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競輪
競輪(けいりん、英字表記:KEIRIN)は、競艇・競馬・オートレースと並ぶ公営競技の1つで、北九州市を発祥の地とする自転車競技。及びその自転車競技の着順を予想するギャンブルである。 競輪は自転車競技法に基づいて運営されており、主催者は地方自治体である。監督官庁は経済産業省(製造産業局車両室) で、運営統括は公益財団法人JKA。運営を補佐する団体として全国競輪施行者協議会 (全輪協)、日本競輪選手会がある。これらJKA、全国競輪施行者協議会、日本競輪選手会の3団体により『競輪最高会議』が形成され、各年度末の最高会議において翌々年度の特別競輪開催地が決定されるなどしている。 地方自治体は所管省庁の経済産業省へ競走の開催を届け出、競輪選手と呼ばれるプロの選手達と「競輪場」と呼ばれる自転車競技場における競走出場に関する契約を交わす。番組編成、選手管理、審判など、実際の自転車競走の運営については競輪場の存在する各地域のJKA競輪競技実施事業本部(旧・日本自転車競技会)の支部へ委託している。審判の方法など、受け持つ支部によって運営手法に違いがある。 競輪選手の登録・あっせん、育成については中央団体である公益財団法人JKAが行ない、2014年4月からは審判および番組編成・選手管理・検車の4つの業務もJKAが管掌している(経済産業省はJKAを通して競輪選手、競技会、施行者などの監督指導を行う) 。 勝者投票券(車券)の売り上げ金のうち75%は払戻金に充て、残り25%から一定額を選手賞金などの経費やJKAへの交付金(約3.3%)、公営企業金融公庫への納付金(約0.2%)を差し引いた額が純益として地方自治体の歳費となる。 競輪の収益金は、監督するJKAに納付される売上を元に各種の補助事業が行われ社会に還元されただけでなく、主催者として運営する自治体に多額の収入をもたらしたことで自治体財政を健全化し、戦災復興や公共施設の建設などに貢献することになった。収益金の使途として最も多かったのは主として土木事業費であるが、競輪のイメージ向上への期待も込めて、教育、福祉関連事業にも多くの費用が投入された。通産官僚の佐橋滋らによる発案で、当時資金調達が困難だった国産トランジスタ計算機の研究開発に競輪収益をあてたエピソード もある。 日本のプロスポーツでは選手数が最も多い競技とされ、2,300人程度で構成されている(2019年12月31日時点、2,325人)。また初期には女性選手による「女子競輪」が1964年(昭和39年)まで開催されたほか、2012年(平成24年)7月1日から女子選手による「ガールズケイリン」が開催されている。 創設以来、日本独自のものであったが、現在は日本側による技術指導の下、韓国で国民体育振興公団(および地方自治体)が主催者となり、国内3つの競輪場で開催している。なお、過去には、1949年5月にタイとの間で競輪輸出契約がまとまり日本以外で初の競輪が開催される予定であったが、直後の政変によりご破算となった(競輪二十年史では「ピブン政権の失脚により」との記述があるが、史実ではピブン政権の失脚は1957年)。このほか、アメリカ占領下にあった沖縄でも競輪開催の動きがあったが結局立ち消えになっている。 競輪選手は、日本競輪選手養成所において約1年間研修を受けて競輪に関する知識と技能を習得し、競輪選手資格検定に合格して同所を卒業し、選手登録された者である。選手の権利を守る団体として日本競輪選手会があり、各選手は36の都道府県にある日本競輪選手会のいずれかの支部に所属している。 競輪選手養成所の入所試験には一般試験と特別選抜試験があり、後者は各種スポーツ競技において特に優秀な成績を残した者を対象としている(特待生制度)。特別選抜試験の受験資格はオリンピックメダリストなどに限られるため非常に厳しく、ほとんどの受験生は一般試験を受験する。一般試験には「自転車の競技経験者が対象で自転車の走力を測る」技能試験と「自転車の競技経験がない者が対象で運動能力を測る」適性試験があり、いずれについても一次試験と二次試験が課される(但し適性試験に限り、他のプロスポーツ経験者を対象に一次試験を免除する制度がある)。合格率は、109期以降では、男子は概ね5倍程度、女子は2〜3倍程度 である。男子は受験1回目での合格率は約3割で、合格者の多くは複数回の受験を経験している。入学希望者は自転車競技愛好会や高校・大学の自転車部に所属して練習を積むケースが多い。 デビュー時点では、男子は全員A級3班に所属し、その後はS級戦(S級S・1・ 2班戦)、A級1・2班戦、A級チャレンジ戦(A級3班戦)に分けられた3クラス戦制の中で、2級6班制による半年毎の格付け入れ替えを経て、最上位のS級S班(9名)を目指す体系となっている。南関東公営競馬の予想屋で競輪ファンでもある佐々木洋祐は、最上位クラスの選手と最下級クラスの選手との実力差は、一緒に走ればほぼ100%最上位クラスの選手が勝つといえるほど絶対的なものであると述べている。なお、女子は現状では昇降級の制度はないため、全員がL級1班の所属である(そのため選手間の実力差は大きい)。 男子選手の所属する級および班は、競走得点および評価点に基づいて決められる。まず競走成績に応じて競走得点が算出される。競走得点は着順が良いほど、また格の高いレースほど高く設定されている。さらに競走得点をもとに評価点が計算され、それをもとに選手の所属する級および班が決められる。ちなみに、男子選手のランクはレーサーパンツの下地とラインの色から判断することができ、A級は黒地に緑のライン、S級は黒地に赤のライン、S級S班は赤地に黒のラインとなっている。 選手は月に2つないし3つの開催に出場する。出場レース数に換算すると、概ね月に6〜9レースである。出場は、JKAのあっせんに対し選手が意思表示を行うことによって決められる。出場が決まった選手は開催前日の指定時間までに競輪場へ入らなければならない。競輪場に到着した選手は参加登録および健康診断を受け、さらに分解してバッグに入れて持ち込んだ自転車を組み立てて検査を受ける。健康診断と自転車の検査に合格した選手は基本的に4日ないし5日間宿舎(主に4人部屋)に滞在し、外部との連絡を絶つ。開催当日は午前中に再度自転車の検査を受けた後で練習を行い、レースに備える。 レースへの出場がないとき、多くの競輪選手は練習漬けの日々を過ごすといわれている。競輪選手にはシーズンオフがない。そのためレースへの出場が続き、したがって練習のできない期間が長くなった選手は脚力に衰えが出る(「貯金がなくなる」と表現する)ようになる。各選手の過去の出場履歴は車券予想におけるファクターの一つである。 選手の収入源は賞金や出走手当で、実力下位であっても一般的なサラリーマンよりも高額の収入を得ているといわれている。JKAが公表した、2019年の全選手の賞金総額及び平均取得額によると、2019年12月31日時点での全登録選手2,325名の平均取得額は10,402,280円で、うちS級688名では16,597,852円、A級1,502名では7,962,748円、L級(女子)135名では6,468,313円であった。 但し、「競輪に係る業務の方法に関する規程」第83条第1項第3号には競走成績不良による登録消除の基準が定められており、一定期間連続して成績の振るわない選手はあっせんを保留され、一定期間審査されたのち選手登録を消除される(強制的に引退させられる)。一度登録を消除されると再登録することはできない(現役復帰は不可能)ため、俗に『代謝』と呼ばれるこの制度を適用することで競走レベルの維持を図っている。毎年期初(1月と7月)にこの代謝制度により多くの選手が引退を余儀なくされるが、2020年は特に4月から5月にかけて開催中止が相次いだこともあり、例外的に下期期初(7月)においては代謝制度の適用はなかった。 ※は当年のKEIRINグランプリ優勝者とは異なるケース(第1回が開催された1985年以降。但し1989年は開催中止)。 女子(賞金女王)は「ガールズケイリン#歴代賞金女王」を参照。 男子選手において、2023年時点では6つあるGIカテゴリ競走(グレード制が制定される以前は「特別競輪」と呼ばれた競走)を全て制覇すれば、「グランドスラム(グランドスラマー)」と称される。 現時点では、全日本選抜、日本選手権、高松宮記念杯、オールスター、寬仁親王牌、競輪祭の6つ全てを優勝することが条件である。なお、KEIRINグランプリはGPのカテゴリであり、GIではないため含まれない。 過去に達成したのは僅か4人。但し、井上と滝澤は共に寬仁親王牌が1994年にGI競走となる前の出来事であるため、現在でもそのままグランドスラムとして扱われている。なお、井上と滝澤はKEIRINグランプリも制覇したが、神山と新田は未制覇である(特に神山は第11回から第14回まで4年連続2着であった)。 2023年10月時点で、現役選手の中で最もグランドスラムに近いのは山崎芳仁で、残るは日本選手権のみだが年齢的にタイトル獲得は厳しくなっている。山崎に次ぐのは武田豊樹、脇本雄太、平原康多、古性優作の4名で、いずれも残り2つ(武田は全日本選抜と寬仁親王牌、脇本は全日本選抜と競輪祭、平原は日本選手権とオールスター、古性は日本選手権と競輪祭)である。 過去には、平間誠記(全国都道府県選抜競輪)、高原永伍(日本選手権)、中野浩一(高松宮記念杯競輪)、吉岡稔真(オールスター競輪)が、グランドスラムまであと1つという状態のまま引退した。 「ガールズケイリン」の名称で行われている平成期以降の女子競輪では、2023年よりグレードレースが創設され、うちGIはオールガールズクラシック、パールカップ、女子オールスター競輪(2025年よりGI)、競輪祭女子王座戦の4つ。なお、ガールズグランプリはKEIRINグランプリ同様GPのカテゴリであり、GIには含まれない。 競輪で用いられる自転車は「ピスト(レーサー)」と通称される、規格に基づいた専用仕様の一人乗りの競技用自転車である。固定ギアであり、ペダルを逆回転させることによって速度を制御するためブレーキはない。競輪の関係法令においては『競走車』(単式競走車)と呼称されており、この自転車はNJS認定(Nihon Jitensha Shinkoukaiの略。現在のJKAに改称後もこの呼称が継続している)された部品により製作されることが義務づけられており(多くのNJS認定された部品は一般の自転車専門店にも卸されており、一般の愛好家も購入出来る)、なおかつ組み立て後の車体検査に合格しなければレースに使用することができない。 NJS規格と言われる場合もあるが、NJS認定は部品の互換性を保証する標準化ではない。NJS認定や組み立て後の車体検査は競輪のレースのための物であり、公道を走行することは考慮されていない。 競輪用自転車に限ったことではないが一般に公道での走行では制動装置が必要であり、別途ブレーキを付けない限り公道での走行は道路交通法により禁止されている(ノーブレーキピストも参照)。 競輪用の自転車は、ここ十数年ほど、ほとんど規格や素材が変更される事のないまま現在まで用いられている。おおむね半世紀前のピストレーサーも同然といって良く、現在他のトラックレースで用いられるピスト競技用車とは大きな性能差がある。これは公営競技としての公正さが念頭にあることが大きいが、他にも規格緩和による部品代高騰の抑制、横方向への移動における操縦安定性の維持、落車事故時における衝撃吸収性、車両性能の向上に伴う過度の高速化による重大事故発生の防止など様々な要因が絡んでいる。なお部品によってはタイヤ(SOYO=ダイワボウプログレス)やリム(新家工業)など製造数や品質などの観点から事実上のワンメイクとなっているものもある。フレームだけで10数万円以上の製作費が必要となるが、その他の部品は規則上の自転車における制限が存在するため、車体総額で50万円を超える事は稀である。 なお2012年7月から開催されているガールズケイリン(女子競輪)、および2014年1月から開催されているKEIRIN EVOLUTION、2021年10月から開催されている250競走においてはカーボンフレームにスポーク以外のホイールが使用されており、他のトラック競技で使われている車両の仕様に近いものとなっている。 ちなみに、競輪草創期には実用車や軽快車、タンデム式(複式競走車)の自転車でも競走が行われていたことがあった。 ハンドル・サドル・クランク・ペダル・ギア・チェーンなどの部品は、規格に基づいて製作されたもの中から選択して使用する。 サドルは、一般の自転車と比べ細くて堅い。サドルを支える芯棒(シートポスト)は、設定する高さが1,2mm違うだけでペダルを踏み込む際のバランスが変わるとされる。サドルを高くすると加速しやすくなる半面、横から力がかかった際にバランスを崩しやすくなり、落車の危険が増す。 ハンドルは、「ピストバー」と呼ばれる、曲線だけで構成された物が使われている。乗る選手の体型や脚質によって幅や湾曲、材質が異なる。フレームとハンドルの固定部分(ハンドルステム)は、身長や腕が長い選手ほど長く(前へ突き出す方向に)設定する傾向にある。 ペダルはクリップ・アンド・ストラップモデル。選手が履く専用シューズの底には「サン」(桟)と呼ばれる溝の入った金属プレートが釘で打ちつけられており、このサンにペダルプレートを噛み合わせ、さらに靴の爪先をトウクリップで固定、足(土踏まずから前の部分。脚ではない)を革やウェブベルト製のストラップベルトでペダルに縛り付ける。これにより、ペダルを踏み込む力だけでなく引き上げる力も加速に利用することができる。1980年代に登場しロードレースやトラックレースでお馴染みのビンディングペダルにNJS基準適合品はない。“位置につく”と足を着くことは出来なくなるので、スタートラインには号砲で飛び出すとロックが外れそのまま走り出せる専用のスタンドがあり、これに自転車をセットしてから乗る。 車輪は直径が27インチ と決められており、金属スポークおよびリムにより構成され、タイヤは外径675mm のチューブラー(チューブ一体型)タイヤを使用するが、コースコンディションや脚質による選択は出来ない。 車体となるフレームはクロムモリブデン鋼のパイプ(鋼管)を素材とした「クロモリフレーム」と呼ばれるもので、使用者の体格に合わせて完全オーダーメイド で製作されたものである。フレームのうち、サドルを支える縦パイプ(ロードレーサーでいう「シートチューブ」)の角度(シートアングル)は乗る選手の脚質によって異なり、具体的には先行選手は後ろに重心をかけて乗る傾向にあるため縦パイプの角度も後ろに寝ている。捲りの選手はチェーンの長さを短くし、踏み込む力が伝わりやすいよう縦パイプの角度を立たせている。競輪選手は、前輪軸と後輪軸を結んだ線よりもクランク軸がどの程度下げるか(ハンガー下がり)に気を神経をとがらせる。ハンガー下がりが大きいと安定感が増す反面、力の伝わりが悪くなるためペダルの踏み込みが重く感じられるようになり、小さいと踏み込みを軽く感じるようになる。 ギアは空回りのない固定ギアで、クランク側と後輪ハブ側のスプロケットの歯数を選手が自分で判断し交換する(下記に詳細)。ブレーキは装着しておらず、減速したい時にはギアが空回りしないことを利用して後ろへペダルを踏む(「バックを踏む」という)。ファンの車券作戦においてポイントとして結びつく重要なルールの一つに「ギヤ 倍数」がある。ギヤ倍数とは、自転車についている前後2枚のギア(スプロケット)のうち、クランク側ギヤ(大ギヤ。チェーンリング)の歯車の数と後輪のギヤ(小ギヤ)の比率をいい、「大ギヤの歯車の数を小ギヤの歯車の数で割ること」で求めることができる。各選手はレース前にギヤ倍数を申告し、数値は出走表に記載される。出走表掲載後に急遽変更する場合もあり、その際は場内で告知される。 大ギヤの歯車の数は44から55、小ギヤの歯車の数は12から16と決められており、かつては最大倍数の4.58まで使用できていた が、2015年の開催からは男子は4.00未満(実質最大3.93)、女子は3.80未満(実質最大3.79)という規制 も加えられ、その制限のもとでギヤ倍数が決められる。なお、250競走においてはトラックレースのケイリンに準じたルールを採用しているためギア倍数に対する規制上限はかなり大きく、最大5.67倍まで認められている(つまり大ギヤ1回転で後輪は5.67回転する)で出走するケースも見られる。 従来の競輪における一般的なギヤ倍数は3.5ないし3.6で。ギヤ倍数が低いほど漕ぐ力が軽くなりダッシュ力に優れる。その逆では当然重くなることからダッシュ力は弱いがスピードに乗れば速くなり、高速を維持しやすくもなる。一般の自転車のギヤ倍数は2倍強であるが、競輪で使用する自転車の場合は3倍強から4倍弱である。ギヤ倍数が大きいとペダル1回転で進む距離が長い反面加速にしにくく、小さいと加速はしやすいがペダル1回転で進む距離が短い。 「先行選手がギヤ倍数を普段より落とせば先行・逃げ切り狙い」「先行選手がギヤ倍数を上げれば捲り狙い」などが読み取れる。なお近年は周回中における先頭誘導員(後述)の誘導スピードが速くなったことによる体力の消耗防止や、勝負どころにおいてトップスピードで走れる距離を伸ばすため「大ギヤ」を選択する選手が近年は増えており、かつて脚力が衰えたベテラン選手が先行選手についていくためにギヤ倍数を上げるのとは異なる傾向にあるため、個々の選手の「ギヤ倍数」には注意を払う必要がある。 2020年と2023年には脇本雄太が先行して21秒5の上がりタイム(400m)を出しているが、これは従来の3.54のギヤではほぼ考えられないタイムである。3.54のギヤと3.92のギヤではそれほどの差がある。 競輪用ヘルメットは、オートバイ用ヘルメット規格を元に競輪自転車用に特別設計されたポリスチレン充填の硬質外殻構造で小さな通気口が設けられている(発泡スチロールにプラスチックのシェルがかぶせられ多数の通気孔が開けられているロードレース用とは全くデザインが異なる)。ヘルメットの衝撃エネルギー吸収能力は、発泡ポリスチレンの厚みを増すことで高めることができるが、これにより厚くて重くなり、装着するには暑くなる。NJS規格適合品はアライヘルメットとDICで製造している。商品名は「競輪ヘルメット」。選手によっては、特別競輪などで優勝した際にその場でヘルメットを脱いでスタンドに投げ込むというファンサービスをすることもある。余談だが、1990年代までは、専門紙プロスポーツなどでのプロフィール用に掲載された顔写真や、当時の選手手帳に貼付するための顔写真は、選手全員がヘルメットを被った状態で写っていた。 競輪が行われる競走路(バンク)は、木製板張りであるTIPSTAR DOME CHIBAを除き、コンクリートまたはアスファルトで舗装され、形状はすり鉢状である。コーナー部分はおよそ30度、直線が2ないし4度内側に傾斜している。この傾斜をカントといい、カントの傾斜はコーナー部分をバンクに対し垂直に立った状態で左右にヨレる(遠心力の影響を受ける)ことなく走るには、時速60キロで走らなければならないように設定されている(時速60キロよりも速いと外側に、遅いと内側にヨレてしまう)。なお、コーナーだけでなく直線部分も内側に傾斜しているのが一般的である。直線部分のうち、ゴール側をホームストレッチ、ゴールと反対側をバックストレッチという。残り半周となった時のバックストレッチを最終バックという。なお、この「カント」という語は、鉄道用語からきている。 日本国内で現存する競輪場においては、1周の長さは以下通り4種類(厳密には5種類)ある(このうち、多くの競輪場が400mを採用)。なお、現存しない競輪場も含めると、300m(西宮競輪場。開設時から1978年まで)も存在した。 競走距離は、級別により基本的に統一されている。S級は2,000mを基本距離とするので、333m・335mバンクの場合は6周、400mバンクの場合は5周、500mバンクの場合は4周で争われる。A級及びガールズケイリンL級は、S級より1周回少ない競走距離で行われ、333m・335mバンクの場合は5周、400mバンクの場合は4周、500mバンクの場合は3周となる。実際はスタート地点はゴール線より後方にある競輪場がほとんどであり、その距離15mないし25mが競走距離に追加されるが、高知競輪場のみゴール線上に発走機が置かれているため、S級は2,000mちょうど、A級・ガールズケイリンは1,500mちょうどとなる。 ただし例外があり、男子のGI決勝戦ではS級の距離より1周回追加の2,425m(333m・335mバンクでの開催を除く)にて、KEIRINグランプリでは2周回追加の2,825mにて実施される。A級戦でも、S級特別昇級をかけたレインボーカップファイナルはS級と同じ周回数で実施される。 なお、250mバンクで実施されるPIST6では6周回の1,515mとなっている。 バンクには様々なラインが引かれており、基本的に幅は3cmだが、判定の基準位置はラインごとに異なる。下記は通常の競輪にて用いられるラインであり、250競走では異なる。 なおバンク上には表示されていないが、内圏線内側から30cmかつ外帯線内側から40cmの位置が「測定線」となっており、一周の周長はこれが基準となっている。 バンクを走る選手を取り巻く環境は、立地条件の影響を受ける。たとえば海沿いにある競輪場(富山、四日市、玉野、別府、佐世保)では海風の影響が大きい。また、ドーム式の前橋と小倉では、観客が増えるに従って場内の温度が上昇し、バンクが乾燥する。 自転車競技が行われる国体が開催された関係から、滋賀県を除く全ての都道府県には競輪場または自転車競技場のいずれか(ないしは両方)が設置されており、競輪場がない県でも自転車競技場を拠点に選手の登録地(本拠所属地)とする事ができる。なお、滋賀県は大津びわこ競輪場が閉鎖・解体され、自転車競技場は元々なかった上にその代替施設も建設されなかったため、全国で唯一自転車競技場が存在しない県となった。沖縄県にも自転車競技場があるため沖縄県を登録地にしている選手もいる一方で、島根県が登録地の選手は菅井孝治(60期)が2002年10月31日に引退したのを最後に、また鳥取県が登録地の選手も齋尾大丈夫(69期)が2014年1月14日に引退したのを最後に、それぞれいなくなった。それ以降でそれら2県の出身の選手は、近隣の競輪場のある他県の支部に所属しそこを登録地としている。なお、島根県、鳥取県を除いて本拠所属地で最も登録現役選手数が少ないのは山形県で、3名(2023年6月時点)。このほか、身近に拠点となる競輪場や自転車競技場がないため、またはローラーでの練習が嫌いだから、などの理由で街道などを走って長距離を乗りこなす練習を主体にしている選手も存在する。 バンクと呼ばれる擂鉢状のコースを周回し、スタートから1周とゴール前半周のタイムは計測されているもののタイムトライアルではなく、いかに早くゴールするかがポイントとなる。これにより、1990年代までのレースでは、スタートの号砲が鳴っても横並びで睨み合い・腹の探り合いになってなかなか発走台を離れない、発走台を離れても牽制し合ってなかなか先頭誘導員の後ろに付かない、俗に言う「出渋り」が見られたが、21世紀に入ってからはレース毎に「規定時間」(スタートから第一周回のホームストレッチラインまでのタイムで計測)が設けられ、第一周回のホームストレッチライン通過時にこれを超過すると「タイムオーバー」となり賞金は50%カットされるようになった。 男子の競輪の場合、1レース2000mであればそれを約3分30秒で走る。これから計算すると総平均時速は約35kmだが、ゴールスプリントにおける最大瞬間速度は約70kmに達するといわれている。ただ、走行中は常に大きな風圧の抵抗を受けることから、選手は複数人(主に2人 - 4人)で連携して戦う方が有利であり、通常はレースごとに選手同士で『ライン』と呼ばれる即席のチームを組んでレースに臨んでいる。レース中、各ラインの先頭の選手は最も風圧を受ける不利はあるが自ら動くことでレースの主導権を握ろうとし、その後ろについた選手は(前の選手を壁代わりとすることで)風圧の抵抗を弱めて体力を温存させてもらう代わりに他のラインを追い抜かせないよう妨害するなど「ギブアンドテイク」を行う。そのため、競技自体は個人戦であるが、団体競技的な側面も併せ持っている。この複雑さが、完全に個人戦である競馬や競艇、オートレースにはない競輪の魅力であり、競輪初心者にとっては、その魅力にハマるか(競技の特性を理解できず)嫌うかで分かれている。なお、かつてKPK導入より前の競輪(女子競輪も同様)においては、ラインを組む等の打ち合わせは八百長行為とみなされ全面禁止とされていたが、強い先行選手には自ずと強い追込選手がマークするといった力関係によるラインのようなものが形成されていた模様。 PIST6やガールズケイリンにおいてはラインの形成は禁止されているため、男子の競輪とは異なり完全に個人戦である。 近親者(親子・兄弟姉妹・夫婦)で同じ開催にあっせんされることは多々あるが、番組編成においては、開催における決勝戦(勝ち上がり戦)やKEIRINグランプリ、オールスター競輪でのドリームレース・オリオン賞レースまたは共同通信社杯競輪、オールガールズクラシックでの予選競走(自動編成のため)などといったやむを得ないケースを除き、近親者が同じレースに出走することがないよう配慮されている。 他の公営競技と同様、八百長防止のため、選手は、例え身内であっても競走参加中は外部との接触が一切禁止となる。そのため、競走参加中の選手は施行者が指定する選手宿舎で合宿生活を送らなければならず、外部とは隔離された状態となる。 競輪が始まった当初は、施行者が指定する競輪場近くの旅館が選手宿舎となっていた。現在は全ての競輪場で選手宿舎を備えており、大抵の競輪場では同一敷地内に選手宿舎を併設しているものの、小田原競輪場や岸和田競輪場など一部の競輪場では敷地外に選手宿舎を設けているケースもあり、その場合は選手は専用のバスで選手宿舎と競輪場を移動する。 基本的なシステムは競馬場の調整ルームとほぼ同じだが、居室は個室ではなく、4人一部屋の相部屋である事がほとんど。一部の競輪場宿舎の浴室は天然温泉が出るところもある。 選手は、前検日より開催終了日ないしその翌日まで(最長で一週間程度)選手宿舎で過ごすこととなるが、選手はまず宿舎入りする際に、選手登録証と携帯電話などの通信機器(通信機能の有無は問わない)を施行者に預けなければならない。また、特にドーピング防止の観点から、飲食物のうち酒、生もの、生菓子などが持ち込み禁止とされている(宿舎内売店では酒類も販売されており、飲酒は可能。但し提供は全レース終了後となる。2020年からはコロナの影響で全面的に飲酒禁止となっている)ほか、トランプや通信機能の付いたゲーム機、出前なども持ち込み禁止とされている。これらが発覚した場合は即、競輪場から出場契約が解除され欠場ないし途中欠場となり、後に一定期間のあっせん停止などの処分が下される。なお、カメラについては従来は禁止されてはいなかったため、垣外中勝哉のように検車場や選手食堂などの様子をブログでアップしていた選手もいたが、2020年に入ってからはカメラも持ち込み禁止とされた。代わりに、選手個々によるが、選手によっては本や漫画などを持ち込んだりするケースのほか、DVDとDVDプレイヤーを持ち込んで空き時間に鑑賞するケース、ゲームボーイ(初期型)など通信機能のない携帯ゲーム機で遊ぶケースのほか、現在ではコーヒーマシンを宿舎に持ち込み自前で淹れたてのコーヒーを味わう選手もいるなど、空き時間の過ごし方は多様化している。 スタート前、前レースの終了直後には選手紹介が行われる。この時すでにレースは始まっているともいわれ、各選手はラインや戦法について意思表示をし、バンクを軽く2、3周する。このスタート紹介は、「地乗り」「脚みせ」とも呼ばれる。「地乗り」「脚みせ」が終わると、選手達は一旦控え室に戻る。レース直前に多くの選手が清めの塩を、自身の体や自転車にかける。本田晴美は唇に塩を塗っていたことで有名。 発走時間になると、選手が発走機に集まり、自転車(の後輪)を発走台にセットして固定する。係員の合図で客席に一礼したあと自転車に跨る。サドルに座り、足を、履いているレーサーシューズの上からクリップバンドでペダルに縛り付け、ファンファーレが流れた後、「発走します」とアナウンスされる。この間に選手によってはいろいろなルーティンを行うこともある。「構えて!」の号令で各自ハンドルを握る。スターターのスターターピストル(電子ピストル)と発走台は電気接続されており、号砲(電子音)が鳴りピストルの先端が発光するとともにロックが外れるようになっている。なお、最初期は係員が各選手ごとに自転車を握って支えていた(これは現在のPIST6でも行われている)ほか、ロック機能が付いた現在の発走機が導入される前はフライング(号砲の寸前に選手が飛び出し、係員が引っ張られて手を放してしまう)も見られた。 号砲が鳴りスタートした後、選手全員が25メートルラインを過ぎると競走は成立する(周回板の掲示間違いなどで競走不成立となる場合を除く)。なお、号砲後もロックが外れない、25メートルラインを通過する前に選手が落車したり、足をペダルに固定するグリップが外れるなどのトラブルが発生すれば、乱打で打鐘したりピストルを鳴らして選手に競走中止を伝え、再発走となる。 レース序盤は先頭誘導員を先頭に、全選手が一列(「一列棒状」と呼ばれる)の隊列を組んで走るのが一般的である。その原因としては、隊列を外れると他の選手よりも外を走り、したがってより長い距離を走らなければならなくなること、他の選手の直後を走る場合よりも大きな風圧を受けることが挙げられる。ただし、位置取りを巡って争いが生じた場合は別である。 残り4周以上の場合、残り周回数を示す表示板は白色に数字が記載されている。残り3周の表示は青色の地に3と書かれ、この周回を青板(あおばん)周回と呼ぶ。さらに残り2周で赤色の赤板(あかばん)に変わる。先頭の選手が残り1周半を通過すると半鐘が打ち鳴らされる。これを「打鐘(ジャン)」といい、先頭を走る選手が残り1周となるゴールラインを通過するまで鳴らされ続ける。 男子の競走の場合、先頭誘導員は、333m・335mの場合は残り2周半まで、400mバンクの場合は残り2周まで、500mバンクの場合は残り1周半までは必ず先導している。この距離以降は、選手が誘導員を抜きにかかる走りが見られたときに審判の指示で誘導員が退避する(誰も抜きにかからない場合でも規定の位置まで進行した時点で退避する)。ガールズケイリンの場合は、333m・335mの場合は残り2周、400mバンクの場合は残り1周半、500mバンクの場合は残り1周で必ず退避する。誘導員が退避したところからラストスパートがかかり、ゴールまで息詰まるデッドヒートが展開される。各車が込み合うような展開の場合には、時として接触・落車事故が発生することがある。 レース終了後は、各選手に対して、敢闘門に同県や同地区の(そのレースに出ていない)選手が自転車を取りに来てくれる風習がある。また、どのレースでも、勝利した選手が他の選手に自腹でポカリスエット(かつてはリポビタンDも)を配るのが慣わしとなっている(ガールズケイリンでは開始当初の1期生同士がそれをやらなかったため、その流れで現在もやっていない)。 悪天候などでレースが中止となった場合、順延しない場合の開催では、準決勝や決勝の進出者はガラポンを用いた抽選による「みなし着順」で決まる。また、万が一あるレースで9選手全員が1着同着となった場合の勝ち上がりについても、その対応を決めてある。その他、ガールズケイリンではポイント制のため、決勝ないし準決勝において予選での獲得ポイント第7位が複数名いた場合、抽選で決勝ないし準決勝進出者を決定することもある。 ※以下は男子の競輪についての記述であり、250競走『PIST6』並びに女子(ガールズケイリン)については異なる。 グレードレース(GIII以上)は通常は9車立てにより行なわれるが、その他のFI・FIIはS級戦も含めて全てのレースが7車立てである。なお、最小は5車立てである。 かつてはモーニング競輪、ミッドナイト競輪、A級3班によるチャレンジ戦、新人戦(競輪ルーキーシリーズ)、S級ブロックセブンでのみ7車立てにて行われてきたが、新型コロナウイルス感染症拡大を防ぐため参加人数を極力抑える目的で暫定的に2020年7月から9月まではGI・GIIを除き全てのレースで7車立てとし、同年10月以降現在に至るまでグレードレース、全日本プロ選手権自転車競技大会記念競輪、レインボーカップファイナル以外は、S級戦も含めて全てが最大7車立てにて行われている。なお、TIPSTAR DOME CHIBAで行われている250競輪(PIST6)は6車立てが基本で、最小は4車立てである。 かつて後楽園競輪場や大阪中央競輪場などでは最大12車立てでのレースが行われていたほか、初期の甲子園や、好景気の頃でも富山・防府・小松島・佐世保が、経費節減のため原則(ダービートライアル等を除いて)8車立てで開催していた時期があった(準決勝3着は抽選で2名のみが決勝進出)。 9車立ての場合、4番5番・6番7番・8番9番は同一枠として単枠の1番・2番・3番をあわせて6枠を構成するため、慣習的に4番・6番・8番には競走得点下位の選手が置かれる。中でも6番車は最も競走得点の低い選手があてがわれるが、これら4番・6番・8番の選手が入着した場合は高配当が出ることが多く、競輪ファンはこれをもじって「ヨーロッパ」と呼ぶ。 負傷や失格、棄権による翌日の欠場者が発生した場合、開催地の近県の選手(FI開催のS級戦では2班選手のみ)を中心に補充が行われることがある。GIでは事前に選定された補欠選手数名が、競輪場近くのホテルで待機する。開催中に欠場者が発生した場合、補充選手を加えてもなお不足する場合は欠車として最小5車立てにてレースを行うか、5車揃わない場合はレースカット(12レース開催予定から10レースないし11レース開催とするなど)を行って対応している。 ミッドナイト競輪では、2020年10月から2021年3月までの開催で、分かりやすく楽しんで頂くことを目的として、ガールズケイリンも含めた全てのレースにおいて競走得点最上位選手を1番車とし、1番車から競走得点上位順に選手を並べる競走を試行実施した。これが好評であったことから2021年4月以降も継続しており、2023年8月時点でも同様に、各レースごとにそのレースにおいて競走得点が最上位の選手から車番を割り振って出走表をシンプルにし、予想をしやすいよう配慮している。 レーサージャージと基本的には同じ。違いはバックポケットがなく、長袖のみ、またジャージと同じ色のヘルメットカバーを着用すること。またレーサーパンツの両脇に入る線も、級毎に色が異なる。手袋も、フィンガーレス(指切り)ではなくフルフィンガードの物をはめる。 2002年4月に上述の通り服色が改められ、全車が「単色」となった(※従来通り先頭誘導員は紺地にオレンジのラインの服で変更なし)。これで変更されたのは5番以降(右の画像参照。5番が青と白から黄色に、黄色を取られた6番が緑に、緑を取られた8番がピンクに。7番が黒と黄色からオレンジに、9番が赤と緑から紫に)。 2代前(1964年から1984年)の服は1番から5番までは今の色と同じだが、6番は白と黒を交えたもの、7番は白と赤を交えたもの、8番は白と青を交えたもの、9番は赤と青を交えたものとなっている。 1つ前(1984年から2002年)の服が導入される直前の1984年9月・オールスター競輪では、5番が青と赤、7番が黄色と赤、つまり差し色として赤を統一したが、その色使いは変更時に採用されなかった(他の番車の色はそのまま採用)。あわせて従来の五分程度の半袖から、長袖に変わった。 また、過去の12車立では10番が黄色と黒、11番が赤と黒、12番が青と黒だった。旧服は枠番の確認を容易にするため4枠4番から6枠9番までは枠番色を基調として奇数車に別の色を交えており、現行服は車番連勝車券が一般化したことから全車別色となっている。 ビッグレースの決勝やGPでは、派手な限定ユニフォームが用いられることがある。1994年の第47回日本選手権競輪(静岡)では、上下同じデザイン・色の勝負服を着用した。他に、北京オリンピック日本代表選手応援協賛競輪を機に、2008年には特別ユニフォームが特定の大会で採用された。 2005年1月には武田豊樹がラ・ピスタ新橋と契約し、公営競技初となるスポンサー名入りユニフォーム(左肩)を着用。他の選手も追随した。 現在は、競輪、ガールズケイリンともに、GI・GIIやグランプリといったビッグレースを制覇した者に対し、特製のチャンピオンジャージが贈呈されており、優勝者はレース後の優勝インタビュー、記者会見ではその特製のチャンピオンジャージを着て臨んでいる。 レーサーパンツは、横のライン上に7つの星が描かれている。その年のS級S班のみ黒いラインの赤いパンツを着用。他のS級選手は赤いライン、A級は緑のラインでどちらも黒いパンツ。なお、ガールズケイリンでは開始当初はワンピース型であったがのち男子と同じくシャツとレーサーパンツを分け、右が黄色・左が紫のラインが入ったピンクのパンツとし、2022年9月30日を初日とする開催以降は男子と同じく黒のパンツに変更された。 2012年のガールズケイリン開始により、従来のルールが男子向けの「先頭固定競走(オリジナル)」となり、新たに女子向けとして「先頭固定競走(インターナショナル)」のルールも設定された。ここでは従来からのオリジナルルールを中心に記述する。 現在行われている競走は先頭固定競走と呼ばれ、スタートから残り1周半付近(ジャンが鳴る地点)までは選手と同じ型の自転車に乗った先頭誘導員(正式には先頭員というが、一般的には誘導員と呼ばれているため、以下、誘導員と表記)が選手の前を走る。選手は、333mないし335mバンクでは残り2周半のBS(バックストレッチ)ライン、400mバンクでは残り2周のHS(ホームストレッチ)ライン、500mバンクでは残り1周半のBSライン、それぞれを切るまで誘導員より前に出ることができない。これは、先頭を走ると風圧の影響を受ける上、後続の選手の動向を把握しにくくなることに配慮した制度である。特に2019年からはこのルールが厳格に適用されるようになり、実際にこれに違反した場合は失格・即日帰郷となるだけでなく、即座にあっせん保留、かつ一定期間あっせん停止(実質的に、あっせん保留の期間も含めて4か月程度)の処分が下される。 また、先頭誘導員を内側から抜くことは禁止されている。主導権争いなどでうっかり先行選手が内側から追い抜いてしまった場合は失格となる。 競走で誰も誘導員をかわさなければ最終2コーナーまで誘導する。なお選手たちの発走台と違い、先頭誘導員の発走台にはロック機能は付いていないため、号砲前でもすぐ外れるようになっている。 誘導員は車券の対象ではないため、レースに出走する選手と区別する目的で、紺地に橙色のV型ラインの入ったユニフォームとトランシーバーのスピーカーが付いた ヘルメットカバーを着用する。また、誘導員のスタート位置は選手よりも25m前である。また、不正防止の観点から、誘導員は当日、レースに出走する選手たちと直接接触することがないよう、競輪場ではレースに出走する選手たちとは別の控室とバンクへの入退場口を使用する。 誘導員は大抵、そのレースが開催されている競輪場をホームバンク(練習拠点)とし、レース当日は競走に出走しない選手が行う。誘導員にも競走に応じて選手と同額の手当が支給されるため、収入が少ない成績下位のA級の選手が比較的多く務める。ただ、グランプリやGIレース決勝戦となるとS級のトップレーサー同士での戦いとなるため、誘導員もそれなりのレベルであることが求められることから誘導員はS級選手が務めており、注釈にある通り、レースによって誘導員手当の額が異なっている。通常、特別競輪で優勝歴のあるようなトップレーサーのS級選手が誘導員を務めることは極めて少ないが、地元での開設記念競輪(GIII)の決勝戦などでファンサービスを兼ねて務める例がある。 誘導員の誘導ペースは競走形態に大きく影響を与える。1990年代はラインでの作戦としてイン切りが全盛期であったため、スプリント競走のように超スローペースになることが多かった。しかし2000年代にルールが改正されると誘導ペースが高速化し、早期に誘導員を追い抜くことができなくなったこともあり、一本調子の高速レースに強い大ギアが力を発揮するようになったため、トップクラスの選手の多くが大ギアとなった。ただ上述の通り、2015年よりギア倍数は4未満へと規制されている。 誘導員となるには、誘導員試験に合格し、誘導員資格を得る必要がある。現役の競輪選手であること、かつ誘導員試験において2000mタイムトライアルで2分55秒以内が出せること(選手なら必ず出来る設定)が条件である。但し、誘導員資格の有効期間は2年間であり、資格を継続する場合は2年ごとに試験を受け直しその都度合格することが必要である。一方で、通常の競走で追走義務違反や敢闘精神欠如など悪質な失格をした場合は誘導員資格を取り消されることもあるほか、あっせん停止の処分を受けると1年間の資格停止となることもある。また、選手自らが誘導員資格の取り消しを申請する場合もある。なお、女子選手は男子とは異なる「先頭固定競走インターナショナル」ルールで競走を行っていることから「先頭固定競走オリジナル」ルールに対応できないため誘導員になることはできず、ガールズケイリンでも誘導員は全て男子選手が務めている。 なお、2014年1月より 『KEIRIN EVOLUTION』 として男子による「先頭固定競走インターナショナル」ルールの競走もGIII(開設記念競輪)の最終日に単発の企画レースとして実施されていたが、同レースは2019年以降は集中開催となったため、それ以前と比べて実施される回数は大きく減少しており、2020年以降では東京オリンピックとの兼ね合いとコロナ禍の影響も、そしてPIST6の開始も重なり休止している。 かつて特別競輪や記念競輪で行われていた3000mを超える長距離戦に値するレースでは、2人の誘導員が誘導していた。その場合、最初の誘導員はジャンが鳴る前の周回でコースを出るが、もう1人の誘導員は、ジャンが鳴り終わる頃まで誘導して、その後コースから去っていた。 かつては誘導員のない競走(普通競走)もあったが、車番連勝式車券が発売される競走では行われないようになり、事実上の廃止となっている。普通競走では誘導員の役割を選手が行なっており、これを「トップ引き」と呼ぶ。ルール上はどの選手がトップを引いてもかまわないことになっているが、やがてトップ引きを行う選手は、競輪の枠式車券で2人枠となる場合に最下位に当たる位置づけとなる事が最も多い6番車の選手が行うことが慣例となった。 車番連勝式車券が発売される直前の頃には「先頭固定競走」として行う予定の競走でもレース番組の確定直前に選手からトップ引きを行う旨の申告があった場合は「普通競走」に変更された。これは何らかの理由で明らかに格上の競走に出走することになった力の劣る選手、あるいは引退間際の選手などが事前に申告するもので、この場合該当選手の車番は最も勝ち目が薄くなるため、申し出た選手の車番は慣例に倣って6番車に変更される。普通競走でトップ引きを行った選手には正規の入着賞金のほかに先頭手当も支給され(賞金と手当とで、5着入着の賞金くらいの収入になった)、雨敢闘手当なども他の選手同様に支給される。なお概要節の「タイムオーバー」は、元々トップ引きの選手が極端にペースを落とすことを避けるための規定であったが、この規定は現在の先頭固定競走でもスタート時のスロー牽制を防止するため適用されている。 先頭固定競走の誘導員は車券の対象とはならないが、この普通競走では6番車のユニフォームを着た選手が誘導員代わりであるため、車券の対象となることが違いとなる。先頭固定競走から普通競走に変更となる旨の告知は当日の出走表や場内アナウンスなどでなされるため特に混乱が生じることはなく、投票者にとっても暗黙の了解ではあったが、同じ5枠の7番車との車券である、枠番連勝式(枠連)5-5の車券も発売されていた。これに対し、普通競走において仮に5枠以外の選手全員が落車棄権してしまえば枠連5-5が的中車券となるため、以前から「おかしい」という声はあがっており、実際に1973年4月9日の千葉競輪場第7競走において、9人中、5枠両名以外の全7人が落車したため2,363,180円という配当が出た(これは当時全ての公営競技において最高記録)。これは永らく破られず、現在でも枠番連勝式の払戻金額としては全公営競技史上最高となっている。 1995年9月15日の立川S級シリーズから車番連勝式勝者投票券が発売された後も暫くは普通競走が行われていたものの、トップ引きの6番車が絡んだオッズに混乱をきたしたことから、同年12月に車番連勝式を発売するレースは先頭固定競走とすると明記された。またトップ引きが公正な競走でないという問題については過去に裁判も行なわれており、「トップ引き自体が競輪の観客における公知の事実」という判断がなされている。 従来からの普通競走と先頭固定競走(オリジナル)に対するルール違反は、主なものが以下のように定められており、違反により落車および自転車故障の原因となった場合、または違反行為そのものにより、失格となる場合がある。ただし競技規則には違反を問わないケースも明記されている。 2003年4月から、審議対象レースの映像公開が開始された。 前述のように競輪はあくまで個人が他人より先着するために競走をするのが基本であるが、その競走をより有利に進めるために関係の深い選手同士で連携をする。連携は各選手の脚質による戦法で決まる。その戦法の主なものを次に述べる。ちなみに、先行・追い込み・捲りの戦法を使いこなせることを「自在」という。 競輪は残り1周半程度までは1本のラインを作って進む。その時は関係の深い者同士で並びの前後を決めるのであるが、その際に一番前を走る戦法の選手が先行選手である。決まり手は「逃(げ)」と表される。先行選手は残り1周半程度から後ろの選手を引き連れてダッシュをする。つまり先頭誘導員が下がって選手達のスピードが上がってから一番前を走っているのが先行選手と言ってよい。一番前を走るので誰にも邪魔されずゴールに先着する可能性は一番高いが、反面時速70km程度の速度で走るので猛烈な風圧を受けながら走らねばならない。風圧を受けつつ1周ほどスピードを維持する脚力(地脚)が要求される ため、並びの中で最も若い選手がなることが多い。疲労で速度が鈍った、いわゆるタレたときには追い込み選手がいかに残してくれるかによって良い着順を取ることが出来る。後ろに追込選手を引き連れて走るため先行選手を「機関車」と呼ぶこともある。 直線の短いバンクでは、追い込み選手がスパートする距離が短くなることから先行が有利となる。また、コーナーの大きいバンクはカントが緩く、捲りをかけた選手が遠心力で外に振られやすくなるため、先行が有利となる。 最終バックに差しかかった時に風向きが追い風だと、先行選手は捲りの選手よりも先に風の影響で加速がついて捲りに対応する余裕が生まれ、有利になりやすい。逆に最終バックが向かい風だと、捲りの選手よりも先に風の影響を受けて減速することになり、その瞬間に加速されると距離を縮められやすくなる。ちなみに、風のないドーム式の競輪場では先行が有利といわれる。これは、捲りの選手が隊列から外れた際に大きな風圧を受ける傾向があるためである。 屋根のないバンクに雨が降ると先行有利になるといわれる。これは競輪用の自転車には(当然だが)跳ね除けつまりマッドガードがなく、水を跳ね上げて走ることになることから、各選手は水が目に入ることを嫌い他の選手の直後に位置しなかったり顔を背けて走ったりするためである。前者は先行以外の選手も先行選手と同様の風圧を受けることを意味し、後者はレース展開を把握しづらくなることに繋がる。さらに一瞬の加速力を要する捲りや追い込みは先行よりもハイドロプレーニング現象による不利に見舞われやすく、その分先行が有利になる傾向にある。 競輪では先行する選手がレースを作るといわれ、先行選手の人数がラインの形成に影響を及ぼす。たとえば2車先行の場合はラインが二分し、3車先行の場合はラインが三分する。 先行選手の後ろを走る戦法の選手を追い込み選手、あるいはマーク屋、差し屋といい、決まり手は「差」と表される。数十メートルであればトップスピードを維持できるという対応の選手に向いた戦法である。風圧を前の先行選手が受けてくれ、スリップストリームを作ってくれる中で走ることが出来るため楽にゴール前まで進むことが出来るが、先行選手をぎりぎりまで「残す」ために後ろから来る選手をブロックしなければならない。その後先行選手に先着するのが正しい追い込みの仕方で、早々と別のラインに切り替える、直線の手前でまだ脚のある先行選手を抜いていくなどの走法は邪道といわれる。先行選手やまくりの選手は「縦の競走」追い込み選手は「横の競走」をすると言われる。先行選手のすぐ後ろを走っている選手を番手、その後ろは三番手・四番手......と呼ぶ。 先行選手は先にダッシュを仕掛けるが、これに対して先行するラインを後ろから追いかけて短い距離で一気に抜き去る戦法を捲りという。1周以上スピードを維持するのは無理だが200m程度であればトップスピードで走ることができるタイプの選手向きの戦法である。捲りを主戦法にする選手もいるが、先行選手が後手を踏んで捲りになったり、あえて力関係で捲りを選んだりすることもある。先行選手以上のダッシュ力は必要となり、かつ先行ラインを抜く時にそのラインの選手のブロックには耐えなければならない。もちろん捲り選手の後ろにも追い込み選手が続いている。 最終バックに差しかかった時に風向きが向い風だと、先行選手が先に風の影響を受けて減速することになり、その瞬間に加速することで距離を縮めやすくなる。逆に追い風だと、先行選手のほうが先に風の影響で加速がつき、余裕を与えやすくなる。コーナーの大きいバンクはカントが緩く、遠心力で外に振られやすくなるため、捲りにくい。また、直線部分の内側への傾斜が緩いと、向こう正面から捲りをかける選手はコーナーに差し掛かった時に急に上るような感覚に襲われ、捲りづらくなる。 男子の競走で、周回中に選手が組むチームをラインまたはスジといい、レース展開を形成するもととなる。かつては強い先行選手の後ろに力のある追い込み選手がつく場合が多かったが、1983年のKPK制度導入や1988年に累積事故点の罰則があっせん停止を含むものになる等強化される等の経緯によって、現在のような地区別のライン形成が定着したとされている。 ラインは一般に、各選手が練習場所とする競輪場や所属する選手会といった地区単位で形成されることが多い。 中には日本競輪選手養成所の同期生同士(同班同室の場合や、地区にラインがない場合に組まれる)、世界選手権・オリンピックに出場した選手同士といったパターンや、同地域の選手がいない者同士がやむを得ず組むパターンなどもある。珍しい例では、117期を対象とした第45回ルーキーチャンピオンレース(2021年3月14日、大垣競輪場)において、法政大学の同窓生である鈴木陸来、寺﨑浩平、青野将大の3人が『法政大学ライン』を組んだ。 選手の一般的な並び方は各選手の所属地区が3人ずつ分布している場合、それぞれの所属地区をA,B,Cの3地区だとすると「A先・A追・A追/B先・B追・B追/C先・C追・C追」となり、こういう形を三分戦と呼ぶ。もっと細かくなったものは四分戦、細分戦、コマ切れの競走と呼ばれる。一方で、先行選手が2名しかいないなどラインが2本しか形成されない場合は二分戦と呼ばれる。通常の番組編成(レース毎の選手の配分)においては、予選競走ではラインの形成を考慮して先行・追込・捲りの選手の数がほぼ均等になるように主催者側で選手を割り振るが、開催最終日の決勝戦など勝ち上がりにより自動的に出場選手が決まってしまうレースでは、稀に先行選手が1名しかいないレース(先行1車、逃げイチと呼ばれる)や、先行選手が一人もいないレースが行われることもあり、その場合は誰か一人が覚悟を決めて先行することになる。 各選手は前日の予想紙などからの取材応対時のコメントやスタート前の選手紹介でラインや戦法について意思表示をするので、そこからどのようなラインが組まれるか予想することができる。なお、極めて稀だが、選手がレース当日にコメントを変更する(前日に伝えていた並びとは異なる並びとする)こともあり、その場合はレース予想(車券作戦)やオッズにも影響を与えかねないため選手が自ら選手管理に申告し、レース実況アナウンサーもその旨を場内のファンないしテレビ中継の視聴者などに告知し注意喚起している。ただ、近年の競輪は若手を中心にラインを重視する選手が多く、位置取りについてあえてラインを無視した自己主張をするケースが減ったといわれている。 なお、女子選手によるガールズケイリンでは、トラックレースのケイリンに準拠したルールであるため単騎戦でありラインという概念がなく、あからさまにラインを組むことは反則行為とされている。また、のちに男子でもガールズケイリンに模したルールで、ラインという概念を排除したKEIRIN EVOLUTIONが一時期行われていたこともあったほか、TIPSTAR DOME CHIBAでの250競走「PIST6」でも同様にラインはなく単騎戦で行われている。 上述した戦法をふまえて、競輪競走においてはルールに明記されているわけではないが、選手全体に認知されている競走におけるやらなければならない行為、あるいはやってはいけない行為が存在する。これは選手道または競輪道とファンや選手に言われており、選手達の間で暗黙の内に決められた事と、ファンと選手の間で暗黙の内に決められた事がある。いわゆる不文律・アンリトゥン・ルール (Unwritten rule) の一つ。元競輪選手の山口健治は、競輪道を「人の道」と表現している。 選手達の間で決め事とされているものとしては以下のものがある 2020年の夏季において、コロナ対策のために同地区内あっせん及び7車立てレースがA級、S級戦でも多く導入された。 その際に、練習仲間同士の二分戦が多発することになったが、上記の戦法は禁忌とされ、並走をマイペースで行うということはされていない。 またファンとの間で決め事とされているものとしては以下のものがある 上記に上げた行為はどちらもルールブックに明記されているルール違反ではなく、ただちに問題になることは滅多にないものの必ず反響を呼び、施行者側職員から注意を受けたり、選手の間でも仲間はずれにされる。また競輪場から競走のあっせん(競走参加の要請)をされなくなる事実上の制裁を受けることもある。トップスターでも時折こうした行為があり、ファンの記憶に残り語り継がれているものもある。あっせんの仕組みについては競輪選手の項を参照。 同様の選手道は競艇においても存在しているし、ロードレースにおいても暗黙の了解が多数存在している(詳しくは「ロードレース (自転車競技)」の「暗黙の了解」の項を参照)。ただ、競輪はこうした選手間の立場による要素が他の競技よりも多いとされており、これが競輪を知らない人から見た場合の予想の難解さを生んでいる側面もある。 競輪競走では選手が競走中に「競り」や「張り」として頭突き、肘打ち、体当たりなど行っているが、同じ自転車競技のサイクルスピードウェイ同様にある程度までは許容されている(ただしインターナショナルルールでは事実上規制される)。これは競輪創世紀からのルール形成において不問にされていたことが現在まで続いているもので、時より選手同士による激しい競り合いが起こる場合があり物議を醸すこともあるが、インに詰まらされた場合の脱出策や、後方から迫る選手の速度を落とすためなど戦略的に利用できる側面は大きい。明らかなルール違反であり競輪道(選手道)に反するものとして「金網ブロック」がある。これは文字通り、後方から進んでくる選手をブロックする際に、バンクの外周フェンス(金網)近くまで自分の車体を持ち上げて、相手選手をよりフェンス近くで走らせる威嚇行為である。大変に危険な行為であり、故意に相手をフェンスへ激突させた場合は悪質失格とされあっせん停止の処分等もあり得る。昔はこの行為ですら合法だったが、選手同士に遺恨を残すこともしばしばあり、ブロック行為が寛容であった時代ですらルール違反とされることになった。 競輪選手は競走のグレードに対応した競走得点、マイナス計算となる失格点等によって「級班付け」が行われる。規定の点数を獲得できなければ事実上競輪選手としての資格を剥奪される。したがって、「点数がかかっている」選手がいる場合はラインでここぞとばかりに結束し、点数勝負の選手に勝利をもたらそうとするケースがある。その際は要注意であるとともに、ことギャンブルという視点で捉えた場合、チャンスでもある。 競輪の競走格付けにはグレード制が採用されており、上位のグレードから以下のように分類される(本来の数字表記はローマ数字)。下位の競走を勝つことが上位の競走への出場に繋がるよう設計されており、各選手は年末に開催されるKEIRINグランプリ(男子)またはガールズグランプリ(女子)を目標に1年のシーズンを戦う。正しくは「グランプリ」及び「グレードn」だが、略して「ジーピー」「ジーワン(ツー、スリー)」「エフワン(ツー)」と呼ばれる。 女子(ガールズケイリン)は上記の通り、GP・GIないしFIIのいずれかに出場する(男子がGII、GIII、FIでも女子は全てFIIとなる)。なお、ガールズケイリンの開催を含む場合は、日程表には❤または❤(ハートマーク)が付されている。 経済産業省の自転車競技法施行規則では、1競輪場・1施行者につき1年で24開催・1開催8日間・144日間まで開催できることになっているが、実際にはこの上限より少ない開催数となっている。 令和5年度現在、競輪の開催日数は、基本的に1つの競輪場ごとに15節・46日の実施としている。この1節は前記の開催とは一致するものではなく、多くの競輪場では正式な"1開催"を"前節"・"後節"と分けて実施している。 1節の開催日数は基本的に3日間となっており、競艇やオートレースと異なり全国的に統一されている。GIII(及び、男子GIIIに付帯して実施されるガールズ節)は全て4日間。GIIは4日間と3日間(そのほか、単発レースのヤンググランプリもGII格付け)。GIは男子戦は6日間と4日間、ガールズのGIは3日間開催で実施される。 基本的に、1節間を通したトーナメントを行い、各選手は最終日の決勝戦での勝利を目指して参加する。一般的に1日の開催は、男子S級・A級・A級チャレンジ・ガールズL級のトーナメントのうち1つ〜3つにて構成される。例えば、1日全12レースのうち、A級トーナメントを5レース、ガールズL級を2レース、S級トーナメントを5レース実施するという形で、A級・L級・S級それぞれの優勝者を決定する。 開催の勝ち上がり方式も、GIII以下においては全国で統一されている(GI・GIIはそれぞれの大会ごとに設定されている)。下記はもっとも一般的な勝ち上がり方式を記載する。 男子S級とA級1・2班では、開催初日は、選手の成績(4か月間平均競走得点)上位者1レース分が「初日特選」に出場し、その他の選手が「予選」に出場する。初日特選の出場選手は全員、さらに予選の上位着順者が2日目の「準決勝」に進出する。さらに「準決勝」上位者が3日目の「決勝」に進出する。GIIIの場合は初日の「初日特選」出場全員と「一次予選」上位者が2日目の「二次予選」に出場し、その上位が3日目の「準決勝」へ、4日目の「決勝」へと進出する。 A級3班(チャレンジ)には「初日特選」がなく、全員が初日は「予選」に出場し、2日目の「準決勝」、3日目の「決勝」へ進んでいく。 L級(ガールズケイリン)は男子とはレース体系が異なり、基本的に初日は「ガールズ予選1」、2日目は「ガールズ予選2」に全員が出場する。このガールズ予選はポイント制となっており、予選2日間の獲得ポイント上位7名が3日目の「ガールズ決勝」に出場し、優勝を争う。決勝に進めなかった選手は「ガールズ一般」に出走する。なお、一部のナイターGIIIでは4日間開催も行われており、この場合は予選2日間の獲得ポイント上位者が3日目の「準決勝」に出場し、その上位が4日目の「決勝」へと進出する。このほか、L級でもGIと一部の開催では男子と同様のトーナメント戦も行われており、この場合は予選の上位者が準決勝、決勝へと進出する。 1日に行われるレース数は前述の通り最大で12レースであるが、ミッドナイト競輪は最大9レース(3場同時開催の場合は基本的に最大7レース)である。モーニング競輪は基本的に1日7レースであるが、9レースないし12レースを実施する開催もある。 KEIRIN.JPの「データ検索」や「出場予定選手一覧」における順序は、以下の通り。 この地区については、1962年~2007年に存在した各地区の自転車競技会の管轄に基づいている。現在はJKAの組織としてはこの8地区での区分はなくなっているが、日本競輪選手会の地区本部はこの8地区で組まれ、地区プロ自転車競技大会もこの8地区をもって行われるなど強く関わっており、特にライン形成においては最も基本となるものである。なおこの地区分けは、競輪を所轄する経済産業省の地域支局である経済産業局の区分けとおおむね等しい。 一般的な都道府県コードとは、地区区分や順序が異なる。略称は、スポーツ新聞の出走表などにおける、一文字略記。●は2文字目を使用。なお、2023年時点では、鳥取・島根の所属選手はいない。 各名称は、当時のもの。 明治時代の自転車業界紙記者であった真壁仁のメモによると、1895年(明治28年)7月4日、横浜クリケットクラブのトラックで行われた自転車競技が、記録に残る上での日本初の自転車競走と言われている。また、日本人が自転車競走に参加したのも同年、との記録がある。1897年(明治30年)春に不忍池において開催された大会では参加者約20名、優勝者は当時圧倒的な強さを誇った鶴田勝三であった。 その後、1905年(明治38年)以降、報知新聞など新聞社各社が主催し自転車業界が育てたノンプロ選手が宣伝のために走るという自転車競走が活発に行われるようになる。日本において自転車競技のノンプロ選手第一号は小宮山長造であった。このように、戦前はロードレースを中心に盛んに行われ、中には競走用自転車で全国各地を転戦する者もいた。 太平洋戦争終結後、競輪は公営競技として開催されるようになった。元満州国官吏(後に国策会社の社員となる)の海老澤清(海老澤清文)と、久留米連隊に所属し後にGHQで働くことになる元陸軍大尉の倉茂貞助(本名は倉茂武)の2人が、東京の有楽町に「国際スポーツ株式会社」を設立したことで始まる。 当初は第二次世界大戦敗戦に伴う大陸や南方からの引揚者に、宝くじでの収益をもとに住宅建設構想を練っていた海老澤の思惑と、湘南海岸に一大レジャーランドの建設を構想し、世界屈指の観光地とする構想を描いていた倉茂の思惑がそれぞれあったが、海老澤が構想を描いていた「住宅建設宝くじ」を取り入れる形で、「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分として、戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを競馬に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てることはできないものかと考え出されたのが後の競輪であった。もっとも、後の競輪を国際スポーツ株式会社の運営で行うのは不可能と分かり、立法として取り上げてもらうべく働きかけた。 2人は、後に日本自転車振興会連合会会長となる、日本社会党所属の代議士であった林大作と出会うことになる。林は戦前、三井物産の社員であったが、財閥解体と貿易国営を主張したものの受け入れられずに1942年(昭和17年)に退社。その後交易営団に移り、1947年(昭和22年)4月25日に行われた総選挙で当選を果たした。前述の通り、三井物産時代に貿易国営を唱えており、国家事業の重要性を考えていた林は2人の提案を気に入り、その話を当時の日本社会党委員長でもあった片山哲首相に提言したところ、片山も「それは面白い」と乗り気になり、やがて日本社会党の中央執行委員会も同意して法案作りへと進むことになった。 しかし、この草案に対して、GHQがいったんは許可を下ろしながらも、すぐさま白紙撤回する騒ぎとなった。GHQが説いていた地方分権に相反すると思われたからである。それに対して日本社会党は、GHQの地方分権案に同意。それによりGHQも草案を認め、自転車競技法として国会審議へと入った。1948年(昭和23年)6月26日に衆議院本会議で可決し、参議院へと法案が送られたが、同年7月1日、自転車競技法は参議院でも可決し成立。同年8月1日より施行されることになった。 敗戦直後の1946年(昭和21年)、気持ちが暗く沈んでいた日本国民を明るくしようと、第1回国民体育大会が近畿各地で開催される。その国民体育大会は1948年(昭和23年)10月に第3回が福岡県で開催されることとなったが、人気のない自転車競技のためだけに莫大な経費が嵩む自転車競技場を建設することには県内のどの自治体も及び腰であり、自転車競技の開催が危ぶまれるという事態に陥った。その中で、小倉市(当時)は地元の小倉中⇒小倉高が1947年、1948年と夏の甲子園を連覇したこともあって野球への人気が高まる中で野球競技を誘致したかったものの、その希望を通すには不人気だった自転車種目も引き受けざるを得ず、「人気種目の野球を小倉市で開催する」ということを条件に、抱き合わせする形で自転車競技場の建設に名乗りを挙げたのだった。ただ、周長500メートルのバンクを急ごしらえするために、終戦から間がなく物資難の中でセメントなど資材をかき集めて作ったため総工費が2000万円にも上ってしまい、小倉市は資金難に陥ってしまう。 一方で、レジャー事業を起こそうと倉茂貞助は1948年夏に競輪の法整備に奔走した。ちなみにその間、既に大宮市(当時)にバンクがあった埼玉県に競輪開催を打診したが、断られている。そして、倉茂氏と、小倉市の財政を立て直したい意向を持っていた当時の小倉市長・浜田良祐の思惑が合致したことで、同年の小倉にて競輪の初開催に至った。。 その後、自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として自転車競技法が1948年(昭和23年)8月に成立。同年11月20日、地方の財政健全化と経済情勢全般の健全化、自転車産業の振興を掲げ、国体会場でもあった小倉競輪場において第1回の競輪競走が開催され、ここに競輪が誕生した。 第1回の小倉競輪競走では、単勝式と複勝式の2種類の車券が発売された(連勝式の発売は、同年12月11日に開催された大阪府営府大競輪場(大阪住之江競輪場)が最初)。車券売り上げの中から25%が控除され、更にその中から必要経費を差し引いた額が自治体等の財源となるわけだが、ノウハウもなく全てが手探りの状態で始められた小倉競輪はいきなり赤字となる可能性もあり、税収が殆どなく職員に支払える給料もままならなかった時代では正に競輪開催そのものが賭けであったという。 第1回小倉競輪は予想を上回る成功をおさめ、財政難打開の手段として 競輪を開催しようとする動きは他の地方自治体へ波及し、第1回小倉競輪以降の2年間で50以上の競輪場が建設され、1953年開設の静岡まで63の競輪場が開設された。 だが主催者が不慣れであった点、選手へのルールや理念の教育の不足、GHQが全国的な運営母体を認めなかった点などから運営の不手際が生じ一時は中止に追い込まれるなど波乱の歴史を持つ。 この立法・運営側の曖昧さ、競走自体においても風圧を受けるトップが不利を蒙るという特殊な面が、逆に観客と選手による独自のローカルルールを生んだ。今日の公営競技において「競輪道」と呼ばれる精神性を語らせては競輪の右に出るものはないが、反面「わかりづらい」「情実優先の展開レース」という批判も根強い。しかし、作家の阿佐田哲也(色川武大)はこの競輪の特殊性故に「競輪こそギャンブルの王様」と呼んでいる。 競輪が誕生した1948年(昭和23年)当時、国営競馬(中央競馬の前身)の控除率(俗にいう「寺銭(テラゼニ)」)が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられた。そうした背景も手伝って、国営競馬が不振をかこつ状態だったのに対し、競輪は爆発的な人気を博すようになった。また、初期の頃は選手の力量に対するファンの認識が薄かったことや選手の力量にもムラがあったため、1万円以上のいわゆる「大穴」の配当が毎日続いたことでファンが夢中になり(その頃の競馬では1万円以上の配当は滅多に出なかったという)、中には嬉しさのあまり脳出血で倒れ、競輪場近くの病院に搬送されるも間もなく死亡したファンもいた、と記された書物もある。 しかし、その一方で、客が自転車競技の特性を理解しきれていなかったという背景も手伝い、1949年(昭和24年)に発生した大阪住之江競輪場での事件を端緒に、しばしば暴動事件 が発生する事態となったことで、新聞を中心としたマスメディアの批判も強くなっていった。とりわけ1950年(昭和25年)に鳴尾・川崎の両競輪場において起こった騒擾事件は激しい非難を浴び、競輪廃止論議が世論を賑わせることになる。特に鳴尾での騒擾事件は大きく尾を引き、競輪は2か月間開催を全面的に自粛せざるを得なくなっただけでなく、吉田茂内閣に至っては競輪廃止を閣議了承したほどであった。だが結局は競輪廃止論議は閣議段階で踏み留まり、通商産業省(当時)の勧告により、当面の開催継続と引き換えに施設の耐火性向上(コンクリート化)工事や選手の資格再検討などが行われた。 1951年(昭和26年)の国会において日本共産党が提出した競輪廃止法案が否決されるに至ったことで、競輪は以後も開催が続けられていくことになる。 だが、その後も断続的に暴動事件は発生した。中でも1959年(昭和34年)6月23日、松戸競輪場第5レースの着順判定を巡って「八百長騒動」が発生したことにより、施設破壊などの事態を招いたばかりか、主催者側が騒いだ一部の客に対し、「車代」と称して1人あたり1000円を渡していたことが発覚(松戸事件) した事件をきっかけに、断然人気の白鳥伸雄の競走中止に対する件が発端となった1960年(昭和35年)9月13日における西武園競輪場での事件や、人気の中心となった笹田伸二のトップ引きにかかる1968年(昭和43年)4月11日における川崎競輪場での事件など、鳴尾事件に匹敵するほどの大規模事件も発生した。 平成に入ると大規模な暴動事件はなくなったものの、それでも1993年(平成5年)7月31日には第9回全日本選抜競輪の場外車券を発売していた岸和田競輪場にて、第2レースで9人中8人が失格するという異常事態に端を発した暴動騒ぎが起きたほか、2000年(平成12年)2月11日には立川競輪場にて、当日開催されていた「アシアナカップ」決勝で係員が残り周回を間違えて誤打鐘をした事に対しファンが立て篭もる事件が発生するなどのトラブルは起きている。 鳴尾事件以後も、断続的に発生する暴動事件を起因とする、マスメディアを中心とする競輪への強い風当たりが続いた。そんな折、1955年(昭和30年)1月にときの農林大臣河野一郎が群馬県前橋市で行った記者会見の席上「競馬は、土曜、日曜、祭日以外は開催しないことを閣議で提案する」という発言を行ったことが波紋を広げ、翌日の定例閣議で申し合わせがなされたが、当時の通産大臣石橋湛山が「河野発言」を了承することにより、競輪も競馬と同調することになった。 河野のこの発言を受け、当時大阪府知事だった赤間文三は、原則土日に開催が限定されることによる売り上げ減少を懸念し、1956年度以降の大阪府主催の競馬、競輪の開催を中止する旨を表明。これに伴い、府営豊中競輪場は1955年6月限りで廃止されることになった。競輪場の廃止例は、当時既に松本競輪場(1951年)・松江競輪場(1953年)で見られたが、いずれも経営不振によるものであり、政治的な理由による廃止は豊中が最初であった。 その後、近畿地区で競輪場の廃止が相次いだ。まず1958年(昭和33年)、京都市営競輪場が市議会の賛成多数により廃止を決定。さらに当時の兵庫県知事・阪本勝も兵庫県営ギャンブルの廃止を表明したことから、1960年(昭和35年)12月に神戸競輪場が、1961年(昭和36年)3月に明石競輪場がそれぞれ廃止された。また、大阪市営中央競輪場も、1959年(昭和34年)に大阪競馬場が廃止されたことを踏まえ都市公園として整備する方針を打ち出したことから、ときの大阪市長中井光次は1962年(昭和37年)3月をもって廃止を決定した。このほか大阪住之江競輪場も1964年(昭和39年)に休止(事実上の廃止)となり、大阪市内に存在した2つの競輪場が消滅した。 近畿地区以外にも政治的な理由による廃止が相次ぎ、札幌競輪場(1960年開催廃止)・福岡競輪場(1962年廃止)・会津競輪場(1963年休止)・長崎競輪場(1966年開催廃止)がそれぞれ姿を消した。 そして、この一連の流れは、当時「競輪のメッカ」を標榜していた後楽園競輪場にも飛び火する。 1967年(昭和42年)4月15日に行われた東京都知事選挙で、日本社会党・日本共産党が推薦した美濃部亮吉が当選し、史上初の革新系都知事が誕生した。美濃部は東京都が主催していた各公営ギャンブル(後楽園競輪場・京王閣競輪場・大井競馬場・大井オートレース場・江戸川競艇場)の廃止を公約に掲げていた。 後楽園競輪場は現在東京ドームが建っている場所にあり、1949年(昭和24年)11月に誕生。東京の都心部に位置する文京区という抜群の立地条件も手伝い、開催すれば常時スタンドは満員、とりわけ全国争覇競輪が開催されればスタンドに入りきれない観客で溢れ返り、車券も満足に買えない状態が恒常化していた。そして、1960年(昭和35年)11月3日に行われた第15回全国争覇競輪決勝戦の開催日は推定約8万人の観客で溢れかえり、スタンド内でもすし詰めとなった約1500名の観客が走路内へなだれこみ、決勝戦は走路内にも観客を入れてレースを行うという異例の事態となった。このため警備不能を理由に、引き続き1961年(昭和36年)の第16回大会の開催も決定していたにもかかわらず、東京都が開催を返上したばかりか代替地も決まらず、1963年(昭和38年)3月に一宮競輪場で再開されるまで、全国争覇競輪の開催が行われなくなってしまった。つまり、後楽園以外に全国争覇競輪の開催はできない、ということが、当時の競輪界の「常識」となっていたのである。実際のところ、一宮で行われた後、再び後楽園で1968年(昭和43年)の第22回大会まで毎年、全国争覇競輪から名称を改めた日本選手権競輪が開催されていた。 このように、後楽園競輪の売上は1960年代に競輪総売上の10%近くを占めるほど大きなものであったため、後楽園は「競輪のメッカ」と標榜された。だが、当時毎年のように競輪が売上を増加させており東京都の財政に寄与し続けた背景があったにもかかわらず、美濃部は「競輪などの公営ギャンブルの売り上げで学校などが建設されるということについて、果たして子供たちは望んでいることなのだろうか」と訴え、都営ギャンブル廃止を公約に掲げた。また上述の通り、大阪府などの自治体が既に公営ギャンブル廃止を実現させていたことも追い風となっていた。 1969年(昭和44年)1月、美濃部は正式に都営ギャンブル廃止を表明し、同年11月に開催が予定されていた日本選手権競輪の開催を返上した。さらに美濃部は、1972年度限りで後楽園における都営開催を終了することを表明。これにより後楽園競輪場は1972年(昭和47年)10月に開催を休止、翌1973年(昭和48年)3月をもって全面休止された(なお、後楽園競輪は現在も「休止」扱いであり、廃止されたわけではない)。その後同地ではバンク内に水が注入され、スイミングプールとしての役割を果たした後に解体され、1988年に日本初の屋根つき野球場「東京ドーム」として再建された。 その他の旧都営公営競技場は、まず大井オートレース場が後楽園競輪場と同様に1973年3月で閉場したが、代替場として伊勢崎オートレース場が引き継ぎ、1976年(昭和51年)10月6日に開場した。また京王閣競輪・大井競馬・江戸川競艇はその後、主催者を変更させて現在も存続しており、結局は後楽園競輪場だけが代替地も用意されず消滅した。 なお、東京ドームには地下に400mバンクが格納されており、競輪開催も可能ではあるが、地域住民の反対など様々な事情があり、現在に至るまで競輪開催は再開されていない。2003年(平成15年)6月に石原慎太郎東京都知事が石原都政の中で「後楽園競輪」復活構想を掲げたが実現はしなかった。 後楽園競輪の廃止は当時の競輪界に大きな打撃を与えたが、昭和40年代に入ると競艇の総売上が次第に競輪に迫る勢いを見せるようになった。1965年(昭和40年)度を見ると、競輪は競艇を含めた他の各公営競技団体の倍ほどの総売り上げを計上していたが、その後、競輪自身も売り上げを伸ばしていくものの、伸び率は鈍化していく。対して競艇は昭和40年代前半以降毎年度10%以上の伸び率を見せ、1973年(昭和48年)度頃には競輪と肩を並べた。同時期に発生した第一次オイルショックの影響により1972年度以降は伸び率も鈍化したが、1975年(昭和50年)度の年間総売上で競艇が競輪を逆転した。その後も現在に至るまで競艇が競輪の総売上を下回った年度は一度もなく、実に2倍以上もの差がついている。 また総入場人員においても、昭和40年度は競輪が約2800万人を記録し競艇に倍以上の差をつけていたが、その後競艇が差を詰めてゆき、1975年(昭和50年)度に競輪を逆転した。 競艇に逆転された原因として、競艇が施設改善や投票券の機械化を急ピッチで進めたのに対し、 などが挙げられる。 それでも、総売上は1980年(昭和55年)度まで競輪も対前年比増を何とか記録していたが、1981年(昭和56年)度に中央競馬を除く各公営競技が揃って前年割れを記録した。 上述した通り、競輪人気にかげりが見えてきた原因は、度重なる暴動事件や施設の老朽化に加え、機械式発券機導入・場内浄化の著しい遅れなどもあるが、ギャンブルとしての競技運営面においても問題点を抱えていたことも挙げられる。 1967年(昭和42年)以降、競輪選手の級班制度はA級(1 - 5班)・B級(1 - 2班)の「2層7班制」となっていたが、当時の最上位であるA級1班(A1)選手にあっせんが行われる記念開催(現在のGIII)では、A級で最下位であったA級5班(A5)と直接対決する競走も見られた。 当時のA1選手は全体で100〜120名程度しかおらず、同じA級でも実力面で大きな開きがあったため、記念開催の準決勝では「レース前から勝負は決まっている」と言われ、配当もおしなべて低配当となる競走も多くみられた。この影響により予想の楽しみが消え、「当たっても儲からない」「当たってもトリガミ(手にする払戻金が購入金額を下回ること)」という印象をファンに抱かせたことで競輪離れを招いた。一方、競艇は1競走が競輪より少ない最大6艇立てではあるが極度の低配当とはなりにくく、それが競艇に客が流れて行った一因ではないかという見方が一部の競輪関係団体から上がってきた。 こうした背景を踏まえ、1983年4月1日の開催からA級のさらに上位のクラスとして「S級(1 - 3班)」を設け、B級はそのままとしつつ、A級1 - 5班をS級1 - 3班とA級1 - 4班とに再編した「3層9班制」からなる競輪プログラム改革構想(略称「KPK」)をスタートさせた。KPKの導入により、競走は脚力が拮抗した選手による激しいレース展開へ生まれ変わった一方で、導入初期より落車・失格が急増し、配当も中配当(中穴)レベルが急増したため「車券が急激に取りにくくなった」という声がファンから上がってきた。 1975年以降、日本人のレジャー志向が「インドア」から「アウトドア」へ移行しており、本場(レース場)へ行かなければ投票券等も買えない公営競技は、都心の便利な立地に場外馬券発売所(現在のWINS)が集結する中央競馬を除き、「時代遅れのレジャー」と言われるようになった。中央競馬だけは総売上が対前年比増を継続していたが、それ以外の4団体は1981年度以降、軒並み前年割れを続けていった。 なお、元選手の矢﨑和良が1979年(昭和54年)に「有限会社メダリストプランニング」を立ち上げ、プロテクターシャツや新繊維のレーサーパンツを、選手のケガ対策の観点から開発した(2017年破産)。 KPKが売上回復の起爆剤となりえていない実情を踏まえ、競輪関係団体は1985年(昭和60年)に5番目の特別競輪として全日本選抜競輪を新設したが、それでも満足な結果は得られなかった。そこで、通商産業省内部において、より画期的なレースを行えないかという構想が浮上し、当時の同省車輌課長だった西川禎一が、S級1班(S1)のトップクラスだけを選抜した競走を同年末に行うという案を提案した。 当初の計画では、まず東日本地区と西日本地区の各競輪場で予選競走を各1個行い、上位の9選手による決戦競走を行うというものであった。しかし年末の開催には時間的な制約があったため、当時の競輪では考えられなかった一発勝負の競走を、集客が見込める首都圏の競輪場で行うという案に収斂し、1985年12月30日に立川競輪場にてKEIRINグランプリ'85の開催を行うことを内定した。 11月に行われた競輪祭の全日程終了後に正式発表がなされた。当年の特別競輪優勝者・世界自転車選手権優勝者に競走得点上位者を加えた9名による一発勝負の競走が、優勝賞金1000万円をかけて行われることになった。 決定から当日まで期間がなかったため、全国での場外発売体制は極めて不十分だったが、立川競輪場は約4万人のファンでごった返した。また売上も立川市の希望額を上回り、KEIRINグランプリだけで約12億円を計上した。 また、1985年度の総売上対前年比も4年ぶりに増加し、1991年度まで対前年比増を続けた。しかし、売上に見合わぬ賞金体系が維持されたままとなっていたことは、その後日本競輪選手会との間に深刻な対立を発生させた。 1985年(昭和60年)のプラザ合意に起因する円高不況の反省から、政府の内需拡大策が功を奏し、1988年頃から日本経済は空前の好況となった。ひいては後にバブル経済へと突入することになり、競輪の売上げもバブル景気期には前年対比2桁の売上げ伸び率を記録することになった。 そんな中、1984年にまず中央競馬がグレード制を導入し、1988年には競艇も追随してビッグレースの拡充を図るとともに、賞金総額も大幅に引き上げられた。その一方、競輪の賞金総額は前年度売上見通しの3%が賞金に充てられる「3%ルール」に長年拘束され、とくに競艇選手との賞金格差が拡大する傾向にあった。 これに対し日本競輪選手会は理事長片折行の強力なリーダーシップのもと賞金総額の大幅引き上げを求め、それが認められない場合は「1989年のKEIRINグランプリシリーズに、誘導員を出さない」とする強攻策を打ち出した。基本的に「先頭固定競走(後述)」を採用している競輪では誘導員を出さなければ競走が行えず、このことはKEIRINグランプリの開催もできないことを意味していた。選手会側は全国競輪施行者協議会(全輪協、競輪主催者たる自治体が構成する団体)らと12月25日まで話し合いの場を持ったが折り合いはつかず、結局同年のKEIRINグランプリは中止された。なお会場だった立川は前年の1988年に、全国の競輪場で初めて大画面映像装置を設置していた。 この事態を受け、1990年に大宮競輪場での記念開催中止を回避するため施行者側が譲歩し、賞金総額の大幅アップが認められた。同時に「3%ルール」も事実上撤廃された。 日本経済は1991年(平成3年)頃からバブル景気が下降線をたどり、長い不況に突入する。この影響を受け、競輪の売上も1991年度を境に下降線をたどり、その後2014年度まで対前年度比で漸減を続けた。 この影響を真っ先に受けたのが、普通開催(現在のFIIに相当)であった。普通開催については当時、競輪の主催権を持つ自治体以外に、特定の開催だけ主催権が与えられた「借上施行者」と呼ばれる自治体の主催が少なくなかったが、1992年以降は売上が急速に落ち込み赤字に転落する自治体が急増し、ひいては自治体の財政運営にも悪影響を及ぼすとして、これらの借上施行者は相次いで撤退していった。このことは主催権を持つ自治体にも過重な負担を強いることとなり、1990年代の終盤には各施行自治体が売上が見込める記念競輪の広域場外発売拡大や、S級シリーズの開催数増加を要求する流れとなっていった。 しかし、S級の選手数はKPK導入時のまま(概ね430名)に据え置かれており、急増するあっせんをこなせず体調不良から直前欠場するS級選手が急増し、ひいてはKPK制度そのものが破綻寸前の状態となっていた。そこで1999年初頭に関係5団体はグレード制の導入やB級の廃止、S級選手の大幅増加に伴うS級シリーズの開催数増加、場外発売を拡大するため記念開催を1節4日間制とする新番組制度改革の概要を公表した。 しかし、片折体制下が続く日本競輪選手会はB級廃止に難色を示し、当初は上記の番組改革に消極的な姿勢を取っていたが、片折が2000年に没して方針が転換され、改革案を受け入れた。その後、KPKに代わる新番組制度は2002年4月1日から本格的にスタートした。 1995年には他の開催と同様、特別競輪での失格選手も、即日帰郷となった。 1999年4月1日には全レースで枠番連勝複式と車番連勝単式の2賭式の発売方式(本場では単勝式・複勝式もあった)へ完全移行したが、2001年9月30日の立川・前橋から新賭式(計7賭式)を順次導入(2003年10月の松阪で全場完了)。同年度には「全日本選抜競輪」が読売新聞社杯に「競輪祭」が朝日新聞社杯にもなった。2002年4月にはユニフォームも9色に変更され、インターネット投票システムも運用開始された。2000年には競輪場内での酒類販売の試験導入もあった。 そんな中、競輪場の廃止論が21世紀に入って再燃もしていた。 2002年(平成14年)3月、3箇所の競輪場が廃止となった。 最初に廃止表明をしたのが門司競輪であった。2001年4月、主催者の北九州市は、同市の諮問機関である競輪事業経営検討委員会が、2010年度までに門司競輪場と小倉競輪場、合わせて約75億円の累積赤字が見込まれる背景を踏まえ、施設の老朽化が著しい門司を廃止し、ナイター開催も行える小倉競輪に開催を一本化することで収益の改善が図れるという意見書を市側に報告したことを理由に、2001年度限りでの廃止を表明した。 続いて2001年11月、兵庫県市町競輪事務組合が主催する西宮競輪と甲子園競輪がともに2001年度限りで廃止されることが決まった。 もっとも、西宮と甲子園については、主催者側が2000年度時点でいったん場内従事者を全員解雇し、日当賃金を従前の約半分となる8千円へと減額した上で希望者に対して再雇用している背景を踏まえ、最悪でも競輪選手の練習地でもあった甲子園だけは存続させる方向にあるという期待感も、廃止表明直前まで抱かせていた。その証拠に事務組合側は、同年夏に出した「甲子園一場開催案」の試算において、西宮・甲子園両場で開催した場合は2002年度 - 2005年度ですべて赤字だが、甲子園一場の場合は2002年度で3億5000万円、さらに2003年度も黒字になると報告していた。ところが、同年10月に再度収支予測をしたところ、2年間は黒字とされた甲子園単独でも2年目から赤字転落の見通しとなり、さらに黒字予想だった本年度でさえ赤字に転落する見込みになったため、甲子園一場での存続も無理との判断を下した。 西宮、甲子園の廃止は、「急転直下」ともいえる事務組合側の結論となったため、甲子園競輪場の施設会社であった甲子園土地企業、近畿自転車競技会、日本競輪選手会が相次いで事務組合を相手取って損害賠償訴訟をする動きが見られた。また、西宮競輪場の施設会社・阪急電鉄は当初、事務組合側との調停を申し出ていたが、事務組合側がその意向に沿わないため、廃止から2年後にあたる2004年に損害賠償訴訟に踏み切った。しかし、いずれのケースも事務組合側の勝訴となった。 2002年(平成14年)4月1日の開催より、KPK制度に変わる新番組制度が実施されることになった。S級選手を大幅に増加させることにより、S級シリーズ(FI)を年間8節へと開催を増加させる一方、長らく前後節制を取ってきた記念開催(GIII)については広域場外発売を行いやすくするため、1節4日間制に改められた。しかし、記念開催の広域場外化やS級シリーズの増加をもってしても、競輪の売り上げ向上には繋がらなかった。そのため、下記の騒動が発生した。 同年10月11日、豊橋市の市長早川勝が、三連単導入にかかる投入資金に見合った売り上げが今後期待できないとして、突然の豊橋競輪場廃止表明を行なった。しかしその後、同市市議会の最大会派であった清志会などが当面の存続を訴えたことや、競輪関係団体が2005年のふるさとダービー開催を約束したことなどにより、早川は廃止を撤回した。そして、2020年度現在も豊橋競輪は開催を行なっている。 一方で記念開催の広域場外化が浸透すると、次第に各競輪場において自場開催よりも他場の場外発売に収益の柱をシフトする動きが見られるようになり、中には本場開催と合わせて、年間300日以上発売する場も続々と出るようになった。しかし、周辺地域の理解が得られず場外発売日数が著しく制限された競輪場は、一層苦境に立たされることになった。 2003年12月31日実施の競走より、イエローラインが導入された。 2005年末のヤンググランプリ05、KEIRINグランプリ05から、佐藤直紀作曲の新ファンファーレを全国で使用。 2008年に(平成20年)JKAは「平成21年度特別競輪等公告項目」として各種アンケートを実施した。 同年4月15日にチャリロトが、4月25日にKドリームスが、発売開始(重勝式投票券)。 2009年(平成21年)9月15日、神奈川県の外部組織にあたる『神奈川県競輪組合あり方検討委員会』は、花月園競輪場の廃止は妥当とする報告書をまとめ、同月18日、同場を主催する神奈川県競輪組合と主催自治体に対し報告書を提出した。理由は、2008年度時点における累積赤字が49億円に達しており、4年後の2013年度には77億円までに膨らむ見通しだからだとした。この報告書に基づき、当時の同組合管理者であった松沢成文は同年12月1日、正式に花月園競輪の廃止を決定した。花月園競輪場は当時、自場開催を除く場外発売日数が74日と少ないため、自場開催にかかる赤字分を補うことができなかった。そのため、今後開催を続けたとしても、年間約5億円の赤字が見込まれることから、廃止は妥当と結論付けられた。翌2010年3月31日が最後の開催となった花月園競輪場は、59年に亘る歴史にピリオドを打った。 四日市競輪場は通年ナイター開始という活路を見出し、包括民間委託も導入して黒字転換を果たした。 2011年(平成23年)頃を境に、ビッグレースにおける独立UHF局の地上波中継番組がほぼ無くなっていった(#地上波を参照)。 2013年5月31日には、中日新聞が一宮競輪場を2013年度末で廃止する方向で最終調整に入ったと報じた。1991年度をピークに売り上げが減少し、2009年度・2010年度は赤字を計上。2012年度も当初予測していた1億4000万円を大幅に超える見通しとなり、過去の収益金からなる繰越金も2014年度で底を尽くため。 2007年6月13日に公布された自転車競技法及び小型自動車競走法の一部を改正する法律により、競輪を統括していた「日本自転車振興会」とオートレースを統括していた「日本小型自動車振興会」は、2008年4月1日をもって財団法人JKAに統合された。 売り上げ額は1991年度(平成3年度)には過去最高となる1兆9,533億円に達したが、その後は一貫して右肩下がりとなり、2013年度(平成25年度)にはその1⁄3程度となる6,063億円に落ち込むほど低迷した。 売り上げ額の低迷が続いていた中で、新たな起爆剤として、2011年1月14日から15日にかけて、小倉競輪場にて夜9時から11時台に無観客でレースを行うという「ミッドナイト競輪」が開催された。試験的な意味合いが強かったが、予想を上回る売り上げを見せただけでなく黒字計上したことから継続して開催されることとなり、後に小倉以外にも多くの競輪場が追随したことで、ミッドナイト競輪は2022年までで全国にある競輪場の半数を超える30場にて開催されるほどに拡大した(これらに加え、自場では実施していないが照明設備が整った他場で借り上げにて開催している施行者もあり、それらも含めると現状ではほぼ全ての施行者がミッドナイト競輪を開催している)。 ミッドナイト競輪とは逆に、第1競走の出走時刻を早めた「モーニング競輪」も岸和田競輪場にて2012年5月4日から6日にかけて初めて開催され、これも好評であることから徐々に開催場が増加している。 2012年7月からは、昭和期には女子競輪と呼ばれた女性の競輪選手による競走ガールズケイリンが開始され、女子競輪が約半世紀ぶりに復活した。 他に企画レースとして、開設記念競輪(GIII)の最終日における単発競走として、男子でもラインの概念を排除しトラックレースとしてのケイリンに準拠したルールで行うKEIRIN EVOLUTIONや、各地区から1名ずつ選抜された7名によるS級ブロックセブンなど、それまでなかった新たなレース形態による競走が行われるようになっている(ただし、これらは後述する新型コロナウイルス感染症蔓延拡大により現在は実施していない)。 2014年12月31日実施の競走より、高速化によるレースの単調化の防止などを目的に、ギヤ倍数範囲が規制された(男子4.00倍未満、女子3.80倍未満)。 2016年度の開催枠組みについて、各競輪場の年間開催日数を従来の19節58日から、原則15節46日(小倉は削減なしで函館と四日市は3節減)とすることを競輪最高会議が承認し、縮小化が進んだ。なお、2018年度の総開催日数は2017年度より77日多い2255日であった。 2016年より、売り上げ増を目的に、日本選手権が5月のゴールデンウイーク期間中の開催に変更された。また、10月の寬仁親王牌からは、特別競輪においては固定メンバー3名からなる審判長団が執務を担当して行くことになった。加えて、それまで日本選手権が行われていた3月には、新たなビッグレースとして、ウィナーズカップ(格付けはGII)が2017年より新設されている。 2018年11月に開催された第60回朝日新聞社杯競輪祭は、GIでは初のナイターレースとなり、併せて6日間開催(うち前半3日間はガールズケイリン組み込み)・一次予選におけるポイント制が復活し、2019年以降も競輪祭ではナイター開催が継続されている。加えて、2021年のオールスターでは、6日間開催の復活と、競輪祭に次ぐナイターレース化が決定した(一次予選はポイント制が復活)。2023年の高松宮記念杯では、同大会も6日間開催を復活させることとなった。 売り上げが右肩下がりを続けていた競輪にとって、特にミッドナイト競輪、モーニング競輪は開始以降、対前年度比で高い伸びを示すほど好調が続いており、救世主とも呼べる存在となった。それらの好調で競輪の売り上げ額は2014年度以降、僅かながらではあるが連続して増収基調が続いており、2017年度も対前年度比で100.9%と4年連続で増加となった。また2018年度も車券売上高は対前年度比102.2%となり、本場発売や場外発売が苦戦する中で売り上げは5年連続増加となった。加えてインターネット投票が追い風となり、2018年度は広島競輪場では10年ぶりに3億円を広島市の一般会計に入れたほか、玉野競輪場でも前年度の2倍となる4億円を玉野市の一般会計に充当した。2019年度も、後述の通り2020年2月末以降は全ての開催が無観客となる中で、年間を通じての売り上げ額は6604億6055万5100円で前年度比101.0%(うち重勝式売上高は29億1393万4600円で、前年度比105.7%)となり、6年連続の増加となった。 ただ、実際はレース単位で見るとビッグレースでも売り上げ額は減少傾向にあり、GIでさえも売り上げ額ワーストを更新することが増えてきている。実際に、2018年度の全国の本場入場者数は250万5,291人で、対前年度比92.4%と減少した。また、1日平均売り上げ額は2億9,007万4,100円(同98.7%)、場外売り上げ額は3,214億6,418万4,700円(同94.2%)、本場売り上げ額は263億3,762万4,800円(同90.4%)であり、通常開催では今もなお売り上げの減少が続いている。グレードレース別で見ても、GIは競輪祭が6日間開催となったため売り上げ額は対前年度比101.4%となったが一日平均では同94.4%と減少であり、GIIの売り上げ額は対前年度比95.7%(一日平均同95.7%)、GIIIも売り上げ額は対前年度比96.3%(一日平均同92.0%)であった。2019年度も、1日平均売り上げ額、本場での1日平均入場者数・売り上げ額、場外売り上げ額はいずれも対前年度比で減少となっており、開催日数を増やすことで売り上げ額を増加させているのであって、楽観視はできない状況にある。 これらを表すように、2019年度は黎明期を除いて70年以上に渡って上回っていた地方競馬(7010億円、前年度比115%)の売り上げを下回り、競輪の苦境を表す象徴的な年となってしまった。同様に、KEIRINグランプリ(52億円、前年比100.2%)の売り上げも、史上初めて東京大賞典(56億円、前年比121%)を下回った。公営競技全体の売り上げに対しても、1965年に55%、2000年度でも18%を占めていたが、2019年度には11%程度まで落ち込んでいる。 2020年、日本国内で新型コロナウイルス感染症が蔓延・拡大したことを受けて、競輪でも感染拡大防止のため2月27日より当面の間、日中・ナイターも含め全てのレースで無観客による開催となった。本場だけでなく競輪場外車券売場も閉鎖され、またファンの多くが高齢者であることから競艇などと比べて車券の売り上げ額が一時的に大きく落ち込み、例えば記念競輪(GIII)としては初の無観客開催となった奈良競輪開設69周年記念「春日賞争覇戦」では、総売り上げ額は17億6353万9100円と、前年度の54億929万8600円に対し32.6%と大幅ダウンした。それ以降も、九州地区から参加した選手の親族に新型コロナウイルス感染症の陽性反応が出たため4月2日からの玉野競輪が公営競技としては初めて新型コロナウイルス感染症による影響で中止となったほか、元選手で競輪評論家である井上茂徳氏の新型コロナウイルス感染発覚と、それを受けて4月8日から開催予定であった名古屋競輪が初日朝に急遽中止を決定するなど、混乱が続いた。 さらに、改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が日本国政府より発令された4月7日以降、記念競輪でも平塚記念、西武園記念の中止が決定したほか、全国的に開催を取り止める競輪場が相次いで出てきており、遂には5月5日から静岡競輪場で行われる予定だったGI・第74回日本選手権競輪も開催中止の断が下された。特に、2020年4月に限れば、S級だけで15%強に当たる130人強があっせんが全て中止となり、中には岩本俊介や松岡健介のように3開催連続して中止にされた選手もいた。約款により、開催初日に急遽中止が決まれば各グレードの総賞金額の30%が参加選手に対し均等に支払われるが、前もって中止となった場合は支払われないため収入が大きく減少しており、選手・関係者に大きな影響が出た。実際に、2020年は取得賞金額が1000万円以上の選手はS級創設以降最小となる590人に留まり、平均取得額も東日本大震災被災地への復興資金捻出のため賞金額を大幅に減額した2011年〜2012年並みの905万円と、大きく減少となった。 特に4月から5月にかけては開催中止が相次いだため、選手側にとってもコンディション維持や収入面で影響が出てきたことから、当面の間競輪開催においてはGI・GIIの特別競輪を除いて参加選手の人数を抑制し、かつあっせんは極力選手の登録地の近くとして移動を抑制することで開催中止を回避しつつ感染拡大を防ぐ取り組みを行うこととなった。また、同年6月以降からは、体制が整った競輪場・専用場外売場から順次、観客の入場を再開している。7月以降は暫定的に開設記念やGIなどグレードレースを除いた全てのレースで7車立てとするなど極力密にならないよう配慮した上で開催を継続している。ただ、7月下旬には選手で初めて感染者が発生し、それ以降も複数名の選手で陽性者が現れたほか、2021年に入っても再度緊急事態宣言が発令されたことで一部の競輪場では無観客開催や場外発売を中止したり、陽性者との濃厚接触者と疑われる選手が参加した競輪場では開催中止ないし途中打ち切りとなるなど、混乱は続いた。 ただ、その一方で、長い目で見ると、特に電話投票、インターネット投票での売り上げが伸びており、2019年度の電話投票売り上げ額は3625億8208万8800円と7年連続増加かつ前年度比118.4%と急増し、2765億8612万1700円(前年度比86.0%)であった場外売り上げ額を初めて上回った。また、電話投票利用者数も6428万1066人で、前年度比115.8%と急増した。ナイター競輪においては2020年5月5日から3日間開催された玉野FIIで施行者の想定を5倍近く上回る16億4千万円を売り上げたほか、ミッドナイト競輪においても、2021年1月23日から25日まで開催された松阪FIIでは総売上額が14億7168万3300円となり、1開催の総売上記録を更新しただけでなく、最終日の25日においては5億7901万4000円の売上があり、ミッドナイト競輪1場・1日あたりの売上記録も更新した。 一時的に混乱が見られた競輪界であったが、2020年はグランプリ・GIは中止となった日本選手権競輪と無観客開催かつ多くの場外発売が中止となった高松宮記念杯競輪を除いて全て売上額は対前年比で上回ったほか、2021年4月1日にJKAが発表した2020年度の車券総売上高は、対前年度比で113.6%となる7499億9019万6400円となり、結果として7年連続増、かつ対前年比で10%以上もの大幅増となった。対前年比で10%以上もの売上高を記録したのは、1990年度以来30年ぶりであった。2021年度も8年連続の増加となっただけでなく、総売上高9631億3007万1000円と2004年度以来17年ぶりとなる9000億円台、かつ対前年度比128.4%と大幅アップ、2022年度も対2021年度比で113.1%となる1兆907億7929万200円(速報値。PIST6の売上高も含む)となり、9年連続増加、そして2002年度以来20年ぶりとなる売上高1兆円を回復した。 このように売上高の増加が続いていることを受けて、2019年10月、2021年4月、2022年4月、2023年4月と段階的に全てのレースで賞金額の増額が行われており、特にKEIRINグランプリでは本賞金のみで1億3000万円となった。 車券購入においてマークシート方式の導入は、1991年9月の京王閣が初だった。 現在発売できる車券の種類は以下の「7賭式」(2001年開始)と重勝式、そしてTIPSTAR DOME CHIBAで行われている250競走「PIST6」(2021年開始)でのみ発売されている単勝式である。7賭式のうち枠番の2種は、最大7車立てで行われているFI(S級戦も含む)、FIIでは発売されない(同じく7車立て競走であるガールズケイリンでも未発売)。 また、重勝式、並びにミッドナイト競輪は一部の競輪場での会員制またはインターネット限定(ミッドナイト競輪に関しては前売りのみ)、単勝式並びに250競走はインターネット投票サイト「PIST6公式投票サービス」または「TIPSTAR」における「PIST6」でのみ販売となる。 単勝式・複勝式については、かつては本場で発売されていたが、元来から売り上げは微々たるものであり、レースによっては「的中者なし(無投票)」で購入金額の30%を控除して購入者全員に払い戻すこと(「特払い」と呼ぶ。30%の控除であるので「特別払戻金」として購入100円に対し70円が支払われた)も多々あった。このため、電話投票でも開始当初から取り扱いをしたことはなく、また規則上上記から重勝式を除く7賭式を発売する場合は発売しなくてもよいとされているため、それらの導入と共に事実上廃止となった。ただ、TIPSTAR DOME CHIBAにて2021年10月2日より開幕した250競走「PIST6」においては2枠単・2枠複の発売がない(2車単・2車複の発売はある)こともあり、単勝式に限り復活した。 なお、他の公営競技と同様、20歳未満の車券購入は法律で禁止されている(2007年の法改正により、20歳以上の学生は解禁された)。 7賭式導入後に限っては、初めて配当が100万円の大台を突破したのは、2001年12月22日の前橋競輪場の第4レース三連勝単式・154万20円。 全賭式を通じての最高配当は2010年10月21日に平塚競輪場で行われた第6-12競走で発売されたチャリロト(重勝式)で、払戻金は905,987,340円。これは日本の公営競技史上最高配当記録である。 上記の重勝式を除いた最高配当は2006年9月21日に奈良競輪場で行われた第10競走で、三連勝単式の払戻金は4,760,700円。 電話投票では、1991年から各地の記念競輪 (GIII) 以上の競走を対象に全国発売されるようになり、現在では電話投票のほかインターネット投票を用いてTIPSTAR DOME CHIBAを除く全国の競輪場の全競走を購入できる。なお、TIPSTAR DOME CHIBAで行われている250競走「PIST6」においては、「PIST6公式投票サービス(JPFが運営)と、ともにMIXIが出資しているインターネット投票アプリ「TIPSTAR」または「netkeirin」(netkeiba.comの姉妹サイト)でのみ取り扱っている。 場外発売でもGIII以上は場間場外発売を行っているほか、S級シリーズ (FI) や一般戦 (FII) でも地方都市を中心にしてサテライトなどの専用場外で発売する場合もある。なお、1998年11月に開設された東京都港区にあるラ・ピスタ新橋と、2004年10月に開設された神奈川県横浜市中区のサテライト横浜、2007年3月に開設されたサテライト大阪、2012年4月に開設された愛知県名古屋市中区のサテライト名古屋、同年8月に開設された福岡県福岡市博多区のサテライト中洲は原則として有料会員制となっている。 記念競輪(GIII)以上の競走は一部が地上波テレビで中継され、本場所在地にあるテレビ局が制作し、主に場外発売を実施する地域のテレビ局がネットする形態が多く見られる。S級シリーズ (FI) などの競走を地元ローカルで生中継することもある。 競輪がテレビ(地上波)で初めて放映されたのは、1963年の第16回全国争覇競輪(一宮競輪場)で、地元中部日本放送(現:CBCテレビ)が中継を担当し、TBSや朝日放送(現:朝日放送テレビ)(当時はTBSの番組をネットしていた)でもネットされた。ちなみに、カラー放送による最初の中継は、1969年の第14回オールスター競輪(岸和田競輪場)決勝戦である。 1978年の第31回日本選手権競輪(平競輪場)までTBS系列で放送されていたが、同年の第29回高松宮杯競輪(びわこ競輪場)から東京12チャンネル → テレビ東京系列に中継が移行されている。 特にGII以上の競走は関東・中京・近畿の各広域圏にある独立UHF放送局でレース実況・関連情報・開催地の紹介など時間枠を拡大して放送している。また現地スポーツ新聞記者のほか元競輪選手など専属の解説者も日替わりで出演している。 長らく「KEIRINグランプリ(GP)」やGI決勝戦についてはテレビ東京をキー局としてTXN系列局がネットしてきたが、特にGI決勝戦については2000年から原則日曜日または祝日開催となったことからTXN系列では中継できない競走もでてきたため、独立UHF局がある地域ではTXN系列に代わって独立UHF局が中継することが増えていった。GI決勝戦では、一時期古舘伊知郎が実況を担当していたこともある。 2006年から日本テレビが地上波テレビでの生中継を始め、同年の「読売新聞社杯全日本選抜競輪」から開催地の日本テレビ系列が制作協力して全国ネットで生中継している。また、「KEIRINグランプリ」も2008年以降は日本テレビ系列で放送されている。加えて、テレビ朝日も2009年~2011年の「競輪祭」を5局ネットで生中継したが、2012年以降は放送されていない。2011年頃を境に、前述のビッグレースにおける独立UHF局の地上波中継は一気に減少した。 2016年以降は、独立局の地上波中継は一部放送局が記念競輪をローカル放送する程度になっている。全国ネットとしては日本テレビ系列かテレビ東京系列の特別競輪決勝戦を除くと殆ど中継されないようになった。 現在地上波中継される大会は、以下の通りとなっている。 上記のほか、以下のテレビ局では競輪を紹介する番組をレギュラー放送していた。 CS放送で初めて中継が行われたのは、1992年の高松宮杯競輪で、地元びわ湖放送の中継映像を用いてスポーツ・アイで放送された。また、1993年の和歌山競輪開設43周年記念から開設記念(GIII)の中継も開始された。 「KEIRINグランプリ(GP)」は、1997年からNHK BSでも放送している(NHK-BShiも2006年まで放送)。これは収益金の一部がNHK厚生文化事業団に寄贈され、また優勝者に対してNHKから寄贈トロフィーが贈られるためである。 上記のほか、2008年の「ふるさとダービー弥彦」は、BS11デジタルでも放送した。 2013年4月28日からはBS日テレにて「KEIRIN LIVE〜夢見マクリ!S級新聞社」(2015年度のみ「S級探偵団」として放送)のタイトルで特別競輪の準決勝・決勝戦を生中継したが、2016年4月9日から「パンサーの競輪、はじめました。」の放送を開始したため、同年3月13日をもって放送を終了した。 2016年度以降はGI決勝戦を地上波で中継しない場合のBS日テレかテレビ東京系列で中継する場合のBSテレ東が同時放送する時のみ中継しているが、同年度からは2021年までのヤンググランプリはBS中継が取りやめとなっていた。 2019年度以降はBS日テレの中継が大幅に減少している。 2022年3月21日より放送を開始したBSよしもとでは、毎週月曜から金曜日の22:00 - 23:00で「競輪LIVE!チャリロトよしもと」を放送している。放送当日に開催されているいずれかのミッドナイト競輪の中継と、番組スポンサーであるチャリロトでそのレースの予想と投票を行い、曜日ごとの出演者により曜日対抗で回収率の高さを競っている。なお、番組はBSよしもとの公式ホームページにおいて同時動画配信を行っており、インターネットに接続できる環境にあればパソコン、スマートフォンでも視聴が可能である。また、ミッドナイト競輪は放送終了後の23時台でも行われるため、併せて22:45 - 23:45ごろの間でYouTubeによるストリーミング配信を行っており、22:59の放送終了後はYouTubeの番組公式チャンネルで視聴することになっている(見逃し視聴も可能)。 CSであるスカパー!の「SPEEDチャンネル」では、6チャンネル体制で一般戦も含め各地の競輪を完全中継している。また、かつて西宮競輪や甲子園競輪では、無料放送であるベターライフチャンネルにて完全中継を行っていた。 かつて日本で展開していたディレクTVでは「南関ケイリンチャンネル」「関東ケイリンチャンネル」などが存在した。 初めてのラジオ中継は、1952年にNHK大阪放送局が行った、甲子園競輪場からの実況中継。当時、審判塔の上に放送席を設けて中継を行った。これが好評で、その後は全国各地で中継が行われるようになった。 ラジオでは主に「KEIRINグランプリ」やGIの決勝戦を中心に放送しており、一部は全国ネットしている。番組はRFラジオ日本が制作することが多いが、2009年まではTBSラジオも制作していた(番組タイトルは「エキサイトKEIRIN」)。これはTBSラジオで競輪提供の番組中野浩一のフリートークを放送しているためと考えられる。 近年は中継されない事が殆どになっていて、2019年はKEIRINグランプリ2019シリーズ以外は放送されず、2020年と2021年は放送自体がなかったが、2022年はKEIRINグランプリ2022シリーズでは2日目のガールズグランプリと最終日のKEIRINグランプリで、ラジオNIKKEI第2放送にて3年ぶりに中継が行われた。 地方局では、和歌山県を放送地域とする和歌山放送が、例年1月上旬に開催される和歌山競輪開設記念(GIII)「和歌山グランプリ」3日目・最終日に中継を実施している。2023年はこれに加え、8月に同場で行われたGIII「大阪・関西万博協賛競輪」3日目準決勝のうち第11レース・第12レースと最終日決勝戦を中継した(radikoプレミアム会員であれば、全国で放送日から一週間後まで聴取可能)。 過去には 佐藤一司、 樋口忠正(現在はフリー)など 競輪主催者が直接手掛けるネット配信サービスとしては、2010年に開設された「KEIRIN.JPストリーム」がある。当初は単独サービスとして開設されたが、2017年4月に競輪公式サイト(KEIRIN.JP)がリニューアルされたのに伴い、公式サイトのサービスの一部として統合された。またニコニコ生放送とYouTube Liveにおいては、競輪場単位で独自の公式チャンネルを開設し、レース映像の生配信を行っているケースが多い。 Kドリームスでは、2018年の第72回日本選手権競輪より中野浩一・後閑信一の2人をパーソナリティとした独自番組として「本気の競輪TV」を制作しており、主にGP・G1レースの際にYouTube Liveにて生配信される。 2019年4月より、サイバーエージェントが子会社のWinTicketを通じて車券のインターネット投票に参入したことに伴い、AbemaTV内に「競輪チャンネル」が開設された。原則としてWinTicketの取り扱いのある競輪場の競走を生配信するほか、ミッドナイト競輪については独自の中継番組として「WinTicket ミッドナイト競輪」を配信している。同年のKEIRINグランプリ2019以降は、グレードレースが行われる日には特番として独自で放送する事もある。実況映像については、原則として各競輪場が制作しているものをレース部分のみ使用している。 2020年6月よりサービスを開始したTIPSTARでは、各場のレース部分のみの生配信を視聴できるほか、以前は、各日数場においてはアプリ内のみで視聴できる予想番組を制作していた。 2021年12月28日に行われた第10回オッズパーク杯ガールズグランプリでは、定額制動画配信サービスのスポーツ・チャンネル「DAZN」でも初めて中継・配信が行われた(DAZNでの競輪中継自体が今回初となる)。 主にテレビCMに出演。他に、現役競輪選手をその年度のテレビCMに起用するなどの例もあった。2019年以降は起用していない。 2014年度の中村と2015年度の柳は、当年度のGI・GIIの表彰式プレゼンターをほぼ全て務めた(寬仁親王牌のみ「ローズカップ」を担当した)。 競輪場によっては、広報活動のためのキャンペーンガールが存在するところもある。主な活動としては、重賞競走などでラウンドガールや、優勝選手への花束贈呈などの表彰式の演出を行ったり、イベントなどで競輪ファンと交流をしたりすることなどがある。中には自転車競技の魅力を伝えるために、彼女らによる競輪や自転車競技の模擬レースが行われることもある。 全国の競輪施行者(43団体)を会員とする団体。略称・全輪協。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "競輪(けいりん、英字表記:KEIRIN)は、競艇・競馬・オートレースと並ぶ公営競技の1つで、北九州市を発祥の地とする自転車競技。及びその自転車競技の着順を予想するギャンブルである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "競輪は自転車競技法に基づいて運営されており、主催者は地方自治体である。監督官庁は経済産業省(製造産業局車両室) で、運営統括は公益財団法人JKA。運営を補佐する団体として全国競輪施行者協議会 (全輪協)、日本競輪選手会がある。これらJKA、全国競輪施行者協議会、日本競輪選手会の3団体により『競輪最高会議』が形成され、各年度末の最高会議において翌々年度の特別競輪開催地が決定されるなどしている。", "title": "開催・運営" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "地方自治体は所管省庁の経済産業省へ競走の開催を届け出、競輪選手と呼ばれるプロの選手達と「競輪場」と呼ばれる自転車競技場における競走出場に関する契約を交わす。番組編成、選手管理、審判など、実際の自転車競走の運営については競輪場の存在する各地域のJKA競輪競技実施事業本部(旧・日本自転車競技会)の支部へ委託している。審判の方法など、受け持つ支部によって運営手法に違いがある。", "title": "開催・運営" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "競輪選手の登録・あっせん、育成については中央団体である公益財団法人JKAが行ない、2014年4月からは審判および番組編成・選手管理・検車の4つの業務もJKAが管掌している(経済産業省はJKAを通して競輪選手、競技会、施行者などの監督指導を行う) 。", "title": "開催・運営" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "勝者投票券(車券)の売り上げ金のうち75%は払戻金に充て、残り25%から一定額を選手賞金などの経費やJKAへの交付金(約3.3%)、公営企業金融公庫への納付金(約0.2%)を差し引いた額が純益として地方自治体の歳費となる。", "title": "開催・運営" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "競輪の収益金は、監督するJKAに納付される売上を元に各種の補助事業が行われ社会に還元されただけでなく、主催者として運営する自治体に多額の収入をもたらしたことで自治体財政を健全化し、戦災復興や公共施設の建設などに貢献することになった。収益金の使途として最も多かったのは主として土木事業費であるが、競輪のイメージ向上への期待も込めて、教育、福祉関連事業にも多くの費用が投入された。通産官僚の佐橋滋らによる発案で、当時資金調達が困難だった国産トランジスタ計算機の研究開発に競輪収益をあてたエピソード もある。", "title": "開催・運営" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本のプロスポーツでは選手数が最も多い競技とされ、2,300人程度で構成されている(2019年12月31日時点、2,325人)。また初期には女性選手による「女子競輪」が1964年(昭和39年)まで開催されたほか、2012年(平成24年)7月1日から女子選手による「ガールズケイリン」が開催されている。", "title": "開催・運営" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "創設以来、日本独自のものであったが、現在は日本側による技術指導の下、韓国で国民体育振興公団(および地方自治体)が主催者となり、国内3つの競輪場で開催している。なお、過去には、1949年5月にタイとの間で競輪輸出契約がまとまり日本以外で初の競輪が開催される予定であったが、直後の政変によりご破算となった(競輪二十年史では「ピブン政権の失脚により」との記述があるが、史実ではピブン政権の失脚は1957年)。このほか、アメリカ占領下にあった沖縄でも競輪開催の動きがあったが結局立ち消えになっている。", "title": "開催・運営" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "競輪選手は、日本競輪選手養成所において約1年間研修を受けて競輪に関する知識と技能を習得し、競輪選手資格検定に合格して同所を卒業し、選手登録された者である。選手の権利を守る団体として日本競輪選手会があり、各選手は36の都道府県にある日本競輪選手会のいずれかの支部に所属している。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "競輪選手養成所の入所試験には一般試験と特別選抜試験があり、後者は各種スポーツ競技において特に優秀な成績を残した者を対象としている(特待生制度)。特別選抜試験の受験資格はオリンピックメダリストなどに限られるため非常に厳しく、ほとんどの受験生は一般試験を受験する。一般試験には「自転車の競技経験者が対象で自転車の走力を測る」技能試験と「自転車の競技経験がない者が対象で運動能力を測る」適性試験があり、いずれについても一次試験と二次試験が課される(但し適性試験に限り、他のプロスポーツ経験者を対象に一次試験を免除する制度がある)。合格率は、109期以降では、男子は概ね5倍程度、女子は2〜3倍程度 である。男子は受験1回目での合格率は約3割で、合格者の多くは複数回の受験を経験している。入学希望者は自転車競技愛好会や高校・大学の自転車部に所属して練習を積むケースが多い。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "デビュー時点では、男子は全員A級3班に所属し、その後はS級戦(S級S・1・ 2班戦)、A級1・2班戦、A級チャレンジ戦(A級3班戦)に分けられた3クラス戦制の中で、2級6班制による半年毎の格付け入れ替えを経て、最上位のS級S班(9名)を目指す体系となっている。南関東公営競馬の予想屋で競輪ファンでもある佐々木洋祐は、最上位クラスの選手と最下級クラスの選手との実力差は、一緒に走ればほぼ100%最上位クラスの選手が勝つといえるほど絶対的なものであると述べている。なお、女子は現状では昇降級の制度はないため、全員がL級1班の所属である(そのため選手間の実力差は大きい)。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "男子選手の所属する級および班は、競走得点および評価点に基づいて決められる。まず競走成績に応じて競走得点が算出される。競走得点は着順が良いほど、また格の高いレースほど高く設定されている。さらに競走得点をもとに評価点が計算され、それをもとに選手の所属する級および班が決められる。ちなみに、男子選手のランクはレーサーパンツの下地とラインの色から判断することができ、A級は黒地に緑のライン、S級は黒地に赤のライン、S級S班は赤地に黒のラインとなっている。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "選手は月に2つないし3つの開催に出場する。出場レース数に換算すると、概ね月に6〜9レースである。出場は、JKAのあっせんに対し選手が意思表示を行うことによって決められる。出場が決まった選手は開催前日の指定時間までに競輪場へ入らなければならない。競輪場に到着した選手は参加登録および健康診断を受け、さらに分解してバッグに入れて持ち込んだ自転車を組み立てて検査を受ける。健康診断と自転車の検査に合格した選手は基本的に4日ないし5日間宿舎(主に4人部屋)に滞在し、外部との連絡を絶つ。開催当日は午前中に再度自転車の検査を受けた後で練習を行い、レースに備える。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "レースへの出場がないとき、多くの競輪選手は練習漬けの日々を過ごすといわれている。競輪選手にはシーズンオフがない。そのためレースへの出場が続き、したがって練習のできない期間が長くなった選手は脚力に衰えが出る(「貯金がなくなる」と表現する)ようになる。各選手の過去の出場履歴は車券予想におけるファクターの一つである。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "選手の収入源は賞金や出走手当で、実力下位であっても一般的なサラリーマンよりも高額の収入を得ているといわれている。JKAが公表した、2019年の全選手の賞金総額及び平均取得額によると、2019年12月31日時点での全登録選手2,325名の平均取得額は10,402,280円で、うちS級688名では16,597,852円、A級1,502名では7,962,748円、L級(女子)135名では6,468,313円であった。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "但し、「競輪に係る業務の方法に関する規程」第83条第1項第3号には競走成績不良による登録消除の基準が定められており、一定期間連続して成績の振るわない選手はあっせんを保留され、一定期間審査されたのち選手登録を消除される(強制的に引退させられる)。一度登録を消除されると再登録することはできない(現役復帰は不可能)ため、俗に『代謝』と呼ばれるこの制度を適用することで競走レベルの維持を図っている。毎年期初(1月と7月)にこの代謝制度により多くの選手が引退を余儀なくされるが、2020年は特に4月から5月にかけて開催中止が相次いだこともあり、例外的に下期期初(7月)においては代謝制度の適用はなかった。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "※は当年のKEIRINグランプリ優勝者とは異なるケース(第1回が開催された1985年以降。但し1989年は開催中止)。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "女子(賞金女王)は「ガールズケイリン#歴代賞金女王」を参照。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "男子選手において、2023年時点では6つあるGIカテゴリ競走(グレード制が制定される以前は「特別競輪」と呼ばれた競走)を全て制覇すれば、「グランドスラム(グランドスラマー)」と称される。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "現時点では、全日本選抜、日本選手権、高松宮記念杯、オールスター、寬仁親王牌、競輪祭の6つ全てを優勝することが条件である。なお、KEIRINグランプリはGPのカテゴリであり、GIではないため含まれない。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "過去に達成したのは僅か4人。但し、井上と滝澤は共に寬仁親王牌が1994年にGI競走となる前の出来事であるため、現在でもそのままグランドスラムとして扱われている。なお、井上と滝澤はKEIRINグランプリも制覇したが、神山と新田は未制覇である(特に神山は第11回から第14回まで4年連続2着であった)。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2023年10月時点で、現役選手の中で最もグランドスラムに近いのは山崎芳仁で、残るは日本選手権のみだが年齢的にタイトル獲得は厳しくなっている。山崎に次ぐのは武田豊樹、脇本雄太、平原康多、古性優作の4名で、いずれも残り2つ(武田は全日本選抜と寬仁親王牌、脇本は全日本選抜と競輪祭、平原は日本選手権とオールスター、古性は日本選手権と競輪祭)である。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "過去には、平間誠記(全国都道府県選抜競輪)、高原永伍(日本選手権)、中野浩一(高松宮記念杯競輪)、吉岡稔真(オールスター競輪)が、グランドスラムまであと1つという状態のまま引退した。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「ガールズケイリン」の名称で行われている平成期以降の女子競輪では、2023年よりグレードレースが創設され、うちGIはオールガールズクラシック、パールカップ、女子オールスター競輪(2025年よりGI)、競輪祭女子王座戦の4つ。なお、ガールズグランプリはKEIRINグランプリ同様GPのカテゴリであり、GIには含まれない。", "title": "選手" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "競輪で用いられる自転車は「ピスト(レーサー)」と通称される、規格に基づいた専用仕様の一人乗りの競技用自転車である。固定ギアであり、ペダルを逆回転させることによって速度を制御するためブレーキはない。競輪の関係法令においては『競走車』(単式競走車)と呼称されており、この自転車はNJS認定(Nihon Jitensha Shinkoukaiの略。現在のJKAに改称後もこの呼称が継続している)された部品により製作されることが義務づけられており(多くのNJS認定された部品は一般の自転車専門店にも卸されており、一般の愛好家も購入出来る)、なおかつ組み立て後の車体検査に合格しなければレースに使用することができない。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "NJS規格と言われる場合もあるが、NJS認定は部品の互換性を保証する標準化ではない。NJS認定や組み立て後の車体検査は競輪のレースのための物であり、公道を走行することは考慮されていない。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "競輪用自転車に限ったことではないが一般に公道での走行では制動装置が必要であり、別途ブレーキを付けない限り公道での走行は道路交通法により禁止されている(ノーブレーキピストも参照)。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "競輪用の自転車は、ここ十数年ほど、ほとんど規格や素材が変更される事のないまま現在まで用いられている。おおむね半世紀前のピストレーサーも同然といって良く、現在他のトラックレースで用いられるピスト競技用車とは大きな性能差がある。これは公営競技としての公正さが念頭にあることが大きいが、他にも規格緩和による部品代高騰の抑制、横方向への移動における操縦安定性の維持、落車事故時における衝撃吸収性、車両性能の向上に伴う過度の高速化による重大事故発生の防止など様々な要因が絡んでいる。なお部品によってはタイヤ(SOYO=ダイワボウプログレス)やリム(新家工業)など製造数や品質などの観点から事実上のワンメイクとなっているものもある。フレームだけで10数万円以上の製作費が必要となるが、その他の部品は規則上の自転車における制限が存在するため、車体総額で50万円を超える事は稀である。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なお2012年7月から開催されているガールズケイリン(女子競輪)、および2014年1月から開催されているKEIRIN EVOLUTION、2021年10月から開催されている250競走においてはカーボンフレームにスポーク以外のホイールが使用されており、他のトラック競技で使われている車両の仕様に近いものとなっている。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ちなみに、競輪草創期には実用車や軽快車、タンデム式(複式競走車)の自転車でも競走が行われていたことがあった。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ハンドル・サドル・クランク・ペダル・ギア・チェーンなどの部品は、規格に基づいて製作されたもの中から選択して使用する。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "サドルは、一般の自転車と比べ細くて堅い。サドルを支える芯棒(シートポスト)は、設定する高さが1,2mm違うだけでペダルを踏み込む際のバランスが変わるとされる。サドルを高くすると加速しやすくなる半面、横から力がかかった際にバランスを崩しやすくなり、落車の危険が増す。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ハンドルは、「ピストバー」と呼ばれる、曲線だけで構成された物が使われている。乗る選手の体型や脚質によって幅や湾曲、材質が異なる。フレームとハンドルの固定部分(ハンドルステム)は、身長や腕が長い選手ほど長く(前へ突き出す方向に)設定する傾向にある。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ペダルはクリップ・アンド・ストラップモデル。選手が履く専用シューズの底には「サン」(桟)と呼ばれる溝の入った金属プレートが釘で打ちつけられており、このサンにペダルプレートを噛み合わせ、さらに靴の爪先をトウクリップで固定、足(土踏まずから前の部分。脚ではない)を革やウェブベルト製のストラップベルトでペダルに縛り付ける。これにより、ペダルを踏み込む力だけでなく引き上げる力も加速に利用することができる。1980年代に登場しロードレースやトラックレースでお馴染みのビンディングペダルにNJS基準適合品はない。“位置につく”と足を着くことは出来なくなるので、スタートラインには号砲で飛び出すとロックが外れそのまま走り出せる専用のスタンドがあり、これに自転車をセットしてから乗る。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "車輪は直径が27インチ と決められており、金属スポークおよびリムにより構成され、タイヤは外径675mm のチューブラー(チューブ一体型)タイヤを使用するが、コースコンディションや脚質による選択は出来ない。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "車体となるフレームはクロムモリブデン鋼のパイプ(鋼管)を素材とした「クロモリフレーム」と呼ばれるもので、使用者の体格に合わせて完全オーダーメイド で製作されたものである。フレームのうち、サドルを支える縦パイプ(ロードレーサーでいう「シートチューブ」)の角度(シートアングル)は乗る選手の脚質によって異なり、具体的には先行選手は後ろに重心をかけて乗る傾向にあるため縦パイプの角度も後ろに寝ている。捲りの選手はチェーンの長さを短くし、踏み込む力が伝わりやすいよう縦パイプの角度を立たせている。競輪選手は、前輪軸と後輪軸を結んだ線よりもクランク軸がどの程度下げるか(ハンガー下がり)に気を神経をとがらせる。ハンガー下がりが大きいと安定感が増す反面、力の伝わりが悪くなるためペダルの踏み込みが重く感じられるようになり、小さいと踏み込みを軽く感じるようになる。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ギアは空回りのない固定ギアで、クランク側と後輪ハブ側のスプロケットの歯数を選手が自分で判断し交換する(下記に詳細)。ブレーキは装着しておらず、減速したい時にはギアが空回りしないことを利用して後ろへペダルを踏む(「バックを踏む」という)。ファンの車券作戦においてポイントとして結びつく重要なルールの一つに「ギヤ 倍数」がある。ギヤ倍数とは、自転車についている前後2枚のギア(スプロケット)のうち、クランク側ギヤ(大ギヤ。チェーンリング)の歯車の数と後輪のギヤ(小ギヤ)の比率をいい、「大ギヤの歯車の数を小ギヤの歯車の数で割ること」で求めることができる。各選手はレース前にギヤ倍数を申告し、数値は出走表に記載される。出走表掲載後に急遽変更する場合もあり、その際は場内で告知される。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "大ギヤの歯車の数は44から55、小ギヤの歯車の数は12から16と決められており、かつては最大倍数の4.58まで使用できていた が、2015年の開催からは男子は4.00未満(実質最大3.93)、女子は3.80未満(実質最大3.79)という規制 も加えられ、その制限のもとでギヤ倍数が決められる。なお、250競走においてはトラックレースのケイリンに準じたルールを採用しているためギア倍数に対する規制上限はかなり大きく、最大5.67倍まで認められている(つまり大ギヤ1回転で後輪は5.67回転する)で出走するケースも見られる。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "従来の競輪における一般的なギヤ倍数は3.5ないし3.6で。ギヤ倍数が低いほど漕ぐ力が軽くなりダッシュ力に優れる。その逆では当然重くなることからダッシュ力は弱いがスピードに乗れば速くなり、高速を維持しやすくもなる。一般の自転車のギヤ倍数は2倍強であるが、競輪で使用する自転車の場合は3倍強から4倍弱である。ギヤ倍数が大きいとペダル1回転で進む距離が長い反面加速にしにくく、小さいと加速はしやすいがペダル1回転で進む距離が短い。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "「先行選手がギヤ倍数を普段より落とせば先行・逃げ切り狙い」「先行選手がギヤ倍数を上げれば捲り狙い」などが読み取れる。なお近年は周回中における先頭誘導員(後述)の誘導スピードが速くなったことによる体力の消耗防止や、勝負どころにおいてトップスピードで走れる距離を伸ばすため「大ギヤ」を選択する選手が近年は増えており、かつて脚力が衰えたベテラン選手が先行選手についていくためにギヤ倍数を上げるのとは異なる傾向にあるため、個々の選手の「ギヤ倍数」には注意を払う必要がある。 2020年と2023年には脇本雄太が先行して21秒5の上がりタイム(400m)を出しているが、これは従来の3.54のギヤではほぼ考えられないタイムである。3.54のギヤと3.92のギヤではそれほどの差がある。", "title": "競輪用自転車" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "競輪用ヘルメットは、オートバイ用ヘルメット規格を元に競輪自転車用に特別設計されたポリスチレン充填の硬質外殻構造で小さな通気口が設けられている(発泡スチロールにプラスチックのシェルがかぶせられ多数の通気孔が開けられているロードレース用とは全くデザインが異なる)。ヘルメットの衝撃エネルギー吸収能力は、発泡ポリスチレンの厚みを増すことで高めることができるが、これにより厚くて重くなり、装着するには暑くなる。NJS規格適合品はアライヘルメットとDICで製造している。商品名は「競輪ヘルメット」。選手によっては、特別競輪などで優勝した際にその場でヘルメットを脱いでスタンドに投げ込むというファンサービスをすることもある。余談だが、1990年代までは、専門紙プロスポーツなどでのプロフィール用に掲載された顔写真や、当時の選手手帳に貼付するための顔写真は、選手全員がヘルメットを被った状態で写っていた。", "title": "競輪用ヘルメット" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "競輪が行われる競走路(バンク)は、木製板張りであるTIPSTAR DOME CHIBAを除き、コンクリートまたはアスファルトで舗装され、形状はすり鉢状である。コーナー部分はおよそ30度、直線が2ないし4度内側に傾斜している。この傾斜をカントといい、カントの傾斜はコーナー部分をバンクに対し垂直に立った状態で左右にヨレる(遠心力の影響を受ける)ことなく走るには、時速60キロで走らなければならないように設定されている(時速60キロよりも速いと外側に、遅いと内側にヨレてしまう)。なお、コーナーだけでなく直線部分も内側に傾斜しているのが一般的である。直線部分のうち、ゴール側をホームストレッチ、ゴールと反対側をバックストレッチという。残り半周となった時のバックストレッチを最終バックという。なお、この「カント」という語は、鉄道用語からきている。", "title": "競輪場" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本国内で現存する競輪場においては、1周の長さは以下通り4種類(厳密には5種類)ある(このうち、多くの競輪場が400mを採用)。なお、現存しない競輪場も含めると、300m(西宮競輪場。開設時から1978年まで)も存在した。", "title": "競輪場" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "競走距離は、級別により基本的に統一されている。S級は2,000mを基本距離とするので、333m・335mバンクの場合は6周、400mバンクの場合は5周、500mバンクの場合は4周で争われる。A級及びガールズケイリンL級は、S級より1周回少ない競走距離で行われ、333m・335mバンクの場合は5周、400mバンクの場合は4周、500mバンクの場合は3周となる。実際はスタート地点はゴール線より後方にある競輪場がほとんどであり、その距離15mないし25mが競走距離に追加されるが、高知競輪場のみゴール線上に発走機が置かれているため、S級は2,000mちょうど、A級・ガールズケイリンは1,500mちょうどとなる。", "title": "競輪場" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ただし例外があり、男子のGI決勝戦ではS級の距離より1周回追加の2,425m(333m・335mバンクでの開催を除く)にて、KEIRINグランプリでは2周回追加の2,825mにて実施される。A級戦でも、S級特別昇級をかけたレインボーカップファイナルはS級と同じ周回数で実施される。", "title": "競輪場" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお、250mバンクで実施されるPIST6では6周回の1,515mとなっている。", "title": "競輪場" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "バンクには様々なラインが引かれており、基本的に幅は3cmだが、判定の基準位置はラインごとに異なる。下記は通常の競輪にて用いられるラインであり、250競走では異なる。", "title": "競輪場" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なおバンク上には表示されていないが、内圏線内側から30cmかつ外帯線内側から40cmの位置が「測定線」となっており、一周の周長はこれが基準となっている。", "title": "競輪場" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "バンクを走る選手を取り巻く環境は、立地条件の影響を受ける。たとえば海沿いにある競輪場(富山、四日市、玉野、別府、佐世保)では海風の影響が大きい。また、ドーム式の前橋と小倉では、観客が増えるに従って場内の温度が上昇し、バンクが乾燥する。", "title": "競輪場" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "自転車競技が行われる国体が開催された関係から、滋賀県を除く全ての都道府県には競輪場または自転車競技場のいずれか(ないしは両方)が設置されており、競輪場がない県でも自転車競技場を拠点に選手の登録地(本拠所属地)とする事ができる。なお、滋賀県は大津びわこ競輪場が閉鎖・解体され、自転車競技場は元々なかった上にその代替施設も建設されなかったため、全国で唯一自転車競技場が存在しない県となった。沖縄県にも自転車競技場があるため沖縄県を登録地にしている選手もいる一方で、島根県が登録地の選手は菅井孝治(60期)が2002年10月31日に引退したのを最後に、また鳥取県が登録地の選手も齋尾大丈夫(69期)が2014年1月14日に引退したのを最後に、それぞれいなくなった。それ以降でそれら2県の出身の選手は、近隣の競輪場のある他県の支部に所属しそこを登録地としている。なお、島根県、鳥取県を除いて本拠所属地で最も登録現役選手数が少ないのは山形県で、3名(2023年6月時点)。このほか、身近に拠点となる競輪場や自転車競技場がないため、またはローラーでの練習が嫌いだから、などの理由で街道などを走って長距離を乗りこなす練習を主体にしている選手も存在する。", "title": "競輪場" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "バンクと呼ばれる擂鉢状のコースを周回し、スタートから1周とゴール前半周のタイムは計測されているもののタイムトライアルではなく、いかに早くゴールするかがポイントとなる。これにより、1990年代までのレースでは、スタートの号砲が鳴っても横並びで睨み合い・腹の探り合いになってなかなか発走台を離れない、発走台を離れても牽制し合ってなかなか先頭誘導員の後ろに付かない、俗に言う「出渋り」が見られたが、21世紀に入ってからはレース毎に「規定時間」(スタートから第一周回のホームストレッチラインまでのタイムで計測)が設けられ、第一周回のホームストレッチライン通過時にこれを超過すると「タイムオーバー」となり賞金は50%カットされるようになった。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "男子の競輪の場合、1レース2000mであればそれを約3分30秒で走る。これから計算すると総平均時速は約35kmだが、ゴールスプリントにおける最大瞬間速度は約70kmに達するといわれている。ただ、走行中は常に大きな風圧の抵抗を受けることから、選手は複数人(主に2人 - 4人)で連携して戦う方が有利であり、通常はレースごとに選手同士で『ライン』と呼ばれる即席のチームを組んでレースに臨んでいる。レース中、各ラインの先頭の選手は最も風圧を受ける不利はあるが自ら動くことでレースの主導権を握ろうとし、その後ろについた選手は(前の選手を壁代わりとすることで)風圧の抵抗を弱めて体力を温存させてもらう代わりに他のラインを追い抜かせないよう妨害するなど「ギブアンドテイク」を行う。そのため、競技自体は個人戦であるが、団体競技的な側面も併せ持っている。この複雑さが、完全に個人戦である競馬や競艇、オートレースにはない競輪の魅力であり、競輪初心者にとっては、その魅力にハマるか(競技の特性を理解できず)嫌うかで分かれている。なお、かつてKPK導入より前の競輪(女子競輪も同様)においては、ラインを組む等の打ち合わせは八百長行為とみなされ全面禁止とされていたが、強い先行選手には自ずと強い追込選手がマークするといった力関係によるラインのようなものが形成されていた模様。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "PIST6やガールズケイリンにおいてはラインの形成は禁止されているため、男子の競輪とは異なり完全に個人戦である。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "近親者(親子・兄弟姉妹・夫婦)で同じ開催にあっせんされることは多々あるが、番組編成においては、開催における決勝戦(勝ち上がり戦)やKEIRINグランプリ、オールスター競輪でのドリームレース・オリオン賞レースまたは共同通信社杯競輪、オールガールズクラシックでの予選競走(自動編成のため)などといったやむを得ないケースを除き、近親者が同じレースに出走することがないよう配慮されている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "他の公営競技と同様、八百長防止のため、選手は、例え身内であっても競走参加中は外部との接触が一切禁止となる。そのため、競走参加中の選手は施行者が指定する選手宿舎で合宿生活を送らなければならず、外部とは隔離された状態となる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "競輪が始まった当初は、施行者が指定する競輪場近くの旅館が選手宿舎となっていた。現在は全ての競輪場で選手宿舎を備えており、大抵の競輪場では同一敷地内に選手宿舎を併設しているものの、小田原競輪場や岸和田競輪場など一部の競輪場では敷地外に選手宿舎を設けているケースもあり、その場合は選手は専用のバスで選手宿舎と競輪場を移動する。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "基本的なシステムは競馬場の調整ルームとほぼ同じだが、居室は個室ではなく、4人一部屋の相部屋である事がほとんど。一部の競輪場宿舎の浴室は天然温泉が出るところもある。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "選手は、前検日より開催終了日ないしその翌日まで(最長で一週間程度)選手宿舎で過ごすこととなるが、選手はまず宿舎入りする際に、選手登録証と携帯電話などの通信機器(通信機能の有無は問わない)を施行者に預けなければならない。また、特にドーピング防止の観点から、飲食物のうち酒、生もの、生菓子などが持ち込み禁止とされている(宿舎内売店では酒類も販売されており、飲酒は可能。但し提供は全レース終了後となる。2020年からはコロナの影響で全面的に飲酒禁止となっている)ほか、トランプや通信機能の付いたゲーム機、出前なども持ち込み禁止とされている。これらが発覚した場合は即、競輪場から出場契約が解除され欠場ないし途中欠場となり、後に一定期間のあっせん停止などの処分が下される。なお、カメラについては従来は禁止されてはいなかったため、垣外中勝哉のように検車場や選手食堂などの様子をブログでアップしていた選手もいたが、2020年に入ってからはカメラも持ち込み禁止とされた。代わりに、選手個々によるが、選手によっては本や漫画などを持ち込んだりするケースのほか、DVDとDVDプレイヤーを持ち込んで空き時間に鑑賞するケース、ゲームボーイ(初期型)など通信機能のない携帯ゲーム機で遊ぶケースのほか、現在ではコーヒーマシンを宿舎に持ち込み自前で淹れたてのコーヒーを味わう選手もいるなど、空き時間の過ごし方は多様化している。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "スタート前、前レースの終了直後には選手紹介が行われる。この時すでにレースは始まっているともいわれ、各選手はラインや戦法について意思表示をし、バンクを軽く2、3周する。このスタート紹介は、「地乗り」「脚みせ」とも呼ばれる。「地乗り」「脚みせ」が終わると、選手達は一旦控え室に戻る。レース直前に多くの選手が清めの塩を、自身の体や自転車にかける。本田晴美は唇に塩を塗っていたことで有名。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "発走時間になると、選手が発走機に集まり、自転車(の後輪)を発走台にセットして固定する。係員の合図で客席に一礼したあと自転車に跨る。サドルに座り、足を、履いているレーサーシューズの上からクリップバンドでペダルに縛り付け、ファンファーレが流れた後、「発走します」とアナウンスされる。この間に選手によってはいろいろなルーティンを行うこともある。「構えて!」の号令で各自ハンドルを握る。スターターのスターターピストル(電子ピストル)と発走台は電気接続されており、号砲(電子音)が鳴りピストルの先端が発光するとともにロックが外れるようになっている。なお、最初期は係員が各選手ごとに自転車を握って支えていた(これは現在のPIST6でも行われている)ほか、ロック機能が付いた現在の発走機が導入される前はフライング(号砲の寸前に選手が飛び出し、係員が引っ張られて手を放してしまう)も見られた。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "号砲が鳴りスタートした後、選手全員が25メートルラインを過ぎると競走は成立する(周回板の掲示間違いなどで競走不成立となる場合を除く)。なお、号砲後もロックが外れない、25メートルラインを通過する前に選手が落車したり、足をペダルに固定するグリップが外れるなどのトラブルが発生すれば、乱打で打鐘したりピストルを鳴らして選手に競走中止を伝え、再発走となる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "レース序盤は先頭誘導員を先頭に、全選手が一列(「一列棒状」と呼ばれる)の隊列を組んで走るのが一般的である。その原因としては、隊列を外れると他の選手よりも外を走り、したがってより長い距離を走らなければならなくなること、他の選手の直後を走る場合よりも大きな風圧を受けることが挙げられる。ただし、位置取りを巡って争いが生じた場合は別である。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "残り4周以上の場合、残り周回数を示す表示板は白色に数字が記載されている。残り3周の表示は青色の地に3と書かれ、この周回を青板(あおばん)周回と呼ぶ。さらに残り2周で赤色の赤板(あかばん)に変わる。先頭の選手が残り1周半を通過すると半鐘が打ち鳴らされる。これを「打鐘(ジャン)」といい、先頭を走る選手が残り1周となるゴールラインを通過するまで鳴らされ続ける。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "男子の競走の場合、先頭誘導員は、333m・335mの場合は残り2周半まで、400mバンクの場合は残り2周まで、500mバンクの場合は残り1周半までは必ず先導している。この距離以降は、選手が誘導員を抜きにかかる走りが見られたときに審判の指示で誘導員が退避する(誰も抜きにかからない場合でも規定の位置まで進行した時点で退避する)。ガールズケイリンの場合は、333m・335mの場合は残り2周、400mバンクの場合は残り1周半、500mバンクの場合は残り1周で必ず退避する。誘導員が退避したところからラストスパートがかかり、ゴールまで息詰まるデッドヒートが展開される。各車が込み合うような展開の場合には、時として接触・落車事故が発生することがある。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "レース終了後は、各選手に対して、敢闘門に同県や同地区の(そのレースに出ていない)選手が自転車を取りに来てくれる風習がある。また、どのレースでも、勝利した選手が他の選手に自腹でポカリスエット(かつてはリポビタンDも)を配るのが慣わしとなっている(ガールズケイリンでは開始当初の1期生同士がそれをやらなかったため、その流れで現在もやっていない)。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "悪天候などでレースが中止となった場合、順延しない場合の開催では、準決勝や決勝の進出者はガラポンを用いた抽選による「みなし着順」で決まる。また、万が一あるレースで9選手全員が1着同着となった場合の勝ち上がりについても、その対応を決めてある。その他、ガールズケイリンではポイント制のため、決勝ないし準決勝において予選での獲得ポイント第7位が複数名いた場合、抽選で決勝ないし準決勝進出者を決定することもある。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "※以下は男子の競輪についての記述であり、250競走『PIST6』並びに女子(ガールズケイリン)については異なる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "グレードレース(GIII以上)は通常は9車立てにより行なわれるが、その他のFI・FIIはS級戦も含めて全てのレースが7車立てである。なお、最小は5車立てである。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "かつてはモーニング競輪、ミッドナイト競輪、A級3班によるチャレンジ戦、新人戦(競輪ルーキーシリーズ)、S級ブロックセブンでのみ7車立てにて行われてきたが、新型コロナウイルス感染症拡大を防ぐため参加人数を極力抑える目的で暫定的に2020年7月から9月まではGI・GIIを除き全てのレースで7車立てとし、同年10月以降現在に至るまでグレードレース、全日本プロ選手権自転車競技大会記念競輪、レインボーカップファイナル以外は、S級戦も含めて全てが最大7車立てにて行われている。なお、TIPSTAR DOME CHIBAで行われている250競輪(PIST6)は6車立てが基本で、最小は4車立てである。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "かつて後楽園競輪場や大阪中央競輪場などでは最大12車立てでのレースが行われていたほか、初期の甲子園や、好景気の頃でも富山・防府・小松島・佐世保が、経費節減のため原則(ダービートライアル等を除いて)8車立てで開催していた時期があった(準決勝3着は抽選で2名のみが決勝進出)。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "9車立ての場合、4番5番・6番7番・8番9番は同一枠として単枠の1番・2番・3番をあわせて6枠を構成するため、慣習的に4番・6番・8番には競走得点下位の選手が置かれる。中でも6番車は最も競走得点の低い選手があてがわれるが、これら4番・6番・8番の選手が入着した場合は高配当が出ることが多く、競輪ファンはこれをもじって「ヨーロッパ」と呼ぶ。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "負傷や失格、棄権による翌日の欠場者が発生した場合、開催地の近県の選手(FI開催のS級戦では2班選手のみ)を中心に補充が行われることがある。GIでは事前に選定された補欠選手数名が、競輪場近くのホテルで待機する。開催中に欠場者が発生した場合、補充選手を加えてもなお不足する場合は欠車として最小5車立てにてレースを行うか、5車揃わない場合はレースカット(12レース開催予定から10レースないし11レース開催とするなど)を行って対応している。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ミッドナイト競輪では、2020年10月から2021年3月までの開催で、分かりやすく楽しんで頂くことを目的として、ガールズケイリンも含めた全てのレースにおいて競走得点最上位選手を1番車とし、1番車から競走得点上位順に選手を並べる競走を試行実施した。これが好評であったことから2021年4月以降も継続しており、2023年8月時点でも同様に、各レースごとにそのレースにおいて競走得点が最上位の選手から車番を割り振って出走表をシンプルにし、予想をしやすいよう配慮している。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "レーサージャージと基本的には同じ。違いはバックポケットがなく、長袖のみ、またジャージと同じ色のヘルメットカバーを着用すること。またレーサーパンツの両脇に入る線も、級毎に色が異なる。手袋も、フィンガーレス(指切り)ではなくフルフィンガードの物をはめる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2002年4月に上述の通り服色が改められ、全車が「単色」となった(※従来通り先頭誘導員は紺地にオレンジのラインの服で変更なし)。これで変更されたのは5番以降(右の画像参照。5番が青と白から黄色に、黄色を取られた6番が緑に、緑を取られた8番がピンクに。7番が黒と黄色からオレンジに、9番が赤と緑から紫に)。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2代前(1964年から1984年)の服は1番から5番までは今の色と同じだが、6番は白と黒を交えたもの、7番は白と赤を交えたもの、8番は白と青を交えたもの、9番は赤と青を交えたものとなっている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1つ前(1984年から2002年)の服が導入される直前の1984年9月・オールスター競輪では、5番が青と赤、7番が黄色と赤、つまり差し色として赤を統一したが、その色使いは変更時に採用されなかった(他の番車の色はそのまま採用)。あわせて従来の五分程度の半袖から、長袖に変わった。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "また、過去の12車立では10番が黄色と黒、11番が赤と黒、12番が青と黒だった。旧服は枠番の確認を容易にするため4枠4番から6枠9番までは枠番色を基調として奇数車に別の色を交えており、現行服は車番連勝車券が一般化したことから全車別色となっている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ビッグレースの決勝やGPでは、派手な限定ユニフォームが用いられることがある。1994年の第47回日本選手権競輪(静岡)では、上下同じデザイン・色の勝負服を着用した。他に、北京オリンピック日本代表選手応援協賛競輪を機に、2008年には特別ユニフォームが特定の大会で採用された。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2005年1月には武田豊樹がラ・ピスタ新橋と契約し、公営競技初となるスポンサー名入りユニフォーム(左肩)を着用。他の選手も追随した。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "現在は、競輪、ガールズケイリンともに、GI・GIIやグランプリといったビッグレースを制覇した者に対し、特製のチャンピオンジャージが贈呈されており、優勝者はレース後の優勝インタビュー、記者会見ではその特製のチャンピオンジャージを着て臨んでいる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "レーサーパンツは、横のライン上に7つの星が描かれている。その年のS級S班のみ黒いラインの赤いパンツを着用。他のS級選手は赤いライン、A級は緑のラインでどちらも黒いパンツ。なお、ガールズケイリンでは開始当初はワンピース型であったがのち男子と同じくシャツとレーサーパンツを分け、右が黄色・左が紫のラインが入ったピンクのパンツとし、2022年9月30日を初日とする開催以降は男子と同じく黒のパンツに変更された。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2012年のガールズケイリン開始により、従来のルールが男子向けの「先頭固定競走(オリジナル)」となり、新たに女子向けとして「先頭固定競走(インターナショナル)」のルールも設定された。ここでは従来からのオリジナルルールを中心に記述する。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "現在行われている競走は先頭固定競走と呼ばれ、スタートから残り1周半付近(ジャンが鳴る地点)までは選手と同じ型の自転車に乗った先頭誘導員(正式には先頭員というが、一般的には誘導員と呼ばれているため、以下、誘導員と表記)が選手の前を走る。選手は、333mないし335mバンクでは残り2周半のBS(バックストレッチ)ライン、400mバンクでは残り2周のHS(ホームストレッチ)ライン、500mバンクでは残り1周半のBSライン、それぞれを切るまで誘導員より前に出ることができない。これは、先頭を走ると風圧の影響を受ける上、後続の選手の動向を把握しにくくなることに配慮した制度である。特に2019年からはこのルールが厳格に適用されるようになり、実際にこれに違反した場合は失格・即日帰郷となるだけでなく、即座にあっせん保留、かつ一定期間あっせん停止(実質的に、あっせん保留の期間も含めて4か月程度)の処分が下される。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "また、先頭誘導員を内側から抜くことは禁止されている。主導権争いなどでうっかり先行選手が内側から追い抜いてしまった場合は失格となる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "競走で誰も誘導員をかわさなければ最終2コーナーまで誘導する。なお選手たちの発走台と違い、先頭誘導員の発走台にはロック機能は付いていないため、号砲前でもすぐ外れるようになっている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "誘導員は車券の対象ではないため、レースに出走する選手と区別する目的で、紺地に橙色のV型ラインの入ったユニフォームとトランシーバーのスピーカーが付いた ヘルメットカバーを着用する。また、誘導員のスタート位置は選手よりも25m前である。また、不正防止の観点から、誘導員は当日、レースに出走する選手たちと直接接触することがないよう、競輪場ではレースに出走する選手たちとは別の控室とバンクへの入退場口を使用する。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "誘導員は大抵、そのレースが開催されている競輪場をホームバンク(練習拠点)とし、レース当日は競走に出走しない選手が行う。誘導員にも競走に応じて選手と同額の手当が支給されるため、収入が少ない成績下位のA級の選手が比較的多く務める。ただ、グランプリやGIレース決勝戦となるとS級のトップレーサー同士での戦いとなるため、誘導員もそれなりのレベルであることが求められることから誘導員はS級選手が務めており、注釈にある通り、レースによって誘導員手当の額が異なっている。通常、特別競輪で優勝歴のあるようなトップレーサーのS級選手が誘導員を務めることは極めて少ないが、地元での開設記念競輪(GIII)の決勝戦などでファンサービスを兼ねて務める例がある。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "誘導員の誘導ペースは競走形態に大きく影響を与える。1990年代はラインでの作戦としてイン切りが全盛期であったため、スプリント競走のように超スローペースになることが多かった。しかし2000年代にルールが改正されると誘導ペースが高速化し、早期に誘導員を追い抜くことができなくなったこともあり、一本調子の高速レースに強い大ギアが力を発揮するようになったため、トップクラスの選手の多くが大ギアとなった。ただ上述の通り、2015年よりギア倍数は4未満へと規制されている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "誘導員となるには、誘導員試験に合格し、誘導員資格を得る必要がある。現役の競輪選手であること、かつ誘導員試験において2000mタイムトライアルで2分55秒以内が出せること(選手なら必ず出来る設定)が条件である。但し、誘導員資格の有効期間は2年間であり、資格を継続する場合は2年ごとに試験を受け直しその都度合格することが必要である。一方で、通常の競走で追走義務違反や敢闘精神欠如など悪質な失格をした場合は誘導員資格を取り消されることもあるほか、あっせん停止の処分を受けると1年間の資格停止となることもある。また、選手自らが誘導員資格の取り消しを申請する場合もある。なお、女子選手は男子とは異なる「先頭固定競走インターナショナル」ルールで競走を行っていることから「先頭固定競走オリジナル」ルールに対応できないため誘導員になることはできず、ガールズケイリンでも誘導員は全て男子選手が務めている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "なお、2014年1月より 『KEIRIN EVOLUTION』 として男子による「先頭固定競走インターナショナル」ルールの競走もGIII(開設記念競輪)の最終日に単発の企画レースとして実施されていたが、同レースは2019年以降は集中開催となったため、それ以前と比べて実施される回数は大きく減少しており、2020年以降では東京オリンピックとの兼ね合いとコロナ禍の影響も、そしてPIST6の開始も重なり休止している。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "かつて特別競輪や記念競輪で行われていた3000mを超える長距離戦に値するレースでは、2人の誘導員が誘導していた。その場合、最初の誘導員はジャンが鳴る前の周回でコースを出るが、もう1人の誘導員は、ジャンが鳴り終わる頃まで誘導して、その後コースから去っていた。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "かつては誘導員のない競走(普通競走)もあったが、車番連勝式車券が発売される競走では行われないようになり、事実上の廃止となっている。普通競走では誘導員の役割を選手が行なっており、これを「トップ引き」と呼ぶ。ルール上はどの選手がトップを引いてもかまわないことになっているが、やがてトップ引きを行う選手は、競輪の枠式車券で2人枠となる場合に最下位に当たる位置づけとなる事が最も多い6番車の選手が行うことが慣例となった。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "車番連勝式車券が発売される直前の頃には「先頭固定競走」として行う予定の競走でもレース番組の確定直前に選手からトップ引きを行う旨の申告があった場合は「普通競走」に変更された。これは何らかの理由で明らかに格上の競走に出走することになった力の劣る選手、あるいは引退間際の選手などが事前に申告するもので、この場合該当選手の車番は最も勝ち目が薄くなるため、申し出た選手の車番は慣例に倣って6番車に変更される。普通競走でトップ引きを行った選手には正規の入着賞金のほかに先頭手当も支給され(賞金と手当とで、5着入着の賞金くらいの収入になった)、雨敢闘手当なども他の選手同様に支給される。なお概要節の「タイムオーバー」は、元々トップ引きの選手が極端にペースを落とすことを避けるための規定であったが、この規定は現在の先頭固定競走でもスタート時のスロー牽制を防止するため適用されている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "先頭固定競走の誘導員は車券の対象とはならないが、この普通競走では6番車のユニフォームを着た選手が誘導員代わりであるため、車券の対象となることが違いとなる。先頭固定競走から普通競走に変更となる旨の告知は当日の出走表や場内アナウンスなどでなされるため特に混乱が生じることはなく、投票者にとっても暗黙の了解ではあったが、同じ5枠の7番車との車券である、枠番連勝式(枠連)5-5の車券も発売されていた。これに対し、普通競走において仮に5枠以外の選手全員が落車棄権してしまえば枠連5-5が的中車券となるため、以前から「おかしい」という声はあがっており、実際に1973年4月9日の千葉競輪場第7競走において、9人中、5枠両名以外の全7人が落車したため2,363,180円という配当が出た(これは当時全ての公営競技において最高記録)。これは永らく破られず、現在でも枠番連勝式の払戻金額としては全公営競技史上最高となっている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1995年9月15日の立川S級シリーズから車番連勝式勝者投票券が発売された後も暫くは普通競走が行われていたものの、トップ引きの6番車が絡んだオッズに混乱をきたしたことから、同年12月に車番連勝式を発売するレースは先頭固定競走とすると明記された。またトップ引きが公正な競走でないという問題については過去に裁判も行なわれており、「トップ引き自体が競輪の観客における公知の事実」という判断がなされている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "従来からの普通競走と先頭固定競走(オリジナル)に対するルール違反は、主なものが以下のように定められており、違反により落車および自転車故障の原因となった場合、または違反行為そのものにより、失格となる場合がある。ただし競技規則には違反を問わないケースも明記されている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2003年4月から、審議対象レースの映像公開が開始された。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "前述のように競輪はあくまで個人が他人より先着するために競走をするのが基本であるが、その競走をより有利に進めるために関係の深い選手同士で連携をする。連携は各選手の脚質による戦法で決まる。その戦法の主なものを次に述べる。ちなみに、先行・追い込み・捲りの戦法を使いこなせることを「自在」という。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "競輪は残り1周半程度までは1本のラインを作って進む。その時は関係の深い者同士で並びの前後を決めるのであるが、その際に一番前を走る戦法の選手が先行選手である。決まり手は「逃(げ)」と表される。先行選手は残り1周半程度から後ろの選手を引き連れてダッシュをする。つまり先頭誘導員が下がって選手達のスピードが上がってから一番前を走っているのが先行選手と言ってよい。一番前を走るので誰にも邪魔されずゴールに先着する可能性は一番高いが、反面時速70km程度の速度で走るので猛烈な風圧を受けながら走らねばならない。風圧を受けつつ1周ほどスピードを維持する脚力(地脚)が要求される ため、並びの中で最も若い選手がなることが多い。疲労で速度が鈍った、いわゆるタレたときには追い込み選手がいかに残してくれるかによって良い着順を取ることが出来る。後ろに追込選手を引き連れて走るため先行選手を「機関車」と呼ぶこともある。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "直線の短いバンクでは、追い込み選手がスパートする距離が短くなることから先行が有利となる。また、コーナーの大きいバンクはカントが緩く、捲りをかけた選手が遠心力で外に振られやすくなるため、先行が有利となる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "最終バックに差しかかった時に風向きが追い風だと、先行選手は捲りの選手よりも先に風の影響で加速がついて捲りに対応する余裕が生まれ、有利になりやすい。逆に最終バックが向かい風だと、捲りの選手よりも先に風の影響を受けて減速することになり、その瞬間に加速されると距離を縮められやすくなる。ちなみに、風のないドーム式の競輪場では先行が有利といわれる。これは、捲りの選手が隊列から外れた際に大きな風圧を受ける傾向があるためである。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "屋根のないバンクに雨が降ると先行有利になるといわれる。これは競輪用の自転車には(当然だが)跳ね除けつまりマッドガードがなく、水を跳ね上げて走ることになることから、各選手は水が目に入ることを嫌い他の選手の直後に位置しなかったり顔を背けて走ったりするためである。前者は先行以外の選手も先行選手と同様の風圧を受けることを意味し、後者はレース展開を把握しづらくなることに繋がる。さらに一瞬の加速力を要する捲りや追い込みは先行よりもハイドロプレーニング現象による不利に見舞われやすく、その分先行が有利になる傾向にある。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "競輪では先行する選手がレースを作るといわれ、先行選手の人数がラインの形成に影響を及ぼす。たとえば2車先行の場合はラインが二分し、3車先行の場合はラインが三分する。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "先行選手の後ろを走る戦法の選手を追い込み選手、あるいはマーク屋、差し屋といい、決まり手は「差」と表される。数十メートルであればトップスピードを維持できるという対応の選手に向いた戦法である。風圧を前の先行選手が受けてくれ、スリップストリームを作ってくれる中で走ることが出来るため楽にゴール前まで進むことが出来るが、先行選手をぎりぎりまで「残す」ために後ろから来る選手をブロックしなければならない。その後先行選手に先着するのが正しい追い込みの仕方で、早々と別のラインに切り替える、直線の手前でまだ脚のある先行選手を抜いていくなどの走法は邪道といわれる。先行選手やまくりの選手は「縦の競走」追い込み選手は「横の競走」をすると言われる。先行選手のすぐ後ろを走っている選手を番手、その後ろは三番手・四番手......と呼ぶ。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "先行選手は先にダッシュを仕掛けるが、これに対して先行するラインを後ろから追いかけて短い距離で一気に抜き去る戦法を捲りという。1周以上スピードを維持するのは無理だが200m程度であればトップスピードで走ることができるタイプの選手向きの戦法である。捲りを主戦法にする選手もいるが、先行選手が後手を踏んで捲りになったり、あえて力関係で捲りを選んだりすることもある。先行選手以上のダッシュ力は必要となり、かつ先行ラインを抜く時にそのラインの選手のブロックには耐えなければならない。もちろん捲り選手の後ろにも追い込み選手が続いている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "最終バックに差しかかった時に風向きが向い風だと、先行選手が先に風の影響を受けて減速することになり、その瞬間に加速することで距離を縮めやすくなる。逆に追い風だと、先行選手のほうが先に風の影響で加速がつき、余裕を与えやすくなる。コーナーの大きいバンクはカントが緩く、遠心力で外に振られやすくなるため、捲りにくい。また、直線部分の内側への傾斜が緩いと、向こう正面から捲りをかける選手はコーナーに差し掛かった時に急に上るような感覚に襲われ、捲りづらくなる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "男子の競走で、周回中に選手が組むチームをラインまたはスジといい、レース展開を形成するもととなる。かつては強い先行選手の後ろに力のある追い込み選手がつく場合が多かったが、1983年のKPK制度導入や1988年に累積事故点の罰則があっせん停止を含むものになる等強化される等の経緯によって、現在のような地区別のライン形成が定着したとされている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "ラインは一般に、各選手が練習場所とする競輪場や所属する選手会といった地区単位で形成されることが多い。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "中には日本競輪選手養成所の同期生同士(同班同室の場合や、地区にラインがない場合に組まれる)、世界選手権・オリンピックに出場した選手同士といったパターンや、同地域の選手がいない者同士がやむを得ず組むパターンなどもある。珍しい例では、117期を対象とした第45回ルーキーチャンピオンレース(2021年3月14日、大垣競輪場)において、法政大学の同窓生である鈴木陸来、寺﨑浩平、青野将大の3人が『法政大学ライン』を組んだ。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "選手の一般的な並び方は各選手の所属地区が3人ずつ分布している場合、それぞれの所属地区をA,B,Cの3地区だとすると「A先・A追・A追/B先・B追・B追/C先・C追・C追」となり、こういう形を三分戦と呼ぶ。もっと細かくなったものは四分戦、細分戦、コマ切れの競走と呼ばれる。一方で、先行選手が2名しかいないなどラインが2本しか形成されない場合は二分戦と呼ばれる。通常の番組編成(レース毎の選手の配分)においては、予選競走ではラインの形成を考慮して先行・追込・捲りの選手の数がほぼ均等になるように主催者側で選手を割り振るが、開催最終日の決勝戦など勝ち上がりにより自動的に出場選手が決まってしまうレースでは、稀に先行選手が1名しかいないレース(先行1車、逃げイチと呼ばれる)や、先行選手が一人もいないレースが行われることもあり、その場合は誰か一人が覚悟を決めて先行することになる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "各選手は前日の予想紙などからの取材応対時のコメントやスタート前の選手紹介でラインや戦法について意思表示をするので、そこからどのようなラインが組まれるか予想することができる。なお、極めて稀だが、選手がレース当日にコメントを変更する(前日に伝えていた並びとは異なる並びとする)こともあり、その場合はレース予想(車券作戦)やオッズにも影響を与えかねないため選手が自ら選手管理に申告し、レース実況アナウンサーもその旨を場内のファンないしテレビ中継の視聴者などに告知し注意喚起している。ただ、近年の競輪は若手を中心にラインを重視する選手が多く、位置取りについてあえてラインを無視した自己主張をするケースが減ったといわれている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "なお、女子選手によるガールズケイリンでは、トラックレースのケイリンに準拠したルールであるため単騎戦でありラインという概念がなく、あからさまにラインを組むことは反則行為とされている。また、のちに男子でもガールズケイリンに模したルールで、ラインという概念を排除したKEIRIN EVOLUTIONが一時期行われていたこともあったほか、TIPSTAR DOME CHIBAでの250競走「PIST6」でも同様にラインはなく単騎戦で行われている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "上述した戦法をふまえて、競輪競走においてはルールに明記されているわけではないが、選手全体に認知されている競走におけるやらなければならない行為、あるいはやってはいけない行為が存在する。これは選手道または競輪道とファンや選手に言われており、選手達の間で暗黙の内に決められた事と、ファンと選手の間で暗黙の内に決められた事がある。いわゆる不文律・アンリトゥン・ルール (Unwritten rule) の一つ。元競輪選手の山口健治は、競輪道を「人の道」と表現している。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "選手達の間で決め事とされているものとしては以下のものがある", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2020年の夏季において、コロナ対策のために同地区内あっせん及び7車立てレースがA級、S級戦でも多く導入された。 その際に、練習仲間同士の二分戦が多発することになったが、上記の戦法は禁忌とされ、並走をマイペースで行うということはされていない。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "またファンとの間で決め事とされているものとしては以下のものがある", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "上記に上げた行為はどちらもルールブックに明記されているルール違反ではなく、ただちに問題になることは滅多にないものの必ず反響を呼び、施行者側職員から注意を受けたり、選手の間でも仲間はずれにされる。また競輪場から競走のあっせん(競走参加の要請)をされなくなる事実上の制裁を受けることもある。トップスターでも時折こうした行為があり、ファンの記憶に残り語り継がれているものもある。あっせんの仕組みについては競輪選手の項を参照。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "同様の選手道は競艇においても存在しているし、ロードレースにおいても暗黙の了解が多数存在している(詳しくは「ロードレース (自転車競技)」の「暗黙の了解」の項を参照)。ただ、競輪はこうした選手間の立場による要素が他の競技よりも多いとされており、これが競輪を知らない人から見た場合の予想の難解さを生んでいる側面もある。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "競輪競走では選手が競走中に「競り」や「張り」として頭突き、肘打ち、体当たりなど行っているが、同じ自転車競技のサイクルスピードウェイ同様にある程度までは許容されている(ただしインターナショナルルールでは事実上規制される)。これは競輪創世紀からのルール形成において不問にされていたことが現在まで続いているもので、時より選手同士による激しい競り合いが起こる場合があり物議を醸すこともあるが、インに詰まらされた場合の脱出策や、後方から迫る選手の速度を落とすためなど戦略的に利用できる側面は大きい。明らかなルール違反であり競輪道(選手道)に反するものとして「金網ブロック」がある。これは文字通り、後方から進んでくる選手をブロックする際に、バンクの外周フェンス(金網)近くまで自分の車体を持ち上げて、相手選手をよりフェンス近くで走らせる威嚇行為である。大変に危険な行為であり、故意に相手をフェンスへ激突させた場合は悪質失格とされあっせん停止の処分等もあり得る。昔はこの行為ですら合法だったが、選手同士に遺恨を残すこともしばしばあり、ブロック行為が寛容であった時代ですらルール違反とされることになった。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "競輪選手は競走のグレードに対応した競走得点、マイナス計算となる失格点等によって「級班付け」が行われる。規定の点数を獲得できなければ事実上競輪選手としての資格を剥奪される。したがって、「点数がかかっている」選手がいる場合はラインでここぞとばかりに結束し、点数勝負の選手に勝利をもたらそうとするケースがある。その際は要注意であるとともに、ことギャンブルという視点で捉えた場合、チャンスでもある。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "競輪の競走格付けにはグレード制が採用されており、上位のグレードから以下のように分類される(本来の数字表記はローマ数字)。下位の競走を勝つことが上位の競走への出場に繋がるよう設計されており、各選手は年末に開催されるKEIRINグランプリ(男子)またはガールズグランプリ(女子)を目標に1年のシーズンを戦う。正しくは「グランプリ」及び「グレードn」だが、略して「ジーピー」「ジーワン(ツー、スリー)」「エフワン(ツー)」と呼ばれる。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "女子(ガールズケイリン)は上記の通り、GP・GIないしFIIのいずれかに出場する(男子がGII、GIII、FIでも女子は全てFIIとなる)。なお、ガールズケイリンの開催を含む場合は、日程表には❤または❤(ハートマーク)が付されている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "経済産業省の自転車競技法施行規則では、1競輪場・1施行者につき1年で24開催・1開催8日間・144日間まで開催できることになっているが、実際にはこの上限より少ない開催数となっている。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "令和5年度現在、競輪の開催日数は、基本的に1つの競輪場ごとに15節・46日の実施としている。この1節は前記の開催とは一致するものではなく、多くの競輪場では正式な\"1開催\"を\"前節\"・\"後節\"と分けて実施している。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "1節の開催日数は基本的に3日間となっており、競艇やオートレースと異なり全国的に統一されている。GIII(及び、男子GIIIに付帯して実施されるガールズ節)は全て4日間。GIIは4日間と3日間(そのほか、単発レースのヤンググランプリもGII格付け)。GIは男子戦は6日間と4日間、ガールズのGIは3日間開催で実施される。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "基本的に、1節間を通したトーナメントを行い、各選手は最終日の決勝戦での勝利を目指して参加する。一般的に1日の開催は、男子S級・A級・A級チャレンジ・ガールズL級のトーナメントのうち1つ〜3つにて構成される。例えば、1日全12レースのうち、A級トーナメントを5レース、ガールズL級を2レース、S級トーナメントを5レース実施するという形で、A級・L級・S級それぞれの優勝者を決定する。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "開催の勝ち上がり方式も、GIII以下においては全国で統一されている(GI・GIIはそれぞれの大会ごとに設定されている)。下記はもっとも一般的な勝ち上がり方式を記載する。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "男子S級とA級1・2班では、開催初日は、選手の成績(4か月間平均競走得点)上位者1レース分が「初日特選」に出場し、その他の選手が「予選」に出場する。初日特選の出場選手は全員、さらに予選の上位着順者が2日目の「準決勝」に進出する。さらに「準決勝」上位者が3日目の「決勝」に進出する。GIIIの場合は初日の「初日特選」出場全員と「一次予選」上位者が2日目の「二次予選」に出場し、その上位が3日目の「準決勝」へ、4日目の「決勝」へと進出する。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "A級3班(チャレンジ)には「初日特選」がなく、全員が初日は「予選」に出場し、2日目の「準決勝」、3日目の「決勝」へ進んでいく。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "L級(ガールズケイリン)は男子とはレース体系が異なり、基本的に初日は「ガールズ予選1」、2日目は「ガールズ予選2」に全員が出場する。このガールズ予選はポイント制となっており、予選2日間の獲得ポイント上位7名が3日目の「ガールズ決勝」に出場し、優勝を争う。決勝に進めなかった選手は「ガールズ一般」に出走する。なお、一部のナイターGIIIでは4日間開催も行われており、この場合は予選2日間の獲得ポイント上位者が3日目の「準決勝」に出場し、その上位が4日目の「決勝」へと進出する。このほか、L級でもGIと一部の開催では男子と同様のトーナメント戦も行われており、この場合は予選の上位者が準決勝、決勝へと進出する。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "1日に行われるレース数は前述の通り最大で12レースであるが、ミッドナイト競輪は最大9レース(3場同時開催の場合は基本的に最大7レース)である。モーニング競輪は基本的に1日7レースであるが、9レースないし12レースを実施する開催もある。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "KEIRIN.JPの「データ検索」や「出場予定選手一覧」における順序は、以下の通り。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "この地区については、1962年~2007年に存在した各地区の自転車競技会の管轄に基づいている。現在はJKAの組織としてはこの8地区での区分はなくなっているが、日本競輪選手会の地区本部はこの8地区で組まれ、地区プロ自転車競技大会もこの8地区をもって行われるなど強く関わっており、特にライン形成においては最も基本となるものである。なおこの地区分けは、競輪を所轄する経済産業省の地域支局である経済産業局の区分けとおおむね等しい。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "一般的な都道府県コードとは、地区区分や順序が異なる。略称は、スポーツ新聞の出走表などにおける、一文字略記。●は2文字目を使用。なお、2023年時点では、鳥取・島根の所属選手はいない。", "title": "競走(レース)" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "各名称は、当時のもの。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "明治時代の自転車業界紙記者であった真壁仁のメモによると、1895年(明治28年)7月4日、横浜クリケットクラブのトラックで行われた自転車競技が、記録に残る上での日本初の自転車競走と言われている。また、日本人が自転車競走に参加したのも同年、との記録がある。1897年(明治30年)春に不忍池において開催された大会では参加者約20名、優勝者は当時圧倒的な強さを誇った鶴田勝三であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "その後、1905年(明治38年)以降、報知新聞など新聞社各社が主催し自転車業界が育てたノンプロ選手が宣伝のために走るという自転車競走が活発に行われるようになる。日本において自転車競技のノンプロ選手第一号は小宮山長造であった。このように、戦前はロードレースを中心に盛んに行われ、中には競走用自転車で全国各地を転戦する者もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "太平洋戦争終結後、競輪は公営競技として開催されるようになった。元満州国官吏(後に国策会社の社員となる)の海老澤清(海老澤清文)と、久留米連隊に所属し後にGHQで働くことになる元陸軍大尉の倉茂貞助(本名は倉茂武)の2人が、東京の有楽町に「国際スポーツ株式会社」を設立したことで始まる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "当初は第二次世界大戦敗戦に伴う大陸や南方からの引揚者に、宝くじでの収益をもとに住宅建設構想を練っていた海老澤の思惑と、湘南海岸に一大レジャーランドの建設を構想し、世界屈指の観光地とする構想を描いていた倉茂の思惑がそれぞれあったが、海老澤が構想を描いていた「住宅建設宝くじ」を取り入れる形で、「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分として、戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを競馬に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てることはできないものかと考え出されたのが後の競輪であった。もっとも、後の競輪を国際スポーツ株式会社の運営で行うのは不可能と分かり、立法として取り上げてもらうべく働きかけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "2人は、後に日本自転車振興会連合会会長となる、日本社会党所属の代議士であった林大作と出会うことになる。林は戦前、三井物産の社員であったが、財閥解体と貿易国営を主張したものの受け入れられずに1942年(昭和17年)に退社。その後交易営団に移り、1947年(昭和22年)4月25日に行われた総選挙で当選を果たした。前述の通り、三井物産時代に貿易国営を唱えており、国家事業の重要性を考えていた林は2人の提案を気に入り、その話を当時の日本社会党委員長でもあった片山哲首相に提言したところ、片山も「それは面白い」と乗り気になり、やがて日本社会党の中央執行委員会も同意して法案作りへと進むことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "しかし、この草案に対して、GHQがいったんは許可を下ろしながらも、すぐさま白紙撤回する騒ぎとなった。GHQが説いていた地方分権に相反すると思われたからである。それに対して日本社会党は、GHQの地方分権案に同意。それによりGHQも草案を認め、自転車競技法として国会審議へと入った。1948年(昭和23年)6月26日に衆議院本会議で可決し、参議院へと法案が送られたが、同年7月1日、自転車競技法は参議院でも可決し成立。同年8月1日より施行されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "敗戦直後の1946年(昭和21年)、気持ちが暗く沈んでいた日本国民を明るくしようと、第1回国民体育大会が近畿各地で開催される。その国民体育大会は1948年(昭和23年)10月に第3回が福岡県で開催されることとなったが、人気のない自転車競技のためだけに莫大な経費が嵩む自転車競技場を建設することには県内のどの自治体も及び腰であり、自転車競技の開催が危ぶまれるという事態に陥った。その中で、小倉市(当時)は地元の小倉中⇒小倉高が1947年、1948年と夏の甲子園を連覇したこともあって野球への人気が高まる中で野球競技を誘致したかったものの、その希望を通すには不人気だった自転車種目も引き受けざるを得ず、「人気種目の野球を小倉市で開催する」ということを条件に、抱き合わせする形で自転車競技場の建設に名乗りを挙げたのだった。ただ、周長500メートルのバンクを急ごしらえするために、終戦から間がなく物資難の中でセメントなど資材をかき集めて作ったため総工費が2000万円にも上ってしまい、小倉市は資金難に陥ってしまう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "一方で、レジャー事業を起こそうと倉茂貞助は1948年夏に競輪の法整備に奔走した。ちなみにその間、既に大宮市(当時)にバンクがあった埼玉県に競輪開催を打診したが、断られている。そして、倉茂氏と、小倉市の財政を立て直したい意向を持っていた当時の小倉市長・浜田良祐の思惑が合致したことで、同年の小倉にて競輪の初開催に至った。。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "その後、自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として自転車競技法が1948年(昭和23年)8月に成立。同年11月20日、地方の財政健全化と経済情勢全般の健全化、自転車産業の振興を掲げ、国体会場でもあった小倉競輪場において第1回の競輪競走が開催され、ここに競輪が誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "第1回の小倉競輪競走では、単勝式と複勝式の2種類の車券が発売された(連勝式の発売は、同年12月11日に開催された大阪府営府大競輪場(大阪住之江競輪場)が最初)。車券売り上げの中から25%が控除され、更にその中から必要経費を差し引いた額が自治体等の財源となるわけだが、ノウハウもなく全てが手探りの状態で始められた小倉競輪はいきなり赤字となる可能性もあり、税収が殆どなく職員に支払える給料もままならなかった時代では正に競輪開催そのものが賭けであったという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "第1回小倉競輪は予想を上回る成功をおさめ、財政難打開の手段として 競輪を開催しようとする動きは他の地方自治体へ波及し、第1回小倉競輪以降の2年間で50以上の競輪場が建設され、1953年開設の静岡まで63の競輪場が開設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "だが主催者が不慣れであった点、選手へのルールや理念の教育の不足、GHQが全国的な運営母体を認めなかった点などから運営の不手際が生じ一時は中止に追い込まれるなど波乱の歴史を持つ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "この立法・運営側の曖昧さ、競走自体においても風圧を受けるトップが不利を蒙るという特殊な面が、逆に観客と選手による独自のローカルルールを生んだ。今日の公営競技において「競輪道」と呼ばれる精神性を語らせては競輪の右に出るものはないが、反面「わかりづらい」「情実優先の展開レース」という批判も根強い。しかし、作家の阿佐田哲也(色川武大)はこの競輪の特殊性故に「競輪こそギャンブルの王様」と呼んでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "競輪が誕生した1948年(昭和23年)当時、国営競馬(中央競馬の前身)の控除率(俗にいう「寺銭(テラゼニ)」)が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられた。そうした背景も手伝って、国営競馬が不振をかこつ状態だったのに対し、競輪は爆発的な人気を博すようになった。また、初期の頃は選手の力量に対するファンの認識が薄かったことや選手の力量にもムラがあったため、1万円以上のいわゆる「大穴」の配当が毎日続いたことでファンが夢中になり(その頃の競馬では1万円以上の配当は滅多に出なかったという)、中には嬉しさのあまり脳出血で倒れ、競輪場近くの病院に搬送されるも間もなく死亡したファンもいた、と記された書物もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "しかし、その一方で、客が自転車競技の特性を理解しきれていなかったという背景も手伝い、1949年(昭和24年)に発生した大阪住之江競輪場での事件を端緒に、しばしば暴動事件 が発生する事態となったことで、新聞を中心としたマスメディアの批判も強くなっていった。とりわけ1950年(昭和25年)に鳴尾・川崎の両競輪場において起こった騒擾事件は激しい非難を浴び、競輪廃止論議が世論を賑わせることになる。特に鳴尾での騒擾事件は大きく尾を引き、競輪は2か月間開催を全面的に自粛せざるを得なくなっただけでなく、吉田茂内閣に至っては競輪廃止を閣議了承したほどであった。だが結局は競輪廃止論議は閣議段階で踏み留まり、通商産業省(当時)の勧告により、当面の開催継続と引き換えに施設の耐火性向上(コンクリート化)工事や選手の資格再検討などが行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)の国会において日本共産党が提出した競輪廃止法案が否決されるに至ったことで、競輪は以後も開催が続けられていくことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "だが、その後も断続的に暴動事件は発生した。中でも1959年(昭和34年)6月23日、松戸競輪場第5レースの着順判定を巡って「八百長騒動」が発生したことにより、施設破壊などの事態を招いたばかりか、主催者側が騒いだ一部の客に対し、「車代」と称して1人あたり1000円を渡していたことが発覚(松戸事件) した事件をきっかけに、断然人気の白鳥伸雄の競走中止に対する件が発端となった1960年(昭和35年)9月13日における西武園競輪場での事件や、人気の中心となった笹田伸二のトップ引きにかかる1968年(昭和43年)4月11日における川崎競輪場での事件など、鳴尾事件に匹敵するほどの大規模事件も発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "平成に入ると大規模な暴動事件はなくなったものの、それでも1993年(平成5年)7月31日には第9回全日本選抜競輪の場外車券を発売していた岸和田競輪場にて、第2レースで9人中8人が失格するという異常事態に端を発した暴動騒ぎが起きたほか、2000年(平成12年)2月11日には立川競輪場にて、当日開催されていた「アシアナカップ」決勝で係員が残り周回を間違えて誤打鐘をした事に対しファンが立て篭もる事件が発生するなどのトラブルは起きている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "鳴尾事件以後も、断続的に発生する暴動事件を起因とする、マスメディアを中心とする競輪への強い風当たりが続いた。そんな折、1955年(昭和30年)1月にときの農林大臣河野一郎が群馬県前橋市で行った記者会見の席上「競馬は、土曜、日曜、祭日以外は開催しないことを閣議で提案する」という発言を行ったことが波紋を広げ、翌日の定例閣議で申し合わせがなされたが、当時の通産大臣石橋湛山が「河野発言」を了承することにより、競輪も競馬と同調することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "河野のこの発言を受け、当時大阪府知事だった赤間文三は、原則土日に開催が限定されることによる売り上げ減少を懸念し、1956年度以降の大阪府主催の競馬、競輪の開催を中止する旨を表明。これに伴い、府営豊中競輪場は1955年6月限りで廃止されることになった。競輪場の廃止例は、当時既に松本競輪場(1951年)・松江競輪場(1953年)で見られたが、いずれも経営不振によるものであり、政治的な理由による廃止は豊中が最初であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "その後、近畿地区で競輪場の廃止が相次いだ。まず1958年(昭和33年)、京都市営競輪場が市議会の賛成多数により廃止を決定。さらに当時の兵庫県知事・阪本勝も兵庫県営ギャンブルの廃止を表明したことから、1960年(昭和35年)12月に神戸競輪場が、1961年(昭和36年)3月に明石競輪場がそれぞれ廃止された。また、大阪市営中央競輪場も、1959年(昭和34年)に大阪競馬場が廃止されたことを踏まえ都市公園として整備する方針を打ち出したことから、ときの大阪市長中井光次は1962年(昭和37年)3月をもって廃止を決定した。このほか大阪住之江競輪場も1964年(昭和39年)に休止(事実上の廃止)となり、大阪市内に存在した2つの競輪場が消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "近畿地区以外にも政治的な理由による廃止が相次ぎ、札幌競輪場(1960年開催廃止)・福岡競輪場(1962年廃止)・会津競輪場(1963年休止)・長崎競輪場(1966年開催廃止)がそれぞれ姿を消した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "そして、この一連の流れは、当時「競輪のメッカ」を標榜していた後楽園競輪場にも飛び火する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)4月15日に行われた東京都知事選挙で、日本社会党・日本共産党が推薦した美濃部亮吉が当選し、史上初の革新系都知事が誕生した。美濃部は東京都が主催していた各公営ギャンブル(後楽園競輪場・京王閣競輪場・大井競馬場・大井オートレース場・江戸川競艇場)の廃止を公約に掲げていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "後楽園競輪場は現在東京ドームが建っている場所にあり、1949年(昭和24年)11月に誕生。東京の都心部に位置する文京区という抜群の立地条件も手伝い、開催すれば常時スタンドは満員、とりわけ全国争覇競輪が開催されればスタンドに入りきれない観客で溢れ返り、車券も満足に買えない状態が恒常化していた。そして、1960年(昭和35年)11月3日に行われた第15回全国争覇競輪決勝戦の開催日は推定約8万人の観客で溢れかえり、スタンド内でもすし詰めとなった約1500名の観客が走路内へなだれこみ、決勝戦は走路内にも観客を入れてレースを行うという異例の事態となった。このため警備不能を理由に、引き続き1961年(昭和36年)の第16回大会の開催も決定していたにもかかわらず、東京都が開催を返上したばかりか代替地も決まらず、1963年(昭和38年)3月に一宮競輪場で再開されるまで、全国争覇競輪の開催が行われなくなってしまった。つまり、後楽園以外に全国争覇競輪の開催はできない、ということが、当時の競輪界の「常識」となっていたのである。実際のところ、一宮で行われた後、再び後楽園で1968年(昭和43年)の第22回大会まで毎年、全国争覇競輪から名称を改めた日本選手権競輪が開催されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "このように、後楽園競輪の売上は1960年代に競輪総売上の10%近くを占めるほど大きなものであったため、後楽園は「競輪のメッカ」と標榜された。だが、当時毎年のように競輪が売上を増加させており東京都の財政に寄与し続けた背景があったにもかかわらず、美濃部は「競輪などの公営ギャンブルの売り上げで学校などが建設されるということについて、果たして子供たちは望んでいることなのだろうか」と訴え、都営ギャンブル廃止を公約に掲げた。また上述の通り、大阪府などの自治体が既に公営ギャンブル廃止を実現させていたことも追い風となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "1969年(昭和44年)1月、美濃部は正式に都営ギャンブル廃止を表明し、同年11月に開催が予定されていた日本選手権競輪の開催を返上した。さらに美濃部は、1972年度限りで後楽園における都営開催を終了することを表明。これにより後楽園競輪場は1972年(昭和47年)10月に開催を休止、翌1973年(昭和48年)3月をもって全面休止された(なお、後楽園競輪は現在も「休止」扱いであり、廃止されたわけではない)。その後同地ではバンク内に水が注入され、スイミングプールとしての役割を果たした後に解体され、1988年に日本初の屋根つき野球場「東京ドーム」として再建された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "その他の旧都営公営競技場は、まず大井オートレース場が後楽園競輪場と同様に1973年3月で閉場したが、代替場として伊勢崎オートレース場が引き継ぎ、1976年(昭和51年)10月6日に開場した。また京王閣競輪・大井競馬・江戸川競艇はその後、主催者を変更させて現在も存続しており、結局は後楽園競輪場だけが代替地も用意されず消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "なお、東京ドームには地下に400mバンクが格納されており、競輪開催も可能ではあるが、地域住民の反対など様々な事情があり、現在に至るまで競輪開催は再開されていない。2003年(平成15年)6月に石原慎太郎東京都知事が石原都政の中で「後楽園競輪」復活構想を掲げたが実現はしなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "後楽園競輪の廃止は当時の競輪界に大きな打撃を与えたが、昭和40年代に入ると競艇の総売上が次第に競輪に迫る勢いを見せるようになった。1965年(昭和40年)度を見ると、競輪は競艇を含めた他の各公営競技団体の倍ほどの総売り上げを計上していたが、その後、競輪自身も売り上げを伸ばしていくものの、伸び率は鈍化していく。対して競艇は昭和40年代前半以降毎年度10%以上の伸び率を見せ、1973年(昭和48年)度頃には競輪と肩を並べた。同時期に発生した第一次オイルショックの影響により1972年度以降は伸び率も鈍化したが、1975年(昭和50年)度の年間総売上で競艇が競輪を逆転した。その後も現在に至るまで競艇が競輪の総売上を下回った年度は一度もなく、実に2倍以上もの差がついている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "また総入場人員においても、昭和40年度は競輪が約2800万人を記録し競艇に倍以上の差をつけていたが、その後競艇が差を詰めてゆき、1975年(昭和50年)度に競輪を逆転した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "競艇に逆転された原因として、競艇が施設改善や投票券の機械化を急ピッチで進めたのに対し、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "などが挙げられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "それでも、総売上は1980年(昭和55年)度まで競輪も対前年比増を何とか記録していたが、1981年(昭和56年)度に中央競馬を除く各公営競技が揃って前年割れを記録した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "上述した通り、競輪人気にかげりが見えてきた原因は、度重なる暴動事件や施設の老朽化に加え、機械式発券機導入・場内浄化の著しい遅れなどもあるが、ギャンブルとしての競技運営面においても問題点を抱えていたことも挙げられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)以降、競輪選手の級班制度はA級(1 - 5班)・B級(1 - 2班)の「2層7班制」となっていたが、当時の最上位であるA級1班(A1)選手にあっせんが行われる記念開催(現在のGIII)では、A級で最下位であったA級5班(A5)と直接対決する競走も見られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "当時のA1選手は全体で100〜120名程度しかおらず、同じA級でも実力面で大きな開きがあったため、記念開催の準決勝では「レース前から勝負は決まっている」と言われ、配当もおしなべて低配当となる競走も多くみられた。この影響により予想の楽しみが消え、「当たっても儲からない」「当たってもトリガミ(手にする払戻金が購入金額を下回ること)」という印象をファンに抱かせたことで競輪離れを招いた。一方、競艇は1競走が競輪より少ない最大6艇立てではあるが極度の低配当とはなりにくく、それが競艇に客が流れて行った一因ではないかという見方が一部の競輪関係団体から上がってきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "こうした背景を踏まえ、1983年4月1日の開催からA級のさらに上位のクラスとして「S級(1 - 3班)」を設け、B級はそのままとしつつ、A級1 - 5班をS級1 - 3班とA級1 - 4班とに再編した「3層9班制」からなる競輪プログラム改革構想(略称「KPK」)をスタートさせた。KPKの導入により、競走は脚力が拮抗した選手による激しいレース展開へ生まれ変わった一方で、導入初期より落車・失格が急増し、配当も中配当(中穴)レベルが急増したため「車券が急激に取りにくくなった」という声がファンから上がってきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "1975年以降、日本人のレジャー志向が「インドア」から「アウトドア」へ移行しており、本場(レース場)へ行かなければ投票券等も買えない公営競技は、都心の便利な立地に場外馬券発売所(現在のWINS)が集結する中央競馬を除き、「時代遅れのレジャー」と言われるようになった。中央競馬だけは総売上が対前年比増を継続していたが、それ以外の4団体は1981年度以降、軒並み前年割れを続けていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "なお、元選手の矢﨑和良が1979年(昭和54年)に「有限会社メダリストプランニング」を立ち上げ、プロテクターシャツや新繊維のレーサーパンツを、選手のケガ対策の観点から開発した(2017年破産)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "KPKが売上回復の起爆剤となりえていない実情を踏まえ、競輪関係団体は1985年(昭和60年)に5番目の特別競輪として全日本選抜競輪を新設したが、それでも満足な結果は得られなかった。そこで、通商産業省内部において、より画期的なレースを行えないかという構想が浮上し、当時の同省車輌課長だった西川禎一が、S級1班(S1)のトップクラスだけを選抜した競走を同年末に行うという案を提案した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "当初の計画では、まず東日本地区と西日本地区の各競輪場で予選競走を各1個行い、上位の9選手による決戦競走を行うというものであった。しかし年末の開催には時間的な制約があったため、当時の競輪では考えられなかった一発勝負の競走を、集客が見込める首都圏の競輪場で行うという案に収斂し、1985年12月30日に立川競輪場にてKEIRINグランプリ'85の開催を行うことを内定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "11月に行われた競輪祭の全日程終了後に正式発表がなされた。当年の特別競輪優勝者・世界自転車選手権優勝者に競走得点上位者を加えた9名による一発勝負の競走が、優勝賞金1000万円をかけて行われることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "決定から当日まで期間がなかったため、全国での場外発売体制は極めて不十分だったが、立川競輪場は約4万人のファンでごった返した。また売上も立川市の希望額を上回り、KEIRINグランプリだけで約12億円を計上した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "また、1985年度の総売上対前年比も4年ぶりに増加し、1991年度まで対前年比増を続けた。しかし、売上に見合わぬ賞金体系が維持されたままとなっていたことは、その後日本競輪選手会との間に深刻な対立を発生させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)のプラザ合意に起因する円高不況の反省から、政府の内需拡大策が功を奏し、1988年頃から日本経済は空前の好況となった。ひいては後にバブル経済へと突入することになり、競輪の売上げもバブル景気期には前年対比2桁の売上げ伸び率を記録することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "そんな中、1984年にまず中央競馬がグレード制を導入し、1988年には競艇も追随してビッグレースの拡充を図るとともに、賞金総額も大幅に引き上げられた。その一方、競輪の賞金総額は前年度売上見通しの3%が賞金に充てられる「3%ルール」に長年拘束され、とくに競艇選手との賞金格差が拡大する傾向にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "これに対し日本競輪選手会は理事長片折行の強力なリーダーシップのもと賞金総額の大幅引き上げを求め、それが認められない場合は「1989年のKEIRINグランプリシリーズに、誘導員を出さない」とする強攻策を打ち出した。基本的に「先頭固定競走(後述)」を採用している競輪では誘導員を出さなければ競走が行えず、このことはKEIRINグランプリの開催もできないことを意味していた。選手会側は全国競輪施行者協議会(全輪協、競輪主催者たる自治体が構成する団体)らと12月25日まで話し合いの場を持ったが折り合いはつかず、結局同年のKEIRINグランプリは中止された。なお会場だった立川は前年の1988年に、全国の競輪場で初めて大画面映像装置を設置していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "この事態を受け、1990年に大宮競輪場での記念開催中止を回避するため施行者側が譲歩し、賞金総額の大幅アップが認められた。同時に「3%ルール」も事実上撤廃された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "日本経済は1991年(平成3年)頃からバブル景気が下降線をたどり、長い不況に突入する。この影響を受け、競輪の売上も1991年度を境に下降線をたどり、その後2014年度まで対前年度比で漸減を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "この影響を真っ先に受けたのが、普通開催(現在のFIIに相当)であった。普通開催については当時、競輪の主催権を持つ自治体以外に、特定の開催だけ主催権が与えられた「借上施行者」と呼ばれる自治体の主催が少なくなかったが、1992年以降は売上が急速に落ち込み赤字に転落する自治体が急増し、ひいては自治体の財政運営にも悪影響を及ぼすとして、これらの借上施行者は相次いで撤退していった。このことは主催権を持つ自治体にも過重な負担を強いることとなり、1990年代の終盤には各施行自治体が売上が見込める記念競輪の広域場外発売拡大や、S級シリーズの開催数増加を要求する流れとなっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "しかし、S級の選手数はKPK導入時のまま(概ね430名)に据え置かれており、急増するあっせんをこなせず体調不良から直前欠場するS級選手が急増し、ひいてはKPK制度そのものが破綻寸前の状態となっていた。そこで1999年初頭に関係5団体はグレード制の導入やB級の廃止、S級選手の大幅増加に伴うS級シリーズの開催数増加、場外発売を拡大するため記念開催を1節4日間制とする新番組制度改革の概要を公表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "しかし、片折体制下が続く日本競輪選手会はB級廃止に難色を示し、当初は上記の番組改革に消極的な姿勢を取っていたが、片折が2000年に没して方針が転換され、改革案を受け入れた。その後、KPKに代わる新番組制度は2002年4月1日から本格的にスタートした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "1995年には他の開催と同様、特別競輪での失格選手も、即日帰郷となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "1999年4月1日には全レースで枠番連勝複式と車番連勝単式の2賭式の発売方式(本場では単勝式・複勝式もあった)へ完全移行したが、2001年9月30日の立川・前橋から新賭式(計7賭式)を順次導入(2003年10月の松阪で全場完了)。同年度には「全日本選抜競輪」が読売新聞社杯に「競輪祭」が朝日新聞社杯にもなった。2002年4月にはユニフォームも9色に変更され、インターネット投票システムも運用開始された。2000年には競輪場内での酒類販売の試験導入もあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "そんな中、競輪場の廃止論が21世紀に入って再燃もしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)3月、3箇所の競輪場が廃止となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "最初に廃止表明をしたのが門司競輪であった。2001年4月、主催者の北九州市は、同市の諮問機関である競輪事業経営検討委員会が、2010年度までに門司競輪場と小倉競輪場、合わせて約75億円の累積赤字が見込まれる背景を踏まえ、施設の老朽化が著しい門司を廃止し、ナイター開催も行える小倉競輪に開催を一本化することで収益の改善が図れるという意見書を市側に報告したことを理由に、2001年度限りでの廃止を表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "続いて2001年11月、兵庫県市町競輪事務組合が主催する西宮競輪と甲子園競輪がともに2001年度限りで廃止されることが決まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "もっとも、西宮と甲子園については、主催者側が2000年度時点でいったん場内従事者を全員解雇し、日当賃金を従前の約半分となる8千円へと減額した上で希望者に対して再雇用している背景を踏まえ、最悪でも競輪選手の練習地でもあった甲子園だけは存続させる方向にあるという期待感も、廃止表明直前まで抱かせていた。その証拠に事務組合側は、同年夏に出した「甲子園一場開催案」の試算において、西宮・甲子園両場で開催した場合は2002年度 - 2005年度ですべて赤字だが、甲子園一場の場合は2002年度で3億5000万円、さらに2003年度も黒字になると報告していた。ところが、同年10月に再度収支予測をしたところ、2年間は黒字とされた甲子園単独でも2年目から赤字転落の見通しとなり、さらに黒字予想だった本年度でさえ赤字に転落する見込みになったため、甲子園一場での存続も無理との判断を下した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "西宮、甲子園の廃止は、「急転直下」ともいえる事務組合側の結論となったため、甲子園競輪場の施設会社であった甲子園土地企業、近畿自転車競技会、日本競輪選手会が相次いで事務組合を相手取って損害賠償訴訟をする動きが見られた。また、西宮競輪場の施設会社・阪急電鉄は当初、事務組合側との調停を申し出ていたが、事務組合側がその意向に沿わないため、廃止から2年後にあたる2004年に損害賠償訴訟に踏み切った。しかし、いずれのケースも事務組合側の勝訴となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)4月1日の開催より、KPK制度に変わる新番組制度が実施されることになった。S級選手を大幅に増加させることにより、S級シリーズ(FI)を年間8節へと開催を増加させる一方、長らく前後節制を取ってきた記念開催(GIII)については広域場外発売を行いやすくするため、1節4日間制に改められた。しかし、記念開催の広域場外化やS級シリーズの増加をもってしても、競輪の売り上げ向上には繋がらなかった。そのため、下記の騒動が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "同年10月11日、豊橋市の市長早川勝が、三連単導入にかかる投入資金に見合った売り上げが今後期待できないとして、突然の豊橋競輪場廃止表明を行なった。しかしその後、同市市議会の最大会派であった清志会などが当面の存続を訴えたことや、競輪関係団体が2005年のふるさとダービー開催を約束したことなどにより、早川は廃止を撤回した。そして、2020年度現在も豊橋競輪は開催を行なっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "一方で記念開催の広域場外化が浸透すると、次第に各競輪場において自場開催よりも他場の場外発売に収益の柱をシフトする動きが見られるようになり、中には本場開催と合わせて、年間300日以上発売する場も続々と出るようになった。しかし、周辺地域の理解が得られず場外発売日数が著しく制限された競輪場は、一層苦境に立たされることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "2003年12月31日実施の競走より、イエローラインが導入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "2005年末のヤンググランプリ05、KEIRINグランプリ05から、佐藤直紀作曲の新ファンファーレを全国で使用。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "2008年に(平成20年)JKAは「平成21年度特別競輪等公告項目」として各種アンケートを実施した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "同年4月15日にチャリロトが、4月25日にKドリームスが、発売開始(重勝式投票券)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)9月15日、神奈川県の外部組織にあたる『神奈川県競輪組合あり方検討委員会』は、花月園競輪場の廃止は妥当とする報告書をまとめ、同月18日、同場を主催する神奈川県競輪組合と主催自治体に対し報告書を提出した。理由は、2008年度時点における累積赤字が49億円に達しており、4年後の2013年度には77億円までに膨らむ見通しだからだとした。この報告書に基づき、当時の同組合管理者であった松沢成文は同年12月1日、正式に花月園競輪の廃止を決定した。花月園競輪場は当時、自場開催を除く場外発売日数が74日と少ないため、自場開催にかかる赤字分を補うことができなかった。そのため、今後開催を続けたとしても、年間約5億円の赤字が見込まれることから、廃止は妥当と結論付けられた。翌2010年3月31日が最後の開催となった花月園競輪場は、59年に亘る歴史にピリオドを打った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "四日市競輪場は通年ナイター開始という活路を見出し、包括民間委託も導入して黒字転換を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)頃を境に、ビッグレースにおける独立UHF局の地上波中継番組がほぼ無くなっていった(#地上波を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "2013年5月31日には、中日新聞が一宮競輪場を2013年度末で廃止する方向で最終調整に入ったと報じた。1991年度をピークに売り上げが減少し、2009年度・2010年度は赤字を計上。2012年度も当初予測していた1億4000万円を大幅に超える見通しとなり、過去の収益金からなる繰越金も2014年度で底を尽くため。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "2007年6月13日に公布された自転車競技法及び小型自動車競走法の一部を改正する法律により、競輪を統括していた「日本自転車振興会」とオートレースを統括していた「日本小型自動車振興会」は、2008年4月1日をもって財団法人JKAに統合された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "売り上げ額は1991年度(平成3年度)には過去最高となる1兆9,533億円に達したが、その後は一貫して右肩下がりとなり、2013年度(平成25年度)にはその1⁄3程度となる6,063億円に落ち込むほど低迷した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "売り上げ額の低迷が続いていた中で、新たな起爆剤として、2011年1月14日から15日にかけて、小倉競輪場にて夜9時から11時台に無観客でレースを行うという「ミッドナイト競輪」が開催された。試験的な意味合いが強かったが、予想を上回る売り上げを見せただけでなく黒字計上したことから継続して開催されることとなり、後に小倉以外にも多くの競輪場が追随したことで、ミッドナイト競輪は2022年までで全国にある競輪場の半数を超える30場にて開催されるほどに拡大した(これらに加え、自場では実施していないが照明設備が整った他場で借り上げにて開催している施行者もあり、それらも含めると現状ではほぼ全ての施行者がミッドナイト競輪を開催している)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "ミッドナイト競輪とは逆に、第1競走の出走時刻を早めた「モーニング競輪」も岸和田競輪場にて2012年5月4日から6日にかけて初めて開催され、これも好評であることから徐々に開催場が増加している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "2012年7月からは、昭和期には女子競輪と呼ばれた女性の競輪選手による競走ガールズケイリンが開始され、女子競輪が約半世紀ぶりに復活した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "他に企画レースとして、開設記念競輪(GIII)の最終日における単発競走として、男子でもラインの概念を排除しトラックレースとしてのケイリンに準拠したルールで行うKEIRIN EVOLUTIONや、各地区から1名ずつ選抜された7名によるS級ブロックセブンなど、それまでなかった新たなレース形態による競走が行われるようになっている(ただし、これらは後述する新型コロナウイルス感染症蔓延拡大により現在は実施していない)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "2014年12月31日実施の競走より、高速化によるレースの単調化の防止などを目的に、ギヤ倍数範囲が規制された(男子4.00倍未満、女子3.80倍未満)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "2016年度の開催枠組みについて、各競輪場の年間開催日数を従来の19節58日から、原則15節46日(小倉は削減なしで函館と四日市は3節減)とすることを競輪最高会議が承認し、縮小化が進んだ。なお、2018年度の総開催日数は2017年度より77日多い2255日であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "2016年より、売り上げ増を目的に、日本選手権が5月のゴールデンウイーク期間中の開催に変更された。また、10月の寬仁親王牌からは、特別競輪においては固定メンバー3名からなる審判長団が執務を担当して行くことになった。加えて、それまで日本選手権が行われていた3月には、新たなビッグレースとして、ウィナーズカップ(格付けはGII)が2017年より新設されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "2018年11月に開催された第60回朝日新聞社杯競輪祭は、GIでは初のナイターレースとなり、併せて6日間開催(うち前半3日間はガールズケイリン組み込み)・一次予選におけるポイント制が復活し、2019年以降も競輪祭ではナイター開催が継続されている。加えて、2021年のオールスターでは、6日間開催の復活と、競輪祭に次ぐナイターレース化が決定した(一次予選はポイント制が復活)。2023年の高松宮記念杯では、同大会も6日間開催を復活させることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "売り上げが右肩下がりを続けていた競輪にとって、特にミッドナイト競輪、モーニング競輪は開始以降、対前年度比で高い伸びを示すほど好調が続いており、救世主とも呼べる存在となった。それらの好調で競輪の売り上げ額は2014年度以降、僅かながらではあるが連続して増収基調が続いており、2017年度も対前年度比で100.9%と4年連続で増加となった。また2018年度も車券売上高は対前年度比102.2%となり、本場発売や場外発売が苦戦する中で売り上げは5年連続増加となった。加えてインターネット投票が追い風となり、2018年度は広島競輪場では10年ぶりに3億円を広島市の一般会計に入れたほか、玉野競輪場でも前年度の2倍となる4億円を玉野市の一般会計に充当した。2019年度も、後述の通り2020年2月末以降は全ての開催が無観客となる中で、年間を通じての売り上げ額は6604億6055万5100円で前年度比101.0%(うち重勝式売上高は29億1393万4600円で、前年度比105.7%)となり、6年連続の増加となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "ただ、実際はレース単位で見るとビッグレースでも売り上げ額は減少傾向にあり、GIでさえも売り上げ額ワーストを更新することが増えてきている。実際に、2018年度の全国の本場入場者数は250万5,291人で、対前年度比92.4%と減少した。また、1日平均売り上げ額は2億9,007万4,100円(同98.7%)、場外売り上げ額は3,214億6,418万4,700円(同94.2%)、本場売り上げ額は263億3,762万4,800円(同90.4%)であり、通常開催では今もなお売り上げの減少が続いている。グレードレース別で見ても、GIは競輪祭が6日間開催となったため売り上げ額は対前年度比101.4%となったが一日平均では同94.4%と減少であり、GIIの売り上げ額は対前年度比95.7%(一日平均同95.7%)、GIIIも売り上げ額は対前年度比96.3%(一日平均同92.0%)であった。2019年度も、1日平均売り上げ額、本場での1日平均入場者数・売り上げ額、場外売り上げ額はいずれも対前年度比で減少となっており、開催日数を増やすことで売り上げ額を増加させているのであって、楽観視はできない状況にある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "これらを表すように、2019年度は黎明期を除いて70年以上に渡って上回っていた地方競馬(7010億円、前年度比115%)の売り上げを下回り、競輪の苦境を表す象徴的な年となってしまった。同様に、KEIRINグランプリ(52億円、前年比100.2%)の売り上げも、史上初めて東京大賞典(56億円、前年比121%)を下回った。公営競技全体の売り上げに対しても、1965年に55%、2000年度でも18%を占めていたが、2019年度には11%程度まで落ち込んでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "2020年、日本国内で新型コロナウイルス感染症が蔓延・拡大したことを受けて、競輪でも感染拡大防止のため2月27日より当面の間、日中・ナイターも含め全てのレースで無観客による開催となった。本場だけでなく競輪場外車券売場も閉鎖され、またファンの多くが高齢者であることから競艇などと比べて車券の売り上げ額が一時的に大きく落ち込み、例えば記念競輪(GIII)としては初の無観客開催となった奈良競輪開設69周年記念「春日賞争覇戦」では、総売り上げ額は17億6353万9100円と、前年度の54億929万8600円に対し32.6%と大幅ダウンした。それ以降も、九州地区から参加した選手の親族に新型コロナウイルス感染症の陽性反応が出たため4月2日からの玉野競輪が公営競技としては初めて新型コロナウイルス感染症による影響で中止となったほか、元選手で競輪評論家である井上茂徳氏の新型コロナウイルス感染発覚と、それを受けて4月8日から開催予定であった名古屋競輪が初日朝に急遽中止を決定するなど、混乱が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "さらに、改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が日本国政府より発令された4月7日以降、記念競輪でも平塚記念、西武園記念の中止が決定したほか、全国的に開催を取り止める競輪場が相次いで出てきており、遂には5月5日から静岡競輪場で行われる予定だったGI・第74回日本選手権競輪も開催中止の断が下された。特に、2020年4月に限れば、S級だけで15%強に当たる130人強があっせんが全て中止となり、中には岩本俊介や松岡健介のように3開催連続して中止にされた選手もいた。約款により、開催初日に急遽中止が決まれば各グレードの総賞金額の30%が参加選手に対し均等に支払われるが、前もって中止となった場合は支払われないため収入が大きく減少しており、選手・関係者に大きな影響が出た。実際に、2020年は取得賞金額が1000万円以上の選手はS級創設以降最小となる590人に留まり、平均取得額も東日本大震災被災地への復興資金捻出のため賞金額を大幅に減額した2011年〜2012年並みの905万円と、大きく減少となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "特に4月から5月にかけては開催中止が相次いだため、選手側にとってもコンディション維持や収入面で影響が出てきたことから、当面の間競輪開催においてはGI・GIIの特別競輪を除いて参加選手の人数を抑制し、かつあっせんは極力選手の登録地の近くとして移動を抑制することで開催中止を回避しつつ感染拡大を防ぐ取り組みを行うこととなった。また、同年6月以降からは、体制が整った競輪場・専用場外売場から順次、観客の入場を再開している。7月以降は暫定的に開設記念やGIなどグレードレースを除いた全てのレースで7車立てとするなど極力密にならないよう配慮した上で開催を継続している。ただ、7月下旬には選手で初めて感染者が発生し、それ以降も複数名の選手で陽性者が現れたほか、2021年に入っても再度緊急事態宣言が発令されたことで一部の競輪場では無観客開催や場外発売を中止したり、陽性者との濃厚接触者と疑われる選手が参加した競輪場では開催中止ないし途中打ち切りとなるなど、混乱は続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "ただ、その一方で、長い目で見ると、特に電話投票、インターネット投票での売り上げが伸びており、2019年度の電話投票売り上げ額は3625億8208万8800円と7年連続増加かつ前年度比118.4%と急増し、2765億8612万1700円(前年度比86.0%)であった場外売り上げ額を初めて上回った。また、電話投票利用者数も6428万1066人で、前年度比115.8%と急増した。ナイター競輪においては2020年5月5日から3日間開催された玉野FIIで施行者の想定を5倍近く上回る16億4千万円を売り上げたほか、ミッドナイト競輪においても、2021年1月23日から25日まで開催された松阪FIIでは総売上額が14億7168万3300円となり、1開催の総売上記録を更新しただけでなく、最終日の25日においては5億7901万4000円の売上があり、ミッドナイト競輪1場・1日あたりの売上記録も更新した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "一時的に混乱が見られた競輪界であったが、2020年はグランプリ・GIは中止となった日本選手権競輪と無観客開催かつ多くの場外発売が中止となった高松宮記念杯競輪を除いて全て売上額は対前年比で上回ったほか、2021年4月1日にJKAが発表した2020年度の車券総売上高は、対前年度比で113.6%となる7499億9019万6400円となり、結果として7年連続増、かつ対前年比で10%以上もの大幅増となった。対前年比で10%以上もの売上高を記録したのは、1990年度以来30年ぶりであった。2021年度も8年連続の増加となっただけでなく、総売上高9631億3007万1000円と2004年度以来17年ぶりとなる9000億円台、かつ対前年度比128.4%と大幅アップ、2022年度も対2021年度比で113.1%となる1兆907億7929万200円(速報値。PIST6の売上高も含む)となり、9年連続増加、そして2002年度以来20年ぶりとなる売上高1兆円を回復した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 226, "tag": "p", "text": "このように売上高の増加が続いていることを受けて、2019年10月、2021年4月、2022年4月、2023年4月と段階的に全てのレースで賞金額の増額が行われており、特にKEIRINグランプリでは本賞金のみで1億3000万円となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 227, "tag": "p", "text": "車券購入においてマークシート方式の導入は、1991年9月の京王閣が初だった。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 228, "tag": "p", "text": "現在発売できる車券の種類は以下の「7賭式」(2001年開始)と重勝式、そしてTIPSTAR DOME CHIBAで行われている250競走「PIST6」(2021年開始)でのみ発売されている単勝式である。7賭式のうち枠番の2種は、最大7車立てで行われているFI(S級戦も含む)、FIIでは発売されない(同じく7車立て競走であるガールズケイリンでも未発売)。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 229, "tag": "p", "text": "また、重勝式、並びにミッドナイト競輪は一部の競輪場での会員制またはインターネット限定(ミッドナイト競輪に関しては前売りのみ)、単勝式並びに250競走はインターネット投票サイト「PIST6公式投票サービス」または「TIPSTAR」における「PIST6」でのみ販売となる。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 230, "tag": "p", "text": "単勝式・複勝式については、かつては本場で発売されていたが、元来から売り上げは微々たるものであり、レースによっては「的中者なし(無投票)」で購入金額の30%を控除して購入者全員に払い戻すこと(「特払い」と呼ぶ。30%の控除であるので「特別払戻金」として購入100円に対し70円が支払われた)も多々あった。このため、電話投票でも開始当初から取り扱いをしたことはなく、また規則上上記から重勝式を除く7賭式を発売する場合は発売しなくてもよいとされているため、それらの導入と共に事実上廃止となった。ただ、TIPSTAR DOME CHIBAにて2021年10月2日より開幕した250競走「PIST6」においては2枠単・2枠複の発売がない(2車単・2車複の発売はある)こともあり、単勝式に限り復活した。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 231, "tag": "p", "text": "なお、他の公営競技と同様、20歳未満の車券購入は法律で禁止されている(2007年の法改正により、20歳以上の学生は解禁された)。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 232, "tag": "p", "text": "7賭式導入後に限っては、初めて配当が100万円の大台を突破したのは、2001年12月22日の前橋競輪場の第4レース三連勝単式・154万20円。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 233, "tag": "p", "text": "全賭式を通じての最高配当は2010年10月21日に平塚競輪場で行われた第6-12競走で発売されたチャリロト(重勝式)で、払戻金は905,987,340円。これは日本の公営競技史上最高配当記録である。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 234, "tag": "p", "text": "上記の重勝式を除いた最高配当は2006年9月21日に奈良競輪場で行われた第10競走で、三連勝単式の払戻金は4,760,700円。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 235, "tag": "p", "text": "電話投票では、1991年から各地の記念競輪 (GIII) 以上の競走を対象に全国発売されるようになり、現在では電話投票のほかインターネット投票を用いてTIPSTAR DOME CHIBAを除く全国の競輪場の全競走を購入できる。なお、TIPSTAR DOME CHIBAで行われている250競走「PIST6」においては、「PIST6公式投票サービス(JPFが運営)と、ともにMIXIが出資しているインターネット投票アプリ「TIPSTAR」または「netkeirin」(netkeiba.comの姉妹サイト)でのみ取り扱っている。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 236, "tag": "p", "text": "場外発売でもGIII以上は場間場外発売を行っているほか、S級シリーズ (FI) や一般戦 (FII) でも地方都市を中心にしてサテライトなどの専用場外で発売する場合もある。なお、1998年11月に開設された東京都港区にあるラ・ピスタ新橋と、2004年10月に開設された神奈川県横浜市中区のサテライト横浜、2007年3月に開設されたサテライト大阪、2012年4月に開設された愛知県名古屋市中区のサテライト名古屋、同年8月に開設された福岡県福岡市博多区のサテライト中洲は原則として有料会員制となっている。", "title": "投票券(車券)" }, { "paragraph_id": 237, "tag": "p", "text": "記念競輪(GIII)以上の競走は一部が地上波テレビで中継され、本場所在地にあるテレビ局が制作し、主に場外発売を実施する地域のテレビ局がネットする形態が多く見られる。S級シリーズ (FI) などの競走を地元ローカルで生中継することもある。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 238, "tag": "p", "text": "競輪がテレビ(地上波)で初めて放映されたのは、1963年の第16回全国争覇競輪(一宮競輪場)で、地元中部日本放送(現:CBCテレビ)が中継を担当し、TBSや朝日放送(現:朝日放送テレビ)(当時はTBSの番組をネットしていた)でもネットされた。ちなみに、カラー放送による最初の中継は、1969年の第14回オールスター競輪(岸和田競輪場)決勝戦である。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 239, "tag": "p", "text": "1978年の第31回日本選手権競輪(平競輪場)までTBS系列で放送されていたが、同年の第29回高松宮杯競輪(びわこ競輪場)から東京12チャンネル → テレビ東京系列に中継が移行されている。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 240, "tag": "p", "text": "特にGII以上の競走は関東・中京・近畿の各広域圏にある独立UHF放送局でレース実況・関連情報・開催地の紹介など時間枠を拡大して放送している。また現地スポーツ新聞記者のほか元競輪選手など専属の解説者も日替わりで出演している。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 241, "tag": "p", "text": "長らく「KEIRINグランプリ(GP)」やGI決勝戦についてはテレビ東京をキー局としてTXN系列局がネットしてきたが、特にGI決勝戦については2000年から原則日曜日または祝日開催となったことからTXN系列では中継できない競走もでてきたため、独立UHF局がある地域ではTXN系列に代わって独立UHF局が中継することが増えていった。GI決勝戦では、一時期古舘伊知郎が実況を担当していたこともある。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 242, "tag": "p", "text": "2006年から日本テレビが地上波テレビでの生中継を始め、同年の「読売新聞社杯全日本選抜競輪」から開催地の日本テレビ系列が制作協力して全国ネットで生中継している。また、「KEIRINグランプリ」も2008年以降は日本テレビ系列で放送されている。加えて、テレビ朝日も2009年~2011年の「競輪祭」を5局ネットで生中継したが、2012年以降は放送されていない。2011年頃を境に、前述のビッグレースにおける独立UHF局の地上波中継は一気に減少した。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 243, "tag": "p", "text": "2016年以降は、独立局の地上波中継は一部放送局が記念競輪をローカル放送する程度になっている。全国ネットとしては日本テレビ系列かテレビ東京系列の特別競輪決勝戦を除くと殆ど中継されないようになった。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 244, "tag": "p", "text": "現在地上波中継される大会は、以下の通りとなっている。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 245, "tag": "p", "text": "上記のほか、以下のテレビ局では競輪を紹介する番組をレギュラー放送していた。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 246, "tag": "p", "text": "CS放送で初めて中継が行われたのは、1992年の高松宮杯競輪で、地元びわ湖放送の中継映像を用いてスポーツ・アイで放送された。また、1993年の和歌山競輪開設43周年記念から開設記念(GIII)の中継も開始された。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 247, "tag": "p", "text": "「KEIRINグランプリ(GP)」は、1997年からNHK BSでも放送している(NHK-BShiも2006年まで放送)。これは収益金の一部がNHK厚生文化事業団に寄贈され、また優勝者に対してNHKから寄贈トロフィーが贈られるためである。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 248, "tag": "p", "text": "上記のほか、2008年の「ふるさとダービー弥彦」は、BS11デジタルでも放送した。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 249, "tag": "p", "text": "2013年4月28日からはBS日テレにて「KEIRIN LIVE〜夢見マクリ!S級新聞社」(2015年度のみ「S級探偵団」として放送)のタイトルで特別競輪の準決勝・決勝戦を生中継したが、2016年4月9日から「パンサーの競輪、はじめました。」の放送を開始したため、同年3月13日をもって放送を終了した。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 250, "tag": "p", "text": "2016年度以降はGI決勝戦を地上波で中継しない場合のBS日テレかテレビ東京系列で中継する場合のBSテレ東が同時放送する時のみ中継しているが、同年度からは2021年までのヤンググランプリはBS中継が取りやめとなっていた。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 251, "tag": "p", "text": "2019年度以降はBS日テレの中継が大幅に減少している。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 252, "tag": "p", "text": "2022年3月21日より放送を開始したBSよしもとでは、毎週月曜から金曜日の22:00 - 23:00で「競輪LIVE!チャリロトよしもと」を放送している。放送当日に開催されているいずれかのミッドナイト競輪の中継と、番組スポンサーであるチャリロトでそのレースの予想と投票を行い、曜日ごとの出演者により曜日対抗で回収率の高さを競っている。なお、番組はBSよしもとの公式ホームページにおいて同時動画配信を行っており、インターネットに接続できる環境にあればパソコン、スマートフォンでも視聴が可能である。また、ミッドナイト競輪は放送終了後の23時台でも行われるため、併せて22:45 - 23:45ごろの間でYouTubeによるストリーミング配信を行っており、22:59の放送終了後はYouTubeの番組公式チャンネルで視聴することになっている(見逃し視聴も可能)。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 253, "tag": "p", "text": "CSであるスカパー!の「SPEEDチャンネル」では、6チャンネル体制で一般戦も含め各地の競輪を完全中継している。また、かつて西宮競輪や甲子園競輪では、無料放送であるベターライフチャンネルにて完全中継を行っていた。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 254, "tag": "p", "text": "かつて日本で展開していたディレクTVでは「南関ケイリンチャンネル」「関東ケイリンチャンネル」などが存在した。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 255, "tag": "p", "text": "初めてのラジオ中継は、1952年にNHK大阪放送局が行った、甲子園競輪場からの実況中継。当時、審判塔の上に放送席を設けて中継を行った。これが好評で、その後は全国各地で中継が行われるようになった。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 256, "tag": "p", "text": "ラジオでは主に「KEIRINグランプリ」やGIの決勝戦を中心に放送しており、一部は全国ネットしている。番組はRFラジオ日本が制作することが多いが、2009年まではTBSラジオも制作していた(番組タイトルは「エキサイトKEIRIN」)。これはTBSラジオで競輪提供の番組中野浩一のフリートークを放送しているためと考えられる。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 257, "tag": "p", "text": "近年は中継されない事が殆どになっていて、2019年はKEIRINグランプリ2019シリーズ以外は放送されず、2020年と2021年は放送自体がなかったが、2022年はKEIRINグランプリ2022シリーズでは2日目のガールズグランプリと最終日のKEIRINグランプリで、ラジオNIKKEI第2放送にて3年ぶりに中継が行われた。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 258, "tag": "p", "text": "地方局では、和歌山県を放送地域とする和歌山放送が、例年1月上旬に開催される和歌山競輪開設記念(GIII)「和歌山グランプリ」3日目・最終日に中継を実施している。2023年はこれに加え、8月に同場で行われたGIII「大阪・関西万博協賛競輪」3日目準決勝のうち第11レース・第12レースと最終日決勝戦を中継した(radikoプレミアム会員であれば、全国で放送日から一週間後まで聴取可能)。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 259, "tag": "p", "text": "過去には 佐藤一司、 樋口忠正(現在はフリー)など", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 260, "tag": "p", "text": "競輪主催者が直接手掛けるネット配信サービスとしては、2010年に開設された「KEIRIN.JPストリーム」がある。当初は単独サービスとして開設されたが、2017年4月に競輪公式サイト(KEIRIN.JP)がリニューアルされたのに伴い、公式サイトのサービスの一部として統合された。またニコニコ生放送とYouTube Liveにおいては、競輪場単位で独自の公式チャンネルを開設し、レース映像の生配信を行っているケースが多い。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 261, "tag": "p", "text": "Kドリームスでは、2018年の第72回日本選手権競輪より中野浩一・後閑信一の2人をパーソナリティとした独自番組として「本気の競輪TV」を制作しており、主にGP・G1レースの際にYouTube Liveにて生配信される。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 262, "tag": "p", "text": "2019年4月より、サイバーエージェントが子会社のWinTicketを通じて車券のインターネット投票に参入したことに伴い、AbemaTV内に「競輪チャンネル」が開設された。原則としてWinTicketの取り扱いのある競輪場の競走を生配信するほか、ミッドナイト競輪については独自の中継番組として「WinTicket ミッドナイト競輪」を配信している。同年のKEIRINグランプリ2019以降は、グレードレースが行われる日には特番として独自で放送する事もある。実況映像については、原則として各競輪場が制作しているものをレース部分のみ使用している。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 263, "tag": "p", "text": "2020年6月よりサービスを開始したTIPSTARでは、各場のレース部分のみの生配信を視聴できるほか、以前は、各日数場においてはアプリ内のみで視聴できる予想番組を制作していた。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 264, "tag": "p", "text": "2021年12月28日に行われた第10回オッズパーク杯ガールズグランプリでは、定額制動画配信サービスのスポーツ・チャンネル「DAZN」でも初めて中継・配信が行われた(DAZNでの競輪中継自体が今回初となる)。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 265, "tag": "p", "text": "主にテレビCMに出演。他に、現役競輪選手をその年度のテレビCMに起用するなどの例もあった。2019年以降は起用していない。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 266, "tag": "p", "text": "2014年度の中村と2015年度の柳は、当年度のGI・GIIの表彰式プレゼンターをほぼ全て務めた(寬仁親王牌のみ「ローズカップ」を担当した)。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 267, "tag": "p", "text": "競輪場によっては、広報活動のためのキャンペーンガールが存在するところもある。主な活動としては、重賞競走などでラウンドガールや、優勝選手への花束贈呈などの表彰式の演出を行ったり、イベントなどで競輪ファンと交流をしたりすることなどがある。中には自転車競技の魅力を伝えるために、彼女らによる競輪や自転車競技の模擬レースが行われることもある。", "title": "広報活動" }, { "paragraph_id": 268, "tag": "p", "text": "全国の競輪施行者(43団体)を会員とする団体。略称・全輪協。", "title": "全国競輪施行者協議会" } ]
競輪は、競艇・競馬・オートレースと並ぶ公営競技の1つで、北九州市を発祥の地とする自転車競技。及びその自転車競技の着順を予想するギャンブルである。
{{Otheruses|[[日本]]・[[韓国]]の[[公営競技]]の'''競輪'''|[[トラックレース]]としての'''ケイリン'''<!-- (KEIRIN)-->|トラックレース#ケイリン}} {{Pathnavbox| * {{Pathnav|競技|競走}} * {{pathnav|[[賭博]](ギャンブル)|[[スポーツ賭博]] / [[公営競技]]}} }} {{画像改訂依頼|勝負服のイラスト|高解像度版|date=2023年1月 (UTC)}} [[ファイル:Omiya keirin finish 3.jpg|thumb|300px|ラスト1周の攻防。9番が懸命にもがき、外側から1番が捲る([[大宮競輪場]])]] '''競輪'''(けいりん、英字表記:KEIRIN)は、[[競艇]]・[[競馬]]・[[オートレース]]と並ぶ[[公営競技]]の1つで、[[北九州市]]を発祥の地とする[[自転車競技]]。及びその自転車競技の着順を予想する[[賭博|ギャンブル]]である。 {{-}} == 開催・運営 == [[File:KEIRIN logo.svg|thumb|right|150px|「KEIRIN」のロゴ]] 競輪は[[自転車競技法]]に基づいて運営されており、主催者は[[地方公共団体|地方自治体]]である<ref name="野呂2008-4"/>。監督官庁は[[経済産業省]]([[製造産業局]]車両室)<ref name="野呂2008-29">[[#野呂2008|野呂2008]]、29頁。</ref> で、運営統括は[[財団法人|公益財団法人]][[JKA]]。運営を補佐する団体として[[全国競輪施行者協議会]] (全輪協)[https://www.zenrin.or.jp/]、[[日本競輪選手会]]がある<ref name="野呂2008-29"/>。これらJKA、全国競輪施行者協議会、日本競輪選手会の3団体により『競輪最高会議』が形成され<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.meti.go.jp/report/whitepaper/data/pdf/20180328001_03.pdf |title=「競輪最高会議」を構成する3団体の概要 |publisher=[[経済産業省]] |date=2018-03-28 |accessdate=2023-08-20 }}</ref>、各年度末の最高会議において翌々年度の[[競輪の競走格付け#特別競輪|特別競輪]]開催地が決定される<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=12941 |title=2024年度GP・GI・GII開催場・日程の決定について |publisher=KEIRIN.JP |date=2023-03-24 |accessdate=2023-03-24 }}</ref>などしている。 地方自治体は所管省庁の[[経済産業省]]へ競走の開催を届け出、[[競輪選手]]と呼ばれる[[プロフェッショナル|プロ]]の選手達と「[[競輪場]]」と呼ばれる自転車競技場における競走出場に関する契約を交わす。番組編成、選手管理、審判など<ref name="野呂2008-32">[[#野呂2008|野呂2008]]、32頁。</ref>、実際の自転車競走の運営については競輪場の存在する各地域のJKA競輪競技実施事業本部(旧・[[日本自転車競技会]])の支部へ委託している。審判の方法など、受け持つ支部によって運営手法に違いがある<ref name="野呂2008-33">[[#野呂2008|野呂2008]]、33頁。</ref>。 競輪選手の登録・あっせん<ref group="†">競輪では「斡旋」とは書かず「あっせん」と平仮名表記である。それに倣い、以下「あっせん」で統一。</ref>、育成については中央団体である公益財団法人JKAが行ない、[[2014年]][[4月]]からは審判および番組編成・選手管理・検車の4つの業務もJKAが管掌している(経済産業省はJKAを通して競輪選手、競技会、施行者などの監督指導を行う) 。 勝者[[投票券 (公営競技)|投票券]](車券)の売り上げ金のうち75%は払戻金に充て<ref name="野呂2008-4"/>、残り25%から一定額を選手賞金などの経費やJKAへの交付金(約3.3%)、[[公営企業金融公庫]]への納付金(約0.2%)を差し引いた額が純益として地方自治体の歳費となる。 競輪の収益金は、監督するJKAに納付される売上を元に各種の補助事業が行われ社会に還元されただけでなく、主催者として運営する自治体に多額の収入をもたらしたことで自治体財政を健全化し、戦災復興や公共施設の建設などに貢献することになった。収益金の使途として最も多かったのは主として土木事業費であるが、競輪のイメージ向上への期待も込めて、教育、福祉関連事業にも多くの費用が投入された。通産官僚の[[佐橋滋]]らによる発案で、当時資金調達が困難だった国産[[トランジスタ]][[計算機]]の研究開発に競輪収益をあてたエピソード<ref group="†">[[TBSテレビ]]で[[2009年]]に放送された[[官僚たちの夏#テレビドラマ(2009年・TBS版)|官僚たちの夏]]・第5話で、競輪の収益金を計算機開発資金の一部に回すよう、佐橋滋のモデルとなった、主人公の風越信吾が働きかけるシーンが放送された。</ref> もある。 '''日本のプロスポーツでは選手数が最も多い競技'''とされ、2,300人程度で構成されている(2019年12月31日時点、2,325人)<ref name="keirinjp1901103">{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2020khn/01/pdf/20200110_04_03.pdf |title=2019 年級班別賞金総額及び平均取得額 |publisher=KEIRIN.JP([[JKA]]) |date=2020-01-10 |accessdate=2020-01-11 }}</ref>。また初期には女性選手による「女子競輪」が[[1964年]]([[昭和]]39年)まで開催されたほか、[[2012年]](平成24年)[[7月1日]]から女子選手による「[[ガールズケイリン]]」が開催されている。 創設以来、日本独自のものであったが、現在は日本側による技術指導の下、[[大韓民国|韓国]]で[[国民体育振興公団]](および地方自治体)が主催者となり、国内3つの競輪場で開催している。なお、過去には、[[1949年]]5月に[[タイ王国|タイ]]との間で競輪輸出契約がまとまり日本以外で初の競輪が開催される予定であったが、直後の政変によりご破算となった(競輪二十年史では「[[プレーク・ピブーンソンクラーム|ピブン]]政権の失脚により」との記述があるが、史実ではピブン政権の失脚は[[1957年]])<ref name="kr20-6667">[[#KR20|競輪二十年史]]、66 - 67頁。</ref>。このほか、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ占領下]]にあった[[沖縄県|沖縄]]でも競輪開催の動きがあったが結局立ち消えになっている<ref name="kr20-6667" />。 == 選手 == {{See also|競輪選手|日本競輪選手養成所}} === 概要 === [[ファイル:Japan Institute of KEIRIN 2011.jpg|thumb|日本競輪選手養成所]] [[ファイル:Tairakeirin 2008-5.jpg|thumb|いわき平競輪場で練習中の競輪選手]] 競輪選手は、[[日本競輪選手養成所]]において約1年間研修を受けて競輪に関する知識と技能を習得し<ref name="野呂2008-35">[[#野呂2008|野呂2008]]、35頁。</ref>、競輪選手資格検定に合格<ref name="野呂2008-38">[[#野呂2008|野呂2008]]、38頁。</ref>して同所を卒業し、選手登録された者である<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、34-35頁。</ref>。選手の権利を守る団体として[[日本競輪選手会]]があり<ref name="野呂2008-34">[[#野呂2008|野呂2008]]、34頁。</ref>、各選手は36の都道府県にある日本競輪選手会のいずれかの支部に所属している<ref name="野呂2008-34"/><ref group="†">岩手、秋田、山形、石川、長野、山梨、滋賀(2018年4月に福井と併合)、鳥取、島根、宮崎、沖縄の11県には支部がないため、これら11県を登録地としている選手は、近隣の県の支部に所属している。なお、競輪選手は必ずいずれかの支部に所属しなければならず、所属しない場合はJKAからレースあっせんを拒否される。</ref>。 競輪選手養成所の入所試験には一般試験と特別選抜試験があり、後者は各種[[スポーツ競技]]において特に優秀な成績を残した者を対象としている(特待生制度)<ref name="野呂2008-35">[[#野呂2008|野呂2008]]、35頁。</ref>。特別選抜試験の受験資格は[[オリンピックメダリストの一覧|オリンピックメダリスト]]などに限られるため非常に厳しく、ほとんどの受験生は一般試験を受験する<ref>[[#中野2004|中野2004]]、114-115頁。</ref>。一般試験には「自転車の競技経験者が対象で自転車の走力を測る」技能試験と「自転車の競技経験がない者が対象で運動能力を測る」適性試験があり、いずれについても一次試験と二次試験が課される(但し適性試験に限り、他のプロスポーツ経験者を対象に一次試験を免除する制度がある)。合格率は、109期以降では、男子は概ね5倍程度<ref>{{PDFlink|[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2016khn/09/pdf/20160915_02.pdf 日本競輪学校第113回(男子)生徒入学試験(一般試験)応募者状況]}} - KEIRIN.JP(2016年9月15日配信)</ref>、女子は2〜3倍程度<ref>{{PDFlink|[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2016khn/09/pdf/20160915_03.pdf 日本競輪学校第114回(女子第7回)生徒入学試験(一般試験)応募者状況]}} - KEIRIN.JP(2016年9月15日配信)</ref> である。男子は受験1回目での合格率は約3割で、合格者の多くは複数回の受験を経験している<ref name="中野2004-116">[[#中野2004|中野2004]]、116頁。</ref>。入学希望者は自転車競技愛好会や高校・大学の自転車部に所属して練習を積むケースが多い<ref>[[#中野2004|中野2004]]、113-114頁。</ref>。 デビュー時点では、男子は全員A級3班に所属し<ref name="野呂2008-139">[[#野呂2008|野呂2008]]、139頁。</ref>、その後はS級戦(S級S・1・ 2班戦)、A級1・2班戦、A級チャレンジ戦(A級3班戦)に分けられた3クラス戦制の中で、2級6班制による半年毎の格付け入れ替えを経て{{#tag:ref|A級の選手については、半年毎の入れ替えの他にも、完全優勝(出場全レースを勝っての優勝)を3開催連続(9連勝以上)することで、3班選手は2班に昇格する特別昇班、1・2班選手はS級2班に昇格する特別昇級の制度や、年に2回開催される[[レインボーカップ]]で優勝戦に進出することによる特別昇級の制度がある([[競輪選手#S級特別昇級・A級2班特別昇班制度]]を参照)<ref name="中野2004-70"/>。|group="†"}}、最上位のS級S班(9名)を目指す体系となっている<ref name="野呂2008-139-140">[[#野呂2008|野呂2008]]、139-140頁。</ref>。南関東公営競馬の予想屋で競輪ファンでもある佐々木洋祐は、最上位クラスの選手と最下級クラスの選手との実力差は、一緒に走ればほぼ100%最上位クラスの選手が勝つといえるほど絶対的なものであると述べている<ref>[[#競輪マクリ読本|競輪マクリ読本]]、116-117頁。</ref>。なお、女子は現状では昇降級の制度はないため、全員がL級1班の所属である<ref>[http://www.girlskeirin.com/news/2017/03/29.html ガールズケイリンの平成29年度の取組みについて] - ガールズケイリン情報配信サイト、2017年3月24日配信</ref>(そのため選手間の実力差は大きい)。 男子選手の所属する級および班は、競走得点および評価点に基づいて決められる。まず競走成績に応じて競走得点が算出される<ref name="野呂2008-139-140"/>。競走得点は着順が良いほど、また格の高いレースほど高く設定されている<ref name="中野2004-69">[[#中野2004|中野2004]]、69頁。</ref>。さらに競走得点をもとに評価点{{#tag:ref|平均競走得点(出走1回あたりの競走得点)から失格点を引いて算出<ref name="野呂2008-140-141"/>。|group="†"}}が計算され<ref name="野呂2008-140-141">[[#野呂2008|野呂2008]]、140-141頁。</ref>、それをもとに選手の所属する級および班が決められる<ref name="野呂2008-140-141"/>。ちなみに、男子選手のランクはレーサーパンツの下地とラインの色から判断することができ、A級は黒地に緑のライン<ref name="中野2004-70">[[#中野2004|中野2004]]、70頁。</ref><ref name="野呂2008-133">[[#野呂2008|野呂2008]]、133頁。</ref>、S級は黒地に赤のライン<ref name="中野2004-70"/><ref name="野呂2008-133"/>、S級S班は赤地に黒のラインとなっている<ref name="野呂2008-133"/>。 * 男子の各級班の定員は、S級は1班220名(S班9名を含む)・2班450名、A級は1班・2班とも520名(3班は2019年10月時点で443名)となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=4697 |title=2020年前期(1月~6月)適用級班の決定! |publisher=KEIRIN.JP |date=2019-10-21 |accessdate=2019-10-22 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 選手は月に2つないし3つの開催に出場する<ref name="中野2004-66">[[#中野2004|中野2004]]、66頁。</ref>。出場レース数に換算すると、概ね月に6〜9レースである<ref name="中野2004-66"/>。出場は、JKAのあっせんに対し選手が意思表示を行うことによって決められる<ref name="中野2004-66"/>。出場が決まった選手は開催前日の指定時間までに競輪場へ入らなければならない<ref name="野呂2008-79">[[#野呂2008|野呂2008]]、79頁。</ref>。競輪場に到着した選手は参加登録および健康診断を受け<ref name="野呂2008-79"/>、さらに分解してバッグに入れて持ち込んだ<ref name="中野2004-64">[[#中野2004|中野2004]]、64頁。</ref>自転車を組み立てて検査を受ける<ref name="野呂2008-79"/>。健康診断と自転車の検査に合格した選手は基本的に4日ないし5日間宿舎(主に4人部屋<ref name="野呂2008-79"/>)に滞在し{{refnest |group="†" |この時、出場選手の中から施行者側との交渉役となる代表選手を何人か決め、その選手は出場選手を代表して施行者から連絡事項などの伝達を受けたり、緊急事態時には施行者との交渉を行う<ref>{{cite news|url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202004080000181.html |title=名古屋競輪が中止・打ち切り 感染拡大防止のため |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2020-04-08 |accessdate=2020-04-11 }}</ref>。}}、外部との連絡を絶つ<ref name="中野2004-75">[[#中野2004|中野2004]]、75頁。</ref>。開催当日は午前中に再度自転車の検査を受けた後で練習を行い、レースに備える<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、80-81頁。</ref>。 レースへの出場がないとき、多くの競輪選手は練習漬けの日々を過ごすといわれている<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、75-77頁。</ref>。競輪選手にはシーズンオフがない。そのためレースへの出場が続き、したがって練習のできない期間が長くなった選手は脚力に衰えが出る(「貯金がなくなる」と表現する)ようになる<ref name="野呂2008-70-71">[[#野呂2008|野呂2008]]、70-71頁。</ref>。各選手の過去の出場履歴は車券予想におけるファクターの一つである<ref name="野呂2008-70-71"/>。 選手の収入源は賞金や出走手当で<ref name="中野2004-96">[[#中野2004|中野2004]]、96頁。</ref>、実力下位であっても一般的なサラリーマンよりも高額の収入を得ているといわれている<ref name="公営ギャンブルの窮地-122">[[#公営ギャンブルの窮地|公営ギャンブルの窮地]]、122頁。</ref>。JKAが公表した、2019年の全選手の賞金総額及び平均取得額によると、2019年12月31日時点での全登録選手2,325名の平均取得額は10,402,280円で、うちS級688名では16,597,852円、A級1,502名では7,962,748円、L級(女子)135名では6,468,313円であった<ref name="keirinjp1901103" />。 <!---中野浩一『[[#中野2004|競輪選手になるには]]』(ぺりかん社、2004年)によると、成績に関係なく支給される出走手当は1開催3ないし4つのレースに出場するだけで20万円近くになり<ref name="中野2004-96"/>、年間30開催に出場するだけで500万ないし600万円を手にすることができる<ref name="中野2004-97">[[#中野2004|中野2004]]、97頁。</ref>。また、賞金はAクラスの一般戦の優勝賞金が6ないし8万円<ref name="中野2004-97"/>、GII以上のレースになると優勝賞金は1000万円を超え<ref name="中野2004-98">[[#中野2004|中野2004]]、98頁。</ref>、最もランクの低いA級3班でも平均して800万円弱の年収を手にすることができる<ref name="中野2004-97"/>。 ⇐情報が古いためコメントアウト ---> 但し、「[http://www.keirin-autorace.or.jp/regulation/keirin/gyoumu.html 競輪に係る業務の方法に関する規程]」第83条第1項第3号には競走成績不良による登録消除の基準が定められており、一定期間連続して成績の振るわない選手はあっせんを保留され<ref>[https://www.keirin-autorace.or.jp/documents/www/public/koho_keirin/2020/keirin_142.pdf#page=4 広報KEIRIN第142号] - 4ページ目に、該当選手に関する記載あり。</ref>、一定期間審査されたのち選手登録を消除される(強制的に引退させられる)<ref name="中野2004-70"/><ref name="野呂2008-140">[[#野呂2008|野呂2008]]、140頁。</ref><ref group="†" name="taisya">実際には、あっせんが保留された時点で対象となった選手は自ら選手会の支部に出向いて選手登録証の返納と退会届を提出しているため、表向きは「選手による自主的な引退」として手続きが取られている。</ref>。一度登録を消除されると再登録することはできない(現役復帰は不可能)ため、俗に『'''代謝'''』と呼ばれる<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/ailoverace/news/202006240000088.html |title=代謝回避に「勝負駆け」する選手の情報も欲しい |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2020-06-24 |accessdate=2020-06-25 }}</ref>この制度を適用することで競走レベルの維持を図っている。毎年期初(1月と7月)にこの代謝制度により多くの選手が引退を余儀なくされる<ref group="†">過去の[https://www.keirin-autorace.or.jp/public/shojo/ 登録消除者一覧]を検索すると、女子では2〜3名が、男子ではA級3班の30名程度が、1月と7月に集中して大量に消除されているのがわかる。</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2019/12/30/kiji/20191229s00052000423000c.html 【松戸】64歳三ツ井 4Rでラストラン「今までやってきたものを出し切れるように」― スポニチ Sponichi Annex ギャンブル 2019年12月30日 05:30]</ref>が、2020年は特に4月から5月にかけて開催中止が相次いだこともあり、例外的に下期期初(7月)においては代謝制度の適用はなかった<ref>{{PDFlink|[https://www.keirin-autorace.or.jp/documents/www/public/koho_keirin/2020/keirin_148.pdf 広報KEIRIN第148号]}} - 競走成績不良を理由としたあっせん保留選手に関する記載はない。</ref>。 * 男子は、通算3期(1年半)の平均競走得点が70点未満かつ最下位から30番目相当までに該当すれば、その次の期初(1月ないし7月)にあっせんが保留され、審査のち選手登録を消除される<ref group="†" name="taisya" />。ただしその3期のうち1期でも70点以上であった場合は対象外。 * 女子は、通算3期(1年半)の平均競走得点が47点未満かつ最下位から3番目相当までに該当すれば、その次の期初(1月ないし7月)にあっせんが保留され、審査のち選手登録を消除される<ref group="†" name="taisya" />。ただしその3期のうち1期でも47点以上であった場合は対象外。 === 歴代賞金王 === ※は当年の[[KEIRINグランプリ]]優勝者とは異なるケース(第1回が開催された1985年以降。但し1989年は開催中止)。 :1949年 小林源吉(埼玉) 1,921,000円 :1950年 高橋澄(兵庫) 2,425,250円 :1951年 (資料毀損のため集計せず) :1952年 [[高倉登]](埼玉) 3,743,000円 :1953年 [[山本清治]](大阪) 3,532,100円 :1954年 [[中井光雄]](滋賀) 3,795,530円 :1955年 [[松本勝明]](京都) 3,793,780円 :1956年 松本勝明(京都) 4,118,150円 :1957年 [[西村公佑]](大阪) 4,338,200円 :1958年 [[石田雄彦]](和歌山) 4,592,500円 :1959年 山本清治(大阪) 5,010,370円 :1960年 石田雄彦(和歌山) 5,796,080円 :1961年 [[吉田実 (競輪選手)|吉田実]](香川) 4,876,590円 :1962年 吉田実(香川) 6,160,800円 :1963年 [[高原永伍]](神奈川) 10,875,660円 :1964年 石田雄彦(和歌山) 12,304,940円 :1965年 [[白鳥伸雄]](千葉) 12,101,480円 :1966年 [[稲村雅士]](群馬) 12,384,020円 :1967年 [[平間誠記]](宮城) 19,093,920円 :1968年 [[吉川多喜夫]](神奈川) 16,923,220円 :1969年 高原永伍(神奈川) 17,899,460円 :1970年 [[福島正幸]](群馬) 16,866,540円 :1971年 [[太田義夫]](千葉) 17,642,200円 :1972年 福島正幸(群馬) 23,799,720円 :1973年 [[阿部道]](宮城) 35,937,630円 :1974年 阿部道(宮城) 40,595,800円 :1975年 福島正幸(群馬) 39,613,900円 :1976年 [[藤巻昇]](北海道) 56,742,000円 :1977年 [[中野浩一]](福岡) 66,139,600円 :1978年 中野浩一(福岡) 82,385,200円 :1979年 中野浩一(福岡) 92,186,200円 :1980年 中野浩一(福岡) 111,410,600円 :1981年 中野浩一(福岡) 107,685,711円 :1982年 [[井上茂徳]](佐賀) 108,267,311円 :1983年 中野浩一(福岡) 109,093,600円 :1984年 井上茂徳(佐賀) 98,545,100円 :1985年 [[滝澤正光]](千葉) 96,287,600円※ :1986年 滝澤正光(千葉) 100,883,000円※ :1987年 滝澤正光(千葉) 131,285,100円 :1988年 滝澤正光(千葉) 129,654,000円※ :1989年 [[坂本勉]](青森) 99,305,700円 :1990年 坂本勉(青森) 121,627,000円 :1991年 [[鈴木誠 (競輪選手)|鈴木誠]](千葉) 118,745,700円 :1992年 [[吉岡稔真]](福岡) 190,028,133円 :1993年 [[神山雄一郎]](栃木) 156,129,100円※ :1994年 吉岡稔真(福岡) 158,604,533円※ :1995年 神山雄一郎(栃木) 185,597,533円※ :1996年 吉岡稔真(福岡) 178,409,511円※ :1997年 神山雄一郎(栃木) 228,571,400円※ :1998年 神山雄一郎(栃木) 183,822,500円※ :1999年 神山雄一郎(栃木) 180,272,200円※ :2000年 [[児玉広志]](香川) 170,820,200円 :2001年 [[伏見俊昭]](福島) 203,315,600円 :2002年 [[山田裕仁]](岐阜) 244,348,500円 :2003年 山田裕仁(岐阜) 215,344,600円 :2004年 [[小野俊之]](大分) 183,537,300円 :2005年 [[加藤慎平]](岐阜) 186,102,000円 :2006年 [[有坂直樹]](秋田) 191,489,111円 :2007年 [[伏見俊昭]](福島) 185,159,999円 :2008年 [[井上昌己 (競輪選手)|井上昌己]](長崎) 167,933,900円 :2009年 [[海老根恵太]](千葉) 224,791,000円<ref name="keirinjp1901103" /> :2010年 [[村上博幸]](京都) 237,938,200円<ref name="keirinjp1901103" /> :2011年 [[山口幸二]](岐阜) 197,653,511円<ref name="keirinjp1901103" /> :2012年 [[村上義弘 (競輪選手)|村上義弘]](京都) 158,590,868円<ref name="keirinjp1901103" /> :2013年 [[金子貴志]](愛知) 189,569,722円<ref name="keirinjp1901103" /> :2014年 [[武田豊樹]](茨城) 220,921,000円<ref name="keirinjp1901103" /> :2015年 [[浅井康太]](三重) 189,633,600円<ref name="keirinjp1901103" /> :2016年 村上義弘(京都) 229,204,000円<ref name="keirinjp1901103" /> :2017年 浅井康太(三重) 182,787,400円<ref name="keirinjp1901103" /> :2018年 [[三谷竜生]](奈良) 255,313,000円<ref name="keirinjp1901103" /> :2019年 [[佐藤慎太郎]](福島) 188,733,400円<ref name="keirinjp1901103" /> :2020年 [[和田健太郎 (競輪選手)|和田健太郎]](千葉) 163,064,800円<ref>{{PDFlink |[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2021khn/01/pdf/20210108_02_01.pdf 2020年男子上位30名] }}</ref> :2021年 [[古性優作]](大阪) 210,561,000円 :2022年 [[脇本雄太]](福井) '''305,842,300円'''(歴代最高賞金獲得額)※年間3億円超えは公営競技初<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202212300000849.html |title=脇本雄太が4度目挑戦で初のGP制覇!公営競技で初めて年間獲得賞金3億円超えを実現/平塚GP|newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2022-12-30 |accessdate=2022-12-30 |archiveurl= |archivedate= }}</ref> 女子(賞金女王)は「[[ガールズケイリン#歴代賞金女王]]」を参照。 === グランドスラム === 男子選手において、2023年時点では6つあるGIカテゴリ競走(グレード制が制定される以前は「[[競輪の競走格付け#特別競輪|特別競輪]]」と呼ばれた競走)を全て制覇すれば、「[[グランドスラム]](グランドスラマー)」と称される。 現時点では、[[読売新聞社杯全日本選抜競輪|全日本選抜]]、[[日本選手権競輪|日本選手権]]、[[高松宮記念杯競輪|高松宮記念杯]]、[[オールスター競輪|オールスター]]、[[寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|寬仁親王牌]]、[[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭]]の6つ全てを優勝することが条件である。なお、[[KEIRINグランプリ]]はGPのカテゴリであり、GIではないため含まれない。 過去に達成したのは僅か4人。但し、井上と滝澤は共に寬仁親王牌が1994年にGI競走となる前の出来事<ref group="†">滝澤は「準特別競輪」(現在のGIIに相当)扱いであった第2回寬仁親王牌を制覇している。</ref>であるため、現在でもそのままグランドスラムとして扱われている。なお、井上と滝澤はKEIRINグランプリも制覇したが、神山と新田は未制覇である(特に神山は[[KEIRINグランプリ'95|第11回]]から[[KEIRINグランプリ'98|第14回]]まで4年連続2着であった)。 * [[井上茂徳]](1988年・5冠) * [[滝澤正光]](1990年・5冠) * [[神山雄一郎]](1999年・6冠)<ref group="†">グランドスラムを達成した当年の日本選手権では、ゴール直後に2着選手<!---小嶋敬二--->がガッツポーズと雄たけびを挙げてしまったため、神山自身はその時大きく喜ぶことができなかった。</ref> * [[新田祐大]](2022年・6冠)<ref group="†">2018年の時点王手をかけていたが、長く世界選手権など自転車競技を優先していたため寬仁親王牌は2018年・2019年と2年連続で欠場しており、3年ぶりの出場となった[[第29回寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|2020年]]は決勝2着となり、[[第30回寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|2021年]]も決勝2着入線ながら失格となった。[[第31回寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|2022年]]は優勝インタビューで大粒の涙を流した。</ref> 2023年10月時点で、現役選手の中で最もグランドスラムに近いのは[[山崎芳仁]]で、残るは日本選手権のみだが年齢的にタイトル獲得は厳しくなっている。山崎に次ぐのは[[武田豊樹]]、[[脇本雄太]]、[[平原康多]]、[[古性優作]]の4名で、いずれも残り2つ(武田は全日本選抜と寬仁親王牌、脇本は全日本選抜と競輪祭、平原は日本選手権とオールスター、古性は日本選手権と競輪祭)である。 過去には、[[平間誠記]]([[全国都道府県選抜競輪]]<ref group="†" name="tokubetsu">平間と高原が現役当時の特別競輪は、日本選手権、高松宮杯(現・高松宮記念杯)、オールスター、競輪祭、[[秩父宮妃賜杯競輪|秩父宮妃賜杯]](廃止)、[[全国都道府県選抜競輪|全国都道府県選抜]](廃止)。中野が現役当時の特別競輪は、日本選手権、高松宮杯(現・高松宮記念杯)、オールスター、競輪祭、[[全日本選抜競輪|全日本選抜]]。なお、全国都道府県選抜と全日本選抜とはそれぞれ別の大会である。</ref>)、[[高原永伍]](日本選手権<ref group="†" name="tokubetsu" />)、[[中野浩一]](高松宮記念杯競輪<ref group="†" name="tokubetsu" />)、[[吉岡稔真]](オールスター競輪)が、グランドスラムまであと1つという状態のまま引退した。 「[[ガールズケイリン]]」の名称で行われている平成期以降の女子競輪では、2023年よりグレードレースが創設され、うちGIは[[オールガールズクラシック]]、[[パールカップ]]、[[女子オールスター競輪]](2025年よりGI)、[[競輪祭女子王座戦]]の4つ。なお、[[オッズパーク杯ガールズグランプリ|ガールズグランプリ]]はKEIRINグランプリ同様GPのカテゴリであり、GIには含まれない。 * グレード制が導入される前である2022年まででは、ガールズグランプリ、[[ガールズケイリンコレクション]]、[[ガールズケイリンフェスティバル]]に、2018年創設の[[トライアル競走#オッズパーク杯ガールズグランプリ|ガールズグランプリトライアル]]、さらに2019年創設の新人女王戦である[[ルーキーチャンピオンレース|ガールズ フレッシュクイーン]]を加えた5レースが、ガールズケイリン特別競走とされていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.girlskeirin.com/news/2019/12/1217-2.html |title=ガールズケイリン特別競走でMINMIとのコラボ曲である新テーマソングが起用! |publisher=ガールズケイリン情報配信サイト |date=2019-12-17 |accessdate=2019-12-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191217134414/http://www.girlskeirin.com/news/2019/12/1217-2.html |archivedate=2019-12-17 }}</ref>。このうち、新人選手のみを対象としたガールズ フレッシュクイーンを除く4特別競走全てを制覇したのは[[小林優香]](2019年)のみ。更に、小林優香はガールズケイリンコレクションについても3月・5月・8月と3つあるステージ全てを制覇した。ほかに、ガールズグランプリトライアル以外の優勝賞金が200万円以上ある3大特別競走を全て制覇したのは、[[石井寛子 (競輪選手)|石井寛子]](2018年)と[[高木真備]]([[2021年]])。 * [[ガールズケイリン#昭和期の女子競輪|昭和期の女子競輪]]では、[[田中和子 (競輪選手)|田中和子]]が1955年に全ての特別競輪制覇([[日本選手権競輪|全国争覇競輪]]、[[高松宮記念杯競輪|高松宮妃賜杯競輪]]、[[全国都道府県選抜競輪]]、競輪祭)を達成しており、また女子では唯一の全冠制覇選手であった<ref group="†">但し、競輪祭が毎年開催されるようになったのは1963年からであり、そのことを踏まえ、実質的に3つという観点に立つと、[[渋谷小夜子]]や[[石村美千代]]も該当する。</ref>。 == 競輪用自転車 == {{Main|トラックレーサー}} 競輪で用いられる自転車は「ピスト(レーサー)」と通称される、規格に基づいた専用仕様の一人乗りの競技用自転車である。[[固定ギア]]であり、ペダルを逆回転させることによって速度を制御するためブレーキはない。競輪の関係法令においては『競走車』(単式競走車)と呼称されており、この自転車はNJS認定(Nihon Jitensha Shinkoukaiの略。現在のJKAに改称後もこの呼称が継続している)された部品により製作されることが義務づけられており(多くのNJS認定された部品は一般の自転車専門店にも卸されており、一般の愛好家も購入出来る)、なおかつ組み立て後の車体検査に合格しなければレースに使用することができない。 NJS規格と言われる場合もあるが、NJS認定は部品の互換性を保証する[[標準化]]ではない。NJS認定や組み立て後の車体検査は競輪のレースのための物であり、公道を走行することは考慮されていない。 競輪用自転車に限ったことではないが一般に公道での走行では制動装置が必要であり、別途ブレーキを付けない限り公道での走行は道路交通法により禁止されている([[ノーブレーキピスト]]も参照)。 競輪用の自転車は、ここ十数年ほど、ほとんど規格や素材が変更される事のないまま現在まで用いられている。おおむね半世紀前のピストレーサーも同然といって良く、現在他の[[トラックレース]]で用いられるピスト競技用車とは大きな性能差がある。これは公営競技としての公正さが念頭にあることが大きいが、他にも規格緩和による部品代高騰の抑制、横方向への移動における操縦安定性の維持、落車事故時における衝撃吸収性、車両性能の向上に伴う過度の高速化による重大事故発生の防止など様々な要因が絡んでいる。なお部品によってはタイヤ(SOYO=[[大和紡績|ダイワボウプログレス]])やリム([[新家工業]])など製造数や品質などの観点から事実上のワンメイクとなっているものもある。フレームだけで10数万円以上の製作費が必要となるが、その他の部品は規則上の自転車における制限が存在するため、車体総額で50万円を超える事は稀である<ref group="†">一般のトラックレース用機材では、カーボン製の最高級パーツを使うと100万円を超えることもある。</ref>。 なお2012年7月から開催されているガールズケイリン(女子競輪)、および2014年1月から開催されている[[KEIRIN EVOLUTION]]、2021年10月から開催されている[[250競走]]においてはカーボンフレームにスポーク以外のホイールが使用されており、他のトラック競技で使われている車両の仕様に近いものとなっている。 {{main2|女子向けの自転車|ガールズケイリン#ガールズケイリンの自転車}} {{main2|KEIRIN EVOLUTIONの自転車|KEIRIN EVOLUTION#自転車}} {{main2|250競走(PIST6)の自転車|PIST6#規格}} ちなみに、競輪草創期には[[実用車 (自転車)|実用車]]や[[軽快車]]、[[タンデム自転車|タンデム]]式(複式競走車)の自転車でも競走が行われていたことがあった。 ; 部品全般 [[自転車#構造|ハンドル]]・[[サドル (自転車)|サドル]]・[[クランク (機械要素)|クランク]]・[[ペダル (自転車)|ペダル]]・[[歯車|ギア]]・[[ローラーチェーン|チェーン]]などの部品は、規格に基づいて製作されたもの中から選択して使用する。 サドルは、一般の自転車と比べ細くて堅い<ref name="野呂2008-94">[[#野呂2008|野呂2008]]、94頁。</ref>。サドルを支える芯棒(シートポスト)は、設定する高さが1,2mm違うだけでペダルを踏み込む際のバランスが変わるとされる<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、94-95頁。</ref>。サドルを高くすると加速しやすくなる半面、横から力がかかった際にバランスを崩しやすくなり、落車の危険が増す<ref name="野呂2008-103">[[#野呂2008|野呂2008]]、103頁。</ref>。 ハンドルは、「ピストバー」と呼ばれる、曲線だけで構成された物が使われている。乗る選手の体型や脚質によって幅や湾曲、材質が異なる{{#tag:ref|追い込みの選手は競り合った時に左右の動きに対応しなければならない場面があることから、ハンドル幅を広めにしている<ref name="野呂2008-95">[[#野呂2008|野呂2008]]、95頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|腕力が強い選手は軽合金のハンドルを曲げてしまうため、鉄製のものを使う<ref name="野呂2008-95"/>。|group="†"}}。フレームとハンドルの固定部分(ハンドルステム)は、身長や腕が長い選手ほど長く(前へ突き出す方向に)設定する傾向にある<ref name="野呂2008-96">[[#野呂2008|野呂2008]]、96頁。</ref>。 ペダルはクリップ・アンド・ストラップモデル。選手が履く専用シューズの底には「サン」(桟)と呼ばれる溝の入った金属プレートが釘で打ちつけられており、このサンにペダルプレートを噛み合わせ<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、101-102頁。</ref>、さらに靴の爪先をトウクリップで固定、足(土踏まずから前の部分。脚ではない)を革やウェブベルト製のストラップベルトでペダルに縛り付ける。これにより、ペダルを踏み込む力だけでなく引き上げる力も加速に利用することができる<ref name="野呂2008-102">[[#野呂2008|野呂2008]]、102頁。</ref>。1980年代に登場しロードレースやトラックレースでお馴染みのビンディングペダルにNJS基準適合品はない。“位置につく”と足を着くことは出来なくなるので、スタートラインには号砲で飛び出すとロックが外れそのまま走り出せる専用のスタンドがあり、これに自転車をセットしてから乗る。 [[車輪]]は直径が27インチ<ref name="野呂2008-87">[[#野呂2008|野呂2008]]、87頁。</ref> と決められており、金属[[スポーク]]および[[リム (機械)|リム]]により構成され、[[タイヤ]]は外径675mm<ref name="ki">[http://www.keirin-autorace.or.jp/regulation/keirin/anzen.html 財団法人JKA・競走車安全基準]</ref><ref group="†">実際には27x1-1/8インチ・有効リム径615mmのホイールに28インチ22ミリ(700x22cサイズ相当)のタイヤを装着している。</ref> のチューブラー([[自転車用タイヤ#種類|チューブ一体型]])タイヤを使用するが、コースコンディションや脚質による選択は出来ない。 ; フレーム 車体となるフレームは[[クロムモリブデン鋼]]のパイプ([[鋼管]])を素材とした「[[フレーム素材 (自転車)#素材の種類|クロモリフレーム]]」と呼ばれるもので、使用者の体格に合わせて完全オーダーメイド<ref name="野呂2008-97">[[#野呂2008|野呂2008]]、97頁。</ref> で製作されたものである。フレームのうち、サドルを支える縦パイプ(ロードレーサーでいう「シートチューブ」)の角度(シートアングル)は乗る選手の脚質によって異なり、具体的には先行選手は後ろに重心をかけて乗る傾向にあるため縦パイプの角度も後ろに寝ている。捲りの選手はチェーンの長さを短くし、踏み込む力が伝わりやすいよう縦パイプの角度を立たせている<ref name="野呂2008-96"/>。競輪選手は、前輪軸と後輪軸を結んだ線よりもクランク軸がどの程度下げるか(ハンガー下がり){{#tag:ref|一般の自転車のクランク軸はほぼ線上にある<ref name="野呂2008-98"/>。|group="†"}}に気を神経をとがらせる<ref name="野呂2008-98">[[#野呂2008|野呂2008]]、98頁。</ref>。ハンガー下がりが大きいと安定感が増す反面、力の伝わりが悪くなるためペダルの踏み込みが重く感じられるようになり、小さいと踏み込みを軽く感じるようになる<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、98-99頁。</ref>。 ; {{Anchors|ギア(ギヤ)}}ギア(ギヤ) ギアは空回りのない[[固定ギア]]で、クランク側と後輪[[ハブ (機械)|ハブ]]側の[[スプロケット]]の歯数を選手が自分で判断し交換する(下記に詳細)。ブレーキは装着しておらず<ref name="野呂2008-88"/>、減速したい時にはギアが空回りしないことを利用して後ろへペダルを踏む(「バックを踏む」という)<ref name="野呂2008-88"/>。ファンの車券作戦においてポイントとして結びつく重要なルールの一つに「ギヤ<ref group="†">競輪では[[日本工業規格|JIS規格]]との関係から「ギヤ」が公式表記となっている。</ref> 倍数」がある。ギヤ倍数とは、自転車についている前後2枚のギア([[スプロケット]])のうち、クランク側ギヤ(大ギヤ。チェーンリング)の歯車の数と後輪のギヤ(小ギヤ)の比率をいい<ref name="中野2004-65">[[#中野2004|中野2004]]、65頁。</ref><ref>[http://www.chibakeirin.com/seminar/3_less6.html 千葉けいりんビギナーズセミナー ファイナルステージ Lesson6]</ref>、「'''大ギヤの歯車の数を小ギヤの歯車の数で割ること'''」で求めることができる。各選手はレース前にギヤ倍数を申告し、数値は出走表に記載される<ref name="中野2004-65"/>。出走表掲載後に急遽変更する場合もあり、その際は場内で告知される。 大ギヤの歯車の数は44から55、小ギヤの歯車の数は12から16と決められており、かつては最大倍数の4.58まで使用できていた<ref>[https://web.archive.org/web/20130324070119/http://hochi.yomiuri.co.jp/gamble/keirin/news/20130324-OHT1T00042.htm 山崎、超大ギアで全冠制覇だ ◆競輪のギア倍数] - スポーツ報知、2013年3月24日(このギヤではペダル1回転で約9.89m進む)</ref> が、[[2015年]]の開催からは男子は4.00未満(実質最大3.93)、女子は3.80未満(実質最大3.79)という規制<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/?path=2014khn/12/news20141230_07.html ギヤ倍数の範囲設定(男子・女子)について (平成27年1月開催から実施)] - KEIRIN.JP・2014年12月30日</ref> も加えられ、その制限のもとでギヤ倍数が決められる<ref name="中野2004-65"/>。なお、250競走においてはトラックレースのケイリンに準じたルールを採用しているためギア倍数に対する規制上限はかなり大きく、最大5.67倍まで認められている(つまり大ギヤ1回転で後輪は5.67回転する)で出走するケースも見られる。 * 2015年の開催より使用できるギヤ比の最大比率が制限された理由は、従前から重いギヤ比では前方の選手の急減速に対応・反応しづらく、バランスを崩して落車に至ることが起きやすいという指摘<ref>『[[サンデー毎日]]』 2013年9月1日号 p.32 「大ギア化でトンデモ“副作用” 競輪“落車続出”にファン激怒」 (奥岡幹浩)</ref>があり、実際の事故件数そのものは増加していなかったが<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nsp/keirin/article/84352 ギア4倍未満に規制 JKA] - [[西日本スポーツ]]([[西日本新聞]])・2014年4月25日</ref>、「速度の増加による事故の重大化」と「レースの単調化」を理由として実施されている<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/?path=2014khn/04/news20140425_03.html ギヤ倍数の範囲設定について(平成27年1月開催から実施)] - KEIRIN.JP・2014年4月25日</ref>。 従来の競輪における一般的なギヤ倍数は3.5ないし3.6で<ref name="中野2004-65"/>。ギヤ倍数が低いほど漕ぐ力が軽くなりダッシュ力に優れる。その逆では当然重くなることからダッシュ力は弱いがスピードに乗れば速くなり、高速を維持しやすくもなる。一般の自転車のギヤ倍数は2倍強であるが、競輪で使用する自転車の場合は3倍強から4倍弱である<ref name="野呂2008-99">[[#野呂2008|野呂2008]]、99頁。</ref>。ギヤ倍数が大きいとペダル1回転で進む距離が長い反面加速にしにくく、小さいと加速はしやすいがペダル1回転で進む距離が短い<ref name="野呂2008-100">[[#野呂2008|野呂2008]]、100頁。</ref>。 「先行選手がギヤ倍数を普段より落とせば先行・逃げ切り狙い」「先行選手がギヤ倍数を上げれば捲り狙い」などが読み取れる。なお近年は周回中における先頭誘導員(後述)の誘導スピードが速くなったことによる体力の消耗防止や、勝負どころにおいてトップスピードで走れる距離を伸ばすため「大ギヤ」を選択する選手が近年は増えており、かつて脚力が衰えたベテラン選手が先行選手についていくためにギヤ倍数を上げるのとは異なる傾向にあるため、個々の選手の「ギヤ倍数」には注意を払う必要がある。 [[2020年]]と[[2023年]]には[[脇本雄太]]が先行して21秒5の上がりタイム(400m)を出しているが、これは従来の3.54のギヤではほぼ考えられないタイムである。3.54のギヤと3.92のギヤではそれほどの差がある。 == 競輪用ヘルメット == 競輪用ヘルメットは、オートバイ用ヘルメット規格を元に競輪自転車用に特別設計されたポリスチレン充填の硬質外殻構造で小さな通気口が設けられている(発泡スチロールにプラスチックのシェルがかぶせられ多数の通気孔が開けられているロードレース用とは全くデザインが異なる)。ヘルメットの衝撃エネルギー吸収能力は、発泡ポリスチレンの厚みを増すことで高めることができるが、これにより厚くて重くなり、装着するには暑くなる。NJS規格適合品は[[アライヘルメット]]と[[DIC (企業)|DIC]]で製造している。商品名は「競輪ヘルメット」。選手によっては、[[競輪の競走格付け#特別競輪|特別競輪]]などで優勝した際にその場でヘルメットを脱いでスタンドに投げ込むというファンサービスをすることもある。余談だが、[[1990年代]]までは、専門紙[[プロスポーツ (競輪)|プロスポーツ]]などでのプロフィール用に掲載された顔写真や、当時の選手手帳に貼付するための顔写真は、選手全員がヘルメットを被った状態で写っていた。 == 競輪場 == {{Main|[[競輪場]]}} === 競走路(バンク)=== 競輪が行われる競走路(バンク)は、木製板張りである[[千葉JPFドーム|TIPSTAR DOME CHIBA]]を除き、コンクリートまたはアスファルトで舗装され、形状はすり鉢状である<ref name="野呂2008-87"/>。コーナー部分はおよそ30度、直線が2ないし4度内側に傾斜している<ref name="中野2004-53">[[#中野2004|中野2004]]、53頁。</ref>。この傾斜を[[カント (路線)|カント]]といい<ref name="中野2004-53"/>、カントの傾斜はコーナー部分をバンクに対し垂直に立った状態で左右にヨレる(遠心力の影響を受ける)ことなく走るには、時速60キロで走らなければならないように設定されている(時速60キロよりも速いと外側に、遅いと内側にヨレてしまう)<ref name="中野2004-54">[[#中野2004|中野2004]]、54頁。</ref><ref group="†">ただし2013年現在、[[自転車競技場]]においては時速75km以上で均衡がとれるように設計する規則がある。</ref>。なお、コーナーだけでなく直線部分も内側に傾斜しているのが一般的である<ref name="中野1999-136"/>。直線部分のうち、ゴール側をホームストレッチ、ゴールと反対側をバックストレッチという<ref name="中野1999-136"/>。残り半周となった時のバックストレッチを最終バックという<ref name="中野1999-136"/>。なお、この「カント」という語は、[[鉄道用語]]からきている。 日本国内で現存する競輪場においては、1周の長さは以下通り4種類(厳密には5種類)ある(このうち、多くの競輪場が400mを採用<ref name="中野2004-53"/><ref name="野呂2008-147">[[#野呂2008|野呂2008]]、147頁。</ref>)。なお、現存しない競輪場も含めると、300m([[阪急西宮スタジアム#西宮競輪場|西宮競輪場]]。開設時から[[1978年]]まで)も存在した。 * 250m - [[千葉JPFドーム|TIPSTAR DOME CHIBA]]のみ。屋内木製バンク。自転車競技としての[[トラックレース#ケイリン|ケイリン]]に準じた機材とルールで実施する250競走「[[PIST6]]」でのみ使用するため、通常の競輪開催は行わない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pist6.com/guide/beginner-guide/tipstar/ |title=TIPSTARとは |accessdate=2021-09-30}}</ref>。 * 333m (333バンク<ref name="野呂2008-149">[[#野呂2008|野呂2008]]、149頁。</ref>、33バンク<ref name="野呂2008-149"/>、小回りバンク<ref name="野呂2008-149"/>) - [[松戸競輪場|松戸]]、[[小田原競輪場|小田原]]、[[伊東温泉競輪場|伊東温泉]]、[[前橋競輪場|前橋]](335m)、[[富山競輪場|富山]]、[[奈良競輪場|奈良]]、[[防府競輪場|防府]]のみ。直線が短く、捲りにくいことから先行有利といわれる<ref name="野呂2008-149"/>。各選手のスパートのタイミングが早く、[[ルーレット]]の回転盤にたとえられるスピード感がある<ref name="野呂2008-149"/>。 * 400m(400バンク<ref name="野呂2008-147"/>) - 日本競輪選手養成所にある競走路に近い形状<ref name="野呂2008-148">[[#野呂2008|野呂2008]]、148頁。</ref>。円形のものと楕円形のものがあり、前者は直線が短く333バンクと同様先行有利とされる<ref name="野呂2008-148"/>。現在は殆どの競輪場がこの400mを採用している。 * 500m(500バンク<ref name="野呂2008-149"/>) - [[宇都宮競輪場|宇都宮]]・[[大宮競輪場|大宮]]・[[高知競輪場|高知]]のみ。「実力がなければ勝てない」といわれ<ref name="野呂2008-149"/>、スタミナや後半の粘りが要求される<ref name="野呂2008-150">[[#野呂2008|野呂2008]]、150頁。</ref>。かつては500mで開設した競輪場が多かったが、のちの改修工事の際に400m<ref group="†">[[千葉競輪場]]は、[[千葉JPFドーム|TIPSTAR DOME CHIBA]]への建て替え後は250m。</ref>に縮小した競輪場も多く、休止中の[[熊本競輪場|熊本]]も2024年に予定されている再開後は400mに縮小することが発表されている。 競走距離は、級別により基本的に統一されている。S級は2,000mを基本距離とするので、333m・335mバンクの場合は6周、400mバンクの場合は5周、500mバンクの場合は4周で争われる。A級及びガールズケイリンL級は、S級より1周回少ない競走距離で行われ、333m・335mバンクの場合は5周、400mバンクの場合は4周、500mバンクの場合は3周となる。実際はスタート地点はゴール線より後方にある競輪場がほとんどであり、その距離15mないし25mが競走距離に追加されるが、高知競輪場のみゴール線上に発走機が置かれているため、S級は2,000mちょうど、A級・ガールズケイリンは1,500mちょうどとなる。 ただし例外があり、男子のGI決勝戦ではS級の距離より1周回追加の2,425m(333m・335mバンクでの開催を除く<ref group="†">2010年以降の前橋開催(335m)および松戸開催(333m)でのGI決勝戦では、他のS級レースと同じ6周回で実施されている。</ref>)にて、[[KEIRINグランプリ]]では2周回追加の2,825mにて実施される。A級戦でも、S級特別昇級をかけたレインボーカップファイナルはS級と同じ周回数で実施される。 なお、250mバンクで実施される[[PIST6]]では6周回の1,515mとなっている。 [[ファイル:shonanbank.jpg|thumb|200px|左側の赤い部分から、退避路、内圏線、外帯線、イエローライン]] バンクには様々なラインが引かれており、基本的に幅は3cmだが、判定の基準位置はラインごとに異なる<ref>[http://www.city.toride.ibaraki.jp/reiki/reiki_honbun/e0160597001.html 取手市営自転車競走競技規則・別表]</ref>。下記は通常の競輪にて用いられるラインであり、250競走では異なる。 * ホーム・ストレッチ・ライン - 正面スタンド前に引かれた、スタートとゴールを示すライン<ref name="中野2004-55">[[#中野2004|中野2004]]、55頁。</ref>。スタートに関しては、ホーム・ストレッチ・ラインの手前25mの位置からの場合もある<ref name="中野2004-55"/>。 * 25メートルライン - スタート位置から25m先の位置に引かれたライン<ref name="中野2004-55"/>。スタート後、25メートルライン到達までに落車やスタート不揃いがあった場合、再スタートとなる<ref name="中野2004-55"/>。 * 30メートルライン - ゴールの手前30mの位置に引かれたライン<ref name="中野2004-55"/>。最終周回においてこのラインに到達した後は、落車などが原因で自転車に乗らず手で引いてゴールに到達したとしても完走したものとされる<ref name="中野2004-55"/>。 * バック・ストレッチ・ライン - バックストレッチ側に引かれた、ゴールまで残り半周であることを示すライン<ref name="中野2004-55"/>。このラインからゴールまでにかかった時間が「上がりタイム」として計測される<ref name="中野2004-55"/>。 * 内圏線(ないけんせん) - 周回に沿ってバンク全体に引かれた線<ref name="中野2004-55"/>。衝突・接触を避けるための一時的なものを除き、この線より内側を走行する「踏切り」は禁止される(ライン上の走行は禁止されていない)<ref name="中野2004-55"/>。 * 外帯線(がいたいせん) - 内圏線内側より70cmの位置から外側に引かれた線<ref name="中野2004-55"/>。外帯線より内側を走る選手を、その選手よりも内側を通って追い抜くことは禁止されている<ref name="中野2004-55"/>。この線はライン上に入った時点で外に出たと判定される。 * イエローライン - 過度の牽制行為を防ぐため<ref name="中野2004-56"/>、内圏線内側より3mの位置が外側となるよう引かれた黄色い線。先頭を走る選手がこのラインよりも外を走ることは禁止されている<ref name="中野2004-56">[[#中野2004|中野2004]]、56頁。</ref>。先頭選手が2秒以上イエローラインの外側を走ったら失格になる([[競輪全員失格事件]])。この線は外側への「踏切り」が判定基準となる。2003年12月31日実施の競走より追加された。 なおバンク上には表示されていないが、内圏線内側から30cmかつ外帯線内側から40cmの位置が「測定線」となっており、一周の周長はこれが基準となっている。 バンクを走る選手を取り巻く環境は、立地条件の影響を受ける。たとえば海沿いにある競輪場(富山、四日市、玉野、別府、佐世保)では海風の影響が大きい<ref name="野呂2008-151">[[#野呂2008|野呂2008]]、151頁。</ref>。また、ドーム式の前橋と小倉では、観客が増えるに従って場内の温度が上昇し、バンクが乾燥する<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、153-154頁。</ref>。 === 自転車競技場 === 自転車競技が行われる[[国民体育大会|国体]]が開催された関係から、[[滋賀県]]を除く全ての都道府県には競輪場または[[自転車競技場]]のいずれか(ないしは両方)が設置されており、競輪場がない県でも自転車競技場を拠点に選手の登録地(本拠所属地)とする事ができる。なお、滋賀県は[[大津びわこ競輪場]]が閉鎖・解体され、自転車競技場は元々なかった上にその代替施設も建設されなかったため、全国で唯一自転車競技場が存在しない県となった<ref group="†">大津びわこ競輪場が無くなった滋賀県では、のち[[日本競輪選手会]]滋賀支部が福井支部に統合され消滅した。また、[[三谷竜生]]などそれまで滋賀県を本拠所属地としていた選手の多くは、大津びわこ競輪場の閉鎖後、主に[[奈良県]]や[[京都府]]に本拠所属地を移した。ただ、[[金山栄治]]のように所属地は滋賀県のままとし、[[公道]]を練習拠点としている選手もいる。</ref>。[[沖縄県]]にも自転車競技場があるため沖縄県を登録地にしている選手もいる一方で、[[島根県]]が登録地の選手は菅井孝治(60期)が2002年10月31日に引退したのを最後に、また[[鳥取県]]が登録地の選手も齋尾大丈夫(69期)が2014年1月14日に引退したのを最後に、それぞれいなくなった。それ以降でそれら2県の出身の選手は、近隣の競輪場のある他県の支部に所属しそこを登録地としている<ref group="†">鳥取県出身の[[宮本杏夏]](引退)は[[岡山県|岡山]]支部に、島根県出身の[[野崎菜美]]は[[山口県|山口]]支部に、それぞれ所属した。</ref>。なお、島根県、鳥取県を除いて本拠所属地で最も登録現役選手数が少ないのは[[山形県]]で、3名(2023年6月時点)<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/keirin/mid_cal/news/202306260001066.html |title=【競輪】希少な山形県登録レーサー、赤塚悠人がまくり圧勝「仕掛けるならバック」/高松ミッド |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2023-06-26 |accessdate=2023-06-27 }}</ref>。このほか、身近に拠点となる競輪場や自転車競技場がないため、またはローラーでの練習が嫌いだから、などの理由で[[街道]]などを走って長距離を乗りこなす練習を主体にしている選手も存在する<ref group="†">[[小豆島]]に自宅があった[[児玉広志]]や、ローラー嫌いで有名であった[[佐古雅俊]](いずれも引退)など。</ref>。 == 競走(レース) == === 概要 === [[バンク]]と呼ばれる擂鉢状のコースを周回し、スタートから1周と[[競輪場のバンクレコード|ゴール前半周のタイム]]は計測されているもののタイムトライアルではなく、いかに早くゴールするかがポイントとなる。これにより、[[1990年代]]までのレースでは、スタートの号砲が鳴っても横並びで睨み合い・腹の探り合いになってなかなか発走台を離れない、発走台を離れても牽制し合ってなかなか先頭誘導員の後ろに付かない、俗に言う「出渋り」が見られたが、21世紀に入ってからはレース毎に「規定時間」(スタートから第一周回のホームストレッチラインまでのタイム<ref group="†">333mまたは335mバンクは51秒以内、400mバンクは60秒以内、500mバンクは68秒以内。</ref>で計測)が設けられ、第一周回のホームストレッチライン通過時にこれを超過すると「タイムオーバー」となり賞金は50%カットされる<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/guide/question/index_05.html 競輪Q&A・レース編] - keirin.jp</ref><ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202112030000553.html |title=痛恨!制限タイムオーバーで賞金半額に…Sけん制で先頭誘導員追わず/松山 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2021-12-03 |accessdate=2021-12-03 }}</ref><ref group="†">競艇でも、フライングスタートに加えて[[競艇#競走水面|出遅れ]]に対し同様のペナルティがある。</ref>ようになった。 男子の競輪の場合、1レース2000mであればそれを約3分30秒で走る。これから計算すると総平均時速は約35kmだが、ゴールスプリントにおける最大瞬間速度は約70kmに達するといわれている<ref name="野呂2008-125">[[#野呂2008|野呂2008]]、125頁。</ref>。ただ、走行中は常に大きな風圧の抵抗を受けることから、選手は複数人(主に2人 - 4人)で連携して戦う方が有利であり、通常はレースごとに選手同士で『[[ライン (競輪)|ライン]]』と呼ばれる即席のチームを組んでレースに臨んでいる。