縞模様があることも区別点となる。 全世界の熱帯・温帯海域に広く分布する。日本では太平洋側に多く、日本海側では稀である。摂氏19 - 23度程度の暖かい海を好み、南洋では一年中見られるが、日本近海では黒潮に沿って春に北上、秋に南下という季節的な回遊を行う。食性は肉食性で、魚、甲殻類、頭足類などの小動物を幅広く捕食する。 また、流木やヒゲクジラ(主にニタリクジラ、カツオクジラ)、ジンベエザメの周辺に群がる習性もある。これはカジキから身を護るためと言われているが、反面カツオが集めた鰯を鯨が食べたりもするため、水産庁の加藤秀弘に共生ではないかと指摘されている。これらの群れは「鯨付き」「鮫付き」と呼ばれ、「鳥付き」とともに漁業の際のカツオ群を見つける目安にもなっている。 カツオは、日本の水産業において重要な位置を占める魚種の1つとされている。 日本の太平洋沿岸に生息するカツオは、夏に黒潮と親潮とがぶつかる三陸海岸沖辺りまで北上し、秋に親潮の勢力が強くなると南下する。夏の到来を告げるその年初めてのカツオの水揚げを「初鰹」(はつがつお)と呼び、珍重される。脂が乗っていないためにさっぱりとしており、この味を好む人もいるが、3月初旬の頃のものは型が揃わず、比較的安価である。脂が乗り出すと高値になっていく。 初鰹は港によって時期がずれるが、食品業界では漁獲高の大きい高知県の初鰹の時期(4月 - 6月頃)をもって毎年の「初鰹」としており、消費者にも浸透している。南下するカツオは「戻り鰹」と呼ばれ、低い海水温の影響で脂が乗っており、北上時とは異なる食味となる。戻り鰹の時期も港によってずれがあるが、一般的には秋の味として受け入れられている。 北上から南下に転じる宮城県・金華山沖では、「初鰹」と言っても脂が乗っているため、西日本ほどの季節による食味の違いがない。また、南下は海水温に依存しており、陸上の気温との違いがあるため、秋になった頃には既にカツオはいない。 日本では古くから食用にされており、大和朝廷は鰹の干物(堅魚)など加工品の献納を課していた記録がある。カツオの語源は「身が堅い」という意で堅魚(かたうお)に由来するとされている。「鰹」の字も「身が堅い魚」の意である。 鰹節(干鰹)は神饌の一つであり、また、社殿の屋根にある鰹木の名称は、鰹節に似ていることによると一般に云われている。戦国時代には武士の縁起かつぎとして、鰹節を「勝男武士」と漢字をあてることがあった。織田信長などは、産地より遠く離れた清洲城や岐阜城に生の鰹を取り寄せて家臣に振る舞ったという記録がある。 鎌倉時代に執筆された『徒然草』において、兼好法師は鎌倉に住む老人が「わたしたちの若かった時代では身分の高い人の前に出るものではなく、頭は下層階級の者も食べずに捨てるような物だった」と語った事を紹介している(『徒然草』第119段)。 鹿児島県枕崎市や沖縄県本部町などでは、端午の節句になるとこいのぼりならぬ「カツオのぼり」が上る。 カツオの身はマグロ(鮪)などと同様、熱を通すと著しくパサついた食感となってしまうため、多くの場合は生のままか、生に近い状態で利用される。加熱用途としてはマグロに近い肉質の特性を生かし、ツナ缶の代用とされることも多い。 カツオは缶詰原料として重要であり、世界のカツオ漁獲の80%以上が缶詰にされ、世界のツナ(マグロ)缶詰の原料の70-80%はカツオである。キハダマグロ等と共にミックスされることも多く、缶詰にした場合の味は他のマグロ類と区別できない。 日本ではカツオはマグロと称して缶詰めにすることはできないので、生食・節類での消費が殆どである。刺身やたたきなどで食用にする他、鰹節の原料でもあり、魚食文化とは古くから密接な関係がある。また、鰹の漁が盛んな地域では郷土料理として鰹料理が多い。 インド洋の島国、モルディヴでは、鰹節によく似たモルディブフィッシュが伝統的に製造されている。なかには、モルディブフィッシュが南方から日本に伝来したのが今の鰹節であるという説も提唱されているが、真偽は明らかになっていない。
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カツオは、スズキ目・サバ科に属する魚の一種。暖海・外洋性の大型肉食魚で、1属1種を構成する。 地方名やマナガツオ、ソウダガツオやハガツオとの判別名として、ホンガツオやマガツオ(各地)、コヤツやビンゴ、ヤタ、サツウ(小名浜)、マンダラ(北陸)、スジガツオ(和歌山県・高知県)などがある。
{{Otheruses|魚|その他の用法|かつお}} {{脚注の不足|date=2019年3月31日 (日) 11:26 (UTC)}} {{生物分類表 |名称 = カツオ |画像=[[ファイル:Kapel_u0.gif|300px]] |画像キャプション = ''Katsuwonus pelamis''<br>[http://www.fishbase.org/ Fishbase]による画像 |省略 = 条鰭綱 |目 = [[スズキ目]] {{sname||Perciformes}} |科 = [[サバ科]] {{sname||Scombridae}} |族 = [[マグロ族]] {{sname||Thunnini}} |属 = '''カツオ属''' {{snamei|Katsuwonus}} {{AUY|Kishinouye|1915}} |種 = '''カツオ''' {{snamei|K. pelamis}} |学名 = {{snamei|Katsuwonus pelamis}}<br/>({{AUY|Linaeus|1758}}) |英名 = [[w:bonito|Bonito]]<br/>[[:w:Skipjack tuna|Skipjack]] |和名 = '''カツオ'''(鰹、松魚、堅魚) }} '''カツオ'''(鰹、松魚、堅魚、{{lang-en-short|skipjack tuna}}{{efn|しばしば[[ハガツオ]]({{lang-en-short|bonito}})と混同されるがカツオとは同科別属の関係にある。}}、[[学名]] {{snamei|Katsuwonus pelamis}})は、[[スズキ目]]・[[サバ科]]に属する[[魚類|魚]]の一種。暖海・外洋性の大型肉食魚で、1[[属 (分類学)|属]]1[[種 (分類学)|種]]('''カツオ属''' {{snamei|Katsuwonus}})を構成する。 [[地方名]]や[[マナガツオ]]、[[ソウダガツオ]]や[[ハガツオ]]との判別名として、ホンガツオやマガツオ(各地)、コヤツやビンゴ([[仙台市|仙台]] : 若魚)、ヤタ(仙台 : 成魚)、サツウ([[小名浜]])、マンダラ([[北陸地方|北陸]])、スジガツオ([[和歌山県]]・[[高知県]])などがある。 == 特徴 == [[ファイル:Katsuwonus_pelamis_Java.jpg|thumb|200px|left|水揚げされたカツオ。特徴的な縦縞が出ている]] 大型のものは全長1[[メートル|m]]・体重18〜20[[キログラム|kg]]に達するが、漁獲が多いのは全長40[[センチメートル|cm]]程である。体は紡錘形で[[鰭 (魚類)|尾鰭]]以外の各鰭は小さい。[[鱗]]は目の後方から[[鰭 (魚類)|胸鰭]]・[[側線]]周辺だけにある。 背側は濃い藍色で、腹側は無地の銀白色。興奮すると腹側に4-10条の横縞が浮き出る。死ぬと横縞が消え、縦縞が現れる<ref group="注釈">横縞は魚体を横切る方向、縦縞は頭から尾に向けて魚体を縦断する方向。つまり、添付図は死んだ姿である。</ref>。[[ソウダガツオ|ヒラソウダ]]、[[ソウダガツオ|マルソウダ]]、[[スマ]]、[[ハガツオ]]などの類似種は腹側に縞模様が出ないので区別できる。さらにスマは背中側後半部に斜めの縞模様があること、ハガツオは顎ががっしりしていて背中側に細い縦縞模様があることも区別点となる。 == 生態 == [[ファイル:Skipjack_tuna_shoal.jpg|thumb|200px|群泳するカツオ]] {{出典の明記|date=2015年5月7日 (木) 11:45 (UTC)|section=1}} 全世界の[[熱帯]]・[[温帯]]海域に広く分布する。日本では[[太平洋]]側に多く、[[日本海]]側では稀である。[[セルシウス度|摂氏]]19 - 23度程度の暖かい海を好み、南洋では一年中見られるが、日本近海では[[黒潮]]に沿って春に北上、秋に南下という季節的な[[回遊]]を行う。食性は[[肉食動物|肉食性]]で、魚、[[甲殻類]]、[[頭足類]]などの小動物を幅広く捕食する。 また、流木や[[ヒゲクジラ亜目|ヒゲクジラ]](主に[[ニタリクジラ]]、[[カツオクジラ]])、[[ジンベエザメ]]の周辺に群がる習性もある。これは[[カジキ]]から身を護るためと言われているが、反面カツオが集めた[[イワシ|鰯]]を[[鯨]]が食べたりもするため、[[水産庁]]の[[加藤秀弘]]に[[共生]]ではないかと指摘されている。これらの群れは「鯨付き」「[[サメ|鮫]]付き」と呼ばれ、「鳥付き」<ref group="注釈">カツオが捕食する鰯の群れに[[海鳥]]が群がるため。[[カツオドリ]]の名の由来もその習性による。</ref>とともに[[漁業]]の際のカツオ群を見つける目安にもなっている。 == 日本におけるカツオ == === 漁業 === [[ファイル:Omaezaki shi Katsuo Mizuage 20181201.jpg|thumb|200px|[[御前崎港]]で水揚げされたカツオ]] {{出典の明記|date=2015年5月7日 (木) 11:46 (UTC)|section=1}} カツオは、日本の[[水産業]]において重要な位置を占める魚種の1つとされている。 日本の太平洋沿岸に生息するカツオは、夏に黒潮と[[親潮]]とがぶつかる[[三陸海岸]]沖辺りまで北上し、秋に親潮の勢力が強くなると南下する。夏の到来を告げるその年初めてのカツオの水揚げを「'''初鰹'''」(はつがつお)と呼び、珍重される。脂が乗っていないためにさっぱりとしており、この味を好む人もいるが、3月初旬の頃のものは型が揃わず、比較的安価である。脂が乗り出すと高値になっていく。 初鰹は港によって時期がずれるが、食品業界では漁獲高の大きい[[高知県]]の初鰹の時期(4月 - 6月頃)をもって毎年の「初鰹」としており、消費者にも浸透している。南下するカツオは「'''戻り鰹'''」と呼ばれ、低い海水温の影響で脂が乗っており、北上時とは異なる食味となる。戻り鰹の時期も港によってずれがあるが、一般的には秋の味として受け入れられている。 北上から南下に転じる[[宮城県]]・[[金華山 (宮城県)|金華山]]沖では、「初鰹」と言っても脂が乗っているため、[[西日本]]ほどの季節による食味の違いがない。また、南下は海水温に依存しており、陸上の気温との違いがあるため、秋になった頃には既にカツオはいない。 === 文化 === [[ファイル:魚づくし 鰹に桜-Katsuo Fish with Cherry Buds, from the series Uozukushi (Every Variety of Fish) MET DP123578.jpg|thumb|200px|[[歌川広重]]『魚づくし 鰹に桜』]] [[ファイル:100_views_edo_043.jpg|thumb|200px|『[[名所江戸百景]]』「日本橋江戸ばし」 作品名は[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]から[[江戸橋 (東京都)|江戸橋]]を望むの意。右下の桶の中に、縞模様が浮いていて活きのよい初鰹]] 日本では古くから食用にされており、[[ヤマト王権|大和朝廷]]は鰹の[[干物]](堅魚)など加工品の献納を課していた記録がある。カツオの語源は「身が堅い」という意で'''堅魚'''(かたうお)に由来するとされている<ref name="atejinoomoshirozatsugaku_p50">フリーランス雑学ライダーズ編『あて字のおもしろ雑学』([[永岡書店]]、1988年)p.51</ref>。「鰹」の字も「身が堅い魚」の意である。 鰹節(干鰹)は[[神饌]]の一つであり、また、[[神社建築|社殿]]の屋根にある[[千木・鰹木|鰹木]]の名称は、鰹節に似ていることによると一般に云われている。 [[鎌倉時代]]に執筆された『[[徒然草]]』において、[[卜部兼好|兼好法師]]は[[鎌倉]]に住む老人が「わたしたちの若かった時代では身分の高い人の前に出るものではなく、頭は下層階級の者も食べずに捨てるような物だった」と語った事を紹介している(『徒然草』第119段)。 [[鹿児島県]][[枕崎市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/localnews/kagoshima/2010/04/post_20100421125826.html|title=泳げ!かつおのぼり 枕崎市役所|publisher=[[47NEWS]]|date=2010-04-21|accessdate=2014-05-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140501235910/http://www.47news.jp/localnews/kagoshima/2010/04/post_20100421125826.html |archivedate=2014-05-01}}</ref>や[[沖縄県]][[本部町]]<ref>{{Cite news|url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-23315-storytopic-5.html|title=本部に今年もカツオのぼり 泳ぐ70匹に歓声|date=2007-04-27|newspaper=『[[琉球新報]]』|accessdate=2014-05-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080419051929/http://ryukyushimpo.jp:80/news/storyid-23315-storytopic-5.html |archivedate=2008-04-19}}</ref>などでは、[[端午|端午の節句]]になると[[こいのぼり]]ならぬ「カツオのぼり」が上る。 ; 初ガツオ : [[江戸時代]]には人々は初鰹を特に珍重し、「目に青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」という[[山口素堂]]の[[俳句]]は有名である。この時期は現代では5月から6月にあたる。殊に江戸においては「[[いき|粋]]」の観念によって初鰹志向が過熱し、非常に高値となった時期があった。「女房子供を[[質屋|質]]に出してでも食え」と言われたぐらいである。1812年に[[歌舞伎]]役者・[[中村歌右衛門 (3代目)|中村歌右衛門]]が一本三両<ref group="注釈">現代の金額に換算すると約20万円相当。</ref>で購入した記録がある。江戸中期の[[京都]]の[[漢詩]]人・[[中島棕隠]]は「[[蚊帳]]を殺して鰹を買う食倒れの客」(蚊の季節に蚊帳を金にかえてでも鰹を買う)と江戸の鰹狂いを揶揄する詩を遺している<ref>青木正児『琴棊書画』([[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]、1958年)、「三都穴さがしの狂詩」の章</ref>。庶民には初鰹は高嶺の花だったようで、「目には青葉…」の返歌となる[[川柳]]に「目と耳はただだが口は銭がいり」「女房を質に入れても初鰹」「初鰹女房は質を受けたがり」といったものがある。このように初鰹を題材とした俳句や川柳が数多く作られている。ただし、水揚げが多くなる夏と秋が[[旬]](つまり安価かつ美味)であり、産地ではその時期のものが好まれていた。 ; 戻りガツオ : 9月から10月にかけての戻りカツオは脂が多い。質の良い物は[[マグロ]]の[[トロ]]にも負けない脂のうまさがある。 === 利用 === ==== 食材・料理 ==== [[ファイル:Katsuobushi_Kagoshima.JPG|thumb|200px|鰹節]] [[ファイル:KatsuoTataki.jpg|thumb|200px|鰹のたたき]] カツオの身は[[マグロ]](鮪)などと同様、熱を通すと著しくパサついた食感となってしまうため、多くの場合は生のままか、生に近い状態で利用される。加熱用途としてはマグロに近い肉質の特性を生かし、[[ツナ]]缶の代用とされることも多い。 カツオは[[缶詰]]原料として重要であり、世界のカツオ漁獲の80%以上が缶詰にされ、世界のツナ(マグロ)缶詰の原料の70-80%はカツオである。キハダマグロ等と共にミックスされることも多く、缶詰にした場合の味は他のマグロ類と区別できない。 日本ではカツオはマグロと称して缶詰めにすることはできないので、生食・節類での消費が殆どである。[[刺身]]や[[たたき]]などで食用にする他、[[鰹節]]の原料でもあり、魚食文化とは古くから密接な関係がある。また、鰹の漁が盛んな地域では[[郷土料理]]として鰹料理が多い。 ; [[鰹節]] : カツオの肉を干して乾燥させ、長期保存に耐えるものに加工することは古来より行われていたが、江戸時代に[[燻製|燻煙]]することによって水分を効果的に除去する製法(焙乾法(別名:燻乾法)が考案され、現代の[[鰹節]]が生まれた。関東圏では江戸時代から明治時代にかけて、焙乾した鰹節(荒節)の表面を削り(裸節)、何度も[[コウジカビ]]を生やして熟成させ、水分を抜き乾燥させると共に雑味成分の分解を促して旨味を増す「枯節」の技法が発達した。数ヶ月にわたって4回以上のカビ付けを行った高級品は本枯節と呼ばれる。薄く削り「[[削り節]]」に加工して利用する。生産は鹿児島県枕崎市が日本一を誇る。 ; [[刺身]] : 刺身は美味とされるが、近縁の[[サバ]]と同様に傷みが早い。収獲後の血抜きなどの〆方(しめかた)により、鮮度や味、臭いの差が大きく異なるとされている。 : 鰹の刺身は、本来皮付きにつくり(これを'''芝づくり'''という)、[[からし|芥子]][[醤油]]で食べることが古くは[[江戸]]の風俗であったが([[英一蝶]]に「初鰹芥子がなくて涙かな」の句がある)、現代では鮪などと同様に皮を落とし、[[ショウガ|生姜]]もしくは[[ニンニク|にんにく]]、[[ワサビ|わさび]]を[[薬味]]として食べることが多い。特に生姜は、カツオ料理の付け合せの代名詞的存在となっている。他には[[ポン酢]]や醤油[[マヨネーズ]]また多量の[[ネギ]]と共に食べることもある。鮮度の良いものは臭みが無いため、[[大根おろし]]と醤油で食べることがある。 ; [[鰹のタタキ]] : 一般にカツオを節状に切った後、皮の部分を[[藁]]などの火で炙り氷で締めたものを指す。また、鰹の産地によっては鰹の[[血合肉|血合い]]部分を削ぎ集め、2本の[[包丁]]を使い[[まな板]]の上で細かく叩いて[[酢]][[味噌]]で和えたものを'''[[たたき]]'''と呼ぶ。 ; [[生利節]](なまりぶし) : 生節(なまぶし)、地方によっては「'''とんぼ'''」とも呼ばれる、茹でて火を通し加熱した節の切り身。[[フキ]]などの春野菜と炊き上げると、季節の逸品料理として喜ばれる。 : これを燻煙して乾燥させたものが「鰹節」である。 ; [[手こね寿司]] : 醤油を中心とした[[タレ]]に漬け込んだ後、寿司飯と合わせて食べる[[ちらし寿司]]の一種である。 ; その他 : 静岡県[[西伊豆町]]田子地区では、内臓を取り除いたカツオの腹に塩を詰めて2週間漬けた後に水洗いして陰干しした「しおかつお」をつくる<ref>【ご当地 食の旅】しおかつお(静岡県西伊豆町)藁と寒風 迎春の喜び運ぶ『[[日本経済新聞]]』朝刊2020年1月11日(土曜朝刊別刷り「日経+1」9面)</ref>。鰹節の製作過程で余る腹皮、カブトと呼ばれる頭の部分、[[腸]]なども食材とされ、[[塩辛]]に加工される(腸の塩辛は「[[酒盗]]」と呼ばれる)。また鹿児島県枕崎市では、カツオの[[心臓]]は「珍子」(ちんこ)と呼ばれ、[[から揚げ]]や[[煮物|煮付け]]で食べられる。静岡県[[焼津市]]ではカツオの[[心臓]]を「へそ」と呼び、[[おでん]]の具とすることもある。 == モルディヴにおけるカツオ == インド洋の島国、[[モルディヴ]]では、鰹節によく似た[[モルディブフィッシュ]]が伝統的に製造されている。なかには、モルディブフィッシュが南方から日本に伝来したのが今の鰹節であるという説も提唱されているが、真偽は明らかになっていない。<ref>https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no33/02.html</ref> == 栄養成分 == {{栄養価 | name=かつお(秋獲り、生)<ref name="mext7">{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm |title=日本食品標準成分表2015年版(七訂) |publisher=[[文部科学省]] |accessdate=2019-03-31}}{{出典無効|date=2019-03-31|title=このウェブページのコンテンツは目次だけなので、栄養成分そのものの出典にはなっていないと思います。}}</ref> kJ =690| water=67.3 g| protein=25.0 g| fat=6.2 g| satfat=1.50 g| monofat = 1.33 g| polyfat =1.84 g| opt1n=[[コレステロール]] | opt1v=58 mg| carbs=0.2 g| sodium_mg=38| potassium_mg=380| calcium_mg=8| magnesium_mg=38| phosphorus_mg=260| iron_mg=1.9| zinc_mg=0.9| copper_mg=0.10| manganese_mg=0.01| selenium_ug =100| vitA_ug =20| vitD_ug=9.0| vitE_mg =0.1| thiamin_mg=0.10| riboflavin_mg=0.16| niacin_mg=18.0| vitB6_mg=0.76| vitB12_ug=8.6| folate_ug=4| pantothenic_mg=0.61| opt2n=[[ビオチン|ビオチン(B<sub>7</sub>)]] | opt2v=5.7 µg| note =ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[厚生労働省]] |url=https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000114399.pdf|title=日本人の食事摂取基準(2015年版)策定検討会報告書 |accessdate=2019-03-31 |format=PDF}}</ref>。別名: ほんがつお、まがつお、 戻りがつお 廃棄部位: 頭部、内臓、骨、ひれ等(三枚下ろし) | right=1 }} {| class="wikitable" style="float:right; clear:right" |+カツオ(秋獲り、生、100g中)の主な[[脂肪酸]]の種類<ref name="mext">{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802.htm |title=五訂増補日本食品標準成分表 |publisher=文部科学省 |accessdate=2019-03-31}}{{出典無効|date=2019-03-31|title=このウェブページのコンテンツは目次だけなので、カツオの脂肪酸についての出典にはなっていないと思います。}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031801.htm |title=五訂増補日本食品標準成分表脂肪酸成分表編 |publisher=文部科学省 |accessdate=2019-03-31}}{{出典無効|date=2019-03-31|title=このウェブページのコンテンツは目次だけなので、カツオの脂肪酸についての出典にはなっていないと思います。}}</ref> |- ! 項目 !! 分量(g) |- | [[脂肪]]総量 || 6.2 |- | [[脂肪酸]]総量 || 4.7 |- | [[飽和脂肪酸]] || 1.5 |- | [[一価不飽和脂肪酸]] || 1.3 |- | [[多価不飽和脂肪酸]] || 1.8 |- | 18:2(n-6)[[リノール酸]] || 0.084 |- | 18:3(n-3)[[α-リノレン酸]] || 0.042 |- | 20:4(n-6)[[アラキドン酸]] || 0.084 |- | 20:5(n-3)[[エイコサペンタエン酸]](EPA) || 0.056 |- | 22:6(n-3)[[ドコサヘキサエン酸]](DHA) || 0.97 |} == その他 == ; [[インスリン]]の精製 : [[結晶]]インスリンの生成方法が発見されるまでの間は、カツオの[[ランゲルハンス島]]から、[[糖尿病]]の治療に用いるインスリンが精製されていた時期もある。しかし、魚類のインスリンの[[ヒト]]に対する効果は若干低く、魚からランゲルハンス島を集める作業に手間がかかることもあり、他の方法へと置き換えられた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2019年3月31日 (日) 11:26 (UTC)|section=1}} * 岡村収監修 山渓カラー名鑑『日本の海水魚』(サバ科執筆者 : 中村泉)[[山と溪谷社]] ISBN 4-635-09027-2 * 藍澤正宏ほか『新装版 詳細図鑑 さかなの見分け方』[[講談社]] ISBN 4-06-211280-9 * [[檜山義夫]]監修 『野外観察図鑑4 魚』改訂版 [[旺文社]] ISBN 4-01-072424-2 * 永岡書店編集部『釣った魚が必ずわかるカラー図鑑』 ISBN 4-522-21372-7 * 内田亨監修『学生版 日本動物図鑑』[[北隆館]] ISBN 4-8326-0042-7 * 加藤秀弘『[[ニタリクジラ]]の自然誌 〜[[土佐湾]]にすむ日本の鯨〜』[[平凡社]] ISBN 4-582-52962-3 * 若林良和『カツオ一本釣り』[[中央公論新社|中央公論社]] == 関連項目 == {{Commons&cat|Katsuwonus pelamis|Katsuwonus pelamis}} {{Commonscat|Hatsugatsuo|初ガツオ}} {{Commonscat|Katsuo|カツオ(食材)}} * [[ハガツオ]] * [[全米熱帯まぐろ類委員会強化条約]] * [[ツナ]] == 外部リンク == * [http://www.fishbase.org/summary/SpeciesSummary.php?id=107 Fishbase - ''Katsuwonus pelamis'']{{En icon}} * {{Hfnet|564|カツオ(カツオ節)}} * {{Hfnet|708|かつお節オリゴペプチド|nolink=yes}} * {{PDFlink|[https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10814985_po_ART0003314096.pdf?contentNo&#61;1&alternativeNo&#61; 江戸の料理書にみるカツオの食べ方に関する調査研究]}} 河野,一世[他] (日本調理科学会, 2005-12-20) 日本調理科学会誌. 38(6) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かつお}} [[Category:カツオ|*]] [[Category:サバ科]] [[Category:赤身魚]] [[Category:釣りの対象魚]] [[Category:寿司種]] [[Category:高知県の象徴]] [[Category:プライドフィッシュ]]
2003-05-31T14:20:05Z
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インジウム
インジウム(英: indium [ˈɪndiəm])は、原子番号49の元素。元素記号は In。第13族元素の1つ。銀白色の柔らかい金属である。常温で安定な結晶構造は正方晶系。比重7.3、融点は156.4 °Cと低い。常温では空気中で安定である。酸には溶けるが、塩基や水とは反応しない。 名前は発光スペクトルが濃い藍色 (indigo) であったことが由来。 ITO (Indium Tin Oxide) と略称される酸化インジウムスズは、導電性があるのに透明であることから液晶やプラズマといったフラットパネルディスプレイの電極(透明導電膜)に使われている(他のピクセルからの光を阻害せずにそれぞれのピクセルに電気信号を伝達できるため)。 そのほか、シリコン、ゲルマニウムに添加(ドープ)してp型半導体を形成する。融点が低いので、低融点合金であるはんだなどに利用される。またインジウムの化合物では、リン化インジウム (InP) などの化合物半導体が注目を集めている。 熱伝導の良さから、箔状に延ばしたものがクライオポンプ等に用いられている。 また、インジウムはガラスに弾かれないという特性を持つため、高レベルの真空を求める装置等でパッキンとして利用される。 1863年、リヒター (H. T. Richter) とライヒ (F. Reich) によって、閃亜鉛鉱の発光スペクトルの中に発見された。 右側の表の通り、自然界には質量数113のインジウムと質量数115のインジウムの2種が存在し、95%以上が質量数115のものである。この同位体は天然放射性同位体である。1つ以上の安定同位体を持つ元素の中で、天然放射性同位体が安定同位体より多く存在しているものとしてはインジウムの他にテルルとレニウムがある。 このインジウム115は天然放射性同位体といえど半減期が441兆年と極端に長く、限りなく安定同位体に近い。現在インジウムは透明導電膜、光デバイスや半導体用途向けに需要が高まっているが、そのほとんどが放射性同位体であっても、現在の用途では放射性同位体であることを無視してよいとされる。将来、原子1個レベルでの信頼性が問われるような製品が出た場合でも問題になることは稀だと考えられている。 1990年代半ばまではインジウムの毒性について、情報が非常に乏しく、安全な金属と考えられていたが、2001年にはITO吸入に起因すると考えられる間質性肺炎の死亡例があり、ITO取り扱い作業者の中で間質性肺障害の症例が報告されている。近年の研究では、動物実験において、化合物半導体であるInPの発癌性が確認され、InPに加えて他のインジウム化合物においても強い肺障害性が認められるなど、フラットパネルディスプレイなどにおけるITO需要が進む状況下において、インジウムの健康への影響が懸念されている。 2010年12月に厚労省からインジウム・スズ酸化物等取扱い作業による健康障害防止対策が、通達として発表された。 かつてインジウムを世界で最も多く産出していた鉱山は、日本の北海道札幌市の豊羽鉱山であった。採掘場所が坑道の奥になるにつれて採掘環境が高温となり、冷却装備を施すと高コストとなる問題があり、従来工法での可採部分での資源枯渇を理由に2006年3月31日をもって採掘を停止した。2017年時点、中国が世界最大の生産・輸出国である。アメリカ地質調査所の推計によると、2017年に世界で新たに生産されたインジウム地金(720トン)のうち、中国(310トン)に韓国(215トン)、カナダと日本が各70トンと続く。最大消費国は日本である。独立したインジウムの鉱物や高濃度のインジウムを含む鉱石が見つかるのは錫-多金属鉱床と呼ばれるタイプの鉱床で、豊羽や兵庫県の明延(あけのべ)鉱山がこれに相当した。しかし、産出量が多いのは、塊状硫化物鉱床である。 日本への輸入は2006年度で約422トンであり、これは世界中のインジウム取引の約80%の量であった。この内、中国からは61%、韓国からが24%、カナダ8%、台湾6%、米国その他からが1%であった。 中国の行政報告によると年度は不明ながら近年での採掘資源量は雲南省(5205トン、40%)、広西壮族自治区(4,086トン、31.4%)、内モンゴル自治区(1,067トン、8.2%)、青海省(1,015トン、7.8%)、広東省(910トン、7%)、その他地域(728トン、5.6%)、合計13,014トンという統計値がある。この資源は数百の零細工場によって亜鉛鉱石や鉛鉱石からインジウムの素原料が原始的な方法で取り出され、湖南省株洲工場、広東省招関工場、広西壮族自治区華錫工場、遼寧省蘆島工場、江蘇省南京工場という5大工場に集められて、高純度に精製された後、国内や日本などの海外に供給されている。 2003年からのインジウムの需要急増に対応して湖南省と広東省の亜鉛工場が増産したが、カドミウム公害を起こしたため、広東省では工場が、湖南省ではいくつかの鉱山が2004年から2005年にかけて閉鎖された。雲南省と広西壮族自治区でも採掘現場での環境破壊は深刻だが、山岳地帯であり少数民族地域でもあるため放置されている。 中国政府もインジウムの需要急増に対応して生産を拡大したいが、湖南省と広東省だけに限らず環境問題が解決できないため、2008年時点も果たせないでいる。中国国内産業が工業製品の生産量を増すにつれてインジウムを輸出に回すだけの余分が無くなって来たため、まず2005年から輸出に与えられていた還付税が減額され、2006年9月14日には完全に撤廃された。インジウムの海外からの委託加工も禁止された。 日本では2006年まで札幌の鉱山で世界最大のインジウム生産量を誇っていたが、環境問題とはならなかった。中国では今、環境問題のために生産量に制約が生じており、日本への供給が減ってきている。中国と日本の利害は一致するように見えるが良いニュースは聞こえて来ない。 レアメタルであるインジウムの生産量は世界的に限られており、需要に対する供給量の逼迫が問題となっている。資源を持たない日本の産業界ではこれまで同種の危機に直面した時と同じように、多面的な解決策によって最小限の輸入量で国内産業への影響を回避すべく行動している。 2003年から3年間で価格は5倍に上昇した。そのため、生産過程で出る廃材からのリサイクルや、使用済み電子機器からの回収といった方法が進められている。 住友金属鉱山ではITOの代わりにZTO (Zinc Tin Oxide) が使えないか検討中であり、東ソーでも同じく亜鉛ベースの化合物でテストを行なっている。
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インジウムは、原子番号49の元素。元素記号は In。第13族元素の1つ。銀白色の柔らかい金属である。常温で安定な結晶構造は正方晶系。比重7.3、融点は156.4 °Cと低い。常温では空気中で安定である。酸には溶けるが、塩基や水とは反応しない。
{{Elementbox |name=indium |japanese name=インジウム |number=49 |symbol=In |pronounce={{IPAc-en|ˈ|ɪ|n|d|i|əm}} {{respell|IN|dee-əm}} |left=[[カドミウム]] |right=[[スズ]] |above=[[ガリウム|Ga]] |below=[[タリウム|Tl]] |series=貧金属 |group=13 |period=5 |block=p |image name=Indium.jpg |appearance=銀白色 |atomic mass=114.818 |electron configuration=&#91;[[クリプトン|Kr]]&#93; 4d<sup>10</sup> 5s<sup>2</sup> 5p<sup>1</sup> |electrons per shell=2, 8, 18, 18, 3 |phase=固体 |density gpcm3nrt=7.31 |density gpcm3mp=7.02 |melting point K=429.7485 |melting point C=156.5985 |melting point F=313.8773 |boiling point K=2345 |boiling point C=2072 |boiling point F=3762 |heat fusion=3.281 |heat vaporization=231.8 |heat capacity=26.74 |vapor pressure 1=1196 |vapor pressure 10=1325 |vapor pressure 100=1485 |vapor pressure 1 k=1690 |vapor pressure 10 k=1962 |vapor pressure 100 k=2340 |vapor pressure comment= |crystal structure=[[正方晶系]] |oxidation states='''3''', 2, 1([[両性酸化物]]) |electronegativity=1.78 |number of ionization energies=3 |1st ionization energy=558.3 |2nd ionization energy=1820.7 |3rd ionization energy=2704 |atomic radius=167 |covalent radius=142 ± 5 |Van der Waals radius=193 |magnetic ordering=[[反磁性]]<ref>{{PDF|[https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds]}}(2004年3月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]), in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref> |electrical resistivity at 20=83.7 n |thermal conductivity=81.8 |thermal expansion at 25=32.1 |speed of sound rod at 20=1215 |Young's modulus=11 |Mohs hardness=1.2 |Brinell hardness=8.83 |CAS number=7440-74-6 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_stable | mn=113 | sym=In | na=4.3% | n=64}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=115 | sym=In | na=95.7% | hl=4.41 × 10<sup>14</sup> [[年|y]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.495 | pn=115 | ps=[[スズ|Sn]]}} |isotopes comment= }} '''インジウム'''({{lang-en-short|indium}} {{IPA-en|ˈɪndiəm|}})は、[[原子番号]]49の[[元素]]。[[元素記号]]は '''In'''。[[第13族元素]]の1つ。銀白色の柔らかい[[金属]]である。[[常温]]で[[安定]]な[[結晶構造]]は[[正方晶系]]。[[比重]]7.3、[[融点]]は156.4 {{℃}}と低い。常温では[[空気]]中で安定である。[[酸]]には溶けるが、[[塩基]]や[[水]]とは反応しない。 == 名称 == 名前は[[発光]][[スペクトル]]が濃い[[藍色]] ([[インディゴ (色)|indigo]]) であったことが由来<ref name="sakurai" />。 == 用途 == ITO ('''I'''ndium '''T'''in '''O'''xide) と略称される[[酸化インジウムスズ]]は、[[導電]]性があるのに[[透明]]であることから[[液晶ディスプレイ|液晶]]や[[プラズマディスプレイ|プラズマ]]といったフラットパネルディスプレイの[[電極]](透明導電[[膜]])に使われている(他のピクセルからの光を阻害せずにそれぞれのピクセルに電気信号を伝達できるため)。 そのほか、[[ケイ素|シリコン]]、[[ゲルマニウム]]に添加([[ドープ]])して[[p型半導体]]を形成する。[[融点]]が低いので、低融点合金である[[はんだ]]などに利用される。またインジウムの[[化合物]]では、[[リン化インジウム]] (InP) などの[[化合物半導体]]が注目を集めている。 [[熱伝導]]の良さから、[[板金|箔]]状に延ばしたものが[[クライオポンプ]]等に用いられている。 また、インジウムはガラスに弾かれないという特性を持つため、高レベルの[[真空]]を求める装置等で[[シール (工学)#パッキン|パッキン]]として利用される。 == 歴史 == [[1863年]]、[[テオドール・リヒター|リヒター]] (H. 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アングロアラブ
アングロアラブ(Anglo-Arabian、Anglo-Arab )は、馬の品種のひとつで、アラブとサラブレッドの混血種である。 サラブレッドが競馬に勝つためにスピードを追求するあまり、虚弱体質だったり気性が激しいものも多いため、それを解決する為に頑丈で従順なアラブ種を混合することで、頑丈さと温厚な気性、そしてスピードを得ることができる。日本においてはアングロアラブのことを「アラブ」と呼ぶことが多いため、アラブ種と混同されがちである。 もともとはフランスで生産が始められ、競馬の競走や馬術競技に用いられている。 日本の競馬ではアングロアラブはアラブ血量(アラブ種を100%、サラブレッドを0%とした時のアラブの純血の度合い)が25%以上であることが求められる。25%に満たない場合にはサラブレッド系種となる。フランスでは50%、25%、12.5%に分類される。サラブレッド以外にもセルフランセとの混血種なども存在する。 戦前の日本において、競馬の存在意義はスポーツ以上に軍需産業としての馬の生産技術および種牡馬の能力検定であり、軍馬の質的向上のためのものであった。政府は軍馬改良の為にサラブレッドの生産を奨励したが、1929年(昭和4年)秋、サラブレッドは繊細菲薄(ひ弱)であり、一方、丈夫で粗食にも耐え、維持管理も比較的容易といわれるアングロアラブの生産を推奨する方針に変更し、同時にアラブ種及びアングロアラブによる競馬の競走の施行を命令した。以降、アラブ系の競走が多数編成されるようになり、アングロアラブが盛んに生産されるようになった。 戦前のアラブ系競走では、ギドラン種や、父母馬が明確ではない血統不詳の馬と交配された馬も、アングロアラブ系として扱われていた。アングロアラブは、軍馬改良に大いに貢献する事になった。 戦後は、戦災復興と言う名目で多くの地方競馬場が産声を上げており、中央競馬と併せ、軍馬としての需要はなくなった一方、競走馬としての需要は大きくなっていた。サラブレッドと比べて生産頭数の多かったアングロアラブは、前述のとおり丈夫さを持ち合わせており、連続出走(馬不足から二日連闘もあった)もこなせた事もあって、在厩頭数が少なくても継続的に開催を行いやすいため、引き続き競走馬として盛んに生産が行われた。 中央競馬ではタマツバキ、セイユウ、シュンエイにイナリトウザイ、地方競馬ではホウセント、フクパーク、オグリオー、タイムライン、ローゼンホーマを始めとして、数多くの強豪を生み出し、平成期に入ってもトチノミネフジ、スズノキャスターなどサラブレッド種とも互角以上に渡り合う様な名馬と呼ばれる馬が数多く登場した。また、生産頭数も1960年代初頭まではサラブレッド系のそれを上回っていた。 しかし、アラブ系競走はサラブレッド系競走と比較してスピードが劣ること、競走においての賞金も安く抑えられていたこともあって、サラブレッドの生産頭数が増加していくのに伴い、アングロアラブに対する需要は薄れていった。 中央競馬においては、昭和20年代後半に抽せん馬のみ出走可能な様に変更された後は、一時期の小倉競馬場で行われていた3歳馬(旧)の自由購買馬による競走を除き、抽せん馬のみで競走が行われたために馬資源が乏しかった。それでも昭和30年代までは、アラブ系競走の全競走数における割合は大きく、競馬ファンの人気もあったが、どうしてもサラブレッドよりも格下と見られがちであったのは否めず、またサラブレッドの馬資源が揃ってくると、アラブ系競走に対する馬主の支持が次第に低下していった。 ファンからの支持も低下したアラブ系競走は、1984年(昭和59年)までに大半のアラブ重賞が廃止され、競走自体もいわゆる中央場所ではほとんど行われなくなっていき、最終的には中央競馬馬主会がアラブ抽せん馬の引き受けの拒否を発表したことがきっかけとなり、1995年(平成7年)12月に中京競馬場で行われたアラブ大賞典(勝ち馬ムーンリットガール)を最後に姿を消した。 その後、地方競馬においてもまず南関東公営競馬や岩手県競馬組合が追随し始め、アラブ系競走の廃止やレース数の削減が相次ぐようになると、生産地でも商業的に成り立たなくなり、最盛期(1972年)には約4000頭を数えたアラブ系の生産頭数は1997年に約2000頭、2004年に約100頭、2005年に78頭、2007年にはついに0頭になった(ただしここ数年はごく少数ではあるが生産頭数は出ており、2020年は2頭が生産されている)。 益田競馬場、兵庫県競馬、福山競馬場はかつて全競走をアラブ系の競走で施行する競馬場であったが、益田は競馬場そのものが休止(事実上の廃止)、「アラブのメッカ」と言われた兵庫でさえ、1999年(平成11年)に中央競馬との交流促進のためサラブレッドを導入後、アラブ系の在厩頭数が急減し2003年(平成15年)にはアラブ系のみの番組編成が不可能となった。 最後までアラブ系限定の競走を続けた福山も、アングロアラブの生産頭数の激減で将来的なレース編成に支障をきたすのが明白であり、競馬場の活性化のため中央競馬や他地区との人馬交流を促進するという観点から、2005年(平成17年)10月に開かれた市議会の特別委員会で順次サラブレッドの導入をすることを決めた。2005年12月4日より他競馬場からの転入馬によるサラブレッド系の競走が行われ、アラブ系のみでレースを開催する日本の競馬場はなくなった。2009年(平成21年)7月30日現在で、金沢1頭、名古屋1頭、高知7頭、荒尾7頭、そして福山41頭が競走登録されているにとどまった。 そして2009年8月には福山競馬場でもアラブ系の登録頭数が40頭を切ったことから、9月27日に行われた「開設60周年記念アラブ特別レジェンド賞」(優勝馬はザラストアラビアン)を最後にアラブ系限定競走が終了した。なお、アラブ系馬は今後もサラブレッドに交じって競走に出走することは可能である。2013年(平成25年)3月23日付読売新聞では、競走馬登録を抹消していないアラブ馬は7頭だが、厩舎に入っていて出走可能な唯一の馬であったレッツゴーカップが同日のレースを最後に引退し、アラブ系競走馬は事実上消滅したと報じられている。 2017年(平成29年)「牧場に縁ある血統を残したい」と青森県、北村牧場・北村守彦氏の愛情でキタミキ(牝・父アア エトーレ 母アア キタヒラコウ(母の父アキヒロホマレ)が誕生、岩手競馬(盛岡・櫻田康二厩舎)に入厩。しかし能力不足でデビューできず引退した。 日本ではシャギア・アラブ(ハンガリーの土着馬にアラブ種を交配した馬)をアラブ100%として計算しているため、日本ではアングロアラブとされている馬でも日本以外ではアングロアラブとならない競走馬が存在する。血統表に「オーバーヤン五ノ七」、「初雪」などが含まれる馬がそれにあたる。 アラブ血量を偽り、アングロアラブとして登録されたサラブレッド系種をテンプラという。詳しくはテンプラ (馬)を参照。
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アングロアラブ(Anglo-Arabian、Anglo-Arab )は、馬の品種のひとつで、アラブとサラブレッドの混血種である。
{{出典の明記|date=2018年11月15日 (木) 07:45 (UTC)}} [[ファイル:Etalon Anglo-arabe.JPG|right|thumb|300px|芦毛のアングロアラブ]] '''アングロアラブ'''(''Anglo-Arabian''、''Anglo-Arab'' )は、[[ウマ|馬]]の品種のひとつで、[[アラブ種|アラブ]]と[[サラブレッド]]の混血種である。 == 解説 == サラブレッドが競馬に勝つためにスピードを追求するあまり、虚弱体質だったり気性が激しいものも多いため、それを解決する為に頑丈で従順なアラブ種を混合することで、頑丈さと温厚な気性、そしてスピードを得ることができる。[[日本]]においてはアングロアラブのことを「アラブ」と呼ぶことが多いため、アラブ種と混同されがちである。 もともとは[[フランス]]で生産が始められ、[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]や[[馬術|馬術競技]]に用いられている。 日本の[[競馬]]ではアングロアラブはアラブ血量(アラブ種を100[[パーセント|%]]、サラブレッドを0%とした時のアラブの純血の度合い)が25%以上であることが求められる。25%に満たない場合には[[サラブレッド系種]]となる。フランスでは50%、25%、12.5%に分類される。サラブレッド以外にも[[セルフランセ]]との混血種なども存在する。 == 日本におけるアングロアラブ == [[File:Soraisamugo -Shinme, God Horse.jpg|thumb|アングロアラブの[[神馬]]「空勇号」([[伊勢神宮]][[皇大神宮|内宮]])]] [[File:Brand-aa-2.svg|thumb|140px|アングロアラブのマーク]] 戦前の日本において、競馬の存在意義はスポーツ以上に[[軍需産業]]としての馬の生産技術および種牡馬の能力検定であり、軍馬の質的向上のためのものであった。政府は軍馬改良の為にサラブレッドの生産を奨励したが、[[1929年]](昭和4年)秋、サラブレッドは繊細菲薄(ひ弱)であり、一方、丈夫で粗食にも耐え、維持管理も比較的容易といわれるアングロアラブの生産を推奨する方針に変更し、同時にアラブ種及びアングロアラブによる競馬の競走の施行を命令した。以降、アラブ系の競走が多数編成されるようになり、アングロアラブが盛んに生産されるようになった。 戦前のアラブ系競走では、[[ギドラン|ギドラン種]]や、父母馬が明確ではない血統不詳の馬<ref group=注釈>血統表では雑種と記載されていた。</ref>と交配された馬も、アングロアラブ系として扱われていた<ref group=注釈>競走規定では、50%以上のアラブ血量を持つ馬については、斤量面で優遇措置(3kg減)を受けていた。</ref>。アングロアラブは、軍馬改良に大いに貢献する事になった。 戦後は、戦災復興と言う名目で多くの[[地方競馬|地方競馬場]]が産声を上げており、[[中央競馬]]と併せ、軍馬としての需要はなくなった一方、競走馬としての需要は大きくなっていた。サラブレッドと比べて生産頭数の多かったアングロアラブは、前述のとおり丈夫さを持ち合わせており、連続出走(馬不足から二日連闘もあった)もこなせた事もあって、在厩頭数が少なくても継続的に開催を行いやすいため、引き続き競走馬として盛んに生産が行われた。 中央競馬では[[タマツバキ (競走馬)|タマツバキ]]、[[セイユウ]]、[[シュンエイ]]に[[イナリトウザイ]]、地方競馬では[[ホウセント]]、[[フクパーク]]、[[オグリオー]]、[[タイムライン (競走馬)|タイムライン]]、[[ローゼンホーマ]]を始めとして、数多くの強豪を生み出し、平成期に入っても[[トチノミネフジ]]、[[スズノキャスター]]などサラブレッド種とも互角以上に渡り合う様な名馬と呼ばれる馬が数多く登場した。また、生産頭数も[[1960年代]]初頭まではサラブレッド系のそれを上回っていた。 しかし、アラブ系競走はサラブレッド系競走と比較してスピードが劣ること、競走においての賞金も安く抑えられていたこともあって、サラブレッドの生産頭数が増加していくのに伴い、アングロアラブに対する需要は薄れていった。 中央競馬においては、昭和20年代後半に[[抽せん馬]]のみ出走可能な様に変更された後は、一時期の[[小倉競馬場]]で行われていた3歳馬(旧)の自由購買馬による競走を除き、抽せん馬のみで競走が行われたために馬資源が乏しかった。それでも昭和30年代までは、アラブ系競走の全競走数における割合は大きく、競馬ファンの人気もあったが、どうしてもサラブレッドよりも格下と見られがちであったのは否めず、またサラブレッドの馬資源が揃ってくると、アラブ系競走に対する馬主の支持が次第に低下していった。 ファンからの支持も低下したアラブ系競走は、[[1984年]](昭和59年)までに大半のアラブ重賞が廃止され、競走自体もいわゆる中央場所ではほとんど行われなくなっていき、最終的には中央競馬馬主会がアラブ抽せん馬の引き受けの拒否を発表したことがきっかけとなり、[[1995年]](平成7年)[[12月]]に[[中京競馬場]]で行われた[[アラブ大賞典]](勝ち馬[[ムーンリットガール]])を最後に姿を消した。 その後、地方競馬においてもまず[[南関東公営競馬]]や[[岩手県競馬組合]]が追随し始め、アラブ系競走の廃止やレース数の削減が相次ぐようになると、生産地でも商業的に成り立たなくなり、最盛期([[1972年]])には約4000頭を数えたアラブ系の生産頭数は[[1997年]]に約2000頭、[[2004年]]に約100頭、[[2005年]]に78頭、[[2007年]]にはついに0頭になった(ただしここ数年はごく少数ではあるが生産頭数は出ており、[[2020年]]は2頭が生産されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jairs.jp/contents/archives/2021/7.html |title=2020年の生産頭数|website=[[ジャパン・スタッドブック・インターナショナル]] 「軽種馬登録ニュース」|accessdate=2021年12月28日}}</ref>)。 [[益田競馬場]]、[[兵庫県競馬組合|兵庫県競馬]]、[[福山競馬場]]はかつて全競走をアラブ系の競走で施行する競馬場であったが、益田は競馬場そのものが休止(事実上の廃止)、「アラブのメッカ」と言われた兵庫でさえ、[[1999年]](平成11年)に中央競馬との交流促進のためサラブレッドを導入後、アラブ系の在厩頭数が急減し[[2003年]](平成15年)にはアラブ系のみの番組編成が不可能となった。 最後までアラブ系限定の競走を続けた福山も、アングロアラブの生産頭数の激減で将来的なレース編成に支障をきたすのが明白であり、競馬場の活性化のため中央競馬や他地区との人馬交流を促進するという観点から、2005年(平成17年)[[10月]]に開かれた市議会の特別委員会で順次サラブレッドの導入をすることを決めた。2005年[[12月4日]]より他競馬場からの転入馬による[[サラブレッド]]系の競走が行われ、アラブ系のみでレースを開催する日本の競馬場はなくなった。[[2009年]](平成21年)[[7月30日]]現在で、金沢1頭、名古屋1頭、高知7頭、荒尾7頭、そして福山41頭が競走登録されているにとどまった<ref>{{Wayback |url=http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/keiba/newstopics/arab-special.html |title=アラブ特設ページ |date=20130725001051}}</ref>。 そして2009年[[8月]]には福山競馬場でもアラブ系の登録頭数が40頭を切ったことから、[[9月27日]]に行われた「開設60周年記念アラブ特別レジェンド賞」(優勝馬は[[ザラストアラビアン]])を最後にアラブ系限定競走が終了した。なお、アラブ系馬は今後もサラブレッドに交じって競走に出走することは可能である<!--ので、日本の競馬からアラブ系の競走馬が完全に消滅するのは今しばらく先になると思われる-->。[[2013年]](平成25年)[[3月23日]]付読売新聞では、競走馬登録を抹消していないアラブ馬は7頭だが、厩舎に入っていて出走可能な唯一の馬であった[[レッツゴーカップ]]が同日のレースを最後に引退し、アラブ系競走馬は事実上消滅したと報じられている<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20130326052359/http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20130323-OYT1T00785.htm|title=最後のアラブ競走馬、引退レースは最下位|date=2013-03-23|accessdate=2013-03-24|newspaper=読売新聞}}</ref>。 [[2017年]](平成29年)「牧場に縁ある血統を残したい」と青森県、[[北村牧場]]・[[北村守彦]]氏の愛情で[[キタミキ]](牝・父アア エトーレ 母アア キタヒラコウ(母の父[[アキヒロホマレ]])が誕生、[[岩手競馬]](盛岡・[[櫻田康二]]厩舎)に入厩。しかし能力不足でデビューできず引退した。 日本では[[シャギア・アラブ]](ハンガリーの土着馬にアラブ種を交配した馬)をアラブ100%として計算しているため、日本ではアングロアラブとされている馬でも日本以外ではアングロアラブとならない競走馬が存在する。血統表に「[[オーバーヤン五ノ七]]」、「初雪」などが含まれる馬がそれにあたる。 == テンプラ == アラブ血量を偽り、アングロアラブとして登録されたサラブレッド系種を'''テンプラ'''という。詳しくは[[テンプラ (馬)]]を参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[アラブ系競走一覧]] *[[ギドラン]] == 外部リンク == {{commons&cat|Anglo-Arabian|Anglo-Arabian}} {{keiba-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あんくろあらふ}} [[Category:アングロアラブ|*]] [[Category:馬の品種]] [[Category:競走馬|*あんくろあらふ]] [[Category:馬術]]
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パラジウム
パラジウム(英: palladium)は原子番号46の元素。元素記号は Pd。白金族元素の1つ。貴金属にも分類される。 常温、常圧で安定な結晶構造は、面心立方構造 (fcc)。銀白色の金属(遷移金属)で、比重は12.0、融点は1555 °C(実験条件等により若干値が異なることあり)。希少金属の1つ。 耐食性と柔らかさを持ち、合金の素材として利用。 パラジウムは白金族中で耐酸性が最も弱い。酸化力のある酸(硝酸など)には溶ける。酸化剤が存在すると塩酸にも溶ける。 名前はこの前年に発見された小惑星パラス (pallas) にちなんだもの。 自分の体積の935倍もの水素を吸収するため、水素吸蔵合金として利用される。加工のしやすさから電子部品の材料としても使われたが、供給シェアの6割をロシアに依存しており、価格が不安定なことからニッケルなどの金属への代替が進められている。 特筆すべきは、パラジウムは日本の歯科治療(インレー)の合金として利用されている。いわゆる「銀歯」とは、金銀パラジウム合金のことで、銀歯には20%以上のパラジウムを含んでいる。 貴金属としてジュエリーにも利用されている。 最も多いのは、プラチナ950や900の、またホワイトゴールドの割り金としての利用である。プラチナの場合は硬さの調節と色調のため、ホワイトゴールドは金色の白色化のために利用される。近年、価格の高いプラチナや、ホワイトゴールドに替わって、パラジウムをメインに使用した合金のジュエリーが生産され始めている。パラジウムは鋳造時にガスを大量に吸い込んで鬆(す)が出やすく、大気中でのろう付も枯れやすく難しいため、最近までジュエリーに加工されなかったが、技術の進歩で開発が進んで新しいジャンルとして注目されている。 ジュエリー用パラジウム合金は、ISO9202、JIS-H6309が、Pd950と、Pd500を品位区分として定めている。また、CIBJO(国際貴金属宝飾品連盟)は、前記2種に、Pd999を加えている。Pd950は、ネックレスやリングなどの一般的なジュエリーに用いられている。Pd500は、銀との合金として、ソフトホワイトの名称で変色しない銀合金として用いられていた時代があったが、現在は銀合金というよりパラジウム合金として認知されている。 造幣局の貴金属品位証明制度は、金、銀、プラチナ合金の品位検定を行っているが、パラジウム合金は品位検定を行っていない。 工業的には自動車の排気ガス浄化用の触媒(三元触媒)やエチレンからのアセトアルデヒドの合成(ワッカー酸化)に用いる触媒など、様々な反応の触媒として使われている。有機合成分野においては接触還元の触媒として、活性炭に担持させたパラジウム炭素が常用される。また主にホスフィン錯体が、クロスカップリング反応やヘック反応などC-C結合生成反応の触媒として用いられる。実験室から工業レベルまで応用範囲は広く、これらパラジウム触媒を用いる反応の開発に対し、リチャード・ヘック・根岸英一・鈴木章らに2010年のノーベル化学賞が贈られている。 1803年にイギリスの化学者、物理学者ウイリアム・ウォラストン (W. H. Wollaston) によって発見。 2007年においてパラジウムの世界の産出量は、ロシアが44%、南アフリカ共和国が40%、カナダが6%、アメリカ合衆国が5%を占める。 パラジウムは、プラチナやニッケルなどの副産物として生産されるため、生産量は主産物の産出動向に左右される。2010年代、南アフリカのプラチナ鉱山で閉鎖が相次ぐとパラジウムの生産量が減少して価格が高騰。2018年には過去最高を記録した。 また、2022年にはロシアのウクライナ侵攻に対する、ロシアへの経済制裁により、歯科治療や自動車部品等に使われるパラジウムが不足し価格が高騰すると懸念されている。
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パラジウムは原子番号46の元素。元素記号は Pd。白金族元素の1つ。貴金属にも分類される。
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Wollaston) によって発見<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 218|publisher =[[講談社]]|isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。 == 産出 == [[2007年]]においてパラジウムの世界の産出量は、[[ロシア]]が44%、[[南アフリカ共和国]]が40%、[[カナダ]]が6%、[[アメリカ合衆国]]が5%を占める。 パラジウムは、[[プラチナ]]や[[ニッケル]]などの副産物として生産されるため、生産量は主産物の産出動向に左右される。[[2010年代]]、南アフリカのプラチナ[[鉱山]]で閉鎖が相次ぐとパラジウムの生産量が減少して価格が高騰。[[2018年]]には過去最高を記録した<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-11-19|url= https://jp.reuters.com/article/palladium-price-gold-idJPKCN1NO0J3|title=アングル:急騰するパラジウム、16年ぶりの「金と等価」に接近 |publisher=ロイター |accessdate=2018-11-19}}</ref>。 また、[[2022年]]には[[ロシアのウクライナ侵攻]]に対する、ロシアへの[[経済制裁]]により、[[歯科]][[治療]]や[[自動車]]部品等に使われるパラジウムが不足し価格が高騰すると懸念されている。<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアのウクライナ侵攻 パラジウム高騰 歯科治療「銀歯」に影響 {{!}} NHK |url=https://web.archive.org/web/20220303091233/https://www.nhk.or.jp/shutoken/newsup/20220303c.html |website=NHK首都圏ナビ |access-date=2022-06-04 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref> == 同位体 == {{Main|パラジウムの同位体}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[パラジウム炭素]] * [[水素化]] * [[鈴木・宮浦カップリング]] == 外部リンク == * [https://www.biso-japan.co.jp/20201002154612 パラジウム - 株式会社美装ジャパン] * [https://mric.jogmec.go.jp/wp-content/old_uploads/reports/report/2008-03/Pd.pdf 23 パラジウム (Pd) - JOGMEC金属資源情報] * [https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2014-07-14-0 多孔性金属錯体がパラジウムの性質を変えた パラジウムの水素吸蔵量・吸蔵速度が2倍に向上 - 京都大学(2014年7月14日)] * [https://www.iis.u-tokyo.ac.jp/ja/news/2937/ 金で加速、パラジウムの水素吸収 ~ じゃまもので高性能化 ~東京大学生産技術研究所(2018年7月10日)] {{Commons|Palladium}} {{元素周期表}} {{パラジウムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はらしうむ}} [[Category:パラジウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:遷移金属]] [[Category:第10族元素]] [[Category:第5周期元素]] [[Category:貴金属]]
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オンス
オンス(ounce, 記号:oz)は、ヤード・ポンド法の質量の単位である。また、オンスは液体の体積(液量オンス, fl oz)や力(重量オンス, ozf)の単位としても使用される。日本では、他のヤードポンド法の単位と同様、当分の間かつ極めて限定された範囲でのみ法定単位として使用できる。 日本語でいう「オンス」は、英語 ounce (アウンス) でなく、オランダ語 ons が語源。 ヤード・ポンド法の質量の単位には3種類の系統(常衡、トロイ衡、薬衡)があり、それぞれに「オンス」という名称の単位がある。 オンス (ounce) という言葉の語源は、ラテン語で「12分の1」を意味する uncia であり、長さの単位であるインチ(フィートの12分の1)と同一語源である。 長さのインチのもとは uncia pes (pes は足、英語のフート)であり、質量のオンスのもとは uncia libra (libraが英語のポンドにあたる)である。トロイポンドの系統では、ポンドの12分の1をトロイオンスとするので、トロイ系の方が語源に忠実だった。 常衡 (avoirdupois system) におけるオンスは常用オンス(avoirdupois ounce, 記号:oz av)と呼ばれる。通常、単に「オンス」と言った場合には常用オンスを指すことが多い。 16常用オンスが1常用ポンドとなる。1常用ポンドは1959年7月1日以降は、正確に453.592 37グラムであるので、1常用オンスは、正確に28.349 523 125グラムである。1常用ポンドが7000グレーンであるので、1常用オンスは437.5グレーンである。常用オンスの8分の1が常用ドラムである。日本の計量法体系でも1/16ポンドと定義しているので、換算値は同じく、正確に28.349 523 125グラムである。ただし、名称は単に「オンス」としている。漢字では「啢」と表記した。 トロイ衡 (Troy System of Units) におけるオンスはトロイオンス(troy ounce, 記号: oz tr, toz)という。貴金属や宝石の計量に用いられる。 1トロイオンスは480グレーンであり、12トロイオンスが1トロイポンドとなる。1トロイオンスは、英米ともに、正確に31.103 4768グラムであり、1トロイポンドは、英米ともに、正確に373.241 7216グラムである。 日本ではトロイオンスは、常用オンスとは扱いが異なり、特殊の計量である「金貨の質量の計量」にのみ限定して当分の間使用することができる。 また、その定義値も国際的なものとは微妙に異なっている。すなわち、日本の計量法体系では1トロイオンス = 正確に31.1035グラムとしている(詳細は、トロイオンスの項目を参照)。 薬衡 (apothecaries' system) におけるオンスは薬用オンス(apothecaries' ounce, 記号:oz ap, ℥ (Unicode 0x2125))という。 薬衡は、その名の通り薬品の計量に用いられる。成り立ちは異なるが、薬衡は今日ではトロイ衡と同じ値となっている。 薬用オンスの8分の1が薬用ドラムである。 オランダでは、1キログラムに対してpond(ポンド)、100グラムに対してons(オンス)という言葉を充てることが検討されたことがあった。ポンドは他の国で採用された500グラムに対する名称(メートルポンド)が採用されたが、100グラムに対する「オンス」は非公式ながら今も残っている。 インドネシアでも100グラムに対して「オンス」を使用することがある。 体積の単位として使用されるオンスは液量オンス (fluid ounce, fl oz) という。イギリスでは28.4130625 mL、アメリカでは29.5735295625 mLである。 質量の単位であるキログラムに対する重量(力)の単位である重量キログラム(キログラム重)が単に「キログラム」とも呼ばれるのと同様、質量の単位のオンスに対する重量オンス(ounce-force, 記号:ozf)も単に「オンス」と呼ばれることがある。1重量オンスは、標準重力加速度下において質量1常用オンスの物体に働く重力と定義される。1重量オンスは約278.0ミリニュートンである。
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オンスは、ヤード・ポンド法の質量の単位である。また、オンスは液体の体積や力の単位としても使用される。日本では、他のヤードポンド法の単位と同様、当分の間かつ極めて限定された範囲でのみ法定単位として使用できる。 日本語でいう「オンス」は、英語 ounce (アウンス) でなく、オランダ語 ons が語源。
{{Otheruses|おもに質量単位|体積の単位|液量オンス|その他|オンス (曖昧さ回避)}} '''オンス'''(ounce, 記号:oz)は、[[ヤード・ポンド法]]の[[質量]]の[[物理単位|単位]]である。また、オンスは[[液体]]の[[体積]]([[液量オンス]], fl oz)や[[力 (物理学)|力]](重量オンス, ozf)の単位としても使用される。日本では、他のヤードポンド法の単位と同様、当分の間かつ極めて限定された範囲でのみ法定単位として使用できる。 [[日本語]]でいう「オンス」は、[[英語]] ''ounce'' (アウンス) でなく、[[オランダ語]] ''ons'' が語源。 == 質量の単位 == {{単位 |名称=常用オンス (avoirdupois ounce) |記号=oz av, oz |単位系=[[ヤード・ポンド法]] |物理量=[[質量]] |定義={{sfrac|1|16}}[[常用ポンド]] |SI=28.349 523 125 g(正確に) |画像= }} {{単位 |名称=トロイオンス (troy ounce) |記号=oz tr, toz |単位系=[[ヤード・ポンド法]] |物理量=[[質量]] |定義={{sfrac|1|12}}[[トロイポンド]] |SI=31.103 4768 g(正確に)、日本の計量法の定義は、31.1035 g(正確に) |画像= }} ヤード・ポンド法の質量の単位には3種類の系統(常衡、トロイ衡、薬衡)があり、それぞれに「オンス」という名称の単位がある。 == 由来 == オンス (ounce) という言葉の語源は、[[ラテン語]]で「12分の1」を意味する ''uncia'' であり、[[長さ]]の単位である[[インチ]](フィートの12分の1)と同一語源である。 長さのインチのもとは uncia pes (pes は足、英語のフート)であり、質量のオンスのもとは uncia libra (libraが英語の[[ポンド (質量)|ポンド]]にあたる)である。[[トロイ衡#トロイポンド|トロイポンド]]の系統では、ポンドの12分の1をトロイオンスとするので、トロイ系の方が語源に忠実だった<ref>[[高田誠二]]、「単位の進化 原始単位から原子単位へ」pp.27-28、ISBN 978-4-06-159831-7、[[講談社学術文庫]]1831、講談社、2007-08-10発行(原本は[[講談社ブルーバックス]]、1970年)</ref>。 == 常用オンス == [[常衡]] ([[:en:avoirdupois|avoirdupois system]]) におけるオンスは'''常用オンス'''(avoirdupois ounce, 記号:oz av)と呼ばれる。通常、単に「オンス」と言った場合には常用オンスを指すことが多い。 16常用オンスが1[[ポンド (質量)|常用ポンド]]となる。1常用ポンドは1959年7月1日以降は、正確に453.592 37[[グラム]]であるので、1常用オンスは、'''正確に28.349 523 125[[グラム]]'''である。1常用ポンドが7000[[グレーン]]であるので、1常用オンスは437.5グレーンである。常用オンスの8分の1が[[ドラム (質量)|常用ドラム]]である。日本の[[計量法]]体系でも{{sfrac|1|16}}ポンドと定義しているので、換算値は同じく、正確に28.349 523 125[[グラム]]である。ただし、名称は単に「オンス」としている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#83 計量単位令 別表第7] 項番2 </ref>。漢字では「'''啢'''」と表記した。 == トロイオンス == [[トロイ衡]] ([[:en:Troy Weight|Troy System of Units]]) におけるオンスは'''[[トロイオンス]]'''(troy ounce, 記号: oz tr, toz)という。[[貴金属]]や[[宝石]]の[[計量]]に用いられる。 1トロイオンスは480[[グレーン]]であり、12トロイオンスが1[[トロイポンド]]となる。1トロイオンスは、英米ともに、'''正確に31.103 4768[[グラム]]'''であり、1[[トロイポンド]]は、英米ともに、正確に373.241 7216[[グラム]]である<ref>[http://www.legislation.gov.uk/uksi/1995/1804/schedule/made The Units of Measurement Regulations 1995 No. 1804 SCHEDULE]</ref>。 === 日本におけるトロイオンスとその位置づけ === 日本ではトロイオンスは、常用オンスとは扱いが異なり、特殊の計量である「金貨の質量の計量」にのみ限定して当分の間使用することができる<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#82 計量単位令 別表第6] 項番5 </ref>。 また、その定義値も国際的なものとは微妙に異なっている。すなわち、日本の[[計量法]]体系では1トロイオンス = 正確に31.1035[[グラム]]としている(詳細は、[[トロイオンス]]の項目を参照)。 == 薬用オンス == [[薬衡]] ([[:en:apothecaries' system of mass|apothecaries' system]]) におけるオンスは'''薬用オンス'''(apothecaries' ounce, 記号:oz ap, &#8485; ([[Unicode]] 0x2125))という。 薬衡は、その名の通り薬品の計量に用いられる。成り立ちは異なるが、薬衡は今日ではトロイ衡と同じ値となっている。 薬用オンスの8分の1が薬用ドラムである。 == オランダのオンス == [[オランダ]]では、1キログラムに対して''pond''(ポンド)、100グラムに対して''ons''(オンス)という言葉を充てることが検討されたことがあった。ポンドは他の国で採用された500グラムに対する名称(メートルポンド)が採用されたが、100グラムに対する「オンス」は非公式ながら今も残っている。 == インドネシアのオンス == [[インドネシア]]でも100グラムに対して「オンス」を使用することがある。<ref>http://kbbi.web.id/ons</ref> == 体積の単位 == 体積の単位として使用されるオンスは[[液量オンス]] ([[:en:fluid ounce|fluid ounce]], fl oz) という。イギリスでは{{val|28.4130625}} mL、アメリカでは{{val|29.5735295625}} mLである。 == 力の単位 == 質量の単位である[[キログラム]]に対する重量(力)の単位である[[重量キログラム]](キログラム重)が単に「キログラム」とも呼ばれるのと同様、質量の単位のオンスに対する重量オンス(ounce-force, 記号:ozf)も単に「オンス」と呼ばれることがある。1重量オンスは、[[標準重力加速度]]下において質量1常用オンスの物体に働く重力と定義される。1重量オンスは約278.0[[ニュートン (単位)|ミリニュートン]]である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[単位の換算一覧]] ==外部リンク== * [https://www.tan-i-kansan.com/category/{{urlencode:オンスの重さ|単位換算表}}/ オンス(重量)単位換算表] {{質量の単位}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんす}} [[Category:ヤード・ポンド法]] [[Category:質量の単位]]
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冷蔵庫
冷蔵庫(れいぞうこ、英語: Refrigerator)とは、食料品等の物品を低温で保管することを目的とした製品である。現代では電気エネルギーを冷却に用いる電気冷蔵庫を指すことが多い。 電気冷蔵庫は食料品・飲料品等の物品を低温で保管することを目的とした電気設備施設あるいは電気製品である。氷を使用するものは「保冷庫」「冷蔵箱」などと呼ぶこともある。 一般的には、食料品・飲料品を凍らせず短期保存する目的で、内部温度を0°C以上、4-10°C程度に保って使用される。凍結させ保存期間を伸ばす、または冷凍食品を保存する、氷を作る等の目的で-18°C程度を保つものは冷凍庫(れいとうこ)と呼び、両方の機能が一つになった製品を冷凍冷蔵庫と呼ぶこともある。 中型以上の家庭用冷蔵庫は冷凍室という形で冷凍庫の機能も持つのが一般的である。 最初は家庭向けの電化製品としての冷蔵庫は、「白物家電」と呼ばれる分野の家電製品である。日本では「電気冷蔵庫」として家庭用品品質表示法の適用対象となっており、電気機械器具品質表示規程に定めがある。 かつて日本においては「三種の神器」(テレビ(白黒テレビ)・洗濯機・冷蔵庫)と称された家電製品の一つでもあり、生活に欠かせないものとして生活家電(ジャンル区分は白物家電と概ね同一)とも呼ばれる。 電気冷蔵庫は、家庭においては、常温では早期に腐敗したり融けたりしてしまうような食材など、低温(→温度)に保つことで品質や性質が維持される物品を扱うために、広く使われている。食品では冷蔵することで幾らかは雑菌の活動や化学変化が抑制されるなど、鮮度が保たれる期間が長くなる。冷凍では消費するために適切に解凍する必要はあるが、更に品質保持期間が延長可能である。 冷蔵庫は形状により大きく縦型と横型に分類される。家庭用の電気冷蔵庫の多くは縦長の縦型冷蔵庫である。業務用では横長冷蔵庫も用いられる。 構造としては、基本的に内容物を収める箱にヒートポンプの一種である冷凍機を取り付け、これによって庫内の熱を外部に排出し、内部と外部を隔てる壁には断熱材を用いて熱の移動を遮断している。物品を出し入れするために扉も設けられる。また、内容物を見えやすくするため、照明が内部に設けられている様式も一般的である。 冷蔵庫は庫内を冷却する結果、庫内の空気中の水分が冷却部分に凝結し、霜となる。この霜を定期的に溶かして庫外へ排出するため庫内の湿度が低下し乾燥する。刺身や精肉等を保管するときは乾燥しないようにラップフィルムが用いられる。乾燥した状態が望ましくない野菜類を入れる野菜室は湿度の低下を抑えるため、庫外から間接的に冷却する構造となっている。なお、大きな厨房など業務用では食材の乾燥を防ぐために、通常の冷蔵庫ではなく恒温高湿庫を低温状態に設定して用いることもある。 室温が冬季に氷点下となるような寒い地方では、冷やすためだけでなく、凍らせない目的でも使われることもある。これは熱交換器の原理上発熱があるため、目標温度より室温が低い場合は保温ができるためである。 家庭向けの製品は、冷蔵庫と冷凍庫(およびこれに関連する機能)がオールインワンの形で一つにまとめられているタイプが主流だが、後述するような専門的な分野では、庫内を設定された一定温度(その範囲は様々)に保つ単機能の製品や、逆に商品を陳列するためのショーケースの機能など、目的に沿った追加機能が設けられている場合もある。 家庭用電気冷蔵庫の筐体の色については白色が多く、「白物家電」と呼ばれる所以でもある。2000年代以降、インテリア性の追求などから、白色に限らず、多種多様な色の冷蔵庫が発売されるようになってきているほか、冷蔵庫に塗装を施す業者もある。 身近な例では、小売業などの冷蔵ショーケースや、バックヤードには部屋を丸ごと利用する巨大な冷蔵庫ないし冷凍庫を備えている場合もある。先進国を中心に多くの発展途上国でも、小売段階やその前の流通、更には生鮮食品や加工食品などの生産設備に付帯する規模も様々な冷蔵庫・冷凍庫が利用されている。 魚介類や牛乳のような生鮮食品など冷却が必要な製品を運ぶための保冷車では、冷蔵庫と同様の機構を備え、荷台内部を冷却できる構造となっている。また、宅配便業者における、「クール便」「チルド便」といった宅配サービスでは、内部に冷蔵庫や冷凍庫を備えた車両を利用している。乗用車の直流12V電源で使える、クーラーボックス型の簡易冷蔵庫も販売されている。 業務用としてはプレハブ冷蔵庫など、建物自体が冷蔵庫となる屋外設置型の大型の製品もある。また、研究機関などで施設の一室に冷蔵庫の機能をもたせ、「室」(部屋)ではなく冷蔵庫と呼称する場合もある。リンゴのように低温による長期間保存が望ましい農産物の貯蔵庫では、倉庫自体に冷蔵庫の機能を付加する場合もある。 キャンピングカーで使用する冷蔵庫の中には、AC/DCの電気以外に「ガス」を使用して冷却する製品も多い。 気化により物体の温度が下がる現象を利用した2通りの冷却方式が長く使用されてきた。近年はこれに加え、気化ではなく半導体によるペルティエ効果を利用する方式も実用化されて小型用途で使用されている。 圧縮を利用し、閉じたパイプの中を冷媒が循環する。ここから圧縮型と呼ばれる。家庭用では圧縮をするために電気作動のコンプレッサを使用するのが一般的である。そのために冷蔵庫といえば電気冷蔵庫が多いが、ガス圧を利用して圧縮する型もある。また、エキスパンションバルブの代わりにエジェクタを使い、効率を上げた冷蔵庫もある (エジェクタサイクル)。 冷媒にはフロンが使用されていたが、フロン禁止以降はイソブタンなどに移行している。ただし、イソブタンはまったく新規の冷媒ではなくフロン以前に使用されていたこともある。冷媒用途としてはフロンが完璧なものであったが、環境への影響を考慮して使用が禁止されている。近年では効率に優れる無水アンモニア (Anhydrous Ammonia - NH3) が再び注目されるようになったが、家庭用には採用されていない。無水アンモニアは毒性が強く腐食性も高いため、漏洩に備えたセンサーや警報機などを装備できる冷凍倉庫などへの利用にとどまっている。 冷媒の循環のために、液体を使用する。この液体が冷媒を吸収(吸着)して循環することにより冷媒を移動させている。この液体を吸収液とよび、このため吸収型と呼ばれる。熱することにより液体を循環させる。このために熱源が用いられるが、ジェネレーターにガスバーナーを用いたガス冷蔵庫、電気ヒーターを用いた電気冷蔵庫がある。この吸収型では、ガス/電気交流100V切替方式のような2ウェイ型や、ガス/電気交流100V/直流12V切替方式のような3ウェイ型なども一般的である。コンプレッサーを必要とする圧縮型に比べ、静穏性に優れており、また動力源が電気でなくても良いため医療(病院向けなど)、ホテル、レジャーに使用されることも多い。 閉じたパイプの中を冷媒が循環するのは同じであるが、冷媒の循環のために冷媒とは別の液体を使用する。「アンモニア(冷媒)と水(吸収液)」の組み合わせや「水(冷媒)と臭化リチウム(吸収液)」などがある。冷却器または蒸発器(エバポレーター)・吸収器(アブソーバー)・再生器または発生器(ジェネレーター)・凝縮器(コンデンサ)。蒸発器(エバポレーター)によって気化される。なお、吸収型冷蔵庫=ガス冷蔵庫ではない。 吸収器でアンモニアを水が吸収しているアンモニア水溶液がつくられる。ジェネレーター(ボイラー)ではアンモニア水溶液が加熱される。水よりも沸点が低いため、アンモニアは溶液からガス化し泡状となる。分離器にてアンモニアガスが水と分離される。水は吸収器 (absorber) に戻される。放熱器では気体となったアンモニアが、熱を放出して液体となる。蒸発器で濃度が濃くなったアンモニア液は、減圧され、気化する。冷却が生じる。吸収器では水が別の経路を通って戻ってきたアンモニアを吸収し、アンモニア水溶液となる。 スウェーデンに本社を置くドメティック(英語版)社(エレクトロラックス社から2001年に分離独立)は、この冷却方法に特化した冷蔵庫を製造・販売している代表的なメーカーである。ドメティック社は吸収式やアブソープションシステムと表現している。 かつて気化圧縮型で冷媒として使用されていたアンモニアは無水アンモニアだが、気化吸収型で冷媒として使用しているアンモニアはアンモニア水溶液 (Aqua Ammonia)である。 スターリングエンジンを外部の動力で回転させることで温度差を生じさせる。地球観測衛星ふよう1号の光学センサの冷却に使用された。他に赤外線撮像素子や超伝導磁石の冷却にも使用される。 冷媒を用いない。ペルチェ効果を利用し温度を下げる。 ペルチェ冷却システムは、圧縮機(コンプレッサ)を使用しないため、作動音がほとんどない。そのため、吸収型と同様の用途に使用される。圧縮型や吸収型に比べると非常に安価だが、冷却効率は良くない(エネルギー効率は数パーセントにとどまる)ことから、小型の自動車用冷蔵庫や、ペットボトルが数本入る程度の超小型冷蔵庫などに利用されている。 可逆的化学反応を利用して熱の出し入れを行う。 水素吸蔵合金に水素を吸収、放出する時に発熱、吸熱する現象を利用する。 現在、一般家庭用冷蔵庫市場は主に以下の2つに大別される。 冷蔵庫の庫内にコンプレッサー(冷却管)を張り巡らせ、管からの冷気で直接冷却する方式。庫内温度差を利用して対流を期待する。50〜70リットル(L)前後の小型冷蔵庫などに用いられることが多い。欠点と利点は以下のとおりである。 冷却機にファンを取り付け、強制的に庫内に行き渡らせる方式。一般家庭用大型冷蔵庫では主流となっている。 21世紀にかけて、冷蔵庫の生産や販売は日本以外のアジア諸国に広がった。イギリスの調査会社ユーロモニターインターナショナルの推計によると、2018年に世界で売れた電気冷蔵庫は約1億6915万台。中華人民共和国のハイアールが世界シェア2割以上を占める最大手で、ワールプール・コーポレーション(米国)、LG電子(韓国)、エレクトロラックス、サムスン電子(韓国)が続く。 家庭用冷蔵庫は各国の暮らしぶりでその仕様は異なる。たとえば、イギリスでは週1回しか買い物をしない家庭が多く、イタリアでは毎日買い物をする家庭が多い。そのため、イギリスでは冷凍室が冷蔵室よりも大きく作られる一方、イタリアでは冷蔵室のほうが大きい仕様のものが通常仕様となっている。 日本では、1990年代以降は2ドアの大型冷凍冷蔵庫は見られなくなった。多ドアでそれぞれのサイズが細かく仕切られたものが人気を得、日本では多機能で多ドアが中心となった。 上述の冷却の原理の項にあるように電気冷蔵庫とガス冷蔵庫はそれぞれ気化圧縮型と気化吸収型があるが、日本ではほとんどの場合、電気冷蔵庫は気化圧縮型、ガス冷蔵庫は気化吸収型だった。以下の記述で冷蔵庫の性能に関する記述は、電気・ガスの相違によるものではなく冷却原理の相違によるものである。 人工的に氷がつくられるようになると、「冷蔵箱」あるいは「氷式冷蔵庫」などと呼ばれる家庭用冷蔵庫が現れる。木製で、内側にはブリキを張り、外郭との間に木炭やフェルトを詰め込んで断熱材とし、一般には2段式あるいは3段式で上段に氷、下段に食料品を入れ、上段の氷の冷気を用いて下段の食料品を冷やす仕組みになっている。 現在のような家庭用電気冷蔵庫(気化圧縮型)は大正7年(1918年)、米国で開発・製品化され、日本には三井物産がこれを輸入して、初めて入ってくる。 ガス冷蔵庫(気化吸収型)は大正11年(1922年)にスウェーデンで開発・製品化され、1928年(昭和3年)から日本に輸入され、存在していた。これは冷媒となるアンモニア溶液をガスバーナーで熱し、気化熱の原理を利用し、アンモニアを蒸発させて冷却を行なっていた。昭和30年代に入るとTG55型などの国産ガス冷蔵庫なども販売開始されていた。 国産家庭用電気冷蔵庫は、1930年に東芝の前身の一つ芝浦製作所が米国GE製品をコピーした物で始まった。しかし、冷却能力こそ氷式冷蔵庫やガス冷蔵庫より優れたものの、2者より高価だったことや、音が大きい、構造が複雑なために故障しやすいなどの欠点があったため普及は進まず、家庭用冷蔵庫はしばらく氷・電気・ガスの3方式が併存した。 1950年代後半(昭和30年代)からの高度成長時代に冷蔵庫は爆発的に普及し、電気冷蔵庫は白黒テレビ受像機や洗濯機と共に三種の神器の一つと呼ばれた。冷凍機能を持たない氷式はこの頃に姿を消し、食材が乾燥しない利点を活かしてごく一部の飲食店で使用されるほか、レトロ趣味的な需要があるのみとなった。 1970年代以降は、自動霜取り機構付きの2ドア式冷凍冷蔵庫が一般化し、冷凍食品の普及を促してライフスタイルの変化に対応した。一方、冷却速度の遅いガス冷蔵庫は家庭内での食品の冷凍保存の点で電気冷蔵庫に劣り、また、冷凍食品はマイナス18°C(0°F)以下の温度で保存することを前提としていたため、マイナス10°C前後が冷却温度の限界だった当時のガス冷蔵庫は冷凍食品の普及に対応できず、家庭用としてはこのころに姿を消し、静穏性が求められるホテルや病院、あるいはカセットガスボンベを利用したレジャー用に特化していった。 1980年代からはマルチドア化して野菜室、製氷機、チルド室(氷温室)などを備えたり、脱臭や急速冷凍などの付加機能が多様化し、各社がアイデアを競った。特にシャープは1990年代より左右どちらからでも開くことができるドア(後に「どっちもドア」という名称が付く)を採用している。またノンフロン化の要請からイソブタンや代替フロンが用いられるようになった。 2000年代に入ると断熱材の進歩で壁厚を薄くした、従来よりも小型・大容量なタイプが登場した。最近は400L以上の大型機でフレンチドアと呼ばれる観音開きタイプが主流になったが、一方で従来の片開きドアにも根強い人気があり、同等の容量・機能で片開き・両開きの両機種が併売される例も少なくない。近年は冷凍食品のストック需要から大型容量が比較的売れ筋傾向になっている。 また、1990年代半ばより「現代の冷蔵庫はVVVFインバータや機構の改良などによって省エネルギー化が進んだため、10年前に比べて消費電力が数分の一になった」といった宣伝を、各メーカーが盛んに行い始めた。しかし2005年時点のJIS規格では、結露防止や野菜室の保温に用いられる保証ヒータや、自動製氷機など従来の冷蔵庫にはなかった部品・機能を通電させない状態で計測しても構わないことになっていたため、実際に家庭環境で使用した場合の消費電力は以前と大差ないにもかかわらず、カタログでは1/2〜1/4程度との誇大表示が横行する状況だった。2005年6月の『しんぶん赤旗』報道を契機に本問題が認知されるようになると、各メーカーが一斉にカタログスペックと実際の電力消費とが異なる旨の注意書きを表示したり、各自治体が「省エネラベル」表示を止めさせたりするなどの変化があった。この混乱を受け、同年9月から資源エネルギー庁が新基準の測定法を検討開始、2006年5月から実際の使用状況に近づけた測定法で計測するよう改めた。 20世紀に広く普及した冷蔵庫では、可燃性や安全性(漏出した際に直接的な有毒性が低いほうが扱いやすい)などの事情で冷媒や断熱材の発泡にフロンを利用するなどした製品が主流となっていったが、このフロンが環境中に漏出した際に、オゾン破壊係数が高いなど深刻な環境破壊に繋がるとして問題視され、それら環境負荷の高い物質の処分後の適正な取り扱いが求められるようになっていった。この流れの中で、日本では2001年より家電リサイクル法の対象となり、回収され資源としてリサイクルすることを目指したテレビ受像機、エア・コンディショナー、洗濯機と同様に、廃棄する際には適切な処理が義務付けられ、粗大ゴミとして処分できなくなった。 冷凍室の性能は、JISの規定によりツースター、スリースター、フォースターといった記号(アスタリスク)で表示される。大半は最高クラスのフォースターで、ツースターは切替室に多く、スリースターは1970 - 1980年代製造の冷凍庫に多い。それぞれの規定は以下の通り。 冷蔵庫は食品腐敗の遅延を目的とするが、野菜室やドアポケットは、野菜くずなどが元で細菌が繁殖し、食中毒の原因となる場合がある。そのため汚れていなくても、月1~2回ほどのこまめな清掃を行うことが望ましい。清掃の際には、水拭きを行った後に消毒用エタノールを使用し除菌することが望ましい。水拭きのみだと、水分を与えることでかえって細菌の繁殖を手助けしてしまう場合があるためである。 また、野菜くずやシラスといった細かな食品などが庫内に蓄積すると不衛生なばかりではなく、やがてそれらが蓄積していくと最悪の場合、エバポレーター下部に位置するドレンを塞いでしまうことがある。そのことにより、霜取(しもとり)動作に入った場合に、エバポレーター上の露の行き場がなくなり、庫内・庫外に大量の水漏れが発生させてしまう場合がある。特に、本体の設置が少しでも後方に傾けて設置している場合は、漏れた水は本体後部で発生することになり、水漏れになかなか気付くことができないため、床面が腐りきってから初めて気がつくケースもある。 現在の製品でも、主に単身者向けやホテルの客室用等に販売される小型の冷蔵庫(200L以下クラス)では、サイズの制約等の理由で冷凍室の自動霜取り機能を持たないものが少なくない。そのような機種では定期的に手動での霜取りを行わないと冷却性能や収容能力の低下につながる。 庫内には生ものなどの臭気が滞留する場合もあり、専用の消臭剤が用いられることもある。 冷やすことによって著しく食材の保存が可能になる冷蔵庫であるが、食材の中にはかえって常温保存の方が適しているものもある。ただし、一旦切り口をつけたものや調理したものに関してはその限りではない。 日本国内の主な冷蔵庫メーカーは以下のとおり。 業務用は以下の5社のみが生産している。
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"text": "スウェーデンに本社を置くドメティック(英語版)社(エレクトロラックス社から2001年に分離独立)は、この冷却方法に特化した冷蔵庫を製造・販売している代表的なメーカーである。ドメティック社は吸収式やアブソープションシステムと表現している。", "title": "冷却の原理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "かつて気化圧縮型で冷媒として使用されていたアンモニアは無水アンモニアだが、気化吸収型で冷媒として使用しているアンモニアはアンモニア水溶液 (Aqua Ammonia)である。", "title": "冷却の原理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "スターリングエンジンを外部の動力で回転させることで温度差を生じさせる。地球観測衛星ふよう1号の光学センサの冷却に使用された。他に赤外線撮像素子や超伝導磁石の冷却にも使用される。", "title": "冷却の原理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "冷媒を用いない。ペルチェ効果を利用し温度を下げる。", "title": "冷却の原理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ペルチェ冷却システムは、圧縮機(コンプレッサ)を使用しないため、作動音がほとんどない。そのため、吸収型と同様の用途に使用される。圧縮型や吸収型に比べると非常に安価だが、冷却効率は良くない(エネルギー効率は数パーセントにとどまる)ことから、小型の自動車用冷蔵庫や、ペットボトルが数本入る程度の超小型冷蔵庫などに利用されている。", "title": "冷却の原理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "可逆的化学反応を利用して熱の出し入れを行う。", "title": "冷却の原理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "水素吸蔵合金に水素を吸収、放出する時に発熱、吸熱する現象を利用する。", "title": "冷却の原理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "現在、一般家庭用冷蔵庫市場は主に以下の2つに大別される。", "title": "冷却方式(主に一般家庭用)" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "冷蔵庫の庫内にコンプレッサー(冷却管)を張り巡らせ、管からの冷気で直接冷却する方式。庫内温度差を利用して対流を期待する。50〜70リットル(L)前後の小型冷蔵庫などに用いられることが多い。欠点と利点は以下のとおりである。", "title": "冷却方式(主に一般家庭用)" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "冷却機にファンを取り付け、強制的に庫内に行き渡らせる方式。一般家庭用大型冷蔵庫では主流となっている。", "title": "冷却方式(主に一般家庭用)" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "21世紀にかけて、冷蔵庫の生産や販売は日本以外のアジア諸国に広がった。イギリスの調査会社ユーロモニターインターナショナルの推計によると、2018年に世界で売れた電気冷蔵庫は約1億6915万台。中華人民共和国のハイアールが世界シェア2割以上を占める最大手で、ワールプール・コーポレーション(米国)、LG電子(韓国)、エレクトロラックス、サムスン電子(韓国)が続く。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "家庭用冷蔵庫は各国の暮らしぶりでその仕様は異なる。たとえば、イギリスでは週1回しか買い物をしない家庭が多く、イタリアでは毎日買い物をする家庭が多い。そのため、イギリスでは冷凍室が冷蔵室よりも大きく作られる一方、イタリアでは冷蔵室のほうが大きい仕様のものが通常仕様となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本では、1990年代以降は2ドアの大型冷凍冷蔵庫は見られなくなった。多ドアでそれぞれのサイズが細かく仕切られたものが人気を得、日本では多機能で多ドアが中心となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "上述の冷却の原理の項にあるように電気冷蔵庫とガス冷蔵庫はそれぞれ気化圧縮型と気化吸収型があるが、日本ではほとんどの場合、電気冷蔵庫は気化圧縮型、ガス冷蔵庫は気化吸収型だった。以下の記述で冷蔵庫の性能に関する記述は、電気・ガスの相違によるものではなく冷却原理の相違によるものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "人工的に氷がつくられるようになると、「冷蔵箱」あるいは「氷式冷蔵庫」などと呼ばれる家庭用冷蔵庫が現れる。木製で、内側にはブリキを張り、外郭との間に木炭やフェルトを詰め込んで断熱材とし、一般には2段式あるいは3段式で上段に氷、下段に食料品を入れ、上段の氷の冷気を用いて下段の食料品を冷やす仕組みになっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "現在のような家庭用電気冷蔵庫(気化圧縮型)は大正7年(1918年)、米国で開発・製品化され、日本には三井物産がこれを輸入して、初めて入ってくる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ガス冷蔵庫(気化吸収型)は大正11年(1922年)にスウェーデンで開発・製品化され、1928年(昭和3年)から日本に輸入され、存在していた。これは冷媒となるアンモニア溶液をガスバーナーで熱し、気化熱の原理を利用し、アンモニアを蒸発させて冷却を行なっていた。昭和30年代に入るとTG55型などの国産ガス冷蔵庫なども販売開始されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "国産家庭用電気冷蔵庫は、1930年に東芝の前身の一つ芝浦製作所が米国GE製品をコピーした物で始まった。しかし、冷却能力こそ氷式冷蔵庫やガス冷蔵庫より優れたものの、2者より高価だったことや、音が大きい、構造が複雑なために故障しやすいなどの欠点があったため普及は進まず、家庭用冷蔵庫はしばらく氷・電気・ガスの3方式が併存した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1950年代後半(昭和30年代)からの高度成長時代に冷蔵庫は爆発的に普及し、電気冷蔵庫は白黒テレビ受像機や洗濯機と共に三種の神器の一つと呼ばれた。冷凍機能を持たない氷式はこの頃に姿を消し、食材が乾燥しない利点を活かしてごく一部の飲食店で使用されるほか、レトロ趣味的な需要があるのみとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1970年代以降は、自動霜取り機構付きの2ドア式冷凍冷蔵庫が一般化し、冷凍食品の普及を促してライフスタイルの変化に対応した。一方、冷却速度の遅いガス冷蔵庫は家庭内での食品の冷凍保存の点で電気冷蔵庫に劣り、また、冷凍食品はマイナス18°C(0°F)以下の温度で保存することを前提としていたため、マイナス10°C前後が冷却温度の限界だった当時のガス冷蔵庫は冷凍食品の普及に対応できず、家庭用としてはこのころに姿を消し、静穏性が求められるホテルや病院、あるいはカセットガスボンベを利用したレジャー用に特化していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1980年代からはマルチドア化して野菜室、製氷機、チルド室(氷温室)などを備えたり、脱臭や急速冷凍などの付加機能が多様化し、各社がアイデアを競った。特にシャープは1990年代より左右どちらからでも開くことができるドア(後に「どっちもドア」という名称が付く)を採用している。またノンフロン化の要請からイソブタンや代替フロンが用いられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると断熱材の進歩で壁厚を薄くした、従来よりも小型・大容量なタイプが登場した。最近は400L以上の大型機でフレンチドアと呼ばれる観音開きタイプが主流になったが、一方で従来の片開きドアにも根強い人気があり、同等の容量・機能で片開き・両開きの両機種が併売される例も少なくない。近年は冷凍食品のストック需要から大型容量が比較的売れ筋傾向になっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また、1990年代半ばより「現代の冷蔵庫はVVVFインバータや機構の改良などによって省エネルギー化が進んだため、10年前に比べて消費電力が数分の一になった」といった宣伝を、各メーカーが盛んに行い始めた。しかし2005年時点のJIS規格では、結露防止や野菜室の保温に用いられる保証ヒータや、自動製氷機など従来の冷蔵庫にはなかった部品・機能を通電させない状態で計測しても構わないことになっていたため、実際に家庭環境で使用した場合の消費電力は以前と大差ないにもかかわらず、カタログでは1/2〜1/4程度との誇大表示が横行する状況だった。2005年6月の『しんぶん赤旗』報道を契機に本問題が認知されるようになると、各メーカーが一斉にカタログスペックと実際の電力消費とが異なる旨の注意書きを表示したり、各自治体が「省エネラベル」表示を止めさせたりするなどの変化があった。この混乱を受け、同年9月から資源エネルギー庁が新基準の測定法を検討開始、2006年5月から実際の使用状況に近づけた測定法で計測するよう改めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "20世紀に広く普及した冷蔵庫では、可燃性や安全性(漏出した際に直接的な有毒性が低いほうが扱いやすい)などの事情で冷媒や断熱材の発泡にフロンを利用するなどした製品が主流となっていったが、このフロンが環境中に漏出した際に、オゾン破壊係数が高いなど深刻な環境破壊に繋がるとして問題視され、それら環境負荷の高い物質の処分後の適正な取り扱いが求められるようになっていった。この流れの中で、日本では2001年より家電リサイクル法の対象となり、回収され資源としてリサイクルすることを目指したテレビ受像機、エア・コンディショナー、洗濯機と同様に、廃棄する際には適切な処理が義務付けられ、粗大ゴミとして処分できなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "冷凍室の性能は、JISの規定によりツースター、スリースター、フォースターといった記号(アスタリスク)で表示される。大半は最高クラスのフォースターで、ツースターは切替室に多く、スリースターは1970 - 1980年代製造の冷凍庫に多い。それぞれの規定は以下の通り。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "冷蔵庫は食品腐敗の遅延を目的とするが、野菜室やドアポケットは、野菜くずなどが元で細菌が繁殖し、食中毒の原因となる場合がある。そのため汚れていなくても、月1~2回ほどのこまめな清掃を行うことが望ましい。清掃の際には、水拭きを行った後に消毒用エタノールを使用し除菌することが望ましい。水拭きのみだと、水分を与えることでかえって細菌の繁殖を手助けしてしまう場合があるためである。", "title": "使用法" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、野菜くずやシラスといった細かな食品などが庫内に蓄積すると不衛生なばかりではなく、やがてそれらが蓄積していくと最悪の場合、エバポレーター下部に位置するドレンを塞いでしまうことがある。そのことにより、霜取(しもとり)動作に入った場合に、エバポレーター上の露の行き場がなくなり、庫内・庫外に大量の水漏れが発生させてしまう場合がある。特に、本体の設置が少しでも後方に傾けて設置している場合は、漏れた水は本体後部で発生することになり、水漏れになかなか気付くことができないため、床面が腐りきってから初めて気がつくケースもある。", "title": "使用法" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "現在の製品でも、主に単身者向けやホテルの客室用等に販売される小型の冷蔵庫(200L以下クラス)では、サイズの制約等の理由で冷凍室の自動霜取り機能を持たないものが少なくない。そのような機種では定期的に手動での霜取りを行わないと冷却性能や収容能力の低下につながる。", "title": "使用法" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "庫内には生ものなどの臭気が滞留する場合もあり、専用の消臭剤が用いられることもある。", "title": "使用法" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "冷やすことによって著しく食材の保存が可能になる冷蔵庫であるが、食材の中にはかえって常温保存の方が適しているものもある。ただし、一旦切り口をつけたものや調理したものに関してはその限りではない。", "title": "使用法" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日本国内の主な冷蔵庫メーカーは以下のとおり。", "title": "主なメーカー" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "業務用は以下の5社のみが生産している。", "title": "主なメーカー" } ]
冷蔵庫とは、食料品等の物品を低温で保管することを目的とした製品である。現代では電気エネルギーを冷却に用いる電気冷蔵庫を指すことが多い。
[[ファイル:Koelkast open.jpg|thumb|200px|家庭用電気冷蔵庫を開けた状態]] '''冷蔵庫'''(れいぞうこ、{{Lang-en|Refrigerator}})とは、食料品等の物品を低温で保管することを目的とした製品である。現代では[[電気エネルギー]]を冷却に用いる'''電気冷蔵庫'''を指すことが多い。 == 概説 == 電気冷蔵庫は[[食料品]]・[[飲料品]]等の物品を低温で保管することを目的とした電気設備施設あるいは[[電気製品]]である。[[氷]]を使用するものは「保冷庫」「[[冷蔵箱]]」などと呼ぶこともある。 一般的には、食料品・飲料品を凍らせず短期保存する目的で、内部温度を0℃以上、4-10℃程度に保って使用される。凍結させ保存期間を伸ばす、または[[冷凍食品]]を保存する、氷を作る等の目的で-18℃程度を保つものは'''冷凍庫'''(れいとうこ)と呼び、両方の機能が一つになった製品を'''冷凍冷蔵庫'''と呼ぶこともある。 中型以上の家庭用冷蔵庫は冷凍室という形で冷凍庫の機能も持つのが一般的である。 === 家電製品としての冷蔵庫 === 最初は家庭向けの電化製品としての冷蔵庫は、「[[白物家電]]」と呼ばれる分野の[[家庭用電気機械器具|家電製品]]である。日本では「電気冷蔵庫」として[[家庭用品品質表示法]]の適用対象となっており、電気機械器具品質表示規程に定めがある<ref name="caa">{{Cite web|和書|url=http://www.caa.go.jp/policies/policy/representation/household_goods/law/law_06.html#11|title=電気機械器具品質表示規程|publisher=[[消費者庁]]|accessdate=2018-08-12}}</ref>。 かつて日本においては「[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]」([[テレビ受像機|テレビ]]([[白黒テレビ]])・[[洗濯機]]・冷蔵庫)と称された家電製品の一つでもあり、生活に欠かせないものとして'''生活家電'''(ジャンル区分は白物家電と概ね同一)とも呼ばれる。 電気冷蔵庫は、家庭においては、常温では早期に[[腐敗]]したり融けたりしてしまうような[[食材]]など、低温(→[[温度]])に保つことで品質や性質が維持される物品を扱うために、広く使われている。食品では冷蔵することで幾らかは[[雑菌]]の活動や[[化学反応|化学変化]]が抑制されるなど、鮮度が保たれる期間が長くなる。[[冷凍]]では消費するために適切に[[解凍 (食品)|解凍]]する必要はあるが、更に品質保持期間が延長可能である。 冷蔵庫は形状により大きく縦型と横型に分類される。家庭用の電気冷蔵庫の多くは縦長の縦型冷蔵庫である。業務用では横長冷蔵庫も用いられる。 構造としては、基本的に内容物を収める[[箱]]に[[ヒートポンプ]]の一種である[[冷凍機]]を取り付け、これによって庫内の[[熱]]を外部に排出し、内部と外部を隔てる壁には[[断熱材]]を用いて熱の移動を遮断している。物品を出し入れするために[[扉]]も設けられる。また、内容物を見えやすくするため、[[照明]]が内部に設けられている様式も一般的である。 冷蔵庫は庫内を冷却する結果、庫内の空気中の水分が冷却部分に凝結し、[[霜]]となる。この霜を定期的に溶かして庫外へ排出するため庫内の湿度が低下し乾燥する。[[刺身]]や精肉等を保管するときは乾燥しないように[[ラップフィルム]]が用いられる。乾燥した状態が望ましくない[[野菜]]類を入れる野菜室は湿度の低下を抑えるため、庫外から間接的に冷却する構造となっている。なお、大きな厨房など業務用では食材の乾燥を防ぐために、通常の冷蔵庫ではなく恒温高湿庫を低温状態に設定して用いることもある。 室温が冬季に[[氷点下]]となるような寒い地方では、冷やすためだけでなく、凍らせない目的でも使われることもある。これは熱交換器の原理上発熱があるため、目標温度より室温が低い場合は保温ができるためである。 家庭向けの製品は、冷蔵庫と冷凍庫(およびこれに関連する機能)が[[オールインワン]]の形で一つにまとめられているタイプが主流だが、後述するような専門的な分野では、庫内を設定された一定温度(その範囲は様々)に保つ単機能の製品や、逆に商品を陳列するためのショーケースの機能など、目的に沿った追加機能が設けられている場合もある。 家庭用電気冷蔵庫の筐体の色については白色が多く、「白物家電」と呼ばれる所以でもある。2000年代以降、インテリア性の追求などから、白色に限らず、多種多様な色の冷蔵庫が発売されるようになってきているほか、冷蔵庫に塗装を施す業者もある<ref>[https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column/hottopics/659286.html インテリアにマッチした冷蔵庫が欲しい! ~塗装やリフォームなど国内での取り組み] - 神原サリー、家電Watch、2014年7月28日</ref>。 === 家電製品以外の冷蔵庫 === 身近な例では、小売業などの冷蔵ショーケースや、バックヤードには部屋を丸ごと利用する巨大な冷蔵庫ないし冷凍庫を備えている場合もある。先進国を中心に多くの発展途上国でも、[[小売]]段階やその前の[[流通]]、更には生鮮食品や加工食品などの生産設備に付帯する規模も様々な冷蔵庫・冷凍庫が利用されている。 [[魚介類]]や[[牛乳]]のような生鮮[[食品]]など冷却が必要な製品を運ぶための保冷車では、冷蔵庫と同様の機構を備え、荷台内部を冷却できる構造となっている。また、[[宅配便]]業者における、「クール便」「チルド便」といった宅配サービスでは、内部に冷蔵庫や冷凍庫を備えた[[自動車|車両]]を利用している。[[乗用車]]の[[直流]]12V電源で使える、[[クーラーボックス]]型の簡易冷蔵庫も販売されている。 業務用としては[[プレハブ工法|プレハブ]]冷蔵庫など、建物自体が冷蔵庫となる屋外設置型の大型の製品もある。また、研究機関などで施設の一室に冷蔵庫の機能をもたせ、「室」(部屋)ではなく冷蔵庫と呼称する場合もある。[[リンゴ]]のように低温による長期間保存が望ましい農産物の貯蔵庫では、[[倉庫]]自体に冷蔵庫の機能を付加する場合もある。 [[キャンピングカー]]で使用する冷蔵庫の中には、[[交流|AC]]/[[直流|DC]]の電気以外に「ガス」を使用して冷却する製品も多い。 == 冷却の原理 == {{Main|冷凍機}} [[気化]]により物体の温度が下がる現象を利用した2通りの[[冷却]]方式が長く使用されてきた。近年はこれに加え、気化ではなく[[半導体]]による[[ペルティエ効果]]を利用する方式も実用化されて小型用途で使用されている。 === 気化圧縮型 === [[ファイル:Heatpump.svg|thumb|250px|right|{{ol|style="margin-left:2em"|コンデンサ|エクスパンジョンバルブ|エバポレータ|コンプレッサ}}]] [[圧縮]]を利用し、閉じたパイプの中を[[冷媒]]が循環する。ここから圧縮型と呼ばれる。家庭用では圧縮をするために電気作動の[[コンプレッサ]]を使用するのが一般的である。そのために冷蔵庫といえば電気冷蔵庫が多いが、ガス圧を利用して圧縮する型もある。また、エキスパンションバルブの代わりにエジェクタを使い、効率を上げた冷蔵庫もある (エジェクタサイクル)。 # コンデンサ(放熱器、凝縮器):冷媒は高圧ガス状態で蓄熱しており、放熱することで、[[液体]]に戻る。(液体) # エクスパンジョンバルブ(膨張弁):細い管が急に太い管となることで減圧し、[[沸点]]が下がる。(液体 低圧液体) # エバポレータ(蒸発器、気化器):沸点の下がった液体は、周囲から[[蒸発熱]]を奪い、蒸発([[気化]])する。(気化による冷却:液体が気体となる→冷却が生じる)(この部分が冷蔵庫内に置かれる) # コンプレッサ(圧縮器):気体の状態の冷媒は圧縮により高圧のガスとなる。(高圧気体) 冷媒には[[フロン]]が使用されていたが、フロン禁止以降は[[イソブタン]]などに移行している。ただし、イソブタンはまったく新規の冷媒ではなくフロン以前に使用されていたこともある。冷媒用途としてはフロンが完璧なものであったが、環境への影響を考慮して使用が禁止されている。近年では効率に優れる[[無水アンモニア]] (Anhydrous Ammonia - NH3) が再び注目されるようになったが、家庭用には採用されていない。無水アンモニアは毒性が強く腐食性も高いため、漏洩に備えたセンサーや警報機などを装備できる冷凍倉庫などへの利用にとどまっている。 === 気化吸収型 === 冷媒の循環のために、液体を使用する。この液体が冷媒を吸収(吸着)して循環することにより冷媒を移動させている。この液体を吸収液とよび、このため吸収型と呼ばれる。熱することにより液体を循環させる。このために熱源が用いられるが、ジェネレーターに[[ガスバーナー]]を用いたガス冷蔵庫、電気ヒーターを用いた電気冷蔵庫がある。この吸収型では、ガス/電気[[交流]]100[[ボルト (単位)|V]]切替方式のような2ウェイ型や、ガス/電気交流100V/[[直流]]12V切替方式のような3ウェイ型なども一般的である。コンプレッサーを必要とする圧縮型に比べ、静穏性に優れており、また動力源が電気でなくても良いため医療(病院向けなど)、ホテル、レジャーに使用されることも多い。 閉じたパイプの中を冷媒が循環するのは同じであるが、冷媒の循環のために冷媒とは別の液体を使用する。「アンモニア(冷媒)と水(吸収液)」の組み合わせや「水(冷媒)と[[臭化リチウム]](吸収液)」などがある。冷却器または蒸発器(エバポレーター)・吸収器(アブソーバー)・再生器または発生器(ジェネレーター)・凝縮器(コンデンサ)。蒸発器(エバポレーター)によって気化される。なお、吸収型冷蔵庫=ガス冷蔵庫ではない。 # アブソーバー(吸収器) # ジェネレーター(再生器、発生器、ボイラー) # セパレーター(分離器)精留器 rectifier # コンデンサ(放熱器 凝縮器) # エバポレーター(蒸発器) 冷却を行う。 吸収器でアンモニアを水が吸収しているアンモニア水溶液がつくられる。ジェネレーター(ボイラー)ではアンモニア水溶液が加熱される。水よりも沸点が低いため、アンモニアは溶液からガス化し泡状となる。分離器にてアンモニアガスが水と分離される。水は吸収器 (absorber) に戻される。放熱器では気体となったアンモニアが、熱を放出して液体となる。蒸発器で濃度が濃くなったアンモニア液は、減圧され、気化する。冷却が生じる。吸収器では水が別の経路を通って戻ってきたアンモニアを吸収し、アンモニア水溶液となる。 [[スウェーデン]]に本社を置く{{仮リンク|ドメティック|en|Dometic Group}}社([[エレクトロラックス]]社から[[2001年]]に分離独立)は、この冷却方法に特化した冷蔵庫を製造・販売している代表的なメーカーである。ドメティック社は吸収式やアブソープションシステムと表現している。 かつて[[#気化圧縮型|気化圧縮型]]で冷媒として使用されていたアンモニアは無水アンモニアだが、気化吸収型で冷媒として使用しているアンモニアはアンモニア水溶液 (Aqua Ammonia)である。 === スターリング冷凍機 === {{Main|スターリング冷凍機}} [[スターリングエンジン]]を外部の動力で回転させることで温度差を生じさせる。地球観測衛星[[ふよう1号]]の光学センサの冷却に使用された。他に[[赤外線]]撮像素子や[[超伝導]][[磁石]]の冷却にも使用される。 === ペルチェ効果型 === {{Main|ペルチェ素子}} 冷媒を用いない。[[ペルティエ効果|ペルチェ効果]]を利用し温度を下げる。 ペルチェ冷却システムは、圧縮機(コンプレッサ)を使用しないため、作動音がほとんどない。そのため、吸収型と同様の用途に使用される。圧縮型や吸収型に比べると非常に安価だが、冷却効率は良くない(エネルギー効率は数パーセントにとどまる)ことから、小型の自動車用冷蔵庫や、[[ペットボトル]]が数本入る程度の超小型冷蔵庫などに利用されている。 === ケミカルヒートポンプ === {{Main|ケミカルヒートポンプ}} 可逆的化学反応を利用して熱の出し入れを行う<ref>http://www.chemenv.titech.ac.jp/watanabe/Pages/chp.html{{リンク切れ|date=2022年2月}}</ref><ref>http://jstore.jst.go.jp/cgi-bin/patent/advanced/detail.cgi?pat_id=18044{{リンク切れ|date=2022年2月}}</ref>。 === 水素吸蔵合金 === [[水素吸蔵合金]]に[[水素]]を吸収、放出する時に発熱、吸熱する現象を利用する。 == 冷却方式(主に一般家庭用) == 現在、一般家庭用冷蔵庫市場は主に以下の2つに大別される。 === 直冷式(自然対流式) === 冷蔵庫の庫内にコンプレッサー(冷却管)を張り巡らせ、管からの冷気で直接冷却する方式。庫内温度差を利用して[[対流]]を期待する。50〜70[[リットル|リットル(L)]]前後の小型冷蔵庫などに用いられることが多い。欠点と利点は以下のとおりである<ref>[http://cs.sharp.co.jp/faq/qa?qid=147526 SHARP Q&A 「直冷式」のメリット/デメリットは?]</ref>。 * 利点 *# ファンを利用しないため、ファン式と比べると静穏性が高い。 *# 消費電力がファン式と比べて少ない。 <!--*#小型冷蔵庫ゆえの初期導入時のコストパフォーマンス。--> * 欠点 *# 自然対流に任せるがゆえに庫内に完全に冷気が行き渡らず、冷却効率に難がある。 *# 冷蔵庫に物を詰め込み過ぎた場合、自然対流が起こらずファン式と比べると腐敗が発生する可能性が高い。 *# 霜取りが必要である。霜を取らないと冷却効率が低下する。 === ファン式(強制対流式) === 冷却機にファンを取り付け、強制的に庫内に行き渡らせる方式。一般家庭用大型冷蔵庫では主流となっている。 * 利点 *# ファンで強制的に対流させるため、庫内は全体的に平均的な温度に保たれる。 *# 冷却効率が良く、冷えが良い。 *# 霜取り機能がついているものがある。 * 欠点 *# 直冷式と比べると騒音が大きい。 <!--*# 大型冷蔵庫の主流のため、ちょうど良い小型冷蔵庫が見つからない可能性がある。--> == 歴史 == [[File:Theater commercial, electric refrigerator, 1926.ogv|thumb|冷蔵庫の広告(1926年)]] {{see also|冷凍技術の年表}} === 年表(1933年まで) === * 1748年 [[ウィリアム・カレン]](Dr. William Cullen; [[イギリス|英国]][[スコットランド]] [[グラスゴー大学]])が[[エーテル (化学)|エーテル]][[気化熱]]を発見。 * 1803年 豪農トマス・ムーア(''{{Lang|en|Thomas Moore}}'' [[アメリカ合衆国|米国]][[メリーランド州]])が「氷を利用して冷蔵する道具」を作成し、これを「''{{Lang|en|refrigerator}}''(冷蔵庫)」と名づけた。Frigerareとは[[ラテン語]]でcoolという意味で、re frigeratorは''{{Lang|en|to cool}}''である。<!-- 他の記述と矛盾するのでコメントアウトします --><!-- 1938年に電気冷蔵庫が作られ、それが新たに「refrigerator(冷蔵庫)」と名づけられ、旧来のrefrigeratorは「icebox(アイスボックス)」という呼ばれるようになった([[レトロニム]])。-->電気冷蔵庫が一般化して以降、それらが新たに「refrigerator」と呼ばれ、旧来のrefrigeratorには「icebox([[冷蔵箱|アイスボックス]])」の名が与えられた(=[[レトロニム]])。 * 1805年 オリバー・エバンス(''{{Lang|en|[[:en:Oliver Evans|Oliver Evans]]}}'' 米国[[ペンシルベニア州]]) 吸収型冷却法を提唱(気化した[[硫化酸]]を水で吸収する方式)。設計方法のみで製作はされなかった。 * 1820年 [[マイケル・ファラデー]](英国[[ロンドン]]) 液化アンモニアによる冷却を発見 * 1834年 ジェイコブ・パーキンス(''{{Lang|en|[[:en:Jacob Perkins|Jacob Perkins]]}}'' 米国の発明家) エーテルを使用した製氷機。圧縮型で米国初の[[特許]]。 * 1848/1849/1855 [[ジョン・ゴリー|ジョン・ゴーリエ]](''{{Lang|en|[[:en:John Gorrie|John Gorrie]]}}'' 米国[[フロリダ州]]) 医者であったゴーリエは、[[マラリア]]患者のために使う氷を作ろうと、ファラデーの実験を基に圧縮型冷蔵システムを考案し、オリバー・エバンスの設計を基にした冷蔵庫を開発。エーテルを使用し車輪[[蒸気機関|蒸気エンジン]]や[[風車]]で駆動させた。彼は現在使用されている製氷トレーも考え出した。 * 1850年 エドモン・カレー(''{{Lang|fr|Edmond Carré}}'' [[フランス]]) 水と[[硫酸]]を使用した吸収型冷蔵庫を開発。 * 1852年 [[ウィリアム・トムソン]]とジェームズ・プレスコット・ジュール(''{{Lang|en|William Thomson & James Prescott}}'' ''Joule'') 冷却が圧力差の比率を増加させる。 * 1856年 アレクサンダー・トワイニング(''{{Lang|en|Alexander C. Twinning}}'' 米国) 米国初の冷蔵庫の商用化(とされている)。 * 1856年 ジェームス・ハリソン(''{{Lang|en|[[:en:James Harrison (pioneer)|James Harrison]]}}'' オーストラリア) ゴーリエとトワイニングの冷蔵庫を研究し、圧縮型エーテル冷蔵庫を開発。世界初の実用的な冷蔵庫といわれる。ビール業界および食肉加工業界に利用された。 * 1859年 [[フェルディナン・カレー]](''{{Lang|fr|[[:fr:Ferdinand Carré|Ferdinand Carré]]}}'' フランス エドモンの弟) アンモニアと水を使用した吸収型冷蔵庫を開発。 *米国では、[[南北戦争]](1861-65年)により北側から氷が届かなくなったため、冷蔵庫は南部側で商業的な成功を見た。 * 1866年 ケモジン(''{{Lang|en|chemogene}}''、エーテルと[[ナフサ]]の混合物)が冷媒として特許取得。 * 1867年 サザーランド(''{{Lang|en|J.B. Sutherland}}'' 米国[[ミシガン州]][[デトロイト]])の冷蔵列車が特許取得。 * 1870年 米国[[ニューヨーク]]、[[ブルックリン区|ブルックリン]]の''{{Lang|en|S. Liebmann’s Sons Brewing Company}}''で熱吸収型冷却冷蔵庫が使用される。商用の冷蔵施設は[[ビール]]工場で最初に使われだし、1891年までに全てのブルワリーで冷蔵施設が装備された。 * 1873年 アンモニアが冷媒として初めて使用される。 * 1875年 硫化ダイオキサイドとメチルエーテル。 * 1876年 カール・フォン・リンデ([[:de:Carl von Linde|''{{Lang|de|Carl von Linde}}''(ドイツ語版)]][[:en:Carl von Linde|(英語版)]] [[ドイツ]] [[ミュンヘン]]) アンモニアを冷媒に使用し、1877年に特許取得。 * 1878年 メチルクロライドを冷媒に使用。 * 1911年 米国[[ゼネラル・エレクトリック|GE社]](米国[[インディアナ州]][[フォートウェイン]])最初の家庭用冷蔵庫、2台がフォートウェインにて製造された。これはフランスの僧侶''{{Lang|fr|Abbe Audiffren}}''の発明を用いたもの。これは最初の電気冷蔵庫らしきものである。 * 1913年 フレッド W ウルフ ジュニア(''{{Lang|en|Fred W. Wolf Jr}}'' 米国[[シカゴ]])最初のアメリカ製冷蔵庫DOMELRE (''{{Lang|en|DOMestic ELectric REfrigerator}}'')。商業的には成功しなかった。 * 1915年 アルフレッド・メロウェス (''{{Lang|en|Alfred Mellowes}}'') 最初の家庭用一体型冷蔵庫をつくる。キャビネット下部にコンプレッサーを装備。翌年''{{Lang|en|Guardian Frigerator}}''社を興して生産・販売したが、手作りで生産台数は2年間で40台程だといわれている。1918年、[[ゼネラルモーターズ]] (GM) 創業者[[ウィリアム・C・デュラント|ウィリアム・デュラント]]が(GMでは誰も賛成しなかったため)個人として会社を買った。後にGM傘下に組み入れられた。名称も[[フリッジデール|フリッジデール社]]'' {{Lang|en|(Frigidaire Company}}'') と変更。さらに、数年後DOMELREの権利も取得し、これが米国での大量生産につながっていく。 * 1916年 エドモンドJコープランド、アーノルド H. グロスは''{{Lang|en|the Electro-Automatic Refrigerating Company}}''を設立し、2か月後[[ケルビネーター]]に社名変更の後、ほどなくして現在の冷蔵庫と同じ冷却方式である「''{{Lang|en|phase change heat pump}}''」を採用。しかし、筐体としてはまだリモートタイプと呼ばれる保冷庫部と冷却装置が別々に分かれているもので、原理的には従来の氷箱を冷却装置で置き換えたようなものだった。 * 1918年 [[ケルビネーター|ケルビネーター社]]が[[バイメタル]]式[[サーモスタット]]付冷蔵庫を発表。初期の家庭用冷蔵庫は壁に埋め込む金庫のようなもので、騒音が大きかった。 * 1922年 バルザー・フォン・プラテンとカール・ミュンター(スウェーデン)吸収式冷蔵庫。 * 1923年 [[フリッジデール|フリッジデール社]]が世界初の一体型を発表。 * 1923年 [[三井物産]](日本) 米国から初輸入。 * 1925年 [[エレクトロラックス|エレクトロラックス社]](スウェーデン)バルザー・フォン・プラテンとカール・ミュンターの特許を取得し世界最初の吸収式冷蔵庫を発表。 * 1926年 エレクトロラックス社(スウェーデン) 米国で特許取得。 * 1926年 [[ウィリス・キャリア]](''{{Lang|en|Willis Carrier}}'' 米国) 遠心コンプレッサー方式 メチルクロライドを置き換える。 * 1927年 [[日立製作所]](日本)電気冷蔵庫の試作に成功。 * 1927年 GE社(米国) 圧縮機を上に置くモニタートップ型。一般に広く使われた初の冷蔵庫で、100万台以上を生産した。[[二酸化硫黄]]を使用。 * 1927年 エレクトロラックス社(スウェーデン) 米国で米国向けの生産開始。 * 1928年 三井物産が米国GE社製モータートップ型を輸入、東京電気を介して量販。 * 1930年 ゼネラル・モーターズの研究所で[[トマス・ミジリー]]が安定した不燃冷媒クロロフルオロカーボン (CFC) を発見。「フレオン」と名づけ商品化された(日本では[[ダイキン工業]]が[[フロン]]と名づけたもの)。 * 1930年代 フラットトップ型に移行 静音化が図られる・。 * 1930年 芝浦製作所(日本、現・[[東芝]])の1号機(SS-1200) GE製モータートップ型のコピー。 * 1933年 芝浦製作所(日本)「電気冷蔵器」と名づけ、本格的に発売開始。 === その後の世界での歴史 === * 1937年 [[ケルビネーター]]社は自動車会社の[[ナッシュ・モーターズ]]社と合併し、[[ナッシュ=ケルビネーター]]社 (Nash-Kelvinator) となる。 * 1951年 アメリカの80%の家庭に電気冷蔵庫が普及<ref>「さまざまな冷凍技術の応用」『日本経済新聞』昭和26年7月12日</ref>。 * 1954年 ナッシュ=ケルビネーター社は[[ハドソン・モーター・カー・カンパニー]]と合併し、[[アメリカン・モーターズ|AMC(アメリカンモーターズ社)]]となる。1950年代に傘下のケルビネーター社、初の霜なし (frost free) 両開き (side by side) 冷蔵庫を発売。 * 1960年末から1970年後半にかけて [[ホワイト・コンソリデーテッド・インダストリーズ]] (White Consolidated Industries:WCI) 社がケルビネーター社をはじめ、[[ゼネラルモーターズ]]傘下の[[フリッジデール]]社、およびその他米国の冷蔵庫製造会社(ギブソン社、タッパン社、ホワイト-ウェスチングハウス社の)製品群の権利を取得。傘下のフリッジデール社に統合。 * 1986年[[エレクトロラックス]]社(スウェーデン)がWCI社を取得。社名をWCIから「フリッジデール」とした。エレクトロラックス社のもとで、1990年代末には、[[フリッジデール|フリッジデール社]]の米国生産台数が7割となる。 * 2001年エレクトロラックス社は特殊用途およびレジャー業界用途製品部門を投資ファンド[[インベストール|EQT]]に売却。Dometic社[[ドメティック]]として独立。のちに2005年、英BC Partnersが取得し現在に至る。旧エレクトロラックスブランドで販売されていた[[ワインセラー]]やキャンピングカー向け・マリン向け吸収式3-way冷蔵庫、ホテル向けや病院用吸収式小型冷蔵庫はドメティック社製品として販売されている。一方、家庭用冷蔵庫、産業向け冷蔵庫もエレクトロラックスブランドで販売されている。フリッジデールブランドは米国でのブランドとして継続している。ケルビネーターブランドは[[オーストラリア]]などで使用されている。 21世紀にかけて、冷蔵庫の生産や販売は日本以外のアジア諸国に広がった。イギリスの調査会社ユーロモニターインターナショナルの推計によると、2018年に世界で売れた電気冷蔵庫は約1億6915万台。[[中華人民共和国]]の[[ハイアール]]が世界シェア2割以上を占める最大手で、[[ワールプール・コーポレーション]](米国)、[[LG電子]]([[韓国]])、エレクトロラックス、[[サムスン電子]](韓国)が続く<ref>【点検 世界シェア】冷蔵庫 ハイアールの首位盤石『[[日経産業新聞]]』2019年8月9日(エレクトロニクス面)。</ref>。 家庭用冷蔵庫は各国の暮らしぶりでその仕様は異なる。たとえば、イギリスでは週1回しか買い物をしない家庭が多く、[[イタリア]]では毎日買い物をする家庭が多い。そのため、イギリスでは冷凍室が冷蔵室よりも大きく作られる一方、イタリアでは冷蔵室のほうが大きい仕様のものが通常仕様となっている。 日本では、1990年代以降は2ドアの大型冷凍冷蔵庫は見られなくなった。多ドアでそれぞれのサイズが細かく仕切られたものが人気を得、日本では多機能で多ドアが中心となった。 === 日本での歴史 === 上述の[[冷蔵庫#冷却の原理|冷却の原理]]の項にあるように電気冷蔵庫とガス冷蔵庫はそれぞれ気化圧縮型と気化吸収型があるが、日本ではほとんどの場合、電気冷蔵庫は気化圧縮型、ガス冷蔵庫は気化吸収型だった。以下の記述で冷蔵庫の性能に関する記述は、電気・ガスの相違によるものではなく冷却原理の相違によるものである。 人工的に氷がつくられるようになると、「[[冷蔵箱]]」あるいは「[[氷式冷蔵庫]]」などと呼ばれる家庭用冷蔵庫が現れる。木製で、内側にはブリキを張り、外郭との間に木炭やフェルトを詰め込んで断熱材とし、一般には2段式あるいは3段式で上段に氷、下段に食料品を入れ、上段の氷の冷気を用いて下段の食料品を冷やす仕組みになっている。 {{See also|冷蔵箱}} 現在のような家庭用電気冷蔵庫(気化圧縮型)は[[大正]]7年(1918年)、米国で開発・製品化され、日本には三井物産がこれを輸入して、初めて入ってくる。 ガス冷蔵庫(気化吸収型)は大正11年(1922年)にスウェーデンで開発・製品化され、1928年(昭和3年)から日本に輸入され、存在していた。これは冷媒となるアンモニア溶液をガスバーナーで熱し、気化熱の原理を利用し、アンモニアを蒸発させて冷却を行なっていた。昭和30年代に入るとTG55型などの国産ガス冷蔵庫なども販売開始されていた<ref>[http://www.gasmuseum.jp/search/gas_kigu001.html#anchor008 GAS MUSEUM がす資料館]。 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130509140354/http://www.gasmuseum.jp/search/gas_kigu001.html |date=2013年5月9日 }}</ref>。 国産家庭用電気冷蔵庫は、[[1930年]]に[[東芝]]の前身の一つ芝浦製作所が米国GE製品をコピーした物で始まった。しかし、冷却能力こそ氷式冷蔵庫やガス冷蔵庫より優れたものの、2者より高価だったことや、音が大きい、構造が複雑なために故障しやすいなどの欠点があったため普及は進まず、家庭用冷蔵庫はしばらく氷・電気・ガスの3方式が併存した。 1950年代後半(昭和30年代)からの[[高度成長時代]]に冷蔵庫は爆発的に普及し、電気冷蔵庫は白黒テレビ受像機や[[洗濯機]]と共に[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]の一つと呼ばれた。冷凍機能を持たない氷式はこの頃に姿を消し、食材が乾燥しない利点を活かしてごく一部の飲食店で使用されるほか、レトロ趣味的な需要があるのみとなった。 [[1970年代]]以降は、自動霜取り機構付きの2ドア式冷凍冷蔵庫が一般化し、[[冷凍食品]]の普及を促してライフスタイルの変化に対応した。一方、冷却速度の遅いガス冷蔵庫は家庭内での食品の冷凍保存の点で電気冷蔵庫に劣り、また、冷凍食品はマイナス18℃(0℉)以下の温度で保存することを前提としていたため、マイナス10℃前後が冷却温度の限界だった当時のガス冷蔵庫は冷凍食品の普及に対応できず、家庭用としてはこのころに姿を消し、静穏性が求められるホテルや病院、あるいはカセットガス[[ボンベ]]を利用したレジャー用に特化していった。 [[1980年代]]からはマルチドア化して野菜室、製氷機、チルド室(氷温室)などを備えたり、脱臭や急速冷凍などの付加機能が多様化し、各社がアイデアを競った。特にシャープは[[1990年代]]より左右どちらからでも開くことができるドア(後に「どっちもドア」という名称が付く)を採用している。またノンフロン化の要請から[[イソブタン]]や代替フロンが用いられるようになった。 [[2000年代]]に入ると[[断熱材]]の進歩で壁厚を薄くした、従来よりも小型・大容量なタイプが登場した。最近は400L以上の大型機でフレンチドアと呼ばれる[[観音開き]]タイプが主流になったが、一方で従来の片開きドアにも根強い人気があり、同等の容量・機能で片開き・両開きの両機種が併売される例も少なくない。近年は冷凍食品のストック需要から大型容量が比較的売れ筋傾向になっている。 また、[[1990年代]]半ばより「現代の冷蔵庫は[[可変電圧可変周波数制御|VVVF]][[インバータ]]や機構の改良などによって[[省エネルギー]]化が進んだため、10年前に比べて消費電力が数分の一になった」といった宣伝を、各メーカーが盛んに行い始めた。しかし2005年時点の[[日本産業規格|JIS]]規格では、[[結露]]防止や野菜室の保温に用いられる保証ヒータや、自動製氷機など従来の冷蔵庫にはなかった部品・機能を通電させない状態で計測しても構わないことになっていたため、実際に家庭環境で使用した場合の消費電力は以前と大差ないにもかかわらず、カタログでは1/2〜1/4程度との誇大表示が横行する状況だった。2005年6月の『[[しんぶん赤旗]]』報道を契機に本問題が認知されるようになると、各メーカーが一斉にカタログスペックと実際の電力消費とが異なる旨の注意書きを表示したり、各自治体が「省エネラベル」表示を止めさせたりするなどの変化があった。この混乱を受け、同年9月から[[資源エネルギー庁]]が新基準の測定法を検討開始、[[2006年]]5月から実際の使用状況に近づけた測定法で計測するよう改めた。 20世紀に広く普及した冷蔵庫では、可燃性や安全性(漏出した際に直接的な有毒性が低いほうが扱いやすい)などの事情で冷媒や断熱材の発泡に[[フロン類|フロン]]を利用するなどした製品が主流となっていったが、このフロンが環境中に漏出した際に、[[オゾン破壊係数]]が高いなど深刻な[[環境問題|環境破壊]]に繋がるとして問題視され、それら環境負荷の高い物質の処分後の適正な取り扱いが求められるようになっていった。この流れの中で、日本では[[2001年]]より[[家電リサイクル法]]の対象となり、回収され資源として[[リサイクル]]することを目指した[[テレビ受像機]]、[[エア・コンディショナー]]、[[洗濯機]]と同様に、廃棄する際には適切な処理が義務付けられ、粗大[[ゴミ]]として処分できなくなった。 === 冷凍室(フリーザー) === 冷凍室の性能は、JISの規定によりツースター、スリースター、フォースターといった記号([[アスタリスク]])で表示される。大半は最高クラスのフォースターで、ツースターは切替室に多く、スリースターは[[1970年代|1970]] - [[1980年代]]製造の冷凍庫に多い。それぞれの規定は以下の通り。 ; ワンスター : 平均冷凍負荷温度はマイナス6℃以下、冷凍食品保存期間の目安は約1週間。 ; ツースター : 平均冷凍負荷温度はマイナス12℃以下、冷凍食品保存期間の目安は約1か月。 ; スリースター : 平均冷凍負荷温度はマイナス18℃以下、冷凍食品保存期間の目安は約3か月。 ; フォースター : 平均冷凍負荷温度、冷凍食品保存期間はスリースターと同じだが、100Lあたり4.5kg以上の食品を24時間以内にマイナス18℃以下に凍結できる性能を持つ。 == 使用法 == === 手入れ === 冷蔵庫は食品腐敗の遅延を目的とするが、野菜室やドアポケットは、野菜くずなどが元で[[細菌]]が繁殖し、[[食中毒]]の原因となる場合がある。そのため汚れていなくても、月1~2回ほどのこまめな清掃を行うことが望ましい<ref name="20080609nikkeibo">浜野栄夫「家庭用冷蔵庫の細菌汚染、野菜室が最悪 水拭きでかえって増加」[[日経ビジネス]]オンライン([[日経BP]]社、[[2008年]][[6月9日]]付配信)</ref>。清掃の際には、水拭きを行った後に消毒用[[エタノール]]を使用し除菌することが望ましい。水拭きのみだと、水分を与えることでかえって細菌の繁殖を手助けしてしまう場合があるためである<ref name="20080609nikkeibo"/>。 {{See also|水分活性}} また、野菜くずや[[シラス (魚)|シラス]]といった細かな食品などが庫内に蓄積すると不衛生なばかりではなく、やがてそれらが蓄積していくと最悪の場合、[[エバポレーター]]下部に位置する[[ドレン]]を塞いでしまうことがある。そのことにより、霜取(しもとり)動作に入った場合に、[[エバポレーター]]上の露の行き場がなくなり、庫内・庫外に大量の水漏れが発生させてしまう場合がある。特に、本体の設置が少しでも後方に傾けて設置している場合は、漏れた水は本体後部で発生することになり、水漏れになかなか気付くことができないため、床面が腐りきってから初めて気がつくケースもある。 現在の製品でも、主に単身者向けやホテルの客室用等に販売される小型の冷蔵庫(200L以下クラス)では、サイズの制約等の理由で冷凍室の自動霜取り機能を持たないものが少なくない。そのような機種では定期的に手動での霜取りを行わないと冷却性能や収容能力の低下につながる。 庫内には生ものなどの臭気が滞留する場合もあり、専用の消臭剤が用いられることもある。 === 不向きな食材 === 冷やすことによって著しく食材の保存が可能になる冷蔵庫であるが、食材の中にはかえって常温保存の方が適しているものもある。ただし、一旦切り口をつけたものや調理したものに関してはその限りではない。 ; [[タマネギ]]、[[ニンジン]]、[[カボチャ]]、[[ダイコン|大根]]、[[ゴボウ]] : 常温保存が可能、あえて入れる必要はない。特にタマネギやカボチャは出荷前に一旦常温で保管されている。 ; [[芋|イモ類]]([[ジャガイモ]]、[[サツマイモ]]等) : [[澱粉]]質の変化により却って不味くなる。 ; [[バナナ]] : 冷蔵庫に入れると皮が黒くなる。 ; [[パン]] : パサパサになる。ただし、[[食パン]]はラップに包んで冷凍保存することも可能であり、食べる際は凍ったまま[[トースター]]で焼くと、ほぼ触感に近い味になる。 : 惣菜パンについては腐る可能性があるので、冷蔵して1~2日以内に食べたほうがいい。 == 主なメーカー == 日本国内の主な冷蔵庫メーカーは以下のとおり。 *[[パナソニック]] *[[日立グローバルライフソリューションズ]] *[[東芝ライフスタイル]] *[[シャープ]] *[[三菱電機]] *[[ハイアール|ハイアールジャパン]] *[[アクア (企業)|アクア]](旧:[[三洋電機|三洋]]アクア、ハイアールグループ) *[[ツインバード]] *[[アイリスオーヤマ]] *[[吉井電気|アビテラックス]] 業務用は以下の5社のみが生産している。 *[[ホシザキ]] *[[フクシマガリレイ]] *[[大和冷機工業]] *[[パナソニック]] - 松下電器産業からパナソニックに社名変更した2008年に一度撤退し、2012年の三洋電機のSANYOブランド廃止で事実上の再参入となった。 *[[フジマック]] ===過去のメーカー=== *[[東京重機工業|JUKI]] - 1980年代に市場に参入したが、既に撤退。 *[[森田電工|ユーイング]] - 現在は会社自体が存在しない。 *[[内田製作所|コロナ]] - 自社生産はしておらず、[[三洋電機]]からOEM供給を受けて販売していた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 村瀬敬子『冷たいおいしさの誕生 日本冷蔵庫100年』[[論創社]] ISBN 4-8460-0392-2 == 関連項目 == * [[白物家電]] * [[家電機器]] * [[三種の神器 (電化製品)]] * [[氷室]] * [[冷蔵箱]] - 氷(式)冷蔵庫とも呼ばれる。 * [[冷凍食品]] * [[製氷皿]] * [[冷凍機]] * [[磁気冷凍]] * [[ペルティエ素子]] * [[温蔵庫]] * [[冷蔵車]]([[鉄道車両]]) * [[冷蔵庫による事故死]] * [[食中毒]] * [[冷蔵倉庫]] / [[コールドチェーン]] * [[家電リサイクル法]] * [[ジェネリック家電]] * [[ダイハツ・ハイゼットデッキバン]] - 元来[[電気店]]における冷蔵庫の運搬のためにパナソニックと共同開発した特装車。 == 外部リンク == {{Commonscat|Domestic refrigerators|家庭用電気冷蔵庫}} * [http://www.tepco-switch.com/life/labo/select/08_fridge/index-j.html 快適にくらすための家電選び:冷蔵庫]([[東京電力]]くらしのラボが提供する製品の選び方ガイド) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:れいそうこ}} [[Category:調理器具]] [[Category:家電機器]] [[Category:冷却]] [[Category:冷凍]]
2003-05-31T15:50:00Z
2023-11-14T03:18:55Z
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9,611
ポール・ヴェルレーヌ
ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine, 1844年3月30日 - 1896年1月8日)は、フランスの詩人。ポール・ヴェルレーヌ、あるいは単にヴェルレーヌとも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。多彩な韻を踏んだ約540篇の詩を残す一方で、破滅的な人生を送った。 中学卒業直後、高踏派の詩人たちと交わり、14歳でユゴーに詩作品を送った早熟の天才。『土星びとの歌』『女友だち』『よい歌』などの詩集で有名になった。 27歳のとき、16歳の少年ランボーから手紙を受け、その詩心に感心して交際する。だが意見の相違からピストルでランボーを負傷させた。有名な詩集『叡知』には服役中の心境が詠まれている。 放埒な生活は生涯なおらず、貧窮のうちに施療病院で死んだ。 彼の一生には、酒・女・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在する。晩年には文名を高めデカダンスの教祖と仰がれたが、初期の作品の方が評価が高い。以下、箇条書きの部分は文学的事項である。 1844年-1864年 ドイツに隣接するモゼル県のメスに生まれる。父はベルギー生まれのフランス軍人。母はパ=ド=カレー県アラス近郊の生まれ。経済的な環境には恵まれており、父の退役後一家はパリ (9区) に出て(7歳)、ポールは小学校の寄宿舎に入り、次いでリセ・ボナパルト (Lycée Bonaparte、現在の9区にある名門校のリセ・コンドルセ)に、さらに修辞学級に進むが卒業には至らなかった。大学入学試験に合格し(18歳)、パリ市役所書記となる(20歳)。 1865年-1871年 父を喪う(21歳)。18歳の美少女マチルド・モーテ(Mathilde Mauté)と婚約し(25歳)、翌年挙式。間もなく普仏戦争(1870年7月19日 - 1871年5月10日)に召集される。1871年のパリ・コミューン鎮圧(5/20 - 28)の騒擾を、パリのパンテオン近くの自宅で避けた。失職した。長男ジョルジュ誕生(27歳)。 1871年-1875年 結婚1年後、ランボーと会い、妻に乱暴を繰り返した上で彼と同棲し、イギリス・ベルギー・北フランスを転々とする。母と妻が説得に来ても置き去りにして逃げ、妻に絶縁状を書き、ユーゴーに妻との交渉を懇願する。ロンドンで病臥し、母を呼ぶ(28歳)。ホテルで口論となったランボーをブリュッセルで購入した拳銃で2発撃ち、1発が手首に命中したが致命傷にはならなかった。この騒動により2年間収監される。この拳銃は2016年にクリスティーズで競売にかけられ、43万4500ユーロで落札された。妻の別居請求(この時点では離婚はしていない)が認められたことを獄中で知って落胆し、カトリックに帰依した。1年半後出獄し、元妻との和解を図る一方、旅先でランボーと格闘する(31歳)。 1875年-1885年 イギリスの中学に教職を得る(31歳)。アルデンヌ県の学校に転じ、美少年の生徒リュシアン・レチノアに惚れ、授業を降ろされる(33歳)。その後リュシアンと英国へ渡り、教職を得る。再び元妻との和解を図り、黙殺される(35歳)。リュシアンを伴い帰国し、郷里に滞在(36-37歳)。母としばらくパリに住み、市役所への復職を図るも果たせず、西郊の学校に就職(38歳)。リュシアンが死去(39歳)し、その故郷で堕落放浪の日々を送る(-40歳)。泥酔して母の首を絞めて入牢。出獄後再びリュシアンの故郷を放浪した(41歳)。 1885年-1896年 無一文でパリへ戻りホテル住まいをする。左膝を傷め、一時慈善病院へ(41歳)。経済的援助をしていた母が死去するが、病気のため葬儀に参列せず。ホテルを追い出され(42歳)て、以降慈善病院を転々とする(42歳-)。慈善病院から娼婦ウジェニー・クランツの家へ転じ、情夫となった。生活費のため、オランダへ講演旅行(48歳)。ウジェニーに駆け落ちされて慈善病院に入院し、娼婦フィロメーヌ・ブーダンに連れ出された。国内およびイギリスへ講演旅行をする(49歳)。ウジェニーと和解しまた同棲する。入院2回(50歳)。文部省から救済の500フランを受け取る。パンテオン近くの自宅で、娼婦に看取られて死去。遠からぬサン・テチエンヌ・デュ・モン教会で葬儀。マラルメ、フランソワ・コペー(fr:François Coppée)ほか参列者多数。ただし、入営して病中にあった息子のジョルジュは不参加。パリ市17区のバチニョル墓地(Cimetière des Batignolles)に埋葬(51歳)。 日本では、東大生の上田敏が、「ポオル・ヴェルレエヌ逝く」(1896)を発表した。 以下の作曲家がヴェルレーヌの詩をもとにした歌曲を残している。
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ポール・マリー・ヴェルレーヌは、フランスの詩人。ポール・ヴェルレーヌ、あるいは単にヴェルレーヌとも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。多彩な韻を踏んだ約540篇の詩を残す一方で、破滅的な人生を送った。 中学卒業直後、高踏派の詩人たちと交わり、14歳でユゴーに詩作品を送った早熟の天才。『土星びとの歌』『女友だち』『よい歌』などの詩集で有名になった。 27歳のとき、16歳の少年ランボーから手紙を受け、その詩心に感心して交際する。だが意見の相違からピストルでランボーを負傷させた。有名な詩集『叡知』には服役中の心境が詠まれている。 放埒な生活は生涯なおらず、貧窮のうちに施療病院で死んだ。
{{出典の明記|date=2016年12月}} {{Infobox 作家 | name = ポール・ヴェルレーヌ<br/>Paul Verlaine | image = Netsurf17 - Paul Verlaine.png | imagesize = 220px | caption = | birth_date = {{birth date|1844|03|30|mf=y}} | birth_place = {{FRA1830}} [[メス (フランス)|メス]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1844|03|30|1896|1|8}} | death_place = {{FRA1870}} [[パリ]] | occupation = [[詩人]] | nationality = {{FRA}} | period = |influences= [[シャルル・ボードレール]], [[シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール]], [[アルトゥル・ショーペンハウアー]], [[ヴィクトル・ユーゴー]], [[アルチュール・ランボー]] |influenced= [[アルチュール・ランボー]], [[トム・ヴァーレイン]] | movement = [[象徴主義]] | signature = }} '''ポール・マリー・ヴェルレーヌ'''(Paul Marie Verlaine, [[1844年]][[3月30日]] - [[1896年]][[1月8日]])は、[[フランス]]の[[詩人]]。'''ポール・ヴェルレーヌ'''、あるいは単に'''ヴェルレーヌ'''とも呼ばれる。[[ステファヌ・マラルメ]]、[[アルチュール・ランボー]]らとともに、[[象徴派]]といわれる。多彩な韻を踏んだ約540篇の詩を残す一方で、破滅的な人生を送った。 中学卒業直後、高踏派の詩人たちと交わり、14歳でユゴーに詩作品を送った早熟の天才。『土星びとの歌』『女友だち』『よい歌』などの詩集で有名になった。 27歳のとき、16歳の少年ランボーから手紙を受け、その詩心に感心して交際する。だが意見の相違からピストルでランボーを負傷させた。有名な詩集『叡知』には服役中の心境が詠まれている。 放埒な生活は生涯なおらず、貧窮のうちに施療病院で死んだ。 == 生涯と作品 == 彼の一生には、酒・女・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在する。晩年には文名を高め[[デカダンス]]の教祖と仰がれたが、初期の作品の方が評価が高い。以下、箇条書きの部分は文学的事項である。 === 生い立ち === 1844年-1864年 ドイツに隣接する[[モゼル県]]の[[メス (フランス)|メス]]に生まれる。父はベルギー生まれのフランス軍人。母は[[パ=ド=カレー県]][[アラス]]近郊の生まれ。経済的な環境には恵まれており、父の退役後一家はパリ ([[9区 (パリ)|9区]]) に出て(7歳)、ポールは小学校の寄宿舎に入り、次いで[[リセ]]・ボナパルト (Lycée Bonaparte、現在の9区にある名門校のリセ・コンドルセ<ref>[http://lyc-condorcet.scola.ac-paris.fr/ (Lycée Condorcet )]</ref>)に、さらに修辞学級に進むが卒業には至らなかった。[[バカロレア (フランス)|大学入学試験]]に合格し(18歳)、[[パリ市庁舎|パリ市役所]]書記となる(20歳)。 * 1858年(14歳):習作を[[ヴィクトル・ユーゴー]]に送る。このころ、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の『[[悪の華]]』などの詩集を乱読する。 * 1863年(19歳):匿名で雑誌に投稿する。パリの文人らを知る。 === 青年期 === 1865年-1871年 父を喪う(21歳)。18歳の美少女マチルド・モーテ(Mathilde Mauté)と婚約し(25歳)、翌年挙式。間もなく[[普仏戦争]](1870年7月19日 - 1871年5月10日)に召集される。1871年の[[パリ・コミューン]]鎮圧(5/20 - 28)の騒擾を、パリの[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]近くの自宅で避けた。失職した。長男ジョルジュ誕生(27歳)。 * 1866年(22歳):詩人たちが原稿を持ち寄った第1次「現代高踏詩集」(Le Parnasse contemporain)に7篇を寄稿。 * 1867年(23歳):'''サテュルニアン詩集'''(Poèmes saturniens)を従姉の出資で処女出版。[[ブリュッセル]]で'''女の友達'''(Les Amies)を匿名で刊行(後に「雙心詩集」に収録)。 * 1868年(24歳):文壇の知人を増やす。「女の友達」で軽罪裁判所から断罪される。ブリュッセル在のユーゴーを訪問。 * 1869年(25歳):「よき歌」の数篇を書く。'''艶なる宴'''(Fêtes galantes)刊行。 * 1871年(27歳):第2次「現代高踏詩集」に5篇を投稿。 === ランボー === [[ファイル:Henri Fantin-Latour 005.jpg|thumb|前列左よりヴェルレーヌ、[[アルチュール・ランボー|ランボー]]、L・ヴァラード、E・デルヴィリィ、C・ペロタン、後列左よりP・エルゼアル・ボニエ、E・ブレモン、J・エカール。[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]筆|250px|right]] 1871年-1875年 結婚1年後、[[アルチュール・ランボー|ランボー]]と会い、妻に乱暴を繰り返した上で彼と同棲し、[[イギリス]]・[[ベルギー]]・北フランスを転々とする。母と妻が説得に来ても置き去りにして逃げ、妻に絶縁状を書き、ユーゴーに妻との交渉を懇願する。ロンドンで病臥し、母を呼ぶ(28歳)。ホテルで口論となったランボーをブリュッセルで購入した拳銃で2発撃ち、1発が手首に命中したが致命傷にはならなかった<ref name=afpbb1>[https://www.afpbb.com/articles/-/3109739 ランボー殺害未遂で使用の銃、5260万円で落札 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News]</ref>。この騒動により2年間収監される<ref name=afpbb1 />。この拳銃は2016年にクリスティーズで競売にかけられ、43万4500ユーロで落札された<ref name=afpbb1 />。妻の別居請求(この時点では離婚はしていない)が認められたことを獄中で知って落胆し、カトリックに帰依した。1年半後出獄し、元妻との和解を図る一方、旅先でランボーと格闘する(31歳)。 * 1872年(28歳):婚約時代のマチルドを歌った'''優しき歌'''(La Bonne chanson)、戦乱に遅れて発行。 * 1874年(30歳):獄中で書いた'''無言の恋歌'''(「言葉なき恋歌」とも/Romances sans paroles)が友人の手で刊行され、獄中の著者に届けられる。 * 1875年(31歳):第3次「現代高踏詩集」への投稿を断られる(このとき、マラルメも同じ扱いを受ける)。 === 教職と美少年 === 1875年-1885年 イギリスの中学に教職を得る(31歳)。[[アルデンヌ県]]の学校に転じ、美少年の生徒リュシアン・レチノアに惚れ、授業を降ろされる(33歳)。その後リュシアンと英国へ渡り、教職を得る。再び元妻との和解を図り、黙殺される(35歳)。リュシアンを伴い帰国し、郷里に滞在(36-37歳)。母としばらくパリに住み、市役所への復職を図るも果たせず、西郊の学校に就職(38歳)。リュシアンが死去(39歳)し、その故郷で堕落放浪の日々を送る(-40歳)。泥酔して母の首を絞めて入牢。出獄後再びリュシアンの故郷を放浪した(41歳)。 * 1881年(37歳):'''叡智'''(Sagesse)刊行、売れ行き振るわず。 * 1882年(38歳):雑誌に、「昔と近頃」の数詩篇と、獄中作の'''詩法'''(Art poétique)を発表(「詩法」は後に「昔と近頃」に併載)。 * 1884年(40歳):評論、'''呪われた詩人たち'''(Les Poètes maudits)刊行。 === 栄誉と窮乏 === 1885年-1896年 無一文でパリへ戻りホテル住まいをする。左膝を傷め、一時慈善病院へ(41歳)。経済的援助をしていた母が死去するが、病気のため葬儀に参列せず。ホテルを追い出され(42歳)て、以降慈善病院を転々とする(42歳-)。慈善病院から娼婦ウジェニー・クランツの家へ転じ、情夫となった。生活費のため、オランダへ講演旅行(48歳)。ウジェニーに駆け落ちされて慈善病院に入院し、娼婦フィロメーヌ・ブーダンに連れ出された。国内およびイギリスへ講演旅行をする(49歳)。ウジェニーと和解しまた同棲する。入院2回(50歳)。文部省から救済の500フランを受け取る。パンテオン近くの自宅<ref name="A">「パリの胃袋」として名高い[[ムフタール通り]] (Rue Mouffetard) と繋がり、名門高校([[リセ]])の[[アンリ4世校]]の裏手にあるデカルト通り (Rue Descartes) 39番地にある。この建物は現在『ヴェルレーヌの家』と呼ばれる[[レストラン]]になっているが、内装はヴェルレーヌ関係のものは一切なく映画俳優らの写真を並べたもので、価格も同じ通りのほかのレストランに倣い旅行者向けの手ごろな値段である。またこの建物の左隣には[[辻邦生]]が在住したと記した、ヴェルレーヌのものより一回り小さい記念プレートが掲げられている。</ref>で、娼婦に看取られて死去。遠からぬ[http://www.ardds.org/html/sortiesparisiennes/eglisestetiennedumont.htm サン・テチエンヌ・デュ・モン教会]で葬儀。[[マラルメ]]、フランソワ・コペー([[:fr:François Coppée]])ほか参列者多数。ただし、[[入営]]して病中にあった息子のジョルジュは不参加。パリ市[[17区 (パリ)|17区]]の[[:en:Batignolles Cemetery|バチニョル墓地(Cimetière des Batignolles)]]に埋葬(51歳)。 日本では、東大生の[[上田敏]]が、「ポオル・ヴェルレエヌ逝く」(1896)を発表した。 * 1885年(41歳):漸く文名を世に知られる。'''昔と近頃'''(Jadis et naguère)刊行。 * 1886年(42歳):雑誌に「パルジファル」(Parsifal)掲載。 * 1888年(44歳):'''愛の詩集'''(Amour)刊行。 * 1889年(45歳):'''雙心詩集'''(Parallèlement)刊行。 * 1890年(46歳):'''献書詩集'''(Dédicaces)予約出版。 * 1891年(47歳):文名ますます高まる。「人さまざま」(Les Une et les Autres)上演。'''幸福'''(Bonheur)、「ヴェルレーヌ選集」、'''女に捧げる歌'''(Chansons pour elle)刊行。 * 1892年(48歳):'''我が病院'''(Mes hôpitaux)、'''内なる祈祷の書'''(Liturgies intimes)刊行。 * 1893年(49歳):プリューム(La Plume)誌の第8回饗宴の座長を務める。[[アカデミー・フランセーズ]]の会員に立候補し、取り消す。'''哀歌'''(Élégies)、'''その名誉を讃える歌'''(Odes en son honneur)、'''獄中記'''(Mes prisons)、'''オランダ15日'''(Quinze jours en Hollande)刊行。 * 1894年(50歳):'''奈落の底'''(Dans les limbes)刊行。[[シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール]]の後任として、「詩王」(Prince de Poéte)に選ばれる。'''エピグラム'''(Épigrammes)刊行。 * 1895年(51歳):'''懺悔録'''(Confessions)刊行。「失意」Désappointement執筆。 ==日本語文献== *主な日本語訳 ** 「[[海潮音 (詩集)|海潮音]]」、[[上田敏]]訳、本郷書院(1905年) → 新潮文庫(改版2006年)ISBN 9784101194011 ** 「珊瑚集」、[[永井荷風]]訳、籾山書店(1913年) → 岩波文庫(改版1991年)ISBN 978-4003104163 ** 「ヴェルレエヌ詩集」、[[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]訳、創元社(1947年)(詳細な年譜あり) → 岩波文庫(改版2004年)ISBN 9784003254714 →「全集 2 訳詩編」[[大修館書店]] **「叡智」、[[河上徹太郎]]訳、芝書店(1935年)→ 新潮文庫(復刊1994年)ISBN 9784102171028 →「全集 7 翻訳編」勁草書房 ** 「ヴェルレーヌ詩集」、[[堀口大學]]訳、[[新潮社]] 世界詩人全集8 (1937年) → 新潮文庫(改版2007年)ISBN 9784102171011 →「全集 3 訳詩編」小澤書店 ** 「ヴェルレーヌ詩集」、[[野村喜和夫]]編訳、[[思潮社]]「海外詩文庫」(1995年) 新書版 ** 「呪われた詩人たち」、倉方健作訳、[[幻戯書房]]〈ルリユール叢書〉(2019年) *主な伝記研究 ** 『堀口大學全集 5 ヴェルレーヌ研究』 [[小澤書店]](1983年) ** ピエール・プチフィス 『ポール・ヴェルレーヌ』、[[平井啓之]]・野村喜和夫訳、[[筑摩書房]](1988年) ** [[アンリ・トロワイヤ]] 『ヴェルレーヌ伝』、[[沓掛良彦]]・中島淑恵訳、[[水声社]](2006年) ** [[野内良三]] 『ヴェルレーヌ 人と思想』 [[清水書院]] (1993年、新版2016年) 新書版 == 歌曲 == 以下の作曲家がヴェルレーヌの詩をもとにした歌曲を残している。 * [[エルネスト・ショーソン]] - 『4つの歌曲』から1篇、『ヴェルレーヌの2つの詩』から2篇 ** 「安らぎ」op.13 (1885年) ** 「いと優しき歌」op.34 (1889年) ** 「不運な騎士」op.34 (1889年) * [[ガブリエル・フォーレ]] - 『艶なる宴』から4篇、『言葉なき恋歌』から2篇、『優しき歌』から9編、他 ** 「月の光」Op.46-2(1887年) ** 「憂鬱」op.51-3(1889年) ** 歌曲集『5つのヴェネツィアの歌』Op.58(1891年、5曲) *** 「マンドリン」「ひめやかに」「グリーン」「クリメーヌへ」「やるせない夢心地」 ** 歌曲集『優しき歌』op.61(1891年 - 1892年、9曲) *** 「後光を背負った聖女」「暁の光は広がり」「白い月影は森に照り」「私はつれない道を歩む」「私は本当に恐ろしいほど」「暁の星よ、お前が消える前に」「それはある夏の明るい日」「そうでしょう?」「冬が終わって」 ** 「牢獄」Op.83-1(1895年) * [[クロード・ドビュッシー]] - 『艶なる宴』から9篇、『言葉なき恋歌』から6篇、『叡智』から3篇 ** 「操り人形」(1882年) ** 「ひめやかに」(1882年) ** 「マンドリン」(1882年) ** 「パントマイム」(1882年) ** 「月の光」(1882年) ** 歌曲集『忘れられたアリエッタ』(1886年 - 1889年、6曲) *** 「やるせない夢心地」「巷に雨の降るごとく」「木陰にて」「木馬」「緑」「憂鬱」 ** 歌曲集『[[艶なる宴 (ドビュッシー)|艶なる宴]]』第1集(1891年、3曲) *** 「ひめやかに」「操り人形」「月の光」 ** 歌曲集『3つの歌曲』(1891年、3曲) *** 「海はさらに美しく」「角笛の音は悲しく」「垣根のつらなり」 ** 歌曲集『[[艶なる宴 (ドビュッシー)|艶なる宴]]』第2集(1894年、3曲) *** 「無邪気な人たち」「牧神」「感傷的な対話」 * [[モーリス・ラヴェル]] - 『艶なる宴』から1編、『叡智』から1篇 ** 「暗く果てしない眠り」(1895年) ** 「草の上で」(1907年) == 肖像画 == <gallery widths="160px" heights="160px"> File:Frédéric Bazille - Paul Verlaine.jpg|1844-1877年<br>[[ギュスターヴ・クールベ]]画 File:CarrierePortraitVerlain.jpg|1890年<br>[[ウジェーヌ・カリエール]]画 File:Paul Verlaine-Edmond Aman-Jean mg 9503.jpg|1892年<br>[[エドモン=フランソワ・アマン=ジャン]]画 File:Paul Verlaine-Edouard Chantalat mg 9502.jpg|1898年<br>エドゥアール・シャンタラ画 </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wikisourcelang|fr|Auteur:Paul Verlaine|ポール・ヴェルレーヌ}} {{Commonscat|Paul Verlaine}} * [[太陽と月に背いて]] * [[月の光 (詩)]] * [[秋の歌 (詩)]] * [[トム・ヴァーレイン]] == 外部リンク == * [http://www.poesie.webnet.fr/lesgrandsclassiques/recherche.php?nbRechercheDunAuteur=1&Auteur=VERLAINE%20Paul&Pays=8FR&Age=18&Vers=&Titre=&mots_entiers=l ヴェルレーヌの多くの詩] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うえるれえぬ ほおる}} [[Category:ポール・ヴェルレーヌ|*]] [[Category:19世紀フランスの詩人]] [[Category:パリ・コミューン]] [[Category:象徴派の詩人]] [[Category:LGBTの詩人]] [[Category:フランス出身のLGBTの著作家]] [[Category:両性愛の人物]] [[Category:メス出身の人物]] [[Category:1844年生]] [[Category:1896年没]]
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カラット
カラット(carat、記号: ct、car)は、宝石の質量単位、または金の純度を示す単位である。 カラットは、ダイヤモンドなどの宝石の質量を表す単位である。現在は、1カラット=200ミリグラム(=0.2グラム)と定義されている。 カラットは国際単位系 (SI) の単位ではなく、SIと併用してよい単位ともされていない。しかし、宝石の計量単位として国際的に使われていることから、日本の計量法では「宝石の質量の計量」に限定して使用できる法定計量単位となっている。 カラットの単位記号は、「ct」である。「car」の記号は計量法上は認められていない。 分量単位としてポイントがあり、1 ポイント = 1/100 カラットであるが、計量法上は用いることはできない。 宝石の取引は、厳密には定められた基準をクリアした計量器で計量されたカラット単位を示すことしか認められていないが、ミネラルショーなどでは簡易型の計量器が慣習的に使われていることが多い。 カラット、カット、カラー、クラリティ(透明度)の4つがダイヤモンドの品質を決めるとされ、「4C」と総称される。 ヨーロッパ各言語で似た語が使われるが、英語のcaratの直接の由来は中世フランス語のcaratで、その由来はイタリア語のcaratoである。 それはさらに、アラビア語のقيراط(qīrāṭ、デイゴ)に由来するが、これもまた借用語で、古代ギリシャ語のκερατιον(keration、イナゴマメ)が語源である。イナゴマメは一粒ごとの質量のバラツキは少ないため、計測には向いていた。宝石の質量を表すのに用いられた「デイゴ(イナゴマメ)何粒分の質量か」という単位が起源だとされる。しかしイナゴマメも自然産物なので多少の誤差が出るという問題点もあった。 イギリスでは後にヤード・ポンド法のグレーンと関連づけられ、1888年以前には、3.169 95 グレーン (= 約 205.409 mg)であったが、1888年に、3.168 32 グレーン (= 205.304 mg) となった。しかし、これ以外にも様々に定義されており、1907年以前には、少なくとも23種類のカラットがあり、それらは 187.00 mg から 215.990 mg の範囲に亘っていた。このため1907年のメートル条約の会議で1カラット=0.2 g(200ミリグラム)に統一された。当初は、他のカラットと区別するために、メートル系カラット(metric carat)とも呼ばれていた。 カラット(米国: karat、記号: K、kt、英仏: carat、記号: ct)は、金製品の金の純度を質量の24分率で示す単位である。日本では「金」という略称で、24金や18金などと呼ばれることもある。 語源は質量のカラットと同じである。 質量の単位が純度に使われるようになった理由は、中世に質量24カラットのマルク金貨が作られた時、その純金含有量をカラットで表したためである。
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カラットは、宝石の質量単位、または金の純度を示す単位である。
{{Otheruses||音楽ユニット|Carat}} '''カラット'''(carat、記号: ct、car)は、[[宝石]]の[[質量]][[単位]]、または[[金]]の[[純度]]を示す単位である。 == 宝石の質量単位 == {{単位 | 名称 = カラット (carat) | 読み = | フランス語 = | 英語 = | 英字 = | 他言語 = | 画像 = [[ファイル:Brillanten.jpg|250px|ダイヤモンド]] | 記号 = ct(計量法上の記号), car | 度量衡 = | 単位系 = [[非SI単位]](特殊の計量に用いる[[法定計量単位]]) | 物理量 = [[質量]] | SI = | 組立 = | 定義 = 200mg(正確に) | 由来 = | 語源 = }} '''カラット'''は、[[ダイヤモンド]]などの[[宝石]]の[[質量]]を表す[[単位]]である。現在は、1カラット=200[[ミリグラム]]<SMALL>(=0.2[[グラム]])</SMALL>と定義されている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357&openerCode=1#82 計量単位令 別表第6] 項番3 カラット 「キログラムの0.0002倍」となっている。</ref>。 カラットは[[国際単位系]] (SI) の単位ではなく、SIと併用してよい単位ともされていない。しかし、宝石の[[計量]]単位として国際的に使われていることから、[[日本]]の[[計量法]]では「宝石の質量の計量」に限定して使用できる[[法定計量単位]]となっている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357&openerCode=1#82 計量単位令 別表第6] 項番3</ref>。 カラットの単位記号は、「ct」である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#93 計量単位規則 別表第4] 宝石の質量の計量 カラット 「ct」とある。</ref>。「car」の記号は計量法上は認められていない。 [[分量]]単位としてポイントがあり、1 ポイント = 1/100 カラットであるが、計量法上は用いることはできない。 宝石の取引は、厳密には定められた基準をクリアした[[計量器]]で[[計量]]されたカラット単位を示すことしか認められていないが、ミネラルショーなどでは簡易型の計量器が慣習的に使われていることが多い。 カラット、カット、カラー、クラリティ(透明度)の4つが[[ダイヤモンド]]の品質を決めるとされ、「[[4C (ダイヤモンド)|4C]]」と総称される。 === 語源・歴史 === ヨーロッパ各言語で似た語が使われるが、英語のcaratの直接の由来は[[中世フランス語]]のcaratで、その由来は[[イタリア語]]のcaratoである。 それはさらに、[[アラビア語]]のقيراط(qīrāṭ、[[デイゴ]])に由来するが、これもまた借用語で、[[古代ギリシャ語]]のκερατιον(keration、[[イナゴマメ]])が語源である。イナゴマメは一粒ごとの質量のバラツキは少ないため、計測には向いていた。宝石の質量を表すのに用いられた「デイゴ(イナゴマメ)何粒分の質量か」という単位が起源だとされる<ref>{{Cite book|和書|author=小谷太郎|authorlink=小谷太郎|title=[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] 単位と定数のはなし|publisher=ナツメ社}}</ref>。しかしイナゴマメも自然産物なので多少の誤差が出るという問題点もあった。 イギリスでは後に[[ヤード・ポンド法]]の[[グレーン]]と関連づけられ、1888年以前には、3.169 95 グレーン (= 約 205.409 mg)であったが、1888年に、3.168 32 グレーン (= 205.304 mg) となった<ref>mg への換算は、1958年以降の換算値である 1 グレーン = 64.798 91 mg による。</ref>。しかし、これ以外にも様々に定義されており、1907年以前には、少なくとも23種類のカラットがあり、それらは 187.00 mg から 215.990 mg の範囲に亘っていた<ref>[https://link.springer.com/article/10.1007/BF02843332 On the origin of the carat as the unit of weight for gemstones] Tao Zhengzhang, Chinese Journal of Geochemistry, July 1991, Volume 10, Issue 3, pp 288–293 </ref>。このため[[1907年]]の[[メートル条約]]の会議で1カラット=0.2 g(200[[ミリグラム]])に統一された。当初は、他のカラットと区別するために、メートル系カラット(metric carat)とも呼ばれていた。 == 金の純度の単位 == {{単位 | 名称 = カラット | 読み = | フランス語 = carat | 英語 = karat, carat | 英字 = | 他言語 = | 画像 = | 記号 = K, kt, ct | 度量衡 = | 単位系 = | 物理量 = 金の純度 | SI = | 組立 = | 定義 = 1/24 | 由来 = | 語源 = }} {{Main|金#純度}} '''カラット'''(米国: karat、記号: K、kt、英仏: carat、記号: ct)は、金製品の金の純度を質量の24分率で示す単位である。日本では「金」という略称で、24金や18金などと呼ばれることもある。 === 語源・歴史 === 語源は質量のカラットと同じである。 質量の単位が純度に使われるようになった理由は、[[中世]]に質量24カラットの[[マルク (通貨)|マルク]]金貨が作られた時、その純金含有量をカラットで表したためである<ref>[https://www.britannica.com/technology/karat ENCYCLOPÆDIA BRITANNICA - Karat (gold measurement)]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|Carat}} --> {{ウィキポータルリンク|鉱物・宝石|[[画像:HVBriljant.PNG|34px|Portal:鉱物・宝石]]}} * [[計量単位一覧]] * [[単位の換算一覧]] * [[イナゴマメ]] * [[からっと]] (曖昧さ回避) == 外部リンク == {{節スタブ}} <!-- {{Cite web}} --> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:からつと}} [[Category:質量の単位]] [[Category:割合の単位]] [[Category:宝石]] [[Category:金]] [[Category:アラビア語の語句]]
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国際連合安全保障理事会決議1284
国際連合安全保障理事会決議1284(こくさいれんごうあんぜんほしょうりじかいけつぎ1284、英: United Nations Security Council Resolution 1284)は、1999年12月17日に国際連合安全保障理事会で採択されたイラク情勢に関する決議。略称はUNSCR1284。 国連安保理決議1284は、イラクの武装解除問題に関する決議で、条件付きで経済制裁の一時停止を盛り込むとともに国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)に代わり国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)の設置を決定するもの。 決議は賛成11:反対0:棄権4(中国、フランス、マレーシア、ロシア)で採択された。
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逮捕
逮捕(たいほ、英: arrest)とは、犯罪に関する被疑者の身体的拘束の一種。 逮捕の意味は各国での刑事手続の制度により大きく異なる。英米法における逮捕は裁判官に引致するための制度であり、日本法では勾留請求は逮捕とは異なる新たな処分とされているから、英米法の逮捕と日本法の逮捕とは全く制度を異にする。日本法における逮捕は捜査官のいる場所への引致である。 逮捕は、捜査機関または私人が被疑者の逃亡及び罪証隠滅を防止するため強制的に身柄を拘束する行為である。 現行法上、逮捕による身柄の拘束時間は原則として警察で身柄拘束時から48時間・検察で身柄の受け取りから24時間、または身柄拘束時から合計72時間(検察官による逮捕の場合は身柄拘束時から48時間)である。 なお、検挙は刑訴法上の用語ではなく、捜査機関が被疑者を逮捕するなどして、捜査手続を行うことを指す。広義には、書類送検または微罪処分を行った場合も含む。 逮捕の諸原則として逮捕前置主義・事件単位の原則・逮捕勾留一回性の原則がある。 現行法上、逮捕には通常逮捕、緊急逮捕、現行犯逮捕の3種類がある。 通常逮捕とは、事前に裁判官から発付された令状(逮捕状)に基づいて、被疑者を逮捕することである(憲法33条、刑訴法199条1項)。これが逮捕の原則的な法的形態となる。 逮捕状の請求権者は、検察官または司法警察員である(刑訴法199条2項)。逮捕状の請求があったときは、裁判官が逮捕の理由(「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」。嫌疑の相当性)と逮捕の必要を審査して、逮捕状を発付するか(同条、刑訴規143条)、請求を却下するか判断する。ただし、法定刑の軽微な事件については、被疑者が住居不定の場合または正当な理由がなく任意出頭の求めに応じない場合に限る(刑訴法199条1項)。裁判官は、必要であれば、逮捕状の請求をした者の出頭を求めてその陳述を聴き、またはその者に対し書類その他の物の提示を求めることができる(刑訴規143条の2)。 逮捕状により被疑者を逮捕するには、逮捕状を被疑者に示さなければならない(刑訴法201条1項)。逮捕状を所持しないためこれを示すことができない場合において、急速を要するときは、被疑者に対し被疑事実の要旨及び令状が発せられている旨を告げて、その執行をすることができる(同条2項・73条3項。緊急執行)。ただし、令状は、できる限り速やかにこれを示さなければならない(同条2項・73条3項ただし書)。 明文規定はないものの、逮捕に際しては社会通念上逮捕のために必要かつ相当と認められる限度で実力行使が認められると解されている。反抗を制圧し、手錠をかけ、腰縄をつけることなどがこれに当たる。このように、実力行使は警察比例の原則に基づいて認められるため、逮捕されたからといって必ずしも手錠がかけられるわけではない。一般には逮捕状を呈示し被疑事実と執行時刻を確認・読み上げて連行する形が執られる。 検察官、検察事務官または司法警察職員は、死刑または無期もしくは長期3年以上の懲役もしくは禁錮にあたる罪を犯したことを疑うに足りる充分な理由がある場合で、急速を要し、裁判官の逮捕状を求めることができないときは、その理由を告げて被疑者を逮捕することができる(刑事訴訟法210条1項)。これを緊急逮捕という。 緊急逮捕した場合には、直ちに裁判官の逮捕状を求める手続をしなければならず、逮捕状が発せられないときは、直ちに被疑者を釈放しなければならない(刑事訴訟法210条1項)。 現に罪を行い、または現に罪を行い終った者を現行犯人という(刑事訴訟法212条1項)。また、刑事訴訟法に定められた罪を行い終ってから間がないと明らかに認められる者も現行犯人とみなされる(準現行犯、刑事訴訟法212条2項)。現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる(刑事訴訟法213条)。 検察官、検察事務官および司法警察職員以外の者は、現行犯人を逮捕したとき(これを実務上、私人逮捕という)は、直ちにこれを地方検察庁もしくは区検察庁の検察官または司法警察職員に引き渡さなければならない(刑事訴訟法214条)。 欧州連合加盟国は各国が司法制度を運用しており、多数の異なる司法制度が並行して存在している。 しかし、国際犯罪等に対応するため刑事分野での実質的協力として欧州逮捕状(European arrest warrant)の制度が設けられており、承認に膨大な時間がかかっていた犯罪人引き渡し手続きに代わる制度として2004年1月に導入された。また、刑事分野での実質的協力として、2003年、ハーグ(オランダ)に各加盟国の捜査・検察当局が犯罪捜査で協働できるようにするためユーロジャスト(Eurojust)が設立された。なお、ユーロジャストを基盤に、EUの経済利益を損なう犯罪を捜査し犯罪者を起訴する役割を担う欧州検察庁が設立された。 2012年のEU指令(指令2012/13/EU)は、被疑者・被告人の権利及び欧州逮捕令状の対象とされる者の権利について規定する。2010年7月20日に欧州委員会によって「刑事手続きにおける情報に対する権利に関する指令提案」として提出され、2012年5月22日に欧州議会及び理事会によって「指令2012/13/EU」として採択され、同年6月1日に公布された。 本指令は全14条で第4条で「逮捕に関する権利の通知状」、第5条で「欧州逮捕令状手続きにおける権利の通知状」について規定する。 英米法における逮捕は被疑者を裁判官に引致するための制度である。 また、アメリカでも講学上または一般用語として「現行犯逮捕」が用いられることもあるが、一般にはarrest with warrant(令状逮捕)とarrest without warrant(無令状逮捕)という区別で議論されることのほうが多い。そもそもアメリカの刑事手続では重罪(felony)とされる犯罪について広い範囲で無令状逮捕(arrest without warrant)が認められており、例えば強盗事件では相当の理由(probable cause)があれば事件から1週間を経過していても無令状で逮捕できる。 アメリカでも逮捕は令状主義が原則であるが、合衆国憲法では厳格な令状主義はとられておらず、連邦最高裁が重罪(felony)とされる犯罪については犯人であると信ずる「相当な理由」(Probable cause)があれば令状なく逮捕できるとしているため、実際には、原則と例外が逆転しており、逮捕(Arrest)のほとんどは無令状逮捕(arrest without warrant)であるとされる。ただし、アメリカの刑事手続では逮捕後24時間以内(州によっては最大72時間以内)に捜査を終了させ身柄を裁判所に引き渡す必要がある。 アメリカの刑事手続では逮捕に関しては比較的緩やかな基準で許容される一方、逮捕後には直ちに裁判所が関与してその正当性が審査されるという制度がとられている。裁判官による逮捕の相当性の審査は逮捕前の事前審査よりも逮捕後の事後審査のほうに重点を置いた制度となっている。 自宅拘禁(英語版)は逮捕されないままの書類送検・在宅起訴とは異なり、裁判前の自宅での未決拘禁であって勾留・収監の代用である。基本的には外出や旅行が制限され電子監視(英語版)が行われるが、拘禁の期間は未決勾留期間として刑期から差し引かれる。自宅拘禁は中世においては主に反体制活動の抑止に用いられており、ガリレオ・ガリレイも自宅拘禁されたが、20世紀末の監視カメラの発達により、一般犯罪者の拘禁費用の抑制のためにも自宅拘禁手続が各国に広まった。アメリカでは裁判所の許可を得れば、門限の間は通勤やリハビリテーション通院なども認められる。日本では法務省法制審議会が、GPS装置の装着義務付けを含め「電子監視制度」導入の検討を行っている段階である。 国際刑事裁判所の刑事手続では、予審裁判部が、検察官の要請により、捜査のために必要とされる命令及び令状を発する権限を有する(国際刑事裁判所に関するローマ規程第57条3)。 被疑者の身柄確保は、捜査の開始後、検察官の請求により予審裁判部が被疑者に係る逮捕状を発付して行う(国際刑事裁判所に関するローマ規程第58条1)。ただし、任意出頭が確保できる場合には、検察官は、逮捕状を求めることに代わるものとして、被疑者に出頭を命ずる召喚状の発付を予審裁判部に請求することができる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第58条7)。 逮捕状の執行は被請求国の司法制度が機能している限りは、国際刑事裁判所への国際協力・司法上の援助として実行される。 なお、国際刑事裁判所は、原則として、被請求国に対して国家又は外交上の免除に関する国際法に基づく義務に違反することとなる引渡しの請求を求めることができない(国際刑事裁判所に関するローマ規程第98条)。自国に滞在する外交官の外交特権などを考慮したものである。 逮捕された被疑者は、本来ならば、市民的及び政治的権利に関する国際規約第14条2項にもあるように、刑事上の事実認定や法上の取り扱いにおいて無罪を推定されているべき立場である。 しかし、「逮捕 = 犯罪者」という誤解が広く根付いており、日本においては特にその傾向が顕著である。そのため、企業にとっては、関係者が逮捕されれば自社の評判が落ちること必至であることから、誤認逮捕の場合や無罪となるべき場合であっても、被逮捕者の人権を軽視した対応を取りがちになり、トラブルになりやすいという問題がある。 たとえば、不動産賃貸借契約において逮捕された場合は賃借人は退去する旨の条項を設け、逮捕された時点で入居者を強制的に退去させようとしてトラブルになることなどが考えられる。ただし、無罪推定の原則および信頼関係破壊の法理により、そのような解除の主張は法的に有効とならないことが多いと考えられる。 拘置所や留置場では被疑者が違法な物品を施設内に持ち込まないように身体検査の一種である検身がおこなわれる。なかには体腔検査が行われることがあるが、その妥当性について米国で問題になった事例がある。 逮捕歴があると入国が認められなかったり、査証(ビザ)の免除が受けられない国がある。例えば米国のビザ免除プログラムは逮捕歴のある者には適用されないため、逮捕歴のある者は入国に先立って査証を取得する必要がある。 人種差別が根強い米国では、白人警官が黒人の市民を狙うようにして、さしたる理由もなく逮捕したり再逮捕する、ということが高頻度で起きている。
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犯罪者」という誤解が広く根付いており、日本においては特にその傾向が顕著である。そのため、企業にとっては、関係者が逮捕されれば自社の評判が落ちること必至であることから、誤認逮捕の場合や無罪となるべき場合であっても、被逮捕者の人権を軽視した対応を取りがちになり、トラブルになりやすいという問題がある。", "title": "人権との関係" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "たとえば、不動産賃貸借契約において逮捕された場合は賃借人は退去する旨の条項を設け、逮捕された時点で入居者を強制的に退去させようとしてトラブルになることなどが考えられる。ただし、無罪推定の原則および信頼関係破壊の法理により、そのような解除の主張は法的に有効とならないことが多いと考えられる。", "title": "人権との関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "拘置所や留置場では被疑者が違法な物品を施設内に持ち込まないように身体検査の一種である検身がおこなわれる。なかには体腔検査が行われることがあるが、その妥当性について米国で問題になった事例がある。", "title": "人権との関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "逮捕歴があると入国が認められなかったり、査証(ビザ)の免除が受けられない国がある。例えば米国のビザ免除プログラムは逮捕歴のある者には適用されないため、逮捕歴のある者は入国に先立って査証を取得する必要がある。", "title": "人権との関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "人種差別が根強い米国では、白人警官が黒人の市民を狙うようにして、さしたる理由もなく逮捕したり再逮捕する、ということが高頻度で起きている。", "title": "人権との関係" } ]
逮捕とは、犯罪に関する被疑者の身体的拘束の一種。 逮捕の意味は各国での刑事手続の制度により大きく異なる。英米法における逮捕は裁判官に引致するための制度であり、日本法では勾留請求は逮捕とは異なる新たな処分とされているから、英米法の逮捕と日本法の逮捕とは全く制度を異にする。日本法における逮捕は捜査官のいる場所への引致である。
{{Otheruseslist|犯罪に関する被疑者の身体的拘束としての'''逮捕'''(各国の逮捕制度)|日本の刑事手続上の'''逮捕'''|逮捕 (日本法)|逮捕監禁罪の構成要件である'''逮捕'''|逮捕・監禁罪}} [[File:Danish police arrest.jpg|thumb|right|[[コペンハーゲン]]における逮捕の例]] [[File:Arrestation lmpt.jpg|thumb|right|[[フランス]]における逮捕]] [[File:ICE.XCheckII.3cops1arrest.jpg|thumb|right|[[アメリカの警察]]による逮捕の例]] '''逮捕'''(たいほ、{{Lang-en-short|arrest}})とは、[[犯罪]]に関する被疑者の身体的拘束の一種。 逮捕の意味は各国での[[刑事手続]]の制度により大きく異なる。[[英米法]]における逮捕は[[裁判官]]に引致するための制度であり、日本法では[[勾留]]請求は逮捕とは異なる新たな処分とされているから、英米法の逮捕と日本法の逮捕とは全く制度を異にする{{Sfn|平野龍一|1958|p=99}}。日本法における逮捕は捜査官のいる場所への引致である{{Sfn|河上和雄|渡辺咲子|2012|p=190}}。 == 日本法 == {{Law|section=1}} {{日本の刑事手続}} {{Main|逮捕 (日本法)}} 逮捕は、[[捜査#捜査機関|捜査機関]]または[[私人]]が[[被疑者]]の[[逃亡]]及び[[犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪|罪証隠滅]]を防止するため強制的に身柄を拘束する行為である。 現行法上、逮捕による身柄の拘束時間は原則として[[日本の警察|警察]]で身柄拘束時から48時間・[[検察庁|検察]]で身柄の受け取りから24時間、または身柄拘束時から合計72時間([[検察官]]による逮捕の場合は身柄拘束時から48時間)である。 なお、'''検挙'''は[[刑事訴訟法|刑訴法]]上の用語ではなく、捜査機関が被疑者を逮捕するなどして、[[刑事手続|捜査手続]]を行うことを指す。広義には、[[書類送検]]または[[微罪処分]]を行った場合も含む<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E6%8C%99-491647 |title=検挙 |work=コトバンク |accessdate=2019-06-13 }}</ref>。 === 諸原則 === 逮捕の諸原則として[[逮捕前置主義]]・事件単位の原則・逮捕勾留一回性の原則がある。 === 種類 === 現行法上、逮捕には通常逮捕、緊急逮捕、現行犯逮捕の3種類がある。 ==== 通常逮捕 ==== 通常逮捕とは、事前に[[裁判官]]から発付された[[令状]](逮捕状)に基づいて、被疑者を逮捕することである([[日本国憲法第33条|憲法33条]]、[[刑事訴訟法|刑訴法]]199条1項)。これが逮捕の原則的な法的形態となる。 逮捕状の請求権者は、[[検察官]]または[[司法警察員]]<ref group="注釈">[[日本の警察官|警察官]]たる司法警察員については、[[国家公安委員会]]または[[公安委員会|都道府県公安委員会]]が指定する[[警部]]以上の者に限る。</ref>である(刑訴法199条2項)。逮捕状の請求があったときは、裁判官が'''逮捕の理由'''(「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」。嫌疑の相当性)と'''逮捕の必要'''を審査して、逮捕状を発付するか(同条、[[刑事訴訟規則|刑訴規]]143条)、請求を却下するか判断する。ただし、法定刑の軽微な事件<ref group="注釈">30万円([[刑法 (日本)|刑法]]、[[暴力行為等処罰ニ関スル法律|暴力行為等処罰に関する法律]]及び[[経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律|経済関係罰則の整備に関する法律]]の罪以外の罪については、当分の間、2万円)以下の[[罰金]]、[[拘留]]又は[[科料]]に当たる罪に関する被疑事件。</ref>については、被疑者が住居不定の場合または正当な理由がなく[[任意同行|任意出頭]]の求めに応じない場合に限る(刑訴法199条1項)。裁判官は、必要であれば、逮捕状の請求をした者の出頭を求めてその陳述を聴き、またはその者に対し書類その他の物の提示を求めることができる(刑訴規143条の2)。 逮捕状により被疑者を逮捕するには、逮捕状を被疑者に示さなければならない(刑訴法201条1項)。逮捕状を所持しないためこれを示すことができない場合において、急速を要するときは、被疑者に対し被疑事実の要旨及び令状が発せられている旨を告げて、その執行をすることができる(同条2項・73条3項。緊急執行)。ただし、令状は、できる限り速やかにこれを示さなければならない(同条2項・73条3項ただし書)。 明文規定はないものの、逮捕に際しては社会通念上逮捕のために必要かつ相当と認められる限度で実力行使が認められると解されている<ref>{{Cite 判例検索システム | 事件名 = 傷害被告事件 | 裁判所 = 最高裁判所 | 法廷 = 第一小法廷 | 裁判形式 = 判決 | 裁判年 = 1975 | 裁判月 = 4 | 裁判日 = 3 | 事件番号 = 昭和48(あ)722 | 全文URI = https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/067/051067_hanrei.pdf | 検索結果詳細画面URI = https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51067 | 閲覧日時 = 2021-03-15 }}</ref>。反抗を制圧し、[[手錠]]をかけ、腰縄をつけることなどがこれに当たる。このように、実力行使は[[警察比例の原則]]に基づいて認められるため、逮捕されたからといって必ずしも手錠がかけられるわけではない。一般には逮捕状を呈示し被疑事実と執行時刻を確認・読み上げて連行する形が執られる。 ==== 緊急逮捕 ==== 検察官、検察事務官または司法警察職員は、死刑または無期もしくは長期3年以上の懲役もしくは禁錮にあたる罪を犯したことを疑うに足りる充分な理由がある場合で、急速を要し、裁判官の逮捕状を求めることができないときは、その理由を告げて被疑者を逮捕することができる(刑事訴訟法210条1項)。これを緊急逮捕という。 緊急逮捕した場合には、直ちに裁判官の逮捕状を求める手続をしなければならず、逮捕状が発せられないときは、直ちに被疑者を釈放しなければならない(刑事訴訟法210条1項)。 ==== 現行犯逮捕 ==== 現に罪を行い、または現に罪を行い終った者を[[現行犯人]]という(刑事訴訟法212条1項)。また、刑事訴訟法に定められた罪を行い終ってから間がないと明らかに認められる者も現行犯人とみなされる(準現行犯、刑事訴訟法212条2項)。現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる(刑事訴訟法213条)。 [[検察官]]、[[検察事務官]]および[[司法警察職員]]以外の者は、現行犯人を逮捕したとき(これを実務上、私人逮捕という)は、直ちにこれを[[地方検察庁]]もしくは[[区検察庁]]の検察官または司法警察職員に引き渡さなければならない(刑事訴訟法214条)。 == EU法 == === 欧州逮捕令状等 === [[欧州連合]]加盟国は各国が司法制度を運用しており、多数の異なる司法制度が並行して存在している<ref name="EU">{{Cite web|和書|author= パスカル・フォンテーヌ |url=https://www.waseda.jp/fpse/winpec/assets/uploads/2014/05/COM-10-004_12lessons_JP_V04_web.pdf|title=EUを知るための12章|publisher=早稲田大学 |accessdate=2020-02-14}}</ref>。 しかし、国際犯罪等に対応するため刑事分野での実質的協力として欧州逮捕状(European arrest warrant)の制度が設けられており、承認に膨大な時間がかかっていた犯罪人引き渡し手続きに代わる制度として2004年1月に導入された<ref name="EU" />。また、刑事分野での実質的協力として、2003年、[[ハーグ]]([[オランダ]])に各加盟国の捜査・検察当局が犯罪捜査で協働できるようにするため[[ユーロジャスト]](Eurojust)が設立された<ref name="EU" />。なお、ユーロジャストを基盤に、EUの経済利益を損なう犯罪を捜査し犯罪者を起訴する役割を担う[[欧州検察庁]]が設立された<ref name="EU" />。 === EU指令 === 2012年のEU指令(指令2012/13/EU)は、被疑者・被告人の権利及び欧州逮捕令状の対象とされる者の権利について規定する<ref name="urakawa">{{Cite journal|和書|author=浦川紘子 |title=EU「自由・安全・司法の地域」における刑事司法協力関連立法の制度的側面 : 被疑者・被告人の権利に関する2つの指令を手掛かりとして |url=https://hdl.handle.net/10367/5505 |journal=立命館国際地域研究 |publisher=立命館大学国際地域研究所 |year=2013 |month=oct |issue=38 |pages=37-52 |naid=110009632474 |issn=0917-2971|accessdate=2020-08-12}}</ref>。2010年7月20日に欧州委員会によって「刑事手続きにおける情報に対する権利に関する指令提案」として提出され、2012年5月22日に欧州議会及び理事会によって「指令2012/13/EU」として採択され、同年6月1日に公布された<ref name="urakawa" />。 本指令は全14条で第4条で「逮捕に関する権利の通知状」、第5条で「欧州逮捕令状手続きにおける権利の通知状」について規定する<ref name="urakawa" />。 == 英米法 == 英米法における逮捕は被疑者を裁判官に引致するための制度である{{Sfn|平野龍一|1958|p=99}}。 ===令状の有無=== また、アメリカでも講学上または一般用語として「現行犯逮捕」が用いられることもあるが、一般には'''arrest with warrant'''('''令状逮捕''')と'''arrest without warrant'''('''無令状逮捕''')という区別で議論されることのほうが多い{{Sfn|日本弁護士連合会刑事弁護センター|1998|p=16|ps= 「アメリカの刑事手続概説」茅沼英幸執筆部分}}。そもそもアメリカの刑事手続では重罪(felony)とされる犯罪について広い範囲で無令状逮捕(arrest without warrant)が認められており、例えば強盗事件では相当の理由(probable cause)があれば事件から1週間を経過していても無令状で逮捕できる{{Sfn|日本弁護士連合会刑事弁護センター|1998|p=16|ps= 「アメリカの刑事手続概説」茅沼英幸執筆部分}}。 ===短い逮捕期間、事後審査重視=== アメリカでも逮捕は令状主義が原則であるが、合衆国憲法では厳格な令状主義はとられておらず、連邦最高裁が重罪(felony)とされる犯罪については犯人であると信ずる「相当な理由」(Probable cause)があれば令状なく逮捕できるとしているため、実際には、原則と例外が逆転しており、逮捕(Arrest)のほとんどは[[無令状逮捕]](arrest without warrant)であるとされる{{Sfn|日本弁護士連合会刑事弁護センター|1998|p=16|ps= 「アメリカの刑事手続概説」茅沼英幸執筆部分}}<ref>{{Cite web|和書|author=法務省 |url=https://www.moj.go.jp/content/000076304.pdf|title=諸外国の刑事司法制度(概要)|accessdate=2016-09-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=島伸一 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/809312.pdf|title=日本の刑事手続とアメリカ合衆国の重罪事件に関する刑事手続(軍事裁判を含む)の比較・対照及び日米地位協定17条5項(c)のいわゆる「公訴提起前の被疑者の身柄引渡し」をめぐる問題について|publisher = 神奈川県|accessdate=2016-09-17}}{{リンク切れ|date=2020年5月}}</ref>。ただし、<u>アメリカの刑事手続では逮捕後24時間以内(州によっては最大72時間以内)に捜査を終了させ身柄を裁判所に引き渡す必要がある</u>{{Sfn|日本弁護士連合会刑事弁護センター|1998|p=17|ps= 「アメリカの刑事手続概説」茅沼英幸執筆部分}}。 アメリカの刑事手続では逮捕に関しては比較的緩やかな基準で許容される一方、逮捕後には直ちに裁判所が関与してその正当性が審査されるという制度がとられている{{Sfn|日本弁護士連合会刑事弁護センター|1998|p=17|ps= 「アメリカの刑事手続概説」茅沼英幸執筆部分}}。裁判官による逮捕の相当性の審査は逮捕前の事前審査よりも逮捕後の事後審査のほうに重点を置いた制度となっている{{Sfn|日本弁護士連合会刑事弁護センター|1998|p=16|ps= 「アメリカの刑事手続概説」茅沼英幸執筆部分}}。 ===自宅拘禁=== {{仮リンク|自宅拘禁|en|House_arrest|preserve=1}}は逮捕されないままの[[書類送検]]・[[在宅起訴]]とは異なり、裁判前の自宅での[[未決拘禁]]であって[[勾留]]・[[収監]]の代用である。基本的には外出や旅行が制限され{{仮リンク|電子監視|en|Electronic monitoring in the United States|preserve=1}}が行われるが、拘禁の期間は[[未決勾留]]期間として[[刑期]]から差し引かれる<ref>[https://www.britannica.com/topic/house-arrest 「House arrest」] - [[ブリタニカ]]。</ref>。自宅拘禁は中世においては主に反体制活動の抑止に用いられており、[[ガリレオ・ガリレイ]]も自宅拘禁されたが、20世紀末の[[監視カメラ]]の発達により、一般犯罪者の拘禁費用の抑制のためにも自宅拘禁手続が各国に広まった。アメリカでは裁判所の許可を得れば、門限の間は通勤やリハビリテーション通院なども認められる。日本では[[法務省]][[法制審議会]]が、[[GPS]]装置の装着義務付けを含め「電子監視制度」導入の検討を行っている段階である<ref>法制審議会、刑事法(逃亡防止関係)部会[https://www.moj.go.jp/content/001342686.txt 「第8回会議 議事録」]、2020年12月23日。被害者接触防止のためのGPS装置利用も検討の対象となっている。</ref>。 == 国際刑事裁判所の刑事手続 == [[国際刑事裁判所]]の刑事手続では、予審裁判部が、検察官の要請により、捜査のために必要とされる命令及び令状を発する権限を有する([[国際刑事裁判所に関するローマ規程]]第57条3)<ref>[[ウィキソース]]「[[:s:国際刑事裁判所に関するローマ規程#a57|国際刑事裁判所に関するローマ規程]]」([[日本語]]版)。</ref>。 被疑者の身柄確保は、捜査の開始後、検察官の請求により予審裁判部が被疑者に係る逮捕状を発付して行う(国際刑事裁判所に関するローマ規程第58条1){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=236|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。ただし、任意出頭が確保できる場合には、検察官は、逮捕状を求めることに代わるものとして、被疑者に出頭を命ずる召喚状の発付を予審裁判部に請求することができる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第58条7){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=236|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 逮捕状の執行は被請求国の司法制度が機能している限りは、国際刑事裁判所への国際協力・司法上の援助として実行される{{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=236|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 なお、国際刑事裁判所は、原則として、被請求国に対して国家又は外交上の免除に関する国際法に基づく義務に違反することとなる引渡しの請求を求めることができない(国際刑事裁判所に関するローマ規程第98条)。自国に滞在する外交官の外交特権などを考慮したものである{{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=237|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 == 人権との関係 == === 無罪推定の原則 === {{main|推定無罪}} 逮捕された[[被疑者]]は、本来ならば、[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]第14条2項にもあるように、刑事上の事実認定や法上の取り扱いにおいて[[無罪]]を推定されているべき立場である。 しかし、「'''逮捕 = 犯罪者'''」という誤解が広く根付いており、日本においては特にその傾向が顕著である。そのため、企業にとっては、関係者が逮捕されれば自社の評判が落ちること必至であることから、[[誤認逮捕]]の場合や[[無罪]]となるべき場合であっても、被逮捕者の人権を軽視した対応を取りがちになり、トラブルになりやすいという問題がある。 たとえば、[[不動産]]賃貸借契約において'''逮捕された場合は賃借人は退去する'''旨の条項を設け、逮捕された時点で入居者を強制的に退去させようとしてトラブルになることなどが考えられる。ただし、[[無罪推定の原則]]および[[信頼関係破壊の法理]]により、そのような解除の主張は法的に有効とならないことが多いと考えられる<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.tokyo-takken.or.jp/member/bunrei/chintai/pdf/4-qa.pdf | title = 「逮捕・勾留」をもって賃貸借契約を解除できるかに関するQ&A | publisher = 公益社団法人東京都宅地建物取引業協会 | accessdate = 2021-06-13 }}</ref>。 === 身体検査 === [[拘置所]]や[[留置場]]では被疑者が違法な物品を施設内に持ち込まないように身体検査の一種である[[検身]]がおこなわれる。なかには[[体腔検査]]が行われることがあるが、その妥当性について米国で問題になった事例がある。 === 入国の制限 === 逮捕歴があると入国が認められなかったり、[[査証]](ビザ)の免除が受けられない国がある。例えば[[アメリカ合衆国|米国]]の[[ビザ免除プログラム]]は逮捕歴のある者には適用されないため、逮捕歴のある者は入国に先立って査証を取得する必要がある<ref>[https://jp.usembassy.gov/ja/visas-ja/visa-waiver-program-ja/ 在日米国大使館・領事館 ビザ免除プログラム] 「'''有罪判決の有無にかかわらず逮捕歴のある方'''、犯罪歴(…)がある方…に該当する旅行者は、ビザを取得しなければなりません。ビザを持たずに入国しようとする場合は入国を拒否されることがあります。」</ref>。 === 人種差別 === [[File:Rates of Arrest and Incarceration.pdf|thumb|米国での人種による再逮捕率の差]] [[人種差別]]が根強い米国では、白人警官が黒人の市民を狙うようにして、さしたる理由もなく逮捕したり再逮捕する、ということが高頻度で起きている。 {{See also |ブラック・ライヴズ・マター}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book|和書 |author1=河上和雄 |author2=中山善房 |author3=古田佑紀 |author4=原田國男 |coauthors = 河村博、渡辺咲子 |title=大コンメンタール 刑事訴訟法 第二版 第4巻(第189条〜第246条)|publisher=青林書院 |year=2012 }} * {{cite book|和書 |author=平野龍一 |title=刑事訴訟法|publisher=有斐閣 |year=1958 |series =法律学全集 }} * {{cite book|和書 |author1=村瀬信也 |author2=洪恵子 |title=国際刑事裁判所 - 最も重大な国際犯罪を裁く 第二版|publisher=東信堂 |year=2014 }} * {{cite book|和書 |author=日本弁護士連合会刑事弁護センター |title=アメリカの刑事弁護制度|publisher=現代人文社 |year=1998 }} == 関連項目 == * [[法律上の身柄拘束処分の一覧]] * [[令状]] * [[現行犯逮捕]] ** [[私人逮捕]] * [[緊急逮捕]] * [[逮捕・監禁罪]] - 不法に人を逮捕した場合は逮捕・監禁罪となる。 * [[特別公務員職権濫用罪]] - 特定の公務員が職権を濫用して人を逮捕した場合は特別公務員職権濫用罪となる。 * [[当番弁護士制度]] * [[転び公妨]] * [[ミランダ警告]] * [[バウンティハンター]] * [[白鳥事件]] - 逮捕状が更新され続けている。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいほ}} [[Category:刑事手続法]] [[Category:未決拘禁]] [[Category:捜査]]
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収容分類級
収容分類級(しゅうようぶんるいきゅう)とは、日本の刑務所において、受刑者を収容する施設、または施設内の区画を区別する基準となる分類級をいう。受刑者を適切に分類することで、再犯の防止や矯正教育の効果の向上などが期待できることから定められている。 現行の処遇指標(旧収容分類級)は2006年5月24日施行の「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」によって規定されており、受刑者は受刑にあたって次のように分類される。
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収容分類級(しゅうようぶんるいきゅう)とは、日本の刑務所において、受刑者を収容する施設、または施設内の区画を区別する基準となる分類級をいう。受刑者を適切に分類することで、再犯の防止や矯正教育の効果の向上などが期待できることから定められている。
{{law}} '''収容分類級'''(しゅうようぶんるいきゅう)とは、[[日本の刑務所]]において、[[受刑者]]を収容する施設、または施設内の区画を区別する基準となる分類級をいう。受刑者を適切に分類することで、再犯の防止や矯正教育の効果の向上などが期待できることから定められている。 == 現行の処遇指標 == 現行の'''処遇指標'''(旧収容分類級)は[[2006年]][[5月24日]]施行の「[[刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律]]」によって規定されており、受刑者は受刑にあたって次のように分類される。 === 性、国籍、刑名、年齢及び刑期などによる処遇指標 === * W [[女性|女子]](Women) * F 日本人と異なる処遇を必要とする[[外国人]](Foreigner) * I [[禁錮]]に処せられた者 (Imprisonment) * J [[少年]](Juvenile) * L 執行刑期10年(2010年4月より8年から引き上げ)以上の者(Long) * Y 26歳未満の若年[[成人]](Youth) * M [[精神障害者]](Mental) * P 身体上の[[疾患]]または[[障害]]のある者(医療刑務所または医療重点施設への収容を必要とする者)(Patient) * T 専門的治療処遇を必要とする者(のうち、一般行刑施設に収容される者)(Technical) * S 特別な養護的処遇を必要とする者(のうち、一般行刑施設に収容される者)(Special) === 犯罪傾向の進度による処遇指標 === * A 犯罪傾向の進んでいない者(初犯者。なお、[[暴力団]]員及び暴力団関係者は年齢・犯罪歴に関わらず、再犯と同等の「B」に分類される) * B 犯罪傾向の進んでいる者(再犯・累犯・反社会的勢力) {{Gov-stub}} {{DEFAULTSORT:しゆうようふんるいきゆう}} [[Category:日本の刑務所]]
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ヒツジ
ヒツジ(羊、綿羊、学名 )は、ウシ科ヤギ亜科の鯨偶蹄目である。角を持ち、主に羊毛のために家畜化されている。 ヒツジは反芻動物としては比較的体は小さく、側頭部のらせん形の角と、羊毛と呼ばれる縮れた毛をもつ。 原始的な品種では、短い尾など、野生種の特徴を残すものもある。 家畜のヒツジは54本の染色体をもつが、野生種は58-54本の染色体を有し、交雑可能である。自然状態の雑種の中には55本や57本の染色体をもつ個体も存する。 品種によってまったく角をもたないもの、雄雌両方にあるもの、雄だけが角を持つものがある。螺旋を巻きながら直状に伸びた角をラセン角、渦巻き状に丸く成長する角をアモン角と称する。角のある品種のほとんどは左右に1対1だが、古品種にはヤギのように後方に湾曲しながら伸びる2-3対(4-6本)の角をもつものもいる。 野生のヒツジの上毛の色合いには幅広いバリエーションがあり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色などがある。毛用のヒツジは主に染色に適した白い羊毛を産するように改良が加えられているが、ほかにも純白から黒色まであり、斑模様などもある。白いヒツジの群れのなかに有色の個体が現れることもある。 ヒツジの体長や体重は品種により大きく異なり、雌の体重はおよそ45–100kg、雄はより大きくて45–160kgである。 成熟したヒツジは32本の歯を持つ。ほかの反芻動物と同じように、下顎に8本の門歯がある一方、上あごには歯がなく、硬い歯茎がある。犬歯はなく、門歯と臼歯との間に大きな隙間がある。 4歳になるまで(歯が生え揃うまで)は、前歯は年に2本ずつ生えるため、ヒツジの年齢を前歯の数で知ることができる。ヒツジの平均寿命は10年から12年であるが、20年生きるものもいる。 前歯は齢を重ねるにつれ失われ、食べるのが難しくなり、健康を妨げる。このため、通常放牧されているヒツジは4歳を過ぎると徐々に数が減っていく。 草だけでなく、樹皮や木の芽、花も食べる。食草の採食特性は幅広いとされる。 ヒツジの聴力はよい。また視力については、水平に細い瞳孔を持ち、優れた周辺視野をもつ。視野は 270–320°で、頭を動かさずに自分の背後を見ることができる。しかし、奥行きはあまり知覚できず、影や地面のくぼみにひるんで先に進まなくなることがある。 暗いところから明るいところに移動したがる傾向がある。 通常は、妊娠期間150日ぐらいで仔を1頭だけ産むが、2頭あるいは3頭産むときもある。 ヒツジにとって、危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことである。その次に、追い詰められたヒツジが突撃したり、蹄を踏み鳴らして威嚇する。とくに新生児を連れた雌にみられる。ストレスに直面するとすぐに逃げ出しパニックに陥るので、初心者がヒツジの番をするのは難しい。 ヒツジは非常に愚かな動物であるというイメージがあるが、イリノイ大学の研究によりヒツジのIQがブタよりは低くウシと同程度であることが明らかになった。人や他のヒツジの顔を何年も記憶でき、顔の表情から心理状態を識別することもできる。 ヒツジは非常に食べ物に貪欲で、いつもエサをくれる人にエサをねだることもある。羊飼いは牧羊犬などで群れを動かす代わりに、エサのバケツでヒツジを先導することもある。エサを食べる順序は身体的な優位性により決定され、他のヒツジに対してより攻撃的なヒツジが優勢になる傾向がある。 オスのヒツジは角のサイズが群れでの優位を決める重要な要素となっていて、角のサイズが異なるヒツジの間ではエサを食べる順番をあまり争わないが、同じような角のサイズを持つもの同士では争いが起こる。 羊毛の採取を目的に家畜化された種は、毛の生え変わりがさほど起きないため、人為的に刈り取らなければ生命に関わることもある。2021年、オーストラリアで飼育環境から脱していたヒツジが保護された際の例では、毛の重量が30kgを超えており話題となった。 新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡がある。家畜化が始まったのは古代メソポタミアで、紀元前7000-6000年ごろの遺跡からは野生ヒツジとは異なる小型のヒツジの骨が大量に出土しており、最古のヒツジの家畜化の証拠と考えられている。 家畜化されたヒツジの祖先は、モンゴルからインド、西アジア、地中海にかけて分布していた4種の野生ヒツジに遡ることができる。中央アジアのアルガリ、現在の中近東にいるアジアムフロン、インドのウリアル、地中海のヨーロッパムフロンがこれにあたる。これら4種は交雑が可能であり、遺伝学的手法によっても現在のヒツジの祖を特定するには至っていないが、いくつかの傍証からアジアムフロンが原種であるとの説が主流となっている。 ヒツジを家畜化するにあたって最も重要だったのは、脂肪と毛であったと考えられている。肉や乳、皮の利用はヤギが優れ、家畜化は1000-2000年程度先行していた。しかし山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯に暮らす遊牧民にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、現代でもヒツジの脂肪が最良の栄養源である。他の地域で脂肪摂取の主流となっているブタは、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、宗教的にも忌避されている。こうした乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されている。それぞれ、脂尾羊、脂臀羊と分類される。 毛の利用については、現代のヒツジと最初期のヒツジとでは様相が大きく異なる。 野生のヒツジの毛(フリース)は2層になっている。外側を太く粗く長い「上毛(粗毛、ケンプ)」に覆われ、肌に近い内側に産毛のような短く柔らかく細い「下毛(緬毛、ウール)」がわずかに生えている。最初期のヒツジの緬毛(ウール)は未発達で、利用されていなかった。一方、野生のヒツジは春に上毛(ケンプ)が抜ける(換毛)性質があり、紀元前から人類は、この抜け落ちた上毛(ケンプ)によってフェルトを作っていたらしい。現在われわれが通常に羊毛(ウール)として親しんでいるのは、主にこの下毛を発達させるように品種改良された家畜用ヒツジの毛である。現代の家畜化されたヒツジは換毛しない。 家畜化されたヒツジは改良によって、上毛(ケンプ)を退行させる代わりに、ヘアー(適当な訳語がない)と呼ばれる中間毛と緬毛(ウール)を発達させた。紀元前4000年ごろにはヘアータイプやウールタイプのヒツジが分化している。紀元前2000年ごろのバビロニアはウールと穀物と植物油の三大産物によって繁栄した。バビロンの名は「ウールの国」の意味であるとする研究者もいる。 野生タイプのヒツジの上毛(ケンプ)は黒色、赤褐色や褐色であったが、改良によってヘアーやウールタイプのヒツジからは淡色や白色の毛が得られ、染料技術と共にメソポタミアからエジプトに伝播し、彩色された絨毯は重要な交易品となった。紀元前1500年頃から、地中海に現れたフェニキア人によって白いウールタイプのヒツジがコーカサス地方やイベリア半島に持ち込まれた。コーカサス地方のヒツジは、のちにギリシア人によって再発見され、黄金羊伝説となった。このヒツジはローマ時代には柔らかく細く長く白いウールを生むタランティーネ種へ改良された。ローマ人が着用した衣服はウールの織物である。一方、イベリア半島では、すでに土着していたウールタイプのヒツジとタランティーネ種の交配による改良によって、更なる改良が続けられ、1300年頃のカスティーリャで現在のメリノ種が登場した。 理想的なウールだけを産するメリノ種は毛織物産業を通じてスペインの黄金時代を支えた。メリノ種はスペイン王家が国費を投じて飼育し、数頭が海外の王家へ外交の手段として贈呈される以外は門外不出とされた。これを犯した者は死罪だった。18世紀になるとスペインの戦乱にヨーロッパの列国が介入し、メリノ種が戦利品として持ち去られて流出、羊毛生産におけるスペインの優位性が喪失された。イギリスでは羊毛の織物と蒸気機関を組み合わせた新産業が興った。1796年、南アフリカ経由で13頭のメリノ種がオーストラリアに輸入された。このうちの3頭が現在のオーストラリアのメリノ種の始祖になったと伝えられている。この羊を買い取ったニュー・サウス・ウェールズ州のジョン・マッカーサーはヒツジの改良に努め、オーストラリアの羊毛産業の基礎を築いた。 ヒツジの皮の利用は最古のものとしては紀元前2500年頃まで遡ることができるが、羊皮紙としては、紀元前2世紀頃のペルガモン(現在のトルコ)で本格的な加工が始まったとされる。 羊乳はヤギの乳に比べると、脂肪とタンパク質に富んでおり、加工に適する。中近東やヨーロッパ大陸では羊乳は伝統的にチーズやヨーグルトに加工されており、現在でも多くの乳用種が飼育されている。しかし、より遅く家畜化に成功したウシと比較すると単位面積当たりの収量は劣り、ウシを飼養できる地域ではヒツジの乳利用は主流ではない。 日本列島には古来より、旧石器・縄文時代のイヌや弥生時代のブタ・ニワトリ、古墳時代のウマ・ウシなど家畜を含め様々なものが海を越えて伝わったが、羊の飼育及び利用の記録は乏しい。寒冷な土地も多く防寒用に羊毛が利用される下地はあったが、動物遺体の出土事例も報告されていないことから、ほとんど伝わらなかったものと考えられている。 考古資料では鳥取県鳥取市の青谷上地遺跡において弥生時代の琴の部材と考えられている木板に頭部に湾曲する二重円弧の角を持つ動物が描かれており、ヒツジもしくはヤギを表現したものとも考えられている。 文献史料においては、『魏志倭人伝』(『魏書』東夷伝倭人の条)では弥生時代末期(3世紀前半代)において日本列島にはヒツジがいなかったと記されている。 8世紀初頭に成立した『日本書紀』では、推古天皇7年(599年)に、推古天皇に対し百済(朝鮮半島南西部)からの朝貢物として駱駝(らくだ)、驢馬(ろば)各1頭、白雉1羽、そして羊2頭が献上されたという。これが日本国内において、羊について書かれた最初の史料である。西域の動物であるラクダやロバとともに献上されていることから、当時の日本列島では家畜としてのヒツジが存在していなかったとも考えられている。 奈良時代、天武天皇の時代に関東で活躍した人物に「多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)」という人物がいると伝わり、関連して群馬県安中市に羊神社(愛知県名古屋市にも同名の羊神社がある)などが残る程度であり、羊自体の存在や飼育記録は確認できない。 8世紀には、奈良県の平城宮跡や三重県の斎宮跡から羊形の硯(すずり)が出土している。8世紀中頃には、正倉院宝物に含まれる「臈纈屏風(ろうけちのびょうぶ)」にヒツジの図像が見られる。 『日本紀略』によれば、嵯峨天皇の治世の弘仁11年(820年)には、新羅からの朝貢物として鵞鳥2羽、山羊1頭、そして黒羊2頭、白羊4頭が献上されたという。さらに、醍醐天皇の治世の延喜3年(903年)には唐人が“羊、鵞鳥を献ず”とあり、他の記録も含め何度か日本に羊が上陸した記録はあるが、その後飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった。 江戸時代、文化2年(1805年)に江戸幕府の長崎奉行の成瀬正定が羊を輸入し、唐人(中国人)の牧夫を使役して肥前浦上で飼育を試みたが、失敗。 幕府の奥詰医師であった本草学者の渋江長伯は行動的な学者であったらしく、幕命により蝦夷地まで薬草採集に出向いたりしていた。長伯は幕府医師だけではなく、江戸郊外にあり幕府の薬草園であった広大な巣鴨薬園の総督を兼ねていたが、文化14年(1817年)から薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から羅紗織の試作を行った。巣鴨薬園はゆえに当時「綿羊屋敷」と呼ばれていた。 明治期に入るとお雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドルが軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き、1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである。 民間では、1876年(明治9年)に蛇沼政恒が岩手県で政府から100余頭の羊と牧野を借りて始めたのが先駆で、以後、数百頭規模の牧場が東日本の各地に開かれた。ただ、生産された羊毛を買い上げるのは軍用の千住製絨所に限られ、品質で劣る日本産羊毛の販売価格は低く、羊肉需要がないこともあって、経営的には成功しなかった。1888年(明治21年)には政府の奨励政策が打ち切りになり、官営の下総牧羊場も閉鎖された。 しかし、国内の羊毛製品需要は軍需・民需ともに旺盛で、しだいに羊毛工業が発達した。戦前から戦後間もない時期までの日本にとって毛織物は重要な輸出品だったが、その原料はオーストラリアとニュージーランドなどからの輸入に頼っていた。一度は失敗を認めた政府にも、国産羊毛を振興したいという意見が根強くあり、1918年(大正7年)から「副業めん羊」を普及させた。農家が自家の農業副産物を餌にして1頭だけ羊を飼い、主に子供が世話をして家計の足しにするという方法である。副業めん羊は東日本の山間地の養蚕農家の間に広まった。 1957年(昭和32年)には統計上で94万頭、実数ではおそらく100万頭を超える数が日本国内で飼育されるようになった。しかし、その後は海外から安価に羊肉及び羊毛が入ってきたことや、化学繊維が普及したため、国産羊毛の需要が急減し、24年後の1981年(昭和56年)になると、国内の羊の飼育数は、100分の1程度の約1万頭にまで激減した。その後、肉利用を目的とした羊の飼育が再び増加し、1991年(平成3年)には3万頭を超える数まで増加した。その8割はサフォーク種である。 ヒツジは羊毛や肉(ラム、マトン)を目的として世界中で広く飼育され、2008年には全世界で10億頭を超えるヒツジが飼育されていた。世界で最もヒツジを多く飼育しているのは中国で、1億3000万頭以上に上る。飼育頭数は漸増傾向にあったが、2006年からは減少に転じている。2位はインドで、1992年から2010年までに飼育頭数が約1.5倍となり、現在も漸増傾向が続く。次いで飼育頭数が多いのはオーストラリアである。かつては長らく世界最大のヒツジ生産国であり、1992年には1億4800万頭以上のヒツジが飼育されていたが、飼育頭数は急激に減少しており、1996年には中国に抜かれて第2位となり、2010年にはインドにも抜かれて3位となった。2010年の飼育頭数は約6800万頭であり、1992年の半分以下にまで減少している。オーストラリアのヒツジはメリノ種が主であり、羊毛を主目的としていたが、近年では食肉種も盛んに飼育されるようになった。4位はイランであり、1992年の4600万頭から2010年の5400万頭と微増している。5位はスーダンであり、1992年から2010年までに飼育頭数は倍増した。6位のニュージーランドは古くからのヒツジの大生産国であり、1834年にヒツジが本格導入されてからすぐに羊毛の大輸出国となり、さらに1882年に冷凍船が導入されてからは羊肉も輸出できるようになって、産業革命期にあったイギリスを主要市場として発展していった。ニュージーランドではオーストラリアとは違い、羊肉・羊毛兼用種が主に飼育されている。 日本のヒツジ飼育頭数は2010年に1万2000頭であり、世界では第158位である。都道府県別では北海道での飼育数が飛び抜けて多く、他は秋田県、岩手県、福島県などの東北地方、栃木県や千葉県などの関東地方で飼育されている。東日本ではある程度飼育されているが、西日本ではほとんど羊の飼育は行われていない。 羊肉は広い地域で食用とされている。羊の年齢によって、生後1年未満をラム(lamb、子羊肉)・生後2年以上をマトン(mutton)と区別することもある。生後1年以上2年未満は、オセアニアでは「ホゲット」と区別して呼ばれているが、日本ではマトンに含まれる。 日本国内では、毛を刈った後で潰したヒツジの大量の肉を消費する方法として新しく考案されたジンギスカンや、ラムしゃぶ、スペアリブの香草焼き、アイリッシュシチューなど特定の料理で使われることが多い。カルニチンを他の食肉よりも豊富に含むことから、体脂肪の消費を助ける食材とされている。 ラムには臭みが少なく、こちらは日本で近年人気が高まりつつある。羊肉特有の臭みは脂肪に集中するため、マトンの臭みを取り除くには、脂肪をそぎ落とすと良いと言われる。他には、「香りの強い香草と共に炒める」「牛乳に漬けておく」等の方法がある。 海外では、飼育が盛んなオーストラリア、ニュージーランドをはじめ、特にペルシャ湾岸諸国やギリシャ、イギリス、アイルランド、ウルグアイで盛んに消費される。湾岸諸国を除いては、いずれも羊が盛んに飼育される国家である。これらの国では、羊肉の年間一人当たり消費量が3kgから18kgにのぼる。湾岸諸国で消費が多いのは豚肉を避けるイスラム教が広く普及しているからであり、他の中東諸国でも羊肉の消費量は多い。マグリブやカリブ海、インドでも多く消費される。また、東アジアでも、モンゴル、中国西北部などでは、代表的な食肉となっており、さまざまな調理法が用いられている。ヨーロッパではラムが、中東や中央アジアではマトンが好まれる傾向にある。 インドのマクドナルドには「マハラジャマック」と呼ばれるメニューがあり、これは牛を神聖な生き物とみなすヒンドゥー教の信徒のためにマトンを用いたハンバーガーのことである。 一方、アメリカ合衆国においては羊肉の消費量はわずかである。アメリカ人の年間羊肉消費量は0.5kg以下で、牛肉(29kg)や豚肉(22 kg)に比べてはるかに低い消費量となっている。これは、アメリカでは牛や豚など他の食肉が大量に生産できるうえに安く、さらにアメリカで食用にされるヒツジは羊毛用ヒツジの廃家畜が主であったため、食味などの品質で他の食肉に太刀打ちできなかったからである。さらに他食肉の価格下落に伴い、1960年代から1980年代にかけて羊肉消費量はさらに60%以上減少した。 砂漠や山岳地帯など、さまざまな環境に適応した固有の種がある。家畜用のヒツジは、毛用種、肉用種、乳用種に大別されるが、代表種のメリノをはじめ、兼用の品種も多い。 キリスト教、またその母体となったユダヤ教では、ヤハウェ(唯一神)やメシア(救世主)に導かれる信徒たちが、しばしば羊飼いに導かれる羊たちになぞらえられる。旧約聖書では、ヤハウェや王が羊飼いに、ユダヤの民が羊の群れにたとえられ(エレミヤ書・エゼキエル書・詩篇等)ている。 また、旧約聖書の時代、羊は神への捧げもの(生贄)としてささげられる動物の一つである。特に、出エジプト記12章では、「十の災い」の最後の災いを避けるために、モーセはイスラエル人の各家庭に小羊を用意させ、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗り、その肉を焼いて食べるというたとえ話がある。のちに、出エジプトを記念する過越祭として記念されるようになる。 また、羊の肉はユダヤ教徒が食べることができる肉として規定されている。カシュルートを参照のこと。 新約聖書では、「ルカ福音書」(15章)や「マタイ福音書」(18章)に「迷子の羊と羊飼い」のたとえ話の節がある。愛情も慈悲も深い羊飼いは、たとえ100匹の羊の群れから1匹が迷いはぐれたときでも、そのはぐれた1匹を捜しに行くとしている。この箇所は隠喩となっており、はぐれた羊は、神から離れた者、神に従わない反抗者、罪を犯す者を表し、また羊飼いについては創造主である神を例えている。福音書では、どのような者であっても同じように愛し、気にかけ、大切に想う神の愛を示している。 「ヨハネ福音書」では、イエスが「私は善き羊飼いである」と語るが、イエス自身も「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれる(1章29節)。 この「神の小羊」は、イエスが後に十字架上で刑死することにより、人間の罪を除くための神への犠牲となる意味があり、イエスが刑死したのも前述の過越祭の期間であったことから、パウロは第一コリント5章7節で、イエスは「過越の小羊として屠られた」と表現する(ミサ・ミサ曲)。 また、「ヨハネ黙示録」において、天上の光景のなかで啓示されるイエスの姿は「屠られたような」「七つの目と七つの角」を持つ小羊の姿である(5章他)。 イスラム教国においてはヒツジはもっとも重要な家畜の一つであり、特にサウジアラビアや湾岸諸国においてはハラールに適応するようオーストラリアなどから生きたまま羊を輸入し、自国にて屠畜し食肉とすることが行われる。また、ヒツジはイスラム教の祭日であるイード・アル=アドハー(犠牲祭)においてもっとも一般的な生贄である。この日はハッジの最終日に当たり、メッカ郊外のムズダリファにおいてヒツジやラクダ、牛など50万頭にものぼる動物が生贄にささげられる。メッカ以外の、巡礼に参加しなかったムスリムも動物を1頭捧げることが求められており、イスラム教諸国においてヒツジが買われ、神に捧げられる。捧げられた肉は自らの家庭で消費するほか、施しとして貧しい人々に分け与えられる。 犬種に Shetland Sheepdog(シェットランド・シープドッグ)の様に sheepdog と付くものがあるが、これは「ヒツジに似た犬」ではなく、牧羊犬に適した犬種であることを示している(シェパード Shepherd も同様)。これらは、英語圏を始めとする欧州地域でのヒツジが比較的身近な家畜である顕著な例でもある。
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"野生のヒツジの毛(フリース)は2層になっている。外側を太く粗く長い「上毛(粗毛、ケンプ)」に覆われ、肌に近い内側に産毛のような短く柔らかく細い「下毛(緬毛、ウール)」がわずかに生えている。最初期のヒツジの緬毛(ウール)は未発達で、利用されていなかった。一方、野生のヒツジは春に上毛(ケンプ)が抜ける(換毛)性質があり、紀元前から人類は、この抜け落ちた上毛(ケンプ)によってフェルトを作っていたらしい。現在われわれが通常に羊毛(ウール)として親しんでいるのは、主にこの下毛を発達させるように品種改良された家畜用ヒツジの毛である。現代の家畜化されたヒツジは換毛しない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "家畜化されたヒツジは改良によって、上毛(ケンプ)を退行させる代わりに、ヘアー(適当な訳語がない)と呼ばれる中間毛と緬毛(ウール)を発達させた。紀元前4000年ごろにはヘアータイプやウールタイプのヒツジが分化している。紀元前2000年ごろのバビロニアはウールと穀物と植物油の三大産物によって繁栄した。バビロンの名は「ウールの国」の意味であるとする研究者もいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "野生タイプのヒツジの上毛(ケンプ)は黒色、赤褐色や褐色であったが、改良によってヘアーやウールタイプのヒツジからは淡色や白色の毛が得られ、染料技術と共にメソポタミアからエジプトに伝播し、彩色された絨毯は重要な交易品となった。紀元前1500年頃から、地中海に現れたフェニキア人によって白いウールタイプのヒツジがコーカサス地方やイベリア半島に持ち込まれた。コーカサス地方のヒツジは、のちにギリシア人によって再発見され、黄金羊伝説となった。このヒツジはローマ時代には柔らかく細く長く白いウールを生むタランティーネ種へ改良された。ローマ人が着用した衣服はウールの織物である。一方、イベリア半島では、すでに土着していたウールタイプのヒツジとタランティーネ種の交配による改良によって、更なる改良が続けられ、1300年頃のカスティーリャで現在のメリノ種が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "理想的なウールだけを産するメリノ種は毛織物産業を通じてスペインの黄金時代を支えた。メリノ種はスペイン王家が国費を投じて飼育し、数頭が海外の王家へ外交の手段として贈呈される以外は門外不出とされた。これを犯した者は死罪だった。18世紀になるとスペインの戦乱にヨーロッパの列国が介入し、メリノ種が戦利品として持ち去られて流出、羊毛生産におけるスペインの優位性が喪失された。イギリスでは羊毛の織物と蒸気機関を組み合わせた新産業が興った。1796年、南アフリカ経由で13頭のメリノ種がオーストラリアに輸入された。このうちの3頭が現在のオーストラリアのメリノ種の始祖になったと伝えられている。この羊を買い取ったニュー・サウス・ウェールズ州のジョン・マッカーサーはヒツジの改良に努め、オーストラリアの羊毛産業の基礎を築いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ヒツジの皮の利用は最古のものとしては紀元前2500年頃まで遡ることができるが、羊皮紙としては、紀元前2世紀頃のペルガモン(現在のトルコ)で本格的な加工が始まったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "羊乳はヤギの乳に比べると、脂肪とタンパク質に富んでおり、加工に適する。中近東やヨーロッパ大陸では羊乳は伝統的にチーズやヨーグルトに加工されており、現在でも多くの乳用種が飼育されている。しかし、より遅く家畜化に成功したウシと比較すると単位面積当たりの収量は劣り、ウシを飼養できる地域ではヒツジの乳利用は主流ではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本列島には古来より、旧石器・縄文時代のイヌや弥生時代のブタ・ニワトリ、古墳時代のウマ・ウシなど家畜を含め様々なものが海を越えて伝わったが、羊の飼育及び利用の記録は乏しい。寒冷な土地も多く防寒用に羊毛が利用される下地はあったが、動物遺体の出土事例も報告されていないことから、ほとんど伝わらなかったものと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "考古資料では鳥取県鳥取市の青谷上地遺跡において弥生時代の琴の部材と考えられている木板に頭部に湾曲する二重円弧の角を持つ動物が描かれており、ヒツジもしくはヤギを表現したものとも考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "文献史料においては、『魏志倭人伝』(『魏書』東夷伝倭人の条)では弥生時代末期(3世紀前半代)において日本列島にはヒツジがいなかったと記されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "8世紀初頭に成立した『日本書紀』では、推古天皇7年(599年)に、推古天皇に対し百済(朝鮮半島南西部)からの朝貢物として駱駝(らくだ)、驢馬(ろば)各1頭、白雉1羽、そして羊2頭が献上されたという。これが日本国内において、羊について書かれた最初の史料である。西域の動物であるラクダやロバとともに献上されていることから、当時の日本列島では家畜としてのヒツジが存在していなかったとも考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "奈良時代、天武天皇の時代に関東で活躍した人物に「多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)」という人物がいると伝わり、関連して群馬県安中市に羊神社(愛知県名古屋市にも同名の羊神社がある)などが残る程度であり、羊自体の存在や飼育記録は確認できない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "8世紀には、奈良県の平城宮跡や三重県の斎宮跡から羊形の硯(すずり)が出土している。8世紀中頃には、正倉院宝物に含まれる「臈纈屏風(ろうけちのびょうぶ)」にヒツジの図像が見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『日本紀略』によれば、嵯峨天皇の治世の弘仁11年(820年)には、新羅からの朝貢物として鵞鳥2羽、山羊1頭、そして黒羊2頭、白羊4頭が献上されたという。さらに、醍醐天皇の治世の延喜3年(903年)には唐人が“羊、鵞鳥を献ず”とあり、他の記録も含め何度か日本に羊が上陸した記録はあるが、その後飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "江戸時代、文化2年(1805年)に江戸幕府の長崎奉行の成瀬正定が羊を輸入し、唐人(中国人)の牧夫を使役して肥前浦上で飼育を試みたが、失敗。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "幕府の奥詰医師であった本草学者の渋江長伯は行動的な学者であったらしく、幕命により蝦夷地まで薬草採集に出向いたりしていた。長伯は幕府医師だけではなく、江戸郊外にあり幕府の薬草園であった広大な巣鴨薬園の総督を兼ねていたが、文化14年(1817年)から薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から羅紗織の試作を行った。巣鴨薬園はゆえに当時「綿羊屋敷」と呼ばれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "明治期に入るとお雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドルが軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き、1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "民間では、1876年(明治9年)に蛇沼政恒が岩手県で政府から100余頭の羊と牧野を借りて始めたのが先駆で、以後、数百頭規模の牧場が東日本の各地に開かれた。ただ、生産された羊毛を買い上げるのは軍用の千住製絨所に限られ、品質で劣る日本産羊毛の販売価格は低く、羊肉需要がないこともあって、経営的には成功しなかった。1888年(明治21年)には政府の奨励政策が打ち切りになり、官営の下総牧羊場も閉鎖された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "しかし、国内の羊毛製品需要は軍需・民需ともに旺盛で、しだいに羊毛工業が発達した。戦前から戦後間もない時期までの日本にとって毛織物は重要な輸出品だったが、その原料はオーストラリアとニュージーランドなどからの輸入に頼っていた。一度は失敗を認めた政府にも、国産羊毛を振興したいという意見が根強くあり、1918年(大正7年)から「副業めん羊」を普及させた。農家が自家の農業副産物を餌にして1頭だけ羊を飼い、主に子供が世話をして家計の足しにするという方法である。副業めん羊は東日本の山間地の養蚕農家の間に広まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1957年(昭和32年)には統計上で94万頭、実数ではおそらく100万頭を超える数が日本国内で飼育されるようになった。しかし、その後は海外から安価に羊肉及び羊毛が入ってきたことや、化学繊維が普及したため、国産羊毛の需要が急減し、24年後の1981年(昭和56年)になると、国内の羊の飼育数は、100分の1程度の約1万頭にまで激減した。その後、肉利用を目的とした羊の飼育が再び増加し、1991年(平成3年)には3万頭を超える数まで増加した。その8割はサフォーク種である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ヒツジは羊毛や肉(ラム、マトン)を目的として世界中で広く飼育され、2008年には全世界で10億頭を超えるヒツジが飼育されていた。世界で最もヒツジを多く飼育しているのは中国で、1億3000万頭以上に上る。飼育頭数は漸増傾向にあったが、2006年からは減少に転じている。2位はインドで、1992年から2010年までに飼育頭数が約1.5倍となり、現在も漸増傾向が続く。次いで飼育頭数が多いのはオーストラリアである。かつては長らく世界最大のヒツジ生産国であり、1992年には1億4800万頭以上のヒツジが飼育されていたが、飼育頭数は急激に減少しており、1996年には中国に抜かれて第2位となり、2010年にはインドにも抜かれて3位となった。2010年の飼育頭数は約6800万頭であり、1992年の半分以下にまで減少している。オーストラリアのヒツジはメリノ種が主であり、羊毛を主目的としていたが、近年では食肉種も盛んに飼育されるようになった。4位はイランであり、1992年の4600万頭から2010年の5400万頭と微増している。5位はスーダンであり、1992年から2010年までに飼育頭数は倍増した。6位のニュージーランドは古くからのヒツジの大生産国であり、1834年にヒツジが本格導入されてからすぐに羊毛の大輸出国となり、さらに1882年に冷凍船が導入されてからは羊肉も輸出できるようになって、産業革命期にあったイギリスを主要市場として発展していった。ニュージーランドではオーストラリアとは違い、羊肉・羊毛兼用種が主に飼育されている。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本のヒツジ飼育頭数は2010年に1万2000頭であり、世界では第158位である。都道府県別では北海道での飼育数が飛び抜けて多く、他は秋田県、岩手県、福島県などの東北地方、栃木県や千葉県などの関東地方で飼育されている。東日本ではある程度飼育されているが、西日本ではほとんど羊の飼育は行われていない。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "羊肉は広い地域で食用とされている。羊の年齢によって、生後1年未満をラム(lamb、子羊肉)・生後2年以上をマトン(mutton)と区別することもある。生後1年以上2年未満は、オセアニアでは「ホゲット」と区別して呼ばれているが、日本ではマトンに含まれる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本国内では、毛を刈った後で潰したヒツジの大量の肉を消費する方法として新しく考案されたジンギスカンや、ラムしゃぶ、スペアリブの香草焼き、アイリッシュシチューなど特定の料理で使われることが多い。カルニチンを他の食肉よりも豊富に含むことから、体脂肪の消費を助ける食材とされている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ラムには臭みが少なく、こちらは日本で近年人気が高まりつつある。羊肉特有の臭みは脂肪に集中するため、マトンの臭みを取り除くには、脂肪をそぎ落とすと良いと言われる。他には、「香りの強い香草と共に炒める」「牛乳に漬けておく」等の方法がある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "海外では、飼育が盛んなオーストラリア、ニュージーランドをはじめ、特にペルシャ湾岸諸国やギリシャ、イギリス、アイルランド、ウルグアイで盛んに消費される。湾岸諸国を除いては、いずれも羊が盛んに飼育される国家である。これらの国では、羊肉の年間一人当たり消費量が3kgから18kgにのぼる。湾岸諸国で消費が多いのは豚肉を避けるイスラム教が広く普及しているからであり、他の中東諸国でも羊肉の消費量は多い。マグリブやカリブ海、インドでも多く消費される。また、東アジアでも、モンゴル、中国西北部などでは、代表的な食肉となっており、さまざまな調理法が用いられている。ヨーロッパではラムが、中東や中央アジアではマトンが好まれる傾向にある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "インドのマクドナルドには「マハラジャマック」と呼ばれるメニューがあり、これは牛を神聖な生き物とみなすヒンドゥー教の信徒のためにマトンを用いたハンバーガーのことである。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "一方、アメリカ合衆国においては羊肉の消費量はわずかである。アメリカ人の年間羊肉消費量は0.5kg以下で、牛肉(29kg)や豚肉(22 kg)に比べてはるかに低い消費量となっている。これは、アメリカでは牛や豚など他の食肉が大量に生産できるうえに安く、さらにアメリカで食用にされるヒツジは羊毛用ヒツジの廃家畜が主であったため、食味などの品質で他の食肉に太刀打ちできなかったからである。さらに他食肉の価格下落に伴い、1960年代から1980年代にかけて羊肉消費量はさらに60%以上減少した。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "砂漠や山岳地帯など、さまざまな環境に適応した固有の種がある。家畜用のヒツジは、毛用種、肉用種、乳用種に大別されるが、代表種のメリノをはじめ、兼用の品種も多い。", "title": "品種" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "キリスト教、またその母体となったユダヤ教では、ヤハウェ(唯一神)やメシア(救世主)に導かれる信徒たちが、しばしば羊飼いに導かれる羊たちになぞらえられる。旧約聖書では、ヤハウェや王が羊飼いに、ユダヤの民が羊の群れにたとえられ(エレミヤ書・エゼキエル書・詩篇等)ている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、旧約聖書の時代、羊は神への捧げもの(生贄)としてささげられる動物の一つである。特に、出エジプト記12章では、「十の災い」の最後の災いを避けるために、モーセはイスラエル人の各家庭に小羊を用意させ、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗り、その肉を焼いて食べるというたとえ話がある。のちに、出エジプトを記念する過越祭として記念されるようになる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、羊の肉はユダヤ教徒が食べることができる肉として規定されている。カシュルートを参照のこと。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "新約聖書では、「ルカ福音書」(15章)や「マタイ福音書」(18章)に「迷子の羊と羊飼い」のたとえ話の節がある。愛情も慈悲も深い羊飼いは、たとえ100匹の羊の群れから1匹が迷いはぐれたときでも、そのはぐれた1匹を捜しに行くとしている。この箇所は隠喩となっており、はぐれた羊は、神から離れた者、神に従わない反抗者、罪を犯す者を表し、また羊飼いについては創造主である神を例えている。福音書では、どのような者であっても同じように愛し、気にかけ、大切に想う神の愛を示している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "「ヨハネ福音書」では、イエスが「私は善き羊飼いである」と語るが、イエス自身も「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれる(1章29節)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "この「神の小羊」は、イエスが後に十字架上で刑死することにより、人間の罪を除くための神への犠牲となる意味があり、イエスが刑死したのも前述の過越祭の期間であったことから、パウロは第一コリント5章7節で、イエスは「過越の小羊として屠られた」と表現する(ミサ・ミサ曲)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、「ヨハネ黙示録」において、天上の光景のなかで啓示されるイエスの姿は「屠られたような」「七つの目と七つの角」を持つ小羊の姿である(5章他)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "イスラム教国においてはヒツジはもっとも重要な家畜の一つであり、特にサウジアラビアや湾岸諸国においてはハラールに適応するようオーストラリアなどから生きたまま羊を輸入し、自国にて屠畜し食肉とすることが行われる。また、ヒツジはイスラム教の祭日であるイード・アル=アドハー(犠牲祭)においてもっとも一般的な生贄である。この日はハッジの最終日に当たり、メッカ郊外のムズダリファにおいてヒツジやラクダ、牛など50万頭にものぼる動物が生贄にささげられる。メッカ以外の、巡礼に参加しなかったムスリムも動物を1頭捧げることが求められており、イスラム教諸国においてヒツジが買われ、神に捧げられる。捧げられた肉は自らの家庭で消費するほか、施しとして貧しい人々に分け与えられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "犬種に Shetland Sheepdog(シェットランド・シープドッグ)の様に sheepdog と付くものがあるが、これは「ヒツジに似た犬」ではなく、牧羊犬に適した犬種であることを示している(シェパード Shepherd も同様)。これらは、英語圏を始めとする欧州地域でのヒツジが比較的身近な家畜である顕著な例でもある。", "title": "文化" } ]
ヒツジ(羊、綿羊、学名 )は、ウシ科ヤギ亜科の鯨偶蹄目である。角を持ち、主に羊毛のために家畜化されている。
{{for|漢字の部首|羊部}} {{Redirect|ひつじ|稲|稲孫}} {{出典の明記|date=2022年10月}} {{生物分類表 |名称=ヒツジ |画像=[[ファイル:Flock_of_sheep.jpg|250px]] |画像キャプション= |省略=哺乳綱 |目= [[鯨偶蹄目]] {{sname||Artiodactyla}} |亜目= [[ウシ亜目]] {{sname||Ruminantia}} |科= [[ウシ科]] {{sname||Bovidae}} |亜科= [[ヤギ亜科]] {{sname|Goat-antelope|Caprinae}} |属= [[ヒツジ属]] {{snamei||Ovis}} |種= '''ヒツジ''' {{snamei|O. aries}} |学名=''Ovis aries'' |和名=ヒツジ |英名=[[:en:Sheep|Sheep]] }} '''ヒツジ'''('''羊'''、'''綿羊'''、学名 )は、[[ウシ科]][[ヤギ亜科]]の[[鯨偶蹄目]]である。[[角]]を持ち、主に[[羊毛]]のために[[家畜]]化されている。 == 形態 == [[ファイル:Zackelschafe Tiergarten Bernburg 06-03-2008.jpg|thumb|螺旋を描いて伸びるラセン角(ハンガリーのラツカ羊<small>ハンガリー語:[[:en:Racka|Racka]]</small>)]] [[ファイル:Finnsheep ram close-up.jpg|thumb|渦巻き状のアモン角(フィニッシュ・ランドレース種([[:en:Finnsheep|en]]))]] ヒツジは[[反芻]]動物としては比較的体は小さく、側頭部のらせん形の角と、[[ウール|羊毛]]と呼ばれる縮れた毛をもつ。 原始的な品種では、短い尾など、野生種の特徴を残すものもある。 家畜のヒツジは54本の染色体をもつが、野生種は58-54本の[[染色体]]を有し、[[交雑]]可能である。自然状態の雑種の中には55本や57本の染色体をもつ個体も存する。 品種によってまったく[[洞角|角]]をもたないもの、雄雌両方にあるもの、雄だけが角を持つものがある。螺旋を巻きながら直状に伸びた角をラセン角、渦巻き状に丸く成長する角をアモン角と称する。角のある品種のほとんどは左右に1対1だが、古品種には[[ヤギ]]のように後方に湾曲しながら伸びる2-3対(4-6本)の角をもつものもいる。 野生のヒツジの上毛の色合いには幅広いバリエーションがあり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色などがある。毛用のヒツジは主に染色に適した白い羊毛を産するように改良が加えられているが、ほかにも純白から黒色まであり、斑模様などもある。白いヒツジの群れのなかに有色の個体が現れることもある。 ヒツジの体長や体重は品種により大きく異なり、雌の体重はおよそ45–100kg、雄はより大きくて45–160kgである。 成熟したヒツジは32本の歯を持つ。ほかの反芻動物と同じように、下顎に8本の[[門歯]]がある一方、上あごには歯がなく、硬い[[歯茎]]がある。[[犬歯]]はなく、門歯と[[臼歯]]との間に大きな隙間がある。 4歳になるまで(歯が生え揃うまで)は、前歯は年に2本ずつ生えるため、ヒツジの年齢を前歯の数で知ることができる。ヒツジの平均寿命は10年から12年であるが、20年生きるものもいる。 前歯は齢を重ねるにつれ失われ、食べるのが難しくなり、健康を妨げる。このため、通常放牧されているヒツジは4歳を過ぎると徐々に数が減っていく。 == 生態 == 草だけでなく、樹皮や木の芽、花も食べる。食草の採食特性は幅広いとされる<ref>http://jlta.lin.gr.jp/report/detail_project/pdf/150.PDF めん羊の採食特性を活用した草地の造成と維持管理に関する調査</ref>。 ヒツジの聴力はよい。また視力については、水平に細い瞳孔を持ち、優れた周辺視野をもつ。[[視野]]は 270–320°で、頭を動かさずに自分の背後を見ることができる。しかし、奥行きはあまり知覚できず、影や地面のくぼみにひるんで先に進まなくなることがある。 暗いところから明るいところに移動したがる傾向がある。 通常は、妊娠期間150日ぐらいで仔を1頭だけ産むが、2頭あるいは3頭産むときもある。 ヒツジにとって、危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことである。その次に、追い詰められたヒツジが突撃したり、蹄を踏み鳴らして威嚇する。とくに新生児を連れた雌にみられる。ストレスに直面するとすぐに逃げ出しパニックに陥るので、初心者がヒツジの番をするのは難しい。 ヒツジは非常に愚かな動物であるというイメージがあるが、[[イリノイ大学]]の研究によりヒツジのIQが[[ブタ]]よりは低く[[ウシ]]と同程度であることが明らかになった。人や他のヒツジの顔を何年も記憶でき、顔の表情から心理状態を識別することもできる。 ヒツジは非常に食べ物に貪欲で、いつもエサをくれる人にエサをねだることもある。羊飼いは[[牧羊犬]]などで群れを動かす代わりに、エサのバケツでヒツジを先導することもある。エサを食べる順序は身体的な優位性により決定され、他のヒツジに対してより攻撃的なヒツジが優勢になる傾向がある。 オスのヒツジは角のサイズが群れでの優位を決める重要な要素となっていて、角のサイズが異なるヒツジの間ではエサを食べる順番をあまり争わないが、同じような角のサイズを持つもの同士では争いが起こる。 羊毛の採取を目的に家畜化された種は、毛の生え変わりがさほど起きないため、人為的に刈り取らなければ生命に関わることもある。2021年、オーストラリアで飼育環境から脱していたヒツジが保護された際の例では、毛の重量が30kgを超えており話題となった<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35166969.html?utm_source=wpp&utm_medium=browser_push&utm_campaign=editorial-push |title=毛が伸び放題のヒツジを救出、30キロ分刈り取る 豪州 |publisher=CNN |accessdate=2021-02-25}}</ref>。 ;群れ :ヒツジは非常に群れたがる性質をもち、群れから引き離されると強いストレスを受ける。また、先導者に従う傾向がとても強い(その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもする)。これらの性質は家畜化されるにあたり極めて重要な要素であった。 :なお、捕食者がいない地域の在来種は、強い群れ行動をおこさない。 :群れの中では、自分と関連あるもの同士が一緒に動く傾向がある。混種の群れの中では同じ品種で小グループができるし、また雌ヒツジとその子孫は大きな群れの中で一緒に動く。 :一匹の状態では、ゾウやサイなど異種とも群れを作ろうとする<ref>{{YouTube|RhF7r5ayZvA|シロサイと仲良くなったヒツジ | ナショジオ }} ナショナルジオグラフィック</ref>。 == 歴史 == {{see also|en:History of the domestic sheep|en:Sheep dip|{{ill2|羊の毛刈り|en|Sheep shearing}}}} === 家畜化の歴史 === [[ファイル:Ovis ammon vignei arkal Pretoria 3.jpg|thumb|南アジアの野生種ウリアル]] 新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡がある。家畜化が始まったのは[[レバント|古代メソポタミア]]で、紀元前7000-6000年ごろの遺跡からは野生ヒツジとは異なる小型のヒツジの骨が大量に出土しており、最古のヒツジの家畜化の証拠と考えられている<ref group="注釈">これとは別に、紀元前11000年ごろのイラクや紀元前7000-5000年頃のインドの遺跡からも小さい羊の骨や痕跡が出土しているが、単に子羊の骨であるなど、家畜化の証拠としては疑問がもたれている。</ref>。 [[ファイル:Erector fat tail sheep.jpg|thumb|臀部に脂肪を蓄えるヒツジ]] 家畜化されたヒツジの祖先は、[[モンゴル]]から[[インド]]、[[西アジア]]、[[地中海]]にかけて分布していた4種の野生ヒツジに遡ることができる。[[中央アジア]]の[[アルガリ]]、現在の[[中近東]]にいる[[ムフロン|アジアムフロン]]、インドの[[:en:Urial|ウリアル]]<ref group="注釈">ウリアルはアジアムフロンの亜種とする説もある。</ref>、地中海のヨーロッパムフロンがこれにあたる。これら4種は交雑が可能であり、遺伝学的手法によっても現在のヒツジの祖を特定するには至っていないが、いくつかの傍証からアジアムフロンが原種であるとの説が主流となっている。 ヒツジを家畜化するにあたって最も重要だったのは、[[脂肪]]と毛であったと考えられている。肉や乳、皮の利用は[[ヤギ]]が優れ、家畜化は1000-2000年程度先行していた。しかし山岳や砂漠、[[ステップ (植生)|ステップ]]など乾燥地帯に暮らす[[遊牧民]]にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、現代でもヒツジの脂肪が最良の栄養源である。他の地域で脂肪摂取の主流となっているブタは、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、宗教的にも忌避されている。こうした乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されている。それぞれ、脂尾羊、脂臀羊と分類される。 === 羊毛の歴史 === {{see also|en:Sheep shearing}} 毛の利用については、{{いつ範囲|現代|date=2016年3月}}のヒツジと最初期のヒツジとでは様相が大きく異なる。 野生のヒツジの毛(フリース)は2層になっている。外側を太く粗く長い「上毛(粗毛、'''[[:en:Kemp (wool)|ケンプ]]''')」に覆われ、肌に近い内側に産毛のような短く柔らかく細い「下毛(緬毛、'''[[ウール]]''')」がわずかに生えている。最初期のヒツジの緬毛(ウール)は未発達で、利用されていなかった。一方、野生のヒツジは春に上毛(ケンプ)が抜ける(換毛)性質があり、紀元前から人類は、この抜け落ちた上毛(ケンプ)によって[[フェルト]]を作っていたらしい<ref group="注釈">紀元前の中国、ドイツ、北アジアにその痕跡があるが、はっきりしたことはよく分かっていない。</ref>。現在われわれが通常に羊毛(ウール)として親しんでいるのは、主にこの下毛を発達させるように品種改良された家畜用ヒツジの毛である。現代の家畜化されたヒツジは換毛しない。 [[ファイル:Jason Pelias Louvre K127.jpg|thumb|ギリシアの黄金の羊毛の伝説]] 家畜化されたヒツジは改良によって、上毛(ケンプ)を退行させる代わりに、'''ヘアー'''(適当な訳語がない)と呼ばれる中間毛と緬毛(ウール)を発達させた。紀元前4000年ごろにはヘアータイプやウールタイプのヒツジが分化している。紀元前2000年ごろの[[バビロニア]]はウールと穀物と植物油の三大産物によって繁栄した。バビロンの名は「ウールの国」の意味であるとする研究者もいる<ref>「品種改良の世界史」,2010,正田陽一編,悠書館,ISBN 978-4-903487-40-3</ref><ref group="注釈">一般的には「バビロン」は“神の門”を意味するとか、創世記に登場するバベルの塔の逸話に因む“混乱”の意であるとかといった説が主流であるが、最古期の語源は言語が解読されておらず不明とされている。</ref>。 [[ファイル:Suovetaurile Louvre.jpg|thumb|1世紀ローマのレリーフ]] 野生タイプのヒツジの上毛(ケンプ)は黒色、赤褐色や褐色であったが、改良によってヘアーやウールタイプのヒツジからは淡色や白色の毛が得られ、染料技術と共にメソポタミアから[[エジプト]]に伝播し、彩色された絨毯は重要な交易品となった。紀元前1500年頃から、地中海に現れた[[フェニキア]]人によって白いウールタイプのヒツジが[[コーカサス]]地方や[[イベリア半島]]に持ち込まれた。コーカサス地方のヒツジは、のちに[[ギリシア]]人によって再発見され、[[イアーソーン#コルキスの金羊毛皮|黄金羊伝説]]となった。このヒツジは<!-- コルキス種となり、-->ローマ時代には<!-- 南イタリアで-->柔らかく細く長く白いウールを生むタランティーネ種へ改良された。[[トガ|ローマ人が着用した衣服]]はウールの織物である。一方、イベリア半島では、すでに土着していたウールタイプのヒツジとタランティーネ種の交配による改良によって、更なる改良が続けられ、1300年頃の[[カスティーリャ]]で現在の'''[[メリノ種]]'''が登場した。 理想的なウールだけを産するメリノ種は毛織物産業を通じてスペインの黄金時代を支えた。メリノ種はスペイン王家が国費を投じて飼育し、数頭が海外の王家へ外交の手段として贈呈される以外は門外不出とされた。これを犯した者は死罪だった。18世紀になると[[半島戦争|スペインの戦乱]]にヨーロッパの列国が介入し、メリノ種が戦利品として持ち去られて流出、羊毛生産におけるスペインの優位性が喪失された。イギリスでは羊毛の織物と蒸気機関を組み合わせた新産業が興った。[[1796年]]、南アフリカ経由で13頭のメリノ種がオーストラリアに輸入された。このうちの3頭が現在のオーストラリアのメリノ種の始祖になったと伝えられている。この羊を買い取った[[ニュー・サウス・ウェールズ州]]の[[ジョン・マッカーサー]]はヒツジの改良に努め、オーストラリアの羊毛産業の基礎を築いた<ref>「オセアニアを知る事典」平凡社 p279 1990年8月21日初版第1刷</ref>。 === 羊皮の歴史 === ヒツジの皮の利用は最古のものとしては紀元前2500年頃まで遡ることができるが、[[羊皮紙]]としては、紀元前2世紀頃の[[ペルガモン]](現在のトルコ)で本格的な加工が始まったとされる。 === 羊乳の歴史 === [[羊乳]]はヤギの乳に比べると、[[脂肪]]と[[タンパク質]]に富んでおり、加工に適する。中近東やヨーロッパ大陸では羊乳は伝統的に[[チーズ]]や[[ヨーグルト]]に加工されており、現在でも多くの乳用種が飼育されている。しかし、より遅く家畜化に成功したウシと比較すると単位面積当たりの収量は劣り、ウシを飼養できる地域ではヒツジの乳利用は主流ではない。 ===日本の羊の歴史=== [[日本列島]]には古来より、[[旧石器時代 (日本)|旧石器]]・[[縄文時代]]のイヌや弥生時代の[[ブタ]]・[[ニワトリ]]、[[古墳時代]]の[[ウマ]]・[[ウシ]]など[[家畜]]を含め様々なものが海を越えて伝わったが、羊の飼育及び利用の記録は乏しい。寒冷な土地も多く防寒用に羊毛が利用される下地はあったが、動物遺体の出土事例も報告されていないことから、ほとんど伝わらなかったものと考えられている。 考古資料では[[鳥取県]][[鳥取市]]の[[青谷上地遺跡]]において弥生時代の[[琴]]の部材と考えられている木板に頭部に湾曲する二重円弧の角を持つ動物が描かれており、ヒツジもしくは[[ヤギ]]を表現したものとも考えられている<ref name="賀来(2015)、p.106">賀来(2015)、p.106</ref>。 文献史料においては、『[[魏志倭人伝]]』(『魏書』東夷伝倭人の条)では弥生時代末期([[3世紀]]前半代)において日本列島にはヒツジがいなかったと記されている<ref name="賀来(2015)、p.106"/>。 8世紀初頭に成立した『[[日本書紀]]』では、推古天皇7年([[599年]])に、[[推古天皇]]に対し[[百済]]([[朝鮮半島]]南西部)からの朝貢物として[[ラクダ|駱駝]](らくだ)、[[ロバ|驢馬]](ろば)各1頭、白[[キジ|雉]]1羽、そして羊2頭が献上されたという<ref name="賀来(2015)、p.106"/>。これが日本国内において、羊について書かれた最初の史料である<ref name="jlta.lin.gr.jp01_01">{{Cite web|和書|title=日本のめん羊事情 |publisher=公益社団法人 畜産技術協会|date=1991-12 |url=http://jlta.lin.gr.jp/publish/sheep/kiji/01_01.html |accessdate=2020-11-28}}</ref>。西域の動物であるラクダやロバとともに献上されていることから、当時の日本列島では家畜としてのヒツジが存在していなかったとも考えられている<ref name="賀来(2015)、p.106"/>。 [[奈良時代]]、[[天武天皇]]の時代に[[関東]]で活躍した人物に「[[多胡羊太夫]](たご ひつじだゆう)」という人物がいると伝わり、関連して[[群馬県]][[安中市]]に[[羊神社 (安中市)|羊神社]]([[愛知県]][[名古屋市]]にも同名の[[羊神社 (名古屋市)|羊神社]]がある)などが残る程度であり、羊自体の存在や飼育記録は確認できない。 [[8世紀]]には、[[奈良県]]の平城宮跡や[[三重県]]の斎宮跡から羊形の硯(すずり)が出土している<ref name="賀来(2015)、p.115">賀来(2015)、p.115</ref>。8世紀中頃には、正倉院宝物に含まれる「臈纈屏風(ろうけちのびょうぶ)」にヒツジの図像が見られる<ref name="賀来(2015)、p.115"/>。 『[[日本紀略]]』によれば、[[嵯峨天皇]]の治世の[[弘仁]]11年([[820年]])には、[[新羅]]からの朝貢物として[[ガチョウ|鵞鳥]]2羽、[[山羊]]1頭、そして黒羊2頭、白羊4頭が献上されたという<ref name="賀来(2015)、p.106"/>。さらに、[[醍醐天皇]]の治世の[[延喜]]3年(903年)には[[唐]]人が“羊、鵞鳥を献ず”とあり、他の記録も含め何度か日本に羊が上陸した記録はあるが、その後飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった。 [[江戸時代]]、[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])に[[江戸幕府]]の[[長崎奉行]]の[[成瀬正定]]が羊を輸入し、[[唐人]](中国人)の[[牧夫]]を使役して[[肥前国|肥前]][[浦上]]で飼育を試みたが、失敗。 幕府の[[奥詰医師]]であった[[本草学者]]の[[渋江長伯]]は行動的な学者であったらしく、幕命により蝦夷地まで薬草採集に出向いたりしていた。長伯は幕府医師だけではなく、江戸郊外にあり幕府の[[薬草]]園であった広大な[[巣鴨薬園]]の総督を兼ねていたが、文化14年([[1817年]])から薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から[[羅紗]]織の試作を行った。巣鴨薬園はゆえに当時「綿羊屋敷」と呼ばれていた。 明治期に入ると[[お雇い外国人]]によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドルが軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き、1875年(明治8年)に[[大久保利通]]によって下総に[[宮内庁下総御料牧場|牧羊場]]が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである。 民間では、1876年(明治9年)に蛇沼政恒が岩手県で政府から100余頭の羊と牧野を借りて始めたのが先駆で、以後、数百頭規模の牧場が東日本の各地に開かれた<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』16 - 18頁。</ref>。ただ、生産された羊毛を買い上げるのは軍用の千住製絨所に限られ、品質で劣る日本産羊毛の販売価格は低く、羊肉需要がないこともあって、経営的には成功しなかった<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』20 - 21頁。</ref>。1888年(明治21年)には政府の奨励政策が打ち切りになり、官営の下総牧羊場も閉鎖された<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』24頁。</ref>。 しかし、国内の羊毛製品需要は軍需・民需ともに旺盛で、しだいに羊毛工業が発達した。戦前から戦後間もない時期までの日本にとって[[毛織物]]は重要な輸出品だったが、その原料は[[オーストラリア]]と[[ニュージーランド]]などからの輸入に頼っていた。一度は失敗を認めた政府にも、国産羊毛を振興したいという意見が根強くあり、[[1918年]](大正7年)から「副業めん羊」を普及させた。農家が自家の農業副産物を餌にして1頭だけ羊を飼い、主に子供が世話をして家計の足しにするという方法である<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』31- 32頁。</ref>。副業めん羊は東日本の山間地の養蚕農家の間に広まった<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』32- 36頁。</ref>。 1957年(昭和32年)には統計上で94万頭、実数ではおそらく100万頭を超える数が日本国内で飼育されるようになった。しかし、その後は海外から安価に羊肉及び羊毛が入ってきたことや、[[化学繊維]]が普及したため、国産羊毛の需要が急減し、24年後の1981年(昭和56年)になると、国内の羊の飼育数は、100分の1程度の約1万頭にまで激減した。その後、肉利用を目的とした羊の飼育が再び増加し、1991年(平成3年)には3万頭を超える数まで増加した。その8割は[[サフォーク種]]である<ref name="jlta.lin.gr.jp01_01"/>。 == 生産 == {{main|en:Sheep farming}} [[ファイル:Ovejas en Patagonia - Argentina.jpg|thumb|アルゼンチン、パタゴニアでの牧羊]] {| class="wikitable" style="float:left; clear:left; margin-right:1em" |- ! colspan=2|2008年の羊の頭数<br>(単位は百万頭) |- | {{CHN}} || style="text-align:right;"| 136.4 |- | {{AUS}} || style="text-align:right;"| 79.0 |- | {{IND}} || style="text-align:right;"| 65.0 |- | {{IRN}} || style="text-align:right;"| 53.8 |- | {{SUD}} || style="text-align:right;"| 51.1 |- | {{NZL}} || style="text-align:right;"| 34.1 |- | {{NGR}} || style="text-align:right;"| 33.9 |- | {{GBR}} || style="text-align:right;"| 33.1 |- |'''世界総計''' || style="text-align:right;"| '''1,078.2''' |- |align=center colspan="2"|出典: [[FAO]] <ref name="Fao.org">{{cite web|url=http://faostat3.fao.org/home/index.html#VISUALIZE|title=FAO Brouse date production-Live animals-sheep|publisher=Fao.org |date= |accessdate=2012-12-30}}</ref> |} ヒツジは羊毛や肉(ラム、マトン)を目的として世界中で広く飼育され、[[2008年]]には全世界で10億頭を超えるヒツジが飼育されていた。世界で最もヒツジを多く飼育しているのは[[中国]]で、1億3000万頭以上に上る。飼育頭数は漸増傾向にあったが、[[2006年]]からは減少に転じている。2位は[[インド]]で、[[1992年]]から[[2010年]]までに飼育頭数が約1.5倍となり、現在も漸増傾向が続く。次いで飼育頭数が多いのは[[オーストラリア]]である。かつては長らく世界最大のヒツジ生産国であり、1992年には1億4800万頭以上のヒツジが飼育されていたが、飼育頭数は急激に減少しており、[[1996年]]には中国に抜かれて第2位となり、2010年にはインドにも抜かれて3位となった。2010年の飼育頭数は約6800万頭であり、1992年の半分以下にまで減少している。オーストラリアのヒツジはメリノ種が主であり、羊毛を主目的としていたが、近年では食肉種も盛んに飼育されるようになった。4位は[[イラン]]であり、1992年の4600万頭から2010年の5400万頭と微増している。5位は[[スーダン]]であり、1992年から2010年までに飼育頭数は倍増した<ref name="Fao.org"/>。6位の[[ニュージーランド]]は古くからのヒツジの大生産国であり、[[1834年]]にヒツジが本格導入されてからすぐに羊毛の大輸出国となり、さらに[[1882年]]に[[冷凍船]]が導入されてからは羊肉も輸出できるようになって、[[産業革命]]期にあった[[イギリス]]を主要市場として発展していった。ニュージーランドではオーストラリアとは違い、羊肉・羊毛兼用種が主に飼育されている<ref>「オセアニアを知る事典」平凡社 p240 1990年8月21日初版第1刷</ref>。 日本のヒツジ飼育頭数は2010年に1万2000頭であり、世界では第158位である<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/sheep.html キッズ外務省:羊の頭数の多い国 日本国外務省 2012年12月30日閲覧</ref>。[[都道府県]]別では[[北海道]]での飼育数が飛び抜けて多く、他は[[秋田県]]、[[岩手県]]、[[福島県]]などの[[東北地方]]、[[栃木県]]や[[千葉県]]などの[[関東地方]]で飼育されている。[[東日本]]ではある程度飼育されているが、[[西日本]]ではほとんど羊の飼育は行われていない<ref>{{Cite web|和書|title=日本のめん羊事情 |publisher=[[公益法人|公益社団法人]]畜産技術協会 |date=1991年12月 |url=http://jlta.lin.gr.jp/publish/sheep/kiji/01_01.html |accessdate=2014-03-22}}</ref>。 == 利用 == ;羊肉 [[ファイル:Thawed Lamb.JPG|thumb|200px|[[ジンギスカン (料理)|ジンギスカン]]用のラム肉]] '''[[羊肉]]'''は広い地域で食用とされている。羊の年齢によって、生後1年未満を[[ラム (子羊)|ラム]]({{lang|en|lamb}}、子羊肉)・生後2年以上を[[マトン]]({{lang|en|mutton}})と区別することもある。生後1年以上2年未満は、[[オセアニア]]では「ホゲット」と区別して呼ばれているが、日本ではマトンに含まれる。 日本国内では、毛を刈った後で潰したヒツジの大量の肉を消費する方法として新しく考案された[[ジンギスカン (料理)|ジンギスカン]]や、[[ラムしゃぶ]]、スペアリブの香草焼き、[[アイリッシュシチュー]]など特定の料理で使われることが多い。[[カルニチン]]を他の食肉よりも豊富に含むことから、体脂肪の消費を助ける食材とされている。 ラムには臭みが少なく、こちらは日本で近年人気が高まりつつある。羊肉特有の臭みは脂肪に集中するため、マトンの臭みを取り除くには、脂肪をそぎ落とすと良いと言われる。他には、「香りの強い香草と共に炒める」「牛乳に漬けておく」等の方法がある。 海外では、飼育が盛んな[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]をはじめ、特に[[ペルシャ湾]]岸諸国や[[ギリシャ]]、[[イギリス]]、[[アイルランド]]、[[ウルグアイ]]で盛んに消費される。湾岸諸国を除いては、いずれも羊が盛んに飼育される国家である。これらの国では、羊肉の年間一人当たり消費量が3kgから18kgにのぼる<ref name="nytimes.com">http://www.nytimes.com/2006/03/29/dining/29mutt.html Apple Jr., R.W. . "Much Ado About Mutton, but Not in These Parts". [[ニューヨーク・タイムズ]]、(2006年3月29日)2012年12月30日閲覧</ref>。湾岸諸国で消費が多いのは[[豚肉]]を避ける[[イスラム教]]が広く普及しているからであり、他の[[中東]]諸国でも羊肉の消費量は多い。[[マグリブ]]や[[カリブ海]]、[[インド]]でも多く消費される。また、[[東アジア]]でも、[[モンゴル]]、[[中華人民共和国|中国]]西北部などでは、代表的な食肉となっており、さまざまな調理法が用いられている。ヨーロッパではラムが、中東や中央アジアではマトンが好まれる傾向にある<ref name="ReferenceA">『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典2 主要食物:栽培作物と飼養動物』 三輪睿太郎監訳 朝倉書店  2004年9月10日 第2版第1刷 p.666</ref>。 インドの[[マクドナルド]]には「マハラジャマック」と呼ばれるメニューがあり、これは牛を神聖な生き物とみなす[[ヒンドゥー教]]の信徒のためにマトンを用いた[[ハンバーガー]]のことである。 一方、[[アメリカ合衆国]]においては羊肉の消費量はわずかである。[[アメリカ人]]の年間羊肉消費量は0.5kg以下で、[[牛肉]](29kg)や[[豚肉]](22&nbsp;kg)に比べてはるかに低い消費量となっている<ref name="nytimes.com"/>。これは、アメリカでは牛や豚など他の食肉が大量に生産できるうえに安く、さらにアメリカで食用にされるヒツジは羊毛用ヒツジの廃家畜が主であったため、食味などの品質で他の食肉に太刀打ちできなかったからである。さらに他食肉の価格下落に伴い、[[1960年代]]から[[1980年代]]にかけて羊肉消費量はさらに60%以上減少した<ref name="ReferenceA"/>。 ;羊乳 [[ファイル:Feta Greece 2.jpg|thumb|right|200px|フェタチーズ]] :ヒツジの乳は主に[[ヨーグルト]]や[[チーズ]]などの加工用に使用される。生乳の飲用は牛に比べて生産効率が悪いためにほとんど行われない。特にチーズへの加工が多く、[[フランス]]の[[ロックフォール (チーズ)|ロックフォール・チーズ]]や[[イタリア]]の[[ペコリーノ]]、[[ギリシャ]]の[[フェタチーズ]]など羊乳を原料としたチーズも多い。 ;羊毛 :羊の飼育上もっとも重要な利用対象はメリノ種などから取る緬毛([[ウール]])である。詳細は[[ウール|緬毛]]の項目を参照。 ;羊皮紙 :[[羊皮紙]]はヒツジの皮を原料とするが、[[ヤギ]]や[[ウシ]]など、ヒツジ以外の生き物の皮が使われることも多かった。 :[[中近東]]や[[中世]]の[[西洋]]などでは、[[東洋]]から製[[紙]]の技術が伝播するまで、羊皮紙は[[パピルス]]、[[粘土]]板と共に、宗教関連の記録や重要な書類の作成に、長い間使用されていた。 ;ラノリン {{Main|ラノリン}} :羊毛の根元に付着している[[ワックスエステル]]を主成分とする油分を'''ウールオイル'''(ウールファット、{{lang|en|[[w:Wool fat|Wool fat]]}})または'''ウールグリース'''({{lang|en|[[w:Wool grease|Wool grease]]}})という。これを精製したものを'''[[ラノリン]]'''といい化粧品、軟膏の原料にする。また、これとは別に肉から羊脂をとることができ、調理用などに使用される。 ;革([[羊革]]) :ラムスキン、[[シープスキン]]、[[ムートン]]として衣服に用いられる。 == 品種 == {{main|en:Category:Sheep breeds|en:List of sheep breeds}} [[砂漠]]や山岳地帯など、さまざまな環境に適応した固有の種がある。家畜用のヒツジは、毛用種、肉用種、乳用種に大別されるが、代表種のメリノをはじめ、兼用の品種も多い。 ;原種 * [[アルガリ]] - 野生のヒツジで、ヒツジとしては最大の種。体高120センチ、体重100-180キロに達する。毛は褐色から赤褐色。角は渦巻き状で長い。アジアの高山地帯に分布する。[[マルコ・ポーロ]]の『[[東方見聞録]]』でも紹介されている。家畜ヒツジの原種の一つと考えられている。 * [[ムフロン]] - 小型の野生のヒツジで、最初期に家畜化されたヒツジの原種の1つと考えられている。ヨーロッパ・ムフロン、アジア・ムフロン(レッド・ムフロン)が知られ、赤色から赤褐色、赤黄色の毛色をもつ。 <gallery> ファイル:Merino sheep.png|現代の代表品種メリノ ファイル:Take_ours%21.jpg|顔や四肢の黒いサフォーク ファイル:102 0198 Karakul3.jpg|カラクルの子 ファイル:Muffelwild12.4.2008_007.jpg|野生種のムフロン </gallery> === ヨーロッパ === ; アイスランディック : 北欧の肉用種。アイスランド原産で、アイスランドでは40万頭以上飼育されている。9-10世紀にバイキングが持ち込んだヒツジの子孫で、地理的に隔絶されていたために交雑が行われなず、純血家畜用ヒツジとしては世界最古。 ; アラゴネセ : スペインの最高級肉用ヒツジ。スペインでは最古の品種。 ; イースト・フリージャン : ドイツの代表的な品種。顔、四肢は白い。世界最高の乳用羊として著名で、脂肪分の高い羊乳からチーズがつくられる。 ; コーカシアン : ロシアや旧東欧諸国の主流品種。毛・肉ともに優れる。 ; [[サフォーク種|サフォーク]] : 顔と四肢が黒い。[[イギリス]]・サフォーク州原産。戦後日本に導入され、主に肉用。国産のラム肉の多くは本種。原産地のイギリスでもラム肉の5割を占める。日本で最もポピュラーな品種で、近年は日本最多の登録数を占める。 ; シャロレー : フランス原産。繁殖能力に優れ、雑種生産用として人気がある。ヨーロッパやアメリカで多く飼育され、ヨーロッパではシャロレーを父に持つ雑種はプレミア価格となる。 ; チェビオット : イギリスを代表する山岳品種で、15万頭以上が飼育されている。スコットランドのツイードの原料として知られる。 ; テクセル : オランダ原産の肉用種。飼育が容易で肉量が多く、50万頭が飼育されている。ヨーロッパ全域のほか、アメリカ、アフリカ、オセアニア、アジアの各大陸でも飼育される。 ; [[メリノ種|メリノ]] : 最も有名な細毛品種。[[イベリア半島]]原産。原種は西アジア産で、地中海経由でイベリア半島に持ち込まれた。古代から中世にかけて、フェニキア人、ローマ人、ムーア人によって、中東の褐色のヒツジから白色のヒツジへと改良された。1300年代のカスティリヤで現在の原型が登場した。きわめて繊細な細毛が最大の特徴で、スペインの繊維産業の主力として国費によって飼育・改良され、近代までは国外への輸出が禁じられていた。現在は世界中に輸出されてスペインの独自性が喪失されたのとともに、化学繊維の普及によって飼育頭数は激減したが、それでもスペインで300万頭以上が飼育されている。18世紀にオーストラリアに持ち込まれて普及・改良されたオーストラリアン・メリノ種は1億3000万頭が飼育され、オーストラリア産の羊毛の7割を占める。顔や四肢は白く、メスは無角。毛肉兼用。 ; ロムニー : イギリス[[ケント州]]のロムニー原産。長毛の肉用種。顔や四肢は白い。ロムニー・マーシュはその名の通り沼沢地を好み、湿潤な気候に適することから日本にも多く導入された。改良種のニュージーランド・ロムニーはニュージーランドの飼育頭数の9割を占める代表種で約2700万頭飼育されている。 === オセアニア === ; コリデール : ニュージーランド原産。メリノ種の雌にリンカン種、ロムニー種、レスター種の雄を交配した<ref>コトバンク</ref>。冷涼な気候を好むヒツジの中で適応性に富み、世界中に広まった。温暖湿潤な日本の環境にも適応し、かつて日本で主流だった。角はなく、顔や四肢は白く、長毛。毛肉兼用だが、戦前の日本では専ら羊毛用に飼育され、100万頭近く飼育されていた。毛織物産業に化学繊維が登場すると廃れ、1万頭弱まで減少した。 ; ドライスデール : ニュージーランド原産。オセアニアで毛肉両用として人気があり、毛はカーペットの材料となる。ニュージーランドだけで60万頭以上飼育されている。 === アジア === ; アワシ : 中近東で5000年以上飼育されてきた品種で、南・西アジアでは現在も主流のヒツジ。毛は[[ペルシア絨毯]]に、肉と乳は食用になる。顔は黒色、褐色、白色と多様。 ; [[カラクール|カラクル]] : 中央アジアの高級品種。中央アジアの砂漠地帯の暑さと夜の寒さや乾燥に耐える。顔、四肢は黒い。世界の代表的な毛皮品種で、幼年時は黒色の毛で、成年になると灰褐色となる。子羊の皮はアストラカンと呼ばれる最高級品となる。品種名は原産地のウズベキスタンの村の名前に由来する。 ; 蔵羊 : 中国の代表品種。中国内陸部の高原地帯からインドまで広く飼育され、その数は2800万頭といわれる。肉・毛のほか、荷駄用にも。 ; 寒羊 : モンゴルの品種。毛肉兼用で尾に脂肪を蓄える。 == 文化 == ;文化 * [[未]]([[十二支]]) * [[おひつじ座]] * [[闘羊]] === キリスト教での象徴性 === [[キリスト教]]、またその母体となった[[ユダヤ教]]では、ヤハウェ([[唯一神]])や[[メシア]](救世主)に導かれる信徒たちが、しばしば羊飼いに導かれる羊たちになぞらえられる。[[旧約聖書]]では、ヤハウェや王が羊飼いに、ユダヤの民が羊の群れにたとえられ([[エレミヤ書]]・[[エゼキエル書]]・[[詩篇]]等)ている。 また、旧約聖書の時代、羊は神への捧げもの([[生贄]])としてささげられる動物の一つである。特に、[[出エジプト記]]12章では、「[[十の災い]]」の最後の災いを避けるために、[[モーセ]]はイスラエル人の各家庭に小羊を用意させ、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗り、その肉を焼いて食べるという[[たとえ話]]がある。のちに、出エジプトを記念する[[過越]]祭として記念されるようになる。 また、羊の肉はユダヤ教徒が食べることができる肉として規定されている。[[カシュルート]]を参照のこと。 [[新約聖書]]では、「[[ルカ福音書]]」(15章)や「[[マタイ福音書]]」(18章)に「迷子の羊と羊飼い」のたとえ話の節がある。愛情も慈悲も深い羊飼いは、たとえ100匹の羊の群れから1匹が迷いはぐれたときでも、そのはぐれた1匹を捜しに行くとしている。この箇所は隠喩となっており、はぐれた羊は、神から離れた者、神に従わない反抗者、罪を犯す者を表し、また羊飼いについては創造主である神を例えている。福音書では、どのような者であっても同じように愛し、気にかけ、大切に想う神の愛を示している。 「[[ヨハネ福音書]]」では、[[イエス・キリスト|イエス]]が「私は善き羊飼いである」と語るが、イエス自身も「世の罪を取り除く[[神の小羊]]」と呼ばれる(1章29節)。 この「神の小羊」は、イエスが後に十字架上で刑死することにより、人間の罪を除くための神への犠牲となる意味があり、イエスが刑死したのも前述の過越祭の期間であったことから、[[パウロ]]は[[コリントの信徒への手紙一|第一コリント]]5章7節で、イエスは「過越の小羊として屠られた」と表現する([[ミサ]]・[[ミサ曲]])。 また、「[[ヨハネ黙示録]]」において、天上の光景のなかで啓示されるイエスの姿は「屠られたような」「七つの目と七つの角」を持つ小羊の姿である(5章他)。 === イスラム教の犠牲祭 === イスラム教国においてはヒツジはもっとも重要な家畜の一つであり、特に[[サウジアラビア]]や湾岸諸国においては[[ハラール]]に適応するようオーストラリアなどから生きたまま羊を輸入し、自国にて屠畜し食肉とすることが行われる。また、ヒツジはイスラム教の祭日である[[イード・アル=アドハー]](犠牲祭)においてもっとも一般的な[[生贄]]である。この日は[[ハッジ]]の最終日に当たり、[[メッカ]]郊外のムズダリファにおいてヒツジや[[ラクダ]]、[[牛]]など50万頭にものぼる動物が生贄にささげられる<ref>「メッカ」p157 野町和嘉 岩波書店 2002年9月20日第1刷</ref>。メッカ以外の、[[巡礼]]に参加しなかった[[ムスリム]]も動物を1頭捧げることが求められており、イスラム教諸国においてヒツジが買われ、神に捧げられる。捧げられた肉は自らの家庭で消費するほか、施しとして貧しい人々に分け与えられる。 === シープドッグ === 犬種に {{lang|en|''[[:en:Shetland Sheepdog|Shetland Sheepdog]]''}}([[シェットランド・シープドッグ]])の様に {{lang|en|''sheepdog''}} と付くものがあるが、これは「ヒツジに似た犬」ではなく、'''[[牧羊犬]]'''に適した犬種であることを示している([[シェパード]] {{lang|en|Shepherd}} も同様)。これらは、[[英語圏]]を始めとする欧州地域でのヒツジが比較的身近な家畜である顕著な例でもある。 === 言葉 === * 鳴き声を[[日本語]]で書き表すと「メー」。[[漢字]]では「咩([[万葉仮名]]:め、[[呉音]]:ミ、[[漢音]]:ビ、現代[[中国語]]:{{lang|zh-latn|miē}})」。[[英語]]では「バー」。 * 英語圏に、{{ill2|羊を数える|en|Counting sheep}}ことで安眠が得られるという俗説がある。これは、「{{lang|en|One sheep, two sheep}}…」と唱えることでよく似た発音の「{{lang|en|sleep}}」(眠る)と脳に命じる効果があること、また「{{lang|en|sheep}}」という言葉が安眠を促す腹式呼吸を誘う発音であることに由来する、といわれる<ref>[https://asajo.jp/excerpt/3178 Asa-Jo]「羊が一匹、羊が二匹…」日本人が羊を数えても眠れない理由が判明した!</ref>。なお、英単語「{{lang|en|sheep}}」は、単数形・複数形が同形である。 * 黒羊(ブラックシープ)は、白い羊の中で目立つことや、羊毛を染められないため価値が低いとされたことから、厄介者という消極的な意味や型にはまらない変わり者など肯定的な用法として要いられる。同義語:白いカラス(ロシア)。 : {{Main|黒い羊 (慣用句)}} * {{ill2|Schafskälte|de|Schafskälte}} - ドイツ語で「羊が寒がる」という意味で、アルプスの6月で急に冷え込む気象現象のこと。 * {{ill2|ベルウェザー|en|Bellwether}} - 鈴が首につけられた去勢された牡羊である。去勢された牡羊(ウェザー)は羊飼いに従順になり、羊飼いの訓練を経て、羊の群れを率いるリーダーとしての役割を与えられる<ref>トレイルズ 「道」と歩くことの哲学 著者:ROBERT MOOR</ref>。このことから政治リーダーや株式の[[指標銘柄]]、先例裁判、トレンドを作る人間、環境の変化を敏感に感知する動物などを呼び表すのに使われる<ref>[https://www.encyclopedia.com/environment/encyclopedias-almanacs-transcripts-and-maps/bellwether-species Bellwether species] 掲載サイト:[[Encyclopedia.com]]</ref>。 === その他 === * 怒った雄羊の突撃には相当な威力がある。ここから転じて[[ローマ軍]]で用いられた[[破城槌]]の先端には、鉄や青銅で出来た雄羊の頭の像が取り付けられた。 ;オークション *[[2009年]]、「デブロンベール・パーフェクション」という名の羊が23万ポンド(約3200万円)で落札された。 *[[2020年]][[8月]]に[[スコットランド]]の[[ラナーク]]で行われたオークションで、「ダブル・ダイヤモンド」という名のテクセル種の子羊が35万ギニー(イギリスの家畜の売買では、通貨の単位として伝統的に[[ギニー]]が使われる)(約5200万円)で落札された。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35158925.html|title=羊一頭、史上最高額の5200万円で落札 英国|accessdate=2020-9-3|publisher=CNN}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [[秋篠宮文仁親王|秋篠宮文仁]]『日本の家畜・家禽』、学習研究社、2009年、ISBN 978-4-05-403506-5 * 賀来孝代「未 ヒツジ」、設楽博己編『十二支になった動物たちの考古学』、新泉社、2015年 * 小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、栗原藤七郎・編『日本畜産の経済構造』、東洋経済新報社、1962年。 * 佐々倉実・佐々倉裕美『ひつじにあいたい』、山と渓谷社、2009、ISBN 978-4-635-23025-4 * 下総御料牧場『下総御料牧場概観』、1903年。 * 正田陽一『世界家畜品種事典』、東洋書林、2006年、ISBN 4-88721-697-1 * 正田陽一『品種改良の世界史・家畜編』、悠書館、2010年、ISBN 978-4-903487-40-3 * 百瀬正香『羊の博物誌』、日本ヴォーグ社、2000年、ISBN 978-452-903427-2 == 関連項目 == {{sisterlinks|wikt=羊|wikiquote=羊|commons=Ovis_aries|commonscat=Ovis_aries|d=Q7368|species=Ovis_aries}} * [[クローン]]羊の[[ドリー (羊)|ドリー]] * 世界のめん羊館・めん羊牧場([[北海道]][[士別市]]):国内最多の30種のめん羊を飼育する。日本ではここだけでしか見ることのできない珍しい14種類のめん羊もいる。 ;料理 * [[モモ (料理)]] * [[ガンファン]]:中央アジアで食される「羊丼」 * [[クッベ・ナーイエ]] 東アラブで食されるタルタルステーキ様の料理。 ;映画 * [[LAMB/ラム]] == 外部リンク == * [http://jlta.lin.gr.jp/sheepandgoat/index.html めん羊・山羊] - 社団法人畜産技術協会 * {{Kotobank}} {{哺乳類}} {{鯨偶蹄類}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひつし}} [[Category:羊|*]] [[Category:家畜]] [[Category:ヤギ亜科]]
2003-06-01T04:51:53Z
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バスケットボール