レース中、各ラインの先頭の選手は最も風圧を受ける不利はあるが自ら動くことでレースの主導権を握ろうとし、その後ろについた選手は(前の選手を壁代わりとすることで)風圧の抵抗を弱めて体力を温存させてもらう代わりに他のラインを追い抜かせないよう妨害するなど「ギブアンドテイク」を行う。そのため、競技自体は個人戦であるが、団体競技的な側面も併せ持っている{{refnest | group="†" |2022年度の競輪CMでは、それを前面に押し出したバージョンも制作されている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=rLGjrHnwaMw 「一瞬でライバルに」篇30秒CM ] - けいりんマルシェ</ref>。}}。この複雑さが、完全に個人戦である競馬や競艇、オートレースにはない競輪の魅力であり、競輪初心者にとっては、その魅力にハマるか(競技の特性を理解できず)嫌うかで分かれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://keirin.netkeiba.com/news/column_detail.html?id=164 |title=【日野未来】”憧れ”に人生をBET! 念ずれば花開く…生粋のギャンブル好きレーサー |publisher=netkeirin |date=2021-03-24 |accessdate=2021-12-06 }}</ref>。なお、かつて[[競輪プログラム改革構想|KPK]]導入より前の競輪([[ガールズケイリン#昭和期の女子競輪|女子競輪]]も同様)においては、ラインを組む等の打ち合わせは八百長行為とみなされ全面禁止とされていたが、強い先行選手には自ずと強い追込選手がマークするといった力関係によるラインのようなものが形成されていた模様。 [[PIST6]]や[[ガールズケイリン]]においてはラインの形成は禁止されているため、男子の競輪とは異なり完全に個人戦である。 近親者(親子・兄弟姉妹・夫婦)で同じ開催にあっせんされることは多々あるが、番組編成においては、開催における決勝戦(勝ち上がり戦)や[[KEIRINグランプリ]]、[[オールスター競輪]]でのドリームレース・オリオン賞レースまたは[[共同通信社杯競輪]]、[[オールガールズクラシック]]での予選競走(自動編成のため<ref>{{Cite web|和書|url=https://keirin.netkeiba.com/news/news_detail.html?id=3229 |title=【共同通信社杯】熱い気持ちの芦澤兄弟! |publisher=netkeirin |date=2021-09-17 |accessdate=2021-09-20 }}</ref>)などといったやむを得ないケースを除き、近親者が同じレースに出走することがないよう配慮されている。 === 宿舎 === 他の公営競技と同様、[[八百長]]防止のため、選手は、例え身内であっても競走参加中は外部との接触が一切禁止となる<ref group="†">身内の不幸など急を要する事態であれば、例外的に認められる場合もある。この場合は施行者を通じて呼び出してもらい、通話中も施行者が立ち会うことになっている。</ref>。そのため、競走参加中の選手は施行者が指定する選手宿舎で合宿生活を送らなければならず、外部とは隔離された状態となる。 競輪が始まった当初は、施行者が指定する競輪場近くの[[旅館]]が選手宿舎となっていた<ref>[[東口節子|原田節子]]『女子競輪物語 青春をバンクにかけて』p.11</ref>。現在は全ての競輪場で選手宿舎を備えており、大抵の競輪場では同一敷地内に選手宿舎を併設しているものの、[[小田原競輪場]]や[[岸和田競輪場]]など一部の競輪場では敷地外に選手宿舎を設けているケースもあり、その場合は選手は専用のバスで選手宿舎と競輪場を移動する。 基本的なシステムは[[競馬場#調整ルーム|競馬場の調整ルーム]]とほぼ同じだが、居室は個室ではなく、4人一部屋の相部屋である事がほとんど。一部の競輪場宿舎の浴室は[[温泉|天然温泉]]が出るところもある。 * [[2020年]]3月以降、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の蔓延により感染拡大を防止するため全国各地で開催中止が相次いだことから、いわゆる『[[3つの密|3密]]』を防ぐため、様々な対策が取られている。例えば、同年[[5月18日]]からの[[川崎競輪場|川崎]]FIでは、常用の宿舎は4人部屋を2人使用に変更したほか、全国あっせんのS級選手45人に対しては周辺の[[ホテル]]への分宿で対応した<ref>{{cite news |url=https://www.daily.co.jp/horse/2020/05/18/0013352273.shtml |title=【競輪】川崎が1カ月ぶりに再開 売上は前年同時期を1億4000万円超 |newspaper=[[デイリースポーツ]] |publisher=[[神戸新聞社]] |date=2020-05-18 |accessdate=2020-05-25 }}</ref>。 選手は、前検日より開催終了日ないしその翌日まで(最長で一週間程度)選手宿舎で過ごすこととなるが、選手はまず宿舎入りする際に、選手登録証<ref name="dmm191211">[https://chariloto.dmm.com/oddsnavi/posts/422 競輪選手が競輪選手である証!!!!] - DMM競輪・2019年12月11日</ref>と[[携帯電話]]などの通信機器(通信機能の有無は問わない)を施行者に預けなければならない<ref>[http://www.bs4.jp/pkh-old/onair/11.html 放送内容 第11回 「競輪場の1日」 加藤慎平選手登場!] BS日テレ『パンサーの「競輪、はじめました。」』番組サイト</ref>。また、特に[[ドーピング]]防止の観点から、飲食物のうち酒、生もの、生菓子などが持ち込み禁止とされている<ref>[http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=508 競輪選手へのプレゼントについて(お願い)] KEIRIN.JP 2017/7/25</ref>(宿舎内売店では酒類も販売されており、飲酒は可能。但し提供は全レース終了後となる。2020年からはコロナの影響で全面的に飲酒禁止となっている)ほか、トランプや通信機能の付いたゲーム機{{refnest |group="†" |[[対戦アクションゲーム|対人ゲーム]]も選手同士での賭博の原因になる可能性があることから禁止されている<ref>{{Cite web|和書|title=もう令和なのに...GBAが「最新ゲーム機」 競輪宿舎の日常が話題に→どういうこと?選手に事情を聞いた|url=https://www.j-cast.com/2021/09/18420379.html?p=all|website=J-CASTニュース|date=2021-09-18|accessdate=2021-09-19}}</ref>。}}、出前なども持ち込み禁止とされている。これらが発覚した場合は即、競輪場から出場契約が解除され欠場ないし途中欠場となり、後に一定期間のあっせん停止などの処分が下される<ref>[https://hochi.news/articles/20180311-OHT1T50166.html 携帯電話持ち込みで契約解除 ガールズケイリンのトップレーサー・大久保花梨] - スポーツ報知、2018年3月11日</ref><ref>[http://www.keirin-autorace.or.jp/public/koho/2018/keirin/keirin_121.pdf#page=4 広報KEIRIN、第121号] - JKA</ref>。なお、カメラについては従来は禁止されてはいなかったため、[[垣外中勝哉]]のように検車場や選手食堂などの様子を[[ブログ]]でアップしていた選手もいたが、2020年に入ってからはカメラも持ち込み禁止とされた<ref>{{cite news |url=https://www.daily.co.jp/horse/column/2020/06/22/0013446013.shtml |title=【競輪】カメラ持ち込み禁止でSNSを使う選手は不満 検車場だけは許可しても |newspaper=[[デイリースポーツ]] |publisher=[[神戸新聞社]] |date=2020-06-22 |accessdate=2020-06-30 }}</ref>。代わりに、選手個々によるが、選手によっては本や漫画などを持ち込んだりするケースのほか、DVDとDVDプレイヤーを持ち込んで空き時間に鑑賞するケース、[[ゲームボーイ]](初期型)など通信機能のない携帯ゲーム機で遊ぶケースのほか、現在ではコーヒーマシンを宿舎に持ち込み自前で淹れたてのコーヒーを味わう選手もいるなど、空き時間の過ごし方は多様化している。 === 競走の進行 === スタート前、前レースの終了直後には選手紹介が行われる<ref name="中野2004-56"/><ref name="野呂2008-124">[[#野呂2008|野呂2008]]、124頁。</ref>。この時すでにレースは始まっているともいわれ<ref name="中野2004-56"/>、各選手はラインや戦法について意思表示をし<ref name="野呂2008-54"/><ref name="野呂2008-126"/>、バンクを軽く2、3周する<ref name="中野2004-56"/><ref name="野呂2008-124"/>。このスタート紹介は、「地乗り」「脚みせ」とも呼ばれる<ref name="野呂2008-124"/><ref group="†">雨天時は、各車番ごとに色分けされた雨合羽を羽織ってバンクを周回することになるほか、荒天の場合はバンク周回をせず敢闘門の前で一礼だけして選手紹介を終える時もある(したがって荒天時は、ファンに直接ライン形成の意志表示する場がなくなる)。</ref>。「地乗り」「脚みせ」が終わると、選手達は一旦控え室に戻る。レース直前に多くの選手が清めの[[塩]]を、自身の体や自転車にかける<ref>[http://www.mike.co.jp/zen1/3/000716/index.html 岸和田競輪場] - 鷲田善一の世界</ref>。[[本田晴美]]は唇に塩を塗っていたことで有名。 発走時間になると、選手が発走機に集まり、自転車(の後輪)を発走台にセットして固定する。係員の合図で客席に一礼したあと自転車に跨る。サドルに座り、足を、履いているレーサーシューズの上からクリップバンドでペダルに縛り付け、[[ファンファーレ]]が流れた後、「発走します」とアナウンスされる。この間に選手によってはいろいろな[[ルーチン|ルーティン]]を行うこともある{{refnest |group="†" |『玉村ルーティーン』と呼ばれる[[仮面ライダー]]の変身ポーズ(を真似する「[[這いよれ! ニャル子さん]]」に出てくるニャル子の真似)をする[[玉村元気]](101期)<ref>{{Cite web|和書|url=https://keirin-marche.jp/enjoy/minamoto/m-20/# |title=仮面ライダーポーズ/「力のミナモト」玉村元気選手 ||publisher=けいりんマルシェ([[JKA]]) |date=2019-03-15 |accessdate=2021-04-15 }}</ref>や、[[BABYMETAL]]の大ファンで「レナメタル」の愛称でも呼ばれる独特のルーティンを行う[[野本怜菜]](114期)<ref>{{Cite web|和書|url=https://keirin.netkeiba.com/news/column_detail.html?id=1435 |title=【野本怜菜】“顔笑れレナメタル” 困難を笑顔に変えて羽ばたく24歳の挑戦 |publisher=[[netkeiba.com|netkeirin]] |date=2022-09-22 |accessdate=2022-10-18 }}</ref>などが有名。}}。「'''構えて!'''」の号令で各自ハンドルを握る。スターターの[[スターターピストル]](電子ピストル)と発走台は電気接続されており、号砲(電子音)が鳴りピストルの先端が発光するとともにロックが外れるようになっている。なお、最初期は係員が各選手ごとに自転車を握って支えていた(これは現在の[[PIST6]]でも行われている)ほか、ロック機能が付いた現在の発走機が導入される前はフライング(号砲の寸前に選手が飛び出し、係員が引っ張られて手を放してしまう)も見られた。 号砲が鳴りスタートした後、選手全員が25メートルラインを過ぎると競走は成立する(周回板の掲示間違いなどで競走不成立となる場合を除く)。なお、号砲後もロックが外れない、25メートルラインを通過する前に選手が落車したり、足をペダルに固定するグリップが外れるなどのトラブルが発生すれば、乱打で[[打鐘]]したりピストルを鳴らして選手に競走中止を伝え、再発走となる。 レース序盤は先頭誘導員を先頭に<ref name="野呂2008-87"/>、全選手が一列(「一列棒状」と呼ばれる<ref>[[#中野1999|中野1999]]、114頁。</ref>)の隊列を組んで走るのが一般的である<ref name="中野1999-114・116">[[#中野1999|中野1999]]、114・116頁。</ref>。その原因としては、隊列を外れると他の選手よりも外を走り、したがってより長い距離を走らなければならなくなること、他の選手の直後を走る場合よりも大きな風圧を受けることが挙げられる<ref name="中野1999-116">[[#中野1999|中野1999]]、116頁。</ref>。ただし、位置取りを巡って争いが生じた場合は別である<ref name="中野1999-114・116"/>。 残り4周以上の場合、残り周回数を示す表示板は白色に数字が記載されている。残り3周の表示は青色の地に3と書かれ、この周回を青板(あおばん)周回と呼ぶ。さらに残り2周で赤色の赤板(あかばん)に変わる<ref name="野呂2008-88">[[#野呂2008|野呂2008]]、88頁。</ref>。先頭の選手が残り1周半を通過すると[[半鐘]]が打ち鳴らされる。これを「[[打鐘]](ジャン)」といい、先頭を走る選手が残り1周となるゴールラインを通過するまで鳴らされ続ける<ref name="野呂2008-125"/>。 男子の競走の場合、先頭誘導員は、333m・335mの場合は残り2周半まで、400mバンクの場合は残り2周まで、500mバンクの場合は残り1周半までは必ず先導している。この距離以降は、選手が誘導員を抜きにかかる走りが見られたときに審判の指示で誘導員が退避する(誰も抜きにかからない場合でも規定の位置まで進行した時点で退避する)。ガールズケイリンの場合は、333m・335mの場合は残り2周、400mバンクの場合は残り1周半、500mバンクの場合は残り1周で必ず退避する。誘導員が退避したところからラストスパートがかかり、ゴールまで息詰まるデッドヒートが展開される。各車が込み合うような展開の場合には、時として接触・落車事故が発生することがある。 レース終了後は、各選手に対して、敢闘門に同県や同地区の(そのレースに出ていない)選手が自転車を取りに来てくれる風習がある<ref>[https://web.archive.org/web/20160415035011/http://blog.masanoriyamagishi.net/?month=200902 2009年02月の記事] - MasanoriYamagishi.NET(山岸正教)</ref>。また、どのレースでも、勝利した選手が他の選手に自腹で[[ポカリスエット]](かつては[[リポビタンD]]も<ref>[https://web.archive.org/web/20160305015405/https://www.sponichi.co.jp/gamble/column/jinmyak/KFullNormal20061026002.html 「いかなるレースでも金銭の授受はない!」] - スポーツニッポン・斎藤哲也のこんな人脈こんな話 2006年10月26日</ref>)を配るのが慣わしとなっている<ref>[http://blog.livedoor.jp/yokkaichikeirin/archives/2009-09-03.html 2009年09月03日] 四日市競輪 Bbスタジオ日記</ref>([[ガールズケイリン]]では開始当初の1期生同士がそれをやらなかったため、その流れで現在もやっていない)。 悪天候などでレースが中止となった場合、順延しない場合の開催では、準決勝や決勝の進出者は[[抽選器|ガラポン]]を用いた抽選による「みなし着順」で決まる<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202207100000083.html |title=脇本雄太「残念」松浦悠士「ちょい差し食らった感じ」準決中止・抽選で無念の“敗退”/福井 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2022-07-10 |accessdate=2022-09-24 }}</ref><ref>[https://www.daily.co.jp/newsflash/horse/2014/08/02/0007201233.shtml 【競輪】小松島が豪雨でレース中止] - デイリースポーツ、2014年8月2日</ref>。また、万が一あるレースで9選手全員が1着同着となった場合の勝ち上がりについても、その対応を決めてある<ref>[http://www.keirin-autorace.or.jp/regulation/keirin/yoryo_bangumi.pdf#page=10 第4節 番組編成上の勝ち上がり基準] - JKA 競輪の番組編成の要領 平成25年3月19日</ref>。その他、[[ガールズケイリン]]ではポイント制のため、決勝ないし準決勝において予選での獲得ポイント第7位が複数名いた場合、抽選で決勝ないし準決勝進出者を決定することもある<ref>[[日刊スポーツ]][[日刊スポーツ新聞西日本|大阪本社版]]、2019年7月14日付14面</ref>。 === ルール === ''※以下は'''男子の競輪'''についての記述であり、'''250競走『PIST6』'''並びに'''女子(ガールズケイリン)'''については異なる。 {{main|PIST6#競走ルール|ガールズケイリン#ガールズケイリンのルール}} ==== 1レースあたりの出走人数 ==== グレードレース(GIII以上)は通常は9車立てにより行なわれるが、その他のFI・FIIはS級戦も含めて全て<ref group="†">毎年3月に開催される[[ルーキーチャンピオンレース]]、毎年5月に開催される[[全日本プロ選手権自転車競技大会記念競輪]](全プロ)、毎年6月・12月に開催される[[レインボーカップ]]は除く。これらはいずれもFII格付けだが9車立てにて行われている。</ref>のレースが7車立てである。なお、最小は5車立て<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202101170000145.html |title=初日9Rと10R中止 当日欠場の選手が続出/伊東 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2021-01-17 |accessdate=2021-01-17 }}</ref><ref group="†">車番連勝車券発売後、6車立て以下だと枠番が全て単枠になり、7賭式移行からは2車複と2枠単が発売されなくなることから6名以下の競走は避けられていた([http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/help/guide/touhyou/013.html KEIRIN.JP・13.投票に関する基礎知識])。しかし7車立基本の競走が行われるようになったため規則を改正し、7賭式のうち'''2枠複'''と'''2枠単'''を発売せず6車立・5車立にも対応できるようにした([http://www.shizuoka38.jp/public/outline.PDF 静岡市自転車競技実施規則の一部改正案の概要])。<!--暫定での外部リンクです--></ref>である。 かつては[[モーニング競輪]]、[[ミッドナイト競輪]]、A級3班によるチャレンジ戦、新人戦(競輪ルーキーシリーズ)、[[S級ブロックセブン]]でのみ7車立てにて行われてきたが、新型コロナウイルス感染症拡大を防ぐため参加人数を極力抑える目的で暫定的に2020年7月から9月まではGI・GIIを除き全てのレースで7車立てとし、同年10月以降現在に至るまでグレードレース、[[全日本プロ選手権自転車競技大会記念競輪]]、レインボーカップファイナル以外は、S級戦も含めて全てが最大7車立てにて行われている。なお、[[千葉JPFドーム|TIPSTAR DOME CHIBA]]で行われている250競輪([[PIST6]])は6車立てが基本で、最小は4車立てである。 かつて[[後楽園競輪場]]や[[長居陸上競技場#大阪中央競輪場|大阪中央競輪場]]などでは最大12車立てでのレースが行われていたほか、初期の[[甲子園競輪場|甲子園]]や、好景気の頃でも[[富山競輪場|富山]]・[[防府競輪場|防府]]・[[小松島競輪場|小松島]]・[[佐世保競輪場|佐世保]]が、経費節減のため原則(ダービートライアル等を除いて)8車立てで開催していた時期があった<ref>[http://www.keirin.city.sasebo.nagasaki.jp/news_event/(別%E3%80%80記)平成27年度(2015)佐世保競輪事業概要.pdf 平成27年度(2015)佐世保競輪事業概要]</ref>(準決勝3着は抽選で2名のみが決勝進出<ref>[http://keirinfukuoka.jugem.jp/?eid=704 出発。] - 福岡競輪選手会ブログ、2010年7月28日</ref>)。 9車立ての場合、4番5番・6番7番・8番9番は同一枠として単枠の1番・2番・3番をあわせて6枠を構成するため、慣習的に4番・6番・8番には競走得点下位の選手が置かれる<ref group="†">例外もあり、オールスター競輪の初日ドリームレースは、1番車に前年グランプリ王者が入るほかは、ファン投票の順位の上位より若い車番となる。ガールズケイリンの場合は、6番車に下位の選手が入る競輪場もあれば入らない競輪場もある。</ref>。中でも6番車は最も競走得点の低い選手があてがわれるが、これら4番・6番・8番の選手が入着した場合は高配当が出ることが多く、競輪ファンはこれをもじって「'''ヨーロッパ'''」と呼ぶ。 負傷や失格、棄権による翌日の欠場者が発生した場合、開催地の近県の選手(FI開催のS級戦では2班選手のみ)を中心に補充が行われることがある。GIでは事前に選定された補欠選手数名が、競輪場近くのホテルで待機する<ref>[http://www.kojimakeiji.net/cgi-bin/calen/calen_new.cgi?mode=main&amp;action=view&amp;YMD=20160616 予備の1日] - < DIARY > 小嶋敬二オフィシャルWEBサイト 2016年6月16日(木曜日)</ref>。開催中に欠場者が発生した場合、補充選手を加えてもなお不足する場合は欠車として最小5車立てにてレースを行うか、5車揃わない場合はレースカット(12レース開催予定から10レースないし11レース開催とするなど)を行って対応している。 [[ミッドナイト競輪]]では、2020年10月から2021年3月までの開催で、分かりやすく楽しんで頂くことを目的として、[[ガールズケイリン]]も含めた全てのレースにおいて競走得点最上位選手を1番車とし、1番車から競走得点上位順に選手を並べる競走を試行実施した<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=6637 |title=10月からミッドナイト競輪がより分かりやすく、よりシンプルに、より買いやすく! |publisher=KEIRIN.JP |date=2020-09-24 |accessdate=2020-10-04 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。これが好評であったことから2021年4月以降も継続しており、2023年8月時点でも同様に、各レースごとにそのレースにおいて競走得点が最上位の選手から車番を割り振って出走表をシンプルにし、予想をしやすいよう配慮している。 ==== 勝負服 ==== [[ファイル:競輪勝負服.png|thumb|320px|競輪の勝負服。現行服は2002年4月より採用<ref name="野呂2008-132"/>。旧服は1984年11月の小倉競輪祭初日より採用。]] {{色}} [[サイクルウェア#ジャージ|レーサージャージ]]と基本的には同じ。違いはバックポケットがなく、長袖のみ、またジャージと同じ色のヘルメットカバーを着用すること。またレーサーパンツの両脇に入る線も、級毎に色が異なる。手袋も、フィンガーレス(指切り)ではなくフルフィンガードの物をはめる。 ; 勝負服一覧 * 1:'''○'''[[白]] * 2:'''●'''[[黒]] * 3:'''{{Color|Red|●}}'''[[赤]] * 4:'''{{Color|Blue|●}}'''[[青]] * 5:'''{{Color|Yellow|●}}'''[[黄色]] * 6:'''{{Color|Green|●}}'''[[緑]] * 7:'''{{Color|Orange|●}}'''[[オレンジ色|オレンジ]] * 8:'''{{Color|Pink|●}}'''[[ピンク]] * 9:'''{{Color|Purple|●}}'''[[紫]] 2002年4月に上述の通り服色が改められ、全車が「単色」となった<ref name="野呂2008-132">[[#野呂2008|野呂2008]]、132頁。</ref>(※従来通り先頭誘導員は紺地にオレンジのラインの服で変更なし)。これで変更されたのは5番以降(右の画像参照。5番が青と白から黄色に、黄色を取られた6番が緑に、緑を取られた8番がピンクに。7番が黒と黄色からオレンジに、9番が赤と緑から紫に)。 2代前(1964年から1984年)の服は1番から5番までは今の色と同じだが、6番は白と黒を交えたもの、7番は白と赤を交えたもの、8番は白と青を交えたもの、9番は赤と青を交えたものとなっている。 1つ前(1984年から2002年)の服が導入される直前の1984年9月・オールスター競輪では、5番が青と赤、7番が黄色と赤、つまり差し色として赤を統一したが、その色使いは変更時に採用されなかった(他の番車の色はそのまま採用)。あわせて従来の五分程度の半袖から、長袖に変わった。 また、過去の12車立では10番が黄色と黒、11番が赤と黒、12番が青と黒だった。旧服は枠番の確認を容易にするため4枠4番から6枠9番までは枠番色を基調として奇数車に別の色を交えており、現行服は車番連勝車券が一般化したことから全車別色となっている。 ビッグレースの決勝やGPでは、派手な限定ユニフォームが用いられることがある。1994年の第47回日本選手権競輪(静岡)では、上下同じデザイン・色の勝負服を着用した。他に、北京オリンピック日本代表選手応援協賛競輪を機に、2008年には特別ユニフォームが特定の大会で採用された<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2008khn/04/pdf/news20080416_01_uniform.pdf 平成20年GI・GII等で使用するオリジナル ユニフォームについて]</ref>。 [[2005年]]1月には[[武田豊樹]]が[[ラ・ピスタ新橋]]と契約し、公営競技初となる[[ユニフォーム広告|スポンサー名入りユニフォーム]](左肩)を着用<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2005khn/01/khn20050125.html 公営競技初!ユニフォームにスポンサー広告!] - Keirin JP、2005年1月25日</ref>。他の選手も追随した。 現在は、競輪、ガールズケイリンともに、GI・GIIやグランプリといったビッグレースを制覇した者に対し、特製のチャンピオンジャージが贈呈されており、優勝者はレース後の優勝インタビュー、記者会見ではその特製のチャンピオンジャージを着て臨んでいる。 レーサーパンツは、横のライン上に7つの星が描かれている。その年の[[競輪選手#S級S班の概要|S級S班]]のみ黒いラインの赤いパンツを着用。他のS級選手は赤いライン、A級は緑のラインでどちらも黒いパンツ<ref>[http://www.narakeirin.jp/beginner/uniform.html 初心者の方はこちら 選手のユニフォーム] - 奈良けいりん</ref>。なお、[[ガールズケイリン]]では開始当初はワンピース型であったがのち男子と同じくシャツとレーサーパンツを分け、右が黄色・左が紫のラインが入ったピンクのパンツ<ref>[http://www.rakuten-bank.co.jp/koueirace/keirin/beginner/ はじめての競輪] - 楽天銀行</ref>とし、2022年9月30日を初日とする開催以降は男子と同じく黒のパンツに変更された。 === 先頭固定競走 === 2012年のガールズケイリン開始により、従来のルールが男子向けの「先頭固定競走(オリジナル)」となり、新たに女子向けとして「先頭固定競走(インターナショナル)」のルールも設定された。ここでは従来からのオリジナルルールを中心に記述する。 [[ファイル:TachikawaKeirin.jpg|thumb|先頭固定競走のスタート時。選手の前にいるのが先頭誘導員]] [[ファイル:Omiya keirin1.jpg|thumb|1周目の周回の様子。誘導員が先頭に立っている]] 現在行われている競走は'''先頭固定競走'''と呼ばれ、スタートから残り1周半付近(ジャンが鳴る地点)までは選手と同じ型の自転車に乗った先頭誘導員(正式には'''先頭員'''というが、一般的には誘導員と呼ばれているため、以下、誘導員と表記)が選手の前を走る。選手は、333mないし335mバンクでは残り2周半のBS(バックストレッチ)ライン、400mバンクでは残り2周のHS(ホームストレッチ)ライン、500mバンクでは残り1周半のBSライン<ref group="†">レースの出走表や結果表などでは、ジャン=J、HS=H、BS=Bと、略記されることもある。</ref>、それぞれを切るまで誘導員より前に出ることができない<ref>[[日刊スポーツ]][[日刊スポーツ新聞西日本|大阪本社版]]、2020年3月7日付11面</ref>。これは、先頭を走ると風圧の影響を受ける上、後続の選手の動向を把握しにくくなることに配慮した制度である<ref name="野呂2008-87"/>。特に[[2019年]]からはこのルールが厳格に適用されるようになり、実際にこれに違反した場合は失格・[[即日帰郷]]となるだけでなく、即座にあっせん保留、かつ一定期間あっせん停止(実質的に、あっせん保留の期間も含めて4か月程度)の処分が下される<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/201906060000826.html |title=新ルール初の失格 先頭員を早期に追い抜く/宇都宮 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2019-06-06 |accessdate=2020-03-08 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.keirin-autorace.or.jp/documents/www/public/koho_keirin/2019/keirin_135.pdf#page=4 |title=広報 KEIRIN第135号 |publisher=KEIRIN.JP |date=2019-06-30 |accessdate=2019-07-01 |archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref>[https://keirin.netkeiba.com/keirinmatome/detail.html?no=4494 【競輪選手】出場あっせん停止一覧] netkeirin</ref>。 また、先頭誘導員を内側から抜くことは禁止されている。主導権争いなどでうっかり先行選手が内側から追い抜いてしまった場合は失格となる。 競走で誰も誘導員をかわさなければ最終2コーナーまで誘導する。なお選手たちの発走台と違い、先頭誘導員の発走台にはロック機能は付いていないため、号砲前でもすぐ外れるようになっている。 誘導員は車券の対象ではないため、レースに出走する選手と区別する目的で、紺地に橙色のV型ラインの入ったユニフォーム<ref name="野呂2008-87"/>と[[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]の[[スピーカー]]が付いた<ref group="†">誘導員は誘導することが目的であり、展開を確認する必要がなく後ろを振り向かないため、審判団がレースの流れを見て無線で誘導員にペース配分(「ピッチ上げて」や「スピード緩めて」など)を指示するためにスピーカーが付けてある。</ref> ヘルメットカバーを着用する。また、誘導員のスタート位置は選手よりも25m前である<ref name="野呂2008-124"/>。また、不正防止の観点から、誘導員は当日、レースに出走する選手たちと直接接触することがないよう、競輪場ではレースに出走する選手たちとは別の控室とバンクへの入退場口を使用する<ref group="†">レースに出走する選手の入退場で使用する敢闘門がバックストレッチにある競輪場では、誘導員はホームストレッチ側から入退場する。</ref>。 誘導員は大抵、そのレースが開催されている競輪場をホームバンク(練習拠点)とし、レース当日は競走に出走しない選手が行う<ref group="†">東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、愛知、福岡といった同都県内に複数の競輪場がある地区の選手の場合、ホームバンク以外の競輪場でも誘導を行う場合がある。また、宮城や石川など競輪場のない県を練習拠点とする選手では、隣接県の競輪場で誘導を行う場合もある。</ref>。誘導員にも競走に応じて選手と同額の手当<ref group="†">手当の額はレースの格による。最低は一般戦の3,000円で、最高は[[KEIRINグランプリ]]で20万円([[日刊スポーツ]][[日刊スポーツ新聞西日本|大阪本社版]]2014年7月29日付2面「そこが聞キティ」)。KEIRIN.JPサイト内[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/data/prize/index.html 競輪資料室]では、全てのレースにおいて賞金とともに誘導員手当の額が記載されている。</ref>が支給されるため、収入が少ない成績下位のA級の選手が比較的多く務める。ただ、[[KEIRINグランプリ|グランプリ]]やGIレース決勝戦となるとS級のトップレーサー同士での戦いとなるため、誘導員もそれなりのレベルであることが求められることから誘導員はS級選手が務めており、注釈にある通り、レースによって誘導員手当の額が異なっている。通常、[[競輪の競走格付け#特別競輪|特別競輪]]で優勝歴のあるようなトップレーサーのS級選手が誘導員を務めることは極めて少ないが、地元での[[開設記念競輪]]([[競輪の競走格付け#GIII (G3)|GIII]])の決勝戦などでファンサービスを兼ねて務める例がある{{refnest |group=† |[[第29回寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|第29回寬仁親王牌]]決勝戦では、GIタイトルホルダーである[[稲村成浩]]([[日本選手権競輪|日本選手権]]優勝)が誘導を務めた<ref>[https://keirin.kdreams.jp/maebashi/racedetail/2220201015040012/ レース詳細 2020年10月18日 12R] - Kドリームス</ref>。また、過去では[[1990年代]]までの開設記念競輪は前節・後節とでそれぞれ3日間(計6日間)ずつ行われていたため、トップレーサーの中には、前節では選手としてレースに出走し、後節では決勝戦で誘導員を務める、といった例も見られた。}}。 誘導員の誘導ペースは競走形態に大きく影響を与える。[[1990年代]]は[[ライン (競輪)|ライン]]での作戦としてイン切り<ref group="†">誘導員が退避するまでの周回中に、主にラインの3番手以降の選手が上昇して前を走る別のラインの前に割って入り、その別のラインの動きを封じる戦法。</ref>が全盛期であったため、スプリント競走のように超スローペースになることが多かった。しかし[[2000年代]]にルールが改正されると誘導ペースが高速化し、早期に誘導員を追い抜くことができなくなったこともあり、一本調子の高速レースに強い大ギアが力を発揮するようになったため、トップクラスの選手の多くが大ギアとなった。ただ上述の通り、[[2015年]]よりギア倍数は4未満へと規制されている。 誘導員となるには、誘導員試験に合格し、誘導員資格を得る必要がある。現役の競輪選手であること、かつ誘導員試験において2000mタイムトライアルで2分55秒以内が出せること(選手なら必ず出来る設定)が条件である。但し、誘導員資格の有効期間は2年間であり、資格を継続する場合は2年ごとに試験を受け直しその都度合格することが必要である。一方で、通常の競走で追走義務違反や敢闘精神欠如など悪質な失格をした場合は誘導員資格を取り消されることもあるほか、あっせん停止の処分を受けると1年間の資格停止となることもある<ref name="dmm191211" />。また、選手自らが誘導員資格の取り消しを申請する場合もある。なお、[[ガールズケイリン|女子選手]]は男子とは異なる「先頭固定競走インターナショナル」ルールで競走を行っていることから「先頭固定競走オリジナル」ルールに対応できないため誘導員になることはできず、ガールズケイリンでも誘導員は全て男子選手が務めている<ref>[https://note.com/keirinkai/n/n1d6dbbfdc0f2 先頭誘導員の1日] - note.com([[垣外中勝哉]])</ref>。 なお、[[2014年]]1月より 『[[KEIRIN EVOLUTION]]』 として男子による「先頭固定競走インターナショナル」ルールの競走もGIII(開設記念競輪)の最終日に単発の企画レースとして実施されていた<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2013khn/12/news20131224_04.html 「KEIRIN EVOLUTION(ケイリン エボリューション)」の実施について(オリンピックルール準拠レースの実施)] - KEIRIN.JP 2013年12月24日(「オリンピックルール準拠」とあるが、実際は先頭固定競走(インターナショナル)ルールにより実施される)。</ref>が、同レースは[[2019年]]以降は集中開催となったため、それ以前と比べて実施される回数は大きく減少しており、[[2020年]]以降では[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]との兼ね合いと[[コロナ禍]]の影響も、そしてPIST6の開始も重なり休止している。 * 「先頭固定インターナショナル」ルールについては[[ガールズケイリン#ガールズケイリンのルール|こちら]]を参照のこと。 かつて特別競輪や記念競輪で行われていた3000mを超える長距離戦に値するレースでは、2人の誘導員が誘導していた<ref group="†">現在はKEIRINグランプリの2825m(400m×7周)が最長のため、誘導員は全てのレースで1名のみである。</ref>。その場合、最初の誘導員は[[打鐘|ジャン]]が鳴る前の周回でコースを出るが、もう1人の誘導員は、ジャンが鳴り終わる頃まで誘導して、その後コースから去っていた。 ==== 普通競走 ==== かつては誘導員のない競走('''普通競走''')もあったが、車番連勝式車券が発売される競走では行われないようになり、事実上の廃止となっている。普通競走では誘導員の役割を選手が行なっており、これを「'''トップ引き'''」と呼ぶ。ルール上はどの選手がトップを引いてもかまわないことになっているが、やがてトップ引きを行う選手は、競輪の枠式車券で2人枠となる場合に最下位に当たる位置づけとなる事が最も多い6番車の選手が行うことが慣例となった。 車番連勝式車券が発売される直前の頃には「先頭固定競走」として行う予定の競走でもレース番組の確定直前に選手からトップ引きを行う旨の申告があった場合は「普通競走」に変更された。これは何らかの理由で明らかに格上の競走に出走することになった力の劣る選手、あるいは引退間際の選手などが事前に申告するもので、この場合該当選手の車番は最も勝ち目が薄くなるため、申し出た選手の車番は慣例に倣って6番車に変更される。普通競走でトップ引きを行った選手には正規の入着賞金のほかに先頭手当も支給され(賞金と手当とで、5着入着の賞金くらいの収入になった)、雨敢闘手当なども他の選手同様に支給される。なお[[#概要_2|概要]]節の「タイムオーバー」は、元々トップ引きの選手が極端にペースを落とすことを避けるための規定であったが、この規定は現在の先頭固定競走でもスタート時のスロー牽制を防止するため適用されている。 先頭固定競走の誘導員は車券の対象とはならないが、この普通競走では6番車のユニフォームを着た選手が誘導員代わりであるため、車券の対象となることが違いとなる。先頭固定競走から普通競走に変更となる旨の告知は当日の出走表や場内アナウンスなどでなされるため特に混乱が生じることはなく、投票者にとっても暗黙の了解ではあったが、同じ5枠の7番車との車券である、枠番連勝式(枠連)5-5の車券も発売されていた。これに対し、普通競走において仮に5枠以外の選手全員が落車棄権してしまえば枠連5-5が的中車券となるため、以前から「おかしい」という声はあがっており、実際に[[1973年]][[4月9日]]の[[千葉競輪場]]第7競走において、9人中、5枠両名以外の全7人が落車したため'''2,363,180円'''という配当が出た(これは当時全ての公営競技において最高記録)。これは永らく破られず、現在でも枠番連勝式の払戻金額としては全公営競技史上最高となっている。 [[1995年]]9月15日の[[立川競輪場|立川]]S級シリーズから車番連勝式勝者投票券が発売された後も暫くは普通競走が行われていたものの、トップ引きの6番車が絡んだオッズに混乱をきたしたことから、同年12月に車番連勝式を発売するレースは先頭固定競走とすると明記された<ref>『競輪60年史』財団法人JKA</ref>。またトップ引きが公正な競走でないという問題については過去に裁判も行なわれており、「トップ引き自体が競輪の観客における公知の事実」という判断がなされている<ref>昭和34年9月25日福岡高等裁判所</ref>。 ==== 競技規則 ==== 従来からの普通競走と先頭固定競走(オリジナル)に対するルール違反は、主なものが以下のように定められており、違反により落車および自転車故障の原因となった場合、または違反行為そのものにより、失格となる場合がある。ただし競技規則には違反を問わないケースも明記されている<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/data/rule/index.html 主な競技規則・判定基準一部抜粋・競輪ルールブック] - KEIRIN.JP 競輪資料室</ref>。 [[2003年]]4月から、審議対象レースの映像公開が開始された<ref>[https://web.archive.org/web/20030415175507/http://www.nikkan-pro.co.jp/naigai/2003/03/03032102.shtml 審議レース映像を放映] - KEIRIN Express バンクナイガイ、2003年3月22日</ref>。 *第11条 - 敢闘の義務(出場するいずれのレースにおいても全力を尽くし勝利を目指さなければならない) *第11条(4)1 - 暴走の禁止(打鐘前より勝機を逸する先行を行ったことによる勝者から5秒程度以上の敗退) *第11条(4)2 - 追走義務(前を走る選手および集団から極端に離れてはならない) *第11条の2 - 過失走行の禁止(端的にはいわゆる「自爆落車」など) *第13条 - 内側差込み等の禁止 *第13条の2 - 外帯線内進入の禁止(内圏線と外帯線の間を走る選手を内側から抜いてはならない) *第14条第1項 - 押圧、押し上げ、押し合いの禁止 *第14条第2項 - 斜行、蛇行の禁止 *第14条第3項 - 中割りの禁止(前で並走している2人の選手の間に割り込んではならない) *第15条 - 内圏線踏切りの禁止 *第16条 - イエローライン踏切りの禁止(先頭に位置する選手は2秒程度以上外側へ越えてはならない) *第58条 - 先頭員早期追い抜きの禁止(先固のみ)<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2000khn/06/khn20000606.html ルール改正のお知らせ] - Keirin JP、配信日:2000年6月6日</ref><ref>[http://keirin.jp/i/dfw/portal/guest/news/2003khn/11/khn20031104.html 競技規則等の一部改正について] - Keirin JP、配信日:2003年11月5日</ref> *第59条 - 先頭員に対する妨害行為の禁止(先固のみ) *第70条(4) - 周回誤認 {{See also|即日帰郷#競輪・オートレース}} === 競輪の主な戦法 === 前述のように競輪はあくまで個人が他人より先着するために競走をするのが基本であるが、その競走をより有利に進めるために関係の深い選手同士で連携をする。連携は各選手の脚質による戦法で決まる。その戦法の主なものを次に述べる。ちなみに、先行・追い込み・捲りの戦法を使いこなせることを「自在」という<ref name="野呂2008-105">[[#野呂2008|野呂2008]]、105頁。</ref>。 ==== 先行 ==== 競輪は残り1周半程度までは1本のラインを作って進む。その時は関係の深い者同士で並びの前後を決めるのであるが、その際に一番前を走る戦法の選手が'''先行'''選手である。決まり手は「逃(げ)」と表される。先行選手は残り1周半程度から後ろの選手を引き連れてダッシュをする。つまり先頭誘導員が下がって選手達のスピードが上がってから一番前を走っているのが先行選手と言ってよい。一番前を走るので誰にも邪魔されずゴールに先着する可能性は一番高いが、反面時速70km程度の速度で走るので猛烈な風圧を受けながら走らねばならない。風圧を受けつつ1周ほどスピードを維持する脚力(地脚)が要求される<ref name="中野2004-140">[[#中野2004|中野2004]]、140頁。</ref><ref name="中野1999-82">[[#中野1999|中野1999]]、82頁。</ref> ため、並びの中で最も若い選手がなることが多い。疲労で速度が鈍った、いわゆる'''タレた'''ときには追い込み選手がいかに残してくれるかによって良い着順を取ることが出来る。後ろに追込選手を引き連れて走るため先行選手を「'''[[機関車]]'''」と呼ぶこともある。 直線の短いバンクでは、追い込み選手がスパートする距離が短くなることから先行が有利となる<ref name="中野1999-136">[[#中野1999|中野1999]]、136頁。</ref>。また、コーナーの大きいバンクはカントが緩く、捲りをかけた選手が遠心力で外に振られやすくなるため、先行が有利となる<ref name="中野1999-136"/>。 最終バックに差しかかった時に風向きが追い風だと、先行選手は捲りの選手よりも先に風の影響で加速がついて捲りに対応する余裕が生まれ、有利になりやすい<ref name="中野1999-137-138">[[#中野1999|中野1999]]、137-138頁。</ref>。逆に最終バックが向かい風だと、捲りの選手よりも先に風の影響を受けて減速することになり、その瞬間に加速されると距離を縮められやすくなる<ref name="中野1999-137">[[#中野1999|中野1999]]、137頁。</ref>。ちなみに、風のないドーム式の競輪場では先行が有利といわれる<ref name="野呂2008-154">[[#野呂2008|野呂2008]]、154頁。</ref>。これは、捲りの選手が隊列から外れた際に大きな風圧を受ける傾向があるためである<ref name="野呂2008-154"/>。 屋根のないバンクに雨が降ると先行有利になるといわれる<ref name="中野1999-142">[[#中野1999|中野1999]]、142頁。</ref>。これは競輪用の自転車には(当然だが)跳ね除けつまりマッドガードがなく、水を跳ね上げて走ることになることから、各選手は水が目に入ることを嫌い他の選手の直後に位置しなかったり顔を背けて走ったりするためである。前者は先行以外の選手も先行選手と同様の風圧を受けることを意味し、後者はレース展開を把握しづらくなることに繋がる<ref name="中野1999-142"/>。さらに一瞬の加速力を要する捲りや追い込みは先行よりも[[ハイドロプレーニング現象]]による不利に見舞われやすく、その分先行が有利になる傾向にある<ref name="中野1999-142-143">[[#中野1999|中野1999]]、142-143頁。</ref>。 競輪では先行する選手がレースを作るといわれ<ref name="野呂2008-53">[[#野呂2008|野呂2008]]、53頁。</ref>、先行選手の人数がラインの形成に影響を及ぼす。たとえば2車先行の場合はラインが二分し、3車先行の場合はラインが三分する<ref name="野呂2008-53"/>。 ==== 追込 ==== 先行選手の後ろを走る戦法の選手を'''追い込み'''選手、あるいは'''マーク'''屋、差し屋といい、決まり手は「差」と表される。数十メートルであればトップスピードを維持できるという対応の選手に向いた戦法である<ref name="中野1999-82"/><ref>[[#中野2004|中野2004]]、140-141頁。</ref>。風圧を前の先行選手が受けてくれ、[[スリップストリーム]]を作ってくれる中で走ることが出来るため楽にゴール前まで進むことが出来るが、先行選手をぎりぎりまで「残す」ために後ろから来る選手をブロックしなければならない。その後先行選手に先着するのが正しい追い込みの仕方で、早々と別のラインに切り替える、直線の手前でまだ脚のある先行選手を抜いていくなどの走法は邪道といわれる。先行選手やまくりの選手は「縦の競走」追い込み選手は「横の競走」をすると言われる。先行選手のすぐ後ろを走っている選手を'''番手'''、その後ろは'''三番手'''・'''四番手'''……と呼ぶ。 ==== 捲り ==== 先行選手は先にダッシュを仕掛けるが、これに対して先行するラインを後ろから追いかけて短い距離で一気に抜き去る戦法を'''捲り'''という。1周以上スピードを維持するのは無理だが200m程度であればトップスピードで走ることができるタイプの選手向きの戦法である<ref name="中野2004-140"/><ref name="中野1999-82"/>。捲りを主戦法にする選手もいるが、先行選手が後手を踏んで捲りになったり、あえて力関係で捲りを選んだりすることもある。先行選手以上のダッシュ力は必要となり、かつ先行ラインを抜く時にそのラインの選手のブロックには耐えなければならない。もちろん捲り選手の後ろにも追い込み選手が続いている。 最終バックに差しかかった時に風向きが向い風だと、先行選手が先に風の影響を受けて減速することになり、その瞬間に加速することで距離を縮めやすくなる<ref name="中野1999-137"/>。逆に追い風だと、先行選手のほうが先に風の影響で加速がつき、余裕を与えやすくなる<ref name="中野1999-137-138"/>。コーナーの大きいバンクはカントが緩く、遠心力で外に振られやすくなるため、捲りにくい<ref name="中野1999-136"/>。また、直線部分の内側への傾斜が緩いと、向こう正面から捲りをかける選手はコーナーに差し掛かった時に急に上るような感覚に襲われ、捲りづらくなる<ref>[[#中野1999|中野1999]]、136-137頁。</ref>。 ==== ライン ==== 男子の競走で、周回中に選手が組むチームを'''[[ライン (競輪)|ライン]]'''またはスジ<ref name="野呂2008-54"/>といい、レース展開を形成するもととなる<ref name="野呂2008-55">[[#野呂2008|野呂2008]]、55頁。</ref>。かつては強い先行選手の後ろに力のある追い込み選手がつく場合が多かったが、1983年の[[競輪プログラム改革構想|KPK]]制度導入や1988年に累積事故点の罰則があっせん停止を含むものになる等強化される等の経緯によって、現在のような地区別のライン形成が定着したとされている。 ラインは一般に、各選手が練習場所とする競輪場や所属する選手会といった地区単位で形成されることが多い<ref name="野呂2008-54">[[#野呂2008|野呂2008]]、54頁。</ref>。{{seealso|競輪選手#競輪選手の練習}}中には[[日本競輪選手養成所]]の同期生同士(同班同室の場合や、地区にラインがない場合に組まれる)<ref name="野呂2008-54"/>、世界選手権<ref name="中野2004-141">[[#中野2004|中野2004]]、141頁。</ref><ref name="中野1999-85">[[#中野1999|中野1999]]、85頁。</ref>・オリンピックに出場した選手同士といったパターンや、同地域の選手がいない者同士がやむを得ず組むパターンなどもある。珍しい例では、117期を対象とした第45回[[ルーキーチャンピオンレース]]([[2021年]][[3月14日]]、[[大垣競輪場]])において、[[法政大学]]の同窓生である[[鈴木陸来]]、[[寺崎浩平|寺﨑浩平]]、[[青野将大]]の3人が『法政大学ライン』を組んだ<ref>[https://keirin.netkeiba.com/news/column_detail.html?id=210 【競輪ライン特集】進化? 退化? 〜時代とともに移ろう“ラインの変化”] - netkeirin、2021年4月27日</ref>。 選手の一般的な並び方は各選手の所属地区が3人ずつ分布している場合、それぞれの所属地区をA,B,Cの3地区だとすると「A先・A追・A追/B先・B追・B追/C先・C追・C追」となり、こういう形を'''三分戦'''と呼ぶ<ref name="野呂2008-55"/>。もっと細かくなったものは'''四分戦'''<ref name="野呂2008-55"/>、'''細分戦'''<ref name="野呂2008-55"/>、'''コマ切れの競走'''と呼ばれる。一方で、先行選手が2名しかいないなどラインが2本しか形成されない場合は'''二分戦'''と呼ばれる<ref name="野呂2008-55"/>。通常の番組編成(レース毎の選手の配分)においては、予選競走ではラインの形成を考慮して先行・追込・捲りの選手の数がほぼ均等になるように主催者側で選手を割り振るが、開催最終日の決勝戦など勝ち上がりにより自動的に出場選手が決まってしまうレースでは、稀に先行選手が1名しかいないレース(先行1車<ref name="野呂2008-55"/>、'''逃げイチ'''と呼ばれる)や、先行選手が一人もいないレースが行われることもあり、その場合は誰か一人が覚悟を決めて先行することになる。 各選手は前日の予想紙などからの取材応対時のコメントやスタート前の選手紹介でラインや戦法について意思表示をするので、そこからどのようなラインが組まれるか予想することができる<ref name="野呂2008-54"/><ref name="野呂2008-126">[[#野呂2008|野呂2008]]、126頁。</ref>。なお、極めて稀だが、選手がレース当日にコメントを変更する(前日に伝えていた並びとは異なる並びとする)こともあり、その場合はレース予想(車券作戦)やオッズにも影響を与えかねないため選手が自ら選手管理に申告し、レース実況アナウンサーもその旨を場内のファンないしテレビ中継の視聴者などに告知し注意喚起している<ref>{{Cite web|和書|title =【競輪】異例の当日コメント変更、師匠の佐藤友和が弟子との連係解除を選手管理に申告/大垣 |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202311190000692.html |newspaper = [[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date = 2023-11-19 |accessdate = 2023-11-20 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。ただ、近年の競輪は若手を中心にラインを重視する選手が多く、位置取りについてあえてラインを無視した自己主張をするケースが減ったといわれている<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、77-78頁。</ref>。 なお、女子選手による[[ガールズケイリン]]では、トラックレースのケイリンに準拠したルールであるため単騎戦でありラインという概念がなく、あからさまにラインを組むことは反則行為とされている<ref>{{Cite web|和書|title =小林優香 無敗の新女王 ガールズケイリンデビューから20連勝 |url =http://www.nishinippon.co.jp/nsp/race_feature/article/110131 |newspaper = [[西日本スポーツ]] |publisher=[[西日本新聞社]] |date = 2014-08-26 |accessdate = 2021-05-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180712153034/https://www.nishinippon.co.jp/nsp/race_feature/article/110131/ |archivedate=2018-09-13 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title =【初心者向け】ガールズケイリンってどんなもの? |url=https://morecadence.jp/keirin/58292/2 |publisher=MoreCADENCE([[JKA]]) |date = 2020-05-04 |accessdate = 2020-05-25 }}</ref><ref group="†">そのため、レース前の選手コメントは「自力」「取れた位置から」「前々から」などが目立ち殆ど参考にならず、そのため成り行きで好位置を取った穴目の選手が確定板に乗るという高配当が発生することも少なくない。</ref>。また、のちに男子でもガールズケイリンに模したルールで、ラインという概念を排除した[[KEIRIN EVOLUTION]]が一時期行われていたこともあったほか、[[千葉JPFドーム|TIPSTAR DOME CHIBA]]での250競走「[[PIST6]]」でも同様にラインはなく単騎戦で行われている。 === 競走における競輪道 === {{複数の問題|独自研究=2008年7月|出典の明記=2012年3月|section=1}} 上述した戦法をふまえて、競輪競走においてはルールに明記されているわけではないが、選手全体に認知されている競走におけるやらなければならない行為、あるいはやってはいけない行為が存在する。これは選手道または'''競輪道'''とファンや選手に言われており、選手達の間で暗黙の内に決められた事と、ファンと選手の間で暗黙の内に決められた事がある。いわゆる[[不文律]]・アンリトゥン・ルール (''Unwritten rule'') の一つ。元競輪選手の[[山口健治]]は、競輪道を「人の道」と表現している<ref>[[#競輪マクリ読本|競輪マクリ読本]]、157頁。</ref>。 選手達の間で決め事とされているものとしては以下のものがある *ラインを組む際に、[[#追込|追込]]選手の並びを決める基準として、地区のつながりで[[#先行|先行]]選手との間に差がない場合は直近4ヶ月の平均競走得点が上の選手が有利な番手を得る *先行するラインの番手(※1)追込=番手あるいは3番手から最後の直線のみで一気にダッシュする戦法の選手は、外側を[[#捲り|捲って]]来る選手に対して車体を振って牽制するか、いざというときは体当たりをしてブロックしなければならない *上記の際に、ラインの三番手の選手は内を閉めて(※2)インを突かれる(※3)のを防ぐ。また、自らインをつくこともしない *先行するラインの番手の選手は(三番手でも)インで他の選手に競られた場合、アウトで競り(※4)続けなければならない(一旦、先頭に立って、先行選手を迎え入れてインで競るのは他のラインに隙を付かれるため) *先行するラインの番手の選手は、他の選手が後ろから来ない場合は、最後の直線に達するまで先行選手を抜きに行かない。(これは先行選手にとっては最も重要なアドバンテージである。このことにより脚力を温存できる。) *先行争いで敗れ、失速した選手は他の選手の邪魔にならないように後退する *二分戦(先行選手が2名しかいないレース)の場合、その先行選手同士が並列してマイペースで走ってはいけない。ライン後続を裏切る行為になる。本来はラインを組むべき選手同士がどちらも先行選手だった場合、やむなく二分戦となり先行争いを行わなければならない選手が練習仲間の同地区の選手ということがある。しかし、そのような行為はほぼ絶対に禁止されており、ほとんど見かけることは無い。 2020年の夏季において、コロナ対策のために同地区内あっせん及び7車立てレースがA級、S級戦でも多く導入された。 その際に、練習仲間同士の二分戦が多発することになったが、上記の戦法は禁忌とされ、並走をマイペースで行うということはされていない。 *もっとも競輪道に対する考え方は選手個々によって差があり、またレースの種類(勝ち上がり・負け戦)によって選手の動き方も変わってくる。 またファンとの間で決め事とされているものとしては以下のものがある *大本命の先行選手がラインの番手の選手のために、わざと無理な先行(通称:死に駆け)をして着外、つまり[[投票券 (公営競技)|車券]]に関係しない順位になってはいけない *競走前の顔見せ(※5)で競りを表明した場合、必ず1回は競りにいかなければならない *先行1車の競走(先行選手が1人の競走)では必ず二番手を競りに行くか、いちかばちかその先行選手を相手に追込選手が先行か捲りで競走を動かさなければならない *一本棒(※6)で最初から最後まで何の動きも無いレースにしてはならない *競走前の顔見せで見せたラインの並びと違う並びを、本番の競走の最初からやってはいけない *顔見せで事前のコメントと違うライン並びを行なってはならない。これは、古くは顔見せでの並び変更は許されたが、最近は[[電話投票]]や[[前日発売]]などで事前に投票するファンが増えたことによる。但し事前に「顔見せで決める」とコメントすることは許される。 **他に、[[中野浩一]]は特に先行選手に対して「『○○さん(自分をマークしてくれる選手)のために駆けます(目一杯先行します)』と言わないように!」と指導している。 :(※1)番手=二番手。先行および捲り選手の直後の位置。番手の直後は三番手。 :(※2)内を閉める=後続が内側から抜かすと反則と判定される位置を走ること :(※3)インを突く=ルールにのっとり内側から追い抜く行為 :(※4)競り=併走状態で追込選手が互いに体当たりを行ない相手のスピードを落とす行為 :(※5)顔見せ=前の競走が終わった直後に行なわれる、次の競走に出る選手の試走 :(※6)一本棒=先行選手から最後尾まで風の抵抗を避けるため一列になる状態。「一列棒状」ともいう。 上記に上げた行為はどちらもルールブックに明記されているルール違反ではなく、ただちに問題になることは滅多にないものの必ず反響を呼び、施行者側職員から注意を受けたり、選手の間でも仲間はずれにされる。また競輪場から競走のあっせん(競走参加の要請)をされなくなる事実上の制裁を受けることもある。トップスターでも時折こうした行為があり、ファンの記憶に残り語り継がれているものもある。あっせんの仕組みについては[[競輪選手]]の項を参照。 同様の選手道は[[競艇]]においても存在しているし、ロードレースにおいても暗黙の了解が多数存在している(詳しくは「[[ロードレース (自転車競技)]]」の「暗黙の了解」の項を参照)。ただ、競輪はこうした選手間の立場による要素が他の競技よりも多いとされており、これが競輪を知らない人から見た場合の予想の難解さを生んでいる側面もある。 競輪競走では選手が競走中に「競り」や「張り」として頭突き、肘打ち、体当たりなど行っているが、同じ自転車競技の[[サイクルスピードウェイ]]同様にある程度までは許容されている(ただしインターナショナルルールでは事実上規制される)。これは競輪創世紀からのルール形成において不問にされていたことが現在まで続いているもので、時より選手同士による激しい競り合いが起こる場合があり物議を醸すこともあるが、インに詰まらされた場合の脱出策や、後方から迫る選手の速度を落とすためなど戦略的に利用できる側面は大きい。明らかなルール違反であり競輪道(選手道)に反するものとして「金網ブロック」がある。これは文字通り、後方から進んでくる選手をブロックする際に、バンクの外周フェンス(金網)近くまで自分の車体を持ち上げて、相手選手をよりフェンス近くで走らせる威嚇行為である。大変に危険な行為であり、故意に相手をフェンスへ激突させた場合は悪質失格とされあっせん停止の処分等もあり得る。昔はこの行為ですら合法だったが、選手同士に遺恨を残すこともしばしばあり、ブロック行為が寛容であった時代ですらルール違反とされることになった。 競輪選手は競走のグレードに対応した競走得点、マイナス計算となる失格点等によって「級班付け」が行われる。規定の点数を獲得できなければ事実上競輪選手としての資格を剥奪される。したがって、「点数がかかっている」選手がいる場合はラインでここぞとばかりに結束し、点数勝負の選手に勝利をもたらそうとするケースがある。その際は要注意であるとともに、ことギャンブルという視点で捉えた場合、チャンスでもある。 === 競走格付け === {{色}} {{特殊文字|説明=[[ハートマーク]]}} {{See also|競輪選手|競輪の競走格付け}} 競輪の競走格付けには[[競輪の競走格付け|グレード制]]が採用されており、上位のグレードから以下のように分類される(本来の数字表記は[[ローマ数字]])。下位の競走を勝つことが上位の競走への出場に繋がるよう設計されており、各選手は年末に開催される[[KEIRINグランプリ]](男子)または[[オッズパーク杯ガールズグランプリ|ガールズグランプリ]]([[ガールズケイリン|女子]])を目標に1年のシーズンを戦う<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、137-138頁。</ref>。正しくは「グランプリ」及び「グレードn」だが、略して「ジーピー」「ジーワン(ツー、スリー)」「エフワン(ツー)」と呼ばれる。 * GP - KEIRINグランプリ、ガールズグランプリそのものを指す。男子はS級のトップ選手9名が<ref name="野呂2008-138">[[#野呂2008|野呂2008]]、138頁。</ref>、女子はトップ選手7名が、それぞれ最高額の優勝賞金をかけて戦う。 * GI - 男子はS級のトップ選手が出場する。6大会あるが、いずれも出場できるのは108名〜162名(大会による)のみのため、S級1班所属であっても出場できないこともある(逆に、S級2班所属でも条件を満たせば選考されることもある)。優勝者はKEIRINグランプリの出場権を獲得する<ref name="野呂2008-138"/><ref name="中野2004-68">[[#中野2004|中野2004]]、68頁。</ref>。女子は3大会あるが、[[オールガールズクラシック]]のみ42名(前半のレースで行われるアンダーカードは別枠)、その他2大会は男子のGIとの併催のため28名のみが出場できる。グレード制施行前は「特別競輪」と呼称。 * GII - 男子のみ。S級の選手がGIの出場権をかけて戦う<ref name="野呂2008-138"/><ref name="中野2004-68"/>。4日制のほか、[[サマーナイトフェスティバル]]は3日制で行われる。グレード制施行前は「準特別競輪」や「特別記念競輪」と呼称。 * GIII - 男子のみ。S級の選手が出場<ref name="野呂2008-138"/><ref name="中野2004-68"/>。[[開設記念競輪]]がこれに該当する。4日制<ref name="野呂2008-138"/>だが、[[国際自転車トラック競技支援競輪]](終了)やナイターGIIIなど3日制も行われている。なお、ナイターGIIIで行われる女子戦の格付けはFIIである。 * FI (S級シリーズ) - S級の選手とA級(1・2班)の選手が出場<ref name="野呂2008-139">[[#野呂2008|野呂2008]]、139頁。</ref><ref name="中野2004-68"/>。 * FII (主に一般競走) - A級の選手が出場<ref name="野呂2008-139"/><ref name="中野2004-68"/>。但し[[全日本プロ選手権自転車競技大会記念競輪]]はS級も出場する。 女子(ガールズケイリン)は上記の通り、GP・GIないしFIIのいずれかに出場する(男子がGII、GIII、FIでも女子は全てFIIとなる)。なお、ガールズケイリンの開催を含む場合は、日程表には'''{{color|red|❤}}'''または'''{{color|pink|❤}}'''([[ハートマーク]])が付されている。 === 開催 === 経済産業省の自転車競技法施行規則では、1競輪場・1施行者につき1年で24開催・1開催8日間・144日間まで開催できることになっているが、実際にはこの上限より少ない開催数となっている。 令和5年度現在、競輪の開催日数は、基本的に1つの競輪場ごとに15節・46日の実施としている<ref>[https://www.zenrin.or.jp/pdf/business-plan_2023.pdf 令和5年度事業計画書] 全国競輪施行者協議会</ref>。この1節は前記の開催とは一致するものではなく、多くの競輪場では正式な"1開催"を"前節"・"後節"と分けて実施している。 1節の開催日数は基本的に3日間となっており、[[競艇]]や[[オートレース]]と異なり全国的に統一されている<ref group="†">ただし、前記の通り年間46日間開催とする関係の日数調整で1節4日実施となる場合があるほか、全日本プロ選手権自転車競技大会記念競輪のみ1節2日間で行う。</ref>。GIII(及び、男子GIIIに付帯して実施されるガールズ節)は全て4日間。GIIは4日間と3日間(そのほか、単発レースのヤンググランプリもGII格付け)。GIは男子戦は6日間と4日間、ガールズのGIは3日間開催で実施される。 基本的に、1節間を通したトーナメントを行い、各選手は最終日の決勝戦での勝利を目指して参加する。一般的に1日の開催は、男子S級・A級・A級チャレンジ・ガールズL級のトーナメントのうち1つ〜3つにて構成される<ref group="†">オールガールズクラシックの開催のみ、GIオールガールズクラシックのトーナメントとFIIのトーナメント2レース×3つの計4トーナメントを実施。</ref>。例えば、1日全12レースのうち、A級トーナメントを5レース、ガールズL級を2レース、S級トーナメントを5レース実施するという形で、A級・L級・S級それぞれの優勝者を決定する。 開催の勝ち上がり方式も、GIII以下においては全国で統一されている(GI・GIIはそれぞれの大会ごとに設定されている)。下記はもっとも一般的な勝ち上がり方式を記載する。 男子S級とA級1・2班では、開催初日は、選手の成績(4か月間平均競走得点)上位者1レース分が「初日特選」に出場し、その他の選手が「予選」に出場する。初日特選の出場選手は全員、さらに予選の上位着順者が2日目の「準決勝」に進出する。さらに「準決勝」上位者が3日目の「決勝」に進出する。GIIIの場合は初日の「初日特選」出場全員と「一次予選」上位者が2日目の「二次予選」に出場し、その上位が3日目の「準決勝」へ、4日目の「決勝」へと進出する。 A級3班(チャレンジ)には「初日特選」がなく、全員が初日は「予選」に出場し、2日目の「準決勝」、3日目の「決勝」へ進んでいく。 L級(ガールズケイリン)は男子とはレース体系が異なり、基本的に初日は「ガールズ予選1」、2日目は「ガールズ予選2」に全員が出場する。このガールズ予選はポイント制となっており、予選2日間の獲得ポイント上位7名が3日目の「ガールズ決勝」に出場し、優勝を争う。決勝に進めなかった選手は「ガールズ一般」に出走する。なお、一部のナイターGIIIでは4日間開催も行われており、この場合は予選2日間の獲得ポイント上位者が3日目の「準決勝」に出場し、その上位が4日目の「決勝」へと進出する。このほか、L級でもGIと一部の開催では男子と同様のトーナメント戦も行われており、この場合は予選の上位者が準決勝、決勝へと進出する。 1日に行われるレース数は前述の通り最大で12レースであるが、[[ミッドナイト競輪]]は最大9レース(3場同時開催の場合は基本的に最大7レース)である。[[モーニング競輪]]は基本的に1日7レースであるが、9レースないし12レースを実施する開催もある。 === 都道府県コード === KEIRIN.JPの「データ検索」や「出場予定選手一覧」における順序は、以下の通り。 この地区については、1962年~2007年に存在した各地区の[[日本自転車競技会|自転車競技会]]の管轄に基づいている。現在はJKAの組織としてはこの8地区での区分はなくなっているが、[[日本競輪選手会]]の地区本部はこの8地区で組まれ、地区プロ自転車競技大会もこの8地区をもって行われるなど強く関わっており、特にライン形成においては最も基本となるものである<ref>[https://times.abema.tv/articles/-/8616051 競輪界における重要項目「地区」全国8地区でラインも形成] Abema times 2020年7月19日</ref>。なおこの地区分けは、競輪を所轄する経済産業省の地域支局である[[経済産業局]]の区分けとおおむね等しい<ref>北海道・東北経済産業局管内を合わせ北日本地区、関東経済産業局管内は関東・南関東地区に分割される。中部・近畿・中国・四国・九州は経済産業局の区分けと等しい</ref>。 一般的な[[全国地方公共団体コード#都道府県コード|都道府県コード]]とは、地区区分や順序が異なる。略称は、[[スポーツ新聞]]の[[出走表]]などにおける、一文字略記。●は2文字目を使用。なお、[[2023年]]時点では、[[鳥取県|鳥取]]・[[島根県|島根]]の所属選手はいない。 {{See|#自転車競技場}} {| |- valign="top" | {|class="wikitable" style="text-align:left; background-color:#fff; line-height:1.2;" ! 地区 !! !! 県 !! 略称 |- ! rowspan=7|[[北日本|北<br />日本]]<br />7 || 11 | [[北海道]] || 北 |- | 12 || [[青森県|青森]] || 青 |- | 13 || [[岩手県|岩手]] || 岩 |- | 14 || [[宮城県|宮城]] || 城● |- | 15 || [[秋田県|秋田]] || 秋 |- | 16 || [[山形県|山形]] || 形● |- | 17 || [[福島県|福島]] || 島● |- ! rowspan=8|[[関東]]<br />8 || 21 | [[茨城県|茨城]] || 茨 |- | 22 || [[栃木県|栃木]] || 栃 |- | 23 || [[群馬県|群馬]] || 群 |- | 24 || [[埼玉県|埼玉]] || 埼 |- | 25 || [[東京都|東京]] || 東 |- | 26 || [[山梨県|山梨]] || 梨● |- | 27 || [[長野県|長野]] || 野● |- | 28 || [[新潟県|新潟]] || 新 |- ! rowspan=3|[[南関東|南<br />関東]]<br />3 || 31 | [[千葉県|千葉]] || 千 |- | 32 || [[神奈川県|神奈川]] || 神 |- | 33 || [[静岡県|静岡]] || 静 |} | &nbsp; | {|class="wikitable" style="text-align:center; background-color:#fff; line-height:1.2;" ! 地区 !! !! 県 !! 略称 |- ! rowspan=5|[[中部]]<br />5 || 41 | [[愛知県|愛知]] || 愛 |- | 42 || [[岐阜県|岐阜]] || 岐 |- | 43 || [[三重県|三重]] || 三 |- | 44 || [[富山県|富山]] || 富 |- | 45 || [[石川県|石川]] || 石 |- ! rowspan=7|[[近畿]]<br />7 || 51 | [[福井県|福井]] || 井● |- | 52 || [[滋賀県|滋賀]] || 滋 |- | 53 || [[京都府|京都]] || 京 |- | 54 || [[奈良県|奈良]] || 奈 |- | 55 || [[和歌山県|和歌山]] || 和 |- | 56 || [[大阪府|大阪]] || 大 |- | 57 || [[兵庫県|兵庫]] || 兵 |} | &nbsp; | {|class="wikitable" style="text-align:center; background-color:#fff; line-height:1.2;" ! 地区 !! !! 県 !! 略称 |- ! rowspan=5|[[中国]]<br />5 || 61 | [[鳥取県|鳥取]] || 鳥 |- | 62 || [[島根県|島根]] || 根● |- | 63 || [[岡山県|岡山]] || 岡 |- | 64 || [[広島県|広島]] || 広 |- | 65 || [[山口県|山口]] || 山 |- ! rowspan=4|[[四国]]<br />4 || 71 | [[香川県|香川]] || 香 |- | 72 || [[徳島県|徳島]] || 徳 |- | 73 || [[高知県|高知]] || 高 |- | 74 || [[愛媛県|愛媛]] || 媛● |- ! rowspan=8|[[九州]]<br />8 || 81 | [[福岡県|福岡]] || 福 |- | 82 || [[佐賀県|佐賀]] || 佐 |- | 83 || [[長崎県|長崎]] || 長 |- | 84 || [[大分県|大分]] || 分● |- | 85 || [[熊本県|熊本]] || 熊 |- | 86 || [[宮崎県|宮崎]] || 宮 |- | 87 || [[鹿児島県|鹿児島]] || 鹿 |- | 88 || [[沖縄県|沖縄]] || 沖 |- ! [[外国]] || 99 | 外国 || - |} |} == 歴史 == {{出典の明記|section=1|date=2008年3月}} 各名称は、当時のもの。 === 自転車競走の発展 === [[明治]]時代の自転車業界紙記者であった真壁仁のメモによると、[[1895年]]([[明治]]28年)[[7月4日]]、[[横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ|横浜クリケットクラブ]]のトラックで行われた自転車競技が、記録に残る上での日本初の自転車競走と言われている。また、日本人が自転車競走に参加したのも同年、との記録がある。[[1897年]](明治30年)春に[[不忍池]]において開催された大会では参加者約20名、優勝者は当時圧倒的な強さを誇った鶴田勝三であった<ref>参考文献:競輪三十年史(日本自転車振興会発行)</ref>。 その後、[[1905年]](明治38年)以降、[[報知新聞]]など[[日本の新聞#一般紙|新聞社]]各社が主催し自転車業界が育てた[[アマチュア|ノンプロ]]選手が宣伝のために走るという自転車競走が活発に行われるようになる。日本において自転車競技のノンプロ選手第一号は小宮山長造であった。このように、戦前は[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]を中心に盛んに行われ、中には競走用自転車で全国各地を転戦する者もいた。 === 競輪の誕生 === [[太平洋戦争]]終結後、競輪は[[公営競技]]として開催されるようになった。元[[満州国]][[官吏]](後に国策会社の社員となる)の[[海老澤清]](海老澤清文)と、久留米連隊に所属し後に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]で働くことになる元[[陸軍]][[大尉]]の倉茂貞助(本名は[[倉茂武]])の2人が、東京の[[有楽町]]に「国際スポーツ株式会社」を設立したことで始まる。<ref>参考文献:ぺだるVol.2 春号(日本自転車振興会発行)</ref><ref group="†">現在の倉茂記念杯「昇竜賞」([[大宮競輪場]])はこの人物を記念している。</ref> 当初は[[第二次世界大戦]][[敗戦]]に伴う大陸や南方からの引揚者に、[[宝くじ]]での収益をもとに住宅建設構想を練っていた海老澤の思惑と、[[湘南海岸]]に一大レジャーランドの建設を構想し、世界屈指の観光地とする構想を描いていた倉茂の思惑がそれぞれあったが、海老澤が構想を描いていた「住宅建設宝くじ」を取り入れる形で、「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分として、戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを[[競馬]]に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てることはできないものかと考え出されたのが後の競輪であった。もっとも、後の競輪を国際スポーツ株式会社の運営で行うのは不可能と分かり、立法として取り上げてもらうべく働きかけた。 2人は、後に[[JKA|日本自転車振興会]]連合会会長となる、[[日本社会党]]所属の[[衆議院#代議士|代議士]]であった[[林大作]]と出会うことになる。林は戦前、[[三井物産]]の社員であったが、[[財閥解体]]と貿易国営を主張したものの受け入れられずに[[1942年]]([[昭和]]17年)に退社。その後[[営団|交易営団]]に移り、[[1947年]]([[昭和]]22年)[[4月25日]]に行われた[[第23回衆議院議員総選挙|総選挙]]で当選を果たした。前述の通り、三井物産時代に貿易国営を唱えており、国家事業の重要性を考えていた林は2人の提案を気に入り、その話を当時の日本社会党委員長でもあった[[片山哲]][[内閣総理大臣|首相]]に提言したところ、片山も「それは面白い」と乗り気になり、やがて日本社会党の中央執行委員会も同意して法案作りへと進むことになった。 しかし、この草案に対して、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]がいったんは許可を下ろしながらも<ref group="†">当時はGHQの許可が下りなければ、国会での立法審議に入れなかった。</ref>、すぐさま白紙撤回する騒ぎとなった。GHQが説いていた[[地方分権]]に相反すると思われたからである。それに対して日本社会党は、GHQの地方分権案に同意。それによりGHQも草案を認め、[[自転車競技法]]として[[国会]]審議へと入った。[[1948年]](昭和23年)[[6月26日]]に[[衆議院]][[本会議]]で可決し、[[参議院]]へと法案が送られたが、同年7月1日、自転車競技法は参議院でも可決し成立。同年[[8月1日]]より施行されることになった。 敗戦直後の[[1946年]](昭和21年)、気持ちが暗く沈んでいた日本国民を明るくしようと、第1回[[国民体育大会]]が[[近畿]]各地で開催される。その国民体育大会は[[1948年]](昭和23年)10月に第3回が[[福岡県]]で開催されることとなったが、人気のない[[自転車競技]]のためだけに莫大な経費が嵩む[[自転車競技場]]を建設することには県内のどの自治体も及び腰であり、自転車競技の開催が危ぶまれるという事態に陥った。その中で、[[小倉市]](当時)は地元の[[福岡県立小倉高等学校|小倉中⇒小倉高]]が[[1947年]]、1948年と[[全国高等学校野球選手権|夏の甲子園]]を連覇したこともあって[[野球]]への人気が高まる中で野球競技を誘致したかったものの、その希望を通すには不人気だった自転車種目も引き受けざるを得ず、「人気種目の野球を小倉市で開催する」ということを条件に、抱き合わせする形で自転車競技場の建設に名乗りを挙げたのだった。ただ、周長500メートルのバンクを急ごしらえするために、終戦から間がなく物資難の中でセメントなど資材をかき集めて作ったため総工費が2000万円にも上ってしまい、小倉市は資金難に陥ってしまう<ref name="nk220727">{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/keirin/kantoumon/news/202207260001733.html |title=【競輪場探訪】小倉は発祥の思いを永遠に |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2022-07-27 |accessdate=2022-08-15 }}</ref>。 一方で、レジャー事業を起こそうと倉茂貞助は1948年夏に競輪の法整備に奔走した。ちなみにその間、既に[[大宮市]](当時)に[[大宮競輪場|バンクがあった]]埼玉県に競輪開催を打診したが、断られている。そして、倉茂氏と、小倉市の財政を立て直したい意向を持っていた当時の小倉市長・浜田良祐の思惑が合致したことで、同年の小倉にて競輪の初開催に至った。<ref name="nk220727" />。 その後、自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として[[自転車競技法]]が1948年(昭和23年)[[8月]]に成立。同年[[11月20日]]、地方の財政健全化と経済情勢全般の健全化、自転車産業の振興を掲げ<ref name="野呂2008-4">[[#野呂2008|野呂2008]]、4頁。</ref>、国体会場でもあった[[小倉競輪場]]において第1回の競輪競走が開催され、ここに競輪が誕生した<ref>[http://www.kokurakeirin.com/guide/kokura_48.html 小倉競輪の歴史]</ref><ref>[https://keirinsponichi.jp/70years/競輪70年の歴史/ 競輪70周年特集>③競輪70年の歴史] KEIRINスポニチ</ref>。 第1回の小倉競輪競走では、[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝式と複勝式]]の2種類の車券が発売された([[投票券 (公営競技)#連勝複式|連勝式]]の発売は、同年[[12月11日]]に開催された[[住之江公園#大阪住之江競輪場|大阪府営府大競輪場(大阪住之江競輪場)]]が最初)。車券売り上げの中から25%が控除され、更にその中から必要経費を差し引いた額が自治体等の財源となるわけだが、[[ノウハウ]]もなく全てが手探りの状態で始められた小倉競輪はいきなり赤字となる可能性もあり、税収が殆どなく職員に支払える給料もままならなかった時代では正に競輪開催そのものが賭けであったという。 第1回小倉競輪は予想を上回る成功をおさめ<ref name="野呂2008-4"/>、財政難打開の手段として<ref name="中野2004-48">[[#中野2004|中野2004]]、48頁。</ref> 競輪を開催しようとする動きは他の地方自治体へ波及し<ref name="野呂2008-4"/><ref name="中野2004-48"/>、第1回小倉競輪以降の2年間で50以上の競輪場が建設され、[[1953年]]開設の[[静岡競輪場|静岡]]まで63の競輪場が開設された。 だが主催者が不慣れであった点、選手へのルールや理念の教育の不足、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が全国的な運営母体を認めなかった点などから運営の不手際が生じ一時は中止に追い込まれるなど波乱の歴史を持つ。 この立法・運営側の曖昧さ、競走自体においても風圧を受けるトップが不利を蒙るという特殊な面が、逆に'''観客と選手による独自のローカルルール'''を生んだ。今日の公営競技において「'''競輪道'''」と呼ばれる精神性を語らせては競輪の右に出るものはないが、反面「わかりづらい」「情実優先の展開レース」という批判も根強い。<br />しかし、作家の[[色川武大|阿佐田哲也(色川武大)]]はこの競輪の特殊性故に'''「競輪こそ'''[[賭博|ギャンブル]]'''の王様」'''と呼んでいる。 === 爆発的人気と相次ぐ暴動事件 === 競輪が誕生した[[1948年]](昭和23年)当時、国営競馬([[中央競馬]]の前身)の控除率(俗にいう「寺銭(テラゼニ)」)が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられた。そうした背景も手伝って、国営競馬が不振をかこつ状態だったのに対し、競輪は爆発的な人気を博すようになった<ref>参考文献:新版 競馬歴史新聞(2004年初版。日本文芸社)</ref>。また、初期の頃は選手の力量に対するファンの認識が薄かったことや選手の力量にもムラがあったため、1万円以上のいわゆる「大穴」の配当が毎日続いたことでファンが夢中になり(その頃の競馬では1万円以上の配当は滅多に出なかったという)、中には嬉しさのあまり脳出血で倒れ、競輪場近くの病院に搬送されるも間もなく死亡したファンもいた、と記された書物もある<ref name="KKR20-20">[[#KKR20|近畿競輪二十年史]]、20頁。</ref>。 しかし、その一方で、客が[[自転車競技]]の特性を理解しきれていなかったという背景も手伝い、[[1949年]](昭和24年)に発生した[[大阪住之江競輪場]]での事件を端緒に、しばしば暴動事件<ref group="†">当時のマスコミは「騒擾事件」という表記を使用していた。</ref> が発生する事態となったことで、新聞を中心としたマスメディアの批判も強くなっていった。とりわけ[[1950年]]([[昭和]]25年)に[[甲子園競輪場|鳴尾]]<ref group="†">[[鳴尾事件]]。[[9月9日]]、最終的に米軍[[憲兵|MP]]を出動させて漸く事態を収拾させるに至った。</ref>・[[川崎競輪場|川崎]]の両競輪場において起こった騒擾事件は激しい非難を浴び、競輪廃止論議が世論を賑わせることになる<ref name="野呂2008-18">[[#野呂2008|野呂2008]]、18頁。</ref><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100814790X00219501025 昭和25年10月25日 第008回国会 通商産業・地方行政連合委員会 第2号] - [[参議院]]会議録情報</ref>。特に鳴尾での騒擾事件は大きく尾を引き、競輪は2か月間開催を全面的に自粛せざるを得なくなっただけでなく、[[吉田茂]]内閣に至っては競輪廃止を閣議了承したほどであった。だが結局は競輪廃止論議は閣議段階で踏み留まり、通商産業省(当時)の勧告により、当面の開催継続と引き換えに施設の耐火性向上(コンクリート化)工事や選手の資格再検討などが行われた<ref>「設備の改善など」『日本経済新聞』昭和25年9月14日 3面</ref>。 [[1951年]](昭和26年)の[[国会]]において[[日本共産党]]が提出した競輪廃止法案が否決されるに至ったことで、競輪は以後も開催が続けられていくことになる。 *「競輪」の言葉を考え出したのは、当時[[毎日新聞]][[毎日新聞西部本社|西部本社]]小倉支局に勤めていた新聞記者の山本鹿雄。競輪が始まった当初は「'''きょうわ'''」または「'''きょうりん'''」と呼ばれた<ref group="†">『競』の字は古くは「けい」と読まれており、『[[競馬]]』は明治時代に始まったことから「けいば」と呼ばれた一方、『競輪』や『[[競艇]]』は戦後の発祥であるため「きょうわ」・「きょうりん」、「きょうてい」と呼ばれた。ちなみに『[[競売]]』は一般的には「きょうばい」と読まれるが、法律用語としては「けいばい」と読まれている。</ref>が、実のところ当時は関係者の間でも必ずしも統一されておらず、読み方の混乱が長く続いた(世間では「きょうりん」が趨勢であった模様<ref name="KR30-79">[[#KR30|競輪三十年史]]、79 - 80頁。</ref>)。ただ、この鳴尾事件が発生した時に、世間では競輪を「狂輪」や「恐輪」などと揶揄するようになったことをきっかけに、鳴尾事件後の[[1951年]]以降、今の「'''けいりん'''」が定着したと言われている<ref name="KR30-79" />。 だが、その後も断続的に暴動事件は発生した。中でも[[1959年]]([[昭和]]34年)[[6月23日]]、[[松戸競輪場]]第5レースの着順判定を巡って「八百長騒動」が発生したことにより、施設破壊などの事態を招いたばかりか、主催者側が騒いだ一部の客に対し、「車代」と称して1人あたり1000円を渡していたことが発覚(松戸事件)<ref>[http://omotenouchi.jp/CCP071.htm 松戸行脚 松戸競輪(メッセンジャーと松戸競輪)] - 2010年10月15日閲覧</ref> した事件をきっかけに、断然人気の[[白鳥伸雄]]の競走中止に対する件が発端となった[[1960年]]([[昭和]]35年)[[9月13日]]における[[西武園競輪場]]での事件や、人気の中心となった[[笹田伸二]]のトップ引きにかかる[[1968年]]([[昭和]]43年)[[4月11日]]における[[川崎競輪場]]での事件など、[[鳴尾事件]]に匹敵するほどの大規模事件も発生した。 [[平成]]に入ると大規模な暴動事件はなくなったものの、それでも[[1993年]](平成5年)[[7月31日]]には第9回[[全日本選抜競輪]]の場外車券を発売していた[[岸和田競輪場]]にて、第2レースで9人中8人が失格するという異常事態に端を発した暴動騒ぎが起きたほか、[[2000年]](平成12年)[[2月11日]]には[[立川競輪場]]にて、当日開催されていた「アシアナカップ」決勝で係員が残り周回を間違えて誤打鐘をした事に対しファンが立て篭もる事件が発生{{refnest |group="†" |競技規則73条(3)には「打鐘を誤って鳴らした場合は競走不成立」とあるが、主催者側はレースを続行した。誤打鐘直後から場内は騒然となり、観客から怒号も起きていた。レース終了後は怒号が飛び交う中で優勝選手への表彰式も行われたが、優勝選手がスタンドへ投げ入れたボールも投げ返されるなどした。表彰式終了後も観客の怒りは収まらず、一部のファンが競輪場内に立て篭もり、主催者側は機動隊を動員して21時ごろにようやく沈静化したが、競技規則を順守せず競走不成立にするなどの措置をとらなかった主催者サイドへ怒りを露わにしていた<ref>[[スポーツニッポン]]、2000年2月12日付など</ref>。}}するなどのトラブルは起きている。 === 相次ぐ競輪場の廃止 === 鳴尾事件以後も、断続的に発生する暴動事件を起因とする、マスメディアを中心とする競輪への強い風当たりが続いた。そんな折、[[1955年]]([[昭和]]30年)[[1月]]にときの[[農林大臣]][[河野一郎]]が[[群馬県]][[前橋市]]で行った記者会見の席上「競馬は、土曜、日曜、祭日以外は開催しないことを閣議で提案する」という発言を行ったことが波紋を広げ<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00002/contents/0013.htm 河野発言と自粛開催(昭和30年1月)] - 日本財団図書館 2010年10月15日閲覧</ref>、翌日の定例閣議で申し合わせがなされたが、当時の[[経済産業大臣|通産大臣]][[石橋湛山]]が「河野発言」を了承することにより、競輪も競馬と同調することになった。 河野のこの発言を受け、当時[[大阪府知事]]だった[[赤間文三]]は、原則土日に開催が限定されることによる売り上げ減少を懸念し、1956年度以降の大阪府主催の競馬、競輪の開催を中止する旨を表明。これに伴い、府営[[豊中競輪場]]は[[1955年]]6月限りで廃止されることになった<ref>[http://www2.ttcn.ne.jp/kuro/history/keirin/34%20toyonaka/top.htm ギャンブルの歴史・豊中競輪場] - 2010年10月15日閲覧</ref>。競輪場の廃止例は、当時既に[[松本競輪場]]([[1951年]])・[[松江競輪場]]([[1953年]])で見られたが、いずれも経営不振によるものであり、政治的な理由による廃止は豊中が最初であった。 その後、近畿地区で競輪場の廃止が相次いだ。まず[[1958年]](昭和33年)、[[京都競輪場|京都市営競輪場]]が市議会の賛成多数により廃止を決定。さらに当時の[[兵庫県知事]]・[[阪本勝]]も兵庫県営ギャンブルの廃止を表明したことから、[[1960年]]([[昭和]]35年)[[12月]]に[[神戸競輪場]]が、[[1961年]]([[昭和]]36年)[[3月]]に[[明石競輪場]]がそれぞれ廃止された。また、[[大阪中央競輪場|大阪市営中央競輪場]]も、[[1959年]](昭和34年)に[[大阪競馬場]]が廃止されたことを踏まえ都市公園として整備する方針を打ち出したことから、ときの大阪市長[[中井光次]]は[[1962年]](昭和37年)3月をもって廃止を決定した。このほか[[大阪住之江競輪場]]も[[1964年]](昭和39年)に休止(事実上の廃止)となり、大阪市内に存在した2つの競輪場が消滅した。 近畿地区以外にも政治的な理由による廃止が相次ぎ、[[札幌競輪場]](1960年開催廃止)・[[福岡競輪場]](1962年廃止)・[[会津競輪場]]([[1963年]]休止)・[[長崎競輪場]]([[1966年]]開催廃止)がそれぞれ姿を消した。 そして、この一連の流れは、当時「競輪のメッカ」を標榜していた[[後楽園競輪場]]にも飛び火する。 === 後楽園競輪場の休止 === [[1967年]]([[昭和]]42年)[[4月15日]]に行われた[[1967年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]で、[[日本社会党]]・[[日本共産党]]が推薦した[[美濃部亮吉]]が当選し、史上初の革新系都知事が誕生した。美濃部は東京都が主催していた各公営ギャンブル([[後楽園競輪場]]・[[京王閣競輪場]]・[[大井競馬場]]・[[大井オートレース場]]・[[江戸川競艇場]])の廃止を公約に掲げていた。 後楽園競輪場は現在[[東京ドーム]]が建っている場所にあり、[[1949年]](昭和24年)11月に誕生。東京の都心部に位置する[[文京区]]という抜群の立地条件も手伝い、開催すれば常時スタンドは満員、とりわけ[[日本選手権競輪|全国争覇競輪]]が開催されればスタンドに入りきれない観客で溢れ返り、車券も満足に買えない状態が恒常化していた。そして、[[1960年]]([[昭和]]35年)[[11月3日]]に行われた第15回全国争覇競輪決勝戦の開催日は推定約8万人の観客で溢れかえり、スタンド内でもすし詰めとなった約1500名の観客が走路内へなだれこみ、決勝戦は走路内にも観客を入れてレースを行うという異例の事態となった。このため警備不能を理由に、引き続き[[1961年]](昭和36年)の第16回大会の開催も決定していたにもかかわらず、東京都が開催を返上したばかりか代替地も決まらず、[[1963年]](昭和38年)3月に[[一宮競輪場]]で再開されるまで、全国争覇競輪の開催が行われなくなってしまった。つまり、後楽園以外に全国争覇競輪の開催はできない、ということが、当時の競輪界の「常識」となっていたのである。実際のところ、一宮で行われた後、再び後楽園で[[1968年]](昭和43年)の第22回大会まで毎年、全国争覇競輪から名称を改めた日本選手権競輪が開催されていた。 このように、後楽園競輪の売上は[[1960年代]]に競輪総売上の10%近くを占めるほど大きなものであったため、後楽園は「競輪のメッカ」と標榜された。だが、当時毎年のように競輪が売上を増加させており東京都の財政に寄与し続けた背景があったにもかかわらず、美濃部は「競輪などの公営ギャンブルの売り上げで学校などが建設されるということについて、果たして子供たちは望んでいることなのだろうか」<ref>[http://www2.ttcn.ne.jp/kuro/mezura/28%20kourakuen/top.htm ギャンブルの歴史・後楽園競輪場] - 2010年10月16日閲覧</ref>と訴え、都営ギャンブル廃止を公約に掲げた。また上述の通り、大阪府などの自治体が既に公営ギャンブル廃止を実現させていたことも追い風となっていた。 [[1969年]](昭和44年)1月、美濃部は正式に都営ギャンブル廃止を表明し、同年11月に開催が予定されていた日本選手権競輪の開催を返上した。さらに美濃部は、1972年度限りで後楽園における都営開催を終了することを表明。これにより後楽園競輪場は[[1972年]](昭和47年)10月に開催を休止、翌[[1973年]](昭和48年)3月をもって全面休止された(なお、後楽園競輪は現在も「休止」扱いであり、廃止されたわけではない)。その後同地ではバンク内に水が注入され、スイミングプールとしての役割を果たした後に解体され、[[1988年]]に日本初の屋根つき野球場「東京ドーム」として再建された。 その他の旧都営公営競技場は、まず大井オートレース場が後楽園競輪場と同様に1973年3月で閉場したが、代替場として[[伊勢崎オートレース場]]が引き継ぎ、[[1976年]](昭和51年)10月6日に開場した<ref>[http://www2.ttcn.ne.jp/kuro/history/aut/08%20isezaki/top.htm ギャンブルの歴史・伊勢崎オートレース場] - 2010年10月16日閲覧</ref>。また京王閣競輪・大井競馬・江戸川競艇はその後、主催者を変更させて現在も存続しており、結局は後楽園競輪場だけが代替地も用意されず消滅した。 なお、東京ドームには地下に400mバンクが格納されており、競輪開催も可能ではあるが、地域住民の反対など様々な事情があり、現在に至るまで競輪開催は再開されていない。[[2003年]]([[平成15年]])[[6月]]に[[石原慎太郎]][[東京都知事]]が[[石原都政]]の中で「後楽園競輪」復活構想を掲げたが実現はしなかった。 === 衰退の流れ === 後楽園競輪の廃止は当時の競輪界に大きな打撃を与えたが、昭和40年代に入ると[[競艇]]の総売上が次第に競輪に迫る勢いを見せるようになった<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00002/contents/0091.htm#001 各種競技売上金額推移] - 日本財団図書館 2010年10月20日閲覧</ref>。1965年(昭和40年)度を見ると、競輪は競艇を含めた他の各公営競技団体の倍ほどの総売り上げを計上していたが、その後、競輪自身も売り上げを伸ばしていくものの、伸び率は鈍化していく。対して競艇は昭和40年代前半以降毎年度10%以上の伸び率を見せ、1973年(昭和48年)度頃には競輪と肩を並べた。同時期に発生した[[オイルショック#第1次|第一次オイルショック]]の影響により1972年度以降は伸び率も鈍化したが、1975年(昭和50年)度の年間総売上で競艇が競輪を逆転した。その後も現在に至るまで競艇が競輪の総売上を下回った年度は一度もなく、実に2倍以上もの差がついている<ref>{{Cite news |url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/o/716759/ |title=ボートレースなど売り上げ大幅増 |date=2021-04-01|accessdate=2021-04-01 |newspaper=[[西日本スポーツ]] |publisher=[[西日本新聞社]]}}</ref>。 また総入場人員においても、昭和40年度は競輪が約2800万人を記録し競艇に倍以上の差をつけていたが、その後競艇が差を詰めてゆき、[[1975年]]([[昭和]]50年)度に競輪を逆転した<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00002/contents/0091_001.htm 各種競技入場人員推移]</ref>。 競艇に逆転された原因として、競艇が施設改善や投票券の機械化を急ピッチで進めたのに対し、 * 当時は創世紀時代に建設された施設をそのままにしているところが多く、場内も「[[賭場|鉄火場]]風情」が漂っていたことから気軽に来場できるような場内環境ではなかった。 * 投票券の機械化も著しく遅れ、旧来の「穴開き式投票券」を発売している施設が大半を占めていたため発走時刻の遅れが恒常化していたなどといった問題点が一向に改善されなかった。 * さらに場内の風紀浄化も著しく遅れており、場内に闊歩していた[[ノミ屋]]を排除する動きは[[1985年]]2月に[[高知競輪場]]で発生した暴力団抗争事件以降本格化するが、他競技では既に着手していた。 などが挙げられる。 それでも、総売上は1980年(昭和55年)度まで競輪も対前年比増を何とか記録していたが、1981年(昭和56年)度に[[中央競馬]]を除く各公営競技が揃って前年割れを記録した。 === KPK制度導入 === 上述した通り、競輪人気にかげりが見えてきた原因は、度重なる暴動事件や施設の老朽化に加え、機械式発券機導入・場内浄化の著しい遅れなどもあるが、ギャンブルとしての競技運営面においても問題点を抱えていたことも挙げられる。 [[1967年]]([[昭和]]42年)以降、競輪選手の級班制度はA級(1 - 5班)・B級(1 - 2班)の「2層7班制」となっていたが<ref>[https://www.yahikokeirin.com/index.php/column-all/690 弥彦競輪物語~弥彦競輪50年の足跡(3)] - Dream Bank やひこけいりん</ref>、当時の最上位であるA級1班(A1)選手にあっせんが行われる[[開設記念競輪|記念開催]](現在のGIII)では、A級で最下位であったA級5班(A5)と直接対決する競走も見られた。 当時のA1選手は全体で100〜120名程度しかおらず、同じA級でも実力面で大きな開きがあったため、記念開催の準決勝では「レース前から勝負は決まっている」と言われ、配当もおしなべて低配当となる競走も多くみられた。この影響により予想の楽しみが消え、「当たっても儲からない」「当たってもトリガミ(手にする払戻金が購入金額を下回ること)」という印象をファンに抱かせたことで競輪離れを招いた。一方、競艇は1競走が競輪より少ない最大6艇立てではあるが極度の低配当とはなりにくく、それが競艇に客が流れて行った一因ではないかという見方が一部の競輪関係団体から上がってきた。 こうした背景を踏まえ、[[1983年]]4月1日の開催からA級のさらに上位のクラスとして「S級(1 - 3班)」を設け、B級はそのままとしつつ、A級1 - 5班をS級1 - 3班とA級1 - 4班とに再編した「3層9班制」からなる[[競輪プログラム改革構想]](略称「KPK」)をスタートさせた。KPKの導入により、競走は脚力が拮抗した選手による激しいレース展開へ生まれ変わった一方で、導入初期より落車・失格が急増し、配当も中配当(中穴)レベルが急増したため「車券が急激に取りにくくなった」という声がファンから上がってきた。 1975年以降、日本人のレジャー志向が「インドア」から「アウトドア」へ移行しており、本場(レース場)へ行かなければ投票券等も買えない公営競技は、都心の便利な立地に場外馬券発売所(現在の[[場外勝馬投票券発売所#中央競馬|WINS]])が集結する中央競馬を除き、「時代遅れのレジャー」と言われるようになった。中央競馬だけは総売上が対前年比増を継続していたが、それ以外の4団体は1981年度以降、軒並み前年割れを続けていった。 なお、元選手の矢﨑和良が[[1979年]](昭和54年)に「有限会社メダリストプランニング」を立ち上げ、プロテクターシャツや新繊維のレーサーパンツを、選手のケガ対策の観点から開発した([[2017年]]破産)。 ===KEIRINグランプリの創設=== {{see also|KEIRINグランプリ}} KPKが売上回復の起爆剤となりえていない実情を踏まえ、競輪関係団体は[[1985年]]([[昭和]]60年)に5番目の特別競輪として[[全日本選抜競輪]]を新設したが、それでも満足な結果は得られなかった。そこで、[[経済産業省|通商産業省]]内部において、より画期的なレースを行えないかという構想が浮上し、当時の同省車輌課長だった西川禎一が、S級1班(S1)のトップクラスだけを選抜した競走を同年末に行うという案を提案した。 当初の計画では、まず東日本地区と西日本地区の各競輪場で予選競走を各1個行い、上位の9選手による決戦競走を行うというものであった。しかし年末の開催には時間的な制約があったため、当時の競輪では考えられなかった一発勝負の競走を、集客が見込める首都圏の競輪場で行うという案に収斂し、1985年[[12月30日]]に[[立川競輪場]]にて[[KEIRINグランプリ'85]]の開催を行うことを内定した。 11月に行われた[[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭]]の全日程終了後に正式発表がなされた。当年の特別競輪優勝者・[[世界自転車選手権]]優勝者に競走得点上位者を加えた9名による一発勝負の競走が、優勝賞金1000万円をかけて行われることになった。 決定から当日まで期間がなかったため、全国での場外発売体制は極めて不十分だったが、立川競輪場は約4万人のファンでごった返した。また売上も立川市の希望額を上回り、KEIRINグランプリだけで約12億円を計上した。 また、1985年度の総売上対前年比も4年ぶりに増加し、1991年度まで対前年比増を続けた。しかし、売上に見合わぬ賞金体系が維持されたままとなっていたことは、その後[[日本競輪選手会]]との間に深刻な対立を発生させた。 === KEIRINグランプリ'89の中止 === {{seealso|KEIRINグランプリ'89}} [[1985年]]([[昭和]]60年)の[[プラザ合意]]に起因する[[円高不況]]の反省から、政府の内需拡大策が功を奏し、[[1988年]]頃から日本経済は空前の好況となった。ひいては後に[[バブル経済]]へと突入することになり、競輪の売上げもバブル景気期には前年対比2桁の売上げ伸び率を記録することになった。 そんな中、[[1984年]]にまず[[中央競馬]]が[[グレード制]]を導入し、[[1988年]]には[[競艇]]も追随してビッグレースの拡充を図るとともに、賞金総額も大幅に引き上げられた。その一方、競輪の賞金総額は前年度売上見通しの3%が賞金に充てられる「3%ルール」に長年拘束され、とくに競艇選手との賞金格差が拡大する傾向にあった。 これに対し日本競輪選手会は理事長[[片折行]]の強力なリーダーシップのもと賞金総額の大幅引き上げを求め、それが認められない場合は「[[1989年]]のKEIRINグランプリシリーズに、誘導員を出さない」とする強攻策を打ち出した。基本的に「先頭固定競走(後述)」を採用している競輪では誘導員を出さなければ競走が行えず、このことはKEIRINグランプリの開催もできないことを意味していた。選手会側は[[全国競輪施行者協議会]](全輪協、競輪主催者たる自治体が構成する団体)らと12月25日まで話し合いの場を持ったが折り合いはつかず、結局[[KEIRINグランプリ'89|同年のKEIRINグランプリ]]は中止された。なお会場だった立川は前年の1988年に、全国の競輪場で初めて大画面映像装置を設置していた<!-- 出典 立川競輪場の記事から-->。 この事態を受け、[[1990年]]に[[大宮競輪場]]での記念開催中止を回避するため施行者側が譲歩し、賞金総額の大幅アップが認められた。同時に「3%ルール」も事実上撤廃された。 === 相次ぐ借上施行者の撤退 === 日本経済は[[1991年]]([[平成]]3年){{Refnest|group=†|競輪の年度別売上で過去最高だったのは、[[1991年]]の1兆9553万4012万4900円だった<ref>[https://www.daily.co.jp/horse/2015/07/15/0008210093.shtml?pg=3 JKA吉田新会長ファン目線でカイゼン (3/3)] - デイリースポーツ、2015年7月15日</ref><ref>[http://www.meti.go.jp/committee/materials/downloadfiles/g51219a04j.pdf#page=15 平成17年度第6回車両競技活性化小委員会資料 オートレース事業再興に向けての取組] 産業構造審議会車両競技分科会</ref>。}}頃からバブル景気が下降線をたどり、長い不況に突入する。この影響を受け、競輪の売上も1991年度を境に下降線をたどり、その後2014年度まで対前年度比で漸減を続けた。 この影響を真っ先に受けたのが、普通開催(現在のFIIに相当)であった。普通開催については当時、競輪の主催権を持つ自治体以外に、特定の開催だけ主催権が与えられた「借上施行者」と呼ばれる自治体の主催が少なくなかったが、[[1992年]]以降は売上が急速に落ち込み赤字に転落する自治体が急増し、ひいては自治体の財政運営にも悪影響を及ぼすとして、これらの借上施行者は相次いで撤退していった。このことは主催権を持つ自治体にも過重な負担を強いることとなり、1990年代の終盤には各施行自治体が売上が見込める記念競輪の広域場外発売拡大や、S級シリーズの開催数増加を要求する流れとなっていった。 しかし、S級の選手数はKPK導入時のまま(概ね430名)に据え置かれており、急増するあっせんをこなせず体調不良から直前欠場するS級選手が急増し、ひいてはKPK制度そのものが破綻寸前の状態となっていた。そこで[[1999年]]初頭に関係5団体はグレード制の導入やB級の廃止、S級選手の大幅増加に伴うS級シリーズの開催数増加、場外発売を拡大するため記念開催を1節4日間制とする新番組制度改革の概要を公表した。 しかし、片折体制下が続く日本競輪選手会はB級廃止に難色を示し、当初は上記の番組改革に消極的な姿勢を取っていたが、片折が2000年に没して方針が転換され、改革案を受け入れた。その後、KPKに代わる新番組制度は[[2002年]]4月1日から本格的にスタートした。 [[1995年]]には他の開催と同様、[[競輪の競走格付け#特別競輪|特別競輪]]での失格選手も、[[即日帰郷#競輪・オートレース|即日帰郷]]となった。 1999年4月1日には全レースで枠番連勝複式と車番連勝単式の2賭式の発売方式(本場では単勝式・複勝式もあった)へ完全移行したが<ref>[https://web.archive.org/web/19990427100902/http://www.keirin.go.jp/ 競輪らんど]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20000526184711/http://nagara.hatelecom.or.jp/gifu-keirin/report/index.html G・Kリポート]</ref>、2001年9月30日の立川・前橋から新賭式(計7賭式)を順次導入<ref>[http://keirin.jp/i/dfw/portal/guest/news/2001khn/08/khn20010814.html 新賭式を導入!! 公営競技No.1のビッグチャンス!! 配信日:2001年8月14日]</ref>(2003年10月の松阪で全場完了<ref>[http://keirin.jp/i/dfw/portal/guest/news/2003khn/07/khn20030716_4.html 平成15年10月新投票方式(新賭式)導入予定 について 配信日:2003年7月16日]</ref>)。同年度には「全日本選抜競輪」が読売新聞社杯に「競輪祭」が朝日新聞社杯にもなった<ref>[https://web.archive.org/web/20020830032005/http://www.nikkan-pro.co.jp/naigai/2001/08/01081202.shtml 競輪祭が朝日新聞社杯に 全日本選抜は読売新聞社] - KEIRIN Express バンクナイガイ、2001年8月12日</ref>。2002年4月にはユニフォームも9色に変更され、インターネット投票システムも運用開始された<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2004khn/03/khn20040315_4.html 競輪インターネット投票 au、Vodafone対応について] - Keirin JP、2004年3月15日</ref>。2000年には競輪場内での酒類販売の試験導入もあった<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2000khn/07/khn20000714.html 競輪場における酒類販売実施のお知らせ] - Keirin.jp、2000年7月14日</ref>。 そんな中、競輪場の廃止論が21世紀に入って再燃もしていた。 ===3場廃止=== [[2002年]]([[平成]]14年)3月、3箇所の競輪場が廃止となった。 最初に廃止表明をしたのが[[門司競輪場|門司競輪]]であった。[[2001年]]4月、主催者の[[北九州市]]は、同市の諮問機関である競輪事業経営検討委員会が、[[2010年]]度までに門司競輪場と[[小倉競輪場]]、合わせて約75億円の累積赤字が見込まれる背景を踏まえ、施設の老朽化が著しい門司を廃止し、ナイター開催も行える小倉競輪に開催を一本化することで収益の改善が図れるという意見書を市側に報告したことを理由に、2001年度限りでの廃止を表明した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.geocities.jp/keirin45toyo/referencemoji.htm |title=門司競輪 |publisher=報道各社 |date= |accessdate=2021-05-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190330042928/http://www.geocities.jp/keirin45toyo/referencemoji.htm |archivedate=2019-05-30 }}</ref>。 続いて2001年11月、[[兵庫県市町競輪事務組合]]が主催する[[阪急西宮スタジアム#西宮競輪場|西宮競輪]]と[[甲子園競輪場|甲子園競輪]]がともに2001年度限りで廃止されることが決まった<ref name="1st stage's distance">{{Cite web|和書|url=http://www.geocities.jp/keirin45toyo/referencekousien.htm |title=甲子園西宮競輪 |publisher=報道各社 |date= |accessdate=2021-05-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190330042928/http://www.geocities.jp/keirin45toyo/referencekousien.htm |archivedate=2019-05-30 }}</ref>。 もっとも、西宮と甲子園については、主催者側が2000年度時点でいったん場内従事者を全員解雇し、日当賃金を従前の約半分となる8千円へと減額した上で希望者に対して再雇用している背景を踏まえ、最悪でも競輪選手の練習地でもあった甲子園だけは存続させる方向にあるという期待感も、廃止表明直前まで抱かせていた。その証拠に事務組合側は、同年夏に出した「甲子園一場開催案」の試算において、西宮・甲子園両場で開催した場合は2002年度 - 2005年度ですべて赤字だが、甲子園一場の場合は2002年度で3億5000万円、さらに2003年度も黒字になると報告していた。ところが、同年10月に再度収支予測をしたところ、2年間は黒字とされた甲子園単独でも2年目から赤字転落の見通しとなり、さらに黒字予想だった本年度でさえ赤字に転落する見込みになったため、甲子園一場での存続も無理との判断を下した<ref name="1st stage's distance"/>。 西宮、甲子園の廃止は、「急転直下」ともいえる事務組合側の結論となったため、甲子園競輪場の施設会社であった甲子園土地企業、近畿自転車競技会、日本競輪選手会が相次いで事務組合を相手取って損害賠償訴訟をする動きが見られた。また、西宮競輪場の施設会社・阪急電鉄は当初、事務組合側との調停を申し出ていたが、事務組合側がその意向に沿わないため、廃止から2年後にあたる2004年に損害賠償訴訟に踏み切った。しかし、いずれのケースも事務組合側の勝訴となった。 {{see also |甲子園競輪場}} ===衰退の流れ止まらず=== [[2002年]]([[平成]]14年)4月1日の開催より、KPK制度に変わる新番組制度が実施されることになった<ref>[http://www.meti.go.jp/committee/summary/0002722/pdf/004_01.pdf 参考資料(関係団体資料)]</ref>。S級選手を大幅に増加させることにより、S級シリーズ(FI)を年間8節へと開催を増加させる一方、長らく前後節制を取ってきた記念開催(GIII)については広域場外発売を行いやすくするため、1節4日間制に改められた。しかし、記念開催の広域場外化やS級シリーズの増加をもってしても、競輪の売り上げ向上には繋がらなかった。そのため、下記の騒動が発生した。 同年10月11日、[[豊橋市]]の市長[[早川勝 (政治家)|早川勝]]が、三連単導入にかかる投入資金に見合った売り上げが今後期待できないとして、突然の[[豊橋競輪場]]廃止表明を行なった。しかしその後、同市市議会の最大会派であった清志会などが当面の存続を訴えたことや、競輪関係団体が[[2005年]]の[[ふるさとダービー]]開催を約束したことなどにより、早川は廃止を撤回した<ref>[http://www1.dnet.gr.jp/~bod303/special_report_toyohashikeirin.htm 豊橋競輪、存続決定] 2011年4月14日閲覧</ref>。そして、2020年度現在も豊橋競輪は開催を行なっている。 一方で記念開催の広域場外化が浸透すると、次第に各競輪場において自場開催よりも他場の場外発売に収益の柱をシフトする動きが見られるようになり、中には本場開催と合わせて、年間300日以上発売する場も続々と出るようになった。しかし、周辺地域の理解が得られず場外発売日数が著しく制限された競輪場は、一層苦境に立たされることになった。 [[2003年]]12月31日実施の競走より、イエローラインが導入された。 [[2005年]]末のヤンググランプリ05、[[KEIRINグランプリ05]]から、[[佐藤直紀]]作曲の新ファンファーレを全国で使用<ref>[http://www.meti.go.jp/committee/materials/downloadfiles/g61006c07j.pdf#page=16 2006.9.29 日本自転車振興会 「競輪事業活性化プラン」の検討中間報告]</ref>。 [[2008年]]に([[平成]]20年)JKAは「平成21年度特別競輪等公告項目」として各種アンケートを実施した<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/index_news/index_news20080918_01.html 平成21年度の特別競輪等について] - KEIRIN.JP、配信日:2008年9月18日</ref>。 同年4月15日に[[チャリロト]]が、4月25日に[[Kドリームス]]が、発売開始(重勝式投票券)。 [[2009年]]([[平成]]21年)[[9月15日]]、[[神奈川県]]の外部組織にあたる『神奈川県競輪組合あり方検討委員会』は、[[花月園競輪場]]の廃止は妥当とする報告書をまとめ、同月18日、同場を主催する神奈川県競輪組合と主催自治体に対し報告書を提出した。理由は、2008年度時点における累積赤字が49億円に達しており、4年後の2013年度には77億円までに膨らむ見通しだからだとした<ref>[http://blog.goo.ne.jp/yoroshiku109/e/37a48130ddfa9bf9470551b6c184baad 花月園競輪場廃止へ] - 公営競技はどこへ行く 2009年9月17日付記事</ref>。この報告書に基づき、当時の同組合管理者であった[[松沢成文]]は同年12月1日、正式に花月園競輪の廃止を決定した。花月園競輪場は当時、自場開催を除く場外発売日数が74日と少ないため、自場開催にかかる赤字分を補うことができなかった<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/shikai/pdf/siryo/j6-20090918-ke-31.pdf 神奈川県競輪組合あり方検討委員会について] 2011年4月14日閲覧</ref>。そのため、今後開催を続けたとしても、年間約5億円の赤字が見込まれることから、廃止は妥当と結論付けられた。翌[[2010年]][[3月31日]]が最後の開催となった花月園競輪場は、59年に亘る歴史にピリオドを打った。 [[四日市競輪場]]は通年ナイター開始という活路を見出し、包括民間委託も導入して黒字転換を果たした<ref>[http://www.jfm.go.jp/about/pdf/JFMdayori/JFMdayori_vol16-2015.pdf#page=12 JFMだより Vol.16] - 地方公共団体金融機構、2015年12月</ref>。 2011年([[平成]]23年)頃を境に、ビッグレースにおける[[全国独立UHF放送協議会|独立UHF局]]の地上波中継番組がほぼ無くなっていった([[#地上波]]を参照)。 2013年5月31日には、[[中日新聞]]が[[一宮競輪場]]を2013年度末で廃止する方向で最終調整に入ったと報じた。1991年度をピークに売り上げが減少し、2009年度・2010年度は赤字を計上。2012年度も当初予測していた1億4000万円を大幅に超える見通しとなり、過去の収益金からなる繰越金も2014年度で底を尽くため<ref>「一宮競輪 廃止へ 経営難、本年度末にも 市が最終調整」 - 2013年5月31日付 中日新聞1面より</ref>。 === オートレースとの統合 === [[2007年]][[6月13日]]に公布された[[自転車競技法]]及び[[小型自動車競走法]]の一部を改正する法律により、競輪を統括していた「日本自転車振興会」と[[オートレース]]を統括していた「日本小型自動車振興会」は、[[2008年]][[4月1日]]をもって財団法人[[JKA]]に統合された<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/index_news/index_news20080401_01.html 財団法人日本自転車振興会のオートレース事業の開始及び名称変更について]</ref>。 === 低迷打破へ、新たなレースを開催 === 売り上げ額は[[1991年]]度(平成3年度)には過去最高となる1兆9,533億円に達したが、その後は一貫して右肩下がりとなり、[[2013年]]度(平成25年度)にはその{{分数|1|3}}程度となる6,063億円に落ち込むほど低迷した<ref name="jkauriage">{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.keirin-autorace.or.jp/documents/www/disclosure/shiryou/001_uriage.pdf |title=年度別車券売上額・入場者数 |publisher=[[JKA]] |date= |accessdate=2020-01-06 }}</ref>。 売り上げ額の低迷が続いていた中で、新たな起爆剤として、2011年[[1月14日]]から[[1月15日|15日]]にかけて、小倉競輪場にて夜9時から11時台に[[無観客試合|無観客]]でレースを行うという「'''[[ミッドナイト競輪]]'''」が開催された。試験的な意味合いが強かったが、予想を上回る売り上げを見せただけでなく黒字計上したことから継続して開催されることとなり<ref>{{Cite web|和書|url=https://business.nikkei.com/atcl/report/16/030800018/101400186/ |title=競輪がまさかの「無観客レース」で復活したワケ |publisher=[[日経ビジネス]] |date=2016-10-11 |accessdate=2019-01-07 }}</ref>、後に小倉以外にも多くの競輪場が追随したことで、ミッドナイト競輪は[[2022年]]までで全国にある競輪場の半数を超える30場にて開催されるほどに拡大した(これらに加え、自場では実施していないが照明設備が整った他場で借り上げにて開催している施行者もあり、それらも含めると現状ではほぼ全ての施行者がミッドナイト競輪を開催している)。 ミッドナイト競輪とは逆に、第1競走の出走時刻を早めた「'''[[モーニング競輪]]'''」も[[岸和田競輪場]]にて[[2012年]][[5月4日]]から[[5月6日|6日]]にかけて初めて開催され、これも好評であることから徐々に開催場が増加している。 2012年7月からは、昭和期には[[ガールズケイリン#昭和期の女子競輪|女子競輪]]と呼ばれた女性の競輪選手による競走'''[[ガールズケイリン]]'''が開始され、女子競輪が約半世紀ぶりに復活した。 他に企画レースとして、[[開設記念競輪]](GIII)の最終日における単発競走として、男子でも[[ライン (競輪)|ライン]]の概念を排除しトラックレースとしての[[トラックレース#ケイリン|ケイリン]]に準拠したルールで行う[[KEIRIN EVOLUTION]]や、各地区から1名ずつ選抜された7名による[[S級ブロックセブン]]など、それまでなかった新たなレース形態による競走が行われるようになっている(ただし、これらは後述する[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]蔓延拡大により現在は実施していない)。 [[2014年]]12月31日実施の競走より、高速化によるレースの単調化の防止などを目的に、ギヤ倍数範囲が規制された(男子4.00倍未満、女子3.80倍未満)。 2016年度の開催枠組みについて、各競輪場の年間開催日数を従来の19節58日から、原則15節46日(小倉は削減なしで函館と四日市は3節減)とすることを競輪最高会議が承認し、縮小化が進んだ<ref>[https://www.meti.go.jp/report/whitepaper/data/pdf/20180328001_02.pdf#page=8f 競輪事業の持続的発展に向けた中期基本方針~2020年度売上7,000億円突破に向けた本質的課題克服と中期計画実行~「② 市場規模に応じたビジネスモデルの構築【全輪協】」] 競輪最高会議 平成28年6月30日</ref><ref>[https://www.keirin-autorace.or.jp/work/report/h27_report.pdf#page=19 平成27年度 事業報告書 第2部 競輪運営支援業務 「3.競輪の公正かつ円滑な実施に資する事業」] JKA</ref>。なお、2018年度の総開催日数は2017年度より77日多い2255日であった<ref name="nishispo190417" />。 [[2016年]]より、売り上げ増を目的に、[[日本選手権競輪|日本選手権]]が5月の[[ゴールデンウイーク]]期間中の開催に変更された<ref group="†">それ以外のグレードレース(GI・GII・GIII)においても、かつては平日(火曜日が多かった)に最終日(決勝戦)としていたが、現在ではGI・GIIにおいては在宅率の高い日曜日ないし祝日に最終日(決勝戦)とするスケジュールを組んでいる。</ref>。また、[[10月]]の[[第25回寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|寬仁親王牌]]からは、[[特別競輪]]においては固定メンバー3名からなる審判長団が執務を担当して行くことになった<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2016khn/09/news20160902_06.html GP・GI・GII開催時における審判体制について] - KEIRIN.JP・2016年9月2日</ref><ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nsp/keirin/article/271930 競輪・審判長団を編成 G2以上で判定] - 西日本新聞・2016年9月2日</ref>。加えて、それまで日本選手権が行われていた3月には、新たなビッグレースとして、[[ウィナーズカップ]](格付けはGII)が[[2017年]]より新設されている。 [[2018年]][[11月]]に開催された[[第60回朝日新聞社杯競輪祭]]は、GIでは初の[[ナイター競走|ナイターレース]]となり<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=883 |title=平成30年度 朝日新聞社杯競輪祭の見直しについて |publisher=keirin.jp |date=2017-10-10 |accessdate=2017-10-11}}</ref>、併せて6日間開催(うち前半3日間はガールズケイリン組み込み)・一次予選におけるポイント制が復活し、2019年以降も競輪祭ではナイター開催が継続されている。加えて、[[2021年]]の[[オールスター競輪|オールスター]]では、6日間開催の復活と、競輪祭に次ぐナイターレース化が決定した(一次予選はポイント制が復活)<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=5106|title=2021年度オールスター競輪が変わります!~6日制、ナイター開催に!!~|publisher=KEIRIN.JP|date=2019-12-27|accessdate=2019-12-27}}</ref>。[[2023年]]の[[高松宮記念杯競輪|高松宮記念杯]]では、同大会も6日間開催を復活させることとなった。 === 低迷脱出、売り上げ額増加へ === 売り上げが右肩下がりを続けていた競輪にとって、特にミッドナイト競輪、モーニング競輪は開始以降、対前年度比で高い伸びを示すほど好調が続いており、救世主とも呼べる存在となった。それらの好調で競輪の売り上げ額は2014年度以降、僅かながらではあるが連続して増収基調が続いており<ref name="jkauriage" />、2017年度も対前年度比で100.9%と4年連続で増加となった<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/kidoairaku/news/201805300000255.html |title=売り上げ回復のヒントはパチンコにあり |newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2018-05-30 |accessdate=2018-05-30 }}</ref>。また2018年度も車券売上高は対前年度比102.2%となり、本場発売や場外発売が苦戦する中で売り上げは5年連続増加となった<ref name="nishispo190417">{{cite news |url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/keirin/article/503192/ |title=競輪・18年度売り上げ発表 |newspaper=[[西日本スポーツ]] |publisher=[[西日本新聞社]] |date=2019-04-17 |accessdate=2019-04-22 }}</ref>。加えてインターネット投票が追い風となり、2018年度は[[広島競輪場]]では10年ぶりに3億円を[[広島市]]の一般会計に入れたほか、[[玉野競輪場]]でも前年度の2倍となる4億円を[[玉野市]]の一般会計に充当した<ref>{{cite news |url=https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=599208&comment_sub_id=0&category_id=112 |title=公営ギャンブルV字回復8場黒字 |newspaper=[[中国新聞]] |publisher=[[中国新聞社]] |date=2019-12-23 |accessdate=2020-01-06 }}</ref>。2019年度も、[[#新型コロナウイルス感染症の拡大による影響|後述]]の通り2020年2月末以降は全ての開催が[[無観客試合|無観客]]となる中で、年間を通じての売り上げ額は6604億6055万5100円で前年度比101.0%(うち重勝式売上高は29億1393万4600円で、前年度比105.7%)となり、6年連続の増加となった<ref name="ns200416" />。 ただ、実際はレース単位で見るとビッグレースでも売り上げ額は減少傾向にあり、GIでさえも売り上げ額ワーストを更新することが増えてきている。実際に、2018年度の全国の本場入場者数は250万5,291人<ref name="jkauriage" />で、対前年度比92.4%と減少した。また、1日平均売り上げ額は2億9,007万4,100円(同98.7%)、場外売り上げ額は3,214億6,418万4,700円(同94.2%)、本場売り上げ額は263億3,762万4,800円(同90.4%)であり、通常開催では今もなお売り上げの減少が続いている<ref name="nishispo190417" />。グレードレース別で見ても、GIは[[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭]]が6日間開催となったため売り上げ額は対前年度比101.4%となったが一日平均では同94.4%と減少であり、GIIの売り上げ額は対前年度比95.7%(一日平均同95.7%)、GIIIも売り上げ額は対前年度比96.3%(一日平均同92.0%)であった<ref>[[日刊スポーツ]][[日刊スポーツ新聞西日本|大阪本社版]]、2019年5月29日付18面</ref>。2019年度も、1日平均売り上げ額、本場での1日平均入場者数・売り上げ額、場外売り上げ額はいずれも対前年度比で減少となっており、開催日数を増やすことで売り上げ額を増加させている<ref name="ns200416">{{cite news|url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/600966/ |title=競輪19年度売上高、電投が場外を初めて上回る |newspaper=[[西日本スポーツ]] |publisher=[[西日本新聞社]] |date=2020-04-16 |accessdate=2020-04-16 }}</ref>のであって、楽観視はできない状況にある。 これらを表すように、2019年度は黎明期を除いて70年以上に渡って上回っていた地方競馬(7010億円、前年度比115%)の売り上げを下回り、競輪の苦境を表す象徴的な年となってしまった。同様に、KEIRINグランプリ(52億円、前年比100.2%)の売り上げも、史上初めて[[東京大賞典]](56億円、前年比121%)を下回った。公営競技全体の売り上げに対しても、1965年に55%、2000年度でも18%を占めていたが、2019年度には11%程度まで落ち込んでいる。 === 新型コロナウイルス感染症の拡大による影響とその後 === [[File:The sign of 74th keirin derby which was called off because of COVID-19.jpg|thumb|200px|第74回のダービーは[[COVID-19]]による感染拡大の影響で中止された。静岡競輪場にて2020年4月撮影。]] [[2020年]]、日本国内で[[2019新型コロナウイルスによる急性呼吸器疾患|新型コロナウイルス感染症]]が蔓延・拡大したことを受けて、競輪でも感染拡大防止のため2月27日より当面の間、日中・ナイターも含め全てのレースで[[無観客試合|無観客]]による開催となった。本場だけでなく[[競輪場外車券売場]]も閉鎖され、またファンの多くが高齢者であることから[[競艇]]などと比べて車券の売り上げ額が一時的に大きく落ち込み、例えば[[開設記念競輪|記念競輪]]([[競輪の競走格付け#GIII (G3)|GIII]])としては初の無観客開催となった[[奈良競輪場|奈良競輪]]開設69周年記念「春日賞争覇戦」では、総売り上げ額は17億6353万9100円と、前年度の54億929万8600円に対し32.6%と大幅ダウンした<ref>{{cite news |url=https://www.daily.co.jp/horse/2020/03/01/0013158344.shtml |title=【競輪】無観客開催の奈良G3 総売上額17億円で前年比32・6%と大幅減 |newspaper=[[デイリースポーツ]] |publisher=[[神戸新聞社]] |date=2020-03-01 |accessdate=2020-03-02 }}</ref>。それ以降も、九州地区から参加した選手の親族に新型コロナウイルス感染症の陽性反応が出たため4月2日からの[[玉野競輪場|玉野競輪]]が公営競技としては初めて新型コロナウイルス感染症による影響で中止となった<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202004020000253.html |title=玉野競輪が公営初の中止 選手の家族にコロナ感染者 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2020-04-02 |accessdate=2020-04-03 }}</ref>ほか、元選手で競輪評論家である[[井上茂徳]]氏の新型コロナウイルス感染発覚<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202004070000758.html |title=井上茂徳氏がコロナ感染 競輪現役時代にGPで3勝 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2020-04-07 |accessdate=2020-04-08 }}</ref>と、それを受けて4月8日から開催予定であった[[名古屋競輪場|名古屋競輪]]が初日朝に急遽中止を決定する<ref name="nk200408">{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202004080000657.html |title=名古屋競輪F1が急きょ中止…コロナ余波広がる |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2020-04-08 |accessdate=2020-04-11 }}</ref>など、混乱が続いた。 さらに、改正・[[新型インフルエンザ等対策特別措置法]]に基づく[[非常事態宣言|緊急事態宣言]]が[[日本国政府]]より発令された[[4月7日]]以降、記念競輪でも[[平塚競輪場|平塚]]記念、[[西武園競輪場|西武園]]記念の中止が決定した<ref>{{cite news|url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/o/598745/ |title=平塚、西武園競輪G3が中止 |newspaper=[[西日本スポーツ]] |publisher=[[西日本新聞社]] |date=2020-04-08 |accessdate=2020-04-15 }}</ref>ほか、全国的に開催を取り止める競輪場が相次いで出てきており<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=5693 |title=【お知らせ】4月8日からの開催中止について(4月11日 7:30更新) |publisher=KEIRIN.JP |date=2020-04-11 |accessdate=2020-04-11 }}</ref>、遂には[[5月5日]]から[[静岡競輪場]]で行われる予定だったGI・第74回[[日本選手権競輪]]も開催中止の断が下された<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=5753 |title=第74回日本選手権競輪の開催中止について |publisher=KEIRIN.JP |date=2020-04-24 |accessdate=2020-04-24 }}</ref><ref name="nk200424">{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/sports/news/202004240000178.html |title=静岡競輪ダービーが59年ぶり中止…G1もコロナ禍 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2020-04-24 |accessdate=2020-04-24 }}</ref><ref>[https://hochi.news/articles/20200424-OHT1T50061.html 最高権威の競輪G1「日本選手権」(ダービー)が中止] 2020年4月24日 スポーツ報知</ref>。特に、2020年4月に限れば、S級だけで15%強に当たる130人強があっせんが全て中止となり、中には[[岩本俊介]]や[[松岡健介]]のように3開催連続して中止にされた選手もいた<ref name="nk200429">{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/ailoverace/news/202004290000014.html |title=4月あっせんゼロS級130人超 選手の忍耐は限界に |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2020-04-29 |accessdate=2020-04-29 }}</ref><ref group="†">この2選手はそのあと中止となった静岡での第74回日本選手権競輪にあっせんされていたため、都合4開催連続(実質2か月分の配分)で中止の憂き目に遭っている。</ref>。約款により、開催初日に急遽中止が決まれば各グレードの総賞金額の30%が参加選手に対し均等に支払われる<ref name="nk200408" /><ref name="nk200429" />が、前もって中止となった場合は支払われない<ref name="nk200429" />ため収入が大きく減少しており、選手・関係者に大きな影響が出た。実際に、2020年は取得賞金額が1000万円以上の選手は[[競輪プログラム改革構想|S級創設]]以降最小となる590人に留まり、平均取得額も[[東日本大震災]]被災地への復興資金捻出のため賞金額を大幅に減額した2011年〜2012年並みの905万円と、大きく減少となった<ref>{{PDFlink |[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2021khn/01/pdf/20210108_02_04.pdf 取得賞金高別人員表(1 千万円以上)ほか] }}</ref>。 * 同じ公営競技でも、競輪の場合は通常時でも[[競艇]]や競馬([[中央競馬]]・[[地方競馬]]とも)、[[オートレース]]よりも参加選手の人数が多い<ref group="†">競輪は1日1走のみ([[250競走]]を除く)であり、特に6日間開催の日本選手権競輪は参加人数が最も多く、選手以外に関係者なども合わせて200名以上となる。</ref>上に狭い検車場で多くの人数がごった返すこと、選手宿舎が4人相部屋であることなどから(いわゆる『[[3つの密|3密]]状態』になりやすい)、主催者である各自治体が感染拡大を防止するため中止の判断をしたとみられる<ref>{{cite news |url=https://hochi.news/articles/20200424-OHT1T50231.html |title=競輪ダービー、なぜ中止? 他競技とは環境に差が…記者の目 |newspaper=[[スポーツ報知]] |publisher=[[報知新聞社]] |date=2020-04-25 |accessdate=2020-04-26 }}</ref>。またそれ以外にも、レース中の事故に備えて待機させる医師を確保できず、止む無く開催中止とした競輪場もあった<ref name="sy200612">{{cite news |url=https://www.sanyonews.jp/article/1021088?rct=syuyo |title=玉野競輪が驚異的な売り上げ 他会場相次ぎ中止で“単独開催” |newspaper=[[山陽新聞]] |publisher=山陽新聞社 |date=2020-06-12 |accessdate=2020-06-12 }}</ref>。なお、緊急事態宣言が発令された後は、競艇などでも暫くは競輪同様に多くが無観客で開催された。 特に4月から5月にかけては開催中止が相次いだため、選手側にとってもコンディション維持や収入面で影響が出てきたことから、当面の間競輪開催においてはGI・GIIの特別競輪を除いて参加選手の人数を抑制し、かつあっせんは極力選手の登録地の近くとして移動を抑制することで開催中止を回避しつつ感染拡大を防ぐ取り組みを行うこととなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=5817 |title=新型コロナウイルス感染症拡大防止に伴う6月選手あっせんについて |publisher=KEIRIN.JP |date=2020-05-08 |accessdate=2020-05-16 |archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=5849 |title=7月から9月までの開催について |publisher=KEIRIN.JP |date=2020-05-20 |accessdate=2020-05-24 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。また、同年6月以降からは、体制が整った競輪場・専用場外売場から順次、観客の入場を再開している<ref>{{cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2020/06/02/kiji/20200601s00052000428000c.html |title=競輪初 観客入れて再開へ!武雄は今月12日、前橋は8月11日から |newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]] |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2020-06-02 |accessdate=2020-06-03 }}</ref>。7月以降は暫定的に[[開設記念競輪|開設記念]]やGIなどグレードレースを除いた全てのレースで7車立てとするなど極力密にならないよう配慮した上で開催を継続している。ただ、7月下旬には選手で初めて感染者が発生し<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202007270000720.html |title=競輪選手2人がコロナウイルス感染…選手では初めて |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2020-07-27 |accessdate=2020-07-28 }}</ref>、それ以降も複数名の選手で陽性者が現れたほか、[[2021年]]に入っても再度緊急事態宣言が発令されたことで一部の競輪場では無観客開催や場外発売を中止したり、陽性者との濃厚接触者と疑われる選手が参加した競輪場では開催中止<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=7345 |title=【お知らせ】高知競輪の開催中止について(11時20分更新) |publisher=KEIRIN.JP |date=2021-01-17 |accessdate=2021-01-17 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>ないし途中打ち切りとなる<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202101190000859.html |title=参加選手に新型コロナ濃厚接触者で開催中止/奈良 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2021-01-19 |accessdate=2021-01-19 }}</ref>など、混乱は続いた。 ただ、その一方で、長い目で見ると、特に[[電話投票|電話投票、インターネット投票]]での売り上げが伸びており、2019年度の電話投票売り上げ額は3625億8208万8800円と7年連続増加かつ前年度比118.4%と急増し、2765億8612万1700円(前年度比86.0%)であった場外売り上げ額を初めて上回った。また、電話投票利用者数も6428万1066人で、前年度比115.8%と急増した<ref name="ns200416" />。[[ナイター競走|ナイター競輪]]においては2020年[[5月5日]]から3日間開催された[[玉野競輪場|玉野]]FIIで施行者の想定を5倍近く上回る16億4千万円を売り上げた<ref name="sy200612" />ほか、[[ミッドナイト競輪]]においても、[[2021年]][[1月23日]]から[[1月25日|25日]]まで開催された[[松阪競輪場|松阪]]FIIでは総売上額が14億7168万3300円となり、1開催の総売上記録を更新しただけでなく、最終日の25日においては5億7901万4000円の売上があり、ミッドナイト競輪1場・1日あたりの売上記録も更新した<ref name="nk210125">{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/keirin/mid_cal/news/202101250000235.html |title=ミッドナイトで3日間&1日の最高売上!松阪が達成 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2021-01-25 |accessdate=2021-01-26 }}</ref>。 一時的に混乱が見られた競輪界であったが、2020年は[[KEIRINグランプリ2020|グランプリ]]・GIは中止となった日本選手権競輪と無観客開催かつ多くの場外発売が中止となった[[第71回高松宮記念杯競輪|高松宮記念杯競輪]]を除いて全て売上額は対前年比で上回ったほか、[[2021年]][[4月1日]]にJKAが発表した2020年度の車券総売上高は、対前年度比で113.6%となる7499億9019万6400円となり、結果として7年連続増、かつ対前年比で10%以上もの大幅増となった<ref>{{Cite news |url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/o/716759/ |title=ボートレースなど売り上げ大幅増 |date=2021-04-01|accessdate=2021-04-01 |newspaper=[[西日本スポーツ]] |publisher=[[西日本新聞社]]}}</ref>。対前年比で10%以上もの売上高を記録したのは、[[1990年]]度以来30年ぶりであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://morecadence.jp/news/57343 |title=2019年度の競輪車券売上高6,604億円、6年連続成長 |publisher=MoreCADENCE([[JKA]]) |date=2020-04-01 |accessdate=2021-04-02 }}</ref>。2021年度も8年連続の増加となっただけでなく、総売上高9631億3007万1000円と[[2004年]]度以来17年ぶりとなる9000億円台、かつ対前年度比128.4%と大幅アップ<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202204010000544.html |title=競輪も売り上げアップ、21年度は前年比128・4% |date=2022-04-01 |accessdate=2022-04-01 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]}}</ref>、2022年度も対2021年度比で113.1%となる1兆907億7929万200円(速報値。[[PIST6]]の売上高も含む)となり、9年連続増加、そして[[2002年]]度以来20年ぶりとなる売上高1兆円を回復した<ref>{{Cite web|和書|url=https://keirin.netkeiba.com/news/news_detail.html?id=14384 |title=【競輪売上】20年ぶりの1兆円オーバー! 2022年度総車券売上高発表 |date=2023-04-03 |accessdate=2023-04-03 |publisher=[[netkeiba.com|netkeirin]] }}</ref>。 このように売上高の増加が続いていることを受けて、2019年10月、2021年4月、2022年4月、2023年4月と段階的に全てのレースで賞金額の増額が行われており、特に[[KEIRINグランプリ]]では本賞金のみで1億3000万円となった。 == 投票券(車券) == 車券購入においてマークシート方式の導入は、[[1991年]]9月の[[京王閣競輪場|京王閣]]が初だった<ref>[http://www.kokurakeirin.com/guide/mojikeirin_history.html 門司競輪の歴史] - 小倉けいりん</ref>。 {{see also|投票券 (公営競技)}} [[ファイル:Kyoto Mukomachi Velodrome Windows.jpg|thumb|競輪場での車券発売 ([[京都向日町競輪場]])]] ===種類=== ====現在発売中の賭式==== 現在発売できる車券の種類は以下の「7賭式」(2001年開始)<ref name="野呂2008-45">[[#野呂2008|野呂2008]]、45頁。</ref><ref>[http://www.meti.go.jp/committee/summary/0002722/pdf/011_01.pdf#page=25 競輪事業の再興に向けて-新生競輪の確立-(案)] - 平成13年12月 産業構造審議会車両競技分科会 競輪小委員会</ref>と重勝式、そして[[千葉JPFドーム|TIPSTAR DOME CHIBA]]で行われている250競走「[[PIST6]]」(2021年開始)でのみ発売されている単勝式である。7賭式のうち枠番の2種は、最大7車立てで行われているFI(S級戦も含む)、FIIでは発売されない(同じく7車立て競走である[[ガールズケイリン]]でも未発売)。 また、重勝式、並びにミッドナイト競輪は一部の競輪場での会員制またはインターネット限定(ミッドナイト競輪に関しては前売りのみ)、単勝式並びに250競走はインターネット投票サイト「PIST6公式投票サービス」または「[[TIPSTAR]]」における「PIST6」でのみ販売となる。 * 枠番二連勝複式(2枠複) - 1着と2着の枠番の組み合わせを予想。最大18通り<ref name="野呂2008-46">[[#野呂2008|野呂2008]]、46頁。</ref>。 * 枠番二連勝単式(2枠単)1着と2着の枠番を着順通りに予想。最大33通り<ref name="野呂2008-46"/>。2車単登場前の主流車券<ref name="野呂2008-46"/>。 * 車番二連勝複式(2車複)1着と2着の車番の組み合わせを予想。最大36通り<ref name="野呂2008-48">[[#野呂2008|野呂2008]]、48頁。</ref>。 * 車番二連勝単式(2車単)1着と2着の車番を着順通りに予想。最大72通り<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、45-46頁。</ref>。 * 車番拡大二連勝複式(ワイド) - 3着以内の車番2つの組み合わせを予想。最大36通り<ref name="野呂2008-49"/>。 * 車番三連勝複式(3連複) - 1着から3着までの車番の組み合わせを予想。最大84通り<ref name="野呂2008-49">[[#野呂2008|野呂2008]]、49頁。</ref>。 * 車番三連勝単式(3連単) - 1着から3着までの車番を着順通りに予想。最大504通り<ref>[[#野呂2008|野呂2008]]、48-49頁。</ref>。 * 重勝式 - 最高で4,782,969通り **[[チャリロト]] **[[Kドリームス]] **[[オッズパーク|オッズパークLOTO]] **[[Dokanto!]] **[[ウィンチケット|WinTicket]] * 単勝式 - 勝者(1着)を予想。最大6通り<ref name="pist6result">{{Cite web|和書|url=https://keirin.netkeiba.com/pist6/payback_list/ |title=PIST6 結果払戻一覧 |publisher=netkeirin |date=2021-10-03 |accessdate=2021-10-04 }}</ref>。 ====発売を終了した賭式==== 単勝式・複勝式については、かつては本場で発売されていたが、元来から売り上げは微々たるものであり、レースによっては「的中者なし(無投票)」で購入金額の30%を控除して購入者全員に払い戻すこと(「[[投票券 (公営競技)#特払い|特払い]]」と呼ぶ。30%の控除であるので「特別払戻金」として購入100円に対し70円が支払われた)も多々あった。このため、電話投票でも開始当初から取り扱いをしたことはなく、また規則上上記から重勝式を除く7賭式を発売する場合は発売しなくてもよいとされているため、それらの導入と共に事実上廃止となった。ただ、[[千葉JPFドーム|TIPSTAR DOME CHIBA]]にて[[2021年]][[10月2日]]より開幕した250競走「[[PIST6]]」においては2枠単・2枠複の発売がない(2車単・2車複の発売はある)こともあり、単勝式に限り復活した<ref name="pist6result" /><ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202110020001496.html |title=雨谷一樹が連勝発進 初日の売り上げは約3億5000万円/千葉PIST6 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2021-10-02 |accessdate=2021-10-04 }}</ref>。 なお、他の公営競技と同様、20歳未満の車券購入は法律で禁止されている([[2007年]]の法改正により、20歳以上の学生は解禁された)。 === 高額配当 === 7賭式導入後に限っては、初めて配当が100万円の大台を突破したのは、2001年12月22日の[[前橋競輪場]]の第4レース三連勝単式・154万20円<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20011222000498 競輪で154万円の高配当/公営競技で史上2番目] 四国新聞社 2001年12月22日</ref>。 全賭式を通じての最高配当は[[2010年]][[10月21日]]に[[平塚競輪場]]で行われた第6-12競走で発売された[[チャリロト]](重勝式)で、払戻金は905,987,340円。これは日本の公営競技史上最高配当記録である。 上記の重勝式を除いた最高配当は[[2006年]][[9月21日]]に[[奈良競輪場]]で行われた第10競走で、三連勝単式の払戻金は4,760,700円。 === 電話投票・場外発売 === [[電話投票]]では、[[1991年]]から各地の[[競輪の競走格付け#GIII (G3)|記念競輪 (GIII)]] 以上の競走を対象に全国発売されるようになり、現在では電話投票のほかインターネット投票を用いて[[千葉JPFドーム|TIPSTAR DOME CHIBA]]を除く全国の競輪場の全競走を購入できる。なお、TIPSTAR DOME CHIBAで行われている250競走「[[PIST6]]」においては、「PIST6公式投票サービス(JPFが運営)と、ともに[[MIXI]]が出資しているインターネット投票アプリ「[[TIPSTAR]]」または「netkeirin」([[netkeiba.com]]の姉妹サイト)でのみ取り扱っている。 場外発売でもGIII以上は場間場外発売を行っているほか、[[競輪の競走格付け#FI (F1)|S級シリーズ (FI)]] や[[競輪の競走格付け#FII (F2)|一般戦 (FII)]] でも地方都市を中心にして'''サテライト'''などの専用場外で発売する場合もある。なお、[[1998年]]11月に開設された東京都[[港区 (東京都)|港区]]にある[[ラ・ピスタ新橋]]と、[[2004年]]10月に開設された神奈川県横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]の[[サテライト横浜]]、[[2007年]]3月に開設された[[サテライト大阪]]、[[2012年]]4月に開設された愛知県名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]]の[[サテライト名古屋]]、同年8月に開設された福岡県福岡市[[博多区]]の[[サテライト中洲]]は原則として有料会員制となっている。 {{see also |競輪場外車券売場}} == 広報活動 == === 放送媒体での実況中継 === ==== テレビ ==== ===== 地上波 ===== 記念競輪(GIII)以上の競走は一部が地上波テレビで中継され、本場所在地にあるテレビ局が制作し、主に場外発売を実施する地域のテレビ局がネットする形態が多く見られる。[[競輪の競走格付け#FI (F1)|S級シリーズ (FI)]] などの競走を地元ローカルで生中継することもある。 競輪がテレビ(地上波)で初めて放映されたのは、[[1963年]]の第16回[[日本選手権競輪|全国争覇競輪]]([[一宮競輪場]])で、地元[[CBCテレビ|中部日本放送(現:CBCテレビ)]]が中継を担当し、[[TBSテレビ|TBS]]や[[朝日放送テレビ|朝日放送(現:朝日放送テレビ)]](当時はTBSの番組をネットしていた)でもネットされた。ちなみに、カラー放送による最初の中継は、[[1969年]]の第14回[[オールスター競輪]]([[岸和田競輪場]])決勝戦である。 [[1978年]]の第31回[[日本選手権競輪]]([[いわき平競輪場|平競輪場]])まで[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]で放送されていたが、同年の第29回[[高松宮記念杯競輪|高松宮杯競輪]]([[大津びわこ競輪場|びわこ競輪場]])から[[テレビ東京|東京12チャンネル → テレビ東京]]系列に中継が移行されている。 特に[[競輪の競走格付け#GII (G2)|GII]]以上の競走は関東・中京・近畿の各広域圏にある[[全国独立UHF放送協議会|独立UHF放送局]]でレース実況・関連情報・開催地の紹介など時間枠を拡大して放送している。また現地スポーツ新聞記者のほか元競輪選手など専属の解説者も日替わりで出演している。 長らく「[[KEIRINグランプリ]](GP)」やGI決勝戦については[[テレビ東京]]をキー局として[[TXN]]系列局がネットしてきたが、特にGI決勝戦については[[2000年]]から原則[[日曜日]]または[[国民の祝日|祝日]]開催となったことからTXN系列では中継できない競走もでてきたため、[[全国独立放送協議会|独立UHF局]]がある地域ではTXN系列に代わって独立UHF局が中継することが増えていった<ref group="†">但し、[[京都放送|KBS京都]]や[[サンテレビジョン|サンテレビ]]のように[[KEIBAワンダーランド|競馬中継]]を優先する地域では放送されないことが多かった。TXN系列局がない地域では、従来からいずれかの既存の民間放送局が中継していた。</ref>。GI決勝戦では、一時期[[古舘伊知郎]]が実況を担当していたこともある<ref group="†">古舘は一時期KEIRINイメージキャラクターを務めていたことがあり、[[1997年]]の[[オールスター競輪]]から[[2000年]]の[[日本選手権競輪]]まで殆どのGI決勝戦の実況も担当した。但し、[[1999年]]の[[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭]]では[[土居壮]]が担当したため実況していない</ref>。 [[2006年]]から[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が地上波テレビでの生中継を始め、同年の「[[読売新聞社杯全日本選抜競輪]]」から開催地の[[日本テレビ系列]]が制作協力して全国ネットで生中継している<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20061117-OHT1T00030.htm 日テレ系が5日競輪史上初全国生中継] スポーツ報知 2006年11月17日</ref>。また、「KEIRINグランプリ」も[[2008年]]以降は日本テレビ系列で放送されている。加えて、[[テレビ朝日]]も[[2009年]]~[[2011年]]の「[[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭]]」を5局ネット<ref>2011年のみ4局ネット</ref>で生中継したが、[[2012年]]以降は放送されていない<ref group="†">但しこれらは、[[特別番組]]として『[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]への道』や『自転車レース!熱き夢への挑戦』などといったタイトルで放送されており、レース中継はその特別番組に内包される形で放送された。現在の日本テレビ系列は『[[坂上忍の勝たせてあげたいTV]]』のタイトルに統一している。また、近年ではテレビ東京系列が放映する場合でも同様の傾向が見られる。</ref>。2011年頃を境に、前述のビッグレースにおける独立UHF局の地上波中継は一気に減少した<ref> [http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/report/graderace/zennihon/H22/winner_data/tv.html テレビ放送予定] - [[第26回読売新聞社杯全日本選抜競輪]] 2010年</ref><ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/report/graderace/zennihon/H23/winner_data/tv.html テレビ放送予定] - [[第27回読売新聞社杯全日本選抜競輪]] 2011年</ref>。 [[2016年]]以降は、独立局の地上波中継は一部放送局が記念競輪をローカル放送する程度になっている。全国ネットとしては日本テレビ系列かテレビ東京系列の特別競輪決勝戦を除くと殆ど中継されないようになった。 現在地上波中継される大会は、以下の通りとなっている。 *日本テレビ系列 **[[読売新聞社杯全日本選抜競輪]]・[[日本選手権競輪]]<ref group="†">[[2017年]]・[[2018年]]は[[ワールドレディスチャンピオンシップ|ワールドレディスチャンピオンシップ サロンパスカップ]]を優先した為、テレビ東京系列で放送。</ref>・[[高松宮記念杯競輪]]・[[KEIRINグランプリ]] *テレビ東京系列 **[[オールスター競輪]]<ref group="†">[[2014年]]から[[2020年]]は、[[BS日本|BS日テレ]]で放送した2016年を除き日本テレビ系列で放送。[[2022年]]は、BSテレ東のみで放送。</ref>・[[寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント]]・[[朝日新聞社杯競輪祭]] 上記のほか、以下のテレビ局では競輪を紹介する番組をレギュラー放送していた。 * [[サンテレビジョン|サンテレビ]]:「[[まいど!火曜日はKEIRIN]]」(2005年4月 - 2010年3月) ** 毎週火曜日放送。[[岸和田競輪場|岸和田競輪]]のレース中継や、競輪全般の話題が主な内容。 * [[テレビ神奈川]]:「[[めざせ!競輪キング]]」(2009年3月終了) ** タイトルの変遷はあるが、1978年4月から毎週土曜に競輪番組を放送していた。 * [[テレビ埼玉]]:「[[ももチャリでGO!]]」(2008年4月 - 2009年3月) ** テレビ埼玉での放送は終了したが、番組自体は [https://ameblo.jp/momochari/ 日本ちゃり党] として残っているといえる。 ===== BSデジタル放送・CS放送 ===== CS放送で初めて中継が行われたのは、[[1992年]]の[[高松宮記念杯競輪|高松宮杯競輪]]で、地元[[びわ湖放送]]の中継映像を用いて[[スポーツ・アイ ESPN|スポーツ・アイ]]で放送された。また、[[1993年]]の[[和歌山競輪場|和歌山競輪]]開設43周年記念から[[開設記念競輪|開設記念]](GIII)の中継も開始された。 「KEIRINグランプリ(GP)」は、[[1997年]]から[[NHK BS]]でも放送している([[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK-BShi]]も[[2006年]]まで放送)。これは収益金の一部が[[NHK厚生文化事業団]]に寄贈され、また優勝者に対してNHKから寄贈トロフィーが贈られるためである。 上記のほか、2008年の「[[ふるさとダービー]]弥彦」は、[[日本BS放送|BS11デジタル]]でも放送した。 2013年4月28日からは[[BS日本|BS日テレ]]にて「[[KEIRIN LIVE〜夢見マクリ!S級新聞社]]」(2015年度のみ「S級探偵団」として放送)のタイトルで特別競輪の準決勝・決勝戦を生中継したが、2016年4月9日から「パンサーの競輪、はじめました。」の放送を開始したため、同年3月13日をもって放送を終了した。 2016年度以降はGI決勝戦<ref group="†">原則GIIのウィナーズカップ・サマーナイトフェスティバル・共同通信社杯の決勝戦とオッズパーク杯ガールズグランプリを放送しているが、2016年のみ[[第59回オールスター競輪|オールスター競輪]]決勝戦も生中継した。</ref>を地上波で中継しない場合のBS日テレかテレビ東京系列で中継する場合の[[BSテレビ東京|BSテレ東]]<ref group="†">2017年の[[第59回朝日新聞社杯競輪祭]]から放送している。但し、2018年の[[第72回日本選手権競輪]]のみ放送しなかった。</ref>が同時放送する時のみ中継しているが、同年度からは2021年までの[[ヤンググランプリ]]はBS中継が取りやめとなっていた。 2019年度以降はBS日テレの中継が大幅に減少している。 *同年度は[[サマーナイトフェスティバル]]と[[オッズパーク杯ガールズグランプリ]]以外はプロ野球中継<ref group="†">2020年の[[ウィナーズカップ]]は当年の[[日本プロ野球|プロ野球]]が[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]]の影響で開幕延期となりプロ野球中継もなくなったが、代替で中継されることも無かった。</ref>を優先した関係の影響で放送されずに、2020年以降は2022年以降のヤンググランプリとオッズパーク杯ガールズグランプリ<ref group="†">[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]でも、関東ローカルで放送されている。</ref>と2023年に新設されたGI[[パールカップ]]の決勝戦しか放送されていない(2018年度までは、BS日テレが放送出来ない場合でも他局で放送される場合があった)。 2022年3月21日より放送を開始した[[BSよしもと]]では、毎週月曜から金曜日の22:00 - 23:00で「[[競輪LIVE!チャリロトよしもと]]」を放送している。放送当日に開催されているいずれかの[[ミッドナイト競輪]]の中継と、番組スポンサーである[[チャリロト]]でそのレースの予想と投票を行い、曜日ごとの出演者により曜日対抗で回収率の高さを競っている。なお、番組はBSよしもとの公式ホームページにおいて同時動画配信を行っており、インターネットに接続できる環境にあればパソコン、スマートフォンでも視聴が可能である。また、ミッドナイト競輪は放送終了後の23時台でも行われるため、併せて22:45 - 23:45ごろの間で[[YouTube]]による[[ストリーミング|ストリーミング配信]]を行っており、22:59の放送終了後はYouTubeの番組公式チャンネルで視聴することになっている(見逃し視聴も可能<ref group="†">放送によっては、見逃し視聴を行わない場合もある。</ref>)。 CSである[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]の「[[SPEEDチャンネル]]」では、6チャンネル体制で一般戦も含め各地の競輪を完全中継している。また、かつて[[阪急西宮スタジアム#西宮競輪場|西宮競輪]]や[[甲子園競輪場|甲子園競輪]]では、無料放送である[[スタイルキャスト|ベターライフチャンネル]]にて完全中継を行っていた。 かつて日本で展開していた[[ディレクTV]]では「[[南関ケイリンチャンネル]]」「[[関東ケイリンチャンネル]]」などが存在した。 ===== 競輪中継番組の主な出演者 ===== <!--五十音順--> ;元選手(主に解説者として出演) <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[阿部道]] * [[荒木実]] * [[有坂直樹]] * [[石川浩史]] * [[市田佳寿浩]] * [[伊藤勝也]] * [[伊藤公人]] * [[伊藤豊明]] * [[井上薫 (42期)]] * [[井上茂徳]] * [[宇佐見健二]] * [[内林久徳]] * [[岡本新吾]] * [[緒方浩一]] * [[恩田繁雄]] * [[加藤慎平]] * [[菊池仁志]] * [[北村和久]] * [[工藤元司郎]] * [[久保千代志]] * [[小池和博]] * [[後閑信一]] * [[小林正治]] * [[木庭賢也]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[坂本勉]] * [[佐々木昭彦]] * [[鈴木誠 (競輪選手)|鈴木誠]] * [[高谷俊英]] * [[野原哲也]] * [[西谷康彦]] * [[藤谷昇]] * [[藤巻昇]] * [[中野浩一]] * [[中野龍浩]] * [[野本順三]] * [[馬場圭一]] * [[林雄一 (競輪選手)|林雄一]] * [[平尾昌也]] * [[平田崇昭]] * [[本田晴美]] * [[松村信定]] * [[村上義弘 (競輪選手)|村上義弘]] * [[山口健治]] * [[山口幸二]] * [[山田裕仁]] * [[吉井秀仁]] * [[吉岡稔真]] </div>{{clear|left}} * 過去には[[白鳥伸雄]]、[[鈴木保巳]]、[[早川清一 (競輪選手)|早川清一]]、[[福島正幸]]、[[浜崎幸信]]、[[尾池孝介]]、[[永倉通夫]]、[[小門洋一]]、[[松本州平]]など。 * また、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系の[[KEIRINグランプリ]]中継では、当時現役選手の[[加藤慎平]]、現役選手の[[佐藤慎太郎]]が解説を行ったことがある。 ;タレント等(番組の司会やゲストとして出演することもある) * [[ブラックマヨネーズ]] - [[読売新聞社杯全日本選抜競輪]]決勝戦・[[KEIRINグランプリ]]中継(「ブラマヨ自転車部」のタイトルで放送、2011年8月7日‐2014年2月11日)。 * [[坂上忍]] - 同上(「坂上忍の勝たせてあげたいTV」のタイトルで放送、2014年6月15日 - )。 ** [[武井壮]](「坂上忍の勝たせてあげたいTV」レポーター。[[武井大介]]のいとこ。2014年6月15日 -) ** [[菊地亜美]] (「坂上忍の勝たせてあげたいTV」レポーター 2014年6月15日 -2017年) ** [[桂三度]](「坂上忍の勝たせてあげたいTV」、 自転車の神様 2014年6月15日‐2017年) * [[パンサー (お笑いトリオ)|パンサー]](パンサーの「競輪、はじめました。」、2016年4月-2018年3月) ** [[岡井千聖]](パンサーの「競輪、はじめました。」seasonII途中2017年7月から2019年3月まで出演) * [[伊藤克信]](弥彦競輪解説者) * [[競輪小僧]](大垣競輪解説者) * [[武豊]] - KEIRINグランプリ中継で毎年ゲストとして招かれている。 * 過去には[[嵐山光三郎]]、[[三升家小勝 (8代目)|三升家勝二]]、[[芹沢博文]]、[[寺内大吉]]、[[中村敦夫]]、[[橋本忍]]、[[南方英二]]、[[鎗田直美]]、[[山田美保子]]、[[友川かずき]]、[[馳星周]]など。 ; 新聞記者などマスコミ関係者 * [[武田圭二]](コンドル出版社専務取締役。小倉競輪中継解説者) * [[楠瀬淳二]](競輪実況フリーアナウンサー。高知ミッドナイト競輪中継でのみ、実況に加え解説も行っていた) * [[中林凌治]](スポーツニッポン記者。北日本、関東、南関東地区で開催される、グレードレース開催中継の概ね初日に出演) * [[町田洋一]](前橋競輪マスコミ研究会メンバー。前橋競輪中継解説者) * [[村田裕]]([[神奈川新聞]]記者。[[めざせ!競輪キング|レースレポート]]([[テレビ神奈川]])解説者) * 過去には[[井上和巳]]、[[児島一彌]]など。 ; リポーター・インタビュアー・司会 <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[赤澤佳美]] * [[池田牧人]] * [[江藤みき]] * [[大津尚之]] * [[木村雅子]] * [[工藤わこ]] * [[小林亜里沙 (フリーアナウンサー)|小林亜里沙]] * [[相良舞]] * [[佐藤さやか (競輪アナウンサー)|佐藤さやか]] * [[さとうゆみ]] * [[鈴木桜花]] * [[武田あかり]] * [[谷友梨子]] * [[津田三七子]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[寺門夏織]] * [[中田まみ]] * [[二宮歩美]] * [[橋本悠督]] * [[畑野直子]] * [[服部佳代子]] * [[藤元リサ]] * [[星野めぐみ]] * [[簑島綾乃]] * [[宮田めぐみ]] * [[宮野亜恵美]] * [[村上由美]] * [[森松さやか]] * [[山口みのり]] * [[山本浩司 (競輪アナウンサー)|山本浩司]] </div>{{clear|left}} * 過去には[[岡村美鈴]]、[[したらじゅん子]]、[[高橋しげみ]]など。 ==== ラジオ ==== 初めてのラジオ中継は、[[1952年]]に[[日本放送協会|NHK]][[NHK大阪放送局|大阪放送局]]が行った、[[甲子園競輪場]]からの実況中継。当時、審判塔の上に放送席を設けて中継を行った。これが好評で、その後は全国各地で中継が行われるようになった<ref name="KKR20-192">[[#KKR20|近畿競輪二十年史]]、192頁。</ref>。 ラジオでは主に「KEIRINグランプリ」やGIの決勝戦を中心に放送しており、一部は全国ネットしている。番組は[[アール・エフ・ラジオ日本|RFラジオ日本]]が制作することが多いが、2009年までは[[TBSラジオ]]も制作していた(番組タイトルは「[[エキサイトKEIRIN]]」)。これはTBSラジオで競輪提供の番組[[中野浩一のフリートーク]]を放送しているためと考えられる。 近年は中継されない事が殆どになっていて、2019年は[[KEIRINグランプリ2019|KEIRINグランプリ2019シリーズ]]以外は放送されず、2020年と2021年は放送自体がなかったが、2022年は[[KEIRINグランプリ2022|KEIRINグランプリ2022シリーズ]]では2日目の[[オッズパーク杯ガールズグランプリ|ガールズグランプリ]]と最終日の[[KEIRINグランプリ]]で、[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]第2放送にて3年ぶりに中継が行われた。 地方局では、[[和歌山県]]を[[県域放送|放送地域]]とする[[和歌山放送]]が、例年1月上旬に開催される[[和歌山競輪場|和歌山競輪]][[開設記念競輪|開設記念]](GIII)「和歌山グランプリ」3日目・最終日に中継を実施している。2023年はこれに加え、8月に同場で行われたGIII「大阪・関西万博協賛競輪」3日目準決勝のうち第11レース・第12レースと最終日決勝戦を中継した<ref>{{Cite tweet |user=sayaka_keirin |author=岩原紗也香 |authorlink= |number=1689916662412369921 |title=~ お知らせ📢 ~ |date=2023-08-11 |accessdate=2023-08-17 }}</ref>([[radiko]]プレミアム会員であれば、全国で放送日から一週間後まで聴取可能)。 ===== 実況 ===== ====== RFラジオ日本 ====== * [[内藤博之]] * [[中川建治]] * [[細渕武揚]] 過去には [[佐藤一司]]、 [[樋口忠正]](現在はフリー)など ====== TBSラジオ ====== * [[清原正博]] * [[清水大輔 (アナウンサー)|清水大輔]] === ネット配信 === 競輪主催者が直接手掛けるネット配信サービスとしては、[[2010年]]に開設された「[[KEIRIN.JPストリーム]]」がある。当初は単独サービスとして開設されたが、2017年4月に競輪公式サイト(KEIRIN.JP)がリニューアルされたのに伴い、公式サイトのサービスの一部として統合された。また[[ニコニコ生放送]]とYouTube Liveにおいては、競輪場単位で独自の公式チャンネルを開設し、レース映像の生配信を行っているケースが多い。 [[Kドリームス]]では、[[2018年]]の[[第72回日本選手権競輪]]より[[中野浩一]]・[[後閑信一]]の2人をパーソナリティとした独自番組として「本気の競輪TV」を制作しており、主にGP・G1レースの際にYouTube Live<ref group="†">[[2020年]]の[[第35回読売新聞社杯全日本選抜競輪]]までは、ニコニコ生放送でも放送されていた。</ref>にて生配信される。 [[2019年]]4月より、[[サイバーエージェント]]が子会社の[[WinTicket]]を通じて車券の[[電話投票|インターネット投票]]に参入したことに伴い、[[AbemaTV]]内に「[[ABEMA 競輪・オートレースチャンネル|競輪チャンネル]]」が開設された。原則としてWinTicketの取り扱いのある競輪場の競走を生配信するほか、[[ミッドナイト競輪]]については独自の中継番組として「WinTicket ミッドナイト競輪」を配信している。同年の[[KEIRINグランプリ2019]]以降は、グレードレースが行われる日には特番として独自で放送する事もある。実況映像については、原則として各競輪場が制作しているものをレース部分のみ使用している。 [[2020年]]6月よりサービスを開始した[[TIPSTAR]]では、各場のレース部分のみの生配信を視聴できるほか、以前は、各日数場においてはアプリ内のみで視聴できる予想番組を制作していた。 [[2021年]][[12月28日]]に行われた第10回[[オッズパーク杯ガールズグランプリ]]では、[[定額制動画配信サービス]]のスポーツ・チャンネル「[[DAZN]]」でも初めて中継・配信が行われた(DAZNでの競輪中継自体が今回初となる)<ref>{{Cite web|和書|url=http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=9590 |title=ガールズグランプリ2021 DAZNでの放送について |publisher=[[JKA|keirin.jp]] |date=2021-12-03 |accessdate=2021-12-03 }}</ref>。 === 競輪の歴代イメージキャラクター === 主にテレビCMに出演。他に、現役競輪選手をその年度のテレビCMに起用するなどの例<ref group="†">過去には、地方のローカルCMで現役競輪選手を出演させたり([[松山競輪場|松山競輪]]など)や、時の[[日本競輪選手養成所|競輪学校]]の生徒を起用して寺の修行僧に見立てて廊下の拭き掃除からレースに結び付けたCMなどもあった。</ref>もあった。2019年以降は起用していない。 [[2014年の競輪|2014年度]]の中村と[[2015年の競輪|2015年度]]の柳は、当年度のGI・GIIの表彰式プレゼンターをほぼ全て務めた([[寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|寬仁親王牌]]のみ「ローズカップ」を担当した)。 * [[中村あずさ]](1993 - 1996) * [[水野真紀]] * [[古舘伊知郎]](1997 - 2000) * [[小池栄子]]・[[キャイ〜ン]](2004 - 2005) * [[永瀬正敏]]・[[田中圭]](2010) * [[オダギリジョー]]・[[長澤まさみ]]・[[大森南朋]](2011 - 2012) * [[長澤まさみ]](2013) ** 2013年度は[[白鵬翔]]・[[野村忠宏]]・[[高橋尚子]]・[[太田雄貴]]らがスポット出演 * [[中村アン]](2014) * [[柳ゆり菜]](2015)<ref>{{Twitter status|Yngyrn0419|708945668115533824|柳ゆり菜 ngyrn0419のツイート 1:19 AM - 13 Mar 2016}}</ref> * [[ピース (お笑いコンビ)|ピース]]・[[川栄李奈]](2016)<ref>[http://live-keirin.jp/ LIVE!LIVE!LIVE! いざ競輪場へ。]</ref> * [[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]・[[内田理央]](2017)<ref>{{Cite press release |和書 |title= オードリーの若林さん&春日さん、と内田理央さんが共演 内田理央さん扮する女神が若林さんにパワーを授ける!! 2017年度 KEIRIN新CMは4月1日(土)よりOA! |publisher= 公益財団法人JKA |date= 2017-03-28 |url= https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000015194.html |accessdate=2017-03-29 }}</ref> * オードリー(2018) === キャンペーンガール === 競輪場によっては、広報活動のための[[キャンペーンガール]]が存在するところもある。主な活動としては、重賞競走などでラウンドガールや、優勝選手への花束贈呈などの表彰式の演出を行ったり、イベントなどで競輪ファンと交流をしたりすることなどがある。中には自転車競技の魅力を伝えるために、彼女らによる競輪や自転車競技の模擬レースが行われることもある。 * 競輪の主なキャンペーンガール ** [[スピーチーズ]]([[SPEEDチャンネル]]) ** すぴRitz([[弥彦競輪場]]) - 男女問わず選手育成を目標とした「CLUB SPIRITS」へ移行 ** LOVE9([[松戸競輪場]]) ** サンサンガールズ([[小田原競輪場]]) ** chao([[静岡競輪場]]) ** [[中野浩一のK-ファン#Kギャル|Kギャル]]([[広島競輪場]]) ** スペースエンジェルズ([[小倉競輪場]] 旧・SUN FLOWERS<ref>[https://web.archive.org/web/20080819145310/http://www.yahikokeirin.com/info/20080614.html SPIRITS of JAPAN 結成について 2008年6月14日] - 弥彦競輪場</ref>)<ref>[http://kafs.jp/index.php/2015/11/13/member/ スペースエンジェルズ新メンバー募集!] - KAFS 小倉アスリートファンサイト、2015年11月13日</ref> == 競輪をテーマにした作品 == === 漫画・アニメ === * [[並木橋通りアオバ自転車店|アオバ自転車店]]([[宮尾岳]]) - 番外編「ケイリンチャレンジ編」が該当 * [[Odds -オッズ-]]([[石渡治]]) ** Odds -オッズ- ** Odds plus 1 ** Odds GP! ** Odds "VERSUS!" * [[風の祭 (漫画)|風の祭]]([[鎌田洋次]]) * [[かましたらんかい!!]]([[幸野武]]) * [[ギャンブルレーサー]]([[田中誠 (漫画家)|田中誠]]) ** ギャンブルレーサー ** 二輪乃書ギャンブルレーサー ** ギャンブルレーサー第二の人生 セカンドレーサー * [[銀輪ジャガー]]、[[銀輪魂]](原作・[[武論尊|史村翔]]、画・[[左近士諒]]) * [[九人の車輪]]([[やまさき拓味]]) - [[ビジネスジャンプ]]で連載 * [[競輪王ゼロ]]([[山本康人]]) - [[週刊漫画ゴラク]]で連載 * [[ケイリン野郎]]([[くさか里樹]]) - 女性漫画誌[[Judy]]で連載 ** ケイリン野郎 周と和美のラブストーリー ** ケイリン野郎GP * [[打鐘|打鐘(ジャン)]]([[山本康人]]) * [[打鐘からはじまる|打鐘(ジャン)からはじまる]]([[久寿川なるお]]) - 主人公は女子選手(作中では、同一レースで男女が混合して出走) * [[閃光ライド]]([[スズキイッセイ]]) - [[ガールズケイリン]]が題材 * [[にっぽん自転車王]]([[山松ゆうきち]]) * [[抜け抜けアッちゃん]]([[幸野武史]]) * [[ひとりぼっちのリン]](原作・[[雁屋哲|阿月田伸也]]、画・[[池上遼一]]) * [[本命は俺じゃない]](原作・[[北鏡太]]、画・[[とんぼはうす]]) * [[もがきの政]]([[ほんまりう]]) * [[もがけ!100万馬力 怪物・滝澤正光]](画・[[近藤良秋]]、作・[[青柳俊]]) * [[やけに重たい輪行袋]]([[鎌田洋次]]) * [[リンカイ!]] - 架空の[[ガールズケイリン|女子競輪]]「RINKAI LEAGUE」が題材 * [[輪道 -RINDO-]](画・[[井ノ内貴之]]、原案・[[乗峯栄一]]) === 小説 === * グランプリ([[高千穂遙]]) * ケイリン探偵ゆらち 女流漫画家殺人事件(高千穂遙) === ドラマ === * [[祭ばやしが聞こえる]](主演:[[萩原健一]]) - 1977年から1978年まで[[日本テレビ]]系列で放映されたドラマ。主人公はケガからの復帰を目指す競輪選手。 * [[ご存知!サウナの玉三郎!!]]シリーズ(主演:[[小林稔侍]]) - 全2作。1996年から1997年にかけて[[月曜ドラマスペシャル]]枠で放映。主人公は全国を転戦する[[サウナ風呂|サウナ]]大好きの競輪選手。ただ、内容は競輪選手が遠征先で起こった殺人事件の犯人を推理・解決する、という[[サスペンス]]であった。 * [[いねむり先生]](主演:[[藤原竜也]]) - 2013年に[[テレビ朝日系]]で放送された単発ドラマ。 * [[ガチ★星]](主演:[[安部賢一]]) - 2016年に[[テレビ西日本]]で放送された連続ローカルドラマ。競輪発祥の地、小倉が舞台。2018年にドラマを再構成した映画が公開された。 === 映画 === * [[シミキンの無敵競輪王]] - [[1950年]]、[[東宝]]。主演:[[清水金一]] * [[女競輪王]] - [[1956年]]、[[新東宝]]。主演:[[前田通子]] * [[競輪上人随聞記]] - [[1963年]]、[[日活]]。主演:[[小沢昭一]] * [[青春PARTII]] - [[1979年]]、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]。主演:[[南条弘二]] * [[永遠の1/2 (小説)|永遠の1/2]] - [[1987年]]、[[ディレクターズ・カンパニー]](配給:[[東宝]])。主演:[[時任三郎]] == 全国競輪施行者協議会 == 全国の競輪施行者(43団体)を会員とする団体<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koeikyogi.jp/aboutus/index.html|title=協議会の概要|accessdate=2023-06-06|publisher=全国公営競技施行者連絡協議会}}</ref>。略称・全輪協。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=†|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == {{Refbegin|2}} * {{Cite book|和書 |author= 中野浩一|authorlink=中野浩一 |year = 1999 |title = 中野浩一の競輪へ行こう。 |publisher = [[ゴマブックス]] |isbn = 978-4-907710-36-1 |ref= 中野1999 }} * {{Cite book|和書 |author= 中野浩一|authorlink=中野浩一 |year = 2004 |title = 競輪選手になるには |series = なるにはBOOKS 122 |publisher = [[ぺりかん社]] |isbn = 978-4-8315-1078-5 |ref= 中野2004 }} * {{Cite book|和書 |author = 野呂修次郎 |year = 2008 |title = よくわかる競輪のすべて 推理・スピード・スリル・快感 初級中級向き 新編 |series = サンケイブックス |publisher = [[三恵書房]] |isbn = 978-4-7829-0373-5 |ref= 野呂2008 }} ** なお、本書35頁では、「日本競輪選手養成所」は改称前の「日本競輪学校」として記載されている。 * {{Cite journal|和書 |date = 2011-10-01 |volume=99 |issue=39 |title = 競馬・ボート・競輪・オートレース 公営ギャンブルの窮地 |journal = 週刊ダイヤモンド 2011年10月1日号 |pages = 116-123頁 |naid=40018994659 |ref = 公営ギャンブルの窮地 }} * {{Cite book|和書 |year = 1996 |title = 競輪マクリ読本 |series = [[別冊宝島]] 270 |publisher = [[宝島社]] |isbn = 978-4-7966-9270-0 |ref = 競輪マクリ読本 }} * {{Cite book|和書|title =競輪十年史|editor=日本自転車振興会競輪十年史編纂委員会 |year = 1960|publisher =日本自転車振興会 |ncid=BN05765543 }} * {{Cite book|和書|title =競輪二十年史|editor=日本自転車振興会 |year = 1971|publisher =日本自転車振興会 |ncid=BN04123201 |ref = KR20 }} * {{Cite book|和書|title =競輪三十年史|editor=日本自転車振興会 |year = 1978|publisher =日本自転車振興会 |ncid=BN0283928X |ref = KR30 }} * {{Cite book|和書|title =競輪四十年史|editor=日本自転車振興会 |year = 1990|publisher =日本自転車振興会 |ncid=BN05587875 }} * {{Cite book|和書|title =競輪五十年史|editor=日本自転車振興会 |year = 1999|publisher =日本自転車振興会 |ncid=BA42999177 }} * {{Cite book|和書|title =競輪60年史|editor= JKA |year =2009 |publisher = JKA |ncid=BA89632030 }} * {{Cite book|和書|title =近畿競輪二十年史|editor=近畿競輪運営協議会 |year =1968 |publisher =近畿競輪運営協議会 |ncid= |ref = KKR20 }} * {{Cite book|和書|author=清水一行|authorlink=清水一行|title =新人王|publisher =[[集英社]]|year = 1999 |isbn = 4087470040 }} {{Refend}} == 関連項目 == {{columns-list|2| * [[ガールズケイリン]] * [[競輪の競走格付け]] * [[競輪の競走一覧]] * [[競輪選手一覧]] * [[ガールズケイリン選手一覧]] * [[トラックレース]](自転車競技) * [[日本競輪選手会]] * [[JKA]] * [[SPEEDチャンネル]] * [[ケイリンライブ!282]] * [[岸和田BBスタジオ]] * [[四国競輪インターネットライブ]] * [[競輪場]] * [[競輪場外車券売場]] * [[競輪プログラム改革構想]] * [[自転車競技法]] * [[寺内大吉]] * [[色川武大]] * [[世界自転車選手権男子ケイリン歴代優勝者]] * [[車両情報システム]] }} == 外部リンク == {{columns-list|2| * [http://keirin.jp/pc/top <!--旧 http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/guest/--> 競輪オフィシャルサイト KEIRIN.JP] ** [http://keirin.jp/sp/top スマートフォン] [http://keirin.jp/mb/top 携帯] * [http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/campaign/navi/k_navi.html KEIRINナビ]{{en icon}}{{fr icon}}{{zh icon}}{{ko icon}} * [https://www.keirin-autorace.or.jp/ 公益財団法人JKA] * {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}} }} {{Sports-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいりん}} [[Category:競輪|*]] [[Category:日本の自転車競技]] [[Category:公営競技]] [[Category:経済産業省]] [[Category:1948年の日本のスポーツ]]
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臨床心理学
臨床心理学(りんしょうしんりがく、英: clinical psychology)とは、精神障害や心身症、心理的な問題や不適応行動などの援助、回復、予防、その研究を目的とする心理学の一分野である。心理学には、全般的な人間心理に焦点をあてる基礎心理学と、特定の人間心理に焦点をあてる応用心理学があり、この後者に分類される。臨床の文字通り、医療の対象となる可能性のある人々への心理学的援助を目的とした一学問分野である。 また、一方でそうした問題。 心理検査、心理面接、地域援助、調査研究の4種領域に大別される。取り扱う題材は精神医学、精神病理学との関わりが深い。研究者を臨床心理学者と呼び、その知識の実践者を心理臨床家、臨床家と呼ぶ。臨床心理学を学問的基盤とする心理職専門家資格に臨床心理士がある。 精神障害や心理的問題や行動上の問題の全てに、心理学的な援助・予防が直ちに効果をもたらすわけではない。あるいは精神医学的にさえも、原因解明や治療法が確立されていないものもある。しかしながら、各問題の臨床像や、それに伴う抑うつなどの情緒的な症状や、その経過は、心理療法を始めとした心理学的援助や、考察の対象となる。 心理学を学ぶ主な場に、大学や大学院がある。日本においては、それら心理学部(学科)や心理学研究科(専攻)は、主に文系に位置づけられていることが多い。しかし心理学は、実験心理学、認知心理学、生理心理学など自然科学的色彩の濃い分野も多く、また研究手法にも統計学や実験を用いるなど応用数学的・理系的処理が要求されるため、文系領域と理系領域など複数の領域にまたがっている学問という意味合いの「学際的な学問」のひとつに数えられることがある。 特に臨床心理学は、上述のように精神科医療との関連性から、取り扱う題材として精神医学、精神病理学、心身医学、精神薬理学などとの関わりが深いため学際的傾向が強く、学部や研究科が開設されているのは、独立した学部や研究科以外では文系の教育学部から理系の医学部まで幅広い(事実、日本初の臨床心理学科は、1991年に川崎医療福祉大学に設置された)。また卒業・修了時の学位として、学際的な学問を修めたことを意味する「学術」を専攻分野に冠した博士(学術)、修士(学術)、学士(学術)が授与されることもある。 臨床心理学は、人々の精神的健康に密接に関わる学問であるため、臨床現場において実践する心理臨床家や、臨床家には、大学院修士課程修了レベルの高度な専門的教育が必要と指摘されている。 特に、臨床心理学を基盤とする心理職の専門資格である臨床心理士は、臨床心理学の修士号の取得を受験資格としている。すなわち、文部科学省認可の日本臨床心理士資格認定協会が認証評価する専門職大学院などの臨床心理士指定大学院を修了することと定めている。 中でも国が高度専門職業人の養成のため創設した専門職大学院の中には、臨床心理専門職大学院が開設されているなど、大学院教育を重視した高度な養成体制が図られている。 療法および教育においては、主に力動精神医学、人間性心理学、行動理論、システム論的家族療法の4つの学派が主流である。 認知行動療法(CBT)とは、認知療法と論理療法の組み合わせを元に開発され、認知心理学と行動主義心理学の両要素を含んでいる。CBTは、どのように考えるか(認知)、どのように感じるか(感情)、どのように振る舞うか(行動)という3点には関連があり、それぞれが相互作用するという理論が元になっている。
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臨床心理学とは、精神障害や心身症、心理的な問題や不適応行動などの援助、回復、予防、その研究を目的とする心理学の一分野である。心理学には、全般的な人間心理に焦点をあてる基礎心理学と、特定の人間心理に焦点をあてる応用心理学があり、この後者に分類される。臨床の文字通り、医療の対象となる可能性のある人々への心理学的援助を目的とした一学問分野である。 また、一方でそうした問題。 心理検査、心理面接、地域援助、調査研究の4種領域に大別される。取り扱う題材は精神医学、精神病理学との関わりが深い。研究者を臨床心理学者と呼び、その知識の実践者を心理臨床家、臨床家と呼ぶ。臨床心理学を学問的基盤とする心理職専門家資格に臨床心理士がある。
{{心理学のサイドバー}} '''臨床心理学'''(りんしょうしんりがく、{{lang-en-short|clinical psychology}})とは、[[精神障害]]や[[心身症]]、心理的な問題や不適応行動などの援助、回復、予防、その研究を目的とする[[心理学]]の一分野である<ref name="yd10a">{{Cite web|和書|author=Yahoo!辞書|date=2010|url=http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E8%87%A8%E5%BA%8A%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6&stype=0&dtype=0&dname=0ss|title=大辞林 - 臨床心理学|accessdate=2010-12-01}}</ref>。心理学には、全般的な人間心理に焦点をあてる[[基礎心理学]]と、特定の人間心理に焦点をあてる[[応用心理学]]があり、この後者に分類される<ref name="yd10a"/>。[[臨床]]の文字通り、医療の対象となる可能性のある人々への心理学的援助を目的とした一学問分野である<ref name="ut10"/>。 また、一方でそうした問題<ref name="ut10"/>。 [[心理検査]]、心理面接、地域援助、調査研究の4種領域に大別される。取り扱う題材は[[精神医学]]、[[精神病理学]]との関わりが深い。研究者を'''臨床心理学者'''と呼び、その知識の実践者を'''心理臨床家'''、'''臨床家'''と呼ぶ。臨床心理学を学問的基盤とする[[心理職]]専門家資格に'''[[臨床心理士]]'''がある<ref name="ut10">{{Cite web|和書|author=東京大学大学院|date=2010|url=https://www.p.u-tokyo.ac.jp/gs/c6|title=臨床心理学 概要 - 臨床心理学について|accessdate=2010-12-15}}</ref>。 == 対象となる心理的問題や行動 == [[精神障害]]や心理的問題や行動上の問題の全てに、心理学的な援助・予防が直ちに効果をもたらすわけではない。あるいは[[精神医学]]的にさえも、原因解明や治療法が確立されていないものもある。しかしながら、各問題の臨床像や、それに伴う[[抑うつ]]などの情緒的な症状や、その経過は、[[心理療法]]を始めとした心理学的援助や、考察の対象となる<ref name="ut10"/><ref name="tu04"/>。 ==日本の教育機関において== === 文系・理系における位置づけと隣接領域との関係 === 心理学を学ぶ主な場に、大学や大学院がある。日本においては、それら[[心理学部]](学科)や[[心理学研究科]](専攻)は、主に[[文系]]に位置づけられていることが多い<ref name="ku10">{{Cite web|和書|author=京都大学文学部|date=2010|url=http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/departments/div_of_behavioral_studies/psychology/|title=行動文化学 心理学専修|accessdate=2010-12-16}}</ref>。しかし心理学は、[[実験心理学]]、[[認知心理学]]、[[生理心理学]]など[[自然科学]]的色彩の濃い分野も多く、また研究手法にも[[統計学]]や[[実験]]を用いるなど[[応用数学]]的・[[理系]]的処理が要求されるため、文系領域と理系領域など複数の領域にまたがっている学問という意味合いの「[[学際|学際的]]な学問」のひとつに数えられることがある<ref name="ku10"/>。 特に臨床心理学は、上述のように[[精神科|精神科医療]]との関連性から、取り扱う題材として[[精神医学]]、[[精神病理学]]、[[心身医学]]、[[精神薬理学]]などとの関わりが深いため学際的傾向が強く<ref name="tu04">{{Cite web|和書|author=鳥取大学医学部|date=2004|url=http://www.med.tottori-u.ac.jp/p/igaku/daigakuin/rinsyoshinri/|title=大学院医学系研究科 臨床心理学専攻|accessdate=2010-12-12}}</ref>、学部や研究科が開設されているのは、独立した学部や研究科以外では文系の[[教育学部]]から理系の[[医学部]]まで幅広い<ref name="tu04"/>(事実、[[日本]]初の臨床心理学科は、1991年に[[川崎医療福祉大学]]に設置された)。また卒業・修了時の[[学位]]として、学際的な学問を修めたことを意味する「学術」を専攻分野に冠した[[博士(学術)]]、[[修士(学術)]]、[[学士(学術)]]が授与されることもある<ref name="ku04">{{Cite web|和書|author=九州大学|date=2004|url=http://www.kyushu-u.ac.jp/university/rule/zenbun/2004kisoku086.pdf|title=九州大学学位規則|format=PDF|accessdate=2010-12-01}}</ref><ref name="ou07">{{Cite web|和書|author=大阪大学|date=2007|url=http://www.osaka-u.ac.jp/jp/about/kitei/reiki_honbun/au03500931.html|title=大阪大学学位規則|accessdate=2010-12-01}}</ref>。 === 学部教育と大学院教育の比重 === 臨床心理学は、人々の精神的健康に密接に関わる学問であるため、臨床現場において実践する心理臨床家や、臨床家には、大学院修士課程修了レベルの高度な専門的教育が必要と指摘されている<ref name="su09">{{Cite web|和書|author=上智大学総合人間科学部|date=2009|url=http://www.sophia.ac.jp/static/sogoningen/department/02_psychology.html|title=心理学科 Q&A - Q1. 心理学の専門職を目指したいのですが。|accessdate=2010-12-06}}</ref>。 特に、臨床心理学を基盤とする[[心理士|心理職]]の専門資格である[[臨床心理士]]は、臨床心理学の修士号の取得を受験資格としている<ref name="fjcbcp09">{{Cite web|和書|author=日本臨床心理士資格認定協会|date=2009|url=http://www.fjcbcp.or.jp/nintei_2.html|title=臨床心理士資格認定の実施 - 受験資格基準|accessdate=2010-02-01}}</ref>。すなわち、[[文部科学省]]認可の[[日本臨床心理士資格認定協会]]<ref>[[s:学校教育法#109|学校教育法第109条]]第3項ならびに学校教育法施行令第40条に基づく、臨床心理専門職大学院の認証評価機関</ref>が認証評価する専門職大学院などの[[臨床心理士#臨床心理士指定大学院|臨床心理士指定大学院]]を修了することと定めている<ref name="fjcbcp09"/>。 中でも国が[[高度専門職業人]]の養成のため創設した[[専門職大学院]]の中には、臨床心理専門職大学院が開設されているなど、大学院教育を重視した高度な養成体制が図られている<ref name="mext10">{{Cite web|和書|author=文部科学省|date=2010|url=https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/senmonshoku/08060508.htm|title=専門職大学院一覧|accessdate=2010-12-12}}</ref>。 == 心理査定・心理検査法の大別 == * [[心理検査]] ** [[知能検査]] ** [[性格検査]] ** [[発達検査]] ** [[認知検査]] ** [[適性検査]] == 心理面接・心理療法理論の学派・流派 == {{Seealso|心理療法の一覧}} ===四大学派=== 療法および教育においては、主に力動精神医学、人間性心理学、行動理論、システム論的家族療法の4つの学派が主流である<ref name="plante">{{cite book |last1=Plante |first1=Thomas |authorlink1=Thomas G. Plante |title=Contemporary clinical psychology |year=2005 |publisher=Wiley & Sons |location=New York, NY |isbn=0-471-47276-X}}</ref>。 ==== 力動的心理学系 ==== {{Main|深層心理学}} * [[精神分析学]](力動的心理学) ** [[自我心理学]] *** [[自己心理学]] ** [[対象関係論]] *** [[クライン派]] *** [[英国独立派]](中間派) ** [[パリ・フロイト派]] * [[個人心理学]] * [[分析心理学]] * [[運命分析学]] * [[新フロイト派]](フロイト左派) ** [[対人関係論]] ==== 人間性心理学系 ==== {{Main|人間性心理学}} * [[自己実現理論]] * [[来談者中心療法]](パーソン・センタード・アプローチ) * [[ゲシュタルト心理学]] * [[実存主義的心理学]] ** [[実存分析]] ** [[現存在分析]] * [[交流分析]] ==== 行動理論系 ==== {{Main|行動理論}} [[認知行動療法]](CBT)とは、[[認知療法]]と[[論理療法]]の組み合わせを元に開発され、[[認知心理学]]と[[行動主義心理学]]の両要素を含んでいる。CBTは、どのように考えるか(認知)、どのように感じるか(感情)、どのように振る舞うか(行動)という3点には関連があり、それぞれが相互作用するという理論が元になっている。 * [[行動主義心理学]] ** [[新行動主義心理学]] *** [[行動分析]] *** [[応用行動分析]] ** [[行動療法]] *[[認知心理学]] ** [[認知行動療法]] *** [[認知療法]] *** [[論理療法]] ==== システム論的家族療法系 ==== * [[コミュニティ心理学]] * [[一般システム理論]] ** [[家族療法]] * [[地域実践心理学]] === その他学派 === * [[実存療法]] == 地域援助理論 == * [[コミュニティ心理学]] * [[一般システム理論]] ** [[家族療法]] * [[地域実践心理学]] == 調査研究関連 == {{Main|統計学|社会調査}} == 関連学会 == ;[[日本臨床心理学会]] :1964年設立。臨床心理学関連で国内初の学会。後に大多数が脱退し、脱退者が中心となり下記の日本心理臨床学会を設立。会員数約400名。 ;[[日本心理臨床学会]] :1982年設立。日本臨床心理学会の脱退者が中心となり設立。現在、心理学・臨床心理学関連で国内最大の学会。会員数約22,000名。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|心理学}} * [[精神医学]] - [[精神病理学]] - [[心身医学]] - [[精神薬理学]] * [[心理学]] * [[統計学]] * [[大学院]] - [[専門職大学院]] * [[心理学者]] - [[心理士]] * [[臨床心理士]] * [[心理検査]] * [[公認心理師]] == 外部リンク == * [http://www.ajcp.info/ 一般社団法人 日本心理臨床学会] - 心理学・臨床心理学関連で国内最大の学会 {{心理学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りんしようしんりがく}} [[Category:臨床心理学|*]] [[Category:社会科学]] [[Category:学際領域]]
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文化人類学
文化人類学(ぶんかじんるいがく)は、人間の生活様式全体(生活や活動)の具体的なありかたを研究する人類学の一分野である。 人類学は一般に、人類の進化や生物学的側面を研究する自然人類学と、人類の社会的・文化的側面を研究する文化人類学 (Cultural Anthropology) あるいは社会人類学 (Social Anthropology) に大別される。文化人類学の名称はアメリカにおいて用いられ、イギリスおよび多くのヨーロッパ諸国では「社会人類学」の名称が用いられてきた。他のヨーロッパ諸国や日本においては民族学(英語圏での Ethnology、ドイツ語圏での Ethnologie)の名称も用いられている(民族学を一分野とする場合も多い)。民俗学(Folklore)もまた隣接分野として共通の研究テーマを共有することが多い。 自然人類学は、人類を進化の過程によって形作られてきた生物学的側面から捉える。それに対して、文化人類学は自然の対義としての文化から人類を研究しようとする学問分野である。文化とは、進化の過程を経て形成された遺伝的な形質のことではなく、人類が後天的に学習した行動パターンや言語、人工物の総体を指している。したがって文化人類学の隣接科学には言語学と考古学があり、アメリカの学部ではこれらの学問に加えて自然人類学をあわせて総合的に教育されている。 より狭い意味で文化人類学は民族・社会間の文化や社会構造の比較研究としても理解されている。社会人類学や民族学という名称は文化人類学という用語とほぼ同義である。ブロニスワフ・マリノフスキによる1914年のパプア調査以後、この分野では数ヶ月から数年に渡って研究対象となる社会に滞在し、その集団の構成員の一員として生活する参与観察の手法を用いることが一般的となった。 一般に文化人類学の学説史においては、ブロニスワフ・マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』、アルフレッド・ラドクリフ=ブラウンの『アンダマン島民』の両書が出版された1922年を境にして近代的人類学が始まったとされる。なお、これ以前の人類学者としては歴史主義(すべての社会は未開状態から段階を経て進歩していくとする考えで、西欧近代をその頂点とした)や伝播主義(類似する社会習慣がある場合、一方から他方にそれが伝播したとする考え)を特徴とするルイス・ヘンリー・モーガンやジェームズ・フレイザー、ロバート・ローウィらがあげられる。 この時期、マリノフスキが確立したフィールドワークの手法によってデータの体系的収集が可能になり、さらにラドクリフ=ブラウンによってフランスの社会学者デュルケームの社会理論に基づいた構造機能主義理論が確立され、社会科学としてのその基礎が築かれた。 マリノフスキとラドクリフ=ブラウンはともにイギリスを中心に活動したため(もっとも両者はともにアメリカで教鞭をとっている)、第二次世界大戦後は彼らの後を受けたイギリス社会人類学の伝統が人類学の本流として認識されるようになった。しかし、各国の人類学にはこれとは異なる伝統が存在しており、その中でもアメリカとフランスの伝統はしばしば強い影響力を持った。 特にアメリカにおいては、フランツ・ボアズを中心とした独特の学派が受け継がれてきた。この学派では社会関係と社会構造に注目する社会人類学よりもより包含的なアプローチを取り、人間の慣習や社会制度、心理的傾向性、言語、物質文化と言った多様な要素からなる広義の文化に焦点を当てた。 この学派は、この幅広い文化の概念を用いて各民族(具体的には北米原住民)の固有文化を記述することに専念し、社会人類学のような理論化に対しては批判的であった。この学派の姿勢は乏しい資料を基に自民族中心主義的な理論化を行った進化主義への反発から来ていると言われ、ボアズらはこのような進化主義的立場に抗してそれぞれの文化はそれぞれの価値において記述・評価されるべしであると言う文化相対主義を主張した。このように理論を排除する立場をとったため、アメリカ文化人類学派はイギリス社会人類学に対して理論的な発展では後れを取ったが、現在では文化相対主義の立場は、世界の文化人類学者にとって広く自明のものとして認知されている。また、一方で社会関係にこだわらない包括的な立場を取り、言語や心理過程、地理的範疇や生態系にも焦点を当てたために、後に心理人類学(文化とパーソナリティ論)、生態人類学(新進化主義)、といった数多くの下位分野を生み出すことになった。 日本では、岡茂雄が戦前に、民族学・民俗学及び考古学専門の書店「岡書院」を開き、多くの本を出版した。また、歴史学者、考古学者の西村眞次が1938年に早稲田大学文学部内に文化人類学会を設置して初代会長に就任、人類学の教科書を3冊上梓するなど、文化人類学の認知に貢献した。 戦後は、イギリスに留学して社会人類学を修めた中根千枝を招いた東京大学においてイギリス流の社会人類学が受容された。一方、関西では生態学者今西錦司の弟子である梅棹忠夫を中心とした京都大学人文科学研究所がアジア・アフリカ各地に探検隊を派遣して多くの研究を行った。その成果は日本万国博覧会(大阪万博)におけるメイン館の展示となり、その後同跡地には国立民族学博物館が設立されて日本における文化人類学の研究拠点となった。生態学者今西錦司の影響下に発展した京都の人類学は霊長類学との協力が盛んで自然科学出身の人材も多く、環境利用や生業、技術、進化など人類社会の生態学的側面に焦点を当てた研究も進められた。また、梅棹忠夫が1950年代に著した『文明の生態史観』は、当時の日本の論壇とくに唯物史観が支配的だった当時の社会科学全般に衝撃を与えた。 文化人類学は様々な国でその国独自の事情を反映して多様に発展してきたが、近年は交流の活発化に伴ってかつてのような国ごとの個性はそれぞれのフィールドごとに再編されつつあり、国による違いは徐々になくなりつつある。 また1970年代以降、文化人類学がおもな対象としてきた発展途上国社会で急激に開発が進み(ポストコロニアル)、新たな社会問題が発生するようになるに伴って学問の性格も徐々に変化してきた。特に1980年代以降は、開発、医療、エイズ、環境問題、教育、観光などの社会問題を扱う応用人類学の分野が急成長し、急激に多様化が進みつつある。さらに、ポストモダンの相対主義的潮流のなかでポストコロニアル理論を打ち立てたエドワード・サイードの『オリエンタリズム』や人類学者ジェイムズ・クリフォードの『文化を書く』などの批判に関連して、文化人類学者が異文化を「書く」とはどういうことなのか、という学問の根幹に関わる問題も提起された。同様に人類学的行為の政治性や方法論・理念(文化相対主義、社会構築主義など)についての議論も盛んに行なわれている。さらに構造主義を普及させたクロード・レヴィ=ストロースは、従来の欧米の人文科学における人間の文化・生活に対する捉え方に疑問を投げかけ、哲学部門を中心とした人文科学全体の学問の在り方に関する議論が活発になっている。 文化人類学は、米国ではフランツ・ボアズ以来、人類学(人間の性質を総合的に調査)の4つの分野の1つとして成長したものである。それは科学的な人類学の一分野として発展、展開してきた「文化」の概念を扱うものであり、また、それは人間相互の文化的変化を調査する人類学の一分野である。 「文化」の人類学的概念はある種の人間は「自然のまま」で生活しているように、初期の西部の言葉が「文化」と「自然」の中間的状態に基づいていることに対するものが発端としてある。アメリカの文化人類学者の議論は、文化とは「人間の性質」であり、すべての人は経験を格付けする能力があり、象徴的に格付けたものをよみとり、その抽象概念を他人に教える能力があるというものである。 文化人類学の学問対象および資料は以下の通りである。 とされる。が、西欧的思考による猿の文化を否定するための定義と言えなくもない。 数カ月から数年に渡って研究対象となる社会に滞在し、その集団の構成員の一員として生活する参与観察は、《実地調査》の1手法である。フィールドワークには、観察、参与観察、面接《インタビュー》、心理テストなどの手法がある。 フィールドワークにおいてどんな調査結果が得られるかについて、調査する者の価値観、調査対象を好きか嫌いか、調査者と調査対象の間に生まれた関係(ラポール、rapport)、などが関係するところが、文化人類学が持つ課題である。日本において、複数の地をフィールドワークすることが学問的に好ましいが、多くの人類学者は大学院生時に行ったフィールドワークの対象社会を生涯にわたって研究することが多く、それは社会的な制約(大学の講義等)により複数の社会を対象とすることが困難であるからであることが言える。 さらに1970年代頃から、調査される側の迷惑、調査する側の倫理、が課題として取り上げられている(モラール)。アメリカ人類学会には倫理委員会 (Committee on Ethics) が設けられ、1975年に綱領「職業的責任の原理」が、1984年に「倫理コード」が作成された。日本では1988年の第25回日本民族学会研究大会にてシンポジウム「民族学と少数民族-調査する側と調査される側」が催され、これをきっかけに研究倫理委員会が設置された。
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文化人類学(ぶんかじんるいがく)は、人間の生活様式全体(生活や活動)の具体的なありかたを研究する人類学の一分野である。
{{人類学}} {{参照方法|date=2015年7月}} '''文化人類学'''(ぶんかじんるいがく)は、[[人間]]の生活様式全体([[生活]]や[[活動]])の具体的なありかたを研究する[[人類学]]<ref group="注">広義の人類学は[[自然科学]]・[[人文科学]]・[[社会科学]]の諸領域にまたがる[[学際]]科学といえる。しかし[[日本学術振興会]]は、それらの学問分類において[[人類学]]を自然科学に、'''文化人類学'''を[[人文科学]]に分類している。他方、研究や教育の現場では文化人類学の隣接学問としての[[社会学]]との類似性や共通点から[[社会科学]]のひとつであると主張するものもいる。</ref>の一分野である。 == 概要 == [[人類学]]は一般に、人類の[[進化]]や[[生物学]]的側面を研究する[[自然人類学]]と、人類の社会的・[[文化的]]側面を研究する文化人類学 (Cultural Anthropology) あるいは社会人類学 (Social Anthropology) に大別される。文化人類学の名称は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]において用いられ、[[イギリス]]および多くのヨーロッパ諸国では「社会人類学」の名称が用いられてきた。他のヨーロッパ諸国や[[日本]]においては[[民族学]]([[英語]]圏での [[:en:Ethnology|Ethnology]]、[[ドイツ語]]圏での [[:de:Ethnologie|Ethnologie]])の名称も用いられている([[民族学]]を一分野とする場合も多い)。[[民俗学]]([[:en:Folklore|Folklore]])もまた隣接分野として共通の研究テーマを共有することが多い。 [[自然人類学]]は、人類を進化の過程によって形作られてきた生物学的側面から捉える。それに対して、文化人類学は自然の対義としての文化から人類を研究しようとする[[学問]]分野である。文化とは、進化の過程を経て形成された遺伝的な形質のことではなく、人類が後天的に学習した行動パターンや[[言語]]、人工物の総体を指している。したがって文化人類学の隣接科学には[[言語学]]と[[考古学]]があり、アメリカの[[学部]]ではこれらの学問に加えて[[自然人類学]]をあわせて総合的に教育されている。 より狭い意味で文化人類学は[[民族]]・[[社会]]間の文化や社会構造の比較研究としても理解されている。社会人類学や民族学という名称は文化人類学という用語とほぼ同義である。[[ブロニスワフ・マリノフスキ]]による[[1914年]]のパプア調査以後<ref group="注">実際の人類学的フィールドワークの起源はさらに古く[[ケンブリッジ大学]]では[[1898年]]に[[トレース海峡]]に調査隊を派遣し、親族研究法の基礎をつくったW.H.R.リヴァースらが参加している。</ref>、この分野では数ヶ月から数年に渡って研究対象となる社会に滞在し、その集団の構成員の一員として[[生活]]する[[参与観察]]の手法を用いることが一般的となった。 == 学説史 == 一般に文化人類学の学説史においては、[[ブロニスワフ・マリノフスキ]]の『[[西太平洋の遠洋航海者]]』、[[アルフレッド・ラドクリフ=ブラウン]]の『アンダマン島民』の両書が出版された[[1922年]]を境にして近代的人類学が始まったとされる。なお、これ以前の人類学者としては歴史主義(すべての社会は未開状態から段階を経て進歩していくとする考えで、西欧近代をその頂点とした)や伝播主義(類似する社会習慣がある場合、一方から他方にそれが伝播したとする考え)を特徴とする[[ルイス・ヘンリー・モーガン]]や[[ジェームズ・フレイザー]]、[[ロバート・ローウィ]]らがあげられる。 この時期、マリノフスキが確立したフィールドワークの手法によってデータの体系的収集が可能になり、さらにラドクリフ=ブラウンによって[[フランス]]の[[社会学者の一覧|社会学者]][[エミール・デュルケーム|デュルケーム]]の社会理論に基づいた[[構造機能主義]]理論が確立され、[[社会科学]]としてのその基礎が築かれた。 マリノフスキとラドクリフ=ブラウンはともに[[イギリス]]を中心に活動したため(もっとも両者はともにアメリカで教鞭をとっている)、第二次世界大戦後は彼らの後を受けたイギリス社会人類学の伝統が人類学の本流として認識されるようになった。しかし、各国の人類学にはこれとは異なる伝統が存在しており、その中でもアメリカとフランスの伝統はしばしば強い影響力を持った。 特にアメリカにおいては、[[フランツ・ボアズ]]を中心とした独特の学派が受け継がれてきた。この学派では社会関係と社会構造に注目する社会人類学よりもより包含的なアプローチを取り、人間の慣習や社会制度、[[心理]]的傾向性、言語、[[物質文化]]と言った多様な要素からなる広義の文化に焦点を当てた。 この学派は、この幅広い文化の概念を用いて各民族(具体的には北米原住民)の固有文化を記述することに専念し、社会人類学のような理論化に対しては批判的であった。この学派の姿勢は乏しい資料を基に[[エスノセントリズム|自民族中心主義]]的な理論化を行った進化主義への反発から来ていると言われ、ボアズらはこのような進化主義的立場に抗してそれぞれの文化はそれぞれの価値において記述・評価されるべしであると言う[[文化相対主義]]を主張した。このように理論を排除する立場をとったため、アメリカ文化人類学派はイギリス社会人類学に対して理論的な発展では後れを取ったが、現在では文化相対主義の立場は、世界の文化人類学者にとって広く自明のものとして認知されている。また、一方で社会関係にこだわらない包括的な立場を取り、言語や心理過程、地理的範疇や生態系にも焦点を当てたために、後に[[心理人類学]]([[文化とパーソナリティ論]])、[[生態人類学]]([[新進化主義]])、といった数多くの下位分野を生み出すことになった。 日本では、[[岡茂雄]]が戦前に、民族学・民俗学及び考古学専門の書店「岡書院」を開き、多くの本を出版した。また、歴史学者、考古学者の[[西村眞次]]が[[1938年]]に早稲田大学文学部内に文化人類学会を設置して初代会長に就任、人類学の教科書を3冊上梓するなど、文化人類学の認知に貢献した。 戦後は、イギリスに留学して社会人類学を修めた[[中根千枝]]を招いた[[東京大学]]においてイギリス流の社会人類学が受容された。一方、関西では[[生態学]]者[[今西錦司]]の弟子である[[梅棹忠夫]]を中心とした[[京都大学]]人文科学研究所がアジア・アフリカ各地に探検隊を派遣して多くの研究を行った。その成果は[[日本万国博覧会]](大阪万博)におけるメイン館の展示となり、その後同跡地には[[国立民族学博物館]]が設立されて日本における文化人類学の研究拠点となった。生態学者[[今西錦司]]の影響下に発展した京都の人類学は[[霊長類]]学との協力が盛んで自然科学出身の人材も多く、環境利用や生業、技術、進化など人類社会の生態学的側面に焦点を当てた研究も進められた。また、梅棹忠夫が1950年代に著した『[[文明の生態史観]]』は、当時の日本の論壇とくに[[唯物史観]]が支配的だった当時の社会科学全般に衝撃を与えた。 文化人類学は様々な国でその国独自の事情を反映して多様に発展してきたが、近年は交流の活発化に伴ってかつてのような国ごとの個性はそれぞれのフィールドごとに再編されつつあり、国による違いは徐々になくなりつつある。 また1970年代以降、文化人類学がおもな対象としてきた[[開発途上国|発展途上国]]社会で急激に開発が進み([[ポストコロニアル]])、新たな社会問題が発生するようになるに伴って学問の性格も徐々に変化してきた。特に1980年代以降は、[[開発]]、[[医療]]、[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]、[[環境問題]]、[[教育]]、[[観光]]などの社会問題を扱う[[応用人類学]]の分野が急成長し、急激に多様化が進みつつある。さらに、[[ポストモダン]]の相対主義的潮流のなかで[[ポストコロニアル理論]]を打ち立てた[[エドワード・サイード]]の『[[オリエンタリズム (サイード)|オリエンタリズム]]』や人類学者[[ジェイムズ・クリフォード]]の『文化を書く』などの批判に関連して、文化人類学者が[[異文化]]を「書く」とはどういうことなのか、という学問の根幹に関わる問題も提起された。同様に人類学的行為の政治性や方法論・理念([[文化相対主義]]、[[社会構築主義]]など)についての議論も盛んに行なわれている。さらに[[構造主義]]を普及させた[[クロード・レヴィ=ストロース]]は、従来の欧米の人文科学における人間の文化・生活に対する捉え方に疑問を投げかけ、哲学部門を中心とした人文科学全体の学問の在り方に関する議論が活発になっている。 == アメリカにおける文化人類学 == 文化人類学は、米国ではフランツ・ボアズ以来、人類学(人間の性質を総合的に調査)の4つの分野の1つとして成長したものである。それは科学的な人類学の一分野として発展、展開してきた「文化」の概念を扱うものであり、また、それは人間相互の文化的変化を調査する人類学の一分野である。 「文化」の人類学的概念はある種の人間は「自然のまま」で生活しているように、初期の西部の言葉が「文化」と「自然」の中間的状態に基づいていることに対するものが発端としてある。アメリカの文化人類学者の議論は、文化とは「人間の性質」であり、すべての人は経験を格付けする能力があり、象徴的に格付けたものをよみとり、その抽象概念を他人に教える能力があるというものである。 == 文化人類学の諸分野 == 文化人類学の学問対象および資料は以下の通りである<ref>祖父江(1979)</ref>。 # [[フィールドワーク]](実地調査)などの方法論、学説史 # 民族史(エスノヒストリー) # [[言語]] # [[自然環境]]、[[生業]]([[狩猟]]、[[漁澇]]、[[牧畜]]、[[農業]])、[[衣食住]]、[[民具]]、[[技術]]、[[芸術]]など # [[婚姻制度]]や[[家族]]・[[親族]]の構造、[[社会]]・[[政治]]・[[経済]]の仕組み、人間関係、さまざまな集団の成り立ち、[[伝統]]、[[習慣]]と[[制度]]など # [[宗教]]・[[信仰]]・[[呪術]]・[[儀礼]]・[[祭礼]]など # [[神話]]・[[伝説]]・[[民話]]など # [[民謡]]・[[音楽]]・[[舞踏]]・[[劇]]など # 都市における諸問題、都市文化や文明の影響による変化など # [[躾]]や[[教育]]の仕方、[[人格]]形成と民族・国民性の特色、文化の変化と心理的適用、精神衛生など # その他(映像人類学、民族映画学、認識人類学、医療人類学) == 文化の定義 == # 後天的に獲得されたものであって、生物として、人が持っている遺伝形質ではないもの # 歴史的に形成され、維持・変化してきたもの # ある集団の中で、その集団のある成員から、ほかの成員に『記号』を通して伝達されるもの # ある集団の中で、個人的なものではなく、ある集団の成員に多かれ少なかれ共有されるもの # (以上をふまえて)文化というのは集団の成員や、集団自体を形成・維持するための、あらゆる生活様式、ないし思考様式と、その具体的要素を含む とされる。が、西欧的思考による猿の文化を否定するための定義と言えなくもない。 == フィールドワーク・実地調査 == 数カ月から数年に渡って研究対象となる社会に滞在し、その集団の構成員の一員として[[生活]]する[[参与観察]]は、《実地調査》の1手法である。フィールドワークには、[[観察]]、参与観察、[[面接]]《[[インタビュー]]》、[[心理テスト]]などの手法がある。 フィールドワークにおいてどんな調査結果が得られるかについて、調査する者の[[価値観]]、調査対象を好きか嫌いか、調査者と調査対象の間に生まれた[[関係]]([[ラポール]]、rapport)、などが関係するところが、文化人類学が持つ課題である。日本において、複数の地をフィールドワークすることが学問的に好ましいが、多くの人類学者は大学院生時に行ったフィールドワークの対象社会を生涯にわたって研究することが多く、それは社会的な制約(大学の講義等)により複数の社会を対象とすることが困難であるからであることが言える。 === 倫理的な問題 === さらに[[1970年代]]頃から、調査される側の迷惑、調査する側の[[倫理]]、が課題として取り上げられている([[モラール]])。アメリカ人類学会には倫理委員会 (Committee on Ethics) が設けられ、[[1975年]]に綱領「職業的責任の原理」が、[[1984年]]に「倫理コード」が作成された。日本では[[1988年]]の第25回日本民族学会研究大会にて[[シンポジウム]]「民族学と少数民族-調査する側と調査される側」が催され、これをきっかけに研究倫理委員会が設置された。 == 文化(社会)人類学者 == {{See|文化人類学者の一覧}} == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[石田英一郎]] 『文化人類学入門』 [[講談社]]<講談社現代文庫>、1976年、{{ISBN2|4-06-158029-9}} * [[祖父江孝男]] 『文化人類学入門』 [[中央公論社]]<[[中公新書]]>(増補改訂版)、1990年、{{ISBN2|4121905601}} * 竹沢尚一郞 『人類学的思考の歴史』[[世界思想社]]、2007年、{{ISBN2|9784790712695}} == 関連項目 == === 人類学者 === * [[文化人類学者の一覧]] * [[日本の人類学者の一覧]] - 人類学一般 === 人類学の下位分野 === {{Col| * [[医療人類学]] * [[開発人類学]] * [[観光人類学]] * [[生態人類学]] * [[教育人類学]] * [[経営人類学]] | * [[経済人類学]] * [[宗教人類学]] * [[政治人類学]] * [[比較神話学]] * [[心理人類学]] * [[スポーツ人類学]]| * [[言語人類学]] * [[芸術人類学]] * [[認識人類学]] * [[映像人類学]] * [[象徴人類学]] | * [[解釈人類学]] * [[都市人類学]] * [[ドグマ人類学]] * [[設計科学]] * [[文化の型]] }} === 関連諸学 === * [[司法人類学]] (forensic anthropology) * [[社会学]] * [[民族学]] * [[歴史学]] == 外部リンク == * [http://www.jasca.org/ 日本文化人類学会] * [https://www.minpaku.ac.jp/ 国立民族学博物館] * [http://anthropology.hus.osaka-u.ac.jp/ 人類学研究室] - [[大阪大学]]。さらに同研究室の[https://web.archive.org/web/20141015043648/http://anthropology.hus.osaka-u.ac.jp/link.html 人類学関係リンク集]をも参照。 * [https://web.archive.org/web/20111211021746/http://sites.google.com/site/wwwshajin/ 社会人類学研究室] - [[首都大学東京]] * [https://illcommonz.exblog.jp/ 文化人類学解放講座] * [https://navymule9.sakura.ne.jp/cultural_anthropology.html 文化人類学とは?] * [https://navymule9.sakura.ne.jp/history_anthropology_japan.html 日本文化人類学史] * [https://rlatblog.wordpress.com/about-2/ 変容人類学研究室(R.L.A.T.)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふんかしんるいかく}} [[Category:文化人類学|*]]
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高坂希太郎
高坂 希太郎(こうさか きたろう、1962年2月28日 - )は、日本のアニメーター、アニメーション監督。神奈川県出身。埼玉工業大学深谷高等学校卒業。スタジオアウトリガー所属。 父親が絵描きだったので、絵を描いたり見たりする環境が近くにあり、学校でも授業そっちのけでずっと絵を描いていた。 アニメ業界の仕事に携わり始めたのは高校生の頃。『未来少年コナン』などの宮崎駿や高畑勲などが手掛けた面白い作品が次々とテレビで放映されているのを観て「自分もアニメの仕事に携わりたい」と思うようになり、自らが描いた絵を持ってアニメーションスタジオ、オープロダクションの門を叩いた。高校の夏休みと冬休みを利用してアルバイトをさせてもらい、卒業後、そのままオープロダクションに入社する。 1986年にフリーに転身、以降は多数の名作アニメの原画を担当する。スタジオジブリを拠点として活動しつつ、マッドハウス作品にもキーアニメーターとして参加する。 1993年、マッドハウスの丸山正雄のプロデュースにより、OVA『A-Girl』で監督デビュー。別冊マーガレット(集英社)で連載されていたくらもちふさこの同名漫画が原作で、「マーガレットVIDEO」シリーズの第6弾として1993年に制作された。ミュージッククリップ仕立てとなっており、セリフのほとんどをテロップで表現した異色作であった。 1995年、映画『耳をすませば』で作画監督デビュー。 1999年、監督を務めたCLAMPの漫画原作の短編『CLOVER』が『劇場版カードキャプターさくら』との併映で劇場公開された。 2003年、自身の趣味でもあった自転車レースの世界を描いた劇場アニメ『茄子 アンダルシアの夏』を監督。黒田硫黄の漫画が原作の映画である同作は、第56回カンヌ国際映画祭の監督週間に出展された。 2014年、単独で作画監督を担当した宮崎駿監督の『風立ちぬ』で東京アニメアワードフェスティバル2014の個人部門でアニメーター賞を受賞した。 2018年、児童文学のベストセラーをアニメ化した『若おかみは小学生!』で15年ぶりに劇場作品を監督した。同作はフランスのアヌシー国際アニメーション映画祭2018で長編コンペティション部門に出品された。この作品の頃はアニメ「秘密結社鷹の爪」などで知られるコンテンツ制作会社「DLE」に所属していた。 2022年8月28日、宮沢賢治の多様な魅力を探るイベント「イーハトーブフェスティバル2022」において、高坂自身が自転車で夏の花巻を巡って心に広がる花巻の風景を絵日記で記したドキュメンタリー「イーハトーブの地図〜心に映る風景〜」が上映された。 数多くの名作アニメに参加した日本有数のトップアニメーター。原画として多くのキャリアを積んだ後、1990年代から2010年代のスタジオジブリ作品のほとんどに作画監督として参加し、同スタジオを支える中心的存在となった。宮崎駿監督からの信頼も厚く、同監督が「最後の長編映画」としていた『風立ちぬ』では単独で作画監督を担当している。高畑勲監督とはTV版『じゃりン子チエ』、『火垂るの墓』、『平成狸合戦ぽんぽこ』などでともに仕事をした。 またジブリ作品以外でも、マッドハウスの手掛けた浦沢直樹の漫画原作のテレビアニメ『YAWARA!』『MASTERキートン』などで、作画面の中心スタッフとして活躍した。『MONSTER』アニメ化の際は、『MASTERキートン』でのキャラクターデザインと作画監督の仕事に感銘を受けた原作者の浦沢の指名で、キャラクター原案を担当している。 自他共に認める無類の自転車好きとして知られている。2003年にスペインの自転車レース、ブエルタ・ア・エスパーニャを扱った『茄子 アンダルシアの夏』で映画監督デビューしたが、自身も第3回Mt.富士ヒルクライムのアスリートクラスで3位入賞するほどの自転車乗りで、「アニメ界最速の男」の異名も持つ。アニメ業界の自転車好きが集うイベント、スタジオジブリ主催の「ツール・ド・信州」では、毎年のように1位を獲得していた。 大の宮崎アニメファンであるが、「宮崎駿の一番弟子」と言われることについては否定している。 宮崎駿からは「モンチ」の愛称で呼ばれている。理由はサルのモンチッチに似ているからとの事である。 自他共に認める『水曜どうでしょう』(北海道テレビ放送制作のバラエティ番組)の大ファンであり、『茄子 アンダルシアの夏』には出演者の大泉洋を主演の声優に抜擢。シリーズ2作目では『水曜どうでしょう』のディレクターの藤村忠寿と嬉野雅道も声優として起用した。また、『どうでしょう』好きが高じ、『水曜どうでしょう』DVD第10弾のオープニングCGを数ヶ月かけ制作。製作過程では日帰りで北海道まで行き、実際に自らonちゃんの着ぐるみに入りビデオを撮って資料にした。あまりに安田顕の入った着ぐるみonちゃんの動きをリアルかつ忠実に再現したため、同DVD副音声でディレクター陣に「まるで実写」と言わしめた。その関係で、同局の番組で大泉も出演する『ドラバラ鈴井の巣』の「VS・禁断の解決企画」で特別審査員としてゲスト出演する。
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高坂 希太郎は、日本のアニメーター、アニメーション監督。神奈川県出身。埼玉工業大学深谷高等学校卒業。スタジオアウトリガー所属。
{{ActorActress | 芸名 = 高坂 希太郎 | ふりがな = こうさか きたろう | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません --> | 出生地 = {{JPN}} [[神奈川県]] | 出身地 = | 死没地 = | 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --> | 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1962 | 生月 = 2 | 生日 = 28 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[アニメーター]]<br />[[アニメ監督]] | ジャンル = [[テレビアニメ]]<br />[[アニメーション映画]] | 活動期間 = [[1979年]] - | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = <!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意 --> | 事務所 = スタジオアウトリガー | 公式サイト = | 主な作品 = <!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->'''監督'''<br />『[[茄子 アンダルシアの夏]]』<br>『[[若おかみは小学生!#劇場アニメ|若おかみは小学生!]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = '''優秀アニメーション作品賞'''<br/>[[第42回日本アカデミー賞|2018年]]『[[若おかみは小学生!]]』 | その他の賞 = '''[[東京アニメアワード]]フェスティバル2014'''<br/>アニメーター賞 | 備考 = }} '''高坂 希太郎'''(こうさか きたろう、[[1962年]][[2月28日]] - )は、[[日本]]の[[アニメーター]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメーション]][[監督]]。[[神奈川県]]出身。[[埼玉工業大学深谷高等学校]]卒業。スタジオアウトリガー所属。 == 来歴 == 父親が絵描きだったので、絵を描いたり見たりする環境が近くにあり、学校でも授業そっちのけでずっと絵を描いていた<ref name="career-tasu">{{Cite web|和書|url= https://edu.career-tasu.jp/sp/contents/special/wakaokami/index2.html|author= |title=高坂 希太郎さんインタビュー 映画『若おかみは小学生!』|date= 2018-08-31|accessdate= 2022-09-08|website= キャリタス進学|publisher= [[ディスコ (人材情報)|ディスコ]]}}</ref>。 アニメ業界の仕事に携わり始めたのは高校生の頃。『[[未来少年コナン]]』などの[[宮崎駿]]や[[高畑勲]]などが手掛けた面白い作品が次々とテレビで放映されているのを観て「自分もアニメの仕事に携わりたい」と思うようになり、自らが描いた絵を持ってアニメーションスタジオ、[[オープロダクション]]<ref group="注">『未来少年コナン』やそれ以前に宮崎・高畑が所属していた[[Aプロダクション]]作品の下請けをしていたスタジオだった。</ref>の門を叩いた<ref name="career-tasu"/><ref name="filmaga2304">{{Cite web|和書|url= https://filmaga.filmarks.com/articles/2304/|author= 杉本穂高|title= 話題沸騰『若おかみは小学生!」高坂希太郎監督とは? ジブリの作画を支えた大ベテラン|date= 2021-08-30|accessdate= 2022-09-08|website=フィルマガ|publisher=[[Filmarks]]}}</ref>。高校の夏休みと冬休みを利用してアルバイトをさせてもらい、卒業後、そのままオープロダクションに入社する<ref name="career-tasu"/><ref name="filmaga2304"/>。 1986年にフリーに転身、以降は多数の名作アニメの原画を担当する<ref name="career-tasu"/>。[[スタジオジブリ]]を拠点として活動しつつ、[[マッドハウス]]作品にもキーアニメーターとして参加する<ref name="career-tasu"/>。 1993年、マッドハウスの[[丸山正雄]]のプロデュースにより、[[OVA]]『[[A-Girl]]』で監督デビュー<ref name="natalie479195">{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/comic/news/479195|author= |title= 丸山正雄のお蔵出しイベント開催、第1回にりんたろう・高坂希太郎監督が登壇|date= 2022-05-27|accessdate= 2022-09-08|website= [[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher= 株式会社ナターシャ}}</ref>。[[別冊マーガレット]](集英社)で連載されていた[[くらもちふさこ]]の同名[[漫画]]が原作で、「マーガレットVIDEO」シリーズの第6弾として1993年に制作された<ref name="natalie479195"/>。[[ミュージッククリップ]]仕立てとなっており、セリフのほとんどをテロップで表現した異色作であった<ref name="natalie479195"/>。 1995年、映画『[[耳をすませば]]』で作画監督デビュー<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.cinematoday.jp/news/N0131985|author= |title=今夜『耳をすませば』放送! 声優キャスト&見どころをおさらい|date= 2022-08-26|accessdate= 2022-09-08|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ}}</ref>。 1999年、監督を務めた[[CLAMP]]の漫画原作の短編『[[CLOVER (CLAMPの漫画)#映画版|CLOVER]]』が『[[カードキャプターさくら#アニメ映画|劇場版カードキャプターさくら]]』との併映で劇場公開された。 [[2003年]]、自身の趣味でもあった自転車レースの世界を描いた劇場アニメ『[[茄子 アンダルシアの夏]]』を監督<ref name="infoseek1185798">{{Cite web|和書|url= https://news.infoseek.co.jp/article/dmenueiga_1185798/|author= |title= 宮崎駿は反面教師? 高坂監督15年ぶり新作が公開|date= 2018-09-28|accessdate= 2022-09-08|website= インフォシーク|publisher= [[楽天]]|archiveurl= https://web.archive.org/web/20181014053041/https://news.infoseek.co.jp/article/dmenueiga_1185798/ |archivedate= 2018-10-14}}</ref>。[[黒田硫黄]]の漫画が原作の映画である同作は、[[第56回カンヌ国際映画祭]]の監督週間に出展された。 [[2014年]]、単独で作画監督を担当した宮崎駿監督の『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』{{Refnest|group="注"|この作品は第41回[[アニー賞]]キャラクターアニメーション部門にノミネートされている<ref> {{Cite web|和書|url= https://animeanime.jp/article/2013/12/03/16551.html |author= |title=米国アニー賞 長編部門ノミネート7作品に「風立ちぬ」「ももへの手紙」 脚本部門に宮崎駿|date= 2013-12-03|accessdate= 2022-09-08|website=アニメ!アニメ!|publisher= [[イード (企業)|イード]]}}</ref>。}}で[[東京アニメアワード]]フェスティバル2014の個人部門でアニメーター賞を受賞した<ref> {{Cite web|和書|url= http://animefestival.jp/ja/festival/aoy/individual/ |title=東京アニメアワードフェスティバル2014 個人部門|date= |accessdate= 2022-09-08|website= |publisher= [[東京アニメアワード]] |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140322014239/http://animefestival.jp/ja/festival/aoy/individual/ |archivedate= 2014-03-22}}</ref>。 2018年、児童文学のベストセラーをアニメ化した『[[若おかみは小学生!#劇場アニメ|若おかみは小学生!]]』で15年ぶりに劇場作品を監督した<ref name="infoseek1185798"/>。同作はフランスの[[アヌシー国際アニメーション映画祭]]2018で長編コンペティション部門に出品された<ref>{{Cite news|url= http://eiga.com/news/20180506/6/ |title= 高坂希太郎監督作「劇場版 若おかみは小学生!」が仏アヌシー映画祭コンペ部門選出 |newspaper= 映画.com |publisher= 株式会社エイガ・ドット・コム |date= 2018-05-06 |accessdate= 2018-05-07 }}</ref>。この作品の頃はアニメ「秘密結社鷹の爪」などで知られるコンテンツ制作会社「DLE」に所属していた<ref name="infoseek1185798"/>。 2022年8月28日、宮沢賢治の多様な魅力を探るイベント「イーハトーブフェスティバル2022」において、高坂自身が自転車で夏の花巻を巡って心に広がる花巻の風景を絵日記で記したドキュメンタリー「イーハトーブの地図〜心に映る風景〜」が上映された<ref name="iwanichi">{{cite news |url = https://www.iwanichi.co.jp/2022/08/30/8572727/|author= |title = 賢治世界 音楽や映像で 多彩にイーハトーブフェス・花巻|date = 2022-08-30|accessdate= 2022-09-08|website =|publisher = [[岩手日日|岩手日日新聞]]}}</ref>。 == 人物 == 数多くの名作アニメに参加した日本有数のトップアニメーター<ref name="filmaga2304"/>。原画として多くのキャリアを積んだ後、1990年代から2010年代のスタジオジブリ作品のほとんどに作画監督として参加し、同スタジオを支える中心的存在となった<ref name="filmaga2304"/><ref name="infoseek1185798"/>。宮崎駿監督からの信頼も厚く、同監督が「最後の長編映画」としていた『風立ちぬ』では単独で作画監督を担当している<ref name="filmaga2304"/><ref name="infoseek1185798"/>。高畑勲監督とはTV版『じゃりン子チエ』、『火垂るの墓』、『平成狸合戦ぽんぽこ』などでともに仕事をした<ref name="infoseek1185798"/>。 またジブリ作品以外でも、マッドハウスの手掛けた[[浦沢直樹]]の漫画原作のテレビアニメ『[[YAWARA!]]』『[[MASTERキートン]]』などで、作画面の中心スタッフとして活躍した<ref name="filmaga2304"/>。『[[MONSTER (漫画)|MONSTER]]』アニメ化の際は、『MASTERキートン』でのキャラクターデザインと作画監督の仕事に感銘を受けた原作者の浦沢の指名で、キャラクター原案を担当している<ref name="filmaga2304"/>。 自他共に認める無類の自転車好きとして知られている<ref name="filmaga2304"/>。[[2003年]]にスペインの自転車レース、[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]を扱った『茄子 アンダルシアの夏』で映画監督デビューしたが、自身も第3回[[Mt.富士ヒルクライム]]のアスリートクラスで3位入賞するほどの自転車乗りで、「アニメ界最速の男」の異名も持つ<ref name="filmaga2304"/>。アニメ業界の自転車好きが集うイベント、スタジオジブリ主催の「ツール・ド・信州」では、毎年のように1位を獲得していた<ref name="filmaga2304"/><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.madhouse.co.jp/abc/shinsyu/index.html|author= |title= ツール・ド・信州2001 レポート|date= |accessdate= 2022-09-08|website= 阿佐ヶ谷自転車倶楽部|publisher= [[マッドハウス]]}}</ref>。 大の宮崎アニメファンであるが<ref>『ロマンアルバム 千と千尋の神隠し』徳間書店、2001年、85p。</ref>、「宮崎駿の一番弟子」と言われることについては否定している<ref name="infoseek1185798"/>。 宮崎駿からは「モンチ」の愛称で呼ばれている<ref name="Avanti">{{Cite web|和書| url=https://movie.smt.docomo.ne.jp/article/1185798/|title=宮崎駿は反面教師?高坂監督15年ぶり新作が公開 |publisher=株式会社NTTドコモ| website=dmenu映画| accessdate=2019-04-06}} </ref>。理由はサルの[[モンチッチ]]に似ているからとの事である。 自他共に認める『[[水曜どうでしょう]]』([[北海道テレビ放送]]制作のバラエティ番組)の大ファンであり、『茄子 アンダルシアの夏』には出演者の[[大泉洋]]を主演の声優に抜擢。シリーズ2作目では『水曜どうでしょう』のディレクターの[[藤村忠寿]]と[[嬉野雅道]]も声優として起用した。また、『どうでしょう』好きが高じ、『水曜どうでしょう』DVD第10弾のオープニングCGを数ヶ月かけ制作。製作過程では日帰りで北海道まで行き、実際に自ら[[onちゃん]]の着ぐるみに入りビデオを撮って資料にした。あまりに[[安田顕]]の入った着ぐるみonちゃんの動きをリアルかつ忠実に再現したため、同DVD副音声でディレクター陣に「まるで実写」と言わしめた。その関係で、同局の番組で大泉も出演する『[[ドラバラ鈴井の巣]]』の「VS・禁断の解決企画」で特別審査員としてゲスト出演する。 == 主な作品 == === 監督作品 === ==== 劇場映画 ==== *1999年 - [[CLOVER (CLAMPの漫画)#映画版|CLOVER]]<ref group="注">約5分の短編。『[[カードキャプターさくら#アニメ映画|劇場版カードキャプターさくら]]』との併映。</ref>(監督) *2003年 - [[茄子 アンダルシアの夏]](監督・脚本・キャラクターデザイン・作画監督) *2018年 - [[若おかみは小学生!#劇場アニメ|若おかみは小学生!]](監督・絵コンテ・演出)<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.waka-okami.jp/movie/staff/|title= 劇場版「若おかみは小学生!」 スタッフ |publisher= 「若おかみは小学生!」製作委員会 |date= 2018-04-04 |accessdate= 2018-04-09}}</ref> ==== OVA ==== *1993年 - [[A-Girl]](監督・キャラクターデザイン・作画監督) *2007年 - [[茄子 スーツケースの渡り鳥]](監督・脚本・キャラクターデザイン) ==== ドキュメンタリー ==== *2022年 - イーハトーブの地図〜心に映る風景〜(監督・出演) === 参加作品 === *1981年 - [[銀河鉄道999 (アニメ)#さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅|さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅]](動画) *1981年 - [[Dr.スランプ アラレちゃん]](第30話動画) *1982年 - [[セロ弾きのゴーシュ]](作画) *1982年 - [[南の虹のルーシー]](原画) *1982年 - [[じゃりン子チエ]](原画・動画) *1983年 - [[ミームいろいろ夢の旅]](原画) *1984年 - [[ルパン三世 PARTIII]](原画) *1984年 - [[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]](原画) *1985年 - [[カムイの剣]](原画) *1985年 - [[名探偵ホームズ]](作画監督、原画) *1985年 - [[ルパン三世 バビロンの黄金伝説]](原画) *1985年 - [[天使のたまご]](原画) *1986年 - [[天空の城ラピュタ]](原画) *1987年 - [[愛の若草物語]](原画) *1987年 - [[王立宇宙軍 オネアミスの翼]](原画) *1988年 - [[火垂るの墓]](原画) *1988年 - [[AKIRA (アニメ映画)|AKIRA]](原画) *1988年 - [[風を抜け!]](原画) *1989年 - [[NEMO/ニモ]](原画) *1989年 - [[YAWARA!#テレビアニメ|YAWARA! a fashionable judo girl]](絵コンテ・演出・作画監督・原画) *1993年 - [[X (漫画)#Music_Video版|X2 ダブルエックス]](原画) *1994年 - [[平成狸合戦ぽんぽこ]](原画) *1995年 - [[耳をすませば]](作画監督) *1997年 - [[もののけ姫]](作画監督<ref group="注">[[安藤雅司]]、[[近藤喜文]]と共同。</ref>) *1998年 - [[MASTERキートン]](キャラクターデザイン・作画監督・レイアウト監修・絵コンテ・その他) *2001年 - [[千と千尋の神隠し]](作画監督<ref group="注">安藤雅司、[[賀川愛]]と共同。</ref>) *2001年 - [[メトロポリス (2001年の映画)|メトロポリス]](原画) *2004年 - [[MONSTER (漫画)|MONSTER]](キャラクターデザイン原案) *2004年 - [[ハウルの動く城]](作画監督<ref group="注">[[山下明彦]]、[[稲村武志]]と共同。</ref>) *2008年 - [[崖の上のポニョ]](作画監督補<ref group="注">作画監督は[[近藤勝也]]。</ref>) *2010年 - [[パン種とタマゴ姫]](作画監督) *2011年 - [[コクリコ坂から]](作画監督<ref group="注">山形厚史、廣田俊輔、稲村武志、山下明彦と共同。</ref>) *2013年 - [[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]](作画監督) *2014年 - [[思い出のマーニー]](原画) *2015年 - [[バケモノの子]](原画) *2019年 - アニメ 大好きだったあなたへ ヒバクシャからの手紙(キャラクターデザイン) *2023年 - [[君たちはどう生きるか (映画)|君たちはどう生きるか]](原画) === CM === * [[スズキ (企業)|スズキ]]・[[スズキ・ハスラー#2代目(MR52S/MR92S型 2020年-)|ハスラー]](アニメーションコンセプトデザイン) ** 「ハスラーワールド」篇(2020年、特別仕様車J STYLE)<ref>{{Cite web|和書|date=2020-12-30<!--公開日-->|title=ハスラー Jスタイル|url=https://www.suzuki.co.jp/car/hustler_jstyle/index.html|publisher=スズキ|accessdate=2022-05-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201230090309/https://www.suzuki.co.jp/car/hustler_jstyle/index.html|archivedate=2020-12-30}}</ref> ** 「ハスラーワールド/海」篇(2021年)<ref>{{Cite web|和書|date=2021-05-22<!--公開日-->|title=四輪車トップ|url=https://www.suzuki.co.jp/car/|publisher=スズキ|accessdate=2022-05-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210711225017/https://www.suzuki.co.jp/car/|archivedate=2021-07-11}}</ref> ** 「ハスラーワールド/森と光」篇(2021年)<ref>{{Cite web|和書|date=2021-12-30<!--公開日-->|title=四輪車トップ|url=https://www.suzuki.co.jp/car/|publisher=スズキ|accessdate=2022-05-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220121060842/https://www.suzuki.co.jp/car/|archivedate=2022-01-21}}</ref> ** 「ハスラーワールド/シーサイドドライブ」篇(2022年)<ref>{{Cite web|和書|date=2022-05-09<!--公開日-->|title=ハスラー|url=https://www.suzuki.co.jp/car/hustler/|publisher=スズキ|accessdate=2022-05-17}}</ref> == 受賞歴 == * [[第42回日本アカデミー賞]] 優秀アニメーション作品賞 * [[東京アニメアワードフェスティバル]]2014 [個人賞] アニメーター賞 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [http://st-outrigger.jp/ スタジオアウトリガー] - 所属事務所。 * {{jmdb name|0429250}} * {{allcinema name|271249}} * {{kinejun name|128949}} * {{IMDb name|id=0466901|name=Kitarō Kōsaka}} * {{Movie Walker name|id=121743|name=高坂希太郎}} * [http://www.cyclingweb.jp/c_people/kosaka/vol01.html CyclingWeb.jp] - Cycling People Special Interview 高坂希太郎 {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうさか きたろう}} [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:アニメのキャラクターデザイナー]] [[Category:スタジオジブリの人物]] [[Category:マッドハウスの人物]] [[Category:正智深谷高等学校出身の人物]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]]
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向精神薬
向精神薬(こうせいしんやく、英: Psychoactive drug, Psychotropic)とは、中枢神経系に作用し、生物の精神活動に何らかの影響を与える薬物の総称である。 主として精神医学や精神薬理学の分野で、脳に対する作用の研究が行われている薬物であり、また精神科で用いられる精神科の薬、また薬物乱用と使用による害に懸念のあるタバコやアルコール、また法律上の定義である麻薬のような娯楽的な薬物(英語版)が含まれる。 精神刺激薬(Stimulant)は、中枢神経系を活性化させる薬物の総称で、コカイン、ニコチン、カフェイン、アンフェタミンやメタンフェタミンやMDMA、メチルフェニデートが含まれる。心拍や呼吸を増加する。慢性的な使用により統合失調症様の精神刺激薬精神病を呈する。 抑制剤(Depressant)は、その反対に中枢神経系を抑制する作用を持つ。アルコール、有機溶剤、ベンゾジアゼピン系薬、ヘロインやアヘンやモルヒネといったオピオイド系の薬物や大麻が含まれる。抗不安作用や鎮痛作用がある。過量服薬すると呼吸中枢を抑制して死亡するものも多い。 幻覚剤(Hallucinogen)は、幻覚作用を持つ薬物で、典型的にはLSDのような薬物である。しかしながら、大麻やMDMAは幻覚特性を持つためここにも分類される。これらの薬物では不快な離脱症状を避けるための使用が認められず、そうしたことを理由に医療を求めるのはまれである。 狭義の「日本の法律上の向精神薬」は、麻薬及び向精神薬取締法で個別に指定された薬物を指す。薬物乱用の懸念があるメチルフェニデートのようなや精神刺激薬、ベンゾジアゼピン系やバルビツール酸系の抗不安薬・睡眠薬・麻酔薬・抗てんかん薬の一部が、日本の同法における第一種向精神薬から第三種向精神薬に指定されている。これは国際条約である向精神薬に関する条約の付表IIからIVに相当する。 この条約で指定された薬物は、1条(e)の規定によりすべて「国際条約上の向精神薬」であり、付表IからIVまでの分類が存在する。批准各国は薬物を管理するための同様の法律を有するものの、条約において付表Iに分類されているLSDなどを、日本の法律上は麻薬に分類している点が、国際法と日本法で異なる。そして、第32条4項が、含有する植物の自生国における伝統的な宗教儀式への使用は規制から除外する。 古来から、精神に何らかの作用を及ぼす植物が用いられてきた。 19世紀フランスの精神科医ジャック-ジョセフ・モロー・ド・トゥールの『ハシーシュと精神病』(1845年)は向精神薬を科学的に扱った最初の研究とされる。 20世紀初頭には、そのころ登場したバルビツール酸やモルヒネといった薬物が用いられた。1943年にLSDが合成され医薬品として販売されるに至ると、この薬物による研究も盛んになった。 ジョン・ケイドによるリチウムの抗躁作用の発見あるいはクロルプロマジンの合成と治療効果の発見をもって、近代における精神薬理学の幕開けとされる。 1949年にジョン・ケイドがリチウムの抗躁作用を見出す。1952年には、フランスの精神科医ジャン・ドレー(英語版) (Jean Delay) とピエール・ドニカー(英語版) (Pierre Denike) がクロルプロマジンの統合失調症に対する治療効果を初めて正しく評価し、精神病に対する薬物療法の時代が幕を開けた。 1957年には、ベルギーの薬理学者パウル・ヤンセン(英語版) (Paul Janssen) がクロルプロマジンより優れているとされる抗精神病薬ハロペリドールを開発する。1957年に、スイスの精神科医ローラント・クーンによってイミプラミンが、精神賦活作用を有することが見いだされ、うつ病の薬物療法への道が開かれた。 1960年ごろまでに、初のベンゾジアゼピン系の抗不安薬であるクロルジアゼポキシドと、その類似の化学構造を持つジアゼパムが販売されるようになる。 1971年には、国際条約である向精神薬に関する条約が、LSDや、覚醒剤やバルビツール酸系/ベンゾジアゼピン系といった乱用の危険性のある向精神薬について公布される。 1984年には、新しい世代の抗精神病薬である非定型抗精神病薬のリスペリドンが開発される。また、抗うつ薬でも、新世代のSSRI抗うつ薬が販売される。このころまでには、ベンゾジアゼピン系の薬物の依存症や副作用が問題となり、1996年にも、世界保健機関も30日までをめどに処方すべきとする報告を行った。非ベンゾジアゼピン系の薬剤が販売されるに至る。 また1980年代より、既存の薬物の化学構造を修正したデザイナードラッグが合成されるようになり、その流通が問題視されるようになる。 2007年には、日本において、リタリンの不適切処方問題が表面化。うつ病がリタリンの適応症から外される。翌年に流通規制制度を設ける。 2005年にたばこの規制に関する世界保健機関枠組条約が発効し、2010年にはアルコールの有害な使用を低減するための世界戦略が採択された。世界保健機関・元事務局長のグロ・ハーレム・ブルントラントは「たばこは最大の殺人者である」と述べ、年間600万人の死亡につながり最大の予防できる死因とされてきたし、同様にアルコールも年間250万人の死亡につながっている。 アメリカ合衆国では、各製薬会社による精神科治療薬を含めた適応外使用を勧める違法なマーケティングは、数億ドル以上の史上最高額の罰金を更新し続けている。新世代の精神科の治療薬は、基本的にお互いを模倣した薬剤が多くあり、メディアにおいて「模倣薬」(me too drug)と称される。似たような10種類の新しい非定型抗精神病薬と、似たような6種類のSSRI抗うつ薬が販売されており、さらにこれらの薬剤は精神障害に対し十分な反応を示しておらず、耐えがたい副作用があるため、これまでとは違った薬剤の研究が必要となっている。2009年ころより、大手製薬会社は精神障害の治療薬の開発から撤退し始めた。2011年の欧州神経精神薬理学会 (ECNP, European College of Neuropsychopharmacology) の会談で、会長のデビッド・ナットはこの状況に対し「精神薬理学の暗黒の日々である」と述べ、『ネイチャー』はその取材記事に「精神薬理学の危機」という題名をつけた。新しい薬はない。アメリカ国立精神衛生研究所 (NIMH) 所長のトーマス・インセルも同様の状況に触れている。 日本では、2010年に厚労相が「うつ病などに対する薬漬け医療」について、自殺・うつ病対策プロジェクトチームにて大量処方、過量服薬の防止について検討していることに言及した。 過剰摂取による死亡は、英米で交通死亡者数を上回り、国際的な懸念となっている。アメリカでは、2010年には38,329人の薬物過剰摂取による死亡があり、その過半数は一般医薬品や違法薬物ではなく処方箋医薬品であり、全体の74.3%が意図しない死亡である。 2011年6月、薬物政策国際委員会は、薬物戦争に関する批判的な報告書を公表し、「世界規模の薬物との戦争は、世界中の人々と社会に対して悲惨な結果をもたらし失敗に終わった。国連麻薬に関する単一条約が始動し、数年後にはニクソン大統領がアメリカ合衆国連邦政府による薬物との戦争を開始したが、50年が経ち、国家および国際的な薬物規制政策における抜本的な改革が早急に必要である」と宣言した。このコフィー・アナン国連前事務局長ら参加する委員会は、各国に大麻の合法化や、薬物依存症者に対しては罰するより効果的である医療の提供などこれまでの薬物政策の見直しを求めた。 2013年の薬物乱用防止デーにおいて国連は、司法だけでなく人権や公衆衛生、また科学に基づいた予防と治療の手段が必要であり、2014年にも高度な見直しを開始することに言及しており、加盟国にもあらゆる方法を考慮した、幅広い開かれた議論を行うことを強く推奨している。 デザイナードラッグと呼ばれる新規向精神薬が問題になっているが、売買したり使用する人々を投獄するための証拠を欠いており、堅牢な証拠もなく規制しそして処罰を課すことによって、何が脅威であるかの説明を欠いたままの処罰となってしまう。イギリスではたった1件しか報告されていない死亡例をメディアで大々的に報道し、薬理学的に確かな知識もなく規制したことにより、使用者はさらに危険性の高い薬物の使用に舞い戻った。化学構造の類似性に基づいて規制することは不可能であり、合成THCのような新しい治療薬の開発を妨げる。 精神科の薬は、高額な治験第III相試験は失敗が多くなり製薬産業はハイリスクだとみなすようになり、2009年には267だった中枢神経系領域での試験数は2014年には129であり、その多くは神経学の領域であり精神医学ではない。国際神経精神薬理学会(CINP)は、薬の多くは根本的治療には程遠く、副作用に問題があり、薬の作用する新たな標的を探す必要があることから、EU、北米、日本、その他の国々の政府に対して革新的な創薬ができるよう提案した。専門家は強い禁止が研究を壊滅的にしてしまうことを警告している。 そのような中で、国際神経精神薬理学会でもケタミンの抗うつ作用が議題に上がり、MDMAを使った心理療法をFDAが画期的治療法に指定するなど、ブレイクスルーとなっているのは、これまで医療用途がないとして顧みられなかった幻覚剤や医療大麻の領域である。サイケデリック・ルネッサンスと呼ばれている。イギリスの小規模研究はシロシビン(マジックマッシュルームの成分)が、従来の治療に反応のないうつ病の人の約半分を、数週間にわたりうつ病ではない状態にした。 2018年11月には国連システム事務局調整委員会は、国連システムとしての薬物問題への対処法を確認し声明を出したが、人権に基づくこと、偏見や差別を減らし科学的証拠に基づく防止策や治療・回復を促すこと、薬物使用者の社会参加を促すことといった考えが含まれている。2019年6月には、国際麻薬統制委員会 (INCB) も声明を出し、薬物乱用者による個人的な使用のための少量の薬物所持のような軽微な違反に対して懲罰を行うことを薬物を規制する条約は義務付けておらず、そのような場合には有罪や処罰ではなく治療や社会への再統合という代替策があるとした。 鎮痛薬(analgesic)は、中枢神経系に対して抑制的に作用する薬物である。乱用の危険性がある。モルヒネやコデインのようなオピオイド系の薬物がある。また、大麻の主な有効成分とされるテトラヒドロカンナビノール(THC)にも鎮痛作用がある。 向精神薬には、精神障害の治療のために処方される処方箋医薬品の群が存在する。その一部が日本の麻薬及び向精神薬取締法における向精神薬に指定されている。 1996年、アメリカ国立精神衛生研究所(英語版)のスティーブン・ハイマン(英語版)所長とイェール大学のエリック・ネスラー(英語版)博士は「向精神薬の長期投与は、ほとんど全ての自然刺激の耐久力や回復力の限界を確実に越えるようで、神経伝達物質の機能に混乱を引き起こします」と述べている。 1998年、ミシガン大学のエリオット・ヴァレンスタイン博士は「生きている人間の脳の化学的な状態を評価するための検査法は、存在しないのが現実だ」と述べている。精神科医などは、向精神薬は「脳内化学物質の不均衡」を正すと説明するが、科学的な根拠があるわけではない。また、専門家の間では、「脳内化学物質の不均衡」説は辻褄が合わないことが古くから知られており、向精神薬の処方には合理的な理由がないのが実情である。 2002年、アメリカ精神医学会企業献金委員会のステファン・ゴールドフィンガー(Stephen Goldfinger)委員長は、製薬会社による精神科医の囲い込みについて、「製薬会社は道徳観念のない一団です。彼らは慈善団体ではありませんから、操り糸も付けずに大金を寄付するなど到底あり得ません」と述べている。 2003年、アメリカ精神医学会のスティーブン・シャーフスタイン副会長は、精神保健システムが細分化される理由について、「生き残るために、私たち(精神科医)は金のあるところに行かねばなりません」と証言している。日本では医師法第17条によって診療を行う者が医師に限定されているが、アメリカ合衆国では医師ではないサイコロジストにも法的に診療が認められている。精神医学を使う薬物療法中心の精神科医と臨床心理学を使う心理療法中心のサイコロジストに分かれており、商売上の競合がある。また、精神科医は心理療法のトレーニングをほとんど受けていない。精神科医にとって細分化とは、DSMで精神障害の種類を増やし、様々なサービスを生み出し、薬物療法を推進することを意味している。 2004年、カーディフ大学のDavid Healy博士は「今日にいたるまで、うつ病でのセロトニン異常が証明されたことは一度もない」と述べている。また、健康な人にSSRIを投与すると焦燥、不安、自殺傾向などを示すことがある。この事実は、1980年代に製薬会社の研究によって証明されている。健康なボランティアに対して行われた「ゾロフト」の試験では、かなり重症化し、第1週のうちに全員脱落している。SSRIを服用する人の大部分は、内因性のうつ症状を持つ人よりむしろ、健康なボランティアにずっと近い人々である。 『The New England Journal of Medicine』の前編集長であり、ハーバード大学医学大学院で上級講師を務める内科医のマーシャ・エンジェル(英語版)は「昔々、製薬会社は病気を治療する薬を売り込んでいました。今日では、しばしば正反対です。彼らは薬に合わせた病気を売り込みます」と述べている。一例として、月経前不快気分障害は、「プロザック」の名称を「サラフェム」と変更しただけの薬を月経前症候群用に販売し、生まれた診断名である。 2005年、メディアに追及されたアメリカ精神医学会のスティーブン・シャーフスタイン会長は、『People』誌で、「脳内化学物質の不均衡」の証明について、「明確な検査法は存在しません」と認めている。脳スキャン技術による診断の目処も立っていない。 有害な精神科治療を調査したボストン・グローブ紙の連載で、1998年、ピューリッツァー賞の最終候補に残ったこともある医療ジャーナリストのロバート・ウィタカー(英語版)によれば、研究文献を調べると、抗精神病薬、抗うつ薬、抗不安薬、ADHD治療に使われる「リタリン」のような精神刺激薬の全てに共通のパターンが見られる。短期間、たとえば、6週間であれば、対象症状について、偽薬よりわずかに上回る効果を得られる可能性があるが、長期間になると、全ての対象症状で偽薬を投与された患者より悪化し、慢性化、重症化している。また、かなり著しい割合で、新たな精神症状やより重い精神症状が薬物自体によって引き起こされている 。 2006年、DSM-IVの作成に関与した精神医学の専門家の56%(170人中95人)に、向精神薬を販売する製薬会社と金銭的なつながりがあったことが判明した。感情障害と精神病性障害(psychotic disorders)の作業グループでは100%であった。マサチューセッツ大学の臨床心理学者であるリサ・コスグローヴ博士は「精神医学の分野における金銭的なつながりがどれ程ひどいのか、私は大衆が気づいているとは思いません」と述べている。 アラスカ州最高裁判所は抗精神病薬に関する訴訟の判決文で、「向精神薬は患者の心身に重大で永続的な悪影響を及ぼすことがある」「数々の破壊的な副作用を引き起こす可能性があることが知られている」と説明している。 2008年、ニューヨーク州立大学のトーマス・サズ(英語版)博士は「自然科学事業の健全性は、私たちが『科学的』と呼ぶ活動に従事する各人が、真実を探求して真実を語る、また、誤った説明と虚偽の『事実』を暴いて排除するという科学的共同体の約束で成り立っています。対照的に、宗教の安定性、精神医学の偽装信仰、いわゆる行動科学は、議論の余地のない教義としきたりに対する担い手の忠誠、それに基づいた集団の繁栄に害を及ぼすような真実を語ることへの拒絶から成り立っています」「プロフェッショナルの信頼性を保つために、精神医学の歴史家、精神科医のような者は、癌が実在するのと同じ感覚で、心の病は実在すると信じるか、信じているふりをしなければなりません。その結果、彼らは鼻の先にある現実を見る危険を冒すことができません」と述べている。 2009年、偽薬効果を研究するハル大学のアービング・カーシュ博士は「支持できる証拠が乏しいどころか、化学物質不均衡説は間違いでしかないと膨大なデータが語っている」と述べている。抗うつ薬には不活性プラセボ(副作用のない偽薬)を若干上回る程度の効果しかなく、両者の差は副作用の有無だと指摘している。副作用が起きると本物だと分かり、被験者の期待が高まるからである。活性プラセボ(副作用のある偽薬)を用いた臨床試験では、抗うつ薬との間に有意な差は見られなかった。また、禁断症状が出る可能性があり、「医師に相談することなく抗うつ薬の服用を中断しないこと」と警告している。急な断薬ではなく、徐々に減薬することが重要である。『Coming Off Antidepressants: Successful Use and Safe Withdrawal』(Joseph Glenmullen、2006年)は抗うつ薬を中止する方法が分かる優れた一冊である。 2010年、抗うつ薬の効果について、医師側から二つの反論がある。一つは、アメリカ食品医薬品局は偽薬より効果があると示す2件の臨床試験を要求しており、効果のない薬を承認するはずがない、という反論である。しかし、2件であり、他の大多数の臨床試験が効果がないと示していても良い。また、要求は統計的有意差であり、臨床的有意差(医薬品と偽薬の効果の差)の大きさは考慮されていない。もう一つは、医師は臨床現場で効果を確認している、という反論である。しかし、医師は偽薬を使うことがほとんどないため、偽薬に1錠4ドルする薬と同程度の効果があるとは考えない。また、専門家は抗うつ薬に効果がないとは言っていない。何も処方しないより偽薬を処方したほうが効果があり、抗うつ薬には偽薬程度の効果がある。問題としているのは抗うつ薬の効果が偽薬効果か否かである。「ゾロフト」を製造するファイザー社のスポークスパーソンは、抗うつ薬が「一般に偽薬と区別できないこと」は「アメリカ食品医薬品局、学界、製薬業界でよく知られている事実です」と述べている。 2012年、DSM-IVのアレン・フランセス編纂委員長は「精神医学における生物学的検査というのは未だにありません」「誤解を招きやすい考えの一つが、精神科の問題はすべて化学的アンバランスによるもので、服薬で病気が治るという考え方です。この考えによって、製薬会社は過去30年にわたって薬を売ることができたわけです」と述べている。精神科の軽度〜中程度の症状には、心理療法が少なくとも薬物療法と同じくらい効果がある。心理療法のほうが持続効果は長く、副作用も少ないが、非常に多くの人が必要のない薬物療法を受けている。 2013年、国立精神・神経医療研究センター薬物依存研究部の松本俊彦室長は「精神科では依存性のある薬を使わざるを得ない場面もあるが、漠然とした投薬や診察なしの投薬は避けるべきだ」と指摘している。睡眠薬や精神安定剤として、多くの診療科で処方されるベンゾジアゼピン系薬剤は依存性の高さが指摘されている。薬物依存症について、精神科医からは「内科などの不適切な処方が問題」との意見が出ていたが、同センターなどの調査によれば、依存症の専門外来を受診した患者の84%は精神科治療によって引き起こされている。 向精神薬は、薬物乱用の危険性があるものが多い。向精神薬に関する条約における薬物乱用とは、精神的依存と身体的依存のどちらか、あるいは両方において薬物が用いられることである。乱用されやすい向精神薬は、この国際条約の管理下にある。 医学的には、アメリカ精神医学会(APA)による『精神障害の診断と統計マニュアル』の第4版(DSM-IV)では、物質乱用(Substance Abuse)の診断分類があり、アルコール、アンフェタミン類、大麻、コカイン、幻覚剤、アヘン類、鎮静剤、睡眠剤、または抗不安薬、他に、その他の物質に分類している。著しい苦痛や機能の障害を引き起こすなど重症であり、そして反復的にそうした結果が起きている場合である。 世界保健機関によれば、有害な使用(Harmful use)の診断名であり、精神や身体の健康に実際に害があるような物質の使用パターンである。世界保健機関によれば、乱用の用語は、いかなる使用も不可であるとも用いられるため、その曖昧さゆえにこの語は依存を生じうるような物資では使われないということである。有害な使用には、社会的に否定的な結果が生じたり、文化的に承認されないといったものは含まない。 向精神薬の多くは薬物依存症の危険性があるものが多い。 薬物依存症の可能性は、個々の物質ごとにそれぞれ異なる。摂取量、摂取頻度、物質、投与経路、薬物動態などが、薬物依存形成の要素である。 医学雑誌『ランセット』に示された、20の薬物についての身体的依存、精神的依存、快感の平均尺度が0〜3の範囲で示された。カフェインは研究に含まれていない。 アンフェタミン、コカイン、ある種の抗不安薬のように、短時間作用型の薬物は依存や乱用を発現させる可能性が特に高い。アルコールと、ベンゾジアゼピン系やバルビツール酸系の鎮静催眠薬からの離脱は、発作を起こし致命的となる可能性がある。逆に大麻や、幻覚剤のように不快な離脱症状を回避するための摂取というものが起きない薬物もあり、治療を求めるのはまれであり、幻覚剤ではほとんどが短い乱用及び依存のあと、元の生活様式に復帰する。LSDやシロシビンでは、実質的に誰も依存症にならない。 アルコールは攻撃的な感情が起こることを促し、大麻は減少させる。 薬物によって、過剰摂取した際の危険性は異なる。ヘロインやモルヒネ、アルコール、ベンゾジアゼピン系の薬物やこれらの薬物を併用することは、過剰摂取の危険性を高める。 逆に、大麻やLSDやシロシビンでは図のように安全係数が高く、重症例、死亡報告はほとんどない。 過剰摂取による死亡数の増加は国際的な懸念であり、アメリカでの2010年度の過剰摂取による死亡は、過半数の死亡が処方箋医薬品によるものであり、74.3%が意図しない死亡である。 2009年アメリカでは、タバコに起因する443,000人の死亡があり、アルコールでは98,334人であり、他の薬物では37,485人である。2008年に処方薬の過剰摂取による死亡が20,044人、違法薬物の使用に起因する死亡は16,044人である。 タバコでは、がん(41%:毎年約16万)や心血管疾患(33%)が多く、アルコールでは急性の死亡では運転事故(14%:毎年約1万4千)、他殺(8%)、自殺(7%)、転落死(5.6%)、慢性ではアルコール性肝疾患(12%)などで、暴力や事故に関連する急性の死亡も多いことがタバコによる死亡とは大きく異なる。処方薬ではオピオイド、違法薬物ではヘロインによるものが多い。2010年の医薬品の過剰摂取による死亡は、オピオイド系鎮痛薬が16,651人、ベンゾジアゼピン系薬が6,497人、抗うつ薬が3,889人と上位3位を占め、抗てんかん薬や抗パーキンソン病薬が1,717人、抗精神病薬が1,351人である。 イギリス薬物政策委員会(UKDPC)は、毎年の死亡者数は115,000人が喫煙、アルコールが35,000人、違法薬物は2000人であり、アルコールとタバコは違法薬物よりも有害であると結論している。2010年のイギリスにおける薬物に関連する死亡は、合計2597人であり、すべてのベンゾジアゼピン系薬物で307人、鎮痛薬のトラマドールが132人、合法ドラッグによるものが22人などを含んでいる。 日本のタバコによる死亡者数を日本学術会議は毎年11万人以上とし、アルコール関連の3学会によれば、2008年の推計でアルコールに関連して34,988人が死亡している。 1971年の向精神薬に関する条約が向精神薬の規制の根拠だが、32条4項は、含有植物が自生している国において、伝統的に宗教的な儀式として用いられている場合に条約の影響が保留されるとされている。信仰による除外は、アメリカでのネイティブ・アメリカン・チャーチのペヨーテ・サボテンの使用、ジャマイカでのガンジャ(大麻)の使用がある。 日本においては以下の通りに法的に管理されている。なお、日本の法律上の便宜により、「麻薬」と「向精神薬」に分類されるが、医学的な分類ではない。(この違いについては、麻薬を参照) 医学的な麻薬 (Narcotics) の定義の他に、法律上の麻薬として麻薬及び向精神薬取締法やあへん法にて定められ、広義の麻薬である大麻は、大麻取締法にて別個に大麻として管理下にある。日本では、幻覚剤も麻薬及び向精神薬取締法にて、法律上の麻薬として定められている(幻覚剤は、北米では麻薬には分類されない)。これらの類似構造を持つデザイナードラッグの一部は、医薬品医療機器等法にて指定薬物に指定され規制されており、さらに類似構造を規制する目的で包括指定が行われている。これら以外の何の法的制約のないものが、脱法ドラッグである。 メチルフェニデートなどの精神刺激薬や、ベンゾジアゼピン系の鎮静催眠剤などは、麻薬及び向精神薬取締法にて、日本の法律上の第一種から第三種までの向精神薬として規制されている。それとは別に、医薬品医療機器等法にて習慣性医薬品が定められ、ベンゾジアゼピン系睡眠薬やオピオイド系の鎮痛薬を中心としている。 例外的に精神刺激薬の一部は、覚醒剤取締法にて、アンフェタミン(フェニルアミノプロパン)、メタンフェタミン(フェニルメチルアミノプロパン)、別表にて8種、また別表にてその原料が規制薬物と定められる。 2014年6月より、薬事法の改正によって、一般薬に含まれる「乱用の恐れのある医薬品の成分」のコデイン、ジヒドロコデイン、ジヒドロコデインセキサノール、メチルエフェドリン、ブロムワレリル尿素、エフェドリン、プソイドエフェドリンが含まれる医薬品を、原則で1人1箱に制限する。 日本の麻薬及び向精神薬取締法などによって、法律上の麻薬や向精神薬として規制管理下にある薬物は、調剤・検査目的以外での製造や、輸出入はすることができない。例外として、医師の処方箋がある場合や、自己利用目的として1か月分以内の分量である場合は、携帯して出入国ができる。 しかし、渡航先の国の薬物を規制する法律が、日本の法律と異なる場合がある。フルニトラゼパムは、たとえ個人利用目的でもアメリカ合衆国およびカナダへ持ち込むことは禁止されている。所持していると逮捕される可能性もある場合があり注意が必要である。不法所持でないことを証明するために、医師による英語の薬剤携行証明書を携行しているのが望ましい。 向精神薬に関する条約によって国際的に規制されている薬物は、渡航先の法律では厳重な管理下であることがあり得る。 日本の麻薬及び向精神薬取締法などによって、法律上の麻薬や向精神薬として規制管理下にない薬物は、個人輸入が可能である。その場合、劇薬や処方箋医薬品であれば、1か月分以内の分量に限られ、それ以上であれば医師の処方箋や地方厚生局の薬監証明が必要である。 医療用に指定された向精神薬は、麻薬及び向精神薬取締法にて、医療上の有益性・乱用の危険性を考慮して以下のように等級分けされ規制されている。( )は医薬品として市販されている商品名。 アメリカ合衆国では、規制物質法 (Controlled Substances Act) により、スケジュールIからスケジュールVまでの5段階で規制される。 フルニトラゼパム(アメリカにおける通称ロヒプノール)には、前向性健忘の可能性があるため、医療用として未承認のまま、1984年11月5日にスケジュールIVに位置付けられ、1996年3月には、科学的また医学的な評価を行いそのままにされている。つまり薬物規制下にあるが、医療用に認可されていないので、用いることができない。 連邦アナログ法(英語: Federal Analog Act)が、デザイナードラッグを規制している。 イギリスでは、1971年薬物乱用法 (Misuse of Drugs Act 1971) によって、A、BおよびCのクラスに分類され規制されている。詳細は、en:Drugs controlled by the UK Misuse of Drugs Actである。 乱用の潜在性によって、ヘロインのようなクラスA、アンフェタミンのようなクラスB、一般的な精神科の処方薬を含むクラスCに分けられる。
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"狭義の「日本の法律上の向精神薬」は、麻薬及び向精神薬取締法で個別に指定された薬物を指す。薬物乱用の懸念があるメチルフェニデートのようなや精神刺激薬、ベンゾジアゼピン系やバルビツール酸系の抗不安薬・睡眠薬・麻酔薬・抗てんかん薬の一部が、日本の同法における第一種向精神薬から第三種向精神薬に指定されている。これは国際条約である向精神薬に関する条約の付表IIからIVに相当する。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この条約で指定された薬物は、1条(e)の規定によりすべて「国際条約上の向精神薬」であり、付表IからIVまでの分類が存在する。批准各国は薬物を管理するための同様の法律を有するものの、条約において付表Iに分類されているLSDなどを、日本の法律上は麻薬に分類している点が、国際法と日本法で異なる。そして、第32条4項が、含有する植物の自生国における伝統的な宗教儀式への使用は規制から除外する。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "古来から、精神に何らかの作用を及ぼす植物が用いられてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "19世紀フランスの精神科医ジャック-ジョセフ・モロー・ド・トゥールの『ハシーシュと精神病』(1845年)は向精神薬を科学的に扱った最初の研究とされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "20世紀初頭には、そのころ登場したバルビツール酸やモルヒネといった薬物が用いられた。1943年にLSDが合成され医薬品として販売されるに至ると、この薬物による研究も盛んになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ジョン・ケイドによるリチウムの抗躁作用の発見あるいはクロルプロマジンの合成と治療効果の発見をもって、近代における精神薬理学の幕開けとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1949年にジョン・ケイドがリチウムの抗躁作用を見出す。1952年には、フランスの精神科医ジャン・ドレー(英語版) (Jean Delay) とピエール・ドニカー(英語版) (Pierre Denike) がクロルプロマジンの統合失調症に対する治療効果を初めて正しく評価し、精神病に対する薬物療法の時代が幕を開けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1957年には、ベルギーの薬理学者パウル・ヤンセン(英語版) (Paul Janssen) がクロルプロマジンより優れているとされる抗精神病薬ハロペリドールを開発する。1957年に、スイスの精神科医ローラント・クーンによってイミプラミンが、精神賦活作用を有することが見いだされ、うつ病の薬物療法への道が開かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1960年ごろまでに、初のベンゾジアゼピン系の抗不安薬であるクロルジアゼポキシドと、その類似の化学構造を持つジアゼパムが販売されるようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1971年には、国際条約である向精神薬に関する条約が、LSDや、覚醒剤やバルビツール酸系/ベンゾジアゼピン系といった乱用の危険性のある向精神薬について公布される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1984年には、新しい世代の抗精神病薬である非定型抗精神病薬のリスペリドンが開発される。また、抗うつ薬でも、新世代のSSRI抗うつ薬が販売される。このころまでには、ベンゾジアゼピン系の薬物の依存症や副作用が問題となり、1996年にも、世界保健機関も30日までをめどに処方すべきとする報告を行った。非ベンゾジアゼピン系の薬剤が販売されるに至る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また1980年代より、既存の薬物の化学構造を修正したデザイナードラッグが合成されるようになり、その流通が問題視されるようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2007年には、日本において、リタリンの不適切処方問題が表面化。うつ病がリタリンの適応症から外される。翌年に流通規制制度を設ける。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2005年にたばこの規制に関する世界保健機関枠組条約が発効し、2010年にはアルコールの有害な使用を低減するための世界戦略が採択された。世界保健機関・元事務局長のグロ・ハーレム・ブルントラントは「たばこは最大の殺人者である」と述べ、年間600万人の死亡につながり最大の予防できる死因とされてきたし、同様にアルコールも年間250万人の死亡につながっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では、各製薬会社による精神科治療薬を含めた適応外使用を勧める違法なマーケティングは、数億ドル以上の史上最高額の罰金を更新し続けている。新世代の精神科の治療薬は、基本的にお互いを模倣した薬剤が多くあり、メディアにおいて「模倣薬」(me too drug)と称される。似たような10種類の新しい非定型抗精神病薬と、似たような6種類のSSRI抗うつ薬が販売されており、さらにこれらの薬剤は精神障害に対し十分な反応を示しておらず、耐えがたい副作用があるため、これまでとは違った薬剤の研究が必要となっている。2009年ころより、大手製薬会社は精神障害の治療薬の開発から撤退し始めた。2011年の欧州神経精神薬理学会 (ECNP, European College of Neuropsychopharmacology) の会談で、会長のデビッド・ナットはこの状況に対し「精神薬理学の暗黒の日々である」と述べ、『ネイチャー』はその取材記事に「精神薬理学の危機」という題名をつけた。新しい薬はない。アメリカ国立精神衛生研究所 (NIMH) 所長のトーマス・インセルも同様の状況に触れている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日本では、2010年に厚労相が「うつ病などに対する薬漬け医療」について、自殺・うつ病対策プロジェクトチームにて大量処方、過量服薬の防止について検討していることに言及した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "過剰摂取による死亡は、英米で交通死亡者数を上回り、国際的な懸念となっている。アメリカでは、2010年には38,329人の薬物過剰摂取による死亡があり、その過半数は一般医薬品や違法薬物ではなく処方箋医薬品であり、全体の74.3%が意図しない死亡である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2011年6月、薬物政策国際委員会は、薬物戦争に関する批判的な報告書を公表し、「世界規模の薬物との戦争は、世界中の人々と社会に対して悲惨な結果をもたらし失敗に終わった。国連麻薬に関する単一条約が始動し、数年後にはニクソン大統領がアメリカ合衆国連邦政府による薬物との戦争を開始したが、50年が経ち、国家および国際的な薬物規制政策における抜本的な改革が早急に必要である」と宣言した。このコフィー・アナン国連前事務局長ら参加する委員会は、各国に大麻の合法化や、薬物依存症者に対しては罰するより効果的である医療の提供などこれまでの薬物政策の見直しを求めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2013年の薬物乱用防止デーにおいて国連は、司法だけでなく人権や公衆衛生、また科学に基づいた予防と治療の手段が必要であり、2014年にも高度な見直しを開始することに言及しており、加盟国にもあらゆる方法を考慮した、幅広い開かれた議論を行うことを強く推奨している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "デザイナードラッグと呼ばれる新規向精神薬が問題になっているが、売買したり使用する人々を投獄するための証拠を欠いており、堅牢な証拠もなく規制しそして処罰を課すことによって、何が脅威であるかの説明を欠いたままの処罰となってしまう。イギリスではたった1件しか報告されていない死亡例をメディアで大々的に報道し、薬理学的に確かな知識もなく規制したことにより、使用者はさらに危険性の高い薬物の使用に舞い戻った。化学構造の類似性に基づいて規制することは不可能であり、合成THCのような新しい治療薬の開発を妨げる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "精神科の薬は、高額な治験第III相試験は失敗が多くなり製薬産業はハイリスクだとみなすようになり、2009年には267だった中枢神経系領域での試験数は2014年には129であり、その多くは神経学の領域であり精神医学ではない。国際神経精神薬理学会(CINP)は、薬の多くは根本的治療には程遠く、副作用に問題があり、薬の作用する新たな標的を探す必要があることから、EU、北米、日本、その他の国々の政府に対して革新的な創薬ができるよう提案した。専門家は強い禁止が研究を壊滅的にしてしまうことを警告している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "そのような中で、国際神経精神薬理学会でもケタミンの抗うつ作用が議題に上がり、MDMAを使った心理療法をFDAが画期的治療法に指定するなど、ブレイクスルーとなっているのは、これまで医療用途がないとして顧みられなかった幻覚剤や医療大麻の領域である。サイケデリック・ルネッサンスと呼ばれている。イギリスの小規模研究はシロシビン(マジックマッシュルームの成分)が、従来の治療に反応のないうつ病の人の約半分を、数週間にわたりうつ病ではない状態にした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2018年11月には国連システム事務局調整委員会は、国連システムとしての薬物問題への対処法を確認し声明を出したが、人権に基づくこと、偏見や差別を減らし科学的証拠に基づく防止策や治療・回復を促すこと、薬物使用者の社会参加を促すことといった考えが含まれている。2019年6月には、国際麻薬統制委員会 (INCB) も声明を出し、薬物乱用者による個人的な使用のための少量の薬物所持のような軽微な違反に対して懲罰を行うことを薬物を規制する条約は義務付けておらず、そのような場合には有罪や処罰ではなく治療や社会への再統合という代替策があるとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "鎮痛薬(analgesic)は、中枢神経系に対して抑制的に作用する薬物である。乱用の危険性がある。モルヒネやコデインのようなオピオイド系の薬物がある。また、大麻の主な有効成分とされるテトラヒドロカンナビノール(THC)にも鎮痛作用がある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "向精神薬には、精神障害の治療のために処方される処方箋医薬品の群が存在する。その一部が日本の麻薬及び向精神薬取締法における向精神薬に指定されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1996年、アメリカ国立精神衛生研究所(英語版)のスティーブン・ハイマン(英語版)所長とイェール大学のエリック・ネスラー(英語版)博士は「向精神薬の長期投与は、ほとんど全ての自然刺激の耐久力や回復力の限界を確実に越えるようで、神経伝達物質の機能に混乱を引き起こします」と述べている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1998年、ミシガン大学のエリオット・ヴァレンスタイン博士は「生きている人間の脳の化学的な状態を評価するための検査法は、存在しないのが現実だ」と述べている。精神科医などは、向精神薬は「脳内化学物質の不均衡」を正すと説明するが、科学的な根拠があるわけではない。また、専門家の間では、「脳内化学物質の不均衡」説は辻褄が合わないことが古くから知られており、向精神薬の処方には合理的な理由がないのが実情である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2002年、アメリカ精神医学会企業献金委員会のステファン・ゴールドフィンガー(Stephen Goldfinger)委員長は、製薬会社による精神科医の囲い込みについて、「製薬会社は道徳観念のない一団です。彼らは慈善団体ではありませんから、操り糸も付けずに大金を寄付するなど到底あり得ません」と述べている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2003年、アメリカ精神医学会のスティーブン・シャーフスタイン副会長は、精神保健システムが細分化される理由について、「生き残るために、私たち(精神科医)は金のあるところに行かねばなりません」と証言している。日本では医師法第17条によって診療を行う者が医師に限定されているが、アメリカ合衆国では医師ではないサイコロジストにも法的に診療が認められている。精神医学を使う薬物療法中心の精神科医と臨床心理学を使う心理療法中心のサイコロジストに分かれており、商売上の競合がある。また、精神科医は心理療法のトレーニングをほとんど受けていない。精神科医にとって細分化とは、DSMで精神障害の種類を増やし、様々なサービスを生み出し、薬物療法を推進することを意味している。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2004年、カーディフ大学のDavid Healy博士は「今日にいたるまで、うつ病でのセロトニン異常が証明されたことは一度もない」と述べている。また、健康な人にSSRIを投与すると焦燥、不安、自殺傾向などを示すことがある。この事実は、1980年代に製薬会社の研究によって証明されている。健康なボランティアに対して行われた「ゾロフト」の試験では、かなり重症化し、第1週のうちに全員脱落している。SSRIを服用する人の大部分は、内因性のうつ症状を持つ人よりむしろ、健康なボランティアにずっと近い人々である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『The New England Journal of Medicine』の前編集長であり、ハーバード大学医学大学院で上級講師を務める内科医のマーシャ・エンジェル(英語版)は「昔々、製薬会社は病気を治療する薬を売り込んでいました。今日では、しばしば正反対です。彼らは薬に合わせた病気を売り込みます」と述べている。一例として、月経前不快気分障害は、「プロザック」の名称を「サラフェム」と変更しただけの薬を月経前症候群用に販売し、生まれた診断名である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2005年、メディアに追及されたアメリカ精神医学会のスティーブン・シャーフスタイン会長は、『People』誌で、「脳内化学物質の不均衡」の証明について、「明確な検査法は存在しません」と認めている。脳スキャン技術による診断の目処も立っていない。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "有害な精神科治療を調査したボストン・グローブ紙の連載で、1998年、ピューリッツァー賞の最終候補に残ったこともある医療ジャーナリストのロバート・ウィタカー(英語版)によれば、研究文献を調べると、抗精神病薬、抗うつ薬、抗不安薬、ADHD治療に使われる「リタリン」のような精神刺激薬の全てに共通のパターンが見られる。短期間、たとえば、6週間であれば、対象症状について、偽薬よりわずかに上回る効果を得られる可能性があるが、長期間になると、全ての対象症状で偽薬を投与された患者より悪化し、慢性化、重症化している。また、かなり著しい割合で、新たな精神症状やより重い精神症状が薬物自体によって引き起こされている 。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2006年、DSM-IVの作成に関与した精神医学の専門家の56%(170人中95人)に、向精神薬を販売する製薬会社と金銭的なつながりがあったことが判明した。感情障害と精神病性障害(psychotic disorders)の作業グループでは100%であった。マサチューセッツ大学の臨床心理学者であるリサ・コスグローヴ博士は「精神医学の分野における金銭的なつながりがどれ程ひどいのか、私は大衆が気づいているとは思いません」と述べている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "アラスカ州最高裁判所は抗精神病薬に関する訴訟の判決文で、「向精神薬は患者の心身に重大で永続的な悪影響を及ぼすことがある」「数々の破壊的な副作用を引き起こす可能性があることが知られている」と説明している。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2008年、ニューヨーク州立大学のトーマス・サズ(英語版)博士は「自然科学事業の健全性は、私たちが『科学的』と呼ぶ活動に従事する各人が、真実を探求して真実を語る、また、誤った説明と虚偽の『事実』を暴いて排除するという科学的共同体の約束で成り立っています。対照的に、宗教の安定性、精神医学の偽装信仰、いわゆる行動科学は、議論の余地のない教義としきたりに対する担い手の忠誠、それに基づいた集団の繁栄に害を及ぼすような真実を語ることへの拒絶から成り立っています」「プロフェッショナルの信頼性を保つために、精神医学の歴史家、精神科医のような者は、癌が実在するのと同じ感覚で、心の病は実在すると信じるか、信じているふりをしなければなりません。その結果、彼らは鼻の先にある現実を見る危険を冒すことができません」と述べている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2009年、偽薬効果を研究するハル大学のアービング・カーシュ博士は「支持できる証拠が乏しいどころか、化学物質不均衡説は間違いでしかないと膨大なデータが語っている」と述べている。抗うつ薬には不活性プラセボ(副作用のない偽薬)を若干上回る程度の効果しかなく、両者の差は副作用の有無だと指摘している。副作用が起きると本物だと分かり、被験者の期待が高まるからである。活性プラセボ(副作用のある偽薬)を用いた臨床試験では、抗うつ薬との間に有意な差は見られなかった。また、禁断症状が出る可能性があり、「医師に相談することなく抗うつ薬の服用を中断しないこと」と警告している。急な断薬ではなく、徐々に減薬することが重要である。『Coming Off Antidepressants: Successful Use and Safe Withdrawal』(Joseph Glenmullen、2006年)は抗うつ薬を中止する方法が分かる優れた一冊である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2010年、抗うつ薬の効果について、医師側から二つの反論がある。一つは、アメリカ食品医薬品局は偽薬より効果があると示す2件の臨床試験を要求しており、効果のない薬を承認するはずがない、という反論である。しかし、2件であり、他の大多数の臨床試験が効果がないと示していても良い。また、要求は統計的有意差であり、臨床的有意差(医薬品と偽薬の効果の差)の大きさは考慮されていない。もう一つは、医師は臨床現場で効果を確認している、という反論である。しかし、医師は偽薬を使うことがほとんどないため、偽薬に1錠4ドルする薬と同程度の効果があるとは考えない。また、専門家は抗うつ薬に効果がないとは言っていない。何も処方しないより偽薬を処方したほうが効果があり、抗うつ薬には偽薬程度の効果がある。問題としているのは抗うつ薬の効果が偽薬効果か否かである。「ゾロフト」を製造するファイザー社のスポークスパーソンは、抗うつ薬が「一般に偽薬と区別できないこと」は「アメリカ食品医薬品局、学界、製薬業界でよく知られている事実です」と述べている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2012年、DSM-IVのアレン・フランセス編纂委員長は「精神医学における生物学的検査というのは未だにありません」「誤解を招きやすい考えの一つが、精神科の問題はすべて化学的アンバランスによるもので、服薬で病気が治るという考え方です。この考えによって、製薬会社は過去30年にわたって薬を売ることができたわけです」と述べている。精神科の軽度〜中程度の症状には、心理療法が少なくとも薬物療法と同じくらい効果がある。心理療法のほうが持続効果は長く、副作用も少ないが、非常に多くの人が必要のない薬物療法を受けている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2013年、国立精神・神経医療研究センター薬物依存研究部の松本俊彦室長は「精神科では依存性のある薬を使わざるを得ない場面もあるが、漠然とした投薬や診察なしの投薬は避けるべきだ」と指摘している。睡眠薬や精神安定剤として、多くの診療科で処方されるベンゾジアゼピン系薬剤は依存性の高さが指摘されている。薬物依存症について、精神科医からは「内科などの不適切な処方が問題」との意見が出ていたが、同センターなどの調査によれば、依存症の専門外来を受診した患者の84%は精神科治療によって引き起こされている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "向精神薬は、薬物乱用の危険性があるものが多い。向精神薬に関する条約における薬物乱用とは、精神的依存と身体的依存のどちらか、あるいは両方において薬物が用いられることである。乱用されやすい向精神薬は、この国際条約の管理下にある。", "title": "乱用" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "医学的には、アメリカ精神医学会(APA)による『精神障害の診断と統計マニュアル』の第4版(DSM-IV)では、物質乱用(Substance Abuse)の診断分類があり、アルコール、アンフェタミン類、大麻、コカイン、幻覚剤、アヘン類、鎮静剤、睡眠剤、または抗不安薬、他に、その他の物質に分類している。著しい苦痛や機能の障害を引き起こすなど重症であり、そして反復的にそうした結果が起きている場合である。", "title": "乱用" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "世界保健機関によれば、有害な使用(Harmful use)の診断名であり、精神や身体の健康に実際に害があるような物質の使用パターンである。世界保健機関によれば、乱用の用語は、いかなる使用も不可であるとも用いられるため、その曖昧さゆえにこの語は依存を生じうるような物資では使われないということである。有害な使用には、社会的に否定的な結果が生じたり、文化的に承認されないといったものは含まない。", "title": "乱用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "向精神薬の多くは薬物依存症の危険性があるものが多い。", "title": "依存性" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "薬物依存症の可能性は、個々の物質ごとにそれぞれ異なる。摂取量、摂取頻度、物質、投与経路、薬物動態などが、薬物依存形成の要素である。", "title": "依存性" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "医学雑誌『ランセット』に示された、20の薬物についての身体的依存、精神的依存、快感の平均尺度が0〜3の範囲で示された。カフェインは研究に含まれていない。", "title": "依存性" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "アンフェタミン、コカイン、ある種の抗不安薬のように、短時間作用型の薬物は依存や乱用を発現させる可能性が特に高い。アルコールと、ベンゾジアゼピン系やバルビツール酸系の鎮静催眠薬からの離脱は、発作を起こし致命的となる可能性がある。逆に大麻や、幻覚剤のように不快な離脱症状を回避するための摂取というものが起きない薬物もあり、治療を求めるのはまれであり、幻覚剤ではほとんどが短い乱用及び依存のあと、元の生活様式に復帰する。LSDやシロシビンでは、実質的に誰も依存症にならない。", "title": "依存性" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アルコールは攻撃的な感情が起こることを促し、大麻は減少させる。", "title": "暴力との関連" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "薬物によって、過剰摂取した際の危険性は異なる。ヘロインやモルヒネ、アルコール、ベンゾジアゼピン系の薬物やこれらの薬物を併用することは、過剰摂取の危険性を高める。", "title": "過剰摂取と致死性" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "逆に、大麻やLSDやシロシビンでは図のように安全係数が高く、重症例、死亡報告はほとんどない。", "title": "過剰摂取と致死性" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "過剰摂取による死亡数の増加は国際的な懸念であり、アメリカでの2010年度の過剰摂取による死亡は、過半数の死亡が処方箋医薬品によるものであり、74.3%が意図しない死亡である。", "title": "過剰摂取と致死性" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2009年アメリカでは、タバコに起因する443,000人の死亡があり、アルコールでは98,334人であり、他の薬物では37,485人である。2008年に処方薬の過剰摂取による死亡が20,044人、違法薬物の使用に起因する死亡は16,044人である。", "title": "死亡者数" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "タバコでは、がん(41%:毎年約16万)や心血管疾患(33%)が多く、アルコールでは急性の死亡では運転事故(14%:毎年約1万4千)、他殺(8%)、自殺(7%)、転落死(5.6%)、慢性ではアルコール性肝疾患(12%)などで、暴力や事故に関連する急性の死亡も多いことがタバコによる死亡とは大きく異なる。処方薬ではオピオイド、違法薬物ではヘロインによるものが多い。2010年の医薬品の過剰摂取による死亡は、オピオイド系鎮痛薬が16,651人、ベンゾジアゼピン系薬が6,497人、抗うつ薬が3,889人と上位3位を占め、抗てんかん薬や抗パーキンソン病薬が1,717人、抗精神病薬が1,351人である。", "title": "死亡者数" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "イギリス薬物政策委員会(UKDPC)は、毎年の死亡者数は115,000人が喫煙、アルコールが35,000人、違法薬物は2000人であり、アルコールとタバコは違法薬物よりも有害であると結論している。2010年のイギリスにおける薬物に関連する死亡は、合計2597人であり、すべてのベンゾジアゼピン系薬物で307人、鎮痛薬のトラマドールが132人、合法ドラッグによるものが22人などを含んでいる。", "title": "死亡者数" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本のタバコによる死亡者数を日本学術会議は毎年11万人以上とし、アルコール関連の3学会によれば、2008年の推計でアルコールに関連して34,988人が死亡している。", "title": "死亡者数" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1971年の向精神薬に関する条約が向精神薬の規制の根拠だが、32条4項は、含有植物が自生している国において、伝統的に宗教的な儀式として用いられている場合に条約の影響が保留されるとされている。信仰による除外は、アメリカでのネイティブ・アメリカン・チャーチのペヨーテ・サボテンの使用、ジャマイカでのガンジャ(大麻)の使用がある。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "日本においては以下の通りに法的に管理されている。なお、日本の法律上の便宜により、「麻薬」と「向精神薬」に分類されるが、医学的な分類ではない。(この違いについては、麻薬を参照)", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "医学的な麻薬 (Narcotics) の定義の他に、法律上の麻薬として麻薬及び向精神薬取締法やあへん法にて定められ、広義の麻薬である大麻は、大麻取締法にて別個に大麻として管理下にある。日本では、幻覚剤も麻薬及び向精神薬取締法にて、法律上の麻薬として定められている(幻覚剤は、北米では麻薬には分類されない)。これらの類似構造を持つデザイナードラッグの一部は、医薬品医療機器等法にて指定薬物に指定され規制されており、さらに類似構造を規制する目的で包括指定が行われている。これら以外の何の法的制約のないものが、脱法ドラッグである。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "メチルフェニデートなどの精神刺激薬や、ベンゾジアゼピン系の鎮静催眠剤などは、麻薬及び向精神薬取締法にて、日本の法律上の第一種から第三種までの向精神薬として規制されている。それとは別に、医薬品医療機器等法にて習慣性医薬品が定められ、ベンゾジアゼピン系睡眠薬やオピオイド系の鎮痛薬を中心としている。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "例外的に精神刺激薬の一部は、覚醒剤取締法にて、アンフェタミン(フェニルアミノプロパン)、メタンフェタミン(フェニルメチルアミノプロパン)、別表にて8種、また別表にてその原料が規制薬物と定められる。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2014年6月より、薬事法の改正によって、一般薬に含まれる「乱用の恐れのある医薬品の成分」のコデイン、ジヒドロコデイン、ジヒドロコデインセキサノール、メチルエフェドリン、ブロムワレリル尿素、エフェドリン、プソイドエフェドリンが含まれる医薬品を、原則で1人1箱に制限する。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "日本の麻薬及び向精神薬取締法などによって、法律上の麻薬や向精神薬として規制管理下にある薬物は、調剤・検査目的以外での製造や、輸出入はすることができない。例外として、医師の処方箋がある場合や、自己利用目的として1か月分以内の分量である場合は、携帯して出入国ができる。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "しかし、渡航先の国の薬物を規制する法律が、日本の法律と異なる場合がある。フルニトラゼパムは、たとえ個人利用目的でもアメリカ合衆国およびカナダへ持ち込むことは禁止されている。所持していると逮捕される可能性もある場合があり注意が必要である。不法所持でないことを証明するために、医師による英語の薬剤携行証明書を携行しているのが望ましい。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "向精神薬に関する条約によって国際的に規制されている薬物は、渡航先の法律では厳重な管理下であることがあり得る。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "日本の麻薬及び向精神薬取締法などによって、法律上の麻薬や向精神薬として規制管理下にない薬物は、個人輸入が可能である。その場合、劇薬や処方箋医薬品であれば、1か月分以内の分量に限られ、それ以上であれば医師の処方箋や地方厚生局の薬監証明が必要である。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "医療用に指定された向精神薬は、麻薬及び向精神薬取締法にて、医療上の有益性・乱用の危険性を考慮して以下のように等級分けされ規制されている。( )は医薬品として市販されている商品名。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では、規制物質法 (Controlled Substances Act) により、スケジュールIからスケジュールVまでの5段階で規制される。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "フルニトラゼパム(アメリカにおける通称ロヒプノール)には、前向性健忘の可能性があるため、医療用として未承認のまま、1984年11月5日にスケジュールIVに位置付けられ、1996年3月には、科学的また医学的な評価を行いそのままにされている。つまり薬物規制下にあるが、医療用に認可されていないので、用いることができない。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "連邦アナログ法(英語: Federal Analog Act)が、デザイナードラッグを規制している。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "イギリスでは、1971年薬物乱用法 (Misuse of Drugs Act 1971) によって、A、BおよびCのクラスに分類され規制されている。詳細は、en:Drugs controlled by the UK Misuse of Drugs Actである。", "title": "法律と規制管理" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "乱用の潜在性によって、ヘロインのようなクラスA、アンフェタミンのようなクラスB、一般的な精神科の処方薬を含むクラスCに分けられる。", "title": "法律と規制管理" } ]
向精神薬とは、中枢神経系に作用し、生物の精神活動に何らかの影響を与える薬物の総称である。 主として精神医学や精神薬理学の分野で、脳に対する作用の研究が行われている薬物であり、また精神科で用いられる精神科の薬、また薬物乱用と使用による害に懸念のあるタバコやアルコール、また法律上の定義である麻薬のような娯楽的な薬物が含まれる。 精神刺激薬 - コカイン、ニコチン、カフェイン、アンフェタミンやメタンフェタミンやメチルフェニデート、MDMA。 抑制剤 - アルコール、ベンゾジアゼピン系、ヘロインやアヘンやモルヒネといったオピオイド系の薬物や大麻。 幻覚剤 - LSD、シロシビン、メスカリン、DMT、ケタミン。
{{Otheruses|精神的な作用を持つ薬物全般|医療用途の薬品|精神科の薬|主として[[統合失調症]]の治療薬|抗精神病薬}} '''向精神薬'''(こうせいしんやく、{{lang-en-short|Psychoactive drug, Psychotropic}}<ref>{{Cite book|和書|author=G.R. ファンデンボス監修|translator=繁桝算男、四本裕子|title=APA心理学大辞典|publisher=培風館|date=2013|isbn=978-4563052348|page=268}} Psychoactive drug と Psychotropic 共に向精神薬。</ref>)とは、[[中枢神経系]]に作用し、[[生物]]の[[精神]]活動に何らかの影響を与える[[薬物]]の総称である。 主として[[精神医学]]や[[精神薬理学]]の分野で、脳に対する作用の研究が行われている薬物であり、また[[精神科]]で用いられる[[精神科の薬]]<ref name="michimanuall" />、また[[薬物乱用]]と使用による害に懸念のあるタバコやアルコール、また法律上の定義である[[麻薬]]のような{{仮リンク|娯楽的な薬物|en|Recreational drug}}が含まれる{{sfn|世界保健機関|2004}}。 * [[精神刺激薬]] - [[コカイン]]、[[ニコチン]]、[[カフェイン]]、[[アンフェタミン]]や[[メタンフェタミン]]や[[メチルフェニデート]]、[[MDMA]]。 * [[抑制剤]] - [[アルコール]]、[[ベンゾジアゼピン系]]、[[ヘロイン]]や[[アヘン]]や[[モルヒネ]]といった[[オピオイド]]系の薬物や[[大麻]]。 * [[幻覚剤]] - [[LSD (薬物)|LSD]]、[[シロシビン]]、[[メスカリン]]、[[ジメチルトリプタミン|DMT]]、[[ケタミン]]。 <!--2009年アメリカでは、タバコに起因する443,000人の死亡があり、アルコールでは98,334人であり、他の薬物では37,485人で、2008年に[[処方箋医薬品|処方薬]]の過剰摂取による死亡が20,044人、違法薬物の使用に起因する死亡は16,044人である{{sfn|コロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター|2012}}。個々では異なる特徴を有する。典型的な精神刺激薬は、興奮を生じさせるが、MDMAでは共感性を呼び起こす作用が強い。オピオイドやアルコールのように致死量と作用量が狭く過剰摂取によって死亡しやすい薬物や、大麻や幻覚剤のように広いためそうしたことが起こりにくいものがある。ニコチンやアルコールは共に依存性が強いとみなされているが、アルコールの離脱症状による[[振戦せん妄]]は致命的となりえるが、ニコチンではそうしたことは起こらない。アルコールの作用には暴力を起こす傾向があり、大麻のように攻撃的な感情を減少させる薬物がある。--> == 種類 == [[精神刺激薬]](Stimulant)は、中枢神経系を活性化させる薬物の総称で、[[コカイン]]、[[ニコチン]]、[[カフェイン]]、[[アンフェタミン]]や[[メタンフェタミン]]や[[MDMA]]{{sfn|世界保健機関|2009|p=3}}、[[メチルフェニデート]]{{sfn|世界保健機関|2004|p=2}}が含まれる。心拍や呼吸を増加する{{sfn|世界保健機関|2009|p=3}}。慢性的な使用により[[統合失調症]]様の[[精神刺激薬精神病]]を呈する。 [[抑制剤]](Depressant)は、その反対に中枢神経系を抑制する作用を持つ。[[アルコール]]、[[有機溶剤]]、[[ベンゾジアゼピン系]]薬、[[ヘロイン]]や[[アヘン]]や[[モルヒネ]]といった[[オピオイド]]系の薬物や[[大麻]]が含まれる{{sfn|世界保健機関|2009|p=3}}。抗不安作用や鎮痛作用がある。[[過量服薬]]すると呼吸中枢を抑制して死亡するものも多い。 [[幻覚剤]](Hallucinogen)は、幻覚作用を持つ薬物で、典型的には[[LSD (薬物)|LSD]]のような薬物である。しかしながら、大麻やMDMAは幻覚特性を持つためここにも分類される{{sfn|世界保健機関|2009|p=3}}。これらの薬物では不快な[[離脱症状]]を避けるための使用が認められず、そうしたことを理由に医療を求めるのはまれである<ref name="DSM-3R" />。 === 法律上の定義 === 狭義の「日本の法律上の向精神薬」は、[[麻薬及び向精神薬取締法]]で個別に指定された薬物を指す。[[薬物乱用]]の懸念がある[[メチルフェニデート]]のようなや精神刺激薬、[[ベンゾジアゼピン系]]や[[バルビツール酸系]]の抗不安薬・睡眠薬・麻酔薬・抗てんかん薬の一部が、日本の同法における'''第一種向精神薬'''から'''第三種向精神薬'''に指定されている。これは国際条約である[[向精神薬に関する条約]]の付表IIからIVに相当する。 この条約で指定された薬物は、1条(e)の規定によりすべて「国際条約上の向精神薬」であり、付表IからIVまでの分類が存在する。[[批准]]各国は薬物を管理するための同様の法律を有するものの、条約において付表Iに分類されている[[LSD (薬物)|LSD]]などを、日本の法律上は[[麻薬]]に分類している点が、国際法と日本法で異なる。そして、第32条4項が、含有する植物の自生国における伝統的な宗教儀式への使用は規制から除外する。 == 歴史 == 古来から、精神に何らかの作用を及ぼす植物が用いられてきた。 19世紀フランスの精神科医[[ジャック-ジョセフ・モロー・ド・トゥール]]の『ハシーシュと精神病』(1845年)は向精神薬を科学的に扱った最初の研究とされる<ref>「向精神薬」「精神薬理学」世界大百科事典</ref>。 === 1950年代半ばまで === 20世紀初頭には、そのころ登場したバルビツール酸やモルヒネといった薬物が用いられた。1943年にLSDが合成され医薬品として販売されるに至ると、この薬物による研究も盛んになった。 === 近代の精神薬理学の幕開け === [[ジョン・ケイド]]による[[リチウム]]の抗躁作用の発見あるいは[[クロルプロマジン]]の合成と治療効果の発見をもって、近代における精神薬理学の幕開けとされる。 [[1949年]]に[[ジョン・ケイド]]が[[リチウム]]の抗躁作用を見出す。[[1952年]]には、フランスの精神科医{{仮リンク|ジャン・ドレー|en|Jean Delay}} (Jean Delay) と{{仮リンク|ピエール・ドニカー|en|Pierre Deniker}} (Pierre Denike) が[[クロルプロマジン]]の[[統合失調症]]に対する治療効果を初めて正しく評価し、精神病に対する薬物療法の時代が幕を開けた。 1957年には、ベルギーの薬理学者{{仮リンク|パウル・ヤンセン|en|Paul Janssen}} (Paul Janssen) がクロルプロマジンより優れているとされる[[抗精神病薬]][[ハロペリドール]]を開発する。[[1957年]]に、スイスの精神科医ローラント・クーンによって[[イミプラミン]]が、精神賦活作用を有することが見いだされ、[[うつ病]]の薬物療法への道が開かれた<ref>{{PDFlink|[http://di.mt-pharma.co.jp/file/if/f_imi.pdf 医薬品インタビューフォーム 「イミドール」]}} [[田辺三菱製薬]] [[吉富薬品]] 2010年9月25日閲覧</ref>。 1960年ごろまでに、初のベンゾジアゼピン系の抗不安薬である[[クロルジアゼポキシド]]と、その類似の化学構造を持つ[[ジアゼパム]]が販売されるようになる。 ==== 国際条約と薬物の管理 ==== [[1971年]]には、[[国際条約]]である[[向精神薬に関する条約]]が、[[LSD (薬物)|LSD]]や、[[覚醒剤]]や[[バルビツール酸系]]/[[ベンゾジアゼピン系]]といった乱用の危険性のある向精神薬について公布される。 ==== 新世代の精神科治療薬とデザイナードラッグの台頭 ==== 1984年には、新しい世代の抗精神病薬である[[非定型抗精神病薬]]の[[リスペリドン]]が開発される。また、抗うつ薬でも、新世代のSSRI抗うつ薬が販売される。このころまでには、ベンゾジアゼピン系の薬物の依存症や副作用が問題となり、1996年にも、世界保健機関も30日までをめどに処方すべきとする報告を行った<ref>{{cite report |df=ja |author=WHO Programme on Substance Abuse|title=Rational use of benzodiazepines - Document no.WHO/PSA/96.11 |url=http://whqlibdoc.who.int/hq/1996/WHO_PSA_96.11.pdf |format=pdf |date=November 1996 |edition=|publisher=World Health Organization |accessdate=2013-03-10|oclc=67091696}}</ref>。[[非ベンゾジアゼピン系]]の薬剤が販売されるに至る。 また1980年代より、既存の薬物の化学構造を修正した[[デザイナードラッグ]]が合成されるようになり、その流通が問題視されるようになる。 2007年には、日本において、[[メチルフェニデート|リタリン]]の不適切処方問題が表面化。[[うつ病]]がリタリンの適応症から外される。翌年に流通規制制度を設ける。 === 製薬開発の停滞と規制管理の失敗 === [[ファイル:PH tobacco packaging graphic warning labels.jpg|サムネイル|右|フィリピンにおけるたばこ製品の包装。[[たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約]]の第11条は、誤った印象を与える用語を用いないために「ライト」といった用語の取り扱いを含めることができ、その包装において大きく明瞭で判読可能な警告を付し、面積の50%以上を占めるべきで30%を下回ることなく、また写真や絵を使うことができるとしている<ref name="条約">{{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/treaty159_17a.pdf たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約]}} (外務省)</ref>。フランスでも写真を用いた同様の包装である<ref name="ロイター2017"/>。日本は禁煙政策において最低水準であり、財務省が日本たばこ産業の株式の1/3を保有したばこ族議員が規制に異を唱えている<ref>{{cite web |author=Yusuke Tsugawa, Ken Hashimoto, Takahiro Tabuchi, Kenji Shibuya |title=Is Japan losing the fight against smoke-free legislation? |url=http://blogs.bmj.com/bmj/2017/10/24/is-japan-on-the-verge-of-losing-the-fight-against-smoke-free-legislation/ |date=2017-10-24 |publisher=[[ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル|BMJ]] Opinion |accessdate=2018-02-18}}</ref>。]] 2005年に[[たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約]]が発効し、2010年には[[アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略]]が採択された。世界保健機関・元事務局長の[[グロ・ハーレム・ブルントラント]]は「たばこは最大の殺人者である」と述べ<ref name="WHO歴史">{{Cite press release|和書|author=世界保健機関、独立行政法人国立がん研究センター・訳|title=たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約の歴史|publisher= |date=|url=https://www.ncc.go.jp/jp/cis/divisions/tobacco_policy/project/fctc/FCTC_History.pdf|format=pdf|accessdate=2018-02-18}} 2010 年初めまでの枠組条約の歴史。</ref>、年間600万人の死亡につながり最大の予防できる死因とされてきたし<ref name="ロイター2017">{{cite news |title=喫煙による死者数、2030年までに年800万人に増加へ |url=https://jp.reuters.com/article/health-tobacco-idJPKBN14U0C7 |date=2017-01-10 |newspaper=ロイター |accessdate=2018-02-18}}</ref>、同様にアルコールも年間250万人の死亡につながっている<ref name="whoGS">[http://www.who.int/substance_abuse/activities/gsrhua/en/ Global strategy to reduce harmful use of alcohol](世界保健機関)</ref>。 アメリカ合衆国では、各製薬会社による精神科治療薬を含めた[[適応外使用]]を勧める違法なマーケティングは、数億ドル以上の史上最高額の罰金を更新し続けている<ref name="top10Settlements">{{cite news|author=Maia Szalavitz Sept |url=http://healthland.time.com/2012/09/17/pharma-behaving-badly-top-10-drug-company-settlements/ |title=Top 10 Drug Company Settlements |publisher=TIME.com |date=2012-09-17|accessdate=2013-02-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.justice.gov/opa/pr/2013/November/13-ag-1170.html |title=Johnson & Johnson to Pay More Than $2.2 Billion to Resolve Criminal and Civil Investigations |publisher=Justice.gov |date=2013-11-04 |accessdate=2013-11-13}}</ref>。新世代の精神科の治療薬は、基本的にお互いを模倣した薬剤が多くあり、メディアにおいて「模倣薬」([[:en:Pharmaceutical industry#"Me-too" drugs|me too drug]])と称される<ref name="nydrpipe">{{cite news |author=Richard A. Friedman |title=A Dry Pipeline for Psychiatric Drugs |url=http://www.nytimes.com/2013/08/20/health/a-dry-pipeline-for-psychiatric-drugs.html |date=2013-08-19 |newspaper=New York Times |accessdate=2013-11-13}}</ref>。似たような10種類の新しい非定型抗精神病薬と、似たような6種類のSSRI抗うつ薬が販売されており、さらにこれらの薬剤は精神障害に対し十分な反応を示しておらず、耐えがたい副作用があるため、これまでとは違った薬剤の研究が必要となっている<ref name="nydrpipe" />。2009年ころより、大手製薬会社は精神障害の治療薬の開発から撤退し始めた<ref name="pmid20671165">{{cite journal|last1=Miller|first1=G.|title=Is Pharma Running Out of Brainy Ideas?|journal=Science|volume=329|issue=5991|pages=502–504|year=2010|month=July|pmid=20671165|doi=10.1126/science.329.5991.502|url=http://ic.ucsc.edu/~drsmith/metx270/html/Miller%202010.pdf|format=pdf}}</ref><ref name="Abbott2011">{{cite journal|last1=Abbott|first1=Alison|title=Novartis to shut brain research facility|journal=Nature|volume=480|issue=7376|year=2011|pages=161–162|issn=0028-0836|doi=10.1038/480161a}}</ref>。2011年の欧州神経精神薬理学会 (ECNP, European College of Neuropsychopharmacology) の会談で、会長の[[デビッド・ナット]]はこの状況に対し「精神薬理学の暗黒の日々である」と述べ、『ネイチャー』はその取材記事に「精神薬理学の危機」という題名をつけた<ref name="Cressey2011">{{cite journal|last1=Cressey|first1=Daniel|title=Psychopharmacology in crisis|journal=Nature|year=2011|issn=1476-4687|doi=10.1038/news.2011.367|url=http://www.nature.com/news/2011/110614/full/news.2011.367.html}}</ref>。新しい薬はない<ref name="NoNewMeds">{{cite news |author=Laura Sanders |title=No New Meds |url=http://www.sciencenews.org/view/feature/id/348115/description/No_New_Meds |date=2013-02-07 |newspaper=ScienceNews |accessdate=2013-03-24}}</ref>。[[アメリカ国立精神衛生研究所]] (NIMH) 所長の[[トーマス・インセル]]も同様の状況に触れている<ref>{{cite news |author= |title=New psychiatric drugs low priority for pharmaceutical firms: Huge unmet need for better drugs for people with depression |url=http://www.cbc.ca/news/health/story/2012/10/12/psychiatric-drugs.html |date=2012-10-14 |newspaper=CBC News |accessdate=2013-03-20}}</ref>。 日本では、2010年に厚労相が「うつ病などに対する薬漬け医療」について、自殺・うつ病対策プロジェクトチームにて[[多剤大量処方|大量処方]]、[[過量服薬]]の防止について検討していることに言及した<ref>{{cite news |author=江刺正嘉 |title=向精神薬:過量服薬対策、厚労相が表明 省内にPT |url= |date=2010-06-29 |newspaper=毎日新聞 |page=東京朝刊1面|accessdate=2013-11-13}}</ref>。 [[過剰摂取]]による死亡は、英米で交通死亡者数を上回り、国際的な懸念となっている<ref name="huff20130830">{{cite news |author=Nick Wing |title=America, It's Time For An Intervention: Drug Overdoses Are Killing More People Than Cars, Guns |url=https://www.huffpost.com/entry/drug-overdose-deaths_n_3843690 |date=2013-08-30 |newspaper=[[ハフィントン・ポスト|huffingtonpost]] |accessdate=2014-05-22}}</ref><ref name="IOAD_facts">{{cite web |author= |title=Overdose Facts & Stats |url=http://www.overdoseday.com/facts-stats/ |date= |publisher=International Overdose Awareness Day |accessdate=2014-01-20}}</ref>。アメリカでは、2010年には38,329人の薬物過剰摂取による死亡があり、その過半数は一般医薬品や違法薬物ではなく[[処方箋医薬品]]であり、全体の74.3%が意図しない死亡である<ref name="pmid23423407">{{cite journal|last1=Jones|first1=Christopher M.|last2=Mack|first2=Karin A.|last3=Paulozzi|first3=Leonard J.|title=Pharmaceutical Overdose Deaths, United States, 2010|journal=JAMA|volume=309|issue=7|pages=657|year=2013|month=February|pmid=23423407|doi=10.1001/jama.2013.272|url=http://jama.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=1653518}}</ref>。 2011年6月、[[薬物政策国際委員会]]は、[[薬物戦争]]に関する批判的な報告書を公表し、「世界規模の薬物との戦争は、世界中の人々と社会に対して悲惨な結果をもたらし失敗に終わった。[[麻薬に関する単一条約|国連麻薬に関する単一条約]]が始動し、数年後にはニクソン大統領が[[アメリカ合衆国連邦政府]]による薬物との戦争を開始したが、50年が経ち、国家および国際的な薬物規制政策における抜本的な改革が早急に必要である」と宣言した<ref>{{cite book|title=War on Drugs|year=2011|publisher=The Global Commission on Drug Policy|page=24|url=http://www.scribd.com/fullscreen/56924096?access_key=key-xoixompyejnky70a9mq}}</ref>。この[[コフィー・アナン]][[国際連合|国連]]前事務局長ら参加する委員会は、各国に大麻の合法化や、薬物依存症者に対しては罰するより効果的である医療の提供などこれまでの薬物政策の見直しを求めた<ref>{{cite news |title=「世界的な麻薬戦争は失敗」 国際委員会が別の対策を勧告(字幕・2日) (1:31) |url=http://www.reuters.com/video/2011/06/04/%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%9A%84%E3%81%AA%E9%BA%BB%E8%96%AC%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AF%E5%A4%B1%E6%95%97%E3%80%8D-%E3%80%80%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%8C%E5%88%A5%E3%81%AE%E5%AF%BE%E7%AD%96%E3%82%92%E5%8B%A7%E5%91%8A%E5%AD%97%E5%B9%95%E3%83%BB%EF%BC%92%E6%97%A5?videoId=211513721 |date=2011-06-04 |newspaper=REUTERS |accessdate=2013-04-08}}</ref>。 2013年の薬物乱用防止デーにおいて国連は、司法だけでなく人権や公衆衛生、また科学に基づいた予防と治療の手段が必要であり、2014年にも高度な見直しを開始することに言及しており、加盟国にもあらゆる方法を考慮した、幅広い開かれた議論を行うことを強く推奨している<ref>{{cite pressrelease |author= |title=Secretary-General's remarks at special event on the International Day against Drug Abuse and illicit Trafficking |url=http://www.un.org/sg/statements/index.asp?nid=6935 |date=2013-06-26 |newspaper=United Nations |accessdate=2013-11-13}}</ref>。 [[デザイナードラッグ]]と呼ばれる新規向精神薬が問題になっているが、売買したり使用する人々を投獄するための証拠を欠いており、堅牢な証拠もなく規制しそして処罰を課すことによって、何が脅威であるかの説明を欠いたままの処罰となってしまう<ref name="pmid23343598">{{Cite journal |author1=Jan van Amsterdam |author2=[[デビッド・ナット|David Nutt]] |author3=Wim van den Brink |title=Generic legislation of new psychoactive drugs |journal=J Psychopharmacol |volume=27 |issue=3 |pages=317–324 |year=2013 |pmid=23343598 |doi=10.1177/0269881112474525 |url=http://www.undrugcontrol.info/images/stories/documents/generic-legislation-nps.pdf |format=PDF}}</ref>。イギリスではたった1件しか報告されていない死亡例をメディアで大々的に報道し、薬理学的に確かな知識もなく規制したことにより、使用者はさらに危険性の高い薬物の使用に舞い戻った<ref name="pmid23343598" />。化学構造の類似性に基づいて規制することは不可能であり、合成[[テトラヒドロカンナビノール|THC]]のような新しい治療薬の開発を妨げる<ref name="pmid23343598" />。 精神科の薬は、高額な治験第III相試験は失敗が多くなり製薬産業はハイリスクだとみなすようになり、2009年には267だった中枢神経系領域での試験数は2014年には129であり、その多くは神経学の領域であり精神医学ではない<ref name="pmid4471962">{{cite journal |vauthors=Hartley TC, Heilman KM, Garcia-Bengochea F |title=A case of transient global amnesia due to a pituitary tumor |journal=Neurology |volume=24 |issue=10 |pages=998–1000 |year=1974 |pmid=4471962 |doi= |url=}}</ref>。国際神経精神薬理学会(CINP)は、薬の多くは根本的治療には程遠く、副作用に問題があり、薬の作用する新たな標的を探す必要があることから、EU、北米、日本、その他の国々の政府に対して革新的な創薬ができるよう提案した<ref name="pmid25542690">{{cite journal|last1=Phillips|first1=A. G.|last2=Hongaard-Andersen|first2=P.|last3=Moscicki|first3=R. A.|last4=Sahakian|first4=B.|last5=Quirion|first5=R.|last6=Krishnan|first6=K. R. R.|last7=Race|first7=T.|title=Proceedings of the 2013 CINP Summit: Innovative Partnerships to Accelerate CNS Drug Discovery for Improved Patient Care|journal=International Journal of Neuropsychopharmacology|volume=18|issue=3|pages=pyu100|year=2014|pmid=25542690|pmc=4360252|doi=10.1093/ijnp/pyu100|url=http://ijnp.oxfordjournals.org/content/18/3/pyu100.long}}</ref>。専門家は強い禁止が研究を壊滅的にしてしまうことを警告している<ref>{{cite web |author=Damien Gayle |title=Psychoactive substances ban will 'end brain research' in Britain, experts warn |url=https://www.theguardian.com/politics/2015/may/29/psychoactive-substances-ban-end-brain-research-britain-david-nutt |date=2015-05-29 |publisher=the Guardian |accessdate=2017-12-05}}</ref>。 そのような中で、国際神経精神薬理学会でもケタミンの抗うつ作用が議題に上がり<ref name="ケタミン抗うつ薬">{{Cite web|和書|author= |title=麻酔薬ケタミン、抗うつ薬へ研究~即効性が強み |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO17367510W7A600C1X90000/ |date=2017-6-7 |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2017-9-7}}</ref>、MDMAを使った心理療法をFDAが画期的治療法に指定するなど<ref name="Science2017">{{cite web |author=Kai Kupferschmidt |title=All clear for the decisive trial of ecstasy in PTSD patients |url=https://www.sciencemag.org/news/2017/08/all-clear-decisive-trial-ecstasy-ptsd-patients |date=2017-8-26 |publisher=[[サイエンス|Science]] |accessdate=2017-9-4}}</ref>、ブレイクスルーとなっているのは、これまで医療用途がないとして顧みられなかった幻覚剤や医療大麻の領域である。サイケデリック・ルネッサンスと呼ばれている。イギリスの小規模研究は[[シロシビン]](マジックマッシュルームの成分)が、従来の治療に反応のないうつ病の人の約半分を、数週間にわたりうつ病ではない状態にした<ref name="pmid27210031">{{cite journal|last1=Nutt|first1=David J|authorlink1=デビッド・ナット|last2=Carhart-Harris|first2=Robin L|last3=Bolstridge|first3=Mark|coauthors=et al.|title=Psilocybin with psychological support for treatment-resistant depression: an open-label feasibility study|journal=The Lancet Psychiatry|volume=3|issue=7|pages=619–627|year=2016|pmid=27210031|doi=10.1016/S2215-0366(16)30065-7|url=http://www.thelancet.com/journals/lanpsy/article/PIIS2215-0366(16)30065-7/fulltext}}</ref>。 2018年11月には国連システム事務局調整委員会は、国連システムとしての薬物問題への対処法を確認し声明を出したが、[[人権]]に基づくこと、偏見や差別を減らし科学的証拠に基づく防止策や治療・回復を促すこと、薬物使用者の社会参加を促すことといった考えが含まれている<ref>{{Cite web |author=国連システム事務局長調整委員会 |date=2019-2-27 |url=http://www.unsceb.org/content/second-regular-session-report-november-2018-new-york |title=Second Regular Session Report (November 2018, New York) |publisher=United Nation System |accessdate=2019-06-10}} {{Cite web|和書|author=国連システム事務局長調整委員会 |date=2019-03-15 |url=http://cannabis.kenkyuukai.jp/information/information_detail.asp?id=89565 |title=国連システム事務局長調整委員会(CEB)が「薬物政策に関する国連システムの 共通の立場」で満場一致で支持した声明文の和訳 |publisher=日本臨床カンナビノイド学会 |accessdate=2019-06-10}}</ref>。2019年6月には、[[国際麻薬統制委員会]] (INCB) も声明を出し、薬物乱用者による個人的な使用のための少量の薬物所持のような軽微な違反に対して懲罰を行うことを薬物を規制する条約は義務付けておらず、そのような場合には有罪や処罰ではなく治療や社会への再統合という代替策があるとした<ref>{{Cite web |author=[[国際麻薬統制委員会]] |date=2019-6 |url=http://www.incb.org/documents/News/Alerts/Alert12_on_Convention_Implementation_June_2019.pdf |format=PDF |title=State responses to drug-related criminality |publisher=International Narcotics Control Board |accessdate=2019-06-10}}</ref>。 == 用途 == === 鎮痛薬 === {{main|鎮痛薬}} [[鎮痛薬]](analgesic)は、中枢神経系に対して抑制的に作用する薬物である。乱用の危険性がある。[[モルヒネ]]や[[コデイン]]のような[[オピオイド]]系の薬物がある。また、大麻の主な有効成分とされる[[テトラヒドロカンナビノール]](THC)にも鎮痛作用がある。 === 精神科の薬 === {{main|精神科の薬}} 向精神薬には、[[精神障害]]の治療のために処方される[[処方箋医薬品]]の群が存在する<ref name="michimanuall">{{Cite book|和書|author=融道男|title=向精神薬マニュアル|edition=第3版|publisher=医学書院|date=2008-09|url=http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=26608|isbn=978-4-260-00599-9}}</ref>。その一部が日本の麻薬及び向精神薬取締法における向精神薬に指定されている。 [[File:Risperidone.jpg|thumb|100px|抗精神病薬の代表「リスペリドン」]] [[File:ベンゾジアゼピン.JPG|thumbnail|100px|ベンゾジアゼピン系抗不安薬(左ユーロジン、メイラックス、デパス、ソラナックス)]] [[File:Luvox25.jpg|thumb|100px|抗うつ薬の代表「ルボックス」]] ; [[抗精神病薬]] (Antipsychotic) : 主に[[統合失調症]]の症状の[[対症療法]]での治療薬を指し完治させるものではない。統合失調症に有効な抗精神病薬は、全てが[[ドーパミン]]D2受容体ファミリーに親和性を示し、ドーパミンのはたらきを抑制、あるいはコントロールする。 : このうち[[非定型抗精神病薬]]は[[双極性障害]]、[[うつ病]]の治療にも用いられる。 ; [[気分安定薬]] (Mood stabilizer) : [[双極性障害]]における[[躁病]]と[[うつ病]]の波を安定化させるとされる治療薬である。 ; [[精神刺激薬]] (Stimulant) : [[メチルフェニデート]]や[[アンフェタミン]]のように、突然強い眠気を催す[[ナルコレプシー]]や[[注意欠陥・多動性障害]] (ADHD) の治療薬として処方される。メチルフェニデートやアンフェタミンは、ドーパミンの受容体に結合する。 ; [[抗うつ薬]] (Antidepressant) : 主に[[うつ病]]の治療薬として処方されるほか、抗不安薬の問題提起がされてからは不安障害の治療薬としても用いられるようになった。 : このうち[[三環系抗うつ薬]]並びに[[四環系抗うつ薬]]は重い副作用が出る危険性があるものの重症例には有効とされ現在も処方されている。 : 現在は比較的副作用が少ないとされる[[選択的セロトニン再取り込み阻害薬|SSRI]]や[[セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬|SNRI]]を第一選択としている。しかしこれらの抗うつ薬の安全性についても[[SSRI離脱症候群]]などの議論がある。 ; [[抗不安薬]] (Anxiolytic) : 不安や緊張を鎮める作用がある[[ベンゾジアゼピン]]系が多い。 : [[不安障害]]の治療薬としてのベンゾジアゼピンは[[ベンゾジアゼピン離脱症候群]]が問題視されてから抗うつ薬に置き換えられ、短期的な使用に限られるようになった。 ; [[睡眠薬]] (Hypnotic) : [[不眠症]]に対し、睡眠を誘導する治療薬として用いられる。 : [[バルビツール酸系]]など、強い催眠作用のある薬物で、従来、睡眠薬として用いられた。 : [[ベンゾジアゼピン]]へと、バルビツール酸系よりも危険性が低いとして置き換えられた。 : [[非ベンゾジアゼピン系]]へと、ベンゾジアゼピンよりも危険性が低いとして置き換えられた。しかし、非ベンゾジアゼピン系の安全性についても議論がある。 : [[抗ヒスタミン薬]]は、薬局で購入できる医薬品として認可されている。しかしまた、安全性について議論がある。 : [[オレキシン]][[受容体]]拮抗薬は、睡眠を促すのではなく、覚醒状態を抑制するため、GABAに影響を及ぼし習慣性と依存性があり短期的な使用が推奨されるベンゾジアゼピン系や非ベンゾジアゼピン系とは異なった副作用により、長期的に使用できるとされている<ref>{{cite journal |author=Bennett T, Bray D, Neville MW |title=Suvorexant, a dual orexin receptor antagonist for the management of insomnia |journal=P & T : a Peer-reviewed Journal for Formulary Management |volume=39 |issue=4 |pages=264–6 |year=2014 |month=April |pmid=24757363 |pmc=3989084 |doi= |url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3989084/}}</ref>。 === 議論 === 1996年、{{仮リンク|アメリカ国立精神衛生研究所|en|National Institute of Mental Health|}}の{{仮リンク|スティーブン・ハイマン|en|Steven Hyman|}}所長と[[イェール大学]]の{{仮リンク|エリック・ネスラー|en|Eric J. Nestler|}}博士は「向精神薬の長期投与は、ほとんど全ての[[感覚#刺激の受容と感覚|自然刺激]]の耐久力や回復力の限界を確実に越えるようで、[[神経伝達物質]]の機能に混乱を引き起こします{{refnest|group="注釈"|原文: “Chronic administration of psychotropic drugs creates perturbations in neurotransmitter function that likely exceed the strength or time course of almost any natural stimulus.” <ref name="SE1996">{{cite journal |author=Steven Hyman |author2=Eric Nestler |year=1996 |title=[http://ajp.psychiatryonline.org/article.aspx?articleID=171534 Initiation and adaptation: a paradigm for understanding psychotropic drug action] |journal= [[w:American Journal of Psychiatry |American Journal of Psychiatry ]]| volume=153 |issue=2 |pages=151-162 |pmid=8561194}}</ref>}}」と述べている<ref name="SE1996" />。 1998年、[[ミシガン大学]]の[[エリオット・ヴァレンスタイン]]博士は「生きている人間の脳の化学的な状態を評価するための検査法は、存在しないのが現実だ{{refnest|group="注釈"|原文: “the reality that there are no tests available for assessing the chemical status of a living person's brain.” <ref name="EV19981005">{{harvnb|Elliot Valenstein|1998|p=4}} (翻訳書は {{harvnb|エリオット・ヴァレンスタイン|2008|p=5}})</ref>}}」と述べている。精神科医などは、向精神薬は「[[化学的不均衡|脳内化学物質の不均衡]]」を正すと説明するが、科学的な根拠があるわけではない。また、専門家の間では、「脳内化学物質の不均衡」説は辻褄が合わないことが古くから知られており、向精神薬の処方には合理的な理由がないのが実情である<ref name="EV19981005" />。 2002年、アメリカ精神医学会企業献金委員会のステファン・ゴールドフィンガー(Stephen Goldfinger)委員長は、製薬会社による精神科医の囲い込みについて、「製薬会社は道徳観念のない一団です。彼らは慈善団体ではありませんから、操り糸も付けずに大金を寄付するなど到底あり得ません{{refnest|group="注釈"|原文: “ The pharmaceutical companies are an amoral bunch. They're not a benevolent association. So, they are highly unlikely to donate large amounts of money without strings attached.” <ref name="BG20020528">{{cite journal |author=Ellen Barry |date=2002-05-28 |title=[https://web.archive.org/web/20020604193040/http://www.boston.com/dailyglobe2/148/science/Psychiatrists_become_drug_firms_targets+.shtml Psychiatrists become drug firms' targets] |journal= [[The Boston Globe]]}}</ref><ref name="MA147">{{harvnb|Marcia Angell|2004|p=147}}</ref>}}」と述べている<ref name="BG20020528" /><ref name="MA147" />。 2003年、[[アメリカ精神医学会]]の[[スティーブン・シャーフスタイン]]副会長は、[[精神保健]]システムが細分化される理由について、「生き残るために、私たち(精神科医)は金のあるところに行かねばなりません{{refnest|group="注釈"|原文: “In order to survive, we must go where the money is.” <ref name="PO20030103">{{cite journal |date=2003-01-03 |title=[http://psychnews.psychiatryonline.org/newsarticle.aspx?articleid=105567 MH System Reform Must Start With Funding] |journal= [http://psychiatryonline.org/ PsychiatryOnline]}}</ref>}}」と証言している<ref name="PO20030103"></ref>。日本では[[医師法]]第17条によって診療を行う者が[[医師]]に限定されているが、アメリカ合衆国では医師ではない[[心理学者|サイコロジスト]]にも法的に診療が認められている。[[精神医学]]を使う薬物療法中心の精神科医と[[臨床心理学]]を使う[[心理療法]]中心のサイコロジストに分かれており、商売上の競合がある。また、精神科医は心理療法のトレーニングをほとんど受けていない<ref>[http://www.dr-kobayashi.com/ 小林和夫]「[https://web.archive.org/web/20080309103202/http://www.dr-kobayashi.com/insurance.html サイコロジストと保険会社]」2017年9月19日閲覧。</ref><ref>[http://www.kuraokaclinic.com/index.html Kuraoka Clinic]「[https://web.archive.org/web/20140513010946/http://www.kuraokaclinic.com/services/psychologist.html カウンセリング - サイコロジストとは]」2017年9月19日閲覧。</ref>。精神科医にとって細分化とは、[[精神障害の診断と統計マニュアル|DSM]]で精神障害の種類を増やし、様々なサービスを生み出し、薬物療法を推進することを意味している。 2004年、[[カーディフ大学]]の[[デイヴィッド・ヒーリー (精神科医)|David Healy]]博士は「今日にいたるまで、[[うつ病]]での[[セロトニン]]異常が証明されたことは一度もない」と述べている。また、健康な人に[[SSRI]]を投与すると焦燥、不安、自殺傾向などを示すことがある。この事実は、1980年代に製薬会社の研究によって証明されている。健康なボランティアに対して行われた「[[ゾロフト]]」の試験では、かなり重症化し、第1週のうちに全員脱落している。SSRIを服用する人の大部分は、内因性の[[うつ症状]]を持つ人よりむしろ、健康なボランティアにずっと近い人々である<ref>{{harvnb|David Healy|2004}} (翻訳書は {{harvnb|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=24, 256-257, 263-264}})</ref>。 『[[The New England Journal of Medicine]]』の前編集長であり、[[ハーバード大学医学大学院]]で上級講師を務める内科医の{{仮リンク|マーシャ・エンジェル|en|Marcia Angell}}は「昔々、製薬会社は病気を治療する薬を売り込んでいました。今日では、しばしば正反対です。彼らは薬に合わせた病気を売り込みます{{refnest|group="注釈"|原文: “Once upon a time, drug companies promoted drugs to treat diseases. Now it is often the opposite. They promote diseases to fit their drugs.” <ref>{{harvnb|Marcia Angell|2004|p=86}} (翻訳書は {{harvnb|マーシャ・エンジェル|2005|p=111}})</ref>}}」と述べている。一例として、[[月経前不快気分障害]]は、「[[プロザック]]」の名称を「[[フルオキセチン|サラフェム]]」と変更しただけの薬を[[月経前症候群]]用に販売し、生まれた診断名である<ref>{{harvnb|Marcia Angell|2004|pp=83, 86, 188-189}} (翻訳書は {{harvnb|マーシャ・エンジェル|2005|pp=108, 111-112, 235-236}})</ref>。 2005年、メディアに追及された[[アメリカ精神医学会]]の[[スティーブン・シャーフスタイン]]会長は、『[[w:People (magazine)<!-- [[:ja:ピープル (雑誌)]] とリンク -->|People]]』誌で、「脳内化学物質の不均衡」の証明について、「明確な検査法は存在しません{{refnest|group="注釈"|原文: “We do not have a clean-cut lab test.” <ref name="P20050711">''People'': Time Inc. July 11, 2005.</ref>}}」と認めている<ref name="P20050711"></ref>。脳スキャン技術による診断の目処も立っていない<ref>BENEDICT CAREY「[http://www.nytimes.com/2005/10/18/health/psychology/18imag.html Can Brain Scans See Depression?]」The New York Times 2005年10月18日。(邦訳は『[http://mui-therapy.org/newfinding/brain_scan.htm 脳スキャンで鬱が見えるか]』)</ref>。 有害な精神科治療を調査した[[ボストン・グローブ]]紙の連載で、1998年、[[ピューリッツァー賞]]の最終候補に残ったこともある医療[[ジャーナリスト]]の{{仮リンク|ロバート・ウィタカー|en|Robert Whitaker (author)}}によれば、研究文献を調べると、[[抗精神病薬]]、[[抗うつ薬]]、[[抗不安薬]]、[[ADHD]]治療に使われる「[[リタリン]]」のような[[精神刺激薬]]の全てに共通のパターンが見られる。短期間、たとえば、6週間であれば、対象症状について、[[偽薬]]よりわずかに上回る効果を得られる可能性があるが、長期間になると、全ての対象症状で偽薬を投与された患者より悪化し、慢性化、重症化している。また、かなり著しい割合で、新たな精神症状やより重い精神症状が薬物自体によって引き起こされている <ref>Terry Messman, "[http://www.thestreetspirit.org/August2005/interview.htm Psychiatric Drugs: An Assault on the Human Condition - Street Spirit Interview with Robert Whitaker]," [[アメリカ・フレンズ奉仕団|American Friends Service Committee]], August 27 2005.</ref>。 2006年、[[DSM-IV]]の作成に関与した精神医学の専門家の56%(170人中95人)に、向精神薬を販売する製薬会社と金銭的なつながりがあったことが判明した。[[感情障害]]と[[精神病|精神病性障害]](psychotic disorders)の作業グループでは100%であった。[[マサチューセッツ大学]]の[[臨床心理学者]]であるリサ・コスグローヴ<ref>教職員紹介「[http://www.umb.edu/academics/cehd/faculty/lisa_cosgrove Lisa Cosgrove]」[http://www.umb.edu/ マサチューセッツ大学ボストン校]。</ref>博士は「精神医学の分野における金銭的なつながりがどれ程ひどいのか、私は大衆が気づいているとは思いません{{refnest|group="注釈"|原文: “I don't think the public is aware of how egregious the financial ties are in the field of psychiatry,” <ref name="WP20060420">{{cite news |author=Shankar Vedantam |newspaper=[[Washington Post]] |date=2006-04-20 |title=[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/04/19/AR2006041902560.html Experts Defining Mental Disorders Are Linked to Drug Firms]}}</ref>}}」と述べている<ref name="WP20060420"></ref><ref>{{cite news |author=BENEDICT CAREY |newspaper=[[New York Times]] |date=2006-04-20 |title=[http://www.nytimes.com/2006/04/20/health/20psych.html Study Finds a Link of Drug Makers to Psychiatrists]}}</ref>。 [[アラスカ州]]最高裁判所は[[抗精神病薬]]に関する訴訟の判決文で、「向精神薬は患者の心身に重大で永続的な悪影響を及ぼすことがある{{refnest|group="注釈"|原文: “psychotropic medication can have profound and lasting negative effects on a patient's mind and body” <ref name="RW528531"/><ref name="PCG">{{harvnb|Peter C. Gøtzsche|2015|loc=§ Forced treatment must be banned}}</ref><ref name="SCA2006">{{Cite web|date=2006-06-30|title=Supreme Court of Alaska. No. S-11021.|url=https://caselaw.findlaw.com/ak-supreme-court/1004032.html|publisher=[[Thomson Reuters]]|accessdate=2018-07-02|}}</ref><ref name="LPPR">{{Cite web|title=Alaska Forced Medication Case|url=http://psychrights.org/states/alaska/CaseOne.htm|publisher=Law Project for Psychiatric Rights|accessdate=2018-07-02}}</ref>}}」「数々の破壊的な副作用を引き起こす可能性があることが知られている{{refnest|group="注釈"|原文: “are known to cause a number of potentially devastating side effects.” <ref name="RW528531"/><ref name="PCG"/><ref name="SCA2006"/><ref name="LPPR"/>}}」と説明している<ref name="RW528531">{{harvnb|Robert Whitaker|2009|pp=355-357}} (翻訳書は {{harvnb|ロバート・ウィタカー|2010|pp=528-531}})</ref>。 2008年、[[ニューヨーク州立大学]]の{{仮リンク|トーマス・サズ|en|Thomas Szasz}}博士は「[[自然科学]]事業の健全性は、私たちが『科学的』と呼ぶ活動に従事する各人が、真実を探求して真実を語る、また、誤った説明と虚偽の『事実』を暴いて排除するという科学的共同体の約束で成り立っています。対照的に、宗教の安定性、精神医学の偽装信仰、いわゆる[[行動科学]]は、議論の余地のない教義としきたりに対する担い手の忠誠、それに基づいた集団の繁栄に害を及ぼすような真実を語ることへの拒絶から成り立っています{{refnest|group="注釈"|原文: “The integrity of the natural scientific enterprise depends on truth-seeking and truth-speaking by individuals engaged in activities we call “scientific,” and on the scientific community’s commitment to expose and reject erroneous explanations and false “facts.” In contrast, the stability of religions and the ersatz faiths of psychiatry and the so-called behavioral sciences depends on the loyalty of its practitioners to established doctrines and institutions and the rejection of truth-telling as injurious to the welfare of the group that rests on it.” <ref name="TS20080901-1">{{harvnb|Thomas Szasz|2008|pp=ix-x}}</ref>}}」「[[プロフェッショナル]]の信頼性を保つために、精神医学の歴史家、精神科医のような者は、[[癌]]が実在するのと同じ感覚で、心の病は実在すると信じるか、信じているふりをしなければなりません。その結果、彼らは鼻の先にある現実を見る危険を冒すことができません{{refnest|group="注釈"|原文: “to retain their professional credibility, psychiatric historians, like psychiatrists, must believe-or must pretend to believe-that mental illnesses are real in the same sense that cancers are real. As a result, they cannot risk seeing what is in front of their noses.” <ref name="TS20080901-2">{{harvnb|Thomas Szasz|2008|p=5}}</ref>}}」と述べている<ref name="TS20080901-1" /><ref name="TS20080901-2" />。 2009年、[[偽薬効果]]を研究する[[ハル大学]]の[[アービング・カーシュ]]博士は「支持できる証拠が乏しいどころか、化学物質不均衡説は間違いでしかないと膨大なデータが語っている」と述べている。[[抗うつ薬]]には不活性プラセボ(副作用のない[[偽薬]])を若干上回る程度の効果しかなく、両者の差は副作用の有無だと指摘している。副作用が起きると本物だと分かり、被験者の期待が高まるからである。活性プラセボ(副作用のある偽薬)を用いた臨床試験では、抗うつ薬との間に有意な差は見られなかった。また、[[禁断症状]]が出る可能性があり、「医師に相談することなく抗うつ薬の服用を中断しないこと」と警告している。急な断薬ではなく、徐々に減薬することが重要である。『Coming Off Antidepressants: Successful Use and Safe Withdrawal』(Joseph Glenmullen、2006年)は抗うつ薬を中止する方法が分かる優れた一冊である<ref>{{harvnb|Irving Kirsch|2009}} (翻訳書は {{harvnb|アービング・カーシュ|2010|pp=18, 30-37, 208-209}})</ref>。 2010年、[[抗うつ薬]]の効果について、医師側から二つの反論がある。一つは、[[アメリカ食品医薬品局]]は[[偽薬]]より効果があると示す2件の臨床試験を要求しており、効果のない薬を承認するはずがない、という反論である。しかし、2件であり、他の大多数の臨床試験が効果がないと示していても良い。また、要求は統計的有意差であり、臨床的有意差(医薬品と偽薬の効果の差)の大きさは考慮されていない。もう一つは、医師は臨床現場で効果を確認している、という反論である。しかし、医師は偽薬を使うことがほとんどないため、偽薬に1錠4[[ドル]]する薬と同程度の効果があるとは考えない。また、専門家は抗うつ薬に効果がないとは言っていない。何も処方しないより偽薬を処方したほうが効果があり、抗うつ薬には偽薬程度の効果がある。問題としているのは抗うつ薬の効果が[[偽薬効果]]か否かである。「[[ゾロフト]]」を製造する[[ファイザー]]社のスポークスパーソンは、抗うつ薬が「一般に偽薬と区別できないこと{{refnest|group="注釈"|原文: “commonly fail to separate from placebo” <ref name="SB20100128">Sharon Begley「[https://web.archive.org/web/20130619183944/http://www.thedailybeast.com/newsweek/2010/01/28/the-depressing-news-about-antidepressants.html The Depressing News About Antidepressants]」Newsweek国際版2010年1月28日。(邦訳は「[http://mui-therapy.org/newfinding/depressing-news-about-ssri.html がっかりする抗鬱剤]」)</ref>}}」は「[[アメリカ食品医薬品局]]、学界、製薬業界でよく知られている事実です{{refnest|group="注釈"|原文: “a fact well known by the FDA, academia, and industry.” <ref name="SB20100128"></ref>}}」と述べている<ref name="SB20100128" /><ref>{{harvnb|Irving Kirsch|2009}} (翻訳書は {{harvnb|アービング・カーシュ|2010|pp=71-72, 79-81}})</ref>。 2012年、[[DSM-IV]]の[[アレン・フランセス]]編纂委員長は「[[精神医学]]における[[生物学]]的検査というのは未だにありません」「誤解を招きやすい考えの一つが、精神科の問題はすべて化学的アンバランスによるもので、服薬で病気が治るという考え方です。この考えによって、製薬会社は過去30年にわたって薬を売ることができたわけです」と述べている。精神科の軽度〜中程度の症状には、[[心理療法]]が少なくとも[[薬物療法]]と同じくらい効果がある。心理療法のほうが持続効果は長く、副作用も少ないが、非常に多くの人が必要のない薬物療法を受けている<ref>精神医学「[http://ej.islib.jp/ejournal/1405102246.html? DSM-5をめぐって─Dr. Allen Francesに聞く] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131004215251/http://ej.islib.jp/ejournal/1405102246.html |date=2013年10月4日 }}」医学書院2012年8月(54巻8号)</ref>。 2013年、[[国立精神・神経医療研究センター]]薬物依存研究部の松本俊彦室長は「精神科では依存性のある薬を使わざるを得ない場面もあるが、漠然とした投薬や診察なしの投薬は避けるべきだ」と指摘している。[[睡眠薬]]や[[精神安定剤]]として、多くの診療科で処方される[[ベンゾジアゼピン系]]薬剤は依存性の高さが指摘されている。[[薬物依存症]]について、精神科医からは「内科などの不適切な処方が問題」との意見が出ていたが、同センターなどの調査によれば、依存症の専門外来を受診した患者の84%は精神科治療によって引き起こされている<ref>{{Cite news|title=精神科治療で薬物依存症 専門外来受診の84% |newspaper=[[読売新聞]]| date=2013-06-21}}</ref><ref>{{Cite news|title=向精神薬依存:8割、投薬治療中に発症 「医師の処方、不適切」−−専門機関調査 |newspaper=[[毎日新聞]]| date=2013-06-19 |url=http://mainichi.jp/select/news/20130619mog00m040012000c.html}}</ref>。 == 乱用 == {{main|薬物乱用}} 向精神薬は、[[薬物乱用]]の危険性があるものが多い。[[向精神薬に関する条約]]における薬物乱用とは、精神的依存と[[身体的依存]]のどちらか、あるいは両方において薬物が用いられることである<ref name="who.int.dep14">{{Cite report|author=世界保健機関|authorlink=世界保健機関|title=WHO Expert Committee on Dependence-Producing Drugs - Fourteenth Report / WHO Technical Report Series 312|publisher=World Health Organization|date=1965|url=http://whqlibdoc.who.int/trs/WHO_TRS_312.pdf|format=pdf|pages=7-9}}</ref>。乱用されやすい向精神薬は、この国際条約の管理下にある。 医学的には、[[アメリカ精神医学会]](APA)による『[[精神障害の診断と統計マニュアル]]』の第4版(DSM-IV)では、物質乱用(Substance Abuse)の診断分類があり、アルコール、アンフェタミン類、大麻、コカイン、幻覚剤、アヘン類、鎮静剤、睡眠剤、または抗不安薬、他に、その他の物質に分類している<ref name="DSM-IV-TR">{{Cite book|和書|author=アメリカ精神医学会|authorlink=アメリカ精神医学会|coauthor=高橋三郎・[[大野裕]]・染矢俊幸訳|title=DSM-IV-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル(新訂版)|publisher=[[医学書院]]|date=2004|isbn=978-0890420256|pages=191-192,197-199}}</ref>。著しい苦痛や機能の障害を引き起こすなど[[精神障害#重症度|重症]]であり、そして反復的にそうした結果が起きている場合である<ref name="DSM-IV-TR" />。 世界保健機関によれば、有害な使用(Harmful use)の診断名であり、精神や身体の健康に実際に害があるような物質の使用パターンである<ref name="icd10subdis" />。世界保健機関によれば、乱用の用語は、いかなる使用も不可であるとも用いられるため、その曖昧さゆえにこの語は依存を生じうるような物資では使われないということである{{sfn|世界保健機関|1994|p=4}}。有害な使用には、社会的に否定的な結果が生じたり、文化的に承認されないといったものは含まない<ref name="icd10subdis">{{Cite book|和書|author=世界保健機関|authorlink=世界保健機関|coauthors=(翻訳)融道男、小見山実、大久保善朗、中根允文、岡崎祐士|title=ICD‐10精神および行動の障害:臨床記述と診断ガイドライン|edition=新訂版 |publisher=医学書院|date=2005|isbn=978-4-260-00133-5|pages=86-87,204-206}}、{{Cite book|author=世界保健機関|title=The ICD-10 Classification of Mental and Behavioural Disorders : Clinical descriptions and diagnostic guidelines (blue book)|publisher=World Health Organization|date=1992|url=http://www.who.int/classifications/icd/en/bluebook.pdf|format=pdf|isbn=|pages}}</ref>。 == 依存性 == {{main|薬物依存症}} {| class="wikitable sortable floatright" style="font-size:95%; margin-left:1em" |- ! 薬物 !! 平均 !! 快感 !! 精神的依存 !! 身体的依存 |- | [[ヘロイン]] || 3.00 || 3.0 || 3.0 || 3.0 |- | [[コカイン]] || 2.37 || 3.0 || 2.8 || 1.3 |- | [[アルコール]] || 1.93 || 2.3 || 1.9 || 1.6 |- | [[たばこ]] || 2.21 || 2.3 || 2.6 || 1.8 |- | [[バルビツール酸]] || 2.01 || 2.0 || 2.2 || 1.8 |- | [[ベンゾジアゼピン]] || 1.83 || 1.7 || 2.1 || 1.8 |- | [[アンフェタミン]] || 1.67 || 2.0 || 1.9 || 1.1 |- | [[大麻]] || 1.51 || 1.9 || 1.7 || 0.8 |- | [[LSD (薬物)|LSD]] || 1.23 || 2.2 || 1.1 || 0.3 |- | [[メチレンジオキシメタンフェタミン|エクスタシー]] || 1.13 || 1.5 || 1.2 || 0.7 |} 向精神薬の多くは[[薬物依存症]]の危険性があるものが多い。 薬物依存症の可能性は、個々の物質ごとにそれぞれ異なる。摂取量、摂取頻度、物質、投与経路、薬物動態などが、薬物依存形成の要素である。 医学雑誌『[[ランセット]]』に示された、20の薬物についての身体的依存、精神的依存、快感の平均尺度が0〜3の範囲で示された。[[カフェイン]]は研究に含まれていない。<ref name="Nutt">{{cite journal |vauthors=Nutt D, King LA, Saulsbury W, Blakemore C |title=Development of a rational scale to assess the harm of drugs of potential misuse |journal=Lancet |volume=369 |issue=9566 |pages=1047&ndash;53 |date=March 2007 |pmid=17382831 |doi=10.1016/S0140-6736(07)60464-4 |url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0140-6736(07)60464-4}}</ref> アンフェタミン、コカイン、ある種の[[抗不安薬]]のように、短時間作用型の薬物は依存や乱用を発現させる可能性が特に高い<ref name="DSM-3R" />。[[アルコール]]と、[[ベンゾジアゼピン系]]や[[バルビツール酸系]]の鎮静催眠薬からの離脱は、発作を起こし致命的となる可能性がある<ref name="apa1-58562-276-4">{{cite book |last1=Galanter |first1=Marc |last2=Kleber |first2=Herbert D |title=The American Psychiatric Publishing Textbook of Substance Abuse Treatment |url= https://books.google.co.jp/books?id=6wdJgejlQzYC&pg=PA58&redir_esc=y&hl=ja |edition=4th |date=2008-07-01 |publisher=American Psychiatric Publishing Inc |location=United States of America |isbn=978-1-58562-276-4 |page=58}}</ref>。逆に大麻や、幻覚剤のように不快な離脱症状を回避するための摂取というものが起きない薬物もあり、治療を求めるのはまれであり、幻覚剤ではほとんどが短い乱用及び依存のあと、元の生活様式に復帰する<ref name="DSM-3R">{{Citation|和書|author=アメリカ精神医学会|authorlink=アメリカ精神医学会|others=高橋三郎訳|year=1988|title=DSM-III-R 精神障害の診断・統計マニュアル|publisher=[[医学書院]]|isbn=978-4260117388|pages=119-120、154、156、161、163}}</ref>。LSDやシロシビンでは、実質的に誰も依存症にならない<ref>{{cite news |author1=Adam R Winstock |author2=David Nutt|authorlink2=デビッド・ナット |title=The real driver behind most drug use is pleasure, not dependence |url=http://www.theguardian.com/commentisfree/2013/apr/18/driver-drug-pleasure-dependence |date=2013-04-18 |newspaper=[[ガーディアン]] |accessdate=2014-06-04}}</ref>。 == 暴力との関連 == {{See also|精神科の薬#他害行為}} アルコールは攻撃的な感情が起こることを促し、大麻は減少させる<ref name="pmid27422568">{{cite journal|last1=De Sousa Fernandes Perna|first1=E. B.|last2=Theunissen|first2=E. L.|last3=Kuypers|first3=K. P. C.|coauthors=et al.|title=Subjective aggression during alcohol and cannabis intoxication before and after aggression exposure|journal=Psychopharmacology|volume=233|issue=18|pages=3331–3340|year=2016|pmid=27422568|pmc=4988999|doi=10.1007/s00213-016-4371-1|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4988999/}}</ref>。 == 過剰摂取と致死性 == {{main|過剰摂取}} [[ファイル:Drug danger and dependence ja.svg|thumb|right|500px|縦軸:依存性:上に行くほど依存性の可能性の高い物質。横軸:右に行くほど活性量と致死量が近い。<ref>{{Cite book|last=Robert S.|first=Gable|editor=Jeffeson M. Fish|title=Drugs and society : U.S. public policy|url=https://books.google.co.jp/books?id=xpZhjBuDkuwC|publisher=Rowman & Littlefield|isbn=0-7425-4245-9|pages=149-162|chapter=Acute Toxicity of Drugs Versus Regulatory Status}}</ref>]] 薬物によって、過剰摂取した際の危険性は異なる。ヘロインやモルヒネ、アルコール、ベンゾジアゼピン系の薬物やこれらの薬物を併用することは、過剰摂取の危険性を高める<ref name="IOAD_basics">{{cite web |author= |title=Overdose Basics |url=http://www.overdoseday.com/facts-stats/overdose-basics/ |date= |publisher=International Overdose Awareness Day |accessdate=2014-01-20}}</ref>。 逆に、大麻やLSDやシロシビンでは図のように安全係数が高く、重症例、死亡報告はほとんどない<ref>{{Cite book|和書|author=上條吉人|authorlink=上條吉人|editor=相馬一亥(監修)|title=臨床中毒学|publisher=医学書院|date=2009-10|isbn=978-4260008822|pages=224,226,236}}</ref>。 過剰摂取による死亡数の増加は国際的な懸念であり<ref name="IOAD_facts" />、アメリカでの2010年度の過剰摂取による死亡は、過半数の死亡が[[処方箋医薬品]]によるものであり、74.3%が意図しない死亡である<ref name="pmid23423407">{{cite journal|last1=Jones|first1=Christopher M.|last2=Mack|first2=Karin A.|last3=Paulozzi|first3=Leonard J.|title=Pharmaceutical Overdose Deaths, United States, 2010|journal=JAMA|volume=309|issue=7|pages=657|year=2013|month=February|pmid=23423407|doi=10.1001/jama.2013.272|url=http://jama.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=1653518}}</ref>。 == 死亡者数 == {{Seealso|過剰摂取#死亡者数}} 2009年アメリカでは、タバコに起因する443,000人の死亡があり、アルコールでは98,334人であり、他の薬物では37,485人である{{sfn|コロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター|2012|p=56}}。2008年に[[処方箋医薬品|処方薬]]の過剰摂取による死亡が20,044人{{sfn|コロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター|2012|p=61}}、違法薬物の使用に起因する死亡は16,044人である{{sfn|コロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター|2012|p=60}}。 タバコでは、[[がん]](41%:毎年約16万)や[[心血管疾患]](33%)が多く{{sfn|コロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター|2012|p=58}}、アルコールでは急性の死亡では運転事故(14%:毎年約1万4千)、他殺(8%)、自殺(7%)、転落死(5.6%)、慢性では[[アルコール性肝疾患]](12%)などで{{sfn|コロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター|2012|p=59}}、暴力や事故に関連する急性の死亡も多いことがタバコによる死亡とは大きく異なる。処方薬では[[オピオイド]]、違法薬物ではヘロインによるものが多い{{sfn|コロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター|2012|p=60}}。2010年の医薬品の過剰摂取による死亡は、[[オピオイド系]]鎮痛薬が16,651人、[[ベンゾジアゼピン系]]薬が6,497人、[[抗うつ薬]]が3,889人と上位3位を占め、[[抗てんかん薬]]や[[抗パーキンソン病薬]]が1,717人、[[抗精神病薬]]が1,351人である<ref name="pmid23423407" />。 イギリス薬物政策委員会(UKDPC)は、毎年の死亡者数は115,000人が喫煙、アルコールが35,000人、違法薬物は2000人であり、アルコールとタバコは違法薬物よりも有害であると結論している<ref name="Afresh">{{cite book|author=イギリス薬物政策委員会|title=A fresh ApproAch to drugs|publisher=the UK Drug Policy Commission |date=2012-10|url=http://www.ukdpc.org.uk/wp-content/uploads/a-fresh-approach-to-drugs-the-final-report-of-the-uk-drug-policy-commission.pdf|format=pdf|accessdate=2014-08-02|isbn=978-1-906246-41-9}}</ref>。2010年のイギリスにおける薬物に関連する死亡は、合計2597人であり、すべてのベンゾジアゼピン系薬物で307人、鎮痛薬の[[トラマドール]]が132人、合法ドラッグによるものが22人などを含んでいる<ref name="HouseCommons2013">{{Cite report |author=House of Commons Home Affairs Committee |date=2013-12-17 |title=Drugs: new psychoactive substances and prescription drugs / Twelfth Report of Session 2013–14 |url=http://www.publications.parliament.uk/pa/cm201314/cmselect/cmhaff/819/819.pdf |pages=6、9、17}}</ref>。 日本のタバコによる死亡者数を日本学術会議は毎年11万人以上とし<ref name="脱タバコ社会">{{Cite book|和書|author=日本学術会議|title=要望 脱タバコ社会の実現に向けて |url=https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t51-4.pdf|format=pdf|publisher=日本学術会議|date=2008-03-04|pages=}}</ref>、アルコール関連の3学会によれば、2008年の推計でアルコールに関連して34,988人が死亡している<ref name="アルコール白書">{{Cite book|和書|author=(編集)日本アルコール関連問題学会、日本アルコール・薬物医学会、日本アルコール精神医学会|title=簡易版「アルコール白書」|url=http://www.j-arukanren.com/file/al-hakusyo.pdf|format=pdf|publisher=日本アルコール関連問題学会|date=2011|pages=}} [http://www.j-arukanren.com/news/2011.html 日本アルコール関連問題学会]</ref>。 == 法律と規制管理 == 1971年の[[向精神薬に関する条約]]が向精神薬の規制の根拠だが、32条4項は、含有植物が自生している国において、伝統的に宗教的な儀式として用いられている場合に条約の影響が保留されるとされている。信仰による除外は、アメリカでの[[ネイティブ・アメリカン・チャーチ]]の[[ペヨーテ]]・サボテンの使用、[[2015年改正危険薬物法|ジャマイカでのガンジャ(大麻)の使用]]がある。 {| class="wikitable" style="float:right; margin-left:1em; font-size:90%" |+ 国際条約と日本法の照合 ! 国際条約 !! colspan="2" | 規制物質 !! 日本法 |- | rowspan="3" | [[麻薬に関する単一条約]] || [[あへん]] || あへん || [[あへん法]] |- | [[大麻]] || 大麻 || [[大麻取締法]] |- | [[麻薬]] || 麻薬 || rowspan="3" | [[麻薬及び向精神薬取締法]] |- | rowspan="5" | [[向精神薬に関する条約]] || '''向精神薬''' 付表I || (日本法の)麻薬 |- | 向精神薬 付表II || 第1種向精神薬 |- | 付表II一部の[[覚醒剤]] || (日本法の)覚せい剤 || [[覚醒剤取締法]] |- | 向精神薬 付表III || 第2種向精神薬 || rowspan="2" | [[麻薬及び向精神薬取締法]] |- | 向精神薬 付表IV || 第3種向精神薬 |- | 対象外 || colspan="3" | [[タバコ]]、[[アルコール]]、[[カフェイン]] |} === 日本 === 日本においては以下の通りに法的に管理されている。なお、日本の法律上の便宜により、「麻薬」と「向精神薬」に分類されるが、医学的な分類ではない。(この違いについては、[[麻薬]]を参照) 医学的な麻薬 (Narcotics) の定義の他に{{sfn|世界保健機関|1994|p=47}}、法律上の麻薬として[[麻薬及び向精神薬取締法]]や[[あへん法]]にて定められ、広義の麻薬である大麻は{{sfn|世界保健機関|1994|p=47}}、[[大麻取締法]]にて別個に大麻として管理下にある。日本では、[[幻覚剤]]も麻薬及び向精神薬取締法にて、法律上の麻薬として定められている(幻覚剤は、北米では麻薬には分類されない{{sfn|世界保健機関|1994|p=47}})。これらの類似構造を持つ[[デザイナードラッグ]]の一部は、[[医薬品医療機器等法]]にて指定薬物に指定され規制されており、さらに類似構造を規制する目的で包括指定が行われている。これら以外の何の法的制約のないものが、[[脱法ドラッグ]]である。 [[メチルフェニデート]]などの[[精神刺激薬]]や、ベンゾジアゼピン系の[[鎮静剤|鎮静]][[催眠剤]]などは、[[麻薬及び向精神薬取締法]]にて、日本の法律上の第一種から第三種までの向精神薬として規制されている。それとは別に、医薬品医療機器等法にて[[習慣性医薬品]]が定められ、[[ベンゾジアゼピン系]][[睡眠薬]]や[[オピオイド]]系の[[鎮痛薬]]を中心としている。 例外的に[[精神刺激薬]]の一部は、[[覚醒剤取締法]]にて、[[アンフェタミン]](フェニルアミノプロパン)、[[メタンフェタミン]](フェニルメチルアミノプロパン)、別表にて8種、また別表にてその原料が規制薬物と定められる。 2014年6月より、薬事法の改正によって、一般薬に含まれる「乱用の恐れのある医薬品の成分」の[[コデイン]]、[[ジヒドロコデイン]]、[[ジヒドロコデインセキサノール]]、[[メチルエフェドリン]]、[[ブロムワレリル尿素]]、[[エフェドリン]]、[[プソイドエフェドリン]]が含まれる医薬品を、原則で1人1箱に制限する<ref>{{cite news |title=【薬食審】乱用防止へ販売数量制限‐一般薬配合7成分を指定 |url=http://www.yakuji.co.jp/entry34758.html |date=2014-02-17 |newspaper=薬事日報 |accessdate=2015-09-29}}</ref>。 ==== 渡航 ==== 日本の[[麻薬及び向精神薬取締法]]などによって、法律上の麻薬や向精神薬として規制管理下にある薬物は、調剤・検査目的以外での製造や、輸出入はすることができない。例外として、医師の[[処方箋]]がある場合や、自己利用目的として1か月分以内の分量である場合は、携帯して出入国ができる。 しかし、渡航先の国の薬物を規制する法律が、日本の法律と異なる場合がある。[[フルニトラゼパム]]は、たとえ個人利用目的でも[[アメリカ合衆国]]および[[カナダ]]へ持ち込むことは禁止されている。所持していると逮捕される可能性もある場合があり注意が必要である<ref name="YomiDr">{{cite news | author = [[佐藤光展]] | url = https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20150317-OYTEW54845/?catname=column_sato-mitsunobu | title = 乱用処方薬ドップ5発表 | newspaper = [[読売新聞]] | publisher = [[読売新聞東京本社]] | date = 2015-03-17 | accessdate = 2017-01-14 }}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.apha.jp/top/shiryou/kaigai.pdf 海外旅行と医薬品]}}{{リンク切れ|date=2014年8月}} 愛知県薬剤師会薬事情報室</ref>。不法所持でないことを証明するために、医師による[[英語]]の[[薬剤携行証明書]]を携行しているのが望ましい。 [[向精神薬に関する条約]]によって国際的に規制されている薬物は、渡航先の法律では厳重な管理下であることがあり得る。 ==== 輸入 ==== 日本の[[麻薬及び向精神薬取締法]]などによって、法律上の麻薬や向精神薬として規制管理下にない薬物は、個人輸入が可能である<ref name="個人輸入">{{Cite web|和書|author=厚生労働省医薬食品局 監視指導・麻薬対策課 |title=医薬品等の個人輸入について |url=http://www.mhlw.go.jp/topics/0104/tp0401-1.html |date=2012年3月更新 |publisher=厚生労働省 |accessdate=2014-08-17}}</ref>。その場合、劇薬や処方箋医薬品であれば、1か月分以内の分量に限られ、それ以上であれば医師の処方箋や[[地方厚生局]]の薬監証明が必要である<ref name="個人輸入" />。 ==== 日本の法律における向精神薬の一覧 ==== 医療用に指定された向精神薬は、[[麻薬及び向精神薬取締法]]にて、医療上の有益性・乱用の危険性を考慮して以下のように等級分けされ規制されている。( )は医薬品として市販されている商品名。 * 第一種向精神薬 ** [[ジペプロール]] ** [[セコバルビタール]](アイオナール) ** [[フェネチリン]] ** [[フェンメトラジン]] ** [[メクロカロン]] ** [[メタカロン]] ** [[メチルフェニデート]](リタリン、コンサータ) ** [[モダフィニル]](モディオダール) * 第二種向精神薬 ** [[アモバルビタール]](イソミタール) ** [[グルテチミド]] ** [[シクロバルビタール]] ** [[トレオ-2-アミノ-1-フェニルプロパン-1-オール]] ** [[フルニトラゼパム]](サイレース、ロヒプノール、など) ** [[ブタルビタール]] ** [[ブプレノルフィン]](レペタン、ノルスパン) ** [[ペンタゾシン]](ソセゴン、ペンタジン、など) ** [[ペントバルビタール]](ラボナ、ネンブタール) * 第三種向精神薬(第一種・第二種以外の向精神薬)- 日本で医薬品として流通していない物は省略<ref>{{PDFlink|[https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/tthc/shinsei/yakuji1.files/kakugenn-tebiki.pdf 薬局における向精神薬取扱いの手引(平成24年2月)] 厚生労働省}}</ref> ** [[アルプラゾラム]](ソラナックス、コンスタン、など) ** [[アロバルビタール]] ** [[エスタゾラム]](ユーロジン) ** [[エチゾラム]](デパス) ** [[オキサゾラム]](セレナール、ペルサール) ** [[クアゼパム]](ドラール<!--ベノシール、ダルメート-->) ** [[クロキサゾラム]](セパゾン) ** [[クロチアゼパム]](リーゼ、など) ** [[クロナゼパム]](リボトリール、ランドセン) ** [[クロバザム]](マイスタン) ** [[クロラゼブ酸]]二カリウム(メンドン) ** [[クロルジアゼポキシド]](コントール、コンスーン、バランス) ** [[ジアゼパム]](セルシン、ホリゾン、ダイアップ、ソナコン、など) ** [[ゾピクロン]](アモバン) ** [[ゾルピデム]](マイスリー) ** [[トリアゾラム]](ハルシオン、など) ** [[ニトラゼパム]](ベンザリン、ネルボン、など) ** [[ニメタゼパム]](エリミン) ** [[バルビタール]] ** [[ハロキサゾラム]](ソメリン) ** [[フェナゼパム]] ** [[フェノバルビタール]](ワコビタール、など) ** [[プラゼパム]](セダプラン) ** [[フルジアゼパム]](エリスパン) ** [[フルラゼパム]](ダルメート、ベノジール) ** [[ブロチゾラム]](レンドルミン、など) ** [[ブロマゼパム]](レキソタン、セニラン) ** [[ペモリン]](ベタナミン) ** [[マジンドール]](サノレックス) ** [[ミダゾラム]](ドルミカム) ** [[メタゼパム]](レスミット、など) ** [[ロフラゼプ酸エチル]](メイラックス、など) ** [[ロラゼパム]](ワイパックス、など) ** [[ロルメタゼパム]](エバミール、ロラメット) === アメリカ合衆国 === {{main|規制物質法}} アメリカ合衆国では、規制物質法 (Controlled Substances Act) により、スケジュールIからスケジュールVまでの5段階で規制される。 * スケジュールIは、ヘロインや[[デソモルヒネ]]、[[大麻]]のような、乱用と危険性を示し、医療利用の可能性がない物質である。詳細は[[:en:List of Schedule I drugs (US)|List of Schedule I drugs]]である。 * スケジュールIIは、[[コカイン]]やアンフェタミン、メチルフェニデート、短期作用型のバルツビールのような、医療利用が示されるが、危険性の高い物質である。詳細は[[:en:List of Schedule II drugs (US)|List of Schedule II drugs]]である。 * スケジュールIIIは、[[コデイン]]や[[ケタミン]]、[[マリノール]]のような危険性が少し弱い物質である。詳細は[[:en:List of Schedule III drugs (US)|List of Schedule III drugs]]である。 * スケジュールIVには、[[ベンゾジアゼピン]]や[[ゾルピデム]]などが入る。詳細は[[:en:List of Schedule IV drugs (US)|List of Schedule IV drugs]]である。 * スケジュールVは、鎮咳剤など限定的な危険性を示す物質である。詳細は[[:en:List of Schedule V drugs (US)|List of Schedule V drugs]]である。 フルニトラゼパム(アメリカにおける通称ロヒプノール)には、前向性健忘の可能性があるため、医療用として未承認のまま、1984年11月5日にスケジュールIVに位置付けられ、1996年3月には、科学的また医学的な評価を行いそのままにされている<ref>{{cite web |title=Scheduling of Drugs Under the Controlled Substances Act |url=http://www.fda.gov/newsevents/testimony/ucm115087.htm |date=1999-03-11 |publisher=FDA |accessdate=2013-02-23}}</ref>。つまり薬物規制下にあるが、医療用に認可されていないので、用いることができない。 {{日本語版にない記事リンク|連邦アナログ法|en|Federal Analog Act}}が、[[デザイナードラッグ]]を規制している。 === イギリス === {{main|1971年薬物乱用法}} イギリスでは、[[1971年薬物乱用法]] (Misuse of Drugs Act 1971) によって、A、BおよびCのクラスに分類され規制されている。詳細は、[[:en:Drugs controlled by the UK Misuse of Drugs Act]]である。 乱用の潜在性によって、ヘロインのようなクラスA、アンフェタミンのようなクラスB、一般的な精神科の処方薬を含むクラスCに分けられる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == '''包括的な文書''' * {{Cite book|title=Clinical Guidelines for Withdrawal Management and Treatment of Drug Dependence in Closed Settings|author=世界保健機関|authorlink=世界保健機関|date=2009-09-31|isbn= 978-92-9061-430-2|url=https://apps.who.int/iris/handle/10665/207032 |ref=harv}} * {{Cite book|author=世界保健機関|authorlink=世界保健機関|title=Neuroscience of psychoactive substance use and dependence|publisher=World Health Organization|date=2004|isbn=92-4-156235-8|Location=Geneva|url=http://www.who.int/substance_abuse/publications/en/Neuroscience.pdf|format=pdf|ref=harv}} ** {{Cite book|author=世界保健機関|authorlink=世界保健機関|title=Lexicon of alchol and drug term|publisher=World Health Organization|date=1994|url=http://whqlibdoc.who.int/publications/9241544686.pdf|format=pdf||isbn=92-4-154468-6|pages=|ref=harv}} [http://www.who.int/substance_abuse/terminology/who_lexicon/en/ (HTML版 introductionが省略されている]) * {{Cite book|author=コロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター|title=Addiction Medicine: Closing the Gap between Science and Practice|publisher |url=http://www.casacolumbia.org/templates/NewsRoom.aspx?articleid=678&zoneid=51 |date=2012-06|ref=harv}} * {{Citation|和書|author=[[エリオット・ヴァレンスタイン]]|others=功刀浩監訳、中塚公子訳|date=2008-2-22|title=精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構|publisher=みすず書房|isbn=978-4622073611}}{{Citation|author=Elliot Valenstein|date=October 5, 1998|year=1998|title=Blaming the Brain: The Truth About Drugs and Mental Health|publisher=Free 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'''その他の関連書''' * {{Citation|author=Thomas Szasz|date=March, 1988|year=1988|title=[https://books.google.co.jp/books?isbn=0815602243 Schizophrenia: The Sacred Symbol of Psychiatry]|publisher=Syracuse University Press|isbn=978-0815602248}}. * {{Citation|author=Thomas Szasz|date=September 1, 2008|year=2008|title=Psychiatry: The Science of Lies|publisher=Syracuse University Press|isbn=978-0815609100}}. * {{Citation|和書|author=[[アービング・カーシュ]]|others=石黒千秋訳|date=2010-1-25|title=抗うつ薬は本当に効くのか|publisher=エクスナレッジ|isbn=978-4767809540}}{{Citation|author=Irving Kirsch|date=October 19, 2009|year=2009|title=The Emperor's New Drugs: Exploding the Antidepressant Myth|publisher=The Bodley Head|isbn=978-1847920836}}. * {{Citation|和書|author=デイヴィッド・ヒーリー|authorlink=デイヴィッド・ヒーリー|others=田島治監修、谷垣暁美訳|date=2005-8-3|title=抗うつ薬の功罪 SSRI論争と訴訟|publisher=みすず書房|isbn=978-4622071495}}{{Citation|author=David Healy|date=June, 2004|year=2004|title=Let Them Eat Prozac: The Unhealthy Relationship Between the Pharmaceutical Industry and Depression|publisher=New York University Press|isbn=978-0814736692}}. * {{Citation|和書|author=マーシャ・エンジェル|others=栗原千絵子・斉尾武郎共監訳|date=2005-11-10|title=ビッグ・ファーマ―製薬会社の真実|publisher=篠原出版新社|isbn=978-4884122621}}{{Citation|author=Marcia Angell|date=August 24, 2004|year=2004|title=The Truth About the Drug Companies: How They Deceive Us and What to Do About It|publisher=[[ランダムハウス|Random House]]|isbn=978-0375508462}}. * {{Citation|author=Robert Whitaker|date=2009-01-01|year=2009|title=[[w:Anatomy of an Epidemic|Anatomy of an Epidemic: Magic Bullets, Psychiatric Drugs, and the Astonishing Rise of Mental Illness in America]]|publisher=[[w:Crown Publishing Group|Crown Publishing Group]]|place=New York|asin=B004RU7U5C}}.(翻訳書は {{Citation|和書|author=ロバート・ウィタカー|others=小野善郎監訳、門脇陽子・森田由美訳|date=2010-9-19|title=心の病の「流行」と精神科治療薬の真実|publisher=福村出版|isbn=978-4571500091}}) * {{Citation|author=[[ピーター・ゲッチェ|Peter C. Gøtzsche]]|date=2015-09-01|year=2015|title=Deadly Psychiatry and Organised Denial|publisher=ArtPeople|asin=B014SO7GHS}}. == 関連項目 == * [[嗜癖]] * [[生活保護問題#医療費無償による薬の不正入手・転売問題]] * {{ill2|動物における向精神薬の影響|en|Effect of psychoactive drugs on animals}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20160501025427/http://www.nco.go.jp/lows/low1.html 麻薬及び向精神薬取締法] * {{脳科学辞典|記事名=向精神薬}} * {{Kotobank}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:こうせいしんやく}} [[Category:向精神薬|*]]
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8,796
中枢神経刺激薬
中枢神経刺激薬 (ちゅうすうしんけいしげきやく、英: central nervous system stimulants :CNS stimulants) は、中枢神経系に作用し、その機能を活発化させる薬物の総称である。世界保健機関による精神医学の用語集において、アンフェタミンやコカインのような交感神経様作用アミンと、ストリキニーネやピクロトキシンのような中枢神経興奮剤とを含むとしている。日本の薬効分類から見れば、興奮剤、覚醒剤の分類名の横に、central nervous system stimulantsの英名が書かれている。これでは、ストリキニーネなども下位に分類される。 中枢神経系への刺激作用からの中枢神経系刺激薬のような分類では、さらに下位に精神運動刺激薬と、幻覚剤に分ける場合がある。アメリカの軍隊のマニュアルでも、LSDも中枢神経刺激薬に含まれることがある。 メチルフェニデートの医薬品の添付文書においては中枢神経刺激剤の薬効分類名が書かれている。そのインタビューフォームにおいては中枢神経興奮剤の薬効分類名が書かれている。添付文書の上部にある、このような薬効分類名は標榜薬効と呼ばれ、標榜としての自由度が許容されているが、同じ成分であれば統一すべきものが各社の標榜がバラバラになっていることが指摘されている。 ある書籍には、精神刺激薬の項にてメチルフェニデートを中枢神経刺激剤と紹介し、薬事関係のニュースサイトは同じくメチルフェニデートを紹介するのに中枢神経興奮剤を用いている。この薬効分類名は、モダフィニルでは精神神経用剤。アンナカでは中枢興奮・鎮痛剤である。 昏睡からの覚醒やナルコレプシーなどの重度の睡眠障害の治療に使用されることが多い。中枢神経刺激薬は日本の法律上の覚せい剤を含み、日本ではアンフェタミン、メタンフェタミン、およびその塩類が覚醒剤取締法の対象薬物となっている。このうちメタンフェタミンの塩酸塩である塩酸メタンフェタミンは日本薬局方に収められており、医療的利用が認められている。 塩酸メチルフェニデートは欧米や日本において注意欠陥・多動性障害 (ADHD) の治療に使用されているが、その副作用や中毒性については更なる研究結果を待つ必要がある。 一部の健康体の人がこれらの薬を認識能力増強薬として使用しており (特に米国に多い)、多くの国では現状これらの使用方法は非合法とされている。しかし、一部の科学者はこういった使用法を合法化する事を提唱している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中枢神経刺激薬 (ちゅうすうしんけいしげきやく、英: central nervous system stimulants :CNS stimulants) は、中枢神経系に作用し、その機能を活発化させる薬物の総称である。世界保健機関による精神医学の用語集において、アンフェタミンやコカインのような交感神経様作用アミンと、ストリキニーネやピクロトキシンのような中枢神経興奮剤とを含むとしている。日本の薬効分類から見れば、興奮剤、覚醒剤の分類名の横に、central nervous system stimulantsの英名が書かれている。これでは、ストリキニーネなども下位に分類される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "中枢神経系への刺激作用からの中枢神経系刺激薬のような分類では、さらに下位に精神運動刺激薬と、幻覚剤に分ける場合がある。アメリカの軍隊のマニュアルでも、LSDも中枢神経刺激薬に含まれることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "メチルフェニデートの医薬品の添付文書においては中枢神経刺激剤の薬効分類名が書かれている。そのインタビューフォームにおいては中枢神経興奮剤の薬効分類名が書かれている。添付文書の上部にある、このような薬効分類名は標榜薬効と呼ばれ、標榜としての自由度が許容されているが、同じ成分であれば統一すべきものが各社の標榜がバラバラになっていることが指摘されている。", "title": "添付文書における薬効分類の注意" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ある書籍には、精神刺激薬の項にてメチルフェニデートを中枢神経刺激剤と紹介し、薬事関係のニュースサイトは同じくメチルフェニデートを紹介するのに中枢神経興奮剤を用いている。この薬効分類名は、モダフィニルでは精神神経用剤。アンナカでは中枢興奮・鎮痛剤である。", "title": "添付文書における薬効分類の注意" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "昏睡からの覚醒やナルコレプシーなどの重度の睡眠障害の治療に使用されることが多い。中枢神経刺激薬は日本の法律上の覚せい剤を含み、日本ではアンフェタミン、メタンフェタミン、およびその塩類が覚醒剤取締法の対象薬物となっている。このうちメタンフェタミンの塩酸塩である塩酸メタンフェタミンは日本薬局方に収められており、医療的利用が認められている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "塩酸メチルフェニデートは欧米や日本において注意欠陥・多動性障害 (ADHD) の治療に使用されているが、その副作用や中毒性については更なる研究結果を待つ必要がある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一部の健康体の人がこれらの薬を認識能力増強薬として使用しており (特に米国に多い)、多くの国では現状これらの使用方法は非合法とされている。しかし、一部の科学者はこういった使用法を合法化する事を提唱している。", "title": "治療目的以外での使用" } ]
中枢神経刺激薬 は、中枢神経系に作用し、その機能を活発化させる薬物の総称である。世界保健機関による精神医学の用語集において、アンフェタミンやコカインのような交感神経様作用アミンと、ストリキニーネやピクロトキシンのような中枢神経興奮剤とを含むとしている。日本の薬効分類から見れば、興奮剤、覚醒剤の分類名の横に、central nervous system stimulantsの英名が書かれている。これでは、ストリキニーネなども下位に分類される。 中枢神経系への刺激作用からの中枢神経系刺激薬のような分類では、さらに下位に精神運動刺激薬と、幻覚剤に分ける場合がある。アメリカの軍隊のマニュアルでも、LSDも中枢神経刺激薬に含まれることがある。
{{Otheruses|中枢神経系を刺激する薬物全般|主として精神に刺激作用のある薬物|精神刺激薬}} [[File:Betanamin.jpg|160px|thumb|ベタナミン錠]] '''中枢神経刺激薬''' (ちゅうすうしんけいしげきやく、{{Lang-en-short|central nervous system stimulants :CNS stimulants}}) は、[[中枢神経系]]に作用し、その機能を活発化させる[[薬物]]の総称である<ref name="ラング"/>。[[世界保健機関]]による精神医学の用語集において、[[アンフェタミン]]や[[コカイン]]のような交感神経様作用アミンと、[[ストリキニーネ]]や[[ピクロトキシン]]のような中枢神経興奮剤とを含むとしている<ref>{{Cite book|author=World Health Organization|authorlink=世界保健機関|year=1994|title=Lexicon of psychiatric and mental health terms|edition=2nd|publisher=World Health Organization|url=http://apps.who.int/iris/handle/10665/39342|isbn=92-4-154466-X|page=98}}</ref>。日本の薬効分類から見れば、'''興奮剤'''、[[覚醒剤]]の分類名の横に、central nervous system stimulantsの英名が書かれている<ref name="中分類87">[https://www.soumu.go.jp/main_content/000294493.pdf 中分類87医薬品及び関連製品] (総務省)</ref>。これでは、ストリキニーネなども下位に分類される<ref name="中分類87"/>。 中枢神経系への刺激作用からの中枢神経系刺激薬のような分類では、さらに下位に'''[[精神刺激薬|精神運動刺激薬]]'''と、[[幻覚剤]]に分ける場合がある<ref name="ラング">{{Cite book|和書|author=H.P.ラング、M.M.デール、J.M.リッター、R.J.フラワー|coauthor=樋口宗史(監訳)、前山一隆(翻訳)ら|title=カラー版ラング・デール薬理学|publisher=西村書店|date=2011|isbn=978-4890134113|pages=592-597}}、''Rang and Dale's pharmacology'', 6ed.の邦訳書。</ref><ref>''Rang & Dale's Pharmacology'', 7ed, pp.584-591. ISBN 978-0702034718.</ref><ref>Michelle A. Clark, Richard A. Harvey, Richard Finkel, Jose A. Rey, Karen Whalen. ''Pharmacology'', 5ed, p.123, 2011. ISBN 978-1451113143.</ref>。アメリカの軍隊のマニュアルでも、[[LSD (薬物)|LSD]]も中枢神経刺激薬に含まれることがある<ref>{{cite report|author=|title=NATO HAND BOOK ON THE MEDICAL ASPECTS OF NBC DEFENSIVE OPERATIONS A Med P-6(B )|publisher=DEPARTMENTS OF THE ARMY, THE NAVY, AND THE AIR FORCE |date=1996|url=http://www.fas.org/irp/doddir/army/fm8-9.pdf|format=pdf|accessdate=2014-06-19}} (Federation Of American Scientists)</ref>。 ==添付文書における薬効分類の注意== メチルフェニデートの医薬品の[[添付文書]]においては'''中枢神経刺激剤'''の薬効分類名が書かれている。そのインタビューフォームにおいては'''中枢神経興奮剤'''の薬効分類名が書かれている<ref>[http://product.novartis.co.jp/rit/if/if_rit_1311.pdf リタリン インタビューフォーム]</ref>。添付文書の上部にある、このような[[医薬品の薬効分類|薬効分類名]]は標榜薬効と呼ばれ<ref>{{Cite book|和書|author=薬事日報社|title=最近の新薬2009|edition=2009年版||publisher=薬事日報社|date=2009|isbn=978-4-8408-1083-8|pages=ii}}</ref>、標榜としての自由度が許容されているが、同じ成分であれば統一すべきものが各社の標榜がバラバラになっていることが指摘されている<ref name="議事録16回">{{cite conference |url=https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r98520000014z56.html |title=第16回保健医療情報標準化会議議事録 |author= |date=2010-10-17 |publisher=厚生労働省 |booktitle= |location=経済産業省別館8階825会議室 }}</ref>。 ある書籍には、[[精神刺激薬]]の項にてメチルフェニデートを中枢神経刺激剤と紹介し<ref>{{Cite book|和書|author=畝崎榮、松本有右、竹内裕紀|title=よくわかる服薬指導の基本と要点|publisher= 秀和システム|date=2009|isbn=978-4798022802|pages=92}}</ref>、薬事関係のニュースサイトは同じくメチルフェニデートを紹介するのに中枢神経興奮剤を用いている<ref>{{cite news |author= |title=中枢神経興奮剤「リタリン」‐乱用防止でうつ病の適用を削除へ |url=http://www.yakuji.co.jp/entry4444.html |date=2007-09-21 |newspaper=薬事日報 |accessdate=2014-06-19}}</ref>。この薬効分類名は、[[モダフィニル]]では精神神経用剤<ref>[http://database.japic.or.jp/pdf/newPINS/00052776.pdf モダディオール錠100㎎ 添付文書]</ref>。アンナカでは中枢興奮・鎮痛剤である<ref>[https://www.info.pmda.go.jp/go/pack/2115003X1090_2_03/ アンナカ「ホエイ」添付文書]</ref>。 == 用途 == 昏睡からの覚醒や[[ナルコレプシー]]などの重度の睡眠障害の治療に使用されることが多い。中枢神経刺激薬は日本の法律上の'''覚せい剤'''を含み、日本では[[アンフェタミン]]、[[メタンフェタミン]]、およびその[[酸と塩基|塩類]]が[[覚醒剤取締法]]の対象薬物となっている。このうちメタンフェタミンの塩酸塩である塩酸メタンフェタミンは日本薬局方に収められており、医療的利用が認められている。 塩酸[[メチルフェニデート]]は欧米や日本において[[注意欠陥・多動性障害]] (ADHD) の治療に使用されているが、その副作用や中毒性については更なる研究結果を待つ必要がある。 == 治療目的以外での使用 == 一部の健康体の人がこれらの薬を[[スマートドラッグ|認識能力増強薬]]として使用しており (特に米国に多い)、多くの国では現状これらの使用方法は非合法とされている。しかし、一部の科学者はこういった使用法を合法化する事を提唱している<ref name="pmid19060880">{{cite journal|last1=Greely|first1=Henry|last2=Sahakian|first2=Barbara|last3=Harris|first3=John|last4=Kessler|first4=Ronald C.|last5=Gazzaniga|first5=Michael|last6=Campbell|first6=Philip|last7=Farah|first7=Martha J.|title=Towards responsible use of cognitive-enhancing drugs by the healthy|journal=Nature|volume=456|issue=7223|pages=702–705|year=2008|month=December|pmid=19060880|doi=10.1038/456702a}}</ref>。 == 種類 == [[File:Cocaine hydrochloride CII for medicinal use.jpg|160px|thumb|[[コカイン]]]] [[File:Ritalin-SR-20mg-full.jpg|thumb|right|160px|[[リタリン]]]] ;[[アンフェタミン]] :[[覚醒剤取締法]]により[[覚せい剤]]に指定されている。[[処方箋医薬品]]。ただし、2013年現在製造されている製品はない。[[武田薬品工業]]のゼドリンは、現在では発売が中止されている。 ;[[デキストロアンフェタミン]] :商品名、アデロールやデキセドリンとして知られ、国外ではADHDなどに用いられる。本邦未発売である。 ;[[メタンフェタミン]] :覚せい剤取締法により覚せい剤である。処方箋医薬品。[[大日本住友製薬]]のヒロポンがある。 ;[[エフェドリン]] :ナガヰ錠 ([[日医工]])やエフェドラとして知られる。 ;[[モダフィニル]] :[[麻薬及び向精神薬取締法]]により第一種向精神薬である。モディオダール ([[アルフレッサ]])など。 ;{{仮リンク|アドラフィニル|en|Adrafinil}} :オルミフォン ;[[カフェイン]] ;[[コカイン]] :麻薬及び向精神薬取締法により[[麻薬]]。処方箋医薬品。 ;[[ペモリン]] :ベタナミン ([[三和化学研究所]]) ;[[メチルフェニデート]] :麻薬及び向精神薬取締法により第一種向精神薬指定、処方箋医薬品。[[リタリン]] ([[ノバルティス]])やコンサータ ([[ヤンセンファーマ]])として知られる。 ;デキサメチルフェニデート :フォカリン (ノバルティス、本邦未発売) ;[[ピプラドロール]] :カロパン ([[日本新薬]]) == 注釈 == {{Reflist}} ==関連項目== *[[精神刺激薬]] *[[覚醒剤]] *[[向精神薬]] {{Medical-stub}} {{DEFAULTSORT:ちゆうすうしんけいしけきやく}} [[Category:精神賦活剤|*]] [[Category:覚醒剤|*]]
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コムギ
コムギ(小麦)はイネ科コムギ属に属する一年草の植物。一般的にはパンコムギ(学名: Triticum aestivum)を指すが、広義にはクラブコムギ(学名: Triticum compactum)やデュラムコムギ(学名: Triticum durum)などコムギ属(学名: Triticum)の植物全般を指す。世界三大穀物のひとつで、小麦粉にされパン・麺類・菓子などの主な材料となる。 他の三大穀物と同じく「基礎食料」であり、各国で生産された小麦は、まず国内で消費され、剰余が輸出される。主要な輸出国はロシア、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ウクライナ、フランスである。 人類は紀元前1万5千年~紀元前3千年ころに栽培しはじめ、現在世界でも特に生産量の多い穀物のひとつであり、世界の年間生産量は約7.3億トンである。これはトウモロコシの約10.4億トンには及ばないが、米の約7.4億トンにほぼ近い(2014年)。 コムギは播種時期によって秋播き小麦と春播き小麦の2つの品種群に分かれる。秋播き小麦は発芽するのにある程度の低温期間が継続する春化を必要とするため、秋に種をまいて越年させ、春に発芽し夏に収穫するのが基本形である。低温が必要なため、やや寒冷な地域では秋播き小麦が主に栽培される。一方春播き小麦は春に播いて、夏の終わりに収穫するのが一般的である。春播き小麦は、寒さが激しく種が冬を越せない地方や、逆に冬に低温にならず春化のできない温暖な地域、さらに本来の収穫期に雨季を迎え収穫が困難になるような地域で栽培される<。 コムギの実は硬い外皮に覆われ、その中に可食部である胚乳と、胚芽が存在する。この3部分の体積の割合は外皮が13.5%、胚乳が84%、胚芽が2.5%である。主に食用とするのは胚乳部分であり、製粉して小麦粉とするのはこの部分である。果皮(「ふすま」および「ブラン(bran)」と呼ばれる)や胚芽部分も食用とすることはできるが、食味に劣るうえ小麦粉に混入すると品質が劣化しやすくなるため、一般的な小麦粉に使用することはない。しかし、ふすま部分には独特の風味と食物繊維など有用成分があるため、販売されることもあるほか、これを取り除かずそのまま粉にした全粒粉も存在する。 コムギのゲノム解読は、2018年に完了している。64か国の610機関で構成する「国際コムギゲノム解読コンソーシアム」には、日本からは農研機構や京都大学などが参加した。 コムギ属 Triticum は、1小穂の稔実粒数、染色体数、ゲノム構成によって以下のように分けられる。 小麦は栽培時期等によって以下のように区別される。 ユーラシア大陸中部のコーカサス地方からメソポタミア地方にかけてが原産地と考えられている。野生1粒系コムギの栽培は紀元前8400年頃に始まった。その後1粒系コムギはクサビコムギAegilops speltoidesと交雑し2粒コムギになり、さらに紀元前5500年頃に2粒系コムギは野生種のタルホコムギAe. squarrosaと交雑し、普通コムギT. aestivumが生まれたといわれる。 コムギの栽培はメソポタミア地方で始まり、紀元前3000年頃にはヨーロッパ全域やアフリカ(地中海沿岸、地中海世界)に伝えられた。テル・アブ・フレイラなどから採掘された古代の野生種ムギはもともと成熟すると麦穂が風などにより容易に飛び散る性質を持っており、当初のコムギも収穫には非常に手間のかかる作物であったと考えられている。このため、その貴重さと保蔵のしやすさから一種の交換の媒体、通貨として取り扱われていたのではないかと推測されている。シリア地方からヨーロッパなどに栽培の範囲が広がるにつれて品種淘汰がなされ、この種子の飛び散りやすさの特性が失われ、主食穀物としての座を獲得することになった。栽培植物化の時期はオオムギの方がやや早く、当初はオオムギの方が重要な作物であった。これは、オオムギの収量の多さや収穫時期の早さ、粒の大きさなどによる。また、この時期はコムギもオオムギも粥として煮て食べるものであったため、調理方法の差が重要となることはなかった。しかし、製粉技術が進歩し石臼が登場すると、粉食により美味さが増し、グルテンを持ち様々な料理へと加工することが容易なコムギがオオムギに代わって最重要の作物となっていった。製粉のための水車を「人類初の機械」の発明とする説もある。 聖書の冒頭の書である『創世記』(30章14節)にすでに小麦が登場する。その他の書にも頻繁に「麦」や「小麦」が登場し、重要な作物であったことがわかる。 中国への小麦の伝来は四千年前頃(紀元前2000年頃)と考えられていて、粉食用として広く栽培される様に成ったのは三千年前頃(紀元前1000年頃)である。これは小麦が冬作物で、粟は稲の端境期に収穫されたためで、七千年前頃から栽培が行われていたとされる大麦とは対照的である。 中世にはヨーロッパでは既にコムギが最も重要な作物となっていたが、特に農民や下層の都市住民にはコムギだけで作られたパンは贅沢品であり、オオムギやエンバク、ライムギといった安価な穀物が食生活の中心となっていた。一方で栽培されるコムギにおいても、パンコムギはエンマーコムギやスペルトコムギよりも優勢であり、より高く評価されていた。パンコムギには易脱穀性があり、難脱穀性のエンマーコムギやスペルトコムギに比べ脱穀の手間が少なかったためである。 大航海時代に入ると、新大陸に移住したヨーロッパ人植民者たちが故郷からコムギを持ち込んで栽培し、新大陸においても基幹食料となっていった。アメリカ合衆国やカナダ、オーストラリアといった現在のコムギ主要生産国にコムギが持ち込まれたのもこの時期のことである。また、18世紀頃からヨーロッパでは徐々に市民の生活が向上し、また農法の改善や生産地の拡大によってコムギ生産が拡大するとともにコムギが食生活の中心となっていき、量の面でもライムギにかわってコムギが中心となっていった。 20世紀後半、ノーマン・ボーローグらによる小麦農林10号を親としたコムギの短稈種の研究が進められ、肥料を多量に使用しても丈が高くならず、倒伏の危険なしに大量の収穫が見込める品種が次々と開発された。この研究から緑の革命がおこり、これによって多収量の上安定した収穫が望める新品種が発展途上国を中心に普及し、メキシコなど多くの発展途上国でコムギは大幅な増収となり、生産性も大幅に改善された。その一方、旱魃など災害による地域的な不作もなくなってはいない。 中国大陸経由で直接日本に伝来されたと考えられている日本でも約2000年前の遺跡から小麦が出土しており、伝わったのはそれから遠くない弥生時代であると考えられている。奈良・平安期には五穀の1つとして重視された(『和名類聚抄』には「古牟岐(コムギ)・末牟岐(マムギ=「真麦」)」の名で伝わる)。一方で収穫前の大麦・小麦の青草を貴族や有力豪族が農民から買い上げて馬の飼料にすることが行われ、当時の政府がこれを禁止する太政官符が度々発令(751年、808年、819年、839年)されており、稲や粟と比較して食用作物としての認識が十分に広まっていなかったとする見方もある。ただ、これには当時の日本に製粉用の石臼がほとんど普及していない、という事情があった。柔らかい胚乳が硬い表皮で覆われた構造の麦粒を食用にするには、全体をひき潰してから小麦粉とふすまに分離する必要がある。回転式の石臼を持たない庶民は、搗き臼を使っての非効率な製粉作業に甘んじるしかなかった。その手間を嫌い、手早く利益を得る方法として小麦を飼料用に販売したとも考えられる。それ以降もコムギは全国で栽培され続けたが、製粉技術が未発達だったために使用法が限定されていた。それでも鎌倉時代にはいって二毛作が始まると、稲の裏作作物としてコムギが採用され、室町時代に入ると米に比べてムギの税率が軽かったために裏作でのコムギの栽培量が急速に増加した。 日本では製粉技術の発達が遅れたため、小麦その他「粉」を使用した食品は長らく贅沢品とされた。庶民がうどん、饅頭、ほうとう、すいとんなどの粉食品を気軽に口にできるようになったのは、石臼が普及した江戸時代以降である。稲の裏作として麦の生産が盛んに行われるようになり、粒のまま食べるオオムギと粉にして食べるコムギがともに食用として栽培された。都市では小麦粉を使用したうどんや天ぷらといった料理や饅頭などの和菓子の消費が大きくなる一方、自家消費の割合の大きい農村では製粉という手間のかかるコムギは日常ではなかなか口にできるものではなかった。このため、コムギなどの粉食はハレの日の料理として扱われることが多かった。 明治時代に入り、欧米からパンなど様々なコムギ料理が伝わってくるとコムギの消費も増大した。明治時代初期には36万ヘクタールだった栽培面積は、大正時代には50万ヘクタール、最も栽培面積の大きくなった第二次世界大戦中には70万から80万ヘクタールにのぼるようになった。第二次世界大戦後には学校給食がはじまり、パン主体の給食と食の欧米化、多様化はコムギの消費をさらに拡大させた。一方で、アメリカなどから安いコムギが大量に入ってくるようになったことや二毛作自体の衰退、そして1963年の三八豪雪と夏の多雨により小麦生産が大打撃を受けたことにより、栽培面積は急速に減少して、1963年には栽培面積60万ヘクタール、自給率20%前後だったものが、1973年には栽培面積は7.5万ヘクタールにまで減少し、自給率はわずか4%となった。その後、減反政策によってコムギの生産が奨励され、生産はやや復調傾向にある。2005年には栽培面積は21万ヘクタール、自給率は14%となっている。 収穫された種子は基本的には製粉して小麦粉として使われる。初期のコムギは粥のようにして食べられていたが、穀粒が硬く軟らかくするのに長時間加熱しなければならなかったこと、小麦粉の生地には特有の粘りと弾力性があり食感が好ましかったこと、表皮のふすま(麩・麬=コメでいう糠)が硬いため取り除こうとすると内側の胚乳部が砕けてしまうことから、いったん製粉して小麦粉にしてから加工する粉食が基本になった。 小麦粉から製造される食品は多岐にわたる。パンの種類は非常に多く、食パンやフランスパンなど西洋起源の主食用発酵パンだけでなく、中東から北アフリカにかけてのピタのように非西洋起源のパンも多く、またチャパティのように非発酵のパンも多く食される。あんパンやデニッシュのような菓子パン、カレーパンのような惣菜パンもあり、また中国のマントウや蒸しパンのように焼かずに蒸して作るものまで多様な種類が存在する。パスタ、中華麺、うどん等に代表される麺類も多様であり、世界で広く食される。クッキー、クラッカー、ケーキ、ドーナツ、饅頭、パイ、カステラのように、菓子にも広く使用される。北アフリカでは、小麦粉を練ってクスクスを作り、主食としている。 調理の際に小麦粉を使用するものも、天ぷらやフライのような揚げ物類の衣、お好み焼きやたこ焼きなどの生地、スープのとろみをつける際に使用するなど、多くの使用法が存在する。 粉にしない食べ方としては、挽き割りにしたブルグルがある。 また、小麦粉からとれるグルテンからは麩が作られる。 品質が劣るものや製粉の際に出るふすまは家畜の飼料となる。ふすまは、セルロースなど不溶性食物繊維を豊富に含むことが着目され、パン等にも混合され用いられるようになった。また、コムギの胚芽には油が含まれ、食用の小麦胚芽油をとることができる。 なおアメリカ合衆国では、生産量の50%が輸出、36%が食料、10%が飼料、4%が種付の用途となっている。 コムギは、温帯から亜寒帯にかけて栽培されている。比較的乾燥に強く、生産限界は年間降水量400 mmである。灌漑設備が整っている場合は、さらに乾燥した地域でも栽培できる。 地域別ではアジア州が4割強、ヨーロッパ州が3割強、北アメリカ州が1割強となる。国際連合食糧農業機関の統計資料 (FAOSTAT) によると、2006年の世界生産量は6億0595万トン。これは米の生産量(6億3461万トン)に匹敵する。トウモロコシ(6億9523万トン、2006年)についで生産量の多い農作物である。上位5位までの生産国、すなわち、中華人民共和国、インド、アメリカ合衆国、ロシア、フランスで総生産量のちょうど5割を生産している。 コムギの反収は、国によって大きな差がある。2012年の10アール当たりの反収は、集約型の農業が行われているヨーロッパでは、フランスが760 kg、ドイツが733 kg、イギリスが666 kgと非常に多収である。日本では411 kgであり、ヨーロッパ諸国の3分の2程度である。これは、日本では、本州以南では、水田稲作の裏作として副次的に作付されることが多く、コムギに最適な土壌管理等がなされにくいこと、また、北海道以外では、コムギの登熟期が梅雨にかかってしまい、収穫量や品質に重大な影響をあたえることがしばしばあるためである。なお、コムギの大生産国であるアメリカ合衆国では311 kg、オーストラリアでは215 kgと反収は低い。カザフスタンに至っては79 kgと、主要な生産国の中では最低レベルである。こういった国々では反収の低さを農園の広大さで補い、粗放栽培型の農業が行われている。ちなみに、コムギにおいては反収は先進国と発展途上国の間に明確な差は見られない。エジプトや、1980年代から1990年代にかけてのジンバブエ(ジンバブエ政府の政策により、2000年代には350 kg前後にまで激減した)のように10アール当たりの反収が550 kgから650 kgにものぼり、世界最高水準に達している途上国もある一方で、ロシアの反収は177 kgと、フランスの4分の1未満にすぎない。 日本の生産量は、86万300トン(2005年)、うち北海道での生産が全体の65%を占める。世界的に問題となる生育期の降水量に関しては、本州以南も申し分ないが、逆に、本州の多くでは、収穫期に梅雨入りしてしまい、コムギの収量・品質に多大な影響を与えてしまうため、国内では梅雨がない北海道が、栽培に適するためである(熟したコムギは水分を得ると発芽する〈穂発芽〉。穂発芽を起こしたコムギの値段は一気に下がる)。 国内の栽培品種についても、梅雨の存在が影を落としている。とりわけ東北南部以南では、水田における裏作として伝統的に栽培されてきた、登熟が早く、収穫期の多湿多雨に比較的強い、うどん等の在来麺類向けの品種が専ら生産され、パン向けは国内生産の半分に満たない。これは、パン向けのコムギは、特に収穫期の高温多湿多雨に弱いため、国内では品質・収量ともに安定的な生産が難しく、農家が敬遠する傾向があるためである。しかし、近年のコムギ国際価格の高騰と、製パン向けの国内産小麦に対する根強い国内需要があることから、パン向けの品種改良や、数少ない国内産のパン用小麦の争奪戦がおこなわれている。 コムギは最も貿易量が多い穀物である。2017年時点の総輸出量は1億9679万トン、総輸入量は1億9135万トン。例えばトウモロコシの総輸出量は1億6125万トン、米は4452万トンに過ぎない。 主な輸出国はロシア3303万トン (16.8%)、アメリカ合衆国2730万トン (13.9%)、カナダ2206万トン (11.2%)、オーストラリア2199万トン (11.2%)、ウクライナ1731万トン (8.8%)、フランス1522万トン (7.7%)、アルゼンチン1310万トン (6.7%) の順であり、この年間輸出量1000万トンを超す7か国で全輸出量の3/4を占める。近年(2009年-2019年)の輸出順位上位5カ国は、アメリカ合衆国(10カ年平均輸出量 2627万トン/年)、ロシア(同 2285万トン/年)、カナダ(同 2060万トン/年)、フランス(同 1883万トン/年)、オーストラリア(同 1686万トン/年)の順であり、ロシア他、ウクライナ、カザフスタンなど旧ソ連地域や東欧諸国の輸出の伸びが大きい。 一方、近年(2009年-2019年)の輸入順位上位5カ国は、エジプト(10カ年平均輸入量 1037万トン/年)、インドネシア(同 772万トン/年)、アルジェリア(同 712万トン/年)、イタリア(同 709万トン/年)、ブラジル(同 624万トン/年)の順である。なお、同期間の日本の平均輸入量は563万トン/年であり、主な輸入相手国は、アメリカ合衆国 (54.8%)、カナダ (28.9%) 、オーストラリア (16.2%)である。 コムギは国際的な商品先物取引の対象商品であり、国際取引指標はシカゴ商品取引所 (CBOT)において形成される。また、 ユーロネクストにおいても取り扱われている。 日本に輸入される小麦の銘柄としては以下のようなものがある。 日本国内において、麦(小麦・大麦・はだか麦)は食糧法により価格統制が存在する。輸入小麦の政府への売渡価格については2007年4月、年間を通じて固定価格であった「標準売渡価格制度」が廃止され、新たに「相場連動制」が導入された。小麦価格には穀物取引量が世界最大のシカゴ商品取引所の相場が影響する。 食糧法第三章により、麦は政府の価格統制が存在する。 第四十五条 麦等の輸入を行おうとする者は、国際約束に従って農林水産大臣が定めて告示する額に、当該輸入に係る麦等の数量を乗じて得た額を、政府に納付しなければならない。ただし、次に掲げる場合は、この限りでない。 四十二条により、政府は麦等の輸入を目的とする買入れを行うことができる(政府麦)。 日本政府は、商社が輸入した小麦を購入した上で、政府売り渡し価格を製粉会社に提示、引き渡す制度になっている。製粉会社はマークアップと呼ばれる上乗せ金 16,868円/tを政府に、拠出金 1,530円/tを、農水省OBが中心の組織、製粉振興会に支払うことで、原料を購入することができる。売り渡し価格は、年3回(現行年2回)、10%程度の増減幅で見直されているが、上記の情勢や天候に大きく左右されれば国際価格に影響を受ける。 2006年頃から上昇傾向にあった小麦価格は、2007年には主にオーストラリアでの大規模な不作によって小麦価格が高騰、それに伴い政府価格も改定し、パンや焼きそばなど小麦粉を使う製品の値段が上昇した。2008年10月には、売渡価格が20%値上げされるほか、2009年には国産買取価格も30%値上げされた。 四十五条により、政府および政府に委託を受けた以外の者が日本に小麦を輸入する際には、輸入関税に加え、国内生産農家保護のため麦等輸入納付金を納付しなければならない。 日本における農林水産省が認定する「農林認定品種」は、2010年までに170種を超える。日本に輸入される外国産の小麦は、複数品種をブレンドした銘柄で取引される。作付面積は農林水産省調べで、産年による。 セリアック病という遺伝性免疫疾患をもつ人はグルテンに反応することがある。先進国の一般人の少なくとも約1%がセリアック病を持っている。コムギのグルテンにも反応する。
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"中世にはヨーロッパでは既にコムギが最も重要な作物となっていたが、特に農民や下層の都市住民にはコムギだけで作られたパンは贅沢品であり、オオムギやエンバク、ライムギといった安価な穀物が食生活の中心となっていた。一方で栽培されるコムギにおいても、パンコムギはエンマーコムギやスペルトコムギよりも優勢であり、より高く評価されていた。パンコムギには易脱穀性があり、難脱穀性のエンマーコムギやスペルトコムギに比べ脱穀の手間が少なかったためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大航海時代に入ると、新大陸に移住したヨーロッパ人植民者たちが故郷からコムギを持ち込んで栽培し、新大陸においても基幹食料となっていった。アメリカ合衆国やカナダ、オーストラリアといった現在のコムギ主要生産国にコムギが持ち込まれたのもこの時期のことである。また、18世紀頃からヨーロッパでは徐々に市民の生活が向上し、また農法の改善や生産地の拡大によってコムギ生産が拡大するとともにコムギが食生活の中心となっていき、量の面でもライムギにかわってコムギが中心となっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "20世紀後半、ノーマン・ボーローグらによる小麦農林10号を親としたコムギの短稈種の研究が進められ、肥料を多量に使用しても丈が高くならず、倒伏の危険なしに大量の収穫が見込める品種が次々と開発された。この研究から緑の革命がおこり、これによって多収量の上安定した収穫が望める新品種が発展途上国を中心に普及し、メキシコなど多くの発展途上国でコムギは大幅な増収となり、生産性も大幅に改善された。その一方、旱魃など災害による地域的な不作もなくなってはいない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "中国大陸経由で直接日本に伝来されたと考えられている日本でも約2000年前の遺跡から小麦が出土しており、伝わったのはそれから遠くない弥生時代であると考えられている。奈良・平安期には五穀の1つとして重視された(『和名類聚抄』には「古牟岐(コムギ)・末牟岐(マムギ=「真麦」)」の名で伝わる)。一方で収穫前の大麦・小麦の青草を貴族や有力豪族が農民から買い上げて馬の飼料にすることが行われ、当時の政府がこれを禁止する太政官符が度々発令(751年、808年、819年、839年)されており、稲や粟と比較して食用作物としての認識が十分に広まっていなかったとする見方もある。ただ、これには当時の日本に製粉用の石臼がほとんど普及していない、という事情があった。柔らかい胚乳が硬い表皮で覆われた構造の麦粒を食用にするには、全体をひき潰してから小麦粉とふすまに分離する必要がある。回転式の石臼を持たない庶民は、搗き臼を使っての非効率な製粉作業に甘んじるしかなかった。その手間を嫌い、手早く利益を得る方法として小麦を飼料用に販売したとも考えられる。それ以降もコムギは全国で栽培され続けたが、製粉技術が未発達だったために使用法が限定されていた。それでも鎌倉時代にはいって二毛作が始まると、稲の裏作作物としてコムギが採用され、室町時代に入ると米に比べてムギの税率が軽かったために裏作でのコムギの栽培量が急速に増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本では製粉技術の発達が遅れたため、小麦その他「粉」を使用した食品は長らく贅沢品とされた。庶民がうどん、饅頭、ほうとう、すいとんなどの粉食品を気軽に口にできるようになったのは、石臼が普及した江戸時代以降である。稲の裏作として麦の生産が盛んに行われるようになり、粒のまま食べるオオムギと粉にして食べるコムギがともに食用として栽培された。都市では小麦粉を使用したうどんや天ぷらといった料理や饅頭などの和菓子の消費が大きくなる一方、自家消費の割合の大きい農村では製粉という手間のかかるコムギは日常ではなかなか口にできるものではなかった。このため、コムギなどの粉食はハレの日の料理として扱われることが多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "明治時代に入り、欧米からパンなど様々なコムギ料理が伝わってくるとコムギの消費も増大した。明治時代初期には36万ヘクタールだった栽培面積は、大正時代には50万ヘクタール、最も栽培面積の大きくなった第二次世界大戦中には70万から80万ヘクタールにのぼるようになった。第二次世界大戦後には学校給食がはじまり、パン主体の給食と食の欧米化、多様化はコムギの消費をさらに拡大させた。一方で、アメリカなどから安いコムギが大量に入ってくるようになったことや二毛作自体の衰退、そして1963年の三八豪雪と夏の多雨により小麦生産が大打撃を受けたことにより、栽培面積は急速に減少して、1963年には栽培面積60万ヘクタール、自給率20%前後だったものが、1973年には栽培面積は7.5万ヘクタールにまで減少し、自給率はわずか4%となった。その後、減反政策によってコムギの生産が奨励され、生産はやや復調傾向にある。2005年には栽培面積は21万ヘクタール、自給率は14%となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "収穫された種子は基本的には製粉して小麦粉として使われる。初期のコムギは粥のようにして食べられていたが、穀粒が硬く軟らかくするのに長時間加熱しなければならなかったこと、小麦粉の生地には特有の粘りと弾力性があり食感が好ましかったこと、表皮のふすま(麩・麬=コメでいう糠)が硬いため取り除こうとすると内側の胚乳部が砕けてしまうことから、いったん製粉して小麦粉にしてから加工する粉食が基本になった。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "小麦粉から製造される食品は多岐にわたる。パンの種類は非常に多く、食パンやフランスパンなど西洋起源の主食用発酵パンだけでなく、中東から北アフリカにかけてのピタのように非西洋起源のパンも多く、またチャパティのように非発酵のパンも多く食される。あんパンやデニッシュのような菓子パン、カレーパンのような惣菜パンもあり、また中国のマントウや蒸しパンのように焼かずに蒸して作るものまで多様な種類が存在する。パスタ、中華麺、うどん等に代表される麺類も多様であり、世界で広く食される。クッキー、クラッカー、ケーキ、ドーナツ、饅頭、パイ、カステラのように、菓子にも広く使用される。北アフリカでは、小麦粉を練ってクスクスを作り、主食としている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "調理の際に小麦粉を使用するものも、天ぷらやフライのような揚げ物類の衣、お好み焼きやたこ焼きなどの生地、スープのとろみをつける際に使用するなど、多くの使用法が存在する。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "粉にしない食べ方としては、挽き割りにしたブルグルがある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、小麦粉からとれるグルテンからは麩が作られる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "品質が劣るものや製粉の際に出るふすまは家畜の飼料となる。ふすまは、セルロースなど不溶性食物繊維を豊富に含むことが着目され、パン等にも混合され用いられるようになった。また、コムギの胚芽には油が含まれ、食用の小麦胚芽油をとることができる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なおアメリカ合衆国では、生産量の50%が輸出、36%が食料、10%が飼料、4%が種付の用途となっている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "コムギは、温帯から亜寒帯にかけて栽培されている。比較的乾燥に強く、生産限界は年間降水量400 mmである。灌漑設備が整っている場合は、さらに乾燥した地域でも栽培できる。", "title": "生産・貿易" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "地域別ではアジア州が4割強、ヨーロッパ州が3割強、北アメリカ州が1割強となる。国際連合食糧農業機関の統計資料 (FAOSTAT) によると、2006年の世界生産量は6億0595万トン。これは米の生産量(6億3461万トン)に匹敵する。トウモロコシ(6億9523万トン、2006年)についで生産量の多い農作物である。上位5位までの生産国、すなわち、中華人民共和国、インド、アメリカ合衆国、ロシア、フランスで総生産量のちょうど5割を生産している。", "title": "生産・貿易" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "コムギの反収は、国によって大きな差がある。2012年の10アール当たりの反収は、集約型の農業が行われているヨーロッパでは、フランスが760 kg、ドイツが733 kg、イギリスが666 kgと非常に多収である。日本では411 kgであり、ヨーロッパ諸国の3分の2程度である。これは、日本では、本州以南では、水田稲作の裏作として副次的に作付されることが多く、コムギに最適な土壌管理等がなされにくいこと、また、北海道以外では、コムギの登熟期が梅雨にかかってしまい、収穫量や品質に重大な影響をあたえることがしばしばあるためである。なお、コムギの大生産国であるアメリカ合衆国では311 kg、オーストラリアでは215 kgと反収は低い。カザフスタンに至っては79 kgと、主要な生産国の中では最低レベルである。こういった国々では反収の低さを農園の広大さで補い、粗放栽培型の農業が行われている。ちなみに、コムギにおいては反収は先進国と発展途上国の間に明確な差は見られない。エジプトや、1980年代から1990年代にかけてのジンバブエ(ジンバブエ政府の政策により、2000年代には350 kg前後にまで激減した)のように10アール当たりの反収が550 kgから650 kgにものぼり、世界最高水準に達している途上国もある一方で、ロシアの反収は177 kgと、フランスの4分の1未満にすぎない。", "title": "生産・貿易" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本の生産量は、86万300トン(2005年)、うち北海道での生産が全体の65%を占める。世界的に問題となる生育期の降水量に関しては、本州以南も申し分ないが、逆に、本州の多くでは、収穫期に梅雨入りしてしまい、コムギの収量・品質に多大な影響を与えてしまうため、国内では梅雨がない北海道が、栽培に適するためである(熟したコムギは水分を得ると発芽する〈穂発芽〉。穂発芽を起こしたコムギの値段は一気に下がる)。 国内の栽培品種についても、梅雨の存在が影を落としている。とりわけ東北南部以南では、水田における裏作として伝統的に栽培されてきた、登熟が早く、収穫期の多湿多雨に比較的強い、うどん等の在来麺類向けの品種が専ら生産され、パン向けは国内生産の半分に満たない。これは、パン向けのコムギは、特に収穫期の高温多湿多雨に弱いため、国内では品質・収量ともに安定的な生産が難しく、農家が敬遠する傾向があるためである。しかし、近年のコムギ国際価格の高騰と、製パン向けの国内産小麦に対する根強い国内需要があることから、パン向けの品種改良や、数少ない国内産のパン用小麦の争奪戦がおこなわれている。", "title": "生産・貿易" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "コムギは最も貿易量が多い穀物である。2017年時点の総輸出量は1億9679万トン、総輸入量は1億9135万トン。例えばトウモロコシの総輸出量は1億6125万トン、米は4452万トンに過ぎない。", "title": "生産・貿易" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "主な輸出国はロシア3303万トン (16.8%)、アメリカ合衆国2730万トン (13.9%)、カナダ2206万トン (11.2%)、オーストラリア2199万トン (11.2%)、ウクライナ1731万トン (8.8%)、フランス1522万トン (7.7%)、アルゼンチン1310万トン (6.7%) の順であり、この年間輸出量1000万トンを超す7か国で全輸出量の3/4を占める。近年(2009年-2019年)の輸出順位上位5カ国は、アメリカ合衆国(10カ年平均輸出量 2627万トン/年)、ロシア(同 2285万トン/年)、カナダ(同 2060万トン/年)、フランス(同 1883万トン/年)、オーストラリア(同 1686万トン/年)の順であり、ロシア他、ウクライナ、カザフスタンなど旧ソ連地域や東欧諸国の輸出の伸びが大きい。", "title": "生産・貿易" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一方、近年(2009年-2019年)の輸入順位上位5カ国は、エジプト(10カ年平均輸入量 1037万トン/年)、インドネシア(同 772万トン/年)、アルジェリア(同 712万トン/年)、イタリア(同 709万トン/年)、ブラジル(同 624万トン/年)の順である。なお、同期間の日本の平均輸入量は563万トン/年であり、主な輸入相手国は、アメリカ合衆国 (54.8%)、カナダ (28.9%) 、オーストラリア (16.2%)である。", "title": "生産・貿易" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "コムギは国際的な商品先物取引の対象商品であり、国際取引指標はシカゴ商品取引所 (CBOT)において形成される。また、 ユーロネクストにおいても取り扱われている。", "title": "生産・貿易" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本に輸入される小麦の銘柄としては以下のようなものがある。", "title": "生産・貿易" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本国内において、麦(小麦・大麦・はだか麦)は食糧法により価格統制が存在する。輸入小麦の政府への売渡価格については2007年4月、年間を通じて固定価格であった「標準売渡価格制度」が廃止され、新たに「相場連動制」が導入された。小麦価格には穀物取引量が世界最大のシカゴ商品取引所の相場が影響する。", "title": "日本において" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "食糧法第三章により、麦は政府の価格統制が存在する。", "title": "日本において" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "第四十五条 麦等の輸入を行おうとする者は、国際約束に従って農林水産大臣が定めて告示する額に、当該輸入に係る麦等の数量を乗じて得た額を、政府に納付しなければならない。ただし、次に掲げる場合は、この限りでない。", "title": "日本において" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "四十二条により、政府は麦等の輸入を目的とする買入れを行うことができる(政府麦)。", "title": "日本において" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本政府は、商社が輸入した小麦を購入した上で、政府売り渡し価格を製粉会社に提示、引き渡す制度になっている。製粉会社はマークアップと呼ばれる上乗せ金 16,868円/tを政府に、拠出金 1,530円/tを、農水省OBが中心の組織、製粉振興会に支払うことで、原料を購入することができる。売り渡し価格は、年3回(現行年2回)、10%程度の増減幅で見直されているが、上記の情勢や天候に大きく左右されれば国際価格に影響を受ける。", "title": "日本において" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2006年頃から上昇傾向にあった小麦価格は、2007年には主にオーストラリアでの大規模な不作によって小麦価格が高騰、それに伴い政府価格も改定し、パンや焼きそばなど小麦粉を使う製品の値段が上昇した。2008年10月には、売渡価格が20%値上げされるほか、2009年には国産買取価格も30%値上げされた。", "title": "日本において" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "四十五条により、政府および政府に委託を受けた以外の者が日本に小麦を輸入する際には、輸入関税に加え、国内生産農家保護のため麦等輸入納付金を納付しなければならない。", "title": "日本において" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本における農林水産省が認定する「農林認定品種」は、2010年までに170種を超える。日本に輸入される外国産の小麦は、複数品種をブレンドした銘柄で取引される。作付面積は農林水産省調べで、産年による。", "title": "日本において" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "セリアック病という遺伝性免疫疾患をもつ人はグルテンに反応することがある。先進国の一般人の少なくとも約1%がセリアック病を持っている。コムギのグルテンにも反応する。", "title": "セリアック病" } ]
コムギ(小麦)はイネ科コムギ属に属する一年草の植物。一般的にはパンコムギを指すが、広義にはクラブコムギやデュラムコムギなどコムギ属の植物全般を指す。世界三大穀物のひとつで、小麦粉にされパン・麺類・菓子などの主な材料となる。 他の三大穀物と同じく「基礎食料」であり、各国で生産された小麦は、まず国内で消費され、剰余が輸出される。主要な輸出国はロシア、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ウクライナ、フランスである。 人類は紀元前1万5千年~紀元前3千年ころに栽培しはじめ、現在世界でも特に生産量の多い穀物のひとつであり、世界の年間生産量は約7.3億トンである。これはトウモロコシの約10.4億トンには及ばないが、米の約7.4億トンにほぼ近い(2014年)。
{{Redirect|こむぎ|[[遊助]]のシングル|こむぎ (遊助の曲)}} {{生物分類表 | 色=lightgreen | 名称=コムギ属 | 画像=[[Image:Koeh-274.jpg|center|250px|コムギ]] |分類体系=[[APG III]] | 界=[[植物界]] Plantae |門階級なし=[[被子植物]] [[w:Angiosperms|Angiosperms]] |綱階級なし=[[単子葉植物]] [[w:Monocots|Monocots]] |上目階級なし=[[ツユクサ類]] [[w:Commelinids|Commelinids]] |目=[[イネ目]] [[w:Poales|Poales]] |科=[[イネ科]] [[w:Poaceae|Poaceae]] |亜科=[[イチゴツナギ亜科]] [[w:Pooideae|Pooideae]] |連=[[コムギ連]] [[w:Triticeae|Triticeae]] |属=[[コムギ属]] ''[[w:Triticum|Triticum]]'' | 学名=''Triticum'' [[L.]] |下位分類名=種 |下位分類=本文参照 | 英名=[[w:Wheat|Wheat]] }} '''コムギ'''(小麦)は[[イネ科]]コムギ属に属する[[一年生植物|一年草]]の[[植物]]。一般的には[[パンコムギ]]([[学名]]: ''[[w:Common wheat|Triticum aestivum]]'')を指すが、広義には[[クラブコムギ]](学名: ''[[w:Triticum compactum|Triticum compactum]]'')や[[デュラムコムギ]](学名: ''[[w:Durum|Triticum durum]]'')など'''コムギ属'''(学名: ''[[w:Wheat|Triticum]]'')の植物全般を指す。[[世界三大一覧#食|世界三大穀物]]のひとつで、[[小麦粉]]にされ[[パン]]・[[麺類]]・[[菓子]]などの主な材料となる。 他の三大穀物と同じく「基礎食料」であり、各国で生産された小麦は、まず国内で[[消費]]され、剰余が[[輸出]]される。主要な輸出国は[[ロシア]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[ウクライナ]]、[[フランス]]である。 人類は紀元前1万5千年~紀元前3千年ころに栽培しはじめ、現在世界でも特に生産量の多い[[穀物]]のひとつであり、世界の年間生産量は約7.3億トンである。これは[[トウモロコシ]]の約10.4億トンには及ばないが、[[米]]の約7.4億トンにほぼ近い(2014年)。 [[File:WildWheat_Erebuni_Reserve.jpg|thumb|280px|野生の小麦]] [[File:Wheat-haHula-ISRAEL2.JPG|thumb|280px|小麦の栽培。コムギ畑([[イスラエル]])]] [[File:Wheat P1210892.jpg|thumb|280px|コムギの穂]] [[File:Wheat blue sky2.JPG|thumb|280px|収穫期が近づいたコムギ]] [[File:Modell eines Korns von Triticum vulgare (Weizen) -Osterloh Nr. 138-.jpg|thumb|[[グライフスヴァルト]]大学にある植物学博物館内のコムギの実の断面模型]] == 生態 == コムギは[[播種]]時期によって秋播き小麦と春播き小麦の2つの品種群に分かれる。秋播き小麦は発芽するのにある程度の低温期間が継続する[[春化]]を必要とするため、秋に種をまいて越年させ、春に発芽し夏に収穫するのが基本形である。低温が必要なため、やや寒冷な地域では秋播き小麦が主に栽培される。一方春播き小麦は春に播いて、夏の終わりに収穫するのが一般的である。春播き小麦は、寒さが激しく種が冬を越せない地方や、逆に冬に低温にならず春化のできない温暖な地域、さらに本来の収穫期に[[雨季]]を迎え収穫が困難になるような地域で栽培される<{{sfn|国分『食用作物』|p=175}}。麦が熟して収穫を迎えるころには、広い畑一面が黄金色になる[[紅葉|草紅葉]]が見られる<ref>{{Cite book|和書|author =亀田龍吉|title =落ち葉の呼び名事典|date =2014-10-05|publisher =[[世界文化社]]|isbn =978-4-418-14424-2|page=88}}</ref>。 コムギの実は硬い[[外皮 (植物)|外皮]]に覆われ、その中に可食部である[[胚乳]]と、[[胚芽]]が存在する。この3部分の体積の割合は外皮が13.5%、胚乳が84%、胚芽が2.5%である<ref>{{Cite book |和書 |author=岡田哲(編) |title=コムギの食文化を知る事典 |year=2001 |publisher=東京堂出版 |page=26 |ISBN=4-4901-0573-8}}</ref>。主に食用とするのは胚乳部分であり、[[製粉]]して[[小麦粉]]とするのはこの部分である。果皮(「ふすま」および「ブラン(bran)」と呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nisshin.com/company/research/nutrition/ |title=小麦の栄養と機能 |publisher=[[日清製粉グループ]] |accessdate=2020-01-30}}</ref>)や胚芽部分も食用とすることはできるが、食味に劣るうえ小麦粉に混入すると品質が劣化しやすくなるため、一般的な小麦粉に使用することはない。しかし、ふすま部分には独特の風味と[[食物繊維]]など有用成分があるため、販売されることもあるほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nippn.co.jp/sp/products/health_food/food/detail/1194643_3070.html |title=商品情報/小麦ふすま |accessdate=2018-09-23 |publisher=日本製粉}}</ref>、これを取り除かずそのまま粉にした[[全粒粉]]も存在する。 コムギの[[ゲノム]]解読は、2018年に完了している。64か国の610機関で構成する「国際コムギゲノム解読コンソーシアム」には、日本からは[[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]]や[[京都大学]]などが参加した<ref>{{Cite news |title=コムギゲノム解読が完了 農研機構など610機関 |newspaper=日本経済新聞 朝刊 |date=2018-09-16 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO35376020U8A910C1MY1000/ |at=サイエンス面 |accessdate=2018-09-23}}</ref>。 == 分類 == === クロンキスト体系によるコムギ属の分類 === * [[植物界]] Plantae * [[被子植物門]] Magnoliophyta * [[単子葉植物綱]] Liliopsida * [[イネ目]] Poales * [[イネ科]] Poaceae * '''コムギ属''' ''Triticum'' === 生物的分類 === コムギ属 ''Triticum'' は、1小穂の稔実粒数、[[染色体]]数、[[ゲノム]]構成によって以下のように分けられる。 * 1粒系(稔実粒数1、2''n''=14、ゲノム''AA'') ** ''T. aegilopoides'' ** ''T. thaoudar'' ** ''T. monococcum''([[ヒトツブコムギ|1粒コムギ]]) * 2粒系(稔実粒数2、2''n''=28、ゲノム''AABB'') ** ''T. dicoccoides'' ** ''T. dicoccum''([[フタツブコムギ|2粒コムギ]]、[[エンマーコムギ]] ** ''T. pyromidale'' ** ''[[w:Triticum turanicum|T. orientale]]''([[コーラサンコムギ]]、[[カムットコムギ]]) ** ''T. durum''([[デュラムコムギ]]、マカロニコムギ) ** ''T. turgidum''([[リベットコムギ]]) ** ''T. polonicum''([[ポーランドコムギ]]) ** ''T. persicum''([[ペルシャコムギ]]) * 普通系(稔実粒数3~5、2''n''=42、ゲノム''AABBDD'') ** ''T. aestivum''(普通コムギ、[[パンコムギ]]) ** ''[[w:Triticum spelta|T. spelta]]''([[スペルトコムギ]]〔ディンケルコムギ、ファッロコムギ〕) ** ''T. compactum''([[クラブコムギ]]、密穂コムギ) ** ''T. sphaerococcum''([[インド矮性コムギ]]) ** ''T. maha''([[マカコムギ]]) ** ''T. vavilovii''([[バビロビコムギ]]) * チモフェービ系(稔実粒数2、2''n''=28、ゲノム''AAGG'') ** ''T. timopheevi'' === 種類 === 小麦は栽培時期等によって以下のように区別される。 * 播種時期 - 春播き小麦、秋播き小麦:コムギは秋播きが本来の作型であるが、低温要求性が小さい品種が作られ、それらが春播き小麦として利用されている。 * 粒の色 - 赤小麦、白小麦 * 粒の硬さ - 硬質小麦(強力粉、パン、麺類の材料)、中間質小麦(中力粉の材料)、軟質小麦(薄力粉、菓子類等の材料) == 歴史 == === 世界 === [[ユーラシア大陸]]中部の[[コーカサス地方]]から[[メソポタミア]]地方にかけてが原産地と考えられている。野生1粒系コムギの栽培は紀元前8400年頃に始まった。その後1粒系コムギは[[クサビコムギ]]''Aegilops speltoides''と交雑し2粒コムギになり、さらに紀元前5500年頃に2粒系コムギは野生種の[[タルホコムギ]]''Ae. squarrosa''と交雑し、[[普通コムギ]]''T. aestivum''が生まれたといわれる{{sfn|国分『食用作物』|p=142-143}}。 コムギの栽培はメソポタミア地方で始まり、[[紀元前3000年]]頃には[[ヨーロッパ]]全域や[[アフリカ]]([[地中海]]沿岸、[[地中海世界]])に伝えられた{{sfn|国分『食用作物』|p=144}}。[[テル・アブ・フレイラ]]などから採掘された古代の野生種[[ムギ]]はもともと成熟すると麦穂が風などにより容易に飛び散る性質を持っており、当初のコムギも収穫には非常に手間のかかる作物であったと考えられている。このため、その貴重さと保蔵のしやすさから一種の交換の媒体、[[通貨]]として取り扱われていたのではないかと推測されている。[[シリア]]地方からヨーロッパなどに栽培の範囲が広がるにつれて品種淘汰がなされ、この種子の飛び散りやすさの特性が失われ、[[主食]]穀物としての座を獲得することになった。[[栽培植物]]化の時期はオオムギの方がやや早く、当初はオオムギの方が重要な作物であった。これは、オオムギの収量の多さや収穫時期の早さ、粒の大きさなどによる。また、この時期はコムギもオオムギも[[粥]]として煮て食べるものであったため、調理方法の差が重要となることはなかった。しかし、[[製粉]]技術が進歩し[[石臼]]が登場すると、粉食により美味さが増し、[[グルテン]]を持ち様々な料理へと加工することが容易なコムギがオオムギに代わって最重要の作物となっていった{{sfn|『小麦の機能と科学』|p=2-3}}。製粉のための[[水車]]を「人類初の[[機械]]」の発明とする説もある。 [[聖書]]の冒頭の書である『[[創世記]]』(30章14節)にすでに小麦が登場する。その他の書にも頻繁に「麦」や「小麦」が登場し、重要な作物であったことがわかる。 [[中国]]への小麦の伝来は四千年前頃([[紀元前2千年紀|紀元前2000年頃]])と考えられていて、粉食用として広く栽培される様に成ったのは三千年前頃([[紀元前1千年紀|紀元前1000年頃]])である。これは小麦が冬作物で、[[粟]]は[[米|稲]]の端境期に収穫されたためで、七千年前頃から栽培が行われていたとされる[[オオムギ|大麦]]とは対照的である<ref>{{Cite book |和書 |author=古賀登 |title=両税法成立史の研究 |year=2012 |publisher=雄山閣 |page=198 |ISBN=978-4-6390-2208-4}}</ref>。 [[中世]]にはヨーロッパでは既にコムギが最も重要な作物となっていたが、特に農民や下層の都市住民にはコムギだけで作られたパンは贅沢品であり、オオムギや[[エンバク]]、[[ライムギ]]といった安価な穀物が食生活の中心となっていた<ref>{{Cite book |和書 |author=南直人 |title=ヨーロッパの舌はどう変わったか 十九世紀食卓革命 |year=1998 |publisher=講談社 |series=講談社選書メチエ |page=54 |ISBN=4-0625-8123-X}}</ref>。一方で栽培されるコムギにおいても、[[パンコムギ]]はエンマーコムギやスペルトコムギよりも優勢であり、より高く評価されていた。パンコムギには易[[脱穀]]性があり、難脱穀性のエンマーコムギやスペルトコムギに比べ脱穀の手間が少なかったためである<ref>{{Cite book |和書 |author=ブリュノ・ロリウー |others=吉田春美(訳) |title=中世ヨーロッパ 食の生活史 |year=2003 |publisher=原書房 |pages=57-58 |ISBN=4-5620-3687-7}}</ref>。 [[大航海時代]]に入ると、[[新大陸]]に移住したヨーロッパ人植民者たちが故郷からコムギを持ち込んで栽培し、新大陸においても基幹食料となっていった。[[アメリカ合衆国]]や[[カナダ]]、[[オーストラリア]]といった現在のコムギ主要生産国にコムギが持ち込まれたのもこの時期のことである。また、[[18世紀]]頃からヨーロッパでは徐々に市民の生活が向上し、また農法の改善や生産地の拡大によってコムギ生産が拡大するとともにコムギが食生活の中心となっていき、量の面でもライムギにかわってコムギが中心となっていった<ref>{{Cite book |和書 |author=石坂昭雄 |author2=壽永欣三郎 |author3=諸田實 |author4=山下幸夫 |title=商業史 |publisher=有斐閣 |series=有斐閣双書 |year=1980 |page=123 |ISBN=4-6410-5617-X}}</ref>。 [[20世紀]]後半、[[ノーマン・ボーローグ]]らによる[[小麦農林10号]]を親としたコムギの短稈種の研究が進められ、[[肥料]]を多量に使用しても丈が高くならず、倒伏の危険なしに大量の収穫が見込める品種が次々と開発された。この研究から[[緑の革命]]がおこり、これによって多収量の上安定した収穫が望める新品種が発展途上国を中心に普及し、[[メキシコ]]など多くの発展途上国でコムギは大幅な増収となり、生産性も大幅に改善された{{sfn|国分『食用作物』|p=174}}。その一方、[[旱魃]]など災害による地域的な不作もなくなってはいない。 === 日本 === 中国大陸経由で直接日本に伝来されたと考えられている<ref>{{Cite journal|和書|author=中村洋 |year=2004 |url=https://doi.org/10.20751/hdanwakai.45.0_81 |title=アジア・日本への普通系小麦の伝播経路の解明 |journal=日本育種学会・日本作物学会北海道談話会会報 |volume=45 |pages=81-82 |doi=10.20751/hdanwakai.45.0_81 |publisher=日本育種学会・日本作物学会北海道談話会}}</ref>日本でも約2000年前の遺跡から小麦が出土しており、伝わったのはそれから遠くない[[弥生時代]]であると考えられている。[[奈良時代|奈良]]・[[平安時代|平安]]期には[[五穀]]の1つとして重視された(『[[和名類聚抄]]』には「古牟岐(コムギ)・末牟岐(マムギ=「真麦」)」の名で伝わる){{sfn|国分『食用作物』|p=144-145}}。一方で収穫前の大麦・小麦の青草を貴族や有力豪族が農民から買い上げて馬の飼料にすることが行われ、当時の政府がこれを禁止する[[太政官符]]が度々発令(751年、808年、819年、839年)されており、稲や粟と比較して食用作物としての認識が十分に広まっていなかったとする見方もある。ただ、これには当時の日本に製粉用の[[石臼]]がほとんど普及していない、という事情があった。柔らかい胚乳が硬い表皮で覆われた構造の麦粒を食用にするには、全体をひき潰してから小麦粉と[[糠|ふすま]]に分離する必要がある。回転式の石臼を持たない庶民は、搗き臼を使っての非効率な製粉作業に甘んじるしかなかった。その手間を嫌い、手早く利益を得る方法として小麦を飼料用に販売したとも考えられる。それ以降もコムギは全国で栽培され続けたが、製粉技術が未発達だったために使用法が限定されていた。それでも[[鎌倉時代]]にはいって[[二毛作]]が始まると、稲の[[二毛作|裏作]]作物としてコムギが採用され、[[室町時代]]に入ると米に比べてムギの税率が軽かったために裏作でのコムギの栽培量が急速に増加した{{sfn|国分『食用作物』|p=145}}。 日本では製粉技術の発達が遅れたため、小麦その他「粉」を使用した食品は長らく贅沢品とされた。庶民が[[うどん]]、[[饅頭]]、[[ほうとう]]、[[すいとん]]などの粉食品を気軽に口にできるようになったのは、石臼が普及した[[江戸時代]]以降である。稲の裏作として麦の生産が盛んに行われるようになり、粒のまま食べるオオムギと粉にして食べるコムギがともに食用として栽培された。[[都市]]では小麦粉を使用したうどんや[[天ぷら]]といった料理や饅頭などの[[和菓子]]の消費が大きくなる一方、自家消費の割合の大きい[[農村]]では製粉という手間のかかるコムギは日常ではなかなか口にできるものではなかった。このため、コムギなどの粉食は[[ハレとケ|ハレ]]の日の料理として扱われることが多かった。 [[明治時代]]に入り、欧米からパンなど様々なコムギ料理が伝わってくるとコムギの消費も増大した。明治時代初期には36万ヘクタールだった栽培面積は、[[大正時代]]には50万ヘクタール、最も栽培面積の大きくなった[[第二次世界大戦]]中には70万から80万ヘクタールにのぼるようになった。第二次世界大戦後には[[学校給食]]がはじまり、パン主体の給食と食の欧米化、多様化はコムギの消費をさらに拡大させた。一方で、アメリカなどから安いコムギが大量に入ってくるようになったことや[[二毛作]]自体の衰退、そして1963年の[[三八豪雪]]と夏の多雨により小麦生産が大打撃を受けたことにより、栽培面積は急速に減少して、1963年には栽培面積60万ヘクタール、自給率20%前後だったものが、1973年には栽培面積は7.5万ヘクタールにまで減少し、自給率はわずか4%となった<ref name="加藤来た道">加藤鎌司「コムギが日本に来た道」(所収:{{Cite book |和書 |author=佐藤洋一郎(編著) |author2=加藤鎌司(編著) |title=麦の自然史 人と自然が育んだムギ農耕 |year=2010 |publisher=北海道大学出版会 |pages=113-115 |ISBN=978-4-8329-8190-4}})</ref>。その後、[[減反政策]]によってコムギの生産が奨励され、生産はやや復調傾向にある{{sfn|国分『食用作物』|p=145}}。2005年には栽培面積は21万ヘクタール、自給率は14%となっている<ref name="加藤来た道"/>。 == 用途 == [[File:USDA wheat.jpg|thumb|様々なコムギ食品]] 収穫された種子は基本的には[[製粉]]して[[小麦粉]]として使われる<ref name="yoshida">{{Cite web|和書|author=吉田宗弘|url=https://ku-food-lab.com/wp/wp-content/uploads/2019/08/9a8e55d08eb0d00226add4dfaa7d5596.pdf|title=うどん類の歴史と分類 |publisher=[[関西大学]] |accessdate=2020-11-08}}</ref>。初期のコムギは粥のようにして食べられていたが、穀粒が硬く軟らかくするのに長時間加熱しなければならなかったこと、小麦粉の生地には特有の粘りと弾力性があり食感が好ましかったこと、表皮のふすま(麩・麬=コメでいう[[糠]])が硬いため取り除こうとすると内側の胚乳部が砕けてしまうことから、いったん[[製粉]]して[[小麦粉]]にしてから加工する[[粉食]]が基本になった<ref name="yoshida" />。 小麦粉から製造される食品は多岐にわたる。[[パン]]の種類は非常に多く、[[食パン]]や[[フランスパン]]など西洋起源の主食用発酵パンだけでなく、中東から北アフリカにかけての[[ピタ]]のように非西洋起源のパンも多く、また[[チャパティ]]のように非発酵のパンも多く食される。[[あんパン]]や[[デニッシュ]]のような[[菓子パン]]、[[カレーパン]]のような[[調理パン|惣菜パン]]もあり、また中国の[[饅頭 (中国)|マントウ]]や[[蒸しパン]]のように焼かずに蒸して作るものまで多様な種類が存在する{{sfn|『小麦の機能と科学』|p=133-137}}。[[パスタ]]、[[中華麺]]、[[うどん]]等に代表される[[麺類]]も多様であり、世界で広く食される{{sfn|『小麦の機能と科学』|p=144-146}}。[[クッキー]]、[[クラッカー]]、[[ケーキ]]、[[ドーナツ]]、[[饅頭]]、[[パイ]]、[[カステラ]]のように、[[菓子]]にも広く使用される{{sfn|『小麦の機能と科学』|p=152-155}}。北アフリカでは、小麦粉を練って[[クスクス]]を作り、主食としている{{sfn|『小麦の機能と科学』|p=165-166}}。 調理の際に小麦粉を使用するものも、[[天ぷら]]や[[フライ (料理)|フライ]]のような[[揚げ物]]類の[[衣]]、[[お好み焼き]]や[[たこ焼き]]などの生地、スープのとろみをつける際に使用するなど、多くの使用法が存在する{{sfn|『小麦の機能と科学』|p=163-165}}。 粉にしない食べ方としては、挽き割りにした[[ブルグル]]がある。 また、小麦粉からとれる[[グルテン]]からは[[麩]]が作られる{{sfn|『小麦の機能と科学』|p=171}}。 品質が劣るものや製粉の際に出るふすまは[[家畜]]の飼料となる。ふすまは、[[セルロース]]など[[不溶性]][[食物繊維]]を豊富に含むことが着目され、パン等にも混合され用いられるようになった{{sfn|『小麦の機能と科学』|p=129-130}}。また、コムギの胚芽には[[油]]が含まれ、食用の小麦胚芽油をとることができる。 なおアメリカ合衆国では、生産量の50%が輸出、36%が食料、10%が飼料、4%が種付の用途となっている<ref>{{Cite web|url=http://www.greatamericanbeerfestival.com/the-competition/beer-styles/|title=2012 Great American Beer Festival selects the best beer in the USA: Beer Styles|access-date=12 June 2013|publisher= greatamericanbeerfestival.com}}</ref>。 == 生産・貿易 == === 生産 === {{see|国際小麦生産統計}} [[File:WheatYield.png|thumb|350px|right|世界の小麦生産図]] [[File:Wheat harvest.jpg|thumb|[[アイダホ州]]のコムギ畑]] [[File:WheatPennsylvania1943.jpg|thumb|収穫され積まれるコムギ]] [[File:Wheat in sack.jpg|thumb|袋に入れられるコムギの実]] コムギは、[[温帯]]から[[亜寒帯]]にかけて栽培されている。比較的乾燥に強く、生産限界は年間降水量400&nbsp;mmである。[[灌漑]]設備が整っている場合は、さらに乾燥した地域でも栽培できる{{sfn|国分『食用作物』|p=171}}。 地域別ではアジア州が4割強、ヨーロッパ州が3割強、北アメリカ州が1割強となる。[[国際連合食糧農業機関]]の統計資料 (FAOSTAT) によると<ref>{{Cite web |url=http://faostat.fao.org/site/340/default.aspx |title=FAOSTAT |accessdate=2007-10-20 |website=FAOSTAT |publisher=Food and Agriculture Organization of the United Nations |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071024125730/http://faostat.fao.org/site/340/default.aspx |archivedate=2007-10-24 |deadlinkdate=2017-8}}</ref>、2006年の世界生産量は6億0595万トン。これは米の生産量(6億3461万トン)に匹敵する。[[トウモロコシ]](6億9523万トン、2006年)についで生産量の多い農作物である。上位5位までの生産国、すなわち、[[中華人民共和国]]、[[インド]]、アメリカ合衆国、[[ロシア]]、フランスで総生産量のちょうど5割を生産している。 コムギの反収は、国によって大きな差がある。2012年の10アール当たりの反収は、集約型の農業が行われているヨーロッパでは、[[フランス]]が760&nbsp;kg、[[ドイツ]]が733&nbsp;kg、[[イギリス]]が666&nbsp;kgと非常に多収である<ref name="a">{{Cite book |和書 |author=矢野恒太記念会(編) |title=[[日本国勢図会]] |edition=2014/15年版 |publisher=矢野恒太記念会 |year=2014 |page=164 |ISBN=978-4-8754-9146-0}}</ref>。日本では411&nbsp;kgであり、ヨーロッパ諸国の3分の2程度である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/j/seisan/boueki/mugi_zyukyuu/pdf/27_mitoosi.pdf |title=麦の需給に関する見通し |accessdate=2016-10-19 |date=2015-03 |format=PDF |publisher=農林水産省}}</ref>。これは、日本では、[[本州]]以南では、[[水田]][[稲作]]の裏作として副次的に作付されることが多く、コムギに最適な[[土壌]]管理等がなされにくいこと、また、北海道以外では、コムギの登熟期が[[梅雨]]にかかってしまい、収穫量や品質に重大な影響をあたえることがしばしばあるためである。なお、コムギの大生産国であるアメリカ合衆国では311&nbsp;kg、[[オーストラリア]]では215&nbsp;kgと反収は低い。[[カザフスタン]]に至っては79&nbsp;kgと、主要な生産国の中では最低レベルである<ref name="a"/>。こういった国々では反収の低さを農園の広大さで補い、[[粗放栽培]]型の農業が行われている。ちなみに、コムギにおいては反収は[[先進国]]と[[発展途上国]]の間に明確な差は見られない。[[エジプト]]や、[[1980年代]]から[[1990年代]]にかけての[[ジンバブエ]](ジンバブエ政府の政策により、2000年代には350&nbsp;kg前後にまで激減した)のように10アール当たりの反収が550&nbsp;kgから650&nbsp;kgにものぼり、世界最高水準に達している途上国もある一方で、ロシアの反収は177&nbsp;kgと、フランスの4分の1未満にすぎない<ref name="a"/>。 日本の生産量は、86万300トン(2005年)、うち北海道での生産が全体の65%を占める。世界的に問題となる生育期の降水量に関しては、本州以南も申し分ないが、逆に、本州の多くでは、収穫期に[[梅雨]]入りしてしまい、コムギの収量・品質に多大な影響を与えてしまうため、国内では梅雨がない北海道が、栽培に適するためである<ref name="20080731nikkeibo">{{Cite news |author=宮嶋康彦 |title=大規模農家の豊かさに隠れた開拓者精神と努力 「たった一晩」で数百万円の損害が出る繊細な作物との格闘 |newspaper=日経ビジネスオンライン |date=2008-07-31 |url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20080730/166712/ |publisher=日経BP社}}</ref>(熟したコムギは水分を得ると発芽する〈'''穂発芽'''〉。穂発芽を起こしたコムギの値段は一気に下がる<ref name="20080731nikkeibo"/>)。 国内の栽培品種についても、梅雨の存在が影を落としている。とりわけ東北南部以南では、水田における裏作として伝統的に栽培されてきた、登熟が早く、収穫期の多湿多雨に比較的強い、うどん等の在来麺類向けの品種が専ら生産され、パン向けは国内生産の半分に満たない。これは、パン向けのコムギは、特に収穫期の高温多湿多雨に弱いため、国内では品質・収量ともに安定的な生産が難しく、農家が敬遠する傾向があるため<ref name="20080731nikkeibo"/>である。しかし、近年のコムギ国際価格の高騰と、製パン向けの国内産小麦に対する根強い国内需要があることから、パン向けの品種改良や、数少ない国内産のパン用小麦の争奪戦がおこなわれている。 {| class="wikitable" |+ 小麦の国別生産量(2006年) ! 国名 !! 順位 !! 生産量 !! 比率 |- ! {{PRC}} | 1 || 1億447万トン || 17.2% |- ! {{IND}} | 2 || 6935万トン || 11.4% |- ! {{USA}} | 3 || 5730万トン || 9.5% |- ! {{RUS}} | 4 || 4501万トン || 7.4% |- ! {{FRA}} | 5 || 3537万トン || 5.8% |- ! {{CAN}} | 6 || 2728万トン || 4.5% |- ! {{DEU}} | 7 || 2243万トン || 3.7% |- ! {{PAK}} | 8 || 2128万トン || 3.5% |- ! {{TUR}} | 9 || 2001万トン || 3.3% |- ! {{GBR}} | 10 || 1474万トン || 2.4% |- ! {{IRN}} | 11 || 1450万トン || 2.4% |- ! {{ARG}} | 12 || 1400万トン || 2.3% |- ! {{UKR}} | 13 || 1400万トン || 2.3% |- ! {{KAZ}} | 14 || 1350万トン || 2.2% |- ! {{AUS}} | 15 || 982万トン || 1.6% |} {{Gallery |width = 220px |title = 小麦の生産の作業 |File:Starr-170731-0328-Triticum aestivum-Glenn hard red spring wheat homegrown cleaned-Hawea Pl Olinda-Maui - Flickr - Starr Environmental.jpg|大量の[[種子|種]]を用意(その年の夏(や前年の夏)に収穫した実の一部) |File:Direktsaat auf Lehm.jpg|畑の表面をととのえる |File:Sowing_Winter_Wheat_-_geograph.org.uk_-_741578.jpg|トラクターで「自動・種まき装置」を引き、[[種まき]]をする |File:WheatGrass2.jpg|[[発芽]]し、数cmに育った状態 |File:Winter wheat.jpg|冬を迎えたコムギ畑 |File:Spring-wheat-farm-latah-id.png|春を迎えたコムギ畑 |File:Wheat_in_spring.JPG|春の終わりごろ |File:Kansas_Summer_Wheat_and_Storm_Panorama.jpg|夏。収穫期が近づく([[アイダホ]]) |File:Unload_wheat_by_the_combine_Claas_Lexion_584.jpg|[[コンバイン]]と[[トラクター]]を組み合わせた、効率の良い[[収穫]](ドイツ) |File:PikiWiki_Israel_38203_Swimming_in_Wheat_Pool.jpg|収穫した大量のコムギの実(イスラエル) |File:Rolled_and_ready_to_go_-_geograph.org.uk_-_1461511.jpg|収穫後の畑にころがる多数の麦稈ロール(ばっかんロール) }} === 貿易 === {| class="wikitable" style="float:right; clear:left" ! colspan=4|コムギの輸出入 トップ10ヶ国<br>(2017年、百万トン、[[国際連合食糧農業機関|FAO]]統計)<ref>{{Cite web |url=http://www.fao.org/faostat/en/#rankings/countries_by_commodity_imports |title=Countries by commodity imports (Wheat) |last=fao.org (FAOSTAT) |accessdate=2021-09-06}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.fao.org/faostat/en/#rankings/countries_by_commodity_exports |title=Countries by commodity exports (Wheat) |last=fao.org (FAOSTAT) |accessdate=2021-09-06}}</ref> |- ! colspan=2|輸出 ! colspan=2|輸入 |- | {{RUS}} || style="text-align:right"| 33.0 | {{IDN}} || style="text-align:right"| 10.5 |- | {{USA}} || style="text-align:right"| 27.3 | {{EGY}} || style="text-align:right"| 10.2 |- | {{CAN}} || style="text-align:right"| 22.1 | {{DZA}} || style="text-align:right"| 8.1 |- | {{AUS}} || style="text-align:right"| 22.0 | {{ITA}} || style="text-align:right"| 7.4 |- | {{UKR}} || style="text-align:right"| 17.3 | {{BAN}} || style="text-align:right"| 6.9 |- | {{FRA}} || style="text-align:right"| 15.2 | {{SPA}} || style="text-align:right"| 6.2 |- | {{ARG}} || style="text-align:right"| 13.1 | {{BRA}} || style="text-align:right"| 6.0 |- | {{DEU}} || style="text-align:right"| 7.9 | {{JPN}} || style="text-align:right"| 5.7 |- | {{ROU}} || style="text-align:right"| 5.7 | {{NGA}} || style="text-align:right"| 5.7 |- | {{KAZ}} || style="text-align:right"| 4.2 | {{PHL}} || style="text-align:right"| 5.5 |} コムギは最も貿易量が多い穀物である。2017年時点の総輸出量は1億9679万トン、総輸入量は1億9135万トン<ref group="注">総輸出量と総輸入量が等しくならないのは、輸送に要する時間が原因である。</ref>。例えばトウモロコシの総輸出量は1億6125万トン、米は4452万トンに過ぎない。 主な輸出国は[[ロシア]]3303万トン (16.8%)、[[アメリカ合衆国]]2730万トン (13.9%)、[[カナダ]]2206万トン (11.2%)、[[オーストラリア]]2199万トン (11.2%)、[[ウクライナ]]1731万トン (8.8%)、[[フランス]]1522万トン (7.7%)、[[アルゼンチン]]1310万トン (6.7%) の順であり、この年間輸出量1000万トンを超す7か国で全輸出量の3/4を占める。近年(2009年-2019年)の輸出順位上位5カ国は、アメリカ合衆国(10カ年平均輸出量 2627万トン/年)、ロシア(同 2285万トン/年)、カナダ(同 2060万トン/年)、フランス(同 1883万トン/年)、オーストラリア(同 1686万トン/年)の順であり、ロシア他、ウクライナ、カザフスタンなど旧ソ連地域や東欧諸国の輸出の伸びが大きい。 一方、近年(2009年-2019年)の輸入順位上位5カ国は、[[エジプト]](10カ年平均輸入量 1037万トン/年)、[[インドネシア]](同 772万トン/年)、[[アルジェリア]](同 712万トン/年)、[[イタリア]](同 709万トン/年)、[[ブラジル]](同 624万トン/年)の順である。なお、同期間の日本の平均輸入量は563万トン/年であり、主な輸入相手国は、アメリカ合衆国 (54.8%)、カナダ (28.9%) 、オーストラリア (16.2%)である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0210/02.html|title=消費者の部屋 こどもそうだん 豆・麦・いも 小麦はどこの国から輸入(ゆにゅう)されているのかおしえてください。|publisher=農林水産省|accessdate=2021-09-6}}</ref>。 コムギは国際的な[[商品先物取引]]の対象商品であり、[[国際取引指標]]は[[シカゴ商品取引所]] (CBOT)において形成される。また、 [[ユーロネクスト]]においても取り扱われている。 日本に輸入される小麦の銘柄としては以下のようなものがある<ref>重田勉、為季繁、小野栄介、[[輸入食糧協議会]]、{{仮リンク|アメリカ小麦連合会|en|National Association of Wheat Growers|preserve=1}}編『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I004147283-00 アメリカの小麦]』。1974年。</ref>。 * アメリカ合衆国 **( 硬質小麦) ***ハード・レッド・ウインター小麦(HRW) ***ハード・レッド・スプリング小麦(HRS) ***ダーク・ノーザン・スプリング小麦(DNS) ***ノーザン・スプリング小麦 ***ソフト・レッド・ウインター小麦(SRW) ** (軟質小麦) ***ソフト・ホワイト小麦(SWW) ***ウェスタン・ホワイト(WW) ***ホワイト・クラブ小麦 *カナダ **カナディアン・ウェスタン・レッド・スプリング小麦(CWRS) - 硬質小麦 *カナダ及びアメリカ **デュラム小麦 * オーストラリア **オーストラリア・スタンダード・ホワイト小麦(ASW) - 中間質小麦 **オーストラリア・プライム・ハード小麦(APH) - 硬質小麦 {{-}} == 日本において == === 流通関連の法規制 === {{節スタブ}} [[日本]]国内において、麦(小麦・[[大麦]]・[[はだか麦]])は[[食糧法]]により[[価格統制]]が存在する。輸入小麦の政府への売渡価格については2007年4月、年間を通じて固定価格であった「標準売渡価格制度」が廃止され、新たに「相場連動制」が導入された<ref>日清製粉『[https://web.archive.org/web/20220307141233/https://www.nisshin.com/entertainment/encyclopedia/flour/flour_04.html 小麦粉・小麦粉の価格のしくみ]』</ref>。小麦価格には穀物取引量が世界最大の[[シカゴ商品取引所]]の相場が影響する。 [[食糧法]]第三章により、麦は政府の価格統制が存在する。 {{Quote|(麦等の輸入)<br/> 第四十五条 麦等の輸入を行おうとする者は、国際約束に従って[[農林水産大臣]]が定めて告示する額に、当該輸入に係る麦等の数量を乗じて得た額を、政府に納付しなければならない。ただし、次に掲げる場合は、この限りでない。<br/> : 一 第四十二条第五項において準用する第三十条第二項の規定による政府の委託を受けて輸入する場合 : 二 第四十三条の規定による連名による申込みに応じて行う政府の買入れ及び売渡しに係る麦等を輸入する場合 : 三 国内の需給及び価格の安定に悪影響を及ぼすおそれのないものとして政令で定める麦等を輸入する場合 |[[食糧法]]}} ==== 政府麦 ==== 四十二条により、政府は麦等の輸入を目的とする買入れを行うことができる(政府麦)<ref>{{Egov law|406AC0000000113 |主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律}}</ref>。 日本政府は、商社が輸入した小麦を購入した上で、政府売り渡し価格を製粉会社に提示、引き渡す制度になっている。製粉会社は'''マークアップ'''と呼ばれる上乗せ金 16,868円/tを政府に、拠出金 1,530円/tを、農水省OBが中心の組織、[[製粉振興会]]に支払うことで、原料を購入することができる。売り渡し価格は、年3回(現行年2回)、10%程度の増減幅で見直されているが、上記の情勢や天候に大きく左右されれば国際価格に影響を受ける。 2006年頃から上昇傾向にあった小麦価格は、2007年には主にオーストラリアでの大規模な不作によって小麦価格が高騰、それに伴い政府価格も改定し<ref>{{Cite press release|和書|title=輸入麦の平成19年10月からの売渡価格について |publisher= 農林水産省 |date=2007-08-24 |url=http://www.maff.go.jp/www/press/2007/20070824press_2.html |accessdate=2007-12-21 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/250942/www.maff.go.jp/www/press/2007/20070824press_2.html |archivedate=2008-01-28 |deadlinkdate=2017-8}}</ref>、パンや焼きそばなど小麦粉を使う製品の値段が上昇した。2008年10月には、売渡価格が20%値上げされるほか、2009年には国産買取価格も30%値上げされた。 {| class="wikitable" style="font-size:85%; margin:1em auto; text-align:right" |+ 外国産小麦の政府買入価格と政府売渡価格の推移(円/トン)<ref>{{Cite journal|和書|author=金田正明|date=2022|title=政府管理下における我が国の小麦価格伝導に関する一考 |publisher=江戸川大学紀要 |voume=32 |pages=75-87 |doi=10.50831/00001038 }}</ref> !年度 !政府買入価格<br>① !政府売渡価格<br>② !政府管理経費<br>③ !上乗せ額<br> ②-(①+③)=④ ! ④/② (%) !売買価格差<br>②-①=⑤ ! ⑤/② (%) |- |{{rh}}| 1960 || 26,119 || 36,627 || 1,826 || 8,682 || 23.7 || 10,508 || 28.7 |- |{{rh}}| 1965 || 27,252 || 35,988 || 1,889 || 6,847 || 19.0 || 8,736 || 24.3 |- |{{rh}}| 1970 || 27,385 || 35,425 || 2,077 || 5,963 || 16.8 || 8,040 || 22.7 |- |{{rh}}| 1975 || 61,506 || 47,109 || 4,551 || ▲18,948 || ▲40.2 || ▲14,397 || ▲30.6 |- |{{rh}}| 1980 || 54,032 || 73,209 || 6,488 || 12,689 || 17.3 || 19,177 || 26.2 |- |{{rh}}| 1985 || 45,741 || 84,465 || 5,761 || 32,963 || 39.0 || 38,724 || 45.8 |- |{{rh}}| 1990 || 29,391 || 67,891 || 8,362 || 30,138 || 44.4 || 38,500 || 56.7 |- |{{rh}}| 1993 || 27,308 || 60,421 || 7,359 || 25,754 || 42.6 || 33,113 || 54.8 |- |{{rh}}| 1998 || 28,628 || 52,562 || 8,952 || 14,982 || 28.5 || 23,934 || 45.5 |- |{{rh}}| 2003 || 27,506 || 48,065 || 4,815 || 15,744 || 32.8 || 20,559 || 42.8 |- |{{rh}}| 2004 || 28,707 || 47,994 || 4,101 || 15,186 || 31.6 || 19,287 || 40.2 |- |{{rh}}| 2005 || 27,955 || 48,097 || 3,813 || 16,329 || 34.0 || 20,142 || 41.9 |- |{{rh}}| 2006 || 32,997 || 47,918 || 2,920 || 12,001 || 25.0 || 14,921 || 31.1 |- |{{rh}}| 2007 || 47,623 || 50,835 || 1,922 || 1,290 || 2.5 || 3,212 || 6.3 |- |{{rh}}| 2008 || 62,598 || 72,893 || 1,986 || 8,309 || 11.4 || 10,295 || 14.1 |- |{{rh}}| 2009 || 31,170 || 56,386 || 2,128 || 23,088 || 40.9 || 25,216 || 44.7 |- |{{rh}}| 2010 || 32,382 || 47,339 || 1,580 || 13,377 || 28.3 || 14,957 || 31.6 |- |{{rh}}| 2011 || 39,716 || 56,795 || 1,557 || 15,522 || 27.3 || 17,079 || 30.1 |- |{{rh}}| 2012 || 34,412 || 49,635 || 1,633 || 13,590 || 27.4 || 15,223 || 30.7 |- |{{rh}}| 2013 || 40,104 || 56,085 || 1,885 || 14,096 || 25.1 || 15,981 || 28.5 |- |{{rh}}| 2014 || 42,362 || 59,013 || 2,207 || 14,444 || 24.5 || 16,651 || 28.2 |- |{{rh}}| 2015 || 39,955 || 58,933 || 2,403 || 16,575 || 28.1 || 18,978 || 32.2 |- |{{rh}}| 2016 || 32,100 || 50,733 || 2,430 || 16,203 || 31.9 || 18,633 || 36.7 |- |{{rh}}| 2017 || 36,027 || 51,831 || 2,342 || 13,462 || 26.0 || 15,804 || 30.5 |- |{{rh}}| 2018 || 38,178 || 54,843 || 2,407 || 14,258 || 26.0 || 16,665 || 30.4 |- |{{rh}}| 2019 || 35,275 || 52,160 || 2,479 || 14,406 || 27.6 || 16,885 || 32.4 |} ==== 政府流通外の麦 ==== 四十五条により、政府および政府に委託を受けた以外の者が日本に小麦を輸入する際には、[[関税|輸入関税]]に加え、国内生産農家保護のため麦等輸入納付金を納付しなければならない<ref>主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律の施行に関する件 農林水産省告示第四百五十七号</ref>。 * 第四十五条三項に基づき輸入 ** 45.20円/kg(小麦 メスリン及びライ小麦) * その他の輸入 {{節スタブ}} === 品種等 === 日本における[[農林水産省]]が認定する「農林認定品種」は、2010年までに170種を超える<ref>{{Cite web|和書|url=http://agriknowledge.affrc.go.jp/search/image/hinshu/ |title=農林認定品種データベース |accessdate=2011-02-24 |website=農林水産省アグリナレッジ |publisher=農林水産省}}</ref>。日本に輸入される外国産の小麦は、複数品種をブレンドした銘柄で取引される。作付面積は農林水産省調べ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.library.maff.go.jp/archive/Search?m=0&p=1&s=0&lpp=0&cId=154 |title=麦の品種別作付面積 |accessdate=2012-09-08 |website=図書館システム |publisher=農林水産省}}</ref>で、産年による。 {| class="wikitable" style="font-size:90%; margin:1em" !style="white-space:nowrap"|品種名・銘柄名 !style="white-space:nowrap"|農林番号 !旧系統名 !誕生年、開発者など !元になった品種(♀×♂) ! 特 徴 !リンク |- |農林61号 |小麦農林61号 |西海75号 |1944年 佐賀県農業試験場 |福岡小麦18号 × 新中長 |短稈で、穂数が多く、倒れにくく多収、萎縮病、縞萎縮病、黄銹病の抵抗性が強く、赤かび病の被害が少ないことから、日本の水田裏作栽培で最も多く栽培されている品種である。記録の残る1959年以降、1980年までおよび1984年より1987年まで日本での作付面積が第1位で、最大約22.4万ヘクタール(1962年)栽培された。現在でも[[関東地方|関東]]以西の地域では基幹品種である。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000556 AgriKnowledge] |- |ホロシリコムギ |小麦農林114号 |北見23号 |1974年 [[北海道立北見農業試験場]] |北系8 × 北海240号 |1981年より1983年まで日本での作付面積が第1位で、最大約8.7万ヘクタール(1981年)栽培された。現在も北海道において秋まき小麦として栽培されている。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000609 AgriKnowledge] |- |チホクコムギ |小麦農林126号 |北見42号 |1981年 北海道立北見農業試験場 |(北見18号 × 北見19号)F1 ×北系320 |1988年より1996年まで日本での作付面積が第1位で、最大約8.6万ヘクタール(1992年)栽培された。かつての北海道の基幹品種で、うどん用品質が良かったが、耐病性等が劣った。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000621 AgriKnowledge] |- |ホクシン |小麦農林142号 |北見66号 |1995年 北海道立北見農業試験場 |北見35号 × 北見42号 |「チホクコムギ」の後継として開発され、1997年より2010年まで日本での作付面積が第1位で、最大約10.5万ヘクタール(2006年)栽培された。「チホクコムギ」に比べてやや早生で耐病性等が優る。北海道において秋まき小麦として栽培されている。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000637 AgriKnowledge] |- |きたほなみ |小麦農林168号 |北見81号 |2006年 北海道立北見農業試験場 |北見72号 × 北系1660 |「ホクシン」の後継として開発され、2011年より日本での作付面積が第1位の小麦品種である。「ホクシン」に比べて穂発芽性や品質が優る。北海道において秋まき小麦として栽培されている。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000663 AgriKnowledge] |- |[[小麦農林10号]] |小麦農林10号 |東北34号 |1935年 岩手県農業試験場 |ターキーレッド × フルツ達磨 |[[矮性|短稈]]([[半矮性遺伝子|半矮性]])、直立するため間作に便利で、耐寒耐雪性が強い。 [[緑の革命]]の原動力として世界的なコムギの生産性向上に大きく貢献した。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000505 AgriKnowledge] |- |農林26号 |小麦農林26号 |近畿10号 |1937年 奈良県農業試験場 |新中長 × 埼玉小麦29号 |かつての[[岐阜県]]、[[奈良県]]、[[香川県]]等の基幹品種で、関東から九州まで広く作付けられ、最大約4.9万ヘクタール(1961年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000521 AgriKnowledge] |- |農林50号 |小麦農林50号 |北関東28号 |1942年 群馬県農業試験場 |小麦農林9号 × 新中長 |関東を中心に最大2.1万ヘクタール(1959年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000545 AgriKnowledge] |- |農林52号 |小麦農林52号 |中国33号 |1943年 岡山県農業試験場 |新中長 × 江島神力 |かつての[[岡山県]]、[[徳島県]]の基幹品種で最大約1.3万ヘクタール(1959年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000547 AgriKnowledge] |- |農林53号 |小麦農林53号 |東海29号 |1943年 愛知県農業試験場 |埼玉小麦29号 × 鴻巣26号 |主に関東から東海にかけて最大約1.2万ヘクタール(1959年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000548 AgriKnowledge] |- |農林64号 |小麦農林64号 |北関東34号 |1944年 群馬県農業試験場 |小麦農林9号 × 新中長 |[[福島県]]および関東を中心に最大1.4万ヘクタール(1961年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000559 AgriKnowledge] |- |アオバコムギ |小麦農林81号 |東北79号 |1951年 [[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]](旧東北農業試験場) |小麦農林7号 × Ardito |強力銘柄品種であり、かつての[[宮城県]]、福島県等の基幹品種で、東北、関東を中心に最大約2.1万ヘクタール(1962年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000576 AgriKnowledge] |- |シラサギコムギ |小麦農林95号 |中国79号 |1956年 農研機構(旧中国農業試験場) |新中長 × 近畿35号 |中国、四国の基幹品種として、最大約2.1万ヘクタール(1963年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000590 AgriKnowledge] |- |ムカコムギ |小麦農林108号 |北見11号 |1969年 北海道立北見農業試験場 |(Kanred × ナンブコムギ)F1 × 北成9号 |小麦急増期の北海道の基幹品種として、最大1.6万ヘクタール(1975年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000603 AgriKnowledge] |- |[[タクネコムギ]] |小麦農林115号 |北見30号 |1974年 北海道立北見農業試験場 |東北118号×北系221 |北海道で最大約1.2万ヘクタール(1982年)栽培された。成熟すると穂が赤色になることから赤麦とも呼ばれる。主に[[醤油]]醸造に用いられる。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000610 AgriKnowledge] |- |シロガネコムギ |小麦農林117号 |西海120号 |1974年 農研機構(旧九州農業試験場) |シラサギコムギ × 西海104号 |[[兵庫県]]、[[佐賀県]]等の基幹品種で、関東から九州にかけて最大約2.9万ヘクタール(1988年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000612 AgriKnowledge] |- |セトコムギ |小麦農林120号 |西海134号 |1976年 農研機構(旧九州農業試験場) |西海113号 × 農林26号 |かつての[[大分県]]等の基幹品種で、中国、四国、九州で最大約1.0万ヘクタール(1987年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000615 AgriKnowledge] |- |アサカゼコムギ |小麦農林123号 |西海144号 |1978年 農研機構(旧九州農業試験場) |西海115号(後のヒヨクコムギ) × 西海120号 |中国、九州を中心に最大約1.2万ヘクタール(1987年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000618 AgriKnowledge] |- |ニシカゼコムギ |小麦農林129号 |西海154号 |1984年 農研機構(旧九州農業試験場) |西海120号 × ウシオコムギ |かつての[[福岡県]]等の基幹品種で、九州を中心に最大約1.6万ヘクタール(1989年)栽培された。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000624 AgriKnowledge] |- |シラネコムギ |小麦農林131号 |東山17号 |1986年 長野県 |北陸49号 × 東海80号 |秋播き型の早生品種で、耐寒性に優れ主に[[長野県]]、宮城県で栽培されている。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000626 AgriKnowledge] |- |チクゴイズミ |小麦農林141号 |西海171号 |1996年 農研機構(旧九州農業試験場) |関東107 号 × アサカゼコムギ |農研機構が育成した、[[西日本]]を中心に多く栽培されている品種である。「農林61号」など従来の品種に比べ[[アミロース]]含量が低い「低アミロース品種」で、柔らかくモチモチとした食感が特徴である。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000636 AgriKnowledge] |- |きたもえ |小麦農林149号 |北見72号 |2001年 北海道立北見農業試験場 |59045(後のホクシン)×北系1354 |縞萎縮病抵抗性やや強、耐雪性やや強、耐倒伏性強で、北海道において秋まき小麦として栽培されている。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000644 AgriKnowledge] |- |ミナミノカオリ |小麦農林160号 |西海186号 |2006年 農研機構 |Pampa INTA × 西海167号 |暖地向けに改良された、蛋白質に富み[[パン]]や[[醤油]]に向く品種である。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000655 AgriKnowledge] |- |もち姫 |小麦農林糯166号 | |2006年 農研機構 |もち盛系C-D1478 × (もち盛系C-G1517 × 盛系B-8605)F1 |実用性が改良されたもち小麦(低アミロース)品種である。 |[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4010000661 AgriKnowledge] |- |[[さぬきの夢2000]] | |香育7号 |2000年 香川県農業試験場 |西海173号(後のニシホナミ) × 中国142号 |[[讃岐うどん]]用として開発された製麺用の品種で、半数体育種法で作出された。讃岐うどんのなめらかさ、粘り、かたさ(噛みごたえ)に最適化するため、「チクゴイズミ」ほど低アミロースにはしていない。 |[http://www.hinshu2.maff.go.jp/vips/cmm/apCMM112.aspx?TOUROKU_NO=11239&LANGUAGE=Japanese 登録品種データベース] |- |春よ恋 | |HW1号 |2001年 [[ホクレン農業協同組合連合会]] |ハルユタカ × Stoa |北海道で栽培されているパン用の春播き品種で、日本で初めて葯(やく)培養により育成された小麦品種である。 ||[http://www.hinshu2.maff.go.jp/vips/cmm/apCMM112.aspx?TOUROKU_NO=8834&LANGUAGE=Japanese 登録品種データベース] |- |[[きぬあかり]] | | |2011年 愛知県農業総合試験場 | |愛知県における奨励品種であり、2018年(平成30年)時点では愛知県の小麦作付面積の80%以上を占めている。 ||[http://www.hinshu2.maff.go.jp/vips/cmm/apCMM112.aspx?TOUROKU_NO=20752&LANGUAGE=Japanese 登録品種データベース] |- |オーストラリア産スタンダードホワイト ([[ASW (小麦)|ASW]]) | | |オーストラリア | |[[オーストラリア]]の製麺用小麦銘柄で、日本へ輸出するために数種類をブレンドして、安定した高品質を確保している。背丈が長く倒れ易い、赤かび病に弱い。 | |- |[[デュラム]] ||| | | |[[パスタ]]で用いられている、[[グルテン]]([[蛋白質]])の多い種 (''T. durum'')で、日本での栽培は難しく、ほとんどが輸入物である。超硬質で黄色いのが特徴であり、通常、[[セモリナ粉]](粗挽き粉)として用いられる。 | |- |プライムハード (PH) | | |オーストラリア | |強力粉用銘柄でパンや中華めん等の原料として用いられる。 | |- |ウエスタンホワイト (WW) ||| |アメリカ | |通称「ダブダブ」。薄力粉用銘柄で、菓子やケーキ用として用いられる。クラブコムギ (''T. compactum'') を含む。 | |- |ダークノーザンスプリング (DNS) | | |アメリカ | |強力粉用銘柄で、パンの原料として用いられる。 | |- |カナダウエスタンレッドスプリング (CWRS) | | |カナダ | |強力粉用銘柄で、パンや中華めん等の原料として用いられる。 | |- |} == セリアック病 == {{Main|セリアック病}} <!--セリアック病という記事が、別にしっかりと立ち上げられているので、当記事でダラダラと説明してはいけない。当記事ではなく、[[セリアック病]]という記事で書くべき。それと食品類の記事で言及するならコムギの記事ではなく、[[グルテン]]の記事に書くべき。--> [[セリアック病]]という[[遺伝性疾患|遺伝性]][[免疫疾患]]をもつ人は[[グルテン]]に反応することがある。先進国の一般人の少なくとも約1%がセリアック病を持っている。コムギのグルテンにも反応する<ref name=WGOGuidelines2016/><ref name="niddk">{{cite web|url=https://www.niddk.nih.gov/health-information/health-topics/digestive-diseases/celiac-disease/Pages/definition-facts.aspx|title=Definition and Facts for Celiac Disease|publisher=The National Institute of Diabetes and Digestive and Kidney Diseases, National Institutes of Health, US Department of Health and Human Services, Bethesda, MD|date=2016|accessdate=5 December 2016}}</ref><ref name=WGOGuidelines2016>{{cite web|url=http://www.worldgastroenterology.org/guidelines/global-guidelines/celiac-disease/celiac-disease-english|title=Celiac disease|date=July 2016|publisher=World Gastroenterology Organisation Global Guidelines|accessdate=7 December 2016}}</ref>。 <!-- 罹患していても自覚しなかったり診断されていなかったりするのがセリアック病の例のほとんどであることを示唆するデータもある<ref name=WGOGuidelines2016 />。唯一効果的な対処法として知られているのは、生涯を通しての[[グルテンフリー・ダイエット|グルテン除去食]]である<ref name=WGOGuidelines2016 />。 セリアック病はコムギ蛋白質に対する過剰反応として発症し、[[小麦アレルギー]]と異なる<ref name=niddk/><ref name=WGOGuidelines2016 />。鑑別される他の疾患は、[[非セリアック・グルテン過敏症]]<ref name=niddk/><ref name=LudvigssonLeffler>{{cite journal |author=Ludvigsson JF, Leffler DA, Bai JC, Biagi F, Fasano A, Green PH, Hadjivassiliou M, Kaukinen K, Kelly CP, Leonard JN, Lundin KE, Murray JA, Sanders DS, Walker MM, Zingone F, Ciacci C |title=The Oslo definitions for coeliac disease and related terms |journal=Gut |volume=62 |issue=1 |pages=43–52 |date=January 2013 |doi=10.1136/gutjnl-2011-301346 |url=|pmc=3440559|pmid=22345659}}</ref> (一般人口の0.5-13%が罹患している<ref name=MolinaInfanteSantolaria2015SystematicReview>{{cite journal|author=Molina-Infante J, Santolaria S, Sanders DS, Fernández-Bañares F|title=Systematic review: noncoeliac gluten sensitivity| journal=Aliment Pharmacol Ther|volume=41|issue=9|pages=807–20|date=May 2015|pmid=25753138|doi=10.1111/apt.13155}}</ref>)、[[グルテン性運動失調]](gluten ataxia)、[[疱疹状皮膚炎]]が挙げられる<ref name=LudvigssonLeffler />。グルテン摂取が引き起こすこういった疾患は、まとめて[[グルテン関連障害]]と呼ばれている。この障害の発症件数は世界各地で増加しており<ref name=TovoliMasi>{{cite journal |author=Tovoli F, Masi C, Guidetti E, Negrini G, Paterini P, Bolondi L| title=Clinical and diagnostic aspects of gluten related disorders| journal=World J Clin Cases| volume=3| issue=3| pages=275–84| date=Mar 16, 2015| pmid=25789300|pmc=4360499| doi=10.12998/wjcc.v3.i3.275|type=Review}}</ref><ref name=LionettiGatti2015>{{cite journal|author=Lionetti E, Gatti S, Pulvirenti A, Catassi C|title=Celiac disease from a global perspective |journal=Best Pract Res Clin Gastroenterol |volume=29 |issue=3 |pages=365–79 |date=Jun 2015|pmid=26060103|doi=10.1016/j.bpg.2015.05.004|type=Review}}</ref><ref name=SaponeBai2012>{{cite journal |author=Sapone A, Bai JC, Ciacci C, Dolinsek J, Green PH, Hadjivassiliou M, Kaukinen K, Rostami K, Sanders DS, Schumann M, Ullrich R, Villalta D, Volta U, Catassi C, Fasano A |title=Spectrum of gluten-related disorders: consensus on new nomenclature and classification |journal=BMC Medicine |volume=10 |issue=|pages=13 |year=2012 |pmid=22313950 |pmc=3292448 |doi=10.1186/1741-7015-10-13 |type=Review}} {{open access}}</ref>、その原因として、まず[[西洋型食生活|食の西洋化]]が指摘されている<ref name=TovoliMasi />。 [[地中海]]沿岸域では非伝統的なコムギ系食材の使用が増え<ref name=VoltaCaioQuestionsQuotation>{{cite journal|author=Volta U, Caio G, Tovoli F, De Giorgio R|title=Non-celiac gluten sensitivity: questions still to be answered despite increasing awareness|journal=Cellular and Molecular Immunology|volume=10|issue=5|year=2013|pages=383–392|issn=1672-7681|doi=10.1038/cmi.2013.28|pmid=23934026|type=Review|pmc=4003198}}</ref><ref name=GuandaliniPolanco>{{cite journal|author=Guandalini S, Polanco I|title=Nonceliac gluten sensitivity or wheat intolerance syndrome?|journal=J Pediatr|volume=166|issue=4|pages=805–11|date=Apr 2015|pmid=25662287|doi=10.1016/j.jpeds.2014.12.039|type=Review|quote=The increase in world-wide consumption of a Mediterranean diet, which includes a wide range of wheat-based foods, has possibly contributed to an alarming rise in the incidence of wheat (gluten?)-related disorders.1, 2 }}</ref>、アジアや中東や北アフリカでは伝統的な米と替わるようにコムギが定着しつつある<ref name=TovoliMasi />。障害の増加の原因として他には、近年に開発された新しい種類のコムギが[[細胞毒性]]的なグルテン・[[ペプチド]] をより多く含んでいること<ref name=VoltaCaioQuestions>{{cite journal |author=Volta U, Caio G, Tovoli F, De Giorgio R |title=Non-celiac gluten sensitivity: questions still to be answered despite increasing awareness |journal=Cellular & Molecular Immunology |volume=10 |issue=5 |pages=383–92 |date=September 2013 |pmid=23934026 |pmc=4003198 |doi=10.1038/cmi.2013.28 |type=Review}}</ref><ref name=Belderok>{{cite journal|author=Belderok B|title=Developments in bread-making processes |journal=Plant Foods Hum Nutr |volume=55 |issue=1 |pages=1–86 |date=2000 |pmid=10823487|doi=10.1023/A:1008199314267|type=Review}}</ref>。 また、生地の[[発酵]]時間が少ないパン等(ベーカリー製品)がより多くのグルテンを含んでいることも指摘されている<ref name=VoltaCaioQuestions /><ref name=GobbettiGiuseppe2007>{{cite journal|author=Gobbetti M, Giuseppe Rizzello C, Di Cagno R, De Angelis M |title=Sourdough lactobacilli and celiac disease |journal=Food Microbiol |volume=24 |issue=2 |pages=187–96 |date=Apr 2007 |pmid=17008163 |doi=10.1016/j.fm.2006.07.014|type=Review}}</ref>。 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === {{Reflist|30em}} ==参考文献== * {{cite book|和書|author=長尾精一 |title=小麦の機能と科学 |publisher=朝倉書店 |year=2014 |series=食物と健康の科学シリーズ |ISBN=9784254435474 |id={{全国書誌番号|22479695}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/025795059 |ref={{harvid|『小麦の機能と科学』}} |quote=初版第1刷}} * {{cite book|和書|author=国分牧衛 |title=食用作物 |publisher=養賢堂 |year=2010 |edition=新訂 |ISBN=9784842504735 |id={{全国書誌番号|21846376}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000011002141 |ref={{harvid|国分『食用作物』}}}} == 関連項目 == * [[麦角菌]] * [[緑の革命]]・[[小麦農林10号]] * [[加水分解コムギ]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Wheat}} * {{Hfnet|512|コムギ}} * [http://www.shigen.nig.ac.jp/wheat/komunet/index.html コムギの話] - KOMUGI NETWORK(日本のコムギの遺伝・育種の研究者が構築したデータベース) * {{PDFlink|[http://www.noastec.jp/kinouindex/data2002/pdf/05/05_02.pdf 新形質低アミロース小麦の 加工適性と用途開発]}} - 公益財団法人 北海道科学技術総合振興センター * {{Kotobank}} {{穀物}} {{コムギ}} {{シリアル食品}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こむき}} [[Category:コムギ|*]] [[Category:穀物]] [[Category:主食]] [[Category:イネ科]] [[Category:モデル生物]]
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日本サッカー協会
公益財団法人日本サッカー協会(にほんサッカーきょうかい、英語: Japan Football Association、JFA)は、日本のサッカー界を統括し代表する国内競技連盟。サッカー競技の普及および振興を図り、もって国民の心身の健全な発達に寄与することを目的とする。 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)や日本フットボールリーグ(JFL)、日本女子プロサッカーリーグ(WEリーグ)、日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)の試合や天皇杯全日本サッカー選手権大会、皇后杯全日本女子選手権大会などの公式サッカー大会を主催する。プロ・アマの活動を一本化して管理している。 2012年4月1日より財団法人から公益財団法人へ移行し、文部科学省から完全に独立した。公益財団法人化のメリットなどの詳細も、JFA財務内容の項で後述する。 サッカーに関する上位組織としては国際サッカー連盟(FIFA)およびアジアサッカー連盟(AFC)にそれぞれ所属している。日本サッカー協会はアジアサッカー連盟(AFC)創設(1954年5月8日)メンバーであり、創設年の10月にAFCに加盟している。また、上位組織ではないが、周辺7協会と共に2002年5月28日に東アジアサッカー連盟(EAFF)を創設し、同時に加盟している。オリンピック競技ないしはスポーツの一つとして国際オリンピック委員会(IOC) - 公益財団法人日本オリンピック委員会(JOC)・公益財団法人日本スポーツ協会にも所属する。日本サッカー協会の下位組織としては日本国内を大きくブロックに分けた9地域(北海道・東北・関東・北信越・東海・関西・中国・四国・九州)のサッカー協会と、各都道府県毎に置かれた46の都府県(北海道は地域の協会も兼ねる)サッカー協会を有し、国内トップリーグであるJリーグの1部(J1)所属チームから、社会人、学生チームなどのアマチュアチームに至るまで、必ずいずれかの都道府県サッカー協会に所属するかたちとなっている。 2002年10月、川淵三郎がキャプテン(川淵のみが在任中呼ばせたJFA会長職の呼称)就任後、日本サッカーの基盤強化を図るため、「JFAキッズプログラム」「JFAファミリーフットサルフェスティバル」など幼児期からの政策や、女子サッカーの強化などを盛り込んだ「キャプテンズ・ミッション」を発表した(後にプレジデンツ・ミッションへ改称)。2005年1月1日、JFA理念実現のための『JFA2005年宣言』を発表し、その中で中期目標として「2015年に世界のトップ10入り」、長期目標として「2050年までにFIFAワールドカップ優勝」という目標を立てている(詳細はJFA2005年宣言の項で後述)。 サッカー日本代表人気もあって、スポンサーからの巨額の資金を受けており、2006年度予算時点で、公益財団法人日本オリンピック委員会(JOC)の2倍以上の157億円に達した。12年後の2018年度予算では、2018年ロシアワールドカップのベスト8進出(=準々決勝進出)を想定し、ベスト8賞金1600万ドルと大会準備金150万ドル計1750万ドル(約18億6700万円)のFIFAからの収入 を盛り込み、2018年度収入を前年度比約52億9000万円増の234億9001万1千円、支出を前年度比約50億9000万円増の236億4764万2千円と収入・支出の両方で過去最大額で計上している(実際は、日本代表はロシアW杯ベスト16の成績だったので、賞金1200万ドル(約13億3009万8000円)と大会準備金150万ドル(約1億6629万3000円)計1350万ドル(約14億9661万円)の収入)。キリンホールディングス(キリンビール、キリンビバレッジ)と2007年4月からの8年間で推定総額120億円(年間15億円)でオフィシャルスポンサー契約を結んでいたが、2014年5月25日、JFAとキリングループが対等な関係で、サッカーの普及・促進に寄与していくという意志を込め、名称を従来の「オフィシャルスポンサー」から「オフィシャルパートナー」に変更した上で、2015年4月1日から2022年12月31日まで(7年9か月)契約を更新した。他、アディダスジャパンと2007年4月から向こう8年間で総額160億円(年間20億円)のオフィシャル(公式)サプライヤー契約を締結した。2014年11月5日に、2015年4月1日から2023年3月末までの8年間で契約金は1年30億円、8年合計240億円でボーナスや物品提供を含めると250億円超という契約更新で同意したと報じられた。しかし実際に2015年4月1日に更新した際には、契約内容は公開されなかった。さらに、広告代理店の電通と2007年から向こう8年間で総額240億円(年間30億円)の放映権及びマーケティングのオフィシャル(公式)スポンサー契約をした。2015年4月1日に更新したが、契約内容は非公開である。このように、プロ化以前の財政難も解消している(詳細は、JFA財務内容の項で後述)。なお、欧州サッカー連盟(UEFA)のサッカー強豪国の予算規模は、2011年時点で340億円以上である。 2006年6月7日、川淵三郎キャプテン(JFA会長)が「日本およびアジアのサッカー発展の貢献と2002年FIFAワールドカップの成功」を称えFIFAよりFIFA功労賞を受賞した。これでJFAからは6代目の藤田静夫元会長に続く2人目の快挙である。なお、同賞は、ジーコ元日本代表監督も1996年に受賞している。 2012年1月9日、2011年度のFIFAバロンドールにおいてFIFAフェアプレー賞を受賞した。 公益法人制度改革に伴い、2011年9月、財団法人から公益財団法人への移行を申請し、2012年4月1日より公益財団法人となり、それに伴い、文部科学省から完全に独立した(2012年3月31日までは、文部科学省が日本サッカー協会の監督官庁であり、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)(後述)。 2013年5月30日、FIFA総会で傘下の全サッカー協会(2018年時点では211)が「FIFA標準規約」(会長選挙を必ず実施する等の内容)に準拠した規約制定を義務づけられたため、規定を改正し、2015年3月29日に施行した。2015年12月1日にJFA初のJFA会長選挙が始まり、立候補受付を開始した。2016年1月31日臨時評議員会で田嶋幸三が当選し、同年3月27日の新体制の第1回理事会を経て正式に第14代JFA会長となった。また、同じく2013年、FIFA傘下の全211協会(2018年時点)は、「FIFA標準規約」にある三権分立(立法(評議員会)、行政(理事会)、司法(規律委員会・裁定委員会))の原則に従うことが求められたため、2014年4月1日、司法機関(規律委員会、裁定委員会、不服申立委員会)をJFAから完全に独立させた(後述)。 2015年5月、JFAは、JFA2005年宣言におけるJFAの約束2015 の総括として『世界トップ10の組織は、達成』、『サッカーファミリーが500万人になることは、達成(2015年時点526万2220人)』、『日本代表が世界でトップ10のチームになることは、未達成』と発表した。総括で出た課題を元に、「JFAの約束2050」の具現に向け、新たに「JFAの目標2030」を設定した(詳細はJFA2005年宣言の項で後述)。 以下の記述は基本的に、公益財団法人日本サッカー協会公式HPの沿革・歴史ページ に基づくが、書籍及び資料等で確認された出来事も追記している。 1918年(大正7年)、大日本帝国(日本)にはまだサッカー(当時は「蹴球」=しゅうきゅう=と表記)を統括する組織はなく、日本一を決める全国大会も一度も実施されてはいなかった。この年の1月に大阪の豊中で行われた日本フートボール優勝大会(関西地区のみの大会。のちの全国高等学校サッカー選手権大会の前身にあたる)、同年2月に関東地区で「関東蹴球大會」、名古屋では旧制高等学校などが参加した「東海蹴球大會」が別々に開催され、1918年以降にも引き続いて開かれた。東京で行われた「関東蹴球大會」にはチャールズ・エリオットイギリス帝国(のちのイギリス)大使も列席し、その模様を本国に伝えた。これら1918年に行われた一連の旧制中学や師範学校および旧制高等学校を中心とした別々の地域大会の開催の模様を、イギリス帝国の新聞が「日本にサッカー協会が発足し、全日本選手権大会が始まった(別々の地域大会を全国大会予選だと勘違いした)」と誤って報道した。 翌1919年(大正8年)、チャールズ・エリオット大使の報告に加え、その新聞記事を見たイングランドサッカー協会(以下FA)は、イギリス帝国大使館のウィリアム・ヘーグ(William Haigh)書記官 が日本の全国大会優勝チームに授与するためのFA杯の寄贈を提案したこともあり、「日本蹴球協會の設立を祝して銀杯を寄贈します。全國大會の優勝チームに授與して下さい」といったメッセージを添えて、イギリス帝国大使館を通じて日本に純銀のシルバーカップ(以下銀杯と略すことあり)を寄贈することを決め、1919年1月にロンドンから船便で日本に向け送った(当時は船便しか無かった。旅客機が欧州から日本まで乗り入れるのは1952年から、大衆化されたのは1960年代からである)。3か月かけて、シルバーカップはイギリス帝国大使館に届けられた。FAは当時、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどイギリス帝国各地の協会に、ほぼ同じデザインの銀杯を贈っている。1902年(明治35年)日英同盟を結んで以来、東アジアおよび太平洋地域の覇権をめぐり、日本は当時、イギリス帝国にとって重要な同盟国だった。つまり、銀杯の寄贈には、当時の日本がイギリス帝国に重視されていた、あるいはイギリス帝国加盟国に準ずるものとみなされていたことが背景としてある。 FAが日本に銀杯を寄贈したという3月12日付けの東京朝日新聞の記事を、東京高等師範学校(のちの東京教育大学、筑波大学)の校友会蹴球部長を務めていた内野台嶺が読み、そのカップの行き先を思案することとなる。 しかし、なかなか良案が浮かばず、東京高等師範学校の校長で当時、大日本體育協會の会長も兼務していた戦前の日本スポーツ界の重鎮嘉納治五郎を訪ねた。そして「この際、急いで設立せよ」と、内野は嘉納から厳命を受ける。内野はその後、イギリス大使館のウィリアム・ヘーグ書記官(そのまま大日本蹴球協會初代賛助会員となった) と体育協会の各理事の協力を仰ぎ、規約・規則の作成と役員人事を進め、1921年9月10日に大日本蹴球協會を創立。初代協会会長に嘉納治五郎の信任が厚く、大日本體育協會の筆頭理事を務めていた今村次吉が就任した。組織運営、競技規則の翻訳や指導書の作成などは、後に1964年東京オリンピックの準備委員長を務めた新田純興が行った。 シルバーカップは、嘉納治五郎が1919年3月28日に直接イギリス大使館に出向いてグリーン駐日大使から受け取りを済ませていたが、しばらくは大日本體育協會に預けられており、大日本蹴球協會設立後、シルバーカップを正式に受け取ることとなった。シルバーカップは、協會設立(1921年9月10日)後、始まった全日本選手権(後の天皇杯)の優勝チームに授与されるようになった。 なお、この大日本蹴球協會設立のきっかけとなったシルバーカップは現存していない。太平洋戦争の戦況が悪化すると、日本政府は戦争遂行のために、広く国民に鉄や銅、貴金属などの拠出を求めるようになった。これよりさかのぼること1942年(昭和17年)4月に戦時体制強化の為に大日本體育協會が財団法人大日本体育会に再編成され、大日本蹴球協會は他競技団体と共にその部会となり(大日本蹴球協會は蹴球部会となった)、一時消滅していた。1945年(昭和20年)1月、大日本体育会は、帝国政府が進めている銀回収に協力することを決め(銀器献納)、体育会および各部会で保有している賞杯などを政府に供出した。その際に、シルバーカップは姿を消したといわれているが、真相は不明である(銀器献納からわずか7か月後に、日本が終戦。その後、内務省関係の役所でシルバーカップを見かけたとする話もある)。 2011年(平成23年)3月、小倉純二JFA会長(当時)が、FAのバーンスタインFA会長(当時)と会談し、「FA贈呈のシルバーカップで、JFAが誕生した。しかし、そのカップは戦時中に失われた。許可してもらえるなら、カップの複製をつくり、若い世代に戦争はいけないことを伝えていきたい」と話した。この話に感銘を受けたバーンスタインFA会長(当時)は「新しいカップをFAがつくり、もう一度寄贈します」と答えた。こうして、同年8月にFAの手で復元され、改めて日本サッカー協会に贈呈される運びとなり、同年8月23日にイングランド・ウェンブリー・スタジアムにて贈呈式が行われ、バーンスタインFA会長(当時)から小倉JFA会長(当時)に手渡された。 シンボルマークの中央に描かれた鳥は、日本神話に出てくる八咫烏(やたがらす)と同一視される、中国古典の三足烏である。これを描いた旗がシンボルマークとして定められ、旗の黄色は公正を、青色は青春を表し、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現している。 これは、東京高等師範学校(後の東京教育大学、筑波大学)の漢文学者であり、大日本蹴球協會の創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、彫刻家の日名子実三がデザインしたものであり、1931年6月3日の理事会で採用された。 一説に、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助(内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地の那智勝浦町にある熊野那智大社の神使である八咫烏をデザインしたもの とも言われているが、日本サッカー協会から発行された公式書籍などには中村との関連が記載されたことはない。なお、日名子は後の日中戦争期に支那事変従軍記章のデザイン制作を担当し、これにも当初は三本足の八咫烏を採用したが、政府局内からの意見により二本足に変更されている(当該項目参照)。 日本サッカー協会の2013年時点の公式サイトには、「中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊を道案内をしたということもあり、烏には親しみがありました。」 と記載されており、『日本サッカーのあゆみ』(講談社、1974)、『財団法人日本サッカー協会75年史 : ありがとう。そして未来へ』(日本サッカー協会、1996)などでも同様の記載となっている。 この日本サッカー協会のシンボルマークを基にサッカー日本代表のエンブレムが作られており、三足烏を盾の形の枠の中、太陽を表す「黄の地に橙の縦帯」の上に、「JFA」の文字を戴き、翼を広げてサッカーボールをキープした姿で“素早さ”と“力強さ”を表すものとして描かれている。なお日本サッカー協会シンボルマークとサッカー日本代表エンブレムでは八咫烏の意匠が異なっていたが、2016年3月にサッカー協会がシンボルマークを更新し、日本代表も2017年11月にエンブレムを更新して、同じ意匠に統一された。 一時、協会に所属するクラブチームのユニフォームにも以下の大会の優勝チームに限り、八咫烏を基にしたエンブレムを翌シーズン付けることが許されていた。(Jリーグカップ優勝チームについてはこの制度はない。) 天皇杯優勝とJ1リーグ年間優勝の二冠(ダブル)を勝ち取ると、☆のマークが付く。これまで達成したチームは、2000年・2007年の鹿島アントラーズ、2006年の浦和レッドダイヤモンズ、2014年のガンバ大阪である。 2019年現在はチャンピオンマークは八咫烏のマークではない。 またシンボルマークとは別に、八咫烏をデフォルメしたマスコットキャラクターとして「カラッペ」と「カララ」兄弟がいる。こちらのデザインは松下進。 2005年1月1日、国立競技場で開催された第84回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝戦の前に、川淵三郎JFA会長(当時)が「JFA2005年宣言」を発表。「サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する」という日本サッカー協会(JFA)の理念を実現するために、JFAが掲げた目標のことで、サッカーの普及と強化、国際親善への貢献といったビジョン、そして2015年までの中期目標、2050年までの長期目標が示されている。2002年10月に発表された「キャプテンズ・ミッション」(後にプレジデンツ・ミッションへ改称。「JFAキッズプログラム」「JFAファミリーフットサルフェスティバル」など幼児期からの政策や、女子サッカーの強化など)もその一環である。このJFA2005年宣言の中で、2015年までの中期目標(JFAの約束2015)として、2015年までにJFAが世界トップ10の組織になり、『サッカーファミリーが500万人になること』と『日本代表が世界でトップ10のチームになること』の2つの目標を達成するとしている。男子がこの目標を達成するには、2014年FIFAブラジルW杯ベスト8(=準々決勝進出)以上の成績を収めるか、あるいはベスト16チームの中で成績上位10チーム以内に入るようにグループリーグで好成績を残すか、もしくは同大会で好成績を収めることで、翌年の2015年のFIFAランキングで上位10位以内に入ることのいずれかが必要あったが、ブラジルW杯ではグループリーグ敗退となり、FIFAランキングで上位10位以内にはいる事も出来なかった。なお、女子(なでしこジャパン)は、2011年FIFA女子ドイツW杯で優勝し、FIFA女子ランキングも2012年6月1日時点で3位とすでに成績面では長期目標をも達成している。また、2050年までの長期目標(JFAの約束2050)として、『サッカーファミリーが1000万人になること』と『FIFAワールドカップを日本で開催し、その大会で日本代表が優勝すること』の2つの目標を達成するとしている。 2015年5月、JFAは、JFAの約束2015の総括として『世界トップ10の組織は、達成(人材、普及・登録人口、施設、競技会、競技力、財政基盤・マーケティング、国内機構、国際力の8つの観点で情報収集し他国と比較し評価)』、『サッカーファミリーが500万人になることは、達成(2015年時点526万2220人)』、『日本代表が世界でトップ10のチームになることは、女子A代表は達成したが、男子A代表が未達成なので、未達成』と発表した。総括で出た課題を元に、「JFAの約束2050」の具現に向けて、新たに「JFAの目標2030」を設定した。その上で、2022年までの8年間で特に力を入れて推進していく活動を整理し、この「JFA中期計画2015-2022」(「JFAミッション2015-2022」、「アクションプラン2022」)として取りまとめた。 日本サッカー協会は、立法機関としての評議員会と行政(執行)機関としての理事会、さらに司法機関の3つの主要組織から成り立っている。2013年にFIFA傘下の全サッカー協会が「FIFA標準規約」にある三権分立の原則に従うことが求められたため、2014年4月1日をもって理事会の傘下にあった規律委員会・裁定委員会を理事会から独立させ、新たに不服申立委員会を設置して3委員会をもって独立した司法機関として現在の形となった。 以下の記述は公益財団法人日本サッカー協会定款並びに同規約・規程・公開資料など(公益財団法人日本サッカー協会規約・規程、競技規則、申請/手続き、公開資料、その他、Q&A-日本サッカー協会(JFA)公式HP)に基づく。 JFA会長は、法人法及び公益認定法とその整備法に基づく代表理事である。JFAを代表し、その業務を執行する。理事会を招集し、議長として主宰したり、事案の決裁及び専決に関する細則に定めるもの(各規約等に書かれている会長の職務)を執り行う。例えば、事務局では、事務局組織運営規則に基づき、事務局の事務局長及びその他の職員の任免を会長が行っている。また、日本代表監督の任免の“最終決定”を行う(技術委員会は日本代表監督を推薦するだけで、承認・決定するのは理事会)。3か月に1回以上、会長は自己の職務の執行の状況を理事会に報告する義務がある。 2014年以前のJFA会長は、JFA役員選考委員会が推挙した候補者を理事会が承認し、評議員会が追認する手続きを経て選ばれていた。2013年5月30日、FIFA総会でFIFA規約が修正され、傘下の全サッカー協会(2018年時点では211)は「FIFA標準規約」(会長選挙を必ず実施する等の内容)に準拠した規約制定を義務づけられた。2013年9月2日、FIFA加盟協会委員会で、「規約がFIFA標準規約に準拠しておらず、且つ直近に会長選挙予定の協会」として日本を含む13協会に選挙までに規約を改訂すべきと決議された。規定改正が間に合わず、2014年3月のJFA役員改選は、当時の規約での実施を例外として認可された。その後、規定を改正し、2015年3月29日に施行。2015年12月1日にJFA初のJFA会長選挙が始まり、2016年1月31日臨時評議員会で田嶋幸三が当選し、同年3月27日の新体制の第1回理事会を経て正式に第14代JFA会長となった。 2015年3月29日以降、JFA会長は、次の2条件に、当てはまる者が対象者。(1)役員の改選期の直近5年間のうち2年以上、JFA、地域サッカー協会、都道府県サッカー協会、Jリーグ、各種の連盟、リーグ、クラブ等の役員、職員、選手、審判、指導者、その他サッカーと関わりが深いと認められる立場で、サッカー界において実質的に活動し、貢献していること、(2)会長就任時に、満70歳未満であること。この2条件に当てはまる者(但し、禁錮以上の刑に処せられた者はJFA会長になれないなどの除外規定もある)の中で、会長を選定する年(会長選定年)の前年の12月1日から12月の臨時評議員会(12月1日の大体2週間後に開催)までに立候補した者、同臨時評議員会までに理事投票で1票以上の投票があった者及び評議員の7名以上の推薦があった者が「会長候補者」となる。この3つのルートからの会長候補者全員に対し、翌年(会長選定年)の1月の理事会で理事投票が行われ、出席評議員の半数を超え最多票を得た者1名が「会長予定者」となる(半数を超えなかった場合は、最少得票者を除いて再投票を行い、以後、半数超え1名が出るまで同様の手順を繰り返し行う)。なお、会長候補者が1名のみの場合は、会長選定年の1月の臨時評議員会で承認の決議によって「会長予定者」となる。「会長予定者」(1名)は、選出後の定時評議員会で理事に選出され、且つさらにその後に開催される理事会で会長に選定されるという手続きを経て、正式にJFA会長に就任する。なお、理事の任期が2年なので、会長の任期も2年である(再任は可能)。会長選挙の各段階(「会長意向表明者」→「会長立候補者」→「会長候補者」)の選挙活動等や手続き、禁止行為なども細かく規定されている。詳細は、役員の選任及び会長等の選定に関する規程(2015/3/29施行) と会長予定者の選出に関するガイドライン(2015/3/29施行) を参照のこと。 評議員会は、法律並びに定款に定められた重要な事項の決定を行う意思決定機関である。具体的には、理事及び監事並びに会計監査人の選任または解任、司法機関の委員長、副委員長及び委員の選任または解任、理事及び監事の報酬等の額、貸借対照表及び損益計算書(正味財産増減計算書)の承認、定款の変更など、協会に関する重要事項を決議する(定款第20条)。定時評議員会は年1回開催され(定款第21条、概ね3月末に開催)、必要に応じて会長の招集により臨時評議員会が開かれる(定款第21・22条)。 評議員会の構成メンバーである評議員の定数は70名以上85名以内とされ(定款第16条)、2023年7月30日現在で以下の団体から推薦された79名で構成されている。任期は原則4年(定款第18条)。 評議員の報酬は、各年度の総額が200万円を超えない範囲で、評議員会の定めた基準に従って算定した額を支給する(定款第19条)。 一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律に基づき、推薦された者が評議員会において評議員に選任される。評議員会の議長は、評議員の互選によって定め、開催の都度、その評議員会の出席評議員の中から選出する(定款第17条)。 2014年までは、評議員会は理事及び監事の選任機関並びに重要事項の諮問機関であり、評議員は、47都道府県サッカー協会から各1名の計47名のみであった。 理事会はJFAの業務執行機関(行政)である。JFA業務執行や理事の職務の執行の監督や会長、副会長、専務理事及び常務理事等の選定及び解職を協議・決定する(定款第35条)。理事会は、原則として毎月開催され、必要がある時は臨時理事会を開催する。 また、重要な業務運営事項について検討する会議体として、常務理事会が置かれる。常務理事会は、会長、副会長、専務理事及び常務理事で構成する。なお、会長は案件ごとに、常務理事以外の理事又はその他の者を常務理事会に出席させることができる。常務理事会は、原則として毎月1回開催される(定款第40条)。 理事は日本国籍を有するFIFA理事を含む23名以上30名以内、監事は3名以内が評議員会により選任され(定款第25条)、2023年3月25日現在27名の理事(会長1名、副会長4名、専務理事1名、常務理事3名を含む)と3名の幹事が就任している。理事には、地域サッカー協会の推薦9名(各9地域ごとに各1名計9名)を含み、会長(1名)、副会長(4名以内)、専務理事(1名)及び常務理事(3名)は、常務理事会を構成する。会長は法人法及び公益認定法とその整備法に基づく代表理事とされ、副会長・専務理事は、同法の業務執行理事とされる。理事及び監事の任期は原則2年、会計監査人の任期は原則1年で(定款第29条)、定年がある。原則として、会長・副会長は就任時に満70歳未満、その他の役員は満65歳未満でなければならない(理事及び監事の職務権限規則第6条)。 従来、役員(理事及び監事等の役職についている者)は地域協会の職員や元選手などサッカー関係者で占められてきた。しかし、2008年(平成20年)にはサッカー以外のスポーツ出身者として、元ラグビー日本代表監督の平尾誠二、現役女子プロテニス選手のクルム伊達公子の2名が初めて理事に選出された。当時は「サッカーを中心としたスポーツの総合的な発展を目指す」目的で選出されたが、結局両名とも1期で退任している。一方、2016年(平成28年)からは元柔道日本代表で日本オリンピック委員会理事も務めた山口香が理事に選出され、4期連続して理事を務めている。 なお、JFAがスポーツ庁の定める「スポーツ団体ガバナンスコード」への対応を求められたことから、2023年7月30日の臨時評議員会で、2023年度定時評議員会開催時(2024年3月予定)から理事の定数を「9名以上15名以内」に削減した上で、理事会の職務を「重要な業務執行の決定」として一部の業務執行権を事務局に委ねることを決定した。 各事業を進めるにあたり、理事会の下に各種委員会を置いている(定款42条)。「各種委員会組織運営規則」に基づいて常設委員会と専門委員会が設置され、これとは別に時限的に設置する特別委員会と、JFA主管大会の運営を行う大会実施委員会が置かれている。各種委員会の委員長及び委員は、JFA役員、地域及び都道府県サッカー協会役員のほか、JFAの事業に関し、知識、経験及び熱意を有する者のうちから、理事会の承認を経て会長が委嘱する。任期は2年で、再任は可能。 常設委員会は、9つの委員会からなり、そのうちの1つが技術委員会である。技術委員会は、日本代表監督候補者の推挙、日本代表編成案の作成、日本代表強化、その他日本代表に関する事項、選手育成及び強化、ユース年代の普及、強化方針に基づく技術指導、指導者養成、指導に関するビデオ、書籍等の認定、推薦、その他技術指導に関する事項を担当していた。業務が多岐にわたるということで、2016年3月から同委員会委員長は、日本サッカー全体の強化と育成等を担当し、新設されたナショナルチームダイレクターが、代表全般の強化(主にA代表とU-23五輪代表)及びサポートに専念する形となった。2020年3月29日から同委員会委員長は反町康治、ナショナルチームダイレクターは前技術委員会委員長の関塚隆が就任している。2006年ドイツW杯以降は、日本代表監督を、技術委員会が推薦し、理事会が承認・決定している。日本代表監督決定後は、日本代表監督及び日本代表をサポートする。かつては強化委員会という名称であり、1998年フランスW杯頃までは、当時の規則で、日本代表監督を決定及び評価(場合によっては監督交代)する権限があった。 JFAの諸規定等に関する司法機関は、規律委員会・裁定委員会・不服申立委員会の3つの委員会で構成される。前述のとおり、2014年4月1日に理事会から完全に独立した。 構成員の任期は全て4年である。規律委員会は5名(委員長1名、委員4名)、裁定委員会は4名(委員長1名、委員3名)、不服申立委員会は5名(委員長1名、副委員長1名、委員3名) である。 評議員会と理事会と司法機関の3つのさらに下に共通の事務局が置かれている。事務局は、国際部、女子部、代表チーム部、審判部、財務部、フットサル・ビーチサッカー部など全17部に分かれ、各部には、事務局長及びその他の職員が置かれ、その任免はJFA会長が行う。任期の定めはないが、一般の会社と同じ定年がある。 JFAには、正役員の他に名誉役員を若干名置くことができる(定款第34条)。名誉役員は名誉総裁、名誉会長、相談役、顧問および参与とされており、理事会の決議を経て会長が委嘱する(名誉役員に関する規則第2条)。顧問については最高顧問と顧問の2つの区分がある。 ※日本体育協会は2018年度から「日本スポーツ協会」に、併せて「国民体育大会」も2023年より「国民スポーツ大会」に改称予定。JOCはJASAからは独立し同格だがIOCの傘下NOC(各国国内委員会)である。またIOCとJOCの中間に地域ごとのNOC集合体の一つであるアジアオリンピック評議会(OCA)があり、アジア競技大会を主催する。 「格式等」は、天皇杯などJFA直轄大会における出場資格決定に影響を与える。例として、第97回天皇杯は、開催日程が従前よりも大きく変えられたことから、地域によってはアマチュア下位カテゴリーの門戸が閉ざされる形となった。またJリーグ参加クラブも、J1・J2は本大会1回戦シードなのに対し、J3は都道府県予選を勝ち上がらねば本大会を戦うことができないという厳然たる格差がある。 組織としては独立しているものの、競技運営上連携して活動する団体を纏めたもの。主に学生競技団体が中心 1988〜1991年(横山謙三日本代表監督の意向で、国旗の色の赤を採用)を除き1930年極東選手権大会以来、日本代表ユニフォームは青系統の色が採用されている(1970年代以降は白と青を交互に採用した時期もある)。1993年以降、各カテゴリーごとにアディダス、アシックス、プーマ製のものを交互に採用していたが、1999年からアディダスと契約している。 日本サッカー協会が主催 / 共催する大会。 日本A代表などの各種代表及び各年代別代表のJFA公式スポンサーには、2015年から2022年までは「オフィシャル(公式)パートナー」、「オフィシャル(公式)サプライヤー」、「サポーティングカンパニー」、「アパレルプロバイダー」、「プロバイダー」の5つのカテゴリーがあり、一業種一社という規定が存在していた。JFA公式スポンサーの企業のロゴは、日本代表戦のピッチの看板や日本代表選手の練習着及びビブス、さらにJFA主催大会や各種事業、JFA公式HPや公式SNS等でアピールされる。また、スタジアムの大型ビジョンでCM映像を流したり、日本代表監督及び日本代表選手の肖像を各社のマーケティングに使用したりする権利を持つことができる。さらに、JFA活動の放映権及びマーケティング・宣伝等に携わる「マーケティングパートナー」がある。 JFA収入(経常収益)の内訳は、大きく分けて「基本財産運用益」とサッカー、フットサル、ビーチサッカーの選手及びチーム及び審判がJFAに納める「登録料」と大きな収入の柱の「事業収益」とFIFA、JOC、toto等からの助成金の「受け取り補助金等」と日本サッカー協会ビル(JFAハウス)の賃貸事業(空いている部屋の貸し出し)等の「雑収益」の5つである。このうち「事業収益」は、日本代表戦のTV放送権料、チケット収入、スポンサーからの大会ボーナス、大会賞金等の「代表関連事業収益」(年代別からA代表・男女・各種の全ての日本代表)、日本代表戦を除くJFA主催の大会・試合のスポンサー収入・TV放送権料・チケット収入等の「競技会開催事業収益」、スポンサー収入、講習会等参加料等の「指導普及事業収益」、JFA NEWS等の「機関紙収益」、上記の日本代表戦の公式スポンサー収入とゲームソフト・グッズ販売等のロイヤリティ収入、検定料等収入を合わせた「事業関連収益」、Jリーグ開催に伴う納付金等の「競技会収益」、東日本大震災及び熊本地震復興支援活動や国連グローバル・コンパクトなどの「社会貢献事業収益」、日本サッカーミュージアム運営事業の「ミュージアム運営事業収益」、選手・チーム等のオンライン登録(JFAスクエア、KICKOFF等)及び地域・都道府県サッカー協会とのオンラインシステムの維持・開発に関わる事業の「登録事業収益」の9つからなる。 JFA収入(経常収益)の内、最大の収入は、「事業関連収益」(日本代表戦の公式スポンサー収入とゲームソフト・グッズ販売等のロイヤリティ収入、検定料等収入)で、2017年(平成29年)度では95億5859万7374円で、収入(経常収益)の約49%を占めている。2番目が「代表関連事業収益」(年代別からA代表・男女・各種の全ての日本代表のTV放送権料、チケット収入、スポンサーからの大会ボーナス、大会賞金等)で、2017年度では23億4528万966円で約12%、3番目が「登録料」(サッカー、フットサル、ビーチサッカーの選手及びチーム及び審判)で、2017年度では20億6385万8600円で約10.6%、4番目が「競技会開催事業収益」(天皇杯や育成年代大会等の日本代表試合を除くJFA主催の大会・試合のスポンサー収入・TV放送権料・チケット収入等)で2017年度18億9332万7107円で約10%、5番目が「受け取り補助金等」で2017年度で14億3335万437円で約7%となっている。財政が苦しかった時代、JFAの重要な収入の柱だった「登録料」は、今は2017年度では20億6385万8600円で、3番目の収入源となっている。 『公益財団法人』日本サッカー協会(以下JFAか協会と略すことあり)は、日本国内のサッカー及びサッカー文化の普及と促進、A代表などの各種代表及び各年代別代表の代表強化に使うための資金を運用すべく設立を認められた組織である。従って、その目的に沿って資金運用を行っているか公開する義務があるため(公益認定法21条、22条、39条)、JFAの予算及び決算とその活動内容についてはJFA公式ウェブサイト や機関紙で一般公開されている。同協会の予算や決算についてはJFA公式ウェブサイトの理事会報告(収支計算書1992年(平成4年)度頃までは決算書)を参照のこと。株式上場企業が毎年決算発表で公表する財務諸表の損益計算書に該当、日本代表などのJFAの全活動については同ウェブサイト内の事業計画・報告 で閲覧することが出来る。さらに財団法人時代まで日本サッカー協会の監督官庁だった文部科学省に行けば、同協会の財団法人時代(〜2012年3月31日)までの財務諸表を全て閲覧することができる。なお、2012年4月1日付で日本サッカー協会は公益財団法人へ移行したため、同日をもって文部科学省から完全に独立した(財務諸表などを文部科学省に届ける必要がなくなった)。前述の通り、JFAが文部科学省から完全に独立し公益財団法人になる以前よりJFAは独立採算制に既になっており、国の税金は一切入っていない。「日本代表グッズ販売」などの収益事業所得に対しての法人税、住民税及び事業税を国に支払っており、2018年度は計1300万円を支払う予定である。2010年現在、サッカーくじtotoから3億円以下程度の助成金が入るようになったが、これは2010年度でJFA全収入の3%以下でしかない(サッカーくじtotoの売上金は、全て運営元の独立行政法人日本スポーツ振興センターに入り、売上金から当選払戻と経費等を除いた収益の4分の1が国庫納付金になり、4分の3がスポーツ振興費として各スポーツ団体等や地方公共団体に助成金として更に分配される)。JFAの予算および決算、その活動 についてはJFA公式ウェブサイト や機関誌で公開されている。 日本政府による公益法人制度改革に伴い、公益認定されJFAは公益財団法人となった。公益財団法人は、予算の50%以上を公益目的の事業に費やす必要がある。公益財団法人はこれまで通り、「日本代表戦やその他JFAが主催する大会等」のJFAの事業は、「サッカー普及活動」という公益目的の事業とみなされ非課税となる。但し、「日本代表グッズ販売」などは収益事業となり利益に対して課税される。「寄付金」は基本的に課税されない。寄付した法人や個人は所得控除が受けられるため、JFAは寄付を受けやすくなる。また、協会直轄の財産と認められるものは、税が軽減される。従って、最終的に、JFAが払う税金は、地方税7万円(利益に関係なく最低限支払う税金)と日本代表グッズ販売などの収益事業所得に対しての法人税等になる。しかし、もし、公益認定されず、一般財団法人となっていた場合には、JFAの全事業に対し、原則30%課税されるため、上記のようなこれまでの税金の優遇はほとんど受けられず、JFAの事業に支障が出ていた。もし、一般財団法人としても認められなかった場合は、株式会社になるしかないが、その場合は、当時のJFAと同じ活動は不可能で、最終的に解散となっていた可能性が高い。株式会社の場合は、税制の優遇は受けられず、法人税30%が課税されるため、毎年のJFA活動費(2011年度JFA支出165億3981万円)を捻出するために、JFAハウスをはじめとした総資産約140億円(2011年)のほとんどを手放し、さらに不採算部門(例:2010年度までの女子サッカーなど)をなくすなどしても、その部門で得ていた収入もなくなるため(寄付金は相手にメリットが全くないので激減あるいは皆無になる)、最終的にはJFAが解散していた可能性が高い。現在(2018年時点)、「日本代表グッズ販売」などの収益事業所得に対しての法人税の他、住民税及び事業税を支払っている(2018年度は、法人税・住民税・事業税計1300万円支払う予定)。 1993年(平成5年)のプロ化以前は、協会は長年にわたり赤字続きで自転車操業であった。1970年代後半の財務の規模は10億円に満たず、収入は天皇杯などの競技会開催収入が大部分を占めていた。日本代表海外遠征費を捻出できず、旅行代理店への支払いを手形で行うことがあったほどである。当然、協会から出る給料はなく、会長を始め協会役員は無給で働いていた。協会役員の多くがアマチュア全国リーグ日本サッカーリーグ所属クラブからの出向であり、給料は企業が出していた。従って、役員は経済的余裕がある者しか務まらなかった。なお、会長をはじめ、協会(JFA)役員が無給という状況はプロリーグ化以降も、一部は続いた。2001年ごろ、副会長の下の専務理事が有給となり(会長、副会長は無給)、2002年7月、プロ化後9年目の第10代川淵三郎会長からJFA会長に3000万円ほどの給料が支給されるようになった。また、1969年時点では協会職員は5〜6名で、給料は年齢×1000円しかなく、他の職を兼務し、その収入で生計を立てていた。 財政の確立が至上命令だった協会(JFA)は1976年、新日本製鐵社長の平井富三郎を第5代会長に迎えた。平井は本業の社長業で多忙だったため、長沼健専務理事が実質的リーダーとして、さまざまな改革を断行した。協会の運営を円滑に進めるため、古河の経理部門にいた小倉純二を抜擢し、オフィシャルサプライヤー制度を開始。デサント、アシックス、プーマと契約した。1977年に結成した「日本サッカー後援会」 の会費と1978年に開始した個人登録制度(登録料徴収)、国際試合の興行収入、日本体育協会からの補助金と合わせ財政基盤確立をもたらした。1977年(昭和52年)9月ペレの引退試合のために、当時ペレ、ベッケンバウアー、キナーリヤなど世界のスーパースターを擁していたニューヨーク・コスモスが来日し、古河電工(Jリーグのジェフ市原・千葉の前身)、日本代表(日本代表との試合は釜本邦茂日本代表引退試合でもあった。当時は日本代表の試合でも、ほとんどテレビ中継がなかったなか、全国にテレビ中継された)と連戦し、人気を博した。この際に、広告代理店の電通が清涼飲料水のCMに試合の宣伝を乗せ、宣伝費を使わない新手法を編み出し、さらに、一連のゲームを「ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン」と名付けるなどした結果、観衆6万5000人と国立競技場が初めて満員になり、7000万円の純益を出した。以降、日本サッカー協会は赤字体質から脱却した。この1977年を境に協会はJリーグ発足直前まで一度も赤字にならず、Jリーグ発足直前の収入は約40億円となった。 また、1978年に開始したジャパンカップが赤字だったため、当時、渋谷区神南の岸記念体育館の一室にあった協会の部屋の窓から線路を挟んで目と鼻の先にかつて本社のあったキリンビールに、長沼が「ああいう(大きな)会社に支援をお願いできないものか」と思案し、当時の同社・小西秀次社長に直談判した。結果、冠スポンサーとなり、同大会は1980年第3回大会からキリンカップサッカーと名称変更となった。以降、キリンホールディングスはJFAの公式スポンサーを続けている。 1993年のJリーグ誕生後、Jリーグにより競技力が向上し、それが日本代表強化につながり、強化されたことで、観客が増加、入場料収入が増大し、日本代表戦のブランド価値が生まれ、それによりスポンサーとテレビ局が集まるという正のサイクルが生まれた結果、収入が飛躍的に増大。例えば、Jリーグの前哨戦Jリーグヤマザキナビスコカップが行われた1992年(平成4年)度収入は約40億円(総資産は14億円程度)であったが、2002年(平成14年)度収入は約125億円と10年で3倍強に増え、2012年(平成24年)度収入は約165億円(総資産は140億円程度)と見込まれるなど、20年で4倍以上に増えた。収入が増えたことで、JFA事務局のある施設はグレードアップし、JFA職員の数も増えた。1992年当初、JFA事務局は渋谷区神南の岸記念体育館の一室を間借りし、JFA職員は15人だったが、2012年ではJFA事務局はJFAハウスというJFA自前のビルにあり、JFA職員は200人超を数える。 2010年(平成22年)度予算は前年度よりも約14億円多い約176億円。南アフリカW杯ベスト4を想定し、FIFAからの賞金(ベスト4賞金1800万ドル〈約16億円〉。全32出場国が受け取るグループリーグ全3試合の出場給は800万ドル〈約7億円〉で、同じく全出場国が受け取る経費が100万ドル(約8837万円)) などの収入約28億円、滞在費などの支出約15億円を計上した。なお、グループリーグ敗退の場合(その場合は、FIFAから貰う賞金はグループリーグ全3試合の出場給と経費のみ)、収入は11億円、支出は9億円と見込まれていた。実際は南アフリカW杯ベスト16で、FIFAから受け取った賞金および経費総額が900万ドルで、南アフリカW杯総収入は約11億円だったが、南アフリカW杯で日本代表選手に支払った給料や賞与(W杯出場権獲得ボーナス除く)が総額約2億5000万円。これにスイスでの事前キャンプの運営費、ベースキャンプ地に設置したメディアセンターの建設費、協会関係者の出張費等を合わせた南アフリカW杯での総支出は12億円で、南アフリカW杯単体としては赤字となり、2010年度決算でも日本サッカー協会は赤字となった。 2011年(平成23年)度決算は、事業活動や投資活動を合わせた収入が165億5227万円、支出が165億3981万円で約1250万円の黒字を計上し、2年ぶりの黒字決算となった。東日本大震災の復興支援で支出が増えたが、なでしこジャパンが出場した2012年2月29日から3月7日に開催のアルガルベ杯など海外遠征のテレビ放映権を国内で販売でき、さらに復興支援寄付のおかげで収入が増えたため、黒字となった。震災の復興支援特別会計は個人寄付や協賛社の寄付、欧州サッカー連盟(UEFA)の義援金などを含めた収入合計が3億5400万円あり、被災地のフットボールセンターや被災クラブの本拠スタジアムの改修などに充てられた。部門別収支では、2011年独女子W杯のFIFAからの優勝賞金100万ドル(2011年7月11日のレートで8013万5千円)のため、女子サッカーが初めてプラスに転じた。 2013年度からは事業年度を3月決算から12月決算に変更した。 2014年度予算では、2014年ブラジルワールドカップのベスト8進出を想定し、ベスト8賞金1400万ドルと大会準備金150万ドル計1550万ドル(約16億5400万円)のFIFAからの収入 を盛り込み、収入約183億7300万円、支出約179億6100万円の収入・支出共に当時の過去最大額で計上したが、2014年W杯はグループリーグ敗退で終了し、800万ドルと大会準備金150万ドル計950万ドル(約9億6919万円)の収入に留まった。ところが、W杯関連のロイヤリティ収入が大幅に増加し、予算外だったW杯前のコスタリカ戦、ザンビア戦、W杯後のジャマイカ戦、ブラジル戦の各親善試合4試合の収入と合わせ、収入が予想外に上がった。さらに、U-22アジアカップ(2014年1月開催)、アジア大会、AFC U-19選手権といった各年代別大会が軒並み想定外の低調な成績に終わったことで、選手への大会ボーナス(A男子代表のW杯、U-23男子アジア大会)や遠征費などの諸経費が大幅に下がった。最終的には、収入約188億8000万円、支出約167億7000万円となり、皮肉なことに約21億円の黒字となった。 日本代表はロシアワールドカップベスト16の成績だったので、ロシアワールドカップでのFIFAからの収入は、賞金1200万ドル(約13億3009万8000円)と大会準備金150万ドル(約1億6629万3000円)計1350万ドル(約14億9661万円)であった。 2020年5月24日時点では、2018年度決算が正味財産ベースで収入が約234億円(予算比-0.6億円)、支出は224億円(予算比-12億円)で収支ともJFA史上最高額となっている(損益に該当する当期正味増減額は+9.8億円で予算比+11億円)。 先述したJFAの収入でJFAの全活動の費用(年代別日本代表、フットサル、ビーチサッカーの各日本代表及び大学選抜などの監督他代表スタッフおよびA代表選手の給料(サッカー日本代表#プロ化後、サッカー日本代表#プロ化後 2の項参照)、協会役員及び職員の給料、各日本代表の国内および海外遠征費と滞在費等代表関連事業、1種(年齢制限なし)から育成年代までの競技会開催、JFAアカデミーなどの育成事業や指導者および審判養成やJFAこころのプロジェクト等の指導普及事業等) が賄われている(JFAは独立採算制)。2018年7月26日、2020年東京五輪に出場するU-23日本(2018年時点ではU-21日本)監督の森保一が、日本五輪代表監督を兼任したまま、ロシアW杯日本代表コーチから昇格する形で、日本代表監督に年俸約1億5000万円 で4年契約で就任した(なお、東京五輪男子代表監督就任時の年俸は4800万円だった)。日本A代表監督と日本五輪代表監督を兼任するのは、フィリップ・トルシエに次いで2人目で、日本人監督としては初めてである。また、初の外国人日本代表監督のハンス・オフト以降では、W杯後の新日本代表発足時に日本人監督が就くのは初めてである。 2012年時点で、日本代表の1週間程度の海外遠征費は5000万円程度必要である。 2014年時点では、日本代表が国内親善試合を申し込む際に、JFAが対戦国に支払う出場給は強豪国で2億ないし3億円であり、さらに、移動費(飛行機代含め)、宿泊費等も全てJFAが負担する。例えば、2014年のFIFAランク1位ドイツや同年のFIFAランク9位スペインなどFIFAランク上位国を日本に呼ぶ場合は、上記よりさらに費用がかかるという。 先述の通り、2018年度はロシアW杯ベスト8を想定して、収入を234億9001万1千円、支出を236億4764万2千円と収入・支出の両方で過去最大額で計上した。実際は、日本代表はロシアW杯ベスト16の成績だったので、ロシアW杯でのFIFAからの収入は、賞金1200万ドル(約13億3009万8000円)と大会準備金150万ドル(約1億6629万3000円)計1350万ドル(約14億9661万円)であったが、第97回と第98回の2大会分の天皇杯決勝の入場料収入を計上したので競技会開催事業の収入が予算比で増額となり、更に日本代表関連の運営経費や遠征経費の削減に努めたことで日本代表戦関連の支出が抑えられ、2018年度決算は収入が約234億円、支出は224億円と収支ともJFA史上最高額となった。 日本サッカー協会ビル(JFAハウス)の賃貸事業(空いている部屋の貸し出し)や日本代表グッズの販売等。 選手・チーム等の登録(JFAスクエア、KICKOFF等) 及び地域・都道府県サッカー協会とのシステムの維持・開発に関わる事業を行う。 8万人規模(2019年現在日本には一つもない)のスタジアムの新建設案としては、かつて東京都心以外で梅田北ヤードスタジアム構想(大阪)があったが、実現化は停滞した。 小倉純二協会名誉会長は、2012年の新国立競技場 国際デザイン・コンクールの審査員を務めるなど新国立の建設のあり方に深く関わってきた。共に国立競技場将来構想有識者会議の一員だった森喜朗元首相は、小倉名誉会長の叙勲を祝う会に出席するなど親しい関係にある(どちらも早大出身)。 小倉名誉会長は2012年の有識者会議において、2018年のロシア大会が9万人、2022年のカタール大会が86,200人の競技場計画を持つ例を引き合いに、8万人規模の収容人数希望を訴えた。2014年にも「新しい国立競技場ができれば、日本もいい勝負になるかもしれない」と語るなど、新国立を将来のワールドカップ招致の切り札と考えてきた。2015年5月20日、新国立の計画の見直しが検討され日本スポーツ振興センターが「まだ何も決まっていない」と説明した際にも「ウソをつくのはいけない」「大幅な修正は国際的な信用を失う」と現行案通り建設するようにせまった。その一方で、既存の大分スポーツ公園総合競技場や豊田スタジアムを例に挙げ、開閉式スタジアムにおける芝育成の困難さを言及もしていた。 旧国立競技場はサッカー関係者にとって聖地ともいえる場所だが、他のスポーツ関係者と異なってサッカー業界やサッカー系のメディアは口を噤んだ状態を続けた。 安倍晋三首相によるザハ・ハディッド案白紙撤回後の7月28日、大仁邦彌協会会長は「8万人」「臨場感を出すための可動席」と共に、従来要求していた開閉式屋根でなく「観客席を覆う屋根」を遠藤利明五輪相に直訴した。 新国立の計画見直しにおいてスポーツ界では明暗が分かれた。限られた面積の問題のため多くのアスリートが要望していた常設サブトラックの設置は見送られた 一方で、サッカー協会が要望していた8万人規模は維持された。一方、幕張メッセなどで知られる建築家の槙文彦も、競技場の大規模化に苦言を呈した。新国立は陸上に特化し、別途サッカー場は湾岸地区に新設するべきという意見も出ている。協会のスポンサー である朝日新聞は、ザハ案に反対を表明していた専門家の中にもW杯招致を考慮すれば8万人規模の常設席は必要との声があるとした。 8月6日、元女子マラソンの高橋尚子がオリンピック・パラリンピックの遠藤担当相と意見交換をし、高橋は「2020年にタイム(記録)が出せれば、必ずそれは選手にも残るし広がるし、その後も選手が東京のグラウンドで大会をしたいと思うはず」として記録が出やすい競技場とサブトラックの常設化を要望。計画の再考を求めてきた建築家グループも同日に遠藤担当相と意見交換し、大野秀敏は陸上中心かサッカー中心か選ぶように要請。槙は8万人規模では、災害などで避難誘導するのは難しいことを訴えた。 日本での男子W杯開催誘致は早くても19年後と言われ、その頃の客席規模の条件は変更されているかもしれないとの指摘もあった。しかし、8月28日の整備計画では日本サッカー協会の要望を考慮して客席増設で8万人に対応できる形で決着した(東京五輪時の収容人数は6万8千人)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "公益財団法人日本サッカー協会(にほんサッカーきょうかい、英語: Japan Football Association、JFA)は、日本のサッカー界を統括し代表する国内競技連盟。サッカー競技の普及および振興を図り、もって国民の心身の健全な発達に寄与することを目的とする。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)や日本フットボールリーグ(JFL)、日本女子プロサッカーリーグ(WEリーグ)、日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)の試合や天皇杯全日本サッカー選手権大会、皇后杯全日本女子選手権大会などの公式サッカー大会を主催する。プロ・アマの活動を一本化して管理している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2012年4月1日より財団法人から公益財団法人へ移行し、文部科学省から完全に独立した。公益財団法人化のメリットなどの詳細も、JFA財務内容の項で後述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "サッカーに関する上位組織としては国際サッカー連盟(FIFA)およびアジアサッカー連盟(AFC)にそれぞれ所属している。日本サッカー協会はアジアサッカー連盟(AFC)創設(1954年5月8日)メンバーであり、創設年の10月にAFCに加盟している。また、上位組織ではないが、周辺7協会と共に2002年5月28日に東アジアサッカー連盟(EAFF)を創設し、同時に加盟している。オリンピック競技ないしはスポーツの一つとして国際オリンピック委員会(IOC) - 公益財団法人日本オリンピック委員会(JOC)・公益財団法人日本スポーツ協会にも所属する。日本サッカー協会の下位組織としては日本国内を大きくブロックに分けた9地域(北海道・東北・関東・北信越・東海・関西・中国・四国・九州)のサッカー協会と、各都道府県毎に置かれた46の都府県(北海道は地域の協会も兼ねる)サッカー協会を有し、国内トップリーグであるJリーグの1部(J1)所属チームから、社会人、学生チームなどのアマチュアチームに至るまで、必ずいずれかの都道府県サッカー協会に所属するかたちとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2002年10月、川淵三郎がキャプテン(川淵のみが在任中呼ばせたJFA会長職の呼称)就任後、日本サッカーの基盤強化を図るため、「JFAキッズプログラム」「JFAファミリーフットサルフェスティバル」など幼児期からの政策や、女子サッカーの強化などを盛り込んだ「キャプテンズ・ミッション」を発表した(後にプレジデンツ・ミッションへ改称)。2005年1月1日、JFA理念実現のための『JFA2005年宣言』を発表し、その中で中期目標として「2015年に世界のトップ10入り」、長期目標として「2050年までにFIFAワールドカップ優勝」という目標を立てている(詳細はJFA2005年宣言の項で後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "サッカー日本代表人気もあって、スポンサーからの巨額の資金を受けており、2006年度予算時点で、公益財団法人日本オリンピック委員会(JOC)の2倍以上の157億円に達した。12年後の2018年度予算では、2018年ロシアワールドカップのベスト8進出(=準々決勝進出)を想定し、ベスト8賞金1600万ドルと大会準備金150万ドル計1750万ドル(約18億6700万円)のFIFAからの収入 を盛り込み、2018年度収入を前年度比約52億9000万円増の234億9001万1千円、支出を前年度比約50億9000万円増の236億4764万2千円と収入・支出の両方で過去最大額で計上している(実際は、日本代表はロシアW杯ベスト16の成績だったので、賞金1200万ドル(約13億3009万8000円)と大会準備金150万ドル(約1億6629万3000円)計1350万ドル(約14億9661万円)の収入)。キリンホールディングス(キリンビール、キリンビバレッジ)と2007年4月からの8年間で推定総額120億円(年間15億円)でオフィシャルスポンサー契約を結んでいたが、2014年5月25日、JFAとキリングループが対等な関係で、サッカーの普及・促進に寄与していくという意志を込め、名称を従来の「オフィシャルスポンサー」から「オフィシャルパートナー」に変更した上で、2015年4月1日から2022年12月31日まで(7年9か月)契約を更新した。他、アディダスジャパンと2007年4月から向こう8年間で総額160億円(年間20億円)のオフィシャル(公式)サプライヤー契約を締結した。2014年11月5日に、2015年4月1日から2023年3月末までの8年間で契約金は1年30億円、8年合計240億円でボーナスや物品提供を含めると250億円超という契約更新で同意したと報じられた。しかし実際に2015年4月1日に更新した際には、契約内容は公開されなかった。さらに、広告代理店の電通と2007年から向こう8年間で総額240億円(年間30億円)の放映権及びマーケティングのオフィシャル(公式)スポンサー契約をした。2015年4月1日に更新したが、契約内容は非公開である。このように、プロ化以前の財政難も解消している(詳細は、JFA財務内容の項で後述)。なお、欧州サッカー連盟(UEFA)のサッカー強豪国の予算規模は、2011年時点で340億円以上である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2006年6月7日、川淵三郎キャプテン(JFA会長)が「日本およびアジアのサッカー発展の貢献と2002年FIFAワールドカップの成功」を称えFIFAよりFIFA功労賞を受賞した。これでJFAからは6代目の藤田静夫元会長に続く2人目の快挙である。なお、同賞は、ジーコ元日本代表監督も1996年に受賞している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2012年1月9日、2011年度のFIFAバロンドールにおいてFIFAフェアプレー賞を受賞した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "公益法人制度改革に伴い、2011年9月、財団法人から公益財団法人への移行を申請し、2012年4月1日より公益財団法人となり、それに伴い、文部科学省から完全に独立した(2012年3月31日までは、文部科学省が日本サッカー協会の監督官庁であり、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2013年5月30日、FIFA総会で傘下の全サッカー協会(2018年時点では211)が「FIFA標準規約」(会長選挙を必ず実施する等の内容)に準拠した規約制定を義務づけられたため、規定を改正し、2015年3月29日に施行した。2015年12月1日にJFA初のJFA会長選挙が始まり、立候補受付を開始した。2016年1月31日臨時評議員会で田嶋幸三が当選し、同年3月27日の新体制の第1回理事会を経て正式に第14代JFA会長となった。また、同じく2013年、FIFA傘下の全211協会(2018年時点)は、「FIFA標準規約」にある三権分立(立法(評議員会)、行政(理事会)、司法(規律委員会・裁定委員会))の原則に従うことが求められたため、2014年4月1日、司法機関(規律委員会、裁定委員会、不服申立委員会)をJFAから完全に独立させた(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2015年5月、JFAは、JFA2005年宣言におけるJFAの約束2015 の総括として『世界トップ10の組織は、達成』、『サッカーファミリーが500万人になることは、達成(2015年時点526万2220人)』、『日本代表が世界でトップ10のチームになることは、未達成』と発表した。総括で出た課題を元に、「JFAの約束2050」の具現に向け、新たに「JFAの目標2030」を設定した(詳細はJFA2005年宣言の項で後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以下の記述は基本的に、公益財団法人日本サッカー協会公式HPの沿革・歴史ページ に基づくが、書籍及び資料等で確認された出来事も追記している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)、大日本帝国(日本)にはまだサッカー(当時は「蹴球」=しゅうきゅう=と表記)を統括する組織はなく、日本一を決める全国大会も一度も実施されてはいなかった。この年の1月に大阪の豊中で行われた日本フートボール優勝大会(関西地区のみの大会。のちの全国高等学校サッカー選手権大会の前身にあたる)、同年2月に関東地区で「関東蹴球大會」、名古屋では旧制高等学校などが参加した「東海蹴球大會」が別々に開催され、1918年以降にも引き続いて開かれた。東京で行われた「関東蹴球大會」にはチャールズ・エリオットイギリス帝国(のちのイギリス)大使も列席し、その模様を本国に伝えた。これら1918年に行われた一連の旧制中学や師範学校および旧制高等学校を中心とした別々の地域大会の開催の模様を、イギリス帝国の新聞が「日本にサッカー協会が発足し、全日本選手権大会が始まった(別々の地域大会を全国大会予選だと勘違いした)」と誤って報道した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "翌1919年(大正8年)、チャールズ・エリオット大使の報告に加え、その新聞記事を見たイングランドサッカー協会(以下FA)は、イギリス帝国大使館のウィリアム・ヘーグ(William Haigh)書記官 が日本の全国大会優勝チームに授与するためのFA杯の寄贈を提案したこともあり、「日本蹴球協會の設立を祝して銀杯を寄贈します。全國大會の優勝チームに授與して下さい」といったメッセージを添えて、イギリス帝国大使館を通じて日本に純銀のシルバーカップ(以下銀杯と略すことあり)を寄贈することを決め、1919年1月にロンドンから船便で日本に向け送った(当時は船便しか無かった。旅客機が欧州から日本まで乗り入れるのは1952年から、大衆化されたのは1960年代からである)。3か月かけて、シルバーカップはイギリス帝国大使館に届けられた。FAは当時、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどイギリス帝国各地の協会に、ほぼ同じデザインの銀杯を贈っている。1902年(明治35年)日英同盟を結んで以来、東アジアおよび太平洋地域の覇権をめぐり、日本は当時、イギリス帝国にとって重要な同盟国だった。つまり、銀杯の寄贈には、当時の日本がイギリス帝国に重視されていた、あるいはイギリス帝国加盟国に準ずるものとみなされていたことが背景としてある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "FAが日本に銀杯を寄贈したという3月12日付けの東京朝日新聞の記事を、東京高等師範学校(のちの東京教育大学、筑波大学)の校友会蹴球部長を務めていた内野台嶺が読み、そのカップの行き先を思案することとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし、なかなか良案が浮かばず、東京高等師範学校の校長で当時、大日本體育協會の会長も兼務していた戦前の日本スポーツ界の重鎮嘉納治五郎を訪ねた。そして「この際、急いで設立せよ」と、内野は嘉納から厳命を受ける。内野はその後、イギリス大使館のウィリアム・ヘーグ書記官(そのまま大日本蹴球協會初代賛助会員となった) と体育協会の各理事の協力を仰ぎ、規約・規則の作成と役員人事を進め、1921年9月10日に大日本蹴球協會を創立。初代協会会長に嘉納治五郎の信任が厚く、大日本體育協會の筆頭理事を務めていた今村次吉が就任した。組織運営、競技規則の翻訳や指導書の作成などは、後に1964年東京オリンピックの準備委員長を務めた新田純興が行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "シルバーカップは、嘉納治五郎が1919年3月28日に直接イギリス大使館に出向いてグリーン駐日大使から受け取りを済ませていたが、しばらくは大日本體育協會に預けられており、大日本蹴球協會設立後、シルバーカップを正式に受け取ることとなった。シルバーカップは、協會設立(1921年9月10日)後、始まった全日本選手権(後の天皇杯)の優勝チームに授与されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、この大日本蹴球協會設立のきっかけとなったシルバーカップは現存していない。太平洋戦争の戦況が悪化すると、日本政府は戦争遂行のために、広く国民に鉄や銅、貴金属などの拠出を求めるようになった。これよりさかのぼること1942年(昭和17年)4月に戦時体制強化の為に大日本體育協會が財団法人大日本体育会に再編成され、大日本蹴球協會は他競技団体と共にその部会となり(大日本蹴球協會は蹴球部会となった)、一時消滅していた。1945年(昭和20年)1月、大日本体育会は、帝国政府が進めている銀回収に協力することを決め(銀器献納)、体育会および各部会で保有している賞杯などを政府に供出した。その際に、シルバーカップは姿を消したといわれているが、真相は不明である(銀器献納からわずか7か月後に、日本が終戦。その後、内務省関係の役所でシルバーカップを見かけたとする話もある)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)3月、小倉純二JFA会長(当時)が、FAのバーンスタインFA会長(当時)と会談し、「FA贈呈のシルバーカップで、JFAが誕生した。しかし、そのカップは戦時中に失われた。許可してもらえるなら、カップの複製をつくり、若い世代に戦争はいけないことを伝えていきたい」と話した。この話に感銘を受けたバーンスタインFA会長(当時)は「新しいカップをFAがつくり、もう一度寄贈します」と答えた。こうして、同年8月にFAの手で復元され、改めて日本サッカー協会に贈呈される運びとなり、同年8月23日にイングランド・ウェンブリー・スタジアムにて贈呈式が行われ、バーンスタインFA会長(当時)から小倉JFA会長(当時)に手渡された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "シンボルマークの中央に描かれた鳥は、日本神話に出てくる八咫烏(やたがらす)と同一視される、中国古典の三足烏である。これを描いた旗がシンボルマークとして定められ、旗の黄色は公正を、青色は青春を表し、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現している。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "これは、東京高等師範学校(後の東京教育大学、筑波大学)の漢文学者であり、大日本蹴球協會の創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、彫刻家の日名子実三がデザインしたものであり、1931年6月3日の理事会で採用された。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一説に、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助(内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地の那智勝浦町にある熊野那智大社の神使である八咫烏をデザインしたもの とも言われているが、日本サッカー協会から発行された公式書籍などには中村との関連が記載されたことはない。なお、日名子は後の日中戦争期に支那事変従軍記章のデザイン制作を担当し、これにも当初は三本足の八咫烏を採用したが、政府局内からの意見により二本足に変更されている(当該項目参照)。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本サッカー協会の2013年時点の公式サイトには、「中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊を道案内をしたということもあり、烏には親しみがありました。」 と記載されており、『日本サッカーのあゆみ』(講談社、1974)、『財団法人日本サッカー協会75年史 : ありがとう。そして未来へ』(日本サッカー協会、1996)などでも同様の記載となっている。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この日本サッカー協会のシンボルマークを基にサッカー日本代表のエンブレムが作られており、三足烏を盾の形の枠の中、太陽を表す「黄の地に橙の縦帯」の上に、「JFA」の文字を戴き、翼を広げてサッカーボールをキープした姿で“素早さ”と“力強さ”を表すものとして描かれている。なお日本サッカー協会シンボルマークとサッカー日本代表エンブレムでは八咫烏の意匠が異なっていたが、2016年3月にサッカー協会がシンボルマークを更新し、日本代表も2017年11月にエンブレムを更新して、同じ意匠に統一された。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一時、協会に所属するクラブチームのユニフォームにも以下の大会の優勝チームに限り、八咫烏を基にしたエンブレムを翌シーズン付けることが許されていた。(Jリーグカップ優勝チームについてはこの制度はない。)", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "天皇杯優勝とJ1リーグ年間優勝の二冠(ダブル)を勝ち取ると、☆のマークが付く。これまで達成したチームは、2000年・2007年の鹿島アントラーズ、2006年の浦和レッドダイヤモンズ、2014年のガンバ大阪である。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2019年現在はチャンピオンマークは八咫烏のマークではない。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "またシンボルマークとは別に、八咫烏をデフォルメしたマスコットキャラクターとして「カラッペ」と「カララ」兄弟がいる。こちらのデザインは松下進。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2005年1月1日、国立競技場で開催された第84回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝戦の前に、川淵三郎JFA会長(当時)が「JFA2005年宣言」を発表。「サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する」という日本サッカー協会(JFA)の理念を実現するために、JFAが掲げた目標のことで、サッカーの普及と強化、国際親善への貢献といったビジョン、そして2015年までの中期目標、2050年までの長期目標が示されている。2002年10月に発表された「キャプテンズ・ミッション」(後にプレジデンツ・ミッションへ改称。「JFAキッズプログラム」「JFAファミリーフットサルフェスティバル」など幼児期からの政策や、女子サッカーの強化など)もその一環である。このJFA2005年宣言の中で、2015年までの中期目標(JFAの約束2015)として、2015年までにJFAが世界トップ10の組織になり、『サッカーファミリーが500万人になること』と『日本代表が世界でトップ10のチームになること』の2つの目標を達成するとしている。男子がこの目標を達成するには、2014年FIFAブラジルW杯ベスト8(=準々決勝進出)以上の成績を収めるか、あるいはベスト16チームの中で成績上位10チーム以内に入るようにグループリーグで好成績を残すか、もしくは同大会で好成績を収めることで、翌年の2015年のFIFAランキングで上位10位以内に入ることのいずれかが必要あったが、ブラジルW杯ではグループリーグ敗退となり、FIFAランキングで上位10位以内にはいる事も出来なかった。なお、女子(なでしこジャパン)は、2011年FIFA女子ドイツW杯で優勝し、FIFA女子ランキングも2012年6月1日時点で3位とすでに成績面では長期目標をも達成している。また、2050年までの長期目標(JFAの約束2050)として、『サッカーファミリーが1000万人になること』と『FIFAワールドカップを日本で開催し、その大会で日本代表が優勝すること』の2つの目標を達成するとしている。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2015年5月、JFAは、JFAの約束2015の総括として『世界トップ10の組織は、達成(人材、普及・登録人口、施設、競技会、競技力、財政基盤・マーケティング、国内機構、国際力の8つの観点で情報収集し他国と比較し評価)』、『サッカーファミリーが500万人になることは、達成(2015年時点526万2220人)』、『日本代表が世界でトップ10のチームになることは、女子A代表は達成したが、男子A代表が未達成なので、未達成』と発表した。総括で出た課題を元に、「JFAの約束2050」の具現に向けて、新たに「JFAの目標2030」を設定した。その上で、2022年までの8年間で特に力を入れて推進していく活動を整理し、この「JFA中期計画2015-2022」(「JFAミッション2015-2022」、「アクションプラン2022」)として取りまとめた。", "title": "アイデンティティー" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本サッカー協会は、立法機関としての評議員会と行政(執行)機関としての理事会、さらに司法機関の3つの主要組織から成り立っている。2013年にFIFA傘下の全サッカー協会が「FIFA標準規約」にある三権分立の原則に従うことが求められたため、2014年4月1日をもって理事会の傘下にあった規律委員会・裁定委員会を理事会から独立させ、新たに不服申立委員会を設置して3委員会をもって独立した司法機関として現在の形となった。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "以下の記述は公益財団法人日本サッカー協会定款並びに同規約・規程・公開資料など(公益財団法人日本サッカー協会規約・規程、競技規則、申請/手続き、公開資料、その他、Q&A-日本サッカー協会(JFA)公式HP)に基づく。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "JFA会長は、法人法及び公益認定法とその整備法に基づく代表理事である。JFAを代表し、その業務を執行する。理事会を招集し、議長として主宰したり、事案の決裁及び専決に関する細則に定めるもの(各規約等に書かれている会長の職務)を執り行う。例えば、事務局では、事務局組織運営規則に基づき、事務局の事務局長及びその他の職員の任免を会長が行っている。また、日本代表監督の任免の“最終決定”を行う(技術委員会は日本代表監督を推薦するだけで、承認・決定するのは理事会)。3か月に1回以上、会長は自己の職務の執行の状況を理事会に報告する義務がある。 2014年以前のJFA会長は、JFA役員選考委員会が推挙した候補者を理事会が承認し、評議員会が追認する手続きを経て選ばれていた。2013年5月30日、FIFA総会でFIFA規約が修正され、傘下の全サッカー協会(2018年時点では211)は「FIFA標準規約」(会長選挙を必ず実施する等の内容)に準拠した規約制定を義務づけられた。2013年9月2日、FIFA加盟協会委員会で、「規約がFIFA標準規約に準拠しておらず、且つ直近に会長選挙予定の協会」として日本を含む13協会に選挙までに規約を改訂すべきと決議された。規定改正が間に合わず、2014年3月のJFA役員改選は、当時の規約での実施を例外として認可された。その後、規定を改正し、2015年3月29日に施行。2015年12月1日にJFA初のJFA会長選挙が始まり、2016年1月31日臨時評議員会で田嶋幸三が当選し、同年3月27日の新体制の第1回理事会を経て正式に第14代JFA会長となった。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2015年3月29日以降、JFA会長は、次の2条件に、当てはまる者が対象者。(1)役員の改選期の直近5年間のうち2年以上、JFA、地域サッカー協会、都道府県サッカー協会、Jリーグ、各種の連盟、リーグ、クラブ等の役員、職員、選手、審判、指導者、その他サッカーと関わりが深いと認められる立場で、サッカー界において実質的に活動し、貢献していること、(2)会長就任時に、満70歳未満であること。この2条件に当てはまる者(但し、禁錮以上の刑に処せられた者はJFA会長になれないなどの除外規定もある)の中で、会長を選定する年(会長選定年)の前年の12月1日から12月の臨時評議員会(12月1日の大体2週間後に開催)までに立候補した者、同臨時評議員会までに理事投票で1票以上の投票があった者及び評議員の7名以上の推薦があった者が「会長候補者」となる。この3つのルートからの会長候補者全員に対し、翌年(会長選定年)の1月の理事会で理事投票が行われ、出席評議員の半数を超え最多票を得た者1名が「会長予定者」となる(半数を超えなかった場合は、最少得票者を除いて再投票を行い、以後、半数超え1名が出るまで同様の手順を繰り返し行う)。なお、会長候補者が1名のみの場合は、会長選定年の1月の臨時評議員会で承認の決議によって「会長予定者」となる。「会長予定者」(1名)は、選出後の定時評議員会で理事に選出され、且つさらにその後に開催される理事会で会長に選定されるという手続きを経て、正式にJFA会長に就任する。なお、理事の任期が2年なので、会長の任期も2年である(再任は可能)。会長選挙の各段階(「会長意向表明者」→「会長立候補者」→「会長候補者」)の選挙活動等や手続き、禁止行為なども細かく規定されている。詳細は、役員の選任及び会長等の選定に関する規程(2015/3/29施行) と会長予定者の選出に関するガイドライン(2015/3/29施行) を参照のこと。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "評議員会は、法律並びに定款に定められた重要な事項の決定を行う意思決定機関である。具体的には、理事及び監事並びに会計監査人の選任または解任、司法機関の委員長、副委員長及び委員の選任または解任、理事及び監事の報酬等の額、貸借対照表及び損益計算書(正味財産増減計算書)の承認、定款の変更など、協会に関する重要事項を決議する(定款第20条)。定時評議員会は年1回開催され(定款第21条、概ね3月末に開催)、必要に応じて会長の招集により臨時評議員会が開かれる(定款第21・22条)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "評議員会の構成メンバーである評議員の定数は70名以上85名以内とされ(定款第16条)、2023年7月30日現在で以下の団体から推薦された79名で構成されている。任期は原則4年(定款第18条)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "評議員の報酬は、各年度の総額が200万円を超えない範囲で、評議員会の定めた基準に従って算定した額を支給する(定款第19条)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律に基づき、推薦された者が評議員会において評議員に選任される。評議員会の議長は、評議員の互選によって定め、開催の都度、その評議員会の出席評議員の中から選出する(定款第17条)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2014年までは、評議員会は理事及び監事の選任機関並びに重要事項の諮問機関であり、評議員は、47都道府県サッカー協会から各1名の計47名のみであった。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "理事会はJFAの業務執行機関(行政)である。JFA業務執行や理事の職務の執行の監督や会長、副会長、専務理事及び常務理事等の選定及び解職を協議・決定する(定款第35条)。理事会は、原則として毎月開催され、必要がある時は臨時理事会を開催する。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、重要な業務運営事項について検討する会議体として、常務理事会が置かれる。常務理事会は、会長、副会長、専務理事及び常務理事で構成する。なお、会長は案件ごとに、常務理事以外の理事又はその他の者を常務理事会に出席させることができる。常務理事会は、原則として毎月1回開催される(定款第40条)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "理事は日本国籍を有するFIFA理事を含む23名以上30名以内、監事は3名以内が評議員会により選任され(定款第25条)、2023年3月25日現在27名の理事(会長1名、副会長4名、専務理事1名、常務理事3名を含む)と3名の幹事が就任している。理事には、地域サッカー協会の推薦9名(各9地域ごとに各1名計9名)を含み、会長(1名)、副会長(4名以内)、専務理事(1名)及び常務理事(3名)は、常務理事会を構成する。会長は法人法及び公益認定法とその整備法に基づく代表理事とされ、副会長・専務理事は、同法の業務執行理事とされる。理事及び監事の任期は原則2年、会計監査人の任期は原則1年で(定款第29条)、定年がある。原則として、会長・副会長は就任時に満70歳未満、その他の役員は満65歳未満でなければならない(理事及び監事の職務権限規則第6条)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "従来、役員(理事及び監事等の役職についている者)は地域協会の職員や元選手などサッカー関係者で占められてきた。しかし、2008年(平成20年)にはサッカー以外のスポーツ出身者として、元ラグビー日本代表監督の平尾誠二、現役女子プロテニス選手のクルム伊達公子の2名が初めて理事に選出された。当時は「サッカーを中心としたスポーツの総合的な発展を目指す」目的で選出されたが、結局両名とも1期で退任している。一方、2016年(平成28年)からは元柔道日本代表で日本オリンピック委員会理事も務めた山口香が理事に選出され、4期連続して理事を務めている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、JFAがスポーツ庁の定める「スポーツ団体ガバナンスコード」への対応を求められたことから、2023年7月30日の臨時評議員会で、2023年度定時評議員会開催時(2024年3月予定)から理事の定数を「9名以上15名以内」に削減した上で、理事会の職務を「重要な業務執行の決定」として一部の業務執行権を事務局に委ねることを決定した。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "各事業を進めるにあたり、理事会の下に各種委員会を置いている(定款42条)。「各種委員会組織運営規則」に基づいて常設委員会と専門委員会が設置され、これとは別に時限的に設置する特別委員会と、JFA主管大会の運営を行う大会実施委員会が置かれている。各種委員会の委員長及び委員は、JFA役員、地域及び都道府県サッカー協会役員のほか、JFAの事業に関し、知識、経験及び熱意を有する者のうちから、理事会の承認を経て会長が委嘱する。任期は2年で、再任は可能。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "常設委員会は、9つの委員会からなり、そのうちの1つが技術委員会である。技術委員会は、日本代表監督候補者の推挙、日本代表編成案の作成、日本代表強化、その他日本代表に関する事項、選手育成及び強化、ユース年代の普及、強化方針に基づく技術指導、指導者養成、指導に関するビデオ、書籍等の認定、推薦、その他技術指導に関する事項を担当していた。業務が多岐にわたるということで、2016年3月から同委員会委員長は、日本サッカー全体の強化と育成等を担当し、新設されたナショナルチームダイレクターが、代表全般の強化(主にA代表とU-23五輪代表)及びサポートに専念する形となった。2020年3月29日から同委員会委員長は反町康治、ナショナルチームダイレクターは前技術委員会委員長の関塚隆が就任している。2006年ドイツW杯以降は、日本代表監督を、技術委員会が推薦し、理事会が承認・決定している。日本代表監督決定後は、日本代表監督及び日本代表をサポートする。かつては強化委員会という名称であり、1998年フランスW杯頃までは、当時の規則で、日本代表監督を決定及び評価(場合によっては監督交代)する権限があった。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "JFAの諸規定等に関する司法機関は、規律委員会・裁定委員会・不服申立委員会の3つの委員会で構成される。前述のとおり、2014年4月1日に理事会から完全に独立した。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "構成員の任期は全て4年である。規律委員会は5名(委員長1名、委員4名)、裁定委員会は4名(委員長1名、委員3名)、不服申立委員会は5名(委員長1名、副委員長1名、委員3名) である。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "評議員会と理事会と司法機関の3つのさらに下に共通の事務局が置かれている。事務局は、国際部、女子部、代表チーム部、審判部、財務部、フットサル・ビーチサッカー部など全17部に分かれ、各部には、事務局長及びその他の職員が置かれ、その任免はJFA会長が行う。任期の定めはないが、一般の会社と同じ定年がある。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "JFAには、正役員の他に名誉役員を若干名置くことができる(定款第34条)。名誉役員は名誉総裁、名誉会長、相談役、顧問および参与とされており、理事会の決議を経て会長が委嘱する(名誉役員に関する規則第2条)。顧問については最高顧問と顧問の2つの区分がある。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "※日本体育協会は2018年度から「日本スポーツ協会」に、併せて「国民体育大会」も2023年より「国民スポーツ大会」に改称予定。JOCはJASAからは独立し同格だがIOCの傘下NOC(各国国内委員会)である。またIOCとJOCの中間に地域ごとのNOC集合体の一つであるアジアオリンピック評議会(OCA)があり、アジア競技大会を主催する。", "title": "関連団体" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "「格式等」は、天皇杯などJFA直轄大会における出場資格決定に影響を与える。例として、第97回天皇杯は、開催日程が従前よりも大きく変えられたことから、地域によってはアマチュア下位カテゴリーの門戸が閉ざされる形となった。またJリーグ参加クラブも、J1・J2は本大会1回戦シードなのに対し、J3は都道府県予選を勝ち上がらねば本大会を戦うことができないという厳然たる格差がある。", "title": "関連団体" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "組織としては独立しているものの、競技運営上連携して活動する団体を纏めたもの。主に学生競技団体が中心", "title": "関連団体" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1988〜1991年(横山謙三日本代表監督の意向で、国旗の色の赤を採用)を除き1930年極東選手権大会以来、日本代表ユニフォームは青系統の色が採用されている(1970年代以降は白と青を交互に採用した時期もある)。1993年以降、各カテゴリーごとにアディダス、アシックス、プーマ製のものを交互に採用していたが、1999年からアディダスと契約している。", "title": "ナショナルチーム" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本サッカー協会が主催 / 共催する大会。", "title": "大会と大会結果" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日本A代表などの各種代表及び各年代別代表のJFA公式スポンサーには、2015年から2022年までは「オフィシャル(公式)パートナー」、「オフィシャル(公式)サプライヤー」、「サポーティングカンパニー」、「アパレルプロバイダー」、「プロバイダー」の5つのカテゴリーがあり、一業種一社という規定が存在していた。JFA公式スポンサーの企業のロゴは、日本代表戦のピッチの看板や日本代表選手の練習着及びビブス、さらにJFA主催大会や各種事業、JFA公式HPや公式SNS等でアピールされる。また、スタジアムの大型ビジョンでCM映像を流したり、日本代表監督及び日本代表選手の肖像を各社のマーケティングに使用したりする権利を持つことができる。さらに、JFA活動の放映権及びマーケティング・宣伝等に携わる「マーケティングパートナー」がある。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "JFA収入(経常収益)の内訳は、大きく分けて「基本財産運用益」とサッカー、フットサル、ビーチサッカーの選手及びチーム及び審判がJFAに納める「登録料」と大きな収入の柱の「事業収益」とFIFA、JOC、toto等からの助成金の「受け取り補助金等」と日本サッカー協会ビル(JFAハウス)の賃貸事業(空いている部屋の貸し出し)等の「雑収益」の5つである。このうち「事業収益」は、日本代表戦のTV放送権料、チケット収入、スポンサーからの大会ボーナス、大会賞金等の「代表関連事業収益」(年代別からA代表・男女・各種の全ての日本代表)、日本代表戦を除くJFA主催の大会・試合のスポンサー収入・TV放送権料・チケット収入等の「競技会開催事業収益」、スポンサー収入、講習会等参加料等の「指導普及事業収益」、JFA NEWS等の「機関紙収益」、上記の日本代表戦の公式スポンサー収入とゲームソフト・グッズ販売等のロイヤリティ収入、検定料等収入を合わせた「事業関連収益」、Jリーグ開催に伴う納付金等の「競技会収益」、東日本大震災及び熊本地震復興支援活動や国連グローバル・コンパクトなどの「社会貢献事業収益」、日本サッカーミュージアム運営事業の「ミュージアム運営事業収益」、選手・チーム等のオンライン登録(JFAスクエア、KICKOFF等)及び地域・都道府県サッカー協会とのオンラインシステムの維持・開発に関わる事業の「登録事業収益」の9つからなる。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "JFA収入(経常収益)の内、最大の収入は、「事業関連収益」(日本代表戦の公式スポンサー収入とゲームソフト・グッズ販売等のロイヤリティ収入、検定料等収入)で、2017年(平成29年)度では95億5859万7374円で、収入(経常収益)の約49%を占めている。2番目が「代表関連事業収益」(年代別からA代表・男女・各種の全ての日本代表のTV放送権料、チケット収入、スポンサーからの大会ボーナス、大会賞金等)で、2017年度では23億4528万966円で約12%、3番目が「登録料」(サッカー、フットサル、ビーチサッカーの選手及びチーム及び審判)で、2017年度では20億6385万8600円で約10.6%、4番目が「競技会開催事業収益」(天皇杯や育成年代大会等の日本代表試合を除くJFA主催の大会・試合のスポンサー収入・TV放送権料・チケット収入等)で2017年度18億9332万7107円で約10%、5番目が「受け取り補助金等」で2017年度で14億3335万437円で約7%となっている。財政が苦しかった時代、JFAの重要な収入の柱だった「登録料」は、今は2017年度では20億6385万8600円で、3番目の収入源となっている。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "『公益財団法人』日本サッカー協会(以下JFAか協会と略すことあり)は、日本国内のサッカー及びサッカー文化の普及と促進、A代表などの各種代表及び各年代別代表の代表強化に使うための資金を運用すべく設立を認められた組織である。従って、その目的に沿って資金運用を行っているか公開する義務があるため(公益認定法21条、22条、39条)、JFAの予算及び決算とその活動内容についてはJFA公式ウェブサイト や機関紙で一般公開されている。同協会の予算や決算についてはJFA公式ウェブサイトの理事会報告(収支計算書1992年(平成4年)度頃までは決算書)を参照のこと。株式上場企業が毎年決算発表で公表する財務諸表の損益計算書に該当、日本代表などのJFAの全活動については同ウェブサイト内の事業計画・報告 で閲覧することが出来る。さらに財団法人時代まで日本サッカー協会の監督官庁だった文部科学省に行けば、同協会の財団法人時代(〜2012年3月31日)までの財務諸表を全て閲覧することができる。なお、2012年4月1日付で日本サッカー協会は公益財団法人へ移行したため、同日をもって文部科学省から完全に独立した(財務諸表などを文部科学省に届ける必要がなくなった)。前述の通り、JFAが文部科学省から完全に独立し公益財団法人になる以前よりJFAは独立採算制に既になっており、国の税金は一切入っていない。「日本代表グッズ販売」などの収益事業所得に対しての法人税、住民税及び事業税を国に支払っており、2018年度は計1300万円を支払う予定である。2010年現在、サッカーくじtotoから3億円以下程度の助成金が入るようになったが、これは2010年度でJFA全収入の3%以下でしかない(サッカーくじtotoの売上金は、全て運営元の独立行政法人日本スポーツ振興センターに入り、売上金から当選払戻と経費等を除いた収益の4分の1が国庫納付金になり、4分の3がスポーツ振興費として各スポーツ団体等や地方公共団体に助成金として更に分配される)。JFAの予算および決算、その活動 についてはJFA公式ウェブサイト や機関誌で公開されている。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本政府による公益法人制度改革に伴い、公益認定されJFAは公益財団法人となった。公益財団法人は、予算の50%以上を公益目的の事業に費やす必要がある。公益財団法人はこれまで通り、「日本代表戦やその他JFAが主催する大会等」のJFAの事業は、「サッカー普及活動」という公益目的の事業とみなされ非課税となる。但し、「日本代表グッズ販売」などは収益事業となり利益に対して課税される。「寄付金」は基本的に課税されない。寄付した法人や個人は所得控除が受けられるため、JFAは寄付を受けやすくなる。また、協会直轄の財産と認められるものは、税が軽減される。従って、最終的に、JFAが払う税金は、地方税7万円(利益に関係なく最低限支払う税金)と日本代表グッズ販売などの収益事業所得に対しての法人税等になる。しかし、もし、公益認定されず、一般財団法人となっていた場合には、JFAの全事業に対し、原則30%課税されるため、上記のようなこれまでの税金の優遇はほとんど受けられず、JFAの事業に支障が出ていた。もし、一般財団法人としても認められなかった場合は、株式会社になるしかないが、その場合は、当時のJFAと同じ活動は不可能で、最終的に解散となっていた可能性が高い。株式会社の場合は、税制の優遇は受けられず、法人税30%が課税されるため、毎年のJFA活動費(2011年度JFA支出165億3981万円)を捻出するために、JFAハウスをはじめとした総資産約140億円(2011年)のほとんどを手放し、さらに不採算部門(例:2010年度までの女子サッカーなど)をなくすなどしても、その部門で得ていた収入もなくなるため(寄付金は相手にメリットが全くないので激減あるいは皆無になる)、最終的にはJFAが解散していた可能性が高い。現在(2018年時点)、「日本代表グッズ販売」などの収益事業所得に対しての法人税の他、住民税及び事業税を支払っている(2018年度は、法人税・住民税・事業税計1300万円支払う予定)。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1993年(平成5年)のプロ化以前は、協会は長年にわたり赤字続きで自転車操業であった。1970年代後半の財務の規模は10億円に満たず、収入は天皇杯などの競技会開催収入が大部分を占めていた。日本代表海外遠征費を捻出できず、旅行代理店への支払いを手形で行うことがあったほどである。当然、協会から出る給料はなく、会長を始め協会役員は無給で働いていた。協会役員の多くがアマチュア全国リーグ日本サッカーリーグ所属クラブからの出向であり、給料は企業が出していた。従って、役員は経済的余裕がある者しか務まらなかった。なお、会長をはじめ、協会(JFA)役員が無給という状況はプロリーグ化以降も、一部は続いた。2001年ごろ、副会長の下の専務理事が有給となり(会長、副会長は無給)、2002年7月、プロ化後9年目の第10代川淵三郎会長からJFA会長に3000万円ほどの給料が支給されるようになった。また、1969年時点では協会職員は5〜6名で、給料は年齢×1000円しかなく、他の職を兼務し、その収入で生計を立てていた。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "財政の確立が至上命令だった協会(JFA)は1976年、新日本製鐵社長の平井富三郎を第5代会長に迎えた。平井は本業の社長業で多忙だったため、長沼健専務理事が実質的リーダーとして、さまざまな改革を断行した。協会の運営を円滑に進めるため、古河の経理部門にいた小倉純二を抜擢し、オフィシャルサプライヤー制度を開始。デサント、アシックス、プーマと契約した。1977年に結成した「日本サッカー後援会」 の会費と1978年に開始した個人登録制度(登録料徴収)、国際試合の興行収入、日本体育協会からの補助金と合わせ財政基盤確立をもたらした。1977年(昭和52年)9月ペレの引退試合のために、当時ペレ、ベッケンバウアー、キナーリヤなど世界のスーパースターを擁していたニューヨーク・コスモスが来日し、古河電工(Jリーグのジェフ市原・千葉の前身)、日本代表(日本代表との試合は釜本邦茂日本代表引退試合でもあった。当時は日本代表の試合でも、ほとんどテレビ中継がなかったなか、全国にテレビ中継された)と連戦し、人気を博した。この際に、広告代理店の電通が清涼飲料水のCMに試合の宣伝を乗せ、宣伝費を使わない新手法を編み出し、さらに、一連のゲームを「ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン」と名付けるなどした結果、観衆6万5000人と国立競技場が初めて満員になり、7000万円の純益を出した。以降、日本サッカー協会は赤字体質から脱却した。この1977年を境に協会はJリーグ発足直前まで一度も赤字にならず、Jリーグ発足直前の収入は約40億円となった。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、1978年に開始したジャパンカップが赤字だったため、当時、渋谷区神南の岸記念体育館の一室にあった協会の部屋の窓から線路を挟んで目と鼻の先にかつて本社のあったキリンビールに、長沼が「ああいう(大きな)会社に支援をお願いできないものか」と思案し、当時の同社・小西秀次社長に直談判した。結果、冠スポンサーとなり、同大会は1980年第3回大会からキリンカップサッカーと名称変更となった。以降、キリンホールディングスはJFAの公式スポンサーを続けている。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1993年のJリーグ誕生後、Jリーグにより競技力が向上し、それが日本代表強化につながり、強化されたことで、観客が増加、入場料収入が増大し、日本代表戦のブランド価値が生まれ、それによりスポンサーとテレビ局が集まるという正のサイクルが生まれた結果、収入が飛躍的に増大。例えば、Jリーグの前哨戦Jリーグヤマザキナビスコカップが行われた1992年(平成4年)度収入は約40億円(総資産は14億円程度)であったが、2002年(平成14年)度収入は約125億円と10年で3倍強に増え、2012年(平成24年)度収入は約165億円(総資産は140億円程度)と見込まれるなど、20年で4倍以上に増えた。収入が増えたことで、JFA事務局のある施設はグレードアップし、JFA職員の数も増えた。1992年当初、JFA事務局は渋谷区神南の岸記念体育館の一室を間借りし、JFA職員は15人だったが、2012年ではJFA事務局はJFAハウスというJFA自前のビルにあり、JFA職員は200人超を数える。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)度予算は前年度よりも約14億円多い約176億円。南アフリカW杯ベスト4を想定し、FIFAからの賞金(ベスト4賞金1800万ドル〈約16億円〉。全32出場国が受け取るグループリーグ全3試合の出場給は800万ドル〈約7億円〉で、同じく全出場国が受け取る経費が100万ドル(約8837万円)) などの収入約28億円、滞在費などの支出約15億円を計上した。なお、グループリーグ敗退の場合(その場合は、FIFAから貰う賞金はグループリーグ全3試合の出場給と経費のみ)、収入は11億円、支出は9億円と見込まれていた。実際は南アフリカW杯ベスト16で、FIFAから受け取った賞金および経費総額が900万ドルで、南アフリカW杯総収入は約11億円だったが、南アフリカW杯で日本代表選手に支払った給料や賞与(W杯出場権獲得ボーナス除く)が総額約2億5000万円。これにスイスでの事前キャンプの運営費、ベースキャンプ地に設置したメディアセンターの建設費、協会関係者の出張費等を合わせた南アフリカW杯での総支出は12億円で、南アフリカW杯単体としては赤字となり、2010年度決算でも日本サッカー協会は赤字となった。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)度決算は、事業活動や投資活動を合わせた収入が165億5227万円、支出が165億3981万円で約1250万円の黒字を計上し、2年ぶりの黒字決算となった。東日本大震災の復興支援で支出が増えたが、なでしこジャパンが出場した2012年2月29日から3月7日に開催のアルガルベ杯など海外遠征のテレビ放映権を国内で販売でき、さらに復興支援寄付のおかげで収入が増えたため、黒字となった。震災の復興支援特別会計は個人寄付や協賛社の寄付、欧州サッカー連盟(UEFA)の義援金などを含めた収入合計が3億5400万円あり、被災地のフットボールセンターや被災クラブの本拠スタジアムの改修などに充てられた。部門別収支では、2011年独女子W杯のFIFAからの優勝賞金100万ドル(2011年7月11日のレートで8013万5千円)のため、女子サッカーが初めてプラスに転じた。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2013年度からは事業年度を3月決算から12月決算に変更した。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2014年度予算では、2014年ブラジルワールドカップのベスト8進出を想定し、ベスト8賞金1400万ドルと大会準備金150万ドル計1550万ドル(約16億5400万円)のFIFAからの収入 を盛り込み、収入約183億7300万円、支出約179億6100万円の収入・支出共に当時の過去最大額で計上したが、2014年W杯はグループリーグ敗退で終了し、800万ドルと大会準備金150万ドル計950万ドル(約9億6919万円)の収入に留まった。ところが、W杯関連のロイヤリティ収入が大幅に増加し、予算外だったW杯前のコスタリカ戦、ザンビア戦、W杯後のジャマイカ戦、ブラジル戦の各親善試合4試合の収入と合わせ、収入が予想外に上がった。さらに、U-22アジアカップ(2014年1月開催)、アジア大会、AFC U-19選手権といった各年代別大会が軒並み想定外の低調な成績に終わったことで、選手への大会ボーナス(A男子代表のW杯、U-23男子アジア大会)や遠征費などの諸経費が大幅に下がった。最終的には、収入約188億8000万円、支出約167億7000万円となり、皮肉なことに約21億円の黒字となった。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "日本代表はロシアワールドカップベスト16の成績だったので、ロシアワールドカップでのFIFAからの収入は、賞金1200万ドル(約13億3009万8000円)と大会準備金150万ドル(約1億6629万3000円)計1350万ドル(約14億9661万円)であった。 2020年5月24日時点では、2018年度決算が正味財産ベースで収入が約234億円(予算比-0.6億円)、支出は224億円(予算比-12億円)で収支ともJFA史上最高額となっている(損益に該当する当期正味増減額は+9.8億円で予算比+11億円)。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "先述したJFAの収入でJFAの全活動の費用(年代別日本代表、フットサル、ビーチサッカーの各日本代表及び大学選抜などの監督他代表スタッフおよびA代表選手の給料(サッカー日本代表#プロ化後、サッカー日本代表#プロ化後 2の項参照)、協会役員及び職員の給料、各日本代表の国内および海外遠征費と滞在費等代表関連事業、1種(年齢制限なし)から育成年代までの競技会開催、JFAアカデミーなどの育成事業や指導者および審判養成やJFAこころのプロジェクト等の指導普及事業等) が賄われている(JFAは独立採算制)。2018年7月26日、2020年東京五輪に出場するU-23日本(2018年時点ではU-21日本)監督の森保一が、日本五輪代表監督を兼任したまま、ロシアW杯日本代表コーチから昇格する形で、日本代表監督に年俸約1億5000万円 で4年契約で就任した(なお、東京五輪男子代表監督就任時の年俸は4800万円だった)。日本A代表監督と日本五輪代表監督を兼任するのは、フィリップ・トルシエに次いで2人目で、日本人監督としては初めてである。また、初の外国人日本代表監督のハンス・オフト以降では、W杯後の新日本代表発足時に日本人監督が就くのは初めてである。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2012年時点で、日本代表の1週間程度の海外遠征費は5000万円程度必要である。 2014年時点では、日本代表が国内親善試合を申し込む際に、JFAが対戦国に支払う出場給は強豪国で2億ないし3億円であり、さらに、移動費(飛行機代含め)、宿泊費等も全てJFAが負担する。例えば、2014年のFIFAランク1位ドイツや同年のFIFAランク9位スペインなどFIFAランク上位国を日本に呼ぶ場合は、上記よりさらに費用がかかるという。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "先述の通り、2018年度はロシアW杯ベスト8を想定して、収入を234億9001万1千円、支出を236億4764万2千円と収入・支出の両方で過去最大額で計上した。実際は、日本代表はロシアW杯ベスト16の成績だったので、ロシアW杯でのFIFAからの収入は、賞金1200万ドル(約13億3009万8000円)と大会準備金150万ドル(約1億6629万3000円)計1350万ドル(約14億9661万円)であったが、第97回と第98回の2大会分の天皇杯決勝の入場料収入を計上したので競技会開催事業の収入が予算比で増額となり、更に日本代表関連の運営経費や遠征経費の削減に努めたことで日本代表戦関連の支出が抑えられ、2018年度決算は収入が約234億円、支出は224億円と収支ともJFA史上最高額となった。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "日本サッカー協会ビル(JFAハウス)の賃貸事業(空いている部屋の貸し出し)や日本代表グッズの販売等。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "選手・チーム等の登録(JFAスクエア、KICKOFF等) 及び地域・都道府県サッカー協会とのシステムの維持・開発に関わる事業を行う。", "title": "財務" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "8万人規模(2019年現在日本には一つもない)のスタジアムの新建設案としては、かつて東京都心以外で梅田北ヤードスタジアム構想(大阪)があったが、実現化は停滞した。", "title": "新国立競技場推進活動" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "小倉純二協会名誉会長は、2012年の新国立競技場 国際デザイン・コンクールの審査員を務めるなど新国立の建設のあり方に深く関わってきた。共に国立競技場将来構想有識者会議の一員だった森喜朗元首相は、小倉名誉会長の叙勲を祝う会に出席するなど親しい関係にある(どちらも早大出身)。", "title": "新国立競技場推進活動" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "小倉名誉会長は2012年の有識者会議において、2018年のロシア大会が9万人、2022年のカタール大会が86,200人の競技場計画を持つ例を引き合いに、8万人規模の収容人数希望を訴えた。2014年にも「新しい国立競技場ができれば、日本もいい勝負になるかもしれない」と語るなど、新国立を将来のワールドカップ招致の切り札と考えてきた。2015年5月20日、新国立の計画の見直しが検討され日本スポーツ振興センターが「まだ何も決まっていない」と説明した際にも「ウソをつくのはいけない」「大幅な修正は国際的な信用を失う」と現行案通り建設するようにせまった。その一方で、既存の大分スポーツ公園総合競技場や豊田スタジアムを例に挙げ、開閉式スタジアムにおける芝育成の困難さを言及もしていた。", "title": "新国立競技場推進活動" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "旧国立競技場はサッカー関係者にとって聖地ともいえる場所だが、他のスポーツ関係者と異なってサッカー業界やサッカー系のメディアは口を噤んだ状態を続けた。", "title": "新国立競技場推進活動" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "安倍晋三首相によるザハ・ハディッド案白紙撤回後の7月28日、大仁邦彌協会会長は「8万人」「臨場感を出すための可動席」と共に、従来要求していた開閉式屋根でなく「観客席を覆う屋根」を遠藤利明五輪相に直訴した。", "title": "新国立競技場推進活動" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "新国立の計画見直しにおいてスポーツ界では明暗が分かれた。限られた面積の問題のため多くのアスリートが要望していた常設サブトラックの設置は見送られた 一方で、サッカー協会が要望していた8万人規模は維持された。一方、幕張メッセなどで知られる建築家の槙文彦も、競技場の大規模化に苦言を呈した。新国立は陸上に特化し、別途サッカー場は湾岸地区に新設するべきという意見も出ている。協会のスポンサー である朝日新聞は、ザハ案に反対を表明していた専門家の中にもW杯招致を考慮すれば8万人規模の常設席は必要との声があるとした。", "title": "新国立競技場推進活動" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "8月6日、元女子マラソンの高橋尚子がオリンピック・パラリンピックの遠藤担当相と意見交換をし、高橋は「2020年にタイム(記録)が出せれば、必ずそれは選手にも残るし広がるし、その後も選手が東京のグラウンドで大会をしたいと思うはず」として記録が出やすい競技場とサブトラックの常設化を要望。計画の再考を求めてきた建築家グループも同日に遠藤担当相と意見交換し、大野秀敏は陸上中心かサッカー中心か選ぶように要請。槙は8万人規模では、災害などで避難誘導するのは難しいことを訴えた。", "title": "新国立競技場推進活動" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "日本での男子W杯開催誘致は早くても19年後と言われ、その頃の客席規模の条件は変更されているかもしれないとの指摘もあった。しかし、8月28日の整備計画では日本サッカー協会の要望を考慮して客席増設で8万人に対応できる形で決着した(東京五輪時の収容人数は6万8千人)。", "title": "新国立競技場推進活動" } ]