バスケットボール(basketball 音声)は、1891年にアメリカ合衆国の国際YMCAの体育教師のジェームズ・ネイスミスによって考案されたスポーツ。 5人対5人の2チームが、一つのボールを手で扱い、長方形のコート上の両端に設置された高さ305 cm(10 ft)、直径45cm(18 in)のリング状のバスケットにボールを上方から通すこと(ゴール)で得点を競う球技である。公式試合は屋内競技として行われる。狭義では、この競技に使用する専用のボールのことを指す。籠球(ろうきゅう)とも訳される。 開催される国・地域、年齢や性別によってローカルルールが適用される。身長の高さが優位に密接する競技としても知られる。 バスケットボールのゴールとなるバスケットは、FIBA公式ルール では、バックボード(英語版)に取り付けられた、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。 競技年齢や設備環境により、設置高さなど各種寸法は異なる。 このバスケット(リング)に正規の方法でボールを上方から下方に通過させることによってゴールが成立し得点が記録される。 攻撃側(オフェンス)チームは、プレーヤーがドリブルでボールを運んだり、プレーヤー間でパスを行いながら、 一定時間内にショットを放ち、ゴール成立によるポイント(得点)を狙う。 また一旦フロントコートへ運ばれたボールをバックコートに戻すことは出来ない。攻撃権のない守備側(ディフェンス)チームは、規定された方法でゴールを阻止し、攻撃権を奪うような防御プレーを行う。 ボールポゼッション(攻撃権)は、得点があった場合、ヴァイオレイション(身体接触の無い違反)またはファウル(身体接触の有る反則)があった場合、クウォーター(試合進行中の区切り)開始時などにチーム間で移動する。試合中のフィールドゴールは、ショットを放った位置によって、1回の成功で、ツーポイント(2点)あるいはスリーポイント(3点)が記録される。ファウル、あるいはヴァイオレイションに対するペナルティ(罰則)により与えられるフリースローでは、事例によって投数がワンスロー〜スリースロー(1〜3投)の間で決められ、一投成功につき1点が記録される。試合時間終了時点で、より多い得点を得たチームが勝利となる。基本的には引き分けはなく、通常クウォーターの半分程度の時間のオーバータイム(OT)を、勝敗が決するまで繰り返し行う。バスケ以外にもミニバスなどがある。 バスケットボールゲームの特徴は、 などが挙げられる。 後述するように、基本ルールを競技の考案者が1人で策定したことや、NBAなどテレビ中継があるプロスポーツと共に発展してきた事に起因して、「見せるスポーツ」としての側面も併せ持っているため、ルールが複雑なスポーツの一つである。その一方で、レクリエーションとしての「楽しむスポーツ」という点では、ゴールリングとボールがあれば1人からプレーを楽しむことができ、1オン1(1対1)や、3オン3(3対3)で本格的にゲームをすることもできる。アメリカでは、公園など公共の場所にリングが設置されており、ゴールリングを指す俗称から転じて「hoop」とも呼ばれている。 ネイスミスに誘われてYMCAの体育教師となったウィリアム・G・モーガンは、身体接触が伴うバスケットボールは自身が担当するビジネスマンクラス(25〜40歳)には危険が伴うため、子供、女性、高齢者が楽しめる、よりレクリエーション的な屋内競技として、1895年にバドミントンやテニスを参考にしたバレーボールを考案した。 バスケットボールは、比較的最近になって誕生した競技であり、また一人の人物によって考案され広まった数少ない競技のひとつである。考案者はアメリカ、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)の体育部教官を務めていたカナダ人のジェームズ・ネイスミスで、1891年に彼の考え出したルールが現在のバスケットボールの原型になっている 1891年夏、国際YMCAトレーニングスクールでは体育・スポーツ指導者の講習会が開かれたが、当時、全米各州のYMCAでは冬季の屋内における体操中心のプログラムについて学生の意欲が低いとして既存のプログラムに対する不満があり、レクリエーション的で競技的要素を含んだプログラムが求められていた。同年秋、体育部主事のL.H.ギューリックは5人の体育指導教官を集めて数回にわたり検討した結果、新しいスポーツを創り出すほかはないとの結論に達した。体育教官であったネイスミスはアメリカンフットボールやサッカー、ラクロスなどを屋内ゲームとして取り入れようとしたが失敗に終わる。そこで、ネイスミスは各ゲームの要素を取り出すこととし、ボールを使用すること、ラフプレーを取り除く必要からタックルをなくすためボールを保持したまま走ってはいけないこととした。また、ゲーム中の安全性を高めるため競技者間の身体接触を少なくすることが考えられたが、これにはネイスミスが少年時代を過ごしたカナダ・オンタリオ州で行われていたタグ(鬼ごっこ)と的当てを組み合わせた「雄鴨落し(Duck on the Rock(英語版))」という遊びにヒントを得て、ゴールをプレーヤーの頭上に水平に設置することとした。 ネイスミスが最初に考案した13のルールは現在では約250にまでなっているが、ゲームの形式は基本的にほとんど変化していない。 1891年12月21日、国際YMCAトレーニングスクールで18人の学生を9人ずつに分け初めての試合が行われた。この試合ではボールをサッカーボールで代用した。ネイスミスはゴールについては45cm四方の箱を想定していたが、それは用意できなかったため、代わりに桃を入れる籠を体育館のバルコニーに取り付けることとなった。このときのゴールの高さ10フィート (3.05m)は以後変更されることなく現在に至っている。また、フロアの広さはおよそ11m×15mの大きさであったという。この世界最初の試合の18人の中には留学中だった石川源三郎が含まれていた。最初の試合ではトスアップから1時間ほどたって1年生W・R・チェイスのショットが決まって点が入りゲーム終了となっている。試合の様子は石川がスケッチで残している。 このスポーツの名称について初めての試合が行われるに先立ってネイスミスと学生フランク・マーンとの間で話題になり桃の籠(Basket)を用いたことから「Basket ball」と名付けられた。 その後、YMCAトレーニングスクール広報誌「ザ・トライアングル」(1892年1月15日号)に紹介され、1892年1月になって正式に「Basket ball」という名称に定まった。また、当初、英語での表記は2語で「Basket ball」であったが、1921年に公式に1語で「Basketball」となった。日本語では直訳した「バスケットボール」の他、籠を使う球技であることから「籠球」とも訳される。 ネイスミスはレクリエーションを想定していたことから、両チームが同人数であれば何人であってもよいと考えていたため、13条のルールの中にチーム人数を規定していなかった。コーネル大学では50人対50人で試合が行われたが、この試合について担任のE・ヒッチコックは「体育館が破壊されかねない」などと述べるなど逸話となっている。プレーヤー人数については、その後次第に制限され、1894年にプレーヤー人数についてはフロア面積に合わせて5人、7人、9人とされることになった。コートの大きさやプレーヤー人数が現在のように確定したのは1897年になってからのことである。 コート上のプレイヤーは、限られたタイミングで交代することができ、反則やケガで欠員が出ても交代として補充することができる。交代の回数に制限は無いので、1人のプレイヤーが何度も交代することができる。 ゴールについては考案当初、シュートが決まるたびに梯子や棒を用いて取り出していた。ゴールに使われた桃の籠は壊れやすかったためすぐに金属製の円筒形ゴールにかわっている。ゴールの形状はその後少しずつ変化し、一説によればネット状で底が切れている現在のようなゴールの形状になったのは1912年から1913年にかけてであるとされる。なお、リングの内径45cmは最初の試合の時から全く変わっていない。 バスケットボールは熱狂的な人気を博すようになったが、観客が体育館上の手すりや欄干から足や手を伸ばして妨害することが頻発したため遮蔽物が設けられることになった。これがのちのバックボードで当初は金網であったが、1904年から1.8m以上の木板が用いられるようになった。ところが、観客から見えないことになったため後に透明なプラスチック板が用いられるようになっている。バックボードの位置については当初エンドライン上にあったが、ゴールが61cmコート内側に移動することとなった際にバックボードもそれに伴ってゴールと一体となってエンドラインより内側に配置されることとなった。 バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師を務めていたセンダ・ベレンソンによって女子バスケットボールが始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになり、国際YMCAトレーニングスクールを通じ世界各国へ急速に広まった。このような背景もあり、1904年のセントルイスオリンピックではデモンストレーションスポーツとして開催された(1904年から1924年までオリンピックの公開競技として実施)。1932年6月には国際バスケットボール連盟 (FIBA)が結成され、1936年のベルリンオリンピックから男子オリンピック正式種目に採用された。また、1976年のモントリオールオリンピックから女子正式種目にも採用された。 アメリカ国内では、1946年に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併しNBAが誕生した。1967年に、対抗するリーグABAが設立され地位を脅かしたが、1976年にABAは消滅し、NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けている。 NBAには、ジョージ・マイカン、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、オスカー・ロバートソン、カリーム・アブドゥル=ジャバー、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなどのスター選手が所属し、1992年のバルセロナオリンピックでは「ドリームチーム」を結成、圧倒的な強さで優勝を果たした。 また、1996年には女子プロバスケットボールリーグWNBAが設立され、シェリル・スウープス、リサ・レスリー、ローレン・ジャクソンなどのスター選手が台頭した。 NBAやオリンピックの活性化に伴い、近年バスケットボールの国際化が急速に進んでおり、FIBA発表では1998年時点で世界の競技人口はおよそ4億5000万人、FIBAに加盟した国と地域は2006年8月時点で213まで増加した。 日本にバスケットボールが伝わったのは1908年で、YMCAの訓練校を卒業した大森兵蔵が東京YMCAで初めて紹介したとするのが現在の定説である。そして1913年にYMCA体育主事のF.H.ブラウンが来日し、関東、関西で競技の指導に尽力し普及していった。 なお、1891年にスプリングフィールドで行われた世界初の試合に参加した石川源三郎がもたらしたのではないかとする異説もある。ただ、1910年代の日本ではいまだスポーツ施設が少なく競技用具も粗末であるなど本格的に受容するだけの受け皿がなかったとされ、石川がバスケットボールを日本で紹介・指導した記録は見つかっていない。 1924年には、早稲田大学、立教大学、東京商科大学が全日本学生籠球連合を結成。全国各地で対抗戦が行われていった。そして、1930年に日本バスケットボール協会 (JABBA)が設立され、普及と発展及び競技レベルの向上に努めている。 1975年には女子バスケットボール世界選手権で準優勝する。 2005年には日本初のプロリーグbjリーグが発足したが、日本のバスケ全体の発展・強化が遅く、アジアの各大会で苦戦を強いられている。日本代表は、女子が2004年のアテネオリンピックに3度目の出場を果たしたが、男子は1976年のモントリオールオリンピックを最後に出場は途切れている。 2014年11月27日、日本バスケットボール協会 (JBA)はFIBA(国際バスケットボール連盟)より勧告を受けていた『国内男子トップリーグの統合』・『ガバナンス能力に欠けるJBAの改革』・『日本代表の長期的な強化策』の問題が解決されず、FIBAから資格停止処分を受けた。 2015年6月19日、FIBA(国際バスケットボール連盟)が、スイスで常務理事会を開き、2014年11月27日に日本協会に科した、無期限の国際試合出場停止処分の解除を決めた。 2016年9月、NBLとbjリーグが統合した新リーグ「ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)」が開幕。 現代の日本では多くの学校や企業で部活動やサークルとしての活動があり、それぞれ全国規模の大会が毎年行われている。多くの学校や公園には簡易的なバスケットゴールが設置されているが、公式試合ができる環境が整っている場所は少数である。 日本におけるバスケットボールはスポーツ中継も少なく、まだまだマイナースポーツの段階である。 反面、ほとんどのスポーツ用品店でバスケット用品を扱っており、国民の認知度は高いスポーツとなってきている。 天然皮革、合成皮革、ゴムなどで作られたボールが使われる。公式ボールとしては検定球が使われる。一般(男子)用及び中学生用(男子)には7号球(周囲75 - 78 cm、重量600 - 650g)が、一般(女子)用及び中学生用(女子)には、6号球(周囲72 - 74 cm、重量500 - 540g)が、小学生用には、5号球(周囲69 - 71 cm、重量470 - 500g)が使われる。なお、ボールの下端が1.8mの高さから落とした際、上端が1.2 - 1.4mの範囲ではずむ様に空気圧が調整される。 また、2004年のFIBA(国際バスケットボール連盟)の規格改定により従来の茶色の8枚パネルから茶色とクリーム色2色の合計12枚パネルのボールが認められ、選手や観客にとってボールの軌道や回転など視認性が高まった。日本国外では、スポルディングやアディダス、ナイキ、ウィルソンなどが、日本では、モルテン、スポルディング、ミカサ、タチカラなどが製造販売している。 NBAでは、協会公認で、コミッショナーの認定、使用するホームチーム名などが刻印されたスポルディング社製天然皮革ボールを使用していた。2006-2007年シーズンに、合成皮革で二面張りのユニークなボールに一旦は変更した が、選手間での評価が悪く元に戻している。2021–22シーズンからウィルソン社製に変更された。 縦 28m、横15mのコートが使われ、幅5cmの白線で区画が設定される。長辺をサイドライン、短辺をエンドラインと呼ぶ。エンドラインとサイドラインで区画された区域がインバウンズ(コート内)となり、サイドラインとエンドライン上とその外側がアウト・オブ・バウンズ(コート外)となる。コート内には中央でコートを2分するセンターラインや、センターサークル、フリースローレーン、フリースローサークル、3ポイントライン、ノーチャージセミサークルなど様々なラインがマーキングされている。攻撃するバスケットがあるコートの半分をフロントコート、もう一方のバスケットのあるコートの半分をバックコートと呼ぶ。FIBAとNBAではコートサイズや区画などが異なっている が、FIBAでは2010年に変更があり、フリースローレーン(ペイントエリア)が台形から長方形になり、ノーチャージセミサークルが追加され、3ポイントラインも拡張され、NBAの仕様に近づいている。 バスケットに於ける境界線は、ライン上は、ラインを越えた事と同じであると言う考え方が原則である。例えば、3ポイントラインを踏んでのショットは、3ポイント境界線を越えたと見なしゴールしても2ポイントである。ただし、ボールをフロントコートに進めることについては、ボールとボール保持したプレイヤーの両足とがフロントコートに入った段階で成立する。 また、空中でのプレーに関しては最後に触れたコートの部分が適用されるため、ラインのコート内から跳んだ場合は、着地点がコート外だとしても着地するまではプレーを継続でき、シュートをした場合は跳んだ部分での点数が適用される。 フロア材は、公式試合で使用される場所は木材フローリングにワックスコーティングがほとんどだが、硬性アクリル板等もある。屋外ではアスファルトやコンクリートが主であり、公園施設では砂地、土であることも多い。ただし球技であるため、ボールのバウンドが変化しないように特に平坦さが求められる。そのため芝やカーペットなどは不適となる。 コート設置場所の事情によりサイズが異なる場合があり、上記の規定より小さく設計されることも少なくない。また、公園などではいくつかの線が省略されていることもある。 客席を設置する場合、コートと客席が他スポーツと比較して近いことも特徴として挙げられる。例としてNBAではサイドラインと客席最前列の間は1メートル程度しかなく、エンドラインでも数メートル程度である。 バスケットボールのゴールは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから120cm内側の上方に、平行に設置された幅180cm高さ105cmの長方形で平らなバックボード(英語版)に、リングは、15.1cmのフランジを介して取り付けられている。 日本のミニバスケット(小学生)では、高さが260cm であるなど、競技をする人の年齢や設備環境により、各種寸法は異なる。 ユニフォームはシャツとパンツを言う。シャツはノースリーブやショートスリーブ、ランニングなどを主に着用する。シャツとパンツはチームメンバー全員が同じデザインの色、形のものを着用し、前と後ろは同じ色でなければならない。パンツは必ずしもシャツと同色でなくても良い。一方のチームは 濃い色、他方は淡い色(白が望ましい)のものを着用する。対戦表の先に記載されたチーム、またはホームチームが淡色のユニフォーム、後に記載されたチームまたはビジター(アウェイ)チームが濃色を着用する。両チームの話し合いで入れ替えてもよい。ユニフォームには番号を胸と背中に付ける。この番号は、原則4 - 15まで、または大会主催者により2桁までの番号を付ける事が決められている。「0」「00」という番号の使用も大会規定により認めることが可能であるが、同一チーム内に「0」と「00」を同時に使用することは認められず、「07」のような番号も認められない。背番号も参照のこと。他の球技と同様、チームのロゴやエンブレム、広告などを大会主催者の許可のもとで付ける事もあるが、番号との距離などが厳格に定められている。形状は時代と共に変化し、特にパンツは過去には陸上競技並の短かさだったものが、現在では膝丈近くにまで伸びゆったりしたものとなっている。ユニフォーム下は、許可された範囲で、アンダーシャツ、スパッツなどの着用も可能である。他には、ヘッドバンド、アームスリーブ、リストバンド、脛当て、サポーターも着用される場合がある。 バスケットボールをプレーするためには激しい動作が求められるため、滑りにくく、ジャンプや着地時のショックを和らげるクッション性が高いシューズが必要であり、専用に用意されている。合成樹脂技術の進歩に伴い軽量化が進んだが、1960年代頃までは、厚いゴム底の、スポーツシューズとしては重いものであった。また、ソックスも登山用のような厚手のウールソックスを履くこともあった。また、1970年代にNBAの影響でハイソックスが流行したが、現在では、NBAでも一部のプレーヤーや、復刻ジャージでのゲームで着用されるのに留まっている。 NBAの場合、ゲーム時にはウォームアップウェア、チーム・ジャージと呼ばれるユニフォームから、サポーター、ソックス、ヘッドバンドに至るまで、NBA指定メーカーロゴとNBAロゴ、チームロゴのみが許可されており、唯一、選手が自ら選んで身につけられるのはバスケットシューズのみである。従って選手は、それぞれのシューズメーカーと契約している。スタープレーヤーには、プレーヤーモデルのバスケットシューズが提供されると共に、同型の市販品が作られ販売される。 主なルールの改定を以下にまとめた。 以下に記すのは主に国際バスケットボール連盟(FIBA) 及び日本バスケットボール協会(JBA)のオフィシャルルール による。 日本プロバスケットボールリーグ と、北米のプロリーグであるNBAはそれぞれ独自のルール を規定している。また、小学生が行うミニバスケットボールも、独自のルール が規定されている。 第一ピリオドは各チームのキャプテンが出場しなくてはならない。 審判(オフィシャルズ)は2人もしくは3人で行う。これは主催者により選択される。 このほかに、審判を補佐し、得点を記録するなどの仕事を行うテーブルオフィシャルズ(TO)が4名いる。 10分を1クォーター とし、第1クォーターから第4クォーターまでの4つのクォーター、計40分間で行なわれる。 試合時間は、残り時間として電光掲示板や得点板に表示される。 以下の状況では、試合時間(ゲームクロックと呼ばれる時計)が一時停止する。 残り時間が0.0秒になるとともに各ピリオドは終了し、サッカーやラグビーにおけるロスタイムの概念はない。 各ピリオド間では、第1と第2及び第3と第4の各ピリオドの間に2分間、第2と第3ピリオド間のハーフタイムに10分間のインターバル(インタヴァル、インターヴァルとも)がそれぞれ与えられる。ただし、これは大会の主催者によって変更されることもしばしばある。以前は20分の前半・後半(ハーフ)、ハーフタイム10分だった。その後NBAのルールと同じく4ピリオド制となった。いわゆる引き分けはなく、同点の場合5分単位での延長ピリオドを決着がつくまで繰り返し実施する。延長ピリオドは第4ピリオドの延長とみなされ、チームファウルは第4ピリオドと合わせて数えられる。 中学生の試合では、8分のピリオドを4回行う。延長は3分となる。 小学生の試合では、5 - 6分のピリオドを4回行い、前半10人の選手を1人5 - 6分出場させ、第1ピリオドから1人の選手が3ピリオド連続で出場できない。延長は3分となる。 身体の触れ合いを伴わない、あるいはスポーツマンらしくない振る舞い以外の規則に関する違反のこと。バイオレーション、ヴァイオレーションとも。相手チームによるスローインからのリスタートとなる。 規則に反する違反のうち、不当な身体の触れあいおよびスポーツマンらしくない行為をファウル、またはファールと呼ぶ。 パーソナル・ファウル、テクニカル・ファウル、アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクオリファイング・ファウルの種類がある。 選手個人に課されるファウルがほとんどであるが、コーチやアシスタント・コーチ、チームに課されるファウルもある(チームに課されるファウルはコーチのファウルとして記録される)。 1人のプレイヤーにすべてのファウルを合わせて5回(NBAでは6つ)のプレイヤー・ファウルが宣せられた場合、審判によりその事実が告げられ直ちに交代しなければならず(ファウルアウト、俗に退場とも)、以後そのゲームには出場できない(以下の選手交代も参照)。サッカーとは異なり、退場しても自チームのベンチに座り、コート上へ交代選手を入れることが可能であり、通常は以降の試合の出場に関するペナルティはない。 ただし、2回のアンスポーツマンライク・ファウルや2回のテクニカル・ファウルで失格・退場となった場合や、ディスクオリファイング・ファウルにより失格・退場となった場合は、自チームの更衣室(ロッカールーム、控室)にいるか、コートのある建物の外に出なければならない。 パーソナル・ファウルに対しては、ファウルを宣せられたチームの反対チームにスローインが与えられる。ファウルは主にディフェンス側のプレイヤーに対して宣せられることが多いが、オフェンス側のプレイヤーがディフェンス側のプレイヤーの行動を妨げた場合には、オフェンス側にファウルが宣せられる。 ショットの動作中のプレイヤーに対するファウル(テクニカル・ファウル以外)は、そのショットが成功した場合、2ポイントないし3ポイントの得点が認められ、追加として1個のフリースローが与えられる。ショットが成功しなかった場合は、そのショットに応じて、2個ないしは3個のフリースローが与えられる。 アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクォリファイング・ファウルの場合は、ショット動作中以外の場合でも2本のフリースローが、テクニカル・ファウルの場合はいずれの場合でも1本のフリースローが与えられる。 プレイヤーのファウルは、各ピリオドごとにチームファウルとして記録される。チームに4回のファウルが記録された後は、次のようなチーム・ファウルの罰則が適用される。自チームがボールをコントロールしていない場合にファウルを犯した時は、相手チームに2つのフリースローが与えられ、自チームがボールをコントロールしている場合にファウルを犯した時は、相手チームにスローインが与えられる。 ゲーム開始前の10分間や各ピリオド間にファウルが生じた場合は次に続くピリオド中に起こったものとして処理する。延長時限中のファウルは、第4ピリオドのファウルとして扱い、継続してチーム・ファウルに数えられる。 各チームは、タイムアウトを取ることができる。タイムアウトは1分である。各チームはこの間に作戦を練る、選手を休ませるなどしてゲームの流れを変えている。タイムアウトの請求ができるのはコーチまたはアシスタントコーチである。ただし、請求してすぐに認められるわけではなく、ゲームクロックが止まった場合に認められる。前半2つのピリオドで2回、後半2つのピリオドで3回まで取ることができる。したがって、1チームが1試合で使えるタイムアウトは合計5回である。前半2つのピリオドで使わなかったタイムアウトは後半のピリオドに持ち越せない。オーバータイム(延長戦)突入時は1回のオーバータイム(5分)につき1回取れる。 2010年のルール改訂により、4ピリオド残り2:00以降にボールをコントロールするチームがタイムアウトを取った場合、バックコートからスローインするときはフロントコートのスローインラインのアウトからのスローインとなる。 小学生では第4クォーター、延長戦では両チーム交代できる。 NBAのタイムアウトは1試合につき1分を6回(ただし第4クォーターで使える回数は3回まで)、前半もしくは後半2クォーター(1ハーフ)につき20秒を1回(1試合合計2回)取れる。また、オーバータイム1回(5分)につき1分を3回取れる。タイムアウトの請求はコーチだけでなく、攻撃中のチームの選手も可能である。 ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)のタイムアウトには、通常のタイムアウトに加えて、第2・第4クォーターの残り5分を切った最初のボールデッド時に行われる90秒のオフィシャルタイムアウトがある。 コート上にいる選手はプレイヤー、ベンチにいる選手は交代要員として区別される。FIBAが管理する大会では各チームでベンチ入りできる選手は最大12人で、プレイヤーが5人、交代要員が最大7人である。国内の大会では主催者が大会要項で規定し、12名または15名が一般的である。 選手交代が認められるのは、ゲームクロックが止められている時である。フリースローの時はそのフリースローの1投目のボールが渡される前か、最後のフリースローが成功した時に認められる。また、交代はどちらのチームにも認められるが、第4ピリオドの終了前2分間は得点したチームにはショット成功時の交代は出来ない。但し、得点されたチームが交代を行った際には、得点したチームも交代することが可能である。 交代要員は何度でもプレイヤーとしてゲームに復帰できる。ただし、ファウルを5つ犯した場合や悪質なファウル(ディスクオリファイング・ファウル)などで失格・退場になった場合は、再びプレイヤーとしてゲームに復帰することはできない。 ポジションは番号で という呼ばれ方もする。 バスケットボールにおいてポジションはサッカーのゴールキーパーや野球の投手のようなルール上の規定はなく、厳密に定められているものではない。ポイントガードの選手がゴール下でプレーしても構わないし、センターがボール運びや司令塔の役割をしても構わない。また、各プレイヤーが多くの役割をこなすことが理想である。 そのため、ユーティリティープレイヤーも多く と呼ばれることがある。パワーフォワードとセンターはポストプレーを行うことからポストプレイヤーとも呼ばれる。 NBAでは、本来のポジションがフォワードでありながらポイントガードの働きをする選手も少なくない。そのような選手は稀ではあるが「ポイントフォワード」と呼ばれる。ポイントフォワードの選手には、マジック・ジョンソン(特に現役復帰後)、アンソニー・メイソン、レブロン・ジェームズ、ラマー・オドムらがいる 。NBAプレーヤーで、フランス代表でも有るボリス・ディアウは、ガード、フォワード、センター、全てのポジションをカバーできる稀有なプレーヤーである。 2014年以前のNBAではゴールに近いほど確実にシュートを決められ得点期待値が高いという固定観念があったが、ステフィン・カリー擁するゴールデンステート・ウォリアーズが2014-2015シーズンのNBAで優勝するなどスリーポイントを重要視するチームが躍進し、2010年代後半から2020年代はどのポジションでもスリーポイントシュートを決められることが重要視されるようになっている。この流れに対してセンターとして長らくNBAを代表する活躍をしたレジェンドであるシャキール・オニールは「もし俺が現代に復帰したとしても、スリーポイントを放つことはないだろう。(スリーポイントは)ビッグマンがすることじゃない」と批判的である。 初の試合ではラクロスを参考に、ゴールキーパー(1名)、ガード(2名)、センター(3名)、ウイング(2名)、ホーム(1名)の9人制であった。 田臥勇太は2021年時点で現代のポジションについて以下のように述べている。 パス(Pass)とは、ボールを保持したプレーヤーが、ボールを他のプレーヤーに投げ渡すプレー。投げ方や方向に規制はない。 バスケットボールでは、ボールを手に掴んだ状態で移動する行為が禁止されているため、地面にボールを上から掌を使って叩きつけて跳ねさせ、これを連続的に行ってボールとともに選手が移動する。保持しながら移動したとみなされた場合反則となる。 自チームが得点するためにバスケットの上からボールを通すことあるいはそのための動作、ボールがバスケットへ至るまでの一連の流れのこと。シュートと呼ばれることが多いがこれは通称であり、日本バスケットボール競技規則では全てショットと称される。 敵・味方関係なく、ショットミスしたボールを取ることを、リバウンドと呼ぶ。リバウンドを取るために有利なポジションを取る行動をスクリーンアウトまたはボックスアウトという。 相手の放ったショットをリング、バックボード(英語版)に到達する前にボールが上昇中に阻止するプレー。ショットされたボールがリングに向けて下降中、もしくはバックボードに当たりリングに向かっている途中に触れるとゴールテンディングまたはバスケット・インターフェアターンノーバーとなる。 相手のパスをインターセプトやターンノーバーをしたり、ピボット、ドリブルなどでコントロールしているボールを奪い取るプレー。 ボールが無い場所で、相手選手の移動を制限する位置に立つこと。身体の接触があるためタックルの様な動きは反則となり、その場に停止している必要がある。 デッドとなったボールをライブに戻し、ゲームを再開するために、攻撃権を持ったチームのプレーヤーが、アウト・オブ・バウンズ からインバウンズにパスをすること。制限時間が設けられ、スローイン行為中は試合時間が止められる。一旦審判員がボールを保持し、指示があるまでゲームは再開されない。 一方のチームがファウル、あるいは、特定のヴァイオレイションをした場合に、相手チームに認められるボーナスの一つである。フリースローサークル内のフリースローライン手前から、どのプレーヤにも防御される事無く ショットを放つ事が出来る。ペナルティーの種類によって、1投から3投までの間で、連続でスローされ、フリースロー1投がゴールすれば1得点が与えられる。ショットする際に、ボールがリングに触れるまでフリースローラインより前方には侵入できない。また、リングにボールが触れなかった場合はエアボールとして相手ボールとなる。さらに、ショットするプレイヤーは審判に渡されてから5秒以内に打たなければならない。最終投がスローされた後のプレーの再開方法には、数種類の場合が存在する。又、1996年と1997年の両年にはこのフリースローの全国大会が開催された。 フットワークは、プレーヤーの足運びのこと。バスケットボールは前後左右への素早い動きが要求されるので、すべてのプレーに関わる重要な基本動作である。オフェンスでは、歩数制限があり、その後ジャンプすることも必要である事から正確かつ俊敏な足運びが要求される。また、ダッシュからのサドン・ストップやピボットもオフェンスの重要なフットワークである。通常、ランニングショットの場合は、右手では左足踏切。左手では右足踏み切りとなる。ディフェンスでは、マークするプレーヤの動きに素早く反応して振り切られないよう移動する必要があるため、様々な方向への動きが要求される。サイドステップ、バックステップ、クロスステップなど様々な足捌きができなければならない。 ピボットは、着地した状態で、ボールキープを行う時に使用するステップである。片足を軸足(ピボット・フット)にしてコートの同じ場所で接地し、もう片足を前後左右にステップして体の軸を動かし、相手を翻弄、動揺させたり、リズムを崩し、自分のパス、ショット、ドリブルなど次のプレーを容易にする。接地場所を移動することは出来ないが、その場所で回転することは許される。 ボールを保持していない選手については、ステップに関する規制はない。 数字はディフェンスの数を示し、フロントコートに近い側からバックコートに近い側の順に記載する。 2-2-1以下の4陣形は通常、ゾーンプレスの場合にしか使われない。1-3-1、1-2-2は通常のゾーンディフェンスとゾーンプレスの両方で使われる。 節TOC(ア行 カ行 サ行 タ行 ナ行 ハ行 マ行 ヤ行 ラ行 ワ行) 節TOC(ア行 カ行 サ行 タ行 ナ行 ハ行 マ行 ヤ行 ラ行 ワ行) 1990年から週刊少年ジャンプでバスケットボールを扱った漫画『SLAM DUNK』が連載開始、1996年の連載終了後も売れ続けて1億部を超える大ヒットとなり、バスケットボールの競技人口を押し上げ、2005年には、日本バスケットボール協会への登録者数だけで600万を超える など、日本バスケットボール界に大きな影響を残している。またその功績から原作者の井上雄彦は、日本バスケットボール協会から特別表彰されている。バスケットボールは漫画編集者の間ではひとつのタブー(ヒットしない)とされていたが、スラムダンクの後には『あひるの空』『黒子のバスケ』『ロウきゅーぶ!』など様々なヒット作も出るようになった。
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"title": "競技の概略" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一定時間内にショットを放ち、ゴール成立によるポイント(得点)を狙う。", "title": "競技の概略" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また一旦フロントコートへ運ばれたボールをバックコートに戻すことは出来ない。攻撃権のない守備側(ディフェンス)チームは、規定された方法でゴールを阻止し、攻撃権を奪うような防御プレーを行う。", "title": "競技の概略" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ボールポゼッション(攻撃権)は、得点があった場合、ヴァイオレイション(身体接触の無い違反)またはファウル(身体接触の有る反則)があった場合、クウォーター(試合進行中の区切り)開始時などにチーム間で移動する。試合中のフィールドゴールは、ショットを放った位置によって、1回の成功で、ツーポイント(2点)あるいはスリーポイント(3点)が記録される。ファウル、あるいはヴァイオレイションに対するペナルティ(罰則)により与えられるフリースローでは、事例によって投数がワンスロー〜スリースロー(1〜3投)の間で決められ、一投成功につき1点が記録される。試合時間終了時点で、より多い得点を得たチームが勝利となる。基本的には引き分けはなく、通常クウォーターの半分程度の時間のオーバータイム(OT)を、勝敗が決するまで繰り返し行う。バスケ以外にもミニバスなどがある。", "title": "競技の概略" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "バスケットボールゲームの特徴は、", "title": "競技の特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "などが挙げられる。", "title": "競技の特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "後述するように、基本ルールを競技の考案者が1人で策定したことや、NBAなどテレビ中継があるプロスポーツと共に発展してきた事に起因して、「見せるスポーツ」としての側面も併せ持っているため、ルールが複雑なスポーツの一つである。その一方で、レクリエーションとしての「楽しむスポーツ」という点では、ゴールリングとボールがあれば1人からプレーを楽しむことができ、1オン1(1対1)や、3オン3(3対3)で本格的にゲームをすることもできる。アメリカでは、公園など公共の場所にリングが設置されており、ゴールリングを指す俗称から転じて「hoop」とも呼ばれている。", "title": "競技の特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ネイスミスに誘われてYMCAの体育教師となったウィリアム・G・モーガンは、身体接触が伴うバスケットボールは自身が担当するビジネスマンクラス(25〜40歳)には危険が伴うため、子供、女性、高齢者が楽しめる、よりレクリエーション的な屋内競技として、1895年にバドミントンやテニスを参考にしたバレーボールを考案した。", "title": "競技の特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "バスケットボールは、比較的最近になって誕生した競技であり、また一人の人物によって考案され広まった数少ない競技のひとつである。考案者はアメリカ、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)の体育部教官を務めていたカナダ人のジェームズ・ネイスミスで、1891年に彼の考え出したルールが現在のバスケットボールの原型になっている", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1891年夏、国際YMCAトレーニングスクールでは体育・スポーツ指導者の講習会が開かれたが、当時、全米各州のYMCAでは冬季の屋内における体操中心のプログラムについて学生の意欲が低いとして既存のプログラムに対する不満があり、レクリエーション的で競技的要素を含んだプログラムが求められていた。同年秋、体育部主事のL.H.ギューリックは5人の体育指導教官を集めて数回にわたり検討した結果、新しいスポーツを創り出すほかはないとの結論に達した。体育教官であったネイスミスはアメリカンフットボールやサッカー、ラクロスなどを屋内ゲームとして取り入れようとしたが失敗に終わる。そこで、ネイスミスは各ゲームの要素を取り出すこととし、ボールを使用すること、ラフプレーを取り除く必要からタックルをなくすためボールを保持したまま走ってはいけないこととした。また、ゲーム中の安全性を高めるため競技者間の身体接触を少なくすることが考えられたが、これにはネイスミスが少年時代を過ごしたカナダ・オンタリオ州で行われていたタグ(鬼ごっこ)と的当てを組み合わせた「雄鴨落し(Duck on the Rock(英語版))」という遊びにヒントを得て、ゴールをプレーヤーの頭上に水平に設置することとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ネイスミスが最初に考案した13のルールは現在では約250にまでなっているが、ゲームの形式は基本的にほとんど変化していない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1891年12月21日、国際YMCAトレーニングスクールで18人の学生を9人ずつに分け初めての試合が行われた。この試合ではボールをサッカーボールで代用した。ネイスミスはゴールについては45cm四方の箱を想定していたが、それは用意できなかったため、代わりに桃を入れる籠を体育館のバルコニーに取り付けることとなった。このときのゴールの高さ10フィート (3.05m)は以後変更されることなく現在に至っている。また、フロアの広さはおよそ11m×15mの大きさであったという。この世界最初の試合の18人の中には留学中だった石川源三郎が含まれていた。最初の試合ではトスアップから1時間ほどたって1年生W・R・チェイスのショットが決まって点が入りゲーム終了となっている。試合の様子は石川がスケッチで残している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このスポーツの名称について初めての試合が行われるに先立ってネイスミスと学生フランク・マーンとの間で話題になり桃の籠(Basket)を用いたことから「Basket ball」と名付けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "その後、YMCAトレーニングスクール広報誌「ザ・トライアングル」(1892年1月15日号)に紹介され、1892年1月になって正式に「Basket ball」という名称に定まった。また、当初、英語での表記は2語で「Basket ball」であったが、1921年に公式に1語で「Basketball」となった。日本語では直訳した「バスケットボール」の他、籠を使う球技であることから「籠球」とも訳される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ネイスミスはレクリエーションを想定していたことから、両チームが同人数であれば何人であってもよいと考えていたため、13条のルールの中にチーム人数を規定していなかった。コーネル大学では50人対50人で試合が行われたが、この試合について担任のE・ヒッチコックは「体育館が破壊されかねない」などと述べるなど逸話となっている。プレーヤー人数については、その後次第に制限され、1894年にプレーヤー人数についてはフロア面積に合わせて5人、7人、9人とされることになった。コートの大きさやプレーヤー人数が現在のように確定したのは1897年になってからのことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コート上のプレイヤーは、限られたタイミングで交代することができ、反則やケガで欠員が出ても交代として補充することができる。交代の回数に制限は無いので、1人のプレイヤーが何度も交代することができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ゴールについては考案当初、シュートが決まるたびに梯子や棒を用いて取り出していた。ゴールに使われた桃の籠は壊れやすかったためすぐに金属製の円筒形ゴールにかわっている。ゴールの形状はその後少しずつ変化し、一説によればネット状で底が切れている現在のようなゴールの形状になったのは1912年から1913年にかけてであるとされる。なお、リングの内径45cmは最初の試合の時から全く変わっていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "バスケットボールは熱狂的な人気を博すようになったが、観客が体育館上の手すりや欄干から足や手を伸ばして妨害することが頻発したため遮蔽物が設けられることになった。これがのちのバックボードで当初は金網であったが、1904年から1.8m以上の木板が用いられるようになった。ところが、観客から見えないことになったため後に透明なプラスチック板が用いられるようになっている。バックボードの位置については当初エンドライン上にあったが、ゴールが61cmコート内側に移動することとなった際にバックボードもそれに伴ってゴールと一体となってエンドラインより内側に配置されることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師を務めていたセンダ・ベレンソンによって女子バスケットボールが始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになり、国際YMCAトレーニングスクールを通じ世界各国へ急速に広まった。このような背景もあり、1904年のセントルイスオリンピックではデモンストレーションスポーツとして開催された(1904年から1924年までオリンピックの公開競技として実施)。1932年6月には国際バスケットボール連盟 (FIBA)が結成され、1936年のベルリンオリンピックから男子オリンピック正式種目に採用された。また、1976年のモントリオールオリンピックから女子正式種目にも採用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "アメリカ国内では、1946年に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併しNBAが誕生した。1967年に、対抗するリーグABAが設立され地位を脅かしたが、1976年にABAは消滅し、NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "NBAには、ジョージ・マイカン、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、オスカー・ロバートソン、カリーム・アブドゥル=ジャバー、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなどのスター選手が所属し、1992年のバルセロナオリンピックでは「ドリームチーム」を結成、圧倒的な強さで優勝を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、1996年には女子プロバスケットボールリーグWNBAが設立され、シェリル・スウープス、リサ・レスリー、ローレン・ジャクソンなどのスター選手が台頭した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "NBAやオリンピックの活性化に伴い、近年バスケットボールの国際化が急速に進んでおり、FIBA発表では1998年時点で世界の競技人口はおよそ4億5000万人、FIBAに加盟した国と地域は2006年8月時点で213まで増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本にバスケットボールが伝わったのは1908年で、YMCAの訓練校を卒業した大森兵蔵が東京YMCAで初めて紹介したとするのが現在の定説である。そして1913年にYMCA体育主事のF.H.ブラウンが来日し、関東、関西で競技の指導に尽力し普及していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお、1891年にスプリングフィールドで行われた世界初の試合に参加した石川源三郎がもたらしたのではないかとする異説もある。ただ、1910年代の日本ではいまだスポーツ施設が少なく競技用具も粗末であるなど本格的に受容するだけの受け皿がなかったとされ、石川がバスケットボールを日本で紹介・指導した記録は見つかっていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1924年には、早稲田大学、立教大学、東京商科大学が全日本学生籠球連合を結成。全国各地で対抗戦が行われていった。そして、1930年に日本バスケットボール協会 (JABBA)が設立され、普及と発展及び競技レベルの向上に努めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1975年には女子バスケットボール世界選手権で準優勝する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2005年には日本初のプロリーグbjリーグが発足したが、日本のバスケ全体の発展・強化が遅く、アジアの各大会で苦戦を強いられている。日本代表は、女子が2004年のアテネオリンピックに3度目の出場を果たしたが、男子は1976年のモントリオールオリンピックを最後に出場は途切れている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2014年11月27日、日本バスケットボール協会 (JBA)はFIBA(国際バスケットボール連盟)より勧告を受けていた『国内男子トップリーグの統合』・『ガバナンス能力に欠けるJBAの改革』・『日本代表の長期的な強化策』の問題が解決されず、FIBAから資格停止処分を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2015年6月19日、FIBA(国際バスケットボール連盟)が、スイスで常務理事会を開き、2014年11月27日に日本協会に科した、無期限の国際試合出場停止処分の解除を決めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2016年9月、NBLとbjリーグが統合した新リーグ「ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)」が開幕。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "現代の日本では多くの学校や企業で部活動やサークルとしての活動があり、それぞれ全国規模の大会が毎年行われている。多くの学校や公園には簡易的なバスケットゴールが設置されているが、公式試合ができる環境が整っている場所は少数である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本におけるバスケットボールはスポーツ中継も少なく、まだまだマイナースポーツの段階である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "反面、ほとんどのスポーツ用品店でバスケット用品を扱っており、国民の認知度は高いスポーツとなってきている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "天然皮革、合成皮革、ゴムなどで作られたボールが使われる。公式ボールとしては検定球が使われる。一般(男子)用及び中学生用(男子)には7号球(周囲75 - 78 cm、重量600 - 650g)が、一般(女子)用及び中学生用(女子)には、6号球(周囲72 - 74 cm、重量500 - 540g)が、小学生用には、5号球(周囲69 - 71 cm、重量470 - 500g)が使われる。なお、ボールの下端が1.8mの高さから落とした際、上端が1.2 - 1.4mの範囲ではずむ様に空気圧が調整される。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、2004年のFIBA(国際バスケットボール連盟)の規格改定により従来の茶色の8枚パネルから茶色とクリーム色2色の合計12枚パネルのボールが認められ、選手や観客にとってボールの軌道や回転など視認性が高まった。日本国外では、スポルディングやアディダス、ナイキ、ウィルソンなどが、日本では、モルテン、スポルディング、ミカサ、タチカラなどが製造販売している。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "NBAでは、協会公認で、コミッショナーの認定、使用するホームチーム名などが刻印されたスポルディング社製天然皮革ボールを使用していた。2006-2007年シーズンに、合成皮革で二面張りのユニークなボールに一旦は変更した が、選手間での評価が悪く元に戻している。2021–22シーズンからウィルソン社製に変更された。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "縦 28m、横15mのコートが使われ、幅5cmの白線で区画が設定される。長辺をサイドライン、短辺をエンドラインと呼ぶ。エンドラインとサイドラインで区画された区域がインバウンズ(コート内)となり、サイドラインとエンドライン上とその外側がアウト・オブ・バウンズ(コート外)となる。コート内には中央でコートを2分するセンターラインや、センターサークル、フリースローレーン、フリースローサークル、3ポイントライン、ノーチャージセミサークルなど様々なラインがマーキングされている。攻撃するバスケットがあるコートの半分をフロントコート、もう一方のバスケットのあるコートの半分をバックコートと呼ぶ。FIBAとNBAではコートサイズや区画などが異なっている が、FIBAでは2010年に変更があり、フリースローレーン(ペイントエリア)が台形から長方形になり、ノーチャージセミサークルが追加され、3ポイントラインも拡張され、NBAの仕様に近づいている。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "バスケットに於ける境界線は、ライン上は、ラインを越えた事と同じであると言う考え方が原則である。例えば、3ポイントラインを踏んでのショットは、3ポイント境界線を越えたと見なしゴールしても2ポイントである。ただし、ボールをフロントコートに進めることについては、ボールとボール保持したプレイヤーの両足とがフロントコートに入った段階で成立する。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、空中でのプレーに関しては最後に触れたコートの部分が適用されるため、ラインのコート内から跳んだ場合は、着地点がコート外だとしても着地するまではプレーを継続でき、シュートをした場合は跳んだ部分での点数が適用される。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "フロア材は、公式試合で使用される場所は木材フローリングにワックスコーティングがほとんどだが、硬性アクリル板等もある。屋外ではアスファルトやコンクリートが主であり、公園施設では砂地、土であることも多い。ただし球技であるため、ボールのバウンドが変化しないように特に平坦さが求められる。そのため芝やカーペットなどは不適となる。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "コート設置場所の事情によりサイズが異なる場合があり、上記の規定より小さく設計されることも少なくない。また、公園などではいくつかの線が省略されていることもある。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "客席を設置する場合、コートと客席が他スポーツと比較して近いことも特徴として挙げられる。例としてNBAではサイドラインと客席最前列の間は1メートル程度しかなく、エンドラインでも数メートル程度である。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "バスケットボールのゴールは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから120cm内側の上方に、平行に設置された幅180cm高さ105cmの長方形で平らなバックボード(英語版)に、リングは、15.1cmのフランジを介して取り付けられている。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "日本のミニバスケット(小学生)では、高さが260cm であるなど、競技をする人の年齢や設備環境により、各種寸法は異なる。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ユニフォームはシャツとパンツを言う。シャツはノースリーブやショートスリーブ、ランニングなどを主に着用する。シャツとパンツはチームメンバー全員が同じデザインの色、形のものを着用し、前と後ろは同じ色でなければならない。パンツは必ずしもシャツと同色でなくても良い。一方のチームは 濃い色、他方は淡い色(白が望ましい)のものを着用する。対戦表の先に記載されたチーム、またはホームチームが淡色のユニフォーム、後に記載されたチームまたはビジター(アウェイ)チームが濃色を着用する。両チームの話し合いで入れ替えてもよい。ユニフォームには番号を胸と背中に付ける。この番号は、原則4 - 15まで、または大会主催者により2桁までの番号を付ける事が決められている。「0」「00」という番号の使用も大会規定により認めることが可能であるが、同一チーム内に「0」と「00」を同時に使用することは認められず、「07」のような番号も認められない。背番号も参照のこと。他の球技と同様、チームのロゴやエンブレム、広告などを大会主催者の許可のもとで付ける事もあるが、番号との距離などが厳格に定められている。形状は時代と共に変化し、特にパンツは過去には陸上競技並の短かさだったものが、現在では膝丈近くにまで伸びゆったりしたものとなっている。ユニフォーム下は、許可された範囲で、アンダーシャツ、スパッツなどの着用も可能である。他には、ヘッドバンド、アームスリーブ、リストバンド、脛当て、サポーターも着用される場合がある。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "バスケットボールをプレーするためには激しい動作が求められるため、滑りにくく、ジャンプや着地時のショックを和らげるクッション性が高いシューズが必要であり、専用に用意されている。合成樹脂技術の進歩に伴い軽量化が進んだが、1960年代頃までは、厚いゴム底の、スポーツシューズとしては重いものであった。また、ソックスも登山用のような厚手のウールソックスを履くこともあった。また、1970年代にNBAの影響でハイソックスが流行したが、現在では、NBAでも一部のプレーヤーや、復刻ジャージでのゲームで着用されるのに留まっている。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "NBAの場合、ゲーム時にはウォームアップウェア、チーム・ジャージと呼ばれるユニフォームから、サポーター、ソックス、ヘッドバンドに至るまで、NBA指定メーカーロゴとNBAロゴ、チームロゴのみが許可されており、唯一、選手が自ら選んで身につけられるのはバスケットシューズのみである。従って選手は、それぞれのシューズメーカーと契約している。スタープレーヤーには、プレーヤーモデルのバスケットシューズが提供されると共に、同型の市販品が作られ販売される。", "title": "用具、器具、施設" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "主なルールの改定を以下にまとめた。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "以下に記すのは主に国際バスケットボール連盟(FIBA) 及び日本バスケットボール協会(JBA)のオフィシャルルール による。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "日本プロバスケットボールリーグ と、北米のプロリーグであるNBAはそれぞれ独自のルール を規定している。また、小学生が行うミニバスケットボールも、独自のルール が規定されている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "第一ピリオドは各チームのキャプテンが出場しなくてはならない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "審判(オフィシャルズ)は2人もしくは3人で行う。これは主催者により選択される。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "このほかに、審判を補佐し、得点を記録するなどの仕事を行うテーブルオフィシャルズ(TO)が4名いる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "10分を1クォーター とし、第1クォーターから第4クォーターまでの4つのクォーター、計40分間で行なわれる。 試合時間は、残り時間として電光掲示板や得点板に表示される。 以下の状況では、試合時間(ゲームクロックと呼ばれる時計)が一時停止する。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "残り時間が0.0秒になるとともに各ピリオドは終了し、サッカーやラグビーにおけるロスタイムの概念はない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "各ピリオド間では、第1と第2及び第3と第4の各ピリオドの間に2分間、第2と第3ピリオド間のハーフタイムに10分間のインターバル(インタヴァル、インターヴァルとも)がそれぞれ与えられる。ただし、これは大会の主催者によって変更されることもしばしばある。以前は20分の前半・後半(ハーフ)、ハーフタイム10分だった。その後NBAのルールと同じく4ピリオド制となった。いわゆる引き分けはなく、同点の場合5分単位での延長ピリオドを決着がつくまで繰り返し実施する。延長ピリオドは第4ピリオドの延長とみなされ、チームファウルは第4ピリオドと合わせて数えられる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "中学生の試合では、8分のピリオドを4回行う。延長は3分となる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "小学生の試合では、5 - 6分のピリオドを4回行い、前半10人の選手を1人5 - 6分出場させ、第1ピリオドから1人の選手が3ピリオド連続で出場できない。延長は3分となる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "身体の触れ合いを伴わない、あるいはスポーツマンらしくない振る舞い以外の規則に関する違反のこと。バイオレーション、ヴァイオレーションとも。相手チームによるスローインからのリスタートとなる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "規則に反する違反のうち、不当な身体の触れあいおよびスポーツマンらしくない行為をファウル、またはファールと呼ぶ。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "パーソナル・ファウル、テクニカル・ファウル、アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクオリファイング・ファウルの種類がある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "選手個人に課されるファウルがほとんどであるが、コーチやアシスタント・コーチ、チームに課されるファウルもある(チームに課されるファウルはコーチのファウルとして記録される)。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1人のプレイヤーにすべてのファウルを合わせて5回(NBAでは6つ)のプレイヤー・ファウルが宣せられた場合、審判によりその事実が告げられ直ちに交代しなければならず(ファウルアウト、俗に退場とも)、以後そのゲームには出場できない(以下の選手交代も参照)。サッカーとは異なり、退場しても自チームのベンチに座り、コート上へ交代選手を入れることが可能であり、通常は以降の試合の出場に関するペナルティはない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ただし、2回のアンスポーツマンライク・ファウルや2回のテクニカル・ファウルで失格・退場となった場合や、ディスクオリファイング・ファウルにより失格・退場となった場合は、自チームの更衣室(ロッカールーム、控室)にいるか、コートのある建物の外に出なければならない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "パーソナル・ファウルに対しては、ファウルを宣せられたチームの反対チームにスローインが与えられる。ファウルは主にディフェンス側のプレイヤーに対して宣せられることが多いが、オフェンス側のプレイヤーがディフェンス側のプレイヤーの行動を妨げた場合には、オフェンス側にファウルが宣せられる。 ショットの動作中のプレイヤーに対するファウル(テクニカル・ファウル以外)は、そのショットが成功した場合、2ポイントないし3ポイントの得点が認められ、追加として1個のフリースローが与えられる。ショットが成功しなかった場合は、そのショットに応じて、2個ないしは3個のフリースローが与えられる。 アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクォリファイング・ファウルの場合は、ショット動作中以外の場合でも2本のフリースローが、テクニカル・ファウルの場合はいずれの場合でも1本のフリースローが与えられる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "プレイヤーのファウルは、各ピリオドごとにチームファウルとして記録される。チームに4回のファウルが記録された後は、次のようなチーム・ファウルの罰則が適用される。自チームがボールをコントロールしていない場合にファウルを犯した時は、相手チームに2つのフリースローが与えられ、自チームがボールをコントロールしている場合にファウルを犯した時は、相手チームにスローインが与えられる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ゲーム開始前の10分間や各ピリオド間にファウルが生じた場合は次に続くピリオド中に起こったものとして処理する。延長時限中のファウルは、第4ピリオドのファウルとして扱い、継続してチーム・ファウルに数えられる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "各チームは、タイムアウトを取ることができる。タイムアウトは1分である。各チームはこの間に作戦を練る、選手を休ませるなどしてゲームの流れを変えている。タイムアウトの請求ができるのはコーチまたはアシスタントコーチである。ただし、請求してすぐに認められるわけではなく、ゲームクロックが止まった場合に認められる。前半2つのピリオドで2回、後半2つのピリオドで3回まで取ることができる。したがって、1チームが1試合で使えるタイムアウトは合計5回である。前半2つのピリオドで使わなかったタイムアウトは後半のピリオドに持ち越せない。オーバータイム(延長戦)突入時は1回のオーバータイム(5分)につき1回取れる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2010年のルール改訂により、4ピリオド残り2:00以降にボールをコントロールするチームがタイムアウトを取った場合、バックコートからスローインするときはフロントコートのスローインラインのアウトからのスローインとなる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "小学生では第4クォーター、延長戦では両チーム交代できる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "NBAのタイムアウトは1試合につき1分を6回(ただし第4クォーターで使える回数は3回まで)、前半もしくは後半2クォーター(1ハーフ)につき20秒を1回(1試合合計2回)取れる。また、オーバータイム1回(5分)につき1分を3回取れる。タイムアウトの請求はコーチだけでなく、攻撃中のチームの選手も可能である。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)のタイムアウトには、通常のタイムアウトに加えて、第2・第4クォーターの残り5分を切った最初のボールデッド時に行われる90秒のオフィシャルタイムアウトがある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "コート上にいる選手はプレイヤー、ベンチにいる選手は交代要員として区別される。FIBAが管理する大会では各チームでベンチ入りできる選手は最大12人で、プレイヤーが5人、交代要員が最大7人である。国内の大会では主催者が大会要項で規定し、12名または15名が一般的である。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "選手交代が認められるのは、ゲームクロックが止められている時である。フリースローの時はそのフリースローの1投目のボールが渡される前か、最後のフリースローが成功した時に認められる。また、交代はどちらのチームにも認められるが、第4ピリオドの終了前2分間は得点したチームにはショット成功時の交代は出来ない。但し、得点されたチームが交代を行った際には、得点したチームも交代することが可能である。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "交代要員は何度でもプレイヤーとしてゲームに復帰できる。ただし、ファウルを5つ犯した場合や悪質なファウル(ディスクオリファイング・ファウル)などで失格・退場になった場合は、再びプレイヤーとしてゲームに復帰することはできない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ポジションは番号で", "title": "選手のポジション名称" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "という呼ばれ方もする。", "title": "選手のポジション名称" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "バスケットボールにおいてポジションはサッカーのゴールキーパーや野球の投手のようなルール上の規定はなく、厳密に定められているものではない。ポイントガードの選手がゴール下でプレーしても構わないし、センターがボール運びや司令塔の役割をしても構わない。また、各プレイヤーが多くの役割をこなすことが理想である。", "title": "選手のポジション名称" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "そのため、ユーティリティープレイヤーも多く", "title": "選手のポジション名称" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "と呼ばれることがある。パワーフォワードとセンターはポストプレーを行うことからポストプレイヤーとも呼ばれる。", "title": "選手のポジション名称" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "NBAでは、本来のポジションがフォワードでありながらポイントガードの働きをする選手も少なくない。そのような選手は稀ではあるが「ポイントフォワード」と呼ばれる。ポイントフォワードの選手には、マジック・ジョンソン(特に現役復帰後)、アンソニー・メイソン、レブロン・ジェームズ、ラマー・オドムらがいる 。NBAプレーヤーで、フランス代表でも有るボリス・ディアウは、ガード、フォワード、センター、全てのポジションをカバーできる稀有なプレーヤーである。", "title": "選手のポジション名称" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2014年以前のNBAではゴールに近いほど確実にシュートを決められ得点期待値が高いという固定観念があったが、ステフィン・カリー擁するゴールデンステート・ウォリアーズが2014-2015シーズンのNBAで優勝するなどスリーポイントを重要視するチームが躍進し、2010年代後半から2020年代はどのポジションでもスリーポイントシュートを決められることが重要視されるようになっている。この流れに対してセンターとして長らくNBAを代表する活躍をしたレジェンドであるシャキール・オニールは「もし俺が現代に復帰したとしても、スリーポイントを放つことはないだろう。(スリーポイントは)ビッグマンがすることじゃない」と批判的である。", "title": "選手のポジション名称" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "初の試合ではラクロスを参考に、ゴールキーパー(1名)、ガード(2名)、センター(3名)、ウイング(2名)、ホーム(1名)の9人制であった。", "title": "選手のポジション名称" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "田臥勇太は2021年時点で現代のポジションについて以下のように述べている。", "title": "選手のポジション名称" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "パス(Pass)とは、ボールを保持したプレーヤーが、ボールを他のプレーヤーに投げ渡すプレー。投げ方や方向に規制はない。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "バスケットボールでは、ボールを手に掴んだ状態で移動する行為が禁止されているため、地面にボールを上から掌を使って叩きつけて跳ねさせ、これを連続的に行ってボールとともに選手が移動する。保持しながら移動したとみなされた場合反則となる。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "自チームが得点するためにバスケットの上からボールを通すことあるいはそのための動作、ボールがバスケットへ至るまでの一連の流れのこと。シュートと呼ばれることが多いがこれは通称であり、日本バスケットボール競技規則では全てショットと称される。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "敵・味方関係なく、ショットミスしたボールを取ることを、リバウンドと呼ぶ。リバウンドを取るために有利なポジションを取る行動をスクリーンアウトまたはボックスアウトという。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "相手の放ったショットをリング、バックボード(英語版)に到達する前にボールが上昇中に阻止するプレー。ショットされたボールがリングに向けて下降中、もしくはバックボードに当たりリングに向かっている途中に触れるとゴールテンディングまたはバスケット・インターフェアターンノーバーとなる。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "相手のパスをインターセプトやターンノーバーをしたり、ピボット、ドリブルなどでコントロールしているボールを奪い取るプレー。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ボールが無い場所で、相手選手の移動を制限する位置に立つこと。身体の接触があるためタックルの様な動きは反則となり、その場に停止している必要がある。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "デッドとなったボールをライブに戻し、ゲームを再開するために、攻撃権を持ったチームのプレーヤーが、アウト・オブ・バウンズ からインバウンズにパスをすること。制限時間が設けられ、スローイン行為中は試合時間が止められる。一旦審判員がボールを保持し、指示があるまでゲームは再開されない。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "一方のチームがファウル、あるいは、特定のヴァイオレイションをした場合に、相手チームに認められるボーナスの一つである。フリースローサークル内のフリースローライン手前から、どのプレーヤにも防御される事無く ショットを放つ事が出来る。ペナルティーの種類によって、1投から3投までの間で、連続でスローされ、フリースロー1投がゴールすれば1得点が与えられる。ショットする際に、ボールがリングに触れるまでフリースローラインより前方には侵入できない。また、リングにボールが触れなかった場合はエアボールとして相手ボールとなる。さらに、ショットするプレイヤーは審判に渡されてから5秒以内に打たなければならない。最終投がスローされた後のプレーの再開方法には、数種類の場合が存在する。又、1996年と1997年の両年にはこのフリースローの全国大会が開催された。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "フットワークは、プレーヤーの足運びのこと。バスケットボールは前後左右への素早い動きが要求されるので、すべてのプレーに関わる重要な基本動作である。オフェンスでは、歩数制限があり、その後ジャンプすることも必要である事から正確かつ俊敏な足運びが要求される。また、ダッシュからのサドン・ストップやピボットもオフェンスの重要なフットワークである。通常、ランニングショットの場合は、右手では左足踏切。左手では右足踏み切りとなる。ディフェンスでは、マークするプレーヤの動きに素早く反応して振り切られないよう移動する必要があるため、様々な方向への動きが要求される。サイドステップ、バックステップ、クロスステップなど様々な足捌きができなければならない。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ピボットは、着地した状態で、ボールキープを行う時に使用するステップである。片足を軸足(ピボット・フット)にしてコートの同じ場所で接地し、もう片足を前後左右にステップして体の軸を動かし、相手を翻弄、動揺させたり、リズムを崩し、自分のパス、ショット、ドリブルなど次のプレーを容易にする。接地場所を移動することは出来ないが、その場所で回転することは許される。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ボールを保持していない選手については、ステップに関する規制はない。", "title": "基本的なプレー(技)" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "数字はディフェンスの数を示し、フロントコートに近い側からバックコートに近い側の順に記載する。 2-2-1以下の4陣形は通常、ゾーンプレスの場合にしか使われない。1-3-1、1-2-2は通常のゾーンディフェンスとゾーンプレスの両方で使われる。", "title": "チームプレー" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "節TOC(ア行 カ行 サ行 タ行 ナ行 ハ行 マ行 ヤ行 ラ行 ワ行)", "title": "基本用語" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "節TOC(ア行 カ行 サ行 タ行 ナ行 ハ行 マ行 ヤ行 ラ行 ワ行)", "title": "基本用語" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1990年から週刊少年ジャンプでバスケットボールを扱った漫画『SLAM DUNK』が連載開始、1996年の連載終了後も売れ続けて1億部を超える大ヒットとなり、バスケットボールの競技人口を押し上げ、2005年には、日本バスケットボール協会への登録者数だけで600万を超える など、日本バスケットボール界に大きな影響を残している。またその功績から原作者の井上雄彦は、日本バスケットボール協会から特別表彰されている。バスケットボールは漫画編集者の間ではひとつのタブー(ヒットしない)とされていたが、スラムダンクの後には『あひるの空』『黒子のバスケ』『ロウきゅーぶ!』など様々なヒット作も出るようになった。", "title": "関連作品" } ]
バスケットボール(basketball 音声)は、1891年にアメリカ合衆国の国際YMCAの体育教師のジェームズ・ネイスミスによって考案されたスポーツ。 5人対5人の2チームが、一つのボールを手で扱い、長方形のコート上の両端に設置された高さ305 cm(10 ft)、直径45cm(18 in)のリング状のバスケットにボールを上方から通すこと(ゴール)で得点を競う球技である。公式試合は屋内競技として行われる。狭義では、この競技に使用する専用のボールのことを指す。籠球(ろうきゅう)とも訳される。 開催される国・地域、年齢や性別によってローカルルールが適用される。身長の高さが優位に密接する競技としても知られる。
{{スポーツ | 画像 = [[File:LeBron James Layup (Cleveland vs Brooklyn 2018).jpg|300px]] | 見出し = [[ショット (バスケットボール)#レイアップショット|レイアップシュート]]を狙う[[NBA]]選手の[[レブロン・ジェームズ]](右端[[ブルックリン・ネッツ]]戦にて) | 競技統括団体 = [[国際バスケットボール連盟|国際バスケットボール連盟 FIBA]] | 通称 = バスケ、籠球、hoop | 起源 = [[1891年]]<br />{{USA}}<br />[[マサチューセッツ州]]<br/>[[スプリングフィールド (マサチューセッツ州)|スプリングフィールド]]<!--<br/>[[カナダ]]が起源とも言われている。<br/>カナダ人によると起源はカナダ。--> | 競技登録者 = | クラブ = | 身体接触 = 有 | 選手 = 12から15人(コート上5人) | 男女 = 無 | カテゴリ = 屋内競技 | ボール = バスケットボール | オリンピック = [[1936年]] }} {{ウィキプロジェクトリンク|バスケットボール|[[ファイル:Basketball.png|35px|ウィキプロジェクト バスケットボール]]}} '''バスケットボール'''(''basketball''{{Audio|En-us-basketball.ogg|音声}})は、[[1891年]]に[[アメリカ合衆国]]の国際YMCAの体育教師の[[ジェームズ・ネイスミス]]によって考案されたスポーツ。 5人対5人の2チームが、一つの[[ボール]]を手で扱い、長方形の[[コート (スポーツ)|コート]]上の両端に設置された高さ305 cm(10 ft)、直径45cm(18 in)のリング状の'''バスケット'''にボールを上方から通すこと('''[[ゴール (スポーツ)|ゴール]]''')で得点を競う[[球技]]である。公式試合は屋内競技として行われる。狭義では、この競技に使用する専用のボールのことを指す。'''籠球'''(ろうきゅう)とも訳される。 開催される国・地域、年齢や性別によってローカルルールが適用される。身長の高さが優位に密接する競技としても知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/articles/-/224802|title=歴史を変えた東京五輪女子バスケットボール 『誇り高き銀メダル』への道|publisher=FNNプライムオンライン|date=2021-08-17|accessdate=2021-09-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210915053332/https://www.fnn.jp/articles/-/224802|archivedate=2021-09-15|deadlinkdate=2021-10-09}}</ref>。 == 競技の概略 == '''バスケットボール'''のゴールとなる'''バスケット'''は、[[FIBA]]公式ルール<ref name="FIBA_rule" /> では、{{仮リンク|バックボード (バスケットボール)|label=バックボード|en|Backboard (basketball)}}に取り付けられた、高さ305cmに水平に設置された内径45cmの'''リング'''(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。 競技年齢や設備環境により、設置高さなど各種寸法は異なる。 この'''バスケット(リング)'''に正規の方法でボールを上方から下方に通過させることによって'''ゴール'''が成立し得点が記録される。 攻撃側('''オフェンス''')チームは、プレーヤーが'''ドリブル'''でボールを運んだり、プレーヤー間で'''パス'''を行いながら、 一定時間内に'''[[ショット (バスケットボール)|ショット]]'''を放ち、ゴール成立によるポイント(得点)を狙う。 また一旦フロントコートへ運ばれたボールを'''バックコート'''に戻すことは出来ない。攻撃権のない守備側('''ディフェンス''')チームは、規定された方法でゴールを阻止し、攻撃権を奪うような防御プレーを行う。 '''ボールポゼッション(攻撃権)'''は、得点があった場合、'''[[ヴァイオレイション]]'''(身体接触の無い違反)または'''[[ファウル (バスケットボール)|ファウル]](身体接触の有る反則)'''があった場合、'''クウォーター'''(試合進行中の区切り)開始時などにチーム間で移動する。試合中の'''[[フィールドゴール (バスケットボール)|フィールドゴール]]'''は、ショットを放った位置によって、1回の成功で、ツーポイント(2点)あるいは[[スリーポイントフィールドゴール|スリーポイント]](3点)が記録される。ファウル、あるいはヴァイオレイションに対するペナルティ(罰則)により与えられる'''[[フリースロー]]'''では、事例によって投数がワンスロー〜スリースロー(1〜3投)の間で決められ、一投成功につき1点が記録される。試合時間終了時点で、より多い得点を得たチームが勝利となる。基本的には引き分けはなく、通常クウォーターの半分程度の時間の[[延長戦|オーバータイム]](OT)を、勝敗が決するまで繰り返し行う。バスケ以外にもミニバスなどがある。 ==競技の特徴== バスケットボールゲームの特徴は、 *ボールを保持したままの移動に制限があること *連続して移動する場合は床面でボールをバウンドさせる'''[[ドリブル (バスケットボール)|ドリブル]]'''(球運び)を行い、バウンド数に制限はないが、プレーヤーの一連のプレーで開始から終了まで1回のみ許されること *ボールに対して下半身を使えないこと *対人接触に関しての規定が比較的多くあり、故意に接触すること、相手の身体や衣服を掴むことが禁止されていること *ゴールはショットが放たれた位置によって得点が異なること。 *攻撃と守備の流れは流動的で、試合中の多くの状況で起こり得ること *試合の経過を滞らせないために多くのプレーで制限時間があること *選手交代でベンチに下がった選手も再度出場が可能なこと *運動量が多く、レベルの高いプレイをするには身体的能力が求められること などが挙げられる。 後述するように、基本ルールを競技の考案者が1人で策定したことや、[[NBA]]などテレビ中継があるプロスポーツと共に発展してきた事に起因して、「見せるスポーツ」としての側面も併せ持っているため、ルールが複雑なスポーツの一つである。その一方で、レクリエーションとしての「楽しむスポーツ」という点では、ゴールリングとボールがあれば1人からプレーを楽しむことができ、1オン1(1対1)や、3オン3(3対3)で本格的にゲームをすることもできる。アメリカでは、公園など公共の場所にリングが設置されており、ゴールリングを指す俗称から転じて「'''hoop'''」とも呼ばれている。 ネイスミスに誘われてYMCAの体育教師となった[[ウィリアム・G・モーガン]]は、身体接触が伴うバスケットボールは自身が担当するビジネスマンクラス(25〜40歳)には危険が伴うため、子供、女性、高齢者が楽しめる、よりレクリエーション的な屋内競技として、[[1895年]]に[[バドミントン]]や[[テニス]]を参考にした'''[[バレーボール]]'''を考案した。 == 歴史 == === 誕生 === === ネイスミスの考案 === バスケットボールは、比較的最近になって誕生した競技であり、また一人の人物によって考案され広まった数少ない競技のひとつである。考案者は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[マサチューセッツ州]][[スプリングフィールド (マサチューセッツ州)|スプリングフィールド]]の国際[[キリスト教青年会|YMCA]]トレーニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)の体育部教官を務めていた[[カナダ]]人の[[ジェームズ・ネイスミス]]で、[[1891年]]に彼の考え出したルールが現在のバスケットボールの原型になっている<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p126">『現代体育・スポーツ体系 (26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.126 1984年</ref><ref name="gendaisports5_p2">『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.2 1982年</ref><ref name="JOC">{{Cite web|和書|url= http://www.joc.or.jp/sports/basketball.html|title= JOC - 競技紹介:バスケットボール|accessdate=2014-10-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.molten.co.jp/corporate/jp/letter/pdf/basketball.pdf|title=特集:バスケットボールのひみつ|accessdate=2021-09-18}}</ref> 1891年夏、国際YMCAトレーニングスクールでは体育・スポーツ指導者の講習会が開かれたが、当時、全米各州のYMCAでは冬季の屋内における体操中心のプログラムについて学生の意欲が低いとして既存のプログラムに対する不満があり、レクリエーション的で競技的要素を含んだプログラムが求められていた<ref name="gendaisports5_p2"/><ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p127">『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.127 1984年</ref><ref name="basketballmonogatari_p33">[[水谷豊 (体育学者)|水谷豊]] 『バスケットボール物語』 p.33 2011年 大修館書店</ref>。同年秋、体育部主事のL.H.ギューリックは5人の体育指導教官を集めて数回にわたり検討した結果、新しいスポーツを創り出すほかはないとの結論に達した<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p127"/><ref name="basketballmonogatari_p34_35">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.34-35 2011年 大修館書店</ref>。体育教官であったネイスミスは[[アメリカンフットボール]]や[[サッカー]]、[[ラクロス]]などを屋内ゲームとして取り入れようとしたが失敗に終わる<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p127"/><ref name="gendaisports5_p3">『現代スポーツコーチ実践講座 (5)バスケットボール』 p.3 1982年</ref><ref name="basketballmonogatari_p37">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.37 2011年 大修館書店</ref>。そこで、ネイスミスは各ゲームの要素を取り出すこととし、ボールを使用すること、ラフプレーを取り除く必要からタックルをなくすためボールを保持したまま走ってはいけないこととした<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p127"/><ref name="gendaisports5_p3"/>。また、ゲーム中の安全性を高めるため競技者間の身体接触を少なくすることが考えられたが、これにはネイスミスが少年時代を過ごしたカナダ・[[オンタリオ州]]で行われていたタグ([[鬼ごっこ]])と的当てを組み合わせた「雄鴨落し({{仮リンク|Duck on the Rock|en|Duck on the Rock}})」という遊びにヒントを得て、ゴールをプレーヤーの頭上に水平に設置することとした<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p127"/><ref name="gendaisports5_p3"/><ref name="basketballmonogatari_p39">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.39 2011年 大修館書店</ref>。 ネイスミスが最初に考案した13のルールは現在では約250にまでなっているが、ゲームの形式は基本的にほとんど変化していない<ref name="gendaisports5_p3_4">『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.3-4 1982年</ref>。 ; 初めての試合 [[ファイル:Dr. James Naismith's Original 13 Rules of Basket Ball pg 1.jpg|サムネイル|石川による最初の試合のスケッチ]] [[1891年]][[12月21日]]、国際YMCAトレーニングスクールで18人の学生を9人ずつに分け初めての試合が行われた<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p128" /><ref name="basketballmonogatari_p9">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.9 2011年 大修館書店</ref>。この試合ではボールを[[サッカーボール]]で代用した<ref name="basketballmonogatari_p10">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.10 2011年 大修館書店</ref>。ネイスミスはゴールについては45cm四方の箱を想定していたが、それは用意できなかったため、代わりに[[モモ|桃]]を入れる[[籠]]を[[体育館]]のバルコニーに取り付けることとなった<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p128" /><ref name="basketballmonogatari_p10" /><ref name="basketballmonogatari_p44">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.44 2011年 大修館書店</ref>。このときのゴールの高さ10フィート (3.05m)は以後変更されることなく現在に至っている<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p128" />。また、フロアの広さはおよそ11m×15mの大きさであったという<ref name="basketballmonogatari_p10" />。この世界最初の試合の18人の中には留学中だった[[石川源三郎]]が含まれていた<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p128">『現代体育・スポーツ体系 (26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.128 1984年</ref><ref name="basketballmonogatari_p9" />。最初の試合ではトスアップから1時間ほどたって1年生W・R・チェイスのショットが決まって点が入りゲーム終了となっている<ref name="basketballmonogatari_p11">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.11 2011年 大修館書店</ref>。試合の様子は石川がスケッチで残している。 このスポーツの名称について初めての試合が行われるに先立ってネイスミスと学生フランク・マーンとの間で話題になり桃の籠(Basket)を用いたことから「Basket ball」と名付けられた<ref name="basketballmonogatari_p44" />。 その後、YMCAトレーニングスクール広報誌「ザ・トライアングル」(1892年1月15日号)に紹介され<ref name="basketballmonogatari_p33" />、[[1892年]]1月になって正式に「Basket ball」という名称に定まった<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p128" />。また、当初、英語での表記は2語で「Basket ball」であったが、[[1921年]]に公式に1語で「Basketball」となった<ref name="basketballmonogatari_p45">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.45 2011年 大修館書店</ref>。日本語では直訳した「'''バスケットボール'''」の他、'''籠'''を使う'''球'''技であることから「'''籠球'''」とも訳される。 ;プレーヤー人数 ネイスミスはレクリエーションを想定していたことから、両チームが同人数であれば何人であってもよいと考えていたため、13条のルールの中にチーム人数を規定していなかった<ref name="basketballmonogatari_p70">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.70 2011年 大修館書店</ref>。[[コーネル大学]]では50人対50人で試合が行われたが、この試合について担任のE・ヒッチコックは「体育館が破壊されかねない」などと述べるなど逸話となっている<ref name="basketballmonogatari_p71">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.71 2011年 大修館書店</ref>。プレーヤー人数については、その後次第に制限され、[[1894年]]にプレーヤー人数についてはフロア面積に合わせて5人、7人、9人とされることになった<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p128"/>。コートの大きさやプレーヤー人数が現在のように確定したのは[[1897年]]になってからのことである<ref name="gendaisports5_p4">『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.4 1982年</ref>。 コート上のプレイヤーは、限られたタイミングで交代することができ、反則やケガで欠員が出ても交代として補充することができる。交代の回数に制限は無いので、1人のプレイヤーが何度も交代することができる。 ;ゴールの形状 ゴールについては考案当初、シュートが決まるたびに梯子や棒を用いて取り出していた<ref name="gendaisports5_p4"/>。ゴールに使われた桃の籠は壊れやすかったためすぐに金属製の円筒形ゴールにかわっている<ref name="gendaisports5_p4"/><ref name="basketballmonogatari_p82">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.82 2011年 大修館書店</ref>。ゴールの形状はその後少しずつ変化し、一説によればネット状で底が切れている現在のようなゴールの形状になったのは[[1912年]]から1913年にかけてであるとされる<ref name="gendaisports5_p4"/><ref name="basketballmonogatari_p83">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83 2011年 大修館書店</ref>。なお、リングの内径45cmは最初の試合の時から全く変わっていない<ref name="basketballmonogatari_p83_84">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83-84 2011年 大修館書店</ref>。 ;{{仮リンク|バックボード (バスケットボール)|label=バックボード|en|Backboard (basketball)}} バスケットボールは熱狂的な人気を博すようになったが、観客が体育館上の手すりや欄干から足や手を伸ばして妨害することが頻発したため遮蔽物が設けられることになった<ref name="basketballmonogatari_p85">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85 2011年 大修館書店</ref>。これがのちのバックボードで当初は金網であったが、1904年から1.8m以上の木板が用いられるようになった<ref name="basketballmonogatari_p85"/>。ところが、観客から見えないことになったため後に透明なプラスチック板が用いられるようになっている<ref name="basketballmonogatari_p85"/>。バックボードの位置については当初エンドライン上にあったが、ゴールが61cmコート内側に移動することとなった際にバックボードもそれに伴ってゴールと一体となってエンドラインより内側に配置されることとなった<ref name="basketballmonogatari_p85_86">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85-86 2011年 大修館書店</ref>。 === 発展 === ;FIBAの結成 バスケットボールは当初から人気があり、[[スミス大学]]の体育教師を務めていたセンダ・ベレンソンによって[[女子バスケットボール]]が始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになり、国際YMCAトレーニングスクールを通じ世界各国へ急速に広まった。このような背景もあり、[[1904年]]の[[1904年セントルイスオリンピック|セントルイスオリンピック]]ではデモンストレーションスポーツとして開催された<ref name="JOC"/>([[1904年]]から[[1924年]]まで[[近代オリンピック|オリンピック]]の公開競技として実施)。[[1932年]]6月には[[国際バスケットボール連盟|国際バスケットボール連盟 (FIBA)]]が結成され、[[1936年]]の[[ベルリンオリンピック]]から男子オリンピック正式種目に採用された<ref name="JOC"/>。また、[[1976年]]の[[モントリオールオリンピック]]から女子正式種目にも採用された<ref name="JOC"/>。 ;プロリーグの創設と発展 アメリカ国内では、[[1946年]]に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併し[[NBA]]が誕生した。[[1967年]]に、対抗するリーグ[[アメリカン・バスケットボール・アソシエーション (1967-1976年)|ABA]]が設立され地位を脅かしたが、[[1976年]]にABAは消滅し、NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けている。 ;ドリームチームの時代 NBAには、[[ジョージ・マイカン]]、[[ビル・ラッセル]]、[[ウィルト・チェンバレン]]、[[オスカー・ロバートソン|オスカー・ロバートソン、]][[カリーム・アブドゥル=ジャバー]]、[[マジック・ジョンソン]]、[[ラリー・バード]]、[[マイケル・ジョーダン]]などのスター選手が所属し、[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]では「'''[[ドリームチーム (バスケットボール)|ドリームチーム]]'''」を結成<ref name="JOC"/>、圧倒的な強さで優勝を果たした。 また、[[1996年]]には女子プロバスケットボールリーグ[[WNBA]]が設立され、[[シェリル・スウープス]]、[[リサ・レスリー]]、[[ローレン・ジャクソン]]などのスター選手が台頭した。 ;国際化 NBAやオリンピックの活性化に伴い、近年バスケットボールの国際化が急速に進んでおり、FIBA発表では[[1998年]]時点で世界の競技人口はおよそ4億5000万人、FIBAに加盟した国と地域は[[2006年]]8月時点で213まで増加した。 === 日本での歴史 === [[日本]]にバスケットボールが伝わったのは[[1908年]]で、[[YMCA]]の訓練校を卒業した[[大森兵蔵]]が東京YMCAで初めて紹介したとするのが現在の定説である<ref name="gendaitaiikusportstaikei26_p128"/>。そして[[1913年]]にYMCA体育主事のF.H.ブラウンが来日し、関東、関西で競技の指導に尽力し普及していった。 なお、[[1891年]]に[[スプリングフィールド]]で行われた世界初の試合に参加した[[石川源三郎]]がもたらしたのではないかとする異説もある<ref>『現代体育・スポーツ体系 (26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』1984年 (p.128)では定説に対する異説として紹介している</ref>。ただ、[[1910年代]]の日本ではいまだ[[スポーツ]]施設が少なく競技用具も粗末であるなど本格的に受容するだけの受け皿がなかったとされ、石川がバスケットボールを日本で紹介・指導した記録は見つかっていない<ref name="basketballmonogatari_p14_18">水谷豊 『バスケットボール物語』 p.14-18 2011年 大修館書店</ref>。 [[1924年]]には、[[早稲田大学]]、[[立教大学]]、[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]が全日本学生籠球連合を結成。全国各地で対抗戦が行われていった。そして、[[1930年]]に[[日本バスケットボール協会|日本バスケットボール協会 (JABBA)]]が設立され、普及と発展及び競技レベルの向上に努めている。 [[1975年]]には[[FIBA女子バスケットボール・ワールドカップ|女子バスケットボール世界選手権]]で準優勝する。 [[2005年]]には日本初のプロリーグ[[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]が発足したが、日本のバスケ全体の発展・強化が遅く、[[アジア]]の各大会で苦戦を強いられている<ref group="注">『社会人のための英語百科』(大谷泰照、堀内勝昭監修)84ページに、アフリカ系アメリカ人の若者について「そこら辺のプレイグラウンドの連中でも、全日本の選手をはるかにしのぐレベル」と記述されており、日本とアメリカを比べるとバスケのレベルに極めて大きな差があるという主張が為されている。</ref>。日本代表は、女子が[[2004年]]の[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]に3度目の出場を果たしたが、男子は1976年のモントリオールオリンピックを最後に出場は途切れている。 2014年11月27日、[[日本バスケットボール協会]] (JBA)は[[FIBA]](国際バスケットボール連盟)より勧告を受けていた『国内男子トップリーグの統合』・『ガバナンス能力に欠けるJBAの改革』・『日本代表の長期的な強化策』の問題が解決されず、FIBAから資格停止処分を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=http://sports.yahoo.co.jp/sports/basket/all/2014/columndtl/201411270002-spnavi |title=JBA、FIBAより資格停止処分受ける 丸尾会長代行「早期の制裁解除が使命」 |publisher=[[ヤフー (企業)|Yahoo]].com |date=2014-11-27 |accessdate=2015-05-31 }}</ref>。 2015年6月19日、[[FIBA]](国際バスケットボール連盟)が、スイスで常務理事会を開き、2014年11月27日に日本協会に科した、無期限の国際試合出場停止処分の解除を決めた<ref>{{Cite web|和書|title=国際バスケ連盟が日本の処分解除、改革の成果を評価 - スポーツ : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/sports/news/1494642.html|website=nikkansports.com|accessdate=2022-01-12|language=ja}}</ref>。 2016年9月、NBLとbjリーグが統合した新リーグ「[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]](Bリーグ)」が開幕。 現代の日本では多くの[[学校]]や[[企業]]で[[部活動]]や[[クラブ活動|サークル]]としての活動があり、それぞれ全国規模の大会が毎年行われている。多くの学校や[[公園]]には簡易的なバスケットゴールが設置されているが、公式試合ができる環境が整っている場所は少数である。 日本におけるバスケットボールは[[スポーツ中継]]も少なく、まだまだマイナースポーツの段階である。 反面、ほとんどのスポーツ用品店でバスケット用品を扱っており、国民の認知度は高いスポーツとなってきている。 ==用具、器具、施設== === ボール === [[ファイル:FIBA Basketballs 2004-2005.JPG|thumb|left|160px|FIBA公認球]] [[天然皮革]]、[[合成皮革]]、[[ゴム]]などで作られたボールが使われる。公式ボールとしては検定球が使われる。一般(男子)用及び中学生用(男子)には7号球(周囲75 - 78 cm、重量600 - 650g)が、一般(女子)用及び中学生用(女子)には、6号球(周囲72 - 74 cm、重量500 - 540g)が、小学生用には、5号球(周囲69 - 71 cm、重量470 - 500g)が使われる<ref name="mini">{{PDFlink|[http://www.jmbf.net/mini_manuai/daisukiminibas2.pdf ひとめでわかるミニバスケットボール のルール]}}(日本ミニバスケットボール連盟)</ref>。なお、ボールの下端が1.8mの高さから落とした際、上端が1.2 - 1.4mの範囲ではずむ様に空気圧が調整される。 また、2004年のFIBA([[国際バスケットボール連盟]])の規格改定により従来の茶色の8枚パネルから茶色とクリーム色2色の合計12枚パネルのボールが認められ、選手や観客にとってボールの軌道や回転など視認性が高まった。日本国外では、[[スポルディング (スポーツ用品)|スポルディング]]や[[アディダス]]、[[ナイキ]]、[[ウイルソン・スポーティング・グッズ|ウィルソン]]などが、[[日本]]では、[[モルテン]]、スポルディング、[[ミカサ]]、[[タチカラ]]などが製造販売している。 [[File:SPALDING NBA OFFICIAL GAME BALL.jpg|thumb|200px|right|2020-2021シーズンまでのNBAオフィシャルゲームボール]] [[NBA]]では、協会公認で、コミッショナーの認定、使用するホームチーム名などが刻印されたスポルディング社製天然皮革ボールを使用していた。2006-2007年シーズンに、合成皮革で二面張りのユニークなボールに一旦は変更した<ref>[http://www.nba.com/news/blackbox_060628.html NBA Introduces New Game Ball - NBA.com]</ref> が、選手間での評価が悪く元に戻している。{{Nbay|2021|app=シーズン}}から[[ウイルソン・スポーティング・グッズ|ウィルソン]]社製に変更された。 === コート === [[ファイル:FIBA court 2010.png|thumb|FIBA 2010年仕様コート概略図]] [[ファイル:Basketball through the hoop.JPG |thumb|バスケットボールのゴールを通過するボール]] [[ファイル:Basket goal.png|thumb|FIBAゴール規格]] 縦 28m、横15mのコートが使われ、幅5cmの白線で区画が設定される<ref name="FIBA_rule">{{cite web|url=http://www.fiba.com/documents|title=Official Basketball Rules |publisher=[[FIBA]].com |date=2017-01-25 |accessdate=201170-01-26}}</ref><ref name="mini" />。長辺をサイドライン、短辺をエンドラインと呼ぶ。エンドラインとサイドラインで区画された区域が[[イン・バウンズ|インバウンズ]](コート内)となり、サイドラインとエンドライン上とその外側が[[アウト・オブ・バウンズ]](コート外)となる。コート内には中央でコートを2分するセンターラインや、センターサークル、フリースローレーン、フリースローサークル、3ポイントライン、ノーチャージセミサークルなど様々なラインがマーキングされている。攻撃するバスケットがあるコートの半分をフロントコート、もう一方のバスケットのあるコートの半分をバックコートと呼ぶ。FIBAとNBAではコートサイズや区画などが異なっている<ref name="NBA_rule">{{cite web|url=http://www.nba.com/analysis/rules_index.html|title=Official Rules of the National Basketball Association |publisher=[[NBA]].com |date=2008-09-08 |accessdate=2012-03-29 }}</ref> が、FIBAでは2010年に変更があり、フリースローレーン(ペイントエリア)が台形から長方形になり、ノーチャージセミサークルが追加され、3ポイントラインも拡張され、[[NBA]]の仕様に近づいている。 バスケットに於ける境界線は、ライン上は、ラインを越えた事と同じであると言う考え方が原則である。例えば、3ポイントラインを踏んでのショットは、3ポイント境界線を越えたと見なしゴールしても2ポイントである。ただし、ボールをフロントコートに進めることについては、ボールとボール保持したプレイヤーの両足とがフロントコートに入った段階で成立する。 また、空中でのプレーに関しては最後に触れたコートの部分が適用されるため、ラインのコート内から跳んだ場合は、着地点がコート外だとしても着地するまではプレーを継続でき、シュートをした場合は跳んだ部分での点数が適用される。 フロア材は、公式試合で使用される場所は木材フローリングにワックスコーティングがほとんどだが、硬性アクリル板等もある。屋外ではアスファルトやコンクリートが主であり、公園施設では砂地、土であることも多い。ただし球技であるため、ボールのバウンドが変化しないように特に平坦さが求められる。そのため芝やカーペットなどは不適となる。 コート設置場所の事情によりサイズが異なる場合があり、上記の規定より小さく設計されることも少なくない。また、公園などではいくつかの線が省略されていることもある。 客席を設置する場合、コートと客席が他スポーツと比較して近いことも特徴として挙げられる。例としてNBAではサイドラインと客席最前列の間は1メートル程度しかなく、エンドラインでも数メートル程度である。 ===ゴール=== バスケットボールの[[ゴール (スポーツ)|ゴール]]は、[[FIBA]]公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmの'''リング'''(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから120cm内側の上方に、平行に設置された幅180cm高さ105cmの長方形で平らな'''{{仮リンク|バックボード (バスケットボール)|label=バックボード|en|Backboard (basketball)}}'''に、リングは、15.1cmのフランジを介して取り付けられている<ref name="FIBA_rule" />。 *[[NBA]]では、高さ305 cm(10 ft)に水平に設置された内径45.72 cm(18 in)の[[NBA]]認定'''リング'''(ダンクショットの際に安全なように可動式となっている)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な38〜45&nbsp;cm(15〜18in)のネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから122cm(4 ft)内側の上方に、平行に設置された幅183 cm(6 ft)高さ 107 cm(3.5 ft)の長方形で平らな'''バックボード'''に、リングは、15.24 cm(6 in)のフランジを介して取り付けられている<ref name="NBA_rule" />。 *FIBAでは、フロントコートにあるバスケットは対戦相手のバスケットと呼ぶが、NBAではフロントコートにあるバスケットは自チームのバスケットで、バックコートにあるのが相手のバスケットと定義している。いずれの場合もフロントコートにあるバスケットにボールを入れると得点となる点は同じである。NBAでは自分たちのバスケットにショットを入れることから、ゴールをマネーと表現することがあり、バンクショットのバンクを銀行に掛けて表現することもある。 日本のミニバスケット(小学生)では、高さが260cm<ref name="mini" /> であるなど、競技をする人の年齢や設備環境により、各種寸法は異なる。 === ゲームウェアー === ;ユニフォーム(チーム・ジャージ) [[ユニフォーム]]は[[シャツ]]と[[パンツ]]を言う。シャツは[[ノースリーブ]]やショートスリーブ、ランニングなどを主に着用する。シャツとパンツはチームメンバー全員が同じデザインの色、形のものを着用し<ref group="注">[[FCバルセロナ]]のバスケットボールチームなど、例外もある。</ref>、前と後ろは同じ色でなければならない<ref group="注">ストライプは規定に沿ったものであれば認められる</ref>。パンツは必ずしもシャツと同色でなくても良い。一方のチームは 濃い色、他方は淡い色(白が望ましい)のものを着用する。対戦表の先に記載されたチーム、またはホームチームが淡色のユニフォーム、後に記載されたチームまたはビジター(アウェイ)チームが濃色を着用する。両チームの話し合いで入れ替えてもよい。ユニフォームには番号を胸と背中に付ける。この番号は、原則4 - 15まで、または大会主催者により2桁までの番号を付ける事が決められている。「0」「00」という番号の使用も大会規定により認めることが可能であるが、同一チーム内に「0」と「00」を同時に使用することは認められず、「07」のような番号も認められない。[[背番号]]も参照のこと。他の球技と同様、チームのロゴやエンブレム、広告などを大会主催者の許可のもとで付ける事もあるが、番号との距離などが厳格に定められている。形状は時代と共に変化し、特にパンツは過去には陸上競技並の短かさだったものが、現在では膝丈近くにまで伸びゆったりしたものとなっている。ユニフォーム下は、許可された範囲で、アンダーシャツ、[[スパッツ]]などの着用も可能である。他には、ヘッドバンド、アームスリーブ、リストバンド、脛当て、[[スポーツ用サポーター|サポーター]]も着用される場合がある。 ;シューズ、ソックス バスケットボールをプレーするためには激しい動作が求められるため、滑りにくく、ジャンプや着地時のショックを和らげるクッション性が高いシューズが必要であり、専用に用意されている。合成樹脂技術の進歩に伴い軽量化が進んだが、1960年代頃までは、厚いゴム底の、スポーツシューズとしては重いものであった。また、ソックスも登山用のような厚手のウールソックスを履くこともあった。また、1970年代に[[NBA]]の影響で[[ハイソックス]]が流行したが、現在では、[[NBA]]でも一部のプレーヤーや、復刻ジャージでのゲームで着用されるのに留まっている。 '''NBA'''の場合、ゲーム時にはウォームアップウェア、'''チーム・ジャージ'''と呼ばれるユニフォームから、サポーター、ソックス、ヘッドバンドに至るまで、NBA指定メーカーロゴとNBAロゴ、チームロゴのみが許可されており、唯一、選手が自ら選んで身につけられるのは'''[[バスケットシューズ]]'''のみである。従って選手は、それぞれのシューズメーカーと契約している。スタープレーヤーには、プレーヤーモデルの[[バスケットシューズ]]が提供されると共に、同型の市販品が作られ販売される。 == ルール == ===主なルールの変遷=== 主なルールの改定を以下にまとめた。 <ref>[http://jbbs.jp/pdf/materials004.pdf バスケットボールルールの変遷Ⅰ NPO法人 日本バスケットボール振興会]</ref><ref>[http://jbbs.jp/pdf/materials005.pdf バスケットボールルールの変遷Ⅱ NPO法人 日本バスケットボール振興会]</ref> ;創造から *1932年 バックパスルール設定。シューティングファウルに対する[[フリースロー]]が現在の数に。 *1933年 交代しコートから退いたプレイヤーは、その後さらに2度まではプレーに参加できるように。ユニフォームの背番号は[[算用数字]]を使用するよう奨励。 *1935年 [[3秒ルール]]が現在に近い形に。 *1938年 フィールド・ゴール成功後、[[ジャンプボール|センター・ジャンプ]]で再開する規定がなくなり、エンド・ライン外からの[[スローイン (バスケットボール)|スローイン]]に。 *1946年 バックボードをコート内側の現在位置に移動。交替出場回数に制限がなくなる。5ファウルで退場となる。フリースローを放棄し、アウトからのスロー・インを選ぶ権利が与えられた。 *1954年 NBAが[[ショットクロック]](24秒ルール)導入。 *1956年 ショットクロック(30秒ルール)導入し、バックパスルール廃止。 *1957年 [[フリースロー]]を放棄できなくなる。 ;ローマ・オリンピック後に国際ルールに沿った規則となって以降。 *1965年 一般男女と高校男子の試合を20分ハーフにし、使用ボールを7号ボールに。 *1973年 バックパスルール、10秒ルールの復活。 *1974年 バスケット・カウント・ワンスローが復活。 *1979年 2個のフリースローのうち、1個でも入らないときさらにもう1個を与える「スリー・フォー・ツー・ルール」設定。 *1985年 [[スリーポイントフィールドゴール|3ポイント]]ルールの採用、チームファール罰則が7ファールに スリーフォーツーの廃止。 *1991年 フリースローをせずにセンター・ラインのアウトからのスロー・インを選べる「選択の権利」が廃止。背番号が4番からに。 *1995年 アリウープがリーガル・プレイに シューティングファウルがシューターが床に着くまでに拡大。インテンショナル・ファウルが「アンスポーツマンライク・ファウル」改名。 *1999年 後半の最後と各延長時限最後の2分間にフィールド・ゴール 成功時はゲーム・クロックを停止。 *2000年 20分ハーフを10分クオーター制に。 *2001年 30秒ルールから24秒ルールへの変更。 *2010年 制限区域が台形から長方形に、3ポイントラインが拡大。ノーチャージエリアの設定。ショットクロックの14秒リセット導入。 *2012年 オフェンス・リバウンド時もショットクロックが14秒リセットに。 *2014年 プレイヤーのテクニカル・ファウルが2回で失格・退場に。テクニカル・ファウルの罰則のフリースローを1本に。 *2018年 ボールを保持すると同時についた足を0ステップとした。 === 現行の主要ルール === 以下に記すのは主に[[国際バスケットボール連盟]](FIBA)<ref name="FIBA_rule" /> 及び[[日本バスケットボール協会]](JBA)のオフィシャルルール<ref>[http://www.hmv.co.jp/news/article/1107200032/ JBAオフィシャルグッズ]</ref> による。 [[日本プロバスケットボールリーグ]]<ref>[http://www.bj-league.com/gaiyo.php bjリーグ・競技ルール]</ref> と、北米のプロリーグである[[NBA]]はそれぞれ独自のルール<ref name="NBA_rule_new">[http://www.nba.com/officiating/ Official Rules of the NBA(英語)最新版]</ref> を規定している。また、小学生が行う[[ミニバスケットボール]]も、独自のルール<ref name="mini" /> が規定されている。 {{Ref_bsk|NBA#NBA独自のルール}} * 5人対5人で試合を行う。3人対3人の3 x 3(スリー・エックス・スリー)もある。交代要員の数はその試合によって異なり、ホームチーム側に多く設定されることもある。例としてbjリーグではホームチーム15人、アウェイチーム12人である。 * 10分のピリオドを4回行う。第1第2ピリオドを前半、第3第4ピリオドを後半という。 * 第4ピリオドが終わったとき両チームの得点が同じだった場合は、1回5分の延長時限を必要な回数だけ行う。 * ボールは手で扱わなければならない。ボールを保持したまま3歩以上歩くこと(トラベリング)、故意に足または腿で蹴ったり止めたりすること、拳で叩くことなど、からだの触れ合いおよびスポーツマンらしくない行為以外の規則に対する違反をヴァイオレイションという(詳細は[[#ヴァイオレイション|ヴァイオレイション]]の項を参照のこと)。 * 相手チームのプレイヤーとの不当なからだの接触やスポーツマンらしくない行為をファウルという(詳細は[[#ファウル|ファウル]]の項を参照のこと)。 * 相手チームのバスケットにライブのボールを上から通過させるか、バスケットの中にとどまること([[シュート (バスケットボール)|シュート]]、ショット)によりゴールとなり、規定の得点が認められる。2ポイントエリア(攻撃するバスケット側の3ポイント・ライン以内のエリア)からのフィールドゴールは2点、3ポイント・ラインより外側(3ポイントエリア)でのフィールドゴールは3点が認められる<ref group="注">3ポイントか2ポイントかは、シュートを行った位置で決定される。3ポイントエリアからジャンプし、シュート後に2ポイントエリアに着地しても3ポイントシュートとなる。</ref>。フリースローによるゴールは1点である。 * ショットの動作中に守備側からファウルを受けるとフリースローが与えられる。そのショットが成功した場合は得点は認められ(バスケットカウント)、さらに1本のフリースローが与えられる。ショットが失敗した場合は、2ポイントエリアからのショットの場合は2個、3ポイントエリアからのショットの場合は3個のフリースローが与えられる。 * プレイヤーがコート内でライブのボールをコントロールした場合、そのチームはコントロール開始から24秒以内にショットをしなければならない(24秒ルール)。 * ゲームはセンターサークルで両チームのプレイヤーにより[[ジャンプボール]]で始められる<ref group="注">ジャンプボールシチュエーションでは、オルタネイティング・ポゼション・ルールによるスローインでゲームを再開するので、ジャンプボールは試合開始の1回しか行わない。</ref>。前半は相手チームのベンチ側にある相手チームのバスケットを攻め、後半は攻めるバスケットを入れ替える。延長時限は後半と同じバスケットを攻撃する。 * 第2ピリオド(試合時間を参照)からは、[[オルタネイティング・ポゼション・ルール]]により、オフィシャルズテーブルから遠いほうのセンターラインの外側からのスローインで始まる。 第一ピリオドは各チームのキャプテンが出場しなくてはならない。 === 審判とテーブルオフィシャルズ === 審判(オフィシャルズ)は2人もしくは3人で行う。これは主催者により選択される。 このほかに、審判を補佐し、得点を記録するなどの仕事を行う[[テーブルオフィシャルズ]](TO)が4名いる。{{Ref_bsk|審判 (バスケットボール)|テーブルオフィシャルズ}} === 試合時間 === [[ファイル:NBA_shot_clock.jpg|thumb|300px|バスケットボールのゲームクロックとショットクロック]] [[ファイル:Game clock.png|thumb|バックボード上方のクロックの例]] 10分を1クォーター<ref group="注">NBAやBリーグなどではピリオドではなく、クォーターで表される。(例)第1ピリオド=第1クォーター</ref> とし、第1クォーターから第4クォーターまでの4つのクォーター、計40分間で行なわれる。<ref group="注">NBAの場合の試合時間は12分4クォーター、計48分間で行われる。NCAAは前後半各20分ずつ。</ref> 試合時間は、残り時間として[[電光掲示板]]や得点板に表示される。<ref group="注">電光掲示板の場合、試合時間は、残り1分までは10:00、9:59、と秒単位で表示され、残り1分以後では59.9、59.8、と10分の1秒単位で表示される。得点板の場合9、8と1分ごとに残り時間を表示し、残り1分以後では1/2と1/4と30秒単位、15秒単位で表示するものが多い。</ref> 以下の状況では、試合時間(ゲームクロックと呼ばれる[[時計]])が一時停止する。<ref group="注">試合ではこのルールを活かし、残り時間を有効に活用する。とりわけ接戦における第4ピリオドの終盤では、オフェンスファウルやディフェンスファウル、タイムアウトによる試合時間の停止の利用が、勝負に重要な影響をもたらすことがある。これにより試合のクライマックスが形作られる</ref> * ファウルやヴァイオレイションの判定の瞬間から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで * [[#タイムアウト|タイムアウト]]の開始から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで * 審判が必要と判断した状況から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで * 第4ピリオドと延長ピリオドの終了2分を切った(ゲームクロックが2:00を表示した)後は、全てのフィールドゴール成功時からスローイン後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 残り時間が0.0秒になるとともに各ピリオドは終了し、[[サッカー]]や[[ラグビーフットボール|ラグビー]]における[[ロスタイム]]の概念はない。<ref group="注">残り時間0.0秒後の得点は、審判が判定する。残り時間0.0秒以前にシュートしたプレイヤーの手からボールが離れていると判定されれば、得点となる。ただし、残り時間0.3秒以上の時スローインをした場合は、ボールキャッチ後のシュートは認められるが、0.3秒未満の場合は、直接ダンクシュートまたは直接タップシュートした場合のみ得点が認められる。</ref> 各ピリオド間では、第1と第2及び第3と第4の各ピリオドの間に2分間、第2と第3ピリオド間のハーフタイムに10分間のインターバル(インタヴァル、インターヴァルとも)がそれぞれ与えられる。ただし、これは大会の主催者によって変更されることもしばしばある。以前は20分の前半・後半(ハーフ)、ハーフタイム10分だった。その後[[NBA]]のルールと同じく4ピリオド制となった。いわゆる引き分けはなく、同点の場合5分単位での延長ピリオドを決着がつくまで繰り返し実施する。延長ピリオドは第4ピリオドの延長とみなされ、チームファウルは第4ピリオドと合わせて数えられる。 中学生の試合では、8分のピリオドを4回行う。延長は3分となる。 小学生の試合では、5 - 6分のピリオドを4回行い、前半10人の選手を1人5 - 6分出場させ、第1ピリオドから1人の選手が3ピリオド連続で出場できない。延長は3分となる。 === ヴァイオレイション === 身体の触れ合いを伴わない、あるいはスポーツマンらしくない振る舞い以外の規則に関する違反のこと。バイオレーション、ヴァイオレーションとも。相手チームによるスローインからのリスタートとなる。{{Ref_bsk|ヴァイオレイション}} === ファウル === 規則に反する違反のうち、不当な身体の触れあいおよびスポーツマンらしくない行為をファウル、またはファールと呼ぶ。 パーソナル・ファウル、テクニカル・ファウル、アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクオリファイング・ファウルの種類がある。 選手個人に課されるファウルがほとんどであるが、コーチやアシスタント・コーチ、チームに課されるファウルもある(チームに課されるファウルはコーチのファウルとして記録される)。 1人のプレイヤーにすべてのファウルを合わせて5回([[NBA]]では6つ)のプレイヤー・ファウルが宣せられた場合、審判によりその事実が告げられ直ちに交代しなければならず(ファウルアウト、俗に退場とも)、以後そのゲームには出場できない(以下の[[#選手交代|選手交代]]も参照)。[[サッカー]]とは異なり、退場しても自チームのベンチに座り、コート上へ交代選手を入れることが可能であり、通常は以降の試合の出場に関するペナルティはない。 ただし、2回のアンスポーツマンライク・ファウルや2回のテクニカル・ファウルで失格・退場となった場合や、ディスクオリファイング・ファウルにより失格・退場となった場合は、自チームの更衣室(ロッカールーム、控室)にいるか、コートのある建物の外に出なければならない<ref group="注">ファイティングは、チームベンチ・パーソネル(ベンチメンバー)に対して宣せられる。 著しくスポーツマンシップに欠ける行為に関しては、大会主催者や所属連盟の判断により、以降の試合への出場停止が命じられる場合もある。</ref>。 パーソナル・ファウルに対しては、ファウルを宣せられたチームの反対チームにスローインが与えられる。ファウルは主にディフェンス側のプレイヤーに対して宣せられることが多いが、オフェンス側のプレイヤーがディフェンス側のプレイヤーの行動を妨げた場合には、オフェンス側にファウルが宣せられる。 ショットの動作中のプレイヤーに対するファウル(テクニカル・ファウル以外)は、そのショットが成功した場合、2ポイントないし3ポイントの得点が認められ、追加として1個のフリースローが与えられる。ショットが成功しなかった場合は、そのショットに応じて、2個ないしは3個のフリースローが与えられる。 アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクォリファイング・ファウルの場合は、ショット動作中以外の場合でも2本のフリースローが、テクニカル・ファウルの場合はいずれの場合でも1本のフリースローが与えられる。 {{Ref_bsk|ファウル (バスケットボール)|}}プレイヤーのファウルは、各ピリオドごとにチームファウルとして記録される。チームに4回のファウルが記録された後は、次のようなチーム・ファウルの罰則が適用される。自チームがボールをコントロールしていない場合にファウルを犯した時は、相手チームに2つのフリースローが与えられ、自チームがボールをコントロールしている場合にファウルを犯した時は、相手チームにスローインが与えられる。 ゲーム開始前の10分間や各ピリオド間にファウルが生じた場合は次に続くピリオド中に起こったものとして処理する。延長時限中のファウルは、第4ピリオドのファウルとして扱い、継続してチーム・ファウルに数えられる。 === タイムアウト === 各チームは、タイムアウトを取ることができる。タイムアウトは1分である。各チームはこの間に作戦を練る、選手を休ませるなどしてゲームの流れを変えている。タイムアウトの請求ができるのはコーチまたはアシスタントコーチである。ただし、請求してすぐに認められるわけではなく、ゲームクロックが止まった場合に認められる。前半2つのピリオドで2回、後半2つのピリオドで3回まで取ることができる。したがって、1チームが1試合で使えるタイムアウトは合計5回である。前半2つのピリオドで使わなかったタイムアウトは後半のピリオドに持ち越せない。オーバータイム(延長戦)突入時は1回のオーバータイム(5分)につき1回取れる。 2010年のルール改訂により、4ピリオド残り2:00以降にボールをコントロールするチームがタイムアウトを取った場合、バックコートからスローインするときはフロントコートのスローインラインのアウトからのスローインとなる。 小学生では第4クォーター、延長戦では両チーム交代できる。 [[NBA]]のタイムアウトは1試合につき1分を6回(ただし第4クォーターで使える回数は3回まで)、前半もしくは後半2クォーター(1ハーフ)につき20秒を1回(1試合合計2回)取れる。また、オーバータイム1回(5分)につき1分を3回取れる。タイムアウトの請求はコーチだけでなく、攻撃中のチームの選手も可能である。 [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]](Bリーグ)のタイムアウトには、通常のタイムアウトに加えて、第2・第4クォーターの残り5分を切った最初のボールデッド時に行われる90秒のオフィシャルタイムアウトがある。 === 選手交代 === コート上にいる選手はプレイヤー、ベンチにいる選手は交代要員として区別される。FIBAが管理する大会では各チームでベンチ入りできる選手は最大12人で、プレイヤーが5人、交代要員が最大7人である。国内の大会では主催者が大会要項で規定し、12名または15名が一般的である。 選手交代が認められるのは、ゲームクロックが止められている時である。フリースローの時はそのフリースローの1投目のボールが渡される前か、最後のフリースローが成功した時に認められる。また、交代はどちらのチームにも認められるが、第4ピリオドの終了前2分間は得点したチームにはショット成功時の交代は出来ない。但し、得点されたチームが交代を行った際には、得点したチームも交代することが可能である。 交代要員は何度でもプレイヤーとしてゲームに復帰できる。ただし、ファウルを5つ犯した場合や悪質なファウル(ディスクオリファイング・ファウル)などで失格・退場になった場合は、再びプレイヤーとしてゲームに復帰することはできない。 == 選手のポジション名称 == {{バスケットボールのポジション}} === バックコート (ガード2人) === ;出典:<ref>{{Cite news|title=[コラム]佐々木クリスが語る『リーグNo.1のバックコートコンビは!?』|author=佐々木クリス|newspaper=NBA Japan|date=|url=http://www.nba.co.jp/nba/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0no1%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%81%AF/trwzablnrky51e0qbk72ndl34|accessdate=2015-01-26}}</ref> ; [[ポイントガード]](PG) : ボールを運び、パスをしたり指示を出したりするチームの[[司令塔]]、[[司令塔 (スポーツ)|ゲームメーカー]]。 ; [[シューティングガード]](SG) : 長距離からのシュートやペネトレイションで得点を稼ぐ。また、ポイントガードの補助をしたり、スモールフォワードのように攻めたりする。 === フロントコート (フォワード2人とセンター) === ; [[スモールフォワード]](SF) : 柔軟なプレイを求められる万能的ポジション。シュータータイプからインサイド型まで様々なプレースタイルが存在する。 ; [[パワーフォワード]](PF) : リバウンド、スクリーン、ゴール付近からのシュートとビッグマン対応のディフェンスを担当する。 ; [[センター (バスケットボール)|センター]](C) : 高い身長とパワーが必要とされる。リバウンド、スクリーン、ゴール下での得点とディフェンスでチームを引っ張る。 === 補足 === ポジションは番号で #PG:1番 #SG:2番 #SF:3番 #PF:4番 #C:5番 という呼ばれ方もする。 バスケットボールにおいてポジションはサッカーのゴールキーパーや野球の投手のようなルール上の規定はなく、厳密に定められているものではない。ポイントガードの選手がゴール下でプレーしても構わないし、センターがボール運びや司令塔の役割をしても構わない。また、各プレイヤーが多くの役割をこなすことが理想である。 そのため、[[ユーティリティープレイヤー]]も多く * ポイントガードとシューティングガードを兼任できる選手を「[[コンボガード]]」 * シューティングガードとフォワードを兼任できる選手を「ガードフォワード(GF)」や「[[スウィングマン]]」 * フォワードとセンターを兼任できる選手を「[[フォワードセンター]](FC)」 と呼ばれることがある。パワーフォワードとセンターは[[ポストプレー]]を行うことからポストプレイヤーとも呼ばれる。 NBAでは、本来のポジションがフォワードでありながらポイントガードの働きをする選手も少なくない。そのような選手は稀ではあるが「[[ポイントフォワード]]」と呼ばれる。ポイントフォワードの選手には、[[マジック・ジョンソン]](特に現役復帰後)、[[アンソニー・メイソン]]、[[レブロン・ジェームズ]]、[[ラマー・オドム]]らがいる <ref>[http://www.nba.co.jp/specials/didyouknow/games/bigman/ DID YOU KNOW about NBA? ゲーム編(NBA公式サイトによるポジションの解説)]</ref>。NBAプレーヤーで、[[フランス]]代表でも有る[[ボリス・ディアウ]]は、ガード、フォワード、センター、全てのポジションをカバーできる稀有なプレーヤーである。 2014年以前のNBAではゴールに近いほど確実にシュートを決められ得点期待値が高いという固定観念があったが、[[ステフィン・カリー]]擁する[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]が[[2014-2015シーズンのNBA]]で優勝するなどスリーポイントを重要視するチームが躍進し、2010年代後半から2020年代はどのポジションでもスリーポイントシュートを決められることが重要視されるようになっている。この流れに対してセンターとして長らくNBAを代表する活躍をした[[シャキール・オニール]]は「もし俺が現代に復帰したとしても、スリーポイントを放つことはないだろう。(スリーポイントは)ビッグマンがすることじゃない」と批判的である<ref>[https://basketballking.jp/news/world/nba/20180916/95437.html 「センターは3ポイントを打つべきじゃない」とレジェンドのシャックが言及]</ref>。 初の試合では[[ラクロス]]を参考に、ゴールキーパー(1名)、ガード(2名)、センター(3名)、ウイング(2名)、ホーム(1名)の9人制であった。 [[田臥勇太]]は2021年時点で現代のポジションについて以下のように述べている。 {{Quotation|NBAを見ていても、ポジションという概念がなくなりつつありますよね。もはやポイントガードがアシストリーダーにならないこともある時代です。ビッグマンは以前と比べものにならないくらい、求められるスキルが増えました。今の選手は、ポジションに関係なくいろいろできないといけない。それが、より楽しいですね。僕は今の若手みたいな技ができない分、彼らに、そういう新しい技を使えるようにするために、どうプレーの組み立てをしなきゃいけないかなとか、新しく考えることが増えました。バスケは本当に奥が深い。やればやるほど、底が見えないですね。日々、学ぶことばかりです。|[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/otherballgame/basketball/2021/03/09/nba_1/index_2.php 近くなったNBA。田臥勇太に「生まれるのが早かった?」と聞いてみた|バスケットボール|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva]}} == 基本的なプレー(技) == === パス === '''パス'''(Pass)とは、ボールを保持したプレーヤーが、ボールを他のプレーヤーに投げ渡すプレー。投げ方や方向に規制はない。 {{Ref_bsk|パス (バスケットボール)|アシスト (バスケットボール)}} === ドリブル === バスケットボールでは、ボールを手に掴んだ状態で移動する行為が禁止されているため、地面にボールを上から掌を使って叩きつけて跳ねさせ、これを連続的に行ってボールとともに選手が移動する。保持しながら移動したとみなされた場合反則となる。 {{Ref_bsk|ドリブル (バスケットボール)}} === ショット === 自チームが得点するためにバスケットの上からボールを通すことあるいはそのための動作、ボールがバスケットへ至るまでの一連の流れのこと。シュートと呼ばれることが多いがこれは通称であり、日本バスケットボール競技規則では全てショットと称される。 {{Ref_bsk|ショット (バスケットボール)|フィールドゴール (バスケットボール)|スリーポイントフィールドゴール}} ===リバウンド=== 敵・味方関係なく、ショットミスしたボールを取ることを、リバウンドと呼ぶ。リバウンドを取るために有利なポジションを取る行動を[[スクリーンアウト]]または[[ボックスアウト]]という。 {{Ref_bsk|リバウンド (バスケットボール)}} ===ブロックショット=== [[ファイル:Block shot.png|thumb|300px|ゴールテンディング]] 相手の放ったショットをリング、{{仮リンク|バックボード (バスケットボール)|label=バックボード|en|Backboard (basketball)}}に到達する前にボールが上昇中に阻止するプレー。ショットされたボールがリングに向けて下降中、もしくはバックボードに当たりリングに向かっている途中に触れると[[ゴールテンディング]]またはバスケット・インターフェアターンノーバーとなる。{{Ref_bsk|ブロックショット}} ===スティール=== 相手のパスを[[スティール (バスケットボール)|インターセプト]]やターンノーバーをしたり、ピボット、ドリブルなどでコントロールしているボールを奪い取るプレー。{{Ref_bsk|スティール (バスケットボール)}} ===スクリーン=== ボールが無い場所で、相手選手の移動を制限する位置に立つこと。身体の接触があるためタックルの様な動きは反則となり、その場に停止している必要がある。 {{Ref_bsk|スクリーン (バスケットボール)}} ===ポストプレー=== : 攻撃の基点、中継点となるポジションを確保し、スクリーンとして機能したり、攻撃を展開するパスを出したり、ペネトレイトあるいはショットに持ち込むプレー。位置により、バックボード近辺をローポスト、フリースローサークル近辺をハイポスト、それらの中間をミドルポストと呼ぶ。 ===スローイン=== デッドとなったボールをライブに戻し、ゲームを再開するために、攻撃権を持ったチームのプレーヤーが、[[アウト・オブ・バウンズ]] からインバウンズにパスをすること。制限時間が設けられ、スローイン行為中は試合時間が止められる。一旦審判員がボールを保持し、指示があるまでゲームは再開されない。 {{Ref_bsk|スローイン (バスケットボール)}} === フリースロー === 一方のチームが[[ファウル (バスケットボール)|ファウル]]、あるいは、特定の[[ヴァイオレイション]]をした場合に、相手チームに認められるボーナスの一つである。フリースローサークル内のフリースローライン手前から、どのプレーヤにも防御される事無く ショットを放つ事が出来る。ペナルティーの種類によって、1投から3投までの間で、連続でスローされ、フリースロー1投がゴールすれば1得点が与えられる。ショットする際に、ボールがリングに触れるまでフリースローラインより前方には侵入できない。また、リングにボールが触れなかった場合はエアボールとして相手ボールとなる。さらに、ショットするプレイヤーは審判に渡されてから5秒以内に打たなければならない。最終投がスローされた後のプレーの再開方法には、数種類の場合が存在する。又、[[1996年]]と[[1997年]]の両年にはこのフリースローの全国大会が開催された。 {{Ref_bsk|フリースロー}} ===フットワーク=== '''[[フットワーク]]'''は、プレーヤーの足運びのこと。バスケットボールは前後左右への素早い動きが要求されるので、すべてのプレーに関わる重要な基本動作である。オフェンスでは、歩数制限があり、その後ジャンプすることも必要である事から正確かつ俊敏な足運びが要求される。また、ダッシュからのサドン・ストップや[[#ピボット|ピボット]]もオフェンスの重要なフットワークである。通常、ランニングショットの場合は、右手では左足踏切。左手では右足踏み切りとなる。ディフェンスでは、マークするプレーヤの動きに素早く反応して振り切られないよう移動する必要があるため、様々な方向への動きが要求される。サイドステップ、バックステップ、クロスステップなど様々な足捌きができなければならない。 ;ボールキャッチ時のステップ :*両足着地状態でキャッチ:自由にピボットフットを決めステップすることが許される。その後次のプレーへ。 :*空中でボールをキャッチした場合。 ::*片足ずつ着地:先に接地した足がピボットフットとなり、後に接地した足は、ピボットを使って自由にステップ可能。 ::*片足でステップ後、ジャンプし次のステップで着地:浮かせた足を接地することは許されない。この状態からのドリブルも許されない。そのままの状態でボールを保持するかあるいは放す、2歩目で踏切りジャンプした後、ボールを放すこと(ショット、パス)以外は許されない。 ::*一歩目片足でジャンプ次に両足同時に着地:これ以上のステップは許されない。そのままの状態でドリブルを開始するか、ジャンプしてボールを放すこと(ショット、パス)は許される。 ===ピボット=== '''[[ピボット]]'''は、着地した状態で、ボールキープを行う時に使用するステップである。片足を軸足(ピボット・フット)にしてコートの同じ場所で接地し、もう片足を前後左右にステップして体の軸を動かし、相手を翻弄、動揺させたり、リズムを崩し、自分のパス、ショット、ドリブルなど次のプレーを容易にする。接地場所を移動することは出来ないが、その場所で回転することは許される。 *両足接地の状態でボールを得た場合は、任意の足をピボットフットにすることが出来る。 *片足ずつ着地してから行う場合、先に着地した足のみ軸足にすることが出来る。 *一歩目を片足、2歩目を両足で着地した場合は、ピボットを行うことは出来ず、そのままジャンプしてボールを離すか、両足を着地した状態でドリブルを開始しなければならない。 :これらに違反してステップすると[[トラベリング]]となる。 ボールを保持していない選手については、ステップに関する規制はない。 ==チームプレー== === オフェンスプレー === *;テンポによる分類 <hr width=20% align="left"> {{col-begin}} {{col-3}} ====トランジション・オフェンス==== : <small>ディフェンスが戻りきる前にシュートに持ち込むプレイ。速攻。いわゆるカウンター。</small> {{col-3}} ====ハーフコート・オフェンス==== : <small>ハーフコートに敵味方揃った状態で攻めること。</small> {{col-3}} ====ディレイド・オフェンス==== : <small>遅攻。オフェンスの制限時間を意識的に使って攻める攻撃法。</small> {{col-end}} *;方式による分類 <hr width=20% align="left"> {{col-begin}} {{col-3}} ====アイソレーション==== : <small>能力の優れた1人の選手をわざと孤立させるように、残りの4人が逆サイドに留まり、1on1による得点を狙うプレイ。</small> [[ファイル:Isolation positioning.png|thumb|アイソレーションの例]] {{col-2}} ====フォーメイションオフェンス==== : <small>予め決められた選手の動きによって得点を狙うプレイ。戦術にはそれぞれ番号や名前がつけられており、ポイントガードなどから指示が出る。ナンバープレイとも呼ばれている</small> [[ファイル:3P positioning01.png|thumb|ワイドオープン・コーナー・スリーポイントのフォーメイション例]] {{col-end}} === ディフェンスプレー === ---- *;方式による分類 <hr width=20% align="left"> {{col-begin}} {{col-3}} ====マンツーマンディフェンス==== <blockquote><small>選手ごとに1対1で自分が担当する選手をマーク(マッチアップ)するディフェンスのこと。</small></blockquote> [[ファイル:man_to_man positioning.png|thumb|マンツーマンディフェンス]] {{Ref_spts|マンツーマンディフェンス}} {{col-3}} ====ゾーンディフェンス==== <blockquote><small>陣形を作り、各個人が決められた範囲をディフェンスすること。過去にNBAでは禁止されていた<ref group="注">2000 - 2001シーズンまではNBAではゾーンディフェンスそのものが禁止され、違反した場合にはイリーガルディフェンスというヴァイオレーションをとられていた。現在のNBAでは、オフェンスプレイヤーにマークマンとしてついていないディフェンダーに対して、ゴール下のペイントゾーンに3秒以上留まっていてはいけない、というヴァイオレーションが適用されている。</ref>。</small></blockquote> [[ファイル:zone positioning.png|thumb|ゾーンディフェンス]] {{Ref_spts|ゾーンディフェンス}} {{col-3}} ====プレスディフェンス==== <blockquote><small>オフェンスに対し、積極的にプレッシャー(プレス)をかけるディフェンスのこと。</small></blockquote> [[ファイル:Press positioning.png|thumb|フルコートプレス]] {{Ref_spts|プレスディフェンス}} {{col-end}} ====混合型==== ; [[ゾーンプレス]] = ゾーン+プレス ; ゾーンマンツー = ゾーン+マンツーマン {{col-begin}} {{col-3}} :; ボックスワン :: <small>1人がマンツーマン、残り4人が正方形(2-2)のゾーンでディフェンスすること。ボックス・アンド・ワンとも呼ぶ。</small> {{col-3}} :; ダイアモンドワン ::<small>1人がマンツーマン、残り4人がひし形(1-2-1)のゾーンでディフェンスすること。ダイアモンド・アンド・ワンとも呼ぶ。</small> {{col-3}} :; トライアングルツー :: <small>2人がマンツーマン、残り3人が三角形のゾーンでディフェンスすること。</small> {{col-end}} *;陣形による分類 <hr width=20% align="left"> <small>数字はディフェンスの数を示し、フロントコートに近い側からバックコートに近い側の順に記載する。 2-2-1以下の4陣形は通常、ゾーンプレスの場合にしか使われない。1-3-1、1-2-2は通常のゾーンディフェンスとゾーンプレスの両方で使われる。</small> {{col-begin}} {{col-5}} *2-3 *3-2 {{col-5}} *1-3-1 *1-1-3 {{col-5}} *2-1-2 *1-2-2 {{col-5}} *2-2-1 *3-1-1 {{col-5}} *1-2-1-1 *1-1-2-1 {{col-end}} ;範囲による分類 <hr width=20% align="left"> ====ディフェンスの範囲==== {{col-begin}} {{col-3}} ;フルコート : <small>コート全体で行う。</small> {{col-3}} ; 3/4コート(スリークォーター) : <small>フロントコートのフリースローレーンから行う。</small> {{col-3}} ; ハーフコート : <small>センターラインから行う。</small> {{col-end}} ==基本用語== {{notice|この項目はバスケットボールに特化した用語で構成されているとは言えず、項目が乱立していると思われます。ノートでの議論を推奨します}} === オフェンス用語 === '''節TOC'''([[#オフェンス用語 ア行|ア行]] [[#オフェンス用語 カ行|カ行]] [[#オフェンス用語 サ行|サ行]] [[#オフェンス用語 タ行|タ行]] [[#オフェンス用語 ナ行|ナ行]] [[#オフェンス用語 ハ行|ハ行]] [[#オフェンス用語 マ行|マ行]] [[#オフェンス用語 ヤ行|ヤ行]] [[#オフェンス用語 ラ行|ラ行]] [[#オフェンス用語 ワ行|ワ行]]) {{see also|オフェンス}} ---- {{col-begin}} {{col-2}} ;{{Anchors|オフェンス用語 ア行}}ア行 *;アイソレーション : <small>能力の優れた1人の選手をわざと孤立させて、1on1による得点を狙うプレイ。</small> *;アップ・アンド・アンダー ::<small>頭上からショットするフェイクでディフェンダーを浮かし、ピボットでかわして、下からレイアップショットをするプレー。</small> *;アンクルブレイク ::<small>高いドリブルスキルによりディフェンスの選手の体勢を崩すこと。</small> *;イージー・ツー :<small>イージー・バスケット、またはイージー とも言う。ペイントエリアで、ノーマーク状態で放つショットなどゴールが容易なこと。 *;ウィーク・サイド :<small>フロントコートを縦に分割して、ボールコントロールしているプレーヤーのいない側(ストロングサイドの反対)</small> *;エルボー :<small>コート上の場所を表す用語で、フリースローラインとレーンラインが交わる角の近傍。</small> *;オフェンシブ・レイティング ::<small>100回のポゼッションで獲得できた点数。オフェンスの堅実性をはかる指標となる。</small> ;{{Anchors|オフェンス用語 カ行}}カ行 *;カット(カット・イン) : <small>ボールを保持していない状態でディフェンスを引き離し、ペイントエリアに切り込みパスを受けるプレイ。</small> *;キー ::<small>[[制限区域 (バスケットボール)|ペイントエリア]]の別名、トップ・オブ・ザ・キーと言えば、フリースローサークルから3ポイントラインの近辺のこと。 </small> *;ギブ・アンド・ゴー : <small>味方にパスを出し、その後ディフェンスを振り払い、フリーの状態で再びパスを受けるプレイ。パス・アンド・ランとも呼ぶ。</small> *;コースト・トゥ・コースト : <small>ディフェンス・リバウンドを取った選手がドリブルでボールを運び、自分でシュートに持ち込むプレイ。コーストとは海岸の意味で、コートの端から端までをアメリカの西海岸から東海岸までに例えた。</small> ;{{Anchors|オフェンス用語 サ行}}サ行 *;ショット・セレクション :<small>ボールコントロールしているプレーヤーが、自らがショットすべき状況にあるかどうかの判断。</small> *;ストロングサイド :<small>フロントコートを縦に分割して、ボールコントロールしているプレーヤーのいる側(ウィークサイドの反対)</small> *;スモール・(バスケット)ボール :<small>ビッグマンを敢えて使わず、機動力のある選手をライナップしたチーム編成。5アウトオフェンスを用いる場合も多い。</small> *;セカンド・ブレイク : <small>ファスト・ブレイクが決まらなかったときに追い付いてくる選手で速攻を続けるプレイ。</small> *;ゼロステップ : <small>ボールをホールドしてから一歩目のステップを0ステップとして認識され、二歩目のステップを一歩目として数えられるルール。</small> *;ゾーン・オフェンス : <small>ゾーンディフェンスに対するオフェンスの方法</small> ;{{Anchors|オフェンス用語 タ行}}タ行 *;ダブル・クラッチ ::<small>ショットするためにジャンプした後、空中で体を縮めた後に再び伸びて、ディフェンダーをかわして、ショットをするプレー。</small> *;ターン・アラウンド ::<small>ゴールに背を向けた状態からターンしてゴール方向へ進む動き。</small> *;タフ・ショット ::<small>厳しい体勢から放つショット。ワイルド・ショットとも言う。</small> *;ターンオーバー ::<small>オフェンス側がスティールや[[ヴァイオレイション]]、オフェンシブ・ファウルなどで攻撃権を失うこと。</small> *;ディレイド・オフェンス : <small>遅攻。オフェンスの制限時間を意識的に使って攻める攻撃法。</small> *;デプス(Depth) :<small>チームの層の深さ(厚さ)。ポジション別に表にしたものをデプスチャートと言う。</small> *;トリプル・スレット : <small>パスを受けて、シュート・ドリブル・パスの全てのプレーに移れる状態のこと。最も攻撃側の選択肢を多くとれる状態である。</small> *;トランジション・オフェンス ::<small>速攻を主体としたテンポの速いオフェンススタイル。</small> ;{{Anchors|オフェンス用語 ナ行}}'''ナ行''' *;ナンバー・プレイ : <small>オフェンスで、決められたとおりの動きからシュートに持ち込むプレイ。コーチやポイントガードが、プレイを番号で指示することからの呼称。セットオフェンスともいう。</small> <!---  1段目ここまで    ---> {{col-2}} <!---  2段目ここから    ---> ;{{Anchors|オフェンス用語 ハ行}}ハ行 *;ハーフコート・オフェンス : <small>ハーフコートに敵味方揃った状態で攻めること。</small> *;ハンマー・セット : <small>ストロングサイド(ボール保持側)のヘルプディフェンスを重視するチームに対し、ウィークサイドのコーナーに、シューター(ハンマー)をセットし、そこへパスを送り、3ポインターを決めるプレーの総称。</small> *;ピック : <small>スクリーンを仕掛けること。</small> *;[[ピック・アンド・ロール]] : <small>ボールマンをマークしているディフェンダーに対しスクリーンを仕掛け(ピック)、ディフェンダーのマークを遅らせ、ボールマンをフリーにすると共に、スクリーナーが方向転換(ロール)し、パスを受けるプレー。</small> *;[[ピック・アンド・ロール|ピック・アンド・ポップ]] : <small>ボールマンをマークしているディフェンダーに対しスクリーンを仕掛け(ピック)、ボールマンのマークにスクリーナーのディフェンダーがヘルプディフェンスをして、スクリーナーがオープンになったところへパスを送りショットを狙うプレー。</small> *;ピボット(ピヴォット、ピボッド) : <small>着地した状態で、ボールキープを行う時に使用。片足を軸足にし、もう片足を前後左右に動かし、相手を翻弄、動揺させたり、リズムを崩したりする。着地して行う場合、先に着地した足を軸足にしないと[[トラベリング]]となる。</small> *;ファイブ・アウト : <small>ファイブ・アウト・モーション・オフェンスの略で、5人すべてアウトから攻撃を組み立てるオフェンス形態。ビッグマンを使わないスモール・ボールの編成で行われることが多く、カットを中心に機動力を使った攻撃となる。</small> *;ファスト・ブレイク : <small>ディフェンスが戻りきる前にシュートに持ち込むプレイ。速攻。いわゆるカウンター。トランジッションとも言う。</small> *;フェイク(フェイント) : <small>相手をあざむきひっかけるプレイのこと(例: シュートを打つふりをしてドリブルをする)。</small> *;フェイダウェイ : <small>シュートするためにジャンプする際に、バスケットから離れる方向に動き、相手のブロックを交わしてシュートをするプレー。</small> *;フットボール・パス ::<small>バックコートでボールを獲得し、フロントコートにいる味方にそのままゴールにつながるように投じられるパス。'''タッチダウン・パス'''とも言う。</small> *;+/-スタッツ ::<small>ある選手が出場している間のチームとしての得失点差。チームへの総合的な貢献度の指標となる。</small> *;プルアップ・ジャンパー : <small>ボールを低い位置で保持している状態から持ち上げて放つジャンプショット。</small> *;フロム・ダウンタウン : <small>3ポイントショットのことを表す。</small> *;フロントコート :<small>センターラインを境にして、攻める側のコート。スモールフォワード、パワーフォワード、センターのこと。</small> *;ペネトレイション : <small>ドリブルでバスケットに向かって切り込みシュートに持ち込むプレイ。</small> *;[[ペリメーター]] : <small>3ポイントライン内でペイントエリア外のエリア。このエリアでのショット(ミドルレンジショット)を得意とするシューターをペリメーターシューターと呼ぶ。</small> *;[[ポストプレー]] : <small>味方プレイヤーが相手コートの制限区域付近で行うプレー。センターなど背の高い選手が行うことが多い。</small> :*;ローポスト / <small>ゴールに近いポスト(位置)</small> :*;ミドルポスト / <small>ローポストとハイポストの中間</small> :*;ハイポスト / <small>ゴールに遠いポスト(フリースローライン付近)</small> *;ポンプフェイク ::<small>ポンプのように体を上下に伸縮させて、ショットタイミングをずらす動作で、ディフェンスのブロックをかわすプレー。</small> ;{{Anchors|オフェンス用語 マ行}}マ行 ;{{Anchors|オフェンス用語 ヤ行}}ヤ行 ;{{Anchors|オフェンス用語 ラ行}}ラ行 *;ラン・アンド・ガン : <small>常に速攻を狙う攻撃スタイル。ランアンドガンのラン(RUN)は走る、ガン(Gun)は撃つという意味である。</small> ;{{Anchors|オフェンス用語 ワ行}}ワ行 *;ワイド・オープン :<small>ペリメーター近辺のオフェンスプレーヤが、ディフェンスのマークを外れ、バスケット方向に大きくスペースが開けた状態。例えばペイントゾーンへのペネトレイションで、ディフェンダーを集め、ペリメータ近辺で待つシューターにキックアウトすることなどによって生じる。</small> <!---  2段目ここまで    ---> {{col-end}} === ディフェンス用語 === '''節TOC'''([[#ディフェンス用語 ア行|ア行]] [[#ディフェンス用語 カ行|カ行]] [[#ディフェンス用語 サ行|サ行]] [[#ディフェンス用語 タ行|タ行]] [[#ディフェンス用語 ナ行|ナ行]] [[#ディフェンス用語 ハ行|ハ行]] [[#ディフェンス用語 マ行|マ行]] [[#ディフェンス用語 ヤ行|ヤ行]] [[#ディフェンス用語 ラ行|ラ行]] [[#ディフェンス用語 ワ行|ワ行]]) {{see also|ディフェンス}} ---- {{col-begin}} {{col-2}} ;{{Anchors|ディフェンス用語 ア行}}ア行 *;オールコート・プレス :<small>相手のバックコートから始めるプレス・ディフェンス。</small> ;{{Anchors|ディフェンス用語 カ行}}カ行 *;クリア・パス・ファウル :<small>バックコートから始まった速攻に対しディフェンダーがボールより前にいない場合に、ディフェンダーがパーソナルファウルを犯すと、クリア・パス(容易なゴールができる状況)でのファウルとなり、フレグラントファウルに準じたペナルティが科せられる。パーソナルファウルが記録されるフレグラントファウルは記録されない。</small> ;{{Anchors|ディフェンス用語 サ行}}サ行 *;スイッチ : <small>ディフェンスが、それぞれのマークの相手を交換すること。スクリーンプレーの対抗策。</small> *;[[スティール (バスケットボール)|スティール]] : <small>相手からボールを奪い、自分のボールにすること。</small> *;ステイ・ロー : <small>相手選手のカットインなどを防ぐために腰を落として構えること。</small> *;スライド : <small>スクリーンをかけられたときに相手のスクリーナーを迂回して通ること。</small> ;{{Anchors|ディフェンス用語 タ行}}タ行 *;ダブルチーム : <small>ボールを持ったプレーヤーに2人でディフェンスマークするプレイ。</small> *;ディナイ・ザ・ボール : <small>ボールを持っていないオフェンスの選手に対し、パスのコースを封じてボールを持たせないようにディフェンスすること。たんにディナイともいう。</small> *;ディフェンシブ・レイティング ::<small>相手のポゼッション100回あたりに取られた点数。ディフェンスの堅実さを表す指標。</small> *;トリプルチーム : <small>ボールを持ったプレーヤーに3人がかりでマークしディフェンスするプレイ。</small> *;トランジション・ディフェンス ::<small>トランジション・オフェンスに対するディフェンス。</small> <!---  1段目ここまで    ---> {{col-2}} <!---  2段目ここから    ---> ;{{Anchors|ディフェンス用語 ナ行}}ナ行 ;{{Anchors|ディフェンス用語 ハ行}}ハ行 *;ハック : <small>ファウルを逆手に取る戦法。ディフェンスがわざとフリースローの苦手な選手を狙ってファウルし、相手の1攻撃機会での得点を2点以下に抑え、有利に運ぶ戦法。[[ハック・ア・シャック]]から言葉が生まれた。</small> *;ハンズ・アップ : <small>相手選手のパスなどを防ぐ為に両手を上げて構えること。</small> *;ファイトオーバー : <small>スクリーンをかけられたときに相手のスクリーナーの前方を無理やり通過すること。</small> *;ファウル・ゲーム : <small>ファウルを逆手に取る戦法。試合終盤で接戦のときに、この方法以外、勝利チャンスがない場合の特殊な戦法。ディフェンスが故意にオフェンスを狙ってファウルする。ファウルによって時計を止め、フリースローが落ちればリバウンドを取って反撃するチャンスが生まれる。残り時間と点差によって始める時期が変わる。逆転が成功する場合もあり、観客にとってはフラストレーションの溜まる場面である。</small> *;フェイスガード : <small>オフェンスの選手に接近してボールを持たせないようにディフェンスすること。顔が触れるくらい近づいてディフェンスすることからそう呼ばれる。</small> *;[[ブロックショット]] : <small>ディフェンスの選手が相手のシュートを防ぐこと。</small> *;ヘルプ(カバー)・ディフェンス : <small>味方ディフェンダーがオフェンスプレーヤーに抜かれた時、別のディフェンダーが代わって、ディフェンスするプレイ。</small> ;{{Anchors|ディフェンス用語 マ行}}マ行 ;{{Anchors|ディフェンス用語 ヤ行}}ヤ行 ;{{Anchors|ディフェンス用語 ラ行}}ラ行 *;ロワー・ディフェンシブ・ボックス(LDB) :<small>NBA限定ルールで、バスケット近くのコート上の4つの単線で区画される箱形の特別区域。ここでは、ボールを保持しゴールに背を向けているオフェンスに対して、ディフェンダーは上腕および手を触れてディフェンスが許される。格闘技とも称されるNBA特有の激しい鬩ぎ合いが見られる。</small> ;{{Anchors|ディフェンス用語 ワ行}}ワ行 <!---  2段目ここまで    ---> {{col-end}} ===記録に関わる用語=== ---- {{col-begin}} {{col-2}} *;アテンプト(attempt)とメイド(made) ::<small>ショット(ゴール)・アテンプト:ショット試行、ショット(ゴール)・メイド:ショット成功で、例えば3PM-A(スリーポイントメイド-アテンプト)48-120ならば、120本試行して48本成功。</small> *;スタッツ ::<small>ゲームに関する記録のすべて</small> *;スタンディング ::<small>リーグ戦などの順位表</small> *;ダブルスコア ::<small>対戦チームとの得点差が2倍以上開いている状態。</small> *;[[ダブル・ダブル]] ::<small>得点、[[アシスト (バスケットボール)|アシスト]]、リバウンド、[[ブロックショット]]、[[スティール (バスケットボール)|スティール]]の5項目のうち、1試合において10点(回)以上を個人で2項目記録したときの呼び方。</small> *;[[トリプル・ダブル]] ::<small>上記を3項目記録したときの呼び方。</small> *;[[クアドルプル・ダブル]] ::<small>上記を4項目記録したときの呼び方。</small> *;クィントプル・ダブル ::<small>上記を5項目記録したときの呼び方。</small> *;[[ファイブ・ファイブズ]] ::<small>得点、アシスト、リバウンド、ブロックショット、スティール全ての項目で、1試合において5点(回)以上を個人で記録したときの呼び方。</small> <!---  1段目ここまで    ---> {{col-2}} <!---  2段目ここから    ---> *;キャリア・ハイ ::<small>プレーヤーの全記録中で最高。</small> *;ゲーム・ハイ ::<small>1試合の全記録中で最高</small> *;シーズン・ハイ ::<small>シーズンの全記録中で最高。</small> *;パー・ゲーム ::<small>ポイント・パー・ゲーム(PPG)と言えば一試合当たりの平均得点数。</small> *;ボックス・スコアー ::<small>ゲームに関する記録をチーム、プレーヤー別に記録したスコア表</small> *;ロースター ::<small>選手登録名簿。NBAでは15人まで登録でき、その内、13人までベンチに入ることができる。</small> *;DND(Did Not Dressed),DNP(Did Not Play),NWT(Not With Team) ::<small>NBAの公式スコアで、DND(Did Not Dressed)は着替えずの意味。DNP(Did Not Play)はベンチにいたが出場しなかったの意味。NWT(Not With Team)は、試合に帯同せずの意味。理由には、Right ankle spraine(右足首捻挫)やCoach's Decision(コーチの判断)などが記載される。また、Inactiveは、選手登録はされているが、ベンチ外で、出場しない選手。</small> <!---  2段目ここまで    ---> {{col-end}} ===その他の用語=== ---- {{col-begin}} {{col-2}} ;<small>-ア/カ-</small> *;アウトナンバー ::<small>オフェンスの人数がディフェンスより数が多い場面を言う。</small> *;アップセット ::<small>下位チームが上位チームに勝つこと。</small> *;アムネスティ条項 ::<small>NBAに於いてチームは7月1日から1週間の間に選手1人を解雇することが出来るという取り決め。選手への報酬支払義務は残るが、ラグジュアリータックスには計上されない利点がある。</small> *;歩く::<small>基本的に歩いてはいけないというルール表現から、トラベリングの反則に対する表現。</small> *;インアクティブ ::<small>プレーヤーがロースター登録はされているが試合の出場登録はない状態。</small> *;[[イン・バウンズ|インバウンズ]] ::<small>サイドライン2本とエンドライン2本のバウンダリーライン内でライン上を含まない区域。逆は[[アウト・オブ・バウンズ]]</small> *;エアーボール ::<small>シュートされたボールがリング、バックボードのどちらにも触れずに不成功に終わること。</small> *;ゲームビジョン ::<small>試合展開を全体的に理解する能力</small> *;コースト・ツゥー・コースト ::<small>バックコートでスティールをした選手が単独でフロントコートへ攻め上がり得点を挙げること。</small> *;コートビジョン ::<small>コート全体を見渡す視野、あるいは能力</small> ;<small>-サ/タ/ナ-</small> *;サスペンド(サスペンデッド) ::<small>出場停止状態。</small> *;シックスマン ::<small>ベンチプレーヤの内、ゲームに最も影響力を持つ選手。スターター以上の働きをする場合も多い。</small> *;ジャーニーマン ::<small>プロリーグで多くのチームを渡り歩いて活躍する選手。逆はフランチャイズ・プレーヤー。</small> *;スイープ ::<small>対戦シリーズにおいて全勝すること。箒で掃き飛ばす意味から。</small> *;ドアマットチーム ::<small>飛び抜けて成績の悪いチーム。</small> *;トランジション・ゲーム ::<small>スティールやブロックショットによって、攻撃権が激しく移り変わる試合展開のこと。</small> *;トラッシュトーク ::<small>ゲーム中に相手を挑発する言葉を発すること。自分を鼓舞する場合もある。</small> ;<small>-ハ/マ/ヤ/ラ/ワ-</small> *;ハイ・ファイブ ::<small>いわゆるハイタッチのこと。タイムアウトの際などに行われる。</small> *;バウンダリー・ライン ::<small>コート上にマーキングされた境界を表す線。通常はサイドラインとエンドライン</small> *;バスケットボール[[IQ]]{{要曖昧さ回避|date=2021年9月}} ::<small>バスケットボール知識、戦略に優れた能力。ゲームビジョン、コートビジョン、ショットセレクションも関係する。</small> *;バック・トゥー・バック(back to back) ::<small>連戦のこと。連戦2試合目をSEGABABA('''SE'''cond '''GA'''me of '''BA'''ck to '''BA'''ck)とも言う。3連戦は、バック・トゥー・バック・トゥー・バック。</small> <!---  1段目ここまで    ---> {{col-2}} <!---  2段目ここから    ---> *;バンク ::<small>バックボードのこと。NBAではウィンドウ、グラスという場合もある。バンクショットはバックボードを使ったショット。</small> *;[[ファウル (バスケットボール)|ファウル]]・トラブル ::<small>ファウルがかさみ退場しそうになった際に交替し出場時間が減ったり、プレイが消極的になったりすること。</small> *;プレーオフ ::<small>リーグ戦でレギュラーシーズンの成績によってシーズンのチャンピオンを決定するために行われるトーナメント戦。ポストシーズンも同じ。</small> *;フランチャイズプレーヤー ::<small>プロでチームを背負って立つ中心選手。入団以来在籍している選手が多い。</small> *;フロップ ::<small>攻守間の身体接触時に、演技によって大げさに倒れ込んだりして相手のファウルを誘うプレーをすること。そのような演技を軽蔑的にフロッピングと呼ぶ。度々行う選手はフロッパーと言われる。サッカーのシミュレーションと同じ行為だが罰則規定はない。ただしNBAでは、2012年シーズンから試合後ビデオ判定を行いフロッピングと裁定された場合、1回目は5,000ドル、2回目は10,000ドル、3回目は15,000ドル、4回目は30.000ドルの罰金が科される。</small> *;ベンチ・ポイント ::<small>ベンチプレーヤで獲得した得点。</small> *;ホームコートアドバンテージ ::<small>ホームコートでゲームすることによる優位性。ホームでゲームできる権利</small> *;ボール・ポゼッション ::<small>ボール保持権、攻撃権と意味は同じ。</small> *;ミスマッチ ::<small>マッチアップしている選手に、大きな身長差があること。高さに限らず、動作の速度差や技術的な差がある時のことも指す。</small> *;ラグジュアリー・タックス(贅沢税) ::<small>NBAに於いて所属選手の総年俸が取り決め額を超えると、リーグに対して課徴金を支払うシステム。</small> *;[[ルーズボール]] ::<small>ボールがコート上に転がっていたり、ティップの連続などでボールが空中にあり、どちらのチームもボールをキープできていない状況。その時に犯したファウルはルーズボールファウルと呼ばれる。</small> *;ロー・ファイブ ::<small>選手交代や、フリースローの合間などに選手間で行われる低い位置での手と手でのタッチ。いわゆるハイタッチはハイ・ファイブ。</small> *;ワン・ポゼッション・ゲーム ::<small>1回の攻撃権で入る点差の試合状況。</small> *;ワン・サイド・ゲーム ::<small>大きく点差の離れた試合状況。</small> {{col-end}} <!---  2段目ここまで    ---> == プロリーグ == *[[バスケットボールリーグ一覧]]([[バスケットボールリーグ一覧#男子|男子]] / [[バスケットボールリーグ一覧#女子|女子]]) <!-- モバイル版非表示状況、一覧側閲覧増を考えてコメント化 {{col-begin}} {{col-2}} :*末尾の[[#男子プロバスケットボールリーグ|男子プロバスケットボールリーグ]]を参照 {{col-2}} :*末尾の[[#女子プロバスケットボールリーグ|女子プロバスケットボールリーグ]]を参照 {{col-end}}--> == バスケットボール団体 == {{col-begin}} {{col-3}} [[国際バスケットボール連盟]](FIBA) *[[FIBAアフリカ]] *[[FIBAアメリカ]] **[[USAバスケットボール]] *[[FIBAオセアニア]] *[[FIBAヨーロッパ]] {{col-3}} *[[FIBAアジア]] **[[日本バスケットボール協会]](JBA) ***[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]](B.LEAGUE) ***[[ジャパン・バスケットボールリーグ]](B3.LEAGUE) ***[[バスケットボール女子日本リーグ]](W LEAGUE) ***[[日本実業団バスケットボール連盟]] ***[[全日本大学バスケットボール連盟]] ***[[全国高等学校体育連盟]]<br>バスケットボール専門部 ***全国中学生バスケットボール連盟  ***[[全国専門学校バスケットボール連盟]] ***[[日本クラブバスケットボール連盟]] ***[[全日本教員バスケットボール連盟]] ***[[日本家庭婦人バスケットボール連盟]] ***[[日本ミニバスケットボール連盟]] **[[中国バスケットボール協会]] **[[大韓バスケットボール協会]] {{col-3}} *[[日本バスケットボール振興会]] *[[国際車いすバスケットボール連盟]](IWBF) **[[日本車いすバスケットボール連盟]] *日本車いすツインバスケットボール連盟 *[[国際デフバスケットボール連盟]](DIBF) **日本デフバスケットボール協会 *日本FIDバスケットボール連盟 *在日本朝鮮人籠球協会 *日本バスケットボール推進会 {{col-end}} == 主なバスケットボール大会 == {{col-begin}} {{col-3}} *[[FIBAバスケットボール・ワールドカップ]] 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[[1990年]]から[[週刊少年ジャンプ]]でバスケットボールを扱った漫画『[[SLAM DUNK]]』が連載開始、[[1996年]]の連載終了後も売れ続けて1億部を超える大ヒットとなり、バスケットボールの競技人口を押し上げ、2005年には、日本バスケットボール協会への登録者数だけで600万を超える<ref>[http://www.japanbasketball.jp/jba/data/enrollment/ 公益財団法人 日本バスケットボール協会 登録者数推移]</ref> など、日本バスケットボール界に大きな影響を残している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200711080197.html|title=マンガの力(1) スラムダンク奨学金(上)|publisher=朝日新聞|accessdate=2019-11-25|date=2007-11-08|author=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071109143913/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200711080197.html|archivedate=2007-11-09|deadlink=2019-11-25}}</ref>。またその功績から原作者の[[井上雄彦]]は、日本バスケットボール協会から特別表彰されている<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2010091200165 スラムダンク作者を特別表彰=バスケット協会]、時事通信、2010年9月12日。{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY201006090562.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100615002528/http://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY201006090562.html | title = 「スラムダンク」の井上雄彦さん、日本協会が特別表彰へ | publisher = [[朝日新聞デジタル]] | date = 2010-6-10 | accessdate = 2019-6-4 | archivedate = 2010-6-15 }}</ref>。バスケットボールは漫画編集者の間ではひとつのタブー(ヒットしない)とされていたが<ref>井上雄彦『スラムダンク』第31巻 後書きより。</ref>、スラムダンクの後には『[[あひるの空]]』『[[黒子のバスケ]]』『[[ロウきゅーぶ!]]』など様々なヒット作も出るようになった。 {{col-begin}} {{col-2}} *[[バスケットボール専門誌]] {{col-end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{col-begin}} {{col-2}} *[[バスケットボール選手一覧]] *[[バスケットボールシューズ]] *[[バスケットボールのニックネーム一覧]] *バスケットボール日本リーグ機構(男子リーグ) **[[JBLスーパーリーグ|スーパーリーグ]] **[[日本バスケットボールリーグ|日本リーグ]] **[[プロリーグ構想 (バスケットボール)|プロリーグ構想]] {{col-2}} *[[車いすバスケットボール]] *[[車いすツインバスケットボール]] *[[デフバスケットボール]] *FIDバスケットボール *[[ストリートボール]] {{col-end}} *[[バスケットボールの日]] - 12月21日、バスケットボールの誕生日とされる == 外部リンク == {{col-start}} {{col-3}} ; 公式サイト * [https://www.fiba.basketball/ FIBA]{{en icon}} - [[国際バスケットボール連盟]] * [https://www.sportingnews.com/jp/ NBA] - [[NBA]] * [http://www.japanbasketball.jp/ JBA] - [[日本バスケットボール協会]] * [https://www.wjbl.org/ WJBL] - [[バスケットボール女子日本リーグ機構]] * [https://www.bleague.jp/ Bリーグ - OFFICIAL SITE] {{col-3}} ; 関連サイト * [http://jbbs.jp/ 日本バスケットボール振興会] * [http://bb1221.com/ 12月21日はバスケットボールの日] * [http://slamdunk-sc.shueisha.co.jp/ スラムダンク奨学金] {{col-3}} {{sisterlinks|commons=Basketball|commonscat=Basketball|d=Q5372}} {{col-end}} {{国際バスケット}} {{男子プロバスケットボールリーグ}} {{女子プロバスケットボールリーグ}} {{NBA}} {{スポーツ一覧}} {{チームスポーツ}} {{球技}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はすけつとほおる}} [[Category:バスケットボール|*]] [[Category:オリンピック競技]]
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安田記念
安田記念(やすだきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。競馬番組表での名称は「農林水産省賞典 安田記念(のうりんすいさんしょうしょうてん やすだきねん)」と表記される。 競走名の「安田」は明治・大正・昭和にわたって競馬に携わり、競馬法制定や東京優駿(日本ダービー)の創設などに尽力、日本中央競馬会の初代理事長も務めた安田伊左衛門に由来。東京競馬場には、安田の功績を称え胸像が建立されている。 正賞は農林水産大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞、ブリーダーズカップ・チャレンジ賞。 中央競馬における上半期のマイル王決定戦として位置づけられているGI競走。 1951年に、「安田賞(やすだしょう)」の名称で創設。名称の由来(前述)となった安田伊左衛門が1958年に死去したため、同年より現名称に改称された。 創設当初は東京競馬場の芝1600mで4歳(現3歳)以上の馬によるハンデキャップ競走として施行されたが、1984年にグレード制が導入されGIに格付け、施行時期も優駿牝馬(オークス)の前に移され5歳(現4歳)以上の馬による定量戦に変更。1996年からは東京優駿(日本ダービー)の翌週に移設のうえ競走条件も「4歳(現3歳)以上」に変更され、現在に至る。2005年から2011年までは「アジアマイルチャレンジ」の対象レースとしても施行された。 外国産馬は1984年から、外国馬は1993年からそれぞれ出走可能になったほか、1995年からは地方競馬所属馬も出走可能になった。 2016年からブリーダーズカップ・チャレンジの対象競走に指定され、優勝馬には当該年のブリーダーズカップ・マイルへの優先出走権と出走登録料・輸送費用の一部負担の特権が付与される。 2017年より、本競走の1 - 3着馬には当該年に行われるジャック・ル・マロワ賞(G1)への優先出走権が付与されることになった。2018年よりヴィクトリアマイルとともにデスティナシオンフランスの名称でジャック・ル・マロワ賞と提携。2021年よりムーラン・ド・ロンシャン賞(G1)も対象競走に追加され、上位3頭に優先出走権が付与される。 世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準書におけるパートIからパートIVまでランク分けされており、2016年時点で日本は平地競走が最上位のパートI、障害競走はパートIVにランク付けされている。 また、各国の主要な競走は国際的な統一判断基準で評価されており、競馬の競走における距離別の区分法として定着しているSMILE区分によると、安田記念は「Mile(1301m - 1899m)」に分類される。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した2020年の年間レースレーティングの平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、安田記念は全体の7位にランキングされた。「Mile(1301m - 1899m)」のカテゴリーからランクインした外国の競走との比較では、ジャック・ル・マロワ賞とならんで最高の評価となっている。 以下の内容は、2023年現在のもの。 出走資格:サラ系3歳以上(出走可能頭数:最大18頭) 負担重量:定量(3歳54kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減) 出馬投票を行った馬のうち優先出走権(次節参照)のある馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。 外国馬、およびレーティング順位の上位5頭(牡馬・セン馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上であることが条件)は本競走に優先出走できる。 JRA所属馬・地方競馬所属馬は同年に行われる以下の競走で1着となった馬に、優先出走権が付与される。 地方競馬所属馬は同年に行われる下表の競走で2着以内となった馬に、優先出走権が付与される。 上記のほか、高松宮記念及び大阪杯の2着以内馬(本競走とヴィクトリアマイルのいずれかを選択)・NHKマイルカップの3着以内馬・ヴィクトリアマイルの2着以内馬も本競走に出走できる。 また、指定された外国の国際G1競走(2歳G1は除く)優勝馬、地方競馬のダート交流GI・JpnI競走(2歳GI・JpnIは除く)優勝馬にも出走資格が与えられる。 2023年の1着賞金は1億8000万円で、以下2着7200万円、3着4500万円、4着2700万円、5着1800万円。 距離はすべて芝コース。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 日本馬の所属表記は1953年までが「国営」、1954年以降は「JRA」としている。外国馬の所属表記は出典が明記されているもののみ表記し、検証できないものは空欄とした。 競走名は第7回まで「安田賞」、第8回以降は「安田記念」。
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安田記念(やすだきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。競馬番組表での名称は「農林水産省賞典 安田記念」と表記される。 競走名の「安田」は明治・大正・昭和にわたって競馬に携わり、競馬法制定や東京優駿(日本ダービー)の創設などに尽力、日本中央競馬会の初代理事長も務めた安田伊左衛門に由来。東京競馬場には、安田の功績を称え胸像が建立されている。 正賞は農林水産大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞、ブリーダーズカップ・チャレンジ賞。
{{競馬の競走 |馬場 = 芝 |競走名 = 安田記念<br />Yasuda Kinen<ref name="TOP100GI" /> |画像 = [[File:Songline 20230604a.jpg|285px]] |画像説明 = {{Resize|smaller|第73回 安田記念<br />(優勝馬 [[ソングライン (競走馬)|ソングライン]]、鞍上 [[戸崎圭太]])}} |開催国 = {{JPN}} |主催者 = [[日本中央競馬会]] |競馬場 = [[東京競馬場]] |第1回施行日 = |創設 = 1951年7月1日<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" /> |年次 = 2023 |距離 = 1600m |格付け = GI |1着賞金 = 1億8000万円 |賞金総額 = |条件 = [[サラブレッド|サラ]]系3歳以上(国際)(指定) |負担重量 = {{Nowrap|定量(3歳54kg、4歳以上58kg<br />牝馬2kg減)}} |出典 = <ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo3" /> }} [[file:Yasuda_Izaemon.jpg|thumb|230px|安田伊左衛門(1872 - 1958)]] [[file:Tokyo-Racecourse-06.jpg|thumb|230px|安田伊左衛門像(東京競馬場)]] '''安田記念'''(やすだきねん)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[東京競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。競馬番組表での名称は「'''[[農林水産大臣賞典|農林水産省賞典]] 安田記念'''(のうりんすいさんしょうしょうてん やすだきねん)」と表記される<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo3" />。 競走名の「安田」は[[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]にわたって競馬に携わり、競馬法制定や[[東京優駿]](日本ダービー)の創設などに尽力、日本中央競馬会の初代理事長も務めた[[安田伊左衛門]]に由来<ref name="特別レース名解説" />。東京競馬場には、安田の功績を称え胸像が建立されている<ref name="map_tokyo" />。 正賞は[[農林水産大臣]]賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞、[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]賞<ref>[https://jra.jp/keiba/program/pdf/jusyo_kanto.pdf  平成29年度重賞競走一覧(レース別・関東)]日本中央競馬会、2017年2月6日閲覧</ref><ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo3" />。 [[File:Satono Aladdin Yasuda Kinen 2017(IMG1).jpg|thumb|230px|第67回安田記念<br />(優勝馬:[[サトノアラジン]]、鞍上:[[川田将雅]])]] [[File:Songline Yasuda Kinen 220605d1.jpg|thumb|230px|第72回安田記念<br />(優勝馬:[[ソングライン (競走馬)|ソングライン]]、鞍上:[[池添謙一]])]] == 概要 == 中央競馬における上半期のマイル王決定戦として位置づけられているGI競走<ref name="JRAデータ分析" />。 1951年に、「'''安田賞'''(やすだしょう)」の名称で創設<ref name="JRA注目" />。名称の由来(前述)となった安田伊左衛門が1958年に死去したため、同年より現名称に改称された<ref name="JRA注目" />。 創設当初は東京競馬場の芝1600mで4歳(現3歳)以上の馬による[[ハンデキャップ競走]]として施行された<ref name="JRA注目" />が、1984年に[[グレード制]]が導入されGI<ref group="注" name="grade">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>に格付け<ref name="JRA注目" />、施行時期も[[優駿牝馬]](オークス)の前に移され5歳(現4歳)以上の馬による定量戦に変更<ref name="JRA注目" />。1996年からは東京優駿(日本ダービー)の翌週に移設のうえ競走条件も「4歳(現3歳)以上」に変更され、現在に至る<ref name="JRA注目" />。2005年から2011年までは「[[アジアマイルチャレンジ]]」の対象レースとしても施行された<ref name="JRA注目" />。 [[外国産馬]]は1984年から、[[外国馬]]は1993年からそれぞれ出走可能になったほか、1995年からは[[地方競馬]]所属馬も出走可能になった<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 2016年から[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]の対象競走に指定され、優勝馬には当該年の[[ブリーダーズカップ・マイル]]への優先出走権と出走登録料・輸送費用の一部負担の特権が付与される<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202005/050903.html |title=ブリーダーズカップチャレンジ競走の指定について |publisher=日本中央競馬会|date=2020年5月9日|accessdate=2021年5月10日}}</ref>。 2017年より、本競走の1 - 3着馬には当該年に行われる[[ジャック・ル・マロワ賞]](G1)への優先出走権が付与されることになった<ref>[https://jra.jp/news/201705/053001.html ヴィクトリアマイル(GI)及び安田記念(GI)優勝馬等に対するジャックルマロワ賞(G1)への優先出走権付与について]日本中央競馬会、2017年5月30日閲覧</ref>。2018年より[[ヴィクトリアマイル]]とともに[[デスティナシオンフランス]]の名称でジャック・ル・マロワ賞と提携<ref>[https://jra.jp/news/201804/041701.html 優駿牝馬(GI)優勝馬等の仏・ヴェルメイユ賞(G1)への優先出走権付与および「デスティナシオンフランス」について]日本中央競馬会、2018年4月17日閲覧</ref>。2021年より[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]](G1)も対象競走に追加され、上位3頭に優先出走権が付与される<ref>{{Cite news2|title=ヴィクトリアマイルと安田記念の上位3頭に新たにムーランドロンシャン賞の優先出走権|newspaper=Sponichi Annex|date=2021-04-27|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2021/04/27/kiji/20210427s00004048351000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2021-04-27}}</ref>。 === 国際的評価 === 世界の競馬開催国は[[国際セリ名簿基準書]]におけるパートIからパートIVまでランク分けされており、2016年時点で日本は平地競走が最上位のパートI、障害競走はパートIVにランク付けされている<ref name="ICSBook" />。 また、各国の主要な競走は国際的な統一判断基準で評価されており、競馬の競走における距離別の区分法として定着している[[距離 (競馬)#SMILE 区分|SMILE区分]]によると、安田記念は「Mile(1301m - 1899m)」に分類される。[[国際競馬統括機関連盟]](IFHA)が公表した2020年の年間レースレーティング<ref group="注">年間レースレーティングは、個々のレースにおける上位4頭のレーティングを年度末のランキング会議で決定した数値に置き換え算出した平均値。なお、牝馬限定競走以外のレースで、対象馬が牝馬の場合はアローワンスが加算される(日本の場合+4ポンド)。</ref>の平均値に基づく「[[世界のトップ100GIレース]]」によると、安田記念は全体の7位にランキングされた<ref name="JRA2021012703" />。「Mile(1301m - 1899m)」のカテゴリーからランクインした外国の競走との比較では、ジャック・ル・マロワ賞とならんで最高の評価となっている<ref name="TOP100GI" /><ref>{{Cite web|title=International Federation of Horseracing Authorities|url=https://www.ifhaonline.org/Default.asp?section=Resources&area=0&story=1080|website=www.ifhaonline.org|accessdate=2021-01-26}}</ref>。 === 競走条件 === 以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo3" />のもの。 出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]3歳以上(出走可能頭数:最大18頭) * JRA所属馬 * 地方競馬所属馬(出走資格のある馬のみ) * 外国調教馬(優先出走) 負担重量:定量(3歳54kg、4歳以上58kg、[[牝馬]]2kg減) * 第1回 - 第33回はハンデキャップ、第34回 - 第45回は57kg、牝馬2kg減、南半球産4歳馬1kg減<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 出馬投票を行った馬のうち優先出走権(次節参照)のある馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。 === 優先出走権 === 外国馬、およびレーティング順位の上位5頭(牡馬・セン馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上であることが条件)は本競走に優先出走できる。 JRA所属馬・地方競馬所属馬は同年に行われる以下の競走で1着となった馬に、優先出走権が付与される<ref name="2017JRA番組" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離 |- |[[マイラーズカップ]]||GII||{{Flagicon|JPN}}[[京都競馬場]]||芝1600m |- |[[京王杯スプリングカップ]]||GII||{{Flagicon|JPN}}東京競馬場||芝1400m |} ==== 地方競馬所属馬の出走資格 ==== 地方競馬所属馬は同年に行われる下表の競走で2着以内となった馬に、優先出走権が付与される<ref name="kakuchi" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離 |- |マイラーズカップ||GII||{{Flagicon|JPN}}京都競馬場||芝1600m |- |京王杯スプリングカップ||GII||{{Flagicon|JPN}}東京競馬場||芝1400m |} 上記のほか、[[高松宮記念 (競馬)|高松宮記念]]及び[[大阪杯]]の2着以内馬(本競走と[[ヴィクトリアマイル]]のいずれかを選択)・[[NHKマイルカップ]]の3着以内馬・ヴィクトリアマイルの2着以内馬も本競走に出走できる<ref name="kakuchi" />。 また、指定された外国の国際G1競走(2歳G1は除く)優勝馬、地方競馬のダート交流GI・JpnI競走(2歳GI・JpnIは除く)優勝馬にも出走資格が与えられる。 === 賞金 === 2023年の1着賞金は1億8000万円で、以下2着7200万円、3着4500万円、4着2700万円、5着1800万円<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo3" />。 == 歴史 == === 年表 === * 1951年 - 4歳以上の馬によるハンデキャップ競走として「'''安田賞'''」の名称で創設、東京競馬場の芝1600mで施行<ref name="JRA注目" />。 * 1958年 - 名称を「'''安田記念'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 1972年 - 流行性の[[馬インフルエンザ]]の影響で7月に順延開催。 * 1984年 ** グレード制施行によりGI<ref group="注" name="grade" />に格付け<ref name="JRA注目" />。 ** 名称を「'''農林水産省賞典 安田記念'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 ** 競走条件を「5歳以上」に変更<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 ** 混合競走に指定され、外国産馬が出走可能になる<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 * 1993年 - [[国際競走]]に変更され、外国調教馬が5頭まで出走可能になる<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 * 1995年 - [[指定交流競走]]に指定され、[[地方競馬]]所属馬が出走可能になる<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 * 1996年 - 競走条件を「4歳以上」に変更<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 * 2001年 - [[馬齢]]表示の国際基準への変更に伴い、競走条件を「3歳以上」に変更<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 * 2004年 - 国際セリ名簿基準作成委員会より国際GIに格付け。 * 2005年 - 外国調教馬の出走枠が9頭に拡大<ref name="result2005" />。 * 2014年 - トライアル制を確立し、指定された競走の1着馬に優先出走を認める。 * 2016年 - 「[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]」指定競走となる。 * 2020年 - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス]]の感染拡大防止のため、「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施<ref name="jranews052801" />。 * 2022年 - 安田伊左衛門の生誕150年にあたることから、「安田伊左衛門生誕150周年記念」の副題を付して実施<ref name="news2022052004" />。 * 2023年 - 「[[競馬法]]100周年記念」の副題を付して実施<ref>[https://www.jra.go.jp/news/202212/121206.html 競馬法100周年記念事業の実施]日本中央競馬会、2022年12月12日閲覧</ref>。 == 歴代優勝馬 == {{注意|Wikipediaは競馬速報ではありません。レースの結果を書き込むときは、'''同時に'''各回競走結果の出典に信頼できる出典の記載をお願いします。}} 距離はすべて芝コース。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 日本馬の所属表記は1953年までが「国営」、1954年以降は「JRA」としている。外国馬の所属表記は出典が明記されているもののみ表記し、検証できないものは空欄とした。 競走名は第7回まで「安田賞」、第8回以降は「安田記念」<ref name="JRA注目" />。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||1951年7月1日||東京||1600m||[[イツセイ]]||牡3||国営||1:38 0/5||[[保田隆芳]]||[[尾形藤吉]]||岩崎利明 |- |style="text-align:center"|第2回||1952年7月6日||東京||1600m||[[スウヰイスー]]||牝3||国営||1:39 0/5||保田隆芳||[[松山吉三郎]]||[[高峰三枝子]] |- |style="text-align:center"|第3回||1953年6月14日||東京||1600m||スウヰイスー||牝4||国営||1:38 1/5||保田隆芳||尾形藤吉||高峰三枝子 |- |style="text-align:center"|第4回||1954年6月6日||東京||1600m||フソウ||牡4||JRA||1:41 2/5||[[高橋英夫 (競馬)|高橋英夫]]||[[鈴木信太郎 (競馬)|鈴木信太郎]]||中村正行 |- |style="text-align:center"|第5回||1955年6月12日||東京||1600m||クリチカラ||牡5||JRA||1:38 4/5||[[森安弘昭|森安弘明]]||尾形藤吉||[[栗林友二]] |- |style="text-align:center"|第6回||1956年6月10日||東京||1600m||ヨシフサ||牡4||JRA||1:38 2/5||[[渡辺正人 (競馬)|渡辺正人]]||[[中村広]]||岡田 |- |style="text-align:center"|第7回||1957年6月9日||東京||1600m||[[ヘキラク]]||牡4||JRA||1:38 4/5||[[蛯名武五郎]]||[[藤本冨良]]||浅井礼三 |- |style="text-align:center"|第8回||1958年6月1日||東京||1600m||[[ラプソデー]]||牡4||JRA||1:37 2/5||坂本栄三郎||[[小西喜蔵]]||椎野浅五郎 |- |style="text-align:center"|第9回||1959年6月7日||東京||1600m||[[ヒシマサル (1955年生)|ヒシマサル]]||牡4||JRA||1:37 3/5||[[小野定夫]]||[[矢野幸夫]]||[[阿部雅信]] |- |style="text-align:center"|第10回||1960年6月5日||東京||1800m||オンワードベル||牡4||JRA||1:50.2||高橋英夫||[[二本柳俊夫]]||[[樫山純三]] |- |style="text-align:center"|第11回||1961年6月11日||東京||1800m||[[ホマレボシ]]||牡4||JRA||1:49.7||[[八木沢勝美]]||[[稗田敏男]]||川口文子 |- |style="text-align:center"|第12回||1962年6月10日||東京||1600m||トウコン||牡4||JRA||1:38.3||[[山岡忞]]||矢野幸夫||塩飽望 |- |style="text-align:center"|第13回||1963年6月2日||東京||1600m||ヤマノオー||牡4||JRA||1:36.6||森安弘明||内藤潔||内藤潔 |- |style="text-align:center"|第14回||1964年6月7日||東京||1600m||シモフサホマレ||牡5||JRA||1:37.2||[[油木宣夫]]||矢野幸夫||山口米吉 |- |style="text-align:center"|第15回||1965年6月6日||東京||1600m||[[パナソニック (競走馬)|パナソニツク]]||牝5||JRA||1:37.6||[[嶋田功]]||[[稲葉幸夫]]||那須野牧場 |- |style="text-align:center"|第16回||1966年6月5日||東京||1600m||[[ヒシマサヒデ]]||牡4||JRA||1:39.5||小野定夫||稗田敏男||阿部雅信 |- |style="text-align:center"|第17回||1967年5月21日||中山||1600m||ブツシヤン||牡5||JRA||1:36.3||[[大和田稔]]||二本柳俊夫||河野魁 |- |style="text-align:center"|第18回||1968年6月30日||東京||1600m||シエスキイ||牡5||JRA||1:36.7||[[郷原洋行]]||[[大久保房松]]||小林庄平 |- |style="text-align:center"|第19回||1969年6月1日||東京||1600m||ハードウエイ||牝4||JRA||1:35.9||[[加賀武見]]||[[柄崎義信]]||鈴木健司 |- |style="text-align:center"|第20回||1970年5月31日||東京||1600m||[[メジロアサマ]]||牡4||JRA||1:35.9||[[矢野一博]]||保田隆芳||[[北野豊吉]] |- |style="text-align:center"|第21回||1971年6月20日||東京||1600m||[[ハーバーゲイム]]||牝4||JRA||1:36.8||[[野平祐二]]||[[野平省三]]||小川乕三 |- |style="text-align:center"|第22回||1972年7月23日||東京||1600m||[[ラファール (競走馬)|ラファール]]||牝4||JRA||1:38.4||[[中島啓之]]||[[奥平真治]]||高木美典 |- |style="text-align:center"|第23回||1973年6月10日||東京||1600m||[[ハクホオショウ]]||牡4||JRA||1:35.7||[[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]]||尾形藤吉||西博 |- |style="text-align:center"|第24回||1974年6月9日||東京||1600m||[[キョウエイグリーン]]||牝5||JRA||1:35.7||[[東信二]]||[[境勝太郎]]||[[松岡正雄]] |- |style="text-align:center"|第25回||1975年6月8日||東京||1600m||[[サクライワイ]]||牝4||JRA||1:36.6||[[小島太]]||高木良三||(株)[[さくらコマース]] |- |style="text-align:center"|第26回||1976年6月13日||東京||1600m||[[ニシキエース (1971年生)|ニシキエース]]||牡5||JRA||1:36.6||[[森安重勝]]||[[森安弘昭]]||小林清 |- |style="text-align:center"|第27回||1977年6月12日||東京||1600m||スカッシュソロン||牝4||JRA||1:35.1||[[横田吉光]]||[[古賀嘉蔵]]||[[飯田正]] |- |style="text-align:center"|第28回||1978年6月11日||東京||1600m||[[ニッポーキング]]||牡5||JRA||1:35.1||郷原洋行||[[久保田金造]]||[[山石祐一]] |- |style="text-align:center"|第29回||1979年6月10日||東京||1600m||ロイヤルシンザン||牡4||JRA||1:35.7||[[的場均]]||大久保房松||鄭恩植 |- |style="text-align:center"|第30回||1980年6月8日||東京||1600m||ブルーアレツ||牡5||JRA||1:36.0||嶋田功||[[見上恒芳]]||佐野済 |- |style="text-align:center"|第31回||1981年6月7日||東京||1600m||[[タケデン]]||牡6||JRA||1:36.7||[[増沢末夫]]||[[元石孝昭]]||武市伝一 |- |style="text-align:center"|第32回||1982年6月13日||東京||1600m||[[スイートネイティブ]]||牝5||JRA||1:35.0||[[岡部幸雄]]||野平祐二||[[和田共弘]] |- |style="text-align:center"|第33回||1983年6月12日||東京||1600m||[[キヨヒダカ]]||牡5||JRA||1:35.8||増沢末夫||[[森安弘昭]]||清峯隆 |- |style="text-align:center"|第34回||1984年5月13日||東京||1600m||[[ハッピープログレス]]||牡6||JRA||1:37.8||[[田原成貴]]||[[山本正司]]||藤田晋 |- |style="text-align:center"|第35回||1985年5月12日||東京||1600m||[[ニホンピロウイナー]]||牡5||JRA||1:35.1||[[河内洋]]||[[服部正利]]||[[小林百太郎]] |- |style="text-align:center"|第36回||1986年5月11日||東京||1600m||[[ギャロップダイナ]]||牡6||JRA||1:35.5||[[柴崎勇]]||[[矢野進]]||(有)[[社台レースホース]] |- |style="text-align:center"|第37回||1987年5月17日||東京||1600m||[[フレッシュボイス]]||牡4||JRA||1:35.7||[[柴田政人]]||[[境直行]]||円城和男 |- |style="text-align:center"|第38回||1988年5月15日||東京||1600m||[[ニッポーテイオー]]||牡5||JRA||1:34.2||郷原洋行||久保田金造||山石祐一 |- |style="text-align:center"|第39回||1989年5月14日||東京||1600m||[[バンブーメモリー]]||牡4||JRA||1:34.3||岡部幸雄||[[武邦彦]]||竹田辰一 |- |style="text-align:center"|[[第40回安田記念|'''第40回''']]||1990年5月13日||東京||1600m||[[オグリキャップ]]||牡5||JRA||1:32.4||[[武豊]]||[[瀬戸口勉]]||近藤俊典 |- |style="text-align:center"|第41回||1991年5月12日||東京||1600m||[[ダイイチルビー]]||牝4||JRA||1:33.8||河内洋||[[伊藤雄二]]||辻本春雄 |- |style="text-align:center"|第42回||1992年5月17日||東京||1600m||[[ヤマニンゼファー]]||牡4||JRA||1:33.8||[[田中勝春]]||[[栗田博憲]]||[[土井宏二]] |- |style="text-align:center"|第43回||1993年5月16日||東京||1600m||ヤマニンゼファー||牡5||JRA||1:33.5||[[柴田善臣]]||栗田博憲||土井宏二 |- |style="text-align:center"|第44回||1994年5月15日||東京||1600m||[[ノースフライト]]||牝4||JRA||1:33.2||[[角田晃一]]||[[加藤敬二 (競馬)|加藤敬二]]||(有)大北牧場 |- |style="text-align:center"|第45回||1995年5月14日||東京||1600m||[[ハートレイク]]||牡4||[[アラブ首長国連邦|UAE]]||1:33.2||武豊||[[サイード・ビン・スルール|S.ビン・スルール]]||[[ゴドルフィン]] |- |style="text-align:center"|第46回||1996年6月9日||東京||1600m||[[トロットサンダー]]||牡7||JRA||1:33.1||[[横山典弘]]||[[相川勝敏]]||藤本照男 |- |style="text-align:center"|第47回||1997年6月8日||東京||1600m||[[タイキブリザード]]||牡6||JRA||1:33.8||岡部幸雄||[[藤沢和雄]]||(有)[[大樹ファーム]] |- |style="text-align:center"|第48回||1998年6月14日||東京||1600m||[[タイキシャトル]]||牡4||JRA||1:37.5||岡部幸雄||藤沢和雄||(有)大樹ファーム |- |style="text-align:center"|第49回||1999年6月13日||東京||1600m||[[エアジハード]]||牡4||JRA||1:33.3||[[蛯名正義]]||伊藤正徳||(株)[[ラッキーフィールド]] |- |style="text-align:center"|第50回||2000年6月4日||東京||1600m||[[フェアリーキングプローン]]||騸5||[[香港]]||1:33.9||[[ロビー・フラッド|R.フラッド]]||[[アイヴァン・アラン|I.アラン]]||劉錫康 |- |style="text-align:center"|第51回||2001年6月3日||東京||1600m||[[ブラックホーク (競走馬)|ブラックホーク]]||牡7||JRA||1:33.0||横山典弘||[[国枝栄]]||[[金子真人]] |- |style="text-align:center"|第52回||2002年6月2日||東京||1600m||[[アドマイヤコジーン]]||牡6||JRA||1:33.3||[[後藤浩輝]]||[[橋田満]]||[[近藤利一]] |- |style="text-align:center"|第53回||2003年6月8日||東京||1600m||[[アグネスデジタル]]||牡6||JRA||1:32.1||[[四位洋文]]||[[白井寿昭]]||[[渡辺孝男 (実業家)|渡辺孝男]] |- |style="text-align:center"|第54回||2004年6月6日||東京||1600m||[[ツルマルボーイ]]||牡6||JRA||1:32.6||[[安藤勝己]]||[[橋口弘次郎]]||[[鶴田任男]] |- |style="text-align:center"|第55回||2005年6月5日||東京||1600m||[[アサクサデンエン]]||牡6||JRA||1:32.3||[[藤田伸二]]||[[河野通文]]||[[田原源一郎]] |- |style="text-align:center"|第56回||2006年6月4日||東京||1600m||[[ブリッシュラック]]||騸7||香港||1:32.6||[[ブレット・プレブル|B.プレブル]]||[[アンソニー・クルーズ|A.クルーズ]]||W.ウォン |- |style="text-align:center"|第57回||2007年6月3日||東京||1600m||[[ダイワメジャー]]||牡6||JRA||1:32.3||安藤勝己||[[上原博之]]||[[大城敬三]] |- |style="text-align:center"|第58回||2008年6月8日||東京||1600m||[[ウオッカ (競走馬)|ウオッカ]]||牝4||JRA||1:32.7||[[岩田康誠]]||[[角居勝彦]]||[[谷水雄三]] |- |style="text-align:center"|第59回||2009年6月7日||東京||1600m||ウオッカ||牝5||JRA||1:33.5||武豊||角居勝彦||谷水雄三 |- |style="text-align:center"|第60回||2010年6月6日||東京||1600m||[[ショウワモダン]]||牡6||JRA||1:31.7||後藤浩輝||[[杉浦宏昭]]||山岸桂市 |- |style="text-align:center"|第61回||2011年6月5日||東京||1600m||[[リアルインパクト]]||牡3||JRA||1:32.0||[[戸崎圭太]]||[[堀宣行]]||(有)[[キャロットファーム]] |- |style="text-align:center"|第62回||2012年6月3日||東京||1600m||[[ストロングリターン]]||牡6||JRA||1:31.3||[[福永祐一]]||堀宣行||[[吉田照哉]] |- |style="text-align:center"|第63回||2013年6月2日||東京||1600m||[[ロードカナロア]]||牡5||JRA||1:31.5||岩田康誠||[[安田隆行]]||(株)[[ロードホースクラブ]] |- |style="text-align:center"|第64回||2014年6月8日||東京||1600m||[[ジャスタウェイ]]||牡5||JRA||1:36.8||柴田善臣||[[須貝尚介]]||[[大和屋暁]] |- |style="text-align:center"|第65回||2015年6月7日||東京||1600m||[[モーリス (競走馬)|モーリス]]||牡4||JRA||1:32.0||[[川田将雅]]||堀宣行||[[吉田和美]] |- |style="text-align:center"|第66回||2016年6月5日||東京||1600m||[[ロゴタイプ (競走馬)|ロゴタイプ]]||牡6||JRA||1:33.0||[[田辺裕信]]||[[田中剛]]||吉田照哉 |- |style="text-align:center"|第67回||2017年6月4日||東京||1600m||[[サトノアラジン]]||牡6||JRA||1:31.5||川田将雅||[[池江泰寿]]||(株)[[サトミホースカンパニー]] |- |第68回||2018年6月3日||東京||1600m||[[モズアスコット]]||牡4||JRA||1:31.3||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[矢作芳人]]||(株)[[キャピタル・システム]] |- |'''[[第69回安田記念|第69回]]'''||2019年6月2日||東京||1600m||[[インディチャンプ]]||牡4||JRA||1:30.9||福永祐一||[[音無秀孝]]||(有)[[シルクレーシング]] |- |'''[[第70回安田記念|第70回]]'''||2020年6月7日||東京||1600m||[[グランアレグリア]]||牝4||JRA||1:31.6||[[池添謙一]]||藤沢和雄||(有)[[サンデーレーシング]] |- |第71回||2021年6月6日||東京||1600m||[[ダノンキングリー]]||牡5||JRA||1:31.7||川田将雅||[[萩原清]]||(株)[[ダノックス]] |- |第72回||2022年6月5日||東京||1600m||[[ソングライン (競走馬)|ソングライン]]||牝4||JRA||1:32.3||池添謙一||[[林徹 (競馬)|林徹]]||(有)サンデーレーシング |- |[[第73回安田記念|'''第73回''']]||2023年6月4日||東京||1600m||ソングライン||牝5||JRA||1:31.4||戸崎圭太||林徹||(有)サンデーレーシング |} == 安田記念の記録 == * レースレコード - 1:30.9(第69回優勝馬インディチャンプ)<ref name="GIRecord" /><ref>{{Cite web|和書|title=2019年 農林水産省賞典 安田記念 JRA|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/yasuda/result/yasuda2019.html|website=www.jra.go.jp|accessdate=2019-06-02}}</ref> ** 優勝タイム最遅記録 - 1:41 2/5(第4回優勝馬フソウ)<ref>グレード制導入後は1:37.8(第34回優勝馬ハッピープログレス)</ref> * 最低単勝支持率での勝利 - 1.67%(第71回優勝馬ダノンキングリー)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ダノンキングリー単勝支持率1・67%は過去最低/安田記念アラカルト|極ウマ・プレミアム|url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=202106070000202&year=2021&month=06&day=07|website=p.nikkansports.com|accessdate=2021-06-07|language=ja}}</ref> * 最高単勝払戻金額 - 4760円(第71回優勝馬ダノンキングリー)<ref name=":0" /> * 最年長優勝馬 - 7歳 ** トロットサンダー(第46回)、ブラックホーク(第51回)、ブリッシュラック(第56回) * 最年少優勝馬 - 3歳 ** イツセイ(第1回)、スウヰイスー(第2回)、リアルインパクト(第61回) * 最多優勝馬 - 2勝 ** スウヰイスー(第2回・第3回)、ヤマニンゼファー(第42回・第43回)、ウオッカ(第58回・第59回)、ソングライン(第72回・第73回) * 最多優勝騎手 - 4勝 ** 岡部幸雄(第32回・第39回・第47回・第48回)<ref>連続記録は保田隆芳の3年連続(第1回〜第3回)</ref> * 最多勝調教師 - 4勝 ** 尾形藤吉(第1回・第3回・第5回・第23回)<ref>連覇は栗田博憲(第42回・第43回)、藤沢和雄(第47回・第48回)、角居勝彦(第58回・第59回)、堀宣行(第61回・第62回)、林徹(第72回・第73回)が記録</ref> * 最多勝利種牡馬 - 4勝 ** [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](第61回・第67回・第70回・第71回) == 外国調教馬の成績 == {{Main|海外調教馬による日本への遠征#安田記念}} == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 参考文献 === * {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞成績集【GI編】|publisher=日本中央競馬会|year=1996|page=887-949|chapter=安田記念|ref=中央競馬全重賞成績集}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="中央競馬全重賞競走成績集">[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]</ref> <ref name="jusyo_kanto">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=22 |title=重賞競走一覧(レース別・関東)|publisher=日本中央競馬会|page=22|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="bangumi_2023tokyo3">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/tokyo3.pdf |title=令和5年第3回東京競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2023/0305.pdf |title=2023年度第3回東京競馬特別レース名解説|publisher=日本中央競馬会|page=2|accessdate=2023年5月29日}}</ref> <ref name="JRAデータ分析">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0604_1/ |title=データ分析:安田記念 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2021/0606_1/race.html |title=歴史・コース:安田記念 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年6月2日}}</ref> <ref name="2017JRA番組">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2017/pdf/bangumi.pdf |title=平成29年度競馬番組等について|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2016年5月30日}}</ref> <ref name="kakuchi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/kakuchi.pdf |title=「地」が出走できるGI競走とそのステップ競走について【令和5年度】|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="map_tokyo">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/facilities/race/tokyo/stand.html |title=東京競馬場(場内マップ)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="JRA2021012703">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202101/012703.html |title=世界のトップ100GIレースがIFHAから発表!|publisher=日本中央競馬会|date=2021年1月27日|accessdate=2021年5月10日}}</ref> <ref name="TOP100GI">{{Cite web|format=PDF|url=https://www.ifhaonline.org/resources/LWBRR/Longines-WBRR-Summary-2020.pdf |title=THE WORLD'S TOP 100 G1 RACES for 3yo's and upwards|publisher=International Federation of Horseracing Authorities|accessdate=2021年5月10日}}</ref> <ref name="ICSBook">{{Cite web|format=PDF|url=http://www.tjcis.com/pdf/icsc22/2022_EntireBook.pdf#page=90 |title=INTERNATIONAL GRADING AND RACE PLANNING ADVISORY COMMITTEE "INTERNATIONAL CATALOGUING STANDARDS and INTERNATIONAL STATISTICS 2021"|publisher=The Jockey Club Information Systems, Inc.|page=90|accessdate=2022年5月5日}}</ref> <ref name="GIRecord">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/record/gi.html |title=中央競馬レコードタイム GIレース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年5月10日}}</ref> <ref name="result2005">[[#JRA年度別全成績2005|2005年の成績表]]参照。</ref> <ref name="jranews052801">{{Cite web|和書|url=http://jra.jp/news/202005/052801.html |title=6月の中央競馬の開催等について|publisher=日本中央競馬会|date=2020年5月28日|accessdate=2020年6月17日}}</ref> <ref name="news2022052004">{{Cite 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* JRA公式サイトより(最終閲覧日:2015年6月7日) ** [https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/yasuda/result/yasuda2015.html 2015年] * JBISサーチより(最終閲覧日:2017年6月5日) ** {{JBIS-raceresult|2016|0605|105|11}}、{{JBIS-raceresult|2017|0604|105|11}} == 外部リンク == * [https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0604_1/ データ分析:安田記念 今週の注目レース] - 日本中央競馬会 {{中央競馬の重賞競走}} {{ブリーダーズカップ・チャレンジシリーズ}} {{デフォルトソート:やすたきねん}} [[Category:安田記念|*]] [[Category:農林水産大臣賞典]] [[Category:東京競馬場の競走]] [[Category:エポニム]]
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家庭の電化
家庭の電化(かていのでんか)は、家庭用電気機械器具を導入することにより家事の省力化や、娯楽・快適性を高めること。本項にては日本家庭における電化について記述する。 以下は、国産品の発売年が分かるものについては発売年を参考に分けた。従って、普及率が高くなるのはもっと後である。 日本全国に電気が普及したのは、戦後である。例えば栃木県那須の農村集落に初めて電気が引かれたのは、1951年である。 戦後の1950年頃まで、日本の一般家庭に普及していた電気器具は、照明とラジオ、扇風機、アイロンくらいでそれ以外の電気製品はほとんどなく、この時点では欧米の先進国に大きく遅れをとっていた。その当時は、家事も手作業による事がほとんどであった。 家電製品は戦前から登場していたものの、本格的な普及は戦後となる。 1950年代中頃(昭和30年)以前は家庭電化製品と呼ばれていた。また、高度成長時代には、三種の神器と呼ばれた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫はあこがれの的であった。 一般家庭に本格的に電気製品が普及し始めるのは、1960年代の高度経済成長期に入ってからである。この頃から、急速に電気製品が普及し始めた。高度成長に伴う所得の増加は、家電の普及率を高めた。また、家電の普及は、家庭での消費電力を増加させた。1966年に日本初の商業用原子力発電所が東海発電所で稼働する。1960年代後半には家具調テレビをはじめとした、木目調・花柄家電が流行した。 当時の日本の電機メーカーの高い技術力により、世界でも他に例を見ないほど機能が急速に充実していき、それらも家庭に普及し、日本は世界トップクラスの家電大国となった。 1973年に起こったオイルショックを機に、省エネルギー化が進む。また、技術進歩によりマイコンを組み込み電子制御された家電が登場する。 1980年代はエアコンの家庭への普及率が上がり、夏期における家庭の電力消費が大幅に増大。電子制御技術の向上、バブル景気により大型・高級化などの高付加価値製品が登場する。家電のマイコン制御が進み、複雑な機能をもつ多機能家電が増えていった。娯楽家電のデジタル化もはじまり、CDは急速に従来のレコードを置き換えていった。 1990年代は様々なデジタル通信機器が家庭にも本格的に入り込みはじめた時代である。1990年代後半になると携帯電話が急速に普及し始めた。ゲーム機も、成人がゲームをすることも珍しくなくなったことで、子供の玩具から家庭の娯楽機器の要素も持つようになっていった。また、従来は業務用機器またはホビー機器の性格が強かったパーソナルコンピュータも急速に普及し、インターネットが家庭に入り込みはじめた。一方、バブルが崩壊しこの頃から日本の家電メーカーの没落が始まる。 2000年代は映像情報機器・オール電化住宅が話題となる。インターネットが社会インフラとなり、ネット接続機能をもつ家電製品も現れる。 2010年代はエコポイントとアナログ放送終了の影響を受けて地上デジタル対応テレビが売れた。福島第一原子力発電所事故によるオール電化の揺り戻しがあり、「節電」ムードが高まった。家電のコモディティ化により大手メーカーの一世代前の技術を利用する「ジェネリック家電」メーカーが台頭。一般家庭向けの家電レンタル業者により、家電をレンタルする風潮が普及しはじめる。2010年代に入ってから急激にLED照明の普及が進み、後半以降は主流の光源となる。
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家庭の電化(かていのでんか)は、家庭用電気機械器具を導入することにより家事の省力化や、娯楽・快適性を高めること。本項にては日本家庭における電化について記述する。
'''家庭の電化'''(かていのでんか)は、[[家庭用電気機械器具]]を導入することにより家事の省力化や、娯楽・快適性を高めること。本項にては日本家庭における電化について記述する。 == 歴史 == 以下は、国産品の発売年が分かるものについては発売年を参考に分けた。従って、普及率が高くなるのはもっと後である。 === 1960年以前 === 日本全国に電気が普及したのは、戦後である。例えば栃木県那須の農村集落に初めて電気が引かれたのは、1951年である<ref>「天文台の電話番」p132、長沢工著、2001年、地人書館</ref>。 戦後の[[1950年]]頃まで、日本の一般家庭に普及していた電気器具は、照明とラジオ、扇風機、アイロンくらいでそれ以外の電気製品はほとんどなく、この時点では欧米の先進国に大きく遅れをとっていた。その当時は、家事も手作業による事がほとんどであった。 家電製品は戦前から登場していたものの、本格的な普及は戦後となる。 [[1950年代]]中頃(昭和30年)以前は家庭電化製品と呼ばれていた。また、[[高度成長時代]]には、[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]と呼ばれた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫はあこがれの的であった。 * [[白熱電球]](1890年、[[白熱舎]](現:[[東芝]]) * 電気[[あんか]] * 電気[[アイロン]](1915年、[[芝浦製作所]](現:[[東芝]])) * [[扇風機]](1916年、芝浦製作所(現:東芝)) * [[受信機|ラジオ]](1924年、芝浦製作所(現:東芝)) * [[炊飯器|電気釜]](1924年) * 電気[[洗濯機]](1930年、芝浦製作所(現:東芝))(後の[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]) * 電気[[冷蔵庫]](1930年、芝浦製作所(現:東芝))(後の[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]) * 電気[[蓄音機]] (1931年、[[日本ビクター]]) * 電気[[掃除機]](1931年、芝浦製作所(現:東芝)) * 電気[[ミシン]](1931年) * [[電気毛布]](1950年) * [[トースター]](1950年) * [[ドライヤー]](1950年) * [[テープレコーダー]](1950年、[[東京通信工業]]、現在の[[ソニー]]) * [[エア・コンディショナー]](クーラー)(1935年、東洋キャリア、現在の[[東芝キヤリア]]) * [[白黒テレビ|白黒]][[テレビ受像機]](1953年、[[シャープ]])(後の[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]) * [[トランジスタラジオ]](1955年、東京通信工業) * 電気[[炊飯器]](自動式。1955年、東芝) * 電気[[こたつ]](1955年、東芝) === 1960年代 === 一般家庭に本格的に電気製品が普及し始めるのは、[[1960年代の日本|1960年代]]の[[高度経済成長期]]に入ってからである。この頃から、急速に電気製品が普及し始めた。高度成長に伴う所得の増加は、家電の普及率を高めた。また、家電の普及は、家庭での消費電力を増加させた。[[1966年の日本|1966年]]に日本初の商業用[[原子力発電所]]が東海発電所で稼働する。1960年代後半には家具調テレビをはじめとした、木目調・花柄家電が流行した。 当時の日本の[[電機メーカー]]の高い技術力により、世界でも他に例を見ないほど機能が急速に充実していき、それらも家庭に普及し、日本は世界トップクラスの家電大国となった。 * [[インターホン]](1960年、松下電器産業(現:[[パナソニック]])) * [[食器洗い機]](1960年、松下電器産業) * トランジスタテレビ (携帯型テレビ)(1960年、ソニー) * [[カラーテレビ]]受像機(1960年、松下電器産業) * [[空気清浄機]](1963年) * [[ラジオカセットレコーダー|ラジカセ]](1963年、[[日立製作所]]) * [[電卓]](1964年、[[シャープ]]) * [[電子レンジ]](1965年、松下電器産業) * [[押しボタン式電話機|プッシュホン]](1969年、[[日本電信電話公社|電電公社]]) === 1970年代 === [[1973年]]に起こった[[オイルショック]]を機に、[[省エネルギー]]化が進む。また、技術進歩によりマイコンを組み込み電子制御された家電が登場する。 * '''省エネルギー家電''' ** 節電形[[蛍光灯]] ** 省エネルギーテレビ受像機 ** 省エネルギー冷蔵庫 * [[ワードプロセッサ]](1973年、東芝) * 家庭用[[ファクシミリ]](1973年、松下電器産業) * [[ビデオテープレコーダ]](1975年、[[ソニー]]) * 家庭用[[ビデオカメラ]](1976年、[[日立製作所]]) * 全自動洗濯機(1977年、シャープ) * [[石油ファンヒーター]] (1978年、[[三菱電機]]) * [[パーソナルコンピュータ]](1979年、[[日本電気]]) * [[電子辞書]](1979年、シャープ) * [[ヘッドフォンステレオ]](1979年、[[ソニー]]) === 1980年代 === [[1980年代の日本|1980年代]]はエアコンの家庭への普及率が上がり、夏期における家庭の電力消費が大幅に増大。電子制御技術の向上、[[バブル景気]]により大型・高級化などの高付加価値製品が登場する。家電のマイコン制御が進み、複雑な機能をもつ多機能家電が増えていった。娯楽家電のデジタル化もはじまり、[[コンパクトディスク|CD]]は急速に従来のレコードを置き換えていった。 * '''大型化''' ** 大画面テレビ ** 大型冷蔵庫 ** オーディオコンポ * '''多機能化''' ** 移動型テレビ (COSMO(コスモ) 1983年[[三洋電機]]) ** ニューメディア対応テレビ (COREシリーズ 1983年東芝、コスモメディア 1983年三洋電機、α2000 1984年松下電器) ** パソコンテレビ ([[X1 (コンピュータ)|X1]](CZ-200) 1983年[[シャープ]]) * カード電卓 ** [[太陽電池|ソーラー]]電卓 (エルシーメイト(LC MATE) 1981年シャープ) * [[留守番電話]] * [[ウォシュレット|温水洗浄便座]] (1980年 [[TOTO (企業)|TOTO]]) * 電子プリンタライター (1980年 [[ブラザー工業]](事務用として)) * [[レーザーディスク|LD]]プレーヤー(1982年 [[パイオニア]]) * CDプレーヤー(1982年 [[ソニー]]) * [[液晶テレビ]](1982年 [[セイコーエプソン]]) * [[家庭用ゲーム機]]([[ファミリーコンピュータ]] 1983年[[任天堂]]、[[SG-1000]] 1983年[[セガ]]) * [[電子手帳]] (1983年 カシオ計算機) * [[8ミリビデオ]] (1985年 ソニー) === 1990年代 === [[1990年代の日本|1990年代]]は様々なデジタル通信機器が家庭にも本格的に入り込みはじめた時代である。1990年代後半になると[[携帯電話]]が急速に普及し始めた。[[ゲーム機]]も、成人がゲームをすることも珍しくなくなったことで、子供の[[玩具]]から家庭の娯楽機器の要素も持つようになっていった。また、従来は業務用機器またはホビー機器の性格が強かった[[パーソナルコンピュータ]]も急速に普及し、[[インターネット]]が家庭に入り込みはじめた。一方、バブルが崩壊しこの頃から日本の家電メーカーの没落が始まる<ref>[https://business.nikkei.com/atcl/seminar/20/00045/091700017/ 日本の電機産業衰退の理由をポーターの理論から考える:日経ビジネス電子版]</ref><ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/361229 「日本製品」が海外で売れなくなった根本原因 | 消費・マーケティング | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース]</ref>。 * '''環境家電''' ** 生ごみ処理機 ** 排気のきれいな掃除機 ** 節水型洗濯機 ** 有害物質を使用した部品を含まない製品 ** 省電力エアコン ** 省電力冷蔵庫 * [[ミニディスク|MD]]プレーヤ(1992年 ソニー) * [[薄型テレビ|プラズマテレビ]](1993年 [[富士通ゼネラル]]) * [[コードレス電話]](1994年 松下電器産業) * [[DVD]]プレーヤ (1996年、東芝) * ブラウン管平面テレビ(スーパーフラット・[[トリニトロン]]、1996年 ソニー) * [[エンタテインメントロボット]](1999年 ソニー) * [[テレビ電話]] (1999年、[[ウィルコム|DDIポケット]]) * [[DVDレコーダー]](1999年、パイオニア) === 2000年代 === [[2000年代の日本|2000年代]]は映像情報機器・[[オール電化住宅|オール電化]]住宅が話題となる。[[インターネット]]が社会インフラとなり、ネット接続機能をもつ家電製品も現れる。 * [[デジタルオーディオプレーヤー]]([[iPod]]など) * '''デジタル三種の神器''' ** DVDレコーダー ** [[デジタルカメラ]] ** 薄型テレビ * '''[[オール電化住宅]]''' ** 200V型IHクッキングヒータ(1990年 松下電器産業) ** 電気式[[床暖房]] ** 深夜電気[[給湯器|温水器]] ** [[エコキュート]] * [[HDDレコーダー]](2001年、東芝) * [[インターネットラジオ]]受信機(2002年、[[サン電子]]) * [[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタルテレビ放送]]受信機 (2003年、東芝) * [[電子書籍]]専用端末 (2002年、松下電器産業) * [[Blu-ray Disc]]レコーダー(2003年、ソニー) * [[ウォーターオーブン]](2004年、シャープ) * [[BDプレーヤー]](2007年、パイオニア) === 2010年代 === [[2010年代の日本|2010年代]]は[[エコポイント]]とアナログ放送終了の影響を受けて地上デジタル対応テレビが売れた。[[福島第一原子力発電所事故]]によるオール電化の揺り戻しがあり、「[[節電]]」ムードが高まった。家電の[[コモディティ化]]により大手メーカーの一世代前の技術を利用する「[[ジェネリック家電]]」メーカーが台頭。一般家庭向けの[[家電レンタル]]業者により、[[家電機器|家電]]を[[レンタル]]する風潮が普及しはじめる。2010年代に入ってから急激に[[LED照明]]の普及が進み、後半以降は主流の光源となる。 *[[3Dテレビ]](2010年、パナソニック) *[[3次元映像|3D]]対応[[BDレコーダー]]、[[BDプレーヤー]](2010年、パナソニック) *米から[[米粉パン]]を作る製パン機(2010年、三洋電機) *蚊取り機能付き[[空気清浄機]](2016年、シャープ) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[電気製品の一覧]] * [[電器店]] * [[白物家電]](生活家電とも) - [[娯楽家電]] {{DEFAULTSORT:かていのてんか}} [[Category:家電機器]] [[Category:戦後日本の経済]] [[Category:快適技術]] [[Category:日本のテーマ史]] [[Category:日本の科学技術史]] [[Category:家庭]]
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ティム・バートン
ティム・バートン(Tim Burton、本名: Timothy Walter Burton、1958年8月25日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー、脚本家、芸術家、元アニメーター。現在はイギリス・ロンドン在住。 ディズニーのアニメーターとして『トロン』などに参加後、実写短編『フランケンウィニー』を演出、1985年に『ピーウィーの大冒険』で長編映画デビューした。 少年期はエドガー・アラン・ポー作品を原作とする映画に主演するヴィンセント・プライスに熱中していた。 ストップモーション・アニメーションの第一人者であるレイ・ハリーハウゼンに多大な影響を受けており、作品からもそれを伺うことができる。『ティム・バートンのコープスブライド』を製作する際には、製作チームとともにハリーハウゼンに会いに行っている。 ティム・バートンの盟友であるヘンリー・セリックはバートンの映画の作風について「ドクター・スースとドイツ表現主義映画の融合体」と表現している。 少年期はゴジラ映画の役者になりたかったとも語っている。 熱烈なゴジラファンとして有名で、1992年には、映画『ゴジラvsモスラ』の制作現場を見学したことがある。この時に「ゴジラの生みの親」田中友幸、特技監督の川北紘一と会見している。この年以降の数年間は、年に一度は撮影現場を見学に来ていたという。 それ以前にも、デビュー作である『ピーウィーの大冒険』にゴジラとキングギドラを登場させたり、『シザーハンズ』では主人公・エドワードが植木をゴジラと思われる形に整えたり、1997年に自身が製作した『マーズ・アタック』にゴジラを登場させたりした。また同作のクライマックスも、ゴジラシリーズ第6作『怪獣大戦争』を基にしていると本人は語っている。 バートンが監督した映画のキャスト(脇役も含む)には、コメディアンや元コメディアンを起用することが多い。またバートン映画に起用される前に何らかのホラー映画やSF映画、ファンタジーに出演した俳優が多い。バートンが監督した映画、テレビの音楽の多くはダニー・エルフマンが担当している。 ジョニー・デップとのコラボ作が『シザーハンズ』『チャーリーとチョコレート工場』『アリス・イン・ワンダーランド』『ダーク・シャドウ』ほか8作と数多い。それに次いで2012年現在バートンのパートナーであるヘレナ・ボナム=カーターが7作と多い。 キャメロン・クロウ監督の『シングルス』や、『バットマン・リターンズ』にペンギン役で出演したダニー・デヴィートが監督をした『ホッファ』などに役者としてカメオ出演している。 ウォルト・ディズニー・スタジオに雇われていたころは、クローゼットの中に座り込んで出て来なくなったり、机の上に座ったり机の下に潜り込んだりといった奇行を繰り返す問題児であった。無口で人づきあいが苦手で、同僚たちからは口がきけないとしばらく思われていた。 バートンはドイツ生まれのアーティスト、レナ・ギーゼケと結婚するが、彼らの結婚は4年後の1991年に破局。その後、モデルで女優のリサ・マリーと一緒に暮らし始め、彼女は1992年から2001年までの関係の中で彼が作った映画、「エド・ウッド」と「マーズ・アタック」にも出演した。しかしバートンは、『PLANET OF THE APES/猿の惑星』の撮影中に出会ったイギリスの女優、ヘレナ・ボナム=カーターと恋愛関係になり、リサ・マリーは非常に落胆し、2005年に、バートンが残した個人的な持ち物をオークションで売り払った。バートンとヘレナ・ボナム=カーターの間には2人の子供がいる。2003年に産まれた息子のビリー・レイモンドは、ヘレナ・ボナム=カーターーの父親にちなんで名付けられた。 2007年に、娘のネルが産まれる。2014年12月に、ヘレナ・ボナム=カーターのスポークスマンは彼女とバートンがその年の初めに「友好的に別れた」と言った。彼らが結婚していたかどうかは不明。ヘレナ・ボナム=カーターは、彼らの関係の終わりを議論するときに「離婚」という言葉を使用したが、他の報道機関は結婚したことがないと述べている。 犬が大好きで、デビュー作からの犬の主演やディズニー時代には犬のキャラクターに対する滑らかな動きの描写からも窺える。 生成AIに対してかなり厳しい姿勢を示している。「AIがやることは、人々から何かを吸い取るようなことです」「魂や精神から何かを取っていくんです。非常に不穏な感じがします。特に、それが自分に関係のあるものであったら。AIは人間性や魂を奪うロボットのようです」と言っている。 『バットマン・リターンズ』の宣伝で初来日して以来、映画の宣伝のために何度も来日しており、多くのテレビ番組にゲスト出演している。2006年に来日した際には、デジタルハリウッドの東京本校で、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス ディズニーデジタル3-D』の公開を記念しての特別講義が開催された。 またバートンは日本の歌手デュオ黒色すみれのファンであり、来日時には必ず会いに行くという。 さらにヴィジュアル系ロックバンドDのファンであり、メンバーを「スペース・ヴァンパイア」と称する。プライベートパーティーにメンバーを招待するなど、親交を深めている。 宮﨑駿が金熊賞を取った際、「ずっと手描きを続けていることに驚愕する」とコメントしている。
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ティム・バートンは、アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー、脚本家、芸術家、元アニメーター。現在はイギリス・ロンドン在住。 ディズニーのアニメーターとして『トロン』などに参加後、実写短編『フランケンウィニー』を演出、1985年に『ピーウィーの大冒険』で長編映画デビューした。
{{ActorActress | 芸名 = Tim Burton | ふりがな = ティム・バートン | 画像ファイル = Tim Burton by Gage Skidmore.jpg | 画像サイズ = 280px | 画像コメント = | 本名 = Timothy Walter Burton | 別名義 = | 出生地 = {{USA1912}}<br>[[カリフォルニア州]][[バーバンク (カリフォルニア州)|バーバンク]] | 死没地 = | 国籍 = {{USA}} | 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --> | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1958 | 生月 = 8 | 生日 = 25 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[映画監督]]<br />[[演出家]]<br />[[プロデューサー]]<br />[[アニメーター]]<br />[[絵本作家]] | ジャンル = [[映画]] | 活動期間 = [[1979年]] - | 主な作品 = '''監督'''<br />『[[ピーウィーの大冒険]]』<br />『[[ビートルジュース]]』<br />『[[バットマン (映画)|バットマン]]』シリーズ<br />『[[シザーハンズ]]』<br />『[[エド・ウッド (映画)|エド・ウッド]]』<br />『[[マーズ・アタック!]]』<br />『[[スリーピー・ホロウ (映画)|スリーピー・ホロウ]]』<br />『[[ビッグ・フィッシュ]]』<br />『[[チャーリーとチョコレート工場]]』<br />『[[スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師]]』<br />『[[アリス・イン・ワンダーランド (映画)|アリス・イン・ワンダーランド]]』<br />『[[ダーク・シャドウ]]』<br />『[[フランケンウィニー (2012年の映画)|フランケンウィニー]]』<br />『[[ビッグ・アイズ]]』<br />『[[ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち (映画)|ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち]]』<br />『[[ダンボ (2019年の映画)|ダンボ]]』<hr />'''製作'''<br />『[[ナイトメアー・ビフォア・クリスマス]]』<br />『[[バットマン フォーエヴァー]]』<br />『[[ジャイアント・ピーチ]]』<br />『[[リンカーン/秘密の書]]』<br />『[[アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[第64回ヴェネツィア国際映画祭|2007年]] | 東京国際映画祭 = '''特別賞'''<br />[[第27回東京国際映画祭|2014年]] | エミー賞 = | ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第78回ニューヨーク映画批評家協会賞|2012年]]『[[フランケンウィニー]]』 | ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第38回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2012年]]『[[フランケンウィニー]]』 | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | その他の賞 = | 備考 = [[第63回カンヌ国際映画祭]] 審査委員長(2010年) }} '''ティム・バートン'''('''Tim Burton'''、本名: Timothy Walter Burton、[[1958年]][[8月25日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]、[[脚本家]]、[[芸術家]]、元[[アニメーター]]。現在は[[イギリス]]・[[ロンドン]]在住。 [[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]の[[アニメーター]]として『[[トロン (映画)|トロン]]』などに参加後、実写短編『[[フランケンウィニー (1984年の映画)|フランケンウィニー]]』を演出、[[1985年]]に『[[ピーウィーの大冒険]]』で長編映画デビューした。 == 来歴 == * [[カリフォルニア州]][[バーバンク (カリフォルニア州)|バーバンク]]で2人兄弟の長男として生まれる。 * 高校卒業後、ディズニーの奨学金を受け、[[カリフォルニア芸術大学]]に入学し、3年間[[アニメーション]]の勉強をする。 * 卒業後、[[ウォルト・ディズニー・スタジオ]]にアニメーション実習生として雇われる。 * 1978年、初仕事としてアニメーション映画『[[指輪物語 (映画)|指輪物語]]』の制作に携わる。 * 1982年、初監督作品『[[ヴィンセント (映画)|ヴィンセント]]』(6分の短編映画)を制作。 * 1984年、『[[フランケンウィニー (1984年の映画)|フランケンウィニー]]』を制作。この映画で『[[ピーウィーの大冒険]]』の監督を探していた[[ポール・ルーベンス]]から注目を受け、その監督を引き受ける。 * 1988年、『[[ビートルジュース]]』を1500万ドルで製作し、7000万ドルを超えるスマッシュヒットとなる。低予算で大きな興行成績を上げる監督として注目され、『[[バットマン (映画)|バットマン]]』の製作につながる。 * 1989年、ドイツ人の芸術家と結婚(『バットマン・リターンズ』の撮影後に離婚)。 * 1992年、モデル・女優の[[リサ・マリー]]と事実上の結婚状態に入る(2001年に破局)。 * 1993年、初の絵本『[[ナイトメアー・ビフォア・クリスマス]]』を出版。 * 2007年、[[第64回ヴェネチア国際映画祭]]で[[栄誉金獅子賞]]を受賞<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2277823?pid=2096547 ティム・バートン監督、史上最年少で特別金獅子生涯功労賞受賞、プレゼンターはジョニー・デップ!]</ref>。 * 2010年、[[第63回カンヌ国際映画祭]]で審査委員長をつとめる<ref>[https://www.moviecollection.jp/news/8902/ ティム・バートン監督が第63回カンヌ国際映画祭審査委員長に!]</ref>。 * 2015年、画集『ティム・バートンの世界』をヴィレッジ・ヴァンガード限定で一般発売<ref>[https://www.fashion-press.net/news/18012 画集『ティム・バートンの世界』が一般発売 - 1000点以上のアート作品、430ページの濃密な内容]</ref><ref>[https://vvstore.jp/feature/detail/5769/ 【ティム・バートン】画集「ナプキンアート・オブ・ティム・バートン」&「ティム・バートンの世界」]</ref>。 * 2015年、画集『ナプキンアート・オブ・ティム・バートン』をヴィレッジ・ヴァンガード限定で発売。(アジア圏では現状日本のヴィレヴァンのみの取り扱い。)<ref>[https://vvstore.jp/i/vv_000000000092156/ 【Tim Burton】画集「ナプキンアート・オブ・ティム・バートン」<ヴィレヴァン限定>]</ref> == 映画人として == === 影響 === 少年期は[[エドガー・アラン・ポー]]作品を原作とする映画に主演する[[ヴィンセント・プライス]]に熱中していた。 [[ストップモーション・アニメーション]]の第一人者である[[レイ・ハリーハウゼン]]に多大な影響を受けており、作品からもそれを伺うことができる。『[[ティム・バートンのコープスブライド]]』を製作する際には、製作チームとともにハリーハウゼンに会いに行っている。 ティム・バートンの盟友である[[ヘンリー・セリック]]はバートンの映画の作風について「[[ドクター・スース]]と[[ドイツ表現主義]]映画の融合体」と表現している<ref>『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』コレクターズ・エディション(デジタルリマスター版)ボーナス・コンテンツ「メイキング・オブ “ナイトメアー・ビフォア・クリスマス”」より</ref>。 ==== ゴジラ ==== 少年期は[[ゴジラ]]映画の役者になりたかったとも語っている。 熱烈なゴジラファンとして有名で、1992年には、映画『[[ゴジラvsモスラ]]』の制作現場を見学したことがある{{R|ゴジラ大百科}}。この時に「ゴジラの生みの親」[[田中友幸]]、特技監督の[[川北紘一]]と会見している。この年以降の数年間は、年に一度は撮影現場を見学に来ていたという。 それ以前にも、デビュー作である『[[ピーウィーの大冒険]]』に[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]と[[キングギドラ]]を登場させたり{{R|ゴジラ大百科}}、『[[シザーハンズ]]』では主人公・エドワードが植木をゴジラと思われる形に整えたり、1997年に自身が製作した『[[マーズ・アタック!|マーズ・アタック]]』にゴジラを登場させたりした{{efn|映像は1989年に製作された『[[ゴジラvsビオランテ]]』のものを流用している。}}。また同作のクライマックスも、ゴジラシリーズ第6作『[[怪獣大戦争]]』を基にしていると本人は語っている。 === 配役 === バートンが監督した映画のキャスト(脇役も含む)には、[[コメディアン]]や元コメディアンを起用することが多い。またバートン映画に起用される前に何らかの[[ホラー映画]]や[[SF映画]]、[[ファンタジー]]に出演した俳優が多い。バートンが監督した映画、テレビの音楽の多くは[[ダニー・エルフマン]]が担当している。 [[ジョニー・デップ]]とのコラボ作が『[[シザーハンズ]]』『[[チャーリーとチョコレート工場]]』『[[アリス・イン・ワンダーランド (映画)|アリス・イン・ワンダーランド]]』『[[ダーク・シャドウ]]』ほか8作と数多い。それに次いで2012年現在バートンのパートナーである[[ヘレナ・ボナム=カーター]]が7作と多い。 === カメオ出演 === [[キャメロン・クロウ]]監督の『シングルス』や、『[[バットマン・リターンズ]]』にペンギン役で出演した[[ダニー・デヴィート]]が監督をした『ホッファ』などに役者としてカメオ出演している。 == 人物 == ウォルト・ディズニー・スタジオに雇われていたころは、クローゼットの中に座り込んで出て来なくなったり、机の上に座ったり机の下に潜り込んだりといった奇行を繰り返す問題児であった<ref>[https://www.odn.ne.jp/stella/cinema/timburton01.html STELLA CINEMA 特集 :ルーツは怪奇映画?ティム・バートンとその表現 「カルトでメジャーな異能の映画監督ティム・バートン」]</ref>。無口で人づきあいが苦手で、同僚たちからは口がきけないとしばらく思われていた<ref>日本テレビ『ZIP』インタビュー 2012年12月12日{{出典無効|title=TVWATCH|date=2023年8月}}</ref>。 バートンはドイツ生まれのアーティスト、レナ・ギーゼケと結婚するが、彼らの結婚は4年後の1991年に破局。その後、モデルで女優の[[リサ・マリー]]と一緒に暮らし始め、彼女は1992年から2001年までの関係の中で彼が作った映画、「[[エド・ウッド]]」と「[[マーズ・アタック]]」にも出演した。しかしバートンは、『[[PLANET OF THE APES/猿の惑星]]』の撮影中に出会ったイギリスの女優、[[ヘレナ・ボナム=カーター]]と恋愛関係になり、リサ・マリーは非常に落胆し、2005年に、バートンが残した個人的な持ち物をオークションで売り払った。バートンと[[ヘレナ・ボナム=カーター]]の間には2人の子供がいる。2003年に産まれた息子のビリー・レイモンドは、[[ヘレナ・ボナム=カーター]]ーの父親にちなんで名付けられた。 2007年に、娘のネルが産まれる。2014年12月に、[[ヘレナ・ボナム=カーター]]のスポークスマンは彼女とバートンがその年の初めに「友好的に別れた」と言った。彼らが結婚していたかどうかは不明。[[ヘレナ・ボナム=カーター]]は、彼らの関係の終わりを議論するときに「離婚」という言葉を使用したが、他の報道機関は結婚したことがないと述べている<ref>{{cite news|url=https://people.com/celebrity/helena-bonham-carter-and-tim-burton-split/| title=Helena Bonham Carter and Tim Burton Split| first= Melody | last=Chiu| work = [[People (magazine)|People]] | date= December 23, 2014| accessdate=December 23, 2014}}</ref>。 [[イヌ|犬]]が大好きで、デビュー作からの犬の主演やディズニー時代には犬のキャラクターに対する滑らかな動きの描写からも窺える。 [[生成AI]]に対してかなり厳しい姿勢を示している。「AIがやることは、人々から何かを吸い取るようなことです」「魂や精神から何かを取っていくんです。非常に不穏な感じがします。特に、それが自分に関係のあるものであったら。AIは人間性や魂を奪うロボットのようです」と言っている<ref>https://jp.ign.com/entertainment/70415/news/ai</ref>。 === 日本との関係 === 『[[バットマン・リターンズ]]』の宣伝で初来日して以来、映画の宣伝のために何度も来日しており、多くのテレビ番組にゲスト出演している。2006年に来日した際には、[[デジタルハリウッド]]の東京本校で、『[[ナイトメアー・ビフォア・クリスマス|ナイトメアー・ビフォア・クリスマス ディズニーデジタル3-D]]』の公開を記念しての特別講義が開催された。 またバートンは日本の歌手デュオ[[黒色すみれ]]のファンであり、来日時には必ず会いに行くという。 さらにヴィジュアル系ロックバンドDのファンであり、メンバーを「スペース・ヴァンパイア」と称する。プライベートパーティーにメンバーを招待するなど、親交を深めている。 [[宮﨑駿]]が[[金熊賞]]を取った際、「ずっと手描きを続けていることに驚愕する」とコメントしている<ref>宮﨑駿『折り返し点』p.378</ref>。 == 作品リスト == === 映画 === ==== 監督 ==== * [[ヴィンセント (映画)|ヴィンセント]] ''Vincent''(1982年)監督/原案 * [[フランケンウィニー (1984年の映画)|フランケンウィニー]] ''Frankenweenie''(1984年)監督/原案 * [[ピーウィーの大冒険]] ''Pee-wee's Big Adventure''(1985年)監督 * [[ビートルジュース]] ''Beetlejuice''(1988年)監督 * [[バットマン (映画)|バットマン]] ''Batman''(1989年)監督 * [[シザーハンズ]] ''Edward Scissorhands''(1990年)監督/製作/原案 * [[バットマン・リターンズ]] ''Batman Returns''(1992年)監督/製作 * [[エド・ウッド (映画)|エド・ウッド]] ''Ed Wood''(1994年)監督/製作 * [[マーズ・アタック!]] ''Mars Attacks!''(1996年)監督/製作 * [[スリーピー・ホロウ (映画)|スリーピー・ホロウ]] ''Sleepy Hollow''(1999年)監督 * [[PLANET OF THE APES/猿の惑星]] ''Planet of the Apes''(2001年)監督 * [[ビッグ・フィッシュ]] ''Big Fish''(2003年)監督 * [[チャーリーとチョコレート工場]] ''Charlie and the Chocolate Factory''(2005年)監督 * [[ティム・バートンのコープスブライド]] ''Corpse Bride''(2005年)監督(共同)/製作 * [[スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師]] ''Sweeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street ''(2007年)監督 * [[アリス・イン・ワンダーランド (映画)|アリス・イン・ワンダーランド]] ''Alice in Wonderland''(2010年)監督/製作 * [[ダーク・シャドウ]] ''Dark Shadows''(2012年)監督/製作 * [[フランケンウィニー (2012年の映画)|フランケンウィニー]] ''Frankenweenie''(2012年)監督/製作{{efn|自身の短編映画『[[フランケンウィニー (1984年の映画)|フランケンウィニー]]』(1984年)のリメイク。}} * [[ビッグ・アイズ]] ''Big Eyes''(2014年)監督/製作 * [[ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち (映画)|ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち]] ''Miss Peregrine's Home for Peculiar Children''(2016年)監督 * [[ダンボ (2019年の映画)|ダンボ]] ''Dumbo''(2019年)監督/製作 * ''[[ビートルジュース2|Beetlejuice 2]]''(2024年)監督/製作 ==== 製作 ==== * キャビン・ボーイ/航海、先に立たず(1993年)製作 * [[ナイトメアー・ビフォア・クリスマス]] ''The Nightmare Before Christmas''(1993年)製作/原案 * [[バットマン・フォーエヴァー]] ''Batman Forever''(1995年)製作 * [[ジャイアント・ピーチ]] ''James and the Giant Peach''(1996年)製作 * [[9 〜9番目の奇妙な人形〜]] ''9''(2009年)製作 * [[リンカーン/秘密の書]] ''Abraham Lincoln: Vampire Hunter''(2012年)製作 * [[アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅]] ''Alice Through the Looking Glass''(2016年)製作/製作総指揮 ==== 出演 ==== * [[シングルス (映画)|シングルス]] ''Singles''(1992年)カメオ出演 * [[ホッファ]] ''Hoffa''(1992年)カメオ出演 * マリオ・バーヴァ 地獄の舞踏 ''Mario Bava: Maestro of the Macabre''(2000年)テレビ映画、出演 ** イタリアのホラー映画監督[[マリオ・バーヴァ]]のドキュメンタリー。 === テレビ === * [[ヘンゼルとグレーテル (テレビドラマ)|ヘンゼルとグレーテル]] ''Hansel and Gretel''(1982年)監督 * 新ヒッチコック劇場 ''[[:en:Alfred Hitchcock Presents (1985 TV series)|Alfred Hitchcock Presents]]''(1985年 - 1989年) ** シーズン1、エピソード19<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.imdb.com/title/tt0508431/?ref_=ttep_ep19|title="ヒッチコック劇場" The Jar (TV Episode 1986) - IMDb|publisher=[[IMDb]]|language=en|accessdate=2023-12-15}}</ref>「ビン詰めの魔物」"The Jar"(1986年)監督 * [[フェアリーテール・シアター]] ''Faerie Tale Theatre''(1982年 - 1987年) ** シーズン5、エピソード1「[[ティム・バートンのアラジンと魔法のランプ]]」"Aladdin and His Wonderful Lamp"(1986年)監督 * [[世にも不思議なアメージング・ストーリー]] ''Amazing Stories''(1985年 - 1987年) ** シーズン2、エピソード16「ワンワン騒動記」"Family Dog"(1987年)キャラクター・デザイン *** 日本では1987年8月1日に『[[アメリカ物語]]』と併映で、アメリカでは1988年11月18日に『[[リトルフット]]』と併映でそれぞれ劇場公開された。 *** スピンオフとしてテレビアニメシリーズ''[[:en:Family Dog (TV series)|Family Dog]]''(1993年)も製作され製作総指揮を務めた。 * [[ウェンズデー (テレビドラマ)|ウェンズデー]] ''Wednesday''(2022年)監督/製作総指揮 === そのほか === * ノーム・イン・ザ・ガーデン ''Gnome in the Garden''(1998年)テレビコマーシャル、監督 * TIMEX ''TIMEX''(2000年)テレビコマーシャル、監督 * ステインボーイ ''The World of Stainboy''(2000年)Webアニメーション、脚本/監督 * [[ザ・キラーズ]]/「BONES」 ''BONES''(2006年)ミュージック・ビデオ、監督 === アニメーター時代 === * [[マペットの夢みるハリウッド]] ''The Muppet Movie''(1979年)マペット・パフォーマー(クレジットなし) * [[きつねと猟犬]] ''The Fox and the Hound''(1981年)アニメーター(クレジットなし) * [[トロン (映画)|トロン]] ''Tron''(1982年)アニメーター(クレジットなし) * [[コルドロン]] ''The Black Cauldron''(2985年)コンセプチュアル・アーティスト(クレジットなし) * [[トイズ (映画)|トイズ]] ''Toys''(1992年)コンセプチュアル・アーティスト(クレジットなし) == 著作 == * 絵本『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(ビリケン出版、新版1999年 {{ISBN2|978-4939029066}}) * 絵本『オイスターボーイの憂鬱な死』(狩野綾子・津田留美子訳、アップリンク、1997年 {{ISBN2|978-4309902913|}}) * 画集『ティム・バートンの世界 The Art of Tim Burton』(2010年) * 画集『ナプキンアート・オブ・ティム・バートン』(2015年) === 関連出版 === * 『ティム・バートン[映画作家が自身を語る]』(マーク・ソールズベリー編、[[遠山純生]]訳、フィルムアート社、1996年、改訂版2011年 {{ISBN2|978-4-8459-1172-1}}) * 『ティム・バートンの不思議な世界』([[洋泉社]]ムック、2010年 {{ISBN2|978-4862485595}}) * イアン・ネイサン『ティム・バートン 鬼才と呼ばれる映画監督の名作と奇妙な物語』(富永和子・富永晶子訳、玄光社、2019年 {{ISBN2|9784768309735}}) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="ゴジラ大百科">{{Cite book|和書|others=監修 田中友幸、責任編集 川北紘一|title=ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 新モスラ編|publisher=Gakken|series=Gakken MOOK|date=1992-12-10|page=141|chapter=ゴジラ映画を100倍楽しむ100のカタログ 60 外国映画人のゴジラマニアたち}}</ref> }} == 外部リンク == {{Commonscat|Tim Burton}} * {{Official|www.timburton.com}}{{en icon}} * {{Twitter|TimBurton_JP}} * {{allcinema name|7132|ティム・バートン}} * {{Kinejun name|25031|ティム・バートン}} * {{IMDb name|0000318|Tim Burton}} {{ティム・バートン監督作品}} {{ゴス}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はあとん ていむ}} [[Category:アメリカ合衆国の映画監督]] [[Category:アメリカ合衆国の映画プロデューサー]] [[Category:アメリカ合衆国のアニメーション監督]] [[Category:ディズニーの人物]] [[Category:ストップモーション・アニメーター]] [[Category:ゴシック・フィクション]] [[Category:在イギリス・アメリカ人]] [[Category:イングランド系アメリカ人]] [[Category:バーバンク出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]]
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ポータルサイト
ポータルサイト(英: portal site)とは、WWWにアクセスするときの入口となるウェブサイトのこと。 元々ポータルとは、門や入口を表し、特に大きな建物の門に使われた言葉である。このことから、ウェブにアクセスするために、様々なコンテンツを有する、巨大なサイトをポータルサイトというようになった。 ポータルサイトは、検索エンジン、ウェブディレクトリ、ニュース、オンライン辞書、天気予報、Webメールサービスなどのサービスを提供し、利用者の便宜を図っている。 ポータルサイトのビジネスモデルは、サイトの集客力を生かして広告や有料コンテンツで収入を得ることである。1996年以降のインターネットブームに乗じて、多くのポータルサイトが乱立したが、その後は統廃合が進んだ。初期のポータルサイトは自前で検索エンジンやウェブディレクトリを運用していたが、情報の肥大化に対応しきれずアウトソーシングが多くなった。 特定の地域サービスに特化した地域ポータルサイトや、インターネットサービスプロバイダ(プロバイダ)のサービス情報サイト、育児、環境、文化、音楽、生き方などにテーマを絞ったポータルサイトもある。 近年、ポータルサイトから派生した、企業ポータルが関心を高めている。企業に散らばっている様々なデータや情報を効率的に探したり利用するためにパソコンの画面上にこれら情報やアプリケーションをポートレットとして集約表示する技術がでてきた。画面は利用者の要求によって自由にレイアウトを変更でき、例えば社長用の画面、部長用の画面、営業用の画面、技術者用の画面など、それぞれの職種・役割に応じた最適画面を作れる。代表的なポータル製品としては、IBMの WebSphere Portal やマイクロソフト社の SharePoint などがある。また、代表的なオープンソースソフトウエアとしては、Liferay などがある。
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ポータルサイトとは、WWWにアクセスするときの入口となるウェブサイトのこと。
{{出典の明記|date=2017年8月}} '''ポータルサイト'''({{lang-en-short|portal site}})とは、[[World Wide Web|WWW]]にアクセスするときの入口となる[[ウェブサイト]]のこと。 == 概要 == 元々ポータルとは、門や入口を表し、特に大きな建物の門に使われた言葉である。このことから、ウェブにアクセスするために、様々なコンテンツを有する、巨大なサイトをポータルサイトというようになった。 ポータルサイトは、[[検索エンジン]]、[[ウェブディレクトリ]]、[[ニュースサイト|ニュース]]、[[電子辞書|オンライン辞書]]、[[天気予報]]、[[Webメール]]サービスなどのサービスを提供し、利用者の便宜を図っている。 ポータルサイトの[[ビジネスモデル]]は、サイトの集客力を生かして広告や有料コンテンツで[[収入]]を得ることである。[[1996年]]以降のインターネットブームに乗じて、多くのポータルサイトが乱立したが、その後は統廃合が進んだ。初期のポータルサイトは自前で検索エンジンやウェブディレクトリを運用していたが、情報の肥大化に対応しきれず[[アウトソーシング]]が多くなった。 特定の地域サービスに特化した地域ポータルサイトや、[[インターネットサービスプロバイダ]](プロバイダ)のサービス情報サイト、育児、環境、文化、音楽、生き方などにテーマを絞ったポータルサイトもある。 ===企業ポータル=== {{main|エンタープライズポータル}} 近年、ポータルサイトから派生した、[[企業ポータル]]が関心を高めている。企業に散らばっている様々なデータや情報を効率的に探したり利用するためにパソコンの画面上にこれら情報やアプリケーションを[[ポートレット]]として集約表示する技術がでてきた。画面は利用者の要求によって自由にレイアウトを変更でき、例えば社長用の画面、部長用の画面、営業用の画面、技術者用の画面など、それぞれの職種・役割に応じた最適画面を作れる。代表的なポータル製品としては、[[IBM]]の {{lang|en|WebSphere Portal}} や[[マイクロソフト]]社の {{lang|en|SharePoint}} などがある。また、代表的なオープンソースソフトウエアとしては、{{lang|en|[[Liferay]]}} などがある。 == 日本語の主なポータルサイト == {{columns-list|3| * [[はてな (企業)|はてな]] * [[フレッシュアイ]] * [[AOL|AOL.JP]] * [[BIGLOBE]] * [[エキサイト|Excite]] * [[goo]] * [[Google]] * [[Microsoft Bing]] * [[インフォシーク|Infoseek]] * [[MSN]] * [[OCN]] * [[Yahoo! JAPAN]] * [[ニフティ#@nifty|@nifty]] }} == API複合型ポータルサイト == * [[Xhome]] * [[Rimo]] == 統合型メタ検索ポータルサイト == * [[Ceek.jp]] == 非統合型メタ検索ポータルサイト == * [[検索デスク]] * [[DuckDuckGo]] == 関連項目 == * [[World Wide Web]] * [[ウェブサイト]] * [[検索エンジン]] * [[ウェブディレクトリ]] * [[オンライン新聞]] * [[フリーペーパー]] * [[テレビ向けポータル]] * [[エンタープライズポータル]] {{ポータルサイト}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほおたるさいと}} [[Category:ポータルサイト|*]] {{Internet-stub}}
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藍藻
藍藻(ラン藻、らんそう、英: blue-green algae)またはシアノバクテリア (藍色細菌、らんしょくさいきん、英: cyanobacteria)は、酸素発生を伴う光合成(酸素発生型光合成)を行う細菌の一群である。 藍藻は系統的には細菌ドメイン(真正細菌)に属する原核生物であるが、歴史的には「植物」に分類されていた(植物#リンネ以降参照)。藻類に分類されていたことから、国際細菌命名規約ではなく国際藻類・菌類・植物命名規約に基づき命名されてきた。藍藻は現在でも藻類の一員として扱われることが多いが、原核生物である点で他の藻類や陸上植物(どちらも真核生物)とは系統的に大きく異なる。しかし、陸上植物のものも含めて全ての葉緑体は細胞内共生において取り込まれた藍藻に由来すると考えられており、藍藻は植物の起源を考える上で重要な存在である。 単細胞、群体、または糸状体であり(図1)、原核生物としては極めて複雑な体をもつものもいる(→#体制)。光合成色素としてふつう青いフィコシアニンを多くもつため、クロロフィルの緑色と合わせて青緑色(藍色)をしていることが多く、学名や英名の「cyano-」はギリシア語で「青色」を意味する κυανός (kyanós) に由来する(→#光合成)。藍藻のフィコシアニンは、青い天然色素として広く利用されている(アイスキャンディーなど)。藍藻は海から淡水、陸上に広く生育し、生産者や窒素固定者として生態系において重要な役割を担っている(→#生態)。またアオコや健康食品などの形で人間生活とも密接に関わっている(→#人間との関わり)。 藍藻は、地球上に初めて現れた酸素発生型光合成生物であったと考えられている(およそ25–30億年前)。藍藻の光合成によって、地球上に初めて酸素と有機物が安定的に供給されるようになり、現在へとつながる生態系の基礎が築かれた。酸素発生型光合成というシステムは、細胞内共生(一次共生)を経て葉緑体の形で真核生物に受け継がれ、多様な真核藻類(および陸上植物)のもとともなった(→#進化)。細菌の中には、他にも光合成を行うグループが存在するが(光合成細菌と総称される)、酸素発生を伴う光合成を行うのは藍藻のみであり、他の光合成細菌は非酸素発生型の光合成 (anoxygenic photosynthesis) を行う。 分類学的には、シアノバクテリア門(藍色細菌門、学名: Cyanobacteria)に分類される。2019年現在、メタゲノム研究(水などのサンプルから直接抽出したDNAに基づくゲノム研究であり、培養できない生物の性質を推定できる)から、藍藻に近縁であるが光合成能をもたない細菌群がいくつか見つかっている(メライナバクテリアなど)。これらの細菌群も光合成を行う藍藻とともにシアノバクテリア門に分類されることがあるが、以下では主に光合成を行う藍藻についてのみ概説する。 藍藻の中には、単細胞性、群体性、糸状性の種がいる(下図2)。藍藻の多くは肉眼では判別できない微細藻であるが、群体性や糸状性の藍藻の中には、肉眼で見えるほどの大きさになるものもいる(下図6a)。 細胞が密接して列状に連なっているもの (上図5)。伝統的に、糸状性の藍藻において細胞列をトリコーム(細胞糸 trichome)、1本から複数のトリコームが共通の外被に包まれたものを糸状体 (filament) とよぶ。また多数のトリコームが共通の粘液質で包まれた巨視的な群体を形成するものもいる(例: ネンジュモ属、図6)。細胞が単列 (uniseriate) に並んでいるものが多いが、多列 (multiseriate) に並んでいるものもいる(例: スチゴネマ属 Stigonema)(上図5g)。トリコームの末端の細胞はふつう他の細胞とはやや異なる形をしており (上図1g)、特に先端が肥厚している場合はカリプトラ(頂冠 calyptra)とよばれる。一部の種では、トリコームが異極性を示す(上図5d)。例えばヒゲモ属 (Rivularia) などでは、トリコームの基部に異質細胞が存在し、トリコーム先端の細胞が細長く伸びている。この場合、基部の異質細胞で窒素固定、頂端部でリン吸収を行う (つまり細胞間で形態分化とともに機能分化を示す)。トリコームは無分枝 (unbranching) であるものが多いが(上図5a, c, d)、一部は偽分枝または真分枝をする。偽分枝 (false branching) とは、トリコームの途中が分断し (ふつう細胞死による)、その一端または両端が細胞列から外れて伸長することによって形成された分枝様の構造のことである(上図5e, 図7右)。一方、真分枝 (true branching) とは、トリコームを構成する細胞が2方向以上で分裂することによって形成された分枝である(上図5b, f, g, 図7左)。分枝する種の中には、匍匐糸と直立糸の分化などの異糸性 (heterotrichous) を示すものもいる(例: Fischerella)。糸状性の藍藻は、しばしば(全てではない)細胞分化(先端の細胞、異糸性、異質細胞やアキネートなど)や細胞死を伴う形態形成(偽分枝、連鎖体形成など)、細胞間の連絡(ペリプラズムの共有やセプトソーム)を示し、原核生物ではあるものの真の多細胞体ともいえる体をもつ場合がある。 藍藻の細胞は直径1マイクロメートル (μm) 以下のこともあるが、原核生物としては大型のものが多く、直径 100 μm に達するものもいる。 典型的なグラム陰性細菌 (大腸菌など) と同様、藍藻の細胞壁は、ペプチドグリカン層 (peptideglycan layer) と、その外側を覆う外膜 (outer membrane) からなる。ペプチドグリカン層は、アミノ糖であるNーアセチルグルコサミンとNーアセチルムラミン酸が交互に連なった糖鎖が、オリゴペプチドで架橋された物質であるペプチドグリカン(ムレイン murein)からなる。藍藻のペプチドグリカン層は、一般的なグラム陰性細菌のそれにくらべて厚いことが多く(12–700ナノメートル (nm))、またオリゴペプチドの架橋が多い(グラム陽性細菌的な特徴)。ペプチドグリカン層が存在する細胞膜と外膜の間の空間は、ペリプラズム (periplasm) とよばれる。外膜は、細胞膜と同じく脂質二重層であるが、外側の層には糖鎖が結合した脂質(リポ多糖 lipopolysaccharide, LPS)が含まれる。他のグラム陰性細菌ではリポ多糖は毒となることがあり(内毒素)、藍藻がもつ外膜のリポ多糖にもその可能性が指摘されている。 糸状性藍藻のトリコームでは、細胞列は共通の外膜に包まれており、またペプチドグリカン層を共有している。細胞間には、ペプチドグリカン層を貫通して隣接する細胞の細胞膜同士をつなぐ連結構造であるセプトソーム(septosome、隔壁結合 septal junction、微細原形質連絡 microplasmodesmata)が多数存在する。セプトソームは長さ 25 nm、外径 15 nm、内径 6 nmほどであり、おそらく細胞間での低分子物質輸送に関与している。 外膜の外側には、結晶性の糖タンパク質からなる層が存在することがあり、S層 (surface layer, S-layer) とよばれる。このような糖タンパク質層は、細胞の保護、物質透過、接着、認識、運動、被食防御などに関与していると考えられている。 さらに細胞は、タンパク質や細胞外多糖 (exopolysaccharide) からなる細胞外高分子物質 (extracellular polymeric substance, EPS) によって覆われることがある。細胞外高分子物質は、その厚さや形態、性状に応じて、鞘(sheath; 薄く緻密で光学顕微鏡下で明瞭な構造; 上図8b, c)、夾膜 (capsule; 厚く均質で輪郭が明瞭な構造)、粘液質(slime; 細胞に沿った形を示さない不定形の構造; 上図8a)ともよばれる。多数の個体が細胞外高分子物質からなる共通の基質に包まれ、群体やバイオフィルムを形成することもある。このような外被には、無機栄養分の貯蔵、乾燥耐性、紫外線耐性、浮力増大、被食防御などの機能があると考えられている。細胞外高分子物質に含まれる紫外線吸収色素として、スキトネミン (scytonemin)やグロエオカプシン (gloeocapsin)、マイコスポリン様アミノ酸 (mycosporine-like amino acid, MAA)などが知られている。また細胞外被が石灰化(炭酸カルシウムが沈着)することがあり、おそらく光合成における二酸化炭素濃縮機構と関連している。このような石灰化によって、ストロマトライトが形成されることがある。 藍藻は原核生物であり、DNAは核膜に包まれず、また葉緑体やミトコンドリア、ゴルジ体などの細胞小器官をもたない。細胞内で生体膜に包まれた構造としては、光合成における光化学反応の場であるチラコイドのみが存在する。チラコイドは扁平な袋であり、ふつう重なることなく、細胞内で同心円状(下図9)、放射状または不規則に配置する。ふつうチラコイドには、フィコビリンタンパク質からなるフィコビリソームが付着している(下図9a, 11a)。一部の藍藻(原核緑藻)はフィコビリソームを欠き、チラコイドが重なってラメラを形成している(下図9b)。藍藻では、酸素呼吸における呼吸鎖の酵素もチラコイド上に存在することがある(一部の酵素を光化学系と共有する)。最も初期に分かれた藍藻であるグロエオバクター属 (Gloeobacter) はチラコイドをもたず、光化学系は(呼吸鎖とともにパッチ状に)細胞膜上に存在する。プロクロロン属 (Prochloron) では、チラコイドの一部が膨潤して液胞状になることがある。チラコイドは、細胞膜と直接つながることはないと考えられていたが、現在では”チラコイド形成中心” (thylakoid center) が細胞膜上に存在することが示されている。光学顕微鏡下では、チラコイドが存在する細胞周縁部が色付き、チラコイドを欠く中心域が淡色に見えることがあり、伝統的に前者を有色質 (chromoplasm)、後者を中心質 (centroplasm) とよぶ。中心質にはふつうDNAが存在するため(下図9a)、この領域は核質 (nucleoplasm) ともよばれる(ただし藍藻の中には、DNAが細胞周縁部に存在する例もある)。 細胞内にはカルボキシソーム (carboxysome, polyhedral body) とよばれる直径200–700 nm ほどのタンパク質顆粒が存在する(上図9b, c)。カルボキシソームは主にルビスコや炭酸脱水酵素からなり、殻タンパク質で包まれている。カルボキシソームは、おそらく効率的な二酸化炭素濃縮機構に関わっており(重炭酸イオンから二酸化炭素を生成)、このため藍藻はほとんど光呼吸を示さない。ただし、おそらく特異なグリコール酸代謝経路をもつ。カルボキシソームは、炭素固定を行う他の細菌(光合成細菌や化学合成細菌)に見られることもある。 ふつう貯蔵多糖としてグリコーゲンが存在するが、α-1,6結合の分枝が少ないセミアミロペクチンやアミロースをもつものもいる。このような藍藻が貯蔵するα-グルカンは、藍藻デンプン (cyanophycean starch) ともよばれる。多くの藍藻は、アルギニンとアスパラギン酸からなる非リボソームペプチドであるシアノフィシン(下図10a)の顆粒(藍藻顆粒 cyanophycin granule)をもち、おそらく窒素貯蔵体としている(下図10b)。ただし光合成に機能するフィコビリソームを窒素貯蔵体としていることもある(窒素欠乏下ではフィコビリソームが分解され、これに由来する窒素を利用する)。細胞内には、油滴やポリリン酸体(polyphosphate body; リン貯蔵体として機能; 上図9c, 下図10c)などもふつうみられる。またβ-ヒドロキシブチレート重合体(バイオプラスチックの一種) や炭酸カルシウム(下図10c)を細胞内に貯めるものも知られている。 プランクトン性藍藻の中には、ガス胞 (gas vesicle) をもつものがいる。ガス胞は細長い小胞であり、多数のガス胞が平行に密集して"エアロトープ" (aerotope, gas vacuole) を形成している。ガス胞の膜は脂質ではなく、タンパク質からなる。この膜は水を透過しないため、ガス胞は空気で満たされ比重が軽くなり、細胞は浮くことができる。つまりガス胞は細胞中の気泡のようなものであり、水と屈折率が異なるため光学顕微鏡下では目立つ(上図10b, 下図12)。光合成産物の増加やイオン取り込みによって細胞内の膨圧が高くなるとガス胞はつぶれて細胞は沈降し、そこで光合成産物の消費やイオン排出によって膨圧が低下すると再びガス胞が膨らんで細胞は浮上する。ガス胞は藍藻に特有の構造ではなく、他のプランクトン性原核生物に見られることもある。 藍藻は、酸素発生型光合成を行う唯一の原核生物群である。藍藻は2種類の光化学系(光化学系IとII)をもつ点で、光合成を行う他の細菌(非酸素発生型光合成を行う)とは異なる。緑色硫黄細菌(クロロビウム門)やヘリオバクテリア(フィルミクテス門)は光化学系Iと相同な鉄硫黄型反応中心のみを、紅色細菌(プロテオバクテリア門)や緑色非硫黄細菌(クロロフレクサス門)は光化学系IIと相同なキノン型反応中心のみをもつ。直列した2種類の光化学系をもつことが、酸素発生型光合成(水を分解する)を可能にしていると考えられている。 知られている限り、全ての藍藻は好気環境下で酸素発生型光合成を行う。ただし、嫌気環境下で非酸素発生型光合成(光化学系Iを使用し、硫化水素を電子供与体として硫黄を生成)を行う例が知られている。また連続暗黒下でも、有機物を利用した従属栄養を行って生育可能な種(通性光独立栄養性)もいる。Synechocystis sp. PCC 6803 など従属栄養能をもつ藍藻は、光合成遺伝子の変異が致死的にならないため(光合成しなくても生きていける)、光合成研究のモデル生物として広く用いられている。またメタゲノム研究(海水などの環境から直接抽出したDNAをもとにしたゲノム解析)から、光合成能を含め代謝的に不完全(光化学系II、ルビスコ、クエン酸回路などの欠失)な藍藻 (UCYN-A, unicellular cyanobacteria group A) の存在が示されているが、これは他生物に共生して栄養的に依存して生きているものと考えられている。古くは「無色の藍藻」が報告されているが、少なくともその一部は全く別の細菌群に属することが明らかとなっている(例: ベッギアトア属)。 ほとんどの藍藻は、クロロフィル a をもつ。一部の藍藻は、クロロフィル a に加えて、クロロフィル b、d、または f をもつ。クロロフィル d や f は生物の中で一部の藍藻のみがもつ色素であり、人間の目には見えない近赤外光を光合成に利用できる。クロロフィル b(または類似色素)をもつ藍藻は、原核緑藻ともよばれる。原核緑藻のプロクロロコックス属 (Prochlorococcus) はクロロフィル a の代わりにジビニルクロロフィル a をもつ点で特異な存在であり、光合成の反応中心でジビニルクロロフィル a を用いる唯一の生物である。またアカリオクロリス属 (Acaryochloris) はクロロフィル a 量が少なく、反応中心でクロロフィル d を用いている。 ほとんどの藍藻は、光合成アンテナ色素タンパク質であるフィコビリンタンパク質をもつ。藍藻において、フィコビリンタンパク質はフィコビリソームを形成し、チラコイドに付着している。フィコビリソームの中央にはアロフィコシアニンからなるコアが位置し、そこからフィコシアニンとフィコエリスリン(後者を欠くこともある)からなるロッドが伸びている(図11a)。ふつう青色のフィコシアニンの割合が多いため、「藍藻」の名が示すように青緑色を呈する。しかし中には赤色のフィコエリスリンを多くもつため、紫色から赤色を呈する種もいる(図2, 11b)。またフィコエリスリンの代わりにフィコエリスロシアニンをもつものもいる。原核緑藻とよばれる藍藻はフィコビリンをほとんどもたないため、クロロフィルの色である緑色がそのまま見える(図11b)。 藍藻がもつカロテノイドとしては、β-カロテン、ゼアキサンチン、エキネノン、ミクソキサントフィル(ミクソール配糖体)が一般的だが、α-カロテン、カンタキサンチン、ノストキサンチン、オシラキサンチン(オシロール配糖体)などをもつものも報告されている。 藍藻の炭素固定はカルビン回路によって行われる。藍藻のもつルビスコ(リブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ)には2タイプが知られる。多くの藍藻は、緑色植物などがもつものと相同な Form IB ルビスコをもつ。このような藍藻は β-シアノバクテリア、Form IB ルビスコからなるカルボキシソームは β-カルボキシソーム とよばれる。一方、一部の藍藻(プロクロロコックス属など)は、一部のプロテオバクテリアのものと相同な Form IA ルビスコをもつ(おそらく遺伝子水平伝播による)。このような藍藻は α-シアノバクテリア、Form IA ルビスコからなるカルボキシソームは α-カルボキシソーム とよばれる。 藍藻において、酸素呼吸の電子伝達系(呼吸鎖)は細胞膜やチラコイドに存在し、後者の場合は、光合成の光化学系とタンパク質を一部共有している(プラストキノン)。また酸素呼吸におけるクエン酸回路(TCA回路)のオキソグルタル酸デヒドロゲナーゼを欠いており、この部分を別の酵素によって代謝している。 窒素は、タンパク質や核酸の原料として全ての生物にとって必須な元素である。窒素は窒素分子の形 (N2) で空気中に大量に存在するが、全ての真核生物を含む多くの生物は、窒素分子を直接利用することはできない。しかし原核生物の中には、窒素分子をアンモニアに変換できるものがおり、この反応は窒素固定 (nitrogen fixation) とよばれる。藍藻の中にも窒素固定が可能なものがおり、生態系において重要な役割を担っている(他の生物が利用可能な窒素栄養分の供給)。窒素を固定する酵素であるニトロゲナーゼは酸素に弱いため、酸素発生型光合成と窒素固定を1つの細胞で同時に行うことはできない。それに対応して、藍藻は以下のように光合成と窒素固定を分けて行っている。 一部の藍藻では、光が当たる日中に光合成を行い、光がない夜間に窒素固定を行う。糸状性のアイアカシオ属 (Trichodesmium) では、窒素固定を行う細胞 (diazocyte) とふつうの栄養細胞が分化しており、光合成と窒素固定を同時に異なる細胞で行うことが可能になっている。この例では細胞の形態的分化は顕著ではないが、ネンジュモ目の藍藻は、異質細胞(heterocyte, ヘテロシスト heterocyst)とよばれる形態的にも極めて特殊化した窒素固定用の細胞を形成する(上図10b, 図12)。異質細胞は光化学系の一部を欠くため細胞内に酸素が発生せず、また酸素を通さない厚い細胞壁で囲まれている。隣接する栄養細胞と接する部分では、異質細胞の細胞質は極めて細くなっており、またその部分にはときに光学顕微鏡で確認できる程の大きなシアノフィシン顆粒(極節 polar nodule)が存在する(上図10b, 図12)。異質細胞で固定された窒素はグルタミンの形で隣接細胞へ輸送され、隣接細胞からはその材料であるグルタミン酸やエネルギー源である糖(窒素固定は大量のATPを消費する)が供給される。異質細胞は通常の栄養細胞から分化するが、種によってその位置や間隔はほぼ一定であり、重要な分類形質となっている。異質細胞が分泌するペプチドによって周囲の細胞が異質細胞になることが抑制され、これによって異質細胞の間隔が一定になる例が知られている。 他の原核生物と同様、藍藻は環状DNAからなるゲノムをもち、また本来のゲノムDNAに加えて、小さな環状DNA(プラスミド)をもつこともある。ただし一般的な原核生物とは異なり、多くの場合ゲノム(環状DNA分子)が複数コピー存在する。多くの藍藻でゲノム塩基配列が報告されており、特に Synechocystis sp. PCC 6803 は生物として4番目、酸素発生型光合成生物として初めてゲノムが解読された。知られているものの中では、ゲノムサイズは 1.7 - 9 Mbp(Mbp = 100万塩基対)ほどであり(さらにおそらく 15 Mbp に達するものもいる)、1,700–7,000個ほどの遺伝子をもつ。この中には、一部の真核生物のゲノムより大きく多数の遺伝子をもつものもいる。 藍藻は、真核藻類にくらべて形質転換など分子生物学的解析が比較的容易なものが多く、光合成研究などのモデル生物として広く用いられている。よく用いられる藍藻として、Synechocystis sp. PCC 6803(図13)、Thermosynechococcus elongatus、Synechococcus elongatus PCC 6301、Cyanothece sp. ATCC 51142、Anabaena sp. PCC7120、Nostoc punctiforme などがある(PCC, ATCC は微生物株保存機関の略号)。 藍藻は鞭毛(細菌型)をもたないが、細胞外被(S層)の糖タンパク質による遊泳運動や、線毛による匍匐運動を行うものが知られている。また藍藻において最もよく知られた運動は、多くの糸状性藍藻が示す滑走運動 (gliding movement) である。直線的な運動だけではなく、トリコームが揺れたりする運動もよく見られ(図14)、ユレモ属 (Oscillatoria) の和名、学名ともこの姿に由来する(oscillatio = 振動)。この運動は粘液多糖の噴射または糖タンパク質性外被(S層)が関係していると考えられている。 また藍藻からは、シアノバクテリオクロム (cyanobacteriochrome) やフラビン結合タンパク質、細菌型ロドプシンなどさまざまな光受容体が見つかっている。このような光受容体は、走光性や光屈性、補色馴化、細胞分化など光によって制御される現象に関わっている。 藍藻は基本的に二分裂によって増殖(図15a)、または群体や糸状体の成長を行い、群体や糸状体はその分断化によって増殖する。一部の種は、外生胞子(exospore, エクソサイト exocyte; 図16a)や内生胞子(endospore, ベオサイト baeocyte; 図16b)を形成して無性生殖を行う。 糸状性の藍藻では、ときに単純な分断化、または細胞死による隔盤 (separation disc, necridium) 形成によって糸状体の一部が切り離され、連鎖体(ホルモゴニア; hormogonium, pl. hormogonia)とよばれる短い細胞糸が形成される。連鎖体は走光性、滑走運動能、またはガス胞などをもち、散布体として機能する。 ネンジュモ目の種は、特殊化した休眠細胞であるアキネート (akinete) を形成することがある(図16c)。アキネートには異質細胞と共通する特徴(細胞壁成分、光化学系IIの非発現、スーパーオキシドジスムターゼの低活性など)があり、その分化には共通のシステムがあると考えられている。 藍藻は原核生物であり、有性生殖は行わない。ただし、外界のDNAを取り込むことや(形質転換)、ウイルス(藍藻のウイルスは特にシアノファージ cyanophage とよばれる)(図15b)によるDNA注入(形質導入)によって、遺伝子水平伝播が頻繁に起こっていることが示唆されている。 藍藻は海、淡水、さらに陸上環境にも広く生育しており、藍藻がいない環境を探すのは難しい。量的にも多く、その生物量は10億トンに達するとの試算もある。一般的に、真核藻類にくらべて温度、pHが高い環境を好む傾向があるが、低温や酸性環境に生育する藍藻も少なくない。また真核藻類にくらべて、低照度で生育可能なものが多い。 貧栄養の海域(つまり沿岸域や高緯度地域を除く多くの海域)では、ピコプランクトン性(直径 2 μm 以下)の藍藻(シネココックス属 Synechococcus やプロクロロコックス属 Prochlorococcus) が主要な生産者となっていることが多い(下図17a, b)。このような環境では、表層から真光層下部(水深 200 m 付近)まで、それぞれの光条件に適応したピコプランクトン性藍藻がすみ分けている。このようなピコプランクトン性藍藻は地球上で最も個体数が多い生物であると考えられており、シネココックス属で年平均 7.0 × 10 細胞、プロクロロコックス属で年平均 2.9 × 10 細胞と試算され、その純一次生産量は 12 Gt 炭素/年、海洋の全純一次生産量の25.2%に達すると推定されている。熱帯海域(特に紅海や南太平洋)では、糸状性藍藻のアイアカシオ属 (Trichodesmium) がときに多く、赤潮を形成することがある(下図17c, d)。 海でも淡水でも底生性の藍藻は多く、しばしばバイオフィルムを形成して基質表面を覆っている(下図19a–c)。沿岸岩礁域の潮間帯から潮上帯でも、付着性の藍藻がペンキのようにべったりと岩を覆っていることがある。またオーストラリアのシャーク湾など塩分濃度が高い浅瀬では、植食動物がいないため底生性藍藻の群落が発達し、層状構造をもつドーム状構造であるストロマトライト (stromatolite) を形成する(下図19d)。ストロマトライトに似るが、層状構造を欠くものはスロンボライト (thrombolite)、貝殻などを核に球状に形成されたものをオンコライト (oncolite) という。 藍藻は土壌や岩石表面など陸域にも多く、極地から熱帯まで広く分布している(下図20a, b)。変水性(体内の水分量が大きく変動しても、つまり乾燥しても仮死状態で生存し、再び水が得られると急速に復活する性質)による高い乾燥耐性を示すものもおり、100年近く乾燥状態に置かれたものが復活したとの報告もある。土壌表層では藍藻が土壌クラスト (soil crust) を形成し(下図20b)、土壌の安定化や窒素栄養分の供給を行うため、特に砂漠や荒野での植生遷移の初期段階において重要な働きを果たすことがある。藍藻の中には、岩石内生(岩の中に生育)のものもおり、砂漠や極地からも見つかっている。 温泉(特にアルカリ性から中性)に生育する好熱性の藍藻も知られており(温泉藻)、このような場所では温度に応じて複数種の藍藻が帯状分布を示すこともある(上図20c)。中には 70°C 以上の高温に耐えるものや至適増殖温度が 60°C 近いものもいる。一方、雪や氷上、北極や南極のような低温環境下に多く見られる藍藻もいる(上図20d)。氷河上で粒子状に成長した藍藻はクリオコナイト (cryoconite) とよばれ、黒っぽい色のため熱を吸収し氷河上に穴(クリオコナイトホール)を形成する。また塩湖のような塩分濃度が高い環境に生育するものもおり、浸透圧調節物質(グルコシルグリセロール、グリシン、トリメチルグリシンなど)の蓄積などによって高浸透圧に対応している。 藍藻の中には、他の生物と共生しているものも少なくない。このような共生者である藍藻は、シアノビオント (cyanobiont) とよばれることがある。 地衣類の多くは緑藻を共生者としているが、地衣の 8% 程の種は藍藻を共生者としており、特にこのような地衣は藍藻地衣 (cyanolichen) ともよばれる(下図21a)。藍藻地衣では藍藻が細胞外共生しているが、ゲオシフォン(Geosiphon; 菌根菌として重要なグループであるグロムス亜門に属する)では、藍藻 (Nostoc punctiforme) が細胞内共生している(下図21b)。これらの例では、藍藻が光合成産物(有機物)を宿主に供給し、宿主からは好適な生育環境を得ていると考えられている。同じような関係にあるものとして、海綿や等脚類、ホヤ(下図21c)、放散虫、有孔虫、繊毛虫、渦鞭毛藻(下図21d)などに藍藻が細胞外または細胞内共生している例が知られる。このような藍藻の中には、ホヤに共生するプロクロロン属 (Prochloron) のように宿主体外では生育できない絶対共生性のものもいる。 細胞内共生した藍藻が細胞小器官となった例もある。葉緑体(色素体)は、太古に細胞内共生した藍藻に起源をもつが、現在ではこの藍藻は自立能を失い、完全に宿主に制御された細胞小器官となっている。有殻糸状仮足アメーバであるビンカムリ類(Paulinella spp.; ケルコゾア門) は、葉緑体とは起源が異なる(より新しい)藍藻との細胞内共生に由来する構造(クロマトフォア chromatophore とよばれる)をもつ。この構造も既に宿主と不可分の存在であり、細胞小器官化したものであることが明らかとなっている。 水界でも、珪藻やハプト藻など光合成を行う藻類に藍藻が共生している例が知られている(上図22e)。ハフケイソウ科の珪藻に細胞内共生している藍藻は、既に自立能・光合成能を失い、楕円体 (spheroid body) とよばれる細胞小器官になっている。Braarudosphaera(ハプト藻)に共生する藍藻 (UCYN-A) も光合成能を含むいくつかの機能を欠いており、おそらく宿主に大きく依存している。 地衣類やサンゴにおいては、主となる共生者(それぞれ緑藻、渦鞭毛藻)とともに、窒素固定を行う藍藻が共生している例が知られている(図23)。これらの例では、光合成 (有機物供給) と窒素固定(窒素栄養分供給)を共生者の間で分業していると考えられている。 上記の例にくらべて、共生関係が明瞭ではない、より「ゆるい」共生関係も知られている。そのような例として、藍藻群集中に子嚢菌が生育しているものや、藍藻と珪藻が密集しているもの、海藻、シャジクモ類、蘚類、マングローブ植物、海草、ウキクサ、イネ、ラン(吸水根)の表面に藍藻が着生している例などが報告されている。 富栄養湖沼において(特に夏期)、藍藻はときに大増殖してアオコ(青粉)とよばれる現象を引き起こす(下図24a; 上記参照)。アオコは様々な形で人間生活に害を与えることがある。アオコは水面に形成されるため湖沼を遮光し、水草や他の植物プランクトンの生育を妨げる。また大量に発生したアオコの夜間における呼吸、およびアオコが死んだ際の分解によって酸素が消費され、湖沼が酸欠状態になり、水生生物が死ぬことがある。一部のアオコは2-メチルイソボルネオール(下図24b)やゲオスミンなどのカビ臭物質を産生し、問題となることがある。さらにアオコを形成する藍藻の中には、下記のような藍藻毒を産生するものもいる。 藍藻の中には毒(藍藻毒、シアノトキシン cyanotoxin)を生成するものがおり、家畜やヒトに被害が生じることもある。非リボソームペプチド(リボソームにおける翻訳を介さないペプチド)であるミクロシスチン(上図24c)やノジュラリン(上図24d)はタンパク質ホスファターゼを阻害し、肝臓毒となる。またアルカロイドであるアナトキシン(上図24e)やサキシトキシンはシナプスでの伝達を阻害する神経毒となる。食用に用いられる種のスピルリナからビタミンB12の同族体が同定されたがビタミンB12の補給源にはならない、また不適切な製造工程で生産された食品での健康被害の報告が有る。 アクアリウムにおいては、水槽のガラス壁面や水草、流木などにさまざまな種の藍藻(「苔()」や「藻()」と総称される)が繁茂する事がある。藍藻の繁茂する原因は種によって異なるが、光条件や栄養塩濃度、水流の変化などによる。見栄えが悪く、悪臭を伴うこともある。対策として、水換えとろ過装置の増強、照明時間の調整、植食性の魚やエビ、貝に藍藻を食べさせる、市販されている薬剤の利用、などがある。 アフリカや中南米の湖沼で大発生する "スピルリナ"(古くは Spirulina に分類されていたためこの名でよばれるが、現在では Arthrospira に移されている)は現地では古くから食料として利用されていたが、現在では世界各地で大規模に培養され、健康食品などとして流通している(下図25a)。最大の用途は健康食品であり、錠剤などの形で市販されている (下図25b, c)。またスピルリナから抽出された光合成色素であるフィコシアニンは、水溶性の青い天然色素として冷菓などに利用されている(下図25d)。さらにカロテノイドを含むため、錦鯉の色揚剤や熱帯魚用飼料に配合されている。 他にも、食用としての藍藻の利用が世界各地で散見される。髪菜(Nostoc flagelliforme, ネンジュモ目)は中華料理の高級食材であり、内陸アジアのステップ地帯の地表に生育する(上図25e)。上記のように、このような藍藻は土壌の安定化や植生発達に重要であり、髪菜の乱獲は表土流出など環境破壊を引き起こした。そのため、中国では2000年に髪菜の採取・販売が禁止されている。髪菜に近縁の葛仙米 (Nostoc sphaeroides) やイシクラゲ (Nostoc commune) も、日本、中国、南米などで食用とされることがある。河川に生育するアシツキ (Nostoc verrucosum) は日本で古くから食用とされ、万葉集にアシツキを採取する女性を詠んだ大伴家持の歌がある。スイゼンジノリ (Aphanothece sacrum, クロオコックス目) は九州の湧水からのみ知られる藍藻であり懐石料理の高級食材などに利用され、養殖も行われている。 藍藻は窒素固定能をもつため、有機肥料として用いられることがある。アカウキクサ類(薄嚢シダ類)は葉の内部に窒素固定能をもつ藍藻 (Anabaena azollae) を共生させており (上記参照)、水田の緑肥に利用されることがある。 藍藻が生成するさまざまな生理活性物質や、藍藻の細胞外被がもつ保水性、紫外線防御に関わる物質に関して、利用に向けた研究が行われている。 藍藻を利用した再生可能エネルギーの研究も盛んに行われている。例えば光合成によってエタノールを産生できる遺伝子改変藍藻、つまり光合成によって二酸化炭素を直接エタノールに変換する藍藻が作出されている。また窒素固定の際に、副産物として水素が生成されるため、これを利用した水素生産が試みられている。さらに、藍藻による光合成を直接電気に変換する研究も行われている。 米国NASAは、火星のテラフォーミングへの藍藻の利用を取り上げたことがある。 ゲノムレベルでの系統解析からは、藍藻は細菌の中でクロロフレクサス門やデイノコックス・テルムス門、放線菌門、フィルミクテス門などに比較的近縁であることが示唆されており、これらを合わせてテッラバクテリア (Terrabacteria;上門レベルに相当) にまとめることが提唱されている。藍藻は、生物の進化において初めて(そして唯1回)酸素発生型光合成能を獲得した生物群であると考えられている。メタゲノム研究により、動物の腸管や土壌、汚水、地下水など様々な環境から、藍藻に近縁な非光合成細菌の系統群がいくつか見つかっている(メライナバクテリアなど)。これらの細菌が光合成能の痕跡を全くもたないことから、藍藻の祖先は嫌気性の非光合成生物であり、遺伝子の水平伝播などによって酸素発生型光合成能を獲得したと一般には考えられている。ただし、水平伝播のもとになった生物についてはよくわかっていない。 藍藻以外の光合成細菌は、藍藻がもつ光化学系Iもしくは光化学系IIのどちらか一方にのみ相同な光合成システムをもつ。これらのシステムでは水の光分解は起こらず、非酸素発生型の光合成が行われる。2つの光化学系が連結した酸素発生型の光合成を行う細菌は藍藻以外知られていない。そのため、藍藻以外の光合成細菌から、それぞれの光化学系が別個に藍藻の祖先に水平伝播したとみなされる場合が多い。しかし、各光化学系の起源と進化についてはほとんどわかっておらず、藍藻以外の光合成細菌が藍藻より以前に存在したことを示す直接的な証拠はない。そのため、藍藻のもつ2つの光化学系が別個に他の細菌に水平伝播して非酸素発生型の光合成が後から誕生した可能性も、現在のところ否定する証拠はない。実際に、緑色硫黄細菌や緑色非硫黄細菌など一部の光合成細菌については、その起源が藍藻よりもはるかに遅いことを示唆するデータが提出されており、藍藻も含めてどの光合成細菌が最も古くに誕生したのかは現在も合意に至っていない。 藍藻の進化は化石やバイオマーカー(化学化石、biomarker)、分子時計計算など様々な角度から研究が行われている。しかし、いずれも多くの異論があり、広く合意のとれた仮説は現在も存在しない。地質学的な証拠からはおよそ24億年前に地球が急速に酸化的環境に変化していったことが知られており、大酸化事変(大酸化イベント、Great Oxygenation Event, GOE)とよばれる。これは光合成によって作られた酸素が原因であるというのが最も有力な説明であり、そのため、藍藻は少なくともGOEまでには誕生していたと考えられている。しかしながら、GOE以前にも少量の酸素が存在していたことを示す証拠が複数あり、藍藻の誕生がどこまで遡るのかが議論となっている。太古代の地層に多く見られる縞状鉄鉱床は海水中の鉄などが当時すでに存在した酸素によって酸化された結果であるとする説もあるが、一方で藍藻の起源をGOEとほぼ同時期とみなす研究もある。一時期、藍藻固有のバイオマーカーが太古代から見つかり、GOE以前の藍藻および酸素の存在を示す証拠として注目されたが、その後の研究で、見つかったバイオマーカーは後世の汚染である可能性が強く、さらにバイオマーカー自体が藍藻に固有ではないことが判明している。そのほか、藍藻と考えられる化石にストロマトライトがある(図11a)。現在の地球上に見られるストロマトライトの形成にすべて藍藻が関わっていることから、ストロマトライトの化石も過去の藍藻の存在を示す証拠として扱われていたが、現在ではこれは非生物起源や、藍藻以外の光合成細菌由来のものも含まれていると考えられている。そのため、ストロマトライト単独で藍藻の進化について議論することは難しい。 いずれにせよ、藍藻の誕生によって地球環境は激変し(好気的環境、有機物安定的供給、オゾン層形成など)、現在の地球生態系の基礎が築かれた。酸素発生型光合成生物は藍藻だけである時代が長く続いたが、その後(ある研究では15億年以上前)、ある真核生物にある藍藻が細胞内共生し、やがてこの共生藍藻の増殖や代謝が宿主である真核生物に制御されるようになり、最終的に葉緑体(色素体)とよばれる細胞小器官へと変化した。この際、藍藻の細胞膜と外膜が色素体の2枚の膜になったと考えられている。この現象は一次共生 (primary endosymbiosis) とよばれ、これによって真核生物が酸素発生型光合成能を獲得した。生物の歴史の中で一次共生は唯1回の現象であったと考えられており、全ての葉緑体は単一の一次共生に由来する(その後、二次共生を経たものもある)。多数の遺伝子を用いた系統解析から、一次共生において共生者となった藍藻は、グロエオマルガリータ属 (Gloeomargarita) という淡水産単細胞性藍藻に近縁な藍藻であったことが示唆されている。 古くは、藍藻は最も"原始的な植物"と考えられ、藍色植物門(藍藻植物、Cyanophyta)、藍藻綱 (Cyanophyceae)に分類されていた。しかし葉緑体の共生説が一般的となり、藍藻と他の"植物"の直接的な類縁性は認められなくなった(ただし上記のように、細胞内共生・葉緑体を通してつながっている)。現在でも藍藻は藻類の一群として扱われることが多いが、このような系統的異質性から藻類から除かれることもある(ただし藍藻を除いても藻類は多系統群である)。 これらの分類群名は植物命名規約(現 国際藻類・菌類・植物命名規約)に基づくものであり、原核生物である藍藻に対しては近年ではほとんど用いられない。また古くは、粘藻綱 (Myxophyceae) や粘藻植物門 (Myxophta)、分裂藻綱 (Schizophyceae) という分類群名が使われていたこともある。 藍藻は原核生物であり、細菌(バクテリア、真正細菌)ドメインに属する。細菌の中では、藍藻は比較的独立した系統群を形成しており、シアノバクテリア門(藍色細菌門、学名: Cyanobacteria)として扱われる。メタゲノム研究によって見つかった、藍藻に近縁な従属栄養性細菌群である"メライナバクテリア綱" (Melainabacteria) や"セリキトクロマチア綱" (Sericytochromatia) などは、シアノバクテリア門に含めて扱われることがあるが、その場合は光合成能をもつ藍藻はオキシフォトバクテリア綱 (Oxyphotobacteria) にまとめられ、これらの非光合成細菌群と併置される。ただし、シアノバクテリア門を光合成性のグループのみに限る考えもある。 藍藻は分類学的には細菌として扱うべきであるが、ほとんどの学名は植物命名規約(現 国際藻類・菌類・植物命名規約)に基づいて提唱されており、国際原核生物命名規約の基で提唱された学名は少ない。 クロロフィル b をもつ藍藻(原核緑藻)は、発見当初は原核緑色植物門 (Prochlorophyta) として藍藻とは別の門に分けられていた。しかしその後の研究から原核緑藻は系統的に藍藻に含まれることが示され、現在では分類群名として原核緑色植物門を用いることはない。ただし「原核緑藻 (prochlorophytes)」という語は、一般名としてはしばしば用いられる。 他の藻類と同様、藍藻はその体制(おおまかな体のつくり)に基づいて分類され、いくつかの目に分けられてきた(下表1)。細菌の分類の基準となっていた「バージェイ細菌分類便覧 (Bergey’s Manual) 第2版」でも基本的には同じ体系が用いられていた。 しかし分子系統学的研究の結果、上記の分類群の多くは多系統群であることが判明しており、特に単細胞性と糸状性の間では頻繁な平行進化(特に糸状体から単細胞体への進化)が起こったと考えられている。2019年現在までに報告されている分子系統解析の結果に基づくシアノバクテリア門内の系統仮説の1つを下に示す。 2019年現在、このような系統関係を完全に反映させた分類体系は提唱されていない。また、分子系統解析が行われた藍藻は、いまだごく一部に限られている。そのため、藍藻の分類体系構築に関しては過渡的な状況にある。2019年現在、形態形質および分子情報に基づく分類体系として、Komárek et al. (2014) をもとにした目レベルの分類体系を下表2に示す。また藍藻の分類においては、属レベルでも非単系統性(ときに下記の分類体系において複数の目に分かれるほどの)が示されているものが少なくない (Synechococcus、Synechocystis、Lyngbya など)。これらの属の一部に関しては、ゲノムレベルでの分子系統解析に基づいて多数の属に分けることが提唱されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "藍藻(ラン藻、らんそう、英: blue-green algae)またはシアノバクテリア (藍色細菌、らんしょくさいきん、英: cyanobacteria)は、酸素発生を伴う光合成(酸素発生型光合成)を行う細菌の一群である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "藍藻は系統的には細菌ドメイン(真正細菌)に属する原核生物であるが、歴史的には「植物」に分類されていた(植物#リンネ以降参照)。藻類に分類されていたことから、国際細菌命名規約ではなく国際藻類・菌類・植物命名規約に基づき命名されてきた。藍藻は現在でも藻類の一員として扱われることが多いが、原核生物である点で他の藻類や陸上植物(どちらも真核生物)とは系統的に大きく異なる。しかし、陸上植物のものも含めて全ての葉緑体は細胞内共生において取り込まれた藍藻に由来すると考えられており、藍藻は植物の起源を考える上で重要な存在である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "単細胞、群体、または糸状体であり(図1)、原核生物としては極めて複雑な体をもつものもいる(→#体制)。光合成色素としてふつう青いフィコシアニンを多くもつため、クロロフィルの緑色と合わせて青緑色(藍色)をしていることが多く、学名や英名の「cyano-」はギリシア語で「青色」を意味する κυανός (kyanós) に由来する(→#光合成)。藍藻のフィコシアニンは、青い天然色素として広く利用されている(アイスキャンディーなど)。藍藻は海から淡水、陸上に広く生育し、生産者や窒素固定者として生態系において重要な役割を担っている(→#生態)。またアオコや健康食品などの形で人間生活とも密接に関わっている(→#人間との関わり)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "藍藻は、地球上に初めて現れた酸素発生型光合成生物であったと考えられている(およそ25–30億年前)。藍藻の光合成によって、地球上に初めて酸素と有機物が安定的に供給されるようになり、現在へとつながる生態系の基礎が築かれた。酸素発生型光合成というシステムは、細胞内共生(一次共生)を経て葉緑体の形で真核生物に受け継がれ、多様な真核藻類(および陸上植物)のもとともなった(→#進化)。細菌の中には、他にも光合成を行うグループが存在するが(光合成細菌と総称される)、酸素発生を伴う光合成を行うのは藍藻のみであり、他の光合成細菌は非酸素発生型の光合成 (anoxygenic photosynthesis) を行う。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "分類学的には、シアノバクテリア門(藍色細菌門、学名: Cyanobacteria)に分類される。2019年現在、メタゲノム研究(水などのサンプルから直接抽出したDNAに基づくゲノム研究であり、培養できない生物の性質を推定できる)から、藍藻に近縁であるが光合成能をもたない細菌群がいくつか見つかっている(メライナバクテリアなど)。これらの細菌群も光合成を行う藍藻とともにシアノバクテリア門に分類されることがあるが、以下では主に光合成を行う藍藻についてのみ概説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "藍藻の中には、単細胞性、群体性、糸状性の種がいる(下図2)。藍藻の多くは肉眼では判別できない微細藻であるが、群体性や糸状性の藍藻の中には、肉眼で見えるほどの大きさになるものもいる(下図6a)。", "title": "体制" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "細胞が密接して列状に連なっているもの (上図5)。伝統的に、糸状性の藍藻において細胞列をトリコーム(細胞糸 trichome)、1本から複数のトリコームが共通の外被に包まれたものを糸状体 (filament) とよぶ。また多数のトリコームが共通の粘液質で包まれた巨視的な群体を形成するものもいる(例: ネンジュモ属、図6)。細胞が単列 (uniseriate) に並んでいるものが多いが、多列 (multiseriate) に並んでいるものもいる(例: スチゴネマ属 Stigonema)(上図5g)。トリコームの末端の細胞はふつう他の細胞とはやや異なる形をしており (上図1g)、特に先端が肥厚している場合はカリプトラ(頂冠 calyptra)とよばれる。一部の種では、トリコームが異極性を示す(上図5d)。例えばヒゲモ属 (Rivularia) などでは、トリコームの基部に異質細胞が存在し、トリコーム先端の細胞が細長く伸びている。この場合、基部の異質細胞で窒素固定、頂端部でリン吸収を行う (つまり細胞間で形態分化とともに機能分化を示す)。トリコームは無分枝 (unbranching) であるものが多いが(上図5a, c, d)、一部は偽分枝または真分枝をする。偽分枝 (false branching) とは、トリコームの途中が分断し (ふつう細胞死による)、その一端または両端が細胞列から外れて伸長することによって形成された分枝様の構造のことである(上図5e, 図7右)。一方、真分枝 (true branching) とは、トリコームを構成する細胞が2方向以上で分裂することによって形成された分枝である(上図5b, f, g, 図7左)。分枝する種の中には、匍匐糸と直立糸の分化などの異糸性 (heterotrichous) を示すものもいる(例: Fischerella)。糸状性の藍藻は、しばしば(全てではない)細胞分化(先端の細胞、異糸性、異質細胞やアキネートなど)や細胞死を伴う形態形成(偽分枝、連鎖体形成など)、細胞間の連絡(ペリプラズムの共有やセプトソーム)を示し、原核生物ではあるものの真の多細胞体ともいえる体をもつ場合がある。", "title": "体制" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "藍藻の細胞は直径1マイクロメートル (μm) 以下のこともあるが、原核生物としては大型のものが多く、直径 100 μm に達するものもいる。", "title": "細胞" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "典型的なグラム陰性細菌 (大腸菌など) と同様、藍藻の細胞壁は、ペプチドグリカン層 (peptideglycan layer) と、その外側を覆う外膜 (outer membrane) からなる。ペプチドグリカン層は、アミノ糖であるNーアセチルグルコサミンとNーアセチルムラミン酸が交互に連なった糖鎖が、オリゴペプチドで架橋された物質であるペプチドグリカン(ムレイン murein)からなる。藍藻のペプチドグリカン層は、一般的なグラム陰性細菌のそれにくらべて厚いことが多く(12–700ナノメートル (nm))、またオリゴペプチドの架橋が多い(グラム陽性細菌的な特徴)。ペプチドグリカン層が存在する細胞膜と外膜の間の空間は、ペリプラズム (periplasm) とよばれる。外膜は、細胞膜と同じく脂質二重層であるが、外側の層には糖鎖が結合した脂質(リポ多糖 lipopolysaccharide, LPS)が含まれる。他のグラム陰性細菌ではリポ多糖は毒となることがあり(内毒素)、藍藻がもつ外膜のリポ多糖にもその可能性が指摘されている。", "title": "細胞" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "糸状性藍藻のトリコームでは、細胞列は共通の外膜に包まれており、またペプチドグリカン層を共有している。細胞間には、ペプチドグリカン層を貫通して隣接する細胞の細胞膜同士をつなぐ連結構造であるセプトソーム(septosome、隔壁結合 septal junction、微細原形質連絡 microplasmodesmata)が多数存在する。セプトソームは長さ 25 nm、外径 15 nm、内径 6 nmほどであり、おそらく細胞間での低分子物質輸送に関与している。", "title": "細胞" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "外膜の外側には、結晶性の糖タンパク質からなる層が存在することがあり、S層 (surface layer, S-layer) とよばれる。このような糖タンパク質層は、細胞の保護、物質透過、接着、認識、運動、被食防御などに関与していると考えられている。", "title": "細胞" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "さらに細胞は、タンパク質や細胞外多糖 (exopolysaccharide) からなる細胞外高分子物質 (extracellular polymeric substance, EPS) によって覆われることがある。細胞外高分子物質は、その厚さや形態、性状に応じて、鞘(sheath; 薄く緻密で光学顕微鏡下で明瞭な構造; 上図8b, c)、夾膜 (capsule; 厚く均質で輪郭が明瞭な構造)、粘液質(slime; 細胞に沿った形を示さない不定形の構造; 上図8a)ともよばれる。多数の個体が細胞外高分子物質からなる共通の基質に包まれ、群体やバイオフィルムを形成することもある。このような外被には、無機栄養分の貯蔵、乾燥耐性、紫外線耐性、浮力増大、被食防御などの機能があると考えられている。細胞外高分子物質に含まれる紫外線吸収色素として、スキトネミン (scytonemin)やグロエオカプシン (gloeocapsin)、マイコスポリン様アミノ酸 (mycosporine-like amino acid, MAA)などが知られている。また細胞外被が石灰化(炭酸カルシウムが沈着)することがあり、おそらく光合成における二酸化炭素濃縮機構と関連している。このような石灰化によって、ストロマトライトが形成されることがある。", "title": "細胞" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "藍藻は原核生物であり、DNAは核膜に包まれず、また葉緑体やミトコンドリア、ゴルジ体などの細胞小器官をもたない。細胞内で生体膜に包まれた構造としては、光合成における光化学反応の場であるチラコイドのみが存在する。チラコイドは扁平な袋であり、ふつう重なることなく、細胞内で同心円状(下図9)、放射状または不規則に配置する。ふつうチラコイドには、フィコビリンタンパク質からなるフィコビリソームが付着している(下図9a, 11a)。一部の藍藻(原核緑藻)はフィコビリソームを欠き、チラコイドが重なってラメラを形成している(下図9b)。藍藻では、酸素呼吸における呼吸鎖の酵素もチラコイド上に存在することがある(一部の酵素を光化学系と共有する)。最も初期に分かれた藍藻であるグロエオバクター属 (Gloeobacter) はチラコイドをもたず、光化学系は(呼吸鎖とともにパッチ状に)細胞膜上に存在する。プロクロロン属 (Prochloron) では、チラコイドの一部が膨潤して液胞状になることがある。チラコイドは、細胞膜と直接つながることはないと考えられていたが、現在では”チラコイド形成中心” (thylakoid center) が細胞膜上に存在することが示されている。光学顕微鏡下では、チラコイドが存在する細胞周縁部が色付き、チラコイドを欠く中心域が淡色に見えることがあり、伝統的に前者を有色質 (chromoplasm)、後者を中心質 (centroplasm) とよぶ。中心質にはふつうDNAが存在するため(下図9a)、この領域は核質 (nucleoplasm) ともよばれる(ただし藍藻の中には、DNAが細胞周縁部に存在する例もある)。", "title": "細胞" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "細胞内にはカルボキシソーム (carboxysome, polyhedral body) とよばれる直径200–700 nm ほどのタンパク質顆粒が存在する(上図9b, c)。カルボキシソームは主にルビスコや炭酸脱水酵素からなり、殻タンパク質で包まれている。カルボキシソームは、おそらく効率的な二酸化炭素濃縮機構に関わっており(重炭酸イオンから二酸化炭素を生成)、このため藍藻はほとんど光呼吸を示さない。ただし、おそらく特異なグリコール酸代謝経路をもつ。カルボキシソームは、炭素固定を行う他の細菌(光合成細菌や化学合成細菌)に見られることもある。", "title": "細胞" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ふつう貯蔵多糖としてグリコーゲンが存在するが、α-1,6結合の分枝が少ないセミアミロペクチンやアミロースをもつものもいる。このような藍藻が貯蔵するα-グルカンは、藍藻デンプン (cyanophycean starch) ともよばれる。多くの藍藻は、アルギニンとアスパラギン酸からなる非リボソームペプチドであるシアノフィシン(下図10a)の顆粒(藍藻顆粒 cyanophycin granule)をもち、おそらく窒素貯蔵体としている(下図10b)。ただし光合成に機能するフィコビリソームを窒素貯蔵体としていることもある(窒素欠乏下ではフィコビリソームが分解され、これに由来する窒素を利用する)。細胞内には、油滴やポリリン酸体(polyphosphate body; リン貯蔵体として機能; 上図9c, 下図10c)などもふつうみられる。またβ-ヒドロキシブチレート重合体(バイオプラスチックの一種) や炭酸カルシウム(下図10c)を細胞内に貯めるものも知られている。", "title": "細胞" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "プランクトン性藍藻の中には、ガス胞 (gas vesicle) をもつものがいる。ガス胞は細長い小胞であり、多数のガス胞が平行に密集して\"エアロトープ\" (aerotope, gas vacuole) を形成している。ガス胞の膜は脂質ではなく、タンパク質からなる。この膜は水を透過しないため、ガス胞は空気で満たされ比重が軽くなり、細胞は浮くことができる。つまりガス胞は細胞中の気泡のようなものであり、水と屈折率が異なるため光学顕微鏡下では目立つ(上図10b, 下図12)。光合成産物の増加やイオン取り込みによって細胞内の膨圧が高くなるとガス胞はつぶれて細胞は沈降し、そこで光合成産物の消費やイオン排出によって膨圧が低下すると再びガス胞が膨らんで細胞は浮上する。ガス胞は藍藻に特有の構造ではなく、他のプランクトン性原核生物に見られることもある。", "title": "細胞" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "藍藻は、酸素発生型光合成を行う唯一の原核生物群である。藍藻は2種類の光化学系(光化学系IとII)をもつ点で、光合成を行う他の細菌(非酸素発生型光合成を行う)とは異なる。緑色硫黄細菌(クロロビウム門)やヘリオバクテリア(フィルミクテス門)は光化学系Iと相同な鉄硫黄型反応中心のみを、紅色細菌(プロテオバクテリア門)や緑色非硫黄細菌(クロロフレクサス門)は光化学系IIと相同なキノン型反応中心のみをもつ。直列した2種類の光化学系をもつことが、酸素発生型光合成(水を分解する)を可能にしていると考えられている。", "title": "光合成" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "知られている限り、全ての藍藻は好気環境下で酸素発生型光合成を行う。ただし、嫌気環境下で非酸素発生型光合成(光化学系Iを使用し、硫化水素を電子供与体として硫黄を生成)を行う例が知られている。また連続暗黒下でも、有機物を利用した従属栄養を行って生育可能な種(通性光独立栄養性)もいる。Synechocystis sp. PCC 6803 など従属栄養能をもつ藍藻は、光合成遺伝子の変異が致死的にならないため(光合成しなくても生きていける)、光合成研究のモデル生物として広く用いられている。またメタゲノム研究(海水などの環境から直接抽出したDNAをもとにしたゲノム解析)から、光合成能を含め代謝的に不完全(光化学系II、ルビスコ、クエン酸回路などの欠失)な藍藻 (UCYN-A, unicellular cyanobacteria group A) の存在が示されているが、これは他生物に共生して栄養的に依存して生きているものと考えられている。古くは「無色の藍藻」が報告されているが、少なくともその一部は全く別の細菌群に属することが明らかとなっている(例: ベッギアトア属)。", "title": "光合成" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ほとんどの藍藻は、クロロフィル a をもつ。一部の藍藻は、クロロフィル a に加えて、クロロフィル b、d、または f をもつ。クロロフィル d や f は生物の中で一部の藍藻のみがもつ色素であり、人間の目には見えない近赤外光を光合成に利用できる。クロロフィル b(または類似色素)をもつ藍藻は、原核緑藻ともよばれる。原核緑藻のプロクロロコックス属 (Prochlorococcus) はクロロフィル a の代わりにジビニルクロロフィル a をもつ点で特異な存在であり、光合成の反応中心でジビニルクロロフィル a を用いる唯一の生物である。またアカリオクロリス属 (Acaryochloris) はクロロフィル a 量が少なく、反応中心でクロロフィル d を用いている。", "title": "光合成" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ほとんどの藍藻は、光合成アンテナ色素タンパク質であるフィコビリンタンパク質をもつ。藍藻において、フィコビリンタンパク質はフィコビリソームを形成し、チラコイドに付着している。フィコビリソームの中央にはアロフィコシアニンからなるコアが位置し、そこからフィコシアニンとフィコエリスリン(後者を欠くこともある)からなるロッドが伸びている(図11a)。ふつう青色のフィコシアニンの割合が多いため、「藍藻」の名が示すように青緑色を呈する。しかし中には赤色のフィコエリスリンを多くもつため、紫色から赤色を呈する種もいる(図2, 11b)。またフィコエリスリンの代わりにフィコエリスロシアニンをもつものもいる。原核緑藻とよばれる藍藻はフィコビリンをほとんどもたないため、クロロフィルの色である緑色がそのまま見える(図11b)。", "title": "光合成" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "藍藻がもつカロテノイドとしては、β-カロテン、ゼアキサンチン、エキネノン、ミクソキサントフィル(ミクソール配糖体)が一般的だが、α-カロテン、カンタキサンチン、ノストキサンチン、オシラキサンチン(オシロール配糖体)などをもつものも報告されている。", "title": "光合成" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "藍藻の炭素固定はカルビン回路によって行われる。藍藻のもつルビスコ(リブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ)には2タイプが知られる。多くの藍藻は、緑色植物などがもつものと相同な Form IB ルビスコをもつ。このような藍藻は β-シアノバクテリア、Form IB ルビスコからなるカルボキシソームは β-カルボキシソーム とよばれる。一方、一部の藍藻(プロクロロコックス属など)は、一部のプロテオバクテリアのものと相同な Form IA ルビスコをもつ(おそらく遺伝子水平伝播による)。このような藍藻は α-シアノバクテリア、Form IA ルビスコからなるカルボキシソームは α-カルボキシソーム とよばれる。", "title": "光合成" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "藍藻において、酸素呼吸の電子伝達系(呼吸鎖)は細胞膜やチラコイドに存在し、後者の場合は、光合成の光化学系とタンパク質を一部共有している(プラストキノン)。また酸素呼吸におけるクエン酸回路(TCA回路)のオキソグルタル酸デヒドロゲナーゼを欠いており、この部分を別の酵素によって代謝している。", "title": "光合成" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "窒素は、タンパク質や核酸の原料として全ての生物にとって必須な元素である。窒素は窒素分子の形 (N2) で空気中に大量に存在するが、全ての真核生物を含む多くの生物は、窒素分子を直接利用することはできない。しかし原核生物の中には、窒素分子をアンモニアに変換できるものがおり、この反応は窒素固定 (nitrogen fixation) とよばれる。藍藻の中にも窒素固定が可能なものがおり、生態系において重要な役割を担っている(他の生物が利用可能な窒素栄養分の供給)。窒素を固定する酵素であるニトロゲナーゼは酸素に弱いため、酸素発生型光合成と窒素固定を1つの細胞で同時に行うことはできない。それに対応して、藍藻は以下のように光合成と窒素固定を分けて行っている。", "title": "窒素固定" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一部の藍藻では、光が当たる日中に光合成を行い、光がない夜間に窒素固定を行う。糸状性のアイアカシオ属 (Trichodesmium) では、窒素固定を行う細胞 (diazocyte) とふつうの栄養細胞が分化しており、光合成と窒素固定を同時に異なる細胞で行うことが可能になっている。この例では細胞の形態的分化は顕著ではないが、ネンジュモ目の藍藻は、異質細胞(heterocyte, ヘテロシスト heterocyst)とよばれる形態的にも極めて特殊化した窒素固定用の細胞を形成する(上図10b, 図12)。異質細胞は光化学系の一部を欠くため細胞内に酸素が発生せず、また酸素を通さない厚い細胞壁で囲まれている。隣接する栄養細胞と接する部分では、異質細胞の細胞質は極めて細くなっており、またその部分にはときに光学顕微鏡で確認できる程の大きなシアノフィシン顆粒(極節 polar nodule)が存在する(上図10b, 図12)。異質細胞で固定された窒素はグルタミンの形で隣接細胞へ輸送され、隣接細胞からはその材料であるグルタミン酸やエネルギー源である糖(窒素固定は大量のATPを消費する)が供給される。異質細胞は通常の栄養細胞から分化するが、種によってその位置や間隔はほぼ一定であり、重要な分類形質となっている。異質細胞が分泌するペプチドによって周囲の細胞が異質細胞になることが抑制され、これによって異質細胞の間隔が一定になる例が知られている。", "title": "窒素固定" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "他の原核生物と同様、藍藻は環状DNAからなるゲノムをもち、また本来のゲノムDNAに加えて、小さな環状DNA(プラスミド)をもつこともある。ただし一般的な原核生物とは異なり、多くの場合ゲノム(環状DNA分子)が複数コピー存在する。多くの藍藻でゲノム塩基配列が報告されており、特に Synechocystis sp. PCC 6803 は生物として4番目、酸素発生型光合成生物として初めてゲノムが解読された。知られているものの中では、ゲノムサイズは 1.7 - 9 Mbp(Mbp = 100万塩基対)ほどであり(さらにおそらく 15 Mbp に達するものもいる)、1,700–7,000個ほどの遺伝子をもつ。この中には、一部の真核生物のゲノムより大きく多数の遺伝子をもつものもいる。", "title": "ゲノム" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "藍藻は、真核藻類にくらべて形質転換など分子生物学的解析が比較的容易なものが多く、光合成研究などのモデル生物として広く用いられている。よく用いられる藍藻として、Synechocystis sp. PCC 6803(図13)、Thermosynechococcus elongatus、Synechococcus elongatus PCC 6301、Cyanothece sp. ATCC 51142、Anabaena sp. PCC7120、Nostoc punctiforme などがある(PCC, ATCC は微生物株保存機関の略号)。", "title": "ゲノム" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "藍藻は鞭毛(細菌型)をもたないが、細胞外被(S層)の糖タンパク質による遊泳運動や、線毛による匍匐運動を行うものが知られている。また藍藻において最もよく知られた運動は、多くの糸状性藍藻が示す滑走運動 (gliding movement) である。直線的な運動だけではなく、トリコームが揺れたりする運動もよく見られ(図14)、ユレモ属 (Oscillatoria) の和名、学名ともこの姿に由来する(oscillatio = 振動)。この運動は粘液多糖の噴射または糖タンパク質性外被(S層)が関係していると考えられている。", "title": "運動" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また藍藻からは、シアノバクテリオクロム (cyanobacteriochrome) やフラビン結合タンパク質、細菌型ロドプシンなどさまざまな光受容体が見つかっている。このような光受容体は、走光性や光屈性、補色馴化、細胞分化など光によって制御される現象に関わっている。", "title": "運動" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "藍藻は基本的に二分裂によって増殖(図15a)、または群体や糸状体の成長を行い、群体や糸状体はその分断化によって増殖する。一部の種は、外生胞子(exospore, エクソサイト exocyte; 図16a)や内生胞子(endospore, ベオサイト baeocyte; 図16b)を形成して無性生殖を行う。", "title": "生殖" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "糸状性の藍藻では、ときに単純な分断化、または細胞死による隔盤 (separation disc, necridium) 形成によって糸状体の一部が切り離され、連鎖体(ホルモゴニア; hormogonium, pl. hormogonia)とよばれる短い細胞糸が形成される。連鎖体は走光性、滑走運動能、またはガス胞などをもち、散布体として機能する。", "title": "生殖" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ネンジュモ目の種は、特殊化した休眠細胞であるアキネート (akinete) を形成することがある(図16c)。アキネートには異質細胞と共通する特徴(細胞壁成分、光化学系IIの非発現、スーパーオキシドジスムターゼの低活性など)があり、その分化には共通のシステムがあると考えられている。", "title": "生殖" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "藍藻は原核生物であり、有性生殖は行わない。ただし、外界のDNAを取り込むことや(形質転換)、ウイルス(藍藻のウイルスは特にシアノファージ cyanophage とよばれる)(図15b)によるDNA注入(形質導入)によって、遺伝子水平伝播が頻繁に起こっていることが示唆されている。", "title": "生殖" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "藍藻は海、淡水、さらに陸上環境にも広く生育しており、藍藻がいない環境を探すのは難しい。量的にも多く、その生物量は10億トンに達するとの試算もある。一般的に、真核藻類にくらべて温度、pHが高い環境を好む傾向があるが、低温や酸性環境に生育する藍藻も少なくない。また真核藻類にくらべて、低照度で生育可能なものが多い。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "貧栄養の海域(つまり沿岸域や高緯度地域を除く多くの海域)では、ピコプランクトン性(直径 2 μm 以下)の藍藻(シネココックス属 Synechococcus やプロクロロコックス属 Prochlorococcus) が主要な生産者となっていることが多い(下図17a, b)。このような環境では、表層から真光層下部(水深 200 m 付近)まで、それぞれの光条件に適応したピコプランクトン性藍藻がすみ分けている。このようなピコプランクトン性藍藻は地球上で最も個体数が多い生物であると考えられており、シネココックス属で年平均 7.0 × 10 細胞、プロクロロコックス属で年平均 2.9 × 10 細胞と試算され、その純一次生産量は 12 Gt 炭素/年、海洋の全純一次生産量の25.2%に達すると推定されている。熱帯海域(特に紅海や南太平洋)では、糸状性藍藻のアイアカシオ属 (Trichodesmium) がときに多く、赤潮を形成することがある(下図17c, d)。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "海でも淡水でも底生性の藍藻は多く、しばしばバイオフィルムを形成して基質表面を覆っている(下図19a–c)。沿岸岩礁域の潮間帯から潮上帯でも、付着性の藍藻がペンキのようにべったりと岩を覆っていることがある。またオーストラリアのシャーク湾など塩分濃度が高い浅瀬では、植食動物がいないため底生性藍藻の群落が発達し、層状構造をもつドーム状構造であるストロマトライト (stromatolite) を形成する(下図19d)。ストロマトライトに似るが、層状構造を欠くものはスロンボライト (thrombolite)、貝殻などを核に球状に形成されたものをオンコライト (oncolite) という。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "藍藻は土壌や岩石表面など陸域にも多く、極地から熱帯まで広く分布している(下図20a, b)。変水性(体内の水分量が大きく変動しても、つまり乾燥しても仮死状態で生存し、再び水が得られると急速に復活する性質)による高い乾燥耐性を示すものもおり、100年近く乾燥状態に置かれたものが復活したとの報告もある。土壌表層では藍藻が土壌クラスト (soil crust) を形成し(下図20b)、土壌の安定化や窒素栄養分の供給を行うため、特に砂漠や荒野での植生遷移の初期段階において重要な働きを果たすことがある。藍藻の中には、岩石内生(岩の中に生育)のものもおり、砂漠や極地からも見つかっている。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "温泉(特にアルカリ性から中性)に生育する好熱性の藍藻も知られており(温泉藻)、このような場所では温度に応じて複数種の藍藻が帯状分布を示すこともある(上図20c)。中には 70°C 以上の高温に耐えるものや至適増殖温度が 60°C 近いものもいる。一方、雪や氷上、北極や南極のような低温環境下に多く見られる藍藻もいる(上図20d)。氷河上で粒子状に成長した藍藻はクリオコナイト (cryoconite) とよばれ、黒っぽい色のため熱を吸収し氷河上に穴(クリオコナイトホール)を形成する。また塩湖のような塩分濃度が高い環境に生育するものもおり、浸透圧調節物質(グルコシルグリセロール、グリシン、トリメチルグリシンなど)の蓄積などによって高浸透圧に対応している。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "藍藻の中には、他の生物と共生しているものも少なくない。このような共生者である藍藻は、シアノビオント (cyanobiont) とよばれることがある。", "title": "共生" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "地衣類の多くは緑藻を共生者としているが、地衣の 8% 程の種は藍藻を共生者としており、特にこのような地衣は藍藻地衣 (cyanolichen) ともよばれる(下図21a)。藍藻地衣では藍藻が細胞外共生しているが、ゲオシフォン(Geosiphon; 菌根菌として重要なグループであるグロムス亜門に属する)では、藍藻 (Nostoc punctiforme) が細胞内共生している(下図21b)。これらの例では、藍藻が光合成産物(有機物)を宿主に供給し、宿主からは好適な生育環境を得ていると考えられている。同じような関係にあるものとして、海綿や等脚類、ホヤ(下図21c)、放散虫、有孔虫、繊毛虫、渦鞭毛藻(下図21d)などに藍藻が細胞外または細胞内共生している例が知られる。このような藍藻の中には、ホヤに共生するプロクロロン属 (Prochloron) のように宿主体外では生育できない絶対共生性のものもいる。", "title": "共生" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "細胞内共生した藍藻が細胞小器官となった例もある。葉緑体(色素体)は、太古に細胞内共生した藍藻に起源をもつが、現在ではこの藍藻は自立能を失い、完全に宿主に制御された細胞小器官となっている。有殻糸状仮足アメーバであるビンカムリ類(Paulinella spp.; ケルコゾア門) は、葉緑体とは起源が異なる(より新しい)藍藻との細胞内共生に由来する構造(クロマトフォア chromatophore とよばれる)をもつ。この構造も既に宿主と不可分の存在であり、細胞小器官化したものであることが明らかとなっている。", "title": "共生" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "水界でも、珪藻やハプト藻など光合成を行う藻類に藍藻が共生している例が知られている(上図22e)。ハフケイソウ科の珪藻に細胞内共生している藍藻は、既に自立能・光合成能を失い、楕円体 (spheroid body) とよばれる細胞小器官になっている。Braarudosphaera(ハプト藻)に共生する藍藻 (UCYN-A) も光合成能を含むいくつかの機能を欠いており、おそらく宿主に大きく依存している。", "title": "共生" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "地衣類やサンゴにおいては、主となる共生者(それぞれ緑藻、渦鞭毛藻)とともに、窒素固定を行う藍藻が共生している例が知られている(図23)。これらの例では、光合成 (有機物供給) と窒素固定(窒素栄養分供給)を共生者の間で分業していると考えられている。", "title": "共生" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "上記の例にくらべて、共生関係が明瞭ではない、より「ゆるい」共生関係も知られている。そのような例として、藍藻群集中に子嚢菌が生育しているものや、藍藻と珪藻が密集しているもの、海藻、シャジクモ類、蘚類、マングローブ植物、海草、ウキクサ、イネ、ラン(吸水根)の表面に藍藻が着生している例などが報告されている。", "title": "共生" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "富栄養湖沼において(特に夏期)、藍藻はときに大増殖してアオコ(青粉)とよばれる現象を引き起こす(下図24a; 上記参照)。アオコは様々な形で人間生活に害を与えることがある。アオコは水面に形成されるため湖沼を遮光し、水草や他の植物プランクトンの生育を妨げる。また大量に発生したアオコの夜間における呼吸、およびアオコが死んだ際の分解によって酸素が消費され、湖沼が酸欠状態になり、水生生物が死ぬことがある。一部のアオコは2-メチルイソボルネオール(下図24b)やゲオスミンなどのカビ臭物質を産生し、問題となることがある。さらにアオコを形成する藍藻の中には、下記のような藍藻毒を産生するものもいる。", "title": "人間との関わり" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "藍藻の中には毒(藍藻毒、シアノトキシン cyanotoxin)を生成するものがおり、家畜やヒトに被害が生じることもある。非リボソームペプチド(リボソームにおける翻訳を介さないペプチド)であるミクロシスチン(上図24c)やノジュラリン(上図24d)はタンパク質ホスファターゼを阻害し、肝臓毒となる。またアルカロイドであるアナトキシン(上図24e)やサキシトキシンはシナプスでの伝達を阻害する神経毒となる。食用に用いられる種のスピルリナからビタミンB12の同族体が同定されたがビタミンB12の補給源にはならない、また不適切な製造工程で生産された食品での健康被害の報告が有る。", "title": "人間との関わり" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アクアリウムにおいては、水槽のガラス壁面や水草、流木などにさまざまな種の藍藻(「苔()」や「藻()」と総称される)が繁茂する事がある。藍藻の繁茂する原因は種によって異なるが、光条件や栄養塩濃度、水流の変化などによる。見栄えが悪く、悪臭を伴うこともある。対策として、水換えとろ過装置の増強、照明時間の調整、植食性の魚やエビ、貝に藍藻を食べさせる、市販されている薬剤の利用、などがある。", "title": "人間との関わり" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アフリカや中南米の湖沼で大発生する \"スピルリナ\"(古くは Spirulina に分類されていたためこの名でよばれるが、現在では Arthrospira に移されている)は現地では古くから食料として利用されていたが、現在では世界各地で大規模に培養され、健康食品などとして流通している(下図25a)。最大の用途は健康食品であり、錠剤などの形で市販されている (下図25b, c)。またスピルリナから抽出された光合成色素であるフィコシアニンは、水溶性の青い天然色素として冷菓などに利用されている(下図25d)。さらにカロテノイドを含むため、錦鯉の色揚剤や熱帯魚用飼料に配合されている。", "title": "人間との関わり" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "他にも、食用としての藍藻の利用が世界各地で散見される。髪菜(Nostoc flagelliforme, ネンジュモ目)は中華料理の高級食材であり、内陸アジアのステップ地帯の地表に生育する(上図25e)。上記のように、このような藍藻は土壌の安定化や植生発達に重要であり、髪菜の乱獲は表土流出など環境破壊を引き起こした。そのため、中国では2000年に髪菜の採取・販売が禁止されている。髪菜に近縁の葛仙米 (Nostoc sphaeroides) やイシクラゲ (Nostoc commune) も、日本、中国、南米などで食用とされることがある。河川に生育するアシツキ (Nostoc verrucosum) は日本で古くから食用とされ、万葉集にアシツキを採取する女性を詠んだ大伴家持の歌がある。スイゼンジノリ (Aphanothece sacrum, クロオコックス目) は九州の湧水からのみ知られる藍藻であり懐石料理の高級食材などに利用され、養殖も行われている。", "title": "人間との関わり" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "藍藻は窒素固定能をもつため、有機肥料として用いられることがある。アカウキクサ類(薄嚢シダ類)は葉の内部に窒素固定能をもつ藍藻 (Anabaena azollae) を共生させており (上記参照)、水田の緑肥に利用されることがある。", "title": "人間との関わり" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "藍藻が生成するさまざまな生理活性物質や、藍藻の細胞外被がもつ保水性、紫外線防御に関わる物質に関して、利用に向けた研究が行われている。", "title": "人間との関わり" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "藍藻を利用した再生可能エネルギーの研究も盛んに行われている。例えば光合成によってエタノールを産生できる遺伝子改変藍藻、つまり光合成によって二酸化炭素を直接エタノールに変換する藍藻が作出されている。また窒素固定の際に、副産物として水素が生成されるため、これを利用した水素生産が試みられている。さらに、藍藻による光合成を直接電気に変換する研究も行われている。", "title": "人間との関わり" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "米国NASAは、火星のテラフォーミングへの藍藻の利用を取り上げたことがある。", "title": "人間との関わり" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ゲノムレベルでの系統解析からは、藍藻は細菌の中でクロロフレクサス門やデイノコックス・テルムス門、放線菌門、フィルミクテス門などに比較的近縁であることが示唆されており、これらを合わせてテッラバクテリア (Terrabacteria;上門レベルに相当) にまとめることが提唱されている。藍藻は、生物の進化において初めて(そして唯1回)酸素発生型光合成能を獲得した生物群であると考えられている。メタゲノム研究により、動物の腸管や土壌、汚水、地下水など様々な環境から、藍藻に近縁な非光合成細菌の系統群がいくつか見つかっている(メライナバクテリアなど)。これらの細菌が光合成能の痕跡を全くもたないことから、藍藻の祖先は嫌気性の非光合成生物であり、遺伝子の水平伝播などによって酸素発生型光合成能を獲得したと一般には考えられている。ただし、水平伝播のもとになった生物についてはよくわかっていない。", "title": "進化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "藍藻以外の光合成細菌は、藍藻がもつ光化学系Iもしくは光化学系IIのどちらか一方にのみ相同な光合成システムをもつ。これらのシステムでは水の光分解は起こらず、非酸素発生型の光合成が行われる。2つの光化学系が連結した酸素発生型の光合成を行う細菌は藍藻以外知られていない。そのため、藍藻以外の光合成細菌から、それぞれの光化学系が別個に藍藻の祖先に水平伝播したとみなされる場合が多い。しかし、各光化学系の起源と進化についてはほとんどわかっておらず、藍藻以外の光合成細菌が藍藻より以前に存在したことを示す直接的な証拠はない。そのため、藍藻のもつ2つの光化学系が別個に他の細菌に水平伝播して非酸素発生型の光合成が後から誕生した可能性も、現在のところ否定する証拠はない。実際に、緑色硫黄細菌や緑色非硫黄細菌など一部の光合成細菌については、その起源が藍藻よりもはるかに遅いことを示唆するデータが提出されており、藍藻も含めてどの光合成細菌が最も古くに誕生したのかは現在も合意に至っていない。", "title": "進化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "藍藻の進化は化石やバイオマーカー(化学化石、biomarker)、分子時計計算など様々な角度から研究が行われている。しかし、いずれも多くの異論があり、広く合意のとれた仮説は現在も存在しない。地質学的な証拠からはおよそ24億年前に地球が急速に酸化的環境に変化していったことが知られており、大酸化事変(大酸化イベント、Great Oxygenation Event, GOE)とよばれる。これは光合成によって作られた酸素が原因であるというのが最も有力な説明であり、そのため、藍藻は少なくともGOEまでには誕生していたと考えられている。しかしながら、GOE以前にも少量の酸素が存在していたことを示す証拠が複数あり、藍藻の誕生がどこまで遡るのかが議論となっている。太古代の地層に多く見られる縞状鉄鉱床は海水中の鉄などが当時すでに存在した酸素によって酸化された結果であるとする説もあるが、一方で藍藻の起源をGOEとほぼ同時期とみなす研究もある。一時期、藍藻固有のバイオマーカーが太古代から見つかり、GOE以前の藍藻および酸素の存在を示す証拠として注目されたが、その後の研究で、見つかったバイオマーカーは後世の汚染である可能性が強く、さらにバイオマーカー自体が藍藻に固有ではないことが判明している。そのほか、藍藻と考えられる化石にストロマトライトがある(図11a)。現在の地球上に見られるストロマトライトの形成にすべて藍藻が関わっていることから、ストロマトライトの化石も過去の藍藻の存在を示す証拠として扱われていたが、現在ではこれは非生物起源や、藍藻以外の光合成細菌由来のものも含まれていると考えられている。そのため、ストロマトライト単独で藍藻の進化について議論することは難しい。", "title": "進化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "いずれにせよ、藍藻の誕生によって地球環境は激変し(好気的環境、有機物安定的供給、オゾン層形成など)、現在の地球生態系の基礎が築かれた。酸素発生型光合成生物は藍藻だけである時代が長く続いたが、その後(ある研究では15億年以上前)、ある真核生物にある藍藻が細胞内共生し、やがてこの共生藍藻の増殖や代謝が宿主である真核生物に制御されるようになり、最終的に葉緑体(色素体)とよばれる細胞小器官へと変化した。この際、藍藻の細胞膜と外膜が色素体の2枚の膜になったと考えられている。この現象は一次共生 (primary endosymbiosis) とよばれ、これによって真核生物が酸素発生型光合成能を獲得した。生物の歴史の中で一次共生は唯1回の現象であったと考えられており、全ての葉緑体は単一の一次共生に由来する(その後、二次共生を経たものもある)。多数の遺伝子を用いた系統解析から、一次共生において共生者となった藍藻は、グロエオマルガリータ属 (Gloeomargarita) という淡水産単細胞性藍藻に近縁な藍藻であったことが示唆されている。", "title": "進化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "古くは、藍藻は最も\"原始的な植物\"と考えられ、藍色植物門(藍藻植物、Cyanophyta)、藍藻綱 (Cyanophyceae)に分類されていた。しかし葉緑体の共生説が一般的となり、藍藻と他の\"植物\"の直接的な類縁性は認められなくなった(ただし上記のように、細胞内共生・葉緑体を通してつながっている)。現在でも藍藻は藻類の一群として扱われることが多いが、このような系統的異質性から藻類から除かれることもある(ただし藍藻を除いても藻類は多系統群である)。 これらの分類群名は植物命名規約(現 国際藻類・菌類・植物命名規約)に基づくものであり、原核生物である藍藻に対しては近年ではほとんど用いられない。また古くは、粘藻綱 (Myxophyceae) や粘藻植物門 (Myxophta)、分裂藻綱 (Schizophyceae) という分類群名が使われていたこともある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "藍藻は原核生物であり、細菌(バクテリア、真正細菌)ドメインに属する。細菌の中では、藍藻は比較的独立した系統群を形成しており、シアノバクテリア門(藍色細菌門、学名: Cyanobacteria)として扱われる。メタゲノム研究によって見つかった、藍藻に近縁な従属栄養性細菌群である\"メライナバクテリア綱\" (Melainabacteria) や\"セリキトクロマチア綱\" (Sericytochromatia) などは、シアノバクテリア門に含めて扱われることがあるが、その場合は光合成能をもつ藍藻はオキシフォトバクテリア綱 (Oxyphotobacteria) にまとめられ、これらの非光合成細菌群と併置される。ただし、シアノバクテリア門を光合成性のグループのみに限る考えもある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "藍藻は分類学的には細菌として扱うべきであるが、ほとんどの学名は植物命名規約(現 国際藻類・菌類・植物命名規約)に基づいて提唱されており、国際原核生物命名規約の基で提唱された学名は少ない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "クロロフィル b をもつ藍藻(原核緑藻)は、発見当初は原核緑色植物門 (Prochlorophyta) として藍藻とは別の門に分けられていた。しかしその後の研究から原核緑藻は系統的に藍藻に含まれることが示され、現在では分類群名として原核緑色植物門を用いることはない。ただし「原核緑藻 (prochlorophytes)」という語は、一般名としてはしばしば用いられる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "他の藻類と同様、藍藻はその体制(おおまかな体のつくり)に基づいて分類され、いくつかの目に分けられてきた(下表1)。細菌の分類の基準となっていた「バージェイ細菌分類便覧 (Bergey’s Manual) 第2版」でも基本的には同じ体系が用いられていた。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "しかし分子系統学的研究の結果、上記の分類群の多くは多系統群であることが判明しており、特に単細胞性と糸状性の間では頻繁な平行進化(特に糸状体から単細胞体への進化)が起こったと考えられている。2019年現在までに報告されている分子系統解析の結果に基づくシアノバクテリア門内の系統仮説の1つを下に示す。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2019年現在、このような系統関係を完全に反映させた分類体系は提唱されていない。また、分子系統解析が行われた藍藻は、いまだごく一部に限られている。そのため、藍藻の分類体系構築に関しては過渡的な状況にある。2019年現在、形態形質および分子情報に基づく分類体系として、Komárek et al. (2014) をもとにした目レベルの分類体系を下表2に示す。また藍藻の分類においては、属レベルでも非単系統性(ときに下記の分類体系において複数の目に分かれるほどの)が示されているものが少なくない (Synechococcus、Synechocystis、Lyngbya など)。これらの属の一部に関しては、ゲノムレベルでの分子系統解析に基づいて多数の属に分けることが提唱されている。", "title": "分類" } ]
藍藻またはシアノバクテリア は、酸素発生を伴う光合成(酸素発生型光合成)を行う細菌の一群である。 藍藻は系統的には細菌ドメイン(真正細菌)に属する原核生物であるが、歴史的には「植物」に分類されていた(植物#リンネ以降参照)。藻類に分類されていたことから、国際細菌命名規約ではなく国際藻類・菌類・植物命名規約に基づき命名されてきた。藍藻は現在でも藻類の一員として扱われることが多いが、原核生物である点で他の藻類や陸上植物(どちらも真核生物)とは系統的に大きく異なる。しかし、陸上植物のものも含めて全ての葉緑体は細胞内共生において取り込まれた藍藻に由来すると考えられており、藍藻は植物の起源を考える上で重要な存在である。 単細胞、群体、または糸状体であり(図1)、原核生物としては極めて複雑な体をもつものもいる(→#体制)。光合成色素としてふつう青いフィコシアニンを多くもつため、クロロフィルの緑色と合わせて青緑色(藍色)をしていることが多く、学名や英名の「cyano-」はギリシア語で「青色」を意味する κυανός (kyanós) に由来する(→#光合成)。藍藻のフィコシアニンは、青い天然色素として広く利用されている(アイスキャンディーなど)。藍藻は海から淡水、陸上に広く生育し、生産者や窒素固定者として生態系において重要な役割を担っている(→#生態)。またアオコや健康食品などの形で人間生活とも密接に関わっている(→#人間との関わり)。 藍藻は、地球上に初めて現れた酸素発生型光合成生物であったと考えられている(およそ25–30億年前)。藍藻の光合成によって、地球上に初めて酸素と有機物が安定的に供給されるようになり、現在へとつながる生態系の基礎が築かれた。酸素発生型光合成というシステムは、細胞内共生(一次共生)を経て葉緑体の形で真核生物に受け継がれ、多様な真核藻類(および陸上植物)のもとともなった(→#進化)。細菌の中には、他にも光合成を行うグループが存在するが(光合成細菌と総称される)、酸素発生を伴う光合成を行うのは藍藻のみであり、他の光合成細菌は非酸素発生型の光合成 を行う。 分類学的には、シアノバクテリア門に分類される。2019年現在、メタゲノム研究(水などのサンプルから直接抽出したDNAに基づくゲノム研究であり、培養できない生物の性質を推定できる)から、藍藻に近縁であるが光合成能をもたない細菌群がいくつか見つかっている(メライナバクテリアなど)。これらの細菌群も光合成を行う藍藻とともにシアノバクテリア門に分類されることがあるが、以下では主に光合成を行う藍藻についてのみ概説する。
{{生物分類表 |色 = 細菌 |fossil_range = {{long fossil range|Paleoproterozoic|present|ref=<ref name="Yamamoto2013" />}} |名称 = シアノバクテリア門 |画像 = [[ファイル:Oscillatoria sp.jpg|250px]]<br />[[ファイル:SAG_36.85_Chroococcus_turgidus_SWES6wk_ML_160818_010_ovl_prime.jpg|250px]] |画像キャプション = '''1'''. (上) 糸状藍藻の1種、(下) クロオコックス属 |ドメイン = [[細菌]] {{Sname||Bacteria}} |門 = '''シアノバクテリア門''' {{Sname||Cyanobacteria}} |学名 = {{Sname||Cyanobacteria}}<br /> {{AUY|Stanier ex Cavalier-Smith|2002}} |和名 = シアノバクテリア<ref name="生物学辞典">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=藍色細菌|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|pages=1445–1446}}</ref>、藍色細菌<ref name="生物学辞典" />、ラン細菌<ref name="生物学辞典" />、藍藻<ref name="渡辺1999" />、ラン藻<ref name="コトバンク_ラン藻">{{Cite Kotobank|word=ラン藻|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2021-09-25}}</ref>、藍色植物<ref name="渡辺1999" />、藍藻植物<ref name="渡辺1999" /> |英名 = cyanobacteria<ref name="Graham2008" />, cyanoprokaryotes<ref name="Büdel2012" />, blue-green algae<ref name="Graham2008" />, cyanophytes<ref name="Graham2008" /> |下位分類名=下位分類{{efn2|name="orders"|目レベルの分類は過渡的であり、必ずしも系統を反映していない (本文参照)。}} |下位分類 = *"セリキトクロマチア綱" {{Sname||Sericytochromatia}}{{efn2|name="heterotroph"|光合成能をもたない。シアノバクテリア門には含めないこともある<ref name="Garcia‐Pichel2019" />。}} *"[[メライナバクテリア]]綱" {{Sname||Melainabacteria}}{{efn2|name="heterotroph"}} *オキシフォトバクテリア綱 (酸素発生型光合成細菌綱) {{Sname||Oxyphotobacteria}}{{efn2|name="オキシフォトバクテリア綱"|この名はまだ一般的ではなく、植物命名規約に基づく「藍藻綱 ({{Sname||Cyanophyceae}})」が暫定的に用いられることがある<ref name="Algaebase">{{Cite web|author=|date=|url=https://www.algaebase.org/browse/taxonomy/?id=4351|title=Cyanophyceae|website=Algaebase|publisher=|accessdate=2021-09-23}}</ref>。}} **グロエオバクター目 {{Sname||Gloeobacterales}} **グロエオマルガリータ目 {{Sname||Gloeomargaritales}} **シネココックス目 {{Sname||Synechococcales}} **ユレモ目 {{Sname||Oscillatoriales}} **スピルリナ目 {{Sname||Spirulinales}} **クロオコックス目 {{Sname||Chroococcales}} **プレウロカプサ目 {{Sname||Pleurocapsales}} **クロオコッキディオプシス目 {{Sname||Chroococcidiopsidales}} **[[ネンジュモ目]] {{Sname||Nostocales}} }} '''藍藻'''('''ラン藻'''、らんそう、{{Lang-en-short|blue-green algae}})または'''シアノバクテリア'''{{efn2|name="教育指導要領"|2019年現在、高等学校の[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/index.htm 教育指導要領]や、({{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.5363/tits.24.8_86 |title=高等学校の生物教育における重要用語の選定について (改訂) |journal=学術の動向 |ISSN=1342-3363 |publisher=日本学術協力財団 |year=2019 |volume=24 |issue=8 |pages=8_86-8_87 |doi=10.5363/tits.24.8_86 |naid=130007769442}})では、「シアノバクテリア」が選定されている。}} ('''藍色細菌'''、らんしょくさいきん、英: cyanobacteria)は、酸素発生を伴う[[光合成]](酸素発生型光合成)を行う[[細菌]]の一群である。 藍藻は系統的には[[細菌]]ドメイン(真正細菌)に属する[[原核生物]]であるが、歴史的には「植物」に分類されていた([[植物#リンネ以降]]参照)。[[藻類]]に分類されていたことから、[[国際細菌命名規約]]ではなく[[国際藻類・菌類・植物命名規約]]に基づき命名されてきた。藍藻は現在でも[[藻類]]の一員として扱われることが多いが、原核生物である点で他の[[藻類]]や[[陸上植物]](どちらも[[真核生物]])とは系統的に大きく異なる。しかし、陸上植物のものも含めて全ての[[葉緑体]]は細胞内共生において取り込まれた藍藻に由来すると考えられており、藍藻は植物の起源を考える上で重要な存在である。 単細胞、群体、または糸状体であり(図1)、[[原核生物]]としては極めて複雑な体をもつものもいる(→[[#体制|#体制]])。光合成色素としてふつう青い[[フィコシアニン]]を多くもつため、[[クロロフィル]]の緑色と合わせて青緑色([[藍色]])をしていることが多く、学名や英名の「cyano-」は[[ギリシア語]]で「青色」を意味する {{lang|grc|κυανός}} (''kyanós'') に由来する(→[[#光合成|#光合成]])。藍藻のフィコシアニンは、青い天然色素として広く利用されている([[アイスキャンディー]]など)。藍藻は海から淡水、陸上に広く生育し、[[生産者]]や[[窒素固定]]者として生態系において重要な役割を担っている(→[[#生態|#生態]])。また[[アオコ]]や[[健康食品]]などの形で人間生活とも密接に関わっている(→[[#人間との関わり|#人間との関わり]])。 藍藻は、地球上に初めて現れた酸素発生型光合成生物であったと考えられている(およそ25–30億年前)。藍藻の光合成によって、地球上に初めて[[酸素]]と[[有機物]]が安定的に供給されるようになり、現在へとつながる生態系の基礎が築かれた<ref name="Inouye2006">{{cite book|author=井上勲|year=2006|title=藻類30億年の自然史 -藻類からみる生物進化-|publisher=東海大学出版会|isbn=4486017773|ncid=BA75032272}}</ref>。酸素発生型光合成というシステムは、[[細胞内共生説|細胞内共生]](一次共生)を経て[[葉緑体]]の形で[[真核生物]]に受け継がれ、多様な真核藻類(および[[陸上植物]])のもとともなった(→[[#進化|#進化]])。細菌の中には、他にも光合成を行うグループが存在するが([[光合成細菌]]と総称される)、酸素発生を伴う光合成を行うのは藍藻のみであり、他の光合成細菌は非酸素発生型<ref name="光合成辞典">{{Cite web|和書|author=|date=2020-05-12|url=https://photosyn.jp/pwiki/index.php?%E9%9D%9E%E9%85%B8%E7%B4%A0%E7%99%BA%E7%94%9F%E5%9E%8B%E5%85%89%E5%90%88%E6%88%90|title=非酸素発生型光合成|website=光合成事典(Web版)|publisher=日本光合成学会|accessdate=2022-11-11}}</ref>{{efn2|name="anoxygenic"|酸素非発生型とも表記される<!--どちらが一般的なのでしょうか?--><ref name="嶋田2009">{{Cite journal|和書|author=嶋田敬三|year=2009|title=光合成細菌|journal=低温科学|volume=67|issue=|pages=3-7|url=https://hdl.handle.net/2115/39083}}</ref>。}}の光合成 ([[:en:Anoxygenic_photosynthesis|anoxygenic photosynthesis]]) を行う。 分類学的には、'''シアノバクテリア門'''('''藍色細菌門'''、[[学名]]: {{Sname||Cyanobacteria}})に分類される。2019年現在、[[メタゲノミクス|メタゲノム研究]](水などのサンプルから直接抽出したDNAに基づくゲノム研究であり、培養できない生物の性質を推定できる)から、藍藻に近縁であるが光合成能をもたない細菌群がいくつか見つかっている([[メライナバクテリア]]など)。これらの細菌群も光合成を行う藍藻とともにシアノバクテリア門に分類されることがあるが、以下では主に光合成を行う藍藻についてのみ概説する。 ==体制== 藍藻の中には、[[単細胞]]性、[[群体]]性、糸状性の種がいる<ref name="渡辺1999">{{cite book|author=渡辺信|year=1999|chapter=藍色植物門|editor=千原光雄|title=バイオディバーシティ・シリーズ (3) 藻類の多様性と系統|publisher=裳華房|pages=160–165|isbn=978-4785358266}}</ref><ref name="Graham2008">{{cite book|author=Graham, J.E., Wilcox, L.W. & Graham, L.E.|year=2008|chapter=Cyanobacteria|title=Algae|publisher=Benjamin Cummings|isbn=978-0321559654|pages=94–121}}</ref><ref name="千原1997">{{cite book|author=千原光雄|year=1997|chapter=藍色植物門|title=藻類多様性の生物学|publisher=内田老鶴圃|pages=27–39|isbn=978-4753640607}}</ref><ref name="Hoek1995">{{cite book|author=van den Hoek, C., Mann, D., Jahns, H. M. & Jahns, M.|year=1995|title=Algae: an introduction to phycology|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0521316873}}</ref><ref name="Komárek2003a">{{cite book|author=Komárek, J.|year=2003|chapter=Coccoid and colonial cyanobacteria|editor=Wehr, J.D. & Sheath, R.G.|title=Freshwater Algae of North America. Ecology and Classification|publisher=Academic Press|location=Boston, MA|isbn=978-0127415505|pages=59-116}}</ref><ref name="Komárek2003b">{{cite book|author=Komárek, J., Kling, H. & Komárková, J.|year=2003|chapter=Filamentous cyanobacteria|editor=Wehr, J.D. & Sheath, R.G.|title=Freshwater Algae of North America. Ecology and Classification|publisher=Academic Press|location=Boston, MA|isbn=978-0127415505|pages=117-196}}</ref>(下図2)。藍藻の多くは肉眼では判別できない[[微細藻類|微細藻]]であるが、群体性や糸状性の藍藻の中には、肉眼で見えるほどの大きさになるものもいる(下図6a)。 [[ファイル:Morphological diversity in cyanobacteria.webp|thumb|center|400px|'''2'''. 藍藻におけるおける体制の多様性: a, b {{Snamei||Chroococcus}}, c {{Snamei||Cyanothece}}, d {{Snamei||Snowella}}, e {{Snamei||Microcystis}}, f {{Snamei||Pleurocapsa}}, g {{Snamei||Planktothrix}}, h {{Snamei||Limnothrix}}, i {{Snamei||Arthrospira}}, j {{Snamei||Johanseninema}}, k {{Snamei||Phormidium}}, l, m {{Snamei||Oscillatoria}}, n {{Snamei||Schizothrix}}, o {{Snamei||Tolypothrix}}, p {{Snamei||Katagnymene}}, q, r {{Snamei||Dolichospermum}}, s {{Snamei||Nostoc}}, t {{Snamei||Nodularia}}, u, v {{Snamei||Stigonema}}. スケールバー: a–u = 10 µm, v = 20 µm.]] *'''単細胞性''' (unicellular) *:体が1個の[[細胞]]からなる (下図3)。細胞の形は球状や桿状のものが多く(例: {{Snamei||Synechococcus}}, {{Snamei||Synechocystis}})、また異極性(heteropolarity; 基端と先端で形態が異なる)を示す種もいる(例: {{Snamei||Chamaesiphon}}; 下図16a)<ref name="Komárek2003a" />。 {{multiple image | total_width = 300 | align = center | caption_align = left | image1 = Synechococcus PCC 7002 DIC.jpg | caption1 = '''3a'''. 単細胞性 ({{Snamei||Synechococcus}}) | image2 = Cyanobacteriaunicellularandcolonial020 Synechococcus.jpg | caption2 = '''3b'''. 単細胞性 }} *'''群体性''' (colonial) *:体が複数の細胞からなるが、細胞が密接していない、細胞の分化が見られないなど多細胞とは呼び難いもの(多分に伝統的な区分であり、明確な定義は難しい)(下図4)。群体全体の形態は多様である(不定形、球形、多面体、シート状、ひも状など)<ref name="Komárek2003a" />。また群体様式としては、多数の細胞が共通の粘液質に包まれたパルメラ状群体(palmelloid colony; 例:{{Snamei||Aphanocapsa}})が多いが、他にも細胞が密着して塊状になるサルシナ状群体(sarcinoid colony; 例:{{Snamei||Cyanosarcina}})や、分岐する粘液質の柄の先端にそれぞれ細胞が位置する樹状群体(dendroid colony)などがある<ref name="Komárek2003a" />。 {{multiple image | total_width = 500 | align = center | caption_align = left | image1 = Merismopedia.jpg | caption1 = '''4a'''. 群体性 ({{Snamei||Merismopedia}}) | image2 = Gomphosphaeria_aponina_1.jpg | caption2 = '''4b'''. 群体性 ({{Snamei||Gomphosphaeria}}) | image3 = Cyanobacteriaunicellularandcolonial020 Aphanothece.jpg | caption3 = '''4c'''. 群体性 ({{Snamei||Aphanothece}}) }} *'''糸状性''' (filamentous) *:{{multiple image | total_width = 900 | align = center | caption_align = left | image1 = Oscillatoria filaments.jpg | caption1 = '''5a'''. 無分枝糸状 | image2 = Fischerella_thermalis.png | caption2 = '''5b'''. 真分枝糸状 ({{Snamei||Fischerella}}) | image3 = Simplefilaments022 Aphanizomenon.jpg | caption3 = '''5c'''. 無分枝糸状 | image4 = Cyanobacteriaassociatedwithtufa014 Rivularia.jpg | caption4 = '''5d'''. 無分枝糸状 (異極性) | image5 = Cyanobacteriabranchedforms026 Tolypothrix.jpg | caption5 = '''5e'''. 偽分枝糸状 | image6 = Cyanobacteriabranchedforms026 Fischerella.jpg | caption6 = '''5f'''. 真分枝糸状 | image7 = Cyanobacteriabranchedforms026 Stigonema.jpg | caption7 = '''5g'''. 多列真分枝糸状 }} {{multiple image | total_width = 400 | align = right | caption_align = left | image1 = NostocPruniforme2.jpg | caption1 = '''6a'''. ネンジュモ属の1種の藻体 | image2 = Nostoc.jpg | caption2 = '''6b'''. ネンジュモ属では、共通の粘液質中に多数のトリコームがある。 }}[[ファイル:Cianobacteris ramificacio.png|300px|thumb|right|'''7'''. 真分枝 (左) と偽分枝 (右)]]細胞が密接して列状に連なっているもの (上図5)。伝統的に、糸状性の藍藻において細胞列を'''トリコーム'''(細胞糸 trichome)、1本から複数のトリコームが共通の外被に包まれたものを'''糸状体''' (filament) とよぶ<ref name="Komárek2003b" />。また多数のトリコームが共通の粘液質で包まれた巨視的な群体を形成するものもいる(例: [[ネンジュモ属]]、図6)。細胞が'''単列''' (uniseriate) に並んでいるものが多いが、'''多列''' (multiseriate) に並んでいるものもいる(例: スチゴネマ属 {{Snamei||Stigonema}})(上図5g)。トリコームの末端の細胞はふつう他の細胞とはやや異なる形をしており (上図1g)、特に先端が肥厚している場合はカリプトラ(頂冠 calyptra)とよばれる。一部の種では、トリコームが異極性を示す(上図5d)。例えばヒゲモ属 ({{Snamei||Rivularia}}) などでは、トリコームの基部に[[#窒素固定|異質細胞]]が存在し、トリコーム先端の細胞が細長く伸びている。この場合、基部の異質細胞で[[#窒素固定|窒素固定]]、頂端部で[[リン]]吸収を行う<ref name="Mahasneh1990">{{cite journal|author=Mahasneh, I.A., Grainger, S.L.J. & Whitton, B.A.|year=1990|title=Influence of salinity on hair formation and phosphatase-activities of the blue-green-alga (cyanobacterium) ''Calothrix viguieri'' D253|journal=Br. Phycol. J.|volume=25|pages=25-32|doi=10.1080/00071619000650021}}</ref> (つまり細胞間で形態分化とともに機能分化を示す)。トリコームは'''無分枝''' (unbranching) であるものが多いが(上図5a, c, d)、一部は偽分枝または真分枝をする<ref name="Komárek2003b" />。'''偽分枝''' (false branching) とは、トリコームの途中が分断し (ふつう細胞死による)、その一端または両端が細胞列から外れて伸長することによって形成された分枝様の構造のことである(上図5e, 図7右)。一方、'''真分枝''' (true branching) とは、トリコームを構成する細胞が2方向以上で分裂することによって形成された分枝である(上図5b, f, g, 図7左)。分枝する種の中には、匍匐糸と直立糸の分化などの異糸性 (heterotrichous) を示すものもいる(例: {{Snamei||Fischerella}})。糸状性の藍藻は、しばしば(全てではない)細胞分化(先端の細胞、異糸性、[[#窒素固定|異質細胞]]や[[#生殖|アキネート]]など)や細胞死を伴う形態形成(偽分枝、[[#生殖|連鎖体形成]]など)、細胞間の連絡([[#細胞外被|ペリプラズムの共有やセプトソーム]])を示し、原核生物ではあるものの真の多細胞体ともいえる体をもつ場合がある<ref name="Flores2010">{{cite journal|author=Flores, E. & Herrero, A.|year=2010|title=Compartmentalized function through cell differentiation in filamentous cyanobacteria|journal=Nature Reviews Microbiology|volume=8|pages=39-50|doi=10.1038/nrmicro2242}}</ref><ref name="Singh2011">{{cite journal|author=Singh, S.P. & Montgomery, B.L.|year=2011|title=Determining cell shape: adaptive regulation of cyanobacterial cellular differentiation and morphology|journal=Trends in Microbiology|volume=19|pages=278-285|doi=10.1016/j.tim.2011.03.001}}</ref>。 ==細胞== 藍藻の[[細胞]]は直径1[[マイクロメートル]] (µm) 以下のこともあるが、原核生物としては大型のものが多く、直径 100 µm に達するものもいる<ref name="Komárek2003a" />。 ===細胞外被=== 典型的な[[グラム陰性細菌]] ([[大腸菌]]など) と同様、藍藻の細胞壁は、'''ペプチドグリカン層''' (peptideglycan layer) と、その外側を覆う'''[[外膜]]''' (outer membrane) からなる<ref name="Hoiczyk2000">{{cite journal|author=Hoiczyk, E. & Hansel, A.|year=2000|title=Cyanobacterial cell walls: News from an unusual prokaryotic envelope|journal=J. Bacteriol.|volume=182|pages=1191-1199|doi=10.1128/JB.182.5.1191-1199.2000}}</ref>。ペプチドグリカン層は、[[アミノ糖]]であるNーアセチルグルコサミンとNーアセチルムラミン酸が交互に連なった糖鎖が、[[オリゴペプチド]]で架橋された物質である[[ペプチドグリカン]](ムレイン murein)からなる。藍藻のペプチドグリカン層は、一般的なグラム陰性細菌のそれにくらべて厚いことが多く(12–700[[ナノメートル|ナノメートル{{nbsp}}(nm)]])、またオリゴペプチドの架橋が多い([[グラム陽性細菌]]的な特徴)。ペプチドグリカン層が存在する細胞膜と外膜の間の空間は、[[ペリプラズム]] (periplasm) とよばれる。外膜は、[[細胞膜]]と同じく[[脂質二重層]]であるが、外側の層には[[糖鎖]]が結合した[[脂質]]([[リポ多糖]] lipopolysaccharide, LPS)が含まれる。他のグラム陰性細菌ではリポ多糖は毒となることがあり([[内毒素]])、藍藻がもつ外膜のリポ多糖にもその可能性が指摘されている<ref name="Stewart2006">{{cite journal|author=Stewart, I., Schluter, P.J. & Shaw, G.R.|year=2006|title=Cyanobacterial lipopolysaccharides and human health - a review|journal=Environ Health|volume=5|pages=7|doi=10.1186/1476-069X-5-7}}</ref>。 糸状性藍藻のトリコームでは、細胞列は共通の外膜に包まれており、またペプチドグリカン層を共有している<ref name="Flores2010" />。細胞間には、ペプチドグリカン層を貫通して隣接する細胞の細胞膜同士をつなぐ連結構造であるセプトソーム(septosome、隔壁結合 septal junction、微細原形質連絡 microplasmodesmata)が多数存在する<ref name="Flores2010" /><ref name="Flores2016">{{cite journal|author=Flores, E., Herrero, A., Forchhammer, K. & Maldener, I.|year=2016|title=Septal junctions in filamentous heterocyst-forming Cyanobacteria|journal=Trends in Microbiology|volume=24|pages=79-82|doi=10.1016/j.tim.2015.11.011}}</ref><ref name="Bornikoel2017">{{cite journal|author=Bornikoel, J., Carrión, A., Fan, Q., Flores, E., Forchhammer, K., Mariscal, V., ... & Maldener, I.|year=2017|title=Role of two cell wall amidases in septal junction and nanopore formation in the multicellular cyanobacterium ''Anabaena'' sp. PCC 7120|journal=Frontiers in Cellular and Infection Microbiology|volume=7|pages=386|doi=10.3389/fcimb.2017.00386}}</ref>。セプトソームは長さ 25 nm、外径 15 nm、内径 6 nmほどであり、おそらく細胞間での低分子物質輸送に関与している<ref name="Mullineaux2008">{{cite journal|author=Mullineaux, C. W., Mariscal, V., Nenninger, A., Khanum, H., Herrero, A., Flores, E. & Adams, D.|year=2008|title=Mechanism of intercellular molecular exchange in heterocyst-forming cyanobacteria|journal=EMBO J.|volume=27|pages=1299-1308|doi=10.1038/emboj.2008.66}}</ref>。 外膜の外側には、結晶性の糖タンパク質からなる層が存在することがあり、[[S層]] (surface layer, S-layer) とよばれる<ref name="Šmarda2002">{{cite journal|author=Šmarda, J., Šmajs, D., Komrska, J. & Krzyžánek, V.|year=2002|title=S-layers on cell walls of cyanobacteria|journal=Micron|volume=33|pages=257-277|doi=10.1016/S0968-4328(01)00031-2}}</ref><ref name="Ehlers2012">{{cite journal|author=Ehlers, K. & Oster, G.|year=2012|title=On the mysterious propulsion of ''Synechococcus''|journal=PLoS One|volume=7|pages=e36081|doi=10.1371/journal.pone.0036081}}</ref><ref name="Strom2012">{{cite journal|author=Strom, S. L., Brahamsha, B., Fredrickson, K. A., Apple, J. K. & Rodríguez, A. G.|year=2012|title=A giant cell surface protein in ''Synechococcus'' WH8102 inhibits feeding by a dinoflagellate predator|journal=Environmental Microbiology|volume=14|pages=807-816|doi=10.1111/j.1462-2920.2011.02640.x}}</ref>。このような糖タンパク質層は、細胞の保護、物質透過、接着、認識、運動、被食防御などに関与していると考えられている。 {{multiple image | total_width = 600 | align = center | caption_align = left | image1 = Cyanobacteria guerrero negro.jpg | caption1 = '''8a'''. 共通の粘液質に包まれた藍藻 | image2 = Marinedrugs-15-00367-ag cropped.png | caption2 = '''8b'''. 鞘をもつ糸状藍藻 | image3 = Lyngbya.jpg | caption3 = '''8c'''. 色素で色づいた鞘をもつ糸状藍藻 }} さらに細胞は、タンパク質や細胞外多糖 (exopolysaccharide) からなる'''[[細胞外高分子物質]]''' (extracellular polymeric substance, EPS) によって覆われることがある<ref name="Hoiczyk2000" /><ref name="Pereira2009">{{cite journal|author=Pereira, S., Zille, A., Micheletti, E., Moradas-Ferreira, P., De Philippis, R. & Tamagnini, P.|year=2009|title=Complexity of cyanobacterial exopolysaccharides: composition, structures, inducing factors and putative genes involved in their biosynthesis and assembly|journal=FEMS Microbiology Reviews|volume=33|pages=917-941|doi=10.1111/j.1574-6976.2009.00183.x}}</ref><ref name="Plude1991">{{cite journal|author=Plude, J.L., Parker, D.L., Schommer, O.J., Timmerman, R.J., Hagstrom, S.A., Joers, J.M. & Hnasko, R.|year=1991|title=Chemical characterization of polysaccharide from the slime layer of the cyanobacterium ''Microcystis flos-aquae'' C3-40|journal=Appl. Environ. Microbiol.|volume=57|pages=1696-1700|url=https://doi.org/10.1128/aem.57.6.1696-1700.1991}}</ref>。細胞外高分子物質は、その厚さや形態、性状に応じて、鞘(sheath; 薄く緻密で光学顕微鏡下で明瞭な構造; 上図8b, c)、夾膜 (capsule; 厚く均質で輪郭が明瞭な構造)、粘液質(slime; 細胞に沿った形を示さない不定形の構造; 上図8a)ともよばれる<ref name="De Philippis1998">{{cite journal|author=De Philippis, R. & Vincenzini, M.|year=1998|title=Exocellular polysaccharides from cyanobacteria and their possible applications|journal=FEMS Microbiology Reviews|volume=22|pages=151-175|doi=10.1111/j.1574-6976.1998.tb00365.x}}</ref><ref name="De Philippis2003">{{cite journal|author=De Philippis, R. & Vincenzini, M.|year=2003|title=Outermost polysaccharidic investments of cyanobacteria: nature, significance and possible applications|journal=Recent Res. Dev. Microbiol.|volume=7|pages=13-22}}</ref>。多数の個体が細胞外高分子物質からなる共通の基質に包まれ、群体や[[バイオフィルム]]を形成することもある。このような外被には、無機栄養分の貯蔵、乾燥耐性、紫外線耐性、浮力増大、被食防御などの機能があると考えられている<ref name="Plude1991" /><ref name="McCarren2009">{{cite journal|author=McCarren, J. & Brahamsha, B.|year=2009|title=Swimming motility mutants of marine ''Synechococcus'' affected in production and localization of the S-layer protein SwmA|journal=J. Bacteriol.|volume=191|pages=1111-1114|doi=10.1128/JB.01401-08}}</ref><ref name="Reynolds2007">{{cite journal|author=Reynolds, C. S.|year=2007|title=Variability in the provision and function of mucilage in phytoplankton: facultative responses to the environment|journal=Hydrobiologia|volume=578|pages=37-45|doi=10.1007/s10750-006-0431-6}}</ref><ref name="Sinha2008">{{cite journal|author=Sinha, R. P. & Häder D.-P.|year=2008|title=UV-protectants in cyanobacteria|journal=Plant Science|volume=174|pages=278-289|doi=10.1016/j.plantsci.2007.12.004}}</ref>。細胞外高分子物質に含まれる紫外線吸収色素として、スキトネミン (scytonemin)<ref name="Ehling-Schulz1997">{{cite journal|author=Ehling-Schulz, M., Bilger, W. & Scherer, S.|year=1997|title=UV-B-induced synthesis of photoprotective pigments and extracellular polysaccharides in the terrestrial cyanobacterium ''Nostoc commune''|journal=J. Bacteriol.|volume=179|pages=1940-1945|doi=10.1128/jb.179.6.1940-1945.1997}}</ref>やグロエオカプシン (gloeocapsin)<ref name="Storme2015">{{cite journal|author=Storme, J. Y., Golubic, S., Wilmotte, A., Kleinteich, J., Velázquez, D. & Javaux, E. J.|year=2015|title=Raman characterization of the UV-protective pigment gloeocapsin and its role in the survival of cyanobacteria|journal=Astrobiology|volume=15|pages=843-857|doi=10.1089/ast.2015.1292}}</ref>、マイコスポリン様アミノ酸 (mycosporine-like amino acid, MAA)<ref name="Böhm1995">{{cite journal|author=Böhm, G. A., Pfleiderer, W., Böger, P. & Scherer, S. |year=1995|title=Structure of a novel oligosaccharide-mycosporine-amino acid ultraviolet A/B sunscreen pigment from the terrestrial cyanobacterium ''Nostoc commune''|journal=J. Biol. Chem.|volume=270|pages=8536-8539|doi=10.1074/jbc.270.15.8536}}</ref>などが知られている。また細胞外被が[[石灰化]]([[炭酸カルシウム]]が沈着)することがあり、おそらく[[光合成]]における二酸化炭素濃縮機構と関連している<ref name="Jansson2010">{{cite journal|author=Jansson, C. & Northen, T.|year=2010|title=Calcifying cyanobacteria-the potential of biomineralization for carbon capture and storage|journal=Current Opinion in Biotechnology|volume=21|pages=365-371|doi=10.1016/j.copbio.2010.03.017}}</ref>。このような石灰化によって、[[ストロマトライト]]が形成されることがある<ref name="Reid2000">{{cite journal|author=Reid, R. P., Visscher, P. T., Decho, A. W., Stolz, J. F., Bebout, B. M., Dupraz, C., Macintyre, I. G., Paerl, H. W., Pinckney, J. L., Prufert-Bebout, L., Steppe, T. F. & DesMarais, D. J.|year=2000|title=The role of microbes in accretion, lamination and early lithification of modern marine stromatolites|journal=Nature|volume=406|pages=989-992|doi=10.1038/35023158}}</ref>。 ===細胞内構造=== 藍藻は[[原核生物]]であり、[[DNA]]は[[核膜]]に包まれず、また[[葉緑体]]や[[ミトコンドリア]]、[[ゴルジ体]]などの[[細胞小器官]]をもたない。細胞内で[[生体膜]]に包まれた構造としては、[[光合成]]における[[光化学反応]]の場である'''[[チラコイド]]'''のみが存在する。チラコイドは扁平な袋であり、ふつう重なることなく、細胞内で同心円状(下図9)、放射状または不規則に配置する<ref name="Komárek1991">{{cite journal|author=Komárek, J. & Čáslavská, J.|year=1991|title=Thylakoidal patterns in oscillatorialean genera|journal=Archiv für Hydrobiologie/Algological Studies|volume=64|pages=267-270|doi=}}</ref><ref name="Mareš2019">Mareš, J., Strunecky, O., Bucinska, L. & Wiedermannova, J. (2019) Evolutionary patterns of thylakoid architecture in cyanobacteria. ''Frontiers in Microbiology'' '''10''': 277. https://doi.org/10.3389/fmicb.2019.00277</ref>。ふつうチラコイドには、[[フィコビリン|フィコビリンタンパク質]]からなる'''[[フィコビリソーム]]'''が付着している(下図9a, 11a)。一部の藍藻([[原核緑藻]])はフィコビリソームを欠き、チラコイドが重なってラメラを形成している(下図9b)。藍藻では、[[酸素呼吸]]における[[呼吸鎖]]の[[酵素]]もチラコイド上に存在することがある(一部の酵素を[[光化学系]]と共有する)<ref name="Nagarajan2001">{{cite journal|author=Nagarajan, A. & Pakrasi, H. B.|year=2001|title=Membrane‐bound protein complexes for photosynthesis and respiration in cyanobacteria|journal=eLS|volume=|pages=1–8|doi=10.1002/9780470015902.a0001670.pub2}}</ref>。最も初期に分かれた藍藻であるグロエオバクター属 ({{Snamei||Gloeobacter}}) はチラコイドをもたず、光化学系は(呼吸鎖とともにパッチ状に)[[細胞膜]]上に存在する<ref name="Rippka1974">{{cite journal|author=Rippka, R.|year=1974|title=A cyanobacterium which lacks thylakoids|journal=Archiv für Mikrobiologie|volume=100|pages=419-436|doi=10.1007/BF00446333}}</ref>。[[プロクロロン]]属 ({{Snamei||Prochloron}}) では、チラコイドの一部が膨潤して[[液胞]]状になることがある<ref name="Cox1993">{{cite book|author=Cox, G.|year=1993|chapter=Prochlorophyceae|editor=Berner, T.|title=Ultrastructure of Microalgae|publisher=CRC Press|isbn=9780849363238|pages=53-70}}</ref>。チラコイドは、細胞膜と直接つながることはないと考えられていたが、現在では”チラコイド形成中心” (thylakoid center) が細胞膜上に存在することが示されている<ref name="Hahn2014">{{cite book|author=Hahn, A. & Schleiff, E.|year=2014|chapter=The Cell Envelope|editor=Flores, E.|title=Cell Biology of Cyanobacteria|publisher=Caister Academic Press|isbn=978-1-908230-92-8|pages=29-88}}</ref><ref name="Nickelsen2013">{{cite journal|author=Nickelsen, J. & Zerges, W.|year=2013|title=Thylakoid biogenesis has joined the new era of bacterial cell biology|journal=Frontiers in Plant Science|volume=4|pages=458|doi=10.3389/fpls.2013.00458}}</ref><ref name="Rast2015">{{cite journal|author=Rast, A., Heinz, S. & Nickelsen, J.|year=2015|title=Biogenesis of thylakoid membranes|journal=Biochimica et Biophysica Acta (BBA)-Bioenergetic|volume=1847|pages=821-830|doi=10.1016/j.bbabio.2015.01.007}}</ref>。光学顕微鏡下では、チラコイドが存在する細胞周縁部が色付き、チラコイドを欠く中心域が淡色に見えることがあり、伝統的に前者を有色質 (chromoplasm)、後者を中心質 (centroplasm) とよぶ<ref name="Geitler1932">{{cite book|author=Geitler, L.|year=1932|chapter=Cyanophyceae|editor=Rabenhorst, L.|title=Kryptogamen-Flora. 14. Band|publisher=Akademische Verlagsgesellschaft|isbn=|pages=1196}}</ref>。中心質にはふつうDNAが存在するため(下図9a)、この領域は核質 (nucleoplasm) ともよばれる(ただし藍藻の中には、DNAが細胞周縁部に存在する例もある<ref name="Cox1993" />)。 {{multiple image | total_width = 700 | align = center | caption_align = left | image1 = Cyanobacteria.png | caption1 = '''9a'''. 藍藻の細胞内模式図: 同心円状に配列した[[チラコイド]]表面には[[フィコビリソーム]]が付着しており、また細胞中央の繊維はDNA。 | image2 = Prochlorococcus marinus (cropped).jpg | caption2 = '''9b'''. プロクロロコックス属の透過型電子顕微鏡像 (着色): チラコイドが同心円状に配置しており、中央に[[カルボキシソーム]]がある (濃色部)。 | image3 = Cyanobacterial thylakoid membrane.png | caption3 = '''9c'''. 藍藻細胞の細胞内構造: 青色は[[細胞膜]]と[[外膜]]、オレンジ色はチラコイド、水色は[[グリコーゲン]]、緑色 (C) はカルボキシソーム、ピンク色 (G) はおそらく[[ポリリン酸]]体 }} 細胞内には'''[[カルボキシソーム]]''' (carboxysome, polyhedral body) とよばれる直径200–700 nm ほどのタンパク質顆粒が存在する<ref name="Price2008">{{cite journal|author=Price, G. D., Badger, M. R., Woodger, F. J. & Long, B. M.|year=2008|title=Advances in understanding the cyanobacterial CO<sub>2</sub>-concentrating-mechanism (CCM): functional components, Ci transporters, diversity, genetic regulation and prospects for engineering into plants|journal=Journal of Experimental Botany|volume=59|pages=1441-1461|doi=10.1093/jxb/erm112}}</ref><ref name="Yeates2008">{{cite journal|author=Yeates, T. O., Kerfeld, C. A., Heinhorst, S., Cannon, G. C. & Shively, J. M.|year=2008|title=Protein-based organelles in bacteria: carboxysomes and related microcompartments|journal=Nature Reviews Microbiology|volume=6|pages=681-691|doi=10.1038/nrmicro1913}}</ref>(上図9b, c)。カルボキシソームは主に[[ルビスコ]]や[[炭酸脱水酵素]]からなり、殻タンパク質で包まれている。カルボキシソームは、おそらく効率的な二酸化炭素濃縮機構に関わっており([[重炭酸イオン]]から[[二酸化炭素]]を生成)、このため藍藻はほとんど[[光呼吸]]を示さない<ref name="Price2008" /><ref name="Colman1989">{{cite journal|author=Colman, B.|year=1989|title=Photosynthetic carbon assimilation and the suppression of photorespiration in the cyanobacteria|journal=Aquat. Bot.|volume=34|pages=211-231|doi=10.1016/0304-3770(89)90057-0}}</ref>。ただし、おそらく特異なグリコール酸代謝経路をもつ<ref name="Bauwe2010">{{cite journal|author=Bauwe, H., Hagemann, M. & Fernie, A. R.|year=2010|title=Photorespiration: players, partners and origin|journal=Trends in Plant Science|volume=15|pages=330-336|doi=10.1016/j.tplants.2010.03.006}}</ref>。カルボキシソームは、炭素固定を行う他の細菌([[光合成細菌]]や[[化学合成細菌]])に見られることもある<ref name="Codd1984">{{cite journal|author=Codd, G.A. & Marsden, W.J.N.|year=1984|title=The carboxysomes (polyhedral bodies) of autotrophic prokarygtes|journal=Biological Reviews|volume=59|pages=389-422|doi=10.1111/j.1469-185X.1984.tb00710.x}}</ref>。 ふつう貯蔵多糖として'''[[グリコーゲン]]'''が存在するが、α-1,6結合の分枝が少ないセミ[[アミロペクチン]]や[[アミロース]]をもつものもいる<ref name="Deschamps2008">{{cite journal|author=Deschamps, P., Colleoni, C., Nakamura, Y., Suzuki, E., Putaux, J. L., Buléon, A., ... & Moreira, D.|year=2008|title=Metabolic symbiosis and the birth of the plant kingdom|journal=Molecular Biology and Evolution|volume=25|pages=536-548|doi=10.1093/molbev/msm280}}</ref><ref name="Nakamura2005">{{cite journal|author=Nakamura, Y., Takahashi, J. I., Sakurai, A., Inaba, Y., Suzuki, E., Nihei, S., ... & Kawachi, M.|year=2005|title=Some cyanobacteria synthesize semi-amylopectin type α-polyglucans instead of glycogen|journal=Plant Cell Physiol.|volume=46|pages=539-545|doi=10.1093/pcp/pci045}}</ref>。このような藍藻が貯蔵するα-グルカンは、藍藻デンプン (cyanophycean starch) ともよばれる。多くの藍藻は、[[アルギニン]]と[[アスパラギン酸]]からなる[[非リボソームペプチド]]である'''シアノフィシン'''(下図10a)の顆粒(藍藻顆粒 cyanophycin granule)をもち、おそらく窒素貯蔵体としている<ref name="Berg2000">{{cite journal|author=Berg, H., Ziegler, K., Piotukh, K., Baier, K., Lockau, W. & Volkmer‐Engert, R.|year=2000|title=Biosynthesis of the cyanobacterial reserve polymer multi‐L‐arginyl‐poly‐L‐aspartic acid (cyanophycin)|journal=The FEBS Journal|volume=267|pages=5561-5570|doi=10.1046/j.1432-1327.2000.01622.x}}</ref>(下図10b)。ただし光合成に機能する[[フィコビリソーム]]を窒素貯蔵体としていることもある<ref name="Allen1984">{{cite journal|author=Allen, M. M.|year=1984|title=Cyanobacterial cell inclusions|journal=Annual Reviews in Microbiology|volume=38|pages=1-25|doi=}}</ref>(窒素欠乏下ではフィコビリソームが分解され、これに由来する窒素を利用する)。細胞内には、油滴や[[ポリリン酸]]体(polyphosphate body; リン貯蔵体として機能; 上図9c, 下図10c)などもふつうみられる<ref name="Jensen1993">{{cite book|author=Jensen, T. E.|year=1993|chapter=Cyanobacterial ultrastructure|editor=Berner, T.|title=Ultrastructure of Microalgae|publisher=CRC Press|isbn=|pages=7-51|url=https://books.google.co.jp/books?hl=ja&lr=lang_ja|lang_en&id=EzDy0Lhes2IC&oi=fnd&pg=PA7&dq=Cyanobacterial+ultrastructure&ots=IPY4jnVAGo&sig=dz9a4N57KBfEkPIKXqRyAFPnyfU#v=onepage&q=Cyanobacterial%20ultrastructure&f=false}}</ref>。またβ-ヒドロキシブチレート重合体(バイオプラスチックの一種)<ref name="Jensen1993" /> や[[炭酸カルシウム]]<ref name="Moreira2017">{{cite journal|author=Moreira, D., Tavera, R., Benzerara, K., Skouri-Panet, F., Couradeau, E., Gérard, E., Fonta, C.L., Novelo, E., Zivanovic, Y. & López-García, P.|year=2017|title=Description of ''Gloeomargarita lithophora'' gen. nov., sp. nov., a thylakoid-bearing, basal-branching cyanobacterium with intracellular carbonates, and proposal for Gloeomargaritales ord. nov.|journal=International Journal of Systematic and Evolutionary Microbiology|volume=67|pages=653-658|doi=10.1099/ijsem.0.001679}}</ref>(下図10c)を細胞内に貯めるものも知られている。 {{multiple image | total_width = 600 | align = center | caption_align = left | image1 = Cyanophycin.svg | caption1 = '''10a'''. シアノフィシン | image2 = Dolichospermum crassum akinete.jpg | caption2 = '''10b'''. ドリコスペルマム属 ({{Snamei||Dolichospermum}}): 細胞中の黒い部分はエアロトープ (ガス胞の集合)、中央右上の異質細胞両端にシアノフィシン顆粒がある。 | image3 = Minerals-06-00010-g010b.png | caption3 = '''10c'''. 藍藻細胞の元素マッピング像: 赤は[[カルシウム]] ([[炭酸カルシウム]])、緑は[[リン]] ([[ポリリン酸]]) }} <span id="gas"></span>プランクトン性藍藻の中には、'''ガス胞''' (gas vesicle) をもつものがいる<ref name="Komárek2003a" /><ref name="Oliver1994">{{cite journal|author=Oliver, R.L.|year=1994|title=Floating and sinking in gas-vacuolate cyanobacteria|journal=Journal of Phycology|volume=30|pages=161-173|doi=10.1111/j.0022-3646.1994.00161.x}}</ref><ref name="Villareal2003">{{cite journal|author=Villareal, T. A. & Carpenter, E. J.|year=2003|title=Buoyancy regulation and the potential for vertical migration in the oceanic cyanobacterium ''Trichodesmium''|journal=Microb. Ecol.|volume=45|pages=1-10|doi=10.1007/s00248-002-1012-5}}</ref>。ガス胞は細長い小胞であり、多数のガス胞が平行に密集して"エアロトープ" (aerotope, gas vacuole) を形成している。ガス胞の膜は脂質ではなく、タンパク質からなる。この膜は水を透過しないため、ガス胞は空気で満たされ比重が軽くなり、細胞は浮くことができる。つまりガス胞は細胞中の気泡のようなものであり、水と屈折率が異なるため光学顕微鏡下では目立つ(上図10b, 下図12)。光合成産物の増加やイオン取り込みによって細胞内の[[膨圧]]が高くなるとガス胞はつぶれて細胞は沈降し、そこで光合成産物の消費やイオン排出によって膨圧が低下すると再びガス胞が膨らんで細胞は浮上する<ref name="Walsby1987">{{cite book|author=Walsby, A.E.|year=1987|chapter=Mechanisms of buoyancy regulation by planktonic cyanobacteria with gas vesicles|editor=P. Fay & C. Van Baalen|title=The Cyanobacteria|publisher=Elsevier|isbn=|pages=377-414}}</ref>。ガス胞は藍藻に特有の構造ではなく、他のプランクトン性原核生物に見られることもある<ref name="Shukla2004">{{cite journal|author=Shukla, H. D. & DasSarma, S.|year=2004|title=Complexity of gas vesicle biogenesis in Halobacterium sp. strain NRC-1: identification of five new proteins|journal=Journal of Bacteriology|volume=186|pages=3182-3186|doi=10.1128/JB.186.10.3182-3186.2004}}</ref>。 ==光合成== 藍藻は、'''酸素発生型[[光合成]]'''を行う唯一の[[原核生物]]群である。藍藻は2種類の[[光化学系]](光化学系IとII)をもつ点で、光合成を行う他の細菌(非酸素発生型光合成を行う)とは異なる<ref name="三室1999">{{cite book|author=三室守|year=1999|chapter=光合成色素にみられる多様性|editor=千原光雄|title=バイオディバーシティ・シリーズ (3) 藻類の多様性と系統|publisher=裳華房|pages=68–94|isbn=978-4785358266}}</ref>。[[緑色硫黄細菌]]([[クロロビウム門]])や[[ヘリオバクテリア]]([[フィルミクテス門]])は光化学系Iと相同な鉄硫黄型反応中心のみを、[[紅色細菌]]([[プロテオバクテリア門]])や[[緑色非硫黄細菌]]([[クロロフレクサス門]])は光化学系IIと相同なキノン型反応中心のみをもつ。直列した2種類の光化学系をもつことが、酸素発生型光合成(水を分解する)を可能にしていると考えられている。 知られている限り、全ての藍藻は好気環境下で酸素発生型光合成を行う。ただし、嫌気環境下で非酸素発生型光合成([[光化学系]]Iを使用し、[[硫化水素]]を電子供与体として[[硫黄]]を生成)を行う例が知られている<ref name="Cohen1975">{{cite journal|author=Cohen, Y., Padan, E. & Shilo, M.|year=1975|title=Facultative anoxygenic photosynthesis in the cyanobacterium ''Oscillatoria limnetica''|journal=J. Bacteriol.|volume=123|pages=855-861|doi=10.1128/jb.123.3.855-861.1975}}</ref><ref name="Cohen1986">{{cite journal|author=Cohen, Y., Jorgensen, B. B., Revsbech, N. P. & Poplawski, R.|year=1986|title=Adaptation to hydrogen sulfide of oxygenic and anoxygenic photosynthesis among cyanobacteria|journal=Applied and Environmental Microbiology|volume=51|pages=398-407|doi=10.1128/aem.51.2.398-407.1986|url=https://doi.org/10.1128/aem.51.2.398-407.1986}}</ref>。また連続暗黒下でも、有機物を利用した従属栄養を行って生育可能な種(通性光独立栄養性)もいる<ref name="Rippka1972">{{cite journal|author=Rippka, R.|year=1972|title=Photoheterotrophy and chemoheterotrophy among unicellular blue-green algae|journal=Archiv für Mikrobiologie|volume=87|pages=93-98|doi=10.1007/BF00424781}}</ref>。{{Snamei||Synechocystis}} sp. PCC 6803 など従属栄養能をもつ藍藻は、光合成遺伝子の変異が致死的にならないため(光合成しなくても生きていける)、光合成研究のモデル生物として広く用いられている。また[[メタゲノミクス|メタゲノム研究]](海水などの環境から直接抽出したDNAをもとにしたゲノム解析)から、光合成能を含め代謝的に不完全([[光化学系]]II、[[ルビスコ]]、[[クエン酸回路]]などの欠失)な藍藻 (UCYN-A, unicellular cyanobacteria group A) の存在が示されているが、これは他生物に共生して栄養的に依存して生きているものと考えられている<ref name="Zehr2008">{{cite journal|author=Zehr, J. P., Bench, S. R., Carter, B. J., Hewson, I., Niazi, F., Shi, T., ... & Affourtit, J. P.|year=2008|title=Globally distributed uncultivated oceanic N<sub>2</sub>-fixing cyanobacteria lack oxygenic photosystem II|journal=Science|volume=322|pages=1110-1112|doi=10.1126/science.1165340}}</ref><ref name="Tripp2010">{{cite journal|author=Tripp, H.J., Bench, S.R., Turk, K.A., Foster, R.A., Desany, B.A., Niazi, F., Affourtit, J.P. & Zehr, J.P.|year=2010|title=Metabolic streamlining in an open-ocean nitrogen-fixing cyanobacterium|journal=Nature|volume=464|pages=90-94|doi=10.1038/nature08786}}</ref>。古くは「無色の藍藻」が報告されているが<ref name="Kristiansen1964">{{cite journal|author=Kristiansen, A.|year=1964|title=Sarcinastrum urosporae, a colourless parasitic blue-green alga|journal=Phycologia|volume=4|pages=19-22|doi=10.2216/i0031-8884-4-1-19.1|url=https://doi.org/10.2216/i0031-8884-4-1-19.1}}</ref>、少なくともその一部は全く別の細菌群に属することが明らかとなっている(例: [[ベッギアトア属]])。 ほとんどの藍藻は、'''[[クロロフィル]]''' '''''a''''' をもつ。一部の藍藻は、クロロフィル ''a'' に加えて、クロロフィル ''b''、''d''、または ''f'' をもつ<ref name="Lewin1975">{{cite journal|author=Lewin, R. A. & Withers, N. W.|year=1975|title=Extraordinary pigment composition of a prokaryotic alga|journal=Nature|volume=256|pages=735–737|doi=10.1038/256735a0}}</ref><ref name="Miyashita1996">{{cite journal|author=Miyashita, H., Adachi, K., Kurano, N., Ikemoto, H., Chihara, M. & Miyachi, S.|year=1996|title=Chlorophyll ''d'' as a major pigment|journal=Nature|volume=383|pages=402|doi=10.1038/383402a0}}</ref><ref name="Chen2010">{{cite journal|author=Chen, M., Schliep, M., Willows, R. D., Cai, Z. -L., Neilan, B. A. & Scheer, H.|year=2010|title=A red-shifted chlorophyll|journal=Science|volume=329|pages=1318-1319|doi=10.1126/science.1191127}}</ref>。クロロフィル ''d'' や ''f'' は生物の中で一部の藍藻のみがもつ色素であり、人間の目には見えない近赤外光を光合成に利用できる。クロロフィル ''b''(または類似色素)をもつ藍藻は、[[原核緑藻]]ともよばれる。原核緑藻のプロクロロコックス属 ({{Snamei||Prochlorococcus}}) はクロロフィル ''a'' の代わりにジビニルクロロフィル ''a'' をもつ点で特異な存在であり、光合成の反応中心でジビニルクロロフィル ''a'' を用いる唯一の生物である<ref name="Chisholm1988">{{cite journal|author=Chisholm, S. W., Olson, R. J., Zettler, E. R., Goericke, R., Waterbury, J. B. & Welschmeyer, N. A.|year=1988|title=A novel free-living prochlorophyte abundant in the oceanic euphotic zone|journal=Nature|volume=334|pages=340-343|doi=10.1038/334340a0}}</ref><ref name="Goericke1992">{{cite journal|author=Goericke, R. & Repeta, D.|year=1992|title=The pigments of ''Prochlorococcus marinus'': the presence of divinyl chlorophyll a and b in a marine prokaryote|journal=Limnology and Oceanography|volume=37|pages=425-433|doi=10.4319/lo.1992.37.2.0425}}</ref>。またアカリオクロリス属 ({{Snamei||Acaryochloris}}) はクロロフィル ''a'' 量が少なく、反応中心でクロロフィル ''d'' を用いている<ref name="Hu1998">{{cite journal|author=Hu, Q., Miyashita, H., Iwasaki, I., Kurano, N., Miyachi, S., Iwaki, M. & Itoh, S.|year=1998|title=A photosystem I reaction center driven by chlorophyll d in oxygenic photosynthesis|journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A.|volume=95|pages=13319-13323|doi=10.1073/pnas.95.22.13319}}</ref>。 {{multiple image | total_width = 400 | footer = | align = right | caption_align = left | image1 = Phycobilisome structure.jpg | alt1 = Schematic of a hemi-discoidal phycobilisome. | caption1 = '''11a'''. フィコビリソームの模式図: 中央にアロフィコシアニンが位置し、そこから[[フィコシアニン]] (青)、フィコエリスリン (赤) からなるロッドが伸びている。 | image2 = Prochlorococcus and Synechococcus cultures.jpg | alt2 = The photograph shows a series of cultures of different strains of cyanobacteria from the genera Prochlorococcus and Synechococcus. The different strains show a wide range of coloration, indicating their differing combinations of pigments for photosynthesis. | caption2 = '''11b'''. さまざまな色のピコプランクトン性藍藻: 左から2, 3番目がプロクロロコックス属 ([[原核緑藻]])、残りはシネココックス属であり、この色の違いは主にフィコビリンの有無や種類、量比による。 }} ほとんどの藍藻は、光合成アンテナ色素タンパク質である'''[[フィコビリン|フィコビリンタンパク質]]'''をもつ。藍藻において、フィコビリンタンパク質は[[フィコビリソーム]]を形成し、[[チラコイド]]に付着している<ref name="Sidler1994">{{cite book|author=Sidler, W. A.|year=1994|chapter=Phycobilisome and phycobiliprotein structures.|editor=Sidler, W. A., & Bryant, D. A.|title=The Molecular Biology of Cyanobacteria|publisher=Springer, Dordrecht|isbn=0792332229|pages=139-216}}</ref><ref name="Singh2015">{{cite journal|author=Singh, N. K., Sonani, R. R., Rastogi, R. P. & Madamwar, D.|year=2015|title=The phycobilisomes: an early requisite for efficient photosynthesis in cyanobacteria|journal=EXCLI Journal|volume=14|pages=268–289|doi=10.17179/excli2014-723}}</ref>。フィコビリソームの中央にはアロフィコシアニンからなるコアが位置し、そこから[[フィコシアニン]]とフィコエリスリン(後者を欠くこともある)からなるロッドが伸びている(図11a)。ふつう青色のフィコシアニンの割合が多いため、「藍藻」の名が示すように青緑色を呈する。しかし中には赤色のフィコエリスリンを多くもつため、紫色から赤色を呈する種もいる(図2, 11b)。またフィコエリスリンの代わりにフィコエリスロシアニンをもつものもいる<ref name="Bryant1982">{{cite journal|author=Bryant, D. A.|year=1982|title=Phycoerythrocyanin and phycoerythrin: properties and occurrence in cyanobacteria|journal=Microbiology|volume=128|pages=835-844|doi=10.1099/00221287-128-4-835}}</ref>。[[原核緑藻]]とよばれる藍藻はフィコビリンをほとんどもたないため、クロロフィルの色である緑色がそのまま見える(図11b)。 <div id="chromatic acclimation">藍藻の中には、光の質(波長)に応じて[[フィコシアニン]]:フィコエリスリン比を変化させるものもいる<ref name="Hirose2017">{{Cite journal|和書|author=広瀬侑 |author2=池内昌彦 |author3=浴俊彦 |title=シアノバクテリアの補色応答の多様性 |journal=PLANT MORPHOLOGY |ISSN=0918-9726 |publisher=日本植物形態学会 |year=2017 |volume=29 |issue=1 |pages=41-45 |naid=130006647120 |doi=10.5685/plmorphol.29.41 |url=https://doi.org/10.5685/plmorphol.29.41}}</ref>。例えば緑色光下ではフィコエリスリンが増加、赤色光下でフィコシアニンが増加し、それぞれの波長の光を効率的に吸収できるようになり、それに応じて藻体の色が変化する。この反応は'''補色馴化'''(補色順化、complementary chromatic acclimation){{efn2|name="補色適応"|補色適応 (chromatic adaptation) ともよばれる<ref name="Graham2008" /><ref name="生物学辞典_補色順化">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=補色順化|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1307}}</ref>。}} とよばれる。またフィコビリンタンパク質の発色団となるビリン色素([[フィコシアノビリン]]など)は、光受容体であるフィトクロムやシアノバクテリオクロム(走光性や補色馴化のセンサーとなる)の発色団としても用いられている<ref name="Ikeuchi2008">{{cite journal|author=Ikeuchi, M. & Ishizuka, T.|year=2008|title=Cyanobacteriochromes: a new superfamily of tetrapyrrole-binding photoreceptors in cyanobacteria|journal=Photochemical & Photobiological Sciences|volume=7|pages=1159-1167|doi=10.1039/B802660M}}</ref><ref>[http://photosyn.jp/pwiki/index.php 光合成事典]. 日本光合成学会編.</ref>。</div> 藍藻がもつ[[カロテノイド]]としては、[[β-カロテン]]、[[ゼアキサンチン]]、エキネノン、ミクソキサントフィル(ミクソール配糖体)が一般的だが、[[α-カロテン]]、[[カンタキサンチン]]、ノストキサンチン、オシラキサンチン(オシロール配糖体)などをもつものも報告されている<ref name="Takaichi2007">{{cite journal|author=Takaichi, S. & Mochimaru, M.|year=2007|title=Carotenoids and carotenogenesis in cyanobacteria: Unique ketocarotenoids and carotenoid glycosides|journal=Cell Mol. Life Sci.|volume=64|pages=2607-2619|doi=10.1007/s00018-007-7190-z}}</ref>。 藍藻の[[炭素固定]]は[[カルビン回路]]によって行われる。藍藻のもつ[[ルビスコ]](リブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ)には2タイプが知られる。多くの藍藻は、[[緑色植物]]などがもつものと相同な Form IB ルビスコをもつ。このような藍藻は β-シアノバクテリア、Form IB ルビスコからなる[[カルボキシソーム]]は β-カルボキシソーム とよばれる<ref name="Price2008" />。一方、一部の藍藻(プロクロロコックス属など)は、一部の[[プロテオバクテリア]]のものと相同な Form IA ルビスコをもつ(おそらく[[遺伝子の水平伝播|遺伝子水平伝播]]による)。このような藍藻は α-シアノバクテリア、Form IA ルビスコからなるカルボキシソームは α-カルボキシソーム とよばれる<ref name="Price2008" />。 藍藻において、[[酸素呼吸]]の[[電子伝達系]](呼吸鎖)は[[細胞膜]]やチラコイドに存在し、後者の場合は、光合成の[[光化学系]]とタンパク質を一部共有している(プラストキノン)<ref name="Scherer1988">{{cite journal|author=Scherer, S., Almon, H. & Böger, P.|year=1988|title=Interaction of photosynthesis, respiration and nitrogen fixation in cyanobacteria|journal=Photosynthesis Research|volume=15|pages=95-114|doi=10.1007/BF00035255}}</ref>。また酸素呼吸における[[クエン酸回路]](TCA回路)のオキソグルタル酸デヒドロゲナーゼを欠いており、この部分を別の酵素によって代謝している<ref name="Zhang2011">{{cite journal|author=Zhang, S. & Bryant, D. A.|year=2011|title=The tricarboxylic acid cycle in cyanobacteria|journal=Science|volume=334|pages=1551-1553|doi=10.1126/science.1210858}}</ref>。 ==窒素固定== [[窒素]]は、[[タンパク質]]や[[核酸]]の原料として全ての生物にとって必須な元素である。窒素は窒素分子の形 (N<sub>2</sub>) で空気中に大量に存在するが、全ての[[真核生物]]を含む多くの生物は、窒素分子を直接利用することはできない。しかし[[原核生物]]の中には、窒素分子を[[アンモニア]]に変換できるものがおり、この反応は'''[[窒素固定]]''' (nitrogen fixation) とよばれる。藍藻の中にも窒素固定が可能なものがおり、[[生態系]]において重要な役割を担っている(他の生物が利用可能な窒素栄養分の供給)<ref name="Stewart1980">{{cite journal|author=Stewart, W.D.P.|year=1980|title=Some aspects of structure and function in N fixing cyanobacteria|journal=Annual Reviews in Microbiology|volume=34|pages=497-536|doi=10.1146/annurev.mi.34.100180.002433}}</ref><ref name="Berman-Frank2003">{{cite journal|author=Berman-Frank, I., Lundgren, P. & Falkowski, P.|year=2003|title=Nitrogen fixation and photosynthetic oxygen evolution in cyanobacteria|journal=Res. Microbiol.|volume=154|pages=157-164|doi=10.1016/S0923-2508(03)00029-9}}</ref><ref name="Díez2008">{{cite journal|author=Díez, B., Bergman, B. & El-Shehawy, R.|year=2008|title=Marine diazotrophic cyanobacteria: out of the blue|journal=Plant Biotechnol.|volume=25|pages=221-225|doi=10.5511/plantbiotechnology.25.221}}</ref>。窒素を固定する[[酵素]]である[[ニトロゲナーゼ]]は[[酸素]]に弱いため、酸素発生型光合成と窒素固定を1つの細胞で同時に行うことはできない。それに対応して、藍藻は以下のように光合成と窒素固定を分けて行っている。 [[ファイル:Anabaena circinalis.jpg|300px|thumb|right|'''12'''. ドリコスペルマム属 ([[ネンジュモ目]]): やや左にある球形の細胞が異質細胞 (両端に極節が見える) であり、それ以外の細胞 (栄養細胞) はガス胞からなる[[#gas|エアロトープ]] (細胞内の黒い顆粒として見える) をもつ。]] 一部の藍藻では、光が当たる日中に光合成を行い、光がない夜間に窒素固定を行う<ref>{{cite journal|author=Rippka, R., Deruelles, J., Waterbury, J. B., Herdman, M. & Stanier, R. Y.|year=1979|title=Generic assignments, strain histories and properties of pure cultures of cyanobacteria|journal=Microbiology|volume=111|pages=1-61|doi=10.1099/00221287-111-1-1}}</ref><ref>{{cite journal|author=León, C., Kumazawa, S. & Mitsui, A.|year=1986|title=Cyclic appearance of aerobic nitrogenase activity during synchronous growth of unicellular cyanobacteria|journal=Current Microbiology|volume=13|pages=149-153|doi=10.1007/BF01568510}}</ref>。糸状性のアイアカシオ属 ({{Snamei||Trichodesmium}}) では、窒素固定を行う細胞 (diazocyte) とふつうの栄養細胞が分化しており、光合成と窒素固定を同時に異なる細胞で行うことが可能になっている<ref name="El-Shehawy2003">{{cite journal|author=El-Shehawy, R., Lugomela, C., Ernst, A. & Bergman, B.|year=2003|title=Diurnal expression of hetR and diazocyte development in the filamentous non-heterocystous cyanobacterium ''Trichodesmium erythraeum''|journal=Microbiology|volume=149|pages=1139-1146|doi=10.1099/mic.0.26170-0}}</ref><ref name="Bergman2013">{{cite journal|author=Bergman, B., Sandh, G., Lin, S., Larsson, J. & Carpenter, E. J.|year=2013|title=''Trichodesmium'' - a widespread marine cyanobacterium with unusual nitrogen fixation properties|journal=FEMS Microbiology Reviews|volume=37|pages=286-302|doi=10.1111/j.1574-6976.2012.00352.x}}</ref>。この例では細胞の形態的分化は顕著ではないが、ネンジュモ目の藍藻は、'''異質細胞'''(heterocyte, ヘテロシスト heterocyst{{efn2|name="heterocyst"|ヘテロシスト (heterocyst) ともよばれるが、一般的な意味でのシスト (休眠細胞) ではない<ref name="ヘテロシスト">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/botany/aoko/aokocontents/bunrui.html|title=藍藻の分類|website=浮遊性藍藻データベース|publisher=国立科学博物館|accessdate=2021-09-25}}</ref>。}})とよばれる形態的にも極めて特殊化した窒素固定用の細胞を形成する<ref name="Flores2010" /><ref name="Wolk1994">{{cite book|author=Wolk, C.P., Ernst, A., Elhai, J.|year=1994|chapter=Heterocyst metabolism and development|editor=Bryant, D.A.|title=The Molecular Biology of Cyanobacteria|publisher=Kluwer Academic Publishers|isbn=0792332229|pages=769-823}}</ref><ref name="Kumar2010">{{cite journal|author=Kumar, K., Mella-Herrera, R. A. & Golden, J. W.|year=2010|title=Cyanobacterial heterocysts|journal=Cold Spring Harbor Perspectives in Biology|volume=2|pages=a000315|doi=10.1101/cshperspect.a000315}}</ref>(上図10b, 図12)。異質細胞は[[光化学系]]の一部を欠くため細胞内に酸素が発生せず、また酸素を通さない厚い細胞壁で囲まれている。隣接する栄養細胞と接する部分では、異質細胞の細胞質は極めて細くなっており、またその部分にはときに光学顕微鏡で確認できる程の大きなシアノフィシン顆粒(極節 polar nodule)が存在する(上図10b, 図12)。異質細胞で固定された窒素は[[グルタミン]]の形で隣接細胞へ輸送され、隣接細胞からはその材料である[[グルタミン酸]]やエネルギー源である[[糖]](窒素固定は大量の[[ATP]]を消費する)が供給される。異質細胞は通常の栄養細胞から分化するが、種によってその位置や間隔はほぼ一定であり、重要な分類形質となっている。異質細胞が分泌する[[ペプチド]]によって周囲の細胞が異質細胞になることが抑制され、これによって異質細胞の間隔が一定になる例が知られている。 {{-}} ==ゲノム== [[ファイル:41598 2018 31638 Fig3 HTML extract.png|thumb|right|150px|'''13'''. {{Snamei||Synechocystis}} sp. PCC 6803]] 他の[[原核生物]]と同様、藍藻は環状[[デオキシリボ核酸|DNA]]からなる[[ゲノム]]をもち、また本来のゲノムDNAに加えて、小さな環状DNA([[プラスミド]])をもつこともある。ただし一般的な原核生物とは異なり、多くの場合ゲノム(環状DNA分子)が複数コピー存在する<ref name="Marco2011">{{cite journal|author=Marco, G., Lange, C. & Soppa, J.|year=2011|title=Ploidy in cyanobacteria|journal=FEMS Microbiology Letters|volume=323|pages=124-131|doi=10.1111/j.1574-6968.2011.02368.x}}</ref>。多くの藍藻でゲノム塩基配列が報告されており、特に {{Snamei||Synechocystis}} sp. PCC 6803 は生物として4番目、酸素発生型光合成生物として初めてゲノムが解読された<ref>{{cite journal|author=Kaneko, T., Sato, S., Kotani, H., Tanaka, A., Asamizu, E., Nakamura, Y., ... & Kimura, T.|year=1996|title=Sequence analysis of the genome of the unicellular cyanobacterium ''Synechocystis'' sp. strain PCC6803. II. Sequence determination of the entire genome and assignment of potential protein-coding regions|journal=DNA Research|volume=3|pages=109-136|doi=10.1093/dnares/3.3.109}}</ref>。知られているものの中では、ゲノムサイズは 1.7 - 9 Mbp(Mbp = 100万塩基対)ほどであり(さらにおそらく 15 Mbp に達するものもいる<ref name="Herdman1979">{{cite journal|author=Herdman, M., Janvier, M., Rippka, R. & Stanier, R. Y.|year=1979|title=Genome size of Cyanobacteria|journal=Journal of General Microbiology|volume=111|pages=73-85|doi=10.1099/00221287-111-1-73}}</ref>)、1,700–7,000個ほどの遺伝子をもつ。この中には、一部の真核生物のゲノムより大きく多数の遺伝子をもつものもいる。 藍藻は、真核藻類にくらべて[[形質転換]]など[[分子生物学]]的解析が比較的容易なものが多く、光合成研究などの[[モデル生物]]として広く用いられている<ref name="Hirose2009">{{Cite journal|和書|author=広瀬侑 |author2=佐藤桃子 |author3=池内昌彦 |title=シアノバクテリア (光合成研究法) -- (植物・藻類・細菌の材料の入手と栽培・培養) |journal=低温科学 |ISSN=18807593 |publisher=北海道大学低温科学研究所 |year=2008 |volume=67 |pages=9-15 |naid=120001492974 |url=https://hdl.handle.net/2115/39084}}</ref>。よく用いられる藍藻として、{{Snamei||Synechocystis}} sp. PCC 6803(図13)、{{Snamei||Thermosynechococcus elongatus}}、{{Snamei||Synechococcus elongatus}} PCC 6301、{{Snamei||Cyanothece}} sp. ATCC 51142、{{Snamei||Anabaena}} sp. PCC7120、{{Snamei||Nostoc punctiforme}} などがある(PCC, ATCC は[[微生物株保存機関]]の略号)。 {{clear}} ==運動== [[ファイル:Video- The Cyanobacteria- Oscillatoria and Gleocapsa.webm|300px|thumb|right|'''14'''. 糸状藍藻の運動]] 藍藻は[[鞭毛]](細菌型)をもたないが、細胞外被(S層)の糖タンパク質による遊泳運動や、[[線毛]]による匍匐運動を行うものが知られている<ref name="McCarren2009" /><ref name="Duggan2007">{{cite journal|author=Duggan, P. S., Gottardello, P. & Adams, D. G.|year=2007|title=Molecular analysis of genes involved in pilus biogenesis and plant infection in ''Nostoc punctiforme''|journal=J. Bacteriol.|volume=189|pages=4547-4551|doi=10.1128/JB.01927-06}}</ref><ref name="Jarrell2008">{{cite journal|author=Jarrell, K.F. & McBride, M.J.|year=2008|title=The surprisingly diverse ways that prokaryotes move|journal=Nature Reviews Microbiology|volume=6|pages=466-476|doi=10.1038/nrmicro1900}}</ref>。また藍藻において最もよく知られた運動は、多くの糸状性藍藻が示す'''滑走運動''' (gliding movement) である。直線的な運動だけではなく、トリコームが揺れたりする運動もよく見られ(図14)、ユレモ属 ({{Snamei||Oscillatoria}}) の和名、学名ともこの姿に由来する(''oscillatio'' = 振動)。この運動は粘液多糖の噴射または糖タンパク質性外被(S層)が関係していると考えられている<ref name="Hoiczyk2000" />。 また藍藻からは、[[シアノバクテリオクロム]] (cyanobacteriochrome) やフラビン結合タンパク質、細菌型[[ロドプシン]]などさまざまな光[[受容体]]が見つかっている<ref name="Hirose2017" /><ref name="Montgomery2007">{{cite journal|author=Montgomery, B. L.|year=2007|title=Sensing the light: photoreceptive systems and signal transduction in cyanobacteria|journal=Molecular Microbiology|volume=64|pages=16-27|doi=10.1111/j.1365-2958.2007.05622.x}}</ref><ref name="Hirose2016">{{Cite journal|和書|author=広瀬侑 |author2=池内昌彦 |title=シアノバクテリアの補色順化における光色感知機構 |journal=化学と生物 |ISSN=0453-073X |publisher=日本農芸化学会 |year=2016 |volume=54 |issue=6 |pages=403-407 |naid=130006772575 |doi=10.1271/kagakutoseibutsu.54.403 |url=https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu.54.403}}</ref>。このような光受容体は、[[走光性]]や[[光屈性]]、[[#chromatic acclimation |補色馴化]]、細胞分化など光によって制御される現象に関わっている。 {{clear}} ==生殖== {{multiple image | total_width = 400 | footer = | align = right | caption_align = left | image1 = Prochlorococcus MED4 EM Dividing.jpg | caption1 = '''15a'''. 二分裂中のプロクロロコックス属 (透過型電子顕微鏡像) | image2 = Phage S-PM2.png | caption2 = '''15b'''. シアノファージ (透過型電子顕微鏡像) }} {{multiple image | total_width = 400 | footer = | align = right | caption_align = left | image1 = Cyanobacteriaunicellularandcolonial020_Chamaesiphon.jpg | caption1 = '''16a'''. 外生胞子形成 | image2 = Cyanobacteriaunicellularandcolonial020_Dermocarpa.jpg | caption2 = '''16b'''. 内生胞子形成 | image3 = Simplefilaments022_Anabaena.jpg | caption3 = '''16c'''. アキネート (s) }} 藍藻は基本的に'''二分裂'''によって増殖(図15a)、または群体や糸状体の成長を行い、群体や糸状体はその分断化によって増殖する。一部の種は、'''外生胞子'''(exospore, エクソサイト exocyte; 図16a)や'''内生胞子'''(endospore, ベオサイト baeocyte; 図16b)を形成して[[無性生殖]]を行う<ref name="Komárek2003a" /><ref name="Komárek2003b" />。 糸状性の藍藻では、ときに単純な分断化、または細胞死による隔盤 (separation disc, necridium) 形成によって糸状体の一部が切り離され、'''連鎖体'''(ホルモゴニア; hormogonium, [[複数形|''pl.'']] hormogonia)とよばれる短い細胞糸が形成される<ref name="Anagnostidis1988">{{cite journal|author=Anagnostidis, K. & Komárek, J.|year=1988|title=Modern approach to the classification system of cyanophytes. 3. Oscillatoriales|journal=Archiv für Hydrobiologie/Algological Studies|volume=50/53|pages=327-472|doi=}}</ref>。連鎖体は[[走光性]]、滑走運動能、または[[#gas|ガス胞]]などをもち、[[散布体]]として機能する<ref name="Meeks2002">{{cite journal|author=Meeks, J. C. & Elhai, J.|year=2002|title=Regulation of cellular differentiation in filamentous cyanobacteria in free-living and plant-associated symbiotic growth states|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=66|pages=94-121|doi=10.1128/MMBR.66.1.94-121.2002}}</ref>。 ネンジュモ目の種は、特殊化した休眠細胞である'''アキネート''' (akinete) を形成することがある<ref name="Kaplan-Levy2010">{{cite journal|author=Kaplan-Levy, R. N., Hadas, O., Summers, M. L., Rücker, J., & Sukenik, A.|year=2010|chapter=Akinetes: dormant cells of cyanobacteria|editor=|title=Dormancy and Resistance in Harsh Environments|publisher=Springer Berlin Heidelberg|isbn=978-3-642-12421-1|pages=5-27}}</ref>(図16c)。アキネートには異質細胞と共通する特徴(細胞壁成分、[[光化学系]]IIの非発現、[[スーパーオキシドジスムターゼ]]の低活性など)があり、その分化には共通のシステムがあると考えられている<ref name="Zhang2006">{{cite journal|author=Zhang, C.-C., Laurent, S., Sakr, S., Peng, L. & Bédu, S.|year=2006|title=Heterocyst differentiation and pattern formation in cyanobacteria: a chorus of signals.|journal=Mol. Microbiol.|volume=59|pages=367-375|doi=10.1111/j.1365-2958.2005.04979.x}}</ref>。 藍藻は原核生物であり、[[有性生殖]]は行わない。ただし、外界のDNAを取り込むことや([[形質転換]])、[[ウイルス]](藍藻のウイルスは特にシアノファージ cyanophage とよばれる)(図15b)によるDNA注入([[形質導入]])によって、[[遺伝子の水平伝播|遺伝子水平伝播]]が頻繁に起こっていることが示唆されている<ref name="Coleman2006">{{cite journal|author=Coleman, M. L., Sullivan, M. B., Martiny, A. C., Steglich, C., Barry, K., DeLong, E. F. & Chisholm, S. W.|year=2006|title=Genomic islands and the ecology and evolution of ''Prochlorococcus''|journal=Science|volume=311|pages=1768-1770|doi=10.1126/science.1122050}}</ref>。 {{clear}} ==生態== 藍藻は[[海]]、[[淡水]]、さらに陸上環境にも広く生育しており、藍藻がいない環境を探すのは難しい<ref name="Komárek2003a" /><ref name="Whitton2000">{{cite book|author=Whitton, B.A. & Potts, M.|year=2000|title=The Ecology of Cyanobacteria: Their Diversity in Time and Space|publisher=Kluwer Academic Pub.|pages=669|isbn=0-09-941464-3}}</ref><ref name="Whitton2012">{{cite book|editor=Whitton, B.A.|year=2012|title=Ecology of Cyanobacteria II: Their Diversity in Space and Time|publisher=Springer Science & Business Media|isbn=978-94-007-3854-6}}</ref>。量的にも多く、その[[生物量]]は10億トンに達するとの試算もある<ref name="Garcia-Pichel2003">{{cite journal|author=Garcia-Pichel, F., Belnap, J., Neuer, S. & Schanz, F.|year=2003|title=Estimates of global cyanobacterial biomass and its distribution|journal=Algological Studies|volume=109|pages=213-227|doi=10.1127/1864-1318/2003/0109-0213}}</ref>。一般的に、真核藻類にくらべて温度、pHが高い環境を好む傾向があるが<ref name="Castenholz1989"">{{cite journal|author=Castenholz, R.W. & Waterbury, J.B.|year=1989|title=Oxygenic photosynthetic bacteria. Group I. Cyanobacteria|journal=Bergey’s Manual of Systematic Bacteriology|volume=3|pages=1710-1789|doi=}}</ref>、低温<ref name="Quesada2012">{{cite journal|author=Quesada, A. & Vincent, W. F.|year=2012|chapter=Cyanobacteria in the cryosphere: snow, ice and extreme cold|editor=|title=Ecology of Cyanobacteria II|publisher=Springer Net.|isbn=978-94-007-3854-6|pages=387-399}}</ref>や酸性環境<ref name="Steinberg1998">{{cite journal|author=Steinberg, C.E.W., Schäfer, H., Beisker, W., Brüggemann, R.|year=1998|title=Deriving restoration goals for acidified lakes from taxonomic studies|journal=Restor, Ecol.|volume=6|pages=327-335|doi=10.1046/j.1526-100X.1998.06403.x}}</ref>に生育する藍藻も少なくない。また真核藻類にくらべて、低照度で生育可能なものが多い<ref name="van Liere1982">{{cite journal|author=van Liere, L. & Walsby, A.E.|year=1982|chapter=Interactions of cyanobacteria with light|editor=Carr, N.G. and Whitton, B.A.|title=The Biology of the Cyanobacteria|publisher=Blackwell Science Publications|isbn=0-520-04717-6|pages=9-45}}</ref>。 貧栄養の海域(つまり沿岸域や高緯度地域を除く多くの海域)では、[[ピコプランクトン]]性(直径 2 µm 以下)の藍藻(シネココックス属 {{Snamei||Synechococcus}} やプロクロロコックス属 {{Snamei||Prochlorococcus}}){{efn2|name="細分"|これらの藍藻はいくつかの属に分けることが提唱されている<ref name="Walter2017" />。ただし2019年現在、これらの新しい属名は一般的ではない。}} が主要な[[生産者]]となっていることが多い<ref name="Weisse1993">{{cite journal|author=Weisse, T.|year=1993|chapter=Dynamics of autotrophic picoplankton in marine and freshwater ecosystems|editor=Jones, J.G.|title=Advances in Microbial Ecology, Vol. 13|publisher=Plenum Press|pages=327-370|doi=10.1007/978-1-4615-2858-6_8}}</ref><ref name="Veldhuis1997">{{cite journal|author=Veldhuis, M.J.W., Kraay, G.W., van Bleijswijk, J.D.L. & Baars, M.A.|year=1997|title=Seasonal and spatial variability in phytoplankton biomass, productivity and growth in the northwestern Indian ocean: the southwest and northeast monsoon, 1992-1993|journal=Deep Sea Research Part I: Oceanographic Research Papers|volume=44|pages=425-449|doi=10.1016/S0967-0637(96)00116-1}}</ref><ref name="Zwirglmaier2008">{{cite journal|author=Zwirglmaier, K., Jardillier, L., Ostrowski, M., Mazard, S., Garczarek, L., Vaulot, D., Not, F., Massana, R., Utioa, O. & Scanlan, D. J.|year=2008|title=Global phylogeography of marine ''Synechococcus'' and ''Prochlorococcus'' reveals a distinct partitioning of lineages among oceanic blooms|journal=Environ. Microbiol.|volume=10|pages=147-161|doi=10.3389/fmicb.2018.01393}}</ref>(下図17a, b)。このような環境では、表層から[[有光層|真光層]]下部(水深 200 m 付近)まで、それぞれの光条件に適応したピコプランクトン性藍藻がすみ分けている<ref name="Coleman2006" />。このようなピコプランクトン性藍藻は地球上で最も個体数が多い生物であると考えられており、シネココックス属で年平均 7.0 × 10<sup>26</sup> 細胞、プロクロロコックス属で年平均 2.9 × 10<sup>27</sup> 細胞と試算され、その純一次生産量は 12 Gt 炭素/年、海洋の全純一次生産量の25.2%に達すると推定されている<ref name="Flombaum2013">{{cite journal|author=Flombaum, P., Gallegos, J. L., Gordillo, R. A., Rincón, J., Zabala, L. L., Jiao, N., ... & Vera, C. S.|year=2013|title=Present and future global distributions of the marine Cyanobacteria ''Prochlorococcus'' and ''Synechococcus''|journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A.|volume=110|pages=9824-9829|doi=10.1073/pnas.1307701110}}</ref>。熱帯海域(特に[[紅海]]や南太平洋)では、糸状性藍藻のアイアカシオ属 ({{Snamei||Trichodesmium}}) がときに多く、赤潮を形成することがある<ref name="Bergman2013" />(下図17c, d)。 {{multiple image | total_width = 800 | footer = | align = center | caption_align = left | image1 = Picoplancton fluorescence Pacific.jpg | alt1 = Photosynthetic picoplankton from the Pacific Ocean (off the Marquesas islands observed by epifluorescence microscopy (blue exciting light). Orange fluorescing dots correspond to Synechocococus cyanobacteria, red fluorescing dots to picoeukaryotes. Larger cells (e.g. diatom, upper right) can also be seen. | caption1 = '''17a'''. 南太平洋[[マルキーズ諸島]]沖サンプルの[[蛍光顕微鏡]]像: 黄色はピコプランクトン性藍藻、赤は真核藻類の葉緑体。 | image2 = Picoplankton profile Pacific.jpg | alt2 = Vertical distribution of the photosynthetic picoplankton populations determined by flow cytometry in the tropical Pacific (OLIPAC cruise, 1994). | caption2 = '''17b'''. 熱帯太平洋におけるピコプランクトンの深度分布: 赤 = プロクロロコックス属、緑 = シネココックス属、茶 = 真核ピコプランクトン | image3 = 2010 Filamentous Cyanobacteria Bloom near Fiji.jpg | alt3 = Bacterial bloom south of Fiji on October 18, 2010. Though it is impossible to identify the species from space, it is likely that the yellow-green filaments are miles-long colonies of Trichodesmium, a form of cyanobacteria often found in tropical waters. | caption3 = '''17c'''. おそらくアイアカシオ属の赤潮 (緑色の部分) の衛星写真 ([[フィジー]]付近) | image4 = Trichodesmium bloom off Great Barrier Reef 2014-03-07 19-59.jpg | alt4 = Trichodesmium bloom off Great Barrier Reef. | caption4 = '''17d'''. 大発生したアイアカシオ属 ([[グレートバリアリーフ]]) }} <div id="aoko">貧栄養の[[湖沼]]でも、しばしばピコプランクトン性藍藻が優占する<ref name="Callieri2007">{{cite journal|author=Callieri, C.|year=2007|title=Picophytoplankton in freshwater ecosystems: the importance of small-sized phototrophs|journal=Freshwater Reviews|volume=1|pages=1-28|doi=10.1608/FRJ-1.1.1}}</ref>。一方、[[湖沼型#類型|富栄養の湖沼]]では、ミクロキスティス属 ({{Snamei||Microcystis}})、ドリコスペルマム属 ({{Snamei||Dorychospermum}}){{efn2|name="Anabaena"|[[アナベナ]]属 ({{Snamei||Anabaena}}) とされていた藍藻のうち、プランクトンとしてふつうに見られる種の多くは、ドリコスペルマム属に移されている<ref name="ネンジュモ目">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/botany/aoko/aokocontents/nosto.html|title=ネンジュモ目|website=浮遊性藍藻データベース|publisher=国立科学博物館|accessdate=2021-09-25}}</ref>}}、アファニゾメノン属 ({{Snamei||Aphanizomenon}})、プランクトスリックス属 ({{Snamei||Planktothrix}}) などの[[プランクトン]]性藍藻が大増殖することがある<ref name="Watanabe1994">{{cite book|author=渡辺真利代 |author2=原田健一 |author3=藤木博太 (編)|year=1994|title=アオコ : その出現と毒素|publisher=東京大学出版会|pages=257|isbn=4-13-066152-3|ncid=BN11097702}}</ref>(下図18a–c)。このような藍藻が大増殖すると、水面に青緑色の粉をまいたようになるため、'''[[アオコ]]'''(青粉)とよばれる。このような藍藻の増減には、さまざまな環境要因とともに、他の藻類との競争、シアノファージ(藍藻の[[ウィルス]])や殺藻菌、藍藻を捕食する生物などが関わっている<ref name="Manage2001">{{cite journal|author=Manage, P.M., Kawabata, Z. & Nakano, S.|year=2001|title=Dynamics of cyanophage-like particles and algicidal bacteria causing ''Microcystis aeruginosa'' mortality|journal=Limnology|volume=2|pages=73-78|doi=10.1007/s102010170002}}</ref><ref name="Sukenik2002">{{cite journal|author=Sukenik, A., Eshkol, R., Livne, A., Hadas, O., Rom, M., Tchernov, D., Vardi, A. & Kaplan, A.|year=2002|title=Inhibition of growth and photosynthesis of the dinoflagellate ''Peridinium gatunense'' by ''Microcystis'' sp. (cyanobacteria): a novel allelopathic mechanism|journal=Limnol. Oceanogr.|volume=47|pages=1656-1663|doi=10.4319/lo.2002.47.6.1656}}</ref><ref name="Mizuta2010">{{cite journal|author=Mizuta, S., Imai, H., Chang, K.-H., Doi, H., Nishibe, Y. & Nakano, S.|year=2010|title=Grazing on ''Microcystis'' (Cyanophyceae) by testate amoebae with special reference to cyanobacterial abundance and physiological state|journal=Limnplogy|volume=12|pages=205-211|doi=10.1007/s10201-010-0341-1}}</ref>。一方で、光が届きにくい深い湖沼で大発生する藍藻も知られている({{Snamei||Planktothrix rubescens}}, 下図18d)。この種は光依存的に有機物を取り込んで窒素源や炭素源として利用するため、[[光合成|光補償点]]付近の弱光条件下でも増殖できる<ref name="Zotina2003">{{cite journal|author=Zotina, T., Köster, O. & Jüttner, F.|year=2003|title=Photoheterotrophy and light‐dependent uptake of organic and organic nitrogenous compounds by ''Planktothrix rubescens'' under low irradiance|journal=Freshwater Biology|volume=48|pages=1859-1872|doi=10.1046/j.1365-2427.2003.01134.x}}</ref>。</div> {{multiple image | total_width = 800 | footer = | align = center | caption_align = left | image1 = Tukuiko-aoko.JPG | alt1 = アオコが大発生して、湖水が黄緑色に染まった津久井湖 | caption1 = '''18a'''. アオコが発生した[[津久井湖]] (9月) | image2 = Cyanobacteria Aggregation2.jpg | alt2 = Bloom of cyanobacteria in a freshwater pond. This accumulation in one corner of the pond was caused by wind drift. It looked as if someone had dumped a bucket color into the water. | caption2 = '''18b'''. 水面にマットを形成しているアオコ (ドイツ、7月) | image3 = Algae, Microcystis (8741972050) contrasté.jpg | alt3 = アオコを形成するミクロキスティス属 ({{Snamei||Microcystis}}) | caption3 = '''18c'''. アオコを形成するミクロキスティス属 ({{Snamei||Microcystis}}) | image4 = Vielfältige Allgäuer Hochalpen (01).JPG | alt4 = Nature reserve "Allgäuer Hochalpen" (NSG 00400.01): At an altitude of about 1800 m, the Schneck is behind the photographer. The valley in front belongs to the Stierbach in the upper Bärgündele valley. In the background the arêtes and summits of Kreuzkopf and Wiedemer Kopf can be seen. The little pond is reddish brown due to an algal bloom, caused by Planktothrix rubescens. That species of cyanobacteria prefers clear, standing water, which is poor in nutrients. | caption4 = '''18d'''. 中央の池は''P. rubescens''の大増殖によって茶色く染まっている (ドイツ、7月)。 }} 海でも淡水でも底生性の藍藻は多く、しばしば[[バイオフィルム]]を形成して基質表面を覆っている<ref name="Tang1997">{{cite journal|author=Tang, E. P. Y., Tremblay, R. & Vincent, W. F.|year=1997|title=Cyanobacterial dominance of polar freshwater ecosystems: are high-latitude mat-formers adapted to low temperature?|journal=J. Phycol.|volume=33|pages=171-181|doi=10.1111/j.0022-3646.1997.00171.x}}</ref>(下図19a–c)。沿岸岩礁域の[[潮間帯]]から[[潮上帯]]でも、付着性の藍藻がペンキのようにべったりと岩を覆っていることがある。また[[オーストラリア]]の[[シャーク湾]]など塩分濃度が高い浅瀬では、植食動物がいないため底生性藍藻の群落が発達し、層状構造をもつドーム状構造である'''[[ストロマトライト]]''' (stromatolite) を形成する<ref name="Reid2000" />(下図19d)。ストロマトライトに似るが、層状構造を欠くものはスロンボライト (thrombolite)、貝殻などを核に球状に形成されたものをオンコライト (oncolite) という<ref name="Shapiro2000">{{cite journal|author=Shapiro, R. S.|year=2000|title=A comment on the systematic confusion of thrombolites|journal=Palaios|volume=15|issue=2|pages=166-169|doi=10.2307/3515503}}</ref><ref name="Corsetti2003">{{cite journal|author=Corsetti, F. A., Awramik, S. M. & Pierce, D.|year=2003|title=A complex microbiota from snowball Earth times: microfossils from the Neoproterozoic Kingston Peak Formation, Death Valley, USA|journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A.|volume=100|pages=4399-4404|doi=10.1073/pnas.0730560100}}</ref>。 {{multiple image | total_width = 800 | footer = | align = center | caption_align = left | image1 = Red_cyanobacteria_on_dead_gorgonian_(6165864891).jpg | alt1 = Red_cyanobacteria_on_dead_gorgonian | caption1 = '''19a'''. 海底の[[ウミトサカ]]上についた赤い藍藻 (紅海) | image2 = Cyanobacterial mat at Fanous East Reef, Red Sea, Egypt -SCUBA -UNDERWATER -PICTURES (6522131837).jpg | alt2 = Cyanobacterial mat at Shelenyat Reef, Red Sea, Egypt. | caption2 = '''19b'''. 海底の藍藻マット (紅海) | image3 = Cyanobacterial-algal mat.jpg | alt3 = Modern cyanobacterial-algal mat, salty lake on the White Sea seaside. | caption3 = '''19c'''. 北極海塩湖岸の藍藻マット | image4 = Stromatolites in Sharkbay.jpg | alt4 = Stromatolites growing in Hamelin Pool Marine Nature Reserve, Shark Bay in Western Australia. | caption4 = '''19d'''. [[ストロマトライト]] (オーストラリア、シャーク湾) }} 藍藻は土壌や岩石表面など陸域にも多く、極地から熱帯まで広く分布している(下図20a, b)。変水性(体内の水分量が大きく変動しても、つまり乾燥しても仮死状態で生存し、再び水が得られると急速に復活する性質)による高い乾燥耐性を示すものもおり、100年近く乾燥状態に置かれたものが復活したとの報告もある<ref name="Ward2000">{{cite book|author=Ward, D. M. & Castenholz, R. W.|year=2000|chapter=Cyanobacteria in geothermal habitats|editor=|title=The Ecology of Cyanobacteria|publisher=Springer Netherlands|isbn=0-09-941464-3|pages=37-59}}</ref>。土壌表層では藍藻が土壌クラスト (soil crust) を形成し(下図20b)、土壌の安定化や窒素栄養分の供給を行うため、特に砂漠や荒野での[[植生遷移]]の初期段階において重要な働きを果たすことがある<ref name="Whitton2000" /><ref name="Whitton2012" />。藍藻の中には、岩石内生(岩の中に生育)のものもおり、砂漠や極地からも見つかっている<ref name="Wierzchos2006">{{cite journal|author=Wierzchos, J., Ascaso, C. & McKay, C. P.|year=2006|title=Endolithic cyanobacteria in halite rocks from the hyperarid core of the Atacama Desert|journal=Astrobiology|volume=6|pages=415-422|doi=10.1089/ast.2006.6.415}}</ref>。 {{multiple image | total_width = 800 | footer = | align = center | caption_align = left | image1 = Nostoc commune.jpg | alt1 = イシクラゲ | caption1 = '''20a'''. 地表に生育する[[イシクラゲ]] (''Nostoc commune'') | image2 = Biological soil crust (6541100737).jpg | alt2 = Biological soil crust, Saguaro National Park (RMD), Arizona. | caption2 = '''20b'''. 藍藻を含む土壌クラスト (米国[[アリゾナ州]]) | image3 = Grand Prismatic Spring - Flickr - brewbooks (1).jpg | alt3 = The orange and brown color at the edge are due to the cyanobacteria Phormidium, Synechococcus, and Calothrix. | caption3 = '''20c'''. 水温に対応して帯状分布している複数種の好熱性藍藻 ([[イエローストーン国立公園]]) | image4 = Glacial Crevasse.jpg | alt4 = A crevasse created by water drilling a hole tens of meters deep into the glacier ice. Our skidoo guide inspects the crack. Langjökull glacier. July 2006. | caption4 = '''20d'''. 氷河上の藍藻 (黒色の部分) ([[アイスランド]]) }} [[温泉]](特にアルカリ性から中性)に生育する好熱性の藍藻も知られており([[温泉藻]])<ref name="Whitton2000" /><ref name="Whitton2012" />、このような場所では温度に応じて複数種の藍藻が帯状分布を示すこともある(上図20c)。中には 70℃ 以上の高温に耐えるものや至適増殖温度が 60℃ 近いものもいる。一方、雪や氷上、北極や南極のような低温環境下に多く見られる藍藻もいる<ref name="Quesada2012" /><ref name="Tang1997" /><ref name="竹内2012">{{Cite journal|和書|author=竹内望 |title=クリオコナイトと氷河の暗色化 |journal=低温科学 |ISSN=1880-7593 |publisher=北海道大学低温科学研究所 |year=2012 |volume=70 |pages=165-172 |naid=40019324597 |url=https://hdl.handle.net/2115/49067}}</ref>(上図20d)。[[氷河]]上で粒子状に成長した藍藻は[[クリオコナイト]] (cryoconite) とよばれ、黒っぽい色のため熱を吸収し氷河上に穴(クリオコナイトホール)を形成する。また[[塩湖]]のような塩分濃度が高い環境に生育するものもおり、浸透圧調節物質(グルコシルグリセロール、[[グリシン]]、[[トリメチルグリシン]]など)の蓄積などによって高[[浸透圧]]に対応している<ref name="Fulda1999">{{cite journal|author=Fulda, S., Mikkat, S., Schroder, W., Hagemann, M.|year=1999|title=Isolation of salt-induced periplasmic proteins from ''Synechocystis'' sp. strain PCC 6803|journal=Arch. Microbiol.|volume=171|pages=214-217|doi=10.1007/s002030050702}}</ref>。 ==共生== 藍藻の中には、他の生物と[[共生]]しているものも少なくない<ref name="Adams2000">{{cite book|author=Adams, D. G.|year=2000|chapter=Symbiotic interactions|editor=Whitton, B.A. & Potts, M.|title=Ecology of Cyanobacteria: Their Diversity in Time and Space|publisher=Kluwer Academic Publishers|isbn=0-09-941464-3|pages=523-561}}</ref><ref name="Adams2012">{{cite book|author=Adams, D. G., Duggan, P. S. & Jackson, O.|year=2012|chapter=Cyanobacterial symbioses|editor=Whitton, B.A.|title=Ecology of Cyanobacteria II: Their Diversity in Space and Time|publisher=Springer Science+Business Media B.V.|pages=593-675|isbn=978-94-007-3854-6}}</ref><ref name="Adams2006">{{cite book|author=Adams, D. G., Bergman, B., Nierzwicki-Bauer, S. A., Rai, A. N. & Schüßler, A.|year=2006|chapter=Cyanobacterial-plant symbioses|editor=Dworkin M, Falkow S, Rosenberg E, Schleifer K-H, Stackebrandt E|title=The Prokaryotes. A Handbook on the Biology of Bacteria, vol 1, 3rd ed. Symbiotic Associations, Biotechnology, Applied Microbiology|publisher=Springer|isbn=978-1-4757-2193-5|pages=331-363}}</ref><ref name="Carpenter2002">{{cite journal|author=Carpenter, E.J.|year=2002|title=Marine cyanobacterial symbioses|journal=Biol. Environ. Proc. R Ir Acad.|volume=102B|pages=15-18|doi=10.1007/0-306-48005-0_2}}</ref><ref name="Paerl1992">{{cite book|author=Paerl, H.|year=1992|chapter=Epi- and endobiotic interactions of cyanobacteria|editor=Reisser, W.|title=Algae and Symbioses: Plants, Animals, Fungi, Viruses, Interactions Explored|publisher=Biopress Limited|isbn=|pages=537-565}}</ref><ref name="Decelle2015">{{cite book|author=Decelle, J., Colin, S. & Foster, R. A.|year=2015|chapter=Photosymbiosis in marine planktonic protists|editor=|title=Marine Protists|publisher=Springer Japan|isbn=|pages=465-500|url=https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-4-431-55130-0_19|doi=10.1007/978-4-431-55130-0_19}}</ref>。このような共生者である藍藻は、'''シアノビオント''' (cyanobiont) とよばれることがある。 [[地衣類]]の多くは[[緑藻]]を共生者としているが、地衣の 8% 程の種は藍藻を共生者としており、特にこのような地衣は藍藻地衣 (cyanolichen) ともよばれる<ref name="Adams2006" /><ref name="Rikkinen2002">{{cite book|author=Rikkinen, J.|year=2002|chapter=Cyanolichens: an evolutionary overview|editor=Rai, A.N., Bergman, B. & Rasmussen, U.|title=Cyanobacteria in Symbiosis|publisher=Kluwer Academic Publishers, Dordrecht|isbn=1-4020-0777-9|pages=31-72}}</ref>(下図21a)。藍藻地衣では藍藻が細胞外共生しているが、[[ゲオシフォン]]({{Snamei||Geosiphon}}; [[菌根菌]]として重要なグループである[[グロムス亜門]]に属する)では、藍藻 ({{Snamei||Nostoc punctiforme}}) が細胞内共生している<ref name="Adams2006" /><ref name="Gehrig1996">{{cite journal|author=Gehrig, H., Schüßler, A. & Kluge, M.|year=1996|title=''Geosiphon pyriforme'', a fungus forming endocytobiosis withNostoc (Cyanobacteria), is an ancestral member of the glomales: evidence by SSU rRNA analysis|journal=Journal of Molecular Evolution|volume=43|pages=71-81|doi=10.1007/BF02352301}}</ref><ref name="Mollenhauer1996">{{cite journal|author=Mollenhauer, D., Mollenhauer, R. & Kluge, M.|year=1996|title=Studies on initiation and development of the partner association in ''Geosiphon pyriforme'' (Kütz.) v. Wettstein, a unique endocytobiotic system of a fungus (Glomales) and the cyanobacterium ''Nostoc punctiforme'' (Kütz.) Hariot|journal=Protoplasma|volume=193|pages=3-9|doi=10.1007/BF01276630}}</ref><ref name="Schüßler2005">{{cite book|author=Schüßler, A. & Wolf, E.|year=2005|chapter=''Geosiphon pyriformis'' - a Glomeromycotan soil fungus forming endosymbiosis with Cyanobacteria|editor=|title=In Vitro Culture of Mycorrhizas. Soil Biology, Volume 4, Part V|publisher=|isbn=3-540-24027-6|pages=271-289}}</ref>(下図21b)。これらの例では、'''藍藻が光合成産物(有機物)を宿主に供給'''し、宿主からは好適な生育環境を得ていると考えられている。同じような関係にあるものとして、[[海綿]]<ref name="Usher2008">{{cite journal|author=Usher, K.M.|year=2008|title=The ecology and phylogeny of cyanobacterial symbionts in sponges|journal=Marine Ecology|volume=29|pages=178-192|doi=10.1111/j.1439-0485.2008.00245.x}}</ref>や[[等脚類]]<ref name="Lindquist2005">{{cite journal|author=Lindquist, N., Barber, P.H. & Weisz, J.B.|year=2005|title=Episymbiotic microbes as food and defence for marine isopods: unique symbioses in a hostile environment|journal=Proc. R Soc. Lond. B|volume=272|pages=1209-1216|doi=10.1098/rspb.2005.3082}}</ref>、[[ホヤ]]<ref name="Münchhoff2007">{{cite journal|author=Münchhoff, J., Hirose, E., Maruyama, T., Sunairi, M., Burns, B.P., & Neilan, B.A.|year=2007|title=Host specificity and phylogeography of the prochlorophyte ''Prochloron'' sp., an obligate symbiont in didemnid ascidians|journal=Environ. Microbiol.|volume=9|pages=890-899|doi=10.1111/j.1462-2920.2006.01209.x}}</ref>(下図21c)、[[放散虫]]<ref name="Foster2006a">{{cite journal|author=Foster, R. A. Carpenter, E. J. & Bergman, B.|year=2006|title=Unicellular cyanobionts in open ocean dinoflagellates, radiolarians, and tintinnids: ultrastructural characterization and immuno-localization of phycoerythrin and nitrogenase|journal=Journal of Phycology|volume=42|pages=453-463|doi=10.1111/j.1529-8817.2006.00206.x}}</ref><ref name="Foster2006b">{{cite journal|author=Foster, R. A., Collier, J. L. & Carpenter , E. J.|year=2006|title=Reverse transcription PCR amplification of cyanobacterial symbiont 16S rRNA sequences from single non-photosynthetic eukaryotic marine planktonic host cells|journal=Journal of Phycology|volume=42|pages=243-250|doi=10.1111/j.1529-8817.2006.00185.x}}</ref>、[[有孔虫]]<ref name="Lee2006">{{cite journal|author=Lee, J.J.|year=2006|title=Algal symbiosis in larger foraminifera|journal=Symbiosis|volume=42|pages=63-75|doi=}}</ref>、[[繊毛虫]]<ref name="Foster2006a" /><ref name="Foster2006b" />、[[渦鞭毛藻]]<ref name="Foster2006a" /><ref name="Foster2006b" /><ref name="Escalera2011">{{cite journal|author=Escalera, L., Reguera, B., Takishita, K., Yoshimatsu, S., Koike, K. & Koike, K.|year=2011|title=Cyanobacterial endosymbionts in the benthic dinoflagellate Sinophysis canaliculata (Dinophysiales, Dinophyceae)|journal=Protist|volume=162|pages=304-314|doi=10.1016/j.protis.2010.07.003}}</ref><ref name="Jyothibabu2006">{{cite journal|author=Jyothibabu, R., Madhu, N.V., Maheswaran, P.A., Devi, C.R.A., Balasubramanian, T., Nair, K.K.C. & Achuthankutty, C.T.|year=2006|title=Environmentally-related seasonal variation in symbiotic associations of heterotrophic dinoflagellates with cyanobacteria in the western Bay of Bengal|journal=Symbiosis|volume=42|pages=51-58|url=http://drs.nio.org/drs/handle/2264/547}}</ref>(下図21d)などに藍藻が細胞外または細胞内共生している例が知られる。このような藍藻の中には、ホヤに共生する[[プロクロロン]]属 ({{Snamei||Prochloron}}) のように宿主体外では生育できない絶対共生性のものもいる。 {{multiple image | total_width = 800 | footer = | align = center | caption_align = left | image1 = Lisajcrni7.jpg | caption1 = '''21a'''. 藍藻を共生者とする[[地衣類]]であるイワノリ科の1種 ([[子嚢菌門]]) | image2 = Geosiphon_pyriforme_ilustracion.jpg | caption2 = '''21b'''. 藍藻 (''No'') が細胞内共生している[[ゲオシフォン]] ([[グロムス亜門]]) | image3 = Didemnum molle.jpeg | caption3 = '''21c'''. [[プロクロロン]]が共生しているチャツボボヤ ([[ホヤ綱]]) | image4 = Ornithocercus Magnificus image.jpg | caption4 = '''21d'''. 藍藻 (上部に集積している赤褐色の顆粒) を共生させたオルニトケルクス属 ([[渦鞭毛藻綱]]) }} 細胞内共生した藍藻が[[細胞小器官]]となった例もある。[[葉緑体]]([[色素体]])は、太古に細胞内共生した藍藻に起源をもつが、現在ではこの藍藻は自立能を失い、完全に宿主に制御された[[細胞小器官]]となっている<ref name="Inouye2006" /><ref name="Archibald2009">{{cite journal|author=Archibald, J.M.|year=2009|title=The puzzle of plastid evolution|journal=Curr. Biol.|volume=19|pages=R81-88|doi=10.1016/j.cub.2008.11.067}}</ref>。有殻糸状仮足アメーバである[[ビンカムリ]]類({{Snamei||Paulinella}} spp.; ケルコゾア門) は、葉緑体とは起源が異なる(より新しい)藍藻との細胞内共生に由来する構造('''クロマトフォア''' chromatophore とよばれる)をもつ。この構造も既に宿主と不可分の存在であり、細胞小器官化したものであることが明らかとなっている<ref name="Nakayama2008">{{Cite journal|和書|author=中山卓郎 |author2=石田健一郎 |title=もう一つの一次共生?-''Paulinella chromatophora'' とそのシアネレ― |journal=原生動物学雑誌 |ISSN=0388-3752 |publisher=日本原生生物学会 |year=2008 |volume=41 |issue=1 |pages=27-31 |naid=130006070219 |doi=10.18980/jjprotozool.41.1_27 |url=https://doi.org/10.18980/jjprotozool.41.1_27}}</ref>。 <div id="symbiosis with phototroph">光合成生物に藍藻が共生している例も知られている。このような共生では、'''藍藻が窒素固定によって生成した窒素化合物を宿主に供給'''している<ref name="Adams2012" /><ref name="Rai2000">{{cite journal|author=Rai, A. N., Söderbäck, E. & Bergman, B.|year=2000|title=Cyanobacterium-plant symbioses|journal=New Phytologist|volume=147|pages=449-481|doi=10.1046/j.1469-8137.2000.00720.x}}</ref>。藍藻が共生している[[陸上植物]]として、[[ウスバゼニゴケ科]]<ref name="Adams2008">{{cite journal|author=Adams, D. G. & Duggan, P. S.|year=2008|title=Cyanobacteria-bryophyte symbioses|journal=J. Exp. Bot.|volume=59|pages=1047-1058|doi=10.1093/jxb/ern005}}</ref>([[苔類]]; 下図22a)、[[ツノゴケ類]]<ref name="Adams2008" />(下図22b)、[[アカウキクサ属]]<ref name="Peters1991">{{cite journal|author=Peters, G.A.|year=1991|title=''Azolla'' and other plant-cyanobacteria symbioses - aspects of form and function|journal=Plant Soil|volume=137|pages=25-36|doi=10.1007/BF02187428}}</ref><ref name="Papaefthimiou2008">{{cite journal|author=Papaefthimiou, D., Van Hove, C., Lejeune, A., Rasmussen, U. & Wilmotte, A.|year=2008|title=Diversity and host specificity of genus ''Azolla'' cyanobionts|journal=J. Phycol.|volume=44|pages=60-70|doi=10.1111/j.1529-8817.2007.00448.x}}</ref>([[薄嚢シダ類]]; 下図22c)、[[ソテツ類]]<ref name="Costa2003">{{cite book|author=Costa, J.-L. & Lindblad, P.|year=2003|chapter=Cyanobacteria in symbiosis with cycads|editor=Rai, A.N., Bergman, B. & Rasmussen, U.|title=Cyanobacteria in Symbiosis|publisher=Kluwer Academic Publishers, Dordrecht|isbn=1-4020-0777-9|pages=195-205}}</ref>(下図22d)、[[グンネラ]]<ref name="Bergman2002">{{cite book|author=Bergman, B.|year=2002|chapter=The ''Nostoc''-''Gunnera'' symbiosis|editor=Rai, A.N., Bergman, B. & Rasmussen, U.|title=Cyanobacteria in Symbiosis|publisher=Kluwer Academic Publishers|isbn=1-4020-0777-9|pages=207-232}}</ref><ref name="Bergman2008">{{cite journal|author=Bergman, B. & Osborne, B.|year=2002|title=The ''Gunnera''-''Nostoc'' symbiosis|journal=Biol. Environ. Proc. R Ir Acad.|volume=102B|pages=35-39|url=https://www.jstor.org/stable/20500139}}</ref>([[被子植物]])などが知られている。これらの中には、藍藻の感染を促進するために植物が藍藻の[[#生殖|連鎖体]]や[[線毛]]形成を誘導する例が知れられている<ref name="Duggan2007" /><ref name="Adams2012" />。またアカウキクサ類の共生藍藻は[[宿主]]体外では生存不可な絶対共生性であり、宿主と[[共進化]]していることが知られている<ref name="Adams2012" /><ref name="Papaefthimiou2008" />。ソテツ類はいくつかの[[毒素]]をもつことが知られているが、このうち BMAA (β-methylamino-L-alanine) はソテツ自身が生成したものではなく、共生藍藻が生成したものであると考えられている<ref name="Cox2003">{{cite journal|author=Cox, P.A., Banack, S.A. & Murch, S.J.|year=2003|title=Biomagnification of cyanobacterial neurotoxins and neurodegenerative disease among the Chamorro people of Guam|journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A.|volume=100|pages=13380-13383|doi=10.1073/pnas.2235808100}}</ref>。</div> {{multiple image | total_width = 800 | footer = | align = center | caption_align = left | image1 = Blasia pusilla (c, 145631-481321) 4018.JPG | caption1 = '''22a'''. [[ウスバゼニゴケ]] ([[苔類]]) の葉状体には藍藻が共生している (暗色部)。 | image2 = Phaeoceros carolinianus (a, 122441-471446) 1074.JPG | caption2 = '''22b'''. [[ニワツノゴケ]] ([[ツノゴケ類]]) の葉状体には藍藻が共生している。 | image3 = Azolla filiculoides - Flickr - Kevin Thiele.jpg | caption3 = '''22c'''. [[ニシノオオアカウキクサ]] ([[薄嚢シダ類]]) の葉には藍藻が共生している。 | image4 = Cycas thouarsii (coralline roots).jpg | caption4 = '''22d'''. [[ソテツ属]]のサンゴ状根 (内部に藍藻が共生) | image5 = Alexandra guin cylind ps95 022 n 20m 20170809153702 small.jpg | caption5 = '''22e'''. この {{Snamei||Guinardia}} ([[珪藻]]) の細胞内には藍藻の {{Snamei||Richelia}} が共生している (両端に2個体ずつ見える)。 }} 水界でも、[[珪藻]]<ref name="Jahson1995">{{cite journal|author=Jahson, S., Rai, A. N. & Bergman, B.|year=1995|title=Intracellular cyanobiont ''Richelia intracellularis'': ultrastructure and immuno-localisation of phycoerythrin, nitrogenase, Rubisco and glutamine synthetase|journal=Marine Biology|volume=124|pages=1-8|doi=10.1007/BF00349140}}</ref><ref name="Carpenter2002" /><ref name="Foster2006c">{{cite journal|author=Foster, R. A. & Zehr, J. P.|year=2006|title=Characterization of diatom-cyanobacteria symbioses on the basis of ''nifH'', ''hetR'' and 16S rRNA sequences|journal=Environ. Microbiol.|volume=8|pages=1913-1925|doi=10.1111/j.1462-2920.2006.01068.x}}</ref><ref name="Foster2011">{{cite journal|author=Foster, R.A., Kuypers, M.M.M., Vagner, T., Paerl, R.W., Muzat, N. & Zehr, J.P.|year=2011|title=Nitrogen fixation and transfer in open ocean diatom-cyanobacterial symbioses|journal=ISME J.|volume=5|pages=1484-1493|doi=10.1038/ismej.2011.26}}</ref><ref name="Foster2009">{{cite journal|author=Foster, R.A., Subramaniam, A. & Zehr, J.P.|year=2009|title=Distribution and activity of diazotrophs in the Eastern Equatorial Atlantic|journal=Environ. Microbiol.|volume=11|pages=741-750|doi=10.1111/j.1462-2920.2008.01796.x}}</ref><ref name="White2007">{{cite journal|author=White, A.E., Prahl, F.G., Letelier, R.M. & Popp, B.N.|year=2007|title=Summer surface waters in the Gulf of California: prime habitat for biological nitrogen fixation|journal=Glob. Biogeochem. Cycles|volume=21|pages=GB2017|doi=10.1029/2006GB002779}}</ref>や[[ハプト藻]]<ref name="Hagino2013">{{cite journal|author=Hagino, K., Onuma, R., Kawachi, M. & Horiguchi, T.|year=2013|title=Discovery of an endosymbiotic nitrogen-fixing cyanobacterium UCYN-A in ''Braarudosphaera bigelowii'' (Prymnesiophyceae)|journal=PLoS One|volume=8|pages=e81749|doi=10.1371/journal.pone.0081749}}</ref><ref name="Thompson2014">{{cite journal|author=Thompson, A., Carter, B. J., Turk‐Kubo, K., Malfatti, F., Azam, F. & Zehr, J. P.|year=2014|title=Genetic diversity of the unicellular nitrogen‐fixing cyanobacteria UCYN‐A and its prymnesiophyte host|journal=Environmental Microbiology|volume=16|pages=3238-3249|doi=10.1111/1462-2920.12490}}</ref>など光合成を行う[[藻類]]に藍藻が共生している例が知られている(上図22e)。ハフケイソウ科の珪藻に細胞内共生している藍藻は、既に自立能・光合成能を失い、'''楕円体''' (spheroid body) とよばれる細胞小器官になっている<ref name="Kneip2008">{{cite journal|author=Kneip, C., Voß, C., Lockhart, P. J. & Maier, U. G.|year=2008|title=The cyanobacterial endosymbiont of the unicellular algae Rhopalodia gibba shows reductive genome evolution|journal=BMC Evol. Biol.|volume=8|pages=30|doi=10.1111/1462-2920.12490}}</ref>。{{Snamei||Braarudosphaera}}(ハプト藻)に共生する藍藻 (UCYN-A) も光合成能を含むいくつかの機能を欠いており、おそらく宿主に大きく依存している<ref name="Zehr2008" />。 [[ファイル:Bipartite and tripartite cyanolichens (10.3897-mycokeys.6.3869) Figure 1 lowerleft.jpg|thumb|right|250px|'''23'''. ツメゴケ属の一種 ([[子嚢菌門]]) において主な共生藻は[[緑藻]] (''Coccomyxa'') であるが、特定の部位 (拡大像) には[[ネンジュモ属]]が共生している。]] [[地衣類]]や[[サンゴ]]においては、主となる共生者(それぞれ[[緑藻]]、[[渦鞭毛藻]])とともに、窒素固定を行う藍藻が共生している例が知られている<ref name="Lesser2004">{{cite journal|author=Lesser, M. P., Mazel, C. H., Gorbunov, M. Y. & Falkowski, P. G.|year=2004|title=Discovery of symbiotic nitrogen-fixing cyanobacteria in corals|journal=Science|volume=305|issue=|pages=997-1000|doi=10.1126/science.1099128}}</ref><ref name="Lesser2007">{{cite journal|author=Lesser, M.P., Falcón, L.I., Rodriguez-Roman, A., Enriquez, S., Hoegh-Guldberg, O. & Iglesias-Prieto, R.|year=2007|title=Nitrogen fixation by symbiotic cyanobacteria provides a source of nitrogen for the scleractinian coral ''Montastraea cavernosa''|journal=Mar. Ecol. Prog. Ser.|volume=346|pages=143-152|doi=10.3354/meps07008}}</ref>(図23)。これらの例では、光合成 (有機物供給) と窒素固定(窒素栄養分供給)を共生者の間で分業していると考えられている。 上記の例にくらべて、共生関係が明瞭ではない、より「ゆるい」共生関係も知られている。そのような例として、藍藻群集中に[[子嚢菌]]が生育しているもの<ref name="Rikkinen2002" />や、藍藻と[[珪藻]]が密集しているもの<ref name="Snoeijs2004">{{cite journal|author=Snoeijs, P. & Murasi, L.W.|year=2004|title=Symbiosis between diatoms and cyanobacterial colonies|journal=Vie Et Milieu Life Environ|volume=54|pages=163-169|doi=}}</ref>、[[海藻]]<ref name="Fong2006">{{cite journal|author=Fong, P., Smith, T.B. & Wartian, M.J.|year=2006|title=Epiphytic cyanobacteria maintain shifts to macroalgal dominance on coral reefs following ENSO disturbance|journal=Ecology|volume=87|pages=1162-1168|doi=10.1890/0012-9658(2006)87[1162:ECMSTM]2.0.CO;2}}</ref><ref name="Ohkubo2006">{{cite journal|author=Ohkubo, S., Miyashita, H., Murakami, A., Takeyama, H., Tsuchiya, T. & Mimuro, M.|year=2006|title=Molecular detection of epiphytic ''Acaryochloris'' spp. on marine macroalgae|journal=Appl. Environ. Microbiol.|volume=72|pages=7912-7915|doi=10.1128/AEM.01148-06}}</ref>、[[シャジクモ類]]<ref name="Ariosa2004">{{cite journal|author=Ariosa, Y., Quesada, A., Aburto, J., Carrasco, D., Carreres, R., Leganes, F. & Valiente, E.F.|year=2004|title=Epiphytic cyanobacteria on Chara vulgaris are the main contributors to N2 fixation in rice fields|journal=Appl. Environ. Microbiol.|volume=70|pages=5391-5397|doi=10.1128/AEM.70.9.5391-5397.2004}}</ref>、[[蘚類]]<ref name="Berg2013">{{cite journal|author=Berg, A., Danielsson, Å. & Svensson, B. H.|year=2013|title=Transfer of fixed-N from N2-fixing cyanobacteria associated with the moss ''Sphagnum riparium'' results in enhanced growth of the moss|journal=Plant and Soil|volume=362|pages=271-278|doi=10.1007/s11104-012-1278-4}}</ref><ref name="Solheim2002">{{cite journal|author=Solheim, B. & Zielke, M.|year=2002|chapter=Associations between cyanobacteria and mosses|editor=Rai, A.N., Bergman, B. & Rasmussen, U.|title=Cyanobacteria in Symbiosis|publisher=Kluwer Academic Publishers, Dordrecht|isbn=1-4020-0777-9|pages=137-152}}</ref>、[[マングローブ]]植物<ref name="Steinke2003">{{cite journal|author=Steinke, T.D., Lubke, R.A. & Ward, C.J.|year=2003|title=The distribution of algae epiphytic on pneumatophores of the mangrove, ''Avicennia marina'', at different salinities in the Kosi System|journal=S. Afr. J. Bot.|volume=69|pages=546-554|doi=10.1016/S0254-6299(15)30293-3}}</ref>、[[海草]]<ref name="Hamisi2009">{{cite journal|author=Hamisi, M.I., Lyimo, T.J., Muruke, M.H.S. & Bergman, B.|year=2009|title=Nitrogen fixation by epiphytic and epibenthic diazotrophs associated with seagrass meadows along the Tanzanian coast, Western Indian Ocean|journal=Aquat. Microb. Ecol.|volume=57|pages=33-42|doi=10.3354/ame01323}}</ref><ref name="Uku2007">{{cite journal|author=Uku, J., Bjork, M., Bergman, B. & Diez, B.|year=2007|title=Characterization and com- parison of prokaryotic epiphytes associated with three East African seagrasses|journal=J. Phycol.|volume=43|pages=768-779|doi=10.1111/j.1529-8817.2007.00371.x}}</ref>、ウキクサ<ref name="Adams2000" />、[[イネ]]<ref name="Adams2000" />、ラン([[吸水根]])<ref name="Tsavkelova2003">{{cite journal|author=Tsavkelova, E.A., Lobakova, E.S., Kolomeitseva, G.L., Cherdyntseva, T.A. & Netrusov, A.I.|year=2003|title=Associative cyanobacteria isolated from the roots of epiphytic orchids|journal=Microbiology|volume=72|pages=92-97|doi=10.1023/A:1022238309083}}</ref>の表面に藍藻が着生している例などが報告されている。 {{-}} ==人間との関わり== ===害=== [[富栄養]]湖沼において(特に夏期)、藍藻はときに大増殖して'''[[アオコ]]'''(青粉)とよばれる現象を引き起こす(下図24a; [[#aoko|上記参照]])。アオコは様々な形で人間生活に害を与えることがある<ref name="Watanabe1994" /><ref name="Watson2003">{{cite journal|author=Watson, S.B.|year=2003|title=Cyanobacterial and eukaryotic algal odour compounds: signals or by-products? A review of their biological activity|journal=Phycologia|volume=42|pages=332-350|doi=10.2216/i0031-8884-42-4-332.1}}</ref>。アオコは水面に形成されるため湖沼を遮光し、[[水草]]や他の[[植物プランクトン]]の生育を妨げる。また大量に発生したアオコの夜間における呼吸、およびアオコが死んだ際の分解によって酸素が消費され、湖沼が酸欠状態になり、水生生物が死ぬことがある。一部のアオコは[[2-メチルイソボルネオール]](下図24b)や[[ゲオスミン]]などのカビ臭物質を産生し、問題となることがある。さらにアオコを形成する藍藻の中には、下記のような藍藻毒を産生するものもいる。 {{multiple image | total_width = 800 | footer = | align = center | caption_align = left | image1 = Blue-gree algae bloom Lake Erie.png | caption1 = '''24a'''. アオコが発生した[[エリー湖]] | image2 = Methylisoborneol.png | caption2 = '''24b'''. [[2-メチルイソボルネオール]] | image3 = Microcystin-LR.svg | caption3 = '''24c'''. [[ミクロシスチン]]-LR | image4 = Nodularin R.svg | caption4 = '''24d'''. [[ノジュラリン]] | image5 = Anatoxin-a.svg | caption5 = '''24e'''. [[アナトキシン]] }} 藍藻の中には毒([[シアノトキシン|'''藍藻毒、シアノトキシン''']] cyanotoxin)を生成するものがおり、家畜やヒトに被害が生じることもある<ref name="Sano2012">{{cite book|author=佐野友春|year=2012|chapter=ラン藻の毒素 (ミクロシスチン、ノジュラリン)|editor=渡邉信 (監)|title=藻類ハンドブック|publisher=エヌ・ティー・エス|isbn=978-4864690027|pages=243–249}}</ref><ref name="Kaya2012">{{cite book|author=彼谷邦光|year=2012|chapter=ラン藻の毒素 (その他の毒素)|editor=渡邉信 (監)|title=藻類ハンドブック|publisher=エヌ・ティー・エス|isbn=978-4864690027|pages=251–255}}</ref><ref name="Codd2005">{{cite journal|author=Codd, G. A., Morrison, L. F. & Metcalf, J. S.|year=2005|title=Cyanobacterial toxins: risk management for health protection|journal=Toxicology and Applied Pharmacology|volume=203|issue=|pages=264-272|url=https://doi.org/10.1016/j.taap.2004.02.016|doi=10.1016/j.taap.2004.02.016}}</ref><ref name="Jang2003">{{cite journal|author=Jang, M.H., Ha, K., Joo, G.J. & Takamura, N.|year=2003|title=Toxin production of cyanobacteria is increased by exposure to zooplankton|journal=Freshwater Biol.|volume=48|pages=1540-1550|doi=}}</ref><ref name="Wiegand2005">{{cite journal|author=Wiegand, C. & Pflugmacher, S.|year=2005|title=Ecotoxicological effects of selected cyanobacterial secondary metabolites a short review|journal=Toxicology and Applied Pharmacology|volume=203|pages=201-218|doi=10.1016/j.taap.2004.11.002|url=https://doi.org/10.1016/j.taap.2004.11.002}}</ref>。[[非リボソームペプチド]]([[リボソーム]]における翻訳を介さない[[ペプチド]])である[[ミクロシスチン]](上図24c)や[[ノジュラリン]](上図24d)は[[タンパク質ホスファターゼ]]を阻害し、肝臓毒となる。また[[アルカロイド]]であるアナトキシン(上図24e)や[[サキシトキシン]]はシナプスでの伝達を阻害する神経毒となる。食用に用いられる種のスピルリナからビタミンB12の同族体が同定されたがビタミンB12の補給源にはならない<ref>{{Cite journal|和書|title=2-II-17 機能性食品スピルリナ錠剤に含まれるビタミンB_&lt;12&gt;同族体の単離と同定 |url=https://doi.org/10.20632/vso.73.4_282_2 |author=渡辺文雄, 桂博美, 阿部捷男, 竹中重雄, 田村良行, 中野長久 |year=1999 |journal=ビタミン |volume=73 |issue=4 |pages=282 |doi=10.20632/vso.73.4_282_2 |publisher=日本ビタミン学会}}</ref>、また不適切な製造工程で生産された食品での健康被害の報告が有る<ref>[https://www.fsc.go.jp/fsciis/foodSafetyMaterial/show/syu04830460475 食品安全関係情報詳細 資料管理ID:syu04830460475] 食品安全委員会</ref>。 [[アクアリウム]]においては、水槽のガラス壁面や水草、流木などにさまざまな種の藍藻(「{{読み仮名|苔|こけ}}」や「{{読み仮名|藻|も}}」と総称される)が繁茂する事がある<ref name="トロピカ">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://tropica.jp/2017/03/07/post-287-2/|title=【初心者向き】水槽のコケ対策と種類をプロがアドバイス!|website=トロピカ|publisher=株式会社東京アクアガーデン|accessdate=2021-09-23}}</ref><ref name="GEX">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.gex-fp.co.jp/fish/breed/nettaigyo_breeding/nettaigyo_sub4/nettaigyo_04-002/|title=【コケ種類別】熱帯魚飼育におすすめのコケ取り名人|website=|publisher=GEX|accessdate=2021-09-23}}</ref>。藍藻の繁茂する原因は種によって異なるが、光条件や栄養塩濃度、水流の変化などによる。見栄えが悪く、悪臭を伴うこともある。対策として、水換えとろ過装置の増強、照明時間の調整、植食性の魚やエビ、貝に藍藻を食べさせる、市販されている薬剤の利用、などがある。 ===食用=== アフリカや中南米の湖沼で大発生する "[[スピルリナ]]"(古くは {{Snamei||Spirulina}} に分類されていたためこの名でよばれるが、現在では {{Snamei||Arthrospira}} に移されている)は現地では古くから食料として利用されていたが、現在では世界各地で大規模に培養され、健康食品などとして流通している<ref name="Taroda2012">{{cite book|author=太郎田博之|year=2012|chapter=スピルリナ|editor=渡邉信 (監)|title=藻類ハンドブック|publisher=エヌ・ティー・エス|isbn=978-4864690027|pages=657–659}}</ref><ref name="Sili2012">{{cite book|author=Sili, C., Torzillo, G. & Vonshak, A.|year=2012|chapter=''Arthrospira'' (''Spirulina'')|editor=|title=Ecology of Cyanobacteria II|publisher=Springer Netherlands|isbn=978-94-007-3854-6|pages=677-705}}</ref>(下図25a)。最大の用途は健康食品であり、錠剤などの形で市販されている (下図25b, c)。またスピルリナから抽出された光合成色素である[[フィコシアニン]]は、水溶性の青い天然色素として冷菓などに利用されている<ref name="Taroda2012" /><ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.dic-global.com/ja/products/natural_colorants/|title=フィコシアニン(天然系青色素 リナブルー®)|website=|publisher=DIC|accessdate=2022-11-05}}</ref><!--この出典では酸性では不安定とされています-->(下図25d)。さらにカロテノイドを含むため、[[ニシキゴイ|錦鯉]]の色揚剤や熱帯魚用飼料に配合されている<ref name="Taroda2012" /><!--出典に合わせました-->。 {{multiple image | total_width = 800 | footer = | align = center | caption_align = left | image1 = Spirulina_hothouse_and_workers_in_normandie_2014.jpg | caption1 = '''25a'''. "[[スピルリナ]]"の大規模培養 ([[フランス]]) | image2 = Spirulina tablets.jpg | caption2 = '''25b'''. スピルリナの[[錠剤|タブレット]] | image3 = Spirulinapowder400x.jpg | caption3 = '''25c'''. スピルリナ製品の顕微鏡像 | image4 = Garigari-kun.JPG | caption4 = '''25d'''. スピルリナの色素を利用したアイスキャンディー | image5 = Faat choy.jpg | caption5 = '''25e'''. [[髪菜]] }} 他にも、食用としての藍藻の利用が世界各地で散見される。[[髪菜]]({{Snamei||Nostoc flagelliforme}}, [[ネンジュモ目]])は中華料理の高級食材であり、内陸アジアの[[ステップ (植生)|ステップ]]地帯の地表に生育する<ref name="Alga2012">{{cite book|author=有賀祐勝|year=2012|chapter=髪菜|editor=渡邉信 (監)|title=藻類ハンドブック|publisher=エヌ・ティー・エス|isbn=978-4864690027|pages=655–656}}</ref>(上図25e)。上記のように、このような藍藻は土壌の安定化や植生発達に重要であり、髪菜の乱獲は表土流出など環境破壊を引き起こした。そのため、[[中華人民共和国|中国]]では2000年に髪菜の採取・販売が禁止されている。髪菜に近縁の葛仙米 ({{Snamei||Nostoc sphaeroides}}) や[[イシクラゲ]] ({{Snamei||Nostoc commune}}) も、日本、中国、南米などで食用とされることがある<ref name="Takenaka2012">{{cite book|author=竹中裕行 & 山口裕司|year=2012|chapter=ノストック (イシクラゲ)|editor=渡邉信 (監)|title=藻類ハンドブック|publisher=エヌ・ティー・エス|isbn=978-4864690027|pages=651–654}}</ref>。河川に生育する[[アシツキ]] ({{Snamei||Nostoc verrucosum}}) は日本で古くから食用とされ、[[万葉集]]にアシツキを採取する女性を詠んだ[[大伴家持]]の歌がある。[[スイゼンジノリ]] ({{Snamei||Aphanothece sacrum}}, クロオコックス目) は九州の湧水からのみ知られる藍藻であり懐石料理の高級食材などに利用され、養殖も行われている<ref name="Yoshida2012">{{cite book|author=吉田 忠生|year=2012|chapter=スイゼンジノリ|editor=渡邉信 (監)|title=藻類ハンドブック|publisher=エヌ・ティー・エス|isbn=978-4864690027|pages=648–650}}</ref>。 ===その他=== 藍藻は[[#窒素固定|窒素固定能]]をもつため、[[有機肥料]]として用いられることがある。[[アカウキクサ属|アカウキクサ類]]([[薄嚢シダ類]])は葉の内部に窒素固定能をもつ藍藻 ({{Snamei||Anabaena azollae}}) を共生させており ([[#symbiosis with phototroph|上記参照]])、水田の[[緑肥]]に利用されることがある<ref name="Watanabe1981">{{Cite journal|和書|author=渡辺巌 |title=アカウキクサ-ラン藻の共生による生物的窒素固定とその利用 |journal=日本土壌肥料学雑誌 |ISSN=0029-0610 |publisher=日本土壌肥料學會 |year=1981 |volume=52 |issue=5 |pages=455-464 |naid=110001750611 |doi=10.20710/dojo.52.5_455 |url=https://doi.org/10.20710/dojo.52.5_455}}</ref>。 藍藻が生成するさまざまな生理活性物質<ref name="Hemscheidt1994">{{cite journal|author=Hemscheidt, T., Puglisi, M.P., Larsen, L.K., Patterson, G.M.L., Moore, R.E., Rios, J.L. & Clardy, J.|year=1994|title=Structure and biosynthesis of borophycin, a new boeseken complex of boric acid from a marine strain of the blue-green alga ''Nostoc linckia''|journal=J. Org. Chem.|volume=59|pages=3467-3471|doi=10.1021/jo00091a042}}</ref><ref name="Jensen2001">{{cite journal|author=Jensen, G. S.|year=2001|title=Blue-green algae as an immuno-enhancer and biomodulator|journal=J. Am. Nutraceutical Assoc.|volume=3|pages=24-30|doi=|naid=10020842775|url=https://www.ganzheitliche-gesundheit.info/wp-content/uploads/2015/09/studie_jensen1.pdf |format=PDF}}</ref><ref name="Choi2012">{{cite journal|author=Choi, H., Mascuch, S. J., Villa, F. A., Byrum, T., Teasdale, M. E., Smith, J. E., ... & Gerwick, W. H.|year=2012|title=Honaucins A−C, potent inhibitors of inflammation and bacterial quorum sensing: synthetic derivatives and structure-activity relationships|journal=Chemistry & Biology|volume=19|pages=589-598|doi=10.1016/j.chembiol.2012.03.014}}</ref>や、藍藻の細胞外被がもつ保水性、紫外線防御に関わる物質<ref name="De Philippis1998" /><ref name="Grewe2012">{{cite book|author=Grewe, C. B. & Pulz, O.|year=2012|chapter=The biotechnology of cyanobacteria|editor=|title=Ecology of Cyanobacteria II|publisher=Springer Netherlands|isbn=978-94-007-3854-6|pages=707-739}}</ref>に関して、利用に向けた研究が行われている。 藍藻を利用した再生可能エネルギーの研究も盛んに行われている<ref name="Hiura2017">{{Cite journal|和書|author=日原由香子, 成川礼, 蓮沼誠久, 増川一, 朝山宗彦, 蘆田弘樹, 天尾豊, 新井宗仁, 粟井光一郎, 得平茂樹, 小山内崇, 鞆達也 |title=多彩な戦略で挑むシアノバクテリア由来の燃料生産:持続可能な第三世代バイオ燃料生産の最前線 |journal=化学と生物 |ISSN=0453-073X |publisher=日本農芸化学会 |year=2017 |volume=55 |issue=2 |pages=88-97 |naid=130006316058 |doi=10.1271/kagakutoseibutsu.55.88 |url=https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu.55.88}}</ref><ref name="蘆田2013">{{Cite journal|和書|author=蘆田弘樹 |title=シアノバクテリアの光合成能力を利用したバイオ燃料生産 |journal=生物工学会誌 |ISSN=09193758 |publisher=日本生物工学会 |year=2013 |month=jun |volume=91 |issue=6 |pages=352 |id={{NDLJP|10518477}} |naid=110009616015 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10518477}}</ref>。例えば光合成によってエタノールを産生できる遺伝子改変藍藻、つまり光合成によって二酸化炭素を直接エタノールに変換する藍藻が作出されている<ref name="Lane2013">{{cite journal|author=Lane, J.|year=2013|url=http://www.biofuelsdigest.com/bdigest/2013/03/11/algenol-hits-9k-gallonsacre-mark-for-algae-to-ethanol-process/ |title=Algenol hits 9K gallons/acre mark for algae-to-ethanol process]|journal=Biofuels Digest|volume=|pages=|doi=}}</ref>。また[[窒素固定]]の際に、副産物として水素が生成されるため、これを利用した水素生産が試みられている<ref name="Hiura2017" />。さらに、藍藻による光合成を直接電気に変換する研究も行われている<ref name="Pisciotta2010">{{cite journal|author=Pisciotta, J. M., Zou, Y. & Baskakov, I. V.|year=2010|title=Light-dependent electrogenic activity of cyanobacteria|journal=PloS One|volume=5|pages=e10821|doi=10.1371/journal.pone.0010821}}</ref><ref name="Quintana2011">{{cite journal|author=Quintana, N., Van der Kooy, F., Van de Rhee, M. D., Voshol, G. P. & Verpoorte, R.|year=2011|title=Renewable energy from Cyanobacteria: energy production optimization by metabolic pathway engineering|journal=Applied Microbiology and Biotechnology|volume=91|pages=471-490|doi=10.1007/s00253-011-3394-0}}</ref>。 米国[[NASA]]は<!--ただし引用文献の著者の一部がNASA所属という意味です-->、[[火星]]の[[テラフォーミング]]への藍藻の利用を取り上げたことがある<ref name="Verseux2016">{{cite journal|author=Verseux, C., Baque, M., Lehto, K., de Vera, J. P. P., Rothschild, L. J. & Billi, D.|year=2016|title=Sustainable life support on Mars–the potential roles of cyanobacteria|journal=International Journal of Astrobiology|volume=15|pages=65-92|doi=10.1017/S147355041500021X}}</ref><!--「藍藻は青色光を利用するわけではなく、またクロロフィルをもつ、青色光はエネルギーが高い、クロロフィルは緑色光は利用できない、などの点から以下の記述は疑問です(出典もありませんし)」が、エネルギーの少ない青色光を利用するため太陽光のエネルギーの大部分である緑色光を用いるクロロフイル植物に比べ収穫量が半分に満たないこと、火星では青色光成分も更に少ないことから一部のプランで終わっている-->。 ==進化== ゲノムレベルでの系統解析からは、藍藻は[[細菌]]の中で[[クロロフレクサス門]]や[[デイノコックス・テルムス門]]、[[放線菌門]]、[[フィルミクテス門]]などに比較的近縁であることが示唆されており、これらを合わせて[[テッラバクテリア]] (Terrabacteria;上門レベルに相当) にまとめることが提唱されている<ref>{{cite journal|author=Battistuzzi, F. U. & Hedges, S. B.|year=2008|title=A major clade of prokaryotes with ancient adaptations to life on land|journal=Molecular Biology and Evolution|volume=26|pages=335-343|doi=10.1093/molbev/msn247}}</ref><ref>{{cite journal|author=Rinke, C., Schwientek, P., Sczyrba, A., Ivanova, N. N., Anderson, I. J., Cheng, J. F., ... & Dodsworth, J. A.|year=2013|title=Insights into the phylogeny and coding potential of microbial dark matter|journal=Nature|volume=499|pages=431-437|doi=10.1038/nature12352}}</ref>。藍藻は、生物の進化において初めて(そして唯1回)酸素発生型光合成能を獲得した生物群であると考えられている。[[メタゲノミクス|メタゲノム研究]]により、動物の腸管や土壌、汚水、地下水など様々な環境から、藍藻に近縁な非光合成細菌の系統群がいくつか見つかっている([[メライナバクテリア]]など)<ref name="Soo2014">{{cite journal|author=Soo, R. M., Skennerton, C. T., Sekiguchi, Y., Imelfort, M., Paech, S. J., Dennis, P. G., ... & Hugenholtz, P.|year=2014|title=An expanded genomic representation of the phylum Cyanobacteria|journal=Genome Biology and Evolution|volume=6|pages=1031-1045|doi=10.1093/gbe/evu073}}</ref><ref name="Soo2017">{{cite journal|author=Soo, R. M., Hemp, J., Parks, D. H., Fischer, W. W. & Hugenholtz, P.|year=2017|title=On the origins of oxygenic photosynthesis and aerobic respiration in Cyanobacteria|journal=Science|volume=355|pages=1436-1440|doi=10.1126/science.aal3794}}</ref><ref name="Carnevali2019">{{cite journal|author=Carnevali, P. B. M., Schulz, F., Castelle, C. J., Kantor, R. S., Shih, P. M., Sharon, I., ... & Anantharaman, K.|year=2019|title=Hydrogen-based metabolism as an ancestral trait in lineages sibling to the Cyanobacteria|journal=Nature Communications|volume=10|pages=463|doi=10.1038/s41467-018-08246-y}}</ref>。これらの細菌が光合成能の痕跡を全くもたないことから、藍藻の祖先は嫌気性の非光合成生物であり、[[遺伝子の水平伝播]]などによって酸素発生型光合成能を獲得したと一般には考えられている<ref name="Soo2017" /><ref name="Shih2017">{{cite journal|author=Shih, P. M., Hemp, J., Ward, L. M., Matzke, N. J. & Fischer, W. W.|year=2017|title=Crown group Oxyphotobacteria postdate the rise of oxygen|journal=Geobiology|volume=15|pages=19-29|doi=10.1111/gbi.12200}}</ref>。ただし、水平伝播のもとになった生物についてはよくわかっていない。 藍藻以外の[[光合成細菌]]は、藍藻がもつ光化学系Iもしくは光化学系IIのどちらか一方にのみ相同な光合成システムをもつ<ref>{{Citation|title=The Phototrophic Way of Life|first=Jörg|editor2-first=Edward F.|editor-last=Rosenberg|editor-first=Eugene|last2=Garcia-Pichel|first2=Ferran|last=Overmann|language=en|url=https://doi.org/10.1007/978-3-642-30123-0_51|doi=10.1007/978-3-642-30123-0_51|pages=203–257|isbn=978-3-642-30123-0|accessdate=2021-10-04|date=2013|publisher=Springer|editor2-last=DeLong}}</ref>。これらのシステムでは水の光分解は起こらず、非酸素発生型の光合成が行われる。2つの光化学系が連結した酸素発生型の光合成を行う細菌は藍藻以外知られていない。そのため、藍藻以外の光合成細菌から、それぞれの光化学系が別個に藍藻の祖先に水平伝播したとみなされる場合が多い。しかし、各光化学系の起源と進化についてはほとんどわかっておらず、藍藻以外の光合成細菌が藍藻より以前に存在したことを示す直接的な証拠はない。そのため、藍藻のもつ2つの光化学系が別個に他の細菌に水平伝播して非酸素発生型の光合成が後から誕生した可能性も、現在のところ否定する証拠はない。実際に、[[緑色硫黄細菌]]や[[緑色非硫黄細菌]]など一部の光合成細菌については、その起源が藍藻よりもはるかに遅いことを示唆するデータが提出されており<ref>{{Cite journal|last=Shih|first=Patrick M.|last2=Ward|first2=Lewis M.|last3=Fischer|first3=Woodward W.|date=2017-10-03|title=Evolution of the 3-hydroxypropionate bicycle and recent transfer of anoxygenic photosynthesis into the Chloroflexi|url=https://www.pnas.org/content/114/40/10749|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=114|issue=40|pages=10749–10754|language=en|doi=10.1073/pnas.1710798114|issn=0027-8424|pmid=28923961|pmc=5635909}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Ward|first=L. M.|last2=Shih|first2=P. M.|date=2021-01-24|title=Phototrophy and carbon fixation in Chlorobi postdate the rise of oxygen|url=https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2021.01.22.427768v1|pages=2021.01.22.427768|language=en|doi=10.1101/2021.01.22.427768}}</ref>、藍藻も含めてどの光合成細菌が最も古くに誕生したのかは現在も合意に至っていない<ref>{{Cite journal|last=Ward|first=Lewis M.|last2=Cardona|first2=Tanai|last3=Holland-Moritz|first3=Hannah|date=2019|title=Evolutionary Implications of Anoxygenic Phototrophy in the Bacterial Phylum Candidatus Eremiobacterota (WPS-2)|url=https://www.frontiersin.org/article/10.3389/fmicb.2019.01658|journal=Frontiers in Microbiology|volume=10|pages=1658|doi=10.3389/fmicb.2019.01658|issn=1664-302X|pmid=31396180|pmc=6664022}}</ref>。 [[ファイル:Stromatolitic metadolostone (Kona Dolomite, Paleoproterozoic, 2.2 to 2.3 Ga; Lindberg Quarry, Marquette, Upper Peninsula of Michigan, USA) (8363769094).jpg|200px|thumb|right|'''26'''. 22–23億年前の[[ストロマトライト]] (米国[[ミシガン州]])]] 藍藻の進化は化石やバイオマーカー(化学化石、[[:en:Biomarker_(petroleum)|biomarker]])、分子時計計算など様々な角度から研究が行われている。しかし、いずれも多くの異論があり、広く合意のとれた仮説は現在も存在しない。地質学的な証拠からはおよそ24億年前に地球が急速に酸化的環境に変化していったことが知られており、'''大酸化事変'''(大酸化イベント、[[:en:Great_Oxidation_Event|Great Oxygenation Event]], GOE)とよばれる<ref name="Holland2006">{{cite journal|author=Holland, H. D.|year=2006|title=The oxygenation of the atmosphere and oceans|journal=Philosophical Transactions of the Royal Society: Biological Sciences|volume=361|pages=903-915|doi=10.1098/rstb.2006.1838}}</ref>。これは光合成によって作られた酸素が原因であるというのが最も有力な説明であり、そのため、藍藻は少なくともGOEまでには誕生していたと考えられている。しかしながら、GOE以前にも少量の酸素が存在していたことを示す証拠が複数あり、藍藻の誕生がどこまで遡るのかが議論となっている<ref>{{Cite journal|last=Anbar|first=Ariel D.|last2=Duan|first2=Yun|last3=Lyons|first3=Timothy W.|last4=Arnold|first4=Gail L.|last5=Kendall|first5=Brian|last6=Creaser|first6=Robert A.|last7=Kaufman|first7=Alan J.|last8=Gordon|first8=Gwyneth W.|last9=Scott|first9=Clinton|date=2007-09-28|title=A Whiff of Oxygen Before the Great Oxidation Event?|url=https://www.science.org/lookup/doi/10.1126/science.1140325|journal=Science|volume=317|issue=5846|pages=1903–1906|doi=10.1126/science.1140325}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Johnson|first=Aleisha C.|last2=Ostrander|first2=Chadlin M.|last3=Romaniello|first3=Stephen J.|last4=Reinhard|first4=Christopher T.|last5=Greaney|first5=Allison T.|last6=Lyons|first6=Timothy W.|last7=Anbar|first7=Ariel D.|title=Reconciling evidence of oxidative weathering and atmospheric anoxia on Archean Earth|url=https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abj0108|journal=Science Advances|volume=7|issue=40|pages=eabj0108|doi=10.1126/sciadv.abj0108}}</ref>。[[太古代]]の地層に多く見られる[[縞状鉄鉱床]]は海水中の鉄などが当時すでに存在した酸素によって酸化された結果であるとする説もあるが<ref name="Holland2006" />、一方で藍藻の起源をGOEとほぼ同時期とみなす研究もある<ref name="Shih2017" />。一時期、藍藻固有のバイオマーカーが太古代から見つかり、GOE以前の藍藻および酸素の存在を示す証拠として注目されたが、その後の研究で、見つかったバイオマーカーは後世の汚染である可能性が強く<ref>{{Cite journal|last=French|first=Katherine L.|last2=Hallmann|first2=Christian|last3=Hope|first3=Janet M.|last4=Schoon|first4=Petra L.|last5=Zumberge|first5=J. Alex|last6=Hoshino|first6=Yosuke|last7=Peters|first7=Carl A.|last8=George|first8=Simon C.|last9=Love|first9=Gordon D.|date=2015-05-12|title=Reappraisal of hydrocarbon biomarkers in Archean rocks|url=https://www.pnas.org/content/112/19/5915|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=112|issue=19|pages=5915–5920|language=en|doi=10.1073/pnas.1419563112|issn=0027-8424|pmid=25918387|pmc=4434754}}</ref>、さらにバイオマーカー自体が藍藻に固有ではないことが判明している<ref>{{Cite journal|last=Welander|first=Paula V.|last2=Coleman|first2=Maureen L.|last3=Sessions|first3=Alex L.|last4=Summons|first4=Roger E.|last5=Newman|first5=Dianne K.|date=2010-05-11|title=Identification of a methylase required for 2-methylhopanoid production and implications for the interpretation of sedimentary hopanes|url=https://www.pnas.org/content/107/19/8537|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=107|issue=19|pages=8537–8542|language=en|doi=10.1073/pnas.0912949107|issn=0027-8424|pmid=20421508|pmc=2889317}}</ref>。そのほか、藍藻と考えられる化石に[[ストロマトライト]]がある<ref name="Yamamoto2013">{{Cite journal|和書|author=山本純之, 磯&#64017;行雄 |title=ストロマトライト研究の歴史と今後の展望 |journal=地學雜誌 |ISSN=0022-135X |publisher=東京地学協会 |year=2013 |volume=122 |issue=5 |pages=791-806 |naid=130003385928 |doi=10.5026/jgeography.122.791 |url=https://doi.org/10.5026/jgeography.122.791}}</ref><ref name="Lepot2008">{{cite journal|author=Lepot, K., Benzerara, K., Brown, G. E. & Philippot, P.|year=2008|title=Microbially influenced formation of 2,724-million-year-old stromatolites|journal=Nature Geoscience|volume=1|pages=118-121|doi=10.1038/ngeo107}}</ref>(図11a)。現在の地球上に見られるストロマトライトの形成にすべて藍藻が関わっていることから、ストロマトライトの化石も過去の藍藻の存在を示す証拠として扱われていたが<ref name="Schopf2006">{{cite journal|author=Schopf, J. W.|year=2006|title=Fossil evidence of Archaean life|journal=Phil. Trans. R. Soc. B|volume=361|pages=869-885|doi=10.1098/rstb.2006.1834}}</ref>、現在ではこれは非生物起源や、藍藻以外の光合成細菌由来のものも含まれていると考えられている<ref name="Yamamoto2013" /><ref>{{Cite journal|last=Bosak|first=Tanja|last2=Knoll|first2=Andrew H.|last3=Petroff|first3=Alexander P.|date=2013-05-30|title=The Meaning of Stromatolites|url=https://www.annualreviews.org/doi/10.1146/annurev-earth-042711-105327|journal=Annual Review of Earth and Planetary Sciences|volume=41|issue=1|pages=21–44|doi=10.1146/annurev-earth-042711-105327|issn=0084-6597}}</ref>。そのため、ストロマトライト単独で藍藻の進化について議論することは難しい。 いずれにせよ、藍藻の誕生によって地球環境は激変し(好気的環境、有機物安定的供給、[[オゾン層]]形成など)、現在の地球[[生態系]]の基礎が築かれた<ref name="Inouye2006" /><ref name="Tomitani2006">{{cite journal|author=Tomitani, A., Knoll, A. H., Cavanaugh, C. M. & Ohno, T.|year=2006|title=The evolutionary diversification of cyanobacteria: molecular-phylogenetic and paleontological perspectives|journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A.|volume=103|pages=5442-5447|doi=10.1073/pnas.0600999103}}</ref><ref>{{cite journal|author=Farquhar, J. & Wing, B. A.|year=2003|title=Multiple sulfur isotopes and the evolution of the atmosphere|journal=Earth and Planetary Science Letters|volume=213|pages=1-13|doi=10.1016/S0012-821X(03)00296-6}}</ref>。酸素発生型光合成生物は藍藻だけである時代が長く続いたが、その後(ある研究では15億年以上前)、ある[[真核生物]]にある藍藻が[[細胞内共生説|細胞内共生]]し、やがてこの共生藍藻の増殖や代謝が[[宿主]]である真核生物に制御されるようになり、最終的に[[葉緑体]]([[色素体]])とよばれる[[細胞小器官]]へと変化した<ref name="Inouye2006" /><ref name="Archibald2009" /><ref>{{cite journal|author=Yoon, H. S., Hackett, J. D., Ciniglia, C., Pinto, G. & Bhattacharya, D.|year=2004|title=A molecular timeline for the origin of photosynthetic eukaryotes|journal=Molecular Biology and Evolution|volume=21|pages=809-818|doi=10.1093/molbev/msh075}}</ref>。この際、藍藻の[[細胞膜]]と[[外膜]]が色素体の2枚の膜になったと考えられている<ref>{{cite journal|author=Gould, S.B., Waller, R.F. & McFadden, G.I.|year=2008|title=Plastid evolution|journal=Annu. Rev. Plant Biol.|volume=59|pages=491-517|doi=10.1146/annurev.arplant.59.032607.092915}}</ref>。この現象は'''一次共生''' (primary endosymbiosis) とよばれ、これによって真核生物が酸素発生型光合成能を獲得した。生物の歴史の中で一次共生は唯1回の現象であったと考えられており、全ての葉緑体は単一の一次共生に由来する(その後、二次共生を経たものもある)。多数の遺伝子を用いた系統解析から、一次共生において共生者となった藍藻は、グロエオマルガリータ属 ({{Snamei||Gloeomargarita}}) という淡水産単細胞性藍藻に近縁な藍藻であったことが示唆されている<ref name="Ponce-Toledo2017">{{cite journal|author=Ponce-Toledo, R. I., Deschamps, P., López-García, P., Zivanovic, Y., Benzerara, K. & Moreira, D.|year=2017|title=An early-branching freshwater cyanobacterium at the origin of plastids|journal=Current Biology|volume=27|pages=386-391|doi=10.1016/j.cub.2016.11.056}}</ref>。 ==分類== 古くは、藍藻は最も"原始的な植物"と考えられ、藍色植物門(藍藻植物、{{Sname||Cyanophyta}})、藍藻綱 ({{Sname||Cyanophyceae}})に分類されていた<ref name="Pascher1931">{{cite journal|author=Pascher, A.|year=1931|title=Systematische Übersicht über die mit Flagellaten in Zusammenhang stehenden Algenreihen und Versuch einer Einreihung dieser Algenstämme in die Stämme des Pflanzenreiches|journal=Beihefte Bot Centralbl.|volume=48|pages=317-332|doi=}}</ref><ref>{{cite book|author=Round, F.E.|year=1973|title=The Biology of the Algae. 2nd Edition|journal=Edward Arnold Publishers|pages=278|isbn=}}</ref>。しかし葉緑体の共生説が一般的となり、藍藻と他の"植物"の直接的な類縁性は認められなくなった(ただし上記のように、細胞内共生・葉緑体を通してつながっている)。現在でも藍藻は[[藻類]]の一群として扱われることが多いが<ref name="千原1997" /><ref name="渡辺1999" /><ref name="Graham2008" /><ref name="Inouye2006" />、このような系統的異質性から藻類から除かれることもある(ただし藍藻を除いても藻類は[[多系統群]]である)<ref name="光合成事典">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://photosyn.jp/pwiki/?%E8%97%BB%E9%A1%9E|title=藻類|website=光合成事典|publisher=日本光合成学会|accessdate=2021-09-23}}</ref><ref name="キャンベル">{{cite book|author=池内昌彦, 伊藤元己, 箸本春樹, 道上達男 (監訳)|year=2018|chapter=藻類|editor=|title=キャンベル生物学 原書11版|publisher=丸善出版|isbn=978-4621302767|page=1584}}</ref>。 これらの分類群名は植物命名規約(現 [[国際藻類・菌類・植物命名規約]])に基づくものであり、原核生物である藍藻に対しては近年ではほとんど用いられない{{efn2|name="藍藻綱"|ただし2019年現在、原核生物の分類体系では、藍藻を分類する一般的な綱レベルの分類群名がないため、藍藻綱 ({{Sname||Cyanophyceae}}) が暫定的に用いられることがある<ref name="Algaebase" />。}}。また古くは、粘藻綱 ({{Sname||Myxophyceae}}) や粘藻植物門 ({{Sname||Myxophta}})、分裂藻綱 ({{Sname||Schizophyceae}}) という分類群名が使われていたこともある<ref name="渡辺1999" /><ref name="Pringsheim1949">{{cite journal|author=Pringsheim, E.G.|year=1949|title=The relationship between bacteria and Myxophyceae|journal=Bacteriological Reviews|volume=13|pages=47-98|doi=}}</ref>。 藍藻は[[原核生物]]であり、[[細菌]](バクテリア、真正細菌)[[ドメイン (分類学)|ドメイン]]に属する。細菌の中では、藍藻は比較的独立した系統群を形成しており、'''シアノバクテリア門'''('''藍色細菌門'''、[[学名]]: {{Sname||Cyanobacteria}})として扱われる。[[メタゲノミクス|メタゲノム研究]]によって見つかった、藍藻に近縁な[[従属栄養生物|従属栄養性]]細菌群である"[[メライナバクテリア]]綱" ({{Sname||Melainabacteria}}) や"セリキトクロマチア綱" ({{Sname||Sericytochromatia}}) などは、シアノバクテリア門に含めて扱われることがあるが、その場合は光合成能をもつ藍藻はオキシフォトバクテリア綱 ({{Sname||Oxyphotobacteria}}){{efn2|name="オキシフォトバクテリア綱"|}} にまとめられ、これらの非光合成細菌群と併置される<ref name="Soo2014" /><ref name="Soo2017" />。ただし、シアノバクテリア門を光合成性のグループのみに限る考えもある<ref name="Garcia‐Pichel2019">{{cite journal|author=Garcia‐Pichel, F., Zehr, J. P., Bhattacharya, D. & Pakrasi, H. B.|year=2019|title=What's in a name? The case of cyanobacteria|journal=Journal of Phycology|volume=|pages=|doi=10.1111/jpy.12934}}</ref>。 藍藻は分類学的には[[細菌]]として扱うべきであるが、ほとんどの学名は植物命名規約(現 [[国際藻類・菌類・植物命名規約]])に基づいて提唱されており、[[国際原核生物命名規約]]の基で提唱された学名は少ない<ref name="Oren2004">{{cite journal|author=Oren, A.|year=2004|title=A proposal for further integration of the cyanobacteria under the Bacteriological Code|journal=International Journal of Systematic and Evolutionary Microbiology|volume=54|pages=1895-1902|doi=10.1099/ijs.0.03008-0}}</ref>。 [[クロロフィル]] ''b'' をもつ藍藻([[原核緑藻]])は、発見当初は原核緑色植物門 ({{Sname||Prochlorophyta}}) として藍藻とは別の門に分けられていた<ref name="Lewin1976">{{cite journal|author=Lewin, R. A.|year=1976|title=Prochlorophyta as a proposed new division of algae|journal=Nature|volume=261|pages=697-698|doi=10.1038/261697b0}}</ref>。しかしその後の研究から原核緑藻は系統的に藍藻に含まれることが示され、現在では分類群名として原核緑色植物門を用いることはない。ただし「原核緑藻 (prochlorophytes)」という語は、一般名としてはしばしば用いられる。 他の[[藻類]]と同様、藍藻はその体制(おおまかな体のつくり)に基づいて分類され、いくつかの目に分けられてきた<ref name="Geitler1932" /><ref name="Anagnostidis1990">{{cite journal|author=Anagnostidis, K. & Komáreek, J.|year=1990|title=Modern approach to the classification system of cyanophytes. 1. Introduction|journal=Archiv für Hydrobiologie/Algological Studies|volume=38/39|pages=291-302|doi=}}</ref><ref name="Hoffmann2005" />(下表1)。細菌の分類の基準となっていた「バージェイ細菌分類便覧 (Bergey’s Manual) 第2版」でも基本的には同じ体系が用いられていた<ref name="Castenholz1989" />。 {| class="wikitable" style="margin:0 auto; font-size:80%;" |+ 表1. <span style="font-weight:400;">古典的な藍藻の分類体系の一例<ref name="Hoek1995" /><ref name="Castenholz1989" /></span> ! 目 !! バージェイ細菌分類便覧 第2版 での分類 !! 特徴 !! 代表属 |- ! クロオコックス目 (Chroococcales){{efn2|name="カマエシフォン目"|外生胞子 (エクソサイト) を形成するものはカマエシフォン目 (Chamaesiphonales) として分けられることもあった<ref name="千原1997" />。}} | subsection I || 単細胞または群体性 || {{Snamei||Synechococcus}}, {{Snamei||Synechocystis}}, {{Snamei||Chroococcus}}, {{Snamei||Aphanocapsa}}, {{Snamei||Coelosphaerium}}, {{Snamei||Merismopedia}}, {{Snamei||Microcystis}} |- ! プレウロカプサ目 (Pleurocapsales) | subsection II || 単細胞または群体性、内生胞子 (ベオサイト) 形成 || {{Snamei||Pleurocapsa}}, {{Snamei||Chroococcidiopsis}}, {{Snamei||Xenococcus}} |- ! ユレモ目 (Oscillatoriales) | subsection III || 糸状性、異質細胞を欠く || {{Snamei||Oscillatoria}}, {{Snamei||Phormidium}}, {{Snamei||Lyngbya}}, {{Snamei||Arthrospira}}, {{Snamei||Planktothrix}}, {{Snamei||Pseudanabaena}} |- ! ネンジュモ目 (Nostocales) | subsection IV || 糸状性 (真分枝なし)、異質細胞あり || {{Snamei||Anabaena}}, {{Snamei||Nostoc}}, {{Snamei||Aphanizomenon}}, {{Snamei||Cylindrospermum}}, {{Snamei||Calothrix}}, {{Snamei||Scytonema}} |- ! スチゴネマ目 (Stigonematales) | subsection V || 糸状性 (真分枝あり)、異質細胞あり || {{Snamei||Stigonema}}, {{Snamei||Hapalosiphon}}, {{Snamei||Fischerella}} |} しかし分子系統学的研究の結果、上記の分類群の多くは[[多系統]]群であることが判明しており、特に単細胞性と糸状性の間では頻繁な平行進化(特に糸状体から単細胞体への進化)が起こったと考えられている<ref name="Schirrmeister2011">{{cite journal|author=Schirrmeister, B. E., Antonelli, A., Bagheri, H. C.|year=2011|title=The origin of multicellularity in cyanobacteria|journal=BMC Evol. Biol.|volume=11|pages=45|doi=10.1186/1471-2148-11-45}}</ref><ref name="Hoffmann2005">{{cite journal|author=Hoffmann, L., Komárek, J. & Kastovský, J.|year=2005|title=System of cyanoprokaryotes (cyanobacteria) - state in 2004|journal=Algological Studies|volume=117|pages=95-115|doi=10.1127/1864-1318/2005/0117-0095}}</ref>。2019年現在までに報告されている分子系統解析の結果に基づくシアノバクテリア門内の系統仮説の1つを下に示す。 {{cladogram |caption='''27'''. 藍藻の系統仮説の一例 (基本的にゲノム塩基配列情報が明らかなもののみ): いくつかの系統解析結果に基づく<ref name="Ponce-Toledo2017" /><ref name="Mareš2019" /><ref name="Schirrmeister2015">{{Cite journal|author=Schirrmeister, B. E., Gugger, M. & Donoghue, P. C.|year=2015|title=Cyanobacteria and the Great Oxidation Event: evidence from genes and fossils|journal=Palaeontology|volume=58|pages=769-785|doi=10.1111/pala.12178}}</ref><ref name="Shih2013">{{cite journal|author=Shih, P. M., Wu, D., Latifi, A., Axen, S. D., Fewer, D. P., Talla, E., ... & Herdman, M.|year=2013|title=Improving the coverage of the cyanobacterial phylum using diversity-driven genome sequencing|journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A.|volume=110|pages=1053-1058|doi=10.1073/pnas.1217107110}}</ref><ref name="Walter2017">{{Cite journal|author=Walter, J. M., Coutinho, F. H., Dutilh, B. E., Swings, J., Thompson, F. L. & Thompson, C. C.|year=2017|title=Ecogenomics and taxonomy of Cyanobacteria phylum|journal=Frontiers in Microbiology|volume=8|pages=2132|doi=10.3389/fmicb.2017.02132}}</ref><ref name="Uyeda2016">{{Cite journal|author=Uyeda, J. C., Harmon, L. J. & Blank, C. E.|year=2016|title=A comprehensive study of cyanobacterial morphological and ecological evolutionary dynamics through deep geologic time|journal=PloS One|volume=11|pages=e0162539|doi=10.1371/journal.pone.0162539}}</ref><ref name="Soo2017" />. <span style="color:darkcyan">●</span> = 単細胞・群体 (旧クロオコックス目)、<span style="color:darkcyan">▲</span> = 単細胞・群体、内生胞子あり (旧プレウロカプサ目)、<span style="color:darkcyan">■</span> = 糸状性 (旧ユレモ目)、<span style="color:darkcyan">★</span> = 糸状・異質細胞あり (旧ネンジュモ目・スチゴネマ目). |align=center |width= |clades={{clade| style=font-size:80%;line-height:100% |label1='''シアノバクテリア門''' |1={{Clade |label1= |1="'''セリキトクロマチア綱'''"{{efn2|name="heterotroph"}} |2={{Clade |1="'''[[メライナバクテリア]]綱'''"{{efn2|name="heterotroph"}} |label2='''オキシフォトバクテリア綱''' |2={{Clade |1=<span style="color:darkcyan">●</span>'''グロエオバクター目''' (''Gloeobacter'') |2={{Clade |1=<span style="color:darkcyan">●</span>'''クレード G''' (Octopus Spring clade) (e.g. ''"Synechococcus"'' PCC7336, JA-3-3Ab) |2={{Clade |1=<span style="color:darkcyan">●■</span>'''クレード F''' (e.g. ''Pseudanabaena'', ''"Synechococcus"'' PCC7502) |2={{Clade |1=<span style="color:darkcyan">●</span>'''グロエオマルガリータ目''' (''Gloeomargarita'') |2='''[[葉緑体]]''' ([[色素体]]) }} |3=<span style="color:darkcyan">●</span>'''クレード E''' (AcTh) (e.g. ''Acaryochloris'', ''Thermosynechococcus'') |4=<span style="color:darkcyan">●■</span>''Prochlorothrix'' クレード (e.g. ''Nodosilinea, Lagosinema'', ''Prochlorothrix'') |5=<span style="color:darkcyan">●</span>'''クレード C1''' (SynPro) (e.g. ''Prochlorococcus'', ''"Synechococcus"'' WH8102) |6=<span style="color:darkcyan">●</span>'''クレード C2''' (''Synechococcus'' s.s.) (''Synechococcus elongatus'') |7=<span style="color:darkcyan">●■</span>'''クレード C3''' (LPP-B) (e.g. ''"Synechococcus"'' PCC7335, ''"Phormidium"'' NIES-30) |8={{Clade |1=<span style="color:darkcyan">■</span>'''クレード D''' (e.g. ''"Geitlerinema"'' PCC 7407, ''Leptolyngbya'' PCC 6306) |2={{Clade |1=<span style="color:darkcyan">■</span>''Geitlerinema'' PCC 7105 クレード |2=<span style="color:darkcyan">■</span>'''クレード A''' (Osc) (e.g. ''Trichodesmium'', ''Arthrospira'', ''Planktothrix'') |3=<span style="color:darkcyan">●▲■</span>'''クレード B2''' (SPM) (e.g. ''Pleurocapsa'', ''Microcystis'', ''"Synechocystis"'' PCC 6803) |4=<span style="color:darkcyan">■</span>''Moorea'' クレード |5={{Clade |1=<span style="color:darkcyan">●■</span>'''クレード B3''' (e.g. ''Crinalium'' PCC 9333, ''Chamaesiphon'' PCC 6605) |2={{Clade |1=<span style="color:darkcyan">●▲</span>'''クロオコッキディオプシス目''' (e.g. ''Chroococcidiopsis'', ''"Synechocystis"'' PCC 7509) |2=<span style="color:darkcyan">★</span>'''[[ネンジュモ目]]''' }} }} }} }} }} }} }} }} }} }} }} {{-}} 2019年現在、このような系統関係を完全に反映させた分類体系は提唱されていない。また、分子系統解析が行われた藍藻は、いまだごく一部に限られている<ref name="Komárek2003a" />。そのため、藍藻の分類体系構築に関しては過渡的な状況にある。2019年現在、形態形質および分子情報に基づく分類体系として、Komárek et al. (2014) をもとにした目レベルの分類体系を下表2に示す<ref name="Komárek2014">{{cite journal|author=Komárek, J., Kaštovský, J., Mareš, J. & Johansen, J.R.|year=2014|title=Taxonomic classification of cyanoprokaryotes (cyanobacterial genera) 2014, using a polyphasic approach|journal=Preslia|volume=86|pages=295-335|doi=}}</ref><ref name="Guiry2019">Guiry, M.D. & Guiry, G.M. (2019) AlgaeBase. World-wide electronic publication, Nat. Univ. Ireland, Galway. http://www.algaebase.org; searched on 28 Septmber 2019.</ref><ref name="CyanoDB" />。また藍藻の分類においては、属レベルでも非単系統性(ときに下記の分類体系において複数の目に分かれるほどの)が示されているものが少なくない ({{Snamei||Synechococcus}}、{{Snamei||Synechocystis}}、{{Snamei||Lyngbya}} など)<ref>{{cite journal|author=Komárek, J.|year=2018|title=Several problems of the polyphasic approach in the modern cyanobacterial system|journal=Hydrobiologia|volume=811|pages=7-17|doi=10.1007/s10750-017-3379-9}}</ref>。これらの属の一部に関しては、ゲノムレベルでの分子系統解析に基づいて多数の属に分けることが提唱されている<ref name="Walter2017" /><ref>{{cite journal|author=Coutinho, F., Tschoeke, D. A., Thompson, F. & Thompson, C.|year=2016|title=Comparative genomics of ''Synechococcus'' and proposal of the new genus ''Parasynechococcus''|journal=PeerJ|volume=4|pages=e1522|doi=10.7717/peerj.1522}}</ref>。 {| class="wikitable" |'''表2.''' Komárek ''et al.'' (2014) による藍藻の分類体系<ref name="Komárek2014" /><ref name="廣瀬1977">{{cite book|和書|author=廣瀬弘幸 & 山岸高旺 (編)|year=1977|chapter=藍藻綱|editor=|title=日本淡水藻図鑑|publisher=内田老鶴圃|isbn=978-4753640515|pages=1–151}}</ref><ref name="千原1999">{{cite book|author=千原光男 (編)|year=1999|chapter=分類表|editor=|title=バイオディバーシティ・シリーズ (3) 藻類の多様性と系統|publisher=裳華房|pages=297|isbn=978-4785358266}}</ref><ref name="千原1999">{{cite book|author=千原光男 (編)|year=1999|chapter=分類表|editor=|title=バイオディバーシティ・シリーズ (3) 藻類の多様性と系統|publisher=裳華房|pages=297|isbn=978-4785358266}}</ref> (その後に報告されたグロエオマルガリータ目を付加) * '''グロエオバクター目''' {{Sname||Gloeobacterales}} {{AUY|Cavalier-Smith|2002}} *:単細胞性。[[チラコイド]]を欠く ([[光化学系]]は[[細胞膜]]に存在する)。藍藻の中で最も初期に分かれたものであることが示されている。グロエオバクター綱 ({{Sname||Gloeobacteria}}) として他の藍藻と分けられることがある<ref>{{cite journal|author=Oren, A.|year=2011|title=Cyanobacterial systematics and nomenclature as featured in the international bulletin of bacteriological nomenclature and taxonomy/international journal of systematic bacteriology/international journal of systematic and evolutionary microbiology|journal=International Journal of Systematic and Evolutionary Microbiology|volume=61|pages=10-15|doi=10.1099/ijs.0.018838-0}}</ref>。 *: 代表属: グロエオバクター属 ({{Snamei||Gloeobacter}}) *'''グロエオマルガリータ目''' {{Sname||Gloeomargaritales}} {{AUY|D.Moreira et al.|2017}} *:単細胞性。細胞内に炭酸塩の顆粒を含む。アルカリ湖沼に生育。[[真核生物]]の[[色素体]] ([[葉緑体]]) に最も近縁な藍藻であることが示唆されている<ref name="Ponce-Toledo2017" />。シネココックス目に含めることもある<ref name="CyanoDB">Hauer, T. & Komárek, J. (2019) CyanoDB 2.0 - On-line database of cyanobacterial genera. - World-wide electronic publication, Univ. of South Bohemia & Inst. of Botany AS CR, http://www.cyanodb.cz</ref>。 *:代表属: グロエオマルガリータ属 ({{Snamei||Gloeomargarita}}) * '''シネココックス目''' {{Sname||Synechococcales}} {{AUY|L.Hoffmann, J.Komárek & J.Kastovsky|2005}} *:単細胞、群体または糸状性 (細いものが多い)。チラコイドは細胞膜に沿って同心円状に配置する。おそらく非単系統群であるが、藍藻の中で初期に分岐したものが多い。糸状性のものをプセウドアナベナ目 ({{Sname||Pseudanabaenales}}) として分けることがある<ref name="Hoffmann2005" /><ref name="Büdel2012">{{cite book|author=Büdel, B., & Kauff, F.|year=2012|chapter=Prokaryotic Algae, Bluegreen Algae|editor=Frey, W. (eds.)|title=Syllabus of Plant Families. A. Engler's Syllabus der Pflanzenfamilien Part 1/1|publisher=Borntraeger|isbn=978-3-443-01061-4|pages=5-40}}</ref>。 *:代表属: シネココックス属 ({{Snamei||Synechococcus}})、シアノビウム属 ({{Snamei||Cyanobium}})、プロクロロコックス属 ({{Snamei||Prochlorococcus}})、アカリオクロリス属 ({{Snamei||Acaryochloris}})、シネコキスティス属 ({{Snamei||Synechocystis}})、メリスモペディア属 ({{Snamei||Merismopedia}})、コエロスファエリム属 ({{Snamei||Coelosphaerium}})、カマエシフォン属 ({{Snamei||Chamaesiphon}})、プセウドアナベナ属 ({{Snamei||Pseudanabaena}})、プロクロロトリックス属 ({{Snamei||Prochlorothrix}})、リムノスリックス属 ({{Snamei||Limnothrix}})、レプトリングビア属 ({{Snamei||Leptolyngbya}}) *'''ユレモ目''' {{Sname||Oscillatoriales}} {{AUY|Schaffner|1922}} *:糸状性で比較的太いものが多い。単細胞性の種も含まれる。チラコイドは放射状または不規則に配置する。おそらく非単系統群。 *:代表属: シアノテーセ属 ({{Snamei||Cyanothece}})、ユレモ属 ({{Snamei||Oscillatoria}})、フォルミディウム属 ({{Snamei||Phormidium}})、プランクトスリックス属 ({{Snamei||Planktothrix}})、アルスロスピラ属 ({{Snamei||Arthrospira}})、リングビア属 ({{Snamei||Lyngbya}})、ミクロコレウス属 ({{Snamei||Microcoleus}})、アイアカシオ属 ({{Snamei||Trichodesmium}}) *'''スピルリナ目''' {{Sname||Spirulinales}} {{AUY| J.Komárek, J.Kastovsky, J.Mares & J.R.Johansen|2014}} *:糸状性。同心円状のチラコイド配置をもつことからシネココックス目に分類されていたが、同目の他の種とは系統的に離れているため独立の目とされた<ref name="Komárek2014" />。 *:代表属: スピルリナ属 ({{Snamei||Spirulina}}){{efn2|name="スピルリナ"|一般的に「スピルリナ」とよばれる藍藻は {{Snamei||Arthrospira}} に属する<ref name="Taroda2012" /> (この分類体系ではユレモ目)。}}、ハロスピルリナ属 ({{Snamei||Halospirulina}}) *'''クロオコックス目''' {{Sname||Chroococcales}} {{AUY|Schaffner|1922}} *:単細胞または群体性。チラコイドは同心円状ではなく、多少とも不規則に配置。おそらく非単系統群。 *:代表属: クロオコックス属 ({{Snamei||Chroococcus}})、シアノバクテリウム属 ({{Snamei||Cyanobacterium}})、ミクロキスティス属 ({{Snamei||Microcystis}})、クロログロエ属 ({{Snamei||Chlorogloea}})、ゴンフォスファエリア属 ({{Snamei||Gomphosphaeria}})、グロエオカプサ属 ({{Snamei||Gloeocapsa}}) *'''プレウロカプサ目''' {{Sname||Pleurocapsales}} {{AUY|Geitler|1925}} *:単細胞または群体性。内生胞子 (ベオサイト) 形成を行う。チラコイドの配置は不規則。1つの系統群を形成するものが多いが、一部は系統的に離れており非単系統群。 *:代表属: シアノキスティス属 ({{Snamei||Cyanocystis}})、ヒエラ属 ({{Snamei||Hyella}})、クセノコックス属 ({{Snamei||Xenococcus}})、プレウロカプサ属 ({{Snamei||Pleurocapsa}}) *'''クロオコッキディオプシス目''' {{Sname||Chroococcidiopsidales}} {{AUY|J.Komárek, J.Kastovsky, J.Mares & J.R.Johansen|2014}} *:単細胞または群体性。内生胞子 (ベオサイト) 形成を行う。チラコイドの配置は不規則。プレウロカプサ目に分類されていたが、分子系統解析からネンジュモ目の姉妹群であることが示唆されている。 *:代表属: クロオコッキディオプシス属 ({{Snamei||Chroococcidiopsis}})、アリテレラ属 ({{Snamei||Aliterella}}) *'''[[ネンジュモ目]]''' {{Sname||Nostocales}} {{AUY|Borzì|1914}} *:糸状性 (無分枝、分枝)。異質細胞やアキネートを形成する。藍藻の中で明瞭な単系統群を形成する。伝統的に、真分枝するものはスチゴネマ目として分けられていたが、系統的にはネンジュモ目の中に含まれることが示されている。 *:代表属: [[ネンジュモ属]] ({{Snamei||Nostoc}})、アナベナ属 ({{Snamei||Anabaena}})、ドリコスペルマム属 ({{Snamei||Dolichospermum}})、アファニゾメノン属 ({{Snamei||Aphanizomenon}})、シリンドロスペルマム属 ({{Snamei||Cylindrospermum}})、トリポスリックス属 ({{Snamei||Tolypothrix}})、ミクロカエテ属 ({{Snamei||Microchaete}})、カロスリックス属 ({{Snamei||Calothrix}})、スキトネマ属 ({{Snamei||Scytonema}})、ハパロシフォン属 ({{Snamei||Hapalosiphon}})、スチゴネマ属 ({{Snamei||Stigonema}}) |} ==ギャラリー== <gallery style="font-size:80%;"> File:Cyanobacteriaunicellularandcolonial020.jpg| File:Cyanobacteriaassociatedwithtufa014.jpg| File:Cyanobacteriabranchedforms026.jpg| File:Gloeobacter kilaueensis.png|{{Snamei||Gloeobacter}} の電子顕微鏡像 File:Synechococcus elongatus PCC 7942 electron micrograph showing carboxysomes.jpeg|{{Snamei||Synechococcus}} の透過型電子顕微鏡像 File:Chroococcus1.jpg|{{Snamei||Chroococcus}} File:Microcystis aeruginosa 680.jpg|{{Snamei||Microcystis aeruginosa}} File:Gloeocapsa Magma on Shingles.jpg|建造物表面の {{Snamei||Gloeocapsa}} (黒色部) File:Filamentous Cyanobacterium Oscillatoria in motion.webm|滑走運動する糸状性藍藻 File:SingleSpirulinaInMicroscope4WEB.jpg|スピルリナ ({{Snamei||Arthrospira platensis}}) File:Lyngbya majuscula.jpg|{{Snamei||Lyngbya majuscula}} File:Rivularia nitida.jpg|異極性糸状の {{Snamei||Rivularia}} File:Gloeotrichia in Sytox.jpg|異極性糸状の {{Snamei||Gloeotrichia}} File:Lake Clifton SMC 2008.jpg|スロンボライト File:The ciliate Frontonia sp.jpg|藍藻を捕食した ''Frontonia''(繊毛虫) </gallery> ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist2}} ===出典=== {{Reflist}} ==関連項目== *[[フィコビリン]]、[[フィコビリソーム]]、[[窒素固定]] *生態: [[植物プランクトン]]、[[ピコプランクトン]]、[[アオコ]]、[[ストロマトライト]]、[[温泉藻]]、[[クリオコナイト]] *共生: [[地衣類]]、[[ゲオシフォン]]、[[ウスバゼニゴケ科]]、[[ツノゴケ類]]、[[アカウキクサ属]]、[[ソテツ類]]、[[グンネラ]] *[[シアノトキシン]] (藍藻毒): [[ミクロシスチン]]、[[ノジュラリン]]、[[ミクロビリジン]]、[[サキシトキシン]]、[[リングビアトキシンA]]、[[アプリシアトキシン]]、[[デブロモアプリシアトキシン]]、[[モオレア・プロドゥケンス]] *藍藻が生成するカビ臭物質: [[2-メチルイソボルネオール]]、[[ゲオスミン]] *食用藍藻: [[スピルリナ]]、[[アステカ料理]]、[[スイゼンジノリ]]、[[アシツキ]]、[[髪菜]]、[[イシクラゲ]] *[[原核緑藻]]、[[プロクロロン]] *[[原生代]]、[[細胞内共生説]] == 外部リンク == {{Commons category|Cyanobacteria}} {{Species|Cyanobacteria}} *{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/botany/aoko/index.html|title=浮遊性藍藻データベース|website=|publisher=国立科学博物館|accessdate=2021-09-26}} *{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/botany/aoko-kids/index.html|title=アオコをつくる藍藻|website=|publisher=国立科学博物館|accessdate=2021-09-26}} *{{Cite web|和書|author=|date=|url=http://natural-history.main.jp/Tree_of_life/Bacteria/Cyanobacteria.html|title=シアノバクテリア門|website=写真で見る生物の系統と分類 生きもの好きの語る自然誌|publisher=|accessdate=2021-09-26}} *{{Cite web|和書|author=|date=|url=http://plankton.image.coocan.jp/algae1.htm|title=藍藻|website=ねこのしっぽ -小さな生物の観察記録-|publisher=|accessdate=2021-09-26}} *{{Cite web|和書|author=|date=2019-06-28|url=https://www.nies.go.jp/kanko/kankyogi/73/column1.html|title=アオコ現象の原因となるシアノバクテリア|website=国立環境研究所|publisher=|accessdate=2021-09-26}} *{{Cite web|author=|date=|url=http://www.cyanodb.cz|title=CyanoDB|website=|publisher=|accessdate=2021-09-26}} (英語) *{{Cite web|author=|date=|url=https://www.algaebase.org/browse/taxonomy/?id=4305|title=Phylum Cyanobacteria|website=AlgaeBase|publisher=|accessdate=2021-09-26}} (英語) {{Good article}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らんそう}} [[Category:細菌]] [[Category:藍藻|*]] [[Category:モデル生物]] [[Category:光合成]]
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バナジウム