公益財団法人日本サッカー協会は、日本のサッカー界を統括し代表する国内競技連盟。サッカー競技の普及および振興を図り、もって国民の心身の健全な発達に寄与することを目的とする。 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)や日本フットボールリーグ(JFL)、日本女子プロサッカーリーグ(WEリーグ)、日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)の試合や天皇杯全日本サッカー選手権大会、皇后杯全日本女子選手権大会などの公式サッカー大会を主催する。プロ・アマの活動を一本化して管理している。 2012年4月1日より財団法人から公益財団法人へ移行し、文部科学省から完全に独立した。公益財団法人化のメリットなどの詳細も、JFA財務内容の項で後述する。
{{サッカー協会 |画像 = [[File:JFA logo.svg|230px]] |画像説明 = |名前 = 日本サッカー協会 |原語名 = 日本語 |原語表記 = 公益財団法人日本サッカー協会 |原語名2 = 英語 |原語表記2 = Japan Football Association |略称 = JFA |国または地域 = {{JPN}} |FIFAコード = JPN |設立 = 1921年 |FIFA加盟 = 1929年-1945年、1950年-現在 |連盟 = [[アジアサッカー連盟|AFC]] |連盟加盟 = 1954年 |連盟2 = [[東アジアサッカー連盟|EAFF]] |連盟加盟2 = 2002年 |本部 = [[東京都]][[文京区]]後楽1丁目4番18号 [[トヨタ東京ビル]] |会長 ={{Flagicon|JPN}} [[田嶋幸三]] |公式サイト = https://www.jfa.jp/ }} {{基礎情報 非営利団体 |名称 = 公益財団法人日本サッカー協会<br />Japan Football Association |ロゴ = |画像 = Toyota Tokyo Building.jpg |画像サイズ = |画像説明 = 事務所が入居するトヨタ東京ビル |創立者 = |団体種類 = [[財団法人#公益財団法人|公益財団法人]] |設立 = 1921年9月10日 |所在地 = [[東京都]][[文京区]]後楽1丁目4番18号 [[トヨタ東京ビル]] |緯度度 = 35 |緯度分 = 42 |緯度秒 = 13.2 |N(北緯)及びS(南緯) = |経度度 = 139 |経度分 = 44 |経度秒 = 55.8 |E(東経)及びW(西経) = |地図国コード = JP |法人番号 = |起源 = 大日本蹴球協會 |主要人物 = [[憲仁親王妃久子|高円宮妃久子]](名誉総裁)<br />[[田嶋幸三]](会長) |活動地域 = {{JPN}} |製品 = |主眼 = |活動内容 = 日本サッカー界の統括 |活動手段 = |収入 = |支出 = |基本財産 = |ボランティア人数 = |従業員数 = |会員数 = |親団体 = [[#上位組織]]参照 |子団体 = [[#下位組織]]参照 |標語 = |ウェブサイト = https://www.jfa.jp/ |解散 = |特記事項 = }} 公益財団法人'''日本サッカー協会'''(にほんサッカーきょうかい、{{lang-en|Japan Football Association}}、'''JFA''')は、[[日本]]の[[サッカー]]界を統括し代表する[[国内競技連盟]]。サッカー競技の普及および振興を図り、もって国民の心身の健全な発達に寄与することを目的とする。 [[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)や[[日本フットボールリーグ]](JFL)、[[日本女子プロサッカーリーグ]](WEリーグ)、[[日本女子サッカーリーグ]](なでしこリーグ)の試合や[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯全日本サッカー選手権大会]]、[[皇后杯 JFA 全日本女子サッカー選手権大会|皇后杯全日本女子選手権大会]]などの公式サッカー大会を主催する。[[プロフェッショナル|プロ]]・[[アマチュア|アマ]]の活動を一本化して管理している。 2012年4月1日より[[財団法人]]から[[公益法人|公益財団法人]]へ移行し、[[文部科学省]]から完全に独立した<ref name="公益財団法人">[http://www.jfa.or.jp/jfa/column/2/2012/20120401.html 小倉純二日本サッカー協会会長コラム「今日もサッカー日和」第31回-日本サッカー協会公式HP_2012年4月2日]</ref>。公益財団法人化のメリットなどの詳細も、JFA財務内容の項で後述する<ref>{{Cite web|和書|title=日本代表サッカーチーム |url=https://footballarroyo.co.uk/japan-national-football-team/ |work=Football Arroyo |accessdate=13 June 2022}}</ref>。 == 所在地 == * [[1921年]]9月10日 - 東京府京橋区宗十郎町(のちの[[中央区 (東京都)|中央区]]西[[銀座]]付近)[[岸清一]]法律事務所内体協事務所 *:[[日本体育協会|大日本体育協会]](のちの[[日本スポーツ協会]])第2代会長岸清一の法律事務所内を間借り<ref name="スポンサー2" />。 * [[1923年]] - 東京府[[芝区]]伊血町 岸清一邸 *:[[関東大震災]]で移転<ref name="スポンサー2" />。 * [[1925年]] - 東京府京橋区宗十郎町 岸清一法律事務所内<ref name="スポンサー2" /> * [[1931年]] - 東京府市外[[高田町 (東京府)|高田町]] [[鈴木重義 (サッカー選手)|鈴木重義]]自宅<ref name="スポンサー2" /> * [[1932年]] - 東京府芝区新橋 駒場ビル2階<ref name="スポンサー2" /> * [[1941年]] - 東京府[[御茶ノ水|神田駿河台]] [[岸記念体育会館]]<ref name="スポンサー2" /> [[ファイル:Japan football museum11+ 2006 0709.jpg|200px|thumb|[[日本サッカー協会ビル]]]] * [[1964年]] - 東京都渋谷区神南1-1-1 [[岸記念体育会館]] *:岸記念体育会館が新築に伴い移転したため<ref name="スポンサー2" />。 * [[1994年]] - 東京都渋谷区[[道玄坂]] [[学校法人五島育英会|五島育英会]]ビル2階<ref name="スポンサー2" /> * [[1999年]] - 東京都渋谷区道玄坂 渋谷野村ビル3階 *:年間賃料は1億円を超えていたという<ref name="スポンサー2" />。 * [[2003年]]9月 - 東京都文京区本郷3丁目10番15号 [[日本サッカー協会ビル]](JFAハウス) *:日本サッカー協会自体がビルのオーナー<ref name="スポンサー2" /><ref name="JFA沿革・歴史" />。 * [[2023年]]6月26日 - 東京都文京区[[後楽]]1丁目4番18号 [[トヨタ東京ビル]]4 - 7階<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/about_jfa/news/00032233/ |title=事務所(JFAハウス)移転のお知らせ |publisher=JFA |date=2023-06-01 |accessdate=2023-07-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2023/06/22/kiji/20230622s00002000408000c.html |title=JFAが移転先の新オフィスを公開 迫力の“ブラボー会議室”も コンセプトは「円陣」 |publisher=スポニチ |date=2023-06-22 |accessdate=2023-07-01}}</ref> == 概要 == サッカーに関する上位組織としては[[国際サッカー連盟]](FIFA)および[[アジアサッカー連盟|アジアサッカー連盟(AFC)]]にそれぞれ所属している。日本サッカー協会は[[アジアサッカー連盟|アジアサッカー連盟(AFC)]]創設([[1954年]][[5月8日]])メンバーであり<ref name="AFC創設">[http://www.the-afc.com/en/about-afc About AFC(AFCについて 歴史など説明)-AFC公式HP英語版2007年9月6日] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121114225741/http://www.the-afc.com/en/about-afc |date=2012年11月14日 }}</ref>、創設年の10月にAFCに加盟している<ref name="AFC加盟">[http://www.jfa.or.jp/info/inquiry/2011/11/afc.html アジアサッカー連盟(AFC)って何?-日本サッカー協会公式HP]</ref>。また、上位組織ではないが、周辺7協会と共に[[2002年]][[5月28日]]に[[東アジアサッカー連盟]](EAFF)を創設し、同時に加盟している<ref name="東アジアサッカー連盟創設">[http://www.eaff.com/j/eanews/release/2002_2005/020530.html 東アジアニュースリリース 東アジアサッカー連盟発足 初代会長に岡野JFA会長-東アジアサッカー連盟公式HP-2002年5月30日]</ref>。オリンピック競技ないしはスポーツの一つとして[[国際オリンピック委員会]](IOC) - 公益財団法人[[日本オリンピック委員会]](JOC)・公益財団法人[[日本スポーツ協会]]にも所属する。日本サッカー協会の下位組織としては日本国内を大きくブロックに分けた9地域(北海道・東北・関東・北信越・東海・関西・中国・四国・九州)のサッカー協会と、各[[都道府県]]毎に置かれた46の都府県(北海道は地域の協会も兼ねる)サッカー協会を有し、国内トップリーグであるJリーグの1部(J1)所属チームから、社会人、学生チームなどのアマチュアチームに至るまで、必ずいずれかの都道府県サッカー協会に所属するかたちとなっている。 [[2002年]]10月、[[川淵三郎]]が[[キャプテン (サッカー)|キャプテン]](川淵のみが在任中呼ばせたJFA会長職の呼称)就任後、日本サッカーの基盤強化を図るため、「JFAキッズプログラム」「JFAファミリーフットサルフェスティバル」など幼児期からの政策や、[[女子サッカー]]の強化などを盛り込んだ「キャプテンズ・ミッション」を発表した(後にプレジデンツ・ミッションへ改称)。[[2005年]][[1月1日]]、JFA理念実現のための『JFA2005年宣言』を発表し、その中で中期目標として「2015年に世界のトップ10入り」、長期目標として「2050年までに[[FIFAワールドカップ]]優勝」という目標を立てている(詳細はJFA2005年宣言の項で後述)<ref name="JFA2005年宣言">[https://www.jfa.jp/about_jfa/dream/ JFA2005年宣言-JFA公式HP]</ref>。 [[サッカー日本代表]]人気もあって、スポンサーからの巨額の資金を受けており、2006年度予算時点で、公益財団法人[[日本オリンピック委員会]](JOC)の2倍以上の157億円に達した。12年後の2018年度予算では、[[2018 FIFAワールドカップ|2018年ロシアワールドカップ]]のベスト8進出(=準々決勝進出)を想定し、ベスト8賞金1600万ドルと大会準備金150万ドル計1750万ドル(約18億6700万円)のFIFAからの収入<ref>[http://www.fifa.com/about-fifa/news/y=2017/m=10/news=fifa-council-confirms-contributions-for-fifa-world-cup-participants-2917806.html FIFA Council confirms contributions for FIFA World Cup participants-FIFA公式HP2017年10月28日]</ref><ref name="2018と2014W杯賞金比較">[http://resources.fifa.com/mm/document/affederation/fifacouncil/02/91/78/09/fwcprizemoney_2014v2018_neutral.pdf fwcprizemoney_2014v2018_neutral.pdf-FIFA公式HP2017年10月28日]</ref> を盛り込み、2018年度収入を前年度比約52億9000万円増の234億9001万1千円、支出を前年度比約50億9000万円増の236億4764万2千円と収入・支出の両方で過去最大額で計上している<ref name="2018年度予算">[https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/h20171216_7.pdf 臨時評議員会2018年度予算の件報告資料-日本サッカー協会公式HP2017年12月16日]</ref>(実際は、日本代表はロシアW杯ベスト16の成績だったので、賞金1200万ドル(約13億3009万8000円)と大会準備金150万ドル(約1億6629万3000円)計1350万ドル(約14億9661万円)の収入)<ref name="2018と2014W杯賞金比較" />。[[キリンホールディングス]]([[キリンビール]]、[[キリンビバレッジ]])と[[2007年]]4月からの8年間で推定総額120億円(年間15億円)でオフィシャルスポンサー契約を結んでいたが、2014年5月25日、JFAとキリングループが対等な関係で、サッカーの普及・促進に寄与していくという意志を込め、名称を従来の「オフィシャルスポンサー」から「オフィシャルパートナー」に変更した上で、2015年4月1日から2022年12月31日まで(7年9か月)契約を更新した<ref name="キリンと2022年迄契約">[http://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20140525/192797.html 日本サッカー協会、キリングループとの契約を2022年まで更新-サッカーキング2014年5月25日]</ref><ref name="スポンサー1" />。他、[[アディダス]]ジャパンと2007年4月から向こう8年間で総額160億円(年間20億円)のオフィシャル(公式)サプライヤー契約を締結した。2014年11月5日に、2015年4月1日から2023年3月末までの8年間で契約金は1年30億円、8年合計240億円でボーナスや物品提供を含めると250億円超という契約更新で同意したと報じられた<ref name="2015adidas">[https://web.archive.org/web/20180701071251/https://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/f-sc-tp2-20141105-1392402.html アディダスと8年250億円の巨額契約-日刊スポーツ、2014年11月5日]</ref>。しかし実際に2015年4月1日に更新した際には、契約内容は公開されなかった<ref name="スポンサー1" />。さらに、広告代理店の[[電通]]と2007年から向こう8年間で総額240億円(年間30億円)の放映権及びマーケティングのオフィシャル(公式)スポンサー契約をした。2015年4月1日に更新したが、契約内容は非公開である<ref name="電通1">[http://www.dentsu.co.jp/business/contents/sports.html 事業紹介・コンテンツ・スポーツ・ビジネス~ダイナミック・スポーツ・マーケティング-電通公式HP]</ref><ref name="電通2">[http://www.dentsu.co.jp/ir/data/annual/2014/sodg/capability/sports.html 電通グループの強み・ケーパビリティ・スポーツ-電通公式HP]</ref>。このように、プロ化以前の財政難も解消している<ref name="スポンサー1" />(詳細は、JFA財務内容の項で後述)。なお、[[欧州サッカー連盟|欧州サッカー連盟(UEFA)]]のサッカー強豪国の予算規模は、2011年時点で340億円以上である<ref>[https://www.jfa.jp/news/00005134/ 日本代表選手ペイメント問題に対する当協会の考え-日本サッカー協会公式HP2011年02月22日]</ref>。 2006年[[6月7日]]、川淵三郎キャプテン(JFA会長)が「日本およびアジアのサッカー発展の貢献と[[2002 FIFAワールドカップ|2002年FIFAワールドカップ]]の成功」を称えFIFAよりFIFA功労賞を受賞した。これでJFAからは6代目の[[藤田静夫]]元会長に続く2人目の快挙である。なお、同賞は、[[ジーコ]]元日本代表監督も[[1996年]]に受賞している。 2012年[[1月9日]]、[[2011年のFIFAバロンドール|2011年度]]の[[FIFAバロンドール]]において[[FIFAフェアプレー賞]]を受賞した<ref>[http://static.fifa.com/the-best-fifa-football-awards/news/y=2012/m=1/news=messi-sawa-guardiola-and-sasaki-triumph-fifa-ballon-2011-1565969.html Messi, Sawa, Guardiola and Sasaki triumph at FIFA Ballon d’Or 2011 - FIFA公式HP 2012年1月9日]</ref><ref>[http://static.fifa.com/the-best-fifa-football-awards/news/y=2012/m=1/news=japan-scoops-fair-play-award-1563999.html Japan FA scoops Fair Play Award - FIFA公式HP 2012年1月9日]</ref>。 [[公益法人制度改革]]に伴い、2011年9月、[[財団法人]]から[[公益法人|公益財団法人]]への移行を申請し<ref>[https://megalodon.jp/2012-0131-1002-22/www.47news.jp/CN/201201/CN2012013001001831.html サッカー協会、公益法人化が内定 4月1日に登記へ-47NEWS]</ref>、2012年4月1日より公益財団法人となり、それに伴い、[[文部科学省]]から完全に独立した(2012年3月31日までは、[[文部科学省]]が日本サッカー協会の監督官庁であり、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)<ref name="公益財団法人" />(後述)。 2013年5月30日、FIFA総会で傘下の全サッカー協会(2018年時点では211)が「FIFA標準規約」(会長選挙を必ず実施する等の内容)に準拠した規約制定を義務づけられたため<ref name="会長選挙導入">[https://www.footballchannel.jp/2015/12/15/post125908/ JFA新会長はどう決まる? 知られざる選挙の仕組みを解説。現会長意向表明者は原専務理事と田嶋副会長-フットボールチャンネル2015年12月15日]</ref>、規定を改正し、2015年3月29日に施行した<ref name="JFA会長及び役員選定">{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/documents/pdf/basic/br_election.pdf |title=役員の選任及び会長等の選定に関する規程(2019年10月27日施行)|publisher=日本サッカー協会|accessdate=2023-09-17}}</ref>。2015年12月1日にJFA初のJFA会長選挙が始まり、立候補受付を開始した。2016年1月31日臨時評議員会で[[田嶋幸三]]が当選し、同年3月27日の新体制の第1回理事会を経て正式に第14代JFA会長となった<ref name="JFA初会長選挙">[http://www.soccertalk.jp/content/2016/01/no1054.html No.1054 初めての会長選挙-大住良之公式HP2016年1月6日]</ref>。また、同じく2013年、FIFA傘下の全211協会(2018年時点)は、「FIFA標準規約」にある[[三権分立]](立法(評議員会)、行政(理事会)、司法(規律委員会・裁定委員会))の原則に従うことが求められたため、2014年4月1日、司法機関(規律委員会、裁定委員会、不服申立委員会)をJFAから完全に独立させた(後述)<ref name="司法独立">[https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/k20131114.pdf 公益財団法人日本サッカー協会2013年度第7回理事会(PDF) - 公益財団法人日本サッカー協会2013年11月14日]</ref><ref name="JFA組織図">[https://www.jfa.jp/about_jfa/organization/jfa_structure/ JFA組織図- 日本サッカー協会公式HP]</ref>。 2015年5月、JFAは、JFA2005年宣言におけるJFAの約束2015<ref name="JFA2005年宣言" /> の総括として『世界トップ10の組織は、'''達成'''』、『サッカーファミリーが500万人になることは、'''達成'''(2015年時点526万2220人)』、『[[サッカー日本代表|日本代表]]が世界でトップ10のチームになることは、'''未達成'''』と発表した<ref name="2015約束総括">[https://www.jfa.jp/about_jfa/plan/JFA_plan2015_2022.pdf JFA中期計画2015-2022[ 冊子PDF] -日本サッカー協会公式HP</ref>。総括で出た課題を元に、「JFAの約束2050」の具現に向け、新たに「JFAの目標2030」を設定した<ref name="JFAの目標2030">[https://www.jfa.jp/about_jfa/plan/goal2030.html JFAの目標2030-日本サッカー協会公式HP]</ref>(詳細はJFA2005年宣言の項で後述)。 == 歴史 == {{See also|日本のサッカー}} === 沿革 === 以下の記述は基本的に、公益財団法人日本サッカー協会公式HPの沿革・歴史ページ<ref name="JFA沿革・歴史" /> に基づくが、書籍及び資料等で確認された出来事も追記している。 * [[1921年]]9月10日 - '''大日本蹴球協會'''として創立<ref name="日本サッカー史" /><ref name="JFA沿革・歴史" />。 * [[1925年]]3月 - [[日本スポーツ協会|大日本體育協會]]に加盟<ref name="JFA沿革・歴史" />。 * [[1929年]]5月17日 - 第18回[[国際サッカー連盟総会|FIFAバルセロナ総会]]で[[国際サッカー連盟|国際サッカー連盟(FIFA)]]加盟(JFA公式HPでは[[第二次世界大戦]]の際に除名とある)<ref name="日本サッカー史" /><ref name="JFA沿革・歴史" />。 * [[1942年]]4月 - 戦況悪化で大日本體育協會が財団法人[[日本スポーツ協会|大日本体育会]]に再編成され、他競技団体と共にその部会(蹴球部会)となり一時消滅<ref name="日本サッカー史" /><ref name="JFA沿革・歴史" />。 * [[1945年]]11月13日 - [[第二次世界大戦]]後、会費が払えずFIFAが資格停止処分(第二次世界大戦終結は1945年9月2日)<ref>轡田三男 「サッカーの歴史 天皇杯全日本選手権 (6)」『サッカーマガジン』 ベースボール・マガジン社、1968年8月号、112頁</ref><ref name="ReferenceA">日本蹴球協会編 『日本サッカーのあゆみ』 講談社、1974年、150頁。</ref><ref>松岡完 『ワールドカップの国際政治学』朝日新聞社、1994年、P85</ref>。 * [[1947年]]4月1日 - '''日本蹴球協会'''へと名称変更した上で再発足<ref name="日本サッカー史" /><ref name="JFA沿革・歴史" />。 * [[1950年]]9月23日 - FIFAに日本蹴球協会として再加盟<ref name="JFA沿革・歴史" /><ref name="ReferenceA"/>。 * [[1954年]]10月 - [[アジアサッカー連盟]](AFC)を他のアジア12か国と共に同年[[5月8日]]に創設し(なお、AFCは政治的配慮により今もなお、[[イスラエルサッカー協会|イスラエル]]を創設メンバーとして認めていないため、AFC創設メンバーは日本を含め12か国としている)<ref name="AFC創設" /><ref name="JFA沿革・歴史" /><ref>[http://www.neko.co.jp/page/publish/syousai.php?book_id=20050614192000001621 デイヴィッド・ゴールドブラッド著・野間けいこ訳『2002ワールドカップ32カ国・データブック』株式会社ネコパブリッシング ネコウェブ<!-- Bot generated title -->]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>、10月にAFC加盟<ref name="AFC加盟" />。 * [[1974年]]8月31日 - [[財団法人]]となり、'''日本サッカー協会'''に名称変更(協会誕生より53年間の[[権利能力なき社団|任意団体]]状態から脱却)<ref name="スポンサー2" /><ref name="JFA沿革・歴史" />。 * [[2002年]]5月28日 - [[東アジアサッカー連盟]](EAFF)を他の東アジア7か国と共に創設し、創設と同時に加盟<ref name="東アジアサッカー連盟創設" /><ref name="JFA沿革・歴史" />。 * [[2005年]]1月1日 - JFA理念実現のための『JFA2005年宣言』を発表<ref name="JFA2005年宣言" />。 * [[2012年]]4月1日 - [[公益法人|公益財団法人]]へ移行し、[[文部科学省]]から完全に独立<ref name="公益財団法人" />。 * [[2014年]]4月1日 - FIFA標準規約に従い、JFAから司法機関(規律委員会、裁定委員会、不服申立委員会)が完全独立<ref name="司法独立" />。 * [[2015年]]12月1日 - FIFA標準規約準拠に伴うJFA規約改正による初めてのJFA会長選挙開始<ref name="JFA初会長選挙" />。 * [[2016年]]3月27日 - 初めてのJFA会長選挙で当選した[[田嶋幸三]]が第14代JFA会長就任<ref name="JFA初会長選挙" />。 === 設立までの経緯 === [[1918年]](大正7年)、[[大日本帝国]](日本)にはまだサッカー(当時は「蹴球」=しゅうきゅう=と表記)を統括する組織はなく、日本一を決める全国大会も一度も実施されてはいなかった。この年の1月に[[大阪府|大阪]]の[[豊中市|豊中]]で行われた[[日本フットボール優勝大会|日本フートボール優勝大会]](関西地区のみの大会。のちの[[全国高等学校サッカー選手権大会]]の前身にあたる)、同年2月に関東地区で「関東蹴球大會」、名古屋では[[旧制高等学校]]などが参加した「東海蹴球大會」が別々に開催され、1918年以降にも引き続いて開かれた。東京で行われた「関東蹴球大會」にはチャールズ・エリオット[[イギリス帝国]](のちの[[イギリス]])大使も列席し、その模様を本国に伝えた<ref name="ワールドカップの国際政治学">{{Cite book|和書|author=松岡完|authorlink=松岡完|year=1994|title=ワールドカップの国際政治学|volume=|publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref>。これら1918年に行われた一連の[[旧制中学]]や[[師範学校]]および[[旧制高等学校]]を中心とした別々の地域大会の開催の模様を、イギリス帝国の新聞が「日本にサッカー協会が発足し、全日本選手権大会が始まった(別々の地域大会を全国大会予選だと勘違いした)」と誤って報道した<ref name="日本サッカー史">{{Cite book|和書|author=後藤健生|authorlink=後藤健生|year=2007|title=日本サッカー史 日本代表の90年|volume=|publisher=[[双葉社]]}}</ref>。 翌[[1919年]](大正8年)、チャールズ・エリオット大使の報告に加え、その新聞記事を見た[[フットボール・アソシエーション|イングランドサッカー協会]](以下FA)は、イギリス帝国大使館の[[ウィリアム・ヘーグ (外交官)|ウィリアム・ヘーグ]](William Haigh)書記官<ref name="日本サッカーアーカイブ">[https://megalodon.jp/2010-0506-2238-21/archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=46 賀川浩日本サッカーアーカイブ・日本サッカー人物史ウィリアム・ヘーグ &#91;William Haigh&#93; ]</ref> が日本の全国大会優勝チームに授与するためのFA杯の寄贈を提案したこともあり、「日本蹴球協會の設立を祝して銀杯を寄贈します。全國大會の優勝チームに授與して下さい」といったメッセージを添えて、イギリス帝国大使館を通じて日本に純銀のシルバーカップ(以下銀杯と略すことあり)を寄贈することを決め、1919年1月にロンドンから船便で日本に向け送った(当時は船便しか無かった。[[旅客機]]が欧州から日本まで乗り入れるのは1952年から、大衆化されたのは1960年代からである)。3か月かけて、シルバーカップはイギリス帝国大使館に届けられた<ref name="スポンサー2">{{Cite book|和書|year=2003|title=[[サッカー批評]]issue20 - 改革を進める日本サッカー協会|volume=|publisher=[[双葉社]]}}[https://web.archive.org/web/20030920135840/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/other/column/200309/0912hihy_00.html Web版サッカー批評(Vol.11)-スポーツナビ2003年9月12日]</ref>。FAは当時、[[オーストラリアサッカー連盟|オーストラリア]]、[[ニュージーランドフットボール|ニュージーランド]]、[[南アフリカ共和国サッカー協会|南アフリカ]]などイギリス帝国各地の協会に、ほぼ同じデザインの銀杯を贈っている<ref name="日本サッカー史" />。[[1902年]](明治35年)[[日英同盟]]を結んで以来、東アジアおよび太平洋地域の覇権をめぐり、日本は当時、イギリス帝国にとって重要な同盟国だった。つまり、銀杯の寄贈には、当時の日本がイギリス帝国に重視されていた、あるいはイギリス帝国加盟国に準ずるものとみなされていたことが背景としてある。 FAが日本に銀杯を寄贈したという3月12日付けの[[東京朝日新聞]]の記事を、[[東京高等師範学校]](のちの[[東京教育大学]]、[[筑波大学]])の[[校友会]]蹴球部長を務めていた[[内野台嶺]]が読み、そのカップの行き先を思案することとなる。 しかし、なかなか良案が浮かばず、東京高等師範学校の校長で当時、[[日本スポーツ協会|大日本體育協會]]の会長も兼務していた戦前の日本スポーツ界の重鎮[[嘉納治五郎]]を訪ねた。そして「''この際、急いで設立せよ''」と、内野は嘉納から厳命を受ける。内野はその後、イギリス大使館のウィリアム・ヘーグ書記官(そのまま大日本蹴球協會初代賛助会員となった)<ref name="日本サッカーアーカイブ" /> と体育協会の各理事の協力を仰ぎ、規約・規則の作成と役員人事を進め、[[1921年]]9月10日に'''大日本蹴球協會'''を創立。初代協会会長に嘉納治五郎の信任が厚く、大日本體育協會の筆頭理事を務めていた[[今村次吉]]が就任した。組織運営、競技規則の[[翻訳]]や指導書の作成などは、後に[[1964年東京オリンピック]]の準備委員長を務めた[[新田純興]]が行った。 シルバーカップは、嘉納治五郎が1919年3月28日に直接イギリス大使館に出向いてグリーン駐日大使から受け取りを済ませていたが、しばらくは大日本體育協會に預けられており、大日本蹴球協會設立後、シルバーカップを正式に受け取ることとなった<ref>『週刊サッカーダイジェスト 1996年12月18日号(345号)』 知られざる日韓サッカー交流史 第2回 〜日韓それぞれの1921年〜</ref>。シルバーカップは、協會設立(1921年9月10日)後、始まった全日本選手権(後の[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]])の優勝チームに授与されるようになった<ref name="友情銀杯">[https://web.archive.org/web/20180404052033/http://www.soccertalk.jp/content/2011/09/no850.html No.850友情のシルバーカップ]-大住良之公式HP、2011年9月14日</ref>。 なお、この大日本蹴球協會設立のきっかけとなったシルバーカップは現存していない。[[太平洋戦争]]の戦況が悪化すると、日本政府は戦争遂行のために、広く国民に鉄や銅、貴金属などの拠出を求めるようになった。これよりさかのぼること[[1942年]](昭和17年)4月に戦時体制強化の為に大日本體育協會が[[財団法人]][[日本スポーツ協会|大日本体育会]]に再編成され、大日本蹴球協會は他競技団体と共にその部会となり(大日本蹴球協會は蹴球部会となった)、一時消滅していた。[[1945年]](昭和20年)1月、大日本体育会は、帝国政府が進めている[[銀]]回収に協力することを決め(銀器献納)、体育会および各部会で保有している賞杯などを政府に供出した<ref name="JFA沿革・歴史">[https://www.jfa.jp/about_jfa/history/ JFA沿革・歴史-JFA公式HP]</ref>。その際に、シルバーカップは姿を消したといわれているが、真相は不明である(銀器献納からわずか7か月後に、日本が[[終戦の日|終戦]]。その後、[[内務省 (日本)|内務省]]関係の役所でシルバーカップを見かけたとする話もある)<ref name="日本サッカー史" />。 [[2011年]](平成23年)3月、[[小倉純二]]JFA会長(当時)が、[[フットボール・アソシエーション|FA]]のバーンスタインFA会長(当時)と会談し、「FA贈呈のシルバーカップで、JFAが誕生した。しかし、そのカップは戦時中に失われた。許可してもらえるなら、カップの複製をつくり、若い世代に戦争はいけないことを伝えていきたい」と話した。この話に感銘を受けたバーンスタインFA会長(当時)は「新しいカップをFAがつくり、もう一度寄贈します」と答えた<ref name="友情銀杯" />。こうして、同年8月にFAの手で復元され、改めて日本サッカー協会に贈呈される運びとなり<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20110803-815069.html 92年前寄贈銀製カップ復元、英で贈呈式] 日刊スポーツ 2011年8月3日閲覧</ref>、同年8月23日にイングランド・[[ウェンブリー・スタジアム]]にて贈呈式が行われ<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20110824-824483.html 幻のカップ復元 FAから日本協会に贈呈] 日刊スポーツ 2011年8月24日閲覧</ref>、バーンスタインFA会長(当時)から小倉JFA会長(当時)に手渡された<ref name="友情銀杯" />。 == アイデンティティー == === シンボルマーク === {{External media|topic=JFAの昔のシンボルマーク |image1='''[http://archive.footballjapan.jp/user/images/photo/71.o.jpg 71.o.jpg]''' - [http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/history.php?year=1931 「日本サッカーアーカイブ」のページ]で公開されているもの |image2='''[https://web.archive.org/web/20130928142415/http://www.11plus.jp/history/pdf/syukyu07/06.pdf 大日本蹴球協会機関誌『蹴球』第7巻第6号、1939年6月]'''(PDF形式、2013年9月28日時点の[[インターネット・アーカイブ]]) - [[日本サッカーミュージアム]]の[https://web.archive.org/web/20130524060657/http://www.11plus.jp/history/ 「ヒストリカルアーカイブ」]で公開されていたもの}} {{see also|八咫烏}} シンボルマークの中央に描かれた[[鳥類|鳥]]は、[[日本神話]]に出てくる[[八咫烏]](やたがらす)と同一視される、中国古典の[[三足烏]]である<ref name="サッカーマガジン2012年3月6日号">日本代表裏戦記『[[サッカーマガジン]]』2012年3月6日号、[[ベースボール・マガジン社]]、2012年、[[雑誌コード|雑誌]]23881-3/6, 071頁。</ref>。これを描いた旗がシンボルマークとして定められ、旗の黄色は公正を、青色は青春を表し、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現している。 これは、東京高等師範学校(後の[[東京教育大学]]、[[筑波大学]])の[[漢文学|漢文学者]]であり、大日本蹴球協會の創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、[[彫刻家]]の[[日名子実三]]がデザインしたものであり、[[1931年]]6月3日の理事会で採用された<ref name="サッカーマガジン2012年3月6日号" />。 一説に、日本に初めて近代サッカーを紹介した[[中村覚之助 (サッカー指導者)|中村覚之助]](内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地の[[那智勝浦町]]にある[[熊野那智大社]]の[[神使]]である八咫烏をデザインしたもの<ref name="サッカーマガジン2012年3月6日号" /> とも言われているが、日本サッカー協会から発行された公式書籍などには中村との関連が記載されたことはない。なお、日名子は後の[[日中戦争]]期に[[従軍記章#支那事変従軍記章|支那事変従軍記章]]のデザイン制作を担当し、これにも当初は三本足の八咫烏を採用したが、政府局内からの意見により二本足に変更されている([[従軍記章#支那事変従軍記章|当該項目]]参照)。 日本サッカー協会の2013年時点の公式サイトには、「''中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊を道案内をしたということもあり、烏には親しみがありました。''」<ref>[http://web.archive.org/web/20131023030145/http://www.jfa.or.jp/jfa/organization/index.html 「JFAの概要」(2013年10月23日時点のインターネット・アーカイブ) ]、日本サッカー協会、2023年11月25日閲覧。</ref> と記載されており、『日本サッカーのあゆみ』(講談社、1974)、『財団法人日本サッカー協会75年史 : ありがとう。そして未来へ』(日本サッカー協会、1996)などでも同様の記載となっている<ref>[http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2010/10/post-6267.html 「日本サッカー協会のエンブレムと日名子実三」 蹴球本日誌]</ref>。 <!-- この記載順は、[[1939年]](昭和14年)6月に大日本蹴球協會から発行された「蹴球 7巻6号」<ref>[http://www.11plus.jp/history/pdf/syukyu07/06.pdf 日本蹴球協会「蹴球」7巻6号]</ref> のときからなされている。 / 文意不明のためコメントアウト。「この記載順」とは何のことか?--> この日本サッカー協会のシンボルマークを基に[[サッカー日本代表]]のエンブレムが作られており、三足烏を[[盾]]の形の枠の中、太陽を表す「黄の地に橙の縦帯」の上に、「JFA」の文字を戴き、翼を広げてサッカーボールをキープした姿で“素早さ”と“力強さ”を表すものとして描かれている<ref>[http://samuraiblue.jp/newscenter/press_release/news_000045.html 日本代表 新エンブレムが決定]</ref>。なお日本サッカー協会シンボルマークとサッカー日本代表エンブレムでは八咫烏の意匠が異なっていたが、2016年3月にサッカー協会がシンボルマークを更新し<ref>{{Cite news|和書 |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/soccer/2016/03/27/0008933564.shtml |title=サッカー協会シンボルマーク変更 デザインや文字書式 |newspaper=[[デイリースポーツ]] |date=2016-03-27 |accessdate=2023-11-25}}</ref>、日本代表も2017年11月にエンブレムを更新して<ref name="Reuters20171101">{{Cite news|和書 |url=https://jp.reuters.com/article/idJP2017110101001686 |title=サッカー新代表エンブレムを発表 |newspaper=[[ロイター通信]] |agency=[[共同通信社]]配信記事 |date=2017-11-01 |accessdate=2023-11-25}}</ref>、同じ意匠に統一された{{R|Reuters20171101}}。 一時、協会に所属するクラブチームのユニフォームにも以下の大会の優勝チームに限り、八咫烏を基にしたエンブレムを翌シーズン付けることが許されていた。([[Jリーグカップ]]優勝チームについてはこの制度はない。) * [[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯全日本選手権]]優勝チーム E(Emperor)のマーク * [[日本プロサッカーリーグ|J1リーグ]]年間優勝チーム J(J League)のマーク 天皇杯優勝とJ1リーグ年間優勝の二冠([[ダブル (サッカー)|ダブル]])を勝ち取ると、☆のマークが付く。これまで達成したチームは、[[2000年]]・[[2007年]]の[[鹿島アントラーズ]]、[[2006年]]の[[浦和レッドダイヤモンズ]]、[[2014年]]の[[ガンバ大阪]]である。 2019年現在はチャンピオンマークは八咫烏のマークではない。 またシンボルマークとは別に、八咫烏をデフォルメしたマスコットキャラクターとして「カラッペ」と「カララ」兄弟がいる<ref>[http://www.kirinholdings.co.jp/csr/soccer/next/cleanst/mascot.html マスコット紹介] - キリンホールディングス</ref>。こちらのデザインは[[松下進]]。 === 宣言 === 2005年1月1日、[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]で開催された[[第84回天皇杯全日本サッカー選手権大会]]決勝戦の前に、川淵三郎JFA会長(当時)が「JFA2005年宣言」を発表。「サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する」という日本サッカー協会(JFA)の理念を実現するために、JFAが掲げた目標のことで、サッカーの普及と強化、国際親善への貢献といったビジョン、そして2015年までの中期目標、2050年までの長期目標が示されている<ref name="JFA2005年宣言" />。2002年10月に発表された「キャプテンズ・ミッション」(後にプレジデンツ・ミッションへ改称。「JFAキッズプログラム」「JFAファミリーフットサルフェスティバル」など幼児期からの政策や、[[女子サッカー]]の強化など)もその一環である。このJFA2005年宣言の中で、2015年までの中期目標(JFAの約束2015)として、2015年までにJFAが世界トップ10の組織になり、『サッカーファミリーが500万人になること』と『[[サッカー日本代表|日本代表]]が世界でトップ10のチームになること』の2つの目標を達成するとしている<ref name="JFA2005年宣言" />。[[サッカー日本代表|男子]]がこの目標を達成するには、[[2014 FIFAワールドカップ|2014年FIFAブラジルW杯]]ベスト8(=準々決勝進出)以上の成績を収めるか、あるいはベスト16チームの中で成績上位10チーム以内に入るようにグループリーグで好成績を残すか、もしくは[[2014 FIFAワールドカップ|同大会]]で好成績を収めることで、翌年の2015年の[[FIFAランキング]]で上位10位以内に入ることのいずれかが必要あったが、ブラジルW杯ではグループリーグ敗退となり、FIFAランキングで上位10位以内にはいる事も出来なかった。なお、[[サッカー日本女子代表|女子(なでしこジャパン)]]は、[[2011 FIFA女子ワールドカップ|2011年FIFA女子ドイツW杯]]で優勝し、[[FIFA女子ランキング]]も2012年6月1日時点で3位とすでに成績面では長期目標をも達成している。また、[[2050年代|2050年]]までの長期目標(JFAの約束2050)として、『サッカーファミリーが1000万人になること』と『[[FIFAワールドカップ]]を日本で開催し、その大会で[[サッカー日本代表|日本代表]]が優勝すること』の2つの目標を達成するとしている<ref name="JFA2005年宣言" />。 2015年5月、JFAは、JFAの約束2015の総括として『世界トップ10の組織は、'''達成'''(人材、普及・登録人口、施設、競技会、競技力、財政基盤・マーケティング、国内機構、国際力の8つの観点で情報収集し他国と比較し評価)』、『サッカーファミリーが500万人になることは、'''達成'''(2015年時点526万2220人)』、『[[サッカー日本代表|日本代表]]が世界でトップ10のチームになることは、女子A代表は達成したが、男子A代表が未達成なので、'''未達成'''』と発表した<ref name="2015約束総括" />。総括で出た課題を元に、「JFAの約束2050」の具現に向けて、新たに「JFAの目標2030」を設定した<ref name="JFAの目標2030" />。その上で、2022年までの8年間で特に力を入れて推進していく活動を整理し、この「JFA中期計画2015-2022」(「JFAミッション2015-2022」<ref>[https://www.jfa.jp/about_jfa/plan/mission.html JFAミッション2015-2022-日本サッカー協会公式HP]</ref>、「アクションプラン2022」<ref>[https://www.jfa.jp/about_jfa/plan/action.html アクションプラン2022-日本サッカー協会公式HP]</ref>)として取りまとめた<ref name="2015約束総括" />。 == 組織 == 日本サッカー協会は、立法機関としての'''[[一般財団法人#評議員会|評議員会]]'''と行政(執行)機関としての'''[[理事会]]'''、さらに'''司法機関'''の3つの主要組織から成り立っている<ref name="JFA組織図"/>。2013年にFIFA傘下の全サッカー協会が「FIFA標準規約」にある[[権力分立|三権分立]]の原則に従うことが求められたため、2014年4月1日をもって理事会の傘下にあった規律委員会・裁定委員会を理事会から独立させ、新たに不服申立委員会を設置して3委員会をもって独立した司法機関として現在の形となった<ref name="司法独立" />。 以下の記述は公益財団法人日本サッカー協会定款<ref name="JFA定款" />並びに同規約・規程・公開資料など([https://www.jfa.jp/documents/ 公益財団法人日本サッカー協会規約・規程、競技規則、申請/手続き、公開資料、その他、Q&A-日本サッカー協会(JFA)公式HP])に基づく。 === 会長 === JFA会長は、法人法及び公益認定法とその整備法に基づく[[代表理事]]である。JFAを代表し、その業務を執行する。理事会を招集し、議長として主宰したり、事案の決裁及び専決に関する細則に定めるもの(各規約等に書かれている会長の職務)を執り行う。例えば、事務局では、事務局組織運営規則に基づき、事務局の事務局長及びその他の職員の任免を会長が行っている。また、日本代表監督の任免の“最終決定”を行う(技術委員会は日本代表監督を推薦するだけで、承認・決定するのは理事会)。3か月に1回以上、会長は自己の職務の執行の状況を理事会に報告する義務がある<ref>[https://www.jfa.jp/documents/pdf/basic/br15.pdf 理事及び監事の職務権限規則(2017/4/13施行)-日本サッカー協会公式HP]</ref>。 2014年以前のJFA会長は、JFA役員選考委員会が推挙した候補者を理事会が承認し、評議員会が追認する手続きを経て選ばれていた<ref name="会長選挙導入" />。2013年5月30日、FIFA総会でFIFA規約が修正され、傘下の全サッカー協会(2018年時点では211)は「FIFA標準規約」(会長選挙を必ず実施する等の内容)に準拠した規約制定を義務づけられた。2013年9月2日、FIFA加盟協会委員会で、「規約がFIFA標準規約に準拠しておらず、且つ直近に会長選挙予定の協会」として日本を含む13協会に選挙までに規約を改訂すべきと決議された。規定改正が間に合わず、2014年3月のJFA役員改選は、当時の規約での実施を例外として認可された<ref name="会長選挙導入" />。その後、規定を改正し、2015年3月29日に施行<ref name="JFA会長及び役員選定" />。2015年12月1日にJFA初のJFA会長選挙が始まり、2016年1月31日臨時評議員会で[[田嶋幸三]]が当選し、同年3月27日の新体制の第1回理事会を経て正式に第14代JFA会長となった<ref name="JFA初会長選挙" />。 2015年3月29日以降、JFA会長は、次の2条件に、当てはまる者が対象者。(1)役員の改選期の直近5年間のうち2年以上、JFA、地域サッカー協会、都道府県サッカー協会、Jリーグ、各種の連盟、リーグ、クラブ等の役員、職員、選手、審判、指導者、その他サッカーと関わりが深いと認められる立場で、サッカー界において実質的に活動し、貢献していること、(2)会長就任時に、満70歳未満であること。この2条件に当てはまる者(但し、禁錮以上の刑に処せられた者はJFA会長になれないなどの除外規定もある)の中で、会長を選定する年(会長選定年)の前年の12月1日から12月の臨時評議員会(12月1日の大体2週間後に開催)までに立候補した者、同臨時評議員会までに理事投票で1票以上の投票があった者及び評議員の7名以上の推薦があった者が「会長候補者」となる。この3つのルートからの会長候補者全員に対し、翌年(会長選定年)の1月の理事会で理事投票が行われ、出席評議員の半数を超え最多票を得た者1名が「会長予定者」となる(半数を超えなかった場合は、最少得票者を除いて再投票を行い、以後、半数超え1名が出るまで同様の手順を繰り返し行う)。なお、会長候補者が1名のみの場合は、会長選定年の1月の臨時評議員会で承認の決議によって「会長予定者」となる。「会長予定者」(1名)は、選出後の定時評議員会で理事に選出され、且つさらにその後に開催される理事会で会長に選定されるという手続きを経て、正式にJFA会長に就任する<ref name="JFA会長及び役員選定" />。なお、理事の任期が2年なので、会長の任期も2年である(再任は可能)<ref name="JFA定款">[https://www.jfa.jp/documents/pdf/basic/17.pdf 定款(2017/12/16 改正)- 日本サッカー協会公式HP]</ref>。会長選挙の各段階(「会長意向表明者」→「会長立候補者」→「会長候補者」)の選挙活動等や手続き、禁止行為なども細かく規定されている。詳細は、役員の選任及び会長等の選定に関する規程(2015/3/29施行)<ref name="JFA会長及び役員選定" /> と会長予定者の選出に関するガイドライン(2015/3/29施行)<ref name="選出ガイドライン">{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/documents/pdf/basic/br_president_guideline.pdf|title=会長予定者の選出に関するガイドライン(2019年10月27日施行)|publisher=日本サッカー協会|accessdate=2023-09-17}}</ref> を参照のこと。 {|class="wikitable" style=font-size:small |+歴代会長<ref>[https://www.jfa.jp/about_jfa/history/president.html JFA歴代会長-日本サッカー協会公式HP]</ref><ref>[https://www.jfa.jp/about_jfa/president/TASHIMA_Kohzo.pdf 田嶋幸三JFA現会長プロフィール-日本サッカー協会公式HP]</ref> ! 代数 !! 名前 !! 在任期間 !! 学歴 !! 略歴 |- |nowrap| 初代 || [[今村次吉]] ||nowrap|1921年(大正10年)<br/> - 1933年(昭和8年)  || [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]|| [[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[ロシア]]駐在財務官、亞細亞林業社長、日露實業常務、大日本体育協会総務理事 |- | 2代 ||nowrap| [[深尾隆太郎]] ||1935年(昭和10年)<br/> - 1945年(昭和20年)|| [[一橋大学大学院経営管理研究科・商学部|一橋大学商学部]] || [[男爵]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、[[大阪商船]]副社長、[[南洋拓殖]]社長、東洋電化工業会長。 |- | 3代 || [[高橋龍太郎]] ||1947年(昭和22年)<br/> - 1954年(昭和29年)|| [[京都大学大学院工学研究科・工学部|京都大学工学部]] || [[大日本麦酒]]株式會社社長、貴族院勅選議員、[[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]]、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]、[[高橋ユニオンズ]]オーナー |- | 4代 || [[野津謙]] ||1955年(昭和30年)<br/> - 1976年(昭和51年)|| [[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]] || [[医師]]、AFC副会長、FIFA理事、[[1974 FIFAワールドカップ|1974年FIFAワールドカップ]]組織委員会委員 |- | 5代 || [[平井富三郎]] ||1976年(昭和51年)<br/> - 1987年(昭和62年)|| 東京大学法学部 || 通商産業事務次官、[[新日本製鐵]]代表取締役社長 |- | 6代 || [[藤田静夫]] ||1987年(昭和62年)<br/> - 1992年(平成4年)|| [[京都教育大学]][[教育学部]] || [[藤田ビル]]代表取締役社長、[[日本体育協会]]理事、[[京都府]]体育協会会長、[[京都市]]体育協会会長 |- | 7代 || [[島田秀夫]] ||1992年(平成4年)<br/> - 1994年(平成6年)|| [[東北大学大学院法学研究科・法学部|東北大学法学部]] || [[三菱重工業]]取締役副社長、[[日本サッカーリーグ]]評議会議長、日本体育協会評議員、日本オリンピック委員会評議員 |- | 8代 || [[長沼健]] ||1994年(平成6年)<br/> - 1998年(平成10年)|| [[中央大学法学部]] || [[サッカー日本代表|日本代表]]選手、日本代表監督、[[2002 FIFAワールドカップ|2002年FIFAワールドカップ]]日本招致委員会副会長、日本サッカーリーグ常任運営委員、専務理事、副会長、Jリーグ理事 |- | 9代 || [[岡野俊一郎]] ||1998年(平成10年)<br/> - 2002年(平成14年)|| [[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]] || [[岡埜栄泉]]代表取締役社長、日本代表選手、日本代表監督、2002年FIFAワールドカップ招致委員会実行委員長 |- | 10代 || [[川淵三郎]] ||2002年(平成14年)<br/> - 2008年(平成20年)|| [[早稲田大学大学院商学研究科・商学部|早稲田大学商学部]] || [[古河産業]]取締役伸銅品部長、日本代表選手、日本代表監督、Jリーグ初代チェアマン、日本バスケットボール協会会長 |- | 11代 || [[犬飼基昭]] ||2008年(平成20年)<br/> - 2010年(平成22年)|| [[慶應義塾大学大学院商学研究科・商学部|慶應義塾大学商学部]] || [[三菱自動車工業]]常務執行役員、欧州三菱自動車工業社長、Jリーグ専務理事、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]社長 |- | 12代 || [[小倉純二]] ||2010年(平成22年)<br/> - 2012年(平成24年)||nowrap| [[早稲田大学政治経済学部]]  || [[古河電工]]取締役経理部長、[[古河電工サッカー部]]部長、[[東アジアサッカー連盟]]会長、アジアサッカー連盟(AFC)理事、国際サッカー連盟(FIFA)理事 |- | 13代 || [[大仁邦彌]] ||2012年(平成24年)<br/> - 2016年(平成28年)|| 慶應義塾大学文学部 || 日本代表選手、日本代表コーチ、[[三菱重工業サッカー部|三菱重工]]監督、強化委員長、技術委員長、女子委員会委員長、常務理事、副会長 |- | 14代 || [[田嶋幸三]] ||2016年(平成28年)<br/> - 現在 || [[筑波大学]]体育専門学群 || [[立教大学]][[助教授]]、日本代表選手、U-15~19日本代表監督、技術委員長、専務理事、副会長、AFC理事、FIFA理事、[[東アジアサッカー連盟]]会長、[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|東京オリンピック・パラリンピック組織委員会]]理事 |} === 評議員会 === 評議員会は、法律並びに定款に定められた重要な事項の決定を行う意思決定機関である。具体的には、理事及び監事並びに会計監査人の選任または解任、司法機関の委員長、副委員長及び委員の選任または解任、理事及び監事の報酬等の額、貸借対照表及び損益計算書(正味財産増減計算書)の承認、定款の変更など、協会に関する重要事項を決議する(定款第20条)。定時評議員会は年1回開催され(定款第21条、概ね3月末に開催)、必要に応じて会長の招集により臨時評議員会が開かれる(定款第21・22条)。 評議員会の構成メンバーである評議員の定数は70名以上85名以内とされ(定款第16条)、2023年7月30日現在で以下の団体から推薦された79名で構成されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/documents/pdf/basic/br02.pdf|title=評議員推薦加盟団体規則|publisher=日本サッカー協会|accessdate=2023-09-16}}</ref><ref name="hyogiin">{{Cite web|和書|title=JFA組織図 > 評議員会|publisher=日本サッカー協会|url=https://www.jfa.jp/about_jfa/organization/jfa_structure/council.html|accessdate=2023-09-16}}</ref>。任期は原則4年(定款第18条)。 * 各都道府県サッカー協会の代表者(計47名) * 定時評議員会開催時の[[J1リーグ]]所属クラブの代表者(計18名) * JFA傘下の競技団体並びに関連団体のうち、以下の団体の代表者(計12名) ** [[日本プロサッカーリーグ (法人)|(公社)日本プロサッカーリーグ]] ** (一社)[[日本フットボールリーグ]] ** (一社)[[日本女子サッカーリーグ]] ** (一財)[[日本フットサル連盟]] ** (一財)[[全日本大学サッカー連盟]] ** (一財)[[全国社会人サッカー連盟]] ** (一財)[[日本クラブユースサッカー連盟]] ** (一財)[[日本ビーチサッカー連盟]] ** [[日本女子プロサッカーリーグ (法人)|(公社)日本女子プロサッカーリーグ]] ** (一社)[[日本障がい者サッカー連盟]] ** (一社)[[日本プロサッカー選手会]] ** (特非)日本サッカー指導者協会 * (公財)[[全国高等学校体育連盟]]及び(公財)[[日本中学校体育連盟]]の代表者(計2名) 評議員の報酬は、各年度の総額が200万円を超えない範囲で、評議員会の定めた基準に従って算定した額を支給する(定款第19条)。 [[一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律]]に基づき、推薦された者が評議員会において評議員に選任される。評議員会の議長は、評議員の互選によって定め、開催の都度、その評議員会の出席評議員の中から選出する(定款第17条)。 2014年までは、評議員会は理事及び監事の選任機関並びに重要事項の諮問機関であり、評議員は、47都道府県サッカー協会から各1名の計47名のみであった。 === 理事会 === 理事会はJFAの業務執行機関(行政)である。JFA業務執行や理事の職務の執行の監督や会長、副会長、専務理事及び常務理事等の選定及び解職を協議・決定する(定款第35条)。理事会は、原則として毎月開催され、必要がある時は臨時理事会を開催する。 また、重要な業務運営事項について検討する会議体として、'''常務理事会'''が置かれる。常務理事会は、会長、副会長、専務理事及び常務理事で構成する。なお、会長は案件ごとに、常務理事以外の理事又はその他の者を常務理事会に出席させることができる。常務理事会は、原則として毎月1回開催される(定款第40条)。 理事は日本国籍を有するFIFA理事を含む23名以上30名以内、監事は3名以内が評議員会により選任され(定款第25条)、2023年3月25日現在27名の理事(会長1名、副会長4名、専務理事1名、常務理事3名を含む)と3名の幹事が就任している<ref name="rijikai">{{Cite web|和書|title=JFA組織図 > 理事会 |publisher=日本サッカー協会 |url=https://www.jfa.jp/about_jfa/organization/jfa_structure/excutive_committee.html |accessdate=2023-09-16}}</ref>。理事には、地域サッカー協会の推薦9名(各9地域ごとに各1名計9名)を含み、会長(1名)、副会長(4名以内)、専務理事(1名)及び常務理事(3名)は、常務理事会を構成する。会長は法人法及び公益認定法とその整備法に基づく代表理事とされ、副会長・専務理事は、同法の業務執行理事とされる。理事及び監事の任期は原則2年、[[会計監査人]]の任期は原則1年で(定款第29条)、[[定年]]がある。原則として、会長・副会長は就任時に満70歳未満、その他の役員は満65歳未満でなければならない(理事及び監事の職務権限規則第6条)。 従来、役員(理事及び監事等の役職についている者)は地域協会の職員や元選手などサッカー関係者で占められてきた。しかし、2008年(平成20年)にはサッカー以外のスポーツ出身者として、元[[ラグビー日本代表]]監督の[[平尾誠二]]、現役女子プロ[[テニス]]選手の[[伊達公子|クルム伊達公子]]の2名が初めて理事に選出された。当時は「サッカーを中心としたスポーツの総合的な発展を目指す」目的で選出されたが、結局両名とも1期で退任している。一方、2016年(平成28年)からは元[[柔道日本代表]]で[[日本オリンピック委員会]]理事も務めた[[山口香]]が理事に選出され、4期連続して理事を務めている。 なお、JFAが[[スポーツ庁]]の定める「スポーツ団体ガバナンスコード」への対応を求められたことから、2023年7月30日の臨時評議員会で、2023年度定時評議員会開催時(2024年3月予定)から理事の定数を「9名以上15名以内」に削減した上で、理事会の職務を「重要な業務執行の決定」として一部の業務執行権を事務局に委ねることを決定した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/k20230730_01.pdf|title=定款 新旧対照表(案)(公益財団法人 日本サッカー協会 2023年度 臨時評議員会 添付資料)|publisher=日本サッカー協会|date=2023-07-30|accessdate=2023-09-16}}</ref>。 {|class="wikitable" |+公益財団法人日本サッカー協会理事一覧<ref name="rijikai" /> ! 役職 !! 名前 !! 所属・役職 |- ! 会長 | [[田嶋幸三]] || 元日本代表選手、元[[U-17サッカー日本代表|U-17日本代表]]監督 |- !rowspan="4"|副会長 | [[岡田武史]] || [[FC今治]]代表取締役会長、元[[サッカー日本代表|日本代表]]監督、選手 |- | [[野々村芳和]] || [[Jリーグチェアマン]] |- | 林義規 || 関東サッカー協会会長、[[東京都サッカー協会]]会長 |- | [[高田春奈|髙田春奈]] || [[日本女子プロサッカーリーグ|WEリーグ]]チェア |- !専務理事 | [[宮本恒靖]] || 元日本代表選手 |- !rowspan="3"|常務理事 | [[宗政潤一郎]] || [[中国サッカー協会 (日本)|中国サッカー協会]]専務理事 |- | 池田浩 || [[順天堂大学]][[保健学部|保健医療学部]][[教授]]、[[サッカー日本代表]]チームドクター |- | 三好豊 || [[森・濱田松本法律事務所]] |- !rowspan="18"|理事 | [[石井肇]] || [[北海道サッカー協会]]専務理事 |- | 橋本善一郎 || 東北サッカー協会専務理事、福島県サッカー協会副会長 |- | 河瀬淳 || 関東サッカー協会専務理事、千葉県サッカー協会専務理事 |- | 中澤雄一 || 北信越サッカー協会専務理事、新潟県サッカー協会副会長 |- | 尾関孝昭 || 東海サッカー協会専務理事、岐阜県サッカー協会専務理事 |- | 山下和良 || 関西サッカー協会専務理事、京都府サッカー協会副会長 |- | 秋森学 || 四国サッカー協会専務理事、高知県サッカー協会専務理事 |- | 竹田孝 || 九州サッカー協会専務理事 |- | [[反町康治]] || 元[[U-23サッカー日本代表|U-23日本代表]]監督 |- | [[佐々木則夫 (サッカー指導者)|佐々木則夫]] || 元[[サッカー日本女子代表|女子日本代表]]監督 |- | 今井純子 || [[日本女子プロサッカーリーグ (法人)|WEリーグ]]理事 |- | [[扇谷健司]] || 元[[プロフェッショナルレフェリー]] |- | [[山岸佐知子]] || 元サッカー審判員 |- | [[金田喜稔]] || 元日本代表選手、サッカー解説者 |- | [[中野雄二]] || [[流通経済大学]]スポーツ健康科学部教授 |- | [[山口香]] || [[筑波大学]]人間総合科学学術院教授、[[1988年ソウルオリンピックの柔道競技|ソウルオリンピック柔道]]女子52㎏級銅メダリスト |- | 日比野暢子 || [[桐蔭横浜大学]]スポーツ健康政策学部教授 |- | [[田中琢二]] || [[楽天証券ホールディングス]]取締役・PCIソリューションズ取締役<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/k20230325.pdf|title=公益財団法人 日本サッカー協会 2023年度 定時評議員会|publisher=日本サッカー協会|date=2023-03-25|accessdate=2023-09-16}}</ref> |- !rowspan="3"|監事 | 佐藤太郎 || |- | 西本強 ||日比谷パーク法律事務所パートナー弁護士 |- | 福田雅 || [[公認会計士 (日本)|公認会計士]]、東京都サッカー協会理事、[[関東大学サッカー連盟]]監事 |- |} ==== 委員会 ==== 各事業を進めるにあたり、理事会の下に各種委員会を置いている(定款42条)。「各種委員会組織運営規則」<ref name="各種委員会">[https://www.jfa.jp/documents/pdf/basic/br05.pdf 各種委員会組織運営規則(2017/4/13 施行)-日本サッカー協会公式HP]</ref>に基づいて'''常設委員会'''と'''専門委員会'''が設置され、これとは別に時限的に設置する'''特別委員会'''と、JFA主管大会の運営を行う'''大会実施委員会'''が置かれている<ref name="JFA組織図" />。各種委員会の委員長及び委員は、JFA役員、地域及び都道府県サッカー協会役員のほか、JFAの事業に関し、知識、経験及び熱意を有する者のうちから、理事会の承認を経て会長が委嘱する。任期は2年で、再任は可能<ref name="各種委員会"/>。 常設委員会は、9つの委員会からなり、そのうちの1つが'''技術委員会'''である。技術委員会は、日本代表監督候補者の推挙、日本代表編成案の作成、日本代表強化、その他日本代表に関する事項、選手育成及び強化、ユース年代の普及、強化方針に基づく技術指導、指導者養成、指導に関するビデオ、書籍等の認定、推薦、その他技術指導に関する事項を担当していた<ref name="各種委員会" />。業務が多岐にわたるということで、2016年3月から同委員会委員長は、日本サッカー全体の強化と育成等を担当し、新設されたナショナルチームダイレクターが、代表全般の強化(主にA代表とU-23五輪代表)及びサポートに専念する形となった。2020年3月29日から同委員会委員長は[[反町康治]]、ナショナルチームダイレクターは前技術委員会委員長の[[関塚隆]]が就任している<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/202003100000702.html 反町氏JFA技術委員長就任へ代表監督選定も関与] 日刊スポーツ2020年3月11日</ref><ref name="反町">[https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=73555 「協会は少し古い体制」新技術委員長の反町康治氏が掲げる“四位一体”の強化策とJFAへの印象は?]-サッカーダイジェストWeb編集部2020年05月21日</ref>。[[2006 FIFAワールドカップ|2006年ドイツW杯]]以降は、日本代表監督を、技術委員会が推薦し、理事会が承認・決定している<ref>[https://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20150305/287528.html 日本代表監督、ハリルホジッチ氏就任へ…12日開催の理事会に推薦]-サッカーキング、2015.03.05</ref>。日本代表監督決定後は、日本代表監督及び日本代表をサポートする。かつては'''強化委員会'''という名称であり、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年フランスW杯]]頃までは、当時の規則で、日本代表監督を決定及び評価(場合によっては監督交代)する権限があった<ref>[http://www.soccertalk.jp/content/1997/12/no211.html No.211フランスに向け強化委員会の改革を-大住良之公式HP]</ref>。 {|class="wikitable" |+常設委員会委員長一覧 ! 専門委員会 !! 名前 |- ! 国際委員会 | [[宮本恒靖]] |- ! 競技会委員会 | [[林義規]] |- ! 財務委員会 | [[田中琢二]] |- ! 技術委員会 | [[反町康治]]<ref name="反町" /> |- ! 女子委員会 | [[佐々木則夫 (サッカー指導者)|佐々木則夫]]<ref>{{Cite web|和書|title=佐々木則夫JFA女子委員長、就任会見を実施 |url=https://www.jfa.jp/women/news/00028570/ |website=JFA|公益財団法人日本サッカー協会 |accessdate=2022-03-04 |language=ja}}</ref> |- ! 審判委員会 | [[扇谷健司]] |- ! フットサル委員会 | [[北澤豪]] |- ! 医学委員会 | [[池田浩]] |- ! 法務委員会 | [[三好豊]] |} {|class="wikitable" |+専門委員会委員長一覧 ! 専門委員会 !! 名前 |- ! 施設委員会 | [[徳田康]] |- ! リスペクト・フェアプレー委員会 | [[今井純子]] |- ! 殿堂委員会 | [[田嶋幸三]] |- ! コンプライアンス委員会 | [[山口香]] |- ! 社会貢献委員会 | [[日比野克彦]] |- ! アスリート委員会 | [[川口能活]] |- !表彰委員会 |[[植田昌利]] |- !報酬委員会 |山口香 |} {|class="wikitable" |+特別委員会委員長一覧 ! 特別委員会 !! 名前 |- ! 防災・復興支援委員会 | [[巻誠一郎]] |- ! 部活動推進委員会 | [[池田洋二]] |- |} {|class="wikitable" |+大会実施委員会委員長一覧 ! 大会実施委員会 !! 名前 |- ! [[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]実施委員会 | [[中野雄二]] |- ! [[国民体育大会サッカー競技|国体]]実施委員会 | [[今井純子]] |} === 司法機関 === JFAの諸規定等に関する司法機関は、規律委員会・裁定委員会・不服申立委員会の3つの委員会で構成される。前述のとおり、2014年4月1日に理事会から完全に独立した。 構成員の任期は全て4年である<ref name="司法機関" />。規律委員会は5名(委員長1名、委員4名)、裁定委員会は4名(委員長1名、委員3名)、不服申立委員会は5名(委員長1名、副委員長1名、委員3名)<ref name="shihou">{{Cite web|和書|title=JFA組織図 > 司法機関 |publisher=日本サッカー協会 |url=https://www.jfa.jp/about_jfa/organization/jfa_structure/committee.html |accessdate=2022-11-18}}</ref> である。 ;規律委員会 :JFAの諸規定等に対する違反行為のうち、競技及び競技会に関するものについて調査、審議し、懲罰を決定する<ref name="司法機関">[https://www.jfa.jp/documents/pdf/basic/br04.pdf 司法機関組織運営規則(2017/4/13 施行)-日本サッカー協会公式HP]</ref>。 :* 委員長:高山崇彦(弁護士)<ref name="shihou" /> :* 委員:武智克典(弁護士)、新保勇一(弁護士)、大下国忠(山口県サッカー協会規律委員長)、石井茂己(Jリーグ規律委員長)<ref name="shihou" /> ;裁定委員会 :JFAの諸規定等に対する違反行為のうち、競技及び競技会に関するもの以外の違反行為について、調査、審議し、懲罰を決定する。 :但し、Jリーグに関しては、Jリーグ規約<ref>[https://www.jleague.jp/aboutj/regulation/ About Jリーグ>Jリーグ規約・規程集-Jリーグ公式HP]</ref> に従う。 :また、[[ドーピング]]禁止に関する違反行為に対する懲罰については、日本ドーピング防止規律パネル<ref>[http://www.playtruejapan.org/disclosure/panel/ 日本アンチ・ドーピング規律パネル(規律パネル)-公益財団法人日本アンチ・ドーピング機構HP]</ref> が決定する<ref name="司法機関" />。 :*委員長:山田秀雄(弁護士)<ref name="shihou" /> :*委員:早稲本和徳(弁護士)、小西隆文(弁護士)、根本清史(茨城県サッカー協会 規律委員長)<ref name="shihou" /> ;不服申立委員会 :2014年4月1日の組織改編時に新設された組織で、規律委員会、裁定委員会又は司法機関組織運営規則第19条<ref name="司法機関" /> に基づき懲罰権を委任された都道府県サッカー協会、地域サッカー協会、各種連盟及びJリーグのそれぞれの規律委員会及び裁定委員会(但し、Jリーグの裁定委員会を除く)において決定された懲罰に関して、当事者からの不服申立に基づき、これを再審議し、新たに決定を下す。 :*委員長:中島肇(弁護士)<ref name="shihou" /> :*副委員長:小池一利(弁護士) :*委員:塩田尚也(弁護士)、渡部知之(愛媛県サッカー協会規律委員長)、鈴木英穂([[日本陸上競技連盟]]事務局長)<ref name="shihou" /> === 事務局 === 評議員会と理事会と司法機関の3つのさらに下に共通の事務局が置かれている。事務局は、国際部、女子部、代表チーム部、審判部、財務部、フットサル・ビーチサッカー部など全17部に分かれ<ref name="JFA組織図" />、各部には、事務局長及びその他の職員が置かれ、その任免はJFA会長が行う<ref>[https://www.jfa.jp/documents/pdf/basic/br14.pdf 事務局組織運営規則(2017/4/13 施行)-日本サッカー協会公式HP]</ref>。任期の定めはないが、一般の会社と同じ定年がある。 === 名誉役員 === JFAには、正役員の他に名誉役員を若干名置くことができる(定款第34条)。名誉役員は'''名誉総裁'''、'''名誉会長'''、'''相談役'''、'''顧問'''および'''参与'''とされており、理事会の決議を経て会長が委嘱する(名誉役員に関する規則第2条)。顧問については'''最高顧問'''と'''顧問'''の2つの区分がある。 ;名誉総裁 :サッカーの振興・発展に尽力した[[高円宮憲仁親王]]が1987年(昭和62年)3月11日に就任<ref name="JFA沿革・歴史" />。 :高円宮憲仁親王が2002年(平成14年)11月21日に急逝した後は、高円宮家の妃である[[憲仁親王妃久子]]が2003年(平成15年)3月21日に名誉総裁に就任している<ref name="JFA沿革・歴史" />。 ;名誉会長 :JFA会長を2期4年以上務めるか、FIFA理事を1期4年以上務めたJFA会長経験者が推薦対象となる。就任時に80歳未満である必要がある。 :定員は1名で、任期は最大2期4年までとされている。 :JFA会長選挙の際に「会長予定者」の選出事務等を管理・運営する「会長予定者選出管理委員会(略称:選出管理委員)」の委員長となる。なお、選出管理委員は、名誉会長、理事のうち3名、評議員のうち3名、JFAから完全に独立した立場の有識者2名からなる<ref name="選出ガイドライン" />。 ;最高顧問・相談役 :最高顧問は名誉会長経験者が推薦対象となる。就任時に80歳未満である必要がある。任期は2年以内(定時評議員会終結時まで)。 :相談役は最高顧問経験者が推薦対象となる。任期は定められていない。 ;顧問 :「会長経験者」「副会長を2期4年以上務めた者」「専務理事を3期6年以上務めた者」「学識経験者」のいずれかが推薦対象となる。就任時に75歳未満である必要がある。 :任期は2年以内(定時評議員会終結時まで)。 ;参与 :「専務理事以上の役職経験者」「理事又は監事を3期6年以上務めた者」の他、各種委員会の委員等JFAの業務に少なくとも10年以上携わるなど、多大な功労があったと認められる者(特別推挙者)が推薦対象となる。特別推挙者を除き、就任時に75歳未満である必要がある。 :任期は、特別推挙者は2期4年以内、それ以外は3期6年以内。 {|class="wikitable" |+名誉役員一覧(2022年10月13日現在)<ref name="meiyo">{{Cite web|和書|title = JFA組織図 > 名誉役員 |publisher = 日本サッカー協会 |url = https://www.jfa.jp/about_jfa/organization/jfa_structure/excutive_committee_honorary.html |accessdate = 2023-09-16 }}</ref> ! 役職 !! 名前 |- ! 名誉総裁 | [[憲仁親王妃久子|高円宮妃久子]] |- ! 名誉会長 | (空席) |- ! 最高顧問 | [[大仁邦彌]] |- ! 相談役 | [[川淵三郎]]、[[小倉純二]] |- ! 顧問 | [[大東和美]]、[[馬渕明子]]、[[村井満]]、岩上和道 |- ! 参与 | 赤須陽太郎、岩城健、[[上田栄治]]、[[岡島正明]]、原秋彦、藤縄信夫、[[松崎康弘]]、植田昌利、[[原博実]]、[[池田洋二]]、[[北澤豪]]、[[日比野克彦]]、[[鈴木寛]]、[[岡島喜久子]] |} == 関連団体 == === 上位組織 === {| class="wikitable" ! colspan="3" |組織名 ! 主催大会 |- | colspan="3" |[[国際サッカー連盟]](FIFA) |[[FIFAワールドカップ]] |- |┗ | colspan="2" |[[アジアサッカー連盟]](AFC) |[[AFCアジアカップ]] |- | |┗ |[[東アジアサッカー連盟]](EAFF) |[[EAFF E-1サッカー選手権]] |- | colspan="3" |[[国際オリンピック委員会]](IOC) | rowspan="2" |[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]] |- |┣ | colspan="2" |[[日本オリンピック委員会]](JOC) |- | colspan="3" |[[日本スポーツ協会]](JASA) |[[国民体育大会サッカー競技|国民体育大会]] |} ※日本体育協会は2018年度から「日本スポーツ協会」に、併せて「国民体育大会」も2023年より「国民スポーツ大会」に改称予定。JOCはJASAからは独立し同格だがIOCの傘下NOC(各国国内委員会)である。またIOCとJOCの中間に地域ごとのNOC集合体の一つである[[アジアオリンピック評議会]](OCA)があり、[[アジア競技大会サッカー競技|アジア競技大会]]を主催する。 === 下位組織 === 「格式等」は、天皇杯などJFA直轄大会における出場資格決定に影響を与える。例として、[[第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会|第97回天皇杯]]は、開催日程が従前よりも大きく変えられたことから、地域によってはアマチュア下位カテゴリーの門戸が閉ざされる形となった。またJリーグ参加クラブも、J1・J2は本大会1回戦シードなのに対し、J3は都道府県予選を勝ち上がらねば本大会を戦うことができないという{{要出典範囲|厳然たる格差がある|date=2023年9月}}。 {| class="wikitable" !組織名 !主催大会 ! 格式等 |- | rowspan="2"|[[日本プロサッカーリーグ (法人)|日本プロサッカーリーグ]] |[[日本プロサッカーリーグ|J1・J2リーグ]]【JFA共催】 | プロ1・2部 |- |[[J3リーグ]]【JFA共催】 | プロ3部 |- |[[日本フットボールリーグ]] |[[日本フットボールリーグ|JFL]]【JFA共催】 | アマ1部 |- |9地域サッカー協会 |[[地域リーグ (サッカー)|地域リーグ]] | アマ2部(一部3部){{Efn|name=":0"|中国・四国・九州沖縄は地域リーグが単一部しかないため地域リーグがアマ2部、県リーグがアマ3部の扱いだが、それ以外の地域は地域リーグが2部制のため地域1部がアマ2部、地域2部がアマ3部、都道府県がアマ4部の扱いとなる。}} |- |47都道府県サッカー協会 |[[都道府県リーグ (サッカー)|都道府県リーグ]] |アマ3部以下{{Efn|name=":0"}} |- |[[日本女子プロサッカーリーグ (法人)|日本女子プロサッカーリーグ]] |[[日本女子プロサッカーリーグ|WEリーグ]]【JFA共催】 | 女子プロ |- |[[日本女子サッカーリーグ]] |なでしこリーグ【JFA共催】 | 女子アマ1・2部 |- |[[日本フットサルトップリーグ]] |[[日本フットサルリーグ|Fリーグ]]【JFA共催】 |フットサル |} === 別組織 === 組織としては独立しているものの、競技運営上連携して活動する団体を纏めたもの。主に学生競技団体が中心 {| class="wikitable" !組織名 !主催大会 |- |全国自衛隊サッカー連盟 |自衛隊サッカー |- |[[全国社会人サッカー連盟]] |社会人サッカー |- |[[全日本大学サッカー連盟]] | rowspan="2" |大学サッカー |- |[[全日本大学女子サッカー連盟]] |- |[[全国専門学校サッカー連盟]] |専門学校サッカー |- |[[全国高等学校体育連盟]] |[[高校サッカー]] |- |[[日本中学校体育連盟]] |中学サッカー |- |[[日本フットサル連盟]] |[[フットサル]] |- |[[日本ビーチサッカー連盟]] |[[ビーチサッカー]] |- |[[日本障がい者サッカー連盟]] |障がい者サッカー |} == ナショナルチーム == {{See also|FIFAインターナショナルマッチカレンダー}} : [https://www.jfa.jp/national_team/ 日本代表トップ] - JFA : [https://www.jfa.jp/international_match/ 国際試合一覧] - JFA : [https://www.jfa.jp/national_team/schedule2024.pdf 2024年日本代表年間スケジュール (予定) 2023年12月18日時点] - JFA === 男子 === {{See also|2023年のサッカー日本代表}} {| class="wikitable" |- ! チーム<ref name="News ja">{{Cite web|和書|title=日本代表 |url=https://jfa.jp/national_team |publisher=日本サッカー協会 |access-date=9 July 2023}}</ref> ! 監督 ! 就任日 ! 在職期間 |- | [[サッカー日本代表]] | {{flagicon|JPN}} [[森保一]]<ref>{{cite news |date=28 December 2022 |title=Samurai Blue(日本代表)監督 森保一氏と契約合意 |url=https://www.jfa.jp/news/00031359/ |work=日本サッカー協会}}</ref><ref>{{cite news |date=26 July 2018 |title=SAMURAI BLUE(日本代表)監督に森保一氏が就任 |url=https://www.jfa.jp/samuraiblue/news/00018187/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | {{right|{{dts|format=dmy|2018|7|26}} }} | {{right|{{ayd|2018|7|26}} }} |- | [[U-23サッカー日本代表|U-22サッカー日本代表]] | {{flagicon|JPN}} [[大岩剛]]<ref>{{Cite news |date=16 December 2021 |title=U-21日本代表監督に大岩剛氏が就任 |url=https://www.jfa.jp/news/00028635/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | {{right|{{dts|format=dmy|2021|12|16}} }} | {{right|{{ayd|2021|12|16}} }} |- | U-18サッカー日本代表 | {{flagicon|JPN}} [[船越優蔵]]<ref>{{Cite news |date=2023年7月14日 |title=U-18日本代表監督に船越優蔵氏が就任 |url=https://www.jfa.jp/national_team/mens_all_2023/news/00032480/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | {{right|{{dts|format=dmy|2023|7|14}} }} | {{right|{{ayd|2023|7|14}} }} |- | [[U-17サッカー日本代表]] | {{flagicon|JPN}} [[森山佳郎]]<ref>{{Cite news |date=16 December 2021 |title=U-16日本代表監督に森山佳郎氏が就任 |url=https://www.jfa.jp/national_team/mens_all_2021/news/00028636/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | {{right|{{dts|format=dmy|2021|12|16}} }} | {{right|{{ayd|2021|12|16}} }} |- | U-15サッカー日本代表 | {{flagicon|JPN}} 平田礼次<ref>{{Cite news |date=19 January 2021 |title=U-15日本代表 平田礼次監督が就任 |url=https://www.jfa.jp/national_team/u15_2023/news/00031455/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | {{right|{{dts|format=dmy|2023|1|19}} }} | {{right|{{ayd|2023|1|19}} }} |- | [[フットサル日本代表]] | {{flagicon|JPN}} [[木暮賢一郎]]<ref>{{Cite news |date=23 November 2021 |title=フットサル日本代表 新監督が決定 男子は木暮賢一郎監督、女子は須賀雄大監督が就任 |url=https://www.jfa.jp/futsal_s/news/00028403/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | rowspan="3" | {{right|{{dts|format=dmy|2021|11|23}} }} | rowspan="3" | {{right|{{ayd|2021|11|23}} }} |- | [[U-23フットサル日本代表]] | {{flagicon|JPN}} 木暮賢一郎<ref>{{cite news |date=20 December 2022 |title=U-23フットサル日本代表候補トレーニングキャンプ(12.26-29@高円宮記念JFA夢フィールド)メンバー |url=https://www.jfa.jp/news/00031283/ |work=日本サッカー協会}}</ref> |- | [[U-20フットサル日本代表]] | {{flagicon|JPN}} 木暮賢一郎 |- | [[ビーチサッカー日本代表]] | {{flagicon|JPN}} [[茂怜羅オズ]]<ref>{{Cite news |date=18 June 2020 |title=ビーチサッカー日本代表 茂怜羅オズ氏が新監督に就任 |url=https://www.jfa.jp/eng/national_team/beach_2020/news/00025017/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | {{right|{{dts|format=dmy|2020|6|18}} }} | {{right|{{ayd|2020|6|18}} }} |- | [[サッカーe日本代表]] | {{center|—}} | {{center|—}} | {{center|—}} |- | [[ユニバーシアードサッカー日本代表]] | {{center|—}} | {{center|—}} | {{center|—}} |} === 女子 === {{See also|2023年のサッカー日本女子代表|2023 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表}} {| class="wikitable" |- ! チーム<ref name="News ja">{{Cite web|和書|title=日本代表 |url=https://jfa.jp/national_team |publisher=日本サッカー協会 |access-date=9 July 2023}}</ref> ! 監督 ! 就任日 ! 在職期間 |- | [[サッカー日本女子代表]] | {{flagicon|JPN}} [[池田太]]<ref>{{Cite news |date=1 October 2021 |title=Mr. Ikeda Futoshi appointed as head coach of Nadeshiko Japan (Japan women’s national team) |url=https://www.jfa.jp/eng/nadeshikojapan/news/00028022/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | {{right|{{dts|format=dmy|2021|10|01}} }} | {{right|{{ayd|2021|10|01}} }} |- | サッカー日本女子B代表([[:en:Japan women's national football B team|英]])<br><small>(第19回アジア競技大会(2022/杭州)日本女子代表)</small><ref>{{Cite web|和書|url=http://jfa.jp/national_team/asiangames_jwnt_2023/ |title=第19回アジア競技大会(2022/杭州)日本女子代表 |website=jfa.jp |publisher=日本サッカー協会 |accessdate=2023-09-18}}</ref> | {{flagicon|JPN}} [[狩野倫久]]{{Efn|2022年アジア競技大会のみ指揮を執る予定。}} | {{right|{{dts|format=dmy|2023|08|29}} }} | {{right|{{ayd|2023|08|29}} }} |- | [[U-23サッカー日本女子代表]] | | | |- | [[U-20サッカー日本女子代表]] | {{flagicon|JPN}} [[狩野倫久]]<ref>{{cite news |date=19 January 2023 |title=U-19日本女子代表 狩野倫久監督が就任 |url=https://www.jfa.jp/national_team/womens_all_2023/news/00031457/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | {{right|{{dts|format=dmy|2023|1|19}} }} | {{right|{{ayd|2023|1|19}} }} |- | [[U-17サッカー日本女子代表]] | {{flagicon|JPN}} [[白井貞義]]<ref>{{cite news |date=19 January 2023 |title=U-16日本女子代表 白井貞義監督が就任 |url=https://www.jfa.jp/national_team/womens_all_2023/news/00031458/ |work=日本サッカー協会}}</ref> | {{right|{{dts|format=dmy|2023|1|19}} }} | {{right|{{ayd|2023|1|19}} }} |- | [[フットサル日本女子代表]] | {{flagicon|JPN}} [[須賀雄大]] | {{right|{{dts|format=dmy|2021|11|23}} }} | {{right|{{ayd|2021|11|23}} }} |- | U-18フットサル日本女子代表 | | | |- | [[ユニバーシアードサッカー日本女子代表]] | {{center|—}} | {{center|—}} | {{center|—}} |} === ユニフォーム === 1988〜1991年([[横山謙三]]日本代表監督の意向で、国旗の色の赤を採用)を除き1930年[[極東選手権競技大会サッカー競技|極東選手権大会]]以来、日本代表ユニフォームは青系統の色が採用されている(1970年代以降は白と青を交互に採用した時期もある)<ref name="日本サッカー史" />。1993年以降、各カテゴリーごとに[[アディダス]]、[[アシックス]]、[[プーマ]]製のものを交互に採用していたが、1999年からアディダスと契約している。 == リーグ構成 == === サッカー === {{See also|日本のサッカー競技場一覧}} ==== 男子 ==== {{main|日本サッカーのリーグ構成 (1種)}} {{See also|Category:日本のサッカークラブ}} {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! レベル ! colspan="10"|リーグ<ref name="国内競技会">{{Cite web|和書|url=http://www.jfa.jp/about_jfa/value_creation_story/national_competitions.html |title=国内競技会 |website=www.jfa.jp |publisher=日本サッカー協会 (JFA) |accessdate=2023-09-18}} </ref> |- ! 1 | colspan="10|'''[[J1リーグ]]'''<br /><br />''[[2024年のJ1リーグ]]''<br />日程: 未定 |- ! 2 | colspan="10"|'''[[J2リーグ]]'''<br /><br />''[[2024年のJ2リーグ]]''<br />日程: 未定 |- ! 3 | colspan="10"|'''[[J3リーグ]]'''<br /><br />''[[2024年のJ3リーグ]]''<br />日程: 未定 |- ! 4 | colspan="10"|'''[[日本フットボールリーグ]](JFL)'''<br /><br />''[[第26回日本フットボールリーグ]]''<br />日程: 未定 |- ! rowspan="3" |5 | colspan="10" |'''[[地域リーグ (サッカー)|地域リーグ]]'''<br /><br />''[[2024年の地域リーグ (サッカー)|2024年の地域リーグ]]'' |- | [[北海道サッカーリーグ|北海道SL]] | colspan="2"|[[東北社会人サッカーリーグ|東北SL]]<br />1部 | [[関東サッカーリーグ|関東SL]]<br />1部 | [[北信越フットボールリーグ|北信越FL]]<br />1部 | [[東海社会人サッカーリーグ|東海SL]]<br />1部 | [[関西サッカーリーグ|関西SL]]<br />1部 | rowspan="2"|[[中国サッカーリーグ|中国SL]] | rowspan="2"|[[四国サッカーリーグ|四国SL]] | rowspan="2"|[[九州サッカーリーグ|九州SL]] |- | [[ブロックリーグ決勝大会 (北海道サッカーリーグ)|ブロックL]] | 東北SL<br />2部<br />北 | 東北SL<br />2部<br />南 | 関東SL<br />2部 | 北信越FL<br />2部 | 東海SL<br />2部 | 関西SL<br />2部 |- ! rowspan="2"|6- | colspan="10"|'''[[都道府県リーグ (サッカー)|都道府県リーグ]]''' |- | 地区L<br />1部 | colspan="2"|県L<br />1部 | 都/県L<br />1部 | 県L<br />1部 | 県L<br />1部 | 府/県L<br />1部 | 県L<br />1部 | 県L<br />1部 | 県L<br />1部 |} ==== 女子 ==== {{main|日本サッカーのリーグ構成 (女子)}} {{See also|Category:日本の女子サッカークラブ}} {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! レベル ! colspan="9"|リーグ<ref name="国内競技会" /> |- ! 1 | colspan="9"|'''[[日本女子プロサッカーリーグ|WEリーグ]]'''<br /><br />''[[2023-24シーズンのWEリーグ]]''<br />日程: 2023年11月11日 - 2024年6月予定 |- ! 2 | colspan="9"|'''[[日本女子サッカーリーグ#なでしこリーグ1部|なでしこリーグ1部]]'''<br /><br />''[[2024 日本女子サッカーリーグ]]''<br />日程: 未定 |- ! 3 | colspan="9"|'''[[日本女子サッカーリーグ#なでしこリーグ2部|なでしこリーグ2部]]'''<br /><br />''[[2024 日本女子サッカーリーグ]]''<br />日程: 未定 |- ! rowspan="3"|4 | colspan="9"|'''[[地域リーグ (女子サッカー)|地域リーグ]]'''<br /><br />''[[2024年の地域リーグ (女子サッカー)|2024年の地域リーグ]]'' |- | rowspan="2"|[[北海道女子サッカーリーグ|北海道WSL]] | rowspan="2"|[[東北女子サッカーリーグ|東北WSL]] | [[関東女子サッカーリーグ|関東WSL]]<br />1部 | rowspan="2"|[[北信越女子サッカーリーグ|北信越WSL]] | [[東海女子サッカーリーグ|東海WSL]]<br />1部 | [[関西女子サッカーリーグ|関西WSL]]<br />1部 | rowspan="2"|[[中国女子サッカーリーグ|中国WSL]] | rowspan="2"|[[四国女子サッカーリーグ|四国WSL]] | [[九州女子サッカーリーグ|九州WSL]]<br />1部 |- | 関東WSL<br />2部 | 東海WSL<br />2部 | 関西WSL<br />2部 | 九州WSL<br />2部 |- ! rowspan="2"|5- | colspan="9"|'''[[都道府県リーグ (女子サッカー)|都道府県リーグ]]''' |- | 地区L | 県L<br />1部 | 都/県L<br />1部 | 県L<br />1部 | 県L<br />1部 | | 県L<br />1部 | 県L<br />1部 | 県L<br />1部 |} === フットサル === {{See also|Category:日本のフットサルクラブ}} ==== 男子 ==== {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! レベル ! colspan="10"|リーグ<ref name="国内競技会" /> |- ! 1 | colspan="10|'''[[日本フットサルリーグ|F1リーグ]]'''<br /><br />''[[2023-24シーズンのFリーグ]]'' |- ! 2 | colspan="10"|'''F2リーグ''' |- ! 3 | colspan="10"| |- ! 4 | colspan="10"| |- ! 5 | colspan="10" | |- ! 6 | colspan="10"| |} ==== 女子 ==== {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! レベル ! colspan="10"|リーグ |- ! 1 | colspan="10|'''[[日本女子フットサルリーグ|WOMEN'S F.LEAGUE]]''' |- ! 2 | colspan="10"| |- ! 3 | colspan="10"| |- ! 4 | colspan="10"| |- ! 5 | colspan="10" | |- ! 6 | colspan="10"| |} == 大会と大会結果 == {{main|日本のサッカー大会一覧}} {{See also|2023年のスポーツ|2023年のサッカー}} ''日本サッカー協会が主催 / 共催する大会。'' === 国際大会 === {{main|日本開催の国際サッカー大会}} ==== ナショナルチーム ==== {{See also|FIFAインターナショナルマッチカレンダー}} ===== 日本代表 / U-23日本代表 / 日本女子代表 ===== {| class="wikitable" |- ! 大会<ref name="国際試合一覧">{{Cite web|和書|title=国際試合一覧 |publisher=日本サッカー協会 |access-date=2023年8月2日 |url=https://www.jfa.jp/international_match/}}</ref> ! 前回 ! 参加チーム ! 次回 |- | [[キリンカップサッカー|キリンカップ]] | style="text-align: center" |[[キリンカップサッカー2022|2022]] | {{fb|TUN}} | style="text-align: center" |[[キリンカップサッカー|未定]] |- | [[キリンチャレンジカップ]] | style="text-align: center" |[[サッカー日本代表の国際親善試合#2023年(令和5年)|2023]] | {{fb|URU}}<br>{{fb|COL}}<br>{{fb|SLV}}<br>{{fb|PER}} | style="text-align: center" |[[サッカー日本代表の国際親善試合#2024年(令和6年)|2024]] |- ! colspan=4|女子 |- | [[サッカー日本代表の国際親善試合|MS&ADカップ]] | style="text-align: center" |[[サッカー日本代表の国際親善試合#2023年(令和5年)|2023]] | {{fbw|PAN}} | style="text-align: center" |[[サッカー日本代表の国際親善試合#2024年(令和6年)|2024]] |} ===== U-20日本代表 / U-17日本代表 ===== {| class="wikitable" |- ! 大会<ref name="国際試合一覧" /> ! 前回 ! 参加チーム ! 次回 |- | [[SBSカップ 国際ユースサッカー|SBSカップ]] | [[SBSカップ 国際ユースサッカー2023|2023]] | | [[SBSカップ 国際ユースサッカー2024|2024]] |- | [[国際ユースサッカーin新潟]] | 2022 | | [[国際ユースサッカーin新潟2023|2023]] |- | [[U-16インターナショナルドリームカップ|U-16ドリームカップ]] | style="text-align: center" |[[U-16インターナショナルドリームカップ2023|2023]] | '''{{fbu|17|JPN}}''' <br>{{Nowrap|{{fbu|17|NED}} }} <br>{{Nowrap|{{fbu|17|NGR}} }} <br>{{Nowrap|{{fbu|17|USA}} }} | style="text-align: center" |[[U-16インターナショナルドリームカップ2024|2024]] |} ==== クラブチーム ==== ===== 1種(一般)===== {| class="wikitable" |- ! 大会<ref name="国際試合一覧">{{Cite web|和書|title=国際試合一覧 |publisher=日本サッカー協会 |access-date=2023年8月2日 |url=https://www.jfa.jp/international_match/}}</ref> ! 前回 ! 参加チーム ! 次回 |- | [[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦]] | style="text-align: center" |[[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦2019|2019]] | | style="text-align: center" |[[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦|未定]] |- | [[さいたまシティカップ]] | style="text-align: center" |[[さいたまシティカップ#さいたまシティカップ2022|2022]] | | style="text-align: center" |[[さいたまシティカップ|未定]] |} ===== 2種 (高校生年代) ===== {| class="wikitable" |- ! 大会<ref name="国際試合一覧">{{Cite web|和書|title=国際試合一覧 |publisher=日本サッカー協会 |access-date=2023年8月2日 |url=https://www.jfa.jp/international_match/}}</ref> ! 前回 ! 参加チーム ! 次回 |- | [[Jリーグインターナショナルユースカップ]] | style="text-align: center" |[[Jリーグインターナショナルユースカップ#2019Jリーグインターナショナルユースカップ|2019]] | | style="text-align: center" |[[Jリーグインターナショナルユースカップ|未定]] |} === 国内大会 === {{See also|2024年のJリーグ}} ==== 1種 (一般) ==== {{See also|FIFAクラブワールドカップ2023|AFCチャンピオンズリーグ2023/24}} {| class="wikitable" |- ! [[:Category:日本のサッカー大会|大会]]<ref name="大会">{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/match/|title=大会・試合 |publisher=日本サッカー協会 |access-date=2023年8月2日}}</ref> ! シーズン ! [[:Category:スポーツ競技大会の優勝チーム|優勝]] ! 詳細 ! 準優勝 ! シーズン |- ! colspan=6 |[[リーグ戦]] |- | [[J1リーグ]] | style="text-align: center" |[[2023年のJ1リーグ|2023]] | style="text-align:right" |[[ヴィッセル神戸]] | style="text-align: center" |— | [[横浜F・マリノス]] | style="text-align: center" |[[2024年のJ1リーグ|2024]] |- | [[J2リーグ]] | style="text-align: center" |[[2023年のJ2リーグ|2023]] | style="text-align:right" |[[FC町田ゼルビア]] | style="text-align: center" |— | [[ジュビロ磐田]] | style="text-align: center" |[[2024年のJ2リーグ|2024]] |- | [[J3リーグ]] | style="text-align: center" |[[2023年のJ3リーグ|2023]] | style="text-align:right" |[[愛媛FC]] | style="text-align: center" |— | [[鹿児島ユナイテッドFC]] | style="text-align: center" |[[2024年のJ3リーグ|2024]] |- | [[日本フットボールリーグ|JFL]] | style="text-align: center" |[[第25回日本フットボールリーグ|2023]] | style="text-align:right" |[[Honda FC]] | style="text-align: center" |— | [[ブリオベッカ浦安]] | style="text-align: center" |[[第26回日本フットボールリーグ|2024]] |- | [[全国地域サッカーチャンピオンズリーグ|地域チャンピオンズリーグ]]<br>([[プレーオフ]]) | style="text-align: center" |[[全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2023|2023]] | style="text-align: center" colspan="3"|— | style="text-align: center" |[[全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2024|2024]] |- ! colspan=6 |[[カップ戦]] |- | [[スーパーカップ (日本サッカー)|Fujifilm Super Cup]] | style="text-align: center" |[[2023年のスーパーカップ (日本サッカー)|2023]] | style="text-align:right" |[[横浜F・マリノス]] | style="text-align: center" |2 - 1 | [[ヴァンフォーレ甲府]] | style="text-align: center" |[[2024年のスーパーカップ (日本サッカー)|2024]] |- | [[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯 全日本選手権]] | style="text-align: center" |[[天皇杯 JFA 第103回全日本サッカー選手権大会|2023]] | style="text-align:right" |[[ヴァンフォーレ甲府]] | style="text-align: center" |決勝 | [[サンフレッチェ広島]] | style="text-align: center" |[[天皇杯 JFA 第104回全日本サッカー選手権大会|2024]] |- | [[全国社会人サッカー選手権大会|社会人選手権]] | style="text-align: center" |[[第58回全国社会人サッカー選手権大会|2022]] | style="text-align:right" |[[ブリオベッカ浦安]] | style="text-align: center" |決勝 | [[BTOPサンクくりやま]] | style="text-align: center" |[[第59回全国社会人サッカー選手権大会|2023]] |- | [[全日本大学サッカー選手権大会|大学選手権]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" | | style="text-align: center" |決勝 | | style="text-align: center" |2023 |- | [[総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント|総理大臣杯 大学トーナメント]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" | | style="text-align: center" |決勝 | | style="text-align: center" |2023 |- | [[全日本大学サッカー新人戦|大学新人戦]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" | | style="text-align: center" |決勝 | | style="text-align: center" |2023 |- | [[全国高等専門学校サッカー選手権大会|高専選手権]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" | | style="text-align: center" |決勝 | | style="text-align: center" |2023 |- | [[全国専門学校サッカー連盟#全国専門学校サッカー選手権歴代優勝校|専門学校選手権]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |[[ルネス紅葉スポーツ柔整専門学校|ルネス紅葉]] | style="text-align: center" |決勝 | | style="text-align: center" |2023 |- ! colspan=6 |[[フットサル]] |- | [[日本フットサルリーグ|Fリーグ]] | style="text-align: center" |[[2022-23シーズンのFリーグ|2022-23]] | style="text-align:right" |[[名古屋オーシャンズ]] | style="text-align: center" |— | [[立川アスレティックFC|立川アスレティック]] | style="text-align: center" |[[2023-24シーズンのFリーグ|2023-24]] |- | [[Fリーグ オーシャンカップ]] | style="text-align: center" |[[Fリーグ オーシャンカップ2023|2023]] | style="text-align:right" |[[名古屋オーシャンズ]] | style="text-align: center" |決勝 | [[バルドラール浦安フットボールサラ|バルドラール浦安]] | style="text-align: center" |[[Fリーグ オーシャンカップ2024|2024]] |- | [[JFA 全日本フットサル選手権大会|フットサル選手権]] | style="text-align: center" |[[JFA 第28回全日本フットサル選手権大会|2023]] | style="text-align:right" |[[フウガドールすみだ]] | style="text-align: center" |決勝 | [[湘南ベルマーレフットサルクラブ|湘南ベルマーレ]] | style="text-align: center" |[[JFA 第29回全日本フットサル選手権大会|2024]] |- | [[全日本大学フットサル大会|大学フットサル大会]] | style="text-align: center" | | style="text-align:right" | | style="text-align: center" |決勝 | | style="text-align: center" | |- ! colspan=6 |[[ビーチサッカー]] |- | [[JFA 全日本ビーチサッカー大会|JFA ビーチサッカー大会]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |[[東京ヴェルディ]]BS | style="text-align: center" |決勝 | [[ソーマプライア|ソーマプライア沖縄]] | style="text-align: center" |2023 |- ! colspan=6 |[[eスポーツ]] |- | [[JFA eスポーツ・サッカー選抜大会|eスポーツ選抜大会]] | style="text-align: center" |2023 | style="text-align:right" |えび・と・まめ | style="text-align: center" |決勝 | [[東京ヴェルディ]] | style="text-align: center" |2024 |} {{See also|2023 AFC女子クラブ選手権|2024-25 AFC女子チャンピオンズリーグ}} {| class="wikitable" |- ! 大会<ref name="大会" /> ! シーズン ! 優勝 ! 詳細 ! 準優勝 ! シーズン |- ! colspan=6 |リーグ戦 <small>(女子)</small> |- | [[WEリーグ]] | style="text-align: center" |[[2022-23シーズンのWEリーグ|2022-23]] | style="text-align:right" |[[三菱重工浦和レッズレディース|浦和レッズ]] | style="text-align: center" |— | [[INAC神戸レオネッサ]] | style="text-align: center" |[[2023-24シーズンのWEリーグ|2023-24]] |- | [[なでしこリーグ]]1部 | style="text-align: center" |[[2023 日本女子サッカーリーグ#なでしこリーグ1部 2|2023]] | style="text-align:right" |[[オルカ鴨川FC|オルカ鴨川]] | style="text-align: center" |— | [[ラブリッジ名古屋]] | style="text-align: center" |[[2024 日本女子サッカーリーグ#なでしこリーグ1部 2|2024]] |- | なでしこリーグ2部 | style="text-align: center" |[[2023 日本女子サッカーリーグ#なでしこリーグ2部 2|2023]] | style="text-align:right" |[[ヴィアマテラス宮崎]] | style="text-align: center" |— | [[JFAアカデミー福島]] | style="text-align: center" |[[2024 日本女子サッカーリーグ#なでしこリーグ2部 2|2024]] |- ! colspan=6 |カップ戦 <small>(女子)</small> |- | [[皇后杯 JFA 全日本女子サッカー選手権大会|皇后杯 女子選手権]] | style="text-align: center" |[[皇后杯 JFA 第44回全日本女子サッカー選手権大会|2022]] | style="text-align:right" |[[日テレ・東京ヴェルディベレーザ|東京ヴェルディベレーザ]] | style="text-align: center" |決勝 | [[INAC神戸レオネッサ]] | style="text-align: center" |[[皇后杯 JFA 第45回全日本女子サッカー選手権大会|2023]] |- | [[WEリーグカップ]] | style="text-align: center" |[[2022-23シーズンのWEリーグカップ|2022-23]] | style="text-align:right" | | style="text-align: center" |決勝 | | style="text-align: center" |[[2023-24シーズンのWEリーグカップ|2023-24]] |- ! colspan=6 |フットサル <small>(女子)</small> |- | [[日本女子フットサルリーグ|Women's F.League]] | style="text-align: center" |2022-23 | style="text-align:right" |[[バルドラール浦安フットボールサラ|ラス・ボニータス]] | style="text-align: center" |— | [[アルコ神戸]] | style="text-align: center" |2023-24 |- | [[JFA 全日本女子フットサル選手権大会|女子フットサル選手権]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |[[バルドラール浦安フットボールサラ|ラス・ボニータス]] | style="text-align: center" |決勝 | [[アルコ神戸]] | style="text-align: center" |2023 |} ==== 2種 (高校生年代) ==== {| class="wikitable" |- ! 大会<ref name="大会">{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/match/|title=大会・試合 |publisher=日本サッカー協会 |access-date=2023年8月2日}}</ref> ! シーズン ! 優勝 ! 詳細 ! 準優勝 ! シーズン |- ! colspan=6 |リーグ戦 |- | [[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ|高円宮杯 プレミアリーグ]] | style="text-align: center" |[[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ 2022|2022]] | style="text-align:right" |[[サガン鳥栖]]U-18 | style="text-align: center" |決勝 | [[川崎フロンターレ]]U-18 | style="text-align: center" |[[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ 2023|2023]] |- | [[高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ|高円宮杯 プリンスリーグ]] | style="text-align: center" |[[高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ 2022|2022]] | style="text-align:right" |— | style="text-align: center" |— | — | style="text-align: center" |[[高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ 2023|2023]] |- ! colspan=6 |カップ戦 |- | [[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|クラブ選手権]] | style="text-align: center" |[[第47回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|2023]] | style="text-align:right" |[[ガンバ大阪]]ユース | style="text-align: center" |[[第101回全国高等学校サッカー選手権大会#決勝|決勝]] | [[FC東京]]U-18 | style="text-align: center" |[[第48回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|2024]] |- | [[Jリーグユース選手権大会|Jリーグ選手権]] | style="text-align: center" |[[2022Jユースリーグ|2022]] | style="text-align:right" | | style="text-align: center" |決勝 | | style="text-align: center" |[[2023Jユースリーグ|2023]] |- | [[全国高等学校サッカー選手権大会|高校選手権]] | style="text-align: center" |[[第101回全国高等学校サッカー選手権大会|2022]] | style="text-align:right" |[[岡山学芸館清秀中学校・岡山学芸館高等学校|岡山学芸館]] | style="text-align: center" |[[第101回全国高等学校サッカー選手権大会#決勝|決勝]] | [[東山中学校・高等学校|東山]] | style="text-align: center" |[[第102回全国高等学校サッカー選手権大会|2023]] |- | [[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|高校総体]] | style="text-align: center" |2023 | style="text-align:right" |[[明秀学園日立高等学校|明秀日立]] | style="text-align: center" |決勝 | [[桐光学園中学校・高等学校|桐光学園]] | style="text-align: center" |2024 |- ! colspan=6 |カップ戦 <small>(女子)</small> |- | [[JFA U-18女子サッカーファイナルズ|JFA 女子ファイナルズ]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |[[JFAアカデミー福島]] | style="text-align: center" |決勝 | [[十文字中学校・高等学校|十文字]] | style="text-align: center" |2023 |- | [[全日本高等学校女子サッカー選手権大会|高校女子選手権]] | style="text-align: center" |[[第31回全日本高等学校女子サッカー選手権大会|2022]] | style="text-align:right" |[[藤枝順心中学校・高等学校|藤枝順心]] | style="text-align: center" |[[第31回全日本高等学校女子サッカー選手権大会#決勝|決勝]] | [[十文字中学校・高等学校|十文字]] | style="text-align: center" |[[第32回全日本高等学校女子サッカー選手権大会|2023]] |- | [[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|高校総体]] | style="text-align: center" |2023 | style="text-align:right" |[[藤枝順心中学校・高等学校|藤枝順心]] | style="text-align: center" |決勝 | [[聖和学園高等学校|聖和学園]] | style="text-align: center" |2024 |- ! colspan=6 |フットサル |- | [[JFA 全日本U-18フットサル大会|JFA フットサル選手権]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |[[ASVペスカドーラ町田|ペスカドーラ町田]]U-18<br>[[遊学館高校|遊学館]] | style="text-align: center" |決勝 | — | style="text-align: center" |2023 |} ==== 3種 (中学生年代) ==== {| class="wikitable" |- ! 大会名<ref name="大会">{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/match/|title=大会・試合 |publisher=日本サッカー協会 |access-date=2023年8月2日}}</ref> ! シーズン ! 優勝 ! スコア ! 準優勝 ! シーズン |- ! colspan=6 |リーグ戦 |- | [[U-13地域サッカーリーグ|地域リーグ]] | style="text-align: center" | | style="text-align:right" | | style="text-align: center" | | | style="text-align: center" | |- ! colspan=6 |リーグ戦 <small>(女子)</small> |- | [[JFA U-15女子サッカーリーグ|JFA 女子リーグ]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" | | style="text-align: center" | | | style="text-align: center" |2023 |- ! colspan=6 |カップ戦 |- | [[高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会|高円宮杯 選手権]] | style="text-align: center" |[[高円宮杯 JFA 第34回全日本 U-15 サッカー選手権大会|2022]] | style="text-align:right" |[[ヴィッセル神戸]]U-15 | style="text-align: center" |3 - 0 | [[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]ジュニアユース | style="text-align: center" |[[高円宮杯 JFA 第35回全日本 U-15 サッカー選手権大会|2023]] |- | [[全国中学校体育大会|中学校体育大会]]/[[全国中学校サッカー大会|中学校大会]] | style="text-align: center" | | style="text-align:right" | | style="text-align: center" | | | style="text-align: center" | |- | [[日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会|クラブ選手権(U-15)]] | style="text-align: center" | | style="text-align:right" | | style="text-align: center" | | | style="text-align: center" | |- | [[メニコンカップ 日本クラブユースサッカー東西対抗戦(U-15)|クラブ東西対抗戦(U-15)]] | style="text-align: center" | | style="text-align:right" | | style="text-align: center" | | | style="text-align: center" | |- ! colspan=6 |フットサル |- | [[JFA 全日本U-15フットサル大会|フットサル選手権]] | style="text-align: center" |2023 | style="text-align:right" |[[フウガドールすみだ|ウイングス]] | style="text-align: center" |4 - 1 | 高知中学校 | style="text-align: center" |2024 |- ! colspan=6 |フットサル <small>(女子)</small> |- | [[JFA 全日本U-15女子フットサル大会|女子フットサル選手権]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |[[十文字中学校・高等学校|十文字]] | style="text-align: center" |3 - 2 | AICシーガル広島 | style="text-align: center" |2023 |} ==== 4種 (小学生年代) ==== {| class="wikitable" |- ! 大会名<ref name="大会">{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/match/|title=大会・試合 |publisher=日本サッカー協会 |access-date=2023年8月2日}}</ref> ! シーズン ! 優勝 ! スコア ! 準優勝 ! シーズン |- ! colspan=6 |カップ戦 |- | [[JFA 全日本U-12サッカー選手権大会|JFA U-12選手権]] | style="text-align: center" |[[JFA 第46回全日本U-12サッカー選手権大会|2022]] | style="text-align:right" |レジスタFC | style="text-align: center" |2 - 0 | [[柏レイソル]]U-12 | style="text-align: center" |[[JFA 第47回全日本U-12サッカー選手権大会|2023]] |- | [[全国少年少女草サッカー大会|少年少女草サッカー大会]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" | | style="text-align: center" | | | style="text-align: center" |2023 |- ! colspan=6 |カップ戦 <small>(女子)</small> |- | 少年少女草サッカー大会 | style="text-align: center" |2023 | style="text-align:right" |クワトロガールズ | style="text-align: center" |3 - 0 | TOKYO NADESHIKO | style="text-align: center" |2024 |- ! colspan=6 |フットサル |- | [[JFA 全日本U-12フットサル選手権大会|JFA U-12フットサル選手権]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |ブリンカールFC | style="text-align: center" |6 - 1 | [[ヴィッセル神戸]]U-12 | style="text-align: center" |2023 |} ==== シニア ==== {| class="wikitable" |- ! 大会名<ref name="大会">{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/match/|title=大会・試合 |publisher=日本サッカー協会 |access-date=2023年8月2日}}</ref> ! シーズン ! 優勝 ! スコア ! 準優勝 ! シーズン |- ! colspan=6 |カップ戦 |- | [[JFA 全日本O-40サッカー大会|JFA 全日本O-40]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |藤枝フットボールクラブ | style="text-align: center" |3 - 1 | SOL TODA | style="text-align: center" |2023 |- | [[JFA 全日本O-50サッカー大会|JFA 全日本O-50]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |山梨マスターズ | style="text-align: center" |1 - 0 | ニコルスFCシニア | style="text-align: center" |2023 |- | [[JFA 全日本O-60サッカー大会|JFA 全日本O-60]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |横須賀アズール60 | style="text-align: center" |1 - 0 | 静岡県選抜O-60 | style="text-align: center" |2023 |- | [[JFA 全日本O-70サッカー大会|JFA 全日本O-70]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |兵庫県シニア70選抜 | style="text-align: center" |0 - 0<br>(4 - 2 [[PK戦]]) | 静岡県選抜O-70 | style="text-align: center" |2023 |- | [[全国健康福祉祭サッカー交流大会|健康福祉祭]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" | | style="text-align: center" | | | style="text-align: center" |2023 |- ! colspan=6 |カップ戦 <small>(女子)</small> |- | [[JFA 全日本O-30女子サッカー大会|JFA 全日本O-30大会]] | style="text-align: center" |2022 | style="text-align:right" |大阪 | style="text-align: center" |1 - 0 | 大和シルフィード98 | style="text-align: center" |2023 |- | [[JFA O-40女子サッカーオープン大会|JFA O-40大会]] | style="text-align: center" |2023 | style="text-align:right" |ヴェール | style="text-align: center" |1 - 0 | FC.VIDA Feliz | style="text-align: center" |2024 |} == スポンサー == === 公式スポンサー === [[サッカー日本代表|日本A代表]]などの各種代表及び各年代別代表のJFA公式スポンサーには、2015年から2022年までは「オフィシャル(公式)パートナー」、「オフィシャル(公式)サプライヤー」、「サポーティングカンパニー」、「アパレルプロバイダー」、「プロバイダー」の5つのカテゴリーがあり<ref name="スポンサー1">[https://www.jfa.jp/national_team/news/00005881/ 日本代表ページ-日本サッカー協会(JFA)公式HP]</ref><ref name="スポンサー2"/>、一業種一社という規定が存在していた<ref name="日本代表マーケティング">[https://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20180323/732387.html 2018年度の予算は過去最大、日本代表の価値はいくらなのか|日本代表のマーケティング] サッカーキング2018年3月23日</ref>。JFA公式スポンサーの企業のロゴは、日本代表戦のピッチの看板や日本代表選手の練習着及びビブス、さらにJFA主催大会や各種事業、JFA公式HPや公式SNS等でアピールされる。また、スタジアムの大型ビジョンでCM映像を流したり、日本代表監督及び日本代表選手の肖像を各社のマーケティングに使用したりする権利を持つことができる。さらに、JFA活動の放映権及びマーケティング・宣伝等に携わる「マーケティングパートナー」がある<ref name="日本代表マーケティング" />。 JFA収入(経常収益)の内訳は、大きく分けて「基本財産運用益」とサッカー、フットサル、ビーチサッカーの選手及びチーム及び審判がJFAに納める「登録料」と大きな収入の柱の「事業収益」とFIFA、JOC、toto等からの助成金の「受け取り補助金等」と[[日本サッカー協会ビル|日本サッカー協会ビル(JFAハウス)]]の賃貸事業(空いている部屋の貸し出し)等の「雑収益」の5つである。このうち「事業収益」は、日本代表戦のTV放送権料、チケット収入、スポンサーからの大会ボーナス、大会賞金等の「代表関連事業収益」(年代別からA代表・男女・各種の全ての日本代表)、日本代表戦を除くJFA主催の大会・試合のスポンサー収入・TV放送権料・チケット収入等の「競技会開催事業収益」、スポンサー収入、講習会等参加料等の「指導普及事業収益」、JFA NEWS等の「機関紙収益」、上記の日本代表戦の公式スポンサー収入とゲームソフト・グッズ販売等のロイヤリティ収入、検定料等収入を合わせた「事業関連収益」、Jリーグ開催に伴う納付金等の「競技会収益」、東日本大震災及び熊本地震復興支援活動や国連グローバル・コンパクトなどの「社会貢献事業収益」、[[日本サッカーミュージアム]]運営事業の「ミュージアム運営事業収益」、選手・チーム等のオンライン登録(JFAスクエア、KICKOFF等)及び地域・都道府県サッカー協会とのオンラインシステムの維持・開発に関わる事業の「登録事業収益」の9つからなる<ref name="収入内訳">[https://www.jfa.jp/about_jfa/news/00005134/ 日本代表選手ペイメント問題に対する当協会の考え] 日本サッカー協会(JFA)公式HP、2011年2月22日</ref><ref name="2017決算表">[https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/t_h20180324_4.pdf 2017年度(2017年1月1日~12月31日)決算 正味財産増減計算書内訳表] 日本サッカー協会(JFA)公式HP、2018年3月24日</ref>。 JFA収入(経常収益)の内、最大の収入は、「事業関連収益」(日本代表戦の公式スポンサー収入とゲームソフト・グッズ販売等のロイヤリティ収入、検定料等収入)で、2017年(平成29年)度では95億5859万7374円で、収入(経常収益)の約49%を占めている。2番目が「代表関連事業収益」(年代別からA代表・男女・各種の全ての日本代表のTV放送権料、チケット収入、スポンサーからの大会ボーナス、大会賞金等)で、2017年度では23億4528万966円で約12%、3番目が「登録料」(サッカー、フットサル、ビーチサッカーの選手及びチーム及び審判)で、2017年度では20億6385万8600円で約10.6%、4番目が「競技会開催事業収益」([[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]や育成年代大会等の日本代表試合を除くJFA主催の大会・試合のスポンサー収入・TV放送権料・チケット収入等)で2017年度18億9332万7107円で約10%、5番目が「受け取り補助金等」で2017年度で14億3335万437円で約7%となっている。財政が苦しかった時代、JFAの重要な収入の柱だった「登録料」は、今は2017年度では20億6385万8600円で、3番目の収入源となっている<ref name="2017決算表" />。 ==== オフィシャルパートナー ==== :オフィシャルパートナーとは、全ての各種サッカー日本代表及び全ての年代のサッカー日本代表の最上位のスポンサー並びにJFAが主催する大会(主に天皇杯/皇后杯、高円宮杯など)のほか、選手・指導者、審判の養成さらにグラスルーツなど全ての事業を支援するカテゴリーのことである。2023年1月現在、[[1978年]](昭和53年)ジャパンカップ(現: キリンカップサッカー)から長年のスポンサーである[[キリン (企業)|キリン]]([[キリンビール]]、[[キリンビバレッジ]]以下キリングループ)と1995年より公式スポンサーとなった<ref>[https://www.kirinholdings.com/jp/newsroom/release/2009/news2009122201.html (ニュースレター)キリングループのサッカー支援 ~ワールドカップに向けて、サッカー日本代表を力強く応援~] - キリンホールディングス. 2009年12月22日</ref>のち、2007年(平成19年)4月から8年間で推定総額120億円(年間15億円)で契約。2014年5月25日、JFAとキリングループが対等な関係で、サッカーの普及・促進に寄与していくという意志を込め、名称を従来の「オフィシャルスポンサー」から「オフィシャルパートナー」に変更した上で、2015年4月1日から2022年12月31日まで(7年9か月)契約を更新<ref name="キリンと2022年迄契約"/><ref name="スポンサー1" />。その後2023年1月より契約対象をJFAの全事業に拡大、「JFAオフィシャルパートナー」として2030年までの長期契約を締結した<ref name="キリンと2030年迄契約">“[https://www.jfa.jp/referee/news/00029704/ キリングループとの「日本サッカー協会オフィシャルパートナー」契約に基本合意]”. 日本サッカー協会. 2022年6月1日</ref>。 ===== 契約中 ===== {{updated|2023年1月}} * [[キリンホールディングス]](1995年 - 2030年12月31日)<ref name="キリンと2030年迄契約"/> ==== オフィシャルサプライヤー ==== :オフィシャル(公式)サプライヤーとは、ユニホームなどの用具類などを提供する全ての各種サッカー日本代表及び全ての年代のサッカー日本代表の最上位のスポンサーのカテゴリーのことである。[[アディダス]]ジャパンと2007年4月から向こう8年間で総額160億円(年間20億円)で契約していた<ref name="スポンサー2" /> が、2014年11月5日に、2015年4月1日から2023年3月末までの8年間で契約金は1年30億円、8年合計240億円でボーナスや物品提供を含めると250億円超という契約更新で同意したと報じられた<ref name="2015adidas" />。しかし実際に2015年4月1日に更新した際には、契約内容は発表されなかった<ref name="スポンサー1" />。 ===== 契約中 ===== {{updated|2023年1月}} * [[アディダスジャパン]](1999年 - 2030年12月31日) ==== メジャーパートナー ==== :メジャーパートナーとは、2022年までの「サポーティングカンパニー」から協賛対象範囲を拡張したものであり、スポンサー料を支払うことで、各種日本代表戦における広告看板掲出権およびチケットキャンペーン権、日本代表エンブレム、マスコット等の広告・販促活動への使用権を得るほか、選手・指導者、審判の養成さらにグラスルーツなど、JFAの一部事業を支援するカテゴリーのことである<ref name="JFA MS&AD">“[https://www.jfa.jp/news/00030888/ MS&ADインシュアランス グループとの次期パートナーシップ契約に基本合意]”. 日本サッカー協会. 2022年11月4日</ref>。ただし、日本のホームゲームなど日本サッカー協会がマーケティング権を完全に保有する試合のみに適用される<ref name="スポンサー2" />。このカテゴリーが定められた当初、定数は5社だったが、徐々に増やし、2015年4月1日時点で定数は最大10社と決められた。現時点(2018年3月10日時点)で未定の2社は決定次第随時発表する。2023年現在契約中の企業及び過去契約していた企業は以下のとおり(括弧内は契約期間)<ref name="スポンサー1" />。 ===== 契約中 ===== {{updated|2023年10月}} :*[[全日本空輸]](2023年2月27日 - 2026年12月31日)<ref>“[https://jfa.jp/news/00031621/ 全日本空輸(ANA)とのパートナーシップ契約に基本合意]”. 日本サッカー協会. 2023年2月27日</ref> :*[[クレディセゾン]](2001年11月5日 - 2030年12月31日<ref>“[https://www.jfa.jp/news/00032415/ クレディセゾンとJFAメジャーパートナー契約を締結]”. 日本サッカー協会. 2023年7月3日</ref>)<ref name="スポンサー1" /><ref>[http://corporate.saisoncard.co.jp/wr_html/news_data/20011105.pdf 日本代表チームのサポーティングカンパニー契約決定について] - クレディセゾン・2001年11月5日</ref><ref>[http://corporate.saisoncard.co.jp/wr_html/news_data/20070326.pdf 日本代表チームならびに日本代表戦のスポンサー決定について~2007年4月より、8年間の契約更新 ~] - クレディセゾン・2007年3月26日</ref> :*[[KDDI]](2016年8月25日 - 2026年12月31日)<ref>[http://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2016/08/25/1994.html サッカー日本代表チームとのサポーティングカンパニー契約を締結] - KDDI株式会社公式HP・2016年8月25日</ref><ref>“[https://www.jfa.jp/about_jfa/news/00031830/ KDDIとのパートナーシップ契約に基本合意]”. 日本サッカー協会. 2023年3月23日</ref> :*[[三井不動産]](2023年10月1日 - 2027年3月31日)<ref>[https://www.jfa.jp/about_jfa/news/00033075/ 三井不動産とJFAメジャーパートナー契約を締結] - 日本サッカー協会・2023年10月20日</ref> :*[[みずほフィナンシャルグループ]](2013年4月1日 - 2026年12月31日)<ref name="スポンサー1" /><ref>[http://www.jfa.or.jp/jfa/topics/2013/28.html 株式会社みずほフィナンシャルグループと日本代表チームサポーティングカンパニー契約を締結] - 日本サッカー協会・2013年4月1日</ref> :*[[MS&ADインシュアランスグループホールディングス]](2008年5月2日 - 2026年12月31日)<ref>[http://www.ms-ins.com/news/h20/news_0502_1.html 財団法人日本サッカー協会とサッカー日本代表チームのサポーティングカンパニー契約を締結しました] - 三井住友海上火災保険・2008年5月2日</ref><ref name="JFA MS&AD"/> :*[[TOYO TIRES]](2021年5月20日 - 2026年12月31日)<ref>“[https://www.jfa.jp/samuraiblue/news/00026959/ TOYO TIRE株式会社と「サッカー日本代表サポーティングカンパニー」契約を締結]”. 日本サッカー協会. 2021年5月20日</ref> ::以上、全日本空輸と三井不動産を除くパートナー各社は「サポーティングカンパニー」から契約を継続。またMS&ADインシュアランスグループホールディングスは、[[三井住友海上火災保険]]時代から継続している。 ===== 過去 ===== :*[[日産自動車]](2001年4月 - 2007年3月)<ref>[https://www.j-cast.com/2007/02/16005579.html 日産、日本サッカー協会スポンサーから撤退へ] - J-CASTニュース・2007年2月16日</ref> :*[[大和証券グループ本社]](2007年6月 - ?) ::当初は「2015年までの契約」とされたが<ref>[http://www.jsgoal.jp/official/jfa/00049316.html 大和証券グループと日本代表チームのサポーティングカンパニー契約を締結] - J's GOAL・2007年5月30日</ref><ref>[http://www.daiwa-grp.jp/csr/citizen/support/culture/backnumber.html 過去の協賛事業] - 大和証券グループ本社</ref>、2011年5月のJFAとアウディジャパンとの契約締結時点でプレスリリースから社名が消えているほか、2012年6月現在日本代表公式サイトからバナーが消滅している。なお契約解除に関する公式発表はされていない。 :*[[ソニーマーケティング]](2007年4月1日 - 2015年3月31日)<ref>[http://www.sony.jp/pr/info/info070327.html?sssid=60 財団法人日本サッカー協会とのスポンサーシップ契約について] - ソニーマーケティング・2007年3月27日</ref> :*[[アウディ|アウディジャパン]](2011年5月26日 - 2015年3月31日)<ref>[http://www.jfa.or.jp/jfa/topics/2011/84.html アウディ ジャパン株式会社と日本代表チームサポーティングカンパニー契約を締結] - 日本サッカー協会・2011年5月26日</ref> :*[[コナミデジタルエンタテインメント]](2013年3月25日 - 2015年3月31日)<ref>[http://www.konami-digital-entertainment.co.jp/ja/news/release/2013/0325/?ref=kdej_top コナミはサッカー日本代表を応援しています サッカー日本代表のサポーティングカンパニーに ] - 株式会社コナミデジタルエンタテインメント・2013年3月25日</ref> :*[[日本航空]](1999年 - 2022年12月31日)<ref name="スポンサー1" /><ref>[http://press.jal.co.jp/ja/release/200703/000264.html JAL、サッカー日本代表チームの「サポーティングカンパニー」に!] - 日本航空・2007年3月26日</ref> :*[[ファミリーマート]](2001年4月1日 - 2022年12月31日)<ref name="スポンサー1" /><ref>[http://www.family.co.jp/company/news_releases/2007/070326_2.html サッカー日本代表チーム サポーティングカンパニー契約締結について] - ファミリーマート・2007年3月26日</ref> :*[[朝日新聞社]](2007年4月1日 - 2022年12月31日)<ref name="スポンサー1" /> :*[[大東建託]](2016年11月1日 - 2022年12月31日)<ref>[http://www.kentaku.co.jp/corporate/pr/info/2016/aqehc40000006bfi-att/soccer.pdf 報道関係各位2016年11月1日大東建託はサッカー日本代表を応援します!日本サッカー協会とサポーティングカンパニー契約を締結] - 大東建託株式会社公式HP・2016年11月1日</ref> ::なお日本航空は、2010年(平成22年)1月19日に同社が[[会社更生法]]の適用を東京地裁に申請し受理された事態(倒産)を受けて契約継続が危ぶまれたが、最終的に契約継続となった<ref>[https://megalodon.jp/2010-0430-2310-04/www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20100128/soc1001281620000-n2.htm JAL対ANAに注目!“岡田Jウイング”争奪戦の行方]</ref><ref>[https://megalodon.jp/2010-0501-0016-43/www.nikkansports.com/soccer/japan/news/p-sc-tp2-20100122-588116.html 犬飼会長、JAL問題は「静観するしか」]</ref>。 ::朝日新聞社は、2007年4月1日から日本サッカー協会がマーケティング権を持つ国内での日本代表の試合をサポートする日本代表戦マッチスポンサーだったが、2015年4月1日からサポーティングカンパニーとなった。 ::ファミリーマートは2016年9月の[[ユニー・ファミリーマートホールディングス]]の発足に伴い、[[サークルKサンクス|サークルKおよびサンクス]]店舗でもPRを実施している。 ==== ナショナルチームパートナー ==== :ナショナルチームパートナーとは、2023年3月1日より開始した新たな契約カテゴリーであり、男女日本代表や各年代の代表、男女フットサルやビーチサッカー、eスポーツといった全ての代表チームをサポートする。 ===== 契約中 ===== {{updated|2023年3月}} :*[[アパホテル]](2023年3月1日 - 2026年12月31日)<ref>“[https://www.jfa.jp/news/00031645/ アパホテルとのパートナーシップ契約に基本合意]”. 日本サッカー協会. 2023年3月1日</ref> :*[[読売新聞]]([[読売新聞東京本社]])(2023年3月21日 - 2026年12月31日)<ref>“[https://www.jfa.jp/national_team/womens_all_2023/news/00031810/ 読売新聞とのパートナーシップ契約に基本合意]”. 日本サッカー協会. 2023年3月21日</ref><ref>“[https://info.yomiuri.co.jp/news/5984.html 【読売新聞東京本社】JFAナショナルパートナー契約の締結について]”. 読売新聞. 2023年3月21日</ref> ==== アパレルプロバイダー ==== :アパレルプロバイダーとは、日本代表が移動時に着用するスーツを提供する企業のこと。 ===== 契約中 ===== {{updated|2023年7月}} :*[[リシュモン|リシュモンジャパン]]([[ダンヒル]]、2000年-現在)(更新しているが、内容と期間未公表)<ref name="スポンサー1" /><ref name="fashion-press.net">[https://www.fashion-press.net/news/3913 ダンヒル、2012年サッカー日本代表チームの「勝負服」オフィシャルスーツを発売] - FASHION PRESS・2012年5月4日</ref><ref>[https://www.dunhill.com/jp 2020年度 dunhillサッカー日本代表オフィシャルスーツSAMURAI BLUE Collection 4月24日(金)よりdunhill.comオンラインにて発売開始]-2020年4月24日</ref><ref>[https://www.fashion-press.net/news/30589 サッカー日本代表、歴代のオフィシャルスーツを紹介 - ダンヒルが手掛ける「勝負服」] - FASHION PRESS・2023年5月7日</ref> ::2000年から毎年契約継続中で、2023年で24年目。[[サッカー日本代表]]と[[U-23サッカー日本代表]]にスーツを提供する。 :*[[コナカ]](「DIFFERENCE」ブランドのスーツを展開、2023年7月6日 - 現在)<ref>[https://www.jfa.jp/news/00032433/ オーダースーツブランド「DIFFERENCE」を展開するコナカと「サッカー日本女子代表アパレルプロバイダー」契約を締結] - 日本サッカー協会・2023年7月6日</ref> ::[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン(サッカー日本女子代表)]]にスーツを提供する。 ===== 過去 ===== :*[[ワールド (企業)|ワールド]](2015年4月1日 - 2017年3月31日)<ref name="スポンサー1" /><ref name="fashion-press.net"/> :*[[ビームス]](2017年10月11日 - 2023年6月30日)<ref>[https://www.jfa.jp/news/00015271/ 株式会社ビームスと日本代表アパレルプロバイダー契約を締結~なでしこジャパンにオフィシャルスーツを提供] - 日本サッカー協会・2017年10月11日</ref> ::上記ブランドは過去[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン(サッカー日本女子代表)]]に公式スーツを提供していた。 ==== プロバイダー ==== :プロバイダーとは、日本代表が必要とする商品やサービスを提供する企業のこと。その他のプロバイダーは決定次第随時発表する。 ===== 契約中 ===== {{updated|2023年1月}} :*[[西川 (企業)|西川]](2015年4月1日 - 現在)(更新しているが、内容と期間未公表)<ref name="スポンサー1" /><ref>[https://www.jfa.jp/national_team/news/00014688/ U-16日本女子代表候補 AFC選手権前最後のトレーニングキャンプをスタート、日本代表プロバイダーの西川産業株式会社による睡眠レクチャー] - 日本サッカー協会公式サイト2017年8月10日</ref><ref>[https://www.nishikawa1566.com/news/news_file/file/20221109102341.pdf カタールで行われる世界大会出場のサッカー日本代表の宿舎に、西川の[エアーSX]マットレスと新モバイルマットを導入いたします] - 西川株式会社. 2022年11月09日</ref> ::敷き寝具やオーダーメイド枕、クッションなどの商品提供を通じて日本代表選手達のコンディショニングを眠りの面からサポートする<ref>[http://www.nishikawasangyo.co.jp/documents/jfa_150401.pdf 日本サッカー協会とプロバイダー契約を締結、寝具の提供を通じて日本代表チームをサポートいたします。] - 東京西川公式サイト プレスリリース2015年4月1日</ref>。 :*[[ウブロ]](2015年10月1日 - 現在)(更新しているが、内容と期間未公表) ::ウブロの腕時計日本代表モデル「ビッグ・バン ブルー ヴィクトリー」の提供を通じて日本代表チームを支援<ref>[https://www.jfa.jp/news/00007936/ スイスの高級腕時計ブランド、ウブロと日本代表プロバイダー契約を締結] - 日本サッカー協会・2015年11月10日</ref>。また日本代表に3度招集された選手はウブロから、選手名のイニシャルと背番号が裏面に刻印された時計が贈呈される<ref>[https://qoly.jp/2023/10/10/azqwdqu4-iks-1 日本代表に3回招集されると貰えるモノとは 槙野智章「裏にイニシャルと背番号が刻まれていて…」] - Qoly・2023年10月10日</ref>。 ==== マーケティングパートナー ==== :マーケティングパートナーとは、JFA活動(主に各日本代表)の放映権及びマーケティング・宣伝等に携わる企業のことである<ref name="日本代表マーケティング" />。日本がプロ化する前から広告代理店の[[電通]]と契約している。電通とは、テレビ放映権等で2001年頃は約60億円(複数年総額は不明)<ref name="kirisute">別冊宝島編集部編『サッカー日本代表斬り捨て御免!』、[[宝島社]]、2002年、p280-p286</ref>、2007年から2015年まで8年間総額240億円(1年間30億円)で契約していた<ref name="スポンサー2" />。その後の契約については非公開である<ref name="電通1" /><ref name="電通2" />。2012年時点では、サッカー日本男子A代表の放映権料は1試合当たり1億5000万円である<ref>[https://megalodon.jp/2012-1203-1103-33/www.zakzak.co.jp/smp/sports/soccer/news/20121201/soc1212010708000-s.htm ザックJ、2月にもう1試合 2億円以上入る“ドル箱興行”で協会も得-ZAKZAK2012年12月1日]</ref>。なお、[[2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選|ワールドカップアジア最終予選]]の放送権やマーケティング権がJFAにないため(つまり、W杯アジア最終予選の放送権収入なし)、[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ本大会]]前年のJFA収益は下がる傾向にある<ref name="2017年決算">[https://www.jfa.jp/news/00016679/ 2017年度決算、収入は2016年に次いで過去2番目、支出は過去最大の規模に-日本サッカー協会公式HP2018年03月24日]</ref>。 == 財務 == === 概要 === 『[[公益法人|公益財団法人]]』日本サッカー協会(以下JFAか協会と略すことあり)は、日本国内のサッカー及びサッカー文化の普及と促進、[[サッカー日本代表|A代表]]などの各種代表及び各年代別代表の代表強化に使うための資金を運用すべく設立を認められた組織である。従って、その目的に沿って資金運用を行っているか公開する義務があるため([[公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律|公益認定法21条、22条、39条]])<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=418AC0000000049#138 公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律 施行日:平成二十八年四月一日最終更新:平成二十六年六月十三日公布(平成二十六年法律第六十九号)改正] 電子政府の総合窓口 2018年3月20日</ref>、JFAの予算及び決算とその活動内容についてはJFA公式ウェブサイト<ref name="理事会・事業・予算" /> や機関紙で一般公開されている。同協会の予算や決算についてはJFA公式ウェブサイトの理事会報告(収支計算書1992年(平成4年)度頃までは決算書)を参照のこと。株式上場企業が毎年決算発表で公表する財務諸表の損益計算書に該当<ref name="理事会・事業・予算" />、日本代表などのJFAの全活動については同ウェブサイト内の事業計画・報告<ref name="理事会・事業・予算" /> で閲覧することが出来る。さらに財団法人時代まで日本サッカー協会の監督官庁だった[[文部科学省]]に行けば、同協会の財団法人時代(〜2012年3月31日)までの財務諸表を全て閲覧することができる。なお、2012年4月1日付で日本サッカー協会は[[公益法人|公益財団法人]]へ移行したため、同日をもって[[文部科学省]]から完全に独立した(財務諸表などを文部科学省に届ける必要がなくなった)<ref name="公益財団法人" />。前述の通り、JFAが文部科学省から完全に独立し公益財団法人になる以前よりJFAは独立採算制に既になっており、国の税金は一切入っていない。「日本代表グッズ販売」などの収益事業所得に対しての法人税、住民税及び事業税を国に支払っており、2018年度は計1300万円を支払う予定である<ref name="2018年度予算" />。2010年現在、[[スポーツ振興くじ|サッカーくじtoto]]から3億円以下程度の助成金が入るようになったが、これは2010年度でJFA全収入の3%以下でしかない([[スポーツ振興くじ|サッカーくじtoto]]の売上金は、全て運営元の[[独立行政法人]][[日本スポーツ振興センター]]に入り、売上金から当選払戻と経費等を除いた収益の4分の1が[[国庫]]納付金になり、4分の3がスポーツ振興費として各スポーツ団体等や地方公共団体に助成金として更に分配される)<ref name="スポーツ振興費分配">[https://www.jpnsport.go.jp/sinko/josei/tabid/61/Default.aspx スポーツくじ(toto・BIG)について>スポーツくじの収益の使途-独立行政法人日本スポーツ振興センター公式HP]</ref>。JFAの予算および決算、その活動<ref name="理事会・事業・予算">[https://www.jfa.jp/documents/ 理事会報告、事業計画・報告、予算書・決算書-JFA公式HP]</ref> についてはJFA公式ウェブサイト<ref name="理事会・事業・予算" /> や機関誌で公開されている。 日本政府による公益法人制度改革に伴い、公益認定されJFAは[[公益法人|公益財団法人]]となった。公益財団法人は、予算の50%以上を公益目的の事業に費やす必要がある。公益財団法人はこれまで通り、「日本代表戦やその他JFAが主催する大会等」のJFAの事業は、「サッカー普及活動」という公益目的の事業とみなされ非課税となる。但し、「日本代表グッズ販売」などは収益事業となり利益に対して課税される。「寄付金」は基本的に課税されない。寄付した法人や個人は所得控除が受けられるため、JFAは寄付を受けやすくなる。また、協会直轄の財産と認められるものは、税が軽減される。従って、最終的に、JFAが払う税金は、地方税7万円(利益に関係なく最低限支払う税金)と日本代表グッズ販売などの収益事業所得に対しての法人税等になる。しかし、もし、公益認定されず、一般財団法人となっていた場合には、JFAの全事業に対し、原則30%課税されるため、上記のようなこれまでの税金の優遇はほとんど受けられず、JFAの事業に支障が出ていた<ref>[http://public.ma-bank.net/?item=98 公益社団法人や公益財団法人のメリットは何ですか?-早わかり新公益法人制度]</ref>。もし、一般財団法人としても認められなかった場合は、株式会社になるしかないが、その場合は、当時のJFAと同じ活動は不可能で、最終的に解散となっていた可能性が高い。株式会社の場合は、税制の優遇は受けられず、法人税30%が課税されるため、毎年のJFA活動費(2011年度JFA支出165億3981万円)を捻出するために、[[日本サッカー協会ビル|JFAハウス]]をはじめとした総資産約140億円(2011年)のほとんどを手放し、さらに不採算部門(例:2010年度までの女子サッカーなど)をなくすなどしても、その部門で得ていた収入もなくなるため(寄付金は相手にメリットが全くないので激減あるいは皆無になる)、最終的にはJFAが解散していた可能性が高い<ref>[https://web.archive.org/web/20110217172841/http://sankei.jp.msn.com//affairs/news/110203/crm11020323410052-n1.htm [事件]【八百長メール】両国国技館も手放し…株式会社化なら日本相撲協会の存続不可能-MSN産経ニュース2011/2/3]</ref>。現在(2018年時点)、「日本代表グッズ販売」などの収益事業所得に対しての法人税の他、住民税及び事業税を支払っている(2018年度は、法人税・住民税・事業税計1300万円支払う予定)<ref name="2018年度予算" />。 === 後援会 === ==== 日本サッカー後援会 ==== :日本サッカー後援会とは、JFA及び関連団体のサッカー普及活動及び日本代表強化等の諸活動に対して、資金面の援助を行うJFA公認の団体のこと。 :日本サッカー後援会は[[1977年]]に発足し、2013年4月に一般財団法人化された。所在地は、[[トヨタ東京ビル]]。評議員5名、役員12名の計17名で運営され(別組織なので、JFA評議員及び役員とは別の人員で運営)、2018年3月31日時点では会長が荒蒔康一郎、理事長が[[松本育夫]]<ref name="後援会1">[https://www.jssc-soccer.jp/ 日本サッカー後援会公式HP]</ref>。会員制度は、個人会員が年会費1万5千円、家族会員が年会費1万3千円、法人会員が年会費1口5万円で、会員期間は1年間(1月1日 - 12月31日。途中加入は加入時点から12月31日まで)で、募集期間はだいたい前年の11月6日頃受付開始。特典は[[サッカー日本代表|日本代表]]国内試合優先有料販売や代表戦除くJFA主催国内有料試合の自由席への無料入場等<ref name="後援会2">[https://www.jfa.jp/football_family/jssc/ 日本サッカー後援会-JFA公式HP]</ref>。詳細は、JFA公式HPの日本サッカー後援会ページ<ref name="後援会2" /> か日本サッカー後援会公式HP<ref name="後援会1" /> 参照のこと。2012年5月末時点では個人会員が4865人で、法人会員が40社だった。日本サッカー後援会は、2012年6月6日時点までの過去35年間で12億円超の資金援助をJFAに対し行っており<ref>[https://megalodon.jp/2012-0606-1539-43/hochi.yomiuri.co.jp/soccer/etc/news/20120605-OHT1T00215.htm 松本理事長、日本サッカー後援会の知名度UP訴え] - スポーツ報知・2012年6月6日</ref>、2011年は[[サッカー日本代表|日本代表]]に4000万円、[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン]]に1000万円、[[フットサル日本代表]]に500万円の支援を行った<ref>[https://megalodon.jp/2012-0606-1540-12/www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/06/06/kiji/K20120606003402410.html 会員になって代表サポートして!後援会の目標は6000人] - スポニチアネックス・2012年6月6日</ref>。2017年度は、JFA、[[日本女子サッカーリーグ|なでしこリーグ]]、[[日本フットボールリーグ|JFL]]、[[日本フットサル連盟]]、[[日本ビーチサッカー連盟]]、[[日本障がい者サッカー連盟]]、[[福島県]]([[Jヴィレッジ]]復興寄付金)の経費支援を行った<ref name="後援会2" />。 === 助成金 === :2018年現在、JFA経常収益で5番目の割合(2017年度14億3335万437円で約7%)の「受け取り補助金等」は、「受取補助金等」と「受取寄附金復興支援分」の2つに分かれている。「受取補助金等」は、FIFA及び[[日本オリンピック委員会]](JOC)と[[スポーツ振興くじ|サッカーくじtoto]]からの助成金である。FIFAは、FIFAサッカー発展プロジェクトにより(1999年から2015年までがFIFAゴールプロジェクト、2016年5月9日からはFIFAフォワードプログラム。([[国際サッカー連盟#FIFAサッカー発展プロジェクト]]の項参照))、助成金をFIFA加盟全協会(2018年211協会)に分配し財政支援している。JFAは、2009年に[[Jヴィレッジ]]内のJFAメディカルセンター設置の為に、FIFAゴールプロジェクトにより、FIFAから40万USドル(約4000万円)の助成金を受領した(残りの整備費約3億7000万円と運営費及び維持費は、JFA負担)<ref>[https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/k20071207_6.pdf (協議)資料№6]、日本サッカー協会公式HP、2007年12月7日配信</ref><ref>[https://www.jfa.jp/football_family/medical/jmc.html JFAメディカルセンター]、日本サッカー協会公式HP</ref>。FIFAフォワードプログラムにより、[[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ]]の参加チームの旅費を、FIFAが支援している<ref>[https://www.fifa.com/news/y=2018/m=3/news=new-youth-project-takes-roots-in-japan.html New youth project takes roots in Japan] FIFA公式HP、2018年3月6日</ref>。また、[[スポーツ振興くじ|サッカーくじtoto]]から3億円以下程度の助成金がJFAに入る。 ==== 経緯 ==== [[日本プロサッカーリーグ|1993年(平成5年)のプロ化]]以前は、協会は長年にわたり[[黒字と赤字|赤字]]続きで[[自転車操業]]であった。1970年代後半の財務の規模は10億円に満たず、収入は[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]などの競技会開催収入が大部分を占めていた<ref name="kirisute" />。[[サッカー日本代表|日本代表]]海外遠征費を捻出できず、旅行代理店への支払いを[[手形]]で行うことがあったほどである<ref name="スポンサー2" /><ref name="kirisute" />。当然、協会から出る給料はなく、会長を始め協会役員は無給で働いていた。協会役員の多くがアマチュア全国リーグ[[日本サッカーリーグ]]所属クラブからの出向であり、給料は企業が出していた。従って、役員は経済的余裕がある者しか務まらなかった<ref name="kirisute" />。なお、会長をはじめ、協会(JFA)役員が無給という状況はプロリーグ化以降も、一部は続いた。2001年ごろ、副会長の下の専務理事が有給となり(会長、副会長は無給)<ref name="kirisute" />、2002年7月、プロ化後9年目の第10代[[川淵三郎]]会長からJFA会長に3000万円ほどの給料が支給されるようになった。また、1969年時点では協会職員は5〜6名で、給料は年齢×1000円しかなく、他の職を兼務し、その収入で生計を立てていた<ref name="スポンサー2" />。 財政の確立が至上命令だった協会(JFA)は1976年、新日本製鐵社長の[[平井富三郎]]を第5代会長に迎えた<ref name="日本サッカーはほんとうに強くなったのか224228">[[大住良之]]、[[後藤健生]]『日本サッカーはほんとうに強くなったのか』、[[中央公論新社]]、2000年、p224-228</ref>。平井は本業の社長業で多忙だったため、[[長沼健]]専務理事が実質的リーダーとして、さまざまな改革を断行した。協会の運営を円滑に進めるため、古河の経理部門にいた[[小倉純二]]を抜擢し<ref name="supportista">[http://supportista.jp/news/1448 犬飼会長就任は「長沼時代」の終焉だ/サッカー瞬刊誌 サポティスタ]</ref>、オフィシャルサプライヤー制度を開始。[[デサント]]、[[アシックス]]、[[プーマ]]と契約した<ref name="進化する日本サッカー5659">忠鉢信一『進化する日本サッカー』、[[集英社]]、2001年、56-59頁</ref>。[[1977年]]に結成した「日本サッカー後援会」<ref>『日本サッカーはほんとうに強くなったのか』、p232、242</ref><ref>[http://www.nadeshikoleague.jp/fan_zone/bu/talk/051/index.html 日本女子サッカーリーグ -お楽しみ-]</ref> の会費と[[1978年]]に開始した個人登録制度(登録料徴収)、国際試合の興行収入、[[日本体育協会]]からの[[補助金]]と合わせ財政基盤確立をもたらした<ref name="進化する日本サッカー5659"/>。[[1977年]](昭和52年)9月[[ペレ]]の引退試合のために、当時[[ペレ]]、[[ベッケンバウアー]]、[[キナーリヤ]]など世界のスーパースターを擁していた[[ニューヨーク・コスモス]]が来日し、[[古河電気工業サッカー部|古河電工]]([[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフ市原・千葉]]の前身)、[[サッカー日本代表|日本代表]](日本代表との試合は[[釜本邦茂]][[サッカー日本代表|日本代表]]引退試合でもあった。当時は日本代表の試合でも、ほとんどテレビ中継がなかったなか、全国にテレビ中継された)と連戦し、人気を博した<ref>電通が初めて手掛けたサッカーの興行(『[[週刊サッカーマガジン|サッカーマガジン]]』2008年[[5月20日]]号、[[ベースボール・マガジン社]]、53-61頁)</ref>。この際に、広告代理店の[[電通]]が清涼飲料水のCMに試合の宣伝を乗せ、宣伝費を使わない新手法を編み出し、さらに、一連のゲームを「ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン」と名付けるなどした結果、観衆6万5000人と国立競技場が初めて満員になり、7000万円の純益を出した<ref name="日本サッカーはほんとうに強くなったのか224228"/><ref>[https://megalodon.jp/2012-1129-1530-38/sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/toyotacup/2004/column/200412/at00003220.html 日本のスポーツイベント黎明期を支えた男の回想(1/3)トヨタカップを呼んだ男たち 第3回 入江雄三] - スポーツナビ・2004年12月6日</ref><ref>『サッカーの物語』田中孝一、18頁</ref>。以降、日本サッカー協会は赤字体質から脱却した<ref name="日本サッカーはほんとうに強くなったのか224228"/><ref>[https://megalodon.jp/2012-1129-1627-41/sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/toyotacup/2004/column/200412/at00003275.html トヨタカップから2002年への長き道のり(3/3)トヨタカップを呼んだ男たち 第5回 長沼健] - スポーツナビ・2004年12月10日</ref><ref>『サッカー批評』20号、p50-57、双葉社<br />『月刊グラン』2003年10月号、p37<br />『日本は、サッカーの国になれたか。電通の格闘。』濱口博行、[[朝日新聞出版]]、2010年、p50-62</ref>。この1977年を境に協会は[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]発足直前まで一度も赤字にならず、Jリーグ発足直前の収入は約40億円となった。 また、1978年に開始した[[キリンカップサッカー|ジャパンカップ]]が赤字だったため、当時、[[渋谷区]][[神南]]の[[岸記念体育館]]の一室にあった協会の部屋の窓から線路を挟んで目と鼻の先にかつて本社のあったキリンビールに、長沼が「ああいう(大きな)会社に支援をお願いできないものか」と思案し、当時の同社・[[小西秀次]]社長に直談判した。結果、冠スポンサーとなり、同大会は[[1980年]]第3回大会から[[キリンカップサッカー]]と名称変更となった<ref>『サッカー批評』37号、2008年1月、p34-35、38号、p36-42<br />『日本は、サッカーの国になれたか。電通の格闘。』、p65-68<br />[http://t.pia.jp/feature/sports/japan-soccer/060511index.html チケットぴあ] - JAPANサッカーを支える企業。</ref>。以降、[[キリンホールディングス]]はJFAの公式スポンサーを続けている。 1993年の[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]誕生後、Jリーグにより競技力が向上し、それが[[サッカー日本代表|日本代表]]強化につながり、強化されたことで、観客が増加、入場料収入が増大し、[[サッカー日本代表|日本代表]]戦のブランド価値が生まれ、それによりスポンサーとテレビ局が集まるという正のサイクルが生まれた結果、収入が飛躍的に増大。例えば、Jリーグの前哨戦[[Jリーグカップ|Jリーグヤマザキナビスコカップ]]が行われた1992年(平成4年)度収入は約40億円(総資産は14億円程度)であったが、2002年(平成14年)度収入は約125億円と10年で3倍強に増え、2012年(平成24年)度収入は約165億円(総資産は140億円程度)と見込まれるなど、20年で4倍以上に増えた。収入が増えたことで、JFA事務局のある施設はグレードアップし、JFA職員の数も増えた。1992年当初、JFA事務局は[[渋谷区]][[神南]]の[[岸記念体育館]]の一室を間借りし、JFA職員は15人だったが、2012年ではJFA事務局は[[日本サッカー協会ビル|JFAハウス]]というJFA自前のビルにあり、JFA職員は200人超を数える<ref>[http://www.jfa.or.jp/jfa/column/2/2012/20120624.html 小倉純二日本サッカー協会会長コラム「今日もサッカー日和」第36回退任のごあいさつ-日本サッカー協会公式HP 2012年6月24日]</ref>。 [[2010年]](平成22年)度予算は前年度よりも約14億円多い約176億円。[[2010 FIFAワールドカップ|南アフリカW杯]]ベスト4を想定し、[[国際サッカー連盟|FIFA]]からの賞金(ベスト4賞金1800万ドル〈約16億円〉。全32出場国が受け取るグループリーグ全3試合の出場給は800万ドル〈約7億円〉で、同じく全出場国が受け取る経費が100万ドル(約8837万円))<ref>[https://megalodon.jp/2010-0315-0725-07/www.sanspo.com/soccer/news/091205/scc0912051054005-n1.htm 南アW杯、優勝賞金26億4000万円]</ref> などの収入約28億円、滞在費などの支出約15億円を計上した。なお、グループリーグ敗退の場合(その場合は、FIFAから貰う賞金はグループリーグ全3試合の出場給と経費のみ)、収入は11億円、支出は9億円と見込まれていた<ref>[https://megalodon.jp/2010-0427-2259-48/www.asahi.com/sports/update/0318/TKY201003180462.html 「ワールドカップ4強」強気の予算増 日本サッカー協会]</ref>。実際は南アフリカW杯ベスト16で、FIFAから受け取った賞金および経費総額が900万ドルで、南アフリカW杯総収入は約11億円だったが、南アフリカW杯で日本代表選手に支払った給料や賞与(W杯出場権獲得ボーナス除く)が総額約2億5000万円。これにスイスでの事前キャンプの運営費、ベースキャンプ地に設置したメディアセンターの建設費、協会関係者の出張費等を合わせた南アフリカW杯での総支出は12億円で、南アフリカW杯単体としては赤字となり、2010年度決算でも日本サッカー協会は[[黒字と赤字|赤字]]となった<ref name="2010年度決算">[https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/hyogi20110619_02.pdf 2010年度(2010年4月1日~2011年3月31日)収支計算書総括表] JFA公式HP</ref><ref name="日本代表2010年度給料等" />。 [[2011年]](平成23年)度決算は、事業活動や投資活動を合わせた収入が165億5227万円、支出が165億3981万円で約1250万円の黒字を計上し、2年ぶりの黒字決算となった。[[東日本大震災]]の復興支援で支出が増えたが、[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン]]が出場した2012年2月29日から3月7日に開催の[[アルガルヴェ・カップ2012|アルガルベ杯]]など海外遠征のテレビ放映権を国内で販売でき、さらに復興支援寄付のおかげで収入が増えたため、[[黒字と赤字|黒字]]となった。震災の復興支援特別会計は個人寄付や協賛社の寄付、[[欧州サッカー連盟|欧州サッカー連盟(UEFA)]]の義援金などを含めた収入合計が3億5400万円あり、被災地のフットボールセンターや被災クラブの本拠スタジアムの改修などに充てられた<ref>[https://megalodon.jp/2012-0701-0714-29/www.sanspo.com/soccer/news/20120624/dom12062420540005-n1.html サッカー協会、11年度は約1250万円黒字-サンスポ2012年6月24日]</ref>。部門別収支では、[[2011 FIFA女子ワールドカップ|2011年独女子W杯]]のFIFAからの優勝賞金100万ドル(2011年7月11日のレートで8013万5千円)のため、[[女子サッカー]]が初めてプラスに転じた<ref name="2011年度決算記事">[http://jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2012062400193 11年度決算、2年ぶり黒字=なでしこ効果も-サッカー協会-時事ドットコム2012年6月24日]</ref>。 2013年度からは事業年度を3月決算から12月決算に変更した<ref name="2011年度決算記事" />。 2014年度予算では、[[2014 FIFAワールドカップ|2014年ブラジルワールドカップ]]のベスト8進出を想定し、ベスト8賞金1400万ドルと大会準備金150万ドル計1550万ドル(約16億5400万円)のFIFAからの収入<ref name="2018と2014W杯賞金比較" /><ref name="2014W杯賞金">{{cite web|url=http://www.fifa.com/worldcup/news/y=2013/m=12/news=contribution-pool-for-fifa-world-cup-participants-per-cent-2239443.html|title=Contribution pool for FIFA World Cup participants up by 37 per cent|publisher=FIFA.com|language=英語|date=2013-12-05|accessdate=2014-05-26}}</ref> を盛り込み、収入約183億7300万円、支出約179億6100万円の収入・支出共に当時の過去最大額で計上したが、2014年W杯はグループリーグ敗退で終了し、800万ドルと大会準備金150万ドル計950万ドル(約9億6919万円)の収入に留まった<ref name="2014W杯賞金" />。ところが、W杯関連のロイヤリティ収入が大幅に増加し、予算外だったW杯前の[[サッカーコスタリカ代表|コスタリカ戦]]、[[サッカーザンビア代表|ザンビア戦]]、W杯後の[[サッカージャマイカ代表|ジャマイカ戦]]、[[サッカーブラジル代表|ブラジル戦]]の各親善試合4試合の収入と合わせ、収入が予想外に上がった。さらに、[[AFC U-22選手権2013|U-22アジアカップ(2014年1月開催)]]、[[2014年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア大会]]、[[AFC U-19選手権2014|AFC U-19選手権]]といった各年代別大会が軒並み想定外の低調な成績に終わったことで、選手への大会ボーナス(A男子代表のW杯、U-23男子アジア大会)や遠征費などの諸経費が大幅に下がった。最終的には、収入約188億8000万円、支出約167億7000万円となり、皮肉なことに約21億円の黒字となった<ref>[https://web.archive.org/web/20180311225128/https://www.footballchannel.jp/2015/03/30/post79888/ JFA、約21億円の黒字も…。W杯での早期敗退で選手へのボーナス減が影響-フットボールチャンネル2015年03月30日]</ref>。 日本代表はロシアワールドカップベスト16の成績だったので、ロシアワールドカップでのFIFAからの収入は、賞金1200万ドル(約13億3009万8000円)と大会準備金150万ドル(約1億6629万3000円)計1350万ドル(約14億9661万円)であった<ref name="2018と2014W杯賞金比較" />。 2020年5月24日時点では、2018年度決算が正味財産ベースで収入が約234億円(予算比-0.6億円)、支出は224億円(予算比-12億円)で収支ともJFA史上最高額となっている(損益に該当する当期正味増減額は+9.8億円で予算比+11億円)<ref name="2018年度決算">[https://www.jfa.jp/about_jfa/news/00020848/ 2018年度決算、収支ともに過去最大の規模に~2018年度定時評議員会を開催~] -JFA公式HP2019年03月25日</ref>。 === 事業 === 先述したJFAの収入でJFAの全活動の費用(年代別日本代表、フットサル、ビーチサッカーの各日本代表及び大学選抜などの監督他代表スタッフおよびA代表選手の給料([[サッカー日本代表#プロ化後]]、[[サッカー日本代表#プロ化後 2]]の項参照)<ref name="日本代表2010年度給料等">[http://www.jfa.or.jp/jfa/topics/2011/25.html 日本代表選手ペイメント問題に対する当協会の考え-JFA公式HP2011年2月22日]</ref>、協会役員及び職員の給料、各日本代表の国内および海外遠征費と滞在費等代表関連事業、1種(年齢制限なし)から育成年代までの競技会開催、[[JFAアカデミー福島|JFAアカデミー]]などの育成事業や指導者および審判養成や[[JFAこころのプロジェクト]]等の指導普及事業等)<ref name="2010年度決算" /> が賄われている(JFAは独立採算制)。2018年7月26日、[[2020年東京オリンピックのサッカー競技|2020年東京五輪]]に出場する[[U-23サッカー日本代表|U-23日本]](2018年時点ではU-21日本)監督の[[森保一]]が、日本五輪代表監督を兼任したまま、ロシアW杯日本代表コーチから昇格する形で、日本代表監督に年俸約1億5000万円<ref>[https://web.archive.org/web/20180726161056/https://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/201807260000003.html 誕生!森保監督に2年3億、サポート役西野氏浮上も](日刊スポーツ、2018年7月26日配信記事(配信日に閲覧))</ref> で4年契約で就任した<ref>[https://web.archive.org/web/20180726174152/https://www.football-zone.net/archives/124584 森保“兼任監督”の任期は「4年」 田嶋会長、22年W杯まで「やってもらいたい」と明言](フットボールゾーン2018年7月26日配信記事(配信日に閲覧))</ref>(なお、東京五輪男子代表監督就任時の年俸は4800万円だった<ref>[https://web.archive.org/web/20180726165020/https://news.nifty.com/article/sports/soccer/12136-420813/ 東京五輪の代表監督に森保一氏 年俸は4800万円で歴代五輪監督の「倍」に](ニフティニュース2017年11月13日配信記事、2018年7月27日閲覧)</ref>)。日本A代表監督と日本五輪代表監督を兼任するのは、[[フィリップ・トルシエ]]に次いで2人目で、日本人監督としては初めてである。また、初の外国人日本代表監督の[[ハンス・オフト]]以降では、W杯後の新日本代表発足時に日本人監督が就くのは初めてである<ref>[https://web.archive.org/web/20180726223852/https://www.hochi.co.jp/soccer/japan/20180727-OHT1T50024.html 森保ジャパン、西野サッカー「進化させる」五輪と兼任カタールW杯まで任期4年](スポーツ報知2018年7月27日配信記事、2018年7月27日閲覧)</ref>。 2012年時点で、日本代表の1週間程度の海外遠征費は5000万円程度必要である<ref>[https://megalodon.jp/2013-0102-2311-58/www.tokyo-sports.co.jp/sports/65310/ ザックジャパン“金欠”で欧州遠征白紙-東スポweb2012年12月25日]</ref>。 2014年時点では、日本代表が国内親善試合を申し込む際に、JFAが対戦国に支払う出場給は強豪国で2億ないし3億円であり、さらに、移動費(飛行機代含め)、宿泊費等も全てJFAが負担する。例えば、2014年の[[FIFAランキング|FIFAランク]]1位[[サッカードイツ代表|ドイツ]]や同年のFIFAランク9位[[サッカースペイン代表|スペイン]]などFIFAランク上位国を日本に呼ぶ場合は、上記よりさらに費用がかかるという<ref>[https://web.archive.org/web/20180404035439/https://www.oricon.co.jp/news/2037550/full/ サッカー日本代表、親善試合はほぼ自腹 対戦国に「2~3億円払う」]-ORICON NEWS、2014年5月17日</ref>。 先述の通り、2018年度はロシアW杯ベスト8を想定して、収入を234億9001万1千円、支出を236億4764万2千円と収入・支出の両方で過去最大額で計上した<ref name="2018年度予算" />。実際は、日本代表はロシアW杯ベスト16の成績だったので、ロシアW杯でのFIFAからの収入は、賞金1200万ドル(約13億3009万8000円)と大会準備金150万ドル(約1億6629万3000円)計1350万ドル(約14億9661万円)であったが<ref name="2018と2014W杯賞金比較" />、第97回と第98回の2大会分の天皇杯決勝の入場料収入を計上したので競技会開催事業の収入が予算比で増額となり、更に日本代表関連の運営経費や遠征経費の削減に努めたことで日本代表戦関連の支出が抑えられ、2018年度決算は収入が約234億円、支出は224億円と収支ともJFA史上最高額となった<ref name="2018年度決算" />。 ;公益目的事業(サッカー普及振興事業) :以下の活動は「サッカー普及活動」という公益目的事業のため、非課税(以下の事業の記述は、JFA2018年度事業計画書<ref>[https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/2018_keikaku.pdf 2018年度事業計画-日本サッカー協会公式HP]</ref> に基づく)。 ==== 日本代表 ==== :*[[サッカー日本代表|日本A代表]] ::2018年は[[2018 FIFAワールドカップ|2018年ロシアW杯]]及び合宿(決勝翌日迄で47日)、親善試合及び合宿6試合(約55日) :*[[U-23サッカー日本代表]] ::[[オリンピックのサッカー競技|五輪本大会]]時にU-23日本。予選が1年前なら予選時はU-22日本。2018年は[[AFC U-23選手権2018]]及び合宿(準々決勝翌日までで19日)、南米、欧州などの海外遠征3回(計39日)、[[アジア競技大会サッカー競技|2018年アジア競技大会]]及び合宿(22日) ::他、[[U-20サッカー日本代表|U-19日本]]、U-18日本とU-17日本(今は、直接目指す年代別世界大会が無くても、1年ごとに年代別日本代表を結成)、[[U-17サッカー日本代表|U-16日本]]、U-15日本、大学選抜男女別、[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン]]、年代別日本女子代表、フットサル、ビーチサッカーの各日本代表など2018年度は、計20の代表活動がある。 ==== 競技会 ==== :*[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯全日本サッカー選手権大会]]等の国内主催大会 ::[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]や[[日本女子サッカーリーグ|なでしこリーグ]]やFリーグなど2018年度は20。 :*全国選抜フットサル大会等の国内後援大会 ::全国自治体職員サッカー選手権大会など2018年度は11。 :*[[AFCチャンピオンズリーグ]]等の国際競技会(国内開催、派遣) ::日本高校選抜欧州遠征など2018年度は8。 ==== 指導 ==== :*S級コーチ養成講習会等の指導者・審判育成及びサッカー普及活動・国際貢献及び交流、施設整備 ::各種指導者・審判講習会や公認指導者・審判インストラクターのAFC加盟協会への派遣、[[JFAサッカー施設整備助成事業]]などの施設整備など2018年度は146。 ==== 社会貢献 ==== :*JFAこころのプロジェクト等の社会貢献事業 ::東日本大震災及び熊本地震復興支援活動や国連グローバル・コンパクトなど2018年度は5。 ==== ミュージアム ==== :*[[日本サッカーミュージアム]]の運営 ::日本サッカー界の歩みを貴重な写真や映像等で振り返ることができるようにしている。また、歴代のトロフィーやメダル、ユニフォームなどを展示。 ;収益事業等 :以下の活動は、収益事業の為、収益事業所得に対し課税される。 ==== 建物の賃貸等 ==== [[日本サッカー協会ビル|日本サッカー協会ビル(JFAハウス)]]の賃貸事業(空いている部屋の貸し出し)や日本代表グッズの販売等。 ==== 登録・オンラインシステム ==== 選手・チーム等の登録(JFAスクエア、KICKOFF等)<ref>[https://www.jfa.jp/registration/ JFAへの登録-日本サッカー協会公式HP]</ref><ref>[https://www.jfa.jp/football_family/square/ チームと選手・指導者を繋ぐマッチングサイト JFAスクエア-日本サッカー協会公式HP]</ref> 及び地域・都道府県サッカー協会とのシステムの維持・開発に関わる事業を行う。 == 新国立競技場推進活動 == 8万人規模(2019年現在日本には一つもない)の[[スタジアム]]の新建設案としては、かつて東京都心以外で[[梅田北ヤードスタジアム構想]](大阪)があったが、実現化は停滞した。 [[小倉純二]]協会名誉会長は、2012年の[[国立競技場のデザインコンペ (2012年)|新国立競技場 国際デザイン・コンクール]]の審査員を務めるなど新国立の建設のあり方に深く関わってきた。共に[[国立競技場#建設の経緯|国立競技場将来構想有識者会議]]の一員だった[[森喜朗]]元首相は、小倉名誉会長の叙勲を祝う会に出席するなど親しい関係にある(どちらも[[早稲田大学|早大]]出身)<ref>[http://sportsspecial.mainichi.jp/news/20131026k0000m050042000c.html 新国立競技場問題:「とんでもない」森元首相が苦言] 毎日新聞 2013年10月25日</ref>。 小倉名誉会長は[[2012年]]の有識者会議において、[[2018 FIFAワールドカップ|2018年]]のロシア大会が9万人、[[2022 FIFAワールドカップ|2022年]]のカタール大会が86,200人の競技場計画を持つ例を引き合いに、8万人規模の収容人数希望を訴えた<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/newstadium/Portals/0/oshirase/20150115_gyoukakuhearing_shitsumonshohenokaitou/20150109_10_20140806_setsumeikaigaiyou.pdf#page=3 有識者会議及びワーキンググループでの検討経緯等説明 【小倉氏】]</ref>{{Efn|ただし、万が一将来的に8万5000人や9万人と条件が一層厳しくなった場合は、8万人ギリギリの競技場では誘致立候補の対象外となるかもしれないという見方もある。}}。2014年にも「新しい国立競技場ができれば、日本もいい勝負になるかもしれない」と語るなど、新国立を将来の[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]招致の切り札と考えてきた<ref>[https://www.daily.co.jp/soccer/2014/06/25/0007084450.shtml カタールW杯 日本代替開催も(1/2)] デイリースポーツ 2014年6月25日</ref>。[[2015年]]5月20日、新国立の計画の見直しが検討され[[日本スポーツ振興センター]]が「まだ何も決まっていない」と説明した際にも「ウソをつくのはいけない」「大幅な修正は国際的な信用を失う」と現行案通り建設するようにせまった<ref>[http://www.hochi.co.jp/topics/20150521-OHT1T50055.html 新国立「ウソいけない」サッカー協会、屋根付き8万人要求] スポーツ報知 2015年5月20日</ref>。その一方で、既存の[[大分スポーツ公園総合競技場]]や[[豊田スタジアム]]を例に挙げ、開閉式スタジアムにおける芝育成の困難さを言及もしていた<ref name="ogura2">[http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/272983/2/ 国立競技場の改築は実現不可能!? 2/2] - 東スポ、2014年6月3日</ref>。 旧国立競技場はサッカー関係者にとって聖地ともいえる場所だが、他のスポーツ関係者と異なってサッカー業界やサッカー系のメディアは口を噤んだ状態を続けた<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/10341905/?p=2 新国立競技場建設問題。サッカー界はなぜ黙っているのか] livedoor news 2015年7月13日</ref>。 [[安倍晋三]]首相による[[ザハ・ハディッド]]案白紙撤回後の7月28日、[[大仁邦彌]]協会会長は「8万人」「臨場感を出すための可動席」と共に、従来要求していた開閉式屋根{{Refnest|[[三菱重工業]]レジャー流通施設部の営業マン時代に大仁自身が扱っていたため、[[可動席]]・[[開閉式屋根]]ともに詳しい<ref>[https://www.jfa.jp/about_jfa/president/biography.html 大仁会長バイオグラフィー] - 日本サッカー協会</ref>。}}でなく「観客席を覆う屋根」を[[遠藤利明]]五輪相に直訴した<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150728/k10010169321000.html 日本サッカー協会会長「新国立は8万人収容に」] NHKニュース 2015年7月28日</ref>。 新国立の計画見直しにおいてスポーツ界では明暗が分かれた。限られた面積の問題のため多くのアスリートが要望していた常設サブトラックの設置は見送られた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150731-OYT1T50030.html 新国立競技場、常設のサブトラック断念…政府] 読売新聞 2015年7月31日</ref> 一方で、サッカー協会が要望していた8万人規模は維持された<ref>[http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/politics/politics/1-0161979.html 新国立、開閉式屋根を断念 工期短縮、8万人は維持] 北海道新聞 2015年7月28日{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref>。一方、[[幕張メッセ]]などで知られる建築家の[[槙文彦]]も、競技場の大規模化に苦言を呈した<ref>[http://dd.hokkaido-np.co.jp/sports/sports/cup/1-0162589.html 新国立「小さい競技場がいい」 建築家の槙文彦さんらが見解] 北海道新聞 2015年7月30日</ref>。新国立は陸上に特化し、別途サッカー場は湾岸地区に新設するべきという意見も出ている<ref>[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2015/07/25/kiji/K20150725010803720.html 建築士・森山氏、旧国立競技場の復刻提案「費用増大しない」] スポニチ 2015年7月25日</ref>。[[日本サッカー協会#収入内訳およびJFA公式スポンサー|協会のスポンサー]]<ref>[https://twitter.com/asahi_soccer_pr @asahi_soccer_pr]</ref> である朝日新聞は、ザハ案に反対を表明していた専門家の中にもW杯招致を考慮すれば8万人規模の常設席は必要との声があるとした<ref>[http://www.asahi.com/articles/DA3S11882984.html (フォーラム)新国立競技場 身の丈に合う建物を] 朝日新聞デジタル 2015年7月27日 快適なスポーツ空間に 順天堂大客員教授(スポーツ政策論)・[[鈴木知幸]]さん</ref>。 8月6日、元女子マラソンの[[高橋尚子]]がオリンピック・パラリンピックの遠藤担当相と意見交換をし、高橋は「2020年にタイム(記録)が出せれば、必ずそれは選手にも残るし広がるし、その後も選手が東京のグラウンドで大会をしたいと思うはず」として記録が出やすい競技場とサブトラックの常設化を要望<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/society/306268 五輪相 高橋尚子氏と「新国立」で意見交換] 日本テレビ 2015年8月6日</ref>。計画の再考を求めてきた建築家グループも同日に遠藤担当相と意見交換し、[[大野秀敏]]は陸上中心かサッカー中心か選ぶように要請。槙は8万人規模では、災害などで避難誘導するのは難しいことを訴えた<ref>[http://mainichi.jp/sports/news/20150807k0000m050054000c.html 東京五輪:槙氏「新国立競技場は5万〜6万人規模に」訴え] 毎日新聞 2015年8月6日</ref>。 日本での男子W杯開催誘致は早くても19年後と言われ、その頃の客席規模の条件は変更されているかもしれないとの指摘もあった<ref>[http://www.nikkansports.com/general/news/1521705.html 岡田武史氏が新国立提言「先より当面考えれば」] 日刊スポーツ 2015年8月12日</ref><ref>[http://mainichi.jp/opinion/news/20150816k0000m070097000c.html 社説:新国立競技場 納得できる機能に絞れ] 毎日新聞 2015年8月16日</ref>。しかし、8月28日の整備計画では日本サッカー協会の要望を考慮して客席増設で8万人に対応できる形で決着した(東京五輪時の収容人数は6万8千人)<ref>[http://jp.wsj.com/articles/JJ11065934168978433475719171277413321330707 新国立工費上限は1550億円に=冷暖房見送り、収容6万8000人—政府] 時事通信 2015年8月28日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 関連項目 == * [[DAZN]] * [[日本のスポーツ]] * [[日本のサッカー]] * [[:Category:日本のサッカー選手|日本のサッカー選手]] * [[:Category:日本のサッカー大会|日本のサッカー大会]] * [[:Category:日本のサッカークラブ|日本のサッカークラブ]] * [[:Category:日本のサッカー競技施設|日本のサッカー競技施設]] * [[国際サッカー連盟]](FIFA) * [[アジアサッカー連盟]](AFC) * [[東アジアサッカー連盟]](EAFF) == 外部リンク == * [https://www.jfa.jp/ 公式ウェブサイト] <small>{{in lang|ja|en}}</small> * [https://www.jfa.jp/sns_list/ JFA公式ソーシャルメディア一覧] - JFA {{日本のサッカー}} {{都道府県サッカー協会}} {{日本サッカー協会歴代会長}} {{東アジアサッカー連盟}} {{アジアのサッカー協会}} {{グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワーク会員}} {{歴代の新語・流行語大賞の受賞者 (年間大賞選定以後・2011-2030)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんさつかきようかい}} [[Category:日本サッカー協会|*]] [[Category:AFC]] [[Category:公益財団法人 (内閣総理大臣認定)]] [[Category:公益財団法人 (スポーツ関係)]] [[Category:文京区の公益法人]] [[Category:本郷]] [[Category:日本の国内競技連盟|さつかきようかい]] [[Category:皇族を奉戴する日本の組織|さつかきようかい]] [[Category:文京区のスポーツ]] [[Category:1921年設立の組織]]
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8,800
第6族元素
第6族元素(だいろくぞくげんそ)は、周期表において第6族に属するクロム・モリブデン・タングステン・シーボーギウムのこと。クロム族元素と呼ばれることもある。全て金属元素(遷移金属)であり、単体での融点、沸点が非常に高く、硬い。 閉殻していないd軌道を持ち、遷移元素として取り扱われる。 第6族元素では価電子および内殻電子の電子構造は周期により異なる。 クロムは岩石圏の0.02%を占め、主にクロム鉄鉱FeCr2O4より製造される。これを電気炉で直接還元するとフェロクロムとなり、多くがそのままステンレス鋼や工具用の鋼として利用される。モリブデンは岩石圏の1.5×10%を占め、主に硫化物(輝水鉛鉱 MoS2)として産出する。主に鋼やタングステンフィラメントの添加物として利用される。タングステンは岩石圏の1.6×10%を占め、過タングステン酸塩(CaWO4ないしはFeWO4とMnWO4の混晶)の鉱石より製造され、そのほとんど(およそ90%)が工具用鋼の製造に利用される。 錯体化合物まで含めると、クロムは-2,-1,0,+1,+2,+3,+4,+5,+6の酸化数を取りうる。同様にモリブデンは-2, 0,+1,+2,+3,+4,+5,+6、タングステンは0, +2,+3,+4,+5,+6の酸化数状態をとる。中でもクロムは3価Cr(+3)の酸化状態は自由エネルギーが最も低く極めて安定あり、高次の酸化状態である6価Cr(+6)は容易に還元される(言い換えると酸化力が強い)。一方、モリブデンやタングステンはむしろ高次の酸化数状態が安定である。 単体のクロムは稠密安定な酸化皮膜を形成する為、酸化還元電位から期待される強い還元作用を示さない場合が多い。たとえばクロムは塩酸あるいは硫酸に対して徐々にイオン化し溶解するが、不動態を形成するために硝酸とは反応しない。モリブデンやタングステンはむしろ酸化力の弱い酸とは容易に反応しない。高温では反応性は増大し単体のクロム、モリブデン、タングステンは酸素、硫黄、窒素、炭素、ハロゲンと反応する。
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第6族元素(だいろくぞくげんそ)は、周期表において第6族に属するクロム・モリブデン・タングステン・シーボーギウムのこと。クロム族元素と呼ばれることもある。全て金属元素(遷移金属)であり、単体での融点、沸点が非常に高く、硬い。 閉殻していないd軌道を持ち、遷移元素として取り扱われる。
{{脚注の不足|date=2022年12月}} <div style="float:right; margin-left:10px; margin-bottom:20px; text-align:center;"> {| class="wikitable" |- align="center" | [[元素の族|'''族''']] | [[第5族元素|←]] '''6''' [[第7族元素|→]] |- align="center" | [[元素の周期|'''周期''']] | |- align="center" | [[第4周期元素|'''4''']] | style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|24}}<br />[[クロム|Cr]] |- align="center" | [[第5周期元素|'''5''']] | style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|42}}<br />[[モリブデン|Mo]] |- align="center" | [[第6周期元素|'''6''']] | style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|74}}<br />[[タングステン|W]] |- align="center" | [[第7周期元素|'''7''']] | style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|{{Color|red|106}}}}<br />[[シーボーギウム|Sg]] |} </div> '''第6族元素'''(だいろくぞくげんそ)は、[[周期表]]において第6族に属する[[クロム]]・[[モリブデン]]・[[タングステン]]・[[シーボーギウム]]のこと。'''クロム族元素'''と呼ばれることもある。全て[[金属]]元素([[遷移金属]])であり、[[単体]]での[[融点]]、[[沸点]]が非常に高く、[[硬さ|硬い]]。 閉殻していないd軌道を持ち、[[遷移元素]]として取り扱われる。 == 性質 == 第6族元素では価電子および内殻電子の[[電子構造]]は周期により異なる。 {| class="wikitable" !!![[クロム]]<br />'''<sub>24</sub>Cr'''!![[モリブデン]]<br />'''<sub>42</sub>Mo'''!![[タングステン]]<br />'''<sub>74</sub>W''' |- |[[電子配置]]||<nowiki>[Ar]</nowiki>3d<sup>5</sup>4s<sup>1</sup>||<nowiki>[Kr]</nowiki>4d<sup>5</sup>5s<sup>1</sup>||<nowiki>[Xe]</nowiki>4f<sup>14</sup>5d<sup>4</sup>6s<sup>2</sup> |- |第1イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||652.8||685.0||733 |- |第2イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||1592||1558||&nbsp; |- |第3イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||3277||2621||&nbsp; |- |第4イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||4740||4480||&nbsp; |- |第5イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||6690||5900||&nbsp; |- |第6イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||8740||6600||&nbsp; |- |電子親和力<br />(電子ボルト)||0.666||0.746||0.815 |- |電気陰性度<br />(Allred-Rochow)||1.56||1.30||1.40 |- |イオン半径<br />(pm; M<sup>6+</sup>)||40(4配位)||55 (4配位)<br /> 73 (6配位)||56 (4配位)<br /> 74 (6配位) |- |金属結合半径<br />(pm)||125||136||137 |- ||融点<br />(K)||2130||2896||3695 |- |沸点<br />(K)||2945||4912||5828 |- |酸化還元電位 E<sup>0</sup> (V)||-0.424(M<sup>3+</sup>/M)||-0.2 (M<sup>3+</sup>/M)||&nbsp; |} クロムは岩石圏の0.02%を占め、主にクロム鉄鉱FeCr<sub>2</sub>O<sub>4</sub>より製造される。これを電気炉で直接還元するとフェロクロムとなり、多くがそのままステンレス鋼や工具用の鋼として利用される。モリブデンは岩石圏の1.5×10<sup>-3</sup>%を占め、主に硫化物(輝水鉛鉱 MoS<sub>2</sub>)として産出する。主に鋼やタングステンフィラメントの添加物として利用される。タングステンは岩石圏の1.6×10<sup>-3</sup>%を占め、過タングステン酸塩(CaWO<sub>4</sub>ないしはFeWO<sub>4</sub>とMnWO<sub>4</sub>の混晶)の鉱石より製造され、そのほとんど(およそ90%)が工具用鋼の製造に利用される。 錯体化合物まで含めると、クロムは-2,-1,0,+1,+2,+3,+4,+5,+6の酸化数を取りうる。同様にモリブデンは-2, 0,+1,+2,+3,+4,+5,+6、タングステンは0, +2,+3,+4,+5,+6の酸化数状態をとる。中でもクロムは3価Cr(+3)の酸化状態は自由エネルギーが最も低く極めて安定あり、高次の酸化状態である6価Cr(+6)は容易に還元される(言い換えると酸化力が強い)。一方、モリブデンやタングステンはむしろ高次の酸化数状態が安定である。 単体のクロムは稠密安定な酸化皮膜を形成する為、酸化還元電位から期待される強い還元作用を示さない場合が多い。たとえばクロムは塩酸あるいは硫酸に対して徐々にイオン化し溶解するが、不動態を形成するために硝酸とは反応しない。モリブデンやタングステンはむしろ酸化力の弱い酸とは容易に反応しない。高温では反応性は増大し単体のクロム、モリブデン、タングステンは酸素、硫黄、窒素、炭素、ハロゲンと反応する。 == 引用文献 == # 日本化学会編,『化学便覧』基礎編, 改訂5版, 丸善 # R.B.ヘスロップ, K. ジョーンズ, 『無機化学』, 東京化学同人 # F.A.コットン, G.ウイルキンソン, 『無機化学』, 培風館 ISBN 4-563-04066-5 == 関連項目 == * [[周期表]] {{元素周期表}} {{Sci-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たい06そくけんそ}} [[Category:周期表の族|#06]]
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ヒエ
ヒエ(稗、英名:Japanese barnyard millet、学名:Echinochloa esculenta (A. Braun) H. Scholz (1992))は、イネ科ヒエ属の植物。アイヌ語ではピヤパ。 イヌビエ (zh:稗)E. crus-galli (L.) Beauv (1812) より栽培化され、穎果を穀物として食用にする農作物である。栽培化が行われたのは日本列島を含む東アジア領域と推測されている。 日本列島、朝鮮半島、中国東北部といった東北アジアを中心に栽培される品種群と、中国雲南省を中心に栽培される麗江ビエの2大品種群に分かれる。インドで栽培されるインドビエ E. frumentacea (Roxb.) Link (1827) は、しばしばヒエと同一視されるが、これはコヒメビエ E. colona (L.) Link (1833) を栽培化したもので、異なる種である。さらにヒエ属の栽培種として、タイヌビエ E. oryzicola (Vasing.) Vasing. (1934) の栽培型であるモソビエ(未記載種)が、中国雲南省の少数民族モソ人によってヒエ酒(蘇里瑪酒・スーリマ酒)醸造用に栽培されている。 ヒエ属の利用には栽培化されていない野生種の種実を採取して食用とする文化も知られており、サハラ砂漠以南のアフリカでは、ブルグ(バンバラ語)E. stagnina (Koen.) Beauv. (1812)など数種が利用されている。 和名に「ヒエ」とつく雑穀にシコクビエEleusine coracana (Linn.) Gaertn.とトウジンビエPennisetum typhoideum Rich.がある。前者はオヒシバ属に、後者はチカラシバ属に属し、同じイネ科ではあるがヒエとは縁遠い植物であり、外観も大きく異なる。調理形態もヒエが主に粒食であるのに対して、これらは粉食が主流である。 日本ではかつて重要な主食穀物であったが、昭和期に米の増産に成功したことで消費と栽培が廃れ、米農家からは雑草として扱われており、専用の除草剤も市販されている。現代の日本では小鳥の餌など飼料用としての利用が多い。 最近では、優れた栄養価を持ち、また食物繊維も豊富なことから健康食品として見直されつつある。米や小麦に対する食物アレルギーの患者のための主食穀物としての需要も期待されている。しかし、食用としては加工の困難さ等から高価な食材となっており、大麦やアワに比べて使用頻度は少ない。 小穂は2枚の苞穎(ほうえい)とそれに抱かれた2個の小花からなり、下位の小花は不稔(ふねん、種をつけないこと)である。小花は外穎(がいえい)と内穎(ないえい)に包まれ、その中に鱗被(りんぴ)、雌蕊、雄蕊を持つ。下位の不稔の小花の内穎は退化し、外穎と癒合する傾向にある。これらの穎の全てが穎果(えいか)を保護するため、ヒエの穎果は5ないし6枚の穎(えい)によって覆われる。 ヒエでは硬化した内穎と外穎が強固に組み合っているため、内穎と外穎が比較的緩やかに組み合うアワやキビより、脱桴(だっぷ、穎の除去)しにくくなるため、ヒエ種子の保存性の高さや精白時に必要な多大の労力、歩留まりの悪さの原因となる。 穎に覆われた状態のヒエの穀粒は長さ2.3〜2.1mm、幅1.9〜2.1mm、重量3〜4mg。穂は密穂型、開散穂型、中間型の3型の品種群に分けられるが、系譜的には相互に関係性はない。 なお、ヒエの胚乳はアミロースを含む粳(うるち)性のみで、アミロペクチンのみを持つ糯(もち)性の品種はこれまでなかったが、岩手大学農学部の星野次汪教授が、ガンマ線の照射による突然変異により、完全な糯種を作ることに成功したと2006年12月21日に発表した。 畑でも水田でも栽培が可能である。 日本では縄文時代の前期から冷涼な北海道と東北地方で栽培された。近現代でも明治までは東北地方の山間部や関東地方の畑作地帯などをはじめ全国的に主食用として栽培されていた。青森県の弘前周辺のような穀倉地帯では、普段より白米が食されていたが、より冷涼な下北半島では水田でイネだけではなくヒエも栽培されており、1890年(明治23年)の統計では、その比率は稲田:2に対し稗田:8の割合であった。現在は住宅地になっている東京都杉並区では大正期から少しずつ蔬菜の栽培が増加し、都市近郊の野菜栽培農家に転換したが、それ以前はヒエなどの穀物を栽培し、日常食はヒエとムギで、米は少し入れる程度であった。南多摩郡でも商品作物であるサツマイモとジャガイモが増加し、1935年(昭和10年)の作付けの統計ではヒエは姿を消した。また、岩手県の県北地方でもヒエの栽培が盛んで、南部盆歌に「南部よいとこ 粟めし稗めし のどにひっからまる 干菜汁」と唄われた。 収穫した穀物は脱穀(穂からの穀粒の離脱)、脱稃(穎の除去)、精白(糠層の除去)を経なければ、食用とすることはできない。ヒエの場合、穂を叩いて脱穀した後の処理に、伝統的手法として黒蒸し法、白乾し法があり、比較的歴史が新しいものに白蒸し法がある。 もっとも単純な方法が白乾し法であり、アワやキビといった多くの雑穀の調製法と同じ手法による。これは乾燥した穎果(玄ヒエ)をそのまま搗臼や精白機で処理するもので、きれいな白い精白ヒエが得られる。しかし、アワやキビよりも穎果を覆う穎の数が多く、頑丈に包まれているヒエの場合、穀粒から穎が十分剥がれるまで時間がかかる。そのため、早く穎が剥がれた穀粒が搗精の衝撃によって砕けやすく、歩留まりが悪い。 こうした点を改良した手法が黒蒸し法である。これは充分に水に浸した玄ヒエを蒸篭で蒸し、これを乾燥してから搗精する一種のパーボイルド法である。これによって得られた精白ヒエは黒っぽくて外見は悪いが、白乾し法より容易に穎が剥がれるため歩留まりが良く、しかも蒸す工程で糠層のビタミン類が胚乳に移行して栄養価の向上が起こる。 日本における主食としての調理法は「ごはん系」「かゆ系」「しとぎねりもち系」の3系統が主流である。 アイヌにとって最も重要な主食穀物がヒエであった(アイヌ料理の項参照)。 日本では北海道のアイヌで儀式に用いる酒、トノトをヒエで醸造する文化が知られる他、石川県白山周辺ではどぶ酒を醸造した。岩手県北上山地ではヒエから麹を作り、味噌、醤油、甘酒の醸造原料とした。 中国では雲南省のいくつかの少数民族が、タイヌビエの栽培型であるモソビエや、ヒエの雲南系統品種である麗江ビエを古くから栽培しており、民俗習慣に依存して、ヒエ酒の醸造原料として栽培が継続されている。 アイヌ、雲南省の少数民族双方において、ヒエで造る酒がもっとも美味であるとされており、東アジアの酒造り文化の歴史を考える上で、ヒエの潜在的な意義は決して小さくない。 脱穀した後に残ったヒエの茎や葉は、杭に縛り付けて乾燥させる。これを「ひえしま」という。乾燥させたものは牛馬の飼料に用いられた。 日本では古くから重要な主食穀物であったため、米、アワと並んで祭事において重要な役割を果たしてきた。宮中の新嘗祭に際しても用いられ、このために宮中に献上するヒエを青森県などで栽培する制度がある。天皇が神に捧げ、自らもこれを食べる穀物にヒエが含まれることは、ヒエが決して単なる米の代用食ではない意義を持っていたことを雄弁に物語る。アイヌにおいては最も神聖な穀物とされた。アイヌ神話には、文化神・オキクルミが自身の脛を断ち割り、その傷の中に天上界のヒエを隠して盗み出し、地上の人間に伝えたとの一節がある。 また、飢饉の際の非常食として高く評価されており、二宮尊徳が農民達の反対を押し切ってヒエの栽培を奨励したおかげで、天保の大飢饉の際に多くの農民が救われたといわれている。これは後述のように、冷害に強く、安定した生産量を確保することが容易だった反面、社会的な評価が低く、売却が困難であったため、結果的に一番貯蔵に回しやすい作物であったからであるといわれている。 その一方、伝統的な主食穀物の中では最も卑しめられていた側面もあり、食味の悪い貧しい者の食べる穀物とされることも多かった。これは、米の調理法の影響を受けた炊飯調理が粘り気のないヒエの調理法としては必ずしも適していなかったこと、冷害に強く安定した生産量を確保することが容易だった反面、米などに比べて生産性は必ずしも高くなかったこと、穎果の構造から「稗搗節(ひえつきぶし)」のような労働歌を生んだほど、脱稃・精白に重労働を要したことなどが要因として挙げられる。このため、貧困の辛い記憶と強く結びついた穀物となった。 さらに、栽培ヒエの原種であるイヌビエなど、野生種ヒエ属数種は主要な田畑の雑草であり、稲作がこれらの雑草の制圧に大きな労力を要したことも、ヒエに対する心象を悪くしている。 また、生産者の自給作物の側面が強かったため、その生産量に比して、流通量は必ずしも多くなかったと考えられる。 そのため、歴史的、文化的、経済的に重要度が極めて高い穀物でありながら、文字記録がヒエについて沈黙することも多く、その実像が不当に低く評価されている面がある。 現代の食文化に置いても、雑穀を混ぜた飯が栄養価の観点で観直されているが、上述のとおり加工の難しさから、どうしても高価な食材となってしまうため、ヒエは大麦やアワほどには利用されていないのが現状である。
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ヒエは、イネ科ヒエ属の植物。アイヌ語ではピヤパ。
{{参照方法|date=2013年6月21日 (金) 22:40 (UTC)}} {{生物分類表 |名称 = ヒエ |色 = lightgreen |画像 = [[ファイル:Japanese barnyard millet.jpg|250px]] |画像キャプション = ヒエの熟した穂 |界 = [[植物界]] {{sname||Plantae}} |門階級なし = [[被子植物]] {{sname||Angiosperms}} |綱階級なし = [[単子葉植物]] {{sname||Monocots}} |目 = [[イネ目]] {{sname||Poales}} |科 = [[イネ科]] {{sname||Poaceae}} |亜科 = [[キビ亜科]] {{sname||Panicoideae}} |連 = [[キビ連]] {{sname||Paniceae}} |属 = [[ヒエ属]] {{snamei||Echinochloa}} |種 = '''ヒエ''' {{snamei||Echinochloa esculenta}} |学名 = Echinochloa esculenta |和名 = ヒエ |英名 = [[w:Millet|Japanese barnyard millet]] }} '''ヒエ'''('''稗'''、[[英語|英名]]:Japanese barnyard millet、[[学名]]:[http://www.ipni.org/ipni/plantsearch?id=963973-1&query_type=by_id&back_page=&output_format=object_view ''Echinochloa esculenta'' (A. Braun) H. Scholz (1992)])は、[[イネ科]]ヒエ属の[[植物]]。[[アイヌ語]]では'''ピヤパ'''。 == 概要 == [[イヌビエ]] ([[:zh:稗]])[http://www.ipni.org/ipni/plantsearch?id=399660-1&query_type=by_id&back_page=query_ipni.html&output_format=object_view ''E. crus-galli'' (L.) Beauv (1812)] より栽培化され、[[穎果]]を[[穀物]]として食用にする[[農作物]]である。栽培化が行われたのは[[日本列島]]を含む[[東アジア]]領域と推測されている。 日本列島、[[朝鮮半島]]、[[中国東北部]]といった東北アジアを中心に栽培される品種群と、[[中国]][[雲南省]]を中心に栽培される麗江ビエの2大品種群に分かれる。[[インド]]で[[栽培]]されるインドビエ [http://www.ipni.org/ipni/plantsearch?id=399674-1&query_type=by_id&back_page=query_ipni.html&output_format=object_view '' E. frumentacea'' (Roxb.) Link (1827)] は、しばしばヒエと同一視されるが、これはコヒメビエ [http://www.ipni.org/ipni/plantsearch?id=399655-1&query_type=by_id&back_page=query_ipni.html&output_format=object_view ''E. colona'' (L.) Link (1833)] を栽培化したもので、異なる種である。さらにヒエ属の栽培種として、タイヌビエ [http://www.ipni.org/ipni/plantsearch?id=399716-1&query_type=by_id&back_page=query_ipni.html&output_format=object_view ''E. oryzicola'' (Vasing.) Vasing. (1934)] の栽培型であるモソビエ(未記載種)が、[[中国]][[雲南省]]の[[少数民族]][[モソ族|モソ人]]によってヒエ酒(蘇里瑪酒・スーリマ酒)[[醸造]]用に栽培されている。 ヒエ属の利用には栽培化されていない野生種の種実を採取して食用とする文化も知られており、[[サハラ砂漠]]以南の[[アフリカ]]では、ブルグ([[バンバラ語]])''E. stagnina'' (Koen.) Beauv. (1812)など数種が利用されている。 [[和名]]に「ヒエ」とつく[[穀物|雑穀]]に[[シコクビエ]]''Eleusine coracana'' (Linn.) Gaertn.と[[トウジンビエ]]''Pennisetum typhoideum'' Rich.がある。前者はオヒシバ属に、後者はチカラシバ属に属し、同じイネ科ではあるがヒエとは縁遠い植物であり、外観も大きく異なる。[[調理]]形態もヒエが主に[[粒食]]であるのに対して、これらは[[粉食]]が主流である。 日本ではかつて重要な[[主食]][[穀物]]であったが、[[昭和]]期に[[米]]の増産に成功したことで消費と栽培が廃れ、米農家からは雑草として扱われており、専用の除草剤も市販されている。現代の日本では[[小鳥]]の餌など[[飼料]]用としての利用が多い。 最近では、優れた[[栄養価]]を持ち、また[[食物繊維]]も豊富なことから[[健康食品]]として見直されつつある。米や[[コムギ|小麦]]に対する[[食物アレルギー]]の患者のための主食穀物としての需要も期待されている。しかし、食用としては加工の困難さ等から高価な食材となっており、[[大麦]]や[[アワ]]に比べて使用頻度は少ない。 == 形態 == === 花と果実 === [[小穂]]は2枚の[[苞穎]](ほうえい)とそれに抱かれた2個の小花からなり、下位の小花は[[不稔]](ふねん、種をつけないこと)である。小花は[[外穎]](がいえい)と[[内穎]](ないえい)に包まれ、その中に[[鱗被]](りんぴ)、[[雌蕊]]、[[雄蕊]]を持つ。下位の不稔の小花の内穎は退化し、外穎と癒合する傾向にある。これらの穎の全てが[[穎果]](えいか)を保護するため、ヒエの穎果は5ないし6枚の穎(えい)によって覆われる。 <!--これを、「同様の小穂構成を持ちながら最終的に穎果を覆う穎の数が2枚である[[アワ]]や[[キビ]]と比べてヒエの穎果が極めて強固に保護されていることを意味する」と解釈するのは誤りで、--><!--後の文とつながらない、意味が取れない--> ヒエでは硬化した内穎と外穎が強固に組み合っているため、内穎と外穎が比較的緩やかに組み合うアワやキビより、[[脱桴]](だっぷ、穎の除去)しにくくなるため、ヒエ種子の保存性の高さや精白時に必要な多大の労力、[[歩留まり]]の悪さの原因となる。 穎に覆われた状態のヒエの穀粒は長さ2.3〜2.1mm、幅1.9〜2.1mm、重量3〜4mg。穂は密穂型、開散穂型、中間型の3型の品種群に分けられるが、系譜的には相互に関係性はない。 なお、ヒエの胚乳は[[アミロース]]を含む[[粳]](うるち)性のみで、[[アミロペクチン]]のみを持つ[[糯]](もち)性の品種はこれまでなかったが、[[岩手大学]]農学部の星野次汪教授が、[[ガンマ線]]の照射による[[突然変異]]により、完全な糯種を作ることに成功したと[[2006年]][[12月21日]]に発表した。 === 茎 === {{節スタブ}} === 葉 === {{節スタブ}} === 根 === {{節スタブ}} == 栽培 == [[畑]]でも[[水田]]でも栽培が可能である。 日本では[[縄文時代]]の前期から冷涼な[[北海道]]と[[東北地方]]で栽培された<ref>那須浩郎「雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態」『国立歴史民俗博物館研究報告』第187集、99頁</ref>。近現代でも[[明治]]までは東北地方の山間部や[[関東地方]]の畑作地帯などをはじめ全国的に[[主食]]用として栽培されていた。[[青森県]]の[[弘前市|弘前]]周辺のような[[穀倉地帯]]では、普段より白米が食されていたが、より冷涼な[[下北半島]]では水田で[[イネ]]だけではなくヒエも栽培されており、[[1890年]](明治23年)の統計では、その比率は稲田:2に対し稗田:8の割合であった<ref>増田昭子 『雑穀の社会史』 62、82頁</ref>。現在は住宅地になっている[[東京都]][[杉並区]]では[[大正|大正期]]から少しずつ蔬菜の栽培が増加し、都市近郊の野菜栽培農家に転換したが、それ以前はヒエなどの穀物を栽培し、日常食はヒエと[[ムギ]]で、米は少し入れる程度であった。[[南多摩郡]]でも商品作物である[[サツマイモ]]と[[ジャガイモ]]が増加し、[[1935年]](昭和10年)の作付けの統計ではヒエは姿を消した<ref>増田昭子 『雑穀の社会史』 46、79、80頁</ref>。また、[[岩手県]]の県北地方でもヒエの栽培が盛んで、南部盆歌に「南部よいとこ 粟めし稗めし のどにひっからまる 干菜汁」と唄われた<ref>古沢典夫 他 『聞き書 岩手の食事』 13頁</ref>。 == 利用 == === 調製 === 収穫した穀物は[[脱穀]](穂からの穀粒の離脱)、[[脱ぷ|脱{{lang|ko|稃}}]](穎の除去)、[[精白]](糠層の除去)を経なければ、食用とすることはできない。ヒエの場合、穂を叩いて脱穀した後の処理に、伝統的手法として黒蒸し法、白乾し法があり、比較的歴史が新しいものに白蒸し法がある。 もっとも単純な方法が白乾し法であり、[[アワ]]や[[キビ]]といった多くの雑穀の調製法と同じ手法による。これは乾燥した穎果(玄ヒエ)をそのまま[[臼|搗臼]]や精白機で処理するもので、きれいな白い精白ヒエが得られる。しかし、アワやキビよりも穎果を覆う穎の数が多く、頑丈に包まれているヒエの場合、穀粒から穎が十分剥がれるまで時間がかかる。そのため、早く穎が剥がれた穀粒が搗精の衝撃によって砕けやすく、歩留まりが悪い。 こうした点を改良した手法が黒蒸し法である。これは充分に水に浸した玄ヒエを[[蒸篭]]で蒸し、これを乾燥してから搗精する一種の[[パーボイルドライス|パーボイルド]]法である。これによって得られた精白ヒエは黒っぽくて外見は悪いが、白乾し法より容易に穎が剥がれるため歩留まりが良く、しかも蒸す工程で糠層のビタミン類が胚乳に移行して栄養価の向上が起こる。 === 食用 === {{栄養価 | name=ひえ(精白粒)<ref name=mext>[[文部科学省]]、「[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]」</ref>| kJ =1530| water=12.9 g| protein=9.4 g| fat=3.3 g| satfat=0.56 g| monofat = 0.66 g| polyfat =1.65 g| carbs=73.2 g| opt1n=[[食物繊維|水溶性食物繊維]]| opt1v=0.4 g| opt2n=[[食物繊維|不溶性食物繊維]]| opt2v=3.9 g| fiber=4.3 g| sodium_mg=6| potassium_mg=240| calcium_mg=7| magnesium_mg=58| phosphorus_mg=280| iron_mg=1.6| zinc_mg=2.2| copper_mg=0.15| Manganese_mg=1.37| selenium_ug =4| vitE_mg =0.1| thiamin_mg=0.25| riboflavin_mg=0.02| niacin_mg=0.4| vitB6_mg=0.17| folate_ug=14| pantothenic_mg=1.50| opt3n=[[ビオチン|ビオチン(B<sub>7</sub>)]] | opt3v=3.6 µg| right= }} ==== 日本本土 ==== 日本における[[主食]]としての調理法は「ごはん系」「[[粥|かゆ]]系」「しとぎねりもち系」の3系統が主流である。 * ごはん系 : そのまま単独で炊飯(ひえめし)する他に、[[米]]や他の[[穀物|雑穀]]と混炊したり、[[コンブ|昆布]]や[[ダイコン|大根]]を混ぜて炊く。ただ、粘りが無くモソモソした舌触りなので、喉につかえやすい。そこで食べやすくするために味噌汁をかけるか、摩り下ろした[[ヤマノイモ]]をかけるなどの工夫がされた。岩手県では、ヒエの[[とろろめし]]を「神楽飯」と呼ぶ。「ひえ・とろろ」と早口で言えば、[[神楽]]のお囃子の[[篠笛]]の音のように聞こえるからである<ref>古沢典夫 他 『聞き書 岩手の食事』 41頁</ref>。 * かゆ系 : そのまま粥に炊く(ひえがゆ)。他に、岩手県の二戸地方では[[おから]]を入れて粥に炊く「きらずきゃこ」がある<ref>古沢典夫 他 『聞き書 岩手の食事』 64頁</ref>。 * しとぎねりもち系 : 精白したヒエを[[製粉]]し、水で練ったものを[[囲炉裏]]の灰に埋め、焼いて食べる調理法である。岩手県北地方の「ひえしとぎ」など<ref>古沢典夫 他 『聞き書 岩手の食事』 43頁</ref>。 * その他 : [[マタギ]]の携行食としての「つつくるみ」など、いくつか特殊な調理法が知られる。 ==== アイヌ ==== アイヌにとって最も重要な主食穀物がヒエであった('''[[アイヌ料理]]'''の項参照)。 * チサッスイェプ : ごはんとして炊いたもの * サヨ : 粥 === 醸造 === 日本では[[北海道]]の[[アイヌ]]で儀式に用いる[[酒]]、[[トノト]]をヒエで[[醸造]]する文化が知られる他、[[石川県]][[白山]]周辺ではどぶ酒を醸造した。[[岩手県]][[北上山地]]ではヒエから[[麹]]を作り、[[味噌]]、[[醤油]]、[[甘酒]]の醸造原料とした。 [[中国]]では[[雲南省]]のいくつかの[[少数民族]]が、タイヌビエの栽培型であるモソビエや、ヒエの雲南系統品種である麗江ビエを古くから栽培しており、民俗習慣に依存して、ヒエ酒の醸造原料として栽培が継続されている。 アイヌ、雲南省の少数民族双方において、ヒエで造る酒がもっとも美味であるとされており、東アジアの酒造り文化の歴史を考える上で、ヒエの潜在的な意義は決して小さくない。 === 飼料 === 脱穀した後に残ったヒエの茎や葉は、杭に縛り付けて乾燥させる。これを「ひえしま」という。乾燥させたものは牛馬の飼料に用いられた。 == 文化 == [[ファイル:Leiden University Library - Seikei Zusetsu vol. 20, page 003 - 稗 - Echinochloa esculenta (A.Braun) H.Scholz, 1804.jpg|サムネイル|江戸時代の農業百科事典『[[成形図説]]』のイラスト(1804)]] 日本では古くから重要な主食穀物であったため、米、アワと並んで祭事において重要な役割を果たしてきた。宮中の[[新嘗祭]]に際しても用いられ、このために宮中に献上するヒエを[[青森県]]などで栽培する制度がある。[[天皇]]が神に捧げ、自らもこれを食べる穀物にヒエが含まれることは、ヒエが決して単なる米の代用食ではない意義を持っていたことを雄弁に物語る。アイヌにおいては最も神聖な穀物とされた。アイヌ神話には、文化神・[[オキクルミ]]が自身の脛を断ち割り、その傷の中に天上界のヒエを隠して盗み出し、地上の人間に伝えたとの一節がある。 また、[[飢饉]]の際の[[非常食]]として高く評価されており、[[二宮尊徳]]が農民達の反対を押し切ってヒエの栽培を奨励したおかげで、[[天保の大飢饉]]の際に多くの農民が救われたといわれている。これは後述のように、冷害に強く、安定した生産量を確保することが容易だった反面、社会的な評価が低く、売却が困難であったため、結果的に一番貯蔵に回しやすい作物であったからであるといわれている。 その一方、伝統的な主食穀物の中では最も卑しめられていた側面もあり、食味の悪い貧しい者の食べる穀物とされることも多かった。これは、米の調理法の影響を受けた炊飯調理が粘り気のないヒエの調理法としては必ずしも適していなかったこと、[[冷害]]に強く安定した生産量を確保することが容易だった反面、米などに比べて生産性は必ずしも高くなかったこと、穎果の構造から「[[ひえつき節|稗搗節]](ひえつきぶし)」のような労働歌を生んだほど、脱{{lang|ko|稃}}・精白に重労働を要したことなどが要因として挙げられる。このため、貧困の辛い記憶と強く結びついた穀物となった。 さらに、栽培ヒエの原種であるイヌビエなど、野生種ヒエ属数種は主要な田畑の雑草であり、稲作がこれらの雑草の制圧に大きな労力を要したことも、ヒエに対する心象を悪くしている。 また、生産者の自給作物の側面が強かったため、その生産量に比して、流通量は必ずしも多くなかったと考えられる。 そのため、歴史的、文化的、経済的に重要度が極めて高い穀物でありながら、文字記録がヒエについて沈黙することも多く、その実像が不当に低く評価されている面がある。 現代の食文化に置いても、[[雑穀]]を混ぜた[[飯]]が栄養価の観点で観直されているが、上述のとおり加工の難しさから、どうしても高価な食材となってしまうため、ヒエは大麦やアワほどには利用されていないのが現状である。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * 那須浩郎「雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態」『国立歴史民俗博物館研究報告』第187集、2014年7月。 * 増田昭子/著『雑穀の社会史』 吉川弘文館、2001年、ISBN 4-642-07545-3 * 古沢典夫 他/編『聞き書 岩手の食事』 農山漁村文化協会、1984年、ISBN 4-540-84022-3 * [[萩中美枝]] 他/著『聞き書アイヌの食事・日本の食生活全集48』(農文協、1992年)ISBN 4-540-92004-9 * 畠山剛/著『〔新版〕縄文人の末裔・ヒエと木の実の生活史』(彩流社、1997年)ISBN 4-88202-552-3 * 藪野友三郎/監修 山口裕文/編『ヒエという植物』(全国農村教育協会、2001年)ISBN 4-88137-087-1 * 山口裕文・河瀬真琴/編著『雑穀の自然史―その起源と文化を求めて』(北海道大学図書刊行会、2003年)ISBN 4-8329-8051-3 == 関連項目 == * [[五穀]] - 代表的な穀物として、ヒエが含まれるている文献もある。 * [[かて飯]] - [[米]]の増量用として使用された。 {{穀物}} {{Normdaten}} {{Plant-stub}} {{Food-stub}} {{DEFAULTSORT:ひえ}} [[Category:イネ科]] [[Category:穀物]] [[fr:Millet japonais]] <!--[[en:Japanese barnyard millet]]はEchinochloaへのリダイレクト-->
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心理学者
心理学者(しんりがくしゃ、英: psychologist)とは、心理学の研究業務を行う者のことである。 心理学関連業務を行う者は、心理および心理学自体の研究を業務とする者と、心理学的知識を実践的な業務に生かす者に大別される。前者のことを「心理学者」「心理学研究者」と呼び、後者のことを「心理士」「職業心理学者」と呼ぶ。英語ではどちらもpsychologistと訳される。 前者の「心理学者」「心理学研究者」には、基礎系心理学・実験系心理学分野と呼ばれる「全般的な人間心理」に焦点をあてる立場と、応用心理学分野と呼ばれる「特定の人間心理」に焦点をあてる立場がある。 一方、後者の「心理士」「職業心理学者」は、臨床心理学や教育心理学など、応用心理学分野の立場が大勢を占め、臨床心理士などの職業資格を有していることが多い。また、高度な専門的知識を修めた者は、博士号や修士号の学位を有している。 「心理学者」「心理学研究者」の中でも、基礎系心理学・実験系心理学分野の人々は、大学・大学院、企業、司法などの研究機関に所属することが多いが、応用心理学分野の人々は、研究機関外の現場においても活動する者が多い。また、資格更新制度をもつ臨床心理士等の「心理士」「職業心理学者」は、学術研究団体や個人での研究活動も行っているため、それらの人々は、「心理学者」であり「心理士」、また「心理学研究者」であり「職業心理学者」であると言える。 「心理士」「職業心理学者」の中で、基礎系心理学・実験系心理学分野の人々は、企業において商品開発、市場調査、ヒューマンファクター分析などの担当をしていることがある。 なお、アメリカ合衆国やカナダでpsychologistと言えば、通常、(州立)資格を有した「心理士」「職業心理学者」を指し、臨床心理士はClinical Psychologist(CP)という名称である。 出生順、国名は出身国。
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心理学者とは、心理学の研究業務を行う者のことである。
{{複数の問題 |出典の明記=2017年9月 |独自研究=2017年9月 }} {{ウィキプロジェクトリンク|心理学}} {{心理学のサイドバー}} '''心理学者'''(しんりがくしゃ、{{lang-en-short|psychologist}})とは、[[心理学]]の研究業務を行う者のことである。 == 概要 == {{要出典範囲|心理学関連業務を行う者は、[[心理]]および心理学自体の[[研究]]を業務とする者と、心理学的[[知識]]を実践的な業務に生かす者に大別される。前者のことを「'''心理学者'''」「心理学研究者」と呼び、後者のことを「[[心理士]]」「職業心理学者」と呼ぶ。|date=2013年3月5日 (火) 03:53 (UTC)}}[[英語]]ではどちらもpsychologistと訳される。 前者の「'''心理学者'''」「心理学研究者」には、[[心理学#基礎心理学|基礎系心理学]]・[[実験心理学|実験系心理学]]分野と呼ばれる「全般的な人間心理」に焦点をあてる立場と、[[心理学#応用心理学|応用心理学]]分野と呼ばれる「特定の人間心理」に焦点をあてる立場がある。 一方、後者の「心理士」「職業心理学者」は、[[臨床心理学]]や[[教育心理学]]など、応用心理学分野の立場が大勢を占め、[[臨床心理士]]などの[[職業]]資格を有していることが多い。また、高度な専門的知識を修めた者は、[[博士号]]や[[修士号]]の[[学位]]を有している。 {{Main2|資格情報|日本の心理学に関する資格一覧}} 「'''心理学者'''」「心理学研究者」の中でも、基礎系心理学・実験系心理学分野の人々は、[[大学]]・[[大学院]]、[[企業]]、[[司法]]などの[[研究所|研究機関]]に所属することが多いが、応用心理学分野の人々は、研究機関外の現場においても活動する者が多い。また、資格更新制度をもつ臨床心理士等の「心理士」「職業心理学者」は、[[学会|学術研究団体]]や個人での研究活動も行っているため、それらの人々は、「心理学者」であり「心理士」、また「心理学研究者」であり「職業心理学者」であると言える。 「心理士」「職業心理学者」の中で、基礎系心理学・実験系心理学分野の人々は、企業において[[商品開発]]、[[市場調査]]、[[ヒューマン]]ファクター[[分析]]などの担当をしていることがある。 なお、[[アメリカ合衆国]]や[[カナダ]]でpsychologistと言えば、通常、(州立)[[資格]]を有した「心理士」「職業心理学者」を指し、臨床心理士は[[:en:Clinical Psychologist|Clinical Psychologist]](CP)という名称である。 == 心理学者一覧 == 出生順、国名は出身国。 === 精神分析家 === {{Main|精神分析家}} * [[ジークムント・フロイト]]({{AUT1804}}、1856年 - 1939年) * [[ボリス・サイディズ]]({{RUS1858}}〈現:{{UKR}}〉、1867年 - 1923年) * [[アルフレッド・アドラー]]({{AUT1867}}〈現:{{AUT}}〉、1870年 - 1937年) * [[フェレンツィ・シャーンドル]]({{AUT1867}} {{HUN1867}}、1873年 - 1933年) * [[カール・グスタフ・ユング|カール・ユング]]({{CHE}}、1875年 - 1961年) * [[カール・アーブラハム]]({{DEU1871}}、1877年 - 1925年) * [[メラニー・クライン]]({{AUT1867}}〈現:{{AUT}}〉、1882年 - 1960年) * [[オットー・ランク]]({{AUT1867}}〈現:{{AUT}}〉、1884年 - 1939年) * [[カレン・ホーナイ]]({{DEU1871}}、1885年 - 1952年) * [[ヤコブ・モレノ]]({{ROM1881}}生まれ・{{AUT1867}}〈現:{{AUT}}〉育ち、1889年 - 1974年) * [[フランツ・アレクサンダー]]({{AUT1867}} {{HUN1867}}、1891年 - 1964年) * [[ハリー・スタック・サリヴァン]]({{USA}}、1892年 - 1949年) * [[カール・メニンガー]]({{USA}}、1893年 - 1990年) * [[アンナ・フロイト]]({{AUT1867}}〈現:{{AUT}}〉、1895年 - 1982年) * [[ヴィルヘルム・ライヒ]]({{AUT1867}}〈現:{{UKR}}〉、1897年 - 1957年) * [[エーリヒ・フロム]]({{DEU1871}}、1900年 - 1980年) * [[ジャック・ラカン]]({{FRA}}、1901年 - 1981年) * [[エリク・H・エリクソン|エリク・エリクソン]]({{DEU1871}}、1902年 - 1994年) * [[ブルーノ・ベッテルハイム]]({{AUT1867}}〈現:{{AUT}}〉、1903年 - 1990年) * [[ジョン・ボウルビィ]]({{GBR}}、1907年 - 1990年) * [[デイヴィッド・ラパポート]]({{AUT1867}} {{HUN1867}}、1911年 - 1960年) * [[ハインツ・コフート]]({{AUT1867}}〈現:{{AUT}}〉、1913年 - 1981年) === 心理学に影響を与えた人物 === * [[エルンスト・ヴェーバー]]({{HRR}}〈現:{{DEU}}〉、1795年 - 1878年) * [[グスタフ・フェヒナー]]({{HRR}}〈現:{{DEU}}〉、1801年 - 1887年) * [[チャールズ・ダーウィン]]({{GBR3}} {{ENG}}、1809年 - 1882年) * {{仮リンク|アレクサンダー・ベイン (哲学者)|label=アレクサンダー・ベイン|en|Alexander Bain}}({{GBR3}} {{SCO}}、1818年 - 1903年) * [[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]({{PRU1803}}、1821年 - 1894年) * [[フランシス・ゴルトン]]({{GBR3}} {{ENG}}、1822年 - 1911年) * [[イワン・パブロフ]]({{RUS1883}}、1849年 - 1936年) * [[エミール・クレペリン]]({{PRU1803}}、1856年 - 1926年) * [[ウラジーミル・ベヒテレフ|ウラディミール・ベヒテレフ]]({{RUS1883}}、1857年 - 1927年) * [[ヘルマン・ロールシャッハ]]({{CHE}}、1884年 - 1922年) * [[エルンスト・クレッチマー]]({{PRU1803}} {{DEU1871}}、1888年 - 1964年) * [[マーガレット・ミード]]({{USA1896}}、1901年 - 1978年) * [[コンラート・ローレンツ]]({{AUT1867}}〈現:{{AUT}}〉、1903年 - 1989年) * [[グレゴリー・ベイトソン]]({{GBR3}} {{ENG}}、1904年 - 1980年) * [[ノーム・チョムスキー]]({{USA1912}}、1928年 - ) * [[リチャード・ドーキンス]]({{GBR}}〈現:{{KEN}}〉、1941年 - ) * [[デビッド・マー]]({{GBR}}、1945年 - 1980年) <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}}--> == 関連項目 == * [[学者]] * [[教育関係人物一覧]] {{Scientist-stub|*}} {{Psych-stub}} {{心理学}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しんりかくしや}} [[Category:心理学者|*]] [[Category:学者の人名一覧]] [[Category:心理学]]
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MBD Minimal Brain Damage(微細脳損傷) Minimal Brain Dysfunction(微細脳機能障害) Multibody Dynamics(マルチボディダイナミクス) Model-Based Development(モデルベース開発) Model-Based Design(モデルベースデザイン)
'''MBD''' *Minimal Brain Damage([[微細脳損傷]]) *Minimal Brain Dysfunction([[微細脳機能障害]]) *Multibody Dynamics([[マルチボディダイナミクス]]) *Model-Based Development([[モデル駆動工学|モデルベース開発]]) *Model-Based Design([[モデルベースデザイン]]) {{Aimai}}
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ニッケル
ニッケル(蘭: nikkel, 英: nickel, 羅: niccolum, 中: 鎳)は、原子番号28の金属元素である。元素記号はNi。 名称はドイツ語の Kupfernickel(悪魔の銅)に由来する。これは、ニッケル鉱石である紅砒ニッケル鉱(NiAs)が銅鉱石に似ているにもかかわらず銅を遊離できなかったために、坑夫たちがこう呼んだものと言われている。 地殻中の存在比は約105×10と推定され、それほど多いわけではないが、鉄隕石中には数 %含まれる。特にNiの1核子あたりの結合エネルギーが全原子中で最大であるなどの点から、鉄とともにもっとも安定な元素である。岩石惑星を構成する元素として比較的多量に存在し、地球中心部の核にも数 %が含まれると推定されている。 銀白色の金属で、鉄族に分類される。原子量は約58.69である。常温で安定な結晶格子は、面心立方格子(FCC)である。また、鉄よりは弱いが強磁性体で、キュリー点は350 °Cであり、鉄族元素としてはもっとも低い。 銀白色の光沢ある金属であり、乾燥した空気中では錆びにくいが、微粒子状のものは空気中で自然発火することもあり、細いニッケル線は酸素中で火花を出して燃焼する。水素よりイオン化傾向がやや大きく、塩酸および希硫酸に徐々に溶解し、緑色の水和ニッケルイオンを生成するが、その反応はきわめて遅い。酸化作用を持つ希硝酸には速やかに溶解し、濃硝酸では不動態を形成する。アルカリに対しては比較的強い耐食性を示す。 微粒子状の金属粉末は水素および窒素ガスなどを吸蔵し、水素付加反応を活性化させる作用を持ち、融解状態でもこれらの気体を吸収し、凝固時にその大部分を放出するため表面が巣穴になりやすい。また、鉄と同様、融解状態では炭素を6.25 %まで溶解し、凝固するとグラファイトを析出する。 50–60 °Cで微粉末状のニッケルに一酸化炭素を反応させるとテトラカルボニルニッケルを生成し、これを200 °Cに加熱すると分解してニッケルを生じる。この反応は、モンド法と称し、ニッケルの精製に用いられる。 光沢があり耐食性が高いため、装飾用のめっきに用いられる(単純な耐食用途ならクロメートめっき等、より安価で効果的な方法がある)ほか、導電性も高い(鉄、クロムより優れるが銅には及ばない)ため電気接点のめっきにも好んで使われる。ステンレス鋼や硬貨の原料などにも使用される。 日本で2022年現在発行されている五十円硬貨や百円硬貨は、銅とニッケルの合金(白銅)である。アメリカ合衆国の5セント硬貨も白銅だが、通称「ニッケル」と呼ばれている。純ニッケルも硬貨の材料として用いられたことがある。これはニッケルが特殊鋼や薬莢の材料である白銅の原料として重要であるため、国家が備蓄し、平時は硬貨として流通させ、有事に際してはほかの素材の硬貨や紙幣で代替して回収するためである。日本でも第二次世界大戦直前の1933年(昭和8年)から1937年(昭和12年)にかけて、5銭と10銭のニッケル硬貨が発行されており、その名目で軍需物資であるニッケルを輸入した。ただし、戦後もニッケル硬貨は発行されており、1955年(昭和30年)から1966年(昭和41年)まで発行されていた五十円硬貨(1959年(昭和34年)に無孔から有孔に変更)がニッケル硬貨である。 軍艦の装甲の素材として、鋼に質量比で6%のニッケルを添加して、砲弾を跳ね返すだけの強度を持たせる技術が1887年にイギリスで開発された。この合金を基礎として、各種の高張力鋼が開発されているが、多くの場合にニッケルが含まれる。 ニッケルと鉄にモリブデンやクロムを加えた合金をパーマロイと呼ぶ。優れた軟磁性材料であることから、変圧器の鉄心や磁気ヘッドに用いられている。 ニッケル36 %、鉄64 %の合金を「インバー」、ニッケル36 %、鉄52 %、クロム12 %の合金を「エリンバー」と呼ぶ。インバー合金は熱膨張率が非常に小さく、エリンバー合金は温度による弾性率の変化が非常に小さいという特徴があり、機械式時計の発条などの精密機械に用いられている。ニッケルベースの合金である各種のインコネルは、その耐熱性からタービン用コンプレッサの材料などに用いられる。 チタンとニッケルの1:1の合金はもっとも一般的な形状記憶合金となる。 ニッケルは不飽和炭素結合に対する水素付加の不均一系触媒としてラネー合金などに加工され工業的に用いられる。 水酸化ニッケルはニッケル・水素蓄電池やニッケル・カドミウム蓄電池などの二次電池の正極に使われる。 水素を取り込む性質を利用し、水素貯蔵合金のAB5型、Mg型。 近年では電気自動車の電池にも使われる。2022年11月17日にはゼネラル・モータースの幹部がヴァーレのカナダ法人と長期契約を結びケベックの工場からEV用電池に使用できるニッケルの供給を2026年に始めると発表した。 アクセル・クロンステット(Axel Frederik Cronstedt)が1751年に単体分離。 ニッケル鉱石の生産は世界全体で134万トン(2009年現在)である。その内訳はロシアが19 %、オーストラリア14 %、インドネシア12 %、カナダ10 %、ニューカレドニア7 %となっている。 鉱石としては、おもに蛇紋岩中に産出する珪ニッケル鉱(Garnierite、(Ni,Mg)3Si2O5(OH)4 とされるが、組成が一定しないので独立種とは認められていない)、磁硫鉄鉱などと共産するペントランド鉱(Pentlandite、(Fe,Ni)9S8)がおもに採掘されている。 かつては、オ-フォード法、モンド法、ヒビネット法、徐冷選鉱法などが利用された。2000年代以降は電気精錬法が用いられる。 2011年における国別の産出量は以下の通りである。 日本では第二次世界大戦中、京都府与謝郡の大江山で開発されたニッケル鉱山で日本冶金工業が採鉱し、近くの製錬所でフェロニッケルに製錬、さらに川崎市の同社工場でニッケル合金として軍用に提供していた。また山口県においても、山口県周南市から岩国市にかけて断続的に蛇紋岩帯があり、昭和15年から20年にかけて金峰鉱山などで採掘が行われた。このほか千葉県の房総半島など、蛇紋岩帯の存在する地域で採掘が行われた。しかし、これは戦時体制による商業コストを度外視したものであり、ほとんどが終戦とともに閉山・廃鉱となった。 この金属は、日本国内において産業上重要性が高いものの、産出地に偏りがあり供給構造が脆弱である。日本では国内で消費する鉱物資源の多くを他国からの輸入で支えている実情から、万一の国際情勢の急変に対する安全保障策として国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められている。 2015年(平成27年)現在、ニッケルを日本国内で製錬しているのは、大平洋金属八戸製造所、日本冶金工業大江山製造所、住友金属鉱山日向製錬所である。 ウレアーゼ(尿素分解酵素)やいくつかのヒドロゲナーゼ(分子型水素の酸化還元酵素)などは、その機能を発現するためにニッケルを取り込んでいる。しかしながら、ニッケルは金属アレルギーを引き起こしやすい金属のひとつであり、WHOの下部組織IARCはニッケル化合物を「Group1:ヒトに対する発癌性が認められる化学物質」としている。 化合物中の原子価は2価がもっとも安定であるが、3価および4価のニッケル原子を含む錯体も存在し、−1、0、+1といった低原子価の錯体も存在する。強酸の陰イオンよりなる塩類は一般的に水に可溶であるが、カルコゲンなどとの化合物は難溶または不溶である。
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ニッケルは、原子番号28の金属元素である。元素記号はNi。