バナジウム(新ラテン語: vanadium 英語: [vəˈneɪdiəm])は原子番号23の元素。元素記号はV。バナジウム族元素のひとつ。日本語では古くはバナジン・ヴァナジンの表記も使われた。 バナジウムの発見には紆余曲折があり、歴史に埋もれかけた別名をいくつか持っている。 1801年、アンドレス・マヌエル・デル・リオが「パンクロミウム(panchromium)」と名付けた。クロムを思わせる色調からの命名である。のちに、化合物を加熱すると鮮やかな赤色になることから、「エリスロニウム(erythronium)」と改名された。 1830年、スウェーデンのニルス・ガブリエル・セフストレームが「バナジウム」と名付けた。非常に美しいさまざまな色に着色することから、スカンジナビア神話の愛と美の女神バナジス(vanadis)にちなんで命名された。 1831年、ドイツのフリードリッヒ・ヴェーラーによって、エリスロニウムとバナジウムが同じものと確認される。のちにアメリカで、デル・リオの名前に因んだリオニウム(rionium)が提案されたが、実現はしなかった。 1880年、イタリアのアルカンジェロ・スカッキ(イタリア語版)が新元素と誤認し、ベスビオ山にちなんでvesbiumと命名した。 18世紀、メキシコのイダルゴ州・シマパン鉱山で、褐鉛鉱(バナジン鉛鉱、バナダイト)が発見された。 1801年、アンドレス・マヌエル・デル・リオが発見した。しかし、当時は未知の化合物と考えられた。1805年、フランスの研究機関によってクロムと鑑定され、その後も不運から新元素は公認されなかった。 1830年、スウェーデンのニルス・ガブリエル・セフストレームが軟鉄中から再発見した。 1867年、イギリスのヘンリー・エンフィールド・ロスコーが塩化バナジウム(III)の水素還元により金属バナジウムを得る。 1925年、アメリカで金属カルシウムによる還元により、高純度の金属バナジウムを精製することに成功。 灰色がかかった銀白色の金属で、遷移元素である。 金属としては軟らかく、展延性があり容易に圧延加工できる。結晶構造は温度条件により3つあり、常温・常圧で安定な結晶構造は体心立方格子で、温度を上げると、正方晶系になる。比重は6.11、融点は1910 °C、沸点は3407 °C。普通の酸・アルカリや水とは反応しないが、濃硝酸・濃硫酸やフッ化水素酸には溶ける。原子価は2価から5価まで多様な値をとる。 主要な産出国は南アフリカ・中国・ロシア・アメリカで、この4か国で90 %超を占める。バナジン石などの鉱石があるが、品位が高くないため、資源としてはほかの金属からの副生回収で得ているほか、原油やオイルサンドにも多く含まれているため、それらの燃焼灰も利用される。 物質としてのバナジウムは広範囲に分布し、ほとんどどこにでも存在する。しかし、資源としては偏在性が強く、埋蔵量のほとんどは南アフリカ、中国、ロシアに存在するほか、ベネズエラのオリコタール(超重質油中)やカナダのオイルサンドビチューメンなどの中に、硫黄などとともに含まれる。また、その生産も上記3か国とアメリカとで9割以上を占める。そのため供給は不安定なものとなりやすく、これらの国家や生産企業の動向による価格の高騰が、1988、1994、1997、2003、および2004年以降と頻繁に発生している。 バナジウム鉱物の主要なものとしては、緑鉛鉱 (Pb5(PO4)3(OH,F,Cl))に類似した鉱物である褐鉛鉱 (Pb5(VO4)3(OH,F,Cl))がある。ほかにはカルノー石(2(UO2)2(VO4)2、3H2O)、パトロン石(V2S5)などが知られているが、資源としては品位が低い。加えて、バナジウムの多くはほかの鉱物とともに(あるいはむしろほかの鉱物の副産物として)産出されており、ほかの鉱物の需給状況にバナジウムの生産も影響を受ける。 以上のような背景から、日本国内において産業上重要性が高いにもかかわらず、産出地に偏りがあり供給構造が脆弱である。日本では国内で消費する鉱物資源の多くを他国からの輸入で支えている実情から、万一の国際情勢の急変に対する安全保障策として国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められている。またリサイクル確立も重要視され、日本では廃触媒からの回収や、重油ボイラーの灰などからの回収が行われている。 製鋼添加剤としての用途が8割以上を占めているが、バナジウム化合物は触媒としてもきわめて重要なほか、化学・電気工学・電子工学の分野でも重要である。 しかし、原油中のバナジウム(ポルフィリン化合物として揮発性を持ち、製油によって重油に移行する)は燃焼時に酸化物となると、鋼材表面の不動態皮膜を低融点化させる高温腐食現象(バナジウム・アタック)を引き起こす。特にガスタービンエンジンのフィンを傷めるケースが多い。ほかにも触媒毒となるため、燃料重油中のバナジウムは十分に除去するのが望ましい。 バナジウム鋼にフェロバナジウムとして添加する。鋼にバナジウムを0.1 %程度添加すると、炭素と結合して結晶粒がより細かい金属構造になるため、靭性を損なわないで強度を増せるうえ、機械的性質や耐熱性なども向上する。伝説的なダマスカス鋼からも微量のバナジウムが確認されている。 鉄鋼系以外の合金には、おもにアルミニウムとの合金が利用される。 1924年に触媒作用が発見されて以来、バナジウム化合物を用いた触媒は広く利用され、その用途は拡大する傾向にある。 バナジウムは酸化数による色彩の変化が多様であるため、高温に耐える着色剤として利用される。バナジウムの示す色としては、五酸化バナジウムや塩化バナジウム(III)が鮮やかなオレンジから赤を示すほか、おおむね2価が紫、3価が緑、4価が青であり、5価で無色となる。 なお、二酸化バナジウム VO2とは、四酸化二バナジウム V2O4 のことである『四酸化二バナジウム | 12036-73-6』。 バナジウムは、ヒトを含む大部分の脊椎動物にとって不可欠なミネラルではない。しかし、生体内の酵素や錯体の構成に加わっている例が多数確認されており、特に窒素固定細菌では、その酵素系における必須元素のモリブデンが欠乏したとき、これを補うためにバナジウムを含む酵素が働くことが分かっている。これらから、一部の生物では何らかの役割を果たしているものと考えられている。 バナジウムを含有するタンパク質にはニトロゲナーゼ、ブロモパーオキシダーゼ(英語版)、ヘモバナジンなどがある。 バナジウムはさまざまな生物(比較的単純な生物が多い)から検出され、乾燥重量で100ppmを超える生物も多数確認されている。また、特異的に濃縮する生物も何種か知られている。石油中に多く含まれる原因とも考えられている。 このほか「多く含まれている食品」としてエビやカニ、パセリ、黒こしょう、マッシュルームなどが知られている。 バナジウムイオンが試験管内で細胞に対し、致死毒性を持つことが確認されている。 現在、ある程度効果が確認されているものは、次のとおりである。 健康食品に関連して2000年ごろから話題になり、ミネラルウォーターやサプリメントが販売されている。 バナジウムは原油・重油中に多く含まれていることから、その燃焼により毎年10万トンのレベルで大気中に放出されている。自然現象による放出は年間10トンのレベルと見積もられており、大気中の浮遊塵や降水中に含まれるバナジウムはそのほとんどが、人間活動によるものである。 したがって、天然水中のバナジウムを定量することで、化石燃料による影響を評価することができるが、バナジウムは安定した酸化物を形成するため、原子吸光分析では電気加熱炉法を用いる必要がある。
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"p", "text": "製鋼添加剤としての用途が8割以上を占めているが、バナジウム化合物は触媒としてもきわめて重要なほか、化学・電気工学・電子工学の分野でも重要である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし、原油中のバナジウム(ポルフィリン化合物として揮発性を持ち、製油によって重油に移行する)は燃焼時に酸化物となると、鋼材表面の不動態皮膜を低融点化させる高温腐食現象(バナジウム・アタック)を引き起こす。特にガスタービンエンジンのフィンを傷めるケースが多い。ほかにも触媒毒となるため、燃料重油中のバナジウムは十分に除去するのが望ましい。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "バナジウム鋼にフェロバナジウムとして添加する。鋼にバナジウムを0.1 %程度添加すると、炭素と結合して結晶粒がより細かい金属構造になるため、靭性を損なわないで強度を増せるうえ、機械的性質や耐熱性なども向上する。伝説的なダマスカス鋼からも微量のバナジウムが確認されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "鉄鋼系以外の合金には、おもにアルミニウムとの合金が利用される。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1924年に触媒作用が発見されて以来、バナジウム化合物を用いた触媒は広く利用され、その用途は拡大する傾向にある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "バナジウムは酸化数による色彩の変化が多様であるため、高温に耐える着色剤として利用される。バナジウムの示す色としては、五酸化バナジウムや塩化バナジウム(III)が鮮やかなオレンジから赤を示すほか、おおむね2価が紫、3価が緑、4価が青であり、5価で無色となる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、二酸化バナジウム VO2とは、四酸化二バナジウム V2O4 のことである『四酸化二バナジウム | 12036-73-6』。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "バナジウムは、ヒトを含む大部分の脊椎動物にとって不可欠なミネラルではない。しかし、生体内の酵素や錯体の構成に加わっている例が多数確認されており、特に窒素固定細菌では、その酵素系における必須元素のモリブデンが欠乏したとき、これを補うためにバナジウムを含む酵素が働くことが分かっている。これらから、一部の生物では何らかの役割を果たしているものと考えられている。", "title": "生体におけるバナジウム" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "バナジウムを含有するタンパク質にはニトロゲナーゼ、ブロモパーオキシダーゼ(英語版)、ヘモバナジンなどがある。", "title": "生体におけるバナジウム" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "バナジウムはさまざまな生物(比較的単純な生物が多い)から検出され、乾燥重量で100ppmを超える生物も多数確認されている。また、特異的に濃縮する生物も何種か知られている。石油中に多く含まれる原因とも考えられている。", "title": "生体におけるバナジウム" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "このほか「多く含まれている食品」としてエビやカニ、パセリ、黒こしょう、マッシュルームなどが知られている。", "title": "生体におけるバナジウム" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "バナジウムイオンが試験管内で細胞に対し、致死毒性を持つことが確認されている。", "title": "生体におけるバナジウム" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "現在、ある程度効果が確認されているものは、次のとおりである。", "title": "生体におけるバナジウム" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "健康食品に関連して2000年ごろから話題になり、ミネラルウォーターやサプリメントが販売されている。", "title": "生体におけるバナジウム" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "バナジウムは原油・重油中に多く含まれていることから、その燃焼により毎年10万トンのレベルで大気中に放出されている。自然現象による放出は年間10トンのレベルと見積もられており、大気中の浮遊塵や降水中に含まれるバナジウムはそのほとんどが、人間活動によるものである。", "title": "環境への放出" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "したがって、天然水中のバナジウムを定量することで、化石燃料による影響を評価することができるが、バナジウムは安定した酸化物を形成するため、原子吸光分析では電気加熱炉法を用いる必要がある。", "title": "環境への放出" } ]
バナジウムは原子番号23の元素。元素記号はV。バナジウム族元素のひとつ。日本語では古くはバナジン・ヴァナジンの表記も使われた。
{{Elementbox |name=vanadium |japanese name=バナジウム |pronounce={{IPAc-en|v|ə|ˈ|n|eɪ|d|i|əm}}<br>{{respell|və|NAY|dee-əm}} |number=23 |symbol=V |left=[[チタン]] |right=[[クロム]] |above=- |below=[[ニオブ|Nb]] |series=遷移金属 |series comment= |group=5 |period=4 |block=d |series color= |phase color= |appearance=青みがかった銀白色 |image name=Vanadium_etched.jpg |image size= |image name comment= |image name 2= |image name 2 comment= |atomic mass=50.9415 |atomic mass 2=1 |atomic mass comment= |electron configuration=&#91;[[アルゴン|Ar]]&#93; 3d<sup>3</sup> 4s<sup>2</sup> |electrons per shell=2, 8, 11, 2 |color= |phase=固体 |phase comment= |density gplstp= |density gpcm3nrt=6.0 |density gpcm3nrt 2= |density gpcm3mp=5.5 |melting point K=2183 |melting point C=1910 |melting point F=3470 |boiling point K=3680 |boiling point C=3407 |boiling point F=6165 |triple point K= |triple point kPa= |critical point K= |critical point MPa= |heat fusion=21.5 |heat fusion 2= |heat vaporization=459 |heat capacity=24.89 |vapor pressure 1=2101 |vapor pressure 10=2289 |vapor pressure 100=2523 |vapor pressure 1 k=2814 |vapor pressure 10 k=3187 |vapor pressure 100 k=3679 |vapor pressure comment= |crystal structure=body-centered cubic |japanese crystal structure=[[体心立方]] |oxidation states='''5''', 4, 3, 2, 1, &minus;1 |oxidation states comment=[[両性酸化物]] |electronegativity=1.63 |number of ionization energies=4 |1st ionization energy=650.9 |2nd ionization energy=1414 |3rd ionization energy=2830 |atomic radius=[[1 E-10 m|134]] |atomic radius calculated= |covalent radius=[[1 E-10 m|153±8]] |Van der Waals radius= |magnetic ordering=[[常磁性]] |electrical resistivity= |electrical resistivity at 0= |electrical resistivity at 20=197 n |thermal conductivity=30.7 |thermal conductivity 2= |thermal diffusivity= |thermal expansion= |thermal expansion at 25=8.4 |speed of sound= |speed of sound rod at 20=4560 |speed of sound rod at r.t.= |Young's modulus=128 |Shear modulus=47 |Bulk modulus=160 |Poisson ratio=0.37 |Mohs hardness=6.7 |CAS number=7440-62-2 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[バナジウム48|48]] | sym=V | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|15.9735 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]]/[[陽電子放出|β<sup>+</sup>]] | de=4.0123 | pn=[[チタン48|48]] | ps=[[チタン|Ti]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[バナジウム49|49]] | sym=V | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|330 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.6019 | pn=[[チタン49|49]] | ps=[[チタン|Ti]]}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[バナジウム50|50]] | sym=V | na=0.25 % | hl=[[1 E24 s|{{val|1.5|e=17}} y]] | dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=2.2083 | pn1=[[チタン50|50]] | ps1=[[チタン|Ti]] | dm2=[[ベータ崩壊|β<sup>&minus;</sup>]] | de2=1.0369 | pn2=[[クロム50|50]] | ps2=[[クロム|Cr]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[バナジウム51|51]] | sym=V | na=99.75 % | n=28}} |isotopes comment= }} '''バナジウム'''({{lang-lan|vanadium}} {{IPA-en|vəˈneɪdiəm|lang}}<ref>{{Cite web|url=http://www.encyclo.co.uk/webster/V/5|title=Encyclo - Webster's Revised Unabridged Dictionary (1913)|accessdate=2011-09-25}}</ref>)は[[原子番号]]23の[[元素]]。[[元素記号]]は'''V'''。[[第5族元素|バナジウム族元素]]のひとつ。日本語では古くは'''バナジン'''<ref>たとえば、{{Cite journal|和書|author=北村哲 |year=1954 |url=https://doi.org/10.2116/bunsekikagaku.3.329a |title=金属チタン中の鉄・バナジンの定量 |journal=分析化学 |ISSN=0525-1931 |publisher=日本分析化学会 |volume=3 |issue=4 |pages=329a-330 |doi=10.2116/bunsekikagaku.3.329a |id={{CRID|1390001204660322304}}}}</ref>・'''ヴァナジン'''<ref>たとえば、{{Cite journal ja-jp|title=ヴァナジンの血液学的作用に関する実験的研究-2・3|author=山田保| journal=日赤医学|volume=10|number=2|year=1957|publisher=大阪赤十字病院医歯薬学研究会|id={{全国書誌番号|00018240}}|doi=10.11501/3400353}}</ref>の表記も使われた。 == 名称 == バナジウムの発見には紆余曲折があり、歴史に埋もれかけた別名をいくつか持っている。 1801年、[[アンドレス・マヌエル・デル・リオ]]が「パンクロミウム(panchromium)」と名付けた。クロムを思わせる色調からの命名である。のちに、化合物を加熱すると鮮やかな赤色になることから、「エリスロニウム(erythronium)」と改名された。 1830年、スウェーデンの[[ニルス・ガブリエル・セフストレーム]]が「バナジウム」と名付けた。非常に美しいさまざまな色に着色することから、スカンジナビア神話の愛と美の女神[[バナジス]](vanadis)にちなんで命名された。 1831年、ドイツの[[フリードリッヒ・ヴェーラー]]によって、エリスロニウムとバナジウムが同じものと確認される。のちに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で、デル・リオの名前に因んだリオニウム(rionium)が提案されたが、実現はしなかった。 1880年、イタリアの{{仮リンク|アルカンジェロ・スカッキ|it|Arcangelo Scacchi}}が新元素と誤認し、[[ベスビオ山]]にちなんでvesbiumと命名した。 == 歴史 == 18世紀、メキシコの[[イダルゴ州]]・[[シマパン鉱山]]で、[[褐鉛鉱]](バナジン鉛鉱、バナダイト)が発見された。 1801年、[[アンドレス・マヌエル・デル・リオ]]が発見した。しかし、当時は未知の化合物と考えられた。1805年、フランスの研究機関によってクロムと鑑定され、その後も不運から新元素は公認されなかった。 1830年、スウェーデンの[[ニルス・ガブリエル・セフストレーム]]が軟鉄中から再発見した。 1867年、イギリスの[[ヘンリー・エンフィールド・ロスコー]]が塩化バナジウム(III)の水素還元により金属バナジウムを得る。 1925年、アメリカで金属カルシウムによる還元により、高純度の金属バナジウムを精製することに成功。 == 性質 == 灰色がかかった銀白色の[[金属]]で、[[遷移元素]]である。 金属としては軟らかく、[[展延性]]があり容易に[[圧延]]加工できる。結晶構造は温度条件により3つあり、常温・常圧で安定な[[結晶構造]]は[[体心立方格子]]で、温度を上げると、正方晶系になる。[[比重]]は6.11、[[融点]]は1910&nbsp;&deg;C、[[沸点]]は3407&nbsp;&deg;C。普通の[[酸]]・[[アルカリ]]や[[水]]とは反応しないが、[[硝酸|濃硝酸]]・[[硫酸|濃硫酸]]や[[フッ化水素酸]]には溶ける。[[原子価]]は2価から5価まで多様な値をとる。 == 産出 == 主要な産出国は[[南アフリカ]]・[[中華人民共和国|中国]]・[[ロシア]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で、この4か国で90&nbsp;%超を占める。バナジン石などの[[鉱石]]があるが、品位が高くないため、[[資源]]としてはほかの[[金属]]からの副生回収で得ているほか、[[原油]]や[[オイルサンド]]にも多く含まれているため、それらの燃焼灰も利用される。 物質としてのバナジウムは広範囲に分布し、ほとんどどこにでも存在する。しかし、資源としては偏在性が強く、埋蔵量のほとんどは[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[ロシア]]に存在するほか、ベネズエラのオリコタール(超重質油中)やカナダの[[オイルサンド]]ビチューメンなどの中に、硫黄などとともに含まれる。また、その生産も上記3か国と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]とで9割以上を占める。そのため供給は不安定なものとなりやすく、これらの国家や生産企業の動向による価格の高騰が、1988、1994、1997、2003、および2004年以降と頻繁に発生している。 バナジウム鉱物の主要なものとしては、緑鉛鉱 ({{chem|Pb|5|(PO|4|)|3|(OH,F,Cl)}})に類似した鉱物である[[褐鉛鉱]] ({{chem|Pb|5|(VO|4|)|3|(OH,F,Cl)}})がある<ref>{{Cite book|和書|author=櫻井武、鈴木晋一郎、中尾安男|year=2003|title=ベーシック無機化学|publisher=化学同人|page=101|isbn=4759809031}}</ref><ref>{{Cite web|title=Vanadinite|url=http://www.mindat.org/min-4139.html|publisher=mindat.org|accessdate=2012-06-17}}</ref>。ほかには[[カルノー石]]({{chem|2(UO|2|)|2|(VO|4|)|2}}、{{chem|3H|2|O}})、[[パトロン石]]({{chem|V|2|S|5}})などが知られているが、資源としては品位が低い。加えて、バナジウムの多くはほかの鉱物とともに(あるいはむしろほかの鉱物の副産物として)産出されており、ほかの鉱物の需給状況にバナジウムの生産も影響を受ける。 以上のような背景から、日本国内において産業上重要性が高いにもかかわらず、産出地に偏りがあり供給構造が脆弱である。日本では国内で消費する[[鉱物]][[資源]]の多くを他国からの[[輸入]]で支えている実情から、万一の国際情勢の急変に対する[[安全保障]]策として国内消費量の最低60日分を国家[[備蓄]]すると定められている。またリサイクル確立も重要視され、日本では廃触媒からの回収や、[[重油]][[ボイラー]]の灰などからの回収が行われている。 == 用途 == [[製鋼]]添加剤としての用途が8割以上を占めているが、バナジウム化合物は[[触媒]]としてもきわめて重要なほか、[[化学]]・[[電気工学]]・[[電子工学]]の分野でも重要である。 しかし、原油中のバナジウム([[ポルフィリン]][[化合物]]として揮発性を持ち、[[製油]]によって[[重油]]に移行する)は[[燃焼]]時に[[酸化物]]となると、[[鋼]]材表面の[[不動態]]皮膜を低[[融点]]化させる高温[[腐食]]現象(バナジウム・アタック)を引き起こす。特に[[ガスタービンエンジン]]のフィンを傷めるケースが多い。ほかにも[[触媒#機構|触媒毒]]となるため、[[燃料]]重油中のバナジウムは十分に除去するのが望ましい。 === 鉄鋼 === [[バナジウム鋼]]にフェロバナジウムとして添加する。鋼にバナジウムを0.1&nbsp;%程度添加すると、[[炭素]]と結合して[[結晶]]粒がより細かい金属構造になるため、[[靭性]]を損なわないで[[強度]]を増せるうえ、機械的性質や耐熱性なども向上する。伝説的な[[ダマスカス鋼]]からも微量のバナジウムが確認されている。 * [[高張力鋼]] - 高強度低合金鋼と呼ばれる安価で強靱な鋼として、[[高層ビル]]の構造建材や[[橋]]、[[貨車]]、[[石油]][[パイプライン輸送|パイプライン]]用の厚板などに使用されている。 * [[非調質鋼]] - 自動車の[[車軸]]、[[ボルト (部品)|ボルト]]など。[[焼き入れ]]・[[焼き戻し]]といった調質[[熱処理]]なしでそれに匹敵する強靱さが保証される。熱処理設備が不要で、コスト面で有利。 * [[工具鋼]] - 巨大摺動機械から小さいところでは[[スパナ]]・[[レンチ]]などの機械用[[工具]]や[[切削工具]]・対衝撃工具・金型工具など。表面に[[硬度]]や耐摩耗性が必要で、高温で衝撃に対する破損の抵抗力が必要な工具に、[[クロムバナジウム鋼]](バナジウム・[[クロム]]を付加させた[[合金]])を用い、高速度工具鋼はその代表例となっている。 * 耐熱鋼 - 自動車の[[バルブ#レシプロ内燃機関におけるバルブ|エンジンバルブ]]、[[タービン]]ブレード用の耐熱性[[ステンレス鋼]]に使われる。 === 合金 === 鉄鋼系以外の合金には、おもに[[アルミニウム]]との合金が利用される。 * [[チタン]]合金 :[[航空]]用途に開発された、バナジウムを2&ndash;6&nbsp;%含む合金(Ti6.4、Ti-6Al-4V)が普及している。[[日本]]では[[ゴルフクラブ]]のヘッド用として多用され、使用量の半分を占めていた。そのほか、[[ミサイル]]・[[ジェットエンジン]]・[[原子炉]]・[[デンタルインプラント]]に使用される。 * [[超伝導]]体 :単体での[[第二種超伝導体]]であり、[[転移温度|臨界温度]]は5.3&nbsp;K、[[臨界磁場]]は{{val|81170|u=A/m}}。[[ガリウム]]との[[金属間化合物]][[バナジウムガリウム]]はもっとも硬い超伝導体で臨界磁場特性も高いが、[[ニオブ]]系に比べ臨界電流が小さく、実用化は進んでいない。ほかに[[強相関電子系]]の研究に使用されるバナジウム酸化物が、数万[[標準気圧|atm]]の超高圧下で擬一次元超伝導体となることが分かっている。 === 触媒 === 1924年に触媒作用が発見されて以来、バナジウム化合物を用いた触媒は広く利用され、その用途は拡大する傾向にある。 * 硫酸製造 - 高純度(99.9&nbsp;%)の[[五酸化バナジウム]]として、接触法の[[硫黄]][[酸化]]触媒に使用する。かつての[[白金]]触媒に替わり、広く普及した。 * [[有機化学]] - 酸化触媒として、[[プラスチック]]の原料として重要な[[無水マレイン酸]]や[[無水フタル酸]]の製造に利用する。ほかに[[ルイス酸]]触媒としての用途もあり、また使用化学形はさまざまで、メタバナジン酸塩や酸化バナジウムの有機[[錯体]]、さらに[[高分子化合物]]なども開発されている。 * 排気ガス処理 - 脱硝用に、[[タングステン]]やチタンの酸化物と複合または表面担持して用いる。また[[水素化脱硫装置]]で生じた[[硫化水素]]の酸化触媒に用いることがある。 === 顔料・塗料 === バナジウムは酸化数による色彩の変化が多様であるため、高温に耐える着色剤として利用される。バナジウムの示す色としては、五酸化バナジウムや[[塩化バナジウム(III)]]が鮮やかなオレンジから赤を示すほか、おおむね2価が紫、3価が緑、4価が青であり、5価で無色となる。 * [[セラミックス]]の[[釉薬]] - ほかの[[元素]]を添加することにより、さまざまな[[色]]を合成することができる。 * [[バナジウムジルコニウム青|ターコイズブルー]] - ZrSiO<sub>4</sub>にバナジウムイオンが固溶したもの。[[青|青色]]の[[セラミック顔料]]。 * [[バナジウムジルコニウム黄|バナジウムジルコニアイエロー]] - ZrO<sub>2</sub>にバナジウムイオンが固溶したもの。[[黄色]]のセラミック顔料。 * [[バナジウムスズ黄|バナジウムティンイエロー]] - SnO<sub>2</sub>にバナジウムイオンが固溶したもの。黄色のセラミック顔料。 * ビスマスバナジウムイエロー - [[バナジン酸ビスマス]]を顔料として使用したもので、[[カドミウムイエロー]]の代替品として普及している。 * アルミニウム系塗料の着色 === 電気・電子 === * 電子素子 - [[酸化バナジウム(IV)]](V<sub>2</sub>O<sub>4</sub>)や[[酸化バナジウム(III)]](V<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)は温度によって[[電気抵抗]]が大きく変化する性質を持つことから、[[酸化物半導体]]として[[サーミスタ]]や[[赤外線カメラ]]の[[CMOS]]受光素子に利用されている。 * [[レドックス・フロー電池]] - [[硫酸バナジウム(III)]]および[[酸化硫酸バナジウム(IV)]]の希硫酸溶液で構成される[[二次電池]]の一種。バナジウム価数の変化により、充放電が行われる。[[電力貯蔵]]用大型電池として[[ナトリウム・硫黄電池]]を越える可能性が期待されている。 * [[蛍光体]] - 小型表示素子に使用される薄い発光部の素材として、研究が進められている。 * [[化学気相蒸着法]](CVD) - 材料としてバナジウム[[アルコキシド]]が利用される。 なお、二酸化バナジウム {{chem|VO|2}}とは、四酸化二バナジウム {{chem|V|2|O|4}} のことである<ref>[https://www.kojundo.co.jp/dcms_media/other/VVO02PAG.pdf 安全データシート 株式会社高純度化学研究所] </ref>[https://www.chemicalbook.com/ChemicalProductProperty_JP_CB0715137.htm 『四酸化二バナジウム | 12036-73-6』]。 == 生体におけるバナジウム == バナジウムは、ヒトを含む大部分の脊椎動物にとって不可欠な[[ミネラル]]ではない。しかし、生体内の酵素や錯体の構成に加わっている例が多数確認されており、特に[[窒素固定]]細菌では、その酵素系における必須元素の[[モリブデン]]が欠乏したとき、これを補うためにバナジウムを含む酵素が働くことが分かっている。これらから、一部の生物では何らかの役割を果たしているものと考えられている。 バナジウムを含有する[[タンパク質]]には[[ニトロゲナーゼ]]、{{仮リンク|ブロモパーオキシダーゼ|en|Bromoperoxidase}}、[[ヘモバナジン]]などがある。 === 濃縮 === バナジウムはさまざまな生物(比較的単純な生物が多い)から検出され、乾燥重量で100[[ppm]]を超える生物も多数確認されている。また、特異的に濃縮する生物も何種か知られている。[[石油]]中に多く含まれる原因とも考えられている。 * [[ホヤ]] - 血液中の濃縮細胞(バナドサイト)内にpH3前後の硫酸とともに、種によって海水の数万から数百万倍の濃度で蓄積し、もっとも著しい例では1&nbsp;%に達する。これは、バナジウムと特異的に結びつく、{{仮リンク|バナジウム結合タンパク質|en|vanabins}}の働きによる。かつて[[ヘモバナジン]]と呼ばれたのは、これが分析の過程で変質したものとも考えられている。 * [[ベニテングタケ]] - 選択的に取り込み、4価の錯体([[アマバジン]])として保持しているとされる。 * 藻類 - [[コンブ]]などの褐藻や紅藻で多い。 * [[地衣類]]、[[環形動物]]のエラコ、一部の[[プランクトン]]。 このほか「多く含まれている食品」として[[エビ]]や[[カニ]]、[[パセリ]]、黒[[コショウ|こしょう]]、[[マッシュルーム]]などが知られている。 === 毒性 === バナジウムイオンが試験管内で細胞に対し、致死毒性を持つことが確認されている。 * 水生生物に対する毒性 - 急性LC50の調査結果によると、濃度レベルは0.1&ndash;100 mg/L台の範囲にあり、大部分の生物が1&ndash;12 mg/Lであったという。特に鋭敏な生物は[[カキ (貝)|カキ]]で、幼生の発生への影響が0.05 mg/Lで現れる。 * ラット・マウスの経口投与 - 5価バナジウム化合物に対する[[半数致死量]](LD50)としてそれぞれ10 mg/kg、5&ndash;23 mg/kg。 * ヒトに対する影響 - 現在のところ[[世界保健機関|WHO]]は、無機バナジウムの[[発癌性]]について、その有無を判断できる材料がないとしている。このため、ヒトに対して発癌性があるかもしれないと分類されている。 * 作業環境における管理濃度 - 酸化バナジウム(V)の粉じんについては、0.03 mg/m<sup>3</sup>(バナジウムとして)が定められている。 === 医薬・健康 === 現在、ある程度効果が確認されているものは、次のとおりである。 * ラットを使った研究で[[インスリン]]に似た働きをする(血糖値を下げる)ことが示唆され、糖尿病治療薬になるのではないかと注目されている。 * 理論的に、抗凝血薬の作用を強める(効果と副作用の両方とも)可能性がある。 [[健康食品]]に関連して2000年ごろから話題になり、[[ミネラルウォーター]]や[[サプリメント]]が販売されている。 == 環境への放出 == バナジウムは原油・重油中に多く含まれていることから、その燃焼により毎年10万トンのレベルで大気中に放出されている。自然現象による放出は年間10トンのレベルと見積もられており、大気中の浮遊塵や降水中に含まれるバナジウムはそのほとんどが、人間活動によるものである。 したがって、天然水中のバナジウムを定量することで、化石燃料による影響を評価することができるが、バナジウムは安定した酸化物を形成するため、原子吸光分析では電気加熱炉法を用いる必要がある。 == バナジウムの化合物 == * [[酸化バナジウム (II)]](VO) * [[五酸化バナジウム]]({{chem|V|2|O|5}}) * [[塩化バナジウム(III)]]({{chem|VCl|3}}) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Vanadium}} * [[バナジウムの同位体]] == 外部リンク == * [http://mric.jogmec.go.jp/ 金属資源情報] - [[石油天然ガス・金属鉱物資源機構]] * {{Hfnet|724|バナジウム}} * [https://www.nihs.go.jp/hse/cicad/cicad.html 国際簡潔評価文書全文訳] 29.無機バナジウム化合物([[国立医薬品食品衛生研究所]]) * {{Kotobank}} {{元素周期表}} {{バナジウムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はなしうむ}} [[Category:バナジウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:遷移金属]] [[Category:第5族元素]] [[Category:第4周期元素]]
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ファミ通文庫
ファミ通文庫(ファミつうぶんこ)は、日本の出版社、KADOKAWAから刊行されているライトノベル系文庫レーベル。1998年創刊。 2013年9月30日までは株式会社エンターブレイン(eb)が刊行。同年10月1日からebはKADOKAWAに吸収合併された後に社内ブランドになり、現状は旧ebスタッフがそのまま編集を担当している。 創刊当初はアスキーの子会社であったアスペクトより刊行されていたが、2000年のグループ再編により発行元がエンターブレインへと移った。 本レーベルの公募新人賞は、最初はエンターブレインが開催するえんため大賞のファミ通文庫部門だったが終了。ファミ通文庫大賞に引き継がれたがそれも終了し、以降、公募新人賞は行われていない。 前身にいずれもアスペクト発行のログアウト冒険文庫(1993年 - 1996年)、ログアウト文庫(1997年 - 1998年)、ファミ通ゲーム文庫(1996年 - 1998年)がある。ログアウト文庫とファミ通ゲーム文庫で刊行されたタイトルの一部はファミ通文庫で新装版が刊行されているが、日本ファルコムやハミングバードソフトのコンピュータゲームを小説化した作品やテーブルトークRPG(TRPG)のリプレイが中心であったログアウト冒険文庫やオリジナル作品が中心だったログアウト文庫に対し、ファミ通ゲーム文庫は刊行時期こそ重複していないが、一部のシリーズ作品を継承した以外、直接の関連性は無い。 ファミ通ゲーム文庫はアーケード・家庭用ゲームの小説化作品が中心だったが、小説化作品中心の構成から、より幅広いジャンルを含めたオリジナル作品を展開すべく、ファミ通文庫へ改題された経緯がある。やがて、再びTRPGのリプレイが刊行されるようになり、さらに2006年には、ログアウト冒険文庫時代以来となるルールブックも刊行されている。そうした経緯により、レーベル名に「ファミ通」は冠しているが、週刊ファミ通や「ファミ通一族」と通称されている系列誌と本レーベルの関連性はそれほど強くはなく、むしろ一般読者に対するネームバリューの高さから「ファミ通」を冠している側面が強い。 新刊案内の折り込み広告は長らくエンターブレインの漫画や攻略本・ファンブックと共通であったが、2006年10月に独立し「Famitsu Bunko News」(FBN)となった。また、オフィシャルサイト「FB Online」はファミ通文庫のオフィシャルWebマガジンとして機能している。レーベルの15周年時には記念として、2013年2月21日から3月28日にかけてニコニコ生放送でWebラジオ番組が全6回放送された。 2014年からはB6判書籍も刊行され、2017年には19周年記念としてライト文芸寄りの作品を集めたファミ通文庫ネクストが刊行されている。特にB6判は、2020年以降は通常の文庫サイズの刊行数を上回ることもあり、存在感を増している。 背表紙の「FB」ロゴが赤のタイトルはオリジナル作品、緑のタイトルは小説化作品及びTRPGの関連書籍、白のタイトルはファミ通文庫ネクスト作品であることを表す。2005年7月刊行のタイトルより背表紙のデザインが一部変更された(青を基調とするカラーリングは変わらず)。このとき、それまで刊行順に振られていた通し番号が、著作者別のものに改められた。その後、2020年4月刊行の新刊よりレーベルロゴと装丁が一新された。 ライトノベルに限らず多くの文庫で、一般的に[著作者番号]-[刊行タイトル数]で表記される作品番号であるが、本レーベルではその間に「シリーズ番号」というべきものを備えているのが特徴である。例えば野村美月『“文学少女”と慟哭の巡礼者』は「の2 6-5」である。これは、 であることを意味する。シリーズではない単独の作品の場合、1個のシリーズ番号が与えられる。また、正編にかかる短編・外伝などがある場合にも、新たなシリーズ番号が立てられ、区分される(例:「“文学少女”」シリーズに関わる短編集は「の2 7-*」、外伝は「の2 8-*」)。作者によっては同一のレーベルで別個のシリーズ(正編に対する短編などを含む)を同時期に展開している場合が多々あり、単にその作者が刊行した順では混淆してしまうが、この表記により簡明になる。 一方、FBロゴが緑の原作付き作品やTRPG関連書籍については、著者名ではなく原作となる作品名のアルファベットにより識別される。『ナイトウィザードノベル 蒼き門の継承者』(犬村小六)は「N3-2-1」で、 を意味する。この場合、2.『星を継ぐ者』の著者は日高真紅、3.『鏡の迷宮のグランギニョル』の著者は藤原健市と全て異なるが、著者名でなく原作が属するシリーズ作品により分類されるのでそれぞれ「N3-2-2」「N3-2-3」の番号が与えられる。 ファミ通文庫以外でこの「シリーズ番号」を採用しているレーベルにはHJ文庫(ホビージャパン・2006年7月創刊)及び富士見ファンタジア文庫(富士見書房・2008年8月新刊より採用)がある。 2016年の編集部によれば、オリジナル作品の主な読者層は20代後半~30代の男性。 アニメ化されたファミ通文庫オリジナルのシリーズは次の通り。2005年から2014年までは毎年何かしらアニメ化されたが、その後は不定期となっている。 漫画化に関しては同じ出版社の『コミックビーム』や『ハルタ』で行われることはほとんど無く、2010年に開設されたウェブコミック配信サイト『ファミ通コミッククリア』での連載が中心となっている。この他、エンターブレインと同じKADOKAWAに属する角川書店の『月刊少年エース』で「バカとテストと召喚獣」が、連載当時はライトノベル市場でエンターブレインと競合関係に在ったメディアファクトリーの『月刊コミックアライブ』で「まじしゃんず・あかでみい」が連載されている。また、角川グループ以外の出版社ではスクウェア・エニックスの『月刊ガンガンJOKER』(連載開始時は『ガンガンパワード』)で「“文学少女”」が、同じくスクウェア・エニックスのウェブコミック配信サイト『ガンガンONLINE』で「ヒカルが地球にいたころ......」が、講談社『なかよし』で「荒野の恋」が連載されている。 「ファミ通文庫スペシャルエンターテイメントブック」の意。B6判のムック形式で1シリーズに絞った特集記事を掲載する他、特典DVDが付属することもある。
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ファミ通文庫(ファミつうぶんこ)は、日本の出版社、KADOKAWAから刊行されているライトノベル系文庫レーベル。1998年創刊。 2013年9月30日までは株式会社エンターブレイン(eb)が刊行。同年10月1日からebはKADOKAWAに吸収合併された後に社内ブランドになり、現状は旧ebスタッフがそのまま編集を担当している。
{{出典の明記|date=2019-09}} '''ファミ通文庫'''(ファミつうぶんこ)は、[[日本]]の[[出版社]]、[[KADOKAWA]]から刊行されている[[ライトノベル]]系[[文庫本|文庫]]レーベル。[[1998年]]創刊<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%A7%92%E5%B7%9D%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E9%80%9A%E6%96%87%E5%BA%AB-1743697 ファミ通文庫とは? 意味や使い方 - コトバンク]</ref>。 2013年9月30日までは株式会社[[エンターブレイン]](eb)が刊行。同年10月1日からebはKADOKAWAに吸収合併された後に社内ブランドになり、現状は旧ebスタッフがそのまま編集を担当している。 == 歴史 == 創刊当初は[[アスキー (企業)|アスキー]]の子会社であった[[アスペクト (企業)|アスペクト]]より刊行されていたが、[[2000年]]のグループ再編により発行元がエンターブレインへと移った。 本レーベルの公募新人賞は、最初はエンターブレインが開催する[[エンターブレインえんため大賞|えんため大賞]]の[[エンターブレインえんため大賞ライトノベルファミ通文庫部門|ファミ通文庫部門]]だったが終了。[[ファミ通文庫大賞]]に引き継がれたがそれも終了し、以降、公募新人賞は行われていない。 前身にいずれもアスペクト発行の[[ログアウト冒険文庫]]([[1993年]] - [[1996年]])、[[ログアウト文庫]]([[1997年]] - 1998年)、[[ファミ通ゲーム文庫]](1996年 - 1998年)がある。ログアウト文庫とファミ通ゲーム文庫で刊行されたタイトルの一部はファミ通文庫で新装版が刊行されているが、[[日本ファルコム]]や[[ハミングバードソフト]]の[[コンピュータゲーム]]を[[小説化]]した作品や[[テーブルトークRPG]](TRPG)の[[リプレイ (TRPG)|リプレイ]]が中心であったログアウト冒険文庫やオリジナル作品が中心だったログアウト文庫に対し、ファミ通ゲーム文庫は刊行時期こそ重複していないが、一部のシリーズ作品を継承した以外、直接の関連性は無い。 ファミ通ゲーム文庫はアーケード・家庭用ゲームの小説化作品が中心だったが、小説化作品中心の構成から、より幅広いジャンルを含めたオリジナル作品を展開すべく、ファミ通文庫へ改題された経緯がある。やがて、再びTRPGのリプレイが刊行されるようになり、さらに[[2006年]]には、ログアウト冒険文庫時代以来となるルールブックも刊行されている。そうした経緯により、レーベル名に「[[ファミ通]]」は冠しているが、週刊ファミ通や「ファミ通一族」と通称されている系列誌と本レーベルの関連性はそれほど強くはなく、むしろ一般読者に対するネームバリューの高さから「ファミ通」を冠している側面が強い。 新刊案内の折り込み広告は長らくエンターブレインの漫画や攻略本・ファンブックと共通であったが、2006年10月に独立し「Famitsu Bunko News」(FBN)となった。また、オフィシャルサイト「[http://www.enterbrain.co.jp/fb/ FB Online]」はファミ通文庫のオフィシャルWebマガジンとして機能している。レーベルの15周年時には記念として、[[2013年]]2月21日から3月28日にかけて[[ニコニコ生放送]]で[[Webラジオ]]番組が全6回放送された。 [[2014年]]からはB6判書籍も刊行され、[[2017年]]には19周年記念として[[ライト文芸]]寄りの作品を集めたファミ通文庫ネクストが刊行されている。特にB6判は、2020年以降は通常の文庫サイズの刊行数を上回ることもあり、存在感を増している。 == 外観 == 背表紙の「'''FB'''」ロゴが[[赤]]のタイトルはオリジナル作品<ref name="榎本">榎本秋『ライトノベル文学論』NTT出版、2008年、66 - 67頁。 ただし著書では緑色のロゴは、緑色ではなく青色と表記されている。</ref>、[[緑]]のタイトルは小説化作品及びTRPGの関連書籍{{R|榎本}}、[[白]]のタイトルはファミ通文庫ネクスト作品であることを表す。[[2005年]]7月刊行のタイトルより背表紙のデザインが一部変更された(青を基調とするカラーリングは変わらず)。このとき、それまで刊行順に振られていた通し番号が、[[#シリーズ番号|著作者別のもの]]に改められた。その後、[[2020年]]4月刊行の新刊よりレーベルロゴと装丁が一新された<ref>{{Cite web|和書|url=https://famitsubunko.jp/news/editor/entry-12618.html|title=ファミ通文庫、新ロゴ&新HPになりました!|publisher=ファミ通文庫|accessdate=2020-04-22}}</ref>。 === シリーズ番号 === ライトノベルに限らず多くの文庫で、一般的に[著作者番号]-[刊行タイトル数]で表記される作品番号であるが、本レーベルではその間に「シリーズ番号」というべきものを備えているのが特徴である。例えば[[野村美月]]『“文学少女”と慟哭の巡礼者』は「の2 6-5」である。これは、 *野村美月(「の2」…レーベルに於いて2人目の「の」で始まる作者)の、 *6つ目のシリーズ(1.「卓球場」シリーズ/2.『フォーマイダーリン!』/3.「天使のベースボール」シリーズ/……)の、 *5つ目のタイトル(1.『“文学少女”と死にたがりの道化』/2.『“文学少女”と飢え乾く幽霊』/……) であることを意味する。シリーズではない単独の作品の場合、1個のシリーズ番号が与えられる。また、正編にかかる短編・外伝などがある場合にも、新たなシリーズ番号が立てられ、区分される(例:「“文学少女”」シリーズに関わる短編集は「の2 7-*」、外伝は「の2 8-*」)。作者によっては同一のレーベルで別個のシリーズ(正編に対する短編などを含む)を同時期に展開している場合が多々あり、単にその作者が刊行した順では混淆してしまうが、この表記により簡明になる。 一方、FBロゴが緑の原作付き作品やTRPG関連書籍については、著者名ではなく原作となる作品名の[[アルファベット]]により識別される。『ナイトウィザードノベル 蒼き門の継承者』(犬村小六)は「N3-2-1」で、 *アルファベット「N」で始まる3番目のシリーズ作品の、 *2つ目のシリーズ(1.「ナイトウィザード リプレイ」/2.「ナイトウィザードノベル」/3.「ナイトウィザード The ANIMATION」の小説化作品/……) *1つ目のタイトル(1.『蒼き門の継承者』/2.『星を継ぐ者』/3.『鏡の迷宮のグランギニョル』/……) を意味する。この場合、2.『星を継ぐ者』の著者は日高真紅、3.『鏡の迷宮のグランギニョル』の著者は藤原健市と全て異なるが、著者名でなく原作が属するシリーズ作品により分類されるのでそれぞれ「N3-2-2」「N3-2-3」の番号が与えられる。 ファミ通文庫以外でこの「シリーズ番号」を採用しているレーベルには[[HJ文庫]]([[ホビージャパン]]・[[2006年]]7月創刊)及び[[富士見ファンタジア文庫]]([[富士見書房]]・[[2008年]]8月新刊より採用)がある。 == 読者層 == 2016年の編集部によれば、オリジナル作品の主な読者層は20代後半~30代の男性<ref>[https://kakuyomu.jp/info/entry/2016/12/28/120000 第2回カクヨムWeb小説コンテスト開催記念企画! ファミ通文庫編集部に聞く、「コンテストで期待する作品はコレだ!」]</ref>。 == 主な作品 == {{See|Category:ファミ通文庫}} == メディアミックス == === アニメ化 === アニメ化されたファミ通文庫オリジナルのシリーズは次の通り。2005年から2014年までは毎年何かしらアニメ化されたが、その後は不定期となっている。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ テレビアニメ !作品 !放送年 !アニメーション制作 !備考 |- |[[ぺとぺとさん]] |2005年 |[[ジーベック (アニメ制作会社)|XEBEC M2]] | |- |[[吉永さん家のガーゴイル]] |2006年 |[[トライネットエンタテインメント]]<br/>[[スタジオ雲雀]] | |- |[[狂乱家族日記]] |2008年 |[[ノーマッド]] | |- |[[まじしゃんず・あかでみい]] |2008年 |[[ゼクシズ|ZEXCS]] | |- | rowspan="2" |[[バカとテストと召喚獣]] |2010年(第1期) | rowspan="2" |[[SILVER LINK.]] | rowspan="2" | |- |2011年(第2期) |- |[[ココロコネクト]] |2012年 |SILVER LINK. | |- |[[犬とハサミは使いよう]] |2013年 |[[ゴンゾ|GONZO]] | |- |[[龍ヶ嬢七々々の埋蔵金]] |2014年 |[[A-1 Pictures]] | |- |[[シュヴァルツェスマーケン]] |2016年 |[[anchor (企業)|ixtl]] × [[ライデンフィルム|LIDENFILMS]] | |- |[[賢者の孫]] |2019年 |SILVER LINK. | |- |[[リアデイルの大地にて]] |2022年 |[[MAHO FILM]] | |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 劇場アニメ !作品 !公開年 !アニメーション制作 !備考 |- |[[“文学少女”シリーズ]] |2010年 |[[プロダクション・アイジー|Production I.G]] | |} === 実写映画化 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !公開年 !監督 !配給 !備考 |- |[[学校の階段#映画版|学校の階段]] |2007年 |[[佐々木浩久]] |[[アンプラグド]] | |- |[[赤×ピンク#映画|赤×ピンク]] |2014年 |[[坂本浩一]] |[[KADOKAWA]] | |} === 漫画化 === [[漫画化]]に関しては同じ出版社の『[[コミックビーム]]』や『[[ハルタ (漫画誌)|ハルタ]]』で行われることはほとんど無く{{Efn2|特にハルタは創刊時から「コミカライズはNO」ときっぱり打ち出している。}}{{Efn2|「[[BREAK-AGE]]」「[[エマ (漫画)|エマ]]」他、ビーム連載作品の[[小説化]]はある。}}、[[2010年]]に開設された[[ウェブコミック配信サイト]]『[[ファミ通コミッククリア]]』での連載が中心となっている。この他、エンターブレインと同じ[[KADOKAWA]]に属する[[角川書店]]の『[[月刊少年エース]]』で「バカとテストと召喚獣」が{{Efn2|逆に[[角川スニーカー文庫]]の「[[会長の切り札]]」は『ファミ通コミッククリア』で連載されている。}}、連載当時はライトノベル市場でエンターブレインと競合関係に在った[[メディアファクトリー]]の『[[月刊コミックアライブ]]』で「まじしゃんず・あかでみい」が連載されている{{Efn2|メディアファクトリーは2011年11月よりエンターブレインと同じ角川グループ傘下となっている。}}。また、角川グループ以外の出版社では[[スクウェア・エニックス]]の『[[月刊ガンガンJOKER]]』(連載開始時は『[[ガンガンパワード]]』)で「“文学少女”」が、同じくスクウェア・エニックスのウェブコミック配信サイト『[[ガンガンONLINE]]』で「[[ヒカルが地球にいたころ……]]」が、[[講談社]]『[[なかよし]]』で「[[荒野の恋]]」が連載されている{{Efn2|全3巻の予定であったが、3巻は刊行されず加筆・再編集を経て「荒野」の表題で[[文藝春秋]]より完全版が刊行された。『なかよし』連載のコミカライズは[[文春文庫]]版(全3巻)が原作としてクレジットされているが、表題はファミ通文庫版に従い「荒野の恋」を採用している。}}。 == FBSP == 「ファミ通文庫スペシャルエンターテイメントブック」の意。B6判のムック形式で1シリーズに絞った特集記事を掲載する他、特典[[DVD]]が付属することもある。 # 狂乱家族日記すぺしゃる 2007年1月29日発売 ISBN 9784757733398 # まかでみスペシャル 2007年5月30日発売 ISBN 9784757735651 # 狂乱家族日記すぺしゃる 2008年2月29日発売 ISBN 9784757740747 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://famitsubunko.jp/ ファミ通文庫] * {{Twitter|FB_twi}} * {{カクヨムユーザー|famitsu}} {{デフォルトソート:ふあみつうふんこ}} [[Category:ファミ通文庫|*]] [[Category:ファミ通一族|ふんこ]] [[Category:KADOKAWAの文庫本]] [[Category:ライトノベルレーベル]] [[Category:1998年刊行開始の刊行物]]
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海水浴場
海水浴場(かいすいよくじょう)は、砂浜で海水浴を中心とする遊び等を行うための海岸である。遠浅の砂浜で、比較的波が少ない浜辺が適している。 海水浴場と、琵琶湖など湖沼等の淡水に位置するもの(水泳場)とを総称して水浴場と呼ぶ。 それなりの療養施設を設けた「海水浴場」が設置されるのは、産業革命により中産階級(ブルジョワ)が社会をリードする18世紀中頃のイギリスからだった。記録によるヨーロッパ最古の海水浴場は、1740年、イングランド東部、北海沿岸のスカーバラだったといわれる。次いで1754年、イギリスの医師リチャード・ラッセル(英語版)が、イングランド南部のイギリス海峡に面するブライトンに海水療法療養所を開設し、大変有名になった。 イギリス海峡の対岸、ディエップにフランス最古の海水浴場が開設されたのは1767年。ベルギー、オランダがこれに続く。 1793年にはフリードリッヒ・フランツI世がバルト海沿岸のハイリゲンダムにドイツ最古の海水浴場を設立した。19世紀には地中海に展開する。 「遠浅の砂浜」が無い所でも、大量の砂を運び入れ、白砂の砂浜を演出しているところもある。代表的な例はハワイのワイキキビーチで、本来、火山性の黒い砂やレキが広がる海岸線を、日本風に言うところの白砂青松に造り替えている。 1980年代以降の日本では、砂浜が後退傾向になり、離岸堤の設置や養浜などを行う海水浴場は増えている。 夏ともなると、家族連れやグループがやってきて、海の家と呼ばれる、軽食等の提供、海水浴用品のレンタル、一時休憩所を兼ねる店が開かれることが多い。海の安全が確認でき、初めて遊泳が解禁される日を「海開き」と呼ぶ。 現在では単に海水浴だけではなく、大きな海水浴場では各種のイベント等が行われることがある。 安全な海水浴を行なうために、地元自治体や商店街等が、砂浜の整備(ゴミ拾いなど)を行なったり、安全に遊泳を行なうための区域を整理したり、監視員を配置したりしている。近年はライフセーバーが常駐するところも増えている。 また、海水浴シーズンの前には必ず保健所による水質検査が行われ、一定基準以上の大腸菌群が検出された場合には閉鎖される。これは、大腸菌自体に害があることを必ずしも意味せず、大腸菌が存在するから他の有害な菌も存在する可能性が高いので危険と判断されるのである。 大雨や雷が接近している場合も遊泳禁止となる。 管理された海水浴場には、監視員やライフセーバーが駐在している。遊泳区域を示す旗(エリアフラッグ)や、遊泳区域を示すブイロープ、監視施設である監視塔などの存在が特徴である。 管理された海水浴場では、監視員やライフセーバーが、旗によって以下のようなさまざまな表示を行っている。国際ライフセービング連盟の指針に準拠した、国際的に共通するものもある。ただし海水浴場によっては異なる運用がなされるともいう。 例年9月以降は本州付近の海水温が上昇し、本州沿岸ではクラゲが増加するため、本州から離れた沖縄や小笠原諸島を除けば海水浴は危険であるとされる。また、海水浴シーズン外はライフセーバー等による監視も行われず、水質検査も行われず、入水可否情報も発表されないため、クラゲが出現しなくても9月以降の海水浴は危険である。サーフィン等のマリンスポーツは年中行われているが、基本的には海についての知識があることが前提で、事故が起きても自己責任である。 鎌倉時代初期の1211年には鴨長明が尾張国知多郡大野の大野海岸を訪れ、「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」と詠んでいる。「ゆあみ」は「塩浴」(潮湯治)のこととされ、これが日本における海水浴の起源とされる。 1858年、江戸幕府は諸外国と修好通商条約締結した(開国)。この条約の中で外国人の行動範囲を、横浜の場合は六郷川(多摩川下流)以西、開港場から10里以内に制限していた。横浜居留の外国人の行動を制限する外国人居留地が撤廃されるのは、1899年7月17日のことである。江戸時代から観光地だった鎌倉・江の島はこの範囲に含まれていたため、明治維新以来、来遊する外国人も多く見られた。彼らの中には美しい海を見て海水浴を試みる者もあった。 最古の記録は、フランスの法律家ジョルジュ・ブスケの著した『日本見聞記I』である。それによると、1872年8月に「カタシエ(片瀬)で夕食前に海水浴をする。翌日我々は馬に乗って6時に藤沢に着く」とある。 続いて1876年夏、フランスの東洋学者エミール・ギメが片瀬の海で海水浴をしたが、電気クラゲに刺されて岸に戻ったという。 米国の生物学者エドワード・モース博士はシャミセンガイ研究のために江の島に臨海実験場を開設し、1877年8月11日の日記に「同行の帝国大学の外山教授や松村助手らと江の島の海で海水に浴す」とある。 しかし、この地の海水浴場開設に大きな影響を与えたのは医師エルヴィン・フォン・ベルツである。1879年7月6日の『ベルツの日記』によれば、「海水浴場適地を探索するため横浜から馬車で江の島に来訪」し、翌年7月13日の日記には「鍋島侯爵の子ども2人を片瀬へ海水浴に送る」と出てくる。また、1883年、暁星学校の教職員(アルフォンス・ヘンリック神父らフランス人、米国人、日本人)が片瀬で海水浴したという。 神奈川県横浜市金沢区の富岡八幡宮の前の浜は明治維新の頃、横浜の山手・本牧に居留した外国人の娯楽の場所となった。ヘボン式ローマ字で著名な眼科医ジェームス・カーティス・ヘボン博士 (Dr. James Curtis Hepburn) が、富岡海岸の水質が良いことから海水浴を奨励した。1881年ころに「海水浴場神奈川縣廰」という標識が建てられたという。しかしこれは外国人専用だったらしい。 以後、海水浴場が各地に開設されるようになる。「日本最古の海水浴場」を標榜するところを編年順に列記する。 1987年制定の総合保養地域整備法以来、開発が盛んに行われたが、一方この開発による影響も課題がある。それは例えば偏った開発(他地域からの資本によりホテル、ゴルフ場ばかりが建つ)、地域の活性化に結びついていない、環境破壊などである 。 また2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う津波に襲われた岩手県、宮城県、福島県では、多くの海水浴場が砂の激減、流れ込んだ瓦礫などで閉鎖され、再開は一部にとどまっている。 海水浴は夏場の身近なレジャーの一つだが、近年、水の汚い海水浴場が増加。2009年7月29日にアメリカ環境保護団体NRDCが行った発表によれば、遊泳禁止や閉鎖に追い込まれた海水浴場は2万件を超えるとされている。 一年を通じて温暖な地中海沿岸が人気である 。地域名としては、スペインのコスタ・デル・ソル、フランスのコート・ダジュールなどにあるリゾートが"Europe's Leading Beach Resort 2012"にノミネートされた。コスタ・デル・ソルではマラガ県のマルベーリャ、コート・ダジュールでは、中世から続くと言われるニースの、なかでもプロムナード・デ・ザングレが知られる 。 他にもイタリアにある世界遺産のアマルフィ海岸、先述の"Europe's Leading Beach Resort"で2008年から2012年まで全ての年で金賞を受けているギリシャのリゾートが有名である。また、ポルトガルのアルガルヴェは"Europe's Leading Beach Destination 2012"で金賞を受賞するほどの土地である。
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海水浴場(かいすいよくじょう)は、砂浜で海水浴を中心とする遊び等を行うための海岸である。遠浅の砂浜で、比較的波が少ない浜辺が適している。 海水浴場と、琵琶湖など湖沼等の淡水に位置するもの(水泳場)とを総称して水浴場と呼ぶ。
{{出典の明記|date=2017年7月}} [[ファイル:Yonahamaehama Miyakojima Okinawa Japan04bs3s4500.jpg|thumb|right|[[与那覇前浜]]([[沖縄県]][[宮古島市]])]] '''海水浴場'''(かいすいよくじょう)は、[[砂浜]]で[[海水浴]]を中心とする[[遊び]]等を行うための[[海岸]]である。遠浅の砂浜で、比較的[[波]]が少ない浜辺が適している。 海水浴場と、[[琵琶湖]]など[[湖沼]]等の淡水に位置するもの([[水泳場]])とを総称して水浴場と呼ぶ{{要出典|date=2017年8月}}。 == 歴史 == それなりの療養施設を設けた「海水浴場」が設置されるのは、[[産業革命]]により中産階級(ブルジョワ)が社会をリードする18世紀中頃の[[イギリス]]からだった。記録による[[ヨーロッパ]]最古の海水浴場は、[[1740年]]、[[イングランド]]東部、北海沿岸の[[スカーブラ (イングランド)|スカーバラ]]だったといわれる。次いで[[1754年]]、イギリスの医師{{仮リンク|リチャード・ラッセル|en|Richard Russell (doctor)}}が、イングランド南部の[[イギリス海峡]]に面する[[ブライトン]]に海水療法療養所を開設し、大変有名になった。 イギリス海峡の対岸、[[ディエップ (セーヌ=マリティーム県)|ディエップ]]に[[フランス]]最古の海水浴場が開設されたのは[[1767年]]。[[ベルギー]]、[[オランダ]]がこれに続く。 [[1793年]]には<!--フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)?-->[[フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリッヒ・フランツⅠ世]]が[[バルト海]]沿岸の[[ハイリゲンダム]]に[[ドイツ]]最古の海水浴場を設立した。19世紀には地中海に展開する。 == 海水浴場の維持 == 「遠浅の砂浜」が無い所でも、大量の砂を運び入れ、白砂の砂浜を演出しているところもある。代表的な例は[[ハワイ州|ハワイ]]の[[ワイキキ|ワイキキビーチ]]で、本来、[[火山]]性の黒い砂やレキが広がる海岸線を、日本風に言うところの[[白砂青松]]に造り替えている。 [[1980年代]]以降の日本では、砂浜が後退傾向になり、[[離岸堤]]の設置や[[養浜]]などを行う海水浴場は増えている。 == 日本の海水浴場 == [[夏]]ともなると、家族連れやグループがやってきて、[[海の家]]と呼ばれる、軽食等の提供、海水浴用品のレンタル、一時休憩所を兼ねる店が開かれることが多い。海の安全が確認でき、初めて遊泳が解禁される日を「[[海開き]]」と呼ぶ。 現在では単に海水浴だけではなく、大きな海水浴場では各種のイベント等が行われることがある。 安全な海水浴を行なうために、地元自治体や[[商店街]]等が、砂浜の整備([[ゴミ]]拾いなど)を行なったり、安全に遊泳を行なうための区域を整理したり、監視員を配置したりしている。近年は[[ライフセービング|ライフセーバー]]が常駐するところも増えている。 また、海水浴シーズンの前には必ず[[保健所]]による水質検査が行われ、一定基準<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2008/06/60i6r200.htm 平成20年度島しょ地区海水浴場の水質調査結果(付表)] 報道発表資料[2008年6月](東京都ホームページ)</ref>以上の[[大腸菌]]群が検出された場合には閉鎖される。これは、大腸菌自体に害があることを必ずしも意味せず、大腸菌が存在するから他の有害な[[真正細菌|菌]]も存在する可能性が高いので危険と判断されるのである。 大雨や雷が接近している場合も遊泳禁止となる。 === 海水浴と安全 === 管理された海水浴場には、監視員やライフセーバーが駐在している<ref name="kaiho-11">{{Cite web|和書|url=https://www6.kaiho.mlit.go.jp/info/marinesafety/00_totalsafety/06_swimming/11_attention.html |title=海で遊ぶときの注意 |work=ウォーターセーフティガイド|publisher=海上保安庁|accessdate=2021-3-7}}</ref><ref name="jla-signflag">{{Cite web|和書|url=https://jla-lifesaving.or.jp/watersafety/signflag/ |title=サインフラッグを知っていますか? |publisher=日本ライフセービング協会 |accessdate=2021-3-7}}</ref>。遊泳区域を示す旗(エリアフラッグ)や、遊泳区域を示すブイロープ、監視施設である監視塔などの存在が特徴である。 管理された海水浴場では、監視員やライフセーバーが、旗によって以下のようなさまざまな表示を行っている<ref name="kaiho-11"/><ref name="jla-signflag"/>。[[国際ライフセービング連盟]]の指針に準拠した、国際的に共通するものもある。ただし海水浴場によっては異なる運用がなされるともいう<ref name="jla-signflag"/>。 ;遊泳区域を示す旗(エリアフラッグ) :エリアフラッグは、赤と黄色の旗で、波打ち際に2本立てられる。旗と旗の間の区域が安全区域を示している。 ;遊泳条件フラッグ :管理者の指示、その日の遊泳条件を示すためのもの。 :*青色:遊泳可 :*黄色:遊泳注意 :*赤色:遊泳禁止 ;緊急避難フラッグ([[津波フラッグ]]) :津波の到来が予想されるなど、利用者に緊急避難を伝えるための旗。赤と白の格子模様(国際信号旗のU旗)を用いる。 :2011年の東日本大震災後、津波接近を知らせるための旗としてオレンジ色の旗(オレンジフラッグ)や赤色の旗を用いる取り組みが広がったが、2020年に気象庁によって統一が図られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.surfnews.jp/news_topics/33285/|title=津波フラッグ「赤白の格子」デザインへ全国統一|work=THE SURF NEWS|date=2020-06-09|accessdate=2021-3-7}}</ref>。 <gallery> Tsunami Warning Flag in Japan Vector.svg|津波フラッグ </gallery> ==== シーズン外の海水浴の危険性 ==== 例年9月以降は本州付近の海水温が上昇し、本州沿岸ではクラゲが増加するため、本州から離れた沖縄や小笠原諸島を除けば海水浴は危険であるとされる。また、海水浴シーズン外はライフセーバー等による監視も行われず、水質検査も行われず、入水可否情報も発表されないため、クラゲが出現しなくても9月以降の海水浴は危険である。サーフィン等のマリンスポーツは年中行われているが、基本的には海についての知識があることが前提で、事故が起きても自己責任である。 === 日本の海水浴場の歴史 === [[鎌倉時代]]初期の1211年には[[鴨長明]]が[[尾張国]][[知多郡]]大野の[[大野海水浴場|大野海岸]]を訪れ、「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」と詠んでいる。「ゆあみ」は「塩浴」(潮湯治)のこととされ、これが日本における海水浴の起源とされる。 [[1858年]]、[[江戸幕府]]は諸外国と修好通商条約締結した([[開国]])。この条約の中で外国人の行動範囲を、[[横浜市|横浜]]の場合は六郷川([[多摩川]]下流)以西、[[条約港|開港場]]から10里以内に制限していた。横浜居留の外国人の行動を制限する[[外国人居留地]]が撤廃されるのは、[[1899年]][[7月17日]]のことである。[[江戸時代]]から観光地だった[[鎌倉市|鎌倉]]・[[江の島]]はこの範囲に含まれていたため、[[明治維新]]以来、来遊する外国人も多く見られた。彼らの中には美しい海を見て海水浴を試みる者もあった。 最古の記録は、フランスの法律家[[ジョルジュ・ブスケ]]の著した『日本見聞記I』である。それによると、[[1872年]]8月に「カタシエ(片瀬)で夕食前に海水浴をする。翌日我々は馬に乗って6時に藤沢に着く」とある。 続いて[[1876年]]夏、フランスの東洋学者[[エミール・ギメ]]が片瀬の海で海水浴をしたが、[[電気クラゲ]]に刺されて岸に戻ったという。 米国の生物学者[[エドワード・モース]]博士は[[シャミセンガイ]]研究のために江の島に臨海実験場を開設し、[[1877年]][[8月11日]]の日記に「同行の[[東京大学|帝国大学]]の外山教授や松村助手らと江の島の海で海水に浴す」とある。 しかし、この地の海水浴場開設に大きな影響を与えたのは医師[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]である。[[1879年]][[7月6日]]の『ベルツの日記』によれば、「海水浴場適地を探索するため横浜から[[馬車]]で江の島に来訪」し、翌年7月13日の日記には「鍋島侯爵の子ども2人を片瀬へ海水浴に送る」と出てくる。また、[[1883年]]、暁星学校の教職員(アルフォンス・ヘンリック[[神父]]らフランス人、米国人、日本人)が片瀬で海水浴したという。 神奈川県[[横浜市]][[金沢区]]の富岡八幡宮の前の浜は明治維新の頃、横浜の山手・本牧に居留した外国人の娯楽の場所となった。[[ヘボン式ローマ字]]で著名な眼科医[[ジェームス・カーティス・ヘボン]]博士 (Dr. James Curtis Hepburn) が、富岡海岸の水質が良いことから海水浴を奨励した。[[1881年]]ころに「海水浴場神奈川縣廰」という標識が建てられたという。しかしこれは外国人専用だったらしい。 以後、海水浴場が各地に開設されるようになる。「日本最古の海水浴場」を標榜するところを編年順に列記する。 * [[1880年]] - [[沙美海岸]](岡山県[[倉敷市]][[玉島地域|玉島]][[黒崎 (倉敷市)|黒崎]])に医師坂田待園<ref>{{Cite web|和書|url=http://mahoroba.city.ibara.okayama.jp/detail_j.php?offset=33&rows=83&whstr=&taisho=jin&whstr3=&nameJ=&key_wJ=&mokujiJ=&ageJ=&pageJ=|title=井原市の文化財・偉人・伝統芸能・昔ばなし 偉人 坂田待園|accessdate=2020-09-19|publisher=井原市}}</ref>の薦めで、海水浴による療養施設の為の仮小屋が建設される。 * [[1881年]] ** [[兵庫県]]須磨海岸にオランダ人医師[[ハイデン|W・ハイデン]]によって海水浴場が設置される。 ** 医師だった[[後藤新平]]が愛知県[[常滑市]]の[[大野海水浴場|大野海岸]]と[[知多郡]][[南知多町]]の[[千鳥ヶ浜 (愛知県)|千鳥ヶ浜]]に海水浴場を開く。 * [[1882年]] ** 沙美海岸に本格的な海浜病院を建て、村営海水浴場開設。 ** [[10月9日]] - 三重県[[伊勢市]][[二見町 (三重県)|二見町]]の立石浜、オランダ人の医師[[ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト|ポンペ]]からオランダ医学を学んだ初代軍医総監の[[松本良順]]によって日本最古の海水浴場として国に指定。 * [[1884年]] - 三重県二見の旧二見館前に海水浴場が移設され、二見館に海水温浴設備が設けられる。 * [[1885年]] ** [[内務省 (日本)|内務省]]初代衛生局長の[[長與專齋|長与専齋]]の勧めにより鎌倉[[由比ヶ浜]]の三橋旅館が海水浴場を開設したことを『[[東京横浜毎日新聞]]』で広告。 ** [[軍医総監]]の松本良順が、健康法の一つとして神奈川県の[[大磯町|大磯海岸]]照ヶ崎海岸を海水浴場に認定。当時は「湯治」のように、ただ海水につかったりあがったりを繰り返すだけだったようだ。しかし、まもなく[[レジャー]]として発展し、[[1898年]]に発表された『[[鉄道唱歌|鐵道唱歌]]』には、「海水浴に名を得たる、大磯見えて波涼し」の歌詞が見られる。 *:東京近辺では、他に神奈川県[[橘樹郡]][[田島町 (神奈川県)|田島村]](現在の[[川崎市]]の南東端)が、海水浴場として知られていた。 {{Anchors|課題}} 1987年制定の[[総合保養地域整備法]]以来、開発が盛んに行われたが、一方この開発による影響も課題がある。それは例えば偏った開発(他地域からの資本によりホテル、ゴルフ場ばかりが建つ)、地域の活性化に結びついていない、環境破壊などである<ref>{{Cite journal |和書 |author=沖縄県と岩手県における観光・リゾート・地域振興に関する研究班 |year=1996 |title=沖縄リゾート開発に関する一考察 |url=http://jslrs.jp/journal/pdf/30-90.pdf |format=PDF |journal=沖縄大学地域研究所年報 |volume=8 |serial=19960701 |publisher=[[沖縄大学]] |issn=1341-3759 |naid=110000486481 |pages=51-64 }}</ref> <ref>このように開発によって人工的に形成された高級リゾートについて、プライベートビーチなど「自己完結型」で「周辺地域との関わりはほとんどない」ことを問題視している。-{{Cite journal |和書 |author=八木澄夫 |year=1992 |title=4237 観光資源から見た沖縄・東南アジア地域の海浜リゾート |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110004192162 |journal=学術講演梗概集. D, 環境工学 |serial=19920801 |publisher=一般社団法人[[日本建築学会]] |issn=0915-0145 |naid=110004192162 |pages=473-474 }}</ref>。 また2011年3月11日に発生した[[東日本大震災]]に伴う[[津波]]に襲われた[[岩手県]]、[[宮城県]]、[[福島県]]では、多くの海水浴場が砂の激減、流れ込んだ瓦礫などで閉鎖され、再開は一部にとどまっている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180814/k00/00e/040/208000c 東日本大震災3県 海水浴場再開3割/津波で砂浜消失 海中にはがれき/砂利で復活「やはり砂の方が…」の声も]『[[毎日新聞]]』夕刊2018年8月14日(社会面)2019年2月10日閲覧。</ref>。 ==アメリカの海水浴場== 海水浴は夏場の身近なレジャーの一つだが、近年、水の汚い海水浴場が増加。[[2009年]][[7月29日]]にアメリカ[[環境保護]]団体NRDCが行った発表によれば、遊泳禁止や閉鎖に追い込まれた海水浴場は2万件を超えるとされている。 == ヨーロッパの海水浴場 == 一年を通じて温暖な[[地中海]]沿岸が人気である<ref name="WTA_EU_hotel_2012">{{cite web |url = http://www.worldtravelawards.com/award-europes-leading-beach-resort-2012 |title = Europe's Leading Beach Resort 2012 |publisher = WORLD TRAVEL AWARDS |accessdate = 2013-3-17 }}</ref><ref name="WTA_EU_dest_2012">{{cite web |url = http://www.worldtravelawards.com/award-europes-leading-beach-destination-2012 |title = Europe's Leading Beach Destination 2012 |publisher = WORLD TRAVEL AWARDS |accessdate = 2013-3-17 }}</ref> 。地域名としては、[[スペイン]]の[[コスタ・デル・ソル]]、フランスの[[コート・ダジュール]]などにあるリゾートが"Europe's Leading Beach Resort 2012"にノミネートされた<ref name="WTA_EU_hotel_2012" />。コスタ・デル・ソルでは[[マラガ県]]の[[マルベーリャ]]<ref name="WTA_EU_hotel_2012" />、コート・ダジュールでは、[[中世]]から続くと言われる[[ニース]]の、なかでも[[プロムナード・デ・ザングレ]]が知られる<ref>{{Cite book |author= |year=2012 |title=『マップルマガジンフランス』 |accessdate=2013-3 |pages=81-82 |publisher=[[昭文社]] |quote=中世から続く華やかなリゾート |ISBN=978-4-398-26947-8 }}</ref> 。 他にも[[イタリア]]にある[[世界遺産]]の[[アマルフィ海岸]]、先述の"Europe's Leading Beach Resort"で2008年から2012年まで全ての年で金賞を受けている[[ギリシャ]]のリゾートが有名である<ref name="WTA_EU_hotel_2012" />。また、[[ポルトガル]]の[[アルガルヴェ]]は"Europe's Leading Beach Destination 2012"で金賞を受賞するほどの土地である<ref name="WTA_EU_dest_2012" />。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本の海水浴場一覧]] * [[リゾート#マリンリゾート|海外の海水浴場の例]] * [[プライベートビーチ]] * [[快水浴場]] - [[環境省]]が選定した、水質などが優れた海水浴場。 * [[リゾート]] * [[水泳場]] ==外部リンク== *[https://www6.kaiho.mlit.go.jp/info/marinesafety/00_totalsafety/06_swimming/11_attention.html 海で遊ぶときの注意] - 海上保安庁 {{観光}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいすいよくしよう}} [[Category:海岸]] [[Category:砂浜]] [[Category:マリンリゾート|*]] [[Category:水泳]]
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リボソームRNA
リボソームRNAはリボソームを構成するRNAであり、RNAとしては生体内でもっとも大量に存在する(7 - 8割程度)。通常rRNAと省略して表記される。 原核生物では沈降係数に由来する命名で、23Sと5Sがリボソーム大サブユニット(50Sサブユニット)に含まれる。また小サブユニット(30Sサブユニット)には16S rRNAが含まれる。クレン古細菌(5Sが独立している)を除き16S、23S、5Sの順に並んだオペロン構造を持っている。 真核生物の大サブユニット(60Sサブユニット)には一般に28Sと5.8S、5S rRNA、小サブユニット(40Sサブユニット)には18S rRNAが含まれるが、種によってその数字には若干の違いがある。 ヒトにおいてはこのうち28S、5.8S、18S RNAは一つの転写単位に由来する。これはrRNA前駆体と呼ばれる約2 kbのRNAであり、RNAポリメラーゼIによって核小体で転写される。転写されたrRNA前駆体は、snoRNAなどの様々なRNAやタンパク質の働きをうけて、不要な部分が取り除かれ、また修飾を受けてrRNAになる。一方、5S RNAはRNAポリメラーゼIIIにより転写される。 rRNAはタンパク質合成の触媒反応の活性中心を形成していると考えられている。
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リボソームRNAはリボソームを構成するRNAであり、RNAとしては生体内でもっとも大量に存在する(7 - 8割程度)。通常rRNAと省略して表記される。 原核生物では沈降係数に由来する命名で、23Sと5Sがリボソーム大サブユニット(50Sサブユニット)に含まれる。また小サブユニット(30Sサブユニット)には16S rRNAが含まれる。クレン古細菌(5Sが独立している)を除き16S、23S、5Sの順に並んだオペロン構造を持っている。 真核生物の大サブユニット(60Sサブユニット)には一般に28Sと5.8S、5S rRNA、小サブユニット(40Sサブユニット)には18S rRNAが含まれるが、種によってその数字には若干の違いがある。 ヒトにおいてはこのうち28S、5.8S、18S RNAは一つの転写単位に由来する。これはrRNA前駆体と呼ばれる約2 kbのRNAであり、RNAポリメラーゼIによって核小体で転写される。転写されたrRNA前駆体は、snoRNAなどの様々なRNAやタンパク質の働きをうけて、不要な部分が取り除かれ、また修飾を受けてrRNAになる。一方、5S RNAはRNAポリメラーゼIIIにより転写される。 rRNAはタンパク質合成の触媒反応の活性中心を形成していると考えられている。
'''リボソームRNA'''は[[リボソーム]]を構成する[[リボ核酸|RNA]]であり、RNAとしては[[体|生体]]内でもっとも大量に存在する(7 - 8割程度)。通常rRNAと省略して表記される。 [[原核生物]]では[[沈降係数]]に由来する命名で、[[23SリボソームRNA|23S]]と[[5SリボソームRNA|5S]]がリボソーム大[[サブユニット]](50Sサブユニット)に含まれる。また小サブユニット(30Sサブユニット)には[[16S rRNA]]が含まれる。[[クレン古細菌]](5Sが独立している)を除き16S、23S、5Sの順に並んだ[[オペロン]]構造を持っている。 [[真核生物]]の大サブユニット(60Sサブユニット)には一般に28Sと[[5.8SリボソームRNA|5.8S]]、5S rRNA、小サブユニット(40Sサブユニット)には18S rRNAが含まれるが、種によってその数字には若干の違いがある。 [[ヒト]]においてはこのうち28S、5.8S、18S RNAは一つの[[転写 (生物学)|転写]]単位に由来する。これはrRNA[[前駆体]]と呼ばれる約2 kbのRNAであり、[[RNAポリメラーゼI]]によって[[核小体]]で転写される。転写されたrRNA前駆体は、[[核小体低分子RNA|snoRNA]]などの様々なRNAや[[タンパク質]]の働きをうけて、不要な部分が取り除かれ、また修飾を受けてrRNAになる。一方、5S RNAは[[RNAポリメラーゼIII]]により転写される。 rRNAは[[タンパク質]]合成の触媒反応の活性中心を形成していると考えられている。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto" |+ リボソームの構成<ref>田村隆明・松村正實 『基礎分子生物学(第2版)』 東京化学同人、2002年、P.101</ref> !- style="background-color:#ddf"| リボソーム粒子 !- style="background-color:#ddf"| 粒子構成 !- style="background-color:#ddf"| rRNA !- style="background-color:#ddf"| タンパク質 |- |rowspan="2"| 70Sリボソーム(原核生物) | 50Sサブユニット|| 5S, 23S|| 34種 |- | 30Sサブユニット|| 16S|| 21株 |- |rowspan="2"| 70Sリボソーム(古細菌)<ref>{{cite journal | author = Lecompte, O., Ripp, R., Thierry, J.C., Moras, D., and Poch, O. | year = 2002 | title = Comparative analysis of ribosomal proteins in complete genomes: An example of reductive evolution at the domain scale | journal = Nucleic Acids Research | volume = 30 | pages = 5382–5390 | id = PMID 12490706 }}</ref> | 50Sサブユニット|| 5S, 23S|| 40種 |- | 30Sサブユニット|| 16S|| 28株 |- |rowspan="2"|80Sリボソーム(真核生物) | 60Sサブユニット|| 28S, 5.8S, 5S|| 46種 |- | 40Sサブユニット|| 18S|| 32種 |} == 関連用語 == *[[16S rRNA系統解析]] *[[リボソームDNA|rDNA]] == 参考文献 == <references /> {{核酸}} {{デフォルトソート:りほそおむRNA}} [[Category:リボソームRNA|*]] [[Category:タンパク質生合成]] [[Category:リボ核酸]] [[Category:非コードRNA]] [[Category:リボザイム]]
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延長戦
延長戦(えんちょうせん)は、スポーツやゲームなどで、規定の時間や攻撃回数を終えるまで競技を行っても決着がつかない場合に、勝負の決着を付けるために競技を継続すること。 サッカーの場合、通常前後半15分ずつの計30分で行われる。1995年までは前後半を必ず最後まで行う方式(フルタイム方式)が主流だった。1993年にJリーグにゴールデンゴール(当初の名称は「サドンデス」。後「Vゴール」へ改称)方式が導入され、その後国際大会でもこちらが主流になっていくが、1点入っただけで反撃の機会なく勝敗が決まることなどが問題になり、2002年のFIFAワールドカップ終了後は、ゴールデンゴールに代わりシルバーゴール方式をいくつかの国際大会で導入した。しかし、延長戦を前半だけで終了するのも不公平とのことで、2004年にフルタイム方式に戻った。 延長戦を行わない場合や延長戦でも決着がつかなかった場合はPK戦を行う場合がある。 ホーム・アンド・アウェーのトーナメント方式によるカップ戦などでは、第2戦の勝敗が通常の前後半で決まったときでも、第1戦との合計スコアがアウェーゴール数も含めて互角の場合は延長戦によりトーナメントの勝者を決定することがある。延長戦に入った場合は、大会によって延長戦での得点にアウェーゴールを適用する場合としない場合が存在する(アウェーゴールの記事を参照)。 1950年のスペイン杯準決勝のアスレティック・ビルバオ vs バレンシアCFでは、30分間の延長戦後、時間無制限サドンデス方式の再延長を行った。再延長に入って3分、ビルバオのアグスティン・ガインサがゴールを決め決着となった。 ラグビーユニオンでは、80分を終えて同点の場合、20分(10分ハーフ)の延長戦を行う。これで決着がつかない場合、以下のような方法が採用される。 7人制ラグビーやラグビーリーグ(スーパーリーグやNRLファイナルシリーズ等)では先に得点したチームが勝者となる。 バスケットボールの延長記録 野球の場合、1イニング単位で延長し、イニング終了時に点差が付いていれば(後攻チームの場合は、先攻チームのそのイニングでの得点を上回った時点で→サヨナラゲーム)決着となる。何回まで延長を行うかや、延長に入った場合の特別ルールの採用などは、リーグや大会によって規定が異なる。 ODIやトゥエンティ20などでは、規定投球数終了時点で同点の場合、1オーバー勝負のスーパーオーバーで決着をつける。 バレーボールでは、ヨーロッパのカップ戦などで採用されている。ホームアンドアウェートーナメントである時、第2レグ終了時に1勝1敗で終わったとき、第2レグ終了後に15点先取制(通常の第5セットと同じもの。先に8点目を取ったチームが出たところでコートチェンジ)による延長戦「ゴールデン・セット」を行う。 日本ではVプレミアリーグ2016-17年度以後、今日のV.LEAGUEに至るまでの「ファイナル3」「ファイナル」が全試合2試合制になるにあたり、両者1勝1敗で終わったとき、終了後に25点先取(13点目でコートチェンジ)の特別ルールで延長戦を行う(2021-22年度の「ファイナル3」は1試合制・アドバンテージ付き(2位に1勝分)があり、その試合で3位が勝った場合はゴールデンセットを行っていた。またそれ以前のシーズンは、1勝1敗で終わった場合、年度により別日に第3戦を行う、あるいはセット率・総得点などを踏まえて優劣を決めるというやり方を採用したこともある) 相撲には他の競技と違って延長戦という制度は無いが、力士の疲労を軽減する策として水入りの制度がある。嘗ては立ち合いから4分半を経過したあたりから勝負審判の判断で水入りを挟んでいたが、近年は2分半あたりから水入りを挟むことも多い。水入り後に組んだ状態から再開し、再度動きが止まると二番後取り直し(残りが一番しかない場合は一番後取り直し)となり、両力士にしばしの休憩を与える形となる。このことから、水入り後の取組再開や二番後取り直し(または一番後取り直し)が他競技での延長戦にあたると考えられる。なお、無制限に取り直しが行われるわけではなく、どうしても決着がつかない場合には引き分けにされることもあるが、大相撲の幕内の取組での引分は、1974年9月場所11日目の三重ノ海と二子岳との一番が最後である。
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延長戦(えんちょうせん)は、スポーツやゲームなどで、規定の時間や攻撃回数を終えるまで競技を行っても決着がつかない場合に、勝負の決着を付けるために競技を継続すること。
'''延長戦'''(えんちょうせん)は、スポーツやゲームなどで、規定の時間や攻撃回数を終えるまで競技を行っても決着がつかない場合に、勝負の決着を付けるために競技を継続すること。 ==ゴール型球技== === サッカー === [[サッカー]]の場合、通常前後半15分ずつの計30分で行われる。[[1995年]]までは前後半を必ず最後まで行う方式(フルタイム方式)が主流だった。[[1993年]]に[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]に[[ゴールデンゴール]](当初の名称は「[[サドンデス]]」。後「Vゴール」へ改称)方式が導入され、その後国際大会でもこちらが主流になっていくが、1点入っただけで反撃の機会なく勝敗が決まることなどが問題になり、[[2002年]]の[[FIFAワールドカップ]]終了後は、ゴールデンゴールに代わり[[シルバーゴール]]方式をいくつかの国際大会で導入した。しかし、延長戦を前半だけで終了するのも不公平とのことで、[[2004年]]にフルタイム方式に戻った。 延長戦を行わない場合や延長戦でも決着がつかなかった場合は[[PK戦]]を行う場合がある。 [[ホーム・アンド・アウェー]]の[[トーナメント方式]]による[[カップ戦]]などでは、第2戦の勝敗が通常の前後半で決まったときでも、第1戦との合計スコアが[[アウェーゴール]]数も含めて互角の場合は延長戦によりトーナメントの勝者を決定することがある。延長戦に入った場合は、大会によって延長戦での得点にアウェーゴールを適用する場合としない場合が存在する([[アウェーゴール]]の記事を参照)。 [[1950年]]の[[コパ・デル・レイ|スペイン杯]]準決勝の[[アスレティック・ビルバオ]] vs [[バレンシアCF]]では、30分間の延長戦後、時間無制限サドンデス方式の再延長を行った。再延長に入って3分、ビルバオの[[アグスティン・ガインサ]]がゴールを決め決着となった。 === ラグビー === [[ラグビーユニオン]]では、80分を終えて同点の場合、20分(10分ハーフ)の延長戦を行う。これで決着がつかない場合、以下のような方法が採用される。 *[[サドンデス]]方式の追加延長戦(どちらか一方が先にトライ、ペナルティーゴール、[[ドロップゴール]]などによる得点を挙げた段階で試合終了。上限10分) *[[キッキングコンペティション]](トライの後に行われるゴールキックと同様の方式で5人ずつ蹴り勝者を決定) *引き分けとする *抽選で勝者を決定する 7人制ラグビーやラグビーリーグ(スーパーリーグやNRLファイナルシリーズ等)では先に得点したチームが勝者となる。 === アメリカンフットボール === *[[オーバータイム (アメリカンフットボール)]]の項を参照のこと。 === バスケットボール === *[[バスケットボール]]では、延長戦を「オーバータイム」と呼び、ラウンドロビン・ノックアウトいずれの場合でも、決着が付くまで行う。延長戦は5分単位で行われ、5分終えても決着が付かない場合は2分間のインターバルを挟み再延長となり、以降同様に決着が付くまで繰り返される。タイムアウトは5分間につき1回のみ取れる。 '''バスケットボールの延長記録''' *[[NBA]]での延長記録は1950-51シーズンの[[インディアナ・ペイサーズ]]対ロチェスター・ロイヤルズ(現[[サクラメント・キングス]])戦での6度が最長。 *[[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]では2008年3月30日の[[高松ファイブアローズ]]対[[大阪エヴェッサ]]がトリプルオーバータイムとなった。 *[[バスケットボール世界選手権|世界選手権]]では[[2006年バスケットボール世界選手権|2006年]]大会のアンゴラvsドイツ戦で大会史上初のトリプルオーバータイムとなった。 === ハンドボール === *[[ハンドボール]]の場合、前後半各30分(計60分)の正規時間を終えて同点の場合、5分の休憩後に前後半各5分(計10分)・[[ハーフタイム]]1分の第1延長戦を行う。第1延長戦でも同点の場合は、第1延長と同様の第2延長戦を行う。第2延長戦でも決着が付かない場合、サッカーの[[PK戦]]によく似た、7mスローコンテストを行う。 === アイスホッケー === *[[アイスホッケー]]の場合、リーグや大会により規定は異なる。詳しくは[[アイスホッケー]]の項を参照のこと。 *[[アジアリーグアイスホッケー]]では、通常より1名ずつ少ない状態での5分間の[[サドンデス]]による延長戦が行なわれる。 *[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]では、通常より2名ずつ少ない状態での5分間の[[サドンデス]]による延長戦が行なわれる。 === 水球 === *[[水球]]では2ピリオドの延長戦とペナルティースロー合戦が採用されていたが、2014年度より延長戦が廃止された。 ==ベースボール型球技== === 野球 === [[野球]]の場合、1[[イニング]]単位で延長し、イニング終了時に点差が付いていれば(後攻チームの場合は、先攻チームのそのイニングでの得点を上回った時点で→[[サヨナラゲーム]])決着となる。何回まで延長を行うかや、延長に入った場合の特別ルールの採用などは、リーグや大会によって規定が異なる。 ;延長戦・引き分けに関する規定の例 * [[メジャーリーグベースボール]]では原則回数・時間無制限。しかし試合があまりにも長引いた場合や降雨等で試合続行不能になった場合は[[サスペンデッドゲーム]]になることがある。 ** ただし2000年までは[[アメリカンリーグ]]だけ「消灯ルール」を実施していた。これは現地時間午前1時(アメリカには4つの[[標準時]]帯がある)の時点で試合が続くと、次のイニングスに入らず、その攻撃が行われているイニングスの終了までは試合を続け、それでも同点の場合は原則翌日へのサスペンデッドゲームとするもの。同様に[[ナショナル・リーグ]]の[[シカゴ・カブス]]は[[1988年]][[7月]]まで、本拠地の[[リグレー・フィールド]]に照明塔がなかったため、日没により試合継続が不可能であったときに同点だった時はサスペンデッドとしたことがある。 ** 2020年・2021年は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]]の流行と感染拡大防止の観点から、1試合のみで開催するときは通常の10回から、[[ダブルヘッダー]]で行う時は8回から延長戦をタイブレーク(前回からの継続打順。ノーアウト2塁から)で行う。 * アメリカ[[独立リーグ]]の[[パイオニアリーグ]]では2021年シーズンから延長戦を廃止して、同点の場合はホームラン競争で勝敗を決定する。各チームが指名した打者1人が5球ずつ打ち、より多くのホームランを打った選手のチームが勝利となる。ホームラン数が同じだった場合は各チームが別の選手を1人ずつ選び、決着がつくまで同じ形式で繰り返す<ref>{{Cite web|和書|url=https://article.auone.jp/detail/1/6/10/92_10_r_20210428_1619604022677522|title=【MLB】同点の場合はホームラン競争で試合を決着 米独立リーグが延長戦を廃止|accessdate=2021-04-28|date=2021-04-28|publisher=auポータル}}</ref>。 * 日本の[[日本野球機構|プロ野球]]では[[2001年]]から2010年までと[[2013年]]からは延長戦は12回まで時間無制限で開催される(ただし年度によって回数、時間制限のばらつきがある。[[セントラル・リーグ#回数・時間制限|セ]]・[[パシフィック・リーグ#時間・回数制限|パ]]両リーグの記事掲載の「回数・時間制限」の項を参照)。[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]は第1戦から第7戦は12回まで時間無制限(2018年から)、引き分けによりそれ以降(第8戦以降)の試合は決着がつくまで行う。[[2007年]]から導入された[[クライマックスシリーズ]]ではセ・パ両リーグとも延長戦は12回まで時間無制限で統一され、[[引き分け]]による再試合は無い<ref>2020年は延長10回、2021年は9回とレギュラーシーズンと同様の取り扱いになった。</ref>。なお、サスペンデッドゲームはパ・リーグのみが独自のルールで適用していたが1987年を最後に適用例はなく、さらに1994年に照明設備のない球場や照明設備の故障でのサスペンデッドゲームを行わないことになって有名無実化し、[[2012年]]に日本プロ野球では採用しないこととなった。[[2020年]]では[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]]の流行と感染拡大防止の観点から10回のみとなる。[[2021年]]では実施せず、9回で終了となる。 ** なお[[1972年]] - [[1987年]]、および[[2011年]]と2012年にはナイター時の節電対策(前者は[[オイルショック]]、後者は[[東日本大震災]]に起因する)として通常の延長規定イニングにプラスして試合開始時刻を基点として一定時間を経過した場合は次の延長イニングに入らない「時間制限」(9回を終えていない場合は、[[コールドゲーム]]は認められていないため雨天中止や日没でない限り9回までは行う)が制定された。1972年~1973年の両リーグと1982年~1987年のセ・リーグは「3時間20分」<ref>1972・73年は19時以後開始である場合は試合の経過時間にかかわらず22:20を過ぎて次のイニングに入らない</ref>、1974年~1981年のセリーグと、1974年〜87年のパリーグは「3時間」<ref>19時以後開始である場合は試合の経過時間にかかわらず22:00を過ぎて次のイニングに入らない</ref>、パ・リーグのみの1988年と1989年は「4時間」<ref name="時間制限と延長回数の併用">最大延長12回との併用</ref> 2011年と2012年は両リーグとも「3時間30分」<ref name="時間制限と延長回数の併用"/> である。特に3時間ルールが適用された1974年以降は試合の長時間化の傾向もあって両リーグとも引き分けの数が急増し、特に延長戦が廃止され、9回打ち切りルールが適用された[[2021年]]に至っては1チームで引き分け試合数が2桁を超えるチームが非常に目立った。 * [[日本野球連盟|社会人野球]]はトーナメント制が多いため、ほとんどが回数無制限で行われるが、大会によっては時間制限で引き分け再試合、ないしはサスペンデッドゲームや[[タイブレーク]]が採用されることもある。 * [[日本高等学校野球連盟|高校野球]]では、延長戦は現在15回までと定められている。春夏甲子園大会や夏の都道府県大会では引き分け再試合となる。「選手の体力は2試合分が限度」という理由により、1958年から延長戦は18回までと定められた。その後2000年から延長は15回に短縮された。2018年春季の[[第90回記念選抜高等学校野球大会]]及び夏季の[[第100回全国高等学校野球選手権記念大会]](地方大会も含む)から延長戦におけるタイブレーク方式を導入、延長13回から試合が決着するまで行われる。同時に準決勝までは延長引き分け再試合が廃止となる。また両大会共に決勝戦ではタイブレーク方式を採用せず延長15回で引き分けた場合は再試合とするが、再試合では準決勝までと同じ形でタイブレーク方式を採用する。[[2021年]]の[[第93回選抜高等学校野球大会]]では、決勝戦においても再試合を廃止し、タイブレークを導入した。 ** なお、軟式の高校野球においては予選や本選の決勝戦以外では、15回で決着が着かなければサスペンデッドゲームとしてそこで打ち切り、翌日16回から続きを行い、なお同点が続く場合は30回打ち切り、翌日31回より再開、これを繰り返す。予選決勝と本選決勝は15回で決着がつかなければ引き分け再試合にする。 * [[オリンピックの野球競技|オリンピック]]では予選リーグ、決勝ラウンドを含めて延長は時間・回数とも無制限に行われる。しかし、[[2008年北京オリンピックの野球競技|北京オリンピック]]ではタイブレークを使用し<ref>ロンドン五輪から外されるためそれを防ごうという狙いもある。</ref>、延長11回以降は、無死一二塁で任意の打順から攻撃を始めるようにした。 * [[ワールド・ベースボール・クラシック]]では、2006年大会は予選リーグ(1・2次)については延長14回まで(時間制限なし)行われ、決勝トーナメント戦は延長の回数制限も無くなる。2009年大会以降は13回以降のタイブレーク付き無制限延長を採用。 * 高校以外の[[軟式野球]]では、全国大会においては回数・時間とも無制限。決着が着くまで行われる。なお1つの球場で数試合予定されている場合はイニングに制限がつく。最終試合以前の試合が延長戦になり、何回か行ったが決着がつかない場合は、そのイニングで一旦打ちきり、他球場で継続して行うか、最終試合終了後同一球場で継続して行われていたが、[[2012年]]より、天皇杯、国体を除く全国大会において延長戦は最大12回まで。すべての全国大会において試合開始から3時間半を経過した場合、新しいイニングに入らない。<br>新規定適用でも同点の場合、次のイニングから無死満塁・継続打順による特別延長戦(タイブレーク)で決着をつける。 **タイブレーク導入前には[[1983年]]の[[天皇賜杯全日本軟式野球大会]]において、[[ライト工業]]対[[田中病院]]の試合において延長45回(ライト2-1田中)という試合があった。 ;その他 * 引き分けの場合、[[完全試合]]を含む[[ノーヒットノーラン]]の記録は、公式な達成記録とは見なされず参考記録として扱われる。 * '''補回試合'''(ほかいじあい)は、投手が9イニング3分の0以上投げた時に記録される投手成績(先発投手でなくリリーフ投手でもよい)。日本プロ野球においての通算記録の1位は、[[金田正一]]の56試合。2位が[[若林忠志]]の42試合。シーズン最多記録は、1942年の[[林安夫]]の10試合である。 ;野球の延長記録 * [[メジャーリーグベースボール]] ** {{by|1920年}}5月1日の[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]対[[アトランタ・ブレーブス]]の延長26回。試合時間は3時間50分。 * [[日本プロ野球]] ** 最長イニング数:{{by|1942年}}5月24日の[[西鉄軍|大洋軍]]対[[中日ドラゴンズ|名古屋軍]]の延長28回。試合時間は3時間47分。大洋軍の先発は[[野口二郎]]、名古屋軍は[[西沢道夫]]が先発したが、両投手共に完投している。 ** 最長試合時間:[[1992年]][[9月11日]]の[[阪神タイガース]]対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]の6時間26分(試合終了は翌日午前0時26分)。延長15回、3対3の引き分け。この試合は抗議による37分の中断が含まれる。 ** 中断時間を含まない最長試合時間:[[1996年]][[9月8日]]の[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]の6時間19分。延長14回、6対5でヤクルトの勝利。 ** 延長戦が12回までに制限された2001年以降の最長試合時間:{{by|2015年}}[[8月21日]]の[[広島東洋カープ]]対[[読売ジャイアンツ]]の6時間21分(試合終了は翌日午前0時21分)。延長11回、4対3で巨人の勝利。 ** 日本シリーズでの最長試合時間:[[2010年の日本シリーズ|2010年]]第6戦、[[千葉ロッテマリーンズ]]対[[中日ドラゴンズ]]の5時間43分。延長15回2対2の引き分け。 ** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の最長試合時間:[[2013年]][[9月4日]]の[[北海道日本ハムファイターズ]]対[[福岡ソフトバンクホークス]]18回戦の6時間1分(試合終了は翌日午前0時4分)。延長12回、9対7でソフトバンクの勝利)。 ** 交流戦での最長試合時間:[[2007年]][[6月14日]]の[[北海道日本ハムファイターズ]]対[[横浜ベイスターズ]]の5時間53分。延長12回、6-6の引き分け。 * [[マイナーリーグ]](AAA級) ** {{by|1981年}}4月18日に[[ポータケット・レッドソックス]]([[ボストン・レッドソックス]]傘下)対[[ロチェスター・レッドウイングス]]([[ボルチモア・オリオールズ]]傘下)の延長33回(延長32回サスペンデッドゲームが宣言され、6月23日に再開され、1イニングで試合終了)。試合時間は8時間25分。 * [[KBOリーグ|韓国プロ野球]] ** {{by|2008年}}9月3日の[[ハンファ・イーグルス]]対[[斗山ベアーズ]]の延長18回。試合時間は5時間51分。 * オリンピック ** [[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロス大会]]3位決定戦のチャイニーズタイペイ対韓国の延長14回。 * 高校硬式野球全国大会 ** [[1933年]][[8月19日]]の[[全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]準決勝戦の[[中京大学附属中京高等学校|中京商]]対[[兵庫県立明石高等学校|明石中]]の[[中京商対明石中延長25回|延長25回]]。 * 軟式野球(高校以外) ** [[1983年]][[9月20日]][[天皇賜杯全日本軟式野球大会|第38回天皇賜杯全国軟式野球大会]]([[茨城県]])決勝戦、田中病院([[宮崎県]])‐[[ライト工業]]([[東京都]])で延長45回。試合時間は8時間19分。<!--結果は2‐1でライト工業の優勝。--> * 軟式野球(高校) ** [[2014年]][[8月28日]]~[[8月31日]]第59回[[全国高等学校軟式野球選手権大会]]準決勝戦、[[中京高等学校 (岐阜県)|中京]]([[岐阜県]])‐[[崇徳中学校・高等学校|崇徳]]([[広島県]])で延長50回。なお[[夏休み]]が終わり2学期に入ってしまう関係上、8月31日までに大会を終了させる必要があり、同日に決勝戦との[[ダブルヘッダー]]となりこの場合は1日18回までに収める規定となっていることから、4日目は9回(通算54回)で打ち切りとし同点の場合は抽選で決勝進出を決めることになっていた。総試合時間は10時間18分。結果は3‐0で中京の勝ち。 === ソフトボール === *[[ソフトボール]]の国際ルールでは、7回を終えて同点の場合、8回から[[タイブレーク]](タイブレーカともいう)の延長戦を行う。仕組みとして、前回の攻撃を完了した最後の選手がランナー2塁においた段階でスタートし、回数・時間制限なしに勝敗が決するまで行う。 === クリケット === [[ワン・デイ・インターナショナル|ODI]]や[[トゥエンティ20]]などでは、規定投球数終了時点で同点の場合、1オーバー勝負の'''[[スーパーオーバー]]'''で決着をつける。 ==ネット型球技== === バレーボール === [[バレーボール]]では、ヨーロッパのカップ戦などで採用されている。[[ホームアンドアウェー]]トーナメントである時、第2レグ終了時に1勝1敗で終わったとき、第2レグ終了後に15点先取制(通常の第5セットと同じもの。先に8点目を取ったチームが出たところでコートチェンジ)による延長戦「ゴールデン・セット」を行う。 日本では[[Vプレミアリーグ]]2016-17年度以後、今日の[[V.LEAGUE]]に至るまでの「ファイナル3」「ファイナル」が全試合2試合制になるにあたり、両者1勝1敗で終わったとき、終了後に25点先取(13点目でコートチェンジ)の特別ルールで延長戦を行う<ref>[http://www.vleague.or.jp/news_topics2/article/id=17199 V・ファイナルステージ ファイナル3、ファイナルの方式を変更します!]</ref>(2021-22年度の「ファイナル3」は1試合制・アドバンテージ付き(2位に1勝分)があり、その試合で3位が勝った場合はゴールデンセットを行っていた。またそれ以前のシーズンは、1勝1敗で終わった場合、年度により別日に第3戦を行う、あるいはセット率・総得点などを踏まえて優劣を決めるというやり方を採用したこともある) === バドミントン === *[[バドミントン]]は15点の簡易ゲームではない、21点のゲームの20点で同点の場合に行われる。2点差になるまで続けるが、30点が上限で29-29になった場合は先に30点目を取った方が勝ちとなる。 ==格闘技== === 相撲 === [[相撲]]には他の競技と違って延長戦という制度は無いが、[[力士]]の疲労を軽減する策として[[水入り]]の制度がある。嘗ては[[立ち合い]]から4分半を経過したあたりから勝負審判の判断で水入りを挟んでいたが、近年は2分半あたりから水入りを挟むことも多い。水入り後に組んだ状態から再開し、再度動きが止まると[[取り直し|二番後取り直し]](残りが一番しかない場合は一番後取り直し)となり、両力士にしばしの休憩を与える形となる。このことから、水入り後の取組再開や二番後取り直し(または一番後取り直し)が他競技での延長戦にあたると考えられる。なお、無制限に取り直しが行われるわけではなく、どうしても決着がつかない場合には引き分けにされることもあるが、大相撲の幕内の取組での[[引分 (相撲)|引分]]は、1974年9月場所11日目の[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]と[[二子岳武|二子岳]]との一番が最後である。 === 柔道 === *[[柔道]]は規定の試合時間を終了して決着が付かなかった場合は、同じ時間だけ延長戦を行い、どちらかが先にポイントを取った時点で試合終了となる。これを[[ゴールデンスコア]]方式と呼ぶ。それでもなおポイントが付かなかった場合は判定により優勢勝ちが告げられる。ただし大会によっては引き分けとなる場合もある。 === レスリング === *かつて[[レスリング]]も延長戦を採用していたが、ルール改定により廃止された。以前のルールでは、3分ハーフを終えた際にポイントが並んだ場合に延長戦に入っていた。現在はルールが改正され、フリースタイルではピリオド毎に必要に応じて延長する形となっていた。 **ピリオド終了後に0-0の場合のみコイントスによって攻撃・防御に分かれて30秒の延長戦となり、先にポイントを取った方が、ポイントが入らなかった場合は防御側がピリオド獲得となった。 **グレコローマンスタイルではルール上0-0で同点になることはないため延長戦が行われることはない。 === プロレス === *[[プロレス]]では、時間切れ引き分けの際に「両選手の希望」というかたちで5分程度の延長戦が行われることは昔からよくあった。[[1967年]][[8月14日]]の[[日本プロレス]]での[[ジャイアント馬場]]VS[[ジン・キニスキー]]戦、[[1976年]][[7月17日]]の[[全日本プロレス]]での[[ジャンボ鶴田]]VS[[ビル・ロビンソン]]戦などが有名な例であるが、このパターンの延長戦で決着が付いた例はほとんどない。 *[[1981年]][[9月23日]]に[[新日本プロレス]]で行われた[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]VS[[スタン・ハンセン]]の試合は、両者[[リングアウト]]から時間無制限で延長戦という新機軸を編み出した(結果はハンセンの[[反則行為|反則]]勝ち)。この試合がプロレス史に残る名勝負となったこともあり、これ以降両者リングアウトなどの不透明決着に際して「延長コール」が起こるようになった。 *延長戦の失敗例としては、[[1984年]][[6月14日]]、新日本プロレス[[IWGPリーグ戦|IWGP]]優勝戦の[[アントニオ猪木]]VS[[ハルク・ホーガン]]戦で、両者リングアウト→延長戦を二度繰り返したあげくに[[長州力]]の乱入があって猪木のリングアウト勝ちとなり、じらされた末の不透明決着にファンの怒りが爆発し[[暴動]]騒ぎにまでなったことがある。 *[[プロレスリング・ノア]]が管理する[[GHC]]選手権ルールでは、時間切れ以外の引き分けや無効試合の場合、即日再試合と称した延長戦が行われる。 *[[JWP女子プロレス]]のトーナメント戦ではフォール時のカウントを2に短縮する「ツーカウントフォール」方式の延長戦を採用する場合がある。 ===その他の格闘技 === *[[K-1]]や[[J-NETWORK]]のトーナメント戦などでは規定ラウンド終了後の[[判定]]でもドローとなった場合、エクストラ・ラウンドを1Rないし2R行う。延長ラウンドではラウンド・マスト・システムにより、両者が互角だった場合でも厳正に判定され必ずポイント差が付く。 *[[ボクシング|プロボクシング]]では4回戦トーナメント「[[レイジングバトル|Raging・Battle]]」決勝戦で採用。2010年からは[[全日本新人王決定戦]]決勝戦でも採用。 ==ターゲット型競技== === カーリング === * [[カーリング]]では、10エンドを終えて同点の場合、エクストラ・エンドが行われる。エクストラ・エンドでも0-0の場合はさらに次のエンドが行われる。 == 関連項目 == * [[引き分け]] * [[タイブレーク]] * [[サドンデス]] * [[サヨナラゲーム]] * [[プレーオフ]] * [[コールドゲーム]] * [[サスペンデッドゲーム]] * [[ダブルヘッダー]] * [[再試合]] * [[ゴールデンゴール]]・[[シルバーゴール]] * [[PK戦]] * [[水入り]] *[[優勝決定戦 (相撲)]] == 脚注 == {{Reflist}} == 出典・外部リンク == * [http://www.koreabaseball.com/FILE/ebook/pdf/2013record.pdf 韓国プロ野球の2013年版のレコードブック] {{野球}} {{Sports-stub}} {{DEFAULTSORT:えんちようせん}} [[Category:スポーツのルール]]
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ゴールデンゴール
ゴールデンゴール(Golden goal)は、サッカー、フィールドホッケーおよびラクロスの延長戦の方式の1つ。いわゆる「サドンデス方式」のことであり、延長戦(サッカーは前後半15分ずつ、フィールドホッケーは前後半7分30秒ずつ)の間に一方のチームが得点した場合、試合を打ち切りその得点を入れたチームを勝者とする。 なお、日本国内のサッカー大会においては「サドンデス」のほか「Vゴール」という名称が用いられていた(後述)。 歴史上最初にこのルールが記録されているのは、1868年にシェフィールドで行われたクロムウェルカップ(英語版)の決勝である。ただし、当時はゴールデンゴールと呼ばれていたわけではない。 このルールを世界で初めてリーグ戦に採用したのは、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)である。目的は劇的なシーンをつくって盛り上げるためとされた。試験的に第2回コニカカップ(1991年)と、1992年のJリーグカップのそれぞれ予選リーグにて採用された。 当時の日本では「サッカーは野球に比べて点が入らない」「引き分けが多くてつまらない」という見方があり、リーグ戦でも勝ち負けをはっきりさせるという方針を徹底。正規の90分間で決着がつかない場合、延長戦(前後半15分ずつ)をサドンデス方式で戦い、それでも同点の場合はPK戦で決めるという完全決着方式だった。 以降、日本国内ではJリーグの下部組織や各種大会でも多く採用されるようになった。当初は日本において他のスポーツで使われてきたサドンデスという用語から「延長サドンデス」方式という名称が定められたが、「サドンデス」という言葉は「突然死」という意味のためイメージが悪いとして1994年、ビクトリーの頭文字から「延長Vゴール」方式という名称に変更された。 1999年のJ1最終節、浦和対広島戦で、延長後半1分に浦和の福田正博がVゴールを決めたが、正規の90分終了時点ですでにJ2降格が決まっており、福田は勝利の喜びを浮かべなかった。この得点は「史上最も悲しいVゴール」と呼ばれ、Jリーグ公式YouTubeチャンネルの「ファンが選ぶ、記憶に残るVゴールTOP10」というアンケート企画で第1位に選ばれた。その1年後、J2最終節で浦和は土橋正樹のVゴールによりJ1復帰を果たした。 2001年のJ1チャンピオンシップでは、1stステージ優勝の磐田と2ndステージ優勝の鹿島という当時の二強ライバル同士が対戦。第1戦2-2、第2戦0-0で延長戦に入り、延長前半10分に鹿島の小笠原満男が直接FKでVゴールを決め、年間王者を獲得した。 この方式がFIFAで検討された理由は主にふたつあり、ひとつは近代サッカーで一般的となったゾーンプレスなどの戦術や、大会が増えた事に伴う過密日程などにより、選手の体力が過度に消耗されている現状を指摘されるようになった事に対し、少しでも試合時間を短く切り上げる事。ふたつめは、理不尽さを指摘され続けながらも解決策がないままのPK戦を、少しでも減らす事だった。1995年、国際サッカー連盟はこのルールを競技規定に加えることを決定、同時にサドンデスでもVゴールでもない「ゴールデンゴール」という名称が与えられた。 国際大会では1996年の欧州選手権(UEFA EURO '96)から採用され、ドイツ対チェコの決勝戦で延長前半5分にドイツのオリバー・ビアホフがゴールデンゴールを決め、ドイツの3度目の欧州制覇を達成した。4年後のUEFA EURO 2000の決勝戦、フランス対イタリアでもフランスのダヴィド・トレゼゲが延長前半13分にゴールデンゴールを決めている。なお、ビアホフもトレゼゲもレギュラー選手ではなく、試合後半に1点ビハインドの場面で投入された交代選手だった。 ワールドカップでは1998年のフランス大会のアジア地区最終予選・第三代表決定戦において、日本代表の岡野雅行が延長後半にゴールデンゴールを決めて、日本のワールドカップ初出場を実現した(ジョホールバルの歓喜)。また本大会ではフランスのローラン・ブランがトーナメント1回戦のパラグアイ戦で決めたのが初となっている。女子では、2003年大会の決勝で、ゴールデンゴールが生まれている。 欧州でも過密日程への対応策として1997年に採用されたが、日本では劇的だと好意的に受け止められたVゴールに対し、欧州では1点取られただけで残りの反撃の機会がなくなってしまう事が「不公平だ」として支持を得られず、UEFAは、2002-2003シーズンから、欧州選手権やチャンピオンズリーグなどの主催大会で、「シルバーゴール(後述)」というゴールデンゴールの問題点を多少緩和した方式を採用した。さらに2004年、国際サッカー連盟は競技規定を改正し、7月1日から前後半15分ずつの延長戦を必ず最後まで行う旧来の方式に戻すことを発表した。これにより、ゴールデンゴールとシルバーゴールは順次廃止されていった。 2010年9月、第8代国際サッカー連盟会長のゼップ・ブラッターが、「ワールドカップで行われている延長戦を廃止し、ペナルティキック戦かゴールデンゴールを導入することを検討する」と述べた。 日本では、2001年に日本フットボールリーグ(JFL)で引き分け制が採用されたため延長戦自体が廃止された。続いて2002年にJ2、2003年にJ1でも延長戦が廃止となったため、リーグ戦での延長Vゴールは行われなくなった。ナビスコカップや天皇杯でも採用されていたが、いずれも2005年からはVゴール方式ではない延長戦(必ず前後半15分ずつ行う)を戦うルールになっている。J1・J2入れ替え戦(2004年から2008年まで実施)は2004年のみVゴール方式で実施するレギュレーションであった。 「シルバーゴール」方式の延長戦とは、ゴールデンゴールとフルタイムの延長戦の折衷案から生まれたものであり、得点の有無に関わらず、先ずは延長前半終了まで試合を行う。延長前半終了時点で一方が勝ち越している場合はそこで試合終了となり、延長後半は行わない。延長前半終了時点で同点の場合、引き続き延長後半を行い、やはり得点の有無に関わらず延長後半終了まで試合を行うというものである。15分の延長戦と、さらに15分の再延長戦が用意されている状態と同様である。しかし、この延長戦方式も日差しや風向きなどから延長前半だけで終了するのも不公平だと指摘され、2004年に廃止。以降は延長戦も前・後半フルタイム行う旧来の方式に改められている。 ホッケーの延長戦は7分30秒ハーフで行われ、ゴールデンゴール方式が採用されている。
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ゴールデンゴールは、サッカー、フィールドホッケーおよびラクロスの延長戦の方式の1つ。いわゆる「サドンデス方式」のことであり、延長戦(サッカーは前後半15分ずつ、フィールドホッケーは前後半7分30秒ずつ)の間に一方のチームが得点した場合、試合を打ち切りその得点を入れたチームを勝者とする。 なお、日本国内のサッカー大会においては「サドンデス」のほか「Vゴール」という名称が用いられていた(後述)。
{{出典の明記|date=2016年6月18日 (土) 01:18 (UTC)}} '''ゴールデンゴール'''(Golden goal)は、[[サッカー]]、[[フィールドホッケー]]および[[ラクロス]]の[[延長戦]]の方式の1つ。いわゆる「[[サドンデス]]方式」のことであり、延長戦(サッカーは前後半15分ずつ、フィールドホッケーは前後半7分30秒ずつ)の間に一方のチームが得点した場合、試合を打ち切りその得点を入れたチームを勝者とする。 なお、[[日本サッカー協会|日本国内のサッカー大会]]においては「サドンデス」のほか「'''Vゴール'''」という名称が用いられていた(後述)。 == 歴史 == === 発祥 === 歴史上最初にこのルールが記録されているのは、[[1868年]]に[[シェフィールド]]で行われた{{仮リンク|クロムウェルカップ|en|Cromwell Cup}}の決勝である。ただし、当時はゴールデンゴールと呼ばれていたわけではない。 === リーグ戦での採用 === このルールを世界で初めてリーグ戦に採用したのは、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)である<ref name="jfa">{{Cite web|和書|url=http://www.jfa.or.jp/info/inquiry/2011/11/v.html|title=Vゴール方式ってなに?|work=[[日本サッカー協会]]公式サイト|accessdate=2012-08-09}}</ref>。目的は劇的なシーンをつくって盛り上げるためとされた<ref name="jfa" />。試験的に[[第2回コニカカップ]]([[1991年]])と、[[1992年のJリーグカップ]]のそれぞれ予選リーグにて採用された。 当時の日本では「サッカーは野球に比べて点が入らない」「引き分けが多くてつまらない」という見方があり、リーグ戦でも勝ち負けをはっきりさせるという方針を徹底。正規の90分間で決着がつかない場合、延長戦(前後半15分ずつ)をサドンデス方式で戦い、それでも同点の場合は[[PK戦]]で決めるという完全決着方式だった。 以降、日本国内ではJリーグの下部組織や各種大会でも多く採用されるようになった。当初は日本において他のスポーツで使われてきた[[サドンデス]]という用語から「延長サドンデス」方式という名称が定められたが、「サドンデス」という言葉は「突然死」という意味のためイメージが悪いとして[[1994年]]、ビクトリーの頭文字から「延長Vゴール」方式という名称に変更された。 [[1999年J1最終節|1999年のJ1最終節]]、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]対[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]戦で、延長後半1分に浦和の[[福田正博]]がVゴールを決めたが、正規の90分終了時点ですでに[[J2]]降格が決まっており、福田は勝利の喜びを浮かべなかった。この得点は「'''史上最も悲しいVゴール'''」と呼ばれ、Jリーグ公式[[YouTube]]チャンネルの「ファンが選ぶ、記憶に残るVゴールTOP10」というアンケート企画で第1位に選ばれた<ref>{{Cite web|和書|title=ファンが選ぶ、記憶に残るJリーグのVゴールTOP10。歓喜、感涙、そして悲嘆…。 |url=https://www.jleague.jp/news/article/15590/ |website=J.LEAGUE.jp |date=2019-10-04 |accessdate=2022-12-04}}</ref>。その1年後、J2最終節で浦和は[[土橋正樹]]のVゴールによりJ1復帰を果たした。 [[2001年のJリーグ ディビジョン1|2001年のJ1]]チャンピオンシップでは、1stステージ優勝の[[ジュビロ磐田|磐田]]と2ndステージ優勝の[[鹿島アントラーズ|鹿島]]という当時の二強ライバル同士が対戦。第1戦2-2、第2戦0-0で延長戦に入り、延長前半10分に鹿島の[[小笠原満男]]が直接[[フリーキック|FK]]でVゴールを決め、年間王者を獲得した<ref>{{Cite web|和書|title=鹿島の英雄、伝説の直接FKにJ公式が再脚光 “宿敵”磐田との名勝負にファン大反響 |url=https://www.football-zone.net/archives/253335 |website=FOOTBALL ZONE |date=2020-03-25 |accessdate=2022-12-03}}</ref>。 === 国際ルールへの採用 === この方式がFIFAで検討された理由は主にふたつあり、ひとつは近代サッカーで一般的となったゾーンプレスなどの戦術や、大会が増えた事に伴う過密日程などにより、選手の体力が過度に消耗されている現状を指摘されるようになった事に対し、少しでも試合時間を短く切り上げる事。ふたつめは、理不尽さを指摘され続けながらも解決策がないままのPK戦を、少しでも減らす事だった。[[1995年]]、[[国際サッカー連盟]]はこのルールを競技規定に加えることを決定、同時にサドンデスでもVゴールでもない「ゴールデンゴール」という名称が与えられた。 国際大会では1996年の欧州選手権([[UEFA EURO '96]])から採用され、[[サッカードイツ代表|ドイツ]]対[[サッカーチェコ代表|チェコ]]の決勝戦で延長前半5分にドイツの[[オリバー・ビアホフ]]がゴールデンゴールを決め、ドイツの3度目の欧州制覇を達成した<ref>{{Cite web|和書|title=イタリアで開花したドイツ代表CF。欧州制覇をもたらした劇的ゴールデンゴール【EURO】 |url=https://www.footballchannel.jp/2020/06/30/post379206/ |website=フットボールチャンネル |date=2020-06-30 |accessdate=2022-12-03}}</ref>。4年後の[[UEFA EURO 2000]]の決勝戦、[[サッカーフランス代表|フランス]]対[[サッカーイタリア代表|イタリア]]でもフランスの[[ダヴィド・トレゼゲ]]が延長前半13分にゴールデンゴールを決めている。なお、ビアホフもトレゼゲもレギュラー選手ではなく、試合後半に1点ビハインドの場面で投入された交代選手だった。 ワールドカップでは1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|フランス大会]]のアジア地区最終予選・第三代表決定戦において、[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]が延長後半にゴールデンゴールを決めて、日本のワールドカップ初出場を実現した([[ジョホールバルの歓喜]])<ref group="注">Jリーグで『Vゴール』のルールに慣れていた日本に対し、イランの選手やスタッフはこの規定を理解しておらず、岡野のゴールに日本スタッフなどもピッチに雪崩れ込んで歓喜の輪を作っている事に対して、主審に試合再開をさせるように抗議を試みた。</ref>。また本大会ではフランスの[[ローラン・ブラン]]がトーナメント1回戦のパラグアイ戦で決めたのが初となっている。女子では、2003年大会の決勝で、ゴールデンゴールが生まれている。 ==== 採用された主な国際大会 ==== *[[FIFAワールドカップ]] - [[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]、[[2002 FIFAワールドカップ|2002年大会]] *[[FIFA女子ワールドカップ]] - [[1999 FIFA女子ワールドカップ|1999年大会]]、[[2003 FIFA女子ワールドカップ|2003年大会]] **[[1995 FIFA女子ワールドカップ|1995年大会]]の時点で試験的に導入する案もあったものの、採用されなかった<ref>{{cite web|url=http://www.fifa.com/mm/document/afdeveloping/technicaldevp/50/08/15/wwc_95_tr_part2_258.pdf|title=FIFA Women's World Cup Sweden '95|publisher=国際サッカー連盟|accessdate=2017-01-28|language=英語・フランス語・スペイン語・ドイツ語|page=79|quote=The experiments with new laws clearly could not lead yet to any definite conclusions. Only one opportunity arose to test out the Golden Goal idea, and that was not taken.}}</ref>。 *[[UEFA欧州選手権]] - [[UEFA EURO '96]]、[[UEFA EURO 2000]] *[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]] - [[1996年アトランタオリンピックのサッカー競技|1996年アトランタ大会]]、[[2000年シドニーオリンピックのサッカー競技|2000年シドニー大会]] === 国際ルールでの変遷 === 欧州でも過密日程への対応策として1997年に採用されたが、日本では劇的だと好意的に受け止められたVゴールに対し、欧州では1点取られただけで残りの反撃の機会がなくなってしまう事が「不公平だ」として支持を得られず、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]は、2002-2003シーズンから、[[欧州選手権]]や[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズリーグ]]などの主催大会で、「シルバーゴール(後述)」というゴールデンゴールの問題点を多少緩和した方式を採用した。さらに2004年、国際サッカー連盟は競技規定を改正し、[[7月1日]]から前後半15分ずつの延長戦を必ず最後まで行う旧来の方式に戻すことを発表した。これにより、ゴールデンゴールとシルバーゴールは順次廃止されていった。 [[2010年]]9月、第8代国際サッカー連盟会長の[[ゼップ・ブラッター]]が、「ワールドカップで行われている延長戦を廃止し、[[PK戦|ペナルティキック戦]]かゴールデンゴールを導入することを検討する」と述べた<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a5%b4%a1%bc%a5%eb%a5%c7%a5%f3%a5%b4%a1%bc%a5%eb&k=201009/2010090900983 W杯で延長戦廃止も=FIFA会長] [[時事通信]] [[2010年]][[9月9日]]</ref>。 日本では、[[2001年]]に[[日本フットボールリーグ]](JFL)で引き分け制が採用されたため延長戦自体が廃止された。続いて2002年にJ2、[[2003年]]にJ1でも延長戦が廃止となったため、リーグ戦での延長Vゴールは行われなくなった<ref name="jfa" />。[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]や[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]でも採用されていたが、いずれも[[2005年]]からはVゴール方式ではない延長戦(必ず前後半15分ずつ行う)を戦うルールになっている<ref group="注">なお[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]については、グループリーグの試合において延長戦を実施する年とそうでない年が存在するが、2005年以降はグループリーグでは延長戦を実施していない。詳細は各年の大会についての記事を参照。</ref>。[[J1・J2入れ替え戦]](2004年から[[2008年]]まで実施)は2004年のみVゴール方式で実施するレギュレーションであった。 === シルバーゴール === 「シルバーゴール」方式の延長戦とは、ゴールデンゴールとフルタイムの延長戦の折衷案から生まれたものであり、得点の有無に関わらず、先ずは延長前半終了まで試合を行う。延長前半終了時点で一方が勝ち越している場合はそこで試合終了となり、延長後半は行わない。延長前半終了時点で同点の場合、引き続き延長後半を行い、やはり得点の有無に関わらず延長後半終了まで試合を行うというものである。15分の延長戦と、さらに15分の再延長戦が用意されている状態と同様である。しかし、この延長戦方式も日差しや風向きなどから延長前半だけで終了するのも不公平だと指摘され、[[2004年]]に廃止。以降は延長戦も前・後半フルタイム行う旧来の方式に改められている。 == ホッケー == ホッケーの延長戦は7分30秒ハーフで行われ、ゴールデンゴール方式が採用されている。 == その他の競技における類似ルール == ;[[アイスホッケー]] :延長戦で「サドンヴィクトリー方式」が採用されている。 ;[[アメリカンフットボール]] :[[NFL]]では第4Q終了時に同点の場合、延長戦([[オーバータイム (アメリカンフットボール)|オーバータイム]])が行なわれる。 :*レギュラーシーズンの延長戦の場合(延長時間10分間)、いずれかのチームが[[タッチダウン]]した時点(6点追加)で試合終了となる<ref>レギュラーシーズンの延長戦の場合はタッチダウン後のトライフォーポイントの機会は与えられない。</ref>。先攻の攻撃結果がフィールドゴール(3点追加)の場合は、後攻に攻撃権が移行する。先攻後攻が互いに1回ずつ攻撃を終えた時点で、得点が上回っている側の勝ちとなる。この時点で同点の場合は試合を継続し、いずれかのチームが得点を挙げた時点で試合終了となる。得点差が付かない場合は引き分けとする。 :*ポストシーズンの延長戦の場合、先攻の攻撃結果にかかわらず、先攻の攻撃終了後には後攻に攻撃権が移行する。先攻後攻が互いに1回ずつ攻撃を終えた時点で、得点が上回った側の勝ちとなる。この時点で同点の場合は、得点差が付くまで試合を継続する(延長15分後にエンド入替)。 ;[[ゴールボール]] :前後半で決着がつかない場合、ゴールデンゴール方式の延長戦(前後半各3分ずつ)が実施される場合がある。それでも勝敗が決まらない場合はPK戦に似た「エクストラスロー」で決着をつける。 ;[[柔道]] :延長戦において「[[ゴールデンスコア]]方式」(時間無制限)が採用されることがある。 ;[[ラグビーフットボール]] :延長戦のルールとして、2015年に行われた[[ラグビーワールドカップ2015|ワールドカップ]]では同点の場合10分ハーフ・合計20分の延長戦を行い、それで同点であれば、再延長10分をサドンデスで行う。[[ジャパンラグビートップリーグ]]では[[ジャパンラグビートップリーグ2015-2016|2015-16年度]]の決勝トーナメントで、同点であった場合即時採用される。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[サドンデス]] *[[サヨナラゲーム]] *[[ゴールデンスコア]] *[[タイブレーク]] {{デフォルトソート:こおるてんこおる}} [[Category:サッカーのルール]] [[Category:ホッケー]]
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水野良
水野 良(みずの りょう、1963年7月13日 -)は、日本の作家、ゲームデザイナー。『ロードス島戦記』や『魔法戦士リウイ』で知られる。本名は榎本 武士(えのもと たけし)。 大阪府出身、血液型A型。立命館大学法学部卒業。兄弟に2つ上の兄がいる。 大学在学中からRPGに関心を持ち、安田均をブレイン役として山本弘らとSFゲームサークル「シンタックスエラー」を結成。やがてグループSNEの設立(1987年)に参加することになる。1997年に独立し、現在は同社社友。2020年10月27日よりブシロード社外監査役。 『コンプティーク』誌で連載された、『ロードス島戦記』のリプレイを小説化した『ロードス島戦記 灰色の魔女』で小説家としてのデビューを飾る。本書は通算100万部以上売れるいわゆるミリオンセラーとなっており、ライトノベル分野におけるファンタジーの地位を確立する牽引役の一つとなったと考えられる。 『ロードス島』だけではなく、グループSNEが小説・ゲームの舞台として展開しているフォーセリア世界の設定においても大きな役割を占めている。 ブロッコリー社の作品『ギャラクシーエンジェル』の総監修を行う傍ら、2005年8月5日からはラジオ番組『水野良Produce りょーことゆーなの G☆A☆』(ラジオ関西/音泉・放送終了)にてレギュラー出演。 『ソード・ワールドRPGリプレイ第3部』ではプレイヤーとして参加していたとされており(プレイヤーキャラクターの1人『白いダークエルフ』ことスイフリーの演者だと言われている。「水野良→水 / 野良→スイ(水)フリー(野良)」という命名方法であるらしい)、『ソード・ワールドRPG 完全版』でのルール変更の一因を作っている。 大学時代の同期にSF作家、童話作家の喜多哲士がいる。
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水野 良は、日本の作家、ゲームデザイナー。『ロードス島戦記』や『魔法戦士リウイ』で知られる。本名は榎本 武士。 大阪府出身、血液型A型。立命館大学法学部卒業。兄弟に2つ上の兄がいる。
{{別人|水野龍|x1=名前が同じ読みの海事実業家}} {{存命人物の出典明記|date=2018-03-03}} {{Infobox 作家 | name = {{ruby|水野 良|みずの りょう}} | pseudonym = {{ruby|水野 良|みずの りょう}} | image = Ryo Mizuno TGS14 (6529) (cropped).jpg | image_size = <!--画像サイズ--> | caption = [[2014年]]{{仮リンク|トゥールーズ・ゲームショー|fr|Toulouse Game Show}}にて。 | birth_name = 榎本 武士<br />(えのもと たけし)<ref name="bushi20201012" /> | birth_date = {{生年月日と年齢|1963|7|13}} | birth_place = {{JPN}}・[[大阪府]] | death_date = | death_place = | occupation = [[作家]]([[ライトノベル]]作家) | nationality = | period = [[1987年]] - | genre = | subject = | movement = | notable_works = 『ロードス島』シリーズ : (『[[ロードス島戦記]]』) : (『[[ロードス島伝説]]』) : (『[[新ロードス島戦記]]』) 『[[魔法戦士リウイ]]』シリーズ<br/>など | awards = | debut_works = 『ロードス島戦記』 }} {{読み仮名_ruby不使用|'''水野 良'''|みずの りょう|[[1963年]][[7月13日]] - }}は、日本の[[作家]]、[[ゲームデザイナー]]。『[[ロードス島戦記]]』や『[[魔法戦士リウイ]]』で知られる。本名は{{読み仮名_ruby不使用|'''榎本 武士'''|えのもと たけし}}<ref name="bushi20201012">[https://ssl4.eir-parts.net/doc/7803/ir_material1/149365/00.pdf 第14期定時株主総会招集ご通知],株式会社ブシロード,2020年10月12日</ref>。 [[大阪府]]出身、[[ABO式血液型|血液型]]A型。[[立命館大学]][[法学部]]卒業。兄弟に2つ上の兄がいる。 == 経歴 == 大学在学中から[[ロールプレイングゲーム|RPG]]に関心を持ち、[[安田均]]をブレイン役として[[山本弘]]らとSFゲームサークル「シンタックスエラー」を結成<ref>[[山本弘]]『宇宙はくりまんじゅうで滅びるか?』(河出書房新社)</ref>。やがて[[グループSNE]]の設立(1987年)に参加することになる。1997年に独立し、現在は同社社友。2020年10月27日より[[ブシロード]]社外監査役<ref name="bushi20201012" /><ref>[https://ssl4.eir-parts.net/doc/7803/tdnet/1885817/00.pdf 00.pdf 新役員体制に関するお知らせ],株式会社ブシロード,2020年9月29日</ref>。 『[[コンプティーク]]』誌で連載された、『[[ロードス島戦記]]』の[[リプレイ (TRPG)|リプレイ]]を[[小説]]化した『ロードス島戦記 灰色の魔女』で小説家としてのデビューを飾る。本書は通算100万部以上売れるいわゆる[[ミリオンセラー]]となっており、[[ライトノベル]]分野における[[ファンタジー]]の地位を確立する牽引役の一つとなったと考えられる。 『ロードス島』だけではなく、グループSNEが小説・ゲームの舞台として展開している[[フォーセリア]]世界の設定においても大きな役割を占めている。 [[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー社]]の作品『[[ギャラクシーエンジェル]]』の総監修を行う傍ら、2005年8月5日からはラジオ番組『[[水野良Produce りょーことゆーなの G☆A☆]]』([[ラジオ関西]]/[[音泉]]・放送終了)にてレギュラー出演。 『[[ソード・ワールドRPGリプレイ第3部]]』ではプレイヤーとして参加していたとされており([[プレイヤーキャラクター]]の1人『白いダークエルフ』こと[[スイフリー]]の演者だと言われている。「水野良→水 / 野良→スイ(水)フリー(野良)」という命名方法であるらしい)、『[[ソード・ワールドRPG]] 完全版』でのルール変更の一因を作っている。 大学時代の同期に[[SF作家]]、[[童話作家]]の[[喜多哲士]]がいる。 == 作品リスト == === 小説 === ; [[ロードス島戦記]]([[角川スニーカー文庫]]) ; [[ロードス島伝説]](角川スニーカー文庫) ; [[新ロードス島戦記]](角川スニーカー文庫) ; [[ロードス島戦記 誓約の宝冠]](角川スニーカー文庫) ; [[魔法戦士リウイ]](富士見ファンタジア文庫) ; [[クリスタニア]]シリーズ([[電撃文庫]]) ; [[スターシップ・オペレーターズ]](電撃文庫) ; ブレイドライン アーシア剣聖記(角川スニーカー文庫) :* ブレイドライン アーシア剣聖記 1 (2009年9月) :* ブレイドライン アーシア剣聖記 2 (2010年1月) :* ブレイドライン アーシア剣聖記 3 (2010年7月) :* ブレイドライン アーシア剣聖記 4 (2010年12月) :* ブレイドライン アーシア剣聖記 5 (2011年9月) :* ブレイドライン アーシア剣聖記 6 (2012年6月) ; [[グランクレスト戦記]](富士見ファンタジア文庫) ; [[ソード・ワールド短編集]]所収([[富士見ファンタジア文庫]]) :* 一角獣(ユニコーン)の乙女(『レプラコーンの涙』所収) :* レプラコーンの涙(『レプラコーンの涙』所収) :* 神官戦士が六人(『ナイトウインドの影』所収) :* ふたりの迷宮(ラビリンス)(『ふたりのラビリンス』所収) :* ロマールの罠(『ロマールの罠』所収) :* ただ一度の奇跡(『ただひとたびの奇跡』所収) :* 祝福されざる聖杯に(『虹の舞う海に』所収) : 「神官戦士が六人」以降の5作は、連作短編「羽根頭冒険譚」のシリーズである。 ; [[シェアード・ワールド|シェアード・ワールド・ノベルズ]] [[妖魔夜行]]作品集所収(角川スニーカー文庫) :* 身飾り(妖魔夜行作品集、『悪魔がささやく』所収) ; ミラー・エイジ(グループSNE[[リレー小説]]) :* 第2話 石化の呪い ; [[ギャラクシーエンジェル]](富士見ファンタジア文庫) :* ギャラクシーエンジェル 1(2002年11月) ; ギャラクシーエンジェル(角川書店) :* ギャラクシーエンジェル 廃太子の帰還(2006年3月) ; [[アカシックリコード]]([[NOVEL 0]]) :* アカシックリコード(2017年6月) === テーブルトークRPG === * ソード・ワールドRPG - ワールド・デザイン担当 ** ソード・ワールドRPG ワールドガイド * ロードス島戦記コンパニオン ** RPGリプレイ ロードス島戦記(全3巻) * クリスタニアコンパニオン * [[クリスタニアRPG]] ** レジェンド・オブ・クリスタニア ~はじまりの冒険者たち~ TRPGサウンド・リプレイ * [[グランクレストRPG]] - ワールド・デザイン担当 {{節スタブ}} === その他 === * RPG対談 水野良の遊戯空間(ゲームランド)([[メディアワークス]]) * [[PlayStation 2]]用[[ゲームソフト]]『[[ステラデウス]]』([[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]) - シナリオ監修。 * [[Xbox 360]]用[[ゲームソフト]]『[[インフィニット アンディスカバリー]]』([[スクウェア・エニックス]]) - シナリオを担当。 * [[スマートフォン]]用ゲームアプリ『[[アカシックリコード]]』(スクウェア・エニックス) - 原作を担当。 * [[スマートフォン]]用ゲームアプリ『ラストグノウシア』(ブシロード) - 監修を担当。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Official website|http://mizunoryo.net/|水野良公式サイト}} * [https://web.archive.org/web/20160712233308/http://mizunoryo.net/yeahboo/?m=201412 水野良のYeah!&Boo!] * [https://web.archive.org/web/20040806001048/http://www.mizunoryo.com/ CASTLE MIZUNO] * {{Twitter|ryou_mizuno}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:みすの りよう}} [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:日本のSF作家]] [[Category:日本のファンタジー作家]] [[Category:日本のライトノベル作家]] [[Category:テーブルトークRPG関連の人物]] [[Category:ロードス島戦記]] [[Category:日本のゲームクリエイター]] [[Category:リプレイ]] [[Category:グループSNE|人みすの りよう]] [[Category:日本ペンクラブ会員]] [[Category:ブシロードの人物]] [[Category:立命館大学出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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株主総会
株主総会(かぶぬしそうかい)は、株式会社の最高意思決定機関。株主を構成員とし、株式会社の基本的な方針や重要な事項を決定する。株主は株式会社の実質的な所有者であり、言い換えれば、倒産時でない限り、残余請求権者であることから、重要な意思決定は株主総会に委ねられている。 なお、株主は株主総会を通しておよそ会社に関することであれば、いかなる事項についても決議できるという理念(株主総会の万能機関性)は、所有と経営の分離などの現実もあり、全ての類型の株式会社において共有されているわけではない。日本法、アメリカ合衆国の州法、ドイツ法、フランス法においても一定の範囲で株主総会が決定できない事項が経営者側に留保されている。 日本の会社法の条文は、以下で条数のみ記載する。 日本では、会社法・第2編株式会社 第4章機関 第1節株主総会および種類株主総会(295条から328条)で規定されている。 日本の会社法においては、機関構造の柔軟化が図られているが、株主総会は取締役とともに必要的機関とされている。それに対して取締役会、監査役(381条)、監査役会(390条)などは任意設置機関であり、設置されない場合には株主総会が直接これらの機関の代替機能を有する。特に取締役会非設置会社においては株主総会の指示のもとに取締役が法律上、法律外の各行為を行うことができるようになった(362条4項)。それに伴い、閉鎖会社(公開会社ではない株式会社:107条)では、「取締役を株主に限る」とする定款の定めも有効と解される。 株主総会の権限については、取締役会非設置会社と取締役会設置会社とでは範囲が異なる。前者においては株式会社の組織、運営、管理その他株式会社に関する一切の事項を決定できるとされているが、後者(362条)においては法律に規定する事項及び定款で定めた事項に限り、決議をすることができるとされる。なお法律の規定により株主総会の決議を必要とする事項について、取締役、執行役、取締役会その他の株主総会以外の機関が決定することができることを内容とする定款の定めは、その効力を有しない(295条)。 株主総会の構成員は上述の通り株主であり、1株以上(定款において1単元の株式数の定めがある場合には1単元以上)の株式を有する株主によって構成される。 株主総会は開催時期により、決算承認とそれに伴う剰余金分配決議と役員の選任決議を行う定時株主総会と、合併や会社分割、株式交換などの重大な決定事項の発生する際に臨時に開かれるいわゆる臨時株主総会に分けられる。 日本に多い3月期決算の会社の場合、基準日制度の関係(決算日を基準日に設定する慣例により、基準日の有効期限が3か月以内と定められていることによる)から6月後半までに定時株主総会を開催する必要があり(124条2項)、いわゆる集中日と呼ばれる6月最終営業日の前営業日(ただし、これが月曜日である場合はその前週の金曜日)の特定日に多くの会社の定時株主総会が開催される傾向にある。これは、総会を特定の日に集中させて総会屋が出席できる総会をなるべく少なくする目的があった(後述「しゃんしゃん総会」で後述。東京証券取引所(東証)によると、2022年の3月期決算企業の集中日(6月29日)に株主総会を開く東証上場企業は約600社、集中率は26%で1995年の96.2%から大幅に低下し、1983年の集計開始以来で最低となった。 2006年(平成18年)5月に施行された会社法においては、同法が委任する法務省令(会社法施行規則)により、公開会社が株主総会の集中日(これも公開会社が開催するものの集中日に限る)に総会を開催したり、それ以外の会社であっても、定款の定めや全株主の同意なくして、過去に開催した場所と著しく離れた場所で総会を開催したりするといった場合は、招集通知においてその理由を説明することを義務付けられた(会社法施行規則63条1号ロ、63条2号)。これにより集中日開催に一定の制度的な歯止めがかけられた。 警察庁の集計によると1983年に約1700人いた総会屋は2021年末時点で約180人に減り、活動が以前と比べるとやや弱まったことや、株主総会を会社をアピールする舞台として捉える考え方(インベスター・リレーションズ=IR)が浸透してきたため、一般個人株主にも出席しやすいように土曜日や日曜日を含めて集中日以外に定時株主総会を開く会社が増加してきている。 何らかの事情により、基準日の有効期限までに決算・監査業務などを完了出来ない場合は後日継続会を行うことになっており、2021年12月に新生銀行を傘下に収めた影響で関係書類作成に時間を要し、2022年6月開催の株主総会までに事業報告が出来なかったSBIホールディングスでこの事例が発生している。 2005年(平成17年)改正前の商法旧会社編においては、原則として、取締役会の決議に基づいて代表取締役が招集するのが通常であったが、会社法においては(取締役会の設置自体が任意となったため)取締役が招集するとのみ規定されている(296条3項)。 6か月前より総株主の議決権の100分の3以上の株式を有する少数株主(公開会社の場合。複数の株主によって保有要件を満たすことは可能。)は、会議の目的、招集の理由を書面で取締役に提出して招集請求ができる(297条1項)。なお、保有期間の要件は定款で短縮可能である。招集請求後に取締役が株主総会の招集を怠った場合は裁判所の許可を得て株主自ら総会を招集することもできる(297条4項) 株主に出席の機会と準備の時間を与えるため、会日より2週間前に招集通知を発しなくてはならない(299条1項)(書面投票、電子投票を採用していない公開会社ではない株式会社においては1週間)。 なお、全員出席総会の場合には招集手続の瑕疵が事後的に問題となることはない(最高裁判所判例昭和60年12月20日『民集』39巻8号1869頁)。 招集通知への記載事項(298条1項、299条4項) 会社法においては、株主総会において全員の株主の同意がある場合は招集手続は不要とする明文の規定が置かれた(300条) 株式会社または総株主の議決権の100分の1以上の議決権を有する株主は、株主総会に係る招集の手続及び決議の方法を調査させるため、当該株主総会に先立ち、裁判所に対し、総会検査役の選任の申立てをすることができる(306条1項)。 取締役会設置会社においては、取締役は、定時株主総会の招集の通知に際して、株主に対し、承認を受けた計算書類及び事業報告を提供しなければならない(437条)。 招集の手続が法令もしくは定款に違反し、または著しく不公正なときには、株主等は、株主総会等の決議の日から3箇月以内に、訴えをもって当該決議の取消しを請求することができる(831条)。 開催場所は、商法旧会社編の規定(改正前商法第233条)で、本店(本社)の所在する市区町村か、隣接する市区町村に限られていたが、会社法においてはどこでも開催可能になった(298条1項1号)(大阪に本社のある会社が東京で、あるいは外国で総会を開催することも可能。但し定款で開催場所を限定することもできる。)。ただし、上記のとおり、会社法施行規則の規定により、異なる株主総会の開催場所の選定につき取締役はその理由について説明を求められる場合がある。 なお、特に株主数の多い上場会社の場合、会場としては会社社内の施設(大会議室、本社工場の体育館など)や社内に広いスペースが取れない場合には、広いスペースが確保できる近在大型ホテルの宴会場、イベントホールなどで行われることが多い。 株主総会をオンラインで傍聴または質疑応答までできるようにする会社もあり、新型コロナウイルスの感染防止のため増加傾向にある。 なお、過去に野村ホールディングスの株主が同社に対して100項目以上の提案を行うなど、「提案権が濫用的に行使される事例があった」として、2019年12月に同じ提案者が1回の総会に出せるのは原則10議案までに制限する改正会社法が国会で可決・成立した。しかし、会社法改正後も2020年5月に1株主から複数の議案が三井金属鉱業に対して上程されるなど、根本的な解決に至っていないとする指摘もある。 株主は、代理人によってその議決権を行使することができるが、出席することができる代理人の数には制限がある。 各株主(議決権制限株主および当該会社自身を除く)は、1株または1単元株毎に1票を有し、通常は多数決によって議事を決する(308条、309条)。ただし、会社法が定める一定の事項については特別多数による決定(特別決議(309条2項))または特殊決議が要求される(309条3項4項)。なお「4分の3特殊決議(4項特殊決議)」は会社法により初めて定められた決議方法である。 議決権行使の投票については2002年(平成14年)の商法改正で、インターネットによる投票も可能になり、会社法にも引き継がれた。会社が容認すればインターネットによる投票も可能になり(310条)、2004年(平成16年)のソニーや川崎重工業、NTT、NTTドコモ、日興コーディアルグループ、三井トラスト・ホールディングスなど14社が携帯・ネット端末等による投票を認めるようになった。 しかし、議決権電子行使プラットフォーム(2006年(平成18年)運用開始の機関投資家用のシステム。2002年(平成14年)の商法改正によりインターネット投票ができるようになったのは個人のみ)への参加が全体の2割に届かない状況(例えば、トヨタ自動車やキヤノンでも参加していない)であるのを見ても、インターネットによる議決権行使は普及していない状況が伺われる。 株主総会の議事については、法務省令で定める(b:会社法施行規則第72条)ところにより、議事録を作成し株主総会の日から本店に10年間、議事録の写しをその支店に5年間、備え置かなければならない(318条)。 株主総会において株主としての地位を利用して会社から不当な利益を得ようとする者をいう。会社から利益を与えられて、株主総会を短時間で終わらせる調整・根回しなどに努める与党総会屋と、株主総会の妨害を予告して会社から利益を得ようとし、得られない場合には株主総会を妨害しようとする野党総会屋に分類される。 これらの総会屋の存在は、特に上場会社において株主総会で決算書等が順調に報告承認されることが現任取締役への株主の信頼度を示すものと考える会社が多かった日本特有の事情に根ざしており、一時は一般の株主の権利行使の妨げとならないか「いわゆる特殊株主」として議論され「株主総会の正常化」が問題視されるほどであったが、会社の株主への株主権の行使・不行使に基づく利益供与の禁止(970条)の法制化が1981年(昭和56年)商法改正で実現し、同時に導入された単位株主制度(現・単元株主制度)による単位未満株主の議決権の排除により現在は沈静化の方向に向かっている。しかし、総会屋に対して露骨に金品の授受を行わないようになっただけで、特定の経済誌への広告の出稿要求や観葉植物のレンタルといった見えにくい形で総会屋への利益供与は継続しているとする見方もある。 総会屋対策のため、あるいは会社の方針を株主に非難されるのを避けるため、議事進行を故意に早める総会の俗称。会社の与党株主(従業員持株会担当者や総務部門から招集されていた)が総会の席の前面を陣取り、会社側の説明に大きな拍手や「賛成!」「議事進行!」などの大きな声で議事を早く進める。他の株主の意見はかき消され、総会は30分以内に終わることが多い。 この様な総会はオーナー会社に多く、オーナー以外の株主が株価の変動差益にしか興味を持たないため起こり得る日本独特のものであるが、株主総会の本来の意義からは大きく逸脱していると問題視されていた。総会屋よりも悪質であるという意見もある。 近年は、多くの場合、平日に出席してくれた株主の意見を反映させるべく質問時間を多く取ったり、逆に取締役の役員報酬の開示を求める議案を提出したり、経営陣との懇親会を総会後に設けたりするなど、個人株主を優遇する会社が増加し、株主総会の開催時間は1990年代以降、やや長くなる傾向にある。また、アクティビスト(後述)の登場により、従来は安定株主とされてきた機関投資家も、主に買収防止策や責任免除に関わる定款変更や役員の退職慰労金の議案などにつき、反対意見を投じる場合も多く見られるようになっている 絶対的な大株主の存在しない上場会社の株式を大量に取得した上で、株主価値の向上や株主への利益還元といった事象について、ファンドマネージャーが、株主総会以外で、つまり、経営者がIR活動として行う「スモール・ミーティング」や「機関投資家説明会」などの場で、経営陣の意向を、より市場株価を向上させる方向へ誘導させるよう直接活動することが、2003年以降、日本にも多くなった。アクティビストと呼ばれる。 アクティビストの多くはファンドマネージャーであり、古くは村上世彰率いるMACが日本の代表的アクティビストだったが、昭栄や東京スタイルなどの個別の投資案件では必ずしも成功しているとは言いがたかった。しかし、2003年12月にソトー、ユシロ化学の投資案件を手がけたウォレン・リヒテンシュタイン (Warren Lichtenstein)率いるスティール・パートナーズの成功により、一気にアクティビストによる経営者への影響力が注目されるようになった。2003年以降、活発な動きを見せているこのような外資系ファンドとしては、ダルトン・インベストメント、カーライル、ユニゾン・キャピタルなどがある。また、こうした一部株主の動きに触発され、これまで株主総会では経営者寄りの姿勢を見せていた日本の大手投資家組織たる企業年金基金連合会が、株主価値向上に関わる議案についての議決権行使基準を2003年に策定し、以降、公表するようになっている。 これらのアクティビストは「株主価値の向上」といった株主の立場からの正論と、豊富な資金力を背景に、経営陣により一層の株主価値の向上施策の提案 (主に増配や自己株の買付け等の株主還元政策や事業のM&Aを通じた選択と集中といった大雑把な内容が多い) を、株主総会の時期を意識しながら行っており、これまでの「物言わぬ株主」が、「発言する株主」として株主総会の場で剰余金処分案(配当)や役員選任議案について株主提案権の行使も含めた行動を起こすことが、決して珍しいことではなくなってきている。 これまで経営陣が提出する株主総会議案については、重要議案は概ね会社の意向通りに決議されるのが常であったが、2006年には、共に上場会社である大阪製鐵による東京鋼鐵の完全子会社化提案が、投資ファンドのいちごアセットの反対活動(いちごアセットは、株式交換比率が不当に低いことを理由に他の株主にも反対票を投じるよう呼びかけた)により、否決される事態となった。 また、経営陣の内紛または経営者と創業家などとの対立(お家騒動)が起きた際に、投資ファンドや議決権行使助言会社の意向が、(対立する)それぞれの陣営から出された議案の議決に大きく左右される事が、2010年代後半から増え始めている。 2020年代に入ると、女性取締役の不在や独立取締役の数を十分に満たしていないことなどを背景として、機関投資家や議決権行使助言会社が取締役選任に反対する事例が相次いでおり、特に2023年度に行われた株主総会ではトヨタ自動車会長の豊田章男への賛成比率が前年度から11%減の84.57%となったほか、キヤノン会長兼社長CEO(最高経営責任者)の御手洗冨士夫に至っては賛成比率が50.59%と僅差で再任されるという事態になった。 こうした一定の投資方針と資金量を持つファンドが、日本の株主総会、ひいては経営陣の意思決定に大きな影響を与えている事象を、「株主民主主義」と呼ぶ。 一方で、機関投資家が日本の株主総会に参加するためには、以下の障害が指摘されている。 議決権を積極的に行使する「物言う株主」が注目されるようにはなったが、そもそも議決権の行使までのハードルが高く、株主民主主義が普及しているとは言い難い。「株主の権利が強くなりすぎた」と判断するのは間違いと言える。 個人株主を重視する会社の株主総会においては、会社の企業活動のアピールのために、色々な特典を用意して、株主が参加してもらえるようなサービスを行なっている。しかし、この点については、株主の議決権行使に関する利益供与にならないかといった論点があると同時に、ファンドからは「日本の株主優待制度等は大口株主を軽視している」という指摘がなされている。 主なサービスには以下のものがある。 不祥事が起きてしまった会社での株主総会は、株主たちによる会社への断罪の場となり、壇上の経営陣に対し罵声まじりの批判が浴びせられる。当然総会はすんなり終わらず、株主の質問が取締役に集中し、総会が長時間に及ぶ。場合によっては前述の役員の解任決議・緊急動議提出に発展する事態もありうる。
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"title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "株主は、代理人によってその議決権を行使することができるが、出席することができる代理人の数には制限がある。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "各株主(議決権制限株主および当該会社自身を除く)は、1株または1単元株毎に1票を有し、通常は多数決によって議事を決する(308条、309条)。ただし、会社法が定める一定の事項については特別多数による決定(特別決議(309条2項))または特殊決議が要求される(309条3項4項)。なお「4分の3特殊決議(4項特殊決議)」は会社法により初めて定められた決議方法である。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "議決権行使の投票については2002年(平成14年)の商法改正で、インターネットによる投票も可能になり、会社法にも引き継がれた。会社が容認すればインターネットによる投票も可能になり(310条)、2004年(平成16年)のソニーや川崎重工業、NTT、NTTドコモ、日興コーディアルグループ、三井トラスト・ホールディングスなど14社が携帯・ネット端末等による投票を認めるようになった。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "しかし、議決権電子行使プラットフォーム(2006年(平成18年)運用開始の機関投資家用のシステム。2002年(平成14年)の商法改正によりインターネット投票ができるようになったのは個人のみ)への参加が全体の2割に届かない状況(例えば、トヨタ自動車やキヤノンでも参加していない)であるのを見ても、インターネットによる議決権行使は普及していない状況が伺われる。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "株主総会の議事については、法務省令で定める(b:会社法施行規則第72条)ところにより、議事録を作成し株主総会の日から本店に10年間、議事録の写しをその支店に5年間、備え置かなければならない(318条)。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "株主総会において株主としての地位を利用して会社から不当な利益を得ようとする者をいう。会社から利益を与えられて、株主総会を短時間で終わらせる調整・根回しなどに努める与党総会屋と、株主総会の妨害を予告して会社から利益を得ようとし、得られない場合には株主総会を妨害しようとする野党総会屋に分類される。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "これらの総会屋の存在は、特に上場会社において株主総会で決算書等が順調に報告承認されることが現任取締役への株主の信頼度を示すものと考える会社が多かった日本特有の事情に根ざしており、一時は一般の株主の権利行使の妨げとならないか「いわゆる特殊株主」として議論され「株主総会の正常化」が問題視されるほどであったが、会社の株主への株主権の行使・不行使に基づく利益供与の禁止(970条)の法制化が1981年(昭和56年)商法改正で実現し、同時に導入された単位株主制度(現・単元株主制度)による単位未満株主の議決権の排除により現在は沈静化の方向に向かっている。しかし、総会屋に対して露骨に金品の授受を行わないようになっただけで、特定の経済誌への広告の出稿要求や観葉植物のレンタルといった見えにくい形で総会屋への利益供与は継続しているとする見方もある。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "総会屋対策のため、あるいは会社の方針を株主に非難されるのを避けるため、議事進行を故意に早める総会の俗称。会社の与党株主(従業員持株会担当者や総務部門から招集されていた)が総会の席の前面を陣取り、会社側の説明に大きな拍手や「賛成!」「議事進行!」などの大きな声で議事を早く進める。他の株主の意見はかき消され、総会は30分以内に終わることが多い。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この様な総会はオーナー会社に多く、オーナー以外の株主が株価の変動差益にしか興味を持たないため起こり得る日本独特のものであるが、株主総会の本来の意義からは大きく逸脱していると問題視されていた。総会屋よりも悪質であるという意見もある。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "近年は、多くの場合、平日に出席してくれた株主の意見を反映させるべく質問時間を多く取ったり、逆に取締役の役員報酬の開示を求める議案を提出したり、経営陣との懇親会を総会後に設けたりするなど、個人株主を優遇する会社が増加し、株主総会の開催時間は1990年代以降、やや長くなる傾向にある。また、アクティビスト(後述)の登場により、従来は安定株主とされてきた機関投資家も、主に買収防止策や責任免除に関わる定款変更や役員の退職慰労金の議案などにつき、反対意見を投じる場合も多く見られるようになっている", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "絶対的な大株主の存在しない上場会社の株式を大量に取得した上で、株主価値の向上や株主への利益還元といった事象について、ファンドマネージャーが、株主総会以外で、つまり、経営者がIR活動として行う「スモール・ミーティング」や「機関投資家説明会」などの場で、経営陣の意向を、より市場株価を向上させる方向へ誘導させるよう直接活動することが、2003年以降、日本にも多くなった。アクティビストと呼ばれる。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "アクティビストの多くはファンドマネージャーであり、古くは村上世彰率いるMACが日本の代表的アクティビストだったが、昭栄や東京スタイルなどの個別の投資案件では必ずしも成功しているとは言いがたかった。しかし、2003年12月にソトー、ユシロ化学の投資案件を手がけたウォレン・リヒテンシュタイン (Warren Lichtenstein)率いるスティール・パートナーズの成功により、一気にアクティビストによる経営者への影響力が注目されるようになった。2003年以降、活発な動きを見せているこのような外資系ファンドとしては、ダルトン・インベストメント、カーライル、ユニゾン・キャピタルなどがある。また、こうした一部株主の動きに触発され、これまで株主総会では経営者寄りの姿勢を見せていた日本の大手投資家組織たる企業年金基金連合会が、株主価値向上に関わる議案についての議決権行使基準を2003年に策定し、以降、公表するようになっている。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これらのアクティビストは「株主価値の向上」といった株主の立場からの正論と、豊富な資金力を背景に、経営陣により一層の株主価値の向上施策の提案 (主に増配や自己株の買付け等の株主還元政策や事業のM&Aを通じた選択と集中といった大雑把な内容が多い) を、株主総会の時期を意識しながら行っており、これまでの「物言わぬ株主」が、「発言する株主」として株主総会の場で剰余金処分案(配当)や役員選任議案について株主提案権の行使も含めた行動を起こすことが、決して珍しいことではなくなってきている。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "これまで経営陣が提出する株主総会議案については、重要議案は概ね会社の意向通りに決議されるのが常であったが、2006年には、共に上場会社である大阪製鐵による東京鋼鐵の完全子会社化提案が、投資ファンドのいちごアセットの反対活動(いちごアセットは、株式交換比率が不当に低いことを理由に他の株主にも反対票を投じるよう呼びかけた)により、否決される事態となった。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、経営陣の内紛または経営者と創業家などとの対立(お家騒動)が起きた際に、投資ファンドや議決権行使助言会社の意向が、(対立する)それぞれの陣営から出された議案の議決に大きく左右される事が、2010年代後半から増え始めている。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2020年代に入ると、女性取締役の不在や独立取締役の数を十分に満たしていないことなどを背景として、機関投資家や議決権行使助言会社が取締役選任に反対する事例が相次いでおり、特に2023年度に行われた株主総会ではトヨタ自動車会長の豊田章男への賛成比率が前年度から11%減の84.57%となったほか、キヤノン会長兼社長CEO(最高経営責任者)の御手洗冨士夫に至っては賛成比率が50.59%と僅差で再任されるという事態になった。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "こうした一定の投資方針と資金量を持つファンドが、日本の株主総会、ひいては経営陣の意思決定に大きな影響を与えている事象を、「株主民主主義」と呼ぶ。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一方で、機関投資家が日本の株主総会に参加するためには、以下の障害が指摘されている。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "議決権を積極的に行使する「物言う株主」が注目されるようにはなったが、そもそも議決権の行使までのハードルが高く、株主民主主義が普及しているとは言い難い。「株主の権利が強くなりすぎた」と判断するのは間違いと言える。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "個人株主を重視する会社の株主総会においては、会社の企業活動のアピールのために、色々な特典を用意して、株主が参加してもらえるようなサービスを行なっている。しかし、この点については、株主の議決権行使に関する利益供与にならないかといった論点があると同時に、ファンドからは「日本の株主優待制度等は大口株主を軽視している」という指摘がなされている。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "主なサービスには以下のものがある。", "title": "日本の株主総会" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "不祥事が起きてしまった会社での株主総会は、株主たちによる会社への断罪の場となり、壇上の経営陣に対し罵声まじりの批判が浴びせられる。当然総会はすんなり終わらず、株主の質問が取締役に集中し、総会が長時間に及ぶ。場合によっては前述の役員の解任決議・緊急動議提出に発展する事態もありうる。", "title": "日本の株主総会" } ]
株主総会(かぶぬしそうかい)は、株式会社の最高意思決定機関。株主を構成員とし、株式会社の基本的な方針や重要な事項を決定する。株主は株式会社の実質的な所有者であり、言い換えれば、倒産時でない限り、残余請求権者であることから、重要な意思決定は株主総会に委ねられている。 なお、株主は株主総会を通しておよそ会社に関することであれば、いかなる事項についても決議できるという理念(株主総会の万能機関性)は、所有と経営の分離などの現実もあり、全ての類型の株式会社において共有されているわけではない。日本法、アメリカ合衆国の州法、ドイツ法、フランス法においても一定の範囲で株主総会が決定できない事項が経営者側に留保されている。
'''株主総会'''(かぶぬしそうかい)は、[[株式会社]]の最高[[意思決定]][[機関 (法)|機関]]。[[株主]]を構成員とし、株式会社の基本的な方針や重要な事項を決定する。株主は株式会社の実質的な所有者であり、言い換えれば、[[倒産]]時でない限り、残余請求権者であることから、重要な意思決定は株主総会に委ねられている。 なお、株主は株主総会を通しておよそ会社に関することであれば、いかなる事項についても決議できるという理念(株主総会の万能機関性)は、[[所有と経営の分離]]などの現実もあり、全ての類型の株式会社において共有されているわけではない。[[日本法]]、[[アメリカ合衆国]]の[[アメリカ法#連邦法と州法の関係|州法]]、[[ドイツ法]]、[[フランス法]]においても一定の範囲で株主総会が決定できない事項が経営者側に留保されている。 <!-- 一時コメントアウト。後日整理。 ==株主総会の権能== 株主は実質的な会社の所有者であり、その株主からなる株主総会にあってはおよそ会社に関することであればいかなる事項についても決議できる(株主総会の万能機関性)と考えられるが、取締役会設置会社においては一定の事項を取締役会専権事項と定め、株主総会の決議事項は[[会社法]]および[[定款]]の定める範囲に制限されることになっている([[b:会社法第360条|360条]])。もっとも、株主において迅速な意思決定を放棄するのは自由であるから定款に定めることで会社の本質に反しない限りにおいてその権限を拡大させることもできる。また、閉鎖会社においてはその万能性が[[会社法|平成18年施行会社法]]で回復されている。 なお、会社法においては、同法施行前の株式会社に相当する会社([[取締役会設置会社]])については商法旧会社編においての規定がそのまま引き継がれたが([[b:会社法第295条|295条]]2項)、同法施行前の有限会社に相当する会社(取締役会を設置しない会社または[[特例有限会社]])については、株主総会の決議事項についての制限はない(295条1項)。 アメリカデラウェア州法(有力州法)や[[ドイツ]]、[[フランス]]の株式会社においても株主総会の権能については概ね日本と同様である。 --> == 日本の株主総会 == {{law|section=1}} [[日本]]の[[会社法]]の条文は、以下で条数のみ記載する。 日本では、[[会社法]]・[[b:第2編第4章 機関 (コンメンタール会社法)|第2編株式会社 第4章機関]] 第1節株主総会および[[種類株主総会]]([[b:会社法第295条|295条]]から[[b:会社法第328条|328条]])で規定されている。 === 概説 === 日本の会社法においては、機関構造の柔軟化が図られているが、株主総会は[[取締役]]とともに必要的機関とされている。それに対して取締役会、[[監査役]]([[b:会社法第381条|381条]])、監査役会([[b:会社法第390条|390条]])などは任意設置機関であり、設置されない場合には株主総会が直接これらの機関の代替機能を有する。特に取締役会非設置会社においては株主総会の指示のもとに取締役が法律上、法律外の各行為を行うことができるようになった([[b:会社法第362条|362条]]4項)。それに伴い、[[公開会社でない会社|閉鎖会社]](公開会社ではない株式会社:[[b:会社法第107条|107条]])では、「取締役を株主に限る」とする定款の定めも有効と解される。 株主総会の権限については、取締役会非設置会社と取締役会設置会社とでは範囲が異なる。前者においては株式会社の組織、運営、管理その他株式会社に関する一切の事項を決定できるとされているが、後者([[b:会社法第362条|362条]])においては法律に規定する事項及び定款で定めた事項に限り、決議をすることができるとされる。なお法律の規定により株主総会の決議を必要とする事項について、取締役、執行役、取締役会その他の株主総会以外の機関が決定することができることを内容とする定款の定めは、その効力を有しない([[b:会社法第295条|295条]])。 株主総会の構成員は上述の通り株主であり、1株以上([[定款]]において1[[単元株|単元]]の株式数の定めがある場合には1単元以上)の[[株式]]を有する[[株主]]によって構成される。 === 開催時期 === 株主総会は開催時期により、[[決算]]承認とそれに伴う剰余金分配決議と役員の選任決議を行う'''定時株主総会'''と、合併や会社分割、株式交換などの重大な決定事項の発生する際に臨時に開かれるいわゆる'''臨時株主総会'''に分けられる。 日本に多い3月期決算の会社の場合、[[株主名簿|基準日制度]]の関係(決算日を基準日に設定する慣例により、基準日の有効期限が3か月以内と定められていることによる)から6月後半までに定時株主総会を開催する必要があり([[b:会社法第124条|124条]]2項)、いわゆる'''集中日'''と呼ばれる6月最終営業日の前営業日(ただし、これが月曜日である場合はその前週の金曜日)<ref> {{Archive.today |url= http://www.tse.or.jp/news/10/100614_b.html |title= 平成22年3月期決算会社の定時株主総会の開催日集計結果について東京証券取引所/東証からのニュース |date=20121219154201}}</ref>の特定日に多くの会社の定時株主総会が開催される傾向にある。これは、総会を特定の日に集中させて[[総会屋]]が出席できる総会をなるべく少なくする目的があった(後述「[[#しゃんしゃん総会|しゃんしゃん総会]]」で後述。[[東京証券取引所]](東証)によると、2022年の3月期決算企業の集中日(6月29日)に株主総会を開く東証上場企業は約600社、集中率は26%で1995年の96.2%から大幅に低下し、1983年の集計開始以来で最低となった<ref name="朝日新聞20220629">[https://www.asahi.com/articles/DA3S15339240.html?iref=pc_photo_gallery_breadcrumb 減る「総会屋」散る株主総会 かつては集中率96%■コロナ禍 進むオンライン化]『[[朝日新聞]]』夕刊2022年6月29日1面(2022年7月2日閲覧)</ref>。 2006年([[平成]]18年)5月に施行された[[会社法]]においては、同法が委任する[[法務省|法務]][[省令]]([[会社法施行規則]])により、[[公開会社]]が株主総会の集中日(これも公開会社が開催するものの集中日に限る)に総会を開催したり、それ以外の会社であっても、定款の定めや全株主の同意なくして、過去に開催した場所と著しく離れた場所で総会を開催したりするといった場合は、招集通知においてその理由を説明することを義務付けられた(会社法施行規則63条1号ロ、63条2号)。これにより集中日開催に一定の制度的な歯止めがかけられた。 [[警察庁]]の集計によると1983年に約1700人いた総会屋は2021年末時点で約180人に減り<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15339514.html 「40年で10分の1 警察庁」]『朝日新聞』夕刊2022年6月29日1面(2022年7月2日閲覧) 減る「総会屋」散る株主総会の関連記事</ref>、活動が以前と比べるとやや弱まったことや、株主総会を会社をアピールする舞台として捉える考え方([[インベスター・リレーションズ]]=IR)が浸透してきたため、一般個人株主にも出席しやすいように土曜日や日曜日を含めて集中日以外に定時株主総会を開く会社が増加してきている。 何らかの事情により、基準日の有効期限までに決算・監査業務などを完了出来ない場合は後日継続会を行うことになっており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dir.co.jp/report/research/law-research/law-others/20200522_021547.pdf |format=PDF |title=株主総会の「継続会」ガイダンスについて |access-date=2022-06-29 |date=2020-05-22 |website=大和総研 |page=1 |author=横山淳}}</ref>、2021年12月に[[SBI新生銀行|新生銀行]]を傘下に収めた影響で関係書類作成に時間を要し、2022年6月開催の株主総会までに事業報告が出来なかった[[SBIホールディングス]]でこの事例が発生している<ref>{{Cite web|和書|title=SBI、7月27日に株主総会「継続会」 |url=https://web.archive.org/web/20220701210423/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022062900882&g=eco |website=[[時事通信]] |access-date=2022-06-29 |date=2022-06-29}}</ref>。 === 招集手続 === 2005年(平成17年)改正前の商法旧会社編においては、原則として、[[取締役会]]の決議に基づいて[[代表取締役]]が招集するのが通常であったが、会社法においては(取締役会の設置自体が任意となったため)取締役が招集するとのみ規定されている([[b:会社法第296条|296条]]3項)。 6か月前より総株主の議決権の100分の3以上の株式を有する[[少数株主権|少数株主]](公開会社の場合。複数の株主によって保有要件を満たすことは可能。)は、会議の目的、招集の理由を書面で取締役に提出して招集請求ができる([[b:会社法第297条|297条]]1項)。なお、保有期間の要件は定款で短縮可能である。招集請求後に取締役が株主総会の招集を怠った場合は裁判所の許可を得て株主自ら総会を招集することもできる([[b:会社法第297条|297条]]4項) 株主に出席の機会と準備の時間を与えるため、会日より2週間前に招集通知を発しなくてはならない([[b:会社法第299条|299条]]1項)(書面投票、電子投票を採用していない[[公開会社でない会社|公開会社ではない株式会社]]においては1週間)。 なお、'''全員出席総会'''の場合には招集手続の瑕疵が事後的に問題となることはない([[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[判例]][[昭和]]60年12月20日『[[民集]]』39巻8号1869頁)。 招集通知への記載事項([[b:会社法第298条|298条]]1項、[[b:会社法第299条|299条]]4項) # 株主総会の日時および場所 # 株主総会の目的である事項があるときは、当該事項 # 株主総会に出席しない株主が書面によって議決権を行使することができることとするときは、その旨 # 株主総会に出席しない株主が電磁的方法によって議決権を行使することができることとするときは、その旨 # 法務省令で定める事項 会社法においては、株主総会において全員の株主の同意がある場合は招集手続は不要とする明文の規定が置かれた([[b:会社法第300条|300条]]) 株式会社または総株主の議決権の100分の1以上の議決権を有する株主は、株主総会に係る招集の手続及び決議の方法を調査させるため、当該株主総会に先立ち、裁判所に対し、総会検査役の選任の申立てをすることができる([[b:会社法第306条|306条]]1項)。 取締役会設置会社においては、取締役は、定時株主総会の招集の通知に際して、株主に対し、承認を受けた[[計算書類]]及び事業報告を提供しなければならない([[b:会社法第437条|437条]])。 招集の手続が法令もしくは定款に違反し、または著しく不公正なときには、株主等は、株主総会等の決議の日から3箇月以内に、訴えをもって当該決議の取消しを請求することができる([[b:会社法第831条|831条]])。 === 開催場所 === 開催場所は、商法旧会社編の規定(改正前商法第233条)で、本店(本社)の所在する市区町村か、隣接する市区町村に限られていたが、会社法においてはどこでも開催可能になった([[b:会社法第298条|298条]]1項1号)(大阪に本社のある会社が東京で、あるいは外国で総会を開催することも可能。但し定款で開催場所を限定することもできる。)。ただし、上記のとおり、会社法施行規則の規定により、異なる株主総会の開催場所の選定につき取締役はその理由について説明を求められる場合がある。 なお、特に株主数の多い上場会社の場合、会場としては会社社内の施設(大会議室、本社工場の体育館など)や社内に広いスペースが取れない場合には、広いスペースが確保できる近在大型[[ホテル]]の宴会場、イベントホールなどで行われることが多い。 ==== オンライン ==== {{seealso|#電磁的方法による議決権の行使}} 株主総会を[[オンライン]]で傍聴または質疑応答までできるようにする会社もあり、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の感染防止のため増加傾向にある<ref name="朝日新聞20220629"/>。 ===株主提案権=== ; 議題提案権([[b:会社法第303条|303条]]) : 6か月以上前から議決権の1%以上または300[[単元株|単元]]以上保有し続けた(非公開取締役会設置会社では保有し続けている必要は無い)株主は、取締役に対し、一定の事項を株主総会の目的とすることを請求することができる。 ; 議案提案権([[b:会社法第304条|304条]]) : 議決権のある株主は過去三年以内賛成10%未満の議案再提案など例外を除き、株主総会の場において株主総会で議決すべき議案を提出することができる。 ; 通知請求権([[b:会社法第305条|305条]]) : 303条を行使した株主は、総会の8週間前なら株主総会招集通知にその提案の要領を記載することを請求することができる。 なお、過去に[[野村ホールディングス]]の株主が同社に対して100項目以上の提案を行うなど<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/9295|title=「野菜ホールディングス」に社名変更を|date=2012年6月1日|accessdate=2022年7月2日|publisher=[[東洋経済新報社|東洋経済オンライン]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2012/06/24136767.html?p=all|title=トイレはすべて和式にして、足腰を鍛えろ 個人株主が野村HDに「超皮肉提案」|date=2012年6月24日|accessdate=2022年7月2日|publisher=[[ジェイ・キャスト|J-CASTニュース]]}}</ref>、「提案権が濫用的に行使される事例があった」として、2019年12月に同じ提案者が1回の総会に出せるのは原則10議案までに制限する改正会社法が国会で可決・成立した<ref> {{Wayback |url= https://www.jiji.com/jc/article?k=2019112201057&g=pol |title= 株主提案制限の規定削除 会社法改正案を修正可決 ― 衆院委 |date= 20191122094911}} </ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2020/01/16/antena-628/|title=株主提案を制限する改定会社法が成立 「脱原発つぶし」と反発も|date=2020年1月16日|accessdate=2022年7月2日|publisher=[[週刊金曜日]]}}</ref>。しかし、会社法改正後も2020年5月に1株主から複数の議案が[[三井金属鉱業]]に対して上程されるなど、根本的な解決に至っていないとする指摘もある<ref>{{Cite web|和書|title=「新聞紙をトイレ代わりにせよ」……モンスター株主のトンデモ議案が無くならないワケ|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2005/22/news029.html|website=[[ITmedia]] ビジネスオンライン|accessdate=2020-11-07|publisher=|date=2020-05-22|author=古田拓也}}</ref>。 === 決議方法(議決権行使)=== {{main|株主の議決権|プロキシーファイト}} 株主は、代理人によってその議決権を行使することができるが、出席することができる代理人の数には制限がある。 ====株主総会決議==== {{main|株主総会決議}} 各株主(議決権制限株主および当該会社自身を除く)は、1株または1単元株毎に1票を有し、通常は多数決によって議事を決する([[b:会社法第308条|308条]]、[[b:会社法第309条|309条]])。ただし、会社法が定める一定の事項については特別多数による決定([[株主総会決議|特別決議]](309条2項))または[[株主総会決議|特殊決議]]が要求される(309条3項4項)。なお「4分の3特殊決議(4項特殊決議)」は会社法により初めて定められた決議方法である。 * 株主総会の決議の省略([[b:会社法第319条|319条]]) =====決議の種類===== {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" |- ! 名称 !! 定足数 !! 決議要件 |- | '''普通決議'''<br>(309条1項) | 「議決権を行使することができる株主の議決権の'''過半数'''を有する株主が出席」<br> ※定款で別段の定めをしうる(一般的に上場会社では過半数要件を解除している会社が多い) ※ただし役員の選任・解任の場合は'''3分の1'''以上でなければならない | 「出席した当該株主の議決権の'''過半数'''」<br> ※定款で別段の定めをしうる。 |- | '''役員(取締役・会計参与・監査役)選任・解任の決議'''<br>([[b:会社法第341条|341条]]) | rowspan="2" | 「議決権を行使することができる株主の議決権の'''過半数'''を有する株主が出席」<br> ※定款で別段の定めをしうるが、'''3分の1'''以上でなければならない。 | 「出席した当該株主の議決権の'''過半数'''」<br> ※定款で別段の定めをしうるが、'''過半数'''を上回る場合でなければならない。 |- | '''特別決議'''<br>(309条2項)<br>(監査役の解任など) | 「出席した当該株主の議決権の'''3分の2'''以上に当たる多数」<br> ※定款で別段の定めをしうるが、'''3分の2'''を上回る場合でなければならない。 |- | '''特殊決議'''<br>(309条3項)<br>(公開会社が非公開会社に定款変更する場合など) | 規定なし | 「議決権を行使することができる株主の'''半数'''以上かつ当該株主の議決権の'''3分の2'''以上」<br> ※定款で別段の定めをしうるが、これを上回る割合でなければならない。 |- | '''特殊決議'''<br>(309条4項)<br>(非公開会社において剰余金配当・残余財産分配等につき株主ごとに異なる取り扱いをする規定を置く場合) | 規定なし | 「総株主の'''半数以上'''かつ総株主の議決権の'''4分の3'''以上」<br> ※定款で別段の定めをしうるが、これを上回る割合でなければならない。 |} === 電磁的方法による議決権の行使 === 議決権行使の投票については2002年(平成14年)の商法改正で、[[インターネット]]による投票も可能になり、会社法にも引き継がれた。会社が容認すれば[[インターネット]]による投票も可能になり([[b:会社法第310条|310条]])、2004年(平成16年)の[[ソニー]]や[[川崎重工業]]、[[日本電信電話|NTT]]、[[NTTドコモ]]、[[日興コーディアルグループ]]、[[三井トラスト・ホールディングス]]など14社が[[携帯電話|携帯・ネット端末]]等による投票を認めるようになった。 しかし、[[議決権電子行使プラットフォーム]](2006年(平成18年)運用開始の機関投資家用のシステム。2002年(平成14年)の商法改正によりインターネット投票ができるようになったのは個人のみ)への参加が全体の2割に届かない状況(例えば、[[トヨタ自動車]]や[[キヤノン]]でも参加していない)であるのを見ても、インターネットによる議決権行使は普及していない状況が伺われる<ref name="20080623nikkeibo">{{cite news | author = 牧野 洋 | url = http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20080618/162646/ | title = 株主民主主義が確立される日は来るのか | newspaper = [[日経ビジネス]]オンライン | publisher = [[日経BP]] | date = 2008-06-23 | accessdate = 2017-04-25 }}</ref>。 ===議事録=== 株主総会の議事については、法務省令で定める([[b:会社法施行規則第72条]])ところにより、議事録を作成し株主総会の日から本店に10年間、議事録の写しをその支店に5年間、備え置かなければならない([[b:会社法第318条|318条]])。 === 株主総会の運営 === ==== 総会屋 ==== {{main|総会屋}} 株主総会において株主としての地位を利用して会社から不当な利益を得ようとする者をいう。会社から利益を与えられて、株主総会を短時間で終わらせる調整・根回しなどに努める'''与党総会屋'''と、株主総会の妨害を予告して会社から利益を得ようとし、得られない場合には株主総会を妨害しようとする'''野党総会屋'''に分類される。 これらの総会屋の存在は、特に上場会社において株主総会で決算書等が順調に報告承認されることが現任取締役への株主の信頼度を示すものと考える会社が多かった日本特有の事情に根ざしており、一時は一般の株主の権利行使の妨げとならないか「いわゆる特殊株主」として議論され「株主総会の正常化」が問題視されるほどであったが、会社の株主への株主権の行使・不行使に基づく利益供与の禁止([[b:会社法第970条|970条]])の法制化が1981年(昭和56年)商法改正で実現し、同時に導入された単位株主制度(現・単元株主制度)による単位未満株主の議決権の排除により現在は沈静化の方向に向かっている。しかし、総会屋に対して露骨に金品の授受を行わないようになっただけで、特定の経済誌への広告の出稿要求や観葉植物のレンタルといった見えにくい形で総会屋への利益供与は継続しているとする見方もある。 ==== しゃんしゃん総会 ==== 総会屋対策のため、あるいは会社の方針を株主に非難されるのを避けるため、議事進行を故意に早める総会の俗称。会社の与党株主(従業員持株会担当者や総務部門から招集されていた)が総会の席の前面を陣取り、会社側の説明に大きな拍手や「賛成!」「議事進行!」などの大きな声で議事を早く進める。他の株主の意見はかき消され、総会は30分以内に終わることが多い。 この様な総会はオーナー会社に多く、オーナー以外の株主が株価の変動差益にしか興味を持たないため起こり得る日本独特のものであるが、株主総会の本来の意義からは大きく逸脱していると問題視されていた。総会屋よりも悪質であるという意見もある。 近年は、多くの場合、平日に出席してくれた株主の意見を反映させるべく質問時間を多く取ったり、逆に取締役の役員報酬の開示を求める議案を提出したり、経営陣との懇親会を総会後に設けたりするなど、個人株主を優遇する会社が増加し、株主総会の開催時間は1990年代以降、やや長くなる傾向にある。また、アクティビスト(後述)の登場により、従来は安定株主とされてきた[[機関投資家]]も、主に買収防止策や責任免除に関わる定款変更や役員の退職慰労金の議案などにつき、反対意見を投じる場合も多く見られるようになっている ==== 株主民主主義 ==== 絶対的な大株主の存在しない[[上場会社]]の株式を大量に取得した上で、[[株主価値]]の向上や株主への利益還元といった事象について、[[ファンドマネージャー]]が、株主総会以外で、つまり、経営者が[[IR活動]]として行う「[[スモール・ミーティング]]」や「[[機関投資家説明会]]」などの場で、経営陣の意向を、より市場株価を向上させる方向へ誘導させるよう直接活動することが、2003年以降、日本にも多くなった。[[アクティビスト (株主)|アクティビスト]]と呼ばれる。 アクティビストの多くはファンドマネージャーであり、古くは[[村上世彰]]率いる[[村上ファンド|MAC]]が日本の代表的アクティビストだったが、[[昭栄]]や[[東京スタイル]]などの個別の投資案件では必ずしも成功しているとは言いがたかった。しかし、2003年12月に[[ソトー]]、[[ユシロ化学]]の投資案件を手がけた[[ウォレン・リヒテンシュタイン]] (Warren Lichtenstein)率いる[[スティール・パートナーズ]]の成功により、一気にアクティビストによる経営者への影響力が注目されるようになった。2003年以降、活発な動きを見せているこのような外資系ファンドとしては、[[ダルトン・インベストメント]]、[[カーライル・グループ|カーライル]]、[[ユニゾン・キャピタル]]などがある。また、こうした一部株主の動きに触発され、これまで株主総会では経営者寄りの姿勢を見せていた日本の大手投資家組織たる[[企業年金基金連合会]]が、株主価値向上に関わる議案についての[[議決権行使基準]]を2003年に策定し、以降、公表するようになっている。 これらのアクティビストは「株主価値の向上」といった株主の立場からの正論と、豊富な資金力を背景に、経営陣により一層の株主価値の向上施策の提案 (主に[[増配]]や[[自己株の買付け]]等の[[株主還元政策]]や事業の[[M&A]]を通じた[[選択と集中]]といった大雑把な内容が多い) を、株主総会の時期を意識しながら行っており、これまでの「物言わぬ株主」が、「発言する株主」として株主総会の場で剰余金処分案(配当)や役員選任議案について株主提案権の行使も含めた行動を起こすことが、決して珍しいことではなくなってきている。 これまで経営陣が提出する株主総会議案については、重要議案は概ね会社の意向通りに決議されるのが常であったが、2006年には、共に上場会社である[[大阪製鐵]]による[[東京鋼鐵]]の[[完全子会社]]化提案が、投資ファンドの[[いちごアセット]]の反対活動(いちごアセットは、[[株式交換比率]]が不当に低いことを理由に他の株主にも反対票を投じるよう呼びかけた)により、否決される事態となった。 また、経営陣の内紛または経営者と創業家などとの対立([[お家騒動]])が起きた際に、投資ファンドや議決権行使助言会社の意向が、(対立する)それぞれの陣営から出された議案の議決に大きく左右される事が、2010年代後半から増え始めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASH3B4DK8H3BULFA01H.html?ref=newspicks|title=大塚家具のお家騒動、米投資ファンドが社長側へ|date=2015年3月11日|accessdate=2019年7月6日|publisher=朝日新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43339790U9A400C1DTA000/|title=LIXIL大株主の豪ファンド、解任に賛成表明|date=2019年4月4日|accessdate=2019年7月6日|publisher=日本経済新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190703/k10011980781000.html|title=株主が社長を選んだって本当?|date=2019年7月5日|accessdate=2019年7月6日|publisher=[[日本放送協会|NHK]] }}</ref>。 2020年代に入ると、女性取締役の不在や独立取締役の数を十分に満たしていないことなどを背景として、機関投資家や議決権行使助言会社が取締役選任に反対する事例が相次いでおり<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=キヤノン御手洗氏が「あわや取締役を退任」の衝撃 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/666776 |website=東洋経済新報 |date=2023-04-21 |access-date=2023-06-29 |author=吉野月華、梅垣勇人}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ会長に「反対」推奨、18年ぶり株主提案 異例の株主総会 |url=https://www.asahi.com/articles/ASR676T1KR65ULFA004.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2023-06-07 |access-date=2023-06-29 |author=江口英佑、木村裕明}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=海外投資家は厳しい視線 トヨタ総会、会場と温度差 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023061401077&g=eco |website=時事通信 |access-date=2023-06-29 |date=2023-06-15}}</ref>、特に2023年度に行われた株主総会では[[トヨタ自動車]]会長の[[豊田章男]]への賛成比率が前年度から11%減の84.57%となったほか、[[キヤノン]]会長兼社長CEO(最高経営責任者)の[[御手洗冨士夫]]に至っては賛成比率が50.59%と僅差で再任されるという事態になった<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=キヤノン御手洗会長の取締役選任、賛成比率50.5%どまり |url=https://www.nikkei.com/nkd/industry/article/?n_m_code=034&ng=DGKKZO69861280T00C23A4TB0000 |website=日本経済新聞 |access-date=2023-06-29 |date=2023-04-04}}</ref><ref>{{Cite news |title=トヨタ、豊田氏再任の賛成票比率84.57% 昨年比11ポイント減=報告書 |url=https://jp.reuters.com/article/toyota-agm-vote-idJPKBN2Y10AZ |work=ロイター通信 |date=2023-06-15 |access-date=2023-06-29}}</ref>。 こうした一定の投資方針と資金量を持つファンドが、日本の株主総会、ひいては経営陣の意思決定に大きな影響を与えている事象を、「株主民主主義」と呼ぶ。 ===== 参加への障害 ===== 一方で、機関投資家が日本の株主総会に参加するためには、以下の障害が指摘されている<ref name="20080623nikkeibo"/>。 * 総会が特定の週に集中している - 総会開催日は特定の日からは分散される傾向にあるが、週単位で見れば固まっている。さらに、総会議案が届いてから送り返すまでの期間は、平均3日と非常に短い。そのため、機関投資家は短期間で大量の判断を行わなければならない<ref name="20080623nikkeibo"/>。 * 議案の情報量が少ない - 判断を行う際の判断材料が少ない<ref name="20080623nikkeibo"/>。 * 議決権行使は紙で行うところが大部分。電子投票であれば、上述の議案への返送における期間の短さはかなり改善される<ref name="20080623nikkeibo"/>。 議決権を積極的に行使する「物言う株主」が注目されるようにはなったが、そもそも議決権の行使までのハードルが高く、株主民主主義が普及しているとは言い難い。「株主の権利が強くなりすぎた」と判断するのは間違い<ref name="20080623nikkeibo"/>と言える。 ==== 株主総会における株主へのサービス ==== 個人株主を重視する会社の株主総会においては、会社の企業活動のアピールのために、色々な特典を用意して、株主が参加してもらえるようなサービスを行なっている。しかし、この点については、株主の議決権行使に関する利益供与にならないかといった論点があると同時に、ファンドからは「日本の株主優待制度等は大口株主を軽視している」という指摘がなされている。 主なサービスには以下のものがある。 ; [[お土産]] : 多くの会社において、出席した株主にお土産として自社製品や茶菓等が配られる。「お車代」と称して、[[商品券]]や[[プリペイドカード]]などの[[金券]]を出席者に配布している会社も存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://shikiho.jp/news/0/209492|title=ぜんぶ見せます!株主総会おみやげ最新情報 17年12月〜18年1月決算会社編|date=2018年2月24日|accessdate=2019年6月21日|publisher=[[会社四季報オンライン]]編集部}}</ref>。しかし、2010年代中頃から廃止する会社が多くなっている。 ; 会社決算説明会の開催 : 総会後、会社の事業内容について知識のあまりない個人株主に対して、事業活動や組織について噛み砕いて説明する場を設ける場合がある。とりわけ、一般[[消費者]]になじみ(接点)がない[[生産財]]・[[中間財]]メーカーなどが積極的に行っている。 ; 懇親会の開催 : 総会後、飲食[[接待]]を行なう。その場で各役員が、各株主と直接対話する場合も多い。また、[[飲食業]]([[外食産業]]・[[中食産業]])を営む会社では、新商品を中心に自社の商品を試食してもらうために提供する場合もある。[[ゲームソフト]]の会社では総会中に同伴の子供が自社ソフトのプレイを楽しめるようになっていたり、終了後に新商品の試用ができるようになっていたりする。 ; [[演奏会|コンサート]] : [[音楽]]関連の会社([[レコード会社]]や[[芸能事務所]]など)では、会社がプロデュースする[[音楽家]]([[ミュージシャン]])の演奏会を行なう場合がある。 ; [[託児所]] : 総会開催中に、同伴の子供を対象に託児サービスを行っている会社もある。 ==== 不祥事の起きた会社での総会 ==== [[不祥事]]が起きてしまった会社での株主総会は、株主たちによる会社への断罪の場となり、壇上の経営陣に対し罵声まじりの批判が浴びせられる。当然総会はすんなり終わらず、株主の質問が取締役に集中し、総会が長時間に及ぶ。場合によっては前述の役員の解任決議・緊急動議提出に発展する事態もありうる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[総会屋]] * [[コーポレートガバナンス]] * [[決算公告]] * [[株主優待]] * [[権利確定日]] * [[権利落ち日]] * [[株主総会決議]] * [[株主代表訴訟]] * [[検査役]] * {{仮リンク|グラス・ルイス|en|Glass Lewis}} * {{仮リンク|リスクメトリックス|en|RiskMetrics}} == 外部リンク == * {{コトバンク}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かふぬしそうかい}} [[Category:株式会社法]] [[Category:日本の株式会社法]] [[Category:株式市場]] [[Category:金融経済学]] [[Category:会合]]
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数学定数
数学定数(すうがくていすう)とは、なんらかの性質を持った定数である。 数学定数は、ふつうは実数体か複素数体の元である。数学定数と呼ばれうるものは、一つの変項を持ち、ZFC 集合論により証明可能な論理式により、それを満足するただ一つの数として決定可能 (definable) であり、ほとんどの場合はその値が計算可能 (computable) である。 変数を斜体で表すのに対し、定数であることを明示するために、立体を使うことがある。 数学定数と同じく定数と呼ばれるものに「物理定数」があるが、物理定数は「数」というより「量」であり、単なる単位系の取り方によって数値が変わる。たとえば、光速度は物理定数だが、単位を変えれば 299792.458km/s、299792458m/s と、数値が変化する。 微細構造定数のような無次元量の物理定数は単位の取り方に依存しないが、他の物理定数同様、その値は物理的な計測で決定され、ある数式で数学的に決定される数学定数とは根本的に異なる。 物理定数の場合、計測の条件(重力の差による「重さ」の変化など)や結果により、数学定数より大きな誤差(不確かさ)も生じるが、将来、数学的に決定され数学定数であることが判明する可能性はある。 「1インチをセンチメートルで表した値 (= 2.54)」や「円周率を3や3.14、3.1415などにした数学定数のおよその値」のような、人為的に決められた数や、特定の場所で測定され便宜上「標準重力加速度(9.80619920 m/s)」とされた重力加速度などは数学定数ではない。 名前に定数とついていても数学定数ではないものもある。 例えば、チャイティンの定数は、計算模型を指定しなければ値が決まらず、数学定数ではない。 記事がない定数の詳細は英語版を参照。 「分野」欄の略記は次の通り: 一般 - 数学一般、数論 - 数論、カオス - カオス理論、組合せ - 組合せ数学、情報 - 情報理論、解析 - 解析学。 「性質」欄の「有理数」は整数以外の有理数、「代数的数」は無理数の代数的数または虚数の代数的数、「無理数」は代数的数か超越数か不明の無理数を表す。 記号は重複がある。
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数学定数(すうがくていすう)とは、なんらかの性質を持った定数である。 数学定数は、ふつうは実数体か複素数体の元である。数学定数と呼ばれうるものは、一つの変項を持ち、ZFC 集合論により証明可能な論理式により、それを満足するただ一つの数として決定可能 (definable) であり、ほとんどの場合はその値が計算可能 (computable) である。 変数を斜体で表すのに対し、定数であることを明示するために、立体を使うことがある。
{{出典の明記|date=2016年8月}} '''数学定数'''(すうがくていすう)とは、なんらかの性質を持った[[定数]]である。 数学定数は、ふつうは[[実数]][[可換体|体]]か[[複素数]]体の[[集合|元]]である。数学定数と呼ばれうるものは、一つの変項を持ち、[[公理的集合論|ZFC 集合論]]により証明可能な[[論理式 (数学)|論理式]]により、それを満足するただ一つの数として決定可能 (definable) であり、ほとんどの場合はその値が計算可能 (computable) である。 変数を[[斜体]]で表すのに対し、定数であることを明示するために、[[ローマン体|立体]]を使うことがある。 == 数学定数でないもの == 数学定数と同じく定数と呼ばれるものに「[[物理定数]]」があるが、物理定数は「数」というより「[[量]]」であり、単なる[[単位系]]の取り方によって数値が変わる。たとえば、[[光速度]]は物理定数だが、単位を変えれば {{gaps|299|792.458|km/s}}、{{gaps|299|792|458|m/s}} と、数値が変化する。 [[微細構造定数]]のような[[無次元量]]の物理定数は単位の取り方に依存しないが、他の物理定数同様、その値は'''物理的な計測'''で決定され、ある数式で'''数学的に決定'''される数学定数とは根本的に異なる。 物理定数の場合、計測の条件([[重力]]の差による「[[重さ]]」の変化など)や結果により、数学定数より大きな[[誤差]]([[不確かさ (測定)|不確かさ]])も生じるが、将来、数学的に決定され数学定数であることが判明する可能性はある。 「1[[インチ]]を[[センチメートル]]で表した値 (= 2.54)」や「円周率を3や3.14、3.1415などにした数学定数のおよその値」のような、人為的に決められた数や、特定の場所で測定され便宜上「標準重力加速度(9.80619920 m/s<sup>2</sup>)」とされた[[重力加速度]]などは数学定数ではない。 名前に定数とついていても数学定数ではないものもある。 例えば、[[チャイティンの定数]]は、[[計算模型]]を指定しなければ値が決まらず、数学定数ではない{{要出典|date=2021年2月9日 (火) 10:49 (UTC)}}。<!--詳しい人修正お願いします--> == 主な数学定数 == 記事がない定数の詳細は英語版を参照。 「分野」欄の略記は次の通り: 一般 - [[数学|数学一般]]、数論 - [[数論]]、カオス - [[カオス理論]]、組合せ - [[組合せ数学]]、情報 - [[情報理論]]、解析 - [[解析学]]。 「性質」欄の「[[有理数]]」は[[整数]]以外の有理数、「[[代数的数]]」は[[無理数]]の代数的数または[[虚数]]の代数的数、「無理数」は代数的数か[[超越数]]か不明の無理数を表す。 記号は重複がある。 {|class="wikitable" |- !記号||およその値||名称||分野||性質||発見年||既知の桁数 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>0</math> ||= 0 ||[[0|零、ゼロ]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[整数]] |style="text-align:right"|[[紀元前7世紀|前7]]-[[紀元前5世紀|前5世紀]]頃 |style="text-align:right"|∞ |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\Lambda</math> ||≧ 0 ≦ 0.22 ||{{仮リンク|ド・ブルイン-ニューマン定数|en|De Bruijn–Newman constant}} ||[[数論]] || |style="text-align:right"|[[1950年]]? |style="text-align:right"|0 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>l</math> ||≈ 0.11000 10000 00000 00000 00010 00000 00000 ||[[リウヴィル数]] || |style="text-align:center"|[[超越数]] |style="text-align:right"|[[1844年]] |style="text-align:right"|∞ |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>C_{10}</math> ||≈ 0.12345 67891 01112 13141 51617 18192 02122 ||[[チャンパーノウン定数]] || |style="text-align:center"|[[超越数]] |style="text-align:right"|[[1934年]] |style="text-align:right"|∞ |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>i^i</math> ||≈ 0.20787 95763 50762 ||{{Mvar|i}}[[iのi乗|の]]{{Mvar|i}}[[iのi乗|乗]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 0.23571 11317 19232 93137 41434 75359 61677 ||[[コープランド-エルデシュ定数]] | |style="text-align:center" |[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>M,M_1</math> ||≈ 0.26149 72128 47642 78375 54268 38608 69585 ||{{仮リンク|マイセル-メルテンス定数|en|Meissel–Mertens constant}} ||[[数論]] | |style="text-align:right"|[[1866年]]<br>[[1874年]] |style="text-align:right"|8,010 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\beta</math> ||≈ 0.28016 94990 23869 13303 ||{{仮リンク|ベルンシュタインの定数|en|Bernstein's constant}} ||[[解析学|解析]] | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\lambda</math> ||≈ 0.30366 30028 98732 65859 74481 21901 55623 ||[[ガウス=クズミン=ヴィルズィング作用素|ガウス=クズミン=ヴィルズィング定数]] ||[[組合せ数学|組合せ]] | |style="text-align:right"|[[1974年]] |style="text-align:right"|385 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\sigma</math> ||≈ 0.35323 63718 54995 98454 ||{{仮リンク|ハフナー-サルナック-マッカレー定数|en|Hafner–Sarnak–McCurley constant}} ||[[数論]] | | style="text-align:right" |[[1993年]] | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\sigma</math> ||≈ 0.41245 40336 40 ||{{仮リンク|プルーエ-トゥエ-モース定数|en|Prouhet–Thue–Morse constant}} | |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>L</math> ||≧ 0.5 ≦ 0.543259 ||{{仮リンク|ランダウの定数|en|Landau's constant}} ||[[解析学|解析]] | | |style="text-align:right"|1 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\cos 1</math> ||≈ 0.54030 23058 6814 ||[[1の余弦]] | |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\Omega</math> ||≈ 0.56714 32904 09783 87299 99686 62210 35555 ||[[オメガ定数]] || |style="text-align:center"|[[超越数]] | |style="text-align:right"|1,000,000 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\gamma</math> ||≈ 0.57721 56649 01532 86060 65120 90082 40243 ||[[オイラーの定数|オイラー・マスケローニ定数]] ||[[数学|一般]], [[数論]] | |style="text-align:right"|[[1735年]] |style="text-align:right"|600,000,000,100<ref>{{Cite news |url=http://www.numberworld.org/y-cruncher/ |title=y-cruncher - A Multi-Threaded Pi-Program |accessdate=2021-02-14}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\lambda ,\mu</math> ||≈ 0.62432 99885 43550 87099 29363 83100 83724 ||{{仮リンク|ゴロム・ディックマン定数|en|Golomb-Dickman constant}} ||[[組合せ数学|組合せ]] [[数論]] | |style="text-align:right"|[[1930年]]<br>[[1964年]] | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 0.64341 05463 <!--0.62946 50204 となっていたが英語版の値に差し替え--> ||{{仮リンク|カーンの定数|en|Cahen's constant}} | |style="text-align:center"|[[超越数]] |style="text-align:right"|[[1891年]] |style="text-align:right"|1,000,000 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>C_2</math> ||≈ 0.66016 18158 46869 57392 78121 10014 55577 ||[[双子素数|双子素数の定数]] ||[[数論]] | | |style="text-align:right"|5,020 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 0.66274 34193 49181 58097 47420 97109 25290 ||{{仮リンク|ラプラス限界|en|Laplace limit}} || | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\ln 2</math> ||≈ 0.69314 71805 59945 30941 72321 21458 ||[[2の自然対数]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[超越数]] | |style="text-align:right"|1,200,000,000,100<ref>{{Cite news |url=http://www.numberworld.org/y-cruncher/ |title=y-cruncher - A Multi-Threaded Pi-Program |accessdate=2021-02-14}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\beta^*</math> ||≈ 0.70258 ||{{仮リンク|エンブリー・トレフセン定数|en|Embree–Trefethen constant}} ||[[数論]] | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 0.73908 51332 15160 64165 53120 87673 87340 ||[[ドッティ数]] || |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 0.74048 ||3次元の[[球充填|最密充填密度]] || |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>K</math> ||≈ 0.76422 36535 89220 66299 06987 31250 09232 ||[[ランダウ・ラマヌジャンの定数]] ||[[数論]] || || |style="text-align:right"|30,010 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 0.80939 40205 ||[[アラディ-グリンステッド定数]] ||[[数論]] | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\sin 1</math> ||≈ 0.84147 09848 07896 50665 25023 21630 29899 ||[[1の正弦]] | |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>C_2</math> ||≈ 0.86224 01258 68054 57 ||2進[[チャンパーノウン定数]] || |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>B_4</math> ||≈ 0.87058 83800 ||[[四つ子素数]]に対する[[ブルン定数]] ||[[数論]] | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 0.90689 96821 17109 ||2次元の[[球充填|最密充填密度]] || |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>K,G</math> ||≈ 0.91596 55941 77219 01505 46035 14932 38411</td> ||[[カタランの定数]] ||[[組合せ数学|組合せ]] || || |style="text-align:right"|1,000,000,001,337<ref>{{Cite news |url=http://www.numberworld.org/y-cruncher/ |title=y-cruncher - A Multi-Threaded Pi-Program |accessdate=2021-02-14}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>1</math> ||= 1 ||[[1|一]]、[[単位元]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[整数]] |style="text-align:right"| |style="text-align:right"|∞ |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>B,B^\prime_L</math> ||≈ 1.08366 ||[[ルジャンドル定数]] ||[[数論]] |style="text-align:center"|[[整数]] || |style="text-align:right"|∞ |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\Lambda</math> ||≈ 1.09868 58055 ||[[レンジェル定数]] ||[[組合せ数学|組合せ]] || |style="text-align:right"|[[1992年]] | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>K</math> ||≈ 1.13198 824 ||{{仮リンク|ヴィスワナスの定数|en|Viswanath's constant}} ||[[数論]] || || |style="text-align:right"|8 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 1.18656 91104 ||[[ヒンチン-レヴィ定数]] ||[[数論]] | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\zeta (3)</math> ||≈ 1.20205 69031 59594 28539 97381 61511 44999 ||[[アペリーの定数]] || |style="text-align:center"|[[無理数]] |style="text-align:right"|[[1979年]] |style="text-align:right"|1,200,000,000,100<ref>{{Cite news |url=http://www.numberworld.org/y-cruncher/ |title=y-cruncher - A Multi-Threaded Pi-Program |accessdate=2021-02-14}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\sqrt[3]2</math> ||≈ 1.25992 10498 9487 ||[[2の立方根]]、[[デロスの定数]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[代数的数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>A</math> ||≈ 1.28242 71291 ||[[グレイシャー・キンケリンの定数]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|不明 | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\theta</math> ||≈ 1.30637 78838 63080 69046 86144 92602 60571 ||[[ミルズの定数]] ||[[数論]] || |style="text-align:right"|[[1947年]] |style="text-align:right"|6,850 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\rho</math> ||≈ 1.32471 95724 47460 25960 90885 44780 97340 ||[[プラスチック数]] ||[[数論]] |style="text-align:center"|[[代数的数]] |style="text-align:right"|[[1928年]] | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\sqrt 2</math> ||≈ 1.41421 35623 73095 04880 16887 24209 69807 ||[[2の平方根]]、[[ピタゴラス]]の定数 ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[代数的数]] |style="text-align:right"| [[紀元前800年|前800年]]頃 |style="text-align:right"|10,000,000,000,000<ref>{{Cite news |url=http://www.numberworld.org/y-cruncher/ |title=y-cruncher - A Multi-Threaded Pi-Program |accessdate=2021-02-14}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\mu</math> ||≈ 1.45136 92348 83381 05028 39684 85892 02744 ||{{仮リンク|ラマヌジャン・ゾルトナー定数|en|Ramanujan–Soldner constant}} ||[[数論]] || || |style="text-align:right"|1,000,000 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 1.45607 49485 82689 67139 95953 51116 54356 ||{{仮リンク|バックハウスの定数|en|Backhouse's constant}} | | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 1.46707 80794 ||[[ポーターの定数]] ||[[数論]] || |style="text-align:right"|[[1975年]] | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 1.53960 07178 ||{{仮リンク|リーブの正方氷定数|en|Lieb's square ice constant}} ||[[組合せ数学|組合せ]] || |style="text-align:right"|[[1967年]] | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>E,E_\mathrm B</math> ||≈ 1.60669 51524 15291 763 ||{{仮リンク|エルデシュ・ボールウェイン定数|en|Erdős–Borwein constant}} ||[[数論]] |style="text-align:center"|[[無理数]] | | |- | style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\phi ,\tau</math> ||≈ 1.61803 39887 49894 84820 45868 34365 63811 ||[[黄金比]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[代数的数]] |style="text-align:right"|[[紀元前3世紀|前3世紀]] |style="text-align:right"|10,000,000,000,000<ref>{{Cite news |url=http://www.numberworld.org/y-cruncher/ |title=y-cruncher - A Multi-Threaded Pi-Program |accessdate=2021-02-14}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 1.70521 11401 05367 76428 85514 53434 50816 ||{{仮リンク|ニーヴンの定数|en|Niven's constant}} ||[[数論]] || |style="text-align:right"|[[1969年]] | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\sqrt 3</math> ||≈ 1.73205 08075 68877 29352 74463 41505 ||[[3の平方根]]、[[キュレネのテオドルス|テオドルス]]の定数 ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[代数的数]] |style="text-align:right"|[[紀元前800年|前800年]]頃 | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>B_2</math> ||≈ 1.90216 05823 ||[[ブルン定数]]([[双子素数]]に対する) ||[[数論]] || |style="text-align:right"|[[1919年]] |style="text-align:right"|10 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\sqrt 5</math> ||≈ 2.23606 79774 99789 69640 91736 68731 27623 ||[[5の平方根]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[代数的数]] |style="text-align:right"|[[紀元前800年|前800年]]頃 |style="text-align:right"|1,000,000 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>P_2</math> ||≈ 2.29558 71493 92638 07403 42980 49189 49039 ||{{仮リンク|放物線定数|en|Parabolic constant}} || |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\ln 10</math> ||≈ 2.30258 50929 94045 68401 79914 54684 ||[[10の自然対数]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[超越数]] | |style="text-align:right"|1,200,000,000,100<ref>{{Cite news |url=http://www.numberworld.org/y-cruncher/ |title=y-cruncher - A Multi-Threaded Pi-Program |accessdate=2021-02-14}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\zeta_{\mathrm S}</math> ||≈ 2.41421 35623 73095 04880 16887 24210 ||[[白銀比]] ||[[数学|一般]] |style="text-align:center"|[[代数的数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\alpha</math> ||≈ 2.50290 78750 95892 82228 39028 73218 21578 ||第2[[ファイゲンバウム定数]] ||[[カオス理論|カオス]] | | |style="text-align:right"|10,026<ref>{{Cite web|url=http://converge.to/feigenbaum/|title=Feigenbaum constants to 10,000 decimal digits|accessdate=2021年12月2日}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>K</math> ||≈ 2.58498 17595 79253 21706 58935 87383 17116 ||{{仮リンク|シェルピンスキーの定数|en|Sierpiński's constant}} | | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>2^\sqrt 2</math> ||≈ 2.66514 41426 9023 ||{{仮リンク|ゲルフォント・シュナイダー定数|en|Gelfond–Schneider constant}}、ビルベルト数 | |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 2.68545 20010 65306 44530 97148 35481 79569 ||{{仮リンク|ヒンチンの定数|en|Khinchin's constant}} ||[[数論]] || |style="text-align:right"|[[1934年]] |style="text-align:right"|1,000,000 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>e</math> || ≈ 2.71828 18284 59045 23536 02874 71352 66249 ||[[ネイピア数]]、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]数、[[自然対数]]の底 ||[[数学|一般]], [[解析学|解析]] |style="text-align:center"|[[超越数]] |style="text-align:right"|[[1618年]] |style="text-align:right"|31,415,926,535,897<ref>{{Cite news |url=http://www.numberworld.org/y-cruncher/ |title=y-cruncher - A Multi-Threaded Pi-Program |accessdate=2021-02-14}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>F</math> ||≈ 2.80777 02420 28519 36522 15011 86557 77293 ||{{仮リンク|フランセン・ロビンソン定数|en|Fransén–Robinson constant}} ||[[解析学|解析]] | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\pi</math> ||≈ 3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288 ||[[円周率]]、[[アルキメデス]]の定数、ルドルフ数 ||[[数学|一般]], [[解析学|解析]] |style="text-align:center"|[[超越数]] |style="text-align:right"|[[紀元前2000年|前2000年]]頃 |style="text-align:right"|62,800,000,000,000<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gizmodo.jp/2021/08/swiss-research-team-sets-new-world-record-for-calculating-pi.html|title=12兆8000億桁の大幅更新。スイスの研究チームが円周率計算で世界新記録樹立|accessdate=2021年10月5日}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"| ||≈ 3.27582 29187 21811 15978 76818 82453 84386 ||{{仮リンク|レヴィの定数|en|Lévy's constant}} || | | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\psi</math> ||≈ 3.35988 56662 43177 55317 20113 02918 92717 ||[[フィボナッチ数列の逆数和]] || |style="text-align:center"|[[無理数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\delta</math> ||≈ 4.66920 16091 02990 67185 32038 20466 20161 ||第1[[ファイゲンバウム定数]] ||[[カオス理論|カオス]] || |style="text-align:right"|[[1975年]] |style="text-align:right"|10,022<ref>{{Cite web|url=http://converge.to/feigenbaum/|title=Feigenbaum constants to 10,000 decimal digits|accessdate=2021年12月2日}}</ref> |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>e^\pi</math> ||≈ 23.14069 26327 7926 ||[[ゲルフォントの定数]]、''e'' の {{π}} 乗 || |style="text-align:center"|[[超越数]] | |style="text-align:right"|1,000,000 |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>i,j</math> ||= 0 + 1''i'' ||[[虚数単位]]、&minus;1 の平方根 ||[[数学|一般]], [[解析学|解析]] |style="text-align:center"|[[代数的数]] |style="text-align:right"|[[16世紀]] |style="text-align:right"|∞ |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>u,e^i</math> ||≈ 0.54030 23058 6814 + 0.84147 09848 07897''i'' ||[[eのi乗|''e'' の ''i'' 乗]] | |style="text-align:center"|[[超越数]] | | |- |style="background-color:#fff; text-align:center"|<math>\omega</math> ||≈ &minus;0.5 + 0.86602 54037 84439''i'' ||[[1の冪根|1の虚立方根]]、1の自明でない立方根 | |style="text-align:center"|[[代数的数]] | | |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book |last1 = Borwein |first1 = J. |last2 = Borwein |first2 = P. |title = A Dictionary of Real Numbers |url = {{google books|JGDmBwAAQBAJ|plainurl=yes}} |year = 1990 |publisher = Pacific Grove |isbn = 978-1-4615-8512-1 |ref = harv }} — 10万以上ある〈特殊値〉の[[小数|小数部分]]を逆引き電話帳の要領で纏めた書籍。 == 外部リンク == {{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}} {{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}} * [http://ankokudan.org/d/d.htm?mathlistindex-j.html 数表(100万桁表)] - [[暗黒通信団]] {{数学}} {{DEFAULTSORT:すうかくていすう}} [[Category:数学定数|*]] [[Category:数学に関する記事]]
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超越数
超越数(ちょうえつすう、英: transcendental number)とは、代数的数でない複素数、すなわちどの有理係数の代数方程式 の解(英語版)にもならない複素数のことである。有理数は一次方程式の解であるから、超越的な実数はすべて無理数であるが、例えば無理数 √2 は二次方程式 x − 2 = 0 の解であるから、その逆は成り立たない。超越数論は、超越数について研究する数学の分野で、与えられた数の超越性の判定などが主な問題である。 よく知られた超越数にネイピア数 e(自然対数の底)や円周率 πがあり、またほとんど全ての複素数が超越数であることが分かっている。ただし超越性が示されている複素数のクラスはほんの僅かであり、与えられた数が超越数であるかどうかを調べるのは難しい問題だとされている。例えば、ネイピア数と円周率はともに超越数であるにもかかわらず、それをただ足しただけの π + e すら超越数かどうか分かっていない。 代数学の標準的な記号 Q [ x ] {\displaystyle \mathbb {Q} [x]} で有理数係数多項式全体を表し、代数的数全体の集合を、代数的数 algebraic number の頭文字を使って A と書けば、超越数全体の集合は となる。 なお、本稿では log を自然対数とする。 最初に証明した人を括弧内に記述するが、特別な条件の場合に対しては、別の人物が既に証明している場合も多々ある。ただしそれらの詳細についてはここの一覧では触れない。詳細は、各記事ならびに参考文献などを参照のこと。 (1) 超越数となる定数の例 (2) 初等関数の特殊値が超越数となる例 (3) 特殊関数の特殊値が超越数となる例 (4) ベキ級数で表される関数の特殊値が超越数となる例 (5) 逆数和からなる級数が超越数となる例 以下において、 { F n } n ≥ 0 {\displaystyle \scriptstyle \{F_{n}\}_{n\geq 0}} はフィボナッチ数列とする。 e + π , e − π , e π , π e , π π , e e , π e , π 2 , e π 2 {\displaystyle e+\pi ,e-\pi ,e\pi ,{\frac {\pi }{e}},{\pi }^{\pi },e^{e},\pi ^{e},\pi ^{\sqrt {2}},e^{\pi ^{2}}} などの円周率 π やネイピア数 e の大抵の和、積、べき乗は、有理数であるのか無理数であるのか超越的であるのか否かは証明されていない。一方で、 は、超越的であると証明されている。 複数の超越数が代数的独立である例を挙げる。 代数的独立性には、シャヌエルの予想 (Schanuel's conjecture) と呼ばれる有名な予想があり、現在でも解決されていない。( n = 2 {\displaystyle n=2} のときでさえも、未解決である。) シャヌエルの予想 注意: α 1 , α 2 , ⋯ , α n {\displaystyle \alpha _{1},\ \alpha _{2},\cdots ,\ \alpha _{n}} が代数的数のときは、リンデマン=ワイエルシュトラスの定理である。 この予想が解決すると、様々な数が代数的独立になることが知られている。例えば、以下の17個の数が代数的独立となる。 注意:上記の数のうち、 は、それ自身が超越数であるかについても今のところ未解決である。 複素数 α {\displaystyle \alpha } に対して、 w n ( α ) = lim sup H → ∞ − log w n , H ( α ) log H , {\displaystyle w_{n}(\alpha )=\limsup _{H\to \infty }{\frac {-\log w_{n,H}(\alpha )}{\log H}},} w ( α ) = lim sup n → ∞ w n ( α ) n {\displaystyle w(\alpha )=\limsup _{n\to \infty }{\frac {w_{n}(\alpha )}{n}}} として、 w ( α ) {\displaystyle w(\alpha )} を定める。このとき、 0 ≤ w ( α ) ≤ ∞ {\displaystyle \scriptstyle 0\leq w(\alpha )\leq \infty } が成立する。 また、 μ ( α ) = inf { n | w n ( α ) = ∞ } {\displaystyle \scriptstyle \mu (\alpha )=\inf\{n|w_{n}(\alpha )=\infty \}} とする。ただし、 w ( α ) < ∞ {\displaystyle \scriptstyle w(\alpha )<\infty } の場合、 μ ( α ) = ∞ {\displaystyle \scriptstyle \mu (\alpha )=\infty } とする。 この w ( α ) , μ ( α ) {\displaystyle \scriptstyle w(\alpha ),\ \mu (\alpha )} を用いて、マーラーは、複素数を以下のように分類した。これをマーラーの分類 (Mahler's classification) と呼ぶ。 以下の性質がある。 また、いくつかの具体的な超越数に対して、どのクラスに属するかについては、例えば、以下のことが知られている。 超越数 α {\displaystyle \alpha } に対して、 T ( α , n , H ) {\displaystyle T(\alpha ,n,H)} を、 n ≥ 1 , H ≥ 1 {\displaystyle \scriptstyle n\geq 1,\ H\geq 1} で定義された実数を値にとる関数とする。 次数が n {\displaystyle n} 以下で、各係数の絶対値が H {\displaystyle H} 以下である、0 以外の整数係数多項式に対して、 が、任意の n ≥ 1 , H ≥ 1 {\displaystyle \scriptstyle n\geq 1,\ H\geq 1} で成立するとき、 T ( α , n , H ) {\displaystyle T(\alpha ,n,H)} を α {\displaystyle \alpha } の超越測度 (transcendence measure) という。 マーラーの分類のところで与えられた、 w n , H ( α ) {\displaystyle w_{n,H}(\alpha )} は、超越測度の1つであり、その定義から、最良の評価を与えるものである。 リウヴィルは、1844年に超越数の最初の例を与えた(リウヴィル数)。さらに1873年にシャルル・エルミートによって、自然対数の底 e が超越数であることが証明された。 カントールは1874年に、実数全体の集合が非可算集合である一方で代数的数全体の集合が可算集合であることを示すことにより、ほとんどの実数や複素数は超越数であることを示した。 その後、リンデマンは、1882年に円周率 π が超越数であることを証明した。これによって古代ギリシア数学以来の難問であった円積問題が否定的に解かれた。また、彼は、任意の0でない代数的数 a に対する e が超越数であることも証明した(リンデマンの定理)。 ヒルベルトは、1900年にパリで行われた国際数学者会議において、ヒルベルトの23の問題と呼ばれる23個の問題を提出したが、そのうちの 7番目の問題「a が 0 でも 1 でもない代数的数で、b が代数的無理数であるとき、a は超越数であるか」は、1934-1935年にゲルフォントとシュナイダーによって肯定的に解決された(ゲルフォント=シュナイダーの定理)。 1968年ベイカーは、ゲルフォント=シュナイダーの定理を含む、代数的数の1次形式の超越性および、1次形式の値が計算可能な下限で与えられることを証明した(ベイカーの定理を参照)。特に後者の結果は、ディオファントス方程式の整数解の上限を求めるための基本的な定理として重要なものである。 1996年、ネステレンコにより、長い間懸案であった、π と、e(ゲルフォントの定数)の代数的独立性が証明された。
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"1968年ベイカーは、ゲルフォント=シュナイダーの定理を含む、代数的数の1次形式の超越性および、1次形式の値が計算可能な下限で与えられることを証明した(ベイカーの定理を参照)。特に後者の結果は、ディオファントス方程式の整数解の上限を求めるための基本的な定理として重要なものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1996年、ネステレンコにより、長い間懸案であった、π と、e(ゲルフォントの定数)の代数的独立性が証明された。", "title": "歴史" } ]
超越数とは、代数的数でない複素数、すなわちどの有理係数の代数方程式 の解にもならない複素数のことである。有理数は一次方程式の解であるから、超越的な実数はすべて無理数であるが、例えば無理数 √2 は二次方程式 x2 − 2 = 0 の解であるから、その逆は成り立たない。超越数論は、超越数について研究する数学の分野で、与えられた数の超越性の判定などが主な問題である。 よく知られた超越数にネイピア数 e(自然対数の底)や円周率 πがあり、またほとんど全ての複素数が超越数であることが分かっている。ただし超越性が示されている複素数のクラスはほんの僅かであり、与えられた数が超越数であるかどうかを調べるのは難しい問題だとされている。例えば、ネイピア数と円周率はともに超越数であるにもかかわらず、それをただ足しただけの π + e すら超越数かどうか分かっていない。 代数学の標準的な記号 Q [ x ] で有理数係数多項式全体を表し、代数的数全体の集合を、代数的数 algebraic number の頭文字を使って A と書けば、超越数全体の集合は となる。 なお、本稿では log を自然対数とする。
[[画像:Squaring the Circle J.svg|225px|thumb|[[円周率]] [[ギリシャ文字|{{π}}]] は超越数であるため、[[コンパス]]と[[定規]]を有限回用いて[[円積問題|円と等面積の正方形を作図すること]]は不可能である。]] '''超越数'''(ちょうえつすう、{{lang-en-short|transcendental number}})とは、[[代数的数]]でない[[複素数]]、すなわちどの[[有理数|有理]]係数の[[代数方程式]] :<math>x^n + a_{n-1} x^{n-1} + \cdots + a_0 = 0</math>({{mvar|n}} は正の整数、各 {{mvar|a{{sub|i}}}} は有理数) の{{仮リンク|方程式の解|label=解|en|Equation solving}}にもならない複素数のことである。[[有理数]]は[[一次方程式]]の解であるから、超越的な[[実数]]はすべて[[無理数]]であるが、例えば無理数 [[2の平方根|{{math|{{sqrt|2}}}}]] は[[二次方程式]] {{math2|1=''x''{{sup|2}} &minus; 2 = 0}} の解であるから、その[[逆]]は成り立たない。'''超越数論'''は、超越数について研究する[[数学]]の分野で、与えられた[[数]]の超越性の判定などが主な[[問題]]である。 よく知られた超越数に[[ネイピア数]] {{math|''e''}}([[自然対数]]の底)や[[円周率]] {{math|''π''}}があり、また[[ほとんど (数学)|ほとんど全ての]]複素数が超越数であることが分かっている。ただし超越性が示されている複素数のクラスはほんの僅かであり、与えられた数が超越数であるかどうかを調べるのは難しい問題だとされている。例えば、ネイピア数と円周率はともに超越数であるにもかかわらず、それをただ足しただけの {{math|''π'' + ''e''}} すら超越数かどうか分かっていない。 代数学の標準的な記号 <math>\mathbb{Q}[x]</math> で有理数係数[[多項式]]全体を表し、代数的数全体の集合を、代数的数 algebraic number の頭文字を使って {{mvar|A}} と書けば、超越数全体の集合は :<math>\mathbb{C} \setminus A = \{a \in \mathbb{C} \mid 0 \ne \forall p(x) \in \mathbb{Q}[x],\; p(a) \ne 0 \}</math> となる(<math> \mathbb{C}</math>は[[複素数]]、<math>\setminus</math>は[[差集合]]、<math>\mathbb{C} \setminus A</math>は「複素数のうち代数的数以外の数の集合」)。 なお、本稿では {{math|log}} を[[自然対数]]とする。 == 超越数の例 == 最初に証明した人を括弧内に記述するが、特別な条件の場合に対しては、別の人物が既に証明している場合も多々ある。ただしそれらの詳細についてはここの一覧では触れない。詳細は、各記事ならびに参考文献などを参照のこと。 (1) 超越数となる定数の例 *[[ネイピア数|自然対数の底]] {{mvar|e}}([[シャルル・エルミート|エルミート]]) *[[円周率]] {{mvar|π}}([[フェルディナント・フォン・リンデマン|リンデマン]]) * <math>e^{\pi}\ (= (-1)^{-i})</math> 。これは[[ゲルフォントの定数]]とよばれる。({{OEIS|A039661}}) ([[ゲルフォント=シュナイダーの定理]]) *{{math|''π'' + ''e{{sup|π}}'', ''πe{{sup|π}}''}}(ネステレンコ ([[:en:Yuri Valentinovich Nesterenko|Yu. V. Nesterenko]])) *正の[[整数]]を小さい順に並べた小数である[[チャンパーノウン定数]] {{math|0.123456789101112…}}(マーラー ([[:en:Kurt Mahler|K. Mahler]])) *[[連分数]]展開が <math>\scriptstyle [0;\ a^{F_0},\ a^{F_1},\ a^{F_2},\ \cdots]</math> である無理数。ただし、{{mvar|a}} は {{math|2}} 以上の整数であり、<math>\scriptstyle \{F_n \}_{n\ge 0}</math> は[[フィボナッチ数]]列。([[ドナルド・クヌース|クヌース]]) *[[チャイティンの定数]] {{mvar|Ω}} *超越数の正の整数乗 (2) [[初等関数]]の特殊値が超越数となる例 *代数的数 <math>\scriptstyle \alpha\ne 0</math> に対する、<math>e^{\alpha}</math>。(リンデマン) *<math>\scriptstyle i\alpha</math> が有理数ではない代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>e^{\alpha\pi}</math>。(ゲルフォント ([[:en:Alexander Gelfond|A. O. Gel'fond]])、シュナイダー ([[:en:Theodor Schneider|Th. Schneider]])) *代数的数 <math>\scriptstyle \alpha,\ \beta\ne 0</math> に対する、<math>e^{\alpha\pi + \beta}</math>。([[アラン・ベイカー|ベイカー]]) *代数的数 <math>\scriptstyle \alpha\ne 0</math> に対する、<math>\sin{\alpha}</math>, <math>\cos{\alpha}</math>, <math>\tan{\alpha}</math>。(リンデマン、[[カール・ワイエルシュトラス|ワイエルシュトラス]] (K. Weierstrass)) *有理数ではない代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\sin{\alpha\pi}</math>, <math>\cos{\alpha\pi}</math>, <math>\tan{\alpha\pi}</math>。(ゲルフォント、シュナイダー) *代数的数 <math>\scriptstyle \alpha,\ \beta\ne 0</math> に対する、<math>\sin{(\alpha\pi+\beta)}</math>, <math>\cos{(\alpha\pi+\beta)}</math>, <math>\tan{(\alpha\pi+\beta)}</math>。(ベイカー) *代数的数 <math>\scriptstyle \alpha\ne 0</math> に対する、<math>\sinh{\alpha},\ \cosh{\alpha},\ \tanh{\alpha}</math>。(リンデマン、ワイエルシュトラス) *<math>\scriptstyle i\alpha</math> が有理数ではない代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\sinh{\alpha\pi}</math>, <math>\cosh{\alpha\pi}</math>, <math>\tanh{\alpha\pi}</math>。(ゲルフォント、シュナイダー) *代数的数 <math>\scriptstyle \alpha,\ \beta\ne 0</math> に対する、<math>\sinh{(\alpha\pi+\beta)}</math>, <math>\cosh{(\alpha\pi+\beta)}</math>, <math>\tanh{(\alpha\pi+\beta)}</math>。(ベイカー) *<math>\scriptstyle \alpha\ne 0,\ 1,\ \beta\notin\mathbb{Q}</math> を満たす代数的数 <math>\scriptstyle \alpha,\ \beta</math> に対する、<math>\alpha^{\beta}</math>。(ゲルフォント、シュナイダー) *代数的数 <math>\scriptstyle \alpha\ne 0,\ 1</math> に対する、<math>\log{\alpha}</math>。(リンデマン) *乗法的独立<ref group="注">整数 <math>\scriptstyle k,\ l</math> に対して、<math>\scriptstyle \alpha^k \beta^l = 1</math> ならば、<math>\scriptstyle k = l = 0</math> が成り立つとき、<math>\scriptstyle \alpha,\ \beta</math> は、乗法的独立であるという。</ref> である、0, 1 ではない代数的数 <math>\scriptstyle \alpha,\ \beta</math> に対する、<math>\tfrac{\log{\alpha}}{\log{\beta}}</math>。(ゲルフォント、シュナイダー) *代数的数 <math>\scriptstyle \alpha\ne 0</math> に対する、<math>\pi + \log{\alpha}</math>。(ベイカー) (3) [[特殊関数]]の特殊値が超越数となる例 *正整数<math>n</math> に対する、[[リーマンゼータ函数|ゼータ関数]] <math>\zeta(2n)</math>。(リンデマン) *<math>\scriptstyle \wp(z)</math> を、不変量 <math>\scriptstyle g_2,\ g_3</math> が代数的数である[[楕円函数#定義|ワイエルシュトラスの <math>\scriptstyle \wp</math> 関数]]としたとき、定義域内の任意の代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する <math>\scriptstyle \wp(\alpha)</math>。(シュナイダー) *<math>\scriptstyle j(\tau)</math> を[[保型関数#具体例|クラインのモジュラ関数]]とし、<math>\alpha</math> を、[[上半平面]]内の3次以上の代数的数としたときの <math>\scriptstyle j(\alpha)</math>。(シュナイダー) *<math>\scriptstyle \alpha\ne 0</math> に対する、位数 0 の[[ベッセル関数#第1種及び第2種ベッセル関数|第1種ベッセル関数]] <math>J_0(\alpha)</math>。([[カール・ジーゲル|ジーゲル]]) *<math>\scriptstyle \alpha\ne 0</math> に対する、[[超幾何級数|合流型超幾何級数]] <math>F(1,1,c; \alpha)</math>(<math>c</math> は0以下の整数以外の有理数)。(シドロフスキー (A. B. Shidlovsky)) *[[ガンマ関数]] <math>\scriptstyle \Gamma(\tfrac{1}{6}),\ \Gamma(\tfrac{1}{4}),\ \Gamma(\tfrac{1}{3}),\ \Gamma(\tfrac{1}{2}), \ \Gamma(\tfrac{2}{3}),\ \Gamma(\tfrac{3}{4}),\ \Gamma(\tfrac{5}{6})</math>。(チュドノフスキー ([[:en:Chudnovsky brothers|G. V. Chudnovsky]])<ref group="注"><math>\scriptstyle \Gamma(\tfrac{1}{2}) = \sqrt{\pi}</math> であるので、<math>\scriptstyle \Gamma(\tfrac{1}{2})</math> が超越数であることは、チュドノフスキー以前から知られていた。</ref>) *[[ベータ関数]] <math>\scriptstyle B(\tfrac{1}{2}, \tfrac{1}{6}),\ B(\tfrac{1}{2}, \tfrac{1}{4}),\ B(\tfrac{1}{2}, \tfrac{1}{3})</math>。(ジーゲル、シュナイダー、チュドノフスキー) *ヤコビの[[テータ関数#テータ定数|テータ級数]]の値 <math>\scriptstyle\vartheta_1(0,\alpha),\ \vartheta_2(0,\alpha),\ \vartheta_3(0,\alpha)</math><ref group="注">ただし、ここでは、テータ関数の第2変数 <math>\tau</math> を、<math>q = e^{2\pi i\tau}</math> で変数変換した級数で考えている。</ref>。(ネステレンコ) (4) ベキ級数で表される関数の特殊値が超越数となる例 *リウヴィル級数:<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty\alpha^{-k!}</math>。(マーラー) *フレドホルム級数:2以上の整数 <math>d</math> と、<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty \alpha^{d^k}</math>。(マーラー) *自然数列 <math>\scriptstyle \{d_k\}_{k\ge 1}\ (d_k \ge 2)</math> と、<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty \alpha^{d_1\cdots d_k}</math>。(西岡) *<math>\scriptstyle \omega>0</math>、整数 <math>\scriptstyle d\ge 2</math>、<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty\alpha^{[\omega d^k]}</math>。(田中) *ヘッケ=マーラー級数:無理数 <math>\scriptstyle \omega>0</math> と、<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty [k\omega]\alpha^k</math>。(マーラー) *整数 <math>\scriptstyle d\ge 2</math>、<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\textstyle\prod\limits_{k=0}^\infty(1-\alpha^{d^k})</math>。(マーラー) *<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\textstyle\prod\limits_{k=0}^\infty (1-\alpha^k)</math>。(ネステレンコ) *<math>\sigma_k (n) \ (\scriptstyle k=1,\ 3,\ 5)</math> を[[約数関数]]とする。<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対する、<math>\textstyle\sum\limits_{n=1}^\infty \sigma_k (n) \alpha^n</math>。(ネステレンコ) (5) 逆数和からなる級数が超越数となる例 *<math>\scriptstyle |a|\ge 2</math> を満たす整数 <math>a</math> に対する、<math>\textstyle\sum\limits_{k=0}^\infty \frac{1}{a^{2^k}+1}</math>。(ドゥヴェルネ (D. Duverney)) 以下において、<math>\scriptstyle\{F_n\}_{n\ge 0}</math> はフィボナッチ数列とする。 *<math>\textstyle\sum\limits_{k=0}^\infty \frac{1}{k!\, F_{2^k}}</math>。(ミニョット (M. Mignotte)、マーラー) *<math>\textstyle\sum\limits_{k=0}^\infty \frac{1}{F_{2^k+1}}</math>。(ベッカー (P. -G. Becker)、トッファー) *任意の正整数 <math>m</math> に対する、<math>\textstyle\sum\limits_{n=1}^\infty \frac{1}{{F_n}^{2m}} ,\ \sum\limits_{n=1}^\infty \frac{1}{{F_{2n-1}}^m}</math>。(ドゥヴェルネ、西岡(啓)、西岡(久)、塩川) == 超越数かどうかが未解決の例 == {{see also|数学上の未解決問題}} <math>e+\pi ,e-\pi ,e\pi,\frac{\pi}{e} ,{\pi}^{\pi} ,e^e ,\pi^e ,\pi^{\sqrt{2}} ,e^{\pi^2}</math> などの円周率 {{mvar|π}} やネイピア数 {{mvar|e}} の大抵の和、積、べき乗は、有理数であるのか無理数であるのか超越的であるのか否かは証明されていない<ref group="注">しかしながら、例えば {{math2|''e'' + ''π''}}, {{math2|''e'' &minus; ''π''}} のうち少なくとも一方は超越数である。これは[[代数的数]]全体が[[可換体|体]]をなすことから分かる。</ref>。一方で、 :<math>\pi +e^{\pi} ,\pi e^{\pi} ,e^{\pi \sqrt{n}}</math>({{mvar|n}} は正の整数) は、超越的であると証明されている<ref>[[#Reference-Mathworld-Transcendental Number|Weisstein]]</ref><ref>{{Harvtxt|Nesterenko|1996}}</ref>。 == 超越数と勘違いされていたが後から代数的数と判明した例 == *<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty \frac{1}{F_{2^k}} =\frac{5-\sqrt{5}}{2}</math>。(西岡、トッファー (T. T&ouml;pher) [https://zangiri.hatenablog.jp/entry/2019/01/19/011010]) == 代数的独立性 == 複数の超越数が[[体の拡大#代数性・超越性|代数的独立]]である例を挙げる。 *<math>\alpha_1,\ \alpha_2,\cdots,\ \alpha_n</math> を有理数体上線形独立な代数的数としたとき、<math>e^{\alpha_1},\ e^{\alpha_2},\cdots,\ e^{\alpha_n}</math> は、代数的独立である。(リンデマン、ワイエルシュトラス) *<math>\scriptstyle \pi,\ \Gamma(\tfrac{1}{4})</math>、および、<math>\scriptstyle \pi,\ \Gamma(\tfrac{1}{3})</math> は、それぞれ代数的独立である。(チュドノフスキー) *<math>\scriptstyle \pi,\ e^\pi,\ \Gamma(\tfrac{1}{4})</math> は、代数的独立である。(ネステレンコ) *代数的数 <math>\scriptstyle \alpha_1,\cdots,\ \alpha_n\ (0 < |\alpha_i| < 1\ (i = 1,\cdots,\ n))</math> を、<math>\tfrac{\alpha_i}{\alpha_j}</math> が[[1の冪根]]ではないようにとったとき、<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty {\alpha_1}^{-k!},\cdots,\ \sum\limits_{k=1}^\infty {\alpha_n}^{-k!}</math> は、代数的独立である。(西岡) *相異なる 2 以上の整数 <math>\scriptstyle d_1,\cdots,\ d_n</math> と、<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対して、<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty \alpha^{{d_1}^k},\cdots,\ \sum\limits_{k=1}^\infty \alpha^{{d_n}^k}</math> は、代数的独立である。(西岡) *2次の無理数 <math>\scriptstyle \omega >0</math> と、相異なる代数的数 <math>\scriptstyle \alpha_1,\cdots,\ \alpha_n\ (0 < |\alpha_i| < 1\ (i = 1,\cdots,\ n))</math> に対して、<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty [h\omega]{\alpha_1}^{-k} ,\cdots,\ \sum\limits_{k=1}^\infty [k\omega]{\alpha_n}^{-k}</math> は、代数的独立である。(マッサー (D. W. Masser)) *相異なる 2 以上の整数 <math>\scriptstyle d_1,\cdots,\ d_n</math> と、<math>\scriptstyle 0 <|\alpha| < 1</math> である代数的数 <math>\scriptstyle \alpha</math> に対して、<math>\scriptstyle\textstyle\prod\limits_{k=0}^\infty \bigl( 1-\alpha^{{d_1}^k} \bigr),\cdots,\ \prod\limits_{k=0}^\infty \bigl(1-\alpha^{{d_n}^k} \bigr)</math> は、代数的独立である。(西岡) *相異なる 2 以上の整数 <math>\scriptstyle d_1,\cdots ,\ d_n</math> に対して、<math>\textstyle\sum\limits_{k=0}^\infty \frac{1}{{F_{2^k +1}}^{d_1}},\cdots,\ \sum\limits_{k=0}^\infty \frac{1}{{F_{2^k +1}}^{d_n}}</math> は、代数的独立である。(西岡) *<math>\scriptstyle m_1,\ m_2,\ m_3</math> を少なくとも1つは偶数である正整数としたとき、<math>\textstyle\sum\limits_{n=1}^\infty \frac{1}{{F_n}^{2m_1}},\ \sum\limits_{n=1}^\infty \frac{1}{{F_n}^{2m_2}}, \ \sum\limits_{n=1}^\infty \frac{1}{{F_n}^{2m_3}}</math> は、代数的独立である。(エルスナー (C. Elsner)、下村、塩川) 代数的独立性には、'''シャヌエルの予想''' (Schanuel's conjecture) と呼ばれる有名な予想があり、現在でも解決されていない。(<math>n=2</math> のときでさえも、未解決である。) シャヌエルの予想 :<math>\alpha_1,\ \alpha_2,\cdots,\ \alpha_n</math> を有理数体上線形独立な複素数としたとき、 ::<math>\mathbf{trans}.\deg_{\mathbb{Q}}\mathbb{Q}(\alpha_1,\ \alpha_2,\cdots,\ \alpha_n,\ e^{\alpha_1},\ e^{\alpha_2},\cdots,\ e^{\alpha_n})\ge n</math><ref group="注">trans.deg は、[[超越次数]]を表す。[[体の拡大#代数性・超越性|代数性・超越性]] を参照。</ref>。 注意:<math>\alpha_1,\ \alpha_2,\cdots,\ \alpha_n</math> が代数的数のときは、[[リンデマンの定理|リンデマン=ワイエルシュトラスの定理]]である。 この予想が解決すると、様々な数が代数的独立になることが知られている。例えば、以下の17個の数が代数的独立となる。 :<math>e,\ e^{\pi},\ e^e,\ e^i,\ \pi,\ \pi^{\pi},\ \pi^e,\ \pi^i,\ 2^\pi,\ 2^e,\ 2^i,\ \log\pi,\ \log 2,\ \log 3,\ \log\log 2,\ (\log 2)^{\log 3},\ 2^{\sqrt{2}}</math> 注意:上記の数のうち、 :<math>e^e,\ \pi^\pi,\ \pi^e,\ \pi^i,\ 2^{\pi},\ 2^e,\ \log\pi,\ \log\log 2,\ (\log 2)^{\log 3}</math> は、それ自身が超越数であるかについても今のところ未解決である。 == マーラーの分類 == 複素数 <math>\alpha</math> に対して、 :<math>w_{n, H}(\alpha) = \min \Bigl\{ |f(\alpha)| \; \Bigl| \; f(z) = {\textstyle\sum\limits_{i=0}^n a_i z^i}, f(\alpha) \ne 0, |a_0|,\cdots, |a_n|\le H \Bigr\},</math> <math>w_n(\alpha) = \limsup_{H\to\infty} \frac{-\log w_{n, H}(\alpha)} {\log H},</math><br /> <math>w(\alpha) = \limsup_{n\to\infty} \frac{w_n(\alpha)}{n}</math> として、<math>w(\alpha)</math> を定める。このとき、<math>\scriptstyle 0\le w(\alpha)\le\infty</math> が成立する。 また、<math>\scriptstyle \mu(\alpha) = \inf\{ n | w_n(\alpha) = \infty \}</math> とする。ただし、<math>\scriptstyle w(\alpha) < \infty</math> の場合、<math>\scriptstyle \mu(\alpha) = \infty</math> とする。 この <math>\scriptstyle w(\alpha),\ \mu(\alpha)</math> を用いて、マーラーは、複素数を以下のように分類した。これを'''マーラーの分類''' (Mahler's classification) と呼ぶ。 *<math>\alpha</math> は、''A'' 数 (A-number) である。<math>:\Leftrightarrow w(\alpha) = 0,\ \mu(\alpha) = \infty</math>。 *<math>\alpha</math> は、''S'' 数 (S-number) である。<math>:\Leftrightarrow 0 < w(\alpha) < \infty,\ \mu(\alpha) = \infty</math>。 *<math>\alpha</math> は、''T'' 数 (T-number) である。<math>:\Leftrightarrow w(\alpha) = \infty,\ \mu(\alpha) = \infty</math>。 *<math>\alpha</math> は、''U'' 数 (U-number) である。<math>:\Leftrightarrow w(\alpha) = \infty,\ \mu(\alpha) < \infty</math>。 以下の性質がある。 *''A'' 数からなる集合、''S'' 数からなる集合、''T'' 数からなる集合、''U'' 数からなる集合は、いずれも空集合ではない。 *<math>\alpha,\ \beta</math> を代数的従属である複素数としたとき、<math>\alpha,\ \beta</math> は同じクラス(同じ分類の数)である。 *''A'' 数からなる集合は、代数的数全体の集合に等しい。 *ほとんど全て<ref group="注">実数の部分集合の場合は、1次元の[[ルベーグ測度]]、複素数の部分集合の場合は、2次元のルベーグ測度の意味で、測度 0 となる集合は例外とするという意味。</ref> の複素数は、''S'' 数である。 **さらに、ほとんど全ての実数は、タイプ<ref group="注"><math>\scriptstyle\theta (\alpha )=\limsup\limits_{n\to\infty} \tfrac{w_n (\alpha)}{n}</math> を <math>\alpha</math> のタイプという。</ref> 1 の ''S'' 数であり、ほとんど全ての複素数は、タイプ 1/2 の ''S'' 数である。 *全ての[[リウヴィル数]] は、''U'' 数である。 *任意の正整数 <math>n</math> に対して、<math>\mu(\alpha) = n</math> を満たす ''U'' 数が存在する。 また、いくつかの具体的な超越数に対して、どのクラスに属するかについては、例えば、以下のことが知られている。 *自然対数の底 {{mvar|e}} は、タイプ 1 の ''S'' 数である。 *{{mvar|π}} は、''U'' 数ではない。 *チャンパーノウン定数は、''S'' 数である。 *{{mvar|r}} を 1 以外の正の有理数としたとき、<math>\log r</math> は、''U'' 数ではない。 == 超越測度 == 超越数 <math>\alpha</math> に対して、<math>T(\alpha, n, H)</math> を、<math>\scriptstyle n\ge 1,\ H\ge 1</math> で定義された実数を値にとる関数とする。 次数が <math>n</math> 以下で、各係数の絶対値が <math>H</math> 以下である、0 以外の整数係数多項式に対して、 :<math>|f(\alpha)| \ge T(\alpha, n, H)</math> が、任意の <math>\scriptstyle n\ge 1,\ H\ge 1</math> で成立するとき、<math>T(\alpha, n, H)</math> を <math>\alpha</math> の'''超越測度''' (transcendence measure) という。 マーラーの分類のところで与えられた、<math>w_{n,H}(\alpha)</math> は、超越測度の1つであり、その定義から、最良の評価を与えるものである。 == 歴史 == [[ジョゼフ・リウヴィル|リウヴィル]]は、[[1844年]]に超越数の最初の例を与えた([[リウヴィル数]])。さらに[[1873年]]に[[シャルル・エルミート]]によって、自然対数の底 ''e'' が超越数であることが証明された。 [[ゲオルク・カントール|カントール]]は[[1874年]]に、実数全体の集合が非可算集合である一方で代数的数全体の集合が[[可算集合]]であることを示すことにより、ほとんどの実数や複素数は超越数であることを示した。 その後、[[フェルディナント・フォン・リンデマン|リンデマン]]は、[[1882年]]に円周率 {{mvar|π}} が超越数であることを証明した。これによって[[古代ギリシア]]数学以来の難問であった[[円積問題]]が否定的に解かれた。また、彼は、任意の0でない代数的数 ''a'' に対する ''e{{sup|a}}'' が超越数であることも証明した([[リンデマンの定理]])。 [[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]は、[[1900年]]にパリで行われた[[国際数学者会議]]において、[[ヒルベルトの23の問題]]と呼ばれる23個の問題を提出したが、そのうちの 7番目の問題「''a'' が 0 でも 1 でもない[[代数的数]]で、''b'' が代数的無理数であるとき、''a{{sup|b}}'' は超越数であるか」は、1934-1935年にゲルフォントとシュナイダーによって肯定的に解決された([[ゲルフォント=シュナイダーの定理]])。 [[1968年]][[アラン・ベイカー|ベイカー]]は、ゲルフォント=シュナイダーの定理を含む、代数的数の1次形式の超越性および、1次形式の値が計算可能な下限で与えられることを証明した([[ベイカーの定理]]を参照)。特に後者の結果は、[[ディオファントス方程式]]の整数解の上限を求めるための基本的な定理として重要なものである。<ref group="注">この功績によりベイカーは[[1970年]]に[[フィールズ賞]]を受賞した。</ref> [[1996年]]、ネステレンコにより、長い間懸案であった、{{mvar|π}} と、{{mvar|e{{sup|π}}}}([[ゲルフォントの定数]])の代数的独立性が証明された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[ゲルフォント=シュナイダーの定理]] == 参考文献 == === 著書 === *{{Cite book|和書|author=塩川宇賢|authorlink=塩川宇賢|date=1999-03|title=無理数と超越数|publisher=[[森北出版]]|location=東京|isbn=978-4-627-06091-3|url=https://www.morikita.co.jp/books/book/363|ref={{Harvid|塩川|1999}}}} *{{Cite book|和書|author=西岡久美子|authorlink=西岡久美子|date=2015-04-20|title=超越数とはなにか 代数方程式の解にならない数たちの話|series=[[ブルーバックス]] B-1911|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-257911-7|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000194872|ref={{Harvid|西岡|2015}}}} *{{Cite book|和書|last=ハヴィル|first=ジュリアン|translator=松浦俊輔|date=2012-10-24|title=無理数の話 √2の発見から超越数の謎まで|publisher=[[青土社]]|isbn=978-4-7917-6675-8|url=http://www.seidosha.co.jp/index.php?cmd=read&page=%CC%B5%CD%FD%BF%F4%A4%CE%CF%C3&word=%CC%B5%CD%FD%BF%F4%A4%CE%CF%C3|ref={{Harvid|ハヴィル|2012}}}} *{{Cite book|和書|author=三井孝美|authorlink=三井孝美|date=1977-04|title=解析数論――超越数論とディオファンタス近似論――|publisher=[[共立出版]]|location=東京|isbn=978-4-320-01129-8|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320011298|ref={{Harvid|三井|1977}}}} *{{Cite book|和書|last=リーベンボイム|first=P.|translator=吾郷孝視|date=2003-08|title=我が数よ、我が友よ 数論への招待|publisher=共立出版|location=東京|isbn=|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320017412|ref={{Harvid|リーベンボイム|2003}}}} *{{Citation|last=Baker|first=Alan|title=Transcendental number theory|year=1975|publisher=Cambridge University Press|location=New York|isbn=0-521-20461-5}} *{{Citation|last=Schmidt|first=W.M.|title=Diophantine Approximations|series=Lecture Notes in Math. 785|year=1980|publisher=Springer-Verlag|location=New York|isbn=978-3-540-09762-4|url=http://www.springer.com/en/book/9783540097624}} *{{Citation|last=Schmidt|first=W.M.|title=Diophantine approximations and diophantine equations|series=Lecture Notes in Math. 1467|year=1991|publisher=Springer-Verlag|location=New York|isbn=978-3-540-54058-8|url=http://www.springer.com/en/book/9783540540588}} *{{Citation|last=Nishioka|first=Kumiko|title=Mahler Functions and Transcendence|series=Lecture Notes in Math. 1631|year=1996|publisher=Springer-Verlag|location=New York|isbn=978-3-540-61472-2|url=http://www.springer.com/en/book/9783540614722}} === 論文 === *{{cite journal|author=塩川宇賢|title=フィボナッチ数と超越数|journal=数理科学|volume=46|issue=第8号 (通号 542)|year=2008|month=8|pages=46-51|ref={{Harvid|塩川|2008}}}} *{{Citation|author=D. Duverney, Ke. Nishioka, Ku. Nishioka and I. Shiokawa|title=Transcendence of Rogers-Ramanujan continued fraction and reciprocal sums of Fibonacci numbers|journal=Proc. Japan Acad.|issue=73A|year=1997|pages=140-142}} *{{Citation|last=Nesterenko|first=Yu. V.|date=1996-09-09|title=Modular functions and transcendence questions|journal=Sbornik: Mathematics|publisher=IOP Publishing|edition=|series=|pages=1319-1348|volume=187|issue=9|url=http://iopscience.iop.org/1064-5616/187/9/A04|format=PDF}} *{{Citation|last=Tanaka|first=K.|title=Transcendence of the values of certain series with Hadamard's gaps|journal=Arch. Math.|issue=78|year=2002|pages=202-209}} == 外部リンク == {{wikisource|de:David Hilbert Gesammelte Abhandlungen Erster Band – Zahlentheorie/Kapitel 1|Über die Transzendenz der Zahlen e und π.}} *{{MathWorld |title=Transcendental Number |id=TranscendentalNumber}} *{{MathWorld |title=Liouville Number |id=LiouvilleNumber}} *{{MathWorld |title=Liouville's Constant |id=LiouvillesConstant}} * {{PDFlink|[http://www.math.tsukuba.ac.jp/~wkbysh/e_transc.pdf eもπも超越数 若林誠一郎]}} * {{PDFlink|[http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~ooura/pi_trn.pdf πの超越性 大浦拓哉]}} * {{PDFlink|[https://www.chart.co.jp/subject/sugaku/suken_tsushin/83/83-8.pdf 超越数について (数研通信 83号 2015年9月)]}} - [[リウヴィル数]]の超越性の証明、超越数は非加算無限個存在することの証明など * {{PDFlink|[https://mathematics-pdf.com/pdf/e_transnum.pdf eが超越数であることの証明]}} - MATHEMATICS.PDF * {{en icon}} [http://deanlm.com/transcendental/ リウヴィル数が超越数であることの証明] * {{kotobank|超越数}} * {{高校数学の美しい物語|title=超越数の意味といくつかの例|urlname=transcendental}} {{数の体系}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちようえつすう}} [[Category:超越数|*]] [[Category:数学に関する記事]]
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代数的数
代数的数(だいすうてきすう、英: algebraic number)とは、複素数であって、有理数係数(あるいは同じことだが、分母を払って、整数係数)の 0 でない一変数多項式の根(すなわち多項式の値が 0 になる値)となるものをいう。全ての有理数と、その整数冪根は代数的数である。実数や複素数には代数的数でないものも存在し、そのような数は超越数と呼ばれる。例えば π や e は超越数である。ほとんどすべての複素数は超越数である(#集合論的性質)。 複素数 α に対し、有理数を係数とする多項式 が存在して、f(α) = 0 となるとき α を代数的数という。 まず α が有理数ならば は、α を根に持つので、有理数はすべて代数的数である。 さらに実数の 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} は の根であるから代数的数であり、また複素数の i は の根であるから代数的数である。他にも円周率 π の有理数倍における三角関数 sin, cos, tan の値は代数的数であることが知られている。その上、代数的数の四則演算による結果もまた代数的数である。 しかしながら、全ての複素数が代数的数であるかというと、そうではない。そのような複素数は超越数と呼ばれる。たとえば自然対数の底(ネイピア数)e の超越性は1873年にエルミートにより証明されている。また円周率 π の超越性は1882年にリンデマンにより証明されている。(これによりギリシアの三大作図問題のうち最後まで未解決であった円積問題は否定的に解決された。) 複素数 α に対し、有理数を係数とする多項式 が存在して f(α) = 0 となるとき、α は代数的数であるという。 同じことであるが、整数 a n ≠ 0 , a n − 1 , ⋯ , a 0 {\displaystyle a_{n}\neq 0,a_{n-1},\cdots ,a_{0}} が存在して、 が成り立つとき、α は代数的数であるという。 代数的数 α を根とする 0 ではない整数係数多項式で、最高次の係数が 1 であるもの(モニック多項式と呼ぶ)が存在するとき、α は代数的整数 (algebraic integer) であるという。代数的数の中で整なものの意味である。例えば、整数や、√2, i は、代数的整数である。整数 0, ±1, ±2, ... ∈ Z を代数的整数の中で特に区別する必要がある場合、Z の元のことを有理整数 (rational integer) と呼ぶ。 代数的数 α を根とする 0 でない有理数係数多項式のうち、次数が最小で、最高次の係数が 1 であるものを、α の既約多項式 (irreducible polynomial) という。最小多項式は、有理係数多項式上既約多項式である。 代数的数 α の最小多項式の次数を、α の次数 (degree) といい、deg α で表す。次数が n であるとき、α は n 次の代数的数であるという。たとえば、有理数は 1 次の代数的数ということができる。また 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} は、2 次の代数的数である。 代数的数 α の既約多項式の根を、α の共役数 (conjugate) という。たとえば、 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} の共役数は、 2 , − 2 {\displaystyle {\sqrt {2}},\,-{\sqrt {2}}} である。 一般に、n 次の代数的数は、自分自身を含め、重複を込めててちょうど n 個の共役数を持つ。さらに、任意の代数的数 α の共役複素数 α ̄ {\displaystyle {\overline {\alpha }}} は、α の共役数の1つである。 代数的数 α の共役数を α 1 , α 2 , ⋯ , α n {\displaystyle \alpha _{1},\alpha _{2},\cdots ,\alpha _{n}} とする。 を α の判別式 (discriminant) という。代数的数の判別式は有理数であり、代数的整数の判別式は有理整数である。0 でない代数的数の判別式は 0 ではない。 代数的数 α の共役数を α 1 , α 2 , ⋯ , α n {\displaystyle \alpha _{1},\alpha _{2},\cdots ,\alpha _{n}} とし、K = Q(α) とおく。 を α のノルム (norm) という。代数的数のノルムは有理数であり、代数的整数のノルムは有理整数である。0 でない代数的数のノルムは 0 ではない。 代数的数 α の共役数を α 1 , α 2 , ⋯ , α n {\displaystyle \alpha _{1},\alpha _{2},\cdots ,\alpha _{n}} とし、K = Q(α) とおく。 を α のトレース (trace) という。代数的数のトレースは有理数であり、代数的整数のトレースは有理整数である。 代数的数 α の全ての共役数の絶対値の最大値を、α のハウス (house) といい、 | α | ̄ {\displaystyle {\overline {|\alpha |}}} で表す。 代数的数 α の最小多項式の分母を払って、全ての係数が互いに素である整数係数多項式にしたとき、係数の絶対値の最大値を α の(古典的)高さ ((classical) height) という。 また、 K を α を含む Q 上 d 次の代数体とするとき、 v が K 上の正規(乗法)付値全体を走るときの積 は K のとり方によらずに定まる。この値を α の絶対的高さ (absolute height) と呼び、 を α の対数的高さ (logarithmic height) と呼ぶ。α の最小多項式を とおくと、 が成り立つ。 代数的数に対する加減乗除の結果は、やはり代数的数であるので、代数的数全体からなる集合は体をなし、 Q ̄ {\displaystyle {\overline {\mathbb {Q} }}} と表す。 しかしながら、α, β を n 次の代数的数としたとき、α + β や αβ が n 次の代数的数になるとは限らない。たとえば、 α = 2 , β = 1 + i {\displaystyle \alpha ={\sqrt {2}},\ \beta =1+i} とすると、これらはともに 2 次の代数的数であるが、α + β や αβ はどちらも 4 次の代数的数である。 一般に、 が成立する。 有理数体に有限個の代数的数を添加した体は、ある 1 つの代数的数を有理数体に添加した体に等しいので、有理数体の有限次拡大体(このような体のことを代数体という)となる。 逆に、任意の代数体は、有理数体に代数的数を添加した体に同型であるので、代数的数を、代数体の元のこととして定義することもできる。 これらのことから、任意の有理数に対して、加法、乗法、および、累乗根をとる操作を有限回適用することにより、代数的数をいくらでも生成することができる。 問題は、この逆、任意の代数的数は、これらの演算を用いて表現することが可能であるか否かであるが、まず 4 次以下の代数的数は、有限個の有理数を元にして、有限回の加法、乗法、および、累乗根を用いて表現することができる(代数的方程式の解法を参照)。 しかしながら、5 次以上の代数的数は、必ずしも、これらの演算を用いて表現することはできず、たとえば x − x − 1 = 0 の根は、有限個の有理数を基に、加法、乗法、および、累乗根を有限回用いて表現することはできない(ガロア理論を参照)。 代数的整数全体の集合は、環をなし、代数的整数環または、単に整数環と呼ばれる。代数的整数環 I {\displaystyle \mathbb {I} } に対して、以下が成り立つ。 また、 Q ̄ {\displaystyle {\overline {\mathbb {Q} }}} と同様で、代数的整数を係数とするモニック多項式(最高次の係数が 1 である多項式)の根は、やはり代数的整数であるので、整数環は、整閉包である。 α を無理数とする。任意の正数 ε に対して、ある正定数 c = c(ε) が存在して、 が q > c を満たす全ての有理数 p/q に対して成立するような、μ の下限 μ(α) を、α の無理数度 (measure of irrationality for α) という。もし、このような数が存在しない場合、 μ ( α ) = ∞ {\displaystyle \mu (\alpha )=\infty } とする。つまり、無理数度は、α を有理数で近似したとき、どのくらいの精度で近似できるかの指標を与える。たとえば任意の有理数の無理数度は 1 になる。 フルヴィッツは、1891年に以下のことを証明した。(フルヴィッツの定理) 任意の無理数に対して、 を満たす既約分数 p/q が無限に多く存在する。また、上記の定数 1 / 5 {\displaystyle 1/{\sqrt {5}}} は最良であり、より小さな正数に置き換えることはできない。つまり、全ての無理数に対して、無理数度は、2 以上である。 リウヴィルは、1844 年、α が n 次の実代数的数(実数である代数的数)のとき、μ(α) ≤ n であることを証明し、このことから、リウヴィルは超越数が存在することを初めて証明した。 実代数的数に対する μ(α) の評価は、その後、トゥエ (A. Thue)、ジーゲル、ゲルフォント (A. O. Gel'fond)、ダイソンらにより改良され、最終的に ロスにより、μ(α) = 2 であることが証明された(ディオファントス近似を参照)。この功績によりロスは 1958 年フィールズ賞を受賞した。 上記のことから、無理数度が 2 よりも大きい実数は超越数となるが、超越数ならば無理数度が 2 よりも大きくなるわけではない。たとえば、自然対数の底 e の無理数度は、2 である。 ほとんど全ての実数に対して、無理数度は 2 であることが知られているが、無理数度が分かっていない数がほとんどである。たとえば、円周率 π の無理数度が 2 であるかは不明である。現状、8.0161 以下であることが証明されているにすぎない(畑 1992年)。 カントール (G. Cantor) は、1874 年に、 Q ̄ {\displaystyle {\overline {\mathbb {Q} }}} が可算集合であることを証明した。その後、彼は複素数全体の集合が非可算集合であることを証明し、ほとんど全ての複素数は、代数的数ではない、つまり超越数であることが判明した。 しかしながら、代数的でない式によって与えられた数が代数的数であるか否かを判定することは大変難しく、オイラーの定数のように古くから知られていながら、代数的数かどうかどころか、有理数かどうかすら分かっていない数もある。
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{ "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "有理数体に有限個の代数的数を添加した体は、ある 1 つの代数的数を有理数体に添加した体に等しいので、有理数体の有限次拡大体(このような体のことを代数体という)となる。", "title": "代数的性質" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "逆に、任意の代数体は、有理数体に代数的数を添加した体に同型であるので、代数的数を、代数体の元のこととして定義することもできる。", "title": "代数的性質" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これらのことから、任意の有理数に対して、加法、乗法、および、累乗根をとる操作を有限回適用することにより、代数的数をいくらでも生成することができる。", "title": "代数的性質" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "問題は、この逆、任意の代数的数は、これらの演算を用いて表現することが可能であるか否かであるが、まず 4 次以下の代数的数は、有限個の有理数を元にして、有限回の加法、乗法、および、累乗根を用いて表現することができる(代数的方程式の解法を参照)。", "title": "代数的性質" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかしながら、5 次以上の代数的数は、必ずしも、これらの演算を用いて表現することはできず、たとえば x − x − 1 = 0 の根は、有限個の有理数を基に、加法、乗法、および、累乗根を有限回用いて表現することはできない(ガロア理論を参照)。", "title": "代数的性質" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "代数的整数全体の集合は、環をなし、代数的整数環または、単に整数環と呼ばれる。代数的整数環 I {\\displaystyle \\mathbb {I} } に対して、以下が成り立つ。", "title": "代数的整数環" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、 Q ̄ 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Thue)、ジーゲル、ゲルフォント (A. O. Gel'fond)、ダイソンらにより改良され、最終的に ロスにより、μ(α) = 2 であることが証明された(ディオファントス近似を参照)。この功績によりロスは 1958 年フィールズ賞を受賞した。", "title": "数論的性質" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "上記のことから、無理数度が 2 よりも大きい実数は超越数となるが、超越数ならば無理数度が 2 よりも大きくなるわけではない。たとえば、自然対数の底 e の無理数度は、2 である。", "title": "数論的性質" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ほとんど全ての実数に対して、無理数度は 2 であることが知られているが、無理数度が分かっていない数がほとんどである。たとえば、円周率 π の無理数度が 2 であるかは不明である。現状、8.0161 以下であることが証明されているにすぎない(畑 1992年)。", "title": "数論的性質" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "カントール (G. Cantor) は、1874 年に、 Q ̄ {\\displaystyle {\\overline {\\mathbb {Q} }}} が可算集合であることを証明した。その後、彼は複素数全体の集合が非可算集合であることを証明し、ほとんど全ての複素数は、代数的数ではない、つまり超越数であることが判明した。", "title": "集合論的性質" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "しかしながら、代数的でない式によって与えられた数が代数的数であるか否かを判定することは大変難しく、オイラーの定数のように古くから知られていながら、代数的数かどうかどころか、有理数かどうかすら分かっていない数もある。", "title": "集合論的性質" } ]
代数的数とは、複素数であって、有理数係数(あるいは同じことだが、分母を払って、整数係数)の 0 でない一変数多項式の根となるものをいう。全ての有理数と、その整数冪根は代数的数である。実数や複素数には代数的数でないものも存在し、そのような数は超越数と呼ばれる。例えば π や e は超越数である。ほとんどすべての複素数は超越数である(#集合論的性質)。