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Pfirrmann ''et al.''| title = A Dinuclear Nickel(I) Dinitrogen Complex and its Reduction in Single-Electron Steps| journal = Angewandte Chemie International Edition| year = 2009| volume = 48 | page =3357| doi = 10.1002/anie.200805862}}</ref>, &minus;1 |oxidation states comment=弱[[塩基性酸化物]] |electronegativity=1.91 |number of ionization energies=4 |1st ionization energy=737.1 |2nd ionization energy=1753.0 |3rd ionization energy=3395 |atomic radius=[[1 E-10 m|124]] |atomic radius calculated= |covalent radius=[[1 E-10 m|124±4]] |Van der Waals radius=[[1 E-10 m|163]] |magnetic ordering=[[強磁性]] |electrical resistivity= |electrical resistivity at 0= |electrical resistivity at 20=69.3 n |thermal conductivity=90.9 |thermal conductivity 2= |thermal diffusivity= |thermal expansion= |thermal expansion at 25=13.4 |speed of sound= |speed of sound rod at 20= |speed of sound rod at r.t.=4900 |Young's modulus=200 |Shear modulus=76 |Bulk modulus=180 |Poisson ratio=0.31 |Mohs hardness=4.0 |Vickers hardness=638 |Brinell hardness=700 |CAS number=7440-02-0 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ニッケル58|58]] | sym=Ni | na=68.077 % | hl= > 7 × 10<sup>20</sup> [[年|y]] | dm=[[二重ベータ崩壊|β<sup>+</sup>β<sup>+</sup>]] | de=1.9258 | pn=[[鉄58|58]] | ps=Fe}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ニッケル59|59]] | sym=Ni | na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=[[1 E12 s|76000 y]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=- | pn=[[コバルト59|59]] | ps=[[コバルト|Co]] }} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[ニッケル60|60]] | sym=Ni | na=26.223 % | n=32}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[ニッケル61|61]] | sym=Ni | na=1.14 % | n=33}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[ニッケル62|62]] | sym=Ni | na=3.634 % | n=34}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ニッケル63|63]] | sym=Ni | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E9 s|100.1 y]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>&minus;</sup>]] | de=0.0669 | pn=[[銅63|63]] | ps=[[銅|Cu]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[ニッケル64|64]] | sym=Ni | na=0.926 % | n=36}} |isotopes comment= }} '''ニッケル'''({{lang-nl-short|nikkel}}, {{lang-en-short|nickel}}, {{lang-la-short|niccolum}}, {{lang-zh-short|鎳}})は、[[原子番号]]28の[[金属元素]]である。[[元素記号]]は'''Ni'''。 == 名称 == 名称は[[ドイツ語]]の {{de|''Kupfernickel''}}(悪魔の[[銅]])に由来する<ref name="名前なし-1">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 155|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。これは、ニッケル鉱石である[[紅砒ニッケル鉱]](NiAs)が銅鉱石に似ているにもかかわらず銅を遊離できなかったために、坑夫たちがこう呼んだものと言われている。 == 存在 == [[地殻]]中の存在比は約{{val|105|e=-6}}と推定され、それほど多いわけではないが、[[鉄隕石]]中には数&nbsp;%含まれる。特に<sup>62</sup>Niの1[[核子]]あたりの[[結合エネルギー]]が全原子中で最大であるなどの点から、[[鉄]]とともにもっとも安定な元素である。岩石[[惑星]]を構成する元素として比較的多量に存在し、[[地球]]中心部の[[核 (天体)|核]]にも数&nbsp;%が含まれると推定されている。 == 性質 == 銀白色の金属で、[[鉄族元素|鉄族]]に分類される。[[原子量]]は約58.69である。常温で安定な[[結晶格子]]は、[[面心立方格子]](FCC)である。また、[[鉄]]よりは弱いが[[強磁性|強磁性体]]で、[[キュリー点]]は{{val|350|ul=degC}}であり、[[鉄族元素]]としてはもっとも低い。 銀白色の光沢ある金属であり、乾燥した空気中では錆びにくいが、微粒子状のものは[[空気]]中で[[自然発火]]することもあり、細いニッケル線は[[酸素]]中で火花を出して[[燃焼]]する。水素より[[イオン化傾向]]がやや大きく、[[塩酸]]および希[[硫酸]]に徐々に溶解し、緑色の[[水和]]ニッケルイオンを生成するが、その反応はきわめて遅い。酸化作用を持つ希[[硝酸]]には速やかに溶解し、濃硝酸では[[不動態]]を形成する。[[アルカリ]]に対しては比較的強い耐食性を示す。 : <chem>Ni + 2H^+(aq) -> Ni^+(aq) + H2</chem> : <chem>3Ni + 8HNO3 -> 3Ni(NO3)2 + 2NO + 4H2O</chem> 微粒子状の金属粉末は[[水素]]および[[窒素]]ガスなどを吸蔵し、[[水素化|水素付加反応]]を活性化させる作用を持ち、融解状態でもこれらの気体を吸収し、凝固時にその大部分を放出するため表面が巣穴になりやすい。また、鉄と同様、[[融解]]状態では[[炭素]]を6.25&nbsp;%まで溶解し、凝固すると[[グラファイト]]を析出する。 50&ndash;60&nbsp;&deg;Cで微粉末状のニッケルに[[一酸化炭素]]を反応させると[[テトラカルボニルニッケル]]を生成し、これを200&nbsp;&deg;Cに加熱すると分解してニッケルを生じる。この反応は、[[モンドプロセス|モンド法]]と称し、ニッケルの精製に用いられる。 : <chem>Ni + 4CO <=> Ni(CO)4</chem> == 用途 == 光沢があり[[耐食性]]が高いため、装飾用の[[めっき]]に用いられる(単純な耐食用途なら[[クロメート]]めっき等、より安価で効果的な方法がある)ほか、導電性も高い([[鉄]]、[[クロム]]より優れるが[[銅]]には及ばない)ため電気接点のめっきにも好んで使われる。[[ステンレス鋼]]や[[硬貨]]の原料などにも使用される。<!--、現行の[[百円硬貨]]も白銅貨としてニッケルを25 %、含有している。--> ; 硬貨の原料 [[日本]]で2022年現在発行されている[[五十円硬貨]]や[[百円硬貨]]は、[[銅]]とニッケルの合金([[白銅]])である。[[アメリカ合衆国]]の[[5セント硬貨 (アメリカ合衆国)|5セント硬貨]]も白銅だが、通称「ニッケル」と呼ばれている。純ニッケルも硬貨の材料として用いられたことがある。これはニッケルが[[特殊鋼]]や[[薬莢]]の材料である白銅の原料として重要であるため、国家が[[備蓄]]し、平時は硬貨として流通させ、有事に際してはほかの素材の硬貨や[[紙幣]]で代替して回収するためである<ref name=shigentosozai1885.49.165>藤原唯義、「[https://doi.org/10.11508/shigentosozai1885.49.165 ニッケル及モネルメタルの採鑛と製錬]」 『日本鑛業會誌』 1933年 49巻 575号 p.165-169, {{doi|10.11508/shigentosozai1885.49.165}}, 資源・素材学会</ref>。日本でも[[第二次世界大戦]]直前の[[1933年]]([[昭和]]8年)から[[1937年]](昭和12年)にかけて、[[五銭硬貨|5銭]]と[[十銭硬貨|10銭]]のニッケル硬貨が発行されており、その名目で軍需物資であるニッケルを輸入した。ただし、戦後もニッケル硬貨は発行されており、[[1955年]](昭和30年)から[[1966年]](昭和41年)まで発行されていた五十円硬貨([[1959年]](昭和34年)に無孔から有孔に変更)がニッケル硬貨である。 ; 高張力鋼 [[軍艦]]の[[装甲]]の素材として、[[鋼]]に質量比で6%のニッケルを添加して、[[砲弾]]を跳ね返すだけの強度を持たせる技術が[[1887年]]に[[イギリス]]で開発された<ref name=":0">{{Harvnb|藤井|2013|pp=130-182|loc=第4章 金属工業のビタミン「レアメタル」}}</ref>。この合金を基礎として、各種の[[高張力鋼]]が開発されているが、多くの場合にニッケルが含まれる<ref name=":0" />。 ; 磁性材 ニッケルと鉄に[[モリブデン]]や[[クロム]]を加えた[[合金]]を[[パーマロイ]]と呼ぶ。優れた[[軟質磁性体|軟磁性]]材料であることから、[[変圧器]]の[[鉄心]]や[[磁気ヘッド]]に用いられている。 ; 耐熱材 ニッケル36&nbsp;%、鉄64&nbsp;%の合金を「[[インバー]]」、ニッケル36&nbsp;%、鉄52&nbsp;%、[[クロム]]12&nbsp;%の合金を「[[エリンバー]]」と呼ぶ。インバー合金は熱膨張率が非常に小さく、エリンバー合金は温度による[[弾性率]]の変化が非常に小さいという特徴があり<ref>深道和明, 斎藤英夫、「[https://doi.org/10.2320/materia1962.15.553 不感磁性インバー合金, エリンバー合金Cr基合金を中心にして]」 『日本金属学会会報』 1976年 15巻 9号 p.553-562, 日本金属学会</ref>、機械式[[時計]]の発条などの精密機械に用いられている。ニッケルベースの合金である各種の[[インコネル]]は、その耐熱性から[[タービン]]用[[圧縮機|コンプレッサ]]の材料などに用いられる。 ; 形状記憶合金 [[チタン]]とニッケルの1:1の合金はもっとも一般的な[[形状記憶合金]]となる。 ; 触媒 ニッケルは[[不飽和炭素結合]]に対する[[水素化|水素付加]]の[[触媒#不均一系触媒|不均一系触媒]]として[[ラネー合金]]などに加工され工業的に用いられる。 ; 電極材 水酸化ニッケルは[[ニッケル・水素蓄電池]]や[[ニッケル・カドミウム蓄電池]]などの[[二次電池]]の正極に使われる。 ; 水素貯蔵合金 水素を取り込む性質を利用し、[[水素貯蔵合金]]のAB{{sub|5}}型、Mg型。 ; 電気自動車用電池 近年では[[電気自動車]]の電池にも使われる<ref name=":1">{{Cite news|title=GM、バーレとニッケル供給契約 EV電池コスト低減へ|url=https://jp.reuters.com/article/autos-gm-vale-idJPKBN2S80CY|work=Reuters|date=2022-11-18|access-date=2022-12-08|language=ja}}</ref>。[[2022年]]11月17日には[[ゼネラル・モータース]]の幹部が[[ヴァーレ]]のカナダ法人と長期契約を結びケベックの工場からEV用電池に使用できるニッケルの供給を[[2026年]]に始めると発表した<ref name=":1" />。 == 歴史 == [[アクセル・クロンステット]](Axel Frederik Cronstedt)が1751年に単体分離<ref name="名前なし-1"/>。 == 産地 == ニッケル鉱石の生産は世界全体で134万トン(2009年現在)である。その内訳は[[ロシア]]が19&nbsp;%、[[オーストラリア]]14&nbsp;%、[[インドネシア]]12&nbsp;%、[[カナダ]]10&nbsp;%、[[ニューカレドニア]]7&nbsp;%となっている<ref>[https://web.archive.org/web/20120511174545/http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/commodity/insg.html 外務省 国際ニッケル研究会の概要]</ref>。 鉱石としては、おもに[[蛇紋岩]]中に産出する[[珪ニッケル鉱]]({{en|Garnierite}}、(Ni,Mg)<sub>3</sub>Si<sub>2</sub>O<sub>5</sub>(OH)<sub>4</sub> とされるが、組成が一定しないので独立種とは認められていない)、[[磁硫鉄鉱]]などと共産する[[ペントランド鉱]]({{en|Pentlandite}}、(Fe,Ni)<sub>9</sub>S<sub>8</sub>)がおもに採掘されている。 == 精錬 == かつては、オ-フォード法、モンド法、ヒビネット法<ref name=shigentosozai1885.49.165 />、徐冷選鉱法などが利用された。2000年代以降は電気精錬法が用いられる<ref>黒川晴正、高石和幸、「[https://doi.org/10.2473/journalofmmij.123.678 住友金属鉱山ニッケル工場におけるニッケル・コバルト精錬]」 『Journal of MMIJ.」 2007年 123巻 12号 p.678-681, {{doi|10.2473/journalofmmij.123.678}}, 資源・素材学会</ref>。 ===国別の産出量=== 2011年における国別の産出量は以下の通りである<ref>地理 統計要覧 2014年版 ISBN 978-4-8176-0382-1 P,96</ref>。 {| class="wikitable" |- !順位 !国 !ニッケル鉱の産出量(万トン) !全世界での割合(%) |- |1 |[[インドネシア]] |29.0 |14.8 |- |2 |[[フィリピン]] |27.0 |13.8 |- |3 |[[ロシア]] |26.7 |13.6 |- |4 |[[カナダ]] |22.0 |11.2 |- |5 |[[オーストラリア]] |21.5 |11.0 |} === 日本のニッケル鉱山と産出 === {{Main|大江山鉱山}} 日本では[[第二次世界大戦]]中、京都府[[与謝郡]]の[[大江山]]で開発されたニッケル鉱山で[[日本冶金工業]]が採鉱し、近くの製錬所で[[フェロニッケル]]に製錬、さらに川崎市の同社工場でニッケル合金として軍用に提供していた。また山口県においても、山口県周南市から岩国市にかけて断続的に蛇紋岩帯があり、昭和15年から20年にかけて金峰鉱山などで採掘が行われた。このほか千葉県の房総半島など、蛇紋岩帯の存在する地域で採掘が行われた。しかし、これは[[戦時体制]]による商業コストを度外視したものであり、ほとんどが終戦とともに閉山・廃鉱となった。 この金属は、日本国内において産業上重要性が高いものの、産出地に偏りがあり{{efn|ロシア、カナダ、インドネシア、豪州、ニューカレドニアで約3分の2を占める。}}供給構造が脆弱である。日本では国内で消費する鉱物資源の多くを他国からの[[輸入]]で支えている実情から、万一の国際情勢の急変に対する[[安全保障]]策として国内消費量の最低60日分を国家[[備蓄]]すると定められている。 2015年(平成27年)現在、ニッケルを日本国内で製錬しているのは、[[大平洋金属]]八戸製造所、[[日本冶金工業]]大江山製造所、[[住友金属鉱山]][[日向製錬所]]である。 == 生物との関わり == [[ウレアーゼ]]([[尿素]]分解[[酵素]])やいくつかの[[ヒドロゲナーゼ]]([[分子]]型[[水素]]の[[酸化還元]]酵素)などは、その機能を発現するためにニッケルを取り込んでいる<ref>一島英治、『酵素の化学』 p.45</ref>。しかしながら、ニッケルは[[金属アレルギー]]を引き起こしやすい金属のひとつであり、[[世界保健機関|WHO]]の下部組織[[国際がん研究機関|IARC]]はニッケル化合物を「Group1:ヒトに対する[[発癌性]]が認められる化学物質」としている{{efn|ただし、IARC の報告は疫学的リスク評価であり、ニッケルおよびニッケル化合物に人に対して発癌するリスクが存在するという意味であり、どのぐらいの量をどのくらい長期間接触したら発癌するといった量的評価ではない。}}。{{main|IARC発がん性リスク一覧}} == おもな合金 == {{div col}} * [[白銅]](キュプロニッケル) * [[洋白]](洋銀) * [[ステンレス鋼]] * [[ニッケルクロム鋼]] * [[ホワイトゴールド]] * [[コンスタンタン]] * [[形状記憶合金]](ニチノール) * [[インコネル]] * [[パーマロイ]] * [[マルエージング鋼]] {{div col end}} == ニッケルの化合物 == 化合物中の[[原子価]]は2価がもっとも安定であるが、3価および4価のニッケル原子を含む[[錯体]]も存在し、&minus;1、0、+1といった低原子価の錯体も存在する。[[強酸]]の[[陰イオン]]よりなる[[塩 (化学)|塩]]類は一般的に水に可溶であるが、[[カルコゲン]]などとの化合物は難溶または不溶である。 * [[酸化ニッケル(II)]] (NiO) * [[水酸化ニッケル(II)]] ({{chem|Ni(OH)|2}}) * [[塩化ニッケル(II)]] ({{chem|NiCl|2}}) * [[硫酸ニッケル(II)]] ({{chem|NiSO|4}}) * [[テトラカルボニルニッケル]] * [[スルファミン酸ニッケル(II)]] {{chem|Ni(NH|2|SO|3|)|2}}) ({{interlang|de|Nickelsulfamat}}) - ニッケル[[めっき]]に使用 * [[ニッケル酸リチウム]] ({{chem|LiNiO|2}}) - [[リチウムイオン二次電池]]の正極材料 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === *{{Citation|和書|last=藤井|first=非三四|authorlink=|year=2013|title=「レアメタル」の太平洋戦争|edition=|publisher=学研パブリッシング|isbn=978-4-05-405708-1|series=|ref=harv}} == 関連項目 == {{Commonscat}} {{Wiktionary}} * [[露天掘り]] * [[サドベリー隕石孔]] - カナダの主要な産地。 * [[ノリリスク]] - ロシアの主要な産地。 * [[ニューカレドニア]] - 主な産地の一つ。独立運動がある。 * [[大江山鉱山]] * [[5セント硬貨 (アメリカ合衆国)]] - 愛称が「Nickel」。カナダも同様。 == 外部リンク == * [https://mric.jogmec.go.jp/ 金属資源情報] - 石油天然ガス・金属鉱物資源機構 * {{Kotobank}} {{元素周期表}} {{ニッケルの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:につける}} [[Category:ニッケル|*]] [[Category:元素]] [[Category:遷移金属]] [[Category:第10族元素]] [[Category:第4周期元素]]
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鉄族元素
鉄族元素(てつぞくげんそ、英語: iron group element)とは、周期表上で第4周期の第8、9、10族の元素、すなわち鉄 (Fe)、コバルト (Co)、ニッケル (Ni) の3つの元素の総称である。 第8、第9、 第10族元素については、族(周期表の縦列)よりも周期で隣り合う元素の化学的性質が似通っているため、このような区分がされている。第5周期および第6周期については白金族元素と呼ばれる。 鉄族元素は全て遷移金属であり、常温、常圧で強磁性を示すことが最大の特徴。常温で強磁性を示す単体金属は、希土類金属を除けばこの鉄族元素のみである。
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{{出典の明記|date=2011年3月}} {| class="infobox" style="background-color: white; text-align: center" |- ! [[元素の族|'''族''']] ! style="width:7%"| [[第7族元素|←]] !! [[第8族元素|8]] !! style="width:7%"| ! [[第9族元素|9]] ! style="width:7%"| !! [[第10族元素|10]] !! style="width:7%"| [[第11族元素|→]] |- | [[元素の周期|'''周期''']] |- | style="vertical-align:middle" | [[第4周期元素|'''4''']] | style="background-color:#ffc0c0;width:25%" colspan="3"| {{Small|26}}<br />[[鉄|Fe]] | style="background-color:#ffc0c0;width:25%"| {{Small|27}}<br />[[コバルト|Co]] | style="background-color:#ffc0c0;width:25%" colspan="3"| {{Small|28}}<br />[[ニッケル|Ni]] |- | [[第5周期元素|5]]<br />[[第6周期元素|6]] | style="background-color:#fff0f0;vertical-align:middle" colspan="7" border="1"| [[白金族元素]] |} '''鉄族元素'''(てつぞくげんそ、{{Lang-en|iron group element}})とは、[[周期表]]上で[[第4周期元素|第4周期]]の[[第8族元素|第8]]、[[第9族元素|9]]、[[第10族元素|10族]]の[[元素]]、すなわち[[鉄]] (Fe)、[[コバルト]] (Co)、[[ニッケル]] (Ni) の3つの元素の総称である。 第8、第9、 第10族元素については、族([[周期表]]の縦列)よりも周期で隣り合う元素の化学的性質が似通っているため、このような区分がされている。[[第5周期元素|第5周期]]および[[第6周期元素|第6周期]]については[[白金族元素]]と呼ばれる。 鉄族元素は全て[[遷移金属]]であり、常温、常圧で[[強磁性]]を示すことが最大の特徴。常温で強磁性を示す単体金属は、[[希土類]]金属を除けばこの鉄族元素のみである。 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:てつそくけんそ}} [[Category:元素群]]
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コバルト
コバルト(英: cobalt [ˈkoʊbɒlt]、羅: cobaltum)は、原子番号27の元素である。元素記号はCo。純粋なものは銀白色の金属である。常温で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (hcp) で、420 °C以上で面心立方構造 (fcc) に転移する。鉄族元素のひとつであり、強磁性体である。鉄より酸化されにくく、酸や塩基にも強い。キュリー点は1150 °C。 コバルトを用いた核爆弾の1種であるコバルト爆弾についても、本記事で記述する。 コバルトの名称と元素記号は、ドイツ語で地の妖精を意味するコーボルト(koboldまたはkobalt)に由来する。コバルト鉱物は冶金が困難であるため、16世紀ごろのドイツでは、コーボルトが坑夫を困らせるために魔法をかけたものと考えられていた。 なお、日本語における「コバルト」というカナ書きは、オランダ語からのものである。 1735年、スウェーデンのイェオリ・ブラント (Georg Brandt) によって発見された。 1960年に発生したコンゴ動乱によって値段が暴騰した。 コバルトの主要産出国は以下の通り(2011年実績)。 紛争鉱物として知られ、2016年に人権団体のアムネスティ・インターナショナルが「年間産出量の53%を占めるコンゴ民主共和国最大のコバルト鉱山テンケ・フングルーメ鉱山などを買収してコバルトの精製品の8割近くを生産している中国の企業が、児童労働などで得たコバルトをApple、マイクロソフト、サムソン、ソニー、ダイムラー、フォルクスワーゲンなど多国籍企業に供給している」と批判し、国際的な問題となった。なお、コバルトは日本国内において産業上重要性が高いものの、地殻存在度が低く供給構造が脆弱である。日本では国内で消費する鉱物資源の多くを他国からの輸入で支えている実情から、万一の国際情勢の急変に対する安全保障策として国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められている。 単体金属としてのコバルトの利用は一部用途にとどまっているが、合金材料として重要であり、工業的に利用される。初期のコバルト合金は、高速度工具鋼にコバルトを添加したコバルトハイス鋼に用いられた。また、切断工具材料としてそれまでの合金に添加されることにより、コバルトの需要は増していった。 ニッケル・クロム・モリブデン・タングステン、あるいはタンタルやニオブを添加したコバルト合金は、高温でも磨耗しにくく腐食に強いため、ガスタービンやジェットエンジンといった高温で高い負荷が生じる装置などに用いられているほか、溶鉱炉や石油化学コンビナートなどでも充分に役割を果たす。 そのほか、鉄よりも錆びづらく酸やアルカリに侵食されにくい性質を利用し、コバルト含有率を大幅に高めたコバルト合金は、鋏などの高級素材として利用されている。 ステライトに代表される、コバルト・クロム・タングステンあるいはモリブデン・炭素を使った4元系の合金は磨耗に強く、表面強化が必要となる工業分野において幅広く利用され始めている。この合金は鋳型として使用するほか、粉末として吹きつけることや溶射して利用することも可能であり、利用技術の発達によって航空機の表面にコーディングすることなどをはじめ、広い分野で実用化が始まっている。 以上に加え、コバルト合金はほかにも磁気材料として鉄とともにもっとも重要な役割を果たしてきた。コバルトを添加することによって磁性やキュリー値が上昇するなど、磁気材料としての性能が高まる。コバルトを使った合金のひとつであるアルニコ合金は、かつてもっとも幅広く用いられていた永久磁気材料であった。サマリウムコバルト磁石はコバルトとサマリウムの金属間化合物で、強い保磁力がある。 放射性同位体のコバルト60は、γ線源として用いられる。医療分野での放射線療法、ガンマ線滅菌、食品分野での食品照射(ジャガイモの発芽防止)、工業分野での非破壊検査などに広く利用されている。 コバルト爆弾とは、核開発への警告としてレオ・シラードが発表した核爆弾の1種である。原子爆弾もしくは水素爆弾の周囲をコバルトで覆ったものであり、具体的にはタンパーにコバルトを用いる。 原子量が59であるコバルトが、核分裂反応に伴って放出される中性子を取り込むことでコバルト60が生成され、これが爆弾の爆発とともに広範囲へまき散らされる。コバルト60は半減期が約5.27年でγ線を放射するため、コバルト爆弾は放射線兵器となる。しかし、半減期の長いコバルト60による汚染は味方にも被害がおよぶうえ、被災地の占領も困難であるなどの理由から、実用化されることはなかった。 SF作品の第三次世界大戦など、核戦争で世界が破滅するジャンルには、中性子爆弾と並んでよく登場する。また、その際には爆弾自体の破壊力もきわめて高く描写されており、作品によっては地球を消滅させるという設定すら盛り込まれている(1970年の映画『続・猿の惑星』など)。
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コバルトは、原子番号27の元素である。元素記号はCo。純粋なものは銀白色の金属である。常温で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (hcp) で、420 °C以上で面心立方構造 (fcc) に転移する。鉄族元素のひとつであり、強磁性体である。鉄より酸化されにくく、酸や塩基にも強い。キュリー点は1150 °C。 コバルトを用いた核爆弾の1種であるコバルト爆弾についても、本記事で記述する。
{{otheruses|元素}} {{Elementbox |name=cobalt |japanese name=コバルト |pronounce={{IPAc-en|ˈ|k|oʊ|b|ɒ|l|t}} {{respell|KOH|bolt}}<ref>Oxford English Dictionary, 2nd Edition 1989.</ref> |number=27 |symbol=Co |left=[[鉄]] |right=[[ニッケル]] |above=- |below=[[ロジウム|Rh]] |series=遷移金属 |series comment= |group=9 |period=4 |block=d |series color= |phase color |appearance=銀白色 |image name=Kobalt_electrolytic_and_1cm3_cube.jpg |image size= |image name comment= |image name 2= |image name 2 comment= |atomic mass=58.933195 |atomic mass 2=5 |atomic mass comment= |electron configuration=&#91;[[アルゴン|Ar]]&#93; 4s<sup>2</sup> 3d<sup>7</sup> |electrons per shell=2, 8, 15, 2 |color=銀白色 |phase= |phase comment= |density gplstp= |density gpcm3nrt=8.90 |density gpcm3nrt 2= |density gpcm3mp=7.75 |melting point K=1768 |melting point C=1495 |melting point F=2723 |boiling point K=3200 |boiling point C=2927 |boiling point F=5301 |triple point K= |triple point kPa= |critical point K= |critical point MPa= |heat fusion=16.06 |heat fusion 2= |heat vaporization=377 |heat capacity=24.81 |vapor pressure 1=1790 |vapor pressure 10=1960 |vapor pressure 100=2165 |vapor pressure 1 k=2423 |vapor pressure 10 k=2755 |vapor pressure 100 k=3198 |vapor pressure comment= |crystal structure=hexagonal |japanese crystal structure=[[六方晶系]] |oxidation states=5, 4 , '''3''', '''2''', 1, &minus;1<ref name=greenwood>{{Greenwood&Earnshaw2nd|pages=1117–1119}}</ref> |oxidation states comment=[[両性酸化物]] |electronegativity=1.88 |number of ionization energies=4 |1st ionization energy=760.4 |2nd ionization energy=1648 |3rd ionization energy=3232 |atomic radius=125 |atomic radius calculated= |covalent radius=126±3(低スピン), 150±7(高スピン) |Van der Waals radius= |magnetic ordering=[[強磁性]] |electrical resistivity= |electrical resistivity at 0= |electrical resistivity at 20=62.4 n |thermal conductivity=100 |thermal conductivity 2= |thermal diffusivity= |thermal expansion= |thermal expansion at 25=13.0 |speed of sound= |speed of sound rod at 20=4720 |speed of sound rod at r.t.= |Young's modulus=209 |Shear modulus=75 |Bulk modulus=180 |Poisson ratio=0.31 |Mohs hardness=5.0 |Vickers hardness=1043 |Brinell hardness=700 |CAS number=7440-48-4 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[コバルト56|56]] | sym=Co | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|77.27 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=4.566 | pn=[[鉄56|56]] | ps=[[鉄|Fe]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[コバルト57|57]] | sym=Co | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|271.79 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.836 | pn=[[鉄57|57]] | ps=[[鉄|Fe]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[コバルト58|58]] | sym=Co | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|70.86 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=2.307 | pn=[[鉄58|58]] | ps=[[鉄|Fe]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[コバルト59|59]] | sym=Co | na=100 % | n=32}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[コバルト60|60]] | sym=Co | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E8 s|5.2714 y]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]], [[ガンマ崩壊|γ]], [[ガンマ崩壊|γ]] | de=2.824 | pn=[[ニッケル60|60]] | ps=[[ニッケル|Ni]]}} |isotopes comment= }} '''コバルト'''({{lang-en-short|cobalt}} {{IPA-en|ˈkoʊbɒlt|}}、{{lang-la-short|cobaltum}})は、[[原子番号]]27の[[元素]]である。[[元素記号]]は'''Co'''。純粋なものは銀白色の[[金属]]である。常温で安定な結晶構造は[[六方最密充填構造]] (hcp) で、420&nbsp;&deg;C以上で[[面心立方構造]] (fcc) に転移する。[[鉄族元素]]のひとつであり、[[強磁性|強磁性体]]である。[[鉄]]より[[酸化]]されにくく、[[酸]]や[[塩基]]にも強い。[[キュリー温度|キュリー点]]は1150&nbsp;&deg;C。 コバルトを用いた[[核爆弾]]の1種である'''コバルト爆弾'''についても、本記事で記述する。 == 名称 == コバルトの名称と元素記号は、[[ドイツ語]]で地の妖精を意味する[[コボルト|コーボルト]](koboldまたはkobalt)に由来する。コバルト鉱物は[[冶金]]が困難であるため、[[16世紀]]ごろのドイツでは、コーボルトが坑夫を困らせるために魔法をかけたものと考えられていた。 なお、日本語における「コバルト」というカナ書きは、オランダ語からのものである。 == 歴史 == [[1735年]]、[[スウェーデン]]の[[イェオリ・ブラント]] (Georg Brandt) によって発見された<ref>{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 151|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。 [[1960年]]に発生した[[コンゴ動乱]]によって値段が暴騰した。 == 産出地 == コバルトの主要産出国は以下の通り(2011年実績)<ref>「Mineral Commodity Summaries 2012[http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/mcs/2012/mcs2012.pdf]」p47、[[USGS]]</ref>。 * [[コンゴ民主共和国]] * [[ロシア]] * [[オーストラリア]] * [[カナダ]] * [[中華人民共和国]] * [[ザンビア]] {|class="wikitable sortable" style="text-align:right" |+[[アメリカ地質調査所]]による2017年のコバルト鉱山の生産量と埋蔵量<ref name="minerals.usgs.gov">{{citation| publisher = U.S. Geological Survey| url = https://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/cobalt/mcs-2018-cobal.pdf | title = Cobalt Statistics and Information| date = 2018 | df = dmy-all}}</ref> |- ! 国 ! data-sort-type="number" | 産出量/t ! data-sort-type="number" | 埋蔵量/t <!-- <ref group=note name=res/> --> |- |style="text-align:left"|{{flag|DR Congo}} | {{gaps|64|000}} | {{gaps|3|500|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|Russia}} | 5600 | {{gaps|250|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|Australia}} | 5000 | {{gaps|1|200|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|Canada}} | 4300 | {{gaps|250|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|Cuba}} | 4200 | {{gaps|500|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|Philippines}} | 4000 | {{gaps|280|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|Madagascar}} | 3800 | {{gaps|150|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|Papua New Guinea}} | 3200 | {{gaps|51|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|Zambia}} | 2900 | {{gaps|270|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|New Caledonia}} | 2800 |style="text-align:center"| - |- |style="text-align:left"|{{flag|South Africa}} | 2500 | {{gaps|29|000}} |- |style="text-align:left"|{{flag|Morocco}} |1500 | |- |style="text-align:left"|{{flag|United States}} | 650 | {{gaps|23|000}} |- |style="text-align:left"| その他 | 5900 | {{gaps|560|000}} |- style="font-weight:bold" |style="text-align:left"| 世界合計 || {{gaps|110|000}} || {{gaps|7|100|000}} |} [[紛争鉱物]]として知られ、[[2016年]]に人権団体の[[アムネスティ・インターナショナル]]が「年間産出量の53%を占めるコンゴ民主共和国最大のコバルト鉱山[[テンケ・フングルーメ鉱山]]などを買収してコバルトの精製品の8割近くを生産している中国の企業が、[[児童労働]]などで得たコバルトを[[Apple]]、[[マイクロソフト]]、[[サムソン]]、[[ソニー]]、[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]、[[フォルクスワーゲン]]など[[多国籍企業]]に供給している」と批判し、国際的な問題となった<ref>Hon, Tracy; Jansson, Johanna; Shelton, Garth; Liu, Haifang; Burke, Christopher; Kiala, Carine (January 2010). "Evaluating China's FOCAC commitments to Africa and mapping the way ahead" . Centre for Chinese Studies, Stellenbosch University. </ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.wsj.com/articles/SB10975626634061694908804584041830827471814|title=世界のバッテリー支配狙う中国、コバルト供給牛耳る|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|date=2018-02-13|accessdate=2018-06-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.amnesty.or.jp/news/2017/1129_7172.html|title=コンゴ民主共和国:巨大企業 コバルト採掘での児童労働問題を放置|publisher=[[アムネスティ]]|date=2017-11-29|accessdate=2018-06-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.amnesty.or.jp/news/2016/0125_5817.html|title=コンゴ民主共和国:スマートフォンの裏に児童労働|publisher=[[アムネスティ]]|date=2016-01-25|accessdate=2018-06-26}}</ref>。なお、コバルトは日本国内において産業上重要性が高いものの、[[地殻中の元素の存在度|地殻存在度]]が低く供給構造が脆弱である。日本では国内で消費する鉱物資源の多くを他国からの輸入で支えている実情から、万一の国際情勢の急変に対する[[安全保障]]策として国内消費量の最低60日分を[[国家備蓄]]すると定められている。 == 用途 == === 合金材料 === 単体金属としてのコバルトの利用は一部用途にとどまっているが、[[合金]]材料として重要であり、工業的に利用される。初期のコバルト合金は、[[高速度工具鋼]]にコバルトを添加したコバルトハイス鋼に用いられた。また、切断工具材料としてそれまでの合金に添加されることにより、コバルトの需要は増していった。 [[ニッケル]]・[[クロム]]・[[モリブデン]]・[[タングステン]]、あるいは[[タンタル]]や[[ニオブ]]を添加したコバルト合金は、高温でも磨耗しにくく腐食に強いため、[[ガスタービン]]や[[ジェットエンジン]]といった高温で高い負荷が生じる装置などに用いられているほか、[[溶鉱炉]]や[[石油精製|石油化学コンビナート]]などでも充分に役割を果たす。 そのほか、[[鉄]]よりも錆びづらく[[酸]]や[[アルカリ]]に侵食されにくい性質を利用し、コバルト含有率を大幅に高めたコバルト合金は、[[はさみ|鋏]]などの高級素材として利用されている。 [[ステライト]]に代表される、コバルト・クロム・タングステンあるいは[[モリブデン]]・[[炭素]]を使った4元系の合金は磨耗に強く、表面強化が必要となる工業分野において幅広く利用され始めている。この合金は[[鋳型]]として使用するほか、粉末として吹きつけることや[[溶射]]して利用することも可能であり、利用技術の発達によって[[航空機]]の表面にコーディングすることなどをはじめ、広い分野で実用化が始まっている。 ; [[マルエージング鋼]] : 航空宇宙分野では必須の合金で高性能ミサイルの製造に重要であることから、戦略物資として扱われている。 ; コバルト-モリブデン-ケイ素合金 : 耐摩耗性を有して[[摩擦力#クーロンの摩擦モデル|摩擦係数]]が小さい(滑らかな)性質を示し、[[ベアリング]]の特徴を併せ持つなど、有用な特性を持った合金も開発されている。 ; コバルト-クロム-モリブデン合金([[コバリオン]]など)やコバルト-クロム-タングステン-ニッケル合金 : 腐食しにくいため、歯科医療や外科手術([[人工関節]])などでも使われている。 ; ニッケル-コバルト-モリブデン鋼 : 非常に強い強度と高い[[靭性]]を持ち、多くの分野での応用が期待されて研究が進んでいる。 以上に加え、コバルト合金はほかにも[[磁気]]材料として鉄とともにもっとも重要な役割を果たしてきた。コバルトを添加することによって磁性や[[キュリー値]]が上昇するなど、磁気材料としての性能が高まる。コバルトを使った合金のひとつである[[アルニコ磁石|アルニコ合金]]は、かつてもっとも幅広く用いられていた永久磁気材料であった。[[サマリウムコバルト磁石]]はコバルトと[[サマリウム]]の金属間化合物で、強い[[保磁力]]がある。 === 化合物 === [[File:2007-11-14BlaueGlasflaschen07.jpg|250px|thumb|right|ケイ酸コバルトによって青くなった瓶]] * ケイ酸コバルトとして入ることにより、[[ガラス]]などが[[青|青色]]を呈する。 * [[アルミン酸コバルト]]は青色の[[顔料]]である[[コバルト青]]の原料となり、[[陶磁器]]の着色や[[絵具]]などに用いられている。ほかにも[[亜鉛]]とコバルトの複合酸化物やコバルト、ニッケル、[[チタン]]、亜鉛の複合酸化物は[[コバルト緑]]と呼ばれる[[緑|緑色]]の顔料として利用される。 * [[ヘキサニトロコバルト(III)酸カリウム]]はコバルトイエローと呼ばれる[[黄色]]の顔料となり、その絵具は[[オーレオリン]]と呼ばれる。 * [[塩化コバルト(II)]]は、[[シリカゲル]]に混ぜて湿気の吸収具合の指示薬として使われる(乾燥状態で青紫色、湿気を吸収すると赤紫色を示す)。同水溶液(6水和物)は赤色で、濃塩酸を加えたり高温にすると赤紫色から青紫色を経て、無水物の青色を呈する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kojundo.blog/experiment/1001/ |title=コバルト(Co)〜銀を食らう山の精コボルト、印象派の画家たちも愛した青い元素〜 |work=高純度化学研究所 |date=2018-06-25 |accessdate=2019-12-09}}</ref>。 * [[コバルト酸リチウム]]は、[[リチウムイオン二次電池]]の正極材として用いられ、[[携帯電話]]など小型デジタル機器の急速な普及により需要が増大している。[[2020年]]に[[テスラ (会社)|テスラ]]が自社の一部製品にコバルトフリーバッテリーを採用することを発表してはいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60290160S0A610C2FFN000/ |title=テスラ、中国EVにコバルト使わない電池 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2020-06-12 |accessdate=2020-12-03}}</ref>が、[[欧米]]{{efn2|2020年現在、[[アメリカ合衆国|米国]]は[[カリフォルニア州]]のみ。}}と[[中華人民共和国|中国]]では[[2035年]]から[[2040年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://business.nikkei.com/atcl/report/16/022700114/072400008/ |title=フランスがガソリン車の販売を禁止する真の理由 |date=2017-07-27 |accessdate=2020-12-03 |website=[[日経ビジネス]]}}</ref>を目処として[[内燃機関]]自動車の販売を禁止する法律の整備を急いでいる状況があり<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20201203/k00/00m/020/001000c |title=政府、2030年代半ばにガソリン車新車販売禁止へ 欧米中の動きに対抗 |publisher=[[毎日新聞]] |date=2020-12-03 |accessdate=2020-12-03}}</ref>、急激な[[電気自動車|EV]]シフトによるコバルトの枯渇が不安視されている。 * [[コバラミン|ビタミンB12(コバラミン)]]は、その名の通り分子の中心にコバルトを持つ[[生理活性物質]]であり、欠乏すれば[[人体]]に深刻かつ[[不可逆]]的な損傷をもたらしうる[[ビタミン]]である。すなわちコバルトは、人体にとってごく微量ながらもほかの元素では代替できない[[必須元素]]である。 == 同位体 == {{Main|コバルトの同位体}} [[放射性同位体]]の[[コバルト60]]は、[[γ線]]源として用いられる。医療分野での[[放射線療法]]、[[ガンマ線滅菌]]、食品分野での[[食品照射]]([[ジャガイモ]]の発芽防止)、工業分野での[[非破壊検査]]などに広く利用されている。 == コバルト爆弾 == コバルト爆弾とは、核開発への警告として[[レオ・シラード]]が発表した[[核爆弾]]の1種である。[[原子爆弾]]もしくは[[水素爆弾]]の周囲をコバルトで覆ったものであり、具体的にはタンパー<ref group="注">核反応が充分に進行しないうちに核物質が四散して爆発が不完全に終わることを防ぐ、[[重金属]]製の覆い。日本語でタンパーと称される[[締固め用機械]]とは無関係である。</ref>にコバルトを用いる。 原子量が59であるコバルトが、[[核分裂反応]]に伴って放出される中性子を取り込むことでコバルト60が生成され、これが爆弾の爆発とともに広範囲へまき散らされる。コバルト60は[[半減期]]が約5.27年で[[γ線]]を放射するため、コバルト爆弾は放射線兵器となる。しかし、半減期の長いコバルト60による汚染は味方にも被害がおよぶうえ、被災地の占領も困難であるなどの理由から、実用化されることはなかった。 [[サイエンス・フィクション|SF]]作品の[[第三次世界大戦]]など、[[核戦争]]で世界が破滅するジャンルには、[[中性子爆弾]]と並んでよく登場する。また、その際には爆弾自体の破壊力もきわめて高く描写されており、作品によっては[[地球]]を消滅させるという設定すら盛り込まれている(1970年の映画『[[続・猿の惑星]]』など)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|Cobalt}} * [[コバルト・リッチ・クラスト]] * [[放射線療法]] * [[コバルト製錬]] == 外部リンク == * 「{{PDFlink|[https://www.env.go.jp/chemi/report/h24-02/pdf/chpt1/1-2-2-09.pdf コバルト及びその化合物]}}」『化学物質の環境リスク評価』第11巻、環境省、2013年(平成25年)3月。 * {{Kotobank}} {{元素周期表}} {{コバルトの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こはると}} [[Category:コバルト|*]] [[Category:元素]] [[Category:遷移金属]] [[Category:第9族元素]] [[Category:第4周期元素]] [[Category:必須ミネラル]]
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心身医学
心身医学(しんしんいがく、英語: psychosomatic medicine)または心療内科学は、患者の身体面だけではなく心理・社会面を含めて、人間を統合的に診ていこうとする全人的医療を目指す医学の一分野である。心身医学を実践している診療科が心療内科(しんりょうないか)である。 心身医学は元来ドイツで誕生した医学である。その後アメリカ合衆国にわたり、精神科医を中心に発展していった。諸外国では精神医学の一分野という認識であり、大半の国では精神症状がある時点で精神科の受診となる。1940年代から1960年代までは、フロイト派の精神分析や力動精神医学などを学んだ者が扱うものと考えられていたが、近年の潮流は行動医学へとシフトしている。現在のドイツではリエゾン精神医学として、全医学生に心身医学の教育が義務づけられており、国家試験にも必須の問題が出題されている。 一方、日本の心身医学は、病気の発症や進行に心理的要因が大きく関わる器質性疾患を中心に扱う分野として主に内科学から発展していった。初期の頃は「精神身体医学」と称されていた。 心身医学の主な対象は心身症である。内科疾患を主な対象とする場合は「心療内科学」と呼ぶこともある。心理面を含めた身体疾患の治療にあたるのが心身医学の専門医であるが、近年の医療技術の進歩によって、身体科の専門医との連携なしでは治療を進め得ないことも多く、その場合、コンサルテーション・リエゾン精神医学との明確な区別はできない。 心身症の診断には「明らかな身体疾患である」「負荷となる環境変化により身体症状が増悪する」の2つの条件が不可欠であり、他には「社会適応は比較的良好である」「身体治療をしても症状が改善しない、あるいは再燃を繰り返す」などの特徴があることが多い。 心療内科は主に心身症やストレスからくる身体症状を扱う。最初に心療内科が誕生したのは、九州大学病院で、現在心療内科の講座・診療科を持つ医科大学は、九州大学、東京大学、東邦大学、関西医科大学、鹿児島大学の5大学のみである。他に診療科を持つ医科大学としては近畿大学、日本大学、東北大学、東京医科歯科大学(歯学部)などがある。 「心療内科」という名称は日本にしか存在しない(ドイツでは「心身医学科」という名称の診療科になる)。ここで「心療」とは「心理療法」の省略であり、「心を治療する」という意味ではない(「物療内科」が「物理療法」の省略であるのと同様)。しかし実際は、心身医学を専門とする心療内科は、精神科と多少の競合分野となっている。 現在では一般的に精神科と心療内科の区別は曖昧であり、心身医学の専門医や心療内科医が、身体症状を有する神経症性障害や軽症うつ病などの診察にあたることは珍しくなくなったが、専門性に関しては議論の対象となっており、心療内科医が最新の精神医学を修得しているかは個人差があるといわれる。 日本においては1996年に「心療内科」が厚生省に標榜科として認められて以降、精神科を含む多くの医療機関で「心療内科」の標榜が掲げられるようになり、心身症の治療が受けやすくなった。患者側に精神科通院に対する偏見がある場合、精神科ではなく心療内科の受診を希望することも多い。しかし、そのような患者でも実際に心療内科で診るべき心身症であることは少ないという。 なお心療内科医が開業している場合「心療内科・内科」、精神科医が開業している場合は「心療内科・精神科・神経科」などと標榜している場合が多い。総合病院などに精神科がなく心療内科のみが存在しているケースなどでは、精神科医が診察を行っていることもある。 厚生労働省の2008年統計によると、国内の心療内科医(内科医を除く)の数は883人で、精神科医の数は13,534人である。 東邦大学医学部附属大森病院心療内科では、「心療内科は純粋な心身症だけを見るべきではない。本来の心身症の患者は、心療内科受診者の15%にすぎない」とコメントしている。 心理状態が身体の状態に影響を与えるという実証的な研究が進んでいる。日本では1995年前後に、笑いやストレスがNK細胞の活性度をはじめとする免疫状態に影響を与えるという発表が行われた。癌の場合には、末期がんの患者にカウンセリング治療を行った場合と行わなかった場合とで、平均生存期間や生活の質 (QOL) に大きな違いが生じたことが1978年に米国のカール・サイモントンによって報告された。 癌の場合に、患者の精神面のカウンセリングなどを行って治癒の促進を図る療法がある。同じような病状の患者に同じ治療を施しても、患者の心理状態によって治療結果が大きく変わるとして、1970年代に米国のカール・サイモントンによって始められたサイモントン療法がある。精神腫瘍学、精神神経免疫学に基づく。日本へは1999年に導入され、認定セラピストによる治療が行われている。 日本では、森田療法に基づく生きがい療法の実践が、1980年代から続けられている。
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心身医学または心療内科学は、患者の身体面だけではなく心理・社会面を含めて、人間を統合的に診ていこうとする全人的医療を目指す医学の一分野である。心身医学を実践している診療科が心療内科(しんりょうないか)である。
{{出典の明記|date=2011-11}} '''心身医学'''(しんしんいがく、{{Lang-en|psychosomatic medicine}})または'''心療内科学'''は、[[患者]]の身体面だけではなく心理・社会面を含めて、[[人間]]を統合的に診ていこうとする全人的医療を目指す[[医学]]の一分野である。心身医学を実践している診療科が'''心療内科'''(しんりょうないか)である。 == 概要 == 心身医学は元来[[ドイツ]]で誕生した医学である。その後[[アメリカ合衆国]]にわたり、[[精神科医]]を中心に発展していった。諸外国では[[精神医学]]の一分野という認識であり、大半の国では精神症状がある時点で[[精神科]]の受診となる。[[1940年代]]から[[1960年代]]までは、[[ジークムント・フロイト|フロイト]]派の[[精神分析]]や[[精神医学|力動精神医学]]などを学んだ者が扱うものと考えられていたが、近年の潮流は行動医学へとシフトしている<ref name="hyojun">野村総一郎・樋口輝彦・尾崎紀夫『標準精神医学 第4版』医学書院、2009年、p.13、pp.164-165、p.221</ref>。現在のドイツでは[[リエゾン精神医学]]として、[[医学生|全医学生]]に心身医学の教育が義務づけられており、国家試験にも必須の問題が出題されている<ref name="kansai">[https://web.archive.org/web/20071020043918/http://www3.kmu.ac.jp/psm/Sinryounaikatowa/sinryounaika%20towa.htm 関西医科大学 心療内科学講座「心療内科とは?心身症とは?」]</ref>。 一方、日本の心身医学は、病気の発症や進行に心理的要因が大きく関わる器質性疾患を中心に扱う分野として主に内科学から発展していった。初期の頃は「精神身体医学」と称されていた<ref>[http://www.cephal.med.kyushu-u.ac.jp/page03.html 九州大学病院 心療内科の紹介]</ref>。 心身医学の主な対象は[[心身症]]である。内科疾患を主な対象とする場合は「心療内科学」と呼ぶこともある。心理面を含めた身体疾患の治療にあたるのが心身医学の専門医であるが、近年の医療技術の進歩によって、身体科の専門医との連携なしでは治療を進め得ないことも多く、その場合、コンサルテーション・リエゾン精神医学との明確な区別はできない<ref name="hyojun"></ref>。 [[心身症]]の診断には「明らかな身体疾患である」「負荷となる環境変化により身体症状が増悪する」の2つの条件が不可欠であり、他には「社会適応は比較的良好である」「身体治療をしても症状が改善しない、あるいは再燃を繰り返す」などの特徴があることが多い<ref name="hyojun"></ref>。 == 心療内科 == 心療内科は主に[[心身症]]や[[ストレス (生体)|ストレス]]からくる身体症状を扱う。最初に心療内科が誕生したのは、[[九州大学病院]]で、現在心療内科の講座・診療科を持つ[[医科大学]]は、[[九州大学]]、[[東京大学]]、[[東邦大学]]、[[関西医科大学]]、[[鹿児島大学]]、[[国際医療福祉大学]]の6大学のみである。他に診療科を持つ大学病院としては、[[東北大学病院]]、[[東京医科歯科大学病院]]、[[日本大学医学部附属板橋病院]]、[[東京女子医科大学附属足立医療センター]]がある。 === 心療内科と精神科 === 「心療内科」という名称は日本にしか存在しない(ドイツでは「心身医学科」という名称の診療科になる<ref name="kansai"></ref>)。ここで「心療」とは「[[心理療法]]」の省略であり、「心を治療する」という意味ではない(「物療内科」が「[[物理療法]]」の省略であるのと同様)。しかし実際は、心身医学を専門とする心療内科は、[[精神科]]と多少の競合分野となっている<ref name="hyojun"></ref>。 現在では一般的に精神科と心療内科の区別は曖昧であり、心身医学の[[学会認定専門医|専門医]]や心療内科医が、身体症状を有する神経症性障害や軽症うつ病などの診察にあたることは珍しくなくなったが、専門性に関しては議論の対象となっており<ref name="hyojun"></ref>、心療内科医が最新の[[精神医学]]を修得しているかは個人差があるといわれる<ref>齋藤英二『心の病気―精神病・うつ病・心身症・ストレス…』西東社、2000年</ref>。 日本においては[[1996年]]に「心療内科」が[[厚生労働省|厚生省]]に標榜科として認められて以降、精神科を含む多くの医療機関で「心療内科」の標榜が掲げられるようになり、心身症の治療が受けやすくなった。患者側に精神科通院に対する偏見がある場合、精神科ではなく心療内科の受診を希望することも多い。しかし、そのような患者でも実際に心療内科で診るべき心身症であることは少ないという<ref name="kashiwaze">[https://web.archive.org/web/20121214055106/http://www.jspn.or.jp/column/contents/2011/column_2011_01kashiwase.html 柏瀬宏隆 『心療内科と精神科』 2011年1月]</ref>。 なお心療内科医が開業している場合「心療内科・内科」、[[精神科医]]が開業している場合は「心療内科・精神科・神経科」などと標榜している場合が多い。総合病院などに精神科がなく心療内科のみが存在しているケースなどでは、精神科医が診察を行っていることもある<ref name="kashiwaze"/>。 厚生労働省の2008年統計によると、国内の心療内科医(内科医を除く)の数は883人で、精神科医の数は13,534人である<ref>[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/08/dl/gaikyo1.pdf 厚生労働省『医師・歯科医師・薬剤師調査の概況』2008年]</ref>。 [[東邦大学医学部附属大森病院]]心療内科では、「心療内科は純粋な心身症だけを見るべきではない。本来の心身症の患者は、心療内科受診者の15%にすぎない」とコメントしている{{要出典|date=2012年1月|}}。 === 心療内科で扱う病気 === * [[心身症]]、[[病気不安症]] * [[摂食障害]] * [[パニック障害]] * [[社交不安障害]] * うつ状態(≠[[うつ病]]) * [[仮面うつ病]] * [[睡眠障害]] * [[自律神経失調症]] * [[過敏性腸症候群]] * 機能性胃腸障害、消化管障害、心因性嘔吐症 * 身体化障害 * [[疼痛|慢性疼痛]]・[[慢性疲労症候群]]、[[起立性調節障害]] * [[頭痛]]・緊張性頭痛、心因性の発熱やめまい * [[書痙]]・[[斜頸]] * コントロールの難しい[[糖尿病]]・[[肥満|肥満症]] * [[気管支喘息]]や[[アトピー性皮膚炎]] * [[精神腫瘍学]]に基づいた、[[癌]]患者のケア == 精神心理状態と身体の相互作用 == 心理状態が身体の状態に影響を与えるという実証的な研究が進んでいる。日本では[[1995年]]前後に、[[笑い]]や[[ストレス (生体)|ストレス]]が[[NK細胞]]の活性度をはじめとする免疫状態に影響を与えるという発表が行われた。癌の場合には、末期がんの患者に[[カウンセリング]]治療を行った場合と行わなかった場合とで、平均生存期間や生活の質 ([[クオリティ・オブ・ライフ|QOL]]) に大きな違いが生じたことが[[1978年]]に米国の[[カール・サイモントン]]によって報告された。 === 癌の心理療法 === [[癌]]の場合に、患者の精神面のカウンセリングなどを行って治癒の促進を図る療法がある。同じような病状の患者に同じ治療を施しても、患者の心理状態によって治療結果が大きく変わるとして、[[1970年代]]に米国の[[カール・サイモントン]]によって始められたサイモントン療法がある。[[精神腫瘍学]]、[[精神神経免疫学]]に基づく。日本へは[[1999年]]に導入され、認定[[セラピスト]]による治療が行われている。 日本では、[[森田療法]]に基づく[[生きがい療法]]の実践が、[[1980年代]]から続けられている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連文献 == * 増田彰則他「健常成人男性におけるNK細胞活性と心理・行動特性、ストレス対処行動、慢性疲労の関係について」心身医学、35 (5) 383-390, 1995. * ''"Getting Well Again"'' O. Carl Simonton, MD, Stephanie Mathews-Simonton, James L. Creighton, 1981.(日本語訳「がんのセルフコントロール」) == 関連項目 == * [[心身症]] * [[精神疾患]] * [[内科学]] * [[精神医学]] * [[リエゾン精神医学]] * [[精神腫瘍学]] * [[臨床心理学]] * [[自然治癒力]] * [[気管支喘息]] * [[日本心身医学会]] * [[日本女性心身医学会]] * [[デイケア]] * [[法医学]] == 外部リンク == * [http://www.shinshin-igaku.com/ 一般社団法人 日本心身医学会] * [http://body-thinking.com/column/clm_distinction.htm 心療内科・精神科・神経内科の違い] * [https://www.mhlw.go.jp/kokoro/support/3_01_02choice.html 精神科、神経科、精神神経科、心療内科、神経内科の違いは?] 医療機関の選び方 - [[厚生労働省]] {{Medical-stub}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:しんしんいかく}} [[Category:臨床医学]] [[Category:内科学]] [[Category:心身医学|*]] [[Category:医学の分野]]
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タングステン
タングステンまたはウォルフラム(ドイツ語: Wolfram [ˈvɔlfram]、ラテン語: wolframium、英語: tungsten [ˈtʌŋstən]スウェーデン語:重い石)は、原子番号74の金属元素であり、クロム族元素に分類される。元素記号は Wである。 タングステンの原子量は183.84で、その単体は銀灰色で重く、比重は19.3である。比重が金(Au)に近いため、金の延べ板の偽造に用いられた事例が有る。 化学的には比較的安定で、常圧における融点は 3380 °C で、沸点は 5555 °C である。金属の単体では最も融点が高く、金属としては比較的大きな電気抵抗を持つ。 なお、タングステンは硬くて脆いというイメージが持たれているものの、これは不純物が混じっている合金である場合であり、高純度なタングステンは柔らかい。ただし、これ以降は特に断りが無い限り、高純度ではないタングステンやタングステンの化合物について記述する。 タングステン酸塩から成る鉱物をタングステン酸塩鉱物(タングステンさんえんこうぶつ、tungstate mineral)と総称する。灰重石 CaWO4(タングステン酸カルシウム)、鉄重石 FeWO4(タングステン酸鉄)、マンガン重石 MnWO4(タングステン酸マンガン)などが挙げられる。鉄重石とマンガン重石を総称してWolframite (F,eMn)WO4という。 タングステンにはWからWまで、35種類の同位体が知られており、このうちW、W、W、W、Wが天然に存在する。全ての同位体が放射性核種と考えられているが、いずれも極めて半減期が長く、崩壊が観測されたことはない。計算上では、1 gのタングステンは2日に1個の原子が崩壊しているはずだと考えられている。 タングステンの融点の高さと電気抵抗の大きさを活かし、電球のフィラメントとして利用されてきたが、LEDの普及によりこの分野の使用量は減少してきている。融点の高さを利用した他の用途としては、電子顕微鏡や電子線描画装置の電子線(電子ビーム)発生の電極や、TIG溶接の非消耗電極の素材、またはプラズマアーク溶接、プラズマ切断の電極のように、高温に曝される電極の材料に用いる場合がある。他に、真空蒸着による薄膜形成の際、薄膜の素材となる金属の加熱・溶融・保持に使用される。 また、高温強度が強く、熱膨張係数は金属のうちでは最も小さいため、耐熱性の要求される分野でも用いられる。鉄タングステン合金や炭化タングステンは非常に硬度が高く、摩擦熱にも耐えるため、切削用工具などの工具の材料として用いる場合がある。 他に、比重が大きく高い硬度を利用して、装甲を撃ち抜くための砲弾の材料としても用いられる。特に戦車のもつ硬く厚い装甲を貫通するための徹甲弾の弾芯に用いられる。こうした徹甲弾の材料としてその後、比重が大きくある程度の硬度も有する劣化ウラン合金も使用され始め、タングステンと競合している。 密度の高さを活かして、X線を遮蔽するための材料として用いる場合もある。また、野性動物への鉛害防止の観点から、狩猟用の散弾銃の弾丸や、釣り針の錘などとして使われてきた鉛の代替品として注目されている。タングステンは鉛より加工が難しいが、近年はタングステン製の錘やルアーの販売も増えだしている。タングステンは比重が鉛より大きいため、同じ重量なら形状は鉛より小さくなる。それによって飛距離が伸びたり、岩や牡蠣殻の隙間に引っかかりにくくなったり、魚の捕食を誘発しやすいというメリットがある。しかし、価格の面では鉛製よりも高額となる。 タングステンの1年間あたりの産出量は、中華人民共和国が52,000トンで、世界の産出量の8割以上を占めており、次いでロシア連邦、カナダ、オーストリアなどで、多く産出される。日本では香川県丸亀市の手島などで小規模の鉱床が発見されたがいずれも閉山している。 産業上・軍事上で重要性の高い金属ながら、地球の地殻において濃度の低い元素であり、産出地も偏在している。日本においても多くを他国からの輸入に頼っている状況であるため、国際情勢の急変に対する安全保障策として国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められている。 1781年にスウェーデンのカール・ヴィルヘルム・シェーレが灰重石から酸化タングステン(VI)の分離に成功し、タングステン酸と命名した。1783年に、スペインのファン・ホセとファウストのエルヤル兄弟が、タングステン酸を木炭で還元して初めて単体を得て、ウォルフラムと命名した。 タングステン (tungsten) とは、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語で「重い石」という意味である。元素記号の W はドイツ語の Wolfram にちなむ。これは、タングステン鉱石(鉄マンガン重石)Wolframit から来ており(エルヤル兄弟の命名もここから)、これがスズ鉱石の中に混入すると、スラグを作ってスズの精製を阻害するため、スズを狼 (Wolf) のようにむさぼり食べるという意味で命名された。 1980年頃までは中華人民共和国の産出量も世界の5割を切っていたものの、20世紀終盤はタングステンが比較的低価格で、他国のタングステン鉱山が閉山し、中華人民共和国に採掘が集中した経緯がある。さらに21世紀に入り、中華人民共和国でのタングステンの需要が高まると、投機を行って、いわゆるマネーゲームによって利益を上げようとする者の資金が、タングステンの市場にも流入し、価格が吊り上げられた側面があり、2005年には取り引き価格が2倍以上に上昇した。 アメリカ合衆国では2010年に、コンゴ民主共和国および周辺国で紛争地域のテロ活動の資金源となっている鉱物、いわゆる「紛争鉱物」に指定され、製品に使用する企業は、アメリカ合衆国証券取引委員会に報告義務が課された。 日米欧からの提訴を受けて世界貿易機関(WTO)が協定違反と断じたため、2015年に生産をほぼ独占していた中華人民共和国はタングステンとレアアースとモリブデンに賦課していた「輸出税」と「輸出数量制限」を廃止した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "タングステンまたはウォルフラム(ドイツ語: Wolfram [ˈvɔlfram]、ラテン語: wolframium、英語: tungsten [ˈtʌŋstən]スウェーデン語:重い石)は、原子番号74の金属元素であり、クロム族元素に分類される。元素記号は Wである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "タングステンの原子量は183.84で、その単体は銀灰色で重く、比重は19.3である。比重が金(Au)に近いため、金の延べ板の偽造に用いられた事例が有る。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "化学的には比較的安定で、常圧における融点は 3380 °C で、沸点は 5555 °C である。金属の単体では最も融点が高く、金属としては比較的大きな電気抵抗を持つ。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、タングステンは硬くて脆いというイメージが持たれているものの、これは不純物が混じっている合金である場合であり、高純度なタングステンは柔らかい。ただし、これ以降は特に断りが無い限り、高純度ではないタングステンやタングステンの化合物について記述する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "タングステン酸塩から成る鉱物をタングステン酸塩鉱物(タングステンさんえんこうぶつ、tungstate mineral)と総称する。灰重石 CaWO4(タングステン酸カルシウム)、鉄重石 FeWO4(タングステン酸鉄)、マンガン重石 MnWO4(タングステン酸マンガン)などが挙げられる。鉄重石とマンガン重石を総称してWolframite (F,eMn)WO4という。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "タングステンにはWからWまで、35種類の同位体が知られており、このうちW、W、W、W、Wが天然に存在する。全ての同位体が放射性核種と考えられているが、いずれも極めて半減期が長く、崩壊が観測されたことはない。計算上では、1 gのタングステンは2日に1個の原子が崩壊しているはずだと考えられている。", "title": "同位体" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "タングステンの融点の高さと電気抵抗の大きさを活かし、電球のフィラメントとして利用されてきたが、LEDの普及によりこの分野の使用量は減少してきている。融点の高さを利用した他の用途としては、電子顕微鏡や電子線描画装置の電子線(電子ビーム)発生の電極や、TIG溶接の非消耗電極の素材、またはプラズマアーク溶接、プラズマ切断の電極のように、高温に曝される電極の材料に用いる場合がある。他に、真空蒸着による薄膜形成の際、薄膜の素材となる金属の加熱・溶融・保持に使用される。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、高温強度が強く、熱膨張係数は金属のうちでは最も小さいため、耐熱性の要求される分野でも用いられる。鉄タングステン合金や炭化タングステンは非常に硬度が高く、摩擦熱にも耐えるため、切削用工具などの工具の材料として用いる場合がある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "他に、比重が大きく高い硬度を利用して、装甲を撃ち抜くための砲弾の材料としても用いられる。特に戦車のもつ硬く厚い装甲を貫通するための徹甲弾の弾芯に用いられる。こうした徹甲弾の材料としてその後、比重が大きくある程度の硬度も有する劣化ウラン合金も使用され始め、タングステンと競合している。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "密度の高さを活かして、X線を遮蔽するための材料として用いる場合もある。また、野性動物への鉛害防止の観点から、狩猟用の散弾銃の弾丸や、釣り針の錘などとして使われてきた鉛の代替品として注目されている。タングステンは鉛より加工が難しいが、近年はタングステン製の錘やルアーの販売も増えだしている。タングステンは比重が鉛より大きいため、同じ重量なら形状は鉛より小さくなる。それによって飛距離が伸びたり、岩や牡蠣殻の隙間に引っかかりにくくなったり、魚の捕食を誘発しやすいというメリットがある。しかし、価格の面では鉛製よりも高額となる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "タングステンの1年間あたりの産出量は、中華人民共和国が52,000トンで、世界の産出量の8割以上を占めており、次いでロシア連邦、カナダ、オーストリアなどで、多く産出される。日本では香川県丸亀市の手島などで小規模の鉱床が発見されたがいずれも閉山している。", "title": "産出" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "産業上・軍事上で重要性の高い金属ながら、地球の地殻において濃度の低い元素であり、産出地も偏在している。日本においても多くを他国からの輸入に頼っている状況であるため、国際情勢の急変に対する安全保障策として国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められている。", "title": "産出" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1781年にスウェーデンのカール・ヴィルヘルム・シェーレが灰重石から酸化タングステン(VI)の分離に成功し、タングステン酸と命名した。1783年に、スペインのファン・ホセとファウストのエルヤル兄弟が、タングステン酸を木炭で還元して初めて単体を得て、ウォルフラムと命名した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "タングステン (tungsten) とは、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語で「重い石」という意味である。元素記号の W はドイツ語の Wolfram にちなむ。これは、タングステン鉱石(鉄マンガン重石)Wolframit から来ており(エルヤル兄弟の命名もここから)、これがスズ鉱石の中に混入すると、スラグを作ってスズの精製を阻害するため、スズを狼 (Wolf) のようにむさぼり食べるという意味で命名された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1980年頃までは中華人民共和国の産出量も世界の5割を切っていたものの、20世紀終盤はタングステンが比較的低価格で、他国のタングステン鉱山が閉山し、中華人民共和国に採掘が集中した経緯がある。さらに21世紀に入り、中華人民共和国でのタングステンの需要が高まると、投機を行って、いわゆるマネーゲームによって利益を上げようとする者の資金が、タングステンの市場にも流入し、価格が吊り上げられた側面があり、2005年には取り引き価格が2倍以上に上昇した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では2010年に、コンゴ民主共和国および周辺国で紛争地域のテロ活動の資金源となっている鉱物、いわゆる「紛争鉱物」に指定され、製品に使用する企業は、アメリカ合衆国証券取引委員会に報告義務が課された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日米欧からの提訴を受けて世界貿易機関(WTO)が協定違反と断じたため、2015年に生産をほぼ独占していた中華人民共和国はタングステンとレアアースとモリブデンに賦課していた「輸出税」と「輸出数量制限」を廃止した。", "title": "歴史" } ]
タングステンまたはウォルフラムは、原子番号74の金属元素であり、クロム族元素に分類される。元素記号は Wである。
{{Elementbox | name = tungsten | japanese name = タングステン | number = 74 | symbol = W | pronounce = {{IPAc-en|ˈ|t|ʌ|ŋ|s|t|ən}};<br />alternatively, {{IPAc-en|ˈ|w|ʊ|l|f|r|əm}} {{Respell|WOOL|frəm}} | left = [[タンタル]] | right = [[レニウム]] | above = [[モリブデン|Mo]] | below = [[シーボーギウム|Sg]] | series = 遷移金属 | group = 6 | period = 6 | block = d | image name = Wolfram_evaporated_crystals_and_1cm3_cube.jpg | appearance = 銀灰色 ブルーライトを当てると水色に、発色する | atomic mass = 183.84 | electron configuration = &#91;[[キセノン|Xe]]&#93; 4f<sup>14</sup> 5d<sup>4</sup> 6s<sup>2</sup><ref>{{Cite web |url=https://www.madsci.org/posts/archives/2000-02/951518136.Ch.r.html |title=Re: Why does Tungsten not 'Kick' up an electron from the s sublevel ? |date=2000-02-25 |accessdate=2022-12-23 |language=en}}</ref> | electrons per shell = 2, 8, 18, 32, 12, 2 | phase = 固体 | density gpcm3nrt = 19.25 | density gpcm3mp = 17.6 | melting point K = 3695 | melting point C = 3422 | melting point F = 6192 | boiling point K = 5828 | boiling point C 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|accessdate=2004-03-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf |archivedate=2004-03-24 |language=en}}in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref> | electrical resistivity at 20 = 52.8 n | thermal conductivity = 173 | thermal expansion at 25 = 4.5 | speed of sound rod at r.t. = (annealed) 4620 | Young's modulus = 411 | Shear modulus = 161 | Bulk modulus = 310 | Poisson ratio = 0.28 | Mohs hardness = 7.5 | Vickers hardness = 3430 | Brinell hardness = 2570 | CAS number = 7440-33-7 | isotopes = {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[タングステン180|180]] | sym=W | na=0.12% | hl=1.8×10<sup>18</sup> [[年|y]] | dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=2.516 | pn=[[ハフニウム176|176]] | ps=[[ハフニウム|Hf]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[タングステン181|181]] | sym=W | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|121.2 d]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.188 | pn=[[タンタル181|181]] | ps=[[タンタル|Ta]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=182 | sym=W | 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{{IPA-en|ˈtʌŋstən|}}[[スウェーデン語]]:重い石)は、[[原子番号]]74の[[金属元素]]であり、[[クロム族元素]]に分類される。[[元素記号]]は '''W'''である。 == 性質 == タングステンの[[原子量]]は183.84で、その単体は銀灰色で重く、[[比重]]は19.3である。比重が[[金|金(Au)]]に近いため{{efn2|常温常圧における金の比重は、3桁の精度では19.3である。}}、金の延べ板の偽造に用いられた事例が有る<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/national/update/0605/OSK200706040125.html |title=金の延べ板の偽造工場を摘発、ブローカーの男ら6人逮捕 |newspaper=asahi.com |date=2007-06-05 |accessdate=2016-12-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070606070857/http://www.asahi.com/national/update/0605/OSK200706040125.html |archivedate=2007-06-06}}</ref>。 化学的には比較的安定で、常圧における[[融点]]は {{Val|3380|ul=degC}} で、[[沸点]]は {{Val|5555|u=degC}} である。金属の単体では最も融点が高く、金属としては比較的大きな[[電気抵抗]]を持つ<ref>{{Cite web|和書|title=タングステンの特長 |url=https://www.allied-material.co.jp/techinfo/tungsten/features.html |website=アライドマテリアル |accessdate=2022-12-23}}</ref>。 なお、タングステンは硬くて脆いというイメージが持たれているものの、これは不純物が混じっている合金である場合であり、高純度なタングステンは柔らかい{{sfn|桜井|1997|p=305}}。ただし、これ以降は特に断りが無い限り、高純度ではないタングステンやタングステンの化合物について記述する。 === タングステンの化合物 === * [[タングステン酸ジルコニウム]]({{Chem|ZrW|2|O|8}}) - [[負の熱膨張]]を示す。 * [[タングステン酸アルミニウム]]({{Chem|Al|2|(WO|4|)|3}}) - {{Chem|Al|3+}} イオン伝導体 * [[酸化タングステン(VI)]]({{Chem|WO|3}}) - 鉱物として産出する。 * [[炭化タングステン]](WC) - 最も沸点の高い物質で、常圧における沸点は、約 {{Val|6000|u=degC}} である。また、ダイヤモンドに次ぐ硬さがある。 * [[パラタングステン酸アンモニウム]] - タングステンを鉱石から精錬した際に作られる中間生成物である。 * 銀タングステンカーバイド(AgWC)、銅タングステン(CuW) - 真空遮断器などのバルブ内の接触子材料として用いる場合がある。 * [[硫化タングステン(IV)]](WS<sub>2</sub>) - 固体の潤滑剤として用いる場合がある。 * [[フッ化タングステン(VI)]](WF<sub>6</sub>) - 常温常圧において、特に密度の高い気体として知られる。水と反応すると分解する。 === タングステン酸塩鉱物 === {{See also|鉱物の一覧#タングステン酸塩鉱物}} タングステン酸塩から成る鉱物を'''タングステン酸塩鉱物'''(タングステンさんえんこうぶつ、tungstate mineral)と総称する。[[灰重石]] {{Chem|CaWO|4}}(タングステン酸カルシウム)、[[鉄重石]] {{Chem|FeWO|4}}(タングステン酸鉄)、[[マンガン重石]] {{Chem|MnWO|4}}(タングステン酸マンガン)などが挙げられる。鉄重石とマンガン重石を総称して[[:en:Wolframite|Wolframite]] {{Chem|(F,eMn)WO|4}}という。 == 同位体 == {{Main|タングステンの同位体}} タングステンには{{Chem|158|W}}から{{Chem|192|W}}まで、35種類の同位体が知られており、このうち{{Chem|180|W}}、{{Chem|182|W}}、{{Chem|183|W}}、{{Chem|184|W}}、{{Chem|186|W}}が天然に存在する。全ての同位体が[[放射性核種]]と考えられているが、いずれも極めて[[半減期]]が長く、崩壊が観測されたことはない。計算上では、1 gのタングステンは2日に1個の原子が崩壊しているはずだと考えられている。 == 用途 == タングステンの融点の高さと電気抵抗の大きさを活かし、[[電球]]の[[フィラメント]]として利用されてきたが、[[LED]]の普及によりこの分野の使用量は減少してきている。融点の高さを利用した他の用途としては、[[電子顕微鏡]]や[[電子線描画装置]]の[[陰極線|電子線]](電子ビーム)発生の電極や、[[TIG溶接]]の非消耗電極の素材、または[[プラズマアーク溶接]]、[[プラズマ切断]]の電極のように、高温に曝される電極の材料に用いる場合がある。他に、[[蒸着|真空蒸着]]による薄膜形成の際、薄膜の素材となる金属の加熱・溶融・保持に使用される。 また、高温強度が強く、[[熱膨張率|熱膨張係数]]は金属のうちでは最も小さいため、耐熱性の要求される分野でも用いられる<ref>{{Cite web|和書|title=タングステン基本物性 (1)特徴 (2)物理的性質 |url=https://www.takeishi.co.jp/technology/leading01.html |website=岳石電気 |accessdate=2022-12-23}}</ref>。[[高速度鋼|鉄タングステン合金]]や[[炭化タングステン]]は非常に硬度が高く、摩擦熱にも耐えるため、切削用工具などの工具の材料として用いる場合がある。 他に、比重が大きく高い硬度を利用して、装甲を撃ち抜くための[[砲弾]]の材料としても用いられる。特に戦車のもつ硬く厚い装甲を貫通するための[[徹甲弾]]の弾芯に用いられる{{efn2|徹甲弾とは、装甲を持つ攻撃目標を破壊するための特殊な対戦車砲弾であり、タングステン合金製の芯や貫通体をもつ[[高速徹甲弾]]、[[APDS]]、[[APFSDS]]などを含む。}}。こうした徹甲弾の材料としてその後、比重が大きくある程度の硬度も有する[[劣化ウラン]]合金も使用され始め、タングステンと競合している{{efn2|タングステン合金製の弾芯は、劣化ウランを主原料とする合金より硬度が高いが高価であり、劣化ウラン弾の場合、命中時に放射性と重金属毒性のある粉塵が舞うために、それによる汚染の問題もある。}}。 密度の高さを活かして、[[X線]]を遮蔽するための材料として用いる場合もある。また、[[鉛中毒|野性動物への鉛害]]防止の観点から、狩猟用の[[散弾銃]]の弾丸や、釣り針の錘などとして使われてきた[[鉛]]の代替品として注目されている。タングステンは鉛より加工が難しいが、近年はタングステン製の錘やルアーの販売も増えだしている。タングステンは比重が鉛より大きいため、同じ重量なら形状は鉛より小さくなる。それによって飛距離が伸びたり、岩や牡蠣殻の隙間に引っかかりにくくなったり、魚の捕食を誘発しやすいというメリットがある。しかし、価格の面では鉛製よりも高額となる。 == 産出 == タングステンの1年間あたりの産出量は、[[中華人民共和国]]が52,000トンで、世界の産出量の8割以上を占めており、次いで[[ロシア連邦]]、[[カナダ]]、[[オーストリア]]などで、多く産出される。日本では[[香川県]][[丸亀市]]の[[手島 (香川県)|手島]]などで小規模の鉱床が発見されたがいずれも閉山している。 産業上・軍事上で重要性の高い金属ながら、地球の[[地殻]]において濃度の低い元素であり、産出地も偏在している。日本においても多くを他国からの輸入に頼っている状況であるため、国際情勢の急変に対する安全保障策として国内消費量の最低60日分を[[国家備蓄]]すると定められている。 == 歴史 == [[1781年]]にスウェーデンの[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]が[[灰重石]]から[[酸化タングステン(VI)]]の分離に成功し、'''[[タングステン酸]]'''と命名した。[[1783年]]に、スペインの[[ファン・ホセ・デ・エルヤル|ファン・ホセ]]と[[ファウスト・デ・エルヤル|ファウスト]]のエルヤル兄弟が、タングステン酸を木炭で[[還元]]して初めて単体を得て、'''ウォルフラム'''と命名した。 タングステン ({{lang|sv|tungsten}}) とは、[[スウェーデン語]]、[[デンマーク語]]、[[ノルウェー語]]で「重い石」という意味である。元素記号の W は[[ドイツ語]]の {{lang|de|Wolfram}} にちなむ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nittan.co.jp/tech/all/detail01.html |title=タングステンのすべて |website=日本タングステン |accessdate=2008-02-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080209103546/https://www.nittan.co.jp/tech/all/detail01.html |archivedate=2008-02-09}}</ref>。これは、タングステン鉱石([[鉄マンガン重石]])[[:de:Wolframit|{{lang|de|Wolframit}}]] から来ており(エルヤル兄弟の命名もここから)、これが[[スズ]]鉱石の中に混入すると、[[スラグ]]を作ってスズの精製を阻害するため、スズを狼 ([[wikt:Wolf|{{lang|de|Wolf}}]]) のようにむさぼり食べるという意味で命名された{{sfn|桜井|1997|pp=304,305}}。 1980年頃までは中華人民共和国の産出量も世界の5割を切っていたものの、20世紀終盤はタングステンが比較的低価格で、他国のタングステン鉱山が閉山し、中華人民共和国に採掘が集中した経緯がある{{sfn|小谷|2011|pp=102,103}}。さらに21世紀に入り、中華人民共和国でのタングステンの需要が高まると、[[投機]]を行って、いわゆるマネーゲームによって利益を上げようとする者の資金が、タングステンの市場にも流入し、価格が吊り上げられた側面があり、2005年には取り引き価格が2倍以上に上昇した{{sfn|小谷|2011|pp=103,104}}。 アメリカ合衆国では2010年に、[[コンゴ民主共和国]]および周辺国で紛争地域のテロ活動の資金源となっている鉱物、いわゆる「[[紛争鉱物]]」に指定され、製品に使用する企業は、アメリカ合衆国証券取引委員会に報告義務が課された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.meti.go.jp/policy/external_economy/trade/funsou/pdf/funsou_01.pdf |format=PDF |title=米国における紛争鉱物に関する開示規制の概要| publisher=[[経済産業省]] |date=不明 |accessdate=2016-06-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160818111436/https://www.meti.go.jp/policy/external_economy/trade/funsou/pdf/funsou_01.pdf |archivedate=2016-08-18}}</ref>。 日米欧からの提訴を受けて[[世界貿易機関]](WTO)が協定違反と断じたため、[[2015年]]に生産をほぼ独占していた中華人民共和国はタングステンと[[レアアース]]と[[モリブデン]]に賦課していた「輸出税」と「輸出数量制限」を廃止した<ref>{{Cite news |title=中国のレアアース等原材料3品目に関する輸出税が廃止されます |publisher=[[経済産業省]] |url=http://www.meti.go.jp/press/2015/05/20150501001/20150501001.html |date=2015-05-01 |accessdate=2018-03-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180324224613/http://www.meti.go.jp/press/2015/05/20150501001/20150501001.html |archivedate=2018-03-24}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=桜井弘 |title=元素111の新知識 引いて重宝、読んでおもしろい |date=1997-10-20 |publisher=講談社 |series=ブルーバックス |isbn=978-4-0625-7192-0 |ref={{sfnref|桜井|1997}} }} * {{Cite book|和書|author=小谷太郎 |authorlink=小谷太郎 |title=周期表でスラスラわかる! 「元素」のスゴい話 アブない話 |date=2011-08-20 |publisher=青春出版社 |series=青春文庫 |isbn=978-4-413-09516-7 |ref={{sfnref|小谷|2011}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|Tungsten}} == 外部リンク == * {{ICSC|1404|title=タングステン(粉末)}} * [http://www.nittan.co.jp/tech/course/index.html タングステン講座] * [http://www.nittan.co.jp/tech/all/ タングステンのすべて] {{元素周期表}} {{タングステンの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たんくすてん}} [[Category:タングステン|*]] [[Category:元素]] [[Category:遷移金属]] 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注意欠陥・多動性障害
注意欠陥・多動性障害(ちゅういけっかん・たどうせいしょうがい、英: attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)は、多動性や衝動性、不注意を症状の特徴とする神経発達症(発達障害)もしくは行動障害である。こうした症状は教室内で最年少だとか、正常な者、他の精神障害、薬物の影響でも一般的であるため、機能障害や苦痛を感じるなど重症で、幼い頃から症状があるなどの鑑別が必要とされる。発達障害者支援法に基づき、一人一人に応じた様々な支援と、社会的障壁の除去(適切な環境調整)が行われる。個々の状態に合わせて、様々な支援機関の連携のもと、環境調整・心理社会的支援・薬物療法を組み合わせた包括的支援を行うことが有効とされる(詳細は「ADHD#治療」を参照)。 精神医学的障害の一種である。「注意欠陥・多動性障害」という診断名は、1994年からのDSM-IVのものである。以前のDSM-IIIの注意欠陥障害(ADD)や、ICD-10の多動性障害を継承するもので、口語的には多動症などと呼ばれてきた。一般にアスペルガー症候群と混同されがちだが、アスペルガー症候群は他者理解・共感力の欠如が症状の特徴である。ただし、アスペルガー症候群にはADHDの併存も少なくない。 2013年のDSM-5では、ADHDは訳語として、欠陥から欠如に代わった注意欠如・多動性障害と、注意欠如・多動症が併記されている。注意欠如・多動性障害は、日本精神神経学会が2008年に示したもので、注意欠如・多動症は小児精神神経学会や日本児童青年精神医学会の示したDSM-5の翻訳案である。またDSM-5で成人への診断が追加された。 その症状が、正常な機能と学習に影響を及ぼしている場合のみに診断する。症状は早い時期(6歳未満ごろ)から発症し、少なくとも6か月以上継続している必要がある。DSM-5はそれまでの7歳までの発症を12歳とし、遅発性の発症を含めたがこのことは誤診の可能性も増やしている。また、小児発症が成人ADHDの重要な診断基準であったが、小児期ADHDと成人期ADHDは異なる経過を持つ症候群だと示唆した研究例もあり、まだ明確となっていない部分がある。診断は、多くの精神障害や発達障害と同様に問診を中心に行われる。また評価尺度が診断の補助として利用できる。生物学的な指標がないため、誤診も多いと考えられている。アメリカでは推定有病率を数倍上回る診断数のため過剰診断が指摘されている。医学的な定義や投薬に対する議論のため、ADHDに関する論争がある。 遺伝的要因が76%とされるが、家庭環境の要因を十分に分離できていないという指摘もある。重要な環境要因は、胎児期の薬物、アルコールおよびタバコの暴露、周産期の問題、そして頭部外傷である。2020年に発表されたADHDの環境危険因子、保護因子、バイオマーカーに関するメタ分析によると、危険因子として確実性が高いのは妊娠前の肥満、皮膚炎、子癇前症、妊娠期のアセトアミノフェン暴露であった。危険因子の疑いが強いものは、妊娠期の喫煙、小児喘息、妊娠期の体重超過、ビタミンD不足などであった。 性別による発症率の比較では、学童期までを比較した場合は1-6%で男子の方が女子よりも高い。特に男子では多動性と衝動性しかみられず、特に女子では不注意しかみられない場合がある。 ICD-10での多動性障害の発症率は学齢期で3-7%であり、その内30%は青年期には多動と不注意は目立たたなくなり、40%は青年期以降も支障となる行動が持続し、残りの30%は感情障害やアルコール依存症などのより重篤な精神障害が合併する。ある調査では、約3割が大人になっても症状が続いていた。また、別の調査では、ADHD症状の深刻度は通常加齢とともに低下するが、約90%のADHD患者はいくつかの症状を成人期まで持続し続ける。 衝動性・過活動・不注意などの症状が確認される。典型的には生まれつき症状が存在する。通常の人々にも広く一般的にみられる症状であるため、症状が合致するだけでは不十分であり、幼年から症状が継続し、発達過程において不適切に持続しており、特定の状況だけで見られないことがある。 子供ではICD-10による多動性障害(たどうせいしょうがい)の診断名が適用されることもある。 不注意には、以下の症状などがある。 過活動・衝動性には、以下の症状などがある。 年齢が上がるにつれて見かけ上の「多動(落ち着きがない、イライラしているように見えるなど)」は減少するため、かつては子供だけの症状であり、成人になるにしたがって改善されると考えられていたが、近年は大人になっても残る可能性があると理解されている。その場合、大抵、一見して分かるような症状は弱くなっており、目に見える多動よりも、感情的、精神的な衝動性(言動に安定性がない、順序立てた考えよりも感情が先行しがち、会話で話が飛躍しやすい)や注意力や集中力の欠如(シャツをズボンから出し忘れる、シャツをズボンに入れ忘れる、ファスナーを締め忘れるといったミスが日常生活で頻発する、など)などが目立つようになるとされる。 幼少期において、男子では多動性と衝動性のみ、特に女子では不注意のみの症状が目立ち問題視されやすいが逆にそれ以外の症状が見過ごされやすいため、問題視されにくい場合がある。過活動、衝動性が顕著でないADHDであって、不注意のみが目立つ場合、幼少期には周囲、または自分がADHDであることに気付かない場合も多い。 2023年現在、決定的な原因は不明とされている。双子研究により、原因を遺伝要因と環境要因に分けることができるが、ADHDの遺伝要因(遺伝率)は約76%である。ADHDの子供の兄弟は、そうでない子供の兄弟より3倍から4倍ADHDになりやすい。抑制や自制に関する脳の神経回路が発達の段階で損なわれているということまでは確からしいが、その特定の部位や機能が損なわれる機序は仮説の域を出ない。貧困や教育様式など家庭という環境要因を遺伝要因から分離するのは困難であり、まだその分離が洗練されていないことに注意が必要である。離婚、貧困、教育様式、養育者の教育水準の低さ、社会福祉、性的虐待、睡眠不足、食品添加物、携帯電話の使用など様々な要因が挙げられ、それらが相互作用している。 機能不全が疑われている脳の部位は、大きく3箇所である。ADHDの子供達は定型発達の子供に比べてこれらの部位が縮小していることがある。 多くの研究者が、複数の遺伝子異常がこれらの部位の萎縮に関係しているのではないかと考えている。 2018年、福井大学の研究グループはADHDと診断された120人の男児の脳を調査したところ、7割の男児の脳に眼窩前頭皮質の厚みが増して表面積が小さくなるなど、脳の約20か所で形態の特徴をみつけた。 1990年に米国のNIMHのザメトキン (Zametkin) らのグループは、PETスキャンを用いて、ADHDの成人25人の脳の代謝活性を測定し、対象者群より低下していることを明らかにして、ADHDが神経学的な基盤を持っていることを目に見えるかたちで証明した。具体的には、健康な前頭前野は行動を注意深く選定し、大脳基底核は衝動性を抑える働きを持つが、ADHDのケースではそれがうまく働いていない。 食事とADHDとの関連性について指摘する報告があり、アメリカやイギリスでは食品添加物などを除去した食事の比較が行われている。2007年にイギリス政府は、食品添加物の合成保存料の安息香酸ナトリウムと数種類の合成着色料が子供にADHDを引き起こすという研究を受け、これらを含むことが多いドリンクやお菓子に注意を促している。2008年4月には、英国食品基準庁 (FSA) はADHDと関連の疑われる合成着色料のタール色素について2009年末までにメーカーが自主規制するよう勧告した。大手メーカーは2008年中にそれらを除去すると報じられた。 2006年、5000人以上と規模の大きい研究で砂糖の多いソフトドリンクの摂取量と多動との相関関係が観察された。 最近の睡眠科学では、睡眠がADHDの増加に大きく関わっていると言われている。 米国の子供を調査した結果、因果関係は不明であるものの、尿中のジアルキルリン酸塩(英語版)濃度、特に代謝物のジメチルアルキルホスフェート (DMAP) 濃度とADHDの診断率に関連が示された。 よく使われている診断基準(統計調査用)は、アメリカ精神医学協会が定めたDSM-IV (1994) とその改訂版のDSM-IV-TR (2000) のAD/HDであり、不注意優勢型と多動衝動性優勢型と、その混合型という3つのタイプに分けられる。2013年にはDSM-5が出版されている。 1994年に改訂されたWHOの診断基準のICD-10は、「多動性障害」の診断名であり、注意の障害と多動が基本的特徴で、この両者を診断の必要条件としている。ICD-10の「多動性障害」は、細部では若干の違いがあるものの、DSM-IVのADHDの「混合型」に匹敵する。 DSM-IV-TRの診断基準 上記すべてが満たされたときに診断される。DSM-IVではMRIや血液検査等の生物学的データを診断項目にしていない。 DSM-5(2013) の診断基準も、ほぼ踏襲しているが、一部に変更があった。 一方、フランスの児童精神科医は生物学的医学に支配された考えではなく、DSMに対抗する診断分類であるCFTMEA(仏: Classification Françaisedes Troubles Mentaux de L'Enfant et de L'Adolescent)を用い、症状の背景に心理社会的な原因を見る。 ADHDが報告された頃は、ADHDは子供特有の病気と考えられており、成長に従って多動が目立たなくなることから、ADHDの特徴も消失するものと考えられていた。しかしADHDの児童の追跡調査から、成人期に達しても多くの患者では不注意などの症状が残ることが明らかになった。このことは医学界でも論争を呼んだが、現在では発達障害の特性はおおむね生涯に渡って持続するものであるということが受け入れられている。ただし、うつ病などでADHDに似た症状が起こることがあるので、発達障害との鑑別には注意が必要である。 診断を補完するための評価尺度には、ADHD Rating Scale-IVやその日本語版ADHD-RSなどがある。 成人ADHDでは22%に症状の誇張があり、誤診を避けるために、90%以上の感度のある尺度の使用が必要である。 明らかな機能障害や苦痛を引き起こしていなければ、症状が正常な範囲である可能性がある。4歳では正常な未熟である。DSM-5では、発症年齢を12歳と遅くしたが、典型的には症状は生まれつきであるため、同様の症状を起こす他の原因と誤解が生じる可能性があり、成人では特に慎重であるべきで、遅発性では薬物が原因の症状だということも疑える。あるいは他の精神障害が原因となっていることもある。特に成人では、薬の娯楽目的、転売目的で受診している場合がある。マイケル・ムーアは、映画『シッコ』において、重篤な疾患を抱えた大勢の国民が治療を受けられずに放置されているなか、あなたは不安症ではないか、注意欠陥障害ではないか、とメディアが国民の不安を煽る現状にも触れている。 適応障害では、混乱した学校環境、家庭のストレスなどへの反応であるなど、特定の状況に生じている。両親や教師など周囲の大人が完璧主義、あるいは子供に過剰な期待をしており、そうした環境が破壊的な場合にADHDが過剰診断されやすいが、大人の期待の再構築、環境調整が必要となる。 ADHDをもつ児童は、他の精神障害が並存する確率が66%増加する。関連障害として特異的発達障害(学習障害)や、軽症アスペルガー障害との合併を示すことがある。またその特性上周囲からの同調圧力などによりネガティブな打撃を受けやすく、二次的に情緒障害を引き起こす傾向があり、行為障害、反抗挑戦性障害、不登校やひきこもりを招きやすい。 不眠症、閉塞性睡眠時無呼吸症候群のような睡眠障害は、ADHDに似た症状を起こすことがあり、疼痛も睡眠の問題を起こすことがある。ADHDにおける睡眠障害の併存率は25 - 50%とされる。 製薬会社による広報活動の影響もあって診断数は年々増加している。 正常な人や他の原因によって症状が出ている人は、精神刺激薬による治療によって問題が悪化しかねない。 DSM-IVのアレン・フランセス編纂委員長は、製薬会社に利用されるような診断名の追加は避けたと思っていたが、マーケティングは容易くこれを突破してしまい、DSM-IV発表以降、米国で注意欠陥障害が3倍に増加したことについて「注意欠陥障害は過小評価されていると小児科医、小児精神科医、保護者、教師たちに思い込ませた製薬会社の力と、それまでは正常と考えられていた多くの子供が注意欠陥障害と診断されたことによるもの」と指摘している。 早生まれの子供の学級における落ち着かない行動が異常と判断されるなど単なる未熟性が病気のように扱われる場合もある。詳細は「相対年齢効果」を参照。 子供の15%がADHDの診断を受けているアメリカでは、2010年に、ADHDと診断された児童450万のうち100万人が誤診である可能性が指摘されており フランセスは「米国では、病気ではない子供たちが過剰診断されて薬物治療を受けている」と述べた。 注意障害雑誌を創刊し、またMTA研究を主導したキース・コナーズも、過剰診断と過剰処方に注意を促した。 児童の権利に関する条約は、注意欠陥多動性障害(ADHD)が、薬物治療によって治療されるべき疾患であるとみなされていることを懸念し、診断数の推移の監視や調査研究が製薬会社と独立して行われるようにと提言している。 アメリカ疾病管理予防センター (CDC) は、行動療法が優先されるが、75%が投薬を受けていることに注意を促している。 世界保健機関や日本のガイドラインでは、児童青年のADHDへの第一選択肢は心理療法(心理教育、ペアレント・トレーニング、認知行動療法など)であり、薬物療法は児童青年精神科医の管理下でのみ行うことができ、かつ6歳未満に対しては投与してはならない。心理療法では認知行動療法やソーシャルスキルトレーニング、また親の接し方の練習であるペアレント・トレーニングといったものがある。児童における大規模なMTA研究にて1年時点で見られた投薬の優位性は、2年以上の投薬では行動療法などと差が見られず疑問が呈されており、他の長期研究でも長期の投薬による利益は報告されていない。 アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は、4-5歳のADHDに対しては、薬物療法の前にまず心理療法を実施するよう勧告している。一方でCDCは、6-17歳のADHDに対しては、薬物療法と心理療法の両者を実施するよう勧告している。 一方で英国国立医療技術評価機構(NICE)は、未就学児においては薬物療法を推奨しておらず、就学児童および青年においては第一選択ではなく重症の場合の選択としている。 日本での2016年のADHDの治療ガイドライン4版は、薬物療法が中心となっていた以前の2008年3版と比較して、心理社会的治療が大幅に充足された。子供へのソーシャルスキルトレーニング (SST)、親へのペアレント・トレーニングなど心理社会的治療や、学校との連携など環境調整が優先され、薬物療法ありきの姿勢は推奨されない。 アメリカ国立精神衛生研究所 (NIMH) が出資した、7歳から9歳の600人近い子供を追跡した大規模な研究であるMTA研究が実施された。それまでの研究に一般的な4か月以内の研究より長期であり、行動療法、薬物療法、またその併用を比較するための試験であった。14か月時点では薬物療法と併用では、他の方法よりも症状を改善しており、またこの時点で薬物療法の4%に精神刺激薬の重篤な副作用による中止があり、食欲喪失、睡眠の問題、泣き叫ぶ、反復運動といったもので、さらに薬物療法では身長と体重の成長に遅れがあった。3年後では、ほとんどの人々に改善が維持されていたものの、行動療法などとの治療利益には差がみられなくなっていた。並存疾患の発生率も3年後では差がない。 8年後でも投薬した群に恩恵あったというわけではなかった。8年では医薬品を用いなかった人も同様の機能水準があったため2年以上の薬物療法には疑問が持たれた。医薬品を用いた人の医薬品の種類は91%が精神刺激薬(メチルフェニデートなど)を含む治療である。14か月時点で投薬を受けていた人の61.5%は、8年の間に投薬を中止していた。16年目では長期的な投薬は症状の重症度の低下に結びついておらず、1-2センチの身長の成長の抑制と関連していることが分かった。投薬や教育サービスはむしろ不利な傾向を示しており、問題が悪化した子供ではより多くの治療が施されたのではという議論も生じている。時間と共に全被験者に改善の傾向が見られた。(#経過も参照) フランスでは、心理療法や家族カウンセリングを実施し、実際に問題を解決すると真にADHDに診断される児童は少ない(0.5%)ということである。フランスでの心理社会的な手法は包括的に取り組まれ、食事では合成着色料、保存料、食物アレルギーが症状を悪化させていないかといったことにも着目し、子育ての方針においても子供を管理するために薬を使うのではなく、はっきりとしたルールの中で耐えることを学ばせることが定着している。 家族には心理教育、ペアレント・トレーニングを行う。本人の症状をコントロールすることよりも本人の特性にあった環境を整えることが重要である。ペアレント・トレーニングは、症状を持つ児童への接し方を親が学ぶということである。 児童青年のADHDには、WHOおよびNICEのガイドラインでは認知行動療法(CBT)およびソーシャルスキルトレーニング (SST) を提案している。また成人においては、NICEは患者が薬物療法を希望しない、または薬物療法の効果が乏しい際にCBTを検討するとしている。 認知行動療法に関してはセルフヘルプのできるワークブックも利用できる。SSTは困っていることを、上手にこなせるように実際に練習してみるということである。 さらに、ADHDを持つ子供へは、Summer Treatment Program (STP) などの治療プログラムの実施が有効であり、参加したすべての子供に行動改善が認められ、ADHDの症状が有意に改善するとされている。また、ADHDを持つ成人へも、薬物療法と並行して、心理教育・動機付け面接技法・認知行動療法(活動スケジュール表の利用・問題解決法・認知再構成法などを含む)・ソーシャルスキルトレーニング (SST) などから構成される、ヤング・ブランハム・プログラムなどの治療プログラムを実施することが、症状の改善に有効であるとされている。 なお、二次的な症状として、不安障害やうつ病、不眠症などの症状が生じる場合も多く、その場合はADHDの治療と並行してそれらの症状への治療を行い本人をサポートする(「不安障害#治療」、「うつ病#治療」、「不眠症#治療」などを参照。これらの治療も、本人が取り組みやすいようADHDの特性を踏まえて工夫して行うことが重要である)。 ADHDの認知行動療法では、下記の技法などが用いられる。治療や支援を行う際には、本人の症状・年齢・環境・併存症の有無等に応じて、下記の技法などを統合して包括的かつ効果的な介入プログラムを立てることが重要である。 なお、認知行動療法の実施とセットで、ADHD児・者の特性に応じた合理的配慮や環境調整が行われることも大切である。 環境上の配慮の仕方や、周りの人の関わり方によって、本人の困り感も違ってくる。したがって、問題の原因を本人の中に求めるのではなく、周囲の関わり方や環境上の配慮の仕方を改善し、支援をしていくことが大切である。 注意をそらす物を周りに置かない。 家庭では、勉強をしているとき外的刺激を減らしたり、子供の注意がそれてしまった時に適切な導きを与えてやったり、頃合いを見計らって課題を与える、褒めることを中心にして親子関係を強化するなどが挙げられる。一例として、「勉強しなさい」と言うよりも机の上にその子供の注意を引きそうな本をさりげなく置いておく、新聞や科学雑誌を購読する等である。 医学博士ジーン゠コムズは、文化学博士・医療福祉士(医療ソーシャルワーカー)のデイヴィッド゠ナイランドによる療法を高く評価し、重要なのは「何も疑問に思わずに従順に育つこと」ではなく、「勇気と文化に対する反抗心を持って育つこと」であると述べている。 WHOは、正しく診断されたADHDに対してはメチルフェニデート製剤の薬物療法を用いるとするが、薬物療法は対症療法であり根治を目指すものではなく、専門医の指示の下で行うべきであり、相談なくプライマリケアでは処方してはならないとしている。薬物療法は継続的な心理行動への包括的介入の一部でなければならない、とくに子供の場合は6歳以上で心理行動療法に効果がなかった場合に慎重に使う、としている。 成人のADHDについては、NICEは薬物療法を第一選択肢とするべきだと勧告している(患者が心理療法を好んだ場合を除く)。薬物乱用ポテンシャルのある患者についてはアトモキセチンを提案している。 MTA研究以外の長期的な研究も長期的な医薬品の利益を報告しておらず、3-5歳の子供を6年追跡したPATS研究では、投薬の恩恵は見いだせなかった。 コクラン共同計画による小児ADHDにおけるメチルフェニデートの効果に関するシステマティックレビューでは、治療期間は平均75日と非常に短く、証拠の品質が低いので医薬品の影響の大きさを特定できなかった(有益なのか明らかとならなかった)。死亡や致死的な副作用は増加していないが、睡眠障害が1.6倍、食欲低下が3.6倍であり、副作用の評価のためにはより堅牢な試験が必要とされることが結論されている。成人ADHDでのメチルフェニデートのシステマティックレビューは批判のため2016年に撤回されており、不明確のリスク評価に対して信頼性が高いとしたり、11研究の内2つだけが抑うつなど並存疾患のある被験者をはっきりと残していたため一般的な効果であるかの妥当性が損なわれており、試験期間は1-7週間であり小児研究で観察されているように効果は時間と共に減少してもよく証拠の格下げにつながってもよかったといった理由があり、評価のために偏りのない長期研究が必要とされる。 子供のためのADHD治療薬の承認のための試験では、精神病や躁病は1.48%に出現し、虫、昆虫、ヘビの幻覚が一般的であった。異なる条件である、うつ病、双極性障害、統合失調症の両親を持つ子供では、精神刺激薬の使用群(メチルフェニデートが83%)では62.5%が精神病症状を呈し、服用していない群では27.4%であった。 ADHDの治療薬の使用と骨密度の低下が報告されており、この懸念から実施された動物研究ではメチルフェニデートが悪影響を与えることが観察された。成長抑制以外に長期的な害がよく知られていないため、2017年に動物試験におけるシステマティックレビューを実施したところ、α2受容体作動薬のクロニジンと、メチルフェニデートで生殖機能を損なっている形跡が見られた。 精神医療における大麻の有効性が広く認知されるようになった最近では、医療大麻のADHDに対する有効性について現在多数の研究が行われている。規制の緩和された米国やカナダ、英国等で精神科医が医療大麻や大麻の有効成分であるテトラヒドロカンナビノール(THC)系製剤を患者に処方する場合が増えており、中枢神経興奮薬に比べ副作用や依存の少ない有力な代替薬として使用されている。 北米で小児の薬物有害反応の報告が最も多かったのは、ADHDの治療薬と、にきび治療薬のイソトレチノインであり、北米でのADHD治療薬の使用量に関係している可能性がある。 ADHDについて光トポグラフィーで薬物治療の効果を確認できることが示された。(途上の技術である、光トポグラフィーを参照。) 薬物療法の実施にあたっては、継続的に服薬することでどのようなメリットや効果があるのかを、本人の視点に合わせてわかりやすく伝えていく。その上で、服薬支援アプリなど定期的な服薬につながる工夫についても紹介し、本人をサポートする。 医薬品では、覚醒水準を引き上げる薬が用いられる。 日本でADHDに適応がある薬は、2007年よりメチルフェニデート徐放剤(コンサータ)、アトモキセチン(ストラテラ)、グアンファシン(インチュニブ)、リスデキサンフェタミン(ビバンセ)の4種類。 特に中枢神経刺激剤の効果が高く、多くの場合でメチルフェニデート(短時間型:リタリン/長時間型:コンサータ)が使用される。 しかしながら、日本では2014年4月~2015年3月にADHD治療薬が処方された患者のうち、メチルフェニデートが処方された患者は64%であり、これは英国(94%)、ノルウェー(94%)、韓国(94%)、トルコ(92%)、ドイツ(75~100%)と比較し著しく低くなっている。 このような要因として、日本では短時間作用型メチルフェニデート(リタリン)のADHDに対する承認が得られておらず、長時間作用型(コンサータ)のみが承認されていること、アトモキセチン(ストラテラ)に処方制限がない一方で、メチルフェニデート(コンサータ)のみ医師の登録が必要であるなど処方制限があるというアンバランスな規制となっていること、診療ガイドラインにおいてメチルフェニデート(コンサータ)とアトモキセチン(ストラテラ)の両方を第一選択薬としていることが影響していると考えられる。 同様に中枢神経刺激剤であるリスデキサンフェタミン(ビバンセ)も日本以外では第一選択薬となっている場合が多いが、日本ではメチルフェニデートと同様の処方制限があり、さらに2023年現在6歳から17歳に対する適応のみであり、18歳以上のADHDに対する承認は得られていない。 アメリカではアンフェタミン(アデロール、日本法における覚醒剤)、デキストロアンフェタミン(アンフェタミンのD体)、リスデキサンフェタミン(体内でデキストロアンフェタミンになる)も用いられる。ダソトラリン(英語版)の臨床試験が進行しており、これはセルトラリンの活性代謝物である。 DNRIのADHD治療薬を大日本住友製薬の米子会社であるサノビオン・ファーマシューティカルズ・インクが米国で治験中である。DNRIは同じくノルアドレナリンとドパミンに作用する中枢神経興奮薬よりも緩やかに作用し、依存性も少ないという特徴がある。 ADHDなど、発達障害には抑肝散、抑肝散加陳皮半夏、甘麦大棗湯、黄連解毒湯、香蘇散、柴胡加竜骨牡蛎湯、当帰芍薬散などをその人の証にあわせて使い分ける。また、西洋薬の補助として併用することもある。抑肝散、抑肝散加陳皮半夏に関しては、ADHDに効果があることが日本東洋医学会でも示されている。Shanghai Journal of Acupunctureにおける研究によれば、子供592名を、鍼灸グループと漢方薬グループ、比較グループに分け、鍼灸で84.45%の効果率、漢方薬で78.77%の効果率となりどちらも、症状と脳波に改善が見られ、また患者の年齢が低いほど良好な結果が得られた。」とのことである。 ADHDには、鍼治療が有効という意見があり、日本でもADHDに鍼治療を行う鍼灸治療院が存在する。また、日本小児はり学会でも発達障害をテーマとされたこともあり、「ADHDと疳の虫は同疾患である」という意見も存在する。ニューイングランド鍼灸大学院大学助教授、桑原浩榮によれば、軽度の疳虫症は肺虚肝実証、重度のADHDは七十五難型肝実証、薬剤過剰投与で脾虚肝実証となることが多いという。また、治療回数は一般的な疳虫症で4日から5日連続、軽症で2日から4日連続、重症だがADHD薬を服用していなければ7日から10日の連続、毎日の服用が10mg以下のADHDは週一回で1年から3年、毎日の服用が20mg以上のADHDになると週2日から3日で2年から4年ほどである。米国において、ADHDへの鍼治療は認知度が高まりつつある。一方、中国四川大学の調査ではADHDへの効果は不明とされている。 21世紀となりワーキングメモリにおける障害は、ADHDの主要な障害または中間表現型であることが明らかにされた。神経生理学的にはADHDは脳の前頭葉とドーパミン・システムの機能変化と関係がありえる。(Castellanos and Tannock, 2002; Martinussen et al., 2005) スウェーデン、カロリンスカ医科大学のクリングバーグらは、コンピュータによる訓練方法を開発し、2つの研究 (Klingberg et al. 2002, Klingberg et al., 2005) においてワーキングメモリーが訓練により改善可能であり、ADHDの症状を、精神刺激薬に匹敵する効果量にて軽減することを明らかにした。当時の同大学学長であり、世界的なエイズ研究者であるハンス・ウィグゼルは、医学を専門とする同大学ベンチャー・ファンドとしては初めて新薬以外の分野として事業化を支援し、2009年現在スウェーデンでは約1000校の小学校(約15%)において、米国では約100クリニックにて、それぞれ年間3000人以上の児童・成人のADHD改善トレーニングが行われている。 日本では、2007年夏より約半年間のえじそんくらぶによるワーキングメモリートレーニング評価プロジェクトとして開始された。2008年日本発達障害ネットワーク年次大会にブース出展があり、関係方面への紹介がされた。日本では2009年、コグメド・ジャパンがワーキングメモリトレーニングを提供している。 英ヨーク大学のギャザコール、英ノーザンブリア大学のホームズらは、コグメドのワーキングメモリ訓練を使い、訓練プログラムと、精神刺激薬による薬物療法の2種の介入にて、ADHDをもつ児童のワーキングメモリ機能への影響を評価した。薬物療法が視空間のワーキングメモリだけ改善した一方で、訓練はすべてのワーキングメモリ要素(言語も加えたワーキングメモリと短期記憶)で大幅な改善をもたらし効果は6ヶ月後も持続した。IQ成績はいずれの介入でも変化しなかった。議論のなかで、「断然に最もドラマティックなワーキングメモリの改善はワーキングメモリトレーニングで観察された。測定されたワーキングメモリのすべての構成要素で有意で大幅な改善が見られ、それぞれにおいて、グループの児童を同年代の平均以下のレベルから平均以内のレベルにもっていった」と報告し、トレーニングによる視空間・言語すべての要素のワーキングメモリへの全体的な改善が、教室の言語中心の環境における多くの学習活動でワーキングメモリへの重い負荷にしばしば耐えられない児童にとって重要で実用的な利益となろう、としている (Joni Holmes, Susan E. Gathercole 2009)。 ランダム化比較試験で、ビタミンミネラルは、感情調節、攻撃性、不注意を改善したが、過活動と衝動性には変化がなかった。 フィンランドの調査で、腸内フローラがADHDを予防する効果がある可能性が示唆されている。 367例の小児ADHDでは、29.3%が成人期まで症状が継続した。 ADHDの子供の大部分は正常な知能である。 有病率は、DSM-5(2013)ではほとんどの文化圏で子供の約5%、成人の約2.5%、男:女比では子供で2:1、成人で1.6:1という記載がある。WHOの調査では、成人では世界全体で3.4%(国によって1.2% - 7.3%と大きく異なる)。主症状のうち、多動は9歳から11歳、衝動性は12歳から14歳で診断的寛解となることが多く、不注意は成人後も継続する事が多いという報告がある。 米国CDCの統計では、4-17歳児童の約11%(640万人)がADHDと診断されており(2011年)、男児が13.2%、女児が5.6%と男児に多い。ニューヨーク・タイムズは、古典的なADHDの有病率は児童の5%であるが、しかし今の米国ではADHDは喘息について二番目に多い小児疾患であり、それには過剰診断や製薬会社による病気喧伝があると述べている。英国の統計では、狭義のICD-10によるhyperkinetic については児童青年の1-2%ほどであり、広義のDSM-IVによるADHDについては児童青年の3-9%ほどであった。一方フランスでは症状を呈す心理社会的原因の解消を試みており真にADHDと診断される子供は0.5%である。 日本の有病率は、成人では浜松市の大規模調査より1.65%と推定されている。 コロラド大学のジャクリン・J・ジリスらの研究では、ADHDを発症した一卵性双生児が二人とも発症するリスクは、ADHDを発症した一卵性ではない兄弟姉妹の場合の11倍 - 18倍になると報告された。ノルウェーのオスロ大学のグヨーネとサンデット、英国のサウサンプトン大学のジム・スティーブンソンらの研究では、526組の一卵性双生児と389組の二卵性双生児を調べた結果として、最大で80%までADHDを遺伝的要因で説明できると発表した。 CDCによると、ADHD児を持つ親は、一般児と比べて親子関係がトラブルとなる確率が約3倍であるとされる(21.1%と7.3%)。またADHD児はケガをする確率が高い(4.5%と2.5%)。そしてフランスの研究によるとADHDの子供は、一般の子供に比べて3.58倍留年しやすく、日本での高校に相当するセカンダリ・スクールでは中退が2.41倍多い。また、2005年に発表された研究によると、ADHDである大人はそうでない大人に比べて、学歴に関わらず就業率が低く低収入であった。 学習面においては、計算などの単純作業において障害が原因で健常児と比較してミスが多くなる傾向はあるが、周囲の人間の適切なフォローや本人の意識によってミスを減らすことは可能であるとされている。ADHDだからという理由でレッテルを貼ったり、甘く評価するなどは不適切な対応であるという意見もある。かといって、現在では一般教諭がADHD児に対して常に適切な対応を取ることは容易だというわけではない。 学習機能面以外の問題として、ADHD児は授業中に立ち歩く、他の生徒とずっとおしゃべりをし続けるなど、教諭や他の生徒にとって迷惑な存在になるケースも多い。またノートを取る、宿題をする、提出物を出すなどADHDの児童が苦手とする傾向がある(あるいは好きな教科しかしない)。そもそも、教育現場でADHDが注目されるのは、学級崩壊の原因になるような問題児が発生することへの説明としてADHDが槍玉にあがったことという構造がある。2014年には京都市立小学校で、ADHDの傾向がある男子児童に対し、女性教諭が粘着テープを示して口に貼り付けていたことが判明し、児童の保護者が「ADHD児に対する差別的な取り扱いだ」と抗議する事態となった。これについては、有識者からは「教諭一人の問題でなく、学校が児童一人一人の教育機会を十分に保障していないためだ」という意見がある。 ADHDの人物はインターネット依存症になりやすい。2019年に発表された日本の研究によると、インターネットの依存度をテストするYIAT(Young's Internet Addiction Test)において、70点以上をインターネット依存症とした時、一般人口と比較してADHDのみの場合は約4.31倍で、ADHDに加えてアスペルガー症候群と診断されたものでは約6.89倍もその割合が大きかった。なお、アスペルガー症候群のみの場合は、約3.72倍であった。米国医師会雑誌(JAMA)に2018年7月17日掲載された2500人の10代の若者を2年間にわたって追跡した調査によると、10代の若者によるソーシャルネットワーク(SNS)サイトやビデオゲーム、ストリーミング配信サービスの利用が増えれば増えるほど、ADHDの症状を引き起こすリスクが高まることがわかった。デジタルメディアを1日に複数回使うことはないと答えた約500人のティーンのうち、ADHDの症状(作業を最後まで続けられない、静止しているのが困難など)が見られる比率は4.6%だった一方で、質問した14種類のデジタルメディアの全てを毎日使うと答えた約50人では、その比率が10.5%だった。 アングリアラスキン大学のシャロン・モレインらは、ADHDクリニックに通う患者88人を対象に調査をした結果、ADHDの人々は一般の人と比べてため込み症の傾向をより強く示し、対照群の2%に対し、約20%が買いだめ障害の有意な症状を示したという。 ADHDの人物と犯罪行為の相関関係は、一般の人より高率であるという研究と、ほぼ同等であるという研究がある。 ADHDの人物の犯罪率が健常者より高いと考える研究では、ADHDの人物はセルフコントロール能力が低いことが原因と分析し、世界の少年鑑別所、留置所、刑務所の収容者で、ADHDの人物の占める割合が高いと指摘する。日本での調査では、少年院生でADHDと疑われる人物の割合が高いとする報告がある。ドイツでの調査では、囚人の45%が何らかのADHDだったが、一方で健常者の対照群では9.4%だった。 町沢静夫はADHDの特徴は攻撃性であると述べている。それによると注意欠陥・多動性障害の症状は攻撃性と非行であり、いろいろな小さな悪事を重ね、慢性化すると行為障害となり、18歳以上になると反社会性パーソナリティ障害になることが多いという。しかし、町沢がADHDと診断した患者のうち、メチルフェニデートの効果があったのは5%である。これは他の研究によって一般に60% - 80%とされる結果とかけ離れており、町沢の診断したADHDは、典型的なADHDではない可能性がある。これについて、町沢は米国人と日本人の特性の違いから薬物の効き方に差があると説明している。 日本では1997年11月、朝日新聞が神戸連続児童殺傷事件に関し、ADHDが犯罪に関連するかのような印象を与えたと、精神発達指導教育協会などから謝罪を求められ、紙面で謝罪した。 元衆議院議員の山本譲司は、福祉制度の不備が、刑務所の服役者数で精神障害者(知的障害者・発達障害者など)が高割合を占める要因になっているとしている。山本は政治資金規正法違反で実刑判決を受け服役したが、刑務所の服役者に精神障害者が高割合を占め、刑務所の一部が福祉の代替施設のようになっている現実を目の当たりにした。山本は「障害があるからといって、罪を犯しやすいというわけでは決してない」としており、「福祉や家族から見放され、窃盗や無銭飲食などに手を染めることになった者」や、「社会に蔓延する同調圧力に耐えられず、空気が読めないと虐げられ続けてきた辛さが、何らかの刺激によって犯罪に結びついた者」が非行(犯罪)に走ってしまっているとしている。 ADHDという分類が妥当であるのかということはADHDの概念を確立したアメリカでも論争が続いている状況である。日本においては、ADHDの特徴については未だ明確に定義化されていない。近年は一般向け書籍の増大やテレビ番組における報道による認知度の上昇の影響で、「自分がADHDではないか」と受診してくる患者が増えた。 2013年に日本精神神経学会学術総会が静岡県の浜松市で行った調査によれば、調査対象10000人のうち196人が結果ADHDの「疑いがある」と認定をされた。 文部科学省は、ADHDの特徴として、「年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力、衝動性、多動性」と定義づけている。文部科学省は、平成15年3月に行われた、「特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議」において、判断基準や指導方法について提示した。また、同年より、高機能自閉症や学習障害も含めて、支援を目的とした、「特別支援教育推進体制モデル事業」を開始した。 多動で落ち着きのない子供は古くから知られており、ADHDの疾患概念は最近になって現れたものではない。後に小児神経医学などの分野で注意が払われるようになる。 1775年、ドイツの医師、メルヒオール・ヴァイカルドは医学教科書にADHD的な行動を記載し、現在のADHDの「不注意」側面との一致から、おそらく医学文献上のADHD初出とされる。 1902年、小児科医スティルが、王立内科医協会の講演で、「道徳的統制の欠損」という概念を用いながら、攻撃的・反抗的になりやすく、注意機能に異常がある43児童の症例を分析し、講義録がランセット誌に掲載される。これらの中には現在のADHD「混合型」に合致する例が見られるという。1908年、トレッドゴールドが、早期に発生した未検出の軽度脳損傷「脳微細損傷(MBD,minimal brain damage)」という原因仮説を発表する。加えて北米でエコノモ脳炎(1917-18年)の流行があり、その後遺症(脳炎後行動障害)との類似性が、なんらかの脳損傷を背景に持つ病態という推測を生む。 この流れから「脳損傷児(brain-injured child)」(1947年)の概念が提唱されたが、50-60年代は、確たる損傷の痕跡が見つからないため、ADHDを表す概念として「脳微細損傷(MBD,minimal brain damage)」から、やや表現を抑えた「脳微細機能障害(MBD,minimal brain dysfunction)」が提唱された。70年代には、MBD概念も原因となる脳機能障害が特定できず、疑問が持たれ次第に使われなくなる。 行動異常児の脳の形態的異常を見つけようとする中で、1937年にチャールズ・ブラッドリー(英語版)は薬物療法を発見した。彼は腰椎から脳脊髄液を抜いて気体を入れ脳を撮影する手法(気脳造影)をもちいたが、子供には大変な頭痛が残った。緩和のため中枢神経刺激薬(アンフェタミン)を試みたところ、頭痛には無効だったが異常行動や学力の劇的な改善に驚く。研究を進め、治療法としての中枢刺激薬を発見し、薬の性質とは逆に落ち着きが出る子供がいることの理由を考察した。また彼ら中枢刺激剤が有効な子供群の特徴を指摘した。それはほぼ今日のADHDの病態であった。 先駆的な薬物療法の研究であったが、精神分析の影響が広まり心理療法が重視されたことなどから、顧みられなかった。ようやく1950年代になって、障害の生物学的な特定はまだ出来なかったが、発症メカニズムの理解や創薬のために応用されはじめる。これとは別に1954年にアンフェタミンに似た中枢刺激剤、メチルフェニデート(リタリン)が発売され、当初はうつやナルコレプシーの症状に用いられたが、最も驚異的な効果を示したのはADHDの症状であり、かつ副作用はより少なかったため使われるようになった。現在のADHDの治療は主にこのような流れをもつ中枢神経刺激薬による薬物療法に依っており、メチルフェニデートは最も頻繁に処方されている。 脳損傷を原因とするMBDの流れとは別に、50-60年代、原因を問わず主症状がある障害と捉えて「多動児、過活動児」、「多動(衝動性)障害」という概念が提案された(操作的診断の先駆け)。 DSM-II(1968年)で、診断概念として「多動性」が初めて現れ「子供の過活動性反応」が記載される。この延長上でWHOもICD-9(1977年)で「多動症候群(過活動症候群)」が記載された。 1971年、ウェンダーは、MBDの症状に「短く乏しい注意集中」という、後に「注意欠如」と呼ばれる障害の特徴を見出した。DSM-III(1980年)は、ウェンダーらの成果を取り入れ、「注意欠陥障害(多動有り・無しの)」(Attention Deficit Disorder with and without Hyperactivity)と記載し、あくまで不注意を中心症状と見ていた。 DSM-III-R(1987年)では「多動を伴う」障害に限定し「注意欠陥多動性障害」に変更しやや重点を「多動」に戻す。 DSM-IV(1994年)は、不注意、衝動性、多動性が必ずしも揃わない障害を再び認めて、下位分類で優勢、混合を診断するように変更した。成人や特に不注意面が見過ごされがちな女児などの障害理解を反映し、再び「多動」偏重を抑えた。 成人・女性のADHDを扱った洋書の翻訳で、端的な病態を邦題に使った『片づけられない女たち』(2000年)が発売されると、これを契機に成人ADHDを疑う本人が専門医療機関に押し寄せ、日本における第1次大人のADHDブームのような状況がおこった。この邦題は強い印象を与え、片付けられるならADHDではない、ゴミ屋敷即ADHDなどの誤解が続いている。 日本の発達障害者支援法(2005年)で、発達障害とは「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と定義し、ADHDを代表的な発達障害のひとつに挙げた。世界では、この時期「発達障害」についての正式な医学的な定義は定まっておらず、ADHDは、行動と衝動性の(DSM)あるいは情緒と行動の(ICD)の障害とされていた。一方、日本では、特に福祉領域ではDSM-5の分類を先取りするように、ADHDも発達障害として認知されており、法律にも反映された。 DSM-5(2013年)では用語や診断基準の骨格はDSM-IVをほぼ踏襲している。近年の脳機能研究の知見を踏まえ、DSM-III以来一貫しつづけた反抗性挑戦性障害、素行障害のグループという分類から、初めて神経発達障害のグループに位置づけられた。 2013年ごろより来院者が増え日本では第2次大人のADHDブームの状況となった。以前と違いは、コミュニケーションの不調の面から、集団の中であぶりだされ診察を求める人や企業が不調に気が付き受診を勧められる人が多いことである。 ADHDらしいと考えられている歴史上の人物として、下記のような人々が知られている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "注意欠陥・多動性障害(ちゅういけっかん・たどうせいしょうがい、英: attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)は、多動性や衝動性、不注意を症状の特徴とする神経発達症(発達障害)もしくは行動障害である。こうした症状は教室内で最年少だとか、正常な者、他の精神障害、薬物の影響でも一般的であるため、機能障害や苦痛を感じるなど重症で、幼い頃から症状があるなどの鑑別が必要とされる。発達障害者支援法に基づき、一人一人に応じた様々な支援と、社会的障壁の除去(適切な環境調整)が行われる。個々の状態に合わせて、様々な支援機関の連携のもと、環境調整・心理社会的支援・薬物療法を組み合わせた包括的支援を行うことが有効とされる(詳細は「ADHD#治療」を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "精神医学的障害の一種である。「注意欠陥・多動性障害」という診断名は、1994年からのDSM-IVのものである。以前のDSM-IIIの注意欠陥障害(ADD)や、ICD-10の多動性障害を継承するもので、口語的には多動症などと呼ばれてきた。一般にアスペルガー症候群と混同されがちだが、アスペルガー症候群は他者理解・共感力の欠如が症状の特徴である。ただし、アスペルガー症候群にはADHDの併存も少なくない。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2013年のDSM-5では、ADHDは訳語として、欠陥から欠如に代わった注意欠如・多動性障害と、注意欠如・多動症が併記されている。注意欠如・多動性障害は、日本精神神経学会が2008年に示したもので、注意欠如・多動症は小児精神神経学会や日本児童青年精神医学会の示したDSM-5の翻訳案である。またDSM-5で成人への診断が追加された。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その症状が、正常な機能と学習に影響を及ぼしている場合のみに診断する。症状は早い時期(6歳未満ごろ)から発症し、少なくとも6か月以上継続している必要がある。DSM-5はそれまでの7歳までの発症を12歳とし、遅発性の発症を含めたがこのことは誤診の可能性も増やしている。また、小児発症が成人ADHDの重要な診断基準であったが、小児期ADHDと成人期ADHDは異なる経過を持つ症候群だと示唆した研究例もあり、まだ明確となっていない部分がある。診断は、多くの精神障害や発達障害と同様に問診を中心に行われる。また評価尺度が診断の補助として利用できる。生物学的な指標がないため、誤診も多いと考えられている。アメリカでは推定有病率を数倍上回る診断数のため過剰診断が指摘されている。医学的な定義や投薬に対する議論のため、ADHDに関する論争がある。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "遺伝的要因が76%とされるが、家庭環境の要因を十分に分離できていないという指摘もある。重要な環境要因は、胎児期の薬物、アルコールおよびタバコの暴露、周産期の問題、そして頭部外傷である。2020年に発表されたADHDの環境危険因子、保護因子、バイオマーカーに関するメタ分析によると、危険因子として確実性が高いのは妊娠前の肥満、皮膚炎、子癇前症、妊娠期のアセトアミノフェン暴露であった。危険因子の疑いが強いものは、妊娠期の喫煙、小児喘息、妊娠期の体重超過、ビタミンD不足などであった。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "性別による発症率の比較では、学童期までを比較した場合は1-6%で男子の方が女子よりも高い。特に男子では多動性と衝動性しかみられず、特に女子では不注意しかみられない場合がある。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ICD-10での多動性障害の発症率は学齢期で3-7%であり、その内30%は青年期には多動と不注意は目立たたなくなり、40%は青年期以降も支障となる行動が持続し、残りの30%は感情障害やアルコール依存症などのより重篤な精神障害が合併する。ある調査では、約3割が大人になっても症状が続いていた。また、別の調査では、ADHD症状の深刻度は通常加齢とともに低下するが、約90%のADHD患者はいくつかの症状を成人期まで持続し続ける。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "衝動性・過活動・不注意などの症状が確認される。典型的には生まれつき症状が存在する。通常の人々にも広く一般的にみられる症状であるため、症状が合致するだけでは不十分であり、幼年から症状が継続し、発達過程において不適切に持続しており、特定の状況だけで見られないことがある。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "子供ではICD-10による多動性障害(たどうせいしょうがい)の診断名が適用されることもある。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "不注意には、以下の症状などがある。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "過活動・衝動性には、以下の症状などがある。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "年齢が上がるにつれて見かけ上の「多動(落ち着きがない、イライラしているように見えるなど)」は減少するため、かつては子供だけの症状であり、成人になるにしたがって改善されると考えられていたが、近年は大人になっても残る可能性があると理解されている。その場合、大抵、一見して分かるような症状は弱くなっており、目に見える多動よりも、感情的、精神的な衝動性(言動に安定性がない、順序立てた考えよりも感情が先行しがち、会話で話が飛躍しやすい)や注意力や集中力の欠如(シャツをズボンから出し忘れる、シャツをズボンに入れ忘れる、ファスナーを締め忘れるといったミスが日常生活で頻発する、など)などが目立つようになるとされる。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "幼少期において、男子では多動性と衝動性のみ、特に女子では不注意のみの症状が目立ち問題視されやすいが逆にそれ以外の症状が見過ごされやすいため、問題視されにくい場合がある。過活動、衝動性が顕著でないADHDであって、不注意のみが目立つ場合、幼少期には周囲、または自分がADHDであることに気付かない場合も多い。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2023年現在、決定的な原因は不明とされている。双子研究により、原因を遺伝要因と環境要因に分けることができるが、ADHDの遺伝要因(遺伝率)は約76%である。ADHDの子供の兄弟は、そうでない子供の兄弟より3倍から4倍ADHDになりやすい。抑制や自制に関する脳の神経回路が発達の段階で損なわれているということまでは確からしいが、その特定の部位や機能が損なわれる機序は仮説の域を出ない。貧困や教育様式など家庭という環境要因を遺伝要因から分離するのは困難であり、まだその分離が洗練されていないことに注意が必要である。離婚、貧困、教育様式、養育者の教育水準の低さ、社会福祉、性的虐待、睡眠不足、食品添加物、携帯電話の使用など様々な要因が挙げられ、それらが相互作用している。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "機能不全が疑われている脳の部位は、大きく3箇所である。ADHDの子供達は定型発達の子供に比べてこれらの部位が縮小していることがある。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "多くの研究者が、複数の遺伝子異常がこれらの部位の萎縮に関係しているのではないかと考えている。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2018年、福井大学の研究グループはADHDと診断された120人の男児の脳を調査したところ、7割の男児の脳に眼窩前頭皮質の厚みが増して表面積が小さくなるなど、脳の約20か所で形態の特徴をみつけた。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1990年に米国のNIMHのザメトキン (Zametkin) らのグループは、PETスキャンを用いて、ADHDの成人25人の脳の代謝活性を測定し、対象者群より低下していることを明らかにして、ADHDが神経学的な基盤を持っていることを目に見えるかたちで証明した。具体的には、健康な前頭前野は行動を注意深く選定し、大脳基底核は衝動性を抑える働きを持つが、ADHDのケースではそれがうまく働いていない。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "食事とADHDとの関連性について指摘する報告があり、アメリカやイギリスでは食品添加物などを除去した食事の比較が行われている。2007年にイギリス政府は、食品添加物の合成保存料の安息香酸ナトリウムと数種類の合成着色料が子供にADHDを引き起こすという研究を受け、これらを含むことが多いドリンクやお菓子に注意を促している。2008年4月には、英国食品基準庁 (FSA) はADHDと関連の疑われる合成着色料のタール色素について2009年末までにメーカーが自主規制するよう勧告した。大手メーカーは2008年中にそれらを除去すると報じられた。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2006年、5000人以上と規模の大きい研究で砂糖の多いソフトドリンクの摂取量と多動との相関関係が観察された。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "最近の睡眠科学では、睡眠がADHDの増加に大きく関わっていると言われている。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "米国の子供を調査した結果、因果関係は不明であるものの、尿中のジアルキルリン酸塩(英語版)濃度、特に代謝物のジメチルアルキルホスフェート (DMAP) 濃度とADHDの診断率に関連が示された。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "よく使われている診断基準(統計調査用)は、アメリカ精神医学協会が定めたDSM-IV (1994) とその改訂版のDSM-IV-TR (2000) のAD/HDであり、不注意優勢型と多動衝動性優勢型と、その混合型という3つのタイプに分けられる。2013年にはDSM-5が出版されている。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1994年に改訂されたWHOの診断基準のICD-10は、「多動性障害」の診断名であり、注意の障害と多動が基本的特徴で、この両者を診断の必要条件としている。ICD-10の「多動性障害」は、細部では若干の違いがあるものの、DSM-IVのADHDの「混合型」に匹敵する。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "DSM-IV-TRの診断基準", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "上記すべてが満たされたときに診断される。DSM-IVではMRIや血液検査等の生物学的データを診断項目にしていない。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "DSM-5(2013) の診断基準も、ほぼ踏襲しているが、一部に変更があった。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一方、フランスの児童精神科医は生物学的医学に支配された考えではなく、DSMに対抗する診断分類であるCFTMEA(仏: Classification Françaisedes Troubles Mentaux de L'Enfant et de L'Adolescent)を用い、症状の背景に心理社会的な原因を見る。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ADHDが報告された頃は、ADHDは子供特有の病気と考えられており、成長に従って多動が目立たなくなることから、ADHDの特徴も消失するものと考えられていた。しかしADHDの児童の追跡調査から、成人期に達しても多くの患者では不注意などの症状が残ることが明らかになった。このことは医学界でも論争を呼んだが、現在では発達障害の特性はおおむね生涯に渡って持続するものであるということが受け入れられている。ただし、うつ病などでADHDに似た症状が起こることがあるので、発達障害との鑑別には注意が必要である。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "診断を補完するための評価尺度には、ADHD Rating Scale-IVやその日本語版ADHD-RSなどがある。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "成人ADHDでは22%に症状の誇張があり、誤診を避けるために、90%以上の感度のある尺度の使用が必要である。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "明らかな機能障害や苦痛を引き起こしていなければ、症状が正常な範囲である可能性がある。4歳では正常な未熟である。DSM-5では、発症年齢を12歳と遅くしたが、典型的には症状は生まれつきであるため、同様の症状を起こす他の原因と誤解が生じる可能性があり、成人では特に慎重であるべきで、遅発性では薬物が原因の症状だということも疑える。あるいは他の精神障害が原因となっていることもある。特に成人では、薬の娯楽目的、転売目的で受診している場合がある。マイケル・ムーアは、映画『シッコ』において、重篤な疾患を抱えた大勢の国民が治療を受けられずに放置されているなか、あなたは不安症ではないか、注意欠陥障害ではないか、とメディアが国民の不安を煽る現状にも触れている。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "適応障害では、混乱した学校環境、家庭のストレスなどへの反応であるなど、特定の状況に生じている。両親や教師など周囲の大人が完璧主義、あるいは子供に過剰な期待をしており、そうした環境が破壊的な場合にADHDが過剰診断されやすいが、大人の期待の再構築、環境調整が必要となる。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ADHDをもつ児童は、他の精神障害が並存する確率が66%増加する。関連障害として特異的発達障害(学習障害)や、軽症アスペルガー障害との合併を示すことがある。またその特性上周囲からの同調圧力などによりネガティブな打撃を受けやすく、二次的に情緒障害を引き起こす傾向があり、行為障害、反抗挑戦性障害、不登校やひきこもりを招きやすい。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "不眠症、閉塞性睡眠時無呼吸症候群のような睡眠障害は、ADHDに似た症状を起こすことがあり、疼痛も睡眠の問題を起こすことがある。ADHDにおける睡眠障害の併存率は25 - 50%とされる。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "製薬会社による広報活動の影響もあって診断数は年々増加している。", "title": "過剰診断の問題" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "正常な人や他の原因によって症状が出ている人は、精神刺激薬による治療によって問題が悪化しかねない。", "title": "過剰診断の問題" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "DSM-IVのアレン・フランセス編纂委員長は、製薬会社に利用されるような診断名の追加は避けたと思っていたが、マーケティングは容易くこれを突破してしまい、DSM-IV発表以降、米国で注意欠陥障害が3倍に増加したことについて「注意欠陥障害は過小評価されていると小児科医、小児精神科医、保護者、教師たちに思い込ませた製薬会社の力と、それまでは正常と考えられていた多くの子供が注意欠陥障害と診断されたことによるもの」と指摘している。", "title": "過剰診断の問題" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "早生まれの子供の学級における落ち着かない行動が異常と判断されるなど単なる未熟性が病気のように扱われる場合もある。詳細は「相対年齢効果」を参照。", "title": "過剰診断の問題" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "子供の15%がADHDの診断を受けているアメリカでは、2010年に、ADHDと診断された児童450万のうち100万人が誤診である可能性が指摘されており フランセスは「米国では、病気ではない子供たちが過剰診断されて薬物治療を受けている」と述べた。", "title": "過剰診断の問題" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "注意障害雑誌を創刊し、またMTA研究を主導したキース・コナーズも、過剰診断と過剰処方に注意を促した。", "title": "過剰診断の問題" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "児童の権利に関する条約は、注意欠陥多動性障害(ADHD)が、薬物治療によって治療されるべき疾患であるとみなされていることを懸念し、診断数の推移の監視や調査研究が製薬会社と独立して行われるようにと提言している。", "title": "過剰診断の問題" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "アメリカ疾病管理予防センター (CDC) は、行動療法が優先されるが、75%が投薬を受けていることに注意を促している。", "title": "過剰診断の問題" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "世界保健機関や日本のガイドラインでは、児童青年のADHDへの第一選択肢は心理療法(心理教育、ペアレント・トレーニング、認知行動療法など)であり、薬物療法は児童青年精神科医の管理下でのみ行うことができ、かつ6歳未満に対しては投与してはならない。心理療法では認知行動療法やソーシャルスキルトレーニング、また親の接し方の練習であるペアレント・トレーニングといったものがある。児童における大規模なMTA研究にて1年時点で見られた投薬の優位性は、2年以上の投薬では行動療法などと差が見られず疑問が呈されており、他の長期研究でも長期の投薬による利益は報告されていない。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は、4-5歳のADHDに対しては、薬物療法の前にまず心理療法を実施するよう勧告している。一方でCDCは、6-17歳のADHDに対しては、薬物療法と心理療法の両者を実施するよう勧告している。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一方で英国国立医療技術評価機構(NICE)は、未就学児においては薬物療法を推奨しておらず、就学児童および青年においては第一選択ではなく重症の場合の選択としている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本での2016年のADHDの治療ガイドライン4版は、薬物療法が中心となっていた以前の2008年3版と比較して、心理社会的治療が大幅に充足された。子供へのソーシャルスキルトレーニング (SST)、親へのペアレント・トレーニングなど心理社会的治療や、学校との連携など環境調整が優先され、薬物療法ありきの姿勢は推奨されない。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アメリカ国立精神衛生研究所 (NIMH) が出資した、7歳から9歳の600人近い子供を追跡した大規模な研究であるMTA研究が実施された。それまでの研究に一般的な4か月以内の研究より長期であり、行動療法、薬物療法、またその併用を比較するための試験であった。14か月時点では薬物療法と併用では、他の方法よりも症状を改善しており、またこの時点で薬物療法の4%に精神刺激薬の重篤な副作用による中止があり、食欲喪失、睡眠の問題、泣き叫ぶ、反復運動といったもので、さらに薬物療法では身長と体重の成長に遅れがあった。3年後では、ほとんどの人々に改善が維持されていたものの、行動療法などとの治療利益には差がみられなくなっていた。並存疾患の発生率も3年後では差がない。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "8年後でも投薬した群に恩恵あったというわけではなかった。8年では医薬品を用いなかった人も同様の機能水準があったため2年以上の薬物療法には疑問が持たれた。医薬品を用いた人の医薬品の種類は91%が精神刺激薬(メチルフェニデートなど)を含む治療である。14か月時点で投薬を受けていた人の61.5%は、8年の間に投薬を中止していた。16年目では長期的な投薬は症状の重症度の低下に結びついておらず、1-2センチの身長の成長の抑制と関連していることが分かった。投薬や教育サービスはむしろ不利な傾向を示しており、問題が悪化した子供ではより多くの治療が施されたのではという議論も生じている。時間と共に全被験者に改善の傾向が見られた。(#経過も参照)", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "フランスでは、心理療法や家族カウンセリングを実施し、実際に問題を解決すると真にADHDに診断される児童は少ない(0.5%)ということである。フランスでの心理社会的な手法は包括的に取り組まれ、食事では合成着色料、保存料、食物アレルギーが症状を悪化させていないかといったことにも着目し、子育ての方針においても子供を管理するために薬を使うのではなく、はっきりとしたルールの中で耐えることを学ばせることが定着している。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "家族には心理教育、ペアレント・トレーニングを行う。本人の症状をコントロールすることよりも本人の特性にあった環境を整えることが重要である。ペアレント・トレーニングは、症状を持つ児童への接し方を親が学ぶということである。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "児童青年のADHDには、WHOおよびNICEのガイドラインでは認知行動療法(CBT)およびソーシャルスキルトレーニング (SST) を提案している。また成人においては、NICEは患者が薬物療法を希望しない、または薬物療法の効果が乏しい際にCBTを検討するとしている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "認知行動療法に関してはセルフヘルプのできるワークブックも利用できる。SSTは困っていることを、上手にこなせるように実際に練習してみるということである。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "さらに、ADHDを持つ子供へは、Summer Treatment Program (STP) などの治療プログラムの実施が有効であり、参加したすべての子供に行動改善が認められ、ADHDの症状が有意に改善するとされている。また、ADHDを持つ成人へも、薬物療法と並行して、心理教育・動機付け面接技法・認知行動療法(活動スケジュール表の利用・問題解決法・認知再構成法などを含む)・ソーシャルスキルトレーニング (SST) などから構成される、ヤング・ブランハム・プログラムなどの治療プログラムを実施することが、症状の改善に有効であるとされている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "なお、二次的な症状として、不安障害やうつ病、不眠症などの症状が生じる場合も多く、その場合はADHDの治療と並行してそれらの症状への治療を行い本人をサポートする(「不安障害#治療」、「うつ病#治療」、「不眠症#治療」などを参照。これらの治療も、本人が取り組みやすいようADHDの特性を踏まえて工夫して行うことが重要である)。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ADHDの認知行動療法では、下記の技法などが用いられる。治療や支援を行う際には、本人の症状・年齢・環境・併存症の有無等に応じて、下記の技法などを統合して包括的かつ効果的な介入プログラムを立てることが重要である。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "なお、認知行動療法の実施とセットで、ADHD児・者の特性に応じた合理的配慮や環境調整が行われることも大切である。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "環境上の配慮の仕方や、周りの人の関わり方によって、本人の困り感も違ってくる。したがって、問題の原因を本人の中に求めるのではなく、周囲の関わり方や環境上の配慮の仕方を改善し、支援をしていくことが大切である。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "注意をそらす物を周りに置かない。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "家庭では、勉強をしているとき外的刺激を減らしたり、子供の注意がそれてしまった時に適切な導きを与えてやったり、頃合いを見計らって課題を与える、褒めることを中心にして親子関係を強化するなどが挙げられる。一例として、「勉強しなさい」と言うよりも机の上にその子供の注意を引きそうな本をさりげなく置いておく、新聞や科学雑誌を購読する等である。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "医学博士ジーン゠コムズは、文化学博士・医療福祉士(医療ソーシャルワーカー)のデイヴィッド゠ナイランドによる療法を高く評価し、重要なのは「何も疑問に思わずに従順に育つこと」ではなく、「勇気と文化に対する反抗心を持って育つこと」であると述べている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "WHOは、正しく診断されたADHDに対してはメチルフェニデート製剤の薬物療法を用いるとするが、薬物療法は対症療法であり根治を目指すものではなく、専門医の指示の下で行うべきであり、相談なくプライマリケアでは処方してはならないとしている。薬物療法は継続的な心理行動への包括的介入の一部でなければならない、とくに子供の場合は6歳以上で心理行動療法に効果がなかった場合に慎重に使う、としている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "成人のADHDについては、NICEは薬物療法を第一選択肢とするべきだと勧告している(患者が心理療法を好んだ場合を除く)。薬物乱用ポテンシャルのある患者についてはアトモキセチンを提案している。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "MTA研究以外の長期的な研究も長期的な医薬品の利益を報告しておらず、3-5歳の子供を6年追跡したPATS研究では、投薬の恩恵は見いだせなかった。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "コクラン共同計画による小児ADHDにおけるメチルフェニデートの効果に関するシステマティックレビューでは、治療期間は平均75日と非常に短く、証拠の品質が低いので医薬品の影響の大きさを特定できなかった(有益なのか明らかとならなかった)。死亡や致死的な副作用は増加していないが、睡眠障害が1.6倍、食欲低下が3.6倍であり、副作用の評価のためにはより堅牢な試験が必要とされることが結論されている。成人ADHDでのメチルフェニデートのシステマティックレビューは批判のため2016年に撤回されており、不明確のリスク評価に対して信頼性が高いとしたり、11研究の内2つだけが抑うつなど並存疾患のある被験者をはっきりと残していたため一般的な効果であるかの妥当性が損なわれており、試験期間は1-7週間であり小児研究で観察されているように効果は時間と共に減少してもよく証拠の格下げにつながってもよかったといった理由があり、評価のために偏りのない長期研究が必要とされる。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "子供のためのADHD治療薬の承認のための試験では、精神病や躁病は1.48%に出現し、虫、昆虫、ヘビの幻覚が一般的であった。異なる条件である、うつ病、双極性障害、統合失調症の両親を持つ子供では、精神刺激薬の使用群(メチルフェニデートが83%)では62.5%が精神病症状を呈し、服用していない群では27.4%であった。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ADHDの治療薬の使用と骨密度の低下が報告されており、この懸念から実施された動物研究ではメチルフェニデートが悪影響を与えることが観察された。成長抑制以外に長期的な害がよく知られていないため、2017年に動物試験におけるシステマティックレビューを実施したところ、α2受容体作動薬のクロニジンと、メチルフェニデートで生殖機能を損なっている形跡が見られた。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "精神医療における大麻の有効性が広く認知されるようになった最近では、医療大麻のADHDに対する有効性について現在多数の研究が行われている。規制の緩和された米国やカナダ、英国等で精神科医が医療大麻や大麻の有効成分であるテトラヒドロカンナビノール(THC)系製剤を患者に処方する場合が増えており、中枢神経興奮薬に比べ副作用や依存の少ない有力な代替薬として使用されている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "北米で小児の薬物有害反応の報告が最も多かったのは、ADHDの治療薬と、にきび治療薬のイソトレチノインであり、北米でのADHD治療薬の使用量に関係している可能性がある。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ADHDについて光トポグラフィーで薬物治療の効果を確認できることが示された。(途上の技術である、光トポグラフィーを参照。)", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "薬物療法の実施にあたっては、継続的に服薬することでどのようなメリットや効果があるのかを、本人の視点に合わせてわかりやすく伝えていく。その上で、服薬支援アプリなど定期的な服薬につながる工夫についても紹介し、本人をサポートする。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "医薬品では、覚醒水準を引き上げる薬が用いられる。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "日本でADHDに適応がある薬は、2007年よりメチルフェニデート徐放剤(コンサータ)、アトモキセチン(ストラテラ)、グアンファシン(インチュニブ)、リスデキサンフェタミン(ビバンセ)の4種類。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "特に中枢神経刺激剤の効果が高く、多くの場合でメチルフェニデート(短時間型:リタリン/長時間型:コンサータ)が使用される。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "しかしながら、日本では2014年4月~2015年3月にADHD治療薬が処方された患者のうち、メチルフェニデートが処方された患者は64%であり、これは英国(94%)、ノルウェー(94%)、韓国(94%)、トルコ(92%)、ドイツ(75~100%)と比較し著しく低くなっている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "このような要因として、日本では短時間作用型メチルフェニデート(リタリン)のADHDに対する承認が得られておらず、長時間作用型(コンサータ)のみが承認されていること、アトモキセチン(ストラテラ)に処方制限がない一方で、メチルフェニデート(コンサータ)のみ医師の登録が必要であるなど処方制限があるというアンバランスな規制となっていること、診療ガイドラインにおいてメチルフェニデート(コンサータ)とアトモキセチン(ストラテラ)の両方を第一選択薬としていることが影響していると考えられる。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "同様に中枢神経刺激剤であるリスデキサンフェタミン(ビバンセ)も日本以外では第一選択薬となっている場合が多いが、日本ではメチルフェニデートと同様の処方制限があり、さらに2023年現在6歳から17歳に対する適応のみであり、18歳以上のADHDに対する承認は得られていない。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "アメリカではアンフェタミン(アデロール、日本法における覚醒剤)、デキストロアンフェタミン(アンフェタミンのD体)、リスデキサンフェタミン(体内でデキストロアンフェタミンになる)も用いられる。ダソトラリン(英語版)の臨床試験が進行しており、これはセルトラリンの活性代謝物である。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "DNRIのADHD治療薬を大日本住友製薬の米子会社であるサノビオン・ファーマシューティカルズ・インクが米国で治験中である。DNRIは同じくノルアドレナリンとドパミンに作用する中枢神経興奮薬よりも緩やかに作用し、依存性も少ないという特徴がある。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ADHDなど、発達障害には抑肝散、抑肝散加陳皮半夏、甘麦大棗湯、黄連解毒湯、香蘇散、柴胡加竜骨牡蛎湯、当帰芍薬散などをその人の証にあわせて使い分ける。また、西洋薬の補助として併用することもある。抑肝散、抑肝散加陳皮半夏に関しては、ADHDに効果があることが日本東洋医学会でも示されている。Shanghai Journal of Acupunctureにおける研究によれば、子供592名を、鍼灸グループと漢方薬グループ、比較グループに分け、鍼灸で84.45%の効果率、漢方薬で78.77%の効果率となりどちらも、症状と脳波に改善が見られ、また患者の年齢が低いほど良好な結果が得られた。」とのことである。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ADHDには、鍼治療が有効という意見があり、日本でもADHDに鍼治療を行う鍼灸治療院が存在する。また、日本小児はり学会でも発達障害をテーマとされたこともあり、「ADHDと疳の虫は同疾患である」という意見も存在する。ニューイングランド鍼灸大学院大学助教授、桑原浩榮によれば、軽度の疳虫症は肺虚肝実証、重度のADHDは七十五難型肝実証、薬剤過剰投与で脾虚肝実証となることが多いという。また、治療回数は一般的な疳虫症で4日から5日連続、軽症で2日から4日連続、重症だがADHD薬を服用していなければ7日から10日の連続、毎日の服用が10mg以下のADHDは週一回で1年から3年、毎日の服用が20mg以上のADHDになると週2日から3日で2年から4年ほどである。米国において、ADHDへの鍼治療は認知度が高まりつつある。一方、中国四川大学の調査ではADHDへの効果は不明とされている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "21世紀となりワーキングメモリにおける障害は、ADHDの主要な障害または中間表現型であることが明らかにされた。神経生理学的にはADHDは脳の前頭葉とドーパミン・システムの機能変化と関係がありえる。(Castellanos and Tannock, 2002; Martinussen et al., 2005)", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "スウェーデン、カロリンスカ医科大学のクリングバーグらは、コンピュータによる訓練方法を開発し、2つの研究 (Klingberg et al. 2002, Klingberg et al., 2005) においてワーキングメモリーが訓練により改善可能であり、ADHDの症状を、精神刺激薬に匹敵する効果量にて軽減することを明らかにした。当時の同大学学長であり、世界的なエイズ研究者であるハンス・ウィグゼルは、医学を専門とする同大学ベンチャー・ファンドとしては初めて新薬以外の分野として事業化を支援し、2009年現在スウェーデンでは約1000校の小学校(約15%)において、米国では約100クリニックにて、それぞれ年間3000人以上の児童・成人のADHD改善トレーニングが行われている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "日本では、2007年夏より約半年間のえじそんくらぶによるワーキングメモリートレーニング評価プロジェクトとして開始された。2008年日本発達障害ネットワーク年次大会にブース出展があり、関係方面への紹介がされた。日本では2009年、コグメド・ジャパンがワーキングメモリトレーニングを提供している。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "英ヨーク大学のギャザコール、英ノーザンブリア大学のホームズらは、コグメドのワーキングメモリ訓練を使い、訓練プログラムと、精神刺激薬による薬物療法の2種の介入にて、ADHDをもつ児童のワーキングメモリ機能への影響を評価した。薬物療法が視空間のワーキングメモリだけ改善した一方で、訓練はすべてのワーキングメモリ要素(言語も加えたワーキングメモリと短期記憶)で大幅な改善をもたらし効果は6ヶ月後も持続した。IQ成績はいずれの介入でも変化しなかった。議論のなかで、「断然に最もドラマティックなワーキングメモリの改善はワーキングメモリトレーニングで観察された。測定されたワーキングメモリのすべての構成要素で有意で大幅な改善が見られ、それぞれにおいて、グループの児童を同年代の平均以下のレベルから平均以内のレベルにもっていった」と報告し、トレーニングによる視空間・言語すべての要素のワーキングメモリへの全体的な改善が、教室の言語中心の環境における多くの学習活動でワーキングメモリへの重い負荷にしばしば耐えられない児童にとって重要で実用的な利益となろう、としている (Joni Holmes, Susan E. Gathercole 2009)。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ランダム化比較試験で、ビタミンミネラルは、感情調節、攻撃性、不注意を改善したが、過活動と衝動性には変化がなかった。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "フィンランドの調査で、腸内フローラがADHDを予防する効果がある可能性が示唆されている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "367例の小児ADHDでは、29.3%が成人期まで症状が継続した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ADHDの子供の大部分は正常な知能である。", "title": "疫学" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "有病率は、DSM-5(2013)ではほとんどの文化圏で子供の約5%、成人の約2.5%、男:女比では子供で2:1、成人で1.6:1という記載がある。WHOの調査では、成人では世界全体で3.4%(国によって1.2% - 7.3%と大きく異なる)。主症状のうち、多動は9歳から11歳、衝動性は12歳から14歳で診断的寛解となることが多く、不注意は成人後も継続する事が多いという報告がある。", "title": "疫学" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "米国CDCの統計では、4-17歳児童の約11%(640万人)がADHDと診断されており(2011年)、男児が13.2%、女児が5.6%と男児に多い。ニューヨーク・タイムズは、古典的なADHDの有病率は児童の5%であるが、しかし今の米国ではADHDは喘息について二番目に多い小児疾患であり、それには過剰診断や製薬会社による病気喧伝があると述べている。英国の統計では、狭義のICD-10によるhyperkinetic については児童青年の1-2%ほどであり、広義のDSM-IVによるADHDについては児童青年の3-9%ほどであった。一方フランスでは症状を呈す心理社会的原因の解消を試みており真にADHDと診断される子供は0.5%である。", "title": "疫学" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "日本の有病率は、成人では浜松市の大規模調査より1.65%と推定されている。", "title": "疫学" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "コロラド大学のジャクリン・J・ジリスらの研究では、ADHDを発症した一卵性双生児が二人とも発症するリスクは、ADHDを発症した一卵性ではない兄弟姉妹の場合の11倍 - 18倍になると報告された。ノルウェーのオスロ大学のグヨーネとサンデット、英国のサウサンプトン大学のジム・スティーブンソンらの研究では、526組の一卵性双生児と389組の二卵性双生児を調べた結果として、最大で80%までADHDを遺伝的要因で説明できると発表した。", "title": "疫学" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "CDCによると、ADHD児を持つ親は、一般児と比べて親子関係がトラブルとなる確率が約3倍であるとされる(21.1%と7.3%)。またADHD児はケガをする確率が高い(4.5%と2.5%)。そしてフランスの研究によるとADHDの子供は、一般の子供に比べて3.58倍留年しやすく、日本での高校に相当するセカンダリ・スクールでは中退が2.41倍多い。また、2005年に発表された研究によると、ADHDである大人はそうでない大人に比べて、学歴に関わらず就業率が低く低収入であった。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "学習面においては、計算などの単純作業において障害が原因で健常児と比較してミスが多くなる傾向はあるが、周囲の人間の適切なフォローや本人の意識によってミスを減らすことは可能であるとされている。ADHDだからという理由でレッテルを貼ったり、甘く評価するなどは不適切な対応であるという意見もある。かといって、現在では一般教諭がADHD児に対して常に適切な対応を取ることは容易だというわけではない。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "学習機能面以外の問題として、ADHD児は授業中に立ち歩く、他の生徒とずっとおしゃべりをし続けるなど、教諭や他の生徒にとって迷惑な存在になるケースも多い。またノートを取る、宿題をする、提出物を出すなどADHDの児童が苦手とする傾向がある(あるいは好きな教科しかしない)。そもそも、教育現場でADHDが注目されるのは、学級崩壊の原因になるような問題児が発生することへの説明としてADHDが槍玉にあがったことという構造がある。2014年には京都市立小学校で、ADHDの傾向がある男子児童に対し、女性教諭が粘着テープを示して口に貼り付けていたことが判明し、児童の保護者が「ADHD児に対する差別的な取り扱いだ」と抗議する事態となった。これについては、有識者からは「教諭一人の問題でなく、学校が児童一人一人の教育機会を十分に保障していないためだ」という意見がある。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ADHDの人物はインターネット依存症になりやすい。2019年に発表された日本の研究によると、インターネットの依存度をテストするYIAT(Young's Internet Addiction Test)において、70点以上をインターネット依存症とした時、一般人口と比較してADHDのみの場合は約4.31倍で、ADHDに加えてアスペルガー症候群と診断されたものでは約6.89倍もその割合が大きかった。なお、アスペルガー症候群のみの場合は、約3.72倍であった。米国医師会雑誌(JAMA)に2018年7月17日掲載された2500人の10代の若者を2年間にわたって追跡した調査によると、10代の若者によるソーシャルネットワーク(SNS)サイトやビデオゲーム、ストリーミング配信サービスの利用が増えれば増えるほど、ADHDの症状を引き起こすリスクが高まることがわかった。デジタルメディアを1日に複数回使うことはないと答えた約500人のティーンのうち、ADHDの症状(作業を最後まで続けられない、静止しているのが困難など)が見られる比率は4.6%だった一方で、質問した14種類のデジタルメディアの全てを毎日使うと答えた約50人では、その比率が10.5%だった。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "アングリアラスキン大学のシャロン・モレインらは、ADHDクリニックに通う患者88人を対象に調査をした結果、ADHDの人々は一般の人と比べてため込み症の傾向をより強く示し、対照群の2%に対し、約20%が買いだめ障害の有意な症状を示したという。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ADHDの人物と犯罪行為の相関関係は、一般の人より高率であるという研究と、ほぼ同等であるという研究がある。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "ADHDの人物の犯罪率が健常者より高いと考える研究では、ADHDの人物はセルフコントロール能力が低いことが原因と分析し、世界の少年鑑別所、留置所、刑務所の収容者で、ADHDの人物の占める割合が高いと指摘する。日本での調査では、少年院生でADHDと疑われる人物の割合が高いとする報告がある。ドイツでの調査では、囚人の45%が何らかのADHDだったが、一方で健常者の対照群では9.4%だった。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "町沢静夫はADHDの特徴は攻撃性であると述べている。それによると注意欠陥・多動性障害の症状は攻撃性と非行であり、いろいろな小さな悪事を重ね、慢性化すると行為障害となり、18歳以上になると反社会性パーソナリティ障害になることが多いという。しかし、町沢がADHDと診断した患者のうち、メチルフェニデートの効果があったのは5%である。これは他の研究によって一般に60% - 80%とされる結果とかけ離れており、町沢の診断したADHDは、典型的なADHDではない可能性がある。これについて、町沢は米国人と日本人の特性の違いから薬物の効き方に差があると説明している。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "日本では1997年11月、朝日新聞が神戸連続児童殺傷事件に関し、ADHDが犯罪に関連するかのような印象を与えたと、精神発達指導教育協会などから謝罪を求められ、紙面で謝罪した。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "元衆議院議員の山本譲司は、福祉制度の不備が、刑務所の服役者数で精神障害者(知的障害者・発達障害者など)が高割合を占める要因になっているとしている。山本は政治資金規正法違反で実刑判決を受け服役したが、刑務所の服役者に精神障害者が高割合を占め、刑務所の一部が福祉の代替施設のようになっている現実を目の当たりにした。山本は「障害があるからといって、罪を犯しやすいというわけでは決してない」としており、「福祉や家族から見放され、窃盗や無銭飲食などに手を染めることになった者」や、「社会に蔓延する同調圧力に耐えられず、空気が読めないと虐げられ続けてきた辛さが、何らかの刺激によって犯罪に結びついた者」が非行(犯罪)に走ってしまっているとしている。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ADHDという分類が妥当であるのかということはADHDの概念を確立したアメリカでも論争が続いている状況である。日本においては、ADHDの特徴については未だ明確に定義化されていない。近年は一般向け書籍の増大やテレビ番組における報道による認知度の上昇の影響で、「自分がADHDではないか」と受診してくる患者が増えた。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2013年に日本精神神経学会学術総会が静岡県の浜松市で行った調査によれば、調査対象10000人のうち196人が結果ADHDの「疑いがある」と認定をされた。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "文部科学省は、ADHDの特徴として、「年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力、衝動性、多動性」と定義づけている。文部科学省は、平成15年3月に行われた、「特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議」において、判断基準や指導方法について提示した。また、同年より、高機能自閉症や学習障害も含めて、支援を目的とした、「特別支援教育推進体制モデル事業」を開始した。", "title": "生活への影響" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "多動で落ち着きのない子供は古くから知られており、ADHDの疾患概念は最近になって現れたものではない。後に小児神経医学などの分野で注意が払われるようになる。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1775年、ドイツの医師、メルヒオール・ヴァイカルドは医学教科書にADHD的な行動を記載し、現在のADHDの「不注意」側面との一致から、おそらく医学文献上のADHD初出とされる。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1902年、小児科医スティルが、王立内科医協会の講演で、「道徳的統制の欠損」という概念を用いながら、攻撃的・反抗的になりやすく、注意機能に異常がある43児童の症例を分析し、講義録がランセット誌に掲載される。これらの中には現在のADHD「混合型」に合致する例が見られるという。1908年、トレッドゴールドが、早期に発生した未検出の軽度脳損傷「脳微細損傷(MBD,minimal brain damage)」という原因仮説を発表する。加えて北米でエコノモ脳炎(1917-18年)の流行があり、その後遺症(脳炎後行動障害)との類似性が、なんらかの脳損傷を背景に持つ病態という推測を生む。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "この流れから「脳損傷児(brain-injured child)」(1947年)の概念が提唱されたが、50-60年代は、確たる損傷の痕跡が見つからないため、ADHDを表す概念として「脳微細損傷(MBD,minimal brain damage)」から、やや表現を抑えた「脳微細機能障害(MBD,minimal brain dysfunction)」が提唱された。70年代には、MBD概念も原因となる脳機能障害が特定できず、疑問が持たれ次第に使われなくなる。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "行動異常児の脳の形態的異常を見つけようとする中で、1937年にチャールズ・ブラッドリー(英語版)は薬物療法を発見した。彼は腰椎から脳脊髄液を抜いて気体を入れ脳を撮影する手法(気脳造影)をもちいたが、子供には大変な頭痛が残った。緩和のため中枢神経刺激薬(アンフェタミン)を試みたところ、頭痛には無効だったが異常行動や学力の劇的な改善に驚く。研究を進め、治療法としての中枢刺激薬を発見し、薬の性質とは逆に落ち着きが出る子供がいることの理由を考察した。また彼ら中枢刺激剤が有効な子供群の特徴を指摘した。それはほぼ今日のADHDの病態であった。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "先駆的な薬物療法の研究であったが、精神分析の影響が広まり心理療法が重視されたことなどから、顧みられなかった。ようやく1950年代になって、障害の生物学的な特定はまだ出来なかったが、発症メカニズムの理解や創薬のために応用されはじめる。これとは別に1954年にアンフェタミンに似た中枢刺激剤、メチルフェニデート(リタリン)が発売され、当初はうつやナルコレプシーの症状に用いられたが、最も驚異的な効果を示したのはADHDの症状であり、かつ副作用はより少なかったため使われるようになった。現在のADHDの治療は主にこのような流れをもつ中枢神経刺激薬による薬物療法に依っており、メチルフェニデートは最も頻繁に処方されている。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "脳損傷を原因とするMBDの流れとは別に、50-60年代、原因を問わず主症状がある障害と捉えて「多動児、過活動児」、「多動(衝動性)障害」という概念が提案された(操作的診断の先駆け)。 DSM-II(1968年)で、診断概念として「多動性」が初めて現れ「子供の過活動性反応」が記載される。この延長上でWHOもICD-9(1977年)で「多動症候群(過活動症候群)」が記載された。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "1971年、ウェンダーは、MBDの症状に「短く乏しい注意集中」という、後に「注意欠如」と呼ばれる障害の特徴を見出した。DSM-III(1980年)は、ウェンダーらの成果を取り入れ、「注意欠陥障害(多動有り・無しの)」(Attention Deficit Disorder with and without Hyperactivity)と記載し、あくまで不注意を中心症状と見ていた。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "DSM-III-R(1987年)では「多動を伴う」障害に限定し「注意欠陥多動性障害」に変更しやや重点を「多動」に戻す。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "DSM-IV(1994年)は、不注意、衝動性、多動性が必ずしも揃わない障害を再び認めて、下位分類で優勢、混合を診断するように変更した。成人や特に不注意面が見過ごされがちな女児などの障害理解を反映し、再び「多動」偏重を抑えた。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "成人・女性のADHDを扱った洋書の翻訳で、端的な病態を邦題に使った『片づけられない女たち』(2000年)が発売されると、これを契機に成人ADHDを疑う本人が専門医療機関に押し寄せ、日本における第1次大人のADHDブームのような状況がおこった。この邦題は強い印象を与え、片付けられるならADHDではない、ゴミ屋敷即ADHDなどの誤解が続いている。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "日本の発達障害者支援法(2005年)で、発達障害とは「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と定義し、ADHDを代表的な発達障害のひとつに挙げた。世界では、この時期「発達障害」についての正式な医学的な定義は定まっておらず、ADHDは、行動と衝動性の(DSM)あるいは情緒と行動の(ICD)の障害とされていた。一方、日本では、特に福祉領域ではDSM-5の分類を先取りするように、ADHDも発達障害として認知されており、法律にも反映された。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "DSM-5(2013年)では用語や診断基準の骨格はDSM-IVをほぼ踏襲している。近年の脳機能研究の知見を踏まえ、DSM-III以来一貫しつづけた反抗性挑戦性障害、素行障害のグループという分類から、初めて神経発達障害のグループに位置づけられた。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2013年ごろより来院者が増え日本では第2次大人のADHDブームの状況となった。以前と違いは、コミュニケーションの不調の面から、集団の中であぶりだされ診察を求める人や企業が不調に気が付き受診を勧められる人が多いことである。", "title": "病名・概念の変遷" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "ADHDらしいと考えられている歴史上の人物として、下記のような人々が知られている。", "title": "公表している著名人" } ]
注意欠陥・多動性障害は、多動性や衝動性、不注意を症状の特徴とする神経発達症(発達障害)もしくは行動障害である。こうした症状は教室内で最年少だとか、正常な者、他の精神障害、薬物の影響でも一般的であるため、機能障害や苦痛を感じるなど重症で、幼い頃から症状があるなどの鑑別が必要とされる。発達障害者支援法に基づき、一人一人に応じた様々な支援と、社会的障壁の除去(適切な環境調整)が行われる。個々の状態に合わせて、様々な支援機関の連携のもと、環境調整・心理社会的支援・薬物療法を組み合わせた包括的支援を行うことが有効とされる(詳細は「ADHD#治療」を参照)。
{{Infobox disease |Name=ADHD注意欠陥・多動性障害 |Image= |Caption= ADHD児童は授業に集中・完遂することに困難を覚えがちである |DiseasesDB=6158 |ICD10={{ICD10|F|90||f|90}} |ICD9={{ICD9|314.00}}, {{ICD9|314.01}} |OMIM=143465 |MedlinePlus=001551 |eMedicineSubj=med |eMedicineTopic=3103 |eMedicine_mult={{eMedicine2|ped|177}} |MeshID=D001289 }} {{読み仮名_ruby不使用|'''注意欠陥・多動性障害'''|ちゅういけっかん・たどうせいしょうがい|{{lang-en-short|attention deficit hyperactivity disorder}}、'''ADHD'''}}は、多動性や衝動性、不注意を症状の特徴とする[[神経発達症]]([[発達障害]])もしくは[[行動障害]]である{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH}}。こうした症状は教室内で最年少だとか<ref name="Proof"/>、正常な者、他の精神障害、薬物の影響でも一般的であるため、機能障害や苦痛を感じるなど重症で、幼い頃から症状があるなどの鑑別が必要とされる<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。[[発達障害者支援法]]に基づき、一人一人に応じた様々な支援と、社会的障壁の除去(適切な環境調整)が行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://h-navi.jp/column/article/837|title=「発達障害者支援法」改正、押さえておきたい7つのポイントまとめ|accessdate=2021年10月25日|publisher=LITALICO}}</ref>。個々の状態に合わせて、様々な支援機関の連携のもと、環境調整・心理社会的支援・[[薬物療法]]を組み合わせた包括的支援を行うことが有効とされる(詳細は「[[ADHD#治療]]」を参照)<ref>{{Cite journal|author=根來 秀樹|year=2011|title=注意欠如・多動性障害(ADHD)の包括的治療・支援|journal=児童青年精神医学とその近接領域|volume=52|issue=3|page=269-274}}</ref>。 {{TOC limit|3}} == 名称 == {{See also|精神障害#定義}} 精神医学的障害の一種である。「注意欠陥・多動性障害」という診断名は、1994年からのDSM-IVのものである。以前のDSM-IIIの'''注意欠陥障害'''('''ADD'''<ref group="注">{{lang-en-short|attention-deficit disorder}}</ref>)や、[[ICD-10]]の'''多動性障害'''<ref group="注">{{lang-en-short|hyperkinetic disorder}}</ref>を継承するもので、口語的には'''多動症'''<ref group="注">{{lang-en-short|hyperactivity}}</ref>などと呼ばれてきた。一般に[[アスペルガー症候群]]と混同されがちだが、アスペルガー症候群は他者理解・共感力の欠如が症状の特徴である<ref>[https://psych.or.jp/wp-content/uploads/2017/09/Web02_Komeda.pdf 自閉スペクトラム症を持つ方々の他者理解]</ref>。ただし、アスペルガー症候群にはADHDの併存も少なくない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-03-005.html|title=ASD(自閉スペクトラム症、アスペルガー症候群)について|work=e-ヘルスネット|publisher=厚生労働省|date=2020-5-28|accessdate=2022-7-22}}</ref>。 2013年の[[精神障害の診断と統計マニュアル|DSM-5]]では、ADHDは訳語として、欠陥から欠如に代わった'''注意欠如・多動性障害'''と、'''注意欠如・多動症'''が併記されている。注意欠如・多動性障害は、[[日本精神神経学会]]が2008年に示したもので、'''注意欠如・多動症'''は[[小児精神神経学会]]や[[日本児童青年精神医学会]]の示したDSM-5の翻訳案である<ref name="dsm5naming">{{Cite journal |和書|author=日本精神神経学会/精神科病名検討連絡会|date=|title=DSM~5 病名・用語翻訳ガイドライン(初版)|url=https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/dsm-5_guideline.pdf|format=pdf|journal=精神神経学雑誌|volume=116|issue=6|pages=429-457|naid=}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=市川宏伸 |title=精神科専門用語の再検討について-児童青年精神科領域- |journal=精神神経雑誌 |date=2013|url=https://www.jspn.or.jp/huge/108_symposium.pdf#page=627 |format=pdf}}</ref>。またDSM-5で成人への診断が追加された。 == 診断 == その症状が、正常な機能と学習に影響を及ぼしている場合のみに診断する{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH}}。症状は早い時期(6歳未満ごろ)から発症し、少なくとも6か月以上継続している必要がある{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH}}。DSM-5はそれまでの7歳までの発症を12歳とし、遅発性の発症を含めたがこのことは誤診の可能性も増やしている<ref name="DSM-5エッセンスADHD" />。また、小児発症が[[大人のADHD|成人ADHD]]の重要な診断基準であったが、小児期ADHDと[[大人のADHD|成人期ADHD]]は異なる経過を持つ症候群だと示唆した研究例<ref name="pmid27192050">{{cite journal|last1=Caye|first1=Arthur|last2=Rocha|first2=Thiago Botter-Maio|last3=Anselmi|first3=Luciana|coauthors=et al.|title=Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder Trajectories From Childhood to Young Adulthood|journal=JAMA Psychiatry|volume=73|issue=7|pages=705|year=2016|pmid=27192050|doi=10.1001/jamapsychiatry.2016.0383|url=https://jamanetwork.com/journals/jamapsychiatry/fullarticle/2522749}}</ref>もあり、まだ明確となっていない部分がある。診断は、多くの精神障害や発達障害と同様に問診を中心に行われる。また[[精神医学で使われる診断分類と評価尺度の一覧#ADHD|評価尺度]]が診断の補助として利用できる<ref name="pmid20845231" />。生物学的な指標がないため、誤診も多いと考えられている。アメリカでは推定有病率を数倍上回る診断数のため過剰診断が指摘されている。医学的な定義や投薬に対する議論のため、[[ADHDに関する論争]]がある。 遺伝的要因が76%とされるが<ref name="NICE 2009" />、家庭環境の要因を十分に分離できていないという指摘もある<ref name="pmid28532329" />。重要な環境要因は、胎児期の薬物、アルコールおよびタバコの暴露、周産期の問題、そして頭部外傷である<ref>{{Cite journal|last=Durston|first=Sarah|date=2003|title=A review of the biological bases of ADHD: What have we learned from imaging studies?|url=http://doi.wiley.com/10.1002/mrdd.10079|journal=Mental Retardation and Developmental Disabilities Research Reviews|volume=9|issue=3|pages=184-195|language=en|doi=10.1002/mrdd.10079|issn=1080-4013}}</ref>。2020年に発表されたADHDの環境[[リスクファクター|危険因子]]、保護因子、[[バイオマーカー (薬学)|バイオマーカー]]に関する[[メタアナリシス|メタ分析]]によると、危険因子として確実性が高いのは妊娠前の[[肥満]]、[[皮膚炎]]、[[子癇前症]]、妊娠期の[[アセトアミノフェン]]暴露であった<ref name=":6">{{Cite journal|last=Kim|first=Jae Han|last2=Kim|first2=Jong Yeob|last3=Lee|first3=Jinhee|last4=Jeong|first4=Gwang Hun|last5=Lee|first5=Eun|last6=Lee|first6=San|last7=Lee|first7=Keum Hwa|last8=Kronbichler|first8=Andreas|last9=Stubbs|first9=Brendon|date=2020-11-01|title=Environmental risk factors, protective factors, and peripheral biomarkers for ADHD: an umbrella review|url=https://www.thelancet.com/journals/lanpsy/article/PIIS2215-0366(20)30312-6/abstract|journal=The Lancet Psychiatry|volume=7|issue=11|pages=955–970|language=English|doi=10.1016/S2215-0366(20)30312-6|issn=2215-0366|pmid=33069318}}</ref>。危険因子の疑いが強いものは、妊娠期の[[喫煙]]、[[気管支喘息|小児喘息]]、妊娠期の体重超過、[[ビタミンD]]不足などであった<ref name=":6" />。 性別による発症率の比較では、学童期までを比較した場合は1-6%で男子の方が女子よりも高い<ref name="mugishima54">[[#麦島|麦島 (2006)]]、p.54</ref>。特に男子では多動性と衝動性しかみられず、特に女子では不注意しかみられない場合がある<ref name="DSM-5エッセンスADHD" />。 ICD-10での多動性障害の発症率は学齢期で3-7%であり、その内30%は青年期には多動と不注意は目立たたなくなり、40%は青年期以降も支障となる行動が持続し、残りの30%は感情障害や[[アルコール依存症]]などのより重篤な精神障害が合併する<ref>[[#上島国利、市橋秀夫 (2007) |岡野高明 (2007)]] p. 106</ref>。ある調査では、約3割が大人になっても症状が続いていた<ref name="pmid23460687" />。また、別の調査では、ADHD症状の深刻度は通常加齢とともに低下するが、約90%のADHD患者はいくつかの症状を成人期まで持続し続ける<ref>{{Cite journal|last=Willoughby|first=Michael T.|date=2003-1|title=Developmental course of ADHD symptomatology during the transition from childhood to adolescence: a review with recommendations|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/12553414|journal=Journal of Child Psychology and Psychiatry, and Allied Disciplines|volume=44|issue=1|pages=88-106|issn=0021-9630|pmid=12553414}}</ref>。 == 症状 == 衝動性<ref name="名前なし-1">{{lang-en-short|impulsive}}</ref>・過活動<ref name="名前なし-2">{{lang-en-short|hyperactive}}</ref>・不注意<ref>{{lang-en-short|inattentive}}</ref>などの症状が確認される{{Sfn|英国国立医療技術評価機構|2008|loc=Information for the public}}。典型的には生まれつき症状が存在する<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。通常の人々にも広く一般的にみられる症状であるため、症状が合致するだけでは不十分であり、幼年から症状が継続し、発達過程において不適切に持続しており、特定の状況だけで見られないことがある<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。 子供では[[疾病及び関連保健問題の国際統計分類|ICD-10]]による{{読み仮名_ruby不使用|'''多動性障害'''|たどうせいしょうがい}}<ref>{{lang-en-short|hyperkinetic disorders}}、F90</ref>の診断名が適用されることもある。 不注意<ref>{{lang-en-short|inattention}}</ref>には、以下の症状などがある<ref name="NIMH1">{{cite web |url=http://www.nimh.nih.gov/health/publications/attention-deficit-hyperactivity-disorder/complete-index.shtml |title=Attention Deficit Hyperactivity Disorder (ADHD) |author=National Institute of Mental Health |year=2008 |publisher=[[アメリカ国立衛生研究所]] |accessdate=2015-11-01}}</ref><ref name="CDC2">{{cite web|url=https://www.cdc.gov/ncbddd/adhd/diagnosis.html|title=ADHD: Symptoms and Diagnosis|last=|first=|date=|website=|publisher=Centers for Disease Control and Prevention (2017)|access-date=2018-07-22}}</ref>。 * 簡単に気をそらされる、ケアレスミスする、物事を忘れる * ひとつの作業に集中し続けるのが難しい * その作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる 過活動<ref name="名前なし-2"/>・衝動性<ref name="名前なし-1"/>には、以下の症状などがある<ref name="CDC2"/>。 * じっと座っていることができない * 絶え間なく喋り続ける * 黙ってじっとし続けられない * 目的なく喋りつづける * 他の人を遮って喋る * 自分の話す順番を待つことが出来ない 年齢が上がるにつれて見かけ上の「多動(落ち着きがない、イライラしているように見えるなど)」は減少するため、かつては子供だけの症状であり、成人になるにしたがって改善されると考えられていたが、近年は大人になっても残る可能性があると理解されている{{Sfn|英国国立医療技術評価機構|2008|loc=Information for the public}}。その場合、大抵、一見して分かるような症状は弱くなっており<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>、目に見える多動よりも、感情的、精神的な衝動性(言動に安定性がない、順序立てた考えよりも感情が先行しがち、会話で話が飛躍しやすい)や注意力や集中力の欠如(シャツをズボンから出し忘れる、シャツをズボンに入れ忘れる、ファスナーを締め忘れるといったミスが日常生活で頻発する、など)などが目立つようになるとされる<ref name="集中できない子供たち">R.A.バークレー(マサチューセッツ大学医療センター)著 石浦章一訳 「集中できない子供たち 注意欠陥多動性障害」『日経サイエンス「脳から見た心の世界」』2007年12月10日発行1版1刷</ref>。 幼少期において、男子では多動性と衝動性のみ、特に女子では不注意のみの症状が目立ち問題視されやすいが逆にそれ以外の症状が見過ごされやすいため、問題視されにくい場合がある<ref name="DSM-5エッセンスADHD">{{Cite book|和書|author=アレン・フランセス|authorlink=アレン・フランセス|coauthor=[[大野裕]](翻訳)、中川敦夫(翻訳)、柳沢圭子(翻訳)|title=精神疾患診断のエッセンス-DSM-5の上手な使い方|publisher=金剛出版|date=2014-03|isbn=978-4772413527|pages=24-29}}</ref>。過活動、衝動性が顕著でないADHDであって、不注意のみが目立つ場合、幼少期には周囲、または自分がADHDであることに気付かない場合も多い。 ==原因== 2023年現在、決定的な原因は不明とされている。双子研究により、原因を遺伝要因と環境要因に分けることができるが、ADHDの遺伝要因([[遺伝率]])は約76%である<ref name="NICE 2009">{{cite book |title=Attention Deficit Hyperactivity Disorder: Diagnosis and Management of ADHD in Children, Young People and Adults |author=National Collaborating Centre for Mental Health |series=NICE Clinical Guidelines |volume=72 |publisher=British Psychological Society |location=Leicester |isbn=978-1-85433-471-8 |date=2009 |url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK53652/ |via=NCBI Bookshelf |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160113133612/http://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK53652/ |archivedate=13 January 2016 |df=dmy-all }}</ref><ref name="Neale-2010">{{cite journal |last1=Neale |first1=BM |last2=Medland |first2=SE |last3=Ripke |first3=S |last4=Asherson |first4=P |last5=Franke |first5=B |last6=Lesch |first6=KP |last7=Faraone |first7=SV |last8=Nguyen |first8=TT |last9=Schäfer |first9=H |last10=Holmans |first10=P |last11=Daly |first11=M |last12=Steinhausen |first12=HC |last13=Freitag |first13=C |last14=Reif |first14=A |last15=Renner |first15=TJ |last16=Romanos |first16=M |last17=Romanos |first17=J |last18=Walitza |first18=S |last19=Warnke |first19=A |last20=Meyer |first20=J |last21=Palmason |first21=H |last22=Buitelaar |first22=J |last23=Vasquez |first23=AA |last24=Lambregts-Rommelse |first24=N |last25=Gill |first25=M |last26=Anney |first26=RJ |last27=Langely |first27=K |last28=O'Donovan |first28=M |last29=Williams |first29=N |last30=Owen |first30=M |last31=Thapar |first31=A |last32=Kent |first32=L |last33=Sergeant |first33=J |last34=Roeyers |first34=H |last35=Mick |first35=E |last36=Biederman |first36=J |last37=Doyle |first37=A |last38=Smalley |first38=S |last39=Loo |first39=S |last40=Hakonarson |first40=H |last41=Elia |first41=J |last42=Todorov |first42=A |last43=Miranda |first43=A |last44=Mulas |first44=F |last45=Ebstein |first45=RP |last46=Rothenberger |first46=A |last47=Banaschewski |first47=T |last48=Oades |first48=RD |last49=Sonuga-Barke |first49=E |last50=McGough |first50=J |last51=Nisenbaum |first51=L |last52=Middleton |first52=F |last53=Hu |first53=X |last54=Nelson |first54=S |author55=Psychiatric GWAS Consortium: ADHD Subgroup |display-authors=3 | title = Meta-analysis of genome-wide association studies of attention-deficit/hyperactivity disorder | journal = J Am Acad Child Adolesc Psychiatry | volume = 49 | issue = 9 | pages = 884-897 | date = September 2010 | pmid = 20732625 | pmc = 2928252 | doi = 10.1016/j.jaac.2010.06.008 }}</ref>。ADHDの子供の兄弟は、そうでない子供の兄弟より3倍から4倍ADHDになりやすい<ref>{{cite book | author=Nolen-Hoeksema S | title=Abnormal Psychology | year=2013 | isbn=978-0-07-803538-8 | page=267 | edition=Sixth}}</ref>。抑制や自制に関する[[脳]]の神経回路が発達の段階で損なわれているということまでは確からしいが、その特定の部位や機能が損なわれる機序は仮説の域を出ない<ref name="集中できない子供たち" />。貧困や教育様式など家庭という環境要因を遺伝要因から分離するのは困難であり、まだその分離が洗練されていないことに注意が必要である<ref name="pmid28532329"/>。離婚、貧困、教育様式、養育者の教育水準の低さ、社会福祉、性的虐待、睡眠不足、食品添加物、携帯電話の使用など様々な要因が挙げられ、それらが相互作用している<ref name="pmid28532329"/>。 === 脳の部位=== 機能不全が疑われている脳の部位は、大きく3箇所である。ADHDの子供達は定型発達の子供に比べてこれらの部位が縮小していることがある。 * 右前頭前皮質 - 注意をそらさずに我慢すること、自意識や時間の意識に関連している * 大脳基底核の尾状核と淡蒼球 - 反射的な反応を抑える、皮質領域への神経入力を調節する * 小脳虫部 - 動機付け 多くの研究者が、複数の遺伝子異常がこれらの部位の萎縮に関係しているのではないかと考えている<ref name="集中できない子供たち" />。 2018年、[[福井大学]]の研究グループはADHDと診断された120人の男児の脳を調査したところ、7割の男児の脳に[[眼窩前頭皮質]]の厚みが増して表面積が小さくなるなど、脳の約20か所で形態の特徴をみつけた<ref>{{Cite news|title=注意欠陥・多動性障害の子 脳に共通の特徴発見 福井大学 {{!}} NHKニュース|last=日本放送協会|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181203/k10011733251000.html|accessdate=2018-12-04|language=ja-JP|work=NHKニュース}}{{リンク切れ|date=2019年1月}}</ref>。<!-- 人数は異なるが同じ研究者らの研究成果は、https://www.jst.go.jp/pr/announce/20181203-3/index.html --> ===神経基盤説=== 1990年に米国のNIMHのザメトキン (Zametkin) らのグループは、[[ポジトロン断層法|PET]]スキャンを用いて、ADHDの成人25人の脳の代謝活性を測定し、対象者群より低下していることを明らかにして、ADHDが神経学的な基盤を持っていることを目に見えるかたちで証明した。具体的には、健康な前頭前野は行動を注意深く選定し、[[大脳基底核]]は衝動性を抑える働きを持つが、ADHDのケースではそれがうまく働いていない。 ===食事説 === 食事とADHDとの関連性について指摘する報告があり、アメリカやイギリスでは食品添加物などを除去した食事の比較が行われている。<!--たとえば、23の研究で食事とADHDとの関連が見られ、アレルギー症状の軽減も確認されたものもあると報告されている<ref>Schardt David. [http://www.cspinet.org/nah/3_00/diet_behavior.html Diet & behavior in children] Nutrition Action Healthletter 27, 2000 March, pp10-11. Washington, DC: Center for Science in the Public Interest.</ref>。***********23は研究の全体数である。-->2007年にイギリス政府は、[[食品添加物]]の[[合成保存料]]の安息香酸ナトリウムと数種類の[[合成着色料]]が子供にADHDを引き起こすという研究を受け、これらを含むことが多いドリンクやお菓子に注意を促している<ref>[http://www.food.gov.uk/news/newsarchive/2007/sep/foodcolours Agency revises advice on certain artificial colours] {{en icon}} (Food Standards Agency, 11 September 2007)</ref>。2008年4月には、[[英国食品基準庁]] (FSA) はADHDと関連の疑われる合成着色料の[[タール色素]]について2009年末までにメーカーが自主規制するよう勧告した<ref name="FSA20080411">[http://www.food.gov.uk/news/newsarchive/2008/apr/coloursadvice Board discusses colours advice] (Food Standards Agency, Friday 11 April 2008)</ref>。大手メーカーは2008年中にそれらを除去すると報じられた<ref name="gua20080811">[http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2008/aug/11/foodanddrink.foodsafety EU plans warning labels on artificial colours] (The Guardian, August 11 2008)</ref>。 * 自主規制対象の[[タール色素]]:[[アルラレッドAC|赤色40号]]、[[ニューコクシン|赤色102号]]、カルモイシン、[[タートラジン|黄色4号]]、[[サンセットイエローFCF|黄色5号]]、キノリンイエロー 2006年、5000人以上と規模の大きい研究で砂糖の多いソフトドリンクの摂取量と多動との相関関係が観察された<!--Abstractで見る限り、ADHDとは書かれてない。--><ref>Lars Lien et al. "Consumption of Soft Drinks and Hyperactivity, Mental Distress, and Conduct Problems Among Adolescents in Oslo, Norway" American Journal of Public Health Vol96, No.10 2006, pp1815-1820. PMID 17008578</ref>。 ===睡眠=== 最近の睡眠科学では、睡眠がADHDの増加に大きく関わっていると言われている<ref>ポー・ブロンソン、アシュリー・メリーマン、小松淳子訳、「第2章 睡眠を削ってはいけない」『間違いだらけの子育て-子育ての常識を変える10の最新ルール』インターシフト社、2011年6月、42頁。ISBN 978-4-7726-9523-7。原題 ''Nurture Shock''.</ref>。 === 有機リン系化合物の影響 === 米国の子供を調査した結果、[[因果関係]]は不明であるものの、尿中の{{仮リンク|ジアルキルリン酸塩|en|Alkyl_phosphate#Dialkyl_phosphate}}濃度、特に代謝物のジメチルアルキルホスフェート (DMAP) 濃度とADHDの診断率に関連が示された<ref name="pmid20478945">{{cite journal |author=Bouchard MF, Bellinger DC, Wright RO, Weisskopf MG. |title=Attention-deficit/hyperactivity disorder and urinary metabolites of organophosphate pesticides. |journal=[[:en:Pediatrics]]. |volume=125 |issue=6 |pages=e1270-7 |date=2010-6 |url=http://pediatrics.aappublications.org/content/125/6/e1270.long |doi=10.1542/peds.2009-3058 |pmc=3706632 |pmid=20478945}}</ref><ref name="medscape721892">{{cite web |url=http://www.medscape.com/viewarticle/721892 |title=Organophosphate Pesticides Linked to ADHD. |publisher=[[:en:Medscape Today]]. |date=2010-05-17 |accessdate=2016-08-10}}</ref>。 ==診断== よく使われている診断基準(統計調査用)は、アメリカ精神医学協会が定めたDSM-IV (1994) とその改訂版のDSM-IV-TR (2000) のAD/HDであり、不注意優勢型と多動衝動性優勢型と、その混合型という3つのタイプに分けられる。2013年にはDSM-5が出版されている。 1994年に改訂されたWHOの診断基準のICD-10は、「多動性障害」の診断名であり、注意の障害と多動が基本的特徴で、この両者を診断の必要条件としている。ICD-10の「多動性障害」は、細部では若干の違いがあるものの、DSM-IVのADHDの「混合型」に匹敵する。 {{Quotation| DSM-IV-TRの診断基準 # 不注意(活動に集中できない、気が散りやすい、物をなくしやすい、順序だてて活動に取り組めないなど)と多動-衝動性(ジッとしていられない、静かに遊べない、待つことが苦手で、他人の邪魔をしてしまう等)が同程度の年齢の発達水準に比べてより頻繁に、強く認められること # 症状のいくつかが7歳以前より認められること # 2つ以上の状況において(家庭、学校など)障害となっていること # 発達に応じた対人関係や学業的・職業的な機能が著しく障害されていること # 広汎性発達障害や[[統合失調症]]など他の発達障害・精神障害による不注意・多動-衝動性ではないこと 上記すべてが満たされたときに診断される。[[DSM-IV]]ではMRIや血液検査等の生物学的データを診断項目にしていない。 }} DSM-5(2013) の診断基準も、ほぼ踏襲しているが、一部に変更があった。 *破壊的行動障害や反抗挑戦性障害と並列された分類から神経発達障害(先天的な脳の神経発達異常)のカテゴリーに移行。先行して日本で「[[発達障害者支援法]]」(2005)が採用する分類と同等になる。 *子供だけの障害という印象を薄め、年齢を問わず発症する障害との視点。 *7歳以前から12歳以前へと兆候が見られた年齢を引き上げた。 *自閉症スペクトラム障害との合併、併存を認めた。 *不注意優勢型と多動衝動性優勢型、混合型のタイプ分けを廃止。 *過去半年の症状から、混合状態、不注意優勢状態、多動性衝動性優勢状態を評価し、部分寛解もありうるとした。 *重症度を軽度・中度・重度の3段階に評価するようになった。 一方、フランスの児童精神科医は生物学的医学に支配された考えではなく、DSMに対抗する診断分類であるCFTMEA({{lang-fr-short|Classification Françaisedes Troubles Mentaux de L'Enfant et de L'Adolescent}})を用い、症状の背景に心理社会的な原因を見る<ref name="pToday2012">{{cite web |author=Marilyn Wedge |title=Why French Kids Don't Have ADHD |url=https://www.psychologytoday.com/blog/suffer-the-children/201203/why-french-kids-dont-have-adhd |date=2012-05-08 |publisher=Psycology Today |accessdate=2018-03-10}}</ref>。 ===成人ADHD=== {{See also|#経過}} {{Main|大人のADHD}} ADHDが報告された頃は、ADHDは子供特有の病気と考えられており、成長に従って多動が目立たなくなることから、ADHDの特徴も消失するものと考えられていた。しかしADHDの児童の追跡調査から、成人期に達しても多くの患者では不注意などの症状が残ることが明らかになった<ref>成人期のADHD―病理と治療 ISBN 978-4788508200, 2002/11(発行年月) P.H. ウェンダー (著), Paul H. Wender (原著), 福島 章 (翻訳), 延与 和子 (翻訳)。</ref>。このことは医学界でも論争を呼んだが、現在では発達障害の特性はおおむね生涯に渡って持続するものであるということが受け入れられている。ただし、うつ病などでADHDに似た症状が起こることがあるので、発達障害との鑑別には注意が必要である。 ===評価尺度=== 診断を補完するための[[精神医学で使われる診断分類と評価尺度の一覧|評価尺度]]には、ADHD Rating Scale-IVやその日本語版ADHD-RSなどがある<ref name="日本ADHD4版"/>。 成人ADHDでは22%に症状の誇張があり、誤診を避けるために、90%以上の感度のある尺度の使用が必要である<ref name="pmid20845231">{{cite journal|last1=Marshall|first1=Paul|last2=Schroeder|first2=Ryan|last3=O’Brien|first3=Jeffrey|coauthors=et al.|title=Effectiveness of symptom validity measures in identifying cognitive and behavioral symptom exaggeration in adult attention deficit hyperactivity disorder|journal=The Clinical Neuropsychologist|volume=24|issue=7|pages=1204-1237|year=2010|pmid=20845231|doi=10.1080/13854046.2010.514290}}</ref>。 ===ほかの障害との併存と鑑別 === 明らかな機能障害や苦痛を引き起こしていなければ、症状が正常な範囲である可能性がある<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。4歳では正常な未熟である<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。DSM-5では、発症年齢を12歳と遅くしたが、典型的には症状は生まれつきであるため、同様の症状を起こす他の原因と誤解が生じる可能性があり、成人では特に慎重であるべきで、遅発性では薬物が原因の症状だということも疑える<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。あるいは他の精神障害が原因となっていることもある<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。特に成人では、薬の娯楽目的、転売目的で受診している場合がある<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。マイケル・ムーアは、映画『シッコ』において、重篤な疾患を抱えた大勢の国民が治療を受けられずに放置されているなか、あなたは不安症ではないか、注意欠陥障害ではないか、とメディアが国民の不安を煽る現状にも触れている。 [[適応障害]]では、混乱した学校環境、家庭のストレスなどへの反応であるなど、特定の状況に生じている<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。両親や教師など周囲の大人が完璧主義、あるいは子供に過剰な期待をしており、そうした環境が破壊的な場合にADHDが過剰診断されやすいが、大人の期待の再構築、環境調整が必要となる<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。 ADHDをもつ児童は、他の精神障害が並存する確率が66%増加する<ref name="pmid22851461">{{cite journal |last1=Walitza |first1=S |last2=Drechsler |first2=R |last3=Ball |first3=J |trans-title=The school child with ADHD |title=Das schulkind mit ADHS |language=DE |journal=Ther Umsch |volume=69 |issue=8 |pages=467-73 |date=August 2012 |pmid=22851461 |doi=10.1024/0040-5930/a000316 }}</ref>。関連障害として特異的発達障害([[学習障害]])や、軽症[[アスペルガー症候群|アスペルガー障害]]との合併を示すことがある。またその特性上周囲からの同調圧力などによりネガティブな打撃を受けやすく、二次的に[[情緒障害]]を引き起こす傾向があり、[[行為障害]]、[[反抗挑戦性障害]]、[[不登校]]や[[ひきこもり]]を招きやすい<ref>{{Cite journal|和書 |author=市橋秀夫 |title=成人における ADD, ADHD -私の治療手技 |volume=19 |issue=5 |year=2004 |month=5 |journal=精神科治療学 |publisher=|location=|pages=547-552}}</ref>。 [[不眠症]]、[[閉塞性睡眠時無呼吸症候群]]のような[[睡眠障害]]は、ADHDに似た症状を起こすことがあり、疼痛も睡眠の問題を起こすことがある<ref>{{Cite journal |author=Lynne Lamberg |date=2014-09|title=Children With ADHD Benefit From Sleep-Focused Treatment|url=https://gun-violence.psychiatryonline.org/doi/full/10.1176/appi.pn.2014.9a11 |journal=Gun Violence and Mental Health|volume=49|issue=8|page=1}}</ref>。ADHDにおける睡眠障害の併存率は25 - 50%とされる<ref>{{Cite journal|和書|title=注意欠如・多動症(ADHD)と睡眠障害|author=福水道郎|journal=脳と発達|volume=54|issue=3|pages=170-175|publisher=日本小児神経学会|date=2022|doi=10.11251/ojjscn.54.170}}</ref>。 ;他の発達障害 :* [[学習障害]] (LD) はADHDを持つ子供の約20-30%に見られる。学習障害は発音・言語の発達と学習スキルの障害が含まれる<ref name=BaileyHC>{{cite web|last=Bailey|first=Eileen|title=ADHD and Learning Disabilities: How can you help your child cope with ADHD and subsequent Learning Difficulties? There is a way.|url=http://www.healthcentral.com/adhd/education-159625-5.html|publisher=Remedy Health Media, LLC.|accessdate=2013-11-15}}</ref>。 : ;他の情緒障害 :* [[トゥレット障害]]は、ADHDを持つ人においてさらに一般的である<ref>{{cite web|title=Attention Deficit Hyperactivity Disorder (ADHD)|url=http://www.nimh.nih.gov/health/topics/attention-deficit-hyperactivity-disorder-adhd/index.shtml|work=The National Institute of Mental Health (NIMH)|accessdate=2013-11-15}}</ref>。 :*[[反抗挑戦性障害]] (ODD) と [[素行障害]] (CD) は、ADHD患者においては、二次的にそれを併発することがある<ref name="pmid19940426">{{cite journal |last1=McBurnett |first1=K |last2=Pfiffner |first2=LJ | title=Treatment of aggressive ADHD in children and adolescents: Conceptualization and treatment of comorbid behavior disorders | journal=Postgrad Med | volume=121 | issue=6 | pages=158-165 | date=November 2009 | pmid=19940426 | doi=10.3810/pgm.2009.11.2084 | url=}}</ref>。障害への無理解などによって周囲からネガティブな打撃を受けることなどに起因する。素行障害では規則違反を起こし、反抗挑戦性障害では権力に逆らう<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。 :* [[夜尿症]] - 一般の15歳以上で夜尿を起こす割合は1%程度とされているが、ADHDで夜尿症を発症する割合は約3割にものぼるとされる。 : ;気分障害 :* [[うつ病]]は主に周りのネガティブな反応に対して二次障害として併発する。抑うつによる注意力散漫と鑑別する必要がある。 :* [[双極性障害]]はうつ状態における注意力散漫、[[躁病|躁状態]]における[[易怒性]]や[[衝動性]]、気分の波など表面上の症状は類似している。またADHD患者の11%は双極性障害を併発している。 :* [[重篤気分調節症]]は主に子供に対する双極性障害の[[過剰診断]]を減らす目的でDSM-5に掲載された気分障害である。ADHD、双極性障害、反抗挑戦性障害に症状が類似している。 ====パーソナリティ障害 ==== ;[[境界性パーソナリティ障害]] : 短時間に気分が急速に変化する、対人関係の障害、強い衝動性や自己破壊行動といった点で類似している。鑑別方法としてはADHDの場合は幼少期から特徴がみられる、見捨てられ不安が目立たないなどの違いがある<ref>成田善弘 (2006) p.24</ref>。境界性パーソナリティ障害の患者の16.1%に成人ADHDが見られたとの報告もある<ref>{{cite journal |author=Philipsen, A., Limberger, M.F., Lieb, K. et al., |title=Attention-deficit hyperactivity disorder as a potentially aggravating factor in borderline personality disorder |journal=The British Journal of Psychiatry |volume=192 |issue=|pages=118-123 |year=2008 |month=|url=http://bjp.rcpsych.org/content/192/2/118.abstract }}</ref>。境界性パーソナリティ障害の患者の多くは虐待を経験しており、ADHDであることを知らずに親の抑圧的な教育を受けていることが原因の一つともいえる。一方では併存していると思われた例にADHDに対する薬物治療を開始したところ、敵意や猜疑心が消失したとの報告もあり<ref name="okanotakaaki">{{Cite journal|和書 |author=岡野高明、高梨靖子、宮下伯容 他 |title=成人におけるADHD,高機能広汎性発達障害など発達障害のパーソナリティ形成への影響 - 成人パーソナリティ障害との関連 - |volume=19 |issue=4 |year=2004 |month=4 |journal=精神科治療学 |pages=433-442 |naid=50000462975 }}</ref>、実際には誤診断されているケースもままあるとみられる。 ;[[反社会性パーソナリティ障害]] :[[反抗挑戦性障害]] (ODD) を併発したADHD患者のうち、それの改善がなされず、また適切な治療を受けなかった者の一部は、寛解せずに反社会性パーソナリティ障害に移行することがある<ref>[http://npo-jisedai.org/ADHD.html AD/HD - NPO日本次世代育成支援協会]</ref>。 ====その他の疾患 ==== * [[てんかん]] - ADHDを持つ児童のうち約3割が[[脳波]]異常、特に[[てんかん]]や[[ナルコレプシー]](以前は睡眠てんかんとも称した)に似た脳波を記録することが確認されている<ref>[[#麦島|麦島, (2006)]], p56</ref>。 * [[甲状腺機能亢進症]]、[[薬物乱用]]、[[アルコール乱用]]などによる注意力低下や衝動性を除外する{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH1}}。 * また保護者におけるうつ病を確認し、存在すれば適切な処置を行う{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH1}}。 ==過剰診断の問題== {{See also|病気喧伝}} 製薬会社による広報活動の影響もあって診断数は年々増加している<ref name="DSM-5エッセンスADHD"/>。 正常な人や他の原因によって症状が出ている人は、精神刺激薬による治療によって問題が悪化しかねない<ref name="正常を救え">{{Cite book|和書|author=アレン・フランセス|others=青木創(翻訳)|editor=大野裕(監修)|title=〈正常〉を救え-精神医学を混乱させるDSM-5への警告|publisher=講談社|date=2013-10|isbn=978-4062185516|pages=219-220,285-286}} '''Saving Normal'', 2013.</ref>。 [[DSM-IV]]の[[アレン・フランセス]]編纂委員長は、製薬会社に利用されるような診断名の追加は避けたと思っていたが、マーケティングは容易くこれを突破してしまい<ref name="正常を救え"/>、DSM-IV発表以降、米国で注意欠陥障害が3倍に増加したことについて「注意欠陥障害は過小評価されていると小児科医、小児精神科医、保護者、教師たちに思い込ませた製薬会社の力と、それまでは正常と考えられていた多くの子供が注意欠陥障害と診断されたことによるもの」と指摘している<ref name="SM20121024"/><ref name="IS819821"/>。 早生まれの子供の学級における落ち着かない行動が異常と判断されるなど<ref name="SM20121024"/><ref name="IS819821"/>単なる未熟性が病気のように扱われる場合もある<ref name="Proof">{{cite web |author=アレン・フランセス |title=ADHD Is Overdiagnosed, Here's Proof |url=https://www.psychologytoday.com/blog/saving-normal/201605/adhd-is-overdiagnosed-heres-proof |date=2016-05-23 |publisher=Psycology Today |accessdate=2018-03-10}}</ref>。詳細は「[[相対年齢効果#健康に対する影響|相対年齢効果]]」を参照。 子供の15%がADHDの診断を受けているアメリカでは、2010年に、ADHDと診断された児童450万のうち100万人が[[誤診]]である可能性が指摘されており<ref name="Dhaley2014">{{cite web |author=[[デイヴィッド・ヒーリー (精神科医)|デイヴィッド・ヒーリー]] |title=Drug Traffic Accidents: ADHD |url=https://davidhealy.org/drug-traffic-accidents-adhd/ |date=2014-01-08 |publisher=Dr. David Healy 公式サイト |accessdate=2018-03-10}}</ref><REF>{{Cite web|url=http://news.msu.edu/story/8160/|title=Nearly 1 million children potentially misdiagnosed with ADHD|publisher=Michigan State University|date=2020-08-17|accessdate=2022-12-06|last1=Henion|first1=Andy|last2=Elder|first2=Todd|deadlink=2022-12-06}}</ref> フランセスは「米国では、病気ではない子供たちが過剰診断されて薬物治療を受けている」と述べた<ref name="IS819821">{{harvnb|「精神医学」編集室|2012|pp=819-821}}</ref><ref name="SM20121024">{{Cite journal|和書|author=佐藤光展|date=2012-10-24|title=DSMの功罪 小児の障害が20倍!|journal=精神医療ルネサンス|publisher=読売新聞の医療サイトyomiDr.(ヨミドクター)|url=https://web.archive.org/web/20121129022325/http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=66961}}</ref>。 注意障害雑誌を創刊し、またMTA研究を主導した[[キース・コナーズ]]も、過剰診断と過剰処方に注意を促した<ref name="pmid29230032">{{cite journal|last1=Carroll|first1=Bernard J|title=Carmen Keith Conners|journal=Neuropsychopharmacology|volume=43|issue=2|pages=455-455|year=2018|pmid=29230032|doi=10.1038/npp.2017.240|url=https://doi.org/10.1038/npp.2017.240}}</ref>。 [[児童の権利に関する条約]]は、注意欠陥多動性障害(ADHD)が、薬物治療によって治療されるべき疾患であるとみなされていることを懸念し、診断数の推移の監視や調査研究が製薬会社と独立して行われるようにと提言している<ref>{{cite report|author=国連子どもの権利員会|authorlink=:en:Convention on the Rights of the Child|title=Consideration of reports submitted by States parties under article 44 of the Convention - Concluding observations: Japan CRC/C/JPN/CO/3|url=http://www2.ohchr.org/english/bodies/crc/docs/co/CRC.C.JPN.CO.3.pdf|format=pdf|date=20 June 2010|publisher=The United Nations Convention on the Rights of the Child (UNCRC)|accessdate=2013-06-07}} 邦訳:[http://www26.atwiki.jp/childrights/?page=%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9%E5%93%A1%E4%BC%9A%EF%BC%9A%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E6%89%80%E8%A6%8B%EF%BC%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BC%88%E7%AC%AC%EF%BC%93%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%94%E5%BE%8C%E7%B7%A8%E3%80%95 国連子どもの権利員会:総括所見:日本第3回]</ref>。 アメリカ疾病管理予防センター (CDC) は、行動療法が優先されるが、75%が投薬を受けていることに注意を促している<ref>{{cite news |author=Ariana Eunjung Cha |title=CDC warns that Americans may be overmedicating youngest children with ADHD |url=https://www.washingtonpost.com/news/to-your-health/wp/2016/05/03/cdc-warns-that-americans-may-be-overmedicating-two-to-five-year-olds-with-adhd/?postshare=9221462383247926&utm_term=.624145eade46 |date=2016-05-03 |newspaper=[[ワシントン・ポスト|The Washington Post]] |accessdate=2018-03-10}}</ref>。 ==治療== [[世界保健機関]]や日本のガイドラインでは、児童青年のADHDへの第一選択肢は[[心理療法]]([[心理教育]]、[[ペアレント・トレーニング]]、[[認知行動療法]]など)であり<ref name="日本ADHD4版" />{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH1}}、薬物療法は児童青年精神科医の管理下でのみ行うことができ、かつ6歳未満に対しては投与してはならない{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH3}}。心理療法では[[認知行動療法]]や[[ソーシャルスキルトレーニング]]、また親の接し方の練習である[[ペアレント・トレーニング]]といったものがある。児童における大規模なMTA研究にて1年時点で見られた投薬の優位性は、2年以上の投薬では行動療法などと差が見られず疑問が呈されており<ref name="NIMHMTA3" />、他の長期研究でも長期の投薬による利益は報告されていない<ref name="pmid28532329" />。 [[アメリカ疾病予防管理センター]](CDC)は、4-5歳のADHDに対しては、薬物療法の前にまず心理療法を実施するよう勧告している<ref name="CDC4">{{Cite report|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]] |title=ADHD Treatments For Preschoolers (ages 4-5) |url=http://www.cdc.gov/ncbddd/adhd/infographic-treatments-preschool.html |date=2015-04-02 }}</ref>。一方でCDCは、6-17歳のADHDに対しては、薬物療法と心理療法の両者を実施するよう勧告している<ref name="CDC6">{{Cite report|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]] |title=ADHD Treatments For Preschoolers (ages 6-17) |url=http://www.cdc.gov/ncbddd/adhd/infographic-treatments-children-teens.html |date=2015-04-02 }}</ref>。 一方で[[英国国立医療技術評価機構]](NICE)は、未就学児においては薬物療法を推奨しておらず{{Sfn|英国国立医療技術評価機構|2008|loc=Chapt.1.5.1.1}}、就学児童および青年においては第一選択ではなく重症の場合の選択としている{{Sfn|英国国立医療技術評価機構|2008|loc=Chapt.1.5.2.1}}。 日本での2016年のADHDの治療ガイドライン4版は、薬物療法が中心となっていた以前の2008年3版と比較して、心理社会的治療が大幅に充足された<ref name="naid130005708247">{{Cite journal |和書|author=田中哲 |date=2017 |title=ADHDの診断・治療指針に関する研究会,齊藤 万比古(編)『注意欠如・多動症─ADHD─の診断・治療ガイドライン第4版』 |journal=児童青年精神医学とその近接領域 |volume=58 |issue=1 |pages=200-201 |naid=130005708247 |doi=10.20615/jscap.58.1_200 |url=https://doi.org/10.20615/jscap.58.1_200}}</ref>。子供への[[ソーシャルスキルトレーニング]] (SST)、親へのペアレント・トレーニングなど心理社会的治療や、学校との連携など環境調整が優先され、薬物療法ありきの姿勢は推奨されない<ref name="日本ADHD4版">{{Cite book|和書|author=齊藤万比古|title=注意欠如・多動症-ADHD-の診断・治療ガイドライン 第4版|edition=第4版|publisher=じほう;|date=2016|isbn=978-4-8407-4881-0|page=目次, 21, 49頁}}</ref>。 [[アメリカ国立精神衛生研究所]] (NIMH) が出資した、7歳から9歳の600人近い子供を追跡した大規模な研究であるMTA研究が実施された。それまでの研究に一般的な4か月以内の研究より長期であり、行動療法、薬物療法、またその併用を比較するための試験であった<ref name="NIMHMTA1">{{cite web |author= |title=The Multimodal Treatment of Attention Deficit Hyperactivity Disorder Study (MTA):Questions and Answers |url=https://www.nimh.nih.gov/funding/clinical-research/practical/mta/the-multimodal-treatment-of-attention-deficit-hyperactivity-disorder-study-mta-questions-and-answers.shtml |date=2009-11 |publisher=アメリカ国立精神衛生研究所 |accessdate=2018-03-10}}</ref>。14か月時点では薬物療法と併用では、他の方法よりも症状を改善しており、またこの時点で薬物療法の4%に精神刺激薬の重篤な副作用による中止があり、食欲喪失、睡眠の問題、泣き叫ぶ、反復運動といったもので、さらに薬物療法では身長と体重の成長に遅れがあった<ref name="NIMHMTA1"/>。3年後では、ほとんどの人々に改善が維持されていたものの、行動療法などとの治療利益には差がみられなくなっていた<ref name="NIMHMTA3">{{cite web |author= |title=Short-term Intensive Treatment Not Likely to Improve Long-term Outcomes for Children with ADHD |url=https://www.nimh.nih.gov/news/science-news/2009/short-term-intensive-treatment-not-likely-to-improve-long-term-outcomes-for-children-with-adhd.shtml |date=2009-03-26 |publisher=アメリカ国立精神衛生研究所 |accessdate=2018-03-10}}</ref>。並存疾患の発生率も3年後では差がない<ref>{{cite journal |author=Jensen PS, Arnold LE, Swanson JM, ''et al.'' |title=3-year follow-up of the NIMH MTA study |journal=J Am Acad Child Adolesc Psychiatry |volume=46 |issue=8 |pages=989-1002 |year=2007 |month=August |pmid=17667478 |doi=10.1097/CHI.0b013e3180686d48}}</ref>。 8年後でも投薬した群に恩恵あったというわけではなかった<ref name="pmid19318991">{{cite journal |author=Molina BS, Hinshaw SP, Swanson JM, ''et al.'' |title=The MTA at 8 years: prospective follow-up of children treated for combined-type ADHD in a multisite study |journal=J Am Acad Child Adolesc Psychiatry |volume=48 |issue=5 |pages=484-500 |year=2009 |month=May |pmid=19318991 |pmc=3063150 |doi=10.1097/CHI.0b013e31819c23d0}}</ref>。8年では医薬品を用いなかった人も同様の機能水準があったため2年以上の薬物療法には疑問が持たれた<ref name="NIMHMTA3"/>。医薬品を用いた人の医薬品の種類は91%が精神刺激薬(メチルフェニデートなど)を含む治療である<ref name="pmid19318991"/>。14か月時点で投薬を受けていた人の61.5%は、8年の間に投薬を中止していた<ref name="NIMHMTA3"/>。16年目では長期的な投薬は症状の重症度の低下に結びついておらず、1-2センチの身長の成長の抑制と関連していることが分かった<ref name="pmid28295312">{{cite journal|last1=Swanson|first1=James M.|last2=Arnold|first2=L. Eugene|last3=Molina|first3=Brooke S.G.|coauthors=et al.|title=Young adult outcomes in the follow-up of the multimodal treatment study of attention-deficit/hyperactivity disorder: symptom persistence, source discrepancy, and height suppression|journal=Journal of Child Psychology and Psychiatry|volume=58|issue=6|pages=663-678|year=2017|pmid=28295312|doi=10.1111/jcpp.12684}}</ref>。投薬や教育サービスはむしろ不利な傾向を示しており、問題が悪化した子供ではより多くの治療が施されたのではという議論も生じている<ref name="pmid19318991"/>。時間と共に全被験者に改善の傾向が見られた<ref name="pmid19318991"/>。([[#経過]]も参照) フランスでは、心理療法や家族カウンセリングを実施し、実際に問題を解決すると真にADHDに診断される児童は少ない(0.5%)ということである<ref name="pToday2012"/>。フランスでの心理社会的な手法は包括的に取り組まれ、食事では合成着色料、保存料、[[食物アレルギー]]が症状を悪化させていないかといったことにも着目し、子育ての方針においても子供を管理するために薬を使うのではなく、はっきりとしたルールの中で耐えることを学ばせることが定着している<ref name="pToday2012"/>。 ===心理療法=== 家族には[[心理教育]]、ペアレント・トレーニングを行う{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH1}}。本人の症状をコントロールすることよりも本人の特性にあった環境を整えることが重要である。[[ペアレント・トレーニング]]は、症状を持つ児童への接し方を親が学ぶということである。 児童青年のADHDには、WHOおよびNICEのガイドラインでは[[認知行動療法]](CBT)および[[ソーシャルスキルトレーニング]] (SST) を提案している{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH1}}{{Sfn|英国国立医療技術評価機構|2008|loc=Chapt.1.5.2}}。また成人においては、NICEは患者が薬物療法を希望しない、または薬物療法の効果が乏しい際にCBTを検討するとしている{{Sfn|英国国立医療技術評価機構|2008|loc=Chapt.1.7.1}}。 認知行動療法に関しては[[セルフヘルプ]]のできるワークブックも利用できる。SSTは困っていることを、上手にこなせるように実際に練習してみるということである。 さらに、ADHDを持つ子供へは、Summer Treatment Program (STP) などの治療プログラムの実施が有効であり、参加したすべての子供に行動改善が認められ、ADHDの症状が有意に改善するとされている<ref>山下裕史朗, 向笠章子, 松石豊次郎、「[https://doi.org/10.24456/jjba.23.1_75 ADHDのSummer Treatment Program : 日本における3年間の実践(<特集>エビデンスに基づいた発達障害支援の最先端)]」『行動分析学研究』 2009年 23巻 1号 p.75-81, {{doi|10.24456/jjba.23.1_75}}, 日本行動分析学会</ref><ref>高橋恵美子、山下一也、阿川啓子、小村智子、「[http://id.nii.ac.jp/1377/00000244/ ADHDをもつ子供のためのSummer Treatment Programの意義 : いずもサマースクール実施に向けて]」『島根県立大学短期大学部出雲キャンパス研究紀要』 2010年 4巻 p.137-143, 島根県立大学</ref>。また、ADHDを持つ成人へも、[[薬物療法]]と並行して、[[心理教育]]・[[動機付け面接法|動機付け面接技法]]・[[認知行動療法]](活動スケジュール表の利用・問題解決法・認知再構成法などを含む)・[[ソーシャルスキルトレーニング|ソーシャルスキルトレーニング (SST)]] などから構成される、ヤング・ブランハム・プログラムなどの治療プログラムを実施することが、症状の改善に有効であるとされている<ref name=":1">スーザン, ヤング, ジェシカ, ブランハム、田中康雄、石川ミカ. (2015). 大人の ADHD のアセスメントと治療プログラム: 当事者の生活に即した心理教育的アプローチ. 明石書店, ISBN 978-4750342450, 98, 134, 156, 164, 198頁.</ref>。 なお、二次的な症状として、[[不安障害]]や[[うつ病]]、[[不眠症]]などの症状が生じる場合も多く、その場合はADHDの治療と並行してそれらの症状への治療を行い本人をサポートする(「[[不安障害#治療]]」、「[[うつ病#治療]]」、「[[不眠症#治療]]」などを参照。これらの治療も、本人が取り組みやすいようADHDの特性を踏まえて工夫して行うことが重要である)<ref>スーザン・ヤング, ジェシカ・ブランハム 田中 康夫(監修) 石川 ミカ(訳)(2015). 大人のADHDのアセスメントと治療プログラム - 当事者の生活に即した心理教育的アプローチ 明石書店, 250・298・301頁.</ref>。 ==== 認知行動療法 ==== ADHDの[[認知行動療法]]では、下記の技法などが用いられる<ref name=":1" /><ref name=":0">加藤美郎 (2010). 「発達障害の臨床心理学」第4章 ADHDの心理社会的介入:認知行動療法を中心に 東修吉邦、大六一志、丹野義彦(編)(pp.112-113) 東京大学出版会</ref>。治療や支援を行う際には、本人の症状・年齢・環境・併存症の有無等に応じて、下記の技法などを統合して包括的かつ効果的な介入プログラムを立てることが重要である<ref name=":0" />。 * 認知行動的介入:随伴性マネジメント、[[ソーシャルスキルトレーニング]] (SST)、[[ペアレント・トレーニング]]、トークンエコノミー、活動スケジュール表の利用、問題解決法、仲間教示法、行動契約、教室行動マネジメント、先行条件の変更、学業スキル訓練 * 行動的介入(後発事象のコントロール):[[強化#正の強化|正の強化]]、[[強化#負の強化|負の強化]]、罰、タイムアウト、[[消去 (心理学)|消去法]] * 認知的介入:認知再構成法、セルフトーク、葛藤解決、[[アンガーマネジメント|怒りのマネジメント法(アンガーマネジメント)]] なお、認知行動療法の実施とセットで、ADHD児・者の特性に応じた[[合理的配慮]]や環境調整が行われることも大切である<ref>{{Cite book|和書|title=認知行動療法事典|year=2019|publisher=丸善出版|page=478-479|editor=日本認知・行動療法学会}}</ref>。 ===社会的方法=== 環境上の配慮の仕方や、周りの人の関わり方によって、本人の困り感も違ってくる。したがって、問題の原因を本人の中に求めるのではなく、周囲の関わり方や環境上の配慮の仕方を改善し、支援をしていくことが大切である<ref>{{Cite book|和書 |title=子どもの発達が気になったらはじめに読む発達心理・発達相談の本 |year=2019 |publisher=ナツメ社 |page=83-85}}</ref>。 ;環境変容法 注意をそらす物を周りに置かない。 ;家庭での配慮 家庭では、勉強をしているとき外的刺激を減らしたり、子供の注意がそれてしまった時に適切な導きを与えてやったり、頃合いを見計らって課題を与える、褒めることを中心にして親子関係を強化するなどが挙げられる。一例として、「勉強しなさい」と言うよりも机の上にその子供の注意を引きそうな本をさりげなく置いておく、新聞や科学雑誌を購読する等である。 ;文化的配慮 [[医学博士]]ジーン゠コムズは、[[文化学]]博士・[[医療福祉士]](医療ソーシャルワーカー)のデイヴィッド゠ナイランドによる[[治療|療法]]を高く評価し、重要なのは「何も[[疑問]]に思わずに[[滅私奉公|従順]]に育つこと」ではなく、「[[勇気]]と[[文化]]に対する反抗心を持って育つこと」であると述べている{{sfn|ナイランド|2006|p=4}}。 {{see also|[[カウンターカルチャー|対抗文化(カウンターカルチャー)]]}} ===薬物療法=== WHOは、正しく診断されたADHDに対してはメチルフェニデート製剤の薬物療法を用いるとするが、薬物療法は対症療法であり根治を目指すものではなく、専門医の指示の下で行うべきであり、相談なく[[プライマリケア]]では処方してはならないとしている{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH3}}。薬物療法は継続的な心理行動への包括的介入の一部でなければならない{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH3}}、とくに子供の場合は6歳以上で心理行動療法に効果がなかった場合に慎重に使う、としている{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=BEH}}。 成人のADHDについては、NICEは薬物療法を第一選択肢とするべきだと勧告している(患者が心理療法を好んだ場合を除く)<ref group="注">原文:For adults with ADHD, drug treatment should be the first-line treatment unless the person would prefer a psychological approach. {{Harv|英国国立医療技術評価機構|2008|loc=Chapt.1.7.1}}</ref>。薬物乱用ポテンシャルのある患者については[[アトモキセチン]]を提案している{{Sfn|英国国立医療技術評価機構|2008|loc=Chapt.1.7.1}}。 MTA研究以外の長期的な研究も長期的な医薬品の利益を報告しておらず<ref name="pmid28532329"/>、3-5歳の子供を6年追跡したPATS研究では、投薬の恩恵は見いだせなかった<ref name="pmid23452683">{{cite journal|last1=Riddle|first1=Mark A.|last2=Yershova|first2=Kseniya|last3=Lazzaretto|first3=Deborah|coauthors=et al.|title=The Preschool Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder Treatment Study (PATS) 6-Year Follow-Up|journal=Journal of the American Academy of Child & Adolescent Psychiatry|volume=52|issue=3|pages=264-278.e2|year=2013|pmid=23452683|pmc=3660093|doi=10.1016/j.jaac.2012.12.007|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/pmid/21684645/}}</ref>。 コクラン共同計画による小児ADHDにおけるメチルフェニデートの効果に関する[[システマティックレビュー]]では、治療期間は平均75日と非常に短く、証拠の品質が低いので医薬品の影響の大きさを特定できなかった(有益なのか明らかとならなかった)<ref name="pmid26599576">{{cite journal|last1=Storebø|first1=Ole Jakob|last2=Ramstad|first2=Erica|last3=Krogh|first3=Helle B.|coauthors=et al.|title=Methylphenidate for children and adolescents with attention deficit hyperactivity disorder (ADHD)|journal=Cochrane Database of Systematic Reviews|issue=11|pages=CD009885|year=2015|pmid=26599576|doi=10.1002/14651858.CD009885.pub2}}</ref>。死亡や致死的な副作用は増加していないが、睡眠障害が1.6倍、食欲低下が3.6倍であり、副作用の評価のためにはより堅牢な試験が必要とされることが結論されている。成人ADHDでのメチルフェニデートのシステマティックレビューは批判のため2016年に撤回されており、不明確のリスク評価に対して信頼性が高いとしたり、11研究の内2つだけが抑うつなど並存疾患のある被験者をはっきりと残していたため一般的な効果であるかの妥当性が損なわれており、試験期間は1-7週間であり小児研究で観察されているように効果は時間と共に減少してもよく証拠の格下げにつながってもよかったといった理由があり、評価のために偏りのない長期研究が必要とされる<ref name="pmid28705922">{{cite journal|last1=Boesen|first1=Kim|last2=Saiz|first2=Luis Carlos|last3=Erviti|first3=Juan|coauthors=et al.|title=The Cochrane Collaboration withdraws a review on methylphenidate for adults with attention deficit hyperactivity disorder|journal=Evidence Based Medicine|volume=22|issue=4|pages=143-147|year=2017|pmid=28705922|pmc=5537554|doi=10.1136/ebmed-2017-110716|url=https://doi.org/10.1136/ebmed-2017-110716}}</ref>。 子供のためのADHD治療薬の承認のための試験では、[[精神刺激薬精神病|精神病]]や[[躁病]]は1.48%に出現し、虫、昆虫、ヘビの幻覚が一般的であった<ref name="pmid28295312">{{cite journal|last1=Swanson|first1=James M.|last2=Arnold|first2=L. Eugene|last3=Molina|first3=Brooke S.G.|coauthors=et al.|title=Young adult outcomes in the follow-up of the multimodal treatment study of attention-deficit/hyperactivity disorder: symptom persistence, source discrepancy, and height suppression|journal=Journal of Child Psychology and Psychiatry|volume=58|issue=6|pages=663-678|year=2017|pmid=28295312|doi=10.1111/jcpp.12684}}</ref>。異なる条件である、うつ病、双極性障害、統合失調症の両親を持つ子供では、精神刺激薬の使用群(メチルフェニデートが83%)では62.5%が精神病症状を呈し、服用していない群では27.4%であった<ref name="pmid26719291">{{cite journal|last1=MacKenzie|first1=Lynn E.|last2=Abidi|first2=Sabina|last3=Fisher|first3=Helen L.|coauthors=et al.|title=Stimulant Medication and Psychotic Symptoms in Offspring of Parents With Mental Illness|journal=Pediatrics|volume=137|issue=1|pages=e20152486|year=2016|pmid=26719291|doi=10.1542/peds.2015-2486|url=https://doi.org/10.1542/peds.2015-2486}}</ref>。 ADHDの治療薬の使用と骨密度の低下が報告されており<ref name="pmid26398435">{{cite journal|last1=Howard|first1=Jeffrey T.|last2=Walick|first2=Kristina S.|last3=Rivera|first3=Jessica C.|coauthors=et al.|title=Preliminary Evidence of an Association Between ADHD Medications and Diminished Bone Health in Children and Adolescents|journal=Journal of Pediatric Orthopaedics|volume=37|issue=5|pages=348-354|year=2017|pmid=26398435|doi=10.1097/BPO.0000000000000651}}</ref>、この懸念から実施された動物研究ではメチルフェニデートが悪影響を与えることが観察された<ref name="pmid29367750">{{cite journal|last1=Uddin|first1=Sardar M. Z.|last2=Robison|first2=Lisa S.|last3=Fricke|first3=Dennis|coauthors=et al.|title=Methylphenidate regulation of osteoclasts in a dose- and sex-dependent manner adversely affects skeletal mechanical integrity|journal=[[Scientific Reports]]|volume=8|issue=1|pages=1515|year=2018|pmid=29367750|pmc=5784171|doi=10.1038/s41598-018-19894-x|url=https://doi.org/10.1038/s41598-018-19894-x}}</ref>。成長抑制以外に長期的な害がよく知られていないため、2017年に動物試験におけるシステマティックレビューを実施したところ、α2受容体作動薬の[[クロニジン]]と、メチルフェニデートで生殖機能を損なっている形跡が見られた<ref name="pmid28885224">{{cite journal|last1=Danborg|first1=Pia Brandt|last2=Simonsen|first2=Anders Lykkemark|last3=Gøtzsche|first3=Peter C.|coauthors=et al.|title=Impaired reproduction after exposure to ADHD drugs: Systematic review of animal studies|journal=International Journal of Risk & Safety in Medicine|volume=29|issue=1-2|pages=107-124|year=2017|pmid=28885224|pmc=5611805|doi=10.3233/JRS-170743|url=https://doi.org/10.3233/JRS-170743}}</ref>。 精神医療における大麻の有効性が広く認知されるようになった最近では、[[医療大麻]]のADHDに対する有効性について現在多数の研究が行われている<ref>[http://mcforadhd.free.fr/Ref_en.html ADHD, cannabis and cannabinoids Scientific References ... in evolution] 論文が複数紹介されているサイト</ref>。規制の緩和された米国やカナダ、英国等で精神科医が医療大麻や大麻の有効成分である[[テトラヒドロカンナビノール]](THC)系製剤を患者に処方する場合が増えており、中枢神経興奮薬に比べ副作用や依存の少ない有力な代替薬として使用されている<ref>[https://web.archive.org/web/20111008003409/http://www.cyc.uvic.ca/research/ma_history.php Research Showcase] (School of Child & Youth Care University of Victoria)</ref><ref>Kort E Patterson, [http://www.kortexplores.com/node/133 Marijuana and ADD], 2000. 論文が紹介されている。</ref><ref>{{Cite journal |author=Peter Strohbeck-Kuehner, Gisela Skopp, Rainer Mattern |date=2008|title=Case report:Cannabis improves symptoms of ADHD|url=http://www.cannabis-med.org/english/journal/en_2008_01_1.pdf|format=pdf|journal=Cannabinoids|volume3=|issue=1|pages=1-3}}</ref>。 北米で小児の[[薬物有害反応]]の報告が最も多かったのは、ADHDの治療薬と、にきび治療薬の[[イソトレチノイン]]であり、北米でのADHD治療薬の使用量に関係している可能性がある<ref name="pmid27501085">{{cite journal |authors=Cliff-Eribo KO, Sammons H, Choonara I. |title=Systematic review of paediatric studies of adverse drug reactions from pharmacovigilance databases. |journal=[[:en:Expert Opinion on Drug Safety]]. |volume=15 |issue=10 |pages=1321-8 |date=2016-10 |url=https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/14740338.2016.1221921?journalCode=ieds20 |doi=10.1080/14740338.2016.1221921 |pmid=27501085}}</ref>。 ADHDについて[[光トポグラフィー]]で薬物治療の効果を確認できることが示された<ref>[https://www.jichi.ac.jp/news/research/2014/20140926.html ADHD治療薬の効果を光トポグラフィ脳機能検査で可視化]</ref><ref>[http://release.nikkei.co.jp/detail.cfm?relID=385970&lindID=5 東大、注意欠如多動性障害の薬物治療効果を予測する客観的な指標を開発]</ref>。(途上の技術である、[[光トポグラフィー]]を参照。) 薬物療法の実施にあたっては、継続的に服薬することでどのようなメリットや効果があるのかを、本人の視点に合わせてわかりやすく伝えていく<ref name=":7">{{Cite book|和書 |title=不登校の理解と支援のためのハンドブック |year=2022年 |publisher=ミネルヴァ書房 |page=159-160}}</ref>。その上で、服薬支援アプリなど定期的な服薬につながる工夫についても紹介し、本人をサポートする<ref name=":7" />。 ==== 医薬品 ==== 医薬品では、覚醒水準を引き上げる薬が用いられる。 日本でADHDに適応がある薬は、2007年より[[メチルフェニデート]]徐放剤(コンサータ)、[[アトモキセチン]](ストラテラ)、[[グアンファシン]](インチュニブ)、[[リスデキサンフェタミン]](ビバンセ)の4種類。 {|class=wikitable style="font-size:small" |+ 日本でADHDに適応のある製薬<ref>[https://h-navi.jp/column/article/35027521 ビバンセとはどんな薬?ADHDのある子どもに処方される薬ビバンセの効果や副作用などを詳しく解説!]</ref> !style="width:6em"| !!コンサータ !!ストラテラ !!インチュニブ !!ビバンセ |- !style="text-align:left"|一般名 |[[メチルフェニデート]] |[[アトモキセチン]] |[[グアンファシン]] |[[リスデキサンフェタミン]] |- !style="text-align:left"|種類 |中枢神経刺激薬剤 |非中枢神経刺激剤/選択的ノルアドレナリン再取り込み阻害剤 |非中枢神経刺激剤/選択的α2Aアドレナリン受容体作動薬 |中枢神経刺激剤 |- !style="text-align:left"|形状 |浸透圧を利用した放出制御徐放カプセル |カプセル、液、錠剤 |徐放錠 |カプセル |- !style="text-align:left"|作用 |ドーパミン・ノルアドレナリン再取込阻害 |ノルアドレナリン再取込阻害 |アドレナリンα2A受容体刺激 |ドーパミン・ノルアドレナリン再取込阻害・遊離促進 |- !style="text-align:left"|効果発現 |比較的早く |ゆっくり |比較的早く |比較的早く |- !style="text-align:left"|効果持続 |約12時間、効果に切れ目がある |終日 |終日 |約12時間、効果に切れ目がある |- !style="text-align:left"|1日の服薬 |1回朝 |2回 |1回 |1回朝 |- !style="text-align:left"|副作用 |食欲減、不眠、体重減、など |頭痛、食欲減、眠気、など |傾眠、血圧低下、頭痛、など |食欲減、不眠、頭痛、など |- !style="text-align:left"|適応年齢 |6歳から |6歳から |6歳から |6歳から17歳(2020現在) |- !style="text-align:left"|流通規制 |あり |なし |なし |あり |- !style="text-align:left"|開発メーカー |[[ヤンセンファーマ]](、[[ジョンソン・エンド・ジョンソン]]) |[[イーライリリー]]、他社ジェネリックあり |[[シオノギ]](、[[シャイアー (企業)|シャイア]]、[[タケダ]]) |シオノギ(、シャイア、タケダ) |- !style="text-align:left"|添付文書 |[https://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00062727 添付文書]、[https://pins.japic.or.jp/pdf/newPINS/00062727.pdf pdf] |[https://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00060723 添付文書]、[https://pins.japic.or.jp/pdf/newPINS/00060723.pdf pdf] |[https://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00066854 添付文書]、[https://pins.japic.or.jp/pdf/newPINS/00066854.pdf pdf] |[https://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00068014 添付文書]、[https://pins.japic.or.jp/pdf/newPINS/00068014.pdf pdf] |- !style="text-align:left"|備考 |即放錠「リタリン」の成分を、アルザ社の買収によって得た技術で徐放カプセル化 | |古い高血圧治療薬を応用。シャイアはタケダの子会社 |シャイアは[[アンフェタミン]]製剤「{{仮リンク|アデラ―ル|en|Adderall}}」のメーカー |} 特に中枢神経刺激剤の効果が高く、多くの場合で[[メチルフェニデート]](短時間型:リタリン/長時間型:コンサータ)が使用される。 しかしながら、日本では2014年4月~2015年3月にADHD治療薬が処方された患者のうち、メチルフェニデートが処方された患者は64%であり、これは英国(94%)、ノルウェー(94%)、韓国(94%)、トルコ(92%)、ドイツ(75~100%)と比較し著しく低くなっている。 このような要因として、日本では短時間作用型メチルフェニデート(リタリン)のADHDに対する承認が得られておらず、長時間作用型(コンサータ)のみが承認されていること、[[アトモキセチン]](ストラテラ)に処方制限がない一方で、メチルフェニデート(コンサータ)のみ医師の登録が必要であるなど処方制限があるというアンバランスな規制となっていること、診療ガイドラインにおいてメチルフェニデート(コンサータ)とアトモキセチン(ストラテラ)の両方を第一選択薬としていることが影響していると考えられる<ref>{{Cite |url=https://www.slideshare.net/okumurayasuyuki/ndb |title=処方箋データとNDBを用いた処方動向調査 |date=2018-08-03 |author=奥村泰之}}</ref><ref>{{Cite |url=https://www.carenet.com/news/general/carenet/46199 |title=日本の児童・思春期におけるADHD治療薬の処方率に関する研究 |date=2018-06-18 |publisher=CareNet}}</ref>。 同様に中枢神経刺激剤である[[リスデキサンフェタミン]](ビバンセ)も日本以外では第一選択薬となっている場合が多いが<ref>{{Cite |url=https://diamond.jp/articles/-/317899 |title=「ADHDは薬が効くのに見逃されている」発達障害治療の第一人者が訴える大問題 |date=2023-03-04 |author=ダイヤモンド編集部 }}</ref><ref>{{Cite |url=https://www.pmda.go.jp/drugs/2019/P20190315001/340018000_23100AMX00296_G100_1.pdf |title=ビバンセカプセル20mg, 同30mg 第2部(モジュール2):CTDの概要(サマリー) 2.5 臨床に関する総括評価 |author=塩野義製薬株式会社 |website=独立行政法人医薬品医療機器総合機構 }}</ref>、日本ではメチルフェニデートと同様の処方制限があり、さらに2023年現在6歳から17歳に対する適応のみであり、18歳以上のADHDに対する承認は得られていない。 ;メチルフェニデート :かつて日本で[[メチルフェニデート]](商品名リタリン)が使用されていたが、ADHDへの使用は認可されていなかったため、二次障害のうつ病に対して処方するという形をとっていた。しかし、2007年10月乱用のため、リタリンの適応症からうつ病が削除された<ref>平成19年10月26日付厚生労働省医薬食品局総務課長、審査管理課長、安全対策課長、監視指導・麻薬対策課長通知 薬食総発第1026001号、薬食審査発第1026002号、薬食安発第1026001号、薬食監麻発第1026003号通知 [https://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/10/dl/h1026-3a.pdf PDF]</ref>。代わってメチルフェニデートの徐放剤(商品名コンサータ)が小児期におけるADHDの適応薬として認可され<ref>{{Cite |url=http://www.info.pmda.go.jp/downfiles/ph/PDF/800155_1179009G1022_1_02.pdf |title=ヤンセン・ファーマ「コンサータ錠添付文書」 |date=2007年12月作成 |edition=1 |publisher=[[医薬品医療機器総合機構]] |accessdate=2009-06-01}}</ref>、2013年に成人へと適応が拡大された<ref> [http://www.janssen.co.jp/public/rls/news/4300 公式プレスリリース] ヤンセン・ファーマ(2014年4月30日閲覧)</ref>。 :メチルフェニデートは長期摂取による依存性や何らかの副作用が懸念されるが、適正に使用されている限り薬物耐性はつきにくい。特に思春期以前の児童に関しての投薬も依存の危険はないとされるが、米国ではあまりに安易に幼年児にも処方するため、2-3歳児への処方では実際にはADHDではないケースがかなり含まれているのではとの懸念がなされている<ref name="集中できない子供たち" />。メチルフェニデートは前頭前野皮質のノルアドレナリン・トランスポーター (NAT) に作用し細胞外[[ドーパミン]]の濃度が上昇、治療効果をもたらすという仮説がある<ref>曽良一郎『脳の発達障害ADHDはどこまでわかったか?』p5</ref>。リタリンは、脳内のドーパミン・トランスポーターとノルアドレナリン・トランスポーターに作用する事で、ドーパミンやノルアドレナリン量を増やす。セロトニン・トランスポーターにはほとんど作用しない<ref name="集中できない子供たち" />。コンサータ錠は12時間程度効果が持続する、すぐに効き目が現れるので数日で効果がみられるといった特徴があるが、[[コンサータ錠適正流通管理委員会]]に登録がある医師しか処方が認められていない<ref>[http://medley.life/expositions/item/5583ea84e7880cc600efc58a コンサータ、ストラテラの効果と副作用は?注意欠如多動性障害(ADHD)の薬物治療とは?] MEDLEY</ref>。 :短時間作用型のメチルフェニデート(リタリン)は2023年現在も日本ではADHDに対する承認が得られていない。かつて日本でもADHDに対して実質的に処方されていたが、過去に乱用の問題があり、うつ病への適応が削除されたため、うつ病への適応を利用したADHDへの処方ができなくなった。 ;リスデキサンフェタミン :[[リスデキサンフェタミン]](商品名ビバンセ)は[[アンフェタミン|デキストロアンフェタミン]]の[[プロドラッグ]]であり、[[ノルアドレナリン]]および[[ドーパミン]]の放出促進と[[再取り込み]]阻害によって、中枢神経に作用する。2019年2月に小児に対して認可された<ref>[https://www.mixonline.jp/Article/tabid/55/artid/67050/Default.aspx 薬食審・第一部会 塩野義の小児AD/HD治療薬など9製品審議、承認了承] ミクスOnline 2019年2月22日</ref>。 ;アトモキセチン :[[アトモキセチン]](商品名ストラテラ)は、[[ノルアドレナリン]]の[[再取り込み]]を阻害する作用を有する。2009年4月に認可された。本剤も小児に限定されていたが、2012年に成人へと適応が拡大された。ノルアドレナリン・トランスポーターに作用する事により、間接的にドーパミンにも作用するとされる非中枢刺激剤である<ref>[http://www.lilly.co.jp/pressrelease/2012/news_2012_120.aspx "注意欠陥/多動性障害(AD/HD)治療剤「ストラテラ」、日本で初めて、成人期のAD/HDへの適応承認"](日本イーライリリー)</ref>。メチルフェニデートと異なり乱用の可能性がない。 ;グアンファシン :[[グアンファシン]]徐放剤(商品名インチュニブ)が、2017年3月に子供に対して認可された。非中枢神経刺激薬で、α-2アドレナリン作動薬に分類され、機序はまだ未解明だが、患者の低下している前頭前皮質の後シナプス性アドレナリンα2受容体に作用し、多動性・衝動性を改善するとしている。延髄ではアドレナリン2A受容体の刺激によって、交感神経を抑制し血圧が下がることが知られており、この作用を持つグアンファシンやクロニジンは高血圧治療薬であったが、以前よりADHD治療にも使われることがあった。<ref>『注意・欠如多動症-ADHD-の診断・治療ガイドライン第4版』ISBN 4840748810</ref><ref>塩野義製薬 [https://www.shionogi.co.jp/med/download.php?h=1480548769cce25e04b495409b6a0cbd インチュニブ添付文書]</ref>。2019年6月より成人に対して認可された<ref>[http://www.shionogi.co.jp/company/news/2019/qdv9fu000001i1pc-att/190618_02.pdf 注意欠陥/多動性障害治療剤「インチュニブ錠 成人患者に対する適応追加による一部変更の承認について] - 塩野義製薬</ref>。 アメリカでは[[アンフェタミン]](アデロール、日本法における覚醒剤)、デキストロアンフェタミン(アンフェタミンのD体)、リスデキサンフェタミン(体内でデキストロアンフェタミンになる)も用いられる。{{仮リンク|ダソトラリン|en|Dasotraline}}の臨床試験が進行しており、これは[[セルトラリン]]の活性代謝物である。 ====ADHD適応外の製薬==== DNRIのADHD治療薬を[[大日本住友製薬]]の米子会社である[[サノビオン・ファーマシューティカルズ・インク]]が米国で治験中である<ref>[http://www.qlifepro.com/news/20141217/the-publication-of-the-second-phase-clinical-trial-data-on-adhd-treatment-agent-dasotraline.html 新規DNRI製剤による症状への改善効果を確認]</ref>。DNRIは同じく[[ノルアドレナリン]]と[[ドパミン]]に作用する中枢神経興奮薬よりも緩やかに作用し、依存性も少ないという特徴がある。 ====漢方薬==== ADHDなど、[[発達障害]]には[[抑肝散]]、[[抑肝散加陳皮半夏]]、[[甘麦大棗湯]]、[[黄連解毒湯]]、[[香蘇散]]、[[柴胡加竜骨牡蛎湯]]、[[当帰芍薬散]]などをその人の証にあわせて使い分ける<ref>『精神障害・発達障害に効く漢方薬』 内海聡 事例 発達障害 P42-P50</ref>。また、西洋薬の補助として併用することもある<ref>[http://ccs-net.co.jp/toyo61/pdf/program/seminar_dento.pdf 伝統医学臨床セミナー 「抑肝散の応用」]</ref>。[[抑肝散]]、[[抑肝散加陳皮半夏]]に関しては、ADHDに効果があることが日本東洋医学会でも示されている<ref>{{Cite journal|和書 |journal=日本東洋医学雑誌 |volume=62 |date=2011|issue=3 |page=479-508 |naid=40018899757 |doi=10.3937/kampomed.62.479}}</ref><ref>{{Cite journal|和書| naid=110006839461 |title=注意欠陥多動性障害(ADHD)に対する漢方処方の効果(小児科疾患,一般演題,伝統医学のあるべきかたちとは-世界の潮流と日本の役割-,第59回日本東洋医学会学術総会 |journal=日本東洋醫學雜誌 |volume=59(別冊) |issue=201 |date=2008-05 }}</ref><ref>[http://ccs-net.co.jp/toyo61/pdf/program/seminar_dento.pdf 伝統医学臨床セミナー 「抑肝散の応用」 2 小児の精神発達障害、心身症における抑肝散と抑肝散加陳皮半夏の使用経験]</ref>。Shanghai Journal of Acupunctureにおける研究によれば、子供592名を、鍼灸グループと漢方薬グループ、比較グループに分け、鍼灸で84.45%の効果率、漢方薬で78.77%の効果率となりどちらも、症状と脳波に改善が見られ、また患者の年齢が低いほど良好な結果が得られた<ref>[http://www.healthcmi.com/Acupuncture-Continuing-Education-News/1647-acupuncture-improves-outcomes-for-children-with-adhd Acupuncture Improves Outcomes For Children With ADHD]</ref>。」とのことである。 ===鍼治療=== {{医学の情報源|section|date=2018年10月}} ADHDには、鍼治療が有効という意見があり<ref>[http://www.cfsc.org.hk/cmsimg/doc/20140520%20HKET-CMB.pdf 頭針+捏脊 治小兒多動症]</ref>、日本でもADHDに鍼治療を行う鍼灸治療院が存在する。また、[[日本小児はり学会]]でも発達障害をテーマとされたこともあり、「ADHDと[[疳の虫]]は同疾患である」という意見も存在する。ニューイングランド鍼灸大学院大学助教授、桑原浩榮によれば、軽度の疳虫症は肺虚肝実証、重度のADHDは七十五難型肝実証、薬剤過剰投与で脾虚肝実証となることが多いという。また、治療回数は一般的な疳虫症で4日から5日連続、軽症で2日から4日連続、重症だがADHD薬を服用していなければ7日から10日の連続、毎日の服用が10mg以下のADHDは週一回で1年から3年、毎日の服用が20mg以上のADHDになると週2日から3日で2年から4年ほどである<ref>[https://narrative-s.sakura.ne.jp/onlinestor/html/products/detail.php?product_id=27 月刊『ナラティブメディカ』5月号(VOL.19) P45-48] 発達障害での小児はり効果を検討 ADHDの薬剤投与で個性抹殺の懸念も日本小児はり学会特別講演会</ref><ref>「米国における自閉症、注意欠陥・多動症等の発達障害児のはり治療」 日本小児はり学会 特別講習会2015</ref>。米国において、ADHDへの鍼治療は認知度が高まりつつある<ref>[http://www.pacificcollege.edu/news/blog/2014/07/28/treating-adhd-acupuncture Treating ADHD with Acupuncture | Pacific College]</ref><ref>[http://www.tampabay.com/news/health/parents-say-acupuncture-has-alleviated-boys-adhd/1210209 Parents say acupuncture has alleviated boy's ADHD]</ref>。一方、中国四川大学の調査ではADHDへの効果は不明とされている<ref>[https://www.mededge.jp/a/pedi/15872 子どもの鍼治療「おねしょ」に効果、チック障害を含めた5つの問題に有望 Medエッジ]</ref><ref>[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25950453 Efficacy and safety of acupuncture in children: an overview of systematic reviews.]</ref>。 ;研究事例 :*[[経頭蓋磁気刺激法]] (TMS) - [[経頭蓋磁気刺激法]]をADHDに使用した結果、数値は小さいが注意力に改善が見られた<ref name="Logan EllisZaman2013">{{cite journal|last1=Logan Ellis|first1=H.|last2=Zaman|first2=R.|title=1671 - Use of transcranial magnetic stimuaiation (TMS and RTMS) in ADHD|journal=European Psychiatry|volume=28|year=2013|pages=1|issn=09249338|doi=10.1016/S0924-9338(13)76660-4}}</ref>。 :*[[中医学]]による、中薬と鍼治療。河南中医学院では、ADHDを[[弁証論]]治別に分別し、中薬で出すべき生薬や鍼治療における経穴を示している<ref>[http://wenku.baidu.com/view/71417d61ddccda38376baf66.html 注意缺陷多动障碍的中医治疗研究进展]</ref>。 ===ワーキングメモリの訓練=== 21世紀となり[[ワーキングメモリ]]における障害は、ADHDの主要な障害または中間表現型であることが明らかにされた。神経生理学的にはADHDは脳の[[前頭葉]]とドーパミン・システムの機能変化と関係がありえる。(Castellanos and Tannock, 2002<ref>{{cite journal |author=Castellanos FX, Tannock R |title=Neuroscience of attention-deficit/hyperactivity disorder: the search for endophenotypes |journal=Nat. Rev. Neurosci. |volume=3 |issue=8 |pages=617-28 |year=2002 |pmid=12154363 |doi=10.1038/nrn896 |url=}}</ref>; Martinussen et al., 2005<ref>{{cite journal |author=Martinussen R, Hayden J, Hogg-Johnson S, Tannock R |title=A meta-analysis of working memory impairments in children with attention-deficit/hyperactivity disorder |journal=J Am Acad Child Adolesc Psychiatry |volume=44 |issue=4 |pages=377-84 |year=2005 |pmid=15782085 |doi=10.1097/01.chi.0000153228.72591.73 |url=}}</ref>) スウェーデン、[[カロリンスカ研究所|カロリンスカ医科大学]]のクリングバーグらは、コンピュータによる訓練方法を開発し、2つの研究 (Klingberg et al. 2002<ref>{{cite journal |author=Klingberg T, Forssberg H, Westerberg H |title=Training of working memory in children with ADHD |journal=J Clin Exp Neuropsychol |volume=24 |issue=6 |pages=781-91 |year=2002 |pmid=12424652 |doi=10.1076/jcen.24.6.781.8395 |url=}}</ref>, Klingberg et al., 2005<ref>{{cite journal |author=Klingberg T, Fernell E, Olesen PJ, Johnson M, Gustafsson P, Dahlström K, Gillberg CG, Forssberg H, Westerberg H |title=Computerized training of working memory in children with ADHD--a randomized, controlled trial |journal=J Am Acad Child Adolesc Psychiatry |volume=44 |issue=2 |pages=177-86 |year=2005 |pmid=15689731 |doi=10.1097/00004583-200502000-00010 |url=}}</ref>) においてワーキングメモリーが訓練により改善可能であり、ADHDの症状を、精神刺激薬に匹敵する効果量にて軽減することを明らかにした。当時の同大学学長であり、世界的なエイズ研究者であるハンス・ウィグゼルは、医学を専門とする同大学ベンチャー・ファンドとしては初めて新薬以外の分野として事業化を支援し、2009年現在スウェーデンでは約1000校の小学校(約15%)において、米国では約100クリニックにて、それぞれ年間3000人以上の児童・成人のADHD改善トレーニングが行われている<ref>品川裕香.【[http://sankei.jp.msn.com/life/education/081007/edc0810070825002-n1.htm 見つけた!みんなが輝く教育】トレーニングでワーキングメモリ向上]. 産経新聞コラム, 2008.10.7/</ref>。 日本では、2007年夏より約半年間のえじそんくらぶ<ref>[http://www.e-club.jp/ NPO法人えじそんくらぶ]</ref>によるワーキングメモリートレーニング評価プロジェクトとして開始された。2008年[http://jddnet.jp/ 日本発達障害ネットワーク]年次大会にブース出展があり、関係方面への紹介がされた。日本では2009年、コグメド・ジャパンがワーキングメモリトレーニングを提供している<ref>[http://adhd.cogmed-japan.com/ ADHD、注意障害や多動はワーキングメモリトレーニングによって持続的な改善が可能です]、コグメド・ジャパン公式webページ(2009年9月30日閲覧)。</ref>。 英ヨーク大学のギャザコール、英ノーザンブリア大学のホームズらは、コグメドのワーキングメモリ訓練を使い、訓練プログラムと、精神刺激薬による薬物療法の2種の介入にて、ADHDをもつ児童のワーキングメモリ機能への影響を評価した。薬物療法が視空間のワーキングメモリだけ改善した一方で、訓練はすべてのワーキングメモリ要素(言語も加えたワーキングメモリと短期記憶)で大幅な改善をもたらし効果は6ヶ月後も持続した。IQ成績はいずれの介入でも変化しなかった。議論のなかで、「断然に最もドラマティックなワーキングメモリの改善はワーキングメモリトレーニングで観察された。測定されたワーキングメモリのすべての構成要素で有意で大幅な改善が見られ、それぞれにおいて、グループの児童を同年代の平均以下のレベルから平均以内のレベルにもっていった」と報告し、トレーニングによる視空間・言語すべての要素のワーキングメモリへの全体的な改善が、教室の言語中心の環境における多くの学習活動でワーキングメモリへの重い負荷にしばしば耐えられない児童にとって重要で実用的な利益となろう、としている (Joni Holmes, Susan E. Gathercole 2009<ref name="HolmesGathercole2010">{{cite journal|last1=Holmes|first1=Joni|last2=Gathercole|first2=Susan E.|last3=Place|first3=Maurice|last4=Dunning|first4=Darren L.|last5=Hilton|first5=Kerry A.|last6=Elliott|first6=Julian G.|title=Working memory deficits can be overcome: Impacts of training and medication on working memory in children with ADHD|journal=Applied Cognitive Psychology|volume=24|issue=6|year=2010|pages=827 - 836|issn=08884080|doi=10.1002/acp.1589}}</ref>)。 ===食事療法=== {{Main|ADHDに関する論争}} ランダム化比較試験で、ビタミンミネラルは、感情調節、攻撃性、不注意を改善したが、過活動と衝動性には変化がなかった<ref name="pmid28967099">{{cite journal|last1=Rucklidge|first1=Julia J.|last2=Eggleston|first2=Matthew J.F.|last3=Johnstone|first3=Jeanette M.|coauthors=et al.|title=Vitamin-mineral treatment improves aggression and emotional regulation in children with ADHD: a fully blinded, randomized, placebo-controlled trial|journal=Journal of Child Psychology and Psychiatry|volume=59|issue=3|pages=232-246|year=2018|pmid=28967099|doi=10.1111/jcpp.12817}}</ref>。 [[フィンランド]]の調査で、[[腸内フローラ]]がADHDを予防する効果がある可能性が示唆されている<ref>{{Cite news |title= プロバイオティクスが子どものADHDを予防するかもしれない、13年間の追跡調査|newspaper= Medエッジ|date= 2015-05-31|author= |url=https://www.mededge.jp/a/pedi/13667 |accessdate=2018-10-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151122100200/https://www.mededge.jp/a/pedi/13667|archivedate=2015-11-22}}</ref><ref>Pärtty A et al. A possible link between early probiotic intervention and the risk of neuropsychiatric disorders later in childhood: a randomized trial. Pediatr Res. 2015 Jun;77:823-8.</ref>{{Primary_source_inline |date=2018年10月}}。 ==経過== 367例の小児ADHDでは、29.3%が成人期まで症状が継続した<ref name="pmid23460687">{{cite journal|last1=Barbaresi|first1=W. J.|last2=Colligan|first2=R. C.|last3=Weaver|first3=A. L.|coauthors=et al.|title=Mortality, ADHD, and Psychosocial Adversity in Adults With Childhood ADHD: A Prospective Study|journal=PEDIATRICS|volume=131|issue=4|pages=637-644|year=2013|pmid=23460687|pmc=3821174|doi=10.1542/peds.2012-2354|url=https://doi.org/10.1542/peds.2012-2354}}</ref>。 ==疫学== ADHDの子供の大部分は正常な知能である<ref name="pmid28532329">{{cite journal|last1=te Meerman|first1=Sanne|last2=Batstra|first2=Laura|last3=Grietens|first3=Hans|coauthors=et al.|title=ADHD: a critical update for educational professionals|journal=International Journal of Qualitative Studies on Health and Well-being|volume=12|issue=sup1|pages=1298267|year=2017|pmid=28532329|pmc=5510202|doi=10.1080/17482631.2017.1298267|url=https://doi.org/10.1080/17482631.2017.1298267}}</ref>。 ===有病率=== 有病率は、DSM-5(2013)ではほとんどの文化圏で子供の約5%、成人の約2.5%、男:女比では子供で2:1、成人で1.6:1という記載がある<ref group="注">DSM-IV-TR(2000)では学童の3% - 7%と記載していた</ref>。WHOの調査では、成人では世界全体で3.4%(国によって1.2% - 7.3%と大きく異なる)。主症状のうち、多動は9歳から11歳、衝動性は12歳から14歳で診断的寛解となることが多く、不注意は成人後も継続する事が多いという報告がある<ref name="sasgb">{{Cite |和書|author=樋口輝彦、斉藤万比古|title=成人期ADHD診断ガイドブック|date=2013 |publisher=じほう|isbn=978-4840744706 }}</ref><ref> {{Cite journal |author=J. Fayyad, et al. |date=2007-04 |title=Cross~national prevalence and correlates of adult attention~deficit hyperactivity disorder |journal=The British Journal of Psychiatry |volume=190 |issue=5 |doi=10.1192/bjp.bp.106.034389 }}</ref><ref>{{Cite journal |author=J. Biederman, et al. |date=2000-05 |title=Age-Dependent Decline of Symptoms of Attention Deficit Hyperactivity Disorder : Impact of Remission Definition and Symptom Type |journal =The American Journal of Psychiatry |volume=157 |issue=5 |doi=10.1176/appi.ajp.157.5.816 }}</ref>。 米国CDCの統計では、4-17歳児童の約11%(640万人)がADHDと診断されており(2011年)、男児が13.2%、女児が5.6%と男児に多い<ref name="cdcstat">{{Cite web|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]] |title=Data & Statistics - Attention-Deficit / Hyperactivity Disorder (ADHD) |url=http://www.cdc.gov/ncbddd/adhd/data.html |accessdate=2015-06-01}}</ref>。[[ニューヨーク・タイムズ]]は、古典的なADHDの有病率は児童の5%であるが、しかし今の米国ではADHDは喘息について二番目に多い小児疾患であり、それには[[過剰診断]]や製薬会社による[[病気喧伝]]があると述べている<ref>{{Cite news|newspaper=NYTimes |title=The Selling of Attention Deficit Disorder |date=2013-12-14 |url=http://www.nytimes.com/2013/12/15/health/the-selling-of-attention-deficit-disorder.html?_r=2& }}</ref>。英国の統計では、狭義のICD-10によるhyperkinetic については児童青年の1-2%ほどであり、広義のDSM-IVによるADHDについては児童青年の3-9%ほどであった{{Sfn|英国国立医療技術評価機構|2008|loc=Introduction}}。一方フランスでは症状を呈す心理社会的原因の解消を試みており真にADHDと診断される子供は0.5%である<ref name="pToday2012"/>。 日本の有病率は、成人では浜松市の大規模調査より1.65%と推定されている<ref group="注">疫学調査は静岡県浜松市の18歳から49歳の男女10000人を対象とし、うち3910人から調査協力があり、うち196人がスクリーニングにおいてADHDの疑いがある陽性群となる。2次調査でこの陽性群中で41人の診断面接を行い14人が成人期ADHDと診断された。この結果から算出される有病率の推定値は、1.65%(95%信頼区間=1.25 - 2.05)。スクリーニングでADHDの疑いがあった陽性群196人は陰性群に比べ、男性が多い、20代に多く40 代後半に少ない、未婚、一人暮らし/夫婦+親同居が多い、未婚ゆえ子なし、無職、収入200万円未満が多い、不健康、通院中、悩みやストレスが多いという特徴が見られた。</ref><ref>{{Cite journal|和書|author =中村和彦、大西将史 |date=2013|title =成人期のADHDの疫学調査 |journal=精神神経学雑誌|volume=115 |publisher=精神神経学会|format=PDF |url=https://www.jspn.or.jp/huge/108_symposium.pdf#page=224|accessdate=2015-08-02}}</ref>。 ===双生児での研究=== [[コロラド大学]]のジャクリン・J・ジリス<ref>{{lang-en-short|Jacquelyn J. Gillis}}</ref>らの研究では、ADHDを発症した[[一卵性双生児]]が二人とも発症するリスクは、ADHDを発症した一卵性ではない兄弟姉妹の場合の11倍 - 18倍になると報告された。ノルウェーの[[オスロ大学]]のグヨーネ<ref group="注">{{lang-no|Helene Gjone}}</ref>とサンデット<ref group="注">{{lang-no|Jon M. Sundet}}</ref>、英国の[[サウサンプトン大学]]のジム・スティーブンソン<ref group="注">{{lang-en-short|Jim Stevenson}}</ref>らの研究では、526組の一卵性双生児と389組の二卵性双生児を調べた結果として、最大で80%までADHDを[[遺伝]]的要因で説明できると発表した<ref name="集中できない子供たち" />。 ==生活への影響== === 日常生活 === CDCによると、ADHD児を持つ親は、一般児と比べて親子関係がトラブルとなる確率が約3倍であるとされる(21.1%と7.3%)<ref name="cdcstat" />。またADHD児はケガをする確率が高い(4.5%と2.5%)<ref name="cdcstat" />。そしてフランスの研究によるとADHDの子供は、一般の子供に比べて3.58倍留年しやすく、日本での高校に相当するセカンダリ・スクールでは中退が2.41倍多い<ref>{{Cite journal|last=Galéra|first=C.|last2=Melchior|first2=M.|last3=Chastang|first3=J.-F.|last4=Bouvard|first4=M.-P.|last5=Fombonne|first5=E.|date=2009-11|title=Childhood and adolescent hyperactivity-inattention symptoms and academic achievement 8 years later: the GAZEL Youth study|url=https://www.cambridge.org/core/product/identifier/S0033291709005510/type/journal_article|journal=Psychological Medicine|volume=39|issue=11|pages=1895-1906|language=en|doi=10.1017/S0033291709005510|issn=0033-2917|pmid=19335935|pmc=2797029}}</ref>。また、2005年に発表された研究によると、ADHDである大人はそうでない大人に比べて、学歴に関わらず就業率が低く低収入であった<ref>{{Cite journal|last=Biederman|first=J|last2=Faraone|first2=SV|date=2005-04-15|title=The economic impact of adult ADHD|url=https://www.researchgate.net/publication/296302620_The_economic_impact_of_adult_ADHD|pages=42S-42S}}</ref>。 学習面においては、計算などの単純作業において障害が原因で健常児と比較してミスが多くなる傾向はあるが、周囲の人間の適切なフォローや本人の意識によってミスを減らすことは可能であるとされている。ADHDだからという理由でレッテルを貼ったり、甘く評価するなどは不適切な対応であるという意見もある<ref name="mugishima54" />。かといって、現在では一般教諭がADHD児に対して常に適切な対応を取ることは容易だというわけではない。 学習機能面以外の問題として、ADHD児は授業中に立ち歩く、他の生徒とずっとおしゃべりをし続けるなど、教諭や他の生徒にとって迷惑な存在になるケースも多い。またノートを取る、宿題をする、提出物を出すなどADHDの児童が苦手とする傾向がある(あるいは好きな教科しかしない)。そもそも、教育現場でADHDが注目されるのは、[[学級崩壊]]の原因になるような問題児が発生することへの説明としてADHDが槍玉にあがったことという構造がある。2014年には京都市立小学校で、ADHDの傾向がある男子児童に対し、女性教諭が粘着テープを示して口に貼り付けていたことが判明し、児童の保護者が「ADHD児に対する差別的な取り扱いだ」と抗議する事態となった。これについては、有識者からは「教諭一人の問題でなく、学校が児童一人一人の教育機会を十分に保障していないためだ」という意見がある<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20140605k0000e040212000c.html 粘着テープ:多動傾向の児童に 京都・市立小の教諭] 毎日新聞 2014年6月5日</ref>。 ADHDの人物は[[インターネット依存症]]になりやすい。2019年に発表された日本の研究によると、インターネットの依存度をテストするYIAT(Young's Internet Addiction Test)において、70点以上をインターネット依存症とした時、一般人口と比較してADHDのみの場合は約4.31倍で、ADHDに加えて[[アスペルガー症候群]]と診断されたものでは約6.89倍もその割合が大きかった<ref name=":4">宋龍平, 牧野和紀, 藤原雅樹, 廣田智也, 大重耕三, 池田伸, 壺内昌子, 稲垣正俊: [https://journal.jspn.or.jp/Disp?style=abst&vol=121&year=2019&mag=0&number=7&start=556 自閉症スペクトラム障害に併存するインターネット依存症のスクリーニング,および介入の必要性]. 精神経誌 121(7): 556-561, 2019</ref>。なお、[[アスペルガー症候群]]のみの場合は、約3.72倍であった<ref name=":4" />。米国医師会雑誌(JAMA)に2018年7月17日掲載された2500人の10代の若者を2年間にわたって追跡した調査によると、10代の若者によるソーシャルネットワーク(SNS)サイトやビデオゲーム、ストリーミング配信サービスの利用が増えれば増えるほど、ADHDの症状を引き起こすリスクが高まることがわかった<ref name=":5">{{Cite journal|last=Ra|first=Chaelin K.|last2=Cho|first2=Junhan|last3=Stone|first3=Matthew D.|last4=Cerda|first4=Julianne De La|last5=Goldenson|first5=Nicholas I.|last6=Moroney|first6=Elizabeth|last7=Tung|first7=Irene|last8=Lee|first8=Steve S.|last9=Leventhal|first9=Adam M.|date=2018-07-17|title=Association of Digital Media Use With Subsequent Symptoms of Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder Among Adolescents|url=https://jamanetwork.com/journals/jama/fullarticle/2687861|journal=JAMA|volume=320|issue=3|pages=255-263|language=en|doi=10.1001/jama.2018.8931|issn=0098-7484}}</ref>。デジタルメディアを1日に複数回使うことはないと答えた約500人のティーンのうち、ADHDの症状(作業を最後まで続けられない、静止しているのが困難など)が見られる比率は4.6%だった一方で、質問した14種類のデジタルメディアの全てを毎日使うと答えた約50人では、その比率が10.5%だった<ref name=":5" />。 アングリアラスキン大学のシャロン・モレインらは、ADHDクリニックに通う患者88人を対象に調査をした結果、ADHDの人々は一般の人と比べて[[強迫的ホーディング|ため込み症]]の傾向をより強く示し、対照群の2%に対し、約20%が買いだめ障害の有意な症状を示したという<ref>{{Cite journal|last=Morein-Zamir|first=Sharon|last2=Kasese|first2=Michael|last3=Chamberlain|first3=Samuel R.|last4=Trachtenberg|first4=Estherina|date=2022-01-01|title=Elevated levels of hoarding in ADHD: A special link with inattention|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0022395621007263|journal=Journal of Psychiatric Research|volume=145|pages=167–174|language=en|doi=10.1016/j.jpsychires.2021.12.024|issn=0022-3956}}</ref>。 === 犯罪行動との関係 === {{Main|ADHDに関する論争}} ADHDの人物と犯罪行為の相関関係は、一般の人より高率であるという研究と、ほぼ同等であるという研究がある<ref>[[岩波明]]『発達障害』文藝春秋、2017年、96頁</ref>。 ADHDの人物の犯罪率が健常者より高いと考える研究では、ADHDの人物は[[セルフコントロール]]能力が低いことが原因と分析し<ref>{{Cite journal|last=Unnever|first=James D.|last2=Cullen|first2=Francis T.|last3=Pratt|first3=Travis C.|date=2003-9|title=Parental management, ADHD, and delinquent involvement: Reassessing Gottfredson and Hirschi's general theory|url=http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/07418820300095591|journal=Justice Quarterly|volume=20|issue=3|pages=471-500|language=en|doi=10.1080/07418820300095591|issn=0741-8825}}</ref>、世界の少年鑑別所、留置所、刑務所の収容者で、ADHDの人物の占める割合が高いと指摘する<ref name=":2">{{Cite journal|last=Rösler|first=Michael|last2=Retz|first2=Wolfgang|last3=Retz-Junginger|first3=Petra|last4=Hengesch|first4=Georges|last5=Schneider|first5=Marc|last6=Supprian|first6=Tilman|last7=Schwitzgebel|first7=Petra|last8=Pinhard|first8=Katrin|last9=Dovi-Akue|first9=Nadine|date=2004-12|title=Prevalence of attention deficit-/hyperactivity disorder (ADHD) and comorbid disorders in young male prison inmates|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15538605|journal=European Archives of Psychiatry and Clinical Neuroscience|volume=254|issue=6|pages=365-371|doi=10.1007/s00406-004-0516-z|issn=0940-1334|pmid=15538605}}</ref>。日本での2022年の調査では、新規[[受刑者]]700名に対して調査を実施したところ約12%がADHDとの判定で、一般の成人集団に占めるADHDの割合よりも高い割合だった。ADHD陽性者のうち治療が必要不可欠と考えられる受刑者で、治療を希望する人物に、薬物療法([[メチルフェニデート]]の投与)などを含めた治療を実施したところ、約7割で症状の改善が見られた。[[網走刑務所]]矯正医官の富田拓は、適切な治療を受けていたADHDの人物は、そうでないADHDの人物よりも犯罪率が低いとする海外の研究結果を例に挙げ、刑務所でのADHDを持つ受刑者の治療体制の構築と、出所後のバックアップ体制の構築が必要だと主張する<ref>{{Cite journal|last=富田|first=拓|date=2023-12|title=再犯予防のための刑務所受刑者に対する注意欠如多動症のスクリーニングと加療の試み |url=https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-22H04406}}</ref>。 [[町沢静夫]]はADHDの特徴は攻撃性であると述べている<ref>[[#町沢|町沢 (2000)]]</ref>。それによると注意欠陥・多動性障害の症状は攻撃性と非行であり、いろいろな小さな悪事を重ね、慢性化すると[[行為障害]]となり、18歳以上になると[[反社会性パーソナリティ障害]]になることが多いという<ref>[[#町沢|町沢 (2000)]]、pp.20-21</ref>。しかし、町沢がADHDと診断した患者のうち、[[メチルフェニデート]]の効果があったのは5%<ref>『「子供がいちばん」はやめなさい』海竜社、p.168</ref>である。これは他の研究によって一般に60% - 80%とされる結果とかけ離れており、町沢の診断したADHDは、典型的なADHDではない可能性がある。これについて、町沢は米国人と日本人の特性の違いから薬物の効き方に差があると説明している。 日本では[[1997年]]11月、[[朝日新聞]]が[[神戸連続児童殺傷事件]]に関し、ADHDが犯罪に関連するかのような印象を与えたと、精神発達指導教育協会などから謝罪を求められ、紙面で謝罪した。 元衆議院議員の[[山本譲司]]は、福祉制度の不備が、刑務所の服役者数で精神障害者([[知的障害]]者・[[発達障害]]者など)が高割合を占める要因になっているとしている<ref name="名前なし-20231105131048">[[山本譲司]]『刑務所しか居場所がない人たち 学校では教えてくれない、障害と犯罪の話』2018年 </ref>。山本は[[政治資金規正法]]違反で実刑判決を受け服役したが、刑務所の服役者に精神障害者が高割合を占め、刑務所の一部が福祉の代替施設のようになっている現実を目の当たりにした<ref name="名前なし-20231105131048"/>。山本は「障害があるからといって、罪を犯しやすいというわけでは決してない」としており、「福祉や家族から見放され、窃盗や無銭飲食などに手を染めることになった者」や、「社会に蔓延する同調圧力に耐えられず、空気が読めないと虐げられ続けてきた辛さが、何らかの刺激によって犯罪に結びついた者」が非行(犯罪)に走ってしまっているとしている<ref name="名前なし-20231105131048"/>。 ===日本の診断・治療環境=== {{Main|ADHDに関する論争}} ADHDという分類が妥当であるのかということはADHDの概念を確立したアメリカでも論争が続いている状況である。日本においては、ADHDの特徴については未だ明確に定義化されていない<ref name="adhd疫学">{{Cite journal |和書|author=中村和彦、大西将史、内山敏ほか|date=2013|title=日本精神神経学会学術総会:成人期のADHDの疫学調査|url=https://www.jspn.or.jp/journal/symposium/pdf/jspn108/ss218-227.pdf|format=pdf|journal=精神神経雑誌|volume=|issue=|pages=|naid=}}</ref>。近年は一般向け書籍の増大やテレビ番組における報道による認知度の上昇の影響で、「自分がADHDではないか」と受診してくる患者が増えた<ref name="adhd疫学"/>。 2013年に[[日本精神神経学会]]学術総会が[[静岡県]]の[[浜松市]]で行った調査によれば、調査対象10000人のうち196人が結果ADHDの「疑いがある」と認定をされた<ref name="adhd疫学" />。 [[文部科学省]]は、ADHDの特徴として、「年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力、衝動性、多動性」と定義づけている<ref name="monbu1298161">{{Cite web|和書| title=第1部 概論(導入):文部科学省 | website=文部科学省ホームページ | date=2010-10-15 | url=https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/material/1298161.htm | language=ja | access-date=2018-10-01}}</ref>。文部科学省は、平成15年3月に行われた、「特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議」において、判断基準や指導方法について提示した<ref name="monbu1298161" />。また、同年より、[[高機能自閉症]]や[[学習障害]]も含めて、支援を目的とした、「特別支援教育推進体制モデル事業」を開始した<ref name="monbu1298161" />。 ==病名・概念の変遷== 多動で落ち着きのない子供は古くから知られており、ADHDの疾患概念は最近になって現れたものではない。後に小児神経医学などの分野で注意が払われるようになる。 [[1775年]]、ドイツの医師、メルヒオール・ヴァイカルドは医学教科書にADHD的な行動を記載し、現在のADHDの「不注意」側面との一致から、おそらく医学文献上のADHD初出とされる<ref>{{Cite journal | last1=Barkley | first1=RA | last2=Peters | first2=H | title=The earliest reference to ADHD in the medical literature? Melchior Adam Weikard's description in 1775 of attention deficit (Mangel der Aufmerksamkeit, Attentio Volubilis) | journal=J Atten Disord | volume=16 | issue=8 | pages=623-30 |date=November 2012 | doi=10.1177/1087054711432309 | pmid=22323122 }}</ref>。 1902年、小児科医スティルが、王立内科医協会の講演で、「道徳的統制の欠損」という概念を用いながら、攻撃的・反抗的になりやすく、注意機能に異常がある43児童の症例を分析し、講義録がランセット誌に掲載される。これらの中には現在のADHD「混合型」に合致する例が見られるという<ref>{{cite journal|last1=Still|first1=George F|title=The Goulstonian Lectures: On Some Abnormal Psychical Conditions in Children|journal=Lancet|date=1902-04-12|volume=159|issue=4102|pages=1008-1013|doi=10.1016/S0140-6736(01)74984-7|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0140673601749847}} {{Subscription required}}</ref>。1908年、トレッドゴールドが、早期に発生した未検出の軽度脳損傷「脳微細損傷(MBD,minimal brain damage)」という原因仮説を発表する。加えて北米でエコノモ脳炎(1917-18年)の流行があり、その後遺症(脳炎後行動障害)との類似性が、なんらかの脳損傷を背景に持つ病態という推測を生む。 この流れから「脳損傷児(brain-injured child)」(1947年)の概念が提唱されたが、50-60年代は、確たる損傷の痕跡が見つからないため、ADHDを表す概念として「脳微細損傷(MBD,minimal brain '''damage''')」から、やや表現を抑えた「脳微細機能障害(MBD,minimal brain '''dysfunction''')」が提唱された。70年代には、MBD概念も原因となる脳機能障害が特定できず、疑問が持たれ次第に使われなくなる。 行動異常児の脳の形態的異常を見つけようとする中で、1937年に{{仮リンク|チャールズ・ブラッドリー|en|Charles_Bradley_(doctor)}}は薬物療法を発見した。彼は腰椎から脳脊髄液を抜いて気体を入れ脳を撮影する手法([[:en:Pneumoencephalography|気脳造影]])をもちいたが、子供には大変な頭痛が残った。緩和のため[[中枢神経刺激薬]]([[アンフェタミン]])を試みたところ、頭痛には無効だったが異常行動や学力の劇的な改善に驚く。研究を進め、治療法としての中枢刺激薬を発見し、薬の性質とは逆に落ち着きが出る子供がいることの理由を考察した。また彼ら中枢刺激剤が有効な子供群の特徴<ref group="注">短い集中力、計算が出来ない、気分が変わりやすい、過活動、衝動性、弱い記憶力</ref>を指摘した。それはほぼ今日のADHDの病態であった。 先駆的な薬物療法の研究であったが、[[精神分析]]の影響が広まり[[心理療法]]が重視されたことなどから、顧みられなかった。ようやく1950年代になって、障害の生物学的な特定はまだ出来なかったが、発症メカニズムの理解や創薬のために応用されはじめる。これとは別に1954年にアンフェタミンに似た中枢刺激剤、[[メチルフェニデート]](リタリン)が発売され、当初はうつやナルコレプシーの症状に用いられたが、最も驚異的な効果を示したのはADHDの症状であり、かつ副作用はより少なかったため使われるようになった。現在のADHDの治療は主にこのような流れをもつ中枢神経刺激薬による薬物療法に依っており、メチルフェニデートは最も頻繁に処方されている<ref name="hist_adhd">{{cite journal |author=Lange KW, Reichl S, Lange KM, Tucha L, Tucha O |title=The history of attention deficit hyperactivity disorder |journal=Atten Defic Hyperact Disord |volume=2 |issue=4 |pages=241-55 |year=2010 |pmid=21258430 |pmc=3000907 |doi=10.1007/s12402-010-0045-8 |url=}}</ref><ref>{{cite journal |author=Strohl MP |title=Bradley's Benzedrine studies on children with behavioral disorders |journal=Yale J Biol Med |volume=84 |issue=1 |pages=27-33 |year=2011 |pmid=21451781 |pmc=3064242 |doi=|url=}}</ref>。 脳損傷を原因とするMBDの流れとは別に、50-60年代、原因を問わず主症状がある障害と捉えて「多動児、過活動児」、「多動(衝動性)障害」という概念が提案された(操作的診断の先駆け)。 DSM-II(1968年)で、診断概念として「多動性」が初めて現れ「子供の過活動性反応」が記載される。この延長上でWHOもICD-9(1977年)で「多動症候群(過活動症候群)」が記載された。 1971年、ウェンダーは、MBDの症状に「短く乏しい注意集中」という、後に「注意欠如」と呼ばれる障害の特徴を見出した。DSM-III(1980年)は、ウェンダーらの成果を取り入れ、「注意欠陥障害(多動有り・無しの)」(Attention Deficit Disorder with and without Hyperactivity)と記載し、あくまで不注意を中心症状と見ていた。 DSM-III-R(1987年)では「多動を伴う」障害に限定し「注意欠陥多動性障害」に変更しやや重点を「多動」に戻す。 DSM-IV(1994年)は、不注意、衝動性、多動性が必ずしも揃わない障害を再び認めて、下位分類で優勢、混合を診断するように変更した。成人や特に不注意面が見過ごされがちな女児などの障害理解を反映し、再び「多動」偏重を抑えた。 [[大人のADHD|成人]]・女性のADHDを扱った洋書の翻訳で、端的な病態を邦題に使った『[[片づけられない女たち]]』(2000年)が発売されると、これを契機に成人ADHDを疑う本人が専門医療機関に押し寄せ、日本における第1次[[大人のADHD]]ブームのような状況がおこった。この邦題は強い印象を与え、片付けられるならADHDではない、ゴミ屋敷即ADHDなどの誤解が続いている<ref name="asu">「明日からできる大人のADHD診療」- ISBN 978-4-7911-0858-9</ref>。 日本の[[発達障害者支援法]](2005年)で、発達障害とは「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=416AC1000000167 |title=発達障害者支援法(平成十六年法律第百六十七号)|website=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局 |date=2016-6-3 |quote=2016年8月1日施行分|accessdate=2020-1-25}}</ref>と定義し、ADHDを代表的な発達障害のひとつに挙げた。世界では、この時期「発達障害」についての正式な医学的な定義は定まっておらず、ADHDは、行動と衝動性の(DSM)あるいは情緒と行動の(ICD)の障害とされていた。一方、日本では、特に福祉領域ではDSM-5の分類を先取りするように、ADHDも発達障害として認知されており、法律にも反映された。 DSM-5(2013年)では用語や診断基準の骨格はDSM-IVをほぼ踏襲している。近年の脳機能研究の知見を踏まえ、DSM-III以来一貫しつづけた反抗性挑戦性障害、素行障害のグループという分類から、初めて神経発達障害のグループに位置づけられた<ref name="adultadhd">{{Cite |和書 |author=齊藤 万比古 (監)、樋口 輝彦 |title=成人期ADHD診療ガイドブック |date=2013-08 |publisher=じほう |isbn=484074470X }}</ref><ref name="dsm5yomi">{{Cite |和書 |author =神尾陽子 (編集) |title=DSM-5を読み解く─伝統的精神病理, DSM-IV, ICD-10をふまえた新時代の精神科診断 |date=2014-09-25 |publisher=中山書店 |isbn=4521739733 }}</ref>。 2013年ごろより来院者が増え日本では第2次大人のADHDブームの状況となった。以前と違いは、コミュニケーションの不調の面から、集団の中であぶりだされ診察を求める人や企業が不調に気が付き受診を勧められる人が多いことである<ref name="asu"/>。 == 公表している著名人 == *[[ウィル・アイ・アム]]<ref>[https://www.esquire.com/jp/menshealth/wellness/g25260600/celebrities-chronic-medical-conditions-health-respect/ 慢性疾患や病気と共存するセレブ15人「この病気は私の一部…」]Esquire 2018年11月28日</ref> *[[エマ・ワトソン]] *[[沖田×華]] - 漫画家。ADHDだけでなく、数多くの[[発達障害]]と共生している。 *[[河西美希]] *[[カノックスター]] ([[YouTuber]])<ref>{{Cite web |title=登録者135万人気YouTuber「ADHD傾向」告白 「別に悪いことじゃない」「受け入れて前向いていこう」 |url=https://www.j-cast.com/2022/09/07445271.html |website=J-CAST ニュース |date=2022-09-07 |access-date=2023-12-16 |language=ja}}</ref> *[[勝間和代]] - 精神科医の[[岩波明]]に軽度のADHDと診断された<ref>{{Cite web|和書|url=http://bunshun.jp/articles/-/4475|title=「発達障害」医師と患者の対話 #1--岩波明×勝間和代|work=文春オンライン|publisher=[[文藝春秋]]|date=2017-10-14|accessdate=2018-09-29}}</ref> *[[木下優樹菜]]{{Efn2|なお、木下が受けたというADHDの診断は日本精神医学会などにおいて、認められた方法では無く、木下自身も「正式な診断を受けた」と明言していないことに留意する必要がある<ref>{{Cite web|和書|title=木下優樹菜さん「脳波でADHDが分かった」発言で物議 医師らは全否定 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/4358?page=1 |website=AERA dot. (アエラドット) |date=2022-08-11 |access-date=2022-08-12 |author=川口穣}}</ref>。}}<ref>{{Cite web|和書|title=木下優樹菜「ADHD、発達障害」と公表 元夫フジモンは「イライラ」したことも/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/07/25/0015501357.shtml |website=デイリースポーツ online |access-date=2022-07-26 |language=ja}}</ref> *[[栗原類]] - 8歳時に米国で注意欠陥障害(ADD)と診断された{{Efn2|診断名と、強いこだわり・聴覚の過敏などを訴えるが今日のADHDの[[注意欠陥・多動性障害#症状|主症状]]は訴えないことに一定の注意<ref>{{Cite news| title=栗原類さん、発達障害を告白 「子供の頃、先生が逆ギレして...」| newspaper=ハフィントンポスト日本| date=2015-05-26| url=https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/25/kurihara-rui-developmental-disability_n_7439134.html| accessdate=2016-07-12}}</ref>。}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/152848|title=栗原類が語る「発達障害の僕が直面した現実」「空気が読めない」のは本人もつらい|work=東洋経済オンライン|publisher=[[東洋経済新報社]]|date=2017-01-11|accessdate=2019-03-15}}</ref>。 *[[小島慶子]] - 40歳を過ぎてから軽度のADHDと診断された<ref>{{Cite web|和書|url=https://woman.nikkei.com/atcl/dual/column/17/1111111/062800032/|title=小島慶子 40過ぎてADHDと診断され自分知った|work=小島慶子のDUALな本音|publisher=[[日経BP]]|date=2018-07-02|accessdate=2023-03-11}}</ref> *[[ジェラルド・バトラー]]<ref>『[[ニューズウィーク]]』2012年12月26日号</ref> *[[シモーネ・バイルズ]](体操選手)<ref>{{Cite web|和書|title=「私はADHD。だけど、隠さない」体操女子金メダリスト、ドーピング疑惑に毅然と告白|url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/09/13/simone-biles-opens-up-about-adhd_n_12001064.html|website=ハフポスト|date=2016-09-14|accessdate=2021-08-04|language=ja}}</ref> *[[西村博之]](日本の実業家)<ref>{{Cite web |title=「遅刻に怒る人は、能力値が低い」ひろゆきが“勤勉さにはあまり意味がない”と語る理由|新R25 - シゴトも人生も、もっと楽しもう。 |url=https://r25.jp/article/708545125746410019 |website=新R25 |access-date=2023-12-16 |language=ja}}</ref> *[[似鳥昭雄]]([[ニトリホールディングス]]会長)<ref>{{Cite web|和書|title=発達障害が強み ニトリ会長の「お、ねだん以上。」な話|url=https://www.asahi.com/articles/ASP6Z00B1P69ULBJ00H.html|website=朝日新聞|accessdate=2021-07-19|date=2021-07-05}}</ref> *[[はじめしゃちょー]] ([[YouTuber]]) *[[パリス・ヒルトン]] *[[Fukase]](バンド『[[SEKAI NO OWARI]]』メンバー) - 10代の頃にADHDと診断されたことを公表している<ref>{{Twitter status|fromsekaowa|1249920563918688256|fukase(SEKAINOOWARI)2020年4月14日13:40の発言}}</ref><ref>{{Twitter status|fromsekaowa|1249921303772950529|fukase(SEKAINOOWARI)2020年4月14日13:43の発言}}</ref>。 *[[藤本淳史]]-元[[田畑藤本]] [[東京大学]]卒業 [[芸人]]彼女が転職を繰り返す中でメンタルのバランスを崩して、仕事ができなくなり[[うつ病]]とも診断された。彼女が自分なんてダメだと思ってしまう原因でADHDがあるんじゃないかと言われた。[[2021年]][[7月]]自身がADHDと公表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/e8dbece8749c01664e65242f728e706e1d7ac56a |title=ADHDでコンビ解散、東大卒芸人・藤本淳史さんが告白した苦しみの日々 「自分はなんてダメ人間なんだ」Yahoo! JAPAN2022年2月28日7:00配信 |accessdate=2022-02-28}}</ref>。 *[[堀江貴文]](日本の実業家)<ref>{{Cite web |title=ホリエモン「『ADHD』と言われるより『多動力あるよね』って言われたら物事に前向きになれる」 (2019年8月11日) |url=https://www.excite.co.jp/news/article/Shueishapn_20190811_109506/ |website=エキサイトニュース |date=2019-08-11 |access-date=2023-12-16 |language=ja}}</ref> *[[マイケル・フェルプス]] - 9歳のときにADHDと診断された<ref>[http://heavy.com/sports/2016/08/michael-phelps-parents-relationship-father-police-mother-teacher-divorce-adhd-age-photos-olympics/ Michael Phelps’ Parents: 5 Fast Facts You Need to Know]Heavy, August 5, 2016</ref> *[[眞鍋かをり]] - 23歳の時にADHDの傾向があると診断された<ref>{{Cite news |url=https://woman.nikkei.com/atcl/dual/column/17/1111157/110500013/|title=眞鍋かをり 大人になり ADHD傾向目立たなくなった|publisher=日経WOMAN|date=2018-11-27|accessdate=2021-12-04}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/stop01/interview/20210816-OYT1T50195/|title=別の居場所に救われた眞鍋かをりさん「自分の価値観からはみ出して」…STOP自殺 #しんどい君へ|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2021-08-19|accessdate=2021-12-04}}</ref>。 *[[三木谷浩史]] - (日本の実業家、[[楽天グループ]]の創業者)<ref>{{Cite web |title=社会を変える発達障害 :インタビュー「起業家生む発達障害の特性が過労やうつ病リスクにも」岩波明・昭和大学付属烏山病院病院長 |url=https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20230207/se1/00m/020/054000c |website=週刊エコノミスト Online |access-date=2023-12-16 |language=ja}}</ref> *[[緑川アイラ]]<ref name"東京新聞20200328">{{Cite news |title=発達障害ある女子プロボクサー「悩んでいる人勇気づけたい」 来月以降に「発達女子会」 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/202003/CK2020032802000132.html |newspaper=東京新聞 |date=2020-03-28 |accessdate=2022-01-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200328195520/https://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/202003/CK2020032802000132.html | archivedate=2020-03-28 }}</ref> - フリーライター、元プロボクサー。発達障害の啓蒙活動を展開。 *[[メアリー=ケイト・オルセン]]<ref name="cyzowoman">{{Cite web|和書|url=https://www.cyzowoman.com/2012/04/post_5528_1.html|title=共演者の体がプレッシャー? 摂食障害を克服したセレブたち|publisher=サイゾー|date=2012-04-02|accessdate=2012-06-01}}</ref> *[[柳家花飛]] *[[ダニエルズ (監督)|ダニエル・クワン]](映画監督)<ref>{{Cite web|和書|title=『エブエブ』監督ダニエル・クワン、映画制作がきっかけでADHDと診断 |url=https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/daniel-kwan-talking-about-adhd |website=Vogue Japan |date=2023-03-03 |access-date=2023-03-14 |first=Mina |last=Oba}}</ref> *ニンニン([[aespa]])<ref>{{Cite web|和書|title=aespaニンニン、ADHDを初公表 |url=https://mdpr.jp/k-enta/detail/4069064 |website=モデルプレス |date=2023-11-25 |access-date=2023-11-26}}</ref> === 歴史上の人物 === ADHDらしいと考えられている歴史上の人物として、下記のような人々が知られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/95524|title=坂本龍馬は注意欠陥・多動性障害(ADHD)だった!? 現代の医師が診断|author=早川智|work=AERA dot.|publisher=朝日新聞出版|date=2016-5-30|accessdate=2023-5-21}}</ref>。 *[[坂本龍馬]] *[[アルベルト・アインシュタイン]] *[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]] *[[ジュール・ヴェルヌ]] *[[ジョージ・ゴードン・バイロン]] *[[ジョン・レノン]] *[[チェ・ゲバラ]] *[[トーマス・エジソン]] *[[パブロ・ピカソ]] *[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]] == 関連項目 == {{Div col}} * [[児童精神医学]] * [[注意障害]] * [[神経発達症]] * [[情緒障害]] * [[衝動制御障害]]<ref>{{Cite web|和書|title=家庭内で怒りが爆発してしまうのはなぜ?:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/SDI201701187149.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2019-10-27|language=ja}}</ref><ref>「衝動性の神経心理学」加藤隆、加藤元一郎、p311-315、2009年</ref> *[[依存症]]<ref>{{Cite web|和書|title=今村明先生に「ADHD」を訊く|公益社団法人 日本精神神経学会|url=https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=39|website=www.jspn.or.jp|accessdate=2019-10-27}}</ref> * [[微細脳障害]] * [[片づけられない女たち]] * [[発達障害]] * [[精神科医]] * [[精神障害]] - [[精神保健及び精神障害者福祉に関する法律|精神保健福祉法]] - [[精神障害者保健福祉手帳]] * [[障害者福祉]] * [[障害者基本法]] * [[障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律|障害者総合支援法]] * [[障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律|障害者虐待防止法]] * [[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律|障害者差別解消法]] * [[障害者の雇用の促進等に関する法律|障害者雇用促進法]] * [[心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律|医療観察法]] * [[精神病院の用語の整理等のための関係法律の一部を改正する法律|精神病院の用語整理法]] * [[障害年金]] {{Div col end}} * {{ill2|ハンター・バーサス・ファーマー仮説|en|Hunter versus farmer hypothesis}} - ADHDは狩猟採集社会に必要とされた能力が農耕社会に適応できないためにあらわれた性質だとする仮説。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == ;診療ガイドライン :*Barkley, R. (2006). Attention-Deficit Hyperactivity Disorder, Third Edition: A Handbook for Diagnosis and Treatment (治療と研究の代表的なハンドブック。) :*{{Cite report|df=ja|publisher=世界保健機関 |title=mhGAP intervention guide for mental, neurological and substance use disorders in non-specialized health settings: mental health Gap Action Programme (mhGAP) |date=2010 |isbn=9789241548069 |url=https://apps.who.int/iris/handle/10665/44406 |ref={{SfnRef|世界保健機関|2010}} }} ( [https://hdl.handle.net/10665/44406 page=69 日本語訳]) :* {{Cite report|df=ja|publisher=[[英国国立医療技術評価機構]] |title=CG72 - Attention deficit hyperactivity disorder: Diagnosis and management of ADHD in children, young people and adults |date=July 2008 |url=http://www.nice.org.uk/guidance/cg72 |ref={{SfnRef|英国国立医療技術評価機構|2008}} }} :* ADHDの診断・治療指針に関する研究会 斉藤万比古 渡部京太 『第3版 注意欠如・多動性障害 -ADHD-の診断・治療ガイドライン』 ISBN 978-4-8407-3813-2。 :<!-- バグ回避のための行 --> ; その他 :*{{Cite book |和書 |author=岡野高明、ニキ・リンコ |year=2002 |month=12 |title=教えて私の「脳みそ」のかたち 大人になって自分のADHD、アスペルガー障害に気づく |publisher=[[花風社]] |isbn=9784907725488 |ref=}} :*{{Cite book |和書 |author=上島国利(監)、市橋秀夫(編) |year=2007 |month=02 |title=精神科臨床ニューアプローチ 1 症候から見た精神医学 |publisher=[[メジカルビュー社]] |isbn=978-4-7583-0226-5 |ref=上島国利、市橋秀夫 (2007) }} :*{{Cite report ja |author=曽良一郎 |year=2005 |url=http://www.banyu-zaidan.or.jp/symp/about/symposium_2005/seimei/sora.pdf |title=脳の発達障害ADHD はどこまでわかったか? |access-date=2011-11-12 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20111126233058/http://www.banyu-zaidan.or.jp/symp/about/symposium_2005/seimei/sora.pdf |archive-date=2011-11-12}} :* {{Cite book ja |last= ナイランド|first= デイヴィッド|translator1= 宮田敬一|translator2= 窪田文子|year= 2006|title= ADHDへの[[ナラティブセラピー|ナラティヴ・アプローチ]]:子どもと家族・支援者の新たな出発|publisher= 金剛出版|isbn= 978-4772408981|ref= {{SfnRef|ナイランド|2006}} }} :*{{Cite book|和書|author=町沢静夫 |title=「自己チュー」人間の時代 |year=2000 |month=10 |publisher=[[双葉社]] |series=双葉文庫 |isbn=978-4-575-71169-1|ref=町沢}} :*{{Cite journal|和書 |author=麦島剛 |year=2006 |month=|title=注意欠陥多動性障害 (ADHD) をめぐる動向:新たな研究法の確立に向けて |journal=福岡県立大学人間社会学部紀要 |volume=14 |issue=2 |pages=51-63 ||url=http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo14_2/1402_Mugishima.pdf |format=pdf |accessdate=2011-02-19 |ref=麦島}} :* {{Citation|和書|editor=「精神医学」編集室|date=2012-08-15|year=2012|title=DSM-5をめぐって-Dr. Allen Francesに聞く|journal=精神医学|publisher=医学書院|volume=54|issue=8|url=http://medicalfinder.jp/doi/abs/10.11477/mf.1405102246}} == 外部リンク == * [http://www.cdc.gov/ncbddd/adhd/index.html Attention-Deficit / Hyperactivity Disorder (ADHD)] - 米国CDC * [http://www.rehab.go.jp/ddis/ 発達障害情報・支援センター](国立障害者リハビリテーションセンター、日本) * [http://icedd.nise.go.jp/ 発達障害教育情報センター](独立行政法人国立特別支援教育総合研究所、日本) * [https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-04-003.html ADHD(注意欠如・多動症)の診断と治療 ](厚生労働省 e-ヘルスネット) * {{脳科学辞典|注意欠如・多動性障害}} * {{Kotobank}} {{精神と行動の障害}} {{特別支援教育}} {{言語聴覚士}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちゆういけつかんたとうせいしようかい}} [[Category:注意欠陥・多動性障害|*]] [[Category:神経発達症]] [[Category:精神医学的診断]] [[Category:特別支援教育]] [[Category:行動神経科学]]
2003-05-20T14:45:21Z
2023-12-29T04:18:06Z
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ベルンシュタインの定理
ベルンシュタインの定理(ベルンシュタインのていり、カントール=ベルンシュタイン=シュレーダーの定理、シュレーダー=ベルンシュタインの定理、カントール=ベルンシュタインの定理とも、英: Schröder–Bernstein theorem)とは、集合 A から集合 B に単射 があり、集合 B から集合 A へも単射があれば、集合 A から集合 B への全単射があるというものである。濃度においては、これは |A| ≤ |B| かつ |B| ≤ |A| ならば |A| = |B| である、ということを言っているわけで、非常に基本的な要請がこの定理によって満たされることになる。 数学ではよくあることだが、この定理は歴史的に込み入った事情を経て成立しており、歴史的経緯を正確に反映した名前を決めるのは難しい。伝統的によく用いられていた「シュレーダー=ベルンシュタイン」は1898年に独立に公刊された2つの証明の著者を反映している。一方、歴史的に最初(1895年)にこの定理の主張を初めて発表したカントールの名前が加えられたり、シュレーダーの証明には誤りが含まれていたためシュレーダーの名前は加えられなかったり、という事情がある。さらに、歴史的にこの定理を初めて証明したデデキントの名前は普通加えられていない。 時系列をまとめると次のようになる。 デデキントの2つの証明はどちらも、自身によるモノグラフ中で示された、 に相当する命題に基づくものだった。カントールはこの定理に相当する現象を1882年か83年ごろには集合論と超限数の研究の過程で(選択公理の仮定の下で、ということになるが)発見していたとされる。 集合 A と B との間に単射写像 が与えられたとする。 集合族 { C n } n ∈ N {\displaystyle \{C_{n}\}_{n\in \mathbb {N} }} を、次のように帰納的に定義する。 これらの和集合を とすると、C の補集合は g の像に含まれる。ここで、g の単射性によって式 は写像を定めているが、このh は全単射になっている。実際、x ∈ Ci, y ∈ Aで g − 1 ( y ) = f ( x ) {\displaystyle g^{-1}(y)=f(x)} が成り立つならば y ∈ Ci + 1となることから h の単射性が従う。一方、 であり、g(A) = B と から、 g − 1 ( A ∖ C ) = B ∖ f ( C ) {\displaystyle g^{-1}(A\setminus C)=B\setminus f(C)} であるが、これは h が全射であることを示している。 ベルンシュタインの定理を用いて、 [ 0 , ∞ ) {\displaystyle [0,\infty )} から ( 0 , ∞ ) {\displaystyle (0,\infty )} への全単射を構成する。 関数 f : [ 0 , ∞ ) → ( 0 , ∞ ) {\displaystyle f\colon [0,\infty )\to (0,\infty )} , g : ( 0 , ∞ ) → [ 0 , ∞ ) {\displaystyle g\colon (0,\infty )\to [0,\infty )} を f ( x ) = x + 1 {\displaystyle f(x)=x+1} , g ( x ) = x {\displaystyle g(x)=x} と定めると、どちらも単射である。 このとき、 g ∘ f ( x ) = x + 1 {\displaystyle g\circ f(x)=x+1} , ( g ∘ f ) n ( x ) = x + n {\displaystyle (g\circ f)^{n}(x)=x+n} であるから、 となる。 したがって、 g − 1 ( x ) = x {\displaystyle g^{-1}(x)=x} に注意して、関数 h : [ 0 , ∞ ) → ( 0 , ∞ ) {\displaystyle h\colon [0,\infty )\to (0,\infty )} を と定めると、 h {\displaystyle h} は [ 0 , ∞ ) {\displaystyle [0,\infty )} から ( 0 , ∞ ) {\displaystyle (0,\infty )} への全単射になる。
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'''ベルンシュタインの定理'''(ベルンシュタインのていり、'''カントール=ベルンシュタイン=シュレーダーの定理'''、'''シュレーダー=ベルンシュタインの定理'''、'''カントール=ベルンシュタインの定理'''とも、{{Lang-en-short|Schröder–Bernstein theorem}})とは、[[集合]] ''A'' から集合 ''B'' に[[単射]] があり、集合 ''B'' から集合 ''A'' へも単射があれば、集合 ''A'' から集合 ''B'' への[[全単射]]があるというものである。[[濃度 (数学)|濃度]]においては、これは |''A''| &le; |''B''| かつ |''B''| &le; |''A''| ならば |''A''| = |''B''| である、ということを言っているわけで、非常に基本的な要請がこの定理によって満たされることになる。 == 歴史 == 数学ではよくあることだが、この定理は歴史的に込み入った事情を経て成立しており、歴史的経緯を正確に反映した名前を決めるのは難しい。伝統的によく用いられていた「シュレーダー=ベルンシュタイン」は1898年に独立に公刊された2つの証明<ref>{{cite|last=Schröder| first=E. | title= Über zwei Definitionen der Endlichkeit und G. Cantor'sche Sätze| journal= Abh. Kaiserl. Leop.-Car. Akad. Naturf| volume= 71| year=1898| pages= 301-362}}</ref><ref name="borel">{{cite book|last=Borel|first= E.|title= Leçons sur la théorie des fonctions|place= Paris| publisher= Gauthier-Villars et fils|year= 1898}}</ref>の著者を反映している。一方、歴史的に最初(1895年)にこの定理の主張を初めて発表したカントールの名前が加えられたり、シュレーダーの証明には誤りが含まれていた<ref>{{cite|last=Korselt|first= A.|title= Über einen Beweis des Äquivalenzsatzes| journal= Math. Ann.| volume= 70 |year=1911| pages= 295-296|doi=10.1007/BF01461161}} </ref>ためシュレーダーの名前は加えられなかったり、という事情がある。さらに、歴史的にこの定理を初めて証明したデデキントの名前は普通加えられていない。 時系列をまとめると次のようになる。 * 1887年 [[リヒャルト・デデキント]]がこの定理を証明する<ref>{{cite book| first=R.| last=Dedekind|title= Gesammelte Werke III|place= Braunschweig|year= 1932}}</ref>が発表せず * 1895年 [[ゲオルク・カントール]]の最初の集合論と超限数の論文<ref>{{cite|first=G.| last=Cantor| title=Beiträge zur Begründung der transfiniten Mengenlehre I| journal= Math. Ann.|volume=46 |year= 1895|pages= 481–512|doi=10.1007/BF02124929}}</ref>に基数の比較可能性の帰結としてこの定理の主張が述べられる * 1896年 [[エルンスト・シュレーダー]]が証明を発表する<ref>{{cite|last=Schröder|first= E.|title= Über G. Cantor'sche Sätze |journal= Jahresbericht der Deutschen Mathematiker-Vereinigung| volume= 5 | year=1896|pages= 81-82}}</ref> * 1897年 カントールのセミナーに参加していた学生だった[[フェリックス・ベルンシュタイン]]が証明を付ける * 1897年 ベルンシュタインの訪問を受けた後でデデキントが独立に2つ目の証明を見つける * 1898年 [[エミール・ボレル]]の著書<ref name="borel" />の中で(1897年にチューリッヒでカントールから教わった)ベルンシュタインの証明が述べられる デデキントの2つの証明はどちらも、自身によるモノグラフ<ref>{{cite book|last=Dedekind| first=R. |title=Was sind und was sollen die Zahlen? |year=1893 |place=Braunschweig}}</ref>中で示された、 : <math> A \subset B \subset C, | A | = | C | \Rightarrow | A | = | B | = | C | </math> に相当する命題に基づくものだった。カントールはこの定理に相当する現象を1882年か83年ごろには集合論と超限数の研究の過程で(選択公理の仮定の下で、ということになるが)発見していたとされる。 ==証明== 集合 ''A'' と ''B'' との間に単射写像 :<math>f \colon A \to B,\ g \colon B \to A</math> が与えられたとする。 集合族 <math>\{ C_n \}_{n \in \mathbb{N}}</math> を、次のように帰納的に定義する。 :<math> C_0 := A \setminus g(B), </math> :<math> C_{n+1} := g( f( C_n ) ) </math> これらの和集合を :<math>C = \bigcup_{n \in \mathbb{N}} C_n</math> とすると、''C'' の補集合は ''g'' の像に含まれる。ここで、''g'' の単射性によって式 :<math>h(x) = \begin{cases} f(x)& \text{if }x \in C \\ g^{-1}(x)& \text{if } x \notin C \end{cases}</math> は写像を定めているが、この''h'' は全単射になっている。実際、''x'' &isin; ''C''<sub>''i''</sub>, ''y'' &isin; ''A''で <math>g^{-1}(y) = f(x)</math> が成り立つならば ''y'' &isin; ''C''<sub>''i'' + 1</sub>となることから ''h'' の単射性が従う。一方、 :<math>g^{-1}(A\setminus C) = g^{-1}(A)\setminus g^{-1}(C)</math> であり、''g''<sup>-1</sup>(''A'') = ''B'' と :<math>\quad g^{-1}(C) = g^{-1}(C \setminus C_0) = \cup_{i=1}^\infty g^{-1}(C_i) = \cup_{i=1}^\infty g^{-1}(g (f (C_{i-1}))) = \cup_{i=0}^\infty f(C_i) = f(C)</math> から、<math>g^{-1}(A \setminus C) = B \setminus f(C)</math>であるが、これは ''h'' が全射であることを示している。 ==例== ベルンシュタインの定理を用いて、 <math>[0, \infty)</math> から <math>(0, \infty)</math> への全単射を構成する。<br /> 関数 <math>f\colon [0, \infty) \to (0, \infty)</math>, <math> g\colon (0, \infty) \to [0, \infty)</math> を <math>f(x)=x+1</math>, <math>g(x)=x</math> と定めると、どちらも単射である。<br /> このとき、<math>g\circ f(x)=x+1</math>, <math>(g\circ f)^n(x)=x+n</math> であるから、 :<math>\bigcup_{n \in \mathbb{N}}(g\circ f)^n([0, \infty)\setminus g((0, \infty)))=\bigcup_{n \in \mathbb{N}}(g\circ f)^n([0, \infty)\setminus (0, \infty))=\bigcup_{n \in \mathbb{N}}(g\circ f)^n(\{0\})=\bigcup_{n \in \mathbb{N}}\{n\}=\mathbb{N}</math> となる。<br /> したがって、 <math>g^{-1}(x)=x</math> に注意して、関数 <math>h\colon [0, \infty) \to (0, \infty)</math> を :<math>h(x) = \begin{cases} x+1& \text{if }x \in \mathbb{N}\\ x& \text{if } x \notin \mathbb{N} \end{cases}</math> と定めると、<math>h</math> は <math>[0, \infty)</math> から <math>(0, \infty)</math> への全単射になる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|マーティン・アイグナー|en|Martin Aigner}}|coauthors={{仮リンク|ギュンター・ツィーグラー|en|Gunter M. Ziegler}}|others=[[蟹江幸博]] 訳|origdate=2002-12|date=2012-09|title=天書の証明|edition=縮刷版|publisher=丸善出版|isbn=978-4-621-06535-8|url=http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621065358.html|ref={{Harvid|アイグナー|ツィーグラー|2012}}}} - 原タイトル:''Proofs from The Book''。 *{{citation|mr=3026479|last=Hinkis|first= Arie |title=Proofs of the Cantor-Bernstein theorem. A mathematical excursion|series= Science Networks. Historical Studies |volume= 45|publisher= Birkhäuser/Springer|place= Heidelberg|year= 2013 |isbn= 978-3-0348-0223-9|url=http://link.springer.com/book/10.1007/978-3-0348-0224-6/page/1|doi=10.1007/978-3-0348-0224-6 }} == 関連項目 ==<!--項目の50音順--> *{{仮リンク|可測空間のシュレーダー=ベルンシュタインの定理|en|Schröder–Bernstein theorem for measurable spaces}} *{{仮リンク|作用素環のシュレーダー=ベルンシュタインの定理|en|Schröder–Bernstein theorems for operator algebras}} *{{仮リンク|シュレーダー=ベルンシュタインの性質|en|Schröder–Bernstein property}} *{{仮リンク|マイヒルの同型定理|en|Myhill isomorphism theorem}} == 外部リンク == *{{Kotobank|ベルンシュタインの定理|2=法則の辞典}} *{{MathWorld|title=Schröder-Bernstein Theorem|urlname=Schroeder-BernsteinTheorem}} *{{nlab|id=Cantor-Schroeder-Bernstein+theorem|title=Cantor-Schroeder-Bernstein theorem}} {{集合論}} {{DEFAULTSORT:へるんしゆたいん}}<!--カテゴリの50音順--> [[Category:基数]] [[Category:数学基礎論の定理]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数学のエポニム]]
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スプンタ・マンユ
スプンタ・マンユ (Spənta Mainyu) は、ゾロアスター教に於いて崇拝される善神アムシャ・スプンタの筆頭で、「創造」を司るとされる。その名はアヴェスター語で「聖なる霊」を意味する。 創世神話によれば、世界の始まりの時、スプンタ・マンユはもう一人の創造神アンラ・マンユと出会ったという。そして、スプンタ・マンユは世界の二大原理のうち「善」を、アンラ・マンユは「悪」を選択し、それぞれの原理に基づいて万物を創造した。 我々が存在しているこの現実世界は、スプンタ・マンユとアンラ・マンユの被造物が混じり合い、互いに戦い合う「善と悪との戦場」である。 中世以降は最高神アフラ・マズダーと同一視される。
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スプンタ・マンユ は、ゾロアスター教に於いて崇拝される善神アムシャ・スプンタの筆頭で、「創造」を司るとされる。その名はアヴェスター語で「聖なる霊」を意味する。 創世神話によれば、世界の始まりの時、スプンタ・マンユはもう一人の創造神アンラ・マンユと出会ったという。そして、スプンタ・マンユは世界の二大原理のうち「善」を、アンラ・マンユは「悪」を選択し、それぞれの原理に基づいて万物を創造した。 我々が存在しているこの現実世界は、スプンタ・マンユとアンラ・マンユの被造物が混じり合い、互いに戦い合う「善と悪との戦場」である。 中世以降は最高神アフラ・マズダーと同一視される。
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白銅
白銅(はくどう、cupronickel)は、銅を主体としニッケルを10%から30%含む合金である。 ニッケルの含有比率には多少ばらつきがあるものの、含有量の多いものについては銀に似た白い輝きを放つので、銀の代用品として貨幣などに使われる。一例として、昭和30年代頃は銀貨だった100円硬貨は、その後の銀価格高騰を受け、1967年(昭和42年)より、50円硬貨とともに白銅製に切り替えられ、現在に至る。 日本の100円硬貨、50円硬貨、初代500円硬貨は Cu75%-Ni25% の白銅である(2代目500円硬貨と3代目(現行)500円硬貨の外縁部分は銅・亜鉛・ニッケルの合金であるニッケル黄銅製)。なお、3代目500円硬貨の中心部分にも、白銅が用いられている。 世界的に銀貨が一般流通用に見られなくなった現代社会においては、青銅が低額硬貨に用いられるのに対し、白銅は高額硬貨に多く用いられる。 また、海水に対する耐食性が高く、海水淡水化の設備や船舶関連の部品に多く使用されている。 展性に優れるので小銃の薬莢に用いられる。黄銅製のものに比べはるかに薄くできるので航空機搭載の機銃の薬莢に使われた。現在ではピストルの薬莢にも使われている。 日本語の「白銅」の語は、ニッケルが日本で使われるようになった明治以前は、銅と錫の合金(青銅)のうち錫の含有量の多い白銀色のものを指していた。古代の銅鏡は、その原義の「白銅」を素材とするものが多かった。
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白銅(はくどう、cupronickel)は、銅を主体としニッケルを10%から30%含む合金である。
{{Otheruses|金属の白銅|企業の白銅|白銅 (企業)}} [[ファイル:100JPY.JPG|thumb|right|250px|[[百円硬貨]]。銅75%、ニッケル25%の白銅製。]] '''白銅'''(はくどう、cupronickel)は、[[銅]]を主体とし[[ニッケル]]を10%から30%含む[[合金]]である。 == 特徴 == ニッケルの含有比率には多少ばらつきがあるものの、含有量の多いものについては[[銀]]に似た白い輝きを放つので、銀の代用品として[[貨幣]]などに使われる。一例として、[[昭和]]30年代頃は[[銀貨]]だった100円硬貨は、その後の銀価格高騰を受け、[[1967年]](昭和42年)より、50円硬貨とともに白銅製に切り替えられ、現在に至る。 日本の[[百円硬貨|100円硬貨]]、[[五十円硬貨|50円硬貨]]、初代[[五百円硬貨|500円硬貨]]は Cu75%-Ni25% の白銅である(2代目500円硬貨と3代目(現行)500円硬貨の外縁部分は銅・亜鉛・ニッケルの合金である[[洋白|ニッケル黄銅]]製)。なお、3代目500円硬貨の中心部分にも、白銅が用いられている。 世界的に[[銀貨]]が一般流通用に見られなくなった現代社会においては、[[青銅]]が低額硬貨に用いられるのに対し、白銅は高額硬貨に多く用いられる。 また、[[海水]]に対する耐食性が高く、[[海水淡水化]]の設備や船舶関連の部品に多く使用されている。 展性に優れるので[[小銃]]の[[薬莢]]に用いられる。[[黄銅]]製のものに比べはるかに薄くできるので[[航空機]]搭載の[[機関銃|機銃]]の薬莢に使われた。現在では[[ピストル]]の薬莢にも使われている。 日本語の「白銅」の語は、ニッケルが日本で使われるようになった明治以前は、銅と[[錫]]の合金([[青銅]])のうち錫の含有量の多い白銀色のものを指していた。古代の[[銅鏡]]は、その原義の「白銅」を素材とするものが多かった。 == 画像 == <gallery> ファイル:50JPY.JPG|50円白銅貨 ファイル:500yen-S57.jpg|500円白銅貨(初代500円硬貨) </gallery> == 関連項目 == *[[黄銅]](銅と亜鉛の合金) *[[洋白]](銅と亜鉛とニッケルの合金) *[[青銅]](銅と錫の合金) * [[モネル]] {{デフォルトソート:はくとう}} [[Category:銅合金]] [[Category:ニッケル]]
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超心理学
本記事では超心理学(ちょうしんりがく、parapsychology)について解説する。 日本超心理学会によれば、超心理学は、未だに物理的には説明がつかない、心と物あるいは心同士の相互作用を科学的な方法で研究する学問だとされる。リン・ピクネットの書籍では、既知の自然の法則では説明できない現象を研究する学問、としている。 羽仁礼は、超心理学とは、いわゆる超能力を研究対象とするものだと説明した。具体的な研究対象は、基本的にはESP (extra-sensory perception) とサイコキネシス(念力)だとされる。前者には、テレパシー、予知、透視などが含まれる。ただし実際には、超心理学は臨死体験や体外離脱、前世記憶、心霊現象をも研究対象に含む場合もある。 研究対象は超自然的なものであるが、(各国の)超心理学会などでは「方法論は実験心理学の規範に準拠する」としている。被験者の割付けやデータの統計学的検定といった研究計画については通常の実験心理学よりもかなり厳密に行われており、追試が可能な形で行うことを目指す、あるいは実際に行うというものである。日本超心理学会は、その存在の有無や仕組みを、科学的手法に基づき、特に行動科学の手法を用いて明らかにしようとしている、としている。 ただし、この学問に対する評価には幅があり、「科学と認められる」とする者、「科学的なものとしては認めるが心理学ではない」とする者、「研究対象となるべき現象(超感覚的知覚能力など)がそもそも存在しない」とする者、「疑似科学の範疇」とする者など、様々である。だが、欧米の有名大学において博士号を授与されてきたという点で、超心理学は、超常現象・心霊現象に関する研究の中では最も科学的でアカデミックな色彩が強い分野である、と羽仁礼は解説した。 J・B・ラインとその弟子たちら、超心理学の創成期の人々が残した華々しい研究成果は、その後に実験条件を厳しくされたことによって、次々と否定されるに至った、ともされ、また、その後新しい手法が開発されると、偶然の期待値を上回る好結果が発表されるが、それがやがて否定される、ということが繰り返されており、超心理学者らは現在でも研究の対象がそもそも実在することを証明することにかなりの労力を費やしている、と羽仁礼は指摘した。 日本では、広義の超心理学が「サイ科学」と呼ばれることがあるが、サイ科学はオカルト的な要素も含むため、超心理学とは分けて考えるべきだとする見解もある。 「超心理学」は「心霊研究」(psychical research)として知られていた。 英国では1882年に心霊現象研究協会が設立され、テレパシー、メスメリズム、霊媒、幽霊、幽霊屋敷などの研究が行われた。この英国の協会をモデルとして、アメリカ心霊研究協会(1885年)、デンマークの心霊研究協会(1905年)などをはじめとする組織が各国につくられた。 歴史的にはジェームズ、フロイト、ユング、ウィリアム・マクドゥーガル、アイゼンクといった者たちも超心理学に関わることもあった。 「超心理学」という言葉が造語されたのは1889年のことであり、ドイツの美学者あるいは心理学者マックス・デソワール (Max Dessoir)によるものである。 一般に、「parapsychology」(超心理学)という用語が広く使われるようになったのは、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ダラムのデューク大学に超心理学研究室が設置され、1927年にスコットランド出身の心理学者ウィリアム・マクドゥーガル(英語版)が教授として迎えられ、同年にJ・B・ラインとその妻ルイザも参加したことにより、ラインがこの「超心理学」という用語を広めたとされる。ラインは、「超心理学の父」ともされる。ラインは後に自ら創設した超心理学研究室の主任となった。 1930年には、この超心理学の実験作業が本格的にスタートした。 J・B・ラインの計画は、千里眼、テレパシー、予知、サイコキネシスなどの「霊能力」が、管理された研究室の条件下で、著名な演技者を使わなくても実演可能であることを示すことだった、という。そこで、まず心霊調査を信頼できる学問とする作業に着手したといわれ、1934年に発行された著書『超感覚的知覚』は広く読者を獲得し、「ESP」という用語を一般に知られるものとした、という。 ラインのゼナー・カードを使った実験結果のなかに顕著に目立つものがあった。ラインの実験はいたるところで再現され、1938年には『超心理学雑誌』が創刊され、新しい学問分野が出現しつつあるように思われた。 ラインの助手のベティ・ハンフリーは、テストの結果は、開始時が最も良く、次第に下降し、テストを続行すると再度上昇に転ずる、ということを発見した。これは「U曲線」「低下効果」「退屈要因」などと呼ばれるようになったといわれ、超心理学の分野では再現可能な最初の発見事項とされている、という。 また、ニューヨークの超心理学者ガートルード・シュマイドラーは「山羊・羊効果」を発見した、とされる。これは、ESPを信じる被験者は、信じない被験者に比較すると、良好な結果を出す傾向がある、という内容のものである。(→#ヤギ・羊効果) 1957年には、超心理学研究の水準を引き上げることを目的として、アメリカ合衆国で超心理学会(超心理学協会、PA)が結成された。この学会は、世に認められている通常の学問分野と同様に、査読制度を採用した専門誌を発行している。 1965年、ラインが退職し、この超心理学研究室は現在は大学からは独立した超心理学研究所として存在している、というが、ラインが主導して1957年に設立された「超心理学協会」は、1969年に米国科学振興協会の下部機関に認定された。 J・B・ラインの後に、様々な手法が開発された。例えば、ラインが用いたゼナー・カードに代わって、「無作為事象生成装置」というものが超心理学研究室の標準的な装置になった、という。しかし、何十年も続いた彼の研究は、その後継者でデューク大学研究センターの所長だった者が1974年に実験結果を握造したことを理由に告発されるにおよんで大きく失墜した。 物理学者のヘルムート・シュミット (物理学者)(英語版)が、放射性崩壊のような予測不能の物理現象に対するサイコキネシスの効果を検知する可能性を示し、これはプリンストン大学のロバート・ジャンをチーフとする研究チームによって正しく再現された、ともされる。 現代の超心理学実験は非常に巧緻を極めており、その方法論も大変進んできている。 上記の米国や欧州とは文脈が大きく異なるが、日本では、福来友吉(1869–1952)が、心霊研究や超心理学の草分けとなったとされ、東京帝国大学の助教授時代に、御船千鶴子の存在を知り、またその後、長尾郁子の研究を行った、とされる。 現在の日本では、日本超心理学会(初代会長:故小熊虎之助明治大学教授→二代目会長:大谷宗司防衛大学校心理学名誉教授)や日本サイ科学会(創立者:故関英男/会長:佐々木茂美電気通信大学名誉教授)において、行動科学から認知心理学、さらには素粒子物理学を基にした検証や論究が継続されている。 米国において超心理学の専門の学部を備えた大学は、カリフォルニア州オリンダのジョン・F・ケネディ大学(英語版)1校である、という。ただし心理学部の大学院課程で研究が継続できる大学が、J・F・ケネディ大学以外に数校ある、という。 イギリスにおいては、(1983年以前には)エディンバラ大学、サレー大学(英語版)、アストン大学(英語版)の3大学において、個人ベースで超心理学の大学院教科研究が提供され、数名の心理学部の学生が心霊現象の研究論文で博士号の学位を取得した、とされる。そして、1983年にアーサー・ケストラーの遺書により、遺産70万ポンドが、イギリス初の超心理学部の創設のために寄託された。オックスフォード大学はその寄附を拒み、これに対してエディンバラ大学とカーディフ大学が名乗りを上げた。結局、この学部は「ケストラー記念超心理学部」と名づけられ、エディンバラ大学に設置された。1985年にロバート・L・モリスが初代の主任教授に任命された。 ヨーロッパでは、イギリス以外にオランダのユトレヒト大学でも超心理学研究室が設置されたが、同研究室が閉鎖された後では、エディンバラの超心理学部がヨーロッパでは唯一の専門学部だとされる。 日本の大学には超心理学を専門とする学部や学科は存在しないが、明治大学情報コミュニケーション学部では、教授の石川幹人や准教授の蛭川立らが超心理学的な研究も行っており、同大学院ではそのような研究で博士号を取得することが可能だとされる。 マイケル・フリードランダーは、概観すると超常現象が実在すると頑固に信じている人と、実在を頭から一切否定する人に、真っ二つに分かれていると指摘した。 この両者の中間地帯に、比較的人数が少ない、第三のグループが存在していて、超常現象に関する主張を検討するにはやぶさかでないという姿勢で実験に勤しんでいる。 この第三のグループも、さらに二派に分かれているように見えると述べられることがあり、片方の派は、非常に懐疑的であるものの、厳密で科学的な対照標準を持ち込んで実験や研究を行っている。この人たちは、今でも中立的な姿勢を守っており結論を出していないが、(超常現象の実在の立証に関して)成果と呼べるようなものは今日まで提出していないと言う。 もうひとつの派は、上記の派とは鏡像のような関係にあり、現代科学のテクニックを大いに活用しているものの、超常現象を共感をもって受け入れたがっていて、実験の対象に(上記の派に比べて)より思いやりがあり、また自身の過ちにも寛容であるように見える、と述べた。 研究者の態度について、石川幹人明治大学教授は、公開サイト「超心理学講座」の「超心理学における7つの誤解」では、「(超心理学者は)信奉は棚上げにして、経験的事実にもとづいた研究を行なっている。超心理学者のなかには、懐疑論者も多くいる。当然、霊魂の存在などを前提とすることはない。」とした。 この種の研究でもっとも有名なのは、ジョゼフ・ラインが行なったテレパシーあるいは「超感覚的知覚」(ESP)の研究である。ラインの方法の一つはボランティアを集め、特別なカード(ゼナー・カード)のなかから、ランダムに一枚を選んで伏せ、それがどんな図柄のカードか、被験者に当てさせることであった。この研究は統計学の見地からも難癖のつけようがない結果を出した、といわれる。例えば、実験対象者の一部は普通に予想される5回以上の的中率を反復的に実現することを示した、という。その一方で、ラインの実験結果のほとんどに批判が寄せられている、ともされる。ただし批判があるにせよ、「霊」の存在の介在を排した形での超能力研究を確立した意味で、ラインの功績は評価されるべきだ、ともされる。 ロバート・ジャンやチャールズ・ホノートンなどといった人々が行っている現代の実験では、被験者が実験装置から感覚的な手がかりを得たりしないように、電子機器やコンピュータによる乱数、地球にランダムに降り注ぐ宇宙線などを利用して標的の選択を自動化している。 ロバート・ジャンとその協力者らによって、プリンストン大学工学部の変則現象調査研究所で行われた実験は、ランダムに選ばれる数列に対して、精神が何らかの影響を与えられるのではないかという可能性を測定するために、大規模テストを自動的に行う電子装置を設計し、被験者らは、選ばれた数値を大きくしたり小さくしたりするように求められた。ジャンの実験のサンプル数、試行回数はきわめて大きかった。例えば、平均値の予想が100.00となるテストを、55000回試行し、ある被験者はスコアを上げようと努力した時の平均は100.082に、逆に下げようとしたときには平均が99.86になったと報告された。 (この実験についても、批判者たちは例によって、実験手続きや統計分析を微に入り細に穿って検証し、懸念を表明した) スタンフォード研究所(SRI)に在籍していた科学者、ラッセル・ターグ(英語版)とハロルド・パソフ(英語版)は、遠くの情景を叙述できると述べるユリ・ゲラーの透視能力をテストした。ゲラーから数百マイル離れたテストの現場へ出かけ、ゲラーは前もって決められていた時間に、遠く離れた場所にいる実験者のまわりの景色がどうなっているか言葉や絵で描写した。パソフとターグは、描写を採点するシステムを考案した。論文を書き上げ、査読制度がある科学雑誌「ネイチャー」に投稿し、それが掲載されるという栄誉を受けた。(だが、絵の同定方法や実験手続きが批判を受けた。) ケストラー記念超心理学部の主任教授であったロバート・モリスは、チャールズ・ホノートン(英語版)と合流し、ホノートンはガンツフェルト実験(英語版)を開発した。(ガンツフェルトとは「全体野」を意味する)。ガンツフェルト実験では、被験者の目はアイマスクで覆われ、耳にはイヤホンを付け、ホワイトノイズが流される。被験者の全感覚、すなわち全体野への入力がどれも遮断されるのである。こうして世界から感覚的に隔絶した状態で被験者は隣の部屋で一連の絵を眺めている実験者からの情報を受け取ろうと試みる。この実験を何千回も繰り返すことによって、期待される確率よりもほんの少しだけ正しく有意な予知ができるという結果が得られたと言われている。ホノートンが厳密に練り上げた研究プログラムは、ホノートンが1991年に亡くなった後も続けられているとも言われている。 小久保秀之、笠原敏雄らが、1990年代に日本で行われた研究についてまとめている。 超心理学における実験では、以下の要因が重要とされている。 超心理学実験の得点は、超心理現象を信じる者(ヒツジ)が被験者の時は高く、超心理現象を信じない者(ヤギ)が被験者の時は低い傾向がある。この現象は偶然には1万分の1未満の確率でしか起きないにもかかわらず、集合実験でも個別実験でも検出された。この効果はジョン・パーマー、ガートルード・シュマイドラー、T・R・ローレンスなどの超心理学者らの実験によって検出された。パーマーによれば、実験が成功するという状況に被験者が「心理的快適さ」を感じていた場合、ターゲットを当てやすいとされる。 全く同一の実験であっても、実験者がだれであるかにより結果に違いが出ることがある。これを実験者効果と呼ぶ。「ヤギ・羊効果」は被験者側の信念が影響する例であるが、実験者側の信念も実験に影響することが広く知られている。 懐疑論者のリチャード・ワイズマンと超心理学者のマリリン・シュリッツが実験者効果を調べる実験を行ったところ、全く同じ条件の実験であるに関わらず、シュリッツが行った実験のみに優位な結果が得られた。ガートルード・シュマイドラーの実験では「独善的で冷たく自信過剰」な印象の実験者の結果が失敗しやすいという結果が出た。また実験者の妻が入院している期間のみ著しくスコアが低いという結果が出た実験なども見られる。 自発的想像傾向とは「心のうちに自然に現れるイメージを積極的に求め、重要視する傾向」のことである。ジョン・パーマーの実験によれば、自発的想像傾向はESPが発揮されるについて重要な性格傾向であるとされる。こうした傾向を持つ被験者が、社会心理的に快適な状況の実験に参加すれば成功しやすいとされる。またフィオナ・シュタインカンプの実験では「外向性が高く、神経質傾向が低く、知能が高い」被験者はESP得点が高い傾向が見られた。そうした被験者は社会心理的快適さを得やすいため、と考えられる。 「超心理学の実験では学者によって"でっちあげ"が行われている」といった批判的な見解を示す人もいた。「レヴィ事件」や「ソール事件」など、歴史上そうした事件は存在した。しかし、1970年代後半以降の超心理学上のデータについては(ガンツフェルト実験のメタ分析の結果)でっちあげ説は当てはまらない、とされる。 超心理学を批判する者からは「お蔵入り効果」が生じている可能性が指摘されることがあった。「お蔵入り効果」とは、(超心理学に限らず自然科学の実験全般で起きる可能性があるもので)研究者が望みの結果ではない実験("失敗"の実験)は報告せず「お蔵入り」にしてしまい、望み通りの結果が出た実験のほうばかりを報告すると基礎データに偏りが生じ、結論にも影響する、ということである。この問題は超心理学で初期から指摘されていたが、1974年からガンツフェルト実験のメタ分析(複数の研究報告をまとめて、全体の傾向を分析する手法)が発展するにつれ、これらの実験でこの効果が生じている可能性は否定されるに至った。メタ分析の結果、失敗した実験もお蔵入りされることなく報告されている状況が判明したのである。 超心理学では、いわゆる「心霊現象」や臨死体験などの理解のしかたに関して、いくつかの仮説がある。 超ESP仮説では「死後生や霊魂の存在の証拠とされる心霊現象も、ESPや超能力によるものだと見なすことで、霊魂を想定しなくても説明可能になる」とする。これと対立するサバイバル仮説では「肉体の死後も何らかの存在が存続し続けていてそれが様々な超常現象を引き起こしている」とする。 ロバート・キャロルは『懐疑論者の辞典』(査読を欠いた、ロバート・キャロルによる個人的な本・サイト)において「審読制のある超心理学の専門誌も少なくとも6誌ある。しかし、この研究分野の特徴は詐欺や欺瞞である。きちんと比較実験を立案して、統計データを解析する能力にも欠けている。」と述べた。また、「スーザン・ブラックモアのように、何年たっても超常現象の有意に支持する結果が見つからず、研究をあきらめてしまった超心理学者もいる」と書いた。 また肯定的結果を得たと主張する超心理学者が、サイの存在を支持しない研究結果をわざと無視して自分の研究結果を正当化してしまうことも多い、とし、ラインも自分の信念を支持しないデータは理由を付けて捨てていた、とした。(→#お蔵入り効果) 超心理学研究にあえて足を踏み入れていった科学者たちは、別に奇人変人というわけでもなく、疑似科学者だったというわけでもない。例えば、ピーター・フィリップスは見識ある物理学者であったし、テイラーは現代物理学に関する多くの啓蒙書を著したことでよく知られており、ロンドンのキングス・カレッジに講座ももっている。ロバート・ジャン (Robert G. Jahn)は、プリンストン大学の工学部で教授を務めている人物である。 これらの人物をはじめとする科学者らにとって、超常現象は、対象として扱い始めた時は、現代科学で用いられている実験方法によって解決可能な問題に見えていた。そう見えたにもかかわらず、成果らしい成果を出すには至らなかったとも言われているのである。 大部分の科学者は、超常現象に関する研究は、(研究者として)実りが無いと見なしている。ただし、すでに終身在職制度で自身の地位が守られている場合は、テーマに人気があろうがなかろうが、自由に研究課題が選べる。 しかし、将来の教授のポジションや終身在職権を狙っている学者が、超常現象の研究を行うことでそれを得るというようなことは非常に困難である。明治大学の石川幹人は、超心理学の周辺の学問(心理学等々)の学位を取得しその分野の研究者の職を得た上で超心理学の研究を行うことをひとつの方法として勧めた。
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"title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "上記の米国や欧州とは文脈が大きく異なるが、日本では、福来友吉(1869–1952)が、心霊研究や超心理学の草分けとなったとされ、東京帝国大学の助教授時代に、御船千鶴子の存在を知り、またその後、長尾郁子の研究を行った、とされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "現在の日本では、日本超心理学会(初代会長:故小熊虎之助明治大学教授→二代目会長:大谷宗司防衛大学校心理学名誉教授)や日本サイ科学会(創立者:故関英男/会長:佐々木茂美電気通信大学名誉教授)において、行動科学から認知心理学、さらには素粒子物理学を基にした検証や論究が継続されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "米国において超心理学の専門の学部を備えた大学は、カリフォルニア州オリンダのジョン・F・ケネディ大学(英語版)1校である、という。ただし心理学部の大学院課程で研究が継続できる大学が、J・F・ケネディ大学以外に数校ある、という。", "title": "研究室や学部の設置状況 等" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "イギリスにおいては、(1983年以前には)エディンバラ大学、サレー大学(英語版)、アストン大学(英語版)の3大学において、個人ベースで超心理学の大学院教科研究が提供され、数名の心理学部の学生が心霊現象の研究論文で博士号の学位を取得した、とされる。そして、1983年にアーサー・ケストラーの遺書により、遺産70万ポンドが、イギリス初の超心理学部の創設のために寄託された。オックスフォード大学はその寄附を拒み、これに対してエディンバラ大学とカーディフ大学が名乗りを上げた。結局、この学部は「ケストラー記念超心理学部」と名づけられ、エディンバラ大学に設置された。1985年にロバート・L・モリスが初代の主任教授に任命された。 ヨーロッパでは、イギリス以外にオランダのユトレヒト大学でも超心理学研究室が設置されたが、同研究室が閉鎖された後では、エディンバラの超心理学部がヨーロッパでは唯一の専門学部だとされる。", "title": "研究室や学部の設置状況 等" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日本の大学には超心理学を専門とする学部や学科は存在しないが、明治大学情報コミュニケーション学部では、教授の石川幹人や准教授の蛭川立らが超心理学的な研究も行っており、同大学院ではそのような研究で博士号を取得することが可能だとされる。", "title": "研究室や学部の設置状況 等" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "マイケル・フリードランダーは、概観すると超常現象が実在すると頑固に信じている人と、実在を頭から一切否定する人に、真っ二つに分かれていると指摘した。 この両者の中間地帯に、比較的人数が少ない、第三のグループが存在していて、超常現象に関する主張を検討するにはやぶさかでないという姿勢で実験に勤しんでいる。 この第三のグループも、さらに二派に分かれているように見えると述べられることがあり、片方の派は、非常に懐疑的であるものの、厳密で科学的な対照標準を持ち込んで実験や研究を行っている。この人たちは、今でも中立的な姿勢を守っており結論を出していないが、(超常現象の実在の立証に関して)成果と呼べるようなものは今日まで提出していないと言う。 もうひとつの派は、上記の派とは鏡像のような関係にあり、現代科学のテクニックを大いに活用しているものの、超常現象を共感をもって受け入れたがっていて、実験の対象に(上記の派に比べて)より思いやりがあり、また自身の過ちにも寛容であるように見える、と述べた。", "title": "研究者の態度のマッピング" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "研究者の態度について、石川幹人明治大学教授は、公開サイト「超心理学講座」の「超心理学における7つの誤解」では、「(超心理学者は)信奉は棚上げにして、経験的事実にもとづいた研究を行なっている。超心理学者のなかには、懐疑論者も多くいる。当然、霊魂の存在などを前提とすることはない。」とした。", "title": "研究者の態度のマッピング" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この種の研究でもっとも有名なのは、ジョゼフ・ラインが行なったテレパシーあるいは「超感覚的知覚」(ESP)の研究である。ラインの方法の一つはボランティアを集め、特別なカード(ゼナー・カード)のなかから、ランダムに一枚を選んで伏せ、それがどんな図柄のカードか、被験者に当てさせることであった。この研究は統計学の見地からも難癖のつけようがない結果を出した、といわれる。例えば、実験対象者の一部は普通に予想される5回以上の的中率を反復的に実現することを示した、という。その一方で、ラインの実験結果のほとんどに批判が寄せられている、ともされる。ただし批判があるにせよ、「霊」の存在の介在を排した形での超能力研究を確立した意味で、ラインの功績は評価されるべきだ、ともされる。", "title": "研究・実験の例" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ロバート・ジャンやチャールズ・ホノートンなどといった人々が行っている現代の実験では、被験者が実験装置から感覚的な手がかりを得たりしないように、電子機器やコンピュータによる乱数、地球にランダムに降り注ぐ宇宙線などを利用して標的の選択を自動化している。", "title": "研究・実験の例" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ロバート・ジャンとその協力者らによって、プリンストン大学工学部の変則現象調査研究所で行われた実験は、ランダムに選ばれる数列に対して、精神が何らかの影響を与えられるのではないかという可能性を測定するために、大規模テストを自動的に行う電子装置を設計し、被験者らは、選ばれた数値を大きくしたり小さくしたりするように求められた。ジャンの実験のサンプル数、試行回数はきわめて大きかった。例えば、平均値の予想が100.00となるテストを、55000回試行し、ある被験者はスコアを上げようと努力した時の平均は100.082に、逆に下げようとしたときには平均が99.86になったと報告された。 (この実験についても、批判者たちは例によって、実験手続きや統計分析を微に入り細に穿って検証し、懸念を表明した)", "title": "研究・実験の例" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "スタンフォード研究所(SRI)に在籍していた科学者、ラッセル・ターグ(英語版)とハロルド・パソフ(英語版)は、遠くの情景を叙述できると述べるユリ・ゲラーの透視能力をテストした。ゲラーから数百マイル離れたテストの現場へ出かけ、ゲラーは前もって決められていた時間に、遠く離れた場所にいる実験者のまわりの景色がどうなっているか言葉や絵で描写した。パソフとターグは、描写を採点するシステムを考案した。論文を書き上げ、査読制度がある科学雑誌「ネイチャー」に投稿し、それが掲載されるという栄誉を受けた。(だが、絵の同定方法や実験手続きが批判を受けた。)", "title": "研究・実験の例" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ケストラー記念超心理学部の主任教授であったロバート・モリスは、チャールズ・ホノートン(英語版)と合流し、ホノートンはガンツフェルト実験(英語版)を開発した。(ガンツフェルトとは「全体野」を意味する)。ガンツフェルト実験では、被験者の目はアイマスクで覆われ、耳にはイヤホンを付け、ホワイトノイズが流される。被験者の全感覚、すなわち全体野への入力がどれも遮断されるのである。こうして世界から感覚的に隔絶した状態で被験者は隣の部屋で一連の絵を眺めている実験者からの情報を受け取ろうと試みる。この実験を何千回も繰り返すことによって、期待される確率よりもほんの少しだけ正しく有意な予知ができるという結果が得られたと言われている。ホノートンが厳密に練り上げた研究プログラムは、ホノートンが1991年に亡くなった後も続けられているとも言われている。", "title": "研究・実験の例" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "小久保秀之、笠原敏雄らが、1990年代に日本で行われた研究についてまとめている。", "title": "研究・実験の例" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "超心理学における実験では、以下の要因が重要とされている。", "title": "実験結果に関わる要因" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "超心理学実験の得点は、超心理現象を信じる者(ヒツジ)が被験者の時は高く、超心理現象を信じない者(ヤギ)が被験者の時は低い傾向がある。この現象は偶然には1万分の1未満の確率でしか起きないにもかかわらず、集合実験でも個別実験でも検出された。この効果はジョン・パーマー、ガートルード・シュマイドラー、T・R・ローレンスなどの超心理学者らの実験によって検出された。パーマーによれば、実験が成功するという状況に被験者が「心理的快適さ」を感じていた場合、ターゲットを当てやすいとされる。", "title": "実験結果に関わる要因" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "全く同一の実験であっても、実験者がだれであるかにより結果に違いが出ることがある。これを実験者効果と呼ぶ。「ヤギ・羊効果」は被験者側の信念が影響する例であるが、実験者側の信念も実験に影響することが広く知られている。 懐疑論者のリチャード・ワイズマンと超心理学者のマリリン・シュリッツが実験者効果を調べる実験を行ったところ、全く同じ条件の実験であるに関わらず、シュリッツが行った実験のみに優位な結果が得られた。ガートルード・シュマイドラーの実験では「独善的で冷たく自信過剰」な印象の実験者の結果が失敗しやすいという結果が出た。また実験者の妻が入院している期間のみ著しくスコアが低いという結果が出た実験なども見られる。", "title": "実験結果に関わる要因" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "自発的想像傾向とは「心のうちに自然に現れるイメージを積極的に求め、重要視する傾向」のことである。ジョン・パーマーの実験によれば、自発的想像傾向はESPが発揮されるについて重要な性格傾向であるとされる。こうした傾向を持つ被験者が、社会心理的に快適な状況の実験に参加すれば成功しやすいとされる。またフィオナ・シュタインカンプの実験では「外向性が高く、神経質傾向が低く、知能が高い」被験者はESP得点が高い傾向が見られた。そうした被験者は社会心理的快適さを得やすいため、と考えられる。", "title": "実験結果に関わる要因" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「超心理学の実験では学者によって\"でっちあげ\"が行われている」といった批判的な見解を示す人もいた。「レヴィ事件」や「ソール事件」など、歴史上そうした事件は存在した。しかし、1970年代後半以降の超心理学上のデータについては(ガンツフェルト実験のメタ分析の結果)でっちあげ説は当てはまらない、とされる。", "title": "実験結果に関わる要因" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "超心理学を批判する者からは「お蔵入り効果」が生じている可能性が指摘されることがあった。「お蔵入り効果」とは、(超心理学に限らず自然科学の実験全般で起きる可能性があるもので)研究者が望みの結果ではない実験(\"失敗\"の実験)は報告せず「お蔵入り」にしてしまい、望み通りの結果が出た実験のほうばかりを報告すると基礎データに偏りが生じ、結論にも影響する、ということである。この問題は超心理学で初期から指摘されていたが、1974年からガンツフェルト実験のメタ分析(複数の研究報告をまとめて、全体の傾向を分析する手法)が発展するにつれ、これらの実験でこの効果が生じている可能性は否定されるに至った。メタ分析の結果、失敗した実験もお蔵入りされることなく報告されている状況が判明したのである。", "title": "実験結果に関わる要因" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "超心理学では、いわゆる「心霊現象」や臨死体験などの理解のしかたに関して、いくつかの仮説がある。", "title": "仮説群" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "超ESP仮説では「死後生や霊魂の存在の証拠とされる心霊現象も、ESPや超能力によるものだと見なすことで、霊魂を想定しなくても説明可能になる」とする。これと対立するサバイバル仮説では「肉体の死後も何らかの存在が存続し続けていてそれが様々な超常現象を引き起こしている」とする。", "title": "仮説群" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ロバート・キャロルは『懐疑論者の辞典』(査読を欠いた、ロバート・キャロルによる個人的な本・サイト)において「審読制のある超心理学の専門誌も少なくとも6誌ある。しかし、この研究分野の特徴は詐欺や欺瞞である。きちんと比較実験を立案して、統計データを解析する能力にも欠けている。」と述べた。また、「スーザン・ブラックモアのように、何年たっても超常現象の有意に支持する結果が見つからず、研究をあきらめてしまった超心理学者もいる」と書いた。 また肯定的結果を得たと主張する超心理学者が、サイの存在を支持しない研究結果をわざと無視して自分の研究結果を正当化してしまうことも多い、とし、ラインも自分の信念を支持しないデータは理由を付けて捨てていた、とした。(→#お蔵入り効果)", "title": "懐疑的な見解と活動" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "超心理学研究にあえて足を踏み入れていった科学者たちは、別に奇人変人というわけでもなく、疑似科学者だったというわけでもない。例えば、ピーター・フィリップスは見識ある物理学者であったし、テイラーは現代物理学に関する多くの啓蒙書を著したことでよく知られており、ロンドンのキングス・カレッジに講座ももっている。ロバート・ジャン (Robert G. Jahn)は、プリンストン大学の工学部で教授を務めている人物である。", "title": "研究者となっている人物、および進路としての超心理学" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "これらの人物をはじめとする科学者らにとって、超常現象は、対象として扱い始めた時は、現代科学で用いられている実験方法によって解決可能な問題に見えていた。そう見えたにもかかわらず、成果らしい成果を出すには至らなかったとも言われているのである。", "title": "研究者となっている人物、および進路としての超心理学" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "", "title": "研究者となっている人物、および進路としての超心理学" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "大部分の科学者は、超常現象に関する研究は、(研究者として)実りが無いと見なしている。ただし、すでに終身在職制度で自身の地位が守られている場合は、テーマに人気があろうがなかろうが、自由に研究課題が選べる。", "title": "研究者となっている人物、および進路としての超心理学" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかし、将来の教授のポジションや終身在職権を狙っている学者が、超常現象の研究を行うことでそれを得るというようなことは非常に困難である。明治大学の石川幹人は、超心理学の周辺の学問(心理学等々)の学位を取得しその分野の研究者の職を得た上で超心理学の研究を行うことをひとつの方法として勧めた。", "title": "研究者となっている人物、および進路としての超心理学" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "", "title": "研究者となっている人物、および進路としての超心理学" } ]
本記事では超心理学(ちょうしんりがく、parapsychology)について解説する。
{{スピリチュアリティ}} 本記事では'''超心理学'''(ちょうしんりがく、parapsychology)について解説する。 == 概要 == 日本超心理学会によれば、超心理学は、未だに物理的には説明がつかない、心と物あるいは心同士の[[相互作用]]を[[科学的方法|科学的な方法]]で研究する学問だとされる<ref>「超心理学とは、未だに物理的には説明がつかない、心と物、あるいは心同士の相互作用を科学的な方法で探究する研究分野です。」([https://megalodon.jp/2014-0918-2035-44/j-spp.umin.jp/japanese/aboutpara/about_para.html 日本超心理学会HPでの定義文]。 2009年1月-2014年9月 確認)</ref>。[[リン・ピクネット]]の書籍では、既知の自然の法則では説明できない現象を研究する学問、としている<ref name="Lynn_486">超心理学の定義は、「既知の自然の法則では説明できない現象を研究する学問」(出典:リン・ピクネット『超常現象の事典』青土社、1994年、ISBN 4-7917-5307-0 p.486)</ref>。 [[羽仁礼]]は、超心理学とは、いわゆる[[超能力]]を研究対象とするものだと説明した{{Sfn|羽仁礼|2001|p=36}}。具体的な研究対象は、基本的には[[超感覚的知覚|ESP]] ({{en|extra-sensory perception}}) と[[サイコキネシス]]([[念力]])だとされる{{Sfn|羽仁礼|2001|p=36}}。前者には、[[テレパシー]]、[[予知]]、[[透視 (超心理学)|透視]]などが含まれる。ただし実際には、超心理学は[[臨死体験]]や[[体外離脱]]、[[前世]]記憶、[[心霊現象]]をも研究対象に含む場合もある{{Sfn|羽仁礼|2001|p=36}}。 研究対象は[[超自然]]的なものであるが、(各国の)超心理学会などでは「方法論は[[実験心理学]]の規範に準拠する」としている。被験者の割付けやデータの[[統計学的検定]]といった研究計画については通常の実験心理学よりもかなり厳密に行われており、[[追試]]が可能な形で行うことを目指す、あるいは実際に行うというものである。日本超心理学会は、その存在の有無や仕組みを、[[科学的手法]]に基づき、特に[[行動科学]]の手法を用いて明らかにしようとしている、としている。 ただし、この学問に対する評価には幅があり、「[[科学]]と認められる」とする者、「科学的なものとしては認めるが[[心理学]]ではない」とする者、「研究対象となるべき現象(超感覚的知覚能力など)がそもそも存在しない」とする者、「[[疑似科学]]の範疇」とする者など、様々である。だが、欧米の有名大学において[[博士号]]を授与されてきたという点で、超心理学は、超常現象・心霊現象に関する研究の中では最も科学的で[[学問|アカデミック]]な色彩が強い分野である、と[[羽仁礼]]は解説した<ref>羽仁礼『超常現象大事典』</ref>。 [[ジョゼフ・バンクス・ライン|J・B・ライン]]とその弟子たちら、超心理学の創成期の人々が残した華々しい研究成果は、その後に実験条件を厳しくされたことによって、次々と否定されるに至った{{Sfn|羽仁礼|2001|p=36}}、ともされ、また、その後新しい手法が開発されると、偶然の期待値を上回る好結果が発表されるが、それがやがて否定される、ということが繰り返されており、超心理学者らは現在でも研究の対象がそもそも実在することを証明することにかなりの労力を費やしている、と羽仁礼は指摘した{{Sfn|羽仁礼|2001|p=36}}。 <!--{{要出典範囲|現実には、[[古今東西]]を通じて、[[行動科学]]的な手法による研究の成果は、0に等しい。古代からの歴史を紐解いても、[[超能力]]の存在が立証された事実はないし、超心理を応用した装置機器が開発され利用された事実もない。|date=2012-2}}--> 日本では、広義の超心理学が「[[サイ科学]]」と呼ばれることがあるが、サイ科学は[[オカルト]]的な要素も含むため、超心理学とは分けて考えるべきだとする見解もある。 == 歴史 == 「超心理学」は「心霊研究」(psychical research)として知られていた{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=242}}。 [[英国]]では[[1882年]]に[[心霊現象研究協会]]が設立され、テレパシー、メスメリズム、霊媒、幽霊、幽霊屋敷などの研究が行われた{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=242−243}}。この英国の協会をモデルとして、アメリカ心霊研究協会(1885年)、デンマークの心霊研究協会(1905年)などをはじめとする組織が各国につくられた{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=243}}。 歴史的には[[ウィリアム・ジェームズ|ジェームズ]]、[[ジークムント・フロイト|フロイト]]、[[カール・グスタフ・ユング|ユング]]、[[ウィリアム・マクドゥーガル]]、[[ハンス・アイゼンク|アイゼンク]]といった者たちも超心理学に関わることもあった<ref group="注">フロイト、ユングらは、心理学を語る上で欠かせない人物らであるが、現在ではこれらの研究を、現代的な意味では心理学と認めない[[心理学者]]も多い。</ref>{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=243}}。 「超心理学」という言葉が造語されたのは1889年のことであり、ドイツの美学者<ref>リン・ピクネット『超常現象の事典』</ref>あるいは心理学者{{Sfn|羽仁礼|2001|p=36}}[[マックス・デソワール]] ([[:en:Max Dessoir|Max Dessoir]])によるものである{{Sfn|羽仁礼|2001|p=486}}。 一般に、「parapsychology<ref group="注">英語式の発音では「パラサイコロジー」。</ref>」(超心理学)という用語が広く使われるようになったのは、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ダラムの[[デューク大学]]に超心理学研究室が設置され、[[1927年]]にスコットランド出身の心理学者{{仮リンク|ウィリアム・マクドゥーガル|en|William McDougall (psychologist)}}が教授として迎えられ、同年に[[ジョゼフ・バンクス・ライン|J・B・ライン]]とその妻ルイザも参加したことにより{{Sfn|羽仁礼|2001|p=486}}、ラインがこの「超心理学」という用語を広めた{{Sfn|羽仁礼|2001|p=57}}とされる。ラインは、「超心理学の父」{{Sfn|羽仁礼|2001|p=57}}ともされる。ラインは後に自ら創設した超心理学研究室の主任となった{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=243}}。 1930年には、この超心理学の実験作業が本格的にスタートした。 J・B・ラインの計画は、[[千里眼]]、[[テレパシー]]、[[予知]]、[[サイコキネシス]]などの「霊能力」が、管理された研究室の条件下で、著名な演技者を使わなくても実演可能であることを示すことだった{{Sfn|羽仁礼|2001|p=486}}、という。そこで、まず心霊調査を信頼できる学問とする作業に着手したといわれ、1934年に発行された著書『超感覚的知覚』は広く読者を獲得し、「ESP」という用語を一般に知られるものとした{{Sfn|羽仁礼|2001|p=486}}、という。 [[ファイル:Cartas Zener.svg|thumb|right|270px|ゼナー・カード。創成期の超心理学者らは、[[テレパシー]]の実験にこのゼナーカードを用いた。]] ラインの[[ゼナー・カード]]を使った実験結果のなかに顕著に目立つものがあった{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=243}}。ラインの実験はいたるところで再現され、1938年には『超心理学雑誌』が創刊され、新しい学問分野が出現しつつあるように思われた{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=243}}。 ラインの助手の[[ベティ・ハンフリー]]は、テストの結果は、開始時が最も良く、次第に下降し、テストを続行すると再度上昇に転ずる、ということを発見した。これは「U曲線」「低下効果」「退屈要因」などと呼ばれるようになったといわれ、超心理学の分野では再現可能な最初の発見事項とされている{{Sfn|羽仁礼|2001|p=486}}、という。 また、ニューヨークの超心理学者[[ガートルード・シュマイドラー]]は「[[山羊・羊効果]]」を発見した{{Sfn|羽仁礼|2001|p=486}}、とされる。これは、ESPを信じる被験者は、信じない被験者に比較すると、良好な結果を出す傾向がある、という内容のものである。(→[[#ヤギ・羊効果]]) 1957年には、超心理学研究の水準を引き上げることを目的として、アメリカ合衆国で超心理学会(超心理学協会、PA)が結成された<ref>『きわどい科学』p.228</ref>。この学会は、世に認められている通常の学問分野と同様に、[[査読]]制度を採用した専門誌を発行している。 [[1965年]]、ラインが退職し、この超心理学研究室は現在は大学からは独立した超心理学研究所として存在している{{Sfn|羽仁礼|2001|p=487}}、というが、ラインが主導して[[1957年]]に設立された「超心理学協会」は、[[1969年]]に[[アメリカ科学振興協会|米国科学振興協会]]の下部機関に認定された。 J・B・ラインの後に、様々な手法が開発された。例えば、ラインが用いたゼナー・カードに代わって、「無作為事象生成装置」というものが超心理学研究室の標準的な装置になった{{Sfn|羽仁礼|2001|p=487}}、という。しかし、何十年も続いた彼の研究は、その後継者でデューク大学研究センターの所長だった者が1974年に実験結果を握造したことを理由に告発されるにおよんで大きく失墜した{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=243}}。 物理学者の{{仮リンク|ヘルムート・シュミット (物理学者)|en|Helmut Schmidt (parapsychologist)}}が、[[放射性崩壊]]のような予測不能の物理現象に対するサイコキネシスの効果を検知する可能性を示し、これは[[プリンストン大学]]のロバート・ジャンをチーフとする研究チームによって正しく再現された{{Sfn|羽仁礼|2001|p=487}}、ともされる。 現代の超心理学実験は非常に巧緻を極めており、その方法論も大変進んできている<ref>マイケル・フリードランダー『きわどい科学』白揚社 p.231</ref>。 上記の米国や欧州とは文脈が大きく異なるが、日本では、[[福来友吉]](1869–1952)が、心霊研究や超心理学の草分けとなった{{Sfn|羽仁礼|2001|p=53}}とされ、東京帝国大学の助教授時代に、[[御船千鶴子]]の存在を知り、またその後、[[長尾郁子]]の研究を行った、とされる{{Sfn|羽仁礼|2001|p=53}}。 現在の日本では、[[日本超心理学会]](初代会長:故[[小熊虎之助]][[明治大学]][[教授]]→二代目会長:[[大谷宗司]][[防衛大学校]]心理学[[名誉教授]])や[[日本サイ科学会]](創立者:故[[関英男]]/会長:[[佐々木茂美]][[電気通信大学]]名誉教授)において、[[行動科学]]から[[認知心理学]]、さらには[[素粒子物理学]]を基にした検証や論究が継続されている。 == 研究室や学部の設置状況 等 == 米国において超心理学の専門の学部を備えた大学は、カリフォルニア州オリンダの{{仮リンク|ジョン・F・ケネディ大学|en|John F. Kennedy University}}1校である、という<ref>『超常現象の事典』p.488(元は1990年の原著の情報)</ref>。ただし心理学部の大学院課程で研究が継続できる大学が、J・F・ケネディ大学以外に数校ある<ref name="dic_488">『超常現象の事典』p.488</ref>、という。 イギリスにおいては、(1983年以前には)[[エディンバラ大学]]、{{仮リンク|サレー大学|en|University of Surrey}}、{{仮リンク|アストン大学|en|Aston University}}の3大学において、個人ベースで超心理学の大学院教科研究が提供され<ref name="dic_488" />、数名の心理学部の学生が心霊現象の研究論文で[[博士号]]の学位を取得した<ref name="dic_488" />、とされる。そして、1983年に[[アーサー・ケストラー]]の遺書により、遺産70万ポンドが、イギリス初の超心理学部の創設のために寄託された。[[オックスフォード大学]]はその寄附を拒み{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=244}}、これに対してエディンバラ大学と[[カーディフ大学]]が名乗りを上げた。結局、この学部は「ケストラー記念超心理学部」と名づけられ、エディンバラ大学に設置された{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=244}}。1985年に[[ロバート・L・モリス]]が初代の主任教授に任命された<ref group="注">ロバート・モリスと3人の同僚は、関連分野におけるさまざまな方法や展開に関する論評をまとめた400ページの分厚い1冊の穏健な教科書を著した。''Foundations of Parapsychology'' (London : Routledge and Kegan Paul, 1986)</ref>。 ヨーロッパでは、イギリス以外にオランダの[[ユトレヒト大学]]でも超心理学研究室が設置されたが、同研究室が閉鎖された後では、エディンバラの超心理学部がヨーロッパでは唯一の専門学部だとされる<ref name="dic_488" />。 日本の大学には超心理学を専門とする学部や学科は存在しないが、[[明治大学]]情報コミュニケーション学部では、教授の[[石川幹人]]や准教授の[[蛭川立]]らが超心理学的な研究も行っており、同大学院ではそのような研究で博士号を取得することが可能だとされる。 == 研究者の態度のマッピング == マイケル・フリードランダーは、概観すると超常現象が実在すると頑固に信じている人と、実在を頭から一切否定する人に、真っ二つに分かれている{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=226}}と指摘した。 この両者の中間地帯に、比較的人数が少ない、第三のグループが存在していて、超常現象に関する主張を検討するにはやぶさかでないという姿勢で実験に勤しんでいる{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=227}}。 この第三のグループも、さらに二派に分かれているように見える{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=227}}と述べられることがあり、片方の派は、非常に懐疑的であるものの、厳密で科学的な対照標準を持ち込んで実験や研究<ref group="注">関連項目:[[対照実験]]</ref>を行っている。この人たちは、今でも中立的な姿勢を守っており結論を出していないが、(超常現象の実在の立証に関して)成果と呼べるようなものは今日まで提出していない{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=227}}と言う。 もうひとつの派は、上記の派とは鏡像のような関係にあり、現代科学のテクニックを大いに活用しているものの、超常現象を共感をもって受け入れたがっていて、実験の対象に(上記の派に比べて)より思いやりがあり、また自身の過ちにも寛容であるように見える{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=227}}、と述べた。 研究者の態度について、[[石川幹人]][[明治大学]][[教授]]は、公開サイト「[http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/ 超心理学講座]」の「超心理学における7つの誤解」では、「(超心理学者は)信奉は棚上げにして、経験的事実にもとづいた研究を行なっている。超心理学者のなかには、[[懐疑論]]者も多くいる。当然、霊魂の存在などを前提とすることはない。」とした<ref>[http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/gokai.htm 「超心理学における7つの誤解」]</ref>。<!--{{要出典範囲|いかなる研究対象に対しても同じといえる。そのため、研究者は、古くから神話、説話等により伝承されている超常現象の存在を、検証することから始めなければならない。過去の研究では、この存在を検証する段階から、一歩も前進していない。ただし、その検証法は、その時代における最新の社会的常識や科学的な概念・理論をもとにして行われてきている。同じように、検証と並行して行われることは、科学的な推論、仮説の構築等である。|date=2012-2}}--> == 研究・実験の例 == === 初期 === この種の研究でもっとも有名なのは、ジョゼフ・ラインが行なったテレパシーあるいは「超感覚的知覚」(ESP)の研究である{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=243}}。ラインの方法の一つはボランティアを集め、特別なカード(ゼナー・カード)のなかから、ランダムに一枚を選んで伏せ、それがどんな図柄のカードか、被験者に当てさせることであった{{Sfn|ピーター・バーク|2015|p=243}}。この研究は[[統計学]]の見地からも難癖のつけようがない結果を出した、といわれる{{Sfn|羽仁礼|2001|p=486}}。例えば、実験対象者の一部は普通に予想される5回以上の的中率を反復的に実現することを示した、という{{Sfn|羽仁礼|2001|p=486}}。その一方で、ラインの実験結果のほとんどに批判が寄せられている{{Sfn|羽仁礼|2001|p=57}}、ともされる。ただし批判があるにせよ、「霊」の存在の介在を排した形での超能力研究を確立した意味で、ラインの功績は評価されるべきだ{{Sfn|羽仁礼|2001|p=36}}、ともされる。 === 現代 === ロバート・ジャンやチャールズ・ホノートンなどといった人々が行っている現代の実験では、被験者が実験装置から感覚的な手がかりを得たりしないように、電子機器やコンピュータによる乱数、地球にランダムに降り注ぐ宇宙線などを利用して標的の選択を自動化している{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=232}}。 ロバート・ジャンとその協力者らによって、プリンストン大学工学部の変則現象調査研究所で行われた実験は、ランダムに選ばれる[[数列]]に対して、精神が何らかの影響を与えられるのではないかという可能性を測定するために、大規模テストを自動的に行う電子装置を設計し、被験者らは、選ばれた数値を大きくしたり小さくしたりするように求められた{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=236}}。ジャンの実験のサンプル数、試行回数はきわめて大きかった。例えば、平均値の予想が100.00となるテストを、55000回試行し、ある被験者はスコアを上げようと努力した時の平均は100.082に、逆に下げようとしたときには平均が99.86になったと報告された{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=237-238}}。 (この実験についても、批判者たちは例によって、実験手続きや統計分析を微に入り細に穿って検証し、懸念を表明した{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=238}}) [[スタンフォード研究所]](SRI)に在籍していた科学者、{{仮リンク|ラッセル・ターグ|en|Russell Targ}}と{{仮リンク|ハロルド・パソフ|en|Harold E. Puthoff}}は、遠くの情景を叙述できると述べるユリ・ゲラーの透視能力をテストした。ゲラーから数百マイル離れたテストの現場へ出かけ、ゲラーは前もって決められていた時間に、遠く離れた場所にいる実験者のまわりの景色がどうなっているか言葉や絵で描写した。パソフとターグは、描写を採点するシステムを考案した。論文を書き上げ、査読制度がある科学雑誌「[[ネイチャー]]」に投稿し、それが掲載されるという栄誉を受けた<ref>Nature 245 (1973)</ref>{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=232}}<ref group="注">しかし、そもそも「ゲラーの立ち振る舞いはまったく監視されておらず、程度はともかく、ゲラーに課される試験の準備はゲラー本人の自由にゆだねられていた」という意見もある『「超科学」をきる』化学同人p.125</ref>。(だが、絵の同定方法や実験手続きが批判を受けた{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=232}}。) [[ファイル:Mr. Tomokichi Fukurai, lecturer of the Shinshu University.jpg|thumb|200px|right|日本での超心理学の草分け、[[福来友吉]]。[[念写]]を研究した。]] ケストラー記念超心理学部の主任教授であった[[ロバート・モリス]]は、{{仮リンク|チャールズ・ホノートン|en|Charles Honorton}}と合流し、ホノートンは{{仮リンク|ガンツフェルト実験|en|Ganzfeld experiment}}を開発した。(ガンツフェルトとは「全体野」を意味する)。ガンツフェルト実験では、被験者の目は[[アイマスク]]で覆われ、耳には[[イヤホン]]を付け、[[ホワイトノイズ]]が流される。被験者の全感覚、すなわち全体野への入力がどれも遮断されるのである。こうして世界から感覚的に隔絶した状態で被験者は隣の部屋で一連の絵を眺めている実験者からの情報を受け取ろうと試みる。この実験を何千回も繰り返すことによって、期待される確率よりもほんの少しだけ正しく有意な予知ができるという結果が得られた{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=241}}と言われている。ホノートンが厳密に練り上げた研究プログラムは、ホノートンが1991年に亡くなった後も続けられている{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=242}}とも言われている。 === 日本 === 小久保秀之、笠原敏雄らが、1990年代に日本で行われた研究についてまとめている<ref>[http://wwwsoc.nii.ac.jp/jspp2/pdf/v11n2kokj.pdf 小久保秀之、笠原敏夫 2006「特異現象に関する1990年代の日本の研究」]</ref>。 == 実験結果に関わる要因 == 超心理学における実験では、以下の要因が重要とされている。 === ヤギ・羊効果 === 超心理学実験の得点は、超心理現象を信じる者(ヒツジ)が被験者の時は高く、超心理現象を信じない者(ヤギ)が被験者の時は低い傾向がある。この現象は偶然には1万分の1未満の確率でしか起きないにもかかわらず、集合実験でも個別実験でも検出された。この効果はジョン・パーマー、ガートルード・シュマイドラー、T・R・ローレンスなどの超心理学者らの実験によって検出された。パーマーによれば、実験が成功するという状況に被験者が「心理的快適さ」を感じていた場合、ターゲットを当てやすいとされる。<ref>石川幹人『超心理学 封印された超常現象の科学』紀伊国屋書店</ref> {{Seealso|山羊・羊効果}} === 実験者効果 === 全く同一の実験であっても、実験者がだれであるかにより結果に違いが出ることがある。これを実験者効果と呼ぶ。「ヤギ・羊効果」は被験者側の信念が影響する例であるが、実験者側の信念も実験に影響することが広く知られている。 懐疑論者の[[リチャード・ワイズマン]]と超心理学者のマリリン・シュリッツが実験者効果を調べる実験を行ったところ、全く同じ条件の実験であるに関わらず、シュリッツが行った実験のみに優位な結果が得られた。ガートルード・シュマイドラーの実験では「独善的で冷たく自信過剰」な印象の実験者の結果が失敗しやすいという結果が出た。また実験者の妻が入院している期間のみ著しくスコアが低いという結果が出た実験なども見られる。<ref name="fuuinsareta">石川幹人『超心理学 封印された超常現象の科学』紀伊国屋書店</ref> === 自発的想像傾向 === 自発的想像傾向とは「心のうちに自然に現れるイメージを積極的に求め、重要視する傾向」のことである。ジョン・パーマーの実験によれば、自発的想像傾向はESPが発揮されるについて重要な性格傾向であるとされる。こうした傾向を持つ被験者が、社会心理的に快適な状況の実験に参加すれば成功しやすいとされる。またフィオナ・シュタインカンプの実験では「外向性が高く、神経質傾向が低く、知能が高い」被験者はESP得点が高い傾向が見られた。そうした被験者は社会心理的快適さを得やすいため、と考えられる。<ref name="fuuinsareta" /> === 不正防止と科学的な方法 === ;不正行為とその防止 「超心理学の実験では学者によって[[科学における不正行為|"でっちあげ"]]が行われている」といった批判的な見解を示す人もいた。「レヴィ事件」や「ソール事件」など、歴史上そうした事件は存在した。しかし、1970年代後半以降の超心理学上のデータについては([[テレパシー|ガンツフェルト実験]]の[[メタアナリシス|メタ分析]]の結果)でっちあげ説は当てはまらない、とされる。<ref name="fuuinsareta" /> ;お蔵入り効果、全試行の記録、実験のメタ分析 超心理学を批判する者からは「お蔵入り効果」が生じている可能性が指摘されることがあった。「お蔵入り効果」とは、(超心理学に限らず自然科学の実験全般で起きる可能性があるもので)研究者が望みの結果ではない実験("失敗"の実験)は報告せず「お蔵入り」にしてしまい、望み通りの結果が出た実験のほうばかりを報告すると基礎データに偏りが生じ、結論にも影響する、ということである。この問題は超心理学で初期から指摘されていたが、[[1974年]]から[[テレパシー|ガンツフェルト実験]]の[[メタアナリシス|メタ分析]](複数の研究報告をまとめて、全体の傾向を分析する手法)が発展するにつれ、これらの実験でこの効果が生じている可能性は否定されるに至った。メタ分析の結果、失敗した実験もお蔵入りされることなく報告されている状況が判明したのである。<ref name="fuuinsareta" /> == 仮説群 == 超心理学では、いわゆる「心霊現象」や臨死体験などの理解のしかたに関して、いくつかの[[仮説]]がある。 [[超ESP仮説]]では「死後生や霊魂の存在の証拠とされる心霊現象も、ESPや超能力によるものだと見なすことで、霊魂を想定しなくても説明可能になる」とする<ref>羽仁礼 『超常現象大事典』第2章。成甲書房、2001年。ISBN 978-4880861159。</ref>。これと対立する[[サバイバル仮説]]では「肉体の死後も何らかの存在が存続し続けていてそれが様々な超常現象を引き起こしている」とする。 == 懐疑的な見解と活動 == === ロバート・キャロル === [[ロバート・キャロル]]は『懐疑論者の辞典』([[査読]]を欠いた、ロバート・キャロルによる個人的な本・サイト)において「審読制<!-- ?? 査読制のことか? -->のある超心理学の専門誌も少なくとも6誌ある。しかし、この研究分野の特徴は詐欺や欺瞞である。きちんと比較実験を立案して、統計データを解析する能力にも欠けている。」<ref name="carroll_61">『[[懐疑論者の事典]]』 下 p.61</ref>と述べた<ref>関連項目:[[科学における不正行為]]</ref>。また、「[[スーザン・ブラックモア]]のように、何年たっても超常現象の有意に支持する結果が見つからず、研究をあきらめてしまった超心理学者もいる」と書いた<ref name="carroll_61" />。 また肯定的結果を得たと主張する超心理学者が、サイの存在を支持しない研究結果をわざと無視して自分の研究結果を正当化してしまうことも多い、とし、ラインも自分の信念を支持しないデータは理由を付けて捨てていた、とした<ref name="carroll_61" />。(→[[#お蔵入り効果]]) <!-- 米国の大学教授千百名の調査によると、ESPを確立した事実とか、可能性がありそうだと考えている心理学者は34%であった。一方心理学者以外の者でESPが不可能だと言った者はわずか2%であった<ref>{{en|Wagner,M.W., and M. Monnet. 1979 "Attitudes of College Professors Toward Extra Sensory Preception."Zetetic Scholar 5:7–16.}}</ref>。 --> == 研究者となっている人物、および進路としての超心理学 == === 人物 === 超心理学研究にあえて足を踏み入れていった科学者たちは、別に奇人変人というわけでもなく、疑似科学者だったというわけでもない。例えば、ピーター・フィリップスは見識ある物理学者であったし、テイラーは現代物理学に関する多くの啓蒙書を著したことでよく知られており、[[キングス・カレッジ・ロンドン|ロンドンのキングス・カレッジ]]に講座ももっている。[[ロバート・ジャン]] ({{interlang|en|Robert G. Jahn|Robert G. Jahn}})<ref>著書『実在の境界領域―物質界における意識の役割 』技術出版 1991年 ISBN 4-906255-07-8</ref>は、[[プリンストン大学]]の工学部で教授を務めている人物である{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=237}}。 これらの人物をはじめとする[[科学者]]らにとって、[[超常現象]]は、対象として扱い始めた時は、現代科学で用いられている実験方法によって解決可能な問題に見えていた{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=239}}。そう見えたにもかかわらず、成果らしい成果を出すには至らなかった{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=239}}とも言われているのである。 <!--{{要出典範囲|現実に、この分野における答えの一つを見いだせたのは、[[宗教学]]、[[認知心理学]]、[[脳科学]]、[[精神病理学]]、[[分子生物学]]等を統合する[[認知科学]]である。それは、超常現象の多くが、脳の作用により生じる[[表象]](心的生成と想起)と[[表出]](心的過程に対応した想像や行動変化)により、概念的に、説明可能になったことである。実際、超常現象の多くが、生物学的、精神病理学的、臨床的な観察やカウンセリングにより、人間の脳の作用による[[仮想体験]]や[[想像]]と結論つけられる。今後、この分野において、明快な答えを得る可能性が高い学問分野とその応用分野の人物は、認知科学者、脳科学者、精神病理学者、[[臨床]]医と超常現象を対象にした[[サイエンス・フィクション]]作家等である。|date=2012-2}}--> === 進路として === 大部分の科学者は、超常現象に関する研究は、(研究者として)実りが無いと見なしている。ただし、すでに終身在職制度で自身の地位が守られている場合は、テーマに人気があろうがなかろうが、自由に研究課題が選べる{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=239}}。 しかし、将来の教授のポジションや終身在職権を狙っている学者が、超常現象の研究を行うことでそれを得るというようなことは非常に困難である<ref group="注">大学で[[終身在職権]]を得るために必要なことは、どれだけしっかりした結果が出せたかということだからである。</ref>{{Sfn|マイケル・W. フリードランダー|1997|p=240}}。明治大学の石川幹人は、超心理学の周辺の学問(心理学等々)の学位を取得しその分野の研究者の職を得た上で超心理学の研究を行うことをひとつの方法として勧めた。 <!--{{要出典範囲|現実には、[[超常現象]]の研究が、人間の[[脳]]の研究や[[精神病理]]の解明にある程度の影響を与えた事は確かである。これ以外にも、仮想的、想像的な現象を検証するという真摯な超常現象の研究が、関連する多くの超心理以外の研究の進歩、新しい事実の発見と新しい物質や装置機器の開発に貢献してきている事も間違いない事実である。|date=2012-2}}--> === 超心理学者のリスト === {{Seealso|en:Category:Parapsychologists}} * {{仮リンク|スタンレー・クリップナー|en|Stanley Krippner}} (米国の超心理学者) * [[ディーン・ラディン]] * {{仮リンク|ラッセル・ターグ|en|Russel Targ}} - [[SRIインターナショナル]]元研究員 * {{仮リンク|エリザベス・ターグ|en|Elisabeth Targ}} - [[ボビー・フィッシャー]]の姪 * [[小熊虎之助]] * [[中村雅彦]] * [[石川幹人]] == 参考文献 == * [[石川幹人]]『超心理学―封印された超常現象の科学』紀伊國屋書店、2012。ISBN 4314010983 ISBN 978-4-314-01098-6 *{{Cite |和書 | author =羽仁礼 | title = 超常現象大事典 | date = 2001 | publisher = [[成甲書房]] | isbn = 4880861154 | ref = harv }} *{{Cite |和書 | author =マイケル・W. フリードランダー | title = きわどい科学―ウソとマコトの境域を探る | date = 1997 | publisher = [[白揚社]]| isbn = 4826900767 | ref = harv }} *{{Cite |和書 | author = [[ピーター・バーク]] | translator = [[井山弘幸]] | title = 知識の社会史 2 -百科全書からウィキペディアまで | date = 2015 | publisher = 新曜社 | isbn = 9784788514331 | ref = harv }} == 脚注 == ;注 <references group="注"/> ;出典 {{Reflist|2}} == 関連項目 == * {{仮リンク|国際超心理学会|en|Parapsychological Association}} * [[日本超心理学会]] * [[国際生命情報科学会]] * [[透視 (超心理学)]]、[[第六感]]、[[サイコメトリー]] * [[超常現象]] * [[大谷宗司]] * [[本山博]] * [[哲学]] * [[科学哲学]] * [[科学社会学]] * [[心理学]] * [[オカルト]] * [[神智学]] * [[疑似科学]] * [[志水一夫 (作家)]] * [[コールド・リーディング]] * [[マッドサイエンティスト]] == 関連文献 == * 『ノーベル賞科学者[[ブライアン・ジョセフソン]]の科学は心霊現象をいかにとらえるか』(訳・解説:[[茂木健一郎]]・[[竹内薫]]、[[徳間書店]]):ISBN 4-19-860702-8(原著タイトル:The Paranormal and the Platonic World) * [[イヴォール・グラッタン=ギネス]] 『[[心霊研究]]―その歴史・原理・実践』 [[和田芳久]]訳 (題名は心霊研究だが、中身は超心理学) ISBN 4-906255-25-6 * [[イヴォンヌ・カステラン]] 『超心理学』 [[田中義廣]]訳 (文庫クセジュ) ISBN 4-560-05780-X * [[ジョン・ベロフ]] 『超心理学史―ルネッサンスの[[魔術]]から[[転生]]研究までの400年』 [[笠原敏雄]]訳 ISBN 4-531-08110-2 * [[ステイシー・ホーン]]『超常現象を科学にした男―J.B.ラインの挑戦』 [[ナカイサヤカ]]訳・[[石川幹人]]監修 ISBN 978-4-314-01077-1  == 外部リンク == * [http://www.parapsych.org/ 国際超心理学会 Parapsychological Association, Inc.(PA)](英文) * [http://j-spp.umin.jp/ 日本超心理学会] * {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/PSIJ/ |title=日本サイ科学会 |date=20021210142643}} * [http://www.tcm.phy.cam.ac.uk/~bdj10/psi.html ブライアン・ジョセフソン教授の超心理学(英文)] * [http://www.rhine.org/ Rhine Research Center (Institute for Parapsychology)] (デューク大学超心理研究所の後身。英文) * [http://www.koestler-parapsychology.psy.ed.ac.uk/ Koestler Parapsychology Unit](エディンバラ大学心理学科 ケストラー超心理学ユニット。英文) * [http://www.psychol.uni-giessen.de/abteil/klinisch/ascc.htm Homepage of the ASC Consortium(ギーセン大学 心理学・行動医学センター)] * [http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/ 超心理学講座]([[明治大学]]の[[石川幹人]][[教授]]によるもの) * [http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/index.htm メタ超心理学研究室](同上) * [http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/pub-resp.htm 超常現象と出版社] * [http://dmoz.org/World/Japanese/%e7%a7%91%e5%ad%a6/%e3%82%aa%e3%83%ab%e3%82%bf%e3%83%8a%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%96%e7%a7%91%e5%ad%a6/%e8%b6%85%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6/ オープン・ディレクトリ: 科学: オルタナティブ科学: 超心理学](関連リンク集) * {{Wayback|url=http://mondnakamura.hp.infoseek.co.jp/ |title=愛媛大学教育学部中村雅彦研究室HP 超心理学に関する研究室 |date=20040203151825}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちようしんりかく}} [[Category:超心理学|*]] [[Category:超常現象]] [[Category:心理学の分野]] [[Category:科学哲学の主題]] [[Category:学際領域]]
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医学者の一覧(いがくしゃのいちらん)
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医学者の一覧(いがくしゃのいちらん)
'''医学者の一覧'''('''いがくしゃのいちらん''') ==日本== *[[北里柴三郎]]([[細菌学]]、[[ペスト菌]]の発見者) *[[呉秀三]]([[精神医学]]、[[日本]]の精神医学と精神医療の建設者) *[[志賀潔]]([[細菌学]]、[[赤痢]]菌の発見者) *[[野口英世]]([[細菌学]]、[[黄熱病]]や[[梅毒]]の研究で有名) *[[高木兼寛]]([[海軍]]医務局長・海軍[[軍医]]総監を務めた。[[東京慈恵会医科大学]]の創設者でもある。[[脚気]]の原因について[[森鴎外|森鷗外]]と学説上の対立をみたことで有名。「[[ビタミン]]の父」とも呼ばれる。) *[[森鴎外|森鷗外]](本名は「森林太郎」。[[陸軍]][[軍医]]総監を務めた。[[脚気]]の原因について[[高木兼寛]]と学説上の対立をみたことで有名。また[[小説家]]でもあり、[[夏目漱石]]と並ぶ文豪とも称されている。) *[[島薗順次郎]]([[内科]]学、[[脚気]]が[[ビタミン]]欠乏症であることの発見者) *[[荻野久作]](産婦人科学、[[性科学]]) *[[小黒八七郎]]([[内科]]学、[[消化器]]病学、胃[[癌]]治療の権威) *[[和田寿郎]]([[外科学#外科学の分野|心臓血管外科学]]、日本初の[[心臓移植手術]]を行う) *[[川島隆太]] *[[橋田邦彦]]([[生理学]]) *[[松江寛人]]([[癌]]研究) *[[小島三郎]]([[細菌学]]、[[予防衛生]]、[[伝染病]]予防、国立予防衛生研究所所長) *[http://getsujo.mirika.or.jp 松口月城] ==ヨーロッパ== *[[アルクマイオン]](古代イタリア、世界初の人体解剖を行う) *[[ヒポクラテス]]([[ギリシャ人の一覧|古代ギリシャ]]、[[医学]]の父) *[[ガレノス]] *[[エルンスト・グレフェンベルグ]]([[ドイツ人の一覧|ドイツ]]、産婦人科学、[[性科学]]) *[[ウイリアム・ハーベー]]([[イギリス]]、[[血液]]循環説を主張) *[[カール・ラントシュタイナー]]([[オーストリア]]、[[血液型]]を発見) *[[ルイ・パスツール]]([[フランス人の一覧|フランス]]、[[細菌学]]) *[[ロベルト・コッホ]]([[炭疽]]菌、[[結核]]菌、[[コレラ]]菌の発見者。[[ルイ・パスツール]]と並んでで『近代細菌学の開祖』と称される。) *[[エドワード・ジェンナー]]([[イギリス]]、[[天然痘]]ワクチンの開発者) ==中東== *[[イブン=スィーナー]](アヴィセンナ) == 関連項目 == * [[医学]] * [[性科学者の一覧]] [[Category:医学者|*]] [[Category:学者の人名一覧|いかくしや]]
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藤村操
藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日)は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感()」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた。 祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。 操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道札幌で過ごした。単身、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学に編入。この間の1899年(明治32年)に父・胖が死亡、母や弟妹も東京に移り、同居するようになる。1902年(明治35年)、第一高等学校に入学。 父の藤村胖は、屯田銀行頭取である。弟の藤村朗は、建築家で三菱地所社長となる。朗の妻は櫻井房記の長女である。妹の夫、安倍能成は漱石門下の哲学者。学習院院長や文部大臣を歴任した。叔父の那珂通世(胖の弟)は、歴史学者である。 1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日、華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感()」を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された。 厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった。 墓所は東京都港区の青山霊園。 藤村がミズナラの木に記した遺書は、まもなく警察により削り取られたという(後に木も伐採)が、それを撮影した写真がある。 藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。 ホレーショとはシェイクスピア『ハムレット』の登場人物を指すとみられる(後述)。 「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料もみられるが、写真のとおり誤りである。 自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった。 自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるものとする説に大別される。 藤村の恋愛の相手として4人の女性の名が挙がった。菊池大麓の娘である松子とその姉の多美(民)、馬島あい子とその姉の千代であるが、死後80年以上経って、藤村が自殺の直前に手紙とともに渡した本という物的証拠が出てきたため、恋の相手は馬島千代ということで落着している。朝日新聞(1986年7月1日)によれば、5月22日の自殺直前、藤村は突然、馬島家を訪ね、千代に手紙と高山樗牛の『滝口入道』を手渡した。手紙には「傍線を惹いた箇所をよく読んで下さい」と書いてあり、本には藤村の書き込みがあった。千代に縁談があったので、藤村が千代を訪ねたことは秘密とされた。手紙と本も焼却されたと考えられていたが、千代が1982年に97歳で亡くなった後、子息の崎川範行(東京工業大学名誉教授)が遺品の中から『滝口入道』と手紙を見つけ、日本近代文学館に寄贈することになった。なお、「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している。 遺書にある「ホレーショの哲学」のホレーショは、シェイクスピア『ハムレット』の登場人物であろう(藤村は『ハムレット』を原文で読んでいた)。同作中でホレーショが哲学を語るわけではないが、ホレーショにハムレットが次のように語るシーンがある(第1幕、第5場、166-167行):There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy.(坪内逍遙訳:「此天地の間にはな、所謂哲学の思も及ばぬ大事があるわい」。)。遺書5行目の「不可解」に通じる不可知論的内容を含むセリフである。"your philosophy"の"your"を二人称と解釈し、「ホレーショの哲学」という一節になったのであろう。しかし、この"your"は、話し手本人も含まれる「一般人称」(general person)で、「世にいわゆる」の意味である(先に引用した逍遙訳もそのように訳している)。遺書のこの箇所を捉えて藤村による「誤訳」をあげつらう向きもあるが、これより以前に徳富蘆花や黒岩涙香も同様(yourを二人称)に訳しているし、それらの訳を藤村が参照した可能性もある。なお、西洋古典学者の逸身喜一郎は、「ホレーショ」はローマ詩人ホラティウス(英文表記:Horace)ではないかと指摘している。当時のエリート青年たちに流行していた悲観主義的厭世観はショーペンハウアーを受容し、この遺書に漂う人生への懐疑と煩悶は、時代の雰囲気をありありと反映したものであった。 彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる。 当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった。 漱石はこれ以外にも『文学論』第2編3章や寺田寅彦あて書簡(1904年2月9日)に記した「水底の感」で藤村に言及している。 1907年『煩悶記』也奈義書房出版、岩本無縫 篇。内容は藤村操が実は生き延びて書いたとする偽書。出版直後に発売禁止処分になる。 藤村は自殺未遂後、下山し、海賊船で世界を巡り、パリで悟りを開く。それを原稿にまとめて知人に託したものをまとめたものとする。「予は迷ひ初めたり。予は疑ひ初めたり。予は泣きたり、煩悶したり」と始まる。内容は社会主義や無政府主義の強い影響を受けており、発禁処分はそのためとも言われる。現在、3冊しか存在が確認されていない希少本であり、神田古本まつりに出展された際には、147万円の高値がついたことがある。そのうちの一冊は、野間光辰が所有していたことが判明し、また別の一冊を谷沢永一が所有しており、その全文が『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』に掲載されている。また、城市郎の所蔵していたものが、明治大学に「城市郎文庫」として寄贈されている。
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藤村 操は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた。
{{Infobox 人物 |氏名= 藤村 操 |ふりがな= ふじむら みさお |画像= Misao Fujimura.JPG |画像サイズ= 180px |画像説明= |出生名= |生年月日= [[1886年]][[7月20日]] |birth_place= [[北海道]] |没年月日= {{死亡年月日と没年齢|1886|07|20|1903|05|22}} |死没地= [[栃木県]][[上都賀郡]]日光町(現・[[日光市]])[[華厳滝]] |墓地= [[青山霊園]] |国籍= {{JPN}} |出身校= [[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]] |親= 藤村胖(父)春子(母) |親戚= [[那珂通世]](叔父) |家族= [[藤村朗]](弟)<br />[[安倍能成]](義弟) }} '''藤村 操'''(ふじむら みさお、[[1886年]]([[明治]]19年)[[7月20日]]{{sfn|平岩|2003|p=224}} - [[1903年]](明治36年)[[5月22日]])は、[[北海道]]出身の[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]の学生。[[華厳滝]]で[[飛び降り|投身自殺]]した。自殺現場に残した遺書「{{読み仮名|巌頭之感|がんとうのかん}}」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた<ref>[[荻野富士夫]]「藤村操」『国史大辞典』、吉川弘文館</ref>。 == 出自と家庭 == 祖父の藤村政徳は[[盛岡藩]][[武士|士]]であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は[[明治維新]]後、[[北海道]]に渡り、事業家として成功する。 操は、[[1886年]](明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の[[北海道札幌南高等学校|札幌中学]]入学直後まで北海道[[札幌市|札幌]]で過ごした。単身、東京へ移り、[[開成中学校・高等学校|開成中学]]から一年[[飛び級]]での[[京北中学校・高等学校|京北中学]]に編入{{sfn|朝倉|2005|p=32}}。この間の[[1899年]](明治32年)に父・胖が死亡{{efn|胖の死は病死といわれる。伊藤整『日本文壇史』7巻に自殺説が書かれているが、根拠は不明とのこと{{sfn|平岩|2003}}。}}、母や弟妹も東京に移り、同居<ref>東京府小石川区新諏訪町五番地。</ref>するようになる。1902年(明治35年)、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に入学。 父の藤村胖は、[[北海道銀行|屯田銀行]]頭取である。弟の[[藤村朗]]は、[[建築家]]で[[三菱地所]]社長となる。朗の妻は[[櫻井房記]]の長女である<ref>{{Cite book|和書|title=人事興信録|edition=第5版|pages=さ91頁|id={{NDLJP|1704046/1156}}}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=人事興信録|edition=第14版|volume=下|pages=フ79頁|id={{NDLJP|1704455/540}}}}</ref>。妹の夫、[[安倍能成]]は漱石門下の[[哲学者]]。[[学習院]]院長や[[文部大臣]]を歴任した。叔父の[[那珂通世]](胖の弟)は、[[歴史学者]]である。 == 華厳滝の自殺 == [[画像:Ganto no kan.JPG|thumb|240px|木に彫られた巌頭之感]] [[画像:Kegon falls nikko 2006-11-04.jpg|thumb|240px|right|最期の地([[華厳滝]])]] [[画像:Monument of Misao Fujimura.jpg|thumb|right|240px|「藤村操君絶命辞」の碑。[[青山霊園]]。]] [[1903年]](明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪<ref>中嶋繁雄『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、220頁。</ref>。この日は[[栃木県]][[上都賀郡]]日光町(現・[[日光市]])の旅館に宿泊。翌[[5月22日|22日]]、[[華厳滝]]において、傍らの木に「{{読み仮名|巌頭之感|がんとうのかん}}」を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ[[遺書]](巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され<ref>読売1903.5.27「華厳瀑の悲劇」、朝日1903.5.27。</ref>、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された<ref>読売1903.7.5、朝日1903.7.5。</ref>。 [[厭世観]]によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の[[日本の警察官|警察官]]に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内[[既遂]]が40名)。操の死によって華厳滝は[[自殺の名所]]として知られるようになった<ref>{{Cite book|和書|title = 日光パーフェクトガイド|url = http://www.nikko-jp.org/perfect/|date = 1998年3月30日|editor = 日光観光協会編|publisher = [[下野新聞社]]|edition = 初版|isbn = 4-88286-085-6|accessdate = 2010-06-16|page = 123|chapterurl = http://www.nikko-jp.org/perfect/chuzenji/kegonnotaki.html|chapter = 華厳ノ滝}}</ref>。 墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[青山霊園]]。 藤村が[[ミズナラ]]の木に記した遺書は、まもなく[[日本の警察|警察]]により削り取られたという(後に木も伐採)が、それを撮影した写真がある。 === 遺書「巌頭之感」 === 藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。 {{quotation| ; 巖頭之感 :悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て :此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の :オーソリチィーを價するものぞ。萬有の :眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。 :我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。 :既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の :不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は :大なる樂觀に一致するを。 |}} [[ハムレット#登場人物|ホレーショ]]とは[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]『[[ハムレット]]』の登場人物を指すとみられる(後述)。 「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料もみられるが、写真のとおり誤りである。 === 自殺の原因 === 自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった<ref>{{cite journal|和書|author=和崎光太郎 |year=2012 |title=近代日本における「煩悶青年」の再検討 : 1900年代における<青年>の変容過程 |url=https://doi.org/10.15062/kyouikushigaku.55.0_19 |journal=日本の教育史学 |ISSN=03868982 |publisher=教育史学会 |volume=55 |pages=22-23 |doi=10.15062/kyouikushigaku.55.0_19 |id={{CRID|1390001205765916288}}}}</ref>。 自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるもの<ref>[[宮武外骨]]『滑稽新聞』1903年7月20日:{{Harvtxt|平岩|2003|pp=69-70}}に引用がある。</ref>とする説に大別される。 藤村の恋愛の相手として4人の女性の名が挙がった。[[菊池大麓]]の娘である松子とその姉の多美(民)、馬島あい子とその姉の千代であるが、死後80年以上経って、藤村が自殺の直前に手紙とともに渡した本という物的証拠が出てきたため、恋の相手は馬島千代ということで落着している{{sfn|土門|2002|pp=186-188}}。[[朝日新聞]](1986年7月1日)<ref>『[[週刊朝日]]』1986年7月11日号、[[安野光雅]]『わが友の旅立ちの日に』([[山川出版社]]、2012年)pp.116-122も参照。</ref>によれば、5月22日の自殺直前、藤村は突然、馬島家を訪ね、千代に手紙と[[高山樗牛]]の『[[滝口入道]]』を手渡した。手紙には「傍線を惹いた箇所をよく読んで下さい」と書いてあり、本には藤村の書き込みがあった。千代に縁談があったので、藤村が千代を訪ねたことは秘密とされた。手紙と本も焼却されたと考えられていたが、千代が1982年に97歳で亡くなった後、子息の崎川範行([[東京工業大学]]名誉教授)が遺品の中から『滝口入道』と手紙を見つけ、[[日本近代文学館]]に寄贈することになった<ref>藤村の書き込みについては『別冊太陽 日本人の辞世・遺書』(平凡社、1987年)に記述がある。</ref>。なお、「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している{{sfn|土門|2002|p=186}}。 ===ホレーショの哲学=== 遺書にある「ホレーショの哲学」の[[ハムレット#登場人物|ホレーショ]]は、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]『[[ハムレット]]』の登場人物であろう(藤村は『ハムレット』を原文で読んでいた)。同作中でホレーショが哲学を語るわけではないが、ホレーショにハムレットが次のように語るシーンがある(第1幕、第5場、166-167行):''There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy''<ref>このハムレットのセリフは[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]の『[[マンフレッド]]』の冒頭にも引用されている。</ref>.(坪内逍遙訳:「此天地の間にはな、所謂哲学の思も及ばぬ大事があるわい」<ref>{{Cite web|和書|title = ハムレット 坪内逍遙譯 |url = https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873484/38 |date = 1909 |editor = 坪内逍遙 |publisher = 早稲田大学出版部 |edition = 初版 |accessdate = 5 Aug. 2017}}</ref>。)。遺書5行目の「不可解」に通じる[[不可知論]]的内容を含むセリフである。"your philosophy"の"your"を二人称と解釈し、「ホレーショの哲学」という一節になったのであろう。しかし、この"your"は、話し手本人も含まれる「一般人称」(general person)で、「世にいわゆる」の意味である<ref>柴田耕太郎『英文翻訳テクニック』ちくま新書、1997年、p53-54。</ref>(先に引用した逍遙訳もそのように訳している)。遺書のこの箇所を捉えて藤村による「誤訳」をあげつらう向きもある<ref>小田島雄志 『シェイクスピア名言集』 岩波書店〈岩波ジュニア新書〉、1985年、p208。</ref>が、これより以前に[[徳富蘆花]]{{efn|徳冨蘆花『思出の記』(民友社、1901年、p254。)に「ホラシオ、天地のことは'''卿が理学'''に説き尽されぬ事もあるものぞ」(卿には「おんみ」とルビがあり、あなたの意味)[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/885690/129]。土方、p.164。}}や[[黒岩涙香]]{{efn|黒岩涙香『天人論』(朝報社、1903年、p.28)に名言の引用で「ホレーショよ、天地には'''汝が哲学'''にて夢想し得ざる所の者あり 砂翁のハムレツト」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899493/18]。奥付は1903年5月14日付で、藤村が投身する直前の刊行。}}も同様(yourを二人称)に訳しているし、それらの訳を藤村が参照した可能性もある{{sfn|土門|2002|pp=159-160}}。なお、[[西洋古典学]]者の[[逸身喜一郎]]は、「ホレーショ」はローマ詩人[[ホラティウス]](英文表記:Horace)ではないかと指摘している<ref>[[逸身喜一郎]]『ラテン語のはなし』[[大修館書店]]、2000年、p.136。同「ホレーショの哲学」『文学』1992年冬号。</ref>。当時のエリート青年たちに流行していた[[悲観主義]]的厭世観は[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]を受容し、この遺書に漂う人生への懐疑と煩悶は、時代の雰囲気をありありと反映したものであった{{sfn|井上|2007|pp=65-66}}。 === 自殺の波紋 === 彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた[[夏目漱石]]や学生たちに大きな影響を与えた{{sfn|朝倉|2005|p=39}}。在学中の[[岩波茂雄]]はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]となった一因ともいわれる<ref>朝日新聞出版刊 新マンガ日本史43号「夏目漱石」。</ref>。 当時のメディアでも、『[[萬朝報]]』の主催者であった[[黒岩涙香]]が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記{{sfn|朝倉|2005|p=14}}や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、[[姉崎正治]]ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった<ref>和崎光太郎「近代日本における『煩悶青年』の再検討 1900年代における<青年>の変容過程」教育史学会編『日本の教育史学』(第55集、2012年10月)pp.22-24。</ref>。 ==== 言及の例 ==== *夏目漱石『[[吾輩は猫である]]』十より :打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。 *夏目漱石『[[草枕]]』より :余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う{{sfn|朝倉|2005|p=44}}。 :「趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎の、わが卑しき心根に比較して他を賤しむに至っては許しがたい」「ただその死を促すの動機に至っては解しがたい。去れども死その物の壮烈をだに体し得ざるものが、如何にして藤村子の所業を嗤い得べき。かれらは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」{{sfn|朝倉|2005|p=45}}。 漱石はこれ以外にも『文学論』第2編3章や寺田寅彦あて書簡(1904年2月9日)に記した「水底の感」で藤村に言及している。 ==== 偽書の登場 ==== [[1907年]]『煩悶記』也奈義書房出版、岩本無縫 篇。内容は藤村操が実は生き延びて書いたとする[[偽書]]。出版直後に発売禁止処分になる{{sfn|藤村|1907}}。 藤村は自殺未遂後、下山し、海賊船で世界を巡り、[[パリ]]で悟りを開く。それを原稿にまとめて知人に託したものをまとめたものとする。「予は迷ひ初めたり。予は疑ひ初めたり。予は泣きたり、煩悶したり」と始まる。内容は[[社会主義]]や[[無政府主義]]の強い影響を受けており、発禁処分はそのためとも言われる。現在、3冊しか存在が確認されていない希少本であり、神田古本まつりに出展された際には、147万円の高値がついたことがある。そのうちの一冊は、[[野間光辰]]が所有していたことが判明し、また別の一冊を[[谷沢永一]]が所有しており、その全文が『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』<ref>[[谷沢永一]]『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』和泉書院、2005年12月 ISBN 978-4-7576-0287-8</ref>に掲載されている<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/culture/entertainment/news/TKY200510140290.html|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2005年10月15日|title=藤村操をかたり著述? 「煩悶記」に147万円の売値|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090528075932/http://www.asahi.com/culture/entertainment/news/TKY200510140290.html|archivedate=2009-05-28}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|谷沢の所蔵書は2007年6月に関西大学図書館に寄贈され、同図書館の「谷澤永一コレクション」に保存されている<ref>{{cite journal|和書|author=関西大学図書館 |title=谷澤永一コレクションリスト |publisher=関西大学図書館 |date=2009-07 |url=https://hdl.handle.net/10112/495}}</ref>。}}。また、[[城市郎]]の所蔵していたものが、[[明治大学]]に「城市郎文庫」として寄贈されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meiji.ac.jp/koho/press/2012/20120528_1.html|title=明治大学プレスリリース|publisher=明治大学|accessdate=2020-11-19}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!--著者名の50音順--> *{{Cite book|和書 |author=朝倉喬司 |authorlink=朝倉喬司 |date=2005-08 |title=自殺の思想 |publisher=[[太田出版]] |isbn=978-4-87233-945-1 |ref={{Harvid|朝倉|2005}} }} *{{Cite book|和書 |author=安倍能成 |authorlink=安倍能成 |date=1966-11 |title=我が生ひ立ち 自叙伝 |publisher=岩波書店 |ref={{Harvid|安倍|1966}} }} - 注釈:「藤村操の死」に続く数章で、遺体を引き取りに行ったことや、その他が記されている。 *{{Cite book|和書|author=井上克人|date=2007-06|title=明治期におけるショーペンハウアー哲学の受容について&mdash;井上哲次郎、R・ケーベル、三宅雪嶺に見る本体的一元論の系譜&mdash;|url=https://hdl.handle.net/10112/5348|pages=44-69|periodical=ショ―ペンハウアー研究|volume=12|publisher=日本ショーペンハウアー協会|naid=120005686195|ref={{Harvid|井上|2007}}}} *{{Cite book|和書 |date=1918-09-15 |title=人事興信録 |edition=第5版 |publisher=人事興信所 |id={{NDLJP|1704046}} |ref={{Harvid|人事興信所|1918}} }} *{{Cite book|和書 |date=1943-10-01 |title=人事興信録 |edition=第14版 |volume=下 |publisher=人事興信所 |id={{NDLJP|1704046}} |ref={{Harvid|人事興信所|1943}} }} *{{Cite book|和書 |author=土門公記 |date=2002-07 |title=藤村操の手紙 華厳の滝に眠る16歳のメッセージ |publisher=下野新聞社 |isbn=978-4-88286-175-1 |ref={{Harvid|土門|2002}} }} *{{Cite book|和書 |author=藤村操 |editor=岩本無縫 |date=1907-06 |title=煩悶記 |publisher=也奈義書房 |ncid=BA88335448 |ref={{Harvid|藤村|1907}} }} - 注記:著者の藤村操は、1903年(明治36年)日光の華厳の滝に投身自殺しているため、偽書とされる。 *{{Cite book|和書 |author=平岩昭三 |date=2003-05 |title=検証藤村操 華厳の滝投身自殺事件 |publisher=不二出版 |isbn=978-4-8350-1523-1 |ref={{Harvid|平岩|2003}} }} == 関連項目 == * [[岩波茂雄]] - [[岩波書店]]創業者。一高では藤村操の一学年先輩で、藤村の自殺に強い影響を受けたといわれる。 * [[ウェルテル効果]] * [[尾崎放哉]] - 一高時代の同級生 * [[斎藤栄]] - 著書の長編推理小説『日本のハムレットの秘密 天才少年遺言の謎』は、自称藤村操の孫が登場し、投身自殺は偽装だったのではないかと主張する。 * [[松岡千代]] - 3年後の1906年に服毒自殺し「女の藤村操」と称された岡山県の女学生。 * [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]] == 外部リンク == *{{Kotobank|藤村操}} *{{Kotobank|藤村 操}} *{{Kotobank|巌頭之感}} * {{青空文庫著作者|2003|藤村 操}} * [http://bungeikan.jp/domestic/detail/654/ 巌頭之感] - 日本ペンクラブ電子文藝館 * {{国立国会図書館デジタルコレクション|1920426/60|新聞集成明治編年史. 第十二卷|format=EXTERNAL}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1= 巌頭之感 |1-1= 遺言 }} {{DEFAULTSORT:ふしむら みさお}} [[Category:旧制第一高等学校]] [[Category:自殺した日本の人物]] [[Category:日本の高等教育の歴史|人]] [[Category:東洋大学京北高等学校出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1886年生]] [[Category:1903年没]] [[Category:19世紀日本の詩人]] [[Category:20世紀日本の詩人]] [[Category:青山霊園に埋葬されている人物]]
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公理的集合論
公理的集合論(こうりてきしゅうごうろん、axiomatic set theory)とは、公理化された集合論のことである。 現在一般的に使われている集合の公理系はZF (ツェルメロ=フレンケル) 公理系、またはZF公理系に下で述べる選択公理(Axiom of Choice)を加えた ZFC公理系(Zermelo-Fraenkel set-theory with the axiom of Choice)である。ZC, ZでそれぞれZFCおよびZFから置換公理を除いたもの、Z, ZF, ZC, ZFC で各体系から正則性公理を除いたものを表す。キューネンは『The Foundations of Mathematics』で「初等数学のほとんどはZCでの中でなされる」と述べている。 置換公理はフレンケルによって次の分出公理の代わりにおかれたものである(1922年)。分出公理はZFの公理から示すことができる。 分出公理を公理として採用する場合にはXを任意に選んだ集合、 ψ ( x ) {\displaystyle \psi (x)} を恒偽式 ( x ≠ x ) {\displaystyle (x\neq x)} としてとして分出公理を適用することにより空集合の存在が導かれる。 特に集合論においては、必要に応じて追加の公理が課せられる場合がある。そのようなものは追加される公理を適当な記号で表して ZFC+I (到達不能基数の存在を仮定する場合) や ZFC+GCH (一般連続体仮説の場合) のように表記される。 圏論における議論の目的の一つに、群やその間の準同型といった数学的対象全体の性質を議論することがある。しかし、これらを素朴に実装する (すなわち、内包原理を一般に適用する) ことは集合論上のパラドックスを引き起こすため、例えばZFCのような形式的な体系においては認められない。 マックレーンは『圏論の基礎』において、ユニバース (無限集合 ω を要素に持つグロタンディーク宇宙) を導入することでこの問題を回避している。ユニバースの要素となる集合を"小さい"集合、そうでないものを"大きい"集合とし、ユニバースの内側で通常の数学が行えるようにすることで、すべての小さい集合の圏 Set やすべての小さい圏の圏 Cat といったものの議論が可能になる。 グロタンディーク宇宙の存在は到達不能基数の存在と等価である (正確に書くと、任意のグロタンディーク宇宙 U はある到達不能基数 κ で U = Vκ と表すことができ、逆に任意の到達不能基数 κ に対して濃度が κ であるようなグロタンディーク宇宙が存在する)。到達不能基数はZFCのモデルを提供するため、これはZFCよりも強い公理系をなす。 アレクサンドル・グロタンディークは自身の著書において、任意の大きさのグロタンディーク宇宙が存在すること (任意の集合に対して、それを含むグロタンディーク宇宙が存在すること) を公理として課した。これは現在、タルスキ=グロタンディーク集合論(英語版)と呼ばれている。 置換公理と分離公理には、いずれも無限に多くの実例がある。 Montague (1961)には、1957年の博士論文で最初に証明された「ZFCが無矛盾であれば、有限個の公理でZFCを公理化することはできない」という結果が含まれる。一方、フォン・ノイマン=ベルナイス=ゲーデル集合論(英語版)(NBG)は、有限個の公理で公理化することができる。 NBGには真のクラスと集合が含まれるが、集合は別のクラスの元になることができる任意のクラスであるとされる。 NBGとZFCはクラスに言及しておらず、一方の理論で証明できる定理がもう一方の理論でも証明できるという意味で、等価な集合論であるといえる。 モース-ケリー集合論を参照。 新基礎集合論を参照。
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公理的集合論とは、公理化された集合論のことである。
'''公理的集合論'''(こうりてきしゅうごうろん、''axiomatic set theory'')とは、[[形式体系|公理化]]された[[集合論]]のことである。<!--[[素朴集合論]]と呼ばれる公理化されていない集合論に比べてはっきりとした基盤を持ち、そのためにより深い議論が展開することができ、現在では集合論の本流となっている。--> == 集合の公理系 == === ツェルメロ=フレンケル集合論(ZF公理系) === {{See also|ツェルメロ=フレンケル集合論}} 現在一般的に使われている集合の[[公理系]]はZF (ツェルメロ=フレンケル) 公理系、またはZF公理系に下で述べる[[選択公理]](Axiom of Choice)を加えた ZFC公理系('''Z'''ermelo-'''F'''raenkel set-theory with the axiom of '''C'''hoice)である。ZC, ZでそれぞれZFCおよびZFから置換公理を除いたもの、Z<sup>-</sup>, ZF<sup>-</sup>, ZC<sup>-</sup>, ZFC<sup>-</sup> で各体系から正則性公理を除いたものを表す。[[ケネス・キューネン|キューネン]]は『The Foundations of Mathematics』で「初等数学のほとんどはZC<sup>-</sup>での中でなされる」と述べている<ref>{{Cite book|title=The foundations of mathematics|url=https://www.worldcat.org/oclc/473432000|publisher=College Publications|date=2009|location=London|isbn=978-1-904987-14-7|oclc=473432000|first=Kenneth|last=Kunen}}</ref>。 ==== 基本的なZFの公理 ==== *'''[[外延性の公理]]''' ''A'' と ''B'' が全く同じ要素を持つのなら ''A'' と ''B'' は等しい: :: <math>\forall A\forall B(\forall x(x\in A \leftrightarrow x\in B)\rightarrow A = B)</math> 。 *'''[[空集合の公理]]''' 要素を持たない集合が存在する: :: <math>\exists A\forall x(x\notin A)</math> 。 :外延性の公理から、空集合の公理が存在を主張する集合はただ一つであることが言えるので、これを[[空集合]]と呼び、<math>\varnothing</math> で表す。 *'''[[対の公理]]''' 任意の要素 ''x'', ''y'' に対して、''x'' と ''y'' のみを要素とする集合が存在する: :: <math>\forall x\forall y\exists A\forall t(t\in A\leftrightarrow (t = x\vee t = y))</math> 。 :外延性の公理から、''x'' と ''y'' に対して対の公理が存在を主張する集合はただ一つであることが言えるので、これを <math>\{x,y\}\,</math> で表す。<math>\{x,x\}\,</math> を <math>\{x\}\,</math> で表す。これにより[[順序対]]の存在が言え、それにより[[直積集合]]の存在も言える。 *'''[[和集合の公理]]''' 任意の集合 ''X'' に対して、''X'' の要素の要素全体からなる集合が存在する: :: <math>\forall X\exists A\forall t(t\in A\leftrightarrow \exists x\in X(t \in x))</math> 。 :外延性の公理から、''X'' に対して和集合の公理が存在を主張する集合はただ一つであることが言えるので、これを ''X'' の[[合併 (集合論)|和集合]]と呼び、<math>\bigcup X</math> で表す。<math>\bigcup \{x,y\}</math> を <math>x\cup y</math> で表す。 *'''[[無限公理]]''' 空集合を要素とし、任意の要素 ''x'' に対して ''x'' &cup; {''x''} を要素に持つ集合が存在する: ::<math>\exists A(\varnothing\in A\wedge \forall x\in A(x\cup\{x\}\in A))</math> 。 *'''[[冪集合公理]]''' 任意の集合 ''X'' に対して ''X'' の[[部分集合]]全体の集合が存在する: ::<math>\forall X\exists A\forall t(t\in A\leftrightarrow t \subseteq X)</math> 。 :外延性の公理から、''X'' に対して冪集合の公理が存在を主張する集合はただ一つであることが言えるので、これを ''X'' の[[冪集合]]と呼び、<math>\mathcal{P}(X)</math> または2<sup>''x''</sup>で表す。 *'''[[置換公理]]''' "関数クラス"による集合の像は集合である: ::<math>\forall x\forall y\forall z((\psi(x,y)\wedge\psi(x,z))\rightarrow y = z)\rightarrow\forall X\exists A\forall y(y\in A \leftrightarrow \exists x\in X\psi(x,y))</math> 。 :この公理は、[[論理式 (数学)|論理式]] &psi; をパラメータとする[[公理図式]]である。 *'''[[正則性公理]](基礎の公理)''' 空でない集合は必ず自分自身と交わらない要素を持つ: ::<math>\forall A(A\ne\varnothing\rightarrow\exists x\in A\forall t\in A(t\notin x))</math> 。 :正則性公理は[[ジョン・フォン・ノイマン]]によって導入された([[1925年]])。 ==== 選択公理 ==== {{Main|選択公理}} *'''選択公理''' ''X'' が互いに交わらないような空でない集合の集合であるとき、''X'' の各要素から一つずつ要素をとってきたような集合('''選択集合''')が存在する: ::<math>\forall X((\varnothing \notin X\wedge\forall x\in X\forall y\in X(x\ne y\rightarrow x\cap y = \varnothing))\rightarrow\exists A\forall x\in X\exists t(x\cap A = \{t\}))</math> 。 : 選択公理と同値であることが ZF において証明できる命題として、[[順序集合|整列定理]]や[[ツォルンの補題]]などがある。 ==== 分出公理 ==== 置換公理はフレンケルによって次の分出公理の代わりにおかれたものである([[1922年]])。分出公理はZFの公理から示すことができる。 *'''[[分出公理]]''' 任意の集合 ''X'' と ''A'' を自由変数として使用しない論理式 &psi;(''x'') に対して、''X'' の要素 ''x'' で &psi;(''x'') をみたすような ''x'' 全体の集合が存在する: ::<math>\forall X\exists A\forall x(x\in A \leftrightarrow (x\in X\wedge \psi(x)))</math> 。 :この公理は、論理式 &psi; をパラメータとする公理図式である。論理式 &psi; を決めたとき、''X'' に対して分出公理が存在を主張する集合はただ一つであることが外延性の公理から言えるので、これを <math>\{x\in X\mid \psi(x)\}</math> で表す。<math>\{x\in X\mid x\in Y\}</math> を <math>X\cap Y</math> で表す。 分出公理を公理として採用する場合には''X''を任意に選んだ集合、 <math>\psi(x)</math>を恒偽式<math>(x\neq x)</math>としてとして分出公理を適用することにより空集合の存在が導かれる。 === 追加の公理 === 特に集合論においては、必要に応じて追加の公理が課せられる場合がある。そのようなものは追加される公理を適当な記号で表して ZFC+I ([[到達不能基数]]の存在を仮定する場合) や ZFC+GCH ([[連続体仮説|一般連続体仮説]]の場合) のように表記される。 ==== 連続体仮説 ==== {{節スタブ|date=2022年8月18日 (木) 11:28 (UTC)}}{{Main|連続体仮説}} ==== マーティンの公理 ==== {{節スタブ|date=2022年8月18日 (木) 11:28 (UTC)}}{{Main|マーティンの公理}} ==== グロタンディーク宇宙の存在公理 ==== [[圏論]]における議論の目的の一つに、群やその間の準同型といった数学的対象全体の性質を議論することがある<ref>{{Cite book|洋書|title=圏論の基礎|year=2012|publisher=丸善出版|page=27|last=Mac Lane|first=Saunders|author-link=ソーンダース・マックレーン|language=日本語|isbn=978-4-621-06324-8|translator=三好 博之, 高木 理|quote=圏論の主な目標の一つは,すべての群の「集合」や任意の二つの群の間の準同型の「集合」のような数学的対象全体の性質を議論することである.}}</ref>。しかし、これらを素朴に実装する (すなわち、内包原理を一般に適用する) ことは集合論上のパラドックスを引き起こすため、例えばZFCのような形式的な体系においては認められない。 [[ソーンダース・マックレーン|マックレーン]]は『[[圏論の基礎]]』において、ユニバース (無限集合 {{Math|''ω''}} を要素に持つ[[グロタンディーク宇宙]]) を導入することでこの問題を回避している。ユニバースの要素となる集合を"小さい"集合、そうでないものを"大きい"集合とし、ユニバースの内側で通常の数学が行えるようにすることで、すべての小さい集合の圏 '''Set''' やすべての小さい圏の圏 '''Cat''' といったものの議論が可能になる。 グロタンディーク宇宙の存在は到達不能基数の存在と等価である (正確に書くと、任意のグロタンディーク宇宙 {{Mvar|U}} はある到達不能基数 {{Mvar|κ}} で {{Math|1=''U'' = ''V''<sub>''κ''</sub>}} と表すことができ<ref>{{Cite journal|last=Williams|first=N. H.|year=1969|title=On Grothendieck universes|url=http://www.numdam.org/item/CM_1969__21_1_1_0/|journal=Compositio Mathematica|volume=21|issue=1|pages=1–3|accessdate=2022-08-18|ISSN=0010-437X|MR=244035}}</ref>、逆に任意の到達不能基数 {{Mvar|κ}} に対して濃度が {{Mvar|κ}} であるようなグロタンディーク宇宙が存在する<ref>{{Cite journal|last=Tarski|first=Alfred|date=1938|title=Über unerreichbare Kardinalzahlen|url=https://www.impan.pl/pl/wydawnictwa/czasopisma-i-serie-wydawnicze/fundamenta-mathematicae/all/30/0/111936/uber-unerreichbare-kardinalzahlen|journal=Fundamenta Mathematicae|volume=30|pages=68–89|language=de|doi=10.4064/fm-30-1-68-89|issn=0016-2736}}</ref>)。到達不能基数はZFCのモデルを提供するため、これはZFCよりも強い公理系をなす。 ==== タルスキの公理 ==== {{Main|1=タルスキ=グロタンディーク集合論|2=en:Tarski–Grothendieck set theory}} [[アレクサンドル・グロタンディーク]]は自身の著書において、任意の大きさのグロタンディーク宇宙が存在すること (任意の集合に対して、それを含むグロタンディーク宇宙が存在すること) を公理として課した<ref>{{Cite arXiv|arxiv=0810.1279|class=math.CT|last=Shulman|first=Michael A.|title=Set theory for category theory|date=2008-10-07}}</ref><ref>{{Cite book|洋書|title=Theorie des Topos et Cohomologie Etale des Schemas. Seminaire de Geometrie Algebrique du Bois-Marie 1963-1964 (SGA 4); Tome 1|url=https://link.springer.com/book/10.1007/BFb0081551|doi=10.1007/bfb0081551|language=fr|year=1972|publisher=Springer Berlin, Heidelberg|page=2|volume=269|last=Grothendieck|first=A.|author-link=アレクサンドル・グロタンディーク|last2=Verdier|first2=J. L.|issn=0075-8434|series=Lecture Notes in Mathematics|quote=(UA) Pour tout ensemble x il existe un univers U tel que x ∈ U.}}</ref>。これは現在、{{仮リンク|1=タルスキ=グロタンディーク集合論|2=en|3=Tarski–Grothendieck set theory}}と呼ばれている<ref>{{Cite journal|last=Trybulec|first=Andrzej|year=2002|title=Tarski Grothendieck Set Theory|url=http://mizar.org/JFM/Axiomatics/tarski.html|journal=Journal of Formalized Mathematics|volume=Axiomatics|publisher=Inst. of Computer Science, Univ. of Białystok|accessdate=2022-08-18}}</ref>。 === フォン・ノイマン=ベルナイス=ゲーデル集合論 === 置換公理と分離公理には、いずれも無限に多くの実例がある。 {{Harvtxt|Montague|1961}}には、1957年の博士論文で最初に証明された「ZFCが無矛盾であれば、有限個の公理でZFCを公理化することはできない」という結果が含まれる。一方、{{仮リンク|フォン・ノイマン=ベルナイス=ゲーデル集合論|en|Von Neumann–Bernays–Gödel set theory |preserve=1}}(NBG)は、有限個の公理で公理化することができる。 NBGには[[クラス (集合論)|真のクラス]]と集合が含まれるが、集合は別のクラスの元になることができる任意のクラスであるとされる。 NBGとZFCはクラスに言及しておらず、一方の理論で証明できる[[定理]]がもう一方の理論でも証明できるという意味で、等価な集合論であるといえる。 === モース-ケリー集合論 === [[モース-ケリー集合論]]を参照。 === 新基礎集合論 === [[新基礎集合論]]を参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Citation|last=Halmos|first=Paul R.|author-link=ポール・ハルモス|date=2012-04-05|title=Naive Set Theory|publisher=Lightning Source Inc.|edition=2011 Reprint of 1960 Edition|isbn=978-1-61427-131-4}} **{{Cite book|和書|author=ポール・ハルモス|authorlink=ポール・ハルモス|year=1975|month=9|title=素朴集合論|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=4-623-00986-6|url=http://www.minervashobo.co.jp/book/b47348.html|ref={{Harvid|ハルモス|1975}}}} == 関連項目 == *[[集合]] *[[集合の代数学]] *[[整礎的集合]] *[[数理論理学]] *[[グロタンディーク宇宙]] == 外部リンク == *{{MathWorld|title=Zermelo-Fraenkel Axioms|urlname=Zermelo-FraenkelAxioms}} {{集合論}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうりてきしゆうこうろん}} [[Category:集合論]] [[Category:公理]] [[Category:数学に関する記事]] [[en:Set theory#Axiomatic set theory]]
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病気
病気(びょうき, 英語: disease)、病(やまい)は、人や動物の心や体に不調または不都合が生じた状態のこと、もしくは、植物に細菌やウイルスが寄生し、腐敗や枝葉の状態が普通の状態では無くなっている状態。植物の病気の詳細は、植物病理学を参照。一般的に外傷などは含まれない。病気の類似概念としての、症候群(しょうこうぐん)、疾病(しっぺい)、疾患(しっかん)は、本記事でまとめて解説する。別の読みである、病気(やまいけ)は、病気が起こるような気配をいう。 病むということは、身体的、精神的、社会的生活のどこかが不健康であるというサインである。病むという体験は、これまでの身体的、精神的、社会的生活を振り返り、己の生き方、価値観、時間の使い方などを振り返って見直す機会である(セルフケア不足看護理論)。病むことは、これまでと違った新しい人生を手に入れ、自己成長を得る切っ掛けとなるのである。 ひとつには、自然科学的な習慣をそのまま持ち込んで、「定量的な分析」を志向し、数的な側面に着目する考え方、別の言い方をすると「正常 / 異常」という概念で分けようとする見解がある。 ある性質の集団の中での数的な分布で線引きしてしまおうとする考え方であり、統計分析の正規分布の母集団の分析における習慣を持ち込むものである。本当はどこまでが「正常」どこまでを「異常」とするかは統計学でも定義は無く、正式の統計学では、線引きの値は任意であり様々に設定可能、とされている。だが、そうした任意の値の中から便宜的・習慣的にしばしば用いられている設定「2×D」を(あまり確かな理由もなく、半ば強引に)採用しておいて、「標準値からプラスマイナス2×SDまでの差を正常、それ以上のずれは異常(なので疾患)」として、「疾患とは全体の5%未満に見られる形質・状態で、正常とは残りの約95%こと」と一律に定義してしまおうとする例がある。 しかしこのように「集団内での数的な分布」を「病気」の定義として流用してしまうと、日本で約1000万人が難儀している糖尿病や、数多くの合併症をもたらす肥満までも「正常」とすることになってしまい、また一方で、特に基礎疾患がなく偶然的に高身長となった人で元気に生活している人までが 「病気」に分類されてしまうという問題が生じる。すなわち、異常(統計的に数が少ない状態)であれば病気であるとも言えないし、病気であれば異常である、などとも言い切れず、統計的手法によって病気を定義しようとする試みには無理があるのである。 逆に、質的な記述あるいは定性的な記述で病気を一般化して定義しようとする試み・立場がある。 ひとつには本人の認識している状態(あるいは本人の主観的経験内容)を重視し、病気の定義を「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」、あるいは「本人あるいは周囲 が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」とすることがある。 医師が疾患だと診断した人であっても、本人は生活上の問題を感じないことなどを理由に「自分は病気ではない。健康である」と述べていることがあり、あるいは「身体障害は障害(広い意味で疾病の一種)ではなく個性である」と言われることがあり、これらはその意味でも一理あることともいえる。また、医療従事者の立場でも、本人または周囲が治療の必要性を感じなければ病院を受診に来ることも無いので、このような定義でも実際上の問題は生じにくい。 ただし、これも突き詰めて考えてみると、医師が依存症・嗜癖や骨粗鬆症などと診断するようなケースでも上記のような認識のズレが生じていることがあり、医学研究の立場では本人や周囲の判断・価値観に関わらずに病気を定義し診断できるようにすることへの要求は存在する。 医師など医療産業に従事しそれで収入を得ている者の中には「病気とは心身に不調あるいは不都合がある状態のことであって、いわゆる医療による改善が望まれるもの」などと、“医療”という言葉を手前味噌的に、半ば強引に定義に盛り込んでしまう例も無いわけではない。(だが、医療とは病気を治すものであるから、病気の定義に「医療」を用いるのは一種の循環論法となりうる。また、病気には医療を必要とせず治癒するものも多いので、その意味でもかなり問題のある定義である(後述)) 医療の領域で起きていることを、医療関係者の立場からも患者の立場からも離れて、客観的そして学問的に研究する医療人類学では、「病気(sickness)とは疾患(disease)と病い(illness)をあわせたもの」とする定義も提出されている。疾患(disease)を"生物学的なもの"とし、病い(illness)は"主観的な経験のこと"、とする説明である。この説明方法を採用した場合、例えば、上記の糖尿病の例では、疾患の定義に当てはまる者は1000万人いるかもしれないが、慢性疾患で自覚症状が少ない初期では本人が「病い」と捉える人はごく少ない、という理屈になる。 冒頭に説明したように、何が病気であるかそうでないかを決めるのは容易ではない。各立場なりの見解があり、一般の人々の多くは自身の感覚で病気か否かを判断しており、ちょうど「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」といった定義をそのまま当てはめるようなケースが一般的に見られる。医師の集団は医師なりの立場で、生物学に基づく見解を示したり統計を駆使するなどし、臨床医師では、目前に現れた患者の個別的な症状と、医学書に書かれている慣習的な判断基準とを見比べて便宜的に判断する等々、さまざまな運用が行われている。それらの見解は複雑に相互影響しあう。 実際、臨床の現場では医師と患者の見解がしばしばずれたり対立することがある。上記では周囲は病気と判定しているが本人は病気とは思っていない例をいくつか挙げたが、逆に本人が病気だと感じているのに医師の側がそう認識しない、しようとしない、というケースもある。たとえば本人が身体に激痛や異常な感覚などを感じ明らかに何らかの病気だと直感しそれを訴えているにもかかわらず、医師の側ではCTやMRIなどの画像を見て、そのその検査とその医師の技量との組み合わせではたまたま何も見つけられなかったことを根拠に、「("客観的に見て" あるいは"生物学的に見て")疾患ではないでしょう。気のせいでしょう」などと告げて放置し、すっかり悪化したり死亡してから、事後的に他の医師によって誤診だったと判定されるようなケースもある。またステロイド皮膚症や各種の公害病、乳幼児突然死症候群の例に見られるように、その病気が存在するかどうか自体が学問的のみならず政治的にも問題となることもある。 病気を分類することは容易ではなく、またその分類は医学の変化に伴い頻繁に変更される。医学においては、一般に以下のような観点によって病気は分類される。 また、次のような分類が提唱されることもある。 開業医や市中病院の医師が日常の診療で遭遇する「疾病」のほとんどは、上記で言えばカテゴリー1に属する(すなわち、医者・医療者がかかわらなくても治癒する病気である)。その比率は70〜90%ほどであるという。岡本裕医師によれば、実際の計数結果は95%がカテゴリー1だったという。 カテゴリー3に分類される病気、つまり「不治の病」もまだまだ多い。(例えば神経変性疾患、神経機能障害などはそれに分類される) (カテゴリー1と2の病気については)病気にも 1当人が自分の力で治すことができるもの、と 2自然治癒力も及ばず、医療従事者と連携をとり治癒をはかるとよいもの、の2種類があるということである。1の当人が自分の力で治すことができる病気には、 高血圧、糖尿病、高脂血症、肥満病、痛風、便秘症、不眠症、自律神経失調症などが挙げられる。 病気の対義語は、一般に健康であると考えられている。 WHO(世界保健機関)は健康を次のように定義している。 西洋医学風の用語で言えば、健康というのは恒常性が健全に保たれている状態、と言い換えることも可能であろう。そういう観点からは、病気(疾病)というのは、恒常性が崩れてしまって元に戻らなくなっているか戻りづらくなっている状態だと考えると理解しやすい。 さらに恒常性という概念を中国伝統医学の「未病」という用語で把握しなおしてみると、病気や健康という概念がより分かりやすくなる。 伝統中国医学(中医)で「未病」と診断されるのは、検査で明らかな異常がなく、明らかな症状も無いが、少し調子の悪い状態で、病気になる前段階の、心身の微妙な変化を指している。漢文訓読調でいえば「いまだやまいにあらざる」となる。「未病気」をキーワードにして、体の状態を分類してみると次のようになる。 これらの間にははっきりした境界はなく、連続的に移行している。中国には昔から「上工治未病」(上工は未病を治す)という言葉がある。つまり良い医者というのは、発病してからではなく、未病の段階で異常を察知し対処するものだ、ということである。一方、西洋医学では、未病を見過ごしてしまい、発病してからはじめて治療に取り掛かる。病気を火事に喩えて言えば、中国医学が火事になりそうな危険な場所をあらかじめ点検したり、燃えそうな建材をあらかじめ不燃材にして無事に防ぐのに対し、西洋医学では火事が起きてしまってから対処しよう、という考え方である。確かに一旦発火してしまえば、とりあえず燃え盛る火の勢いを抑えなければならないのではあるが、それよりも火事の防止や再発を防ぐことも非常に大切であるように、西洋医学のように発病するまで放置しておいて発病してから対処するという考え方は得策とは言えず、中国伝統医学のように、未病気の段階でそれを的確に察知し、自己治癒力を高めることで早めに対処しておこうとする考え方のほうが適切であり重要である。 戦争による負傷で大量の死者が出ることが続いた20世紀前半には西洋医学が目覚しい進展を見せ、抗生物質やワクチンが開発され生命を脅かす感染症などを激減させることに成功はした。だがその後、疾患の状況はすっかり様変わりし、生活習慣や生活環境に起因した心疾患、脳血管疾患、アレルギー疾患、メタボリックシンドローム、膠原病などの慢性疾患が急増し重大な課題となっている。これらの慢性疾患は西洋医学的な治療法(その多くが対症療法)だけでは限界があり、根本治癒にはどうしても、生活習慣を是正しつつ自己治癒力を高めることが不可欠となるので、心と体を一体としてとらえ全体のバランスとリズムをとりもどし病を癒す、と考え、心身一如の思想に立つ東洋医学の考え方が必須となる。 しばしば病気は、「症候群」「疾患」「疾病(しっぺい)」「障害」「怪我(けが)」「変異」等の語との概念上の重複がある。 病気の存在を前提として、その患者に共通する特徴のことを病態(びょうたい)あるいは病像(びょうぞう)という。病状(びょうじょう)は、ある特定の患者についてその臨床経過を指すことが多い。これらの単語はしばしば混合されて使われる。 医学では、「病気」という単語はあまり使用されず、代わりにより厳密な疾患(しっかん)、疾病(しっぺい)を使うことが多い。病気という語では内因性の疾患しか含まないような印象を受けることがあるためである(事故による骨折は、一般的には病気とは言わないことが多い)。なお、精神医学の用語の精神疾患は「障害(disorder)という概念であり、医学用語の「疾患」(disease)とは異なる概念である。 英語の disease(疾患、疾病)は sickness(軽い病気)、illness(病気)の原因を示す語で、病名と症状が明らかな具体的な病気に用いられる。sickness、illness は"病気になっている状態"を指し、disease は感染などによる体内機能の異常を意味する。一般には、熱や風邪など生活上の病気には用いられず、伝染病や癌など深刻な病気に用いられ、命に関わるようなニュアンスがある。 症候群(しょうこうぐん)とは、原因不明ながら共通の病態(自他覚症状・検査所見・画像所見など)を示す患者が多い場合に、そのような症状の集まりにとりあえず名をつけ、扱いやすくしたものである。 人名を冠した症候群の名前も数多く、原因が判明した場合にはその名前が変更されたり、時には他の病名と統合されたりすることがある。一方で原因判明後も長い間そのまま慣用的に使われている「症候群」は多く、逆に「〜病」の名を冠する原因不明の疾患も多くあり、実際には明確な区別がなされていないことが多い。 精神科領域においては、扱う疾患のほぼ全てが症候群と呼ぶべき疾患であるため、利便性の問題から症候群とは呼ばず○◯病・○○症と言った語を用いる。 症状(しょうじょう、symptom)は、病気によって患者の心身に現れる様々な個別の状態変化、あるいは正常からの変異のことである。病気にかかることを罹患(りかん)、症状が現れることを発症(はっしょう)または発病(はつびょう)という。患者本人によって主観的に感じられるものを自覚症状(じかくしょうじょう)、周囲によって客観的に感じ取られるものを他覚症状と呼んで区別する。単に「症状」といった場合、自覚症状のことのみを指す場合があり、この際は他覚症状のことを所見(しょけん)、徴候(ちょうこう)と呼んで区別する。 通常、「疾患」と「症状」は本来大きく違う概念だと考えられている。つまり、疾患が先にあって、それを受けて「症状」が生じる、というものである。しかし日常診療の場では、症状が確認されても、その症状を来たす原因がよく分からない場合が多く、この場合「症候群」での例と同様に、症状名と病名との境目が曖昧になることがある。 例えば、脱水という病名はないが、脱水が見られたら原疾患はさておき脱水の診断の元に治療を行うことがある。近視は症状の名前としても病名としても使われる。本態性高血圧という病名は、別の基礎疾患があって二次的に高血圧となっているものを除いて、原因不明で高血圧という「症状」を起こしているものをまとめて含めるための「病名」である。 ある臨床像が、原疾患に見られる症状のひとつであるのか、あるいは合併症として出現した別の独立した疾患なのかについては、医学の教科書を執筆する際の問題となるだけではなく、保険診療報酬や統計にも関わるため、軽視できない問題となる。 症状を研究する医学の一分野に、症候学がある。 日本では古くは病気は鬼のせいだとか、キツネの魂が人間に宿るためだとかと考えられていた。そのため病人が出ると、病気を治癒させるために祈祷師を呼んでお祓いをしてもらうということがあった。 現代の日本でも年中行事として、病気をしないように(鬼が来ないように)節分に豆まきをする、端午の節句に菖蒲湯に入るなどといった習慣が残っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "病気(びょうき, 英語: disease)、病(やまい)は、人や動物の心や体に不調または不都合が生じた状態のこと、もしくは、植物に細菌やウイルスが寄生し、腐敗や枝葉の状態が普通の状態では無くなっている状態。植物の病気の詳細は、植物病理学を参照。一般的に外傷などは含まれない。病気の類似概念としての、症候群(しょうこうぐん)、疾病(しっぺい)、疾患(しっかん)は、本記事でまとめて解説する。別の読みである、病気(やまいけ)は、病気が起こるような気配をいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "病むということは、身体的、精神的、社会的生活のどこかが不健康であるというサインである。病むという体験は、これまでの身体的、精神的、社会的生活を振り返り、己の生き方、価値観、時間の使い方などを振り返って見直す機会である(セルフケア不足看護理論)。病むことは、これまでと違った新しい人生を手に入れ、自己成長を得る切っ掛けとなるのである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ひとつには、自然科学的な習慣をそのまま持ち込んで、「定量的な分析」を志向し、数的な側面に着目する考え方、別の言い方をすると「正常 / 異常」という概念で分けようとする見解がある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": 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"医師が疾患だと診断した人であっても、本人は生活上の問題を感じないことなどを理由に「自分は病気ではない。健康である」と述べていることがあり、あるいは「身体障害は障害(広い意味で疾病の一種)ではなく個性である」と言われることがあり、これらはその意味でも一理あることともいえる。また、医療従事者の立場でも、本人または周囲が治療の必要性を感じなければ病院を受診に来ることも無いので、このような定義でも実際上の問題は生じにくい。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ただし、これも突き詰めて考えてみると、医師が依存症・嗜癖や骨粗鬆症などと診断するようなケースでも上記のような認識のズレが生じていることがあり、医学研究の立場では本人や周囲の判断・価値観に関わらずに病気を定義し診断できるようにすることへの要求は存在する。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "医師など医療産業に従事しそれで収入を得ている者の中には「病気とは心身に不調あるいは不都合がある状態のことであって、いわゆる医療による改善が望まれるもの」などと、“医療”という言葉を手前味噌的に、半ば強引に定義に盛り込んでしまう例も無いわけではない。(だが、医療とは病気を治すものであるから、病気の定義に「医療」を用いるのは一種の循環論法となりうる。また、病気には医療を必要とせず治癒するものも多いので、その意味でもかなり問題のある定義である(後述))", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "医療の領域で起きていることを、医療関係者の立場からも患者の立場からも離れて、客観的そして学問的に研究する医療人類学では、「病気(sickness)とは疾患(disease)と病い(illness)をあわせたもの」とする定義も提出されている。疾患(disease)を\"生物学的なもの\"とし、病い(illness)は\"主観的な経験のこと\"、とする説明である。この説明方法を採用した場合、例えば、上記の糖尿病の例では、疾患の定義に当てはまる者は1000万人いるかもしれないが、慢性疾患で自覚症状が少ない初期では本人が「病い」と捉える人はごく少ない、という理屈になる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "冒頭に説明したように、何が病気であるかそうでないかを決めるのは容易ではない。各立場なりの見解があり、一般の人々の多くは自身の感覚で病気か否かを判断しており、ちょうど「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」といった定義をそのまま当てはめるようなケースが一般的に見られる。医師の集団は医師なりの立場で、生物学に基づく見解を示したり統計を駆使するなどし、臨床医師では、目前に現れた患者の個別的な症状と、医学書に書かれている慣習的な判断基準とを見比べて便宜的に判断する等々、さまざまな運用が行われている。それらの見解は複雑に相互影響しあう。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "実際、臨床の現場では医師と患者の見解がしばしばずれたり対立することがある。上記では周囲は病気と判定しているが本人は病気とは思っていない例をいくつか挙げたが、逆に本人が病気だと感じているのに医師の側がそう認識しない、しようとしない、というケースもある。たとえば本人が身体に激痛や異常な感覚などを感じ明らかに何らかの病気だと直感しそれを訴えているにもかかわらず、医師の側ではCTやMRIなどの画像を見て、そのその検査とその医師の技量との組み合わせではたまたま何も見つけられなかったことを根拠に、「(\"客観的に見て\" あるいは\"生物学的に見て\")疾患ではないでしょう。気のせいでしょう」などと告げて放置し、すっかり悪化したり死亡してから、事後的に他の医師によって誤診だったと判定されるようなケースもある。またステロイド皮膚症や各種の公害病、乳幼児突然死症候群の例に見られるように、その病気が存在するかどうか自体が学問的のみならず政治的にも問題となることもある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "病気を分類することは容易ではなく、またその分類は医学の変化に伴い頻繁に変更される。医学においては、一般に以下のような観点によって病気は分類される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、次のような分類が提唱されることもある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "開業医や市中病院の医師が日常の診療で遭遇する「疾病」のほとんどは、上記で言えばカテゴリー1に属する(すなわち、医者・医療者がかかわらなくても治癒する病気である)。その比率は70〜90%ほどであるという。岡本裕医師によれば、実際の計数結果は95%がカテゴリー1だったという。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "カテゴリー3に分類される病気、つまり「不治の病」もまだまだ多い。(例えば神経変性疾患、神経機能障害などはそれに分類される)", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "(カテゴリー1と2の病気については)病気にも 1当人が自分の力で治すことができるもの、と 2自然治癒力も及ばず、医療従事者と連携をとり治癒をはかるとよいもの、の2種類があるということである。1の当人が自分の力で治すことができる病気には、 高血圧、糖尿病、高脂血症、肥満病、痛風、便秘症、不眠症、自律神経失調症などが挙げられる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", 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病気、病(やまい)は、人や動物の心や体に不調または不都合が生じた状態のこと、もしくは、植物に細菌やウイルスが寄生し、腐敗や枝葉の状態が普通の状態では無くなっている状態。植物の病気の詳細は、植物病理学を参照。一般的に外傷などは含まれない。病気の類似概念としての、症候群(しょうこうぐん)、疾病(しっぺい)、疾患(しっかん)は、本記事でまとめて解説する。別の読みである、病気(やまいけ)は、病気が起こるような気配をいう。 病むということは、身体的、精神的、社会的生活のどこかが不健康であるというサインである。病むという体験は、これまでの身体的、精神的、社会的生活を振り返り、己の生き方、価値観、時間の使い方などを振り返って見直す機会である(セルフケア不足看護理論)。病むことは、これまでと違った新しい人生を手に入れ、自己成長を得る切っ掛けとなるのである。
{{Expand English|date=2023年1月}} {{出典の明記| date = 2023年11月}} {{Otheruses|'''[[ヒト]]の病気'''|[[植物]]の病気|植物病理学}} {{Rquote|right|[[健康]]とは、[[身体]]的、[[精神]]的、[[社会]]的に完全な良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。|[[世界保健機関]]憲章}} [[File:Cruikshank - The Head Ache.png|thumb|200px|「頭痛」([[1819年]])]] '''病気'''(びょうき, {{lang-en|disease}})、'''病'''(やまい)は、[[人]]や[[動物]]の[[心]]や[[体]]に不調または不都合が生じた[[状態]]のこと、もしくは、[[植物]]に[[細菌]]や[[ウイルス]]が[[寄生]]し、[[腐敗]]や[[枝葉]]の状態が普通の[[状態]]では無くなっている状態。植物の病気の詳細は、[[植物病理学]]を参照。一般的に[[外傷]]などは含まれない。病気の類似[[概念]]としての、'''[[症候群]]'''(しょうこうぐん)、'''疾病'''(しっぺい)、'''疾患'''(しっかん)は、本記事でまとめて解説する。別の読みである、病気(やまいけ)は、病気が起こるような気配をいう。 病むということは、身体的、精神的、社会的生活のどこかが不健康であるというサインである<ref name=care>{{Citation|和書|title=精神看護学I |edition=6 |author=吉松和哉 |author2=小泉典章|author3=川野雅資 |date=2010 |publisher=ヌーヴェルヒロカワ |isbn=978-4-86174-064-0 |page=71}}</ref>。病むという体験は、これまでの身体的、精神的、社会的生活を振り返り、己の生き方、[[価値観]]、[[時間]]の使い方などを振り返って見直す[[機会]]である([[セルフケア不足看護理論]])<ref name=care/>。病むことは、これまでと違った新しい人生を手に入れ、自己成長を得る切っ掛けとなるのである<ref name=care/>。 == 定義 == [[File:Gabriel Metsu 002.jpg|250px|thumb|病気の少女([[1660年]])。[[ハブリエル・メツー]]の作品。]] {{see also|#病気と「疾患」・「疾病」}} === 分布の数で判断しようとする試み === ひとつには、[[自然科学]]的な[[習慣]]をそのまま持ち込んで、「定量的な分析」を志向し、数的な側面に着目する考え方、別の言い方をすると「[[普通|正常]] / [[異常]]」という概念で分けようとする見解がある。 ある性質の[[集団]]の中での数的な分布で線引きしてしまおうとする考え方であり、統計分析の[[正規分布]]の[[母集団]]の分析における習慣を持ち込むものである。本当はどこまでが「正常」どこまでを「異常」とするかは統計学でも定義は無く、正式の統計学では、線引きの値は任意であり様々に設定可能、とされている。だが、そうした任意の値の中から便宜的・習慣的にしばしば用いられている設定「2×D」を(あまり確かな理由もなく、半ば強引に)採用しておいて、「標準値からプラスマイナス2×[[標準偏差|SD]]までの差を正常、それ以上のずれは異常(なので疾患)」として、「疾患とは全体の5%未満に見られる形質・状態で、正常とは残りの約95%こと」と一律に定義してしまおうとする例がある。<!--{{要出典}}しかしながら、この例では、下記の糖尿病の事例はあてはまらないことになる。--> しかしこのように「集団内での数的な分布」を「病気」の定義として流用してしまうと、日本で約1000万人が難儀している[[糖尿病]]や、数多くの合併症をもたらす[[肥満]]までも「正常」とすることになってしまい、また一方で、特に基礎疾患がなく偶然的に高身長となった人で元気に生活している人までが 「病気」に分類されてしまうという問題が生じる。すなわち、異常(統計的に数が少ない状態)であれば病気であるとも言えないし、病気であれば異常である、などとも言い切れず、統計的手法によって病気を定義しようとする試みには無理があるのである{{要出典|date= 2013年9月}}<!-- {{Synthesis-inline|date=2013年9月}} -->。 === 定性的に定義しようとする立場 === 逆に、<!-- 完全に価値判断的に-->質的な記述あるいは定性的な記述で病気を一般化して定義しようとする試み・立場がある。 ひとつには本人の[[認識]]している[[状態]](あるいは本人の主観的経験内容)を重視し、病気の定義を「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」、あるいは「本人あるいは周囲<ref group="注釈">「本人あるいは周囲が」としたのは、[[精神障害|精神疾患]]や軽症の疾患の中には、本人は生活上の不都合を感じないが、周囲の人が生活上支障をきたすために治療の必要性を感じる場合があるからである。これは病気と類似概念の混同である。 [[精神障害|精神疾患]]、[[病気#病気と「疾患」・「疾病」]]も参照のこと。</ref> が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」とすることがある。 医師が疾患だと[[診断]]した人であっても、本人は[[生活]]上の[[問題]]を感じないことなどを[[理由]]に「自分は病気ではない。健康である」と述べていることがあり、あるいは「[[身体障害]]は[[障害]](広い意味で疾病の一種)ではなく個性である」と言われることがあり、これらはその意味でも一理あることともいえる。また、[[医療従事者]]の立場でも、本人または周囲が治療の必要性を感じなければ病院を受診に来ることも無いので、このような定義でも実際上の問題は生じにくい。 ただし、これも突き詰めて考えてみると、医師が[[依存症]]・[[嗜癖]]や[[骨粗鬆症]]などと診断するようなケースでも上記のような認識のズレが生じていることがあり、医学研究の立場では本人や周囲の判断・価値観に関わらずに病気を定義し診断できるようにすることへの要求は存在する。 === 医療関係者の主観を織り込もうとする試み === [[医師]]など[[医療産業]]に従事しそれで収入を得ている者の中には「病気とは心身に不調あるいは不都合がある状態のことであって、<!--ダブリ 「病気とは心身の不調あるいは不都合であって、-->いわゆる医療による改善が望まれるもの」などと、“医療”という言葉を手前味噌的に、半ば強引に定義に盛り込んでしまう例も無いわけではない。(だが、医療とは病気を治すものであるから、病気の定義に「医療」を用いるのは一種の[[循環論法]]となりうる。また、病気には医療を必要とせず治癒するものも多いので、その意味でもかなり問題のある定義である(後述)) === 医療人類学での見解 === [[医療]]の領域で起きていることを、医療関係者の立場からも患者の立場からも離れて、[[客観]]的そして学問的に研究する[[医療人類学]]では、「病気(sickness)とは疾患(disease)と病い(illness)をあわせたもの」とする定義も提出されている<ref>{{cite web |url=http://arjournals.annualreviews.org/doi/abs/10.1146/annurev.an.11.100182.001353 |title=The Anthropologies of Illness and Sickness |work=Annual Review of Anthropology |date=1982-10 |accessdate=2009-12-25 |doi=10.1146/annurev.an.11.100182.001353 }}</ref>。疾患(disease)を"生物学的なもの"とし、病い(illness)は"主観的な経験のこと"、とする説明である。この説明方法を採用した場合、例えば、上記の糖尿病の例では、疾患の定義に当てはまる者は1000万人いるかもしれないが、[[慢性疾患]]で自覚症状が少ない初期では本人が「病い」と捉える人はごく少ない、という理屈になる。 === 社会的状況 === 冒頭に説明したように、何が病気であるかそうでないかを決めるのは容易ではない。各立場なりの見解があり、一般の人々の多くは自身の感覚で病気か否かを判断しており、ちょうど「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」といった定義をそのまま当てはめるようなケースが一般的に見られる。医師の集団は医師なりの立場で、生物学に基づく見解を示したり統計を駆使するなどし、[[臨床]]医師では、目前に現れた患者の個別的な症状と、医学書に書かれている慣習的な判断基準とを見比べて便宜的に判断する等々、さまざまな運用が行われている。それらの見解は複雑に相互影響しあう<ref group="注釈">一般の人々は、医師からの説明を聞いて、それを自分の考えとして採用することもある。また逆に医師の側も、患者から報告を聞いて、はじめて何かを「疾患」と認識し、そうした断片的情報が学会などで徐々に集約されて、あらためて大規模統計がとられる場合もある。マスコミで医師が語る内容も人々の病気観に影響を与える。</ref>。 実際、臨床の現場では医師と患者の見解がしばしばずれたり対立することがある。上記では周囲は病気と判定しているが本人は病気とは思っていない例をいくつか挙げたが、逆に本人が病気だと感じているのに医師の側がそう認識しない、しようとしない、というケースもある。たとえば本人が身体に[[疼痛|激痛]]や異常な感覚などを感じ明らかに何らかの病気だと直感しそれを訴えているにもかかわらず、医師の側ではCTやMRIなどの画像を見て、そのその検査とその医師の技量との組み合わせではたまたま何も見つけられなかったことを根拠に、「("客観的に見て" あるいは"生物学的に見て")疾患ではないでしょう。気のせいでしょう」などと告げて放置し、すっかり悪化したり死亡してから、事後的に他の医師によって[[誤診]]だったと判定されるようなケースもある。また[[ステロイド皮膚症]]や各種の[[公害病]]、[[乳幼児突然死症候群]]の例に見られるように、その病気が存在するかどうか自体が学問的のみならず政治的にも問題となることもある。 == 分類 == 病気を[[分類]]することは容易ではなく、またその分類は医学の変化に伴い頻繁に変更される。医学においては、一般に以下のような観点によって病気は分類される。 * [[精神疾患]]か[[器質的疾患]]([[生体組織]]自体の異常による疾患)か機能的疾患(生体組織の働き方の異常による疾患)による分類 * [[病巣]]の局在による分類([[肝臓]]の疾患、[[心臓]]の疾患など) * 原因による分類([[感染]]性、[[心因性疾患|心因性]]、[[自己免疫]]性、[[医原病]]など) * [[病理]]的所見からの分類(良性、[[悪性]]、[[肉芽腫性]]など) * 進行の様相による分類([[急性]]、[[慢性]]、劇症、一過性、[[発作]]性など) === 医療の要・不要による分類 === {{複数の問題 | section = 1 | 単一の出典 = 2023年8月28日 (月) 08:33 (UTC) | 独自研究 = 2023年8月28日 (月) 08:33 (UTC) }} また、次のような分類が提唱されることもある<ref name="9wari_1">{{Cite book|和書|author=岡本裕|authorlink=岡本裕|year=2009|title=9割の病気は自分で治せる|chapter=はじめに~第1章|pages=1-46|publisher=[[中経出版]]}}</ref>。 * カテゴリー1 : 医者がかかわってもかかわらなくても治癒する病気 ([[自然治癒力]]や本人の努力で治癒するもの)<ref name="9wari_1" /> * カテゴリー2 : 医者がかかわることによってはじめて治癒する病気<ref name="9wari_1" /> * カテゴリー3 : 医者がかかわってもかかわらなくても治癒しない病気<ref name="9wari_1" /> 開業医や市中[[病院]]の[[医師]]が日常の[[診療]]で遭遇する「疾病」のほとんどは、上記で言えばカテゴリー1に属する<ref name="9wari_1" />(すなわち、医者・医療者がかかわらなくても[[治癒]]する病気である)。その比率は70〜90[[パーセント|%]]ほどであるという。岡本裕医師によれば、実際の計数結果は95%がカテゴリー1だったという<ref name="9wari_1" />。 カテゴリー3に分類される病気、つまり「不治の病」もまだまだ多い<ref name="9wari_1" />。(例えば[[神経変性疾患]]、[[神経機能障害]]などはそれに[[分類]]される) (カテゴリー1と2の病気については)病気にも ①当人が自分の力で治すことができるもの、と ②自然治癒力も及ばず、医療従事者と連携をとり治癒をはかるとよいもの、の2種類があるということである<ref name="9wari_1" />。①の当人が自分の力で治すことができる病気には、 [[高血圧]]{{efn|遺伝的背景と生活習慣が原因となる[[本態性高血圧症]]は高血圧の80 〜 90%であって、残りの10 〜 20%は高血圧の基礎疾患が明らかな二次性高血圧症である。二次性高血圧症では基礎疾患の早期発見・早期治療が重要である<ref>{{Cite book|和書|year=2011|title=今日の治療指針2011年版|page=339|publisher=[[医学書院]]}}</ref>。}}、[[糖尿病]]、[[高脂血症]]、[[肥満]]病、[[痛風]]、[[便秘]]症、[[不眠症]]{{efn|不眠のなかには、実は本当の原因として、周期性四肢運動障害、むずむず脚症候群、概日リズム睡眠障害、うつ病などが隠れている場合があるから、鑑別診断が重要である<ref>{{Cite book|和書|year=2010|title=今日の診断指針第6版|page=339|publisher=医学書院}}</ref>。}}、[[自律神経失調症]]などが挙げられる。 == 病気と健康 == {{複数の問題 | section = 1 | 単一の出典 = 2023年8月28日 (月) 08:33 (UTC) | 独自研究 = 2023年8月28日 (月) 08:33 (UTC) }} 病気の対義語は、一般に[[健康]]であると考えられている。 [[WHO]](世界保健機関)は健康を次のように定義している。 {{quotation|身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない}} [[西洋医学]]風の[[用語]]で言えば、健康というのは[[恒常性]]が健全に保たれている状態、と言い換えることも可能であろう<ref name="9wari_3">{{Cite book|和書|author=岡本裕|year=2009|title=9割の病気は自分で治せる|chapter=第3章|pages=121-138|publisher=中経出版}}</ref>。そういう観点からは、病気(疾病)というのは、恒常性が崩れてしまって元に戻らなくなっているか戻りづらくなっている状態だと考えると理解しやすい<ref name="9wari_3" />。 さらに恒常性という概念を中国伝統医学の「未病」という用語で把握しなおしてみると、病気や健康という概念がより分かりやすくなる<ref name="9wari_3" />。 === 未病 === [[伝統中国医学]](中医)で「未病」と診断されるのは、検査で明らかな異常がなく、明らかな症状も無いが、少し調子の悪い状態で、病気になる前段階の、心身の微妙な変化を指している<ref name="9wari_3" />。漢文訓読調でいえば「いまだやまいにあらざる」となる。「未病気」をキーワードにして、体の状態を分類してみると次のようになる。 * 状態 1 :恒常性が健全に保たれている状態・・・健康<ref name="9wari_3" /> * 状態 2 :恒常性が崩れかけている状態・・・未病<ref name="9wari_3" /> * 状態 3 :恒常性が崩れ、そのままでは元に戻らなくなっている状態・・・病気<ref name="9wari_3" /> これらの間にははっきりした境界はなく、連続的に移行している<ref name="9wari_3" />。[[中華人民共和国|中国]]には昔から「上工治未病」(上工は未病を治す)という言葉がある。つまり良い医者というのは、発病してからではなく、未病の段階で異常を察知し対処するものだ、ということである<ref name="9wari_3" />。一方、[[西洋医学]]では、未病を見過ごしてしまい、発病してからはじめて治療に取り掛かる<ref name="9wari_3" />。病気を火事に喩えて言えば、中国医学が火事になりそうな危険な場所をあらかじめ点検したり、燃えそうな建材をあらかじめ不燃材にして無事に防ぐのに対し、西洋医学では火事が起きてしまってから対処しよう、という考え方である。確かに一旦発火してしまえば、とりあえず燃え盛る火の勢いを抑えなければならないのではあるが、それよりも火事の防止や再発を防ぐことも非常に大切であるように、[[西洋医学]]のように発病するまで放置しておいて発病してから対処するという考え方は得策とは言えず、中国伝統医学のように、未病気の段階でそれを的確に察知し、自己治癒力を高めることで早めに対処しておこうとする考え方のほうが適切であり重要である<ref name="9wari_3" />。 [[戦争]]による[[負傷]]で大量の死者が出ることが続いた20世紀前半には西洋医学が目覚しい進展を見せ、[[抗生物質]]や[[ワクチン]]が開発され生命を脅かす感染症などを激減させることに成功はした。だがその後、疾患の状況はすっかり様変わりし、[[生活習慣]]や生活環境に起因した[[心疾患]]、[[脳血管疾患]]、[[アレルギー]]疾患、[[メタボリックシンドローム]]、[[膠原病]]などの慢性疾患が急増し重大な課題となっている<ref name="9wari_3" />。これらの慢性疾患は西洋医学的な治療法(その多くが[[対症療法]])だけでは限界があり、根本治癒にはどうしても、生活習慣を是正しつつ[[自己治癒力]]を高めることが不可欠となるので、心と体を一体としてとらえ全体のバランスとリズムをとりもどし病を癒す、と考え、心身一如の思想に立つ[[東洋医学]]の考え方が必須となる<ref name="9wari_3" />。 == 周辺の語の概念 == しばしば病気は、「[[症候群]]」「疾患」「疾病(しっぺい)」「[[障害#医学用語|障害]]」「[[怪我]](けが)」「[[変異]]」等の語との概念上の重複がある。 病気の存在を前提として、その患者に共通する特徴のことを'''病態'''(びょうたい)あるいは'''病像'''(びょうぞう)という。'''病状'''(びょうじょう)は、ある特定の患者についてその臨床経過を指すことが多い。これらの単語はしばしば混合されて使われる。 === 病気と「疾患」・「疾病」 === 医学では、「病気」という単語はあまり使用されず、代わりにより厳密な'''疾患'''(しっかん)、'''疾病'''(しっぺい)を使うことが多い。病気という語では内因性の疾患しか含まないような印象を受けることがあるためである(事故による[[骨折]]は、一般的には病気とは言わないことが多い)。なお、精神医学の用語の精神疾患は「[[障害#医学的障害の種類|障害(disorder)]]という概念であり、医学用語の「疾患」(disease)とは異なる概念である。 英語の disease(疾患、疾病)は sickness(軽い病気)、illness(病気)の原因を示す語で、病名と症状が明らかな具体的な病気に用いられる。sickness、illness は"病気になっている状態"を指し、disease は感染などによる体内機能の異常を意味する。一般には、熱や風邪など生活上の病気には用いられず、伝染病や癌など深刻な病気に用いられ、命に関わるようなニュアンスがある。 === 疾患・疾病・病気と「症候群」 === {{Main|症候群}} '''症候群'''(しょうこうぐん)とは、原因不明ながら共通の病態(自他覚症状・[[検査]]所見・[[画像]]所見など)を示す患者が多い場合に、そのような症状の集まりにとりあえず名をつけ、扱いやすくしたものである。 人名を冠した症候群の名前も数多く、原因が判明した場合にはその名前が変更されたり、時には他の病名と統合されたりすることがある。一方で原因判明後も長い間そのまま慣用的に使われている「症候群」は多く、逆に「〜病」の名を冠する原因不明の疾患も多くあり、実際には明確な区別がなされていないことが多い。 精神科領域においては、扱う疾患のほぼ全てが症候群と呼ぶべき疾患であるため、利便性の問題から症候群とは呼ばず○◯病・○○症と言った語を用いる。 === 疾患・疾病・病気と「症状」 === '''症状'''(しょうじょう、symptom)は、病気によって患者の心身に現れる様々な個別の状態変化、あるいは正常からの変異のことである。病気にかかることを罹患(りかん)、症状が現れることを発症(はっしょう)または発病(はつびょう)という。患者本人によって主観的に感じられるものを[[自覚症状]](じかくしょうじょう)、周囲によって客観的に感じ取られるものを他覚症状と呼んで区別する。単に「症状」といった場合、自覚症状のことのみを指す場合があり、この際は他覚症状のことを所見(しょけん)、徴候(ちょうこう)と呼んで区別する。 通常、「疾患」と「症状」は本来大きく違う概念だと考えられている。つまり、疾患が先にあって、それを受けて「症状」が生じる、というものである。しかし日常診療の場では、症状が確認されても、その症状を来たす原因がよく分からない場合が多く、この場合「症候群」での例と同様に、症状名と病名との境目が曖昧になることがある。 例えば、[[脱水 (医療)|脱水]]という病名はないが、脱水が見られたら原疾患はさておき脱水の診断の元に治療を行うことがある。[[近視]]は症状の名前としても病名としても使われる。[[本態性高血圧]]という病名は、別の基礎疾患があって二次的に高血圧となっているものを除いて、原因不明で[[高血圧]]という「症状」を起こしているものをまとめて含めるための「病名」である。 ある臨床像が、原疾患に見られる症状のひとつであるのか、あるいは合併症として出現した別の独立した疾患なのかについては、医学の教科書を執筆する際の問題となるだけではなく、保険[[診療報酬]]や統計にも関わるため、軽視できない問題となる。 症状を研究する医学の一分野に、[[症候学]]がある。 <!-- [[Wikipedia:独自の研究]] {{要出典範囲| == 病気利得 == 「病気でいることによって、本人が得られる利得。周囲の気遣いを受けられる、弱者・被害者でいたり、他者に依存できたりする。 --> <!-- 独自の偏見による、あやしげな決めつけ。根拠があるなら客観的なデータ、大規模調査による統計の出典を示すべき。 {{要出典範囲|「たとえば、「あなたは病気でない」と言われて怒る者は、病気利得を得ようとする要素を持つ可能性が高い。|date=2014年5月}}{{要検証|date=2014年5月}}」???{{誰|date=2014年5月}} --> <!-- [[Wikipedia:独自の研究]] 百科辞典やリファレンスの【病気】という記事・項目でこういうことは書いてない。 特に「利得」という概念でひとつにまとめようとしているところが、独自の研究 {{要出典範囲| === 依存利得 === 依存や嗜癖を続けることによって得られる利得。薬物依存症では麻薬・覚せい剤・大麻・タバコなどを繰り返し乱用し続けることによって、不快な禁断症状を刹那的に和らげることができる。さらに、依存している間は、依存による現実の害に直面して不安を感じなくて済み、刹那的であっても快楽をえられるなどの利得がある。[[依存症]]・[[嗜癖]]者の語る[[依存症#否認|否認]]は、依存利得を得る目的で行われる。 |date=2014年5月}} --> <!-- [[Wikipedia:独自の研究]] 病気の項目にこれを記述している出典は? {{要出典|date=2014年5月}} === 仮病・詐病 === [[詐病|仮病・詐病]]によって、[[学校]]・[[仕事]]を休める、公的な[[補助金]]を得られる、などの[[利得]]を得られる。詐病による[[公務員]]の長期欠勤が批判を浴びたことがある。 --> <!-- [[Wikipedia:独自の研究]] 【病気】の項目にこれを記述している出典は? === 虚偽性障害 === 病人として大切にされるという病気利得を得るため、病状などについて虚偽を並べ立てる。[[精神疾患]]の一種。詳細は[[虚偽性障害]]を参照。 --> == 病気と年中行事 == [[日本]]では、古くは病気は[[鬼]]のせい、[[キツネ]]の[[魂]]が[[人間]]に宿るため、など所謂[[民話]]や[[民間信仰]]と共に考えられていた。そのため病人が出ると、病気を治癒させるために[[祈祷師]]を呼んで[[お祓い]]をしてもらうということがあった。 [[現代 (時代区分)|現代]]の日本でも[[年中行事]]として、病気をしないように(鬼が来ないように)[[節分]]に豆まきをする、[[端午]]の節句に[[菖蒲湯]]に入るなどといった[[習慣]]が残っている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[岡本裕]]『9割の病気は自分で治せる』 [[中経出版]]、2009年(平成21年)、{{ISBN2|978-4-8061-3277-6}} == 関連項目 == {{sisterlinks | wikt = 病気 | commons = Category:Diseases and disorders | n = カテゴリ:健康 }} * [[病気の別名の一覧]] * [[症候学]] * [[疾病及び関連保健問題の国際統計分類]] * [[病み上がり]] * [[医療]]、[[医療従事者]] * [[医療社会学]] * [[医学]]/[[歯学]] * [[詐病]] == 外部リンク == *[https://minds.jcqhc.or.jp/ Minds] - 公益社団法人 日本医療機能評価機構が提供する診療ガイドライン・ガイドライン解説 * [https://www.ebm.jp/ 病気の標準治療ガイド] - 特定非営利活動法人 標準医療情報センターが運営 *[https://guideline.jamas.or.jp/ 東邦大学・医中誌 診療ガイドライン情報データベース] - 東邦大学医学メディアセンター、医学中央雑誌刊行会が運営 {{SEP|health-disease|Concepts of Disease and Health|病と健康の概念}} * {{Kotobank}} {{病状を説明する医学用語}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひようき}} [[Category:病気|*]] [[Category:健康]] [[Category:生命倫理学]] [[Category:社会における医学]]
2003-05-20T18:28:06Z
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ヴェルナー・ハイゼンベルク
ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)は、ドイツの理論物理学者。行列力学と不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。 ドイツ帝国南部バイエルン王国(現在のバイエルン州)ヴュルツブルクに生まれる。ミュンヘン大学のアルノルト・ゾンマーフェルトに学び、マックス・ボルンの下で助手を務めた後、1924年にコペンハーゲンのニールス・ボーアの下に留学。ボルンとパスカル・ヨルダンの協力を得ながら、1925年に行列力学(マトリックス力学)を、1927年に不確定性原理を導いて、量子力学の確立に大きく寄与した。1932年に31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞。 母国ドイツではナチスの台頭で、同僚の多くがナチス体制下のドイツを去ったが、ハイゼンベルクは、プランクからの「今は生き残るために妥協を強いられるにしても、破局の後の新しい時代のドイツのために残るべきだ」という助言もあり、ドイツに残ることにし、場の量子論や原子核の理論の研究を進めた。 ナチス政権下では、相対性理論及びユダヤ人物理学者を擁護する立場を取ったため、シュタルク、レーナルトらナチス党員の物理学者から、「白いユダヤ人」と呼ばれて強い攻撃に晒された。ナチス政府から召集され、第二次世界大戦中は原爆開発(通称「ウランクラブ」)に関わった。イギリスのベルリン空爆で、家を失ったが家族に犠牲はなかった。 戦後は、1946年から1970年までマックス・プランク物理学研究所の所長を務めた。 ハイゼンベルクは、ドイツの原爆開発チーム「ウラン・クラブ」の一員だった。しかし後に、このことは精神的に苦痛だったと書いている。 1941年、ハイゼンベルクはデンマークのボーアを訪ね、「理論上開発は可能だが、技術的にも財政的にも困難であり、原爆はこの戦争には間に合わない」と伝え、あるメモを手渡した。ボーアはそのメモをアメリカのハンス・ベーテに渡した。ベーテによると、それは原子炉の絵だった。ハイゼンベルクのシンクロトロンが、火災を起こし、懸命な消火活動によっても、1ヶ月間鎮火することはなかったため、世界中にニュースとして配信されたところ、その新聞記事を読んだアルバート・アインシュタインは、「ハイゼンベルクがとうとう、原子炉の開発に成功したので、原爆を作るのは時間の問題だ」と考えた。ボーアからベーテの手に渡ったハイゼンベルクのメモには重水炉のシェーマが記されており、これを見せられていたアインシュタインは、妄想にしか過ぎなかった原子爆弾開発競争を覚悟した。ハイゼンベルクは、ナチス高官による、電力不足の解決方法を重水炉でするという方法を打ち明けたが、自らは重水炉の開発をサボタージュした。それを知らなかったアメリカは、スパイを使っては、学会会場や、パーティー会場で何度もハイゼンベルクの暗殺を謀ったが、全て失敗に終わった。このようなことから、ハイゼンベルクは、ナチス原爆開発の意図的な遅延や、連合国側にドイツ側の情報を伝えることで原爆開発競争の抑止を図ろうとした、という見方がある。 終戦後は他の開発者と共にイギリス情報局秘密情報部の手でイギリスのファーム・ホールに軟禁され、広島・長崎の原爆投下のニュースもそこで聞いた。それを聞いたハイゼンベルクは、そんなことは不可能だと驚いたという。 1941年にハイゼンベルクとボーアがコペンハーゲンで会った際に何が起こったのか、とくにナチ体制のために核兵器を開発していくことについてハイゼンベルクがどういう意図を持っていたかについてこの会見から何がわかるのか、ということは多くの関心を集めている。マイケル・フレインの1998年の戯曲『コペンハーゲン』はこれを主題とし、高い評価を受けて舞台芸術関連の賞もいくつか受賞している。本戯曲はBBCによってボーア役がスティーヴン・レイ、ハイゼンベルク役がダニエル・クレイグというキャストでテレビドラマ化されており、2002年9月26日に初放映された。BBCの科学ドキュメンタリーシリーズ、『ホライズン』でも同じ1941年の会見が既に1992年にテレビ化されており、ボーア役はアンソニー・ベイト、ハイゼンベルク役はフィリップ・アンソニーであった。。
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ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクは、ドイツの理論物理学者。行列力学と不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。
{{Infobox Scientist | name = ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク | image = Bundesarchiv Bild183-R57262, Werner Heisenberg.jpg | caption = | birth_date = [[1901年]][[12月5日]] | birth_place = {{DEU1871}}、[[ヴュルツブルク]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1901|12|5|1976|2|1}} | death_place = {{BRD}}、[[ミュンヘン]] | residence = {{DEU}}<br />{{DEN}}<br />{{GBR}} | nationality = {{DEU}} | field = [[物理学]] | work_institution = [[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]<br />[[コペンハーゲン大学]]<br />[[ライプツィヒ大学]]<br />[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]<br />[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]] | alma_mater = ミュンヘン大学 | doctoral_advisor = [[アルノルト・ゾンマーフェルト]] | doctoral_students = [[エドワード・テラー]]<br />[[ルドルフ・パイエルス]]<br />[[フェリックス・ブロッホ]] | known_for = [[不確定性原理]]<br />[[行列力学]]<br />[[アイソスピン]] | prizes = [[ノーベル物理学賞]]([[1932年]])<br />[[マックス・プランク・メダル]]([[1933年]]) | religion = [[ルーテル教会]] | footnotes = <!--備考--> }} {{thumbnail:begin}} <!-- {{thumbnail:画像|Werner Heisenberg at 1927 Solvay Conference.JPG|ヴェルナー・ハイゼンベルク}}--> 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ナチス政権下では、相対性理論及びユダヤ人物理学者を擁護する立場を取ったため、[[ヨハネス・シュタルク|シュタルク]]、[[フィリップ・レーナルト|レーナルト]]らナチス党員の物理学者から、「白いユダヤ人」と呼ばれて強い攻撃に晒された<ref name="名前なし-1">{{Cite book|和書|author=トマス・パワーズ|authorlink=|others=[[鈴木主税]]訳、|year=1994|month=3|title=なぜナチスは原爆製造に失敗したか 連合国が最も恐れた男・天才ハイゼンベルクの闘い 上|volume=|publisher=[[ベネッセコーポレーション|福武書店]]|isbn=4-8288-1739-5}}</ref>。ナチス政府から召集され、[[第二次世界大戦]]中は[[原子爆弾|原爆]]開発(通称「ウランクラブ」)に関わった。[[イギリス]]の[[ベルリン空襲|ベルリン空爆]]で、家を失ったが家族に犠牲はなかった。 戦後は、[[1946年]]から[[1970年]]まで[[マックス・プランク協会|マックス・プランク物理学研究所]]の所長を務めた。 ==原爆開発== {{main|[[ドイツの原子爆弾開発|ナチス・ドイツの原爆開発]]}} {{出典の明記|section=1|date=2013年7月5日 (金) 03:52 (UTC)|ソートキー=人1976年没}} ハイゼンベルクは、ドイツの原爆開発チーム「ウラン・クラブ」の一員だった。しかし後に、このことは精神的に苦痛だったと書いている。 [[1941年]]、ハイゼンベルクは[[デンマーク]]の[[ニールス・ボーア|ボーア]]を訪ね、「理論上開発は可能だが、技術的にも財政的にも困難であり、原爆はこの戦争には間に合わない」と伝え、あるメモを手渡した。ボーアはそのメモを[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ハンス・ベーテ]]に渡した。ベーテによると、それは[[原子炉]]の絵だった。ハイゼンベルクの[[シンクロトロン]]が、火災を起こし、懸命な消火活動によっても、1ヶ月間鎮火することはなかったため、世界中にニュースとして配信されたところ、その新聞記事を読んだ[[アルベルト・アインシュタイン|アルバート・アインシュタイン]]は、「ハイゼンベルクがとうとう、原子炉の開発に成功したので、原爆を作るのは時間の問題だ」と考えた。ボーアからベーテの手に渡ったハイゼンベルクのメモには[[重水炉]]のシェーマが記されており、これを見せられていたアインシュタインは、妄想にしか過ぎなかった原子爆弾開発競争を覚悟した。ハイゼンベルクは、ナチス高官による、電力不足の解決方法を重水炉でするという方法を打ち明けたが、自らは重水炉の開発を[[サボる|サボタージュ]]した。それを知らなかったアメリカは、スパイを使っては、学会会場や、パーティー会場で何度もハイゼンベルクの暗殺を謀ったが、全て失敗に終わった。このようなことから、ハイゼンベルクは、ナチス原爆開発の意図的な遅延や、連合国側にドイツ側の情報を伝えることで原爆開発競争の抑止を図ろうとした、という見方がある<ref name="名前なし-1"/>。 終戦後は他の開発者と共に[[MI6|イギリス情報局秘密情報部]]の手でイギリスの[[ファーム・ホール]]に軟禁され、[[広島市|広島]]・[[長崎市|長崎]]の[[日本への原子爆弾投下|原爆投下]]のニュースもそこで聞いた。それを聞いたハイゼンベルクは、そんなことは不可能だと驚いたという。 == 逸話 == *流体力学に関する博士論文をミュンヘン大学に提出し、口頭試問をヴィーン教授から受けたが、実験物理学に関する質問(顕微鏡等の分解能や電池の原理)に全く答えられず、平均的な3という評定を得た(1923年)(同じく、ミュンヘン大学に博士論文を提出した友人のパウリは評定1(最高評価)であった)。ハイゼンベルクは博士号取得後にボルンの助手になることが決まっていたが、口頭試問の終了後、ボルンに会うやいなや「私をまだ採用するおつもりがあるかどうか知りたいです」と尋ねた。 *1925年、花粉症(枯草熱)の療養のために、植物の少ないヘルゴラント島ですごしていたときに重要な着想を得た。 *[[ピアノ]]の名手であり、少年時代に「将来は科学者になるか、[[ピアニスト]]になるか」を真剣に悩んだという。 ==ハイゼンベルクが登場する作品== 1941年にハイゼンベルクとボーアがコペンハーゲンで会った際に何が起こったのか、とくにナチ体制のために核兵器を開発していくことについてハイゼンベルクがどういう意図を持っていたかについてこの会見から何がわかるのか、ということは多くの関心を集めている。[[マイケル・フレイン]]の1998年の戯曲『[[コペンハーゲン (戯曲)|コペンハーゲン]]』はこれを主題とし、高い評価を受けて舞台芸術関連の賞もいくつか受賞している<ref>{{cite web |url=http://www.complete-review.com/reviews/fraynm/cophagen.htm |title=Copenhagen – Michael Frayn |publisher=The Complete Review |accessdate=27 February 2013 }}</ref>。本戯曲は[[BBC]]によってボーア役が[[スティーヴン・レイ]]、ハイゼンベルク役が[[ダニエル・クレイグ]]というキャストでテレビドラマ化されており、2002年9月26日に初放映された。BBCの科学ドキュメンタリーシリーズ、『ホライズン』でも同じ1941年の会見が既に1992年にテレビ化されており、ボーア役はアンソニー・ベイト、ハイゼンベルク役はフィリップ・アンソニーであった。<ref>''Horizon: Hitler's Bomb'', [[BBC Two]], 24 February 1992</ref>。 == 受賞歴 == *1929年 [[マテウチ・メダル]] *1930年 [[バーナード・メダル]] *1932年 ノーベル物理学賞 *1933年 [[マックス・プランク・メダル]] *1970年 [[ジークムント・フロイト賞]] == 著作 == *{{Cite book|和書|others=[[田村松平]]訳|year=1953|title=自然科学的世界像|series=現代科学叢書 第4|publisher=[[みすず書房]]}} **{{Cite book|和書|others=田村松平訳|year=1979|title=自然科学的世界像|edition=第2版|publisher=みすず書房}} *{{Cite book|和書|others=[[玉木英彦]]・[[遠藤真二]]・[[小出昭一郎]]共訳|year=1954|title=量子論の物理的基礎|publisher=みすず書房}} *{{Cite book|和書|others=[[佐々木宗雄 (物理学者)|佐々木宗雄]]訳|year=1957|title=原子核の物理|series=現代科学叢書 第41|publisher=みすず書房}} *{{Cite book|和書|others=[[河野伊三郎]]・[[富山小太郎]]訳|year=1959|title=現代物理学の思想|series=みすず・ぶっくす|publisher=みすず書房}} *{{Cite book|和書|editor=神保謙吾|editor-link=神保謙吾|year=1962|title=人文主義的教養と自然科学|publisher=同学社|}} *{{Cite book|和書|others=[[尾崎辰之助]]訳|year=1965|title=現代物理学の自然像|publisher=みすず書房}} *{{Cite book|和書|others=[[片山泰久]]訳|year=1970|title=素粒子の統一場理論|publisher=みすず書房}} *{{Cite book|和書|others=尾崎辰之助訳|year=1973|title=限界を越えて|publisher=[[蒼樹書房]]}} *{{Cite 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[[オイラー=ハイゼンベルク・ラグランジアン]] * [[ハイゼンベルク群]] * [[ヴェルナー・ハイゼンベルク学術章]] * [[エルヴィン・シュレーディンガー]] * [[ポール・ディラック]] * [[ヴォルフガング・パウリ]] * [[ドイツの原子爆弾開発]] * [[エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー]] - 義兄 * [[ターミネーター:サラ・コナー クロニクルズ]] - ハイゼンベルク暗殺について言及する場面がある。 {{Div col end}} == 外部リンク == {{commons&cat|Werner Heisenberg|Werner Heisenberg}} * {{kotobank|ハイゼンベルク|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|name=ハイゼンベルク}} {{ノーベル物理学賞受賞者 (1926年-1950年)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はいせんへるく へるなあ}} [[Category:ヴェルナー・ハイゼンベルク|*]] [[Category:20世紀ドイツの物理学者]] [[Category:ドイツの理論物理学者]] [[Category:ドイツの量子物理学者]] [[Category:流体力学者]] [[Category:ドイツのノーベル賞受賞者]] [[Category:ノーベル物理学賞受賞者]] [[Category:マックス・プランク・メダル受賞者]] [[Category:マテウチ・メダル受賞者]] [[Category:フンボルト大学ベルリンの教員]] [[Category:ライプツィヒ大学の教員]] [[Category:ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンの教員]] [[Category:マックス・プランク物理学研究所の人物]] [[Category:王立協会外国人会員]] [[Category:日本学士院客員]] [[Category:ローマ教皇庁科学アカデミー会員]] [[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:プロイセン科学アカデミー会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] 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部分と全体
『部分と全体』(ぶぶんとぜんたい、 Der Teil und das Ganze:Gespräche im Umkreisder Atomphysik、英題 Physics and Beyond)は、不確定性原理を発見したドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクが1971年に著した自伝。原著には、「素粒子物理学の範囲についての対話」という副題がついている。邦訳とは副題が異なる。また邦訳には、湯川秀樹の序文が付いている。日本語訳はみすず書房刊。 この書の誕生の背景について、この書の後半で対話の主な相手として登場するカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーが、ハイゼンベルクの70歳を記念して出版された論文集の中の彼の寄稿の中で次のように述べている。 戦後の20年間くらいの間、ハイゼンベルク何度となくヴァイツゼッカーに「チェスの選手権試合」というあだ名を付けた本を一緒に書かないかと誘われていたという。その本は、彼らの思考に大きな変革をもたらした近代物理学の哲学的な本質を、伝統的な哲学の諸流派、トマス神学、実証主義、カント哲学、ヘーゲルの哲学、プラトン主義などの哲学体系と比較しながら徹底的に議論しようというものだったという。ヴァイツゼッカーは、専門家でもないのにそれらの哲学の代表として、ハイゼンベルクと議論しなければならないということで、思うようにその準備が整わず、伸ばし伸ばしにして、ハイゼンベルクを失望させてしまい、しびれを切らしたハイゼンベルクが、1人でこのプラトンの対話篇のようなかたちを採った一種の自伝を書くことになったという。 上記の執筆動機の中にあるトマス神学、実証主義、カント哲学、ヘーゲル哲学、プラトン主義が、現代の素粒子物理学にどのようなヒント、刺激が与えられたかを語りながら、その間にハイゼンベルクの生涯のさまざまな場面での友人や恩師たちとの出会いと対話の思い出が挿入されている。 自身と物理学との関わりの他、ナチスに協力したのではないかとの嫌疑に対する弁明や戦争に対する洞察が書かれている。また、アインシュタイン、ボーア、パウリ、ディラックといった20世紀の物理学を代表する巨匠たちとの対話が綴られており、彼らの考え方やエピソードを知ることもできる。 この本は、1969年にドイツ語で刊行された後、1971年に英語版Physics and Beyond、1972年にフランス語版La partie et le toutが刊行されている。
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『部分と全体』は、不確定性原理を発見したドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクが1971年に著した自伝。原著には、「素粒子物理学の範囲についての対話」という副題がついている。邦訳とは副題が異なる。また邦訳には、湯川秀樹の序文が付いている。日本語訳はみすず書房刊。
『'''部分と全体'''』('''ぶぶんとぜんたい'''、 Der Teil und das Ganze:Gespräche im Umkreisder Atomphysik、英題 Physics and Beyond)は、[[不確定性原理]]を発見した[[ドイツ]]の[[物理学者]][[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]が[[1971年]]に著した[[自伝]]。原著には、「素粒子物理学の範囲についての対話」という副題がついている。邦訳とは副題が異なる。また邦訳には、[[湯川秀樹]]の序文が付いている。日本語訳は[[みすず書房]]刊。 ==執筆の背景== この書の誕生の背景について、この書の後半で対話の主な相手として登場する[[カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー]]が、ハイゼンベルクの70歳を記念して出版された論文集<ref>H. P. Duerr (hrsg.)"Quanten und Felder: Physikalische und philosophische Betrachtungen zum 70. Geburtstag von Werner Heisenberg" 1971</ref>の中の彼の寄稿<ref>"Notizen über die philosophische Bedeutung der Heisenbergschen Physik"</ref>の中で次のように述べている。 戦後の20年間くらいの間、ハイゼンベルク何度となくヴァイツゼッカーに「チェスの選手権試合」というあだ名を付けた本を一緒に書かないかと誘われていたという。その本は、彼らの思考に大きな変革をもたらした近代物理学の哲学的な本質を、伝統的な哲学の諸流派、トマス神学、[[実証主義]]、[[カント哲学]]、[[ヘーゲル]]の哲学、[[プラトン主義]]などの哲学体系と比較しながら徹底的に議論しようというものだったという。ヴァイツゼッカーは、専門家でもないのにそれらの哲学の代表として、ハイゼンベルクと議論しなければならないということで、思うようにその準備が整わず、伸ばし伸ばしにして、ハイゼンベルクを失望させてしまい、しびれを切らしたハイゼンベルクが、1人でこのプラトンの対話篇のようなかたちを採った一種の自伝を書くことになったという<ref>邦訳『部分と全体』みすず書房 1974年の訳者あとがき p.398</ref>。 ==内容== 上記の執筆動機の中にあるトマス神学、実証主義、カント哲学、ヘーゲル哲学、プラトン主義が、現代の素粒子物理学にどのようなヒント、刺激が与えられたかを語りながら、その間にハイゼンベルクの生涯のさまざまな場面での友人や恩師たちとの出会いと対話の思い出が挿入されている。 自身と[[物理学]]との関わりの他、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]に協力したのではないかとの嫌疑に対する弁明や戦争に対する洞察が書かれている。また、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]、[[ニールス・ボーア|ボーア]]、[[ヴォルフガング・パウリ|パウリ]]、[[ポール・ディラック|ディラック]]といった20世紀の物理学を代表する巨匠たちとの対話が綴られており、彼らの考え方やエピソードを知ることもできる。 この本は、1969年にドイツ語で刊行された後、1971年に英語版''Physics and Beyond''、1972年にフランス語版''La partie et le tout''が刊行されている。 ==各章の概要== ;1 原子学説との最初の出会い (1919-20年) : [[第一次大戦]]が終わった。高校卒業前に友人と対話。二酸化炭素は炭素原子1つと酸素原子2つが結合したものだという。この説明に使われる「[[原子価]]」とはどういう意味なのだろう? ;2 物理学研究への決定 (1920年) : ミュンヘン大学に入学。教授は[[アルノルト・ゾンマーフェルト]]。[[ヴォルフガング・パウリ]]と友人となる。パウリは相対性理論について論文を書いた<ref>W.パウリ 内山龍雄訳『相対性理論』ちくま学芸文庫 (原著は1921年)</ref>が、それより原子論の方がおもしろそうだと言う。 ;3 現代物理学における"理解する"という概念 (1920-1922年) : [[ニールス・ボーア]]の[[ボーアの原子模型|原子モデル]]では、原子の中の電子は、ある量子起動から他の軌道へ突然跳び移って、その際に自由になったエネルギーが一つの光量子になるのだという。しかし古典物理学上、回転軌道の荷電粒子はエネルギーを失い原子核に落ち込むはずでは?という問題があった。 ;4 政治と歴史についての教訓 (1922-1924年) : コペンハーゲンのボーアの研究所へ。物理学の話ではなく、第一次大戦を始めた時のドイツ人の精神状態、中立国への侵攻などの議論になった。 ;5 量子力学およびアインシュタインとの対話 (1925-1926年) : 休暇をとり[[ヘルゴラント島]]へ。極微のエネルギーは離散値だ。同様に位置も離散値とし、反応前後の位置変化を伴う状態変化を縦横行列として表現する、[[行列力学]]を発見。原子内で電子の軌道を考える事は断念。この点を[[アルベルト・アインシュタイン]]が批判する。 ;6 新世界への出発 (1926-1927年) : [[エルヴィン・シュレディンガー]]が[[シュレディンガー方程式|波動方程式]]を提唱。一方ハイゼンベルクは、電子の位置や速度を正確に決定する事はできるのか?不正確ならば、不正確さをどこまで小さくできるか?という問題を考察。ちょっとした計算で答えが出た([[不確定性原理]])。 ;7 自然科学と宗教の関係についての最初の対話 (1927年) : アインシュタインはよく神について語るが、いったいどういう意味か。パウリによれば、「物の秩序を自然法則の簡明さの中に感知する」という。 ;8 原子物理学と実用主義的な思考方法 (1929年) : アメリカでバートンと対話。20世紀の新物理学は古典物理学の改良と言っていいか?ハイゼンベルクは、改良というより根本的な変更だ言う。 ;9 生物学、物理学および化学の間の関係についての対話 (1930-1932年) : アインシュタインは統計力学的な熱学をよく知っているのに、どうして量子力学の統計的な性質を受け入れないのか?この疑問から、いろんな自然科学の思考法についての議論。 ;10 量子力学とカント哲学 (1930-1932年) : [[カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー|カール・フリードリッヒ・フォン・ワイツェッカー]]が登場。{{仮リンク|グレーテ・ヘルマン|de|Grete Hermann}}との対話。科学は因果律を探求するものであり、それを放棄した量子力学は科学と言えないのでは?と問題提起。 ;11 言葉についての討論 (1933年) : [[ジェームズ・チャドウィック]]が[[中性子]]を発見した。では[[原子核]]の中で[[陽子]]と中性子はなぜくっついていられるのか?[[ポール・ディラック]]が発見した[[陽電子]]で説明が可能だろうか? ;12 革命と大学生活 (1933年) : [[アドルフ・ヒトラー]]が首相となり、ユダヤ人追放を開始。これは不正だ。自分はどうすべきか、[[マックス・プランク]]に意見を求める。 ;13 原子技術の可能性と素粒子についての討論 (1935-1937年) : {{仮リンク|ハンス・ハインリッヒ・オイラー|en|Hans Heinrich Euler}}と議論。ディラックが発見したように、光量子は一対の電子と陽電子に変わりうる。ではエネルギーの大きな素粒子の衝突では何が起こるだろうか。 ;14 政治的破局における個人の行動 (1937-1941年) : [[オットー・ハーン]]が[[核分裂の発見|核分裂を発見]]。ドイツがポーランドへ侵攻し、[[第二次世界大戦]]がはじまる。原子エネルギーの技術的応用の研究を命じられた。 ;15 新しい門出への道 (1941-1945年) : われわれは原理的には[[原子爆弾]]を作り得ると知っていた。しかし莫大な出費が必要と考えていた。結局原子爆弾の製造は命令されなかった。そして敗戦。 ;16 研究者の責任について (1945-1950年) : [[広島市への原子爆弾投下|原子爆弾が広島市に投下された]]と聞いた。最もひどいショックを受けたのは、オットー・ハーンだった。この不幸について、われわれはみな共犯なのだろうか? ;17 実証主義、形而上学、宗教 (1952年) : [[論理実証主義]]について論議。われわれは、自分がほんとうに考えているものとぴたり一致しないような描像や比喩を使って話をする事を強いられる、とボーアの言。 ;18 政治と科学における論争 (1956-1957年) : [[コンラート・アデナウアー]]が核武装の権利を示唆。そこでワイツェッカーが中心となり、[[ゲッティンゲンの18人]]の科学者が、核兵器研究への協力拒否のゲッチンゲン宣言。 ;19 統一場の理論 (1957-1958年) : [[李政道|リー]]と[[楊振寧|ヤン]]は、[[パリティ対称性の破れ|パリティ非保存]]を発見。ハイゼンベルクはこれを含む統一場の理論作成を試みる。パウリが死んだ。 ;20 素粒子とプラトン哲学 (1961-1965年) : 統一場の理論の考察が続く。 == 参考文献 == *{{Cite book|和書|others=[[山崎和夫]]訳|year=1974|title=部分と全体 私の生涯の偉大な出会いと対話|publisher=みすず書房}} **{{Cite book|和書|others=[[山崎和夫]]訳|year=1999|month=11|title=部分と全体 私の生涯の偉大な出会いと対話|edition=新装|publisher=みすず書房|isbn=4-622-04971-6}} ==脚注== {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:ふふんとせんたい}} [[Category:自伝]] [[Category:1971年の書籍]] [[Category:ドイツの書籍]] [[Category:ヴェルナー・ハイゼンベルク]] {{Book-stub}}
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競艇