'''代数的数'''(だいすうてきすう、{{lang-en-short|algebraic number}})とは、[[複素数]]であって、[[有理数]]係数(あるいは同じことだが、[[分母]]を払って、[[整数]]係数)の 0 でない一変数[[多項式の根]](すなわち多項式の値が 0 になる値)となるものをいう。全ての有理数と、その整数[[冪根]]は代数的数である。実数や複素数には代数的数でないものも存在し、そのような数は[[超越数]]と呼ばれる。例えば [[円周率|{{mvar|π}}]] や [[ネイピア数|{{mvar|e}}]] は超越数である。[[ほとんど (数学)#ほとんど全ての|ほとんどすべて]]の複素数は超越数である([[#集合論的性質]])。 == 概要 == [[複素数]] {{mvar|α}} に対し、[[有理数]]を係数とする多項式 :<math>f(x) = x^n + a_{n-1} x^{n-1} + \cdots + a_0</math> が存在して、{{math|1=''f''(''α'') = 0}} となるとき {{mvar|''α''}} を代数的数という。 まず {{mvar|α}} が有理数ならば :{{math|1=''f''(''x'') = ''x'' &minus; ''α''}} は、{{mvar|α}} を根に持つので、有理数はすべて代数的数である。 さらに[[実数]]の <math>\sqrt{2}</math> は :{{math|1=''f''(''x'') = ''x''{{sup|2}} &minus; 2}} の根であるから代数的数であり、また[[複素数]]の {{math|''i''}} は :{{math|1=''f''(''x'') = ''x''{{sup|2}} + 1}} の根であるから代数的数である。他にも[[円周率]] {{mvar|&pi;}} の[[有理数]]倍における[[三角関数]] {{math|sin}}, {{math|cos}}, {{math|tan}} の値は代数的数であることが知られている{{sfn|Niven|2005|pages={{google books quote|id=ov-IlIEo47cC|page=29|29}}f}}。その上、代数的数の四則演算による結果もまた代数的数である。 しかしながら、全ての複素数が代数的数であるかというと、そうではない。そのような複素数は超越数と呼ばれる。たとえば自然対数の底([[ネイピア数]]){{mvar|e}} の超越性は[[1873年]]に[[シャルル・エルミート|エルミート]]により証明されている。また[[円周率]] {{mvar|π}} の超越性は[[1882年]]に[[フェルディナント・フォン・リンデマン|リンデマン]]により証明されている(これによりギリシアの三大作図問題のうち最後まで未解決であった[[円積問題]]は否定的に解決された)。 == 定義 == === 代数的数 === 複素数 {{mvar|α}} に対し、有理数を係数とする多項式 :<math>f(x) = x^n + a_{n-1} x^{n-1} + \cdots + a_0</math> が存在して {{math|''f''(''α'') {{=}} 0}} となるとき、{{mvar|α}} は'''代数的数'''であるという。 同じことであるが、[[整数]] <math>a_n \ne 0, a_{n-1}, \cdots, a_0</math> が存在して、 :<math>f(x) = a_n x^n + a_{n-1} x^{n-1} + \cdots + a_0, \ f(\alpha) = 0</math> が成り立つとき、{{mvar|α}} は代数的数であるという。 === 代数的整数 === {{main|代数的整数}} 代数的数 {{mvar|α}} を根とする 0 ではない整数係数多項式で、最高次の係数が 1 であるもの('''[[モニック多項式]]'''と呼ぶ)が存在するとき、{{mvar|α}} は'''[[代数的整数]]''' (algebraic integer) であるという。代数的数の中で'''[[整拡大|整]]'''なものの意味である。例えば、[[整数]]や、[[2の平方根|{{math|{{sqrt|2}}}}]], {{mvar|i}} は、代数的整数である。整数 {{math2|0, ±1, ±2, … ∈ '''Z'''}} を代数的整数の中で特に区別する必要がある場合、{{math|'''Z'''}} の元のことを'''有理整数''' (rational integer) と呼ぶ。 === 既約多項式 === 代数的数 {{mvar|α}} を根とする 0 でない有理数係数多項式のうち、次数が最小で、最高次の係数が 1 であるものを、{{mvar|α}} の'''[[既約多項式]]''' (irreducible polynomial) という。最小多項式は、有理係数多項式上既約多項式である。 代数的数 {{mvar|α}} の最小多項式の次数を、{{mvar|α}} の'''次数''' (degree) といい、{{math|'''deg''' ''α''}} で表す。次数が {{mvar|n}} であるとき、{{mvar|α}} は {{mvar|n}} 次の代数的数であるという。たとえば、有理数は 1 次の代数的数ということができる。また <math>\sqrt{2}</math> は、2 次の代数的数である。 === 共役数 === 代数的数 {{mvar|α}} の既約多項式の根を、{{mvar|α}} の'''共役数''' (conjugate) という。たとえば、<math>\sqrt{2}</math> の共役数は、<math>\sqrt{2},\, -\sqrt{2}</math> である。 一般に、{{mvar|n}} 次の代数的数は、自分自身を含め、重複を込めててちょうど {{mvar|n}} 個の共役数を持つ。さらに、任意の代数的数 {{mvar|α}} の[[複素共役|共役複素数]] <math>\overline{\alpha}</math> は、{{mvar|α}} の共役数の1つである。 === 判別式 === 代数的数 {{mvar|α}} の共役数を <math>\alpha_1 , \alpha_2 , \cdots , \alpha_n</math> とする。 : <math>D_{\alpha} = \textstyle\prod\limits_{1\le i < j\le n} (\alpha_i - \alpha_j)^2</math> を {{mvar|α}} の'''[[判別式]]''' (discriminant) という。代数的数の判別式は有理数であり、代数的整数の判別式は有理整数である。0 でない代数的数の判別式は 0 ではない。 === ノルム === 代数的数 {{mvar|α}} の共役数を <math>\alpha_1 , \alpha_2 , \cdots , \alpha_n</math> とし、{{math|''K'' {{=}} '''Q'''(''α'')}} とおく。 : <math>N_{K/\mathbb{Q}}(\alpha) = \alpha_1 \alpha_2 \cdots \alpha_n</math> を {{mvar|α}} の'''[[ノルム]]''' (norm) という。代数的数のノルムは有理数であり、代数的整数のノルムは有理整数である。0 でない代数的数のノルムは 0 ではない。 === トレース === 代数的数 {{mvar|α}} の共役数を <math>\alpha_1 , \alpha_2 , \cdots , \alpha_n</math> とし、{{math|''K'' {{=}} '''Q'''(''α'')}} とおく。 : <math>\operatorname{Tr}_{K/\mathbb{Q}}(\alpha) = \alpha_1 + \alpha_2 + \cdots + \alpha_n</math> を {{mvar|α}} の'''[[トレース]]{{要曖昧さ回避|date=2021年7月}}''' (trace) という。代数的数のトレースは有理数であり、代数的整数のトレースは有理整数である。 === ハウス === 代数的数 {{mvar|α}} の全ての共役数の絶対値の最大値を、{{mvar|α}} の'''ハウス''' (house) といい、<math>\overline{|\alpha|}</math> で表す。 === 高さ === 代数的数 {{mvar|α}} の最小多項式の分母を払って、全ての係数が互いに素である整数係数多項式にしたとき、係数の絶対値の最大値を {{mvar|α}} の(古典的)'''高さ''' ((classical) height) という。 また、 {{mvar|K}} を ''α'' を含む {{mvar|'''Q'''}} 上 ''d'' 次の代数体とするとき、 {{mvar|v}} が {{mvar|K}} 上の[[代数体#素点|正規(乗法)付値]]全体を走るときの積 :<math>H(\alpha)=\left(\prod_{v} \max\{1, \left|\alpha\right| _v\}\right)^{1/d}</math> は {{mvar|K}} のとり方によらずに定まる。この値を ''α'' の'''絶対的高さ''' (absolute height) と呼び、 :<math>h(\alpha)=\log H(\alpha)</math> を ''α'' の'''対数的高さ''' (logarithmic height) と呼ぶ。''α'' の最小多項式を :<math>f(X)=a_0(X-\alpha_1)(X-\alpha_2)\cdots (X-\alpha_n)\in \mathbb{Z}[X]</math> とおくと、 :<math>H(\alpha)=\left(|a_0| \prod_{i=1}^n \max\{1, |\alpha_i|\}\right)^{1/n}</math> が成り立つ。 == 代数的性質 == 代数的数に対する加減乗除の結果は、やはり代数的数であるので、代数的数全体からなる集合は[[可換体|体]]をなし、<math>\overline{\mathbb{Q}}</math> と表す。 しかしながら、{{math2|''α'', ''β''}} を {{mvar|n}} 次の代数的数としたとき、{{math|''α'' + ''β''}} や {{mvar|αβ}} が {{mvar|n}} 次の代数的数になるとは限らない。たとえば、<math>\alpha = \sqrt{2}, \ \beta = 1 + i</math> とすると、これらはともに 2 次の代数的数であるが、{{math|''α'' + ''β''}} や {{mvar|αβ}} はどちらも 4 次の代数的数である。 一般に、 :<math>\deg (\alpha + \beta), \ \deg \alpha\beta \le \deg \alpha \deg \beta</math> が成立する。 有理数体に有限個の代数的数を添加した体は、ある 1 つの代数的数を有理数体に添加した体に等しいので、有理数体の有限次拡大体(このような体のことを[[代数体]]という)となる。 逆に、任意の代数体は、有理数体に代数的数を添加した体に同型であるので、代数的数を、代数体の元のこととして定義することもできる。 これらのことから、任意の有理数に対して、加法、乗法、および、累乗根をとる操作を有限回適用することにより、代数的数をいくらでも生成することができる。 問題は、この逆、任意の代数的数は、これらの演算を用いて表現することが可能であるか否かであるが、まず 4 次以下の代数的数は、有限個の有理数を元にして、有限回の加法、乗法、および、累乗根を用いて表現することができる([[代数方程式#代数方程式の解法|代数的方程式の解法]]を参照)。 しかしながら、5 次以上の代数的数は、必ずしも、これらの演算を用いて表現することはできず、たとえば {{math|''x''{{sup|5}} &minus; ''x'' &minus; 1 {{=}} 0}} の根は、有限個の有理数を基に、加法、乗法、および、累乗根を有限回用いて表現することはできない([[ガロア理論]]を参照)。 ;<math>\overline{\mathbb{Q}}</math> の性質 :<math>\overline{\mathbb{Q}}</math> は、有理数体の無限次元の代数拡大体である。また、代数的数を係数とする 0 ではない多項式の根は代数的数であるので、<math>\overline{\mathbb{Q}}</math> は、[[代数的閉体]]である。さらに、有理数体を含む任意の代数的閉体は、<math>\overline{\mathbb{Q}}</math> を含むので、有理数体の代数的閉包でもある。 == 代数的整数環 == [[代数的整数]]全体の集合は、[[環 (数学)|環]]をなし、代数的整数環または、単に[[整数環]]と呼ばれる。代数的整数環 <math>\mathbb{I}</math> に対して、以下が成り立つ。 * <math>\mathbb{ I }\cap\mathbb{Q} = \mathbb{Z}</math> (つまり、有理数である代数的整数は、有理整数である。<math>\mathbb{Z}</math> を'''有理整数環'''という。) * 任意の代数的数 ''α'' に対して、代数的整数 ''β'' と、有理整数 ''d'' が存在して、''α'' = ''β''/''d'' となる。<br />''dα'' が代数的整数となる最小の正整数のことを、''α'' の'''分母''' (denominator) といい、'''den''' ''α'' で表す。 * 0 ではない代数的整数のハウスは、1 以上である。ハウスが 1 である代数的整数は、1 のベキ根に限る。 また、<math>\overline{\mathbb{Q}}</math> と同様で、代数的整数を係数とするモニック多項式(最高次の係数が 1 である多項式)の根は、やはり代数的整数であるので、整数環は、整閉包である。 == 数論的性質 == ''α'' を無理数とする。任意の正数 ε に対して、ある正定数 ''c'' = ''c''(ε) が存在して、 : <math> \left|\alpha - \frac{p}{q}\right| > \frac{1}{q^{\mu + \varepsilon}}</math> が ''q'' > ''c'' を満たす全ての有理数 ''p''/''q'' に対して成立するような、''μ'' の下限 ''μ''(''α'') を、''α'' の'''無理数度''' (measure of irrationality for ''α'') という。もし、このような数が存在しない場合、<math>\mu(\alpha)=\infty</math> とする。つまり、無理数度は、''α'' を有理数で近似したとき、どのくらいの精度で近似できるかの指標を与える。たとえば任意の有理数の無理数度は 1 になる。 [[アドルフ・フルヴィッツ|フルヴィッツ]]は、1891年に以下のことを証明した。([[フルヴィッツの定理 (数論)|フルヴィッツの定理]]) 任意の無理数に対して、 : <math> \left|\alpha - \frac{p}{q}\right| < \frac{1}{\sqrt{5}q^2}</math> を満たす既約分数 ''p''/''q'' が無限に多く存在する。また、上記の定数 <math>1/\sqrt{5}</math> は最良であり、より小さな正数に置き換えることはできない。つまり、全ての無理数に対して、無理数度は、2 以上である<ref>無理数度が 2 以上であること自体は、[[ペーター・グスタフ・ディリクレ|ディリクレ]]の[[鳩の巣原理|部屋割り論法]]からでも証明可能である。</ref>。 [[ジョゼフ・リウヴィル|リウヴィル]]は、1844 年、''α'' が ''n'' 次の実代数的数(実数である代数的数)のとき、''μ''(''α'') ≤ ''n'' であることを証明し、このことから、リウヴィルは[[超越数]]が存在することを初めて証明した。 実代数的数に対する ''μ''(''α'') の評価は、その後、トゥエ (A. Thue)、[[カール・ジーゲル|ジーゲル]]、ゲルフォント (A. O. Gel'fond)、[[フリーマン・ダイソン|ダイソン]]らにより改良され、最終的に [[クラウス・フリードリッヒ・ロス|ロス]]により、''μ''(''α'') = 2 であることが証明された([[ディオファントス近似]]を参照)。この功績によりロスは 1958 年[[フィールズ賞]]を受賞した。 上記のことから、無理数度が 2 よりも大きい実数は超越数となるが、超越数ならば無理数度が 2 よりも大きくなるわけではない。たとえば、自然対数の底 ''e'' の無理数度は、2 である。 ほとんど全ての実数に対して、無理数度は 2 であることが知られているが、無理数度が分かっていない数がほとんどである。たとえば、円周率 &pi; の無理数度が 2 であるかは不明である。現状、8.0161 以下であることが証明されているにすぎない(畑 1992年)。 == 集合論的性質 == [[ゲオルク・カントール|カントール]] (G. Cantor) は、1874 年に、<math>\overline{\mathbb{Q}}</math> が[[可算集合]]であることを証明した。その後、彼は複素数全体の集合が非可算集合であることを証明し、ほとんど全ての複素数は、代数的数ではない、つまり超越数であることが判明した。 しかしながら、代数的でない式によって与えられた数が代数的数であるか否かを判定することは大変難しく、[[オイラーの定数]]のように古くから知られていながら、代数的数かどうかどころか、有理数かどうかすら分かっていない数もある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[代数方程式]] * [[数論]] * [[類体論]] * [[ガウス整数]] * [[アイゼンシュタイン整数]] * [[代数体]] * [[二次体]] * [[円分体]] * [[超越数]] == 参考文献 == {{参照方法|date=2017-12}} * {{Cite book|1=和書|author=鹿野健|date=1978-09|title=解析数論|publisher=[[教育出版]]|location=東京|isbn=978-4-316-37690-5|url=http://shohin.kyoiku-shuppan.co.jp/view.rbz?nd=225&ik=3&pnp=102&pnp=197&pnp=225&cd=465|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304085112/http://shohin.kyoiku-shuppan.co.jp/view.rbz?nd=225&ik=3&pnp=102&pnp=197&pnp=225&cd=465|archivedate=2016-03-04|deadlinkdate=2017-09}} * {{Cite book|和書|author=塩川宇賢|date=1999-03|title=無理数と超越数|publisher=[[森北出版]]|location=東京|isbn=4-627-06091-2|url=http://www.morikita.co.jp/shoshi/ISBN978-4-627-06091-3.html}} * {{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|date=1971-10|edition=第2版|title=初等整数論講義|publisher=[[共立出版]]|location=東京|isbn=4-320-01001-9|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookhtml/0203/000167.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040501131558/http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookhtml/0203/000167.html|archivedate=2004-05-01|deadlinkdate=2017-09}} * {{Cite book|和書|author=高木貞治|date=1971-04|edition=第2版|title=代数的整数論|publisher=[[岩波書店]]|location=東京|isbn=4-00-005630-1|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0056300.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160126135343/http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0056300.html|archivedate=2016-01-26|deadlinkdate=2017-09}} * {{Cite book|和書|last=ノイキルヒ|first=J.|others=[[足立恒雄]]監修、[[梅垣敦紀]]訳|date=2003-12|title=代数的整数論|publisher=[[シュプリンガー・ジャパン|シュプリンガー・フェアラーク東京]]|location=東京|isbn=4-431-70901-0|url=http://www.springer.jp/978-4-431-70901-5}}{{リンク切れ|date=2017-09}} * {{Cite book|和書|author=ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|authorlink=ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|translator=示野信一・矢神毅|coauthors=ライト, E.M.|date=2001-07|title=数論入門|volume=Ⅰ|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|location=東京|isbn=4-431-70848-0|url=http://www.springer.jp/978-4-431-70848-3}}{{リンク切れ|url=http://www.springer.jp/978-4-431-70848-3|date=September 2017}} * {{Cite book|和書|author=ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|translator=示野信一・矢神毅|coauthors=ライト, E.M.|year=2001|month=7|title=数論入門|volume=Ⅱ|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|location=東京|isbn=4-431-70924-X|url=http://www.springer.jp/978-4-431-70924-4}}{{リンク切れ|url=http://www.springer.jp/978-4-431-70924-4|date=September 2017}} * {{Cite book|last=Baker|first=Alan|title=Transcendental number theory|year=1975|publisher=Cambridge University Press|location=New York|isbn=052139791X}} *{{cite book|title=Irrational Numbers|author=I. Niven|author-link=イヴァン・ニーベン|year=2005|publisher=The Mathematical Association of America|isbn=0-88385-038-9|ref={{sfnref|Niven|2005}}}} == 外部リンク == *{{MathWorld|title=Algebraic Number|urlname=AlgebraicNumber}} {{代数的数}} {{数の体系}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいすうてきすう}} [[Category:代数的数|*]] [[Category:数]] [[Category:代数方程式]] [[Category:数論]] [[Category:数学に関する記事]]
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Java Database Connectivity
Java Database Connectivity (JDBC)は、Java と関係データベースの接続のためのAPI。ODBCをベースにサン・マイクロシステムズおよび DataDirect が共同で開発していると言われている。そのためドライバのデフォルトの自動コミットの有効化など似ている点も多々ある。 Java においてSQLを使用して、関係データベース管理システム (RDBMS) などと接続する機能を標準化(抽象化)している。 元はJDK 1.0の拡張APIという位置付けであったが、JDK 1.1で正式にJavaの基本SDKに同梱されるようになった。標準的な機能 (API) は Java SE に含まれている。JDBCの規格は Java SDK とは独立して行われており、APIのアップデートは随時行われている。 JDBCを利用する為には、100% Pure Java 製の Apache Derby が同梱されている Java SE 6 以降のSDKを除き、各DBMS用のJDBCドライバを用意する必要がある。現在開発が行われているほとんどのデータベースではJDBCドライバが用意されている。 これらのドライバを管理するのが JDBC ドライバ・マネージャーである。JDBC ドライバ・マネージャーを用いると、複数のJDBCドライバを同時に利用することができる。JDBCを使うユーザーは、JDBCドライバをロードし(多くはClass.forName("ドライバクラス名")メソッドを利用して呼び出される。また、JDBC4.0以降であればドライバの自動解決が機能するため、DriverManager.getConnnection("jdbc:subprotocol:subname形式のデータベースURL")メソッドを使うことができる。これらのメソッドを利用した場合コンパイラによるそのドライバの依存チェックが行われない為、コンパイル時にドライバをあらかじめ参照できる様に設定しなくて良いなどの利点がある)、JDBC ドライバ・マネージャーを使ってデータベースドライバを取得し、データベースと接続を行って、データベースアプリケーションを記述する事になる。 また、Java のオブジェクト指向言語の特性を生かして、各ドライバはJDBCの基本APIに無い機能を同梱する事もできる。この場合、JDBC APIのスーパーセットのクラスを呼び出すことでこれらの機能を利用可能にすることができる。 たとえば、初期のオラクルの Oracle Database (Oracle 8) 用JDBCドライバは、当時の JDBC API が BLOB、CLOBに対応していなかったため、独自に機能拡張をしてBLOBとCLOBに対応していた。 JDBCドライバは4つのタイプに分類されている。 タイプ1、タイプ2はDBMSのDLLファイルやライブラリファイルを呼び出す形となるため、JVMのメモリー管理外となる。タイプ3、タイプ4についてはJVM上で Java のクラスとして実装されているためJVM上のガベージコレクションの対象となり管理が行いやすく、流れとしてはTYPE4が主流となっている。 後に大規模システム開発において、Java によるアプリケーションソフトウェア開発が一般的になるきっかけとなったのは、関係データベースアクセスを Java から行う JDBC が発表されてからである。 さらに Java で大規模エンタープライズシステムを開発するための仕様「Jakarta EE」には、関係データベースの表(テーブル)の行データを、Java のオブジェクトに1対1に対応させ、オブジェクト内容の永続化=行データの保存というデータのリンクと、オブジェクトのメソッド呼び出し=データベースへのトランザクション処理を同期させる特殊な Java Beans を動作・管理する機構である「エンタープライズ Java ビーンズ」 の「エンティティ・ビーン」が導入された。 EJB 2.1までは、オブジェクト-関係の間にあるインピーダンスミスマッチにより関係データベースの機能を十分に生かせないことや性能面の問題があったが、EJB 3.0以後の仕様により改善されてきている。 EJB 3.2で「エンティティ・ビーン」が廃止され、Java SE および Java EE(現・Jakarta EE)共通向けの、独立した永続化フレームワークJava Persistence API (JPA) に進化した。
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Java Database Connectivity (JDBC)は、Java と関係データベースの接続のためのAPI。ODBCをベースにサン・マイクロシステムズおよび DataDirect が共同で開発していると言われている。そのためドライバのデフォルトの自動コミットの有効化など似ている点も多々ある。 Java においてSQLを使用して、関係データベース管理システム (RDBMS) などと接続する機能を標準化(抽象化)している。 元はJDK 1.0の拡張APIという位置付けであったが、JDK 1.1で正式にJavaの基本SDKに同梱されるようになった。標準的な機能 (API) は Java SE に含まれている。JDBCの規格は Java SDK とは独立して行われており、APIのアップデートは随時行われている。
'''Java Database Connectivity'''<ref>[https://docs.oracle.com/javase/8/docs/technotes/guides/jdbc/index.html Java JDBC API]</ref> ('''JDBC''')は、{{lang|en|[[Java]]}} と[[関係データベース]]の接続のための[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]。[[Open Database Connectivity|ODBC]]をベースに[[サン・マイクロシステムズ]]および {{lang|en|[[DataDirect]]}} が共同で開発していると言われている。そのためドライバのデフォルトの自動コミットの有効化など似ている点も多々ある。 {{lang|en|Java}} において[[SQL]]を使用して、[[関係データベース管理システム]] (RDBMS) などと接続する機能を標準化(抽象化)している。 元は[[Java Development Kit|JDK]] 1.0の拡張APIという位置付けであったが、JDK 1.1で正式にJavaの基本SDKに同梱されるようになった。標準的な機能 (API) は {{lang|en|[[Java Platform, Standard Edition|Java SE]]}} に含まれている。JDBCの規格は {{lang|en|Java SDK}} とは独立して行われており、APIのアップデートは随時行われている。 ==ドライバ== JDBCを利用する為には、100% {{lang|en|Pure Java}} 製の {{lang|en|[[Apache Derby]]}} が同梱されている {{lang|en|[[Java Platform, Standard Edition|Java SE 6]]}} 以降のSDK<ref>JavaDB (Apache Derby) は、エンドユーザ向けのJREには同梱されないため、アプリケーションとともに再配布する必要がある。</ref>を除き、各DBMS用のJDBCドライバを用意する必要がある。現在開発が行われているほとんどのデータベースではJDBCドライバが用意されている。 これらのドライバを管理するのが JDBC ドライバ・マネージャーである。JDBC ドライバ・マネージャーを用いると、複数のJDBCドライバを同時に利用することができる。JDBCを使うユーザーは、JDBCドライバをロードし(多くは{{Javadoc:SE|name=Class.forName("ドライバクラス名")|java/lang|Class|forName(java.lang.String)}}メソッドを利用して呼び出される。また、JDBC4.0以降であればドライバの自動解決が機能するため、{{Javadoc:SE|name=DriverManager.getConnnection("jdbc:subprotocol:subname形式のデータベースURL")|java/sql|DriverManager|getConnection(java.lang.String)}}メソッドを使うことができる。これらのメソッドを利用した場合[[コンパイラ]]によるそのドライバの依存チェックが行われない為、コンパイル時にドライバをあらかじめ参照できる様に設定しなくて良いなどの利点がある)、JDBC ドライバ・マネージャーを使ってデータベースドライバを取得し、データベースと接続を行って、データベースアプリケーションを記述する事になる。 また、{{lang|en|Java}} の[[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向言語]]の特性を生かして、各ドライバはJDBCの基本APIに無い機能を同梱する事もできる。この場合、JDBC APIのスーパーセットのクラスを呼び出すことでこれらの機能を利用可能にすることができる。 たとえば、初期の[[オラクル (企業)|オラクル]]の {{lang|en|[[Oracle Database]]}} ({{lang|en|Oracle 8}}) 用JDBCドライバは、当時の JDBC API が [[バイナリ・ラージ・オブジェクト|BLOB]]、[[キャラクタ・ラージ・オブジェクト|CLOB]]に対応していなかったため、独自に機能拡張をしてBLOBとCLOBに対応していた。 == JDBCドライバのタイプ == JDBCドライバは4つのタイプに分類されている。 ;タイプ1 :JDBC-ODBC ブリッジ JDBCからのクエリー要求を、[[Open Database Connectivity|ODBC]]を経由して受け渡し、データベースとアクセスするもの。ODBCドライバが必須であり、[[ハードウェア]]と[[オペレーティングシステム|OS]]に依存する。{{lang|en|[[Java Platform, Standard Edition|Java SE7]]}} までに標準で添付されているドライバでもある。Java7では非推奨となり、Java8では標準から削除された<ref>http://docs.oracle.com/javase/7/docs/technotes/guides/jdbc/bridge.html</ref>。 ;タイプ2 :ネイティブ API ドライバ JDBCからのクエリー要求を、オペーレーティングシステム上の[[ダイナミックリンクライブラリ|DLL]]や専用ライブラリに受け渡し、そこからデータベースにアクセスするもの。Type1に比べて階層が薄く済むため高速化が期待できる点と[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]に依存しない利点があるが、やはりハードウェアとオペレーティングシステムに依存する。オラクルでいうとOCIドライバがこれに該当する。 ;タイプ3 :[[通信プロトコル]]ドライバ JDBCからのクエリー要求を {{lang|en|Java}} で記述されたのドライバ内で独自のプロトコルに変換し、それをアプリケーションサーバを通じてデータベースにアクセスするもの。機種依存・データベース依存をせずに軽量なドライバが作成可能だが、中間サーバを挟むためにパフォーマンスに問題が起きる。 ;タイプ4 :ネイティブプロトコルドライバJDBCからのクエリー要求をすべて {{lang|en|Java}} 上で処理してしまうもの。{{lang|en|Java}} 上にデータベースにアクセスするためのすべての機能を乗せる為、ドライバのサイズが大きくなる、パフォーマンスが若干低下する。基本的にTCP/IPでしか利用できないなどの欠点があるがハードウェアとオペレーティングシステムに依存しないため移植性に優れている。オラクルでいうと {{lang|en|thin}} ドライバがこれ該当する。 タイプ1、タイプ2はDBMSのDLLファイルやライブラリファイルを呼び出す形となるため、JVMのメモリー管理外となる。タイプ3、タイプ4についてはJVM上で {{lang|en|Java}} のクラスとして実装されているためJVM上の[[ガベージコレクション]]の対象となり管理が行いやすく、流れとしてはTYPE4が主流となっている。 == {{lang|en|Java}} とデータベース == 後に大規模システム開発において、{{lang|en|Java}} による[[アプリケーションソフトウェア]]開発が一般的になるきっかけとなったのは、関係データベースアクセスを {{lang|en|Java}} から行う JDBC が発表されてからである。 さらに {{lang|en|Java}} で大規模エンタープライズシステムを開発するための仕様「{{lang|en|[[Jakarta EE]]}}」には、関係データベースの[[表 (データベース)|表(テーブル)]]の行データを、{{lang|en|Java}} の[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]に1対1に対応させ、オブジェクト内容の[[永続化]]=行データの保存というデータのリンクと、オブジェクトの[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]呼び出し=データベースへのトランザクション処理を同期させる特殊な {{lang|en|Java Beans}} を動作・管理する機構である「[[Enterprise JavaBeans|エンタープライズ {{lang|en|Java}} ビーンズ]]」 の「エンティティ・ビーン」が導入された。 EJB 2.1までは、オブジェクト-関係の間にある[[インピーダンスミスマッチ]]により関係データベースの機能を十分に生かせないことや性能面の問題があったが、EJB 3.0以後の仕様により改善されてきている。 EJB 3.2で「エンティティ・ビーン」が廃止され、[[Java Platform, Standard Edition|Java SE]] および Java EE(現・[[Jakarta EE]])共通向けの、独立した永続化フレームワーク[[Java Persistence API]] (JPA) に進化した。 == JDBCドライバの供給元 == * オラクルは、[http://www.oracle.com/technetwork/java/index-136695.html JDBC ドライバと供給元のリスト] を提供している。 * [[Simba Technologies]] は、外部データソースのカスタム JDBC ドライバを開発できる SDK を出荷している。 * CData Software は、[https://www.cdata.com/jp/jdbc/ 様々なアプリケーション、データベース、Web API のタイプ4の JDBC ドライバ]を出荷している。 ==脚注== <references /> == 関連項目 == *[[Java Transaction API]] == 外部リンク == {{Wikibooks|Java|Java}} * [http://java.sun.com/javase/technologies/database/ JDBC] {{Java}} {{Database}} {{DEFAULTSORT:Java Database Connectivity}} [[Category:データベース]] [[Category:Java]] [[Category:Java API]]
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SQL
SQL(エスキューエル[ˈɛs kjuː ˈɛl] ( 音声ファイル)、シークェル[ˈsiːkwəl] ( 音声ファイル)、シーケル)は、関係データベース管理システム (RDBMS) において、データの操作や定義を行うためのデータベース言語(問い合わせ言語)、ドメイン固有言語である。プログラミングにおいてデータベースへのアクセスのために、他のプログラミング言語と併用される。 SQLが使われるRDBは「エドガー・F・コッドによって考案された関係データベースの関係モデルにおける演算体系である、関係代数と関係論理(関係計算)に基づいている」と宣伝されていることが多い。しかし、SQLについては、そのコッド自身をはじめ他からも、関係代数と関係論理にきちんと準拠していないとして批判されてはいる(The Third Manifesto - クリス・デイト、ヒュー・ダーウェン)。 SQL規格は1986年に統一標準規格が発表されるまでは、その統一標準規格が存在しない状況であった。そのため、各関係データベース管理システム (RDBMS) ベンダーごとにさまざまな拡張がなされてきた。 近年になってANSI、後にISOで言語仕様の標準化が行われており、制定された年ごとにSQL86、SQL89、SQL92、SQL:1999、SQL:2003、SQL:2006、SQL:2008、SQL:2011などの規格があるが、対応の程度はベンダーごとにバラバラである。これは標準SQL策定に時間がかかりすぎたことにより、ビジネスの現状から早期の機能拡張が迫られたベンダーの都合と、独自構文を頻繁に利用していた利用者およびプログラマーに対し、互換性保持を保証する必要もあったためである。 そして1986年に統一標準規格が発表されて以来非常に多くの改正が行われた。制定年度順に代表的な規格を以下に挙げる。 SQLはその性質上、「宣言型」の言語である。 プログラムから関係データベースを操作するための方法として、SQLが関係するものや関係しないものがあり、以下にそれらを述べる。 手続き型プログラミング言語、あるいは手続き型ではないプログラミング言語から関係データベースを操作するため、ソースコード中にSQLを埋め込み、プリプロセッサによってSQL部分を変換してデータベースアプリケーションを開発する方式がある。これを「埋め込みSQL」(Embedded SQL/ESQL) と呼び、後にANSIにより仕様が標準化された。 マイクロソフトは、C言語からAPIレベルで統一したソースコードを記述し、クライアント・サーバ型アプリケーションシステムの構築に有用である仕組み「Open Database Connectivity」(ODBC) を発表し、その有用性からANSIではODBC仕様を参考に「SQL/CLI」という仕様を標準化した。 LINQでは、プログラミング言語C♯内において、文脈によって何らかの綴りをキーワードとして扱うという contextual keyword を活用し、言語内に言語の拡張のようにしてSQLライクな記述ができる。文字列ベースの埋め込みで発生するインジェクションに関係する問題や、プレースホルダの利用のようなわずらわしさが無いのが利点である。 埋め込みSQLやODBCの普及により、オンライントランザクション処理向きのSQLアクセス方法は確立されたが、バッチ処理性能向上の必要性が求められるようになった。 ある表 (テーブル)の内容を編集して別の表に格納する大量データの更新処理などをデータベースエンジン内部で処理プログラムを実行し、入出力 (I/O) のほとんどをデータベース内部で完結することにより、クライアント側とのデータ通信によるオーバヘッドを削減することでバッチ処理性能を向上させる「ストアドプロシージャ」が考え出された。 ストアドプロシージャは、同じくデータベース内部に定義し、データベースに発生したイベントの内容に応じて任意の処理を実行する機能である「データベーストリガ」とともに、標準SQL仕様に採用され、SQL:1999 (SQL99) 規格の永続格納モジュール (SQL/PSM) として標準化された。 しかし、標準化される以前から各関係データベース管理システム (RDBMS) ベンダーがデータベースエンジン内部で制御文法を記述し実行できるように独自の拡張が行われていたため、ストアドプロシージャの処理ロジック記述文法はそれ以前に標準化されたSQL文法と比較して著しい非互換が認められるため、アプリケーションソフトウェアの移植性・開発生産性・保守性を損なう場合がある。 標準SQLのSQL/PSMを採用したRDBMSを以下に挙げる。これらは概ね仕様に準拠しているが、仕様に定められていない部分や実装上の理由により細部には違いがある。 各RDBMSベンダーによる標準以外の独自のプロシージャには以下のようなものがある。これらには、独自追加された制御構文だけでなく、命令やデータ型の非互換も含むため注意が必要である。 SQLを対話的に実行する場合、関係データベース管理システム (RDBMS) に付属するコマンドラインタイプのアクセスユーティリティを利用するのが一般的である。SQL文を記述したテキストファイルをスクリプトとして実行し、バッチ的に実行することが可能なものもあり、広く利用されている。RDBMSごとに、そのユーティリティ固有の命令を備えているものもあるため、データベースを扱うアプリケーションソフトウェア開発の初心者はその命令もデータベースエンジンが解釈するSQL文法のひとつであると間違って覚えてしまい、ODBCやJDBCなどAPIからSQLを実行したときのエラーの原因が理解できずに混乱することもある。 ユーティリティ固有の文法で誤解しやすいものには、データベースでSQL文の文末に指定する文字である。全データベース共通では「;」、Oracle Database の ユーティリティであるSQL*Plusで、ストアドプロシージャの定義や無名PL/SQLブロックを発行するときに文末行に指定する「/」 や、Sybase/SQL Serverのisql/osqlではすべてのSQL文の文末行に指定する「GO」などがある。このなかでもっとも間違えやすいのが「;」である。これは、一般的なSQL教科書でも構文の終端文字として例が記載されているが、標準SQLの構文の終端文字ではない。 データベース言語SQLの文法の種別は、以下の3つに大別される。 その他に、これらの命令の適用範囲を補完するための機能として、SQL文を実行時に解釈する「動的SQL」や、埋め込みSQLのための命令などが用意されている。 関係データベース管理システム (RDBMS) 以前のデータベース管理システム (DBMS) では、これらは必ずしも同一の言語ではなかった。データ定義言語は存在せずにすべて専用のコマンドにパラメタを指定して実行する実装も存在した。 列名と値を、対で指定 表を構成するすべての列に値を格納する場合は、列名の記述を省略可能 他表のデータを検索して格納 更新 削除 1行以上の検索 1行だけの検索 取得行数を指定した検索 「カーソル」とは、SELECT文などによるデータベース検索による検索実行の結果を1行ずつ取得して処理するために、データベースサーバ側にある結果集合と行取得位置を示す概念をいう。 カーソルの定義とその操作は、主にアプリケーションプログラムなどの手続き型言語からのSQL実行において利用する。 ※V開始値、V終了値は、埋め込み変数あるいはホスト変数と呼ばれ、埋め込みSQLの場合は、プログラム中のBEGIN DECLARE SECTION〜END DECLARE SECTIONの間で宣言する。 ※カーソルのオープン前に、V開始値、V終了値には値を設定しておく。 検索条件に合致した行をすべて取り出すには、「データなし」になるまでFETCHを繰り返す。 ※V列A, :V列B, :V列C は、埋め込み変数あるいはホスト変数と呼ばれ、埋め込みSQLの場合は、プログラム中のBEGIN DECLARE SECTION〜END DECLARE SECTIONの間で宣言する。 取り出した行の更新例 FETCHで位置付けた行を更新するには、UPDATE文でWHERE CURRENT OF カーソル名を指定する。 ※V列C更新値は、埋め込み変数あるいはホスト変数と呼ばれ、埋め込みSQLの場合は、プログラム中のBEGIN DECLARE SECTION〜END DECLARE SECTIONの間で宣言する。 取り出した行の削除例 FETCHで位置付けた行を削除するには、DELETE文でWHERE CURRENT OF カーソル名を指定する。 カーソルのクローズ例 動的SQLは、通常SQL文をRDBMSに対して送信の度にデータベースエンジンで実行可能な内部中間コードに翻訳する作業を事前に行うことによって、翻訳済みSQLコードを再度利用してSQL解析のオーバーヘッドを削減することと、SQL文をソースコードで固定せずにデータベースへのアクセス毎に構文を書き換えたい場合に、有用である。データ操作言語 (DML) ももちろん実行できるが、データ定義言語 (DDL) のようにデータベース製品の機能アップによって新しい命令が追加されるものは、プリプロセッサの対応作業が重荷になるため、ほとんどのデータベース製品ではDDL文は動的SQLにて実行することが一般的となっている。 もともとカーソルは、埋め込みSQLでホスト言語(母言語)から結果集合を取得するために、都合のよい方法として考えられたものである。データベースと通信するためのリソースの割り当て確保や解放、1行ごとにホスト言語のループ処理で取得するための命令 (FETCH) などがある。 SQLで用いられる論理値は、コンピュータの世界でもっとも広く利用されている2値論理 (TRUE, FALSE) ではなく、3値論理 (TRUE, FALSE, UNKNOWN) となっている。 3値論理自体は古くから存在し、Fortran など数値計算においてはよく用いられる。 Oracle 9i 以来 CONNECT BY 構文がサポートされるようになり、ネットワーク型のデータ構造の処理が軽くなった。すなわち、再帰的な処理を行うさいに、ホスト側が再帰的な処理を負担するとデータサーバーとのトラフィックが増大し、その間はコミットされるまで他のサーバがデータサーバーにアクセスできないという問題があった。それを解消するために「データサーバー内で再帰的な処理を行う」というアプローチが試みられた。とはいえ、「SQL で再帰を書く」というプログラマは珍しがられた。
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SQL(エスキューエル、シークェル、シーケル)は、関係データベース管理システム (RDBMS) において、データの操作や定義を行うためのデータベース言語(問い合わせ言語)、ドメイン固有言語である。プログラミングにおいてデータベースへのアクセスのために、他のプログラミング言語と併用される。 SQLが使われるRDBは「エドガー・F・コッドによって考案された関係データベースの関係モデルにおける演算体系である、関係代数と関係論理(関係計算)に基づいている」と宣伝されていることが多い。しかし、SQLについては、そのコッド自身をはじめ他からも、関係代数と関係論理にきちんと準拠していないとして批判されてはいる。
{{Otheruses|データベース言語|マーケティング活動の文脈での利用|潜在顧客#リードの品質認定}} {{Infobox プログラミング言語 |name = SQL |paradigm = 宣言型 |released = 1974年 |designer = {{仮リンク|レイモンド・F・ボイス|en|Raymond F. Boyce}}<br/>[[ドナルド・D・チェンバリン]] }} [[File:SQLクエリ.svg|thumb|400px|SQLクエリ(UPDATE文)]] '''SQL'''(エスキューエル<ref name=kotobank1>{{Cite web|和書|url=http://kotobank.jp/word/SQL|title=SQL とは - コトバンク|accessdate=2014-06-14}}よりデジタル大辞泉、IT用語がわかる辞典を参照</ref>{{IPAc-en|audio=En-us-SQL.ogg|ˈ|ɛ|s|_|k|juː|_|ˈ|ɛ|l}}、シークェル<ref name=kotobank1 />{{IPAc-en|audio=En-us-sequel.ogg|ˈ|s|iː|k|w|ə|l}}、シーケル<ref name=kotobank2>{{Cite web|和書|url=http://kotobank.jp/word/SQL|title=SQL とは - コトバンク|accessdate=2014-06-14}}よりDBM用語辞典を参照</ref>)は、[[関係データベース管理システム]] (RDBMS) において、データの操作や定義を行うための[[データベース言語]]([[問い合わせ言語]])、[[ドメイン固有言語]]である。プログラミングにおいてデータベースへのアクセスのために、他の[[プログラミング言語]]と併用される。 SQLが使われるRDBは「[[エドガー・F・コッド]]によって考案された[[関係データベース]]の[[関係モデル]]における演算体系である、[[関係代数 (関係モデル)|関係代数]]と[[関係論理]](関係計算)に基づいている」と宣伝されていることが多い。しかし、SQLについては、そのコッド自身をはじめ他からも、関係代数と関係論理にきちんと準拠していないとして批判されてはいる([[The Third Manifesto]] - [[クリス・デイト]]、[[ヒュー・ダーウェン]])。 == 標準SQL規格 == SQL規格は[[1986年]]に統一標準規格が発表されるまでは、その統一標準規格が存在しない状況であった。そのため、各[[関係データベース管理システム]] (RDBMS) ベンダーごとにさまざまな拡張がなされてきた。 近年になって[[ANSI]]、後に[[国際標準化機構|ISO]]で言語仕様の標準化が行われており、制定された年ごとにSQL86、SQL89、SQL92、[[SQL:1999]]、[[SQL:2003]]、SQL:2006、[[SQL:2008]]、SQL:2011などの規格があるが、対応の程度はベンダーごとにバラバラである。これは標準SQL策定に時間がかかりすぎたことにより、ビジネスの現状から早期の機能拡張が迫られたベンダーの都合と、独自構文を頻繁に利用していた利用者およびプログラマーに対し、互換性保持を保証する必要もあったためである。 そして1986年に統一標準規格が発表されて以来非常に多くの改正が行われた。制定年度順に代表的な規格を以下に挙げる。 {|class="wikitable" style="font-size:small" !年!!通称!!別称!!説明!!規格 |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|1986年 |SQL86 |SQL87 |[[ANSI]]によって発表された最初の規約。1987年に[[国際標準化機構|ISO]]によって批准された。 *[[データ操作言語]] (DML) 仕様策定: [[COBOL]]、[[FORTRAN]]、[[PL/I]]など、親言語(母言語、ホスト言語とも言う)への[[埋め込みSQL|埋込みSQL文]]仕様策定 |ANSI X3.135-1986<br />ISO 9075:1987{{efn|name=title|標題はいずれも Database Language SQL}}JIS X 3005:1987 |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|1989年 |SQL89 |&nbsp; |マイナーバージョン。 *[[データ定義言語]] (DDL) 仕様策定 ([[CREATE (SQL)|CREATE]] TABLE文、CREATE [[ビュー (データベース)|VIEW]]文、GRANT文。ただし、[[DROP (SQL)|DROP文]]、[[ALTER (SQL)|ALTER文]]、REVOKE文はなし) *制約および整合性機能を追加 (DEFAULT、[[一意性制約|UNIQUE制約]]、[[NOT NULL制約]]、[[主キー|PRIMARY KEY制約]]、[[CHECK制約]]、[[参照整合性]]制約) *[[C言語]]への埋込みSQL文仕様の追加 |ISO 9075:1989<br />ANSI X3.135-1989 {{efn|標題はいずれも Database Language SQL with Integrity Enhancement}}JIS X 3005:1990 |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|1992年 |{{仮リンク|SQL-92|en|SQL-92|label=SQL92}} |SQL2 |メジャーバージョン *[[直交性 (情報科学)|直交性]]の改善 (表式) *[[データ型]]の拡張 (可変長文字列、ビット、[[文字集合]]、日付・時刻・時間間隔 (DATE、TIME、TIMESTAMP、INTERVAL)) *[[関係代数 (関係モデル)#外結合|外部結合]] (OUTER JOIN) *[[定義域 (データベース)|定義域]] (DOMAIN) *[[表明]] (ASSERTION) *一時表 (TEMPORARY TABLE: [[永続化]]しないデータを格納) *DDL仕様追加 ([[DROP (SQL)|DROP文]]、[[ALTER (SQL)|ALTER文]]) *動的SQL仕様 *前方・後方スクロール可能な[[カーソル (データベース)|カーソル]]サポート *[[クライアントサーバモデル|クライアント/サーバ]]システムのためのCONNECT/DISCONNECT文 |ISO/IEC 9075:1992<br />ANSI X3.135-1992{{efn|name=title}}JIS X 3005:1995 |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|1995年 |[[SQL/CLI]] |&nbsp; |[[Call Level Interface|コールレベルインターフェース]] (Call Level Interface)<br/>業界標準になった [[Open Database Connectivity|ODBC]] [[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]] のインタフェースに相当する機能を国際標準化した規格 | |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|1996年 |[[SQL/PSM]] |&nbsp; |永続格納モジュール (Persistent Storage Module)<br/>一般的に[[ストアドプロシージャ]]と呼ばれる機能を国際標準化した規格 | |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|1999年 |{{仮リンク|SQL:1999|en|SQL:1999}}<br/>(SQL99) |SQL3 |RDBMSのための完全な言語になることを目指した仕様{{efn|非スカラー型と[[オブジェクト指向]]機能については、いくらか論議を呼ぶことになり、いまだ広く支持されていない。}}。 *[[正規表現]]による値照合 *共通表式(WITH句) *[[再帰クエリ]] *[[OLAP]] (ROLLUP、CUBE、GROUPING SETS) *[[関係代数 (関係モデル)#和|ユニオン (UNION)]]・結合経由の更新 *カーソル操作の機能強化 (トランザクション完了後のオープン状態保持)・ユーザ定義権限 (ROLE)・トランザクション管理の新機能 ([[SAVEPOINT (SQL)|SAVEPOINT]]) *SQL/[[ストアドプロシージャ|PSM]]強化 ([[制御構造|制御構文]] ([[if文|IF]]<!--、LOOP-->、[[while文|WHILE]]など) サポートなど) *[[SQLJ]] ([[Java]]を親言語とする埋め込みSQL規格) *[[データベーストリガ]] *ユーザ定義関数 (ストアドファンクション) *非スカラー型の新しい[[データ型]]: [[真理値]] (BOOLEAN) 型と[[配列]] (ARRAY) 型、LOB (Large Object)、ユーザ定義型、構造型 *上位表と下位表 (スーパーテーブルとサブテーブル) *[[オブジェクト指向]]の考え方を取り入れた[[オブジェクト関係データベース]]技術 (ORDB)。配列型やユーザ定義型、ユーザ定義関数と上位表/下位表仕様により実現されている。 |ISO/IEC 9075:1999 JIS X 3005-1:2002、JIS X 3005-2:2002 |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|2003年 |{{仮リンク|SQL:2003|en|SQL:2003}} |&nbsp; | *'''SQL/MM''' (マルチメディア: フレームワーク、[[全文検索]]、空間データ (Spatial)、静止画像) *'''SQL/MED''' (外部データ管理: 非関係データ ([[順編成ファイル]]や[[階層型データベース]]など) や他社の関係データをSQLでアクセスするための規格) *'''SQL/OLB''' (オブジェクト[[言語バインディング]]: [[SQLJ]]を標準化する。[[Java]]プログラムに埋め込むSQL文) *[[Extensible Markup Language|XML]]関連の機能 *[[ウィンドウ関数]] *順序(シーケンス)の標準化と識別キー列に対する値の自動生成を行う列仕様の導入 (ID型) (See [https://sigmodrecord.org/publications/sigmodRecord/0403/E.JimAndrew-standard.pdf Eisenberg et al.: ''SQL:2003 Has Been Published''].) | |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|2008年 |{{仮リンク|SQL:2008|en|SQL:2008}} |&nbsp; | *INSTEAD OF [[データベーストリガ|トリガ]] *[[TRUNCATE (SQL)|TRUNCATE TABLE]] ステートメント *[[配列]]型の集約と展開 (array_agg, unnest) <ref name="iablog.sybase.com-paulley">[https://web.archive.org/web/20110628130925/http://iablog.sybase.com/paulley/2008/07/sql2008-now-an-approved-iso-international-standard/ SQL:2008 now an approved ISO International Standard] - Sybase Blog - Glenn Paulley - Id Rather Play Golf</ref> |ISO/IEC 9075-2:2008<br />JIS X 3005-1:2014 |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|2011年 |{{仮リンク|SQL:2011|en|SQL:2011}} |&nbsp; | |ISO/IEC 9075-2:2011<br />JIS X 3005-2:2015 |-style="vertical-align: top" |style="white-space:nowrap"|2016年 |{{仮リンク|SQL:2016|en|SQL:2016}} |&nbsp; | | |} == SQLとオンライン処理 == SQLはその性質上、「宣言型」の言語である。 === SQLとプログラミング言語 === プログラムから関係データベースを操作するための方法として、SQLが関係するものや関係しないものがあり、以下にそれらを述べる。 手続き型プログラミング言語、あるいは[[手続き型プログラミング|手続き型]]ではないプログラミング言語から[[関係データベース]]を操作するため、[[ソースコード]]中にSQLを埋め込み、[[プリプロセッサ]]によってSQL部分を変換してデータベースアプリケーションを開発する方式がある。これを「埋め込みSQL」(Embedded SQL/ESQL) と呼び、後に[[ANSI]]により仕様が標準化された。 [[マイクロソフト]]は、C言語から[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]レベルで統一したソースコードを記述し、[[クライアント・サーバ]]型アプリケーションシステムの構築に有用である仕組み「[[Open Database Connectivity]]」(ODBC) を発表し、その有用性からANSIではODBC仕様を参考に「[[Call Level Interface|SQL/CLI]]」という仕様を標準化した。 [[LINQ]]では、プログラミング言語[[C Sharp|C#]]内において、文脈によって何らかの綴りを[[予約語|キーワード]]として扱うという contextual keyword を活用し、言語内に言語の拡張のようにしてSQLライクな記述ができる。文字列ベースの埋め込みで発生するインジェクションに関係する問題や、プレースホルダの利用のようなわずらわしさが無いのが利点である。 == SQLとバッチ処理 == 埋め込みSQLや[[Open Database Connectivity|ODBC]]の普及により、[[オンライントランザクション処理]]向きのSQLアクセス方法は確立されたが、[[バッチ処理]]性能向上の必要性が求められるようになった。 ある[[表 (データベース)|表 (テーブル)]]の内容を編集して別の表に格納する大量データの更新処理などをデータベースエンジン内部で処理プログラムを実行し、[[入出力]] (I/O) のほとんどをデータベース内部で完結することにより、クライアント側とのデータ通信によるオーバヘッドを削減することでバッチ処理性能を向上させる'''「[[ストアドプロシージャ]]」'''が考え出された。 [[ストアドプロシージャ]]は、同じくデータベース内部に定義し、データベースに発生したイベントの内容に応じて任意の処理を実行する機能である「[[データベーストリガ]]」とともに、標準SQL仕様に採用され、SQL:1999 (SQL99) 規格の永続格納モジュール ([[SQL/PSM]]) として標準化された。 しかし、標準化される以前から各関係データベース管理システム (RDBMS) ベンダーがデータベースエンジン内部で制御文法を記述し実行できるように独自の拡張が行われていたため、ストアドプロシージャの処理ロジック記述文法はそれ以前に標準化されたSQL文法と比較して著しい非互換が認められるため、[[アプリケーションソフトウェア]]の[[移植性]]・開発生産性・保守性を損なう場合がある。 標準SQLのSQL/PSMを採用したRDBMSを以下に挙げる。これらは概ね仕様に準拠しているが、仕様に定められていない部分や実装上の理由により細部には違いがある。 *SQL/PSM ([[DB2]], [[MySQL]]) 各RDBMSベンダーによる標準以外の独自のプロシージャには以下のようなものがある。これらには、独自追加された制御構文だけでなく、命令やデータ型の非互換も含むため注意が必要である。 *[[PL/SQL]] ([[Oracle Database|Oracle]], [[DB2]]) *[[Transact-SQL]] ([[Adaptive Server Enterprise]], [[Microsoft SQL Server]]) *[[PL/pgSQL]] ([[PostgreSQL]]) *[[PSQL]] ([[Firebird (データベース)|Firebird]], [[InterBase]]) == SQLの対話的実行 == SQLを対話的に実行する場合、[[関係データベース管理システム]] (RDBMS) に付属する[[コマンドラインインタフェース|コマンドラインタイプ]]のアクセスユーティリティを利用するのが一般的である。SQL文を記述した[[テキストファイル]]をスクリプトとして実行し、バッチ的に実行することが可能なものもあり、広く利用されている。RDBMSごとに、そのユーティリティ固有の命令を備えているものもあるため、データベースを扱う[[アプリケーションソフトウェア]]開発の初心者はその命令もデータベースエンジンが解釈するSQL文法のひとつであると間違って覚えてしまい、[[Open Database Connectivity|ODBC]]や[[Java Database Connectivity|JDBC]]など[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]からSQLを実行したときのエラーの原因が理解できずに混乱することもある。 ユーティリティ固有の文法で誤解しやすいものには、データベースでSQL文の文末に指定する文字である。全データベース共通では「;」、[[Oracle Database]] の ユーティリティであるSQL*Plusで、ストアドプロシージャの定義や無名[[PL/SQL]]ブロックを発行するときに文末行に指定する「/」 や、[[Sybase]]/SQL Serverのisql/osqlではすべてのSQL文の文末行に指定する「GO」などがある。このなかでもっとも間違えやすいのが「;」である。これは、一般的なSQL教科書でも構文の終端文字として例が記載されているが、標準SQLの構文の終端文字ではない。 == SQL文法 == === コマンド種別 === [[データベース言語]]SQLの文法の種別は、以下の3つに大別される。 * [[データ定義言語]] (DDL: data definition language) * [[データ操作言語]] (DML: data manipulation language) * [[データ制御言語]] (DCL: data control language) その他に、これらの命令の適用範囲を補完するための機能として、SQL文を実行時に解釈する「動的SQL」や、[[埋め込みSQL]]のための命令などが用意されている。 [[関係データベース管理システム]] (RDBMS) 以前の[[データベース管理システム]] (DBMS) では、これらは必ずしも同一の言語ではなかった。データ定義言語は存在せずにすべて専用のコマンドにパラメタを指定して実行する[[実装]]も存在した。 === コマンド文法 === ==== データ定義言語 ==== {{see also|データ定義言語}} * [[CREATE (SQL)|CREATE]] (データベースオブジェクト(表、インデックス、制約など)の定義) * [[DROP (SQL)|DROP]] (データベースオブジェクトの削除) * [[ALTER (SQL)|ALTER]] (データベースオブジェクトの定義変更) ==== データ操作言語 ==== {{see also|データ操作言語}} * [[INSERT (SQL)|INSERT]] INTO (行データもしくは表データの挿入) * [[UPDATE (SQL)|UPDATE]] 〜 SET (表を更新) * [[DELETE (SQL)|DELETE]] FROM (表から特定行の削除) * [[SELECT (SQL)|SELECT]] 〜 FROM 〜 WHERE (表データの検索、結果集合の取り出し) **後述する「動的SQL」でのSELECT文には、一度の実行で1行の結果を取得する「単一行SELECT文」と、[[カーソル (データベース)|カーソル]]により複数行の結果を取得する「カーソルSELECT文」がある。 列名と値を、対で指定 <syntaxhighlight lang="sql"> INSERT INTO 表名(列名1,列名2) VALUES(値1,値2) </syntaxhighlight> [[表 (データベース)|表]]を構成するすべての列に値を格納する場合は、列名の記述を省略可能 <syntaxhighlight lang="sql"> INSERT INTO 表名 VALUES (値1, 値2) </syntaxhighlight> 他表のデータを検索して格納 <syntaxhighlight lang="sql"> INSERT INTO 表名1 SELECT 列名1, 列名2 FROM 表名2 〜 </syntaxhighlight> 更新 <syntaxhighlight lang="sql"> UPDATE 表名 SET 列名2=値2, 列名3=値3 WHERE 列名1=値1 </syntaxhighlight> 削除 <syntaxhighlight lang="sql"> DELETE FROM 表名 WHERE 列名1=値1 </syntaxhighlight> 1行以上の検索 <syntaxhighlight lang="sql"> SELECT * FROM 表名 WHERE 列名1 BETWEEN 値1 AND 値2 ORDER BY 列名1 </syntaxhighlight> 1行だけの検索 <syntaxhighlight lang="sql"> SELECT * INTO 受け取り変数 FROM 表名 WHERE 列名1=値1 </syntaxhighlight> 取得行数を指定した検索 <syntaxhighlight lang="sql"> SELECT * FROM 表名 LIMIT 取得行数 </syntaxhighlight> ==== データ制御言語 ==== {{see also|データ制御言語}} * GRANT (特定のデータベース利用者に特定の作業を行う権限を与える) * REVOKE (特定のデータベース利用者からすでに与えた権限を剥奪する) * SET TRANSACTION ([[トランザクション]]モードの設定(並行トランザクションの[[トランザクション分離レベル|分離レベル]] (ISOLATION MODE) など)) * BEGIN (トランザクションの開始) * [[コミット|COMMIT]] ([[トランザクション]]の確定) * [[ロールバック|ROLLBACK]] (トランザクションの取り消し) * [[SAVEPOINT (SQL)|SAVEPOINT]] (任意にロールバック地点を設定する) * LOCK (表などの資源を占有する) ==== カーソル定義・操作 ==== 「[[カーソル (データベース)|カーソル]]」とは、[[SELECT (SQL)|SELECT]]文などによるデータベース検索による検索実行の結果を1行ずつ取得して処理するために、データベースサーバ側にある結果集合と行取得位置を示す概念をいう。 カーソルの定義とその操作は、主に[[アプリケーションプログラム]]などの手続き型言語からのSQL実行において利用する。 * DECLARE CURSOR (カーソル定義) * OPEN (カーソルのオープン) * FETCH (カーソルのポインタが指し示す位置の行データを取得し、ポインタを一行分進める。) * UPDATE (カーソルのポインタが指し示す位置の行データを更新する) * DELETE (カーソルのポインタが指し示す位置の行データを削除する) * CLOSE (カーソルのクローズ) ===== カーソル宣言例 ===== <syntaxhighlight lang="sql"> DECLARE CR1 CURSOR FOR SELECT CLMA, CLMB, CLMC FROM TBL1 WHERE CLMA BETWEEN :V開始値 AND :V終了値 </syntaxhighlight> ※V開始値、V終了値は、埋め込み変数あるいはホスト変数と呼ばれ、埋め込みSQLの場合は、プログラム中の'''BEGIN DECLARE SECTION'''〜'''END DECLARE SECTION'''の間で宣言する。 ===== カーソルのオープン例 ===== <syntaxhighlight lang="sql"> OPEN CR1 </syntaxhighlight> ※カーソルのオープン前に、V開始値、V終了値には値を設定しておく。 ===== 行の取り出し例 ===== <syntaxhighlight lang="sql"> FETCH CR1 INTO :V列A, :V列B, :V列C </syntaxhighlight> 検索条件に合致した行をすべて取り出すには、「データなし」になるまでFETCHを繰り返す。 ※V列A, :V列B, :V列C は、埋め込み変数あるいはホスト変数と呼ばれ、埋め込みSQLの場合は、プログラム中の'''BEGIN DECLARE SECTION'''〜'''END DECLARE SECTION'''の間で宣言する。 '''取り出した行の更新例''' <syntaxhighlight lang="sql"> UPDATE TBL1 SET CLMB=CLMB+1, CLMC=:V列C更新値 WHERE CURRENT OF CR1 </syntaxhighlight> FETCHで位置付けた行を更新するには、UPDATE文で'''WHERE CURRENT OF カーソル名'''を指定する。 ※V列C更新値は、埋め込み変数あるいはホスト変数と呼ばれ、埋め込みSQLの場合は、プログラム中の'''BEGIN DECLARE SECTION'''〜'''END DECLARE SECTION'''の間で宣言する。 '''取り出した行の削除例''' <syntaxhighlight lang="sql"> DELETE FROM TBL1 WHERE CURRENT OF CR1 </syntaxhighlight> FETCHで位置付けた行を削除するには、DELETE文で'''WHERE CURRENT OF カーソル名'''を指定する。 '''カーソルのクローズ例''' <syntaxhighlight lang="sql"> CLOSE CR1 </syntaxhighlight> ==== 動的SQL ==== 動的SQLは、通常SQL文をRDBMSに対して送信の度にデータベースエンジンで実行可能な内部中間コードに翻訳する作業を事前に行うことによって、<!--場合の-->翻訳済みSQLコードを再度利用してSQL解析のオーバーヘッドを削減することと、SQL文をソースコードで固定せずにデータベースへのアクセス毎に構文を書き換えたい場合に、有用である。[[データ操作言語]] (DML) ももちろん実行できるが、[[データ定義言語]] (DDL) のようにデータベース製品の機能アップによって新しい命令が追加されるものは、[[プリプロセッサ]]の対応作業が重荷になるため、ほとんどのデータベース製品ではDDL文は動的SQLにて実行することが一般的となっている。 * PREPARE (文字列で与えたSQL文を解析・翻訳する) * EXECUTE (PREPAREで翻訳したSQL文を実行する) <pre> パラメタなし PREPARE PRESQL FROM 'DELETE FROM TBL1 WHERE CLMA=1' ↓ EXECUTE PRESQL パラメタあり(1回のPREPAREで、EXECUTEの繰り返し実行が可能) PREPARE PRESQL FROM 'DELETE FROM TBL1 WHERE CLMA=? AND CLMB=?'  ↓ EXECUTE PRESQL USING :XCLMA,:XCLMB </pre> ==== 埋め込みSQL ==== もともとカーソルは、埋め込みSQLでホスト言語(母言語)から結果集合を取得するために、都合のよい方法として考えられたものである。データベースと通信するためのリソースの割り当て確保や解放、1行ごとにホスト言語のループ処理で取得するための命令 (FETCH) などがある。 * ALLOCATE (DEALLOCATE) DESCRIPTOR (データベースとホスト言語(母言語)間での通信領域の確保と解放。) * WHENEVER (エラー発生時の振る舞いを定義) * SQLSTATE (SQL文実行後の状態が保存される領域) <syntaxhighlight lang="sql"> EXEC SQL INCLUDE SQLCA END-EXEC. EXEC SQL BEGIN DECLARE SECTION END-EXEC. 77 XPARM PIC X(3). 01 XTBL1. 03 XCLMA PIC X(3). 03 XCLMB PIC X(10). 01 XTBL2. 03 XCLM1 PIC S9(5) COMP-3. 03 XCLM2 PIC S9(9) COMP. EXEC SQL END DECLARE SECTION END-EXEC. EXEC SQL DECLARE CR1 CURSOR FOR SELECT CLMA, CLMB FROM TBL1 WHERE CLMA>=:XPARM ORDER BY CLMA END-EXEC. EXEC SQL WHENEVER SQLERROR GO TO ERR--PROC END-EXEC. * SQLの静的実行(カーソル操作例) MOVE 'ABC' TO XPARM. EXEC SQL OPEN CR1 END-EXEC. PERFORM TEST BEFORE UNTIL SQLCODE NOT = ZERO EXEC SQL FETCH CR1 INTO :XCLMA, :XCLMB END-EXEC IF SQLCODE = ZERO データ検索時の処理 END-IF END-PERFORM. IF SQLCODE = 100 EXEC SQL CLOSE CR1 END-EXEC END-EXEC. * SQLの動的実行(?パラメタ使用) EXEC SQL PREPARE PRESQL FROM 'INSERT INTO TBL2 (CLM1, CLM2) VALUES(?, ?)' END-EXEC. MOVE ZERO TO XCLM2. PERFORM TEST AFTER VARYING XCLM1 FROM 1 BY 1 UNTIL XCLM1 >= 10 EXEC SQL EXECUTE PRESQL USING :XCLM1, :XCLM2 END-EXEC END-PERFORM. GOBACK. ERR--PROC. 例外処理 </syntaxhighlight> ==== 3値論理 ====  SQLで用いられる論理値は、コンピュータの世界でもっとも広く利用されている[[2値論理]] (TRUE, FALSE) ではなく、[[3値論理]] (TRUE, FALSE, UNKNOWN) となっている。 3値論理自体は古くから存在し、Fortran など数値計算においてはよく用いられる。 ==== 再帰 ====  Oracle 9i 以来 CONNECT BY 構文がサポートされるようになり、ネットワーク型のデータ構造の処理が軽くなった。すなわち、再帰的な処理を行うさいに、ホスト側が再帰的な処理を負担するとデータサーバーとのトラフィックが増大し、その間はコミットされるまで他のサーバがデータサーバーにアクセスできないという問題があった。それを解消するために「データサーバー内で再帰的な処理を行う」というアプローチが試みられた。とはいえ、「SQL で再帰を書く」というプログラマは珍しがられた<!-- 日産のスカイラインGT の製造ラインの部品管理システムでは、 CONNECT BY が使われていた。 -->。 == 主な SQL == *[[MySQL]]([[オープンソース]]、[[UNIX]]、[[Linux]]、[[Window]]s対応) *[[PostgreSQL]](オープンソース、UNIX、Linux、Windows対応) *[[Ingres]]([[オープンソース]]、[[UNIX]]、[[Linux]]、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[Mac OS]]対応) *[[SQLite]](オープンソース(パブリックドメイン)、標準のC言語で実装されており再コンパイルであらゆる環境に対応) *[[Firebird (データベース)|Firebird]](オープンソース、Linux、Windows、macOS 、[[Solaris]]、[[HP-UX]]対応) *[[Oracle Database]]([[プロプライエタリ]]、UNIX、Linux、Windows対応) *[[Microsoft SQL Server]](プロプライエタリ、Windows対応) *[[DB2|IBM DB2]] (プロプライエタリ、[[AS/400]]、[[z/OS]]、UNIX、Linux、Windows対応) *[[Informix Dynamic Server|IBM Informix Dynamic Server]](プロプライエタリ、UNIX、Linux、Windows対応) *[[Adaptive Server Enterprise|Sybase Adaptive Server Enterprise]](プロプライエタリ、UNIX、Linux、Windows対応) *[[InterBase]](プロプライエタリ、Linux、Windows、[[Solaris]]、[[macOS]] 対応) *[[SQL/DS]] ([[VSE]], VM/CMS) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= <!-- <ref name="masterminds">『言語設計者たちが考えること』オライリー・ジャパン p.245</ref> --> }} == 参考文献 == * [https://db-event.jpn.org/deim2016/files/dbsj_award_talk.pdf SQL言語の開発と日本の貢献] == 関連項目 == {{wikibooks}} *[[関係モデル]] **[[関係代数 (関係モデル)]] **[[関係論理]] *[[SQLインジェクション]] *[[ドメイン固有言語]] *整列法 **[[クイックソート]] **[[バブルソート]] *[[並列演算処理]] {{Database}} {{問い合わせ言語}} {{典拠管理}} [[Category:SQL|*]] [[Category:問い合わせ言語]]
2003-06-02T00:08:01Z
2023-10-09T13:37:16Z
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[ "Template:Cite web", "Template:Otheruses", "Template:IPAc-en", "Template:Efn", "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Wikibooks", "Template:Reflist", "Template:Database", "Template:Infobox プログラミング言語", "Template:仮リンク", "Template:問い合わせ言語", "Template:典拠管理" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/SQL
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国連軍
国連軍(こくれんぐん、英: United Nations Forces)は、国際連合安全保障理事会(安保理)の決議によって組織された国際連合の指揮に服する軍隊を指す。 国連憲章41条の定める非軍事的措置が不十分であると安保理が判定した場合、同42条に基づいて使用される軍隊である。 国際連合憲章第7章においては、平和に対する脅威に際して、軍事的強制措置をとることができると定められている。憲章第42条で、安全保障理事会は国際の平和と安全を維持または回復するために必要な行動をとることができると規定されている。憲章第43条に従ってあらかじめ安全保障理事会と特別協定を結んでいる国際連合加盟国がその要請によって兵力を提供することになっており、安全保障理事会が当該兵力を指揮する。憲章第46条により安全保障理事会は軍事参謀委員会の援助により、兵力使用の計画を作成し、憲章第47条3項により軍事参謀委員会が兵力の指揮に関して助言する。これまで、この兵力提供協定を結んでいる国がないため、国際連合憲章第7章に基づく、安保理が指揮する国連軍が組織されたことはこれまで一度もない。
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国連軍は、国際連合安全保障理事会(安保理)の決議によって組織された国際連合の指揮に服する軍隊を指す。
{{Otheruses|国際連合憲章によって定められる軍隊|「国連軍」と称される、朝鮮戦争における多国籍軍|国連軍 (朝鮮半島)}} {{混同|連合国軍}} '''国連軍'''(こくれんぐん、{{lang-en-short|United Nations Forces}})は、[[国際連合安全保障理事会]](安保理)の決議によって組織された[[国際連合]]の指揮に服する[[軍隊]]を指す<ref name="kouzai">{{Cite web|和書|author=香西茂 |date=|url=https://kotobank.jp/word/国連軍-64405 |title=国連軍 こくれんぐん United Nations Force|format= |work=[[日本大百科全書]]|publisher=[[小学館]] |accessdate=2017-10-15}}</ref><ref name="sekai">{{Cite web|和書|author= |date=|url=https://kotobank.jp/word/国連軍-64405 |title=こくれんぐん【国連軍 United Nations Force】|format= |work=[[世界大百科事典]]|publisher=[[平凡社]] |accessdate=2017-10-15}}</ref>。 == 概説 == 国連憲章41条の定める非軍事的措置が不十分であると安保理が判定した場合、同42条に基づいて使用される軍隊である<ref name=kouzai/><ref name=sekai/>。 [[国際連合憲章第7章]]においては、平和に対する脅威に際して、軍事的強制措置をとることができると定められている。憲章第42条で、安全保障理事会は国際の平和と安全を維持または回復するために必要な行動をとることができると規定されている。憲章第43条に従ってあらかじめ安全保障理事会と特別協定を結んでいる[[国際連合加盟国]]がその要請によって兵力を提供することになっており、安全保障理事会が当該兵力を指揮する。憲章第46条により安全保障理事会は[[軍事参謀委員会]]の援助により、兵力使用の計画を作成し、憲章第47条3項により軍事参謀委員会が兵力の指揮に関して助言する。これまで、この兵力提供協定を結んでいる国がないため、国際連合憲章第7章に基づく、安保理が指揮する国連軍が組織されたことはこれまで一度もない。 == フィクションのできごと == === アニメ === ; 『[[蒼き鋼のアルペジオ#テレビアニメ|蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-]]』 : 第1話冒頭で[[蒼き鋼のアルペジオ#用語|霧の艦隊]]と「国連軍最終決戦艦隊」の戦闘が描かれている。なお、原作にこのシーンは存在しない。 ; 『[[アルジェントソーマ]]』 : 陸海空軍のほかに宇宙軍が存在するほか、内部に対[[アルジェントソーマ#エイリアン|エイリアン]]組織である「フューネラル」が編成されている。 ; 『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』 : 国連傘下の軍事組織として「[[地球防衛軍 (宇宙戦艦ヤマト)#組織|国連統合軍]]」が登場。作中には主にその下部組織である「UNCF (国連宇宙軍)」が登場している。 ; 『[[機動戦士ガンダム00]]』 : 1stシーズンに登場。架空の国家連合であるユニオン、AEU、人類革新連盟(人革連)が統合したもので、2ndシーズンより地球連邦軍に改名。 ; 『[[クロムクロ]]』 : 度々登場。[[AC-130]]などが劇中に登場する。 ; 『[[サブマリン707#サブマリン707R|サブマリン707R]]』 : 海洋の平和維持を目的とした国連直轄の「PKN(平和維持海軍)」が登場。なお、原作にはPKNに相当する組織として「P.S.G.」という国際組織が登場する。 ; 『[[新海底軍艦]]』 : 地空人の侵攻に対応すべく、「国連軍特別平和維持部隊」の艦隊が南極に展開する。 ; 『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』 : [[セカンドインパクト]]発生を受け、戦略自衛隊を除く各国軍の戦力を吸収して発足した組織として登場する。 ; 『[[戦闘妖精・雪風]]』 : 本作に登場する、異星体[[戦闘妖精・雪風#ジャム|ジャム]]に対抗すべく結成された「[[フェアリィ空軍]](FAF)」は、国連地球防衛機構の下部組織とされている。また、FAFとは別に、超空間通路が出現した南極圏を国連軍艦隊が監視している。 ; 『[[蒼穹のファフナー]]』 : [[蒼穹のファフナー#フェストゥム|フェストゥム]]殲滅のために「新国連」の下に各国軍を統合した「NUNHF(新国連人類軍)」(通称・人類軍)という軍事組織が登場する。 ; 『[[タイドライン・ブルー]]』 : 国連に代わる国際機関「新国連」傘下の軍事組織として「新国連軍」が登場する。 ; 『[[地球防衛企業ダイ・ガード]]』 : 「国連安全保障軍」(通称・安保軍)の名で登場。民間防衛・警備企業の「21世紀警備保障株式会社」に出資しているほか、自衛隊を指揮下に置いている。 ; 『[[Project BLUE 地球SOS]]』 : [[州軍]]を除く各国軍を吸収している組織として登場。なお、本作に登場する国連マークは現実のものとは異なる。 ; 『[[ほしのこえ]]』 : 地球外知的生命体タルシアンの探索を目的として結成された「国連宇宙軍」が登場する。 ; 『[[ムーの白鯨]]』 === 漫画 === ; 『[[超時空戦艦まほろば]]』 : 機動帝国「怒国」の傀儡的な組織として描かれている。 ; 『[[沈黙の艦隊]]』 : 正確には国連に派遣された深町ら[[海上自衛隊]]員4人。 ; 『[[鉄腕アトム]]』 : 「ロボット宇宙艇の巻」に登場。ガンガラ島に設けられた監視基地がブロンズ共和国艦隊の奇襲を受ける。 ; 『[[トリコ]]』 ; 『[[彼岸島|彼岸島 48日後…]]』 : 日本が雅率いる吸血鬼軍団によって滅ぼされた後、吸血鬼軍団の本拠地となった東京にミサイル攻撃を加えている。 ;『[[ドラえもん]]』 :ひみつ道具「人間製造機」によって生み出されたミュータント達が仲間を増やしつつ人間を征服させようとした際に出動した。作中では名前だけ登場。 === 小説 === ; 『[[終りなき戦い]]』 : 異星人トーランの襲撃から太陽系外への移民船団を護衛すべく結成された「UNEF(国連探検軍)」が登場する。 ; 『[[火星三部作]]』 : 各国軍を吸収した組織となっており、下部組織として地球復興間の治安維持を担当する「UNAG(国連アドバンスドガード)」が存在する。 ; 『[[航空宇宙軍史]]』 : 作中に登場する「[[航空宇宙軍史#航空宇宙軍|航空宇宙軍]]」は、国連軍と同様に国連安全保障理事会傘下の航空宇宙軍小委員会の下に設立されたものとされている。 ; 『[[野尻抱介#単発作品|太陽の簒奪者]]』 : 地球外知的生命体リング・ビルダーとの接触に備え、本来通りの国連安全保障理事会統括下にある組織として設立された「UNSDF(国連宇宙防衛軍)」が登場する。 ; 『[[地球移動作戦]]』 : 「UNSF(国連宇宙軍)」として登場。 ; 『[[ほしからきたもの。]]』 : 異星人による侵略に対抗すべく結成された「国連宇宙軍(UNSF)」が登場する。 ; 『[[星を継ぐもの]]』・『[[ガニメデの優しい巨人]]』・『[[巨人たちの星]]』 : UNSSEP(国連太陽系探査計画)遂行のために設立された「UNSA(国連宇宙軍)」が登場。各国正規軍解散後に設立された組織だが、軍よりも[[宇宙機関]]的な面が強い。 ; 『[[見知らぬ明日]]』 : 宇宙人の侵略を受けて国連傘下に設立された、既存の国連軍制度を大幅に上回る武力を指揮下に納める「大国連軍」が登場する。 === 特撮 === ; 『[[ウルトラマン80]]』 : 作中に登場する国連直轄の地球防衛軍の正式名称は「UNDA(United Nations Defence Army)」となっている。 ; 『[[ウルトラマンガイア]]』 : 国連と科学者集団アルケミー・スターズが共同で設立した軍事組織「G.U.A.R.D.」が登場する。 ; 『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』 : 第26話「海上ステーションの危機」に登場。 === ゲーム === ; 『[[アフターバーナー クライマックス]]』 : 国連傘下の軍事組織「G.H.O.S.T.」が登場。G.H.O.S.T.内の特殊航空部隊が主役となる。 ; 『[[A-JAX]]』 : 国連軍内の特殊戦闘部隊「A-JAX」が主役となる。 ; 『[[エースコンバット3 エレクトロスフィア]]』 : NUN(新国際連合)傘下の治安維持対策機構として、独自の軍事力を備えた「UPEO」という組織が登場する。 ; 『[[エースコンバット インフィニティ]]』 : UNFという名称で登場し、キャンペーンモードにおいてはリッジバックス隊が存在する(のちに民間軍事会社「アローズ社」所属のボーンアロー隊と合同で「アローブレイズ」が結成される)。また、オンライン協同戦役及びチームデスマッチにおいて臨時編成部隊のアルファ隊・ブラボー隊がプレイヤーの所属部隊となる。 ; 『[[エースコンバット7 スカイズ・アンノウン|エースコンバット7]]』 :IUN国際停戦監視軍(IUN-PKF)の名称で登場する。戦力の大部分が[[オーシア連邦#軍事|オーシア軍]]で構成されている。 ; 『[[ケツイ〜絆地獄たち〜]]』 : 国連軍とは明言されていないが、巨大兵器メーカーEVAC社への武力介入を目的とした国連主導の特殊戦闘部隊が主役となる。 ; 『[[重鉄騎]]』 : 半導体が全滅した世界において、半導体を使用しない旧式兵器を多数保有するアジアの大国が主体になっている。 ; 『[[ZONE OF THE ENDERS]]』 : 「UNSF(国連宇宙軍)」として登場。 ; 『[[HALO (ビデオゲームシリーズ)|HALOシリーズ]]』 : 本作に登場する軍事組織「[[HALO (ビデオゲームシリーズ)#UNSC|UNSC(地球軍)]]」は、「国連宇宙司令部」とも呼ばれる。 ; 『[[マブラヴ]]』・『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』 : 対[[マブラヴ オルタネイティヴ#BETA|BETA]]戦のために、本来通りに国連安全保障理事会指揮下に発足した「国連統合軍」が登場。各方面軍のほかに「国連統合海軍」と「国連宇宙総軍」が存在する。 ; 『[[マーセナリーズ]]』 : 内戦状態の[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]にて「国家連盟(AN)」傘下の軍事組織として「国家連盟軍」が[[国際連合平和維持活動|PKO]]を行っている。 ; 『[[メタルブラック]]』 : 本作に登場する軍事組織は名称こそ不明だが、[[メタルブラック#ネメシス|ネメシス]]に対抗すべく国連安全保障理事会によって各国に残存する陸海空軍の指揮系統が一本化されたものとされている。 === 映画 === ; 『[[空母いぶき#映画|空母いぶき]]』<ref>{{Cite book|title=空母いぶき = Aircraft carrier Ibuki.|url=http://worldcat.org/oclc/1081096953|publisher=Shōgakukan|date=2019|isbn=978-4-09-860159-2|oclc=1081096953|first=かわぐちかいじ,|last=author.}}</ref> : 戦闘をやめるようにと自衛隊艦隊と東亜連邦軍艦隊の間に各国の5艦の潜水艦が「CODE」として登場する。 ; 『[[JSA (映画)|JSA]]』 ; 『[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]』 : 本作に登場する「地球防衛軍」は、対[[地球防衛軍 (映画)#怪遊星人 ミステリアン|ミステリアン]]戦のために国連の下に各国が合同で結成したものであり、予告編では「国連軍」とされている。 ; 『[[トンマッコルへようこそ]]』 ; 『[[ノー・マンズ・ランド]]』 : [[国際連合保護軍|UNPROFOR]]が登場する。 ; 『[[ゴジラ#平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)|平成ゴジラシリーズ]]』 : 国連G対策センターの傘下にある軍事組織「[[東宝特撮映画の怪獣対策組織#Gフォース|Gフォース]]」が登場する。 ; 『[[ホテル・ルワンダ]]』 ; 『[[惑星大戦争]]』 : [[国連宇宙局]]傘下の軍事組織「UNSF(宇宙防衛軍)」が登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[多国籍軍]] * [[北大西洋条約機構]] * [[国際連合平和維持活動]] * [[国際司法裁判所]] * [[国際刑事警察機構]](インターポール) {{国際連合}} {{DEFAULTSORT:こくれんくん}} [[Category:国連軍|*]]
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位相幾何学
数学の一分野、位相幾何学(いそうきかがく、英: topology, トポロジー)は、その名称がギリシア語: τόπος(「位置」「場所」)と λόγος(「言葉」「学問」) に由来し、図形を構成する点の連続的位置関係のみに着目する幾何学で「位置の学問」を意味している。 トポロジーは、何らかの形(かたち。あるいは「空間」)を連続変形(伸ばしたり曲げたりすることはするが切ったり貼ったりはしないこと)しても保たれる性質(位相的性質または位相不変量)に焦点を当てたものである。位相的性質において重要なものには、連結性およびコンパクト性などが挙げられる。 位相幾何学は、空間、次元、変換といった概念の研究を通じて、幾何学および集合論から生じた分野である。このような考え方は、17世紀に「位置の幾何」(羅: geometria situs)および「位置の解析」(羅: analysis situs)を見越したゴットフリート・ライプニッツにまで遡れる。レオンハルト・オイラーの「ケーニヒスベルクの七つの橋」の問題および多面体公式がこの分野における最初の定理であるというのが定説となっている。用語 topology は19世紀にヨハン・ベネディクト・リスティング(英語版)によって導入されたが、位相空間の概念が起こるのは20世紀の最初の10年まで待たねばならない。20世紀中ごろには、位相幾何学は数学の著名な一分野となっていた。 位相幾何学には様々な分科が存在する。 ユークリッド幾何学が紀元前にはできていたことと比較すると、オイラーやガウスに始まる位相幾何学は高々 250 年の歴史であり、大きな差がある。オイラーは、いわゆるオイラーの多面体定理において球面に連続的に変形できるような多面体の辺・頂点・面の数の間にある関係が成り立つことを見出したが、これをもって位相幾何学の始まりとするのが一般的である。 多面体の頂点、辺、面の数を各々 n0, n1, n2 とおくと、これらが n0 − n1 + n2 = 2 の関係にあるとするオイラーの定理は、18 世紀当時の解析学、代数学を中心とする数学の流れにおいて孤立した結果であった。19 世紀にガウスは絡み目数を線積分により表示する公式を与え、また後半紀にリーマンが現在リーマン面と呼ばれる概念を提出し、ロッホは曲面の上の 2 つの偏微分方程式の解の自由度の差を曲面の種数を含む数と同定するリーマン・ロッホの定理をまとめた。これら前駆的研究に対して、トポロジーがひとつの分野として確立する契機となったのは 1900 年前後のポワンカレの一連の研究による。 ポワンカレは 1895 年の論文「Analysis Situs(英語版)」の中でホモロジーの概念を導入した。これはホモロジー論へと発展した。同じ論文の中でポアンカレは基本群の研究を行った。これはホモトピー論へと発展した。これらはいまや代数的位相幾何学の大きな柱であると考えられている。 現代的な位相幾何学は 19 世紀に後半に確立された集合論を大きな基盤として成り立っている。集合論の祖のひとりであるゲオルク・カントールはフーリエ級数の研究に際してユークリッド空間内の点集合について考察している。 カントール、ボルテラ、アルツェラ(英語版)、アダマール、アスコリ(英語版)、らの研究を取りまとめる形で(今日では一般的な位相空間の特別の場合であると考えられている)距離空間の概念を確立したのはフレシェで、1906 年のことである。「位相空間」という用語を導入したのはハウスドルフで、1914 年に今日ではハウスドルフ空間と呼ばれる概念を定義するために用いられたものであるが、その一般化として現代的な意味での位相空間という概念が確立されるのは 1922 年、クラトフスキーの手による。 位相(トポロジー)は、大まかに言えば集合の元が互いにどの程度空間的に関連があるのかを示す、この分野の中心的な数学的構造である。一つの集合には複数の異なる位相が入り得る。例えば、実数直線、複素数平面、およびカントール集合は異なる位相を持つ同一の集合と見ることができる。 厳密に言えば、集合 X に対し、X の部分集合族 τ が X の位相であるとは、 の三条件をすべて満たすときに言う。τ が X 上の位相であるとき、対 (X, τ) は位相空間と呼ばれる。集合 X に特定の位相 τ が備わっていることを Xτ と書き表すこともある。 τ の元は X の開集合と呼ばれる。X の部分集合が閉であるとは、その補集合が τ の元となる(つまり補集合が開集合となる)ことである。X の部分集合は、開でも閉でもある(開かつ閉集合)こともあれば、そのどちらでもないこともある。空集合と X 自身は常に開かつ閉である。点 x を含む開集合は x の(開)近傍と呼ばれる。 位相空間から別の位相空間への写像が連続であるとは、任意の開集合の逆像が開であるときに言う。これは、実数を実数へ写す写像(ただし実数直線の位相は通常の位相を入れる)の場合には、初等解析学における連続函数の定義と同値である。連続写像が単射かつ全射であって、その逆写像もまた連続となるならば、その写像は同相写像(あるいは単に同相)と呼ばれ、また写像の定義域はその像と同相であると言う。これはこの写像が位相の間の写像を自然に引き起こすということもできる。互いに同相な二つの空間は、同一の位相的性質を持ち、従って位相的には同じ空間と考えることができる。例えば立方体と球面は同相であり、同様にコーヒーカップとドーナツは同相だが、他方円とドーナツは同相でない。 位相空間は極めて多様であり風変わりなものも多く存在する裏で、位相幾何学の多くの分野では多様体と呼ばれるより馴染みやすい位相空間のクラスが注目される。多様体は各点の近くではユークリッド空間のように見える位相空間を総称して言う。より明確に言えば、n-次元多様体の各点は n-次元ユークリッド空間に同相な近傍を持つ。直線や円周は一次元多様体だがレムニスケートはそうでない。二次元多様体は曲面と呼ばれ、例えば平面や球面やトーラスは三次元空間内に実現することができるが、クラインの壺や実射影平面(英語版)はそうでない。 位相空間論(一般位相)は位相に関する集合論的定義と構成を扱う位相幾何学の分野である。位相空間論は微分位相幾何学、幾何学的位相幾何学および代数的位相幾何学を含む位相幾何学の他の分野の大部分の基礎となる。点集合位相とも呼ばれる。 点集合位相における基本概念は連続性、コンパクト性、連結性である。直観的に言えば、連続写像は近くの点を近くに写す、コンパクト集合は任意に小さな有限個の集合で被覆できる、連結集合は分離された二つの部分に分割されない、ということである。ここで用いた「近く」「任意に小さい」「分離した」といった表現は何れも開集合を用いて明確な言葉に表される。「開集合」の選び方を変更すれば、それにともなって連続写像やコンパクト集合や連結集合の意味するものも変更される。そのような「開集合」の決め方のそれぞれを位相と呼ぶ。位相を備えた集合は位相空間と呼ばれる。 距離空間は位相空間の重要なクラスであり、そこでは距離函数が任意の二点間に距離と呼ばれる数を割り当てることができる。距離を持つことで多くの証明が簡明になり、またよく知られた位相空間の多くが距離空間になる。 代数的位相幾何学は位相空間を調べるのに抽象代数学由来の道具を用いる数学の一分野である。その基本的な最終目的は同相を除いて位相空間を分類する代数的不変量を求めることであるが、普通はホモトピー同値を除いて大まかな分類を得ることが目的となる。 そのような不変量として最も重要なのがホモトピー群、ホモロジー群およびコホモロジー群である。 代数的位相幾何学では位相的問題を調べるのに代数学を用いることが主だけれども、位相を用いて代数的問題を解くということも時には可能である。例えば代数的位相幾何学で「自由群の任意の部分群がまた自由となること」を簡便に示すことができる。 微分位相幾何学は可微分多様体上の可微分写像を扱う分野である。微分幾何学とも近しい関係にあり、これらを合わせて可微分多様体の幾何学的理論が構築される。 より精確に述べれば、微分位相幾何学は多様体上に可微分構造(英語版)が定義されることのみを必要とする性質や構造を考察する。滑らかな多様体はほかに余計な幾何学的構造(これらは微分位相幾何学において存在するある種の同値性や変形(英語版)の妨げとなる)を持つ多様体よりは「柔らかい」。例えば、体積やリーマン曲率は同一の滑らかな多様体上で相異なる幾何学的構造を区別することのできる不変量である。つまり、ある種の多様体を滑らかに「平坦にする」("flatten out") ことができたとしても、それには空間を歪める必要があるかもしれないし、その結果として曲率や体積が変わってしまうかもしれない。 幾何学的位相幾何学は主に低次元(二、三、四次元)の多様体に焦点を当ててその形状を調べる位相幾何学の分野であるが、より高次元の位相幾何学も一部には含む。幾何学的位相幾何学の主題には例えば向き付け可能性、ハンドル分解(英語版)、局所平坦性(英語版)および(平面および高次元の)シェーンフリースの定理(英語版)などがある。 高次元の位相幾何学において、特性類は基本的な不変量であり、手術理論(英語版)は鍵となる理論である。 低次元位相幾何学は、二次元における一意化定理(任意の曲面が一定曲率計量をもつ、幾何学的に言えば正曲率(球面的)、零曲率(平坦)、負曲率(双曲的)の三種類の何れかになる)や三次元における幾何化予想(任意の三次元多様体は、各々は可能な八種類の幾何の何れかであるような小片に切り分けることができる)に現れているように、極めて幾何学的である。 二次元の位相幾何学は一変数の複素幾何として調べることができる(リーマン面は複素曲線である)。一意化定理により、計量の任意の共形類は一意な複素計量に同値である。また四次元位相幾何学は二変数の複素幾何(複素曲面)の観点から調べることができるが、任意の余次元多様体が複素構造を持つわけではない。 場合によっては、位相幾何学の道具が必要だが「点集合」は使えないという場面に遭遇することもある。点なし位相(英語版)(非点集合的位相空間論)では理論の基本概念として開集合の束を考える。一方、グロタンディーク位相は任意の圏上に定義される構造で、それら圏上に層を定義することが可能になり、一般コホモロジー論の定義を持ち込むことができる。 位相幾何学の手法を用いると、抽象的な接続関係に関する性質や微小変形で不変な大域的な性質を扱うことができる。数学の一分野として整理される以前より、位相幾何学的手法が単発的に使われてきた(空間中の二つの電流の相互作用に対する、ガウスの線積分表示など)が、二十世紀後半には特に他分野との関連が深まり、現在でも応用領域は広がっている。
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"位相空間から別の位相空間への写像が連続であるとは、任意の開集合の逆像が開であるときに言う。これは、実数を実数へ写す写像(ただし実数直線の位相は通常の位相を入れる)の場合には、初等解析学における連続函数の定義と同値である。連続写像が単射かつ全射であって、その逆写像もまた連続となるならば、その写像は同相写像(あるいは単に同相)と呼ばれ、また写像の定義域はその像と同相であると言う。これはこの写像が位相の間の写像を自然に引き起こすということもできる。互いに同相な二つの空間は、同一の位相的性質を持ち、従って位相的には同じ空間と考えることができる。例えば立方体と球面は同相であり、同様にコーヒーカップとドーナツは同相だが、他方円とドーナツは同相でない。", "title": "主要な概念" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "位相空間は極めて多様であり風変わりなものも多く存在する裏で、位相幾何学の多くの分野では多様体と呼ばれるより馴染みやすい位相空間のクラスが注目される。多様体は各点の近くではユークリッド空間のように見える位相空間を総称して言う。より明確に言えば、n-次元多様体の各点は n-次元ユークリッド空間に同相な近傍を持つ。直線や円周は一次元多様体だがレムニスケートはそうでない。二次元多様体は曲面と呼ばれ、例えば平面や球面やトーラスは三次元空間内に実現することができるが、クラインの壺や実射影平面(英語版)はそうでない。", "title": "主要な概念" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "位相空間論(一般位相)は位相に関する集合論的定義と構成を扱う位相幾何学の分野である。位相空間論は微分位相幾何学、幾何学的位相幾何学および代数的位相幾何学を含む位相幾何学の他の分野の大部分の基礎となる。点集合位相とも呼ばれる。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "点集合位相における基本概念は連続性、コンパクト性、連結性である。直観的に言えば、連続写像は近くの点を近くに写す、コンパクト集合は任意に小さな有限個の集合で被覆できる、連結集合は分離された二つの部分に分割されない、ということである。ここで用いた「近く」「任意に小さい」「分離した」といった表現は何れも開集合を用いて明確な言葉に表される。「開集合」の選び方を変更すれば、それにともなって連続写像やコンパクト集合や連結集合の意味するものも変更される。そのような「開集合」の決め方のそれぞれを位相と呼ぶ。位相を備えた集合は位相空間と呼ばれる。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "距離空間は位相空間の重要なクラスであり、そこでは距離函数が任意の二点間に距離と呼ばれる数を割り当てることができる。距離を持つことで多くの証明が簡明になり、またよく知られた位相空間の多くが距離空間になる。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "代数的位相幾何学は位相空間を調べるのに抽象代数学由来の道具を用いる数学の一分野である。その基本的な最終目的は同相を除いて位相空間を分類する代数的不変量を求めることであるが、普通はホモトピー同値を除いて大まかな分類を得ることが目的となる。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "そのような不変量として最も重要なのがホモトピー群、ホモロジー群およびコホモロジー群である。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "代数的位相幾何学では位相的問題を調べるのに代数学を用いることが主だけれども、位相を用いて代数的問題を解くということも時には可能である。例えば代数的位相幾何学で「自由群の任意の部分群がまた自由となること」を簡便に示すことができる。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "微分位相幾何学は可微分多様体上の可微分写像を扱う分野である。微分幾何学とも近しい関係にあり、これらを合わせて可微分多様体の幾何学的理論が構築される。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "より精確に述べれば、微分位相幾何学は多様体上に可微分構造(英語版)が定義されることのみを必要とする性質や構造を考察する。滑らかな多様体はほかに余計な幾何学的構造(これらは微分位相幾何学において存在するある種の同値性や変形(英語版)の妨げとなる)を持つ多様体よりは「柔らかい」。例えば、体積やリーマン曲率は同一の滑らかな多様体上で相異なる幾何学的構造を区別することのできる不変量である。つまり、ある種の多様体を滑らかに「平坦にする」(\"flatten out\") ことができたとしても、それには空間を歪める必要があるかもしれないし、その結果として曲率や体積が変わってしまうかもしれない。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "幾何学的位相幾何学は主に低次元(二、三、四次元)の多様体に焦点を当ててその形状を調べる位相幾何学の分野であるが、より高次元の位相幾何学も一部には含む。幾何学的位相幾何学の主題には例えば向き付け可能性、ハンドル分解(英語版)、局所平坦性(英語版)および(平面および高次元の)シェーンフリースの定理(英語版)などがある。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "高次元の位相幾何学において、特性類は基本的な不変量であり、手術理論(英語版)は鍵となる理論である。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "低次元位相幾何学は、二次元における一意化定理(任意の曲面が一定曲率計量をもつ、幾何学的に言えば正曲率(球面的)、零曲率(平坦)、負曲率(双曲的)の三種類の何れかになる)や三次元における幾何化予想(任意の三次元多様体は、各々は可能な八種類の幾何の何れかであるような小片に切り分けることができる)に現れているように、極めて幾何学的である。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "二次元の位相幾何学は一変数の複素幾何として調べることができる(リーマン面は複素曲線である)。一意化定理により、計量の任意の共形類は一意な複素計量に同値である。また四次元位相幾何学は二変数の複素幾何(複素曲面)の観点から調べることができるが、任意の余次元多様体が複素構造を持つわけではない。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "場合によっては、位相幾何学の道具が必要だが「点集合」は使えないという場面に遭遇することもある。点なし位相(英語版)(非点集合的位相空間論)では理論の基本概念として開集合の束を考える。一方、グロタンディーク位相は任意の圏上に定義される構造で、それら圏上に層を定義することが可能になり、一般コホモロジー論の定義を持ち込むことができる。", "title": "主要な話題" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "位相幾何学の手法を用いると、抽象的な接続関係に関する性質や微小変形で不変な大域的な性質を扱うことができる。数学の一分野として整理される以前より、位相幾何学的手法が単発的に使われてきた(空間中の二つの電流の相互作用に対する、ガウスの線積分表示など)が、二十世紀後半には特に他分野との関連が深まり、現在でも応用領域は広がっている。", "title": "応用" } ]
数学の一分野、位相幾何学は、その名称がギリシア語: τόπος(「位置」「場所」)と λόγος(「言葉」「学問」) に由来し、図形を構成する点の連続的位置関係のみに着目する幾何学で「位置の学問」を意味している。 トポロジーは、何らかの形(かたち。あるいは「空間」)を連続変形(伸ばしたり曲げたりすることはするが切ったり貼ったりはしないこと)しても保たれる性質(位相的性質または位相不変量)に焦点を当てたものである。位相的性質において重要なものには、連結性およびコンパクト性などが挙げられる。 位相幾何学は、空間、次元、変換といった概念の研究を通じて、幾何学および集合論から生じた分野である。このような考え方は、17世紀に「位置の幾何」および「位置の解析」を見越したゴットフリート・ライプニッツにまで遡れる。レオンハルト・オイラーの「ケーニヒスベルクの七つの橋」の問題および多面体公式がこの分野における最初の定理であるというのが定説となっている。用語 topology は19世紀にヨハン・ベネディクト・リスティングによって導入されたが、位相空間の概念が起こるのは20世紀の最初の10年まで待たねばならない。20世紀中ごろには、位相幾何学は数学の著名な一分野となっていた。 位相幾何学には様々な分科が存在する。 位相空間論 は位相の基礎となる側面を確立し、位相空間の性質を研究し、位相空間特有の概念について研究する。別の言い方をすると、「与えられた集合を位相空間とするような開集合に関して研究する」分野である。これには他のあらゆる分野で用いられる基本的な位相的概念(コンパクト性や連結性などの話題を含む)を扱う点集合位相 も含まれる。 代数的位相幾何学は、ホモロジー群やホモトピー群などの代数的構成を用いて連結性の度合いを測ることを試みる。 微分位相幾何学は可微分多様体上の可微分写像を扱う分野である。微分幾何学とも近しい関係にあり、これらを合わせて可微分多様体の幾何学的理論が構築される。 幾何学的位相幾何学は主として多様体およびそれらの別の多様体への埋め込みについて研究する。特に活発なのが、四次元(以下)の多様体について調べる低次元位相幾何学であり、これには結び目について研究する結び目理論も含まれる。
{{Redirect|トポロジー}} [[file:Möbius strip.jpg|thumb|240px|一つの面と一つの辺を持つ[[メビウスの帯]]は、位相幾何学の研究対象の一つである。]] [[file:Trefoil knot arb.png|thumb|[[三葉結び目]](もっとも単純な非[[自明な結び目|自明]]な結び目)]] [[File:Mug and Torus morph.gif|thumb|right|240px|マグカップからドーナツ([[トーラス]])への連続変形([[同相写像]]の一種)とその逆。]] [[数学]]の一分野、'''位相幾何学'''(いそうきかがく、{{lang-en-short|topology}}, '''トポロジー'''{{efn|name="topology"|「トポロジー」の語は、複数の異なる意味で用いられるので文脈に注意すべきである。もっとも狭義には、空間内に「近さ」や「極限」の概念を導入する概念である'''位相'''、より広義には本項で言う'''位相幾何学'''の意味で用いられ、また位相幾何学の同義語として'''位相数学'''も用いられるが、最も広義には'''トポロジー'''および'''位相数学'''は、位相幾何学を展開する基礎付けを与える'''一般位相'''(あるいは'''位相空間論''')を指して用いられる ({{kotobank|トポロジー|世界大百科事典}}、{{kotobank|トポロジー|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}、ほか)。「これを「位置と形相」の学問という意味で「位相」と訳したのは[[中村幸四郎]]氏であり,他の訳語の中からこれを選んだのは[[高木貞治]]氏である」([[村田全]]「第III部 19―20世紀の数学」『数学講座 18 数学史』筑摩書房、1975年、p.554n)。}})は、その名称が{{lang-el|''[[トポス|τόπος]]''}}(「位置」「場所」)と {{el|''[[ロゴス|λόγος]]''}}(「言葉」「学問」) に由来し、図形を構成する点の連続的位置関係のみに着目する幾何学<ref>{{kotobank|位相幾何学|世界大百科事典}}</ref>で「位置の学問」を意味している。 トポロジーは、何らかの形(かたち。あるいは「空間」)を連続変形(伸ばしたり曲げたりすることはするが切ったり貼ったりはしないこと)しても保たれる性質('''[[位相的性質]]'''または'''位相不変量''')に焦点を当てたものである<ref>Oxford Dictionaries</ref>。位相的性質において重要なものには、[[連結空間|連結性]]および[[コンパクト空間|コンパクト性]]などが挙げられる<ref>[http://dictionary.reference.com/browse/topology/ Topology | Define Topology at Dictionary.com]</ref>。 位相幾何学は、[[空間]]、[[位相次元|次元]]、変換といった概念の研究を通じて、[[幾何学]]および[[集合論]]から生じた分野である<ref>[http://www.math.wayne.edu/~rrb/topology.html What is Topology?]</ref>。このような考え方は、17世紀に「位置の幾何」({{lang-la-short|''geometria situs''}})および「位置の解析」({{lang-la-short|''analysis situs''}})を見越した[[ゴットフリート・ライプニッツ]]にまで遡れる。[[レオンハルト・オイラー]]の「ケーニヒスベルクの七つの橋」の問題および[[多面体#オイラーの多面体定理(オイラーの多面体公式)|多面体公式]]がこの分野における最初の定理であるというのが定説となっている。用語 ''topology'' は19世紀に{{仮リンク|ヨハン・ベネディクト・リスティング|en|Johann Benedict Listing}}によって導入されたが、位相空間の概念が起こるのは20世紀の最初の10年まで待たねばならない。20世紀中ごろには、位相幾何学は数学の著名な一分野となっていた。 位相幾何学には様々な分科が存在する<ref>{{kotobank|トポロジー|日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。 * '''[[位相空間論]]''' (''General topology''{{efn|name="topology"}}) は位相の基礎となる側面を確立し、位相空間の性質を研究し、位相空間特有の概念について研究する。別の言い方をすると、「与えられた集合を[[位相空間]]とするような[[開集合]]に関して研究する」分野である。これには他のあらゆる分野で用いられる基本的な位相的概念([[コンパクト空間|コンパクト性]]や[[連結空間|連結性]]などの話題を含む)を扱う'''点集合位相''' (point-set topology) も含まれる。 * '''[[代数的位相幾何学]]'''は、[[ホモロジー群]]や[[ホモトピー群]]などの代数的構成を用いて連結性の度合いを測ることを試みる。 * '''[[微分位相幾何学]]'''は[[可微分多様体]]上の[[可微分写像]]を扱う分野である。[[微分幾何学]]とも近しい関係にあり、これらを合わせて可微分多様体の幾何学的理論が構築される。 * '''[[幾何学的位相幾何学]]'''は主として[[位相多様体|多様体]]およびそれらの別の多様体への[[埋め込み (数学)|埋め込み]]について研究する。特に活発なのが、四次元(以下)の多様体について調べる'''[[低次元位相幾何学]]'''であり、これには[[結び目 (数学)|結び目]]について研究する[[結び目理論]]も含まれる。 == 歴史 == [[File:Konigsberg bridges.png|thumb|right|240px|オイラーによる「ケーニヒスベルクの 7 つの橋」問題の解決は位相幾何学の萌芽(のひとつ)であるとみなされている。]] [[ユークリッド幾何学]]が紀元前にはできていたことと比較すると、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]や[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]に始まる位相幾何学は高々 250 年の歴史であり、大きな差がある。オイラーは、いわゆる[[オイラーの多面体定理]]において球面に連続的に変形できるような多面体の辺・頂点・面の数の間にある関係が成り立つことを見出したが、これをもって位相幾何学の始まりとするのが一般的である。{{seealso|ケーニヒスベルクの橋|{{仮リンク|毛球の定理|en|Hairy ball theorem}}}} 多面体の頂点、辺、面の数を各々 {{math|''n''{{msub|0}}, ''n''{{msub|1}}, ''n''{{msub|2}}}} とおくと、これらが {{math|''n''{{msub|0}} &minus; ''n''{{msub|1}} + ''n''{{msub|2}} {{=}} 2}} の関係にあるとする[[多面体#オイラーの多面体公式|オイラーの定理]]は、18 世紀当時の解析学、代数学を中心とする数学の流れにおいて孤立した結果であった。19 世紀にガウスは[[結び目理論|絡み目数]]を線積分により表示する公式を与え、また後半紀に[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]が現在[[リーマン面]]と呼ばれる概念を提出し、[[グスタフ・ロッホ|ロッホ]]は曲面の上の 2 つの[[偏微分方程式]]の解の自由度の差を曲面の種数を含む数と同定する[[リーマン・ロッホの定理]]をまとめた。これら前駆的研究に対して、トポロジーがひとつの分野として確立する契機となったのは 1900 年前後の[[アンリ・ポアンカレ|ポアンカレ]]の一連の研究による<ref> {{Cite journal|和書| doi = 10.11540/bjsiam.15.1_49| volume = 15| issue = 1| pages = 49–52| author = 古田幹雄| title = トポロジーとその「応用」の可能性| journal = 応用数理| year = 2005}} </ref>。 [[アンリ・ポアンカレ|ポアンカレ]]は 1895 年の論文「{{仮リンク|Analysis Situs (論文)|en|Analysis Situs (paper)|label={{lang|fr|''Analysis Situs''}}}}」の中で[[ホモロジー (数学)|ホモロジー]]の概念を導入した。これはホモロジー論へと発展した。同じ論文の中でポアンカレは[[基本群]]の研究を行った。これは[[ホモトピー]]論へと発展した。これらはいまや代数的位相幾何学の大きな柱であると考えられている。 現代的な位相幾何学は 19 世紀に後半に確立された[[集合論]]を大きな基盤として成り立っている。集合論の祖のひとりである[[ゲオルク・カントール]]は[[フーリエ級数]]の研究に際してユークリッド空間内の点集合について考察している。 カントール、[[ヴィト・ヴォルテラ|ボルテラ]]、{{仮リンク|チェザレ・アルツェラ|en|Cesare_Arzelà|label=アルツェラ}}、[[ジャック・アダマール|アダマール]]、{{仮リンク|ジュリオ・アスコリ|en| Giulio Ascoli|label=アスコリ}}、らの研究を取りまとめる形で(今日では一般的な位相空間の特別の場合であると考えられている)[[距離空間]]の概念を確立したのは[[モーリス・ルネ・フレシェ|フレシェ]]で、1906 年のことである。「位相空間」という用語を導入したのは[[フェリックス・ハウスドルフ|ハウスドルフ]]で、1914 年に今日では[[ハウスドルフ空間]]と呼ばれる概念を定義するために用いられたものであるが、その一般化として現代的な意味での位相空間という概念が確立されるのは 1922 年、[[カシミール・クラトフスキー|クラトフスキー]]の手による。 == 主要な概念 == === 集合上の位相 === {{Main|位相空間}} '''位相'''(トポロジー{{efn|name="topology"}})は、大まかに言えば集合の元が互いにどの程度空間的に関連があるのかを示す、この分野の中心的な数学的構造である。一つの集合には複数の異なる位相が入り得る。例えば、[[実数直線]]、[[複素数平面]]、および[[カントール集合]]は異なる位相を持つ同一の集合と見ることができる。 厳密に言えば、集合 {{mvar|X}} に対し、{{mvar|X}} の[[集合族|部分集合族]] {{mvar|τ}} が {{mvar|X}} の位相であるとは、 # 空集合 {{mvar|&empty;}} および全体集合 {{mvar|X}} は {{mvar|τ}} の元 # {{mvar|τ}} の元の任意の合併は {{mvar|τ}} の元 # {{mvar|τ}} の元の任意の有限交叉は {{mvar|τ}} の元 の三条件をすべて満たすときに言う。{{mvar|τ}} が {{mvar|X}} 上の位相であるとき、対 {{math|(''X'', ''τ'')}} は[[位相空間]]と呼ばれる。集合 {{mvar|X}} に特定の位相 {{mvar|τ}} が備わっていることを {{mvar|X{{msub|τ}}}} と書き表すこともある。 {{mvar|τ}} の元は {{mvar|X}} の[[開集合]]と呼ばれる。{{mvar|X}} の部分集合が[[閉集合|閉]]であるとは、その補集合が {{mvar|τ}} の元となる(つまり補集合が開集合となる)ことである。{{mvar|X}} の部分集合は、開でも閉でもある([[開かつ閉集合]])こともあれば、そのどちらでもないこともある。空集合と {{mvar|X}} 自身は常に開かつ閉である。点 {{mvar|x}} を含む開集合は {{mvar|x}} の(開)[[近傍 (位相空間論)|近傍]]と呼ばれる。 === 連続写像と同相写像 === {{Main|連続写像|同相}} 位相空間から別の位相空間への[[写像]]が'''連続'''であるとは、任意の開集合の逆像が開であるときに言う。これは、実数を実数へ写す写像(ただし実数直線の位相は通常の位相を入れる)の場合には、[[微分積分学|初等解析学]]における[[連続函数]]の定義と同値である。連続写像が[[単射]]かつ[[全射]]であって、その逆写像もまた連続となるならば、その写像は[[同相写像]](あるいは単に同相)と呼ばれ、また写像の定義域はその像と同相であると言う。これはこの写像が位相の間の写像を自然に引き起こすということもできる。互いに同相な二つの空間は、同一の位相的性質を持ち、従って位相的には同じ空間と考えることができる。例えば立方体と球面は同相であり、同様にコーヒーカップとドーナツは同相だが、他方円とドーナツは同相でない。 === 多様体 === {{Main|位相多様体}} 位相空間は極めて多様であり風変わりなものも多く存在する裏で、位相幾何学の多くの分野では多様体と呼ばれるより馴染みやすい位相空間のクラスが注目される。'''多様体'''は各点の近くでは[[ユークリッド空間]]のように見える[[位相空間]]を総称して言う。より明確に言えば、{{mvar|n}}-次元多様体の各点は {{mvar|n}}-次元ユークリッド空間に[[同相]]な[[近傍 (位相空間論)|近傍]]を持つ。[[直線]]や[[円周]]は一次元多様体だが[[レムニスケート]]はそうでない。二次元多様体は[[曲面]]と呼ばれ、例えば[[平面]]や[[球面]]や[[トーラス]]は三次元空間内に実現することができるが、[[クラインの壺]]や{{仮リンク|実射影平面|en|real projective plane}}はそうでない。 == 主要な話題 == === 一般位相 === {{Main|位相空間論}} '''位相空間論'''('''一般位相''')は位相に関する集合論的定義と構成を扱う位相幾何学の分野である<ref>Munkres, James R. Topology. Vol. 2. Upper Saddle River: Prentice Hall, 2000.</ref><ref>Adams, Colin Conrad, and Robert David Franzosa. Introduction to topology: pure and applied. Pearson Prentice Hall, 2008.</ref>。位相空間論は[[微分位相幾何学]]、[[幾何学的位相幾何学]]および[[代数的位相幾何学]]を含む位相幾何学の他の分野の大部分の基礎となる。点集合位相とも呼ばれる。 点集合位相における基本概念は[[連続 (数学)|連続性]]、[[コンパクト空間|コンパクト性]]、[[連結空間|連結性]]である。直観的に言えば、連続写像は近くの点を近くに写す、コンパクト集合は任意に小さな有限個の集合で被覆できる、連結集合は分離された二つの部分に分割されない、ということである。ここで用いた「近く」「任意に小さい」「分離した」といった表現は何れも開集合を用いて明確な言葉に表される。「開集合」の選び方を変更すれば、それにともなって連続写像やコンパクト集合や連結集合の意味するものも変更される。[[位相の特徴付け|そのような「開集合」の決め方]]のそれぞれを'''位相'''と呼ぶ。位相を備えた集合は[[位相空間]]と呼ばれる。 [[距離空間]]は位相空間の重要なクラスであり、そこでは距離函数が任意の二点間に距離と呼ばれる数を割り当てることができる。距離を持つことで多くの証明が簡明になり、またよく知られた位相空間の多くが距離空間になる。 === 代数的位相幾何学 === {{Main|代数的位相幾何学}} '''代数的位相幾何学'''は[[位相空間]]を調べるのに[[抽象代数学]]由来の道具を用いる数学の一分野である<ref>Allen Hatcher, [http://www.math.cornell.edu/~hatcher/AT/ATpage.html ''Algebraic topology.''] (2002) Cambridge University Press, xii+544 pp.&nbsp;ISBN 0-521-79160-X and ISBN 0-521-79540-0.</ref>。その基本的な最終目的は[[同相]][[up to|を除いて]]位相空間を分類する代数的[[不変量]]を求めることであるが、普通は[[ホモトピー同値]]を除いて大まかな分類を得ることが目的となる。 そのような不変量として最も重要なのが[[ホモトピー群]]、[[ホモロジー群]]および[[コホモロジー群]]である。 代数的位相幾何学では位相的問題を調べるのに代数学を用いることが主だけれども、位相を用いて代数的問題を解くということも時には可能である。例えば代数的位相幾何学で「[[自由群]]の任意の部分群がまた自由となること」を簡便に示すことができる。 === 微分位相幾何学 === {{Main|微分位相幾何学}} '''微分位相幾何学'''は[[可微分多様体]]上の[[可微分写像]]を扱う分野である<ref>{{cite book | first = John M. | last = Lee | year = 2006 | title = Introduction to Smooth Manifolds | publisher = Springer-Verlag | isbn = 978-0-387-95448-6}}</ref>。[[微分幾何学]]とも近しい関係にあり、これらを合わせて可微分多様体の幾何学的理論が構築される。 より精確に述べれば、微分位相幾何学は多様体上に{{仮リンク|可微分構造|en|smooth structure}}が定義されることのみを必要とする性質や構造を考察する。滑らかな多様体はほかに余計な幾何学的構造(これらは微分位相幾何学において存在するある種の同値性や{{仮リンク|変形理論|label=変形|en|Deformation theory}}の妨げとなる)を持つ多様体よりは「柔らかい」。例えば、体積や[[リーマン曲率]]は同一の滑らかな多様体上で相異なる幾何学的構造を区別することのできる不変量である。つまり、ある種の多様体を滑らかに「平坦にする」("flatten out") ことができたとしても、それには空間を歪める必要があるかもしれないし、その結果として曲率や体積が変わってしまうかもしれない。 === 幾何学的位相幾何学 === {{Main|幾何学的位相幾何学}} '''幾何学的位相幾何学'''は主に低次元(二、三、四次元)の多様体に焦点を当ててその形状を調べる位相幾何学の分野であるが、より高次元の位相幾何学も一部には含む<ref>{{cite web |url = http://meta.math.stackexchange.com/questions/2840/what-is-geometric-topology |title = What is geometric topology? |last = Budney |first = Ryan |year = 2011 |website = mathoverflow.net |accessdate = 29 December 2013 }}</ref><ref>R.B. Sher and R.J. Daverman (2002), ''Handbook of Geometric Topology'', North-Holland. ISBN 0-444-82432-4</ref>。幾何学的位相幾何学の主題には例えば[[向き付け可能多様体|向き付け可能性]]、{{仮リンク|ハンドル分解|en|handle decomposition}}、{{仮リンク|局所平坦性|en|local flatness}}および(平面および高次元の){{仮リンク|ジョルダン&ndash;シェーンフリースの定理|en|Jordan-Schönflies theorem|label=シェーンフリースの定理}}などがある。 高次元の位相幾何学において、[[特性類]]は基本的な不変量であり、{{仮リンク|手術理論|en|surgery theory}}は鍵となる理論である。 低次元位相幾何学は、二次元における[[一意化定理]](任意の曲面が一定曲率計量をもつ、幾何学的に言えば正曲率(球面的)、零曲率(平坦)、負曲率(双曲的)の三種類の何れかになる)や三次元における[[幾何化予想]](任意の三次元多様体は、各々は可能な八種類の幾何の何れかであるような小片に切り分けることができる)に現れているように、極めて幾何学的である。 二次元の位相幾何学は一変数の複素幾何として調べることができる(リーマン面は複素曲線である)。一意化定理により、計量の任意の共形類は一意な複素計量に同値である。また四次元位相幾何学は二変数の複素幾何(複素曲面)の観点から調べることができるが、任意の余次元多様体が複素構造を持つわけではない。 === 一般化 === 場合によっては、位相幾何学の道具が必要だが「点集合」は使えないという場面に遭遇することもある。{{仮リンク|点なし位相|en|pointless topology}}(非点集合的位相空間論)では理論の基本概念として開集合の[[束 (束論)|束]]を考える<ref>[[Peter Johnstone (mathematician)|Johnstone, Peter T.]], 1983, "[http://projecteuclid.org/DPubS/Repository/1.0/Disseminate?view=body&id=pdf_1&handle=euclid.bams/1183550014 The point of pointless topology,]" ''Bulletin of the American Mathematical Society 8(1)'': 41-53.</ref>。一方、[[グロタンディーク位相]]は任意の[[圏 (圏論)|圏]]上に定義される構造で、それら圏上に[[層 (数学)|層]]を定義することが可能になり、一般コホモロジー論の定義を持ち込むことができる<ref>{{Cite book | last1=Artin | first1=Michael | author1-link=Michael Artin | title=Grothendieck topologies | publisher=Harvard University, Dept. of Mathematics | year=1962 | zbl=0208.48701 | location=Cambridge, MA }}</ref>。 ==応用== {{節スタブ}} 位相幾何学の手法を用いると、抽象的な接続関係に関する性質や微小変形で不変な大域的な性質を扱うことができる。数学の一分野として整理される以前より、位相幾何学的手法が単発的に使われてきた(空間中の二つの電流の相互作用に対する、ガウスの線積分表示など)が、二十世紀後半には特に他分野との関連が深まり、現在でも応用領域は広がっている。 {| class="wikitable" !応用領域!!内容 |- |[[物理学]]||[[宇宙論|宇宙]]の形状、素粒子の記述体系、[[トポロジカル量子数|量子数]]の記述、[[トポロジカル絶縁体|超伝導絶縁体]]、我々の世界に関する性質([[タイムマシン]]は存在するか?など)。 |- |[[化学]]||[[フラーレン]]など分子構造。 |- |[[生物学]]||[[結び目理論|結び目]]をなす分子の、形状による機能や変形([[DNAトポイソメラーゼ]])。 |- |[[経済学]]||[[一般均衡|ワルラス均衡]]の存在、[[ナッシュ均衡]]の存在の証明に位相空間論の手法が用いられる。 |- |[[情報科学]]||論理体系の[[意味論 (論理学)|意味論]]を展開する枠組みとして[[層 (数学)]]の利用、経路空間のホモロジーによる記述。またネットワークの取り扱いにおいては[[グラフ理論]]を手段として研究され、一般的には[[ネットワーク・トポロジー]]として知られている。 また、人工知能の研究分野では「トポロジカル・データ・アナリシス」(Topological data analysis)技術が発展の見込みにある。 |- |[[カタストロフィー理論]]||形態形成、経済現象の記述。 |- |[[3次元コンピュータグラフィックス]]||3DCGにおける[[モーフィング]]は[[ホモトピー]]変形を利用している。また立体計測やデジタル[[彫刻|スカルプト]]で生成された複雑な[[ポリゴン]]モデルを単純な構造のモデルに作り変える操作をリトポロジー(Retopology)と呼ぶ。 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} ==参考文献== {{参照方法|date=2013年4月}} * [[志賀浩二]]「数学の流れ30講 (下) ―20世紀数学の広がり―」(第24講、第25講)、[[朝倉書店]]、2009年 == 関連文献 == * Ryszard Engelking, ''General Topology'', Heldermann Verlag, Sigma Series in Pure Mathematics, December 1989, ISBN 3-88538-006-4. * [[Nicolas Bourbaki|Bourbaki]]; ''Elements of Mathematics: General Topology'', Addison–Wesley (1966). * {{cite book | last = Breitenberger | first = E. | year = 2006 | chapter = Johann Benedict Listing | title = History of Topology | editor-last = James | editor-first = I. M. | publisher = North Holland | isbn = 978-0-444-82375-5 }} * {{cite book | last = Kelley | first = John L. | author-link = John L. Kelley | year = 1975 | title = General Topology | publisher = [[Springer Science+Business Media|Springer-Verlag]] | isbn = 0-387-90125-6 }} * {{cite book | last = Brown | first = Ronald | author-link = Ronald Brown (mathematician) | year = 2006 | title = Topology and Groupoids | url= http://pages.bangor.ac.uk/~mas010/topgpds.html | publisher = Booksurge | isbn = 1-4196-2722-8 }} (Provides a well motivated, geometric account of general topology, and shows the use of groupoids in discussing [[van Kampen's theorem]], [[covering space]]s, and [[orbit space]]s.) * Wacław Sierpiński, ''General Topology'', Dover Publications, 2000, ISBN 0-486-41148-6 * {{cite book | last = Pickover | first = Clifford A. | author-link = Clifford A. Pickover | year = 2006 | title = The Möbius Strip: Dr. August Möbius's Marvelous Band in Mathematics, Games, Literature, Art, Technology, and Cosmology | publisher = Thunder's Mouth Press | isbn = 1-56025-826-8 }} (Provides a popular introduction to topology and geometry) * {{citation|first=Michael C.|last=Gemignani|title=Elementary Topology|edition=2nd|year=1990|origyear=1967|publisher=Dover Publications Inc.|isbn=0-486-66522-4}} == 関連項目 == * [[クラインの壺]] == 外部リンク == {{Commons|Topology}} {{Wikibooks}} * {{MathWorld|urlname=Topology|title=Topology}} * {{nlab|id=topology}} * {{SpringerEOM|title=Topology, general|urlname=Topology,_general}} * [http://www.pdmi.ras.ru/~olegviro/topoman/index.html Elementary Topology: A First Course] Viro, Ivanov, Netsvetaev, Kharlamov. * {{Curlie|Science/Math/Topology}} * [http://www.geom.uiuc.edu/zoo/ The Topological Zoo] at [[The Geometry Center]]. * [http://at.yorku.ca/topology/ Topology Atlas] * [http://at.yorku.ca/i/a/a/b/23.htm Topology Course Lecture Notes] Aisling McCluskey and Brian McMaster, Topology Atlas. * [https://web.archive.org/web/20090713073050/http://www.ornl.gov/sci/ortep/topology/defs.txt Topology Glossary] * [http://www.ams.org/online_bks/hmath1/hmath1-whitney10.pdf Moscow 1935: Topology moving towards America][https://web.archive.org/web/20061006091049/http://www.ams.org/online_bks/hmath1/hmath1-whitney10.pdf], a historical essay by [[Hassler Whitney]]. * [https://ocw.u-tokyo.ac.jp/course_11292/ 幾何学II(UTokyo OpenCourseWare)] ホモロジー群と基本群について {{数学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いそうきかかく}} [[Category:位相幾何学|*]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-06-02T03:59:12Z
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フッ化水素
フッ化水素(フッかすいそ、弗化水素、hydrogen fluoride)とは、水素とフッ素からなる無機化合物で、分子式が HF と表される無色の気体または液体。水溶液はフッ化水素酸 (hydrofluoric acid) と呼ばれ、フッ酸とも俗称される。毒物及び劇物取締法の医薬用外毒物に指定されている。 フッ化水素は、蛍石(フッ化カルシウム CaF2 を主とする鉱石)と濃硫酸とを混合して加熱することで発生させる 水にフッ素を反応させると、激しく反応してフッ化水素と酸素が生じる(この反応様式は、塩素や臭素と異なる)。 融点 -84 °C、沸点 19.54 °C で、常温では気体または液体。塩化水素などの他のハロゲン化水素の場合に比べて性質が異なる点がある。まず、F-H の結合エネルギーが大きいために電離し難く、希薄水溶液においては弱酸として振舞う。これはフッ化物イオンのイオン半径が小さいため、水素イオンとの静電気力が強いことによるとも解釈される。また、水素結合により分子間に強い相互作用を持つことから、分子量の割りに沸点が高くなっている。また、フッ素の電気陰性度があまりに大きいために、フッ化水素同士で二量体あるいはそれ以上の多量体を生成する。80°C以上の気体状態では単量体が主となる。 液体フッ化水素は、様々な物質に対し大きな溶解能を有する。プロトン性極性溶媒であり、水などと同様に自己解離が存在するが、フッ素の高い陰性により、フッ化物イオンは更に一分子のHFと結合して溶媒和する。0°Cでのイオン積は以下のようになる。 フッ化水素の水溶液(フッ化水素酸、弗酸)は濃度により酸性度は著しく変化し、純粋なフッ化水素ではハメットの酸度関数は H0 = −11.03 を示し、純硫酸に近い強酸性媒体である。さらに純フッ化水素に1mol%の五フッ化アンチモンを加えたもの(フルオロアンチモン酸)は H0 = −20.5 という超酸としての性質が現れる。 0°Cにおける比誘電率は83.6と、水の87.74(0°C)に近く、イオン解離に有利な溶媒としての性質を持つが、強い酸性度のためフッ化水素中で強酸としてはたらく物質は少なく、水、アルコールなど多くの分子がプロトン化を受け強塩基として振る舞う。 フッ化物イオンの高い求核性によるケイ素原子との強い結合形成と、ケイ酸骨格へのプロトン化の相互作用により、ガラス等に含まれるケイ酸 SiO2 と反応して、ヘキサフルオロケイ酸 H2SiF6 を生じ、これらを腐食させる。この反応は、半導体の製造プロセスにおいて重要である。 ちなみに、気体のフッ化水素は、ガラス等に含まれる二酸化ケイ素 SiO2 と反応し四フッ化ケイ素 その他、ほとんど全ての無機酸化物を腐食する。そのため、容器としてポリエチレンやテフロンのボトルが使用される。 フッ化物の製造原料として用いられる。フッ化水素は反応性が高く、さまざまなものを侵す。高オクタン価ガソリンを製造するためのアルキル化処理の触媒となるほか、電線被覆や絶縁材料、フライパン・眼鏡レンズのコーティングなどに使われるフッ素樹脂や、エアコンや冷蔵庫の冷媒として使われるフロン類の原料でもある。これらの用途に使われるフッ化水素は99.9%以下の低純度製品で、各国で生産されている。 一方、半導体製造工程用のフッ化水素には高純度が要求され、純度99.999%以上の 5N (Nは Nine、すなわち 9 を示す) クラスのものは液晶パネルなどの集積度が比較的低い製品に使用される。最先端半導体プロセスにおいては不純物の量が歩留まりに直結するため特に超高純度のものが要求され、エッチング工程など向けに 12N (99.9999999999%、不純物濃度 1兆分の1) の超高純度品が生産されている。 この他、モバイル機器用ディスプレイパネルに使われるフッ化ポリイミドの原料となるなど、フッ化水素は現在のハイテク産業を支える重要な物質である。 単体フッ素は、フッ化水素を電気分解することで得られる。 1886年6月、アンリ・モアッサンの実験によって確立され、現在でも基本的にはこの方法が用いられる。 核燃料製造にあたってウラン濃縮のために必要となる六フッ化ウランの製造過程において使用される。 有機リン系の神経ガスであるサリンの製造に、フッ化水素またはフッ化ナトリウムが使用される。 フッ化水素酸(濃度50%換算値)の2013年度日本国内生産量は 64,841 t、出荷量は 56,758 t であった。 生産量を国別で見ると、80%を日本が占めており、残り20%は中華人民共和国となっている。 その他、ロシア連邦の核燃料製造・供給企業 TVEL 傘下の電気化学プラント JSC “PA ECP”(Joint Stock Company Production Association Electrochemical Plant)で核燃料製造の際に使用する超高純度フッ化水素酸および超高純度無水フッ化水素を製造・販売している。 労働安全衛生法の第2類特定化学物質に指定されている。 ヒトの経口最小致死量は 1.5 g、あるいは体重あたり 20 mg/kg である。スプーン一杯の9%溶液の誤飲で死亡した事例もある。吸引すると、灼熱感、咳、めまい、頭痛、息苦しさ、吐き気、息切れ、咽頭痛、嘔吐などの症状が現われる。また、目に入った場合は発赤、痛み、重度の熱傷を起こす。皮膚に接触すると、体内に容易に浸透する。フッ化水素は体内のカルシウムイオンと結合してフッ化カルシウムを生じさせる反応を起こすので、骨を侵す。濃度の薄いフッ化水素酸が付着すると、数時間後にうずくような痛みに襲われるが、これは生じたフッ化カルシウム結晶の刺激によるものである。また、浴びた量が多いと死に至る。これは血液中のカルシウムイオンがフッ化水素によって急速に消費されるために、血中カルシウム濃度が低下し、しばしば重篤な低カルシウム血症を引き起こすためである。この場合、意識は明晰なまま、心室細動を起こし死亡する。 歯科治療においては、人工歯(義歯)の製造工程にフッ化水素が使われる一方で、歯のう蝕(=虫歯)予防にフッ化ナトリウム (NaF) が使われることがある。両方ともフッ化物なので混同の危険性がある。実際に、両者の取り違えによる死亡事故(八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故)が報告されている。 皮膚に接触した場合の応急処置としては、直ちに流水洗浄し、グルコン酸カルシウムを患部に塗布する。 フッ化水素はウラン濃縮やサリンなど毒ガスの製造にも用いられるため、生物化学兵器関連のオーストラリア・グループの枠組みにおいて輸出が統制される品目であり、日本では外国為替及び外国貿易法によって経済産業大臣の許可なく輸出することが禁止されている。 法令上は、政令である輸出貿易管理令別表第一の三の項(一)において「軍用の化学製剤の原料となる物質又は軍用の化学製剤と同等の毒性を有する物質若しくはその原料となる物質として経済産業省令で定めるもの」に該当する。フッ化水素は、この政令にいう経済産業省令である輸出貿易管理令別表第一及び外国為替令別表の規定に基づき貨物又は技術を定める省令(貨物等省令)の第二条一項の「ヘ」として掲げられている。 1970年(昭和45年)9月8日、千葉県市川市の総武線のガードにタンクローリーが衝突。タンク上のバルブが壊れて積荷のフッ化水素が漏出した。現場に出動した消防士、地域住民など60人以上が火傷による負傷。 1982年4月20日、東京都八王子市内の歯科医院で、歯科医師が虫歯予防用のフッ化ナトリウム(NaF)と間違えてフッ化水素酸を当時3歳の女児の歯に塗布し、急性薬物中毒で死亡させる事件が発生した。歯科医師は業務上過失致死罪により禁錮1年6月執行猶予4年の有罪判決を受けた。 2012年9月27日、韓国の慶尚北道亀尾市にある工場でフッ酸が漏出する事故が起こり、作業員ら5人が死亡、住民4千人あまりが健康被害を受けた。韓国政府は、同年10月8日に慶尚北道亀尾市山東面鳳山里一帯を特別災難地域に指定した。
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フッ化水素とは、水素とフッ素からなる無機化合物で、分子式が HF と表される無色の気体または液体。水溶液はフッ化水素酸 と呼ばれ、フッ酸とも俗称される。毒物及び劇物取締法の医薬用外毒物に指定されている。
{{Chembox | Name = フッ化水素 | ImageFileL1 = Hydrogen-fluoride-2D-dimensions.svg | ImageSizeL1 = 100px | ImageFileR1 = Hydrogen-fluoride-3D-vdW.svg | ImageSizeR1 = 100px | ImageFile = Hydrogen-fluoride-solid-chains-3D-vdW.png | ImageSize = 200px | IUPACName = フッ化水素 [[フルオラン]] | OtherNames = フッ化水素酸(水溶液) | Section1 = {{Chembox Identifiers | CASNo = 7664-39-3 | RTECS = | SMILES = }} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = HF | MolarMass = 20.01 g/mol | Appearance = 無色気体または液体 | Density = 0.922 kg m<sup>−3</sup> | Solubility = 任意に混和(沸点以下) | MeltingPtC = −84 | BoilingPtC = 19.54 | pKa = 3.17(希薄水溶液) }} | Section3 = {{Chembox Structure }} | Section4 = {{Chembox Thermochemistry | DeltaHf = -272.1 kJ mol<sup>-1</sup>(気体)<ref name=Parker>D.D. Wagman, W.H. Evans, V.B. Parker, R.H. Schumm, I. Halow, S.M. Bailey, K.L. Churney, R.I. Nuttal, K.L. Churney and R.I. Nuttal, The NBS tables of chemical thermodynamics properties, ''J. Phys. Chem.'' Ref. Data 11 Suppl. 2 (1982).</ref><br />−299.78 kJ mol<sup>−1</sup>(液体) | DeltaHc = | Entropy = 173.779 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup>(気体) | HeatCapacity = 29.133 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup>(気体) }} | Section7 = {{Chembox Hazards | MainHazards = | MolShape = | Dipole = | NFPA-H = 4 | NFPA-F = 0 | NFPA-R = 1 | NFPA-O = | FlashPt = | RPhrases = | SPhrases = }} | Section8 = {{Chembox Related | OtherAnions = [[塩化水素]]<br />[[臭化水素]]<br />[[ヨウ化水素]] | Function = | OtherFunctn = }} }} '''フッ化水素'''(フッかすいそ、弗化水素、{{en|hydrogen fluoride}})とは、[[水素]]と[[フッ素]]からなる[[無機化合物]]で、[[分子式]]が HF と表される無色の気体または液体<ref name="Murahashi">{{Cite journal|和書|author=村橋俊介|author2=榊原俊平|title=無水フッ化水素|publisher=有機合成化学協会|journal=有機合成化学協会誌|date=1967|volume=25|issue=12|pages=1176-1191|doi=10.5059/yukigoseikyokaishi.25.1176}}</ref>。水溶液は'''[[フッ化水素酸]]''' ({{en|hydrofluoric acid}}) と呼ばれ、'''フッ酸'''とも俗称される。[[毒物及び劇物取締法]]の医薬用外[[毒物]]に指定されている。 == 製法 == フッ化水素は、[[蛍石]]([[フッ化カルシウム]] {{chem|CaF|2}} を主とする鉱石)と濃[[硫酸]]とを混合して加熱することで発生させる : <chem>CaF2 + H2SO4 -> 2HF + CaSO4</chem> [[水]]にフッ素を反応させると、激しく反応してフッ化水素と酸素が生じる(この反応様式は、[[塩素]]や[[臭素]]と異なる)。 : <chem>2H2O + 2F2 -> 4HF + O2</chem> == 性質 == === 分子の性質 === [[融点]] -84 ℃、[[沸点]] 19.54 ℃ で、常温では気体または液体。[[塩化水素]]などの他の[[ハロゲン化水素]]の場合に比べて性質が異なる点がある。まず、F-H の結合エネルギーが大きいために電離し難く、希薄水溶液においては[[弱酸]]として振舞う。これは[[フッ化物イオン]]の[[イオン半径]]が小さいため、[[水素イオン]]との[[静電気力]]が強いことによるとも解釈される。また、[[水素結合]]により分子間に強い相互作用を持つことから、分子量の割りに沸点が高くなっている。また、フッ素の[[電気陰性度]]があまりに大きいために、フッ化水素同士で[[二量体]]あるいはそれ以上の多量体を生成する。80℃以上の気体状態では単量体が主となる<ref name=Cotton>F. A. コットン, G. ウィルキンソン 著, 中原 勝儼 訳 『コットン・ウィルキンソン無機化学』 培風館、1987年</ref>。 === 溶媒としての性質 === [[液体]]フッ化水素は、様々な物質に対し大きな溶解能を有する<ref name="Murahashi"/>。[[プロトン性極性溶媒]]であり、[[水]]などと同様に[[自己解離]]が存在するが、フッ素の高い陰性により、フッ化物イオンは更に一分子のHFと結合して溶媒和する。0℃でのイオン積は以下のようになる<ref name=Charlot>シャロー 『溶液内の化学反応と平衡』 藤永太一郎、佐藤昌憲訳、丸善、1975年</ref>。 : <chem>3HF <=> {H2F^+} + HF_2{^-}</chem> : <math>K = \left[\mbox{H}_2\mbox{F}^+ \right] \left[\mbox{H}\mbox{F}_2^- \right] = 10^{-9.7} \mbox{mol}^{2}\mbox{dm}^{-6} \,</math> フッ化水素の水溶液(フッ化水素酸、弗酸)は濃度により酸性度は著しく変化し、純粋なフッ化水素ではハメットの[[酸度関数]]は ''H''<sub>0</sub> = −11.03 を示し、純[[硫酸]]に近い強酸性媒体である<ref>{{cite journal |author=Robin A. Cox|author2=Keith Yates|date=1983|title=Acidity functions: an update|url= |journal=Canadian Journal of Chemistry|publisher=Canadian Science Publishing|volume=61|issue=10|pages=2225-2243|doi=10.1139/v83-388}}</ref>。さらに純フッ化水素に1mol%の[[五フッ化アンチモン]]を加えたもの([[フルオロアンチモン酸]])は ''H''<sub>0</sub> = −20.5 という[[超酸]]としての性質が現れる。 0℃における[[比誘電率]]は83.6と、水の87.74(0℃)に近く、イオン解離に有利な[[溶媒]]としての性質を持つが、強い酸性度のためフッ化水素中で強酸としてはたらく物質は少なく、水、[[アルコール]]など多くの分子がプロトン化を受け[[強塩基]]として振る舞う<ref name=Charlot /><ref name="Murahashi"/>。 === ガラスとの反応 === [[フッ化物イオン]]の高い[[求核性]]による[[ケイ素]]原子との強い結合形成と、[[ケイ酸]]骨格へのプロトン化の相互作用により、[[ガラス]]等に含まれるケイ酸 {{chem|SiO|2}} と反応して、[[ヘキサフルオロケイ酸]] {{chem|H|2|SiF|6}} を生じ、これらを腐食させる。この反応は、[[半導体]]の製造プロセスにおいて重要である。 : <chem>SiO2 + 6HF -> H2SiF6 + 2H2O</chem> ちなみに、気体のフッ化水素は、[[ガラス]]等に含まれる[[二酸化ケイ素]] SiO<sub>2</sub> と反応し[[四フッ化ケイ素]] : <chem>SiO2 + 4HF -> SiF4 + 2H2O</chem> となる。 その他、ほとんど全ての無機[[酸化物]]を腐食する。そのため、容器として[[ポリエチレン]]や[[テフロン]]のボトルが使用される。 === 主な用途 === フッ化物の製造原料として用いられる。フッ化水素は反応性が高く、さまざまなものを侵す。高オクタン価ガソリンを製造するためのアルキル化処理の触媒となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://oilgas-info.jogmec.go.jp/termlist/1000201/1000239.html|title=アルキレーション (あるきれーしょん)|publisher=[[石油天然ガス・金属鉱物資源機構]]|accessdate=2019-11-2}}</ref>ほか、電線被覆や絶縁材料、フライパン・眼鏡レンズのコーティングなどに使われる[[フッ素樹脂]]や、エアコンや冷蔵庫の冷媒として使われる[[フロン類]]の原料でもある。これらの用途に使われるフッ化水素は99.9%以下の低純度製品で、各国で生産されている。 一方、半導体製造工程用のフッ化水素には高純度が要求され、純度99.999%以上の 5N (Nは Nine、すなわち 9 を示す) クラスのものは液晶パネルなどの集積度が比較的低い製品に使用される。最先端半導体プロセスにおいては不純物の量が歩留まりに直結するため特に超高純度のものが要求され、エッチング工程など向けに 12N (99.9999999999%、不純物濃度 1兆分の1) の超高純度品が生産されている。 この他、モバイル機器用ディスプレイパネルに使われるフッ化ポリイミドの原料となるなど、フッ化水素は現在のハイテク産業を支える重要な物質である<ref name=":0">{{Cite web|和書|author=ノ・ソクチョ |title=輸出優遇除外:ロシアのフッ化水素供給提案に韓国業界は困惑 |url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/07/13/2019071380010.html |website=Chosun online 朝鮮日報 日本語版 |publisher=朝鮮日報 |date=2019-07-13 |accessdate=2019-07-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190713134506/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/07/13/2019071380010.html |archive-date=2019-07-13}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=朴智元議員「日本は129フッ化水素生産計画…文大統領は検討を」|url=https://japanese.joins.com/JArticle/255786?sectcode=A10&servcode=A00r|website=[[中央日報]]日本語版|accessdate=2019-07-22}}</ref>。 * [[フッ化物]]や[[フロン]]ガス、[[フッ素樹脂]]の製造原料 * [[ガラス]]の加工 ** 彫刻、エッチング、[[電球]]・[[ブラウン管]]のつや消し * [[金属]]の洗浄、[[鋳造]]物の洗浄、[[半導体]]物質の[[エッチング]]剤等。 単体[[フッ素]]は、フッ化水素を電気分解することで得られる。 :<chem>2HF -> F2 + H2</chem> 1886年6月、[[アンリ・モアッサン#研究|アンリ・モアッサン]]の実験によって確立され、現在でも基本的にはこの方法が用いられる。 ==== ウラン濃縮用途 ==== [[核燃料]]製造にあたって[[ウラン濃縮#遠心分離法|ウラン濃縮]]のために必要となる[[六フッ化ウラン]]の製造過程において使用される<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=転換処理|url=https://www.jsme.or.jp/jsme-medwiki/12:1008816|website=www.jsme.or.jp|accessdate=2021-08-14|publisher=[[日本機械学会]]}}</ref>。 {{Main|酸化ウラン(IV)|四フッ化ウラン}} ==== 毒ガス兵器製造用途 ==== [[有機リン化合物|有機リン系]]の[[神経ガス]]である[[サリン]]の製造に、フッ化水素または[[フッ化ナトリウム]]が使用される<ref name=":0" /><ref name=":3">{{Cite news|title=「日本、経済報復の世論戦のために自国民のトラウマ『サリン』まで活用」|newspaper=[[中央日報]]|date=2019-07-10|url=https://japanese.joins.com/JArticle/255390?sectcode=A10&servcode=A00}}</ref>。 {{Main2|プロセス|サリン#合成及び構造}} == 工業的生産量 == フッ化水素酸<!--月報には「ふっ化水素酸」で記載-->(濃度50%換算値)の2013年度日本国内生産量は 64,841 t、出荷量は 56,758 t であった<ref>[https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/08_seidou.html#menu5 経済産業省生産動態統計] - 経済産業省</ref>。 生産量を国別で見ると、80%を日本が占めており、残り20%は中華人民共和国となっている。 その他、ロシア連邦の核燃料製造・供給企業 [[TVEL]] <ref>[https://www.tvel.ru/wps/wcm/connect/tvel/tvelsite.eng/ TVEL Fuel Company]</ref>傘下の電気化学プラント JSC “PA ECP”(Joint Stock Company Production Association Electrochemical Plant)で核燃料製造の際に使用する超高純度フッ化水素酸および超高純度無水フッ化水素を製造・販売している<ref>[http://www.ecp.ru/eng/ Stock Company «Production Association «Electrochemical plant»]</ref>。 == 毒性 == [[労働安全衛生法]]の[[特定化学物質#第2類物質|第2類特定化学物質]]に指定されている。 ヒトの経口最小致死量は 1.5 g、あるいは体重あたり 20 mg/kg である。スプーン一杯の9%溶液の誤飲で死亡した事例もある<ref>[http://wwwt.j-poison-ic.or.jp/ippan/O13300O.pdf (財)日本中毒情報センター:フッ化水素(医師向け中毒情報)]{{リンク切れ|date=2022-03-21}}</ref>。吸引すると、灼熱感、咳、めまい、頭痛、息苦しさ、吐き気、息切れ、咽頭痛、嘔吐などの症状が現われる。また、目に入った場合は発赤、痛み、重度の熱傷を起こす。皮膚に接触すると、体内に容易に浸透する。フッ化水素は体内の[[カルシウム|カルシウムイオン]]と結合してフッ化カルシウムを生じさせる反応を起こすので、骨を侵す。濃度の薄いフッ化水素酸が付着すると、数時間後にうずくような痛みに襲われるが、これは生じた[[フッ化カルシウム]][[結晶]]の刺激によるものである。また、浴びた量が多いと死に至る。これは血液中のカルシウムイオンがフッ化水素によって急速に消費されるために、血中カルシウム濃度が低下し、しばしば重篤な[[低カルシウム血症]]を引き起こすためである<ref>[http://www.jichi.ac.jp/usr/gakuyu/kyudobu/er/card/card4-20.html フッ化水素酸中毒の症例]{{リンク切れ|date=2022-03-21}}</ref>。この場合、意識は明晰なまま、[[心室細動]]を起こし死亡する<ref>内藤裕史『中毒百科』南江堂、2001年</ref>。 歯科治療においては、人工歯([[義歯]])の製造工程にフッ化水素が使われる一方で、歯の[[う蝕]](=虫歯)予防に[[フッ化ナトリウム]] (NaF) が使われることがある。両方とも[[フッ化物]]なので混同の危険性がある。実際に、両者の取り違えによる死亡事故([[八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故]])が報告されている<ref>昭和57年(1982年)4月22日 読売新聞記事</ref><ref>東京地方裁判所八王子支部昭和58年2月24日判決 [http://www.jmari.med.or.jp/research/dl.php?no=233 日医総研ワーキングペーパー No.93]{{リンク切れ|date=2022-03-21}} 日医総研 平成16年1月20日に関連情報あり</ref>。 皮膚に接触した場合の[[応急処置]]としては、直ちに流水洗浄し、[[グルコン酸カルシウム]]を患部に塗布する。 == 輸出管理 == フッ化水素は[[ウラン濃縮]]<ref name=":2" />や[[サリン]]など毒ガスの製造<ref name=":3" />にも用いられるため、[[生物化学兵器]]関連の[[オーストラリア・グループ]]の枠組みにおいて[[輸出管理|輸出が統制]]される品目であり<ref>{{Cite web|和書|title=国問研戦略コメント(No.11) 韓国向け輸出管理の運用見直しについて>|url=https://www2.jiia.or.jp/RESR/column_page.php?id=362&fbclid=IwAR0zDWwmTZb3vTm9_wfApFiVM1ql6WZyhxCPcq1BFTKiXjoDwCG6gmjACNg|website=www2.jiia.or.jp|accessdate=2021-08-14|publisher=[[日本国際問題研究所]]|last=髙山|first=嘉顕}}</ref>、日本では[[外国為替及び外国貿易法]]によって[[経済産業大臣]]の許可なく輸出することが禁止されている。 法令上は、[[政令]]である輸出貿易管理令別表第一の三の項(一)において「軍用の化学製剤の原料となる物質又は軍用の化学製剤と同等の毒性を有する物質若しくはその原料となる物質として[[経済産業省]]令で定めるもの」に該当する<ref>{{Cite web|和書|title=輸出貿易管理令 {{!}} e-Gov法令検索|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=324CO0000000378|website=elaws.e-gov.go.jp|accessdate=2021-08-14}}</ref>。フッ化水素は、この政令にいう経済産業[[省令]]である輸出貿易管理令別表第一及び外国為替令別表の規定に基づき貨物又は技術を定める省令(貨物等省令)の第二条一項の「ヘ」として掲げられている<ref>{{Cite web|和書|title=輸出貿易管理令別表第一及び外国為替令別表の規定に基づき貨物又は技術を定める省令 {{!}} e-Gov法令検索|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=403M50000400049|website=elaws.e-gov.go.jp|accessdate=2021-08-14}}</ref>。 == 事故・災害 == === 市川市におけるタンクローリーからの流出 === [[1970年]](昭和45年)9月8日、千葉県市川市の総武線のガードに[[タンクローリー]]が衝突。タンク上のバルブが壊れて積荷のフッ化水素が漏出した。現場に出動した[[消防士]]、地域住民など60人以上が火傷による負傷<ref>猛毒フッ化水素、民家襲う 60数人、やけどや炎症 事故トラックから噴出『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月8日夕刊 3版 11面</ref>。 === 八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故 === {{main|八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故}} [[1982年]][[4月20日]]、[[東京都]][[八王子市]]内の歯科医院で、歯科医師が虫歯予防用の[[フッ化ナトリウム]](NaF)と間違えてフッ化水素酸を当時3歳の女児の[[歯]]に塗布し、急性薬物中毒で死亡させる事件が発生した。歯科医師は[[業務上過失致傷罪|業務上過失致死罪]]により[[禁錮]]1年6月[[執行猶予]]4年の有罪判決を受けた<ref>[[判例タイムズ]] 678号60頁</ref>。 === 亀尾フッ化水素酸漏出事故 === {{Main|亀尾フッ化水素酸漏出事故}} [[2012年]][[9月27日]]、[[大韓民国|韓国]]の[[慶尚北道]][[亀尾市]]にある工場でフッ酸が漏出する事故が起こり、作業員ら5人が死亡、住民4千人あまりが健康被害を受けた。韓国政府は、同年10月8日に慶尚北道亀尾市山東面鳳山里一帯を特別災難地域に指定した<ref>[http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2012100995888 東亜日報「フッ酸漏えいの亀尾地域、特別災難地域に指定」] 2012年10月10日13時30分閲覧</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[オラー試薬]] * [[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]] == 外部リンク == * [https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/0063.html 弗化水素] 職場のあんぜんサイト 厚生労働省 * [https://products.kanto.co.jp/products/denshi/pdf/denshi_sdsjhydrofluoricacid01.pdf 安全データシート ふっ化水素酸] MSDS {{水素の化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふつかすいそ}} [[Category:無機化合物]] [[Category:フッ化物]] [[Category:水素の化合物]] [[Category:毒物]] [[Category:カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]
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オスミウム
オスミウム(英: osmium [ˈɒzmiəm])は原子番号76の元素。元素記号は Os。硬く、もろく、非常に希少な青白い白金族の遷移元素であり、合金、主に白金鉱石に微量な元素として見られる。最も密度の高い天然元素であり、実験的に測定された(X線結晶学を用いて)密度は22.587 g/cmである。メーカーは白金、イリジウムおよびその他の白金族金属との合金を使用して万年筆のペン先の先端、電気接触、および極めて大きい耐久性と硬度を必要とする用途に使用されている。オスミウムは非常に希少な金属で、地球の地殻における元素の豊富さはレニウムと同様に最も少なく、50×10しか含まれていない。 ギリシヤ語「臭い」を意味するοσμή(osmi)に由来する。これは四酸化オスミウム OsO 4 {\displaystyle {\ce {OsO4}}} が独特な匂いを発するため。 オスミウムは青灰色の色合いで最も密度の高い安定元素である。密度は鉛の約2倍で、イリジウムよりわずかに高い。X線回折データから密度を計算するとこれらの元素の最も信頼性の高いデータが得られ、オスミウムの値は22.587±0.009 g/cmでありイリジウムの値である22.562±0.009 g/cmよりわずかに高い。どちらの金属も水の23倍近い密度であり、金の1 ⁄6倍の密度である。 とても硬いがもろい金属であり、高温でも光沢を保つ。圧縮率は非常に低く、同様に体積弾性率は非常に高く395と462 GPaの間で報告されており、ダイヤモンド(443 GPa)に匹敵する。硬度は適度に高く4 GPaである。その硬さ、もろさ、低い蒸気圧(白金族金属の中で最も低い)、非常に高い融点(すべての元素でタングステン、レニウムに次いで3番目に高い)により、固体オスミウムは機械加工、形成、研究が難しい。 オスミウムは酸化状態が−2から+8の化合物を形成する。最も一般的な酸化状態は+2, +3, +4, +8である。酸化状態+8はイリジウムの+9を除き化学元素により達成される最大の酸化状態であり、他にはキセノン、ルテニウム、ハッシウム、イリジウムでのみ見られる。2つの反応性化合物Na2[Os4(CO)13]、Na2[Os(CO)4]で表される酸化状態−1, −2はオスミウムクラスター化合物の合成に使用される。 +8の酸化状態を示す最も一般的な化合物は四酸化オスミウムである。この有毒な化合物は粉末状のオスミウムが空気中にさらされると形成される。非常に揮発性が高く、水溶性で、淡黄色の結晶性固体で強いにおいがする。オスミウム粉末は四酸化オスミウムの特徴的なにおいを持つ。四酸化オスミウムは塩基との反応により赤いオスミウム酸塩OsO4(OH)2−2を形成する。アンモニアと反応し、ニトリドオスミウム酸塩OsO3Nを形成する。四酸化オスミウムは130 °Cで沸騰し、強力な酸化剤であるが、これとは対照的に二酸化オスミウム(OsO2)は黒色で不揮発性で反応性と毒性ははるかに低い。 主要な用途があるオスミウム化合物は2つだけである。四酸化オスミウムは電子顕微鏡で組織を染色や、有機合成においてアルケンを酸化するために使われ、不揮発性のオスミウム酸塩は有機酸化反応に使われる。 五フッ化オスミウム(OsF5)は知られているが、三フッ化オスミウム(OsF3)は未だ合成されていない。低い酸化状態は大きいハロゲンにより安定化されるため、三塩化物、三臭化物、三ヨウ化物、さらには二ヨウ化物も知られている。酸化状態+1はヨウ化オスミウム(OsI)でのみ知られているが、一方でトリオスミウムドデカカルボニル(Os3(CO)12)などのオスミウムのいくつかのカルボニル錯体は酸化状態0を示す。 一般的に、オスミウムの低い酸化状態は良いσドナー(アミンなど)およびπアクセプタ(窒素を含む複素環)である配位子により安定化される。より高い酸化状態はOおよびNのような強力なσドナーおよびπドナーにより安定化される。 オスミウムは多数の酸化状態にある幅広い化合物を形成するが、常温常圧でバルク状態では王水含むすべての酸による攻撃に抵抗する。しかし、溶融アルカリによって攻撃される。 オスミウムには7つの天然同位体があり、5つは安定している(Os, Os, Os, Os, Os)(Osが最も豊富)。Osは長い半減期(2.0±1.1)×10年(宇宙の年齢の約140000倍)を経てアルファ崩壊し、実用的な目的では安定しているとみなすことができる。またOsは、隕石中におけるオスミウムとタングステンとの存在比の研究により、半減期1.12×10 年でアルファ崩壊することが示唆されている。 アルファ崩壊は7つの天然同位体すべてで予測されているが、おそらく半減期が非常に長くOsについてのみ観測されている。OsとOsは二重ベータ崩壊をすると予測されているが、この放射能はまだ観測されていない。 OsはRe(半減期4.56×10 年)の子孫であり、地球および隕石の年代測定に広く使用されている(レニウム-オスミウム年代測定(英語版)参照)。また、地質時代の大陸風化の強度を測定し、大陸のクラトンのマントルの根っこの安定化に対する最小年齢を修正するためにも使用されている。この崩壊がレニウムに富む鉱物に異常に多くOsがあり理由である。しかし、地質学におけるオスミウム同位体の最も注目すべき用途は豊富なイリジウムとの関連であり、6500万年前の非鳥類恐竜の絶滅を示すK-Pg境界に沿った衝撃を受けた石英の層を特徴づけている。 オスミウムは、1803年にイングランド、ロンドンのスミソン・テナントとウイリアム・ウォラストンにより発見された。オスミウムの発見は白金および他の白金族元素の金属の発見と絡み合っている。白金は17世紀後半にコロンビアのチョコ県周辺の銀鉱山で最初に見つかり、「プラチナ」(小さい銀の意)としてヨーロッパに渡った。この金属が合金ではなく明らかに新しい元素であるという発見は1748年に発表された。白金を研究した化学者は白金を王水(塩酸と硝酸の混合物)に溶解して可溶性の塩を作った。彼らは常に少量で暗い色の不溶性の残留物を観察していた。ジョゼフ・プルーストはこの残留物はグラファイトであると考えた。Victor Collet-Descotils、Antoine François, comte de Fourcroy、ルイ=ニコラ・ヴォークランは1803年に黒い白金の残留物にイリジウムを観察したが、その後の実験では十分な材料を得ることはできなかった。後に2人のフランス人化学Antoine-François Fourcroyとヴォークランは白金の残留物中の金属を特定し「プテン」(ptène)と呼んだ。 1803年、スミソン・テナントはこの不溶性の残留物を分析し、間違いなく新しい金属を含んでいると結論付けた。ヴォークランは粉末をアルカリと酸で交互に処理し、揮発性の新たな酸化物を得た。ヴォークランはこれを新しい金属と考え、ギリシア語で翼を意味するπτηνος(ptènos)から「プテン」(ptene)と名づけた。しかし、テナントは残留物をはるかに多く持ち優位に立っており、研究を続け黒色の残留物に含まれていたこれまで発見されていない2つの元素、イリジウムとオスミウムを特定した。彼は赤熱での水酸化ナトリウムとの反応により黄色の溶液(おそらくcis–[Os(OH)2O4])を得た。酸性化ののち、形成されたOsO4を蒸留することに成功した。彼はこれをギリシア語のosme(臭いの意)からオスミウムと名付けた。これは揮発性の四酸化オスミウムからかすかに煙のようなにおいがしたためである。この新たな元素の発見は1804年6月21日の王立協会へのレターで文書化された。 ウランとオスミウムはハーバー法で早期に成功した触媒であった。つまり、窒素と水素の窒素固定反応によりアンモニアが生成され、ハーバー法が経済的に成功するのに十分な収率が得られた。当時、カール・ボッシュ率いるBASFのグループは触媒として使用するために世界のほとんどのオスミウムを購入していたその後まもなく1908年に鉄と酸化鉄に基づく安価な触媒が同じグループにより最初のパイロットプラントに導入され、高価で希少なオスミウムの必要性はなくなった。 オスミウムは主に白金とニッケル鉱石を処理して得られる。 オスミウムは偶数元素の1つであり、宇宙で一般的に見られる元素の上半分に位置する。しかし、地球の地殻の中で最も少ない安定元素であり、大陸地殻では50×10の平均質量分率である。 オスミウムは自然界では非結合の元素として、または自然界にある合金(特にイリジウム-オスミウム合金でオスミウムが多く含まれるオスミリジウムとイリジウムが多く含まれるイリドスミウム)の中で見つけられる。ニッケルや銅の堆積物では白金族金属は硫化物(つまり(Pt,Pd)S)、テルリド(例えばPtBiTe)、アンチモン化物(例えばPdSb)、ヒ化物(例えばPtAs2)として発生する。これら全ての化合物で白金は少量とイリジウムとオスミウムで交換される。白金族金属の全ての元素と同様にオスミウムは自然界でニッケルまたは銅との合金に含まれている。 地球の地殻内ではイリジウムと同様、3種の地質構造(火成鉱床(下からの地殻貫入)、衝突クレーター、および以前の構造の1つから作り直された鉱床)の最も高い部分に見られる。知られている中で最大の主要な埋蔵量は南アフリカのブッシュフェルト火成岩体(英語版)にあるが、ロシアのノリリスク近くの大きな銅ニッケル鉱床とカナダのサドベリー隕石孔も重要な供給源である。アメリカでも少し埋蔵しているところはある。コロンビア、チョコ県の先コロンブスの人々が使用した沖積鉱床は現在でも白金族金属の供給源となっている。2番目に大きい沖積鉱床はロシアのウラル山脈で発見され、現在でも採掘されている。 日本では北海道に多く産する。 オスミウムはニッケルと銅の採掘と加工の副産物として商業的に入手される。銅とニッケルの電解精錬中にセレンやテルルなどの非金属元素とともに銀、金、白金族金属などの貴金属が陽極泥として電池の底に沈殿し、これから抽出する。金属を分離するには初めに金属を溶解させる必要がある。分離過程と混合物の組成によりいくつかの方法でこれを達成できる。2つの代表的な方法は過酸化ナトリウムへ溶解してから続いて王水へ溶解する方法と塩素との混合物に溶解し塩酸で処理する方法である。オスミウム、ルテニウム、ロジウム、イリジウムは王水に溶けないため、白金、金、非金属から分離でき固体の残留物が残る。ロジウムは溶融硫酸水素ナトリウムで処理することで残留物から分離することができる、Ru, Os, Irを含む不溶性の残留物は酸化ナトリウムで処理され、ここでIrは不溶であり、水溶性のRu塩およびOs塩を生成する。揮発性酸化物へ酸化した後RuO4は塩化アンモニウムにより(NH4)3RuCl6となり沈殿し、OsO4から分離される。 これを溶かしたのち、オスミウムは揮発性の四酸化オスミウムの有機溶媒による蒸留または抽出により他の白金族金属から分離される。1番目の方法はテナントとウォラストンが使用した手順に似ている。どちらの方法も工業規模の生産に適している。どちらの場合も生成物は水素により還元され、粉末冶金技術を使用して処理できる粉末またはスポンジとして金属が生産される。 生産者も米国地質調査所(United States Geological Survey)もオスミウムの生産量を発表していない。1971年における銅精錬の副産物としての米国でのオスミウムの生産量は2000 トロイオンス(62 kg)と推定された。2017年における消費用の推定オスミウム輸入量は90 kgであった。 酸化物が揮発性であり極めて高い毒性があるために、オスミウムは純粋な状態で使用されることはめったになく代わりに摩耗の激しい用途に対して他の金属と合金化して使用される。オスミリジウムなどのオスミウム合金は非常に硬く、他の白金族金属とともに万年筆、楽器のピボット、電気接触などの先端に使用されている。また、1945年から1955年ごろの78rpmの後半および"LP"と"45"のレコード時代の初期において、蓄音機のスタイラスの先端にも使用された。オスミウム合金の先端は鋼やクロムの針先よりもはるかに耐久性があったが、競合相手であるサファイアやダイヤモンドの先端よりもはるかに速く摩耗し高価であったため、廃止された。 四酸化オスミウムは指紋の検出や光学顕微鏡や電子顕微鏡の脂肪組織の染色に使用されている。強力な酸化剤として主に不飽和の炭素-炭素結合と反応することで脂質を架橋し、それにより組織試料内の生体膜を固定し同時に染色する。オスミウム原子は非常に電子密度が高いため、オスミウム染色は生体物質の透過型電子顕微鏡(TEM)において画像コントラストを大幅に向上させる。これらの炭素材料はTEMのコントラストが非常に弱い(画像参照)。別のオスミウム化合物であるフェリシアン化オスミウム(OsFeCN)も同様の固定および染色作用を示す。 四酸化オスミウムとその誘導体であるオスミウム酸カリウム(英語版)は有機合成における重要な酸化剤である。二重結合のビシナルジオールへの変換にオスミウム酸塩を用いるシャープレス不斉ジヒドロキシ化により、バリー・シャープレスは2001年にノーベル化学賞を受賞している。OsO4はこの用途では非常に高価であるため代わりにKMnO4がよく使われる。ただこの安価な化学試薬では収率が低くなる。 1898年、オーストリアの化学者カール・ヴェルスバッハはオスミウム製のフィラメントを備えたオスランプを開発し、1902年に商業的に導入した。そのわずか数年後にオスミウムはより安定した金属であるタングステンに置き換えられた。タングステンはすべての金属の中で最も融点が高く、電球で使用することで白熱灯の発光効率と寿命が向上する。 電球メーカーのオスラム(3つのドイツの会社Auer-Gesellschaft、AEG、Siemens & Halskeのランプ製造施設を統合し1906年に設立された)は、その名をオスミウムとウォルフラム(ドイツ語でタングステンを意味する)に由来する。 パラジウムと同様に粉末状のオスミウムは水素原子を効率的に吸収する。これによりオスミウムは金属水素化物バッテリーの電極の潜在的な候補となっている。しかし、オスミウムは高価であり最も一般的なバッテリーの電解質である水酸化カリウムと反応してしまう。 オスミウムは電磁スペクトルの紫外領域で高い反射率を持つ。例えば600Åではオスミウムは金の2倍の反射率を持つ。この高い反射率は空間的な制限によりミラーのサイズが縮小された宇宙ベースのUV分光計にとって望ましいことである。オスミウムでコーティングされたミラーはスペースシャトルに搭載されいくつかのミッションで宇宙へ行ったが、低軌道の酸素ラジカルがオスミウム層を著しく劣化させるほど豊富にあることがすぐに明らかとなった。 オスミウムの唯一知られた臨床的使用はスカンジナビアの関節炎患者の滑膜切除である。これには毒性の高い化合物である四酸化オスミウム(OsO4)の局所投与を伴う。長期的な副作用の報告がないことはオスミウム自体に生体適合性がある可能性を示唆するが、これは投与されるオスミウム化合物に依存する。2011年、オスミウム(VI)とオスミウム(II)の化合物はin vivoで抗がん活性を示すことが報告されており、オスミウム化合物を抗がん剤として使用するための有望な将来性を示している。 金属オスミウムは無害であるが、細かく分割された金属オスミウムは自然発火し、室温で酸素と反応して揮発性の四酸化オスミウムを形成する。一部のオスミウム化合物は酸素が存在すると四酸化物に変換される。これにより四酸化オスミウムが環境との主要な接触源になる。 四酸化オスミウムは揮発性が高く、皮膚に浸透しやすく、吸入、摂取、皮膚接触すると非常に毒性が高い。空気中の低濃度の四酸化オスミウム蒸気は肺の鬱血と皮膚または目の損傷を引き起こす可能性があるため、ドラフトチャンバー内で使用する必要がある。四酸化オスミウムは例えばアスコルビン酸または多価不飽和植物油(コーン油など)により比較的不活性な化合物に急速に還元される。 オスミウムは通常、最低99.9%の純粋な粉末として販売される。他の貴金属と同様にトロイ衡とグラムで測定される。市場価格は主に需要と供給がほとんど変化しなかったため数十年の間変化していない。利用できる量が少ないことに加え、取り扱いが難しく用途が少なく酸化すると毒性の化合物を生成するため、安全に保管することが難しい。 1トロイオンスあたり400ドルという価格は1990年代以来安定しているが、それ以降のインフレにより2019年までの20年間で実質価値は約3分の2になった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オスミウム(英: osmium [ˈɒzmiəm])は原子番号76の元素。元素記号は Os。硬く、もろく、非常に希少な青白い白金族の遷移元素であり、合金、主に白金鉱石に微量な元素として見られる。最も密度の高い天然元素であり、実験的に測定された(X線結晶学を用いて)密度は22.587 g/cmである。メーカーは白金、イリジウムおよびその他の白金族金属との合金を使用して万年筆のペン先の先端、電気接触、および極めて大きい耐久性と硬度を必要とする用途に使用されている。オスミウムは非常に希少な金属で、地球の地殻における元素の豊富さはレニウムと同様に最も少なく、50×10しか含まれていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ギリシヤ語「臭い」を意味するοσμή(osmi)に由来する。これは四酸化オスミウム OsO 4 {\\displaystyle {\\ce {OsO4}}} が独特な匂いを発するため。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "オスミウムは青灰色の色合いで最も密度の高い安定元素である。密度は鉛の約2倍で、イリジウムよりわずかに高い。X線回折データから密度を計算するとこれらの元素の最も信頼性の高いデータが得られ、オスミウムの値は22.587±0.009 g/cmでありイリジウムの値である22.562±0.009 g/cmよりわずかに高い。どちらの金属も水の23倍近い密度であり、金の1 ⁄6倍の密度である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "とても硬いがもろい金属であり、高温でも光沢を保つ。圧縮率は非常に低く、同様に体積弾性率は非常に高く395と462 GPaの間で報告されており、ダイヤモンド(443 GPa)に匹敵する。硬度は適度に高く4 GPaである。その硬さ、もろさ、低い蒸気圧(白金族金属の中で最も低い)、非常に高い融点(すべての元素でタングステン、レニウムに次いで3番目に高い)により、固体オスミウムは機械加工、形成、研究が難しい。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "オスミウムは酸化状態が−2から+8の化合物を形成する。最も一般的な酸化状態は+2, +3, +4, +8である。酸化状態+8はイリジウムの+9を除き化学元素により達成される最大の酸化状態であり、他にはキセノン、ルテニウム、ハッシウム、イリジウムでのみ見られる。2つの反応性化合物Na2[Os4(CO)13]、Na2[Os(CO)4]で表される酸化状態−1, −2はオスミウムクラスター化合物の合成に使用される。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "+8の酸化状態を示す最も一般的な化合物は四酸化オスミウムである。この有毒な化合物は粉末状のオスミウムが空気中にさらされると形成される。非常に揮発性が高く、水溶性で、淡黄色の結晶性固体で強いにおいがする。オスミウム粉末は四酸化オスミウムの特徴的なにおいを持つ。四酸化オスミウムは塩基との反応により赤いオスミウム酸塩OsO4(OH)2−2を形成する。アンモニアと反応し、ニトリドオスミウム酸塩OsO3Nを形成する。四酸化オスミウムは130 °Cで沸騰し、強力な酸化剤であるが、これとは対照的に二酸化オスミウム(OsO2)は黒色で不揮発性で反応性と毒性ははるかに低い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "主要な用途があるオスミウム化合物は2つだけである。四酸化オスミウムは電子顕微鏡で組織を染色や、有機合成においてアルケンを酸化するために使われ、不揮発性のオスミウム酸塩は有機酸化反応に使われる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "五フッ化オスミウム(OsF5)は知られているが、三フッ化オスミウム(OsF3)は未だ合成されていない。低い酸化状態は大きいハロゲンにより安定化されるため、三塩化物、三臭化物、三ヨウ化物、さらには二ヨウ化物も知られている。酸化状態+1はヨウ化オスミウム(OsI)でのみ知られているが、一方でトリオスミウムドデカカルボニル(Os3(CO)12)などのオスミウムのいくつかのカルボニル錯体は酸化状態0を示す。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一般的に、オスミウムの低い酸化状態は良いσドナー(アミンなど)およびπアクセプタ(窒素を含む複素環)である配位子により安定化される。より高い酸化状態はOおよびNのような強力なσドナーおよびπドナーにより安定化される。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "オスミウムは多数の酸化状態にある幅広い化合物を形成するが、常温常圧でバルク状態では王水含むすべての酸による攻撃に抵抗する。しかし、溶融アルカリによって攻撃される。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "オスミウムには7つの天然同位体があり、5つは安定している(Os, Os, Os, Os, Os)(Osが最も豊富)。Osは長い半減期(2.0±1.1)×10年(宇宙の年齢の約140000倍)を経てアルファ崩壊し、実用的な目的では安定しているとみなすことができる。またOsは、隕石中におけるオスミウムとタングステンとの存在比の研究により、半減期1.12×10 年でアルファ崩壊することが示唆されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アルファ崩壊は7つの天然同位体すべてで予測されているが、おそらく半減期が非常に長くOsについてのみ観測されている。OsとOsは二重ベータ崩壊をすると予測されているが、この放射能はまだ観測されていない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "OsはRe(半減期4.56×10 年)の子孫であり、地球および隕石の年代測定に広く使用されている(レニウム-オスミウム年代測定(英語版)参照)。また、地質時代の大陸風化の強度を測定し、大陸のクラトンのマントルの根っこの安定化に対する最小年齢を修正するためにも使用されている。この崩壊がレニウムに富む鉱物に異常に多くOsがあり理由である。しかし、地質学におけるオスミウム同位体の最も注目すべき用途は豊富なイリジウムとの関連であり、6500万年前の非鳥類恐竜の絶滅を示すK-Pg境界に沿った衝撃を受けた石英の層を特徴づけている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "オスミウムは、1803年にイングランド、ロンドンのスミソン・テナントとウイリアム・ウォラストンにより発見された。オスミウムの発見は白金および他の白金族元素の金属の発見と絡み合っている。白金は17世紀後半にコロンビアのチョコ県周辺の銀鉱山で最初に見つかり、「プラチナ」(小さい銀の意)としてヨーロッパに渡った。この金属が合金ではなく明らかに新しい元素であるという発見は1748年に発表された。白金を研究した化学者は白金を王水(塩酸と硝酸の混合物)に溶解して可溶性の塩を作った。彼らは常に少量で暗い色の不溶性の残留物を観察していた。ジョゼフ・プルーストはこの残留物はグラファイトであると考えた。Victor Collet-Descotils、Antoine François, comte de Fourcroy、ルイ=ニコラ・ヴォークランは1803年に黒い白金の残留物にイリジウムを観察したが、その後の実験では十分な材料を得ることはできなかった。後に2人のフランス人化学Antoine-François Fourcroyとヴォークランは白金の残留物中の金属を特定し「プテン」(ptène)と呼んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1803年、スミソン・テナントはこの不溶性の残留物を分析し、間違いなく新しい金属を含んでいると結論付けた。ヴォークランは粉末をアルカリと酸で交互に処理し、揮発性の新たな酸化物を得た。ヴォークランはこれを新しい金属と考え、ギリシア語で翼を意味するπτηνος(ptènos)から「プテン」(ptene)と名づけた。しかし、テナントは残留物をはるかに多く持ち優位に立っており、研究を続け黒色の残留物に含まれていたこれまで発見されていない2つの元素、イリジウムとオスミウムを特定した。彼は赤熱での水酸化ナトリウムとの反応により黄色の溶液(おそらくcis–[Os(OH)2O4])を得た。酸性化ののち、形成されたOsO4を蒸留することに成功した。彼はこれをギリシア語のosme(臭いの意)からオスミウムと名付けた。これは揮発性の四酸化オスミウムからかすかに煙のようなにおいがしたためである。この新たな元素の発見は1804年6月21日の王立協会へのレターで文書化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ウランとオスミウムはハーバー法で早期に成功した触媒であった。つまり、窒素と水素の窒素固定反応によりアンモニアが生成され、ハーバー法が経済的に成功するのに十分な収率が得られた。当時、カール・ボッシュ率いるBASFのグループは触媒として使用するために世界のほとんどのオスミウムを購入していたその後まもなく1908年に鉄と酸化鉄に基づく安価な触媒が同じグループにより最初のパイロットプラントに導入され、高価で希少なオスミウムの必要性はなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "オスミウムは主に白金とニッケル鉱石を処理して得られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "オスミウムは偶数元素の1つであり、宇宙で一般的に見られる元素の上半分に位置する。しかし、地球の地殻の中で最も少ない安定元素であり、大陸地殻では50×10の平均質量分率である。", "title": "発生" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "オスミウムは自然界では非結合の元素として、または自然界にある合金(特にイリジウム-オスミウム合金でオスミウムが多く含まれるオスミリジウムとイリジウムが多く含まれるイリドスミウム)の中で見つけられる。ニッケルや銅の堆積物では白金族金属は硫化物(つまり(Pt,Pd)S)、テルリド(例えばPtBiTe)、アンチモン化物(例えばPdSb)、ヒ化物(例えばPtAs2)として発生する。これら全ての化合物で白金は少量とイリジウムとオスミウムで交換される。白金族金属の全ての元素と同様にオスミウムは自然界でニッケルまたは銅との合金に含まれている。", "title": "発生" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "地球の地殻内ではイリジウムと同様、3種の地質構造(火成鉱床(下からの地殻貫入)、衝突クレーター、および以前の構造の1つから作り直された鉱床)の最も高い部分に見られる。知られている中で最大の主要な埋蔵量は南アフリカのブッシュフェルト火成岩体(英語版)にあるが、ロシアのノリリスク近くの大きな銅ニッケル鉱床とカナダのサドベリー隕石孔も重要な供給源である。アメリカでも少し埋蔵しているところはある。コロンビア、チョコ県の先コロンブスの人々が使用した沖積鉱床は現在でも白金族金属の供給源となっている。2番目に大きい沖積鉱床はロシアのウラル山脈で発見され、現在でも採掘されている。", "title": "発生" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日本では北海道に多く産する。", "title": "発生" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "オスミウムはニッケルと銅の採掘と加工の副産物として商業的に入手される。銅とニッケルの電解精錬中にセレンやテルルなどの非金属元素とともに銀、金、白金族金属などの貴金属が陽極泥として電池の底に沈殿し、これから抽出する。金属を分離するには初めに金属を溶解させる必要がある。分離過程と混合物の組成によりいくつかの方法でこれを達成できる。2つの代表的な方法は過酸化ナトリウムへ溶解してから続いて王水へ溶解する方法と塩素との混合物に溶解し塩酸で処理する方法である。オスミウム、ルテニウム、ロジウム、イリジウムは王水に溶けないため、白金、金、非金属から分離でき固体の残留物が残る。ロジウムは溶融硫酸水素ナトリウムで処理することで残留物から分離することができる、Ru, Os, Irを含む不溶性の残留物は酸化ナトリウムで処理され、ここでIrは不溶であり、水溶性のRu塩およびOs塩を生成する。揮発性酸化物へ酸化した後RuO4は塩化アンモニウムにより(NH4)3RuCl6となり沈殿し、OsO4から分離される。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これを溶かしたのち、オスミウムは揮発性の四酸化オスミウムの有機溶媒による蒸留または抽出により他の白金族金属から分離される。1番目の方法はテナントとウォラストンが使用した手順に似ている。どちらの方法も工業規模の生産に適している。どちらの場合も生成物は水素により還元され、粉末冶金技術を使用して処理できる粉末またはスポンジとして金属が生産される。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "生産者も米国地質調査所(United States Geological Survey)もオスミウムの生産量を発表していない。1971年における銅精錬の副産物としての米国でのオスミウムの生産量は2000 トロイオンス(62 kg)と推定された。2017年における消費用の推定オスミウム輸入量は90 kgであった。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "酸化物が揮発性であり極めて高い毒性があるために、オスミウムは純粋な状態で使用されることはめったになく代わりに摩耗の激しい用途に対して他の金属と合金化して使用される。オスミリジウムなどのオスミウム合金は非常に硬く、他の白金族金属とともに万年筆、楽器のピボット、電気接触などの先端に使用されている。また、1945年から1955年ごろの78rpmの後半および\"LP\"と\"45\"のレコード時代の初期において、蓄音機のスタイラスの先端にも使用された。オスミウム合金の先端は鋼やクロムの針先よりもはるかに耐久性があったが、競合相手であるサファイアやダイヤモンドの先端よりもはるかに速く摩耗し高価であったため、廃止された。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "四酸化オスミウムは指紋の検出や光学顕微鏡や電子顕微鏡の脂肪組織の染色に使用されている。強力な酸化剤として主に不飽和の炭素-炭素結合と反応することで脂質を架橋し、それにより組織試料内の生体膜を固定し同時に染色する。オスミウム原子は非常に電子密度が高いため、オスミウム染色は生体物質の透過型電子顕微鏡(TEM)において画像コントラストを大幅に向上させる。これらの炭素材料はTEMのコントラストが非常に弱い(画像参照)。別のオスミウム化合物であるフェリシアン化オスミウム(OsFeCN)も同様の固定および染色作用を示す。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "四酸化オスミウムとその誘導体であるオスミウム酸カリウム(英語版)は有機合成における重要な酸化剤である。二重結合のビシナルジオールへの変換にオスミウム酸塩を用いるシャープレス不斉ジヒドロキシ化により、バリー・シャープレスは2001年にノーベル化学賞を受賞している。OsO4はこの用途では非常に高価であるため代わりにKMnO4がよく使われる。ただこの安価な化学試薬では収率が低くなる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1898年、オーストリアの化学者カール・ヴェルスバッハはオスミウム製のフィラメントを備えたオスランプを開発し、1902年に商業的に導入した。そのわずか数年後にオスミウムはより安定した金属であるタングステンに置き換えられた。タングステンはすべての金属の中で最も融点が高く、電球で使用することで白熱灯の発光効率と寿命が向上する。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "電球メーカーのオスラム(3つのドイツの会社Auer-Gesellschaft、AEG、Siemens & Halskeのランプ製造施設を統合し1906年に設立された)は、その名をオスミウムとウォルフラム(ドイツ語でタングステンを意味する)に由来する。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "パラジウムと同様に粉末状のオスミウムは水素原子を効率的に吸収する。これによりオスミウムは金属水素化物バッテリーの電極の潜在的な候補となっている。しかし、オスミウムは高価であり最も一般的なバッテリーの電解質である水酸化カリウムと反応してしまう。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "オスミウムは電磁スペクトルの紫外領域で高い反射率を持つ。例えば600Åではオスミウムは金の2倍の反射率を持つ。この高い反射率は空間的な制限によりミラーのサイズが縮小された宇宙ベースのUV分光計にとって望ましいことである。オスミウムでコーティングされたミラーはスペースシャトルに搭載されいくつかのミッションで宇宙へ行ったが、低軌道の酸素ラジカルがオスミウム層を著しく劣化させるほど豊富にあることがすぐに明らかとなった。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "オスミウムの唯一知られた臨床的使用はスカンジナビアの関節炎患者の滑膜切除である。これには毒性の高い化合物である四酸化オスミウム(OsO4)の局所投与を伴う。長期的な副作用の報告がないことはオスミウム自体に生体適合性がある可能性を示唆するが、これは投与されるオスミウム化合物に依存する。2011年、オスミウム(VI)とオスミウム(II)の化合物はin vivoで抗がん活性を示すことが報告されており、オスミウム化合物を抗がん剤として使用するための有望な将来性を示している。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "金属オスミウムは無害であるが、細かく分割された金属オスミウムは自然発火し、室温で酸素と反応して揮発性の四酸化オスミウムを形成する。一部のオスミウム化合物は酸素が存在すると四酸化物に変換される。これにより四酸化オスミウムが環境との主要な接触源になる。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "四酸化オスミウムは揮発性が高く、皮膚に浸透しやすく、吸入、摂取、皮膚接触すると非常に毒性が高い。空気中の低濃度の四酸化オスミウム蒸気は肺の鬱血と皮膚または目の損傷を引き起こす可能性があるため、ドラフトチャンバー内で使用する必要がある。四酸化オスミウムは例えばアスコルビン酸または多価不飽和植物油(コーン油など)により比較的不活性な化合物に急速に還元される。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "オスミウムは通常、最低99.9%の純粋な粉末として販売される。他の貴金属と同様にトロイ衡とグラムで測定される。市場価格は主に需要と供給がほとんど変化しなかったため数十年の間変化していない。利用できる量が少ないことに加え、取り扱いが難しく用途が少なく酸化すると毒性の化合物を生成するため、安全に保管することが難しい。", "title": "価格" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1トロイオンスあたり400ドルという価格は1990年代以来安定しているが、それ以降のインフレにより2019年までの20年間で実質価値は約3分の2になった。", "title": "価格" } ]
オスミウムは原子番号76の元素。元素記号は Os。硬く、もろく、非常に希少な青白い白金族の遷移元素であり、合金、主に白金鉱石に微量な元素として見られる。最も密度の高い天然元素であり、実験的に測定された(X線結晶学を用いて)密度は22.587 g/cm3である。メーカーは白金、イリジウムおよびその他の白金族金属との合金を使用して万年筆のペン先の先端、電気接触、および極めて大きい耐久性と硬度を必要とする用途に使用されている。オスミウムは非常に希少な金属で、地球の地殻における元素の豊富さはレニウムと同様に最も少なく、50×10−12しか含まれていない。
{{Elementbox |name=osmium |number=76 |symbol=Os |pronounce={{IPAc-en|ˈ|ɒ|z|m|i|əm}} {{respell|OZ|mee-əm}} |left=[[レニウム]] |right=[[イリジウム]] |above=[[ルテニウム|Ru]] |below=[[ハッシウム|Hs]] |series=遷移金属 |group=8 |period=6 |block=d |image name=Osmium cluster.jpg |appearance=青みがかった銀白色 |atomic mass=190.23 |electron configuration=<nowiki>[</nowiki>[[キセノン|Xe]]<nowiki>]</nowiki> 4f<sup>14</sup> 5d<sup>6</sup> 6s<sup>2</sup> |electrons per shell=2, 8, 18, 32, 14, 2 |phase=固体 |density gpcm3nrt=22.587 |density gpcm3mp=20 |melting point K=3306 |melting point C=3033 |melting point F=5491 |boiling point K=5285 |boiling point C=5012 |boiling point F=9054 |heat fusion=57.85 |heat vaporization=738 |heat capacity=24.7 |vapor pressure 1=3160 |vapor pressure 10=3423 |vapor pressure 100=3751 |vapor pressure 1 k=4148 |vapor pressure 10 k=4638 |vapor pressure 100 k=5256 |vapor pressure comment= |crystal structure=hexagonal |japanese crystal structure=[[六方晶系]] |oxidation states=8, 7, 6, 5, '''4''', 3, 2, 1, 0, -1, -2(弱[[酸性酸化物]]) |electronegativity=2.2 |number of ionization energies=2 |1st ionization energy=840 |2nd ionization energy=1600 |atomic radius=[[1 E-10 m|135]] |covalent radius=[[1 E-10 m|144±4]] |magnetic ordering=[[常磁性]]<ref>[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds], in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref> |electrical resistivity at 0=81.2 n |thermal conductivity=87.6 |thermal expansion at 25=5.1 |speed of sound rod at 20=4940 |Shear modulus=222 |Poisson ratio=0.25 |Bulk modulus=462 |Mohs hardness=7.0 |Brinell hardness=3920 |CAS number=7440-04-2 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[オスミウム184|184]] | sym=Os | na=0.02% | hl=[[1 E21 s|1.1×10<sup>13</sup> y]] | dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=2.963 | pn=[[タングステン180|180]] | ps=[[タングステン|W]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[オスミウム185|185]] | sym=Os | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|93.6 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=1.013 | pn=[[レニウム185|185]] | ps=[[レニウム|Re]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[オスミウム186|186]] | sym=Os | na=1.59% | hl=[[1 E22 s|2.0×10<sup>15</sup> y]] | dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=2.822 | pn=[[タングステン182|182]] | ps=[[タングステン|W]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[オスミウム187|187]] | sym=Os | na=1.96% | n=111}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[オスミウム188|188]] | sym=Os | na=13.24% | n=112}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[オスミウム189|189]] | sym=Os | na=16.15% | n=113}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[オスミウム190|190]] | sym=Os | na=26.26% | n=114}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[オスミウム191|191]] | sym=Os | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|15.4 d]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.314 | pn=[[イリジウム191|191]] | ps=[[イリジウム|Ir]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[オスミウム192|192]] | sym=Os | na=40.78% | hl=[[1 E20 s|> 9.8×10<sup>12</sup> y]]<br />(未確認) | dm=[[二重ベータ崩壊|β<sup>-</sup>β<sup>-</sup>]] | de=0.414 | pn=[[白金192|192]] | ps=[[白金|Pt]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[オスミウム193|193]] | sym=Os | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|30.11 d]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=1.141 | pn=[[イリジウム193|193]] | ps=[[イリジウム|Ir]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[オスミウム194|194]] | sym=Os | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E8 s|6 y]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.097 | pn=[[イリジウム194|194]] | ps=[[イリジウム|Ir]]}} |isotopes comment= }} '''オスミウム'''({{lang-en-short|osmium}} {{IPA-en|ˈɒzmiəm|}})は[[原子番号]]76の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Os'''。硬く、もろく、非常に希少な青白い[[白金族元素|白金族]]の[[遷移元素]]であり、合金、主に[[白金]]鉱石に微量な元素として見られる。最も密度の高い天然元素であり、実験的に測定された(X線結晶学を用いて)[[密度]]は22.587&nbsp;g/cm<sup>3</sup>である。メーカーは白金、[[イリジウム]]およびその他の白金族金属との合金を使用して[[万年筆]]のペン先の先端、[[電気接触]]、および極めて大きい耐久性と[[硬度]]を必要とする用途に使用されている{{sfn|Haynes|2011|p=4.25}}。オスミウムは[[レアメタル|非常に希少な金属]]で、地球の地殻における元素の豊富さは[[レニウム]]と同様に最も少なく、{{val|50|e=-12}}しか含まれていない。<ref>{{Cite web|url=https://pubs.usgs.gov/circ/1953/0285/report.pdf|title=Recent estimates of the abundances of the elements in the Earth's crust|last=Fleischer|first=Michael|date=1953|publisher=U.S. Geological Survey|accessdate=2020-06}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://courses.lumenlearning.com/geology/chapter/reading-abundance-of-elements-in-earths-crust/|title=Reading: Abundance of Elements in Earth's Crust {{!}} Geology|website=courses.lumenlearning.com|access-date=2018-05-10}}</ref> == 名称 == ギリシヤ語「臭い」を意味するοσμή(osmi)に由来する。これは四酸化オスミウム<chem>OsO4</chem>が独特な匂いを発するため。 ==特徴== ===物理的特性=== [[File:Osmium 1-crop.jpg|thumb|left|upright|オスミウム(再溶解ペレット)]] オスミウムは青灰色の色合いで最も密度の高い[[安定元素]]である。密度は[[鉛]]の約2倍で{{sfn|Haynes|2011|p=4.25}}、[[イリジウム]]よりわずかに高い<ref name="Densities">{{cite journal|url=http://www.platinummetalsreview.com/pdf/pmr-v33-i1-014-016.pdf|title=Densities of osmium and iridium: recalculations based upon a review of the latest crystallographic data|author=Arblaster, J. W.|journal=Platinum Metals Review|volume=33|issue=1|date=1989|pages=14–16}}</ref>。[[X線回折]]データから密度を計算するとこれらの元素の最も信頼性の高いデータが得られ、オスミウムの値は{{val|22.587|0.009|ul=g/cm3}}でありイリジウムの値である{{val|22.562|0.009|u=g/cm3}}よりわずかに高い。どちらの金属も水の23倍近い密度であり、[[金]]の{{frac|1|1|6}}倍の密度である<ref name="Densest">{{cite journal|title=Osmium, the Densest Metal Known|author=Arblaster, J. W.|journal=Platinum Metals Review|volume=39|issue=4|year=1995|page=164|url=http://www.platinummetalsreview.com/dynamic/article/view/pmr-v39-i4-164-164|access-date=October 9, 2009|archive-url=https://web.archive.org/web/20110927045236/http://www.platinummetalsreview.com/dynamic/article/view/pmr-v39-i4-164-164|archive-date=September 27, 2011|url-status=dead|}}</ref>。 <!--If one distinguishes different [[isotopes]], then the highest density ordinary substance would be <sup>192</sup>Os.--> とても硬いがもろい[[金属]]であり、高温でも[[光沢]]を保つ。[[圧縮率]]は非常に低く、同様に[[体積弾性率]]は非常に高く{{val|395}}と{{val|462|ul=GPa}}の間で報告されており、[[ダイヤモンド]]({{val|443|u=GPa}})に匹敵する。硬度は適度に高く{{val|4|u=GPa}}である<ref>{{cite journal|title=Osmium Metal Studied under High Pressure and Nonhydrostatic Stress|journal=Phys. Rev. Lett.|volume=100|issue=4|page=045506|date=2008|doi=10.1103/PhysRevLett.100.045506|pmid=18352299|bibcode=2008PhRvL.100d5506W|last1=Weinberger|first1=Michelle|last2=Tolbert|first2=Sarah|last3=Kavner|first3=Abby|url=https://semanticscholar.org/paper/26284f357ffc6a0d689ee720f0ee0079f5de0922}}</ref><ref>{{cite journal|first=Hyunchae|last=Cynn|author2=Klepeis, J. E. |author3=Yeo, C. S. |author4= Young, D. A. |title=Osmium has the Lowest Experimentally Determined Compressibility|journal=Physical Review Letters|volume=88|issue=13|date=2002|doi=10.1103/PhysRevLett.88.135701|page=135701|pmid=11955108|bibcode=2002PhRvL..88m5701C|url=https://zenodo.org/record/1233939}}</ref><ref>{{cite journal|first=B. R.|last=Sahu|author2=Kleinman, L.|title=Osmium Is Not Harder Than Diamond|journal=Physical Review B|volume=72|date=2005|issue=11|doi=10.1103/PhysRevB.72.113106|page=113106|bibcode=2005PhRvB..72k3106S }}</ref>。その[[硬さ]]、もろさ、低い[[蒸気圧]](白金族金属の中で最も低い)、非常に高い[[融点]](すべての元素で[[タングステン]]、レニウムに次いで3番目に高い)により、固体オスミウムは機械加工、形成、研究が難しい。 ===化学的性質=== {{see also|Category:オスミウムの化合物}} <div style="float:right; margin:5px;"> {|class="wikitable" |- ! colspan=2|オスミウムの酸化状態 |- | −2 || {{chem|Na|2|[Os(CO)|4|]}} |- | −1 || {{chem|Na|2|[Os|4|(CO)|13|]}} |- | 0 ||[[トリオスミウムドデカカルボニル|{{chem|Os|3|(CO)|12|}}]] |- | +1 ||{{chem|OsI}} |- | '''+2''' ||{{chem|OsI|2}} |- | '''+3''' || {{chem| OsBr|3|}} |- | '''+4''' || [[二酸化オスミウム|{{chem|OsO|2}}]], [[塩化オスミウム(IV)|{{chem|OsCl|4}}]] |- | +5 ||[[五フッ化オスミウム|{{chem|OsF|5}}]] |- | +6 ||[[六フッ化オスミウム|{{chem|OsF|6}}]] |- | +7 ||{{chem|OsOF|5}} |- | '''+8''' ||[[酸化オスミウム(VIII)|{{chem|OsO|4}}]], {{chem|Os(NCH<sub>3</sub>)|4}} |}</div> <!--Common [[oxidation state]]s of osmium are +4 and +3, but oxidation states from +1 to +8 are observed. --> オスミウムは[[酸化数|酸化状態]]が−2から+8の化合物を形成する。最も一般的な酸化状態は+2, +3, +4, +8である。酸化状態+8はイリジウムの+9<ref>{{cite web|url=http://www.rsc.org/chemistryworld/2014/10/iridium-oxide-cation-oxidation-state-9|title=Iridium forms compound in +9 oxidation state|author=Stoye, Emma|date=23 October 2014|publisher=[[王立化学会|Royal Society of Chemistry]]|accessdate=2020-06}}</ref>を除き化学元素により達成される最大の酸化状態であり、他には[[キセノン]]<ref name="selig">{{cite journal|title=Xenon tetroxide – Preparation + Some Properties|journal=Science| date=1964 |volume=143|pages=1322–3| doi=10.1126/science.143.3612.1322|pmid=17799234|issue=3612|jstor=1713238|bibcode=1964Sci...143.1322S|last1=Selig|first1=H.|display-authors=4|last2=Claassen|first2=H. H.|last3=Chernick|first3=C. L.|last4=Malm|first4=J. G.|last5=Huston|first5=J. L.}}</ref><ref>{{cite journal|title=Xenon tetroxide – Mass Spectrum|journal=Science|date=1964|volume=143|pages=1162–3|doi=10.1126/science.143.3611.1161-a|pmid=17833897|issue=3611|jstor=1712675|bibcode=1964Sci...143.1161H|last1=Huston|first1=J. L.|last2=Studier|first2=M. H.|last3=Sloth|first3=E. N.}}</ref>、[[ルテニウム]]<ref>{{cite journal|doi=10.1595/147106704X10801|title=Oxidation States of Ruthenium and Osmium|date=2004|author=Barnard, C. F. J.|journal=Platinum Metals Review|volume=48|issue=4|page=157|doi-access=free}}</ref>、[[ハッシウム]]<ref>{{cite web|url=http://www.gsi.de/documents/DOC-2003-Jun-29-2.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20120114084650/http://www.gsi.de/documents/DOC-2003-Jun-29-2.pdf|url-status=dead|archive-date=2012-01-14|title=Chemistry of Hassium|accessdate=2007-01-31|date=2002|work=Gesellschaft für Schwerionenforschung mbH}}</ref>、[[イリジウム]]でのみ見られる<ref>{{cite journal|doi=10.1002/anie.200902733|pmid=19593837|title=Formation and Characterization of the Iridium Tetroxide Molecule with Iridium in the Oxidation State +VIII|date=2009|last1=Gong|first1=Yu|last2=Zhou|first2=Mingfei|last3=Kaupp|first3=Martin|last4=Riedel|first4=Sebastian|journal=Angewandte Chemie International Edition|volume=48|issue=42|pages=7879–83}}</ref>。2つの反応性化合物{{chem|Na|2|[Os|4|(CO)|13|]}}、{{chem|Na|2|[Os(CO)|4|]}}で表される酸化状態−1, −2はオスミウム[[クラスター化合物]]の合成に使用される<ref>{{cite journal|doi=10.1016/0022-328X(93)83250-Y|title=Preparation of [Os<sub>3</sub>(CO)<sub>11</sub>]<sup>2−</sup> and its reactions with Os<sub>3</sub>(CO)<sub>12</sub>; structures of [Et<sub>4</sub>N] [HOs<sub>3</sub>(CO)<sub>11</sub>] and H<sub>2</sub>OsS<sub>4</sub>(CO)|date=1993|last =Krause|first=J.|journal=Journal of Organometallic Chemistry|volume=454|issue=1–2|pages=263–271|display-authors=4|last2=Siriwardane|first2=Upali|last3=Salupo|first3=Terese A.|last4=Wermer|first4=Joseph R.|last5=Knoeppel|first5=David W.|last6=Shore|first6=Sheldon G.}}</ref><ref>{{cite journal|doi=10.1021/ic00141a019|title=Mononuclear hydrido alkyl carbonyl complexes of osmium and their polynuclear derivatives|date=1982|first=Willie J.|last=Carter|display-authors=4|author2=Kelland, John W. |author3=Okrasinski, Stanley J. |author4=Warner, Keith E. |author5= Norton, Jack R. | journal=Inorganic Chemistry|volume=21|issue=11|pages=3955–3960}}</ref>。 +8の酸化状態を示す最も一般的な化合物は[[四酸化オスミウム]]である。この有毒な化合物は粉末状のオスミウムが空気中にさらされると形成される。非常に揮発性が高く、水溶性で、淡黄色の結晶性固体で強いにおいがする。オスミウム粉末は四酸化オスミウムの特徴的なにおいを持つ<ref name="mager"/>。四酸化オスミウムは塩基との反応により赤いオスミウム酸塩{{chem|OsO|4|(OH)|2|2-}}を形成する。[[アンモニア]]と反応し、ニトリドオスミウム酸塩{{chem|OsO|3|N|-}}を形成する<ref name="Holle">{{cite book| author2 = Wiberg, E.| author3 = Wiberg, N.| last = Holleman| first = A. F.| title = Inorganic Chemistry| edition = 1st| date = 2001| publisher = Academic Press| isbn = 978-0-12-352651-9| oclc = 47901436 }}</ref><ref name="Griffith">{{cite journal|journal=Quarterly Reviews, Chemical Society|date=1965|volume=19|issue=3|pages=254–273|doi=10.1039/QR9651900254|title=Osmium and its compounds|first=W. P.|last=Griffith}}</ref><ref>{{cite book| author = Subcommittee on Platinum-Group Metals, Committee on Medical and Biologic Effects of Environmental Pollutants, Division of Medical Sciences, Assembly of Life Sciences, National Research Council | title = Platinum-group metals| url = https://books.google.com/books?id=yEcrAAAAYAAJ| date = 1977| publisher = National Academy of Sciences| isbn = 978-0-309-02640-6| page = 55 }}</ref>。四酸化オスミウムは130 °Cで沸騰し、強力な[[酸化剤]]であるが、これとは対照的に[[二酸化オスミウム]](OsO<sub>2</sub>)は黒色で不揮発性で反応性と毒性ははるかに低い。 主要な用途があるオスミウム化合物は2つだけである。四酸化オスミウムは[[電子顕微鏡]]で組織を[[染色]]や、[[有機合成]]において[[アルケン]]を酸化するために使われ、不揮発性のオスミウム酸塩は[[シャープレス不斉ジヒドロキシ化|有機酸化反応]]に使われる<ref name="Bozzola"/>。 五フッ化オスミウム(OsF<sub>5</sub>)は知られているが、三フッ化オスミウム(OsF<sub>3</sub>)は未だ合成されていない。低い酸化状態は大きいハロゲンにより安定化されるため、三塩化物、三臭化物、三ヨウ化物、さらには二ヨウ化物も知られている。酸化状態+1はヨウ化オスミウム(OsI)でのみ知られているが、一方で[[トリオスミウムドデカカルボニル]]({{chem|Os|3|(CO)|12}})などのオスミウムのいくつかのカルボニル錯体は酸化状態0を示す<ref name="Holle"/><ref name="Griffith"/><ref name="greenwood">{{cite book|last=Greenwood|first=N. N.|author2=Earnshaw, A.|title=Chemistry of the Elements|url=https://archive.org/details/chemistryelement00earn_612|url-access=limited|edition=2nd|publisher=Oxford:Butterworth-Heinemann|date=1997|isbn=978-0-7506-3365-9|pages=[https://archive.org/details/chemistryelement00earn_612/page/n1128 1113]–1143, 1294|oclc=213025882 }}</ref><ref>{{cite journal|title=The chemistry of ruthenium, osmium, rhodium, iridium, palladium and platinum in the higher oxidation states|journal=Coordination Chemistry Reviews|volume=46|date=1982|pages=1–127|author=Gulliver, D. J|author2=Levason, W.|doi=10.1016/0010-8545(82)85001-7}}</ref>。 一般的に、オスミウムの低い酸化状態は良いσドナー([[アミン]]など)およびπアクセプタ([[窒素]]を含む[[複素環式化合物|複素環]])である配位子により安定化される。より高い酸化状態は{{chem|O|2-}}および{{chem|N|3-}}のような強力なσドナーおよびπドナーにより安定化される<ref>{{cite book| author = Sykes, A. G. | title = Advances in Inorganic Chemistry| url = https://archive.org/details/advancesinorgani39syke | url-access = limited | date = 1992| publisher = Academic Press| isbn = 978-0-12-023637-4| page = [https://archive.org/details/advancesinorgani39syke/page/n227 221]}}</ref>。 オスミウムは多数の酸化状態にある幅広い化合物を形成するが、常温常圧でバルク状態では[[王水]]含むすべての酸による攻撃に抵抗する。しかし、溶融アルカリによって攻撃される<ref>{{Cite web|url=https://mmta.co.uk/metals/os/|title=Osmium|accessdate=2020-06}}</ref>。 ===同位体=== {{main|オスミウムの同位体}} オスミウムには7つの天然[[同位体]]があり、5つは安定している({{chem|187|Os}}, {{chem|188|Os}}, {{chem|189|Os}}, {{chem|190|Os}}, {{chem|192|Os}})({{chem|192|Os}}が最も豊富)。{{chem|186|Os}}は長い[[半減期]]{{val|2.0e15|1.1}}年([[宇宙の年齢]]の約{{val|140000}}倍)を経て[[アルファ崩壊]]し、実用的な目的では安定しているとみなすことができる。また{{chem|184|Os}}は、隕石中におけるオスミウムとタングステンとの存在比の研究により、半減期{{val|1.12|e=13|u=years}}でアルファ崩壊することが示唆されている。<ref name="184Os">{{cite journal |last1=Peters |first1=Stefan T.M. |last2=Münker |first2=Carsten |last3=Becker |first3=Harry |last4=Schulz |first4=Toni |title=Alpha-decay of <sup>184</sup>Os revealed by radiogenic <sup>180</sup>W in meteorites: Half life determination and viability as geochronometer |journal=Earth and Planetary Science Letters |date=April 2014 |volume=391 |pages=69–76 |doi=10.1016/j.epsl.2014.01.030}}</ref> アルファ崩壊は7つの天然同位体すべてで予測されているが、おそらく半減期が非常に長く{{chem|186|Os}}についてのみ観測されている。{{chem|184|Os}}と{{chem|192|Os}}は[[二重ベータ崩壊]]をすると予測されているが、この放射能はまだ観測されていない<ref name="nubase">{{citation |title=The N<small>UBASE</small> evaluation of nuclear and decay properties |doi=10.1016/j.nuclphysa.2003.11.001 |last1=Audi |first1=Georges |last2=Bersillon |first2=Olivier |last3=Blachot |first3=Jean |last4=Wapstra |first4=Aaldert Hendrik |authorlink4=Aaldert Wapstra |journal=Nuclear Physics A |volume=729 |pages=3–128 |year=2003 |url=<!-- dead: http://amdc.in2p3.fr/nubase/Nubase2003.pdf -->https://hal.archives-ouvertes.fr/in2p3-00020241/document |bibcode=2003NuPhA.729....3A}}</ref>。 {{chem|187|Os}}は{{chem|187|[[レニウム|Re]]}}(半減期{{val|4.56|e=10|u=years}})の子孫であり、地球および[[隕石]]の年代測定に広く使用されている({{仮リンク|レニウム-オスミウム年代測定|en|Rhenium–osmium dating}}参照)。また、地質時代の大陸風化の強度を測定し、大陸の[[クラトン]]の[[マントル]]の根っこの安定化に対する最小年齢を修正するためにも使用されている。この崩壊がレニウムに富む鉱物に異常に多く{{chem|187|Os}}があり理由である<ref>{{cite journal|first=Józef|last=Dąbek|author2=Halas, Stanislaw|title=Physical Foundations of Rhenium-Osmium Method – A Review|journal=Geochronometria|volume=27|date=2007|doi=10.2478/v10003-007-0011-4|pages=23–26|doi-access=free}}</ref>。しかし、地質学におけるオスミウム同位体の最も注目すべき用途は豊富なイリジウムとの関連であり、6500万年前の非鳥類[[恐竜]]の絶滅を示す[[K-Pg境界]]に沿った[[衝撃石英|衝撃を受けた石英]]の層を特徴づけている<ref name="Alvarez">{{cite journal|title=Extraterrestrial cause for the Cretaceous–Tertiary extinction|author=Alvarez, L. W. |author-link=ルイス・ウォルター・アルヴァレズ|author2=Alvarez, W.|author3=Asaro, F.|author4=Michel, H. V.|date=1980|journal=Science|volume=208|issue=4448|pages=1095–1108|doi=10.1126/science.208.4448.1095|pmid=17783054|bibcode=1980Sci...208.1095A|url=http://earthscience.rice.edu/wp-content/uploads/2015/11/Alvarez_K-Timpact_Science80.pdf|citeseerx=10.1.1.126.8496 }}</ref>。 ==歴史== オスミウムは、1803年に[[イングランド]]、[[ロンドン]]の[[スミソン・テナント]]と[[ウイリアム・ウォラストン]]により発見された<ref>{{cite journal|title=Osmium|journal=Metallurgist|volume=18|issue= 2|date=1974|doi=10.1007/BF01132596|pages=155–157|first=S. I.|last=Venetskii}}</ref>。オスミウムの発見は白金および他の[[白金族元素]]の金属の発見と絡み合っている。白金は17世紀後半に[[コロンビア]]の[[チョコ県]]周辺の銀鉱山で最初に見つかり、「プラチナ」(小さい銀の意)としてヨーロッパに渡った<ref>{{cite journal|title=The Platinum of New Granada: Mining and Metallurgy in the Spanish Colonial Empire|author=McDonald, M.|journal=Platinum Metals Review|volume=3|issue=4|date=959|pages=140–145|url=http://www.platinummetalsreview.com/dynamic/article/view/pmr-v3-i4-140-145|access-date=October 15, 2008|archive-url=https://web.archive.org/web/20110609195507/http://www.platinummetalsreview.com/dynamic/article/view/pmr-v3-i4-140-145|archive-date=June 9, 2011|url-status=dead}}</ref>。この金属が合金ではなく明らかに新しい元素であるという発見は1748年に発表された<ref>{{cite book|author=Juan, J.|author2=de Ulloa, A.|date=1748|title=Relación histórica del viage a la América Meridional|volume=1|page=606|language=Spanish}}</ref>。白金を研究した化学者は白金を[[王水]]([[塩酸]]と[[硝酸]]の混合物)に溶解して可溶性の塩を作った。彼らは常に少量で暗い色の不溶性の残留物を観察していた<ref name="hunt" />。[[ジョゼフ・プルースト]]はこの残留物は[[グラファイト]]であると考えた<ref name="hunt">{{cite journal|title=A History of Iridium|first=L. B.|last=Hunt|journal=Platinum Metals Review|volume=31|issue=1|date=1987|url=http://www.platinummetalsreview.com/pdf/pmr-v31-i1-032-041.pdf|accessdate=2012-03-15|pages=32–41}}</ref>。[[:en:Victor Collet-Descotils|Victor Collet-Descotils]]、[[:en:Antoine François, comte de Fourcroy|Antoine François, comte de Fourcroy]]、[[ルイ=ニコラ・ヴォークラン]]は1803年に黒い白金の残留物にイリジウムを観察したが、その後の実験では十分な材料を得ることはできなかった<ref name="hunt" />。後に2人のフランス人化学Antoine-François Fourcroyとヴォークランは白金の残留物中の金属を特定し「プテン」(ptène)と呼んだ<ref>{{Cite journal|last=Haubrichs|first=Rolf|last2=Zaffalon|first2=Pierre-Leonard|date=2017|title=Osmium vs. 'Ptène': The Naming of the Densest Metal|url=http://www.technology.matthey.com/article/61/3/190-196/|journal=Johnson Matthey Technology Review|volume=61|issue=3|pages=190|doi=10.1595/205651317x695631|via=|doi-access=free}}</ref>。 1803年、[[スミソン・テナント]]はこの不溶性の残留物を分析し、間違いなく新しい金属を含んでいると結論付けた。ヴォークランは粉末をアルカリと酸で交互に処理し<ref name="Emsley"/>、揮発性の新たな酸化物を得た。ヴォークランはこれを新しい金属と考え、ギリシア語で翼を意味する{{lang|el|πτηνος}}(ptènos)から「プテン」(ptene)と名づけた<ref name="griffith">{{cite journal|doi=10.1595/147106704X4844|title=Bicentenary of Four Platinum Group Metals. Part II: Osmium and iridium – events surrounding their discoveries|author=Griffith, W. P.|journal=Platinum Metals Review|volume=48|issue=4|date=2004|pages=182–189|doi-access=free}}</ref><ref>{{cite book|title=A System of Chemistry of Inorganic Bodies|url=https://archive.org/details/asystemchemistr08thomgoog|author=Thomson, T.|authorlink=トマス・トムソン (化学者)|publisher=Baldwin & Cradock, London; and William Blackwood, Edinburgh|date=1831|page=[https://archive.org/details/asystemchemistr08thomgoog/page/n726 693]}}</ref>。しかし、テナントは残留物をはるかに多く持ち優位に立っており、研究を続け黒色の残留物に含まれていたこれまで発見されていない2つの元素、イリジウムとオスミウムを特定した<ref name="hunt" /><ref name="Emsley"/>。彼は赤熱での[[水酸化ナトリウム]]との反応により黄色の溶液(おそらく''cis''–<nowiki>[</nowiki>Os(OH)<sub>2</sub>O<sub>4</sub><nowiki>]</nowiki><sup>2−</sup>)を得た。酸性化ののち、形成されたOsO<sub>4</sub>を蒸留することに成功した<ref name="griffith"/>。彼はこれをギリシア語のosme(臭いの意)からオスミウムと名付けた。これは揮発性の[[四酸化オスミウム]]からかすかに煙のようなにおいがしたためである<ref name="weeks">{{cite book|title=Discovery of the Elements|url=https://archive.org/details/discoveryofeleme0000week|url-access=registration|pages=[https://archive.org/details/discoveryofeleme0000week/page/414 414–418]|author=Weeks, M. E.|date= 1968|edition=7|publisher=Journal of Chemical Education|isbn=978-0-8486-8579-9|oclc=23991202}}</ref>。この新たな元素の発見は1804年6月21日の[[王立協会]]へのレターで文書化された<ref name="hunt"/><ref>{{cite journal|title= On Two Metals, Found in the Black Powder Remaining after the Solution of Platina|first=S.|last=Tennant|journal=Philosophical Transactions of the Royal Society|volume=94|date=1804|pages=411–418|jstor=107152|doi=10.1098/rstl.1804.0018|url=https://zenodo.org/record/1432312|doi-access=free}}</ref>。 [[ウラン]]とオスミウムは[[ハーバー法]]で早期に成功した[[触媒]]であった。つまり、[[窒素]]と[[水素]]の[[窒素固定]]反応により[[アンモニア]]が生成され、ハーバー法が経済的に成功するのに十分な収率が得られた。当時、[[カール・ボッシュ]]率いる[[BASF]]のグループは触媒として使用するために世界のほとんどのオスミウムを購入していたその後まもなく1908年に鉄と酸化鉄に基づく安価な触媒が同じグループにより最初のパイロットプラントに導入され、高価で希少なオスミウムの必要性はなくなった<ref>{{cite book| last = Smil| first = Vaclav| title = Enriching the Earth: Fritz Haber, Carl Bosch, and the Transformation of World Food Production| url = https://books.google.com/books?id=G9FljcEASycC| date = 2004| publisher = MIT Press| isbn = 978-0-262-69313-4| pages = 80–86 }}</ref>。 オスミウムは主に[[白金]]と[[ニッケル]]鉱石を処理して得られる<ref name="USGS-YB-2006">{{cite web|url=http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/platinum/myb1-2006-plati.pdf|publisher=United States Geological Survey USGS|accessdate=2008-09-16|title=2006 Minerals Yearbook: Platinum-Group Metals|first=Micheal W.|last=George}}</ref>。 ==発生== [[File:Platinum nuggets.jpg|thumb|他の[[白金族元素|白金族]]金属の痕跡を含む天然の白金]] オスミウムは偶数元素の1つであり、宇宙で一般的に見られる元素の上半分に位置する。しかし、地球の[[地殻]]の中で最も少ない安定元素であり、[[大陸地殻]]では{{val|50|e=-12}}の平均質量分率である<ref name="wede">{{cite journal|doi=10.1016/0016-7037(95)00038-2|pages=1217–1232|title=The composition of the continental crust|date=1995|issue=7|author=Wedepohl, Hans K|journal=Geochimica et Cosmochimica Acta|volume=59|bibcode=1995GeCoA..59.1217W|url=https://doi.pangaea.de/10.1594/PANGAEA.841674}}</ref>。 オスミウムは自然界では非結合の元素として、または自然界にある[[合金]](特にイリジウム-オスミウム合金でオスミウムが多く含まれる[[オスミリジウム]]とイリジウムが多く含まれる[[イリドスミウム]])の中で見つけられる<ref name="Emsley">{{cite book| last = Emsley| first = J.| title = Nature's Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements| date = 2003| publisher = Oxford University Press| location = Oxford, England, UK| isbn = 978-0-19-850340-8| pages = [https://archive.org/details/naturesbuildingb0000emsl/page/199 199–201]| chapter = Osmium| url = https://archive.org/details/naturesbuildingb0000emsl/page/199}}</ref>。[[ニッケル]]や[[銅]]の堆積物では白金族金属は[[硫化物]](つまり(Pt,Pd)S)、[[テルリド]](例えばPtBiTe)、[[アンチモン化物]](例えばPdSb)、[[ヒ化物]](例えばPtAs<sub>2</sub>)として発生する。これら全ての化合物で白金は少量とイリジウムとオスミウムで交換される。白金族金属の全ての元素と同様にオスミウムは自然界でニッケルまたは[[自然銅|銅]]との合金に含まれている<ref>{{cite journal|doi=10.1016/j.mineng.2004.04.001|journal=Minerals Engineering|volume=17|issue=9–10|date=2004|pages=961–979|title=Characterizing and recovering the platinum group minerals—a review|first=Z.|last=Xiao|author2=Laplante, A. R.}}</ref>。 地球の地殻内ではイリジウムと同様、3種の地質構造(火成鉱床(下からの地殻貫入)、衝突[[クレーター]]、および以前の構造の1つから作り直された鉱床)の最も高い部分に見られる。知られている中で最大の主要な埋蔵量は[[南アフリカ]]の{{仮リンク|ブッシュフェルト火成岩体|en|Bushveld Igneous Complex}}にあるが<ref name="kirk-pt">{{cite book |title=Kirk Othmer Encyclopedia of Chemical Technology |first = R. J.|last=Seymour|author2=O'Farrelly, J. I. |chapter=Platinum-group metals|doi=10.1002/0471238961.1612012019052513.a01.pub2|date=2001|publisher=Wiley|isbn = 978-0471238966}}</ref>、[[ロシア]]の[[ノリリスク]]近くの大きな銅ニッケル鉱床と[[カナダ]]の[[サドベリー隕石孔]]も重要な供給源である。アメリカでも少し埋蔵しているところはある<ref name="kirk-pt" />。[[コロンビア]]、[[チョコ県]]の[[先コロンブス期|先コロンブス]]の人々が使用した[[沖積層|沖積]]鉱床は現在でも白金族金属の供給源となっている。2番目に大きい沖積鉱床はロシアの[[ウラル山脈]]で発見され、現在でも採掘されている<ref name="USGS-YB-2006"/><ref>{{cite web|url=http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/platinum/mcs-2008-plati.pdf |publisher=United States Geological Survey USGS|accessdate=2008-09-16|title=Commodity Report: Platinum-Group Metals}}</ref>。 日本では[[北海道]]に多く産する。 ==生産== [[File:Osmium cluster.jpg|thumb|[[化学蒸気輸送法]]により成長させたオスミウム[[結晶]]]] オスミウムは[[ニッケル]]と[[銅]]の採掘と加工の副産物として商業的に入手される。銅とニッケルの電解精錬中に[[セレン]]や[[テルル]]などの非金属元素とともに銀、金、白金族金属などの貴金属が陽極泥として電池の底に沈殿し、これから抽出する<ref name="usgs2008-summary">{{cite journal|author=George, M. W.|title=Platinum-group metals|journal=U.S. Geological Survey Mineral Commodity Summaries|date=2008|url=http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/platinum/mcs-2008-plati.pdf}}</ref><ref name="MinYb2006">{{cite book|url=http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/platinum/myb1-2006-plati.pdf|publisher=United States Geological Survey USGS|accessdate=2008-09-16|title=2006 Minerals Yearbook: Platinum-Group Metals|first=M. W.|last=George}}</ref>。金属を分離するには初めに金属を溶解させる必要がある。分離過程と混合物の組成によりいくつかの方法でこれを達成できる。2つの代表的な方法は[[過酸化ナトリウム]]へ溶解してから続いて[[王水]]へ溶解する方法と[[塩素]]との混合物に溶解し[[塩酸]]で処理する方法である<ref name="kirk-pt" /><ref name="ullmann-pt">{{cite book |author=Renner, H. |display-authors=4 |author2=Schlamp, G. |author3=Kleinwächter, I. |author4=Drost, E. |author5=Lüschow, H. M. |author6=Tews, P. |author7=Panster, P. |author8=Diehl, M. |author9=Lang, J. |author10=Kreuzer, T. |author11=Knödler, A. |author12=Starz, K. A. |author13=Dermann, K. |author14=Rothaut, J. |author15=Drieselman, R.|chapter=Platinum group metals and compounds|title=Ullmann's Encyclopedia of Industrial Chemistry |publisher=Wiley|date=2002|doi=10.1002/14356007.a21_075|isbn=978-3527306732 }}</ref>。オスミウム、ルテニウム、ロジウム、イリジウムは王水に溶けないため、白金、金、非金属から分離でき固体の残留物が残る。ロジウムは溶融[[硫酸水素ナトリウム]]で処理することで残留物から分離することができる、Ru, Os, Irを含む不溶性の残留物は[[酸化ナトリウム]]で処理され、ここでIrは不溶であり、水溶性のRu塩およびOs塩を生成する。揮発性酸化物へ酸化した後{{chem|RuO|4}}は塩化アンモニウムにより(NH<sub>4</sub>)<sub>3</sub>RuCl<sub>6</sub>となり沈殿し、{{chem|OsO|4}}から分離される。 これを溶かしたのち、オスミウムは揮発性の四酸化オスミウムの有機溶媒による蒸留または抽出により他の白金族金属から分離される<ref>{{cite journal|title=The Platinum Metals|first=Raleigh|last=Gilchrist|journal=Chemical Reviews|date=1943|volume=32|issue=3|pages=277–372|doi=10.1021/cr60103a002}}</ref>。1番目の方法はテナントとウォラストンが使用した手順に似ている。どちらの方法も工業規模の生産に適している。どちらの場合も生成物は水素により還元され、[[粉末冶金]]技術を使用して処理できる粉末または[[発泡金属|スポンジ]]として金属が生産される<ref>{{cite journal|first=L. B.|last=Hunt|author2=Lever, F. M.|journal=Platinum Metals Review|volume=13|issue=4|date=1969|pages=126–138|title=Platinum Metals: A Survey of Productive Resources to industrial Uses|url=http://www.platinummetalsreview.com/pdf/pmr-v13-i4-126-138.pdf|accessdate=2008-10-02}}</ref>。 生産者も米国地質調査所(United States Geological Survey)もオスミウムの生産量を発表していない。1971年における銅精錬の副産物としての米国でのオスミウムの生産量は2000&nbsp;[[トロイオンス]](62&nbsp;kg)と推定された<ref name="Appraisal">{{cite journal|journal=Environmental Health Perspectives|date=1974|pages=201–213|title=Osmium: An Appraisal of Environmental Exposure|first=Ivan C.|last=Smith |author2=Carson, Bonnie L. |author3=Ferguson, Thomas L. |doi=10.2307/3428200|volume=8|pmid=4470919|pmc=1474945|jstor=3428200}}</ref>。2017年における消費用の推定オスミウム輸入量は90&nbsp;kgであった<ref>{{cite web|title=Platinum-Group Metals|url=https://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/platinum/mcs-2018-plati.pdf|publisher=USGS|accessdate=27 May 2013}}</ref>。 ==用途== 酸化物が揮発性であり極めて高い毒性があるために、オスミウムは純粋な状態で使用されることはめったになく代わりに摩耗の激しい用途に対して他の金属と合金化して使用される。[[オスミリジウム]]などのオスミウム合金は非常に硬く、他の白金族金属とともに[[万年筆]]、楽器のピボット、電気接触などの先端に使用されている。また、1945年から1955年ごろの78[[rpm (単位)|rpm]]の後半および"[[LPレコード|LP]]"と"[[シングル|45]]"のレコード時代の初期において、[[蓄音機]]の[[スタイラス]]の先端にも使用された。オスミウム合金の先端は鋼やクロムの針先よりもはるかに耐久性があったが、競合相手である[[サファイア]]や[[ダイヤモンド]]の先端よりもはるかに速く摩耗し高価であったため、廃止された<ref>{{cite book| author = Cramer, Stephen D. | author2 = Covino, Bernard S. Jr.| last-author-amp = yes| title = ASM Handbook Volume 13B. Corrosion: Materials| url = https://books.google.com/books?id=wGdFAAAAYAAJ| date = 2005| publisher = ASM International| isbn = 978-0-87170-707-9 }}</ref>。 [[四酸化オスミウム]]は[[指紋]]の検出<ref>{{cite journal|title=The Use of Hydrogen Fluoride in the Development of Latent Fingerprints Found on Glass Surfaces|first=Herbert L.|last=MacDonell|journal=The Journal of Criminal Law, Criminology, and Police Science|volume=51|issue=4|date=1960|pages=465–470|jstor=1140672|doi=10.2307/1140672|url=https://scholarlycommons.law.northwestern.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=4971&context=jclc}}</ref>や光学顕微鏡や[[電子顕微鏡]]の[[脂肪]]組織の染色に使用されている。強力な酸化剤として主に不飽和の炭素-炭素結合と反応することで脂質を架橋し、それにより組織試料内の[[生体膜]]を固定し同時に染色する。オスミウム原子は非常に電子密度が高いため、オスミウム染色は生体物質の[[透過型電子顕微鏡]](TEM)において画像コントラストを大幅に向上させる。これらの炭素材料はTEMのコントラストが非常に弱い(画像参照)<ref name="Bozzola">{{cite book| author2 = Russell, Lonnie D.| last = Bozzola| first = John J.| title = Electron microscopy : principles and techniques for biologists| chapter-url = https://books.google.com/books?id=zMkBAPACbEkC&pg=PA21| date = 1999| publisher = Jones and Bartlett| location = Sudbury, Mass.| isbn = 978-0-7637-0192-5| pages = 21–31| chapter = Specimen Preparation for Transmission Electron Microscopy }}</ref>。別のオスミウム化合物であるフェリシアン化オスミウム(OsFeCN)も同様の固定および染色作用を示す<ref>{{cite book| author = Chadwick, D.| title = Role of the sarcoplasmic reticulum in smooth muscle| date = 2002| publisher = John Wiley and Sons| isbn = 978-0-470-84479-3| pages = [https://archive.org/details/roleofsarcoplasm0000unse/page/259 259–264]| url-access = registration| url = https://archive.org/details/roleofsarcoplasm0000unse/page/259}}</ref>。 四酸化オスミウムとその誘導体である{{仮リンク|オスミウム酸カリウム|en|potassium osmate}}は[[有機合成]]における重要な酸化剤である。[[二重結合]]の[[ビシナル]][[ジオール]]への変換にオスミウム酸塩を用いる[[シャープレス不斉ジヒドロキシ化]]により、[[バリー・シャープレス]]は2001年に[[ノーベル化学賞]]を受賞している<ref>{{cite journal|last=Kolb|first=H. C.|author2=Van Nieuwenhze, M. S.|author3=Sharpless, K. B.|journal=Chemical Reviews|date=1994|volume=94|issue=8|pages=2483–2547|doi=10.1021/cr00032a009|title=Catalytic Asymmetric Dihydroxylation}}</ref><ref>{{cite journal|title=2001 Nobel Prize in Chemistry|last=Colacot|first=T. J.|journal=Platinum Metals Review|volume =46|issue=2|date=2002|pages=82–83|url=http://www.platinummetalsreview.com/pdf/pmr-v46-i2-082-083.pdf}}</ref>。OsO<sub>4</sub>はこの用途では非常に高価であるため代わりにKMnO<sub>4</sub>がよく使われる。ただこの安価な化学試薬では収率が低くなる。 1898年、オーストリアの化学者[[カール・ヴェルスバッハ]]はオスミウム製の[[フィラメント]]を備えたオスランプを開発し、1902年に商業的に導入した。そのわずか数年後にオスミウムはより安定した金属である[[タングステン]]に置き換えられた。タングステンはすべての金属の中で最も融点が高く、電球で使用することで[[白熱灯]]の発光効率と寿命が向上する<ref name="griffith" />。 電球メーカーの[[オスラム]](3つのドイツの会社Auer-Gesellschaft、AEG、Siemens & Halskeのランプ製造施設を統合し1906年に設立された)は、その名を'''オス'''ミウムとウォルフ'''ラム'''(ドイツ語でタングステンを意味する)に由来する<ref>{{cite journal|title=Scanning our past from London: the filament lamp and new materials|first=B.|journal=Proceedings of the IEEE|date=2001|volume=89|issue=3|pages=413–415|doi=10.1109/5.915382|last=Bowers, B.}}</ref>。 [[パラジウム]]と同様に粉末状のオスミウムは水素原子を効率的に吸収する。これによりオスミウムは金属水素化物バッテリーの電極の潜在的な候補となっている。しかし、オスミウムは高価であり最も一般的なバッテリーの電解質である水酸化カリウムと反応してしまう<ref>{{cite journal|title=The Solubility of Hydrogen in the Platinum Metals under High Pressure|first=V. E.|last=Antonov|author2=Belash, I. T. |author3=Malyshev, V. Yu. |author4= Ponyatovsky, E. G. |journal=Platinum Metals Review|volume=28|issue=4|date=1984|pages=158–163|url=http://www.platinummetalsreview.com/pdf/pmr-v28-i4-158-163.pdf}}</ref>。 オスミウムは[[電磁スペクトル]]の[[紫外線|紫外]]領域で高い[[反射率]]を持つ。例えば600[[オングストローム|Å]]ではオスミウムは金の2倍の反射率を持つ<ref>{{cite journal|doi=10.1364/AO.24.002959|title=Osmium coated diffraction grating in the Space Shuttle environment: performance|date=1985|author=Torr, Marsha R.|journal=Applied Optics|volume=24|page=2959|pmid=18223987|issue=18|bibcode=1985ApOpt..24.2959T }}</ref>。この高い反射率は空間的な制限によりミラーのサイズが縮小された宇宙ベースの[[紫外可視近赤外分光法|UV分光計]]にとって望ましいことである。オスミウムでコーティングされたミラーは[[スペースシャトル]]に搭載されいくつかのミッションで宇宙へ行ったが、[[低軌道]]の酸素ラジカルがオスミウム層を著しく劣化させるほど豊富にあることがすぐに明らかとなった<ref>{{cite journal|doi=10.1364/AO.24.002660|title=Low earth orbit environmental effects on osmium and related optical thin-film coatings|date=1985|author=Gull, T. R.|journal=Applied Optics|volume=24|page=2660|pmid=18223936|last2=Herzig|first2=H.|last3=Osantowski|first3=J. F.|last4=Toft|first4=A. R.|issue=16|bibcode=1985ApOpt..24.2660G }}</ref>。 オスミウムの唯一知られた臨床的使用はスカンジナビアの関節炎患者の[[滑膜切除]]である<ref>{{cite journal|last=Sheppeard|first=H.|author2=D. J. Ward|journal=Rheumatology|date=1980|volume=19|pages=25–29|doi=10.1093/rheumatology/19.1.25|pmid=7361025|title=Intra-articular osmic acid in rheumatoid arthritis: five years' experience|issue=1}}</ref>。これには毒性の高い化合物である四酸化オスミウム(OsO<sub>4</sub>)の局所投与を伴う。長期的な副作用の報告がないことはオスミウム自体に[[生体適合性]]がある可能性を示唆するが、これは投与されるオスミウム化合物に依存する。2011年、オスミウム(VI)<ref>{{cite journal|last=Lau|first=T.-C|display-authors=4|author2=W.-X. Ni|author3=W.-L. Man|author4=M. T.-W. Cheung|author5=R. W.-Y. Sun|author6=Y.-L. Shu|author7=Y.-W. Lam|author8=C.-M. Che|journal=Chem. Commun.|date=2011|volume=47|pages=2140–2142|doi= 10.1039/C0CC04515B|pmid=21203649|title=Osmium(vi) complexes as a new class of potential anti-cancer agents|issue=7 |url=https://semanticscholar.org/paper/cddae47b12a6e9ad34687029d0f8293d8f1aa647}}</ref>とオスミウム(II)<ref>{{cite journal|last=Sadler|first=Peter|display-authors=4|author2=Steve D. Shnyder |author3=Ying Fu |author4=Abraha Habtemariam |author5=Sabine H. van Rijt |author6=Patricia A. Cooper |author7=Paul M. Loadman |journal=Med. Chem. Commun.|date=2011|volume=2|pages=666–668|doi=10.1039/C1MD00075F|title=Anti-colorectal cancer activity of an organometallic osmium arene azopyridine complex|issue=7 |url=http://wrap.warwick.ac.uk/38704/1/WRAP_Fu_467_MCC_2011_Ying%20Fu_2_666_deposit.pdf}}</ref>の化合物はin vivoで抗がん活性を示すことが報告されており、オスミウム化合物を抗がん剤として使用するための有望な将来性を示している<ref>{{cite journal|last1=Fu|first1=Ying|last2=Romero|first2=María J.|last3=Habtemariam|first3=Abraha|last4=Snowden|first4=Michael E.|last5=Song|first5=Lijiang|last6=Clarkson|first6=Guy J.|last7=Qamar|first7=Bushra|last8=Pizarro|first8=Ana M.|last9=Unwin|first9=Patrick R.|last10=Sadler|first10=Peter J.|displayauthors=3|title=The contrasting chemical reactivity of potent isoelectronic iminopyridine and azopyridine osmium(II) arene anticancer complexes|date=2012|journal=Chemical Science|volume=3|issue=8|pages=2485–2494|doi=10.1039/C2SC20220D|url=http://wrap.warwick.ac.uk/53174/1/WRAP_Romero_489_Chem%20Sci%202012_3_2485_Maria%20J%20Romero_deposit.pdf}}</ref>。 <gallery widths="200px" heights="200px"> Image:Sharpless Dihydroxylation Scheme.png|シャープレスジヒドロキシ化<br /> R<sub>L</sub> = 大きい方の置換基; R<sub>M</sub> = 中くらいの大きさの置換基; R<sub>S</sub> = 最小の置換基 Image:NASAmirroroxidation.jpg|スペースシャトルの前面(左画像)と背面パネルのフライト後のOs, Ag, Auミラーの外観。黒化は酸素原子の照射による酸化を明らかにする<ref>{{cite web|publisher=NASA|last1=Linton|first1=Roger C.|last2=Kamenetzky|first2=Rachel R.|url=https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930019094_1993019094.pdf|title=Second LDEF post-retrieval symposium interim results of experiment A0034|accessdate=2009-06-06|year=1992}}</ref><ref>{{cite journal|title=LDEF experiment A0034: Atomic oxygen stimulated outgassing|bibcode=1992ldef.symp..763L|last1=Linton|first1=Roger C.|last2=Kamenetzky|first2=Rachel R.|last3=Reynolds|first3=John M.|last4=Burris|first4=Charles L.|date=1992|page=763|journal=NASA. Langley Research Center}}</ref>。 </gallery> ==注意点== 金属オスミウムは無害であるが<ref>{{Cite journal | issn = 0007-1072| volume = 3 | issue = 3| pages = 183–186 | last1 = McLaughlin| first1 = A. I. G. | last2 = Milton| first2 = R.| last3 = Perry | first3 = Kenneth M. A. | title = Toxic Manifestations of Osmium Tetroxide | journal = British Journal of Industrial Medicine | date = July 1946 | pmid = 20991177 | pmc = 1035752| doi=10.1136/oem.3.3.183 }}</ref>、細かく分割された金属オスミウムは[[自然発火性物質|自然発火]]し<ref name="Appraisal"/>、室温で酸素と反応して揮発性の四酸化オスミウムを形成する。一部のオスミウム化合物は酸素が存在すると四酸化物に変換される<ref name="Appraisal "/>。これにより四酸化オスミウムが環境との主要な接触源になる。 [[四酸化オスミウム]]は揮発性が高く、皮膚に浸透しやすく、吸入、摂取、皮膚接触すると非常に[[毒性]]が高い<ref name="ToxOs">{{cite journal|journal=Journal of Chemical Health and Safety|volume =14|issue=5|date=2007|doi=10.1016/j.jchas.2007.07.003|title=Toxic tips: Osmium tetroxide|first=William E.|last=Luttrell|author2=Giles, Cory B.|pages=40–41}}</ref>。空気中の低濃度の四酸化オスミウム蒸気は[[肺]]の鬱血と皮膚または目の損傷を引き起こす可能性があるため、[[ドラフトチャンバー]]内で使用する必要がある<ref name="mager">{{cite book| last = Mager Stellman| first = J.| title = Encyclopaedia of Occupational Health and Safety| chapter-url = https://books.google.com/books?id=nDhpLa1rl44C| date = 1998| publisher = International Labour Organization| isbn = 978-92-2-109816-4| oclc = 35279504| pages = [https://archive.org/details/encyclopaediaofo0003unse/page/63 63.34]| chapter = Osmium| url = https://archive.org/details/encyclopaediaofo0003unse/page/63}}</ref>。四酸化オスミウムは例えば[[アスコルビン酸]]<ref>{{cite journal|journal=Canadian Journal of Chemistry|volume =48|issue =7|date=1970|title=Oxidation of ascorbic acid by osmium(VIII) |first=Mehrotra U.S.|last=Mushran S.P.|pages=1148–1150|doi =10.1139/v70-188}}</ref>または[[多価不飽和脂肪|多価不飽和]][[植物油]]([[コーン油]]など)により比較的不活性な化合物に急速に還元される<ref>{{cite web|url=http://blink-prod.ucsd.edu/Blink/External/Topics/How_To/0,1260,15753,00.html |title=How to Handle Osmium Tetroxide |accessdate=2009-06-02 |publisher=University of California, San Diego |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060221232331/http://blink-prod.ucsd.edu/Blink/External/Topics/How_To/0,1260,15753,00.html |archivedate=February 21, 2006 }}</ref>。 ==価格== {{unsourced|section|date=April 2019}} オスミウムは通常、最低99.9%の純粋な粉末として販売される。他の貴金属と同様に[[トロイ衡]]と[[グラム]]で測定される。市場価格は主に需要と供給がほとんど変化しなかったため数十年の間変化していない。利用できる量が少ないことに加え、取り扱いが難しく用途が少なく酸化すると毒性の化合物を生成するため、安全に保管することが難しい。 1[[トロイオンス]]あたり400ドルという価格は1990年代以来安定しているが、それ以降のインフレにより2019年までの20年間で実質価値は約3分の2になった。 == ギャラリー == <gallery> ファイル:Osmium crystals.jpg|特徴的な貫入三連双晶が観察できる人工結晶 ファイル:Osmium-crystals 2.jpg|人工結晶 </gallery> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 外部リンク == {{Commons|Osmium}} * [http://www.sci.niihama-nct.ac.jp/PeriodicTable/elements/76.html オスミウム] 新居浜工業高等専門学校 {{wiktionary|osmium}} *{{cite book | editor-last =Haynes|editor-first= William M. | year = 2011 | title = CRC Handbook of Chemistry and Physics | edition = 92nd | publisher = [[CRC Press]] | isbn = 978-1439855119| ref = harv|title-link= CRC Handbook of Chemistry and Physics }} * [http://www.periodicvideos.com/videos/076.htm Osmium] at ''[[The Periodic Table of Videos]]'' (University of Nottingham) * FLEGENHEIMER, J. (2014). The mystery of the disappearing isotope. ''Revista Virtual de Química''. V. XX. Available at [https://web.archive.org/web/20150619170958/http://www.uff.br/RVQ/index.php/rvq/article/viewFile/660/450 Wayback Machine] * {{cite EB1911|wstitle=Osmium|volume=20|page=352}} {{元素周期表}} {{オスミウムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おすみうむ}} [[Category:オスミウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:遷移金属]] [[Category:第8族元素]] [[Category:第6周期元素]] [[Category:貴金属]]
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発電機
発電機(はつでんき、electrical generator)は、電磁誘導の法則を利用して、機械的エネルギー(仕事)から電気エネルギー(電力)を得る機械(電力機器)である。 自動車やオートバイなどのエンジンに付いているオルタネーターや、自転車の前照灯に直結されているダイナモは身近な発電機の例である。また、電気関係の一部ではジェネレーター/ジェレレータと呼ばれることがある。 構造は電動機と近い。原理は同一で、電動機から逆に電気を取り出す事が出来る。より具体的には、模型用電気モーターの電極に豆電球を繋ぎ、軸を高速で回転させると豆電球が点灯する。実用的にはそれぞれに特化した異なる構造をしている。そのため、電動機で走行する鉄道車両やハイブリッドカー、電気自動車においては、電動機を発電機として利用して発生した電力を抵抗器で熱エネルギーとして消費したり(発電ブレーキ)、架線やバッテリーに戻したり(回生ブレーキ)して制動力を得ることも可能である。 発電機の動力源が電動機のものについては電動発電機を参照。 発生する電力の種類により直流発電機、交流発電機に大別される。 また、発電機を動かす動力源は、下記のように分類される。 磁気と電気の関係が発見される以前に、静電気学の原理を使った静電発電機が発明されている。静電発電機は、高電圧で少電流の電気を発生する。ベルトや板や円盤に電荷を蓄えて輸送し、高電位差を生じさせる。電荷は次のどちらかの手段で発生させる。 効率が低く、高電圧を発生する機械を絶縁するのが難しいため、静電発電機が発生する電力量は小さく、電力を商業的に供給する手段としては使われなかった。その中でも後々まで残ったものとして、ウィムズハースト式誘導起電機やヴァンデグラフ起電機がある。 1827年、ハンガリーのイェドリク・アーニョシュが electromagnetic self-rotor と名付けた電磁回転装置の実験を開始した。単極電気始動機の試作機(1852年から1854年に完成)では、固定部品も回転部品も電磁式だった。彼はジーメンスやホイートストンの少なくとも6年前にダイナモの概念を確立していたが、自分がそれを世界で初めて考案したとは思わなかったため、特許を取得しなかった。 基本的にその概念は永久磁石を使わず、2つの電磁石を使って回転子の周囲の磁界を誘導する。それは自励作用の原理の発見でもあった。イェドリクの発明は当時の水準の数十年先を行っていた。 マイケル・ファラデーは1821年に世界初の電動機の一つとも考えられる単極誘導モーターとでも云うべき原理を考案している。しかし、師のハンフリー・デービーとアイデアについて考え方が合わず、以後デービーが亡くなるまで、ファラデーは師の専攻の一つである化学の実験に明け暮れる。 ファラデーは1831年に、電磁気を使った発電機の動作原理を発見した。これが後にファラデーの法則と呼ばれるようになった。すなわち、磁場を横切る形で移動する電気伝導体の両端に電位差が生じることを示した。ファラデーは1832年、初の電磁式発電機「ファラデーの円盤」も製作した。これは一種の単極発電機で、銅円盤をU字形の磁石の間で回転させることにより、円盤の側円部と中心部に微弱な電位差を発生する。 この設計では、磁場の影響を受けない部分で逆電流が発生して円盤内で相殺してしまうため、あまり効率がよくない。磁石の間を通る部分で電流が発生するが、磁場の影響を受けない部分では逆方向に電流が流れる。この逆電流のせいで出力を取り出す導線で得られる電力は微弱となり、電磁誘導のエネルギーの大部分は銅の円盤の温度を上昇させる形で浪費される。後の単極発電機では、円盤の周囲全体に磁石を並べ、全体で一定方向に電流が発生するようにして問題を解決している。 もう1つの欠点は、磁束に対して電流の経路が1つしかないため、出力電圧が非常に低い点である。その後の他者の実験で、複数巻きのコイルを使うと高電圧を作りだせることが判明した。出力電圧は巻き数に比例するので、巻き数を加減することで必要な電圧を容易に発生できる。後の発電機では、巻き線が使われるようになった。 最近では、回転子に希土類磁石を使った単極電動機が実用化されている。これは従来よりも様々な面で利点がある。 ダイナモ (Dynamo) は、産業用電力供給に使われた最初の発電機である。ダイナモは電磁気学の原理を使い、整流子を用いて回転力を脈動する直流電流に変換する。1832年、ヒポライト・ピクシー(Hippolyte Pixii)が世界初のダイナモを作った。これは、上部に2つのコイルを取り付け、その下に置いたU字形の永久磁石を回転させることにより電気を発生させようというものであった。 様々な偶然の発見により、ダイナモから様々な装置が発明されていった。例えば、直流電動機、交流発電機、直流の同期電動機、回転変流機などである。 ダイナモは、一定の磁場を提供する固定部品(界磁)とその磁場の中で回転するいくつかのコイルで構成される。小型のダイナモでは界磁に1つ以上の永久磁石を使い、大型のダイナモでは界磁に1つ以上の電磁石を用いる。 現在では交流発電がほとんどで、交流から直流への変換にも半導体素子を用いた電子回路を使うため、高出力のダイナモはほとんど使われていない。しかし交流の原理が発見される以前は、大型の直流ダイナモが唯一の発電手段だった。 発電機の仕様(スペック)として書かれるのは、おおむね次のような項目である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "発電機(はつでんき、electrical generator)は、電磁誘導の法則を利用して、機械的エネルギー(仕事)から電気エネルギー(電力)を得る機械(電力機器)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "自動車やオートバイなどのエンジンに付いているオルタネーターや、自転車の前照灯に直結されているダイナモは身近な発電機の例である。また、電気関係の一部ではジェネレーター/ジェレレータと呼ばれることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "構造は電動機と近い。原理は同一で、電動機から逆に電気を取り出す事が出来る。より具体的には、模型用電気モーターの電極に豆電球を繋ぎ、軸を高速で回転させると豆電球が点灯する。実用的にはそれぞれに特化した異なる構造をしている。そのため、電動機で走行する鉄道車両やハイブリッドカー、電気自動車においては、電動機を発電機として利用して発生した電力を抵抗器で熱エネルギーとして消費したり(発電ブレーキ)、架線やバッテリーに戻したり(回生ブレーキ)して制動力を得ることも可能である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "発電機の動力源が電動機のものについては電動発電機を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "発生する電力の種類により直流発電機、交流発電機に大別される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、発電機を動かす動力源は、下記のように分類される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "磁気と電気の関係が発見される以前に、静電気学の原理を使った静電発電機が発明されている。静電発電機は、高電圧で少電流の電気を発生する。ベルトや板や円盤に電荷を蓄えて輸送し、高電位差を生じさせる。電荷は次のどちらかの手段で発生させる。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "効率が低く、高電圧を発生する機械を絶縁するのが難しいため、静電発電機が発生する電力量は小さく、電力を商業的に供給する手段としては使われなかった。その中でも後々まで残ったものとして、ウィムズハースト式誘導起電機やヴァンデグラフ起電機がある。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1827年、ハンガリーのイェドリク・アーニョシュが electromagnetic self-rotor と名付けた電磁回転装置の実験を開始した。単極電気始動機の試作機(1852年から1854年に完成)では、固定部品も回転部品も電磁式だった。彼はジーメンスやホイートストンの少なくとも6年前にダイナモの概念を確立していたが、自分がそれを世界で初めて考案したとは思わなかったため、特許を取得しなかった。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "基本的にその概念は永久磁石を使わず、2つの電磁石を使って回転子の周囲の磁界を誘導する。それは自励作用の原理の発見でもあった。イェドリクの発明は当時の水準の数十年先を行っていた。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "マイケル・ファラデーは1821年に世界初の電動機の一つとも考えられる単極誘導モーターとでも云うべき原理を考案している。しかし、師のハンフリー・デービーとアイデアについて考え方が合わず、以後デービーが亡くなるまで、ファラデーは師の専攻の一つである化学の実験に明け暮れる。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ファラデーは1831年に、電磁気を使った発電機の動作原理を発見した。これが後にファラデーの法則と呼ばれるようになった。すなわち、磁場を横切る形で移動する電気伝導体の両端に電位差が生じることを示した。ファラデーは1832年、初の電磁式発電機「ファラデーの円盤」も製作した。これは一種の単極発電機で、銅円盤をU字形の磁石の間で回転させることにより、円盤の側円部と中心部に微弱な電位差を発生する。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この設計では、磁場の影響を受けない部分で逆電流が発生して円盤内で相殺してしまうため、あまり効率がよくない。磁石の間を通る部分で電流が発生するが、磁場の影響を受けない部分では逆方向に電流が流れる。この逆電流のせいで出力を取り出す導線で得られる電力は微弱となり、電磁誘導のエネルギーの大部分は銅の円盤の温度を上昇させる形で浪費される。後の単極発電機では、円盤の周囲全体に磁石を並べ、全体で一定方向に電流が発生するようにして問題を解決している。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "もう1つの欠点は、磁束に対して電流の経路が1つしかないため、出力電圧が非常に低い点である。その後の他者の実験で、複数巻きのコイルを使うと高電圧を作りだせることが判明した。出力電圧は巻き数に比例するので、巻き数を加減することで必要な電圧を容易に発生できる。後の発電機では、巻き線が使われるようになった。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "最近では、回転子に希土類磁石を使った単極電動機が実用化されている。これは従来よりも様々な面で利点がある。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ダイナモ (Dynamo) は、産業用電力供給に使われた最初の発電機である。ダイナモは電磁気学の原理を使い、整流子を用いて回転力を脈動する直流電流に変換する。1832年、ヒポライト・ピクシー(Hippolyte Pixii)が世界初のダイナモを作った。これは、上部に2つのコイルを取り付け、その下に置いたU字形の永久磁石を回転させることにより電気を発生させようというものであった。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "様々な偶然の発見により、ダイナモから様々な装置が発明されていった。例えば、直流電動機、交流発電機、直流の同期電動機、回転変流機などである。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ダイナモは、一定の磁場を提供する固定部品(界磁)とその磁場の中で回転するいくつかのコイルで構成される。小型のダイナモでは界磁に1つ以上の永久磁石を使い、大型のダイナモでは界磁に1つ以上の電磁石を用いる。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "現在では交流発電がほとんどで、交流から直流への変換にも半導体素子を用いた電子回路を使うため、高出力のダイナモはほとんど使われていない。しかし交流の原理が発見される以前は、大型の直流ダイナモが唯一の発電手段だった。", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "", "title": "発電機の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "発電機の仕様(スペック)として書かれるのは、おおむね次のような項目である。", "title": "発電機の仕様" } ]
発電機は、電磁誘導の法則を利用して、機械的エネルギー(仕事)から電気エネルギー(電力)を得る機械(電力機器)である。 自動車やオートバイなどのエンジンに付いているオルタネーターや、自転車の前照灯に直結されているダイナモは身近な発電機の例である。また、電気関係の一部ではジェネレーター/ジェレレータと呼ばれることがある。 構造は電動機と近い。原理は同一で、電動機から逆に電気を取り出す事が出来る。より具体的には、模型用電気モーターの電極に豆電球を繋ぎ、軸を高速で回転させると豆電球が点灯する。実用的にはそれぞれに特化した異なる構造をしている。そのため、電動機で走行する鉄道車両やハイブリッドカー、電気自動車においては、電動機を発電機として利用して発生した電力を抵抗器で熱エネルギーとして消費したり(発電ブレーキ)、架線やバッテリーに戻したり(回生ブレーキ)して制動力を得ることも可能である。 発電機の動力源が電動機のものについては電動発電機を参照。