競艇(きょうてい)は、モーターボート競走法をはじめとする法令・ルールの下、プロフェッショナルスポーツ選手(競艇選手)によって行われるモーターボート競技。また、その競技の勝敗を予想するギャンブルを示す用語としても使われる。 公営競技の一つであり、競輪・競馬・オートレースと並び「三競オート」と称される。 モーターボート競走法により、総務大臣による指定自治体が地方自治法に基づく一部事務組合となり、パリミュチュエル方式により勝舟投票券(舟券)を販売している。 舟券の売り上げのうち75%は払戻金に充てられる。残り25%のうち7%は収益金として自治体が受け取り、18%は賞金や従業員の賃金、公益財団法人日本財団(旧・財団法人日本船舶振興会)への交付金、モーターボート競走会への委託料などに充てられる。 所轄官庁は国土交通省海事局(中央省庁再編前は運輸省)で、造船関係の産業を振興すること等を目的として、1952年(昭和27年)から実施された。長らく日本独自のものであったが、2002年(平成14年)より韓国の美沙里(ミサリ)競艇場でも行われるようになった。 かつては「競艇」以外に「ボート」「ボートレース」「モーターボート競走」の呼称も使われ統一性はなかったが、1997年(平成9年)度から2009年度まで「競艇 (kyotei)」に統一。2010年(平成22年)度からはブランド名「BOAT RACE」(ボートレース)を導入した。公式の広告では競艇のことをレジャーと称している場合も有り「現代のレジャースポーツ」と言う案内や、競艇専門のチャンネルをレジャーチャンネルと称している。 ちなみに「競艇」の名称の考案者は、津競艇場開設当時の津市長だった志田勝であるとされる。 以下の節では、主に日本で行われている競走について詳述する。 競艇の競走が行われる水面を競走水面という。競走水面の規格は33000m以上 (縦75m以上×横440m以上)、水深1.5m以上。競走水面は湖や河川、海などを利用して設置され、淡水レース場と海水レース場に大別される。レース開催時の波高は45cm未満でなければならず、レースの進行を妨げる波浪、潮流があってはならない。このため、住之江・尼崎などの一部を除き、スポーツ紙・専門紙の競艇予想欄には開催時間帯の満潮・干潮の時間が掲載されている。 スタートラインから150m離れた競走水面上には、赤と白の蛍光塗料が塗られた2つのブイ(ターンマーク)が浮かんでいる。スタンドから見て右側に浮かぶターンマークを第1ターンマーク、左側に浮かぶターンマークを第2ターンマークという。第2ターンマークから20mセンターポール寄りの競走水面上にはオレンジ色のブイ(小回り防止ブイ)が浮かび、さらに第2ターンマークとセンターポールとの間の4箇所(スタートラインから5m、45m、80m、100mの位置)にポール(標識ポール)が浮かんでいる。標識ポールはスタート時に選手が通過時間を確認するために設置されているもので、標識ポールに対応する形でスタンド寄りの競走水面上にスタートラインまでの距離を表示する標示板が設置され、さらにスタートラインから5m、45m、80-85mを示す空中線が張られている。 競走の際はスタートラインを通過後、第1ターンマークと第2ターンマークを旋回する形で競走水面上を反時計回り(左回り)に3周する(荒天の場合は2周に短縮される場合もある)。これは水上交通に関する世界的なルール(船舶はすべて右側通行)に従っているためで、競技規定にも「モーターボートは、競走水面を時計の針の回転方向と反対の方向で回り......」と明記されている。ターンマーク間の距離は300mで、それぞれスタートラインから150m離れた位置にあり、これを3周、すなわち約1,800mを航走する。ターンマークを破損・沈没させることはルールによって禁止されているが接触することは禁止されておらず、各選手は可能な限りターンマークの中心に近い位置を旋回しようとする。なお、ボートと選手が着用するカポック(防具)には艇番と枠番別の色が、ボートの舳先には枠番色別の旗がつけられて区別している。 スタンド側中央の水面には「大時計」と呼ばれる時計が設置されており、これはスタート時に使用される。この大時計は競艇の心臓部と言ってもよく、これが故障してしまうと開催不能に陥ってしまう。水上で艇を同じ位置にとどめたり、決められた位置から一斉にスタートすることは困難であるため、競艇では「大時計が0秒を指してから1秒以内にスタートラインを通過すればよい」とされ(フライングスタート法)、大時計が0秒を指すよりも早くスタートラインを通過するとフライング、1秒を過ぎてから通過すると出遅れとなり、欠場扱いされ出走資格を失う。大時計の針は1分で1回転する「1分針(白色)」と、12秒で1回転する「12秒針(黄色)」の2つがある。通常、1分針は真上(一般的な時計では「12時」の位置)、12秒針は左向き(一般的な時計では「9時」の位置)にセットされており、スタートの約1分前から1分針が回転を始め(各選手はこの間に待機行動を行い、進入位置を確定させる)、12秒針と1分針が重なる“スタート15秒前”で12秒針が回転を開始し、これに合わせて各選手がスタート体制に入る(船は水に浮いているので静止出来ない)。大時計にある10と5は、それぞれスタート10秒前と5秒前である。 競走水面中央部にある白色のポール(センターポール)と、大時計のスタンドから見て左側の端とを結ぶ見透し線上がスタートおよびゴールラインとなる。ラインを通過に関する判定は、電子スリットと呼ばれる仕組みによって行われる。電子スリットはシャッター装置がないカメラ(スリットカメラ)によって撮影される。スリットカメラにはスタートラインに合わせる形で100分の3mmの細い隙間(スリット)が設定され、スリット部分のみが撮影されるように設定されている。スリットカメラの動きは大時計と連動しており、大時計が1秒前を指すと撮影が開始される。大時計が0秒と1秒を指した際にはスリットカメラに電気信号が送られ、それにより電子スリットに白線が写りこむ。艇首が最初の白線(正確には白線の右端)より前に出る形で写っていればフライング、2本目の白線(正確には白線の右端)より後ろに写っていれば出遅れていることになる。また、より速くスタートラインを通過した艇はスリットに短時間、遅く通過した艇は長時間スリットに写りこむため、電子スリット上に前者はより短く、後者はより長く写ることになる。なお、スタートは艇首の通過を持って判断するが、ゴールについては、選手が落水しない限り艇首以外の部分も含めて判断する。 ボートはハイドロプレーンと呼ばれる、船底にステップと呼ばれる段差のあるタイプで、浮き上がるように走るため接水面積が少なく、スピードが出る反面、旋回が大きくなりがちである。FRP製のカウリングとスロットルレバー・ハンドル等の艤装品以外は全て木製で、全長約3m・横約2m・総重量約68kgから成る。ボートの両サイドには、番号によるボートの識別を可能とするよう、番号札がつけられている。ボートに付けられる艇旗の色は枠番に基づき勝負服の色に合わせて決められており、競艇場によってはボートのカウリングの色も合わせられる場合がある。ボートは各競艇場ごとにデザインが異なり、年1回の入れ替えと同時にデザインも毎年変更されている。 かつては入れ替えで不要になった艇については、一般に払い下げが行われていたが事故が多発。1978年には払い下げられたボートの暴走による死傷事故が発生したため、以降、払い下げは行われなくなった。 競艇の初期においては「ランナバウト」と呼ばれる、ステップのないタイプのボートも使われていた。ハイドロプレーンと比べてスピードが出ない反面、小回りがきく点に特徴があった。ランナバウトを用いた競走は「ランナ戦」と呼ばれ、体重の有利不利が出にくいため、比較的体重の重い選手が得意としていた。SGでは1963年の下関モーターボート記念まで使用されていた。そして1993年3月の芦屋ランナ王座決定戦競走を最後に全競艇場でランナバウト戦は廃止された。これ以降はすべての競艇場でハイドロプレーンが使用されているためボート区分の必要はないが、当時の名残のため現在でも出走表などにはH1800(ハイドロプレーン3周回1800メートルの意味)の表記がみられる。 2014年以降、競艇で使用されているモーターは、ヤマト発動機製のヤマト331型出力低減モーター、約400ccの直列2気筒2サイクルレシプロエンジンで最大出力は毎分6600回転・31馬力、重さは41-42kgである。モーターの回転運動はギアケースを経てプロペラへと伝えられる。 ボートとモーターはすべて同一規格のもので(ワンメイクレース)、各競艇場に用意されており、開催初日の前日(「前検日」と呼ばれる)に抽選で各選手に割り当てられる。各競艇場は60ないし70機のモーターを保有しており、1つのエンジンは最大で1年間使用される。規格が同一のため、追い込み(終盤で全力を出して前の選手を一気に追い抜いてゴール)が決まることはほとんどない。 船内の操縦席にはハンドルとレバーが設置されている。ハンドルは舵ではなく、プロペラの向きをモーターごと変えるためのもので、右に切ることでつないであるワイヤーが引っ張られ、モーターの向きが変わる。レバーはスロットル。握ると出力が上がる。旋回は右手でハンドルを回してモーターの向きを、左手でレバーを操作してプロペラの回転を変えることで行う。レバーは手を放すと元の位置に戻る(キャブレター全閉)が、ハンドルは手を放しても元の位置には戻らない。走行時、選手は船内に正座してボートを操作する。 モーターは船外機として船外に取り付けられる。取り付けにはチルトアジャスターと呼ばれる装置が用いられ、取り付け角度(チルト角度)は7段階(-0.5度、0度、0.5度、1度、1.5度、2度、3度)に調節することができる。チルト角度が1度のときプロペラは水面に対して直角となり、1度より小さいとプロペラは下向きに、1度より大きいとプロペラは上向きになる。チルト角度が小さくプロペラが下向きの状態で走らせると、水を深くかくことになるため出だしのスピードが速く、逆にチルト角度が大きくプロペラが上向きの状態で走らせると、出だしのスピードは遅いが加速がつきやすくなる。 かつては競艇場によってライナーと呼ばれる板の使用が許されており、これを使うとモーターの取り付け位置(高さ)やハネ上げ角度を調節することができた。モーターの高さを上げたりハネ上げ角度を大きくすると、加速しやすくなる代わりに小回りがききにくくなる。ただし最後までライナー調整が可能だった住之江が2019年3月でライナー調整を禁止したことで、ライナー調整が可能な競艇場は消滅した。 開催期間中、選手はモーターの整備とプロペラのマッチング調整に多くの時間を費やす(ボートの整備はできない)。モーターの整備も整備士に相談することはできるが、作業はすべて選手自身で行わなければならない。モーターは同じロットの量産品であるが、選手がどのような整備を行ったかによって発揮される性能に多少の差が生じる。特にSGやG1といった格の高いレースでは選手の整備力が勝敗を左右する。転覆などでモーターが水を被るとその後の調整しだいでモーターの性格が大きく変化することがある。こうしてある程度モーターが「育った」状態になると、選手がくじ引きでどのモーターを引くかが勝敗の分かれ目になる。このため、各紙の着順予想ではモーターの状態を表すマークが記載されている。なお、モーターとボートは登録から1年を超えて競走に使用できないことから、年に1度一斉に取り替えられる。モーターやプロペラの整備後、選手は次の競走までの間に水面を利用して試運転を行う。走行回数に制限はなく、整備をしてはこまめに試運転を繰り返す選手もいれば、あまり試運転を行わない選手もいる。この試運転も舟券の予想の参考になる。 競走中、ボートの速度は時速80キロ強に達する。最高速度で走行している時、選手は「デコボコ道をダンプで猛スピードで走った」ような衝撃と、「大雨の日にアスファルト道路を全速力で走った」ようなハンドル操作の感覚を覚えるという。強風や波浪などで波高が高くなるなどの要因で水面が荒れている場合は、ボートが水面でバウンドした時に転覆しやすくなり危険なため、各ボートに「安定板」と呼ばれるフィンを主催者判断で装着することがある。装着位置はモーターのキャビテーション・プレートの上。安定板を装着すると船体は安定するが、ダッシュ力が落ち伸びが悪くなるといわれ、着順予想にも影響を与えるため、事前に主催者より「安定板装着」であることが告知される。また、冬季にはキャブレターの凍結を防止する為、長さの異なる2本のゴムホースから成る「温水パイプ」の装着が一定期間義務付けられている(装着期間は11月1日~翌年4月30日、主催者からも装着が告知される)。 ボートがエンストした場合、ボート内に備え付けのオール(パドル)を使ってボートを漕ぐことが認められている。 2012年4月よりモーター1基につきヤマト発動機製・ナカシマプロペラ製のプロペラを各1枚ずつ配備し、選手はこれらのプロペラを整備しながら使用してきたが、ナカシマプロペラがボートレース用プロペラ事業からの撤退を表明したため、2013年11月1日を初日とする開催からヤマト発動機製のプロペラ1枚のみでの運用に順次変更されることとなった。 2012年3月以前は「選手持ちプロペラ」制度が採用されており、各選手が定められた枚数の私物プロペラを競艇場内に持ち込み、レースに使用していた。この制度では選手は競艇場外でプロペラの加工ができるため、私的に関係のある複数人の選手でプロペラ加工を研究する「ペラグループ」というものが各地で結成されていた。技術に優れたグループの先輩が加工したプロペラを使って若手が優秀な成績を収めることもあった。そうしたペラグループの人脈が雑誌で紹介されたりしたため、それを予想の一要素にするファンもいた。 選手は、ボートレーサー養成所での1年間の訓練を経て、選手登録試験に合格した者である。選手を1人育成するにはおよそ1000万円を要すると言われており、入所者は121期まではそのうちの120万円を負担していたが(23期以前は、自費負担による研修が行われていた)、122期からは全額無償となった。ボートレーサー養成所への入校は年に2回、4月と10月に行われる。2001年4月、88期より現在のボートレーサー養成所で訓練が行われるようになった。 87期以前は山梨県本栖湖の本栖研修所にて訓練が行われていた。本栖湖の厳冬期の気温は氷点下を下回る非常に寒い場所であるが、風が強いため湖面が凍結せず、その状態で訓練が行われる過酷な環境であった。このため本栖訓練所出身者からは「地獄の本栖」と形容されるほど厳しい訓練であった。訓練期間も現行より長い約1年6ヶ月であり、9月入校組(奇数期)は厳寒期が2回重なり、3月入校組(偶数期)よりも厳しい条件で訓練されることになるが、偶数期よりも圧倒的に多くのスターを輩出している。ボートレーサー養成所に移転してからはこの傾向は薄まりつつあり、偶数期のSG常連組も増えつつある。 登録試験に合格した選手には登録番号が割り振られる(引退した選手の番号が再び使われることはない)。ボートレーサー養成所入学者のうち、競艇選手としてデビューできるのは約半分といわれている。 競艇選手には定年がなく、他の公営競技と比べ、現役選手として活動する期間が長く、経験が豊富で駆け引きの巧みな年長者と新人選手の競走も見所である。先輩・後輩の力関係、日本各地の競艇場を転戦するため選手の出身地も舟券予想の重要なポイントのひとつとされる。選手に要求される能力はスタート勘の良さとターンマークを旋回するテクニック、さらにモーターを整備する手腕である。 選手の体重については制限があり、男子は51kg(2020年11月1日より52kg)、女子は47kgを下限とし、体重が下限を下回る場合には重量調整が行われる。これは過酷な減量を行い体調を崩す選手が多発したことを受けてのものである。 選手は成績をもとにA1、A2、B1、B2の4つの級にランク分けされる。基準となる成績は具体的に、2連率・勝率・事故率・出走回数である。以下、それぞれについて解説する。 である。成績の集計期間は5-10月(前期)と11-4月(後期)の年2回である。 選手は日本モーターボート競走会から競艇場への斡旋によりレースに出場するが、1か月における斡旋日数はA級で約15日、B1級が約12日、B2級が約8日と、ランクによって異なる。なお、フライングを行った選手はすでに出場が決まっているレースに出場後、30日以上の間レースを欠場し、愛知県碧南市にある訓練所でスタート訓練を受けなければならない。ただし、1回目のフライングをしてからの70レースでフライングをしなければ、訓練納付金6万円を納めるだけで訓練を免れることができる。 競走に出場する選手には、以下の防護具の着用が義務づけられている。 選手によっては、むち打ち防止用のパッドを頚部に装着する。重量調整が必要な選手は、1着あたり500gの重さがあるオレンジ色の重量調整ベストをカポックの上に着用し、重量調整ベストのポケットに1枚500gの重りを最大6枚入れて最大3.5kgまで増やす。それ以上の調整が必要な場合は、ボートに1kg~5kgの重量調整マットを1枚敷いた状態で出走する。 勝負服の色は、艇番によって以下の通り決められている。 カポックの襟、ボートに付けられる艇旗の色もこれに合わせられ、さらにボートのカウリングの色も合わせられる場合がある。勝負服の背中の部分には番号によるボートの識別を可能とするよう、番号札がつけられている。 選手が競走場へ持ち込み、使用することが認められている私物は以下の通り。 上記以外は競走場で定められたものを必要に応じて購入する。特にモーターの整備や私物の持込には細かな規定があり、違反した場合には厳重な罰則が規定されている。その他、選手宿舎で長期間生活する為、パジャマ・タオル類やお風呂セット・洗剤(競艇場に洗濯場がある為、そこで洗濯を頼む者もいるが、宿舎内の洗濯機で自分で洗濯する者もいる)・雑誌類といった、持ち込み禁止の携帯電話・パソコン以外の生活必需品を持ち込むのが一般的である。 競艇選手の福祉共済の充実(引退選手に対する退職金および年金の給付、負傷した選手に対する休業補償)および技能の向上を図る団体として、日本モーターボート選手会がある。もともと地区ごとに存在した選手会を統合する形で、1960年10月に発足した。その名残として、現在も各地区に支部が存在する。選手会の運営費は、選手が納付する会費によってまかなわれている。 レース前に行われる「展示航走」は「スタート展示」と「周回展示」の2つがある。主にモーターや選手の調子を見るのが目的。第1競走のみ開始予定時刻が事前に告知され、以降は前レース終了後に以下の展示航走が行われる。 スタート展示では出場選手がピットアウトからスタートまで一連の所作を行う。各選手のピット離れやコース取り、スタートタイミングなどを見るのが目的。「スタ展」と略されることもある。 スタート展示の詳細は、以下の情報が場内モニターなどで公開される。 以前は「スタート練習」と呼ばれ、公式の展示航走とはされていなかったが、参考にするファンも多かった。しかし、練習と本番で進入コースが異なるなどで苦情も多く一度は廃止されたが、一方でスタート練習の復活を望む声も根強くあり、予想の参考のひとつとして名称も「スタート展示」と改められて復活した。 スタート展示後は、そのまま周回展示に移行する。 出場選手が単独で1艇ずつ2周回する(荒天の場合には1周回に短縮される場合がある)。ターンの攻め具合や出足(加速力)、伸びを見るのが目的。 なお、審判委員長が全力で航走していないと判断した艇や、展示航走中にエンストやプロペラ破損など何かしらのトラブルが発生した艇は、再度周回展示航走を指示される(後者の場合はトラブル解決後に再展示)。 周回展示の情報は、以下の情報が競艇場内のモニターで発表される。 認められている部品交換は、以下の通り9種類。特にピストン・ピストンリング・シリンダーケースを一式まとめて交換することを「セット交換」と呼ぶ。交換する部品は新品とは限らず中古品もあり、部品によっては前年度に使用したものを交換用部品として保管・使用する。 これらの情報や出走表に記載されているデータを参考にして舟券を購入する(有料の予想屋や予想紙を参考にするファンもいる)。 ピットでの発走合図で全6艇がピットを離れ、スタートに備える。ピットを離れてからスタートするまでの間に各選手がとる行動を「待機行動」と呼び、選手が走行するコースを選ぶために行う「待機航走」と、コースを選んでからスタートするまでの「進入航走」に分けられる。待機行動には全国統一のルールがあり、ルールに反したコース取りを行うと罰則が科される。待機行動に充てられる時間は、競艇場によって異なる。 第2ターンマークのスタンド側を通り、小回り防止ブイを回ってバックストレッチ(バック水面)に出ると選手は艇の速度を落とす。速度を落とした際に各選手のおおよそのコース取りが決定する。第2ターンマークを回り、艇首がスタートラインに正対するまでが待機航走、正対した後が進入航走となる。スタートラインから第2ターンマーク寄りの水域を「待機行動水面」と呼ぶ。 全艇がスタートラインに正対すると各艇のコースが決定する。内側から順番に1コース、2コース、3コース...6コースと呼び、1・2コースをイン、3・4コースをセンター、5・6コースをアウトという(競艇では、枠番通りのコースからスタートするとは限らない)。競艇の競走では第1ターンマークを最も早く回り、他の艇が作り出す波(とりわけ、モーターが引き起こす曳き波)の影響を受けずに走行することが重要となるが、各艇が同じスピードで第1ターンマークにさしかかった場合、第1ターンマークを最も早く回るのは通常、第1ターンマークまでの距離が最も近い1コースの選手である。 一旦進入した後でコースを取り直す場合は一番外のコースに入らなければならないことが規則で定められているほか、新人選手は最アウトコースに入ることが不文律になっている(新人は技術が拙いため、内側に入ると他の艇に迷惑をかけることが理由とされている)。 上記の理由から最アウトコースに入る新人選手や、アウトコースからのダッシュ戦を得意とする選手(いわゆる「アウト屋」)はピットを出てから位置取りを争う内側の艇を横目に大きく艇を回してスタートラインから離れ、ダッシュ距離を稼ごうとしている場合もある。 待機行動はスタート前に行われることから、厳密には競走ではない。競馬における輪乗りと似ているが、輪乗りの時点ですでに枠順が決定している競馬と違い、競艇では通常待機行動中に走行するコースが決まる(ただし進入固定競走では枠番=コースとなる)。待機行動中の選手にアクシデントが生じた場合は欠場扱いとなり、その選手に関係する舟券は全て返還される。 ピットアウト後の待機行動に関する規定が一部変更され、2009年5月1日を初日とする開催から順次適用された。概要は以下の通り。 ピットアウトの際には、出走合図のファンファーレが演奏される。1974年までは各競艇場ごとに異なっていたが、翌年の1975年から全競艇場で統一された。 1991年には「モーターボート競走法40年記念」事業として、さだまさし/城賀イサム/佐伯亮作曲、竜崎孝路編曲によるファンファーレを導入した。このファンファーレは2010年まで使用され、SG用、グレードレース(GI-GIII)用と一般競走用、さらにそれぞれを優勝戦とそれ以外の予選・一般戦で分け、6曲を使い分けていた。 2010年5月からは新鋭リーグ・女子リーグオリジナルファンファーレが導入され、延近輝之が作曲。またその他のファンファーレも同年6月より一新され、SGは高橋千佳子、その他はマツオカヒロタカ作曲のものが採用され、合わせて全10曲が使われている。 前述のように競艇のスタートではフライングスタート法が採用されている。待機行動に入った後、概ねスタート12秒前から全艇がスタートラインへ加速をつけて進入し、大時計が0秒-1秒を指すまでの間にスタートラインを通過して第1ターンマークへと向かう(艇の先端がスタートラインを通過したタイミングを「スタートタイミング」という)。これは他の公営競技と異なり、水面上で横一列に整列して静止することが難しいことに加え、水の抵抗でトップスピードに達するまで時間がかかるため。 スタートタイミングが0秒より0.01秒でも速い場合は「フライング(F)」、0秒から1秒以内にスタートラインへ到達できなかった場合(スタートラインの直前・直後で転覆した場合を含む)は「出遅れ(L)」と判定される(微妙な場合はスリット写真が用いられる)。競艇においてスタートの重要性は高く、選手は開催日の朝になると第1レースの展示航走が行われるまでの間、特別練習を行ってスタート勘を磨く。 「フライング」「出遅れ」「直前の出走取消」対象艇が含まれた舟券は全額返還されるほか、同一レースにおいて5艇以上がフライングまたは出遅れ(混合の場合を含む)となった場合は「レース不成立」となり、当該レースの舟券は全て返還となる(5艇がフライングまたは出遅れた場合、正常にスタートした残り1艇は選手責任外の欠場として扱われる)。 選手責任と認められる「フライング」や「出遅れ」(これらを総称して「スタート事故」という)をしたレーサーには、開催節1回目の場合は準優勝戦・優勝戦や特別選抜戦などの賞典レースへの出走ができなくなり(賞典除外)、2回目の場合は即日帰郷を命ぜられる。このほか、一定期間の斡旋停止(1本目:30日、2本目:60日、3本目:90日、4本:180日となるが「選手出場あっせん保留基準第8号」と選手会による「競走の公正確保及び競技水準の向上化に関する規程」によりフライング4本持ち以上は事実上の引退)や訓練施設での再訓練などのペナルティも科される。なお、集団でのフライングを防止する観点から2013年11月1日を初日とする開催より0.05秒以上のフライングを「非常識なフライング」と定義し、該当するレーサーには原則として「即日帰郷」の処分とすることが発表された(ただし、グランプリ・クイーンズクライマックスでは適用しない)。 2022年5月1日以降の「非常識なフライング」については、原則として「即日帰郷」の処分ではなく、従前のスタート事故による出場辞退期間に、5日間の出場辞退日数を加算することなった。 SGなどのように全国規模で発売されるレースの優勝戦や準優勝戦で選手責任によるフライングや出遅れが発生した場合は、下記のように厳しい罰則が課せられる。ただし、選手責任外による出遅れ(強風による転覆・エンジン故障などによる場合)や怪我・急病などによる出場取消の場合はこの限りでない。 以下の規定はG2が2010年4月から、新鋭戦・女子戦が2011年から適用された。2023年4月からSG・G1・G2の罰則が2倍に拡大された。 グランプリおよびクイーンズクライマックスの2競走に限り、斡旋停止期間中であっても選出基準を満たしていた場合は同競走に出場できる特例がある。 フライングスタート判定結果や失格(後述)のアナウンスは全てのボートレース場が場内実況アナウンサーにより観客へ告知している。 前述のように競艇の競走では、第1ターンマークを最も早く回り、他の艇が作り出す波の影響(とりわけ、モーターが引き起こす曳き波)を受けずに走行することが重要となるが、各艇が同じスピードで第1ターンマークにさしかかった場合、第1ターンマークを最も早く回るのは通常、第1ターンマークまでの距離が最も近い1コースの選手である。 ただし、これはあくまでも「同じスピードで」という前提があっての話で、この前提が崩れれば成立しなくなる。たとえば、他の艇の割り込みを防ぎつつ1コースを取ろうとすると第2ターンマークとの距離を詰める形でスタートラインに正対する必要があるが、この時エンジンを停止させることは禁止されているため、ゆっくりとスタートラインへ近づいていくことになるが、助走距離が短くなるとスタートライン通過時点での速度が他の艇より遅くなってしまう可能性がある。 1980年代まではターンマークを回るときはスピードを落として小回りに回る「落としマイ」が定石だったが、1990年代に今村豊が「全速ターン」を開発した。その後、それまでの正座の姿勢でひざで立って両ひざで艇を押しながら身体を安定させて回る旋回に代わる方法として、両足を伸ばした状態で腰を浮かせ足で艇を蹴るように旋回する「モンキーターン」を飯田加一が開発しそれが各選手に普及したことで旋回スピードが増し、外側の艇が内側の艇より先に回ることが多くなった。今ではほとんどの選手がモンキーターンを行っている。 競艇の勝敗の7割はスタートから第1ターンマークまでの間に決まり、第1ターンマークを回った時点でそのレースの大まかな着順が決まるともいわれ、ここでの攻防がレースの最大の見所となる。 決まり手とは、1着艇の勝因のことをいう。決まり手のほとんどは、1着艇が第1ターンマークでどういった動きをして1着を確定させたかによって決まる。 1周目1マークで後手を踏んだ艇は1つでも着順を上げるべく、「抜き」を試みることになる。1周目1マークで2番手以下だった艇が、その後逆転して1着になった場合、決まり手は「抜き」となる。なお、イン(1コース)の選手が「逃げ」に失敗したのち、追い上げて逆転した場合も「抜き」となる。スポーツ新聞等には「抜き」は「道中競り」(○周○マーク)と記述される場合もある。 道中2、3番手の艇が「抜き」で1着になる例はままあるが、6番手(最下位)の艇が追い上げて1着となることは極めて稀である。これは、水上では艇の後ろに「引き波」が生じ、後ろの艇の推進力を大きく損なうためである。なお、前述のフライング等があったときの決まり手は「恵まれ」となる。1位の選手は1周目でほぼ固まってしまう場合が多いが、2着以下については前に行く艇の引き波がターンマーク近くに残ることで最後まで順位争いがもつれる要因となる。 モーターボート競走競技規程により、以下の状態になった場合は失格となる。失格艇にかかわる舟券は返還されないが、全艇が失格した場合はレース不成立となり、当該競走の投票券は全額返還となる。 転覆については、転覆そのものよりも、後続のボートと衝突したりプロペラに巻き込まれることで起こる事故による危険が大きい。そのため、後続の中で先頭を走るボートが落水した選手の内側を走れば他のボートも内側を、外側を走れば外側を走らなければならないとされており、さらに落水した選手自身についても、後続のボートがすべて通過するまで自艇の下で水中にとどまっていなければならないとされている。転覆が多く起こるのはターンマーク付近、とりわけ全選手が先頭に立とうとして激しく争うスタート直後の第1ターンマークである。 転覆事故が起きた場合、救出活動が最優先となる。そのため、最寄りのコーナー等で他艇を抜きにかかることはルールで禁じられている。 もっとも実際には選手間の約束として、転覆事故が起きた場合、その後のアタック自体を一切控えるのが慣例となっている。 生命に関わる救出活動を阻害しないためである。 なお、一部の競艇場では最終周回に入る際、競輪と同様に鐘(ジャン)を鳴らすところもある。 また、次の違反などを犯した場合は、競走開催期間中であっても、そのレースが行われた当日のレース終了時点で退場処分となる「即刻・即日帰郷」という罰則がある。 各艇の進入コースを1コースを1号艇 - 6コース6号艇と決めておく「進入固定競走」が全競艇場で行なわれていた時期があった(ある競艇場では全開催レースを進入固定にしたこともあった)。当然1コースつまり1号艇が断然有利になるため、レースの紛れが少なくなって、あまりファンからの支持を得られず、一時期は開催される競艇場が少なくなっていたが、その後再び実施する競艇場が増え、現在では浜名湖、蒲郡、児島、丸亀、宮島、徳山、下関、若松、芦屋、福岡、大村の11競艇場で行われている他、平和島では2015年(平成27年)10月29日から11月3日までの開催を「ビキナーズ推しレース」として、全レース進入固定競走を実施した。また進入固定競走を実施していない競艇場でも企画レースとして実施する場合がある。 2着に関しては前述の通り道中で逆転する場合が多いため、競走成績では「決まり手」を公示しない。しかし、道中での逆転がない場合、もしくは1周1マーク終了時点では次のような状態になることが多い。 別名として「企画レース」とも呼ばれる。その節中に、好調子の選手と不調子の選手とをわざと同じカードに組むこと。またはB級選手の中で1号艇のみがA1級選手など、明らかな格上の選手を有利な枠に組み込むこと。 これによって観客は本命一本の頭流しなどでの安易な予想がしやすくなり、初めて舟券を買う人などの競艇初心者にわかりやすいレース展開となることがほとんどで、大抵は低配当になる。これらのレースには特別なタイトルが付けられる事により、主催者が「意図的に組んでいる」ことを意思表示している(下表参照)。しかし、展開によっては波乱が起きて高配当になる場合もある。 原則としてGII以下の競走が対象。江戸川と常滑はこれが行われていない。 競艇では他の公営競技に比べ当日の出目が参考になることも多い。これは各艇の進入コースが、インから出走表の通りになることが多いことが関係している。顕著なのは当然1号艇であり、1着を連発することも多い反面、1着が1-2回に終わることもある。これは当日の風や水面のコンディション、心理的なものなどに起因すると思われるが、詳細は不明である。 モーターボート競走法、モーターボート競走法施行令、モーターボート競走法施行規則などにより、競走場・施行者あたりの開催回数および開催日数、1開催あたりの開催日数、1日の競走回数が定められている。1回の開催では最大18日開催可能。開催は主に4日から6日の間で設定される「節(シリーズとも呼ぶ)」で構成され、これを複数回組み込んでいることが多い。 競艇の開催日程は、競馬・競輪など他の公営競技と日程を見つつ決められる。スペシャルグレード(SG)競走は前年の8月頃に、グレード・ワン(GI)・グレード・ツー(GII)・グレード・スリー(GIII)は前年の12月までに決まり、一般競走は3か月ごとに決められる。 競艇の番組は、まず日本モーターボート競走会の斡旋課によって競艇場に選手が斡旋され、競艇場の番組編成委員が選手を割り振ることで決定する。斡旋に際し、選手や主催者は斡旋を拒否することもできる。多くの主催者から斡旋を拒否された選手には、引退勧告が出されることもある。 斡旋については、SG競走は各大会の選考基準に基づいて決定、GI・GIIは主催者側からの希望と、それ以外の中から斡旋課が各主催者に提示した選手を斡旋する。一般競走は、それぞれの条件に合致する選手を斡旋する形となる。また一般競走では、同じ開催に、同姓選手は3組までとし、同県同姓(同じ都道府県出身者の同じ姓)の者の斡旋は不可。姻戚関係(親子兄弟)にある選手が出場することも、SGレースや正月・お盆などの例外を除き出来ない。 斡旋された選手は前検日の指定された時間までに競艇場へ集合し、手荷物検査・身体検査等、各種の検査を受けた後でモーターとボートの抽選を行う(後述)。その後は他の公営競技と同様に、開催終了(あるいは斡旋解除)まで競艇場敷地内もしくは競艇場から離れた場所にある選手宿舎に宿泊し、家族を含め外部との連絡は一切認められず、携帯電話等の各種通信機器も没収される。アルコールの摂取やギャンブルも禁止されている。通常の昼間開催の場合、起床時間は午前7時(冬は7時30分)、消灯時間は午後10時である。また宿舎が競艇場から離れた場所にある場合は、徒歩または競艇場が用意したマイクロバスで移動する。 宿舎は概ね、競馬場の調整ルームと基本的なシステムは同じだが、居室は2-3人1部屋の相部屋で、居間と個人の寝室で構成された半個室型である。原則として出身地が同じ、または同支部の者が同室となる。宿舎内の簡易売店には菓子・インスタント食品・飲み物の他、持ち込み・摂取禁止のアルコール類の代わりにノンアルコール飲料も販売されている(購入時に伝票に記入し、代金は最終日の帰宅前に一括して精算)。図書娯楽室には漫画や競艇雑誌等が用意されている。大浴場は選手が減量する為のサウナも完備されている。 レース番組は初日が前検日(前検終了後)、2日目以降は前日のレース終了後に主催者から発表される。各競艇場の番組編成委員は、裁量により自由に番組を編成することができる。 出走回数は3日開催で4回、4日開催で6回、6日開催で8回とほぼ決まっており、1日の出走回数は1回または2回である 。節間の出走回数は抽選によって決められる。 競艇は3 - 7日間(通常は4 - 6日間)を一節として開催される。開催における各選手の目標は、優勝戦に勝ち優勝者となることにある。優勝戦の出場者を決めるための方式には以下のようなものがある。 3 - 4日間の短い節では準優勝戦を行わず、優勝戦は前日までの成績上位6選手で争う形態が多い。また賞金王決定戦のように、予選の番組を毎回抽選で決める節もある。 選手の途中帰郷は、負傷などの場合を除きほとんどみられない。 準優勝戦・および優勝戦は番組編成員の手が入らず、着順(あるいは予選着順点)によって自動的に決定される。このためナイター開催時は準優勝戦・優勝戦メンバーの確定を速やかに行うため、次の措置が取られる(ただし年末の「グランプリ(=賞金王決定戦)」に関しては例外がある)。 モーターボートレースの歴史についてはモーターボートの歴史を参照すること。戦前からあった公営競技の競馬が戦後の1946年に復活すると、地方自治体の戦後復興のための財源のひとつとして、1948年に競輪、1950年にオートレースが新たに公営競技として始まり、1951年に競艇も認められた。レース開始は翌1952年の大村競艇場。 2011年3月11日に発生した東日本大震災により、日本の競艇開催も多大な影響を受けた。 最も大きな被害を受けた桐生競艇場では施設が損傷したほか、場外発売施設「ボートピア」も東北や東日本を中心に各地で大きな被害が出た。 地震の発生を受け、各主催者は3月11日に行われていた開催を打ち切り。13日には全国すべての競艇場が3月14日から3月末まで開催を中止することを発表した。この中には戸田競艇場で開催予定だったSG「総理大臣杯競走」も含まれていた。 日本モーターボート競走会は3月28日に義援金として10億円を拠出すること、4月1日以降を初日とする開催から「東日本大震災被災地支援競走」として順次開催を再開することを発表。ナイター競走も当面行わず、昼間開催に変更した。 なお、電力事情に配慮して休止していたナイター競走は4月25日を初日とする開催から順次再開したほか、桐生競艇場での開催も5月11日からナイターで再開した。 また、中止となった総理大臣杯競走に代わるSG級競走として「SG東日本復興支援競走」を2011年8月5日-10日まで戸田競艇場で開催した。出場選手は原則として、総理大臣杯に出場予定だった52人の選手。ただし開催期間がフライング休みにあたる選手は除外され、総理大臣杯の予備選手が順次繰り上がった。優勝賞金は3000万円で、実施規則などは他のSG競走と同様に扱われたが、優勝者への次回開催SGに対する出場シード権は付与されなかった。 2020年2月、日本国内にて新型コロナウイルス(COVID-19)が流行。これにより、2月28日より全場が閉鎖され、無観客にて開催された。外向発売所、場外発売場も閉鎖され、投票は電話・インターネット投票のみとなった。 当初、3月15日までの予定だったが、感染規模が縮小しなかった為、無期限に延長。4月には改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が政府より発令された為、無観客開催が続いた(舟券は電話投票・インターネット販売のみ購入、レースはJLCや各競艇場の公式YouTubeチャンネルやニコニコ生放送等でライブストリーミング配信)。当初の無観客期間に、SG・プレミアムGI競走は当てはまっていなかったが、期間延長により、平和島競艇場で行われたSGボートレースクラシックから、鳴門競艇場で行われたSGオーシャンカップまでのSG4大会、プレミアムGI1大会が無観客で開催された。 その後、感染拡大が抑えられ、緊急事態宣言も解除された事を受け、全国に先駆けて大村競艇場で5月22日の開催から観客の入場を、入場時の検温で体温が37度未満であることやマスク着用義務化などの各種条件付きで再開(当初は長崎県内在住者限定)。その後も各競艇場及び外向・場外発売所で以下の通り無観客措置の解除を順次進めている。但し、多数の来場(=クラスター(集団感染))が予想されるGII以上のグレード競走開催節は無観客開催措置または事前抽選入場措置を取る。 7月頃から第2波の影響で再び感染拡大。7月21日には、ボートレーサーで初となる新型コロナウイルス感染者が確認された。7月22日から27日まで宮島競艇場で開催されていた「ルーキーシリーズ第13戦」に出場した複数の選手で新型コロナウイルス感染を確認。広島県がクラスターと発表された。この影響で次節になっていた8月3日から8日まで開催予定だった「第3回東京スポーツグループ杯」が開催中止となった。また、住之江競艇場にて7月30日から8月4日まで開催されていた「ボートの時間!ご視聴ありがとう競走」に出場した選手にも新型コロナウイルス感染が確認された為、次節であった「大阪ダービー 第37回摂河泉競走」(8月11日から8月16日)の開催を中止した。 2021年4月の第4波では、3回目の緊急事態宣言が発令された東京都及び関西3府県に立地する5場(多摩川・江戸川・平和島・住之江・尼崎)について閉鎖・無観客開催措置が取られている。 1952年5月に初の女子選手である則次千恵子(引退)が選手登録されて以降、1954年には初の女子限定のレースも行われたりしたが、徐々に選手数は減少。その後、1974年に田中弓子(のち鈴木弓子。引退)が9年ぶりに本栖研修所へ入所しデビューすると一躍人気となり、1980年以降は女子選手養成の動きが活発化した。2021年(令和3年)12月28日時点で、全選手1593人のうち女子選手は241人であり、全体の15%を占めている。 競走格付けにはグレード制が採用されており、上位のグレードから以下のように分類される。 SGとGI(2014年より新設のプレミアムGIを含む)をあわせて特別競走、GIIを準特別競走ということもある。SGとGIの競走については、原則的にA1級であることが出場資格となる。B2級の選手は、実質的に一般レースにしか出場できない。賞金額も、グレードによって大きく異なる。 投票券(勝舟投票券、通称「舟券」)の発売種類は、以下の7種類である。 現在は売り上げの大半が三連単となっている。これはレースが6艇で行われることから、他の賭式がいずれも的中確率が高いため、高配当の可能性が低いことが理由としてあげられる。単勝式は売り上げ額が低く、発売窓口が限られる競走場もあるため、人気の指標となりえない。 的中した舟券の払い戻し期間は60日である(払い戻しを全く行わなかった日は算入されない)。但し、無観客開催措置に伴い時効までに払戻が出来なくなった場合、当該競艇場及び当該場外発売場にて購入した投票券については、営業再開後60日間まで延長される(新型コロナウイルス感染拡大による事例)。 2007年の法改正で、複数レースに渡る投票方式である重勝式(中央競馬の「WIN5」、競輪の「チャリロト」や「Kドリームス」、オートレースの「モトロト」など)の発売が可能となっているが、システム更新にかかる開発費の問題から、2021年1月現在では重勝式を導入している競艇場はない。 主催者の中には、ボートレース場以外の場所に「ボートレースチケットショップ」などの愛称で場外発売場を設置して、舟券の発売を行っている。 出典:日本財団サイトの「活動資金」ページより 概ね下記の各出演者が担当する。 インターネットを利用したストリーミング配信としては、日本レジャーチャンネル(JLC)の「JLCスマート」「レジャチャンオンデマンド」等がある。その他に各競艇場単位で、YouTubeやニコニコ動画に独自チャンネルを開設しレース中継を行っている例も多く、中にはJLCとは別個に芸能人や元選手を呼んで中継番組を制作するところもある(住之江競艇場「アクアライブステーション」など)。 AbemaTVでは、2019年6月に「BOATRACEチャンネル」を開設しており、主に金曜・土曜に独自の中継番組を配信している。 競艇を専門に扱う雑誌としては「マクール」(三栄書房)、「BOATBoy」(日本レジャーチャンネル)などがある。 「スポーツボートレース6」と題し、全国紙系列4紙と地方紙系列3紙で、ホリプロ(スピードワゴンとクワバタオハラはホリプロコム、磯山さやかはホリ・エージェンシー)に所属する競艇愛好家の各界著名人によるコラムを2010年度までは月曜日(各紙隔週。新聞休刊日の場合は翌火曜日。掲載日は新聞社によるが、5週ある場合は第5週休載)、2011年度以後はSG/GI<主要全国発売レース>開催の直近に広告として掲載している。これらはボートレース公式サイトから見ることができる。 コマーシャルメッセージ (CM) 競艇ではイメージキャラクターを採用しており、主にPR活動のほか、表彰式や開会式での司会を担当する。ラジオCMに関しては映像媒体と違うCMを作成し放送している。 CM素材については2009年4月以降、レースそのものや・CMソング・イメージソングを強調するCMとは別に、収益金からなる日本財団や納付した自治体の事業や社会貢献活動をアピールしたCM(アザラシの「ていちゃん」が登場するCM)も放送されている。 スポンサークレジットは当初は「全国モーターボート競走施行者協議会」であった(その時期には、大泉滉がファン心理を題材にしたもの、当時の日本船舶振興会のCMと同じ要領で、競艇の収益が社会貢献に使われている説明的なものなども放送されていた)が、その後は「水上の格闘技 KYOTEI(競艇)」や「BOAT RACE」など競艇の呼称そのものをクレジットとして表記していた。2012年以後は「BOAT RACE振興会」で統一されている。 競艇の特色の一つは「男女が同じ条件で戦う」(下記体重制限を除いて)ことである。 競艇の産みの親の一人である笹川良一は、終戦後「これからは男女が同じ立場になる時代が来る」と痛感。当初から女子にも選手への道を開くことを構想し、実践した。第1回全日本選手権には早くも4人の女子選手が出場し、1950年代には周年記念で3人が優勝している。 1960年代には女子の選手数が激減し一時は4人にまで落ち込んだが、1980年(昭和55年)にデビューした田中弓子の活躍を機に再び増加に転じ、現在は約1600人いる選手のうち約250人が女子選手である。 女子選手限定のレースも行われているが、多くは男女混合のレースであり、男女で体重制限(最低体重)が異なる以外はすべて同じ条件で争う。この体重制限の差がレース展開に大きな影響を及ぼすこともあり、1周1マークでは前を許したものの、バックストレッチで驚異的な伸びを見せて追いつき、2マークで女子選手が逆転するなどといったケースも多く見られる。 かつて男女差は4kg(男子は51kg以上、女子は47kg以上)であったものが規定が変更され、男子は52kg以上(女子は変更なし)となったことで5kgの差が付いたことは大きく、5kg差=1艇身と言われている世界で軽量の女子が男子と渡り合う貴重な武器になった。そのため、男女混合のレースで女子選手が勝つことは日常茶飯事で、一般戦では女子選手がシリーズ優勝することもそれほど珍しくなく、中堅以下の男子選手がトップクラスの女子選手に勝つことは容易ではなくなったほか、上記の通り女子選手がSGをも制覇するようになった。 2022年3月、女子選手によるSG優勝が記録された。 1991年12月31日に競輪競艇法が成立。エンジン開発や選手養成等の準備期間を経て2002年10月18日、渼沙里漕艇競技場において初開催。実施主体はソウルオリンピック記念国民体育振興公団競艇運営本部。当初は毎週火曜日・水曜日に1日8R、単勝・複勝・2連単・2連複の各賭け式の舟券が発売された。翌年から水・木曜日に変更、2004年に3連複が導入され、2008年現在は1日15R行われている。競技形式は日本のものを取り入れているが、スタートタイミングが日本の倍の2秒以上で出遅れとなるなど若干の違いがある。 大村競艇場では、2008年4月6日に韓国競艇のトップ選手6名(男子4、女子2)を招いて模擬競走を行った。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "競艇(きょうてい)は、モーターボート競走法をはじめとする法令・ルールの下、プロフェッショナルスポーツ選手(競艇選手)によって行われるモーターボート競技。また、その競技の勝敗を予想するギャンブルを示す用語としても使われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "公営競技の一つであり、競輪・競馬・オートレースと並び「三競オート」と称される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "モーターボート競走法により、総務大臣による指定自治体が地方自治法に基づく一部事務組合となり、パリミュチュエル方式により勝舟投票券(舟券)を販売している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "舟券の売り上げのうち75%は払戻金に充てられる。残り25%のうち7%は収益金として自治体が受け取り、18%は賞金や従業員の賃金、公益財団法人日本財団(旧・財団法人日本船舶振興会)への交付金、モーターボート競走会への委託料などに充てられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "所轄官庁は国土交通省海事局(中央省庁再編前は運輸省)で、造船関係の産業を振興すること等を目的として、1952年(昭和27年)から実施された。長らく日本独自のものであったが、2002年(平成14年)より韓国の美沙里(ミサリ)競艇場でも行われるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "かつては「競艇」以外に「ボート」「ボートレース」「モーターボート競走」の呼称も使われ統一性はなかったが、1997年(平成9年)度から2009年度まで「競艇 (kyotei)」に統一。2010年(平成22年)度からはブランド名「BOAT RACE」(ボートレース)を導入した。公式の広告では競艇のことをレジャーと称している場合も有り「現代のレジャースポーツ」と言う案内や、競艇専門のチャンネルをレジャーチャンネルと称している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ちなみに「競艇」の名称の考案者は、津競艇場開設当時の津市長だった志田勝であるとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "以下の節では、主に日本で行われている競走について詳述する。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "競艇の競走が行われる水面を競走水面という。競走水面の規格は33000m以上 (縦75m以上×横440m以上)、水深1.5m以上。競走水面は湖や河川、海などを利用して設置され、淡水レース場と海水レース場に大別される。レース開催時の波高は45cm未満でなければならず、レースの進行を妨げる波浪、潮流があってはならない。このため、住之江・尼崎などの一部を除き、スポーツ紙・専門紙の競艇予想欄には開催時間帯の満潮・干潮の時間が掲載されている。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "スタートラインから150m離れた競走水面上には、赤と白の蛍光塗料が塗られた2つのブイ(ターンマーク)が浮かんでいる。スタンドから見て右側に浮かぶターンマークを第1ターンマーク、左側に浮かぶターンマークを第2ターンマークという。第2ターンマークから20mセンターポール寄りの競走水面上にはオレンジ色のブイ(小回り防止ブイ)が浮かび、さらに第2ターンマークとセンターポールとの間の4箇所(スタートラインから5m、45m、80m、100mの位置)にポール(標識ポール)が浮かんでいる。標識ポールはスタート時に選手が通過時間を確認するために設置されているもので、標識ポールに対応する形でスタンド寄りの競走水面上にスタートラインまでの距離を表示する標示板が設置され、さらにスタートラインから5m、45m、80-85mを示す空中線が張られている。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "競走の際はスタートラインを通過後、第1ターンマークと第2ターンマークを旋回する形で競走水面上を反時計回り(左回り)に3周する(荒天の場合は2周に短縮される場合もある)。これは水上交通に関する世界的なルール(船舶はすべて右側通行)に従っているためで、競技規定にも「モーターボートは、競走水面を時計の針の回転方向と反対の方向で回り......」と明記されている。ターンマーク間の距離は300mで、それぞれスタートラインから150m離れた位置にあり、これを3周、すなわち約1,800mを航走する。ターンマークを破損・沈没させることはルールによって禁止されているが接触することは禁止されておらず、各選手は可能な限りターンマークの中心に近い位置を旋回しようとする。なお、ボートと選手が着用するカポック(防具)には艇番と枠番別の色が、ボートの舳先には枠番色別の旗がつけられて区別している。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "スタンド側中央の水面には「大時計」と呼ばれる時計が設置されており、これはスタート時に使用される。この大時計は競艇の心臓部と言ってもよく、これが故障してしまうと開催不能に陥ってしまう。水上で艇を同じ位置にとどめたり、決められた位置から一斉にスタートすることは困難であるため、競艇では「大時計が0秒を指してから1秒以内にスタートラインを通過すればよい」とされ(フライングスタート法)、大時計が0秒を指すよりも早くスタートラインを通過するとフライング、1秒を過ぎてから通過すると出遅れとなり、欠場扱いされ出走資格を失う。大時計の針は1分で1回転する「1分針(白色)」と、12秒で1回転する「12秒針(黄色)」の2つがある。通常、1分針は真上(一般的な時計では「12時」の位置)、12秒針は左向き(一般的な時計では「9時」の位置)にセットされており、スタートの約1分前から1分針が回転を始め(各選手はこの間に待機行動を行い、進入位置を確定させる)、12秒針と1分針が重なる“スタート15秒前”で12秒針が回転を開始し、これに合わせて各選手がスタート体制に入る(船は水に浮いているので静止出来ない)。大時計にある10と5は、それぞれスタート10秒前と5秒前である。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "競走水面中央部にある白色のポール(センターポール)と、大時計のスタンドから見て左側の端とを結ぶ見透し線上がスタートおよびゴールラインとなる。ラインを通過に関する判定は、電子スリットと呼ばれる仕組みによって行われる。電子スリットはシャッター装置がないカメラ(スリットカメラ)によって撮影される。スリットカメラにはスタートラインに合わせる形で100分の3mmの細い隙間(スリット)が設定され、スリット部分のみが撮影されるように設定されている。スリットカメラの動きは大時計と連動しており、大時計が1秒前を指すと撮影が開始される。大時計が0秒と1秒を指した際にはスリットカメラに電気信号が送られ、それにより電子スリットに白線が写りこむ。艇首が最初の白線(正確には白線の右端)より前に出る形で写っていればフライング、2本目の白線(正確には白線の右端)より後ろに写っていれば出遅れていることになる。また、より速くスタートラインを通過した艇はスリットに短時間、遅く通過した艇は長時間スリットに写りこむため、電子スリット上に前者はより短く、後者はより長く写ることになる。なお、スタートは艇首の通過を持って判断するが、ゴールについては、選手が落水しない限り艇首以外の部分も含めて判断する。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ボートはハイドロプレーンと呼ばれる、船底にステップと呼ばれる段差のあるタイプで、浮き上がるように走るため接水面積が少なく、スピードが出る反面、旋回が大きくなりがちである。FRP製のカウリングとスロットルレバー・ハンドル等の艤装品以外は全て木製で、全長約3m・横約2m・総重量約68kgから成る。ボートの両サイドには、番号によるボートの識別を可能とするよう、番号札がつけられている。ボートに付けられる艇旗の色は枠番に基づき勝負服の色に合わせて決められており、競艇場によってはボートのカウリングの色も合わせられる場合がある。ボートは各競艇場ごとにデザインが異なり、年1回の入れ替えと同時にデザインも毎年変更されている。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "かつては入れ替えで不要になった艇については、一般に払い下げが行われていたが事故が多発。1978年には払い下げられたボートの暴走による死傷事故が発生したため、以降、払い下げは行われなくなった。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "競艇の初期においては「ランナバウト」と呼ばれる、ステップのないタイプのボートも使われていた。ハイドロプレーンと比べてスピードが出ない反面、小回りがきく点に特徴があった。ランナバウトを用いた競走は「ランナ戦」と呼ばれ、体重の有利不利が出にくいため、比較的体重の重い選手が得意としていた。SGでは1963年の下関モーターボート記念まで使用されていた。そして1993年3月の芦屋ランナ王座決定戦競走を最後に全競艇場でランナバウト戦は廃止された。これ以降はすべての競艇場でハイドロプレーンが使用されているためボート区分の必要はないが、当時の名残のため現在でも出走表などにはH1800(ハイドロプレーン3周回1800メートルの意味)の表記がみられる。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2014年以降、競艇で使用されているモーターは、ヤマト発動機製のヤマト331型出力低減モーター、約400ccの直列2気筒2サイクルレシプロエンジンで最大出力は毎分6600回転・31馬力、重さは41-42kgである。モーターの回転運動はギアケースを経てプロペラへと伝えられる。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ボートとモーターはすべて同一規格のもので(ワンメイクレース)、各競艇場に用意されており、開催初日の前日(「前検日」と呼ばれる)に抽選で各選手に割り当てられる。各競艇場は60ないし70機のモーターを保有しており、1つのエンジンは最大で1年間使用される。規格が同一のため、追い込み(終盤で全力を出して前の選手を一気に追い抜いてゴール)が決まることはほとんどない。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "船内の操縦席にはハンドルとレバーが設置されている。ハンドルは舵ではなく、プロペラの向きをモーターごと変えるためのもので、右に切ることでつないであるワイヤーが引っ張られ、モーターの向きが変わる。レバーはスロットル。握ると出力が上がる。旋回は右手でハンドルを回してモーターの向きを、左手でレバーを操作してプロペラの回転を変えることで行う。レバーは手を放すと元の位置に戻る(キャブレター全閉)が、ハンドルは手を放しても元の位置には戻らない。走行時、選手は船内に正座してボートを操作する。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "モーターは船外機として船外に取り付けられる。取り付けにはチルトアジャスターと呼ばれる装置が用いられ、取り付け角度(チルト角度)は7段階(-0.5度、0度、0.5度、1度、1.5度、2度、3度)に調節することができる。チルト角度が1度のときプロペラは水面に対して直角となり、1度より小さいとプロペラは下向きに、1度より大きいとプロペラは上向きになる。チルト角度が小さくプロペラが下向きの状態で走らせると、水を深くかくことになるため出だしのスピードが速く、逆にチルト角度が大きくプロペラが上向きの状態で走らせると、出だしのスピードは遅いが加速がつきやすくなる。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "かつては競艇場によってライナーと呼ばれる板の使用が許されており、これを使うとモーターの取り付け位置(高さ)やハネ上げ角度を調節することができた。モーターの高さを上げたりハネ上げ角度を大きくすると、加速しやすくなる代わりに小回りがききにくくなる。ただし最後までライナー調整が可能だった住之江が2019年3月でライナー調整を禁止したことで、ライナー調整が可能な競艇場は消滅した。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "開催期間中、選手はモーターの整備とプロペラのマッチング調整に多くの時間を費やす(ボートの整備はできない)。モーターの整備も整備士に相談することはできるが、作業はすべて選手自身で行わなければならない。モーターは同じロットの量産品であるが、選手がどのような整備を行ったかによって発揮される性能に多少の差が生じる。特にSGやG1といった格の高いレースでは選手の整備力が勝敗を左右する。転覆などでモーターが水を被るとその後の調整しだいでモーターの性格が大きく変化することがある。こうしてある程度モーターが「育った」状態になると、選手がくじ引きでどのモーターを引くかが勝敗の分かれ目になる。このため、各紙の着順予想ではモーターの状態を表すマークが記載されている。なお、モーターとボートは登録から1年を超えて競走に使用できないことから、年に1度一斉に取り替えられる。モーターやプロペラの整備後、選手は次の競走までの間に水面を利用して試運転を行う。走行回数に制限はなく、整備をしてはこまめに試運転を繰り返す選手もいれば、あまり試運転を行わない選手もいる。この試運転も舟券の予想の参考になる。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "競走中、ボートの速度は時速80キロ強に達する。最高速度で走行している時、選手は「デコボコ道をダンプで猛スピードで走った」ような衝撃と、「大雨の日にアスファルト道路を全速力で走った」ようなハンドル操作の感覚を覚えるという。強風や波浪などで波高が高くなるなどの要因で水面が荒れている場合は、ボートが水面でバウンドした時に転覆しやすくなり危険なため、各ボートに「安定板」と呼ばれるフィンを主催者判断で装着することがある。装着位置はモーターのキャビテーション・プレートの上。安定板を装着すると船体は安定するが、ダッシュ力が落ち伸びが悪くなるといわれ、着順予想にも影響を与えるため、事前に主催者より「安定板装着」であることが告知される。また、冬季にはキャブレターの凍結を防止する為、長さの異なる2本のゴムホースから成る「温水パイプ」の装着が一定期間義務付けられている(装着期間は11月1日~翌年4月30日、主催者からも装着が告知される)。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ボートがエンストした場合、ボート内に備え付けのオール(パドル)を使ってボートを漕ぐことが認められている。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2012年4月よりモーター1基につきヤマト発動機製・ナカシマプロペラ製のプロペラを各1枚ずつ配備し、選手はこれらのプロペラを整備しながら使用してきたが、ナカシマプロペラがボートレース用プロペラ事業からの撤退を表明したため、2013年11月1日を初日とする開催からヤマト発動機製のプロペラ1枚のみでの運用に順次変更されることとなった。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2012年3月以前は「選手持ちプロペラ」制度が採用されており、各選手が定められた枚数の私物プロペラを競艇場内に持ち込み、レースに使用していた。この制度では選手は競艇場外でプロペラの加工ができるため、私的に関係のある複数人の選手でプロペラ加工を研究する「ペラグループ」というものが各地で結成されていた。技術に優れたグループの先輩が加工したプロペラを使って若手が優秀な成績を収めることもあった。そうしたペラグループの人脈が雑誌で紹介されたりしたため、それを予想の一要素にするファンもいた。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "選手は、ボートレーサー養成所での1年間の訓練を経て、選手登録試験に合格した者である。選手を1人育成するにはおよそ1000万円を要すると言われており、入所者は121期まではそのうちの120万円を負担していたが(23期以前は、自費負担による研修が行われていた)、122期からは全額無償となった。ボートレーサー養成所への入校は年に2回、4月と10月に行われる。2001年4月、88期より現在のボートレーサー養成所で訓練が行われるようになった。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "87期以前は山梨県本栖湖の本栖研修所にて訓練が行われていた。本栖湖の厳冬期の気温は氷点下を下回る非常に寒い場所であるが、風が強いため湖面が凍結せず、その状態で訓練が行われる過酷な環境であった。このため本栖訓練所出身者からは「地獄の本栖」と形容されるほど厳しい訓練であった。訓練期間も現行より長い約1年6ヶ月であり、9月入校組(奇数期)は厳寒期が2回重なり、3月入校組(偶数期)よりも厳しい条件で訓練されることになるが、偶数期よりも圧倒的に多くのスターを輩出している。ボートレーサー養成所に移転してからはこの傾向は薄まりつつあり、偶数期のSG常連組も増えつつある。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "登録試験に合格した選手には登録番号が割り振られる(引退した選手の番号が再び使われることはない)。ボートレーサー養成所入学者のうち、競艇選手としてデビューできるのは約半分といわれている。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "競艇選手には定年がなく、他の公営競技と比べ、現役選手として活動する期間が長く、経験が豊富で駆け引きの巧みな年長者と新人選手の競走も見所である。先輩・後輩の力関係、日本各地の競艇場を転戦するため選手の出身地も舟券予想の重要なポイントのひとつとされる。選手に要求される能力はスタート勘の良さとターンマークを旋回するテクニック、さらにモーターを整備する手腕である。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "選手の体重については制限があり、男子は51kg(2020年11月1日より52kg)、女子は47kgを下限とし、体重が下限を下回る場合には重量調整が行われる。これは過酷な減量を行い体調を崩す選手が多発したことを受けてのものである。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "選手は成績をもとにA1、A2、B1、B2の4つの級にランク分けされる。基準となる成績は具体的に、2連率・勝率・事故率・出走回数である。以下、それぞれについて解説する。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "である。成績の集計期間は5-10月(前期)と11-4月(後期)の年2回である。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "選手は日本モーターボート競走会から競艇場への斡旋によりレースに出場するが、1か月における斡旋日数はA級で約15日、B1級が約12日、B2級が約8日と、ランクによって異なる。なお、フライングを行った選手はすでに出場が決まっているレースに出場後、30日以上の間レースを欠場し、愛知県碧南市にある訓練所でスタート訓練を受けなければならない。ただし、1回目のフライングをしてからの70レースでフライングをしなければ、訓練納付金6万円を納めるだけで訓練を免れることができる。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "競走に出場する選手には、以下の防護具の着用が義務づけられている。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "選手によっては、むち打ち防止用のパッドを頚部に装着する。重量調整が必要な選手は、1着あたり500gの重さがあるオレンジ色の重量調整ベストをカポックの上に着用し、重量調整ベストのポケットに1枚500gの重りを最大6枚入れて最大3.5kgまで増やす。それ以上の調整が必要な場合は、ボートに1kg~5kgの重量調整マットを1枚敷いた状態で出走する。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "勝負服の色は、艇番によって以下の通り決められている。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "カポックの襟、ボートに付けられる艇旗の色もこれに合わせられ、さらにボートのカウリングの色も合わせられる場合がある。勝負服の背中の部分には番号によるボートの識別を可能とするよう、番号札がつけられている。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "選手が競走場へ持ち込み、使用することが認められている私物は以下の通り。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "上記以外は競走場で定められたものを必要に応じて購入する。特にモーターの整備や私物の持込には細かな規定があり、違反した場合には厳重な罰則が規定されている。その他、選手宿舎で長期間生活する為、パジャマ・タオル類やお風呂セット・洗剤(競艇場に洗濯場がある為、そこで洗濯を頼む者もいるが、宿舎内の洗濯機で自分で洗濯する者もいる)・雑誌類といった、持ち込み禁止の携帯電話・パソコン以外の生活必需品を持ち込むのが一般的である。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "競艇選手の福祉共済の充実(引退選手に対する退職金および年金の給付、負傷した選手に対する休業補償)および技能の向上を図る団体として、日本モーターボート選手会がある。もともと地区ごとに存在した選手会を統合する形で、1960年10月に発足した。その名残として、現在も各地区に支部が存在する。選手会の運営費は、選手が納付する会費によってまかなわれている。", "title": "競走" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "レース前に行われる「展示航走」は「スタート展示」と「周回展示」の2つがある。主にモーターや選手の調子を見るのが目的。第1競走のみ開始予定時刻が事前に告知され、以降は前レース終了後に以下の展示航走が行われる。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "スタート展示では出場選手がピットアウトからスタートまで一連の所作を行う。各選手のピット離れやコース取り、スタートタイミングなどを見るのが目的。「スタ展」と略されることもある。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "スタート展示の詳細は、以下の情報が場内モニターなどで公開される。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "以前は「スタート練習」と呼ばれ、公式の展示航走とはされていなかったが、参考にするファンも多かった。しかし、練習と本番で進入コースが異なるなどで苦情も多く一度は廃止されたが、一方でスタート練習の復活を望む声も根強くあり、予想の参考のひとつとして名称も「スタート展示」と改められて復活した。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "スタート展示後は、そのまま周回展示に移行する。 出場選手が単独で1艇ずつ2周回する(荒天の場合には1周回に短縮される場合がある)。ターンの攻め具合や出足(加速力)、伸びを見るのが目的。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお、審判委員長が全力で航走していないと判断した艇や、展示航走中にエンストやプロペラ破損など何かしらのトラブルが発生した艇は、再度周回展示航走を指示される(後者の場合はトラブル解決後に再展示)。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "周回展示の情報は、以下の情報が競艇場内のモニターで発表される。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "認められている部品交換は、以下の通り9種類。特にピストン・ピストンリング・シリンダーケースを一式まとめて交換することを「セット交換」と呼ぶ。交換する部品は新品とは限らず中古品もあり、部品によっては前年度に使用したものを交換用部品として保管・使用する。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "これらの情報や出走表に記載されているデータを参考にして舟券を購入する(有料の予想屋や予想紙を参考にするファンもいる)。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ピットでの発走合図で全6艇がピットを離れ、スタートに備える。ピットを離れてからスタートするまでの間に各選手がとる行動を「待機行動」と呼び、選手が走行するコースを選ぶために行う「待機航走」と、コースを選んでからスタートするまでの「進入航走」に分けられる。待機行動には全国統一のルールがあり、ルールに反したコース取りを行うと罰則が科される。待機行動に充てられる時間は、競艇場によって異なる。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "第2ターンマークのスタンド側を通り、小回り防止ブイを回ってバックストレッチ(バック水面)に出ると選手は艇の速度を落とす。速度を落とした際に各選手のおおよそのコース取りが決定する。第2ターンマークを回り、艇首がスタートラインに正対するまでが待機航走、正対した後が進入航走となる。スタートラインから第2ターンマーク寄りの水域を「待機行動水面」と呼ぶ。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "全艇がスタートラインに正対すると各艇のコースが決定する。内側から順番に1コース、2コース、3コース...6コースと呼び、1・2コースをイン、3・4コースをセンター、5・6コースをアウトという(競艇では、枠番通りのコースからスタートするとは限らない)。競艇の競走では第1ターンマークを最も早く回り、他の艇が作り出す波(とりわけ、モーターが引き起こす曳き波)の影響を受けずに走行することが重要となるが、各艇が同じスピードで第1ターンマークにさしかかった場合、第1ターンマークを最も早く回るのは通常、第1ターンマークまでの距離が最も近い1コースの選手である。 一旦進入した後でコースを取り直す場合は一番外のコースに入らなければならないことが規則で定められているほか、新人選手は最アウトコースに入ることが不文律になっている(新人は技術が拙いため、内側に入ると他の艇に迷惑をかけることが理由とされている)。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "上記の理由から最アウトコースに入る新人選手や、アウトコースからのダッシュ戦を得意とする選手(いわゆる「アウト屋」)はピットを出てから位置取りを争う内側の艇を横目に大きく艇を回してスタートラインから離れ、ダッシュ距離を稼ごうとしている場合もある。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "待機行動はスタート前に行われることから、厳密には競走ではない。競馬における輪乗りと似ているが、輪乗りの時点ですでに枠順が決定している競馬と違い、競艇では通常待機行動中に走行するコースが決まる(ただし進入固定競走では枠番=コースとなる)。待機行動中の選手にアクシデントが生じた場合は欠場扱いとなり、その選手に関係する舟券は全て返還される。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ピットアウト後の待機行動に関する規定が一部変更され、2009年5月1日を初日とする開催から順次適用された。概要は以下の通り。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ピットアウトの際には、出走合図のファンファーレが演奏される。1974年までは各競艇場ごとに異なっていたが、翌年の1975年から全競艇場で統一された。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1991年には「モーターボート競走法40年記念」事業として、さだまさし/城賀イサム/佐伯亮作曲、竜崎孝路編曲によるファンファーレを導入した。このファンファーレは2010年まで使用され、SG用、グレードレース(GI-GIII)用と一般競走用、さらにそれぞれを優勝戦とそれ以外の予選・一般戦で分け、6曲を使い分けていた。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2010年5月からは新鋭リーグ・女子リーグオリジナルファンファーレが導入され、延近輝之が作曲。またその他のファンファーレも同年6月より一新され、SGは高橋千佳子、その他はマツオカヒロタカ作曲のものが採用され、合わせて全10曲が使われている。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "前述のように競艇のスタートではフライングスタート法が採用されている。待機行動に入った後、概ねスタート12秒前から全艇がスタートラインへ加速をつけて進入し、大時計が0秒-1秒を指すまでの間にスタートラインを通過して第1ターンマークへと向かう(艇の先端がスタートラインを通過したタイミングを「スタートタイミング」という)。これは他の公営競技と異なり、水面上で横一列に整列して静止することが難しいことに加え、水の抵抗でトップスピードに達するまで時間がかかるため。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "スタートタイミングが0秒より0.01秒でも速い場合は「フライング(F)」、0秒から1秒以内にスタートラインへ到達できなかった場合(スタートラインの直前・直後で転覆した場合を含む)は「出遅れ(L)」と判定される(微妙な場合はスリット写真が用いられる)。競艇においてスタートの重要性は高く、選手は開催日の朝になると第1レースの展示航走が行われるまでの間、特別練習を行ってスタート勘を磨く。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "「フライング」「出遅れ」「直前の出走取消」対象艇が含まれた舟券は全額返還されるほか、同一レースにおいて5艇以上がフライングまたは出遅れ(混合の場合を含む)となった場合は「レース不成立」となり、当該レースの舟券は全て返還となる(5艇がフライングまたは出遅れた場合、正常にスタートした残り1艇は選手責任外の欠場として扱われる)。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "選手責任と認められる「フライング」や「出遅れ」(これらを総称して「スタート事故」という)をしたレーサーには、開催節1回目の場合は準優勝戦・優勝戦や特別選抜戦などの賞典レースへの出走ができなくなり(賞典除外)、2回目の場合は即日帰郷を命ぜられる。このほか、一定期間の斡旋停止(1本目:30日、2本目:60日、3本目:90日、4本:180日となるが「選手出場あっせん保留基準第8号」と選手会による「競走の公正確保及び競技水準の向上化に関する規程」によりフライング4本持ち以上は事実上の引退)や訓練施設での再訓練などのペナルティも科される。なお、集団でのフライングを防止する観点から2013年11月1日を初日とする開催より0.05秒以上のフライングを「非常識なフライング」と定義し、該当するレーサーには原則として「即日帰郷」の処分とすることが発表された(ただし、グランプリ・クイーンズクライマックスでは適用しない)。 2022年5月1日以降の「非常識なフライング」については、原則として「即日帰郷」の処分ではなく、従前のスタート事故による出場辞退期間に、5日間の出場辞退日数を加算することなった。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "SGなどのように全国規模で発売されるレースの優勝戦や準優勝戦で選手責任によるフライングや出遅れが発生した場合は、下記のように厳しい罰則が課せられる。ただし、選手責任外による出遅れ(強風による転覆・エンジン故障などによる場合)や怪我・急病などによる出場取消の場合はこの限りでない。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "以下の規定はG2が2010年4月から、新鋭戦・女子戦が2011年から適用された。2023年4月からSG・G1・G2の罰則が2倍に拡大された。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "グランプリおよびクイーンズクライマックスの2競走に限り、斡旋停止期間中であっても選出基準を満たしていた場合は同競走に出場できる特例がある。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "フライングスタート判定結果や失格(後述)のアナウンスは全てのボートレース場が場内実況アナウンサーにより観客へ告知している。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "前述のように競艇の競走では、第1ターンマークを最も早く回り、他の艇が作り出す波の影響(とりわけ、モーターが引き起こす曳き波)を受けずに走行することが重要となるが、各艇が同じスピードで第1ターンマークにさしかかった場合、第1ターンマークを最も早く回るのは通常、第1ターンマークまでの距離が最も近い1コースの選手である。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ただし、これはあくまでも「同じスピードで」という前提があっての話で、この前提が崩れれば成立しなくなる。たとえば、他の艇の割り込みを防ぎつつ1コースを取ろうとすると第2ターンマークとの距離を詰める形でスタートラインに正対する必要があるが、この時エンジンを停止させることは禁止されているため、ゆっくりとスタートラインへ近づいていくことになるが、助走距離が短くなるとスタートライン通過時点での速度が他の艇より遅くなってしまう可能性がある。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1980年代まではターンマークを回るときはスピードを落として小回りに回る「落としマイ」が定石だったが、1990年代に今村豊が「全速ターン」を開発した。その後、それまでの正座の姿勢でひざで立って両ひざで艇を押しながら身体を安定させて回る旋回に代わる方法として、両足を伸ばした状態で腰を浮かせ足で艇を蹴るように旋回する「モンキーターン」を飯田加一が開発しそれが各選手に普及したことで旋回スピードが増し、外側の艇が内側の艇より先に回ることが多くなった。今ではほとんどの選手がモンキーターンを行っている。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "競艇の勝敗の7割はスタートから第1ターンマークまでの間に決まり、第1ターンマークを回った時点でそのレースの大まかな着順が決まるともいわれ、ここでの攻防がレースの最大の見所となる。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "決まり手とは、1着艇の勝因のことをいう。決まり手のほとんどは、1着艇が第1ターンマークでどういった動きをして1着を確定させたかによって決まる。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1周目1マークで後手を踏んだ艇は1つでも着順を上げるべく、「抜き」を試みることになる。1周目1マークで2番手以下だった艇が、その後逆転して1着になった場合、決まり手は「抜き」となる。なお、イン(1コース)の選手が「逃げ」に失敗したのち、追い上げて逆転した場合も「抜き」となる。スポーツ新聞等には「抜き」は「道中競り」(○周○マーク)と記述される場合もある。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "道中2、3番手の艇が「抜き」で1着になる例はままあるが、6番手(最下位)の艇が追い上げて1着となることは極めて稀である。これは、水上では艇の後ろに「引き波」が生じ、後ろの艇の推進力を大きく損なうためである。なお、前述のフライング等があったときの決まり手は「恵まれ」となる。1位の選手は1周目でほぼ固まってしまう場合が多いが、2着以下については前に行く艇の引き波がターンマーク近くに残ることで最後まで順位争いがもつれる要因となる。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "モーターボート競走競技規程により、以下の状態になった場合は失格となる。失格艇にかかわる舟券は返還されないが、全艇が失格した場合はレース不成立となり、当該競走の投票券は全額返還となる。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "転覆については、転覆そのものよりも、後続のボートと衝突したりプロペラに巻き込まれることで起こる事故による危険が大きい。そのため、後続の中で先頭を走るボートが落水した選手の内側を走れば他のボートも内側を、外側を走れば外側を走らなければならないとされており、さらに落水した選手自身についても、後続のボートがすべて通過するまで自艇の下で水中にとどまっていなければならないとされている。転覆が多く起こるのはターンマーク付近、とりわけ全選手が先頭に立とうとして激しく争うスタート直後の第1ターンマークである。 転覆事故が起きた場合、救出活動が最優先となる。そのため、最寄りのコーナー等で他艇を抜きにかかることはルールで禁じられている。 もっとも実際には選手間の約束として、転覆事故が起きた場合、その後のアタック自体を一切控えるのが慣例となっている。 生命に関わる救出活動を阻害しないためである。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "なお、一部の競艇場では最終周回に入る際、競輪と同様に鐘(ジャン)を鳴らすところもある。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "また、次の違反などを犯した場合は、競走開催期間中であっても、そのレースが行われた当日のレース終了時点で退場処分となる「即刻・即日帰郷」という罰則がある。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "各艇の進入コースを1コースを1号艇 - 6コース6号艇と決めておく「進入固定競走」が全競艇場で行なわれていた時期があった(ある競艇場では全開催レースを進入固定にしたこともあった)。当然1コースつまり1号艇が断然有利になるため、レースの紛れが少なくなって、あまりファンからの支持を得られず、一時期は開催される競艇場が少なくなっていたが、その後再び実施する競艇場が増え、現在では浜名湖、蒲郡、児島、丸亀、宮島、徳山、下関、若松、芦屋、福岡、大村の11競艇場で行われている他、平和島では2015年(平成27年)10月29日から11月3日までの開催を「ビキナーズ推しレース」として、全レース進入固定競走を実施した。また進入固定競走を実施していない競艇場でも企画レースとして実施する場合がある。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2着に関しては前述の通り道中で逆転する場合が多いため、競走成績では「決まり手」を公示しない。しかし、道中での逆転がない場合、もしくは1周1マーク終了時点では次のような状態になることが多い。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "別名として「企画レース」とも呼ばれる。その節中に、好調子の選手と不調子の選手とをわざと同じカードに組むこと。またはB級選手の中で1号艇のみがA1級選手など、明らかな格上の選手を有利な枠に組み込むこと。 これによって観客は本命一本の頭流しなどでの安易な予想がしやすくなり、初めて舟券を買う人などの競艇初心者にわかりやすいレース展開となることがほとんどで、大抵は低配当になる。これらのレースには特別なタイトルが付けられる事により、主催者が「意図的に組んでいる」ことを意思表示している(下表参照)。しかし、展開によっては波乱が起きて高配当になる場合もある。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "原則としてGII以下の競走が対象。江戸川と常滑はこれが行われていない。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "競艇では他の公営競技に比べ当日の出目が参考になることも多い。これは各艇の進入コースが、インから出走表の通りになることが多いことが関係している。顕著なのは当然1号艇であり、1着を連発することも多い反面、1着が1-2回に終わることもある。これは当日の風や水面のコンディション、心理的なものなどに起因すると思われるが、詳細は不明である。", "title": "競走の進行" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "モーターボート競走法、モーターボート競走法施行令、モーターボート競走法施行規則などにより、競走場・施行者あたりの開催回数および開催日数、1開催あたりの開催日数、1日の競走回数が定められている。1回の開催では最大18日開催可能。開催は主に4日から6日の間で設定される「節(シリーズとも呼ぶ)」で構成され、これを複数回組み込んでいることが多い。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "競艇の開催日程は、競馬・競輪など他の公営競技と日程を見つつ決められる。スペシャルグレード(SG)競走は前年の8月頃に、グレード・ワン(GI)・グレード・ツー(GII)・グレード・スリー(GIII)は前年の12月までに決まり、一般競走は3か月ごとに決められる。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "競艇の番組は、まず日本モーターボート競走会の斡旋課によって競艇場に選手が斡旋され、競艇場の番組編成委員が選手を割り振ることで決定する。斡旋に際し、選手や主催者は斡旋を拒否することもできる。多くの主催者から斡旋を拒否された選手には、引退勧告が出されることもある。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "斡旋については、SG競走は各大会の選考基準に基づいて決定、GI・GIIは主催者側からの希望と、それ以外の中から斡旋課が各主催者に提示した選手を斡旋する。一般競走は、それぞれの条件に合致する選手を斡旋する形となる。また一般競走では、同じ開催に、同姓選手は3組までとし、同県同姓(同じ都道府県出身者の同じ姓)の者の斡旋は不可。姻戚関係(親子兄弟)にある選手が出場することも、SGレースや正月・お盆などの例外を除き出来ない。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "斡旋された選手は前検日の指定された時間までに競艇場へ集合し、手荷物検査・身体検査等、各種の検査を受けた後でモーターとボートの抽選を行う(後述)。その後は他の公営競技と同様に、開催終了(あるいは斡旋解除)まで競艇場敷地内もしくは競艇場から離れた場所にある選手宿舎に宿泊し、家族を含め外部との連絡は一切認められず、携帯電話等の各種通信機器も没収される。アルコールの摂取やギャンブルも禁止されている。通常の昼間開催の場合、起床時間は午前7時(冬は7時30分)、消灯時間は午後10時である。また宿舎が競艇場から離れた場所にある場合は、徒歩または競艇場が用意したマイクロバスで移動する。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "宿舎は概ね、競馬場の調整ルームと基本的なシステムは同じだが、居室は2-3人1部屋の相部屋で、居間と個人の寝室で構成された半個室型である。原則として出身地が同じ、または同支部の者が同室となる。宿舎内の簡易売店には菓子・インスタント食品・飲み物の他、持ち込み・摂取禁止のアルコール類の代わりにノンアルコール飲料も販売されている(購入時に伝票に記入し、代金は最終日の帰宅前に一括して精算)。図書娯楽室には漫画や競艇雑誌等が用意されている。大浴場は選手が減量する為のサウナも完備されている。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "レース番組は初日が前検日(前検終了後)、2日目以降は前日のレース終了後に主催者から発表される。各競艇場の番組編成委員は、裁量により自由に番組を編成することができる。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "出走回数は3日開催で4回、4日開催で6回、6日開催で8回とほぼ決まっており、1日の出走回数は1回または2回である 。節間の出走回数は抽選によって決められる。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "競艇は3 - 7日間(通常は4 - 6日間)を一節として開催される。開催における各選手の目標は、優勝戦に勝ち優勝者となることにある。優勝戦の出場者を決めるための方式には以下のようなものがある。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "3 - 4日間の短い節では準優勝戦を行わず、優勝戦は前日までの成績上位6選手で争う形態が多い。また賞金王決定戦のように、予選の番組を毎回抽選で決める節もある。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "選手の途中帰郷は、負傷などの場合を除きほとんどみられない。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "準優勝戦・および優勝戦は番組編成員の手が入らず、着順(あるいは予選着順点)によって自動的に決定される。このためナイター開催時は準優勝戦・優勝戦メンバーの確定を速やかに行うため、次の措置が取られる(ただし年末の「グランプリ(=賞金王決定戦)」に関しては例外がある)。", "title": "開催" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "モーターボートレースの歴史についてはモーターボートの歴史を参照すること。戦前からあった公営競技の競馬が戦後の1946年に復活すると、地方自治体の戦後復興のための財源のひとつとして、1948年に競輪、1950年にオートレースが新たに公営競技として始まり、1951年に競艇も認められた。レース開始は翌1952年の大村競艇場。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災により、日本の競艇開催も多大な影響を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "最も大きな被害を受けた桐生競艇場では施設が損傷したほか、場外発売施設「ボートピア」も東北や東日本を中心に各地で大きな被害が出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "地震の発生を受け、各主催者は3月11日に行われていた開催を打ち切り。13日には全国すべての競艇場が3月14日から3月末まで開催を中止することを発表した。この中には戸田競艇場で開催予定だったSG「総理大臣杯競走」も含まれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "日本モーターボート競走会は3月28日に義援金として10億円を拠出すること、4月1日以降を初日とする開催から「東日本大震災被災地支援競走」として順次開催を再開することを発表。ナイター競走も当面行わず、昼間開催に変更した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "なお、電力事情に配慮して休止していたナイター競走は4月25日を初日とする開催から順次再開したほか、桐生競艇場での開催も5月11日からナイターで再開した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "また、中止となった総理大臣杯競走に代わるSG級競走として「SG東日本復興支援競走」を2011年8月5日-10日まで戸田競艇場で開催した。出場選手は原則として、総理大臣杯に出場予定だった52人の選手。ただし開催期間がフライング休みにあたる選手は除外され、総理大臣杯の予備選手が順次繰り上がった。優勝賞金は3000万円で、実施規則などは他のSG競走と同様に扱われたが、優勝者への次回開催SGに対する出場シード権は付与されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2020年2月、日本国内にて新型コロナウイルス(COVID-19)が流行。これにより、2月28日より全場が閉鎖され、無観客にて開催された。外向発売所、場外発売場も閉鎖され、投票は電話・インターネット投票のみとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "当初、3月15日までの予定だったが、感染規模が縮小しなかった為、無期限に延長。4月には改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が政府より発令された為、無観客開催が続いた(舟券は電話投票・インターネット販売のみ購入、レースはJLCや各競艇場の公式YouTubeチャンネルやニコニコ生放送等でライブストリーミング配信)。当初の無観客期間に、SG・プレミアムGI競走は当てはまっていなかったが、期間延長により、平和島競艇場で行われたSGボートレースクラシックから、鳴門競艇場で行われたSGオーシャンカップまでのSG4大会、プレミアムGI1大会が無観客で開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "その後、感染拡大が抑えられ、緊急事態宣言も解除された事を受け、全国に先駆けて大村競艇場で5月22日の開催から観客の入場を、入場時の検温で体温が37度未満であることやマスク着用義務化などの各種条件付きで再開(当初は長崎県内在住者限定)。その後も各競艇場及び外向・場外発売所で以下の通り無観客措置の解除を順次進めている。但し、多数の来場(=クラスター(集団感染))が予想されるGII以上のグレード競走開催節は無観客開催措置または事前抽選入場措置を取る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "7月頃から第2波の影響で再び感染拡大。7月21日には、ボートレーサーで初となる新型コロナウイルス感染者が確認された。7月22日から27日まで宮島競艇場で開催されていた「ルーキーシリーズ第13戦」に出場した複数の選手で新型コロナウイルス感染を確認。広島県がクラスターと発表された。この影響で次節になっていた8月3日から8日まで開催予定だった「第3回東京スポーツグループ杯」が開催中止となった。また、住之江競艇場にて7月30日から8月4日まで開催されていた「ボートの時間!ご視聴ありがとう競走」に出場した選手にも新型コロナウイルス感染が確認された為、次節であった「大阪ダービー 第37回摂河泉競走」(8月11日から8月16日)の開催を中止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2021年4月の第4波では、3回目の緊急事態宣言が発令された東京都及び関西3府県に立地する5場(多摩川・江戸川・平和島・住之江・尼崎)について閉鎖・無観客開催措置が取られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1952年5月に初の女子選手である則次千恵子(引退)が選手登録されて以降、1954年には初の女子限定のレースも行われたりしたが、徐々に選手数は減少。その後、1974年に田中弓子(のち鈴木弓子。引退)が9年ぶりに本栖研修所へ入所しデビューすると一躍人気となり、1980年以降は女子選手養成の動きが活発化した。2021年(令和3年)12月28日時点で、全選手1593人のうち女子選手は241人であり、全体の15%を占めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "競走格付けにはグレード制が採用されており、上位のグレードから以下のように分類される。", "title": "競走格付け" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "SGとGI(2014年より新設のプレミアムGIを含む)をあわせて特別競走、GIIを準特別競走ということもある。SGとGIの競走については、原則的にA1級であることが出場資格となる。B2級の選手は、実質的に一般レースにしか出場できない。賞金額も、グレードによって大きく異なる。", "title": "競走格付け" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "投票券(勝舟投票券、通称「舟券」)の発売種類は、以下の7種類である。", "title": "投票券(勝舟投票券)" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "現在は売り上げの大半が三連単となっている。これはレースが6艇で行われることから、他の賭式がいずれも的中確率が高いため、高配当の可能性が低いことが理由としてあげられる。単勝式は売り上げ額が低く、発売窓口が限られる競走場もあるため、人気の指標となりえない。", "title": "投票券(勝舟投票券)" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "的中した舟券の払い戻し期間は60日である(払い戻しを全く行わなかった日は算入されない)。但し、無観客開催措置に伴い時効までに払戻が出来なくなった場合、当該競艇場及び当該場外発売場にて購入した投票券については、営業再開後60日間まで延長される(新型コロナウイルス感染拡大による事例)。", "title": "投票券(勝舟投票券)" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2007年の法改正で、複数レースに渡る投票方式である重勝式(中央競馬の「WIN5」、競輪の「チャリロト」や「Kドリームス」、オートレースの「モトロト」など)の発売が可能となっているが、システム更新にかかる開発費の問題から、2021年1月現在では重勝式を導入している競艇場はない。", "title": "投票券(勝舟投票券)" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "主催者の中には、ボートレース場以外の場所に「ボートレースチケットショップ」などの愛称で場外発売場を設置して、舟券の発売を行っている。", "title": "投票券(勝舟投票券)" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "出典:日本財団サイトの「活動資金」ページより", "title": "投票券(勝舟投票券)" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "", "title": "投票券(勝舟投票券)" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "", "title": "各メディアでの展開" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "概ね下記の各出演者が担当する。", "title": "各メディアでの展開" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "", "title": "各メディアでの展開" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "インターネットを利用したストリーミング配信としては、日本レジャーチャンネル(JLC)の「JLCスマート」「レジャチャンオンデマンド」等がある。その他に各競艇場単位で、YouTubeやニコニコ動画に独自チャンネルを開設しレース中継を行っている例も多く、中にはJLCとは別個に芸能人や元選手を呼んで中継番組を制作するところもある(住之江競艇場「アクアライブステーション」など)。", "title": "各メディアでの展開" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "AbemaTVでは、2019年6月に「BOATRACEチャンネル」を開設しており、主に金曜・土曜に独自の中継番組を配信している。", "title": "各メディアでの展開" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "競艇を専門に扱う雑誌としては「マクール」(三栄書房)、「BOATBoy」(日本レジャーチャンネル)などがある。", "title": "各メディアでの展開" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "「スポーツボートレース6」と題し、全国紙系列4紙と地方紙系列3紙で、ホリプロ(スピードワゴンとクワバタオハラはホリプロコム、磯山さやかはホリ・エージェンシー)に所属する競艇愛好家の各界著名人によるコラムを2010年度までは月曜日(各紙隔週。新聞休刊日の場合は翌火曜日。掲載日は新聞社によるが、5週ある場合は第5週休載)、2011年度以後はSG/GI<主要全国発売レース>開催の直近に広告として掲載している。これらはボートレース公式サイトから見ることができる。", "title": "各メディアでの展開" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "コマーシャルメッセージ (CM)", "title": "コマーシャルメッセージ (CM)" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "競艇ではイメージキャラクターを採用しており、主にPR活動のほか、表彰式や開会式での司会を担当する。ラジオCMに関しては映像媒体と違うCMを作成し放送している。", "title": "コマーシャルメッセージ (CM)" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "CM素材については2009年4月以降、レースそのものや・CMソング・イメージソングを強調するCMとは別に、収益金からなる日本財団や納付した自治体の事業や社会貢献活動をアピールしたCM(アザラシの「ていちゃん」が登場するCM)も放送されている。", "title": "コマーシャルメッセージ (CM)" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "スポンサークレジットは当初は「全国モーターボート競走施行者協議会」であった(その時期には、大泉滉がファン心理を題材にしたもの、当時の日本船舶振興会のCMと同じ要領で、競艇の収益が社会貢献に使われている説明的なものなども放送されていた)が、その後は「水上の格闘技 KYOTEI(競艇)」や「BOAT RACE」など競艇の呼称そのものをクレジットとして表記していた。2012年以後は「BOAT RACE振興会」で統一されている。", "title": "コマーシャルメッセージ (CM)" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "競艇の特色の一つは「男女が同じ条件で戦う」(下記体重制限を除いて)ことである。", "title": "男女が同じ条件で戦う競艇" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "競艇の産みの親の一人である笹川良一は、終戦後「これからは男女が同じ立場になる時代が来る」と痛感。当初から女子にも選手への道を開くことを構想し、実践した。第1回全日本選手権には早くも4人の女子選手が出場し、1950年代には周年記念で3人が優勝している。", "title": "男女が同じ条件で戦う競艇" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "1960年代には女子の選手数が激減し一時は4人にまで落ち込んだが、1980年(昭和55年)にデビューした田中弓子の活躍を機に再び増加に転じ、現在は約1600人いる選手のうち約250人が女子選手である。", "title": "男女が同じ条件で戦う競艇" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "女子選手限定のレースも行われているが、多くは男女混合のレースであり、男女で体重制限(最低体重)が異なる以外はすべて同じ条件で争う。この体重制限の差がレース展開に大きな影響を及ぼすこともあり、1周1マークでは前を許したものの、バックストレッチで驚異的な伸びを見せて追いつき、2マークで女子選手が逆転するなどといったケースも多く見られる。", "title": "男女が同じ条件で戦う競艇" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "かつて男女差は4kg(男子は51kg以上、女子は47kg以上)であったものが規定が変更され、男子は52kg以上(女子は変更なし)となったことで5kgの差が付いたことは大きく、5kg差=1艇身と言われている世界で軽量の女子が男子と渡り合う貴重な武器になった。そのため、男女混合のレースで女子選手が勝つことは日常茶飯事で、一般戦では女子選手がシリーズ優勝することもそれほど珍しくなく、中堅以下の男子選手がトップクラスの女子選手に勝つことは容易ではなくなったほか、上記の通り女子選手がSGをも制覇するようになった。", "title": "男女が同じ条件で戦う競艇" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "2022年3月、女子選手によるSG優勝が記録された。", "title": "男女が同じ条件で戦う競艇" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "1991年12月31日に競輪競艇法が成立。エンジン開発や選手養成等の準備期間を経て2002年10月18日、渼沙里漕艇競技場において初開催。実施主体はソウルオリンピック記念国民体育振興公団競艇運営本部。当初は毎週火曜日・水曜日に1日8R、単勝・複勝・2連単・2連複の各賭け式の舟券が発売された。翌年から水・木曜日に変更、2004年に3連複が導入され、2008年現在は1日15R行われている。競技形式は日本のものを取り入れているが、スタートタイミングが日本の倍の2秒以上で出遅れとなるなど若干の違いがある。", "title": "韓国の競艇" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "大村競艇場では、2008年4月6日に韓国競艇のトップ選手6名(男子4、女子2)を招いて模擬競走を行った。", "title": "韓国の競艇" } ]
競艇(きょうてい)は、モーターボート競走法をはじめとする法令・ルールの下、プロフェッショナルスポーツ選手(競艇選手)によって行われるモーターボート競技。また、その競技の勝敗を予想するギャンブルを示す用語としても使われる。 公営競技の一つであり、競輪・競馬・オートレースと並び「三競オート」と称される。
{{Pathnavbox| * {{Pathnav|競技|競走|[[競漕]]([[ボート競技]])|モーターボート競走|[[パワーボート]]競走|[[ハイドロプレーン]]競走}} * {{pathnav|[[賭博]](ギャンブル)|スポーツ賭博|公営競技}} }} [[File:BOAT RACE logo.jpg|thumb|愛称「BOAT RACE」の[[ロゴタイプ|ロゴ]]]] [[ファイル:Toda kyoutei iizima No4.jpg|thumb|right|300px|[[競走]]中の[[モーターボート]]]] [[ファイル:Amagasaki-kyotei-11.jpg|thumb|right|300px|Jay m. N. [[ターンマーク]]を[[旋回]]するモーターボート]] [[ファイル:BOAT RACE construction.jpeg|サムネイル|[[東京都]][[六本木]]で、[[一般財団法人]][[BOAT RACE振興会]]の「自社ビル建設用地」看板(2015年)]] '''競艇'''(きょうてい)は、[[モーターボート競走法]]をはじめとする[[法令]]・[[規則|ルール]]の下<ref name="藤野2006-20">[[#藤野2006|藤野2006]]、20頁。</ref>、[[プロフェッショナルスポーツ]]選手([[競艇選手]])によって行われる[[モーターボート]]競技。また、その競技の勝敗を予想する[[賭博|ギャンブル]]を示す用語としても使われる。 [[公営競技]]の一つであり、[[競輪]]・[[競馬]]・[[オートレース]]と並び「三競オート」と称される。 == 概要 == === 勝舟投票券 === [[モーターボート競走法]]により、[[総務大臣]]による指定[[地方公共団体|自治体]]が[[地方自治法]]に基づく[[一部事務組合]]となり、[[パリミュチュエル方式]]により[[投票券_(公営競技)|勝舟投票券]](舟券)を販売している。 舟券の[[売り上げ]]のうち75[[パーセント|%]]は払戻金に充てられる<ref name="蛭子1992-72">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、72頁。</ref>。残り25%のうち7%は[[収益]]金として自治体が受け取り、18%は[[賞金]]や[[従業員]]の[[賃金]]、[[公益財団法人]][[日本財団]](旧・[[財団法人]]日本船舶振興会)への[[交付金]]、[[モーターボート競走会]]への[[委託]]料などに充てられる<ref name="蛭子1992-72"/>。 === 所轄官庁 === 所轄[[官庁]]は[[国土交通省]][[海事局]]([[中央省庁再編]]前は[[運輸省]])で、[[造船]]関係の[[産業]]を振興すること等を目的として、[[1952年]]([[昭和]]27年)から実施された。長らく[[日本]]独自のものであったが、[[2002年]]([[平成]]14年)より[[大韓民国|韓国]]の[[渼沙里漕艇競技場|美沙里(ミサリ)競艇場]]でも行われるようになった。 === 呼称 === かつては「競艇」以外に「'''[[ボート]]'''」「'''ボートレース'''」「'''[[モーターボート競走]]'''」の呼称も使われ統一性はなかったが、[[1997年]]([[平成]]9年)度から2009年度まで「'''競艇''' ('''kyotei''')」に統一<ref>[http://www.kyo-tei.com/hirokyo/oldnow07.htm 宮島競艇 今昔 年表編 - Miyajima Kyotei Freaks(宮島競艇フリークス)]</ref>。[[2010年]](平成22年)度からはブランド名「'''BOAT RACE'''」(ボートレース)を導入した<ref>[http://www.kyotei-pr.jp/release/2010/03/201003310051.html 「新ブランド「BOAT RACE」を4月1日から導入](2010.3 [[競艇振興センター]] )</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100430173654/http://www.kyotei.or.jp/infomation/topics/201004/26_001.html 競艇のブランド名導入について2010年4月26日](2010.4 競艇公式サイト [[ウェブアーカイブ]])</ref>。公式の広告では競艇のことを[[レジャー]]と称している場合も有り「現代のレジャースポーツ」と言う案内や、競艇専門のチャンネルを[[レジャーチャンネル]]と称している。 ちなみに「競艇」の名称の考案者は、[[津競艇場]]開設当時の[[津市]]長だった[[志田勝]]であるとされる<ref>[https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00002/contents/0031.htm 「きょうてい」の名付親は志田市長--津競艇開設当時の思い出を語る] - 「全施協50周年記念誌」全国モーターボート競走施行者協議会(日本財団図書館)</ref>。 == 競走 == 以下の節では、主に[[日本]]で行われている[[競走]]について詳述する。 === 競走を構成する要素 === ==== 競走水面 ==== [[file:Suminoe Kyotei1.jpg|thumb|250px|競走[[水面]]と[[観客席]]スタンド([[住之江競艇場]])]] {{multiple image |align = right | image1 = Kiryū Boat Race Course 001.jpg | width1 = 169 | caption1 = 標識ポール(45m)と空中線([[桐生競艇場]]) | image2 = KYOTEI by MASA (6).jpg | width2 = 150 | caption2 = 大[[時計]] }} [[file:Amagasaki-kyotei-07.jpg|thumb|250px|(第2)ターンマーク([[尼崎競艇場]])]] 競艇の競走が行われる[[水面]]を競走水面という<ref name="藤野2006-20">[[#藤野2006|藤野2006]]、20頁。</ref>。競走水面の規格は33000[[平方メートル|m{{sup|2}}]]以上<ref name="藤野2006-22">[[#藤野2006|藤野2006]]、22頁。</ref> <ref name="蛭子1992-34">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、34頁。</ref>(縦75[[メートル|m]]以上×横440m以上<ref name="藤野2006-22"/><ref name="蛭子1992-34"/>)、[[水深]]1.5m以上<ref name="蛭子1992-34"/>。競走水面は[[湖]]や[[河川]]、[[海]]などを利用して設置され、[[淡水]]レース場と[[海水]]レース場に大別される<ref name="藤野2006-22"/>。レース開催時の[[波高]]は45[[センチメートル|cm]]未満でなければならず<ref name="蛭子1992-34"/>、レースの進行を妨げる[[波浪]]、潮流があってはならない<ref name="蛭子1992-34"/>。このため、[[住之江競艇場|住之江]]・[[尼崎競艇場|尼崎]]などの一部を除き、[[スポーツ紙]]・[[競艇新聞|専門紙]]の競艇予想欄には開催時間帯の[[潮汐|満潮・干潮]]の時間が掲載されている。 スタートラインから150m離れた競走水面上には、[[赤]]と[[白]]の[[蛍光塗料]]が塗られた<ref name="蛭子1992-27">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、27頁。</ref>2つの[[浮標|ブイ]]([[ターンマーク]])が浮かんでいる。スタンドから見て右側に浮かぶターンマークを第1ターンマーク、左側に浮かぶターンマークを第2ターンマークという<ref name="藤野2006-24">[[#藤野2006|藤野2006]]、24頁。</ref>。第2ターンマークから20mセンターポール寄りの競走水面上には[[オレンジ色]]のブイ(小回り防止ブイ<ref name="蛭子1992-35"/>)が浮かび<ref name="藤野2006-24"/>、さらに第2ターンマークとセンターポールとの間の4箇所(スタートラインから5m、45m、80m、100mの位置)にポール(標識ポール)が浮かんでいる<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、23-25頁。</ref>。標識ポールはスタート時に選手が通過時間を確認するために設置されているもので、標識ポールに対応する形でスタンド寄りの競走水面上にスタートラインまでの距離を表示する標示板が設置され<ref name="藤野2006-25">[[#藤野2006|藤野2006]]、25頁。</ref>、さらにスタートラインから5m、45m、80-85mを示す空中線が張られている<ref name="藤野2006-25"/>。 競走の際はスタートラインを通過後、第1ターンマークと第2ターンマークを旋回する形で競走水面上を[[反時計回り]](左回り)に3周する<ref name="藤野2006-25"/>(荒天の場合は2周に短縮される場合もある)。これは[[水上交通]]に関する世界的なルール([[船舶]]はすべて右側通行)に従っているためで<ref name="藤野2006-25"/><ref name="蛭子1992-33">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、33頁。</ref>、競技規定にも「モーターボートは、競走水面を[[時計回り|時計の針の回転方向]]と反対の方向で回り……」と明記されている<ref name="蛭子1992-33"/>。ターンマーク間の距離は300[[メートル|m]]で<ref>[[#蛭子1992|蛭子1992]]、33-34頁。</ref><ref name="蛭子1992-26">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、26頁。</ref>、それぞれスタートラインから150m離れた位置にあり<ref name="蛭子1992-35">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、35頁。</ref>、これを3周、すなわち約1,800mを航走する<ref name="蛭子1992-26"/>。ターンマークを破損・沈没させることは[[規則|ルール]]によって禁止されているが接触することは禁止されておらず、各選手は可能な限りターンマークの中心に近い位置を旋回しようとする<ref name="蛭子1992-26"/>{{#tag:ref|ボートとの接触に耐えられるよう、ターンマークの[[円錐]]部分の外側は[[金属]]でできている。その下の浮き輪部分は[[ゴム]]製<ref name="蛭子1992-27"/>。|group="†"}}。なお、[[ボート]]と選手が着用するカポック(防具)には艇番と枠番別の[[色]]が、ボートの舳先には枠番色別の[[旗]]がつけられて区別している。 スタンド側中央の水面には「大[[時計]]」と呼ばれる時計が設置されており、これはスタート時に使用される<ref name="藤野2006-22"/>。この大時計は競艇の心臓部と言ってもよく、これが[[故障]]してしまうと開催不能に陥ってしまう<ref>{{Cite news |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/horse/2015/01/17/0007665853.shtml |title=落雷で三国の開催が中止 |newspaper=デイリースポーツ online |date=2015-01-17 |accessdate=2015-01-17}}</ref>。水上で艇を同じ位置にとどめたり<ref name="藤野2006-26">[[#藤野2006|藤野2006]]、26頁。</ref>、決められた位置から一斉にスタートする<ref name="蛭子1992-22"/>ことは困難であるため、競艇では「大時計が0秒を指してから1秒以内にスタート[[直線|ライン]]を通過すればよい」とされ([[フライングスタート#競艇|フライングスタート法]])<ref name="藤野2006-26"/>、大時計が0秒を指すよりも早くスタートラインを通過するとフライング、1秒を過ぎてから通過すると出遅れとなり、欠場扱いされ出走資格を失う<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、26-27頁。</ref><ref name="蛭子1992-23">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、23頁。</ref>。大時計の針は1分で1回転する「1分針(白色)」と、12[[秒]]で1回転する「12秒針([[黄色]])」の2つがある<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、27頁。</ref>。通常、1分針は真上(一般的な時計では「12時」の位置)、12秒針は左向き(一般的な時計では「9時」の位置)にセットされており、スタートの約1分前から1分針が回転を始め(各選手はこの間に待機行動を行い、進入位置を確定させる)、12秒針と1分針が重なる“スタート15秒前”で12秒針が回転を開始し、これに合わせて各選手がスタート体制に入る(船は水に浮いているので静止出来ない)。大時計にある10と5は、それぞれスタート10秒前と5秒前である。 [[ファイル:Kyotei - Sept 7 2021.webm|thumb|江戸川競艇場]] 競走水面中央部にある白色のポール(センターポール)と、大時計のスタンドから見て左側の端とを結ぶ見透し線上がスタートおよびゴールラインとなる<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、21-22頁。</ref>。ラインを通過に関する判定は、電子スリットと呼ばれる仕組みによって行われる<ref name="藤野2006-22"/>。電子スリットは[[シャッター (カメラ)|シャッター]]装置がないカメラ([[スリットカメラ]])によって[[撮影]]される。スリットカメラにはスタートラインに合わせる形で100分の3[[ミリメートル|mm]]の細い隙間(スリット)が設定され、スリット部分のみが撮影されるように設定されている<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、28頁。</ref>。スリットカメラの動きは大時計と連動しており、大時計が1秒前を指すと撮影が開始される<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、28-29頁。</ref>。大時計が0秒と1秒を指した際にはスリットカメラに[[電気信号]]が送られ、それにより電子スリットに白線が写りこむ。艇首が最初の白線(正確には白線の右端<ref name="藤野2006-30">[[#藤野2006|藤野2006]]、30頁。</ref>)より前に出る形で写っていればフライング、2本目の白線(正確には白線の右端<ref name="藤野2006-30"/>)より後ろに写っていれば出遅れていることになる<ref name="藤野2006-29">[[#藤野2006|藤野2006]]、29頁。</ref>。また、より速くスタートラインを通過した艇はスリットに短時間、遅く通過した艇は長時間スリットに写りこむため、電子スリット上に前者はより短く、後者はより長く写ることになる<ref name="藤野2006-29"/>。なお、スタートは艇首の通過を持って判断するが、ゴールについては、選手が落水しない限り艇首以外の部分も含めて判断する<ref name="蛭子1992-32">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、32頁。</ref>。 ==== 艇 ==== [[file:Kojima-kyotei-06.jpg|thumb|250px|ボート([[児島競艇場]])]] [[ボート]]は[[ハイドロプレーン]]と呼ばれる、船底にステップと呼ばれる段差のあるタイプで、浮き上がるように走るため接水面積が少なく、スピードが出る反面、旋回が大きくなりがちである<ref name="蛭子1992-56">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、56頁。</ref>。[[繊維強化プラスチック|FRP]]製の[[カウル|カウリング]]とスロットルレバー・ハンドル等の艤装品以外は全て[[木]]製で<ref name="藤野2006-153">[[#藤野2006|藤野2006]]、153頁。</ref>、全長約3m・横約2m・総重量約68kgから成る<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=EVLGPygb8M8 ボートレースで使用しているボートはどうやって作られているの?│BOATSCOOP] - YouTube ボートレース公式チャンネル</ref>。ボートの両サイドには、番号によるボートの識別を可能とするよう、番号札がつけられている<ref name="藤野2006-48"/>。ボートに付けられる艇旗の色は枠番に基づき勝負服の色に合わせて決められており<ref name="藤野2006-47"/>、競艇場によってはボートのカウリングの色も合わせられる場合がある<ref name="藤野2006-48"/>。ボートは各競艇場ごとにデザインが異なり、年1回の入れ替えと同時にデザインも毎年変更されている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=E_Co42AlKK0 ボートのデザインって誰が決めているの?│BOATSCOOP] - YouTube ボートレース公式チャンネル</ref>。 かつては入れ替えで不要になった艇については、一般に払い下げが行われていたが事故が多発。1978年には払い下げられたボートの暴走による死傷事故が発生<ref>競艇払い下げふれず 泥なわ規制通達『朝日新聞』1978年(昭和53年)5月31日朝刊、13版、23面</ref>したため、以降、払い下げは行われなくなった。 競艇の初期においては「ランナバウト」と呼ばれる、ステップのないタイプのボートも使われていた。ハイドロプレーンと比べてスピードが出ない反面、小回りがきく点に特徴があった<ref name="蛭子1992-56"/>。ランナバウトを用いた競走は「ランナ戦」と呼ばれ、体重の有利不利が出にくいため、比較的体重の重い選手が得意としていた。SGでは1963年の[[下関競艇場|下関]][[モーターボート記念]]まで使用されていた。そして1993年3月の芦屋ランナ王座決定戦競走を最後に全競艇場でランナバウト戦は廃止された<ref>http://www.kyo-tei.com/maniac/oldboat.htm</ref>。これ以降はすべての競艇場でハイドロプレーンが使用されているためボート区分の必要はないが、当時の名残のため現在でも出走表などには'''H1800'''(ハイドロプレーン3周回1800メートルの意味)の表記がみられる。 === モーター === {{see also|モーター (競艇)}} 2014年以降、競艇で使用されているモーター<ref group="†">一般的なモーターボートは「[[機関 (機械)|エンジン]]」と呼ぶが、競艇関連のメディアでは「モーター」と表記するのが一般的。</ref>は、[[ヤマト発動機]]製のヤマト331型出力低減モーター、約400ccの[[直列2気筒]][[2サイクル機関|2サイクル]][[レシプロエンジン]]で最大出力は毎分6600回転・31馬力、重さは41-42kgである<ref> http://www.kyo-tei.com/maniac/motor07.htm</ref>。モーターの回転運動はギアケースを経て[[プロペラ]]<ref group="†">一般には「スクリュー」と呼ばれるが、競艇では「プロペラ」あるいは「ペラ」と呼ぶのが一般的。</ref>へと伝えられる<ref name="蛭子1992-54">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、54頁。</ref>。 ボートとモーターはすべて同一規格のもので([[ワンメイクレース]])、各[[競艇場]]に用意されており、開催初日の前日(「前検日」と呼ばれる)に抽選で各選手に割り当てられる<ref name="藤野2006-50">[[#藤野2006|藤野2006]]、50頁。</ref>。各競艇場は60ないし70機のモーターを保有しており、1つのエンジンは最大で1年間使用される<ref name="藤野2006-179">[[#藤野2006|藤野2006]]、179頁。</ref>。規格が同一のため、追い込み(終盤で全力を出して前の選手を一気に追い抜いてゴール)が決まることはほとんどない<ref name="藤野2006-51">[[#藤野2006|藤野2006]]、51頁。</ref>。 [[file:Mikuni-kyotei-07.jpg|thumb|180px|操縦席。左手でレバーを、右手でハンドルを握って操縦する。スポークに書かれている矢印は進行方向の目印]] 船内の操縦席にはハンドルとレバーが設置されている。ハンドルは[[舵]]ではなく、プロペラの向きをモーターごと変えるためのもので<ref name="蛭子1992-57">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、57頁。</ref>、右に切ることでつないであるワイヤーが引っ張られ、モーターの向きが変わる<ref name="藤野2006-153"/>。レバーはスロットル<ref name="藤野2006-154">[[#藤野2006|藤野2006]]、154頁。</ref>。握ると出力が上がる<ref name="藤野2006-149">[[#藤野2006|藤野2006]]、149頁。</ref>。旋回は右手でハンドルを回してモーターの向きを、左手でレバーを操作してプロペラの回転を変えることで行う<ref name="蛭子1992-57"/>。レバーは手を放すと元の位置に戻る(キャブレター全閉)が、ハンドルは手を放しても元の位置には戻らない<ref name="藤野2006-154"/>。走行時、選手は船内に正座してボートを操作する<ref name="藤野2006-154"/>。 モーターは[[船外機]]として船外に取り付けられる<ref name="藤野2006-153"/>。取り付けにはチルトアジャスターと呼ばれる装置が用いられ、取り付け角度(チルト角度)は7段階(-0.5度、0度、0.5度、1度、1.5度、2度、3度)に調節することができる<ref name="蛭子1992-62">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、62頁。</ref>。チルト角度が1度のときプロペラは水面に対して直角となり、1度より小さいとプロペラは下向きに、1度より大きいとプロペラは上向きになる<ref>[[#蛭子1992|蛭子1992]]、62-63頁。</ref>。チルト角度が小さくプロペラが下向きの状態で走らせると、水を深くかくことになるため出だしのスピードが速く、逆にチルト角度が大きくプロペラが上向きの状態で走らせると、出だしのスピードは遅いが加速がつきやすくなる<ref name="蛭子1992-63">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、63頁。</ref>。 かつては競艇場によってライナーと呼ばれる板の使用が許されており、これを使うとモーターの取り付け位置(高さ)やハネ上げ角度を調節することができた<ref name="蛭子1992-64">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、64頁。</ref>。モーターの高さを上げたりハネ上げ角度を大きくすると、加速しやすくなる代わりに小回りがききにくくなる<ref>[[#蛭子1992|蛭子1992]]、64-65頁。</ref>。ただし最後までライナー調整が可能だった[[住之江競艇場|住之江]]が2019年3月でライナー調整を禁止したことで、ライナー調整が可能な競艇場は消滅した。 開催期間中、選手はモーターの整備とプロペラのマッチング調整に多くの時間を費やす(ボートの整備はできない<ref name="藤野2006-156">[[#藤野2006|藤野2006]]、156頁。</ref>)<ref group="†">持ちペラ制が導入されていた時代は、開催期間外もほとんどの時間はプロペラの調整に充てられ、選手間で研究グループが作られるほど、プロペラの出来不出来がレースの結果に大きく影響した。</ref>。モーターの整備も整備士に相談することはできるが、作業はすべて選手自身で行わなければならない。モーターは同じロットの量産品であるが、選手がどのような整備を行ったかによって発揮される性能に多少の差が生じる。特にSGやG1といった格の高いレースでは選手の整備力が勝敗を左右する<ref name="藤野2006-179"/>。転覆などでモーターが水を被るとその後の調整しだいでモーターの性格が大きく変化することがある。こうしてある程度モーターが「育った」状態になると、選手がくじ引きでどのモーターを引くかが勝敗の分かれ目になる。このため、各紙の着順予想ではモーターの状態を表すマークが記載されている。なお、モーターとボートは登録から1年を超えて競走に使用できないことから、年に1度一斉に取り替えられる。モーターやプロペラの整備後、選手は次の競走までの間に水面を利用して試運転を行う。走行回数に制限はなく、整備をしてはこまめに試運転を繰り返す選手もいれば、あまり試運転を行わない選手もいる。この試運転も舟券の予想の参考になる。 競走中、ボートの速度は時速80キロ強に達する<ref name="藤野2006-45">[[#藤野2006|藤野2006]]、45頁。</ref>。最高速度で走行している時、選手は「デコボコ道をダンプで猛スピードで走った」ような衝撃と、「大雨の日にアスファルト道路を全速力で走った」ようなハンドル操作の感覚を覚えるという<ref name="藤野2006-154">[[#藤野2006|藤野2006]]、154頁。</ref>。強風や波浪などで波高が高くなるなどの要因で水面が荒れている場合は、ボートが水面でバウンドした時に転覆しやすくなり危険なため、各ボートに「安定板」と呼ばれるフィンを主催者判断で装着することがある<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=kBBJL3XcU18 ボートレース平和島オリジナルVTR「学ボート」Vol 18 「安定板と温水パイプ」] - YouTube 平和島競艇場公式チャンネル</ref>。装着位置はモーターのキャビテーション・プレートの上。安定板を装着すると船体は安定するが、ダッシュ力が落ち伸びが悪くなるといわれ、着順予想にも影響を与えるため、事前に主催者より「安定板装着」であることが告知される。また、冬季にはキャブレターの凍結を防止する為、長さの異なる2本のゴムホースから成る「温水パイプ」の装着が一定期間義務付けられている(装着期間は11月1日~翌年4月30日、主催者からも装着が告知される)。 ボートがエンストした場合、ボート内に備え付けのオール(パドル)を使ってボートを漕ぐことが認められている<ref name="蛭子1992-32"/>。 <gallery> file:Tsu-kyotei-06.jpg|エンジン file:Mikuni-kyotei-06.jpg|プロペラ </gallery> ==== プロペラ ==== 2012年4月よりモーター1基につきヤマト発動機製・[[ナカシマプロペラ]]製のプロペラを各1枚ずつ配備し、選手はこれらのプロペラを整備しながら使用してきた<ref>[http://www.boatrace.jp/news/2011/12/043522.php 新プロペラ制度について]2011年12月25日・ボートレース公式HPより</ref>が、ナカシマプロペラがボートレース用プロペラ事業からの撤退を表明したため、2013年11月1日を初日とする開催からヤマト発動機製のプロペラ1枚のみでの運用に順次変更されることとなった<ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2013/10/12/kiji/K20131012006792450.html スポニチアネックス(2013年10月12日)]</ref>。 2012年3月以前は「選手持ちプロペラ」制度が採用されており、各選手が定められた枚数の私物プロペラを競艇場内に持ち込み、レースに使用していた。この制度では選手は競艇場外でプロペラの加工ができるため、私的に関係のある複数人の選手でプロペラ加工を研究する「ペラグループ」というものが各地で結成されていた。技術に優れたグループの先輩が加工したプロペラを使って若手が優秀な成績を収めることもあった。そうしたペラグループの人脈が雑誌で紹介されたりしたため、それを予想の一要素にするファンもいた。 ==== 選手 ==== {{main|競艇選手}} {{See also|ボートレーサー養成所}} 選手は、[[ボートレーサー養成所]]での1年間の訓練を経て、選手登録試験に合格した者である<ref name="藤野2006-97">[[#藤野2006|藤野2006]]、97頁。</ref>。選手を1人育成するにはおよそ1000万円を要すると言われており<ref name="藤野2006-100">[[#藤野2006|藤野2006]]、100頁。</ref>、入所者は121期まではそのうちの120万円を負担していたが<ref name="藤野2006-100"/>(23期以前は、自費負担による研修が行われていた<ref name="藤野2006-117"/>)、122期からは全額無償となった<ref>[http://www.boatrace.jp/news/2016/11/057027.php 競艇選手機関「やまと競艇学校」122期生から養成訓練費用を無償化] 競艇ピックアップニュース(2016年11月2日).2017年3月21日閲覧</ref>。ボートレーサー養成所への入校は年に2回、4月と10月に行われる。2001年4月、88期より現在のボートレーサー養成所で訓練が行われるようになった。 87期以前は[[山梨県]][[本栖湖]]の本栖研修所にて訓練が行われていた。本栖湖の厳冬期の気温は氷点下を下回る非常に寒い場所であるが、風が強いため湖面が凍結せず、その状態で訓練が行われる過酷な環境であった。このため本栖訓練所出身者からは「地獄の本栖」と形容されるほど厳しい訓練であった。訓練期間も現行より長い約1年6ヶ月であり、9月入校組(奇数期)は厳寒期が2回重なり、3月入校組(偶数期)よりも厳しい条件で訓練されることになるが、偶数期よりも圧倒的に多くのスターを輩出している<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、105-106頁。</ref>。ボートレーサー養成所に移転してからはこの傾向は薄まりつつあり、偶数期のSG常連組も増えつつある。 登録試験に合格した選手には登録番号が割り振られる(引退した選手の番号が再び使われることはない)<ref name="藤野2006-117">[[#藤野2006|藤野2006]]、117頁。</ref>。ボートレーサー養成所入学者のうち、競艇選手としてデビューできるのは約半分といわれている<ref name="蛭子1992-51">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、51頁。</ref>。 競艇選手には定年がなく<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、106-107頁。</ref>、他の公営競技と比べ、現役選手として活動する期間が長く、経験が豊富で駆け引きの巧みな年長者と新人選手の競走も見所である。先輩・後輩の力関係、日本各地の競艇場を転戦するため選手の出身地も舟券予想の重要なポイントのひとつとされる。選手に要求される能力はスタート勘の良さとターンマークを旋回するテクニック<ref name="蛭子1992-49">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、49頁。</ref>、さらにモーターを整備する手腕である<ref name="蛭子1992-55">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、55頁。</ref>。 選手の体重については制限があり、男子は51kg(2020年11月1日より52kg)、女子は47kgを下限とし、体重が下限を下回る場合には重量調整が行われる<ref name="藤野2006-122"/>。これは過酷な減量を行い体調を崩す選手が多発したことを受けてのものである<ref name="蛭子1992-170">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、170頁。</ref>。 選手は成績をもとにA1、A2、B1、B2の4つの級にランク分けされる<ref name="藤野2006-56">[[#藤野2006|藤野2006]]、56頁。</ref>。基準となる成績は具体的に、2連率・勝率・事故率・出走回数である<ref name="藤野2006-57"/>。以下、それぞれについて解説する。 * 2連率(1着および2着になった回数を出走回数で除し、百分率で表した数値<ref name="藤野2006-57">[[#藤野2006|藤野2006]]、57頁。</ref>)および3連率(1着、2着および3着になった回数を出走回数で除し、百分率で表した数値<ref name="藤野2006-57"/>。 * 勝率 - 着順ごとに設定された着順点を合計し、出走回数で除した数値<ref name="藤野2006-57"/><ref name="蛭子1992-38">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、38頁。</ref>{{#tag:ref|一開催の勝率を得点率という<ref name="蛭子1992-38"/>。|group="†"}}。 * 事故率 - 事故のためゴールできなかったりレースを欠場した際に課される事故点を合計し、出走回数で除した数値<ref name="藤野2006-58">[[#藤野2006|藤野2006]]、58頁。</ref>。 *出走回数{{#tag:ref|その選手の責任で生じたスタート事故や欠場も算入される<ref name="藤野2006-58"/>。|group="†"}} である。成績の集計期間は5-10月(前期)と11-4月(後期)の年2回である<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、56-57頁。</ref><ref name="藤野2006-128">[[#藤野2006|藤野2006]]、128頁。</ref><ref name="蛭子1992-37">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、37頁。</ref>。 選手は[[日本モーターボート競走会]]から競艇場への斡旋によりレースに出場するが、1か月における斡旋日数はA級で約15日、B1級が約12日、B2級が約8日と、ランクによって異なる<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、111-112頁。</ref>。なお、フライングを行った選手はすでに出場が決まっているレースに出場後、30日以上の間レースを欠場し、[[愛知県]][[碧南市]]にある[[日本モーターボート選手会常設訓練所|訓練所]]でスタート訓練を受けなければならない<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、32-35頁。</ref>。ただし、1回目のフライングをしてからの70レースでフライングをしなければ、訓練納付金6万円を納めるだけで訓練を免れることができる<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、34頁。</ref>。 [[file:Kiryū Boat Race Course 003.jpg|thumb|250px|左から4号艇、3号艇、2号艇。勝負服、救命胴衣、ヘルメット、艇旗にそれぞれ青色、赤色、黒色が用いられているのがわかる]] 競走に出場する選手には、以下の防護具の着用が義務づけられている<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、45-46頁。</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=nKmz9-Ksiuk ボートレース平和島オリジナルVTR「学ボート」Vol 15 選手の防護具] - YouTube 平和島競艇場 公式チャンネル</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=2yNlE1ZmPO0 ボートレーサーって何を着てレースを走っているの?│BOATSCOOP] - YouTube ボートレース公式チャンネル</ref>。 ; 各競艇場に常備されているもの * カポック([[救命胴衣]]、首を守る為の大きい襟と肩当てが付いている) * 勝負服(ユニフォーム、男女とも体重が50kg前後の為、全てサイズは同じ) * アームプロテクター(レースは左回りで行われる為、怪我が多くなる左手のみ着用義務あり) ; 各選手が持参するもの * [[ケブラー]]ズボン(腰まで隠れる。紐は足元まで伸び、シューズで固定する) * ケブラーシューズ(耐水性やグリップ力に優れ、乗艇時に正座が出来るよう、足首部分を柔らかくしたもの) * グローブ(耐水性・グリップ力・耐切創性を持たせたもの) * ケブラー靴下 * モーターボート競技用硬質[[ヘルメット]](フルフェイス) ** 以前は[[アメリカンフットボール]]の選手がかぶるような形で艇番色で色分けされた物が競艇場に常備され、それを使っていたが、安全の観点から、F1やバイク用のフルフェイスタイプを使う様になった。 ** バイク用ヘルメットよりも、視野を広角に確保するためにフェイス部分が広く、周囲の音を拾いやすくするために、サイドに穴があいている。 ** シールドもレース開催時刻等に合わせて4種類用意されている。 ** モーターボート競走用の専用ヘルメットであり、[[道路交通法]]上、公道でバイクに乗るときに使用することはできない。 ** フルフェイスタイプの物になってからは、殆どの選手が基準の範囲内で各々デザイン・塗装を行っている。また、震災復興支援レース中やJOC協賛中は、統一されたステッカーを貼っていた。 ** 選手個人のヘルメットが破損した場合に備え、競艇場には予備品を常備している(選手間同士の貸し借りは不可)。 * [[合羽|カッパ]](防水パンツ、ケブラーズボンの上から着用) 選手によっては、むち打ち防止用のパッドを頚部に装着する。重量調整が必要な選手は、1着あたり500gの重さがあるオレンジ色の重量調整ベストをカポックの上に着用し、重量調整ベストのポケットに1枚500gの重りを最大6枚入れて最大3.5kgまで増やす。それ以上の調整が必要な場合は、ボートに1kg~5kgの重量調整マットを1枚敷いた状態で出走する<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=tTRSFJU_nOg 重量調整ってなに?│BOATSCOOP] - YouTube ボートレース公式チャンネル</ref>。 勝負服の色は、艇番によって以下の通り決められている<ref name="藤野2006-47">[[#藤野2006|藤野2006]]、47頁。</ref>{{#tag:ref|7号艇が存在した時代もあり、色はピンクだったといわれている<ref name="藤野2006-48">[[#藤野2006|藤野2006]]、48頁。</ref>。|group="†"}}。 * 1枠 1号艇 - [[白]] * 2枠 2号艇 - [[黒]] * 3枠 3号艇 - [[赤]] * 4枠 4号艇 - [[青]] * 5枠 5号艇 - [[黄色|黄]] * 6枠 6号艇 - [[緑]] カポックの襟<ref name="蛭子1992-19">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、19頁。</ref>、ボートに付けられる艇旗<ref name="藤野2006-47"/>の色もこれに合わせられ、さらにボートのカウリングの色も合わせられる場合がある<ref name="藤野2006-48"/>。勝負服の背中の部分には番号によるボートの識別を可能とするよう、番号札がつけられている<ref name="藤野2006-48"/>。 選手が競走場へ持ち込み、使用することが認められている私物は以下の通り<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=lENf7TipRBQ 【大公開】ボートレーサー平山智加の荷物を全部見せます!1つ1つには心がこめられています♡] - YouTube [[平山智加]] 公式チャンネル 2020年5月23日</ref>。 * [[点火プラグ]] * [[ヘルメット]] * プロペラ調整ゲージ(プラスチック製。複数持参して叩く時に角度を確認する時に使う) * 敷皮(革製。プロペラを叩く時に下に敷くもの。複数種類用意) * 回転計(プロペラの回転を調べる為の計測機器。モーターにケーブルを接続し、自動車の[[タコメーター]]の要領でボートに本体を置く) * スターターロープ(モーター始動時に使用する) 上記以外は競走場で定められたものを必要に応じて購入する。特にモーターの整備や私物の持込には細かな規定があり、違反した場合には厳重な罰則が規定されている<ref group="†">過去に認められていない私物部品を使用したことが発覚し、当時のトップ選手が永久追放処分になっている。</ref>。その他、選手宿舎で長期間生活する為、パジャマ・タオル類やお風呂セット・洗剤(競艇場に洗濯場がある為<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=8I1sMkT_rGw レース中濡れたらボートレーサーはどうしているの?│BOATSCOOP] - YouTube ボートレース公式チャンネル</ref>、そこで洗濯を頼む者もいるが、宿舎内の洗濯機で自分で洗濯する者もいる)・雑誌類といった、持ち込み禁止の携帯電話・パソコン以外の生活必需品を持ち込むのが一般的である。 競艇選手の福祉共済の充実(引退選手に対する退職金および年金の給付、負傷した選手に対する休業補償)および技能の向上を図る団体として、日本モーターボート選手会がある<ref name="藤野2006-138">[[#藤野2006|藤野2006]]、138頁。</ref>。もともと地区ごとに存在した選手会を統合する形で、1960年10月に発足した。その名残として、現在も各地区に支部が存在する<ref name="藤野2006-139">[[#藤野2006|藤野2006]]、139頁。</ref>。選手会の運営費は、選手が納付する会費によってまかなわれている<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、138-139頁。</ref>。 == 競走の進行 == === レース前の展示航走 === レース前に行われる「展示航走」は「スタート展示」と「周回展示」の2つがある。主にモーターや選手の調子を見るのが目的<ref name="蛭子1992-21">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、21頁。</ref>。第1競走のみ開始予定時刻が事前に告知され、以降は前レース終了後に以下の展示航走が行われる。 ==== スタート展示 ==== [[file:Amagasaki-kyotei-04.jpg|thumb|250px|スタート展示([[尼崎競艇場]])]] [[スタート展示]]では出場選手がピットアウトからスタートまで一連の所作を行う。各選手のピット離れやコース取り、スタートタイミングなどを見るのが目的。「スタ展」と略されることもある。 スタート展示の詳細は、以下の情報が場内モニターなどで公開される。 * 各選手の進入コース * 各選手のスタートタイミング(スリット写真) 以前は「スタート練習」と呼ばれ、公式の展示航走とはされていなかったが、参考にするファンも多かった。しかし、練習と本番で進入コースが異なるなどで苦情も多く一度は廃止されたが、一方でスタート練習の復活を望む声も根強くあり、予想の参考のひとつとして名称も「スタート展示」と改められて復活した。 ==== 進入についての規程変更 ==== * 以前はスタート展示において6コースから進入した選手がレース本番で1コースに進入することが認められず、このような事態が発生した場合、当該選手は出走資格の喪失(返還欠場となり、関係する舟券は全額返還される。ただし、レース本番で2コースに入ったが、その後1コースの艇が欠場して結果的に最内になってしまった場合など審判委員長がやむを得ないと認めた場合は除く)とされていたが、この規定は[[2008年]][[5月1日]]以降を初日とする開催から順次廃止された<ref>[http://www.kyotei.or.jp/infomation/topics/200804/09_001.html 著しく異なる進入航走の廃止]</ref>。 * また、従来スタート展示に出られなかった艇はレース本番で最アウトコースから進入することとされ、これを怠った場合は違反となっていたが、この規定は[[2009年]]5月1日を初日とする開催から順次廃止された。 ==== 周回展示 ==== スタート展示後は、そのまま[[周回展示]]に移行する。 出場選手が単独で1艇ずつ2周回する(荒天の場合には1周回に短縮される場合がある)。ターンの攻め具合や出足(加速力)、伸びを見るのが目的。 なお、審判委員長が全力で航走していないと判断した艇や、展示航走中にエンストやプロペラ破損など何かしらのトラブルが発生した艇は、再度周回展示航走を指示される(後者の場合はトラブル解決後に再展示)。 周回展示の情報は、以下の情報が競艇場内のモニターで発表される。 * タイム ** 1周目のバックストレッチ後半のタイム ** 1周の周回タイム・直線タイム・まわり足タイムなど独自計測したタイム(芦屋・丸亀など一部の場で公表する) *** 一周:1周600mを計測、モーター及び選手の総合力を判断 *** まわり足:2周目第1ターンマークを旋回した時のタイム、選手の旋回能力を判断 *** 直線:2周目第1ターンマーク直後の約140mのタイム、モーターの調子を判断 * 選手の体重及び調整重量 * モーターのチルト角度(傾斜角度) * モーターの部品交換状況及びプロペラ使用状況 * 2戦目の選手は、1戦目の成績(レース・コース・着順) 認められている部品交換は、以下の通り9種類<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=KQSQvWosDJs 部品交換ってなに?│BOATSCOOP] - YouTube ボートレース公式チャンネル</ref>。特にピストン・ピストンリング・シリンダーケースを一式まとめて交換することを「セット交換」と呼ぶ<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/50448 【ボートレースアカデミー】「セット交換」と「追加配分」] - 東京スポーツ・2017年8月23日</ref>。交換する部品は新品とは限らず中古品もあり、部品によっては前年度に使用したものを交換用部品として保管・使用する<ref>[https://www.nikkansports.com/public_race/ailoverace/news/202011180000140.html 住之江ボートで頻発 ギアケース交換で伸びアップ] - 日刊スポーツ・2020年11月18日</ref>。 * [[ピストン]](2気筒エンジンの為、最大2つ。足が劣勢の時に交換する) * [[ピストンリング]](1つのピストンにつき溝が2つ。回転が上がらない夏場に中古品に交換して回転を上げる) * [[シリンダーブロック|シリンダーケース]](ピストンとピストンリングが入る。足が劣勢の時に交換する) * 電気一式([[オルタネーター]]。電気系統は水に弱く、転覆した時に乾燥が必要になるが、2戦目がある場合、乾燥させる時間がない為、予備品に交換する) * [[キャブレター]](空気と燃料を調整。レバーを握った時のレスポンスが良くない場合に、洗浄したりするが、それでも治らない場合に交換) * ギヤケース(プロペラと直結している。回転の上げ下げを行いたい時に調整) * [[クランクシャフト]](モーターの中心部。足が劣勢の時に交換する) * キャリアボデー(最も大きなパーツで、[[排気ガス]]の通り道。前検で抽選してモーターを貰った時に本当に酷使していると判断した時に交換) * プロペラ(破損した場合、新品に交換する) これらの情報や[[出走表]]に記載されているデータを参考にして舟券を購入する(有料の[[予想屋]]や[[予想紙]]を参考にするファンもいる)。 === レース本番 === ==== ピットアウト、待機行動 ==== [[ファイル:Hamanako-kyotei-05.jpg|thumb|250px|right|ピットを離れるボート([[浜名湖競艇場]])]] [[ファイル:Tokoname-kyotei-06.jpg|thumb|250px|right|待機行動([[常滑競艇場]])]] ピットでの発走合図で全6艇がピットを離れ、スタートに備える。ピットを離れてからスタートするまでの間に各選手がとる行動を「待機行動」と呼び、選手が走行するコースを選ぶために行う「待機航走」と、コースを選んでからスタートするまでの「進入航走」に分けられる<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、35頁。</ref>。待機行動には全国統一のルールがあり、ルールに反したコース取りを行うと罰則が科される<ref name="藤野2006-37">[[#藤野2006|藤野2006]]、37頁。</ref>。待機行動に充てられる時間は、競艇場によって異なる<ref name="藤野2006-45"/>。 第2ターンマークのスタンド側を通り、小回り防止ブイを回ってバックストレッチ(バック水面)に出ると選手は艇の速度を落とす。速度を落とした際に各選手のおおよそのコース取りが決定する<ref name="藤野2006-36">[[#藤野2006|藤野2006]]、36頁。</ref>。第2ターンマークを回り、艇首がスタートラインに正対するまでが待機航走、正対した後が進入航走となる<ref name="藤野2006-36"/>。スタートラインから第2ターンマーク寄りの水域を「待機行動水面」と呼ぶ。 全艇がスタートラインに正対すると各艇のコースが決定する。内側から順番に1コース、2コース、3コース…6コースと呼び、1・2コースをイン、3・4コースをセンター、5・6コースをアウトという(競艇では、枠番通りのコースからスタートするとは限らない<ref name="蛭子1992-22">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、22頁。</ref>)<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、37-38頁。</ref>。競艇の競走では第1ターンマークを最も早く回り、他の艇が作り出す波(とりわけ、モーターが引き起こす曳き波<ref name="蛭子1992-36">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、36頁。</ref>)の影響を受けずに走行することが重要となるが、各艇が同じスピードで第1ターンマークにさしかかった場合、第1ターンマークを最も早く回るのは通常、第1ターンマークまでの距離が最も近い1コースの選手である<ref name="藤野2006-41-42">[[#藤野2006|藤野2006]]、41-42頁。</ref>。 一旦進入した後でコースを取り直す場合は一番外のコースに入らなければならないことが規則で定められているほか、新人選手は最アウトコースに入ることが不文律になっている(新人は技術が拙いため、内側に入ると他の艇に迷惑をかけることが理由とされている)。 上記の理由から最アウトコースに入る新人選手や、アウトコースからのダッシュ戦を得意とする選手(いわゆる「[[アウト屋]]」)はピットを出てから位置取りを争う内側の艇を横目に大きく艇を回してスタートラインから離れ、ダッシュ距離を稼ごうとしている場合もある。 待機行動はスタート前に行われることから、厳密には競走ではない<ref name="藤野2006-38"/>。[[競馬]]における[[競馬の競走#本馬場入場|輪乗り]]と似ているが、輪乗りの時点ですでに枠順が決定している競馬と違い、競艇では通常待機行動中に走行するコースが決まる<ref name="藤野2006-38">[[#藤野2006|藤野2006]]、38頁。</ref>(ただし[[進入固定競走]]では枠番=コースとなる)。待機行動中の選手にアクシデントが生じた場合は欠場扱いとなり、その選手に関係する舟券は全て返還される<ref name="藤野2006-38"/>。 ==== 待機行動についての規定変更 ==== ピットアウト後の待機行動に関する規定が一部変更され、2009年5月1日を初日とする開催から順次適用された。概要は以下の通り。 # 待機行動に入った後、バックストレッチ側で低速航走しようとする艇は速やかに内線へ寄せ、内線と平行に航走する。 # 低速航走時の右転舵を「時間稼ぎ的航法」として待機行動違反とする。ただし、内線に寄せたとき及びアウトコースの艇が助走距離をとるための右転舵はこの限りでない。 # 原則として、先に「150メートル見透し線」に達した艇からインコースの優先権を得る。先に150メートル見透し線に達した艇よりも内側に進入しようとした場合は「割り込み」とされ、待機行動違反となる。 ==== ファンファーレ ==== ピットアウトの際には、出走合図のファンファーレが演奏される。[[1974年]]までは各競艇場ごとに異なっていたが、翌年の[[1975年]]から全競艇場で統一された。 [[1991年]]には「[[モーターボート競走法]]40年記念」事業として、[[さだまさし]]/[[城賀イサム]]/[[佐伯亮 (音楽家)|佐伯亮]]作曲、[[竜崎孝路]]編曲によるファンファーレを導入した。このファンファーレは2010年まで使用され、SG用、グレードレース(GI-GIII)用と一般競走用、さらにそれぞれを優勝戦とそれ以外の予選・一般戦で分け、6曲を使い分けていた<ref>[http://www.kyo-tei.com/extra/answer01.htm FAQ ボートレース一般編] - 宮島競艇フリークス</ref>。 2010年5月からは新鋭リーグ・女子リーグオリジナルファンファーレが導入され、[[延近輝之]]が作曲。またその他のファンファーレも同年6月より一新され、SGは[[高橋千佳子]]、その他は[[マツオカヒロタカ]]作曲のものが採用され、合わせて全10曲が使われている<ref>[http://www.kenkyu.co.jp/station/archives/2010_5_20_97.html 研究ステーション 5月20日号] - ボートレース研究</ref>。 ==== スタート ==== [[ファイル:Biwako-kyotei-07.jpg|thumb|250px|スタートの瞬間([[びわこ競艇場]])]] 前述のように競艇のスタートでは[[フライングスタート#競艇|フライングスタート法]]が採用されている。待機行動に入った後、概ねスタート12秒前から全艇がスタートラインへ加速をつけて進入し、大時計が0秒-1秒を指すまでの間にスタートラインを通過して第1ターンマークへと向かう(艇の先端がスタートラインを通過したタイミングを「スタートタイミング」という)。これは他の公営競技と異なり、水面上で横一列に整列して静止することが難しいこと<ref name="蛭子1992-22"/>に加え、水の抵抗でトップスピードに達するまで時間がかかるため。 : 助走距離が短い艇は「スロー」、後方から全速で進入してくる艇は「ダッシュ」と呼ばれる。スローとダッシュの中間位置から進入する場合もある。 : ダッシュで進入する艇のうち、最もインに近い艇を「カド」と呼び、比較的有利な位置とされている。 : 進入時の並び順を「進入隊形」(または「進入スタイル」)と呼び、インから枠番通りに進入する場合は「枠なり進入」(または「枠なり」)と呼ばれる。 スタートタイミングが0秒より0.01秒でも速い場合は「フライング(F)」、0秒から1秒以内にスタートラインへ到達できなかった場合(スタートラインの直前・直後<ref group="†">スリット写真で撮影している範囲内を含む。</ref>で転覆した場合を含む)は「出遅れ(L)」と判定される(微妙な場合はスリット写真<ref group="†">他の公営競技ではゴール着順の判定に使われる。ただし、競艇でもまれにゴールの着順を写真判定する場合がある。</ref>が用いられる)。競艇においてスタートの重要性は高く<ref name="蛭子1992-41">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、41頁。</ref>、選手は開催日の朝になると第1レースの展示航走が行われるまでの間<ref name="藤野2006-122">[[#藤野2006|藤野2006]]、122頁。</ref>、特別練習を行ってスタート勘を磨く<ref name="蛭子1992-41"/><ref name="藤野2006-122"/>。 「フライング」「出遅れ」「直前の出走取消」対象艇が含まれた舟券は全額返還されるほか、同一レースにおいて5艇以上がフライングまたは出遅れ(混合の場合を含む)となった場合は「レース不成立」となり、当該レースの舟券は全て返還となる(5艇がフライングまたは出遅れた場合、正常にスタートした残り1艇は選手責任外の欠場として扱われる)。 ;(参考)フライング・出遅れ数と返還対象賭式 :* 全艇または5艇がフライング・出遅れ…全賭式不成立(レース自体も不成立) :* 4艇フライング・出遅れ…3連単・3連複・2連複・拡連複・複勝式の賭式が不成立(2連単・単勝式のみ成立) :* 3艇フライング・出遅れ…3連複・拡連複の賭式が不成立 :* 2艇以上が正常スタートし、全艇が返還欠場・失格…全賭式不成立 :* 2艇が正常スタートし、うち1艇が失格(全体で5艇が返還欠場・失格)…単勝式のみ成立 :* 3艇が正常スタートし、うち1艇が失格(全体で4艇が返還欠場・失格)…3連単・3連複・拡連複の賭式が不成立 :* 3艇以上が正常スタートし、全体で5艇が返還欠場・失格…単勝式・複勝式のみ成立 :* 4艇以上が正常スタートし、全体で4艇が返還欠場・失格…3連単・3連複の賭式が不成立(拡連複は的中が1組あるため成立) :* 4艇以上が正常スタートし、全体で3艇以下が返還欠場・失格…全賭式が成立、返還欠場となった番号の組み合わせのみ返還 ==== スタート事故に対する罰則規定 ==== 選手責任と認められる「フライング」や「出遅れ」(これらを総称して「[[スタート事故]]」という)をしたレーサーには、開催節1回目の場合は準優勝戦・優勝戦や特別選抜戦などの賞典レースへの出走ができなくなり(賞典除外)、2回目の場合は即日帰郷を命ぜられる。このほか、一定期間の斡旋停止(1本目:30日、2本目:60日、3本目:90日、4本:180日となるが「選手出場あっせん保留基準第8号」と選手会による「競走の公正確保及び競技水準の向上化に関する規程」によりフライング4本持ち以上は事実上の引退)や訓練施設での再訓練などのペナルティも科される。なお、集団でのフライングを防止する観点から2013年11月1日を初日とする開催より0.05秒以上のフライングを「非常識なフライング」と定義し、該当するレーサーには原則として「即日帰郷」の処分とすることが発表された(ただし、[[賞金王決定戦競走#賞金王決定戦|グランプリ]]・[[賞金女王決定戦競走|クイーンズクライマックス]]では適用しない)<ref>[http://www.nikkansports.com/race/public_race/news/p-rc-tp1-20131022-1207666.html 日刊スポーツ(2013年10月22日)]</ref>。 2022年5月1日以降の「非常識なフライング」については、原則として「即日帰郷」の処分ではなく、従前のスタート事故による出場辞退期間に、5日間の出場辞退日数を加算することなった<ref>{{Cite web|和書| url = https://boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2022/04/19452/ | title = 非常識なフライングを起こした選手に対する処置の変更について | publisher = BOATRACE OFFICIAL | accessdate = 2022-05-01 }}</ref>。 SGなどのように全国規模で発売されるレースの優勝戦や準優勝戦で選手責任によるフライングや出遅れが発生した場合は、下記のように厳しい罰則が課せられる<ref group="†">全国発売のレースは多大な売り上げが見込める反面、フライングが発生した場合は返還額も巨額になり、施行者に対して多大な損害を与える(SG優勝戦の場合、返還額は20億円を超えることもある)ため、特にフライングや出遅れに関する罰則は厳しくされている。</ref>。ただし、選手責任外による出遅れ(強風による転覆・エンジン故障などによる場合)や怪我・急病などによる出場取消の場合はこの限りでない。 以下の規定はG2が2010年4月から、新鋭戦・女子戦が2011年から適用された。2023年4月からSG・G1・G2の罰則が2倍に拡大された。 * SG優勝戦:24か月間SG選出除外および出場辞退期間消化後12か月間G1・G2選出除外 * SG準優勝戦およびグランプリトライアル、順位決定戦:12か月間SG選出除外および出場辞退期間消化後6か月間G1・G2選出除外 * G1・G2優勝戦:出場辞退期間消化後12か月間G1・G2選出除外 * G1・G2準優勝戦:出場辞退期間消化後6か月間G1・G2選出除外 * 新鋭戦・女子戦優勝戦:出場辞退期間消化後6か月間新鋭戦(新鋭王座含む)・女子戦選出除外 * 新鋭戦・女子戦準優勝戦:出場辞退期間消化後3か月間新鋭戦(新鋭王座含む)・女子戦選出除外 グランプリおよびクイーンズクライマックスの2競走に限り、斡旋停止期間中であっても選出基準を満たしていた場合は同競走に出場できる特例がある。 フライングスタート判定結果や失格(後述)のアナウンスは全てのボートレース場が場内実況アナウンサーにより観客へ告知している<ref group="†">平和島・江戸川・多摩川・びわこではチャイムコールがある。</ref>。 ==== 1周目第1ターンマークの攻防 ==== [[ファイル:KYOTEI by MASA (11).jpg|thumb|220px|第1ターンマークを回るボート]] 前述のように競艇の競走では、第1ターンマークを最も早く回り、他の艇が作り出す波の影響(とりわけ、モーターが引き起こす曳き波<ref name="蛭子1992-36"/>)を受けずに走行することが重要となるが、各艇が同じスピードで第1ターンマークにさしかかった場合、第1ターンマークを最も早く回るのは通常、第1ターンマークまでの距離が最も近い1コースの選手である<ref name="藤野2006-41-42"/>。 ただし、これはあくまでも「同じスピードで」という前提があっての話で、この前提が崩れれば成立しなくなる。たとえば、他の艇の割り込みを防ぎつつ1コースを取ろうとすると第2ターンマークとの距離を詰める形でスタートラインに正対する必要があるが、この時エンジンを停止させることは禁止されているため、ゆっくりとスタートラインへ近づいていくことになるが、助走距離が短くなるとスタートライン通過時点での速度が他の艇より遅くなってしまう可能性がある<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、42-43頁。</ref>。 [[1980年代]]まではターンマークを回るときはスピードを落として小回りに回る「落としマイ」が定石だったが、[[1990年代]]に[[今村豊]]が「全速ターン」を開発した。その後、それまでの正座の姿勢でひざで立って両ひざで艇を押しながら身体を安定させて回る旋回に代わる方法として、両足を伸ばした状態で腰を浮かせ足で艇を蹴るように旋回する「[[モンキーターン]]」を[[飯田加一]]が開発しそれが各選手に普及したことで旋回スピードが増し、外側の艇が内側の艇より先に回ることが多くなった。今ではほとんどの選手がモンキーターンを行っている。 競艇の勝敗の7割はスタートから第1ターンマークまでの間に決まり<ref name="蛭子1992-144">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、144頁。</ref>、第1ターンマークを回った時点でそのレースの大まかな着順が決まるともいわれ<ref name="藤野2006-51-52">[[#藤野2006|藤野2006]]、51-52頁。</ref>、ここでの攻防がレースの最大の見所となる<ref name="蛭子1992-28">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、28頁。</ref>。 ==== 決まり手 ==== 決まり手とは、1着艇の勝因のことをいう<ref name="藤野2006-52">[[#藤野2006|藤野2006]]、52頁。</ref>。決まり手のほとんどは、1着艇が第1ターンマークでどういった動きをして1着を確定させたかによって決まる<ref name="藤野2006-52"/>。 *'''逃げ''' - 1コースの選手が勝利。進路としてはインからインとインからアウトの2つがある<ref name="藤野2006-52-53">[[#藤野2006|藤野2006]]、52-53頁。</ref>。 *'''捲り''' - 1コースより外の選手が、自分よりも内のコースの選手よりも先にターンして勝利。進路はアウトからアウト<ref name="藤野2006-52-53"/>。スタートの速さが要求される<ref name="蛭子1992-31">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、31頁。</ref>。 *'''差し''' - 1コースより外の選手が、ターンにおいて、自分よりも内のコースの選手の内側に入り勝利。進路はアウトからイン<ref name="藤野2006-52-53"/>。内側のコースが空くことを予見して行う「早差し」と、内側のコースが空いたのを確認してから行う「遅差し」がある<ref name="蛭子1992-31"/>。 *'''捲り差し''' - 捲りと差しの複合<ref name="藤野2006-54">[[#藤野2006|藤野2006]]、54頁。</ref>。捲ると見せかけて差しに切り替えるため、高度なテクニックを要する<ref name="蛭子1992-30">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、30頁。</ref>。 *'''抜き''' - 第2ターンマーク以降の場所で先行する選手を抜いた場合<ref name="藤野2006-53">[[#藤野2006|藤野2006]]、53頁。</ref>。 *'''ツケマイ''' - スピードを落とさずにターンし、内側の選手を潰して勝利<ref name="藤野2006-54"/>。捲りを応用した高等戦術で、内側の選手を外から抑え込む形で失速させ、その瞬間にターンする<ref name="蛭子1992-30"/>。語源は「つけまわり」(内側艇につけて回る、の意味)から。 *'''切り返し''' - コース変わりによる勝利<ref name="藤野2006-54"/>。外のコースから一気に内側に入る<ref name="蛭子1992-30"/>。出遅れた選手が行う場合を「イン変わり」という<ref name="蛭子1992-30"/>。 *'''恵まれ''' - フライングや出遅れにより、欠場艇が発生した場合。 ==== 道中(ゴールまで)の攻防 ==== [[ファイル:KYOTEI by MASA (7).jpg|thumb|right|220px|第2ターンマークを回りゴールへ向かうボート]] 1周目1マークで後手を踏んだ艇は1つでも着順を上げるべく、「抜き」を試みることになる。1周目1マークで2番手以下だった艇が、その後逆転して1着になった場合、決まり手は「抜き」となる。なお、イン(1コース)の選手が「逃げ」に失敗したのち、追い上げて逆転した場合も「抜き」となる。スポーツ新聞等には「抜き」は「道中競り」(○周○マーク)と記述される場合もある。 道中2、3番手の艇が「抜き」で1着になる例はままあるが、6番手(最下位)の艇が追い上げて1着となることは極めて稀である。これは、水上では艇の後ろに「引き波」が生じ、後ろの艇の推進力を大きく損なうためである。なお、前述のフライング等があったときの決まり手は「恵まれ」となる。1位の選手は1周目でほぼ固まってしまう場合が多いが、2着以下については前に行く艇の引き波がターンマーク近くに残ることで最後まで順位争いがもつれる要因となる。 ==== その他の競技規程について ==== [[ファイル:Amagasaki-kyotei-03.jpg|thumb|220px|right|転覆失格]] モーターボート競走競技規程により、以下の状態になった場合は失格となる。失格艇にかかわる舟券は返還されないが、全艇が失格した場合は'''レース不成立'''となり、当該競走の投票券は全額返還となる。 * 競走中にモーターボートが転覆(転覆失格)・沈没(沈没失格)<ref name="蛭子1992-43"/>、選手が落水(落水失格)<ref name="蛭子1992-43"/>、またはモーターが停止した場合であって速やかに元の状態に戻ることができないとき(エンスト失格)。 * 他のモーターボートの正常な航走を妨げた場合(妨害失格)<ref name="蛭子1992-42">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、42頁。</ref>。 * 先頭のモーターボートがゴールインした時から30秒以内にゴールインできなかった場合(不完走失格)<ref name="蛭子1992-32"/><ref name="蛭子1992-43">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、43頁。</ref> * ターンマークを著しく破損させた場合 * 逆走(右回り走行)してしまった場合 * 事故艇または救助艇がある場合に当該事故艇または救助艇と安全な間隔<ref group="†">原則は外側であるが、外側に十分な間隔がない場合は内側を航走するよう指示が出る。</ref>を保って航走しなかった場合 転覆については、転覆そのものよりも、後続のボートと衝突したりプロペラに巻き込まれることで起こる事故による危険が大きい。そのため、後続の中で先頭を走るボートが落水した選手の内側を走れば他のボートも内側を、外側を走れば外側を走らなければならないとされており、さらに落水した選手自身についても、後続のボートがすべて通過するまで自艇の下で水中にとどまっていなければならないとされている<ref name="蛭子1992-44-45">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、44-45頁。</ref>。転覆が多く起こるのはターンマーク付近、とりわけ全選手が先頭に立とうとして激しく争うスタート直後の第1ターンマークである<ref name="蛭子1992-44-45"/>。 転覆事故が起きた場合、救出活動が最優先となる。そのため、最寄りのコーナー等で他艇を抜きにかかることはルールで禁じられている。 もっとも実際には選手間の約束として、転覆事故が起きた場合、その後のアタック自体を一切控えるのが慣例となっている。 生命に関わる救出活動を阻害しないためである。 なお、一部の競艇場では最終周回に入る際、競輪と同様に鐘(ジャン)を鳴らすところもある。 また、次の違反などを犯した場合は、競走開催期間中であっても、そのレースが行われた当日のレース終了時点で退場処分となる「即刻・即日帰郷」という罰則がある。 * 即刻帰郷:重大な管理・整備規程違反、周回誤認、失格盤見落とし、悪質な航法指示違反、逆走、その他褒章懲戒審議会の審議対象にかけられると考えられる事情を犯した場合。この場合は違反を犯したレース終了後、直ちに即時退場となり、2回走りである場合は2回目の出場ができない。 * [[即日帰郷]]:内・外回り、または順位変動をきたす違反、及び選手責任によるスタート事故や走行妨害による失格・降着、不良航法、待機行動違反などを一定の複数回数以上犯した場合と、2013年11月1日を初日とする開催より適用された0.05秒以上のフライングの「非常識なF」を犯した場合。この場合は当日のレース終了後直ちに退場となるが、即刻帰郷とは異なり、2回走りである場合は2回目の出場は(即刻帰郷の罰則でない限り)可能である。 === レース終了 === * 的中者には的中した舟券の払戻が行われるほか、返還がある場合は確定後に返還される<ref group="†">公営競技の中では、払戻金の発表が最も速い。これは競技の性質上僅差の決着が少なく、早く確定するため。</ref>。 * 終了後は直ちに次レースのスタート展示・周回展示が行われ、これを最終レース(通常は第12競走)まで繰り返す。 === 参考事項 === ==== 進入固定競走 ==== 各艇の進入コースを1コースを1号艇 - 6コース6号艇と決めておく「[[進入固定競走]]」が全競艇場で行なわれていた時期があった(ある競艇場では全開催レースを進入固定にしたこともあった)。当然1コースつまり1号艇が断然有利になるため、レースの紛れが少なくなって、あまりファンからの支持を得られず、一時期は開催される競艇場が少なくなっていたが、その後再び実施する競艇場が増え、現在では浜名湖、蒲郡、児島、丸亀、宮島、徳山、下関、若松、芦屋、福岡、大村の11競艇場で行われている他、平和島では2015年(平成27年)10月29日から11月3日までの開催を「ビキナーズ推しレース」として、全レース進入固定競走を実施した。また進入固定競走を実施していない競艇場でも企画レースとして実施する場合がある。 ==== 2着の決まり手 ==== 2着に関しては前述の通り道中で逆転する場合が多いため、競走成績では「決まり手」を公示しない。しかし、道中での逆転がない場合、もしくは1周1マーク終了時点では次のような状態になることが多い。 ; 1着は「イン逃げ」、2着は「差し」 : 2連単では「1-2」で決まることが多いが、これは2コースの艇が1コースの艇をマークして差しに構えることが多いためである。大外から、最内に差して2着に残るケースもあるが、上記の1-2と比較すると発生確率が低く、高配当となる。 ; 1着は「イン逃げ」、2着が「まくり差し」 : まくりに来た艇に対して内側の艇が反発して、まくった艇が後退してしまったときに、間隙を縫ってきた艇(まくりに来た艇の1つ外側の艇が多い)が2着になる場合、および、まくりに来た艇が途中でまくりをあきらめてまくり差しに変更した場合が考えられる。これらのケースも非常に多い。 ; 1着が「まくり差し」、2着が「イン残り」 : 差しもしくはまくり差しが届いて1着になってしまったケースである。まくりが決まったときにはイン(1コース)は2着にも残れないことが多いが、差しの場合には、インがドカ遅れしていなければ残るケースが多い。大外からの最内差しが成功した場合には、2着が1コースの場合でも高配当になることが多い。 ; 1着が「まくり」、2着が「マーク差し」 : まくりが成功して、まくった艇が1着になった場合には、まくった艇の一つ外側の艇が2着になることが多い。まくり(つけまい)が決まると内側の艇はまくった艇の引き波に飲み込まれて大きく減速するため、その場合には2着には外側の艇が、減速している内側の艇とまくった艇の間のスペースにまくり差しを入れて2着をとることが多い。なお、大外まくりの場合には、外側に艇がいないため、最後にまくられたインコースは2着に来ることは少ないが、どの艇が2着に残るかは状況による。 ; 1着が「まくり差し」、2着が「2番差し」 : まくって来た艇に内側の艇が反発して、両者が飛んで大回りになった場合等に発生する。大きな差し場ができるので、外側の艇は容易に差しもしくはまくり差しを決めることができるため、外側の艇で上位を独占するケースが多い。この場合には、ほぼ確実に高配当になる。 ==== 鉄板番組 ==== 別名として'''「企画レース」'''とも呼ばれる。その節中に、好調子の選手と不調子の選手とをわざと同じカードに組むこと。またはB級選手の中で1号艇のみがA1級選手など、明らかな格上の選手を有利な枠に組み込むこと<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=4a_XVi0iug4 ボートレース平和島オリジナルVTR「学ボート」 Vol 26「企画レースとは」] - YouTube ボートレース平和島 マスコットキャラクター ピースターチャンネル</ref>。 これによって観客は本命一本の頭流しなどでの安易な予想がしやすくなり、初めて舟券を買う人などの競艇初心者にわかりやすいレース展開となることがほとんどで、大抵は低配当になる。これらのレースには特別なタイトルが付けられる事により、主催者が「意図的に組んでいる」ことを意思表示している(下表参照)。しかし、展開によっては波乱が起きて高配当になる場合もある。 =====競艇場ごとの企画レース一覧===== 原則としてGⅡ以下の競走が対象。江戸川と常滑はこれが行われていない。<ref>[https://sp.macour.jp/s/kikaku/ 24場企画レース一覧](マクール)</ref> {| class="wikitable" style="font-size:small" !競艇場!!タイトル!!対象レース!!内容 |- !rowspan=3|桐生 |ドラドキ目玉||第6レース||1号艇:A級、それ以外:B級 |- |ドラドキ3||第7レース||1・3号艇:A級、それ以外:B級 |- |ドラドキ5||第8レース||1・5号艇:A級、それ以外:B級 |- !rowspan=2|戸田 |ウィンウィン5||第5レース||1・4号艇:A級、それ以外:B級 |- |ウィンウィン7||第7レース||1号艇:A級 |- !平和島 |Afternoon Pleasant Race||原則第5レース<br>夏季の[[薄暮競走]]の実施日は第2レース||A級を内側に配置 |- !rowspan=2|多摩川 |まつりだone||第1レース||原則としてA級2人対B級4人を基本 |- |ターゲット9||第9レース||原則として1号艇:A級、それ以外:B級を基本 |- !rowspan=2|浜名湖 |ランチタイム||第4レース||1号艇:A級、それ以外:B級 |- |ブレークタイム||第7レース||原則として1・4号艇:A級、それ以外:B級を基本 |- !蒲郡 |進入固定競走||第7レース|| |- !rowspan=2|津 |ツッキーレース||第1レース||rowspan=2|1号艇:A級 |- |5ールドレース||第5レース |- !rowspan=4|三国 |みくにあさイチ||第1レース||1号艇:A級、その他:B級 |- |みくにあさガチ||第2レース||1・2号艇:A級、その他:B級 |- |みくにあさズバ||第3レース||1・3号艇:A級、その他:B級 |- |みくにあさ推し||第4レース||A・B級各3人、かつ1号艇はA級固定 |- !rowspan=2|びわこ |びわこ幕開け戦||第1レース||1号艇:A級、その他:B級 |- |ゴゴイチびわこ||第5レース||1号艇(固定)とそれ以外の艇のいづれか1人(計2人)がA級、その他:B級 |- !rowspan=3|住之江 |住之江ファイブ||第5レース||1号艇:A1級 |- |住之江セブン||原則第7レースだが<br>編成の都合で実施しない場合あり||1・6号艇:A級 |- |トワイライトエイト||第8レース||1・4号艇:A級 |- !rowspan=2|尼崎 |朝からセンプル||第1レース||3・4号艇のいづれかにA級 |- |昼どきセンプル||第6レース||1号艇(固定)と3・4号艇のいづれかにA級 |- !rowspan=4|鳴門 |とるならなると||第1レース||1号艇のみ:A級 |- |どーなるなると||第2レース||日替わりの企画レース |- |どきどきなると||第3レース||rowspan=2|1号艇:A級、それ以外:A級、またはB級 |- |とにかくなると||第4レース |- !rowspan=3|丸亀 |ナイタータイム!!ガチ勝ち6||第6レース||原則として1・3・4号艇:A級 |- |ラッキーレース!!穴ガチ7||第7レース||A級3人を原則とする |- |進入固定!!ガチ勝゛ち(がち)8||第8レース||原則として1号艇:A1級、2・4号艇:A級(A1級に限らず)を基本 |- !rowspan=5|児島 |朝とくガァ~コ戦||第1レース||1号艇:A級、その他:B級 |- |コジマだ4(よ)っ!||第4レース||原則として4号艇:A級かそれに相当する選手 |- |日替艇食戦||第5レース||日替わりの企画レース<br>(例)女子限定「レディースセット」、A級限定「A艇食」など |- |昼とくクラリス戦||第6レース||内側の1・2・3号艇:A級、外側の4・5・6号艇:B級 |- |これしか9(ないん)じゃ!||第9レース||日替わりの企画レースで、場内などで「予想はこれ!」楽しめる企画レースを行う |- !rowspan=3|宮島 |ファーストバトル||第1レース||1枠:A級、その他:B級 |- |ランチタイム||第5レースか第6レースのいづれか<br>(季節による)||原則として1枠:A級だが、編成により2・3・4枠のいづれかにもA級が入る場合もある |- |ティータイム||第9レース||進入固定戦、かつ原則として1番:A級だが、編成により2・3・4番のいづれかにもA級が入る場合もある |- !rowspan=5|徳山 |モーニング予選1st||第1レース||1号艇:A級、その他:B級 |- |モーニング予選2nd||第2レース||1号艇(固定)と内・中枠のどれかにA級 |- |モーニング予選3rd||第3レース||1号艇(固定)と外・中枠のどれかにA級 |- |モーニング予選4th||第4レース||1・2号艇:A級、3号艇:当該節の出場者の中で勝率上位の選手 |- |グランプリ特選||第5レース||A級選手、あるいは機力上位選手中心の競走 |- !rowspan=3|下関 |ふく~る戦||第7レース||原則として1・4・5枠:A級、2・3・6枠:B級 |- |進入固定競走||第8レース||原則として1・4枠:A級、その他:B級 |- |シーモ戦||第9レース||1枠:A級 |- !rowspan=2|若松 |進入固定戦隊||第5レース||進入固定競走、かつ1・2・4枠:A級、3・5・6枠:B級 |- |エイトビート||第8レース||原則として1号艇:A級 |- !rowspan=7|芦屋 |サンライズV戦||第1レース||1号艇:A級、その他:B級 |- |サンライズW戦||第2レース||1・4号艇:A級、その他:B級 |- |サンライズX戦||第3レース||1・3・5号艇:A級、2・4・6号艇:B級 |- |サンライズY線||第4レース||進入固定競走、かつ1号艇:A級 |- |サンライズZ戦||第5レース||1・2号艇:A級 |- |進入固定競走||第7レース|| |- |昼どき戦||第8レース||1号艇:A級 |- !福岡 |進入固定競走||第8レース|| |- !rowspan=4|唐津 |朝1戦||第1レース||1号艇:A級 |- |モー2(ニ)ング戦||第2レース||1・2号艇:当該開催節の主力選手 |- |3(サン)ライズ戦||第3レース||1・3号艇:当該開催節の主力選手 |- |おは4(ヨン)戦||第4レース|A・B級各3人づつ |- !大村 |進入固定競走||第7レース|| |- |} ==== 出目 ==== 競艇では他の[[公営競技]]に比べ当日の出目が参考になることも多い。これは各艇の進入コースが、インから出走表の通りになることが多いことが関係している。顕著なのは当然1号艇であり、1着を連発することも多い反面、1着が1-2回に終わることもある。これは当日の風や水面のコンディション、心理的なものなどに起因すると思われるが、詳細は不明である。 == 開催 == モーターボート競走法、モーターボート競走法施行令、モーターボート競走法施行規則などにより、競走場・施行者あたりの開催回数および開催日数、1開催あたりの開催日数、1日の競走回数が定められている。1回の開催では最大18日開催可能。開催は主に4日から6日の間で設定される「節(シリーズとも呼ぶ)」で構成され、これを複数回組み込んでいることが多い。 :法令上の開催回数は[[出走表]]に記載されるか、[[投票券_(公営競技)|勝舟投票券]]に印字されるが、一般的にはあまり認知されていない。 競艇の開催日程は、[[競馬]]・[[競輪]]など他の[[公営競技]]と日程を見つつ決められる。スペシャルグレード(SG)競走は前年の8月頃に、グレード・ワン(GI)・グレード・ツー(GII)・グレード・スリー(GIII)は前年の12月までに決まり、一般競走は3か月ごとに決められる<ref name="藤野2006-81">[[#藤野2006|藤野2006]]、81頁。</ref>。 競艇の番組は、まず[[日本モーターボート競走会]]の斡旋課によって競艇場に選手が斡旋され、競艇場の番組編成委員が選手を割り振ることで決定する<ref name="藤野2006-87">[[#藤野2006|藤野2006]]、87頁。</ref>。斡旋に際し、選手や主催者は斡旋を拒否することもできる<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、82-83頁。</ref>。多くの主催者から斡旋を拒否された選手には、引退勧告が出されることもある<ref name="藤野2006-83">[[#藤野2006|藤野2006]]、83頁。</ref>。 斡旋については、SG競走は各大会の選考基準に基づいて決定、GI・GIIは主催者側からの希望と、それ以外の中から斡旋課が各主催者に提示した選手を斡旋する。一般競走は、それぞれの条件に合致する選手を斡旋する形となる。また一般競走では、同じ開催に、同姓選手は3組までとし、同県同姓(同じ都道府県出身者の同じ姓)の者の斡旋は不可。姻戚関係(親子兄弟)にある選手が出場することも、SGレースや正月・お盆などの例外を除き出来ない<ref name="藤野2006-84">[[#藤野2006|藤野2006]]、84頁。</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=8Zop23la0u0 ボートレーサーが走るレースはどう決めているの?│BOATSCOOP] - [[YouTube]] ボートレース公式チャンネル</ref>。 斡旋された選手は前検日の指定された時間までに競艇場へ集合し、手荷物検査・身体検査等、各種の検査を受けた後でモーターとボートの抽選を行う<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、118-120頁。</ref>(後述)。その後は他の公営競技と同様に、開催終了(あるいは斡旋解除)まで競艇場敷地内もしくは競艇場から離れた場所にある選手宿舎に宿泊し、家族を含め外部との連絡は一切認められず、携帯電話等の各種通信機器も没収される<ref name="藤野2006-125">[[#藤野2006|藤野2006]]、125頁。</ref>。アルコールの摂取<ref name="藤野2006-125"/><ref name="蛭子1992-50"/>やギャンブル<ref name="蛭子1992-50"/>も禁止されている。通常の昼間開催の場合、起床時間は午前7時(冬は7時30分)、消灯時間は午後10時である<ref name="蛭子1992-50"/>。また宿舎が競艇場から離れた場所にある場合は、徒歩または競艇場が用意した[[マイクロバス]]で移動する。 宿舎は概ね、[[競馬場#調整ルーム|競馬場の調整ルーム]]と基本的なシステムは同じだが、居室は2-3人1部屋の相部屋で、[[居間]]と個人の寝室で構成された半個室型である。原則として出身地が同じ、または同支部の者が同室となる<ref name="蛭子1992-50">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、50頁。</ref>。宿舎内の簡易売店には菓子・インスタント食品・飲み物の他、持ち込み・摂取禁止のアルコール類の代わりに[[ノンアルコール飲料]]も販売されている(購入時に伝票に記入し、代金は最終日の帰宅前に一括して精算)。図書娯楽室には[[漫画]]や競艇雑誌等が用意されている。大浴場は選手が減量する為の[[サウナ風呂|サウナ]]も完備されている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=SHQhWd5oZjs&t=664s サンテレビ「ボートの時間!」 #97 「選手宿舎潜入!・突撃!宿舎の晩ごはん」] - YouTube [[サンテレビジョン|サンテレビ]]「ボートの時間!」公式チャンネル</ref>。 === 一節間の進行 === レース番組は初日が前検日(前検終了後)、2日目以降は前日のレース終了後に主催者から発表される。各競艇場の番組編成委員は、裁量により自由に番組を編成することができる<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、89-90頁。</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=OEmPZo0Mc2o 出走表ってどうやって作っているの?│BOATSCOOP] - YouTube ボートレース公式チャンネル</ref>。 出走回数は3日開催で4回、4日開催で6回、6日開催で8回とほぼ決まっており、1日の出走回数は1回または2回である <ref name="蛭子1992-46">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、46頁。</ref>{{#tag:ref|2回出走する場合、間に2レースのインターバルが設けられる<ref name="蛭子1992-46"/>。|group="†"}}。節間の出走回数は抽選によって決められる。 競艇は3 - 7日間(通常は4 - 6日間)を一節として開催される<ref name="藤野2006-84"/>。開催における各選手の目標は、優勝戦に勝ち優勝者となることにある<ref name="藤野2006-84"/>。優勝戦の出場者を決めるための方式には以下のようなものがある。 *トライアル方式 - 3日間のトライアルレースを行い、得点上位者6名が優勝戦に進出する。[[賞金女王決定戦]]で採用されている<ref name="藤野2006-84">[[#藤野2006|藤野2006]]、84頁。</ref>。2013年までの[[賞金王決定戦]]はこの形を採用して施行されていた。 *ステージ方式 - 全日程でトライアルレースを2レースずつ / 合計・10レース行なう。初日と2日目はファーストステージ、3・4・5日目はセカンドステージを行ない2ndの上位6名が優勝戦に進出する。賞金王決定戦は[[2014年]]からこの方式で施行されている。 * [[準優勝]]戦方式 - 初日からの数日間で予選競走を行い、得点上位者が準優勝戦に進出。進出者が18人の場合は3レース(上位2着まで)、12人の場合は2レースを行い(上位3着まで)、上位に入着した選手が優勝戦に進出する<ref name="藤野2006-85">[[#藤野2006|藤野2006]]、85頁。</ref>{{#tag:ref|選手数が少ない場合は2レースを行い、3着以内に入った6名が進出<ref name="藤野2006-85"/>。|group="†"}}{{#tag:ref|予選得点率1位の選手を優先的に優勝戦に選出する方式を併用する場合もある<ref name="藤野2006-85"/>。|group="†"}}。特別競走や準特別競走だけでなく、多くの一般競走でも採用されている<ref name="藤野2006-85"/>。ごく稀に、進出者を36人として6レースを行う(1着のみが優勝戦進出)形態が採用されることもある<ref>[https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/stadium_info/2019/03/10625/ 勝ち上がるのは1着のみ!準優勝戦を6レース行います!] - ボートレース住之江・2019年3月3日</ref>。 * 準々優勝戦方式 - 上記に似た方式だが、予選通過人数は24名となる。準々決勝を2日間・2レース行う形式<ref group="†">[[高校野球]]でも採用しているが選手の負担軽減を図るべく行なう形式で両日の第11レース・第12レースで行う。</ref>か4レース全てを1日で行う形式<ref group="†">第9レースからが準々決勝となっている。</ref>に分かれる。ここで上位3着以内の選手12名が翌日の準優勝戦に進出、12名で準優勝戦(2レース)を行い上位3着以内の選手が更に翌日の優勝戦に進出。準優勝戦で敗退した選手は、順位決定戦に回る。 * 準優進出戦方式 - 準々優勝戦方式に似た方式で、予選通過人数は24名だが準優進出戦4レースを行い、まず同レースの3着以内(12名)が準優勝戦に進出。残り12名のうち準優進出戦を含めた予選道中の得点率上位6名が準優勝戦に進出し、準優勝戦3レースを行う<ref>[http://race.sanspo.com/boatrace/news/20140618/btrnws14061804490009-n1.html 【想艇部】スッキリしない準優進出戦] - サンケイスポーツ・2014年6月18日</ref>。[[唐津競艇場|唐津]]で古くから採用されていた方式で、他場でも7日間開催の際に採用される例が多い。なお、上記の準々優勝戦方式を「準優進出戦方式」と呼ぶ場もあるため([[尼崎競艇場|尼崎]]など)注意が必要。 * 得点率方式 - 予選期間中の得点率上位6名が優勝戦に進出。開催日数が短い場合や出場選手が少ない場合に採用される<ref name="藤野2006-86">[[#藤野2006|藤野2006]]、86頁。</ref>。[[2014年]]から行われている[[レディースチャレンジカップ競走]]はこの方式が採用されている。 * バトルロイヤル方式 - トライアル予選で一定の点数を獲得した選手がトライアル戦に出場し、勝つと優勝戦進出のためのポイントを獲得する<ref name="藤野2006-86"/>。 * 指名乗艇方式 - 優勝戦に出場する選手を予め決めておく方式<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、86-87頁。</ref>。 3 - 4日間の短い節では準優勝戦を行わず、優勝戦は前日までの成績上位6選手で争う形態が多い。また[[賞金王決定戦競走#賞金王決定戦|賞金王決定戦]]のように、予選の番組を毎回抽選で決める節もある<ref group="†">賞金王決定戦は獲得賞金額上位12名の選手が固定され、4日間で組み合わせを変えて4走する。</ref>。 選手の途中帰郷は、負傷などの場合を除きほとんどみられない。 ==== 一般的な番組編成(準優勝戦方式) ==== * 初日より3 - 4日間 ** 1-12R('''予選'''):原則として総当たり戦<ref name="藤野2006-91">[[#藤野2006|藤野2006]]、91頁。</ref>。1、2レースでは実力下位の選手を集めた下位戦、10-12レースでは実力上位の選手を集めた上位戦が行われ、4-7前後のレースでは様々な実力の選手を集めた中位戦が行われる<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、90-91頁。</ref>。特に初日の最終レースでは、主催者が特に選んだ選手による[[ドリーム戦]]が組まれることが多い。各レースごとの組み合わせ(番組)は施行者の裁量に委ねられ、各選手は概ね一日あたり1 - 2走する。成績上位の18名が「準優勝戦」に進出。 * 最終日前日 ** 1-9R(一般戦):一節間の優勝への計算には考慮されないが、賞金は「予選」と同額である。また、期間内の勝率・得点率計算には影響するため、準優勝戦に進めなかった選手の中で競走成績を極端に落とす可能性がある(モーターの調子がすこぶる悪いなど)選手は、出走調整を希望すれば5・6日目を1走のみ(ただし賞典除外になる)にできる場合もある。斡旋人数の多い節(主にSG・GI)を除き、後述の「準優勝戦」に参加する選手も一般戦に出走するが、ここでフライングや出遅れなど選手責任によるスタート事故が発生した場合も賞典除外となる。SG・GIでは準優勝戦進出者が出走しないため、俗に「負け戦」と言われる。 ** 10-12R('''準優勝戦'''):予選成績上位18名が10-12R「準優勝戦」に進出。成績順に上位者から内枠が与えられる。原則として、各レースで上位2着に入った計6選手が「優勝戦」に進出する<ref group="†">「準優勝戦」が2レースで、上位3着までの選手が「優勝戦」に進出する開催もある。</ref>。準優勝戦で敗れた選手は「選抜戦」に回る<ref name="蛭子1992-69">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、69頁。</ref>。 * 最終日 ** 1-9R(一般戦):基本的な仕組みは「準優勝戦」開催日と同様。ただしSG・GIの場合は前日と異なり、準優勝戦で優勝戦進出を逃した選手も加わる。 ** 10・11R('''選抜戦'''):準優勝戦3-6着の選手によって行われる賞典レース。「特別選抜戦」と呼ばれることもある。出走選手は準優勝戦の着順により自動的に中位(3・4着)グループと下位(5・6着)グループに分けて行うことが多く、前者を11Rに「選抜A」戦として、後者を10Rに「選抜B」戦として行われることが多い。賞金は「選抜A」が高額に設定される。一般戦では着順によらないメンバーの振り分けが行われることもあり、この場合A・Bの区別はせず、賞金額に差をつけないこともある。 ** 12R('''優勝戦'''):準優勝戦にて上位に入った6選手によって行われる。出場選手は優勝戦のみ出走し、当日は他の競走へ出走することはない。 ==== ナイター開催時の番組編成 ==== 準優勝戦・および優勝戦は番組編成員の手が入らず、着順(あるいは予選着順点)によって自動的に決定される。このためナイター開催時は準優勝戦・優勝戦メンバーの確定を速やかに行うため、次の措置が取られる(ただし年末の「グランプリ(=賞金王決定戦)」に関しては例外がある)。 * 予選最終日では、10R以降(競艇場により異なる)を得点計算に含めない「一般戦」として実施している。SGでは12Rまで「予選」として行うが、どの着順になっても準優勝戦へ進出する可能性の無い選手が出走することで、事実上予選を前倒ししている。 * 準優勝戦日は9-11Rが「準優勝戦」、12Rは「一般戦」となる。 == 歴史 == モーターボートレースの歴史については[[モーターボート#歴史|モーターボートの歴史]]を参照すること。戦前からあった公営競技の競馬が戦後の1946年に復活すると、地方自治体の戦後復興のための財源のひとつとして、1948年に競輪、1950年にオートレースが新たに公営競技として始まり、1951年に競艇も認められた<ref>[http://www3.grips.ac.jp/~coslog/activity/01/04/file/Bunyabetsu-16_jp.pdf 日本の公営競技と地方自治体] 石川義憲、一般財団法人自治体国際化協会、2010年(平成22年) 2月</ref>。レース開始は翌1952年の[[大村競艇場]]。 === 昭和20年・30年代 === * [[1951年]](昭和26年) ** [[6月18日]] [[モーターボート競走法]]制定公布 ** [[10月3日]] 大村選手養成所にて選手養成開始 ** [[11月28日]] 社団法人全国モーターボート競走会連合会設立認可 * [[1952年]](昭和27年) ** [[3月17日]] 第1回選手資格試験が大津で実施される。 ** [[3月26日]] 登録選手第1号(登録番号11番 鍋島弘)が誕生する。 ** [[4月6日]] [[長崎県]]の[[大村競艇場]]にて競艇初開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/boat_race/11127|title=艇王・植木通彦氏が語るボートレースの魅力 第1マークでは終わらない、シーズン通した人間ドラマ【ボートレースアンバサダーに聞く・下】|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2020-09-06|accessdate=2020-11-17}}</ref><ref name="藤野2006-18">[[#藤野2006|藤野2006]]、18頁。</ref>{{#tag:ref|ただし公認競艇場としての第1号は[[三重県]]の[[津競艇場]]である<ref name="藤野2006-18"/><ref name="蛭子1992-71">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、71頁。</ref>。|group="†"}} * [[1953年]](昭和28年) ** [[11月7日]] - [[11月10日]] 福岡県の[[若松競艇場]]で第1回[[全日本選手権競走]]を開催。 * [[1953年]](昭和28年) ** [[5月13日]] - [[5月17日]] 岡山県の[[児島競艇場]]で笹川賞の前身大会として第1回[[全国地区対抗競走]]を開催。 ** [[8月20日]] - [[8月23日]] 長崎県の[[大村競艇場]]で第1回[[モーターボート記念競走]]を開催。 * [[1958年]](昭和33年) ** [[5月23日]] [[住之江競艇場]]で体重別レースを試行。 * [[1959年]](昭和34年) ** [[9月26日]] [[愛知県]]の[[半田競艇場]]が[[伊勢湾台風]]による被害により閉鎖される(正式廃止は[[1964年]][[3月31日]])。 * [[1961年]](昭和36年) ** [[4月1日]] [[スタート事故|フライング]]艇に対する返還欠場が実施される。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[11月1日]] [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]](1964年)の[[1964年東京オリンピックのボート競技|漕艇競技]]に供するため[[戸田競艇場]]が約3年間閉場される([[1965年]][[10月28日]]に再開)。 === 昭和40年代以降 === * [[1965年]](昭和40年) ** [[10月28日]] [[戸田競艇場]]が全公営競技場で初めてレース中継の場内放映を開始する。 ** この年から後の総理大臣杯競走となる[[鳳凰賞競走]]がスタートする。 * [[1966年]](昭和41年) ** [[8月9日]] 競艇のレースが初めてテレビ放映される([[戸田競艇場]]での第12回全国地区対抗競走優勝戦、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で17:00 - 17:30まで「第12回戸田橋競艇」として中継された)。 ** [[11月28日]] 競艇選手養成所である本栖研修所が開設(当時の名称は「本栖厚生施設水上スポーツセンター」)。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[1月1日]] オイルショックの影響により、各競艇場で1日のレース数を10レースまでに自粛した([[1984年]][[3月31日]]に解除)。 * [[1978年]](昭和53年) ** 11月 スタート時に用いられる大時計が現在の12秒針になる。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[5月26日]] [[平和島競艇場]]で電話投票の運用が始まる(当時は競艇場ごとに会員募集した)。 * [[1986年]](昭和61年) ** [[10月24日]] 平和島競艇場で、選手が自らモーターを整備する「新整備方式」のテスト導入を開始(翌年1月までに全場で導入)。 ** [[12月18日]] - [[12月23日|23日]] [[住之江競艇場]]で第1回[[賞金王決定戦競走|賞金王決定戦]]を開催。優勝は[[彦坂郁雄]]。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[4月1日]] [[グレード制]]を導入。 === 平成時代(20世紀) === * [[1991年]](平成3年) ** [[4月1日]] 優勝戦が3周となる(以前の優勝戦は4周していた)。 ** [[6月25日]] [[住之江競艇場]]での第1回[[グランドチャンピオン決定戦競走]]から[[さだまさし]]作曲の優勝戦[[ファンファーレ]]を使用開始<ref name="nippon.zaidan.info-0025">[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00002/contents/0025.htm 平成元年代(1989~1997年)>ページ25] - [http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00002/mokuji.htm 全施協50周年記念誌]</ref>。 * [[1992年]](平成4年) ** 2月 競走で使用するボートが[[ハイドロプレーン]]に統一される(最後のランナバウトによる競走)。 * [[1996年]](平成8年) ** [[7月20日]] この年に誕生した新しい[[国民の祝日]]・[[海の日]]の誕生を記念して[[オーシャンカップ競走]]が初開催される。 * [[1997年]](平成9年) ** [[9月20日]] 競艇初の[[ナイター競走]]が[[桐生競艇場]]にて開催される。 * [[1998年]](平成10年) ** [[11月20日]] この年から[[チャレンジカップ競走|競艇王チャレンジカップ競走]]が初開催される。 * [[1999年]](平成11年) ** 登録番号4000番台に到達。当時は84期 * [[2000年]](平成12年) ** [[10月13日]] 全公営競技を通じて初めての三連勝単式投票券が[[住之江競艇場]]にて導入される<ref>[https://web.archive.org/web/20001202195200/http://www.suminoe.gr.jp/topi_s.htm 日本初夢の舟券「三連単」] - SUMINOE KYOTEI</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20020212071221/http://www.kyotei.or.jp/JLC/3ren_sche/sche.htm 3連勝式舟券の導入スケジュール] - 競艇オフィシャルWEB</ref>。 === 平成時代(21世紀) === * [[2001年]](平成13年) ** [[3月10日]] [[ボートレーサー養成所|やまと競艇学校]]開設、88期からやまと卒業生。 ** [[7月10日]] [[インターネット]]投票が開始される。 * [[2002年]](平成14年) ** [[8月5日]] [[スタート展示]]を実施<ref group="†">ただし2010年に実施した「2連単ナイトフェスタ」の時は実施せず。</ref>。 * [[2006年]](平成18年) ** 平成生まれのボートレーサーが誕生。第1号は、99期の[[坂口貴彦]] * [[2007年]](平成19年) ** ボートレーサー100期目到達。 * [[2008年]](平成20年) ** [[2月4日]] 競走水面護岸工事に伴い[[江戸川競艇場]]の本場開催を[[2009年]]6月まで休止。 ** [[4月1日]] 財団法人[[日本モーターボート競走会]]発足 * [[2010年]](平成22年) ** [[5月25日]] [[浜名湖競艇場]]で行われた第37回[[笹川賞競走]]の選手紹介式で[[延近輝之]]作曲の新鋭リーグ・女子リーグオリジナルファンファーレが発表された<ref>[http://www.kyotei-pr.jp/release/2010/05/201005170100.html 新鋭リーグ・女子リーグオリジナルファンファーレSG「第37回笹川賞競走」(浜名湖競艇場)にて初披露]</ref>。 ** [[7月8日]] 競艇初のモーニング競走が[[芦屋競艇場]]にて開催される。 ** [[9月9日]] [[宮島競艇場]]で減音モーター導入により、全場減音モーターとなる。 * [[2011年]](平成23年) ** [[1月31日]] SG及び全国発売GI両大会の内容が一部見直された。SG(賞金王シリーズを除く)が'''これまでの4000万均一'''からグランドチャンピオン決定戦・オーシャンカップ・チャレンジカップの3大会が'''2500万円'''、総理大臣杯・笹川賞・モーターボート記念・全日本選手権が'''3500万円'''に減額された。また、新しい大会として[[賞金女王決定戦競走|賞金女王決定戦]]の開催が決定した。 ** [[3月11日]] 当日、襲った[[東日本大震災]]の影響で3月末までの競艇・全レースが中止に。この中には16日から21日まで戸田で開催予定だった[[鳳凰賞競走|総理大臣杯競走]]の第46回大会も含まれていた。なお、この代替開催は8月5日から10日の6日間、戸田で開催した東日本復興支援競走の形で開催した為に2011年の真夏は蒲郡→戸田→福岡と続く3連戦の形で行った。又、この年に行われる全てのSGとGI競走は'''東日本大震災[[被災地支援競走]]'''として開催し総売上げの1割を被災地に贈った。 ** [[4月5日]] [[BSフジ]]で「'''[[BOAT RACEライブ 〜勝利へのターン〜]]'''」がスタート。 ** [[5月22日]] [[徳山競艇場]]の第2レースの3連勝単式で68万2760円の最高配当を記録。 ** [[6月30日]] 競艇のホームページがリニューアルされる。 ** [[8月28日]] 翌年の[[2012年]]に開催する第30回記念[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]の日本選手団の応援協賛スポンサーに競艇が加わる事が決まった。この事によって今後のSGポスターに五輪マークが付く事になった。 * [[2012年]](平成24年) ** [[4月27日]] 新プロペラ制度開始。これにより「選手持ちプロペラ制度」が廃止された。これ以降は選手はモーターに備え付けられたプロペラを原則変更することができなくなる。 ** [[12月16日]] [[大村競艇場]]で第1回[[賞金女王決定戦競走]]が開催。優勝は[[三浦永理]]。 ** グランプリ・クイーンズクライマックスの出場者全員にファン考案によるキャッチフレーズが付けられた。 * [[2013年]](平成25年) ** 6月の[[グランドチャンピオン決定戦競走]]で[[太田和美 (競艇選手)|太田和美]]が史上2人目のグラチャン連覇を達成。 * [[2014年]](平成26年) ** 全SG競走と競艇名人戦、女子王座決定戦、賞金女王決定戦などの名称が変更された。 ** 競艇名人戦、女子王座決定戦、新鋭王座決定戦、賞金女王決定戦がプレミアムG1と位置付けられた。 ** 前年まで[[新鋭王座決定戦競走]]として開催したヤング戦線が[[ヤングダービー競走]]として生まれ変わった。 ** 11月に開催している競艇王チャレンジカップに新たに[[レディースチャレンジカップ競走]]が加えられた。 ** オール女子競走がオールレディース競走に、女子リーグ戦がヴィーナスシリーズに名称変更された。同時に、オールレディースが一般戦からGIIIに格上げ。代わりにヴィーナスシリーズがGIIIから一般戦に格下げされた。また、以前は、ヴィーナスシリーズの覇者に女子王座決定戦の優先出場権が与えられたが、その獲得できる権利も、オールレディースに変更された。 ** この年から賞金王決定戦が2ステージ制度に。 * [[2015年]](平成27年) ** 前年まで一般戦扱いだった、賞金女王シリーズ戦(クイーンズクライマックスシリーズ)競走がGIIIに格上げされた。 * [[2016年]](平成28年) ** 史上初の3日間開催となる、[[ファン感謝3days ボートレースバトルトーナメント|ファン感謝3days ボートレースバトルトーナメント競走]]が新設された。 * [[2017年]](平成29年) ** やまと学校の名称が'''ボートレーサー養成所'''に変更された。 ** この年からGII競走に新たに[[レディースオールスター競走]]が加わった。 ** 登録番号が5000番台に到達。当時は121期。 === 令和時代 === * [[2019年]](令和元年) ** この年からプレミアムGI競走に[[ボートレースバトルチャンピオントーナメント競走]](通称・BBCトーナメント)、GII競走に[[全国ボートレース甲子園競走]]が新設された。 ** 21世紀生まれのボートレーサーが誕生。第1号は124期・5093番の[[浦野海]]と5094番の[[生田波美音]]。 ** [[7月10日]] [[常滑競艇場|ボートレース常滑]]で開催されたオーシャンカップ、第10Rの3連勝単式で30万4770円でSG競走での最高配当を記録。 * [[2020年]](令和2年) ** [[1月8日]] 前年、突如引退した元選手の[[西川昌希]]が、不正に順位を落とす八百長行為を行い、その代わりに舟券を購入した親族から現金300万円を受け取ったとして、[[モーターボート競走法]]違反の疑いで親族と共に[[名古屋地方検察庁]][[特別捜査部]]に逮捕された<ref>{{Cite web|和書|title=ボートレースで八百長した疑い、元競艇トップ選手ら逮捕|url=https://www.asahi.com/amp/articles/ASN185Q6ZN18OIPE011.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-03-31}}</ref>。その後さらに11の競艇場・18のレースでも意図的な順位操作を行い、見返りとして計3425万円を受け取った事が発覚し、再逮捕・追起訴された<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200128/k00/00m/040/252000c <!-- https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/01/28/20200128k0000m040339000p/8.jpg 再逮捕容疑のレース -->競艇八百長事件で元レーサーら再逮捕 計18レースで3400万受け取った疑い] - 毎日新聞 2020年1月28日</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/news/202002170000704.html|title=元ボートレーサー西川昌希容疑者と親族男を追起訴|accessdate=2020-03-04|publisher=nikkansports.com}}</ref>。 ** 2月9日 [[尼崎競艇場|ボートレース尼崎]]で開催されていた第63回[[地区選手権競走#近畿地区選手権競走|G1近畿地区選手権]]第4日目第9Rにて、転覆したボートに別の選手のボートが追突。追突されたボートに乗艇していた[[松本勝也]]が死亡する事故が発生<ref>{{Cite news| url = https://www1.nhk.or.jp/news/html/20200209/k10012279111000.html | title = 競艇レースで接触事故 48歳男性選手が死亡 兵庫 尼崎 | newspaper = [[日本放送協会]] | date = 2020-04-28 | accessdate = 2020-06-15 }}</ref><ref>{{Cite news| url = https://www.nikkansports.com/public_race/news/202002100000581.html | title = レース事故死のボート松本勝也選手の死因は溺死 | newspaper = [[日刊スポーツ]] | date = 2020-02-10 | accessdate = 2020-02-11 }}</ref>。 ** 2月28日 [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの世界的大流行]]を受け、この日より全レース場[[無観客試合|無観客開催措置]]が発動。外向発売所や場外発売場も閉鎖。 ** 11月 最低体重の規定変更。男子は従来の51kgから52kgに変更した(女子は変更なし)ことで男女差が5kgに拡大<ref name="nk220322">{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202203220000106.html |title=遠藤エミがボートレース史上初の女子SG制覇「緊張でガチガチでした。うれしい」/大村SG |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2022-03-22 |accessdate=2022-03-22 }}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[4月28日]] 持続化給付金受給による、大量のレーサーの処分者が出た<ref>{{Cite news| url = https://boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2021/04/13864/| title = ボートレーサーの持続化給付金受給に関する調査結果報告について | newspaper = ボートレースオフィシャルweb | date = 2021-04-28}}</ref>。 ** 7月2日 2022年のボートレース日程が発表され、最高峰のグランプリが大村発祥地ナイターとして、BBCトーナメントはびわ湖で2023年の年明けに開催と発表された。 ** 10月20日 [[ミッドナイトボートレース]]を[[下関競艇場|ボートレース下関]]で初開催。既にミッドナイトレースを行っている[[競輪]]・[[オートレース]]に倣い無観客にて実施し、舟券は前売発売以外ではインターネット投票のみで発売する。なお、第1レースのスタート展示が17時頃、第12レースの終了が21時半頃から22時頃となっており、最終レースが23時台である[[ミッドナイト競輪]]・[[ミッドナイトオートレース]]よりは最終レースの発走時刻は早い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.boatrace.jp/extent/common/midnightboatrace/ |title=ミッドナイトボートレース |accessdate=2021-10-19 |publisher=boatrace.jp }}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202110190001046.html |title=業界初のシリーズ開幕、江本真治「どんどん新たな挑戦をして」/下関ミッド |newspaper = [[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2021-10-19 | accessdate=2021-10-20 }}</ref>。初日の売り上げは8億3225万2700円で<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202110200001168.html |title=初日の売り上げ8億オーバー、後半3個レースで約半分占めた/下関ミッド |newspaper = [[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2021-10-20 | accessdate=2021-10-21 }}</ref>、6日間の総売り上げは目標の40億円を軽く上回り57億9673万5300円であった<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202110250001125.html |title=総売り上げは目標40億円を超える57億円余りの大盛況/下関ミッド |newspaper = [[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2021-10-25 | accessdate=2021-10-26 }}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** ボートレースバトルチャンピオントーナメントの出場選手枠が拡大されG2の[[レディースオールスター競走]]と[[全国ボートレース甲子園]]、年末の最高峰の舞台として開催されるボートレースグランプリとクイーンズクライマックスの合計4大会における優勝者優先枠が新設される。 ** 3月21日 遠藤エミが[[鳳凰賞競走|ボートレースクラシック]]で優勝し、女性初のSG優勝者が誕生した。 ** 11月1日 児島競艇場の第7レース(GIIIオールレディース予選)の3連勝単式で76万1840円の払い戻しとなり、最高配当記録を11年ぶりに更新<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2022/11/23624/|title=歴代最高払戻金記録を更新!|website=ボートレースオフィシャルサイト|date=2022-11-01|accessdate=2022-11-01}}</ref>。 === 東日本大震災による被害・影響 === {{see also|東日本大震災によるスポーツへの影響}} 2011年3月11日に発生した[[東日本大震災]]により、日本の競艇開催も多大な影響を受けた。 最も大きな被害を受けた[[桐生競艇場]]では施設が損傷したほか、場外発売施設「ボートピア」も東北や東日本を中心に各地で大きな被害が出た。 地震の発生を受け、各主催者は3月11日に行われていた開催を打ち切り。13日には全国すべての競艇場が3月14日から3月末まで開催を中止することを発表<ref>[http://www.kyotei.or.jp/infomation/topics/201103/13_001.html ボートレースオフィシャルWeb(2011年3月13日)]</ref>した。この中には[[戸田競艇場]]で開催予定だったSG「[[鳳凰賞競走|総理大臣杯競走]]」も含まれていた。 日本モーターボート競走会は3月28日に義援金として10億円を拠出する<ref>[http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2011/03/28/kiji/K20110328000517910.html スポーツニッポン(2011年3月28日)]</ref>こと、4月1日以降を初日とする開催から「東日本大震災[[被災地支援競走]]」として順次開催を再開することを発表。ナイター競走も当面行わず、昼間開催に変更した。 なお、電力事情に配慮して休止していたナイター競走は4月25日を初日とする開催から順次再開したほか、桐生競艇場での開催も5月11日からナイターで再開した<ref>[http://www.kyotei.or.jp/infomation/topics/201104/saikai_nighter.html ボートレースオフィシャルWeb(2011年4月18日)]</ref>。 また、中止となった総理大臣杯競走に代わるSG級競走として「SG東日本復興支援競走」を2011年8月5日-10日まで戸田競艇場で開催した<ref>[http://www.nikkansports.com/race/public_race/news/p-rc-tp1-20110513-775087.html 日刊スポーツ(2011年5月13日)]</ref>。出場選手は原則として、総理大臣杯に出場予定だった52人の選手。ただし開催期間がフライング休みにあたる選手は除外され、総理大臣杯の予備選手が順次繰り上がった。優勝賞金は3000万円で、実施規則などは他のSG競走と同様に扱われたが、優勝者への次回開催SGに対する出場シード権は付与されなかった。 === 新型コロナウイルス感染症による影響 === {{see also|2019年コロナウイルス感染症によるスポーツへの影響}} 2020年2月、日本国内にて[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス(COVID-19)]]が流行。これにより、2月28日より全場が閉鎖され、[[無観客試合|無観客]]にて開催された。外向発売所、場外発売場も閉鎖され、投票は電話・インターネット投票のみとなった。 当初、3月15日までの予定だったが、感染規模が縮小しなかった為、無期限に延長。4月には改正・[[新型インフルエンザ等対策特別措置法]]に基づく[[新型インフルエンザ等緊急事態宣言|緊急事態宣言]]が政府より発令された為、無観客開催が続いた(舟券は電話投票・インターネット販売のみ購入、レースはJLCや各競艇場の公式[[YouTube]]チャンネルや[[ニコニコ生放送]]等でライブストリーミング配信)。当初の無観客期間に、SG・プレミアムGI競走は当てはまっていなかったが、期間延長により、[[平和島競艇場]]で行われた[[鳳凰賞競走|SGボートレースクラシック]]から、[[鳴門競艇場]]で行われた[[オーシャンカップ競走|SGオーシャンカップ]]までのSG4大会、プレミアムGI1大会が無観客で開催された<ref>{{Cite web|和書|title=新型コロナウイルス感染症拡大に伴う モーターボート競走の無観客開催の実施及び 競走場、外向発売所及び場外発売場における発売中止について {{!}} BOAT RACE オフィシャルウェブサイト|url=https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2020/02/9787/|website=www.boatrace.jp|accessdate=2020-03-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=無観客開催等の継続について {{!}} BOAT RACE オフィシャルウェブサイト|url=https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2020/03/9906/|website=www.boatrace.jp|accessdate=2020-03-28}}</ref>。 その後、感染拡大が抑えられ、緊急事態宣言も解除された事を受け、全国に先駆けて[[大村競艇場]]で[[5月22日]]の開催から観客の入場を、入場時の検温で体温が37度未満であることやマスク着用義務化などの各種条件付きで再開(当初は[[長崎県]]内在住者限定)<ref>{{Cite news|title=大村ボート22日から入場を再開 G1は無観客で開催|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2020-05-19|url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202005190000354.html|agency=[[日刊スポーツ新聞社]]|accessdate=2020-05-20}}</ref><ref>{{Cite news|title=長崎県内在住者に限定して3カ月ぶり入場再開/大村|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2020-05-20|url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202005220000755.html|agency=[[日刊スポーツ新聞社]]|accessdate=2020-05-23}}</ref>。その後も各競艇場及び外向・場外発売所で以下の通り無観客措置の解除を順次進めている<ref>[https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2020/06/10374/ 緊急事態宣言の解除について] - BOATRACE</ref>。但し、多数の来場(=[[クラスター (疫学)|クラスター(集団感染)]])が予想されるGⅡ以上のグレード競走開催節は無観客開催措置または事前抽選入場措置を取る。 7月頃から第2波の影響で再び感染拡大。[[7月21日]]には、ボートレーサーで初となる新型コロナウイルス感染者が確認された。7月22日から27日まで[[宮島競艇場]]で開催されていた「ルーキーシリーズ第13戦」に出場した複数の選手で新型コロナウイルス感染を確認。広島県がクラスターと発表された。この影響で次節になっていた8月3日から8日まで開催予定だった「第3回東京スポーツグループ杯」が開催中止となった。また、[[住之江競艇場]]にて7月30日から8月4日まで開催されていた「ボートの時間!ご視聴ありがとう競走」に出場した選手にも新型コロナウイルス感染が確認された為、次節であった「大阪ダービー 第37回摂河泉競走」(8月11日から8月16日)の開催を中止した。 {| class="wikitable" !競艇場 !場外・外向<br>無観客解除日 !本場<br>無観客解除日 !備考 |- style="text-align:center;" |[[桐生競艇場]] | colspan="2" |7月6日<ref>[http://www.kiryu-kyotei.com/modules/info/?storyid=1007 通常営業(有観客)の再開について] - 桐生競艇場 2020年6月27日</ref>|| |- style="text-align:center;" |[[戸田競艇場]] | colspan="2" |7月17日|| |- style="text-align:center;" |[[江戸川競艇場]]||6月23日||7月16日||場外先行解除期間中も本場開催日は閉館 |- style="text-align:center;" |[[平和島競艇場]]||6月20日||7月11日||場外先行解除期間中も本場開催日は閉館 |- style="text-align:center;" |[[多摩川競艇場]]||6月22日||7月19日||場外先行解除期間中も本場開催日は閉館 |- style="text-align:center;" |[[浜名湖競艇場]] | colspan="2" |6月8日|| |- style="text-align:center;" |[[蒲郡競艇場]]||6月8日||6月23日|| |- style="text-align:center;" |[[常滑競艇場]]||6月8日||6月11日||オラレセントレアは閉館続行 |- style="text-align:center;" |[[津競艇場]]||6月8日||6月15日|| |- style="text-align:center;" |[[三国競艇場]] | colspan="2" |6月24日||但しGⅡ第2回[[全国ボートレース甲子園競走|全国ボートレース甲子園]]開催節は本場・外向共に閉館 |- style="text-align:center;" |[[びわこ競艇場]]||7月7日||7月10日|| |- style="text-align:center;" |[[住之江競艇場]] | colspan="2" |6月10日||BTS大和ごせのみ6月1日より先行解除 |- style="text-align:center;" |[[尼崎競艇場]]||6月10日||6月16日||但しGⅡ[[モーターボート大賞競走|モーターボート大賞]]開催節は本場・外向共に閉館 |- style="text-align:center;" |[[鳴門競艇場]]||6月15日||6月16日||但し[[スペシャルグレード|SG]]第25回[[オーシャンカップ競走|オーシャンカップ]]開催節は本場・外向共に閉館 |- style="text-align:center;" |[[丸亀競艇場]] | colspan="2" |6月1日|| |- style="text-align:center;" |[[児島競艇場]] | colspan="2" |6月4日|| |- style="text-align:center;" |[[宮島競艇場]]||6月1日||6月3日||但しSG第30回[[グランドチャンピオン決定戦競走|グランドチャンピオン決定戦]]開催節は本場・外向共に閉館 |- style="text-align:center;" |[[徳山競艇場]]||6月8日||6月1日|| |- style="text-align:center;" |[[下関競艇場]]||6月22日||6月24日|| |- style="text-align:center;" |[[若松競艇場]] | colspan="2" |6月20日|| |- style="text-align:center;" |[[芦屋競艇場]] | colspan="2" |6月21日|| |- style="text-align:center;" |[[福岡競艇場]] | colspan="2" |5月30日|| |- style="text-align:center;" |[[唐津競艇場]] | colspan="2" |6月26日|| |- style="text-align:center;" |[[大村競艇場]] | colspan="2" |5月23日|| |} 2021年4月の第4波では、3回目の緊急事態宣言が発令された東京都及び関西3府県に立地する5場(多摩川・江戸川・平和島・住之江・尼崎)について閉鎖・無観客開催措置が取られている<ref>[https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2021/04/13786/ 緊急事態宣言中の開催について(4月27日12時現在)] - BOATRACE </ref>。 === 女性選手の歴史 === <!-- [[競艇|ボートレース]]や[[競艇選手|ボートレーサー]]の歴史をも概括しつつ、女性選手の歴史を抜粋して記載。選手の敬称は省略。 --> 1952年5月に初の女子選手である則次千恵子(引退)が選手登録されて以降、1954年には初の女子限定のレースも行われたりしたが、徐々に選手数は減少。その後、1974年に田中弓子(のち鈴木弓子。引退)が9年ぶりに本栖研修所へ入所しデビューすると一躍人気となり、1980年以降は女子選手養成の動きが活発化した。[[2021年]](令和3年)12月28日時点で、全選手1593人のうち女子選手は241人であり、全体の15%を占めている<ref name="nk220321">{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202203210000365.html |title=女子ボートレーサーの歴史…一時低迷も、最近は人気が上がりっぱなし/大村SG |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2022-03-21 |accessdate=2022-03-21 }}</ref>。 * [[1952年]](昭和27年) ** 5月1日 - 初の競艇女子選手として[[則次千恵子]](選手登録番号78)が選手登録。 * [[1953年]](昭和28年) ** 11月 - 第1回[[全日本選手権競走]]に則次千恵子、渕崎栄子、中村弘子の3選手が出場。 * [[1954年]](昭和29年) ** 3月2日 - [[芦屋競艇場]]にて、初の「オール女子レース」を開催。 ** 8月21日 - 大村競艇場にて、初の「オール女子ダービー戦」(現在廃止)を開催。 * [[1955年]](昭和30年) ** 下関競艇場で行われた周年記念競走で、戸板君子(1133)が優勝。 * [[1960年]](昭和35年) ** 11月 - 第7回[[全日本選手権競走]]で、佐竹文子(1288)が準優勝戦に進出。 * [[1967年]](昭和42年) ** 8月 - 現役女子選手・引退女子選手の相互親睦組織として「紅の水会」発足。 * [[1979年]](昭和54年) ** 4月 - 第48期選手養成員として[[鈴木弓子|田中弓子]]が本栖研修所に入所。当時現役女子選手が[[古川美千代]]他3選手のわずか4選手にまで減っていたが、1970年以来9年ぶりに女子の選手志願者が誕生した。 * [[1980年]](昭和55年) ** 4月 - 田中弓子の成功もあり、女子選手の定期養成を再開。第48期選手養成員として女子15名が本栖研修所に入所。 * [[1983年]](昭和58年) ** 3月 - 第52期選手養成訓練修了記念競走にて、石原加絵(3098)<ref group="†">[[1963年]]([[昭和]]38年)1月15日、[[岡山県]][[岡山市]]生まれ。[[就実大学|就実女子大学]]を中退し、競艇選手となった。</ref><ref>石原加絵・著 『青春の水しぶき -- モーターボートに賭けた私』 山手書房(東京) 1984年11月</ref>が女子として初優勝。 *** {{Main|[[本栖チャンプ]]}} ** 8月12日 - 住之江競艇場にて、23年ぶりとなる女子選手限定戦「全日本女子選手権大阪大会」(レディスカップ)を開催。優勝は服部恭子(3093)。 ** 9月 - 外国人女子選手の募集を開始。 * [[1987年]](昭和62年) ** 12月3日 - [[浜名湖競艇場]]にて、第1回「女子王座決定戦」を開催。 * [[1997年]](平成9年) ** 9月28日 - [[鵜飼菜穂子]](2983)が[[福岡競艇場]]第10レースにて通算1,000勝を達成 * [[1999年]](平成11年) ** 2月21日 - [[鳴門競艇場]]で開催された「第42回四国地区選手権」で[[山川美由紀]](3232)が優勝し、42年ぶりに女子選手が[[競艇の競走格付け#GI (G1)|GI]]競走で優勝。 * [[2000年]](平成12年) ** 4月15日 - [[山川美由紀]](3232)が通算1,000勝を達成 * [[2001年]](平成13年) ** 6月24日 [[唐津競艇場]]で開催された「第11回[[グランドチャンピオン決定戦競走]]」で[[寺田千恵]](3435)が女子選手として初めてSG競走の優勝戦へ進出。 * [[2002年]](平成14年) ** 3月28日 - [[安藤大将|安藤千夏]](3145)が[[性同一性障害]]と[[男性]]への性別変更を公表、その後男子選手・'''安藤大将'''として活動(2005年9月8日選手登録削除、引退)。 ** 10月5日 - [[日高逸子]](3188)が[[唐津競艇場]]第8レースにて通算1,000勝を達成。 * [[2003年]](平成15年) ** 5月24日 - [[津競艇場]]でのレース中に、[[木村厚子]](3196)が事故死<ref>[https://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2003/pe-030525.html おくやみ 木村厚子選手(競艇選手)が頚椎損傷および脳挫傷のため死去]([[日刊スポーツ]] 2003年5月25日)</ref> <ref>[http://www.kyotei.or.jp/JLC/NEWS/2003/05/26_001.htm 人身事故について(訃報)] </ref> <ref>[http://www.kyotei.or.jp/JLC/NEWS/2003/05/28_001.htm 故木村厚子選手(埼玉)の告別式](競艇オフィシャルWeb 2003年5月28日)</ref>。 * [[2005年]](平成17年) ** 10月29日 - [[谷川里江]](3302)が[[蒲郡競艇場]]第3レースにて通算1,000勝を達成 * [[2006年]](平成18年) ** 3月21日 - [[平和島競艇場]]で開催された「第41回[[鳳凰賞競走|総理大臣杯競走]]」において、[[横西奏恵]](3774)が女子選手として2度目のSG競走優勝戦に進出。 * [[2007年]](平成19年) ** 3月27日 - 佐藤幸子([http://app.boatrace.jp/data/racer_search/3140.php?type=kibetsu 3140])が[[下関競艇場]]第8レースにて通算1,000勝を達成。 ** 4月26日 - 山川美由紀(3232)が[[丸亀競艇場]]第12レースにて通算1,500勝を達成。 ** 6月14日 - [[角ひとみ]]([http://app.boatrace.jp/data/racer_search/3334.php?type=kibetsu 3334])が[[三国競艇場]]第12レースにて通算1,000勝を達成。 * [[2008年]](平成20年) ** 3月8日 [[寺田千恵]](3435)が[[津競艇場]]第11レースにて通算1,000勝を達成。 ** 第9回[[名人戦競走|競艇名人戦競走]]に、鵜飼菜穂子(2983)が女子選手として初出場。 * [[2009年]](平成21年) ** 12月14日 - 鵜飼菜穂子(2983)が丸亀競艇場第3レースにて通算1500勝達成。 * [[2010年]](平成22年) ** 1月16日 - [[海野ゆかり]](3618)が若松競艇場第11レースにて通算1000勝達成。 ** 4月18日 - [[徳山競艇場]]で開催された「第11回競艇名人戦競走」で、日高逸子(3188)が女子選手として初めて優勝戦に進出。 * [[2011年]](平成23年) ** 女子戦の準優勝戦と優勝戦のスタート事故に罰則を導入。 ** 3月10日 - [[尼崎競艇場]]で開催された「第38回[[笹川賞競走]]」に女子選手9名が選出。 ** [[横西奏恵]](3774)がファン投票4位(20,934票)で選出され、女子選手として初めてSG競走の[[ドリーム戦]]に出場し1着となった<ref>[http://www.boatrace.jp/news/2011/03/023397.php 第38回 笹川賞(尼崎) 出場選手発表!](BOAT RACE オフィシャルWeb 2011年3月10日)</ref><ref>[http://app.boatrace.jp/race/13_20110524.php?day=20110524&jyo=13&rno=12&type=result 3774横西奏恵選手の笹川賞ドリーム戦の結果]</ref>ほか、最終日の優勝戦にも進出。 * [[2012年]](平成24年) ** 3月2日 - [[谷川里江]](3302)が[[多摩川競艇場]](女子王座決定戦)3日目第8レースにて通算1500勝達成<ref>[http://www.boatrace.jp/stadium_info/2012/03/043989.php 谷川里江選手が女子王座決定戦3日目に通算1,500勝達成]BOAT RACEオフィシャルWEB 2012年3月2日</ref>。 ** 3月12日 - [[柳澤千春]](3254)が[[浜名湖競艇場]]3日目第2レースにて通算1000勝達成<ref>[http://www.boatrace.jp/stadium_info/2012/03/044020.php 柳澤 千春選手(香川)がボートレース浜名湖で1,000勝を達成!] BOAT RACE OFFICIAL WEB 2012年3月12日</ref> ** 7月15日 [[宇野弥生]](4183)が[[モーターボート大賞]]([[大村競艇場]])で優勝。男女混合戦のG2以上競走で女子選手の優勝は13年ぶり。 ** 11月11日 - [[淺田千亜希]](3645)が鳴門競艇場第9レースにて通算1000勝達成。 ** 12月13日 - [[賞金女王決定戦競走]]が創設。 * [[2013年]](平成25年) ** 1月17日 - ボートレース尼崎で行われた「G1開設60周年記念近松賞」で、[[平山智加]](4387)が優勝。男女混合戦のG1競走で女子選手の優勝は14年ぶり。 ** 2月15日 - 山川美由紀(3232)がボートレース若松 第10レースにおいて、女子選手として初めて2000勝達成<ref>[http://www.boatrace.jp/news/2013/02/046565.php 登録第3232号 山川美由紀選手(香川) 2,000勝達成]OFFCAL 2013年2月16日</ref>。 ** 11月2日 - ボートレース下関において、レース前の練習中にコンクリート壁に激突し鈴木詔子(2988)が事故死<ref>[http://www.boatrace.jp/news/2013/11/048459.php 登録第2988号鈴木詔子選手(東京)の死亡事故について]BOATRACEオフィシャルeb 2013年11月2日。</ref>。 ** 12月15日 - 1月、ボートレース尼崎で歴史的快挙を成し遂げた平山智加がクイーンズクライマックスも優勝した。 * [[2014年]](平成26年) ** 4月9日 - ボートレース浜名湖で[[高橋淳美]](3289)が通算1000勝達成<ref>[http://www.boatrace.jp/stadium_info/2014/04/049754.php 3289高橋淳美選手(大阪)がボートレース浜名湖で1,000勝を達成!]</ref>。 ** 4月20日 - ボートレース唐津で開催された「第15回マスターズチャンピオン:名人戦競走」に女子2人目となる[[高橋淳美]](3289)が優出。 ** 5月 - ボートレース福岡開催の第41回ボートレースオールスター([[笹川賞競走]])で12名の女子レーサーが出場しSG競走の女子出場レーサーとしては史上最多記録となった。 ** 7月4日 - ボートレース下関で開催された「プレチャレンジカップ男女W優勝戦 テレボートカップ・JLC杯」の第1レースで、寺田千恵(3435)が通算1,500勝を達成。 ** 7月20日 - ボートレース宮島で開催されたヴィーナスシリーズで、田口節子(4050)が通算1,000勝達成、女子14人目4000番台女子で初達成<ref>[http://www.boatrace.jp/stadium_info/2014/07/050567.php 田口 節子 選手が通算1000勝を達成しました]オフィシャルWEB。</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** 4月2日 - 女性レーサーを対象とした人気投票により出場選手が選出される「レディースオールスター」が創設される<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2015/04/2067/ | title = 選手出場あっせん規程等の一部改正 ~GIIレディースオールスターの新設~ | publisher = BOATRACE OFFICIAL | accessdate = 2021-08-11 }}</ref>。 ** 7月9日 - 日高逸子(3188)がボートレース浜名湖の第8レースで通算2000勝を達成<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2015/07/1877/ | title = 登録第3188号 日高逸子選手(福岡)2,000勝達成 | publisher = BOATRACE OFFICIAL | accessdate = 2021-08-11 }}</ref>。女子レーサーとして2人目の記録達成。 * [[2016年]](平成28年) ** 10月25日 - ボートレース福岡で開催された「第63回全日本選手権競走」で平山智加(4387)がSG史上初の女子レーサーによるドリーム戦・1号艇となった。 * [[2017年]](平成29年) ** 11月3日 - 登録5000番台の女子レーサー[[来田衣織]](5003)が初出走。 * [[2019年]](令和元年) ** 5月12日 - 21世紀生まれの女子レーサー[[生田波美音]](5094)が初出走。 ** 9月25日 - 谷川里江(3302)がボートレース浜名湖の第7レースで通算2000勝を達成<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2019/09/8724/ | title = 登録第3302号 谷川 里江選手(愛知)2,000勝達成 | publisher = BOATRACE OFFICIAL | accessdate = 2021-08-11 }}</ref>。女子レーサーとして3人目の記録達成。 * [[2020年]](令和2年) ** 7月9日 - 寺田千恵(3435)がボートレース桐生の第6レースで通算2000勝を達成<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.boatrace.jp/owpc/pc/site/news/2020/07/10918/ | title = 登録第3435号 寺田千恵 選手(岡山)2,000勝達成 | publisher = BOATRACE OFFICIAL | accessdate = 2021-08-11 }}</ref>。女子レーサーとして4人目の記録達成。 * [[2022年]](令和4年) ** 3月21日 - [[遠藤エミ]](4502)が[[鳳凰賞競走|ボートレースクラシック]]において優勝し、ボートレース初の女性SGタイトルホルダーが誕生した<ref name="nk220322" />。 == 競走格付け == {{main|競艇の競走格付け}} 競走格付けには[[グレード制]]が採用されており、上位のグレードから以下のように分類される<ref name="藤野2006-55">[[#藤野2006|藤野2006]]、55頁。</ref><ref name="蛭子1992-66">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、66頁。</ref>。 * [[スペシャルグレード|SG(スペシャルグレード)]] * プレミアムGI - 2014年より新設。SGに準ずる規模の全国発売重賞<ref>[http://www.boatrace.jp/news/2013/07/047530.php 平成26年度SG及びプレミアムGI(賞金女王決定戦、名人戦、ヤングダービー、女子王座決定戦)並びにモーターボート大賞の開催地決定](2013年7月1日 同7月9日閲覧)</ref> * GI (G1) * GII (G2) * GIII (G3) * 一般戦 SGとGI(2014年より新設のプレミアムGIを含む)をあわせて特別競走、GIIを準特別競走ということもある<ref name="藤野2006-65">[[#藤野2006|藤野2006]]、65頁。</ref>。SGとGIの競走については、原則的にA1級であることが出場資格となる<ref name="藤野2006-59">[[#藤野2006|藤野2006]]、59頁。</ref>。B2級の選手は、実質的に一般レースにしか出場できない<ref name="藤野2006-60">[[#藤野2006|藤野2006]]、60頁。</ref>。賞金額も、グレードによって大きく異なる<ref name="藤野2006-55"/>。 == 競艇場 == {{main|競艇場}} == 投票券(勝舟投票券) == === 舟券の発売種類 === [[投票券 (公営競技)|投票券]](勝舟投票券、通称「舟券」)の[[投票券 (公営競技)#投票法の種類|発売種類]]は、以下の7種類である<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、161-164頁。</ref>。 * 単勝式→1着になる艇番を予想する * 複勝式(2着払い)→2着までに入る艇番を予想する * 普通二連勝複式(二連複)→1着・2着になる2艇を順不同で予想する * 拡大二連勝複式(拡連複)→3着までに入る2艇を順不同で予想する ** 競馬等で言う「ワイド」にあたるが、[[日本中央競馬会]](JRA)・[[特別区競馬組合|特別区競馬組合(TCK)]]が共同で出願した[[登録商標]]の為<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-1999-100927/FAE615D4D19CEC9C17CCC013E1946006408EE1186E47A22F8FB6FED2BE4F2753/40/ja |title=商標照会(固定アドレス) |publisher=特許庁、独立行政法人工業所有権情報・研修館|accessdate=2020-09-29 }}</ref>、競艇のみ「拡連複」と呼称している。 * 二連勝単式(二連単)→1着・2着になる2艇を着順通りに予想する * 三連勝複式(三連複)→1着・2着・3着になる3艇を順不同で予想する * 三連勝単式(三連単)→1着・2着・3着になる3艇を着順通りに予想する 現在は売り上げの大半が三連単となっている。これはレースが6艇で行われることから、他の賭式がいずれも的中確率が高い<ref group="†">各式別の的中確率は、単勝1/6、複勝2/6、二連複1/15、拡連複3/15、二連単1/30、三連複1/20、三連単1/120。ちなみに、オートレースの三連単は1/336、競輪の三連単は9車立てで1/504、競馬の三連単は18頭立てで1/4896である。</ref>ため、高配当の可能性が低いことが理由としてあげられる。単勝式は売り上げ額が低く、発売窓口が限られる競走場もあるため、人気の指標となりえない<ref name="蛭子1992-79">[[#蛭子1992|蛭子1992]]、79頁。</ref>。 的中した舟券の払い戻し期間は60日である(払い戻しを全く行わなかった日は算入されない)<ref>[[#藤野2006|藤野2006]]、165-166頁。</ref>。但し、[[無観客試合|無観客開催措置]]に伴い時効までに払戻が出来なくなった場合、当該競艇場及び当該場外発売場にて購入した投票券については、営業再開後60日間まで延長される([[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]感染拡大による[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響#公営競技|事例]])<ref>[http://www.heiwajima.gr.jp/asp/heiwajima/00news/00news_detail.asp?ID=1124 発売・払戻の中止に伴うお知らせ] - [[平和島競艇場]] 2021年4月27日</ref>。 2007年の法改正で、複数レースに渡る投票方式である重勝式([[中央競馬]]の「[[WIN5]]」、[[競輪]]の「[[チャリロト]]」や「[[Kドリームス]]」、[[オートレース]]の「[[モトロト]]」など)の発売が可能となっているが、システム更新にかかる開発費の問題から、2021年1月現在では重勝式を導入している競艇場はない<ref>[http://www.omurakyotei.jp/customer/?key=200910 ボートレース大村 お客様の声 2009年10月20日]</ref>。 [[File:競艇のマークカード.jpg|thumb|購入する際に使用するマークカード]] [[File:競艇 発払い機(多摩川).jpg|thumb|券売機]] === 電話投票 === {{see also|電話投票|}} ; [[テレボート]] : テレボートとは、電話・インターネット投票に関わる事務を一括して行うセンターの愛称。かつては地区ごとに「テレボート九州」「テレボートせと」などと分かれて存在し、各テレボートごとに競艇を紹介する小さな展示館のような施設を持っていたが、数年前に全国の事務を一括して受け付ける「テレボート」に統合され、各地の展示施設も廃止された。現在のテレボートは、電話・インターネット投票の募集や情報提供を主に行っている。 === 場外発売場 === 主催者の中には、ボートレース場以外の場所に「ボートレースチケットショップ」などの愛称で場外発売場を設置して、舟券の発売を行っている。 {{Main|競艇場外発売場}} === 売上金の内訳 === 出典:日本財団サイトの「[https://www.nippon-foundation.or.jp/who/funding 活動資金]」ページより * 払戻金 - 75%(全賭式共通) * [[日本財団]]への交付金 - 2.8% * [[日本モーターボート競走会]]への交付金 - 1.3% * [[地方公共団体金融機構]]への納付金 - 0.2% * 開催経費(管理費、人件費、施設費、賞金など) - 実費 * 主催自治体 - 残額 {{anchors|中継|競艇中継}} == 各メディアでの展開 == * SGの全競走([[鳳凰賞競走|ボートレースクラシック]]・[[笹川賞競走|ボートレースオールスター]]・[[グランドチャンピオン決定戦競走|グランドチャンピオン]]・[[オーシャンカップ競走|オーシャンカップ]]・[[モーターボート記念競走|ボートレースメモリアル]]・[[全日本選手権競走|ボートレースダービー]]・[[チャレンジカップ競走|チャレンジカップ]]・[[賞金王決定戦競走|グランプリ]])とプレミアムGⅠの全競走([[ヤングダービー競走|ヤングダービー]]・[[女子王座決定戦競走|レディースチャンピオン]]・[[名人戦競走|マスターズチャンピオン]]・[[ボートレースバトルチャンピオントーナメント競走|ボートレースバトルチャンピオントーナメント]]・[[賞金女王決定戦競走|クイーンズクライマックス]])については準優勝戦や優勝戦を中継放送している。 * 下記にも述べるとおり、近年のテレビ・ラジオともにSG戦レース中継では、ゲストとしてボートレースとは関係ない人物をスタジオに招いて、レギュラー出演者らとともにレース展開の予想などを行っている。 * 2010年より地上波テレビ・ラジオ向けは「BOAT RACEライブ」として制作・放送されている。 * テレビ・ラジオともに、台風等の不可抗力で日程が順延された場合、放送枠のスライドは行われず、そのまま予定された枠にて当日のレースが中継される。 {{anchors|テレビ中継}} === テレビ === * 以前は優勝戦を[[テレビ東京]]<ref group="†">同局では、2011年の賞金王決定戦を最後に中継していない。</ref>や[[TXN]]の各系列局制作で放送していたが、優勝戦が日曜日に開催されるようになり、夏季は[[ナイター競走]]による開催が定着していることもある関係上、テレビ東京系で一部放送できない場合があるため、関東・中京・近畿の各[[広域放送]]地域では地元の[[全国独立放送協議会|独立UHF放送局]]を使って中継する場合も多い。ただし、一部地域では放送しない場合もあるほか、深夜の録画中継に変更される場合もあり、開催地によっては生放送が現地地方局から各独立UHF放送局への[[裏送り]]となることもある。近年では画像処理を施し、水面上に距離を表す数字とラインを重畳している場合もある(但し、実際にボートレース場には表す事は出来ない)。出走表などはJLCの画面とほぼ同じものを使用。また、[[桐生競艇場|ボートレース桐生]]や[[平和島競艇場|ボートレース平和島]]の場内映像(インターネット配信も同様)でもバーチャルCGで水面上に距離を表す数字とラインを重畳している(スタート・ゴールの文字も出ている) * [[鳳凰賞競走|総理大臣杯~ボートレースクラシック]]は2009年より優勝戦を[[TBSテレビ|TBS]]系で全国放送するようになった。TBSでは、2013年以降首都圏で行われる他のSG優勝戦も同様に中継されるようになっている。番組タイトルは「[[水上の挑戦者]]スペシャル」。 * 地方局制作の場合、本来の系列と関係ない臨時的なネットワークが行われる場合がある。 ** 例:[[福岡放送]](日本テレビ系)制作で、[[BS-TBS]]・[[中国放送]](以上TBS系)・[[秋田朝日放送]](テレビ朝日系)等。 * また、各地のGI(周年記念など)・GII・GIIIなどは主に開催される地域の独立UHF放送局が実況放送する場合があり、場外発売を行う地域でも放送される場合がある。 * 上記のほか、一部のSGは[[衛星放送|BSデジタル放送]](主にBS-TBSや[[BS日本|BS日テレ]])でも放送している。地上波と同系列のBS局で同時放送する場合もある。また[[2011年]]度から原則日曜日に[[BSフジ]]でレギュラー放送(16時から16時56分)される。番組タイトルは'''「[[BOAT RACEライブ 〜勝利へのターン〜|ハートビートボート]]」'''である。 * [[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]では[[日本レジャーチャンネル|レジャーチャンネル]](有料)で放送。5チャンネルを使用して一般戦も含め完全生中継を行う。 *[[テレビ埼玉]]では埼玉県内の公営競技のダイジェスト番組「[[BACHプラザ]]」が毎日放送され、ボートレース戸田開催時(前検日から最終日まで)は全レースの結果と翌日の終盤2、3レースの出走表が紹介されている。 *2020年以降は中継拠点であるSIX WAKE ROPPONGIが東京・六本木にオープンしたことに加え、新型コロナウイルス流行の影響から、関東圏外での開催時における現地への出演者派遣を最小限にとどめ、開催場に関係なく[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]を実質的な制作局(地元放送局での放送がある場合、TOKYO MXは名目上制作協力扱いに廻り、制作著作は当該地元放送局扱い)として、SIX WAKE ROPPONGIからの進行としている。 ==== テレビ中継の主な解説者 ==== * [[夢大作]] * [[立川談春]] * [[植木通彦]] ==== テレビ中継の主な出演者 ==== 概ね下記の各出演者が担当する。 * [[生島ヒロシ]] - メイン(主に優勝戦の司会を担当) * [[荻原次晴]] - メイン(以前はメイン・リポーターだったが、2011年以降は主に優勝戦の司会を担当) * [[青島健太]] - メイン * [[梶原しげる]] - メイン * [[武田修宏]] - メイン * [[桑野信義]] - メイン・リポーター(以前は優勝戦中継時に、主にスタンドからリポートしていた。) * [[川口和久]] - メイン・リポーター(ドリーム戦の司会を担当することもあった。2011年は[[読売ジャイアンツ|巨人]]コーチ就任のため出演なし) * [[小林麻耶]] - メイン * [[青木源太]] - メイン * [[桝田絵理奈]] - メイン * [[永山美穂]] - アシスタント * [[山元香里]] - アシスタント * [[高尾晶子]] - ピットリポートを担当することが多い。優勝戦直後にはテレビ・ラジオ共通の優勝者インタビュアーも担当。 * 上記の他、芸能人・元スポーツ選手([[蛭子能収]]など)が出演する。 * [[2011年]]のBSフジの中継(SG・GI〈周年記念なども含む〉が中心)では、女優の[[島崎和歌子]]とスポーツキャスターでボートレース戸田で実況担当していた[[堂前英男]]が進行役として出演している。 {{anchors|ラジオ中継}} === ラジオ === * SGやプレミアムGIはラジオでも中継しており、現在は[[文化放送]]の制作で優勝戦を「[[ボートレースラジオ実況中継]]」のタイトルで全国中継している(2012年までナイター競走の場合は優勝戦展望のみで、一部のナイターSGをQRからの裏送りで[[プロ野球中継]](JRNナイター・NRNナイターなど)を放送しない一部放送局向けに生中継する形を採っていたが、2013年からは日曜日のプロ野球中継([[文化放送ホームランナイター]])を[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]以外実施しなくなったため、自社でも生中継するようになった。<ref group="†">このため、ネット局数によっては日曜日には正式なNRN番組である野球中継を素材回線による中継球団の地元局への裏送り(ステレオ)として、非NRN番組である競艇中継にNRN回線(2019年途中まではモノラル。その後ステレオ化)を使うことがある。</ref>。文化放送では競艇の広報番組として『[[アインシュタイン・山崎紘菜 Heat&Heart!]]』を放送しており、日中開催のSGは同番組を差し替えて中継する。過去には[[アール・エフ・ラジオ日本|RFラジオ日本]]なども中継を行っていたことがある。 * 放送形態として、ナイターレースはプロ野球中継がない場合は生放送/録音放送(生放送を編集なしで放送する場合<ref group="†">大半の地方局がプロ野球中継を編成していた2009年まで実施。2010年からは全国向けJRNナイターの週末分廃止の影響で、球団地元局等を除いた地方局では日曜日のプロ野球中継が無くなり、競艇の生放送ネットが可能となったため、この形式での中継は見られなくなった。</ref>と、レース実況の録音ダイジェストと司会担当アナのレース結果速報を伝える[[ミニ番組]]のパターンがある)、それ以外は生放送を行うが、全てを放送する場合とレース実況後に飛び降りる/レース終了後に飛び乗るパターンがある<ref group="†">文化放送の場合、ナイターレース中継優勝戦があるときは通常の定時番組を休止もしくは深夜の放送休止枠へ移動させて日曜20:30 - 21:00にSG戦優勝戦実況中継を放送している。また、祝日開催でプロ野球中継([[文化放送ライオンズナイター]])と重なった場合は、レース実況部分のみ野球中継に挿入する形を採る。</ref><ref group="†">2013年度 - 2015年度は『[[乃木坂46の「の」]]』、2016年度は[[アニラジ]]番組である『[[小松未可子・西山宏太朗 Twilight 〜夕凪のレストラン〜]]』、2017年度以降は同じくアニラジ番組である『[[宏太朗と裕一郎 ひょろっと男子]]』が影響する。</ref><ref group="†">ただし、2018年度以降2021年度までは「ひょろっと男子」を休止せずに30分繰り上げられて放送し、手前の20:00-20:30の番組が1週分休止する処置を取っていた。</ref><ref group="†">2022年度は上半期の場合、通常20:00-20:30の『[[Girls²のがるがるトーク!]]』を深夜0:30-1:00(2022年6月までは0:00-0:30)に繰り下げて『[[アニソンPARTY!]]』(通常20:30-20:45)、『ひょろっと男子たち』(20:45-21:00)を30分ずつ繰り上げてそれぞれ対応していた。その代わり、通常深夜0:30-1:00(2022年6月までは深夜0:00-0:30)の『小松未可子のSunday Share Night』を休止する処置を取っていたが、2022年度下半期時の対応は未定。</ref><ref group="†">その理由は『がるがるトーク!』が2022年度下半期より文化放送での放送日が水曜21:30-22:00へ移動したためや日曜20時枠が『[[鴨の音]]』になったり日曜24時30分も『[[DAM_(カラオケ)#ラジオ番組|LIVE DAM Ai presents ANISON INSTITUTE 神ラボ!]]』に変わったりと2022年秋改編で新番組や移動番組が生じたためと見られている。</ref><ref>[https://www.joqr.co.jp/qr/article/66243/ 「好きをつなげる 文化放送」秋の新番組と放送時間変更のお知らせ]</ref><ref group="†">文化放送以外の局は通常番組を休止もしくは短縮するなどして優勝戦実況中継を放送しているが、先述のようにナイター放送と被る局は早終了時は生放送、試合が長引いたときはナイター放送終了後録音放送(それも5分ダイジェストか1分ダイジェストに分かれる)で対応するケースがあるほか、あらかじめ近隣の別局(例:東海ラジオ→[[岐阜放送ラジオ|岐阜放送]]、RKBラジオ→[[ラブエフエム国際放送|LOVE FM]]、中国放送→[[コミュニティ放送]]局の[[中国コミュニケーションネットワーク|FMちゅーピー]])に放送権を譲渡して生放送とするケースもある(尤も岐阜放送はSGであれば東海ラジオの編成に関係なくネット。中国放送・FMちゅーピーの場合、両局の編成の都合により完全返上とする場合もある)。</ref>。 * 競艇場のある地域の[[全国ラジオネットワーク|NRN]]加盟局を中心にネットされるが、福岡県では[[RKBラジオ|RKB毎日放送]]<ref group="†">月曜に競艇中継が編成され、ソフトバンク主催の西武戦が『[[文化放送ライオンズナイター]]』と『[[RKBエキサイトホークス]]』の2局ネットとなった場合は、文化放送では競艇中継を優先して一時中断とするが、RKBラジオでは野球中継を優先してラブエフエム国際放送への譲渡とする。</ref>、沖縄県では[[琉球放送]]<ref group="†">2019年4月より、[[競艇関連情報番組]]とともにネット開始。なお、沖縄県には競艇場・[[競艇場外発売場]]ともに設けられていない</ref>とNRN非加盟局がネットしている。 * 2018年3月より[[TBSラジオ]]にて情報番組「[[ハライチ岩井 ダイナミックなターン!]]」が放送されている(当初は5週限定だったが、2019年10月にレギュラーとして再開)。 ==== ラジオ中継の主な出演者 ==== * [[高橋将市]](文化放送アナウンサー)、[[土井悠平]]、[[寺島啓太]]、[[槇嶋範彦]](いずれも元・文化放送アナウンサー。QR退職後も出演)-司会・実況担当(地方開催でも出張して担当する。過去には[[松島茂]]、[[鈴木光裕]]も担当していた) * 上記にも述べた通り、テレビと同様に競艇とは関係ない芸能人などがゲストとして出演する場合がある。なお開催競艇場の地元局アナウンサー若しくは近くの地元局アナウンサーが出演する場合は「ゲストパーソナリティ」と紹介される事もある(例:2012年4月22日に[[びわこ競艇場|BOAT RACEびわこ]]で開催した第14回[[名人戦競走]]優勝戦を放送したがこの時のゲストパーソナリティは西のお隣・[[京都放送|KBS京都]]から[[海平和]]アナウンサーが参加していた。ただしKBS京都のラジオは滋賀県も放送地域である)。 * 2014年1月より、「BOATRACE RADIO GIRL」というwebページがスタートした。これは「全国のラジオ局の女性アナウンサーやパーソナリティがボートレース場を盛り上げる」として、各局ごとに担当者を決め、ボートレースに関するブログ執筆や担当ラジオ番組への選手のゲスト出演などを行っていた。「BOATRACE RADIO GIRL」のページは文化放送のサーバーに設置されていた。2019年以降この活動は途絶えており、現地局からの中継へのパーソナリティ派遣は継続しているものの、下記担当者も含めて「ボートレースラジオパーソナリティ」の肩書に統一されている。 *下記表のうち、カッコ内にある放送局は、地元球団関係の[[プロ野球中継]](年度上半期)、ないしは[[Jリーグ中継]](ほぼ通年)を行う関係で、本来のAM(ワイドFMを含む)が中継できない場合の代替放送を行う放送局(ぎふチャンラジオはAM・ワイドFM、他はFM専業)である。 {| class="wikitable" !放送局!!担当競艇場!!担当者 |- |rowspan="5"|[[文化放送]]||[[桐生競艇場|ボートレース桐生]]||rowspan="5"|[[野口逢里]]→[[加納有沙]]<ref group="†">2016年4月に交代</ref>→[[舘谷春香]]、[[長麻未]] |- |[[戸田競艇場|ボートレース戸田]] |- |[[江戸川競艇場|ボートレース江戸川]] |- |[[平和島競艇場|ボートレース平和島]] |- |[[多摩川競艇場|ボートレース多摩川]] |- |[[静岡放送]]||[[浜名湖競艇場|ボートレース浜名湖]]||[[鬼頭里枝]] |- |rowspan="3"|[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]<br>([[岐阜放送ラジオ|ぎふチャン ラジオ]])||[[蒲郡競艇場|ボートレース蒲郡]]||rowspan="3"|[[青山紀子]] |- |[[常滑競艇場|ボートレース常滑]] |- |[[津競艇場|ボートレース津]] |- |[[福井放送]]||[[三国競艇場|ボートレース三国]]||[[阿部真由美]] |- |[[京都放送|KBS京都]]||[[びわこ競艇場|ボートレースびわこ]]||[[海平和]] |- |rowspan="2"|[[大阪放送|ラジオ大阪]]||[[住之江競艇場|ボートレース住之江]]||rowspan="2"|瀬川貴恵→[[玉川恵]]<ref group="†">2015年4月に交代</ref>→佐藤美佐子<ref name="名前なし-1" group="†">2017年4月に交代</ref> |- |[[尼崎競艇場|ボートレース尼崎]] |- |[[四国放送]]||[[鳴門競艇場|ボートレース鳴門]]||木戸弥生 |- |[[西日本放送ラジオ|西日本放送]]||[[丸亀競艇場|ボートレース丸亀]]||[[奥田麻衣]] |- |[[RSKラジオ|山陽放送]]||[[児島競艇場|ボートレース児島]]||安井優子 |- |[[中国放送]]<br>([[中国コミュニケーションネットワーク|FMちゅーピー]])||[[宮島競艇場|ボートレース宮島]]||[[伊藤日向子]]→金田和恵<ref name="名前なし-1" group="†"/> |- |rowspan="2"|[[山口放送]]||[[徳山競艇場|ボートレース徳山]]||rowspan="2"|[[原田かおり (アナウンサー)|原田かおり]] |- |[[下関競艇場|ボートレース下関]] |- |rowspan="4"|[[RKBラジオ|RKB毎日放送]]<br>([[ラブエフエム国際放送]])||[[若松競艇場|ボートレース若松]]||rowspan="4"|[[植村友紀]] |- |[[芦屋競艇場|ボートレース芦屋]] |- |[[福岡競艇場|ボートレース福岡]] |- |[[唐津競艇場|ボートレース唐津]] |- |[[長崎放送]]||[[大村競艇場|ボートレース大村]]||[[菊野紗史]] |} === ネット配信 === インターネットを利用したストリーミング配信としては、[[日本レジャーチャンネル]](JLC)の「JLCスマート」「レジャチャンオンデマンド」等がある。その他に各競艇場単位で、[[YouTube]]や[[ニコニコ動画]]に独自チャンネルを開設しレース中継を行っている例も多く、中にはJLCとは別個に芸能人や元選手を呼んで中継番組を制作するところもある([[住之江競艇場]]「アクアライブステーション」など)。 [[AbemaTV]]では、[[2019年]]6月に「[[AbemaTV BOATRACEチャンネル|BOATRACEチャンネル]]」を開設しており、主に金曜・土曜に独自の中継番組を配信している。 === 雑誌 === 競艇を専門に扱う雑誌としては「[[競艇マクール|マクール]]」([[三栄書房]])、「[[BOATBoy]]」([[日本レジャーチャンネル]])などがある。 === 新聞 === 「スポーツボートレース6」と題し、全国紙系列4紙と地方紙系列3紙で、[[ホリプロ]](スピードワゴンとクワバタオハラは[[ホリプロコム]]、磯山さやかは[[ホリ・エージェンシー]])に所属する競艇愛好家の各界著名人によるコラムを2010年度までは月曜日(各紙隔週。[[新聞休刊日]]の場合は翌火曜日。掲載日は新聞社によるが、5週ある場合は第5週休載)、2011年度以後はSG/GI<主要全国発売レース>開催の直近に広告として掲載している。これらはボートレース公式サイトから見ることができる。 ==== 担当者 ==== :2010年度まで第1・3週はスポニチ、報知、デイリー、第2・4週はニッカン、サンスポ、中スポ・トーチュウ、西スポが各新聞社別に担当していた。2011年からは下記7組のメンバーの中から1組がランダムに登場して全新聞共通でコラムを執筆している。 *[[クワバタオハラ]](漫才 2010年度まで[[スポーツニッポン]]担当) *[[磯山さやか]](女優・タレント 同[[スポーツ報知]]担当) *[[田代さやか]](タレント 同[[デイリースポーツ]]担当) *[[スピードワゴン]](漫才 同[[日刊スポーツ]]担当) *[[武田修宏]](サッカー解説者 同[[サンケイスポーツ]]担当) *[[大島麻衣]](歌手・タレント。元[[AKB48]]メンバー 同[[中日スポーツ]]・[[東京中日スポーツ]]担当) *[[宮下純一]](元競泳選手。スポーツ解説者 同[[西日本スポーツ]]担当) == コマーシャルメッセージ (CM) == [[コマーシャルメッセージ]] (CM) === CMソング・イメージソング === * [[1991年]] 『One Two Finish!』 作詞:[[山本寛太郎]]、作曲:[[ジョー・リノイエ]]、歌:山田裕子 * 1991年 『HAPPY DAY』 歌:[[イクマあきら|E-ZEE BAND]] * [[1993年]] 『OPEN YOUR HEART』 作詞:寺田恵子・安藤芳彦、[[作曲]]:寺田恵子、[[編曲]]:[[松下誠]]、歌:[[寺田恵子]] * [[1994年]] 『+1?プラスワン?』 作詞:[[田辺智沙]]、作曲:[[樫原伸彦]]、編曲:[[岩崎文紀]]、歌:[[近藤名奈]] * [[1995年]] 『あなたに愛されたい』 作詞:[[田久保真見]]、作曲:[[松本俊明]]、歌:関本彩子 * [[1995年]] 『心にKISSして』 作詞:[[小山薫堂]]、作曲:白井良昭、歌:関本彩子 * [[1997年]] 『10万カラットの夢』 作詞:[[高柳恋]]、作曲:SHIME・山崎利明、編曲:山崎利明、歌:SHIME(シメ) * [[2004年]] 『涙を虹に』 作詞:[[前田亘輝]]、作曲:[[春畑道哉]]、編曲:TUBE、歌:[[TUBE]] * 2004年 『Now & Here』 作詞:前田亘輝、作曲:春畑道哉、編曲:TUBE、 歌:[[TUBE]] * [[2005年]] 『SKY HIGH』 作詞:前田亘輝、作曲:春畑道哉、編曲:TUBE、歌:[[TUBE]] * [[2006年]] 『Fair Wind』 歌:[[小柳ゆき]] * 2006年 『誓い』 歌:[[小柳ゆき]] * [[2007年]] 『One in a million』 歌・[[小柳ゆき]] * [[2008年]] 『[[幸せのちから (和田アキ子の曲)|幸せのちから]]』 歌・[[和田アキ子]] * [[2009年]] 『あなただけの青空』 歌・和田アキ子 * [[2010年]]1月 - 6月 『Everything will be all right』 歌・[[Do As Infinity]] * [[2010年]]7月 - 12月 『1/100』 歌・Do As Infinity * [[2020年]]7月 - 12月『[[第六感 (曲)|第六感]]』 歌・[[Reol]] * [[2021年]]1月 - 4月『STARTLINE』歌・[[大原櫻子]] * 2021年4月 - 8月『SPLASH』歌・[[空音]] * 2021年8月 - 12月『[[ナイトダンサー]]』歌・[[秋山黄色]] * [[2022年]]1月 - 6月『[[ダイナマイト (Superflyの曲)|ダイナマイト]]』歌・[[Superfly]] * 2022年7月 - 12月『[[up!!!!!!]]』歌・[[スキマスイッチ]]<ref>[https://lets-boatrace.jp/entertainment/cm/ 2022年度ボートレース公式サイトのCM]</ref> * [[2023年]]1月 - 『[[優游涵泳回遊録|スパークルダンサー]]』歌・[[フレデリック (バンド)|フレデリック]]<ref>[https://lets-boatrace.jp/entertainment/cm/ 2023年度ボートレース公式サイトのCM]</ref> {{節スタブ}} === CM出演 === 競艇ではイメージキャラクターを採用しており、主にPR活動のほか、表彰式や開会式での司会を担当する。ラジオCMに関しては映像媒体と違うCMを作成し放送している。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" !担当期間||担当者||キャッチフレーズ他 |- |1993年||[[寺田恵子]]||水上の格闘技・モーターボートレース |- |1995年||関本彩子、[[植木通彦]]他||俺が植木だ! |- |1996年||[[服部幸男]]、[[松井繁]]他||水の上では先輩も後輩もない! |- |1998年||[[今村豊]]他||みんなの競艇、わたしの競艇 |- |1999年||[[役所広司]]||熱いですね、競艇 |- |2002年・2003年||[[遠藤久美子]]||キョーテー・ハニー(2002年) |- |2004年・2005年||[[TUBE]]|| |- |2004年 - 2007年||[[優木まおみ]]<ref group="†">CMイメージソングは[[小柳ゆき]]が担当。</ref>|| |- |2008年・2009年||[[和田アキ子]]<ref group="†">なお、和田はCMイメージソングも手掛けている。</ref>||2009年からは[[スピードワゴン]]や[[クワバタオハラ]]など、[[ホリプロ]]所属のお笑い芸人と出演 |- |2010年<ref group="†">12月23日まで</ref>||[[千原ジュニア]]・[[南明奈]]<ref group="†">この期間から[[提供クレジット]]は'''「KYOTEI(競艇)」'''から'''「BOAT RACE(ボートレース)」'''に一新。CMイメージソングは[[Do As Infinity]]が担当。</ref>||スポーツ新聞の新人記者(南)・カメラマン(千原)という設定 |- |2011年<ref group="†">2010年12月24日 - 2011年12月25日</ref>||南明奈・[[北条隆博]]||南が競艇の舟番ごとの色をあしらった猫のキャラクター「アッキーニャ」として登場する |- |2012年・2013年<ref group="†">2011年12月25日 - 2013年12月23日</ref>||南明奈||キャラクター「アッキーニャ」は変わらず、南が単独で出演する |- |2014年<ref group="†">2013年12月23日 - 2014年12月31日</ref>||clementine(クレメンティン)(WHITE)<hr>今野晶乃(BLACK)<hr>[[渡辺直美]](RED)<hr>[[青山恵梨子]](BLUE)<hr>oh!YUKA(YELLOW)<hr>ヘマ・モラレス(GREEN)||「[[BOATNYA]]」。前年までの「アッキーニャ」をリニューアルして猫のキャラクターを踏襲した謎の覆面ダンサーユニットという設定である<REF>[http://dynamite-boatrace.jp/ga/ BOATNYA]</REF>。 |- |2015年・2016年||[[すみれ (モデル)|すみれ]]||(2015年度)「BE DYNAMITE!」のキャッチフレーズのもと、「BOATNYA」のメンバーを入れ替えた。<br>(2016年度)[[時代劇]]風のもので、架空の都市「水の都・BOEDO CITY(ボエド・シティー)」を守る忍者という設定。ゲストキャラクターあり<ref>[http://www.boatrace.jp/news/2015/12/054793.php 2016年ボートレースCM決定]</ref><br>(ゲスト)(1)「押し掛け女房の巻」[[おかずクラブ]]<br>(2)「遅刻奉行の巻」[[蝶野正洋]]<br>(3)「無駄遣い議員の巻」[[杉村太蔵]]<br>(4)「いじめ主人の巻」[[トレンディエンジェル]]<br>(5)「汚部屋娘の巻」[[春香クリスティーン]]<br>(6)「ポイ捨て花魁の巻」[[IVAN]] |- |2017年||渡辺直美||「Let's BOATRACE!」のキャッチフレーズのもと2014年以来3年ぶりに起用の渡辺と、[[BENI]]がイメージソングでコラボレーションをする<ref>[http://www.boatrace.jp/news/2016/12/057500.php 2017年ボートレースCM決定]</ref>。 |- |2018年<ref group="†">2017年12月31日 - </ref>||渡辺直美・[[ロバート (お笑いトリオ)|ロバート]]||前年に引き続き「Let's BOATRACE!」のキャッチフレーズのもと、とあるカフェを舞台に渡辺は、ボートレースを盛り上げるディーヴァ“NAOMI”<ref group="†">カフェで流れるプロモーションムービー</ref>として、ロバートの3人は、[[秋山竜次|秋山]]がボートレース好きの「カフェマスター」、[[馬場裕之|馬場]]・[[山本博 (お笑い芸人)|山本]]は次第にボートレースの魅力に引き込まれていく「カフェの常連客」という設定<ref>[http://www.boatrace-pr.jp/pc/site/release/2017/12/1607/ 渡辺直美、ロバートが出演!!ダイナマイトボートレース2018新CM第1弾12月31日(日)より放送開始!~とあるカフェで巻き起こるハートフル…ではなく、“ボートフル”コメディ!?~]</ref>。 |- |2019年<ref group="†">2019年1月9日 - </ref>||渡辺直美・ロバート・[[CYBERJAPAN DANCERS]](KAZUE(赤)・KANAE(青)・KANA(黄)MIKA T(黒)・JURI(白))・[[田中圭]]・[[ブラックマヨネーズ]]<ref group="†">2019年5月27日 - </ref>||「BOATFUL FANTASY(ボートフル ファンタジー)」のキャッチフレーズのもと田中圭演じる、脱サラして憧れのボートレースの世界に飛び込む新人ボートレーサー「田中くん」が、渡辺直美とCYBERJAPAN DANCERSの演じる「人魚姫姉妹」、ロバートの3人が演じる「カメラマン&記者」に見守られながら成長していく、ハートフルならぬ“ボートフル”なファンタジーである<ref>[http://www.boatrace-pr.jp/pc/site/release/2019/01/2286/ 話題の「頭文字Tの演技派俳優は誰?」「頭文字T」は・・・最も旬な俳優・田中圭! 田中圭が“脱サラボートレーサー”を熱演! 渡辺直美が人魚姫に! ロバートはキャラの濃いカメラマン&記者役に!ボートレース 新CMシリーズ「姫たちだって Let's BOAT RACE」1月9日(水)より公開! ~葛藤するボートレーサー田中圭を人魚姫たちも応援!~]</ref>。その後新キャラクターとしてブラックマヨネーズの吉田が演じる魔女と小杉が演じる「田中くん(?)」が新たに登場<ref>[http://www.boatrace-pr.jp/pc/site/release/2019/05/2623/ 新キャスト ブラックマヨネーズ登場! 小杉の“座りの良い顔”がおもしろすぎる! 田中圭「キミのために走るよ!」の言葉に歓喜! ボートレースCMシリーズ「姫たちだって Let's BOAT RACE」第6話! 「魔女とレーサー」篇を公開!5月27日(月)より]</ref>。 |- |2020年<ref group="†">2020年1月9日 - </ref>||田中圭、[[武田玲奈]]、[[葉山奨之]]、[[飯尾和樹]]、[[小林涼子]]||「ハートに炎を。BOAT is HEART」のキャッチフレーズのもと田中圭が引き続き出演。さらに武田玲奈、葉山奨之、飯尾和樹、小林涼子をメンバーとして迎え、タナカくんが優勝を目指して戦う1年を、それぞれのハートを燃やして競うレーサーたちの群像劇として描いている<ref>[http://www.boatrace-pr.jp/pc/site/release/2020/01/3153/ タナカくんの前に立ち塞がるライバルたちとは!?・・・最強の天才女子レーサーとは!?武田玲奈・葉山奨之・飯尾和樹が新たに挑む!ボートレーサー田中圭 第2章が幕開け!ボートレース 新CMシリーズ「ハートに炎を。BOAT is HEART」1月9日(木)より公開! ~全10話 感動あり、笑いあり、涙ありのストーリーで新たにスタート~]</ref>。 |- |2021年<ref group="†">2021年1月7日 - </ref>||[[神尾楓珠]]、[[芋生悠]]、飯尾和樹、[[MEGUMI]]、[[博多華丸]]、[[山村紅葉]]||「Splash ボートレーサーになりたい!」のキャッチフレーズのもと、それぞれにある追いかけたい夢のために、プロアスリートであるボートレーサーで「スポーツで一生食っていく」ことを決意した神尾楓珠演じる「カミオ」と芋生悠演じる「ハルカ」を中心とした人間ドラマ。前年ベテランボートレーサー役を演じた飯尾和樹がボートレーサー養成所の教官役で引き続き出演する他、現役レーサーでもあるハルカの母をMEGUMI<ref>[http://www.boatrace-pr.jp/pc/site/release/2021/01/3817/ 神尾楓珠、芋生悠が挑む新たなるストーリーが幕開け!ボートレース 新CMシリーズ「Splash ボートレーサーになりたい!」1月7日(木)初公開!~全10話 涙あり、笑いありの青春ストーリーがスタート~]</ref>、養成員たちを見守る華丸所長を博多華丸<ref>[http://www.boatrace-pr.jp/pc/site/release/2021/02/3899/ いよいよ1年間のボートレーサー養成所生活がスタート!芋生悠、母 MEGUMI との別れに涙…ボートレースCMシリーズ「Splash ボートレーサーになりたい!」第2話「入所」篇を2月5日(金)より公開]</ref>、食堂のおばちゃんを山村紅葉が演じる<ref>[http://www.boatrace-pr.jp/pc/site/release/2021/04/4061/ プロの世界では体重が勝負を分ける!「神尾楓珠」「芋生悠」今の悩みは体重管理!?ボートレースCMシリーズ「Splash ボートレーサーになりたい!」第4話「体重管理」篇を4月26日(月)より公開]</ref>。 |- |2022年<ref group="†">2022年1月8日 - </ref>||神尾楓珠、芋生悠、[[中村獅童 (2代目)|中村獅童]]、MEGUMI、[[土屋アンナ]]、[[ゆりやんレトリィバァ]]、[[吹越満]]、[[ネルソンズ (お笑いトリオ)|和田まんじゅう]]||「アイ アム ア ボートレーサー」。2021年度からの実質的な続編であり、晴れてボートレーサー養成所を卒業したカミオ(神尾)とハルカ(芋生)が、先輩レーサーたち(シドウ=中村、メグミ=MEGUMI<ref group="†">2021年度と同様に、ハルカの母という設定</ref>、アンナ=土屋、ユリ=ゆりやん、フキコシ=吹越満)と戦う様を描く全12話からなるシリーズ。シドウの弟子だった元ボートレーサーの寿司屋の大将を和田まんじゅうが演じる。 |- |2023年||神尾楓珠、中村獅童、[[長谷川京子]]、[[藤森慎吾]]([[オリエンタルラジオ]])、[[王林 (アイドル)|王林]]、[[山之内すず]]<ref>[https://twitter.com/Lets_BOATRACE/status/1607217260623532032 公式 DYNAMITE BOATRACE|ボートレース](午後0:30 · 2022年12月26日)</ref>||「アイ アム ア ボートレーサー」。ストーリーは2022年からの流れを汲むが、カミオがシドウに弟子入りし、師弟関係を結ぶことになる。そして女子レーサー・キョウコ(長谷川)がボートレースの最高峰SG競走を、女子選手として初めて制するところから物語が始まる。このキョウコのモデルは[[2022年]][[3月]]に行われた「ボートレースクラシック」で実際に優勝した[[遠藤エミ]]。さらに今年度から芋生、MEGUMI、土屋らに代わり、藤森、王林、山之内がレーサーの役で登場する1年間・12話からなるシリーズを予定している<ref>[https://www.boatrace-pr.jp/pc/site/release/2022/12/6108/ 長谷川京子さんら豪華俳優陣の新CMシリーズ幕開け!ボートレース2023年CMシリーズ『アイ アム ア ボートレーサー』第1話「歴史が動いた!キョウコ登場篇」]</ref> |- |2024年||神尾楓珠、中村獅童、藤森慎吾、山之内すず、[[江口のりこ]]、[[矢吹奈子]]||「ボートレース だれもが躍動するスポーツ」。2021年度から続くカミオ・シドウを中心に展開するシリーズの第4弾。今回は実際のボートレーサーをモデルに、年齢・性別を問わず同じ頂点を目指すボートレーサーの姿を描いたもので、キョウコ・オウリンに代わり、新たにベテランレーサー・ノリコと新人のナコが登場する<ref>[https://www.boatrace-pr.jp/pc/site/release/2023/12/7807/ 豪華出演陣による実在のレーサーをモデルとした新CMシリーズの幕開け!ボートレース2024年CMシリーズ『ボートレース だれもが躍動するスポーツ』第1話「だれもが躍動するスポーツ篇」2024年1月1日(月)公開]</ref> |- |} CM素材については2009年4月以降、レースそのものや・CMソング・イメージソングを強調するCMとは別に、収益金からなる[[日本財団]]や納付した自治体の事業や社会貢献活動をアピールしたCM([[アザラシ]]の「ていちゃん」が登場するCM<ref>[https://web.archive.org/web/20161208115608/http://www.boatrace.jp/info/teichan/index.html きょうも、ていちゃん。](アーカイブによるキャッシュ)</ref>)も放送されている。 スポンサークレジットは当初は「全国モーターボート競走施行者協議会」であった(その時期には、[[大泉滉]]がファン心理を題材にしたもの、当時の日本船舶振興会のCMと同じ要領で、競艇の収益が社会貢献に使われている説明的なものなども放送されていた)が、その後は「水上の格闘技 KYOTEI(競艇)」や「BOAT RACE」など競艇の呼称そのものをクレジットとして表記していた。2012年以後は「[[BOAT RACE振興会]]」<ref group="†">[[日本財団]]の前身「日本船舶振興会」と名称は酷似しているが別法人。同法人は[[2007年]]に正式名を「[[財団法人]]競艇振興センター」と改めた際、「競艇振興会」を呼称としていたが、[[2010年]]に現在の「BOAT RACE振興会」の呼称に変更。[[2013年]]の公益法人の見直しで[[一般財団法人]]となってからは、正式な名称も「一般財団法人BOAT RACE振興会」に統一された。</ref>で統一されている。 <!-- **前者は主にPT(パーティーベーション)や「'''競艇LIVE'''」の中継中で流されているが、後者は決められているテレビ番組レギュラー提供番組の中のみで放送されている。(「[[えなりかずき!そらナビ]]」(2009年4月〜2010年9月。[[CBCテレビ|CBC]]制作・[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系]])→2010年10月〜は(「[[Nスタ]]全国ネットゾーン木曜日の複数社の1社)と「[[サキヨミLIVE]]」(〜2009年9月まで)→2009年10月〜2010年3月は三宅裕司司会の情報番組→2010年4月〜「[[Mr.サンデー]]」の22時台前半枠複数社の1社)この他に日本テレビ系の「真相報道 バンキシャ!」、テレビ東京系の「出没!アド街ック天国」「モヤモヤさまぁ〜ずII」にも提供している。もしくは同時刻放送の特番中での放送のみ{{要出典}}。各30')<br />前者の場合の提供クレジット表記は「'''BOAT RACE'''」(2009年までは「'''KYOTEI'''」)。で後者は前者の提供クレジット名以前に使われていた提供クレジット表記名。 --> == 男女が同じ条件で戦う競艇 == 競艇の特色の一つは「男女が同じ条件で戦う」(下記体重制限を除いて)ことである。 競艇の産みの親の一人である[[笹川良一]]は、終戦後「これからは男女が同じ立場になる時代が来る」と痛感。当初から女子にも選手への道を開くことを構想し、実践した。第1回全日本選手権には早くも4人の女子選手が出場し、[[1950年代]]には周年記念で3人が優勝している。 [[1960年代]]には女子の選手数が激減し一時は4人にまで落ち込んだが、[[1980年]](昭和55年)にデビューした[[鈴木弓子|田中弓子]]の活躍を機に再び増加に転じ、現在は約1600人いる選手のうち約250人が女子選手である<ref name="nk220321" />。 女子選手限定のレース<ref group="†">プレミアムGIレディースチャンピオン・クイーンズクライマックス、GIIIオールレディース、ヴィーナスシリーズ、賞金女王シリーズ。なお、男女混合戦でもシリーズ中に女子選手のみのレースが組まれることがある。</ref>も行われているが、多くは男女混合のレースであり、男女で体重制限(最低体重)が異なる以外はすべて同じ条件で争う。この体重制限の差がレース展開に大きな影響を及ぼすこともあり、1周1マークでは前を許したものの、バックストレッチで驚異的な伸びを見せて追いつき、2マークで女子選手が逆転するなどといったケースも多く見られる。 かつて男女差は4kg(男子は51kg以上、女子は47kg以上)であったものが規定が変更され、男子は52kg以上(女子は変更なし)となったことで5kgの差が付いたことは大きく、5kg差=1艇身と言われている世界で軽量の女子が男子と渡り合う貴重な武器になった<ref name="nk220322" />。そのため、男女混合のレースで女子選手が勝つことは日常茶飯事で、一般戦では女子選手がシリーズ優勝することもそれほど珍しくなく、中堅以下の男子選手がトップクラスの女子選手に勝つことは容易ではなくなったほか、上記の通り女子選手がSGをも制覇するようになった<ref name="nk220322" />。 === 女子選手とSG・GIの主な記録 === '''2022年3月、女子選手によるSG優勝が記録された。''' * [[1999年]](平成11年)には、[[山川美由紀]]が女子選手として41年ぶりにGI(四国地区選手権)で優勝した。 * [[2001年]](平成13年)には、[[寺田千恵]]が女子選手として初めてSG(第11回グランドチャンピオン決定戦競走)優勝戦に進出した(優勝戦は5着)。 * 2001年(平成13年)は、[[大島聖子]]が男子選手を抑えて最多勝タイトルを獲得した。これは女子選手としては初めて。 * [[2006年]](平成18年)には、[[横西奏恵]]が女子では2度目のSG(第41回総理大臣杯競走)優勝戦に進出した(優勝戦は6着)。 * [[2011年]](平成23年)のSG(第38回笹川賞)で、[[横西奏恵]]は夫の[[山崎智也]]と共にドリーム戦に出場し(SGドリーム戦で史上初の夫婦対決となった)女性選手がSG競走でドリーム戦に出場し、1着という史上初の快挙を達成した。そして自身2度目のSG優勝戦に進出した(優勝戦は6着)。 * [[2013年]](平成25年)1月、[[平山智加]]が56年ぶりに周年記念(GI尼崎開設60周年記念競走・近松賞)で優勝した。 * 2013年(平成25年)の[[名人戦競走]]では[[日高逸子]]が、[[2014年]](平成26年)の同競走では[[高橋淳美]]がそれぞれ準優勝(2着)を果たした。 * [[2018年]](平成30年)のボートレースオールスターでは、小野生奈と松本晶恵が準優勝戦に進出した。 * [[2022年]](令和4年)SG[[鳳凰賞競走|ボートレースクラシック]]で[[遠藤エミ]]がSG初優勝となった<ref name="nk220322" />。 * [[2022年]](令和4年)SG[[笹川賞競走|ボートレースオールスター]]で、[[平高奈菜]]が女子では4人目のSG優勝戦に進出した。 == 競艇をテーマにした作品 == === 映画 === * フライング飛翔 1988年、東映  === 小説 === * 湖底の賭([[梶山季之]])「一攫千金の夢」(石川喬司・選/日本ペンクラブ編)所収。1983年集英社文庫。 * 女流選手([[富島健夫]])「一攫千金の夢」(石川喬司・選/日本ペンクラブ編)所収。1983年集英社文庫。 * 女とギャンブル([[富島健夫]])1986年桃園文庫ほか。主人公はコーチ屋。 * 0(ゼロ)秒の悪魔([[風見玲子]])1989年広済堂文庫。主人公は大分県出身の女子選手。 === 漫画 === * [[モンキーターン (漫画)|モンキーターン]]([[河合克敏]]) * [[競艇少女]](作:[[寺島優]]、絵:[[小泉裕洋]]) * [[アタック0秒1]](作:[[板坂康弘]]、画:[[田丸ようすけ]]) * [[透明アクセル]]([[三田紀房]]) * [[夢色スプラッシュ]]([[あやせ理子]])1990年、学文社。[[木村厚子]]ストーリー。 * [[ターンマークの鷹]] === ゲーム === * バーチャル競艇21(2001年、[[日本物産]]) - [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ゲーム。 * 競艇WARS マクル6(2002年、[[エンターブレイン]]) - PlayStation用ゲーム。開発は[[パリティビット (ゲーム会社)|パリティビット]]。 * THE 競艇(2002年、[[ディースリー・パブリッシャー]]) - PlayStation用ゲーム。[[SIMPLE1500]]シリーズの一作。 * モンキーターンV(2004年、[[バンダイ]]) - [[PlayStation 2]]用ゲーム。上記の漫画のゲーム化作品。 * 競艇キング3D!!DX - 携帯アプリ。[[i-mode]]、[[Yahoo!ケータイ]]、[[EZWeb]]公式コンテンツ。 * 競艇ドリーム★!! - 携帯アプリ。i-mode、Yahoo!ケータイ、EZWeb公式コンテンツ。 * [[マリオパーティ3]](2000年、[[任天堂]])- [[NINTENDO64]]用ゲーム。ミニゲームに「モーターボートレース」というゲームがある。 * 競艇サクセス - 携帯アプリ。i-mode、Yahoo!ケータイ、EZWeb公式コンテンツ。 * Battle of 6 BOAT RACE(2010年、[[BOAT RACE振興会]]) - [[iPod touch]] / [[iPhone]]向けゲーム。 * [[STARBOAT]](2011年、[[セガ・インタラクティブ]])- 育成+BETゲームで実況は[[内田和男]]アナ。平和島と住之江が掲載している。 * ボートレース艇王★(2011年)- [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]向けゲーム。 * レーシング艇王★(2016年)- [[Google Play]],AppStore配信アプリ == 韓国の競艇 == {{出典の明記|date=2018年8月|section=1}} 1991年12月31日に競輪競艇法が成立。エンジン開発や選手養成等の準備期間を経て2002年10月18日、[[渼沙里漕艇競技場]]において初開催。実施主体は[[1988年ソウルオリンピック|ソウルオリンピック]]記念[[国民体育振興公団]]競艇運営本部。当初は毎週火曜日・水曜日に1日8R、単勝・複勝・2連単・2連複の各賭け式の[[舟券]]が発売された。翌年から水・木曜日に変更、2004年に3連複が導入され、2008年現在は1日15R行われている。競技形式は日本のものを取り入れているが、スタートタイミングが日本の倍の2秒以上で出遅れとなるなど若干の違いがある。 [[大村競艇場]]では、2008年4月6日に韓国競艇のトップ選手6名(男子4、女子2)を招いて模擬競走を行った。 == 関連項目 == {{commonscat|Kyotei}} *[[モーターボート競走法]] * [[競艇の競走格付け]] * [[競艇場]] * [[競艇選手]] **[[競艇選手一覧]] *[[日本モーターボート選手会]] * [[競艇施行者の一覧]] - 主催者。 * [[日本モーターボート競走会]] - 競走実施機関。 * [[日本財団]](旧・日本船舶振興会) - 収益金を元に各種事業を行う。 * [[日本レジャーチャンネル]] - 競艇中継のテレビ専門チャンネル。 * [[競艇マクール]] - 競艇専門マガジン。 * [[ビクトリーチャンネル]] - 競艇中継などを放送するテレビチャンネル。 * [[文化放送]] - SG・PG1競走について全国中継の制作を行う。 * [[日本トーター]] - 投票券発券機製造などを行う会社。 * [[賭博]] * [[公営競技]] * [[テレボート]](電話投票システム) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group=†}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=蛭子能収|authorlink=蛭子能収 |year = 1992 |title = 競艇入門 |series = Pocket book 38 |publisher = ポケットブック社 |isbn = 978-4-341-14038-0 |ref = 蛭子1992 }} * {{Cite book|和書 |author = 藤野悌一郎 |year = 2006 |title = よくわかる競艇のすべて 改訂新版 |publisher = [[三恵書房]] |isbn = 4-7829-0353-7 |ref = 藤野2006 }} == 外部リンク == {{特殊文字|対象=節|説明=[[ハングル文字]]}} * [https://www.boatrace.jp/ BOAT RACE オフィシャルウェブサイト] * [http://mbkyosokai.jp/ 一般財団法人 日本モーターボート競走会] * [http://www.kboat.or.kr/ KBOAT 경정(モーターボート)]{{ko icon}} - 公式サイト * [https://www.motorboatracing-association.jp/ 一般社団法人 全国モーターボート競走施行者協議会] * [https://www.boatrace-pr.jp/ BOAT RACE振興会] * [https://www.nippon-foundation.or.jp/ 日本財団] {{スポーツ一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きようてい}} [[Category:競艇|*]] [[Category:ウォータースポーツ]] [[Category:日本のスポーツ]] [[Category:公営競技]] [[Category:国土交通省]] [[Category:登録商標]]
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リンク
link, Link, LINK(英語) rink(英語) ring(ドイツ語) 環(輪)のこと。英語の「リング」(輪)と同意。日本語表記としてはリンクまたはリング。
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{{WikipediaPage|ウィキペディア上でリンクを利用する際の情報については、[[Help:リンク]]をご覧ください。}} __NOTOC__ == link == '''link'''、'''Link'''、'''LINK'''([[英語]]) ; 連結 * [[ソフトリンク]]、[[ハードリンク]] - コンピュータ上の[[ファイルシステム]]における機能。 * [[ハイパーリンク]] - [[World Wide Web]]で他のウェブページに移動する機能に用いられる要素。 ** [[リンク色]] - [[ウェブブラウザ]]でハイパーリンクに使われる色。 * ソフトウェア開発における目的プログラムの連結。[[リンケージエディタ]]を参照。 * [[リンク機構]] - 機械機構の要素。日本語の「節」に相当。平行リンク、パラレルリンク。 * [[グラフ理論]]におけるノード間を結ぶ経路。エッジ、枝、辺ともいう。 ; 組織 * [[リンク (航空会社)]] - リージョナル航空会社。 * [[LINK (バンド)]] - 日本のバンド。 ; 作品 * [[リンク (ポルノグラフィティの曲)]] - [[ポルノグラフィティ]]のシングル。 * [[リンク (松原静香の曲)]] - [[松原静香]]のシングル。 * [[Link (愛美の曲)]] - [[愛美]]のシングル。 * [[Link (L'Arc〜en〜Cielの曲)]] - [[L'Arc〜en〜Ciel]]のシングル。 * [[LINK (テレビドラマ)]] - 2013年に[[WOWOW]]の[[ドラマW#連続ドラマW|連続ドラマW]]枠で放送された全5話の[[連続ドラマ]]。 * [[リンク (映画)]] - 1986年のイギリスのホラー映画。 * [[LINK (ラジオ番組)]] - [[エフエム愛媛]]の昼のワイド番組。 ; 人物 * [[リンク・レイ]] - アメリカ合衆国のミュージシャン。 * [[Link (小説家)]] - 日本の小説家。 * [[LINK (漫画家)]] - 日本の漫画原作者。 ; キャラクター * [[リンク (ゲームキャラクター)]] - [[任天堂]]のコンピュータゲーム『[[ゼルダの伝説シリーズ|ゼルダの伝説]]』シリーズの主人公。 ; その他 * [[プログレッシブ・リンク]]、[[プロムナード・リンク]]、[[シンプルリンク]]など社交ダンスのおけるフィガー(複数のステップ)の一種。 * [[リンク (単位)]] - [[ヤード・ポンド法]]における長さの単位。100リンク=1[[チェーン (単位)|チェーン]]。 * [[リンク栃木ブレックス]] - [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]]に所属する[[バスケットボール]]チーム。 * [[リンク (鉄道車両)]] - ポーランド[[PESA]]製のディーゼル動車。 * [[Link (ニュース番組)]] == rink == '''rink'''(英語) * [[スケートリンク]] - [[スケート]]用の環状のコース * [[ホッケーリンク]] - [[アイスホッケー]]の競技を行う地帯。 ;作品名 * The Rink - [[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]主演の映画。邦題は『[[チャップリンのスケート]]』。 == ring == '''ring'''([[ドイツ語]]) [[環]](輪)のこと。英語の「[[リング]]」(輪)と同意。[[日本語]]表記としては'''リンク'''または'''リング'''。 * 環状のレースコース。 ** 自動車用環状のレースコース。[[英語]]でいう「サーキット」のこと。→[[サーキット]] ;施設名、固有名称 *[[ニュルブルクリンク]] - [[ドイツ]]のサーキット。 *[[レッドブル・リンク]] - [[オーストリア]]のサーキット。 * [[オーストリア]]の首都[[ウィーン]]の中心部にある環状道路(Wiener '''Ring'''straße [[リングシュトラーセ|ヴィーナー・リングシュトラーセ]])の通称。<!--街を取り囲んでいた城壁の跡に作られた。道路沿いに[[ウィーン国立歌劇場|国立歌劇場]]や国会議事堂、[[ウィーン楽友協会]]([[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の本拠地)などが建ち並んでいる。--> == LINQ == * [[統合言語クエリ]] ('''LINQ''', '''L'''anguage '''IN'''tegrated '''Q'''uery) === 組織 === * [[LinQ]] - [[福岡市]]を拠点に活動する女性ローカルアイドルグループ == 関連項目 == * {{前方一致ページ一覧}} * {{Intitle}} {{aimai}} {{デフォルトソート:りんく}} [[Category:英語の語句]] [[Category:ドイツ語の語句]] [[Category:同名の作品]]
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国防高等研究計画局
国防高等研究計画局(こくぼうこうとうけんきゅうけいかくきょく、Defense Advanced Research Projects Agency)は、軍用技術の開発および研究を行うアメリカ国防総省の特別の機関である。日本語では防衛高等研究計画局、国防高等研究事業局などとも表記される。略称はダーパ(DARPA)。ARPAの時期にインターネットの原型であるARPANET・全地球測位システムのGPSを開発したことで知られている。 アメリカ国防総省・国防総省内部部局。大統領と国防長官の直轄の組織で、アメリカ軍から直接的な干渉は受けない。構成人員は300人ほど。 DARPA長官の下には約150名の技術系職員がプロジェクトマネージャーとして各分野の研究をおこなっている。技術系職員は公募による民間人が大半であり軍人は少ない。任期は4~6年。DARPAの主な活動は軍事利用を見据えた最先端科学技術の開発である。その中でも軍や科学技術基金などの組織が投資を行わない隙間への投資を積極的に行う。 予算はアメリカ国防総省の科学技術開発費の25%と決められており、2007年度予算は32億ドルになる。DARPAの研究施設という建物は存在せず、実際の研究はプロジェクトマネージャーが企業や大学の研究施設で行っている。 国防高等研究計画局は軍の研究開発機関とは独立しており、軍や議会からの批判や抵抗を受けないという特徴を持つ。 一年半から二年周期でDARPATechという一般公募を行っている。これにはアメリカ人だけでなく国外からも参加が可能であり、書類審査を通過した3,000人が参加している。この一般公募にはアメリカ軍そのものも一般人と同条件で参加しており、アメリカ軍がDARPAから予算を貰って軍内部で研究しているという事例もある。これ以外にも無人自動車による競技大会などを定期的に開いたりして技術の公募を行っている。 国防高等研究計画局で行われている研究は全て一般公募という形を取る為、全ての研究目標が公開されており、一般に秘匿されているような極秘研究は無い。 2007年現在、DARPAは長官の下に7つのプログラムオフィスを持っている。 国防高等研究計画局ではDARPAモデルと呼ばれる手法を用いて投資する研究対象を決定している。 一見すると空想的な研究内容に予算を与えていることから評価方法の異常性を疑う意見もあるが、その評価方法は極めて現実的である。 アメリカ同時多発テロ事件後の対テロ戦争でマンハッタン計画以来の大規模な国家プロジェクトとも呼ばれる様々な個人情報収集を推し進めたDARPAの情報認知局(英語版)は監視社会・管理社会化をもたらすと批判を浴びて設置から1年で閉鎖に追い込まれた。しかし、その後、秘密裡に一部のプロジェクトが継続していたことをエドワード・スノーデンによって暴露された。 軍事訓練システムの開発と配備のための研究プロジェクトであるDARWARSにおいて、米国陸軍の車列護衛の練習用としてOperation Flashpoint: Cold War Crisis (OFP: CWC) を元にDARWARS Ambush!が開発された。その後、OFPユーザが制作したアドオンやModが無断でこのシステムに組み込まれるという問題が起きたことがある。 また最近では「メタボリック・ドミナンス」あるいは「『最高の兵士能力』プロジェクト」と呼ばれるプロジェクトが開発中である。このプロジェクトは兵士が最高のパフォーマンスを不眠・不休・絶食の状態で維持できるかというものであり、DARPAはこれに多額の資金を費やしている。しかし栄養学者などによると、DARPA内のほかのプロジェクト同様、空想の域を出ないとしている。 2015年、動く目標を自動追尾する50口径の銃弾の開発に成功したことを発表している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "国防高等研究計画局(こくぼうこうとうけんきゅうけいかくきょく、Defense Advanced Research Projects Agency)は、軍用技術の開発および研究を行うアメリカ国防総省の特別の機関である。日本語では防衛高等研究計画局、国防高等研究事業局などとも表記される。略称はダーパ(DARPA)。ARPAの時期にインターネットの原型であるARPANET・全地球測位システムのGPSを開発したことで知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アメリカ国防総省・国防総省内部部局。大統領と国防長官の直轄の組織で、アメリカ軍から直接的な干渉は受けない。構成人員は300人ほど。", "title": "組織概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "DARPA長官の下には約150名の技術系職員がプロジェクトマネージャーとして各分野の研究をおこなっている。技術系職員は公募による民間人が大半であり軍人は少ない。任期は4~6年。DARPAの主な活動は軍事利用を見据えた最先端科学技術の開発である。その中でも軍や科学技術基金などの組織が投資を行わない隙間への投資を積極的に行う。", "title": "組織概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "予算はアメリカ国防総省の科学技術開発費の25%と決められており、2007年度予算は32億ドルになる。DARPAの研究施設という建物は存在せず、実際の研究はプロジェクトマネージャーが企業や大学の研究施設で行っている。", "title": "組織概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国防高等研究計画局は軍の研究開発機関とは独立しており、軍や議会からの批判や抵抗を受けないという特徴を持つ。", "title": "組織概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一年半から二年周期でDARPATechという一般公募を行っている。これにはアメリカ人だけでなく国外からも参加が可能であり、書類審査を通過した3,000人が参加している。この一般公募にはアメリカ軍そのものも一般人と同条件で参加しており、アメリカ軍がDARPAから予算を貰って軍内部で研究しているという事例もある。これ以外にも無人自動車による競技大会などを定期的に開いたりして技術の公募を行っている。", "title": "組織概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国防高等研究計画局で行われている研究は全て一般公募という形を取る為、全ての研究目標が公開されており、一般に秘匿されているような極秘研究は無い。", "title": "組織概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2007年現在、DARPAは長官の下に7つのプログラムオフィスを持っている。", "title": "現在の組織構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国防高等研究計画局ではDARPAモデルと呼ばれる手法を用いて投資する研究対象を決定している。 一見すると空想的な研究内容に予算を与えていることから評価方法の異常性を疑う意見もあるが、その評価方法は極めて現実的である。", "title": "選定方法" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "アメリカ同時多発テロ事件後の対テロ戦争でマンハッタン計画以来の大規模な国家プロジェクトとも呼ばれる様々な個人情報収集を推し進めたDARPAの情報認知局(英語版)は監視社会・管理社会化をもたらすと批判を浴びて設置から1年で閉鎖に追い込まれた。しかし、その後、秘密裡に一部のプロジェクトが継続していたことをエドワード・スノーデンによって暴露された。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "軍事訓練システムの開発と配備のための研究プロジェクトであるDARWARSにおいて、米国陸軍の車列護衛の練習用としてOperation Flashpoint: Cold War Crisis (OFP: CWC) を元にDARWARS Ambush!が開発された。その後、OFPユーザが制作したアドオンやModが無断でこのシステムに組み込まれるという問題が起きたことがある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また最近では「メタボリック・ドミナンス」あるいは「『最高の兵士能力』プロジェクト」と呼ばれるプロジェクトが開発中である。このプロジェクトは兵士が最高のパフォーマンスを不眠・不休・絶食の状態で維持できるかというものであり、DARPAはこれに多額の資金を費やしている。しかし栄養学者などによると、DARPA内のほかのプロジェクト同様、空想の域を出ないとしている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2015年、動く目標を自動追尾する50口径の銃弾の開発に成功したことを発表している。", "title": "その他" } ]
国防高等研究計画局は、軍用技術の開発および研究を行うアメリカ国防総省の特別の機関である。日本語では防衛高等研究計画局、国防高等研究事業局などとも表記される。略称はダーパ(DARPA)。ARPAの時期にインターネットの原型であるARPANET・全地球測位システムのGPSを開発したことで知られている。
{{Redirect|ARPA|[[トップレベルドメイン]]|.arpa}} {{Infobox Government agency |agency_name = 国防高等研究計画局 |abbreviation = kala pa |logo = DARPA_Logo.jpg |logo_width = |logo_caption = |seal = |seal_width = |seal_caption = |formed = 1958年2月7日 |preceding1 = |jurisdiction = |headquarters = バージニア州[[アーリントン郡]] |employees = 220人<ref>{{cite web|url=https://www.darpa.mil/about-us/about-darpa |title=About Us|author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date=n.d. |publisher=Defense Advanced Research Projects Agency |access-date=September 29, 2019}}</ref> |budget = 38億6800万米ドル(2022会計年度)<ref>{{cite web |url=https://www.darpa.mil/about-us/budget |title=Budget |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date=n.d. |publisher=Defense Advanced Research Projects Agency |access-date=May 2, 2023}}</ref> |chief1_name = ステファニー・トンプキンス |chief1_position = 局長 |chief2_name = |chief2_position = |department = [[United States Department of Defense|Department of Defense]] |child1_agency = |website = [http://www.darpa.mil/ DARPA.mil] }} [[File:DARPA HQ (52368078715).jpg|250px|thumb|国防高等研究計画局本庁舎(2022年)]] '''国防高等研究計画局'''(こくぼうこうとうけんきゅうけいかくきょく、'''Defense Advanced Research Projects Agency''')は、軍用技術の開発および研究を行う[[アメリカ国防総省]]の[[特別の機関]]である。日本語では'''防衛高等研究計画局'''、'''国防高等研究事業局'''などとも表記される。略称は'''ダーパ'''('''DARPA''')。ARPAの時期に[[インターネット]]の原型である[[ARPANET]]・全地球測位システムの[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]を開発したことで知られている。 ==組織概要== [[アメリカ国防総省]]・国防総省内部部局。[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]の直轄の組織で、[[アメリカ軍]]から直接的な干渉は受けない{{要出典|date=2020年11月29日 (日) 22:54 (UTC)}}。構成人員は300人ほど。 DARPA長官の下には約150名の技術系職員がプロジェクトマネージャーとして各分野の研究をおこなっている。技術系職員は公募による民間人が大半であり軍人は少ない{{要出典|date=2020年11月29日 (日) 22:54 (UTC)}}。任期は4~6年。DARPAの主な活動は軍事利用を見据えた最先端科学技術の開発である。その中でも軍や[[アメリカ国立科学財団|科学技術基金]]などの組織が投資を行わない[[ニッチ|隙間]]への投資を積極的に行う。 予算はアメリカ国防総省の科学技術開発費の25%と決められており、2007年度予算は32億ドルになる。DARPAの研究施設という建物は存在せず、実際の研究はプロジェクトマネージャーが企業や大学の研究施設で行っている。 国防高等研究計画局は軍の研究開発機関とは独立しており、軍や[[アメリカ合衆国議会|議会]]からの批判や抵抗を受けないという特徴を持つ。 一年半から二年周期でDARPATechという一般公募を行っている。これにはアメリカ人だけでなく国外からも参加が可能であり、書類審査を通過した3,000人が参加している。この一般公募にはアメリカ軍そのものも一般人と同条件で参加しており、アメリカ軍がDARPAから予算を貰って軍内部で研究しているという事例もある{{要出典|date=2020年11月29日 (日) 22:54 (UTC)}}。これ以外にも無人自動車による[[ロボットカーレース|競技大会]]などを定期的に開いたりして技術の公募を行っている。 国防高等研究計画局で行われている研究は全て一般公募という形を取る為、全ての研究目標が公開されており、一般に秘匿されているような極秘研究は無い。 ==現在の組織構造== 2007年現在、DARPAは長官の下に7つのプログラムオフィスを持っている。 ;1.防衛科学研究室 (The Defense Sciences Office (DSO) ) :基礎研究部門の一つで主に数学、物理、化学、生物、材料工学、医学などの研究を行っている。 ;2.情報処理技術研究室 (The Information Processing Technology Office (IPTO) ) :基礎研究部門の一つで主にネットワーク、通信、情報収集などの研究を行っている。 ;3.マイクロシステム技術研究室 (The Microsystems Technology Office (MTO) ) :基礎研究部門の一つで主に半導体や[[マイクロマシン]]などの微細技術の研究を行っている。 ;4.先進技術研究室 (The Advanced Technology Office (ATO) ) :応用研究部門の一つ ;5.情報活用研究室 (The Information Exploitation Office (IXO) ) :応用研究部門の一つ ;6.特別技術研究室 (The Special Projects Office (SPO) ) :応用研究部門の一つ ;7.戦術研究室 (The Tactical Technology Office (TTO) ) :応用研究部門の一つ ==選定方法== 国防高等研究計画局ではDARPAモデルと呼ばれる手法を用いて投資する研究対象を決定している。 一見すると空想的な研究内容に予算を与えていることから評価方法の異常性を疑う意見もあるが{{誰によって|date=2020年11月29日 (日) 22:56 (UTC)}}、その評価方法は極めて現実的である。 #プロジェクトマネージャーと長官と政府、国防総省などの三者間でアイディアと提案の意見交換を行う。 #挑戦する目標を決定する。 #解決方法の妥当性評価 #評価ポイントの設定 #公募仕様書 (DARPA Operation Plan) の作成 #公募を実施 #実施者を選定 #実施者との契約 ==歴史== *1957年に[[スプートニク・ショック]]を受けた[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー大統領]]の命令で国防長官に進言する防衛科学技術担当長官 (DDR&E) を国防総省内局 (OSD) に設置したのが始まりである。 *1958年に防衛科学技術担当長官 (DDR&E) の下に最先端科学技術を短期間で軍事技術へ転用させるための研究を管理する組織として'''高等研究計画局'''('''Advanced Research Projects Agency'''、略称:'''アーパ'''、'''ARPA''')が設立された。 * 1972年3月23日 DARPAへ改称。 * 1993年2月22日 ARPAへ戻される。 * 1996年3月11日 再びDARPAへ戻される。 * 2001年6月18日 {{仮リンク|アンソニー・J・テザー|en|Anthony J. Tether}}が長官に就任 * 2009年7月2日 {{仮リンク|レジナ・E・デューガン|en|Regina E. Dugan}}が第19代長官に就任 <gallery mode="packed" widths="350px" caption="歴史"> File:DARPA through 50 years.ogv|DARPAの50年後 File:01 The Formative Years 1958 - 1975 (DARPA history).ogv|形成期(1958〜1975年) File:02 - The Cold War Era 1975 - 1989 (DARPA history).ogv|冷戦時代(1975〜1989年) File:03 - The Post-Soviet Years 1989 - Present 2008 (DARPA history).ogv|ソビエト後(1989年) </gallery> ==その他== [[アメリカ同時多発テロ事件]]後の[[対テロ戦争]]で[[マンハッタン計画]]以来<ref>Shorrock, Tim (2008). Spies for Hire: The Secret World of Intelligence Outsourcing. Simon and Schuster. p. 221. ISBN 9780743282246.</ref>の大規模な国家プロジェクトとも呼ばれる様々な個人情報収集を推し進めたDARPAの{{仮リンク|情報認知局|en|Information Awareness Office}}は[[監視社会]]・[[管理社会]]化をもたらすと批判を浴びて設置から1年で閉鎖に追い込まれた。しかし、その後、秘密裡に一部のプロジェクトが継続していたことを[[エドワード・スノーデン]]によって暴露された。 軍事訓練システムの開発と配備のための研究プロジェクトである[[:en:DARWARS|DARWARS]]において、米国陸軍の車列護衛の練習用として[[Operation Flashpoint: Cold War Crisis]] (OFP: CWC) を元に[[:en:DARWARS#DARWARS Ambush!|DARWARS Ambush!]]が開発された。その後、OFPユーザが制作した[[拡張パック|アドオン]]や[[Mod (コンピューターゲーム)|Mod]]が無断でこのシステムに組み込まれるという問題が起きたことがある。 また最近では「メタボリック・ドミナンス」あるいは「『最高の兵士能力』プロジェクト」と呼ばれるプロジェクトが開発中である。このプロジェクトは兵士が最高のパフォーマンスを不眠・不休・絶食の状態で維持できるかというものであり、DARPAはこれに多額の資金を費やしている。しかし栄養学者などによると、DARPA内のほかのプロジェクト同様、空想の域を出ないとしている。 2015年、動く目標を自動追尾する50口径の[[銃弾]]の開発に成功したことを発表している<ref>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/usa/35063929.html?tag=mcol;relStories |title=動く標的を自動追尾、「かわせない銃弾」の実験に成功|publisher=CNN|date=2015-04-30|accessdate=2017-06-24}}</ref>。 == 出典 == <references /> == 関連項目 == * [[ARPANET]] * [[.arpa]] * [[Falcon HTV2]] * [[ビッグドッグ]] * [[シェーキー]] * [[自動運転車]](ロボットカー) * [[DARPAモデル]](TCP/IPモデル) == 外部リンク == * [http://www.darpa.mil/ DARPAサイト]{{en icon}} * {{Cite web|和書|date=2007-10-17|url=https://www.nedo.go.jp/content/100105176.pdf|title=米国連邦政府機関における半導体関連技術 R&D の取り組み、国防総省高等研究計画局(DARPA)|format=PDF|publisher=NEDO([[新エネルギー・産業技術総合開発機構]])|accessdate=2021-07-02}} {{アメリカ合衆国の行政組織}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:こくほうこうとうけんきゆうけいかくきよく}} [[Category:アメリカ合衆国の軍事研究]] [[Category:アメリカ国防総省]] [[Category:軍事技術研究開発機関]] [[Category:UNIXに関連する組織]] [[Category:研究プロジェクト]] [[Category:アーリントン郡 (バージニア州)]] [[Category:研究機関]] [[Category:国防高等研究計画局|*]] [[Category:1958年設立の政府機関]]
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幕府
幕府(ばくふ)は、日本において征夷大将軍を首長とする武家政権もしくはその政庁を指す語。 日本では中世から近世にかけて、武家の棟梁を首班とする政権が次々と成立した。江戸時代中期以降、これらの武家政権の中でも特に征夷大将軍を首班とするものを幕府と称するようになった。現在の歴史用語としては、鎌倉幕府と室町幕府と江戸幕府の3つを一貫して把握する語として用いられており、厳密には首長が征夷大将軍に任ぜられていない期間も含まれる。どの幕府も形式上は将軍の家政機関の形態をとっていた。 武家政権の中でも、平氏政権、織田政権、豊臣政権については一般に「幕府」とは呼ばれていない(近年の歴史学における新しい「幕府」呼称の提案については、#新たな「幕府」呼称の事例節を参照)。 「幕」は「幔幕」・「陣幕」・「帳幕」・「天幕」を意味し、「府」は王室等の財宝や文書を収める場所、転じて役所を意味する。中国の戦国時代、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。日本では近衛府の唐名として用いられ、転じて近衛大将の居館および近衛大将その人を指すようになった。「幕下(ばっか、ばくか)」あるいは「柳営」ともいった。 源頼朝は建久元年(1190年)、権大納言と右近衛大将(右大将)に任じられた。そのため、政庁(居館)が「幕府」と呼ばれた。その後、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられるが、居館は引き続き「幕府」と呼ばれ、以後、「幕府」は武家政権の首長およびその居館の呼称として用いられた。ただし、鎌倉時代末には、現代において「鎌倉幕府」と呼ばれている政体を「東関柳営」もしくは「東関幕府」と呼んだという同時代史料が存在している。 南北朝時代には、鎌倉公方(関東公方)の政体を「関東幕府」と呼んだ事例が存在するが、京都と対立する関東の政権にしか用いられておらず、京都の公方(=「室町幕府」)はこのように幕府という用語では呼ばれていない。 「幕府」という言葉が将軍個人や空間的な将軍の居館・政庁から離れ、今日のように観念的な武家政権を指すものとして用いられるようになるのは、藩と同じく江戸時代中期以降のことで、朱子学の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する儒学者によって唱えられた。「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉はこの時代以降に考案されたものである。それ以前には「関東」「武家」「公方」などと呼ばれており、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したことも、朝廷が幕府を開くようにと命じる詔勅もない。 このため、幕府の成立年と征夷大将軍の宣下とは必ずしも一致しない。教科書等では従来、源頼朝が征夷大将軍の宣下を受けた1192年が鎌倉幕府創設の年とされてきたが、現在は7年前に守護・地頭職の設置・任免の許可を受けた1185年が記載されている。ただし、更に遡って9年前に東国支配権の承認を得た1183年説も有力である。室町幕府の実質的な成立は、足利尊氏が権大納言に任ぜられた1336年とされるが、征夷大将軍に任ぜられたのは1338年である。江戸幕府については、一般的に徳川家康が将軍宣下を受けた1603年の成立とされている。 一方で王政復古の大号令では「摂関幕府等廃絶」と明記されており、江戸幕府の終焉については明確に記されている。 近年、歴史学者の中から、鎌倉・室町・江戸幕府以外の武家政権について、新たに「幕府」との呼称を提唱する例が出ている。 一方で、東島誠は「新奇な幕府呼称」について批判的な見解を示しており、「堺幕府」や「鞆幕府」など将軍の居所にのみ依拠した幕府名称には意味がないと断じた上で、「「〇〇幕府」は、東国国家論、二つの王権論、いくつもの幕府論等、列島の中心の多点化を問う議論に限定して用いるべきだ」と提言している。 なお、河内春人は5世紀前半の倭の五王に関し、中国宋朝廷から安東将軍に任命された倭王讃の政権は「天皇が任命した征夷大将軍の幕府」と「構造的には同じ」だと説明している。
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幕府(ばくふ)は、日本において征夷大将軍を首長とする武家政権もしくはその政庁を指す語。 日本では中世から近世にかけて、武家の棟梁を首班とする政権が次々と成立した。江戸時代中期以降、これらの武家政権の中でも特に征夷大将軍を首班とするものを幕府と称するようになった。現在の歴史用語としては、鎌倉幕府と室町幕府と江戸幕府の3つを一貫して把握する語として用いられており、厳密には首長が征夷大将軍に任ぜられていない期間も含まれる。どの幕府も形式上は将軍の家政機関の形態をとっていた。 武家政権の中でも、平氏政権、織田政権、豊臣政権については一般に「幕府」とは呼ばれていない(近年の歴史学における新しい「幕府」呼称の提案については、#新たな「幕府」呼称の事例節を参照)。