[[ファイル:Honda EBR2300CX 001.JPG|サムネイル|ガソリンエンジンを用いた小型発電機。工事現場や屋外イベントの屋台などで見かけることができる。]] '''発電機'''(はつでんき、{{lang|en|electrical generator}})は、[[電磁誘導]]の法則を利用して、機械的[[エネルギー]]([[仕事 (物理学)|仕事]])から電気エネルギー([[電力]])を得る[[機械]]([[電力機器]])である。<!-- 発電発動機など動力源が内蔵された物も俗に発電機と呼ばれる。※それを言うなら発動発電機ではないでしょうか。発動発電機(発発)が発電機と呼ばれるのは自明なのでコメントアウト。発発については下の方でも記述あり。 --> [[自動車]]や[[オートバイ]]などの[[原動機|エンジン]]に付いている'''[[オルタネーター]]'''や、[[自転車]]の[[前照灯]]に直結されている'''[[ダイナモ]]'''は身近な発電機の例である。また、電気関係の一部では'''ジェネレーター'''/'''ジェレレータ'''と呼ばれることがある。 構造は[[電動機]]と近い。原理は同一で、電動機から逆に電気を取り出す事が出来る。より具体的には、[[模型]]用電気モーターの電極に豆[[電球]]を繋ぎ、軸を高速で回転させると豆電球が点灯する。[[実用]]的にはそれぞれに特化した異なる構造をしている。そのため、電動機で走行する[[鉄道車両]]<ref group="注釈">[[日本国有鉄道]]で「電気車」と呼ばれていた[[電気機関車]]・[[電車]]と、搭載された[[ディーゼルエンジン]]で自ら発電を行う[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式|電気式]]([[ディーゼル・エレクトリック方式]])の[[ディーゼル機関車]]・[[気動車]]がある。</ref>や[[ハイブリッドカー]]、[[電気自動車]]においては、電動機を発電機として利用して発生した電力を抵抗器で熱エネルギーとして消費したり([[発電ブレーキ]])、[[架線]]や[[二次電池|バッテリー]]に戻したり([[回生ブレーキ]])して制動力を得ることも可能である。 発電機の動力源が電動機のものについては'''[[電動発電機]]'''を参照。 == 種類 == 発生する[[電力]]の種類により[[直流]]発電機、[[交流]]発電機に大別される。 * [[直流発電機]] * 交流発電機 ** [[同期発電機]] ** [[誘導発電機]] ** [[高周波発電機]] また、発電機を動かす動力源は、下記のように分類される。 * 人間、人力(歴史の節で説明されている初期の発電機、現代の[[自転車]]の[[ダイナモ]]、手回し発電機([[停電]]時や[[災害]]時に使うもの)など)。[[人力発電]]。 * [[水車]]([[水力発電]]) * [[風力原動機]]([[風力発電]]) * [[内燃機関]]([[内燃力発電]] : {{仮リンク|発動発電機|en|engine-generator}}、[[ガスタービンエンジン|ガスタービン]]発電機) ** 内燃機関と組み合わされたものには、特に[[発動機|発動]]発電機(発々-はつはつ)や、ジェネレーターセット([[:en:Genset|Genset]]、ジェネセット、発電セット)の通称がある。燃料は[[重油|A重油]]、[[軽油]]、[[ガソリン]]、[[液化石油ガス|LPガス]]([[プロパン]]、[[ブタン]])、[[天然ガス]](LNG、CNG)、[[水素]]。 *:なお、内燃機関で走行する自動車やオートバイに搭載されている発電機の[[オルタネーター]]も、その内燃機関から動力を得ている。 * [[蒸気タービン]]([[汽力発電]]:[[火力発電]]・[[原子力発電]]などはこの方式) * [[爆薬]]([[爆薬発電機]]) {{Gallery|width = 200 px |2021-03-30 Hand-crank operated generator (dynamo torch) plus backup.jpg|'''手回し発電機'''。[[クランク]]ハンドルを手で回して発電する。LEDランプも備え、非常時の懐中電灯として使え、スマホや携帯機器の充電などに使えるケーブルなどが付属しているものが多い。 |File:Fahrrad-detail-23.jpg|直流発電機の一種、自転車の[[ダイナモ]]。英語圏ではこのタイプは'''ボトルダイナモ'''([[:en:Bottle dynamo]])と呼ぶ。 |File:2009-11-28-fahrradmesse-by-RalfR-13.jpg|近年の自転車の'''ハブダイナモ'''。車輪の[[ハブ (機械)|ハブ]](車輪の中央、スポークが集まる部品)の内部に発電機が組み込まれている。 |File:Automotive_alternator.jpg|内燃自動車に搭載されている交流発電機は'''[[オルタネーター]]'''と呼ばれる。車載の[[電装]]用[[鉛蓄電池|バッテリー]]はこれで充電される。 |File:ENCENDIDO SERESPE ISLO.jpg|[[オートバイ]]のオルタネーター。|File:Hata_watermill_1.jpg|[[小水力発電|マイクロ水力発電]]の発電機(動力が伝統的な形の水車になっているタイプ)|File:Kentish Flats 185488397 729bb056f4 o.jpg|[[風力原動機|風力タービン]]([[洋上風力発電]]のもの)|File:Modern Steam Turbine Generator.jpg|原子力発電所の[[蒸気タービン]]発電機の例(米国[[アメリカ合衆国原子力規制委員会|NRC]]の画像)|File:ILA 2018, Schönefeld (1X7A5343).jpg|航空機の地上補助電源やエンジン始動に用いられる移動式発電機([[補助動力装置|GPU]])|File:Hokuden Generator.jpg|[[北陸電力]]で使用される移動[[電源車]]|File:FEMA - 42046 - Emergency Generators being unloaded from a C-17 in American Samoa.jpg|災害支援のため[[C-17 (航空機)|C-17]]輸送機に搭載される[[アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁|FEMA]]のディーゼル発電セット|File:Backup Generator.JPG|屋上に設置された非常用[[LPガス]]発電機}} == 発電機の歴史 == [[磁気]]と[[電気]]の関係が発見される以前に、[[静電気学]]の原理を使った[[静電発電機]]が発明されている。静電発電機は、高[[電圧]]で少[[電流]]の電気を発生する。ベルトや板や円盤に[[電荷]]を蓄えて輸送し、高電位差を生じさせる。電荷は次のどちらかの手段で発生させる。 * [[静電誘導]] * [[摩擦帯電]] - この場合、2つの絶縁体を接触させても、どちらも帯電したままとなる。 効率が低く、高電圧を発生する機械を[[絶縁体|絶縁]]するのが難しいため、静電発電機が発生する電力量は小さく、電力を商業的に供給する手段としては使われなかった。その中でも後々まで残ったものとして、[[ウィムズハースト式誘導起電機]]や[[ヴァンデグラフ起電機]]がある。 === イェドリクのダイナモ === 1827年、ハンガリーの[[イェドリク・アーニョシュ]]が electromagnetic self-rotor と名付けた電磁回転装置の実験を開始した。単極電気始動機の試作機(1852年から1854年に完成)では、固定部品も回転部品も電磁式だった。彼は[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス|ジーメンス]]や[[チャールズ・ホイートストン|ホイートストン]]の少なくとも6年前にダイナモの概念を確立していたが、自分がそれを世界で初めて考案したとは思わなかったため、特許を取得しなかった。 基本的にその概念は永久磁石を使わず、2つの[[電磁石]]を使って回転子の周囲の磁界を誘導する。それは自励作用の原理の発見でもあった<ref>{{cite|journal=Nature|title=Anianus Jedlik|author=Augustus Heller|publisher=Norman Lockyer|date=April 2, 1896|volume=53|issue=1379|page=516|url=https://books.google.co.jp/books?id=nWojdmTmch0C&pg=PA516&dq=jedlik+dynamo+1827&lr=&as_brr=3&ei=12p_SvDFGZv8lASZxbDOAQ&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=jedlik%20dynamo%201827&f=false}}</ref>。イェドリクの発明は当時の水準の数十年先を行っていた。 === ファラデーの円盤 === [[ファイル:Faraday disk generator.jpg|thumb|250px|ファラデーの円盤]] [[マイケル・ファラデー]]は[[1821年]]に世界初の[[電動機]]の一つとも考えられる[[単極誘導モーター]]とでも云うべき原理を考案している。しかし、師の[[ハンフリー・デービー]]とアイデアについて考え方が合わず、以後デービーが亡くなるまで、ファラデーは師の専攻の一つである[[化学]]の実験に明け暮れる。 ファラデーは1831年に、電磁気を使った発電機の動作原理を発見した。これが後に[[ファラデーの電磁誘導の法則|ファラデーの法則]]と呼ばれるようになった。すなわち、[[磁場]]を横切る形で移動する電気伝導体の両端に[[電位差]]が生じることを示した。ファラデーは1832年、初の電磁式発電機「ファラデーの円盤」も製作した。これは一種の[[単極発電機]]で、[[銅]]円盤をU字形の[[磁石]]の間で回転させることにより、円盤の側円部と中心部に微弱な[[電位差]]を発生する。 この設計では、磁場の影響を受けない部分で逆電流が発生して円盤内で相殺してしまうため、あまり効率がよくない。磁石の間を通る部分で電流が発生するが、磁場の影響を受けない部分では逆方向に電流が流れる。この逆電流のせいで出力を取り出す導線で得られる電力は微弱となり、電磁誘導のエネルギーの大部分は銅の円盤の温度を上昇させる形で浪費される。後の単極発電機では、円盤の周囲全体に磁石を並べ、全体で一定方向に電流が発生するようにして問題を解決している。 もう1つの欠点は、磁束に対して電流の経路が1つしかないため、出力電圧が非常に低い点である。その後の他者の実験で、複数巻きのコイルを使うと高電圧を作りだせることが判明した。出力電圧は巻き数に比例するので、巻き数を加減することで必要な電圧を容易に発生できる。後の発電機では、巻き線が使われるようになった。 最近では、回転子に希土類磁石を使った単極電動機が実用化されている。これは従来よりも様々な面で利点がある。 === ダイナモ === {{main|ダイナモ}} [[ファイル:Wechselstromerzeuger.jpg|thumb|200px|ピクシーの[[ダイナモ]]]] '''ダイナモ''' (Dynamo) は、産業用電力供給に使われた最初の発電機である。ダイナモは[[電磁気学]]の原理を使い、[[整流子]]を用いて回転力を脈動する直流[[電流]]に変換する。1832年、[[ヒポライト・ピクシー]]({{interlang|fr|Hippolyte Pixii}})が世界初のダイナモを作った。これは、上部に2つの[[コイル]]を取り付け、その下に置いたU字形の[[永久磁石]]を回転させることにより[[電気]]を発生させようというものであった。 様々な偶然の発見により、ダイナモから様々な装置が発明されていった。例えば、直流[[電動機]]、[[オルタネーター|交流発電機]]、直流の[[同期電動機]]、[[回転変流機]]などである。 ダイナモは、一定の磁場を提供する固定部品([[界磁]])とその磁場の中で回転するいくつかのコイルで構成される。小型のダイナモでは界磁に1つ以上の[[永久磁石]]を使い、大型のダイナモでは界磁に1つ以上の[[電磁石]]を用いる。 現在では[[交流]]発電がほとんどで、交流から直流への変換にも[[半導体素子]]を用いた電子回路を使うため、高出力のダイナモはほとんど使われていない。しかし交流の原理が発見される以前は、大型の直流ダイナモが唯一の発電手段だった。 {{-}} == 発電機の仕様 == 発電機の[[仕様]]([[スペック]])として書かれるのは、おおむね次のような項目である。 * 定格[[出力]] * 定格[[回転数]] * 電源の種類(定格[[周波数]]や[[力率]]、[[単相交流|単相]]か[[三相交流|三相]]など) * 定格[[電圧]] * 定格[[電流]] * 定格運転時間(一時間や連続など) * [[絶縁体#耐熱クラス|絶縁体の耐熱クラス]] * [[絶縁の階級]] <!--その他に、常用・非常用の区別がある。--> == 保安装置 == === 機械的保護 === * 過速度[[継電器]] * 温度継電器 === 電気的保護 === * 過電流継電器 * 過電圧継電器 * 不足電圧継電器 * 地絡過電圧継電器 * 地絡過電流継電器 * 逆電力継電器 * 周波数継電器 * 界磁過電流継電器 * 界磁地絡継電器 * 界磁喪失継電器 * 比率差動継電器 * 逆過電流継電器 == 関連項目 == * [[発電]] * [[コジェネレーション]] * [[内燃力発電]] * [[電池]]、[[二次電池]] * [[電源車]] * [[水素燃料エンジン]] - [[事業継続計画|BCP]]の観点から非常用発電機用の動力として期待されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|Electrical generators}} *[https://eve-sapo.com/rental_words/technicalwords.html 用語説明] *[https://customer.honda.co.jp/faq2/usernavi.do?user=customer&faq=faq_power&id=30134 FAQ] *{{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}} {{Normdaten}} {{発電の種類}} {{電動機}} {{電気電力}} {{デフォルトソート:はつてんき}} [[category:発電機|*]] [[Category:電力機器]]<!--発電機は電力機器です。--> [[Category:災害]] [[Category:防災用品]] [[Category:災害復興]] [[Category:バックアップ]]
2003-06-02T11:23:56Z
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各駅停車
各駅停車(かくえきていしゃ)とは、普通列車のうち、行き先までの全ての駅に停車する列車を指す用語である。列車種別としている鉄道事業者もあり、一般的な略称は「各停」(かくてい)である。 旅客案内上のものを含む列車種別として用いている事業者には、東日本旅客鉄道(JR東日本)のほか、小田急電鉄、西武鉄道、京王電鉄などがある。 新幹線においても、各駅に停車する「こだま」、「なすの」等の列車は、しばしば「各駅停車」と案内される。 在来線の各駅停車や普通列車は、鈍行・鈍行列車とも呼ばれる。 路線バス(特に高速バス)でも、行き先までのすべてのバス停留所に停車する便を各駅停車と呼ぶことがある。 本項目では日本における事例について解説する。世界各国の事例については「普通列車#日本国外で普通列車に相当する列車種別」を参照されたい。 以下この項において、「普通列車」は「普通」と表記する。 新幹線を除き、旅客案内においてほとんどの場合、「各駅停車」と「普通」は同じサービスを指す用語である。また、各駅に停車する列車の種別としても、「各駅停車」または「普通」のいずれかが採用される。 中には、西武鉄道のように、かつては「普通」が正式種別名であったのを「各駅停車(各停)」(2008年〈平成20年〉6月14日改正以降)に改称した例もある。 なお、時刻表・行先表示等では「普通」であっても「各駅停車」と案内する事業者もある。JR東日本では千葉支社、大宮支社、大手私鉄では、京成電鉄、東武鉄道、近畿日本鉄道、京阪電気鉄道、阪急電鉄、阪神電気鉄道などが該当する。 複々線区間において、方面や運行系統によって停車駅が異なる路線がある。 JR東日本では、電車線を走る近距離電車に「各駅停車」、列車線を走る中距離列車に「普通」を使用しており、複々線区間では中距離列車は「普通」でも通過駅が設定されている路線がある。 南海電気鉄道では難波 - 岸里玉出間の複々線区間において、東側2線を走行して今宮戎駅・萩ノ茶屋駅に停車する高野線の列車を「各停(各駅停車)」、西側2線を走行してホームがない今宮戎駅・萩ノ茶屋駅を通過する南海本線の列車を「普通(普通車)」と使い分けている。以前は東側2線を経由する本線各駅停車、東側2線を経由するものの両駅に停車しない高野線普通が存在していたため、南海本線を走る普通の停車駅案内では、下りの場合で「新今宮、天下茶屋と、天下茶屋から先は各駅に停まります」(上りはその逆「天下茶屋までの各駅と新今宮に停まります」)と案内していた。 複々線であっても種別が区別されない路線もある。 運行系統としては快速または急行に対して「緩行」(かんこう)あるいは「緩行線」(かんこうせん)と呼ぶことがあり、常磐緩行線、中央・総武緩行線、京阪神緩行線などとして使用する場合がある。 なお、運行系統が快速線と分離されている常磐線(常磐快速線)、中央本線(中央線快速)、総武本線(総武快速線)の各緩行線について、報道やテレビ等の交通情報では「各駅停車」ではなく「普通電車」と表現されることがある。ただし、中距離普通列車についても「普通電車」という表現が用いられることもある(系統としての中距離列車は単に「○○線」とされることが多い)。 各駅停車しかない路線の場合、種別名を冠さず単に「○○行き」とのみ案内されることもある。 他社線と直通運転を行っている場合、東京メトロ千代田線、半蔵門線、都営地下鉄浅草線、JR東日本中央・総武緩行線など、自社線内のすべての駅に停車する列車でも乗り入れ先の種別で案内することがある。 中央線快速、京浜東北線、東海旅客鉄道(JR東海)の快速列車、西武鉄道など、途中駅から先は各駅に停車する場合、それ以降の区間の種別案内を「各駅停車」に変更する路線もある。これとは逆に、各駅に停車する区間であっても種別を変更せず案内する路線もある。 関西の大手私鉄の大半は、案内放送では「各駅停車」を用いるが、方向幕や路線図をはじめとする視覚的案内では一貫して「普通」と称している。過去の慣行として各列車種別を「○○車」と呼称していたことから、山陽電気鉄道では案内放送などは「普通車」と呼称している。関東でも京浜急行電鉄や北総鉄道(駅自動放送時)においては「普通」の呼称を用いている。また、名古屋鉄道や近畿日本鉄道の名古屋輸送統括部管内では基本的に「各駅停車」という呼称を用いず、「普通」または「普通電車」の呼称を用いている。さらに京成電鉄においても、車内でのタブレット放送においては「普通」と案内される。 非常に短い区間をピストン輸送のような形で運行されるものは「シャトル」と呼ばれることがあり、関西空港線で使用されている。鉄道業界内の専門用語ではこのような列車のことをチョン行(ちょんいき/ちょんこう)という。 『JR時刻表』(交通新聞社)など、冊子の時刻表においては電車特定区間内の掲載列車を快速などの一部列車に限定している線区がある。こうした線区では各駅停車は運行区間が限定されている場合が多いが、早朝・深夜などには例外的に全区間にわたって、または通常の運行区間を越えて各駅停車で運行する列車もあり、「各駅停車」と付すことで駅の記載自体が省略されている通過駅にも停車する列車であることを表している。なお、JR西日本ではこれも「普通」と案内されている。 名前のとおり、各駅停車は「各駅(=全ての駅)に停まる列車」であることを強調した存在であるが、例外として通過駅がある場合もある。なお、本項での線名は運行系統としての名称である。 大崎 - 池袋間は山手線と並走しているが、埼京線(山手貨物線)は大崎駅・恵比寿駅・渋谷駅・新宿駅・池袋駅にしかホームがなく、それ以外の途中の駅は各駅停車でも通過となる。なお、この区間では湘南新宿ラインの「普通列車」も運行されており、同様に大崎駅・恵比寿駅・渋谷駅・新宿駅・池袋駅以外には停車しない。 相鉄線直通列車の大崎 - 羽沢横浜国大間は、全列車が「各駅停車」として案内され、横須賀線・湘南新宿ラインと並走しているが、新川崎駅および鶴見駅には停車しない。これは走行する品鶴線の貨物列車用線路と東海道貨物線に2駅のホームがないためである。 日暮里 - 東京 - 品川間において、列車線(上野東京ライン)は上野駅・東京駅・新橋駅・品川駅にしかホームがない(日暮里駅ホームは常磐線のみ)が、先に快速運行区間がある列車を除き「普通(列車)」であるが、常磐線快速電車の品川行きは「快速(電車)」として運行する(当初は後者を「各駅停車」と案内していた)。なお、同様に快速として運行する常磐線列車(中距離列車)の品川行きは、上野 - 品川間は「普通」と案内する。上記の埼京線と湘南新宿ラインの例と同様、停車駅が同一でも「(近距離)電車」か「(中距離)列車」かにより種別を区別している。この区間では電車線の山手線・京浜東北線も並走し、山手線電車・京浜東北線の各駅停車および快速電車も運行されているが、同じ近距離電車でもそれぞれの種別と停車駅がいずれも一致していない。 なお、過去に国鉄常磐線の各駅停車が上野駅を始発・終着としていた頃(当時、上野 - 取手間を運行)は、上野 - 日暮里間にある鶯谷駅にホームがなかったため(これは現在も同じ)、同駅は各駅停車を含めてすべて通過していた(正確には山手線・京浜東北線のみの駅である)。 JR宝塚線(福知山線)の大阪駅発着の列車は通勤形電車使用の列車を含めて塚本駅を通過することは前記した。なお、2003年(平成15年)11月28日まではJR京都線直通にも同様の列車が設定されていた。 飯田線は、豊川以北に直通する普通列車の大半は複線区間でホームがあるにもかかわらず、船町駅と下地駅を通過する。 東急大井町線の二子新地駅と高津駅を通過する各駅停車(種別表示が緑)と、停車する各駅停車(種別表示が青)が存在する。路線図では「一部の各駅停車が停車」、駅のLED表示や車内放送では「二子新地・高津にはとまりません」と案内されている。もともと両駅は大井町線ではなく田園都市線の駅であり、種別表示が緑の各駅停車(二子新地駅・高津駅通過)が走行する大井町線の線路には両駅のホームが設けられていないためである。種別表示が青の各駅停車(二子新地駅・高津駅停車)は、二子玉川 - 溝の口間を田園都市線の線路に転線して走行する。この手法は既述の南海高野線の「各駅停車」と南海本線の「普通」との関連とほぼ同一であるが、南海と違い東急では種別名を分けていない。 京王電鉄京王線の新宿 - 笹塚間には複々線部分としての京王新線があるが、両駅間にある初台駅・幡ヶ谷駅は新線のみの駅であるため、京王線系統(以下「本線」)の各駅停車は新宿の次は笹塚に停まる。そのため、本線としては両駅を通過していることになる。 各駅停車と普通列車の英語案内は「Local Train」あるいは「Local Service」となっている。そのため、複々線区間のすべての駅に停まらない普通列車を「Local」として案内するケースが存在する。 また、相模鉄道では各駅停車を「Local」と自動放送で案内する。 東京地下鉄(東京メトロ)の自動放送・車内案内では、直通する他社線内のみを優等種別で運行する場合も自社線内からその種別で案内するが、英語の自動放送・車内案内では一切放送・表示しない。 また、阪急京都線に直通するOsaka Metro堺筋線の準急高槻市行きも同様(「This train is bound for Takatsuki-shi.」とアナウンスされる)である。 E531系・E231系などの英語自動案内放送では、中距離の「普通」(通過駅あり)を「Local train」(普通列車/各駅停車列車)、「各駅停車」(系統の区別を要するもののみ)を「Local service」(各駅停車)で表記していた。以前の中距離の普通では、通過していた南千住駅・三河島駅利用客への乗換も「Joban Line Local service」(常磐線各駅停車)と表記していた(2015年〈平成27年〉3月14日以降特別快速から上野方面快速への乗換案内のみ「Joban line local service」が使われている)。 E531系普通での自動放送は「常磐線 ○○行(Joban Line train (bound) for ○○.)」と、各駅停車を意味する「Local」の語を避けている。常磐線中距離の普通は上野 - 取手間で「快速」と案内しているが、英語案内では「快速」を意味する「Rapid」も避けている。ただし、品川 - 取手間で「快速運転を致します」という独特な案内がある。 その後、JR東日本で導入した自動放送でも、他線区でも基本種別の場合は普通列車・各駅停車の区別なく、「○○ line train for ●●」としている。 また、中央・総武線各駅停車を「Chuo Line & Sobu Line (Local train)」としているほか、常磐線・中央本線の中距離電車は単に「Joban Line」・「Chuo Line」と、快速線は線区名に続き (Rapid service) という表記になっている。また、松戸駅には「Middle Distance」(中距離)と表記していた例もあった。 JRの各新幹線にも各駅停車の列車は存在するが、あくまでも「新幹線の全ての駅に停車する列車」であり、列車種別上は特別急行列車である。したがって、乗車する際は乗車券のほかに新幹線特急券も必要であり、各駅停車であっても「普通列車」ではない。なお、案内放送や発車標では、英語で新幹線を示す"Superexpress"と案内されている。 新幹線で各駅停車となる列車は路線ごとに以下の列車となる。 この他、新幹線車両を使用する博多南線(一部山陽新幹線直通)や上越線ガーラ湯沢支線(上越新幹線直通、冬期のみ)が、在来線特急列車として各駅停車で運行している(そもそもこの区間では途中駅が存在しない)。
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各駅停車(かくえきていしゃ)とは、普通列車のうち、行き先までの全ての駅に停車する列車を指す用語である。列車種別としている鉄道事業者もあり、一般的な略称は「各停」(かくてい)である。 旅客案内上のものを含む列車種別として用いている事業者には、東日本旅客鉄道(JR東日本)のほか、小田急電鉄、西武鉄道、京王電鉄などがある。 新幹線においても、各駅に停車する「こだま」、「なすの」等の列車は、しばしば「各駅停車」と案内される。 在来線の各駅停車や普通列車は、鈍行・鈍行列車とも呼ばれる。 路線バス(特に高速バス)でも、行き先までのすべてのバス停留所に停車する便を各駅停車と呼ぶことがある。 本項目では日本における事例について解説する。世界各国の事例については「普通列車#日本国外で普通列車に相当する列車種別」を参照されたい。
{{Otheruses||漫画作品|各駅停車 (漫画)}} {{出典の明記|date=2013年5月}} '''各駅停車'''(かくえきていしゃ)とは、[[普通列車]]のうち、行き先までの全ての[[鉄道駅|駅]]に停車する列車を指す用語である。[[列車種別]]としている[[鉄道事業者]]もあり、一般的な略称は「'''各停'''」(かくてい)である<ref name=local>ただし、[http://jikoku.toretabi.jp/cgi-bin/tra.cgi/cond トレたびの時刻表検索サイト]では「普通」と表記されている。</ref>。 [[旅客]]案内上のものを含む列車種別として用いている事業者には、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)のほか、[[小田急電鉄]]、[[西武鉄道]]、[[京王電鉄]]などがある。 [[新幹線]]においても、各駅に停車する「[[こだま (列車)|こだま]]」・「[[なすの (列車)|なすの]]」等の列車はしばしば「各駅停車」と案内される。 [[在来線]]の各駅停車や[[普通列車]]は、'''鈍行'''・'''鈍行列車'''とも呼ばれる。 [[路線バス]](特に[[高速バス]])でも、行き先までのすべての[[バス停留所]]に停車する便を各駅停車と呼ぶことがある。 本項目では日本における事例について解説する。世界各国の事例については「[[普通列車#日本国外で普通列車に相当する列車種別]]」を参照されたい。 == 「各駅停車」と「普通(列車)」 == 以下この項において、「[[普通列車]]」は「普通」と表記する。 {{see also|普通列車}} === 「各駅停車」=「普通」の場合 === 新幹線を除き、旅客案内においてほとんどの場合、「各駅停車」と「普通」は同じ[[サービス]]を指す用語である。また、各駅に停車する列車の種別としても、「各駅停車」または「普通」のいずれかが採用される。 中には、[[西武鉄道]]のように、かつては「普通」が正式種別名であったのを「各駅停車(各停)」([[西武鉄道のダイヤ改正#2008年6月14日|2008年〈平成20年〉6月14日改正]]以降)に改称した例もある<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20181221-OYT8T50040.html?page_no=3 普通?各停?各社バラバラ、複雑すぎる列車種別] - 読売新聞。2018年12月22日7時発信、2019年1月27日閲覧。</ref><ref name=local />。 なお、[[時刻表]]・行先表示等では「'''普通'''」であっても「各駅停車」と案内する事業者もある。JR東日本では千葉支社、大宮支社、[[大手私鉄]]では、[[京成電鉄]]、[[東武鉄道]]、[[近畿日本鉄道]]<ref>大阪輸送統括部管内のみで、名古屋輸送統括部管内では「普通電車」と案内されている。</ref>、[[京阪電気鉄道]]、[[阪急電鉄]]、[[阪神電気鉄道]]などが該当する。 === 複々線の場合 === [[複々線]]区間において、方面や運行系統によって停車駅が異なる路線がある。 ==== 「各駅停車」と「普通」を区別する例 ==== JR東日本では、電車線を走る近距離電車に「各駅停車」<ref>ただし同社の[http://www.jreast-timetable.jp/ 時刻表検索サイト]では、この電車についても「普通」と表記されている。</ref>、列車線を走る[[中距離列車]]に「普通」を使用しており、複々線区間では中距離列車は「普通」でも通過駅が設定されている路線がある。 {{see also|電車線・列車線}} * [[常磐線]]と[[中央本線]]のうち東京の快速電車運行区間([[常磐快速線]]・[[中央線快速]]運行区間)では、[[日本国有鉄道]](国鉄)時代からの名残で、[[近郊形車両]]を使用した「普通」と、[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形車両]]を使用した「各駅停車」が設定され、停車駅が異なっていた<ref>「平成16年3月13日ダイヤ改正の概要」、『鉄道ファン』第44巻第3号、交友社、2004年3月、p.101。</ref>。しかし、この案内は利用客にとって停車駅が分かりにくかったため、常磐線では「普通」の快速運行区間に限り「[[快速列車|快速]]」と案内するように変更されている(「[[常磐快速線#「快速」への呼称統一]]」も参照)。また、[[上野駅|上野]] → [[品川駅|品川]]間では、[[上野東京ライン]]の開業直後において常磐線快速電車を「各駅停車」、常磐線中距離列車と宇都宮線・高崎線からの列車を「普通」として案内していた。中央線快速 [[立川駅|立川]] - [[高尾駅 (東京都)|高尾]]間では[[2021年]]([[令和]]3年)現在においても「普通」と「各駅停車」の案内が並存している(種別としての各駅停車の運行は[[2020年]]〈令和2年〉[[3月]]でなくなったが、下りでは快速運行区間終了後は「各駅停車」と案内しているため)。 [[南海電気鉄道]]では[[難波駅 (南海)|難波]] - [[岸里玉出駅|岸里玉出]]間の複々線区間において、東側2線を走行して[[今宮戎駅]]・[[萩ノ茶屋駅]]に停車する[[南海高野線|高野線]]の列車を「各停(各駅停車)」、西側2線を走行してホームがない今宮戎駅・萩ノ茶屋駅を通過する[[南海本線]]の列車を「普通([[普通列車#普通車(列車種別)|普通車]])」と使い分けている<ref>[https://news.mynavi.jp/article/trivia-282/ 鉄道トリビア (282) 南海電鉄で「普通」「各停」両方走っているのはなぜ?] - マイナビニュース、2014年12月6日</ref><ref>ただし、英語ではどちらもLocalである。</ref>。以前は東側2線を経由する本線各駅停車、東側2線を経由するものの両駅に停車しない高野線普通が存在していたため、南海本線を走る普通の停車駅案内では、下りの場合で「[[新今宮駅|新今宮]]、[[天下茶屋駅|天下茶屋]]と、天下茶屋から先は各駅に停まります」(上りはその逆「天下茶屋までの各駅と新今宮に停まります」)と案内していた。 ==== 種別を区別しない例 ==== 複々線であっても種別が区別されない路線もある。 {{see also|#各駅停車の通過駅}} * [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[福知山線]](JR宝塚線)では、[[大阪駅]]を発着する列車のみ[[塚本駅]]を通過するが、停車する列車との種別の区別はしておらず、双方とも種別は「普通」を使用している<ref>[https://www.jr-odekake.net/eki/pdf/teisya_01.pdf 停車駅ご案内 JR京都線・JR神戸線・JR宝塚線・学研都市線] - 西日本旅客鉄道</ref>。 * [[阪急電鉄]]の[[阪急京都本線|京都本線]]・[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急神戸本線|神戸本線]]は線路別三複線で並行(路線上は重複区間)しており、途中の[[中津駅 (阪急)|中津駅]]は京都本線のみ[[プラットホーム]]がないが、特に種別の呼び分けはしていない<ref>京都本線は各駅停車も含めて全列車'''通過'''するが、宝塚本線では普通列車の他、平日朝ラッシュのみに運行する、準急列車が'''停車'''する。</ref>。 * 複々線化以前の[[近鉄大阪線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]]の[[大阪上本町駅|大阪上本町]] - [[布施駅|布施]]間では、大阪線の各駅停車が[[今里駅 (近鉄)|今里駅]]を通過していたが、今里駅に停車する[[近鉄奈良線|奈良線]]の各駅停車と使い分けられていなかった。 * 東急電鉄の[[東急大井町線|大井町線]]の各駅停車は、二子玉川 - 溝の口間の複々線において、外側の線路にのみホームがある二子新地駅と高津駅に停車するものを青色で、通過するものを緑色で表示することで区別している([[#東急電鉄|後述参照]])。 == 緩行(緩行線) == 運行系統としては[[快速列車|快速]]または[[急行列車|急行]]に対して「緩行」(かんこう)あるいは「[[緩行線]]」(かんこうせん)と呼ぶことがあり、「[[常磐緩行線]]」、「[[中央・総武緩行線]]」、「[[京阪神緩行線]]」などとして使用する場合がある。 なお、運行系統が快速線と分離されている常磐線([[常磐快速線]])、中央本線([[中央線快速]])、[[総武本線]]([[横須賀・総武快速線|総武快速線]])の各緩行線について、報道やテレビ等の[[交通情報]]では「各駅停車」ではなく「普通電車」と表現されることがある。ただし、中距離普通列車についても「普通電車」という表現が用いられることもある(系統としての中距離列車は単に「○○線」とされることが多い)。 == 案内の状況 == 各駅停車しかない路線の場合、種別名を冠さず単に「○○行き」とのみ案内されることもある。 他社線と[[直通運転]]を行っている場合、[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ千代田線|千代田線]]、[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]、[[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]、JR東日本[[中央・総武緩行線]]など、自社線内のすべての駅に停車する列車でも乗り入れ先の種別で案内することがある。 [[中央線快速]]、[[京浜東北線]]、[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[快速列車]]、[[西武鉄道]]など、途中駅から先は各駅に停車する場合、それ以降の区間の種別案内を「各駅停車」に変更する路線もある。これとは逆に、各駅に停車する区間であっても種別を変更せず案内する路線もある。 [[関西]]の[[大手私鉄]]の大半は、案内放送では「各駅停車」を用いるが、[[方向幕]]や[[路線図]]をはじめとする視覚的案内では一貫して「普通」と称している。過去の慣行として各列車種別を「○○車」と呼称していたことから、[[山陽電気鉄道]]では案内放送などは「[[普通列車#「普通車」|普通車]]」と呼称している。関東でも[[京浜急行電鉄]]や[[北総鉄道]]([[駅自動放送]]時)においては「普通」の呼称を用いている。また、[[名古屋鉄道]]や[[近畿日本鉄道]]の名古屋輸送統括部管内では基本的に「各駅停車」という呼称を用いず、「普通」または「普通電車」の呼称を用いている。さらに[[京成電鉄]]においても、車内でのタブレット放送においては「普通」と案内される。 非常に短い区間をピストン輸送のような形で運行されるものは「[[シャトル]]」と呼ばれることがあり、[[関西空港線]]で使用されている。鉄道業界内の専門用語ではこのような列車のことを'''チョン行'''(ちょんいき/ちょんこう)という<ref>本来は一駅間だけ運行される列車の意味。</ref>。 === 時刻表での「各駅停車」 === 『JR時刻表』([[交通新聞社]])など、冊子の[[時刻表]]においては[[電車特定区間]]内の掲載列車を快速などの一部列車に限定している線区がある。こうした線区では各駅停車は運行区間が限定されている場合が多いが、早朝・深夜などには例外的に全区間にわたって、または通常の運行区間を越えて各駅停車で運行する列車もあり、「各駅停車」と付すことで駅の記載自体が省略されている通過駅にも停車する列車であることを表している。なお、JR西日本ではこれも「普通」と案内されている。 * [[中央線快速]](JR東日本) - 『MY LINE 東京時刻表』において、早朝・深夜に[[東京駅|東京]]・[[中野駅 (東京都)|中野]] - [[武蔵小金井駅|武蔵小金井]]・[[立川駅|立川]]・[[豊田駅|豊田]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]・[[大月駅|大月]]間および[[青梅線]]に直通する([[御茶ノ水駅|御茶ノ水]] - [[三鷹駅|三鷹]]間で[[中央・総武緩行線|緩行線]]を経由する)各駅停車に注記があった<ref>中野駅終着の場合、平日ダイヤに関しては通常の快速と停車駅の差異はないが、緩行線直通扱いとなり、E233系の行先表示にも「'''各駅停車''' 中野」と表示された。中野始発も同様に「'''各駅停車''' ○○」と表示された。</ref>。2020年(令和2年)[[3月14日]]のダイヤ改正で、当該列車は消滅した。 *: また、武蔵小金井・立川・豊田 - 高尾・大月間のみを運行し、通過駅もなく案内上も各駅停車であるが、列車種別上は「快速」という電車もある。これらは事実上各駅停車であるが注記はなく、逆に[[中央本線]](電車特定区間を外れる大月駅発着)や青梅線に直通する電車は、直通線区のページに「快速」の種別表示がある。 * [[東海道本線]]・[[山陽本線]](JR西日本の[[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]・[[JR神戸線]]、いわゆる[[京阪神緩行線]]) - 各駅停車の通常の運行区間は[[京都駅|京都]] - [[西明石駅|西明石]]間だが、朝時間帯に[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]と[[加古川駅]]を発着する各駅停車に注記がある。 * [[関西本線]](JR西日本の[[大和路線]]) - 各駅停車の通常の運行区間は[[王寺駅|王寺]](一部[[奈良駅|奈良]]) - [[JR難波駅|JR難波]]間だが、早朝・深夜に数本ある[[加茂駅 (京都府)|加茂]]発着の各駅停車に注記がある。なお、加茂始発・終着列車はそれ以外はすべて快速である。 == 各駅停車の通過駅 == 名前のとおり、各駅停車は「'''各駅'''(=全ての駅)'''に停まる'''列車」であることを強調した存在であるが、例外として通過駅がある場合もある。なお、本項での線名は運行系統としての名称である。 {{see also|普通列車#通過駅}} === JR === ==== 埼京線 ==== [[大崎駅|大崎]] - [[池袋駅|池袋]]間は[[山手線]]と並走しているが、[[埼京線]]([[山手線#山手貨物線|山手貨物線]])は大崎駅・[[恵比寿駅]]・[[渋谷駅]]・[[新宿駅]]・池袋駅にしか[[プラットホーム|ホーム]]がなく、それ以外の途中の駅は各駅停車でも通過となる<ref>正確には途中の駅は山手線としての駅であり、埼京線としての駅ではない。ちなみに、[[駅ナンバリング]]についても山手線と埼京線では別々となっている。</ref>。なお、この区間では[[湘南新宿ライン]]の「'''普通列車'''」も運行されており、同様に大崎駅・恵比寿駅・渋谷駅・新宿駅・池袋駅以外には停車しない。<!--そのため、同区間では[[大阪環状線]]西側と同様、山手線に対する快速に類似した役割を果たしている。--> ==== 相鉄線直通列車 ==== [[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]の[[大崎駅|大崎]] - [[羽沢横浜国大駅|羽沢横浜国大]]間は、全列車が「各駅停車」として案内され、[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]・湘南新宿ラインと並走しているが、[[新川崎駅]]および[[鶴見駅]]には停車しない。これは走行する[[品鶴線]]の貨物列車用線路と[[東海道貨物線]]に2駅のホームがないためである<ref>この場合も新川崎駅は横須賀線、鶴見駅は[[京浜東北線]]としての駅であり、相鉄線直通列車としての駅とはなっていない。</ref>。 ==== 上野東京ライン(東海道線 - 常磐線) ==== [[日暮里駅|日暮里]] - [[東京駅|東京]] - [[品川駅|品川]]間において、列車線([[上野東京ライン]])は[[上野駅]]・東京駅・[[新橋駅]]・品川駅にしかホームがない(日暮里駅ホームは[[常磐線]]のみ)が、先に快速運行区間がある列車を除き「'''普通'''(列車)」であるが、[[常磐快速線|常磐線快速電車]]の品川行きは「'''快速'''(電車)」として運行する(当初は後者を「'''各駅停車'''」と案内していた)。なお、同様に快速として運行する常磐線列車(中距離列車)の品川行きは、上野 - 品川間は「普通」と案内する。上記の埼京線と湘南新宿ラインの例と同様、停車駅が同一でも「('''近距離''')電車」か「('''中距離''')列車」かにより種別を区別している<ref>この場合の「電車」・「列車」の区別については[[電車線・列車線]]も参照。</ref>。この区間では電車線の山手線・[[京浜東北線]]も並走し、山手線電車・京浜東北線の各駅停車および快速電車も運行されているが、同じ近距離電車でもそれぞれの種別と停車駅がいずれも一致していない。 なお、過去に国鉄[[常磐緩行線|常磐線の各駅停車]]が上野駅を始発・終着としていた頃(当時、上野 - [[取手駅|取手]]間を運行)は、上野 - 日暮里間にある[[鶯谷駅]]にホームがなかったため(これは現在も同じ)、同駅は各駅停車を含めてすべて通過していた(正確には山手線・京浜東北線のみの駅である)。 ==== JR宝塚線(福知山線)==== JR宝塚線([[福知山線]])の大阪駅発着の列車は[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]使用の列車を含めて塚本駅を通過することは前記した。なお、[[2003年]]([[平成]]15年)[[11月28日]]まではJR京都線直通にも同様の列車が設定されていた<ref>ただし、列車種別は「各駅停車」ではなく「普通」として運行されている。</ref>。 ==== 飯田線 ==== [[飯田線]]は、[[豊川駅 (愛知県)|豊川]]以北に直通する普通列車の大半は[[複線]]区間でホームがあるにもかかわらず、[[船町駅]]と[[下地駅]]<ref>この区間の線路は[[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]と共用しているが、この2駅は名鉄の駅としては存在しないことになっているので、名鉄の電車はすべてが通過する。</ref>を通過する。 === 私鉄 === ==== 東急電鉄 ==== [[東急大井町線]]の[[二子新地駅]]と[[高津駅 (神奈川県)|高津駅]]を通過する各駅停車(種別表示が緑)と、停車する各駅停車(種別表示が青)が存在する。路線図では「一部の各駅停車が停車」、駅のLED表示や車内放送では「二子新地・高津にはとまりません」と案内されている。もともと両駅は大井町線ではなく[[東急田園都市線|田園都市線]]の駅であり、種別表示が緑の各駅停車(二子新地駅・高津駅通過)が走行する大井町線の線路には両駅のホームが設けられていないためである。種別表示が青の各駅停車(二子新地駅・高津駅停車)は、[[二子玉川駅|二子玉川]] - [[溝の口駅|溝の口]]間を田園都市線の線路に転線して走行する。この手法は既述の南海高野線の「各駅停車」と南海本線の「普通」との関連とほぼ同一であるが、南海と違い東急では種別名を分けていない<ref>[http://www.tokyu.co.jp/railway/common/pdf/rosen-web01.pdf 東急線・みなとみらい線路線案内] - 東急電鉄</ref>。 ==== 京王電鉄 ==== [[京王電鉄]][[京王線]]の新宿 - [[笹塚駅|笹塚]]間には複々線部分としての[[京王新線]]があるが、両駅間にある[[初台駅]]<ref>かつては本線側に駅があり、使われなくなったあともホームは残存している。</ref>・[[幡ヶ谷駅]]は新線のみの駅であるため、京王線系統(以下「本線」)の各駅停車は新宿の次は笹塚に停まる。そのため、本線としては両駅を通過していることになる<ref>実際にはトンネルが異なるため経由しない形であり、京王線新宿駅では両駅を「通りません」と案内している。</ref>。 == 英語案内における違い == 各駅停車と普通列車の英語案内は「'''Local Train'''」あるいは「'''Local Service'''」となっている。そのため、複々線区間のすべての駅に停まらない普通列車を「Local」として案内するケースが存在する。 また、相模鉄道では各駅停車を「Local」と自動放送で案内する。 [[東京地下鉄]](東京メトロ)の自動放送・車内案内では、直通する他社線内のみを優等種別で運行する場合も自社線内からその種別で案内するが、英語の自動放送・車内案内では一切放送・表示しない。 また、阪急京都線に直通する[[Osaka Metro堺筋線]]の準急[[高槻市駅|高槻市]]行きも同様(「This train is bound for Takatsuki-shi.」とアナウンスされる)である。 === JR東日本の電車特定区間における英語案内 === [[JR東日本E531系電車|E531系]]・[[JR東日本E231系電車|E231系]]などの英語[[車内放送|自動案内放送]]では、中距離の「普通」(通過駅あり)を「Local train」(普通列車/各駅停車列車)、「各駅停車」(系統の区別を要するもののみ)を「Local service」(各駅停車)で表記していた。以前の中距離の普通では、通過していた[[南千住駅]]・[[三河島駅]]利用客への乗換も「Joban Line Local service」(常磐線各駅停車)と表記していた([[2015年]]〈平成27年〉3月14日以降特別快速から上野方面快速への乗換案内のみ「Joban line local service」が使われている)。 E531系普通での自動放送は「常磐線 ○○行(Joban Line train (bound) for ○○.)」と、各駅停車を意味する「Local」の語を避けている。常磐線中距離の普通は上野 - 取手間で「快速」と案内しているが、英語案内では「快速」を意味する「Rapid」も避けている。ただし、品川 - 取手間で「快速運転を致します」という独特な案内がある。 その後、JR東日本で導入した自動放送でも、他線区でも基本種別の場合は普通列車・各駅停車の区別なく、「○○ line train for ●●」としている。 また、[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]を「Chuo Line & Sobu Line (Local train)」としているほか、常磐線・[[中央本線]]の中距離電車は単に「Joban Line」・「Chuo Line」と、快速線は線区名に続き (Rapid service) という表記になっている。また、[[松戸駅]]には「Middle Distance」(中距離)と表記していた例もあった。 == 新幹線の各駅停車 == JRの各新幹線にも各駅停車の列車は存在するが、あくまでも「新幹線の全ての駅に停車する列車」であり、列車種別上は全列車[[特別急行列車]]である。したがって、乗車する際は乗車券のほかに[[特別急行券#新幹線特急券|新幹線特急券]]も必要であり、各駅停車であっても「普通列車」ではない。なお、案内放送や[[発車標]]では、英語で新幹線を示す"Superexpress"と案内されている。 新幹線で各駅停車となる列車は路線ごとに以下の列車となる。 * 東海旅客鉄道(JR東海)・西日本旅客鉄道(JR西日本) ** [[東海道新幹線]]・[[山陽新幹線]] - 「[[こだま (列車)|こだま]]」 * 東日本旅客鉄道(JR東日本)・西日本旅客鉄道(JR西日本) ** [[北陸新幹線]] - 「[[はくたか]]」、「[[あさま]]」([[東京駅|東京]] - [[長野駅|長野]]間)、「[[つるぎ (列車)|つるぎ]]」([[富山駅|富山]] - [[金沢駅|金沢]]間) * 東日本旅客鉄道(JR東日本) ** [[東北新幹線]] - 「[[はやて (列車)|はやて]]」(1往復のみ設定されている)、「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」(200号台、一部列車は[[白石蔵王駅]]を通過)、「[[なすの (列車)|なすの]]」 ** [[上越新幹線]] - 「[[とき (列車)|とき]]」(400号台、一部列車は[[本庄早稲田駅]]を通過)、「[[たにがわ (列車)|たにがわ]]」(スキーシーズンの臨時列車は一部の駅を通過) * [[九州旅客鉄道]](JR九州) ** [[九州新幹線]] - 「[[つばめ (JR九州)|つばめ]]」 この他、新幹線車両を使用する[[博多南線]](一部山陽新幹線直通)や[[上越線]]ガーラ湯沢支線(上越新幹線直通、冬期のみ)が、[[在来線]]特急列車として各駅停車で運行している(そもそもこの区間では途中駅が存在しない)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[列車種別]] * [[急行線|急行線・緩行線]] * [[電車線・列車線]] {{日本における列車種別一覧}} {{DEFAULTSORT:かくえきていしや}} [[Category:列車|種かくえきていしや]] [[Category:列車種別|†]]
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シリコングラフィックス
シリコングラフィックス(Silicon Graphics International Corp.、略称:SGI、NASDAQ:SGI)は、業務用コンピュータの開発・製造・販売を行うアメリカの企業である。本拠地はカリフォルニア州マウンテンビューに置かれていたが、2009年にサンノゼが本社所在地となった。 元々は、1982年にSilicon Graphics, Inc. (1999年以前は SIliconGraphics と表記されていた)として設立された。 コンピュータグラフィックスに特化した最先端の製品を開発し続け、コンピュータグラフィックス全般に絶大な影響を与えた企業である。同社のCGワークステーションは、1990年代までは世界最高の性能を堅持していた。特に、大規模な商業映画におけるCG制作でデファクトスタンダードとして扱われていたことは有名である。現在も世界中のIT端末で使われている3次元コンピュータグラフィックスAPIのひとつであるOpenGLは、もともと同社のCGワークステーション向けに開発されたIRIS GL(英語版)の仕様がオープン標準化されたものである。 2000年代に入り画像処理分野にも安価で十分な性能を持つx86アーキテクチャが普及すると、高価で大して性能面の優位性もない上に互換性もない自社専用アーキテクチャの開発を停止した。x86アーキテクチャへの転換により他社製品との間の差別化要因が失われたため、科学技術計算用の大型計算機を中心としたビジネスに移行した。 2009年4月1日、連邦倒産法第11章の適用を申請して倒産。同日、Rackable Systems社による事業買収の合意が発表された。5月8日にRackable Systems社による買収が完了、5月18日にRackable Systems社は社名を「Silicon Graphics International Corp.(SGI)」へと変更した(NASDAQのティッカーシンボルもRACKからSGIに変更)。 2016年11月1日、ヒューレット・パッカード・エンタープライズ (HPE) による買収が完了し、公開会社としてのSGIは廃止された。買収金額は2億7500万ドルであった。 日本法人に日本SGIがある。2001年に日本SGIがNECの出資を受けてSGIより独立したが、2011年に再度、SGIの100%子会社となった。2016年にはHPEの傘下となり、事業吸収後、会社は解散した。 SGIは、実績のある自社開発オペレーティングシステムのIRIXを継続的に開発しながらも、Linuxの発展にも協力してきた。Sambaなどのプロジェクトを支援し、独自コード(XFSなど)をオープンソースとして提供している。 一時期、Microsoft Windowsを搭載したワークステーションを発売していたが、現在は従来からのIRIX/MIPSを搭載するマシンとLinux/インテル製プロセッサを搭載するマシンのふたつのラインを主に販売している。 SGIには熱狂的な信者とも言うべきユーザーがいるものの、多くの顧客は次第にもっと低価格なシステムに流れて行きつつある。一時期 SGI が子会社化していたエイリアス・システムズの3DCGソフトMayaは、映画制作にも工業用デザインにも使われる高機能ソフトウェアである。特に、ナーブス(en:NURBS)曲線を採用したワイヤーフレームでは、精細なモデリングが可能。現在はWindowsでもMacでもLinuxでも動作するが、本来はOnyxシリーズのマルチプロッセサ及び高性能グラフィックス・エンジンを利用した、モデリング、シミュレーション、データ量のあるテクスチャ処理またはレイトレーシングの計算処理を行う目的に開発された。 SGIはクレイを買収した際に高速インターコネクト技術CrayLinkを獲得した。買収直前のクレイは、ベクトル推進派と超並列推進派と、スケーラブル・ノードを推進する派に分かれていたが、SGIとの合併後にスケーラブル・ノードを推進する派が中心となりOriginを開発した。このOriginは、内部のトポロジーにCrayLinkをベースとしたハイパーキューブを構築し、ノード数の増加に合わせノード間の帯域幅を広げ、ノード単位に分散するメモリを仮想的に共有するNUMA型のHPC製品を製品化した。CrayLinkはその後名称を変え、現在でもNUMAlinkとして使われている。Originの後期には、ハイパーキューブの弱点であったレイテンシーの改善の為、ノード間のホップ数を減らす目的でトポロジーをファットツリー構造に変えた。このトポロジーは最新のAltixにも採用し、シングルOSで1024CPUの稼働を実現する製品を開発した。現在のAltixは、単なるコンピュータ・クラスターでは無く、非常に高いI/O性能を持ち、非常に大きなメモリ空間を実現し、スケーラブルな計算能力を持つハイパフォーマンス・コンピューティングを実現している。 2004年10月、SGIはNASAに納入したColumbiaシステムで世界最高性能を記録した。Altix 3000 をベースとして、10,240プロセッサで構成されており、42.7TFLOPSで地球シミュレータを抜いた。しかし、この記録は即座にIBMのBlue Geneに抜かれてしまった。 SGIの収入の多くは、ハリウッドの特殊効果スタジオからのものではなく、アメリカ政府、軍、エネルギー関連、科学技術計算分野などから得られている。 これらは現在生産していないが、いくつかは"再生品" (中古品)として販売している。 複数の68kとMIPS-ベースの機種はCDC, Tandem Computers, Prime ComputerやSiemens-Nixdorfを含む他のベンダーからも供給された。
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シリコングラフィックスは、業務用コンピュータの開発・製造・販売を行うアメリカの企業である。本拠地はカリフォルニア州マウンテンビューに置かれていたが、2009年にサンノゼが本社所在地となった。 元々は、1982年にSilicon Graphics, Inc. による買収が完了し、公開会社としてのSGIは廃止された。買収金額は2億7500万ドルであった。 日本法人に日本SGIがある。2001年に日本SGIがNECの出資を受けてSGIより独立したが、2011年に再度、SGIの100%子会社となった。2016年にはHPEの傘下となり、事業吸収後、会社は解散した。
{{基礎情報 会社 | 社名 = シリコングラフィックスインターナショナルCorp. | 英文社名 = Silicon Graphics International Corp. | ロゴ = Silicon Graphics International logo.svg | 種類 = public | 市場情報 = {{上場情報|NASDAQ|SGI}} | 略称 = SGI、sgi | 国籍 = {{USA}} | 本社郵便番号 = 49085 | 本社所在地 = [[カリフォルニア州]][[フリーモント (カリフォルニア州)|フリーモント]] | 設立 = [[2009年]](Rackable Systems, Inc.)<br />[[2016年]]([[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ]]による買収) | 業種 = 電気機器 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = コンピュータハードウエア・ソフトウェアの製造・販売 | 代表者 = | 資本金 = | 発行済株式総数 = | 売上高 = | 営業利益 = | 純利益 = | 純資産 = | 総資産 = | 従業員数 = | 決算期 = | 主要株主 = | 主要子会社 = {{Flagicon|JPN}} [[日本SGI]] (100%) | 関係する人物 = | 外部リンク = http://www.sgi.com/ {{リンク切れ|date=2019-04}} | 特記事項 = 1999年にRackable Systems, Inc.として設立。2009年に倒産したシリコングラフィックスInc.の資産を買収し、現社名に変更した。 }} {{基礎情報 会社 |社名=シリコングラフィックスInc. |英文社名=Silicon Graphics, Inc. |ロゴ=SGI wordmark.svg |種類=public |市場情報=倒産{{上場情報|NASDAQ|SGIC}} |略称=SGI、sgi |国籍={{USA}} |本社郵便番号=49085 |本社所在地=[[カリフォルニア州]][[サニーベール (カリフォルニア州)|サニーヴェール]]<br/>{{lang|en|1140 E. 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(1999年以前は SIliconGraphics と表記されていた)として設立された。 [[コンピュータグラフィックス]]に特化した最先端の製品を開発し続け、コンピュータグラフィックス全般に絶大な影響を与えた企業である。同社のCG[[ワークステーション]]は、[[1990年代]]までは世界最高の性能を堅持していた。特に、大規模な商業映画におけるCG制作で[[デファクトスタンダード]]として扱われていたことは{{要出典範囲|date=2019-04|有名である}}。現在も世界中のIT端末で使われている[[3次元コンピュータグラフィックス]][[Application Programming Interface|API]]のひとつである[[OpenGL]]は、もともと同社のCGワークステーション向けに開発された{{仮リンク|IRIS GL|en|IRIS GL}}の仕様が[[オープン標準]]化されたものである。 [[2000年代]]に入り画像処理分野にも安価で十分な性能を持つ[[x86]]アーキテクチャが普及すると、高価で大して性能面の優位性もない上に互換性もない自社専用アーキテクチャの開発を停止した。[[x86]]アーキテクチャへの転換により他社製品との間の差別化要因が失われたため、科学技術計算用の大型計算機を中心としたビジネスに移行した。 [[2009年]]4月1日、[[連邦倒産法第11章]]の適用を申請して倒産。同日、[[Rackable Systems]]社による事業買収の合意が発表された。5月8日にRackable Systems社による買収が完了、5月18日にRackable Systems社は社名を「'''Silicon Graphics International Corp.(SGI)'''」へと変更した(NASDAQの[[ティッカーシンボル]]もRACKからSGIに変更)<ref>[https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0905/13/news005.html Rackable、社名を「SGI」に変更]</ref>。 [[2016年]]11月1日、[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ]] (HPE) による買収が完了し、公開会社としてのSGIは廃止された。買収金額は2億7500万ドルであった<ref name="HPE-SGI">{{cite press release |url = https://www.hpe.com/us/en/newsroom/news-archive/press-release/2016/08/1272793-hewlett-packard-enterprise-to-acquire-sgi-to-extend-leadership-in-high-growth-big-data-analytics-and-high-performance-computing.html |title = Hewlett Packard Enterprise to Acquire SGI to Extend Leadership in High-Growth Big Data Analytics and High-Performance Computing |accessdate = 2016-08-11 |date = 2016-08-11 |publisher = Hewlett Packard Enterprise }}</ref><ref name="HPE-SGI-done">{{cite press release |url = https://www.hpe.com/us/en/newsroom/news-archive/press-release/2016/11/Hewlett-Packard-Enterprise-Completes-Acquisition-of-SGI.html |title = Hewlett Packard Enterprise Completes Acquisition of SGI |accessdate = 2016-11-01 |date = 2016-11-01 |publisher = Hewlett Packard Enterprise }}</ref>。 日本法人に[[日本SGI]]がある。[[2001年]]に日本SGIが[[日本電気|NEC]]の出資を受けてSGIより独立したが、2011年に再度、SGIの100%子会社となった<ref>[http://www.sgi.co.jp/company_info/press_releases/archives/20110310.html プレスリリース] {{リンク切れ|date=2019-04}}</ref>。2016年にはHPEの傘下となり、事業吸収後、会社は解散した。 == 歴史 == * [[1982年]]:スタンフォード大学で三次元ジオメトリック・オペレーション(三次元座標変換、透視投影変換、6面クリッピング)のハードウェア化(現在、PC等で一般化したグラフィックス・ボードの原型)を研究していた[[ジム・クラーク (事業家)|ジム・クラーク]]が、研究成果を世に送り出す事を目的にシリコングラフィックス社 (Silicon Graphics, Inc.) を設立。 * [[1983年]]:最初の製品'''IRIS 1000'''シリーズは、ジム・クラーク自ら開発した[[ジオメトリエンジン|ジオメトリパイプライン]]を使った[[3次元コンピュータグラフィックス]]を高速描画できる端末であり、[[デジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の[[VAX]]コンピュータに接続して使用することを念頭に設計されている。 * [[1985年]]:最初のグラフィックス[[ワークステーション]]'''IRIS 2000'''シリーズを発売。[[MC68010|68010]]/[[MC68020|68020]]を[[CPU]]として搭載し、[[オペレーティングシステム]]として[[UNIX System V|System V]]系の[[UNIX]]である[[IRIX]]を使用。 * [[1986年]]:'''IRIS 3000'''シリーズを発売。また、[[NASDAQ]]に上場を果たす。 * [[1987年]]:'''IRIS-4D'''シリーズを発売。[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]][[RISC]][[マイクロプロセッサ]]を使用した[[ワークステーション]]であり、今後MIPSを使い続けることとなる。 * [[1989年]]:業界初の[[マルチプロセッシング|マルチプロセッサ]]ワークステーションである'''IRIS POWER'''シリーズを発売。ワークステーション・メーカーとしてはSGIが初めてマルチプロセッサ型のサーバーを商品化している。 * [[1990年]]:[[ニューヨーク証券取引所]]に上場。 * [[1991年]]:'''Indigo'''シリーズを発売。また、独自のグラフィックスライブラリ'''IRIS GL'''のライセンス販売を発表。後の[[OpenGL]]となる。IRIS-4D/310シリーズ(33MHzのR3000搭載)を追加、最小構成は40万ベクタ/秒、10万ポリゴン/秒の性能を持つGTXグラフィクス搭載で1227万7000円、100万アンチエイリアスベクタ/秒、100万ポリゴン/秒の性能を持つVGXグラフィクス搭載で1917万7000円{{Sfn |SuperASCII 1991年2月号 |p=28}}。 * [[1992年]]:初の[[64ビット]]ワークステーション'''Crimson'''を発売。[[R4000]]をいち早く使用したマシンである。また、資金難に陥った[[ミップス・テクノロジーズ|MIPS]]を子会社化し、[[ミップス・テクノロジーズ]]を設立。 * [[1993年]]:[[スーパーコンピュータ]]市場への足がかりとなる '''Onyx'''シリーズ、'''POWER CHALLENGE'''シリーズを発売。'''Onyx'''シリーズはマルチプロセッサ型の'''POWER CHALLENGE'''に、高性能なグラフィックス・エンジンを搭載した製品であった。また、ワークステーション '''Indigo2'''や'''Indy'''も発売された。このころから高性能[[パーソナルコンピュータ]]とワークステーションが価格的にも機能的にも競合するようになったが、SGIのマシンは[[3次元コンピュータグラフィックス|3Dグラフィックス]]の高性能さで生き残っていく。'''Onyx'''に搭載されたグラフィックス・エンジンは、現在{{いつ|date=2022年10月}}のグラフィックス・ボードと比べるとジオメトリ計算能力は低いが、非常に大きなフレームバッファを持ち、ディスプレイ・ジェネレータの描画速度までを受持つパイプライン処理は現在{{いつ|date=2022年10月}}のグラフィックス・ボードでも真似の出来ない性能を持っている。また、ローエンドの'''Indy'''も当時先進的なUMAを製品化し、コンピュータグラフィックス専用マシンとして一定の人気を獲得する。一方、技術者が退社してパソコン用3Dグラフィックス関連のベンチャーを開始するようになるのもこのころである。 * [[1996年]]:[[スーパーコンピュータ]]製造企業の[[クレイ・リサーチ]]を合併<ref>{{Cite web|和書|date=1996-7-2 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960702/sgi.htm |title=米シリコングラフィックス社、クレイ・リサーチの吸収合併を完了 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-05-07}}</ref>。 * このころ、"sgi" と小文字のロゴを採用し、基本的に "sgi" と名乗るようになる。社名(Silicon Graphics, Inc.)は変わっていないが、グラフィックス専門企業というイメージを払拭するための[[コーポレートアイデンティティ]]活動である。 * [[2000年]]:クレイの[[ベクトル計算機]]部門をテラ・コンピュータに売却。テラ・コンピュータは[[クレイ (コンピュータ企業)|クレイ]]に社名変更した。また、ミップス・テクノロジーズをスピンオフさせている。 * [[2006年]]:5月8日、[[連邦倒産法第11章]](C11)の適用を申請。実質的に経営破綻へ。<br>[[10月17日]]、同法に基づく保護下から脱する。事業計画面では、かつての主流であったMIPSプロセッサとUNIX系OSの[[IRIX]]の組み合わせで動作するワークステーションの製造を中止、代替としてインテルの[[Xeon]]や[[Itanium]]といったプロセッサと[[Linux]]の組み合わせで動作する機種の開発へとシフトする模様。<br>[[10月23日]]、NASDAQへ再上場。 * [[2009年]]:[[4月1日]]、再びC11の申請。事業は[[Rackable Systems]]が買収したが、その額は2500万ドル(24.5億円、1ドル=98円で換算)と、往時を知る者からすればあまりに破格な安値の金額であった。なお、買収に日本SGIをはじめとした海外現地法人は含まれない。社名はSilicon Graphics International Corp.に変更された。前記に本部が置かれていたビルには、現在[[コンピューター歴史博物館]]が入居しており、後期に本部が置かれていた建物群は[[Google]]に売却されている。 * [[2016年]]:11月1日、[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ]]によって2億7500万ドルで買収された。 == SGIの現状 == SGIは、実績のある自社開発オペレーティングシステムのIRIXを継続的に開発しながらも、[[Linux]]の発展にも協力してきた。[[Samba]]などのプロジェクトを支援し、独自コード([[XFS]]など)を[[オープンソース]]として提供している。 一時期、[[Microsoft Windows]]を搭載したワークステーションを発売していたが、現在は従来からの[[IRIX]]/[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]を搭載するマシンと[[Linux]]/[[インテル]]製プロセッサを搭載するマシンのふたつのラインを主に販売している。 SGIには熱狂的な信者とも言うべきユーザーがいるものの、多くの顧客は次第にもっと低価格なシステムに流れて行きつつある。一時期 SGI が子会社化していた[[エイリアス・システムズ]]の3DCGソフト[[Maya]]は、映画制作にも工業用デザインにも使われる高機能ソフトウェアである。特に、[[NURBS]]曲線を採用した[[ワイヤーフレーム]]では、精細なモデリングが可能。現在は[[Microsoft Windows]]でも[[MacOS]]でも[[Linux]]でも動作するが、本来は'''Onyx'''シリーズの[[マルチプロセッシング]]及び高性能グラフィックス・エンジンを利用した、モデリング、シミュレーション、データ量のあるテクスチャ処理または[[レイトレーシング]]の計算処理を行う目的に開発された。 SGIは[[クレイ (コンピュータ企業)|クレイ]]を買収した際に高速インターコネクト技術'''CrayLink'''を獲得した。買収直前のクレイは、ベクトル推進派と超並列推進派と、スケーラブル・ノードを推進する派に分かれていたが、SGIとの合併後にスケーラブル・ノードを推進する派が中心となり[[Origin (グラフ作成ソフト)|Origin]]を開発した。このOriginは、内部のトポロジーにCrayLinkをベースとしたハイパーキューブを構築し、ノード数の増加に合わせノード間の帯域幅を広げ、ノード単位に分散するメモリを仮想的に共有する[[NUMA]]型のHPC製品を製品化した。CrayLinkはその後名称を変え、現在でも'''NUMAlink'''として使われている。Originの後期には、ハイパーキューブの弱点であったレイテンシーの改善の為、ノード間のホップ数を減らす目的でトポロジーを[[ファットツリー構造]]に変えた。このトポロジーは最新の[[Altix]]にも採用し、シングルOSで1024CPUの稼働を実現する製品を開発した。現在の[[Altix]]は、単なる[[コンピュータ・クラスター]]では無く、非常に高いI/O性能を持ち、非常に大きなメモリ空間を実現し、スケーラブルな計算能力を持つハイパフォーマンス・コンピューティングを実現している。 2004年10月、SGIは[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]に納入した[[Columbia]]システムで世界最高性能を記録した。Altix 3000 をベースとして、10,240プロセッサで構成されており、42.7T[[FLOPS]]で[[地球シミュレータ]]を抜いた。しかし、この記録は即座に[[IBM]]の[[Blue Gene]]に抜かれてしまった。 SGIの収入の多くは、ハリウッドの特殊効果スタジオからのものではなく、アメリカ政府、軍、エネルギー関連、科学技術計算分野などから得られている。 == 製品 == {{更新|date=2016年8月|section=1}} ===現行機=== ====[[Itanium]]ベース製品==== * [[Altix]] 450 シリーズ:[[Itanium2]]ベースのミッドレンジサーバ。NUMA構成で最大32プロセッサまで。 * Altix 4000 シリーズ:Itanium2ベースのハイエンドサーバ。NUMA構成で最大1024プロセッサまで。 ====[[x64]]-ベースシステム==== * Altix XE210 サーバー * Altix XE240 サーバー * Altix XE310 サーバー * Altix XE1200 :[[Xeon]]ベースのPCクラスター。 * Altix XE1300 :[[Xeon]]ベースのPCクラスター。 * Altix ICE 8200 * Virtu VN200 ヴィジュアライゼーションノード * Virtu VS100 ワークステーション * Virtu VS200 ワークステーション * Virtu VS300 ワークステーション * Virtu VS350 ワークステーション ====[[FPGA]]-ベースシステム==== * RASC アプリケーションアクセレーション<!-- アクセ''ラ''レーションの誤植でしょうか... --> ===廃盤=== これらは現在生産していないが、いくつかは"再生品" (中古品)として販売している。 複数の68kとMIPS-ベースの機種は[[Control Data Corporation|CDC]], [[Tandem Computers]], [[Prime Computer]]や[[Siemens-Nixdorf]]を含む他のベンダーからも供給された。 ====Motorola 68k-ベースシステム==== * [[:en:SGI IRIS|IRIS 1000]] 系グラフィックス端末 (ディスク無し 1000/1200, 1400/1500 とディスク) * [[:en:SGI IRIS|IRIS 2000]] 系列ワークステーション (2000/2200/2300/2400/2500 non-Turbo と2300T/2400T/2500T "Turbo" モデル) * [[:en:SGI IRIS|IRIS 3000]] 系列ワークステーション (3010/3020/3030 and 3110/3115/3120/3130) ====MIPS-ベースシステム==== =====ワークステーション===== [[File:SGI-indigo-front.jpg|thumb|upright|SGI Indigo]] [[File:SGI Indy CRT.jpg|thumb|upright|SGI Indy]] [[File:SGI O2 with monitor.jpg|thumb|upright|SGI O2]] [[File:SgiOctane.jpg|thumb|upright|SGI Octane]] [[File:SGI-onyx.jpg|thumb|upright|SGI Onyx]] * プロフェッショナル IRIS 系列 (IRIS 4D/50/60/70/80/85) * パーソナル IRIS 系列 (IRIS 4D/20/25/30/35) * IRIS パワー系列 (IRIS 4D/1x0/2x0/3x0/4x0) * [[:en:SGI Crimson|IRIS Crimson (デスクサイドワークステーション/サーバー)]] * [[:en:SGI Indigo|IRIS Indigo 系列 (Indigo, Indigo R4000)]] * [[:en:SGI Indigo2|Indigo² 系列 (Indigo², Power Indigo², Indigo² R10000)]] * [[:en:SGI Indy|Indy ワークステーション]] * [[:en:SGI O2|O2/O2+ ワークステーション]] * [[:en:SGI Octane|Octane/Octane2 ワークステーション]] * [[:en:SGI Fuel|Fuel 入門ワークステーション]] * [[:en:SGI Tezro|Tezro ハイエンドワークステーション]] =====サーバー===== * [[:en:SGI Indy|Challenge S]] (デスクトップサーバー) * [[:en:SGI Challenge M|Challenge M/Power Challenge M]] (デスクトップサーバー) * [[:en:SGI Challenge|Challenge DM]] (デスクサイドサーバー) * [[:en:SGI Challenge|Challenge L/Power Challenge/Challenge 10000]] (デスクトップサーバー) * [[:en:SGI Challenge|Challenge XL/Power Challenge XL]] (ラックサーバー) * [[:en:SGI Origin 200|Origin 200]] 入門サーバー * [[:en:SGI Origin 2000|Origin 2000]] ハイエンドサーバー * [[:en:SGI Origin 300|Origin 300]] 入門サーバー * [[:en:SGI Origin 350|Origin 350]] ミッドレンジサーバー * [[:en:SGI Origin 3000|Origin 3000]] ハイエンドサーバー =====グラフィックスワークステーション===== * [[SGI Onyx|Onyx (デスクサイド、ラックマウントシステム)]]([[:en:SGI Onyx|英語版]]) * [[SGI Onyx|Power Onyx (デスクサイド、ラックマウントシステム)]]([[:en:SGI Onyx|英語版]]) * [[SGI Onyx|Onyx 10000 (デスクサイド、ラックマウントシステム)]]([[:en:SGI Onyx|英語版]]) * [[:en:SGI Onyx2|Onyx2 (デスクサイド、ラックマウントシステム)]] * Onyx 350 (ラックマウントシステム) * [[:en:Onyx 3000|Onyx 3000]] (ラックマウントシステム) * Onyx4 (ラックマウントシステム) * SkyWriter (ラックマウントシステム) ====Intel IA-32-ベースシステム==== =====ワークステーション===== * [[:en:SGI Visual Workstation|SGI 320 ヴィジュアル・ワークステーション]] (Windows NT) * [[:en:SGI Visual Workstation|SGI 540 ヴィジュアル・ワークステーション]] (Windows NT) * [[:en:SGI Visual Workstation|SGI 230 ワークステーション]] (Linux/Windows NT) * [[:en:SGI Visual Workstation|SGI 330 ワークステーション]] (Linux/Windows NT) * [[:en:SGI Visual Workstation|SGI 550 ワークステーション]] (Linux/Windows NT) * SGI Zx10 ヴィジュアル・ワークステーション (Windows) * SGI Zx10 VE ヴィジュアル・ワークステーション (Windows) =====サーバー===== * SGI Zx10 サーバー (Windows) * SGI 1100 サーバー (Linux/Windows) * SGI 1200 サーバー (Linux/Windows) * SGI 1400 サーバー (Linux/Windows) * SGI 1450 サーバー (Linux/Windows) * SGI インターネットサーバー (Linux) * SGI インターネットサーバー E-commerce用 (Linux) * SGI インターネットサーバー Messaging用 (Linux) ====Itanium-ベースシステム==== =====ワークステーション===== * SGI 750 ワークステーション =====サーバー===== * [[:en:SGI Altix 330|Altix 330]] 入門 サーバー * [[:en:SGI Altix 350|Altix 350]] ミッドレンジ サーバー * [[:en:SGI Altix 3000|Altix 3000]] ハイエンド サーバー =====可視化===== * [[:en:SGI Prism|Prism (デスクサイドラックマウントシステム)]] ==== ディスプレイ==== * [[:en:SGI 1600SW|1600SW]], 多数受賞のワイドスクリーンモニター ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} ==参考文献== * {{Cite journal|和書 |author= |title=SuperASCII 1991年2月号 |volume=2 |issue=2 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1991-2-1 |isbn= |ref={{Sfnref |SuperASCII 1991年2月号}} }} == 関連項目 == *[[日本SGI]] *[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]] *[[セガサターン]] *[[IRIX]] - SGIのワークステーションおよびOS。 *[[NINTENDO64]] - [[任天堂]]と共同開発した[[ゲーム機]]。 *[[ArtX]] - SGIの元技術者のグループによって作られた会社。 *[[STLport]] - 当初はSGIによって作られた[[Standard Template Library|STL]]の実装。現在は[http://www.stlport.org/ STLport]によってメンテナンスされている。 ==外部リンク== {{Commonscat|Silicon Graphics}} *[http://www.sgi.com/ High Perfomance Compuing Solustion HPE(旧SGI)] *[http://www.sgi.co.jp/ 日本SGI] {{リンク切れ|date=2019-04}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しりこんくらふいつくす}} [[Category:アメリカ合衆国のコンピュータ企業]] [[Category:ヒューレット・パッカードによる買収]] [[Category:アラメダ郡の企業]] [[Category:NASDAQ上場企業]]
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中山慶子
中山 慶子(なかやま よしこ、天保6年11月28日〈1836年1月16日〉 - 明治40年〈1907年〉10月5日)は、孝明天皇の典侍で、明治天皇の生母。号は中山一位局など。大正天皇の祖母、昭和天皇の曽祖母にあたる。 権大納言・中山忠能の次女で、母は権中納言・園基茂の養女(松浦靜山の十一女)・愛子。侯爵を授けられた中山忠愛は長兄。天誅組の主将・中山忠光は同母弟。従一位勲一等。 天保6年11月28日(1836年1月16日)、京都石薬師(御所の東北)の邸に生まれ、八瀬(現京都市左京区八瀬)に里子に出されて育つ。17歳で典侍御雇となって宮中に出仕し、名を安栄(あえ)と賜る。孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。 祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子(英照皇太后)の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。 慶応3年(1867年)1月9日、睦仁親王が践祚。同年4月、慶子は病のため辞していた典侍に再任される。慶応4年(1868年)8月4日、従三位及び食禄五百石と屋敷地を賜わり、翌々年9月7日、さらに従二位に叙せられた。明治3年(1870年)9月、遷都に伴い東京に移住。 明治12年(1879年)に生まれた嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育掛となり、同22年(1889年)まで親王の養育を任せられた。同年正二位。 明治維新による女院号廃止のため院号宣下は無かったが、国母として相応に厚遇された。明治33年(1900年)1月15日、大患により従一位に昇叙。同17日、人臣で初めて勲一等宝冠章を授けられた。明治40年(1907年)10月5日、東京青山南町の邸にて薨去。享年73。豊島岡墓地に埋葬される。
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中山 慶子は、孝明天皇の典侍で、明治天皇の生母。号は中山一位局など。大正天皇の祖母、昭和天皇の曽祖母にあたる。 権大納言・中山忠能の次女で、母は権中納言・園基茂の養女(松浦靜山の十一女)・愛子。侯爵を授けられた中山忠愛は長兄。天誅組の主将・中山忠光は同母弟。従一位勲一等。
{{基礎情報 皇族・貴族 | 人名 = 中山 慶子 | 各国語表記 = | 家名・爵位 = | 画像 = Nakayama Yoshiko.jpg | 画像サイズ = 240px | 画像説明 = | 続柄 = | 称号 = 中山一位局 | 全名 = 中山慶子 | 身位 = [[典侍]] | 敬称 = | お印 = | 出生日 = [[1836年]][[1月16日]]([[天保]]6年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) | 生地 = [[平安京]]石薬師 | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1836|01|16|1907|10|05}} | 没地 = {{JPN}} [[東京府]]<br />[[東京市]][[赤坂区]]<br />[[青山 (東京都港区)|青山]]南町 | 埋葬日 = | 埋葬地 = [[豊島岡墓地]] | 配偶者1 = [[孝明天皇]] | 子女 = [[明治天皇]] | 父親 = [[中山忠能]] | 母親 = [[中山愛子|園愛子]] | 役職 = }} '''中山 慶子'''(なかやま よしこ、[[天保]]6年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]〈[[1836年]][[1月16日]]〉 - [[明治]]40年〈[[1907年]]〉[[10月5日]]<ref name="コトバンク"/>)は、[[孝明天皇]]の[[典侍]]で、[[明治天皇]]の生母<ref name="大事典"/>。号は'''中山一位局'''など。[[大正天皇]]の祖母、[[昭和天皇]]の曽祖母にあたる。 [[大納言|権大納言]]・[[中山忠能]]の次女<ref name="大事典"/>で、母は[[中納言|権中納言]]・園基茂の養女([[松浦清|松浦靜山]]の十一女)・[[中山愛子|愛子]]。[[侯爵]]を授けられた[[中山忠愛]]は長兄。[[天誅組]]の主将・[[中山忠光]]は同母弟。[[従一位]][[宝冠章|勲一等]]。 == 生涯 == 天保6年11月28日(1836年1月16日)、[[京都]]石薬師(御所の東北)の邸に生まれ<ref name="大事典"/>、[[八瀬 (京都市)|八瀬]](現[[京都市]][[左京区]]八瀬)に里子に出されて育つ。17歳で典侍御雇となって宮中に出仕し、名を安栄(あえ)と賜る。孝明天皇の意を得て懐妊し、[[嘉永]]5年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]([[1852年]][[11月3日]])、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの[[明治天皇]])を産む。家禄わずか二百石の[[中山家]]では産屋建築の費用を賄えず、その大半を[[借金]]したという。 祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、[[万延]]元年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]([[1860年]][[8月26日]])、勅令により祐宮は[[准后]][[女御]]・九条夙子([[英照皇太后]])の「実子」とされ、同年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]、[[親王宣下]]を受け名を「睦仁」と付けられた。 [[慶応]]3年([[1867年]])[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]、睦仁親王が践祚。同年4月、慶子は病のため辞していた典侍に再任される。慶応4年([[1868年]])[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]、[[従三位]]及び食禄五百石と屋敷地を賜わり、翌々年9月7日、さらに[[従二位]]に叙せられた。[[明治]]3年([[1870年]])9月、遷都に伴い[[東京都|東京]]に移住。 明治12年([[1879年]])に生まれた嘉仁親王(のちの[[大正天皇]])の養育掛となり、同22年([[1889年]])まで親王の養育を任せられた。同年[[正二位]]。 [[明治維新]]による[[女院号]]廃止のため院号宣下は無かったが、[[国母]]として相応に厚遇された。明治33年([[1900年]])[[1月15日]]、大患により[[従一位]]に昇叙。同17日、人臣で初めて[[勲一等宝冠章]]を授けられた。明治40年(1907年)10月5日、東京[[青山 (東京都港区)|青山]]南町の邸にて薨去。享年73。[[豊島岡墓地]]に埋葬される。 == 栄典 == * [[1889年]](明治22年)[[3月5日]] - [[正二位]]<ref>『官報』第1703号「叙任及辞令」、明治22年3月7日({{国立国会図書館デジタルコレクション|2944947/2|format=NDLJP}})</ref> * [[1900年]](明治33年)[[1月15日]] - [[従一位]]<ref>『官報』第4960号「叙任及辞令」、明治33年1月17日({{国立国会図書館デジタルコレクション|2948251/3|format=NDLJP}})</ref> * [[1900年]](明治33年)[[1月17日]] - [[勲一等宝冠章]]<ref>『官報』第4961号「叙任及辞令」、明治33年1月18日({{国立国会図書館デジタルコレクション|2948252|format=NDLJP}})</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist |refs= *<ref name="大事典">京都大事典 淡交社 1984.11 {{国立国会図書館書誌ID|000001713924}} </ref> *<ref name="コトバンク">[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%85%B6%E5%AD%90-17143 中山慶子]コトバンク</ref> }} == 関連項目 == {{commons|Category:Nakayama Yoshiko}} * [[中山家]] * [[中山寺 (宝塚市)|中山寺]]([[宝塚市]]) * [[英照皇太后]] * [[昭憲皇太后]] * [[柳原愛子]] - [[明治天皇]]の女官・[[大正天皇]]生母 * [[嵯峨浩]] - 同母弟・[[中山忠光|忠光]]の曾孫で、[[愛新覚羅溥傑]]に嫁ぐ。 {{明治天皇の系譜}} {{デフォルトソート:なかやま よしこ}} [[Category:江戸時代の后妃後宮]] [[Category:江戸時代の女官]] [[Category:勲一等宝冠章受章者]] [[Category:花山院流中山家|よしこ]] [[Category:明治天皇|-母]] [[Category:孝明天皇|+なかやま よしこ]] [[Category:中山邸跡]] [[Category:京都御所]] [[Category:皇居]] [[Category:従一位受位者]] [[Category:戦前日本の女性]] [[Category:明治時代の人物]] [[Category:山城国の人物]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:19世紀日本の女性皇族]] [[Category:20世紀日本の女性皇族]] [[Category:1836年生]] [[Category:1907年没]]
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新選組
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に江戸幕府の徴募により組織された浪士隊である。特に尊攘派志士の弾圧活動に従事した。発足時は24名だったが、最大時には約230名の隊士が所属していたとされる。会津藩預かりという非正規組織であったが、慶応3年(1867年)6月、幕臣に取り立てられる。慶応4年(1868年)に旧幕府から甲州鎮撫を命ぜられたことにより、甲陽鎮撫隊と改める。しかし明治2年5月18日、戊辰戦争においての旧幕府軍降伏により、事実上消滅した。 「選」の字は「撰」とも表記されることがあり、「新撰組」と表記された史料もある。新選組の局長近藤勇をはじめ、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている。明治時代以降に公的機関が編纂した史料集では、『維新史料綱要』では「新撰組」と記されているが、『復古記』では「新選組」と記されているように記述が割れている。ただ隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年ごろから高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている。また、報道機関などでも 「撰」の文字が常用漢字外のため、新選組と表記するのが一般的である。 幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。 江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意(後述)を知った近藤勇や芹沢鴨らが反発して脱退。 そして、その思想に意気投合した会津藩・野村左兵衛の進言で京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護のもと、新選組として発足した。 同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組はその多くが町人・農民出身の浪士によって構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。 隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。京都で攘夷派の弾圧にあたった。商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。 慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、鳥羽・伏見の戦いに敗北したあとは四散し、甲州勝沼において板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊。局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた。その後、副長の土方歳三が戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争で戦死。新選組は新政府軍に降伏することになった。 逆賊を取りしまる立場であったが明治維新で敗北したことから正反対に逆賊は新選組という扱いを受けてしまった風評被害もあった。2004年の大河ドラマで脚本を担当した三谷幸喜もこのことを指摘している。 文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の献策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。 翌文久3年(1863年)2月、集まった200名あまりの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。 京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張した。 鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱隊した。殿内・家里は排斥され、同年3月、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。 壬生浪士組は壬生村の八木邸や前川邸およびその周辺の邸宅を屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名あまりの集団となり、京都守護職の松平容保から、おもに不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。 4月、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。 6月、大坂相撲の力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。 8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じたとされる。一説として、芹沢および壬生浪士組の関与については否定的な見解が存在するが、浪士組の名を記す風説書が多く残り、焼き打ちを行ったという説もある。 同月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏 から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。 9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。 元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件で攘夷派志士を斬殺・捕縛。8月、禁門の変の鎮圧に参加した。 池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両あまりの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行うこととなった。池田屋事件で新選組の知名度が上がっていたことから土方、斎藤、伊藤、藤堂平助などの幹部が直接江戸へ向かい剣術道場などを訪問し、伊東甲子太郎らの一派を引き入れることに成功、翌年五月に32名で京都に戻ったことが確認されている。これらの活動により新選組は200名まで増強され、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。 長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組および小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。 慶応3年(1867年)3月、伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東・服部・藤堂・毛内を惨殺。篠原・富山・鈴木・加納は逃走(油小路事件)。 慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った。新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。この際、井上源三郎が戦死。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。 その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州街道を甲府城へ進軍するが、その途中甲州勝沼の戦いにおいて板垣退助率いる迅衝隊に敗退する。ふたたび江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八、原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけて流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核により江戸にて死亡。また、諸事情で江戸に戻った原田は彰義隊に加入し、上野戦争で戦死した(諸説あり)。 新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊し残留。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦いなどで活躍する(蝦夷共和国も参照)。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。 明治政府は、隊士の遺族らに遺品の所有を禁じた。 年齢や身分による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた。実技試験もなかった。ただし既婚者は妻子を壬生の屯所から10里(約40キロ)以上離れた場所に住まわせることが条件とされた。これは、新選組が男の合宿制をとっていること、妻子が近くにいることによって命を惜しむようになることを防ぐためと考えられる。幹部に昇進すれば京都に家を持ち、妻子や妾を迎えることが許された。 新選組と交流のあった加太邦憲の述懐によれば、入隊後一定期間は「仮同志」という試用期間となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、このときに臆病なふるまいをした者は追放されたという。 京都で活動している不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、要人警護など、警察活動を任務としていた。 後述する数々のフィクション作品の影響により、浪士を斬りまくった「人斬り集団」とのイメージが強いが、実際には捕縛(生け捕り)を原則としており、犯人が抵抗して捕縛できない場合のみ斬った。池田屋事件においても、最初は敵の人数が上回ったため斬る方針で戦ったが、土方隊が到着して新選組が有利になると、方針を捕縛に変えている。事件後、近藤勇は「討取七人、疵為負候者四人、召捕二十三人」(7人を殺し、4人に手傷を負わせ、23人を捕縛した)と報告している。 新選組の担当地域は祇園や伏見であり、御所や官庁街は会津藩兵1,000名、その周りは京都見廻組500名が固めていた。従来からの京都所司代と京都町奉行も治安維持にあたっていた。ほかの組織が管轄を順守していたのに対し、新選組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることも少なくなかったといわれる。 1865年(慶応元年)に撃剣、柔術、文学、砲術、馬術、槍術の各師範を設けた。しかし、どの程度稼働していたのかははっきりしない。 局長近藤勇、副長土方歳三、一番隊組長沖田総司ら新選組の代表者が天然理心流試衛館の剣客であったことから、新選組所縁の剣術として天然理心流が有名であるが、ほかの隊士は神道無念流、北辰一刀流その他まちまちであり、新選組=天然理心流ではない。撃剣師範7名のうち天然理心流は1名(沖田総司)である。流派や入隊時期が異なれば形稽古はできないため、稽古は竹刀打ち込み稽古に限られていた。稽古はかなりの激しさだったらしく、新選組が駐屯していた八木邸の八木為三郎は、打ち倒されて動けなくなっている者をよく見たという。また、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、土方歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら「軽い軽い」などと叱っていたという。 戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に刀で挑んで敗れ、土方が「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語ったこと や、甲州勝沼の戦いで近藤が率いた甲陽鎮撫隊が迅衝隊にわずか2時間で敗れた事例などから、白兵戦に特化した集団とのイメージを持たれることが多いが、幕府陸軍にならいフランス式軍事訓練を行っていた。西本願寺境内で大砲や小銃の訓練を行い、銃砲の音に迷惑した西本願寺が訓練の中止を求め会津藩に陳情した。その後、壬生寺に訓練場所が移されたが、訓練が参詣人の妨げになり、砲の音響で寺が破損するなどの被害が発生している。 組織力を強化するため、#役職を設け、指揮命令系統を作り上げた。 戦法は、必ず敵より多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。たとえば三条制札事件では8人の敵に対し34人の味方を用意し、油小路事件では7人の敵に対し35、6人で襲撃した。さらに、「死番」という突入担当者を輪番であらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。 当初、袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色(水色)の羽織を着用していたとされる。羽織のダンダラは、歌舞伎などの演目『忠臣蔵』で赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたときに着ている羽織の柄(ただし史実ではなく赤穂事件をもとにした創作で広まったもの)で、浅葱色は武士の死に装束の色である。製作したのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。一説には、大文字屋ではなく四条の呉服屋「菱屋」ともいわれる。 ダンダラ羽織は最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録である。池田屋事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込襦袢、襠高袴、紺の脚絆、後鉢巻、白の襷であった。新選組に尾行されていた大村藩士・渡辺昇によれば、尾行者が黒衣・黒袴であればすぐに新選組であると分かったという。また、明治末期に老人が、新選組は黒羅紗筒袖の陣羽織を着ていたと証言していることから、ダンダラ羽織の廃止後は黒ずくめであったと考えられる。 警備や戦闘の際には、鉢金、鎖帷子、籠手、胴などの防具を装着した。武器は市街地戦を想定し打刀と短槍であった。局長の近藤勇は打刀とほぼ同寸の長脇差を好んだ。副長の土方歳三も、刃長2尺8寸の和泉守兼定、1尺9寸5分の堀川国広の刀を用いていた。 鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた直後に土方が会津藩から2,000両を受給しており、新式の兵装備品に充てた可能性が高い。 赤地に金字または白字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的である。全部で6種類あるとされている。現在の髙島屋にあたる古着・木綿商によって特注で製作されたものである。その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。 新選組の隊旗が「誠」であったことから、近藤勇の実家・試衛館は「誠衛館」の誤りと推測する説もある。 結成当初は資金難であり、新選組の後援者・佐藤彦五郎からの支援だけでは足りなかったため、商家から資金を提供させたと伝えられる。 京都守護職配下時代は、会津藩からの御用金で賄っていた。その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。『新撰組永倉新八』(昭和2年私家本)によれば、局長50両、副長40両、副長助勤30両、平隊士10両の月給であったとされるが、実際はそれ以下であったと考えられる。諸々の事件への出動により褒賞金など恩賞が下されることもあった。 烏合の衆である浪人集団を統率するため、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。成立は会津藩預かりとなった浪士組時代(文久3年/1863年)に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。天然理心流に入門する際に誓約させられる神文帳との類似性も指摘されている。 法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」などのように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。 一、士道ニ背キ間敷事(武士道に背く行為をしてはならない) 一、局ヲ脱スルヲ不許(新撰組からの脱退は許されない) 一、勝手ニ金策致不可(無断で借金をしてはならない) 一、勝手ニ訴訟取扱不可(無断で訴訟に関係してはならない) 一、私ノ闘争ヲ不許(個人的な争いをしてはならない) 右条々相背候者切腹申付ベク候也(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする) 子母沢寛が昭和3年(1928年)に著した『新選組始末記』で紹介されて以来有名となり、上記の5か条として知られるが、同時代史料にはこれをすべて記録したものは現在までのところ発見されていない。永倉新八が大正2年(1913年)に語った内容を記録した『小樽新聞』の記事(『新選組顛末記』)には、「私ノ闘争ヲ不許」を除く4か条しか提示されておらず、名称も「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていない。そのため、上記の5か条と「局中法度」という名称は、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢寛が脚色したものと推測されている。 鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼる。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で、その他はほとんどが切腹や暗殺などの粛清絡みのものであった。記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった。 トップは局長。直下に局長を補佐する副長がおり、そのさらに下に副長助勤、監察方(内務監察)、勘定方(会計担当)などの役職を設けた。副長助勤は組長として平隊士を統率した。各隊は一番組から十番組まであり、各人員は10名前後。組長の下に伍長を置いた。新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり、洋式軍制の影響が指摘されている。 以下に構成員。新選組の名を用いる以前(壬生浪士組)も含む。 ~1864年編成時組頭~ 下記以外の隊士はCategory:新選組隊士を参照。 モデルとした創作作品、端役として登場する作品は多数ある。ここでは新選組を主題としたもののみを掲げる。Category:新選組を題材とした作品も参照。 ※以下、五十音順 ※以下、早稲田大学演劇博物館の「演劇上演記録データベース」で確認できる作品のみ。
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"8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じたとされる。一説として、芹沢および壬生浪士組の関与については否定的な見解が存在するが、浪士組の名を記す風説書が多く残り、焼き打ちを行ったという説もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "同月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏 から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件で攘夷派志士を斬殺・捕縛。8月、禁門の変の鎮圧に参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両あまりの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行うこととなった。池田屋事件で新選組の知名度が上がっていたことから土方、斎藤、伊藤、藤堂平助などの幹部が直接江戸へ向かい剣術道場などを訪問し、伊東甲子太郎らの一派を引き入れることに成功、翌年五月に32名で京都に戻ったことが確認されている。これらの活動により新選組は200名まで増強され、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組および小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "慶応3年(1867年)3月、伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東・服部・藤堂・毛内を惨殺。篠原・富山・鈴木・加納は逃走(油小路事件)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った。新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。この際、井上源三郎が戦死。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州街道を甲府城へ進軍するが、その途中甲州勝沼の戦いにおいて板垣退助率いる迅衝隊に敗退する。ふたたび江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八、原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけて流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核により江戸にて死亡。また、諸事情で江戸に戻った原田は彰義隊に加入し、上野戦争で戦死した(諸説あり)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊し残留。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦いなどで活躍する(蝦夷共和国も参照)。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "明治政府は、隊士の遺族らに遺品の所有を禁じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "年齢や身分による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた。実技試験もなかった。ただし既婚者は妻子を壬生の屯所から10里(約40キロ)以上離れた場所に住まわせることが条件とされた。これは、新選組が男の合宿制をとっていること、妻子が近くにいることによって命を惜しむようになることを防ぐためと考えられる。幹部に昇進すれば京都に家を持ち、妻子や妾を迎えることが許された。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "新選組と交流のあった加太邦憲の述懐によれば、入隊後一定期間は「仮同志」という試用期間となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、このときに臆病なふるまいをした者は追放されたという。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "京都で活動している不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、要人警護など、警察活動を任務としていた。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "後述する数々のフィクション作品の影響により、浪士を斬りまくった「人斬り集団」とのイメージが強いが、実際には捕縛(生け捕り)を原則としており、犯人が抵抗して捕縛できない場合のみ斬った。池田屋事件においても、最初は敵の人数が上回ったため斬る方針で戦ったが、土方隊が到着して新選組が有利になると、方針を捕縛に変えている。事件後、近藤勇は「討取七人、疵為負候者四人、召捕二十三人」(7人を殺し、4人に手傷を負わせ、23人を捕縛した)と報告している。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "新選組の担当地域は祇園や伏見であり、御所や官庁街は会津藩兵1,000名、その周りは京都見廻組500名が固めていた。従来からの京都所司代と京都町奉行も治安維持にあたっていた。ほかの組織が管轄を順守していたのに対し、新選組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることも少なくなかったといわれる。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1865年(慶応元年)に撃剣、柔術、文学、砲術、馬術、槍術の各師範を設けた。しかし、どの程度稼働していたのかははっきりしない。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "局長近藤勇、副長土方歳三、一番隊組長沖田総司ら新選組の代表者が天然理心流試衛館の剣客であったことから、新選組所縁の剣術として天然理心流が有名であるが、ほかの隊士は神道無念流、北辰一刀流その他まちまちであり、新選組=天然理心流ではない。撃剣師範7名のうち天然理心流は1名(沖田総司)である。流派や入隊時期が異なれば形稽古はできないため、稽古は竹刀打ち込み稽古に限られていた。稽古はかなりの激しさだったらしく、新選組が駐屯していた八木邸の八木為三郎は、打ち倒されて動けなくなっている者をよく見たという。また、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、土方歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら「軽い軽い」などと叱っていたという。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に刀で挑んで敗れ、土方が「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語ったこと や、甲州勝沼の戦いで近藤が率いた甲陽鎮撫隊が迅衝隊にわずか2時間で敗れた事例などから、白兵戦に特化した集団とのイメージを持たれることが多いが、幕府陸軍にならいフランス式軍事訓練を行っていた。西本願寺境内で大砲や小銃の訓練を行い、銃砲の音に迷惑した西本願寺が訓練の中止を求め会津藩に陳情した。その後、壬生寺に訓練場所が移されたが、訓練が参詣人の妨げになり、砲の音響で寺が破損するなどの被害が発生している。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "組織力を強化するため、#役職を設け、指揮命令系統を作り上げた。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "戦法は、必ず敵より多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。たとえば三条制札事件では8人の敵に対し34人の味方を用意し、油小路事件では7人の敵に対し35、6人で襲撃した。さらに、「死番」という突入担当者を輪番であらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "当初、袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色(水色)の羽織を着用していたとされる。羽織のダンダラは、歌舞伎などの演目『忠臣蔵』で赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたときに着ている羽織の柄(ただし史実ではなく赤穂事件をもとにした創作で広まったもの)で、浅葱色は武士の死に装束の色である。製作したのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。一説には、大文字屋ではなく四条の呉服屋「菱屋」ともいわれる。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ダンダラ羽織は最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録である。池田屋事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込襦袢、襠高袴、紺の脚絆、後鉢巻、白の襷であった。新選組に尾行されていた大村藩士・渡辺昇によれば、尾行者が黒衣・黒袴であればすぐに新選組であると分かったという。また、明治末期に老人が、新選組は黒羅紗筒袖の陣羽織を着ていたと証言していることから、ダンダラ羽織の廃止後は黒ずくめであったと考えられる。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "警備や戦闘の際には、鉢金、鎖帷子、籠手、胴などの防具を装着した。武器は市街地戦を想定し打刀と短槍であった。局長の近藤勇は打刀とほぼ同寸の長脇差を好んだ。副長の土方歳三も、刃長2尺8寸の和泉守兼定、1尺9寸5分の堀川国広の刀を用いていた。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた直後に土方が会津藩から2,000両を受給しており、新式の兵装備品に充てた可能性が高い。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "赤地に金字または白字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的である。全部で6種類あるとされている。現在の髙島屋にあたる古着・木綿商によって特注で製作されたものである。その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "新選組の隊旗が「誠」であったことから、近藤勇の実家・試衛館は「誠衛館」の誤りと推測する説もある。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "結成当初は資金難であり、新選組の後援者・佐藤彦五郎からの支援だけでは足りなかったため、商家から資金を提供させたと伝えられる。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "京都守護職配下時代は、会津藩からの御用金で賄っていた。その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。『新撰組永倉新八』(昭和2年私家本)によれば、局長50両、副長40両、副長助勤30両、平隊士10両の月給であったとされるが、実際はそれ以下であったと考えられる。諸々の事件への出動により褒賞金など恩賞が下されることもあった。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "烏合の衆である浪人集団を統率するため、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。成立は会津藩預かりとなった浪士組時代(文久3年/1863年)に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。天然理心流に入門する際に誓約させられる神文帳との類似性も指摘されている。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」などのように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "一、士道ニ背キ間敷事(武士道に背く行為をしてはならない) 一、局ヲ脱スルヲ不許(新撰組からの脱退は許されない) 一、勝手ニ金策致不可(無断で借金をしてはならない) 一、勝手ニ訴訟取扱不可(無断で訴訟に関係してはならない) 一、私ノ闘争ヲ不許(個人的な争いをしてはならない) 右条々相背候者切腹申付ベク候也(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする)", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "子母沢寛が昭和3年(1928年)に著した『新選組始末記』で紹介されて以来有名となり、上記の5か条として知られるが、同時代史料にはこれをすべて記録したものは現在までのところ発見されていない。永倉新八が大正2年(1913年)に語った内容を記録した『小樽新聞』の記事(『新選組顛末記』)には、「私ノ闘争ヲ不許」を除く4か条しか提示されておらず、名称も「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていない。そのため、上記の5か条と「局中法度」という名称は、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢寛が脚色したものと推測されている。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼる。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で、その他はほとんどが切腹や暗殺などの粛清絡みのものであった。記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "トップは局長。直下に局長を補佐する副長がおり、そのさらに下に副長助勤、監察方(内務監察)、勘定方(会計担当)などの役職を設けた。副長助勤は組長として平隊士を統率した。各隊は一番組から十番組まであり、各人員は10名前後。組長の下に伍長を置いた。新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり、洋式軍制の影響が指摘されている。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "以下に構成員。新選組の名を用いる以前(壬生浪士組)も含む。", "title": "実像" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "~1864年編成時組頭~", "title": "隊士一覧" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "下記以外の隊士はCategory:新選組隊士を参照。", "title": "隊士一覧" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "モデルとした創作作品、端役として登場する作品は多数ある。ここでは新選組を主題としたもののみを掲げる。Category:新選組を題材とした作品も参照。", "title": "新選組を主題にした作品" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "※以下、五十音順", "title": "新選組を主題にした作品" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "※以下、早稲田大学演劇博物館の「演劇上演記録データベース」で確認できる作品のみ。", "title": "新選組を主題にした作品" } ]
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に江戸幕府の徴募により組織された浪士隊である。特に尊攘派志士の弾圧活動に従事した。発足時は24名だったが、最大時には約230名の隊士が所属していたとされる。会津藩預かりという非正規組織であったが、慶応3年(1867年)6月、幕臣に取り立てられる。慶応4年(1868年)に旧幕府から甲州鎮撫を命ぜられたことにより、甲陽鎮撫隊と改める。しかし明治2年5月18日、戊辰戦争においての旧幕府軍降伏により、事実上消滅した。
{{otheruses||手塚治虫の漫画|新選組 (手塚治虫の漫画)}} '''新選組'''(しんせんぐみ)は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])に江戸幕府の徴募により組織された[[浪人|浪士]]隊である。特に[[尊皇攘夷|尊攘派]][[志士]]の[[弾圧]]活動に従事した<ref name="britanica">[https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E6%92%B0%E7%B5%84-82092 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)]</ref><ref name="mypedia">[https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E6%92%B0%E7%B5%84-82092#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)]</ref>。発足時は24名だったが、最大時には約230名の隊士が所属していたとされる。会津藩預かりという非正規組織であったが、[[慶応]]3年([[1867年]])[[6月]]、幕臣に取り立てられる。[[慶応]]4年([[1868年]])に旧[[江戸幕府|幕府]]から[[甲斐国|甲州]]鎮撫を命ぜられたことにより、[[甲陽鎮撫隊]]と改める。しかし明治2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]、[[戊辰戦争]]においての旧幕府軍降伏により、事実上消滅した。 ==名称について== 「選」の[[漢字|字]]は「撰」とも表記されることがあり、「'''新撰組'''」と表記された[[史料]]もある。新選組の[[局長#新選組における局長|局長]][[近藤勇]]をはじめ、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている<ref name="佐々木">{{cite newspaper|url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB2600B_W0A420C1000000|title=「新選組」 迷う「せん」の漢字|date=2010-05-04|newspaper=[[日本経済新聞]]|author=佐々木智巳|accessdate=2017-11-17|publication-date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180609045348/https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB2600B_W0A420C1000000|ref=|archivedate=2018-6-9}}</ref>。[[明治時代]]以降に公的機関が編纂した史料集では、『維新史料綱要』では「新撰組」と記されている<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046681/235 維新史料綱要 巻7]</ref>が、『[[復古記]]』では「新選組」と記されている<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148133/200 復古記 第1冊]</ref>ように記述が割れている。ただ隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年ごろから高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている{{R|佐々木}}。また、報道機関などでも 「撰」の文字が常用漢字外のため、新選組と表記するのが一般的である。 == 概要 == [[幕末]]の[[京都]]は[[政治]]の中心地であり、諸[[藩#日本の藩|藩]]から[[尊王攘夷]]・[[倒幕運動]]の[[志士]]が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた[[京都所司代]]と[[京都町奉行]]だけでは防ぎきれないと判断した[[江戸幕府|幕府]]は、[[清河八郎]]による献策で浪士組の結成を企図した。 江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意(後述)を知った[[近藤勇]]や[[芹沢鴨]]らが反発して脱退。 そして、その思想に意気投合した会津藩・[[野村左兵衛]]の進言で[[京都守護職]]の[[会津藩]]主・[[松平容保]]の庇護のもと、新選組として発足した。 同様の配下の[[京都見廻組]]が[[幕臣]]([[旗本]]、[[御家人#近世の御家人|御家人]])で構成された正規組織であったのに対して、新選組はその多くが[[町人]]・[[農民]]出身の[[浪人|浪士]]によって構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。 隊員数は、前身である[[壬生浪士|壬生浪士組]]24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。京都で攘夷派の弾圧にあたった<ref name="mypedia">[https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E6%92%B0%E7%B5%84-82092#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)]</ref><ref name="britanica">[https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E6%92%B0%E7%B5%84-82092 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)]</ref>。[[町屋 (商家)|商家]]から強引に資金を提供させたり、[[#局中法度・粛清|隊の規則]]違反者を[[新選組隊内において粛清された隊士|次々に粛清]]するなど[[抗争事件|内部抗争]]を繰り返した。 [[慶応]]3年([[1867年]])[[6月 (旧暦)|6月]]に[[幕臣]]に取り立てられる。翌年に[[戊辰戦争]]が始まると、旧[[幕府陸軍|幕府軍]]に従い転戦したが、[[鳥羽・伏見の戦い]]に敗北したあとは四散し、[[甲斐国|甲州]]勝沼において[[板垣退助]]率いる[[迅衝隊]]に撃破され敗走し解隊<ref name="mypedia">[https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E6%92%B0%E7%B5%84-82092#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)]</ref>。局長の近藤勇は捕らえられ[[斬首刑]]に処せられた<ref name="britanica">[https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E6%92%B0%E7%B5%84-82092 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)]</ref>。その後、副長の土方歳三が戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争で戦死。新選組は新政府軍に降伏することになった。 逆賊を取りしまる立場であったが明治維新で敗北したことから正反対に逆賊は新選組という扱いを受けてしまった風評被害もあった。2004年の大河ドラマで脚本を担当した[[三谷幸喜]]もこのことを指摘している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202212110000024.html|title=NHK大河「新選組!」脚本務めた三谷幸喜氏「新選組のイメージ変えた」永倉新八の子孫から感謝|publisher=日刊スポーツ|date=2022-12-11|accessdate=2023-06-26}}</ref>。 == 歴史 == === 結成 === [[File:壬生新選組屯所跡.jpg|thumb|right|220px|[[壬生 (京都市)|壬生]]屯所跡 [[八木邸]]、碑文は「新選組屯所遺蹟」]] [[文久]]2年([[1862年]])、[[江戸幕府]]は[[庄内藩]][[郷士]]・[[清河八郎]]の献策を受け入れ、[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家茂]]の[[上洛]]に際して、将軍[[警護]]の名目で[[浪人|浪士]]を募集。 翌文久3年([[1863年]])2月、集まった200名あまりの浪士たちは将軍上洛に先がけ「[[浪士組]]」として一団を成し、[[中山道]]を西上する。浪士取締役には、[[松平忠敏|松平上総介]]、[[鵜殿鳩翁]]、[[窪田鎮勝]]、[[山岡鉄舟|山岡鉄太郎]]、[[松岡万|松岡萬]]、[[中條金之助]]、[[佐々木只三郎]]らが任じられた。 [[京都]]に到着後、清河が[[勤王]]勢力と通じ、浪士組を[[天皇]]配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は[[江戸]]に戻ることとなった。これに対し[[近藤勇]]、[[土方歳三]]を中心とする[[試衛館]]派と、芹沢鴨を中心とする[[水戸]]派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張した。 鵜殿鳩翁は、浪士組の[[殿内義雄]]と[[家里次郎]]に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、[[根岸友山]]一派などが京都の[[壬生 (京都市)|壬生村]]に残ったが、根岸派は直後に脱隊した。殿内・家里は排斥され、同年[[3月 (旧暦)|3月]]、[[公武合体]]に基づく[[攘夷]]断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「[[壬生浪士|壬生浪士組]]」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは[[新徴組]]を結成した。 壬生浪士組は壬生村の[[八木邸]]や[[前川邸]]およびその周辺の邸宅を[[詰所|屯所]]とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名あまりの集団となり、[[京都守護職]]の[[松平容保]]から、おもに不逞浪士の取り締まりと市中[[警備]]を任される。 [[4月 (旧暦)|4月]]、[[大阪|大坂]]の[[両替商]]平野屋五兵衛に100[[両]]を提供させ、これを元手に[[#服装・装備|隊服]]、[[#隊旗|隊旗]]を揃え、[[#局中法度・粛清|隊規]]の制定にとりかかる。 [[6月 (旧暦)|6月]]、[[大坂相撲]]の[[力士]]と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。[[大坂町奉行|奉行所]]は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。 [[8月 (旧暦)|8月]]、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の[[生糸]][[問屋]]大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて[[火消]]を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じたとされる。一説として、芹沢および壬生浪士組の関与については否定的な見解が存在する<ref>[[宮地正人]]『歴史のなかの新選組』、[[岩波書店]]</ref>が、浪士組の名を記す風説書が多く残り、焼き打ちを行ったという説もある<ref>箱根紀千也「大和屋焼き打ち事件の真実」『玉造史叢61集』</ref><ref>{{Cite journal|author=藤堂利寿|year=2019|title=新選組研究への評論と大和屋焼き討ち事件|journal=霊山歴史館紀要|volume=24|page=}}</ref>。 同月、壬生浪士組は[[八月十八日の政変]]の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は[[武家伝奏]]<ref>当時は[[野宮定功]]と[[飛鳥井雅典]]。</ref> から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。後者の説は、会津藩主[[本陣]]の警備部隊名を容保からもらったという意味である。 [[9月 (旧暦)|9月]]、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、[[平山五郎]]を暗殺。[[平間重助]]は脱走、[[野口健司]]は[[12月 (旧暦)|12月]]に[[切腹]]。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。 ==== 発展 ==== [[File:Traceofikedaya.JPG|thumb|[[池田屋事件|池田屋]]跡 [[京都市]][[中京区]]三条通河原町 名前を使用した居酒屋になっている(2009年)]] [[元治]]元年([[1864年]])[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]、[[池田屋事件]]で攘夷派志士を斬殺・捕縛。[[8月 (旧暦)|8月]]、[[禁門の変]]の鎮圧に参加した。 池田屋事件と禁門の変の働きで[[朝廷 (日本)|朝廷]]・幕府・会津藩から[[感状]]と200両あまりの[[恩賞]]を下賜されると、同年[[9月 (旧暦)|9月]]に第二次の隊士募集を行うこととなった。池田屋事件で新選組の知名度が上がっていたことから土方、斎藤、伊藤、[[藤堂平助]]などの幹部が直接江戸へ向かい剣術道場などを訪問し、[[伊東甲子太郎]]らの一派を引き入れることに成功、翌年五月に32名で京都に戻ったことが確認されている<ref>[https://www.nhk.or.jp/d-navi/sci_cul/2019/07/news/news_190725/ 新選組の忘れ物 キセル入れ見つかる 草津宿本陣 滋賀] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。これらの活動により新選組は200名まで増強され、隊士を収容するために壬生屯所から[[西本願寺]]へ本拠を移転する。 [[長州征伐]]への参加に備え、戦場での[[指揮 (軍事)|指揮]]命令が明確になる[[小隊]]制(一番組〜八番組および[[小荷駄|小荷駄雑具]])に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。 [[慶応]]3年([[1867年]])[[3月 (旧暦)|3月]]、伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから[[御陵衛士]]を結成して脱退。同年[[6月 (旧暦)|6月]]、新選組は[[幕臣]]に取り立てられる。同年[[11月 (旧暦)|11月]]、御陵衛士を襲撃し、伊東・服部・藤堂・毛内を惨殺。篠原・富山・鈴木・加納は逃走([[油小路事件]])。 === 解散 === 慶応3年(1867年)[[10月 (旧暦)|10月]]に将軍・[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を行った。新選組は旧[[幕府陸軍|幕府軍]]に従い[[戊辰戦争]]に参加するが、初戦の[[鳥羽・伏見の戦い]]で[[官軍|新政府軍]]に敗北。この際、井上源三郎が戦死。[[榎本武揚]]が率いる幕府所有の[[軍艦]]で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで[[脱走兵|脱走]]し、戦力が低下した。 [[File:Shinsengumi Nagareyama.JPG|thumb|200px|right|流山本陣跡([[千葉県]][[流山市]])<br />近藤勇・土方歳三の別離地。]] その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、[[甲陽鎮撫隊]]と名を改め[[甲州街道]]を[[甲府城]]へ進軍するが、その途中[[甲州勝沼の戦い]]において[[板垣退助]]率いる[[迅衝隊]]に敗退する。ふたたび江戸に戻ったが、方針の違いから[[永倉新八]]、[[原田左之助]]らが離隊して[[靖兵隊]]を結成。近藤、土方らは再起をかけて[[流山市|流山]]へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ[[斬首刑|処刑]]され、[[沖田総司]]も持病だった[[結核|肺結核]]により江戸にて死亡。また、諸事情で江戸に戻った原田は[[彰義隊]]に加入し、[[上野戦争]]で戦死した(諸説あり)。 新選組は[[宇都宮城の戦い]]、[[会津戦争]]などに参加するが、[[会津]]では[[斎藤一]]らが離隊し残留。残る隊士たちは[[蝦夷地]]へ向かった榎本らに合流し、[[二股口の戦い]]などで活躍する([[蝦夷共和国]]も参照)。新政府軍が[[函館市|箱館]]に進軍しており、[[弁天台場]]で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと[[土方歳三|土方]]ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は[[降伏]]した。旧幕府軍は箱館の[[五稜郭]]において新政府軍に降伏した([[箱館戦争]])。 [[明治政府]]は、隊士の遺族らに遺品の所有を禁じた{{要出典|date=2022年11月4日}}。 {{see_also|新選組 戊辰戦争戦死者}} == 年表 == [[File:Nishi Hongwanji taikoro 1.JPG|thumb|[[西本願寺]]太鼓楼]] [[File:伊東甲子太郎殉難の碑.jpg|thumb|[[本光寺]] [[伊東甲子太郎]]殉難の地碑]] [[File:弁天台場跡.jpg|thumb|[[弁天台場]]跡]] === 文久3年(1863年) === *[[文久]]3年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]] [[浪士組]]が[[江戸]]を出発。 *文久3年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]] [[京都]]に到着。 *文久3年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]] [[会津藩]]預かりになり、[[壬生浪士|壬生浪士組]]と名乗る。 *文久3年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]] [[殿内義雄]]刺殺。 *文久3年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]] [[大坂相撲]]の[[力士]]と乱闘。 *文久3年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]] 大和屋焼き討ち事件発生。 *文久3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]] [[八月十八日の政変]]。[[京都御所|御所]]の警備に出動。 *文久3年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]] [[田中伊織]]が暗殺される。 *文久3年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]] [[芹沢鴨]]、[[平山五郎]]が[[抗争事件|内部抗争]]で[[粛清]]され、[[平間重助]]脱走(異説あり)。 *文久3年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]] 隊名を'''新選組'''と改める。 *文久3年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]] [[御倉伊勢武]]、[[荒木田左馬之助]]、[[楠小十郎]]が[[長州藩]]の[[スパイ|間者]]として粛清される。 *文久3年[[10月 (旧暦)|10月]] 岩城升屋事件。大坂の呉服商、岩城升屋に押し入った不逞浪士を撃退。 *文久3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]] [[野口健司]]切腹。 === 文久4年、元治元年(1864年) === *[[元治]]元年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]] [[大坂町奉行|大坂西町奉行所]][[与力]]・[[内山彦次郎]]刺殺。 *元治元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]] '''[[池田屋事件]]'''。[[奥沢栄助]]戦死、[[安藤早太郎]]、[[新田革左衛門]]らが負傷し、1か月後に死亡。 *元治元年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]] '''[[明保野亭事件]]'''。池田屋事件の残党を捕縛。 *元治元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]] '''[[禁門の変]]'''。反乱を起こした[[長州藩]]士の鎮圧に出動。 *元治元年[[8月 (旧暦)|8月]]ごろ [[近藤勇]]の態度に遺憾を感じた[[永倉新八]]、[[斎藤一]]、[[原田左之助]]、[[島田魁]]、[[尾関政一郎]]、[[葛山武八郎]]が会津藩主・[[松平容保]]に非行五ヶ条を提出。 *元治元年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]] [[伊東甲子太郎]]らが新選組に入隊。 === 元治2年、慶応元年(1865年) === *元治2年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]] '''[[ぜんざい屋事件]]'''。[[土佐勤王党]]の残党による[[大坂城]]乗っ取り計画を阻止。 *元治2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]] [[山南敬助]]切腹。 *元治2年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]] [[西本願寺]]へ屯所を移す。 *[[慶応]]元年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]] [[松原忠司]]死亡。 === 慶応2年(1866年) === *慶応2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]] [[河合耆三郎]]切腹。 *慶応2年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]] [[谷三十郎]]死亡。 *慶応2年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]] '''[[三条制札事件]]'''。[[三条大橋]]の[[制札]]を引き抜いた[[土佐藩]]士を捕縛。 === 慶応3年(1867年) === *慶応3年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]] [[伊東甲子太郎]]、[[藤堂平助]]、[[斎藤一]]ら13人が'''[[御陵衛士]]'''を結成して離隊(斎藤は間者だったため、のちに新選組に復帰)。 *慶応3年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]] [[幕臣]]取り立てが決まる。 *慶応3年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]] 不動堂村へ屯所を移す<ref>{{Cite web|和書|date=2020-06-08 |url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/270825 |title=新選組「洛中最後の拠点」諸説論争に決着か 西本願寺古文書に「西九条村」の記述 |publisher=京都新聞 |accessdate=2020-06-07}}</ref>。 *慶応3年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]] [[武田観柳斎]]刺殺。 *慶応3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]] '''[[油小路事件]]'''。御陵衛士との[[抗争事件|抗争]]。[[伊東甲子太郎]]、[[藤堂平助]]、[[毛内有之助]]、[[服部武雄]]ら刺殺<ref>藤堂に関しては生存説あり</ref>。 *慶応3年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]] '''[[天満屋事件]]'''。[[海援隊]]士・[[陸援隊]]士との戦闘。[[宮川信吉]]と[[舟津釜太郎]]戦死、[[梅戸勝之進]]重傷。 *慶応3年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]] 近藤勇が[[墨染]]で御陵衛士の残党に[[狙撃]]され重傷。 === 慶応4年、明治元年(1868年) === *慶応4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]] '''[[鳥羽・伏見の戦い]]'''。[[新選組 鳥羽・伏見の戦い戦死者|隊士1名戦死]]。 *慶応4年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]] '''[[鳥羽・伏見の戦い#淀の戦い|淀千両松の戦い]]'''。[[井上源三郎]]ら隊士7名戦死。 *慶応4年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]] '''[[鳥羽・伏見の戦い#橋本の戦い|橋本の戦い]]'''。隊士4名戦死。 *慶応4年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]] 軍艦[[富士山 (スループ)|富士山丸]]と[[順動丸]]で[[江戸]]へ向かう途中、[[山崎丞]]死亡(異説あり)。 *慶応4年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]] '''[[甲州勝沼の戦い]]'''。隊士2名戦死。 *慶応4年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]] [[永倉新八]]、[[原田左之助]]らが'''[[靖兵隊]]'''を結成して離隊。 *慶応4年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]] 五兵衛新田(現・[[東京都]][[足立区]][[綾瀬 (足立区)|綾瀬]]4丁目)の金子家を中心に屯所を設営して滞在([[4月1日 (旧暦)|4月1日]]まで)。 *慶応4年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]] [[下総国|下総]][[流山市|流山]]に陣を敷く。 *慶応4年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]] 近藤勇、[[官軍|新政府軍]]に包囲され[[投降]]する。 *慶応4年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]] [[土方歳三]]、旧[[幕府陸軍]]に加わる。 *慶応4年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]] '''[[宇都宮城の戦い]]'''。 *慶応4年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]] 近藤勇、[[板橋刑場]]で[[斬首刑|処刑]]される。 *慶応4年[[4月25日 (旧暦)|閏4月25日]] '''[[白河口の戦い]]'''。 *慶応4年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]] [[原田左之助]]死亡(異説あり)。 *慶応4年[[5月30日 (旧暦)|5月30日]] [[沖田総司]]、[[結核|肺結核]]により江戸で死亡。 *慶応4年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]] '''[[母成峠の戦い]]。''' *慶応4年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]] [[斎藤一|山口二郎(斎藤一)]]、[[池田七三郎]]ら13人[[会津]]に残留。 *[[明治]]元年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]] 旧幕府軍、[[函館市|箱館]]・[[五稜郭]]へ入城する。 === 明治2年(1869年) === *明治2年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]] '''第一次[[二股口の戦い]]。''' *明治2年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]] '''第二次二股口の戦い。''' *明治2年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]] [[市村鉄之助]]函館脱出。 *明治2年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]] 一本木関門(現・[[函館市]][[若松町 (函館市)|若松町]])付近で[[土方歳三]]戦死。 *明治2年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]] [[相馬主計]]が新選組[[局長#新選組における局長|局長]]に就任、[[弁天台場]]の新選組、[[降伏]]する。 *明治2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]] 旧幕府軍降伏、'''[[戊辰戦争]]''' === 昭和13年(1938年) === * 昭和13年[[1月16日]] 現在わかっている中で新選組最後の生き残り[[池田七三郎]]が病死。これにより、現在わかっている中で生存している'''新選組'''隊士はいなくなった。 == 実像 == === 入隊資格 === 年齢や身分による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた<ref>菊地明『新選組の真実』、[[PHP研究所]] 79頁</ref>。[[実技]]試験もなかった<ref>菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 194頁</ref><ref>新・[[歴史群像]]シリーズ『土方歳三』、[[学習研究社]] 84頁</ref>。ただし既婚者は妻子を[[壬生 (京都市)|壬生]]の屯所から10[[里 (尺貫法)|里]](約40キロ)以上離れた場所に住まわせることが条件とされた。これは、新選組が男の[[合宿]]制をとっていること、妻子が近くにいることによって命を惜しむようになることを防ぐためと考えられる。[[幹部]]に昇進すれば京都に家を持ち、妻子や[[妾]]を迎えることが許された。 新選組と交流のあった[[加太邦憲]]の述懐によれば、入隊後一定期間は「仮同志」という[[試用期間]]となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、このときに臆病なふるまいをした者は追放されたという<ref>新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 83-84頁</ref>。 === 任務 === 京都で活動している不逞[[浪人|浪士]]や[[倒幕運動|倒幕]][[志士]]の[[捜査|捜索]]・[[逮捕|捕縛]]、担当地域の巡察・[[警備]]、[[要人警護]]など、[[警察]]活動を任務としていた。 後述する数々のフィクション作品の影響により、不逞浪士や倒幕志士を容赦無く次々に斬殺していたという「人斬り集団」とのイメージが強いが、実際には捕縛(生け捕り)を原則としており、犯人が抵抗して捕縛できない場合のみ斬った<ref>伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、[[KTC中央出版]] 308頁</ref>。[[池田屋事件]]においても、最初は敵の人数が上回ったため斬る方針で戦ったが、[[土方歳三|土方]]隊が到着して新選組が有利になると、方針を捕縛に変えている<ref>菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 27頁</ref><ref>歴史群像シリーズ『図説・新選組史跡紀行』、学習研究社 74頁</ref>。事件後、[[近藤勇]]は「討取七人、疵為負候者四人、召捕二十三人」(7人を殺し、4人に手傷を負わせ、23人を捕縛した)と報告している<ref>伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 144頁</ref>。 新選組の担当地域は[[祇園]]や[[伏見区|伏見]]であり、[[京都御所|御所]]や[[官庁|官庁街]]は[[会津藩]]兵1,000名、その周りは[[京都見廻組]]500名が固めていた。従来からの[[京都所司代]]と[[京都町奉行]]も治安維持にあたっていた。ほかの組織が[[管轄]]を順守していたのに対し、新選組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることも少なくなかったといわれる。 === 訓練 === [[1865年]]([[慶応]]元年)に[[剣術|撃剣]]、[[柔術]]、[[軍学|文学]]、[[砲術]]、[[馬術#伝統日本馬術|馬術]]、[[槍術]]の各[[師範]]を設けた。しかし、どの程度稼働していたのかははっきりしない<ref>新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁</ref>。 局長[[近藤勇]]、副長[[土方歳三]]、一番隊組長[[沖田総司]]ら新選組の代表者が[[天然理心流]][[試衛館]]の剣客であったことから、新選組所縁の剣術として天然理心流が有名であるが、ほかの隊士は[[神道無念流]]、[[北辰一刀流]]その他まちまちであり、新選組=天然理心流ではない<ref name="bujyutsujiten">小佐野淳『図説 武術事典』、[[新紀元社]] 152頁「新選組と武術」</ref>。撃剣師範7名のうち天然理心流は1名(沖田総司)である。[[流派]]や入隊時期が異なれば[[形稽古]]はできないため、稽古は[[竹刀稽古|竹刀打ち込み稽古]]に限られていた<ref name="bujyutsujiten">小佐野淳『図説 武術事典』、[[新紀元社]] 152頁「新選組と武術」</ref>。稽古はかなりの激しさだったらしく、新選組が駐屯していた[[八木邸]]の[[八木為三郎]]は、打ち倒されて動けなくなっている者をよく見たという。また、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、土方歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら「軽い軽い」などと叱っていたという<ref>新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 82頁</ref>。 戊辰戦争の[[鳥羽・伏見の戦い]]で[[官軍|新政府軍]]に刀で挑んで敗れ、土方が「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語ったこと<ref name="新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 128頁">新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 128頁</ref> や、[[甲州勝沼の戦い]]で近藤が率いた[[甲陽鎮撫隊]]が[[迅衝隊]]にわずか2時間で敗れた事例などから、[[白兵戦]]に特化した集団とのイメージを持たれることが多いが、[[幕府陸軍]]にならい[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス式]][[軍事訓練]]を行っていた。[[西本願寺]]境内で[[大砲]]や[[小銃]]の訓練を行い、銃砲の音に迷惑した西本願寺が訓練の中止を求め会津藩に陳情した。その後、[[壬生寺]]に訓練場所が移されたが、訓練が参詣人の妨げになり、砲の音響で寺が破損するなどの被害が発生している。 === 戦術 === 組織力を強化するため、[[#役職]]を設け、[[指揮 (軍事)|指揮]]命令系統を作り上げた。 [[戦術|戦法]]は、必ず敵より多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。たとえば[[三条制札事件]]では8人の敵に対し34人の味方を用意し、[[油小路事件]]では7人の敵に対し35、6人で襲撃した<ref>新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84-85頁</ref>。さらに、「死番」という突入担当者を[[番|輪番]]であらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。 === 装束・装備 === [[File:Shinsengumi-Uniformen.jpg|thumb|200px|ダンダラ羽織、鉢金]] 当初、[[袖|袖口]]に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた[[浅葱色]]([[水色]])の[[羽織]]を着用していたとされる。羽織のダンダラは、歌舞伎などの演目『[[忠臣蔵]]』で[[赤穂浪士]]が[[赤穂事件|吉良邸に討ち入り]]したときに着ている羽織の柄(ただし史実ではなく[[赤穂事件]]をもとにした創作で広まったもの)で、浅葱色は[[武士]]の[[死に装束]]の色である。製作したのは大文字屋呉服店(現在の[[大丸]])。一説には、大文字屋ではなく四条の呉服屋「菱屋」ともいわれる。 ダンダラ羽織は最初の1年ほどで廃止されたらしく、[[池田屋事件]]の時に着用していたとする証言が最後の記録である。池田屋事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込[[襦袢]]、襠高[[袴]]、[[紺]]の[[脚絆]]、後[[鉢巻]]、白の[[たすき|襷]]であった<ref>新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 126頁</ref>。新選組に尾行されていた[[大村藩]]士・[[渡邊昇|渡辺昇]]によれば、尾行者が黒衣・黒袴であればすぐに新選組であると分かったという。また、[[明治]]末期に老人が、新選組は黒[[ラシャ|羅紗]][[筒袖]]の陣羽織を着ていたと証言していることから、ダンダラ羽織の廃止後は黒ずくめであったと考えられる。 警備や戦闘の際には、[[兜#日本の兜|鉢金]]、[[鎖帷子]]、[[籠手]]、[[防具 (剣道)#胴|胴]]などの[[防具]]を装着した。武器は市街地戦を想定し[[打刀]]と[[槍|短槍]]であった。局長の近藤勇は[[打刀]]とほぼ同寸の長[[脇差]]を好んだ。副長の土方歳三も、刃長2[[尺]]8[[寸]]の[[和泉守兼定]]、1尺9寸5[[分 (数)|分]]の[[堀川国広]]の刀を用いていた。 [[鳥羽・伏見の戦い]]で[[新政府軍]]に敗れた直後に土方が[[会津藩]]から2,000[[両]]を受給しており、新式の兵装備品に充てた可能性が高い<ref name="新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 128頁">新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 128頁</ref>。 === 隊旗 === [[File:Flag of Shinsengumi.svg|thumb|200px|right|隊旗の一例]] [[赤]]地に[[金色|金]]字または[[白]]字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的である。全部で6種類あるとされている。現在の[[髙島屋]]にあたる[[古着]]・[[木綿]]商によって特注で製作されたものである。その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。 新選組の隊旗が「誠」であったことから、近藤勇の実家・[[試衛館]]は「誠衛館」の誤りと推測する説もある<ref>[[大石学]]『新選組 ―「最後の武士」の実像―』(中公新書)</ref>。 === 給料 === 結成当初は資金難であり、新選組の後援者・[[佐藤彦五郎]]からの支援だけでは足りなかったため、[[町屋 (商家)|商家]]から資金を提供させたと伝えられる<ref>特別陳列新選組-史料が語る新選組の実像- [[京都国立博物館]]</ref>。 [[京都守護職]]配下時代は、[[会津藩]]からの[[公金|御用金]]で賄っていた。その後、[[江戸幕府|幕府]]配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。『新撰組永倉新八』([[1927年|昭和2年]]私家本)によれば、[[局長#新選組における局長|局長]]50[[両]]、副長40両、[[副長助勤]]30両、平隊士10両の月給であったとされるが、実際はそれ以下であったと考えられる<ref>菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 199-200頁</ref>。諸々の事件への出動により褒賞金など[[恩賞]]が下されることもあった。 === 局中法度・粛清 === 烏合の衆である浪人集団を統率するため、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は[[粛清]]された。成立は[[会津藩]]預かりとなった[[浪士組]]時代([[文久]]3年/[[1863年]])に近藤ら[[試衛館]]派から芹沢ら[[水戸]]派に提示されたと考えられている。[[天然理心流]]に入門する際に誓約させられる[[起請文|神文帳]]との類似性も指摘されている。 [[法 (法学)|法]]として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、[[伊東甲子太郎]]ら一派の暗殺の際にも[[準用・類推適用|適用]]されたといわれる。第一条「[[士道]]ニ背キ間敷事」などのように、内容は抽象的で、[[法解釈|解釈]]は局長や副長の一存に委ねられるものであった。 {{quotation| 一、士道ニ背キ間敷事<br />([[武士道]]に背く行為をしてはならない)<br> 一、局ヲ脱スルヲ不許<br />(新撰組からの脱退は許されない)<br> 一、勝手ニ金策致不可<br />(無断で借金をしてはならない)<br> 一、勝手ニ訴訟取扱不可<br />(無断で訴訟に関係してはならない)<br> 一、私ノ闘争ヲ不許<br />(個人的な争いをしてはならない)<br> 右条々相背候者切腹申付ベク候也<br>(以上いずれかに違反した者には[[切腹]]を申し渡すものとする) }} [[子母沢寛]]が[[昭和]]3年([[1928年]])に著した『[[新選組始末記]]』で紹介されて以来有名となり、上記の5か条として知られるが、同時代[[史料]]にはこれをすべて記録したものは現在までのところ発見されていない。[[永倉新八]]が[[大正]]2年([[1913年]])に語った内容を記録した『[[小樽新聞]]』の記事(『[[新選組顛末記]]』)には、「私ノ闘争ヲ不許」を除く4か条しか提示されておらず、名称も「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていない。そのため、上記の5か条と「局中法度」という名称は、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢寛が脚色したものと推測されている。 [[鳥羽・伏見の戦い]]以前の5年間での[[新選組隊内において粛清された隊士|新選組内部における死者]]は45名にのぼる<ref>菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 209頁</ref>。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で<ref>新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 89頁</ref>、その他はほとんどが[[切腹]]や[[暗殺]]などの[[粛清]]絡みのものであった。記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と[[抗争事件|内部抗争]]に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった<ref>伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 308-309頁</ref>。 === 役職 === トップは'''[[局長#新選組における局長|局長]]'''。直下に局長を補佐する'''副長'''がおり、そのさらに下に'''[[副長助勤]]'''、'''監察方'''(内務監察)、'''勘定方'''([[会計]]担当)などの[[役職]]を設けた。副長助勤は組長として平隊士を統率した。各隊は一番組から十番組まであり、各人員は10名前後。組長の下に伍長を置いた。新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする[[江戸時代]]の各組織と違い一人制であり、洋式軍制の影響が指摘されている。 以下に構成員。新選組の名を用いる以前([[壬生浪士|壬生浪士組]])も含む。 == 隊士一覧 == === 筆頭局長 === * [[芹沢鴨]]<ref>{{Cite web|和書|title=初代「新選組」の局長・芹沢鴨の家紋「揚羽蝶」と生涯|url=https://kisetsumimiyori.com/serizawakamo/|website=お役立ち!季節の耳より情報局|accessdate=2022-01-07|language=ja}}</ref> === 局長 === *[[近藤勇]] *[[新見錦]] ==== 会津新選組局長 ==== *[[斎藤一]] ==== 箱館新選組局長 ==== *[[土方歳三]] *[[大野右仲]] *[[相馬主計]] === 総長 === *[[山南敬助]] === 参謀 === *[[伊東甲子太郎]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO67049470V01C20A2CE0000/ |title=新選組参謀の伊東甲子太郎、生家示す絵図見つかる |date=2020-12-05 |publisher=日本経済新聞 |archiveurl=https://archive.ph/wip/XdZj2 |archivedate=2021-03-16 |accessdate=2021-03-16}}</ref> === 副長 === *[[土方歳三]] === 組長・組頭・副長助勤 === *一番隊組長  [[沖田総司]] *二番隊組長  [[永倉新八]] *三番隊組長  [[斎藤一]] *四番隊組長  [[松原忠司]] *五番隊組長  [[武田観柳斎]] *六番隊組長  [[井上源三郎]] *七番隊組長  [[谷三十郎]] *八番隊組長  [[藤堂平助]] *九番隊組長  [[鈴木三樹三郎]] *十番隊組長  [[原田左之助]] ~[[1864年]]編成時組頭~ *二番隊組頭  [[伊東甲子太郎]] *五番隊組頭  [[尾形俊太郎]] === 諸士取調役兼監察方・浪士調役 === {{div col}} *[[山崎丞]] *[[島田魁]] *[[川島勝司 (新撰組)|川島勝司]] *[[林信太郎 (新選組)|林信太郎]] *[[浅野薫 (新選組)|浅野薫]](藤太郎) *[[篠原泰之進]] *[[服部武雄]] *[[芦屋昇]] *[[吉村貫一郎]] *[[尾形俊太郎]] *[[大石鍬次郎]] *[[安富才助]] *[[岸島芳太郎]] *[[安藤勇次郎]] *[[茨木司]] *[[村上清 (新選組)|村上清]] *[[谷周平]](近藤周平) *[[川村隼人]] *[[近藤隼雄]] {{div col end}} === 勘定方 === *[[河合耆三郎]] *[[尾関弥四郎]] === 会計方 === *[[酒井兵庫]] *[[岸島芳太郎]] *[[中村玄道]] *[[安富才助]] *[[神崎一二三]] *[[青柳牧太夫]] *[[矢田賢之助]] *[[大谷勇雄]] === 伍長 === {{div col}} *[[奥沢栄助]] *[[島田魁]] *[[中島登]] *[[川島勝司 (新撰組)|川島勝司]] *[[林信太郎 (新選組)|林信太郎]] *[[葛山武八郎]] *[[前野五郎]] *[[阿部十郎]] *[[伊藤鉄五郎]] *[[沼尻小文吾]] *[[近藤芳助]] *[[久米部正親]] *[[加納鷲雄]] *[[中西昇]] *[[小原幸造]] *[[富山弥兵衛]] *[[中村小三郎]] *[[池田小三郎]] *[[橋本皆助]] *[[茨木司]] *[[尾関雅次郎]] *[[志村武蔵]] {{div col end}} === 初期副長助勤 === *[[平間重助]] *[[野口健司]] *[[安藤早太郎]] *[[平山五郎]] *[[佐伯又三郎]] === 国事探偵方 === *[[御倉伊勢武]] *[[荒木田左馬之助]] *[[楠小十郎]] *[[松永主計]] *[[松井竜三郎]] *[[越後三郎]] === 文武師範 === *[[剣術|撃剣]][[師範]]:[[沖田総司]]、[[池田小三郎]]、 [[永倉新八]]、 [[田中寅蔵|田中寅三]]、[[新井忠雄]]、[[吉村貫一郎]]、[[斎藤一]] *[[柔術]]師範:[[篠原泰之進]]、[[柳田三二郎]]、[[松原忠司]] *[[学問|文学]]師範:[[伊東甲子太郎]]、[[斯波良作]]、[[尾形俊太郎]]、[[毛内有之助]]、[[武田観柳斎]] *[[砲術]]師範:[[清原清]]、[[阿部十郎]] *[[馬術#伝統日本馬術|馬術]]師範:[[安富才助]] *[[槍術]]師範:[[谷三十郎]] === 平隊士・同志 === ''下記以外の隊士は[[:Category:新選組隊士]]を参照。'' {{div col}} *[[蟻通七五三之進]] *[[佐々木蔵之助]] *[[馬詰柳太郎]] *[[馬詰信十郎]] *[[濱口鬼一]] *[[中村金吾]] *[[土方対馬]] *[[森六郎 (新選組)|森六郎]] *[[山野八十八]] *[[蟻通勘吾]] *[[宿院良蔵]] *[[馬越大太郎]] *[[馬越三郎]] *[[松崎静馬]] *[[篠塚峯蔵]] *[[藤本彦之助]] *[[伊藤与八郎]] *[[柳田三二郎]] *[[上田金吾]] *[[和田隼人]] *[[中村久馬]] *[[菅野六郎]] *[[三品仲治]] *[[伊木八郎]] *[[木内峰太]] *[[松本喜次郎]] *[[竹内元太郎]](石川武雄) *[[新田革左衛門]] *[[松山幾之助]] *[[塚本善之助]] *[[室宅之助]] *[[和田重郎]] *[[牧野源七郎]] *[[小川一作]] *[[佐野七五三之助]] *[[真田四目之進]] *[[中西昇]] *[[柴田彦三郎]] *[[木下弥三郎]] *[[木下巌]] *[[沼尻小文吾]] *[[上坂甲太郎]] *[[宮川数馬]] *[[水口市松]] *[[金子次郎作]] *[[三浦啓之助]] *[[輪堂貞造]] *[[池田七三郎]] *[[富川十郎]] *[[中村五郎]] *[[中島登]] *[[市村鉄之助]] *[[横倉甚五郎]] *[[加藤羆]] *[[加藤民弥]] *[[施山多喜人]] *[[田村銀之助]] *[[田中伊織]] *[[三好胖]] *[[菊池央]] *[[桜井数馬]] *[[松本捨助]] *[[井上泰助]] *[[大谷良輔]] *[[漢一郎]] *[[市村辰之助]] *[[加賀爪勝之進]] *[[伊藤源助]] *[[木村広太]] *[[柏尾一郎]] *[[日下部遠江]] *[[日下部四郎]] *[[岩崎一郎 (新選組)|岩崎一郎]](南一郎) *[[上田馬之助 (新選組)|上田馬之助]] *[[平木宗助]] *[[高橋恭輔]] {{div col end}} ==== 美男五人衆 ==== *[[山野八十八]] *[[佐々木愛次郎]] *[[馬越三郎]] *[[馬詰柳太郎]] *[[楠小十郎]] === 自称新選組隊士・関係者など === *[[大石造酒蔵]] *[[結城無二三]] *[[奥田松五郎]] *[[山浦鉄四郎]] *[[永田克忠]] === 壬生浪士同志 === *[[殿内義雄]] *[[家里次郎]] *[[根岸友山]] *[[粕谷新五郎]] *[[遠藤丈庵]] *[[神代仁之助]](上城順之助) *[[阿比類鋭三郎]] *[[鈴木長蔵 (武士)|鈴木長蔵]] *[[清水吾一]] *[[田中伊織]] === 箱館新選組 === *箱館新選組隊長 [[相馬主計]] *陸軍奉行並 [[土方歳三]] *陸軍奉行並添役 [[大野右仲]] *頭取改役 [[森常吉]]、[[島田魁]]、[[角ヶ谷糺]] *改役下役会計頭取 [[青地源太郎]] *会計方 [[山崎八蔵]] *土方附属 [[市村鉄之助]]、[[野村利三郎]] ;一分隊 :*差図役 [[青山次郎]] :*嚮導役 [[粕屋小次郎]]、[[西脇源六郎]] :;一分隊平隊士 ::*[[五十嵐伊織]] ::*[[上田安達之助]] ::*[[酒井要二郎]] ::*[[鈴木量平]] ::*[[高岡蔵太郎]] ::*[[高橋三五郎]] ::*[[竹内篤平]] ::*[[中沢務]] ::*[[野村遊喜]] ::*[[福田勝之進]] ::*[[松井徳三郎]] ::*[[三浦松五郎]] ::*[[水谷藤七]] ::*[[若田栄吉]] ;二分隊 :*差図役 [[尾関泉]] :*嚮導役 [[佐久間顕輔]]、[[中島登]] ;二分隊平隊士 ::*[[青木連]] ::*[[明石覚四郎]] ::*[[内山栄八]] ::*[[江川七郎]] ::*[[小島造酒之丞]] ::*[[小林幸二郎]] ::*[[田岡太郎]] ::*[[高須熊雄]] ::*[[竹内徳雄]] ::*[[土田新之丞]] ::*[[鳥羽多喜松]] ::*[[長瀬清蔵]] ::*[[古屋丈之助]] ::*[[細川千太郎]] ::*[[本田岩吉]] ::*[[宮崎繁之丞]] ::*[[吉田万吉]] ;三分隊 :*差図役 [[山久知文二郎]] :*嚮導役 [[佐久間銀太郎]]、[[阿部隼太]] :;三分隊平隊士 ::*[[秋山義三郎]] ::*[[岩崎勝二郎]] ::*[[大河内太郎]] ::*[[神戸四郎]] ::*[[木下勝蔵]] ::*[[木村忠二郎]] ::*[[佐々木一]] ::*[[佐藤房太郎]] 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*[[えとう乱星]]『総司還らず』 *[[江宮隆之]]『女たちの新撰組~花期花会』 *[[大内美予子]]『沖田総司』『土方歳三』『沖田総司拾遺』 *[[岳真也]]『色散華』 *[[加藤正樹]]『無―新撰組が最も恐れた男』 *[[菅野国春]]『夕映え剣士』 *[[木内昇]]『地虫鳴く』『新選組幕末の青嵐』 *[[北方謙三]]『黒龍の柩』 *[[京極夏彦]]『ヒトごろし』 *[[栗本薫]]『[[まぼろし新撰組]]』 *[[越水利江子]]『恋する新選組』『月下花伝』『花天新選組』 *[[小松エメル]]『総司の夢』 *[[早乙女貢]]『沖田総司』『新選組列伝』『士道遥かなり 疾風新選組』 *[[佐木隆三]]『新選組』 *[[桜井滋人]]『魔剣新選組』『血録新選組』 *[[笹沢左保]]『剣士燃え尽きて死す 人間・沖田総司』 *[[澤田ふじ子]]『冬のつばめ 新選組外伝・京都町奉行所同心日記』 *[[島津隆子]]『新選組密偵・山崎烝』 *[[志村有弘]]『新選組伝奇』 *[[志茂田景樹]]『サラリーマン裏新撰組』 *[[新宮正春]]『死に損ね左之助』 *[[高橋昌也]]『[[ガンダム・センチネル]]』 *[[つかこうへい]]『幕末純情伝 龍馬を斬った女』 *[[辻本颯]]『新選組×坂本竜馬 ラブ・アンド・ピースぜよ。坂本竜馬はジョン・レノン?』 *[[筒井康隆]]『我が名はイサミ』 *[[津本陽]]『虎狼は空に 小説新選組』 *[[藤堂夏央]]『あさぎ色の風』 *[[童門冬二]]『新撰組が行く』『新撰組一番隊』『異聞・新撰組 幕末最強軍団、崩壊の真実』『新撰組山南敬助』 *[[鳥羽亮]]『沖田総司 壬生狼』 *[[戸部新十郎]]『総司残英抄』『[[総司はひとり]]』 *[[富川幸]]『壬生浪伝 誠の抄』 *[[中場利一]]『バラガキ 土方歳三青春譜』『黒猫 沖田総司の死線』 *[[中村彰彦]]『いつの日か還る 新選組伍長島田魁伝』『新選組秘帖』 *[[奈良谷隆]]『みぶろ』 *[[南条範夫]]『十五代将軍 沖田総司外伝』 *[[南原幹雄]]『新選組情婦伝』『新選組探偵方』 *[[長谷川彰]]『風魔外伝 新選組忍法帖』 *[[原康史]]『激録新撰組』(上・中・下・別巻 全4巻) *[[火坂雅志]]『新選組魔道剣』 *[[広瀬仁紀]]『沖田総司恋唄』『土方歳三散華』『新選組風雲録』(洛中篇・激闘篇・落日篇・戊辰篇・函館篇) *[[福田定良]]『新撰組の哲学』 *[[藤本義一 (作家)|藤本義一]]『壬生の女たち』 *[[真壁沙瑛子]]『天を覆う瞼 沖田総司異譚』 *[[松田十刻]]『沖田総司 新選組きっての天才剣士』 *[[松本匡代]]『夕焼け 土方歳三はゆく』『新選組 試衛館の青春』『独白新選組 隊士たちのつぶやき』 *[[松本攸吾]]『原田左之助 新選組の快男児』 *[[三平訓子]]『空の色』 *[[峰隆一郎]]『新撰組局長主座芹沢鴨』 *[[三好徹]]『小説沖田総司 六月は真紅の薔薇』(上・下) *[[三輪佳子]]『花あかり・沖田総司慕情』 *[[村上元三]]『新選組』 *[[村山知義]]『新選組』 *[[森村誠一]]『新選組』(上・下)『虹の生涯-新選組義勇伝』 *[[八切止夫]]『新選組意外史』 *[[遊馬佑]]『紅の肖像―土方歳三』 *[[横須賀武弘]]『狼たちの挽歌 新撰組の若き獅子たち』 *[[流泉小史]]『新選組剣豪秘話』 *[[若桜木虔]]『小説 沖田総司』 {{div col end}} === 映画 === *『[[維新の京洛 竜の巻 虎の巻]]』([[1928年]]) [[池田富保]]監督、[[大河内伝次郎]](近藤勇) *『[[新撰組悲歌]]』([[1934年]]) [[益田晴夫]]監督、[[海江田譲二]](近藤勇) *『[[新選組 (1937年の映画)|新選組]]』([[1937年]]) [[木村荘十二]]監督、[[河原崎長十郎 (4代目)|河原崎長十郎]](近藤勇) *『[[新撰組 第一部京洛風雲の巻]]、[[新撰組 第二部池田屋騒動|第二部池田屋騒動]]、[[新撰組 第三部魔剣乱舞|第三部魔剣乱舞]]』([[1952年]]) [[萩原遼]]監督、[[月形龍之介]](近藤勇) *『[[新選組鬼隊長]]』([[1954年]]) [[河野寿一]]監督、[[片岡千恵蔵]](近藤勇) *『[[新選組 (1958年の映画)|新選組]]』([[1958年]]) [[佐々木康]]監督、片岡千恵蔵(近藤勇) *『[[壮烈新選組 幕末の動乱]]』([[1960年]]) 佐々木康監督、片岡千恵蔵(近藤勇) *『[[風雲新撰組 (映画)|風雲新撰組]]』([[1961年]]) [[新東宝]]、[[毛利正樹]]監督、[[嵐寛寿郎]](近藤勇) *『[[新選組始末記#映画(1963年)|新選組始末記]]』([[1963年]]) [[大映]]、[[三隅研次]]監督、[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]([[山崎烝]]) *『[[新選組血風録 近藤勇]]』(1963年) [[小沢茂弘]]監督、[[市川右太衛門]](近藤勇) *『[[幕末残酷物語]]』([[1964年]]) [[加藤泰]]監督、[[河原崎長一郎]](沖田総司) *『[[燃えよ剣#映画|土方歳三 燃えよ剣]]』([[1966年]]) [[松竹]]、[[市村泰一]]監督、[[栗塚旭]](土方歳三) *『[[新選組 (1969年の映画)|新選組]]』([[1969年]]) [[東宝]]、[[沢島忠]]監督、[[三船敏郎]](近藤勇) *『[[沖田総司 (1974年の映画)|沖田総司]]』([[1974年]]) 東宝、[[出目昌伸]]監督、[[草刈正雄]](沖田総司) *『[[幕末純情伝#映画|幕末純情伝]]』([[1991年]]) [[薬師寺光幸]]監督、[[牧瀬里穂]](沖田総司) *『[[御法度 (映画)|御法度]]』([[1999年]]) [[大島渚]]監督、[[ビートたけし]](土方歳三) *『[[新選組 (2000年の映画)|新選組]]』([[2000年]]) [[メディアボックス]]、[[市川崑]]監督、[[中村敦夫]](近藤勇) - [[黒鉄ヒロシ]]の同名漫画が原作 *『[[壬生義士伝#映画|壬生義士伝]]』([[2003年]]) [[滝田洋二郎]]監督、[[中井貴一]]([[吉村貫一郎]]) *『[[矜持 〜KYOUJI〜 Twilight File II]]』([[2006年]]) [[高瀬将嗣]]監督、[[加勢大周]](沖田総司) *『[[実録 新選組]]』([[2006年]]) [[オリジナルビデオ]]、[[小沢仁志]](近藤勇) *『[[新選組オブ・ザ・デッド]]』([[2015年]]) [[渡辺一志]]監督、[[川岡大次郎]]([[山崎烝]]) *『[[輪違屋糸里〜京女たちの幕末〜]]』([[2018年]]) [[加島幹也]]監督、主演:[[藤野涼子]]([[糸里]]) *『[[燃えよ剣#2021年版|燃えよ剣]]』([[2021年]]) 東宝=[[アスミック・エース]] [[原田眞人]]監督、[[岡田准一]](土方歳三) *『[[CHAIN/チェイン]]』([[2021年]])[[福岡芳穂]]監督 === テレビドラマ === *『[[風雲新選組・近藤勇]]』([[1961年]]) 主演:[[嵐寛寿郎]](近藤勇) *『[[新選組始末記#テレビドラマ(1961年)|新撰組始末記]]』([[1961年]]) 主演:[[中村竹弥]](近藤勇) *『[[新選組血風録 (テレビドラマ)#1965年版|新選組血風録]]』([[1965年]] - [[1966年]])原作:[[司馬遼太郎]]、監督:[[河野寿一]]、主演:[[栗塚旭]](土方歳三) *『[[鞍馬天狗 (1969年のテレビドラマ)|鞍馬天狗]]』([[1969年]] - [[1970年]]) 主演:[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]([[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]) *『[[燃えよ剣#1970年版|燃えよ剣]]』([[1970年]]) 全26話 原作:司馬遼太郎、監督:河野寿一、松尾正武、主演:[[栗塚旭]](土方歳三) *『[[新選組 (テレビドラマ)|新選組]]』([[1973年]]) 主演:[[鶴田浩二]](近藤勇) *『[[新選組始末記#テレビドラマ(1977年)|新選組始末記]]』([[1977年]]) 主演:[[平幹二朗]](近藤勇) *『[[沖田総司 華麗なる暗殺者]]』([[1982年]]) 主演:[[郷ひろみ]](沖田総司) *『[[壬生の恋歌]]』([[1983年]]) 出演:[[高橋幸治]](近藤勇)、[[夏八木勲|夏木勲]](土方歳三) *『[[燃えて散る 炎の剣士 沖田総司]]』([[1984年]]) 主演:[[田原俊彦]](沖田総司) *『[[新選組 (1987年のテレビドラマ)|新選組]]』([[1987年]]) 出演:[[松方弘樹]](近藤勇) *『[[燃えよ剣#1990年版|燃えよ剣]]』([[1990年]]) 主演:[[役所広司]](土方歳三) *『[[新撰組 池田屋の血闘]]』([[1992年]]) 主演:[[里見浩太朗]](近藤勇) *『[[新選組血風録 (テレビドラマ)#1998年版|新選組血風録]]』([[1998年]]) 原作:司馬遼太郎、主演:[[渡哲也]](近藤勇) *『鞍馬天狗』([[2001年]]) 主演:[[松平健]](鞍馬天狗) *『[[壬生義士伝#テレビドラマ|壬生義士伝〜新選組でいちばん強かった男〜]]』([[2002年]])[[新春ワイド時代劇]]、監督:[[松原信吾]]、[[長尾啓司]]、出演:[[渡辺謙]]([[吉村貫一郎]])、[[柄本明]](近藤勇) *『[[新選組!]]』([[2004年]]) [[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、脚本:[[三谷幸喜]]、主演:[[香取慎吾]](近藤勇) *『[[新選組!! 土方歳三 最期の一日]]』([[2006年]]) [[NHK正月時代劇]]、脚本:三谷幸喜、主演:[[山本耕史]](土方歳三) *『[[輪違屋糸里#テレビドラマ|輪違屋糸里〜女たちの新選組〜]]』([[2007年]]) 原作:[[浅田次郎]]、主演:[[上戸彩]]([[糸里]]) *『[[鞍馬天狗 (2008年のテレビドラマ)|鞍馬天狗]]』([[2008年]]) 主演:[[野村萬斎]](鞍馬天狗) *『[[新撰組異聞PEACE MAKER]]』([[2010年]]) 原作:[[黒乃奈々絵]]、主演:[[須賀健太]]([[市村鉄之助]]) *『[[新選組血風録 (テレビドラマ)#2011年版|新選組血風録]]』([[2011年]]) 原作:[[司馬遼太郎]]、主演:[[永井大]](土方歳三) *『[[となりの新選組]]』([[2016年]]) 主演:[[高畑裕太]](土方歳三) *『土方のスマホ』 ([[2021年]]) 出演: [[窪田正孝]] (土方歳三)、[[山田孝之]] (近藤勇) *『[[相棒 (五十嵐貴久の小説)|幕末相棒伝]]』([[2022年]])原作:[[五十嵐貴久]]、出演:[[永山瑛太]](坂本龍馬)、[[向井理]](土方歳三) === 楽曲 === *[[三橋美智也]]『あゝ新撰組』(昭和30年9月;詞:横井弘、曲:中野忠晴) *[[山本正之]]『大嘘新撰組・斬る!』(詞・曲:[[山本正之]]) [[コミックソング]] *[[さくらゆき]]『暁』(詞:[[小栗さくら]]、曲:[[ソウルキッチン|田中俊輔]])、『青き夢』『明鏡止水』『手向花 -タムケノハナ-』『一刃の風』 === ドラマCD === *『[[新撰組血魂録 勿忘草|新撰組勿忘草]]』([[リジェット]])新撰組を題材にしたシチュエーションCD。 *『新撰組ドラマCD 壬生狼真伝』(プラチナレコード)史実の流れを朗読で挟み込み物語に引き込む本格的時代物ドラマCD。 *『[[新撰組北翔伝 晨星落落]]』(トムス・ミュージック)明治維新後の新撰組を題材に史実に沿って展開するシチュエーションCD。 === 漫画 === {{div col|2}} *[[手塚治虫]]『[[新選組 (手塚治虫の漫画)|新選組]]』([[集英社]][[少年ブック]]) *[[水木しげる]]『[[星をつかみそこねる男|近藤勇 星をつかみそこねる男]]』 *[[杉浦茂]]『近藤勇』 *[[小島剛夕]]『恋の新撰組』、『沖田総司』 *[[さいとう・たかを]]『血闘!新撰組』 *[[真崎守]]『連作/燃えつきた奴ら/幕末刺客行/新撰組篇』『地獄のどぶ鼠』『そこだけの暗闇』『ほのかたらひし』『かげろう花伝』『妖説まわり燈籠』 *[[渡辺多恵子]]『[[風光る (渡辺多恵子の漫画)|風光る]]』 *[[弓月光]]『恋よ剣』 *[[川崎のぼる]]『代表取締役近藤勇』 *[[車田正美]]『[[あかね色の風 -新撰組血風記録-]]』 *[[里中満智子]]『浅葱色の風-沖田総司』 *[[和田慎二]]『[[あさぎ色の伝説]]』 *[[園田光慶]]、 脚本:[[横山光輝]]『真説新撰組(旧題:壬生狼)』 *[[伊織鷹治]]『幕末風雲録 誠』 *[[岩崎陽子]]『[[無頼-BURAI-]]』 *[[盛田賢司]]『[[月明星稀 - さよなら新選組]]』 *[[乾良彦]] 、原作:[[宮崎まさる|宮崎克]]『[[新選組黙示録]]』 *[[菅野文]]『[[北走新選組]]』『[[凍鉄の花]]』『[[誠のくに]]』 *[[斎藤岬]]『ひなたの狼 - 新選組綺談』 *[[羽生田ラミオ]]、[[白井裕子]]『新撰組 - ダンダラ列伝』 *[[松山花子]]『新撰組 - 士道心得』 *[[たむら純子|田村純子]]『新選組~浅黄色の鎮魂歌~』 *[[黒鉄ヒロシ]]『新選組』 *[[金井たつお]] 、原作:[[工藤かずや]]『新選組』 *[[黒乃奈々絵]]『[[新撰組異聞PEACE MAKER|新撰組異聞PEACE MAKER、PEACE MAKER鐵]]』 *[[みなもと太郎]]『[[冗談新選組]]』 *[[きら (漫画家)|きら]]『だんだら』 *[[赤名修]]『ダンダラ』 *[[三宅乱丈]]『秘密の新選組』 *[[木原敏江]]『天まであがれ!』 *[[島崎譲]] (原作:[[鷹司]])『[[風の如く火の如く]]』{{マンガ図書館Z作品|45101|風の如く火の如く}} *[[もりやまつる]]『[[疾風迅雷]]』 *[[生嶋美弥]]『そして春の月 シリーズ』 *[[果桃なばこ]]『幕末青春花吹雪』 *[[望月三起也]]『ダンダラ新選組』『ダンダラ新選組・炎の出発』『[[俺の新選組]]』 *[[川原正敏]]『[[陸奥圓明流外伝 修羅の刻]]』 *[[かれん]]『歳三 梅いちりん ~新選組吉原異聞~』 *[[くもぎり太郎|一條和春]]『粉雪抄 仇討編』([[ラポート]]『月とノスタルヂヤ』収録 [[1994年]]) *[[ヒラマツミノル]]『[[アサギロ 〜浅葱狼〜]]』 *[[加瀬あつし]]『[[ばくだん!〜幕末男子〜]]』 *[[橋本エイジ]]、[[梅村真也]]『[[天翔の龍馬]]』 *[[蜷川ヤエコ]]([[山村竜也]]著)『[[新選組刃義抄 アサギ]]』 *[[沢本英二郎]]『壬生の狼 新撰組初代局長芹沢鴨』([[iPhone]]用[[電子書籍]]) *[[野口賢]]([[冲方丁]]著)『サンクチュアリ THE 幕狼異新』 *[[橋本エイジ]]([[梅村真也]]著)『[[ちるらん 新撰組鎮魂歌]]』 *[[おーはしるい]]『毎日が新選組!』 *[[桐村海丸]]『とんがらし』 *[[樹なつみ]]『一の食卓』 *[[殿ヶ谷美由記]]『だんだらごはん』 *[[堀内厚徳]](時代考証-[[山村竜也]])『この剣が月を斬る』 *[[碧也ぴんく]]『星のとりで 〜箱館新戦記〜』 *[[赤名修]]『賊軍 土方歳三』 {{div col end}} === アニメ === *『[[弱虫珍選組]]』([[1935年]]) - [[市川崑]]制作の短編トーキーアニメ映画。 *『[[笑劇 新選組]]』([[1989年]]) *『[[飛べ!イサミ]]』([[1995年]]) 監督:[[杉井ギサブロー]] - 新撰組隊士の子孫である少年たちが主人公のNHK教育テレビアニメ。[[長谷川裕一]]による漫画版のみ、幕末にタイプスリップして新選組と出会うエピソードが描かれている。 *『PEACE MAKER鐵』([[2003年]]) 監督:[[平田智浩]] - 内容は『[[新撰組異聞PEACE MAKER]]』を原作とし、池田屋事件まで。 *『[[土方歳三 白の軌跡]]』([[2004年]]) 監督:[[浦谷千恵]] - 土方歳三の生涯を描いた作品。 *『[[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜#テレビアニメ|薄桜鬼]]』([[2010年]]) 監督:[[山崎理|ヤマサキオサム]] - [[テレビゲーム]]『[[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜]]』を原作とするテレビアニメ。土方歳三をメインとして主人公の雪村千鶴とのストーリーを、[[戊辰戦争]]を経て江戸への引き揚げまで描く。 **『薄桜鬼 碧血録』([[2010年]]) - 上記の続編。放映話数は継続している。 **『薄桜鬼 黎明録』([[2012年]]) - 上記の番外編。 * 『[[刀剣乱舞-花丸-]]』(2016年・[[2018年]]・2022年)、『[[活撃 刀剣乱舞]]』([[2017年]]) - 制作会社は異なるが、どちらも新撰組隊士の愛刀所縁の付喪神を主人公に据え、元の主の新撰組隊士との交流と葛藤を描いている。ともに[[ブラウザゲーム]]『[[刀剣乱舞]]』を原作としているが、原作では新撰組は多くの要素のひとつとしてしか扱われていない。 * 『[[ブッチギレ!]]』([[2022年]]) === 舞台 === *[[新国劇]]『新撰組』([[1923年]]8月)作:[[行友李風]]※古い公演のため、詳しいデータは残っていないものの、本作が新選組を主題とした舞台作品の第1号となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://archive.waseda.jp/archive/detail.html?arg={%22subDB_id%22:%2237%22,%22id%22:%221078168;3%22}&lang=jp|title=箕輪の心中/新撰組|website=演劇上演記録データベース|accessdate=2023-06-28}}</ref>。なお、本作はその後も繰り返し上演されており、[[1964年]]8月に『極付 新撰組』として上演された際は近藤勇を[[島田正吾]]、土方歳三を[[緒形拳]]が演じた<ref>{{Cite web|和書|url=http://ogataken-kenkyukai2020.nekohappy.com/2019/08/15/%E6%96%B0%E5%9B%BD%E5%8A%87%E3%81%A8%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84%E3%80%802019-8-15/|title=新国劇と新選組|website=緒形拳研究会|date=2019-08-15|accessdate=2023-06-28}}</ref>。 ※以下、[[早稲田大学坪内博士記念演劇博物館|早稲田大学演劇博物館]]の「演劇上演記録データベース」で確認できる作品のみ。 *[[宝塚歌劇団]] **『[[星影の人]]』([[1976年]]9月)作・演出:[[柴田侑宏]] **『誠の群像 新選組流亡記』([[1997年]]8月)作・演出:[[石田昌也]] **『[[壬生義士伝]]』([[2019年]]7月)原作:[[浅田次郎]] 演出:石田昌也 *[[演劇集団キャラメルボックス]] **『俺たちは志士じゃない』([[1994年]]10月3日)作・演出:[[成井豊]]、[[真柴あずき]] **『風を継ぐ者』([[1996年]]8月)作・演出:成井豊、真柴あずき **『裏切り御免!』([[2002年]]11月)作・演出:成井豊、真柴あずき **『降りそそぐ百万粒の雨さえも』([[2011年]]9月)作・演出:成井豊、真柴あずき *[[月蝕歌劇団]]『新撰組in1994 ナチス少年合唱団』([[1999年]]10月27日)作・演出:[[高取英]] *[[ジャパンアクションエンタープライズ]]『HIJIKATA 新撰組異聞』(1999年10月30日)作:[[中村哲也]] 演出:[[西本良治郎]] *三人の会『新選組—名もなき男たちの挿話—』([[2003年]]7月)作:[[小金丸大和]] 演出:[[小林大祐]] *仲代プロジェクト『堕天/神殿/遅咲きの蒼』(2003年8月)作・演出:[[西田大輔]] *[[明治座]]『[[燃えよ剣#舞台|燃えよ剣]]』([[2004年]]5月)原作:[[司馬遼太郎]] 演出:[[ラサール石井]] *[[時来組|神田時来組]]『大新撰組』(2004年12月)作・演出:[[泉堅太郎]] *劇団ZAPPA **『風』([[2007年]]4月) **『風2』(2007年10月) *FREE(S)『SHINSENGUMI 〜episode IKEDAYA〜』([[2011年]]11月)作:[[下出丞一]] 演出:[[本宮泰風]] *[[三越劇場]]『司馬遼太郎「燃えよ剣」~土方歳三に愛された女、お雪~』([[2015年]]11月)原作:[[司馬遼太郎]] 演出:[[笹部博司]] === ゲーム === *『新撰組』([[バンダイifシリーズ#2800円タイプ|バンダイifシリーズ]] [[1980年代]]) - 京都における新選組をテーマとする[[ウォーシミュレーションゲーム]]。 *『新選組始末記 〜鴨川血風録〜』([[ウォーゲーム日本史]]) *『新撰組 幕末幻視行』([[ウルフ・チーム]]/[[ソフトベンダーTAKERU|TAKERU]] [[PC-9800シリーズ|PC-98]]用ソフト [[1991年]]) - [[沖田総司]]と瓜二つの現代人の少女・沖田操が幕末に[[タイムトラベル|タイムスリップ]]、新選組に加盟して活躍する[[アドベンチャーゲーム]] *『[[斬打]]』([[トリスター]]) - 新選組をモチーフとした[[タイピングソフト]]。 *『[[幕末恋華 新選組]]』([[ディースリー・パブリッシャー|D3PUBLISHER]]) - プレイヤーは女隊士として新選組に入隊した主人公・桜庭鈴花となり、さまざまな新選組隊士と恋愛ができる[[恋愛アドベンチャーゲーム]]。 *『[[幕末恋華 新選組|幕末恋華 花柳剣士伝]]』(D3PUBLISHER) - 幕末恋華 新選組の続編。 *『[[風雲 新撰組]]』([[元気 (ゲーム会社)|GENKI]]) - プレイヤーは新選組の新人隊士となり、不逞浪士と戦い抜いていく[[アクションゲーム]]。 *『[[風雲 幕末伝]]』(GENKI) - 風雲 新選組の続編。[[倒幕]]派と[[佐幕]](新選組)派の2つのゲームモードが用意されており、それぞれ主人公やシナリオが異なる。 *『[[新選組群狼伝]]』([[セガゲームス|SEGA]]) *『[[カオスウォーズ]]』([[アイディアファクトリー]]) - 『[[新選組群狼伝]]』の沖田総司と土方歳三が参戦。 *『[[維新の嵐]]』([[コーエー|光栄]]) -プレイヤー要人として[[近藤勇]]を選択できるシナリオがある。 *『[[維新の嵐 幕末志士伝]]』([[コーエー]]) - [[坂本龍馬]]とともに土方歳三を描く。 *『[[月華の剣士|幕末浪漫 月華の剣士]]』([[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]) - 新選組隊士であるキャラクターが登場。 *『[[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜]]』(アイディアファクトリー) - [[恋愛アドベンチャーゲーム]]。 *『[[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜|薄桜鬼 随想録]]』(アイディアファクトリー) - 『薄桜鬼 〜新選組奇譚〜』の[[ファンディスク]]。隊士たちとの日常が描かれている。恋愛アドベンチャーゲーム。 *『[[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜|薄桜鬼 黎明録]]』(アイディアファクトリー) - プレイヤーは主人公・井吹龍之介となり、さまざまな新選組隊士と友情を育んでいくことができる。 *『[[行殺・新選組]]』([[ライアーソフト]]) - [[アダルトゲーム]]。 *『[[維新恋華 龍馬外伝]]』(D3PUBLISHER) *『[[維新の嵐 疾風龍馬伝]]』([[コーエーテクモゲームス]]) - 隠しシナリオでは坂本龍馬が新選組に加入する。 *『[[遙かなる時空の中で5]]』(コーエーテクモゲームス) *『[[歴史大戦ゲッテンカ]]』(SEGA) - 第7弾で新選組が登場する。 *『[[機動新撰組 萌えよ剣]]』([[エンターブレイン]]) *『[[龍が如く 維新!]]』(SEGA)-[[龍が如く]]シリーズのスピンオフ作品。坂本龍馬と斎藤一は同一人物であったという独自のストーリー展開。 *『[[機関幕末異聞 ラストキャバリエ]]』 - ([[キャラメルBOX]])おもなキャラクターは新撰組や[[坂本龍馬]]などの幕末期の人物をモデルとしており、[[女装]]した沖田を主人公とし、それ以外の人物を女性に置き換えた[[アダルトゲーム]]。2015年12月発売。 *『[[ONIシリーズ|幕末降臨伝ONI]]』 - ([[バンプレスト]]/[[パンドラボックス]])妖怪などへの対処を専門とする「影の新撰組」が存在し、主人公・大和丸は「影の新撰組」に入隊することとなる。近藤・土方・沖田達新撰組の実在の隊士たちも登場する。 *『[[幕末尽忠報国烈士伝 -MIBURO-]]』 - ([[インレ]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == *[[京都府警察]]本部『京都府警察史』第1巻 [[1971年]] *[[釣洋一]]『新選組再掘記』、[[新人物往来社]] [[1972年]] *[[伊東成郎]]『新選組は京都で何をしていたか』、[[KTC中央出版]] [[2003年]] *[[歴史群像]]シリーズ『図説・新選組史跡紀行』、[[学習研究社]] [[2003年]] *[[菊地明]]『新選組の真実』、[[PHP研究所]] [[2004年]] *[[宮地正人]]『歴史のなかの新選組』、[[岩波書店]] [[2004年]] *新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、[[学習研究社]] [[2008年]]<nowiki/>tinntinn == 関連項目 == {{CommonsCat|Shinsengumi}} *[[戊辰戦争]] **[[新選組 戊辰戦争戦死者]] *[[鳥羽・伏見の戦い]] **[[新選組 鳥羽・伏見の戦い戦死者]] *[[御陵衛士]] *[[甲陽鎮撫隊]] *[[靖兵隊]] *[[新徴組]] *[[京都見廻組]] *[[伝習隊]] *[[遊撃隊 (幕府軍)]] *[[一会桑政権]] *[[燃えよ剣]] == 外部リンク == *[http://makoto.shinsenhino.com/ 新選組のふるさと歴史館] - 日野市観光協会 *[https://www.mibu-yagike.jp/ 八木家] {{壬生浪士}} {{新選組}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しんせんくみ}} [[Category:新選組|*]] [[Category:幕末の京都]] [[Category:幕末諸隊]] [[Category:明治維新]] [[Category:明治時代]] [[Category:1863年設立の組織]] [[Category:1869年廃止]] [[Category:1860年代日本の設立|歴しんせんくみ]] [[Category:松平容保]] [[Category:浪人]] [[Category:近藤勇]] [[Category:土方歳三]]
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めまい
めまいは、目が回るようなくらくらとした感覚の総称である。眩暈・目眩・眩冒などと書く。眩は目がかすみ、目の前が暗くなることで暈はぐるぐる物が回ってみえたり、物が揺れ動いて見えること。目眩は目がかすみ頭がくらくらすること。眩冒はひどく頭がくらくらして目の前が暗くなることとなる。単にめまいと言われたとき、人によって表現したい現象が異なっていることがめまいの特徴である(=様々な症候を示している)。医学的には視覚、平衡感覚と固有受容性感覚 proprioceptive senseとの間の不統合によって感じる感覚と言われている。一般的には耳鼻咽喉科学の領域とされる。運動失調とは区別が必要である。 症候学的には以下の4種類に分類できる。 問診によって上記4つに眩暈を分類することで原因をある程度絞り込むことができる。眩暈を起こす原因疾患は大雑把には神経系、循環器系、全身性の3つがあり、回転性めまいでは神経系に原因があり、失神では循環器系、浮遊感ではその両方の可能性がある。また薬の副作用などで生じる場合は全身性である。 日常で最も多いのは一過性血圧上昇による浮遊感であるが救急室で多いのは神経系によるめまいである。神経系の場合は中枢性めまいか末梢性めまいかを鑑別する。この場合の中枢は脳幹、小脳であり末梢は内耳、前庭である。これらの区別に役立つ所見は回転性、浮遊性といった症状や耳鳴、難聴といった随伴症状、小腦異常、運動神経麻痺、脳神経麻痺といった神経所見、症状の持続性などである。 多くの医学的な分類がそうであるように上記の表は概念を説明するものであり、個々の疾患を説明するものではない。表を参考に中枢か末梢かを考えていく。一側方注視眼振とは右をみても左をみても右に眼振するといったもの、両側方注視眼振は右をみれば右に、左をみれば左に眼振をするというものである。中枢性めまいでは体位、頭位で症状が変化しないのが原則だが、椎骨脳底動脈不全では体位で症状が変化する。 重要なことは中枢性、末梢性は症候で診断を行い、CTは確認、原因の更なる精査という目的で行う。CTでは症状と関係のない脳の異常がわかってしまうからである。頭部CTにて脳内占拠性病変を疑えば、頭部造影CTを追加し、出血性病変、占拠性病変では脳神経外科と相談、それ以外の異常ならば、脳梗塞を疑うのならMRIや神経内科と相談するという方法もある。 中枢性めまいは、症状は軽いが持続性で、注視方向性眼振や他の神経症状を伴う。脳幹障害や小脳障害、脳血管障害、腫瘍、変性疾患などの基礎疾患が原因となって起こることが多いので瞳孔、眼振、眼球運動や小脳機能検査や画像診断を行う。 末梢性めまいは前庭性と内耳性に分けられる。前庭性めまいは原則として耳鳴りや難聴を伴わないものである。良性発作性頭位眩暈症(BPPV)や前庭神経炎が含まれる。内耳性めまいは原則的に耳鳴り、難聴を伴う。メニエール病や突発性難聴、アミノグリコシドなどの薬物性や梅毒などが含まれる。末梢性めまいは突発性難聴以外は緊急性が殆どないものの、突然歩けなくなるほど気分が悪くなり、嘔吐することも多く患者の苦痛は強いので診断を急ぐのではなく、まずは症状をとる治療を行うべきである。全体的に低気圧のときに多いといわれている。 基本的に治療の目標は嘔吐を止めて、歩行可能状態にすることである。悪心、嘔吐がある場合はメトクロプラミドなどの投与を考える。ヒドロキシジン(25mg)1Aの静注、炭酸水素ナトリウム(20ml)2Aを5分以上かけて静注すると約一時間くらいで改善する。改善は眼振の軽快や歩行可能かで判定できる。そしてめまい止めとしてメシル酸ベタヒスチン(6mg)やエチゾラム(0.5mg)を3日間分位処方し、後日耳鼻科受診とする。末梢性めまいで絶対に見逃してはいけないものが突発性難聴である。この疾患は不可逆的な難聴を引き起こすからである。突発性難聴を疑ったらまずは水溶性ハイドロコートン(500mg)を生理食塩水100mlに溶解させ、点滴する。診断に困った場合は突発性難聴として扱い、入院治療となる。 良性発作性頭位めまい症は加齢や外傷によって前庭の耳石器が遊離し、三半規管に迷入することによって回転性めまいが生じる病態である。一度耳石が三半規管に入り込むとクプラがつっかえとなり治らなくなる場合がある。こうなったばあいはBPPVと診断される。診断はDix-Hallpike Test(ディックスホールパイクテスト)である。このテストでは患側が下になった場合のみめまいがおこる。そして体動によってめまいが増悪し、時間経過とともに消失する。患側が上の場合はクプラがストッパーになりめまいは誘発されない。治療はEpley法(エプレイ法)等めまい体操を指導に基づいて行うことである。これは遊離した耳石を三半規管を巡らせて前庭に再配置させる方法である。成功すればめまいの根治となるが急性期では悪心、嘔吐を誘発するので行わない方がよいといわれている。よく訓練された医師が行えば80%は根治可能であるが3回ほど行っても改善が見られなければ専門医に相談するべきである。前庭神経炎はBPPVと異なり1か月ほどめまいが持続するのが特徴だが初回の大発作時に受診した場合BPPV様の経過をとることも知られている。また小脳梗塞や脳幹梗塞でもBPPV様の経過をとることがある。一般内科医などでの診療には限界があり神経内科か耳鼻科の受診を勧めるべきである。 めまいの治療は原因疾患の治療になる。原因疾患がはっきりとしない場合は症状の緩和のために漢方薬を用いることがある。 漢方薬でのめまいの第一選択は苓桂朮甘湯(りょうけいじゅつかんとう)である。苓桂朮甘湯が無効の場合に他の漢方薬を検討する。生理不順、更年期障害などの症状がある時は桂枝茯苓丸(けいしぶくりょうがん)を検討する。 起立性調節障害によるめまいで昇圧剤を用いたくない場合に半夏白朮天麻湯(はんげびゃくじゅつてんまとう)が効果的なことがある。 冷え性を伴うめまいでは真武湯(しんぶとう)が効果的である。高齢者のめまいには釣藤散(ちょうとうさん)が効果的なこともある。 一過性血圧高値とは浮遊感や後頭部頭重感による受診が多い。バイタルサインでクッシング反射(血圧が上昇しているが徐脈であること、これは脳圧亢進している兆候である)がなく、神経学的診察で脳血管性が否定的となったときに疑う。かつてはニフェジピンの内服によって降圧を行ったが現在は緊急時以外は血圧を降下させる必要はないと考えられている。血圧を降下させたい場合はフロセミド(20mg)を1T内服やエチゾラム(0.5mg)を1T内服とし、後日内科の受診を勧める。
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めまいは、目が回るようなくらくらとした感覚の総称である。眩暈・目眩・眩冒などと書く。眩は目がかすみ、目の前が暗くなることで暈はぐるぐる物が回ってみえたり、物が揺れ動いて見えること。目眩は目がかすみ頭がくらくらすること。眩冒はひどく頭がくらくらして目の前が暗くなることとなる。単にめまいと言われたとき、人によって表現したい現象が異なっていることがめまいの特徴である(=様々な症候を示している)。医学的には視覚、平衡感覚と固有受容性感覚 proprioceptive senseとの間の不統合によって感じる感覚と言われている。一般的には耳鼻咽喉科学の領域とされる。運動失調とは区別が必要である。
{{Otheruses||「めまい」「眩暈」のその他の用法|めまい (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2014年7月}} {{Infobox medical condition | Image = | Caption = | DiseasesDB = 17771 | ICD10 = {{ICD10|R|42||r|40}} | ICD9 = {{ICD9|780.4}} | ICDO = | OMIM = | MedlinePlus = | eMedicineSubj = neuro | eMedicineTopic = 693 | MeshName = Dizziness | MeshNumber = C10.597.751.237 }} '''めまい'''は、[[目]]が回るようなくらくらとした感覚の総称である。'''眩暈'''・'''目眩'''・'''眩冒・卒倒'''<ref>{{Cite book|和書 |title=日本難訓難語大辞典 |year=2007 |publisher=[[遊子館]]}}</ref>などと書く。眩は目がかすみ、目の前が暗くなることで暈はぐるぐる物が回ってみえたり、物が揺れ動いて見えること。目眩は目がかすみ頭がくらくらすること。眩冒はひどく頭がくらくらして目の前が暗くなることとなる。単にめまいと言われたとき、人によって表現したい現象が異なっていることがめまいの特徴である(=様々な症候を示している)。医学的には[[視覚]]、[[平衡感覚]]と固有受容性感覚 proprioceptive senseとの間の不統合によって感じる感覚と言われている。一般的には[[耳鼻咽喉科学]]の領域とされる。[[運動失調]]とは区別が必要である。 == 分類 == [[症候学]]的には以下の4種類に分類できる。 ;[[回転性めまい]](vertigo) :自分の身体または大地があたかも回転しているかのような感覚。激しい嘔気を感じることがあり、体のバランスを失って倒れることもある。[[三半規管]]、[[前庭神経]]、[[脳幹]]の異常など前庭神経核より末梢の障害で生じる。大抵は[[耳]]の障害で生じる。 ;浮動性めまい(dizziness) :よろめくような、非回転性のふらつき感。回転性めまいの回復期や脳幹、[[小脳]]の異常、[[高血圧]]などで生じる。大抵は[[中枢神経]]や[[高血圧]]で生じる。 ;[[立ちくらみ]](faintness) :血の気が引き、意識の遠くなる感覚。実際に[[失神]](syncope; シンコピー)に至ることもある。[[起立性低血圧]]の代表的な症状であるほか、[[アダムス・ストークス症候群]], 血管[[迷走神経]]反射、器質的心疾患・大血管疾患でもみられる。<ref>{{cite journal|和書| author=森脇龍太郎 |journal= ENTONI |year=2005 |number=53 |publisher=全日本病院出版会 |pages= 54-59}}</ref> ;[[平衡感覚#平衡機能障害|平衡機能障害]](dysequilibrium) :立ち上がったり起き上がったりした時に、身体が傾いてしまう感覚。反射系と中枢系の連携障害、体平衡系の異常によって起こる。 問診によって上記4つに眩暈を分類することで原因をある程度絞り込むことができる。眩暈を起こす原因疾患は大雑把には神経系、循環器系、全身性の3つがあり、回転性めまいでは神経系に原因があり、失神では循環器系、浮遊感ではその両方の可能性がある。また薬の副作用などで生じる場合は全身性である。 == 神経性めまい == 日常で最も多いのは一過性血圧上昇による浮遊感であるが救急室で多いのは神経系によるめまいである。神経系の場合は中枢性めまいか末梢性めまいかを鑑別する。この場合の中枢は[[脳幹]]、[[小脳]]であり末梢は[[内耳]]、[[前庭]]である。これらの区別に役立つ所見は回転性、浮遊性といった症状や耳鳴、難聴といった随伴症状、小腦異常、運動神経麻痺、脳神経麻痺といった神経所見、症状の持続性などである。 {| class="wikitable" |- !nowrap| !!nowrap|末梢性めまい!!nowrap|中枢性めまい |- !めまいの性質 |回転性||浮遊性 |- !めまいの程度 |重度||軽度 |- !めまいの時間性 |突発性、周期性||持続性 |- !めまいと頭位、体位との関係 |あり||なし(例外あり) |- !耳鳴、難聴 |あり||なし |- !脳神経障害 |なし||あり |- !眼振 |一側方注視眼振、回転性、水平性||両側方注視眼振、縱眼振 |} 多くの医学的な分類がそうであるように上記の表は概念を説明するものであり、個々の疾患を説明するものではない。表を参考に中枢か末梢かを考えていく。一側方注視眼振とは右をみても左をみても右に眼振するといったもの、両側方注視眼振は右をみれば右に、左をみれば左に眼振をするというものである。中枢性めまいでは体位、頭位で症状が変化しないのが原則だが、椎骨脳底動脈不全では体位で症状が変化する。 重要なことは中枢性、末梢性は症候で診断を行い、CTは確認、原因の更なる精査という目的で行う。CTでは症状と関係のない脳の異常がわかってしまうからである。頭部CTにて脳内占拠性病変を疑えば、頭部造影CTを追加し、出血性病変、占拠性病変では[[脳神経外科学|脳神経外科]]と相談、それ以外の異常ならば、[[脳梗塞]]を疑うのならMRIや[[神経学|神経内科]]と相談するという方法もある。 === 中枢性めまい === 中枢性めまいは、症状は軽いが持続性で、注視方向性眼振や他の神経症状を伴う。脳幹障害や小脳障害、脳血管障害、腫瘍、変性疾患などの基礎疾患が原因となって起こることが多いので瞳孔、眼振、眼球運動や小脳機能検査や画像診断を行う。 === 末梢性めまい === 末梢性めまいは[[前庭]]性と[[内耳]]性に分けられる。前庭性めまいは原則として[[耳鳴り]]や[[難聴]]を伴わないものである。[[良性発作性頭位眩暈症]](BPPV)や[[前庭神経炎]]が含まれる。内耳性めまいは原則的に耳鳴り、難聴を伴う。[[メニエール病]]や[[突発性難聴]]、[[アミノグリコシド]]などの薬物性や梅毒などが含まれる。末梢性めまいは突発性難聴以外は緊急性が殆どないものの、突然歩けなくなるほど気分が悪くなり、嘔吐することも多く患者の苦痛は強いので診断を急ぐのではなく、まずは症状をとる治療を行うべきである。全体的に低気圧のときに多いといわれている。 ;前庭系について :[[前庭]]系は[[視覚]]および筋、関節からの固有感覚とともに体の平衡をつかさどるといわれている。前庭感覚器は[[内耳]]にあり[[三半規管]]と2つの[[耳石]]器からなる。三半規管の受容器をクプラという。三半規管は頭の回転運動を感知し、耳石器は重力や直線加速を感知する。これらの受容器が刺激されると[[前庭神経]]に[[活動電位]]が生じ、[[聴神経]]を経て前庭神経核と小脳室頂核に伝わる。前庭神経核からは前庭脊髄路を経て内側縦束(MLF)側頭葉、脊髄小脳路への出力がある。前庭系の検査としてはpast-pointing試験や閉眼足踏み試験が知られている。past-pointing試験では座位で両上肢を高く挙上し、水平まで戻す。閉眼で何回も繰り返し一側に偏奇した場合はpast-pointing陽性であり、偏奇した側の前庭系の障害である。閉眼足踏み試験では立位閉眼で両上肢を前方挙上し50回足踏みをする。一定方向に体軸が回旋すれば異常であり回旋した方向の前庭系に障害がある。 ====末梢性めまいの重症度==== *軽度:歩ける、これは外来で経過観察ができる。 *中等度:ふらふらしている、立つのがつらい、嘔吐している、緊急性はない。 *重度:立てない、これは入院が必要な場合がある。これくらいになると食事が取れないので点滴管理が必要となる。 ====末梢性めまいの治療==== 基本的に治療の目標は嘔吐を止めて、歩行可能状態にすることである。悪心、嘔吐がある場合は[[メトクロプラミド]]などの投与を考える。[[ヒドロキシジン]](25mg)1Aの静注、[[炭酸水素ナトリウム]](20ml)2Aを5分以上かけて静注すると約一時間くらいで改善する。改善は[[眼振]]の軽快や歩行可能かで判定できる。そしてめまい止めとしてメシル酸ベタヒスチン(6mg)や[[エチゾラム]](0.5mg)を3日間分位処方し、後日[[耳鼻咽喉科学|耳鼻科]]受診とする。末梢性めまいで絶対に見逃してはいけないものが[[突発性難聴]]である。この疾患は不可逆的な難聴を引き起こすからである。突発性難聴を疑ったらまずは水溶性ハイドロコートン(500mg)を生理食塩水100mlに溶解させ、点滴する。診断に困った場合は突発性難聴として扱い、入院治療となる。 ;処方例 :メシル酸ベタヒスチン(抗めまい薬)、[[メチルコバラミン]](ビタミンB12製剤であり末梢神経障害に適応がある)、[[アデノシン三リン酸]](脳循環改善薬)と頓服で[[ジフェンヒドラミン]](抗ヒスタミン薬だが、内耳迷路と嘔吐中枢に選択的に作用するため末梢性めまいや乗物酔いにも用いられる)を用いることが多い。 ====BPPV(良性発作性頭位めまい症)==== [[良性発作性頭位めまい症]]は加齢や外傷によって前庭の耳石器が遊離し、三半規管に迷入することによって[[回転性めまい]]が生じる病態である。一度耳石が三半規管に入り込むとクプラがつっかえとなり治らなくなる場合がある。こうなったばあいはBPPVと診断される。診断はDix-Hallpike Test(ディックスホールパイクテスト)である。このテストでは患側が下になった場合のみめまいがおこる。そして体動によってめまいが増悪し、時間経過とともに消失する。患側が上の場合はクプラがストッパーになりめまいは誘発されない。治療はEpley法(エプレイ法)等めまい体操を指導に基づいて行うことである{{Sfn|新井基洋|2015}}。これは遊離した耳石を三半規管を巡らせて前庭に再配置させる方法である。成功すればめまいの根治となるが急性期では悪心、嘔吐を誘発するので行わない方がよいといわれている。よく訓練された医師が行えば80%は根治可能であるが3回ほど行っても改善が見られなければ専門医に相談するべきである。[[前庭神経炎]]はBPPVと異なり1か月ほどめまいが持続するのが特徴だが初回の大発作時に受診した場合BPPV様の経過をとることも知られている。また小脳梗塞や脳幹梗塞でもBPPV様の経過をとることがある。一般内科医などでの診療には限界があり神経内科か耳鼻科の受診を勧めるべきである。 ;ディックスホールパイクテスト :まず一方向に45度首を傾け上体を仰臥位にする。この時、患側が下になっていれば眩暈が誘発される。 ;エプレイ法 :患側に45度首を傾け仰臥位をとる。首を更に下へ45度傾け、頭部を支えながらゆっくりと反対方向に回す。めまいの消失を待ち、逆方向に90度寝返りをうたせ側臥位とし、そのまま上体を起こす。 == 漢方薬治療 == めまいの治療は原因疾患の治療になる。原因疾患がはっきりとしない場合は症状の緩和のために[[漢方薬]]を用いることがある<ref>本当に明日から使える漢方薬―7時間速習入門コース p73-106 ISBN 9784880027067</ref>。 漢方薬でのめまいの第一選択は[[苓桂朮甘湯]](りょうけいじゅつかんとう)である<ref name="ryoukeijyutukan">[https://www.shinwa-seiyaku.co.jp/product/ryoukeizyutukantou/ 伸和製薬|苓桂朮甘湯(一般用医薬品)]</ref>。苓桂朮甘湯が無効の場合に他の漢方薬を検討する。生理不順、更年期障害などの症状がある時は[[桂枝茯苓丸]](けいしぶくりょうがん)を検討する<ref name="keishibukuryou">[https://www.shinwa-seiyaku.co.jp/product/keisibukuryougan/ 伸和製薬|桂枝茯苓丸(一般用医薬品)]</ref>。 起立性調節障害によるめまいで昇圧剤を用いたくない場合に[[半夏白朮天麻湯]](はんげびゃくじゅつてんまとう)が効果的なことがある。 冷え性を伴うめまいでは[[真武湯]](しんぶとう)が効果的である。高齢者のめまいには[[釣藤散]](ちょうとうさん)が効果的なこともある。 == 一過性血圧高値 == 一過性血圧高値とは浮遊感や後頭部頭重感による受診が多い。[[バイタルサイン]]で[[クッシング反射]](血圧が上昇しているが徐脈であること、これは脳圧亢進している兆候である)がなく、神経学的診察で脳血管性が否定的となったときに疑う。かつては[[ニフェジピン]]の内服によって降圧を行ったが現在は緊急時以外は血圧を降下させる必要はないと考えられている。血圧を降下させたい場合は[[フロセミド]](20mg)を1T内服やエチゾラム(0.5mg)を1T内服とし、後日内科の受診を勧める。 == 脚注・引用 == <references/> == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2014年7月}} {{ページ番号|section=1|date=2014年7月}} {{Refbegin|2}} *{{Cite book|和書|author=田中和豊 |date=2003 |title=問題解決型 救急初期診療 |isbn=426012255X }} *{{Cite book|和書|author=田中和豊 |date=2007 |title=Step By Step! 初期診療アプローチ |volume=第3巻 |isbn=4903331679 }} *{{Cite book|和書|author=黒田康夫 |date=2000-06 |title=神経内科ケーススタディ |isbn=4880024252 }} *{{Cite book|和書|author=黒田康夫 |date=2003 |title=Q&Aとイラストで学ぶ神経内科 |isbn= 4880024635 }} *{{Cite book|和書|first=S. |last=スターン |first2=A.|last2=シーフー |first3=D.|last3=オールトカーム |translator=竹本毅 |title=考える技術 臨床的思考を分析する |publisher=日経BP社 |isbn= 9784822261092 }} *{{Cite book|和書|author=新井基洋 |title=めまいは寝てては治らない : 実践!めまいを治す24のリハビリ |edition=第4版 |publisher=中外医学社 |date=2015-10 |isbn=9784498062597 |ref=harv }} {{Refend}} == 関連項目 == * [[意識障害]] * [[失神]] * [[運動失調]] * [[神経診断学]] * [[眼球振盪]] * [[海士潜女神社]] - めまい除けの神社。 == 外部リンク == * [https://www.neurology-jp.org/public/disease/memai.html めまい] - 日本神経学会 * [https://kompas.hosp.keio.ac.jp/contents/000561.html めまい] - KOMPAS 慶應義塾大学病院 医療・健康情報サイト、2020年5月15日閲覧 * [https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/19-耳、鼻、のどの病気/耳の病気の症状/めまい-dizziness-と回転性めまい-vertigo めまい(Dizziness)と回転性めまい(Vertigo)] - [[MSDマニュアル]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:めまい}} [[Category:症候]] [[Category:耳鼻咽喉科学]] [[Category:神経学]] [[Category:救急医学]] [[Category:循環器学]] [[es:vértigo]] [[fr:Vertige]]
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ヒト上科
ヒト上科(ヒトじょうか、Hominoidea)は、ヒトの仲間(人類)と類人猿をくくる霊長目の分類群。現生群ではヒト科(ヒト、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンが含まれる)とテナガザル科で構成される。 テナガザル(小型類人猿)を含めた現生種では、尾は失われている。 5種のヒト上科(テナガザル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒト)の肝臓から尿酸オキシダーゼ活性は検出されなかったが、ヒト上科以外の旧世界のサルと新世界のサルでは尿酸オキシダーゼ活性が検出された。ヒト上科の共通の祖先が旧世界のサルから分枝した際に、尿酸オキシダーゼ活性が消失したものと推定される。尿酸オキシダーゼ活性の消失の意味付けは、尿酸が直鼻猿で合成能が失われたビタミンCの抗酸化物質としての部分的な代用となるためである。しかし、ヒトを含むヒト上科では、尿酸オキシダーゼ活性の消失により難溶性物質である尿酸をより無害なアラントインに分解できなくなり、尿酸が体内に蓄積すると結晶化して関節に析出すると痛風発作を誘発することとなる。 オナガザル上科とは3600 - 2700万年前または3800 - 2500万年前に分岐したと推定されている。 従来は人類と大型類人猿を科レベル(ヒトニザル科、オランウータン科Pongidae)で分けていたが、DNAによる分子系統解析等の知見により類人猿は側系統であることが判明し、現在ではヒト科に大型類人猿も含めることが一般的である。
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ヒト上科(ヒトじょうか、Hominoidea)は、ヒトの仲間(人類)と類人猿をくくる霊長目の分類群。現生群ではヒト科(ヒト、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンが含まれる)とテナガザル科で構成される。
{{生物分類表 |名称 = ヒト上科 |省略 = 哺乳綱 |画像 =[[File:Man_of_the_woods.JPG|250px|スマトラオランウータン]] |画像キャプション = スマトラオランウータン ''Pongo abelli'' |目 = [[霊長目]] {{sname||Primates}} |亜目 = [[直鼻亜目]] {{sname||Haplorrhini}} |下目 = [[真猿型下目]] {{sname||Simiiformes}} |小目 = [[狭鼻小目]] {{sname||Catarrhini}} |上科 = '''ヒト上科''' {{sname||Hominoidea}} |学名 = Hominoidea Gray, 1825<ref name="groves">[[コリン・グローヴズ|Colin P. Groves]], “[http://www.departments.bucknell.edu/biology/resources/msw3/browse.asp?id=12100751 Order Primates],” ''Mammal Species of the World'' (3rd ed.), Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (eds.), Volume 1, Johns Hopkins University Press, 2005, Pages 111-184.</ref><ref name="iwamoto">岩本光雄「[https://doi.org/10.2354/psj.3.119 サルの分類名(その4:類人猿)]」『霊長類研究』第3巻 2号、日本霊長類学会、1987年、119-126頁。</ref> |和名 = ヒト上科<ref name="iwamoto" /> |下位分類名 = [[科 (分類学)|科]] |下位分類 = *[[テナガザル科]] {{sname||Hylobatidae}} *[[ヒト科]] {{sname||Hominidae}} }} [[File:Hominidae.PNG|thumb|300px|ヒト上科の系統樹]] '''ヒト上科'''(ヒトじょうか、{{sname|Hominoidea}})は、[[ヒト]]の仲間([[人類]])と[[類人猿]]をくくる[[霊長目]]の[[分類群]]。現生群では[[ヒト科]]([[ヒト]]、[[チンパンジー]]、[[ゴリラ]]、[[オランウータン]]が含まれる)と[[テナガザル|テナガザル科]]で構成される<ref name="groves" />。 == 形態 == テナガザル(小型類人猿)を含めた現生種では、[[尾]]は失われている<ref name="kunimatsu">國松豊「[https://doi.org/10.5026/jgeography.111.6_798 ヒト科の出現 中新世におけるヒト上科の展開]」『地學雜誌』第111巻 6号、東京地学協会、2002年、798-815頁。{{doi|10.5026/jgeography.111.6_798}}。</ref>。 5種のヒト上科(テナガザル、オランウータン、[[チンパンジー]]、ゴリラ、ヒト)の[[肝臓]]から[[尿酸オキシダーゼ]]活性は検出されなかったが、ヒト上科以外の旧世界のサルと新世界のサルでは尿酸オキシダーゼ活性が検出された。ヒト上科の共通の祖先が旧世界のサルから分枝した際に、尿酸オキシダーゼ活性が消失したものと推定される<ref>{{cite journal |author=Thomas B. Friedman; George E. Polanco; Jerry C. Appold; James E. Mayle |year=1985 |title=On the loss of uricolytic activity during primate evolution—I. Silencing of urate oxidase in a hominoid ancestor |journal=Comparative Biochemistry and Physiology Part B: Comparative Biochemistry |volume=81 |issue=3 |pages=653-659 |ISSN=0305-0491 |doi=10.1016/0305-0491(85)90381-5 |url=https://doi.org/10.1016/0305-0491(85)90381-5 |pmid=3928241}}</ref>。尿酸オキシダーゼ活性の消失の意味付けは、[[尿酸]]が[[直鼻亜目|直鼻猿]]で合成能が失われた[[ビタミンC]]の[[抗酸化物質]]としての部分的な代用となるためである<ref name="proctor1970">Peter Proctor [http://www.drproctor.com/rev/ascorbicuric.htm Similar Functions of Uric Acid and Ascorbate in ManSimilar Functions of Uric Acid and Ascorbate in Man] ''Nature'' vol 228, 1970, p868.</ref>。しかし、ヒトを含むヒト上科では、尿酸オキシダーゼ活性の消失により難溶性物質である尿酸をより無害な[[アラントイン]]に分解できなくなり、尿酸が体内に蓄積すると結晶化して[[関節]]に析出すると[[痛風]]発作を誘発することとなる<ref>{{Cite journal|和書|author=高木和貴, 上田孝典 |date=2010-02 |url=https://hdl.handle.net/10098/2955 |title=尿酸分解酵素PEG化ウリカーゼの適応と意義 |journal=高尿酸血症と痛風 |volume=18 |issue=2 |pages=145-150 |id={{CRID|1050845762720162432}} |hdl=10098/2955}}</ref>。 == 分類 == オナガザル上科とは3600 - 2700万年前または3800 - 2500万年前に分岐したと推定されている<ref name="nakatsukasa_kunimatsu">中務真人・國松豊「[https://doi.org/10.1537/asj.121022 アフリカの中新世旧世界ザルの進化:現生ヒト上科進化への影響]」『Anthropological Science (Japanese Series)』第120巻 2号、日本人類学会、2012年、99 - 119頁。</ref>。 従来は人類と大型類人猿を科レベル(ヒトニザル科、オランウータン科Pongidae)で分けていたが<ref name="iwamoto" />、DNAによる分子系統解析等の知見により類人猿は側系統であることが判明し<ref name=Goodman2>{{cite journal | journal = Journal of Molecular Evolution | year = 1990 | volume = 30 | pages = 260–266 | title = Primate evolution at the DNA level and a classification of hominoids | author = M. Goodman, D. A. Tagle, D. H. Fitch, W. Bailey, J. Czelusniak, B. F. Koop, P. Benson, J. L. Slightom | doi = 10.1007/BF02099995 | pmid = 2109087 | issue = 3 | ref = harv}}</ref>、現在ではヒト科に大型類人猿も含めることが一般的である<ref name="groves" />。 ===ヒト上科 (Hominoidea)の新しい分類例=== {{出典の明記|date=2022年1月|section=1}} :(新しい分類には、いくつか異学説がある) * †[[アフロピテクス科]] {{sname||Afropithecidae}} ** †[[アフロピテクス]]属 {{snamei||Afropithecus}} (1400万年前、ケニア) ** †{{snamei||Morotopithecus}}属 * '''[[テナガザル科]]''' {{sname||Hylobatidae}} ** [[フーロックテナガザル属]] {{snamei||Hoolock}} ** [[テナガザル属]] {{snamei||Hylobates}} ** [[クロテナガザル属]] {{snamei||Nomascus}} ** [[フクロテナガザル属]] {{snamei||Symphalangus}} * '''[[ヒト科]]''' {{sname||Hominidae}} ** '''[[オランウータン亜科]]''' {{sname||Ponginae}} *** †{{sname||Sivapithecini}}族 **** †[[シヴァピテクス]]属 {{snamei||Sivapithecus}} (中〜鮮新世、インド) **** †[[ギガントピテクス]]属 {{snamei||Gigantopithecus}} (更新世、中国/絶滅) *** {{sname||Pongini}}族 **** †{{snamei||Khoratpithecus}}属 **** [[オランウータン属]] {{snamei||Pongo}} ** [[ヒト亜科]] {{sname||Homininae}} *** †{{sname||Dryopithecini}}族 **** †[[ドリオピテクス]]属 {{snamei||Dryopithecus}} (中新世、ケニア) *** [[ゴリラ族]] {{sname|Gorillini}} **** [[ゴリラ属]] {{snamei||Gorilla}} *** [[ヒト族]] {{sname|Hominini}} ****[[チンパンジー亜族]] {{sname|Panina}} ***** [[チンパンジー属]] {{snamei||Pan}} **** [[ヒト亜族]] {{sname||Hominina}} ***** †[[サヘラントロプス]]属 †{{snamei||Sahelanthropus}} ****** †[[サヘラントロプス|サヘラントロプス・チャデンシス]] {{snamei||Sahelanthropus tchadensis}} ***** †[[オロリン属]] {{snamei||Orrorin}} ****** †[[オロリン・トゥゲネンシス]] †{{snamei|O. tugenensis}} ***** †[[アルディピテクス属]] {{snamei||Ardipithecus}} ***** †[[ケニヤントロプス属]] {{snamei||Kenyanthropus}} ****** †[[ケニアントロプス・プラティオプス]] {{snamei||Kenyanthropus platyops}} ***** †[[アウストラロピテクス属]] {{snamei||Australopithecus}}(華奢型) ****** †[[アウストラロピテクス・アファレンシス]] {{snamei|Au. afarensis}} ("[[ルーシー (アウストラロピテクス)|ルーシー]]") ****** †[[アウストラロピテクス・アフリカヌス]] {{snamei|Au. africanus}} ****** †[[アウストラロピテクス・アナメンシス]] {{snamei|Au. anamensis}} ****** †[[アウストラロピテクス・ガルヒ]] {{snamei|Au. garhi}} ***** †[[パラントロプス属]] {{snamei||Paranthropus}} (頑丈型) ****** †[[パラントロプス・ロブストゥス]] {{snamei|Par. robustus}} ****** †[[パラントロプス・エチオピクス]] {{snamei|Par. aethiopicus}} ****** †[[パラントロプス・ボイセイ]] {{snamei|Par. boisei}} ***** [[ヒト属]] {{snamei|en|Homo (genus)|Homo}} ****** †[[ホモ・ルドルフェンシス]] {{snamei|[[w:Homo rudolfensis|Hm. rudolfensis]]}} ****** †[[ホモ・ハビリス]] {{snamei|Hm. habilis}} ****** †[[ホモ・エルガステル]] {{snamei|Hm. ergaster}} ****** †[[ホモ・エレクトス]] {{snamei|Hm. erectus}} ****** †[[ホモ・アンテセッサー]] {{snamei|Hm. antecessor}} ****** †[[ホモ・ハイデルベルゲンシス]] {{snamei|Hm. heidelbergensis}} ****** †[[ホモ・フローレシエンシス]] {{snamei|Hm. floresiensis}} ****** [[ホモ・サピエンス]] {{snamei|Hm. sapiens}} ******* †[[ネアンデルタール人|ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス]] {{snamei|Hm. s. neanderthalensis}} ******* †[[ホモ・サピエンス・イダルトゥ]] {{snamei|Hm. s. idaltu}} ******* [[ヒト|ホモ・サピエンス・サピエンス]] {{snamei|Hm. s. sapiens}} * この分類の場合、ヒト亜族が'''人類'''となる。また、ヒト上科のうち人類を除く霊長類は'''[[類人猿]]'''とよばれる。 ===ヒト上科の従来の分類=== * '''[[テナガザル科]]''' [[:w:Hylobatidae|Hylobatidae]] ** [[テナガザル]] * '''[[オランウータン科]]''' **[[チンパンジー]] **[[ゴリラ]] **[[オランウータン]] * '''[[ヒト科]]''' **[[ヒト]] ==脚注== {{Reflist}} ==関連項目== *[[人類の進化]] {{Human Evolution}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひとしようか}} [[Category:ヒト上科|*]] [[Category:自然人類学]]
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マーズ・エクスプレス
マーズ・エクスプレス(Mars Express)は、2003年6月2日17時45分 (UTC) に欧州宇宙機関 (ESA) が打ち上げた火星探査機である。ESAとしては初の惑星探査ミッションとなった。 バイコヌール宇宙基地からソユーズFG/フレガートロケットで打ち上げられ火星軌道への遷移軌道に投入し、2003年12月25日に大接近数ヶ月後の火星に到着した。軌道上から火星の大気や地下構造の調査を行うほか、着陸船「ビーグル2」を降下させ、地表の調査と、過去および現在の生命の兆候の調査を予定していた。 火星軌道への到着に先立ち12月19日にビーグル2の放出に成功した。マーズ・エクスプレス・オービター(親機)は火星に接近した12月25日3時47分(欧州中央時)に主エンジンを37分間動作させ、火星を周回する軌道に乗ることに成功した。マーズ・エクスプレス・オービターの機体設計は、コスト削減のためESAの金星探査機ビーナス・エクスプレスにも使われた。マーズ・エクスプレス・オービターは、現在も火星探査を継続中である。 ビーグル2(チャールズ・ダーウィンが乗り組んで世界一周航海を行ったビーグル号にちなんで命名された)は質量 60 kgのカプセルで、12月20日に火星へのコースに投入され、クリスマスの日に赤道地帯のイシディス平原に着地する予定だった。この着陸船は、着陸・操縦用エンジンを持たない。大気圏再突入時の熱を熱シールドで切り抜けた後、パラシュートを開いて減速し、3個のエアバッグで着地時の衝撃を和らげる方法を採用している。 ビーグル2は本体の火星軌道投入と同じころ火星表面への降下を行ったが、着陸推定時刻の3時間後にアメリカ航空宇宙局 (NASA) の2001マーズ・オデッセイ観測機を経由して通信を行われる予定だった通信ができなかった。 このため、再度通信を試みるとともに、イギリスのジョドレルバンク天文台の電波望遠鏡によりビーコンの検出を試みた。しかし、12月26日から12月27日にかけて直径 76 mのアンテナ(Lovell電波望遠鏡)を使用したが、検出はできなかった。 一方、マーズ・エクスプレスの本体は12月30日に火星軌道の軌道傾斜角を変更し、極軌道に乗ることに成功した。新軌道ではビーグル2の近くを通過することができるため、検出を期待して信号受信に再度取り組んだが、通信には成功しなかった。ESAは2004年2月11日にビーグル2の喪失と失敗を宣言した。 2015年1月、NASAのマーズ・リコネッサンス・オービター (MRO) が撮影した高解像度画像からビーグル2を発見したとの報告が発表された。それによればビーグル2は太陽電池パネルの一部展開(4枚のうち2-3枚)まで成功しており、突入・降下・着陸シーケンスまで正常に機能していたことが分かった。しかし、太陽電池パネルが完全に展開しなければアンテナが使えず通信できない設計であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マーズ・エクスプレス(Mars Express)は、2003年6月2日17時45分 (UTC) に欧州宇宙機関 (ESA) が打ち上げた火星探査機である。ESAとしては初の惑星探査ミッションとなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "バイコヌール宇宙基地からソユーズFG/フレガートロケットで打ち上げられ火星軌道への遷移軌道に投入し、2003年12月25日に大接近数ヶ月後の火星に到着した。軌道上から火星の大気や地下構造の調査を行うほか、着陸船「ビーグル2」を降下させ、地表の調査と、過去および現在の生命の兆候の調査を予定していた。", "title": "火星到着" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "火星軌道への到着に先立ち12月19日にビーグル2の放出に成功した。マーズ・エクスプレス・オービター(親機)は火星に接近した12月25日3時47分(欧州中央時)に主エンジンを37分間動作させ、火星を周回する軌道に乗ることに成功した。マーズ・エクスプレス・オービターの機体設計は、コスト削減のためESAの金星探査機ビーナス・エクスプレスにも使われた。マーズ・エクスプレス・オービターは、現在も火星探査を継続中である。", "title": "火星到着" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ビーグル2(チャールズ・ダーウィンが乗り組んで世界一周航海を行ったビーグル号にちなんで命名された)は質量 60 kgのカプセルで、12月20日に火星へのコースに投入され、クリスマスの日に赤道地帯のイシディス平原に着地する予定だった。この着陸船は、着陸・操縦用エンジンを持たない。大気圏再突入時の熱を熱シールドで切り抜けた後、パラシュートを開いて減速し、3個のエアバッグで着地時の衝撃を和らげる方法を採用している。", "title": "ビーグル2の降下失敗" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ビーグル2は本体の火星軌道投入と同じころ火星表面への降下を行ったが、着陸推定時刻の3時間後にアメリカ航空宇宙局 (NASA) の2001マーズ・オデッセイ観測機を経由して通信を行われる予定だった通信ができなかった。", "title": "ビーグル2の降下失敗" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "このため、再度通信を試みるとともに、イギリスのジョドレルバンク天文台の電波望遠鏡によりビーコンの検出を試みた。しかし、12月26日から12月27日にかけて直径 76 mのアンテナ(Lovell電波望遠鏡)を使用したが、検出はできなかった。", "title": "ビーグル2の降下失敗" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一方、マーズ・エクスプレスの本体は12月30日に火星軌道の軌道傾斜角を変更し、極軌道に乗ることに成功した。新軌道ではビーグル2の近くを通過することができるため、検出を期待して信号受信に再度取り組んだが、通信には成功しなかった。ESAは2004年2月11日にビーグル2の喪失と失敗を宣言した。", "title": "ビーグル2の降下失敗" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2015年1月、NASAのマーズ・リコネッサンス・オービター (MRO) が撮影した高解像度画像からビーグル2を発見したとの報告が発表された。それによればビーグル2は太陽電池パネルの一部展開(4枚のうち2-3枚)まで成功しており、突入・降下・着陸シーケンスまで正常に機能していたことが分かった。しかし、太陽電池パネルが完全に展開しなければアンテナが使えず通信できない設計であった。", "title": "ビーグル2の降下失敗" } ]
マーズ・エクスプレスは、2003年6月2日17時45分 (UTC) に欧州宇宙機関 (ESA) が打ち上げた火星探査機である。ESAとしては初の惑星探査ミッションとなった。
{{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:19 (UTC)}} {{宇宙機 | 名称 = マーズ・エクスプレス<br /><small>Mars Express | 画像 = [[Image:Mars-express-volcanoes-sm.jpg|200px]] | 画像の注釈 = マーズ・エクスプレス | 所属 = [[欧州宇宙機関]] (ESA) | 主製造業者 = | 公式ページ = [http://www.esa.int/export/SPECIALS/Mars_Express/index.html ESA - Mars Express] | 国際標識番号 = 2003-022A | NORAD_NO = 27816 | 状態 = 運用中 | 目的 = [[火星]]の探査 | 観測対象 = 火星 | 計画の期間 = | 設計寿命 = | 打上げ場所 = [[バイコヌール宇宙基地]] | 打上げ機 = [[ソユーズFG|ソユーズFGロケット]] | 打上げ日時 = [[2003年]][[6月2日]]<br />23時45分([[UTC+6|現地時間]]) | 軌道投入日 = 2003年[[12月25日]] | 最接近日 = | ランデブー日 = | 機能停止日 = | 通信途絶日 = | 運用終了日 = | 停波日 = | 消滅日時 = | 物理的特長 = 物理的特徴 | 本体寸法 = | 最大寸法 = | 質量 = 1123kg(推進剤含む) | 発生電力 = [[太陽電池]] 460W(火星軌道上) | 主な推進器 = | 姿勢制御方式 = | 軌道要素 = 軌道要素 | 周回対象 = 火星 | 軌道 = | 静止経度 = | 高度 = | 近点高度 = 298km | 遠点高度 = 10,107km | 軌道半長径 = | 離心率 = 0.943 | 軌道傾斜角 = 86.3度 | 軌道周期 = 7.5時間 | 回帰日数 = | サブサイクル = | 回帰精度 = | 降交点通過地方時 = | 搭載機器 = | 搭載機器名称1 = | 搭載機器説明1 = | 搭載機器名称2 = | 搭載機器説明2 = | 搭載機器名称3 = | 搭載機器説明3 = | 搭載機器名称4 = | 搭載機器説明4 = | 搭載機器名称5 = | 搭載機器説明5 = | 搭載機器名称6 = | 搭載機器説明6 = | 搭載機器名称7 = | 搭載機器説明7 = | 搭載機器名称8 = | 搭載機器説明8 = | 搭載機器名称9 = | 搭載機器説明9 = | 搭載機器名称10 = | 搭載機器説明10 = | 搭載機器名称11 = | 搭載機器説明11 = | 搭載機器名称12 = | 搭載機器説明12 = | 搭載機器名称13 = | 搭載機器説明13 = | 搭載機器名称14 = | 搭載機器説明14 = | 搭載機器名称15 = | 搭載機器説明15 = }} '''マーズ・エクスプレス'''(Mars Express)は、[[2003年]][[6月2日]]17時45分 (UTC) に[[欧州宇宙機関]] (ESA) が打ち上げた[[火星探査機]]である。ESAとしては初の惑星探査ミッションとなった。 == 火星到着 == [[ファイル:Mars Express captures Danielson crater (7347752534).jpg|thumb|left|マーズ・エクスプレスが写した{{仮リンク|ダニエルソン (クレーター)|en|Danielson (crater)|label=ダニエルソン・クレーター}}]] [[バイコヌール宇宙基地]]から[[ソユーズFG]]/[[フレガート (ロケット)|フレガート]]ロケットで打ち上げられ火星軌道への遷移軌道に投入し、[[2003年]][[12月25日]]に大接近数ヶ月後の火星に到着した。軌道上から火星の大気や地下構造の調査を行うほか、着陸船「ビーグル2」を降下させ、地表の調査と、過去および現在の生命の兆候の調査を予定していた。 火星軌道への到着に先立ち[[12月19日]]にビーグル2の放出に成功した。マーズ・エクスプレス・オービター(親機)は火星に接近した12月25日3時47分(欧州中央時)に主エンジンを37分間動作させ、火星を周回する軌道に乗ることに成功した。マーズ・エクスプレス・オービターの機体設計は、コスト削減のためESAの金星探査機[[ビーナス・エクスプレス]]にも使われた。マーズ・エクスプレス・オービターは、現在も火星探査を継続中である。 {{Clearleft}} == ビーグル2の降下失敗 == {{main|ビーグル2号}} [[ファイル:Beagle 2 model at Liverpool Spaceport.jpg|thumb|left|展開に失敗した[[ビーグル2号]](モデル)]] ビーグル2([[チャールズ・ダーウィン]]が乗り組んで世界一周航海を行った[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]にちなんで命名された)は質量 60 kgのカプセルで、12月20日に火星へのコースに投入され、クリスマスの日に赤道地帯のイシディス平原に着地する予定だった。この着陸船は、着陸・操縦用エンジンを持たない。[[大気圏再突入]]時の熱を熱シールドで切り抜けた後、[[パラシュート]]を開いて減速し、3個の[[エアバッグ]]で着地時の衝撃を和らげる方法を採用している。 ビーグル2は本体の火星軌道投入と同じころ火星表面への降下を行ったが、着陸推定時刻の3時間後に[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) の[[2001マーズ・オデッセイ]]観測機を経由して通信を行われる予定だった通信ができなかった。 このため、再度通信を試みるとともに、[[イギリス]]の[[ジョドレルバンク天文台]]の[[電波望遠鏡]]によりビーコンの検出を試みた。しかし、[[12月26日]]から[[12月27日]]にかけて直径 76 mのアンテナ(Lovell電波望遠鏡)を使用したが、検出はできなかった。 一方、マーズ・エクスプレスの本体は[[12月30日]]に火星軌道の軌道傾斜角を変更し、極軌道に乗ることに成功した。新軌道ではビーグル2の近くを通過することができるため、検出を期待して信号受信に再度取り組んだが、通信には成功しなかった。ESAは[[2004年]]2月11日にビーグル2の喪失と失敗を宣言した。 2015年1月、NASAの[[マーズ・リコネッサンス・オービター]] (MRO) が撮影した高解像度画像からビーグル2を発見したとの報告が発表された。それによればビーグル2は太陽電池パネルの一部展開(4枚のうち2-3枚)まで成功しており、突入・降下・着陸シーケンスまで正常に機能していたことが分かった。しかし、太陽電池パネルが完全に展開しなければアンテナが使えず通信できない設計であった<ref>{{cite news | title = Beagle-2 lander found on Mars | url = http://www.esa.int/Our_Activities/Space_Science/Mars_Express/Beagle-2_lander_found_on_Mars | publisher = ESA | date = 2015-01-16 | accessdate = 2015-01-17 }}</ref>。 {{Clearleft}} == 画像 == <gallery> ファイル:Beagle 2 replica.jpg|ビーグル2号(レプリカ) ファイル:PIA19106-Beagle2-Found-MRO-20140629.jpg|[[マーズ・リコネッサンス・オービター|MRO]]が発見したビーグル2号(広域) ファイル:PIA19107-Beagle2-Found-MRO-20140629.jpg|[[マーズ・リコネッサンス・オービター|MRO]]が発見したビーグル2号(拡大) ファイル:Martian south pole during summer by HRSC.jpg|夏の火星の南極 ファイル:Hadley Crater provides deep insight into martian geology (7942261196).jpg|{{仮リンク|ハドリー (クレーター)|en|Hadley (crater)|label=ハドリー・クレーター}} ファイル:Kasei Valles mosaic (8967740946).jpg|[[カセイ峡谷]] ファイル:Phobos seen by Mars Express (4437606433).jpg|マーズ・エクスプレスが写した衛星[[フォボス (衛星)|フォボス]] </gallery> == 参考文献 == {{reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Mars Express}} * [[欧州宇宙機関]] * [[火星]] == 外部リンク == * [http://www.esa.int/export/SPECIALS/Mars_Express/index.html ESAのMars Expressの総合サイト] * [http://www.esa.int/export/esaCP/index.html ESAトップページ] * [http://www.esa.int/export/esaCP/SEMIKNS1VED_index_1.html 打上げ成功(ESA)] * [http://sci.esa.int/home/marsexpress/index.cfm Mars Express概要] * [http://moonstation.jp/ja/mars/exploration/MEX/index.html マーズ・エクスプレス(月探査情報ステーション)] {{火星探査機}} {{デフォルトソート:まあすえくすふれす}} [[Category:火星探査機]] [[Category:欧州宇宙機関の宇宙探査機]] [[Category:2003年の宇宙飛行]] [[Category:天文学に関する記事]]
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H-IIロケット8号機
H-IIロケット8号機は、宇宙開発事業団(NASDA)が打上げたH-IIロケットのうち7番目に打ち上げた機体。 1999年11月15日に種子島宇宙センターから運輸多目的衛星1号(MTSAT-1)を搭載して打ち上げたが、1段目エンジンのLE-7が破損し推力を失ったため地上からの指令破壊信号により、残骸とペイロードは父島の北西約380kmの海中に落下した。打上げ順番の変更で、6号機→5号機→8号機→7号機の順番で打ち上げが予定されていたが、8号機の打ち上げ失敗により7号機はキャンセル、この8号機がH-IIの最終号機体となった。 テレメトリ情報の解析から、LE-7の液体燃料の供給系に何らかのトラブルが発生し燃料の供給が止まったことが推力喪失の原因と考えられた。具体的な原因を調査するため海洋科学技術センター(現JAMSTEC)に依頼して、11月19日から深海調査船による捜索を実施した。この第1次調査でロケットの残骸の一部が発見できたため12月20日から第2次調査を行い、12月24日にLE-7エンジン本体を発見、翌2000年1月に3000mの深海からの回収に成功した。太平洋の海底3000mから僅か3m四方の物体を発見し回収できたことは奇跡的と言える。なお、回収されたLE-7エンジンは現在角田宇宙センターで展示されている。 引き上げたエンジン本体の解析の結果、液体水素ターボポンプ入り口のインデューサの羽車が疲労破壊で折損していることがわかった。このためインデューサの動作試験を行った結果、インデューサから液体水素供給パイプ上流に向かって旋回キャビテーションが発生、これによりパイプ内の動圧変動が誘起されてインデューサの羽根車を振動させ疲労破壊に至ったと推定された。この破壊により供給配管の圧力が瞬時に過大になって破損、液体水素が漏出したためエンジン燃焼室への燃料供給がとまりエンジンが停止したのである。 開発過程で旋回キャビテーションの発生の可能性は予期できたものの、複合的要因によってインデューサ等が破壊することまでは予見できなかったという。 H-IIAロケットで用いられるLE-7Aエンジンではこの失敗経験を生かし、旋回キャビテーション対策を施すとともに、通常動作外の動作環境でも異常が見られないよう設計変更を行い、高信頼性を確保することができた。 H-IIロケット5号機では2段目のエンジンで失敗し、2段目をH-IIAロケットの2段目に取り替えた8号機では1段目のエンジンで失敗したため、次に打ち上げる予定だった7号機は、製作済みであったが打上げをキャンセルされH-IIロケットの運用が終了することになった。 失われたペイロードである運輸多目的衛星 MTSAT-1は、航空管制用通信衛星・気象観測衛星などの機能を統合した人工衛星であり、特に設計寿命を2000年に迎える気象衛星ひまわり5号の後継衛星でもあった(同衛星の静止位置に置かれる予定だった)。このためひまわり5号はそのまま寿命を超えて使われることになった。 2003年5月22日からは、2005年のMTSAT-1R(後のひまわり6号)打ち上げ・運用開始までの間、米国NOAAからGOES-9を借用して観測が続けられた。 また、この事故によりH-IIAロケットはヒューズ社やESAを始めとする顧客の受注を失い、ロケットの商業打ち上げ計画に大きな影響がでた。また間接的には、日本の宇宙開発諸機関の統合化が促進されて宇宙開発事業団(NASDA)・文部省宇宙科学研究所(ISAS)・航空宇宙技術研究所(NAL)の3機関の統合が決定し、後の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の誕生に繋がった。加えてH-IIAロケットは開発終了後早期に民間企業に移管することになった。
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H-IIロケット8号機は、宇宙開発事業団(NASDA)が打上げたH-IIロケットのうち7番目に打ち上げた機体。 1999年11月15日に種子島宇宙センターから運輸多目的衛星1号(MTSAT-1)を搭載して打ち上げたが、1段目エンジンのLE-7が破損し推力を失ったため地上からの指令破壊信号により、残骸とペイロードは父島の北西約380kmの海中に落下した。打上げ順番の変更で、6号機→5号機→8号機→7号機の順番で打ち上げが予定されていたが、8号機の打ち上げ失敗により7号機はキャンセル、この8号機がH-IIの最終号機体となった。
{{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:19 (UTC)}} '''H-IIロケット8号機'''は、[[宇宙開発事業団]](NASDA)が打上げた[[H-IIロケット]]のうち7番目に打ち上げた機体。 [[1999年]][[11月15日]]に[[種子島宇宙センター]]から[[MTSAT#運輸多目的衛星1号|運輸多目的衛星1号(MTSAT-1)]]を搭載して打ち上げたが、1段目エンジンの[[LE-7]]が破損し推力を失ったため地上からの指令破壊信号により、残骸とペイロードは[[父島]]の北西約380kmの海中に落下した。打上げ順番の変更で、6号機→5号機→8号機→7号機の順番で打ち上げが予定されていたが、8号機の打ち上げ失敗により7号機はキャンセル、この8号機がH-IIの最終号機体となった。 == 失敗の原因 == [[ファイル:H-IIRocket F8 LE-7engine.jpg|200px|thumb|right|H-IIロケット8号機LE-7エンジン]] [[テレメトリ]]情報の解析から、LE-7の液体燃料の供給系に何らかのトラブルが発生し燃料の供給が止まったことが推力喪失の原因と考えられた。具体的な原因を調査するため[[海洋研究開発機構|海洋科学技術センター]](現JAMSTEC)に依頼して、11月19日から深海調査船による捜索を実施した。この第1次調査でロケットの残骸の一部が発見できたため12月20日から第2次調査を行い、[[12月24日]]にLE-7エンジン本体を発見、翌2000年1月に3000mの深海からの回収に成功した。太平洋の海底3000mから僅か3m四方の物体を発見し回収できたことは奇跡的と言える。なお、回収されたLE-7エンジンは現在[[角田宇宙センター]]で展示されている。 引き上げたエンジン本体の解析の結果、[[液体水素]]ターボポンプ入り口のインデューサの羽車が疲労破壊で折損していることがわかった。このためインデューサの動作試験を行った結果、インデューサから液体水素供給パイプ上流に向かって旋回[[キャビテーション]]が発生、これによりパイプ内の動圧変動が誘起されてインデューサの羽根車を振動させ疲労破壊に至ったと推定された。この破壊により供給配管の圧力が瞬時に過大になって破損、液体水素が漏出したためエンジン燃焼室への燃料供給がとまりエンジンが停止したのである。 開発過程で旋回キャビテーションの発生の可能性は予期できたものの、複合的要因によってインデューサ等が破壊することまでは予見できなかったという。 [[H-IIAロケット]]で用いられる[[LE-7A]]エンジンではこの失敗経験を生かし、旋回キャビテーション対策を施すとともに、通常動作外の動作環境でも異常が見られないよう設計変更を行い、高信頼性を確保することができた。 == 失敗の影響 == [[H-IIロケット5号機]]では2段目のエンジンで失敗し、2段目をH-IIAロケットの2段目に取り替えた8号機では1段目のエンジンで失敗したため、次に打ち上げる予定だった7号機は、製作済みであったが打上げをキャンセルされH-IIロケットの運用が終了することになった。 失われたペイロードである運輸多目的衛星 MTSAT-1は、航空管制用通信衛星・気象観測衛星などの機能を統合した[[人工衛星]]であり、特に設計寿命を2000年に迎える[[ひまわり (気象衛星)|気象衛星ひまわり]]5号の後継衛星でもあった(同衛星の静止位置に置かれる予定だった)。このためひまわり5号はそのまま寿命を超えて使われることになった。 [[2003年]][[5月22日]]からは、2005年のMTSAT-1R(後のひまわり6号)打ち上げ・運用開始までの間、[[アメリカ合衆国|米国]][[NOAA]]から[[GOES#GOES-9|GOES-9]]を借用して観測が続けられた。 また、この事故によりH-IIAロケットはヒューズ社や[[欧州宇宙機関|ESA]]を始めとする顧客の受注を失い、ロケットの商業打ち上げ計画に大きな影響がでた。また間接的には、日本の宇宙開発諸機関の統合化が促進されて宇宙開発事業団(NASDA)・文部省[[宇宙科学研究所]](ISAS)・[[航空宇宙技術研究所]](NAL)の3機関の統合が決定し、後の[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)の誕生に繋がった。加えてH-IIAロケットは開発終了後早期に民間企業に移管することになった。 == 関連記事 == *[[宇宙開発事業団]] *[[H-IIロケット]] *[[H-IIロケット5号機]] *[[H-IIAロケット6号機]] *[[ロケット]] *[[宇宙開発]] *[[ディープ・トウ]] == 外部リンク == * [https://www.jaxa.jp/press/nasda/2000/h28_000414_j.html H-IIロケット8号機の事故原因とH-IIAロケットへの対策について【要約版】] NASDAが宇宙開発委員会に提出した報告書 * [https://www.jamstec.go.jp/jamstec-j/H2topic3/ 「H―IIロケット8号機」の第1段ロケットの3次調査について] JAMSTECの報告書 * [http://www.shippai.org/fkd/cf/CB0011004.html H-2ロケット8号機打ち上げ失敗] - 失敗データベース * [https://www.youtube.com/watch?v=k4dc-H4fwII 【WLP】失敗に学ぶ-泡が機械を破壊- 「H-Ⅱロケット8号機の墜落」] - [[科学技術振興機構]]公式ムービー {{DEFAULTSORT:H-II008}} [[Category:日本のロケット]] [[Category:宇宙事故]] [[Category:1999年の宇宙飛行]] [[Category:1999年の日本]] [[Category:1999年11月]]
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踊る大捜査線
『踊る大捜査線』(おどるだいそうさせん)は、フジテレビ系列で放送された日本の刑事ドラマシリーズ。 連続ドラマとして1997年1月7日から3月18日まで毎週火曜日21:00 - 21:54に、「火曜9時」枠で放送された。その後シリーズ化されテレビドラマ・映画・舞台で展開された。その後も「踊るレジェンド」としてテレビドラマや映画のスピンオフ作品が作られた。 本作のタイトルは、映画『夜の大捜査線』と『踊る大紐育』に由来する。なお、同局で過去に放送していた杉良太郎主演の『大捜査線』とは無関係。 織田裕二が演じる青島俊作巡査部長(後に係長、警部補に昇進)が主人公の「警察ドラマ」。連続ドラマ版放映開始当時までの刑事ドラマは、犯人の逮捕までを追う描写が多く、また銃撃戦やカーチェイスといった派手な追跡劇や所轄警察署が広域事件・テロ事件を解決させるといったような、エンターテイメント性を重視した描写が主流であったが、当作品ではそれらの要素を可能なかぎり排除し現実の警察組織と近い業務形態や実情を採用した作風となっている。より現実味ある描写をメインとし、警察機構を会社組織に置き換え、署内の権力争いや本店(=警視庁)と支店(=所轄署)の綱引きなどを、湾岸警察署を中心に描いている。本作品で登場した具体的な例としては、刑事のことを「デカ」ではなく「捜査員」と呼ぶ、加害者のことを「ホシ」ではなく「被疑者」と呼ぶ、「発砲許可」に対して手続きが存在するなどである。 青島刑事以外にも恩田すみれ(深津絵里)・和久平八郎(いかりや長介)・真下正義(ユースケ・サンタマリア)などの湾岸警察署員や事件の被害者でのちに刑事となる柏木雪乃(水野美紀)、湾岸警察署の署長ら三人組(通称『スリーアミーゴス』)、警察庁のキャリア・室井慎次(柳葉敏郎)らにもスポットライトが当てられる。 事件を追うだけでなく、警察の抱えるさまざまな内部矛盾、特に警察組織の厳格なキャリア制度の問題、官僚主義の問題、縦割り行政の問題、民事不介入の問題も大きなテーマとなっている。これら警察に関するリアルな描写は、以降の刑事ドラマ全般にも多大な影響を与えた。 連続ドラマ版(1997年)放映当初は決して高視聴率とは言えなかった。しかし、ドラマの視聴率が次第に上昇する中でプロデューサーの亀山が上司に対して「最終回の視聴率が20%を超えたら映画化してよい」との約束を取り付け、実際に最終回の視聴率が20%を超えたため映画化が実現した。連続ドラマ終了後、2本のスペシャルドラマ版と1本の番外編ドラマを経て映画化され、第1作・第2作ともに記録的なヒットとなった。映画の第1作から第2作までの間は、見えないストーリーが進行されていて、色々なエピソードが第2作で刑事らのセリフとして登場する(潜水艦事件など)。 2005年には映画版第2作の内容と連動した外伝的物語「踊るレジェンド」として『交渉人 真下正義』、『容疑者 室井慎次』が映画公開された。更に、2005年から2006年にかけて『交渉人 真下正義』の前日談として『逃亡者 木島丈一郎』が、『容疑者 室井慎次』の後日談として『弁護士 灰島秀樹』が、2007年には『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』との共同制作である短編『警護官 内田晋三』がテレビ放送された。 2010年に7年ぶりに、『THE MOVIE 3』を映画公開。その、スピンオフとして『係長 青島俊作』を携帯ドラマとして発信。 2012年、14年ぶりとなるスペシャルドラマ『THE LAST TV』を放送、『THE FINAL』を映画公開、シリーズ15年の歴史に幕を閉じた。 「織田裕二主演の刑事もの」という企画。当時は『あぶない刑事』などのバディものが流行っていたが、亀山千広プロデューサーは、「それをやってもまがい物で勝てないし、刑事部屋が動くというと『太陽にほえろ』を越えられない」と考えた。また当時、高村薫の『マークスの山』などの小説が話題になり、作品中、"管理官"という言葉をはじめ警視庁の中に色々な役職があり、初めて世の中の人がそれを知った。そうした流れの中で、組織論をやるのはどうかなと考え、脚本の君塚良一に伝えたら、君塚が自宅の書棚から笠原和夫の本を持って来て「『仁義なき戦い 代理戦争』って何も起こらず、ただ組のメンツをかけて役者同志が喋ってる。それだけ。それでいいんだ」と言った。亀山は「警視庁のメンツと所轄のメンツ、それが本作のテーマ。だから私と君塚さん二人の間では『踊る』は半分『仁義なき戦い』なんです。ダメな署長は金子信雄さんです」などと述べている。 元敏腕営業マンの青島俊作は脱サラして警察官となり、交番勤務を経てようやく念願の刑事課勤務となる。だが、青島の配属された警視庁湾岸署は「空き地署」と陰口される東京の僻地。配属直後に管内で事件が発生し、青島は意気込んで現場に向かうものの、「所轄刑事」として現場検証すらさせて貰えない。青島は強行犯係の大先輩で定年間際のベテラン刑事和久平八郎から所轄刑事の心得を叩き込まれる。それは青島が思い描いていた理想の刑事像と大きくかけ離れた地味で冴えないものだった。 管内で殺人事件が発生した場合には所轄署に「帳場が立ち」(捜査本部設置)、本庁刑事部の腕利きと共に国家公務員一種(キャリア)の管理官が送り込まれる。聞き込みや取り調べ、犯人確保といった事件捜査の主役はあくまで彼らの仕事だった。青島が初めて出会った警察官僚が室井慎次管理官だった。青島は室井の指名で運転手役をやらされ、徹底的に冷たくあしらわれる。室井は被害者の娘で通報者の柏木雪乃にも詰問口調で迫る。雪乃は父親を失ったショックで失語症に陥っていた。青島は室井の乱暴さに反感を覚え、雪乃を優しくフォローする。 一方、湾岸署は個性派揃い。俗物で昼行灯の神田 総一朗署長を筆頭に、署長の腰巾着秋山 春海副署長。そして、事なかれ主義の刑事課長袴田 健吾などなど、良くも悪くも青島にとっては営業マン時代とそう変わらぬ人間関係となる。同じ強行犯係には東大卒のキャリアで年齢は青島より下だが階級は遙かに上、親の七光りまで持つ真下正義が昇進試験の「腰掛け」として在籍中。そして盗犯係には小さい体に似合わず男勝りの迫力を持つ紅一点恩田すみれが居た。熱血が空回りすることの多い青島は和久、真下、すみれら仲間たちに励まされながら奮闘することになる。 やがて、すみれの過去が明らかになる。逮捕した犯人からの逆恨みでストーカー被害に遭い、体にも心にも大きな疵を抱えていた。「正しいことをしたければ偉くなれ」和久のその言葉は重い意味を含んでいた。青島は仲間たちや自分を頼ってくれる人々を守る為、強くなろうと胸に誓う。また、鉄面皮の冷血漢に見えた室井も秋田出身で東北大卒という異色のエリートで、優秀であるが故に身内に敵も多い孤独な男だった。室井は次第に青島を認め、目を掛けるようになるがそれはお互いにとって辛く険しい道程となってゆく。 雪乃は青島やすみれの励ましを受け、父親の事件を乗り越えて、日本で生活していた。ところがそんな彼女に麻薬密輸の重要参考人という嫌疑がかけられる。雪乃を本庁の手に渡してはならない。青島は咄嗟の機転で雪乃を口汚く侮辱し、怒った雪乃から平手打ちを食らう。「公務執行妨害による逮捕」その場合、勾留権は所轄署が優先される。真下やすみれの協力により「取り調べと称する時間稼ぎ」で雪乃を保護する一方、青島は和久と共に真犯人を追う。そこで和久が見せたのはグレーゾーンに生きる人間たちと繋がりを持ち、彼らから巧みに情報を引き出す所轄刑事ならではの裏技だった。青島は和久から継承者に指名される。二人の活躍により被疑者は確保され、本庁刑事に引き渡された。だが、本庁や警察上層部の間で青島は悪名高き存在となる。 雪乃は、この事件をきっかけに警察官を目指すようになる。 管内で発砲事件が発生。職質しようとした真下が銃撃され、重体に陥る。仲間の窮地に湾岸署は結束し全力をもって捜査に尽力する。そして、室井と青島のコンビにより事件は無事解決する。だが、室井は警備部に左遷され、青島は交番勤務に戻される。「市民に信頼されるお巡りさん」という自身の原点に立ち戻った青島はやがて再起することになる。 この物語は、異色の経歴と特技を持つ青島刑事を軸に、彼を取り巻く人々が時代の変化により起きる数々の難事件と対決する、壮大なドラマとなってゆくのだった。 初期の構想段階では、すでに引退したベテラン刑事和久の娘をすみれ(監察医)に設定し、和久宅に居候する青島との恋愛も一案にあった。その後は、青島と雪乃、室井とすみれの二本立てでの恋愛路線、青島と雪乃とすみれの三角関係も構想されている。実際、青島・雪乃間での恋愛に発展しそうな伏線や、すみれが青島に惹かれてゆく描写もちりばめられており、室井とすみれの二人きりのシーンも幾度かあった。 この恋愛ドラマ路線は、第1話が放映され視聴率が出た時点で取りやめが決定された が、これは亀山プロデューサーの判断であった と、脚本家・君塚良一は著書「テレビ大捜査線」にて語っている。このとき第4話までは脱稿していたので第5話からのプロットが恋愛の要素を排したものに変更され、以後は警察ドラマとしての視点に重点を置いていくこととなり、そこで雪乃の設定に大幅な変更が加えられている(血液型まで変更された)。 『踊る大捜査線』 「踊るレジェンド」やミニドラマなど「踊る」シリーズの世界設定・時間軸で作られた正規の関連ドラマを含む。特に明記されていないものはフジテレビでの放送である。 映画の公開などと絡めた関連番組が数多く作成された。出演者、スタッフへのインタビュー、メイキング映像などが多いが中には本格的にドラマ仕立てになっているものもある。設定本などの公式資料ではテレビシリーズの再編集版である『ザッツ踊る大捜査線』や「踊る」シリーズの時間軸上で作られたスペシャルドラマなどと特に区別することなく放送日順に列挙されていることが多い。特に明記されていないものはフジテレビでの放送である。基本的に映像商品化はされていないが、一部はDVDの特典映像などになっている。 THE ODORU LEGEND CONTINUESを含む。 『プロジェクトK』、『デカウォーズ』、『観光案内』の3本は「THE MOVIE 2」のための「湾岸署3大VTR」として作成され、湾岸署観光者相談係のモニター映像として「THE MOVIE 2」の中で使用されたほか「歳末特別警戒スペシャル完全版+α」の中でも放送された。「踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2」の特典ディスクに収録された。 踊る大捜査線シリーズはこの世界設定上の時間軸での1997年1月の出来事を実際の1997年1月に放送する話で始まり、「THE MOVIE」までは放送・公開時期とほぼ同じ時期の出来事を描く形で作られてきた。亀山プロデューサーによれば踊る大捜査線シリーズのコンセプトの一つである「リアリティー」の表れの一つで、映画についても当初はテレビシリーズ第1話のリメイクや 青島が会社員を辞めて刑事を目指すようになる話など時間軸を大きく遡った時期の話を描くことも検討されたが、結局は上記の原則を踏襲する形となったとされている。 2009年3月の「踊る大捜査線 THE MOVIE 3」の制作発表においては、時間軸がリアルに進んでいることを前提に青島が係長に昇進している可能性や、新人が配属される可能性について言及されており、実際にその通りになった。その後は、描かれている時期と放送・公開時期が次第に離れてきており、「逃亡者 木島丈一郎」では初めて時系列を遡る話になった。 「THE MOVIE」以後は、映画で描かれた話の前日譚や後日譚をテレビドラマ、舞台、DVD特典映像といったさまざまな手段で描く形をとっており、それぞれの話の前後関係が複雑になっているため、下に作中の時系列に沿った一覧表を掲げる。 ※「THE MOVIE」は事件の数日後に入院している青島を室井と和久が見舞うシーンで、「THE MOVIE 2」は事件の数ヶ月後(2004年1月)に室井と青島が表彰されるが青島が新たな事件の捜査のために表彰式をすっぽかすシーンで終わっている。「舞台も踊る大捜査線」では、「THE MOVIE 2」で発生した事件と表彰式との間のひとこまを描いている。 お台場地区を主要な舞台とする本作品は1996年から1997年にかけてフジテレビ本社が新宿区河田町からお台場地区に移転した(撮影当時は本格移転前で、撮影スタジオのみ先行して使用していた)ことを受けて「フジテレビお台場移転第1回記念作品」として作られテロップまで作成されたが、系列局からの「フジテレビだけで放送するんじゃないから」との反対で最終的には外された。 第2作公開後、重要メンバーである和久平八郎役のいかりや長介が病没。スピンオフ作品である『容疑者 室井慎次』では、和久の健在を匂わす台詞があるが、MOVIE3での和久は故人の設定で、甥っ子として和久伸次郎が登場する。 前述の「ハイパーリンク」をはじめ、劇中には様々な"遊び"が盛り込まれている。 劇中に登場する架空の運送会社のブランド名(正式社名は新日本運搬)で、カエルのロゴマークが特徴である。毎回、カエル急便が登場すると、何かしら事件が発生する。番外編(『湾岸署婦警物語』)ではカエル急便の社屋も画面上に登場している。映画 新たなる希望では、カエル急便の倉庫も登場している。 テレビアニメ版の『学校の怪談』には、新聞にカエル急便の広告が載っていた。(テレビアニメ『GTO』第15話にも理事長の読んでる新聞にカエル急便の広告があった。)テレビアニメ『GTO』の第17話「悪い夢! 逃亡者・鬼塚!」にカエル急便のダンボールが山積みにされていた。 劇中に出てくる居酒屋の名前。TVシリーズ第1話和久の台詞から登場している。署長らの接待でたびたび利用されているほか、『初夏の交通安全スペシャル』で篠原夏美の歓迎コンパでも利用されている寿司屋「和之竹」が隣にある。『THE MOVIE 3』のスピンオフムービー『係長 青島俊作 THE MOBILE』でも、傷害事件の現場になった。 湾岸署管轄区域唯一の架空の名産品で署長たちが接待するときに必ず差し出す七色の最中。レインボーブリッジとかけた名前で、劇中で何度か使われ、その後も「レインボーせんべい」等の派生品も登場した。 「キムチラーメン」「わさびラーメン」など架空のもの、実在のもの含めて様々なカップ麺が登場する。『THE MOVIE 2』公開の際には「湾岸ラーメン」というカップ麺が劇中に登場した。 2005年8月には、劇場公開された『容疑者 室井慎次』において舞台となる新宿北署にあった明星食品の自販機の中に入っていたカップ麺のうち、「北新宿キムチ麺」と「北新宿トムヤム麺」2つのエスニック系カップ麺が、実際に明星食品から商品として全国発売された。 2010年6月21日、劇場公開される『THE MOVIE 3』の劇中登場にあわせて「踊る大捜査線 ザ・湾岸ラーメン 海鮮キムチコク塩味」が、明星食品より全国発売された。 2012年8月27日、劇場公開される『THE FINAL』に合わせて、劇中にも登場する「踊る大捜査線 ザ・湾岸ラーメン ワンタン麺 エビ塩味」が明星食品より全国発売された。 THE MOVIE 2の冒頭、青島刑事の通勤シーンはテレビシリーズ第1話で青島が初めて湾岸署に向うシーンと同一の経路を辿っており、「空き地」から「観光地」への変貌振りがよくわかるつくりになっている。 番外編で“女青島”こと篠原巡査(内田有紀)が通勤するシーンも、第1話のこれと同一のカット割になっており、青島と女青島との対比が描かれている。 テレビシリーズのオープニングで、それぞれの役柄の出身地や現住所、役職といったプロフィールが書かれている。 劇中に出てくる登場人物の誕生日は演者と同じである。その他にも生年や出身地、血液型まで同じ人物もいる。 プロデューサーの亀山千広、東海林秀文をはじめ、多くの製作スタッフが『内トラ(内部エキストラ)』(業者に依頼し端役を発注するエキストラに対し、端役を内部のスタッフでまかなうこと)としてテレビ・映画全てにおいて多くのシーンに出演しており、一部の役(死体発見者、ボクサーとトレーナーなど)は準レギュラー化している。このほかに番組内で使用されている「前科者リスト」や「容疑者リスト」にもスタッフの写真が使用されるなどしている。スタッフの子供が出ているケースもある。 プロデューサーの亀山千広は「深夜も踊る大捜査線」では脚本家の君塚良一とともに「管内で刑事ドラマを撮影する許可(設定上、フジテレビ本社は湾岸署の管轄内となる)をもらいに湾岸署に来る」という設定で本人役で出演している。 『秋の犯罪撲滅スペシャル』で、青島たちが調べている被疑者所有ビデオテープの中の1本に、『東京ラブストーリー』が登場。青島は感情移入して見入る面々を横目に、織田演じるカンチのことを「何だかはっきりしない男ッスよね」とダメ出しし、周囲の微妙な反応を招く。 本作の捜査本部などの場面用に製作された楽曲『危機一髪』は新世紀エヴァンゲリオンの戦闘シーン用の楽曲『Decisive Battle(EM20)』の特徴的なティンパニーパートのリズムをほぼそのまま使用している。これについて作・編曲者である松本晃彦は、本楽曲が収録されている『RHYTHM AND POLICE ORIGINAL SOUND TRACK II SOUND FILE』ブックレット内の記事にて「某アニメシリーズ?多くは語りませんがスタッフがファンなのは確かです」と関連を匂わせている。また、TV放送版の最終回・第11話で緊急逮捕された安西を湾岸署に連行してくるシーンにてDecisive Battle自体がそのままBGMとして使用されている。 『歳末特別警戒スペシャル』の冒頭、オーストリア大統領夫人による杉並区の病院訪問を報道するTVリポーターの名前が綾波麗(うらら)となっている。彼女は『初夏の交通安全スペシャル』にも出演し、主人公・篠原夏美とは短大時代の同級生という設定が追加されている。夜間の飲酒運転検問で引っかかったTV番組プロデューサーの車に同乗しており、夏美に対して知り合いのよしみから「新しい仕事が取れそうだから」とプロデューサーの違反もみ消しを冗談半分に依頼している(夏美は拒否)。彼女の名前の元ネタは新世紀エヴァンゲリオンに登場するヒロインの一人、綾波レイである。 『歳末特別警戒スペシャル』のクライマックスでは、BGMとしてベートーヴェンの第九をバックに青島たちが犯人と格闘するシーンがあるが、映画「ダイ・ハード」や『新世紀エヴァンゲリオン』、後の『相棒』のシーンと似た手法がとられている。 「踊る大捜査線 THE MOVIE」のクライマックスで、青島が煙突から出るピンクの煙によって監禁された和久を探すシーンがある。そのシーンの画面が白黒になり煙突からのピンク煙だけを着色しているのは、黒澤明の映画「天国と地獄(1963年)」に出てくる煙突シーンとほぼ同じである(「天国と地獄」は全篇白黒作品だが、煙突からの煙のみ着色している。このような映画を「パートカラー作品」ということがある)。そのためそのシーンで青島は「天国と地獄だ」というセリフを言う。このモチーフの使用や劇中での「黒澤塗料」の名称使用などについては撮影前に権利者である黒澤プロダクションより正式な使用許諾を受けている(本広克行監督が「THE MOVIE」DVDのコメンタリーにて発言)。ラストでは、いきなり背中を刺されているが、これも「振り返れば奴がいる」のオマージュと考えられる。 『THE MOVIE 2』のOPではジャッキー・チェンのファースト・ミッションの実技訓練。犯人グループの一人が東北訛りで「蒲田」のことを「カメダ」と発音するシーンがあるが、松本清張原作の「砂の器」に出てくる件とまったく同じ手法である。すみれがそのシーンの後「砂の器......」とつぶやくセリフがある。 本作の劇中用語はいずれも、過去の刑事ドラマではあまり用いられることのなかったものである。それまでの刑事ドラマでは犯人のことを「ホシ」、事件のことを「ヤマ」などという隠語で呼ぶようにしていた。「踊る」においては全面的にこのような隠語が一般的な呼称として用いられていない。劇中では犯人のことを「被疑者・マル被」、容疑者の身柄を拘束することを「確保」と言い換えていた。 刑事課のみならず、警察内で警察官が使う「任同」「機捜」「現着」「追尾」「ローラー」「害者」「123」などの職業用語も多数引用され、一部は世間一般にも広まった。犯人と「被疑者」とは同義語ではないが、「マル被」という言い方は実際の警察の捜査員も使用する。「確保」はあくまで身柄確保の意味であり、逮捕のみを指すとは限らない。 実際に警察官(特に私服警官である刑事)は外部で仕事の話をする場合、「会社」「社長」などビジネス用語を用い、警察官であることを悟られないようにしている。しかし、これが原因で 副総監誘拐事件が発生した。 劇中で「労災」という言葉が頻繁に登場する。公務員である警察官は同様の制度である「公務災害」が適用される。 劇中で「拳銃携帯命令」と呼ばれる署員に拳銃を所持させる命令が出されているが、実際には拳銃携帯に特別な許可や命令は存在しない。 TVシリーズ第7話で、「拘留(こうりゅう)期限まで○時間○分」というテロップが複数回発現するが、これは誤りで、「勾留(こうりゅう)~」が正しい。 どちらも読み方は同じ「こうりゅう」であるが、意味がまったく異なる。 前者は刑罰としての身柄拘束を、後者は被疑者(または被告人)の逃亡や証拠隠滅を防ぐための身柄拘束をそれぞれ指す。 作品の舞台となる警察署。「WPS/湾岸署」の2段書きはフジテレビの登録商標である(第4728692号)。 通称 WPS=Wangan Police Station。警視庁第一方面本部に属する1995年になって新設された警察署である。所在地は、東京都港区台場3丁目2番8号(実際には台場は2丁目までしかない)。「THE MOVIE 2」のパンフレットや公式本「踊る大捜査線研究ファイル」によれば地図上での位置はフジテレビがある位置になっているが、テレビシリーズ第1話や「THE MOVIE 2」冒頭での湾岸署への出勤シーンでは最寄り駅であるりんかい線東京テレポート駅を出てフジテレビとは逆方向の夢の大橋方面に向かって歩いている。ロケ地は江東区潮見にある潮見コヤマビル(後に潮見GATE SQUAREに改称)で、外観、1階ロビー、屋上、生活安全課のシーンなどがここで撮影されている。なお、劇場版3は"新湾岸署への引っ越し作業中に事件が起こる"という設定の為、同作に於ける湾岸署の撮影場所(外観、1階ロビーなど)は、冒頭シーンを除いて現存する東京湾岸警察署の隣に位置する"the SOHOビル"に移動している。 新設された当時は、臨海副都心といってもほとんど建設予定地ばかりで人もまばらであった。そのため他の所轄署(特に勝どき署)や警視庁の捜査員などからは「空き地署」と呼ばれ蔑まれていた。大規模所轄の部類には入るが、割合開けてきた2003年ころ(「THE MOVIE 2」の時点)でもエリートコースなどではなく、相変わらず本庁の駒にされる立場の弱い所轄である。署長は延々と神田が務めているが(2010年の新湾岸署移転時に真下に交代)、神田自身は丸の内署への栄転を希望している。青島の責任を問われいつも先送りとなる。署内には神田による署訓 「私あっての湾岸署」「ミスのない捜査とスキのない接待」が配布されている。新設だけあって外部も内装も新しく、およそ警察署といったイメージではないモダンな作りとなっている。 以上は作中の「湾岸署」の設定であるが、実際にも東京水上警察署を移転改築し近隣署と管轄を調整、臨海副都心全体を管轄する「東京湾岸警察署」(Tokyo Wangan Police Station) が2008年3月31日に開署した。 「Love Somebody」は本来クリスマスソングとして作られた。 「Love Somebody-CINEMA Version II-」では歌詞の一部が変更されており、「誰かを愛せたとき」から「あなたを愛せたとき」になっているが「Love Somebody-CINEMA Version III-」 では「誰かを愛せたとき」に戻された。 ドラマ版から『容疑者 室井慎次』を担当しているのは松本晃彦、『THE MOVIE 3』『THE FINAL』を担当しているのは菅野祐悟である。松本はスピンオフムービー「交渉人 真下正義」「容疑者 室井慎次」も手掛けており2005年12月に放映された「逃亡者 木島丈一郎」も担当した。アルバム『RHYTHM AND POLICE』は、IからVを合わせて100万枚以上販売されている。フェイス・ワンダワークスが2015年に発表したGIGAエンタメロディで15年間で最も多くダウンロードされた着信メロディを集計した「着信メロディ15年間ランキング」において、「Rhythm And Police」は10位にランクインされた。 メインテーマ曲「Rhythm And Police」(日本音楽著作権協会(JASRAC)作品コード049-0585-7)の原曲は、メキシコの作曲家ロレンソ・バルセラータ(Lorenzo Barcelata Castro;二つ目の姓である「カストロ」は母方の姓)(1889 - 1943)が作曲作詞した『エル・カスカベル』(El Cascabel;日本音楽著作権協会(JASRAC)作品コード0K3-4404-1) である。すでに著作者であるロレンソ・バルセラータの死後50年が経過しているため、1994年の時点で、日本国内における『エル・カスカベル』の著作権は消滅している。日本国外でのBAYSIDE SHAKEDOWN 2の上映には国および地域によっては問題が残る。Rhythm And Policeにサンプリングとして使われているのはボイジャー(1977年)に搭載された「地球の音 (The Sounds of Earth)」と同一の編曲のもので、このレコードの音源は1992年にWarner New MediaからCD化され聴くことができる。 スピンオフである『踊るレジェンド』作品(「交渉人 真下正義」「容疑者 室井慎次」「逃亡者 木島丈一郎」「弁護士 灰島秀樹」「警護官 内田晋三」)では『Rhythm And Police』は使用されていない。※ただし、DVD特典として収録された「警護官〜」では権利上の関係からか、タイトルバックの曲が『Rhythm And Police』に差し替えられている。 このほかにも、過去のフジテレビで使われた演奏曲も使われている。最終話の最後のシーンで真下が撃たれた時に流れていた曲は、「NIGHT HEAD」でも使われているので、踊るのサントラ独自のものではない。 『RHYTHM AND POLICE』はコナミのBEMANIシリーズのアーケードゲームでは『ポップンミュージック11』に、アレンジ版である「Rhythm & Police (K.O.G G3 Mix)」(CJ Crew feat. Christian D.)が『Dance Dance Revolution 5thMIX』で収録されている。ほか、トミーのヴァイオリン型電子玩具『evio』の外部メディアにも「踊る大捜査線のテーマ」として収録されている。また、日本を含めて世界的に行われているフィットネスプログラム「ボディコンバット」でも使用されている。 テレビシリーズでBGMとして、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の戦闘シーン「DECISIVE BATTLE」「Spending Time in Preparation」のアレンジを使用している。番組の音響担当者がエヴァ製作者に了解を得て製作した(DVD「踊る大捜査線1」より)。第1話のみアレンジの時間がなく庵野秀明に本広克行が電話で了解を得てエヴァサントラの曲をそのまま使用した。 スピンオフ作品関係を含む。 販売元は株式会社ポニーキャニオン 販売元はポニーキャニオン ※は英語字幕付き。 販売元はすべてポニーキャニオン ※「踊る大ソウル線」のうち、終盤の「THE MOVIE」と「踊る大ソウル線」の間に起きた出来事を登場人物が語るシーンは、君塚がノンクレジットで執筆した(君塚の著書「裏ドラマ」による)。 「踊る大捜査線」シリーズが好評であったことから、本シリーズのタイトルやキャラクターを使用したドキュメンタリー番組や選挙特別番組が放送された。 バラエティー番組を始めとする様々なテレビ番組で「踊る大○○線」といった名前を持ったパロディーが作られた。一部の番組には本物のキャストが出演している。 このほか、1999年に「めちゃ×2イケてるッ!」内のコーナーフジテレビ警察に筧利夫が新城賢太郎管理官として本庁からやってきたという設定で出演したことがある。 ラジオ
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『踊る大捜査線』(おどるだいそうさせん)は、フジテレビ系列で放送された日本の刑事ドラマシリーズ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "連続ドラマとして1997年1月7日から3月18日まで毎週火曜日21:00 - 21:54に、「火曜9時」枠で放送された。その後シリーズ化されテレビドラマ・映画・舞台で展開された。その後も「踊るレジェンド」としてテレビドラマや映画のスピンオフ作品が作られた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本作のタイトルは、映画『夜の大捜査線』と『踊る大紐育』に由来する。なお、同局で過去に放送していた杉良太郎主演の『大捜査線』とは無関係。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "織田裕二が演じる青島俊作巡査部長(後に係長、警部補に昇進)が主人公の「警察ドラマ」。連続ドラマ版放映開始当時までの刑事ドラマは、犯人の逮捕までを追う描写が多く、また銃撃戦やカーチェイスといった派手な追跡劇や所轄警察署が広域事件・テロ事件を解決させるといったような、エンターテイメント性を重視した描写が主流であったが、当作品ではそれらの要素を可能なかぎり排除し現実の警察組織と近い業務形態や実情を採用した作風となっている。より現実味ある描写をメインとし、警察機構を会社組織に置き換え、署内の権力争いや本店(=警視庁)と支店(=所轄署)の綱引きなどを、湾岸警察署を中心に描いている。本作品で登場した具体的な例としては、刑事のことを「デカ」ではなく「捜査員」と呼ぶ、加害者のことを「ホシ」ではなく「被疑者」と呼ぶ、「発砲許可」に対して手続きが存在するなどである。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": 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"text": "2010年に7年ぶりに、『THE MOVIE 3』を映画公開。その、スピンオフとして『係長 青島俊作』を携帯ドラマとして発信。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2012年、14年ぶりとなるスペシャルドラマ『THE LAST TV』を放送、『THE FINAL』を映画公開、シリーズ15年の歴史に幕を閉じた。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「織田裕二主演の刑事もの」という企画。当時は『あぶない刑事』などのバディものが流行っていたが、亀山千広プロデューサーは、「それをやってもまがい物で勝てないし、刑事部屋が動くというと『太陽にほえろ』を越えられない」と考えた。また当時、高村薫の『マークスの山』などの小説が話題になり、作品中、\"管理官\"という言葉をはじめ警視庁の中に色々な役職があり、初めて世の中の人がそれを知った。そうした流れの中で、組織論をやるのはどうかなと考え、脚本の君塚良一に伝えたら、君塚が自宅の書棚から笠原和夫の本を持って来て「『仁義なき戦い 代理戦争』って何も起こらず、ただ組のメンツをかけて役者同志が喋ってる。それだけ。それでいいんだ」と言った。亀山は「警視庁のメンツと所轄のメンツ、それが本作のテーマ。だから私と君塚さん二人の間では『踊る』は半分『仁義なき戦い』なんです。ダメな署長は金子信雄さんです」などと述べている。", "title": "企画経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "元敏腕営業マンの青島俊作は脱サラして警察官となり、交番勤務を経てようやく念願の刑事課勤務となる。だが、青島の配属された警視庁湾岸署は「空き地署」と陰口される東京の僻地。配属直後に管内で事件が発生し、青島は意気込んで現場に向かうものの、「所轄刑事」として現場検証すらさせて貰えない。青島は強行犯係の大先輩で定年間際のベテラン刑事和久平八郎から所轄刑事の心得を叩き込まれる。それは青島が思い描いていた理想の刑事像と大きくかけ離れた地味で冴えないものだった。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "管内で殺人事件が発生した場合には所轄署に「帳場が立ち」(捜査本部設置)、本庁刑事部の腕利きと共に国家公務員一種(キャリア)の管理官が送り込まれる。聞き込みや取り調べ、犯人確保といった事件捜査の主役はあくまで彼らの仕事だった。青島が初めて出会った警察官僚が室井慎次管理官だった。青島は室井の指名で運転手役をやらされ、徹底的に冷たくあしらわれる。室井は被害者の娘で通報者の柏木雪乃にも詰問口調で迫る。雪乃は父親を失ったショックで失語症に陥っていた。青島は室井の乱暴さに反感を覚え、雪乃を優しくフォローする。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方、湾岸署は個性派揃い。俗物で昼行灯の神田 総一朗署長を筆頭に、署長の腰巾着秋山 春海副署長。そして、事なかれ主義の刑事課長袴田 健吾などなど、良くも悪くも青島にとっては営業マン時代とそう変わらぬ人間関係となる。同じ強行犯係には東大卒のキャリアで年齢は青島より下だが階級は遙かに上、親の七光りまで持つ真下正義が昇進試験の「腰掛け」として在籍中。そして盗犯係には小さい体に似合わず男勝りの迫力を持つ紅一点恩田すみれが居た。熱血が空回りすることの多い青島は和久、真下、すみれら仲間たちに励まされながら奮闘することになる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "やがて、すみれの過去が明らかになる。逮捕した犯人からの逆恨みでストーカー被害に遭い、体にも心にも大きな疵を抱えていた。「正しいことをしたければ偉くなれ」和久のその言葉は重い意味を含んでいた。青島は仲間たちや自分を頼ってくれる人々を守る為、強くなろうと胸に誓う。また、鉄面皮の冷血漢に見えた室井も秋田出身で東北大卒という異色のエリートで、優秀であるが故に身内に敵も多い孤独な男だった。室井は次第に青島を認め、目を掛けるようになるがそれはお互いにとって辛く険しい道程となってゆく。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "雪乃は青島やすみれの励ましを受け、父親の事件を乗り越えて、日本で生活していた。ところがそんな彼女に麻薬密輸の重要参考人という嫌疑がかけられる。雪乃を本庁の手に渡してはならない。青島は咄嗟の機転で雪乃を口汚く侮辱し、怒った雪乃から平手打ちを食らう。「公務執行妨害による逮捕」その場合、勾留権は所轄署が優先される。真下やすみれの協力により「取り調べと称する時間稼ぎ」で雪乃を保護する一方、青島は和久と共に真犯人を追う。そこで和久が見せたのはグレーゾーンに生きる人間たちと繋がりを持ち、彼らから巧みに情報を引き出す所轄刑事ならではの裏技だった。青島は和久から継承者に指名される。二人の活躍により被疑者は確保され、本庁刑事に引き渡された。だが、本庁や警察上層部の間で青島は悪名高き存在となる。 雪乃は、この事件をきっかけに警察官を目指すようになる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "管内で発砲事件が発生。職質しようとした真下が銃撃され、重体に陥る。仲間の窮地に湾岸署は結束し全力をもって捜査に尽力する。そして、室井と青島のコンビにより事件は無事解決する。だが、室井は警備部に左遷され、青島は交番勤務に戻される。「市民に信頼されるお巡りさん」という自身の原点に立ち戻った青島はやがて再起することになる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この物語は、異色の経歴と特技を持つ青島刑事を軸に、彼を取り巻く人々が時代の変化により起きる数々の難事件と対決する、壮大なドラマとなってゆくのだった。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "初期の構想段階では、すでに引退したベテラン刑事和久の娘をすみれ(監察医)に設定し、和久宅に居候する青島との恋愛も一案にあった。その後は、青島と雪乃、室井とすみれの二本立てでの恋愛路線、青島と雪乃とすみれの三角関係も構想されている。実際、青島・雪乃間での恋愛に発展しそうな伏線や、すみれが青島に惹かれてゆく描写もちりばめられており、室井とすみれの二人きりのシーンも幾度かあった。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この恋愛ドラマ路線は、第1話が放映され視聴率が出た時点で取りやめが決定された が、これは亀山プロデューサーの判断であった と、脚本家・君塚良一は著書「テレビ大捜査線」にて語っている。このとき第4話までは脱稿していたので第5話からのプロットが恋愛の要素を排したものに変更され、以後は警察ドラマとしての視点に重点を置いていくこととなり、そこで雪乃の設定に大幅な変更が加えられている(血液型まで変更された)。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『踊る大捜査線』", "title": "シリーズ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「踊るレジェンド」やミニドラマなど「踊る」シリーズの世界設定・時間軸で作られた正規の関連ドラマを含む。特に明記されていないものはフジテレビでの放送である。", "title": "シリーズ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "映画の公開などと絡めた関連番組が数多く作成された。出演者、スタッフへのインタビュー、メイキング映像などが多いが中には本格的にドラマ仕立てになっているものもある。設定本などの公式資料ではテレビシリーズの再編集版である『ザッツ踊る大捜査線』や「踊る」シリーズの時間軸上で作られたスペシャルドラマなどと特に区別することなく放送日順に列挙されていることが多い。特に明記されていないものはフジテレビでの放送である。基本的に映像商品化はされていないが、一部はDVDの特典映像などになっている。", "title": "シリーズ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "THE ODORU LEGEND CONTINUESを含む。", "title": "シリーズ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『プロジェクトK』、『デカウォーズ』、『観光案内』の3本は「THE MOVIE 2」のための「湾岸署3大VTR」として作成され、湾岸署観光者相談係のモニター映像として「THE MOVIE 2」の中で使用されたほか「歳末特別警戒スペシャル完全版+α」の中でも放送された。「踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2」の特典ディスクに収録された。", "title": "シリーズ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "踊る大捜査線シリーズはこの世界設定上の時間軸での1997年1月の出来事を実際の1997年1月に放送する話で始まり、「THE MOVIE」までは放送・公開時期とほぼ同じ時期の出来事を描く形で作られてきた。亀山プロデューサーによれば踊る大捜査線シリーズのコンセプトの一つである「リアリティー」の表れの一つで、映画についても当初はテレビシリーズ第1話のリメイクや 青島が会社員を辞めて刑事を目指すようになる話など時間軸を大きく遡った時期の話を描くことも検討されたが、結局は上記の原則を踏襲する形となったとされている。", "title": "シリーズ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2009年3月の「踊る大捜査線 THE MOVIE 3」の制作発表においては、時間軸がリアルに進んでいることを前提に青島が係長に昇進している可能性や、新人が配属される可能性について言及されており、実際にその通りになった。その後は、描かれている時期と放送・公開時期が次第に離れてきており、「逃亡者 木島丈一郎」では初めて時系列を遡る話になった。", "title": "シリーズ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "「THE MOVIE」以後は、映画で描かれた話の前日譚や後日譚をテレビドラマ、舞台、DVD特典映像といったさまざまな手段で描く形をとっており、それぞれの話の前後関係が複雑になっているため、下に作中の時系列に沿った一覧表を掲げる。", "title": "シリーズ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "※「THE MOVIE」は事件の数日後に入院している青島を室井と和久が見舞うシーンで、「THE MOVIE 2」は事件の数ヶ月後(2004年1月)に室井と青島が表彰されるが青島が新たな事件の捜査のために表彰式をすっぽかすシーンで終わっている。「舞台も踊る大捜査線」では、「THE MOVIE 2」で発生した事件と表彰式との間のひとこまを描いている。", "title": "シリーズ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "お台場地区を主要な舞台とする本作品は1996年から1997年にかけてフジテレビ本社が新宿区河田町からお台場地区に移転した(撮影当時は本格移転前で、撮影スタジオのみ先行して使用していた)ことを受けて「フジテレビお台場移転第1回記念作品」として作られテロップまで作成されたが、系列局からの「フジテレビだけで放送するんじゃないから」との反対で最終的には外された。", "title": "トピックス" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "第2作公開後、重要メンバーである和久平八郎役のいかりや長介が病没。スピンオフ作品である『容疑者 室井慎次』では、和久の健在を匂わす台詞があるが、MOVIE3での和久は故人の設定で、甥っ子として和久伸次郎が登場する。", "title": "トピックス" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "前述の「ハイパーリンク」をはじめ、劇中には様々な\"遊び\"が盛り込まれている。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "劇中に登場する架空の運送会社のブランド名(正式社名は新日本運搬)で、カエルのロゴマークが特徴である。毎回、カエル急便が登場すると、何かしら事件が発生する。番外編(『湾岸署婦警物語』)ではカエル急便の社屋も画面上に登場している。映画 新たなる希望では、カエル急便の倉庫も登場している。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "テレビアニメ版の『学校の怪談』には、新聞にカエル急便の広告が載っていた。(テレビアニメ『GTO』第15話にも理事長の読んでる新聞にカエル急便の広告があった。)テレビアニメ『GTO』の第17話「悪い夢! 逃亡者・鬼塚!」にカエル急便のダンボールが山積みにされていた。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "劇中に出てくる居酒屋の名前。TVシリーズ第1話和久の台詞から登場している。署長らの接待でたびたび利用されているほか、『初夏の交通安全スペシャル』で篠原夏美の歓迎コンパでも利用されている寿司屋「和之竹」が隣にある。『THE MOVIE 3』のスピンオフムービー『係長 青島俊作 THE MOBILE』でも、傷害事件の現場になった。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "湾岸署管轄区域唯一の架空の名産品で署長たちが接待するときに必ず差し出す七色の最中。レインボーブリッジとかけた名前で、劇中で何度か使われ、その後も「レインボーせんべい」等の派生品も登場した。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「キムチラーメン」「わさびラーメン」など架空のもの、実在のもの含めて様々なカップ麺が登場する。『THE MOVIE 2』公開の際には「湾岸ラーメン」というカップ麺が劇中に登場した。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2005年8月には、劇場公開された『容疑者 室井慎次』において舞台となる新宿北署にあった明星食品の自販機の中に入っていたカップ麺のうち、「北新宿キムチ麺」と「北新宿トムヤム麺」2つのエスニック系カップ麺が、実際に明星食品から商品として全国発売された。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2010年6月21日、劇場公開される『THE MOVIE 3』の劇中登場にあわせて「踊る大捜査線 ザ・湾岸ラーメン 海鮮キムチコク塩味」が、明星食品より全国発売された。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2012年8月27日、劇場公開される『THE FINAL』に合わせて、劇中にも登場する「踊る大捜査線 ザ・湾岸ラーメン ワンタン麺 エビ塩味」が明星食品より全国発売された。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "THE MOVIE 2の冒頭、青島刑事の通勤シーンはテレビシリーズ第1話で青島が初めて湾岸署に向うシーンと同一の経路を辿っており、「空き地」から「観光地」への変貌振りがよくわかるつくりになっている。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "番外編で“女青島”こと篠原巡査(内田有紀)が通勤するシーンも、第1話のこれと同一のカット割になっており、青島と女青島との対比が描かれている。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "テレビシリーズのオープニングで、それぞれの役柄の出身地や現住所、役職といったプロフィールが書かれている。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "劇中に出てくる登場人物の誕生日は演者と同じである。その他にも生年や出身地、血液型まで同じ人物もいる。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "プロデューサーの亀山千広、東海林秀文をはじめ、多くの製作スタッフが『内トラ(内部エキストラ)』(業者に依頼し端役を発注するエキストラに対し、端役を内部のスタッフでまかなうこと)としてテレビ・映画全てにおいて多くのシーンに出演しており、一部の役(死体発見者、ボクサーとトレーナーなど)は準レギュラー化している。このほかに番組内で使用されている「前科者リスト」や「容疑者リスト」にもスタッフの写真が使用されるなどしている。スタッフの子供が出ているケースもある。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "プロデューサーの亀山千広は「深夜も踊る大捜査線」では脚本家の君塚良一とともに「管内で刑事ドラマを撮影する許可(設定上、フジテレビ本社は湾岸署の管轄内となる)をもらいに湾岸署に来る」という設定で本人役で出演している。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "『秋の犯罪撲滅スペシャル』で、青島たちが調べている被疑者所有ビデオテープの中の1本に、『東京ラブストーリー』が登場。青島は感情移入して見入る面々を横目に、織田演じるカンチのことを「何だかはっきりしない男ッスよね」とダメ出しし、周囲の微妙な反応を招く。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "本作の捜査本部などの場面用に製作された楽曲『危機一髪』は新世紀エヴァンゲリオンの戦闘シーン用の楽曲『Decisive Battle(EM20)』の特徴的なティンパニーパートのリズムをほぼそのまま使用している。これについて作・編曲者である松本晃彦は、本楽曲が収録されている『RHYTHM AND POLICE ORIGINAL SOUND TRACK II SOUND FILE』ブックレット内の記事にて「某アニメシリーズ?多くは語りませんがスタッフがファンなのは確かです」と関連を匂わせている。また、TV放送版の最終回・第11話で緊急逮捕された安西を湾岸署に連行してくるシーンにてDecisive Battle自体がそのままBGMとして使用されている。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『歳末特別警戒スペシャル』の冒頭、オーストリア大統領夫人による杉並区の病院訪問を報道するTVリポーターの名前が綾波麗(うらら)となっている。彼女は『初夏の交通安全スペシャル』にも出演し、主人公・篠原夏美とは短大時代の同級生という設定が追加されている。夜間の飲酒運転検問で引っかかったTV番組プロデューサーの車に同乗しており、夏美に対して知り合いのよしみから「新しい仕事が取れそうだから」とプロデューサーの違反もみ消しを冗談半分に依頼している(夏美は拒否)。彼女の名前の元ネタは新世紀エヴァンゲリオンに登場するヒロインの一人、綾波レイである。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "『歳末特別警戒スペシャル』のクライマックスでは、BGMとしてベートーヴェンの第九をバックに青島たちが犯人と格闘するシーンがあるが、映画「ダイ・ハード」や『新世紀エヴァンゲリオン』、後の『相棒』のシーンと似た手法がとられている。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "「踊る大捜査線 THE MOVIE」のクライマックスで、青島が煙突から出るピンクの煙によって監禁された和久を探すシーンがある。そのシーンの画面が白黒になり煙突からのピンク煙だけを着色しているのは、黒澤明の映画「天国と地獄(1963年)」に出てくる煙突シーンとほぼ同じである(「天国と地獄」は全篇白黒作品だが、煙突からの煙のみ着色している。このような映画を「パートカラー作品」ということがある)。そのためそのシーンで青島は「天国と地獄だ」というセリフを言う。このモチーフの使用や劇中での「黒澤塗料」の名称使用などについては撮影前に権利者である黒澤プロダクションより正式な使用許諾を受けている(本広克行監督が「THE MOVIE」DVDのコメンタリーにて発言)。ラストでは、いきなり背中を刺されているが、これも「振り返れば奴がいる」のオマージュと考えられる。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "『THE MOVIE 2』のOPではジャッキー・チェンのファースト・ミッションの実技訓練。犯人グループの一人が東北訛りで「蒲田」のことを「カメダ」と発音するシーンがあるが、松本清張原作の「砂の器」に出てくる件とまったく同じ手法である。すみれがそのシーンの後「砂の器......」とつぶやくセリフがある。", "title": "スタッフによる遊び心" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "本作の劇中用語はいずれも、過去の刑事ドラマではあまり用いられることのなかったものである。それまでの刑事ドラマでは犯人のことを「ホシ」、事件のことを「ヤマ」などという隠語で呼ぶようにしていた。「踊る」においては全面的にこのような隠語が一般的な呼称として用いられていない。劇中では犯人のことを「被疑者・マル被」、容疑者の身柄を拘束することを「確保」と言い換えていた。", "title": "劇中用語" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "刑事課のみならず、警察内で警察官が使う「任同」「機捜」「現着」「追尾」「ローラー」「害者」「123」などの職業用語も多数引用され、一部は世間一般にも広まった。犯人と「被疑者」とは同義語ではないが、「マル被」という言い方は実際の警察の捜査員も使用する。「確保」はあくまで身柄確保の意味であり、逮捕のみを指すとは限らない。", "title": "劇中用語" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "実際に警察官(特に私服警官である刑事)は外部で仕事の話をする場合、「会社」「社長」などビジネス用語を用い、警察官であることを悟られないようにしている。しかし、これが原因で 副総監誘拐事件が発生した。", "title": "劇中用語" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "劇中で「労災」という言葉が頻繁に登場する。公務員である警察官は同様の制度である「公務災害」が適用される。", "title": "劇中用語" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "劇中で「拳銃携帯命令」と呼ばれる署員に拳銃を所持させる命令が出されているが、実際には拳銃携帯に特別な許可や命令は存在しない。", "title": "劇中用語" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "TVシリーズ第7話で、「拘留(こうりゅう)期限まで○時間○分」というテロップが複数回発現するが、これは誤りで、「勾留(こうりゅう)~」が正しい。 どちらも読み方は同じ「こうりゅう」であるが、意味がまったく異なる。 前者は刑罰としての身柄拘束を、後者は被疑者(または被告人)の逃亡や証拠隠滅を防ぐための身柄拘束をそれぞれ指す。", "title": "劇中用語" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "作品の舞台となる警察署。「WPS/湾岸署」の2段書きはフジテレビの登録商標である(第4728692号)。", "title": "湾岸署" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "通称 WPS=Wangan Police Station。警視庁第一方面本部に属する1995年になって新設された警察署である。所在地は、東京都港区台場3丁目2番8号(実際には台場は2丁目までしかない)。「THE MOVIE 2」のパンフレットや公式本「踊る大捜査線研究ファイル」によれば地図上での位置はフジテレビがある位置になっているが、テレビシリーズ第1話や「THE MOVIE 2」冒頭での湾岸署への出勤シーンでは最寄り駅であるりんかい線東京テレポート駅を出てフジテレビとは逆方向の夢の大橋方面に向かって歩いている。ロケ地は江東区潮見にある潮見コヤマビル(後に潮見GATE SQUAREに改称)で、外観、1階ロビー、屋上、生活安全課のシーンなどがここで撮影されている。なお、劇場版3は\"新湾岸署への引っ越し作業中に事件が起こる\"という設定の為、同作に於ける湾岸署の撮影場所(外観、1階ロビーなど)は、冒頭シーンを除いて現存する東京湾岸警察署の隣に位置する\"the SOHOビル\"に移動している。", "title": "湾岸署" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "新設された当時は、臨海副都心といってもほとんど建設予定地ばかりで人もまばらであった。そのため他の所轄署(特に勝どき署)や警視庁の捜査員などからは「空き地署」と呼ばれ蔑まれていた。大規模所轄の部類には入るが、割合開けてきた2003年ころ(「THE MOVIE 2」の時点)でもエリートコースなどではなく、相変わらず本庁の駒にされる立場の弱い所轄である。署長は延々と神田が務めているが(2010年の新湾岸署移転時に真下に交代)、神田自身は丸の内署への栄転を希望している。青島の責任を問われいつも先送りとなる。署内には神田による署訓 「私あっての湾岸署」「ミスのない捜査とスキのない接待」が配布されている。新設だけあって外部も内装も新しく、およそ警察署といったイメージではないモダンな作りとなっている。", "title": "湾岸署" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "以上は作中の「湾岸署」の設定であるが、実際にも東京水上警察署を移転改築し近隣署と管轄を調整、臨海副都心全体を管轄する「東京湾岸警察署」(Tokyo Wangan Police Station) が2008年3月31日に開署した。", "title": "湾岸署" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "「Love Somebody」は本来クリスマスソングとして作られた。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "「Love Somebody-CINEMA Version II-」では歌詞の一部が変更されており、「誰かを愛せたとき」から「あなたを愛せたとき」になっているが「Love Somebody-CINEMA Version III-」 では「誰かを愛せたとき」に戻された。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ドラマ版から『容疑者 室井慎次』を担当しているのは松本晃彦、『THE MOVIE 3』『THE FINAL』を担当しているのは菅野祐悟である。松本はスピンオフムービー「交渉人 真下正義」「容疑者 室井慎次」も手掛けており2005年12月に放映された「逃亡者 木島丈一郎」も担当した。アルバム『RHYTHM AND POLICE』は、IからVを合わせて100万枚以上販売されている。フェイス・ワンダワークスが2015年に発表したGIGAエンタメロディで15年間で最も多くダウンロードされた着信メロディを集計した「着信メロディ15年間ランキング」において、「Rhythm And Police」は10位にランクインされた。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "メインテーマ曲「Rhythm And Police」(日本音楽著作権協会(JASRAC)作品コード049-0585-7)の原曲は、メキシコの作曲家ロレンソ・バルセラータ(Lorenzo Barcelata Castro;二つ目の姓である「カストロ」は母方の姓)(1889 - 1943)が作曲作詞した『エル・カスカベル』(El Cascabel;日本音楽著作権協会(JASRAC)作品コード0K3-4404-1) である。すでに著作者であるロレンソ・バルセラータの死後50年が経過しているため、1994年の時点で、日本国内における『エル・カスカベル』の著作権は消滅している。日本国外でのBAYSIDE SHAKEDOWN 2の上映には国および地域によっては問題が残る。Rhythm And Policeにサンプリングとして使われているのはボイジャー(1977年)に搭載された「地球の音 (The Sounds of Earth)」と同一の編曲のもので、このレコードの音源は1992年にWarner New MediaからCD化され聴くことができる。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "スピンオフである『踊るレジェンド』作品(「交渉人 真下正義」「容疑者 室井慎次」「逃亡者 木島丈一郎」「弁護士 灰島秀樹」「警護官 内田晋三」)では『Rhythm And Police』は使用されていない。※ただし、DVD特典として収録された「警護官〜」では権利上の関係からか、タイトルバックの曲が『Rhythm And Police』に差し替えられている。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "このほかにも、過去のフジテレビで使われた演奏曲も使われている。最終話の最後のシーンで真下が撃たれた時に流れていた曲は、「NIGHT HEAD」でも使われているので、踊るのサントラ独自のものではない。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "『RHYTHM AND POLICE』はコナミのBEMANIシリーズのアーケードゲームでは『ポップンミュージック11』に、アレンジ版である「Rhythm & Police (K.O.G G3 Mix)」(CJ Crew feat. Christian D.)が『Dance Dance Revolution 5thMIX』で収録されている。ほか、トミーのヴァイオリン型電子玩具『evio』の外部メディアにも「踊る大捜査線のテーマ」として収録されている。また、日本を含めて世界的に行われているフィットネスプログラム「ボディコンバット」でも使用されている。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "テレビシリーズでBGMとして、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の戦闘シーン「DECISIVE BATTLE」「Spending Time in Preparation」のアレンジを使用している。番組の音響担当者がエヴァ製作者に了解を得て製作した(DVD「踊る大捜査線1」より)。第1話のみアレンジの時間がなく庵野秀明に本広克行が電話で了解を得てエヴァサントラの曲をそのまま使用した。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "スピンオフ作品関係を含む。", "title": "関連商品" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "販売元は株式会社ポニーキャニオン", "title": "関連商品" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "販売元はポニーキャニオン", "title": "関連商品" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "※は英語字幕付き。", "title": "関連商品" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "販売元はすべてポニーキャニオン", "title": "関連商品" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "※「踊る大ソウル線」のうち、終盤の「THE MOVIE」と「踊る大ソウル線」の間に起きた出来事を登場人物が語るシーンは、君塚がノンクレジットで執筆した(君塚の著書「裏ドラマ」による)。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "「踊る大捜査線」シリーズが好評であったことから、本シリーズのタイトルやキャラクターを使用したドキュメンタリー番組や選挙特別番組が放送された。", "title": "本シリーズの影響" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "バラエティー番組を始めとする様々なテレビ番組で「踊る大○○線」といった名前を持ったパロディーが作られた。一部の番組には本物のキャストが出演している。", "title": "本シリーズの影響" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "このほか、1999年に「めちゃ×2イケてるッ!」内のコーナーフジテレビ警察に筧利夫が新城賢太郎管理官として本庁からやってきたという設定で出演したことがある。", "title": "本シリーズの影響" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ラジオ", "title": "本シリーズの影響" } ]
『踊る大捜査線』(おどるだいそうさせん)は、フジテレビ系列で放送された日本の刑事ドラマシリーズ。 連続ドラマとして1997年1月7日から3月18日まで毎週火曜日21:00 - 21:54に、「火曜9時」枠で放送された。その後シリーズ化されテレビドラマ・映画・舞台で展開された。その後も「踊るレジェンド」としてテレビドラマや映画のスピンオフ作品が作られた。
{{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = 踊る大捜査線 | 画像 = | 画像説明 = | ジャンル = [[刑事ドラマ]] | 放送国 = {{JPN}} | 制作局 = [[フジテレビジョン|フジテレビ]] | 監督 = | 演出 = [[本広克行]]<br />[[澤田鎌作]] | 原作 = | 脚本 = [[君塚良一]] | プロデューサー = [[亀山千広]]<br />東海林秀文 | 出演者 = [[織田裕二]]<br />[[柳葉敏郎]]<br />[[深津絵里]]<br />[[水野美紀]]<br />[[ユースケ・サンタマリア]]<br>[[いかりや長介]] | 音声 = [[ステレオ放送]] | 字幕 = | データ放送 = | OPテーマ = [[松本晃彦]]<br />「Rhythm And Police」 | EDテーマ = 織田裕二with[[マキシ・プリースト]]<br />「[[Love Somebody]]」 | 番組名1 = 連続ドラマ | 放送時間1 = 火曜 21:00 - 21:54 | 放送分1 = 54 | 放送枠1 = [[フジテレビ火曜9時枠の連続ドラマ]] | 放送期間1 = [[1997年]][[1月7日]] - [[3月18日]] | 放送回数1 = 11 | 出演者1 = | 外部リンク1 = | 外部リンク名1 = | 番組名2 = 踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル | 放送時間2 = 火曜 21:00 - 23:18 | 放送分2 = 138 | 放送枠2 = | 放送期間2 = 1997年12月30日 | 放送回数2 = 1 | 出演者2 = | 外部リンク2 = https://www.fujitv.co.jp/b_hp/120825doyowide/ | 外部リンク名2 = フジテレビ番組基本情報 | 番組名3 = 踊る大捜査線 番外編 湾岸署婦警物語 初夏の交通安全スペシャル | 放送時間3 = 金曜 21:00 - 22:52 | 放送分3 = 112 | 放送枠3 = 金曜エンタテイメント | 放送期間3 = 1998年6月19日 | 放送回数3 = 1 | 出演者3 = | 外部リンク3 = | 外部リンク名3 = | 番組名4 = 踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル | 放送時間4 = 火曜 21:00 - 23:14 | 放送分4 = 134 | 放送枠4 = | 放送期間4 = 1998年10月6日 | 放送回数4 = 1 | 出演者4 = | 外部リンク4 = https://www.fujitv.co.jp/b_hp/120901doyospe/ | 外部リンク名4 = フジテレビ番組基本情報 | 番組名5 = 深夜も踊る大捜査線 湾岸署史上最悪の3人! | 放送時間5 = 1:10 - 1:20 | 放送分5 = 10 | 放送枠5 = | 放送期間5 = 1998年10月12日 - 10月16日 | 放送回数5 = 5 | 出演者5 = | 外部リンク5 = | 外部リンク名5 = | 番組名6 = 踊る大ソウル線 | 放送時間6 = 金曜 19:00 - 20:54 | 放送分6 = 114 | 放送枠6 = | 放送期間6 = 2001年9月21日 | 放送回数6 = 1 | 出演者6 = | 外部リンク6 = | 外部リンク名6 = | 番組名7 = 深夜も踊る大捜査線2 | 放送時間7 = 0:35 - 0:50 | 放送分7 = 15 | 放送枠7 = | 放送期間7 = 2003年7月14日 - 7月18日 | 放送回数7 = 5 | 出演者7 = | 外部リンク7 = | 外部リンク名7 = | 番組名8 = 前日も交渉人 真下正義 | 放送時間8 = | 放送分8 = | 放送枠8 = | 放送期間8 = 2005年5月6日 | 放送回数8 = 1 | 出演者8 = | 外部リンク8 = | 外部リンク名8 = | 番組名9 = 逃亡者 木島丈一郎 | 放送時間9 = 土曜 21:00 - 22:54 | 放送分9 = 114 | 放送枠9 = プレミアムステージ | 放送期間9 = 2005年12月10日 | 放送回数9 = 1 | 出演者9 = | 外部リンク9 = | 外部リンク名9 = | 番組名10 = 弁護士 灰島秀樹 | 放送時間10 = 土曜 21:00 - 22:54 | 放送分10 = 114 | 放送枠10 = 土曜プレミアム | 放送期間10 = 2006年10月28日 | 放送回数10 = 1 | 出演者10 = | 外部リンク10 = | 外部リンク名10 = | 番組名11 = 警護官 内田晋三 | 放送時間11 = | 放送分11 = | 放送枠11 = | 放送期間11 = 2007年1月27日 | 放送回数11 = 1 | 出演者11 = | 外部リンク11 = | 外部リンク名11 = | 番組名12 = 深夜も踊る大捜査線3 | 放送時間12 = 23:30 - 23:40 | 放送分12 = 10 | 放送枠12 = | 放送期間12 = 2010年6月28日 - 7月1日 | 放送回数12 = 4 | 出演者12 = | 外部リンク12 = | 外部リンク名12 = | 番組名13 = 踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件 | 放送時間13 = 土曜 21:00 - 23:10 | 放送分13 = 130 | 放送枠13 = 土曜プレミアム | 放送期間13 = 2012年9月1日 | 放送回数13 = 1 | 出演者13 = | 外部リンク13 = https://www.fujitv.co.jp/b_hp/120901premium/ | 外部リンク名13 = フジテレビ番組基本情報 | 番組名14 = 深夜も踊る大捜査線 THE FINAL | 放送時間14 = 0:45 - 0:55 | 放送分14 = 10 | 放送枠14 = | 放送期間14 = 2012年9月3日 - 9月6日 | 放送回数14 = 4 | 出演者14 = | 外部リンク14 = | 外部リンク名14 = | 特記事項 = 連続ドラマの初回は21:03 - 22:24の81分。<br />最終回は21:02 - 22:14の72分。 }} 『'''踊る大捜査線'''』(おどるだいそうさせん)は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジネットワーク|系列]]で放送された日本の[[刑事ドラマ]]シリーズ。 連続ドラマとして[[1997年]][[1月7日]]から[[3月18日]]まで毎週火曜日21:00 - 21:54に、「[[フジテレビ火曜9時枠の連続ドラマ|火曜9時]]」枠で放送された。その後シリーズ化され[[テレビドラマ]]・[[映画]]・[[舞台]]で展開された。その後も「踊るレジェンド」としてテレビドラマや映画の[[スピンオフ]]作品が作られた。 == 作品概要 == 本作のタイトルは、映画『[[夜の大捜査線]]』と『[[踊る大紐育]]』に由来する<ref group="注">いかりや長介『だめだこりゃ』p.200-201に、いかりやがプロデューサーの亀山に尋ねたときの会話が掲載されている。</ref>。なお、同局で過去に放送していた[[杉良太郎]]主演の『[[大捜査線]]』とは無関係。 [[織田裕二]]が演じる[[青島俊作]]巡査部長(後に係長、警部補に昇進)が主人公の「'''警察ドラマ'''」。連続ドラマ版放映開始当時までの刑事ドラマは、犯人の[[逮捕]]までを追う描写が多く、また銃撃戦や[[カーチェイス]]といった派手な追跡劇や所轄警察署が広域事件・テロ事件を解決させるといったような、エンターテイメント性を重視した描写が主流であったが、当作品ではそれらの要素を可能なかぎり排除し現実の警察組織と近い業務形態や実情を採用した作風となっている。より現実味ある描写をメインとし、警察機構を会社組織に置き換え、署内の権力争いや本店(=[[警視庁]])と支店(=所轄署)の綱引きなどを、湾岸警察署を中心に描いている。本作品で登場した具体的な例としては、刑事のことを'''「デカ」'''ではなく'''「捜査員」'''と呼ぶ、加害者のことを'''「ホシ」'''ではなく'''「[[被疑者]]」'''と呼ぶ、'''「発砲許可」'''に対して手続きが存在するなどである。 青島刑事以外にも[[恩田すみれ]]([[深津絵里]])・[[和久平八郎]]([[いかりや長介]])・[[真下正義]]([[ユースケ・サンタマリア]])などの湾岸警察署員や事件の被害者でのちに刑事となる[[柏木雪乃]]([[水野美紀]])、湾岸警察署の署長ら三人組(通称『[[スリーアミーゴス (踊る大捜査線)|スリーアミーゴス]]』)、警察庁のキャリア・[[室井慎次]]([[柳葉敏郎]])らにもスポットライトが当てられる。 事件を追うだけでなく、警察の抱えるさまざまな内部矛盾、特に警察組織の厳格な[[キャリア (国家公務員)#警察庁(国家公安委員会)|キャリア]]制度の問題、[[官僚制#マートンによって明らかにされた官僚制の逆機能(官僚主義)|官僚主義]]の問題、[[縦割り行政]]の問題、[[民事不介入]]の問題も大きなテーマとなっている。これら警察に関するリアルな描写は、以降の刑事ドラマ全般にも多大な影響を与えた。 連続ドラマ版(1997年)放映当初は決して高視聴率とは言えなかった。しかし、ドラマの視聴率が次第に上昇する中でプロデューサーの亀山が上司に対して「最終回の視聴率が20%を超えたら映画化してよい」との約束を取り付け、実際に最終回の視聴率が20%を超えたため映画化が実現した<ref>君塚良一『「踊る大捜査線」あの名台詞が書けたわけ』朝日新書307、朝日新聞出版、2011年7月、p. 82。 ISBN 978-4-0227-3407-5</ref>。連続ドラマ終了後、2本のスペシャルドラマ版と1本の番外編ドラマを経て映画化され、第1作・第2作ともに記録的なヒットとなった。映画の第1作から第2作までの間は、見えないストーリーが進行されていて、色々なエピソードが第2作で刑事らのセリフとして登場する(潜水艦事件など)。 2005年には映画版第2作の内容と連動した外伝的物語「踊るレジェンド」として『[[交渉人 真下正義]]』、『[[容疑者 室井慎次]]』が映画公開された。更に、2005年から2006年にかけて『交渉人 真下正義』の前日談として『[[逃亡者 木島丈一郎]]』が、『容疑者 室井慎次』の後日談として『[[弁護士 灰島秀樹]]』が、2007年には『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜]]』との共同制作である短編『[[警護官 内田晋三]]』がテレビ放送された。 2010年に7年ぶりに、『THE MOVIE 3』を映画公開。その、スピンオフとして『係長 青島俊作』を携帯ドラマとして発信。 2012年、14年ぶりとなるスペシャルドラマ『THE LAST TV』を放送、『THE FINAL』を映画公開、シリーズ15年の歴史に幕を閉じた。 == 企画経緯 == 「[[織田裕二]]主演の[[刑事ドラマ|刑事もの]]」という企画<ref name="キネ旬200812_2">{{Cite journal|和書 |author = [[大高宏雄]] |title = 『TOKYO JOE』公開特別対談 1988年。そこから日本映画は変わった! 時代を変えたプロデューサー、亀山千広×奥山和由が語る『TOKYO JOE』、そして日本映画 |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 2008年12月下旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |pages = 61–68頁 }}</ref>。当時は『[[あぶない刑事]]』などの[[バディムービー|バディもの]]が流行っていたが、[[亀山千広]]プロデューサーは、「それをやってもまがい物で勝てないし、刑事部屋が動くというと『[[太陽にほえろ]]』を越えられない」と考えた<ref name="キネ旬200812_2"/>。また当時、[[高村薫]]の『[[マークスの山]]』などの[[小説]]が話題になり、作品中、"[[管理官]]"という言葉をはじめ[[警視庁]]の中に色々な役職があり、初めて世の中の人がそれを知った。そうした流れの中で、[[組織論]]をやるのはどうかなと考え、脚本の[[君塚良一]]に伝えたら、君塚が自宅の書棚から[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]の本を持って来て「『[[仁義なき戦い 代理戦争]]』って何も起こらず、ただ組のメンツをかけて役者同志が喋ってる。それだけ。それでいいんだ」と言った<ref name="キネ旬200812_2"/>。亀山は「警視庁のメンツと所轄のメンツ、それが本作のテーマ。だから私と君塚さん二人の間では『踊る』は半分『[[仁義なき戦い]]』なんです。ダメな署長は[[金子信雄]]さんです」などと述べている<ref name="キネ旬200812_2"/>。 == ストーリー == 元敏腕営業マンの'''[[青島俊作]]'''は[[サラリーマン#脱サラ|脱サラ]]して警察官となり、交番勤務を経てようやく念願の刑事課勤務となる。だが、青島の配属された[[警視庁]]'''湾岸署'''は「空き地署」と陰口される東京の僻地。配属直後に管内で事件が発生し、青島は意気込んで現場に向かうものの、「所轄刑事」として現場検証すらさせて貰えない。青島は強行犯係の大先輩で定年間際のベテラン刑事'''[[和久平八郎]]'''から所轄刑事の心得を叩き込まれる。それは青島が思い描いていた理想の刑事像と大きくかけ離れた地味で冴えないものだった。 管内で殺人事件が発生した場合には所轄署に'''「帳場が立ち」'''(捜査本部設置)、本庁刑事部の腕利きと共に国家公務員一種('''キャリア''')の[[管理官]]が送り込まれる。聞き込みや取り調べ、犯人確保といった事件捜査の主役はあくまで彼らの仕事だった。青島が初めて出会った警察官僚が'''[[室井慎次]]'''[[管理官]]だった。青島は室井の指名で運転手役をやらされ、徹底的に冷たくあしらわれる。室井は被害者の娘で通報者の'''[[柏木雪乃]]'''にも詰問口調で迫る。雪乃は父親を失ったショックで[[失語症]]に陥っていた。青島は室井の乱暴さに反感を覚え、雪乃を優しくフォローする。 一方、湾岸署は個性派揃い。俗物で昼行灯の'''神田 総一朗'''署長を筆頭に、署長の腰巾着'''秋山 春海'''副署長。そして、事なかれ主義の刑事課長'''袴田 健吾'''などなど、良くも悪くも青島にとっては営業マン時代とそう変わらぬ人間関係となる。同じ強行犯係には東大卒のキャリアで年齢は青島より下だが階級は遙かに上、[[親の七光り]]まで持つ'''[[真下正義]]'''が昇進試験の「腰掛け」として在籍中。そして盗犯係には小さい体に似合わず男勝りの迫力を持つ紅一点'''[[恩田すみれ]]'''が居た。熱血が空回りすることの多い青島は和久、真下、すみれら仲間たちに励まされながら奮闘することになる。 やがて、すみれの過去が明らかになる。逮捕した犯人からの逆恨みでストーカー被害に遭い、体にも心にも大きな疵を抱えていた。'''「正しいことをしたければ偉くなれ」'''和久のその言葉は重い意味を含んでいた。青島は仲間たちや自分を頼ってくれる人々を守る為、強くなろうと胸に誓う。また、鉄面皮の冷血漢に見えた室井も[[秋田県|秋田]]出身で東北大卒という異色のエリートで、優秀であるが故に身内に敵も多い孤独な男だった。室井は次第に青島を認め、目を掛けるようになるがそれはお互いにとって辛く険しい道程となってゆく。 雪乃は青島やすみれの励ましを受け、父親の事件を乗り越えて、日本で生活していた。ところがそんな彼女に麻薬密輸の重要参考人という嫌疑がかけられる。雪乃を本庁の手に渡してはならない。青島は咄嗟の機転で雪乃を口汚く侮辱し、怒った雪乃から平手打ちを食らう。「公務執行妨害による逮捕」その場合、勾留権は所轄署が優先される。真下やすみれの協力により「取り調べと称する時間稼ぎ」で雪乃を保護する一方、青島は和久と共に真犯人を追う。そこで和久が見せたのはグレーゾーンに生きる人間たちと繋がりを持ち、彼らから巧みに情報を引き出す所轄刑事ならではの裏技だった。青島は和久から継承者に指名される。二人の活躍により被疑者は確保され、本庁刑事に引き渡された。だが、本庁や警察上層部の間で青島は悪名高き存在となる。 雪乃は、この事件をきっかけに警察官を目指すようになる。 管内で発砲事件が発生。職質しようとした真下が銃撃され、重体に陥る。仲間の窮地に湾岸署は結束し全力をもって捜査に尽力する。そして、室井と青島のコンビにより事件は無事解決する。だが、室井は警備部に左遷され、青島は交番勤務に戻される。「市民に信頼されるお巡りさん」という自身の原点に立ち戻った青島はやがて再起することになる。 この物語は、異色の経歴と特技を持つ青島刑事を軸に、彼を取り巻く人々が時代の変化により起きる数々の難事件と対決する、壮大なドラマとなってゆくのだった。 === 当初の踊る大ラブストーリー計画 === 初期の構想段階では、すでに引退したベテラン刑事和久の娘をすみれ(監察医)に設定し、和久宅に居候する青島との恋愛も一案にあった<ref>「踊る大捜査線 COMPLETE DVD-BOX 付属特製ブックレット」p. 1。</ref>。その後は、青島と雪乃、室井とすみれの二本立てでの恋愛路線、青島と雪乃とすみれの三角関係も構想されている。実際、青島・雪乃間での恋愛に発展しそうな伏線や、すみれが青島に惹かれてゆく描写もちりばめられており、室井とすみれの二人きりのシーンも幾度かあった<ref>「踊る大捜査線 COMPLETE DVD-BOX 付属特製ブックレット」pp. 9-10。</ref>。 この恋愛ドラマ路線は、第1話が放映され視聴率が出た時点で取りやめが決定された<ref>君塚良一「各話解説第4話」『踊る大捜査線 湾岸警察署事件簿』p. 126。</ref> が、これは亀山プロデューサーの判断であった<ref group="注">(同クールにフジテレビが放映していた恋愛ドラマ([[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月曜9時枠]]「[[バージンロード (テレビドラマ)|バージンロード]]」のこと)の視聴率が比較的よかったため、同じ恋愛ものをぶつけるのは足の引っ張り合いになりかねない)</ref> と、脚本家・君塚良一は著書「テレビ大捜査線」にて語っている。このとき第4話までは脱稿していたので第5話からのプロットが恋愛の要素を排したものに変更され、以後は警察ドラマとしての視点に重点を置いていくこととなり、そこで雪乃の設定に大幅な変更が加えられている(血液型まで変更された<ref group="注">テレビシリーズのオープニングのプロフィールがB型になっている。現在のプロフィールではA型。</ref>)。 == 登場人物 == {{main|踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧}} ; [[青島俊作]] : 演 - [[織田裕二]] : 湾岸署刑事課強行犯係係長・[[警部補]](テレビシリーズ時は[[巡査部長]])。 ; [[室井慎次]] : 演 - [[柳葉敏郎]] : 警察庁長官官房審議官・[[警視監]](テレビシリーズ時は[[警視]])。 ; [[恩田すみれ]] : 演 - [[深津絵里]] : 湾岸署刑事課盗犯係主任・[[巡査部長]]。 ; [[真下正義]] : 演 - [[ユースケ・サンタマリア]] : 警視庁湾岸警察署署長・[[警視正]]<ref>『THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件』TV 警視正 階級章</ref>(テレビシリーズ開始時は[[警部補]]、途中で昇任試験を受け[[警部]]に、その後交渉人真下正義で[[警視]]に)。テレビシリーズ開始時は研修配置で刑事課強行犯係に、係長や課長代理を経て捜査1課や交渉課(準備室)を経て警察庁長官官房付(『THE MOVIE 3』開始時)その後、湾岸警察署署長となった。 ; [[柏木雪乃|柏木雪乃 → 真下雪乃]] : 演 - [[水野美紀]] : 湾岸署刑事課強行犯係・巡査部長(テレビシリーズ開始時は一般人)。第1話で父を殺され、湾岸署の人々とかかわるうちに警察官を志し、途中で採用試験を受け、合格する。『[[容疑者 室井慎次]]』で真下と結婚して以降は真下姓で、「THE MOVIE 3」から産休中。 ; [[和久平八郎]] : 演 - [[いかりや長介]] : 元湾岸署刑事課指導員(現役時は同署同課強行犯係・[[巡査長]])。「THE MOVIE3」時点で故人。 == シリーズ == === テレビシリーズ === '''『踊る大捜査線』''' {{Main2|複数作登場したゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#複数作登場の主要人物|複数作登場の主要人物]]」を、単発ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#連続ドラマ|連続ドラマ]]」を、脚本・演出は「[[#脚本・演出・監督・音楽|脚本・演出・監督・音楽]]」を}} * [[1997年]][[1月7日]] - [[3月18日]]、全11話。 * 初回は21:03 - 22:24の81分、最終回は21:02 - 22:14の72分拡大版。 * サブタイトルは全て担当プロデューサーの[[亀山千広]]がつけた。 * 放送当時のキャッチコピーは「'''刑事課長、あした有給 欲しいんスけど。'''」と「'''リズム&ポリ〜ス'''」だった。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !話数!!放送日!!サブタイトル!!視聴率 |- |第1話||1997年1月7日||サラリーマン刑事と最初の難事件||18.7% |- |第2話||1997年1月14日||愛と復讐の宅配便||16.4% |- |第3話||1997年1月21日||消された調書と彼女の事件||16.5% |- |第4話||1997年1月28日||少女の涙と刑事のプライド||{{Color|blue|15.7%}} |- |第5話||1997年2月4日||彼女の悲鳴が聞こえない||18.1% |- |第6話||1997年2月11日||張り込み 彼女の愛と真実||18.7% |- |第7話||1997年2月18日||タイムリミットは48時間<ref group="注">この回では、犯人確保時に犯人が[[バタフライナイフ]]を出すシーンがある。このナイフを使った殺傷事件が発生して以降は再放送ではこのシーンでモザイク処理が掛けられていたが、事件が風化した2012年現在は特に処理は掛けられていない</ref>||18.2% |- |第8話||1997年2月25日||さらば愛しき刑事||17.3% |- |第9話||1997年3月4日||湾岸署大パニック 刑事青島危機一髪||16.3% |- |第10話||1997年3月11日||凶弾・雨に消えた刑事の涙||19.0% |- |第11話<br />(最終話)||1997年3月18日||青島刑事よ永遠に||{{Color|red|23.1%}} |- !colspan="5"|平均視聴率 18.2%<ref name="oricon2005268">{{Cite news |title=ついにファイナル!『踊る大捜査線』第4弾映画化が決定 |newspaper=[[ORICON NEWS]] |date=2011-12-29 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2005268/full/ |accessdate=2017-07-28}}</ref>(視聴率は[[ビデオリサーチ]]調べ、[[関東地方|関東地区]]・世帯) |} ; 再放送 : テレビシリーズは人気が高まるとともに何度も再放送が行われた。またスペシャル番組の放送や映画の公開と絡めた再放送も何度か行われた。全話の再放送は1997年8月5日から行われたが、権利の問題や、時間枠(再放送は一般的に初回放送より時間が短く(つまり、同じ「1時間」でも再放送枠では本放送時よりCM枠が多くなるため、拡大版もそのまま放送することができない)その他の関係で、初回放送からのシーンの入れ替え・カットや音楽の変更があった。この後再放送ではこちらが流れることが多いため、「再放送版」と呼ばれたりする(再放送版は放送する[[フジネットワーク|FNS]]各局の時間枠に合わせる関係上数パターンあると言われている)。また、[[2007年]]9月下旬から10月上旬を中心にテレビシリーズ放送開始'''10周年を記念して'''テレビシリーズとスペシャルドラマの再放送が全国規模でされ、[[金曜プレステージ]]枠と[[土曜プレミアム]]枠で'''10th Anniversary特別企画'''と題して2週にわたって映画版・スピンオフ映画の放送もされた。映画版の放送前後には2日とも、主演の[[織田裕二]]が登場してコメントを述べた。 : [[2010年]]4月3日よりフジテレビにて'''完全ノーカット版'''の再放送が土曜α枠で、[[2012年]]9月10日よりフジテレビ系列にて'''カット版'''の再放送がなされた。 :; 特殊な再放送例 ::; 『ザッツ踊る大捜査線』(2001年1月24日 - 2月14日、第2話、第5話、第9話、第10話) ::; 『ザッツ踊る大捜査線ファイナル』(2001年2月20日、第11話、[[火曜ワイドスペシャル]]枠) ::; 『踊るII放送記念!!踊る大捜査線リピート』(2004年12月30日第1話 - 第4話、31日第5話 - 第11話) ::: [[2005年]]の正月に劇場映画第二作を地上波で放送するための事前企画として放送された。ローカル枠扱いであったにもかかわらず、年末編成という放送局側の事情もあり、多くのFNS系列局が同時ネットした「地上波全国同時ネットでの長時間再放送」であった。 : ; 総集編 :; 『踊る大捜査線特別編 湾岸署事件ファイル』(1997年12月29日 16:00-18:30) :: テレビシリーズ本編全11話を2時間30分にまとめたもの。『踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル』の番宣を兼ねて、その前日に放送された。 : ; その他 : [[シナリオ]]を[[朗読]]する「読むドラ」企画でテレビシリーズ第2話が放送された(第13回、2004年11月25日、[[フジテレビTWO|フジテレビ721]])。 === テレビスペシャルドラマ === 「踊るレジェンド」やミニドラマなど「踊る」シリーズの世界設定・時間軸で作られた'''正規'''の関連ドラマを含む。特に明記されていないものはフジテレビでの放送である。 ; 『[[踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル]]』([[1997年]][[12月30日]]、視聴率25.4%<ref name="oricon2005268" /><ref name="ススめる!ぴあ|踊るクロニクル年表">「ススめる!ぴあ|踊るクロニクル年表」ぴあ株式会社p. 24-25、第39巻第12号通巻1312号、2010年6月17日発行</ref>) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル|踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル]]」を}} :; 『踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル完全版』(1998年4月17日、[[VHS]]発売) :: 初回放送時にカットされたシーンの追加があるため約20分長い。 :; 『踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル完全版+α』(2003年12月29日) :: 出演者インタビューや湾岸署内のモニター映像「プロジェクトK」などが追加されている。 : ; 『[[湾岸署婦警物語 初夏の交通安全スペシャル|踊る大捜査線 番外編 湾岸署婦警物語 初夏の交通安全スペシャル]]』([[1998年]][[6月19日]]、視聴率24.9%<ref name="oricon2005268" /><ref name="ススめる!ぴあ|踊るクロニクル年表"/>) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#踊る大捜査線 番外編 初夏の交通安全スペシャル|踊る大捜査線 番外編 初夏の交通安全スペシャル]]」を}} : [[内田有紀]]演じる湾岸署に配属された新人婦人警官・[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#篠原夏美|篠原夏美]]が主人公の番外編。サブタイトルは放送時期に合わせて「初夏」となっているが、作中の設定は1998年4月(春)である。 : ; 『[[踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル]]』(1998年[[10月6日]]、視聴率25.9%<ref name="oricon2005268" /><ref name="ススめる!ぴあ|踊るクロニクル年表"/>) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル|踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル]]」を}} :; 『踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル完全版』(1998年11月22日、BSハイビジョンで放映) :: 初回放送時にカットされたシーンの追加があるため約20分長い。 :; 『踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル完璧版』(1998年[[12月22日]]、視聴率21.4%<ref name="ススめる!ぴあ|踊るクロニクル年表"/>) :: 完全版にさらに未公開シーンと新たに撮影された部分が追加された。このほかにオープニングに第1話から番外編までの回想総集編が追加された。 : ; 『[[深夜も踊る大捜査線 湾岸署史上最悪の3人!]]』(1998年[[10月12日]] - [[10月16日|16日]]、平均視聴率3.5%<ref name="oricon2005268" />) : 1話約10分のスリーアミーゴスが主演のミニドラマ。 :* 第1話『部下のミスは、部下のミス』(1998年10月12日) :* 第2話『経費削減は、事件削減より』(1998年10月13日) :* 第3話『猟奇殺人は、袴田の娘!?』(1998年10月14日) :* 第4話『上級国家公務員とその他の人々』(1998年10月15日) :* 第5話『頑張れ!中間管理職』(1998年10月16日) :; 『夕方も踊る大捜査線』(1999年2月5日) :: 『深夜も踊る大捜査線』全体を約30分に編集した再編集版 : ; 『踊る大ソウル線』([[2001年]][[9月21日]]) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#踊る大ソウル線|踊る大ソウル線]]」を}} : 湾岸署のメンバー(恩田すみれ、和久平八郎、真下正義)が殺人事件の犯人を追って[[大韓民国|韓国]]に行ったところ、犯人が湾岸署管内で逮捕されてしまったために韓国出張を取り消されてしまい、後からやってきた「[[スリーアミーゴス (踊る大捜査線)|スリーアミーゴス]]」と自腹で観光旅行することになるという設定でのドラマ形式による[[2002 FIFAワールドカップ]]記念の韓国情報番組。[[ソウル市]]警察庁が全面協力している。番組の性格上、映像商品化はされていない。君塚良一の著書『裏ドラマ』では本作を「スピンオフ」と呼んでいる。「踊るレジェンド」シリーズには含まれていない。 : ; 『[[深夜も踊る大捜査線 湾岸署史上最悪の3人!|深夜も踊る大捜査線2]]』([[2003年]][[7月14日]] - [[7月18日|18日]]、平均視聴率5.3%<ref name="oricon2005268" />) : 1話約15分のスリーアミーゴスが主演のミニドラマ。『プロジェクトKができるまで』というストーリーもある。 :* 第1話『嘘だらけの自伝でも伝説の始まり』(2003年7月14日) :* 第2話『取調室は犯人との対決の場』(2003年7月15日) :* 第3話『廊下を歩けば私の記憶を呼び起こす』(2003年7月16日) :* 第4話『応接室は所轄と本庁の折衝の場』(2003年7月17日) :* 第5話『後悔も誇りも彼という刑事に出会った事』(2003年7月18日) : ; 『[[交渉人 真下正義|前日も交渉人 真下正義]]』([[2005年]][[5月6日]]、[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]「真下正義チャンネル」にて放送) : のちのDVDの特典ディスクに収録されている。 : ; 『踊るレジェンドドラマスペシャル[[逃亡者 木島丈一郎]]』([[2005年]][[12月10日]]、[[プレミアムステージ]]枠、視聴率15.6%<ref name="oricon2005268" /><ref name="ススめる!ぴあ|踊るクロニクル年表"/>) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#逃亡者 木島丈一郎|逃亡者 木島丈一郎]]」を}} : [[2006年]][[10月20日]]にも放送された。 : ; 『踊るレジェンドドラマスペシャル[[弁護士 灰島秀樹]]』(2006年[[10月28日]]、[[土曜プレミアム]]枠、視聴率16.8%<ref name="oricon2005268" /><ref name="ススめる!ぴあ|踊るクロニクル年表"/>) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#弁護士 灰島秀樹|弁護士 灰島秀樹]]」を}} : 「逃亡者 木島丈一郎」、「弁護士 灰島秀樹」は、「交渉人 真下正義」、「容疑者 室井慎次」と共に「踊るレジェンド・スペシャル・プロジェクト」として2006年10月に放送・再放送された。このプロジェクトでは、真下正義([[ユースケ・サンタマリア]])、室井慎次([[柳葉敏郎]])、木島丈一郎([[寺島進]])、灰島秀樹([[八嶋智人]])の踊るレジェンドシリーズの主人公4人によるトークが放送開始前と放送終了後に挿入されている。 : ; 『踊るレジェンドドラマスペシャル[[警護官 内田晋三]]』(2007年[[1月27日]]、[[土曜プレミアム]]枠) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#警護官 内田晋三|警護官 内田晋三]]」を}} : 『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]] 今夜復活踊る大へぇへぇ祭り!!』内[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜#トリビアの種|トリビアの種]]「踊る大捜査線の脇役でスピンオフで主役ができる限界は?」の検証VTRとして放送。 : ; 『[[深夜も踊る大捜査線 湾岸署史上最悪の3人!|深夜も踊る大捜査線3]]』(2010年[[6月28日]] - [[7月1日]]、平均視聴率5.5%<ref name="oricon2005268" />) : 1話約10分のスリーアミーゴスが主演のミニドラマ。スリーアミーゴスの誕生秘話が明かされる。 :* 第1話『スリアミ・ビギニング 出会い』(2010年6月28日) :* 第2話『スリアミ・ビギニング 一蓮托生』(2010年6月29日) :* 第3話『スリアミ・ビギニング 分裂危機』(2010年6月30日) :* 第4話『スリアミ・ビギニング そして、伝説へ』(2010年7月1日) : ; 『[[踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件]]』(2012年9月1日、視聴率21.3%<ref name="spo20120903">{{Cite web|和書|date=2012-09-03|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/09/03/kiji/K20120903004034590.html|title=「踊る大捜査線」最後のスペシャルドラマ 21・3%の高視聴率|publisher=スポニチ|accessdate=2012-11-25}}</ref>) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件|踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件]]」を}} : テレビ版最後のスペシャル。 : ; 『[[深夜も踊る大捜査線 湾岸署史上最悪の3人!|深夜も踊る大捜査線 THE FINAL]]』(2012年[[9月3日]] - [[9月6日]]) : 今までスリーアミーゴスが主演をしてきたが、それに変わり、スピンオフの主人公である木島丈一郎(寺島進)、爆発物処理班の眉田克重(松重豊)、SATの草壁中(高杉亘)が主演となっている。 === 関連のテレビ番組 === 映画の公開などと絡めた関連番組が数多く作成された。出演者、スタッフへのインタビュー、メイキング映像などが多いが中には本格的にドラマ仕立てになっているものもある。設定本などの公式資料ではテレビシリーズの再編集版である『ザッツ踊る大捜査線』や「踊る」シリーズの時間軸上で作られたスペシャルドラマなどと特に区別することなく放送日順に列挙されていることが多い。特に明記されていないものはフジテレビでの放送である。基本的に映像商品化はされていないが、一部はDVDの特典映像などになっている。 ; 『踊る大予告編』(1998年10月18日) : 正式タイトルは、『「踊る大捜査線 THE MOVIE」完成記念番組 踊る大予告編 秋の全国一斉バイアグラ取り締まりスペシャル』。「踊る大捜査線 THE MOVIE」の予告編として制作された番外編ドラマ。全2部構成。16:00 - 17:25に放送。 : 第1部は「踊る大捜査線」ファンの子供達による「子供湾岸署」を舞台にしたドラマ。(演出:[[李闘士男]] 脚本:[[輿水泰弘]]) : 第2部は「亀川プロデューサー」が怪しい女に監禁されるという設定のドラマ。(演出・脚本:[[森淳一]]) : いずれにも本編のキャストは一切登場しない<ref group="注">[[木村多江]]に関しては映画本編に出ているものの看護師役である。</ref> が映画「THE MOVIE」の本編やメイキングのシーンが織り込まれている。 :; 出演者 ::; 亀川千広 ::: 演 - [[光石研]] ::: フジテレビプロデューサー。『踊る大捜査線』よりも『[[ロングバケーション (テレビドラマ)|ロンバケ]]』と『[[ラブジェネレーション|ラブジェネ]]』のプロデュースを担当したことに誇りを感じている。モデルは[[亀山千広]]プロデューサー。 ::; リサ ::: 演 - [[遠山景織子]] ::: 謎のテロリスト。 ::; 警察庁長官官房広報課長 ::: 演 - [[木村多江]] ::: 『踊る』映画化に際し、警察機構の広報責任者として警察のイメージを害していない作品かどうかを検閲するためにフジテレビに乗り込んでくる。 ::; 「一般市民」を名乗る男 ::: 『THE MOVIE』で[[小泉今日子]]が猟奇殺人犯役であるため、公開中止を求めてフジテレビに不法侵入した小泉の大ファン。 : ; 『10時間も踊る大捜査線』(スカイパーフェクTV、1999年5月8日) : 「踊る大捜査線 THE MOVIE」の衛星初放送に合わせた企画。「THE MOVIE」本編2時間と一緒に放送された8時間にもなる映画のメイキング、NG集などの未公開映像、映画の宣伝とその裏側、映画公開時のドキュメント(公開初日の舞台挨拶など)、キャスト・スタッフの座談会やインタビューなどで構成された番組。映画本編放送の前後で大きく前編と後編に分かれる。 :; 「10時間も踊る大捜査線(前編)」 ::* 「踊る誕生秘話」(45分) ::* 「踊る大宣伝作戦」(45分) ::* 「踊る現場大検証その1」(45分) ::* 「踊る現場大検証その2」(45分) :: それぞれの前に「見どころ紹介」がある。(各15分) :; 「踊る大捜査線 THE MOVIE」本編(2時間) :; 「10時間も踊る大捜査線(後編)」 ::* 「踊る大公開初日」(50分) ::* 「踊る大音楽会&タイトルバック」(50分) ::* 「踊る大メイキング」(80分) ::* 「踊る大エピローグ」(30分) :: 「踊る大エピローグ」を除き、それぞれの前に「見どころ紹介」がある(各10分) : ; 『衛星(スカパー)も踊る大捜査線』(スカイパーフェクTV、2003年6月29日) : 「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 200のリンクを探せ」(THE MOVIE 2のメイキング番組)、『深夜も踊る大捜査線2』(地上波より先行しての放送)、「踊る大捜査線 THE MOVIE」の3本立て。 ; 『だから踊る』(2003年7月3日 - 9月25日) : 出演者やスタッフが踊る大捜査線について語る毎週木曜日深夜に放送された放送時間約5分のトーク番組。全13回。織田裕二、柳葉敏郎、深津絵里、君塚良一、加瀬弘行(照明)、芦原邦雄(録音)らが出演。 ; 『満員御礼スペシャル! 踊る大捜査線 THE MOVIE 2 大ヒットの秘密を捜査せよ』(2003年8月9日) : 内容はキャストへのインタビュー、メイキング、THE MOVIE 2公開初日の舞台挨拶など。 ; 『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 これをみれば100倍楽しめるスペシャル』(2003年9月6日) ; 『交渉人 真下正義 公開記念スペシャル 祝!映画初主演!花の映画スター!ユースケ・サンタマリア誕生』(2005年5月6日) ; 『満員御礼! 交渉人 真下正義 共演者が語る「真下」の魅力!「ユースケ」の実力!?』(2005年5月12日) : 内容は「主演・ユースケ欠席座談会」など ; 『容疑者 室井慎次 公開記念スペシャル 室井はシロか、クロか?』(2005年8月20日) ; 『弁護士灰島秀樹放送直前スペシャル』(2006年10月28日) ; 『踊れ!怪盗愛子』(2010年1月 - 7月) : 朝の情報番組『[[めざましテレビ]]』の芸能ニュースコーナー「見たもん勝ち」内で不定期に放送されたコーナー。映画本編にも出演している[[皆藤愛子]]が「怪盗愛子」としてさまざまな情報を探り出す。「THE MOVIE3」プレミアムエディションに収録された。 ; 『湾岸署徹底捜査ファイル』(2010年6月3日 - 7月29日) : 映画情報番組「CINE・CINE団」の中で全9回にわたって放送されたミニ番組 ; 『語る大捜査線 THE FINAL MAKING 最後の真実を目撃せよ!』(2012年8月31日) : 関係者インタビュー(本広克行、織田裕二、柳葉敏郎、深津絵里、ユースケ・サンタマリア)、メイキング ; 『踊る大捜査線 THE FINAL INTERVIEW』(日本映画専門チャンネル、2012年9月) : プロデューサー亀山千広、本広克行監督、脚本家の君塚良一へのインタビューによりこれまで公には語られることのなかった、"踊る"誕生秘話の数々を紹介する。 ; 『マニアテンション MAXクイズ 究極の1000択』([[BSフジ]]、2013年3月31日) : 踊る大捜査線マニアチームの3人(ネットワーク捜査員から選ばれた「かず、みや、[[矢武兄輔]]」)がマニア問題に挑戦する。多答問題10問を出題し、1問につき選択肢は100択。不正解の選択肢はシュレッターにいれるクイズ番組。第8問目『[[踊る大捜査線 THE MOVIE]]』の劇場予告で使われたワードを残せ」で不正解し、ゲームオーバーとなった。エンディングでは『[[踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望]]』のソフト販売のリリースが流れた。 === 劇場映画 === THE ODORU LEGEND CONTINUESを含む。 ; 『[[踊る大捜査線 THE MOVIE]]』(東宝、[[1998年]][[10月31日]]公開) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#踊る大捜査線 THE MOVIE 湾岸署史上最悪の3日間!|踊る大捜査線 THE MOVIE 湾岸署史上最悪の3日間!]]」を}} : 興行収入101億円<ref name="oricon2005268" />。配給収入85億円<ref>日本国内歴代総合興行収入ランキング 1位 - 100位http://www.eiga-ranking.com/boxoffice/japan/alltime/total/</ref>(日本実写映画歴代興行収入第3位<ref>[[日本映画の歴代興行収入一覧]]</ref>)、観客動員数700万人<ref name="oricon2005268" />。 : ; 『[[踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!]]』(東宝、[[2003年]][[7月19日]]公開) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!|踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!]]」を}} : 興行収入173.5億円<ref name="spo20120903" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eiren.org/toukei/img/eiren_kosyu/data_2003.pdf |title=2003年(平成15年)興収10億円以上番組 |year=2004 |format=PDF |publisher=[[日本映画製作者連盟]] |accessdate=2013-11-15 }}</ref>(日本実写映画歴代興行収入第1位<ref>{{Cite web|和書|date=2011-03-04|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/03/04/kiji/K20110304000358280.html|title=“香取両さん”映画で復活!シリーズ化も決定|publisher=スポニチ|accessdate=2012-11-25}}</ref>)、観客動員数1260万人<ref name="oricon2005268" />。 :; 『[[踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!#踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2|踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2]]』(東宝、[[2003年]][[12月20日]]公開) :: 「THE MOVIE 2」を海外向けに再編集した国際戦略版。 : ; 『[[踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!]]』(東宝、[[2010年]]1月クランクイン・2010年[[7月3日]]公開) : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!|踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!]]」を}} : 興行収入73億円<ref>{{Cite web|和書|author=一般社団法人 日本映画製作者連盟|date=2011-01-27|url=http://www.eiren.org/toukei/img/eiren_kosyu/data_2010.pdf|title=2010年度(平成22年)興収10億円以上番組(平成23年1月発表)[邦画]|format=PDF |accessdate=2011-01-28}}</ref>、観客動員570万人<ref name="oricon2005268" />。 : ; 『[[踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望]]』(東宝、[[2012年]][[9月7日]]公開)<ref>{{cite news |title=「踊る大捜査線」完結編製作が決定 15年の歴史に幕 |publisher=映画.com |date=2011-12-29 |url=http://eiga.com/news/20111229/1/ |accessdate=2011-12-31}}</ref> : {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望|踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望]]」を}} : 興行収入59.7億円<ref>{{Cite web|和書|date=2013-01 |url=http://www.eiren.org/toukei/img/2013.pdf |title=2013年記者発表資料(2012年度統計) |format=PDF |publisher=日本映画製作者連盟 |page=2 |accessdate=2013-02-01 }}</ref>。 : ; THE ODORU LEGEND CONTINUES :; 『[[交渉人 真下正義]]』(東宝、[[2005年]][[5月7日]]公開) :: {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#交渉人 真下正義|交渉人 真下正義]]」を}} :: 興行収入42億円、観客動員310万人<ref name="oricon2005268" />。 : :; 『[[容疑者 室井慎次]]』(東宝、[[2005年]][[8月27日]]公開) :: {{Main2|ゲストは「[[踊る大捜査線シリーズの登場人物一覧#容疑者 室井慎次|容疑者 室井慎次]]」を}} :: 興行収入38.3億円、観客動員287万人<ref name="oricon2005268" />。 === ケータイ配信ドラマ === * 『[[踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!#係長 青島俊作 THE MOBILE|係長 青島俊作 THE MOBILE 事件は取調室で起きている!]]』(2010年6月1日 - 7月9日) * 『[[踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望#係長 青島俊作2|係長 青島俊作2 事件はまたまた取調室で起きている!]]』(2012年8月27日 - 9月7日) === 舞台 === * 『[[舞台も踊る大捜査線 ザッツ!! スリーアミーゴス]]』(2003年8月15日 - 17日) === DVD特典 === * NG集 ** 第12話『港区台場レインボーブリッジ付近会社役員絞殺凶悪殺人事件 NG傑作選』 *** テレビシリーズのNG集。「踊る大捜査線 (4) 」(VHS版)および「踊る大捜査線 (6) 」(DVD版)に収録されている。 ; 『プロジェクトK』 : サブタイトルは『ノンキャリアの申し子』。「K」とは神田署長の頭文字の「K」である。Vシネマで湾岸署神田署長の物語。『踊る大捜査線 THE MOVIE』の犯人であった坂下始と河原崎宗太が神田署長のおかげで更生したという話を語る。全体の構成やタイトルなどが[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]([[NHK総合テレビジョン]])の[[パロディー]]のような作りになっている。 ; 『デカウォーズ』 : 正式タイトルは『デカウォーズ 第1話 正義の大捜査線!』。刑事ドラマ仕立ての新人警察官募集用ビデオ。湾岸署の映画部が制作したという設定になっている。 ; 『観光案内』 : 正式タイトルは『お台場観光案内 - おすすめスポットランキング』。渡辺葉子([[星川なぎね]])と吉川妙子([[児玉多恵子]])の2人の婦人警官がランキング形式でお台場の観光スポットを案内するビデオ。 『プロジェクトK』、『デカウォーズ』、『観光案内』の3本は「THE MOVIE 2」のための「湾岸署3大VTR」として作成され、湾岸署観光者相談係のモニター映像として「THE MOVIE 2」の中で使用されたほか「歳末特別警戒スペシャル完全版+α」の中でも放送された。「踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2」の特典ディスクに収録された。 ; 『広報人 矢野君一』 : 矢野君一が担当しているTTRの広報番組において関係者を呼んで交渉人真下の事件を振り返るという設定で、矢野君一が[[十川誠志]]、[[ムロツヨシ]]などにインタビューする。隠しスペシャル映像として交渉人真下正義プレミアム・エディションの特典ディスク2に収録されている。 === 書籍 === ; 『diary 野口江里子の日記 1983-1985』 : 室井が大学時代に交際していた女性、野口江里子が書いていた日記という設定で書籍化したもの。発売に関しては制作の経緯(作家志望の踊るファンが執筆)もあり、ファンからは賛否両論がある(容疑者 室井慎次DVDのコメンタリーで製作の[[亀山千広]]が語っている)。 === ゲーム === ; 『[[踊る大捜査線 THE GAME 潜水艦に潜入せよ!]]』 : 2010年7月15日に[[バンダイナムコゲームス]]・バンダイレーベルより発売された[[ニンテンドーDS]]用ゲームソフト。「THE MOVIE 2」のストーリー候補であった『潜水艦事件』のプロットを膨らまし、ゲーム化したもの。 === 企業コラボ動画 === ; 『映画「踊る大捜査線」×朝日新聞デジタル 湾岸署刑事課日記』 : 「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」と[[朝日新聞デジタル]]がコラボ。朝日新聞デジタルと[[ドコモポイント]]コースについて、栗山と王が湾岸書内で語ったもの。[[朝日新聞]]の[[YouTube]]ページで2012年8月23日に公開された。 === 時間軸 === 踊る大捜査線シリーズはこの世界設定上の時間軸での1997年1月の出来事を実際の1997年1月に放送する話で始まり、「THE MOVIE」までは放送・公開時期とほぼ同じ時期の出来事を描く形で作られてきた。亀山プロデューサーによれば踊る大捜査線シリーズのコンセプトの一つである「リアリティー」の表れの一つで、映画についても当初はテレビシリーズ第1話のリメイクや<ref>「君塚良一による踊る大捜査線 THE MOVIE解説」『踊る大捜査線THE MOVIE シナリオガイドブック』p. 116</ref> 青島が会社員を辞めて刑事を目指すようになる話など時間軸を大きく遡った時期の話を描くことも検討されたが、結局は上記の原則を踏襲する形となったとされている。 2009年3月の「踊る大捜査線 THE MOVIE 3」の制作発表においては、時間軸がリアルに進んでいることを前提に青島が係長に昇進している可能性や、新人が配属される可能性について言及されており、実際にその通りになった。その後は、描かれている時期と放送・公開時期が次第に離れてきており、「逃亡者 木島丈一郎」では初めて時系列を遡る話になった。 「THE MOVIE」以後は、映画で描かれた話の前日譚や後日譚をテレビドラマ、舞台、DVD特典映像といったさまざまな手段で描く形をとっており、それぞれの話の前後関係が複雑になっているため、下に作中の時系列に沿った一覧表を掲げる。 {| class="sortable wikitable" style="font-size:small;" |- !時間軸 !初放送・公開日 !区分 !タイトル !事件名 |- |1983年9月 - 1985年1月 |2005年9月17日 |本 |野口江里子の日記 | |- |{{Display none|1997年01月1}}1997年1月 |{{Display none|1997年01月07日}}1997年1月7日 |テレビシリーズ |第1話サラリーマン刑事と最初の難事件 |会社役員絞殺事件 |- |{{Display none|1997年01月2}}1997年1月 |{{Display none|1997年01月14日}}1997年1月14日 |テレビシリーズ |第2話愛と復讐の宅配便 |湾岸署爆弾未遂事件 |- |{{Display none|1997年01月3}}1997年1月 |{{Display none|1997年01月21日}}1997年1月21日 |テレビシリーズ |第3話消された調書と彼女の事件 |盗難傷害事件 |- |{{Display none|1997年01月4}}1997年1月 |{{Display none|1997年01月28日}}1997年1月28日 |テレビシリーズ |第4話少女の涙と刑事のプライド |連続強盗傷害事件(本編より2年前に発生)・クラブ傷害事件 |- |{{Display none|1997年02月1}}1997年2月 |{{Display none|1997年02月04日}}1997年2月4日 |テレビシリーズ |第5話彼女の悲鳴が聞こえない |広域連続傷害事件 |- |{{Display none|1997年02月2}}1997年2月 |{{Display none|1997年02月11日}}1997年2月11日 |テレビシリーズ |第6話張り込み 彼女の愛と真実 |大麻密輸事件・営業マン殺人事件 |- |{{Display none|1997年02月3}}1997年2月 |{{Display none|1997年02月18日}}1997年2月18日 |テレビシリーズ |第7話タイムリミットは48時間 |同上 |- |{{Display none|1997年02月4}}1997年2月 |{{Display none|1997年02月25日}}1997年2月25日 |テレビシリーズ |第8話さらば愛しき刑事 |栗の木坂男性刺殺事件・空き巣窃盗事件 |- |{{Display none|1997年03月1}}1997年3月 |{{Display none|1997年03月04日}}1997年3月4日 |テレビシリーズ |第9話湾岸署大パニック 刑事青島危機一髪 |品川主婦殺人事件 |- |{{Display none|1997年03月18日}}1997年3月18日<ref group="注">事件発生は1997年3月17日18時59分</ref> |{{Display none|1997年03月11日}}1997年3月11日 |テレビシリーズ |第10話凶弾・雨に消えた刑事の涙 |警察官殺人未遂事件 |- |{{Display none|1997年03月18日2}}1997年3月18日 |{{Display none|1997年03月18日}}1997年3月18日 |テレビシリーズ |第11話(最終話)青島刑事よ永遠に |同上 |- |{{Display none|1997年12月29日}}1997年12月29日 - 31日 |{{Display none|1997年12月30日}}1997年12月30日 |テレビスペシャル |歳末特別警戒スペシャル |第一興和銀行強盗人質事件・海峰小学校傷害事件・大凪町マンション強盗殺人事件・湾岸署刑事課占拠事件 |- |{{Display none|1998年04月}}1998年4月 |{{Display none|1998年06月19日}}1998年6月19日 |テレビスペシャル |初夏の交通安全スペシャル |小凪町会社役員射殺事件 |- |{{Display none|1998年10月}}1998年10月 |{{Display none|1998年10月06日}}1998年10月6日 |テレビスペシャル |秋の犯罪撲滅スペシャル |会社内連続婦女暴行事件・曙荘放火殺人未遂事件 |- |{{Display none|1998年11月1}}THE MOVIEの直前 |{{Display none|1998年10月12日}}1998年10月12日 - 16日 |テレビスペシャル |深夜も踊る大捜査線 | |- |{{Display none|1998年11月4}}1998年11月4日 - 6日<ref name="名前なし-1">「3日間」『踊る大捜査線THE MOVIE 2レインボーブリッジを封鎖せよ!完全調書 お台場連続多発事件特別捜査本部報告書』p. 56。</ref>※ |{{Display none|1998年10月31日}}1998年10月31日 |映画 |THE MOVIE |副総監誘拐事件・猟奇殺人事件・署内連続窃盗事件 |- |{{Display none|1998年11月5}}THE MOVIEの後日譚 |{{Display none|2003年12月29日}}2003年12月29日 |DVD特典映像 |プロジェクトK | |- |{{Display none|2001年09月}}2001年9月 |{{Display none|2003年09月21日}}2001年9月21日 |テレビスペシャル |踊る大ソウル線 |ゴージャス姉妹強盗殺人事件 |- |{{Display none|2002年03月}}2002年3月 |{{Display none|2010年07月15日}}2010年7月15日 |ニンテンドーDS用ソフト |THE GAME 潜水艦に潜入せよ! |ストーカー殺人未遂事件・家電製品盗難事件・潜水艦事件 |- |{{Display none|2003年11月16日}}2003年11月16日 - 20日 |{{Display none|2003年07月14日}}2003年7月14日 - 18日 |テレビスペシャル |深夜も踊る大捜査線2 | |- |{{Display none|2003年11月22日}}2003年11月22日 - 24日<ref name="名前なし-1"/><ref group="注">後半の一部はその数か月後の時間軸である。</ref>※ |{{Display none|2003年07月19日}}2003年7月19日 |映画 |THE MOVIE 2 |台場役員連続殺人事件・連続婦女暴行事件・連続スリ事件 |- |{{Display none|2003年11月3}}THE MOVIE2の直後※ |{{Display none|2003年08月15日}}2003年8月15日 - 17日 |舞台 |舞台も踊る大捜査線 | |- |{{Display none|2004年10月30日}}2004年10月30日 - 31日 |{{Display none|2005年12月10日}}2005年12月10日 |テレビスペシャル |逃亡者 木島丈一郎 |警察官殺害事件・マンション立て篭もり事件 |- |{{Display none|2004年12月23日}}2004年12月23日 |{{Display none|2005年05月06日}}2005年5月6日 |テレビスペシャル |前日も交渉人 真下正義 | |- |{{Display none|2004年12月24日}}2004年12月24日 |{{Display none|2005年05月07日}}2005年5月7日 |映画 |交渉人 真下正義 |地下鉄実験車両乗っ取り事件・地下鉄車両基地爆破事件・新宿シンフォニーホール爆破未遂事件 |- |{{Display none|2004年12月24日}}2004年12月24日<br />地下鉄事件進行中 |{{Display none|2007年01月27日}}2007年1月27日 |テレビスペシャル<br />([[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]]の企画) |警護官 内田晋三 | |- |{{Display none|2004年12月25}}交渉人 真下正義の直後 |{{Display none|2005年12月17日}}2005年12月17日 |DVD特典映像 |広報人 矢野君一 | |- |{{Display none|2005年02月}}2005年2月 |{{Display none|2005年08月27日}}2005年8月27日 |映画 |容疑者 室井慎次 |新宿3丁目強盗殺人事件 |- |{{Display none|2006年03月}}2006年3月 |{{Display none|2006年10月28日}}2006年10月28日 |テレビスペシャル |弁護士 灰島秀樹 |海洋博覧会建設反対訴訟(民事)、秋葉原大学生殺害事件(刑事) |- |{{Display none|2006年12月}}2006年12月 |{{Display none|2012年09月07日}}2012年9月7日 |映画 |THE FINAL 新たなる希望 |北品川少女誘拐殺人事件(本編より6年前に発生) |- |{{Display none|2010年03月25}}THE MOVIE3以前 |{{Display none|2010年06月28日}}2010年6月28日 - 7月1日 |テレビスペシャル |深夜も踊る大捜査線3 |ブラジルサンバ老婆殺人事件(想像上の事件) |- |{{Display none|2010年03月26}}2010年3月 |{{Display none|2010年06月10日}}2010年6月1日 - 7月9日 |ドコモ動画 |係長 青島俊作 |会社員殴打事件、社長痴漢事件、中国人集団スリ事件 |- |{{Display none|2010年03月27}}THE MOVIE3直前 |{{Display none|2010年06月28日}}2010年6月28日 - |ドコモ動画 |スリーアミーゴス THE MOBILE | |- |{{Display none|2010年03月28日}}2010年3月28日 - 31日 |{{Display none|2010年07月03日}}2010年7月3日 |映画 |THE MOVIE 3 |しおかぜ銀行台場支店金庫破り事件、港区台場路線バスジャック事件、湾岸署拳銃三丁盗難事件、盗難拳銃発砲殺人事件、盗難拳銃連続殺人事件、新湾岸署毒ガス噴霧事件、TNT爆弾爆破予告事件、新湾岸署占拠事件 |- |{{Display none|2012年10月}}2012年10月 |{{Display none|2012年08月27日}}2012年8月27日 - |[[NOTTV]] |係長 青島俊作2 |なぎさ商店街殴打事件 |- |{{Display none|2012年11月}}2012年11月 |{{Display none|2012年09月01日}}2012年9月1日 |テレビスペシャル |THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件 |台場偽装自殺殺人事件、ネットオークション盗難品売買事件 |- |{{Display none|2012年12月}}2012年12月<ref group="注">冒頭で12月21日の字幕が出るため、少なくとも同日を含めた数日間である。</ref> |{{Display none|2012年09月07日}}2012年9月7日 |映画 |THE FINAL 新たなる希望 |台場トンネル拳銃殺人事件、真下勇気くん誘拐事件 |- |{{Display none|2012年12月2}}THE FINAL 新たなる希望の後 |{{Display none|2012年09月03日}}2012年9月3日 - 9月6日 |テレビスペシャル |深夜も踊る大捜査線 THE FINAL | |- |} ※「THE MOVIE」は事件の数日後に入院している青島を室井と和久が見舞うシーンで、「THE MOVIE 2」は事件の数ヶ月後(2004年1月)に室井と青島が表彰されるが青島が新たな事件の捜査のために表彰式をすっぽかすシーンで終わっている。「舞台も踊る大捜査線」では、「THE MOVIE 2」で発生した事件と表彰式との間のひとこまを描いている。 * 君塚良一の著書『裏ドラマ』の中に刑事ドラマ「デカ・ウォーズ」(DVD特典の『デカウォーズ』とは同名だが別物)にあこがれていた少年時代(1979年とされる)の青島俊作を描いたシナリオが収録されている。[[石原隆]]の提案で執筆したものの諸事情で没になったシナリオという紹介がある。君塚は同書の中で、「このシナリオをきちんと作ったことは青島という人物を深く理解するのに役だった」と述べている。 * 2001年の9月(踊る大ソウル線の時点)よりは前の時点で発生した「柏木雪乃が爆弾入りの縫いぐるみを抱えて[[東京湾]]に飛び込んだ」という未映像化の事件が存在する。「踊る大ソウル線」の中で少し言及されているほか「THE MOVIE 2」のエンドクレジットにそのシーンが一瞬映っているがその詳細は不明である。 == トピックス == [[お台場]]地区を主要な舞台とする本作品は[[1996年]]から[[1997年]]にかけて[[フジテレビジョン|フジテレビ本社]]が新宿区河田町からお台場地区に移転した(撮影当時は本格移転前で、撮影スタジオのみ先行して使用していた)ことを受けて「フジテレビお台場移転第1回記念作品」として作られテロップまで作成されたが、系列局からの「フジテレビだけで放送するんじゃないから」との反対で最終的には外された<ref>「踊る大捜査線 COMPLETE DVD-BOX 付属特製ブックレット」pp. 5-6。</ref>。 第2作公開後、重要メンバーである和久平八郎役の[[いかりや長介]]が病没。スピンオフ作品である『[[容疑者 室井慎次]]』では、和久の健在を匂わす台詞があるが、MOVIE3での和久は故人の設定で、甥っ子として和久伸次郎が登場する。 == スタッフによる遊び心 == 前述の「[[ハイパーリンク (劇作手法)|ハイパーリンク]]」をはじめ、劇中には様々な"遊び"が盛り込まれている。 === カエル急便 === 劇中に登場する架空の運送会社のブランド名(正式社名は新日本運搬)で、[[カエル]]のロゴマークが特徴である。毎回、カエル急便が登場すると、何かしら事件が発生する。番外編(『湾岸署婦警物語』)ではカエル急便の社屋も画面上に登場している。映画 新たなる希望では、カエル急便の倉庫も登場している。 [[テレビアニメ]]版の『[[学校の怪談 (テレビアニメ)|学校の怪談]]』には、[[新聞]]にカエル急便の[[広告]]が載っていた{{いつ|date=2012年11月}}。(テレビアニメ『GTO』第15話にも理事長の読んでる新聞にカエル急便の広告があった。)テレビアニメ『[[GTO (漫画)|GTO]]』の第17話「悪い夢! 逃亡者・鬼塚!」にカエル急便のダンボールが山積みにされていた。 === だるま === 劇中に出てくる居酒屋の名前。TVシリーズ第1話和久の台詞から登場している。署長らの接待でたびたび利用されているほか、『初夏の交通安全スペシャル』で篠原夏美の歓迎コンパでも利用されている寿司屋「和之竹」が隣にある。『THE MOVIE 3』のスピンオフムービー『係長 青島俊作 THE MOBILE』でも、傷害事件の現場になった。 === レインボー最中(もなか) === 湾岸署管轄区域唯一の架空の名産品で署長たちが接待するときに必ず差し出す七色の[[最中]]。レインボーブリッジとかけた名前で、劇中で何度か使われ、その後も「レインボーせんべい」等の派生品も登場した。 === カップ麺 === 「キムチラーメン」「わさびラーメン」など架空のもの、実在のもの含めて様々なカップ麺が登場する。『THE MOVIE 2』公開の際には「湾岸ラーメン」というカップ麺が劇中に登場した。 [[2005年]][[8月]]には、劇場公開された『[[容疑者 室井慎次]]』において舞台となる新宿北署にあった明星食品の自販機の中に入っていたカップ麺のうち、「北新宿キムチ麺」と「北新宿トムヤム麺」2つのエスニック系カップ麺が、実際に明星食品から商品として全国発売された。 2010年6月21日、劇場公開される『THE MOVIE 3』の劇中登場にあわせて「踊る大捜査線 ザ・湾岸ラーメン 海鮮キムチコク塩味」が、明星食品より全国発売された<ref>{{Cite book|和書|title=『明星 踊る大捜査線 ザ・湾岸ラーメン 海鮮キムチ コク塩味』 2010年6月21日(月) 新発売 |url=http://www.myojofoods.co.jp/news/pdf/20100525_02.pdf|date=2010-05-25|accessdate=2012-11-24}}</ref>。 2012年8月27日、劇場公開される『THE FINAL』に合わせて、劇中にも登場する「踊る大捜査線 ザ・湾岸ラーメン ワンタン麺 エビ塩味」が明星食品より全国発売された<ref>{{Cite book|和書|title=明星 踊る大捜査線 ザ・湾岸ラーメン ワンタン麺 エビ塩味 2012年8月27日(月) 新発売 |url=http://www.myojofoods.co.jp/news/pdf/20120731_01.pdf|date=2012-07-31|accessdate=2012-11-24}}</ref>。 === 登場シーン === THE MOVIE 2の冒頭、青島刑事の通勤シーンはテレビシリーズ第1話で青島が初めて湾岸署に向うシーンと同一の経路を辿っており、「空き地」から「観光地」への変貌振りがよくわかるつくりになっている。 番外編で“女青島”こと篠原巡査(内田有紀)が通勤するシーンも、第1話のこれと同一のカット割になっており、青島と女青島との対比が描かれている。 === オープニング === テレビシリーズのオープニングで、それぞれの役柄の出身地や現住所、役職といったプロフィールが書かれている。 === 登場人物のプロフィール === 劇中に出てくる登場人物の誕生日は演者と同じである。その他にも生年や出身地、血液型まで同じ人物もいる。 === 製作スタッフの出演 === プロデューサーの亀山千広、東海林秀文をはじめ、多くの製作スタッフが『内トラ(内部エキストラ)』(業者に依頼し端役を発注するエキストラに対し、端役を内部のスタッフでまかなうこと)としてテレビ・映画全てにおいて多くのシーンに出演しており、一部の役(死体発見者、ボクサーとトレーナーなど)は準レギュラー化している。このほかに番組内で使用されている「前科者リスト」や「容疑者リスト」にもスタッフの写真が使用されるなどしている。スタッフの子供が出ているケースもある。 プロデューサーの亀山千広は「深夜も踊る大捜査線」では脚本家の君塚良一とともに「管内で刑事ドラマを撮影する許可(設定上、フジテレビ本社は湾岸署の管轄内となる)をもらいに湾岸署に来る」という設定で本人役で出演している。 === 東京ラブストーリー === 『秋の犯罪撲滅スペシャル』で、青島たちが調べている被疑者所有ビデオテープの中の1本に、『[[東京ラブストーリー]]』が登場。青島は感情移入して見入る面々を横目に、織田演じるカンチのことを「何だかはっきりしない男ッスよね」とダメ出しし、周囲の微妙な反応を招く。 === 新世紀エヴァンゲリオン === 本作の捜査本部などの場面用に製作された楽曲『危機一髪』は[[新世紀エヴァンゲリオン]]の戦闘シーン用の楽曲『Decisive Battle(EM20)』の特徴的なティンパニーパートのリズムをほぼそのまま使用している<ref group="注">『危機一髪』自体はこの他、ドビュッシー『海』の一節を用いるなど様々な有名曲メロディの集合体のような曲である。</ref>。これについて作・編曲者である松本晃彦は、本楽曲が収録されている『[[RHYTHM AND POLICE ORIGINAL SOUND TRACK II SOUND FILE]]』ブックレット内の記事にて「某アニメシリーズ?多くは語りませんがスタッフがファンなのは確かです」と関連を匂わせている。また、TV放送版の最終回・第11話で緊急逮捕された安西を湾岸署に連行してくるシーンにてDecisive Battle自体がそのままBGMとして使用されている<ref group="注">権利の関係から、VHSやDVD等では別の曲へ変更されている。</ref>。 『歳末特別警戒スペシャル』の冒頭、オーストリア大統領夫人による杉並区の病院訪問を報道するTVリポーターの名前が綾波麗(うらら)となっている<ref group="注">演じているのは元プロ野球選手・近藤昭仁と女優の北沢典子の次女で女優の近藤典子である。</ref>。彼女は『初夏の交通安全スペシャル』にも出演し、主人公・篠原夏美とは短大時代の同級生という設定が追加されている。夜間の飲酒運転検問で引っかかったTV番組プロデューサーの車に同乗しており、夏美に対して知り合いのよしみから「新しい仕事が取れそうだから」とプロデューサーの違反もみ消しを冗談半分に依頼している(夏美は拒否)。彼女の名前の元ネタは新世紀エヴァンゲリオンに登場するヒロインの一人、[[綾波レイ]]である。 === 他の映画作品へのオマージュ === 『歳末特別警戒スペシャル』のクライマックスでは、BGMとして[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九]]をバックに青島たちが犯人と格闘するシーンがあるが、{{独自研究範囲|date=2012年11月|映画「[[ダイ・ハード]]」や『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』、後の『[[相棒]]』のシーンと似た手法がとられている}}。 「踊る大捜査線 THE MOVIE」のクライマックスで、青島が煙突から出るピンクの煙によって監禁された和久を探すシーンがある。そのシーンの画面が白黒になり煙突からのピンク煙だけを着色しているのは、[[黒澤明]]の映画「[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]](1963年)」に出てくる煙突シーンとほぼ同じである(「天国と地獄」は全篇白黒作品だが、煙突からの煙のみ着色している。このような映画を「パートカラー作品」ということがある)。そのためそのシーンで青島は「天国と地獄だ」というセリフを言う。このモチーフの使用や劇中での「黒澤塗料」の名称使用などについては撮影前に権利者である黒澤プロダクションより正式な使用許諾を受けている(本広克行監督が「THE MOVIE」DVDのコメンタリーにて発言)。ラストでは、いきなり背中を刺されているが、これも「[[振り返れば奴がいる]]」のオマージュと考えられる。 『THE MOVIE 2』のOPでは[[ジャッキー・チェン]]の[[ファースト・ミッション]]の実技訓練。犯人グループの一人が[[東北]]訛りで「[[蒲田]]」のことを「カメダ」と発音するシーンがあるが、[[松本清張]]原作の「[[砂の器]]」に出てくる件とまったく同じ手法である。すみれがそのシーンの後「砂の器……」とつぶやくセリフがある。 == 劇中用語 == {{独自研究|section=1|date=2012年5月}} 本作の劇中用語はいずれも、過去の刑事ドラマではあまり用いられることのなかったものである。それまでの刑事ドラマでは犯人のことを「ホシ」<ref>日本映画専門チャンネル編『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』幻冬舎、2010年9月、p.61。 ISBN 978-4344981867</ref>、事件のことを「ヤマ」などという[[隠語]]で呼ぶようにしていた。「踊る」においては全面的にこのような隠語が一般的な呼称として用いられていない。劇中では犯人のことを「被疑者・マル被」、容疑者の身柄を拘束することを「確保」と言い換えていた。 刑事課のみならず、警察内で警察官が使う「任同」「機捜」「現着」「追尾」「ローラー」「害者」「123」などの職業用語も多数引用され、一部は世間一般にも広まった。犯人と「被疑者」とは同義語ではないが、「マル被」という言い方は実際の警察の捜査員も使用する。「確保」はあくまで身柄確保の意味であり、逮捕のみを指すとは限らない。 実際に警察官(特に私服警官である刑事)は外部で仕事の話をする場合、「会社」「社長」などビジネス用語を用い、警察官であることを悟られないようにしている。しかし、これが原因で 副総監誘拐事件が発生した。 劇中で「[[労災]]」という言葉が頻繁に登場する。公務員である警察官は同様の制度である「[[公務災害]]」が適用される<ref group="注">THE MOVIE2ではすみれが青島に'''公務災害'''の申請書を渡していた。</ref>。 劇中で「拳銃携帯命令」と呼ばれる署員に拳銃を所持させる命令が出されているが、実際には拳銃携帯に特別な許可や命令は存在しない。 TVシリーズ第7話で、「拘留(こうりゅう)期限まで○時間○分」というテロップが複数回発現するが、これは誤りで、「勾留(こうりゅう)~」が正しい。 どちらも読み方は同じ「こうりゅう」であるが、意味がまったく異なる。 前者は刑罰としての身柄拘束を、後者は被疑者(または被告人)の逃亡や証拠隠滅を防ぐための身柄拘束をそれぞれ指す。 == 湾岸署 == [[File:DSB Group Shiomi Building, at Shiomi, Koto, Tokyo (2020-01-01) 05.jpg|thumb|right|200px|湾岸署のロケ地となった、潮見コヤマビル(現DSBグループ潮見ビル)]] 作品の舞台となる警察署。「WPS/湾岸署」の2段書きはフジテレビの登録商標である(第4728692号)。 通称 '''WPS'''='''W'''angan '''P'''olice '''S'''tation。警視庁第一方面本部に属する1995年になって新設された警察署である。所在地は、東京都港区台場3丁目2番8号(実際には台場は2丁目までしかない)。「THE MOVIE 2」のパンフレットや公式本「踊る大捜査線研究ファイル」によれば地図上での位置はフジテレビがある位置になっているが、テレビシリーズ第1話や「THE MOVIE 2」冒頭での湾岸署への出勤シーンでは最寄り駅であるりんかい線東京テレポート駅を出てフジテレビとは逆方向の[[夢の大橋]]方面に向かって歩いている。ロケ地は江東区潮見にある潮見コヤマビル(後に[[潮見GATE SQUARE]]に改称)で、外観、1階ロビー、屋上、生活安全課のシーンなどがここで撮影されている。なお、劇場版3は"新湾岸署への引っ越し作業中に事件が起こる"という設定の為、同作に於ける湾岸署の撮影場所(外観、1階ロビーなど)は、冒頭シーンを除いて現存する東京湾岸警察署の隣に位置する"[[The SOHO|the SOHOビル]]"に移動している。 新設された<!--1997年 シナリオガイドブックの設定資料で和久平八郎が平成6年(1994年)4月に湾岸署に異動していますので、湾岸署の設置はそれ以前だと思われます。-->当時は、臨海副都心といってもほとんど建設予定地ばかりで人もまばらであった。そのため他の所轄署(特に勝どき署)や警視庁の捜査員などからは「空き地署」と呼ばれ蔑まれていた。大規模所轄の部類には入るが、割合開けてきた2003年ころ(「THE MOVIE 2」の時点)でもエリートコースなどではなく、相変わらず本庁の駒にされる立場の弱い所轄である。署長は延々と神田が務めているが(2010年の新湾岸署移転時に真下に交代)、神田自身は丸の内署への栄転を希望している。青島の責任を問われいつも先送りとなる。署内には神田による署訓 '''「私あっての湾岸署」「ミスのない捜査とスキのない接待」'''が配布されている。新設だけあって外部も内装も新しく、およそ警察署といったイメージではないモダンな作りとなっている。 以上は作中の「湾岸署」の設定であるが、実際にも[[東京水上警察署]]を移転改築し近隣署と管轄を調整、臨海副都心全体を管轄する「[[東京湾岸警察署]]」(Tokyo Wangan Police Station) が2008年3月31日に開署した<ref group="注">実際の東京湾岸警察署は東京水上警察署の機能を引き継いだため、東京都区部の沿岸地域全体や[[東京港]]、河川なども管轄する中規模警察署である。</ref>。 == 音楽 == === 主題歌 === * 「[[Love Somebody]]」 - 織田裕二with[[マキシ・プリースト]](テレビシリーズ、歳末特別警戒スペシャル、初夏の交通安全スペシャル、THE LAST TV) * 「Love Somebody [CINEMA Version]」 - 織田裕二(秋の犯罪撲滅スペシャル、THE MOVIE) * 「Love Somebody -CINEMA Version II-」 - 織田裕二 feat.MYA (THE MOVIE 2) * 「Love Somebody -CINEMA Version III-」 - 織田裕二(THE MOVIE 3) * 「Love Somebody (CINEMA Version IV)」 - 織田裕二(THE FINAL) {{要出典範囲|date=2014年12月|「Love Somebody」は本来クリスマスソングとして作られた。}} 「Love Somebody-CINEMA Version II-」では歌詞の一部が変更されており、「誰かを愛せたとき」から「あなたを愛せたとき」になっているが「Love Somebody-CINEMA Version III-」 では「誰かを愛せたとき」に戻された。 === サウンドトラック(BGM) === ドラマ版から『容疑者 室井慎次』を担当しているのは[[松本晃彦]]、『THE MOVIE 3』『THE FINAL』を担当しているのは[[菅野祐悟]]である。松本はスピンオフムービー「交渉人 真下正義」「容疑者 室井慎次」も手掛けており2005年12月に放映された「逃亡者 木島丈一郎」も担当した。アルバム『RHYTHM AND POLICE』は、IからVを合わせて100万枚以上販売されている<ref>{{Cite web|和書|title=第40回 松本 晃彦 氏 |publisher=Musicman-NET |date=2003-12-18 |url=https://www.musicman.co.jp/interview/19504 |accessdate=2021-08-28}}</ref>。[[フェイス・ワンダワークス]]が2015年に発表したGIGAエンタメロディで15年間で最も多くダウンロードされた[[着信メロディ]]を集計した「着信メロディ15年間ランキング」において、「Rhythm And Police」は10位にランクインされた<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000038.000007443.html スマホ時代に着信メロディ復活元年 GIGAエンタメロディ「着信メロディ15年間ランキング」発表 歴代No.1アーティストはEXILE]、PRTIMES(株式会社フェイス・ワンダワークス)、2015年1月20日。</ref>。 メインテーマ曲「Rhythm And Police」(日本音楽著作権協会(JASRAC)作品コード049-0585-7)の原曲は、メキシコの作曲家[[ロレンソ・バルセラータ]]([[:en:Lorenzo Barcelata|Lorenzo Barcelata Castro]];二つ目の姓である「カストロ」は母方の姓)<sub>(1889 - 1943)</sub>が作曲作詞した『エル・カスカベル』(El Cascabel;日本音楽著作権協会(JASRAC)作品コード0K3-4404-1)<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=PkMdyPFp9y8 "El Cacabel"の演奏例] YouTube</ref><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=eDZFzYoPI-U "El Cacabel"の演奏例] YouTube</ref><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=8NWSWg7c0Ec "El Cacabel"の演奏例] YouTube</ref> である。すでに著作者であるロレンソ・バルセラータの死後50年が経過しているため、1994年の時点で、日本国内における『エル・カスカベル』の[[著作権]]は消滅している。日本国外でのBAYSIDE SHAKEDOWN 2の上映には国および地域によっては問題が残る。Rhythm And Policeにサンプリングとして使われているのは[[ボイジャー計画|ボイジャー]](1977年)に搭載された[[ボイジャーのゴールデンレコード|「地球の音 (The Sounds of Earth)」]]と同一の編曲のもので、このレコードの音源は1992年にWarner New MediaからCD化され聴くことができる。 [[スピンオフ]]である『踊るレジェンド』作品(「交渉人 真下正義」「容疑者 室井慎次」「逃亡者 木島丈一郎」「弁護士 灰島秀樹」「警護官 内田晋三」)では『Rhythm And Police』は使用されていない。※ただし、DVD特典として収録された「警護官〜」では権利上の関係からか、タイトルバックの曲が『Rhythm And Police』に差し替えられている。 * [[RHYTHM AND POLICE ORIGINAL SOUND TRACK F.F.S.S.]](1997年2月26日発売) * [[RHYTHM AND POLICE ORIGINAL SOUND TRACK II SOUND FILE]](1997年3月26日発売) * [[RHYTHM AND POLICE ORIGINAL SOUND TRACK III THE MOVIE F.F.S.S.]](1998年10月28日発売) * RHYTHM AND POLICE PERFECT BOX (1998年12月23日発売) * [[RHYTHM AND POLICE THE BEST F.F.S.S.]] (2003年6月25日発売) * [[RHYTHM AND POLICE ORIGINAL SOUND TRACK IV THE MOVIE 2 F.F.S.S.]](2003年7月16日発売) * [[RHYTHM AND POLICE THE REMIX]](2003年8月20日発売) * [[RHYTHM AND POLICE ORIGINAL SOUND TRACK V THE MOVIE 2〜SOUND FILE F.F.S.S.]](2003年9月26日発売) * RHYTHM AND POLICE THE COMPLETE FILE (2004年3月24日発売) * [[NEGOTIATOR ORIGINAL MOTION PICTURE SOUNDTRACK]](2005年4月27日発売) * [[THE SUSPECT ORIGINAL MOTION PICTURE SOUNDTRACK]](2005年8月24日発売) * [[ORIGINAL MOTION PICTURE SOUNDTRACK THE MOVIE3]] (2010年7月7日発売) * [[ORIGINAL MOTION PICTURE SOUNDTRACK FINAL]] (2012年9月5日発売) * ※詳細は下記に記述。 このほかにも、過去のフジテレビで使われた演奏曲も使われている。最終話の最後のシーンで真下が撃たれた時に流れていた曲は、「[[NIGHT HEAD]]」でも使われているので、踊るのサントラ独自のものではない。 『RHYTHM AND POLICE』は[[コナミアミューズメント|コナミ]]の[[BEMANIシリーズ]]のアーケードゲームでは『[[ポップンミュージック11]]』に、アレンジ版である「Rhythm & Police (K.O.G G3 Mix)」(CJ Crew feat. Christian D.)が『[[Dance Dance Revolution|Dance Dance Revolution 5thMIX]]』で収録されている。ほか、[[トミー (企業)|トミー]]のヴァイオリン型電子玩具『[[evio]]』の外部メディアにも「踊る大捜査線のテーマ」として収録されている。また、日本を含めて世界的に行われているフィットネスプログラム「[[ボディコンバット]]」でも使用されている。 テレビシリーズでBGMとして、アニメ「[[新世紀エヴァンゲリオン]]」の戦闘シーン「DECISIVE BATTLE」「Spending Time in Preparation」のアレンジを使用している。番組の音響担当者がエヴァ製作者に了解を得て製作した(DVD「踊る大捜査線1」より)。第1話のみアレンジの時間がなく庵野秀明に本広克行が電話で了解を得てエヴァサントラの曲をそのまま使用した。 == 受賞 == * 連続ドラマ(1997年) ** 第12回[[ザテレビジョンドラマアカデミー賞]] *** '''最優秀作品賞''' *** '''主演男優賞'''(織田裕二) *** '''脚本賞'''(君塚良一) *** '''監督賞'''(本広克行、澤田鎌作) == 関連商品 == スピンオフ作品関係を含む。 === 書籍 === * シナリオ集 ** 踊る大捜査線 湾岸警察署事件簿 ([[キネマ旬報社]]キネ旬ムック 1998年10月31日)ISBN 4-87376-505-6 *: テレビシリーズ、歳末特別警戒スペシャル、秋の犯罪撲滅スペシャルを収録 ** 踊る大捜査線THE MOVIE シナリオガイドブック(キネマ旬報社キネ旬ムック 1999年4月17日)ISBN 4-8737-6512-9 *: 踊る大捜査線 THE MOVIE、秋の犯罪撲滅スペシャル(完璧版)、深夜も踊る大捜査線を収録 ** 踊る大捜査線THE MOVIE 2レインボーブリッジを封鎖せよ!シナリオガイドブック(キネマ旬報社キネ旬ムック 2003年9月16日)ISBN 4-8737-6602-8 *: 踊る大捜査線 THE MOVIE 2、深夜も踊る大捜査線2、舞台も踊る大捜査線を収録 ** 「交渉人 真下正義」シナリオガイドブック (キネマ旬報社キネ旬ムック 2005年6月22日) ISBN 4-8737-6618-4 ** 「容疑者 室井慎次」シナリオガイドブック (キネマ旬報社キネ旬ムック 2005年10月17日) ISBN 4-8737-6622-2 ** 踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!シナリオガイドブック(キネマ旬報社キネ旬ムック 2010年8月31日) ISBN 4-8737-6710-5 ** 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 シナリオガイドブック(キネマ旬報社キネ旬ムック 2012年9月22日) ISBN 4-8737-6762-8 * ノベライズ本 *: 単行本と文庫本の内容は同じである。 ** 踊る大捜査線(扶桑社文庫 フジテレビ出版 1997年3月) ISBN 4-594-02212-X ** 踊る大捜査線 (扶桑社文庫 フジテレビ出版 2002年9月30日) ISBN 4-594-03678-3 *: テレビシリーズを収録 ** 踊る大捜査線スペシャル(扶桑社文庫 フジテレビ出版 1998年10月) ISBN 4-5940-2595-1 ** 踊る大捜査線スペシャル(扶桑社文庫 フジテレビ出版 2003年5月30日) ISBN 4-5940-3991-X *: 歳末特別警戒スペシャル、秋の犯罪撲滅スペシャル、踊る大捜査線 THE MOVIEを収録 ** 小説 交渉人真下正義 (扶桑社文庫 フジテレビ出版 2005年6月20日) ISBN 4-5940-4973-7 ** 小説 容疑者・室井慎次 (扶桑社文庫 フジテレビ出版 2005年9月30日) ISBN 4-5940-5039-5 ** 踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!(扶桑社文庫 フジテレビ出版 2010年6月22日) ISBN 978-4-594-06240-8 ** 踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!(扶桑社文庫 フジテレビ出版 2010年7月29日) ISBN 978-4-5940-6255-2 ** 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望(扶桑社文庫 フジテレビ出版 2012年9月6日)ISBN 978-4-5940-6670-3 * 踊る大捜査線THE MAGAZINE(ぴあ 1998年10月)ISBN 4-89215-054-1 * 踊るインターネット―踊る大捜査線オフィシャルwebサイト・捜査レポート(キネマ旬報社キネ旬ムック、1999年8月) ISBN 4-8737-6517-X * 踊る大捜査線研究ファイル(扶桑社文庫 フジテレビ出版、2003年5月30日) ISBN 4-5940-3989-8 * 勝手に!踊る大捜査線 (フジテレビ出版 2003年7月) ISBN 4-594-04138-8 * 踊る大捜査線THE MOVIE 2レインボーブリッジを封鎖せよ!完全調書 お台場連続多発事件特別捜査本部報告書 ([[角川書店]] 2003年7月) ISBN 4-04-853645-1 * 踊る大捜査線TheMovie2 青島刑事コンプリートブック (ぴあ 2003年7月) ISBN 4-8356-0534-9 * 踊る大捜査線THE MOVIE2完全裏バイブル ([[講談社]] 2003年7月) ISBN 4-06-339997-4 * 公式ガイドブック『交渉人 真下正義』完全FILE (角川書店 2005年4月8日) ISBN 4-0485-3844-6 * 真下警視完全読本コンプリートブック(ぴあMOOK ぴあ 2005年5月20日) ISBN 4-8356-0726-0 * 交渉人真下正義ネゴシエイションズガイドブック(TJ MOOK [[宝島社]]、2005年5月23日) ISBN 4-7966-4589-6 * 公式ガイドブック「容疑者 室井慎次」完全FILE (角川書店 2005年8月3日) ISBN 4-0485-3898-5 * 室井管理官完全読本コンプリートブック(ぴあMOOK ぴあ 2005年8月30日) ISBN 4-8356-0746-5 * diary 野口江里子の日記 1983-1985(講談社 2005年9月17日) ISBN 978-4-0621-3120-9 * 踊る大捜査線 THE MOVIE3 完全読本(ぴあMOOK ぴあ 2010年6月21日)ISBN 978-4-8356-1346-8 * 踊る監督日記 〜踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!〜(講談社 2010年8月27日)ISBN 978-4-0621-6443-6 * 踊る大捜査線 THE FINAL COMPLETE BOOK(ぴあMOOK ぴあ 2012年8月28日)ISBN 978-4-8356-2131-9 === VHS === 販売元は[[ポニーキャニオン|株式会社ポニーキャニオン]] * 踊る大捜査線 (1) (1997年8月20日)テレビシリーズ第1、2、3話を収録 * 踊る大捜査線 (2) (1997年8月20日)テレビシリーズ第4、5、6話を収録 * 踊る大捜査線 (3) (1997年8月20日)テレビシリーズ第7、8、9話を収録 * 踊る大捜査線 (4) (1997年8月20日)テレビシリーズ第10、11話、NG集を収録 * 踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル完全版 (1998年4月17日) * 踊る大捜査線 番外編湾岸署婦警物語 初夏の交通安全スペシャル (1998年8月19日) * 踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル完全版 (1998年11月18日) * 深夜も踊る大捜査線〜湾岸署史上最悪の三人!〜 (1999年4月21日) * 踊る大捜査線 THE MOVIE〜湾岸署史上最悪の3日間〜 (1999年6月15日) * 踊る大捜査線 THE MOVIE〜湾岸署史上最悪の3日間〜[完全版] (2000年1月19日) * 踊る大捜査線 THE MOVIE2 (2004年6月2日)(通販専用) * 踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2 (2004年6月2日) * 舞台も踊る大捜査線 ザッツ!! スリーアミーゴス (2004年6月30日) * 深夜も踊る大捜査線2 (2004年6月30日) === DVD === 販売元はポニーキャニオン * 踊る大捜査線 (1) (2000年12月20日)テレビシリーズ第1話を収録 * 踊る大捜査線 (2) (2000年12月20日)テレビシリーズ第2、3話を収録 * 踊る大捜査線 (3) (2000年12月20日)テレビシリーズ第4、5話を収録 * 踊る大捜査線 (4) (2000年12月20日)テレビシリーズ第6、7話を収録 * 踊る大捜査線 (5) (2000年12月20日)テレビシリーズ第8、9話を収録 * 踊る大捜査線 (6) (2000年12月20日)テレビシリーズ第10、11話、NG集を収録 * 踊る大捜査線BOXセットDVD (2000年12月20日) ** 6枚組、TVシリーズ6巻を収録 * 踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル 完全版(2001年1月17日) * 踊る大捜査線 番外編湾岸署婦警物語 初夏の交通安全スペシャル(2001年1月17日) * 踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル 完全版(2001年1月17日) * ※踊る大捜査線 THE MOVIE(2000年7月19日) ** 通常版と特別版があり、特別版は2枚組。特典DISCには「深夜も踊る大捜査線」を収録。 * ※踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ! (2004年6月2日) * ※踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2(2004年6月2日) ** 2枚組。特典DISC付き(OD2プロジェクト、監視カメラ映像、刑事〔デカ〕ウォーズ、観光案内 - おすすめスポットランキング、プロジェクトKなどを収録)。 * 深夜も踊る大捜査線2 (2004年6月30日) * 舞台も踊る大捜査線 ザッツ!! スリーアミーゴス (2004年6月30日) * 踊る大捜査線 THE MOVIE 1&amp;2 Hi-Bit Twin Edition (2004年9月15日) ** 映画第1弾と第2弾の2枚組。HI-BITエディション版。 ** 封入特典としてDVDクリーニングDISC1枚 * 踊る大捜査線 COMPLETE DVD-BOX(2005年11月25日) ** 収録内容 全17枚 特製ブックレット付き ** 「踊る大捜査線」テレビシリーズ全6巻 ** 「歳末特別警戒スペシャル完全版」 ** 「番外編湾岸署婦警物語初夏の交通安全スペシャル」 ** 「秋の犯罪撲滅スペシャル完全版」 ** 「踊る大捜査線 THE MOVIE」 ** 「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」 ** 「BAYSIDE SHAKEDOWN 2」 ** 「BAYSIDE SHAKEDOWN 2 特典DISC」 ** 「深夜も踊る大捜査線」 ** 「深夜も踊る大捜査線2」 ** 「舞台も踊る大捜査線」 ** 「DVD-BOX 特典DISC」 * ※交渉人 真下正義 プレミアム・エディション(2005年12月17日)(50,000枚限定生産) ** アウターケース(外箱)+デジパック仕様(真下正義が「THE MOVIE 2」の中で雪乃の写真を入れて持ち歩いていたフォトスタンドを模したものになっている。) 特典ディスク3枚付き ** 特典ディスク1「前日も交渉人 真下正義」ほか収録 ** 特典ディスク2「広報人 矢野君一」ほか収録 ** 特典ディスク3「逃亡者 木島丈一郎」本編ディスク(同ドラマに関するメイキングやインタビューも収録されている。) * ※交渉人 真下正義 スタンダード・エディション(2005年12月17日) ** 特典ディスク1枚付き(内容はプレミアム・エディションの特典ディスク1と同じ) * ※容疑者 室井慎次 プレミアム・エディション(2006年4月19日)(50,000枚限定生産) ** 特典ディスク2枚+君塚監督撮影台本レプリカ付き ** 特典ディスク1「メイキング、豪華キャスト特別座談会、予告編」ほか収録 ** 特典ディスク2「法廷劇シーンマルチプレビュー」ほか収録 * 容疑者 室井慎次 スタンダード・エディション(2006年4月19日) ** 特典ディスク1枚付き(内容はプレミアム・エディションの特典ディスク1と同じ) * 踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ! プレミアム・エディション(2011年2月2日) ** アウターケース(外箱)仕様。特典ディスク2枚付き。 ** 本編ディスク 「警護官 内田晋三」(初回生産版のみ) ** 特典ディスク1 「メイキング、未公開シーン、キャスト・インタビュー、湾岸署歌、新湾岸署MAP」 ** 特典ディスク2 「イベント映像集、踊れ 快盗愛子([[めざましテレビ]]で放送)」 * 踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ! スタンダード・エディション(2011年2月2日) * 踊る大捜査線 THE MOVIE 3 カエル急便おまとめパック(初回限定生産)(2011年2月2日) ** カエル急便のダンボールを模した特製ケースに、「踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ! プレミアム・エディション」、「係長 青島俊作 THE MOBILE 事件は取調室で起きている!」、「深夜も踊る大捜査線3」がセットになったもの * 係長 青島俊作 THE MOBILE 事件は取調室で起きている!(2011年2月2日) * 深夜も踊る大捜査線3(2011年2月2日) * 踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件(2013年4月3日) ** 映像特典:プレミアムトーク「織田裕二×柳葉敏郎、織田裕二×深津絵里、織田裕二×ユースケ・サンタマリア」、笠井アナ撮影現場リポート、予告編集、音声特典:オーディオコメンタリー、初回限定特典:特製アウターケース * 係長 青島俊作2 事件はまたまた取調室で起きている!(2013年4月3日) * 深夜も踊る大捜査線 THE FINAL(2013年4月3日) * 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 スタンダード・エディション(2013年4月26日) **映像特典:特報・劇場予告編・TVスポット集、音声特典:オーディオコメンタリー(製作・亀山千広×脚本:君塚良一×監督:本広克行) * 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 プレミアム・エディション(2013年4月26日) **ディスク1・本編、映像・音声特典(スタンダード・エディションと同様)、ディスク2・特典DVD1:FINAL & LAST TVメイキング、オフィシャルインタビュー、隠し映像、ディスク3・特典DVD2:完成披露舞台挨拶、初日舞台挨拶〜公開記念5大都市舞台挨拶、中野友加里現場リポート、特製アウターケース付き * 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 FINAL SET(2013年4月26日) **セット内容:プレミアム・エディション、『踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件』(初回生産分はアウターケース付き)、『係長 青島俊作2 事件はまたまた取調室で起きている!』 DVD、『深夜も踊る大捜査線 THE FINAL』 DVD、FINAL SET専用特典DVD(語る踊る大捜査線 THE FINAL MAKING、踊る大捜査線 THE FINAL INTERVIEW、タイトルバックの作り方!、めざまし presents 踊る15years)、先着予約・購入特典:プレスパンフレット ミニチュアエディットver.、特製BOX付き ※は[[英語字幕が収録されたDVDの一覧|英語字幕]]付き。 === Blu-ray === 販売元はすべてポニーキャニオン * 踊る大捜査線 THE MOVIE(2010年7月21日) * 踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!(2010年7月21日) * 交渉人 真下正義(2010年7月21日) * 容疑者 室井慎次(2010年7月21日) * 踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ! プレミアム・エディション(2011年2月2日) * 踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ! スタンダード・エディション(2011年2月2日) * 踊る大捜査線 THE MOVIE 3 カエル急便おまとめパック(初回限定生産)(2011年2月2日) * 踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件(2013年4月3日) * 踊る大捜査線 SPIN-OFF COMPLETE Blu-ray BOX(数量限定生産、2013年4月3日) ** ディスク1:『逃亡者 木島丈一郎』、映像特典、メイキング、『警護官 内田晋三』 ** ディスク2:『弁護士 灰島秀樹』 * 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 スタンダード・エディション(2013年4月26日) * 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 プレミアム・エディション(2013年4月26日) * 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 FINAL SET(2013年4月26日) == スタッフ == === 脚本・演出・監督・音楽 === {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto; font-size:small;" |- !タイトル !脚本 !演出・監督 !音楽 !その他 |- !テレビシリーズ第1話 |rowspan="12"|[[君塚良一]] |rowspan="2"|[[本広克行]] |rowspan="24"|[[松本晃彦]] | |- !テレビシリーズ第2話 | |- !テレビシリーズ第3話 |rowspan="2"|[[澤田鎌作]] | |- !テレビシリーズ第4話 | |- !テレビシリーズ第5話 |本広克行 | |- !テレビシリーズ第6話 |澤田鎌作 | |- !テレビシリーズ第7話 |本広克行 | |- !テレビシリーズ第8話 |澤田鎌作 | |- !テレビシリーズ第9話 |本広克行 | |- !テレビシリーズ第10話 |澤田鎌作 | |- !テレビシリーズ第11話 |rowspan="3"|本広克行 | |- !歳末特別警戒スペシャル | |- !初夏の交通安全スペシャル |[[尾崎将也]] |原案・君塚良一 |- !秋の犯罪撲滅スペシャル |rowspan="3"|君塚良一 |澤田鎌作 | |- !THE MOVIE |rowspan="2"|本広克行 | |- !深夜も踊る大捜査線 | |- !踊る大ソウル線 |大田一水(構成・脚本)※ |本広克行・[[菅剛史]]・澤田鎌作 |原案・君塚良一 |- !THE MOVIE 2 |rowspan="3"|君塚良一 |本広克行 | |- !深夜も踊る大捜査線2 |本広克行・長瀬邦弘・[[河合勇人]] | |- !舞台も踊る大捜査線 |rowspan="2"|本広克行 | |- !交渉人 真下正義 |rowspan="2"|[[十川誠志]] |原案・君塚良一 |- !前日も交渉人 真下正義 |波多野貴文 | |- !容疑者 室井慎次 |colspan="2" style="text-align:center;"|君塚良一 |脚本・監督兼務 |- !逃亡者 木島丈一郎 |十川誠志 |[[波多野貴文]] |プロデューサー・本広克行 |- !弁護士 灰島秀樹 |rowspan="4"|君塚良一 |小林大策 |[[梅堀淳]] | |- !警護官 内田晋三 |rowspan="2"|本広克行 |松本晃彦 | |- !THE MOVIE 3 |[[菅野祐悟]] |脚本協力・[[金沢達也]]、オリジナルテーマ曲・松本晃彦 |- !深夜も踊る大捜査線3 |松川嵩史 |rowspan="3"|松本晃彦 | |- !係長 青島俊作1・2 |[[金沢達也]] |rowspan="2"|長瀬国博 |rowspan="2"|原案・君塚良一 |- !深夜も踊る大捜査線FINAL |十川誠志 |- !THE LAST TV |rowspan="2"|君塚良一 |rowspan="2"|本広克行 |rowspan="2"|菅野祐悟 |rowspan="2"|シリーズ音楽・松本晃彦 |- !THE FINAL |- |} ※「踊る大ソウル線」のうち、終盤の「THE MOVIE」と「踊る大ソウル線」の間に起きた出来事を登場人物が語るシーンは、君塚がノンクレジットで執筆した(君塚の著書「裏ドラマ」{{要ページ番号|date=2012年11月}}による)。 === その他 === * 協力プロデューサー(映画版) - [[石原隆]]、[[高井一郎]]、[[大多亮]] * プロデュース補(テレビ版) - 高井一郎、谷古浩子、榊原妙子、渡辺美郁 * 広報 - 名須川京子 * スチル - 得本公一、笠井新也 * Web制作/管理 - 橋爪まきこ * BBS制作/管理 - 鴨川ひろき、三原たかし * 演出補 - [[羽住英一郎]]、長瀬国博、藤田智弘、芦田優子、右近照久、[[七高剛]]、大木綾子 * 技斗 - 佐々木修平 * 記録 - 馬場徳子、曽我部直子 * プロデューサー - [[亀山千広]]<!--(ドラマ版11話出演)--> * キャスティングプロデューサー - 東海林秀文 == 本シリーズの影響 == 「踊る大捜査線」シリーズが好評であったことから、本シリーズのタイトルやキャラクターを使用した[[ドキュメンタリー番組]]や[[選挙特別番組]]が放送された。 ; [[FNN踊る大選挙戦]] : 「選挙は現場で起きている!」をテーマに踊る大捜査線風の演出で放送した[[フジニュースネットワーク|FNN]]の[[選挙特別番組]]。 ; 日本代表 踊る大4連戦 : サッカー『[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ2010]]』および『[[東アジアサッカー選手権2010]]』より、2010年2月2日-2月14日の日本代表4戦のフジテレビ系列テレビ中継枠の特別番組。 === 警察追跡ドキュメンタリー番組 === ; 『実録!踊る大捜査線 凶悪犯もビビる!これが日本の名刑事だ』 :# 2004年5月25日 視聴率13.6% :# 2004年11月30日(スタジオ部分は生放送) : 全国各地に点在する[[刑事ドラマ]]顔負けの刑事に密着追跡。 :* 司会 - [[徳光和夫]]、[[小島奈津子]] :* ゲスト - [[宇梶剛士]]、[[筧利夫]]、[[若槻千夏]] :* スタッフ :** ナレーター - [[野田圭一]] :** プロデューサー - 大野貢、小室俊一 :** ディレクター - 小泉恵一([[SJK]]) : ; 『[[踊る!大警察24時]]〜汗と涙の新人刑事物語〜』(2005年12月6日放送) : ストーリーテラー・スリーアミーゴス([[小野武彦]]、[[北村総一朗]]、[[斉藤暁]]) : 犯罪に立ち向かう新人刑事の活躍を追跡。 ; 『踊る!大警察24時〜熱血刑事はつらいよ 逮捕の瞬間100連発〜』(2006年10月11日) : ; 『踊る!大警察24時 逮捕の瞬間100連発』(2007年10月12日、2008年1月11日、2010年5月11日) : ; 『踊る!大警察24時 凶悪犯逮捕の瞬間SP』(2010年10月26日) : === パロディ版 === [[バラエティー番組]]を始めとする様々なテレビ番組で「踊る大○○線」といった名前を持ったパロディーが作られた。一部の番組には本物のキャストが出演している。 * 「盆踊る大捜査線」 「[[ハッピーバースデー!]]」1998年8月9日(フジテレビ系)柳葉敏郎が出演 * 「踊れ大捜査線」 「[[SMAP×SMAP]]」1998年11月23日 ([[関西テレビ放送|関西テレビ]]・フジテレビ系)[[香取慎吾]]が青島俊作を演じている・斉藤暁が出演 * 「踊れ大捜査線2」「SMAP×SMAP」2003年7月21日 (関西テレビ・フジテレビ系)真矢みきが出演。織田裕二がサプライズで登場 * 「踊る大新幹線 THE MOVIE」1998年11月25日「[[笑う犬の生活]]」(フジテレビ系) * 「踊る大扁桃腺 THE MOVIE」1998年11月25日「笑う犬の生活」 * 「踊る大津軽三味線 THE MOVIE」1998年12月2日「笑う犬の生活」 * 「笑う犬にはそうさせん THE MOVIE」1998年12月2日「笑う犬の生活」 * 「両津ーっ!事件は会議室で起きてるんじゃない!亀有で起きてるんだスペシャル」1998年12月27日「[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]」(フジテレビ系) * 「踊る大江戸捜査網」「こちら葛飾区亀有公園前派出所(アニメ211話)」(フジテレビ系) * 「内村大捜査線!逃げる内村光良捕まえれば100万円」 「[[ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!|炎のチャレンジャー]] 秋の3時間スペシャル」1998年9月15日 ([[テレビ朝日]]系) * 「ひとり踊る大捜査線 五条大橋を封鎖せよ!」 「笑う犬の情熱」2003年9月28日 * 「[[意地悪ばあさんリターンズ 伝説のばあさんVS湾岸署スリーアミーゴス意地悪バトル]]」1999年10月12日 (フジテレビ系)北村総一朗・斉藤暁・小野武彦が出演 * 「踊るベタ捜査線」 「[[くりぃむしちゅーのたりらリラ〜ン]]」2005年12月7日([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系) このほか、1999年{{いつ|date=2012年5月|title=年だけでなく月日まで必要}}に「[[めちゃ×2イケてるッ!]]」内のコーナー[[フジTV警察24時|フジテレビ警察]]に筧利夫が新城賢太郎管理官として本庁からやってきたという設定で出演したことがある。 * 「[[ケータイ刑事 銭形舞]]」揺れる大捜査線! 〜スイカップを確保せよ〜(2003年11月23日[[BS-TBS|BS-i]]) * 「[[クレヨンしんちゃん]]」に、織田といかりやのパロディーキャラである、汚田とにがりやが登場した。(野原家が爆発し一時引っ越した「またずれ荘」にて) * 「踊る大調査線」「[[脳内活性!クイズファクトリー]]」(関西テレビ)のコーナー{{いつ|date=2012年5月}} * 「踊る大発毛腺」「[[相棒]]([[裏相棒]]第三夜)より」 '''ラジオ''' * 「劣る大捜査線4」「[[CHUMMY TRAIN]]」([[エフエム京都|α-STATION]])のコーナー{{いつ|date=2012年5月}} * 「踊る!歌の大捜査線」「[[南かおりのHello Musicらんど]]」([[京都放送|KBS京都ラジオ]])のコーナー{{いつ|date=2012年5月}} == 撮影協力 == [[ファイル:Uchida.jpg|right|200px|thumb|湾岸警察署庁舎としてロケが行われた旧潮見コヤマビル]] * [[キヤノン]]本社地内ビルディングの正面大階段 [[警視庁]]大階段のロケ地 * 潮見コヤマビル(後に[[潮見GATE SQUARE]]) 湾岸警察署庁舎ロケ地 * [[the SOHO]] 湾岸警察署新庁舎ロケ地 * JH関西支社 * [[神戸市営地下鉄]] * [[警視庁]] * [[東京テレポート駅]] * [[いわき市]] * [[カシオ計算機]] * [[茨城県庁舎|茨城県庁]] * [[クロス・ウェーブ府中]] 新湾岸署の捜査会議室として <ref name="実績紹介/クロス・ウェーブ府中">[http://www.o-location.com/photo/xwave.html 実績紹介/クロス・ウェーブ府中]</ref> == 関連イベント == {{出典の明記|date=2012年11月|section=1}} ; [[お台場冒険王]] : フジテレビが2003年から2008年まで毎年夏にお台場で行っていたイベントである。毎年何らかの踊るシリーズ関連の催しが行われていた。 :; 2003年 :: 「THE MOVIE 2」の公開と時期が重なったこともあり、 ::* 「踊る大捜査線湾岸ミュージアム」として湾岸署セットが再現されたほか、小物や衣装も展示された。多くのグッズも販売された。展示やグッズ販売はこの後も毎年行われている。 ::* 「舞台も踊る大捜査線」やスタッフ・キャストの講演会「踊る大講演会」が開催された。 ::: すべての来場者に対して「湾岸署特別捜査員証」が交付された。 :; 2004年 :: イベント正式名が「THE MOVIE 2」を意識した「AdventureKingお台場冒険王2004 レインボーブリッジは閉鎖するな!」であった。 :: 亀山千広講演会「踊るインスパイア講座」が行われ、映画「交渉人(ネゴシエーター) 真下正義」を制作することが発表された。 :; 2005年 :: 「THE MOVIE KING お台場映画王 2005」で「交渉人 真下正義」の上映が行われた。 :; 2006年 :: 「お台場映画王」において、映画を上映しながら監督が解説を加えるというイベント「君塚良一監督が語る「容疑者 室井慎次」」が行われた。 :; 2007年 :: 9月15日にグランドオープンした[[フジテレビ湾岸スタジオ]]にて踊るシリーズを含めたフジテレビ映画関連の展示が行われた。 :; 2008年 :: 8月31日に「踊る大捜査線 THE FAN MEETING」が行われ、「THE MOVIE2」が上映されるとともに、ゲストとして出演した亀山千広により「THE MOVIE3」は2010年夏公開に向けて2009年秋に撮影開始予定である事が明らかになった。 == 関連項目 == * [[UDON]] - 2006年に監督[[本広克行]]、主演[[ユースケ・サンタマリア]]と[[小西真奈美]]で作成された映画。そのほかにも共通のスタッフ、出演者が多い。『踊る大捜査線 THE MOVIE』の犯人である坂下始を演じた[[北山雅康]]がそのままの役で出演している。 * [[Dance Dance Revolution]] - [[コナミ]]のアーケードゲーム。番組のテーマ曲をアレンジした『RHYTHM AND POLICE (K.O.G G3 Mix)』が『Dance Dance Revolution 4th Mix PLUS』の曲目にある。(現行バージョンには未収録) * [[太鼓の達人|太鼓の達人5・6・14]] - [[ナムコ]](後の[[バンダイナムコゲームス]])のアーケードゲーム太鼓の達人に『RHYTHM AND POLICE』(ジャンル・バラエティ)が収録されている。 * [[北芝健]] - [[(特)情報とってもインサイト]]([[TBSテレビ|TBS]])において、「青島俊作」のモデルとして紹介された{{いつ|date=2012年5月}}。「別冊宝島1360 裸の警察官」(宝島社、2006年10月24日発売)ISBN 4-7966-5515-8 {{要ページ番号|date=2012年11月}}において「かつてフジテレビ関係者と会ってキャリアとノンキャリアのことや本庁と所轄のことなど警察の実情をいろいろ話した。そのことが後に踊る大捜査線に繋がったと聞いている」と語っている。「勝手に!踊る大捜査線」(フジテレビ出版 2003年7月)に収録されたインタビュー{{要ページ番号|date=2012年11月}}において、「本店と支店といった言い方を最初にスタッフに教えたのは私」とも述べており、本シリーズの主人公の青島俊作がサラリーマンからの転身であることについて、「私がそうであるようにサラリーマンから転身した警察官は珍しい存在ではない」と自身と青島を対比する発言も行っている。「北芝健が青島俊作のモデルである」という制作サイドからの証言はない。 * [[機動警察パトレイバー]] - 作品発表の1988年の10年後である1998年からの数年間の近未来の東京を中心とした地域を舞台とするアニメ作品。主人公たちの所属する警視庁警備部特殊車両二課は周りに何もない東京湾の埋立地にある。湾岸署の舞台を決めるロケハンではスタッフに劇場版『[[機動警察パトレイバー2 the Movie]]』を見せて「こんな場所を探してくれ」とお願いしたが当時そっくりな場所は見つからなかったのでお台場に落ち着いた<ref>映画『[[イノセンス]]』公式サイト</ref>。監督である[[本広克行]]は世界で一番好きな監督に[[押井守]]を挙げ<ref>世界が注目する映像クリエイター 押井守の世界</ref>、強い影響を与えている。特に同監督の『[[交渉人 真下正義]]』はこの作品へのオマージュが多々存在する。本広自身も「踊る大捜査線は機動警察パトレイバーに影響を受けた」と告白している。 * [[東京テレポート駅]] - [[2008年]](平成20年)7月より、本作のテーマ曲が発車メロディーとして使用されている<ref>{{Cite book|和書|title=東京テレポート駅“発車ベル音”の変更について|インフォメーション一覧 2008年|りんかい線|url=http://www.twr.co.jp/info/2008/bell_hassha.html|date=|accessdate=2012-11-24}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=りんかい線 東京テレポート駅発車メロディーは、踊る大捜査線のテーマ曲です|りんかい線|url=http://www.twr.co.jp/route/melody_odoru.html|date=|accessdate=2012-11-24}}</ref>。 * [[SP 警視庁警備部警護課第四係]] - [[本広克行]]がドラマ監督を手掛け、セキュリティポリス(通称SP)をテーマにしたドラマ及びその映画。『[[SP 警視庁警備部警護課第四係]]』でSP役の[[神尾佑]]が『[[警護官 内田晋三]]』に先駆けて出演している。 * [[Dancing Dolls]] - セカンドシングル[[湾岸ワンダーダーリン/ラズベリーラブ]]に「Rhythm And Police」と「C.X.」をサンプリングした楽曲「湾岸ワンダーダーリン」を収録している。なお、Dancing Dolls自体はメンバーが全員[[大阪府]]出身のためお台場周辺とは接点はない。 * [[警視庁捜査資料管理室 (仮)]] - [[本広克行]]が総監督を務め、[[高井一郎]]が企画・プロデュースを担当した[[BSフジ]](当時の社長は[[亀山千広]])のテレビドラマ。テレビシリーズから緒方薫を演じていた[[甲本雅裕]]を始め、[[小橋めぐみ]]、[[川野直輝]]、[[向井地美音]]がそのままの役で出演している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20030801083136/http://www.odoru.com/main.html オフィシャルサイト](アーカイブ版) * [http://www.odoru.com/ 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望] * フジテレビ番組基本情報 ** [https://www.fujitv.co.jp/b_hp/120825doyowide/ 踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル] ** [https://www.fujitv.co.jp/b_hp/120901doyospe/ 踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル] ** [https://www.fujitv.co.jp/b_hp/120901premium/ 踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件] * [https://web.archive.org/web/20140209001850/http://www.odoru-legend.com/ odoru-legend.com] {{前後番組 |放送局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]] |放送枠=[[フジテレビ火曜9時枠の連続ドラマ|火曜9時枠連続ドラマ]] |番組名=踊る大捜査線<br />(1997.1.7 - 1997.3.18) |前番組=[[こんな私に誰がした]]<br />(1996.10.15 - 1996.12.17) |次番組=[[総理と呼ばないで]]<br />(1997.4.8 - 1997.6.17) }} {{踊る大捜査線}} {{フジテレビ火曜9時枠の連続ドラマ}} {{ザテレビジョンドラマアカデミー賞}} {{ユースケ・サンタマリア}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おとるたいそうさせん}} [[Category:踊る大捜査線|*]] [[Category:フジテレビの刑事ドラマ]] [[Category:フジテレビ火曜9時枠の連続ドラマ]] [[Category:1997年のテレビドラマ]] {{Tv-stub}}
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アース・アンド・ビヨンド
『アース・アンド・ビヨンド』(原題Earth and Beyond、略称EnBあるいはE&B)は、ウェストウッド・スタジオによって開発されたSFオンラインゲーム。 2002年9月24日に米国エレクトロニック・アーツから発売され、運営も同社が行っている。最大で4万人の有料会員が参加していたが、2004年初めごろに運営が終了されるとのうわさが流れ、同年3月に2004年9月で運営が終了されると発表された。2004年9月22日に運営が終了した。 各プレイヤーは未来世界における宇宙船の船長となり銀河宇宙を探検する。戦闘のみならず惑星探査や商取引を行うだけでも経験値が入るのが他のコンピュータRPGにはない特徴。
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『アース・アンド・ビヨンド』は、ウェストウッド・スタジオによって開発されたSFオンラインゲーム。
『'''アース・アンド・ビヨンド'''』(原題'''Earth and Beyond'''、略称'''EnB'''あるいは'''E&B''')は、ウェストウッド・スタジオによって開発された[[サイエンス・フィクション|SF]][[オンラインゲーム]]。 == 概要 == 2002年9月24日に[[アメリカ合衆国|米国]][[エレクトロニック・アーツ]]から発売され、運営も同社が行っている。最大で4万人の有料会員が参加していたが、2004年初めごろに運営が終了されるとのうわさが流れ、同年3月に2004年9月で運営が終了されると発表された。2004年9月22日に運営が終了した。 各プレイヤーは未来世界における宇宙船の船長となり銀河宇宙を探検する。戦闘のみならず惑星探査や商取引を行うだけでも[[経験値]]が入るのが他の[[コンピュータRPG]]にはない特徴。 == 外部リンク == * [http://www.earthandbeyond.com/ 公式サイト] {{デフォルトソート:ああすあんとひよんと}} [[Category:サービスを終了したオンラインゲーム]] [[Category:エレクトロニック・アーツのゲームソフト]] [[Category:2002年のコンピュータゲーム]] {{video-game-stub}}
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わかつきめぐみ
わかつき めぐみは、日本の漫画家。新潟県新潟市出身、千葉県在住。血液型はA型。 1982年、『LaLa』4月大増刊号に掲載の「春咲きハプニング」でデビュー。白泉社の漫画雑誌『LaLa』『LaLaスペシャルCindy』『月刊メロディ』(現MELODY)などで作品を発表している。1993年から一時講談社の『少女フレンド』『Me』『ザ・デザート』などでも執筆した。1990年、「So What?」で第21回星雲賞コミック部門を受賞した。初期から現在に至るまで、家族、友人、隣人などとの「日常の絆の再構築」をテーマとした作品が多く、細い描線による独特の絵柄と温かみのある視点で人間を描くことを得意とする。 新潟市に生まれ、父親の転勤にともなって小学5年生の時に石川県金沢市に転居。中学1年の夏、歯科医の待合室にあった『別冊少女コミック』(小学館刊)で萩尾望都の「11人いる!」前編を読んだことをきっかけに漫画を描き始め、翌1978年から「LaLaまんがスクール」への投稿を開始した。 高校在学中に8回目の投稿作が「第29回LaLaまんがスクール」(1980年)で8位に入賞したときには、かねてからファンレターを繰り返し送っていた同じ金沢市民の坂田靖子から電話を受けた。さらに入賞に伴って担当となった編集記者のアドバイスで坂田宅を訪問し、ネームの作り方を学んだ。投稿を重ねたあと、高校卒業後転居した京都市在住時にデビューした。 デビュー直後の一時期、かがみあきらに私淑し、初期の「トライアングル・プレイス」(1984年)から「So What?」(1986年-1989年)にかけて、絵柄やストーリーのテーマに影響が強く見られた。のち寺田寅彦、夏目漱石、内田百閒などの文学者の影響も受けている。音楽ユニットのムーンライダーズ、メトロファルス、ZABADAKなどのファンとしても知られる。 デビュー後まもなく父親の転勤で千葉県に転居し、出版社のある東京に近いことから定住。後年普及したパソコンやインターネットなどのデジタル家電とは無縁の暮らしを続けている。 2021年6月には『わかつきめぐみ迷宮探訪』の出版を記念した原画展が東京・スパンアートギャラリーで開催された。 (かっこ内は雑誌発表年)
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わかつき めぐみは、日本の漫画家。新潟県新潟市出身、千葉県在住。血液型はA型。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = わかつき めぐみ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 若月めぐみ{{Efn2|p.3-17特集のうちp.8に作者プロフィール:"本名・若月めぐみ" と記載{{Sfn|村石憲一|1986|p=3-17}}。}} | 別名義 = <!-- 別名義または同一人物という出典に基づき記載。愛称の欄ではありません --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1963|02|06}}{{Efn2|p.8:"昭和38年2月6日生" と記載{{Sfn|村石憲一|1986|p=3-17}}。}} | 生地 = {{JPN}}・[[新潟県]][[新潟市]]{{Efn2|p.8:"新潟市出身" と記載{{Sfn|村石憲一|1986|p=3-17}}。}} | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = | 活動期間 = [[1982年]] - | ジャンル = [[少女漫画]] | 代表作 = | 受賞 = 第21回[[星雲賞]]コミック部門受賞<br/>([[1990年]] 受賞作品『[[So What?]]』) | 公式サイト = }} '''わかつき めぐみ'''([[1963年]]〈[[昭和]]38年〉[[2月6日]]{{Sfn|村石憲一|1986|p=3-17}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[新潟県]]<ref name="natalie1766">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/artist/1766|title=わかつきめぐみ|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2021-06-04}}</ref>[[新潟市]]出身、[[千葉県]]在住{{Efn2|p.3-17特集のうちp.8に作者プロフィール:"本名・若月めぐみ。新潟市出身。金沢、京都を経て現在千葉県在住" と記載{{Sfn|村石憲一|1986|p=3-17}}。}}<ref name="int">「わかつきめぐみインタビュー」『わかつきめぐみ迷宮探訪』pp.8-26、わかつきめぐみ、白泉社、2021年6月9日。</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]はA型{{R|natalie1766}}。 == 経歴 == [[1982年]]、『[[LaLa]]』4月大増刊号に掲載の「[[春咲きハプニング]]」でデビュー{{R|natalie1766}}。[[白泉社]]の漫画雑誌『LaLa』『LaLaスペシャルCindy』『[[MELODY (雑誌)|月刊メロディ]]』(現MELODY)などで作品を発表している。1993年から一時[[講談社]]の『[[少女フレンド]]』『Me』『ザ・デザート』などでも執筆した。[[1990年]]、「[[So What?]]」で第21回[[星雲賞]]コミック部門を受賞した{{R|natalie1766}}。初期から現在に至るまで、家族、友人、隣人などとの「日常の絆の再構築」をテーマとした作品が多く、細い描線による独特の絵柄と温かみのある視点で人間を描くことを得意とする。 [[新潟市]]に生まれ、父親の転勤にともなって小学5年生の時に[[石川県]][[金沢市]]に転居<ref>[https://span-art.com/exhibition/2021/202106_wakatsukimegumi.html 「わかつきめぐみ原画展-『わかつきめぐみ迷宮探訪』出版記念」]スパンアートギャラリー、2021年5月13日</ref>。中学1年の夏、歯科医の待合室にあった『[[ベツコミ|別冊少女コミック]]』(小学館刊)で[[萩尾望都]]の「[[11人いる!]]」前編を読んだことをきっかけに漫画を描き始め<ref name="int" />、翌[[1978年]]から「LaLaまんがスクール」への投稿を開始した<ref name="int" /><ref name="list">「わかつきめぐみセルフ記録執筆作品リスト」『わかつきめぐみ迷宮探訪』pp.39-48、わかつきめぐみ、白泉社、2021年6月9日。</ref>。 高校在学中に8回目の投稿作が「第29回LaLaまんがスクール」([[1980年]])で8位に入賞したときには、かねてからファンレターを繰り返し送っていた同じ金沢市民の[[坂田靖子]]から電話を受けた<ref name="int" />。さらに入賞に伴って担当となった編集記者のアドバイスで坂田宅を訪問し、ネームの作り方を学んだ<ref name="int" />。投稿を重ねたあと、高校卒業後転居した[[京都市]]在住時にデビューした。 デビュー直後の一時期、[[かがみあきら]]に私淑し<ref name="p28">「自作解説つき作品紹介」『わかつきめぐみ迷宮探訪』p.28、わかつきめぐみ、白泉社、2021年6月9日。</ref>、初期の「[[トライアングル・プレイス]]」([[1984年]])から「[[So What?]]」([[1986年]]-[[1989年]])にかけて、絵柄やストーリーのテーマに影響が強く見られた<ref name="p28" />。のち[[寺田寅彦]]、[[夏目漱石]]、[[内田百閒]]などの文学者の影響も受けている。音楽ユニットの[[ムーンライダーズ]]、[[伊藤ヨタロウ|メトロファルス]]、[[ZABADAK]]などのファンとしても知られる。 デビュー後まもなく父親の転勤で[[千葉県]]に転居し、出版社のある東京に近いことから定住<ref name="int" />。後年普及したパソコンやインターネットなどのデジタル家電とは無縁の暮らしを続けている<ref name="int" />。 2021年6月には『わかつきめぐみ迷宮探訪』の出版を記念した原画展が東京・スパンアートギャラリーで開催された<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/430880|title=「わかつきめぐみ原画展」開催、「So What?」から最新作「お猫さまズ暮らし。」まで|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-06-03|accessdate=2021-06-03}}</ref>。 == 作品リスト == (かっこ内は雑誌発表年) * [[不協和音ラプソディ]](1982-84年、[[白泉社]]) * [[ぱすてると〜ん通信]](1982-87年、白泉社) * [[トライアングル・プレイス]](1984年、白泉社) * [[月は東に日は西に]](1985-86年、白泉社) * [[So What?]](1986-89年、白泉社) * [[水のソルティレージュ]](1990年、白泉社、単行本未収録) * [[黄昏時鼎談]](1987-90年、白泉社) * [[グレイテストな私達]](1990-91年、白泉社) * [[ご近所の博物誌]](1992-93年、白泉社) * [[夏藤さんちは今日もお天気]](1993-94年、[[講談社]]) * ヨツジロさん(1995年、講談社) * [[きんぎんすなご]] -金銀砂子-(1996-97年、講談社) * 言の葉遊学(1996-98年、白泉社) * [[夏目家の妙な人々]](1998年、講談社) * ローズ・ガーデン(1999年、講談社) * ソコツネ・ポルカ(2000-01年、白泉社) * そらのひかり(2002年、白泉社) * [[Cotton Candy Cloudy]](2003年、[[白泉社]]) * [[ゆきのはなふる|主様シリーズ]](1990-2006年、[[白泉社]]、単行本『[[ゆきのはなふる]]』) * 夜のしっぽ(2006-08年、[[徳間書店]]『SF Japan』・白泉社文庫版『言の葉遊学・ご近所の博物誌』) * シシ12か月(2004-07年、白泉社) * やにゃかさんぽ(2009年-2014年、白泉社) * ことことほとほと(2015年、白泉社) * お猫さまズ暮らし。(2017年- 白泉社e-net!連載中、白泉社) ** 単行本『お猫さまズ暮らし。』『お猫さまズ暮らし。ぐるぐる』『お猫さまズ暮らし。がじがじ』 * 古道具よろず屋日乗(2021年、白泉社『わかつきめぐみ迷宮探訪』) == 画集リスト == * カードギャラリー わかつきめぐみ([[1985年]]、[[白泉社]]) == 挿絵作品リスト == * [[波多野鷹]]「そして ぼくは歩きだす」(集英社コバルト文庫) * [[水杜明珠]]「ヴィシュバ・ノール変異譚シリーズ」(集英社コバルト文庫) * [[妹尾ゆふ子]]「夢の岸辺シリーズ」(講談社 X文庫ホワイトハート) == イメージアルバム == * [[わかつきめぐみの宝船ワールド]]([[1987年]]、ビクター音楽産業) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Citation|和書|editor=村石憲一|date=1986-08-01 |title=特集:わかつきめぐみinワンダーランド|journal=まんが情報誌[[ぱふ|月刊ぱふ]] 1986年8月号(通巻117号)|volume=12 |issue=9 |pages=3-17 |publisher=[[雑草社]] |ref={{SfnRef|村石憲一|1986}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:わかつき めくみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:新潟市出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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線型部分空間
数学、とくに線型代数学において、線型部分空間(せんけいぶぶんくうかん、linear subspace)または部分ベクトル空間(ぶぶんベクトルくうかん、vector subspace)とは、ベクトル空間の部分集合で、それ自身が元の空間の演算により線型空間になっているもののことである。 ベクトル空間のある部分集合が、それ自身ある演算に関してベクトル空間の構造を持っていたとしても、その演算がもとの空間の演算でないならば部分線型空間とは呼ばない、ということに注意されたい。また、文脈により紛れの恐れのない場合には、線型部分空間のことを単に部分空間と呼ぶことがある。 体 K 上のベクトル空間 L の空でない 部分集合 S ⊆ L に対して、和やスカラー積は元の線型空間 L で定義された演算として、 (for all a, b ∈ S and for all α ∈ K) が満たされるとき、S を L の線型部分空間と呼ぶ。 ベクトル空間 V の線型部分空間 U, W に対し、その和 と交わり も V の線型部分空間である。 また、V' も K 上の線型空間であって f が V から V' への線型写像であるとき、V の任意の線型部分空間 W に対して は V の線型部分空間であり、V' の任意の線型部分空間 W' に対して は V' の線型部分空間である。特に、f の像 Im f = f(V)、核 Ker f = f({0'}) は、それぞれ V' , V の線型部分空間である。ただし 0' は V' の零元を表す。
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数学、とくに線型代数学において、線型部分空間または部分ベクトル空間とは、ベクトル空間の部分集合で、それ自身が元の空間の演算により線型空間になっているもののことである。 ベクトル空間のある部分集合が、それ自身ある演算に関してベクトル空間の構造を持っていたとしても、その演算がもとの空間の演算でないならば部分線型空間とは呼ばない、ということに注意されたい。また、文脈により紛れの恐れのない場合には、線型部分空間のことを単に部分空間と呼ぶことがある。
[[数学]]、とくに[[線型代数学]]において、'''線型部分空間'''(せんけいぶぶんくうかん、linear subspace)または'''部分ベクトル空間'''(ぶぶんベクトルくうかん、vector subspace)とは、[[ベクトル空間]]の[[部分集合]]で、それ自身が元の空間の演算により線型空間になっているもののことである。 ベクトル空間のある部分集合が、それ自身ある演算に関してベクトル空間の構造を持っていたとしても、その演算がもとの空間の演算でないならば部分線型空間とは呼ばない、ということに注意されたい。また、文脈により紛れの恐れのない場合には、線型部分空間のことを単に'''部分空間'''と呼ぶことがある。 ==定義== [[可換体|体]] ''K'' 上のベクトル空間 ''L'' の空でない 部分集合 ''S'' &sube; ''L'' に対して、和やスカラー積は元の線型空間 ''L'' で定義された演算として、 # ''a'' + ''b'' &isin; ''S'' # α''a'' &isin; ''S'' (for all ''a'', ''b'' &isin; ''S'' and for all α &isin; ''K'') が満たされるとき、''S'' を ''L'' の'''線型部分空間'''と呼ぶ。 == 例 == * ベクトル空間 ''V'' 自身や ''V'' の零元だけから成る集合 {0} は ''V'' の部分空間である。これを'''自明な部分空間'''という。 * ''K'' 上のベクトル空間 ''V'' の任意の元 ''v'' に対して、集合 ''Kv'' = {''av'' | ''a'' &isin; ''K''} は ''V'' の線型部分空間である。これを ''v'' の'''[[線型包|生成する線型部分空間]]'''という。 * '''R'''<sup>''n''</sup> や '''C'''<sup>''n''</sup> に対し、''原点を含む'' [[直線]]、[[平面]]、[[超平面]]は、全て線型部分空間である。 *: '''注意''':''原点を含まない'' 直線、平面、超平面は線型部分空間とはならないが、これらは線型部分空間の概念と深く結びついている。実際、これらの概念を定義するときには、線型部分空間の概念を使うのが普通である([[ユークリッド幾何学]]の''古典的な''公理系では、これらの用語は[[無定義語]]となる)。正確にはこれらは、アフィン部分空間とよばれるものである。詳しくは[[アフィン空間]]の項を参照。 == 性質 == ベクトル空間 ''V'' の線型部分空間 ''U'', ''W'' に対し、その和 : ''U'' + ''W'' = {''u'' + ''w'' | ''u'' &isin; ''U'', ''w'' &isin; ''W''}  と[[共通部分|交わり]] : ''U'' &cap; ''W'' = {''v'' | ''v'' &isin; ''U'' かつ ''v'' &isin; ''W''} も ''V'' の線型部分空間である。 また、''V' '' も ''K'' 上の線型空間であって ''f'' が ''V'' から ''V' '' への[[線型写像]]であるとき、''V'' の任意の線型部分空間 ''W'' に対して : ''f''(''W'') = {''f''(''w'') | ''w'' &isin; ''W''} は ''V'' の線型部分空間であり、''V' '' の任意の線型部分空間 ''W' '' に対して :''f''<sup> -1</sup>(''W' '') = {''v'' &isin; ''W'' | ''f''(''v'') &isin; ''W' ''} は ''V' '' の線型部分空間である。特に、''f'' の像 Im ''f'' = ''f''(''V'')、[[零空間|核]] Ker ''f'' = ''f''<sup> -1</sup>({0'}) は、それぞれ ''V' '', ''V'' の線型部分空間である。ただし 0' は ''V' '' の零元を表す。 == 関連項目 == * [[ベクトル空間]] * [[部分空間]] * [[代数系]] * [[アフィン空間]] == 外部リンク == * {{MathWorld|urlname=Subspace|title=Subspace}} * {{PlanetMath|urlname=VectorSubspace|title=vector subspace}} {{DEFAULTSORT:せんけいふふんくうかん}} [[Category:線型代数学]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:ベクトル空間]] [[ru:Векторное пространство#Подпространство]]
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直線
直線(ちょくせん、line)は、太さを持たない幾何学的な対象である曲線の一種で、その上にある点について一様に横たわる面である。まっすぐ無限に伸びて端点を持たない。まっすぐな線には直線の他に、有限の長さと両端を持つ線分(せんぶん、line segment、segment)と、一つの端点を始点として無限にまっすぐ伸びた半直線(はんちょくせん、ray、half-line)がある。表記の場合は可視化のために太さを持たせている。 ユークリッドの幾何学では、直線は本質的に無定義述語である。つまり、「直線とは何か」を直接定義せずに、ただある関係(公理・公準)を満たすものであるとして理論を展開していくのである。ユークリッド幾何学においては以下のようなことである: また、このような公理から例えば以下のようなことが導かれる:二つの異なる直線は高々一つの点を共有する。二つの異なる平面は、高々一つの直線を共有する。 通常は、直線や線分は向きを持たず、半直線は向きを持つものとして扱われる。たとえば、2 点 A と B を結ぶ線分を AB と書くと、AB = BA である。一方で、向き付けられた直線、線分や向きを持たない半直線というものも考えることがある。たとえば線分の始点と終点を区別し、線分に向きを考えたものを有向線分と呼んで、有向線分としては AB ≠ BA と考える。 ユークリッド空間内の有向線分を、その位置のみの違いを除くことにより類別して、幾何学的ベクトル(いわゆる矢印ベクトル)の概念を考えることができる。逆にベクトルを用いてユークリッド空間やその中の線分・直線を定式化することもできるが、これについては後述する。 ユークリッド幾何学のように、無定義述語と公理によって構築される幾何学では、直線が「まっすぐ」であるなどのイメージは本質を持たない。曲がった空間の幾何学である非ユークリッド幾何学での直線(測地線)はユークリッド幾何学の中で見ると曲がって見えるのである。 アフィン空間(ベクトル)の理論を持ち出すと、次のようにして直線を定義することが出来る: ユークリッド空間 E に対して、任意の一点 P と 0 でない一つのベクトル a が与えられたとき、 で表されるような集合 L を直線という(これは一般のベクトル空間にも拡張できる)。この定義においては直線は向きを持つものとみなされる。a は直線の方向を決めるベクトルであり、P は直線上の点になる。同じ直線を与える点とベクトルの組 P, a は一通りではない。また、この定義で λ の動く範囲を限定すると半直線 や線分を記述することができる。また同じことだが、原点を固定して点とその位置ベクトルとを同一視すると、ユークリッド空間の異なる 2 点 A(a), B(b) ∈ E が与えられた時に、 なる集合 L は、A, B を含む直線となる(向きを考慮するなら、方向ベクトルは b - a で、これは A から B へ向かって引かれる)。この定義で、λ を 0 と 1 の間に限定すると A から B までを結ぶ(有向)線分 が得られる。 直線上の点に実数を対応させることで数直線を考えることができる。具体的には、直線上に原点 O と単位点 E を指定し、任意の実数 x に対し、直線上にあり、一方の端点を原点とし、原点から単位点までを結ぶ有向線分との(向きまで込めた)線分比が x となるような線分の、原点ではない側の端点と x とを対応付けたもののことをいう。 しばしば、原点と単位点の距離の整数倍で数を目盛ったものを指す。数直線は向きを持った直線であり、原点から単位点の向きに矢印を記すことがある。また、数直線は、1 次元ユークリッド空間 R に対する座標系と捉えることも出来る。 また、数直線を用いることで数の和や差が図として視覚的に与えることができるため、しばしば教育に用いられる。例えば、上の数直線では足し算(和)は右に進むことであり、引き算(差)は左に進むことである。したがって、 互いに直交する向き付けられた数直線によってルネ・デカルトは絶対的な静止座標系を定義した。これは直交座標系と呼ばれる。 原点を固定し、原点を始点とする半直線を用いて極座標系が定義できる。このときの半直線は始線と呼ばれる。 直交座標系を入れた 2 次元ユークリッド空間 E を考えている時には、直線は1次方程式の形で与えられる; 一般次元においても、線型方程式系のグラフとして直線を記述することができる。これは本質的にはベクトルによる記述と同等である。 幾何学的な線分は、ある 2 点の間を結んだ最短経路である。 形式的には、点集合 V が与えられたとき、直積集合 V × V の元を有向線分 とし、さらに同値関係 ~ を 任意の a, b ∈ V に対し (a, b) ~ (b, a) と定めたときの集合 E = V × V / ~ の元(同値類) [(a, b)] (a, b ∈ V, a ≠ b) のこと(これをしばしば {a, b} と記す)を a と b を結んだ線分と呼ぶ。 このように形式的に線分を定義すれば、グラフ理論などにおける辺も線分として考えられる。 上の線分でBはこの線分の内分点という。もし、AとBの距離がm、BとCの距離がnならば、BはAとCをm:nに内分する点である。 線分の延長線上にDがあるとする。Dはこの線分の外分点という。もし、ADの距離がo、BDの距離がpならば、Qは線分ABをo:pに外分する点である。
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直線(ちょくせん、line)は、太さを持たない幾何学的な対象である曲線の一種で、その上にある点について一様に横たわる面である。まっすぐ無限に伸びて端点を持たない。まっすぐな線には直線の他に、有限の長さと両端を持つ線分と、一つの端点を始点として無限にまっすぐ伸びた半直線(はんちょくせん、ray、half-line)がある。表記の場合は可視化のために太さを持たせている。
{{出典の明記|date=2023年5月}} [[File:1D line.svg|300px|thumb|right|直線(無限の長さは物理的に表示不能の為、上記では一部分を表示している。また、太さを持たないが、可視化のために太さを持たせている)]] [[画像:Empty.png|300px|thumb|right|直線の正確な表示を模したもの(直線は太さを持たない[[図形]]である為、厳密に正しく表示した場合、視覚では確認不能となる。なお、この画像は直線は太さを持たないことを模したものであり、この画像には、線は含まれていない。)]] [[画像:ABC Line 1.svg|300px|thumb|right|線分]] '''直線'''(ちょくせん、line)は、太さを持たない[[幾何学]]的な対象である[[曲線]]の一種で、その上にある点について一様に横たわる面である。まっすぐ無限に伸びて端点を持たない。まっすぐな線には直線の他に、有限の長さと両端を持つ'''[[線分]]'''(せんぶん、line segment、segment)と、一つの端点を始点として無限にまっすぐ伸びた'''半直線'''(はんちょくせん、ray、half-line)がある。表記の場合は可視化のために太さを持たせている。 == 概要 == [[エウクレイデス|ユークリッド]]の[[ユークリッド幾何学|幾何学]]では、直線は本質的に[[無定義述語]]である。つまり、「直線とは何か」を直接定義せずに、ただある関係([[公理]]・[[公準]])を満たすものであるとして理論を展開していくのである。ユークリッド幾何学においては以下のようなことである: # 二つの異なる点を与えれば、それを通る直線は一つに決まる。 # 一つの直線とその上にない一つの点が与えられたとき、与えられた点を通り与えられた直線に平行な直線を、ただ一つ引くことができる。 また、このような公理から例えば以下のようなことが導かれる:二つの異なる直線は高々一つの点を共有する。二つの異なる[[平面]]は、高々一つの直線を共有する。 通常は、直線や線分は向きを持たず、半直線は向きを持つものとして扱われる。たとえば、2 点 ''A'' と ''B'' を結ぶ線分を ''AB'' と書くと、''AB'' = ''BA'' である。一方で、向き付けられた直線、線分や向きを持たない半直線というものも考えることがある。たとえば線分の始点と終点を区別し、線分に向きを考えたものを'''有向線分'''と呼んで、有向線分としては ''AB'' &ne; ''BA'' と考える。 [[ユークリッド空間]]内の有向線分を、その位置のみの違いを除くことにより類別して、幾何学的[[空間ベクトル|ベクトル]](いわゆる矢印ベクトル)の概念を考えることができる。逆にベクトルを用いてユークリッド空間やその中の線分・直線を定式化することもできるが、これについては後述する。 ユークリッド幾何学のように、無定義述語と公理によって構築される幾何学では、直線が「まっすぐ」であるなどのイメージは本質を持たない。曲がった空間の幾何学である[[非ユークリッド幾何学]]での直線([[測地線]])はユークリッド幾何学の中で見ると曲がって見えるのである。 == 1次元アフィン空間 == [[アフィン空間]](ベクトル)の理論を持ち出すと、次のようにして直線を定義することが出来る: [[ユークリッド空間]] ''E''<sup>''n''</sup> に対して、任意の一点 ''P'' と 0 でない一つの[[空間ベクトル|ベクトル]] '''a''' が与えられたとき、 :<math>L = \{P + \lambda \mathbf{a} \mid \lambda \in \mathbb{R}\}</math> で表されるような[[集合]] ''L'' を直線という(これは一般のベクトル空間にも拡張できる)。この定義においては直線は向きを持つものとみなされる。'''a''' は直線の方向を決めるベクトルであり、''P'' は直線上の点になる。同じ直線を与える点とベクトルの組 ''P'', '''a''' は一通りではない。また、この定義で &lambda; の動く範囲を限定すると半直線 :<math>L_+=\{ P + \lambda \mathbf{a} \mid \lambda \in \mathbb{R} \ge 0 \}</math> や線分を記述することができる。また同じことだが、原点を固定して点とその位置ベクトルとを同一視すると、ユークリッド空間の異なる 2 点 ''A''('''a'''), ''B''('''b''') &isin; ''E''<sup>''n''</sup> が与えられた時に、 :<math>L = \{(1 - \lambda)\mathbf{a} + \lambda \mathbf{b} \mid \lambda\in\mathbb{R}\}</math> なる集合 ''L'' は、''A'', ''B'' を含む直線となる(向きを考慮するなら、方向ベクトルは '''b''' - '''a''' で、これは ''A'' から ''B'' へ向かって引かれる)。この定義で、&lambda; を 0 と 1 の間に限定すると ''A'' から ''B'' までを結ぶ(有向)線分 :<math>\overrightarrow{AB} = \{(1 - \lambda)\mathbf{a} + \lambda\mathbf{b} \mid 0 \le \lambda \le 1\} </math> が得られる。 == 座標 == 直線上の点に[[実数]]を対応させることで[[数直線]]を考えることができる。具体的には、直線上に原点 ''O'' と単位点 ''E'' を指定し、任意の実数 ''x'' に対し、直線上にあり、一方の端点を原点とし、原点から単位点までを結ぶ有向線分との(向きまで込めた)線分[[比]]が ''x'' となるような線分の、原点ではない側の端点と ''x'' とを対応付けたもののことをいう。 しばしば、原点と単位点の距離の整数倍で数を目盛ったものを指す。数直線は向きを持った直線であり、原点から単位点の向きに矢印を記すことがある。また、数直線は、1 次元[[ユークリッド空間]] '''R''' に対する[[座標系]]と捉えることも出来る。 [[画像:Numberline.png|center|原点を 0、単位点を 1 として目盛りをつけた数直線]] また、数直線を用いることで[[数]]の和や差が図として視覚的に与えることができるため、しばしば[[教育]]に用いられる。例えば、上の数直線では足し算(和)は'''右'''に進むことであり、引き算(差)は'''左'''に進むことである。したがって、 * 1 + 2 は目盛りの 1 から 2 目盛り'''右'''に進むから 3 である。 * 2 - 3 は目盛りの 2 から 3 目盛り'''左'''に進むから -1 である。 互いに直交する向き付けられた数直線によって[[ルネ・デカルト]]は絶対的な静止座標系を定義した。これは[[直交座標系]]と呼ばれる。 原点を固定し、原点を始点とする半直線を用いて[[極座標]]系が定義できる。このときの半直線は'''始線'''と呼ばれる。 == グラフとしての直線 == 直交座標系を入れた 2 次元ユークリッド空間 ''E''<sup>2</sup> を考えている時には、直線は[[1次方程式]]の形で与えられる; :<math>L=\{(x,y)\mid ax+by=c\}</math> 一般次元においても、[[線型方程式系]]のグラフとして直線を記述することができる。これは本質的にはベクトルによる記述と同等である。 == 線分の形式的取り扱い == 幾何学的な線分は、ある 2 点の間を結んだ最短経路である。 形式的には、点[[集合]] ''V'' が与えられたとき、[[直積集合|直積]]集合 ''V'' &times; ''V'' の元を'''有向線分''' とし、さらに[[同値関係]] ~ を 任意の ''a'', ''b'' &isin; ''V'' に対し (''a'', ''b'') ~ (''b'', ''a'') と定めたときの集合 ''E'' = ''V'' &times; ''V'' / ~ の元(同値類) [(''a'', ''b'')] (''a'', ''b'' &isin; ''V'', ''a'' &ne; ''b'') のこと(これをしばしば {''a'', ''b''} と記す)を ''a'' と ''b'' を結んだ線分と呼ぶ。 このように形式的に線分を定義すれば、[[グラフ理論]]などにおける[[辺]]も線分として考えられる。 == 内分点と外分点 == 上の線分でBはこの線分の'''内分点'''という。もし、AとBの距離がm、BとCの距離がnならば、BはAとCをm:nに'''内分'''する点である。 線分の延長線上にDがあるとする。Dはこの線分の'''外分点'''という。もし、ADの距離がo、BDの距離がpならば、Qは線分ABをo:pに'''外分'''する点である。 == 関連項目 == {{wiktionary|直線}} * [[曲線]] **[[円 (数学)]] **[[円錐曲線]] ***[[放物線]] ***[[楕円]] ***[[双曲線]] * [[平面]] * [[超平面]] - —直線や平面は超平面に含まれる * [[線型方程式]] * [[一次関数]] * [[極座標]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちよくせん}} [[Category:幾何学]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学の概念]] [[Category:曲線]] [[Category:数学に関する記事]]
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線分
幾何学における線分(せんぶん、英: Line segment)とは、2つの点を通る直線の部分であって、それら2点を含んで間に挟まる全ての点からなるものである。 通常は端点も含むものとするが、端点を含まないものも線分として認め、端点を含む狭義の線分を閉線分、含まないものを開線分とすることもある。 線分の例として、三角形や四角形の辺が挙げられる。 もっと一般に、端点がある1つの多角形の頂点となっている線分は、その端点が多角形の隣接する2頂点であるときその多角形の辺となり、そうでないときには対角線である。 また、端点が円周のような1つの曲線上に載っているとき、その線分はその曲線の弦と呼ばれる。 V を R または C 上のベクトル空間とし、L を V の部分集合とする。L がある適当なベクトル u, v ∈ V を選べば とパラメータ付けできるとき、L は線分(閉線分)であるという。あるいは同じことだが「線分は2点の凸包である」と定義してもよい。 この時、ベクトル u, u + v は L の端点 (end point) と呼ばれる。 線分が「開」か「閉」かの区別を要することもある。このとき、閉線分の定義は上述のもの、開線分 L は u, v ∈ V を選んで とパラメータ付けできる。片方の端点のみ開いた半開線分は、閉じた方の端点を u ∈ V 、開いた方を u + v ∈ V として となる。
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幾何学における線分とは、2つの点を通る直線の部分であって、それら2点を含んで間に挟まる全ての点からなるものである。
[[file:Segment definition.svg|thumb|250px|right|線分の幾何学的な定義]] [[幾何学]]における'''線分'''(せんぶん、{{lang-en-short|''Line segment''}})とは、2つの点を通る[[直線]]の部分であって、それら2点を含んで間に挟まる全ての点からなるものである。 ==概要== 通常は端点も含むものとするが、端点を含まないものも線分として認め、端点を含む狭義の線分を[[閉集合|閉]]線分、含まないものを[[開集合|開]]線分とすることもある。 線分の例として、[[三角形]]や[[四角形]]の[[辺]]が挙げられる。 もっと一般に、端点がある1つの[[多角形]]の頂点となっている線分は、その端点が多角形の隣接する2頂点であるときその多角形の辺となり、そうでないときには[[対角線]]である。 また、端点が[[円 (数学)|円周]]のような1つの[[曲線]]上に載っているとき、その線分はその曲線の[[弦 (数学)|弦]]と呼ばれる。 == 定義 == ''V'' を '''R''' または '''C''' 上の[[ベクトル空間]]とし、''L'' を ''V'' の[[部分集合]]とする。''L'' がある適当なベクトル '''u''', '''v''' &isin; ''V'' を選べば :<math> L = \{ \mathbf{u}+t\mathbf{v} \mid t\in[0,1]\}</math> とパラメータ付けできるとき、''L'' は線分(閉線分)であるという。あるいは[[同値|同じこと]]だが「線分は2点の[[凸包]]である」と定義してもよい。 この時、ベクトル '''u''', '''u''' + '''v''' は ''L'' の'''端点''' {{lang|en|(end point)}} と呼ばれる。 線分が「開」か「閉」かの区別を要することもある。このとき、'''閉線分'''の定義は上述のもの、'''開線分''' ''L'' は '''u''', '''v''' &isin; ''V'' を選んで :<math> L = \{ \mathbf{u}+t\mathbf{v} \mid t\in(0,1)\}</math> とパラメータ付けできる。片方の端点のみ開いた半開線分は、閉じた方の端点を '''u''' &isin; ''V'' 、開いた方を '''u''' + '''v''' &isin; ''V'' として :<math> L = \{ \mathbf{u}+t\mathbf{v} \mid t\in[0,1)\}</math> となる。 == 性質 == * 線分は[[連結空間|連結]]で[[空集合|空]]ではない[[集合]]である。 * ''V'' が[[位相線型空間]]の時、閉線分は ''V'' の[[閉集合]]である。しかし、開線分が ''V'' の[[開集合]]となるのは、''V'' が一次元[[同値|であるときであり、かつそのときに限る]]。 * もっと一般に、線分の概念は {{仮リンク|順序幾何学|en|Ordered geometry}} の枠組みで定義することができる。 == 関連項目 == *[[区間 (数学)]] *[[直線]] == 参考文献 == *David Hilbert: ''The Foundations of Geometry''. The Open Court Publishing Company 1950, p. 4(邦訳{{cite book|和書|title=幾何学基礎論|year=1969|publisher=清水弘文堂書房}}) == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{commons|Line segment|Line segment}} <!--{{Wiktionarypar|line segment}}--> *[http://planetmath.org/encyclopedia/LineSegment.html Line Segment at [[PlanetMath]]] *[http://www.mathopenref.com/linesegment.html Definition of line segment] With interactive animation *[http://www.mathopenref.com/constcopysegment.html Copying a line segment with compass and straightedge] *[http://www.mathopenref.com/constdividesegment.html Dividing a line segment into N equal parts with compass and straightedge] Animated demonstration * {{Kotobank}} ---- {{PlanetMath attribution|id=35783|title=Line segment}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せんふん}} [[Category:アフィン幾何学]] [[Category:線型代数学]] [[Category:曲線]] [[Category:初等幾何学]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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ウルガタ
ウルガタ(羅: Vulgata)は、ラテン語: editio Vulgata(「共通訳」の意)の略で、カトリック教会の標準ラテン語訳聖書のこと。1545年に始まったトリエント公会議においてラテン語聖書の公式版として定められた。伝統的にヒエロニムスによる翻訳とされるが、実際にはより複雑な成立過程をたどっている。 ヒエロニムス訳以前にも、editio Vulgata , 『ウルガタ』という名称は用いられていたが、これは古ラテン語聖書を指していた。つまり、すでにヒエロニムスの時代において聖書は完全なものから断片的なものまで多くのラテン語訳が存在していたのである。ヒエロニムスの業績はそれらのラテン語訳をふまえた上で、原語を参照しながらラテン語訳の決定版を完成させたことにある。 ローマに滞在していたヒエロニムスは紀元382年、時の教皇ダマスス1世の命によってラテン語訳聖書の校訂にあたることになり、初めに新約聖書にとりかかった。四福音書は、古ラテン語訳をギリシャ語テキストとつきあわせて誤っている部分を訂正した。他の文書に関してはほぼそのまま古ラテン語訳を用い、ここにヒエロニムスによる新約聖書の最初の校訂版が完成した。 386年、パレスチナに移ったヒエロニムスは旧約聖書の校訂にとりかかった。はじめに七十人訳聖書とオリゲネスのヘクサプラ(六欄対照旧約聖書)を使って、ヨブ記、詩篇、歴代誌、伝統的にソロモンに帰属される諸書、イザヤ書の40~55章を訳した(385年頃~89年頃)。その後、パレスチナのユダヤ人教師の手を借り、ヘブライ語を学んでヘブライ語でかかれたマソラ本文からの訳に取り組み(390年頃~405年頃)、旧約を完成させた。旧約聖書のうちでいわゆる「第二正典」に関しては、トビト記、ユディト記、またダニエル書とエステル記の補遺を急ぎ足で訳したのみで、その他には手をつけなかった。なお、ヒエロニムス訳の詩篇は3種存在する。それは(1)ローマ詩篇:七十人訳による詩篇の古ラテン語訳を改訂したもの、(2)ガリア詩篇:古ラテン語訳を、マソラ本文に対応させるため改訂したもの、(3)ヘブライ詩篇:マソラ本文から直接訳したものである。 このようにして成立したヒエロニムスによる聖書のラテン語訳がいわゆる『ウルガタ』であり、意味の明快さと文体の華麗さにおいて、従来のラテン語訳をはるかにしのぐ出色の出来となった。5世紀には『ウルガタ』は西方世界では名が通るものとなり、中世初期には西欧の全域で広く用いられるようになっていた。 中世においても『ウルガタ』のみならず古ラテン語訳聖書も並行して用いられていたため、写本作成時のミスとあいまって徐々に『ウルガタ』がもともと持っていた純粋さが失われていった。しかし、カロリング朝ルネサンスにおけるアルクィンらの校訂や、13世紀のパリ大学における校訂事業などを通じて『ウルガタ』本来の文体を復元・維持する活動は続けられていた。 ヨハネス・グーテンベルクが西洋における印刷技術を確立し、その成果として1455年に世に問うたのがウルガタ聖書の印刷本である『グーテンベルク聖書』であった。以降ウルガタ聖書はそれまでよりも多くの人に読まれるようになっていく。このような流れや人文主義者の影響によりヘブライ語やギリシャ語による原典研究が盛んになり、聖書そのものも原語テキストによって研究されるようになった。この流れの中で『ウルガタ』聖書の欠点が批判されるようになったため、1546年のトリエント公会議は『ウルガタ』聖書をカトリック教会の公式聖書としてのラテン語訳聖書の権威を再確認した。だが、これは当時さまざまなものが流布していたラテン語聖書の中で、『ウルガタ』が歴史と伝統において評価されたことを示すもので、決して原語で書かれた聖書を否定するものではないことに注意が必要である。その証拠にトリエント公会議は『ウルガタ』をさらに厳しく校訂して新しいラテン語聖書を発行することを決定している。 この決定を受けて委員会が編成され、新しい『ウルガタ』聖書が校訂された。教皇シクストゥス5世は完成を急ぐあまり、自ら手を加えてまで見切り発車的に新しいテキストを発表し、『シクストゥス版』としてこれを決定版とする発表をおこなった。しかし、これは学問的にあまりに不十分であるという理由からすぐに取り消され、ロベルト・ベラルミーノを中心とする委員会によってさらなる校訂がおこなわれ、クレメンス8世時代の1592年に『シクストゥス・クレメンティーナ版』として発表された。 20世紀に入ると教皇ピウス10世のもとで最新の研究に基づいた『ウルガタ』の校訂が決定され、ベネディクト会員らによって新たなテキストが発表されている。さらに1965年には教皇パウロ6世の指示によって原典に基づいた『ウルガタ』聖書の校訂が決定され、1979年に完成している。これはNova Vulgata, 『新ウルガタ』聖書といわれるものである。 作家でイングランド国教会の聖職者だったロナルド・ノックスは、大司教を引退後に改訳作業を行い『ノックス聖書』として刊行した。 このように『ウルガタ』聖書はヒエロニムスに由来し、絶えることのない研究と改訂によって現代に至るまで聖書のラテン語訳の決定版としての地位を維持している。
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ウルガタは、ラテン語: editio Vulgata(「共通訳」の意)の略で、カトリック教会の標準ラテン語訳聖書のこと。1545年に始まったトリエント公会議においてラテン語聖書の公式版として定められた。伝統的にヒエロニムスによる翻訳とされるが、実際にはより複雑な成立過程をたどっている。
{{出典の明記|date=2019-12-03}} '''ウルガタ'''({{lang-la-short|Vulgata}})は、{{lang-la|''editio Vulgata''}}(「共通訳」の意)の略で、[[カトリック教会]]の標準ラテン語訳[[聖書]]のこと。[[1545年]]に始まった[[トリエント公会議]]においてラテン語聖書の公式版として定められた。伝統的に[[ヒエロニムス]]による翻訳とされるが、実際にはより複雑な成立過程をたどっている。 {{wikisourcelang|la|Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia)|ウルガタ}} == 歴史 == === ウルガタの成立から中世まで === [[ファイル:Caravaggio_-_San_Gerolamo.jpg|thumb|right|300px|[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]による絵画「執筆する[[ヒエロニムス|聖ヒエロニムス]]」]] ヒエロニムス訳以前にも、{{翻字併記|la|{{lang|la|''editio Vulgata ''}}|『ウルガタ』|N|ja}}という名称は用いられていたが、これは[[古ラテン語聖書]]を指していた。つまり、すでにヒエロニムスの時代において聖書は完全なものから断片的なものまで多くのラテン語訳が存在していたのである。ヒエロニムスの業績はそれらのラテン語訳をふまえた上で、原語を参照しながらラテン語訳の決定版を完成させたことにある。 ローマに滞在していたヒエロニムスは紀元[[382年]]、時の[[教皇]][[ダマスス1世_(ローマ教皇)|ダマスス1世]]の命によってラテン語訳聖書の校訂にあたることになり、初めに新約聖書にとりかかった。[[福音書|四福音書]]は、古ラテン語訳をギリシャ語テキストとつきあわせて誤っている部分を訂正した。他の文書に関してはほぼそのまま古ラテン語訳を用い、ここにヒエロニムスによる新約聖書の最初の校訂版が完成した。 [[386年]]、パレスチナに移ったヒエロニムスは旧約聖書の校訂にとりかかった。はじめに[[七十人訳聖書]]と[[オリゲネス]]の[[ヘクサプラ]](六欄対照旧約聖書)を使って、[[ヨブ記]]、[[詩篇]]、[[歴代誌]]、伝統的にソロモンに帰属される諸書、[[イザヤ書]]の40~55章を訳した(385年頃~89年頃)。その後、パレスチナのユダヤ人教師の手を借り、ヘブライ語を学んでヘブライ語でかかれた[[マソラ]]本文からの訳に取り組み(390年頃~405年頃)、旧約を完成させた。旧約聖書のうちでいわゆる「[[第二正典]]」に関しては、[[トビト記]]、[[ユディト記]]、また[[ダニエル書]]と[[エステル記]]の補遺を急ぎ足で訳したのみで、その他には手をつけなかった。なお、ヒエロニムス訳の詩篇は3種存在する。それは(1)ローマ詩篇:七十人訳による詩篇の古ラテン語訳を改訂したもの、(2)ガリア詩篇:古ラテン語訳を、マソラ本文に対応させるため改訂したもの、(3)ヘブライ詩篇:マソラ本文から直接訳したものである。 このようにして成立したヒエロニムスによる聖書のラテン語訳がいわゆる『ウルガタ』であり、意味の明快さと文体の華麗さにおいて、従来のラテン語訳をはるかにしのぐ出色の出来となった。[[5世紀]]には『ウルガタ』は西方世界では名が通るものとなり、中世初期には西欧の全域で広く用いられるようになっていた。 中世においても『ウルガタ』のみならず古ラテン語訳聖書も並行して用いられていたため、写本作成時のミスとあいまって徐々に『ウルガタ』がもともと持っていた純粋さが失われていった。しかし、[[カロリング朝ルネサンス]]における[[アルクィン]]らの校訂や、[[13世紀]]の[[パリ大学]]における校訂事業などを通じて『ウルガタ』本来の文体を復元・維持する活動は続けられていた。 === 近世以降のウルガタ === [[ヨハネス・グーテンベルク]]が西洋における印刷技術を確立し、その成果として[[1455年]]に世に問うたのがウルガタ聖書の印刷本である『[[グーテンベルク聖書]]』であった。以降ウルガタ聖書はそれまでよりも多くの人に読まれるようになっていく。このような流れや[[人文主義者]]の影響により[[ヘブライ語]]や[[ギリシャ語]]による原典研究が盛んになり、聖書そのものも原語テキストによって研究されるようになった。この流れの中で『ウルガタ』聖書の欠点が批判されるようになったため、[[1546年]]の[[トリエント公会議]]は『ウルガタ』聖書をカトリック教会の公式聖書としてのラテン語訳聖書の権威を再確認した。だが、これは当時さまざまなものが流布していたラテン語聖書の中で、『ウルガタ』が歴史と伝統において評価されたことを示すもので、決して原語で書かれた聖書を否定するものではないことに注意が必要である。その証拠にトリエント公会議は『ウルガタ』をさらに厳しく校訂して新しいラテン語聖書を発行することを決定している。 この決定を受けて委員会が編成され、新しい『ウルガタ』聖書が校訂された。教皇[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]は完成を急ぐあまり、自ら手を加えてまで見切り発車的に新しいテキストを発表し、『シクストゥス版』としてこれを決定版とする発表をおこなった。しかし、これは学問的にあまりに不十分であるという理由からすぐに取り消され、[[ロベルト・ベラルミーノ]]を中心とする委員会によってさらなる校訂がおこなわれ、[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]時代の[[1592年]]に『シクストゥス・クレメンティーナ版』として発表された。 == 現代のウルガタ == 20世紀に入ると教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]のもとで最新の研究に基づいた『ウルガタ』の校訂が決定され、[[ベネディクト会]]員らによって新たなテキストが発表されている。さらに[[1965年]]には教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]の指示によって原典に基づいた『ウルガタ』聖書の校訂が決定され、[[1979年]]に完成している。これは{{翻字併記|la|{{lang|la|''Nova Vulgata''}}|『新ウルガタ』|N|ja}}聖書<ref>{{Cite web |url = http://www.vatican.va/archive/bible/nova_vulgata/documents/nova-vulgata_index_lt.html|title = Nova Vulgata|website = www.vatican.va|publisher = EDITIO TYPICA ALTERA|date = |accessdate = 2020-01-12}}</ref>といわれるものである。 作家で[[イングランド国教会]]の聖職者だった[[ロナルド・ノックス]]は、[[大司教]]を引退後に改訳作業を行い『ノックス聖書』として刊行した。 このように『ウルガタ』聖書はヒエロニムスに由来し、絶えることのない研究と改訂によって現代に至るまで聖書のラテン語訳の決定版としての地位を維持している。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://lvc.ibibles.net Vulgatae Clementina ウルガタ] * [http://www.vatican.va/archive/bible/nova_vulgata/documents/nova-vulgata_index_lt.html 新ウルガタ バチカンのサイト] {{聖書翻訳}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:うるかた}} [[Category:ウルガタ|*]] [[Category:ヒエロニムスの著作]] [[Category:ラテン語訳聖書]] [[Category:カトリック]] [[Category:ラテン語の語句]]
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佐倉市
佐倉市(さくらし)は、千葉県の北部に位置する市。 人口は約16.5万人。国際観光モデル地区に指定され、城下町の町並みは日本遺産に認定されている。 1954年(昭和29年)市制施行。 佐倉藩の城下町や軍都として栄え、市内には佐倉城跡や武家屋敷群が現存し、国立歴史民俗博物館などを有する文化都市。佐倉順天堂を中心に蘭学の先進地であり「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれた西洋医学の街でもある。 古くから交通の要衝として江戸と佐倉城および成田山新勝寺を結ぶ佐倉街道が整備され、近年は住宅都市としてユーカリが丘を中心に大規模なニュータウン開発が進む。地価高騰のおりは東京都心50キロメートル圏まで通勤圏が拡大したことにより、東京都区部へ通勤する人が増加し、都市雇用圏の定義による東京都市圏(東京都区部および千葉市)や成田都市圏(成田市)のベッドタウンとして発展している。東京都特別区部への通勤率は20.4パーセント(平成22年国勢調査)。 千葉県の北部、県庁所在地である千葉市と成田国際空港の中間地点に位置し、どちらにも約15キロメートルの距離である。東京都の都心から約40キロメートルの地点に位置する。 下総台地(北総台地)の中央に位置し、南東から北西に向かって緩やかに傾斜している台地と、台地を侵食した谷津から成り立っている。北部には印旛沼の西部調節池(西印旛沼)がある。 千葉県北西部から北東部にかけての内陸地域で、内陸性気候の特色が強い。年間通して比較的温暖な気候に恵まれているが、全域が太平洋側気候(海洋性気候)に属する県内においては、筑波颪の影響もあり冬の寒さの厳しい地域となっている。1月の平均最低気温は-1.8°Cに達し、時には-5°Cから-8°C前後まで下がることもある。 市内中央部の江原台には、日本考古学草創期に注目を集めた遺跡があり、東端には、白鳳期の長熊廃寺跡が残る。印旛沼を中心に、多くの原始古代遺跡がある。 鎌倉時代・室町時代を通じて下総守護として発展した下総千葉氏は、戦国時代になると本佐倉城(国の史跡、現・酒々井町本佐倉)を拠点とし、ここに佐倉千葉氏が成立した。戦国時代末期になると後北条氏の配下となり安房の里見氏の侵攻に対抗している。千葉親胤は鹿島城(のちの佐倉城)の建立に着手するが暗殺され、一族の鹿島幹胤が引き継ぐも建設途上で死去。完成を目指した千葉邦胤は家臣に殺害される。後北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡すると、鹿島城は建設途上で焼かれ、千葉氏も滅亡してしまう。その後近くの臼井城に徳川四天王の一人酒井忠次の息子である酒井家次が(臼井藩、後に佐倉藩領に編入)、同じく弥富城には北条氏一族の北条氏勝が(岩富藩、後に転封により収公)入城している。 江戸時代初期には土井利勝が鹿島城を改造して佐倉城を築き、その後、堀田氏の居城となり、老中首座となった堀田正亮が11万石とし、佐倉は城下町として繁栄した。佐倉藩は、武田(徳川)家、松平家等、老中や大老となる幕閣の中心人物が入封する重要な藩であった。江戸から佐倉城までは佐倉街道が整備され、市川宿・船橋宿・大和田宿(八千代市)・臼井宿(佐倉市)を経て目的地の佐倉に至る。この街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い、文化年間頃より成田街道という愛称で呼ばれるようになった。幕末の老中堀田正睦は蘭学を奨励し、佐藤泰然に佐倉順天堂(現・千葉県指定史跡佐倉順天堂)を開かせた。また、「西の長崎、東の佐倉」として西洋医学の街としても栄えた。現在では、国道296号(新町周辺のみ)を通称蘭学通りとして、その名を残している。明治時代以降は佐倉城址に歩兵連隊が置かれ、陸軍の軍都として栄えた。 1871年(明治4年)7月15日に廃藩置県により佐倉県が置かれ、同年11月13日に佐倉県は印旛県と改められた。また1873年(明治6年)に城跡に軍隊(佐倉連隊)がおかれた。 2004年(平成16年)10月4日に「佐倉市・酒々井町合併協議会」が設置されたが、2005年(平成17年)3月13日に酒々井町で実施された「佐倉市との合併の是非を問う住民投票」(投票率61.17%)では合併賛成4,016票、合併反対6,535票の結果となり、反対が賛成を上回ったため、酒々井町長綿貫登喜男は合併協議会の離脱を申し入れた。3月19日に開催された第9回合併協議会ではこの案件が協議され、その結果廃止することが決定し、3月29日に酒々井町議会、翌3月30日には佐倉市議会で合併協議会廃止議案が可決されたため4月30日をもって合併協議会は解散した。 四街道市と一部の市議らが有志交流会を開くなどし、周辺市町村との合併で将来的に中核市を視野に入れているとされるが、近年では具体的な動きはない。 2000年以降、人口は横ばいを続けている。 特記なき場合「歴代市長」による。 佐倉市八街市酒々井町消防組合の管轄内である。 印旛沼や、印旛沼へ流れる鹿島川・新川・手繰川・高崎川周辺を中心に稲作が盛ん。また、和田地区では大和芋(ヤマトイモ)の栽培も行われている。 根郷地区に工業団地(第一 - 三、熊野堂)があり、フジクラやデンカポリマーなどの工場がある。弥富地区には、複合研究都市「ちばリサーチパーク」がある。 詳しくは「市内の医療機関一覧(医科)」を参照。以下総合病院一覧。 二次医療圏(二次保健医療圏)としては印旛医療圏(管轄区域:印旛地域)である。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。 医療提供施設は一部のみ記載する。 利用者数はユーカリが丘駅や京成臼井駅が佐倉駅を上回る。また、市役所の最寄り駅は京成佐倉駅となっている。 志津、臼井、千代田、佐倉地区から上り方面へは千葉北インターチェンジや四街道インターチェンジの方が近い。 江戸を感じる北総の町並み(佐倉・成田・佐原・銚子):百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群 市北部に印旛沼、その沿岸に自転車道(印旛沼自転車道)があり散策に適している。市内在住の有森裕子や高橋尚子が小出義雄監督と共に走っていたコースが印旛沼沿岸を中心にあり、金メダルジョギングロードとして整備されている。また、観光用の屋形船が市を南北に流れる鹿島川から出ている。 市内には有名建築家が設計した建物が多い。 などがある。 佐倉藩武家屋敷群(武家屋敷通り)、佐倉城址公園(佐倉城跡)、旧堀田邸、佐倉順天堂記念館、鏑木町・新町・弥勒町などに点在する寺社や旧商家など、佐倉藩だった頃の姿をそのまま保存した歴史的建造物が点在する。 ほか ほか
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佐倉市(さくらし)は、千葉県の北部に位置する市。 人口は約16.5万人。国際観光モデル地区に指定され、城下町の町並みは日本遺産に認定されている。 1954年(昭和29年)市制施行。
{{混同|さくら市|x1=栃木県の}} {{日本の市 |画像 = Sakura montage2.jpg |画像の説明 = <table style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse"> <tr><td style="width:100%" colspan="2">[[ユーカリが丘]]の超高層マンション群</tr> <tr><td style="width:50%; vertical-align:middle"> [[千葉県立佐倉高等学校|佐倉高等学校]]記念館<td style="width:50%">佐倉ふるさと広場</tr> <tr><td style="width:50%"> [[佐倉城|佐倉城址公園]]<td style="width:50%; vertical-align:middle"> [[旧堀田邸]]</tr> </tr> <tr><td style="width:100%" colspan="2">[[国立歴史民俗博物館]]</tr> </table> |市旗 = [[ファイル:Flag of Sakura, Chiba.svg|border|100px]] |市旗の説明 = 佐倉[[市町村旗|市旗]] |市章 = [[ファイル:Emblem of Sakura, Chiba.svg|80px]] |市章の説明 = 佐倉[[市町村章|市章]]<br /><small>[[1955年]] ([[昭和]]30年)<br />[[4月1日]]制定</small> |自治体名 = 佐倉市 |都道府県 = 千葉県 |コード = 12212-2 |隣接自治体 = [[千葉市]]、[[四街道市]]、[[八千代市]]、[[印西市]]、[[八街市]]、[[印旛郡]][[酒々井町]] |木 = [[サクラ]] |花 = [[ハナショウブ]] |シンボル名 = |鳥など = |郵便番号 = 285-8501 |所在地 = 佐倉市海隣寺町97番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-12|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Sakura City Office.jpg|center|250px|佐倉市役所]] |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|12|212|image=Sakura in Chiba Prefecture Ja.svg}}{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} |特記事項 = }} '''佐倉市'''(さくらし)は、[[千葉県]]の中部に位置する[[市]]。 人口は約16.5万人。国際観光モデル地区<ref>{{Cite web|和書|title=1 国際交流の促進|url=https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa62/ind000103/001.html#fig1-3-5|website=www.mlit.go.jp|accessdate=2019-05-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=成田国際空港を活かす佐倉のまちづくり|url=http://net-sakura.jimdo.com/まちづくり/産業振興推進のポテンシャル/|website=NPO法人まちづくり支援ネットワーク佐倉の公式サイト|accessdate=2019-05-22|language=ja-JP}}</ref>に指定され、[[城下町]]の町並みは[[日本遺産]]に認定されている<ref>「[[北総]]四都市[[江戸]]紀行・江戸を感じる北総の町並み」として2016年4月25日に認定</ref>。 1954年(昭和29年)市制施行。 == 概要 == [[佐倉藩]]の[[城下町]]や[[軍都]]として栄え、市内には[[佐倉城]]跡や[[武家屋敷]]群が現存し、[[国立歴史民俗博物館]]などを有する文化都市<ref>{{Cite web|和書|title=「佐倉・城下町400年記念」 - イベント・事業のご案内|url=http://www.city.sakura.lg.jp/sakura/sakura400/200event/index.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180122055453/http://www.city.sakura.lg.jp/sakura/sakura400/200event/index.htm|website=佐倉市公式サイト|archivedate=2018-01-22|accessdate=2019-05-23}}</ref>。[[学校法人順天堂|佐倉順天堂]]を中心に[[蘭学]]の先進地であり「西の[[長崎市|長崎]]、東の佐倉」と呼ばれた[[西洋医学]]の街でもある<ref name=":0" />。 古くから交通の要衝として[[江戸]]と佐倉城および[[成田山新勝寺]]を結ぶ[[佐倉街道]]<ref group="注">[[文化 (元号)|文化]]年間頃より「[[成田街道]]」という愛称で呼ばれるようになった。</ref>が整備され、近年は[[住宅都市]]として[[ユーカリが丘]]を中心に大規模な[[日本のニュータウン|ニュータウン]]開発が進む<ref>{{Cite web|和書|date=2011-11|url=http://www.jcca.or.jp/kaishi/252/252_toku4.pdf|title=都市計画の視点から見た中量軌道システム 「山万ユーカリが丘線」|format=PDF|publisher=一般社団法人 建設コンサルタンツ協会|accessdate=2014-08-24}}</ref>。地価高騰のおりは東京都心50キロメートル圏まで通勤圏が拡大したことにより、[[東京都区部]]へ通勤する人が増加し、[[都市雇用圏]]の定義による[[東京都市圏]](東京都区部および千葉市)や[[成田都市圏]]([[成田市]])の[[ベッドタウン]]として発展している。東京都特別区部への通勤率は20.4パーセント(平成22年国勢調査)。 == 地理 == [[千葉県]]の北部、[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である[[千葉市]]と[[成田国際空港]]の中間地点に位置し、どちらにも約15キロメートルの距離である。[[東京都]]の[[都心]]から約40キロメートルの地点に位置する<ref>[http://www.city.sakura.lg.jp/whats_sakuracity/wahts_sakuracity.htm 佐倉市ホームページ「What's 佐倉市」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061006080959/http://www.city.sakura.lg.jp/whats_sakuracity/wahts_sakuracity.htm|date=2006年10月6日}} より。</ref>。 [[下総台地]](北総台地)の中央に位置し、南東から北西に向かって緩やかに傾斜している台地と、台地を侵食した[[谷津]]から成り立っている。北部には[[印旛沼]]の西部調節池(西印旛沼)がある。 * [[一級河川]]:[[鹿島川 (千葉県)|鹿島川]]、[[高崎川 (千葉県)|高崎川]] * [[準用河川]]:[[佐倉川 (千葉県)|佐倉川]] * 湖沼:[[印旛沼]] === 気候 === 千葉県北西部から北東部にかけての内陸地域で、[[内陸性気候]]の特色が強い。年間通して比較的温暖な気候に恵まれているが、全域が[[太平洋側気候]]([[海洋性気候]])に属する県内においては、[[筑波颪]]の影響もあり冬の寒さの厳しい地域となっている。1月の平均最低気温は-1.8℃に達し、時には-5℃から-8℃前後まで下がることもある。{{Climate chart|'''佐倉市'''|-1.9|9.0|51 |-1.0|9.3|56 |2.4|12.3|113 |7.7|17.8|111 |13.1|22.1|113 |17.2|24.4|144 |20.7|27.9|129 |22.2|29.9|107 |18.9|26.1|200 |12.3|21.0|155 |5.9|16.1|94 |0.0|11.6|38 |float=left |source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_amd_ym.php?prec_no=45&prec_ch=%90%E7%97t%8C%A7&block_no=0916&block_ch=%8D%B2%91q&year=2008&month=02&day=&elm=normal&view=p1] }}{{Weather box|location=佐倉(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=19.0|Feb record high C=24.3|Mar record high C=25.6|Apr record high C=29.2|May record high C=33.9|Jun record high C=36.6|Jul record high C=37.8|Aug record high C=39.1|Sep record high C=35.4|Oct record high C=32.2|Nov record high C=25.7|Dec record high C=23.8|year record high C=39.1|Jan high C=9.6|Feb high C=10.4|Mar high C=13.7|Apr high C=18.8|May high C=23.2|Jun high C=25.8|Jul high C=29.8|Aug high C=31.2|Sep high C=27.3|Oct high C=21.9|Nov high C=16.8|Dec high C=11.9|year high C=20.0|Jan mean C=3.7|Feb mean C=4.8|Mar mean C=8.3|Apr mean C=13.4|May mean C=18.1|Jun mean C=21.3|Jul mean C=25.1|Aug mean C=26.3|Sep mean C=22.7|Oct mean C=17.1|Nov mean C=11.2|Dec mean C=6.0|year mean C=14.8|Jan low C=-1.8|Feb low C=-0.7|Mar low C=2.8|Apr low C=7.9|May low C=13.5|Jun low C=17.6|Jul low C=21.5|Aug low C=22.6|Sep low C=19.0|Oct low C=12.9|Nov low C=6.2|Dec low C=0.5|year low C=10.2|Jan record low C=-12.7|Feb record low C=-9.5|Mar record low C=-5.3|Apr record low C=-2.3|May record low C=3.6|Jun record low C=9.8|Jul record low C=13.5|Aug record low C=15.4|Sep record low C=7.2|Oct record low C=-0.4|Nov record low C=-3.9|Dec record low C=-7.2|year record low C=-12.7|Jan precipitation mm=65.9|Feb precipitation mm=57.8|Mar precipitation mm=109.2|Apr precipitation mm=112.9|May precipitation mm=127.4|Jun precipitation mm=148.6|Jul precipitation mm=140.1|Aug precipitation mm=109.1|Sep precipitation mm=206.5|Oct precipitation mm=223.3|Nov precipitation mm=95.8|Dec precipitation mm=56.0|year precipitation mm=1455.9|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=5.8|Feb precipitation days=6.4|Mar precipitation days=10.4|Apr precipitation days=10.4|May precipitation days=10.7|Jun precipitation days=11.7|Jul precipitation days=10.3|Aug precipitation days=8.0|Sep precipitation days=11.0|Oct precipitation days=10.9|Nov precipitation days=8.3|Dec precipitation days=6.1|year precipitation days=109.4|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=45&block_no=0916&year=&month=&day=&view= |title=佐倉 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-03-23 |publisher=気象庁}}</ref>|Dec sun=171.5|Nov sun=146.8|Oct sun=132.1|Sep sun=135.1|Aug sun=191.4|Jul sun=162.0|Jun sun=128.2|May sun=179.4|Apr sun=180.1|Mar sun=170.2|Feb sun=169.7|Jan sun=189.5|year sun=1956.0}}{{Clear}} === 隣接している自治体・行政区 === * [[千葉市]]([[花見川区]]、[[若葉区]]) * [[八千代市]] * [[四街道市]] * [[八街市]] * [[印西市]] * [[印旛郡]]:[[酒々井町]] == 歴史 == [[ファイル:Doi Toshikatu.jpg|サムネイル|[[佐倉城]]を築城させた[[土井利勝]]]] 市内中央部の江原台には、日本考古学草創期に注目を集めた遺跡があり、東端には、[[白鳳]]期の長熊廃寺跡が残る<ref>{{Cite book|和書 |title=千葉県記念物実態調査報告書 1(昭和48年度~昭和53年度) |date=1980.3 |publisher=千葉県教育庁文化課 |page=41}}</ref>{{Efn2|ただし同文献では「白鳳時代に時期を現定する根拠は乏しい」とも書かれている}}。[[印旛沼]]を中心に、多くの原始古代遺跡がある。 [[鎌倉時代]]・[[室町時代]]を通じて[[下総]][[守護]]として発展した下総[[千葉氏]]は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると[[本佐倉城]](国の[[関東地方の史跡一覧#千葉県|史跡]]、現・酒々井町本佐倉)を拠点とし、ここに佐倉[[千葉氏]]が成立した。戦国時代末期になると[[後北条氏]]の配下となり[[安房国|安房]]の[[里見氏]]の侵攻に対抗している。[[千葉親胤]]は鹿島城(のちの[[佐倉城]])の建立に着手するが暗殺され、一族の[[鹿島幹胤]]が引き継ぐも建設途上で死去。完成を目指した[[千葉邦胤]]は家臣に殺害される。[[後北条氏]]が[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]で滅亡すると、鹿島城は建設途上で焼かれ、[[千葉氏]]も滅亡してしまう。その後近くの[[臼井城]]に[[徳川四天王]]の一人[[酒井忠次]]の息子である[[酒井家次]]が([[臼井藩]]、後に佐倉藩領に編入)、同じく[[弥富城]]には[[後北条氏|北条氏]]一族の[[北条氏勝]]が([[岩富藩]]、後に転封により収公)入城している。 [[江戸時代]]初期には[[土井利勝]]が鹿島城を改造して佐倉城を築き、その後、堀田氏の居城となり、[[老中]]首座となった[[堀田正亮]]が11万石とし、佐倉は[[城下町]]として繁栄した。[[佐倉藩]]は、武田(徳川)家、松平家等、老中や大老となる幕閣の中心人物が入封する重要な藩であった。江戸から佐倉城までは[[佐倉街道]]が整備され、市川宿・船橋宿・大和田宿([[八千代市]])・臼井宿(佐倉市)を経て目的地の佐倉に至る。この街道を経由して[[成田山新勝寺]]へ向かう[[成田参詣]]が隆盛するに従い、[[文化 (元号)|文化]]年間頃より[[成田街道]]という愛称で呼ばれるようになった。幕末の老中[[堀田正睦]]は蘭学を奨励し、[[佐藤泰然]]に[[佐倉順天堂]](現・[[千葉県指定文化財一覧#史跡|千葉県指定史跡]]佐倉順天堂)を開かせた。また、「西の長崎、東の佐倉」として西洋医学の街としても栄えた<ref name=":0">近堂 浩正、「真・風水―自然環境の優劣が人間の優劣に影響を及ぼす」P100、文芸社、2001年11月</ref>。現在では、[[国道296号]](新町周辺のみ)を通称蘭学通りとして、その名を残している。[[明治時代]]以降は佐倉城址に[[歩兵連隊]]が置かれ、[[陸軍]]の[[軍都]]として栄えた<ref>{{Cite web|和書|title=佐倉市歴史的建造物基本調査 {{!}} 伝統技法研究会|url=http://den-gi.jp/?p=444|website=den-gi.jp|accessdate=2019-05-23}}</ref>。 [[1871年]](明治4年)[[7月15日]]に[[廃藩置県]]により[[佐倉県]]が置かれ、同年[[11月13日]]に佐倉県は[[印旛県]]と改められた。また1873年(明治6年)に城跡に軍隊([[歩兵第2連隊|佐倉連隊]])がおかれた。 === 沿革 === [[ファイル:100 views edo 058.jpg|thumb|[[歌川広重]]『[[名所江戸百景]] 逆井のわたし』佐倉へ向かう佐倉街道沿いの風景|代替文=|272x272px]] *[[1954年]][[3月31日]] - [[印旛郡]][[臼井町 (千葉県)|臼井町]]・[[佐倉町]]・[[志津村 (千葉県)|志津村]]・[[根郷村]]・[[弥富村 (千葉県)|弥富村]]・[[和田村 (千葉県)|和田村]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|新設合併]]し、'''佐倉市'''が発足(面積:89.79平方キロメートル、人口:35,196人)。千葉県内で11番目の[[市制]]施行([[成田市]]と同日)。 *[[1955年]][[3月10日]] - 印旛郡[[旭村 (千葉県印旛郡)|旭村]]の一部(大字馬渡)を編入。 *[[1957年]][[1月1日]] - 印旛郡[[四街道市|四街道町]]の一部(旧[[千代田町 (千葉県)|千代田町]]域の[[畔田 (佐倉市)|畔田]]・[[飯重]]・[[生谷 (佐倉市)|生谷]]・[[羽鳥 (佐倉市)|羽鳥]]・[[吉見 (佐倉市)|吉見]]を編入。 *[[1969年]][[6月1日]] - [[千葉市]]の一部(宇那谷町および[[内山町 (千葉市)|内山町]]の一部)を編入。 *[[1984年]][[3月1日]] - 内田・坂戸の一部を千葉市に編入。 *[[1985年]][[6月1日]] - [[上志津]]・[[上志津原]]・下志津・[[下志津原]]の各一部を千葉市(現・花見川区)に編入。 *[[1990年]]6月1日 - 四街道市と境界変更。 *[[1999年]][[10月1日]] - 千葉市と境界変更。 === 佐倉市を構成している旧町村 === *[[千葉郡]] **[[大和田町 (千葉県)|大和田町]]([[井野 (佐倉市)|井野]]の一部) *[[印旛郡]] **[[佐倉町]] **[[臼井町 (千葉県)|臼井町]] **[[志津村 (千葉県)|志津村]] **[[根郷村]] **[[和田村 (千葉県)|和田村]] **[[弥富村 (千葉県)|弥富村]] **[[旭村 (千葉県印旛郡)|旭村]] === 合併構想 === [[2004年]](平成16年)[[10月4日]]に「佐倉市・[[酒々井町]][[日本の市町村の廃置分合#合併協議会|合併協議会]]」が設置されたが、[[2005年]](平成17年)[[3月13日]]に酒々井町で実施された「佐倉市との合併の是非を問う[[住民投票]]」(投票率61.17%)では合併賛成4,016票、合併反対6,535票の結果となり、反対が賛成を上回ったため、酒々井[[町長]]綿貫登喜男は合併協議会の離脱を申し入れた。[[3月19日]]に開催された第9回合併協議会ではこの案件が協議され、その結果廃止することが決定し、[[3月29日]]に酒々井町議会、翌[[3月30日]]には佐倉市議会で合併協議会廃止議案が可決されたため[[4月30日]]をもって合併協議会は解散した。 [[四街道市]]と一部の市議らが有志交流会を開くなどし、周辺市町村との合併で将来的に[[中核市]]を視野に入れている<ref>朝日新聞 2002年1月8日付 朝刊、千葉地方面、P.35</ref>とされるが、近年では具体的な動きはない。 == 人口 == 2000年以降、人口は横ばいを続けている。{{人口統計|code=12212|name=佐倉市|image=Population distribution of Sakura, Chiba, Japan.svg}} == 行政 == * 市長:[[西田三十五]](2019年4月27日就任、1期目)再選を果たし2期目 (2023年4月27日就任 2期目) === 歴代市長 === 特記なき場合「歴代市長」による<ref name="sakura">{{Cite web|和書|url=http://www.city.sakura.lg.jp/0000001706.html|title=歴代市長|publisher=佐倉市|date=2019-11-13|accessdate=2021-04-15}}</ref>。 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任!!退任!!備考 |- |1||[[木倉和一郎]]||1954年(昭和29年)4月26日||1958年(昭和33年)4月25日|| |- |2||[[岩渕剛]]||1958年(昭和33年)4月26日||1959年(昭和34年)9月5日|| |- |3||[[堀田正久]]||1959年(昭和34年)10月4日||1975年(昭和50年)10月3日|| |- |4||[[菊間健夫]]||1975年(昭和50年)10月4日||1995年(平成7年)2月28日|| |- |5||[[渡貫博孝]]||1995年(平成7年)4月23日||2007年(平成19年)4月26日|| |- |6||[[蕨和雄]]||2007年(平成19年)4月27日||2019年(平成31年)4月26日|| |- |7||[[西田三十五]]||2019年(平成31年)4月27日||現職||2期目 |} === 行政機関 === {{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Sakura Police Station (Chiba).JPG|説明1=佐倉警察署|画像2=Sakura City, Yachimata City and Shisui Town Fire Department.JPG|説明2=佐倉市八街市酒々井町消防組合|画像3=|説明3=|画像4=|説明4=|画像5=|説明5=|画像6=|説明6=|画像7=|説明7=|画像8=|説明8=|画像9=|説明9=}} ==== 警察 ==== * [[佐倉警察署]](佐倉市、八街市、酒々井町を管轄) ==== 消防 ==== [[佐倉市八街市酒々井町消防組合]]の管轄内である。 * 佐倉消防署 ** 神門出張所 ** 臼井出張所 ** 角来出張所 * 志津消防署 ** 志津南出張所 * 消防団(全7分団) ** 第1分団 佐倉地区 ** 第2分団 志津地区 ** 第3分団 臼井地区 ** 第4分団 根郷地区 ** 第5分団 和田地区 ** 第6分団 弥富地区 ** 第7分団 千代田地区 ** 佐倉市消防本部付 女性消防部(2008年4月1日発足、2014年4月現在17名) ==== 国の機関 ==== * [[千葉地方裁判所]]佐倉支部 * [[千葉家庭裁判所]]佐倉支部 * [[佐倉簡易裁判所]] * [[千葉地方検察庁]]佐倉支部 * [[佐倉区検察庁]] * [[法務省]][[東京法務局#千葉地方法務局|千葉地方法務局]]佐倉支局 * [[厚生労働省]][[千葉労働局]]佐倉パートバンク * [[農林水産省]][[関東農政局]][[千葉農政事務所]]佐倉統計・情報センター ==== 県・市の機関 ==== * 千葉県印旛合同庁舎 ** 千葉県印旛健康福祉センター(印旛保健所) ** 千葉県佐倉県税事務所 ** 千葉県印旛地域振興事務所 ** 千葉県北部林業事務所印旛支所 ** 千葉県印旛農業事務所 ** 千葉県印旛土木事務所 ** 千葉県教育庁北総教育事務所 * 千葉県水産総合研究センター内水面水産センター *佐倉市、四街道市、酒々井町葬祭組合 [[さくら斎場]] *[[社会福祉法人生活クラブ風の村|社会福祉法人生活クラブ]] == 議会 == === 市議会 === {{Main|佐倉市議会}} * 定数:28名 * 任期:2019年(平成31年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日 * 議長:平野裕子(さくら会) * 副議長:高木大輔(さくら会) {| class="wikitable" !会派名!!議席数!!議員名(◎は代表) |- | さくら会 || style="text-align:right" | 9 || ◎中村孝治、櫻井道明、石渡康郎、爲田浩、平野裕子、高木大輔、敷根文裕、斎藤明美、岡野敦、密本成章 |- | [[公明党]] || style="text-align:right" | 4 || ◎岡村芳樹、久野妙子、鍋田達子、押木孝和 |- | [[自由民主党 (日本)|自由民主]]さくら || style="text-align:right" | 4 || ◎山本英司、徳永由美子、石井秀明、齋藤寛之 |- | [[市民ネットワーク千葉県|市民ネットワーク]] || style="text-align:right" | 3 || ◎五十嵐智美、川口絵未、松島梢 |- | 市民オンブズマンひまわり会 || style="text-align:right" | 2 || ◎藤崎良次、宇田実生子 |- | [[日本共産党]] || style="text-align:right" | 2 || ◎荻原陽子、木崎俊行 |- | 無会派 || style="text-align:right" |4|| 髙橋とみお、稲田敏昭、玉城清剛 |- | 計 || style="text-align:right" | 28 || |} === 県議会 === {{main|千葉県議会}} * 選挙区:佐倉市選挙区 * 定数:3名 * 任期:2019年(平成31年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日<ref name="任期満了日 平成23年" /> {| class="wikitable" |- !氏名!!会派名!!当選回数 |- | 伊藤昌弘 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]千葉県議会議員会 || style="text-align:center" | 4 |- | 伊藤壽子 || [[市民ネットワーク千葉県|市民ネット]] || style="text-align:center" | 1 |- | 入江晶子 || 千葉民主の会 || style="text-align:center" | 3 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[千葉県第9区|千葉9区]]([[千葉市]][[若葉区]]・佐倉市・[[四街道市]]・[[八街市]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:407,331人 * 投票率:53.01% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[奥野総一郎]] || align="center" | 57 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 107,322票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || [[秋本真利]] || align="center" | 46 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 102,741票 || align="center" | ○ |} == 経済 == === 産業 === [[ファイル:DICCentralResearchLaboratories20140217.JPG|サムネイル|DIC総合研究所]] ; 農業 [[印旛沼]]や、印旛沼へ流れる鹿島川・[[印旛放水路|新川]]・手繰川・高崎川周辺を中心に稲作が盛ん。また、和田地区では[[ヤマトイモ|大和芋(ヤマトイモ)]]の栽培も行われている。 * [[いんば農業協同組合|農業協同組合]] ** [[いんば農業協同組合]] ; 工業 根郷地区に工業団地(第一 - 三、熊野堂)があり、[[フジクラ]]や[[デンカ|デンカポリマー]]などの工場がある。弥富地区には、複合研究都市「ちばリサーチパーク」がある。 ==== 市内に本社・本店を置く企業 ==== {| width="90%" | valign="top" width="50%" | * [[広域高速ネット二九六]] * [[京成タクシー佐倉]] * [[佐倉自動車学校]] * [[千葉ガス]]([[東京ガス]]に統合) * [[ちばグリーンバス]] * [[ナカンテクノ]] | valign="top" | * [[なの花交通バス]] * [[日東科学教材]] * [[バックヤードプロダクツ]] * [[フジクラコンポーネンツ]] * [[ホソヤコーポレーション]] * [[ロコビア]] |} ==== 主な大型商業施設 ==== {{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Aeon cinema eucalygaoka.jpg|説明1=ユーカリプラザ|画像2=|説明2=|画像3=|説明3=|画像4=|説明4=|画像5=|説明5=|画像6=|説明6=|画像7=|説明7=|画像8=|説明8=|画像9=|説明9=}} * [[イオンタウン]]ユーカリが丘 ** [[イオン (店舗ブランド)|イオンスタイル]]ユーカリが丘 * [[イオン (企業)|イオン]]臼井店(レイクピアうすい、旧ジャスコ臼井店) * [[ユーカリプラザ]] ** [[シネマサンシャイン|シネマサンシャインユーカリが丘]] * スカイプラザ・モール ** [[オーケー]]ユーカリが丘店 * [[ベイシア]]佐倉店 * [[ヤオコー]]佐倉染井野店(旧イトーヨーカドー臼井店) * 志津ステーションビルディング(旧しづ[[東武ストア|マイン]]) * [[トップマート]]志津店 <!--== 姉妹都市・提携都市 ==--> == 地域 == === 地区 === * '''佐倉地区''' - 佐倉市の行政の中心で、[[京成佐倉駅]]周辺には[[市役所]]、[[裁判所]]、[[検察庁]]などの官公庁ほか、[[佐倉郵便局 (千葉県)|佐倉郵便局]]、市立美術館、[[オフィスビル]]、マンションなどが立地する。またJR[[佐倉駅]]周辺には[[佐倉警察署]]、千葉県印旛合同庁舎、佐倉商工会議所などの官公庁が位置する。この地区の台地には旧[[佐倉藩]]の[[佐倉城]]があった事から、寺院の集中地や変則交差点、[[クランク (道路)|クランク]]状の道など、[[城下町]]の面影が今も色濃く残る。1982年(昭和57年)当時には、調査により24棟の武家屋敷が現存していることが確認され、その時点では日本で最多の残存数であった(2010年(平成22年2月)時点では、復元公開している3棟の武家屋敷を併せて10棟現存)。佐倉城の跡地は佐倉城址として整備され、隣接する地には[[国立歴史民俗博物館]]が開設され、佐倉の歴史と文化を今に伝える。また[[印旛沼]]を北に望み、草ぶえの丘、市民の森、岩名運動公園など、各種レジャー施設などが位置する。人口密度は志津地区に次いで2番目に高い。 [[ファイル:Yamaman-Yukarigaoka-Line.JPG|サムネイル|山万ユーカリが丘線の沿線風景。高層マンションと田園が入り混じる。]] * '''志津地区''' - 佐倉市西部に位置し、最も東京寄りの地区。[[日本のニュータウン|ニュータウン]]として開発されている[[ユーカリが丘]]を含む。佐倉市の人口の約4割が住み、人口密度は市内で最も高い。京成線沿線の[[ユーカリが丘駅]]、[[志津駅]]を中心として都市化が急速に進んだ。ユーカリが丘駅前からは[[山万ユーカリが丘線|新交通システム]]が走り、[[ショッピングモール]]、[[イオンエンターテイメント|シネマコンプレックス]]などの商業施設の他、120メートル級の[[超高層マンション]]が数棟ある。その一方で駅から離れた新川([[印旛放水路]])沿いの地域などでは、田園風景や山林も残る。 * '''臼井地区''' - かつては[[臼井城]]の[[城下町]]として、のちに[[宿場町]]として北部を中心に栄えた。[[1970年代]]後半に大規模な区画整理事業が行われ、[[国道296号]]沿いに位置し利用者の増大により、狭隘著しい[[京成臼井駅]]が区画整理事業と同時に現在の位置に移転が行われ、北部から南部に市街地が移った。現在、駅前にはショッピングセンターが位置し、閑静な住宅街が広がっている。また、北部には宿場町の頃の名残が見られる。隣接する[[印旛沼]]と相まって、自然豊かな住宅地が形成されている。千代田地区との関わりが深く、「臼井・千代田地区」とあわせて呼ばれる場合もある。 * '''千代田地区''' - 千代田地区はかつて、[[1950年代]]に四街道町(現・四街道市)から編入した地域である。農村が広がる地域だが、北部の臼井地区に隣接する地域には大手[[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]]により、[[1990年代]]から染井野(みずきヶ丘:佐倉そめい野邸苑都市)が造成された。街の中心部には大型量販店などが立地し、計画人口約1万人の街が完成する予定である。 * '''根郷地区''' - JR佐倉駅より南側の地域が主に根郷地区である。かつては農村地域だった地区であるが、地区の南側を通る[[国道51号]]によって[[高度経済成長]]期より都市化が進み、[[1972年]](昭和47年)の[[東関東自動車道]][[佐倉インターチェンジ]]の開通に伴い、大規模な工業団地が多く造成された。また交通の便の良さから住宅団地の造成が行われ、[[千葉県立佐倉南高等学校]]や[[千葉敬愛短期大学]]などの学校も開設され、人口の増加も著しい地区となっている。また近年、寺崎地区で区画整理事業が始まっており、<!-- 今後発展が期待される地区である[誰?]。 -->人口も若年層を中心に増加傾向にある。 * '''弥富・和田地区''' - [[近郊農業]]が盛んな地域である。市内で最も人口が少なく面積が最も広い地区で、市の面積の3分の1を占めている。弥富地区には[[川村記念美術館]]が立地し、17世紀から現代絵画までの多くの作品が展示されている。また、[[千葉市]]とまたがる地域に開発研究施設が集まる千葉リサーチパークが造成されており、ハイレベルな開発研究拠点の集積などが図られている。和田地区は地区全体が市街化調整区域であり、[[養豚]]と[[ナガイモ|ヤマトイモ]]の生産が主な産業となっている。近年、人口は減少傾向にある。 {{clear}} {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" ! style="width:8em" |地区 ! 大字・町名 |- ! 佐倉地区 |[[飯田 (佐倉市)|飯田]]・[[飯田干拓]]・[[飯田台]]・[[飯野 (佐倉市)|飯野]]・[[飯野干拓]]・[[飯野町 (佐倉市)|飯野町]]・[[岩名 (佐倉市)|岩名]]・[[裏新町]]・[[大佐倉]]・[[大佐倉干拓]]・[[大蛇町]]・[[鹿島干拓]]・[[海隣寺町]]・[[鏑木町]]・[[鏑木仲田町]]・[[上代 (佐倉市)|上代]]・[[栄町 (佐倉市)|栄町]]・[[下根 (佐倉市)|下根]]・[[下根町 (佐倉市)|下根町]]・[[樹木町 (佐倉市)|樹木町]]・[[城内町 (佐倉市)|城内町]]・[[白銀 (佐倉市)|白銀]]・[[新町 (佐倉市)|新町]]・[[千成 (佐倉市)|千成]]・[[高岡 (佐倉市)|高岡]]・[[田町 (佐倉市)|田町]]・[[土浮 (佐倉市)|土浮]]・[[土浮干拓]]・[[中尾余町]]・[[鍋山町 (佐倉市)|鍋山町]]・[[並木町 (佐倉市)|並木町]]・[[萩山新田]]・[[萩山新田干拓]]・[[藤沢町 (佐倉市)|藤沢町]]・[[本町 (佐倉市)|本町]]・[[将門町]]・[[宮小路町 (佐倉市)|宮小路町]]・[[宮前 (佐倉市)|宮前]]・[[弥勒町 (佐倉市)|弥勒町]]・[[最上町 (佐倉市)|最上町]]・[[野狐台町]]・[[山崎 (佐倉市)|山崎]] |- ! 志津地区 |[[青菅]]・[[井野 (佐倉市)|井野]]・[[井野町 (佐倉市)|井野町]]・[[小竹 (佐倉市)|小竹]]・[[小竹干拓]]・[[上志津]]・[[上志津原]]・[[下志津]]・[[下志津原]]・[[上座 (佐倉市)|上座]]・[[中志津]]・[[西志津]]・[[ユーカリが丘 (町丁)|西ユーカリが丘]]・[[先崎]]・[[先崎干拓]]・[[ユーカリが丘 (町丁)|南ユーカリが丘]]・[[ユーカリが丘 (町丁)|宮ノ台]]・[[ユーカリが丘 (町丁)|ユーカリが丘]] |- ! 臼井地区 |[[稲荷台 (佐倉市)|稲荷台]]・[[印南 (佐倉市)|印南]]・[[臼井 (佐倉市)|臼井]]・[[臼井田]]・[[臼井台]]・[[臼井田干拓]]・[[江原 (佐倉市)|江原]]・[[江原新田]]・[[江原台]]・[[王子台]]・[[角来]]・[[新臼井田]]・[[八幡台 (佐倉市)|八幡台]]・[[南臼井台]] |- ! 千代田地区 |[[畔田]]・[[飯重]]・[[生谷 (佐倉市)|生谷]]・[[染井野]]・[[羽鳥 (佐倉市)|羽鳥]]・[[吉見 (佐倉市)|吉見]] |- ! 根郷地区 | 石川・[[大崎台]]・大作・大篠塚・太田・[[表町 (佐倉市)|表町]]・[[木野子]]・神門・小篠塚・[[山王 (佐倉市)|山王]]・城・[[寺崎 (佐倉市)|寺崎]]・藤治台・春路・馬渡・[[六崎]] |- ! 和田地区 | 天辺・瓜坪新田・上勝田・上別所・米戸・寒風・下勝田・高崎・坪山新田・長熊・直弥・宮本・八木 |- ! 弥富地区 | 岩富・岩富町・飯塚・内田・坂戸・[[七曲 (佐倉市)|七曲]]・[[西御門 (佐倉市)|西御門]]・宮内 |} ; 住宅団地 * 松ヶ丘団地 * 角栄団地 ;宿泊施設 [[ファイル:Keisei Yūkarigaoka Sta 002.jpg|サムネイル|ウィシュトンホテルユーカリ]] * ウィシュトンホテルユーカリ ; 図書館 * [[佐倉市立図書館]] ** 佐倉市立志津図書館 ** 佐倉市立佐倉図書館 ** 佐倉市立佐倉南図書館 ; 郵便局 * [[佐倉郵便局 (千葉県)|佐倉郵便局]] === 報道機関 === ; ケーブルテレビ局 * [[広域高速ネット二九六]] ; FM局 * [[ベイエフエム|bayfm78]] - ユーカリプラザ1階に[[サテライトスタジオ]]「U-kari STUDIO」がある。 ; 新聞社 * [[千葉日報社]]佐倉支局 === 医療 === {{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Toho University Medical Center Sakura Hospital (Sakura, Chiba, Japan).jpg|説明1=東邦大学医療センター佐倉病院|画像2=Seirei Sakura Citizen Hospital.jpg|説明2=聖隷佐倉市民病院}} 詳しくは「[http://www.city.sakura.lg.jp/0000004730.html 市内の医療機関一覧(医科)]」を参照。以下[[総合病院]]一覧。 二次[[医療圏]](二次保健医療圏)としては印旛医療圏(管轄区域:印旛地域)である<ref name=":03">{{Cite web|和書|title=千葉県保健医療計画(平成30年度〜平成35年度)|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kenfuku/keikaku/kenkoufukushi/30hokeniryou.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。 [[医療法#医療提供施設|医療提供施設]]は一部のみ記載する<ref name=":03" />。 * 市内の[[医療機関]] ** 救急指定病院 *** [[東邦大学医療センター佐倉病院]]([[災害拠点病院]]<ref>{{Cite web|和書|title=災害拠点病院の指定について|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/iryou/taiseiseibi/saigai/saigaikyotenbyouin.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>) *** [[聖隷佐倉市民病院]]([[佐倉陸軍病院]]跡地に開設) *** 佐倉中央病院 ** その他の病院 *** 佐倉厚生園病院 *** 佐倉整形外科病院 *** 南ヶ丘病院 * 二次医療圏 ** [[日本医科大学千葉北総病院]](基幹災害拠点病院・[[救命救急センター]]) ** [[成田赤十字病院]]([[成田市]]、災害拠点病院・救命救急センター) === 教育 === ==== 小学校 ==== [[File:Keiai University Sakura Campus.JPG|220px|thumb|千葉敬愛短期大学]] {{see also|千葉県小学校の廃校一覧#佐倉市}} * [[佐倉市立佐倉小学校]] * [[佐倉市立内郷小学校]] * [[佐倉市立臼井小学校]] * [[佐倉市立印南小学校]] * [[佐倉市立千代田小学校]] * [[佐倉市立上志津小学校]] * [[佐倉市立志津小学校]] * [[佐倉市立下志津小学校]] * [[佐倉市立南志津小学校]] * [[佐倉市立根郷小学校]] * [[佐倉市立和田小学校]] * [[佐倉市立弥富小学校]] * [[佐倉市立井野小学校]] * [[佐倉市立佐倉東小学校]] * [[佐倉市立西志津小学校]] * [[佐倉市立小竹小学校]] * [[佐倉市立間野台小学校]] * [[佐倉市立王子台小学校]] * [[佐倉市立青菅小学校]] * [[佐倉市立寺崎小学校]] * [[佐倉市立山王小学校]] * [[佐倉市立染井野小学校]] * [[佐倉市立白銀小学校]] ==== 中学校 ==== {{see also|千葉県中学校の廃校一覧#佐倉市}} * [[佐倉市立佐倉中学校]] * [[佐倉市立志津中学校]] * [[佐倉市立上志津中学校]] * [[佐倉市立南部中学校]] * [[佐倉市立臼井中学校]] * [[佐倉市立井野中学校]] * [[佐倉市立佐倉東中学校]] * [[佐倉市立臼井西中学校]] * [[佐倉市立西志津中学校]] * [[佐倉市立臼井南中学校]] * [[佐倉市立根郷中学校]] ==== 高等学校 ==== *[[千葉県立佐倉高等学校]] *[[千葉県立佐倉東高等学校]] *[[千葉県立佐倉西高等学校]] *[[千葉県立佐倉南高等学校]] ==== 大学 ==== * [[総合研究大学院大学]] [[国立歴史民俗博物館|佐倉キャンパス]] * [[千葉敬愛短期大学]] == 交通 == === 鉄道路線 === {{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=JRE-Sakura-STA-South Exit.jpg|説明1=佐倉駅(JR東日本)|画像2=Yukarigaoka-STA Sky-Plaza-Station.jpg|説明2=ユーカリが丘駅(京成電鉄・山万)|画像3=Keisei-railway-KS35-Keisei-sakura-station-entrance-north-20200727-071112.jpg|説明3=京成佐倉駅}} 利用者数は[[ユーカリが丘駅]]や[[京成臼井駅]]が佐倉駅を上回る。また、市役所の最寄り駅は[[京成佐倉駅]]となっている。 ; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) * [[総武本線]] ** [[佐倉駅]] * [[成田線]] ** 佐倉駅 ; [[京成電鉄]] * [[京成本線]] ** [[志津駅]] - [[ユーカリが丘駅]] - [[京成臼井駅]] - [[京成佐倉駅]] - [[大佐倉駅]] ; [[山万]] * [[山万ユーカリが丘線|ユーカリが丘線]](全線市内) ** ユーカリが丘駅 - [[地区センター駅]] - [[公園駅]] - [[女子大駅]] - [[中学校駅]] - [[井野駅 (千葉県)|井野駅]] === バス路線 === {{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Sakura-City-Community-Bus.JPG|説明1=佐倉市コミュニティバス|画像2=|説明2=|画像3=|説明3=|画像4=|説明4=|画像5=|説明5=|画像6=|説明6=|画像7=|説明7=|画像8=|説明8=|画像9=|説明9=}} ; 路線バス * [[京成バス]] * [[ちばグリーンバス]] * [[東洋バス]] * [[千葉内陸バス]] * [[佐倉交通]] * [[大成交通]] * [[なの花交通バス]] ; 高速バス * [[マイタウン・ダイレクトバス]] ** 四街道インタールート:[[中学校駅|ユーカリが丘]]・[[ユーカリが丘駅]]・[[京成臼井駅]] ⇔ 東京駅(ちばグリーンバス、千葉内陸バスが運行) * マイタウン・ダイレクトバス ** 佐倉インタールート:[[国立歴史民俗博物館]]・宮小路町・[[DIC川村記念美術館]] ⇔ 東京駅(ちばグリーンバスの運行) * なの花ライナー **[[京成佐倉駅]](南口)・なの花交通高速バス駐車場 ⇔ [[バスターミナル東京八重洲]](2022年11月19日運行開始)(なの花交通バスの運行) ; コミュニティバス * [[佐倉市循環バス|佐倉市コミュニティバス]] * [[八街市ふれあいバス]] === 道路 === {{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Suido Road of Sakura.JPG|説明1=都市計画道路勝田台長熊線}} ; 高速道路 *[[東関東自動車道]] ** [[佐倉インターチェンジ|佐倉IC]] 志津、臼井、千代田、佐倉地区から上り方面へは[[千葉北インターチェンジ]]や[[四街道インターチェンジ]]の方が近い。 ; 国道 * [[国道296号]] * [[国道51号]] ; 主要地方道 * [[千葉県道22号千葉八街横芝線]] * [[千葉県道64号千葉臼井印西線]] ; 一般県道 * [[千葉県道136号佐倉停車場千代田線]] * [[千葉県道155号四街道上志津線]] ; 都市計画道路 * [[都市計画道路勝田台長熊線]] ; 自転車歩行者専用道路 * [[千葉県道406号八千代印旛栄自転車道線]](印旛沼自転車道) == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == === 日本遺産 === [[ファイル:JP-12 Sakura old-samurai-house.jpg|サムネイル|旧河原家住宅([[武家屋敷]])]] 江戸を感じる北総の町並み(佐倉・成田・佐原・銚子):百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群 * 城下町佐倉の町並み * 佐倉の武家屋敷群 ‐ 市内には10棟の江戸時代建築の武家屋敷が現存し、その数は関東地方では最多であり唯一の武家屋敷群<ref>2010年(平成22年)2月現在</ref>。明治初頭建築の広義での武家屋敷を併せるとその残存数はさらに増える。 * [[武家屋敷通り (佐倉市)|武家屋敷通り]] - 宮小路町の鏑木小路にある武家屋敷通り沿いには非公開の個人住宅を含め5棟の武家屋敷が連続して残り、その内3棟が復元され一般に公開されている。 * 佐倉城址公園 - 水堀、空堀、天守台・櫓台跡などが良好に残っている。桜の名所。 ** [[佐倉城]]跡([[日本100名城]]、[[佐倉藩]]) * [[成田街道|佐倉道(成田街道)道標]] * 佐倉順天堂記念館(旧佐倉順天堂) * [[佐藤尚中]]誕生地 * [[旧堀田邸]](旧堀田家住宅)- 最後の佐倉藩主が明治期に本邸として使用した住居。建物、庭園ともに良好に残っている。 ** 旧堀田正倫庭園 * [[堀田正俊]]・[[堀田正睦|正睦]]・[[堀田正倫|正倫]]墓 * 鹿山文庫関係資料 * 城下町佐倉の祭礼 <gallery widths="200"> ファイル:KaburagiKoji20130901.jpg|[[武家屋敷通り (佐倉市)|武家屋敷通り]](鏑木小路) ファイル:Hotta residence3.jpg|[[旧堀田邸]](旧堀田家住宅) ファイル:佐倉城址 両町橋 2015.1.02 - panoramio.jpg|[[佐倉城|佐倉城址]]公園(両町橋) </gallery> === 名所・旧跡・観光スポット === {{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Kawamura kinen museam.jpg|説明1=[[DIC川村記念美術館]]}}市北部に[[印旛沼]]、その沿岸に[[自転車道]](印旛沼自転車道)があり散策に適している。市内在住の[[有森裕子]]や[[高橋尚子]]が[[小出義雄]]監督と共に走っていたコースが[[印旛沼]]沿岸を中心にあり、[[金メダル]]ジョギングロードとして整備されている。また、観光用の[[屋形船]]が市を南北に流れる鹿島川から出ている。 市内には有名建築家が設計した建物が多い。 *[[原広司]] 設計 / 佐倉市立下志津小学校(第1校舎)([[1967年]]) *[[黒川紀章]] 設計 / 佐倉市役所庁舎([[1971年]]) *[[芦原義信]] 設計 / 国立歴史民俗博物館([[1980年]])、佐倉市民音楽ホール([[1984年]]) *[[海老原一郎]] 設計 / 川村記念美術館([[1990年]]) などがある。 ; 佐倉地区 {{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Rekihaku sakura.jpg|説明1=[[国立歴史民俗博物館]]|画像2=Sakura City Museum of Art 2010.jpg|説明2=[[佐倉市立美術館]]}} 佐倉藩武家屋敷群([[武家屋敷通り (佐倉市)|武家屋敷通り]])、佐倉城址公園(佐倉城跡)、旧堀田邸、佐倉順天堂記念館、鏑木町・新町・弥勒町などに点在する寺社や旧商家など、佐倉藩だった頃の姿をそのまま保存した歴史的建造物が点在する。 * 侍の杜 - 旧佐倉藩士2家分の武家屋敷地を利用した緑地が公開されている。 * サムライの古径[[ひよどり坂]] - 武家屋敷通りに隣接し、江戸時代の記録にも出てくる当時からほとんど変わらない様々な種類の竹垣が配される竹林の坂道。2018年にはLINEトラベルjp旅人大賞「特別賞」を受賞<ref>{{Cite web|和書|title=LINEトラベルjp、旅の新スポットを表彰する「旅人大賞」を創設、栃木県「おしらじの滝」や千葉県「ひよどり坂」など受賞 |url=https://www.travelvoice.jp/20181218-123114 |website=トラベルボイス(観光産業ニュース) |access-date=2023-07-16 |language=ja}}</ref>、千葉県が発行する「平成30年度早春観光キャンペーン」ポスターのメイン写真にも選ばれる<ref>{{Cite web|和書|title=サムライの古径「ひよどり坂」と武家屋敷通り{{!}}千葉県佐倉市公式ウェブサイト |url=https://www.city.sakura.lg.jp/soshiki/sakuranomiryoku/1/3599.html |website=www.city.sakura.lg.jp |access-date=2023-07-16 |language=ja}}</ref>など、フォトスポットとして人気が非常に高くなっている。 * [[城城]]跡 * [[麻賀多神社 (佐倉市鏑木町)|麻賀多神社]] * [[妙隆寺 (佐倉市)|妙隆寺]] * [[海隣寺]] * [[松林寺 (佐倉市)|松林寺]] * [[甚大寺]] * [[国立歴史民俗博物館]] - 佐倉城址公園に隣接。 * [[佐倉市立美術館]] * [[山崎ひょうたん塚古墳]] - 市指定の史跡。 * [[並木1号墳]] ** 高丘稲荷神社 - 古墳の墳丘上に立地。 <gallery widths="200"> ファイル:Makata jinja honden.JPG|[[麻賀多神社]] ファイル:Jindaiji Temple hondo Sakura 2010.jpg|[[甚大寺]] </gallery> ; 志津地区 * 信澄寺 - [[南無の郷]]を所管。 * [[千手院 (佐倉市)|千手院]] ; 臼井地区 * 臼井城址公園 ** [[臼井城]]跡([[臼井藩]]) * [[長嶋茂雄記念岩名球場]] * 佐倉市民音楽ホール ** [[佐倉混声合唱団]] * [[印旛沼]]サンセットヒルズ * 野鳥の森 * [[佐倉草ぶえの丘]] * [[佐倉ふるさと広場]] ** オランダ[[風車]] - 佐倉ふるさと広場のシンボル。春には一面にチューリップ畑、秋にはコスモス畑が広がる。 <gallery widths="200"> ファイル:Nishi inbnuma.JPG|[[印旛沼]]サンセットヒルズからの眺望 ファイル:佐倉ふるさと広場 04.jpg|佐倉ふるさと広場 </gallery> ; 根郷地区 *[[本佐倉城]]跡([[続日本100名城]]、佐倉藩) *[[岩富城]]跡([[岩富藩]]) *[[DIC川村記念美術館]] - [[DIC (企業)|DIC]](旧称・大日本インキ化学工業)の創業者である川村家が収集した美術品を展示。[[佐倉駅|JR佐倉駅]]前、[[京成佐倉駅]]前より直通[[シャトルバス]]を運行。 *[[麻倉ゴルフ倶楽部]] - [[ザ・レジェンド・チャリティプロアマトーナメント]]が行われていた。 === 祭事・催事 === [[ファイル:Curtain of "Syakkyo",Yoko-cho,Sakura-city,Japan.jpg|サムネイル|山車人形 石橋(佐倉の秋祭り)]] *城下町佐倉の祭礼 *[[佐倉の秋祭り]] *[[佐倉市民花火大会]] - 佐倉ふるさと広場近くから花火を打ち上げる。毎年8月の第一土曜日に行われる。<!-- 詳細はリンク先に統合 --> *[[NARITA花火大会in印旛沼]] - 印旛沼の成田市側で開催される花火大会。 === 文化財 === * 市内にある国指定の[[文化財]]一覧 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" border="1" cellpadding="1" |- bgcolor="#e0e0e0" ||番号 ||種別 ||名称 ||所在地 ||所有者または管理者 ||指定年月日 ||備考 |- ||1 ||[[重要文化財]](建造物) ||[[旧堀田邸|旧堀田家住宅]] * 座敷棟 * 居間棟 * 書斎棟 * 玄関棟 * 湯殿 * 門番所 * 土蔵 ||鏑木町字諏訪尾余274 ||佐倉市 ||平成18年7月5日 || * 座敷棟、居間棟、書斎棟、玄関棟 明治23年 * 湯殿 明治44年頃 * 門番所 明治23年頃 * 土蔵 明治後期 |- ||2 ||[[史跡]] ||井野長割遺跡 ||井野字長割835-1他 ||佐倉市・他<br />(佐倉市立井野小学校周辺) ||平成17年3月2日 ||縄文時代後期から晩期、大規模な環状盛土遺構。 |- ||3 ||史跡 ||[[本佐倉城]]跡 ||佐倉市大佐倉字宮下1568他 ||佐倉市・他 ||平成10年9月11日 || |- |} * 市内の'''[[登録有形文化財]]'''一覧 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" border="1" cellpadding="1" |- bgcolor="#e0e0e0" ||番号 ||種別 ||名称 ||所在地 ||所有者または管理者 ||登録年月日 ||備考 |- ||1 ||建造物 ||[[千葉県立佐倉高等学校]]記念館 ||鍋山町18 ||千葉県 ||平成17年7月12日 ||明治43年竣工。木造2階建、銅板葺。[[久野節]]、[[後藤政次郎]]設計。 |- |} * 千葉県指定文化財は[[千葉県指定文化財一覧]]を参照。 == 出身有名人 == === 政治家 === <!--50音順--> *[[大築尚志]](軍人・[[日本陸軍|陸軍]][[中将#旧日本軍|中将]]・軍事技術者) *[[貝塚武男]](軍人・海軍[[中将]]) *[[木倉和一郎]](元衆議院議員) *[[児玉秀雄]](政治家、元文部大臣、元国務大臣) *[[桜井規矩之左右]]([[軍人]]・[[日本海軍|海軍]][[少将#旧日本軍|少将]]) *[[塚本素山]](軍人・陸軍[[中佐]]・[[実業家]]) *[[浜野昇]](元[[衆議院議員]]) *[[林董]]([[外交官]]・[[政治家]]、元[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]) *[[檜貝嚢治]](軍人・海軍[[大佐]]) === 産業・実業 === <!--50音順--> *[[岩瀬大輔]]([[ライフネット生命保険]][[社長]]、[[新経済連盟]][[理事]]) *[[石見陽]]([[メドピア]]創業者・社長CEO) *[[香取秀真]](金属[[工芸]][[作家]]) *[[香取正彦]](金属工芸作家・[[人間国宝]]) *[[小柴保人]]([[工学者]]・[[東北大学]][[教授]]) *[[高田元三郎]](元[[毎日新聞社]]最高顧問) *[[津田仙]]([[農学者]]) *[[津田信夫]](金属工芸作家) *[[安井武雄]]([[建築家]]) === 学者 === <!--50音順--> *[[市原松平]]([[工学者]]) *[[伊東忠太]]([[建築]][[学者]]) *[[宇野利雄]]([[数学者]]) *[[佐藤志津]](教育家、東京女子美術学校初代校長) *[[佐藤泰然]]([[外科医]]、[[順天堂大学]]創設者) *[[志田順]]([[地球物理学者]]) *[[高橋卯之助]](数学者) *[[津田梅子]](女子教育の先駆者、[[津田塾大学]]創設者) *[[西村茂樹]]([[啓蒙]][[思想家]]) *[[依田學海]]([[漢文]]学者・[[文芸評論家]]) === スポーツ === <!--50音順--> *[[小出義雄]]([[マラソン]][[監督]]) *[[小林慶祐]]([[プロ野球選手]]) ※生まれは[[ベルギー]]・[[ブリュッセル]] *[[齋藤俊介]](元プロ野球選手) *[[佐藤優香]]([[トライアスロン]]選手、[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオ五輪]]代表) *[[重信慎之介]](プロ野球選手) *[[島孝明]](元プロ野球選手) *[[長嶋茂雄]](元プロ野球選手、[[読売ジャイアンツ]][[終身名誉監督]]) *[[中谷進之介]]([[サッカー]]選手) *[[永戸勝也]](サッカー選手) *[[中村真実]](元[[女子サッカー]]選手) *[[中村風太 (プロレスラー)|Ben-K]](プロレスラー) *[[前川久美子]]([[プロレスラー|女子プロレスラー]]) *[[吉岡興志]](元プロ野球選手) *[[吉岡幸男]]([[空手家]]) === 芸能・報道 === * [[秋山浩徳]](元[[MOON CHILD (バンド)|MOON CHILD]]・ギター) * [[浅井忠]]([[洋画家]]) * [[AMEMIYA]]([[タレント]]) * [[ARAKI]]([[作曲家]]) * [[市橋尚史]]([[声優]]) * [[荻野目洋子]]([[歌手]]、[[俳優|女優]]) * [[香川松石]]([[書家|書道家]]) * [[加賀美早紀]](元女優) * [[川上未遊]] (声優) * [[近藤浩徳]](声優) * [[佐久間あすか]]([[テレビ大阪]][[アナウンサー]]) * [[櫻井慶治]](洋画家) * [[上保美香子]] ([[シンガーソングライター]]) * [[菅谷大介]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー) * [[清宮佑美]](タレント) * [[高橋匠]] (マジシャン) * [[パペットマペット]](タレント) * [[原沙織]](タレント) * [[Halo at 四畳半]] ** 片山僚 ** 齋木孝平 ** 白井將人 ** 渡井翔汰 * [[BUMP OF CHICKEN]] ** [[藤原基央]] ** [[増川弘明]] ** [[直井由文]] ** [[升秀夫]] * [[堀越のり]](タレント) * [[三谷紬]]([[テレビ朝日]]アナウンサー) * [[宮本文昭]](指揮者、元[[オーボエ]]奏者) * [[熊谷彩春]](女優) * [[木村仁美]] ([[テレビ新広島]]アナウンサー) === その他 === * [[小高佐季子]]([[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]) === 市内在住の著名人 === <!--50音順--> *[[浅野温子]](タレント) *[[有森裕子]](マラソン選手、[[バルセロナオリンピック|バルセロナ五輪]]銀メダリスト) *[[鹿島丈博]](体操選手、アテネ五輪金メダリスト) *[[國川浩道]](オートバイレーサー) *[[久保浩 (彫刻家)|久保浩]](彫刻家) *[[栗原まもる]](漫画家) *[[車だん吉]](タレント) *[[笙野頼子]]([[小説家]]) *[[高橋真琴]](画家、イラストレーター) *[[千葉真子]](マラソン選手) *[[冨田洋之]]([[体操選手]]、[[アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]]金メダリスト) *[[原田知世]](タレント) == 名誉市民・市民栄誉賞 == === 名誉市民 === * [[高田元三郎]](昭和46年顕彰) * [[木倉和一郎]](昭和58年顕彰) * [[長嶋茂雄]](平成14年顕彰) ほか === 市民栄誉賞 === * [[小出義雄]](平成12年表彰) * [[高橋尚子]](平成12年表彰・[[シドニー五輪]][[女子マラソン]]金メダリスト) * [[鹿島丈博]](平成16年表彰・[[アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]][[体操]]金メダリスト) * [[冨田洋之]](平成16年表彰・アテネ五輪[[体操]]金メダリスト) * 長嶋茂雄(平成25年7月11日表彰・[[国民栄誉賞]]・千葉県民栄誉賞の授与に伴う) ほか == 佐倉市を舞台・ロケ地とした作品 == ; アニメ・漫画 * [[弱虫ペダル]](漫画、のちにアニメ化) * [[エンブリヲ]](漫画、作中佐倉城址公園他が登場) * [[きんいろモザイク]](漫画、[[きんいろモザイク (アニメ)|テレビアニメ版]]で[[京成臼井駅]]他が登場) * [[大正オトメ御伽話]](アニメにおいて、主人公の別荘の最寄り駅として[[日本国有鉄道|国鉄]][[佐倉駅]]が登場する) ; 映画・ドラマ * [[アインシュタインガール]](映画)(2005年、主演:[[岩佐真悠子]]) * [[侍戦隊シンケンジャー]](2009 - 2010年、主演:[[松坂桃李]])市内[[旧堀田邸]]が本部(志葉邸 = シンケンレッドの邸宅)の設定。通年でロケが行われた。その他市内武家屋敷通り(旧佐倉藩武家屋敷群)でもロケが行われた。 * その他、旧堀田邸や武家屋敷を中心に様々な作品のロケが行われている<ref>[http://www.city.sakura.lg.jp/sakura/sfc/200rokejisseki/index.htm 佐倉フィルムコミッション ロケ実績] 佐倉市</ref>。 ; CM * 進研ゼミ「若者たち」篇(2004年:[[ベネッセコーポレーション]]、京成臼井駅) * 進研ゼミ中学講座「つながるバトン」篇(2006年:ベネッセコーポレーション、佐倉市立佐倉東中学校など) ; 楽曲 * [[BUMP OF CHICKEN]]の複数の楽曲に市内の公園等の名称、またはそれをモチーフとしたスポットが登場する(『[[COSMONAUT|透明飛行船]]』の「宮田公園」など)。 == 関連項目 == {{See also|Category:佐倉市}} * [[全国市町村一覧]] * [[下総国]]([[令制国]]) * [[印旛県]]([[廃藩置県]]) * [[佐倉藩]]・[[臼井藩]]・[[岩富藩]] * [[印東荘]] * [[利根川図志]] * [[佐倉丸]] * [[ユーカリが丘]] * [[カムロちゃん]] -佐倉・城下町400年記念事業における市の[[マスコット|マスコットキャラクター]]<ref>{{Cite web|和書|title=佐倉・城下町400年記念事業 キャラクター・ロゴ紹介|url=http://www.city.sakura.lg.jp/sakura/sakura400/400character/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160412124645/http://www.city.sakura.lg.jp/sakura/sakura400/400character/|website=佐倉市公式サイト|archivedate=2016-04-12|accessdate=2023-02-13}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="任期満了日 平成23年">[http://www.pref.chiba.lg.jp/senkan/chiba-senkyo/h23.html 平成23年中に実施された選挙 / 千葉県] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150924103709/http://www.pref.chiba.lg.jp/senkan/chiba-senkyo/h23.html |date=2015年9月24日 }}</ref> }} === 参考資料 === *『電子図書館 満開佐倉文庫』内田儀久著・中央公論事業出版・[[2003年]]・ISBN 489514206X *『写真に見る佐倉』佐倉市・[[2004年]] == 外部リンク == {{Commonscat}}{{osm box|r|2679899}} ; 行政 * {{Official website|name=佐倉市}} ; 観光 * [https://www.sakurashi-kankou.or.jp/ 佐倉市観光協会] * {{Cite journal|和書 |author=須賀隆章, 小川真実 |title=佐倉市の文化財行政と「日本遺産」 |journal=千葉大学人文公共学研究論集 |issn=2433-2291 |publisher=千葉大学大学院人文公共学府 |year=2018 |month=mar |issue=36 |pages=198-209 |naid=120006471074 |doi=10.20776/S24332291-36-P198 |url=https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/104981/}}] {{Geographic Location |Centre = 佐倉市 |North = [[印西市]] |Northeast = |East = [[八街市]] |Southeast = [[酒々井町]] |South = [[四街道市]] [[千葉市]] |Southwest = 千葉市 |West = [[八千代市]] |Northwest = }} {{佐倉市の町丁・大字}} {{千葉県の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さくらし}} [[Category:千葉県の市町村]] [[Category:佐倉市|*]] [[Category:城下町]] [[Category:1954年設置の日本の市町村]]
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エーリッヒ・ケストナー
エーリッヒ・ケストナー(Erich Kästner、 1899年2月23日 - 1974年7月29日)はドイツの詩人・作家である。 ドレスデンのノイシュタットに生まれた。父エミール・ケストナーは鞄作りの手工業者だったが、産業工業化のあおりを受けて、工業労働者になり、母親イーダ(旧姓アウグスティーン)は夫の少ない労働賃金を補うため、理容師になる(『わたしが子どもだったころ』に詳細)。本当の父親はユダヤ人の主治医エミール・ツィンマーマン (Emil Zimmermann (1864–1953)) 博士で、母イーダとツィンマーマンという医者との間に生まれた不倫の子供であった、と言われているがケストナー本人はそれについて言及しておらず、また、その根拠の大多数が伝聞であることから、いまだ結論は出ていない。 教師になろうとして、教師を養成する専門のギムナジウム(中高一貫教育校)に入学。第一次世界大戦に兵士として召集される。命令と服従という関係しかなかった学校、軍隊に反発を感じ、大学進学を決める。ライプツィヒで学業の傍ら、新聞の編集委員をしながら、詩や、舞台批評を発表。空前のインフレの影響もあり、苦労して大学を卒業した後、ベルリンに出て詩人として認められた。 辛辣で、皮肉の強いパロディや、厭世的でシニカルな作品を多く発表する。また、恋愛を対象としたものも多い。1928年に発表した子供のための小説『エーミールと探偵たち』が好評で、次々と子供のための小説を執筆し、児童文学作家として世界的に有名になった。とりわけ、世界各国で何度も映画化された、同タイトルの映画は有名。ケストナー作品の挿絵は「エーミールと探偵たち」執筆と相前後して知り合った画家・イラストレーターのヴァルター・トリアー (de:Walter Trier 1890-1951) が多く手がけ、その関係はトリーアの死去まで続いた。 成人向けの文学作品でも健筆を振るった。ベルリンの荒廃を描いた『ファビアン あるモラリストの物語』(1931年)は第二次世界大戦世代の日本の作家たち(織田作之助、吉行淳之介、開高健など)に、好意的に読まれ、子供のためだけではない小説家としての顔を見せている。 自由主義・民主主義を擁護し、ファシズムを非難していたため、ナチスが政権を取ると、政府によって詩・小説、ついで児童文学の執筆を禁じられた。ケストナーは父方を通じてユダヤ人の血を引いていたが、「自分はドイツ人である」という誇りから、亡命を拒み続けて偽名で脚本などを書き続け、スイスの出版社から出版した。ナチス政権によって自分の著作が焚書の対象となった際にはわざわざ自分の著書が焼かれるところを見物しにいったという大胆なエピソードがある。ナチスもケストナーを苦々しく思っていたが、拘束などの強硬な手段を取るにはケストナーに人気があり過ぎ、逆に民衆の反発を買う恐れがあったため、ケストナーの著書を焚書にした際、子供たちに配慮して児童文学だけは見逃したり、変名でケストナーが脚本を書いた映画『ほら男爵の冒険』を制作したりしている。一方でベンヤミンを含む、マルキシズムの立場からは、政治的に立脚点が無く、その理想は、プチブルジョアのための慰めでしかない、という批判を受ける。 戦後は初代西ドイツペンクラブ会長としてドイツ文壇の中心的人物になった。ちなみにドレスデンにいたケストナーの母親とは戦後の東西ドイツ分断で離れ離れになってしまったが、東ドイツ政府もケストナーが反ナチを貫いた事を高く評価、母親を手厚く保護したという。1960年、『わたしが子どもだったころ』で優れた子供の本に贈られる第3回国際アンデルセン賞を受賞した。 長年ルイーゼロッテ・エンダーレという女性と生涯ともに暮らしていたが、内縁関係のままで生涯結婚する事はなかった。ちなみに『ふたりのロッテ』の主人公である双子の姉妹(ルイーゼとロッテ)は、この内縁の妻の名を分けて名付けたことで知られている。 ケストナーは1974年7月29日に死去し、ルイーゼロッテとともにボーゲンハウゼン墓地に埋葬されている。 ノーベル文学賞の候補者が公表されている1971年以前に6度(7人から)ノミネートされていた(一方自身が他の文学者を推薦したことも3度ある)。
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エーリッヒ・ケストナーはドイツの詩人・作家である。
{{no footnotes|date=2018年11月}} {{redirect|わたしが子どもだったころ|著名人の子供時代が語られるNHKのテレビ番組|わたしが子どもだったころ (テレビ番組)}} {{Infobox 作家 | name = エーリッヒ・ケストナー<br />Erich Kästner | image = Erich Kästner 1961.jpg | imagesize = 200px | caption = エーリッヒ・ケストナー(1961年) | pseudonym = | birth_name = | birth_date = [[1899年]][[2月23日]] | birth_place = {{DEU1871}}、[[ドレスデン]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1899|2|23|1974|7|29}} | death_place = {{BRD}}、[[ミュンヘン]] | occupation = [[小説家]]、[[詩人]] | nationality = {{DEU}} | period = | genre = [[児童文学]] | subject = | movement = 廃墟文学([[:de:Trümmerliteratur|Trümmerliteratur]])<br />[[47年グループ]] | notable_works = 『[[エーミールと探偵たち]]』<br />『[[飛ぶ教室]]』<br />『[[ふたりのロッテ]]』 | awards = [[ゲオルク・ビューヒナー賞]](1957)<br />[[国際アンデルセン賞]](1960) | debut_works = | spouse = | partner = | children = | relations = | influences = | influenced = | signature = Erich Kästner signature.svg | website = <!--| footnotes =--> }} '''エーリッヒ・ケストナー'''({{De|Erich Kästner}}、 [[1899年]][[2月23日]] - [[1974年]][[7月29日]])は[[ドイツ]]の[[詩人]]・[[作家]]である。 == 生涯 == [[ファイル:180804_dresden-kaestnerhaus-plastik-auf-mauer_2-640x480.jpg|thumb|240px|[[ドレスデン]]の記念館にあるケストナーのブロンズ像]] [[ドレスデン]]のノイシュタットに生まれた。父エミール・ケストナーは鞄作りの手工業者だったが、産業工業化のあおりを受けて、工業労働者になり、母親イーダ(旧姓アウグスティーン)は夫の少ない労働賃金を補うため、理容師になる(『わたしが子どもだったころ』に詳細)。本当の父親は[[ユダヤ人]]の主治医エミール・ツィンマーマン (Emil Zimmermann (1864–1953)) 博士で、母イーダとツィンマーマンという医者との間に生まれた不倫の子供であった、と言われているがケストナー本人はそれについて言及しておらず、また、その根拠の大多数が伝聞であることから、いまだ結論は出ていない。 教師になろうとして、教師を養成する専門の[[ギムナジウム]]([[中高一貫教育]]校)に入学。[[第一次世界大戦]]に兵士として召集される。命令と服従という関係しかなかった学校、軍隊に反発を感じ、大学進学を決める。[[ライプツィヒ]]で学業の傍ら、新聞の編集委員をしながら、詩や、舞台批評を発表。[[ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション|空前のインフレ]]の影響もあり、苦労して大学を卒業した後、[[ベルリン]]に出て[[詩人]]として認められた。 辛辣で、皮肉の強い[[パロディ]]や、厭世的でシニカルな作品を多く発表する。また、[[恋愛]]を対象としたものも多い。[[1928年]]に発表した子供のための小説『[[エーミールと探偵たち]]』が好評で、次々と[[子供]]のための小説を執筆し、[[児童文学]]作家として世界的に有名になった。とりわけ、世界各国で何度も映画化された、同タイトルの映画は有名。ケストナー作品の挿絵は「エーミールと探偵たち」執筆と相前後して知り合った[[画家]]・[[イラストレーター]]の[[ヴァルター・トリアー]] ([[:de:Walter Trier]] 1890-1951) が多く手がけ、その関係はトリーアの死去まで続いた。 成人向けの文学作品でも健筆を振るった。ベルリンの荒廃を描いた『ファビアン あるモラリストの物語』([[1931年]])は[[第二次世界大戦]]世代の日本の作家たち([[織田作之助]]、[[吉行淳之介]]、[[開高健]]など)に、好意的に読まれ、子供のためだけではない小説家としての顔を見せている。 [[自由主義]]・[[民主主義]]を擁護し、[[ファシズム]]を非難していたため、[[ナチス]]が政権を取ると、政府によって詩・小説、ついで児童文学の執筆を禁じられた。ケストナーは父方を通じて[[ユダヤ人]]の血を引いていたが、「自分はドイツ人である」という誇りから、亡命を拒み続けて偽名で脚本などを書き続け、[[スイス]]の出版社から出版した。[[ナチス政権]]によって自分の著作が[[焚書]]の対象となった際にはわざわざ自分の著書が焼かれるところを見物しにいったという大胆なエピソードがある。[[ナチス]]もケストナーを苦々しく思っていたが、拘束などの強硬な手段を取るにはケストナーに人気があり過ぎ、逆に民衆の反発を買う恐れがあったため、[[ナチス・ドイツの焚書|ケストナーの著書を焚書]]にした際、子供たちに配慮して児童文学だけは見逃したり、変名でケストナーが脚本を書いた映画『[[ほら男爵の冒険 (映画)|ほら男爵の冒険]]』を制作したりしている。一方で[[ヴァルター・ベンヤミン|ベンヤミン]]を含む、[[マルキシズム]]の立場からは、政治的に立脚点が無く、その理想は、[[小ブルジョア|プチブルジョア]]のための慰めでしかない、という批判を受ける。 戦後は初代[[西ドイツ]][[国際ペンクラブ|ペンクラブ]]会長としてドイツ文壇の中心的人物になった。ちなみにドレスデンにいたケストナーの母親とは戦後の東西ドイツ分断で離れ離れになってしまったが、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]政府もケストナーが反ナチを貫いた事を高く評価、母親を手厚く保護したという。[[1960年]]、『わたしが子どもだったころ』で優れた子供の本に贈られる第3回[[国際アンデルセン賞]]を受賞した。 長年[[ルイーゼロッテ・エンダーレ]]という女性と生涯ともに暮らしていたが、[[内縁]]関係のままで生涯結婚する事はなかった。ちなみに『[[ふたりのロッテ]]』の主人公である双子の姉妹(ルイーゼとロッテ)は、この内縁の妻の名を分けて名付けたことで知られている。 ケストナーは1974年7月29日に死去し、ルイーゼロッテとともに[[ボーゲンハウゼン墓地]]に埋葬されている。 [[ノーベル文学賞]]の候補者が公表されている1971年以前に6度(7人から)ノミネートされていた(一方自身が他の文学者を推薦したことも3度ある)<ref>[https://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=12522 Erich Kästner] - Nomination archive(ノーベル財団、英語)2023年2月7日閲覧。</ref>。 == 主要作品 == === 子供向け === * [[エーミールと探偵たち]](1929年) - ドイツを中心に何度も映画化されている。 * [[点子ちゃんとアントン]](1931年) - ドイツで1953年と1999年の2度映画化されている。 * [[五月三十五日]](1932年) - [[木馬座]]が子供向け人形劇として上演していた。 * [[飛ぶ教室]](1933年) - ドイツで4回映画化されている。 * [[エーミールと三人のふたご]](1935年) - 「エーミールと探偵たち」の後日譚。 * [[ふたりのロッテ]](1949年) - ドイツを中心に何度も映画化されている。[[劇団四季]]が子供向けのミュージカルとして上演している。後に『[[わたしとわたし ふたりのロッテ]]』としてアニメ化。 * [[動物会議]]{{Refnest|group="注釈"|2022年12月に[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]で取り上げられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/617ZK1111V/ |title=子どもたちのために(マジ時々笑) |date=2022-12-17 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.md/6AxMh |archivedate=2022-12-16 |accessdate=2022-12-16}}</ref>。}}(1949年) - [[光吉夏弥]]訳では「どうぶつ――」と改題。『[[SOSこちら地球]]』として日本でアニメ映画化、『[[アドベンチャー・イン・アフリカ]]』(別題:どうぶつ会議)としてドイツで映画化。 * わたしが子どもだったころ(1957年) - 自伝。[[池田香代子]]訳では「ぼくが――」と改題。 * [[サーカスの小びと]](1963年) * [[サーカスの小人とおじょうさん]](1967年) - 「サーカスの小びと」の後日譚。 === 大人向け === * ファビアン あるモラリストの物語(1931年) - 2021年に『[[さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について]]』として映画化。 * 雪の中の三人男(1934年) * 消え失せた密画(1935年) * 一杯の珈琲から(1938年) * ケストナーの「[[ミュンヒハウゼン男爵|ほら吹き男爵]]」 - [[1943年]]に[[ウーファ (映画会社)|ウーファ]]によって『[[ほら男爵の冒険 (映画)|ほら男爵の冒険]]』として映画化。キャプションでは偽名で登場し、{{要出典|範囲=[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]の怒りを買ったと言われている。|date=2015年4月}} === 詩集 === * 腰の上の心臓(1928年) * 鏡の中の騒音(1929年) * ある男が通告する(1930年) * 椅子の間の唱歌(1932年) * 簡潔に * 日々の雑貨 * 人生処方詩集 * 自著一覧 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite |和書 |author = クラウス・コルドン |translator = [[那須田淳]],木本栄 |title = ケストナー―ナチスに抵抗し続けた作家 |date = 1999 |publisher = [[偕成社]] |isbn = 4038142000}} *{{Cite |和書 |author = [[高橋健二 (ドイツ文学者)|高橋健二]] |title = ケストナーの生涯―ドレースデンの抵抗作家 |date = 1992 |publisher = [[福武書店]] |series = [[福武文庫]] |isbn = 4828832394}} *{{Cite |和書 |author = スヴェン・ハヌシェク |translator = [[藤川芳朗]] |title = エーリヒ・ケストナー 謎を秘めた啓蒙家の生涯 |date = 2010 |publisher = [[白水社]] |isbn = 978-4560080955}} *[[松本侑子]]『ヨーロッパ物語紀行』[[幻冬舎]] 2005年 (ISBN 4-344-01075-2)、(ケストナーについては pp.181-247)。 *岡田朝雄・リンケ珠子『ドイツ文学案内』 [[朝日出版社]] 1979年、増補改訂 2000年 (ISBN 4-255-00040-9)、(ケストナーについては pp.124-125)。 == 外部リンク == * [http://kikoubon.com/e-kastner/kastner.html ケストナー 單行本書目] ([http://kikoubon.com/ 稀覯本の世界]) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けすとなあ ええりつひ}} [[Category:エーリッヒ・ケストナー|*]] [[Category:20世紀ドイツの小説家]] [[Category:20世紀ドイツの詩人]] [[Category:ドイツの児童文学作家]] [[Category:ドイツの推理作家]] [[Category:ドレスデン出身の人物]] [[Category:1899年生]] [[Category:1974年没]]
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トーベ・ヤンソン
トーベ・マリカ・ヤンソン(Tove Marika Jansson [tuːve mariːka jɑːnsɔn] ( 音声ファイル)1914年8月9日 - 2001年6月27日)は、フィンランドのヘルシンキ生まれのスウェーデン系フィンランド人の画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家。日本語表記にはトーヴェ・ヤンソンもある。 創作領域は絵画、小説、コミックス、脚本、詩、作詞、広告など多岐にわたり、『ムーミン』シリーズの作者として世界的に有名となった。読者層は幅広く、「9歳から90歳まで」とも表現される。フィンランドでは画家としての評価も高く、水彩画や油彩画、雑誌の風刺画や公共建築の壁画など多くの作品を残している。 1914年8月9日、フィンランド大公国ヘルシンキで生まれた。母親はスウェーデン=ノルウェー出身の画家のシグネ・ハンマシュティエン=ヤンソン、父親はスウェーデン語系フィンランド人の彫刻家のヴィクトル・ヤンソン(英語版)だった。1910年、シグネとヴィクトルはパリのグランド・ショミエール芸術学校に留学した時に出会い、1913年に結婚してモンパルナスで生活を始めた。しかし生活費がかさんで国からの留学資金が尽きるという経済的な事情や、1914年の第一次世界大戦の勃発によって、フィンランドへと引っ越した。フィンランドではフィンランド語とスウェーデン語が公用語だったが、スウェーデン語の話者は少なく、ヤンソン家は言語面で少数派だった。 トーベが誕生した8月9日は日曜日で、シグネは翌8月10日に「私たちの日曜日の子についての本」を書き、娘の姿を似顔絵と文章で表した。トーベという名前は、北欧神話の神トールに由来するデンマーク系の表記から付けられた。シグネがスケッチをした1歳半のトーベはテーブルの紙に絵を描いており、歩くより前に描くことを覚えていた様子がうかがえる。 フィンランドは1917年2月の独立宣言でロシアから独立し、1918年にはフィンランド内戦が起きた。ヴィクトルも兵士となり、シグネは戦火を避けて娘とともに故郷のストックホルムで暮らした。シグネはトーベの写真や、トーベが描いた絵を戦地のヴィクトルに送った。ヴィクトルは戦地からの手紙で、娘が芸術家になると思うと書き残している。幼少期のトーベは、シグネの仕事を見ているうちに真似をするようになり、やがて話を考えるところから本を作るところまでを1人でするようになった。 ヤンソン家はヘルシンキのルオッツィ通り4番のアトリエで暮らしたのち、芸術家向けの集合住宅ラッルッカに引っ越した。トーベや弟たちは、芸術と家庭が混ざり合う環境で育った。ヴィクトルの彫刻家としての生計は不安定で、作品の依頼と助成金の他ではコンペの賞金が重要だった。シグネは1924年にフィンランド銀行印刷局のパートに採用され、それが家庭で唯一の定収入だった。1920年代のシグネは小説、詩集、辞典などの挿絵も描いていた。トーベは子供の頃から家計を心配し、絵の仕事で母を助けたいと口にしたり、日記に書いている。 学校はコルケアヴオリ通り23番にあり、ヴィクトルの母校でもあるスウェーデン語系の共学校だった。しかしトーベには規律と詰め込み教育が合わず、のちに「学校のことでよい記憶はほとんどない、というよりも、ほとんど記憶がない」と語っている。トーベはロフトを使って挿絵付きの冊子を自作し、1927年に『サボテンのこぶ』、1928年に『クリスマスソーセージ』という雑誌を作って学校で販売した。夏になると、ヤンソン家はスウェーデンの親戚がいるペッリンゲ群島のブリデー島に行き、トーベは島の暮らしを好んだ。ペッリンゲ群島での体験は、のちのムーミン・シリーズなどの作品の題材となった。 1927年にヒューヴドスタッドブラーデット紙がヤンソン家の取材に訪れた際、トーベは記者のエステル・オーケソンと知り合った。オーケソンの仲介で、トーベは14歳の時にスウェーデン語系の週刊誌『アッラス・クレーニカ(みんなの記録)』に詩と絵を発表し、これが作家デビューとなった。1928年5月にはマンネルヘイム大統領の讃歌を制作し、作者名はトット(Totto)という若い女性として紹介された。 1929年11月には政治風刺を中心とするスウェーデン語系の雑誌『ガルム』に最初の風刺画が掲載された。絵につける文章はシグネとともに考え、出版記録をつけ始めた。オーケソンの担当によって同誌で絵物語の連載が始まり、『プリッキナとファビアナの冒険』という2匹の幼虫を主人公にしたラブコメディーだった。作者名にはトーベ(Tove)が使われ、プロとしてのスタートとなった。トーベは作品が家計の助けになることを経験したが、印刷された表紙の出来が想像と違っていたため失望した。それ以降、色などの指示を編集者や出版社、印刷担当者に伝えるようになった。 挿絵や物語の仕事と並行して、本の自作を続けた。物語への関心が高まったトーベは、『見えない力』というノート2冊分の長い物語も描くようになった。出版社に作品の持ち込みを始め、『サラとペッレと水の精のタコ(フィンランド語版)』という作品はティグルマン社で出版が決まる。しかし企画は5年間延期され、1933年に出版された時の作者名はヴェーラ・ハイとなった。 1930年5月にトーベは学校を自主退学し、9月30日にシグネの母校でもあるストックホルム工芸専門学校(スウェーデン語版)に入学した。叔父のエイナルの家から通学し、女子学生クラスB部で美術学生として広告やデザインを勉強して技法の授業を特に楽しみとした。型にはまった授業や生活には慣れなかったが、芸術家を目指す仲間との出会いは楽しんだ。家計を助けたいという考えもあり、進級について悩み続けた。進級後は美術工芸と印刷を学び、1933年に修了した際には装飾絵画で最高成績が与えられた。絵画クラスには名物教授として知られるオスカル・ブランドベリがおり、ブランドベリはトーベのテンペラ画を見て美大への受験を薦めた。しかし、トーベは美大を受験せず、卒業後は家族のもとへ帰ることを決める。トーベが1933年に工芸専門学校を卒業した際、旅費の問題でシグネは卒業式に出席できなかった。 1933年に帰国したトーベはヘルシンキで家族と暮らし、ヴィクトルの母校でもあるフィンランド芸術協会美術学校(フィンランド語版)(アテネウム)に通った。アテネウムもトーベにとって居心地は良くなかったため、休学をへて夜間コースを選んだ。アテネウムに通いながら挿絵、表紙、ポスター、絵葉書、装飾、宣伝などの仕事を手がけ、画家としての収入が増えていった。文章も書き続けており、1934年には最初の短編小説「大通り」を執筆して『ヘルシンキ・ジャーナル』に掲載された。1935年に画家のサミュエル・ペプロスヴァンニ(サム・ヴァンニ(フィンランド語版))と知り合い、交際した。のちに交際するタピオ・タピオヴァーラ(フィンランド語版)ともアテネウムで出会っている。 アテネウムの絵画コースでは性差別を経験した。男性が優先される状況によってクラスの女性は減っていき、トーベとエヴァ・セーデルストレムの2人だけとなった。トーベは1935年春の絵画コースで1等を獲得したが、12月の展示では男性の作品の方が良い場所に飾られた。校内で起きたフィンランド語とスウェーデン語に関する言語闘争(フィンランド語版)もトーベを悩ませた。トーベは「ここで続けても何にもならない」と日記に書き、学生仲間とタハティトルニ通りにアトリエを構えた。ここがトーベにとって最初の自分のアトリエとなる。欠席や休学を繰り返してアテネウムを卒業したあとは、より自分に合った自由芸術学校に入学した。この学校は現代美術の動向や国際性を重視しており、トーベはヒャルマル・ハーゲルスタム(フィンランド語版)らに学んだ。1935年に画家協会会員、1937年には芸術協会会員に属し、1930年代にはヤンソン家は芸術家一家として取材を受けるようになった。 フィンランド国内の言語闘争が続いていた1938年1月、トーベはパリで生活を始めた。留学費用は、クレヨン・コンテ社の絵画コンクールに入賞した賞金などでまかなった。モンパルナスとセーヌ川の左岸を拠点とし、日中はリュクサンブール公園で過ごした。家族に向けた手紙には地図を描いて送り、学んだことをフランス語で記録した。この時期に、かつて両親が住んでいたモンパルナスの一角も訪ねている。 フィンランド人の芸術家が集まるサン・ジャック通り(フランス語版)のオテル・デ・テラスに引っ越したトーベは、美術学校のエコール・デ・ボザールに入学した。アンリ・マティスを敬愛するトーベは、マティスにゆかりがある学校として期待していたが、教授の指導や先輩との関係になじめず2週間で通うのをやめた。他方でスイス人のアドリアン・オリーが設立したアトリエでは自分のペースで制作ができたので、トーベはそこに留まった。オリーは芸術家自身に自分の道を決めさせる教育方針をとっており、トーベが自分のスタイルを決める助けになった。6月にはブルターニュも旅行した。 1939年には新たな奨学金を得てイタリア王国を旅行し、パドヴァやフィレンツェの美術館、博物館、修道院、教会をめぐった。トーベはジョットをはじめとするルネサンス芸術を好んだ。イタリア旅行の時期には戦争の気配も近づいており、黒シャツ隊やナチス・ドイツを批判する意見を書き残している。イタリアで最も印象に残ったのはヴェスヴィオ火山の噴火と月の光で、手紙で詳しく描写している。 イタリアからフィンランドに帰って1ヶ月後の1939年9月に第二次世界大戦が始まった。弟のペル・ウーロフやラルス、友人たちが招集されて兵士となり、1941年にソビエト連邦と継続戦争が始まった。トーベは写真家のエヴァ・コニコフと親友になるが、フィンランド政府はナチス・ドイツと協力していたため、ユダヤ人のエヴァはアメリカ合衆国へ亡命した。トーベは自分のアトリエでパーティーを催して戦争以外のことに関心を向けようとし、他方でエヴァに手紙を書いて心の支えにした。開戦の頃からタピオ・タピオヴァーラと交際したが、意見が異なったため関係は解消された。トーベは政治的な意見の違いでヴィクトルと対立し、1942年には口論が原因でヴァンリッキ・ストール通り3番地にアトリエを借り、家族と離れて住んだ。 1943年には哲学者で政治家のアトス・ヴィルタネン(フィンランド語版)と知り合い、交際した。 パリ生活をヒントにして芸術家の暮らしを書いた短編「あごひげ」などの作品が好評を呼び、トーベの名は次第に知られていった。また、『ガルム』誌の風刺画はヒトラーやスターリンも題材にして、風刺画家として人気を呼んだ。のちのムーミンとなるキャラクターも『ガルム』で1943年に初登場した(後述)。親戚や友人に会うことを避け、戦意高揚的なものからは距離を置いて制作に集中した。空襲対策の灯火制限の中でも制作を続け、1943年にはレオナルド・バックスバッカのギャラリーで最初の個展を開き、戦時中に80点以上の絵画を売った。1944年にはウッランリンナ(フィンランド語版)1番地のアトリエに移った。トーベは塔のように天井が高いアトリエに満足し、このアトリエを生涯を通して使うことになった。イラストをはじめとして多くの仕事を手がけたが、経済的には苦しく、この状況はムーミン・コミックスの連載が始まるまで続いた。 トーベは以前からスノークと呼んでいたキャラクターを、1944年春にムーミントロールとしてあらためて物語に書いた。原稿を読んだアトスは好意的なコメントをして、5月になるとトーベは原稿をセーデルストレム社に持ち込んだ。1945年に最初のムーミンの物語が『小さなトロールと大きな洪水』という書名で出版され、スウェーデンでもハッセルグレン社から出版された。フィンランドではトーベは有望な芸術家とみなされていたが、『小さなトロールと大きな洪水』の出版時に書評をしたのはグールドン・モーネだけだった。スウェーデンでは『小さなトロールと大きな洪水』は注目されなかった。当地では同年に出版されたアストリッド・リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』が人気を呼んでおり、戦争の影響がない『ピッピ』に対して、『小さなトロール』は戦争の影響が見て取れるため系統が違うと解釈されたのが原因だった。 ムーミンの物語はトーベの励みになり、2作目の執筆を始める。トーベはアトスとともに彼の故郷のオーランド諸島を訪ねて、北部のサルトヴィーク(英語版)で1945年の夏をすごし、オーランドの風景をムーミンの世界に活かした。当初のタイトルは『ムーミントロールと恐怖の彗星』で、アトスはトーベの草稿に肯定的なアドバイスを書き、トーベは執筆に熱中した。1946年秋に2作目が『彗星追跡』(のちの『ムーミン谷の彗星』)というタイトルで出版された頃には、トーベは3作目の『たのしいムーミン一家』の執筆を始めていた。1946年の秋には、演出家のヴィヴィカ・バンドレル(英語版)と出会った。トーベにとってヴィヴィカは初の同性の恋人となった。トーベはヴィヴィカによって絵が豊かになり、無駄な名誉欲から解放されたと感じた。 『彗星追跡』もセーデルストレム社で出版されたが、初版の売り上げは芳しくなく続編が検討されなかったため、『たのしいムーミン一家』の原稿はシルツ社に持ち込んだ。1947年10月からは最初のムーミン・コミックスにあたる『ムーミントロールと地球の終わり』の連載を『ニュー・ティード(英語版)』誌で始めた。連載は1948年4月まで掲載されて好評となり、書籍のファンも増えていった。3作目の『たのしいムーミン一家』は1948年のクリスマス商戦で出版され、スウェーデンでは1949年にフーゴ・イェーベル社が出版し、多くの評論家が高く評価した。1950年には『たのしいムーミン一家』の英訳がイギリスのベン社から出版され、1951年にはアメリカでも出版された。イギリスの新聞『イブニング・ニュース(英語版)』はムーミンの連載漫画を申し出て、経済的な利点を重視したトーベは契約を交わした。1954年に連載が始まったムーミン・コミックスは世界的に読まれるようになった。スウェーデンやイギリスで人気が出た影響を受けて、フィンランド語への翻訳も進んだ。しかしムーミン・コミックスは連載の重圧や他の活動との掛け持ちのためトーベにとって苦痛となり、弟のラルスが1960年から1975年まで連載を引き継いだ。 1958年にヴィクトルが亡くなった。『ムーミンパパ海へいく』(1965年)は「ある父親に捧げる」と書かれており、ヴィクトルを指している。1970年にシグネが亡くなり、以前から執筆を進めていた『ムーミン谷の十一月』(1970年)を発表した。小説としてのムーミン・シリーズは終了し、以後のトーベは大人向け小説の執筆を続ける。 トーベは1947年からブレッドシャール島で夏をすごすようになった。ラルスの協力で「風配図」と呼ぶ小屋を建て、旗にはムーミンを描いた。島の暮らしはトーベに平安をもたらしたが、次第に住む人数が増えて手狭になった。1955年にフィンランド芸術協会のクリスマスパーティでトゥーリッキ・ピエティラと出会い、1956年にトゥーリッキはブレッドシャール島のトーベの住まいを訪れた。トーベとトゥーリッキは芸術の方向性が異なっていたが人生の価値観は共通しており、同棲生活を始めた。2人とも手作業を好み、旅行やビデオ撮影、のちには縮尺模型を共通の趣味とした。ムーミンの人気によってブレッドシャール島への記者やファンの訪問が増えると、トーベとトゥーリッキは離れ小島のクルーヴ島(フィンランド語版)(小さな小さな獣の爪岩島)に小屋を建てて移り住んだ。2人は夏をクルーヴ島ですごし、冬はヘルシンキのアトリエで寝泊まりしながら制作した。 画業では1960年に再出発を決め、絵画作品の署名は「Tove」から「Jansson」に変えた。執筆業では大人向けの小説が増え、最初の短編小説集『聴く女』(1971年)から1980年代にかけて長編小説3冊と短編小説集5冊を発表した。それまでの作品を演劇、映画、テレビ、ラジオなどのメディアに合わせるための脚本も執筆した。1971年にはフジテレビ放送のアニメ『ムーミン』放映の仕事でトゥーリッキと来日し、その後世界一周旅行を続けた。1990年にはテレビ東京放送のアニメ『楽しいムーミン一家』の監修で来日した。 クルーヴ島での暮らしには不自由な点も多く、年齢による体力の変化も気がかりとなった。トーベとトゥーリッキは1992年に島を明け渡し、1965年から毎年続けてきた島の暮らしを終えた。1990年代に癌をわずらい、公の場に姿を見せたのは1994年にタンペレで開催された国際会議が最後となった。最後の作品として短編小説集『メッセージ』(1998年)を発表したのち、2001年にヘルシンキで死去した。 芸術家としてのトーベのアイデンティティは、画家と作家の2つだった。職業を聞かれた時には画家と答えた。自分は個人主義者だとしばしば主張しており、集団の中で同じ方向を向くことは好まなかった。抽象画のような芸術の新しい流れや運動からは距離をおきながら、自分にとって正しい道を選ぼうとした。 トーベの活動には、働くという姿勢が一貫していた。12歳から書き始めた日記には「働く」という言葉が多く使われていた。ヘルシンキのアトリエでは、「創造」や「インスピレーション」という言葉の代わりに「働くこと」や「意欲」が語られた。 トーベが好んでいた芸術書として、フィレンツェの画家チェンニーノ・チェンニーニ(英語版)の『絵画術の書』がある。チェンニーニは刑務所の服役中にルネサンス絵画の手引書としてこの本を書き、フレスコ画やテンペラ画の筆づかいや彩色方法を解説している。また、チェンニーニは「40歳までに何かを成し遂げたなら、自分の手で伝記を書かなければならない」と書いており、『ムーミンパパの思い出』に活かされている。 ムーミン・シリーズが広まったのち、児童文学作家について書くことを編集者に打診されたトーベは、『偽者(エセ)児童文学作家』(1961年)というエッセイ集を発表した。講演をもとにした内容で、子供の感性や、クリエイティブであるために必要なことが書かれている。作家は書きたいという想いがあるから表現するのであり、子供の読者があるから書くのではないというトーベの作家論となっている。 ムーミンの原型となるキャラクターは雑誌『ガルム』の風刺画で1943年に初登場しており、当初の名前はスノークだった。スノークは夢や幻覚などファンタジーに関する文章とともに登場し、風刺画向けの怒った顔をしていた。1944年には『ガルム』以外の絵にもスノークが登場して、作家のサインとしての役割も果たした。1945年8月にトーベは「私の新しい肩書きはスノーク夫人」と書き、『ガルム』のクリスマス号でスノーク姿の自画像を描いた。1952年のインタビューによれば、ムーミントロールという名前は、トーベが16歳の時に叔父のエイナルから聞いた話がもとになっている。 ムーミンの物語は文章と挿絵をともにトーベが手がけ、著者、挿絵画家、デザイナーの全てを自分の役割とした。切り貼りでサンプル本を作り、バランスを見ながら指定を書き込み、絵に番号をつけて配置を指定した。レイアウトではページ構成と絵の配置、文章と余白部分を検討した。ムーミン絵本の『それからどうなるの?』では幼少期の体験をもとに仕掛け絵本を作り、これもレイアウトと製本作業の指示を全て行った。 トーベはムーミンの舞台化やテレビ化にも関わった。初の戯曲は、1949年にヴィヴィカのすすめで執筆した『ムーミントロールと彗星』の舞台版だった。フィンランドではイルッカ・クーシスト作曲のムーミン・オペラが1974年に国立オペラ劇場で上演され、スウェーデンでは1982年にストックホルム王立ドラマ劇場で冒険劇が上演された。舞台監督はヴィヴィカが務めた。スウェーデンのテレビ番組用の脚本も執筆した。1965年にはトーベ作詞、エルナ・タウロ(英語版)作曲の "Höstvisa" (フィンランド語 "Syyslaulu" 、日本語で『秋の歌』) がフィンランド国営放送音楽賞で3位を受賞した。 トーベにとってムーミンの物語は、戦争中に自分の楽しみとして始めた趣味だった。しかし、ムーミン・コミックスのヒットによって絵画に使える時間が減ると、人々の期待とのバランスを取ることが悩みとなった。コミックス連載中の苦労については、のちに短編小説「連載漫画家」(『メッセージ』収録)で題材にした。 小さい頃からスケッチブックや日記に家族や自分を描いた。トーベが展示した最初の作品は自画像で、1933年のヘルシンキで開催されたユーモリスト展で発表した。アテネウム時代に描いた『藤の椅子に座る自画像』(1937年)では、背後の壁に絵がかけられており、イーゼルがあり、画家としてのアイデンティティが強調されている。戦争をきっかけに家族から離れた1940年代に最も多数の自画像を描いており、『毛皮の帽子をかぶった自画像』(1941年)、『オオヤマネコの襟巻きの自画像』(1942年)などがある。画家としての再出発の際にも、手始めに自画像『初心者』(1959年)を描いている。1975年の最後の展示会でも自画像を発表した。 家族や友人、パートナーの肖像も描いた。エヴァ・コニコフの肖像画のように、買い取られないように高値をつけることもあった。戦争中のヤンソン家を描いた『家族』(1942年)という作品もあるが、のちに自ら失敗作として評価している。 『ガルム』誌で描いた風刺画は人気を呼び、フィンランドでは一流の風刺画家としても知られた。『ガルム』の編集者ヘンリー・レイン(フィンランド語版、スウェーデン語版)との仕事は良好で、トーベは約24年間この雑誌に関わって表紙画を100枚、風刺画や挿絵を500枚ほど制作した。 1938年のミュンヘン会議をテーマにした絵では、ヒトラーを甘やかされた子供として描き、民族主義者の抗議を呼んだ。ソビエト連邦を風刺した1940年の絵では、スターリンに似た顔の兵士が検閲を受け、修正させられた。1944年のラップランド戦争をテーマにした絵では、複数のヒトラーがラップランドの街で略奪や破壊をしている。日本への原子爆弾投下から1年後の1946年8月には、核戦争を暗示する世界から平和の天使が去っていく絵を描いた。 トーベの作風は過激とみなされて検閲にかかった時もあったが、トーベ自身は『ガルム』の仕事で良かった点として、ヒトラーやスターリンに対して悪態をつけたことを挙げている。トーベは仕事が早く、『ガルム』で培われた技術は、他の新聞や雑誌の仕事にもつながった。 第二次大戦後のヨーロッパでは、公共空間に芸術作品を展示するパブリック・アートの活動が起こった。トーベはパブリック・アートの技法を学んでおり、多くの依頼を受けた。1947年にヘルシンキ市庁舎の地下に2点のフレスコ画『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』、1949年にはフィンランド南部のコトカの幼稚園で7メートルの壁画を描いたほか、レストラン、社員食堂、工場、ホテル、学校、小児科病院などで制作した。最盛期は1953年で、その後70歳になっても描いた。『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』には、当時の恋人ヴィヴィカとトーベ自身をモデルにした人物や小さなムーミンも描かれている。 1958年にルイス・キャロルの『スナーク狩り』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。トーベはこの作品を難解だけれど面白いと評価し、原作の詩だけを読み、他の挿絵を参考にせずに制作した。1965年にキャロルの『不思議の国のアリス』の挿絵を依頼されると、トーベは素晴らしい物語だと評価してホラー仕立てにする提案をした。トーベはキャロルの作品にはホラー的な要素があると考えていたが、出版社に反対された。 1961年にはトールキンの『ホビットの冒険』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。これはアストリッド・リンドグレーンからの依頼がきっかけだった。トーベはトールキンの作品にもホラーの要素を見出して魅力的だと考えたが、トーベの表紙案は子供向けではないと出版社が反対し、修正に応じた。できあがった本は結果的に注目されず、後年に挿絵は批判も受けた。トーベは、他の作家の挿絵なら誰の作品を描きたいかという質問で、エドガー・アラン・ポーと答えている。 1960年代に画家として再出発をした際は、自然主義的な写実画から次第に変化していった。1950年代から1960年代のフィンランドでは抽象絵画が流行しており、1961年の国際展ではほとんどがアンフォルメルの作品の中で、トーベは静物画を出展した。写実画のスタイルを保ちつつも、次第に抽象化を進めていった。積極的に個展を開き、1960年から1970年までに5回の個展と1回の共同展を行った。 トーベは自分の物語に人気がある理由として、「スクルット(ひとりぼっち)」について書いているからではないかと語っている。スクルットとは、どこにいても居心地が悪く、人の輪の外に立っている恥ずかしがり屋を指す。人間は幸せな時もどこかに恐怖感があり、それを認めることでシンプルな世界や穏やかな心を手に入れたり、恐れる気持ちを楽しむことができるとトーベは考えていた。そのためトーベの物語には不安や脅威が描かれている。当時は子供向けと大人向けの本が分かれていたが、トーベの作品は児童書として出版したムーミン・シリーズも大人が読んで楽しめる内容になっており、出版社が戸惑うこともあった。 子供時代の1921年から1924年の間に作った本は14冊が残っており、番号が振られていて、作者名としてトーベ・マリカ・ヤンソンと書いてある。内容はおとぎ話やファンタジー、聖書風の設定や、お化けやぞっとするような出来事が多い。7歳で書いた『プリックはあっという間に息を引き取る』(1921年)は、プリックという犬の病気と死の話だった。『青い騎士』という本の裏表紙には、「トーベの少年少女向け作品」という刊行予定の作品リストがついていた。 1934年に初の短編小説「大通り」を発表したのち、1〜2年に1作のペースで短編を書き続けた。1970年代から大人の読者を想定した物語を執筆し、初の小説集『聴く女』(1971年)を発表した。1970年代以降の小説には孤独や老い、精神の暗部やサスペンス、スリラーも描かれており、ムーミンでは描けなかったことやさらに発展させた内容が含まれている。 長編小説としては『誠実な詐欺師』(1982年)、『石の原野』(1984年)、『フェアプレイ』(1984年)の3冊を発表した。『誠実な詐欺師』は女友達との奇妙な関係、『石の原野』は新聞記者だった男の物書きについての苦悩、『フェアプレイ』は芸術家の関係をもとに共同生活の難しさを描いた。1970年代以降の小説には女性や男性の同性愛がしばしば描かれ、特別ではないこととして扱われている。 トーベは自伝そのものは書かず、自伝的な作品として、『彫刻家の娘』(1968年)や『島暮らしの記録』(1993年)を発表した。『彫刻家の娘』は子供時代を中心とした内容で、書名にある彫刻家とは父ヴィクトルを指す。『島暮らしの記録』はトゥーリッキとのクルーヴ島での暮らしが書かれており、トゥーリッキが挿し絵を描いた。 1970年代から1990年代にかけてトゥーリッキとヤンソンが撮影した映像をもとにした映像作品として、『Matkalla Toven kanssa(トーベ・ヤンソンの世界旅行)』(1993年)、『Haru – yksinäisten saari(ハル、孤独の島)』(1998年)、『トーベとトゥーティの欧州旅行(Tove ja Tooti Euroopassa)』(2004年)のドキュメンタリー3部作がある。 トーベとトゥーリッキは、ムーミン世界の模型を作った。きっかけは医師のペンッティ・エイストラが趣味で作ったムーミン屋敷のミニチュア模型を見せたことだった。2人はより大きなムーミン屋敷の模型に取りかかり、夏はクルーヴ島で作業をした。3年間をかけて2メートルの模型を完成させ、各地の展示会をめぐった。木工が得意なトゥーリッキはその後も制作し、ムーミン・シリーズの41の場面が模型になった。この屋敷は短編小説「人形の家」や、写真絵本『ムーミンやしきはひみつのにおい』のもとになった。 制作において詳細なノートを作った。絵画の制作ノートでは、1930年代のスケッチブックに「金の皮と皮の染色」というタイトルで皮革の染色について書かれている。羊皮紙、ステンドグラスや特殊な素材、テキスタイル、油彩についての覚書もある。1943年のノートには「素材」というタイトルでバレットの手入れや、フレスコ画の技法について書いている。 登場人物の登場の仕方や変化の仕方、展開などもノートに記録した。たとえば『ムーミンパパ海へ行く』の準備では、風向きが変わる時間や鳥の渡りについて書いている。絵本『それからどうなるの?』では印刷技術の指示、色の組み合わせについて書いている。 1944年から約60年間にわたって使ったウッランリンナ1番地の住宅兼アトリエは、ビルの最上階の角部屋にあり、天井は約7メートルあった。トーベはこのアトリエを気に入って多額の借金をして買い取り、絵画制作やムーミン・コミックスの連載によって返済した。かつてトーベが絵画を学んだハーゲルスタムが使っていた場所でもあり、トーベが入居した時期にはすでにハーゲルステムは戦死していた。 1960年頃にアトリエの改装をおこない、パートナーだったトゥーリッキの弟夫妻であるレイマとライリ・ピエティラ(英語版)が設計した。高窓の下にベンチを置き、天井に欄干を渡して吊り戸棚やロフトを追加した。螺旋階段は鏡がある部屋に続き、寝椅子、本棚、キャビネットがあった。アトリエ部分にはベンチ、テーブルと本棚、絵画や父ヴィクトルの彫刻、模型などが置かれた。キッチンとバスルームのどちらかしか置けず、トーベはバスルームを選んだ。改装が終わる頃にトゥーリッキが隣の建物に引っ越してきたので、アトリエとトゥーリッキの部屋を屋根裏の通路でつないだ。窓からはヘルシンキの海が見え、ロフトにベッドを置いていた。トーベは昼間から強い酒とタバコをたしなんでいたという。 クルーヴ島の小屋では、1964年から1992年まで毎年の夏をトゥーリッキと暮らした。レイマとライリ・ピエティラが設計し、トゥーリッキが木材関係、トーベが石材関係を分担して建てた。ワンルームと地下室があり、2人はムーミンのパペット・アニメのための模型や人形を小屋で制作した。 ヤンソン家には、シグネの仕事の影響もあり蔵書が豊富だった。子供時代のトーベはセルマ・ラーゲルレーフ『ニルスのふしぎな旅』やルイス・キャロル、エルサ・ベスコフを読んだ。トーベは冒険譚が好きでラドヤード・キップリングの『ジャングル・ブック』を特に好んだ。子供時代に書いた物語『見えない力』は、ジュール・ヴェルヌやコナン・ドイル、エドガー・ライス・バロウズらにヒントを得ている。大人向けの作品では、エドガー・アラン・ポーの恐怖小説を9歳の時に読み、他にヴィクトル・ユーゴー、トーマス・ハーディー、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジョセフ・コンラッドなどを読んだ。 トーベは蔵書票を自分でデザインし、職業、性別、情熱、海、錨などをシンボルとして描いた。ラテン語で「LABORA ET AMARE」と書かれており、文法的に正確ではないものの「働け、そして愛せよ」というメッセージだった。 トーベは読者から届く手紙に全て目を通し、自分で返事を書いた。時間はかかったが、返事を書かない方が負担になると考えていた。手紙のやりとりは、「文通」、「クララからの手紙」、「メッセージ」(いずれも『メッセージ』収録)などの小説の源泉にもなった。最多では年間2000通に達した。 スウェーデンのストックホルム出身のシグネ(愛称ハム)と、フィンランドのヘルシンキ出身のヴィクトル(愛称ファッファン)は、ともに伝統とは異なる価値観を持っていた。シグネは自らを婦人参政権論者と呼び、ヴィクトルは一族の反対を押し切って芸術家の道を選んでいた。 画家でデザイナーのシグネは、トーベが最初に絵を教わった人物でもあった。トーベはシグネから勤勉さも学んだ。シグネはフィンランド銀行の紙幣の絵を描き、切手デザイナーとしても活動した。本の装丁では自分の手がけた本が同時に並ぶことを意識して、それぞれ画風を変えていた。挿絵では『ガルム』誌に創刊から関わり、『ガルム』の仕事はトーベに引き継がれていった。他方で女性の芸術家は夫の陰にかくれて評価されない風潮にあり、父の要求に従う母を見て、トーベは女性の社会的な立場について考えるようになった。シグネはムーミンママのモデルだとトーベは語っている。 彫刻家のヴィクトルは、線が柔らかい女性像や、繊細な子供像を多く制作した。トーベをモデルにした彫刻作品も何点か制作している。ヴィクトルはフィンランド内戦では政府側の白衛隊(フィンランド語版)に属して戦い、内戦の経験でふさぎがちになり、親ドイツ的でユダヤ人を嫌った。シグネは夫について「戦争で壊れてしまった」とも表現した。トーベとヴィクトルは政治について意見が合わず、関係を修復するのは第二次大戦後となった。トーベによれば、ヴィクトルは悲観的な性格だったが、嵐が近づくと別人のように好奇心旺盛で面白くなり、子供を連れて冒険に出かけたという。ヴィクトルの作品は、エスプラナーディ公園(英語版)やカイサニエミ公園(英語版)に展示されており、トーベの墓石にもヴィクトルの彫刻が使われている。 トーベは長女であり、弟のペル・ウーロフ・ヤンソンとラルス・ヤンソンがいた。ペル・ウーロフは短編小説集『若き男、ひとり歩く』(1945年)でデビューしたのちに写真家となった。写真絵本『ムーミンやしきはひみつのにおい』(1980年)では、ペル・ウーロフが撮影したムーミン屋敷の写真が使われている。その他にも、『彫刻家の娘』や『少女ソフィアの夏』などトーベの作品に写真を提供した。ペル・ウーロフによれば、トーベはスポーツ選手のような体格で良い被写体だったが、写真に撮られることがとても苦手だったという。 末弟のラルスは15歳で冒険物語『トルトゥガの宝』(1941年)を発表して好評となり、『支配者』(1945年)や『我は我が不安なり』(1950年)など執筆を続けつつ、1940年代はトーベと『ガルム』誌で共作をした。ラルスはムーミン・コミックスの連載当初からトーベを手伝っており、トーベが連載を悩んだために後任となって連載を続けた。 シグネの兄弟にあたるスウェーデンの叔父たちは冒険が好きで探検家気質の者が多く、子供時代のトーベに影響を与えた。ストックホルム工芸専門学校の生徒時代は、地元にいた叔父のエイナルやウロフのもとで暮らした。トーベは短編「我が愛しき叔父たち」(『メッセージ』収録)などで彼らをモデルにした。 伯母のエルサはドイツ人牧師のフーゴと結婚してドイツで暮らしており、トーベはフランスやスイスを旅行する際にエルサの家を拠点にした。エルサは、ナチス・ドイツ政権下の事情を手紙では書けないので、見たことをシグネに伝えて欲しいとトーベに話した。トーベは当時の体験を短編「カーリン、わたしの友達」(『メッセージ』収録)に書いている。 弟ラルスの娘でトーベの姪にあたるソフィア・ヤンソンは、長編小説『少女ソフィアの夏』(1972年)のモデルになった。『少女ソフィアの夏』は、ソフィアの他にラルスとシグネをモデルとする登場人物が中心となり、家族で夏をすごした小島が舞台となっている。 写真家のエヴァ・コニコフは生涯を通じた親友だった。エヴァはロシア革命によってフィンランドに亡命したユダヤ人で、第二次大戦時にアメリカへ亡命した。2人は文通で交流を続け、トーベは文通を題材にした短編「コニコヴァへの手紙」(『メッセージ』収録)を書いている。トーベがトゥーリッキと世界一周旅行をした際、2人はニューヨークで再会した。 画家のサミュエル・ペプロスヴァンニは、1935年にトーベと知り合い交際した。トーベはサミュエルを題材とした木炭画やカレワラ風の作品を制作し、サミュエルは1940年にトーベの肖像を木炭画で描いた。トーベはサミュエルを芸術家として尊敬したが、サミュエルの喋りすぎる癖は苦手だった。サミュエルは年長者でユダヤ人であったため、2人の交際を知った両親はショックを受け、トーベは両親の反応を悲しんだ。サミュエルは、トーベの短編「サミュエルとの会話」(『メッセージ』収録)にも登場している。 画家・デザイナーのタピオ・タピオヴァーラは、トーベとアテネウムで知り合い、第二次大戦の頃に交際した。トーベにとって、タピオはフィンランド語を母語とする初めての親しい友人でもあった。トーベが自立を望み、子供を望むタピオとは意見が異なったため1942年に関係は解消された。タプサという愛称で、トーベの短編「卒業式」(『メッセージ』収録)などに登場している。 哲学者・政治家のアトス・ヴィルタネンは、第二次大戦中から戦後にかけてトーベと交際した。きっかけはアトスが屋敷で開催したパーティーで、トーベはバイタリティがありパーティー好きなアトスに魅力を感じた。しかし当時のフィンランドにおいてカップルの同棲は「狼夫婦」と呼ばれて非難され、しかも女性に非難が向けられる傾向にあった。このためにトーベはアトスと結婚しない点を周囲から意見されることもあった。トーベは一時はアトスとの結婚を考えるが、アトスは常に多忙でトーベと過ごす時間が短く、友人関係へと変わっていった。広い帽子とパイプを持ち、放浪を続けるアトスは、ムーミン・シリーズのスナフキンのモデルにもなった。アトスは政治的には左派で地下活動の経験があり、1944年のトーベの記録では夕食をしながら襲撃を心配したことも書かれている。 1940年代に交際した舞台監督のヴィヴィカ・バンドレルは、トーベにとって初の同性の恋人だった。当時は法律上の問題もあり、2人は交際を隠していた。2人の関係が解消したのちも、ヴィヴィカはトーベと共に仕事をし、アドバイスを与えた。『たのしいムーミン一家』(1948年)には、トーベとヴィヴィカをモデルにしたトフスランとヴィフスランというキャラクターが登場する。 1950年代からパートナーとなったのは、グラフィック・アーティストのトゥーリッキ・ピエティラだった。2人はクルーヴ島で暮らし、世界一周旅行をはじめ各地を旅した。トゥーリッキはムーミン谷博物館(フィンランド語版)に納められた数多くのムーミンフィギュアやムーミン屋敷の制作でも知られ、『ムーミン谷の冬』(1957年)に登場するトゥーティッキー(おしゃまさん)のモデルになっている。トーベは『ムーミン谷の冬』を執筆できたのはトゥーリッキのおかげだと語っている。 ヤンソン家は動物とも暮らした。大戦後の物々交換での勘違いがきっかけで猿がやって来て、父ヴィクトルが世話をした。ヴィクトルと猿の関係はトーベの小説『彫刻家の娘』にも描かれている。黒猫のプシプシーナは、トーベのアトリエとトゥーリッキの部屋を行き来していた。プシプシーナは『島暮らしの記録』に登場している。 ムーミン・コミックスの連載は1954年に始まり、最盛期は40カ国の新聞に掲載され、読者は2000万人に達した。ムーミンは子供も大人も楽しめる作品として人気を得たが、他方で児童書は子供向けにのみ書くべきだという批判があり、ムーミンに対する反対運動も起きた。1949年の舞台版ムーミンの表現をめぐっては、子供の親から苦情が寄せられた。トーベは解釈は観客のものという持論だったが、子供向けとして適切な表現ではないという批判には「そうなると「ひどい」という言葉自体を禁じなければならない」というコメントを掲載した時もあった。『ムーミン谷の冬』出版後は数々の受賞によって評価が高まり、ムーミン流のライフスタイルは読者にとって憧れにもなった。1950年代のトーベはアカデミックな場での朗読会や講演に頻繁に出席したが、消耗を避けるために1960年代以降は学生からの申し出を断るようになった。 トーベが活動した当時のフィンランドにおいて、芸術家といえば男性を指す風潮があり、美術界での評価は遅れた。芸術レビューである『フィンランド美術』の1970年版にはトーベ自身の項目はなく、父ヴィクトル・ヤンソンの項目で『彫刻家の娘』の著者として紹介されていた。1998年の改訂版で、トーベは自身の作品とともに掲載され、国際的なイラストレーターと説明された。 トーベがスウェーデン語系のフィンランド人であることから、スウェーデンとフィンランドを中心に研究が進められている。トーベの作品が本格的に文学研究の対象となったのは1980年代以降だった。画家やコミック作家の面からの研究もなされている。1994年8月にタンペレでトーベに関する初の国際会議が開催され、その一環として80歳の誕生日を記念する個展も催された。 性的平等を目標に活動する北欧諸国の団体は、トーベを先駆者として評価している。1980年代以降のジェンダー研究を受け、セクシュアリティの面からの研究もなされるようになった。トーベは研究者に協力して、論文発表会にも参加した。トーベとトゥーリッキは大統領官邸などの公の場に同席し、独立記念祝賀会に招待されたフィンランド史上初の同性愛カップルとなった。 トーベは自分の記録を管理し、資料の多くを寄贈している。草稿と読者からの手紙はオーボ・アカデミー大学に贈った。ムーミン・シリーズの原画は、タンペレ市美術館に約2000点を寄贈した。研究者に渡す資料も管理し、誰に何を送ったかも記録した。ノートには自作の情報を記録し、よく聞かれる質問に対する答えも用意していた。 トーベの伝記として、スウェーデンでは文学研究者ボエル・ヴェスティン(スウェーデン語版)による『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』(2007年)、フィンランドでは美術史家トゥーラ・カルヤライネン(フィンランド語版)による『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』(2013年)などが刊行された。2020年にはフィンランドで伝記映画『TOVE/トーベ(英語版)』が制作された。30代から40代にかけてのトーベを描いており、ザイダ・バリルート(英語版)が監督し、トーベ役はアルマ・ポウスティ(英語版)が演じた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トーベ・マリカ・ヤンソン(Tove Marika Jansson [tuːve mariːka jɑːnsɔn] ( 音声ファイル)1914年8月9日 - 2001年6月27日)は、フィンランドのヘルシンキ生まれのスウェーデン系フィンランド人の画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家。日本語表記にはトーヴェ・ヤンソンもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "創作領域は絵画、小説、コミックス、脚本、詩、作詞、広告など多岐にわたり、『ムーミン』シリーズの作者として世界的に有名となった。読者層は幅広く、「9歳から90歳まで」とも表現される。フィンランドでは画家としての評価も高く、水彩画や油彩画、雑誌の風刺画や公共建築の壁画など多くの作品を残している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1914年8月9日、フィンランド大公国ヘルシンキで生まれた。母親はスウェーデン=ノルウェー出身の画家のシグネ・ハンマシュティエン=ヤンソン、父親はスウェーデン語系フィンランド人の彫刻家のヴィクトル・ヤンソン(英語版)だった。1910年、シグネとヴィクトルはパリのグランド・ショミエール芸術学校に留学した時に出会い、1913年に結婚してモンパルナスで生活を始めた。しかし生活費がかさんで国からの留学資金が尽きるという経済的な事情や、1914年の第一次世界大戦の勃発によって、フィンランドへと引っ越した。フィンランドではフィンランド語とスウェーデン語が公用語だったが、スウェーデン語の話者は少なく、ヤンソン家は言語面で少数派だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "トーベが誕生した8月9日は日曜日で、シグネは翌8月10日に「私たちの日曜日の子についての本」を書き、娘の姿を似顔絵と文章で表した。トーベという名前は、北欧神話の神トールに由来するデンマーク系の表記から付けられた。シグネがスケッチをした1歳半のトーベはテーブルの紙に絵を描いており、歩くより前に描くことを覚えていた様子がうかがえる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "フィンランドは1917年2月の独立宣言でロシアから独立し、1918年にはフィンランド内戦が起きた。ヴィクトルも兵士となり、シグネは戦火を避けて娘とともに故郷のストックホルムで暮らした。シグネはトーベの写真や、トーベが描いた絵を戦地のヴィクトルに送った。ヴィクトルは戦地からの手紙で、娘が芸術家になると思うと書き残している。幼少期のトーベは、シグネの仕事を見ているうちに真似をするようになり、やがて話を考えるところから本を作るところまでを1人でするようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ヤンソン家はヘルシンキのルオッツィ通り4番のアトリエで暮らしたのち、芸術家向けの集合住宅ラッルッカに引っ越した。トーベや弟たちは、芸術と家庭が混ざり合う環境で育った。ヴィクトルの彫刻家としての生計は不安定で、作品の依頼と助成金の他ではコンペの賞金が重要だった。シグネは1924年にフィンランド銀行印刷局のパートに採用され、それが家庭で唯一の定収入だった。1920年代のシグネは小説、詩集、辞典などの挿絵も描いていた。トーベは子供の頃から家計を心配し、絵の仕事で母を助けたいと口にしたり、日記に書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "学校はコルケアヴオリ通り23番にあり、ヴィクトルの母校でもあるスウェーデン語系の共学校だった。しかしトーベには規律と詰め込み教育が合わず、のちに「学校のことでよい記憶はほとんどない、というよりも、ほとんど記憶がない」と語っている。トーベはロフトを使って挿絵付きの冊子を自作し、1927年に『サボテンのこぶ』、1928年に『クリスマスソーセージ』という雑誌を作って学校で販売した。夏になると、ヤンソン家はスウェーデンの親戚がいるペッリンゲ群島のブリデー島に行き、トーベは島の暮らしを好んだ。ペッリンゲ群島での体験は、のちのムーミン・シリーズなどの作品の題材となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1927年にヒューヴドスタッドブラーデット紙がヤンソン家の取材に訪れた際、トーベは記者のエステル・オーケソンと知り合った。オーケソンの仲介で、トーベは14歳の時にスウェーデン語系の週刊誌『アッラス・クレーニカ(みんなの記録)』に詩と絵を発表し、これが作家デビューとなった。1928年5月にはマンネルヘイム大統領の讃歌を制作し、作者名はトット(Totto)という若い女性として紹介された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1929年11月には政治風刺を中心とするスウェーデン語系の雑誌『ガルム』に最初の風刺画が掲載された。絵につける文章はシグネとともに考え、出版記録をつけ始めた。オーケソンの担当によって同誌で絵物語の連載が始まり、『プリッキナとファビアナの冒険』という2匹の幼虫を主人公にしたラブコメディーだった。作者名にはトーベ(Tove)が使われ、プロとしてのスタートとなった。トーベは作品が家計の助けになることを経験したが、印刷された表紙の出来が想像と違っていたため失望した。それ以降、色などの指示を編集者や出版社、印刷担当者に伝えるようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "挿絵や物語の仕事と並行して、本の自作を続けた。物語への関心が高まったトーベは、『見えない力』というノート2冊分の長い物語も描くようになった。出版社に作品の持ち込みを始め、『サラとペッレと水の精のタコ(フィンランド語版)』という作品はティグルマン社で出版が決まる。しかし企画は5年間延期され、1933年に出版された時の作者名はヴェーラ・ハイとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1930年5月にトーベは学校を自主退学し、9月30日にシグネの母校でもあるストックホルム工芸専門学校(スウェーデン語版)に入学した。叔父のエイナルの家から通学し、女子学生クラスB部で美術学生として広告やデザインを勉強して技法の授業を特に楽しみとした。型にはまった授業や生活には慣れなかったが、芸術家を目指す仲間との出会いは楽しんだ。家計を助けたいという考えもあり、進級について悩み続けた。進級後は美術工芸と印刷を学び、1933年に修了した際には装飾絵画で最高成績が与えられた。絵画クラスには名物教授として知られるオスカル・ブランドベリがおり、ブランドベリはトーベのテンペラ画を見て美大への受験を薦めた。しかし、トーベは美大を受験せず、卒業後は家族のもとへ帰ることを決める。トーベが1933年に工芸専門学校を卒業した際、旅費の問題でシグネは卒業式に出席できなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1933年に帰国したトーベはヘルシンキで家族と暮らし、ヴィクトルの母校でもあるフィンランド芸術協会美術学校(フィンランド語版)(アテネウム)に通った。アテネウムもトーベにとって居心地は良くなかったため、休学をへて夜間コースを選んだ。アテネウムに通いながら挿絵、表紙、ポスター、絵葉書、装飾、宣伝などの仕事を手がけ、画家としての収入が増えていった。文章も書き続けており、1934年には最初の短編小説「大通り」を執筆して『ヘルシンキ・ジャーナル』に掲載された。1935年に画家のサミュエル・ペプロスヴァンニ(サム・ヴァンニ(フィンランド語版))と知り合い、交際した。のちに交際するタピオ・タピオヴァーラ(フィンランド語版)ともアテネウムで出会っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アテネウムの絵画コースでは性差別を経験した。男性が優先される状況によってクラスの女性は減っていき、トーベとエヴァ・セーデルストレムの2人だけとなった。トーベは1935年春の絵画コースで1等を獲得したが、12月の展示では男性の作品の方が良い場所に飾られた。校内で起きたフィンランド語とスウェーデン語に関する言語闘争(フィンランド語版)もトーベを悩ませた。トーベは「ここで続けても何にもならない」と日記に書き、学生仲間とタハティトルニ通りにアトリエを構えた。ここがトーベにとって最初の自分のアトリエとなる。欠席や休学を繰り返してアテネウムを卒業したあとは、より自分に合った自由芸術学校に入学した。この学校は現代美術の動向や国際性を重視しており、トーベはヒャルマル・ハーゲルスタム(フィンランド語版)らに学んだ。1935年に画家協会会員、1937年には芸術協会会員に属し、1930年代にはヤンソン家は芸術家一家として取材を受けるようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "フィンランド国内の言語闘争が続いていた1938年1月、トーベはパリで生活を始めた。留学費用は、クレヨン・コンテ社の絵画コンクールに入賞した賞金などでまかなった。モンパルナスとセーヌ川の左岸を拠点とし、日中はリュクサンブール公園で過ごした。家族に向けた手紙には地図を描いて送り、学んだことをフランス語で記録した。この時期に、かつて両親が住んでいたモンパルナスの一角も訪ねている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "フィンランド人の芸術家が集まるサン・ジャック通り(フランス語版)のオテル・デ・テラスに引っ越したトーベは、美術学校のエコール・デ・ボザールに入学した。アンリ・マティスを敬愛するトーベは、マティスにゆかりがある学校として期待していたが、教授の指導や先輩との関係になじめず2週間で通うのをやめた。他方でスイス人のアドリアン・オリーが設立したアトリエでは自分のペースで制作ができたので、トーベはそこに留まった。オリーは芸術家自身に自分の道を決めさせる教育方針をとっており、トーベが自分のスタイルを決める助けになった。6月にはブルターニュも旅行した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1939年には新たな奨学金を得てイタリア王国を旅行し、パドヴァやフィレンツェの美術館、博物館、修道院、教会をめぐった。トーベはジョットをはじめとするルネサンス芸術を好んだ。イタリア旅行の時期には戦争の気配も近づいており、黒シャツ隊やナチス・ドイツを批判する意見を書き残している。イタリアで最も印象に残ったのはヴェスヴィオ火山の噴火と月の光で、手紙で詳しく描写している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イタリアからフィンランドに帰って1ヶ月後の1939年9月に第二次世界大戦が始まった。弟のペル・ウーロフやラルス、友人たちが招集されて兵士となり、1941年にソビエト連邦と継続戦争が始まった。トーベは写真家のエヴァ・コニコフと親友になるが、フィンランド政府はナチス・ドイツと協力していたため、ユダヤ人のエヴァはアメリカ合衆国へ亡命した。トーベは自分のアトリエでパーティーを催して戦争以外のことに関心を向けようとし、他方でエヴァに手紙を書いて心の支えにした。開戦の頃からタピオ・タピオヴァーラと交際したが、意見が異なったため関係は解消された。トーベは政治的な意見の違いでヴィクトルと対立し、1942年には口論が原因でヴァンリッキ・ストール通り3番地にアトリエを借り、家族と離れて住んだ。 1943年には哲学者で政治家のアトス・ヴィルタネン(フィンランド語版)と知り合い、交際した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "パリ生活をヒントにして芸術家の暮らしを書いた短編「あごひげ」などの作品が好評を呼び、トーベの名は次第に知られていった。また、『ガルム』誌の風刺画はヒトラーやスターリンも題材にして、風刺画家として人気を呼んだ。のちのムーミンとなるキャラクターも『ガルム』で1943年に初登場した(後述)。親戚や友人に会うことを避け、戦意高揚的なものからは距離を置いて制作に集中した。空襲対策の灯火制限の中でも制作を続け、1943年にはレオナルド・バックスバッカのギャラリーで最初の個展を開き、戦時中に80点以上の絵画を売った。1944年にはウッランリンナ(フィンランド語版)1番地のアトリエに移った。トーベは塔のように天井が高いアトリエに満足し、このアトリエを生涯を通して使うことになった。イラストをはじめとして多くの仕事を手がけたが、経済的には苦しく、この状況はムーミン・コミックスの連載が始まるまで続いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "トーベは以前からスノークと呼んでいたキャラクターを、1944年春にムーミントロールとしてあらためて物語に書いた。原稿を読んだアトスは好意的なコメントをして、5月になるとトーベは原稿をセーデルストレム社に持ち込んだ。1945年に最初のムーミンの物語が『小さなトロールと大きな洪水』という書名で出版され、スウェーデンでもハッセルグレン社から出版された。フィンランドではトーベは有望な芸術家とみなされていたが、『小さなトロールと大きな洪水』の出版時に書評をしたのはグールドン・モーネだけだった。スウェーデンでは『小さなトロールと大きな洪水』は注目されなかった。当地では同年に出版されたアストリッド・リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』が人気を呼んでおり、戦争の影響がない『ピッピ』に対して、『小さなトロール』は戦争の影響が見て取れるため系統が違うと解釈されたのが原因だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ムーミンの物語はトーベの励みになり、2作目の執筆を始める。トーベはアトスとともに彼の故郷のオーランド諸島を訪ねて、北部のサルトヴィーク(英語版)で1945年の夏をすごし、オーランドの風景をムーミンの世界に活かした。当初のタイトルは『ムーミントロールと恐怖の彗星』で、アトスはトーベの草稿に肯定的なアドバイスを書き、トーベは執筆に熱中した。1946年秋に2作目が『彗星追跡』(のちの『ムーミン谷の彗星』)というタイトルで出版された頃には、トーベは3作目の『たのしいムーミン一家』の執筆を始めていた。1946年の秋には、演出家のヴィヴィカ・バンドレル(英語版)と出会った。トーベにとってヴィヴィカは初の同性の恋人となった。トーベはヴィヴィカによって絵が豊かになり、無駄な名誉欲から解放されたと感じた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『彗星追跡』もセーデルストレム社で出版されたが、初版の売り上げは芳しくなく続編が検討されなかったため、『たのしいムーミン一家』の原稿はシルツ社に持ち込んだ。1947年10月からは最初のムーミン・コミックスにあたる『ムーミントロールと地球の終わり』の連載を『ニュー・ティード(英語版)』誌で始めた。連載は1948年4月まで掲載されて好評となり、書籍のファンも増えていった。3作目の『たのしいムーミン一家』は1948年のクリスマス商戦で出版され、スウェーデンでは1949年にフーゴ・イェーベル社が出版し、多くの評論家が高く評価した。1950年には『たのしいムーミン一家』の英訳がイギリスのベン社から出版され、1951年にはアメリカでも出版された。イギリスの新聞『イブニング・ニュース(英語版)』はムーミンの連載漫画を申し出て、経済的な利点を重視したトーベは契約を交わした。1954年に連載が始まったムーミン・コミックスは世界的に読まれるようになった。スウェーデンやイギリスで人気が出た影響を受けて、フィンランド語への翻訳も進んだ。しかしムーミン・コミックスは連載の重圧や他の活動との掛け持ちのためトーベにとって苦痛となり、弟のラルスが1960年から1975年まで連載を引き継いだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1958年にヴィクトルが亡くなった。『ムーミンパパ海へいく』(1965年)は「ある父親に捧げる」と書かれており、ヴィクトルを指している。1970年にシグネが亡くなり、以前から執筆を進めていた『ムーミン谷の十一月』(1970年)を発表した。小説としてのムーミン・シリーズは終了し、以後のトーベは大人向け小説の執筆を続ける。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "トーベは1947年からブレッドシャール島で夏をすごすようになった。ラルスの協力で「風配図」と呼ぶ小屋を建て、旗にはムーミンを描いた。島の暮らしはトーベに平安をもたらしたが、次第に住む人数が増えて手狭になった。1955年にフィンランド芸術協会のクリスマスパーティでトゥーリッキ・ピエティラと出会い、1956年にトゥーリッキはブレッドシャール島のトーベの住まいを訪れた。トーベとトゥーリッキは芸術の方向性が異なっていたが人生の価値観は共通しており、同棲生活を始めた。2人とも手作業を好み、旅行やビデオ撮影、のちには縮尺模型を共通の趣味とした。ムーミンの人気によってブレッドシャール島への記者やファンの訪問が増えると、トーベとトゥーリッキは離れ小島のクルーヴ島(フィンランド語版)(小さな小さな獣の爪岩島)に小屋を建てて移り住んだ。2人は夏をクルーヴ島ですごし、冬はヘルシンキのアトリエで寝泊まりしながら制作した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "画業では1960年に再出発を決め、絵画作品の署名は「Tove」から「Jansson」に変えた。執筆業では大人向けの小説が増え、最初の短編小説集『聴く女』(1971年)から1980年代にかけて長編小説3冊と短編小説集5冊を発表した。それまでの作品を演劇、映画、テレビ、ラジオなどのメディアに合わせるための脚本も執筆した。1971年にはフジテレビ放送のアニメ『ムーミン』放映の仕事でトゥーリッキと来日し、その後世界一周旅行を続けた。1990年にはテレビ東京放送のアニメ『楽しいムーミン一家』の監修で来日した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "クルーヴ島での暮らしには不自由な点も多く、年齢による体力の変化も気がかりとなった。トーベとトゥーリッキは1992年に島を明け渡し、1965年から毎年続けてきた島の暮らしを終えた。1990年代に癌をわずらい、公の場に姿を見せたのは1994年にタンペレで開催された国際会議が最後となった。最後の作品として短編小説集『メッセージ』(1998年)を発表したのち、2001年にヘルシンキで死去した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "芸術家としてのトーベのアイデンティティは、画家と作家の2つだった。職業を聞かれた時には画家と答えた。自分は個人主義者だとしばしば主張しており、集団の中で同じ方向を向くことは好まなかった。抽象画のような芸術の新しい流れや運動からは距離をおきながら、自分にとって正しい道を選ぼうとした。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "トーベの活動には、働くという姿勢が一貫していた。12歳から書き始めた日記には「働く」という言葉が多く使われていた。ヘルシンキのアトリエでは、「創造」や「インスピレーション」という言葉の代わりに「働くこと」や「意欲」が語られた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "トーベが好んでいた芸術書として、フィレンツェの画家チェンニーノ・チェンニーニ(英語版)の『絵画術の書』がある。チェンニーニは刑務所の服役中にルネサンス絵画の手引書としてこの本を書き、フレスコ画やテンペラ画の筆づかいや彩色方法を解説している。また、チェンニーニは「40歳までに何かを成し遂げたなら、自分の手で伝記を書かなければならない」と書いており、『ムーミンパパの思い出』に活かされている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ムーミン・シリーズが広まったのち、児童文学作家について書くことを編集者に打診されたトーベは、『偽者(エセ)児童文学作家』(1961年)というエッセイ集を発表した。講演をもとにした内容で、子供の感性や、クリエイティブであるために必要なことが書かれている。作家は書きたいという想いがあるから表現するのであり、子供の読者があるから書くのではないというトーベの作家論となっている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ムーミンの原型となるキャラクターは雑誌『ガルム』の風刺画で1943年に初登場しており、当初の名前はスノークだった。スノークは夢や幻覚などファンタジーに関する文章とともに登場し、風刺画向けの怒った顔をしていた。1944年には『ガルム』以外の絵にもスノークが登場して、作家のサインとしての役割も果たした。1945年8月にトーベは「私の新しい肩書きはスノーク夫人」と書き、『ガルム』のクリスマス号でスノーク姿の自画像を描いた。1952年のインタビューによれば、ムーミントロールという名前は、トーベが16歳の時に叔父のエイナルから聞いた話がもとになっている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ムーミンの物語は文章と挿絵をともにトーベが手がけ、著者、挿絵画家、デザイナーの全てを自分の役割とした。切り貼りでサンプル本を作り、バランスを見ながら指定を書き込み、絵に番号をつけて配置を指定した。レイアウトではページ構成と絵の配置、文章と余白部分を検討した。ムーミン絵本の『それからどうなるの?』では幼少期の体験をもとに仕掛け絵本を作り、これもレイアウトと製本作業の指示を全て行った。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "トーベはムーミンの舞台化やテレビ化にも関わった。初の戯曲は、1949年にヴィヴィカのすすめで執筆した『ムーミントロールと彗星』の舞台版だった。フィンランドではイルッカ・クーシスト作曲のムーミン・オペラが1974年に国立オペラ劇場で上演され、スウェーデンでは1982年にストックホルム王立ドラマ劇場で冒険劇が上演された。舞台監督はヴィヴィカが務めた。スウェーデンのテレビ番組用の脚本も執筆した。1965年にはトーベ作詞、エルナ・タウロ(英語版)作曲の \"Höstvisa\" (フィンランド語 \"Syyslaulu\" 、日本語で『秋の歌』) がフィンランド国営放送音楽賞で3位を受賞した。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "トーベにとってムーミンの物語は、戦争中に自分の楽しみとして始めた趣味だった。しかし、ムーミン・コミックスのヒットによって絵画に使える時間が減ると、人々の期待とのバランスを取ることが悩みとなった。コミックス連載中の苦労については、のちに短編小説「連載漫画家」(『メッセージ』収録)で題材にした。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "小さい頃からスケッチブックや日記に家族や自分を描いた。トーベが展示した最初の作品は自画像で、1933年のヘルシンキで開催されたユーモリスト展で発表した。アテネウム時代に描いた『藤の椅子に座る自画像』(1937年)では、背後の壁に絵がかけられており、イーゼルがあり、画家としてのアイデンティティが強調されている。戦争をきっかけに家族から離れた1940年代に最も多数の自画像を描いており、『毛皮の帽子をかぶった自画像』(1941年)、『オオヤマネコの襟巻きの自画像』(1942年)などがある。画家としての再出発の際にも、手始めに自画像『初心者』(1959年)を描いている。1975年の最後の展示会でも自画像を発表した。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "家族や友人、パートナーの肖像も描いた。エヴァ・コニコフの肖像画のように、買い取られないように高値をつけることもあった。戦争中のヤンソン家を描いた『家族』(1942年)という作品もあるが、のちに自ら失敗作として評価している。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『ガルム』誌で描いた風刺画は人気を呼び、フィンランドでは一流の風刺画家としても知られた。『ガルム』の編集者ヘンリー・レイン(フィンランド語版、スウェーデン語版)との仕事は良好で、トーベは約24年間この雑誌に関わって表紙画を100枚、風刺画や挿絵を500枚ほど制作した。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1938年のミュンヘン会議をテーマにした絵では、ヒトラーを甘やかされた子供として描き、民族主義者の抗議を呼んだ。ソビエト連邦を風刺した1940年の絵では、スターリンに似た顔の兵士が検閲を受け、修正させられた。1944年のラップランド戦争をテーマにした絵では、複数のヒトラーがラップランドの街で略奪や破壊をしている。日本への原子爆弾投下から1年後の1946年8月には、核戦争を暗示する世界から平和の天使が去っていく絵を描いた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "トーベの作風は過激とみなされて検閲にかかった時もあったが、トーベ自身は『ガルム』の仕事で良かった点として、ヒトラーやスターリンに対して悪態をつけたことを挙げている。トーベは仕事が早く、『ガルム』で培われた技術は、他の新聞や雑誌の仕事にもつながった。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "第二次大戦後のヨーロッパでは、公共空間に芸術作品を展示するパブリック・アートの活動が起こった。トーベはパブリック・アートの技法を学んでおり、多くの依頼を受けた。1947年にヘルシンキ市庁舎の地下に2点のフレスコ画『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』、1949年にはフィンランド南部のコトカの幼稚園で7メートルの壁画を描いたほか、レストラン、社員食堂、工場、ホテル、学校、小児科病院などで制作した。最盛期は1953年で、その後70歳になっても描いた。『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』には、当時の恋人ヴィヴィカとトーベ自身をモデルにした人物や小さなムーミンも描かれている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1958年にルイス・キャロルの『スナーク狩り』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。トーベはこの作品を難解だけれど面白いと評価し、原作の詩だけを読み、他の挿絵を参考にせずに制作した。1965年にキャロルの『不思議の国のアリス』の挿絵を依頼されると、トーベは素晴らしい物語だと評価してホラー仕立てにする提案をした。トーベはキャロルの作品にはホラー的な要素があると考えていたが、出版社に反対された。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1961年にはトールキンの『ホビットの冒険』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。これはアストリッド・リンドグレーンからの依頼がきっかけだった。トーベはトールキンの作品にもホラーの要素を見出して魅力的だと考えたが、トーベの表紙案は子供向けではないと出版社が反対し、修正に応じた。できあがった本は結果的に注目されず、後年に挿絵は批判も受けた。トーベは、他の作家の挿絵なら誰の作品を描きたいかという質問で、エドガー・アラン・ポーと答えている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1960年代に画家として再出発をした際は、自然主義的な写実画から次第に変化していった。1950年代から1960年代のフィンランドでは抽象絵画が流行しており、1961年の国際展ではほとんどがアンフォルメルの作品の中で、トーベは静物画を出展した。写実画のスタイルを保ちつつも、次第に抽象化を進めていった。積極的に個展を開き、1960年から1970年までに5回の個展と1回の共同展を行った。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "トーベは自分の物語に人気がある理由として、「スクルット(ひとりぼっち)」について書いているからではないかと語っている。スクルットとは、どこにいても居心地が悪く、人の輪の外に立っている恥ずかしがり屋を指す。人間は幸せな時もどこかに恐怖感があり、それを認めることでシンプルな世界や穏やかな心を手に入れたり、恐れる気持ちを楽しむことができるとトーベは考えていた。そのためトーベの物語には不安や脅威が描かれている。当時は子供向けと大人向けの本が分かれていたが、トーベの作品は児童書として出版したムーミン・シリーズも大人が読んで楽しめる内容になっており、出版社が戸惑うこともあった。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "子供時代の1921年から1924年の間に作った本は14冊が残っており、番号が振られていて、作者名としてトーベ・マリカ・ヤンソンと書いてある。内容はおとぎ話やファンタジー、聖書風の設定や、お化けやぞっとするような出来事が多い。7歳で書いた『プリックはあっという間に息を引き取る』(1921年)は、プリックという犬の病気と死の話だった。『青い騎士』という本の裏表紙には、「トーベの少年少女向け作品」という刊行予定の作品リストがついていた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1934年に初の短編小説「大通り」を発表したのち、1〜2年に1作のペースで短編を書き続けた。1970年代から大人の読者を想定した物語を執筆し、初の小説集『聴く女』(1971年)を発表した。1970年代以降の小説には孤独や老い、精神の暗部やサスペンス、スリラーも描かれており、ムーミンでは描けなかったことやさらに発展させた内容が含まれている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "長編小説としては『誠実な詐欺師』(1982年)、『石の原野』(1984年)、『フェアプレイ』(1984年)の3冊を発表した。『誠実な詐欺師』は女友達との奇妙な関係、『石の原野』は新聞記者だった男の物書きについての苦悩、『フェアプレイ』は芸術家の関係をもとに共同生活の難しさを描いた。1970年代以降の小説には女性や男性の同性愛がしばしば描かれ、特別ではないこととして扱われている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "トーベは自伝そのものは書かず、自伝的な作品として、『彫刻家の娘』(1968年)や『島暮らしの記録』(1993年)を発表した。『彫刻家の娘』は子供時代を中心とした内容で、書名にある彫刻家とは父ヴィクトルを指す。『島暮らしの記録』はトゥーリッキとのクルーヴ島での暮らしが書かれており、トゥーリッキが挿し絵を描いた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1970年代から1990年代にかけてトゥーリッキとヤンソンが撮影した映像をもとにした映像作品として、『Matkalla Toven kanssa(トーベ・ヤンソンの世界旅行)』(1993年)、『Haru – yksinäisten saari(ハル、孤独の島)』(1998年)、『トーベとトゥーティの欧州旅行(Tove ja Tooti Euroopassa)』(2004年)のドキュメンタリー3部作がある。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "トーベとトゥーリッキは、ムーミン世界の模型を作った。きっかけは医師のペンッティ・エイストラが趣味で作ったムーミン屋敷のミニチュア模型を見せたことだった。2人はより大きなムーミン屋敷の模型に取りかかり、夏はクルーヴ島で作業をした。3年間をかけて2メートルの模型を完成させ、各地の展示会をめぐった。木工が得意なトゥーリッキはその後も制作し、ムーミン・シリーズの41の場面が模型になった。この屋敷は短編小説「人形の家」や、写真絵本『ムーミンやしきはひみつのにおい』のもとになった。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "制作において詳細なノートを作った。絵画の制作ノートでは、1930年代のスケッチブックに「金の皮と皮の染色」というタイトルで皮革の染色について書かれている。羊皮紙、ステンドグラスや特殊な素材、テキスタイル、油彩についての覚書もある。1943年のノートには「素材」というタイトルでバレットの手入れや、フレスコ画の技法について書いている。", "title": "制作環境" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "登場人物の登場の仕方や変化の仕方、展開などもノートに記録した。たとえば『ムーミンパパ海へ行く』の準備では、風向きが変わる時間や鳥の渡りについて書いている。絵本『それからどうなるの?』では印刷技術の指示、色の組み合わせについて書いている。", "title": "制作環境" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1944年から約60年間にわたって使ったウッランリンナ1番地の住宅兼アトリエは、ビルの最上階の角部屋にあり、天井は約7メートルあった。トーベはこのアトリエを気に入って多額の借金をして買い取り、絵画制作やムーミン・コミックスの連載によって返済した。かつてトーベが絵画を学んだハーゲルスタムが使っていた場所でもあり、トーベが入居した時期にはすでにハーゲルステムは戦死していた。", "title": "制作環境" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1960年頃にアトリエの改装をおこない、パートナーだったトゥーリッキの弟夫妻であるレイマとライリ・ピエティラ(英語版)が設計した。高窓の下にベンチを置き、天井に欄干を渡して吊り戸棚やロフトを追加した。螺旋階段は鏡がある部屋に続き、寝椅子、本棚、キャビネットがあった。アトリエ部分にはベンチ、テーブルと本棚、絵画や父ヴィクトルの彫刻、模型などが置かれた。キッチンとバスルームのどちらかしか置けず、トーベはバスルームを選んだ。改装が終わる頃にトゥーリッキが隣の建物に引っ越してきたので、アトリエとトゥーリッキの部屋を屋根裏の通路でつないだ。窓からはヘルシンキの海が見え、ロフトにベッドを置いていた。トーベは昼間から強い酒とタバコをたしなんでいたという。", "title": "制作環境" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "クルーヴ島の小屋では、1964年から1992年まで毎年の夏をトゥーリッキと暮らした。レイマとライリ・ピエティラが設計し、トゥーリッキが木材関係、トーベが石材関係を分担して建てた。ワンルームと地下室があり、2人はムーミンのパペット・アニメのための模型や人形を小屋で制作した。", "title": "制作環境" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ヤンソン家には、シグネの仕事の影響もあり蔵書が豊富だった。子供時代のトーベはセルマ・ラーゲルレーフ『ニルスのふしぎな旅』やルイス・キャロル、エルサ・ベスコフを読んだ。トーベは冒険譚が好きでラドヤード・キップリングの『ジャングル・ブック』を特に好んだ。子供時代に書いた物語『見えない力』は、ジュール・ヴェルヌやコナン・ドイル、エドガー・ライス・バロウズらにヒントを得ている。大人向けの作品では、エドガー・アラン・ポーの恐怖小説を9歳の時に読み、他にヴィクトル・ユーゴー、トーマス・ハーディー、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジョセフ・コンラッドなどを読んだ。", "title": "制作環境" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "トーベは蔵書票を自分でデザインし、職業、性別、情熱、海、錨などをシンボルとして描いた。ラテン語で「LABORA ET AMARE」と書かれており、文法的に正確ではないものの「働け、そして愛せよ」というメッセージだった。", "title": "制作環境" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "トーベは読者から届く手紙に全て目を通し、自分で返事を書いた。時間はかかったが、返事を書かない方が負担になると考えていた。手紙のやりとりは、「文通」、「クララからの手紙」、「メッセージ」(いずれも『メッセージ』収録)などの小説の源泉にもなった。最多では年間2000通に達した。", "title": "制作環境" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "スウェーデンのストックホルム出身のシグネ(愛称ハム)と、フィンランドのヘルシンキ出身のヴィクトル(愛称ファッファン)は、ともに伝統とは異なる価値観を持っていた。シグネは自らを婦人参政権論者と呼び、ヴィクトルは一族の反対を押し切って芸術家の道を選んでいた。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "画家でデザイナーのシグネは、トーベが最初に絵を教わった人物でもあった。トーベはシグネから勤勉さも学んだ。シグネはフィンランド銀行の紙幣の絵を描き、切手デザイナーとしても活動した。本の装丁では自分の手がけた本が同時に並ぶことを意識して、それぞれ画風を変えていた。挿絵では『ガルム』誌に創刊から関わり、『ガルム』の仕事はトーベに引き継がれていった。他方で女性の芸術家は夫の陰にかくれて評価されない風潮にあり、父の要求に従う母を見て、トーベは女性の社会的な立場について考えるようになった。シグネはムーミンママのモデルだとトーベは語っている。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "彫刻家のヴィクトルは、線が柔らかい女性像や、繊細な子供像を多く制作した。トーベをモデルにした彫刻作品も何点か制作している。ヴィクトルはフィンランド内戦では政府側の白衛隊(フィンランド語版)に属して戦い、内戦の経験でふさぎがちになり、親ドイツ的でユダヤ人を嫌った。シグネは夫について「戦争で壊れてしまった」とも表現した。トーベとヴィクトルは政治について意見が合わず、関係を修復するのは第二次大戦後となった。トーベによれば、ヴィクトルは悲観的な性格だったが、嵐が近づくと別人のように好奇心旺盛で面白くなり、子供を連れて冒険に出かけたという。ヴィクトルの作品は、エスプラナーディ公園(英語版)やカイサニエミ公園(英語版)に展示されており、トーベの墓石にもヴィクトルの彫刻が使われている。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "トーベは長女であり、弟のペル・ウーロフ・ヤンソンとラルス・ヤンソンがいた。ペル・ウーロフは短編小説集『若き男、ひとり歩く』(1945年)でデビューしたのちに写真家となった。写真絵本『ムーミンやしきはひみつのにおい』(1980年)では、ペル・ウーロフが撮影したムーミン屋敷の写真が使われている。その他にも、『彫刻家の娘』や『少女ソフィアの夏』などトーベの作品に写真を提供した。ペル・ウーロフによれば、トーベはスポーツ選手のような体格で良い被写体だったが、写真に撮られることがとても苦手だったという。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "末弟のラルスは15歳で冒険物語『トルトゥガの宝』(1941年)を発表して好評となり、『支配者』(1945年)や『我は我が不安なり』(1950年)など執筆を続けつつ、1940年代はトーベと『ガルム』誌で共作をした。ラルスはムーミン・コミックスの連載当初からトーベを手伝っており、トーベが連載を悩んだために後任となって連載を続けた。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "シグネの兄弟にあたるスウェーデンの叔父たちは冒険が好きで探検家気質の者が多く、子供時代のトーベに影響を与えた。ストックホルム工芸専門学校の生徒時代は、地元にいた叔父のエイナルやウロフのもとで暮らした。トーベは短編「我が愛しき叔父たち」(『メッセージ』収録)などで彼らをモデルにした。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "伯母のエルサはドイツ人牧師のフーゴと結婚してドイツで暮らしており、トーベはフランスやスイスを旅行する際にエルサの家を拠点にした。エルサは、ナチス・ドイツ政権下の事情を手紙では書けないので、見たことをシグネに伝えて欲しいとトーベに話した。トーベは当時の体験を短編「カーリン、わたしの友達」(『メッセージ』収録)に書いている。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "弟ラルスの娘でトーベの姪にあたるソフィア・ヤンソンは、長編小説『少女ソフィアの夏』(1972年)のモデルになった。『少女ソフィアの夏』は、ソフィアの他にラルスとシグネをモデルとする登場人物が中心となり、家族で夏をすごした小島が舞台となっている。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "写真家のエヴァ・コニコフは生涯を通じた親友だった。エヴァはロシア革命によってフィンランドに亡命したユダヤ人で、第二次大戦時にアメリカへ亡命した。2人は文通で交流を続け、トーベは文通を題材にした短編「コニコヴァへの手紙」(『メッセージ』収録)を書いている。トーベがトゥーリッキと世界一周旅行をした際、2人はニューヨークで再会した。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "画家のサミュエル・ペプロスヴァンニは、1935年にトーベと知り合い交際した。トーベはサミュエルを題材とした木炭画やカレワラ風の作品を制作し、サミュエルは1940年にトーベの肖像を木炭画で描いた。トーベはサミュエルを芸術家として尊敬したが、サミュエルの喋りすぎる癖は苦手だった。サミュエルは年長者でユダヤ人であったため、2人の交際を知った両親はショックを受け、トーベは両親の反応を悲しんだ。サミュエルは、トーベの短編「サミュエルとの会話」(『メッセージ』収録)にも登場している。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "画家・デザイナーのタピオ・タピオヴァーラは、トーベとアテネウムで知り合い、第二次大戦の頃に交際した。トーベにとって、タピオはフィンランド語を母語とする初めての親しい友人でもあった。トーベが自立を望み、子供を望むタピオとは意見が異なったため1942年に関係は解消された。タプサという愛称で、トーベの短編「卒業式」(『メッセージ』収録)などに登場している。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "哲学者・政治家のアトス・ヴィルタネンは、第二次大戦中から戦後にかけてトーベと交際した。きっかけはアトスが屋敷で開催したパーティーで、トーベはバイタリティがありパーティー好きなアトスに魅力を感じた。しかし当時のフィンランドにおいてカップルの同棲は「狼夫婦」と呼ばれて非難され、しかも女性に非難が向けられる傾向にあった。このためにトーベはアトスと結婚しない点を周囲から意見されることもあった。トーベは一時はアトスとの結婚を考えるが、アトスは常に多忙でトーベと過ごす時間が短く、友人関係へと変わっていった。広い帽子とパイプを持ち、放浪を続けるアトスは、ムーミン・シリーズのスナフキンのモデルにもなった。アトスは政治的には左派で地下活動の経験があり、1944年のトーベの記録では夕食をしながら襲撃を心配したことも書かれている。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1940年代に交際した舞台監督のヴィヴィカ・バンドレルは、トーベにとって初の同性の恋人だった。当時は法律上の問題もあり、2人は交際を隠していた。2人の関係が解消したのちも、ヴィヴィカはトーベと共に仕事をし、アドバイスを与えた。『たのしいムーミン一家』(1948年)には、トーベとヴィヴィカをモデルにしたトフスランとヴィフスランというキャラクターが登場する。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1950年代からパートナーとなったのは、グラフィック・アーティストのトゥーリッキ・ピエティラだった。2人はクルーヴ島で暮らし、世界一周旅行をはじめ各地を旅した。トゥーリッキはムーミン谷博物館(フィンランド語版)に納められた数多くのムーミンフィギュアやムーミン屋敷の制作でも知られ、『ムーミン谷の冬』(1957年)に登場するトゥーティッキー(おしゃまさん)のモデルになっている。トーベは『ムーミン谷の冬』を執筆できたのはトゥーリッキのおかげだと語っている。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ヤンソン家は動物とも暮らした。大戦後の物々交換での勘違いがきっかけで猿がやって来て、父ヴィクトルが世話をした。ヴィクトルと猿の関係はトーベの小説『彫刻家の娘』にも描かれている。黒猫のプシプシーナは、トーベのアトリエとトゥーリッキの部屋を行き来していた。プシプシーナは『島暮らしの記録』に登場している。", "title": "家族、交友関係" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ムーミン・コミックスの連載は1954年に始まり、最盛期は40カ国の新聞に掲載され、読者は2000万人に達した。ムーミンは子供も大人も楽しめる作品として人気を得たが、他方で児童書は子供向けにのみ書くべきだという批判があり、ムーミンに対する反対運動も起きた。1949年の舞台版ムーミンの表現をめぐっては、子供の親から苦情が寄せられた。トーベは解釈は観客のものという持論だったが、子供向けとして適切な表現ではないという批判には「そうなると「ひどい」という言葉自体を禁じなければならない」というコメントを掲載した時もあった。『ムーミン谷の冬』出版後は数々の受賞によって評価が高まり、ムーミン流のライフスタイルは読者にとって憧れにもなった。1950年代のトーベはアカデミックな場での朗読会や講演に頻繁に出席したが、消耗を避けるために1960年代以降は学生からの申し出を断るようになった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "トーベが活動した当時のフィンランドにおいて、芸術家といえば男性を指す風潮があり、美術界での評価は遅れた。芸術レビューである『フィンランド美術』の1970年版にはトーベ自身の項目はなく、父ヴィクトル・ヤンソンの項目で『彫刻家の娘』の著者として紹介されていた。1998年の改訂版で、トーベは自身の作品とともに掲載され、国際的なイラストレーターと説明された。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "トーベがスウェーデン語系のフィンランド人であることから、スウェーデンとフィンランドを中心に研究が進められている。トーベの作品が本格的に文学研究の対象となったのは1980年代以降だった。画家やコミック作家の面からの研究もなされている。1994年8月にタンペレでトーベに関する初の国際会議が開催され、その一環として80歳の誕生日を記念する個展も催された。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "性的平等を目標に活動する北欧諸国の団体は、トーベを先駆者として評価している。1980年代以降のジェンダー研究を受け、セクシュアリティの面からの研究もなされるようになった。トーベは研究者に協力して、論文発表会にも参加した。トーベとトゥーリッキは大統領官邸などの公の場に同席し、独立記念祝賀会に招待されたフィンランド史上初の同性愛カップルとなった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "トーベは自分の記録を管理し、資料の多くを寄贈している。草稿と読者からの手紙はオーボ・アカデミー大学に贈った。ムーミン・シリーズの原画は、タンペレ市美術館に約2000点を寄贈した。研究者に渡す資料も管理し、誰に何を送ったかも記録した。ノートには自作の情報を記録し、よく聞かれる質問に対する答えも用意していた。", "title": "資料、伝記" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "トーベの伝記として、スウェーデンでは文学研究者ボエル・ヴェスティン(スウェーデン語版)による『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』(2007年)、フィンランドでは美術史家トゥーラ・カルヤライネン(フィンランド語版)による『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』(2013年)などが刊行された。2020年にはフィンランドで伝記映画『TOVE/トーベ(英語版)』が制作された。30代から40代にかけてのトーベを描いており、ザイダ・バリルート(英語版)が監督し、トーベ役はアルマ・ポウスティ(英語版)が演じた。", "title": "資料、伝記" } ]
トーベ・マリカ・ヤンソンは、フィンランドのヘルシンキ生まれのスウェーデン系フィンランド人の画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家。日本語表記にはトーヴェ・ヤンソンもある。 創作領域は絵画、小説、コミックス、脚本、詩、作詞、広告など多岐にわたり、『ムーミン』シリーズの作者として世界的に有名となった。読者層は幅広く、「9歳から90歳まで」とも表現される。フィンランドでは画家としての評価も高く、水彩画や油彩画、雑誌の風刺画や公共建築の壁画など多くの作品を残している。
{{Infobox 作家 | name = トーベ・ヤンソン<br />''Tove Jansson'' | image = Tove Jansson with flower crown 001.tiff | image_size = 200px | caption = | birth_date = {{生年月日と年齢|1914|8|9|no}} | birth_place = {{FIN1809}} [[ヘルシンキ]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1914|8|9|2001|6|27}} | death_place = {{FIN}} ヘルシンキ | occupation = [[画家]]・[[小説家]]・[[児童文学作家]] | nationality = {{FIN}} | language = [[スウェーデン語]] | notable_works = 『[[ムーミン]]』シリーズ | awards = [[国際アンデルセン賞]] | signature = Tove Jansson signature.svg }} '''トーベ・マリカ・ヤンソン'''(Tove Marika Jansson {{IPA-sv|tuːve mariːka jɑːnsɔn||Sv-Tove_Jansson.ogg}}[[1914年]][[8月9日]] - [[2001年]][[6月27日]])は、[[フィンランド]]の[[ヘルシンキ]]生まれの[[スウェーデン系フィンランド人]]の[[画家]]、小説家、[[ファンタジー]]作家、[[児童文学]][[作家]]。日本語表記には'''トーヴェ・ヤンソン'''もある{{Sfn|冨原|2014|p=}}。 創作領域は絵画、小説、コミックス、脚本、詩、作詞、広告など多岐にわたり、『[[ムーミン]]』シリーズの作者として世界的に有名となった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=291-292}}。読者層は幅広く、「9歳から90歳まで」とも表現される{{Sfn|ヤンソン|1991|p=228}}。フィンランドでは画家としての評価も高く、水彩画や油彩画、雑誌の風刺画や公共建築の壁画など多くの作品を残している。 == 生涯 == === 幼少期 === [[1914年]][[8月9日]]、[[フィンランド大公国]][[ヘルシンキ]]で生まれた。母親は[[スウェーデン=ノルウェー]]出身の画家の[[シグネ・ハンマシュティエン=ヤンソン]]{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=34-36}}、父親はスウェーデン語系フィンランド人の彫刻家の{{仮リンク|ヴィクトル・ヤンソン|en|Viktor Jansson}}だった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=35-37}}。1910年、シグネとヴィクトルは[[パリ]]の[[グランド・ショミエール芸術学校]]に留学した時に出会い{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=37, 40-41}}、1913年に結婚して[[モンパルナス]]で生活を始めた{{Sfn|冨原|2009|pp=38-39}}。しかし生活費がかさんで国からの留学資金が尽きるという経済的な事情や、1914年の[[第一次世界大戦]]の勃発によって、フィンランドへと引っ越した{{efn|フィンランドは[[スウェーデン|スウェーデン王国]]による統治から1809年に[[ロシア帝国]]による統治に移り、大公国として一定の自治を行なったが、外交と軍事の決定権はなかった{{Sfn|石野|2017|pp=49, 53}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=38-39}}。フィンランドでは[[フィンランド語]]と[[スウェーデン語]]が公用語だったが、スウェーデン語の話者は少なく、ヤンソン家は言語面で少数派だった{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=62}}。 トーベが誕生した8月9日は日曜日で、シグネは翌8月10日に「私たちの日曜日の子についての本」を書き、娘の姿を似顔絵と文章で表した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=10-11}}。トーベという名前は、北欧神話の神[[トール]]に由来するデンマーク系の表記から付けられた{{efn|命名の際、ヴィクトルは第一次世界大戦でのドイツの勝利を願ってヴィクトリアと名づけようとし、シグネの反対でトーベに決まった{{Sfn|冨原|2009|pp=39-40}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=39-40}}。シグネがスケッチをした1歳半のトーベはテーブルの紙に絵を描いており、歩くより前に描くことを覚えていた様子がうかがえる{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=12-13}}。 フィンランドは1917年2月の[[フィンランド独立宣言|独立宣言]]でロシアから独立し、1918年には[[フィンランド内戦]]が起きた{{efn|独立前の19世紀末から資本家を中心とする集団と、労働者を中心とする集団が対立していた。前者が白衛隊、後者が赤衛隊だった{{Sfn|石野|2017|pp=105-107}}。}}{{Sfn|石野|2017|pp=105-107}}。ヴィクトルも兵士となり、シグネは戦火を避けて娘とともに故郷のストックホルムで暮らした。シグネはトーベの写真や、トーベが描いた絵を戦地のヴィクトルに送った{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=10-14}}。ヴィクトルは戦地からの手紙で、娘が芸術家になると思うと書き残している{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=8}}。幼少期のトーベは、シグネの仕事を見ているうちに真似をするようになり、やがて話を考えるところから本を作るところまでを1人でするようになった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=67-68}}。 === 子供時代、作家デビュー === [[File:Tove Jansson 1923.jpg|thumb|1923年のトーベ]] ヤンソン家はヘルシンキのルオッツィ通り4番のアトリエで暮らしたのち、芸術家向けの集合住宅ラッルッカに引っ越した{{efn|ラッルッカは寄付によって建てられた住宅で、芸術家が創作に集中できるように安い賃料で入居できた。エテライオン・ヘスペリア通りとアポロ通りに面しており、ヤンソン家の他にはマルクス・コリンとエヴァ・トルンヴァル・コリン夫妻、エッレン・シェレフ、エステル・ヘレニウスらが入居した{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=57}}。}}。トーベや弟たちは、芸術と家庭が混ざり合う環境で育った{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=53-57}}。ヴィクトルの彫刻家としての生計は不安定で、作品の依頼と助成金の他ではコンペの賞金が重要だった。シグネは1924年に[[フィンランド銀行]]印刷局のパートに採用され、それが家庭で唯一の定収入だった{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=62}}。1920年代のシグネは小説、詩集、辞典などの挿絵も描いていた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=73-75}}。トーベは子供の頃から家計を心配し、絵の仕事で母を助けたいと口にしたり、日記に書いている{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=61-62}}。 学校はコルケアヴオリ通り23番にあり、ヴィクトルの母校でもあるスウェーデン語系の共学校だった。しかしトーベには規律と詰め込み教育が合わず、のちに「学校のことでよい記憶はほとんどない、というよりも、ほとんど記憶がない」と語っている{{Sfn|冨原|2009|p=165}}。トーベはロフトを使って挿絵付きの冊子を自作し、1927年に『サボテンのこぶ』、1928年に『クリスマスソーセージ』という雑誌を作って学校で販売した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=71-72}}。夏になると、ヤンソン家はスウェーデンの親戚がいるペッリンゲ群島のブリデー島に行き、トーベは島の暮らしを好んだ{{efn|トーベはボートで2日間かけて島を1周する一人旅を計画し、ヴィクトルは反対したがシグネは賛成して娘を送り出した{{Sfn|ヤンソン|1991|p=233}}。}}{{Sfn|ヤンソン|1999|pp=160-161}}。ペッリンゲ群島での体験は、のちのムーミン・シリーズなどの作品の題材となった{{efn|トーベは「島」(1961年)というエッセイで島の魅力について書いており、[[D・H・ロレンス]]の小説『島を愛した男』も読んでいた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=441-442}}。}}{{Sfn|高橋, 渡部編|1996|p=343}}。 1927年にヒューヴドスタッドブラーデット紙がヤンソン家の取材に訪れた際、トーベは記者のエステル・オーケソンと知り合った{{efn|取材記事には、ヤンソン家について「世界で最も楽しいアトリエハウス」という見出しが付けられた{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=54}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=54-56}}。オーケソンの仲介で、トーベは14歳の時にスウェーデン語系の週刊誌『アッラス・クレーニカ(みんなの記録)』に詩と絵を発表し、これが作家デビューとなった。1928年5月には[[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム|マンネルヘイム]]大統領の讃歌を制作し、作者名はトット(Totto)という若い女性として紹介された{{Sfn|冨原|2009|pp=179-180}}。 1929年11月には政治風刺を中心とするスウェーデン語系の雑誌『[[ガルム (雑誌)|ガルム]]』に最初の風刺画が掲載された{{efn|雑誌名のガルムとは、[[北欧神話]]に登場する冥界の番犬[[ガルム]]に由来する。シグネによってキャラクター化されて表紙に描かれた{{Sfn|冨原|2014|p=72}}。}}{{Sfn|冨原|2009|p=180}}。絵につける文章はシグネとともに考え、出版記録をつけ始めた{{efn|祖母エリン・ハンマルステンが危篤となってシグネがストックホルムに帰った際には、トーベがシグネの代役として『ルンケントゥス』誌の表紙と裏表紙を描いた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=67-69}}。}}。オーケソンの担当によって同誌で絵物語の連載が始まり、『プリッキナとファビアナの冒険』という2匹の幼虫を主人公にしたラブコメディーだった。作者名にはトーベ(Tove)が使われ、プロとしてのスタートとなった。トーベは作品が家計の助けになることを経験したが、印刷された表紙の出来が想像と違っていたため失望した。それ以降、色などの指示を編集者や出版社、印刷担当者に伝えるようになった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=68-70}}。 挿絵や物語の仕事と並行して、本の自作を続けた。物語への関心が高まったトーベは、『見えない力』というノート2冊分の長い物語も描くようになった。出版社に作品の持ち込みを始め、『{{仮リンク|サラとペッレと水の精のタコ|fi|Seikkailu merenpohjassa}}』という作品はティグルマン社で出版が決まる。しかし企画は5年間延期され、1933年に出版された時の作者名はヴェーラ・ハイとなった{{efn|その頃にはトーベはヘルシンキのアテネウムで画家として勉強しており、過去の冒険譚を自分の名で発表したくなかったとされる{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=73-74}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=73-74}}。 === 工芸専門学校、アテネウム === 1930年5月にトーベは学校を自主退学し、9月30日にシグネの母校でもある{{仮リンク|ストックホルム工芸専門学校|sv|Konstfack}}に入学した。叔父のエイナルの家から通学し、女子学生クラスB部で美術学生として広告やデザインを勉強して技法の授業を特に楽しみとした{{efn|フリーハンドのドローイング、人形のドローイング、絵画、レタリング、遠近法、立体物の構造、工芸としての絵画について学んだ{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=77-80}}。}}。型にはまった授業や生活には慣れなかったが、芸術家を目指す仲間との出会いは楽しんだ。家計を助けたいという考えもあり、進級について悩み続けた{{efn|入学翌年の日記では、「たしかに16歳にして早くも自分の天職(ふう!)が決まっているというのはありがたい。それ以外にどんな道があるというのか」と書いている{{Sfn|ヤンソン|1995|p=243}}。}}。進級後は美術工芸と印刷を学び、1933年に修了した際には装飾絵画で最高成績が与えられた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=79-82}}。絵画クラスには名物教授として知られるオスカル・ブランドベリがおり、ブランドベリはトーベの[[テンペラ画]]を見て美大への受験を薦めた。しかし、トーベは美大を受験せず、卒業後は家族のもとへ帰ることを決める{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=85-88}}。トーベが1933年に工芸専門学校を卒業した際、旅費の問題でシグネは卒業式に出席できなかった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=62-63}}。 1933年に帰国したトーベはヘルシンキで家族と暮らし、ヴィクトルの母校でもある{{仮リンク|フィンランド芸術協会美術学校|fi|Taideyliopiston Kuvataideakatemia}}(アテネウム)に通った。アテネウムもトーベにとって居心地は良くなかったため、休学をへて夜間コースを選んだ{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=89-93}}。アテネウムに通いながら挿絵、表紙、ポスター、絵葉書、装飾、宣伝などの仕事を手がけ、画家としての収入が増えていった{{Sfn|冨原|2009|pp=173-174}}。文章も書き続けており、1934年には最初の短編小説「大通り」を執筆して『ヘルシンキ・ジャーナル』に掲載された{{Sfn|ヤンソン|1995|p=243}}。1935年に画家のサミュエル・ペプロスヴァンニ({{仮リンク|サム・ヴァンニ|fi|Sam Vanni}})と知り合い、交際した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=93-95}}。のちに交際する{{仮リンク|タピオ・タピオヴァーラ|fi|Tapio Tapiovaara}}ともアテネウムで出会っている{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=80}}。 アテネウムの絵画コースでは性差別を経験した。男性が優先される状況によってクラスの女性は減っていき、トーベとエヴァ・セーデルストレムの2人だけとなった。トーベは1935年春の絵画コースで1等を獲得したが、12月の展示では男性の作品の方が良い場所に飾られた。校内で起きたフィンランド語とスウェーデン語に関する{{仮リンク|フィンランドにおける言語闘争|fi|Suomen kielipolitiikka|label=言語闘争}}もトーベを悩ませた{{efn|内戦後のフィンランドでは、国内統一のためにフィンランド語を第1言語にすることを目標とした純正フィンランド運動が起きた。それまでラテン語とスウェーデン語だった大学の教育言語をフィンランド語とすることを求める運動も起き、事態は1937年の大学の言語法で収拾された{{Sfn|石野|2017|pp=133-134}}。}}。トーベは「ここで続けても何にもならない」と日記に書き、学生仲間とタハティトルニ通りにアトリエを構えた。ここがトーベにとって最初の自分のアトリエとなる{{efn|トーベと共にアトリエを借りたのは、ルナル・エングブロム、クリスティアン・シベリウス、ウント・ヴィルタネンの3人だった{{Sfn|冨原|2009|pp=172-173}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=98-100}}。欠席や休学を繰り返してアテネウムを卒業したあとは、より自分に合った自由芸術学校に入学した{{efn|自由芸術学校の設立や、フィンランド芸術界における女性の地位向上には、現代美術を支援した実業家{{仮リンク|マイレ・グリッセン|en|Maire Gullichsen}}の貢献があった。マイレは[[アルヴァル・アールト]]、[[アイノ・アールト]]夫妻らと[[アルテック (家具)|アルテック]]を共同設立し、国外の作家も紹介する展覧会を開催した{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=40-41}}。}}。この学校は現代美術の動向や国際性を重視しており、トーベは{{仮リンク|ヒャルマル・ハーゲルスタム|fi|Hjalmar Hagelstam}}らに学んだ{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=37, 41-42}}。1935年に画家協会会員、1937年には芸術協会会員に属し{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=91-92}}、1930年代にはヤンソン家は芸術家一家として取材を受けるようになった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=56-60}}。 === 遊学 === フィンランド国内の言語闘争が続いていた1938年1月、トーベはパリで生活を始めた。留学費用は、クレヨン・コンテ社の絵画コンクールに入賞した賞金などでまかなった{{Sfn|冨原|2009|p=176}}。モンパルナスとセーヌ川の左岸を拠点とし、日中は[[リュクサンブール公園]]で過ごした。家族に向けた手紙には地図を描いて送り、学んだことをフランス語で記録した。この時期に、かつて両親が住んでいたモンパルナスの一角も訪ねている{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=101-102}}。 フィンランド人の芸術家が集まる{{仮リンク|サン・ジャック通り|fr|Rue Saint-Jacques, Paris}}のオテル・デ・テラスに引っ越したトーベは、美術学校の[[エコール・デ・ボザール]]に入学した。[[アンリ・マティス]]を敬愛するトーベは、マティスにゆかりがある学校として期待していたが、教授の指導や先輩との関係になじめず2週間で通うのをやめた{{efn|この時期のトーベは、マティスの他に[[シュザンヌ・ヴァラドン]]の色使いや構図にも影響を受けた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=103-108}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=176-177}}。他方でスイス人のアドリアン・オリーが設立したアトリエでは自分のペースで制作ができたので、トーベはそこに留まった。オリーは芸術家自身に自分の道を決めさせる教育方針をとっており、トーベが自分のスタイルを決める助けになった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=103-108}}。6月には[[ブルターニュ]]も旅行した{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=112}}。 1939年には新たな奨学金を得て[[イタリア王国]]を旅行し、パドヴァやフィレンツェの美術館、博物館、修道院、教会をめぐった。トーベは[[ジョット・ディ・ボンドーネ|ジョット]]をはじめとするルネサンス芸術を好んだ。イタリア旅行の時期には戦争の気配も近づいており、[[黒シャツ隊]]や[[ナチス・ドイツ]]を批判する意見を書き残している{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=115-120}}。イタリアで最も印象に残ったのは[[ヴェスヴィオ火山]]の噴火と月の光で、手紙で詳しく描写している{{efn|ヴェスヴィオ火山の光景は、『ムーミン谷の彗星』のもとになった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=46-47}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=46-47}}。 === 第二次大戦期 === イタリアからフィンランドに帰って1ヶ月後の1939年9月に[[第二次世界大戦]]が始まった。弟のペル・ウーロフやラルス、友人たちが招集されて兵士となり、1941年に[[ソビエト連邦]]と[[継続戦争]]が始まった{{efn|フィンランドは1939年にソ連と[[冬戦争]]を戦っていた。その後、ソ連に侵攻する[[ドイツ国防軍]]の領内通過を認める代わりにナチス・ドイツの支援を受けた。このためソ連との戦争が再び起き、継続戦争と呼ばれた。ドイツへの協力を反対する勢力もあったが、政府の方針は変わらなかった{{Sfn|石野|2017|pp=161-165}}。}}。トーベは写真家のエヴァ・コニコフと親友になるが、フィンランド政府は[[ナチス・ドイツ]]と協力していたため、ユダヤ人のエヴァは[[アメリカ合衆国]]へ亡命した。トーベは自分のアトリエでパーティーを催して戦争以外のことに関心を向けようとし、他方でエヴァに手紙を書いて心の支えにした{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=128-136}}。開戦の頃からタピオ・タピオヴァーラと交際したが、意見が異なったため関係は解消された{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=141-144}}。トーベは政治的な意見の違いでヴィクトルと対立し、1942年には口論が原因でヴァンリッキ・ストール通り3番地にアトリエを借り、家族と離れて住んだ{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=154-155}}。 1943年には哲学者で政治家の{{仮リンク|アトス・ヴィルタネン|fi|Atos Wirtanen}}と知り合い、交際した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=172-175, 228}}。 パリ生活をヒントにして芸術家の暮らしを書いた短編「あごひげ」などの作品が好評を呼び、トーベの名は次第に知られていった。また、『ガルム』誌の風刺画はヒトラーや[[スターリン]]も題材にして、風刺画家として人気を呼んだ。のちのムーミンとなるキャラクターも『ガルム』で1943年に初登場した([[#ムーミン・シリーズ|後述]]){{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=123-126}}。親戚や友人に会うことを避け、戦意高揚的なものからは距離を置いて制作に集中した{{efn|アテネウムで代理教師も務めたが、空襲警報によって30分ほどで授業は終わり、すぐに辞めている。トーベ自身は「評価をするって最悪」と書き残した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=156-157}}。}}。空襲対策の灯火制限の中でも制作を続け、1943年にはレオナルド・バックスバッカのギャラリーで最初の個展を開き、戦時中に80点以上の絵画を売った{{efn|戦争中は慢性的な物不足で、貨幣はインフレーションの恐れがあった。貨幣よりも価値の下がらない投資対象として芸術作品は人気が上がり、トーベの絵画も売れた。しかし戦後は売れ行きが急減し、絵画と必需品を物々交換した時もあった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=78-79}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=158-159}}。1944年には{{仮リンク|ウッランリンナ|fi|Ullanlinna}}1番地のアトリエに移った{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=42}}。トーベは塔のように天井が高いアトリエに満足し、このアトリエを生涯を通して使うことになった{{efn|ソ連軍の爆撃でアトリエの窓が割れた時は、「圧倒的な地獄」と書き残した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=210-213}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=168-171}}。イラストをはじめとして多くの仕事を手がけたが、経済的には苦しく、この状況はムーミン・コミックスの連載が始まるまで続いた{{efn|戦時中は投資対象だった作品が売れなくなり、アトリエ購入の借金返済や税金の未払いがあり、奨学金を申請しても資金は入らなかった{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=283}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=282-283}}。 === ムーミン・シリーズの制作 === [[File:Tove Jansson 1956.jpg|thumb|1956年のトーベ]] トーベは以前からスノークと呼んでいたキャラクターを、1944年春に[[ムーミントロール]]としてあらためて物語に書いた。原稿を読んだアトスは好意的なコメントをして、5月になるとトーベは原稿をセーデルストレム社に持ち込んだ。1945年に最初のムーミンの物語が『小さなトロールと大きな洪水』という書名で出版され、スウェーデンでもハッセルグレン社から出版された{{efn|トーベは『ムーミントロールの不思議な旅』や『ムーミントロールと大きな洪水』というタイトルを考えていたが、[[トロール]]について知らない人が多く、ムーミントロールでは誰にも分からないということで出版社の案が採用された{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=207}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=189-195}}。フィンランドではトーベは有望な芸術家とみなされていたが、『小さなトロールと大きな洪水』の出版時に書評をしたのはグールドン・モーネだけだった{{efn|モーネの作ったおとぎ話にトーベが挿絵を描いたことがあり、モーネはトーベについて既知の関係にあった{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=213}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=213}}。スウェーデンでは『小さなトロールと大きな洪水』は注目されなかった。当地では同年に出版された[[アストリッド・リンドグレーン]]の『[[長くつ下のピッピ]]』が人気を呼んでおり、戦争の影響がない『ピッピ』に対して、『小さなトロール』は戦争の影響が見て取れるため系統が違うと解釈されたのが原因だった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=209-210}}。 ムーミンの物語はトーベの励みになり、2作目の執筆を始める。トーベはアトスとともに彼の故郷の[[オーランド諸島]]を訪ねて、北部の{{仮リンク|サルトヴィーク|en|Saltvik}}で1945年の夏をすごし、オーランドの風景をムーミンの世界に活かした。当初のタイトルは『ムーミントロールと恐怖の彗星』で、アトスはトーベの草稿に肯定的なアドバイスを書き、トーベは執筆に熱中した。1946年秋に2作目が『彗星追跡』(のちの『ムーミン谷の彗星』)というタイトルで出版された頃には、トーベは3作目の『たのしいムーミン一家』の執筆を始めていた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=215-216}}。1946年の秋には、演出家の{{仮リンク|ヴィヴィカ・バンドレル|en|Vivica Bandler}}と出会った{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=240-241}}。トーベにとってヴィヴィカは初の同性の恋人となった。トーベはヴィヴィカによって絵が豊かになり、無駄な名誉欲から解放されたと感じた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=124-130}}。 『彗星追跡』もセーデルストレム社で出版されたが、初版の売り上げは芳しくなく続編が検討されなかったため、『たのしいムーミン一家』の原稿はシルツ社に持ち込んだ{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=255}}。1947年10月からは最初のムーミン・コミックスにあたる『ムーミントロールと地球の終わり』の連載を『{{仮リンク|ニュー・ティード|en|Ny Tid (Finland)}}』誌で始めた。連載は1948年4月まで掲載されて好評となり、書籍のファンも増えていった{{efn|小学生が「どうして新しいムーミンの本が出ないのか?」という意見書で署名を集めてトーベのもとに持ってきたこともあった{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=239}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=239-240}}。3作目の『たのしいムーミン一家』は1948年のクリスマス商戦で出版され、スウェーデンでは1949年にフーゴ・イェーベル社が出版し、多くの評論家が高く評価した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=259-260}}。1950年には『たのしいムーミン一家』の英訳がイギリスのベン社から出版され、1951年にはアメリカでも出版された。イギリスの新聞『{{仮リンク|イブニング・ニュース (新聞)|en|The Evening News (London newspaper)|label=イブニング・ニュース}}』はムーミンの連載漫画を申し出て、経済的な利点を重視したトーベは契約を交わした。1954年に連載が始まったムーミン・コミックスは世界的に読まれるようになった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=233-237}}。スウェーデンやイギリスで人気が出た影響を受けて、フィンランド語への翻訳も進んだ{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=199}}。しかしムーミン・コミックスは連載の重圧や他の活動との掛け持ちのためトーベにとって苦痛となり、弟のラルスが1960年から1975年まで連載を引き継いだ{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=310-311}}。 1958年にヴィクトルが亡くなった。『ムーミンパパ海へいく』(1965年)は「ある父親に捧げる」と書かれており、ヴィクトルを指している{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=283-285}}。1970年にシグネが亡くなり、以前から執筆を進めていた『ムーミン谷の十一月』(1970年)を発表した。小説としてのムーミン・シリーズは終了し、以後のトーベは大人向け小説の執筆を続ける{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=291-292}}。 === 島での生活、晩年 === [[File:Klovharu hut.jpg|thumb|トーベとトゥーリッキが暮らしたクルーヴ島]] トーベは1947年からブレッドシャール島で夏をすごすようになった。ラルスの協力で「風配図」と呼ぶ小屋を建て、旗にはムーミンを描いた。島の暮らしはトーベに平安をもたらしたが、次第に住む人数が増えて手狭になった{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=127}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=316}}。1955年にフィンランド芸術協会のクリスマスパーティで[[トゥーリッキ・ピエティラ]]と出会い、1956年にトゥーリッキはブレッドシャール島のトーベの住まいを訪れた。トーベとトゥーリッキは芸術の方向性が異なっていたが人生の価値観は共通しており、同棲生活を始めた。2人とも手作業を好み、旅行やビデオ撮影、のちには縮尺模型を共通の趣味とした。ムーミンの人気によってブレッドシャール島への記者やファンの訪問が増えると、トーベとトゥーリッキは離れ小島の{{仮リンク|クルーヴ島|fi|Klovaharun}}(小さな小さな獣の爪岩島{{Sfn|ヤンソン|1993|p=298}})に小屋を建てて移り住んだ。2人は夏をクルーヴ島ですごし、冬はヘルシンキのアトリエで寝泊まりしながら制作した{{efn|1962年には友人のアルベルト・グスタフションにヴィクトリア号というボートを作ってもらい、30年近く乗った。また、[[ビューフォート風力階級|ビューフォート風力階級表]]を愛用し、作品でも使っている{{Sfn|ヤンソン|1999|pp=147-148}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=246-248}}。 画業では1960年に再出発を決め、絵画作品の署名は「Tove」から「Jansson」に変えた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=266-267}}。執筆業では大人向けの小説が増え、最初の短編小説集『聴く女』(1971年)から1980年代にかけて長編小説3冊と短編小説集5冊を発表した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=532-534}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=328-332}}。それまでの作品を演劇、映画、テレビ、ラジオなどのメディアに合わせるための脚本も執筆した{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=310-311}}。[[1971年]]にはフジテレビ放送のアニメ『[[ムーミン (アニメ)#ムーミン(1969年版)|ムーミン]]』放映の仕事でトゥーリッキと来日し、その後世界一周旅行を続けた。[[1990年]]には[[テレビ東京]]放送のアニメ『[[楽しいムーミン一家]]』の監修で来日した{{efn|1969年のアニメは原作との違いが大きいとして、トーベは失望した。1990年のアニメでは、フィンランドの子供番組プロデューサーであるデニス・リプソンがコンサルタントで参加し、トーベとラルスのチェックのもとで製作された{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=312-314}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=312-314}}。 クルーヴ島での暮らしには不自由な点も多く、年齢による体力の変化も気がかりとなった。トーベとトゥーリッキは1992年に島を明け渡し、1965年から毎年続けてきた島の暮らしを終えた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=342-345}}。1990年代に癌をわずらい、公の場に姿を見せたのは1994年にタンペレで開催された国際会議が最後となった{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=616}}。最後の作品として短編小説集『メッセージ』(1998年)を発表したのち、2001年にヘルシンキで死去した{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=349-351}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=618}}。 == 作品 == [[File:Tove-Jansson-1967.jpg|thumb|1967年のトーベ]] 芸術家としてのトーベのアイデンティティは、画家と作家の2つだった。職業を聞かれた時には画家と答えた{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=14}}。自分は個人主義者だとしばしば主張しており、集団の中で同じ方向を向くことは好まなかった。抽象画のような芸術の新しい流れや運動からは距離をおきながら、自分にとって正しい道を選ぼうとした{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=206-207}}。 トーベの活動には、働くという姿勢が一貫していた。12歳から書き始めた日記には「働く」という言葉が多く使われていた。ヘルシンキのアトリエでは、「創造」や「インスピレーション」という言葉の代わりに「働くこと」や「意欲」が語られた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=15-17}}。 トーベが好んでいた芸術書として、[[フィレンツェ]]の画家{{仮リンク|チェンニーノ・チェンニーニ|en|Cennino Cennini}}の『絵画術の書』がある。チェンニーニは刑務所の服役中にルネサンス絵画の手引書としてこの本を書き、[[フレスコ画]]や[[テンペラ画]]の筆づかいや彩色方法を解説している{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=18-19}}。また、チェンニーニは「40歳までに何かを成し遂げたなら、自分の手で伝記を書かなければならない」と書いており、『ムーミンパパの思い出』に活かされている{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=28}}。 ムーミン・シリーズが広まったのち、児童文学作家について書くことを編集者に打診されたトーベは、『偽者(エセ)児童文学作家』(1961年)というエッセイ集を発表した。講演をもとにした内容で、子供の感性や、クリエイティブであるために必要なことが書かれている。作家は書きたいという想いがあるから表現するのであり、子供の読者があるから書くのではないというトーベの作家論となっている{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=412-414}}。 === ムーミン・シリーズ === {{main|ムーミン}} ムーミンの原型となるキャラクターは雑誌『ガルム』の風刺画で1943年に初登場しており、当初の名前はスノークだった{{efn|スノークが連想させるスウェーデン語のスノーキッグには、「インテリぶった」や「高慢ちき」の意味がある。のちにスノークはムーミンとは別個のキャラクターとして『ムーミン谷の彗星』に登場した{{Sfn|冨原|2009|pp=316-318}}。}}。スノークは夢や幻覚などファンタジーに関する文章とともに登場し、風刺画向けの怒った顔をしていた。1944年には『ガルム』以外の絵にもスノークが登場して、作家のサインとしての役割も果たした。1945年8月にトーベは「私の新しい肩書きはスノーク夫人」と書き、『ガルム』のクリスマス号でスノーク姿の自画像を描いた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=125-127}}。1952年のインタビューによれば、ムーミントロールという名前は、トーベが16歳の時に叔父のエイナルから聞いた話がもとになっている{{efn|エイナルはトーベのつまみ食いを止めるために、食料庫にはムーミントロールという怖いやつがいるという話を聞かせた{{Sfn|冨原|2009|pp=314-315}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=314-315}}。 ムーミンの物語は文章と挿絵をともにトーベが手がけ、著者、挿絵画家、デザイナーの全てを自分の役割とした。切り貼りでサンプル本を作り、バランスを見ながら指定を書き込み、絵に番号をつけて配置を指定した。レイアウトではページ構成と絵の配置、文章と余白部分を検討した{{efn|ブックアートの先行作品としては、[[ルイス・キャロル]]と[[ジョン・テニエル]]の『[[不思議の国のアリス]]』や、[[A・A・ミルン]]と[[E・H・シェパード]]の『[[クマのプーさん]]』などがあるが、トーベは1人で行なった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=216-218}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=216-218}}。ムーミン絵本の『それからどうなるの?』では幼少期の体験をもとに仕掛け絵本を作り、これもレイアウトと製本作業の指示を全て行った{{efn|幼少期のトーベは[[エルサ・ベスコフ]]の絵本『{{仮リンク|もりのこびとたち|sv|Tomtebobarnen}}』に登場するトロールを怖がったので、シグネがトロールの上に紙を貼って見たい時だけトロールを見られるようにした{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=224}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=224}}。 トーベはムーミンの舞台化やテレビ化にも関わった。初の戯曲は、1949年にヴィヴィカのすすめで執筆した『ムーミントロールと彗星』の舞台版だった{{efn|1960年に大成功したオスロ公演では、トーベはライオンの足として出演もした{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=397}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=287-288}}。フィンランドではイルッカ・クーシスト作曲のムーミン・オペラが1974年に国立オペラ劇場で上演され、スウェーデンでは1982年にストックホルム王立ドラマ劇場で冒険劇が上演された。舞台監督はヴィヴィカが務めた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=310-311}}。スウェーデンのテレビ番組用の脚本も執筆した{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=310-311}}。[[1965年]]にはトーベ作詞、{{仮リンク|エルナ・タウロ|en|Erna Tauro}}作曲の "Höstvisa" (フィンランド語 "Syyslaulu" 、日本語で『秋の歌』) が[[フィンランド国営放送]]音楽賞で3位を受賞した<ref group="注釈">[[ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団]]による演奏の視聴ができる。ハンス-エリク・ホルガーソン編曲、マグヌス・エーリクソン指揮 (2000年6月録音)。{{cite web|url=https://ml.naxos.jp/work/76673|author=エルナ・タウロ|title=Autumn Song|publisher=ナクソス・ジャパン株式会社|others=|location=ストックホルム・コンサートホール|accessdate=2015-11-17|ref=harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.blf.fi/artikel.php?id=9600|publisher=フィンランド・スウェーデン文学協会|title=エルナ・タウロ履歴|accessdate=2015-11-17|ref=harv}}</ref>。 トーベにとってムーミンの物語は、戦争中に自分の楽しみとして始めた趣味だった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=159-160, 212}}。しかし、ムーミン・コミックスのヒットによって絵画に使える時間が減ると、人々の期待とのバランスを取ることが悩みとなった{{efn|1960年頃のトーベは次のようにも語っている「ムーミンのマジパンやら、石鹸やら、ピンバッジやらとは、もうすぐさよならです。私もやっと、落ち着いて絵の世界に戻れます。相当のブランクがあって不安ではあるけど」{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=397}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=14-15}}。コミックス連載中の苦労については、のちに短編小説「連載漫画家」(『メッセージ』収録)で題材にした{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=240-241}}。 === 絵画、イラスト === ; 自画像、肖像画 小さい頃からスケッチブックや日記に家族や自分を描いた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=64-65}}。トーベが展示した最初の作品は自画像で、1933年のヘルシンキで開催されたユーモリスト展で発表した{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=22}}。アテネウム時代に描いた『藤の椅子に座る自画像』(1937年)では、背後の壁に絵がかけられており、イーゼルがあり、画家としてのアイデンティティが強調されている{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=92}}。戦争をきっかけに家族から離れた1940年代に最も多数の自画像を描いており、『毛皮の帽子をかぶった自画像』(1941年)、『オオヤマネコの襟巻きの自画像』(1942年)などがある{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=165-166}}。画家としての再出発の際にも、手始めに自画像『初心者』(1959年)を描いている{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=266-267}}。1975年の最後の展示会でも自画像を発表した{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=22}}。 家族や友人、パートナーの肖像も描いた。エヴァ・コニコフの肖像画のように、買い取られないように高値をつけることもあった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=76-78}}。戦争中のヤンソン家を描いた『家族』(1942年)という作品もあるが、のちに自ら失敗作として評価している{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=96-98}}。 ; 風刺画 『ガルム』誌で描いた風刺画は人気を呼び、フィンランドでは一流の風刺画家としても知られた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=121-125}}。『ガルム』の編集者{{仮リンク|ヘンリー・レイン|fi|Henry Rein|sv|Henry Rein}}との仕事は良好で、トーベは約24年間この雑誌に関わって表紙画を100枚、風刺画や挿絵を500枚ほど制作した{{efn|トーベから見たヘンリーは「いつも静かに憤っている人で、攻撃したり守りに入ったり。しばしば力尽き果てる。ときに間違いもあるけれど、どんなことにも真っ当で正直な人」だった{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=122}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=121-125}}。 1938年の[[ミュンヘン会議]]をテーマにした絵では、ヒトラーを甘やかされた子供として描き、民族主義者の抗議を呼んだ{{efn|{{仮リンク|愛国人民連盟|fi|Isänmaallinen kansanliike}}(IKL)などに属するフィンランドの民族主義者は、イタリアやドイツのファシズムを支持していた{{Sfn|冨原|2009|pp=240-241}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=239-241}}。ソビエト連邦を風刺した1940年の絵では、スターリンに似た顔の兵士が検閲を受け、修正させられた{{efn|フィンランドを威圧するソ連兵が長剣の鞘から抜刀すると中身は短剣だったという、ソ連の軍事力を嘲笑する内容だった。当時のフィンランド政府はソ連と講和交渉中だったため、ソ連を刺激することを避けた{{Sfn|冨原|2009|pp=253-254}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=253-254}}。1944年の[[ラップランド戦争]]をテーマにした絵では、複数のヒトラーが[[ラップランド]]の街で略奪や破壊をしている{{Sfn|冨原|2009|pp=302-303}}。[[日本への原子爆弾投下]]から1年後の1946年8月には、核戦争を暗示する世界から平和の天使が去っていく絵を描いた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=146-147}}。 トーベの作風は過激とみなされて検閲にかかった時もあったが、トーベ自身は『ガルム』の仕事で良かった点として、ヒトラーやスターリンに対して悪態をつけたことを挙げている{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=121-125}}。トーベは仕事が早く、『ガルム』で培われた技術は、他の新聞や雑誌の仕事にもつながった{{efn|『ユーレン』、『ルシファー』、『ヴォー・ティード』、『ヴォー・ヴァールド』、『アッラス・クレーニカ』、『ヘルシングフォーシュ・ユナーレン』、『スヴェンスカ・プレッセン』、『ヒューヴドスタットブラーデッド』などの雑誌や新聞、そのほか子供雑誌やフィンランド語の雑誌でも挿絵を描いた{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=121}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=121}}。 ; 壁画 第二次大戦後のヨーロッパでは、公共空間に芸術作品を展示する[[パブリック・アート]]の活動が起こった。トーベはパブリック・アートの技法を学んでおり、多くの依頼を受けた。1947年にヘルシンキ市庁舎の地下に2点のフレスコ画『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』{{efn|現在はヘルシンキのスウェーデン語系職業訓練学校のロビーにある{{Sfn|冨原|2014|p=83}}。}}、1949年にはフィンランド南部のコトカの幼稚園で7メートルの壁画を描いたほか、レストラン、社員食堂、工場、ホテル、学校、小児科病院などで制作した。最盛期は1953年で、その後70歳になっても描いた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=218-222}}。『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』には、当時の恋人ヴィヴィカとトーベ自身をモデルにした人物や小さなムーミンも描かれている{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=134-136}}。 ; 文芸作品の挿絵 1958年に[[ルイス・キャロル]]の『[[スナーク狩り]]』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。トーベはこの作品を難解だけれど面白いと評価し、原作の詩だけを読み、他の挿絵を参考にせずに制作した。1965年にキャロルの『[[不思議の国のアリス]]』の挿絵を依頼されると、トーベは素晴らしい物語だと評価してホラー仕立てにする提案をした。トーベはキャロルの作品にはホラー的な要素があると考えていたが、出版社に反対された{{efn|翻訳はオーケ・ルンクイスト、ラーシュ・フォシェル{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=399-400}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=398-402}}。 1961年には[[トールキン]]の『[[ホビットの冒険]]』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。これはアストリッド・リンドグレーンからの依頼がきっかけだった{{efn|アストリッドは1960年にトーベに手紙を出し、「提案をお請けくださらないならば、誰がアストリッドをなぐさめるのでしょう?」「トールキンの著作にトーベ・ヤンソンの挿絵ならば、今世紀最強の児童書になります」などと書いた。トーベは1週間後に制作を決めた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=424-425}}。}}。トーベはトールキンの作品にもホラーの要素を見出して魅力的だと考えたが、トーベの表紙案は子供向けではないと出版社が反対し、修正に応じた。できあがった本は結果的に注目されず、後年に挿絵は批判も受けた{{efn|翻訳は翻訳家・詩人のブリット・G・ハルクヴィスト{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=399-400}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=424-430}}。トーベは、他の作家の挿絵なら誰の作品を描きたいかという質問で、[[エドガー・アラン・ポー]]と答えている{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=401}}。 ; 抽象画 1960年代に画家として再出発をした際は、自然主義的な写実画から次第に変化していった。1950年代から1960年代のフィンランドでは抽象絵画が流行しており、1961年の国際展ではほとんどが[[アンフォルメル]]の作品の中で、トーベは静物画を出展した。写実画のスタイルを保ちつつも、次第に抽象化を進めていった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=266-267}}。積極的に個展を開き、1960年から1970年までに5回の個展と1回の共同展を行った{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=268-269}}。 === 物語・小説 === トーベは自分の物語に人気がある理由として、「スクルット(ひとりぼっち)」について書いているからではないかと語っている。スクルットとは、どこにいても居心地が悪く、人の輪の外に立っている恥ずかしがり屋を指す。人間は幸せな時もどこかに恐怖感があり、それを認めることでシンプルな世界や穏やかな心を手に入れたり、恐れる気持ちを楽しむことができるとトーベは考えていた{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=165}}。そのためトーベの物語には不安や脅威が描かれている{{efn|たとえばムーミンに登場するフィリフヨンカは常に何かを恐れながら生きており、モランは暗い力や緊張感を表している{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=189-190}}。}}。当時は子供向けと大人向けの本が分かれていたが、トーベの作品は児童書として出版したムーミン・シリーズも大人が読んで楽しめる内容になっており、出版社が戸惑うこともあった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=170-171}}。 子供時代の1921年から1924年の間に作った本は14冊が残っており、番号が振られていて、作者名としてトーベ・マリカ・ヤンソンと書いてある。内容はおとぎ話やファンタジー、聖書風の設定や、お化けやぞっとするような出来事が多い。7歳で書いた『プリックはあっという間に息を引き取る』(1921年)は、プリックという犬の病気と死の話だった。『青い騎士』という本の裏表紙には、「トーベの少年少女向け作品」という刊行予定の作品リストがついていた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=66-67}}。 1934年に初の短編小説「大通り」を発表したのち、1〜2年に1作のペースで短編を書き続けた{{Sfn|ヤンソン|1995|p=243}}。1970年代から大人の読者を想定した物語を執筆し、初の小説集『聴く女』(1971年)を発表した{{efn|当時の書評には、ムーミンの続編ではない点に対する当惑や新境地への期待などが見られる{{Sfn|ヤンソン|1998|p=195}}。}}{{Sfn|ヤンソン|1998|p=195}}。1970年代以降の小説には孤独や老い、精神の暗部やサスペンス、スリラーも描かれており、ムーミンでは描けなかったことやさらに発展させた内容が含まれている{{efn|トーベはスリラー愛好者を自認しており、「ニョロニョロのひみつ」(『ムーミン谷の仲間たち』収録)がノルウェーのスリラー傑作選に選ばれると聞いた時は喜んだ{{Sfn|ヤンソン|1998|p=196}}。}}{{Sfn|冨原|2014|pp=97-99}}。 長編小説としては『誠実な詐欺師』(1982年)、『石の原野』(1984年)、『フェアプレイ』(1984年)の3冊を発表した。『誠実な詐欺師』は女友達との奇妙な関係、『石の原野』は新聞記者だった男の物書きについての苦悩、『フェアプレイ』は芸術家の関係をもとに共同生活の難しさを描いた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=328-331}}。1970年代以降の小説には女性や男性の同性愛がしばしば描かれ、特別ではないこととして扱われている{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=336}}。 === 自伝的作品 === トーベは自伝そのものは書かず、自伝的な作品として、『彫刻家の娘』(1968年)や『島暮らしの記録』(1993年)を発表した。『彫刻家の娘』は子供時代を中心とした内容で、書名にある彫刻家とは父ヴィクトルを指す{{Sfn|ヤンソン|1991|p=230}}。『島暮らしの記録』はトゥーリッキとのクルーヴ島での暮らしが書かれており、トゥーリッキが挿し絵を描いた{{Sfn|ヤンソン|1993|p=296}}。 1970年代から1990年代にかけてトゥーリッキとヤンソンが撮影した映像をもとにした映像作品として、『Matkalla Toven kanssa(トーベ・ヤンソンの世界旅行)』(1993年)、『Haru – yksinäisten saari(ハル、孤独の島)』(1998年)、『トーベとトゥーティの欧州旅行(Tove ja Tooti Euroopassa)』(2004年)のドキュメンタリー3部作がある{{efn|監督はカネルヴァ・ セーデルストロムが1作目、他2作はリーッカ・タンネルとの共同による{{Sfn|中丸|2015|p=213}}。}}{{Sfn|中丸|2015|p=213}}。 === 模型 === トーベとトゥーリッキは、ムーミン世界の模型を作った。きっかけは医師のペンッティ・エイストラが趣味で作ったムーミン屋敷のミニチュア模型を見せたことだった。2人はより大きなムーミン屋敷の模型に取りかかり、夏はクルーヴ島で作業をした。3年間をかけて2メートルの模型を完成させ、各地の展示会をめぐった。木工が得意なトゥーリッキはその後も制作し、ムーミン・シリーズの41の場面が模型になった。この屋敷は短編小説「人形の家」や、写真絵本『ムーミンやしきはひみつのにおい』のもとになった{{efn|模型に必要な小物や素材は国外の旅行先や蚤の市でも入手した{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=326}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=321-323}}。 == 制作環境 == [[File:Tove-Jansson-1956b.jpg|thumb|ウッランリンナ1番地のアトリエのトーベ]] === 制作ノート === 制作において詳細なノートを作った。絵画の制作ノートでは、1930年代のスケッチブックに「金の皮と皮の染色」というタイトルで皮革の染色について書かれている。羊皮紙、ステンドグラスや特殊な素材、テキスタイル、油彩についての覚書もある。1943年のノートには「素材」というタイトルでバレットの手入れや、フレスコ画の技法について書いている{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=21-22}}。 登場人物の登場の仕方や変化の仕方、展開などもノートに記録した。たとえば『ムーミンパパ海へ行く』の準備では、風向きが変わる時間や鳥の渡りについて書いている。絵本『それからどうなるの?』では印刷技術の指示、色の組み合わせについて書いている{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=21-22}}。 === アトリエ === 1944年から約60年間にわたって使ったウッランリンナ1番地の住宅兼アトリエは、ビルの最上階の角部屋にあり、天井は約7メートルあった{{Sfn|冨原|2014|pp=55-59}}。トーベはこのアトリエを気に入って多額の借金をして買い取り、絵画制作やムーミン・コミックスの連載によって返済した{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=219-220}}。かつてトーベが絵画を学んだハーゲルスタムが使っていた場所でもあり、トーベが入居した時期にはすでにハーゲルステムは戦死していた{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=42}}。 1960年頃にアトリエの改装をおこない、パートナーだったトゥーリッキの弟夫妻である{{仮リンク|レイマとライリ・ピエティラ|en|Reima and Raili Pietilä}}が設計した。高窓の下にベンチを置き、天井に欄干を渡して吊り戸棚やロフトを追加した。螺旋階段は鏡がある部屋に続き、寝椅子、本棚、キャビネットがあった。アトリエ部分にはベンチ、テーブルと本棚、絵画や父ヴィクトルの彫刻、模型などが置かれた。キッチンとバスルームのどちらかしか置けず、トーベはバスルームを選んだ{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=409-410}}。改装が終わる頃にトゥーリッキが隣の建物に引っ越してきたので、アトリエとトゥーリッキの部屋を屋根裏の通路でつないだ{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=411, 608}}。窓からはヘルシンキの海が見え、ロフトにベッドを置いていた。トーベは昼間から強い酒とタバコをたしなんでいたという{{Sfn|冨原|2014|pp=55-59}}。 クルーヴ島の小屋では、1964年から1992年まで毎年の夏をトゥーリッキと暮らした。レイマとライリ・ピエティラが設計し、トゥーリッキが木材関係、トーベが石材関係を分担して建てた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=316-317}}。ワンルームと地下室があり、2人はムーミンのパペット・アニメのための模型や人形を小屋で制作した{{Sfn|冨原|2014|pp=105-109}}。 === 蔵書 === ヤンソン家には、シグネの仕事の影響もあり蔵書が豊富だった。子供時代のトーベは[[セルマ・ラーゲルレーフ]]『[[ニルスのふしぎな旅]]』やルイス・キャロル、[[エルサ・ベスコフ]]を読んだ{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=164}}。トーベは冒険譚が好きで[[ラドヤード・キップリング]]の『[[ジャングル・ブック (小説)|ジャングル・ブック]]』を特に好んだ{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=164}}。子供時代に書いた物語『見えない力』は、[[ジュール・ヴェルヌ]]や[[コナン・ドイル]]、[[エドガー・ライス・バロウズ]]らにヒントを得ている{{efn|その他に読んだ作家に[[ジャック・ロンドン]]、[[ヘンリー・ライダー・ハガード]]らがいる{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=225}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=73-75}}。大人向けの作品では、エドガー・アラン・ポーの恐怖小説を9歳の時に読み、他に[[ヴィクトル・ユーゴー]]、[[トーマス・ハーディー]]、[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]、[[ジョセフ・コンラッド]]などを読んだ{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=164-165}}。 トーベは[[蔵書票]]を自分でデザインし、職業、性別、情熱、海、錨などをシンボルとして描いた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=19-20}}。ラテン語で「LABORA ET AMARE」と書かれており、文法的に正確ではないものの「働け、そして愛せよ」というメッセージだった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=116-117}}。 === 手紙 === トーベは読者から届く手紙に全て目を通し、自分で返事を書いた。時間はかかったが、返事を書かない方が負担になると考えていた。手紙のやりとりは、「文通」、「クララからの手紙」、「メッセージ」(いずれも『メッセージ』収録)などの小説の源泉にもなった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=610-611}}。最多では年間2000通に達した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=29-31}}。 == 家族、交友関係 == [[File:Tuulikki Pietilä Tove Jansson and Signe Hammarsten-Jansson 1956.jpeg|thumb|漁をするトーベ(中央)、パートナーのトゥーリッキ(左)、シグネ(右)]] === 両親 === スウェーデンの[[ストックホルム]]出身のシグネ(愛称ハム)と、フィンランドのヘルシンキ出身のヴィクトル(愛称ファッファン)は、ともに伝統とは異なる価値観を持っていた。シグネは自らを[[女性参政権|婦人参政権論者]]と呼び、ヴィクトルは一族の反対を押し切って芸術家の道を選んでいた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=34-37, 40-41}}。 画家でデザイナーのシグネは、トーベが最初に絵を教わった人物でもあった。トーベはシグネから勤勉さも学んだ{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=26-27}}。シグネはフィンランド銀行の紙幣の絵を描き、切手デザイナーとしても活動した{{efn|ヘルシンキの郵便博物館にシグネの制作した切手が収蔵されている{{Sfn|冨原|2014|p=67}}。}}。本の装丁では自分の手がけた本が同時に並ぶことを意識して、それぞれ画風を変えていた{{Sfn|冨原|2014|p=67}}。挿絵では『ガルム』誌に創刊から関わり、『ガルム』の仕事はトーベに引き継がれていった。他方で女性の芸術家は夫の陰にかくれて評価されない風潮にあり、父の要求に従う母を見て、トーベは女性の社会的な立場について考えるようになった{{efn|ヤンソン家は芸術一家としてしばしば取材を受けたが、インタビューで主に話をするのはヴィクトルであり、シグネは主婦と呼ばれて扱いは小さかった。シグネが自分の仕事部屋を持てるようになったのは、ラッルッカに引っ越してからだった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=56-57}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=29-31}}。シグネはムーミンママのモデルだとトーベは語っている{{Sfn|冨原|2009|p=41}}。 彫刻家のヴィクトルは、線が柔らかい女性像や、繊細な子供像を多く制作した{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=14}}。トーベをモデルにした彫刻作品も何点か制作している{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=12-13}}。ヴィクトルはフィンランド内戦では政府側の{{仮リンク|白衛隊 (フィンランド)|label=白衛隊|fi|Suojeluskunta}}に属して戦い、内戦の経験でふさぎがちになり、親ドイツ的でユダヤ人を嫌った。シグネは夫について「戦争で壊れてしまった」とも表現した{{efn|内戦では、ドイツが白衛隊を支持し、ソ連が赤衛隊を支持した{{Sfn|石野|2017|pp=105-107}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=45-46}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=18-20}}。トーベとヴィクトルは政治について意見が合わず、関係を修復するのは第二次大戦後となった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=154-155}}。トーベによれば、ヴィクトルは悲観的な性格だったが、嵐が近づくと別人のように好奇心旺盛で面白くなり、子供を連れて冒険に出かけたという{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=61}}。ヴィクトルの作品は、{{仮リンク|エスプラナーディ公園|en|Esplanadi}}や{{仮リンク|カイサニエミ公園|en|Kaisaniemi Park}}に展示されており、トーベの墓石にもヴィクトルの彫刻が使われている{{Sfn|冨原|2014|p=114}}。 === 弟 === トーベは長女であり、弟の[[ペル・ウーロフ・ヤンソン]]と[[ラルス・ヤンソン]]がいた。ペル・ウーロフは短編小説集『若き男、ひとり歩く』(1945年)でデビューしたのちに写真家となった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=59-60}}。写真絵本『ムーミンやしきはひみつのにおい』(1980年)では、ペル・ウーロフが撮影したムーミン屋敷の写真が使われている{{Sfn|冨原|2014|p=69}}。その他にも、『彫刻家の娘』や『少女ソフィアの夏』などトーベの作品に写真を提供した{{Sfn|ヤンソン|1991|p=297}}{{Sfn|ヤンソン|1993|p=302}}。ペル・ウーロフによれば、トーベはスポーツ選手のような体格で良い被写体だったが、写真に撮られることがとても苦手だったという{{Sfn|冨原|2014|p=68}}。 末弟のラルスは15歳で冒険物語『トルトゥガの宝』(1941年)を発表して好評となり、『支配者』(1945年)や『我は我が不安なり』(1950年)など執筆を続けつつ、1940年代はトーベと『ガルム』誌で共作をした{{efn|『トルトゥガの宝』、『支配者』、『我は我が不安なり』ではシグネが表紙を制作した{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=59}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=59-60}}。ラルスはムーミン・コミックスの連載当初からトーベを手伝っており、トーベが連載を悩んだために後任となって連載を続けた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=310-311}}。 === 親戚 === シグネの兄弟にあたるスウェーデンの叔父たちは冒険が好きで探検家気質の者が多く、子供時代のトーベに影響を与えた。ストックホルム工芸専門学校の生徒時代は、地元にいた叔父のエイナルやウロフのもとで暮らした{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=47-52}}。トーベは短編「我が愛しき叔父たち」(『メッセージ』収録)などで彼らをモデルにした{{Sfn|ヤンソン|2021|pp=488-489}}。 伯母のエルサはドイツ人牧師のフーゴと結婚してドイツで暮らしており、トーベはフランスやスイスを旅行する際にエルサの家を拠点にした。エルサは、ナチス・ドイツ政権下の事情を手紙では書けないので、見たことをシグネに伝えて欲しいとトーベに話した。トーベは当時の体験を短編「カーリン、わたしの友達」(『メッセージ』収録)に書いている{{Sfn|冨原|2009|pp=328-329}}。 弟ラルスの娘でトーベの姪にあたる[[ソフィア・ヤンソン]]は、長編小説『少女ソフィアの夏』(1972年)のモデルになった{{Sfn|ヤンソン|1993|p=300}}。『少女ソフィアの夏』は、ソフィアの他にラルスとシグネをモデルとする登場人物が中心となり、家族で夏をすごした小島が舞台となっている{{Sfn|ヤンソン|1993|p=296}}。 === 友人、パートナー === 写真家のエヴァ・コニコフは生涯を通じた親友だった。エヴァは[[ロシア革命]]によってフィンランドに亡命したユダヤ人で、第二次大戦時にアメリカへ亡命した{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=138-138}}。2人は文通で交流を続け、トーベは文通を題材にした短編「コニコヴァへの手紙」(『メッセージ』収録)を書いている{{Sfn|ヤンソン|2021|pp=489-490}}。トーベがトゥーリッキと世界一周旅行をした際、2人はニューヨークで再会した{{efn|世界一周旅行の間もトーベとトゥーリッキは制作を続け、トーベはフロリダの高齢者の生活に関心を持って長編『太陽の街』を書いた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=319-320}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=320}}。 画家のサミュエル・ペプロスヴァンニは、1935年にトーベと知り合い交際した。トーベはサミュエルを題材とした木炭画や[[カレワラ]]風の作品を制作し、サミュエルは1940年にトーベの肖像を木炭画で描いた。トーベはサミュエルを芸術家として尊敬したが、サミュエルの喋りすぎる癖は苦手だった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=93-95}}。サミュエルは年長者でユダヤ人であったため、2人の交際を知った両親はショックを受け、トーベは両親の反応を悲しんだ{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=97-98}}。サミュエルは、トーベの短編「サミュエルとの会話」(『メッセージ』収録)にも登場している{{Sfn|ヤンソン|2021|p=490}}。 画家・デザイナーのタピオ・タピオヴァーラは、トーベとアテネウムで知り合い、第二次大戦の頃に交際した。トーベにとって、タピオはフィンランド語を母語とする初めての親しい友人でもあった{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=80}}。トーベが自立を望み、子供を望むタピオとは意見が異なったため1942年に関係は解消された{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=141-144}}。タプサという愛称で、トーベの短編「卒業式」(『メッセージ』収録)などに登場している{{Sfn|ヤンソン|2021|p=490}}。 哲学者・政治家のアトス・ヴィルタネンは、第二次大戦中から戦後にかけてトーベと交際した。きっかけはアトスが屋敷で開催したパーティーで、トーベはバイタリティがありパーティー好きなアトスに魅力を感じた{{efn|トーベはアトスについて、「どんなこともポジティブに解釈する人」「一緒にいるといつもシンプルに明るくいられる」と評した{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=228}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=172-175, 228}}。しかし当時のフィンランドにおいてカップルの同棲は「狼夫婦」と呼ばれて非難され、しかも女性に非難が向けられる傾向にあった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=122-124}}。このためにトーベはアトスと結婚しない点を周囲から意見されることもあった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=172-175, 228}}。トーベは一時はアトスとの結婚を考えるが、アトスは常に多忙でトーベと過ごす時間が短く、友人関係へと変わっていった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=122-124}}。広い帽子とパイプを持ち、放浪を続けるアトスは、ムーミン・シリーズのスナフキンのモデルにもなった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=192}}。アトスは政治的には左派で地下活動の経験があり、1944年のトーベの記録では夕食をしながら襲撃を心配したことも書かれている{{efn|アトスの名は、『[[三銃士]]』が好きだった母親によって付けられたという点もトーベは気に入っていた{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=215}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=172-175}}。 1940年代に交際した舞台監督のヴィヴィカ・バンドレルは、トーベにとって初の同性の恋人だった{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=128}}。当時は法律上の問題もあり、2人は交際を隠していた{{efn|フィンランドにおける同性愛は1950年代まで精神病棟や刑務所行きとされ、1971年までは法律違反で、1981年までは病気とされていた{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=130}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=124-130}}。2人の関係が解消したのちも、ヴィヴィカはトーベと共に仕事をし、アドバイスを与えた。『たのしいムーミン一家』(1948年)には、トーベとヴィヴィカをモデルにしたトフスランとヴィフスランというキャラクターが登場する{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=128}}。 1950年代からパートナーとなったのは、グラフィック・アーティストの[[トゥーリッキ・ピエティラ]]だった。2人はクルーヴ島で暮らし、世界一周旅行をはじめ各地を旅した。トゥーリッキは{{仮リンク|ムーミン谷博物館|fi|Muumimuseo}}に納められた数多くのムーミンフィギュアやムーミン屋敷の制作でも知られ、『ムーミン谷の冬』(1957年)に登場するトゥーティッキー(おしゃまさん)のモデルになっている。トーベは『ムーミン谷の冬』を執筆できたのはトゥーリッキのおかげだと語っている{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=249-250}}。 === 動物 === ヤンソン家は動物とも暮らした。大戦後の物々交換での勘違いがきっかけで猿がやって来て、父ヴィクトルが世話をした。ヴィクトルと猿の関係はトーベの小説『彫刻家の娘』にも描かれている{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=258-259}}。黒猫のプシプシーナは、トーベのアトリエとトゥーリッキの部屋を行き来していた{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=411}}。プシプシーナは『島暮らしの記録』に登場している{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=260-262}}。 == 評価 == ムーミン・コミックスの連載は1954年に始まり、最盛期は40カ国の新聞に掲載され、読者は2000万人に達した{{efn|1950年代はフィンランドのグラフィックやデザインが世界的に評価されるようになった。{{仮リンク|ティモ・サルパネヴァ|en|Timo Sarpaneva}}や[[タピオ・ヴィルッカラ]]のガラス製品、{{仮リンク|ルート・ブリュック|en|Rut Bryk}}や[[カイ・フランク]]の陶磁器、[[マイヤ・イソラ]]による[[マリメッコ]]のテキスタイル、[[アルヴァル・アールト]]の家具などがあった。トーベのグラフィックもこの流れにあった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=203-204}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=233-237}}。ムーミンは子供も大人も楽しめる作品として人気を得たが、他方で児童書は子供向けにのみ書くべきだという批判があり、ムーミンに対する反対運動も起きた{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=180}}。1949年の舞台版ムーミンの表現をめぐっては、子供の親から苦情が寄せられた{{efn|たとえば「畜生」や「くそばばあ」などの表現が槍玉にあがった。酒やタバコの描写も問題とされた{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=291-293}}。}}。トーベは解釈は観客のものという持論だったが、子供向けとして適切な表現ではないという批判には「そうなると「ひどい」という言葉自体を禁じなければならない」というコメントを掲載した時もあった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=291-293}}。『ムーミン谷の冬』出版後は数々の受賞によって評価が高まり、ムーミン流のライフスタイルは読者にとって憧れにもなった。1950年代のトーベはアカデミックな場での朗読会や講演に頻繁に出席したが、消耗を避けるために1960年代以降は学生からの申し出を断るようになった{{efn|トーベを招いたのは、[[ウプサラ大学]]、[[ヘルシンキ大学]]、ヘルシンキ商科大学、[[オーボ・アカデミー大学]]、トロンハイムとオスロの学生組織、[[ルンド大学]]、[[ヨーテボリ大学]]など{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=395}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=394-396}}。 トーベが活動した当時のフィンランドにおいて、芸術家といえば男性を指す風潮があり、美術界での評価は遅れた。芸術レビューである『フィンランド美術』の1970年版にはトーベ自身の項目はなく、父ヴィクトル・ヤンソンの項目で『彫刻家の娘』の著者として紹介されていた{{efn|絵画とグラフィックで項目があった女性は、[[ヘレン・シャルフベック]]、{{仮リンク|シグリッド・シャウマン|en|Sigrid Schauman}}、[[イナ・コリアンダー]]、トゥーリッキ・ピエティラだった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=162-163}}。}}。1998年の改訂版で、トーベは自身の作品とともに掲載され、国際的なイラストレーターと説明された{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=166-167}}。 トーベがスウェーデン語系のフィンランド人であることから、スウェーデンとフィンランドを中心に研究が進められている{{Sfn|中丸|2015|p=214}}。トーベの作品が本格的に文学研究の対象となったのは1980年代以降だった{{efn|最初の文学研究は、1964年にハリー・ハックゼルが発表したムーミンの文学史研究だった{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=166-167}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=166-167}}。画家やコミック作家の面からの研究もなされている{{efn|エリック・クルスコフ『風刺画家 トーベ・ヤンソン』(1995年、スウェーデン語)、ユハニ・トルヴァネン『ムーミン姉弟 トーベとラルス・ヤンソン ムーミン・コミックス物語』(2000年、フィンランド語)などがある{{Sfn|冨原|2014|p=81}}{{Sfn|中丸|2015|p=214}}。}}{{Sfn|中丸|2015|p=214}}。1994年8月に[[タンペレ]]でトーベに関する初の国際会議が開催され、その一環として80歳の誕生日を記念する個展も催された{{efn|国際会議の閉会式でトーベは次のように語った。「この四日間、みなさんがわたしの作品に示してくださった、たくさんの理解とたくさんの誤解に心から感謝します。ともあれ、いまはヘルシンキのアトリエに戻るのが待ち遠しくてたまりません。もちろん、小説を書くために!」{{Sfn|ヤンソン|1995|pp=241-242}}。}}{{Sfn|ヤンソン|1995|p=241}}。 性的平等を目標に活動する北欧諸国の団体は、トーベを先駆者として評価している{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=337}}。1980年代以降のジェンダー研究を受け、セクシュアリティの面からの研究もなされるようになった{{efn|バルブロ・K・グスタフソン『石の原野と牧草地 トーベ・ヤンソンの後期作品におけるエロティックなモチーフと同性愛の描写』(1992年、スウェーデン語)などがある{{Sfn|中丸|2015|p=214}}。}}{{Sfn|中丸|2015|p=214}}。トーベは研究者に協力して、論文発表会にも参加した{{efn|他方、トーベは報道関係者を避けた{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=337}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=337}}。トーベとトゥーリッキは大統領官邸などの公の場に同席し、独立記念祝賀会に招待されたフィンランド史上初の同性愛カップルとなった{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=332-333}}。 === 主な受賞歴 === * [[1958年]] - 『ムーミン谷の冬』がエルサ・ベスコフ賞挿絵部門、ルドルフ・コイヴ賞{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=633}} * [[1963年]] - スウェーデン語系フィンランド人文化賞{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=633}} * [[1966年]] - [[国際アンデルセン賞]]作家賞{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=633}} * [[1970年]] - ヘッファクルンプ賞{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=634}} * [[1972年]] - {{仮リンク|スウェーデン・アカデミーのフィンランド賞|en|Swedish Academy Finland Prize}}、モールバッカ賞{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=634}} * [[1973年]] - アルベルト・ゲブハルト勲章{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=634}} * [[1976年]] - {{仮リンク|プロ・フィンランディア勲章|en|Order of the Lion of Finland}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=634}} * [[1980年]] - ヘルシンキ市文化賞{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=635}} * [[1992年]] - {{仮リンク|セルマ・ラーゲルレーヴ賞|en|Selma Lagerlöf Prize}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=636}} * [[1993年]] -{{仮リンク|フィンランド賞|fi|Suomi-palkinto}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=636}} * [[1994年]] - スウェーデン・アカデミー大賞{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=636}} == 資料、伝記 == トーベは自分の記録を管理し、資料の多くを寄贈している。草稿と読者からの手紙は[[オーボ・アカデミー大学]]に贈った{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=29-31}}。ムーミン・シリーズの原画は、タンペレ市美術館に約2000点を寄贈した{{Sfn|冨原|2014|p=115}}。研究者に渡す資料も管理し、誰に何を送ったかも記録した。ノートには自作の情報を記録し、よく聞かれる質問に対する答えも用意していた{{efn|よく聞かれる質問として、たとえば「ムーミンはどのように始まったのですか」などがあった{{Sfn|ヴェスティン|2021|p=30}}。}}{{Sfn|ヴェスティン|2021|pp=29-31}}。 トーベの伝記として、スウェーデンでは文学研究者{{仮リンク|ボエル・ヴェスティン|sv|Boel Westin}}による『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』(2007年)、フィンランドでは美術史家{{仮リンク|トゥーラ・カルヤライネン|fi|Tuula Karjalainen}}による『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』(2013年)などが刊行された{{efn|ヴェスティンはスウェーデンにおけるトーベ・ヤンソン研究の第一人者。カルヤライネンはトーベの生誕100年を記念する回顧展に合わせて伝記を執筆した{{Sfn|中丸|2015|pp=218-219}}。}}{{Sfn|中丸|2015|pp=218-219}}。2020年にはフィンランドで伝記映画『{{仮リンク|TOVE/トーベ|en|Tove (film)}}』が制作された。30代から40代にかけてのトーベを描いており、{{仮リンク|ザイダ・バリルート|en|Zaida Bergroth}}が監督し、トーベ役は{{仮リンク|アルマ・ポウスティ|en|Alma Pöysti}}が演じた<ref>{{Cite web|和書|url=https://klockworx-v.com/tove/ |title=映画『TOVE/トーベ』オフィシャルサイト |work=|date=|accessdate=2021-09-18}}</ref>。 == 主な作品リスト == === ムーミン・シリーズ === {{main|ムーミン}} * 『{{仮リンク|小さなトロールと大きな洪水|en|The Moomins and the Great Flood}}』([[1945年]]、''Småtrollen och den stora översvämningen'') * 『{{仮リンク|ムーミン谷の彗星|en|Comet in Moominland}}』([[1946年]]、''Kometjakten'') * 『[[たのしいムーミン一家]]』([[1948年]]、''Trollkarlens hatt'') * 『{{仮リンク|ムーミンパパの思い出|en|The Exploits of Moominpappa}}』([[1950年]]、''Muminpappas bravader'') * 『{{仮リンク|ムーミン谷の夏まつり|en|Moominsummer Madness}}』([[1954年]]、''Farlig midsommar'') * 『[[ムーミン谷の冬]]』([[1957年]]、''Trollvinter'') * 『{{仮リンク|ムーミン谷の仲間たち|en|Tales from Moominvalley}}』([[1962年]]、''Det osynliga barnet och andra berättelser'') * 『{{仮リンク|ムーミンパパ海へいく|en|Moominpappa at Sea}}』([[1965年]]、''Pappan och havet'') * 『{{仮リンク|ムーミン谷の十一月|en|Moominvalley in November}}』([[1970年]]、''Sent i November'') ; ムーミン関連絵本 * 『{{仮リンク|それからどうなるの?|en|The Book about Moomin, Mymble and Little My}}』([[1952年]]、''Hur Gick Det Sen?'') * 『{{仮リンク|さびしがりやのクニット|en|Who Will Comfort Toffle?}}』([[1960年]]、''Vem ska trösta Knyttet?'') * 『{{仮リンク|ムーミン谷へのふしぎな旅|en|The Dangerous Journey}}』([[1977年]]、''Den farliga resan'') * 『{{仮リンク|ムーミンやしきはひみつのにおい|en|Skurken i Muminhuset}}』([[1980年]]、''Skurken i Muminhuset'')([[ペル・ウーロフ・ヤンソン]]の写真にトーベが文を書いた、写真絵本。) ; ムーミン・コミックス * ムーミン・コミックス(1954年 - 1975年) - ラルス・ヤンソンとの共作。 === 絵画、イラスト === * 『藤の椅子に座る自画像』(1937年) * 『青いヒヤシンス』(1939年、''Blå hyacint'') * 『自画像、煙草を吸う娘』(油彩、1940年、''självporträtt, Rökande flicka'') * 『毛皮の帽子をかぶった自画像』(油彩、1941年、''Självporträtt med skinnmössa'') * 『オオヤマネコの襟巻きの自画像』(油彩、1942年、''Loboa'') * 『家族』(油彩、1942年、''Familien'') * 『田舎のパーティー』『都会のパーティー』(フレスコ画、連作。1947年、''Fest på landet'', ''Fest i stan'') * 『暖かいストーブのそばで』(油彩、1953年) * 『初心者』(油彩、1959年、''Nybörjare'') * 『二脚の椅子』(油彩、1960年、''Stolar'') * 『嵐』(油彩、1963年、''Storm'') * 『風化』(油彩、1965年、''Förvittring'') * 『風力階級八級』(油彩、1966年、''Åtta beaufort'') * 『自画像』(油彩、1975年、''Självporträtt'') * 『グラフィックデザイナー』(油彩、1975年、''Grafikern'') - トゥーリッキを描いた作品 ; 雑誌 * 『[[ガルム (雑誌)|ガルム]]』(1929年 - 1953年) ; 文芸書挿絵 * [[ルイス・キャロル]]『[[スナーク狩り]]』(1958年) * ルイス・キャロル『[[不思議の国のアリス]]』(1965年) * [[J・R・R・トールキン]]『[[ホビットの冒険]]』(1961年) === 小説 === ; 長編小説 * 『{{仮リンク|誠実な詐欺師|en|The True Deceiver}}』冨原眞弓訳、筑摩書房、2006年([[1982年]]、''Den ärliga bedragaren'') * 『石の原野』冨原眞弓訳、筑摩書房、1996年([[1984年]]、''Stenåkern'') * 『{{仮リンク|フェアプレイ (小説)|en|Fair Play (novel)|label=フェアプレイ}}』冨原眞弓訳、筑摩書房、1997年([[1989年]]、''Rent spel'') ; 短編小説集 * 『聴く女』冨原眞弓訳、筑摩書房、1998年([[1971年]]、''Lyssnerskan'') * 『{{仮リンク|少女ソフィアの夏|en|The Summer Book}}』渡部翠訳、講談社、1993年([[1972年]]、''Sommarboken'') * 『太陽の街』冨原眞弓訳、筑摩書房、1996年([[1974年]]、''Solstaden'') * 『人形の家』冨原眞弓訳、筑摩書房、1997年([[1978年]]、''Dockskåpet och andra berättelser'') * 『軽い手荷物の旅』冨原眞弓訳、筑摩書房、1995年([[1987年]]、''Resa med lätt bagage'') * 『クララからの手紙』冨原眞弓訳、筑摩書房、1996年([[1991年]]、''Brev från Klara och andra berättelser'') * 『メッセージ トーベ・ヤンソン自選短篇集』久山葉子訳、フィルムアート社、2021年([[1998年]]、''Meddelande. Noveller i urval 1971-1997'') - トーベの自選によるベスト版短編集{{Sfn|ヤンソン|2021|p=487}}。 === 自伝的作品 === * 『彫刻家の娘』香山彬子訳、講談社、1973年 / 冨原眞弓訳、筑摩書房、1991年([[1968年]]、''Bildhuggares dotter'') * 『島暮らしの記録』トゥーリッキ・ピエティラ画、冨原眞弓訳、筑摩書房、1999年([[1993年]]、''Anteckningar från en ö'') == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="†"|}} {{Notelist|2|}} === 出典 === {{Reflist|20em|}} == 参考文献 == * {{Citation| 和書 | author = 石野裕子 | authorlink = | title = 物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年 | publisher = 中央公論新社 | series = 中公新書 | year = 2017 | isbn = | ref = {{sfnref|石野|2017}} }} * {{Citation| 和書 | author = {{仮リンク|ボエル・ヴェスティン|sv|Boel Westin}} | authorlink = | title = トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉 | publisher = フィルムアート社 | series = | year = 2021 | isbn = | translator = 畑中麻紀, 森下圭子 | ref = {{sfnref|ヴェスティン|2021}} }}(原書 {{Cite| 洋書 | last = Westin | first = Boel | authorlink = | year = 2007 | title = Tove Jansson. Ord bild liv | publisher = | isbn = }}) * {{Citation| 和書 | author = {{仮リンク|トゥーラ・カルヤライネン|fi|Tuula Karjalainen}} | authorlink = | title = ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン | publisher = 河出書房新社 | series = | year = 2014 | isbn = | translator = セルボ貴子, 五十嵐淳 | ref = {{sfnref|カルヤライネン|2014}} }}(原書 {{Cite| 洋書 | last = Karjalainen | first = Tuula | authorlink = | year = 2013 | title = Tove Jansson : tee työtä ja rakasta | publisher = | isbn = }}) * {{Citation| 和書 | author = | authorlink = | title = ムーミン童話の百科事典 | editor = 高橋静男, 渡部翠, ムーミンゼミ | publisher = 講談社 | series = | year = 1996 | isbn = | ref = {{sfnref|高橋, 渡部編|1996}} }} * {{Citation| 和書 | author = [[冨原眞弓]] | authorlink = | title = トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界―ムーミントロールの誕生 | publisher = 青土社 | series = | year = 2009 | isbn = | ref = {{sfnref|冨原|2009}} }} * {{Citation| 和書 | author = 冨原眞弓 | authorlink = | title = ムーミンを生んだ芸術家 トーヴェ・ヤンソン | publisher = 新潮社 | series = | year = 2014 | isbn = | ref = {{sfnref|冨原|2014}} }} * {{Cite journal|和書|author=中丸禎子 |title=絵を描くムーミンママ トーベ・ヤンソン『パパと海』における女性の芸術と自己実現 |url=http://id.nii.ac.jp/1275/00000154/ |journal=詩・言語 |publisher= |year=2015 |month=sep |volume= |issue=81 |pages=213-235 |naid= |issn= |accessdate=2021-08-03 |ref={{sfnref|中丸|2015}}}} * {{Citation| 和書 | author = トーベ・ヤンソン | authorlink = | title = 彫刻家の娘 | publisher = 筑摩書房 | series = | year = 1991 | isbn = | translator = 冨原眞弓 | ref = {{sfnref|ヤンソン|1991}} }}(原書 {{Cite| 洋書 | last = Jansson | first = Tove | authorlink = | year = 1968 | title = Bildhuggares dotter | publisher = | isbn = }}) * {{Citation| 和書 | author = トーベ・ヤンソン | authorlink = | title = {{仮リンク|少女ソフィアの夏|en|The Summer Book}} | publisher = 講談社 | series = | year = 1993 | isbn = | translator = 渡部翠 | ref = {{sfnref|ヤンソン|1993}} }}(原書 {{Cite| 洋書 | last = Jansson | first = Tove | authorlink = | year = 1972 | title = Sommarboken | publisher = | isbn = }}) * {{Citation| 和書 | author = トーベ・ヤンソン | authorlink = | title = 軽い手荷物の旅 | publisher = 筑摩書房 | series = | year = 1995 | isbn = | translator = 冨原眞弓 | ref = {{sfnref|ヤンソン|1995}} }}(原書 {{Cite| 洋書 | last = Jansson | first = Tove | authorlink = | year = 1987 | title = Resa med lätt bagage | publisher = | isbn = }}) * {{Citation| 和書 | author = トーベ・ヤンソン | authorlink = | title = 聴く女 | publisher = 筑摩書房 | series = | year = 1998 | isbn = | translator = 冨原眞弓 | ref = {{sfnref|ヤンソン|1998}} }}(原書 {{Cite| 洋書 | last = Jansson | first = Tove | authorlink = | year = 1971 | title = Lyssnerskan | publisher = | isbn = }}) * {{Citation| 和書 | author = トーベ・ヤンソン | authorlink = | title = 島暮らしの記録 | publisher = 筑摩書房 | series = | year = 1999 | isbn = | translator = 冨原眞弓 | ref = {{sfnref|ヤンソン|1999}} }}(原書 {{Cite| 洋書 | last = Jansson | first = Tove | authorlink = | year = 1993 | title = Anteckningar från en ö | publisher = | isbn = }}) * {{Citation| 和書 | author = トーベ・ヤンソン | authorlink = | title = メッセージ トーベ・ヤンソン自選短篇集 | publisher = フィルムアート社 | series = | year = 2021 | isbn = | translator = 久山葉子 | ref = {{sfnref|ヤンソン|2021}} }}(原書 {{Cite| 洋書 | last = Jansson | first = Tove | authorlink = | year = 1998 | title = Meddelande. Noveller i urval 1971-1997 | publisher = | isbn = }}) == 関連文献 == * {{Cite journal|和書|author=小林亜佑 |title=日本におけるトーベ・ヤンソンおよびムーミン研究の動向 |url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1573387836455239168 |journal=北欧史研究 |publisher=バルト=スカンディナヴィア研究会 |year=2020 |month=dec |volume=37 |issue= |pages=103-111 |naid=40022457135 |issn=0286-6331 |accessdate=2021-08-03 |ref={{sfnref|小林|2020}}}} * ペネロープ・バジュー『キュロテ 世界の偉大な15人の女性たち』関澄かおる訳、DU BOOKS、2017年10月、ISBN 978-4-86647-018-4。 == 外部リンク == {{commonscat|Tove Jansson}} {{Wikiquote}} * [https://www.moomin.co.jp/tove ムーミンを知ろう トーベ・ヤンソンについて](ムーミン公式サイト) * [https://www.muumimaailma.fi ムーミンワールド]{{fi icon}} * [https://hanno-city.info/akebono/ トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園] - [[埼玉県]][[飯能市]]阿須に存在する、トーベ・ヤンソンの世界を[[概念|コンセプト]]にした飯能[[市営]]公園。 * {{Kotobank|ヤンソン}} {{ムーミン}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:やんそん とおへ}} [[Category:トーベ・ヤンソン|*]] [[Category:20世紀フィンランドの画家]] [[Category:20世紀フィンランドの女性著作家]] [[Category:フィンランドの児童文学作家]] [[Category:フィンランドの女性小説家]] [[Category:フィンランドの漫画家]] [[Category:フィンランド出身のLGBTの著作家]] [[Category:20世紀の女性画家]] [[Category:20世紀の小説家]] [[Category:女性小説家]] [[Category:女性の児童文学作家]] [[Category:女性の漫画原作者]] [[Category:SFとファンタジーの女性著作家]] [[Category:LGBTの芸術家]] [[Category:LGBTの小説家]] [[Category:LGBTの漫画家]] [[Category:レズビアンの著作家]] [[Category:レズビアンの芸術家]] [[Category:風刺画家]] [[Category:スウェーデン語文学]] [[Category:スウェーデン系フィンランド人]] [[Category:ロシア帝国のスウェーデン人]] [[Category:ヘルシンキ出身の人物]] [[Category:1914年生]] [[Category:2001年没]]
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イリジウム
イリジウム(英語: iridium [ɨˈrɪdiəm])は、原子番号77の元素で、元素記号は Irである。遷移元素かつ白金族元素に分類される元素の1つで、単体では白金に似た金属光沢を有する。 「イリジウム」という名は、その塩類が、虹のように様々な色調を示す事から、ギリシャ神話の虹の女神イリスにちなんで名付けられた。 イリジウムは白金の精錬時に得られる副産物として採取されている。このためプラチナの生産量に、イリジウムの生産量も依存する。ただ、地球の地殻中での濃度は0.001 ppm(1 ppb)に過ぎず、イリジウムの1年間の採掘量は、4トン程度と少ない。このため、レアメタル(希少金属)として扱われている。 なお地殻中でも偏在が見られ、イリジウムの産出量の95パーセントを南アフリカ共和国が占めており、南アフリカ共和国のブッシュフェルトの埋蔵量は、現在知られている中で最大である。この他には、ロシアのノリリスクや、カナダのサドバリーでも採掘されており、僅かながらアメリカ合衆国でも発見されている。 このように地球の地殻中では希少だが、地球内部のマントルには、地殻よりも遥かに高濃度でイリジウムが含まれている。また隕石にも、より高濃度でイリジウムが含まれており、その濃度は0.5 ppm以上であるとされている。 恐竜絶滅に関する議論で、白亜紀と古第三紀の境界の地層中に大量のイリジウムを含んだ地層であるK-Pg境界層が、しばしば登場してきた。イリジウムは、地表では非常に少ない金属であるため、これは隕石または地球の深部由来の物と判断され、これをユカタン半島への隕石の衝突を示す証拠であると言及されたり、デカン高原を形成した破局的な噴火が発生した証拠であると言及されたりしてきた。 常温常圧で安定なイリジウムの結晶構造は、面心立方構造 (FCC)である。常温常圧におかれたイリジウムは、展延性に乏しく、非常に硬いため、加工も難しい。 常圧におけるイリジウムの融点は 2466 °C、沸点は4428 °Cである。このように融点も高いため、そのままでは加工や成形を行う事が困難であり、一般的には粉末にしたイリジウム合金を焼結して使用する場合が多い。 イリジウム単体の密度は 22.562 g/cmであり、比重は全元素中で2番目に大きい。かつてはイリジウム22.65 g/cm、オスミウム22.61 g/cmとされ、イリジウムが全元素中最大の比重とされてきたものの、計算時の原子数が間違っていたため修正された。 イリジウムの単体は、一般的な酸やアルカリとは反応せず、常温では王水ともほとんど反応しない。せいぜい、粉末にすれば僅かに王水に溶ける程度である。常温では酸素とも反応が難く、貴金属として扱われる。このように反応性が低いため、Ir-10Al合金化する事で優れた耐酸化性能を与えられる。 しかしながら、高温でフッ素、塩素、酸素と反応する。また、高温酸化雰囲気中では揮発性酸化物を生成する。なお、イリジウムは、-1, 0, +2, +3, +4, +6価の原子価を取り得る。参考までに、酸素と化合したイリジウムで安定なのは、+4価の二酸化イリジウムである。 イリジウムを含有した鉱石鉱物には、次のような物が見られる。 2020年現在、白金との比較で、概ね2倍から2.5倍ほどと、非常に高価である。また、加工も難しいため、用途は限られてきた。 イリジウム単体や、イリジウムの合金は、その硬度や融点の高さから耐熱性や耐摩耗性が求められる用途で使用される場合が多い。 白金の硬化のために、白金との合金の材料としてイリジウムが使用される場合が多く、指輪やネックレスなどの多くの宝飾品に用いられている。 また、近年ではイリジウム単体を、結婚指輪などの材料として用いる場合もある。 イリジウムの安定同位体は、IrとIrの2核種のみで、天然に存在するイリジウムの同位体は、この2種である。 1804年にオスミウムと共にスミソン・テナント (S. Tennant) が、イリジウムも発見した。
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イリジウムは、原子番号77の元素で、元素記号は Irである。遷移元素かつ白金族元素に分類される元素の1つで、単体では白金に似た金属光沢を有する。
{{Otheruses|元素|その他の「イリジウム」|イリジウム (曖昧さ回避)}} {{Expand English|Iridium|date=2023-11}} {{Elementbox |name=iridium |japanese name=イリジウム |number=77 |symbol=Ir |pronounce={{IPAc-en|ɨ|ˈ|r|ɪ|d|i|əm}}<br />{{respell|i|RID|ee-əm}} |left=[[オスミウム]] |right=[[白金]] |above=[[ロジウム|Rh]] |below=[[マイトネリウム|Mt]] |series=遷移金属 |group=9 |period=6 |block=d |image name=Iridium-2.jpg |image alt= |appearance=銀白色 |atomic mass=192.217 |electron configuration=&#91;[[キセノン|Xe]]&#93; 4f<sup>14</sup> 5d<sup>7</sup> 6s<sup>2</sup> |electrons per shell=2, 8, 18, 32, 15, 2 |phase=固体 |density gpcm3nrt=22.562 |density gpcm3mp=19 |melting point K=2739 |melting point C=2466 |melting point F=4471 |boiling point K=4701 |boiling point C=4428 |boiling point F=8002 |heat fusion=41.12 |heat vaporization=563 |heat capacity=25.10 |vapor pressure 1=2713 |vapor pressure 10=2957 |vapor pressure 100=3252 |vapor pressure 1 k=3614 |vapor pressure 10 k=4069 |vapor pressure 100 k=4659 |vapor pressure comment= |crystal structure=face-centered cubic |japanese crystal structure=[[面心立方格子構造]] |oxidation states=6, 5, '''4''', '''3''', 2, 1, 0, -1, -3 |electronegativity=2.20 |number of ionization energies=2 |1st ionization energy=880 |2nd ionization energy=1600 |atomic radius=[[1 E-10 m|136]] |covalent radius=[[1 E-10 m|141±6]] |magnetic ordering=[[常磁性]]<ref>[http://mri-q.com/uploads/3/4/5/7/34572113/susceptibility_of_inorganic_compounds.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds], in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref> |electrical resistivity at 20=47.1 n |thermal conductivity=147 |thermal expansion=6.4 |speed of sound rod at 20=4825 |Young's modulus=528 |Shear modulus=210 |Bulk modulus=320 |Poisson ratio=0.26 |Mohs hardness=6.5 |Vickers hardness=1760 |Brinell hardness=1670 |CAS number=7439-88-5 |isotopes={{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[イリジウム188|188]] | sym=Ir | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|1.73 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=1.64 | pn=[[オスミウム188|188]] | ps=[[オスミウム|Os]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[イリジウム189|189]] | sym=Ir | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|13.2 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.532 | pn=[[オスミウム189|189]] | ps=[[オスミウム|Os]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[イリジウム190|190]] | sym=Ir | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|11.8 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=2.000 | pn=[[オスミウム190|190]] | ps=[[オスミウム|Os]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[イリジウム191|191]] | sym=Ir | na=37.3% | n=114}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[イリジウム192|192]] | sym=Ir | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|73.827 d]] | dm1=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de1=1.460 | pn1=[[白金192|192]] | ps1=[[白金|Pt]] | dm2=[[電子捕獲|ε]] | de2=1.046 | pn2=[[オスミウム192|192]] | ps2=[[オスミウム|Os]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[イリジウム192m2|192m2]] | sym=Ir | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E9 s|241 y]] | dm=[[核異性体転移|IT]] | de=0.161 | pn=[[イリジウム192|192]] | ps=Ir}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[イリジウム193|193]] | sym=Ir | na=62.7% | n=116}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[イリジウム193m|193m]] | sym=Ir | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|10.5 d]] | dm=[[核異性体転移|IT]] | de=0.080 | pn=[[イリジウム193|193]] | ps=Ir}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[イリジウム194|194]] | sym=Ir | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E4 s|19.3 h]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=2.247 | pn=[[白金194|194]] | ps=[[白金|Pt]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[イリジウム194m2|194m2]] | sym=Ir | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|171 d]] | dm=[[核異性体転移|IT]] | de=? | pn=[[イリジウム194|194]] | ps=Ir}} |isotopes comment= }} '''イリジウム'''({{lang-en|iridium}} {{IPA-en|ɨˈrɪdiəm|}})は、[[原子番号]]77の[[元素]]で、[[元素記号]]は '''Ir'''である。[[遷移元素]]かつ[[白金族元素]]に分類される元素の1つで、単体では[[白金]]に似た[[金属光沢]]を有する。 == 名称 == 「イリジウム」という名は、その[[塩 (化学)|塩類]]が、虹のように様々な色調を示す事から、[[ギリシャ神話]]の虹の女神[[イーリス|イリス]]にちなんで名付けられた<ref name="sakurai" />。 == 所在 == === 地球の地殻 === イリジウムは白金の精錬時に得られる副産物として採取されている<ref name="materia.54.339">御手洗 容子 『[https://doi.org/10.2320/materia.54.339 白金族金属の構造材料への応用]』 まてりあ Vol.54 (2015) No.7 pp.339-342, {{doi|10.2320/materia.54.339}}</ref>。このためプラチナの生産量に、イリジウムの生産量も依存する。ただ、[[地球]]の[[地殻]]中での濃度は{{Val|0.001|ul=ppm}}({{Val|1|ul=ppb}})に過ぎず<ref>{{Cite web | title = The Element Iridium | work = It's Elemental |publisher=Jefferson Lab | url = http://education.jlab.org/itselemental/ele077.html | accessdate = 2016-10-01}}</ref><ref group="注釈">地球の地殻中では、オスミウムとロジウムに次ぎ、イリジウムは3番目に低濃度の元素である。</ref>、イリジウムの1年間の採掘量は、4トン程度と少ない。このため、[[レアメタル]](希少金属)として扱われている。 なお地殻中でも偏在が見られ、イリジウムの産出量の95パーセントを[[南アフリカ共和国]]が占めており、南アフリカ共和国のブッシュフェルトの埋蔵量は、現在知られている中で最大である。この他には、ロシアの[[ノリリスク]]や、カナダの[[サドバリー (オンタリオ州)|サドバリー]]でも採掘されており、僅かながら[[アメリカ合衆国]]でも発見されている。 === その他の場所 === このように地球の地殻中では希少だが、地球内部の[[マントル]]には、地殻よりも遥かに高濃度でイリジウムが含まれている。また[[隕石]]にも、より高濃度でイリジウムが含まれており、その濃度は{{Val|0.5|ul=ppm}}以上であるとされている。 === 特殊な地層中に含まれるイリジウム === [[恐竜]]絶滅に関する議論で、[[白亜紀]]と[[古第三紀]]の境界の地層中に大量のイリジウムを含んだ地層である[[K-Pg境界|K-Pg境界層]]が、しばしば登場してきた。イリジウムは、地表では非常に少ない金属であるため、これは隕石または地球の深部由来の物と判断され、これをユカタン半島への隕石の衝突を示す証拠であると言及されたり、[[デカン高原]]を形成した[[破局噴火|破局的な噴火]]が発生した証拠であると言及されたりしてきた。 {{see also|K-Pg境界}} == 性質 == === 物理的性質 === 常温常圧で安定なイリジウムの結晶構造は、[[面心立方構造]] (FCC)である。常温常圧におかれたイリジウムは、[[展延性]]に乏しく、非常に硬いため、加工も難しい。 常圧におけるイリジウムの[[融点]]は 2466 ℃、[[沸点]]は4428 ℃である。このように融点も高いため、そのままでは加工や成形を行う事が困難であり、一般的には粉末にしたイリジウム合金を[[焼結]]して使用する場合が多い。 イリジウム単体の[[密度]]は {{Val|22.562|ul=g/cm3}}<ref name="PlatRev" />であり、比重は全元素中で2番目に大きい<ref group="注釈">密度が最大の元素は[[オスミウム]](Os)で、その密度は、22.587 [[キログラム毎立方メートル|g/cm<sup>3</sup>]]である。</ref>。かつてはイリジウム{{Val|22.65|ul=g/cm3}}、オスミウム{{Val|22.61|ul=g/cm3}}とされ、イリジウムが全元素中最大の比重とされてきたものの、計算時の原子数が間違っていたため修正された<ref name="a">[[#グレイ(2010)|グレイ(2010)]]</ref>。 === 化学的性質 === イリジウムの単体は、一般的な[[酸]]や[[アルカリ]]とは反応せず、常温では[[王水]]ともほとんど反応しない。せいぜい、粉末にすれば僅かに王水に溶ける程度である。常温では[[酸素]]とも反応が難く、[[貴金属]]として扱われる。このように反応性が低いため、Ir-10Al合金化する事で優れた耐酸化性能を与えられる<ref name="materia.52.440" />。 しかしながら、高温で[[フッ素]]、[[塩素]]、酸素と反応する。また、高温酸化雰囲気中では揮発性酸化物を生成する<ref>J. H. Carpenter: J. Less-common Met., 152(1989), 35-45., {{doi|10.1016/0022-5088(89)90069-6}}</ref>。なお、イリジウムは、-1, 0, +2, +3, +4, +6価の[[原子価]]を取り得る。参考までに、酸素と化合したイリジウムで安定なのは、+4価の[[二酸化イリジウム]]である。 == 鉱物 == イリジウムを含有した[[鉱石鉱物]]には、次のような物が見られる。 * [[自然イリジウム]]、(Ir,Os,Ru) ** ([[自然オスミウム]])、(Os,Ir,Ru) ** ([[自然ルテニウム]])、(Ru,Ir,Os) * [[輝イリジウム鉱]]、IrAs<sub>2</sub> == 用途 == 2020年現在、白金との比較で、概ね2倍から2.5倍ほどと、非常に高価である。また、加工も難しいため、用途は限られてきた。 === 工業用 === イリジウム単体や、イリジウムの[[合金]]は、その硬度や融点の高さから[[耐熱性]]や[[耐摩耗性]]が求められる用途で使用される場合が多い<ref name="materia.52.440">御手洗容子、村上秀之 『[https://doi.org/10.2320/materia.52.440 Ir 基合金の高温耐酸化性]』 まてりあ Vol.52 (2013) No.9 p.440-444, {{doi|10.2320/materia.52.440}}</ref>。 ;高温耐酸化性 :* 人工の[[サファイア]]の[[単結晶]]を製造するための工業用の[[るつぼ]]は、非常に高い耐熱性が求められるため、イリジウムはるつぼの材料として使用され<ref name=furuyametals>[http://www.furuyametals.co.jp/products/ イリジウムルツボ] 株式会社 フルヤ金属</ref>、イリジウムの用途として最も一般的である。 :* 高温に曝されても酸化被膜が生成され難いため、[[飛行機]]や[[自動車]]エンジンの[[点火プラグ]]の電極の材料として使用される<ref name="materia.54.339" />。 :* [[ロジウム]](Rh)との合金は、IrRh熱電対温度計として 2100 ℃までの計測が可能である<ref>{{PDFlink|[http://www.furuyametals.co.jp/pdf/20130327.pdf 従来の約20倍の耐久性を持つ超高温用熱電]}}</ref><ref>小倉秀樹 ほか、「1950℃付近におけるイリジウム-ロジウム熱電対の評価技術」 センシングフォーラム資料 31, 234-238, 2014-09-25, {{naid|40020353679}}</ref>。 ;耐摩耗性 :* 耐食性・耐摩耗性に優れているため、高級な[[万年筆]]のペン先の材料として、[[オスミウム]]などと共に用いられる場合もある。 ;原器の材料 :* 白金とイリジウムの合金(Pt-10Ir)は、[[国際キログラム原器|キログラム原器]]や[[メートル原器]]の材料として使われてきた。 ;放射線源 :* [[人工放射性同位体|人工的に作った放射性同位体]]のイリジウム192({{chem|192|Ir}})は、[[非破壊検査]]の際の線源として利用されている。 === 宝飾用 === 白金の硬化のために、白金との合金の材料としてイリジウムが使用される場合が多く<ref name="jewellery1">{{Cite web|和書|url=http://www.jja.ne.jp/aboutjewellery/aboutjewellery_inner05.html |title=貴金属について |accessdate=2017-05-01 |publisher=日本ジュエリー協会}}</ref>、指輪やネックレスなどの多くの宝飾品に用いられている。 また、近年ではイリジウム単体を、[[結婚指輪]]などの材料として用いる場合もある<ref name="jewellery2">{{Cite web|url=https://www.americanelements.com/irmwb.html |title=Luxury Iridium Jewelry |accessdate=2017-05-01 |publisher=American Elements}}</ref>。 == 同位体 == {{Main|イリジウムの同位体}} イリジウムの[[安定同位体]]は、{{Chem|191|Ir}}と{{Chem|193|Ir}}の2核種のみで、天然に存在するイリジウムの同位体は、この2種である。 == 歴史 == [[1804年]]にオスミウムと共に[[スミソン・テナント]] (S. Tennant) が、イリジウムも発見した<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =桜井弘 |title = 元素111の新知識 |date = 1997-10-20 | page = 314 |publisher =講談社 |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="PlatRev">J. W. Arblaster: ''Densities of Osmium and Iridium'', in: Platinum Metals Review, 1989, 33, 1, S.&nbsp;14–16; [http://www.platinummetalsreview.com/pdf/pmr-v33-i1-014-016.pdf Volltext].</ref> }} === 参考文献 === * {{Cite book|和書|editor=セオドア・グレイ |translator=武井摩利 |others=若林文高(監修) |chapter= |title=世界で一番美しい元素図鑑 |series= |date=2010-10-22 |publisher=[[創元社]] |isbn=978-4-422-42004-2 |pages=176-177 |url=|ref=グレイ(2010)}} == 関連項目 == * [[ツングースカ大爆発]] - 爆発地点でイリジウムが検出された。 {{Commons|Iridium}} {{元素周期表}} {{イリジウムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いりしうむ}} [[Category:イリジウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:遷移金属]] [[Category:第9族元素]] [[Category:第6周期元素]] [[Category:貴金属]]
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セレン
セレン(英: selenium [sɨˈliːniəm]、独: Selen [zeˈleːn])は元素記号が Se である原子番号34の元素。カルコゲン元素の一つ。ヒトの必須元素の1つでもある。 セレンはギリシャ神話の月の女神セレネから命名されている。これは、周期表上でひとつ下に位置するテルル(ラテン語で地球を意味する Tellus から命名)より後に発見され、性質がよく似ていたためである。あるいは地球の「上」に位置するためとも言われる。 セレンのように、周期表上で並ぶ元素が天体の配置になぞらえて命名された例は、ウラン・ネプツニウム・プルトニウムにも見られる。 いくつかの同素体が存在するが、常温で安定なのは六方晶系で鎖状構造をもつ灰色セレン(金属セレン)である。灰色セレンの融点は217.4 °C(異なる実験値あり)で、比重は4.8である。他の同素体として、赤色で単斜晶系のα, β, γセレン、ガラス状の無定形セレンなどがある。-2, 0, +2, +4, +6価の酸化状態を取り得る。水に不溶だが、二硫化炭素 (CS2) には溶ける。また、熱濃硫酸と反応する。燃やすと不快臭のある気体(二酸化セレン)が発生する。硫黄に性質が似ている。 セレンは自然界に広く存在し、微量レベルであれば人体にとって必須元素であり、抗酸化作用(抗酸化酵素の合成に必要)がある。克山(クーシャン)病(Keshan disease:中国の風土病)やカシン・ベック病 (Kashin-Beck disease) の原因としてセレン欠乏が考えられている。一方、必要レベルの倍程度以上で毒性を示すため、過剰摂取には注意が必要である。 また環境影響としては、水質汚濁、土壌汚染に係る環境基準指定項目となっている。これはセレンの性質が硫黄にきわめてよく似るため、高濃度のセレン中では含硫化合物中の硫黄原子が無作為にセレンに置換され、その機能を阻害されるためである。 自動車業界サプライチェーンにおける製品含有管理物質リスト「GADSL」には、日本の廃棄物処理法を法的根拠として、セレンが収載されており、金属セレンそのものはD(要申告物質)、化合物42種類のうち4種類がP(使用禁止物質)、15種類がD/P(条件付き禁止)に分類されている。 廃棄物処理法では、特定業種・施設から排出される燃え殻・汚泥・廃油などに含まれるセレンの量が、0.3もしくは1mg/Lを超えると特別管理産業廃棄物として規制される。 セレンを主成分とする鉱物は、銅あるいは銀との化合物のセレン銀鉱やセレン銅銀鉱が知られるが、産出量の少ない鉱物であるため鉱石として利用はされない。硫黄化合物として産出することが多いため、工業的には硫酸製造の際の沈殿物や銅精錬時の副産物を精錬し得る。 21世紀になって中国が需要増により自国生産を始めるまでは日本が世界最大の産出国だった。主に銀の副産物としてセレン銀鉱から抽出されている。 主な産出国は、中国、日本、ドイツ、ベルギー、カナダになっている。アメリカも20世紀までは採掘していたが21世紀になってから生産していない。産出量は2020年が2,900トン、予想埋蔵量は100,000トンである。 金属セレンは、半導体性、光伝導性がある。これを利用してコピー機の感光ドラムに用いられる。またセレンは整流器(セレン整流器)に使われたり、光起電効果によりカメラの露出計やガラスの着色剤、脱色剤に使われる。 1817年、スウェーデンの化学者イェンス・ベルセリウスとヨハン・ゴットリーブ・ガーンによって発見された。2人はスウェーデンに化学工場を持ち、鉛室法で硫酸を生産していた。ファールン鉱山の黄鉄鉱 (Pyrite) は鉛室の中で赤い沈殿物を作り、それがヒ素化合物と推定されたために硫酸の製造は中止された。この赤い沈殿物を燃やすとテルル化合物の場合と同様にホースラディッシュのような臭いがすることを確認したため、当初ベルゼリウスはこれがテルル化合物と考えた。しかしファールン鉱山の鉱物の中にテルル化合物がないことから、やがてベルゼリウスは赤い沈殿物を再分析し、1818年に硫黄とテルルに似た新元素と考えた。地球から名付けられたテルルに似ていることから、ベルゼリウスはこの新元素を月にちなんでセレンと名付けた。 1873年にウィルビー・スミス (Willoughby Smith) らが灰色セレンの電気抵抗が周囲の光に依存することを発見した。セレンを使用した光電池が1870 年代半ばにヴェルナー・フォン・ジーメンスによって開発され、セレンを用いた最初の商用製品となった。セレン電池は、1879年にアレクサンダー・グラハム・ベルが開発した光電池にも使用された。セレンは光の量に比例した電流を流すことを利用して、光量計などが設計された。1876年にアダムス (Adams) とデイ (Day) らがセレンと金属との接合面における光起電力効果を確認した。 セレンの半導体特性は、電子工学分野において多くの利用された。セレン整流器の開発は1930年代初期から始まったが、より効率的な酸化銅整流器に、その後はより安価でさらに効率の高いシリコン整流器に取って代わられた。 1883年、チャールズ・フリッツがセレンに薄い金の膜を接合した、セレン光起電力セル (Photovoltaic Cell) を作製した。このセルは現在で言うショットキー接合を使ったもので、変換効率はわずか1%程度であった(現在の太陽電池はpn接合を用いる)。この発明は1960年代まで光センサーとして、カメラの露出計等に広く応用された。 セレンは後に工業労働者に対する毒性という観点で医学的に注目されるようになった。またセレン含有量の多い植物を食べた動物に見られる重要な獣医学的毒物としても認識されるようになった。1954年、生化学者のジェーン・ピンセントによって、セレンの特定の生物学的機能の最初のヒントが微生物で発見された。 1957年に哺乳類の生命に必須であることが見出された。1970年代には、2つの独立した酵素のセットに存在することが明らかにされた。これに続いて、タンパク質中のセレノシステインが発見された。1980年代には、セレノシステインがUGAというコドンによってコードされていることが示された。その再コード化のメカニズムは、まずバクテリアで、次に哺乳類で解明された。 セレンのオキソ酸は慣用名をもつ。次にそれらを挙げる。 ※ オキソ酸塩名称の '-' にはカチオン種の名称が入る。 セレンに有機基が結合した化合物として、セレノール (RSeH)、セレニド (RSeR') など多くの種類の化合物が知られる。 セレンはセレノシステインとしてタンパク質に組み込まれ、主にセレノプロテインとして働く。セレンはビタミンEやビタミンCと協調して、活性酸素やラジカルから生体を防御すると考えられている。 セレノプロテインには抗酸化に関与するグルタチオンペルオキシダーゼ、チオレドキシン還元酵素、甲状腺ホルモンを活性化するテトラヨードチロニン-5'-脱ヨウ素化酵素、セレンを末梢組織に輸送するセレノプロテインPなどがある。 セレンは欠乏量と中毒量の間の適正量の幅が非常に狭い。セレン過剰症として、悪心、吐き気、下痢、食欲不振、頭痛、免疫抑制、高比重リポ蛋白 (HDL) 減少などの症状がある。一方、欠乏症は貧血、高血圧、精子減少、ガン(特に前立腺ガン)、関節炎、早老、筋萎縮、多発性硬化症などが知られている。ただし、ヒトにおいて、セレン単独の欠乏では、これらの症状が認知されていない(動物実験レベルではセレン単独の欠乏症状が認められている)。 セレンは肉や植物など日常で摂取する食材に含まれており、欠乏症はさほど多くはないが、食品、特に植物性のものに含まれるセレン含量は生育する土壌中のセレン含量に左右される。そのため、セレン含量の乏しい土地の住人にセレン欠乏が見られる。そのような土地として中国黒竜江省の克山県があり、鬱血性心不全を特徴とする克山病が知られている。患者にセレンを補給することにより改善するため、セレンが深く関与すると考えられている。また、中国河南省の林県もセレン含量の低い土壌で、この土地では胃癌の発生頻度が高いことが知られているが、こちらにはニトロソ化合物が影響しているという説もある。 また、血液中のセレン濃度と前立腺ガンの相関性が指摘されており、血液中セレン濃度の低下は前立腺ガンのリスクファクターと言われる。セレンの補充は前立腺ガンのリスクを軽減するとの報告もある。ただし、取り過ぎは前立腺ガンのリスクを軽減しないどころか、皮膚がんのリスクを高めると言われる。 前述のように、ヒトではセレン単独の欠乏症状が見られない。したがって、セレン欠乏は、欠乏症の二次的な要因となると考えられている。すなわち、ビタミンEなどと協調してはたらくため、両栄養素の欠乏症状の相乗作用により現れると考えられる。また、克山病ではセレン欠乏が、コクサッキーウイルスの変異を促し、病原性の獲得および増大をもたらすと考えられている。 経口摂取が不可能になって輸液頼みであったり、タンパク質の摂取が制限されている透析患者ではセレンは不足しがちである。 余命の短い透析患者ではセレンの血中濃度が有意に低いとする研究がある。 透析の過程でセレンが流出してしまっているとする研究もあるが、これを否定する研究もありいまいちよくわかっていない。 セレンは透析患者の2大死因である感染症と心血管病に関わる可能性があり、基準値の策定、治療介入の必要性が指摘されている。 人体には体重1 kgあたり、約0.17 mg程度含まれると言われ、1975年にヒトでの必須性が認められた。セレンの食事摂取基準は2020年版の日本人の食事摂取基準によると、推定平均必要量が25 (20) μg、推奨量が30 (25) μg、上限量が450 (350) μgである(数値は成人男性、かっこ内は成人女性)。ただし、妊婦は更に5 μgの付加量、授乳婦は15~20 μgの付加量となっている。日本人の平均的なセレンの摂取量は100 μg/日とされ、中毒を起こす摂取量は800 μg以上とされている。 東京都は、日本人の摂取量は推奨量をすでに超えている為、「通常はサプリメントとして摂取する必要はないと考えられる」。さらに、「一日許摂取量が上限量に近い栄養補助食品が存在し、上限量を超える可能性がある、この様な物は栄養補助食品として販売されることが問題である」としている。 日本では法規制のため、経腸栄養剤(エンシュアなど)や病気用の代替乳(アレルゲン除去ミルクなど)にセレンなどを添加できず欠乏症に注意が必要となる。 過剰摂取は健康に影響を及ぼし、次の症状を引き起こすことがある。 皮膚炎や脱毛、爪の変形、爪の脱落、顔面蒼白、末梢神経障害、舌苔、うつ状態、胃腸障害、呼気のニンニク臭、運動失調、呼吸困難、神経症状、下痢、疲労感、焦燥感、心筋梗塞、腎不全など。実際に過剰な含有量のダイエット食品を摂食し、健康被害を生じた例がある。
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100 k=958 |vapor pressure comment= |crystal structure=hexagonal |japanese crystal structure=[[六方晶系]] |oxidation states='''6''', '''4''', '''2''', 1<ref>{{cite web|url=https://web.archive.org/web/20080511233256/http://www.webelements.com/webelements/compounds/text/Se/Cl2Se2-10025680.html|title=Selenium : Selenium(I) chloride compound data|accessdate=2007-12-10|publisher=WebElements.com}}</ref>, -2(強[[酸性酸化物]]) |electronegativity=2.55 |number of ionization energies=3 |1st ionization energy=941.0 |2nd ionization energy=2045 |3rd ionization energy=2973.7 |atomic radius=[[1 E-10 m|120]] |covalent radius=[[1 E-10 m|120±4]] |Van der Waals radius=[[1 E-10 m|190]] |magnetic ordering=[[反磁性]]<ref>[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pd |date=2004年3月24日 }}, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref> |thermal conductivity=(無定形セレン)0.519 |thermal expansion at 25=(無定形セレン)37 |speed of sound rod at 20=3350 |Young's modulus=10 |Shear modulus=3.7 |Bulk modulus=8.3 |Poisson ratio=0.33 |Mohs hardness=2.0 |Brinell hardness=736 |CAS number=7782-49-2 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[セレン72|72]] | sym=Se | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|8.4 d]] | dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=- | pn1=[[砒素72|72]] | ps1=[[砒素|As]] | dm2=[[ガンマ崩壊|γ]] | de2=0.046 | pn2= | ps2=-}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[セレン74|74]] | sym=Se | na=0.87% | n=40}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[セレン75|75]] | sym=Se | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|119.779 d]] | dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=- | pn1=[[砒素75|75]] | ps1=[[砒素|As]] | dm2=[[ガンマ崩壊|γ]] | de2=0.264, 0.136, 0.279 | pn2= | ps2=-}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[セレン76|76]] | sym=Se | na=9.36% | n=42}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[セレン77|77]] | sym=Se | na=7.63% | n=43}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[セレン78|78]] | sym=Se | na=23.78% | n=44}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[セレン79|79]] | sym=Se | na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=[[1 E10 s|3.27×10<sup>5</sup> y]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.151 | pn=[[臭素79|79]] | ps=[[臭素|Br]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[セレン80|80]] | sym=Se | na=49.61% | n=46}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[セレン82|82]] | sym=Se | na=8.73% | hl=[[1 E24 s|1.08×10<sup>20</sup> y]] | dm=[[二重ベータ崩壊|β<sup>-</sup>β<sup>-</sup>]] | de=2.995 | pn=[[クリプトン82|82]] | ps=[[クリプトン|Kr]]}} |isotopes comment= }} '''セレン'''({{lang-en-short|selenium}} {{IPA-en|sɨˈliːniəm|}}、{{lang-de-short|Selen}} {{IPA-de|zeˈleːn|}})は[[元素記号]]が '''Se''' である[[原子番号]]34の[[元素]]。[[カルコゲン元素]]の一つ。ヒトの[[必須元素]]の1つでもある。 == 名称 == セレンは[[ギリシャ神話]]の[[月]]の女神[[セレーネー|セレネ]]から命名されている。これは、[[周期表]]上でひとつ下に位置する[[テルル]]([[ラテン語]]で[[地球]]を意味する Tellus から命名)より後に発見され、性質がよく似ていたためである。あるいは地球の「上」に位置するためとも言われる。 セレンのように、周期表上で並ぶ元素が[[天体]]の配置になぞらえて命名された例は、[[ウラン]]・[[ネプツニウム]]・[[プルトニウム]]にも見られる。 == 性質 == いくつかの[[同素体]]が存在するが、常温で安定なのは[[六方晶系]]で鎖状構造をもつ灰色セレン(金属セレン)である。灰色セレンの[[融点]]は217.4 {{℃}}(異なる実験値あり)で、比重は4.8である。他の同素体として、赤色で[[単斜晶系]]のα, β, γセレン、ガラス状の無定形セレンなどがある。-2, 0, +2, +4, +6価の酸化状態を取り得る。水に不溶だが、[[二硫化炭素]] (CS<sub>2</sub>) には溶ける。また、熱濃[[硫酸]]と反応する。燃やすと不快臭のある気体([[二酸化セレン]])が発生する。[[硫黄]]に性質が似ている。 セレンは自然界に広く存在し、微量レベルであれば人体にとって必須元素であり、[[抗酸化作用]](抗酸化酵素の合成に必要)がある。[[克山病|克山(クーシャン)病]](Keshan disease:中国の風土病)や[[カシン・ベック病]] (Kashin-Beck disease) の原因としてセレン欠乏が考えられている。一方、必要レベルの倍程度以上で毒性を示すため、過剰摂取には注意が必要である。 また環境影響としては、[[水質汚濁]]、[[土壌汚染]]に係る[[環境基準]]指定項目となっている。これはセレンの性質が硫黄にきわめてよく似るため、高濃度のセレン中では含硫化合物中の硫黄原子が無作為にセレンに置換され、その機能を阻害されるためである。 自動車業界サプライチェーンにおける製品含有管理物質リスト「[[IMDS#禁止物質または要申告物質のリスト|GADSL]]」には、日本の[[廃棄物処理法]]を法的根拠として、セレンが収載されており、金属セレンそのものはD(要申告物質)、化合物42種類のうち4種類がP(使用禁止物質)、15種類がD/P(条件付き禁止)に分類されている。<ref>https://www.gadsl.org/</ref> 廃棄物処理法では、特定業種・施設から排出される燃え殻・汚泥・廃油などに含まれるセレンの量が、0.3もしくは1mg/Lを超えると[[産業廃棄物#日本の産業廃棄物|特別管理産業廃棄物]]として規制される。<ref>https://www.env.go.jp/recycle/waste/sp_contr/01_table.html</ref> == 産出 == セレンを主成分とする鉱物は、銅あるいは銀との化合物の[[セレン化銀|セレン銀鉱]]やセレン銅銀鉱が知られるが、産出量の少ない鉱物であるため鉱石として利用はされない。硫黄化合物として産出することが多いため、工業的には硫酸製造の際の沈殿物や銅[[精錬]]時の副産物を精錬し得る。 21世紀になって中国が需要増により自国生産を始めるまでは日本が世界最大の産出国だった。主に銀の副産物として[[セレン化銀|セレン銀鉱]]から抽出されている。 主な産出国は、中国、日本、ドイツ、ベルギー、カナダになっている。アメリカも20世紀までは採掘していたが21世紀になってから生産していない。産出量は2020年が2,900トン、予想埋蔵量は100,000トンである<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://pubs.usgs.gov/periodicals/mcs2021/mcs2021-selenium.pdf|title=アメリカ国立鉱物情報センター|accessdate=2021-9-9}}</ref>。 {| class="wikitable sortable" |+セレンの産出量(単位:トン)<ref name=":0" /> !産出国 !2019 !2020 |- |中国 |1,100 |1,100 |- |日本 |740 |750 |- |ドイツ |300 |300 |- |ベルギー |200 |200 |- |ロシア |150 |150 |- |フィンランド |115 |100 |- |ポーランド |64 |65 |- |カナダ |57 |60 |- |トルコ |50 |50 |- |ペルー |40 |40 |- |スウェーデン |19 |20 |- |その他 |45 |45 |} == 用途 == 金属セレンは、[[半導体]]性、[[光伝導性]]がある。これを利用して[[複写機|コピー機]]の感光ドラムに用いられる。またセレンは[[整流器]]([[セレン整流器]])に使われたり、光起電効果により[[カメラ]]の[[露出計]]や[[ガラス]]の[[ガラスの着色|着色剤]]<ref>インドではガラスの腕輪の着色に好んで使われる[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2177 インドは「自分の写し鏡」](中村繁夫(アドバンスト マテリアル ジャパン社長)、Wedge Infinity 2012年9月4日掲載)</ref>、脱色剤に使われる。 == 歴史 == [[1817年]]、[[スウェーデン]]の[[化学者]][[イェンス・ベルセリウス]]と[[ヨハン・ゴットリーブ・ガーン]]によって発見された。2人はスウェーデンに化学工場を持ち、鉛室法で硫酸を生産していた。ファールン鉱山の黄鉄鉱 (Pyrite) は鉛室の中で赤い沈殿物を作り、それがヒ素化合物と推定されたために硫酸の製造は中止された。この赤い沈殿物を燃やすとテルル化合物の場合と同様に[[ホースラディッシュ]]のような臭いがすることを確認したため、当初ベルゼリウスはこれがテルル化合物と考えた。しかしファールン鉱山の鉱物の中にテルル化合物がないことから、やがてベルゼリウスは赤い沈殿物を再分析し、1818年に硫黄とテルルに似た新元素と考えた。地球から名付けられたテルルに似ていることから、ベルゼリウスはこの新元素を月にちなんでセレンと名付けた。 1873年にウィルビー・スミス (Willoughby Smith) らが灰色セレンの電気抵抗が周囲の光に依存することを発見した。セレンを使用した光電池が1870 年代半ばに[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]によって開発され、セレンを用いた最初の商用製品となった。セレン電池は、1879年に[[アレクサンダー・グラハム・ベル]]が開発した光電池にも使用された。セレンは光の量に比例した電流を流すことを利用して、光量計などが設計された。1876年にアダムス (Adams) とデイ (Day) らがセレンと金属との接合面における光起電力効果を確認した<ref name="KuwanoHistoryBook"/>。 セレンの半導体特性は、電子工学分野において多くの利用された。セレン整流器の開発は1930年代初期から始まったが、より効率的な酸化銅整流器に、その後はより安価でさらに効率の高いシリコン整流器に取って代わられた。 1883年、[[チャールズ・フリッツ]]がセレンに薄い金の膜を接合した、セレン光起電力セル (Photovoltaic Cell) を作製した<ref name="Khan">[https://web.archive.org/web/20160411161517/http://www.ieeeghn.org/wiki/images/0/09/Khan.pdf Pre-1900 Semiconductor Research and Semiconductor Device Applications, AI Khan, IEEE Conference on the History of Electronics, 2004]</ref><ref name="KuwanoHistoryBook" />。このセルは現在で言う[[ショットキー接合]]を使ったもので<ref name="Kuwano_SE1">{{cite journal|title=太陽電池はどう発明され、成長し、どうなるか? |author=[[桑野幸徳]] |url=http://www.jses-solar.jp/ecsv/front/bin/cglist.phtml?Category=2937 |journal=太陽エネルギー |volume=35 |issue=3 |page=67 }}</ref>、変換効率はわずか1%程度であった<ref name="Khan" />(現在の太陽電池は[[pn接合]]を用いる)。この発明は1960年代まで光センサーとして、カメラの[[露出計]]等に広く応用された<ref name="KuwanoHistoryBook">{{Cite book|和書|title=太陽電池はどのように発明され、成長したのか |author=桑野幸徳|authorlink=桑野幸徳|url= |publisher=[[オーム社]]|date=2013年8月|isbn=978-4-274-50348-1|page= }}</ref><ref name="Morris90">Peter Robin Morris (1990) ''A History of the World Semiconductor Industry'', IET, ISBN 0-86341-227-0, pp. 11–25</ref>。 セレンは後に工業労働者に対する毒性という観点で医学的に注目されるようになった。またセレン含有量の多い植物を食べた動物に見られる重要な[[獣医学]]的毒物としても認識されるようになった。1954年、[[生化学]]者のジェーン・ピンセントによって、セレンの特定の生物学的機能の最初のヒントが微生物で発見された。 1957年に哺乳類の生命に必須であることが見出された。1970年代には、2つの独立した[[酵素]]のセットに存在することが明らかにされた。これに続いて、タンパク質中の[[セレノシステイン]]が発見された。1980年代には、セレノシステインがUGAという[[コドン]]によってコードされていることが示された。その再コード化のメカニズムは、まずバクテリアで、次に哺乳類で解明された。 == セレンの化合物 == === 酸化物とオキソ酸 === * [[一酸化セレン]] (SeO) * [[二酸化セレン]] (SeO<sub>2</sub>) * [[三酸化セレン]] (SeO<sub>3</sub>) セレンの[[オキソ酸]]は慣用名をもつ。次にそれらを挙げる。 {| class="wikitable" ! オキソ酸の名称 !! 化学式 !! 構造式 !! オキソ酸塩の名称 !! 備考 |- | '''[[亜セレン酸]]'''<br />(selenous acid) || '''H<sub>2</sub>SeO<sub>3</sub>''' || || '''[[亜セレン酸塩]]'''<br />( - selenite) || |- | '''[[セレン酸]]'''<br />(selenic acid) || '''H<sub>2</sub>SeO<sub>4</sub>''' || || '''[[セレン酸塩]]'''<br />( - selenate) || 強酸である。 |- | '''ペルオキソ一セレン酸'''<br />(peroxomonoselenic acid) || '''H<sub>2</sub>SeO<sub>5</sub>''' || || '''[[ペルオキソ一セレン酸塩]]'''<br />( - peroxomonoselenate) || 三酸化セレンと[[過酸化水素]]から作られる。 |} ※ ''オキソ酸塩名称の '-' には[[カチオン]]種の名称が入る。'' === ハロゲン化物 === * [[四フッ化セレン]] (SeF<sub>4</sub>) * [[六フッ化セレン]] (SeF<sub>6</sub>) * [[四塩化セレン]] (SeCl<sub>4</sub>) * [[四臭化セレン]] (SeBr<sub>4</sub>) * [[四ヨウ化セレン]] (SeI<sub>4</sub>) === 有機セレン化合物 === {{Main|有機セレン化合物}} セレンに有機基が結合した化合物として、[[セレノール]] (RSeH)、セレニド (RSeR') など多くの種類の化合物が知られる。 === 鉱物 === * セレン銀鉱 (Ag<sub>2</sub>Se) * セレン銅銀鉱 (CuAgSe) === その他 === * [[セレン化水素]] (H<sub>2</sub>Se) * [[塩化セレニル]] (SeOCl<sub>2</sub>) * [[セレノシステイン]] - [[アミノ酸]]の1種、特殊な[[蛋白質|タンパク質]]中に見出される * [[セレノメチオニン]] - セレノシステインとは異なりタンパク質の構造や機能には影響を与えない * [[セレン化亜鉛]] (ZnSe) - 赤外線を透過させる光学素子として最も良く使用される光学材料 == 生体内のセレン == セレンは[[セレノシステイン]]として[[蛋白質|タンパク質]]に組み込まれ、主に[[セレノプロテイン]]として働く。セレンは[[ビタミンE]]や[[ビタミンC]]と協調して、[[活性酸素]]や[[ラジカル (化学)|ラジカル]]から生体を防御すると考えられている。 セレノプロテインには抗酸化に関与する[[グルタチオンペルオキシダーゼ]]、[[チオレドキシン還元酵素]]、[[甲状腺ホルモン]]を活性化する[[テトラヨードチロニン-5'-脱ヨウ素化酵素]]、セレンを[[末梢組織]]に輸送する[[セレノプロテインP]]などがある。 セレンは欠乏量と中毒量の間の適正量の幅が非常に狭い。セレン過剰症として、[[悪心]]、[[吐き気]]、[[下痢]]、[[食欲不振]]、[[頭痛]]、[[免疫抑制]]、[[高比重リポ蛋白]] (HDL) 減少などの症状がある。一方、[[セレン欠乏症|欠乏症]]は[[貧血]]、[[高血圧]]、[[精子]]減少、[[悪性腫瘍|ガン]](特に[[前立腺ガン]])、[[関節炎]]、[[早老症|早老]]、[[筋萎縮]]、[[多発性硬化症]]などが知られている。ただし、ヒトにおいて、セレン単独の欠乏では、これらの症状が認知されていない(動物実験レベルではセレン単独の欠乏症状が認められている)。 セレンは肉や植物など日常で摂取する食材に含まれており、欠乏症はさほど多くはないが、食品、特に[[植物]]性のものに含まれるセレン含量は生育する土壌中のセレン含量に左右される。そのため、セレン含量の乏しい土地の住人にセレン欠乏が見られる。そのような土地として[[中華人民共和国|中国]][[黒竜江省]]の[[克山県]]があり、[[心不全|鬱血性心不全]]を特徴とする[[克山病]]が知られている。患者にセレンを補給することにより改善するため、セレンが深く関与すると考えられている。また、中国[[河南省]]の[[林県]]もセレン含量の低い土壌で、この土地では[[胃癌]]の発生頻度が高いことが知られているが、こちらには[[ニトロソ化合物]]が影響しているという説もある。 また、血液中のセレン濃度と前立腺ガンの相関性が指摘されており、血液中セレン濃度の低下は前立腺ガンの[[リスクファクター]]と言われる。セレンの補充は前立腺ガンのリスクを軽減するとの報告もある。ただし、取り過ぎは前立腺ガンのリスクを軽減しないどころか、[[皮膚がん]]のリスクを高めると言われる。 前述のように、ヒトではセレン単独の欠乏症状が見られない。したがって、セレン欠乏は、欠乏症の二次的な要因となると考えられている。すなわち、ビタミンEなどと協調してはたらくため、両[[栄養素]]の欠乏症状の相乗作用により現れると考えられる。また、克山病ではセレン欠乏が、[[コクサッキーウイルス]]の変異を促し、病原性の獲得および増大をもたらすと考えられている。 === 輸液・透析 === 経口摂取が不可能になって輸液頼みであったり、タンパク質の摂取が制限されている透析患者ではセレンは不足しがちである。<ref>{{Cite journal|last=真史|first=奥本|last2=裕子|first2=要田|last3=智樹|first3=北村|last4=正和|first4=近森|last5=紀男|first5=中西|date=2011|title=微量元素欠乏における問題点の考察|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjrm/60/4/60_4_548/_article/-char/ja/|journal=日本農村医学会雑誌|volume=60|issue=4|pages=548–554|doi=10.2185/jjrm.60.548}}</ref> 余命の短い透析患者ではセレンの血中濃度が有意に低いとする研究がある。<ref>{{Cite journal|year=2017|title=血中亜鉛およびセレン濃度の低下は血液透析患者の生命予後に強く影響する|url=https://www.jrias.or.jp/report/pdf/2017-24J1.2.19.pdf|journal=NMCC共同利用研究成果報文集24}}</ref> 透析の過程でセレンが流出してしまっているとする研究もあるが、これを否定する研究もありいまいちよくわかっていない。<ref name=":1">{{Cite journal|last=斉|first=水口|last2=修|first2=脇野|last3=徹|first3=川合|last4=義彦|first4=菅野|last5=裕生|first5=熊谷|last6=浩子|first6=児玉|last7=洋介|first7=藤島|last8=智仁|first8=松永|last9=博|first9=吉田|date=2021|title=透析患者におけるセレン欠乏症の臨床的意義|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsdt/54/5/54_191/_article/-char/ja/|journal=日本透析医学会雑誌|volume=54|issue=5|pages=191–201|doi=10.4009/jsdt.54.191}}</ref> セレンは透析患者の2大死因である感染症と心血管病に関わる可能性があり、基準値の策定、治療介入の必要性が指摘されている<ref name=":1" />。 === 摂取量 === 人体には体重1 kgあたり、約0.17 mg程度含まれると言われ、1975年に[[ヒト]]での必須性が認められた。セレンの食事摂取基準は2020年版の日本人の食事摂取基準<ref>[https://www.mhlw.go.jp/content/10904750/000586553.pdf 日本人の食事摂取基準] 厚生労働省</ref>によると、推定平均必要量が25 (20) µg、推奨量が30 (25) µg、上限量が450 (350) µgである(数値は成人男性、かっこ内は成人女性)。ただし、妊婦は更に5 µgの付加量、授乳婦は15~20 µgの付加量となっている。日本人の平均的なセレンの摂取量は100 µg/日とされ、中毒を起こす摂取量は800 µg以上とされている。 東京都は、日本人の摂取量は推奨量をすでに超えている為、「通常はサプリメントとして摂取する必要はないと考えられる」。さらに、「一日許摂取量が上限量に近い栄養補助食品が存在し、上限量を超える可能性がある、この様な物は栄養補助食品として販売されることが問題である」としている<ref>{{PDFlink|[http://www.tokyo-eiken.go.jp/issue/journal/2007/pdf/01-29.pdf ミネラル補給用サプリメントの含有量調査 セレンの分析] 東京都健康安全研究センター 研究年報 2007年}}</ref>。 日本では法規制のため、経腸栄養剤(エンシュアなど)や病気用の代替乳(アレルゲン除去ミルクなど)にセレンなどを添加できず欠乏症に注意が必要となる<ref name="naid130005005682">{{Cite journal |和書|author=児玉浩子 |date=2014 |title=経腸栄養剤・治療用ミルク使用で注意すべき栄養素欠乏 |journal=脳と発達 |volume=46 |issue=1 |pages=5-9 |naid=130005005682 |doi=10.11251/ojjscn.46.5 |url=https://doi.org/10.11251/ojjscn.46.5}}</ref>。 過剰摂取は健康に影響を及ぼし、次の症状を引き起こすことがある。 皮膚炎や脱毛、爪の変形、爪の脱落、顔面蒼白、末梢神経障害、舌苔、うつ状態、胃腸障害、呼気のニンニク臭、運動失調、呼吸困難、神経症状、下痢、疲労感、焦燥感、心筋梗塞、腎不全など<ref>{{Hfnet|682|セレン}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/anzen/hyouka/shiryo2008/20sentei1-siryo2-5.pdf 過剰のミネラルを含むダイエタリーサプリメントについて] 東京都食品安全情報評価委員会}}</ref>。実際に過剰な含有量のダイエット食品を摂食し、健康被害を生じた例がある。 {| class="wikitable" |+セレンの1日の平均摂取推奨量(mcg)<ref>{{Cite web|和書|title=セレニウム {{!}} 海外の情報 {{!}} 一般の方へ {{!}} 「統合医療」情報発信サイト 厚生労働省 「統合医療」に係る情報発信等推進事業|url=http://www.ejim.ncgg.go.jp/public/overseas/c03/05.html|website=www.ejim.ncgg.go.jp|accessdate=2019-02-14|publisher=厚生労働省}}</ref> !ライフステージ !摂取推奨量 |- |生後6カ月 | 15 mcg |- |幼児7-12カ月 | 20 mcg |- |小児1-3歳 | 20 mcg |- |小児4-8歳 | 30 mcg |- |小児9-13歳 | 40 mcg |- |10歳代14-18歳 | 55 mcg |- |成人19-50歳 | 55 mcg |- |成人51-70歳 | 55 mcg |- |成人71歳以上 | 55 mcg |- |妊娠している女性(10歳代も含む) | 60 mcg |- |授乳中の女性(10歳代も含む) | 70 mcg |} == 関連法規 == * [[消防法]](貯蔵等の届出を要する物質) * [[毒物及び劇物取締法]](毒物) * [[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律]](医薬品医療機器等法) * [[労働基準法]](疾病化学物質) * [[労働安全衛生法]] * [[環境基本法]](水質汚濁、土壌汚) * [[下水道法]](水質基準:0.1 mgSe/L) * [[水質汚濁防止法]](排水基準:0.1 mgSe/L) * [[特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律]](化学物質排出把握管理促進法、第一種指定化学物質(セレン及びその化合物)) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[有機セレン化合物]] * 用途例 ** [[光電池]] ** [[照度計]] ** [[露出計]] ** [[セレン整流器]] * [[環境基準]] * [[セレン欠乏症]] == 外部リンク == {{Commons&cat}} * {{PaulingInstitute|jp/mic/minerals/selenium}} * {{hfnet|682|セレン解説}} * {{hfnet|37|セレン|nolink=yes}} * {{Kotobank}} {{元素周期表}} {{セレンの化合物}} {{抗酸化物質}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せれん}} [[Category:セレン|*]] [[Category:元素]] [[Category:非金属元素]] [[Category:カルコゲン]] [[Category:第16族元素]] [[Category:第4周期元素]] [[Category:必須ミネラル]] [[Category:抗酸化物質]]
2003-06-03T14:02:44Z
2023-11-20T08:58:50Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%B3
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計量ベクトル空間
線型代数学における計量ベクトル空間(けいりょうベクトルくうかん、英: metric vector space)は、内積と呼ばれる付加的な構造を備えたベクトル空間であり、内積空間(ないせきくうかん、英: inner product space)とも呼ばれる。この付加構造は、空間内の任意の二つのベクトルに対してベクトルの内積と呼ばれるスカラーを対応付ける。内積によって、ベクトルの長さや二つのベクトルの間の角度などの直観的な幾何学的概念に対する厳密な導入が可能になる。また内積が零になることを以ってベクトルの間の直交性に意味を持たせることもできる。内積空間は、内積として点乗積(スカラー積)を備えたユークリッド空間を任意の次元(無限次元でもよい)のベクトル空間に対して一般化するもので、特に無限次元のものは函数解析学において研究される。 内積はそれに付随するノルムを自然に導き、内積空間はノルム空間の構造を持つ。内積に付随するノルムの定める距離に関して完備となる空間はヒルベルト空間と呼ばれ、必ずしも完備でない内積空間は(内積の導くノルムに関する完備化がヒルベルト空間となるから)前ヒルベルト空間 (pre-Hilbert space) と呼ばれる。複素数体上の内積空間はしばしばユニタリ空間 (unitary spaces) とも呼ばれる。 本項ではスカラーの体 F は実数体 R または複素数体 C の何れかを意味するものとする。 厳密に言えば、内積空間とは体 F 上のベクトル空間 V であって、内積と呼ばれる写像 で以下の公理を満足するものを備えたものを言う。 F = R のときは共軛対称性(エルミート対称性)は単に対称性に帰着される。 上記内積の定義において、係数体を実数体 R および複素数体 C に制限する必要があることにはいくつか理由がある。簡潔に述べれば、半正定値性が意味を持つために係数体は(内積の値域となる)適当な順序体を含む必要がある(従って、任意の順序体がそうであるように標数が 0 でなければならない)ことである(ここから直ちに有限体は除外される)。また、係数体は区別された自己同型 (distinguished automorphism) のような付加構造を持たなければならない。そういう意味では、より一般に R または C の二次閉部分体(任意の元が平方根を持つ体、例えば全代数的数体)を考えれば十分だが、(R でも C でもない)真の部分体を取ってしまうと、有限次元の内積空間でさえ完備距離空間にならない。これと対照的に、R または C 上の有限次元内積空間は自動的に完備となり、従ってヒルベルト空間になる。 計量ベクトル空間では様々な定理が成立する。 様々なベクトル空間に様々な内積が定義できる。 最も単純な例として、実数全体の成すベクトル空間に通常の乗法によって内積 ⟨x, y⟩ := xy を定めたものは内積空間になる。 p ≠ 2 とするとき、ベクトル空間に なるノルムをいれてノルム空間を得ることはできるが、中線定理(平行四辺形公式)を満たさないので内積空間にはならない(ノルムに付随する内積が存在するには中線定理が成り立たなければならない)。 しかし内積空間ならば、内積から自然に定義され、中線定理を満足するノルム を持つ。このノルムは内積の定義における正定値性公理によってきちんと定義される。ノルムはベクトル x の長さ(あるいは大きさ)と考えることができる。公理から直接に以下のようなことが分かる: 斉次性と三角不等式は函数 ǁǁ が実際にノルムを成すことを示すものである。これにより V はノルム線型空間となり、従ってまた距離空間を成す。最も重要な内積空間は、この距離に関して完備距離空間となるもので、それらはヒルベルト空間と呼ばれる。任意の内積空間 V は、適当なヒルベルト空間の稠密な部分空間であり、このヒルベルト空間は V の完備化として、本質的に V によって一意に決定される。 この等式の証明には、ノルムを定義に従って内積を用いて書いて、各成分に関する加法性に従って展開すれば十分である。「ピタゴラスの定理」という名称はこの結果を幾何学的に解釈したものが綜合幾何学における同名の定理の類似対応物になっていることによる。無論、綜合幾何学におけるピタゴラスの定理の証明は、基礎に置かれた構造が乏しいために、より複雑なものとなることに注意すべきである。その意味において、綜合幾何学におけるピタゴラスの定理は、いま述べた内積空間におけるものよりも深い結果である。 ピタゴラスの定理に数学的帰納法を適用することにより、x1, ..., xn がベクトルの直交系、即ち相異なる任意の添字 j, k に対して ⟨xj, xk⟩ =0 を満たすならば となることが示せる。コーシー=シュワルツの不等式から、⟨,⟩: V × V → F が連続写像となることも分かるから、ピタゴラスの定理を無限和にまで拡張することができる: 空間の完備性は、部分和の列(これがコーシー列となることは容易)が収斂することを保証するために必要である。 実は中線定理はノルム空間において、そのノルムを導く内積が存在するための必要かつ十分な条件であり、これを満足するとき対応する内積は偏極恒等式 によって与えられる(これは余弦定理の一つの形である)。 V を次元 n を持つ有限次元内積空間とする。任意の基底はちょうど n 本の線型独立なベクトルからなることを思い出そう。グラム–シュミットの正規直交化法を用いれば、任意の基底を正規直交基底に取り換えてから話を進めて良い。即ち、基底は各ベクトルが単位ノルムを持ち互いに直交するものとする。式で書けば、基底 {e1, ..., en} が正規直交であるとは、i ≠ j ならば ⟨ei, ej⟩ = 0, かつ各 i に対して ⟨ei, ei⟩ = ǁeiǁ = 1 を満足することを言う。 この正規直交基底の定義は、以下のように無限次元内積空間に対して一般化することができる。V は任意の内積空間として、ベクトルの系 E = {eα ∈ V}α∈A が V の(位相的)基底であるとは、E の元からなる有限線型結合全体の成す V の部分集合が V において(内積の導くノルムに関して)稠密となるときに言う。基底 E が V の正規直交基底であるとは、それが各添字 α, β ∈ A に対して α ≠ β ならば ⟨eα, eβ⟩ = 0 かつ ⟨eα, eα⟩ = ǁeαǁ = 1 を満足することをいう。 グラム-シュミットの方法の無限次元版を用いれば が示される。また、ハウスドルフの極大原理(英語版)および完備内積空間において線型部分空間への直交射影が定義可能であるという事実を用いれば、 も示せる。これら二つの定理は「任意の内積空間が正規直交基底を持ち得るか」という問いに答えるもので、これには否定的な結論が下される。これは非自明な結果であり、以下のような証明が知られている: パーシヴァルの等式から直ちに次が従う。 この定理はフーリエ級数の抽象版であり、任意の正規直交基底がフーリエ級数における三角多項式の成す直交系の役割を果たす。上記の添字集合は任意の可算集合としてよい(また実は、ヒルベルト空間の項にあるように、そうして得られる空間は全て、適当な集合上で定義された l となる)ことに注意。特に、フーリエ級数に関して 点列 {ek}k の直交性は k ≠ j のとき から直ちにわかる。正規性は列の作り方による(即ち、列の各係数はノルムが 1 となるように選ばれたものである)。 最後に、この列が内積の定めるノルムに関して稠密な(代数的)線型包を持つことは、このとき [−π,π] 上の連続な周期函数が一様ノルムに関して成すノルム空間においてこの列が稠密な線型包を持つことから従う。これは、三角多項式の一様稠密性に関するヴァイエルシュトラスの定理の内容である。 内積空間 V から内積空間 W への線型写像 A: V → W に対して、望ましい性質を持つクラスがいくつか挙げられる。 内積空間論の観点からは、互いに等長同型な二つの空間は区別を要しない。スペクトル定理は有限次元内積空間上の対称作用素、ユニタリ作用素、あるいは一般に正規作用素に対する標準形を与えるものである。スペクトル定理の一般化はヒルベルト空間上の連続正規作用素に対しても成り立つ。
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線型代数学における計量ベクトル空間は、内積と呼ばれる付加的な構造を備えたベクトル空間であり、内積空間とも呼ばれる。この付加構造は、空間内の任意の二つのベクトルに対してベクトルの内積と呼ばれるスカラーを対応付ける。内積によって、ベクトルの長さや二つのベクトルの間の角度などの直観的な幾何学的概念に対する厳密な導入が可能になる。また内積が零になることを以ってベクトルの間の直交性に意味を持たせることもできる。内積空間は、内積として点乗積(スカラー積)を備えたユークリッド空間を任意の次元(無限次元でもよい)のベクトル空間に対して一般化するもので、特に無限次元のものは函数解析学において研究される。 内積はそれに付随するノルムを自然に導き、内積空間はノルム空間の構造を持つ。内積に付随するノルムの定める距離に関して完備となる空間はヒルベルト空間と呼ばれ、必ずしも完備でない内積空間は(内積の導くノルムに関する完備化がヒルベルト空間となるから)前ヒルベルト空間 と呼ばれる。複素数体上の内積空間はしばしばユニタリ空間 とも呼ばれる。
[[Image:Inner-product-angle.png|thumb|300px|内積を用いたベクトルの成す角の定義の幾何学的解釈]] [[線型代数学]]における'''計量ベクトル空間'''(けいりょうベクトルくうかん、{{lang-en-short|''metric vector space''}})は、[[内積]]と呼ばれる付加的な[[数学的構造|構造]]を備えた[[ベクトル空間]]であり、'''内積空間'''(ないせきくうかん、{{lang-en-short|''inner product space''}})とも呼ばれる。この付加構造は、空間内の任意の二つのベクトルに対してベクトルの内積と呼ばれる[[スカラー (数学)|スカラー]]を対応付ける。内積によって、ベクトルの[[長さ]]や二つのベクトルの間の[[角度]]などの直観的な幾何学的概念に対する厳密な導入が可能になる。また内積が零になることを以ってベクトルの間の[[直交性]]に意味を持たせることもできる。内積空間は、内積として[[点乗積]](スカラー積)を備えた[[ユークリッド空間]]を任意の次元(無限次元でもよい)のベクトル空間に対して一般化するもので、特に無限次元のものは[[函数解析学]]において研究される。 内積はそれに付随する[[ノルム]]を自然に導き、内積空間は[[ノルム空間]]の構造を持つ。内積に付随するノルムの定める距離に関して[[完備距離空間|完備]]となる空間は[[ヒルベルト空間]]と呼ばれ、必ずしも完備でない内積空間は(内積の導くノルムに関する完備化がヒルベルト空間となるから)'''前ヒルベルト空間''' (''pre-Hilbert space'') と呼ばれる。複素数体上の内積空間はしばしば'''ユニタリ空間''' (''unitary spaces'') とも呼ばれる。 == 定義 == {{main|内積}} 本項では[[スカラー (数学)|スカラー]]の[[可換体|体]] {{math|''F''}} は[[実数]]体 {{math|'''R'''}} または[[複素数]]体 {{math|'''C'''}} の何れかを意味するものとする。 厳密に言えば、内積空間とは体 {{math|''F''}} 上の[[ベクトル空間]] {{math|''V''}} であって、'''内積'''と呼ばれる写像 : <math> \langle \cdot, \cdot \rangle \colon V \times V \to F </math> で以下の[[公理]]を満足するものを備えたものを言う<ref name= Jain>{{cite book |title=Functional analysis |author=P. K. Jain, Khalil Ahmad |url=https://books.google.co.jp/books?id=yZ68h97pnAkC&pg=PA203&redir_esc=y&hl=ja |page=203 |chapter=5.1 Definitions and basic properties of inner product spaces and Hilbert spaces |isbn=81-224-0801-X |year=1995 |edition=2nd |publisher=New Age International}}</ref><ref name="Prugovec̆ki">{{cite book |title=Quantum mechanics in Hilbert space |author=Eduard Prugovec̆ki |url=https://books.google.co.jp/books?id=GxmQxn2PF3IC&pg=PA18&redir_esc=y&hl=ja |chapter=Definition 2.1 |pages=18 ''ff'' |isbn=0-12-566060-X |year=1981 |publisher=Academic Press |edition =2nd}}</ref>。 * [[複素共軛|共軛]]対称性: <math>\langle x,y\rangle =\overline{\langle y,x\rangle}.</math> * 第一引数に対する線型性: <math>\langle ax+y,z\rangle= a\langle x,z\rangle+ \langle y,z\rangle.</math> * [[定符号二次形式|正定値性]]: <math>\langle x,x\rangle \geq 0,\quad [\langle x,x\rangle = 0 \implies x = 0]</math> {{math|''F'' {{=}} '''R'''}} のときは共軛対称性(エルミート対称性)は単に[[対称双線型形式|対称性]]に帰着される。 === 注意 === 上記内積の定義において、[[スカラー (数学)|係数体]]を実数体 {{math|'''R'''}} および複素数体 {{math|'''C'''}} に制限する必要があることにはいくつか理由がある。簡潔に述べれば、半正定値性が意味を持つために係数体は(内積の値域となる)適当な[[順序体]]を含む必要がある(従って、任意の順序体がそうであるように[[標数]]が {{math|0}} でなければならない)ことである(ここから直ちに有限体は除外される)。また、係数体は区別された自己同型 (distinguished automorphism) のような付加構造を持たなければならない。そういう意味では、より一般に {{math|'''R'''}} または {{math|'''C'''}} の二次閉部分体(任意の元が平方根を持つ体、例えば全[[代数的数]]体)を考えれば十分だが、({{math|'''R'''}} でも {{math|'''C'''}} でもない)真の部分体を取ってしまうと、有限次元の内積空間でさえ[[完備距離空間]]にならない。これと対照的に、{{math|'''R'''}} または {{math|'''C'''}} 上の有限次元内積空間は自動的に[[完備距離空間|完備]]となり、従って[[ヒルベルト空間]]になる。 == 性質 == 計量ベクトル空間では様々な定理が成立する。 * [[コーシー=シュワルツの不等式]]:<math>\langle x,y \rangle^2 \leq \langle x,x \rangle \cdot \langle y,y \rangle</math> == 例 == 様々なベクトル空間に様々な内積が定義できる。 {{See also|内積#例}} 最も単純な例として、[[実数]]全体の成すベクトル空間に通常の乗法によって内積 {{math2|&lang;''x'',&thinsp;''y''&rang; :{{=}} ''xy''}} を定めたものは内積空間になる。 * {{math|'''C'''{{sup|''n''}}}} の内積の一般形は、[[行列の正値性|正定値]][[エルミート行列]] {{mathbf|M}} を用いて<div style="margin: 1ex 2em"><math> \langle \mathbf{x},\mathbf{y}\rangle := \mathbf{y}^\dagger\mathbf{M}\mathbf{x} = \overline{\mathbf{x}^\dagger\mathbf{M}\mathbf{y}} </math></div>の形で与えられ({{math|'''y'''<sup>†</sup>}} は {{math|'''y'''}} の[[随伴行列]])、[[エルミート形式]]と呼ばれる。実係数の場合は、(正のスケール因子と拡大方向に直交する方向を持つ)二つのベクトルをそれぞれ異なる方向に拡大変換したものを点乗積することに相当する。これは直交変換の[[違いを除いて|違いを除]]けば、正の重みをもつ点乗積の{{仮リンク|荷重函数|label=重み付き和|en|Weight function}}版である。 * [[ヒルベルト空間]]の項には、内積の導く距離が[[完備距離空間|完備]]となるような内積空間のさまざまな例がある。完備でないような内積を持つ内積空間には、例えば閉区間 {{math2|[''a'', ''b'']}} 上の複素数値連続函数全体の成す空間 {{math2|''C''([''a'', ''b''])}} が挙げられる。内積は<div style="margin:1ex 2em"><math>\langle f, g \rangle := \int_a^b f(t) \overline{g(t)} \, dt</math></div>で与える。この空間が完備でないことは、たとえば閉区間 {{math2|[−1, 1]}} 上で <div style="margin:1ex 2em"><math>f_k(t) = \begin{cases} 0 &(t \in [-1,0]) \\ 1 &(t \in [\tfrac{1}{k}, 1]) \\ kt &(t \in (0, \tfrac{1}{k}) \end{cases}</math></div> で定義される階段函数列 {{math|{''f{{sub|k}}''}{{sub|''k''}}}} を考えれば、この列は内積の導くノルムに関して[[コーシー列]]を成すが、これは「連続」函数に収斂しないことを見ればよい。 * 実[[確率変数]] {{math2|''X'', ''Y''}} に対して、それらの積の[[期待値]] {{math2|&lang; ''X'', ''Y''&rang; :{{=}} '''E'''(''XY'')}} は内積になる。この場合、{{math2|&lang;''X'', ''X''&rang; {{=}} 0}} なる必要十分条件は[[確率]]に関して {{math2|Pr(''X'' {{=}} 0) {{=}} 1}} が成り立つ(即ち、{{math2|''X'' {{=}} 0}} が{{仮リンク|殆ど確実|en|almost surely}}に成り立つ)ことである。この期待値を内積とする定義は{{仮リンク|確率ベクトル|en|random vector}}に対しても同様に拡張することができる。 * 実平方行列に対し、{{math2|&lang;''A'', ''B''&rang; :{{=}} tr(''AB''{{sup|⊤}})}} に転置<div style="margin:1ex 2em"><math>\overline{\langle A, B \rangle} = \langle B^{\top}, A^{\top} \rangle</math></div>を共軛変換と考えたものは、内積になる。 == 内積空間上のノルム == {{math|''p'' &ne; 2}} とするとき、ベクトル空間に : <math>\|x\|_p = \left ( \sum_{i=1}^{\infty} |\xi_i|^p \right)^{1/p} \quad (x = \{\xi_i \} \in \ell^p)</math> なるノルムをいれて[[ノルム空間]]を得ることはできるが、[[中線定理]](平行四辺形公式)を満たさないので内積空間にはならない(ノルムに付随する内積が存在するには中線定理が成り立たなければならない)<ref name=Ahmed>{{cite book |title=''Cited work'' |author=P. K. Jain, Khalil Ahmad | url=https://books.google.co.jp/books?id=yZ68h97pnAkC&pg=PA209&redir_esc=y&hl=ja |page=209 |chapter=Example 5 |isbn=81-224-0801-X |year=1995 }}</ref><ref name=Saxe>{{cite book |title=Beginning functional analysis |author=Karen Saxe |url=https://books.google.co.jp/books?id=QALoZC64ea0C&pg=PA7&redir_esc=y&hl=ja |page=7 |isbn=0-387-95224-1 |year=2002 |publisher=Springer}}</ref>。 しかし内積空間ならば、内積から自然に定義され、中線定理を満足する[[ノルム]] : <math> \|x\| =\sqrt{\langle x, x\rangle}</math> を持つ。このノルムは内積の定義における正定値性公理によって[[well-defined|きちんと定義される]]。ノルムはベクトル {{math|''x''}} の長さ(あるいは大きさ)と考えることができる。公理から直接に以下のようなことが分かる: ; [[コーシー=シュワルツの不等式]]: {{math|''V''}} の任意の元 {{math|''x'', ''y''}} に対して <div style="margin: 1ex 2em;"><math> |\langle x,y\rangle| \leq \|x\| \cdot \|y\| </math></div> が成立する(等号は {{math|''x''}} と {{math|''y''}} とが[[線型従属]]であるとき、かつそのときに限り成立)。 : これは数学においてもっとも重要な不等式のうちの一つである。ロシア語の文献ではコーシー=ブニャコフスキー=シュワルツの不等式とも呼ぶ。重要性に鑑みて、簡潔な証明を記しておこう: :: {{math|''y'' {{=}} 0}} のときは自明ゆえ、{{math|&lang;''y'', ''y''&rang;}} は非零とする。このとき<div style="margin: 1ex 2em;"><math> \lambda = \langle y , y \rangle^{-1} \langle x, y\rangle</math></div>と置けば<div style="margin: 1ex 2em;"><math> 0 \leq \langle x -\lambda y, x -\lambda y \rangle = \langle x, x\rangle - \langle y , y \rangle^{-1} | \langle x,y\rangle|^2 </math></div>となり、整理すれば証明を得る。 ; [[直交性]]: 内積は角度や長さといった言葉で幾何学的に解釈することができるので、内積空間において幾何学的な用語法を用いる動機付けを与えるものとなる。実際、コーシー=シュワルツの不等式の直接の帰結として、{{math|''F'' {{=}} '''R'''}} の場合には、二つの非零ベクトル {{math|''x'', ''y''}} の間の角を等式<div style="margin: 1ex 2em;"><math> \operatorname{angle}(x,y) = \arccos \frac{\langle x, y \rangle}{\|x\| \cdot \|y\|} </math></div>で定義することが正当化できる。ここでは角度の値を {{math|[0, π]}} から選ぶものとする。これは二次元ユークリッド空間における場合の対応物になっている。{{math|''F'' {{=}} '''C'''}} の場合の角度(閉区間 {{math|[0, π/2]}} は<div style="margin: 1ex 2em;"><math> \operatorname{angle}(x,y) = \arccos \frac{|\langle x, y \rangle|}{\|x\| \cdot \|y\|} </math></div>と定義するのが典型的である。このような角度の定義に呼応して、{{math|''V''}} の二つの非零ベクトル {{math|''x'', ''y''}} が直交することの必要十分条件をそれらの内積の値が {{math|0}} となることと定める。 ; [[斉次函数|斉次性]]: {{math|''V''}} の任意の元 {{math|''x''}} とスカラー {{math|''r''}} に対して {{math|ǁ''rx''ǁ {{=}} {{!}}''r''{{!}}&thinsp;ǁ''x''ǁ}} が成り立つ。 ; [[三角不等式]]: {{math|''V''}} の任意の二元 {{math|''x'', ''y''}} に対して {{math|ǁ''x'' + ''y''ǁ &le; ǁ''x''ǁ + ǁ''y''ǁ}} が成り立つ。 斉次性と三角不等式は函数 {{math|ǁǁ}} が実際にノルムを成すことを示すものである。これにより {{math|''V''}} は[[ノルム線型空間]]となり、従ってまた[[距離空間]]を成す。最も重要な内積空間は、この距離に関して[[完備距離空間]]となるもので、それらは[[ヒルベルト空間]]と呼ばれる。任意の内積空間 {{math|''V''}} は、適当なヒルベルト空間の[[稠密部分集合|稠密]]な部分空間であり、このヒルベルト空間は {{math|''V''}} の完備化として、本質的に {{math|''V''}} によって一意に決定される。 ; [[ピタゴラスの定理]]: {{math|''V''}} の二元 {{math|''x'', ''y''}} が {{math|⟨''x'', ''y''⟩ {{=}} 0}} を満たすならば {{math|ǁ''x''ǁ<sup>2</sup> + ǁ''y''ǁ<sup>2</sup> {{=}} ǁ''x'' + ''y''ǁ<sup>2</sup>}} が成り立つ。 この等式の証明には、ノルムを定義に従って内積を用いて書いて、各成分に関する加法性に従って展開すれば十分である。「ピタゴラスの定理」という名称はこの結果を幾何学的に解釈したものが[[綜合幾何学]]における同名の定理の類似対応物になっていることによる。無論、綜合幾何学におけるピタゴラスの定理の証明は、基礎に置かれた構造が乏しいために、より複雑なものとなることに注意すべきである。その意味において、綜合幾何学におけるピタゴラスの定理は、いま述べた内積空間におけるものよりも深い結果である。 ピタゴラスの定理に[[数学的帰納法]]を適用することにより、{{math|''x''<sub>1</sub>, …, ''x''<sub>''n''</sub>}} がベクトルの[[直交系]]、即ち相異なる任意の添字 {{math|''j'', ''k''}} に対して {{math|&lang;''x''<sub>''j''</sub>,&thinsp;''x''<sub>''k''</sub>&rang; {{=}}0}} を満たすならば : <math>\sum_{i=1}^n \|x_i\|^2 = \left\|\sum_{i=1}^n x_i \right\|^2</math> となることが示せる。コーシー=シュワルツの不等式から、{{math|&lang;,&rang;: ''V'' × ''V'' &rarr; ''F''}} が[[連続写像]]となることも分かるから、ピタゴラスの定理を無限和にまで拡張することができる: ; [[パーセヴァルの等式|パーシヴァルの等式]]: {{math|''V''}} が'''完備'''内積空間ならば、{{math|{''x''<sub>''k''</sub>}}} がどのに元も互いに直交する {{math|''V''}} のベクトル族であるとき、<div style="margin: 1ex 2em;"><math> \sum_{i=1}^\infty\|x_i\|^2 = \left\|\sum_{i=1}^\infty x_i\right\|^2 </math></div>が、左辺の無限級数が[[収斂級数|収斂]]する限りにおいて成立する。 空間の完備性は、部分和の列(これが[[コーシー列]]となることは容易)が収斂することを保証するために必要である。 ; [[中線定理]]: {{math|''V''}} の任意の二元 {{math|''x'', ''y''}} に対し、{{math|ǁ''x'' + ''y''ǁ<sup>2</sup> + ǁ''x'' &minus; ''y''ǁ<sup>2</sup> {{=}} 2ǁ''x''ǁ<sup>2</sup> + 2ǁ''y''ǁ<sup>2</sup>}} が成り立つ。 実は中線定理はノルム空間において、そのノルムを導く内積が存在するための必要かつ十分な条件であり、これを満足するとき対応する内積は[[偏極恒等式]] : <math> \|x + y\|^2 = \|x\|^2 + \|y\|^2 + 2 \real \langle x , y \rangle</math> によって与えられる(これは[[余弦定理]]の一つの形である)。 == 正規直交系 == {{main|正規直交系}} {{math|''V''}} を次元 {{math|''n''}} を持つ有限次元内積空間とする。任意の[[基底 (線型代数学)|基底]]はちょうど {{math|''n''}} 本の線型独立なベクトルからなることを思い出そう。[[グラム–シュミットの正規直交化法]]を用いれば、任意の基底を正規直交基底に取り換えてから話を進めて良い。即ち、基底は各ベクトルが単位ノルムを持ち互いに直交するものとする。式で書けば、基底 {{math|{''e''<sub>1</sub>, …, ''e''<sub>''n''</sub>}}} が正規直交であるとは、{{math|''i'' &ne; ''j''}} ならば {{math|&lang;''e''<sub>''i''</sub>, ''e''<sub>''j''</sub>&rang; {{=}} 0}}, かつ各 {{math|''i''}} に対して {{math|&lang;''e''<sub>''i''</sub>, ''e''<sub>''i''</sub>&rang; {{=}} ǁ''e''<sub>''i''</sub>ǁ {{=}} 1}} を満足することを言う。 この正規直交基底の定義は、以下のように無限次元内積空間に対して一般化することができる。{{math|''V''}} は任意の内積空間として、ベクトルの系 {{math|''E'' {{=}} {''e''<sub>&alpha;</sub> &isin; ''V''}<sub>&alpha;&isin;''A''</sub>}} が {{math|''V''}} の[[ヒルベルト空間|(位相的)基底]]であるとは、{{math|''E''}} の元からなる有限線型結合全体の成す {{math|''V''}} の部分集合が {{math|''V''}} において(内積の導くノルムに関して)[[稠密部分集合|稠密]]となるときに言う。基底 {{math|''E''}} が {{math|''V''}} の正規直交基底であるとは、それが各添字 {{math|&alpha;, &beta; &isin; ''A''}} に対して {{math|&alpha; &ne; &beta;}} ならば {{math|&lang;''e''<sub>&alpha;</sub>, ''e''<sub>&beta;</sub>&rang; {{=}} 0}} かつ {{math|&lang;''e''<sub>&alpha;</sub>, ''e''<sub>&alpha;</sub>&rang; {{=}} ǁ''e''<sub>&alpha;</sub>ǁ {{=}} 1}} を満足することをいう。 グラム-シュミットの方法の無限次元版を用いれば ; 定理: 任意の[[可分空間|可分]]な内積空間 {{math|''V''}} は正規直交基底を持つ。 が示される。また、{{仮リンク|ハウスドルフの極大原理|en|Hausdorff maximal principle}}および[[ヒルベルト空間|完備内積空間]]において線型部分空間への直交射影が[[well-defined|定義可能]]であるという事実を用いれば、 ; 定理: 任意の[[ヒルベルト空間|完備内積空間]] {{math|''V''}} は正規直交基底を持つ。 も示せる。これら二つの定理は「任意の内積空間が正規直交基底を持ち得るか」という問いに答えるもので、これには否定的な結論が下される。これは非自明な結果であり、以下のような証明が知られている: :{| class="toccolours mw-collapsible mw-collapsed" width="90%" style="text-align:left" ! 証明<ref>{{Cite book | last= Halmos | first= P.R | title=A Hilbert Space Problem Book | series=Graduate Texts in Mathematics | publisher= Springer | edistion= 2nd rev. and enlarged ed. | year=1982 | isbn=978-0387906850}}</ref> |- | 内積空間の次元とは、与えられた正規直交系を含む極大正規直交系の濃度であったことを思い出そう(ツォルンの補題により、そのような極大系は少なくとも一つ存在し、またそのような極大系はどの二つも同じ濃度を持つのであった)。一つの正規直交基底は極大正規直交系であるが、逆は必ずしも成り立たないことは既知である。{{math|''G''}} が内積空間 {{math|''H''}} の稠密部分空間ならば、{{math|''G''}} の任意の正規直交基底は自動的に {{math|''H''}} の正規直交基底となるから、{{math|''H''}} よりも真に次元の小さな稠密部分空間 {{math|''G''}} を持つ内積空間 {{math|''H''}} を構成すれば十分である。 {{math|''K''}} は次元 {{math|&alefsym;<sub>0</sub>}} のヒルベルト空間(例えば {{math|''K'' {{=}} ℓ<sup>2</sup>('''N''')}})とする。{{math|''E''}} が {{math|''K''}} の基底とすれば {{math|{{!}}''E''{{!}} {{=}} &alefsym;<sub>0</sub>}} である。基底 {{math|''E''}} を {{math|''K''}} の[[基底 (線型代数学)|ハメル基底(代数基底)]] {{math|''E'' &cup; ''F''}} ({{math|''E'' &cap; ''F'' {{=}} &empty;}}) に延長するならば、{{math|''K''}} のハメル次元が[[連続体濃度]] {{math|''c''}} であることは既知であるから、{{math|{{!}}''F''{{!}} {{=}} ''c''}} でなければならない。 {{math|''L''}} を次元 {{math|''c''}} のヒルベルト空間(例えば {{math|''L'' {{=}} ℓ<sup>2</sup>('''R''')}})とし、{{math|''L''}} の正規直交基底 {{math|''B''}} と全単射 {{math|&phi;: ''F'' &rarr; ''B''}} を考えれば、線型写像 {{math|''T'': ''K'' &rarr; ''L''}} で、{{math|''Tf'' {{=}} &phi;(''f'')}} ({{math|''f'' &isin; ''F''}}) かつ {{math|''Te'' {{=}} 0}} ({{math|''e'' &isin; ''E''}}) を満たすものが存在する。 {{math|''H'' {{=}} ''K'' &oplus; ''L''}} と置き、{{math|''G'' {{=}} {(''k'',&thinsp;''Tk'') : ''k'' &isin; ''K''}}} を {{math|''T''}} のグラフ、{{math|{{overline|''G''}}}} を {{math|''G''}} の {{math|''H''}} における閉包とすれば、{{math|{{overline|''G''}} {{=}} ''H''}} が示せる。各 {{math|''e'' &isin; ''E''}} に対して {{math|(''e'',&thinsp;0) &isin; ''G''}} ゆえ、{{math|''K'' &oplus; 0 &sub; {{overline|''G''}}}} が従う。 次に、{{math|''b'' &isin; ''B''}} とすれば適当な {{math|''f'' &isin; ''F'' &sub; ''K''}} によって {{math|''b'' {{=}} ''Tf''}} と書けるから、{{math|(''f'',&thinsp;''b'') &isin; ''G'' &sub; {{overline|''G''}}}} である。同様に {{math|(''f'',&thinsp;0) &isin; {{overline|''G''}}}} ゆえ、{{math|(0,''b'') &isin; {{overline|''G''}}}} もわかる。従って {{math|0 &oplus; ''L'' &sub; {{overline|''G''}}}} であり、{{math|{{overline|''G''}} {{=}} ''H''}} すなわち {{math|''G''}} は {{math|''H''}} において稠密である。 最後に {{math|{(''e'',0) : ''e'' &isin; ''E''}}} が {{math|''G''}} における極大正規直交系であることを見よう。 : <math>0 = \langle (e,0), (k, Tk) \rangle = \langle e,k \rangle + \langle 0,Tk \rangle = \langle e,k \rangle</math> が任意の {{math|''e'' &isin; ''E''}} に対して成り立つならば、{{math|''k'' {{=}} 0}} が確定するから、{{math|(''k'',&thinsp;''Tk'') {{=}} (0,0)}} は {{math|''G''}} の零ベクトルであり、{{math|''G''}} の次元は {{math|{{!}}''E''{{!}} {{=}} &alefsym;<sub>0</sub>}} となるが、一方 {{math|''H''}} の次元が {{math|''c''}} であることは明らかである。これで証明は完成した。 |} [[パーセヴァルの等式|パーシヴァルの等式]]から直ちに次が従う。 ; 定理 : 可分内積空間 {{math|''V''}} とその正規直交基底 {''e''<sub>''k''</sub>}<sub>''k''</sub> に対し、写像<div style="margin: 1ex 2em;"><math> x \mapsto \{\langle e_k, x\rangle\}_{k \in \mathbb{N}} </math></div>は稠密な像を持つ等距線型写像 {{math|''V'' → ''ℓ''<sup>&nbsp;2</sup>}} である。 この定理は[[フーリエ級数]]の抽象版であり、任意の正規直交基底がフーリエ級数における[[三角多項式]]の成す直交系の役割を果たす。上記の添字集合は任意の可算集合としてよい(また実は、[[ヒルベルト空間]]の項にあるように、そうして得られる空間は全て、適当な集合上で定義された {{math|''ℓ''<sup>&nbsp;2</sup>}} となる)ことに注意。特に、フーリエ級数に関して ; 定理: {{math|''V''}} が内積空間 {{math|C[&minus;&pi;,&pi;]}} ならば、整数全体の成す集合で添字付けられた連続函数の双無限列 <div style="margin: 1ex 2em;"><math>e_k(t) = \frac{e^{i k t}}{\sqrt{2 \pi}}</math></div>は {{math|''L''<sup>2</sup>}}-内積に関して空間 {{math|C[&minus;&pi;,&pi;]}} の正規直交基底であり、写像 <div style="margin: 1ex 2em;"><math> f \mapsto \left\{\frac{1}{\sqrt{2 \pi}}\int_{-\pi}^\pi f(t) e^{-i k t} \, dt \right\}_{k \in \mathbb{Z}} </math></div>は稠密な像を持つ等距線型写像になる。 点列 {''e<sub>k</sub>''}<sub>''k''</sub> の直交性は {{math|''k''&nbsp;≠&nbsp;''j''}} のとき : <math> \int_{-\pi}^\pi e^{-i (j-k) t} \, dt = 0</math> から直ちにわかる。正規性は列の作り方による(即ち、列の各係数はノルムが {{math|1}} となるように選ばれたものである)。 最後に、この列が内積の定めるノルムに関して稠密な(代数的)[[線型包]]を持つことは、このとき {{math|[&minus;&pi;,&pi;]}} 上の連続な周期函数が一様ノルムに関して成すノルム空間においてこの列が稠密な線型包を持つことから従う。これは、三角多項式の一様稠密性に関するヴァイエルシュトラスの定理の内容である。 == 内積空間上の作用素 == 内積空間 {{math|''V''}} から内積空間 {{math|''W''}} への線型写像 {{math|''A'': ''V'' &rarr; ''W''}} に対して、望ましい性質を持つクラスがいくつか挙げられる。 * '''[[連続線型写像]]''': {{math|''A''}} は上で述べた距離に関して連続。同じことだが、{{math|''x''}} が {{math|''V''}} の単位閉区間上を動くときの非負実数からなる集合 {{math|{ǁ''Ax''ǁ}}} が有界。 * 対称線型作用素: {{math|''V''}} の任意の元 {{math|''x'', ''y''}} に対して {{math|&lang;''Ax'', ''y''&rang; {{=}} &lang;''x'', ''Ay''&rang;}} を満たす。 * '''[[等長写像|等長作用素]]''': {{math|''V''}} の任意の元 {{math|''x'', ''y''}} に対して {{math|&lang;''Ax'', ''Ay''&rang; {{=}} &lang;''x'', ''y''&rang;}} を満たす。同じことだが、{{math|''V''}} の任意の元 {{math|''x''}} に対して {{math|ǁ''Ax''ǁ {{=}} ǁ''x''ǁ}} が成り立つ。任意の等長作用素は[[単射]]であり、また等長作用素は内積空間の間の[[準同型]]、特に実内積空間の間の準同型は[[直交変換|直交作用素]]である([[直交行列]]と比較せよ)。 * '''等長同型''': {{math|''A''}} は等長作用素かつ[[全射]](従って[[全単射]])。等長同型はユニタリ作用素とも呼ばれる([[ユニタリ行列]]と比較せよ)。 内積空間論の観点からは、互いに等長同型な二つの空間は区別を要しない。[[スペクトル定理]]は有限次元内積空間上の対称作用素、ユニタリ作用素、あるいは一般に[[正規作用素]]に対する標準形を与えるものである。スペクトル定理の一般化はヒルベルト空間上の連続正規作用素に対しても成り立つ。 == 関連項目 == * [[双対空間]] * [[双対対]] * [[フビニ・スタディ計量|フビニ-スタディ計量]] * {{仮リンク|エネルギー的空間|en|Energetic space}} * [[直交群]] * [[空間 (数学)]] * [[ノルム線型空間]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}<references /> == 参考文献 == * {{Cite book | last1=Axler | first1=Sheldon | title=Linear Algebra Done Right | publisher=[[Springer-Verlag]] | location=Berlin, New York | edition=2nd | isbn=978-0-387-98258-8 | year=1997}} * {{Cite book | last1=Emch | first1=Gerard G. | title=Algebraic methods in statistical mechanics and quantum field theory | publisher=[[Wiley-Interscience]] | isbn=978-0-471-23900-0 | year=1972}} * {{Cite book | last1=Young | first1=Nicholas | title=An introduction to Hilbert space | publisher=[[Cambridge University Press]] | isbn=978-0-521-33717-5 | year=1988}} == 外部リンク == * {{MathWorld|urlname=InnerProductSpace|title=Inner Product Space}} * {{nlab|urlname=inner+product+space|title=inner product space}}{{en icon}} * {{PlanetMath|urlname=InnerProductSpace|title=inner product space}} * {{ProofWiki|urlname=Definition:Inner_Product_Space|title=Definition:Inner Product Space}}{{en icon}} {{Linear algebra}} {{DEFAULTSORT:けいりようへくとるくうかん}} [[Category:線型代数学]] [[Category:ノルム空間]] [[Category:数学に関する記事]]
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9,689
今上天皇
今上天皇(きんじょうてんのう)は、その時々における在位中の日本の天皇を指す語。 (*一般概念としての天皇については「天皇」を参照) 「今」の「上(上様)」の意をもって呼ばれる「今上(きんじょう)」はそれだけでその時代における皇帝や天皇を指す語として成立したが、「天皇」と繋げれば日本独自の名称となる。「陛下()」と繋げて「今上陛下」と呼ぶ例は、大正時代から確認できる。 「今(現在)」とは、その時間に属する人が基準とする時の一点であり、どの時間に属する人かで「今上天皇」にあたる人物も異なる。存命中から「(個人名)n世」と固有名で呼ばれる諸外国の君主、また教皇との最大の違いである。 令和の時代(2019年5月1日 - )に「今上天皇」と称される人物は、第126代天皇徳仁(なるひと)。 日本語では古くは「きんしょう」とも読んだ「今上(きんじょう、こんじょう)」という語は、古代中国の『史記』秦始皇本紀に「今上知天下(...略...)」と記述の見える漢語である。 また、古代の日本ではこの熟字に大和言葉で「いまのうへ」(現代読みで『いまのうえ』)の読みも当てたともされる。これには、先にあった大和言葉「いまのうへ」に漢字を当てて「今上」という熟字を造ったと唱える研究者があって、しかし今では、漢意(からごころ)を排除しようとする国学の影響による学説と見なされている。 日本語におけるこの語「今上」は、これも日本語の「当今()」と同義である。また、『晋書』周馥伝に「西剋許聖上渡御后宮」という記述が見られ、天子を敬っていう「聖上()」は、日本に入っては結果的の同義語となる。中国古典に起源を見いだせず、『続日本紀』神護景雲2年条が初出かも知れない「主上()」も、結果的同義語である。 一方、天皇は、文武両方でもって世界や反乱を治める偉業を累ね、死後に贈られる「諡号(おくり名)」であった。また、この制度は、大宝令を初出として公式令や義解に解説された漢土(中国)の制度の全くの摸倣であった。 日本や唐以前の中国では、敬意を示すものについてはっきりした言い方を持たない文化があり、当代の天皇の呼称もあまり発達しなかった。しかし、平成時代において先々代の大正天皇や先代の昭和天皇と並べて表記したい場合に、「今上」もしくは「今上陛下」では言葉のすわりがよくないことと、「今上天皇」と表記すると語感から客観的な表現に感じられるため、中立を求められる表現の中で使用される頻度が高くなってきた。また皇后美智子(現・上皇后美智子)も第125代天皇明仁を「今上陛下(きんじょうへいか)」と公の場では呼んでいた。 ここまで述べてきた「今上」と「天皇」を繋げた「今上天皇」という語は、いつの頃に成立したかはっきりしないが、同じ意味での言い回しということでは、正倉院文書の北倉文書の一つ『東大寺献物帳(とうだいじけんもつちょう)』の天平勝宝8年6月21日条(西暦換算:ユリウス暦756年7月22日条、先発グレゴリオ暦756年7月26日条)後文(跋文)に見られる「(...略...) 後太上天皇 天皇伝賜今上 今上謹献廬舎那仏」というくだりに初出と思しき例を確認できる。 敬称は、諸外国の国王・女王などと同様に「陛下(へいか)」が使われている(皇室典範で規定)が、今上天皇陛下とは言わず、今上陛下(きんじょうへいか)、天皇陛下(てんのうへいか)もしくは単に陛下(へいか)、聖上(せいじょう)、主上(しゅじょう)と呼ばれる。また、古い表現では帝(みかど)、天子様(てんしさま)、内裏様(だいりさま)、大内様(だいだいさま)、禁中様(きんちゅうさま)、禁裏様(きんりさま)、禁廷様(きんていさま)と呼ばれる。 また、近代史上において治世を築いた歴代3人の天皇である明治天皇、大正天皇、昭和天皇などの呼称は、「一世一元の制」に基づいたうえで、それ自体に敬意が込められた追号であるため、昭和天皇陛下とも言わない(口頭では「昭和の天皇陛下」という言い方をすることがあるが、この場合の昭和は「昭和時代」の意であると解される。ただ、上皇后美智子は平成時代に義父にあたる昭和天皇を「先帝陛下(せんていへいか)」と公の場では呼んでいた他、「○○(元号)の天皇陛下」や明治天皇には「明治大帝陛下()」や「大帝陛下()」などの使われ方がある)。 また、昭和天皇の崩御までの昭和期に皇太子(次期皇位継承者・皇位継承順位第1位)であった明仁の天皇即位から昭和天皇の追号が正式に定まるまでの間(なお天皇が崩御した後、追号が贈られるまでは大行天皇の呼称が公式に用いられる)、報道では、「明仁陛下()」の表現が用いられていた。 政府などの公的機関および主要メディアなどでは、皇室典範に定められる敬称「陛下」を入れて「天皇陛下()」(略して「陛下」)と呼称することが一般的である一方、天皇制廃止論に立つ者、基本的に敬称を避ける傾向にある学術的な世界に身を置く者は、単に「天皇()」と呼称する(内閣総理大臣・国務大臣と同じく、肩書きでもあるため。「内閣総理大臣閣下」「首相閣下」「(所管省庁)大臣閣下」の呼称は、日本政府は使用せず、かつ一般的でない)か、あるいは実名を直接呼ぶことも多い。なお、当代の天皇を特定する場合には、敬語表現である「今上」「当今」とだけ呼称することもある。 一部の出版物などにおける記述などの際に、その天皇の元号を用いた「元号+天皇」の形式による表現が散見され、これに則れば令和時代の天皇である徳仁が令和天皇となる。これは、その時の内閣を総理大臣の姓で固有名詞的に表現するのと同じく、その時の天皇を元号で固有名詞的に表現する様式である。 しかし明治以降、今上天皇や退位した天皇などの存命の天皇を「元号+天皇」の形式で表現することが、諡号を思わせるとして自粛ないし忌諱する場合もある。つまり、明治以降、明治・大正・昭和の三代にわたって一世一元の制に依拠し、元号がそのまま諡号・追号として贈られたことから、平成時代および令和時代の天皇においても同じように追号として元号が贈られると予想した場合、存命の天皇の対して「元号+天皇」と呼ぶことで、崩御した際に贈られると予想される追号で存命の天皇を呼ぶことになるため避けるということである。 ただし追号は、元号法の制定時の大平正芳首相(当時)の国会答弁によれば、あくまで皇室内の儀式として新しい天皇が先帝に贈るものであって、法で定めた元号に縛られることなく、新しい天皇の裁量で決めることができるという。皇室典範などの関連法令にも規定がない。 一般人が公でない場で「天皇」と呼称することもあるが、だからといってその人が必ずしも「皇室に批判的である」ということを示すものではない。 また、日本人は、“おらが村”(愛着ある自分達の地域)にゆかりのある遠い昔の天皇の話題に触れる時、敬意にも増して親しみを籠めて「天皇さん」と砕けた呼び方をすることが珍しくない。「○○天皇がお座りになった」とか、「○○天皇にお飲みいただいた湧き水だ」とか、多くの日本人にとってはただそれだけで何百年も守り伝えるに値する天皇縁由地になるし、実際に守り伝えてきた人々にとっては、もうそこまで行けば「天皇さん」は日常に溶け込んだ存在であって、敬意が足りないのとは全く違う話である。中にはゆかりある天皇が祭神になっていることもある。神・仏を「さん」付けで呼ぶことも、広く日本では普通に見られる慣習である。 「諱+天皇」という呼称は、かつてはあり得なかったが、2010年代以降現在の文献などでは特に珍しい表現ではなくなっている。皇室ジャーナリストもその例に漏れない。「和訳」節で解説する外国語での名称を「諱+天皇」という形で翻訳したことがきっかけとなった可能性がある。 外国語での名称を翻訳した日本語名称としては、例えば英語で "The emperor ..." という表現があることを受けて「本名(諱)+天皇」もしくは「天皇+本名(諱)」という表現がある。有名なものを一つ挙げるならばアメリカ映画『ラストエンペラー』がある。英語版での英語話者の台詞として登場する "The emperor Hirohito" は“天皇裕仁”を意味するため、和訳でも係る英語話者の台詞には「裕仁天皇」という表現があえて選択された。この映画が公開された1986年(昭和61年)当時、“天皇裕仁”にあたる人物(崩御後の昭和天皇)は今上天皇であった。 天皇制廃止論者や、観念論的な権威を否認する思想傾向のある者(例えば共和主義者や共産主義者)の中には、個々人で程度の差こそあれ、歴代天皇にも在位中の天皇にも敬意を払うことが無い、もしくは少ない。公的発言となればそれなりの社会的配慮が働いて言動に表さないことも多いが、匿名性の高いコミュニティなどではそうではない場合がある。公的配慮を必要としない場におけるそれらの人々による呼称は、諱(いみな・本名)を使った呼び捨て(例えばヒロヒト等)や三人称が使用されることが多い。また、呼び捨てにする者が必ずしも敵意をもつということはなく、天皇というものを一人の人間の立場や役職と捉えたうえで必要以上の礼を尽くさないという立場がある。
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今上天皇(きんじょうてんのう)は、その時々における在位中の日本の天皇を指す語。 (*一般概念としての天皇については「天皇」を参照) 「今」の「上(上様)」の意をもって呼ばれる「今上(きんじょう)」はそれだけでその時代における皇帝や天皇を指す語として成立したが、「天皇」と繋げれば日本独自の名称となる。「陛下」と繋げて「今上陛下」と呼ぶ例は、大正時代から確認できる。 「今(現在)」とは、その時間に属する人が基準とする時の一点であり、どの時間に属する人かで「今上天皇」にあたる人物も異なる。存命中から「(個人名)n世」と固有名で呼ばれる諸外国の君主、また教皇との最大の違いである。 令和の時代に「今上天皇」と称される人物は、第126代天皇徳仁(なるひと)。
<!--{{Otheruseslist|日本における当代の天皇を呼称する言葉|2019年([[令和]]元年)[[5月1日]]現在、在位中の今上天皇|徳仁|かつて「今上天皇」と称された歴代天皇|天皇の一覧|天皇のその他の用法|天皇 (曖昧さ回避)}}--> {{Otheruseslist|「(その時代における)今の天皇」を意味する名称|2019年([[令和]]元年)5月1日以降在位中の第126代天皇|徳仁|かつて「今上天皇」と称された歴代天皇|天皇の一覧|天皇の概念全般|天皇}} [[ファイル:Emperor Naruhito (may 2019).jpg|サムネイル|即位以来「今上天皇」と称される[[徳仁]]]] '''今上天皇'''(きんじょうてんのう)は、その時々における在位中の[[日本]]の[[天皇]]を指す語<ref name="Kb">{{Cite web |1=和書 |url=https://kotobank.jp/word/今上天皇 |title=今上天皇 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2019-06-05 }} {{Wayback|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87 |date=20140709145631 }}</ref>。 「[[今]]」の「上(上様)」の意をもって呼ばれる「'''今上'''(きんじょう)」{{r|Kb}}<ref name="Kb_今上">{{Cite web |1=和書 |url=https://kotobank.jp/word/今上 |title=今上 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-06-05 }} {{Wayback|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E4%B8%8A |date=20140710113706 }}</ref>はそれだけでその時代における[[皇帝]]や天皇を指す語として成立したが、「天皇」と繋げれば[[日本]]独自の名称となる。「{{読み仮名|陛下|へいか}}」と繋げて「'''今上[[陛下]]'''」と呼ぶ例は、[[大正]]時代から確認できる<ref name="Kb_今上陛下">{{Cite 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)に「今上天皇」と称される人物は、第126代天皇'''[[徳仁]]'''(なるひと)。 == 当代の天皇の呼称 == [[ファイル:Emperor Go-Kōgon.jpg|thumb|250px|『[[天子摂関御影]]』における「今上」の用例/「[[康安]]二(康安2年)」と添え書きされたこの[[肖像]]は、[[北朝 (日本)|北朝]]第4代の、[[後光厳天皇]]に比定されている。]] {{Anchors|今上}}[[日本語]]では古くは「'''きんしょう'''」とも読んだ<ref name="Kb_今上_大辞林">{{Cite web |1=和書 |url=https://kotobank.jp/word/今上 |title=今上 |work=[[三省堂]]『[[大辞林]]』第3版 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-06-05 }} {{Wayback|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E4%B8%8A |date=20140710113706 }}</ref>「'''今上'''('''きんじょう'''{{r|Kb_今上}}、'''こんじょう'''<ref name="Kb_今上_精選国語">{{Cite web |1=和書 |url=https://kotobank.jp/word/今上 |title=今上 |work=[[小学館]]『精選版 日本国語大辞典』 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-06-05 }} {{Wayback|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E4%B8%8A |date=20140710113706 }}</ref>)」という語は、[[古代]][[中国]]の『[[史記]]』[[始皇帝|秦始皇]]本紀に「今上知天下(...略...)」と記述の見える[[漢語]]である。 また、古代の[[日本]]ではこの[[熟字]]に[[大和言葉]]で「いまのうへ」<ref name="Kb_Nipponica">{{Cite web |1=和書 |url=https://kotobank.jp/word/今上天皇 |title=今上天皇 |work=小学館『[[日本大百科全書]]:ニッポニカ』 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-06-05 }} {{Wayback|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87 |date=20140709145631 }}</ref>(現代読みで『'''いまのうえ'''』)の読みも当てたともされる。これには、先にあった大和言葉「いまのうへ」に[[漢字]]を当てて「今上」という熟字を造ったと唱える研究者があって、しかし今では、[[漢意]]({{small|からごころ}})を排除しようとする[[国学]]の影響による学説と見なされている。 {{Anchors|当今}}日本語におけるこの語「今上」は、これも日本語の「{{読み仮名|'''当今'''|とうぎん}}」と[[同義語|同義]]である<ref name="Kb_当今">{{Cite web |1=和書 |url=https://kotobank.jp/word/当今 |title=当今 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-06-05 }} {{Wayback|url=https://kotobank.jp/word/%E5%BD%93%E4%BB%8A |date=20131007215436 }}</ref>。{{Anchors|聖上}}また、『[[晋書]]』周馥伝に「西剋許聖上渡御后宮」という記述が見られ、[[天子]]を敬っていう「{{読み仮名|'''聖上'''|せいじょう}}」<ref name="Kb_聖上">{{Cite web |1=和書 |url=https://kotobank.jp/word/聖上 |title=聖上 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-06-05 }} {{Wayback|url=https://kotobank.jp/word/%E8%81%96%E4%B8%8A |date=20130602210050 }}</ref>は、日本に入っては結果的の同義語となる。{{Anchors|主上}}中国古典に起源を見いだせず、『[[続日本紀]]』神護景雲2年条が初出かも知れない「{{読み仮名|'''主上'''|しゅじょう、古くは『しゅしょう』とも}}」<ref name="Kb_主上">{{Cite web |1=和書 |url=https://kotobank.jp/word/主上 |title=主上 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-06-05 }} {{Wayback|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E4%B8%8A |date=20131103082828 }}</ref>も、結果的同義語である。 {{Anchors|天皇}}一方、'''天皇'''は、文武両方でもって世界や反乱を治める偉業を累ね、死後に贈られる「[[諡号]](おくり名)」であった。また、この制度は、[[大宝律令|大宝令]]を初出として公式令や義解に解説された漢土([[中国]])の制度の全くの摸倣であった<ref>[http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/teio_1/teio_1_0915.pdf] {{Wayback|url=http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/teio_1/teio_1_0915.pdf|date=20160803221044}}[[明治政府]]<span>編纂の百科事典『</span>[[古事類苑]]<span>』-帝王部十六-諡号 テキスト画像 明治29-大正3年(1896-1914)刊行</span></ref><ref>[http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E9%83%A8/%E8%AB%A1%E8%99%9F] {{Wayback|url=http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E9%83%A8/%E8%AB%A1%E8%99%9F|date=20160819052335}}[[明治政府]]<span>編纂の百科事典『</span>[[古事類苑]]<span>』-帝王部十六-諡号 明治29-大正3年(1896-1914年)刊行</span></ref>。 [[日本]]や[[唐]]以前の中国では、敬意を示すものについてはっきりした言い方を持たない文化があり、当代の天皇の呼称もあまり発達しなかった。しかし、[[平成]]時代において先々代の[[大正天皇]]や先代の[[昭和天皇]]と並べて表記したい場合に、「今上」もしくは「今上陛下」では言葉のすわりがよくないことと、「今上天皇」と表記すると語感から客観的な表現に感じられるため、中立を求められる表現の中で使用される頻度が高くなってきた。また皇后美智子(現・[[上皇后美智子]])も[[明仁|第125代天皇明仁]]を「'''今上陛下'''(きんじょうへいか)」と公の場では呼んでいた。 {{Anchors|今上天皇_初出}}ここまで述べてきた「今上」と「天皇」を繋げた「'''今上天皇'''」という語は、いつの頃に成立したかはっきりしないが、同じ意味での言い回しということでは、[[正倉院文書]]の北倉文書の一つ『[[東大寺献物帳]]({{small|とうだいじけんもつちょう}})』の[[天平勝宝]]8年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]条({{small|[[西暦]]換算:[[ユリウス暦]][[756年]]7月22日条、[[先発グレゴリオ暦]]756年7月26日条}})後文([[跋]]文)に見られる「(...略...) 後太上天皇 天皇伝賜今上 今上謹献廬舎那仏」というくだり<ref name="近数史会">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190605021038/http://www.wasan.earth.linkclub.com/kinkikaisi/wasan067.pdf |title=『和算』第67号 |author=山路實 |date=1990年(平成2年)10月31日 |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=近畿数学史学会 |accessdate=2019-06-05 }}※17頁(コマ番号では9/11)。</ref><ref group="注">本項で省略した前段も踏まえて要約すれば、「[[太上天皇]](※[[聖武天皇|聖武太上天皇]])がお隠れ遊ばされたのち、'''今上天皇'''(※即位前の安倍[[内親王]]、崩御後の'''[[孝謙天皇]]''')は、[[飛鳥浄御原宮]]・[[藤原宮]]・[[平城宮]]の三宮の御宇({{small|ぎょう}}。御世)から伝わる御宝物を[[東大寺盧舎那仏像|東大寺盧舎那仏]](※奈良の大仏様)に献納あそばされた<!--※「仏像」ではなく「仏」、「大仏」に様を付けるという表現は、書き手の信仰を反映させています。皇族への敬意も同様。-->」旨の内容である。なお、これらの宝物は、実務上は[[東大寺]]の[[正倉]](南倉・北倉・中倉)に収蔵された。今日まで伝えられた[[正倉院#正倉院宝物|正倉院宝物]]の最も重要な所蔵品群である。</ref>に初出と思しき例を確認できる{{r|Kb_Nipponica}}。 {{Anchors|陛下}}[[敬称]]は、諸外国の[[国王]]・[[女王]]などと同様に「'''[[陛下]]'''(へいか)」が使われている([[皇室典範]]で規定)が、今上天皇陛下とは言わず、'''今上陛下'''(きんじょうへいか){{r|Kb_今上陛下}}、'''天皇陛下'''(てんのうへいか)もしくは単に'''陛下'''(へいか)、'''聖上'''(せいじょう)、'''主上'''(しゅじょう)と呼ばれる。また、古い表現では'''帝'''(みかど)、'''天子様'''(てんしさま)、'''内裏様'''(だいりさま)、'''大内様'''(だいだいさま)、'''禁中様'''(きんちゅうさま)、'''禁裏様'''(きんりさま)、'''禁廷様'''(きんていさま)と呼ばれる。 また、[[日本近代史|近代史]]上において治世を築いた歴代3人の天皇である[[明治天皇]]、大正天皇、昭和天皇などの呼称は、「[[一世一元の制]]」に基づいたうえで、それ自体に敬意が込められた[[諡#追号|追号]]であるため、昭和天皇陛下とも言わない(口頭では「昭和の天皇陛下」という言い方をすることがあるが、この場合の昭和は「[[昭和]]時代」の意であると解される。ただ、[[上皇后美智子]]は平成時代に義父にあたる昭和天皇を「'''先帝陛下'''(せんていへいか)」と公の場では呼んでいた他、「○○(元号)の天皇陛下」や明治天皇には「{{読み仮名|'''明治大帝陛下'''|めいじたいていへいか}}」や「{{読み仮名|'''大帝陛下'''|たいていへいか}}」などの使われ方がある)。 また、昭和天皇の[[崩御]]までの[[昭和]]期に[[皇太子]](次期皇位継承者・皇位継承順位第1位)であった[[明仁]]の天皇即位から昭和天皇の追号が正式に定まるまでの間(なお天皇が崩御した後、追号が贈られるまでは[[大行天皇]]の呼称が公式に用いられる)、報道では、「{{読み仮名|'''明仁陛下'''|あきひとへいか}}」の表現が用いられていた。 == 現代的用法 == {{Anchors|現在での用例}} [[ファイル:Emperor Naruhito.jpg|thumb|200px|[[2019年]]([[令和]]元年)[[5月1日]]に即位した今上天皇([[徳仁]])]] [[ファイル:Masayoshi Ohira at Andrews AFB 1 Jan 1980 cropped 1.jpg|thumb|160px|[[元号法]]制定時の首相、[[大平正芳]]]] === 公的用法 === [[日本国政府|政府]]などの[[公共機関|公的機関]]および主要[[マスメディア|メディア]]などでは、[[皇室典範]]に定められる敬称「[[陛下]]」を入れて「{{読み仮名|'''天皇陛下'''|てんのうへいか}}」(略して「陛下」)と呼称することが一般的である<ref group="注">[[1947年]](昭和22年)に当時の[[宮内省]](後の一時期は[[宮内府]]、現在の[[宮内庁]])と[[報道]]各社の間で結ばれた協定に基づく。</ref>一方、[[天皇制廃止論]]に立つ者、基本的に敬称を避ける傾向にある[[学術]]的な世界に身を置く者は、単に「{{読み仮名|'''天皇'''|てんのう}}」と呼称する([[内閣総理大臣]]・[[国務大臣]]と同じく、肩書きでもあるため。「内閣総理大臣閣下」「首相閣下」「(所管省庁)大臣閣下」の呼称は、日本政府は使用せず、かつ一般的でない)か、あるいは[[諱|実名]]を直接呼ぶことも多い<ref group="注">「天皇」と呼び[[避諱|諱を避ける]]ことは、それ自体一定の敬意を示した表現であるため。</ref>。なお、当代の天皇を特定する場合には、敬語表現である「今上」「当今」とだけ呼称することもある。 === 「元号+天皇」の形式による呼称 === {{要出典範囲|1=一部の[[出版物]]|date=2023年8月}}などにおける記述などの際に、その天皇の元号を用いた「元号+天皇」の形式による表現が散見され、これに則れば[[令和]]時代の天皇である[[徳仁]]が令和天皇となる。これは、その時の[[内閣]]を総理大臣の[[姓]]で[[固有名詞]]的に表現するのと同じく、その時の天皇を元号で固有名詞的に表現する様式である。 しかし[[明治]]以降、今上天皇や[[上皇 (天皇退位特例法)|退位した天皇]]などの存命の天皇を「元号+天皇」の形式で表現することが、[[諡号]]を思わせるとして[[自粛]]ないし[[忌諱]]する場合もある。つまり、明治以降、[[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]の三代にわたって一世一元の制に依拠し、元号がそのまま諡号・追号として贈られたことから、平成時代および令和時代の天皇においても同じように追号として元号が贈られると予想した場合、存命の天皇の対して「元号+天皇」と呼ぶことで、[[崩御]]した際に贈られると予想される追号で存命の天皇を呼ぶことになるため避けるということである。 ただし追号は、[[元号法]]の制定時の[[大平正芳]]首相(当時)の国会答弁によれば、あくまで皇室内の儀式として新しい天皇が先帝に贈るものであって{{sfn|内閣委員会会議録14号(昭和54)|p=22}}、法で定めた元号に縛られることなく、新しい天皇の裁量で決めることができるという{{sfn|内閣委員会会議録14号(昭和54)|p=22}}。[[皇室典範]]などの関連法令にも規定がない。 === 市井の用法 === [[ファイル:Kikusui Fountain.jpg|thumb|left|210px|[[養老神社]]の[[祭神]]でもある[[元正天皇]]にゆかりの菊水霊泉は、[[奈良時代]]以来、霊泉としても天皇縁由地としても大切にされてきた。]] {{Anchors|市井の呼称}}一般人が公でない場で「天皇」と呼称することもあるが、だからといってその人が必ずしも「[[皇室]]に批判的である」ということを示すものではない。 ==== 天皇さん ==== {{Anchors|縁由地での呼称|天皇さん}}また、[[日本人]]は、“おらが村”(愛着ある自分達の[[地域]])にゆかりのある遠い昔の天皇の話題に触れる時、敬意にも増して親しみを籠めて「'''天皇さん'''」と砕けた呼び方をすることが珍しくない。「○○天皇がお座りになった」とか、「○○天皇にお飲みいただいた[[湧き水]]だ」とか、多くの日本人にとってはただそれだけで何百年も守り伝えるに値する天皇縁由地になるし、実際に守り伝えてきた人々にとっては、もうそこまで行けば「天皇さん」は日常に溶け込んだ存在であって、敬意が足りないのとは全く違う話である。中にはゆかりある天皇が[[祭神]]になっていることもある。[[神 (神道)|神]]・[[仏]]を「さん」付けで呼ぶことも、広く日本では普通に見られる[[慣習]]である。 ==== 諱+天皇 ==== 「[[諱]]+天皇」という呼称は、かつてはあり得なかったが、[[2010年代]]以降現在の[[文献]]などでは特に珍しい表現ではなくなっている{{Efn2|group="注"|「[[明仁]]天皇」の例(刊行日順):{{Sfn|保阪|2009|p=00}}{{Sfn|矢部|2015|p=00}}{{Sfn|斉藤|2015|p=00}}{{Sfn|河西|2016|p=00}}{{Sfn|近重|2017|p=00}}{{Sfn|古屋|2019|p=00}}。「[[徳仁]]天皇」の例:{{Sfn|宝島社|2019|p=00}}。}}。皇室[[ジャーナリスト]]もその例に漏れない{{Sfn|近重|2017|p=00}}。「[[#和訳|和訳]]」節で解説する外国語での名称を「諱+天皇」という形で翻訳したことがきっかけとなった可能性がある。 === 和訳 === {{Anchors|The emperor}}外国語での名称を[[翻訳]]した日本語名称としては、例えば[[英語]]で "{{Lang|en|The emperor &hellip;}}" という表現があることを受けて「本名([[諱]])+天皇」もしくは「天皇+本名(諱)」という表現がある。有名なものを一つ挙げるならば[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『[[ラストエンペラー]]』がある。英語版での英語話者の[[台詞]]として登場する "{{lang|en|The emperor Hirohito}}" は“天皇[[裕仁]]”を意味するため、[[和訳]]でも係る英語話者の台詞には「裕仁天皇」という表現があえて選択された。この映画が公開された[[1986年]](昭和61年)当時、“天皇裕仁”にあたる人物(崩御後の[[昭和天皇]])は今上天皇であった。 <!--日本国内でも同様の用例は見られるが、前述の通り、名指しは天皇に特別な敬意を示さない意思表示として受け取られる場合が多い。|※主語が不明瞭。文意も今ひとつ分かりません。そんな受け取り方をする人が“多い”とは思えません。“ことがある”ならその通りだとは思いますが。--> === 日本国外での呼称 === {{See|天皇#日本国外での天皇の呼称}} === 呼び捨て === [[天皇制廃止論]]者や、[[観念論]]的な権威を否認する思想傾向のある者(例えば[[共和主義者]]や[[共産主義者]])の中には、個々人で程度の差こそあれ、歴代天皇にも在位中の天皇にも[[敬意]]を払うことが無い、もしくは少ない。公的発言となればそれなりの社会的配慮が働いて言動に表さないことも多いが、[[匿名]]性の高い[[コミュニティ]]などではそうではない場合がある。公的配慮を必要としない場におけるそれらの人々による呼称は、[[諱]](いみな・本名)を使った[[呼び捨て]](例えばヒロヒト等)や[[三人称]]が使用されることが多い。また、呼び捨てにする者が必ずしも敵意をもつということはなく、天皇というものを一人の人間の立場や役職と捉えたうえで必要以上の礼を尽くさないという立場<ref name="産経_20160116">{{Cite web |1=和書 |author=酒井充 |date=2016-01-16 |title=「天皇」と呼び捨てにしながら開会式に出席する共産党ってどういうこと? 「人間として当たり前」って… |url=https://www.sankei.com/article/20160116-K7W466BAUFL3XODNJZQ4XRSIHY/2/ |website=産経ニュース |publisher=[[産経デジタル]] |page=2 |accessdate=2019-11-15 }} {{Wayback|url=https://www.sankei.com/article/20160116-K7W466BAUFL3XODNJZQ4XRSIHY/2/ |date=20231204060857 }}</ref>がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == ; 書籍 *<!--かわにし-->{{Cite book |和書 |author=河西秀哉|authorlink=河西秀哉 |date=2016/6/2 |title=明仁天皇と戦後日本 |publisher=[[洋泉社]] |series=歴史新書y 059 |isbn=4-8003-0968-9 |oclc=951209956 |ref={{SfnRef|河西|2016}} }}ISBN 978-4-8003-0968-6。 *<!--さいとう-->{{Cite book |和書 |author=斉藤利彦|authorlink=斉藤利彦 |date=2015-07-13 |title=明仁天皇と平和主義 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=[[朝日新書]] 526 |isbn=4-02-273626-7 |oclc=914160592 |ref={{SfnRef|斉藤|2015}} }}ISBN 978-4-02-273626-0。 *<!--ちかしげ-->{{Cite book |和書 |author=近重幸哉|authorlink=近重幸哉 |date=2017-04-29 |title=明仁天皇の言葉 平成の取材現場から読み解く「お気持ち」 |publisher=[[祥伝社]] |isbn=4-396-61604-X |oclc=987207498 |ref={{SfnRef|近重|2017}} }}ISBN 978-4396616045。 * <!--ふるや-->{{Cite book |和書 |author=古屋兎丸|authorlink=古屋兎丸 |editor=永福一成(監修)|editor-link=永福一成 |date=2019-06-28 |title=明仁天皇物語 |publisher=[[小学館]] |asin=B07SYJFH3J |ref={{SfnRef|古屋|2019}} }}※[[漫画]]。 *<!--ほさか-->{{Cite book |和書 |author=保阪正康|authorlink=保阪正康 |date=2009-05-15 |title=明仁天皇と裕仁天皇 |publisher=[[講談社]] |isbn=4-06-212858-6 |oclc= 676663797 |ref={{SfnRef|保阪|2009}} }}ISBN 978-4-06-212858-2。 *<!--やべ-->{{Cite book |和書 |author=矢部宏治(文)|authorlink=矢部宏治 |others=[[須田慎太郎]](写真) |date=2015-07-01 |title=戦争をしない国 明仁天皇メッセージ |publisher=小学館 |isbn=4-09-389757-3 |oclc=913193372 |ref={{SfnRef|矢部|2015}} }}ISBN 978-4-09-389757-0。 <!--※以下は法人。--> *<!--たからじましゃ-->{{Cite book |和書 |editor=三橋健(監修)|editor-link=三橋健 (神道学者) |date=2019-05-21 |title=奉祝 徳仁天皇ご即位 |publisher=[[宝島社]] |series=TJ MOOK |isbn=4-8002-9449-5 |oclc=1102537094 |ref={{SfnRef|宝島社|2019}} }}ISBN 978-4-8002-9449-4。 ; その他 * {{Cite journal |和書 |author= |date=1979年(昭和54年)6月5日 |title=第87回国会 参議院内閣委員会会議録第14号 |url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=108714889X01419790605 |format=PDF |publisher= |journal= |volume= |pages=92-99 |ref={{sfnRef|内閣委員会会議録14号(昭和54)}} }} == 関連項目 == {{Wiktionary|今上|今上天皇}} * [[大行天皇]] == 外部リンク == * {{Kotobank|今上天皇|2=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)}} * {{Kotobank|今上|2=[[大辞林]] 第3版、精選版 [[日本国語大辞典]]}} * {{Kotobank|当今|2=[[デジタル大辞泉]]、精選版 日本国語大辞典}} {{Navboxes |title=皇室・天皇関連 |state = expanded |list= {{天皇項目}} {{歴代天皇一覧}} {{歴代皇后一覧}} {{歴代日本の皇太后一覧}} {{日本の歴代太皇太后一覧}} {{日本の皇位継承権者}} }} {{DEFAULTSORT:きんしようてんのう}} [[Category:日本の天皇|*きんしよう]]
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