{{redirect|柳営|台湾台南市の市轄区|柳営区}} {{Otheruses|日本の武家政権|中国における地方官の秘書組織|幕府 (中国)}} '''幕府'''(ばくふ)は、日本において[[征夷大将軍]]を首長とする[[武家政権]]もしくはその政庁を指す語<ref>『日本大百科全書』(小学館)、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(ブリタニカジャパン)、『山川日本史小辞典(改訂新版)』(山川書店)など</ref>。 日本では[[中世]]から[[近世]]にかけて、[[武家の棟梁]]を首班とする政権が次々と成立した。江戸時代中期以降、これらの武家政権の中でも特に[[征夷大将軍]]を首班とするものを'''幕府'''と称するようになった。現在の歴史用語としては、[[鎌倉幕府]]と[[室町幕府]]と[[江戸幕府]]の3つを一貫して把握する語として用いられており、厳密には首長が征夷大将軍に任ぜられていない期間も含まれる。どの幕府も形式上は将軍の[[家政機関]]の形態をとっていた。 {| class="wikitable" style="margin:0 0 0.5em 1.5em;" |- !名称!!時代!!政庁!!創設者!!将軍家!!代数!!補佐職 |- |[[鎌倉幕府]]||[[鎌倉時代]]||[[相模国]][[鎌倉]]||[[源頼朝]]||[[源家]]・[[摂家将軍|摂家]]・[[宮将軍|宮家]]||9代||[[執権]]([[北条氏]][[得宗]]家) |- |[[室町幕府]]||[[室町時代]]||[[山城国]][[京都]]||[[足利尊氏]]||[[足利氏]]||15代||[[管領]]([[細川氏]]、[[斯波氏]]、[[畠山氏]]) |- |[[江戸幕府]]||[[江戸時代]]||[[武蔵国]][[江戸]]||[[徳川家康]]||[[徳川氏]]||15代||[[大老]]・[[老中]] |} 武家政権の中でも、[[平氏政権]]、[[織田政権]]、[[豊臣政権]]については一般に「幕府」とは呼ばれていない(近年の歴史学における新しい「幕府」呼称の提案については、[[#新たな「幕府」呼称の事例]]節を参照)。 == 語義 == {{See also|幕府 (中国)}} 「[[幕]]」は「幔幕」・「陣幕」・「帳幕」・「[[天幕]]」を意味し、「[[府]]」は[[王室]]等の[[財宝]]や[[文書]]を収める場所、転じて[[役所]]を意味する。[[戦国時代 (中国)|中国の戦国時代]]、[[王]]に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。日本では[[近衛府]]の[[唐名]]として用いられ、転じて[[近衛大将]]の居館および近衛大将その人を指すようになった。「幕下(ばっか、ばくか)」あるいは「柳営」<ref group="注釈">[[前漢]]の将軍、[[周亜夫]]が[[匈奴]]征伐のために「細柳」という地に布陣し、軍規を厳しく威令を整え、[[文帝 (漢)|文帝]]の行列すらも陣中の作法を守らせるために下馬させ、かえって文帝の賞賛を受けたという『[[漢書]]』周勃伝の故事より</ref>ともいった。 == 日本における「幕府」呼称 == [[源頼朝]]は[[建久]]元年([[1190年]])、[[権大納言]]と右[[近衛大将]](右大将)<ref group="注釈">それぞれ「うこんえのだいしょう」「うだいしょう」と読む</ref>に任じられた。そのため、[[政庁]](居館)が「幕府」と呼ばれた。その後、[[建久]]3年([[1192年]])に征夷大将軍に任ぜられるが、居館は引き続き「幕府」と呼ばれ、以後、「幕府」は武家政権の首長およびその居館の呼称として用いられた。ただし、鎌倉時代末には、現代において「鎌倉幕府」と呼ばれている政体を「東関柳営」もしくは「東関幕府」と呼んだという同時代史料が存在している<ref name="higashijima">[https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/660/660PDF/higashijima.pdf 東島誠『「幕府」論のための基礎概念序説』]</ref>。 南北朝時代には、[[鎌倉公方]](関東公方)の政体を「関東幕府」と呼んだ事例が存在するが、京都と対立する関東の政権にしか用いられておらず、京都の公方(=「室町幕府」)はこのように幕府という用語では呼ばれていない<ref name="higashijima"></ref>。 「幕府」という言葉が将軍個人や[[空間]]的な将軍の居館・政庁から離れ、今日のように[[観念]]的な武家政権を指すものとして用いられるようになるのは、[[藩]]と同じく[[江戸時代]]中期以降のことで、[[朱子学]]の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する[[儒学者]]によって唱えられた。「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉はこの時代以降に考案されたものである。それ以前には「関東」「武家」「[[公方]]」などと呼ばれており、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したことも、朝廷が幕府を開くようにと命じる詔勅もない。 このため、幕府の成立年と征夷大将軍の宣下とは必ずしも一致しない。教科書等では従来、源頼朝が征夷大将軍の宣下を受けた[[1192年]]が鎌倉幕府創設の年とされてきたが、現在は7年前に[[守護]]・[[地頭]]職の設置・任免の許可を受けた[[1185年]]が記載されている。ただし、更に遡って9年前に東国支配権の承認を得た[[1183年]]説も有力である。室町幕府の実質的な成立は、足利尊氏が権大納言に任ぜられた[[1336年]]とされるが、征夷大将軍に任ぜられたのは[[1338年]]である。江戸幕府については、一般的に徳川家康が[[将軍宣下]]を受けた[[1603年]]の成立とされている。 一方で[[王政復古の大号令]]では「[[摂関]]幕府等廃絶」と明記されており、江戸幕府の終焉については明確に記されている。 === 新たな「幕府」呼称の事例 === 近年、歴史学者の中から、鎌倉・室町・江戸幕府以外の武家政権について、新たに「幕府」との呼称を提唱する例が出ている。 ;[[六波羅]]幕府:[[平清盛]]による権力を最初の武家政権ととらえる。鎌倉幕府の本質を[[大番役]]勤仕とした上で、平氏政権の大番役開始をもって「幕府」の開始とする。[[高橋昌明]]が提唱<ref>[[高橋昌明]]『平家と六波羅幕府』(東京大学出版会、2013年)</ref>。 ;[[福原京|福原]]幕府:[[平家]]による武家政権が確立した時期を、六波羅に本拠を置いた時代ではなく福原遷都以降であるととらえる。[[本郷和人]]が提唱<ref>[[本郷和人]]『謎とき平清盛』(文春新書、2011年)</ref>。 ;[[奥州]]幕府:[[藤原秀衡]]が構想した政権を幕府と表現する。[[入間田宣夫]]が提唱<ref>[[入間田宣夫]]「藤原秀衡の奥州幕府構想」(上横手雅敬編著『源義経流浪の勇者―京都・鎌倉・平泉』(文英堂、2004年)、入間田宣夫『藤原秀衡―義経を大将軍として国務せしむべし』(ミネルヴァ書房、2016年)</ref>。 ;[[堺公方|堺幕府]]:室町幕府第12代将軍[[足利義晴]]とならんで、堺を本拠地に「堺公方」と呼ばれた[[足利義維]]をいただく勢力を「堺幕府」と呼ぶ仮説。[[今谷明]]が提唱<ref>[[今谷明]]『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店、1985年)、今谷明『戦国三好一族』(新人物往来社、1985年)、今谷明『戦国期の室町幕府』(講談社学術文庫、2006年)</ref>。 ;[[鞆幕府]]:室町幕府第15代将軍[[足利義昭]]が京都から追放された後、[[備後国]][[鞆]]における亡命政権を独自の幕府ととらえる。[[藤田達生]]が提唱<ref>[[藤田達生]]「京都復帰を画策する足利義昭と「鞆幕府」」(『歴史読本』2011年7月号)</ref> ;[[安土城|安土]]幕府:[[織田信長]]の政権を幕府とする。[[藤田達生]]が提唱<ref>[[藤田達生]]『信長革命―「安土幕府」の衝撃』(角川選書、2010年)</ref>。 一方で、[[東島誠]]は「新奇な幕府呼称」について批判的な見解を示しており、「堺幕府」や「鞆幕府」など将軍の居所にのみ依拠した幕府名称には意味がないと断じた上で、「「〇〇幕府」は、東国国家論、二つの王権論、いくつもの幕府論等、列島の中心の多点化を問う議論に限定して用いるべきだ」と提言している<ref name="higashijima"></ref>。 なお、[[河内春人]]は5世紀前半の[[倭の五王]]に関し、中国[[宋 (南朝)|宋]]朝廷から[[安東将軍]]に任命された倭王[[讃]]の政権は「天皇が任命した征夷大将軍の幕府」と「構造的には同じ」だと説明している<ref>[[河内春人]]『倭の五王』(中公新書、2018年)pp64-65</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[将軍]] * [[都督]] * [[政権]] ** [[軍事政権]] ** [[武家政権]] * [[武士]] * [[朝廷 (日本)|朝廷]] * [[征夷大将軍]] * [[政庁]] * [[消滅した政権一覧]] * [[鎌倉幕府]] * [[室町幕府]] * [[江戸幕府]] * [[鞆城]] * [[堺公方]] * [[幕藩体制]] * [[藩政改革]] * [[幕臣]] * [[関東御領]]/[[御料所]]/[[蔵入地]]/[[天領]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{日本の幕府と武家政権}} {{DEFAULTSORT:はくふ}} [[Category:鎌倉時代]] [[Category:室町時代]] [[Category:江戸時代]] [[Category:幕府|*はくふ]] [[Category:武士|*はくふ]] [[en:Shogun#Shogunate]] [[pt:Xogum#Xogunato]]
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融点
融点(ゆうてん、独: Schmelzpunkt、仏: point de fusion、英: melting point)とは、固体が融解し液体になる時の温度のことをいう。ヒステリシスが無い場合には凝固点(液体が固体になる時の温度)と一致する。また、三重点すなわち平衡蒸気圧下の融点は物質固有の値を取り、不純物が含まれている場合は凝固点降下により融点が低下することから物質を同定したり、純度を確認したりする手段として用いられる。 熱的に不安定な物質は溶融と共に分解反応が生じる場合もある。その場合の温度は分解点と呼ばれる場合があり、融点に(分解)と併記されることがある。 水の融点を氷点という。気圧や水に含まれる不純物によって変化するが、厳密にはセルシウス度0°Cではなく、0.002 519°C であり、絶対温度で表すと273.152 519 ケルビン (K)である(水#水の性質を参照)。 広義には、水が凝固する温度点の意味でも用いられる。この境界を跨いで温度が変化することで、水分の多い地球上の自然現象や生態系に様々な影響を及ぼすことから、温度の指標として重要なもののひとつである。氷点以下の温度を氷点下という。 融点を測定する際、測定系の温度に偏りがないことが重要であるので、種々の工夫が施される。まず、融点を測定する試料は微粉末に粉砕され且つ微量氷を用いることで試料内の温度の偏差を少なくすることが求められる。試料の容器としては一方の端を閉じた毛細管が用いられることがあるが、測定装置によっては2枚の顕微鏡用カバーグラスに挟み込んで容器とするものもある。 また急激に温度を上昇させると試料と温度計との間に温度勾配が発生して測定誤差を生じるため融点を計測する時点での加温は毎分1°C以下の上昇率で測定することが望ましい。 前述のように微粉末として調整するので、表面での乱反射により融解前の試料は不透明である。試料の外見が透明化し始めた温度を融点の下限点とし、融解しきった温度を上限点とすることが通常である。 測定装置は種々の形態のものが存在するが、最も古典的な装置は二重管式温度計に試料を詰めた毛細管を取り付けて温浴で加温する装置が使用される。二重管式温度計に毛細管を貼り付ける目的で温浴の液体として粘性の高い液体が用いられ、濃硫酸ないしはシリコンオイルが用いられることが多く、温度計先端の溜めの近傍に試料が来るように取り付ける。 あるいは融点測定装置では金属のヒートブロックを使って加温し、光の透過率を測定しながら加温を調製しつつ自動的に融点を決定するものも存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "融点(ゆうてん、独: Schmelzpunkt、仏: point de fusion、英: melting point)とは、固体が融解し液体になる時の温度のことをいう。ヒステリシスが無い場合には凝固点(液体が固体になる時の温度)と一致する。また、三重点すなわち平衡蒸気圧下の融点は物質固有の値を取り、不純物が含まれている場合は凝固点降下により融点が低下することから物質を同定したり、純度を確認したりする手段として用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "熱的に不安定な物質は溶融と共に分解反応が生じる場合もある。その場合の温度は分解点と呼ばれる場合があり、融点に(分解)と併記されることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "水の融点を氷点という。気圧や水に含まれる不純物によって変化するが、厳密にはセルシウス度0°Cではなく、0.002 519°C であり、絶対温度で表すと273.152 519 ケルビン (K)である(水#水の性質を参照)。", "title": "氷点" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "広義には、水が凝固する温度点の意味でも用いられる。この境界を跨いで温度が変化することで、水分の多い地球上の自然現象や生態系に様々な影響を及ぼすことから、温度の指標として重要なもののひとつである。氷点以下の温度を氷点下という。", "title": "氷点" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "融点を測定する際、測定系の温度に偏りがないことが重要であるので、種々の工夫が施される。まず、融点を測定する試料は微粉末に粉砕され且つ微量氷を用いることで試料内の温度の偏差を少なくすることが求められる。試料の容器としては一方の端を閉じた毛細管が用いられることがあるが、測定装置によっては2枚の顕微鏡用カバーグラスに挟み込んで容器とするものもある。", "title": "融点測定法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また急激に温度を上昇させると試料と温度計との間に温度勾配が発生して測定誤差を生じるため融点を計測する時点での加温は毎分1°C以下の上昇率で測定することが望ましい。", "title": "融点測定法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "前述のように微粉末として調整するので、表面での乱反射により融解前の試料は不透明である。試料の外見が透明化し始めた温度を融点の下限点とし、融解しきった温度を上限点とすることが通常である。", "title": "融点測定法" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "測定装置は種々の形態のものが存在するが、最も古典的な装置は二重管式温度計に試料を詰めた毛細管を取り付けて温浴で加温する装置が使用される。二重管式温度計に毛細管を貼り付ける目的で温浴の液体として粘性の高い液体が用いられ、濃硫酸ないしはシリコンオイルが用いられることが多く、温度計先端の溜めの近傍に試料が来るように取り付ける。", "title": "融点測定法" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "あるいは融点測定装置では金属のヒートブロックを使って加温し、光の透過率を測定しながら加温を調製しつつ自動的に融点を決定するものも存在する。", "title": "融点測定法" } ]
融点とは、固体が融解し液体になる時の温度のことをいう。ヒステリシスが無い場合には凝固点(液体が固体になる時の温度)と一致する。また、三重点すなわち平衡蒸気圧下の融点は物質固有の値を取り、不純物が含まれている場合は凝固点降下により融点が低下することから物質を同定したり、純度を確認したりする手段として用いられる。 熱的に不安定な物質は溶融と共に分解反応が生じる場合もある。その場合の温度は分解点と呼ばれる場合があり、融点に(分解)と併記されることがある。
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8,853
アルバニア
アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、アルバニア語: Republika e Shqipërisë)、通称アルバニアは、東南ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和制国家。首都はティラナ。 西はアドリア海に面し、対岸はイタリアである。北はモンテネグロ、北東はコソボ(コソボを独立国と認めない立場からすればセルビア)、東は北マケドニア、南はギリシャと国境を接する。 同国はヨーロッパにおける宗教の特色が色濃い地域の一つとして知られている。 宗教の信者数はオスマン帝国支配などの歴史的経緯から、イスラム教徒である国民が大半を占め、欧州で唯一のイスラム協力機構正規加盟国でもあるが、信仰形態は非常に世俗的である。 また、キリスト教の正教会やカトリックの信者も少なくない。 正式名称はアルバニア語でRepublika e Shqipërisë(アルバニア語発音: [ɾɛpuˈblika ɛ ʃcipəˈɾiːsə] レプブリカ・エ・シュチパリサ)、通称はShqipëri(不定形)/Shqipëria(定形)([ʃcipəˈɾi, ʃcipəˈɾiːa] シュチパリ、シュチパリア)。 公式の英語表記はRepublic of Albania([rɪˈpʌblɪk əv ælˈbeɪniə, ɔːlˈbeɪniə] リパブリク・オヴ・エルベイニア、オールベイニア)、通称はAlbania(エルベイニア、オールベイニア)。 日本語の表記はアルバニア共和国、通称はアルバニア。漢字による当て字は、阿爾巴尼亜。 シュチパリアとはアルバニア語で「鷲(Shqiponja)の国」を意味し、アルバニア人が鷲の子孫であるという伝説に由来する。これに対し、他称の「アルバニア」はラテン語の「albus(白い)」が語源とされ、語源を同じくするアルビオンと同様アルバニアの地質が主に石灰岩質で白いことから「白い土地」と呼んだことに由来する。 古代にはイリュリアと呼ばれた。紀元前1000年ごろから、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシア文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。 前2世紀にはローマ帝国の支配下となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。 14世紀以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、オスマン帝国による侵攻が始まる。スカンデルベクにより、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、1478年にはオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は多大な影響を受けることとなった。特に地主をはじめとする支配階級によるキリスト教からイスラム教への改宗が相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあったブルガリアなどとは異なり、現在アルバニア人の半数以上がムスリムであるといわれる(もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も家にイコン画を飾る風習など、正教会やカトリックとの共通点を多く持つ)。 長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「アルバニア人」意識の形成が遅れたが、19世紀末には民族意識(ナショナリズム)が高揚し、1878年のプリズレン連盟(アルバニア国民連盟、プリズレンは現在のコソボにある都市の名)結成以降は民族運動が相次いだ。 第1次バルカン戦争の途中、1912年にイスマイル・ケマルらがオスマン帝国からの独立を宣言する。しかし、列強に独立は認められたものの、国境画定の際にコソボなど独立勢力が「国土」と考えていた地の半分以上が削られた(「大アルバニア」を参照)。1914年にドイツ帝国の貴族ヴィート公子ヴィルヘルム・ツー・ヴィートを公に迎え、アルバニア公国となったものの、第一次世界大戦で公が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、無政府状態に陥った。 1920年には君主不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたが、その後も政情は不安定であり、1925年には共和国宣言を行いアフメド・ゾグーが大統領に就任した(アルバニア共和国)。 その後、ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアには君主政のアルバニア王国が成立した。 1939年4月7日、アルバニアに上陸したイタリア軍は簡単な戦闘の後、 全土に進駐し、ゾグーは王妃と共に亡命した(イタリアのアルバニア侵攻)。イタリア王国との同君連合という形で国王にはイタリアの国王が即位し、親伊派の傀儡政権が置かれた。第二次世界大戦時の1940年にはイタリアによるギリシャ侵攻(ギリシャ・イタリア戦争、ギリシャの戦い)によって南部の各地域が激戦地となった。翌1941年には、イタリアは同じ枢軸国であるナチス・ドイツなどとともに、アルバニア北隣のユーゴスラビアに侵攻。独ソ戦も始まり、バルカン半島全体が戦場となった。1943年にイタリアが連合国に降伏すると、アルバニアはドイツ軍によって占領された。 1944年11月29日、アルバニアのパルチザン(英語版)とソビエト連邦軍による全土解放が行われ、アルバニア共産党を中心とした社会主義臨時政府が設立された。 1946年には王政廃止とアルバニア人民共和国設立を宣言、エンヴェル・ホッジャを首班とする共産主義政権が成立した。1948年、アルバニア共産党はアルバニア労働党と改名した。同年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国がコミンフォルムを脱退したことに伴い、ユーゴスラビアと断交した。 ホッジャ政権は1961年以降、スターリン批判を行ったソビエト連邦を「修正主義」と名指しで非難し、ソ連もニキータ・フルシチョフが第22回ソ連共産党大会においてアルバニアを批判するも、出席していた中華人民共和国の周恩来はアルバニアを擁護し、中ソの路線の違いが鮮明になる。 ソ連と対立していた中華人民共和国に接近して大規模な援助を受け、この時期のアルバニア軍は、兵士が中国人民解放軍の六五式軍服に類似した軍服を着用し、中国製の56式自動歩槍とそのコピーのASh-78を制式小銃に採用して59式戦車やJ-6戦闘機なども配備されるなど、当時のワルシャワ条約機構軍を構成する周辺諸国と比較しても異様な軍隊となる。1968年にはワルシャワ条約機構を脱退すると、実質的にソ連を仮想敵国とした極端な軍事政策を取った。領土問題を抱えていた隣国ユーゴスラビアとも、チトー大統領を「チトー主義者」であると規定し、激しく対立していた。国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する国民皆兵政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。また1967年に中国のプロレタリア文化大革命に刺激されて「無神国家」を宣言、一切の宗教活動を禁止した。更に、1976年からは国内全土にコンクリート製のトーチカ(石灰石は国内で自給できる数少ない鉱産資源のひとつである)を大量に建設し、国内の武装体制を強めた。ホッジャの在任中、50万以上のトーチカが建設され、現在でも国内に僅かに残っている。1970年代には核戦争を想定して、ティラナ東方の山腹に部屋106室、広さ2,685平方メートルの大型核シェルターが建設された。一方で農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成していた。同年、国号を「アルバニア社会主義人民共和国」へ改称した。 1976年に毛沢東主席の死によって中国で文化大革命が終息し、1978年に鄧小平が改革開放路線に転換するとホッジャは中国を批判した(中ア対立)。当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助もなくなり、1980年代には、欧州の最貧国とまで揶揄されるに至った。当時の西欧各国の左派政党が採択していたユーロコミュニズム路線や隣国ユーゴスラビアのチトー主義、更に社会主義国でも同様の独自路線を行っていたルーマニアや北朝鮮 すらも批判したホッジャは「アルバニアは世界唯一のマルクス・レーニン主義国家である」と宣言し、事実上アルバニアの鎖国とも言える状況 を招いた。体制の引き締めを狙って政府高官の粛清も行われ、ホッジャに次ぐナンバー2の権力の地位にあったメフメット・シェフー首相は、1981年不可解な自殺を遂げている。 上記のように国際的な孤立を深める一方で、「ホッジャ主義」と呼ばれる独自の理論を掲げたアルバニア労働党とその支持者たちは、主に第三世界の左派において大きな位置を占めていた毛沢東主義者に対して、イデオロギー的に勝利することに成功した。日本共産党(左派)、ブラジル共産党、コロンビア人民解放軍のようにホッジャの思想に共鳴し、一時的ながら毛沢東主義より転向する勢力も現れた。 1989年から全国的に反政府デモが続発し、ホッジャの後継者のラミズ・アリアが1990年から徐々に開放路線に転化を開始した。当時の情勢については「ソビエト連邦の崩壊」「東欧革命」「ユーゴスラビア紛争」も参照。 なおこの間に、それまで外交関係がなかった日本国との国交を1981年に樹立している。 1991年に国名を「アルバニア共和国」に改称した。アリアは経済の開放とともに政党結成を容認したが、国内の混乱を抑えられず、1992年の総選挙によって、戦後初の非共産政権が誕生した。民主化後のサリ・ベリシャ政権は、共産主義時代の残滓の清算や市場主義経済の導入、外国からの援助導入などを政策化し、国際社会への復帰を加速させた。しかし、市場主義経済移行後の1990年代にネズミ講が流行し、1997年のネズミ講の破綻で、国民の3分の1が全財産を失い、もともと脆弱を極めたアルバニアの経済は一瞬で破綻した(アルバニアのネズミ講(英語版))。多くの市民が抗議のために路上に繰り出し、詐欺から国民を守ることができなかった政府への不満から暴徒化し、これによって政権が転覆し、無秩序状態となるという暴動が発生した(1997年アルバニア暴動)。暴動の発生を受け、暴動収束のための妥協案として同年中に総選挙が実施され、アルバニア労働党を前身とするアルバニア社会党が与党となり、一応の沈静化を見せたものの、未だ尾を引いているともいわれている。 2005年9月の総選挙で民主党が56議席を確保し比較第一党となり、18議席を確保した国民戦線、4議席の環境農民党・2議席の人権党連合と連立を組んで民主党のサリ・ベリシャを再び政権に送り込んだ。社会党は42議席を獲得し、最大野党となった。 2007年の大統領選出は立候補が無く、5回期限が延長された。サリ・ベリシャは、大統領選挙を直接選挙制にすべきだとの声明を出したが、2007年の大統領選挙には間に合うものではなかった。社会党党首のエディ・ラマは総選挙を行った上で民意を反映すべきだとしたが、世論はこれを支持しなかった。 結局、民主党副議長のバミール・トピと社会党前党首のファトス・ナノ(英語版)が立候補を表明したが、社会党はナノを支持せず、欠席戦術を用いた。トピがいずれの選挙でも勝利したものの、得票数が定数に満たないために就任できなかった。また、第3回の選挙には、民主同盟党のネリタン・セカが出馬し、打開への期待からか票を得たものの、第4回の選挙では議会空転を終結させるため立候補を取りやめ、トピを支持した。その結果、出席90名、得票85票でバミール・トピは大統領に選出された。この後、ファトス・ナノは社会党を離党し、連帯行動党を結党した。 2009年4月28日、ベリシャ首相はプラハを訪問し、欧州連合 (EU) 議長国チェコのミレク・トポラーネク首相にEU加盟を申請した。2014年6月よりEU加盟候補国。 国家元首は大統領で、任期は5年、議会における間接選挙によって選出される。大統領選挙の投票は最大で5回実施され、最初の3回は当選するのに6割の得票を要するが、以降は過半数でよい。また、首相は大統領により任命され、閣僚は首相の推薦の下で大統領が指名するが、最終的に議会からの承認も得る必要がある。 立法府たるアルバニア議会は、一院制で任期4年、全140議席である。うち、100議席は小選挙区制、40議席は比例代表制によって選出される小選挙区比例代表並立制。 アルバニア労働党(1991年に社会党に党名変更)が冷戦期を通じて一党独裁を行う共産主義体制だったが、1990年より東欧民主化の影響を受けて、対外開放や複数政党制の導入などの民主化を始めた。1991年の初総選挙では社会党が連立によって政権を維持したものの、翌1992年3月の総選挙でアルバニア民主党を中心とした勢力が大勝利を収めた。これを受けて、第一書記から大統領となったラミズ・アリアはその職を辞任。民主党のサリ・ベリシャが第2代大統領として選出された。1996年に再選。 1997年1月国民の大半が加入していたねずみ講会社の破産を原因としてアルバニア暴動が発生。6月の議会選挙の結果を受け、7月にサリ・ベリシャは辞任。社会党のレジェプ・メイダニを大統領として、社会党政権が成立した。2001年の総選挙では社会党は73議席を獲得し、6割を確保できなかったため、大統領には民主党のアルフレッド・モイシウが就任したが、依然として社会党内閣が続いた。 現在、アルバニアにはアルバニア社会党、アルバニア民主党、緑の党、社会民主党、人権党連合など十数の政党がある。 2012年にはギリシャの極右政党「黄金の夜明け」とつながりがあるとされ、コソボとの連合国家形成を主張する極右政党「赤黒連合」が結成された。2013年6月の総選挙で同党は、投票総数の0.59%にあたる1万196票を得たが、議席の獲得はできなかった。 鎖国状態から対外開放に転じた1990年代以降、先進諸国や国際機関との関係拡大を進めてきた。2009年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、EU加盟を目標としていた。フランスやオランダ、デンマークなどはバルカン半島諸国がEUに加盟することで移民が西欧諸国に流入しやすくなり、移民反対を掲げる政党が増長しかねないという懸念からアルバニアや北マケドニアの加盟交渉入りに反対し続けたものの、2020年2月に欧州委員会が加盟交渉の改革案を提示したことでフランスなどが態度を軟化させ、同年3月24日に加盟交渉入りすることが決定した。 2021年には、同国初となる国際連合の安全保障理事会非常任理事国に選ばれた。 任期は2022年からで2年間務める予定である。 ヨーロッパの中ではアドリア海対岸の隣国イタリアとの経済的結びつきが強く、主要な貿易相手国の一つである。2019年11月には、政治的判断によりペルシア湾でイランなどを警戒するアメリカ主導の有志連合に参加した。 2022年9月にはイランとの断交を発表した アルバニア人が多数を占めるコソボの国造りと、コソボ承認国を増やすための支援を行っている。 アルバニアの国土は最大で南北が約340km、東西が150kmである。海岸部の平野以外は起伏があって山がちな地形が多く、国土の約7割が海抜高度300m以上である。モンテネグロ、セルビア、北マケドニア共和国との国境地帯にはディナラ・アルプス山系の2000m級の山々が列を成しており、一番高い山はディブラ県にあるコラプ山で、2,753メートルに達する。 海岸付近の低地は典型的な地中海性気候で降雪は珍しいが、内陸部の高地は大陸性気候で冬には大量の降雪がある。年間降水量は1,000mmを超える。夏の最高気温は30°C以上となるが、冬の最低気温は海岸部で0°C、内陸部で-10°C以下となる。また、国土の北西はモンテネグロにまたがりバルカン半島最大の湖であるシュコダル湖(約360平方キロ)に面しており、南東部にはオフリド湖、プレスパ湖がある。オフリド湖が源のドリン川が約280kmにわたって国内を流れ、シュコドラ州で数本の水流に分かれてアドリア海に注いでいる。国土の約40%が森林で、ブナや松などが多い。 アルバニアは12の州 (qark)、61の基礎自治体 (komuna) に分けられる。 首都のティラナ以外の主要な都市としてはドゥラス、エルバサン、シュコドラ、ギロカストラ、ヴロラ、コルチャ、ブローラ、サランダなどがある。 IMFの統計によると、2013年のアルバニアの名目GDPは127億ドルである。一人当たりは4,565ドルで、これは世界平均の40%ほどの水準だが、バルカン半島では最下位に位置している。 上述したように、アルバニアは第二次世界大戦後に米ソ両陣営と距離を置き、1978年から完全な鎖国状態となった。経済は低調で、長年欧州最貧国の扱いを受けていた。国民は皆貧しく、ある意味では平等な状態にあった。 1990年代に市場経済が導入された際には、投資会社という名目でねずみ講が蔓延した。ねずみ講は通常、新規参入者がいなくなった時点で資金が集まらなくなり、配当ができなくなることによって破綻する。しかしアルバニアの場合、集めた資金で武器を仕入れ、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の紛争当事者へ売り払うことによって収入を得、配当を行っていた。他に、国民の半分がはまったと言われるまでにねずみ講が蔓延した理由としては、社会主義国家で鎖国状態であったために、国民に市場経済の金融・経済についての教育が行われず、国民が「投資とはこんなものだ」と思い、ねずみ講の危険性に気づかなかったことも挙げられる。また、武器の購入を通じて麻薬などの組織犯罪(アルバニア・マフィア)とも深く関わりを持つこととなり、汚職が蔓延した。ねずみ講投資会社は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結とともに破綻した。 その後は経済回復を続け、2000年に世界貿易機関(WTO)加盟。税制改革や、外資を呼び込もうと誘致活動を行っている。外資の誘致については、インフラストラクチャーが脆弱であることが課題となっている。例えばアルバニアの電力は山がちな地形を生かした水力発電が支えており、水力で総発電量の98.8%を占めている。この水力については、施設の老朽化による電力不足が課題となっている。しかし近年では新規の水力発電所の建設、送電線網の更新が進み、2017年ごろからは長期の停電のような事態は都市部、地方を含めて起きにくくなっている。 ホッジャを首班とする独裁政権下では、国民は渡航規制、外国書物及び放送の規制を強いられており国民にとっては海外の文化や情報を得る手段は無に等しかった。1990年以降の市場開放により、同じヨーロッパに属する隣国イタリアの名物であるピザや、バナナといった果物を初めて知ったという国民もいた。 ユーロ圏への貿易、ギリシャ、イタリアへの出稼ぎが多くユーロ圏の経済に大きく影響を受ける構造である。 アルバニアは山がちな地形にもかかわらず、国土に占める農地面積が25.5%と高い。伝統的に農業従事者の比率が高く、政府は農業以外の産業確立に苦心してきた。 1940年時点における農業人口の比率は85%であったが、1989年には55%、2004年時点では21%まで下がった。なお、農業人口の減少は同国の経済体制の変化にも原因がある。 1946年に創設された集団農場は成長を続け、1973年には全ての農場が集団化(社会主義化)された。しかしながら1991年に集団農業を放棄したことで、生産額が1年間に20%低下し、一時的に大打撃を受けている。その後、農業生産は持ち直し、労働生産性が向上した。 主な生産品目は主食の小麦、生産額は2004年時点で30万トンである。その他の麦や、トウモロコシやジャガイモの生産も盛ん。地中海性気候に適したオリーブやブドウ、桃、ザクロ、クルミ、レモン、メロン、オレンジ、スイカも生産している。 食糧自給率については、1995年時点では95%と発表されていたが、2003年時点では輸入に占める最大の品目が食料品(輸入の19.6%)となっている。 一方、近年では農産物加工品の輸出も盛んになりつつある。 鉱物資源はある が、長年の鎖国政策や、近年の社会的混乱によってインフラが乏しいため、生産は低調である。 典型的なのがクケス市など3カ所の鉱山から採掘されている同国第一の鉱物資源クロム鉱である。第二次世界大戦直前の1938年時点ではわずか7000トンだったクロム鉱の採掘量は、1970年代には世界第3位に達し、1987年には108万トンまで伸びた。しかし、1991年には50万トンに、2003年には9万トンまで落ち込んでいる。同じ傾向は銅鉱(1991年に至る5年間で銅鉱の産出量が半減)、ニッケルについても見られる。 有機鉱物は、品位の低い亜炭、原油、天然ガスを産出する。塩、石灰岩の生産も見られる。天然アスファルトは生産量こそ少ないものの、アルバニアの特産品として知られている。 工業は、輸出については衣類を中心とした軽工業が主体である。繊維自体の生産は小規模であり、布・皮からの衣服の加工、縫製が主となる。アルバニアの輸出に占める工業製品の割合は82.6%(2003年)に達する。品目別に見ると衣類34.2%、靴などに用いる皮革26.1%であり、輸出工業品目の過半数を占める。この他の工業製品としては鉄鋼、卑金属が輸出に貢献している。 輸出相手国は、イタリアとの関係が深い(輸出の74.9%がイタリア向け)。イタリアの繊維産業と深く結びついた工業形態となっていることが分かる。イタリア企業向けのコールセンターが起業されるなど海外向けのサービス業の発展が近年では顕著である。 2010年ごろから南部の海岸地帯を中心に観光業の発展が著しいものとなっている。特にブローラ県ではホテル、リゾートマンションが多数建設され、夏季には多くの国内外の観光客で賑わう。国民の多くが非常に世俗的なイスラム教徒であるため、レストランでのアルコールおよび豚肉料理の提供には制限はなく、内外の観光客で賑わっている。ビーチバー、カフェ、ストリップ劇場も多数営業し、イタリア、中国、ごくわずかながら日本といった海外からの直接投資も始まっている。観光業が経済的なエンジンの一つとなりつつある。 道路インフラの整備が進められており、首都圏では高速道路、環状道路の整備はほぼ完了した。主要な都市を結ぶ高速道路網も整備も進められており、一部の区間では通行できるようになっている。ラマ首相のイニシアチブにより2018年より空港のある首都圏と南部の観光地帯を結ぶ高速道路の建設が本格化した。 首都ティラナから30キロメートル、デュレス近くのポルトロマノに国内最大の軍民両用の港湾を建設中で、NATO諸国の艦艇も受け入れる計画である 。 アルバニア人が大部分であるが、国土の北部と南部では言語や風習に差異がある。南部にはギリシャ人などもいる他、国境付近にはマケドニア人やモンテネグロ人もいる。 アルバニア語が公用語であるが、北部のゲグ方言と南部のトスク方言に分かれ、標準語はトスク方言に基づいている。歴史的な理由(社会主義時代にイタリアからのラジオを聴くなど)によりイタリア語を話せる高齢者が多い。義務教育課程での英語教育が導入されており若年層のほとんどは英語を話す。南部のサランダを中心とした地域に住むギリシャ系住民の間では、なまりの強いギリシャ語を話す人々もいる。 アルバニアの宗教を語る上で1967年の共産党政府が「無神国家(無神論国家)」を宣言したことが取り上げられる。マルクス・レーニン主義を国是とする国家では旧ソビエト連邦の首都モスクワにおける救世主ハリストス大聖堂の爆破(1931年)や中華人民共和国の文化大革命(1966-76年)など宗教弾圧は見られた。しかし、これらの国々であっても、宗教の弾圧は徹底されず、(一定の制限はあるが)寺院も宗教団体も存在して、信仰と宗教活動は容認されてきた。 しかし、アルバニアは国内での激しい宗教対立を背景に1967年、共産圏では初めて、内外に「無神国家」を宣言した。これは国民全てがいずれの宗教も信仰しておらず、そのため国内にはいかなる宗教団体および宗教活動は存在しないという宣言である。この世界に類を見ない強力な宗教の弾圧と排除が特筆すべきものになったのは、当時のアルバニアの指導者エンヴェル・ホッジャが過激なスターリン主義者であったことと、アルバニアの国土面積と人口が旧ソ連や中国に比べて極めて小さかったこと、1970年代から鎖国体制に入ったことなどによる。そのため1970年代の鎖国体制以降、アルバニア国外では、アルバニアではどのような宗教が信仰されているのか、どのような宗教活動が行われているのかは、不明という状態となった。 1990年、信教の自由が認められた。現在では多くの人々が穏健で世俗的なムスリム、正教徒、カトリックであり、異なる宗教の信者間での結婚にいかなる制約もない。異教徒同士のカップルも少なくない。公式のデータは右記の通りである。 一方、最近では、信仰する宗教が特に無いという人々が多数派を占めていると言われている。 ワトソン・インスティテュート(ワトソン研究所)の2004年度レポート『アルバニアにおける移民と民族集団-シナジーと相互依存』 でのデータは以下の通り。また、アメリカ合衆国の国務省が出した2007年度レポート『国際的な宗教の自由』 でも、国民は無宗教が多数派である事が述べられており、ワトソン研究所の調査と同じ形となっている。 ただし、イラク戦争以後、若者のごく一部に戒律的なイスラム教への回帰も散見されるようになってきた。 婚姻では、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)か、配偶者の姓へ改姓し夫婦同姓とするか選択することが可能である。 同国での初等・中等・高等教育は、主に州によって定められたものが多い。学年度は2学期に分かれていてアメリカ合衆国と類似しており、授業はほぼ9月か10月に開始され、6月か7月で終了する仕組みとなっている。 初等教育は1年生から9年生まで設けられており義務教育となっているが、殆どの生徒は中等教育まで継続されている。 なお、2015年時点でアルバニアにおける全体的な識字率は98.7%であり、男性の識字率は99.2%、女性の識字率は98.3%となっている。 現時点において、大きな犯罪が同国内で発生したケースはあまり発表されていない。麻薬取引や犯罪組織の存在が指摘されているが、これらの犯罪に外国人が巻き込まれた例も殆ど報告されていない。 また、テロにおいては中東や北アフリカ諸国に拠点を有するイスラム系慈善団体などの支部や、コソボなどで民族主義を掲げる反政府勢力と関係を有する団体は存在するものの、現在のところ直接的な治安上の不安は少ないと考えられている。一方、シリアやイラクで聖戦(ジハード)のためにイラク・レバントのイスラム国(ISIL)などの反政府武装組織に参加した帰還兵の数名がアルバニアへ入国したとの報道もあり、同国におけるテロ行為の懸念は完全には払拭し切れておらず、警戒を求められているのが現状となっている。 長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から、「アルバニア人」という民族意識の形成とそれに基づく民族文化の育成が遅れた。アルバニア語の学校教育は1887年に初めて開始され、そのころから民族意識高揚による「アルバニア・ルネサンス運動」が起きた。 第二次世界大戦後の共産主義政権は、共産主義のイデオロギー的影響を強く受けながらも、強力な民族主義的立場で国民の啓蒙と文化水準向上に関する政策を展開した。地中海周辺の諸民族と比べ、比較的に温厚で忍耐強いと言われるが、家父長制的な伝統の要素が社会に残っており、女性の地位向上運動が続いている。 アルバニア国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件、複合遺産が1件、暫定リストが4件存在する。 アルバニア国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1930年にサッカーリーグのカテゴリア・スペリオレが創設された。アルバニアサッカー連盟(FSHF)によって構成されるサッカーアルバニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかし、UEFA欧州選手権には2016年大会で初出場を果たしている。近年はイタリア・セリエAで活躍する選手を輩出しており、トーマス・ストラコシャとエルセイド・ヒサイがいる。
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リパブリク・オヴ・エルベイニア、オールベイニア)、通称はAlbania(エルベイニア、オールベイニア)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本語の表記はアルバニア共和国、通称はアルバニア。漢字による当て字は、阿爾巴尼亜。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "シュチパリアとはアルバニア語で「鷲(Shqiponja)の国」を意味し、アルバニア人が鷲の子孫であるという伝説に由来する。これに対し、他称の「アルバニア」はラテン語の「albus(白い)」が語源とされ、語源を同じくするアルビオンと同様アルバニアの地質が主に石灰岩質で白いことから「白い土地」と呼んだことに由来する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古代にはイリュリアと呼ばれた。紀元前1000年ごろから、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシア文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "前2世紀にはローマ帝国の支配下となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "14世紀以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、オスマン帝国による侵攻が始まる。スカンデルベクにより、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、1478年にはオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は多大な影響を受けることとなった。特に地主をはじめとする支配階級によるキリスト教からイスラム教への改宗が相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあったブルガリアなどとは異なり、現在アルバニア人の半数以上がムスリムであるといわれる(もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も家にイコン画を飾る風習など、正教会やカトリックとの共通点を多く持つ)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「アルバニア人」意識の形成が遅れたが、19世紀末には民族意識(ナショナリズム)が高揚し、1878年のプリズレン連盟(アルバニア国民連盟、プリズレンは現在のコソボにある都市の名)結成以降は民族運動が相次いだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第1次バルカン戦争の途中、1912年にイスマイル・ケマルらがオスマン帝国からの独立を宣言する。しかし、列強に独立は認められたものの、国境画定の際にコソボなど独立勢力が「国土」と考えていた地の半分以上が削られた(「大アルバニア」を参照)。1914年にドイツ帝国の貴族ヴィート公子ヴィルヘルム・ツー・ヴィートを公に迎え、アルバニア公国となったものの、第一次世界大戦で公が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、無政府状態に陥った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1920年には君主不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたが、その後も政情は不安定であり、1925年には共和国宣言を行いアフメド・ゾグーが大統領に就任した(アルバニア共和国)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "その後、ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアには君主政のアルバニア王国が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1939年4月7日、アルバニアに上陸したイタリア軍は簡単な戦闘の後、 全土に進駐し、ゾグーは王妃と共に亡命した(イタリアのアルバニア侵攻)。イタリア王国との同君連合という形で国王にはイタリアの国王が即位し、親伊派の傀儡政権が置かれた。第二次世界大戦時の1940年にはイタリアによるギリシャ侵攻(ギリシャ・イタリア戦争、ギリシャの戦い)によって南部の各地域が激戦地となった。翌1941年には、イタリアは同じ枢軸国であるナチス・ドイツなどとともに、アルバニア北隣のユーゴスラビアに侵攻。独ソ戦も始まり、バルカン半島全体が戦場となった。1943年にイタリアが連合国に降伏すると、アルバニアはドイツ軍によって占領された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1944年11月29日、アルバニアのパルチザン(英語版)とソビエト連邦軍による全土解放が行われ、アルバニア共産党を中心とした社会主義臨時政府が設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1946年には王政廃止とアルバニア人民共和国設立を宣言、エンヴェル・ホッジャを首班とする共産主義政権が成立した。1948年、アルバニア共産党はアルバニア労働党と改名した。同年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国がコミンフォルムを脱退したことに伴い、ユーゴスラビアと断交した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ホッジャ政権は1961年以降、スターリン批判を行ったソビエト連邦を「修正主義」と名指しで非難し、ソ連もニキータ・フルシチョフが第22回ソ連共産党大会においてアルバニアを批判するも、出席していた中華人民共和国の周恩来はアルバニアを擁護し、中ソの路線の違いが鮮明になる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ソ連と対立していた中華人民共和国に接近して大規模な援助を受け、この時期のアルバニア軍は、兵士が中国人民解放軍の六五式軍服に類似した軍服を着用し、中国製の56式自動歩槍とそのコピーのASh-78を制式小銃に採用して59式戦車やJ-6戦闘機なども配備されるなど、当時のワルシャワ条約機構軍を構成する周辺諸国と比較しても異様な軍隊となる。1968年にはワルシャワ条約機構を脱退すると、実質的にソ連を仮想敵国とした極端な軍事政策を取った。領土問題を抱えていた隣国ユーゴスラビアとも、チトー大統領を「チトー主義者」であると規定し、激しく対立していた。国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する国民皆兵政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。また1967年に中国のプロレタリア文化大革命に刺激されて「無神国家」を宣言、一切の宗教活動を禁止した。更に、1976年からは国内全土にコンクリート製のトーチカ(石灰石は国内で自給できる数少ない鉱産資源のひとつである)を大量に建設し、国内の武装体制を強めた。ホッジャの在任中、50万以上のトーチカが建設され、現在でも国内に僅かに残っている。1970年代には核戦争を想定して、ティラナ東方の山腹に部屋106室、広さ2,685平方メートルの大型核シェルターが建設された。一方で農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成していた。同年、国号を「アルバニア社会主義人民共和国」へ改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1976年に毛沢東主席の死によって中国で文化大革命が終息し、1978年に鄧小平が改革開放路線に転換するとホッジャは中国を批判した(中ア対立)。当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助もなくなり、1980年代には、欧州の最貧国とまで揶揄されるに至った。当時の西欧各国の左派政党が採択していたユーロコミュニズム路線や隣国ユーゴスラビアのチトー主義、更に社会主義国でも同様の独自路線を行っていたルーマニアや北朝鮮 すらも批判したホッジャは「アルバニアは世界唯一のマルクス・レーニン主義国家である」と宣言し、事実上アルバニアの鎖国とも言える状況 を招いた。体制の引き締めを狙って政府高官の粛清も行われ、ホッジャに次ぐナンバー2の権力の地位にあったメフメット・シェフー首相は、1981年不可解な自殺を遂げている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "上記のように国際的な孤立を深める一方で、「ホッジャ主義」と呼ばれる独自の理論を掲げたアルバニア労働党とその支持者たちは、主に第三世界の左派において大きな位置を占めていた毛沢東主義者に対して、イデオロギー的に勝利することに成功した。日本共産党(左派)、ブラジル共産党、コロンビア人民解放軍のようにホッジャの思想に共鳴し、一時的ながら毛沢東主義より転向する勢力も現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1989年から全国的に反政府デモが続発し、ホッジャの後継者のラミズ・アリアが1990年から徐々に開放路線に転化を開始した。当時の情勢については「ソビエト連邦の崩壊」「東欧革命」「ユーゴスラビア紛争」も参照。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なおこの間に、それまで外交関係がなかった日本国との国交を1981年に樹立している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1991年に国名を「アルバニア共和国」に改称した。アリアは経済の開放とともに政党結成を容認したが、国内の混乱を抑えられず、1992年の総選挙によって、戦後初の非共産政権が誕生した。民主化後のサリ・ベリシャ政権は、共産主義時代の残滓の清算や市場主義経済の導入、外国からの援助導入などを政策化し、国際社会への復帰を加速させた。しかし、市場主義経済移行後の1990年代にネズミ講が流行し、1997年のネズミ講の破綻で、国民の3分の1が全財産を失い、もともと脆弱を極めたアルバニアの経済は一瞬で破綻した(アルバニアのネズミ講(英語版))。多くの市民が抗議のために路上に繰り出し、詐欺から国民を守ることができなかった政府への不満から暴徒化し、これによって政権が転覆し、無秩序状態となるという暴動が発生した(1997年アルバニア暴動)。暴動の発生を受け、暴動収束のための妥協案として同年中に総選挙が実施され、アルバニア労働党を前身とするアルバニア社会党が与党となり、一応の沈静化を見せたものの、未だ尾を引いているともいわれている。 2005年9月の総選挙で民主党が56議席を確保し比較第一党となり、18議席を確保した国民戦線、4議席の環境農民党・2議席の人権党連合と連立を組んで民主党のサリ・ベリシャを再び政権に送り込んだ。社会党は42議席を獲得し、最大野党となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2007年の大統領選出は立候補が無く、5回期限が延長された。サリ・ベリシャは、大統領選挙を直接選挙制にすべきだとの声明を出したが、2007年の大統領選挙には間に合うものではなかった。社会党党首のエディ・ラマは総選挙を行った上で民意を反映すべきだとしたが、世論はこれを支持しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "結局、民主党副議長のバミール・トピと社会党前党首のファトス・ナノ(英語版)が立候補を表明したが、社会党はナノを支持せず、欠席戦術を用いた。トピがいずれの選挙でも勝利したものの、得票数が定数に満たないために就任できなかった。また、第3回の選挙には、民主同盟党のネリタン・セカが出馬し、打開への期待からか票を得たものの、第4回の選挙では議会空転を終結させるため立候補を取りやめ、トピを支持した。その結果、出席90名、得票85票でバミール・トピは大統領に選出された。この後、ファトス・ナノは社会党を離党し、連帯行動党を結党した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2009年4月28日、ベリシャ首相はプラハを訪問し、欧州連合 (EU) 議長国チェコのミレク・トポラーネク首相にEU加盟を申請した。2014年6月よりEU加盟候補国。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "国家元首は大統領で、任期は5年、議会における間接選挙によって選出される。大統領選挙の投票は最大で5回実施され、最初の3回は当選するのに6割の得票を要するが、以降は過半数でよい。また、首相は大統領により任命され、閣僚は首相の推薦の下で大統領が指名するが、最終的に議会からの承認も得る必要がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "立法府たるアルバニア議会は、一院制で任期4年、全140議席である。うち、100議席は小選挙区制、40議席は比例代表制によって選出される小選挙区比例代表並立制。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アルバニア労働党(1991年に社会党に党名変更)が冷戦期を通じて一党独裁を行う共産主義体制だったが、1990年より東欧民主化の影響を受けて、対外開放や複数政党制の導入などの民主化を始めた。1991年の初総選挙では社会党が連立によって政権を維持したものの、翌1992年3月の総選挙でアルバニア民主党を中心とした勢力が大勝利を収めた。これを受けて、第一書記から大統領となったラミズ・アリアはその職を辞任。民主党のサリ・ベリシャが第2代大統領として選出された。1996年に再選。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1997年1月国民の大半が加入していたねずみ講会社の破産を原因としてアルバニア暴動が発生。6月の議会選挙の結果を受け、7月にサリ・ベリシャは辞任。社会党のレジェプ・メイダニを大統領として、社会党政権が成立した。2001年の総選挙では社会党は73議席を獲得し、6割を確保できなかったため、大統領には民主党のアルフレッド・モイシウが就任したが、依然として社会党内閣が続いた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "現在、アルバニアにはアルバニア社会党、アルバニア民主党、緑の党、社会民主党、人権党連合など十数の政党がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2012年にはギリシャの極右政党「黄金の夜明け」とつながりがあるとされ、コソボとの連合国家形成を主張する極右政党「赤黒連合」が結成された。2013年6月の総選挙で同党は、投票総数の0.59%にあたる1万196票を得たが、議席の獲得はできなかった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "鎖国状態から対外開放に転じた1990年代以降、先進諸国や国際機関との関係拡大を進めてきた。2009年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、EU加盟を目標としていた。フランスやオランダ、デンマークなどはバルカン半島諸国がEUに加盟することで移民が西欧諸国に流入しやすくなり、移民反対を掲げる政党が増長しかねないという懸念からアルバニアや北マケドニアの加盟交渉入りに反対し続けたものの、2020年2月に欧州委員会が加盟交渉の改革案を提示したことでフランスなどが態度を軟化させ、同年3月24日に加盟交渉入りすることが決定した。 2021年には、同国初となる国際連合の安全保障理事会非常任理事国に選ばれた。 任期は2022年からで2年間務める予定である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの中ではアドリア海対岸の隣国イタリアとの経済的結びつきが強く、主要な貿易相手国の一つである。2019年11月には、政治的判断によりペルシア湾でイランなどを警戒するアメリカ主導の有志連合に参加した。 2022年9月にはイランとの断交を発表した", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アルバニア人が多数を占めるコソボの国造りと、コソボ承認国を増やすための支援を行っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アルバニアの国土は最大で南北が約340km、東西が150kmである。海岸部の平野以外は起伏があって山がちな地形が多く、国土の約7割が海抜高度300m以上である。モンテネグロ、セルビア、北マケドニア共和国との国境地帯にはディナラ・アルプス山系の2000m級の山々が列を成しており、一番高い山はディブラ県にあるコラプ山で、2,753メートルに達する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "海岸付近の低地は典型的な地中海性気候で降雪は珍しいが、内陸部の高地は大陸性気候で冬には大量の降雪がある。年間降水量は1,000mmを超える。夏の最高気温は30°C以上となるが、冬の最低気温は海岸部で0°C、内陸部で-10°C以下となる。また、国土の北西はモンテネグロにまたがりバルカン半島最大の湖であるシュコダル湖(約360平方キロ)に面しており、南東部にはオフリド湖、プレスパ湖がある。オフリド湖が源のドリン川が約280kmにわたって国内を流れ、シュコドラ州で数本の水流に分かれてアドリア海に注いでいる。国土の約40%が森林で、ブナや松などが多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アルバニアは12の州 (qark)、61の基礎自治体 (komuna) に分けられる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "首都のティラナ以外の主要な都市としてはドゥラス、エルバサン、シュコドラ、ギロカストラ、ヴロラ、コルチャ、ブローラ、サランダなどがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2013年のアルバニアの名目GDPは127億ドルである。一人当たりは4,565ドルで、これは世界平均の40%ほどの水準だが、バルカン半島では最下位に位置している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "上述したように、アルバニアは第二次世界大戦後に米ソ両陣営と距離を置き、1978年から完全な鎖国状態となった。経済は低調で、長年欧州最貧国の扱いを受けていた。国民は皆貧しく、ある意味では平等な状態にあった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1990年代に市場経済が導入された際には、投資会社という名目でねずみ講が蔓延した。ねずみ講は通常、新規参入者がいなくなった時点で資金が集まらなくなり、配当ができなくなることによって破綻する。しかしアルバニアの場合、集めた資金で武器を仕入れ、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の紛争当事者へ売り払うことによって収入を得、配当を行っていた。他に、国民の半分がはまったと言われるまでにねずみ講が蔓延した理由としては、社会主義国家で鎖国状態であったために、国民に市場経済の金融・経済についての教育が行われず、国民が「投資とはこんなものだ」と思い、ねずみ講の危険性に気づかなかったことも挙げられる。また、武器の購入を通じて麻薬などの組織犯罪(アルバニア・マフィア)とも深く関わりを持つこととなり、汚職が蔓延した。ねずみ講投資会社は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結とともに破綻した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "その後は経済回復を続け、2000年に世界貿易機関(WTO)加盟。税制改革や、外資を呼び込もうと誘致活動を行っている。外資の誘致については、インフラストラクチャーが脆弱であることが課題となっている。例えばアルバニアの電力は山がちな地形を生かした水力発電が支えており、水力で総発電量の98.8%を占めている。この水力については、施設の老朽化による電力不足が課題となっている。しかし近年では新規の水力発電所の建設、送電線網の更新が進み、2017年ごろからは長期の停電のような事態は都市部、地方を含めて起きにくくなっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ホッジャを首班とする独裁政権下では、国民は渡航規制、外国書物及び放送の規制を強いられており国民にとっては海外の文化や情報を得る手段は無に等しかった。1990年以降の市場開放により、同じヨーロッパに属する隣国イタリアの名物であるピザや、バナナといった果物を初めて知ったという国民もいた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ユーロ圏への貿易、ギリシャ、イタリアへの出稼ぎが多くユーロ圏の経済に大きく影響を受ける構造である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アルバニアは山がちな地形にもかかわらず、国土に占める農地面積が25.5%と高い。伝統的に農業従事者の比率が高く、政府は農業以外の産業確立に苦心してきた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1940年時点における農業人口の比率は85%であったが、1989年には55%、2004年時点では21%まで下がった。なお、農業人口の減少は同国の経済体制の変化にも原因がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1946年に創設された集団農場は成長を続け、1973年には全ての農場が集団化(社会主義化)された。しかしながら1991年に集団農業を放棄したことで、生産額が1年間に20%低下し、一時的に大打撃を受けている。その後、農業生産は持ち直し、労働生産性が向上した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "主な生産品目は主食の小麦、生産額は2004年時点で30万トンである。その他の麦や、トウモロコシやジャガイモの生産も盛ん。地中海性気候に適したオリーブやブドウ、桃、ザクロ、クルミ、レモン、メロン、オレンジ、スイカも生産している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "食糧自給率については、1995年時点では95%と発表されていたが、2003年時点では輸入に占める最大の品目が食料品(輸入の19.6%)となっている。 一方、近年では農産物加工品の輸出も盛んになりつつある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "鉱物資源はある が、長年の鎖国政策や、近年の社会的混乱によってインフラが乏しいため、生産は低調である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "典型的なのがクケス市など3カ所の鉱山から採掘されている同国第一の鉱物資源クロム鉱である。第二次世界大戦直前の1938年時点ではわずか7000トンだったクロム鉱の採掘量は、1970年代には世界第3位に達し、1987年には108万トンまで伸びた。しかし、1991年には50万トンに、2003年には9万トンまで落ち込んでいる。同じ傾向は銅鉱(1991年に至る5年間で銅鉱の産出量が半減)、ニッケルについても見られる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "有機鉱物は、品位の低い亜炭、原油、天然ガスを産出する。塩、石灰岩の生産も見られる。天然アスファルトは生産量こそ少ないものの、アルバニアの特産品として知られている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "工業は、輸出については衣類を中心とした軽工業が主体である。繊維自体の生産は小規模であり、布・皮からの衣服の加工、縫製が主となる。アルバニアの輸出に占める工業製品の割合は82.6%(2003年)に達する。品目別に見ると衣類34.2%、靴などに用いる皮革26.1%であり、輸出工業品目の過半数を占める。この他の工業製品としては鉄鋼、卑金属が輸出に貢献している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "輸出相手国は、イタリアとの関係が深い(輸出の74.9%がイタリア向け)。イタリアの繊維産業と深く結びついた工業形態となっていることが分かる。イタリア企業向けのコールセンターが起業されるなど海外向けのサービス業の発展が近年では顕著である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2010年ごろから南部の海岸地帯を中心に観光業の発展が著しいものとなっている。特にブローラ県ではホテル、リゾートマンションが多数建設され、夏季には多くの国内外の観光客で賑わう。国民の多くが非常に世俗的なイスラム教徒であるため、レストランでのアルコールおよび豚肉料理の提供には制限はなく、内外の観光客で賑わっている。ビーチバー、カフェ、ストリップ劇場も多数営業し、イタリア、中国、ごくわずかながら日本といった海外からの直接投資も始まっている。観光業が経済的なエンジンの一つとなりつつある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "道路インフラの整備が進められており、首都圏では高速道路、環状道路の整備はほぼ完了した。主要な都市を結ぶ高速道路網も整備も進められており、一部の区間では通行できるようになっている。ラマ首相のイニシアチブにより2018年より空港のある首都圏と南部の観光地帯を結ぶ高速道路の建設が本格化した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "首都ティラナから30キロメートル、デュレス近くのポルトロマノに国内最大の軍民両用の港湾を建設中で、NATO諸国の艦艇も受け入れる計画である 。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "アルバニア人が大部分であるが、国土の北部と南部では言語や風習に差異がある。南部にはギリシャ人などもいる他、国境付近にはマケドニア人やモンテネグロ人もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "アルバニア語が公用語であるが、北部のゲグ方言と南部のトスク方言に分かれ、標準語はトスク方言に基づいている。歴史的な理由(社会主義時代にイタリアからのラジオを聴くなど)によりイタリア語を話せる高齢者が多い。義務教育課程での英語教育が導入されており若年層のほとんどは英語を話す。南部のサランダを中心とした地域に住むギリシャ系住民の間では、なまりの強いギリシャ語を話す人々もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "アルバニアの宗教を語る上で1967年の共産党政府が「無神国家(無神論国家)」を宣言したことが取り上げられる。マルクス・レーニン主義を国是とする国家では旧ソビエト連邦の首都モスクワにおける救世主ハリストス大聖堂の爆破(1931年)や中華人民共和国の文化大革命(1966-76年)など宗教弾圧は見られた。しかし、これらの国々であっても、宗教の弾圧は徹底されず、(一定の制限はあるが)寺院も宗教団体も存在して、信仰と宗教活動は容認されてきた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "しかし、アルバニアは国内での激しい宗教対立を背景に1967年、共産圏では初めて、内外に「無神国家」を宣言した。これは国民全てがいずれの宗教も信仰しておらず、そのため国内にはいかなる宗教団体および宗教活動は存在しないという宣言である。この世界に類を見ない強力な宗教の弾圧と排除が特筆すべきものになったのは、当時のアルバニアの指導者エンヴェル・ホッジャが過激なスターリン主義者であったことと、アルバニアの国土面積と人口が旧ソ連や中国に比べて極めて小さかったこと、1970年代から鎖国体制に入ったことなどによる。そのため1970年代の鎖国体制以降、アルバニア国外では、アルバニアではどのような宗教が信仰されているのか、どのような宗教活動が行われているのかは、不明という状態となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1990年、信教の自由が認められた。現在では多くの人々が穏健で世俗的なムスリム、正教徒、カトリックであり、異なる宗教の信者間での結婚にいかなる制約もない。異教徒同士のカップルも少なくない。公式のデータは右記の通りである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "一方、最近では、信仰する宗教が特に無いという人々が多数派を占めていると言われている。 ワトソン・インスティテュート(ワトソン研究所)の2004年度レポート『アルバニアにおける移民と民族集団-シナジーと相互依存』 でのデータは以下の通り。また、アメリカ合衆国の国務省が出した2007年度レポート『国際的な宗教の自由』 でも、国民は無宗教が多数派である事が述べられており、ワトソン研究所の調査と同じ形となっている。 ただし、イラク戦争以後、若者のごく一部に戒律的なイスラム教への回帰も散見されるようになってきた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "婚姻では、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)か、配偶者の姓へ改姓し夫婦同姓とするか選択することが可能である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "同国での初等・中等・高等教育は、主に州によって定められたものが多い。学年度は2学期に分かれていてアメリカ合衆国と類似しており、授業はほぼ9月か10月に開始され、6月か7月で終了する仕組みとなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "初等教育は1年生から9年生まで設けられており義務教育となっているが、殆どの生徒は中等教育まで継続されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "なお、2015年時点でアルバニアにおける全体的な識字率は98.7%であり、男性の識字率は99.2%、女性の識字率は98.3%となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "現時点において、大きな犯罪が同国内で発生したケースはあまり発表されていない。麻薬取引や犯罪組織の存在が指摘されているが、これらの犯罪に外国人が巻き込まれた例も殆ど報告されていない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "また、テロにおいては中東や北アフリカ諸国に拠点を有するイスラム系慈善団体などの支部や、コソボなどで民族主義を掲げる反政府勢力と関係を有する団体は存在するものの、現在のところ直接的な治安上の不安は少ないと考えられている。一方、シリアやイラクで聖戦(ジハード)のためにイラク・レバントのイスラム国(ISIL)などの反政府武装組織に参加した帰還兵の数名がアルバニアへ入国したとの報道もあり、同国におけるテロ行為の懸念は完全には払拭し切れておらず、警戒を求められているのが現状となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から、「アルバニア人」という民族意識の形成とそれに基づく民族文化の育成が遅れた。アルバニア語の学校教育は1887年に初めて開始され、そのころから民族意識高揚による「アルバニア・ルネサンス運動」が起きた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の共産主義政権は、共産主義のイデオロギー的影響を強く受けながらも、強力な民族主義的立場で国民の啓蒙と文化水準向上に関する政策を展開した。地中海周辺の諸民族と比べ、比較的に温厚で忍耐強いと言われるが、家父長制的な伝統の要素が社会に残っており、女性の地位向上運動が続いている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "アルバニア国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件、複合遺産が1件、暫定リストが4件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "アルバニア国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1930年にサッカーリーグのカテゴリア・スペリオレが創設された。アルバニアサッカー連盟(FSHF)によって構成されるサッカーアルバニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかし、UEFA欧州選手権には2016年大会で初出場を果たしている。近年はイタリア・セリエAで活躍する選手を輩出しており、トーマス・ストラコシャとエルセイド・ヒサイがいる。", "title": "スポーツ" } ]
アルバニア共和国、通称アルバニアは、東南ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和制国家。首都はティラナ。 西はアドリア海に面し、対岸はイタリアである。北はモンテネグロ、北東はコソボ(コソボを独立国と認めない立場からすればセルビア)、東は北マケドニア、南はギリシャと国境を接する。
{{Dablink|[[カフカス・アルバニア王国]](古代 - 8世紀にかけて[[コーカサス地方]]・[[カスピ海]]西岸に存在した王国。現在の北[[アゼルバイジャン]] - 南[[ダゲスタン]]付近)とは異なります。}} {{基礎情報 国 | 略名 =アルバニア | 日本語国名 =アルバニア共和国 | 漢字表記 =阿爾巴尼亜共和国 | 公式国名 ={{Lang|sq|'''Republika e Shqipërisë'''}} | 国旗画像 =Flag of Albania.svg | 国章画像 =[[ファイル:Albania state emblem.svg|80px|アルバニアの国章]] | 国章リンク =([[アルバニアの国章|国章]]) | 標語 =[[Ti Shqipëri, më jep nder, më jep emrin Shqipëtar]]{{sq icon}}<br>''汝、アルバニアは我に名誉、そしてアルバニア人の名をもたらす'' | 位置画像 =Europe-Albania.svg | 公用語 =[[アルバニア語]] | 首都 =[[ティラナ]] | 最大都市 =ティラナ | 元首等肩書 =[[アルバニアの元首|大統領]] | 元首等氏名 =[[バイラム・ベガイ]] | 首相等肩書 =[[アルバニアの首相|首相]] | 首相等氏名 =[[エディ・ラマ]] | 面積順位 =143 | 面積大きさ =1 E10 | 面積値 =28,748 | 水面積率 =4.7% | 人口統計年 =2020 | 人口順位 =137 | 人口大きさ =1 E6 | 人口値 =2,878,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/al.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref> | 人口密度値 =105<ref name=population/> | GDP統計年元 =2020 | GDP値元 =1兆6079億7800万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=914,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-18}}</ref> | GDP統計年MER =2020 | GDP順位MER =126 | GDP値MER =148億2800万<ref name="imf2020" /> | GDP MER/人 =5152.563<ref name="imf2020" /> | GDP統計年 =2020 | GDP順位 =120 | GDP値 =407億8400万<ref name="imf2020" /> | GDP/人 =1万4171.933<ref name="imf2020" /> | 建国形態 =[[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 =[[オスマン帝国]]から<br />[[1912年]][[11月28日]] | 通貨 =[[レク (通貨)|レク]] | 通貨コード =ALL | 時間帯 =+2 | 夏時間 =+3 | 国歌 =[[旗への賛歌|{{lang|sq|Hymni i Flamurit}}]]{{sq icon}}<br>''国旗への賛歌''<br>{{Center| }} | ISO 3166-1 = AL / ALB | ccTLD =[[.al]] | 国際電話番号 =355 | 注記 = }} [[File:Butrint_-_Ancient_amphitheatre_(by_Pudelek).JPG|thumb|300px |アルバニアの最南端にある[[世界遺産]]の[[ブトリント]]遺跡。 {{Location map | Albania#Europe | float = center | relief = 1 | 300px | caption = アルバニアと[[首都]][[ティラナ]]の位置。}} ]] '''アルバニア共和国'''(アルバニアきょうわこく、{{lang-sq|Republika e Shqipërisë}})、通称'''アルバニア'''は、[[東南ヨーロッパ]]の[[バルカン半島]]南西部に位置する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[ティラナ]]。 西は[[アドリア海]]に面し、対岸は[[イタリア]]である。北は[[モンテネグロ]]、北東は[[コソボ]](コソボを独立国と認めない立場からすれば[[セルビア]])、東は[[北マケドニア]]、南は[[ギリシャ]]と[[国境]]を接する。 == 概要 == 同国は[[ヨーロッパ]]における[[宗教]]の特色が色濃い地域の一つとして知られている。 宗教の信者数は[[オスマン帝国]]支配などの歴史的経緯から、[[ムスリム|イスラム教徒]]である国民が大半を占め、[[欧州]]で唯一の[[イスラム協力機構]]正規加盟国でもあるが、信仰形態は非常に[[世俗主義|世俗的]]である<ref group="注釈" name="belief">イスラム教において[[ハラーム]]([[食のタブー]])とされる[[イスラム教における飲酒|飲酒]]をしたり、[[豚肉#豚肉のタブー|豚肉]]を食べたりする者も珍しくない。井浦伊知郎『アルバニアインターナショナル』参照。</ref>。 また、[[キリスト教]]の[[正教会]]や[[カトリック教会|カトリック]]の信者も少なくない。 [[画像:Latin (usually Albanian) Merchant Flag 1453-1793.svg|thumb|right|150px|{{FIAV|historical|}}[[オスマン帝国]]時代アルバニア系人の旗(1453–1793)]] == 国名 == 正式名称はアルバニア語で'''Republika e Shqipërisë'''({{IPA-sq|ɾɛpuˈblika ɛ ʃcipəˈɾiːsə}} レプブリカ・エ・シュチパリサ)、通称は'''Shqipëri'''(不定形)/'''Shqipëria'''(定形)({{IPA-sq|ʃcipəˈɾi, ʃcipəˈɾiːa|}} シュチパリ、シュチパリア)。 公式の英語表記は'''Republic of Albania'''({{IPA-en|rɪˈpʌblɪk əv ælˈbeɪniə, ɔːlˈbeɪniə|}} リパブリク・オヴ・エルベイニア、オールベイニア)、通称は'''Albania'''(エルベイニア、オールベイニア)。 日本語の表記は'''アルバニア共和国'''、通称は'''アルバニア'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は、'''阿爾巴尼亜'''。 シュチパリアとは[[アルバニア語]]で「[[鷲]](Shqiponja)の国」を意味し、[[アルバニア人]]が鷲の子孫であるという伝説に由来する。これに対し、他称の「アルバニア」は[[ラテン語]]の「albus(白い)」が語源とされ、語源を同じくする[[アルビオン]]と同様アルバニアの地質が主に[[石灰岩]]質で白いことから「白い土地」と呼んだことに由来している。 == 歴史 == {{Main|アルバニアの歴史}} 古代には[[イリュリア]]と呼ばれた。[[紀元前1000年]]ごろから、[[インド・ヨーロッパ語族]]に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の[[古代ギリシア]]文化の影響を受け、またいくつかの[[古代の植民都市#古代ギリシアの植民地|ギリシャ植民地]]が建設された。 [[紀元前2世紀|前2世紀]]には[[ローマ帝国]]の支配下となり、東西ローマの分裂においては[[東ローマ帝国]]に帰属した。 === オスマン帝国領時代 === {{Main|{{仮リンク|オスマン帝国統治下のアルバニア|en|Ottoman Albania}}}} [[14世紀]]以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、[[オスマン帝国]]による侵攻が始まる。[[スカンデルベク]]により、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、[[1478年]]にはオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は多大な影響を受けることとなった。特に[[地主]]をはじめとする支配階級による[[キリスト教]]から[[イスラーム教|イスラム教]]への改宗が相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあった[[ブルガリア]]などとは異なり、現在アルバニア人の半数以上が[[ムスリム]]であるといわれる(もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も家に[[イコン]]画を飾る風習など、[[正教会]]や[[カトリック教会|カトリック]]との共通点を多く持つ)。 [[File:Principality of Albania.svg|thumb|left|220px|提案された[[アルバニア公国]]の国境線([[1912年]] - [[1914年]])]] 長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「[[アルバニア人]]」意識の形成が遅れたが、[[19世紀]]末には[[民族]]意識([[ナショナリズム]])が高揚し、[[1878年]]の[[プリズレン連盟]](アルバニア国民連盟、[[プリズレン]]は現在の[[コソボ]]にある都市の名)結成以降は民族運動が相次いだ。 === 独立 === {{Main|アルバニア公国|アルバニア共和国 (1925年-1928年)|アルバニア王国 (近代)}} [[第1次バルカン戦争]]の途中、[[1912年]]に[[イスマイル・ケマル]]らがオスマン帝国からの独立を宣言する。しかし、[[列強]]に独立は認められたものの、国境画定の際に[[コソボ]]など独立勢力が「国土」と考えていた地の半分以上が削られた(「[[大アルバニア]]」を参照)。[[1914年]]に[[ドイツ帝国]]の[[貴族]]ヴィート公子[[ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート|ヴィルヘルム・ツー・ヴィート]]を[[公]]に迎え、[[アルバニア公国]]となったものの、[[第一次世界大戦]]で公が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、[[無政府状態]]に陥った。 [[1920年]]には[[君主]]不在のまま[[摂政]]を置く形で政府は再建されたが、その後も政情は不安定であり、[[1925年]]には[[共和国]]宣言を行い[[ゾグー1世|アフメド・ゾグー]]が[[大統領]]に就任した([[アルバニア共和国 (1925年-1928年)|アルバニア共和国]])。 その後、ゾグーは[[1928年]]に王位について[[ゾグー1世]]を名乗り、再びアルバニアには[[君主政]]の[[アルバニア王国 (近代)|アルバニア王国]]が成立した。 [[1939年]][[4月7日]]、アルバニアに上陸した[[イタリア軍]]は簡単な戦闘の後、 全土に[[進駐]]し<ref>W.チャーチル、佐藤亮一訳『第二次世界大戦 1』(河出文庫版)P248.</ref>、ゾグーは王妃と共に[[亡命]]した([[イタリアのアルバニア侵攻]])。[[イタリア王国]]との[[同君連合]]という形で[[国王]]には[[イタリア王|イタリアの国王]]が即位し、親伊派の[[傀儡政権]]が置かれた。[[第二次世界大戦]]時の[[1940年]]にはイタリアによるギリシャ侵攻([[ギリシャ・イタリア戦争]]、[[ギリシャの戦い]])によって南部の各地域が激戦地となった。翌1941年には、イタリアは同じ[[枢軸国]]である[[ナチス・ドイツ]]などとともに、アルバニア北隣の[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアに侵攻]]。[[独ソ戦]]も始まり、バルカン半島全体が戦場となった。[[1943年]]にイタリアが[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に[[イタリアの降伏|降伏]]すると、アルバニアは[[ドイツ軍]]によって占領された。 === マルクス・レーニン主義時代 === {{Main|アルバニア社会主義人民共和国}} [[1944年]]11月29日、{{仮リンク|アルバニアのパルチザン|en|Albanian resistance during World War II}}と[[ソビエト連邦]]軍による全土解放が行われ、[[アルバニア共産党]]を中心とした[[社会主義]]臨時政府が設立された。 [[1946年]]には王政廃止と[[アルバニア人民共和国]]設立を宣言、[[エンヴェル・ホッジャ]]を首班とする[[共産主義]]政権が成立した。[[1948年]]、アルバニア共産党は[[アルバニア労働党]]と改名した。同年、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]が[[コミンフォルム]]を脱退したことに伴い、ユーゴスラビアと[[断交]]した。 [[ファイル:Flag of Albania (1946–1992).svg|サムネイル|社会主義時代の国旗]] [[画像:Coat of arms of Albania (1992-1998).svg|thumb|right|150px|1992年 - 1998年の国章]] ホッジャ政権は[[1961年]]以降、[[スターリン批判]]を行ったソビエト連邦を「[[修正主義]]」と名指しで非難し、ソ連も[[ニキータ・フルシチョフ]]が第22回[[ソ連共産党]]大会においてアルバニアを批判するも、出席していた[[中華人民共和国]]の[[周恩来]]はアルバニアを擁護し、[[中ソ対立|中ソの路線の違いが鮮明]]になる。 [[image:Mao Zedong and Enver Hoxha.jpg|thumb|[[毛沢東]]と[[エンヴェル・ホッジャ]]]] ソ連と対立していた中華人民共和国に接近して大規模な援助を受け、この時期の[[アルバニア軍]]は、兵士が[[中国人民解放軍]]の[[軍服 (中華人民共和国)#「階級章なき軍服」の時代(1965~85年)|六五式軍服]]に類似した[[軍服]]を着用し、中国製の[[56式自動歩槍]]とそのコピーの[[ASh-78]]を制式小銃に採用して[[59式戦車]]や[[J-6 (航空機)|J-6]]戦闘機なども配備されるなど、当時のワルシャワ条約機構軍を構成する周辺諸国と比較しても異様な軍隊となる。[[1968年]]には[[ワルシャワ条約機構]]を脱退すると、実質的にソ連を[[仮想敵国]]とした極端な軍事政策を取った。[[領土問題]]を抱えていた隣国ユーゴスラビアとも、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]大統領を「[[チトー主義]]者」であると規定し、激しく対立していた。国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する[[国民皆兵]]政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。また[[1967年]]に中国の[[文化大革命|プロレタリア文化大革命]]に刺激されて「[[国家無神論|無神国家]]」を宣言、一切の宗教活動を禁止した。更に、[[1976年]]からは国内全土に[[コンクリート]]製の[[トーチカ]]([[石灰石]]は国内で自給できる数少ない鉱産資源のひとつである)を大量に建設し、国内の武装体制を強めた。ホッジャの在任中、50万以上のトーチカが建設され、現在でも国内に僅かに残っている。1970年代には[[核戦争]]を想定して、ティラナ東方の山腹に部屋106室、広さ2,685平方メートルの大型[[核シェルター]]が建設された<ref>{{Cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3032532?ctm_campaign=pcpopin|title=独裁者の核防空壕を一般公開、観光資源に アルバニア|work=AFPBBNews|publisher=[[フランス通信社]]|date=2014-11-24|accessdate=2014-12-23}}</ref>。一方で農業や教育を重視して[[識字率]]を5%から98%に改善して[[食料自給率|食糧の自給]]も達成していた<ref>40 Years of Socialist Albania, Dhimiter Picani</ref>。同年、国号を「[[アルバニア社会主義人民共和国]]」へ改称した。 [[1976年]]に[[毛沢東]]主席の死によって中国で文化大革命が終息し、[[1978年]]に[[鄧小平]]が[[改革開放]]路線に転換するとホッジャは中国を批判した([[中ア対立]])。当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助もなくなり、[[1980年代]]には、欧州の[[最貧国]]とまで揶揄されるに至った。当時の[[西欧]]各国の左派政党が採択していた[[ユーロコミュニズム]]路線や隣国ユーゴスラビアの[[チトー主義]]、更に社会主義国でも同様の独自路線を行っていた[[ルーマニア]]や[[北朝鮮]]<ref>Enver Hoxha, "Reflections on China II: Extracts from the Political Diary", Institute of Marxist-Leninist Studies at the Central Committee of the Party of Labour of Albania," Tirana, 1979, pp 516, 517, 521, 547, 548, 549.</ref> すらも批判したホッジャは「アルバニアは世界唯一の[[マルクス・レーニン主義]]国家である」と宣言し<ref>Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. II. Tirana: 8 Nëntori Publishing House.</ref><ref>Vickers, Miranda (1999). The Albanians: A Modern History. New York: I.B. Tauris & Co Ltd. p. 203. p. 107</ref>、事実上アルバニアの[[鎖国]]とも言える状況<ref>『[[NHK特集]] 現代の鎖国アルバニア』([[日本放送出版協会]]、1987年)</ref> を招いた。体制の引き締めを狙って政府高官の[[粛清]]も行われ、ホッジャに次ぐナンバー2の権力の地位にあった[[メフメット・シェフー]]首相は、1981年不可解な自殺を遂げている。 上記のように国際的な孤立を深める一方で、「[[ホッジャ主義]]」と呼ばれる独自の理論を掲げたアルバニア労働党とその支持者たちは、主に[[第三世界]]の左派において大きな位置を占めていた[[毛沢東主義]]者に対して、[[イデオロギー]]的に勝利することに成功した。[[日本共産党(左派)]]、[[ブラジル共産党]]、[[コロンビア人民解放軍]]のようにホッジャの思想に共鳴し、一時的ながら[[毛沢東主義]]より[[転向]]する勢力も現れた。 [[1989年]]から全国的に反政府[[デモ]]が続発し、[[エンヴェル・ホッジャ|ホッジャ]]の後継者の[[ラミズ・アリア]]が[[1990年]]から徐々に開放路線に転化を開始した。当時の情勢については「[[ソビエト連邦の崩壊]]」「[[東欧革命]]」「[[ユーゴスラビア紛争]]」も参照。 なおこの間に、それまで外交関係がなかった[[日本国]]との[[国交]]を[[1981年]]に樹立している。 === アルバニア共和国 === [[1991年]]に国名を「'''アルバニア共和国'''」に改称した。[[ラミズ・アリア|アリア]]は経済の開放とともに[[政党]]結成を容認したが、国内の混乱を抑えられず、[[1992年]]の総選挙によって、戦後初の非共産政権が誕生した。民主化後の[[サリ・ベリシャ]]政権は、共産主義時代の残滓の清算や[[市場主義経済]]の導入、外国からの援助導入などを政策化し、国際社会への復帰を加速させた。しかし、市場主義経済移行後の[[1990年代]]に[[無限連鎖講|ネズミ講]]が流行し、[[1997年]]のネズミ講の破綻で、国民の3分の1が全財産を失い、もともと脆弱を極めたアルバニアの経済は一瞬で破綻した({{仮リンク|アルバニアのネズミ講|en|Pyramid schemes in Albania}})。多くの市民が抗議のために路上に繰り出し、詐欺から国民を守ることができなかった政府への不満から暴徒化し、これによって政権が転覆し、無秩序状態となるという[[暴動]]が発生した([[1997年アルバニア暴動]])。暴動の発生を受け、暴動収束のための妥協案として同年中に総選挙が実施され、[[アルバニア労働党]]を前身とする[[アルバニア社会党]]が与党となり、一応の沈静化を見せたものの、未だ尾を引いているともいわれている。 [[2005年]]9月の総選挙で民主党が56議席を確保し比較第一党となり、18議席を確保した国民戦線、4議席の環境農民党・2議席の人権党連合と連立を組んで民主党のサリ・ベリシャを再び政権に送り込んだ。社会党は42議席を獲得し、最大野党となった。 [[2007年]]の大統領選出は立候補が無く、5回期限が延長された。サリ・ベリシャは、大統領選挙を直接選挙制にすべきだとの声明を出したが、2007年の大統領選挙には間に合うものではなかった。社会党党首の[[エディ・ラマ]]は総選挙を行った上で民意を反映すべきだとしたが、世論はこれを支持しなかった。 結局、民主党副議長の[[バミル・トピ|バミール・トピ]]と社会党前党首の{{仮リンク|ファトス・ナノ|en|Fatos Nano}}が立候補を表明したが、社会党はナノを支持せず、欠席戦術を用いた。トピがいずれの選挙でも勝利したものの、得票数が定数に満たないために就任できなかった。また、第3回の選挙には、民主同盟党の[[ネリタン・セカ]]が出馬し、打開への期待からか票を得たものの、第4回の選挙では議会空転を終結させるため立候補を取りやめ、トピを支持した。その結果、出席90名、得票85票でバミール・トピは大統領に選出された。この後、ファトス・ナノは社会党を離党し、連帯行動党を結党した。 [[2009年]][[4月28日]]、ベリシャ首相は[[プラハ]]を訪問し、[[欧州連合]] (EU) 議長国[[チェコ]]の[[ミレク・トポラーネク]]首相にEU加盟を申請した。[[2014年]][[6月]]よりEU加盟候補国。 == 政治 == {{Main|{{仮リンク|アルバニアの政治|en|Politics of Albania}}}} === 行政 === [[File:Edi_Rama - Feb2020.jpg|thumb|150px|ラマ首相]] [[元首|国家元首]]は[[アルバニアの元首|大統領]]で、任期は5年、[[アルバニア議会|議会]]における[[間接選挙]]によって選出される。大統領選挙の投票は最大で5回実施され、最初の3回は当選するのに6割の得票を要するが、以降は過半数でよい<ref>{{Cite news|url=https://www.usnews.com/news/world/articles/2022-05-16/albanian-parliament-fails-to-elect-a-president-in-1st-vote|title=Albanian Parliament Fails to Elect a President in 1st Vote|agency=[[USニューズ&ワールド・レポート]]|date=2022-05-16|accessdate=2022-06-02}}</ref>。また、首相は大統領により任命され、閣僚は首相の推薦の下で大統領が指名するが、最終的に議会からの承認も得る必要がある。 === 立法 === [[立法府]]たる[[アルバニア議会]]は、[[一院制]]で任期4年、全140議席である。うち、100議席は[[小選挙区制]]、40議席は[[比例代表制]]によって選出される[[小選挙区比例代表並立制]]。 === 政党 === {{main|{{仮リンク|アルバニアの政党|en|List of political parties in Albania}}}} [[アルバニア労働党]]([[1991年]]に[[アルバニア社会党|社会党]]に党名変更)が[[冷戦]]期を通じて一党独裁を行う[[共産主義]]体制だったが、[[1990年]]より[[東欧革命|東欧民主化]]の影響を受けて、対外開放や複数政党制の導入などの民主化を始めた。1991年の初総選挙では社会党が連立によって政権を維持したものの、翌[[1992年]]3月の総選挙で[[アルバニア民主党]]を中心とした勢力が大勝利を収めた。これを受けて、第一書記から大統領となった[[ラミズ・アリア]]はその職を辞任。民主党の[[サリ・ベリシャ]]が第2代大統領として選出された。[[1996年]]に再選。[[ファイル:Flag of Albania.svg|サムネイル|現在の国旗]][[1997年]]1月国民の大半が加入していたねずみ講会社の破産を原因として[[1997年アルバニア暴動|アルバニア暴動]]が発生。6月の議会選挙の結果を受け、7月に[[サリ・ベリシャ]]は辞任。社会党の[[レジェプ・メイダニ]]を大統領として、社会党政権が成立した。[[2001年]]の総選挙では社会党は73議席を獲得し、6割を確保できなかったため、大統領には民主党の[[アルフレッド・モイシウ]]が就任したが、依然として社会党内閣が続いた。 現在、アルバニアには[[アルバニア社会党]]、[[アルバニア民主党]]、[[緑の党 (アルバニア)|緑の党]]、[[社会民主党 (アルバニア)|社会民主党]]、[[人権党連合 (アルバニア)|人権党連合]]など十数の[[政党]]がある。 [[2012年]]にはギリシャの[[極右]]政党「[[黄金の夜明け (ギリシャ)|黄金の夜明け]]」とつながりがあるとされ、[[コソボ]]との[[国家連合|連合国家]]形成を主張する極右政党「[[赤黒連合]]」が結成された。2013年6月の総選挙で同党は、投票総数の0.59%にあたる1万196票を得たが、議席の獲得はできなかった。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|アルバニアの国際関係|en|Foreign relations of Albania}}}} 鎖国状態から対外開放に転じた1990年代以降、[[先進国|先進諸国]]や[[国際機関]]との関係拡大を進めてきた。2009年に[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟し、EU加盟を目標としていた。フランスやオランダ、デンマークなどはバルカン半島諸国がEUに加盟することで移民が西欧諸国に流入しやすくなり、移民反対を掲げる政党が増長しかねないという懸念からアルバニアや[[北マケドニア]]の加盟交渉入りに反対し続けたものの、2020年2月に[[欧州委員会]]が加盟交渉の改革案を提示したことでフランスなどが態度を軟化させ、同年3月24日に加盟交渉入りすることが決定した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57194850V20C20A3FF8000/|title=EU、英抜きで再拡大へ バルカン諸国の加盟交渉で合意|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2020-03-26|accessdate=2020-03-26}}</ref>。 2021年には、同国初となる[[国際連合]]の[[安全保障理事会]][[非常任理事国]]に選ばれた。 任期は2022年からで2年間務める予定である<ref>{{Citenews|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP6D447ZP6CUHBI016.html}}</ref>。 ヨーロッパの中ではアドリア海対岸の隣国イタリアとの経済的結びつきが強く、主要な貿易相手国の一つである。2019年11月には、政治的判断により[[ペルシア湾]]で[[イラン]]などを警戒するアメリカ主導の有志連合に参加した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASMC81R7ZMC8UHBI003.html 「イラン包囲網」米主導の船舶護衛活動開始 日本見送り][[朝日新聞デジタル]](2019年11月8日)2019年11月9日閲覧</ref>。 2022年9月にはイランとの断交を発表した<ref>https://web.archive.org/web/20220907125105/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022090701229&g=int</ref> アルバニア人が多数を占めるコソボの国造りと、コソボ[[国家の承認|承認]]国を増やすための支援を行っている<ref name=":0"/>。 {{節スタブ}} === 日本との関係 === {{Main|日本とアルバニアの関係}} {{See also|駐日アルバニア大使館}} ; 駐日アルバニア大使館 * 住所:東京都中央区築地六丁目4-8 北國新聞ビル4階 * アクセス:[[東京メトロ日比谷線]][[築地駅]]1番出口、もしくは[[都営地下鉄大江戸線]][[築地市場駅]]A1出口 <gallery> File:アルバニア大使館が入居するビル全景.jpg|アルバニア大使館が入居するビル全景 File:北国新聞東京会館にアルバニア大使館が入居.jpg|北国新聞東京会館にアルバニア大使館が入居 File:アルバニア大使館は4F.jpg|アルバニア大使館は4F File:アルバニア大使館専用インターフォン.jpg|アルバニア大使館専用インターフォン </gallery> == 軍事 == {{Main|アルバニア軍}} == 地理 == {{Main|{{仮リンク|アルバニアの地理|en|Geography of Albania}}}} [[ファイル:Albania-map-ja.jpeg|right|thumb|320px|アルバニアの地図。]] アルバニアの国土は最大で南北が約340km、東西が150kmである。海岸部の[[平野]]以外は起伏があって山がちな地形が多く、国土の約7割が海抜高度300m以上である。[[モンテネグロ]]、[[セルビア]]、[[北マケドニア共和国]]との国境地帯には[[ディナル・アルプス山脈|ディナラ・アルプス]]山系の2000m級の山々が列を成しており、一番高い山は[[ディブラ県]]にある[[コラプ山]]で、2,753メートルに達する。 海岸付近の低地は典型的な[[地中海性気候]]で降雪は珍しいが、内陸部の高地は[[大陸性気候]]で冬には大量の降雪がある。年間降水量は1,000mmを超える。[[夏]]の最高気温は30℃以上となるが、[[冬]]の最低気温は海岸部で0℃、内陸部で-10℃以下となる。また、国土の北西はモンテネグロにまたがりバルカン半島最大の湖である[[シュコダル湖]](約360[[平方キロメートル|平方キロ]])に面しており、南東部には[[オフリド湖]]、[[プレスパ湖]]がある。オフリド湖が源の[[ドリン川]]が約280kmにわたって国内を流れ、[[シュコドラ州]]で数本の水流に分かれて[[アドリア海]]に注いでいる。国土の約40%が[[森林]]で、[[ブナ]]や[[マツ|松]]などが多い。 == 地方行政区分 == {{main|アルバニアの州|アルバニアの基礎自治体}} アルバニアは12の州 (qark)、61の基礎自治体 (komuna) に分けられる。 === 主要都市 === {{Main|アルバニアの都市の一覧}} 首都のティラナ以外の主要な都市としては[[ドゥラス]]、[[エルバサン]]、[[シュコドラ]]、[[ギロカストラ]]、[[ヴロラ]]、[[コルチャ]]、ブローラ、サランダなどがある。 == 経済 == {{Main|{{仮リンク|アルバニアの経済|en|Economy of Albania}}}} [[File:Tirana_from_South.jpg|thumb|ティラナ]] [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]のアルバニアの名目[[国内総生産|GDP]]は127億ドルである。一人当たりは4,565ドルで、これは世界平均の40%ほどの水準だが、[[バルカン半島]]では最下位に位置している。 上述したように、アルバニアは第二次世界大戦後に米ソ両陣営と距離を置き、[[1978年]]から完全な鎖国状態となった。経済は低調で、長年欧州最貧国の扱いを受けていた。国民は皆貧しく、ある意味では平等な状態にあった。 [[1990年代]]に[[市場経済]]が導入された際には、投資会社という名目で[[ネズミ講|ねずみ講]]が蔓延した。ねずみ講は通常、新規参入者がいなくなった時点で資金が集まらなくなり、配当ができなくなることによって破綻する。しかしアルバニアの場合、集めた資金で[[武器]]を仕入れ、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]の紛争当事者へ売り払うことによって収入を得、配当を行っていた<ref name="20080306nikkeibo">『アルバニア:「国民平等に貧しい」と「ねずみ講バブル」の関係』2008年3月6日付配信 [[日経ビジネス]]オンライン</ref>。他に、国民の半分がはまったと言われるまでにねずみ講が蔓延した理由としては、[[社会主義国|社会主義国家]]で[[鎖国]]状態であったために、国民に市場経済の金融・経済についての教育が行われず、国民が「投資とはこんなものだ」と思い、ねずみ講の危険性に気づかなかったことも挙げられる<ref name="20080306nikkeibo" />。また、武器の購入を通じて[[麻薬]]などの[[組織犯罪]]([[アルバニア・マフィア]])とも深く関わりを持つこととなり、[[汚職]]が蔓延した。ねずみ講投資会社は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結とともに破綻した<ref name="20080306nikkeibo" />。 その後は経済回復を続け、2000年に[[世界貿易機関]](WTO)加盟。税制改革や、外資を呼び込もうと誘致活動を行っている。外資の誘致については、[[インフラストラクチャー]]が脆弱であることが課題となっている<ref name="20080306nikkeibo" />。例えばアルバニアの[[電力]]は山がちな地形を生かした[[水力発電]]が支えており、水力で総発電量の98.8%を占めている。この水力については、施設の老朽化による電力不足が課題となっている<ref name="20080306nikkeibo" />。しかし近年では新規の水力発電所の建設、送電線網の更新が進み、2017年ごろからは長期の[[停電]]のような事態は都市部、地方を含めて起きにくくなっている。 ホッジャを首班とする[[独裁政治|独裁政権]]下では、国民は渡航規制、外国書物及び放送の規制を強いられており国民にとっては海外の文化や情報を得る手段は無に等しかった。1990年以降の市場開放により、同じ[[ヨーロッパ]]に属する隣国イタリアの名物である[[ピザ]]や、[[バナナ]]といった果物を初めて知ったという国民もいた<ref>[[佐藤和孝]]著『戦場でメシを食う』([[新潮社]])第三章「アルバニア-世界でもっとも孤立した国」</ref>。 ユーロ圏への貿易、ギリシャ、イタリアへの出稼ぎが多くユーロ圏の経済に大きく影響を受ける構造である<ref name=":0" />。 === 農業 === {{Main|{{仮リンク|アルバニアの農業|en|Agriculture in Albania}}}} [[File:Albania outside of Peshkopi.jpg|220px|thumb|right|アルバニアの農家]] アルバニアは山がちな地形にもかかわらず、国土に占める[[農地]]面積が25.5%と高い。伝統的に[[農業]]従事者の比率が高く、政府は農業以外の産業確立に苦心してきた。 1940年時点における農業人口の比率は85%であったが、1989年には55%、2004年時点では21%まで下がった。なお、農業人口の減少は同国の経済体制の変化にも原因がある。 1946年に創設された[[集団農場]]は成長を続け、1973年には全ての農場が集団化(社会主義化)された。しかしながら1991年に集団農業を放棄したことで、生産額が1年間に20%低下し、一時的に大打撃を受けている。その後、農業生産は持ち直し、労働生産性が向上した。 主な生産品目は主食の[[コムギ|小麦]]、生産額は2004年時点で30万トンである。その他の麦や、[[トウモロコシ]]や[[ジャガイモ]]の生産も盛ん。[[地中海性気候]]に適した[[オリーブ]]や[[ブドウ]]、[[桃]]、[[ザクロ]]、[[クルミ]]、[[レモン]]、[[メロン]]、[[オレンジ]]、[[スイカ]]も生産している。 [[食糧自給率]]については、1995年時点では95%と発表されていたが、2003年時点では[[輸入]]に占める最大の品目が食料品(輸入の19.6%)となっている。 一方、近年では農産物加工品の輸出も盛んになりつつある。 === 鉱業 === [[File:Mallakastra-oil.jpg|thumb|[[マラカスタル県]]の[[油田]]]] 鉱物資源はある<ref>平野英雄「アルバニアの金属資源」『地質ニュース』531号 1998年11月 pp.43-51 [http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1998/11/98_11_05.pdf PDF]</ref> が、長年の鎖国政策や、近年の社会的混乱によってインフラが乏しいため、生産は低調である。 典型的なのが[[クケス|クケス市]]など3カ所の[[鉱山]]から採掘されている同国第一の鉱物資源[[クロム|クロム鉱]]である。第二次世界大戦直前の1938年時点ではわずか7000トンだったクロム鉱の採掘量は、[[1970年代]]には世界第3位に達し、[[1987年]]には108万トンまで伸びた。しかし、1991年には50万トンに、2003年には9万トンまで落ち込んでいる。同じ傾向は[[銅|銅鉱]](1991年に至る5年間で銅鉱の産出量が半減)、[[ニッケル]]についても見られる。 有機鉱物は、品位の低い[[亜炭]]、[[原油]]、[[天然ガス]]を産出する。[[塩]]、[[石灰岩]]の生産も見られる。[[アスファルト#天然アスファルト|天然アスファルト]]は生産量こそ少ないものの、アルバニアの特産品として知られている。 === 工業 === 工業は、[[輸出]]については衣類を中心とした軽工業が主体である。繊維自体の生産は小規模であり、布・皮からの衣服の加工、[[縫製]]が主となる。アルバニアの輸出に占める工業製品の割合は82.6%(2003年)に達する。品目別に見ると衣類34.2%、靴などに用いる皮革26.1%であり、輸出工業品目の過半数を占める。この他の工業製品としては鉄鋼、[[卑金属]]が輸出に貢献している。 輸出相手国は、イタリアとの関係が深い(輸出の74.9%がイタリア向け)。イタリアの繊維産業と深く結びついた工業形態となっていることが分かる。イタリア企業向けの[[コールセンター]]が起業されるなど海外向けのサービス業の発展が近年では顕著である。 === 観光 === {{main|{{仮リンク|アルバニアの観光地|en|Tourism in Albania}}}} 2010年ごろから南部の海岸地帯を中心に観光業の発展が著しいものとなっている。特にブローラ県ではホテル、リゾートマンションが多数建設され、夏季には多くの国内外の観光客で賑わう。国民の多くが非常に世俗的なイスラム教徒であるため、レストランでのアルコールおよび豚肉料理の提供には制限はなく、内外の観光客で賑わっている。ビーチバー、カフェ、ストリップ劇場も多数営業し、イタリア、中国、ごくわずかながら日本といった海外からの直接投資も始まっている。観光業が経済的なエンジンの一つとなりつつある。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|アルバニアの交通|en|Transport in Albania}}}} 道路インフラの整備が進められており、首都圏では高速道路、環状道路の整備はほぼ完了した。主要な都市を結ぶ高速道路網も整備も進められており、一部の区間では通行できるようになっている。ラマ首相のイニシアチブにより2018年より空港のある首都圏と南部の観光地帯を結ぶ高速道路の建設が本格化した。 === 鉄道 === {{Main|{{仮リンク|アルバニアの鉄道|en|Rail transport in Albania}}}} {{節スタブ}} === 空運 === {{Main|アルバニアの空港の一覧}} {{節スタブ}} === 海運 === 首都ティラナから30キロメートル、デュレス近くのポルトロマノに国内最大の軍民両用の港湾を建設中で、NATO諸国の艦艇も受け入れる計画である<ref>「[https://jp.reuters.com/article/albania-nato-idJPKBN2OF025 アルバニア、NATOに新たな海軍基地提供へ=首相]」ロイター(2022年7月4日)2023年23日閲覧</ref> <ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR07AUP0X01C22A2000000/ アルバニア首相:軍港供与 NATOと協議「地理的に戦略拠点」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2023年2月23日(国際面)同日閲覧</ref>。 == 国民 == {{Main|{{仮リンク|アルバニアの人口統計|en|Demographics of Albania|redirect=1}}}} === 民族 === [[アルバニア人]]が大部分であるが、国土の北部と南部では言語や風習に差異がある。南部には[[ギリシャ人]]などもいる他、国境付近には[[マケドニア人]]や[[モンテネグロ人]]もいる。 === 言語 === {{Main|{{仮リンク|アルバニアの言語|en|Languages of Albania}}}} [[アルバニア語]]が[[公用語]]であるが、北部の[[ゲグ方言]]と南部の[[トスク方言]]に分かれ、[[標準語]]はトスク[[方言]]に基づいている。歴史的な理由(社会主義時代にイタリアからのラジオを聴くなど)により[[イタリア語]]を話せる高齢者が多い。[[義務教育]]課程での[[英語]]教育が導入されており若年層のほとんどは英語を話す。南部の[[サランダ]]を中心とした地域に住むギリシャ系住民の間では、なまりの強い[[ギリシャ語]]を話す人々もいる。 === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|アルバニアの宗教|en|Religion in Albania}}|[[国家無神論]]|アルバニアのイスラム教|{{仮リンク|アルバニアにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Albania}}}} [[File:07Tirana Et'hem beu Mosque03.jpg|thumb|left|160px|[[ティラナ]]の[[ジャーミア・エトヘム・ベウト]]]] アルバニアの宗教を語る上で[[1967年]]の共産党政府が「[[無神論|無神]]国家(無神論国家)」を宣言したことが取り上げられる。マルクス・レーニン主義を国是とする国家では旧ソビエト連邦の首都[[モスクワ]]における[[救世主ハリストス大聖堂]]の爆破(1931年)や中華人民共和国の[[文化大革命]](1966-76年)など宗教弾圧は見られた。しかし、これらの国々であっても、宗教の弾圧は徹底されず、(一定の制限はあるが)寺院も宗教団体も存在して、信仰と宗教活動は容認されてきた。 {{bar box |title=宗教構成(アルバニア) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[イスラム教|イスラーム教]]|green|70}} {{bar percent|[[アルバニア正教会]]|lightblue|20}} {{bar percent|[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]|blue|10}} }} {{bar box |title=宗教構成(アルバニア、ワトソン研究所の調査より) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|特になし|gray|70.12}} {{bar percent|[[正教会|東方正教会]]|lightblue|10.33}} {{bar percent|[[イスラム教|イスラーム教(スンニ派)]]|green|9.43}} {{bar percent|[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]|blue|8.09}} {{bar percent|[[ベクタシュ教団|ベクタシズム]]([[スーフィズム|イスラム神秘主義]]の一つ)|red|1.27}} {{bar percent|[[プロテスタント]]|brown|0.6}} {{bar percent|その他|black|0.7}} }} しかし、アルバニアは国内での激しい宗教対立を背景に1967年、共産圏では初めて、内外に「[[国家無神論|無神国家]]」を宣言した。これは国民全てがいずれの宗教も信仰しておらず、そのため国内にはいかなる宗教団体および宗教活動は存在しないという宣言である。この世界に類を見ない強力な宗教の弾圧と排除が特筆すべきものになったのは、当時のアルバニアの指導者[[エンヴェル・ホッジャ]]が過激な[[スターリニズム|スターリン主義者]]であったことと、アルバニアの国土面積と人口が旧ソ連や中国に比べて極めて小さかったこと、1970年代から鎖国体制に入ったことなどによる。そのため1970年代の鎖国体制以降、アルバニア国外では、アルバニアではどのような宗教が信仰されているのか、どのような宗教活動が行われているのかは、不明という状態となった。<!-- フランス革命期にジャコバン独裁が行われた際、ロベスピエールが宗教を否定したので、「人類初」「世界で唯一」とは言えないのでは? --> 1990年、[[信教の自由]]が認められた。現在では多くの人々が穏健で世俗的な[[ムスリム]]<ref group="注釈" name="belief"/>、[[正教徒]]、[[カトリック教会|カトリック]]であり、異なる宗教の信者間での結婚にいかなる制約もない。異教徒同士のカップルも少なくない。公式のデータは右記の通りである<!--(いつの物かは不明。以前からこの比率の記述が多いこともあってか、更新されていない→かなり前の物と思われるが)-->。 一方、最近では、信仰する宗教が特に無いという人々が多数派を占めていると言われている。 [[ワトソン・インスティテュート]]([[:en:Watson Institute|ワトソン研究所]])の[[2004年]]度レポート『アルバニアにおける移民と民族集団-シナジーと相互依存』<ref>[http://www.watsoninstitute.org/bjwa/archive/11.1/Essays/Barjarba.pdf 『アルバニアにおける移民と民族集団-シナジーと相互依存』(ワトソン・インスティテュート(Watson Institute))]'''(英語)'''</ref> でのデータは以下の通り。また、[[アメリカ合衆国]]の[[国務省]]が出した[[2007年]]度レポート『国際的な宗教の自由』<ref>[http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2007/90160.htm アメリカ国務省『国際的な宗教の自由』'''(英語)''']</ref> でも、国民は無宗教が多数派である事が述べられており、ワトソン研究所の調査と同じ形となっている。 ただし、[[イラク戦争]]以後、若者のごく一部に戒律的なイスラム教への回帰も散見されるようになってきた。 === 婚姻 === 婚姻では、婚姻前の姓を保持する([[夫婦別姓]])か、配偶者の姓へ改姓し夫婦同姓とするか選択することが可能である<ref>[https://www.ilo.org/dyn/natlex/docs/ELECTRONIC/65148/89474/F1958881334/ALB65148%20(English).pdf Family Code of Albania], Law Number 9062, Chemonics International Inc., 2003.</ref>。 === 教育 === {{Main|{{仮リンク|アルバニアの教育|en|Education in Albania}}}} 同国での初等・中等・高等教育は、主に州によって定められたものが多い。学年度は2学期に分かれていて[[アメリカ合衆国]]と類似しており、授業はほぼ9月か10月に開始され、6月か7月で終了する仕組みとなっている。 初等教育は1年生から9年生まで設けられており[[義務教育]]となっているが、殆どの生徒は中等教育まで継続されている。 なお、2015年時点でアルバニアにおける全体的な[[識字率]]は98.7%であり、男性の識字率は99.2%、女性の識字率は98.3%となっている。 {{節スタブ}} === 保健 === {{Main|{{仮リンク|アルバニアの保健|en|Health in Albania}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|アルバニアの医療|en|Healthcare in Albania}}}} == 治安 == 現時点において、大きな[[犯罪]]が同国内で発生したケースはあまり発表されていない。[[麻薬]]取引や犯罪組織の存在が指摘されているが、これらの犯罪に[[外国人]]が巻き込まれた例も殆ど報告されていない。 また、[[テロ]]においては[[中東]]や[[北アフリカ]]諸国に拠点を有するイスラム系慈善団体などの支部や、コソボなどで[[民族主義]]を掲げる反政府勢力と関係を有する団体は存在するものの、現在のところ直接的な治安上の不安は少ないと考えられている。一方、シリアやイラクで聖戦([[ジハード]])のためにイラク・レバントのイスラム国([[ISIL]])などの反政府武装組織に参加した帰還兵の数名がアルバニアへ入国したとの報道もあり、同国におけるテロ行為の懸念は完全には払拭し切れておらず、警戒を求められているのが現状となっている。 {{節スタブ}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|アルバニアにおける人権|en|Human rights in Albania}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|アルバニアにおける人身売買|en|Human trafficking in Albania}}}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|アルバニアのメディア|en|Mass media in Albania}}|{{仮リンク|アルバニアのテレビ|en|Television in Albania}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|アルバニアの文化|en|Culture of Albania}}}} [[File:A traditional male folk group from Skrapar.JPG|thumb|220px|伝統的な男性フォークグループ([[スクラパル県]])。]] [[File:Ismail Kadare.jpg|thumb|220px|[[アルバニア文学]]の作家、[[イスマイル・カダレ]]。]] [[File:Berat.jpg|thumb|220px|[[世界遺産]]、[[ベラト]]。]] 長期にわたる[[オスマン帝国]]の支配の影響から、「[[アルバニア人]]」という民族意識の形成とそれに基づく民族文化の育成が遅れた。[[アルバニア語]]の学校教育は[[1887年]]に初めて開始され、そのころから民族意識高揚による「アルバニア・ルネサンス運動」が起きた。 第二次世界大戦後の共産主義政権は、[[共産主義]]のイデオロギー的影響を強く受けながらも、強力な[[民族主義]]的立場で国民の[[啓蒙]]と文化水準向上に関する政策を展開した。地中海周辺の諸民族と比べ、比較的に温厚で忍耐強いと言われるが、[[家父長制]]的な伝統の要素が社会に残っており、[[フェミニズム|女性の地位向上運動]]が続いている。 === 食文化 === {{Main|[[アルバニア料理]]}} {{節スタブ}} === 文学 === {{Main|{{仮リンク|アルバニア文学|en|Albanian literature}}}} * [[イスマイル・カダレ]] {{節スタブ}} === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|アルバニアの音楽|en|Music of Albania}}}} {{節スタブ}} {{See also|アルバニアの民俗舞踊}} === 芸術 === {{main|{{仮リンク|アルバニアの芸術|en|Albanian art}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|アルバニアの建築|en|Architecture of Albania}}}} === 世界遺産 === {{Main|アルバニアの世界遺産}} アルバニア国内には、[[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が1件、暫定リストが4件存在する。<ref>[http://whc.unesco.org/en/statesparties/AL ユネスコ世界遺産 アルバニア]</ref> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|アルバニアの祝日|en|Public holidays in Albania}}}} {| class="wikitable" |+ 祝祭日 ! 日付 !! 日本語表記 !! 現地語表記 !! 備考 |- | [[1月1日]]、[[1月2日]] || [[元日]] || Viti i Ri || |- | [[3月22日]] || 新年の日([[春分]]の日) || Nevruz || |- | 移動祝日 || [[カトリック教会|カトリック]]の[[復活祭]] || Pashkët Katolike || 日付は[[復活祭]]参照。 |- | 移動祝日 || [[正教会]]の[[復活大祭|復活祭]] || Pashkët Ortodokse || 日付は[[復活祭]]参照。 |- | [[5月1日]] || [[メーデー]] || Një Maji || |- | [[10月19日]] || [[マザー・テレサ]]の日 || Dita e Nënë Terezës || |- | [[11月28日]] || [[独立記念日]] || Dita e Pavarësisë || |- | [[11月29日]] || 解放記念日 || Dita e Çlirimit || |- | [[12月25日]] || [[クリスマス]] || Krishtlindje || |- | [[イスラム暦]]による || [[犠牲祭]] || Bajrami i Vogël || 移動祭日 |- | イスラム暦による || [[イド・アル=フィトル|ラマダーン明け大祭]] || Bajrami Madh || 移動祭日 |- |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|アルバニアのスポーツ|en|Sports in Albania}}}} {{See also|オリンピックのアルバニア選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|アルバニアのサッカー|en|Football in Albania}}}} アルバニア国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1930年]]にサッカーリーグの[[カテゴリア・スペリオレ]]が創設された。[[アルバニアサッカー連盟]](FSHF)によって構成される[[サッカーアルバニア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし、[[UEFA欧州選手権]]には[[UEFA EURO 2016|2016年大会]]で初出場を果たしている。近年は[[イタリア]]・[[セリエA (サッカー)|セリエA]]で活躍する選手を輩出しており、[[トーマス・ストラコシャ]]と[[エルセイド・ヒサイ]]がいる<ref>[http://www.thesirenssong.com/calciomercato-napoli-transfer-rumors/2015/7/28/9059399/elseid-hysaj-napoli-empoli-transfer-rumor-fee-agreed-5-million Napoli reportedly reach agreement with Empoli to sign Elseid Hysaj] THE SIREN's SONG 2015年7月28日</ref>。 == 著名な出身者 == {{main|アルバニア人の一覧}} * [[スカンデルベグ]] - [[君主]] * [[ゾグー1世]] - [[アルバニアの元首|大統領]]、[[国王]] * [[エンヴェル・ホッジャ]] - [[政治家]] * [[イスマイル・カダレ]] - [[小説家]] * [[ジョン・ベルーシ]] - [[俳優]]、[[コメディアン]] * [[ジェームズ・ベルーシ]] - 俳優、コメディアン * [[エリオン・ボグダニ]] - 元[[プロサッカー選手|サッカー選手]] * [[ロリック・カナ]] - 元サッカー選手 * [[トーマス・ストラコシャ]] - サッカー選手 * [[エルセイド・ヒサイ]] - サッカー選手 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name=":0">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/albania/data.html アルバニア共和国(Republic of Albania)基礎データ] 日本国[[外務省]](2019年11月9日閲覧)</ref> }} == 参考文献 == * 井浦伊知郎『アルバニアインターナショナル──鎖国・無神論・ネズミ講だけじゃなかった国を知るための45カ国』([[社会評論社]]、2009年8月)ISBN 4-7845-1111-3。 == 関連項目 == * [[アルバニア関係記事の一覧]] * [[大アルバニア]] * [[アルバニア決議]] * [[シナン・レイース]] * {{ill2|鷲のポーズ|en|Crossed hands}} - 手を開いた状態で胸の前で組み、アルバニア国旗にある双頭の鷲を表すポーズ。 == 外部リンク == {{Commons&cat|Albania|Albania}} ; 政府 * [http://www.president.al/ アルバニア大統領府] {{sq icon}}{{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/albania/index.html 日本外務省 - アルバニア] {{ja icon}} * [https://www.al.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在アルバニア日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光 * [http://www.albaniantourism.com/ アルバニア政府観光局] {{sq icon}}{{en icon}} {{ヨーロッパ}} {{OIC}} {{CEFTA}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{albania-stub}} {{デフォルトソート:あるはにあ}} [[Category:アルバニア|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:共和国]] [[Category:フランコフォニー加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]]
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ボスニア・ヘルツェゴビナ
ボスニア・ヘルツェゴビナは、東南ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエヴォ。ボシュニャク人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人中心のスルプスカ共和国の二つの構成体からなる連邦国家でもある。両地域にまたがるブルチコ行政区は中央政府が直轄している。 ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビア、モンテネグロと接する。クロアチア領ダルマチアに挟まれたネウムでごくわずかにアドリア海に面する。 多民族が一つの地域に集まったり散らばったりを繰り返した歴史を持つ場所の一ヶ所となっている。また、かつてはユーゴスラビアの構成国の一つであった。 ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。 紛争終結後も、3民族の代表が輪番制で国家元首(大統領評議会議長)を務めている。 正式名称は、ボスニア語・クロアチア語で Bosna i Hercegovina(ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)、セルビア語で Босна и Херцеговина(ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)。 公式の英語表記は、Bosnia and Herzegovina([ˈbɒzniə ənd ˌhɛərtsəɡəˈviːnə, ˌhɜːrtsəˈɡɒvᵻnə] ( 音声ファイル))。 日本語の表記は ボスニア・ヘルツェゴビナ、または ボスニア・ヘルツェゴヴィナ。 「ボスニア」の名称についての最初の言及として広く認められているものは、10世紀半ば(948年から952年の間)に東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス7世によって書かれた帝国地理論(英語版)であり、セルビア人が住んでいる「ボスナ」(ギリシャ語:Βοσώνα)の「小さな土地」(χωρονα)として記述されていた。 ボスナは、ボスニアの中心地を流れるボスナ川の水名に由来すると考えられている。言語学者アントン・メイヤーによると、ボスナという名前はイリュリア語の「Bass-an-as」に由来する可能性があり、これは「流れる水」を意味するインド・ヨーロッパ祖語の語根「bos」または「bogh」から派生したものであると考えられる。 ヘルツェゴビナという名前は「ヘルツォークの[土地]」という意味であり、「ヘルツォーク」はドイツ語の「公爵」を意味する。これは、15世紀にこの地域を支配した「フムと海岸のヘルツォーク」サバ公スチェパン・ヴクチッチ(英語版)に由来する。フムは、古くはザクルミア(英語版)と呼ばれていたバンにより征服された中世初期の公国の名称である。オスマン帝国の支配下に入ると、ヘルツェゴビナのサンジャック(英語版)と呼ばれるようになり、行政区分上は、ボスニア・エレヤト(英語版)及び短命のヘルツェゴビナ・エレヤト(英語版)に含まれており、その後、行政区画はボスニア・ヘルツェゴビナに再編された。 現在のボスニア、ヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族のイリュリア人が住んでいたが、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世の頃にはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、キリスト教のカトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。 15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国のボスニア州(英語版)(1580–1867、Bosnia Eyalet)やボスニア州(英語版)(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。 19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1831年にボスニア蜂起(英語版)(1831–1833)。1875年にヘルツェゴヴィナ蜂起が起きると、この反乱を口火としてモンテネグロ・オスマン戦争(英語版)と露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や汎スラヴ主義を刺激。1914年にこの地で起きたサラエボ事件が、第一次世界大戦の引き金になった。 第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約によりオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。 第二次世界大戦時、ナチス・ドイツと同盟する枢軸国はユーゴスラビアに侵攻。ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義組織チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。 ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。 ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒(ムスリム)たちは多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。 長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、サラエボはユーゴスラビアのロック (音楽)やポップスの一大拠点となった。一方、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。 1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んでいた。 正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ。この3つの民族は互いに近い言語を使っていたものの、民族的アイデンティティや宗教を異にしていた。 1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票(英語版)を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。アリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領などの数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体はそれぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。 ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、ラドヴァン・カラジッチを大統領とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、マテ・ボバンの指導下、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。 2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。 1994年にはアメリカ合衆国の主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年に国際連合の調停で和平協定(デイトン合意)に調印し、紛争は終結した。 デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態も度々起こっている。国政に対して3民族が事実上の拒否権を持ち、大統領が輪番制であることもあって、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表が実質的な最高権力者となっている。 2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮しSFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUが編成した欧州連合部隊「アルテア」(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。アルテアは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点で約2,200名となっている。 2013年10月1日から10月15日に掛けて、独立後初の国勢調査が行われることになった(質問項目は主に誕生日、生まれた場所、職業、学歴など)。過去に2001年と2011年にも実施しようとしたものの、民族間の対立に伴い実現しなかった。国勢調査の実施は今後のEU加盟や政策立案のために必要不可欠ではあるものの、民族構成によって政府の主要ポストや公務員の数を振り分けるなど国の根幹に関わるため、政治利用されるばかりか危うい民族バランスの均衡が崩れる可能性もはらんでいる。事実、この国勢調査を利用し、各勢力が自民族に有利に働くため、教会・モスクにいる聖職者を通じて働きかけと称した誘導を行うといった事態も見受けられた。また各民族が働きかけた不正行為も明らかになった。一方で、民族の色分けや少数民族差別(主にユダヤ人やロマ)を嫌った人々によるコスモポリタニズムの胎動がどこまで進行しているのかもポイントになっていた。国勢調査の結果は11月10日まで行われる不正調査の報告と修正を経て、2014年1月に判明する予定とされ、非公式速報値では人口は370万~380万程度で、ボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%となった。 デイトン合意以降、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治は国際的監視の下に置かれている。民族間の均衡を保つため、3つの主要民族から1名ずつ選ばれた代表者によって構成される大統領評議会による集団指導体制がとられている。大統領評議会の議長は8ヶ月ごとに輪番で交代し、議長は事実上の国家元首となる。 ボスニア・ヘルツェゴビナには、デイトン和平合意に基いて国際社会の監督機関として主要国の代表者からなる和平履行評議会(PIC)が設置され、同評議会の下に上級代表事務所(OHR)が置かれている(コソボにおける国際文民事務所(ICO)に相当)。上級代表事務所の長は上級代表(HR)であり、デイトン和平合意を実施するに際して必要と認められるときは、直接立法権、人事介入権を含む強力な内政介入権(ボン・パワー)を発動できるため、実質的に同国の最高指導者と言える。 ボスニア・ヘルツェゴビナ、および同国のそれぞれの構成体ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦およびスルプスカ共和国には、それぞれ独自の議会がおかれている。また、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する10の県にも、それぞれ独自の議会が設けられている。 中央政府の議会は上・下院からなる二院制であり、上院の定数は15(各民族5議席)、下院の定数は42(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦28議席、スルプスカ共和国14議席)と民族別、国別に分かれた複雑なものとなっている。 中央政府とボスニア連邦では、2000年に実施された国政選挙によって、紛争勃発後初めて社会民主党を中心とする非民族主義政権が誕生した。しかし、2002年10月の国政選挙では非民族主義政権が伸び悩み、大統領評議会員選挙では3名とも民族主義政党出身者が当選するなど、結果的に民族主義勢力が伸張した。主要政党は民族ごとに結成されており、それぞれが民族的利益を主張するため、国政運営上の障害となっている。こうした現状に対して、民族融和や腐敗追放を掲げる政党や政治家も登場している。首都サラエボからの大統領立候補をセルビア人に認めてこなかった選挙制度について、欧州人権裁判所が2020年12月に違法との判決を下している。 ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年5月22日に国際連合に加盟したが、その後の民族対立、内戦は悲惨であった。民族対立は完全に解消されたわけではないが、「欧州大西洋機構への統合」、即ち欧州連合(EU)及び北大西洋条約機構(NATO)加盟が民族を超えた共通の目的であり、ボスニア政府はこの目標に向かって国際社会の支援を得ながら諸改革に取り組んでいる。 2000年12月、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア連邦共和国との間で正式な外交関係を樹立した。また警察改革や公共放送法の採択で進展があったため、EUは2005年11月7日に安定化・連合協定締結交渉の開始を承認した。なお、EU加盟は3民族の共通目標とされており、ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗にもそれが現れている。 2016年2月、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はEUへの正式な加盟申請を行った。ベルギーのブリュッセルにおいて、ボスニア・ヘルツェゴビナのドラガン・チョヴィッチ大統領評議会(幹部会)議長が、EU議長国オランダのクーンデルス外相に対して、申請の文書を手渡した。 同国軍は陸軍、空軍及び防空軍の二軍種から成り立っている。軍事力は中央政府に統一されたが、連隊以下は民族別編成とされている。 国土はおおよそ三角形をしている。歴史的に北中部はボスニア、南部はヘルツェゴビナと呼ばれてきた。 南部には海抜高度2,000mを超える山地が多い。アドリア海に沿ってディナル・アルプス(Dinaric Alps)が延びており、国土の南西部は石灰岩によるカルスト地形で乾燥している。南西のネウム付近では、アドリア海に面して20キロメートル程の海岸線を持っているが、ネウム周辺に大きな港はない。ボスニア・ヘルツェゴビナは、海に面した国としてはモナコに次いで世界で2番目に短い海岸線を持っている。 国土の南部、ヘルツェゴビナ地方をネレトヴァ川が貫き、クロアチア領を経てアドリア海へと注いでいる。また北部にはサヴァ川が流れ、クロアチアとの自然国境となっている。サヴァ川はその後セルビア領へと続き、ドナウ川に合流している。国土の北東にある、サヴァ川に面した町ブルチコは、ボスニア・ヘルツェゴビナの陸上交通とドナウ川の水上交通路を結ぶボスニア・ヘルツェゴビナ最大の港町である。サヴァ川の支流ボスナ川は、サラエボ近郊の山中から流れ出し、北に向けてゼニツァ、ドボイ、ボサンスキ・シャマツを経てサヴァ川に合流している。このほかにサヴァ川の支流としてウナ川やヴルバス川などがある。また、国土の東部にはドリナ川が流れ、セルビアとの国境となっている。 気候は、北部のボスニアはサヴァ川流域を中心に大陸性気候、南部のヘルツェゴビナはネレドバ川河口部が地中海性気候となっている。ボスニアは概して温暖だが冬は非常に寒く、一方のヘルツェゴビナ(特に石灰岩地帯)は10月~1月の冬場にかけて雨が多く、夏が非常に暑い。 1995年のデイトン合意の定めにより、クロアチア人およびボシュニャク人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が主体のスルプスカ共和国という二つの構成体(Entitet)によって構成される。両者が権利を主張して合意に至らなかったブルチコについては、2000年の裁定によって独自の行政区「ブルチコ行政区」(Brčko distrikt)として、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の直轄地とされた。ブルチコは、憲法上はスルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の双方に属するとされているが、双方ともブルチコに対する実際の行政権は排除されており、事実上「第3の構成体」となっている。 ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦は、以下の10の県から成っている。それぞれの県の下には、最小の自治体であるオプシュティナが置かれている。 一方、スルプスカ共和国には県に相当する自治体はない。 オプシュティナはボスニア・ヘルツェゴビナで最小の自治体の単位であり、日本の市町村やイタリアのコムーネ、ドイツのゲマインデなどにほぼ相当する。それぞれのオプシュティナは独自の議会と市長、閣僚を持っている。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には79、スルプスカ共和国には62のオプシュティナがある。 2013年の国内総生産(GDP)は約179億ドルであり、日本の鳥取県とほぼ同じ経済規模である。同年の一人当たりのGDPは4,620ドルである。経済的には、オスマン帝国の支配時代から農業に大きく依存する貧困な地域であり、ユーゴスラビアの成立後も、マケドニア共和国に次ぐ経済後進国であった。穀物栽培に適当な土壌が多いことから、かつては豆、タバコ、ザクロ、ブドウ、オリーブ、イチジク、メロンなどの農作物が栽培され、主要な羊の飼育地でもあった。しかし、紛争によって農耕地の多くが破壊され、紛争終結後も利用できない土地が少なくない。 現在の主要産業は林業、鉱業、繊維業などである。林業では松、カヤ、ブナなどが産出される。鉱業ではボスニアで大理石や建築用の石材、及び鉄・石炭・銅・マンガン・鉛・水銀など多様な鉱物が、ヘルツェゴビナではアスファルト・褐炭がそれぞれ生産される。しかし、失業率は48%(2006年時点)とヨーロッパの中でもトップクラスであり、特に若年層の失業とインフォーマル経済による景気低迷が課題である。 民間部門が弱いため、公共事業への依存度が高く、その公共事業の受注や選挙戦などに関連する汚職が深刻である。このため、若者を中心にEU諸国へ移住する人も多く、累計50万人にも達する。 1992年の独立後、ボスニア政府はユーゴスラビア・ディナールに代わる独自の通貨の導入を決定した。しかし、ボスニア紛争時には、ボシュニャク人支配地域ではボスニア・ディナール、セルビア人支配地域ではユーゴスラビア・ディナール、クロアチア人支配地域ではクーナがそれぞれ使用されたため、統一通貨の実施は遅れた。1998年1月、ボスニア政府は新通貨として兌換マルクを発表した。 ボスニア・ヘルツェゴビナには5つの国際道路と20の国道が存在している。ボスニア・ヘルツェゴビナのバス路線はヨーロッパエリアの多くの国のバス路線へ接続されている。 河川港がサヴァ川に設けられており、現在も航行可能となっているがその利用は制限されている。空港は25箇所が存在する。 住民はボシュニャク人が48%、クロアチア人が14%、セルビア人が37%などである。それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるものであって、それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。それ以外の少数民族としては、ロマなどが住んでいる。 元々この地域には、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が概ね拮抗する割合で暮していた。その為、ユーゴスラビアが連邦制を実施する際、他の5つの共和国は主要民族に基づいて樹立されたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナは地域を基礎として樹立された。 言語は、公用語がボスニア語、クロアチア語、セルビア語である。それぞれボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の言語とされるが、これらの言語は19世紀から20世紀末にかけてセルビア・クロアチア語と呼ばれ、同一視されていた。多民族が混住するボスニア・ヘルツェゴビナでは、実際には、民族ごとに言語が異なることはなく、住民は民族の別に関わらず地域ごとの方言を話している。自らの話す言語に対する呼称の違いは、ほとんどの場合話者の民族自認に基づいている。セルビア語とボスニア語はキリル文字とラテン文字、クロアチア語はラテン文字を用いる。 ボシュニャク人の多くはイスラム教、クロアチア人の多くはキリスト教(カトリック教会)、セルビア人の多くはキリスト教(セルビア正教会)である。 メジュゴリエでは聖母の出現があったと主張されているが、バチカンはこれを公認しておらず、メジュゴリエの教会もカトリック教会に属するものではない。 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、紛争終結から25年が経過し、国際社会の支援等もあり、平和の定着と紛争で破壊された経済・社会インフラの回復が進んでいる。 それに伴い政治情勢も安定してきてはいるものの、同国内には未だに紛争時に使用された武器が数多く出回っており、これらを使用した強盗事件や発砲事件ならび爆弾事件が散発的に発生している。2018年10月には、サラエボ市内の駐車場において銃器を所持した自動車の窃盗グループが取締りの警察官2名を射殺する事件等が発生。さらにはテロの脅威も国内に存在しているため、滞在時にはこうした危険についても注意が必要とされる。 サラエボ市等の主要都市においては治安は比較的良好に保たれており、犯罪発生件数は2015年と比較して2019年には全体で41%減少している。その内訳として窃盗及び強盗事案は減少しているものの、薬物関連犯罪が増加。また、ここ数年では路面電車(トラム)やバスの中でのスリ被害や市内観光中にリュックサックの中に入れていたパスポートや現金を盗まれる被害等も散見される。加えて武器を用いた強盗事件等の凶悪犯罪も発生しており、地元民のほか、一見して地元民とは異なると分かる中東・アフリカ方面からの不法移民により、日本人が銃器やナイフで脅されて金銭を奪われる事件も発生しているため、滞在中は十分注意を払う必要があり常に警戒を求められる。 ボスニア・ヘルツェゴビナは比較的小さな国だが、オスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国などの大国の一部になった事や複数の民族が混住してきた歴史から、豊富で多大な文化を持っている。 トラヴニク出身のイヴォ・アンドリッチはノーベル文学賞を受賞している。 ボスニア・ヘルツェゴビナ2つの世界遺産が登録されている。モスタルにあるスタリ・モスト(古い橋)の周辺と、ヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋で、ともにボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築である。 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、各民族間での合意ができていない為、法定の祝日が存在しない。 日本と大変ゆかりのあるボスニア人として、元サッカー日本代表監督のヴァイッド・ハリルホジッチとイビチャ・オシムが存在する。ハリルホジッチは2015年に監督に就任し、2018年に日本サッカー協会会長の田嶋幸三によって解任された。オシムは2006年に就任し2007年に脳梗塞で倒れ、監督を続けられる状況ではなくなったため退任した。 ボスニア・ヘルツェゴビナでサッカーは圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、2000年にプロサッカーリーグのプレミイェル・リーガが創設された。ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー連盟によって構成されるサッカーボスニア・ヘルツェゴビナ代表は、FIFAワールドカップには2014年大会で初出場を果たしたがグループリーグ敗退に終わった。UEFA欧州選手権には未出場である。著名な選手としては、セルゲイ・バルバレス、エディン・ジェコ、ミラレム・ピャニッチなどが存在する。中でもジェコは、ヴォルフスブルク時代にブンデスリーガを制覇し、マンチェスター・シティ時代にはプレミアリーグでも優勝を果たした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナは、東南ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエヴォ。ボシュニャク人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人中心のスルプスカ共和国の二つの構成体からなる連邦国家でもある。両地域にまたがるブルチコ行政区は中央政府が直轄している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビア、モンテネグロと接する。クロアチア領ダルマチアに挟まれたネウムでごくわずかにアドリア海に面する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "多民族が一つの地域に集まったり散らばったりを繰り返した歴史を持つ場所の一ヶ所となっている。また、かつてはユーゴスラビアの構成国の一つであった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "紛争終結後も、3民族の代表が輪番制で国家元首(大統領評議会議長)を務めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "正式名称は、ボスニア語・クロアチア語で Bosna i Hercegovina(ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)、セルビア語で Босна и Херцеговина(ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は、Bosnia and Herzegovina([ˈbɒzniə ənd ˌhɛərtsəɡəˈviːnə, ˌhɜːrtsəˈɡɒvᵻnə] ( 音声ファイル))。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本語の表記は ボスニア・ヘルツェゴビナ、または ボスニア・ヘルツェゴヴィナ。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「ボスニア」の名称についての最初の言及として広く認められているものは、10世紀半ば(948年から952年の間)に東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス7世によって書かれた帝国地理論(英語版)であり、セルビア人が住んでいる「ボスナ」(ギリシャ語:Βοσώνα)の「小さな土地」(χωρονα)として記述されていた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ボスナは、ボスニアの中心地を流れるボスナ川の水名に由来すると考えられている。言語学者アントン・メイヤーによると、ボスナという名前はイリュリア語の「Bass-an-as」に由来する可能性があり、これは「流れる水」を意味するインド・ヨーロッパ祖語の語根「bos」または「bogh」から派生したものであると考えられる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ヘルツェゴビナという名前は「ヘルツォークの[土地]」という意味であり、「ヘルツォーク」はドイツ語の「公爵」を意味する。これは、15世紀にこの地域を支配した「フムと海岸のヘルツォーク」サバ公スチェパン・ヴクチッチ(英語版)に由来する。フムは、古くはザクルミア(英語版)と呼ばれていたバンにより征服された中世初期の公国の名称である。オスマン帝国の支配下に入ると、ヘルツェゴビナのサンジャック(英語版)と呼ばれるようになり、行政区分上は、ボスニア・エレヤト(英語版)及び短命のヘルツェゴビナ・エレヤト(英語版)に含まれており、その後、行政区画はボスニア・ヘルツェゴビナに再編された。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現在のボスニア、ヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族のイリュリア人が住んでいたが、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世の頃にはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、キリスト教のカトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国のボスニア州(英語版)(1580–1867、Bosnia Eyalet)やボスニア州(英語版)(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1831年にボスニア蜂起(英語版)(1831–1833)。1875年にヘルツェゴヴィナ蜂起が起きると、この反乱を口火としてモンテネグロ・オスマン戦争(英語版)と露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や汎スラヴ主義を刺激。1914年にこの地で起きたサラエボ事件が、第一次世界大戦の引き金になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約によりオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦時、ナチス・ドイツと同盟する枢軸国はユーゴスラビアに侵攻。ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義組織チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒(ムスリム)たちは多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、サラエボはユーゴスラビアのロック (音楽)やポップスの一大拠点となった。一方、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んでいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ。この3つの民族は互いに近い言語を使っていたものの、民族的アイデンティティや宗教を異にしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票(英語版)を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。アリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領などの数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体はそれぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、ラドヴァン・カラジッチを大統領とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、マテ・ボバンの指導下、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1994年にはアメリカ合衆国の主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年に国際連合の調停で和平協定(デイトン合意)に調印し、紛争は終結した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態も度々起こっている。国政に対して3民族が事実上の拒否権を持ち、大統領が輪番制であることもあって、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表が実質的な最高権力者となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮しSFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUが編成した欧州連合部隊「アルテア」(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。アルテアは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点で約2,200名となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2013年10月1日から10月15日に掛けて、独立後初の国勢調査が行われることになった(質問項目は主に誕生日、生まれた場所、職業、学歴など)。過去に2001年と2011年にも実施しようとしたものの、民族間の対立に伴い実現しなかった。国勢調査の実施は今後のEU加盟や政策立案のために必要不可欠ではあるものの、民族構成によって政府の主要ポストや公務員の数を振り分けるなど国の根幹に関わるため、政治利用されるばかりか危うい民族バランスの均衡が崩れる可能性もはらんでいる。事実、この国勢調査を利用し、各勢力が自民族に有利に働くため、教会・モスクにいる聖職者を通じて働きかけと称した誘導を行うといった事態も見受けられた。また各民族が働きかけた不正行為も明らかになった。一方で、民族の色分けや少数民族差別(主にユダヤ人やロマ)を嫌った人々によるコスモポリタニズムの胎動がどこまで進行しているのかもポイントになっていた。国勢調査の結果は11月10日まで行われる不正調査の報告と修正を経て、2014年1月に判明する予定とされ、非公式速報値では人口は370万~380万程度で、ボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "デイトン合意以降、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治は国際的監視の下に置かれている。民族間の均衡を保つため、3つの主要民族から1名ずつ選ばれた代表者によって構成される大統領評議会による集団指導体制がとられている。大統領評議会の議長は8ヶ月ごとに輪番で交代し、議長は事実上の国家元首となる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナには、デイトン和平合意に基いて国際社会の監督機関として主要国の代表者からなる和平履行評議会(PIC)が設置され、同評議会の下に上級代表事務所(OHR)が置かれている(コソボにおける国際文民事務所(ICO)に相当)。上級代表事務所の長は上級代表(HR)であり、デイトン和平合意を実施するに際して必要と認められるときは、直接立法権、人事介入権を含む強力な内政介入権(ボン・パワー)を発動できるため、実質的に同国の最高指導者と言える。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナ、および同国のそれぞれの構成体ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦およびスルプスカ共和国には、それぞれ独自の議会がおかれている。また、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する10の県にも、それぞれ独自の議会が設けられている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中央政府の議会は上・下院からなる二院制であり、上院の定数は15(各民族5議席)、下院の定数は42(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦28議席、スルプスカ共和国14議席)と民族別、国別に分かれた複雑なものとなっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "中央政府とボスニア連邦では、2000年に実施された国政選挙によって、紛争勃発後初めて社会民主党を中心とする非民族主義政権が誕生した。しかし、2002年10月の国政選挙では非民族主義政権が伸び悩み、大統領評議会員選挙では3名とも民族主義政党出身者が当選するなど、結果的に民族主義勢力が伸張した。主要政党は民族ごとに結成されており、それぞれが民族的利益を主張するため、国政運営上の障害となっている。こうした現状に対して、民族融和や腐敗追放を掲げる政党や政治家も登場している。首都サラエボからの大統領立候補をセルビア人に認めてこなかった選挙制度について、欧州人権裁判所が2020年12月に違法との判決を下している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年5月22日に国際連合に加盟したが、その後の民族対立、内戦は悲惨であった。民族対立は完全に解消されたわけではないが、「欧州大西洋機構への統合」、即ち欧州連合(EU)及び北大西洋条約機構(NATO)加盟が民族を超えた共通の目的であり、ボスニア政府はこの目標に向かって国際社会の支援を得ながら諸改革に取り組んでいる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2000年12月、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア連邦共和国との間で正式な外交関係を樹立した。また警察改革や公共放送法の採択で進展があったため、EUは2005年11月7日に安定化・連合協定締結交渉の開始を承認した。なお、EU加盟は3民族の共通目標とされており、ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗にもそれが現れている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2016年2月、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はEUへの正式な加盟申請を行った。ベルギーのブリュッセルにおいて、ボスニア・ヘルツェゴビナのドラガン・チョヴィッチ大統領評議会(幹部会)議長が、EU議長国オランダのクーンデルス外相に対して、申請の文書を手渡した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "同国軍は陸軍、空軍及び防空軍の二軍種から成り立っている。軍事力は中央政府に統一されたが、連隊以下は民族別編成とされている。", "title": "国家安全保障" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "国土はおおよそ三角形をしている。歴史的に北中部はボスニア、南部はヘルツェゴビナと呼ばれてきた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "南部には海抜高度2,000mを超える山地が多い。アドリア海に沿ってディナル・アルプス(Dinaric Alps)が延びており、国土の南西部は石灰岩によるカルスト地形で乾燥している。南西のネウム付近では、アドリア海に面して20キロメートル程の海岸線を持っているが、ネウム周辺に大きな港はない。ボスニア・ヘルツェゴビナは、海に面した国としてはモナコに次いで世界で2番目に短い海岸線を持っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "国土の南部、ヘルツェゴビナ地方をネレトヴァ川が貫き、クロアチア領を経てアドリア海へと注いでいる。また北部にはサヴァ川が流れ、クロアチアとの自然国境となっている。サヴァ川はその後セルビア領へと続き、ドナウ川に合流している。国土の北東にある、サヴァ川に面した町ブルチコは、ボスニア・ヘルツェゴビナの陸上交通とドナウ川の水上交通路を結ぶボスニア・ヘルツェゴビナ最大の港町である。サヴァ川の支流ボスナ川は、サラエボ近郊の山中から流れ出し、北に向けてゼニツァ、ドボイ、ボサンスキ・シャマツを経てサヴァ川に合流している。このほかにサヴァ川の支流としてウナ川やヴルバス川などがある。また、国土の東部にはドリナ川が流れ、セルビアとの国境となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "気候は、北部のボスニアはサヴァ川流域を中心に大陸性気候、南部のヘルツェゴビナはネレドバ川河口部が地中海性気候となっている。ボスニアは概して温暖だが冬は非常に寒く、一方のヘルツェゴビナ(特に石灰岩地帯)は10月~1月の冬場にかけて雨が多く、夏が非常に暑い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1995年のデイトン合意の定めにより、クロアチア人およびボシュニャク人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が主体のスルプスカ共和国という二つの構成体(Entitet)によって構成される。両者が権利を主張して合意に至らなかったブルチコについては、2000年の裁定によって独自の行政区「ブルチコ行政区」(Brčko distrikt)として、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の直轄地とされた。ブルチコは、憲法上はスルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の双方に属するとされているが、双方ともブルチコに対する実際の行政権は排除されており、事実上「第3の構成体」となっている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦は、以下の10の県から成っている。それぞれの県の下には、最小の自治体であるオプシュティナが置かれている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "一方、スルプスカ共和国には県に相当する自治体はない。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "オプシュティナはボスニア・ヘルツェゴビナで最小の自治体の単位であり、日本の市町村やイタリアのコムーネ、ドイツのゲマインデなどにほぼ相当する。それぞれのオプシュティナは独自の議会と市長、閣僚を持っている。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には79、スルプスカ共和国には62のオプシュティナがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2013年の国内総生産(GDP)は約179億ドルであり、日本の鳥取県とほぼ同じ経済規模である。同年の一人当たりのGDPは4,620ドルである。経済的には、オスマン帝国の支配時代から農業に大きく依存する貧困な地域であり、ユーゴスラビアの成立後も、マケドニア共和国に次ぐ経済後進国であった。穀物栽培に適当な土壌が多いことから、かつては豆、タバコ、ザクロ、ブドウ、オリーブ、イチジク、メロンなどの農作物が栽培され、主要な羊の飼育地でもあった。しかし、紛争によって農耕地の多くが破壊され、紛争終結後も利用できない土地が少なくない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "現在の主要産業は林業、鉱業、繊維業などである。林業では松、カヤ、ブナなどが産出される。鉱業ではボスニアで大理石や建築用の石材、及び鉄・石炭・銅・マンガン・鉛・水銀など多様な鉱物が、ヘルツェゴビナではアスファルト・褐炭がそれぞれ生産される。しかし、失業率は48%(2006年時点)とヨーロッパの中でもトップクラスであり、特に若年層の失業とインフォーマル経済による景気低迷が課題である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "民間部門が弱いため、公共事業への依存度が高く、その公共事業の受注や選挙戦などに関連する汚職が深刻である。このため、若者を中心にEU諸国へ移住する人も多く、累計50万人にも達する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1992年の独立後、ボスニア政府はユーゴスラビア・ディナールに代わる独自の通貨の導入を決定した。しかし、ボスニア紛争時には、ボシュニャク人支配地域ではボスニア・ディナール、セルビア人支配地域ではユーゴスラビア・ディナール、クロアチア人支配地域ではクーナがそれぞれ使用されたため、統一通貨の実施は遅れた。1998年1月、ボスニア政府は新通貨として兌換マルクを発表した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナには5つの国際道路と20の国道が存在している。ボスニア・ヘルツェゴビナのバス路線はヨーロッパエリアの多くの国のバス路線へ接続されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "河川港がサヴァ川に設けられており、現在も航行可能となっているがその利用は制限されている。空港は25箇所が存在する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "住民はボシュニャク人が48%、クロアチア人が14%、セルビア人が37%などである。それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるものであって、それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。それ以外の少数民族としては、ロマなどが住んでいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "元々この地域には、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が概ね拮抗する割合で暮していた。その為、ユーゴスラビアが連邦制を実施する際、他の5つの共和国は主要民族に基づいて樹立されたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナは地域を基礎として樹立された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "言語は、公用語がボスニア語、クロアチア語、セルビア語である。それぞれボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の言語とされるが、これらの言語は19世紀から20世紀末にかけてセルビア・クロアチア語と呼ばれ、同一視されていた。多民族が混住するボスニア・ヘルツェゴビナでは、実際には、民族ごとに言語が異なることはなく、住民は民族の別に関わらず地域ごとの方言を話している。自らの話す言語に対する呼称の違いは、ほとんどの場合話者の民族自認に基づいている。セルビア語とボスニア語はキリル文字とラテン文字、クロアチア語はラテン文字を用いる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ボシュニャク人の多くはイスラム教、クロアチア人の多くはキリスト教(カトリック教会)、セルビア人の多くはキリスト教(セルビア正教会)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "メジュゴリエでは聖母の出現があったと主張されているが、バチカンはこれを公認しておらず、メジュゴリエの教会もカトリック教会に属するものではない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナでは、紛争終結から25年が経過し、国際社会の支援等もあり、平和の定着と紛争で破壊された経済・社会インフラの回復が進んでいる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "それに伴い政治情勢も安定してきてはいるものの、同国内には未だに紛争時に使用された武器が数多く出回っており、これらを使用した強盗事件や発砲事件ならび爆弾事件が散発的に発生している。2018年10月には、サラエボ市内の駐車場において銃器を所持した自動車の窃盗グループが取締りの警察官2名を射殺する事件等が発生。さらにはテロの脅威も国内に存在しているため、滞在時にはこうした危険についても注意が必要とされる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "サラエボ市等の主要都市においては治安は比較的良好に保たれており、犯罪発生件数は2015年と比較して2019年には全体で41%減少している。その内訳として窃盗及び強盗事案は減少しているものの、薬物関連犯罪が増加。また、ここ数年では路面電車(トラム)やバスの中でのスリ被害や市内観光中にリュックサックの中に入れていたパスポートや現金を盗まれる被害等も散見される。加えて武器を用いた強盗事件等の凶悪犯罪も発生しており、地元民のほか、一見して地元民とは異なると分かる中東・アフリカ方面からの不法移民により、日本人が銃器やナイフで脅されて金銭を奪われる事件も発生しているため、滞在中は十分注意を払う必要があり常に警戒を求められる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナは比較的小さな国だが、オスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国などの大国の一部になった事や複数の民族が混住してきた歴史から、豊富で多大な文化を持っている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "トラヴニク出身のイヴォ・アンドリッチはノーベル文学賞を受賞している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナ2つの世界遺産が登録されている。モスタルにあるスタリ・モスト(古い橋)の周辺と、ヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋で、ともにボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナでは、各民族間での合意ができていない為、法定の祝日が存在しない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "日本と大変ゆかりのあるボスニア人として、元サッカー日本代表監督のヴァイッド・ハリルホジッチとイビチャ・オシムが存在する。ハリルホジッチは2015年に監督に就任し、2018年に日本サッカー協会会長の田嶋幸三によって解任された。オシムは2006年に就任し2007年に脳梗塞で倒れ、監督を続けられる状況ではなくなったため退任した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ボスニア・ヘルツェゴビナでサッカーは圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、2000年にプロサッカーリーグのプレミイェル・リーガが創設された。ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー連盟によって構成されるサッカーボスニア・ヘルツェゴビナ代表は、FIFAワールドカップには2014年大会で初出場を果たしたがグループリーグ敗退に終わった。UEFA欧州選手権には未出場である。著名な選手としては、セルゲイ・バルバレス、エディン・ジェコ、ミラレム・ピャニッチなどが存在する。中でもジェコは、ヴォルフスブルク時代にブンデスリーガを制覇し、マンチェスター・シティ時代にはプレミアリーグでも優勝を果たした。", "title": "スポーツ" } ]
ボスニア・ヘルツェゴビナは、東南ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエヴォ。ボシュニャク人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人中心のスルプスカ共和国の二つの構成体からなる連邦国家でもある。両地域にまたがるブルチコ行政区は中央政府が直轄している。 ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビア、モンテネグロと接する。クロアチア領ダルマチアに挟まれたネウムでごくわずかにアドリア海に面する。
{{Otheruses|主権国家|その構成体|ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦}} {{出典の明記|date=2020年11月}} {{基礎情報 国 |略名 =ボスニア・ヘルツェゴビナ |日本語国名 =ボスニア・ヘルツェゴビナ<br />{{center|}} |公式国名 ='''{{Lang|bs|Bosna i Hercegovina}}''' <small>(ボスニア語、クロアチア語)</small><br/>'''{{Lang|sr|Босна и Херцеговина}}''' <small>(セルビア語)</small> |国旗画像 =Flag of Bosnia and Herzegovina.svg |国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Bosnia and Herzegovina.svg|100px|ボスニア・ヘルツェゴビナの国章]] |国章リンク =([[ボスニア・ヘルツェゴビナの国章|国章]]) |標語 =なし |位置画像 = Europe-Bosnia and Herzegovina.svg |公用語 =[[ボスニア語]]、[[セルビア語]]、[[クロアチア語]] |首都 =[[サラエヴォ]] |最大都市 =サラエヴォ |最高指導者等肩書=[[ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表|上級代表]]{{Efn|ボスニア・ヘルツェゴビナにおける立法の[[拒否権]]及び政府閣僚の[[罷免|罷免権]]を保持するため、同国の事実上の最高指導者である。}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASP313632P2BUHBI00D.html|title=ボスニア・ヘルツェゴビナの最高権力者は外国人|website=Asahi.com|accessdate=2022-12-04}}</ref> |最高指導者等氏名={{ill2|クリスティアン・シュミット (政治家)|en|Christian Schmidt (politician)|label=クリスティアン・シュミット}} |元首等肩書 =[[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会]] |元首等氏名 = [[ジェリコ・コムシッチ]](議長)<br/>[[ジェリカ・ツヴィヤノヴィッチ]]<br/>{{ill2|デニス・ベチロビッチ|en|Denis Bećirović}} |首相等肩書 = [[閣僚評議会議長 (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|閣僚評議会議長]] |首相等氏名 ={{ill2|ボリャナ・クリシュト|en|Borjana Krišto}} |面積順位 =124 |面積大きさ =1 E10 |面積値 =51,129 |水面積率 =極僅か |人口統計年 =2019 |人口順位 =135 |人口大きさ =1 E6 |人口値 =3,301,000 |人口密度値 =69 |GDP統計年元 =2013 |GDP値元 =264億<ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=963&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=34&pr.y=15|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-12}} {{リンク切れ|date=2021-04-12}}</ref> |GDP統計年MER =2013 |GDP順位MER =110 |GDP値MER =179億<ref name="imf201410" /> |GDP統計年 =2013 |GDP順位 =108 |GDP値 =371億<ref name="imf201410" /> |GDP/人 =9,563<ref name="imf201410" /> |建国形態 =[[独立]]<br/>&nbsp;- 日付 |建国年月日 =[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]より<br/>[[1992年]][[3月1日]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcif.or.jp/report/world/140.pdf|title=公益財団法人国際金融情報センター - ボスニア・ヘルツェゴビナ|format=PDF|date=2012-05-15|accessdate=2022-03-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170326193916/http://www.jcif.or.jp/report/world/140.pdf|archivedate=2017-03-26}}</ref> |通貨 =[[兌換マルク]] |通貨コード =BAM |時間帯 =+1 |夏時間 =+2 |ISO 3166-1 = BA / BIH |ccTLD =[[.ba]] |国際電話番号 =387 |注記 = |国歌=[[ボスニア・ヘルツェゴビナ国歌]]{{center| }}}} [[画像:Flag of Bosnia and Herzegovina (1992-1998).svg|thumb|200px|1992年-1998年の国旗]] [[画像:Coat of Arms of Bosnia and Herzegovina (1992-1998).svg|thumb|200px|1992年-1998年の国章]] '''ボスニア・ヘルツェゴビナ'''は、[[東南ヨーロッパ]]の[[バルカン半島]]北西部に位置する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[サラエヴォ]]。[[ボシュニャク人]]と[[クロアチア人]]が主体の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]と、[[セルビア人]]中心の[[スルプスカ共和国]]の二つの構成体<ref name="日本国外務省">{{Cite web|和書|title=ボスニア・ヘルツェゴビナ基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bosnia_h/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |accessdate=2022-03-25 |language=ja}}</ref>からなる[[連邦]]国家でもある。両地域にまたがる[[ブルチコ行政区]]は中央政府が直轄している<ref name="朝日新聞20210225"/>。 ほぼ[[三角形]]の国土を持ち、[[国境]]のうち北側と南西側2辺で[[クロアチア]]、東側1辺で[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]と接する。クロアチア領[[ダルマチア]]に挟まれた[[ネウム]]でごくわずかに[[アドリア海]]に面する。 == 概要 == 多民族が一つの地域に集まったり散らばったりを繰り返した歴史を持つ場所の一ヶ所となっている。また、かつては[[ユーゴスラビア]]の構成国の一つであった。 ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれて[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]で戦った。 紛争終結後も、3民族の代表が輪番制で[[国家元首]]([[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会議長]])を務めている<ref name="朝日新聞20210225">{{Cite web2|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14811958.html|title=ボスニア 分断の現在地(中)「政治はビジネス」募る不信/国家元首 3民族の輪番制|access-date=2021-03-02|website=[[朝日新聞]]|at=朝日新聞朝刊2021年2月25日(国際面)|language=ja|url-access=subscription}}</ref>。 == 国名 == 正式名称は、[[ボスニア語]]・[[クロアチア語]]で {{lang|bs|'''Bosna i Hercegovina'''}}('''ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ''')、[[セルビア語]]で {{lang|sr|'''Босна и Херцеговина'''}}('''ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ''')。 公式の[[英語]]表記は、{{lang|en|''Bosnia and Herzegovina''}}({{IPA-en|ˈbɒzniə ənd ˌhɛərtsəɡəˈviːnə, ˌhɜːrtsəˈɡɒvᵻnə||En-us-Bosnia and Herzegovina.ogg}})。 [[日本語]]の表記は '''ボスニア・ヘルツェゴビナ'''<ref name="日本国外務省"/>、または '''ボスニア・ヘルツェゴヴィナ'''。 「ボスニア」の名称についての最初の言及として広く認められているものは、[[10世紀]]半ば(948年から952年の間)に[[東ローマ帝国]]皇帝[[コンスタンティヌス7世]]によって書かれた{{仮リンク|帝国地理論|en| De Administrando Imperio}}であり、[[セルビア人]]が住んでいる「ボスナ」([[ギリシャ語]]:Βοσώνα)の「小さな土地」(χωρονα)として記述されていた<ref name="Moravcsik-153">{{cite book|edition=Moravcsik, Gyula|author=Constantine VII''Porphyrogenitus''|author-link=Constantine VII|date=1993|publisher=Dumbarton Oaks Center for Byzantine Studies|title=[[De Administrando Imperio]]|location=Washington D.C.|pages=153–55}}</ref>。 ボスナは、ボスニアの中心地を流れる[[ボスナ川]]の[[水名]]に由来すると考えられている。言語学者アントン・メイヤーによると、ボスナという名前は[[イリュリア語]]の「Bass-an-as」に由来する可能性があり、これは「流れる水」を意味する[[インド・ヨーロッパ祖語]]の[[語根]]「bos」または「bogh」から派生したものであると考えられる<ref>{{cite book|author= [[William Miller (historian)|William Miller]]|title=Essays on the Latin Orient|page=464|location= Cambridge|url=https://books.google.com/books?id=0wpEBgAAQBAJ&pg=PA464|date=1921|isbn=9781107455535}}</ref>。 ヘルツェゴビナという名前は「ヘルツォークの[土地]」という意味であり、「ヘルツォーク」は[[ドイツ語]]の「[[公爵]]」を意味する。これは、15世紀にこの地域を支配した「フムと海岸のヘルツォーク」サバ公{{仮リンク|スチェパン・ヴクチッチ|en| Stjepan Vukčić Kosača}}に由来する。フムは、古くは{{仮リンク|ザクルミア|en|Zachlumia}}と呼ばれていた[[バンによるボスニア統治時代|バン]]により征服された中世初期の公国の名称である。[[オスマン帝国]]の支配下に入ると、{{仮リンク|ヘルツェゴビナのサンジャック|en| Sanjak of Herzegovina}}と呼ばれるようになり、行政区分上は、{{仮リンク|ボスニア・エレヤト|en| Bosnia Eyalet}}及び短命の{{仮リンク|ヘルツェゴビナ・エレヤト|en|Herzegovina Eyalet}}に含まれており、その後、行政区画はボスニア・ヘルツェゴビナに再編された<ref name="Encyclopedia Britannica">{{cite web | title=Facts, Geography, History, & Maps | website=Encyclopedia Britannica | url=https://www.britannica.com/place/Bosnia-and-Herzegovina | access-date=2021-06-21 | archive-date=3 April 2019 | archive-url=https://web.archive.org/web/20190403215257/https://www.britannica.com/place/Bosnia-and-Herzegovina | url-status=live }}</ref>。 == 歴史 == {{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}} {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史|en|History of Bosnia and Herzegovina}}}} {{See also|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの人口統計学的歴史|en|Demographic history of Bosnia and Herzegovina}}}} === 古代・中世 === 現在の[[ボスニア]]、[[ヘルツェゴビナ]]には当初[[インドヨーロッパ語族]]の[[イリュリア人]]が住んでいたが、[[紀元前1世紀]]に[[ローマ帝国]]の支配下に入った。その後、[[6世紀]]後半から[[スラヴ人]]が定住し始め、[[中世]]の頃にはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、[[キリスト教]]の[[カトリック教会|カトリック]]と[[正教会]]の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々は[[ブルガリア]]から入ってきた[[ボゴミル派]]に救いを求める。[[12世紀]]後半には[[ボスニア王国]]がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。 === 近世(オスマン帝国統治時代) === [[ファイル:Mostar Stari Most 2008 2.jpg|right|thumb|250px|[[モスタル]]の[[スタリ・モスト]]。ボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築のひとつ。]] [[15世紀]]後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域が[[オスマン帝国]]の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのとき[[イスラム教]]に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地の[[スラヴ人]]、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着した[[ムスリム|イスラム教徒]]などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国の{{仮リンク|ボスニア・エヤレト|en|Bosnia Eyalet|label=ボスニア州}}(1580–1867、Bosnia Eyalet)や{{仮リンク|ボスニア・ヴィライェト|en|Bosnia Vilayet|label=ボスニア州}}(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて、オスマン帝国が[[ハプスブルク帝国]]、及び[[ヴェネツィア共和国]]と[[戦争]]を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。 === 近代(オーストリア=ハンガリー帝国統治時代) === [[19世紀]]後半、オスマン帝国の衰退に伴い、[[バルカン半島]]は[[オーストリア・ハンガリー帝国]]と[[ロシア帝国]]の勢力争いの場となる。[[1831年]]に{{仮リンク|ボスニア蜂起|en|Bosnian uprising}}(1831–1833)。[[1875年]]に{{仮リンク|ヘルツェゴヴィナ蜂起 (1875年 - 1878年)|en|Herzegovina Uprising (1875–78)|label=ヘルツェゴヴィナ蜂起}}が起きると、この反乱を口火として{{仮リンク|モンテネグロ・オスマン戦争 (1876年 - 1878年)|en|Montenegrin–Ottoman War (1876–78)|label=モンテネグロ・オスマン戦争}}と[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]が起こった。戦後、ロシアの[[南下政策]]にオーストリアと[[イギリス]]が反対したことにより[[1878年]]に開かれた[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]によって、オーストリアは[[ボスニア]]、[[ヘルツェゴビナ]]、[[サンジャク (地名)|サンジャク]]のオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは[[1908年]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合|ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合]]した。このことが[[セルビア]]の[[大セルビア主義]]や[[汎スラヴ主義]]を刺激。1914年にこの地で起きた[[サラエボ事件]]が、[[第一次世界大戦]]の引き金になった。 第一次世界大戦後、[[サン=ジェルマン条約]]により[[オーストリア=ハンガリー帝国]]は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいて[[セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国]]が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。 === 第二次世界大戦 === [[第二次世界大戦]]時、[[ナチス・ドイツ]]と同盟する[[枢軸国]]は[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアに侵攻]]。ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの[[傀儡政権|傀儡]][[ファシズム|ファシスト]]国家である[[クロアチア独立国]]の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織[[ウスタシャ]]によって、セルビア人は[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]、反体制派などとともに激しい[[迫害]]を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義組織[[チェトニク]]によって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、[[フォチャ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|フォチャ]]をはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な[[民族浄化]]の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、[[イタリア王国|ファシスト・イタリア]]等に対して、多民族混成の抵抗組織として[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]が結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによる[[ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議]](AVNOJ)の第1回の会合は[[ビハチ]]で、第2回の会合は[[ヤイツェ]]で行われた。 === 社会主義時代 === {{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国}} [[File:SocialistYugoslavia en.svg|thumb|left|[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]とその構成国]] [[Image:Breakup of Yugoslavia.gif|left|thumb|320px|[[ユーゴスラビア]]解体のプロセス]] [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]]が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとして[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国|ボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国]]が誕生した。戦後、[[共産主義]]国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、[[クロアチア社会主義共和国|クロアチア]]や[[セルビア社会主義共和国|セルビア]]などが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアが[[ソビエト連邦]]と決別してからは、ユーゴスラビア独自の[[自主管理社会主義]]が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。 ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒([[ムスリム]])たちは多くの場面で[[セルビア人]]、[[クロアチア人]]、あるいは[[トルコ人]]と名乗っていたが、固有の民族「[[ボスニア人]]」としての扱いを求めていた。[[1974年]]にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「[[ムスリム人]]」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム([[ボシュニャク人]])のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。 長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる[[東側諸国]]とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、サラエボはユーゴスラビアの[[ロック (音楽)]]や[[ポピュラー音楽|ポップス]]の一大拠点となった。一方、[[1984年]]には[[1984年サラエボオリンピック|サラエボオリンピック]]が開催された。 {{Clearleft}} === ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 === [[File:Evstafiev-bosnia-cello.jpg|thumb|right|250px|破壊された国立図書館で[[チェロ]]を演奏する[[:en:Vedran Smailović|ヴェドラン・スマイロヴィッチ]]([[1992年]]、[[サラエボ]]でミハイル・エフスタフィエフ撮影)]] {{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争|ユーゴスラビア紛争}} [[1990年]]に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。[[1991年]]に[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[マケドニア共和国]]が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアでは[[クロアチア紛争]]が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んでいた。 [[正教会|正教徒]]主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心の[[ボシュニャク人]](旧ムスリム人)や、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教徒]]主体の[[クロアチア人]]はユーゴスラビアからの独立を望んだ。この3つの民族は互いに近い言語を使っていたものの、民族的アイデンティティや宗教を異にしていた。 [[1992年]]、ボスニア政府はセルビア人が[[ボイコット]]する中で{{仮リンク|1992年ボスニア・ヘルツェゴビナ独立住民投票|en|1992 Bosnian independence referendum|label=国民投票}}を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。[[アリヤ・イゼトベゴヴィッチ]]大統領などの数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人による[[ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国|ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体]]や、セルビア人による[[スルプスカ共和国|ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体]]はそれぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。 ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、[[ラドヴァン・カラジッチ]]を大統領とする「[[スルプスカ共和国|ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国]](スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのまま[[スルプスカ共和国軍]]となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、[[マテ・ボバン]]の指導下、「[[ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国]]」の樹立を宣言し、同国の軍として[[クロアチア防衛評議会]]を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。 2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で[[虐殺]]や見せしめ的な暴行による追放を行う[[民族浄化]]が繰り広げられた。 [[1994年]]には[[アメリカ合衆国]]の主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、また[[北大西洋条約機構|NATO]]による空爆などの軍事介入も行われた。[[1995年]]に[[国際連合]]の調停で和平協定([[デイトン合意]])に調印し、紛争は終結した。 === ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後 === {{更新|date=2021年4月|section=1}} [[File:Srebrenica massacre memorial gravestones 2009 1.jpg|right|thumb|[[スレブレニツァ虐殺記念碑]]]] デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナは[[ボシュニャク人]]([[ムスリム人]])とクロアチア人主体の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]と、セルビア人主体の[[スルプスカ共和国]](セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊([[平和安定化部隊]]、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の[[戦争犯罪|戦争犯罪者]]の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣される[[ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表]]の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態も度々起こっている。国政に対して3民族が事実上の[[拒否権]]を持ち、大統領が輪番制であることもあって、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表が実質的な最高権力者となっている<ref name="朝日新聞20210227">{{Cite web2|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14814599.html|title=ボスニア 分断の現在地/バレンティン・インツコ上級代表に聞く「行革・法支配の確立 最後の機会」|access-date=2021-03-02|website=[[朝日新聞]]|at=朝日新聞朝刊2021年2月27日(国際面)|language=ja|url-access=subscription}}</ref>。 [[2004年]]6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮しSFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からは[[欧州連合|EU]]が編成した[[欧州連合部隊#アルテア|欧州連合部隊「アルテア」]](EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。アルテアは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点で約2,200名となっている。 [[2013年]][[10月1日]]から[[10月15日]]<ref group="注釈">本来は半年前に実施予定だったが、民族に関する質問方法をめぐって意見がまとまらなかった経緯がある。</ref>に掛けて、独立後初の[[国勢調査]]が行われることになった(質問項目は主に誕生日、生まれた場所、職業、学歴など)。過去に[[2001年]]と[[2011年]]にも実施しようとしたものの、民族間の対立に伴い実現しなかった。国勢調査の実施は今後のEU加盟や政策立案のために必要不可欠ではあるものの、民族構成によって政府の主要ポストや公務員の数を振り分ける<ref group="注釈">これまでは、独立前の1991年に旧ユーゴスラビア時代に行われた国勢調査を基に配分されていた。</ref>など国の根幹に関わるため、政治利用されるばかりか危うい民族バランスの均衡が崩れる可能性もはらんでいる。事実、この国勢調査を利用し、各勢力が自民族に有利に働くため、教会・モスクにいる聖職者を通じて働きかけと称した誘導を行うといった事態も見受けられた。また各民族が働きかけた不正行為も明らかになった。一方で、民族の色分けや少数民族差別(主にユダヤ人やロマ)を嫌った人々による[[コスモポリタニズム]]の胎動がどこまで進行しているのかもポイントになっていた<ref name="mainichi">{{Cite news|date=2013-10-15|url=http://mainichi.jp/select/news/20131016k0000m030010000c.html|title=ボスニア:紛争後初の国勢調査 「民族色分け」で揺れる|work=[[毎日.jp]]|publisher=[[毎日新聞]]|accessdate=2013-11-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131112051500/http://mainichi.jp/select/news/20131016k0000m030010000c.html|archivedate=2013-11-12}}</ref><ref name="NHK">{{Cite news|date=2013-10-22|url=http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2013/10/1022.html|title=「民族色分け」に揺れるボスニア・ヘルツェゴビナ|work=NHK ONLINE|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2013-11-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131104061718/http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2013/10/1022.html|archivedate=2013-11-04}}</ref>。国勢調査の結果は[[11月10日]]まで行われる不正調査の報告と修正を経て、[[2014年]]1月に判明する予定とされ、非公式速報値では人口は370万~380万程度で、ボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%となった<ref>{{Cite news|date=2013-10-30|url=http://doznajemo.com/2013/10/30/httpwp-mep3cnyx-jbk-2/|title=EKSKLUZIVNO O REZULTATIMA POPISA: Bošnjaci 54%, Hrvati 11,5%, Srbi 32,5%, Ostali 2%!?|work=doznajemo online magagine|publisher=|accessdate=2013-11-03|language=クロアチア語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131104051530/http://doznajemo.com/2013/10/30/httpwp-mep3cnyx-jbk-2/|archivedate=2021-11-04}}</ref>。 == 政治 == {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの政治|en|Politics of Bosnia and Herzegovina}}}} === 国家元首 === {{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会}} [[デイトン合意]]以降、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治は国際的監視の下に置かれている。民族間の均衡を保つため、3つの主要民族から1名ずつ選ばれた代表者によって構成される[[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会]]による集団指導体制がとられている。大統領評議会の議長は8ヶ月ごとに輪番で交代し、議長は事実上の[[国家元首]]となる。 === 国際的監督 === ボスニア・ヘルツェゴビナには、[[デイトン和平合意]]に基いて国際社会の監督機関として主要国の代表者からなる'''和平履行評議会'''(PIC)が設置され、同評議会の下に'''上級代表事務所'''(OHR)が置かれている([[コソボ]]における[[国際文民事務所]](ICO)に相当)。上級代表事務所の長は[[ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表|上級代表]](HR)であり、デイトン和平合意を実施するに際して必要と認められるときは、直接立法権、人事介入権を含む強力な内政介入権(ボン・パワー)を発動できるため、実質的に同国の最高指導者と言える。 === 議会 === [[ボスニア・ヘルツェゴビナ議会|ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、および同国のそれぞれの構成体[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]および[[スルプスカ共和国]]には、それぞれ独自の議会がおかれている。また、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する10の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県|県]]にも、それぞれ独自の議会が設けられている。 中央政府の議会は上・下院からなる[[二院制]]であり、[[上院]]の定数は15(各民族5議席)、[[下院]]の定数は42(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦28議席、スルプスカ共和国14議席)と民族別、国別に分かれた複雑なものとなっている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/kokusai_kankei/oda_chousa/h22/pdf/3-4.pdf |title= ボスニア・ヘルツェゴビナにおける調査(平成22年度ODA調査資料)|format=PDF |publisher= [[参議院]]|accessdate=2018-10-08}} </ref>。 === 選挙 === 中央政府とボスニア連邦では、[[2000年]]に実施された国政選挙によって、紛争勃発後初めて社会民主党を中心とする非民族主義政権が誕生した。しかし、[[2002年]]10月の国政選挙では非民族主義政権が伸び悩み、大統領評議会員選挙では3名とも民族主義政党出身者が当選するなど、結果的に民族主義勢力が伸張した。主要政党は民族ごとに結成されており、それぞれが民族的利益を主張するため、国政運営上の障害となっている。こうした現状に対して、民族融和や腐敗追放を掲げる政党や政治家も登場している。首都サラエボからの大統領立候補をセルビア人に認めてこなかった選挙制度について、[[欧州人権裁判所]]が2020年12月に違法との判決を下している<ref name="朝日新聞20210226">{{Cite web2|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14813219.html|title=ボスニア 分断の現在地(下)民族ごとの政治 問い直す動き/直轄行政区 25歳の議員誕生|access-date=2021-03-02|website=[[朝日新聞]]|at=朝日新聞朝刊2021年2月26日(国際面)|language=ja|url-access=subscription}}</ref>。 === NATOおよびEUへの加盟構想 === ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年5月22日に[[国際連合]]に加盟したが、その後の民族対立、内戦は悲惨であった。民族対立は完全に解消されたわけではないが、「欧州大西洋機構への統合」、即ち[[欧州連合]](EU)及び[[北大西洋条約機構]](NATO)加盟が民族を超えた共通の目的であり、ボスニア政府はこの目標に向かって国際社会の支援を得ながら諸改革に取り組んでいる。 [[2000年]]12月、ボスニア・ヘルツェゴビナは[[ユーゴスラビア連邦共和国]]との間で正式な外交関係を樹立した。また警察改革や公共放送法の採択で進展があったため、EUは[[2005年]][[11月7日]]に[[安定化・連合プロセス|安定化・連合協定]]締結交渉の開始を承認した。なお、EU加盟は3民族の共通目標<ref group="注釈">共通目標とされているが、これはボスニア内戦後、民族融和の進まない状況を考慮したEU側が働きかけたものである。</ref><ref name="NHK"/>とされており、ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗にもそれが現れている。 [[2016年]]2月、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はEUへの正式な加盟申請を行った。[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]において、ボスニア・ヘルツェゴビナのドラガン・チョヴィッチ[[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会]](幹部会)議長が、EU議長国[[オランダ]]のクーンデルス外相に対して、申請の文書を手渡した<ref>{{Cite news|title=EUがボスニアの加盟申請受理、長い道のりに一歩|url=https://jp.reuters.com/article/bosnia-eu-idJPL3N1BW3WU|work=Reuters|date=2016-09-20|accessdate=2022-03-25|language=ja}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの政治的分裂|en|Political divisions of Bosnia and Herzegovina}}}} * [[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会]] * [[ボスニア・ヘルツェゴビナの政党]] == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの国際関係|en|Foreign relations of Bosnia and Herzegovina}}}} === 日本との関係 === {{See also|日本とボスニア・ヘルツェゴビナの関係}} ==== 駐日ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館 ==== *住所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[南麻布]]五丁目3-29 ガーデニアビル2階・3階 *アクセス:[[東京メトロ日比谷線]][[広尾駅]]3番出口 <gallery> File:ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館が入居するビル.jpg|ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館全景 File:ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館は2Fと3F.jpg|ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館は2Fと3F </gallery> ==== 駐ボスニア・ヘルツェゴビナ日本大使館 ==== {{main|在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本国大使館}} *住所:[[サラエボ]]ビストリック9番地 <gallery> File:Japanese embassy, Sarajevo.jpg|駐ボスニア・ヘルツェゴビナ日本大使館全景 </gallery> == 国家安全保障 == {{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナ軍}} 同国軍は[[陸軍]]、[[空軍]]及び[[防空軍]]の二軍種から成り立っている。軍事力は中央政府に統一されたが、[[連隊]]以下は民族別編成とされている<ref name="日本国外務省"/>。 == 地理 == {{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}} [[File:Bosnia and Herzegovina topographic map.svg|thumb|300px|ボスニア・ヘルツェゴビナの地形]] {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの地理|en|Geography of Bosnia and Herzegovina}}}} 国土はおおよそ三角形をしている。歴史的に北中部は[[ボスニア]]、南部は[[ヘルツェゴビナ]]と呼ばれてきた。 南部には[[海抜]]高度2,000mを超える[[山地]]が多い。[[アドリア海]]に沿って[[ディナル・アルプス]]([[:en:Dinaric Alps|Dinaric Alps]])が延びており、国土の南西部は[[石灰岩]]による[[カルスト]]地形で乾燥している。南西の[[ネウム]]付近では、[[アドリア海]]に面して20キロメートル程の海岸線を持っているが、ネウム周辺に大きな[[港]]はない。ボスニア・ヘルツェゴビナは、海に面した国としては[[モナコ]]に次いで[[国の海岸線の長さ順リスト|世界で2番目に短い海岸線]]を持っている。 国土の南部、ヘルツェゴビナ地方を[[ネレトヴァ川]]が貫き、クロアチア領を経てアドリア海へと注いでいる。また北部には[[サヴァ川]]が流れ、[[クロアチア]]との自然国境となっている。サヴァ川はその後セルビア領へと続き、[[ドナウ川]]に合流している。国土の北東にある、サヴァ川に面した町[[ブルチコ]]は、ボスニア・ヘルツェゴビナの陸上交通とドナウ川の[[河川舟運|水上交通路]]を結ぶボスニア・ヘルツェゴビナ最大の[[河川港|港町]]である。サヴァ川の支流[[ボスナ川]]は、サラエボ近郊の山中から流れ出し、北に向けて[[ゼニツァ]]、[[ドボイ]]、[[ボサンスキ・シャマツ]]を経てサヴァ川に合流している。このほかにサヴァ川の支流として[[ウナ川]]や[[ヴルバス川]]などがある。また、国土の東部には[[ドリナ川]]が流れ、[[セルビア]]との国境となっている。 気候は、北部の[[ボスニア]]はサヴァ川流域を中心に[[大陸性気候]]、南部の[[ヘルツェゴビナ]]はネレドバ川[[河口]]部が[[地中海性気候]]となっている。ボスニアは概して温暖だが[[冬]]は非常に寒く、一方のヘルツェゴビナ(特に石灰岩地帯)は10月~1月の冬場にかけて[[雨]]が多く、[[夏]]が非常に暑い。 == 地方行政区分 == {{See also|ボスニア・ヘルツェゴビナの地方行政区画|ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県|スルプスカ共和国の地方行政区画}} [[ファイル:Map Bih entities.png|thumb|300px|[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]](青)、[[スルプスカ共和国]](赤)と[[ブルチコ行政区]](緑)]] [[1995年]]の[[デイトン合意]]の定めにより、[[クロアチア人]]および[[ボシュニャク人]]が主体の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]と、[[セルビア人]]が主体の[[スルプスカ共和国]]という二つの構成体(Entitet)によって構成される。両者が権利を主張して合意に至らなかった[[ブルチコ]]については、[[2000年]]の裁定によって独自の行政区「[[ブルチコ行政区]]」(Brčko distrikt)として、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の直轄地とされた。ブルチコは、憲法上はスルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の双方に属するとされているが、双方ともブルチコに対する実際の行政権は排除されており、事実上「第3の構成体」となっている。 ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦は、以下の10の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県|県]]から成っている<ref group="注釈">ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦ではボスニア語、クロアチア語、セルビア語が憲法の定める公用語となっている。上記県名はボスニア語で書かれている。<br>セルビア語での名称はボスニア語と同一であり、キリル文字を使って書かれる。<br>また、クロアチア語での名称は「県」を「Kanton」ではなく「županija」とするなど、これとは若干異なっている。</ref>。それぞれの県の下には、最小の自治体である[[オプシュティナ]]が置かれている。 # [[ウナ=サナ県]](Unsko-sanski kanton) # [[ポサヴィナ県]](Posavski kanton) # [[トゥズラ県]](Tuzlanski kanton) # [[ゼニツァ=ドボイ県]](Zeničko-dobojski kanton) # [[ボスニア・ポドリニェ県]](Bosansko-podrinjski kanton) # [[中央ボスニア県]](Kanton Srednja Bosna) # [[ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県]](Hercegovačko-neretvanski kanton) # [[西ヘルツェゴビナ県]](Zapadno-hercegovački kanton) # [[サラエヴォ県]](Kanton Sarajevo) # [[第十県]](Kanton 10) 一方、スルプスカ共和国には県に相当する自治体はない。 [[オプシュティナ]]はボスニア・ヘルツェゴビナで最小の自治体の単位であり、[[日本]]の[[市町村]]や[[イタリア]]の[[コムーネ]]、[[ドイツ]]のゲマインデなどにほぼ相当する。それぞれのオプシュティナは独自の議会と市長、閣僚を持っている。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には79、スルプスカ共和国には62のオプシュティナがある。 === 主要都市 === [[ファイル:Bosnia and Hercegovina map.png|thumb|350px|right|ボスニア・ヘルツェゴビナの地理]] ; ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦 * [[サラエヴォ]] * [[トゥズラ]] * [[ゼニツァ]] * [[モスタル]] * [[ビハチ]] * [[トラヴニク]] * [[キセリャク]] * [[ドボイ]] * [[ツァジン]] * [[ブゴイノ]] * [[ヴェリカ・クラドゥシャ]] * [[ネウム]] ; スルプスカ共和国 * [[バニャ・ルカ]] * [[プリイェドル]] * [[ビイェリナ]] * [[ボサンスキ・ブロド]] * [[トレビニェ]] ; ブルチコ行政区 * [[ブルチコ]] == 経済 == [[File:Bosmal city center.jpg|thumb|left|首都[[サラエヴォ]]の街並み。]] {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの経済|en|Economy of Bosnia and Herzegovina}}}} [[2013年]]の[[国内総生産]](GDP)は約179億ドルであり<ref name="imf201410" />、日本の[[鳥取県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf |title=内閣府による県民経済計算 |accessdate=2022-03-25 |website=内閣府 |archivedate=2013-09-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130913123113/https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf |format=PDF}}</ref>。同年の一人当たりのGDPは4,620ドルである<ref name="imf201410" />。経済的には、[[オスマン帝国]]の支配時代から[[農業]]に大きく依存する貧困な地域であり、[[ユーゴスラビア]]の成立後も、マケドニア共和国に次ぐ経済後進国であった。[[穀物]]栽培に適当な土壌が多いことから、かつては[[豆]]、[[タバコ]]、[[ザクロ]]、[[ブドウ]]、[[オリーブ]]、[[イチジク]]、[[メロン]]などの農作物が栽培され、主要な[[ヒツジ|羊]]の飼育地でもあった。しかし、紛争によって農耕地の多くが破壊され、紛争終結後も利用できない土地が少なくない。 現在の主要産業は[[林業]]、[[鉱業]]、繊維業などである。林業では[[マツ|松]]、[[カヤ]]、[[ブナ]]などが産出される。鉱業では[[ボスニア]]で[[大理石]]や建築用の石材、及び[[鉄]]・[[石炭]]・[[銅]]・[[マンガン]]・[[鉛]]・[[水銀]]など多様な[[鉱物]]が、[[ヘルツェゴビナ]]では[[アスファルト]]・[[褐炭]]がそれぞれ生産される。しかし、失業率は48%([[2006年]]時点)とヨーロッパの中でもトップクラスであり、特に若年層の[[失業]]と[[地下経済|インフォーマル経済]]による[[景気]]低迷が課題である。 民間部門が弱いため、[[公共事業]]への依存度が高く、その公共事業の受注や選挙戦などに関連する[[汚職]]が深刻である<ref name="朝日新聞20210225"/><ref name="朝日新聞20210226"/>。このため、若者を中心にEU諸国へ移住する人も多く、累計50万人にも達する<ref name="朝日新聞20210227"/>。 [[1992年]]の独立後、ボスニア政府は[[ユーゴスラビア・ディナール]]に代わる独自の[[通貨]]の導入を決定した。しかし、ボスニア紛争時には、[[ボシュニャク人]]支配地域ではボスニア・ディナール、セルビア人支配地域では[[ユーゴスラビア・ディナール]]、クロアチア人支配地域では[[クーナ]]がそれぞれ使用されたため、統一通貨の実施は遅れた。[[1998年]]1月、ボスニア政府は新通貨として[[兌換マルク]]を発表した。 {{Clearleft}} == 交通 == {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの交通|en|Transport in Bosnia and Herzegovina}}}} ボスニア・ヘルツェゴビナには5つの国際道路と20の[[公道|国道]]が存在している。ボスニア・ヘルツェゴビナのバス路線はヨーロッパエリアの多くの国のバス路線へ接続されている。 [[河川港]]がサヴァ川に設けられており、現在も航行可能となっているがその利用は制限されている。空港は25箇所が存在する。 {{節スタブ}} == 国民 == {{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}}<!-- ''詳細は[[ボスニア・ヘルツェゴビナの国民]]を参照'' --> {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの人口統計|en|Demographics of Bosnia and Herzegovina}}}} === 民族 === {{bar box |title=民族構成(ボスニア・ヘルツェゴビナ) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[ボシュニャク人]]|green|48}} {{bar percent|[[セルビア人]]|lightblue|37}} {{bar percent|[[クロアチア人]]|blue|14}} {{bar percent|[[ロマ]]他|red|1}} }} [[File:Bosanska Krupa Churches.JPG|thumb|[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]と[[イスラム教|イスラム]]、[[セルビア正教会]]が混在する街並み([[ボサンスカ・クルパ]])]] 住民は[[ボシュニャク人]]が48%、[[クロアチア人]]が14%、[[セルビア人]]が37%などである。それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるものであって、それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。それ以外の少数民族としては、[[ロマ]]などが住んでいる。 元々この地域には、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が概ね拮抗する割合で暮していた。その為、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]が[[連邦制]]を実施する際、他の5つの共和国は主要民族に基づいて樹立されたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナは地域を基礎として樹立された。 === 言語 === 言語は、[[公用語]]が[[ボスニア語]]、[[クロアチア語]]、[[セルビア語]]である。それぞれボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の言語とされるが、これらの言語は19世紀から20世紀末にかけて[[セルビア・クロアチア語]]と呼ばれ、同一視されていた。多民族が混住するボスニア・ヘルツェゴビナでは、実際には、民族ごとに言語が異なることはなく、住民は民族の別に関わらず地域ごとの方言を話している。自らの話す言語に対する呼称の違いは、ほとんどの場合話者の民族自認に基づいている。セルビア語とボスニア語は[[キリル文字]]と[[ラテン文字]]、クロアチア語はラテン文字を用いる。 === 婚姻 === {{節スタブ}} === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの宗教|en|Religion in Bosnia and Herzegovina}}}} ボシュニャク人の多くは[[イスラム教]]、クロアチア人の多くは[[キリスト教]]([[カトリック教会]])、セルビア人の多くはキリスト教([[セルビア正教会]])である。 {{See also|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教|en|Islam in Bosnia and Herzegovina}}}} [[メジュゴリエ]]では[[聖母の出現]]があったと主張されているが、[[バチカン]]はこれを公認しておらず、メジュゴリエの教会もカトリック教会に属するものではない。 === 教育 === {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの教育|en|Education in Bosnia and Herzegovina}}}} {{節スタブ}} === 保健 === {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの保健|en|Health in Bosnia and Herzegovina}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの病院の一覧|en|List of hospitals in Bosnia and Herzegovina}}}} == 治安 == ボスニア・ヘルツェゴビナでは、紛争終結から25年が経過し、国際社会の支援等もあり、[[平和]]の定着と紛争で破壊された経済・社会インフラの回復が進んでいる。 それに伴い政治情勢も安定してきてはいるものの、同国内には未だに紛争時に使用された武器が数多く出回っており、これらを使用した強盗事件や発砲事件ならび[[爆弾]]事件が散発的に発生している。2018年10月には、サラエボ市内の駐車場において銃器を所持した[[自動車]]の窃盗グループが取締りの[[警察官]]2名を射殺する事件等が発生。さらには[[テロリズム|テロ]]の脅威も国内に存在しているため、滞在時にはこうした危険についても注意が必要とされる。 サラエボ市等の主要都市においては治安は比較的良好に保たれており、[[犯罪]]発生件数は2015年と比較して2019年には全体で41%減少している。その内訳として窃盗及び強盗事案は減少しているものの、[[麻薬|薬物]]関連犯罪が増加。また、ここ数年では路面電車([[トラム]])や[[バス (交通機関)|バス]]の中での[[スリ]]被害や市内観光中に[[リュックサック]]の中に入れていた[[パスポート]]や[[現金]]を盗まれる被害等も散見される。加えて武器を用いた強盗事件等の凶悪犯罪も発生しており、地元民のほか、一見して地元民とは異なると分かる[[中東]]・[[アフリカ]]方面からの不法[[移民]]により、[[日本人]]が[[銃器]]や[[ナイフ]]で脅されて金銭を奪われる事件も発生しているため、滞在中は十分注意を払う必要があり常に警戒を求められる<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_191.html ボスニア・ヘルツェゴビナ安全対策基礎データ] [[外務省]]海外安全ホームページ</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナにおける人権|en|Human rights in Bosnia and Herzegovina}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナのメディア|en|Mass media in Bosnia and Herzegovina}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの通信|en|Telecommunications in Bosnia and Herzegovina}}}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの文化|en|Culture of Bosnia and Herzegovina}}}} {{節スタブ}} ボスニア・ヘルツェゴビナは比較的小さな国だが、[[オスマン帝国]]や[[オーストリア=ハンガリー帝国]]などの大国の一部になった事や複数の民族が混住してきた歴史から、豊富で多大な文化を持っている。 [[トラヴニク]]出身の[[イヴォ・アンドリッチ]]は[[ノーベル文学賞]]を受賞している。 === 食文化 === {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナ料理|en|Bosnia and Herzegovina cuisine}}}} {{節スタブ}} === 文学 === {{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナ文学}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの音楽|en|Music of Bosnia and Herzegovina}}}} {{節スタブ}} === 映画 === {{See also|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナ映画の一覧|en|List of Bosnia and Herzegovina films}}}}{{節スタブ}} === 芸術 === {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの芸術|en|Bosnia and Herzegovina art}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの建築|en|Architecture of Bosnia and Herzegovina}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === [[ファイル:Visegrad Drina Bridge 1.jpg|thumb|[[ソコルル・メフメト・パシャ橋]]。]] {{main|ボスニア・ヘルツェゴビナの世界遺産}} ボスニア・ヘルツェゴビナ2つの[[世界遺産]]が登録されている。[[モスタル]]にある[[スタリ・モスト]](古い橋)の周辺と、[[ヴィシェグラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ヴィシェグラード]]の[[ソコルル・メフメト・パシャ橋]]で、ともにボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築である。 ==== ギャラリー ==== <center> <gallery> Image:Waterfall_in_Jajce_Bosnia.JPG|[[ヤイツェ]]の滝 File:Bos Krupa, Una.jpg|[[ウナ川]]と[[ボサンスカ・クルパ]] Image:Bihac2005.jpg|[[ビハチ]] Image:Bihacka-kula.jpg|ビハチ Image:Sarajevo Rathaus05.jpg|[[サラエヴォ]]国立図書館 Image:Sarajevo ortodox church.JPG|サラエヴォの[[生神女誕生大聖堂 (サラエヴォ)|生神女誕生大聖堂]]。[[セルビア正教会]]の大聖堂。 Image:Sarajevo_princip_bruecke.jpg|サラエヴォのラテン橋([[サラエボ事件]]が起こった場所) Image:Travnik mosque 01.jpg|[[トラヴニク]]の[[モスク]] Image:VisokoPanorama.jpg|[[ヴィソコ]] Image:Pocitelj.PNG|[[チャプリナ]][[オプシュティナ|自治体]]にある古いムスリムの町[[ポチテリ]] Image:Mostar Pielo Polje 01.jpg|[[ネレトヴァ川]] ファイル:Trebinje River.jpg|南東部[[トレビニェ]] </gallery> </center> === 祝祭日 === ボスニア・ヘルツェゴビナでは、各民族間での合意ができていない為、法定の祝日が存在しない。 {| class="wikitable" |- !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |[[1月1日]]、2日 ||[[元日]]|| || |- |[[5月1日]]、2日 ||[[メーデー]]|| || |} == スポーツ == {{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナのスポーツ}} {{See also|オリンピックのボスニア・ヘルツェゴビナ選手団}} [[image:Algérie - Arménie - 20140531 - Vahid Halilodzic 2.jpg|thumb|180px|[[サッカー日本代表|日本代表]]を[[2018 FIFAワールドカップ|2018年ロシアW杯]]出場に導いたが解任された[[ヴァイッド・ハリルホジッチ]]。]] [[日本]]と大変ゆかりのある[[ボスニア人]]として、元[[サッカー日本代表]]監督の'''[[ヴァイッド・ハリルホジッチ]]'''と'''[[イビチャ・オシム]]'''が存在する。ハリルホジッチは2015年に監督に就任し、2018年に[[日本サッカー協会]]会長の[[田嶋幸三]]によって解任された<ref>[http://www.jfa.jp/news/00016810/ SAMURAI BLUE(日本代表) ヴァイッド・ハリルホジッチ監督との契約を解除]日本サッカー協会、2018年4月9日</ref>。オシムは2006年に就任し2007年に[[脳梗塞]]で倒れ、監督を続けられる状況ではなくなったため退任した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/news/20071116it11.htm?from=top 日本代表・オシム監督、脳梗塞で倒れる] </ref>。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー|en|Football in Bosnia and Herzegovina}}}} ボスニア・ヘルツェゴビナで[[サッカー]]は圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[2000年]]にプロサッカーリーグの[[プレミイェル・リーガ]]が創設された。[[ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー連盟]]によって構成される[[サッカーボスニア・ヘルツェゴビナ代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[2014 FIFAワールドカップ|2014年大会]]で初出場を果たしたがグループリーグ敗退に終わった。[[UEFA欧州選手権]]には未出場である。著名な選手としては、[[セルゲイ・バルバレス]]、[[エディン・ジェコ]]、[[ミラレム・ピャニッチ]]などが存在する。中でもジェコは、[[VfLヴォルフスブルク|ヴォルフスブルク]]時代に[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]を制覇し、[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]時代には[[プレミアリーグ]]でも優勝を果たした。 == 著名な出身者 == {{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナ人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2021年4月|section=1}} * {{Citation| 和書 |author=[[岩田昌征]] |date=1999年8月20日 |title=ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像―学者の冒険 |publisher=御茶の水書房 |location=日本 |id=ISBN 978-4-275-01770-3 }} * {{Citation| 和書 |author=[[久保慶一]] |date=2003年10月10日 |title=引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題 |publisher=有信堂高文社 |location=日本、東京 |id=ISBN 978-4-8420-5551-0 }} * {{Citation| 和書 |author=[[佐原徹哉]] |date=2008年3月20日 |title=ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化 |publisher=有志舎 |location=日本、東京 |id=ISBN 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ベラルーシ
ベラルーシ共和国(ベラルーシきょうわこく、ベラルーシ語: Рэспу́бліка Белару́сь 発音、ロシア語: Республика Беларусь)、通称ベラルーシは、東ヨーロッパの共和制国家。首都はミンスク、人口約945万人。ソ連邦崩壊により1990年に独立宣言を行い、1991年に「白ロシア・ソビエト社会主義共和国」から「ベラルーシ共和国」へ国名を変更した。2000年以来、ベラルーシ・ロシア連合国家の加盟国である。 世界最北の内陸国で、面積は日本の約55%、国境は、東はロシア、西はポーランド、北西はリトアニアとラトビア、南はウクライナと接する。東ヨーロッパ平原に位置する国の一つで、国土の最高標高が345m、首都ミンスクの標高は280m、国境地帯も含め山が見られない平坦な国土として知られる。 公用語はベラルーシ語とロシア語だが、18世紀後半よりロシア帝国の支配下となり1921年からはソ連邦構成共和国「白ロシア共和国」となるなど長くロシアの影響下にあったため、現在も、教育、行政など社会全般で広くロシア語が浸透しており、ベラルーシ語で会話ができない国民は多く、家庭内の会話がベラルーシ語の国民比率は26%とされる(2019年)。 地理的に、西ヨーロッパとロシア間の陸路と、北のバルト海と南の黒海間の平坦な地形を生かした河川による水運や陸路など、東西と南北の交通が交差する位置にあるベラルーシは、周辺諸国による侵略や支配などが繰り返されてきた歴史を持つ。主なものとして、13世紀のドイツ騎士団やモンゴル帝国、14世紀以降はリトアニアやポーランド、18世紀にはロシア帝国、20世紀に入りソビエト連邦、第二次世界大戦時はドイツ軍の侵攻と占領で当時の推定人口900万人超の2割弱にあたる160万人以上の一般国民が死亡し首都ミンスクの約85%の範囲が破壊されるなど、周辺国の政治・経済状況に国民や国土が大きく影響を受けて来た。(歴史参照) 国体が歴史的に激しく変化して来たベラルーシは、1991年に独立を達成するまでソビエト連邦の構成国家の一つとして機能し、同じく同連邦の構成国家ウクライナと共に、国際連合にソビエト連邦とは別枠で加盟していた。そしてソビエト連邦崩壊により独立を果たしたが、経済協力開発機構(OECD)の分類で現在も開発途上国であり、所得や教育そして平均余命などをもとに国際連合開発計画が発表する人間開発指数では60位である。 政治・経済面では1994年以来、ルカシェンコ政権による独裁政治が続いており、「欧州最後の独裁国家」と非難されている。現在、ヨーロッパで代表的な独裁国家そして共産主義の名残が最も強く見受けられる国であり、国連人権理事会から人権状況が破滅的な国と評されている。 正式名称はベラルーシ語で、Рэспубліка Беларусь(ラテン文字表記は Respublika Belarus)。 公式の英語表記は、Republic of Belarus。通称、Belarus。 日本語の表記は、ベラルーシ共和国。通称、ベラルーシ。漢字表記は白露西亜。略称は白露もしくは白。なおベラルーシ政府は後述する理由でBelarusを音写した白羅斯表記を主張し在中ベラルーシ大使館でもその表記が使用されているが一般的になっていない。 17世紀にロシア帝国の支配下に入るとベロルシア(ロシア語:Белоруссия ( 音声 ビラルーシヤ)と名付けられ、日本語でもこれを訳した白ロシアの名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「ロシア」のことではなく「ルーシ」の意味)。ソ連崩壊直後の1991年9月15日に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。ロシア語でもБеларусь( 音声 ビラルーシ)の名称が使用されるようになっている。 「ベラルーシ」の国名の由来は明らかではないが、ルーシの人々は13世紀から16世紀にかけてモンゴルの支配を受け(「モンゴルのルーシ侵攻」「タタールのくびき」参照)、ベラルーシの国名の由来である白ルーシ(英語版)の名前の由来をモンゴルに関連付ける説がいくつか挙げられている 。その際、モンゴル人が中国から学んだ文化である「方角を色で呼ぶ方法(五行思想)」をルーシに持ち込んだため、「赤ルーシ」(南部ルーシすなわち現在のウクライナ西部)、「白ルーシ」(西部ルーシすなわち現在のベラルーシ)、「黒ルーシ」(北部ルーシすなわち現在のモスクワ周辺)という名称が生まれ、そのうちの白ルーシ(ベラルーシ)が国名として残ったと言われている。モンゴル系の国家で用いられたテュルク系の言語の影響を受けて生まれた、「自由な、支配から解放された」白ルーシと「隷属した」黒ルーシの呼称を起源とする説も存在する。 6-8世紀にスラヴ民族が移住開始したと一般に言われていたが、近年では古代から既にスラヴ民族はこの地に定住し続けていたという説が有力である。 9世紀のキエフ・ルーシの一部だったポロツク公国がベラルーシの始まりとされる。バルト海と黒海を結ぶ通商路として繁栄した。 10-11世紀にポロツク公国は版図を拡大し、 キエフ・ルーシやノヴゴロド公国と争った。南部には10世紀末にトゥーロフ公国が成立。一時、モンゴルに征服される。 12世紀から13世紀前半には10前後の公国が存在し、ベラルーシ人の民族意識が高まり、団結してドイツ騎士団やモンゴル帝国と戦った。13世紀までにベラルーシの地域(ルーシと呼ばれる地域の北半)の公国は全てリトアニア大公国に併合される。リトアニア大公国における貴族の大多数は実はリトアニア人(リトアニア語を母語とする人々)ではなくベラルーシ人(当時はルーシ人、のちリトヴィン人(ベラルーシ語版)と呼ばれた)で、リトアニア大公国の公用言語はリトアニア語ではなくベラルーシ語(当時は通常はルーシ語と呼ばれ、さらに、リトアニア大公国の官庁で使用された公式言語であることから官庁スラヴ語とも呼ばれた)が使われる。 1385年、クレヴォの合同によりポーランド・リトアニア合同が成立すると、ベラルーシを含むリトアニア大公国全域の貴族の間で文化や母語の自発的な「ポーランド化」が始まる。クレヴォの合同後最初のリトアニア大公であるヴィータウタスが1430年に没すると、リトアニア大公国貴族によるポーランドの文化と言語の受容が加速した。1569年にルブリンの合同により物的同君連合としての単一国家である「ポーランド・リトアニア共和国」が成立するとこの地域の文化のポーランド化がさらに進み、リトアニア人とベラルーシ人を含むリトアニア大公国のほぼ全ての貴族がポーランド化した。この「ポーランドへの同化」現象は1795年までの三度にわたるポーランド分割によりベラルーシ地域がロシア帝国に併合されるまで続いた。この間、貴族層の家系の大半とその他ルーシ人の多くはこの時代までにローマ・カトリックに改宗を済ませ、母語もポーランド語を使用するようになっていたが、相変わらずルーシ語を母語とし東方正教会を信仰していた者も農民層を中心に多数いた。 その後、ロシア帝国に支配されていた時代は、地方自治レベルでは旧ポーランド・リトアニア共和国の貴族(ほとんどがローマ・カトリック教徒)たちに一定の権限が許されていた。その間貴族たちはポーランド・リトアニア共和国の独立を目指す蜂起を2度起こした。1830年11月に行われた大蜂起(十一月蜂起)が失敗に終わると、貴族たちを中心にポーランド系の多くの人々がロシア帝国を脱出し、西ヨーロッパやアメリカ大陸の各国へ亡命した(これは「大亡命」と呼ばれる)。それでも民主ポーランドを復活させようとする人々は1863年に2度目の大蜂起(一月蜂起)を起こす。これがロシア帝国によって再び鎮圧されると、ポーランド貴族や商工民やインテリはキリスト教徒であるかユダヤ教徒であるかを問わず徹底的な迫害に遭った。その結果、この地域の中産階級以上の人々(ほぼ全てがポーランド人 - ポーランド化した家系の人々 - であった)は亡命するか、あるいは財産を没収されてほとんど無産者となり、中産階級そのものが滅亡した。その結果、ベラルーシに残った人々の大半は農民となり、ロシア帝国による直接支配が進んだ。ベラルーシの農民の大半はポーランド語を話すローマ・カトリック教会信者か、ルーシ語を話す東方正教会信者かのどちらかであった。前者(すなわちルーシ人からポーランド人となった者)はポーランドに近い西部に多く、後者(ルーシ人でい続けた者)はロシアに近い東部に多かった。 一月蜂起以後はロシア帝国によるポーランド人(キリスト教徒とユダヤ教徒の間)分断政策が開始され、ロシア帝国から俗に「リトアニアのユダヤ人(リトヴァク)」と呼ばれるロシア系(東欧系)ユダヤ人たちが大量に送り込まれた。リトヴァクたちは14世紀の昔からずっとポーランドにいた西欧系ユダヤ人(ユダヤ教徒のポーランド人)とは文化も習慣も言語もかなり異なる人々で、ポーランドのキリスト教徒とユダヤ教徒の両方から嫌われる存在だったが、あまりに大量に移住してきたのでこの地域の人口動態を大きく変えてしまう事態になった。(この段落部分は、通常の理解とは異なる。通説的には次の通り。ベラルーシのユダヤ人は、ポーランドが呼び寄せた西欧ユダヤ人が、リトアニアとの合同により(リトアニア領内だった)ベラルーシに拡散したものが中心である(Lithuanian Jews)。そのころロシアはユダヤ人の移住を認めていなかったので、領内にはほとんどいなかった。その後、ロシアがポーランド分割によりベラルーシを含む旧ポーランド・リトアニアの一部を領有した結果、ロシアは国内にユダヤ人を抱え込むことになったが、その後も分割領有前のロシア領内にはユダヤ人の立ち入りを認めなかった。)このルーシ農民階層、リトヴァク、そして後にロシアから大量に移住してくるロシア人の3者が、後のソヴィエト連邦(ソ連)ベラルーシ共和国の主要民族となり、特に最初の2者はソ連の無宗教政策によって完全に融合してしまうのである。 1917年にロシア革命が起こり、そして第一次世界大戦の間占領していたドイツ軍の占領が終わった後、1918年には史上初の独立国となるベラルーシ人民共和国が樹立される。しかしこの政権は短命に終わり、1919年には白ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦に加盟する。このころに起こったポーランド・ソビエト戦争の結果成立したリガ条約により西半分がポーランドに割譲された。 1939年9月の第二次世界大戦の勃発により、ソ連軍はナチス・ドイツに続いてポーランドに侵攻。ポーランド東半分の占領と共に、リガ条約により割譲されていた領土を白ロシアに編入した。1941年からの独ソ戦(大祖国戦争)では激戦地となり、ブレスト要塞やミンスクの戦いを経てドイツ国防軍や親衛隊に占領された後、1944年のバグラチオン作戦により奪回された。ハティニ虐殺など、ドイツは苛酷な統治を行った。対独反攻作戦において、ソ連軍は白ロシア戦線(白ロシア方面軍)と呼ばれる方面軍を組織した。 1945年に第二次世界大戦が終わると、ポツダム会談での取り決めによってソ連とポーランドの国境が西へ移動され、ベラルーシ全域がソ連領ベラルーシ共和国となり、この地域に住むポーランド系住民は西方へ追放された。この追放をソ連や現在のロシア連邦では「移住」と呼ぶ。これにより、ベラルーシ共和国は家系がポーランド化せずにルーシ人(ベラルーシ人)だった者か、あるいは19世紀にロシアから大量に移住してきた東欧ユダヤ系の家系の者、あるいはその混血ばかりの国家となったが、さらにロシア共和国などから多数のロシア人が移住してきた。 1986年4月26日、ベラルーシ共和国の南のウクライナ最北部にあるチェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、折からの南風に乗って放射性物質が国境を越え、南東部のホミェリ(ゴメリ)州を中心とする地域に大きな被害が及び、同州に限定すると、1991年以降は小児甲状腺ガンの発生頻度が世界的平均の100倍以上にも達している。一方、非常に軽度の汚染州であるビテプスク州では、1993年以降0件のままであることから、原発事故による汚染と甲状腺がんの相関性が認められる。詳細は「チェルノブイリ原子力発電所」を参照。 1990年7月27日に独立宣言(主権宣言)を行い、1991年8月25日に独立が承認された。同年の12月8日にはベラルーシ最西部のベロヴェーシの森で、ロシアのボリス・エリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチの三者の間でソビエト連邦の解体を宣言、独立国家共同体(CIS)創設に関する協定が締結された。9月15日には国名が白ロシアから正式にベラルーシ共和国となった。 1994年に実施された大統領選挙では、ロシア連邦との統合を目指すなどの選挙公約を打ち出したアレクサンドル・ルカシェンコが当選した。ルカシェンコ大統領は1999年12月8日、ロシア連邦のボリス・エリツィン大統領(当時)と、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野においての統合を目指すロシア・ベラルーシ連盟国創設条約に調印した。しかし、その後、プーチンがロシア連邦の新大統領として就任し、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになると、自らは初代「最高国家評議会議長(国家元首)」に就いて、ロシアには連合国家の閣僚会議議長(首相に相当)のポストを与えることでロシアの事実上の最高指導者になる野望を持っていたルカシェンコ大統領は反発するようになり、両国の統合は停滞した。その後も、ロシアがメドヴェージェフ大統領になっても、ロシアとベラルーシの関係悪化は続いた。 メドヴェージェフから引き継いで再び大統領となったプーチンは、2018年においてもベラルーシに対して、エネルギー輸出などで圧力をかけながら国家統合を迫っている。ルカシェンコは協議には応じている一方で、「ロシアが西にある唯一の同盟国を失うのなら、彼らの責任だ」「両国の連合は平等な立場でのみ発展できる」と牽制。2019年11月17日にも「国家主権や独立を脅かすような書類には署名しない」と発言した。 2010年12月の大統領選挙では4選を果たしたものの、選挙後に野党候補者が政権により拘束される など、野党勢力への弾圧が続いたことで、アメリカ合衆国や欧州連合(EU)を中心とした西側諸国からの圧力を受け、国際的にも孤立を深めた。財政問題や経済不況が続く中、SNSなどでの呼びかけで、政権に抗議する一部の市民たちは無言で拍手をしながら街を練り歩くなど、ルカシェンコ政権への抗議運動が発生し始めているが、反政府運動は徹底的に厳しく取りしまられている。 しかしながら、経済不況ながらもソ連時代から続く富の分配政策や物価の低価格設定などにより、国民の生活は一応の安定を保っていることと、実質的にはルカシェンコ派以外が政権を担う力は皆無であるため、アメリカ合衆国やEUが期待するのとは裏腹に反政府運動も一向に盛り上がらないのが現状である。また、2014年にはロシアとカザフスタンの提唱したユーラシア連合構想に加わってユーラシア経済連合創設条約に調印。ルカシェンコ大統領はロシアとある面では敵対しつつも連携し、中国や、イラン、ベネズエラなどの中南米諸国などといった非欧米諸国を中心とした国と巧みな外交手腕で経済援助を獲得することで、自身の独裁体制を維持している。 2020年、8月の大統領選挙の不正疑惑から大規模な反政府デモが起こり、2021年現在まで続いている。2021年5月23日、ギリシャからリトアニアへ向っていたライアンエアの旅客機は、ベラルーシ領空内に入った直後に爆破予告があったとしてミンスクに強制着陸させられた。着陸後、ベラルーシ当局は旅客機の乗客の中にいたラマン・プラタセヴィチを拘束。プラタセヴィチは前年の反政府運動にメディア関係者と参加後、海外に亡命していた人物であった(ライアンエアー4978便の項を参照のこと)。ライアンエアの本社があるアイルランド政府は、一連の拘束劇を「空の海賊行為」であるとしてベラルーシを批難。6月21日には、欧州連合とアメリカ、イギリス、カナダがベラルーシに対する制裁を一斉に発表して外交問題に発展した。 ルカシェンコ政権を批判して弾圧された者の一部はポーランドを始め各国に亡命している。また亡命者によるネットワークが各国に存在しており、亡命者のサポートを組織的に行っている。 2022年2月、ロシア・ウクライナ危機の最中、フロドナ付近でロシア軍とベラルーシ軍が共同軍事演習を実施。 その後もロシア軍はベラルーシに駐留し、同年2月24日朝、ベラルーシとウクライナの国境を越えて侵攻を始めた(2022年ロシアのウクライナ侵攻)。 同日、ルカシェンコはベラルーシ軍が侵攻に関与していることはないとする声明を発表した。 2月27日に憲法改正の是非を問う国民投票が行われ承認された。改憲案ではベラルーシを「中立国家」及び「非核地帯」とする条文が削除され、これをロシアよる核兵器配備の布石ではないかとの疑念が出ている。そのほかに現在の大統領通算任期を「リセット」、2035年までの続投が可能となり、在任中の「免責特権」も付与された。権力の更なる強化は欧米による制裁に対する政権延命を意識したとの見方もある。しかし、ベラルーシはウクライナへの侵攻に関与しているとして、西側諸国はベラルーシに経済制裁を開始した。 しかし、ベラルーシ国内では、ルカシェンコ政権とロシアに反発するベラルーシ反体制派が、ロシア軍によるウクライナ侵攻を妨害するために鉄道での軍事物資の輸送として使用されているベラルーシの鉄道への破壊行為が行われた。 12月にはウクライナ軍のミサイルがベラルーシ国内に着弾した。 2023年6月中旬、ルカシェンコは「我々はロシアからミサイルと爆弾を受け取った。爆弾は広島と長崎に投下されたものより3倍の威力がある」と表明。同月末には「配備予定の核兵器の大部分はベラルーシ領に移送された」と明かした。配備された戦術核兵器の管理権と使用権はロシアに残るとされる。 ベラルーシは表面上は三権分立の共和制の国であるが、1996年にベラルーシ共和国憲法が改正され、行政の中心である大統領(任期5年)に非常に強い権限が与えられている。2004年に強行された国民投票により、憲法の大統領職の3選禁止規定が一方的に削除された。 ベラルーシの議会は二院制で、上院に相当する共和国院(Совет Республики, Sovet Respublik 定員64名)と、下院に相当する代表者院(Палата представителей, Palata Predstavitelei 定員110名)からなる。議員は、共和国院は国内の6つの州とミンスク市の議会から8名ずつ選出、残り8名を大統領が指名する。代表者院は小選挙区制により選出され、任期は4年である。 1994年以降、ルカシェンコが権力を掌握している独裁国家である。アメリカ合衆国などの自由主義諸国との関係はきわめて悪い(アメリカがベラルーシに経済制裁を科したため、2008年5月に国交を事実上断絶した。ジョージ・W・ブッシュ米大統領が定義した「悪の枢軸」の中の一国である(当初はイラク、イラン、北朝鮮のみだったが、その後拡大している)。 また、ベラルーシは2022年現在、ヨーロッパで唯一死刑制度が存在する国家でもある。 1999年、ロシア連邦(当時はボリス・エリツィン政権)と連合国家創設条約を締結した。2023年現在、ベラルーシの貿易取引のおよそ6割をロシアが占め、原油なども安値で供給を受けており、ロシアへの依存度が極めて高い。国力が強大なロシアへの従属を警戒するルカシェンコ大統領は統合を進めることに慎重であり、貿易や国境管理でロシアと度々対立してきた。しかし民主化への弾圧などを批判する米欧に対抗して、2021年には共通軍事ドクトリン改定や経済統合深化についてロシア連邦のプーチン大統領と合意。特に2020年の大統領選でルカシェンコが6選を果たした際、国内で選挙の不正を訴える大規模な抗議デモが発生し、政権は厳しい弾圧で反体制勢力を抑え込んで以降、国際的な孤立は一段と深まり、ロシア以外に頼れる国がなくなったとされる。以来、ロシアへの従属姿勢を強め、ウクライナ侵攻を巡ってもロシアと合同軍事演習を実施したり、自国領からのロシア軍の攻撃を容認したりしている。 日本とベラルーシは1992年1月26日付で二国間関係を樹立した。日本は1993年1月にミンスクの大使館を開設、ベラルーシは1995年6月に東京の大使館を開設している。 在日ベラルーシ人はそれほど多くはないが、彼らは主として東京に住んでいる。他国と同様に亡命者のサポートを行っている。 首都ミンスクにある。かつては、駐ロシア特命全権大使がベラルーシも兼任し、ミンスクには臨時代理大使が常駐していたが、2019年9月より常駐の特命全権大使を派遣している。 2020年、欧州連合(EU)はベラルーシの公務員へのビザ発給に関する優遇措置を発表。しかし、その後の大統領選挙やデモ隊への弾圧をめぐり関係が悪化。2021年9月には優遇措置の停止を発表している。2023年3月、欧州連合(EU)の外相に当たるボレル外交安全保障上級代表は26日、ロシアのプーチン大統領が戦術核兵器をベラルーシに配備すると決めたことを受け、配備すればベラルーシに新たな制裁を科す可能性があると警告した。 陸軍及び空軍・防空軍の二軍からなる国軍を有する。ベラルーシ国防省の管轄下にあり、大統領が最高指揮官となる。この他に準軍事組織として、内務省のベラルーシ国内軍とベラルーシ国家国境軍委員会がある。ロシアを中心とした集団安全保障条約に加盟しており、北大西洋条約機構(NATO)には加盟していないが、アフガニスタンへの国際治安支援部隊(ISAF)展開を支援するなど、部分的には協力を行っている。 国軍は1991年の独立に伴い、旧ソ連軍を改編して創設された。 ベラルーシは内陸国で、国土の大部分が低地であり、最高点のジャルジンスカヤ丘陵でも海抜345mである。最低点はネマン川の海抜90mである。国土の20%を占めるなど湿原が豊富で、南部に最大の湿原であるポレーシエ湿地(ロシア語版)がある。約1万1000もの湖があり、それを突き通すように、北部を通るダウガバ川、西部を通るネマン川、東部を通るドニエプル川とその支流であるプリピャチ川、ベレジナ川、ソジ川などの主要河川がある。気候はおおむね温暖で湿度が高いが、東部は冷涼で、大陸性気候の特徴が見られる。 ベラルーシの主な天然資源は森林で、国土の45.3%もの面積を占めている。その他に泥炭、花崗岩、泥灰岩、チョークが採れる。少量の石油と天然ガスも産出されるが、国内需要を満たす規模ではなく、エネルギー資源の大半をロシアからの輸入に依存している。 国際通貨基金(IMF)の統計によると、2018年のベラルーシの国内総生産(GDP)は596.43億ドルである。一人あたりのGDP(為替レート)は6,283ドルで、バルト三国を除く旧ソ連構成国の中では、ロシア(11,289ドル)、カザフスタン(9,401ドル)についで3番目であり、隣国ウクライナ(3,112ドル)の約2倍である。 1991年の独立後、他のCIS諸国と同様に市場経済化を推進していた。しかし、1995年に大統領に就任したルカシェンコは、「社会主義市場経済」を導入して社会主義政策を開始した。これに基づき、統制価格の導入や、政府による民間企業への介入により自国の製造業の保護に努める傍ら、ロシアと関税同盟を結ぶなどの経済統合政策により、経済成長を実現させた。しかし、1998年8月に発生したロシア財政危機に伴い、1998年から1999年の2年連続で悪化し、激しいインフレーションや生産の低下に見舞われた。2000年1月1日にはデノミネーションが実施された。以降はロシア経済の急速な回復に支えられ順調な経済成長を続けているが、2016年7月には再びデノミネーションを実施している。 対露経済統合はロシア側に政治、経済的に大きく左右されること、ベラルーシ側に大幅な貿易赤字をもたらすなど問題があり、近年はロシアに自国の産業が脅かされるとの警戒感から、経済統合政策は事実上停滞している。ただ、当分の間ベラルーシは西欧型の市場経済からは離れ続けると見られているが、2011年に入り、国内の経済状況が極度に悪化しており、ロシアがベラルーシの吸収合併へ向けた動きを加速させている。 2009年5月29日、ロシアのアレクセイ・クドリン財務相は、ベラルーシが近い将来支払不能(すなわち破産)に陥るとの見方を示した。これは、ベラルーシが市場改革を行わず、ソ連型社会主義体制のままであることによる。天然資源にも乏しく、国家財政の基盤となるものが脆弱なのにも関わらず、ルカシェンコ個人の趣味であるアイスホッケー場を多数建設させたり、食品や生活用品の価格に税金をかけず、逆に国の補助金で安く抑えたりするなどの放漫財政を行っている。ただ、こうした政策を行っているからこそ、ルカシェンコによる独裁体制が支持されているという側面もあった。ルカシェンコ大統領は体制維持のためロシアと欧州連合(EU)を天秤にかけ、双方から経済支援を引き出すしたたかな外交を展開していた。しかし、この手法も2010年代に入ると、もはや通用しなくなった。 まず、2010年6月21日より、ロシアのガスプロムが天然ガスの代金未払いを理由にベラルーシへのガス供給の削減を開始した。しかし今度はベラルーシがガスプロムに対して「欧州向け天然ガスにおけるパイプラインの通過料が未払いであり、翌日(24日)の朝までに支払われなければ、欧州向け天然ガスの供給を全面的に停止する」と警告をした。これにより、『欧州を含めた、新たな天然ガス供給に関する紛争』が生じ、ルカシェンコ大統領は「ロシアとの間でガス戦争が始まった」と発言したが、6月24日にベラルーシ側が未払い代金を支払い、ガス戦争は早々と終結した。しかし、ベラルーシとロシア間で強いわだかまりが残る結果となった。 そして、2010年12月にルカシェンコが四選を果たした直後から、2009年のロシアのクドリン財務相の予言通り、ベラルーシが経済危機に陥った。ロシア産石油・天然ガスの価格引き上げと、先述したバラマキ放漫財政に耐えられず、外貨準備が底をついている。ベラルーシ各地の両替所では外貨を求める人々の長蛇の列ができ、物価高騰を恐れる庶民は商品買い占めに走った。ロシア側はベラルーシの国営企業売却などを求め、これによりベラルーシのインフラを掌握し、また、通貨をロシアルーブルにすべきだという意見も出て、ベラルーシをロシアに事実上吸収合併しようとする動きを強めた。過去に「ロシアに泣きついて頭など下げない」(ロシアの経済支援棚上げについて)などといった強気の発言を繰り返してきた、「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれているルカシェンコ大統領は崖っぷちの状況に陥った。この状態を打破するには、ルカシェンコが採用していたソ連型社会主義経済から、完全な市場経済社会へ向けた痛みを伴う大掛かりな改革が必要であると指摘された。 紆余曲折の末、ルカシェンコ大統領がロシア主導の「ユーラシア連合」への参加を表明し、その見返りにロシアは天然ガスを特別割引価格で提供、また、ガスパイプラインをロシアが買い取る協定が結ばれ、ベラルーシ経済がロシアに掌握された格好となった。 だが、国営企業で働く従業員の賃金未払いや工場の操業停止など、深刻な経済状況は依然として続き、更に、ロシアは国営企業の民営化の遅れなどを理由にベラルーシへの資金援助を2013年に打ち切った。崖っぷちのルカシェンコ大統領は中華人民共和国へ急接近し、中国との間で15億ドルの経済投資協定を締結。中国は欧州進出の足掛かりを得て、ベラルーシは財政破綻を回避できた。同時期には蘇州工業園区に倣った中国-ベラルーシ工業園区(英語版)も開設され、これによりベラルーシの軍事パレードでは中国の紅旗がパレードカーになって中国人民解放軍もベラルーシ軍とともに行進し、中国製武器の購入 や弾道ミサイルを共同開発 するなど経済的にも軍事的にも密接な関係が続いている。 ベラルーシの鉱業は、原油、天然ガス、ソリゴルスクで採掘される岩塩(カリ塩 KCl)に限定されている。原油だけは自国内の消費量の数割を賄える。農業では、麦類の生産に向く気象条件から世界第4位(150万トン、2002年)のライ麦を筆頭に、大麦、燕麦の生産が盛ん。春小麦の栽培も見られる。工芸作物としては世界第5位(3万2000トン)の亜麻の生産が際立つ。工業は繊維業、化学工業(肥料)が盛ん。羊皮生産量は世界第4位(8万トン)で、カリ塩の採掘に支えられたカリ肥料生産は世界第3位(369万トン)となっている。硝酸の生産量は世界第8位(88万トン)。 第三次産業では、理工系教育を重視していた旧ソ連時代からの伝統で、情報技術(IT)分野の人材が豊富である。『World of Tanks』(WOT)を開発したウォーゲーミング社は1998年にベラルーシで創業した(法人登記を2011年にキプロスへ移した後も本社機能はミンスクにある)。ベラルーシ政府は2005年にIT企業への税制優遇プログラムを導入し、Viberなどを生み出した。ルカシェンコ大統領は2017年にデジタル産業育成令を発布した。 ルカシェンコ独裁体制下で司法の独立が欠如していることから、企業が政府から不当な圧力を受け、特に破綻に追い込まれる問題が存在している。一方、ルカシェンコの統治の下ではロシアやウクライナのように、国有企業の民営化の結果として巨大な影響力を持つオリガルヒが出現していないため、財界から政界への干渉や政財界の癒着が少ない。 2002年時点では輸入90億ドルに対し、輸出は81億ドルであり、わずかに入超である。主な輸入品は原油、機械類、鉄鉱。輸入相手国は、ロシア、ドイツ、ウクライナである。ロシアとの取引が65%を占める。主な輸出品は、石油製品、自動車、機械類であり、輸出相手国はロシア、ラトビア、イギリスである。輸出ではロシアの占める割合は50%に留まる。日本との貿易では、乳製品を輸出(全体の44%)し、無線通信機器を輸入(全体の35%)している。 北西部フロドン州オストロベツ郊外に、ロシア国営原子力企業ロスアトム系列のアトムストロイエクスポルトが建設したベラルーシ原子力発電所が2020年11月に完成した。ベラルーシ初の原発である。加圧水型軽水炉2基(出力合計240万キロワット)を備える。 ベラルーシの電力需要の30%を賄えるが、原発建設と100億ドルの費用の融資をロシアに頼ったため、エネルギーのロシア依存を減らすことにはならなかった。1号機は2021年、2号機は2022年に商業運転開始を予定しているが、近接するリトアニアは安全性を懸念しており、同国を含むバルト三国は2020年8月末、ベラルーシとの電力取引を原発稼働後は停止することで合意した。 住民はベラルーシ人が83.7%、ロシア人が8.3%、ポーランド人が3.1%、ウクライナ人が1.7%、ユダヤ人が0.1%である(2009年)。かつては首都ミンスクの人口のうち、ユダヤ人やポーランド人が多数を占めていた時期もあるなど、多民族が共存してきた歴史がある。 隣国ウクライナではウクライナ人民族主義が非常に強く、国内に民族対立を抱え、結果的に2014年には深刻な内戦に陥った。 2022年に至ってロシアの全面侵攻を誘引、以降国民からのロシアやソビエト連邦への評価が極めて悪化し、当時のモニュメントの解体や地名の変更などが各地で行われている。 一方のベラルーシでは、現在もロシアの同盟国ということもあり、首都のミンスクには巨大なレーニン像が残るなどソビエト時代を肯定的にとらえる国民性もある。 ベラルーシでは、ベラルーシ語とロシア語の二つの言語が国家語として憲法に規定されている。ベラルーシで最も広く使われる言語はロシア語であり、家庭内では人口の70%がロシア語を使用しており、ベラルーシ語が家庭内で使用される割合は26%となっている(2019年)。ベラルーシ語で会話できない国民は多いが、どちらが母語かとの問いに対しては、人口の53.2%がベラルーシ語、41.5%がロシア語と答えている。現在、ベラルーシの教育ではベラルーシ語とロシア語いずれも原則必修だが、ベラルーシ語が読めても話せない国民は多い。会話の中でベラルーシ語とロシア語のどちらともとれない曖昧な話し方はしばしば見られ、こうした口語はトラシャンカ(「干草に藁を混ぜた飼料」の意)と呼ばれている。 他にポーランド語、ウクライナ語、東イディッシュ語を話す少数派も存在する。 宗教は東方正教会(ロシア正教会の総主教代理が代表するベラルーシ正教会)が80%である。その他ローマ・カトリック、プロテスタントなどが信仰されている(1997年推計)。 ロシア正教の古儀式派のポモールツィ、ベロクリニツキー派、ベグロポポーフツィなどの信徒も存在する。 ベラルーシの治安は、他のNIS諸国やCIS加盟国と比較すると良好な状態にあると言えるが、安全性が高いと言えるわけではなく全体を通してみると犯罪の発生率自体が高めとなっている。 都市部では外国人が巻き込まれる事件が発生しており、スリや強盗、車上荒らしなどの被害に遭わないよう、常日ごろから注意が必要とされる面がある。特に日本人は「他の外国人に比べて裕福である」というイメージが強く持たれており、また街中でも人目につくことから犯罪の対象になりやすい傾向にあるため、外出時には厳戒態勢でいる事を求められる。 また、2008年に首都ミンスク中心部での独立記念日を祝う野外コンサート会場で爆弾が爆発して50名あまりが負傷したことを始め、2011年4月にはミンスク市中心部にある地下鉄オクチャブリスカヤ駅で爆発が生じ14名が死亡し200人以上が負傷するといった凄惨なテロ事件が起こっている点から、当国に滞在の際は危険と隣り合せであることを常に意識しなければならない。 国民の権利が著しく抑圧された国家の一つである。高齢者、未成年、障害者を除く国民が職に就かず半年以上未納税の場合、平均月収程の罰金が課せられるほか、失業者は社会奉仕が義務付けられている。公の場でのデモ、集会は厳しく規制されており、政治的な意見の表明や政権批判、大統領批判をすれば逮捕・拘束される。 厳しい規制を逃れるために、ただ拍手をするだけのデモ活動を「拍手によって政治的な意見を表明した」と弾圧し、片手しかない参加者も拍手をしたと逮捕された。過去には聴覚障害者が「政治スローガンを叫んだ」として逮捕される事態が起きている。この片手しかない参加者の拍手による逮捕は、2013年にルカシェンコ大統領とベラルーシ警察に対し、イグノーベル賞平和賞を授賞することになった。 ベラルーシ料理は主に野菜、豚肉をはじめとする肉類に、パンから構成される。料理は通常時間をかけて作られるか、あるいはシチューとして調理される。通常ベラルーシ人は一日二度の食事を取り、朝食は軽めで、夕食はボリュームがある。小麦とライ麦のパンが食べられているが、小麦の栽培に不適な環境のため、ライ麦のパンが多く消費されている。来賓や訪問客を迎えた家の主人はパンと塩を提供するのが、歓迎の意思を示す伝統的なしきたりである。 ベラルーシの民俗音楽の伝統はリトアニア大公国の時代にまで遡る。クリジャチョク(ロシア語版)と呼ばれるフォークダンスが存在する。 近代音楽ならび現代音楽においては、前身のソ連時代に生み出されたものが基盤となっている。 バトレイカ(英語版)と呼ばれる伝統的な人形劇が存在する。バトレイカはキリスト教に関連するもので、公演は伝統的にクリスマスの期間に行われている。 ベラルーシの伝統的な衣服はキエフ大公国の時代に起源がある。寒冷な気候のために服は体温を保つように設計され、通常は亜麻や羊毛を素材としていた。ポーランド、リトアニア、ラトビア、ロシアや他のヨーロッパ諸国など、近隣の地域の文化の影響を受けた華麗な模様が衣服にあしらわれている。また、ベラルーシ内の地域ごとに特別なデザインの模様が発達している。ベラルーシの国旗の左側にある赤・白の模様は、伝統的な衣装で広く使われる装飾模様の一つである。 ベラルーシ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件存在する。 ベラルーシ国内では氷上スポーツに最も人気が集まっている。ルカシェンコ大統領も自らプレイヤーとして嗜むほどアイスホッケーが非常に盛んで、2002年ソルトレイクシティ五輪では男子チームが、NHLプレイヤーを数多く揃えるスウェーデン代表を破り4位に入るなど、国際舞台でも活躍を見せている。NHLと並ぶ世界最高峰のアイスホッケーリーグであるKHLには、ベラルーシのクラブとしてディナモ・ミンスクが唯一参加しており、2010年バンクーバー五輪にもこのチームから代表へ、主力選手が多数選出されている。2014年にはミンスク・アリーナを主会場として、アイスホッケー世界選手権も開催された。 サッカーは、ベラルーシでアイスホッケーの次に人気のスポーツとなっており、1992年にプロサッカーリーグのベラルーシ・プレミアリーグが創設された。BATEボリソフがリーグ最多15度の優勝に輝いており、同クラブにかつて所属しアーセナルなどでも活躍したアレクサンドル・フレブは、世界的に有名な選手として知られる。同リーグは2020年3月以降、新型コロナウイルス感染症の拡大により世界中でサッカーのプロリーグが中断する中、唯一通常開催され物議を醸した。 ベラルーシサッカー連盟(BFF)によって構成されるサッカーベラルーシ代表は、FIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権には未出場である。UEFAネーションズリーグでは、2022-23シーズンはリーグCに属している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ベラルーシ共和国(ベラルーシきょうわこく、ベラルーシ語: Рэспу́бліка Белару́сь 発音、ロシア語: Республика Беларусь)、通称ベラルーシは、東ヨーロッパの共和制国家。首都はミンスク、人口約945万人。ソ連邦崩壊により1990年に独立宣言を行い、1991年に「白ロシア・ソビエト社会主義共和国」から「ベラルーシ共和国」へ国名を変更した。2000年以来、ベラルーシ・ロシア連合国家の加盟国である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "世界最北の内陸国で、面積は日本の約55%、国境は、東はロシア、西はポーランド、北西はリトアニアとラトビア、南はウクライナと接する。東ヨーロッパ平原に位置する国の一つで、国土の最高標高が345m、首都ミンスクの標高は280m、国境地帯も含め山が見られない平坦な国土として知られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "公用語はベラルーシ語とロシア語だが、18世紀後半よりロシア帝国の支配下となり1921年からはソ連邦構成共和国「白ロシア共和国」となるなど長くロシアの影響下にあったため、現在も、教育、行政など社会全般で広くロシア語が浸透しており、ベラルーシ語で会話ができない国民は多く、家庭内の会話がベラルーシ語の国民比率は26%とされる(2019年)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地理的に、西ヨーロッパとロシア間の陸路と、北のバルト海と南の黒海間の平坦な地形を生かした河川による水運や陸路など、東西と南北の交通が交差する位置にあるベラルーシは、周辺諸国による侵略や支配などが繰り返されてきた歴史を持つ。主なものとして、13世紀のドイツ騎士団やモンゴル帝国、14世紀以降はリトアニアやポーランド、18世紀にはロシア帝国、20世紀に入りソビエト連邦、第二次世界大戦時はドイツ軍の侵攻と占領で当時の推定人口900万人超の2割弱にあたる160万人以上の一般国民が死亡し首都ミンスクの約85%の範囲が破壊されるなど、周辺国の政治・経済状況に国民や国土が大きく影響を受けて来た。(歴史参照)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国体が歴史的に激しく変化して来たベラルーシは、1991年に独立を達成するまでソビエト連邦の構成国家の一つとして機能し、同じく同連邦の構成国家ウクライナと共に、国際連合にソビエト連邦とは別枠で加盟していた。そしてソビエト連邦崩壊により独立を果たしたが、経済協力開発機構(OECD)の分類で現在も開発途上国であり、所得や教育そして平均余命などをもとに国際連合開発計画が発表する人間開発指数では60位である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "政治・経済面では1994年以来、ルカシェンコ政権による独裁政治が続いており、「欧州最後の独裁国家」と非難されている。現在、ヨーロッパで代表的な独裁国家そして共産主義の名残が最も強く見受けられる国であり、国連人権理事会から人権状況が破滅的な国と評されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正式名称はベラルーシ語で、Рэспубліка Беларусь(ラテン文字表記は Respublika Belarus)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は、Republic of Belarus。通称、Belarus。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、ベラルーシ共和国。通称、ベラルーシ。漢字表記は白露西亜。略称は白露もしくは白。なおベラルーシ政府は後述する理由でBelarusを音写した白羅斯表記を主張し在中ベラルーシ大使館でもその表記が使用されているが一般的になっていない。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "17世紀にロシア帝国の支配下に入るとベロルシア(ロシア語:Белоруссия ( 音声 ビラルーシヤ)と名付けられ、日本語でもこれを訳した白ロシアの名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「ロシア」のことではなく「ルーシ」の意味)。ソ連崩壊直後の1991年9月15日に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。ロシア語でもБеларусь( 音声 ビラルーシ)の名称が使用されるようになっている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「ベラルーシ」の国名の由来は明らかではないが、ルーシの人々は13世紀から16世紀にかけてモンゴルの支配を受け(「モンゴルのルーシ侵攻」「タタールのくびき」参照)、ベラルーシの国名の由来である白ルーシ(英語版)の名前の由来をモンゴルに関連付ける説がいくつか挙げられている 。その際、モンゴル人が中国から学んだ文化である「方角を色で呼ぶ方法(五行思想)」をルーシに持ち込んだため、「赤ルーシ」(南部ルーシすなわち現在のウクライナ西部)、「白ルーシ」(西部ルーシすなわち現在のベラルーシ)、「黒ルーシ」(北部ルーシすなわち現在のモスクワ周辺)という名称が生まれ、そのうちの白ルーシ(ベラルーシ)が国名として残ったと言われている。モンゴル系の国家で用いられたテュルク系の言語の影響を受けて生まれた、「自由な、支配から解放された」白ルーシと「隷属した」黒ルーシの呼称を起源とする説も存在する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "6-8世紀にスラヴ民族が移住開始したと一般に言われていたが、近年では古代から既にスラヴ民族はこの地に定住し続けていたという説が有力である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "9世紀のキエフ・ルーシの一部だったポロツク公国がベラルーシの始まりとされる。バルト海と黒海を結ぶ通商路として繁栄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "10-11世紀にポロツク公国は版図を拡大し、 キエフ・ルーシやノヴゴロド公国と争った。南部には10世紀末にトゥーロフ公国が成立。一時、モンゴルに征服される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "12世紀から13世紀前半には10前後の公国が存在し、ベラルーシ人の民族意識が高まり、団結してドイツ騎士団やモンゴル帝国と戦った。13世紀までにベラルーシの地域(ルーシと呼ばれる地域の北半)の公国は全てリトアニア大公国に併合される。リトアニア大公国における貴族の大多数は実はリトアニア人(リトアニア語を母語とする人々)ではなくベラルーシ人(当時はルーシ人、のちリトヴィン人(ベラルーシ語版)と呼ばれた)で、リトアニア大公国の公用言語はリトアニア語ではなくベラルーシ語(当時は通常はルーシ語と呼ばれ、さらに、リトアニア大公国の官庁で使用された公式言語であることから官庁スラヴ語とも呼ばれた)が使われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1385年、クレヴォの合同によりポーランド・リトアニア合同が成立すると、ベラルーシを含むリトアニア大公国全域の貴族の間で文化や母語の自発的な「ポーランド化」が始まる。クレヴォの合同後最初のリトアニア大公であるヴィータウタスが1430年に没すると、リトアニア大公国貴族によるポーランドの文化と言語の受容が加速した。1569年にルブリンの合同により物的同君連合としての単一国家である「ポーランド・リトアニア共和国」が成立するとこの地域の文化のポーランド化がさらに進み、リトアニア人とベラルーシ人を含むリトアニア大公国のほぼ全ての貴族がポーランド化した。この「ポーランドへの同化」現象は1795年までの三度にわたるポーランド分割によりベラルーシ地域がロシア帝国に併合されるまで続いた。この間、貴族層の家系の大半とその他ルーシ人の多くはこの時代までにローマ・カトリックに改宗を済ませ、母語もポーランド語を使用するようになっていたが、相変わらずルーシ語を母語とし東方正教会を信仰していた者も農民層を中心に多数いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後、ロシア帝国に支配されていた時代は、地方自治レベルでは旧ポーランド・リトアニア共和国の貴族(ほとんどがローマ・カトリック教徒)たちに一定の権限が許されていた。その間貴族たちはポーランド・リトアニア共和国の独立を目指す蜂起を2度起こした。1830年11月に行われた大蜂起(十一月蜂起)が失敗に終わると、貴族たちを中心にポーランド系の多くの人々がロシア帝国を脱出し、西ヨーロッパやアメリカ大陸の各国へ亡命した(これは「大亡命」と呼ばれる)。それでも民主ポーランドを復活させようとする人々は1863年に2度目の大蜂起(一月蜂起)を起こす。これがロシア帝国によって再び鎮圧されると、ポーランド貴族や商工民やインテリはキリスト教徒であるかユダヤ教徒であるかを問わず徹底的な迫害に遭った。その結果、この地域の中産階級以上の人々(ほぼ全てがポーランド人 - ポーランド化した家系の人々 - であった)は亡命するか、あるいは財産を没収されてほとんど無産者となり、中産階級そのものが滅亡した。その結果、ベラルーシに残った人々の大半は農民となり、ロシア帝国による直接支配が進んだ。ベラルーシの農民の大半はポーランド語を話すローマ・カトリック教会信者か、ルーシ語を話す東方正教会信者かのどちらかであった。前者(すなわちルーシ人からポーランド人となった者)はポーランドに近い西部に多く、後者(ルーシ人でい続けた者)はロシアに近い東部に多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一月蜂起以後はロシア帝国によるポーランド人(キリスト教徒とユダヤ教徒の間)分断政策が開始され、ロシア帝国から俗に「リトアニアのユダヤ人(リトヴァク)」と呼ばれるロシア系(東欧系)ユダヤ人たちが大量に送り込まれた。リトヴァクたちは14世紀の昔からずっとポーランドにいた西欧系ユダヤ人(ユダヤ教徒のポーランド人)とは文化も習慣も言語もかなり異なる人々で、ポーランドのキリスト教徒とユダヤ教徒の両方から嫌われる存在だったが、あまりに大量に移住してきたのでこの地域の人口動態を大きく変えてしまう事態になった。(この段落部分は、通常の理解とは異なる。通説的には次の通り。ベラルーシのユダヤ人は、ポーランドが呼び寄せた西欧ユダヤ人が、リトアニアとの合同により(リトアニア領内だった)ベラルーシに拡散したものが中心である(Lithuanian Jews)。そのころロシアはユダヤ人の移住を認めていなかったので、領内にはほとんどいなかった。その後、ロシアがポーランド分割によりベラルーシを含む旧ポーランド・リトアニアの一部を領有した結果、ロシアは国内にユダヤ人を抱え込むことになったが、その後も分割領有前のロシア領内にはユダヤ人の立ち入りを認めなかった。)このルーシ農民階層、リトヴァク、そして後にロシアから大量に移住してくるロシア人の3者が、後のソヴィエト連邦(ソ連)ベラルーシ共和国の主要民族となり、特に最初の2者はソ連の無宗教政策によって完全に融合してしまうのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1917年にロシア革命が起こり、そして第一次世界大戦の間占領していたドイツ軍の占領が終わった後、1918年には史上初の独立国となるベラルーシ人民共和国が樹立される。しかしこの政権は短命に終わり、1919年には白ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦に加盟する。このころに起こったポーランド・ソビエト戦争の結果成立したリガ条約により西半分がポーランドに割譲された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1939年9月の第二次世界大戦の勃発により、ソ連軍はナチス・ドイツに続いてポーランドに侵攻。ポーランド東半分の占領と共に、リガ条約により割譲されていた領土を白ロシアに編入した。1941年からの独ソ戦(大祖国戦争)では激戦地となり、ブレスト要塞やミンスクの戦いを経てドイツ国防軍や親衛隊に占領された後、1944年のバグラチオン作戦により奪回された。ハティニ虐殺など、ドイツは苛酷な統治を行った。対独反攻作戦において、ソ連軍は白ロシア戦線(白ロシア方面軍)と呼ばれる方面軍を組織した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1945年に第二次世界大戦が終わると、ポツダム会談での取り決めによってソ連とポーランドの国境が西へ移動され、ベラルーシ全域がソ連領ベラルーシ共和国となり、この地域に住むポーランド系住民は西方へ追放された。この追放をソ連や現在のロシア連邦では「移住」と呼ぶ。これにより、ベラルーシ共和国は家系がポーランド化せずにルーシ人(ベラルーシ人)だった者か、あるいは19世紀にロシアから大量に移住してきた東欧ユダヤ系の家系の者、あるいはその混血ばかりの国家となったが、さらにロシア共和国などから多数のロシア人が移住してきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1986年4月26日、ベラルーシ共和国の南のウクライナ最北部にあるチェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、折からの南風に乗って放射性物質が国境を越え、南東部のホミェリ(ゴメリ)州を中心とする地域に大きな被害が及び、同州に限定すると、1991年以降は小児甲状腺ガンの発生頻度が世界的平均の100倍以上にも達している。一方、非常に軽度の汚染州であるビテプスク州では、1993年以降0件のままであることから、原発事故による汚染と甲状腺がんの相関性が認められる。詳細は「チェルノブイリ原子力発電所」を参照。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1990年7月27日に独立宣言(主権宣言)を行い、1991年8月25日に独立が承認された。同年の12月8日にはベラルーシ最西部のベロヴェーシの森で、ロシアのボリス・エリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチの三者の間でソビエト連邦の解体を宣言、独立国家共同体(CIS)創設に関する協定が締結された。9月15日には国名が白ロシアから正式にベラルーシ共和国となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1994年に実施された大統領選挙では、ロシア連邦との統合を目指すなどの選挙公約を打ち出したアレクサンドル・ルカシェンコが当選した。ルカシェンコ大統領は1999年12月8日、ロシア連邦のボリス・エリツィン大統領(当時)と、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野においての統合を目指すロシア・ベラルーシ連盟国創設条約に調印した。しかし、その後、プーチンがロシア連邦の新大統領として就任し、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになると、自らは初代「最高国家評議会議長(国家元首)」に就いて、ロシアには連合国家の閣僚会議議長(首相に相当)のポストを与えることでロシアの事実上の最高指導者になる野望を持っていたルカシェンコ大統領は反発するようになり、両国の統合は停滞した。その後も、ロシアがメドヴェージェフ大統領になっても、ロシアとベラルーシの関係悪化は続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "メドヴェージェフから引き継いで再び大統領となったプーチンは、2018年においてもベラルーシに対して、エネルギー輸出などで圧力をかけながら国家統合を迫っている。ルカシェンコは協議には応じている一方で、「ロシアが西にある唯一の同盟国を失うのなら、彼らの責任だ」「両国の連合は平等な立場でのみ発展できる」と牽制。2019年11月17日にも「国家主権や独立を脅かすような書類には署名しない」と発言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2010年12月の大統領選挙では4選を果たしたものの、選挙後に野党候補者が政権により拘束される など、野党勢力への弾圧が続いたことで、アメリカ合衆国や欧州連合(EU)を中心とした西側諸国からの圧力を受け、国際的にも孤立を深めた。財政問題や経済不況が続く中、SNSなどでの呼びかけで、政権に抗議する一部の市民たちは無言で拍手をしながら街を練り歩くなど、ルカシェンコ政権への抗議運動が発生し始めているが、反政府運動は徹底的に厳しく取りしまられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "しかしながら、経済不況ながらもソ連時代から続く富の分配政策や物価の低価格設定などにより、国民の生活は一応の安定を保っていることと、実質的にはルカシェンコ派以外が政権を担う力は皆無であるため、アメリカ合衆国やEUが期待するのとは裏腹に反政府運動も一向に盛り上がらないのが現状である。また、2014年にはロシアとカザフスタンの提唱したユーラシア連合構想に加わってユーラシア経済連合創設条約に調印。ルカシェンコ大統領はロシアとある面では敵対しつつも連携し、中国や、イラン、ベネズエラなどの中南米諸国などといった非欧米諸国を中心とした国と巧みな外交手腕で経済援助を獲得することで、自身の独裁体制を維持している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2020年、8月の大統領選挙の不正疑惑から大規模な反政府デモが起こり、2021年現在まで続いている。2021年5月23日、ギリシャからリトアニアへ向っていたライアンエアの旅客機は、ベラルーシ領空内に入った直後に爆破予告があったとしてミンスクに強制着陸させられた。着陸後、ベラルーシ当局は旅客機の乗客の中にいたラマン・プラタセヴィチを拘束。プラタセヴィチは前年の反政府運動にメディア関係者と参加後、海外に亡命していた人物であった(ライアンエアー4978便の項を参照のこと)。ライアンエアの本社があるアイルランド政府は、一連の拘束劇を「空の海賊行為」であるとしてベラルーシを批難。6月21日には、欧州連合とアメリカ、イギリス、カナダがベラルーシに対する制裁を一斉に発表して外交問題に発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ルカシェンコ政権を批判して弾圧された者の一部はポーランドを始め各国に亡命している。また亡命者によるネットワークが各国に存在しており、亡命者のサポートを組織的に行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2022年2月、ロシア・ウクライナ危機の最中、フロドナ付近でロシア軍とベラルーシ軍が共同軍事演習を実施。 その後もロシア軍はベラルーシに駐留し、同年2月24日朝、ベラルーシとウクライナの国境を越えて侵攻を始めた(2022年ロシアのウクライナ侵攻)。 同日、ルカシェンコはベラルーシ軍が侵攻に関与していることはないとする声明を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2月27日に憲法改正の是非を問う国民投票が行われ承認された。改憲案ではベラルーシを「中立国家」及び「非核地帯」とする条文が削除され、これをロシアよる核兵器配備の布石ではないかとの疑念が出ている。そのほかに現在の大統領通算任期を「リセット」、2035年までの続投が可能となり、在任中の「免責特権」も付与された。権力の更なる強化は欧米による制裁に対する政権延命を意識したとの見方もある。しかし、ベラルーシはウクライナへの侵攻に関与しているとして、西側諸国はベラルーシに経済制裁を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "しかし、ベラルーシ国内では、ルカシェンコ政権とロシアに反発するベラルーシ反体制派が、ロシア軍によるウクライナ侵攻を妨害するために鉄道での軍事物資の輸送として使用されているベラルーシの鉄道への破壊行為が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "12月にはウクライナ軍のミサイルがベラルーシ国内に着弾した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2023年6月中旬、ルカシェンコは「我々はロシアからミサイルと爆弾を受け取った。爆弾は広島と長崎に投下されたものより3倍の威力がある」と表明。同月末には「配備予定の核兵器の大部分はベラルーシ領に移送された」と明かした。配備された戦術核兵器の管理権と使用権はロシアに残るとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ベラルーシは表面上は三権分立の共和制の国であるが、1996年にベラルーシ共和国憲法が改正され、行政の中心である大統領(任期5年)に非常に強い権限が与えられている。2004年に強行された国民投票により、憲法の大統領職の3選禁止規定が一方的に削除された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ベラルーシの議会は二院制で、上院に相当する共和国院(Совет Республики, Sovet Respublik 定員64名)と、下院に相当する代表者院(Палата представителей, Palata Predstavitelei 定員110名)からなる。議員は、共和国院は国内の6つの州とミンスク市の議会から8名ずつ選出、残り8名を大統領が指名する。代表者院は小選挙区制により選出され、任期は4年である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1994年以降、ルカシェンコが権力を掌握している独裁国家である。アメリカ合衆国などの自由主義諸国との関係はきわめて悪い(アメリカがベラルーシに経済制裁を科したため、2008年5月に国交を事実上断絶した。ジョージ・W・ブッシュ米大統領が定義した「悪の枢軸」の中の一国である(当初はイラク、イラン、北朝鮮のみだったが、その後拡大している)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、ベラルーシは2022年現在、ヨーロッパで唯一死刑制度が存在する国家でもある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1999年、ロシア連邦(当時はボリス・エリツィン政権)と連合国家創設条約を締結した。2023年現在、ベラルーシの貿易取引のおよそ6割をロシアが占め、原油なども安値で供給を受けており、ロシアへの依存度が極めて高い。国力が強大なロシアへの従属を警戒するルカシェンコ大統領は統合を進めることに慎重であり、貿易や国境管理でロシアと度々対立してきた。しかし民主化への弾圧などを批判する米欧に対抗して、2021年には共通軍事ドクトリン改定や経済統合深化についてロシア連邦のプーチン大統領と合意。特に2020年の大統領選でルカシェンコが6選を果たした際、国内で選挙の不正を訴える大規模な抗議デモが発生し、政権は厳しい弾圧で反体制勢力を抑え込んで以降、国際的な孤立は一段と深まり、ロシア以外に頼れる国がなくなったとされる。以来、ロシアへの従属姿勢を強め、ウクライナ侵攻を巡ってもロシアと合同軍事演習を実施したり、自国領からのロシア軍の攻撃を容認したりしている。", "title": "国際関係・外交" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本とベラルーシは1992年1月26日付で二国間関係を樹立した。日本は1993年1月にミンスクの大使館を開設、ベラルーシは1995年6月に東京の大使館を開設している。", "title": "国際関係・外交" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "在日ベラルーシ人はそれほど多くはないが、彼らは主として東京に住んでいる。他国と同様に亡命者のサポートを行っている。", "title": "国際関係・外交" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "首都ミンスクにある。かつては、駐ロシア特命全権大使がベラルーシも兼任し、ミンスクには臨時代理大使が常駐していたが、2019年9月より常駐の特命全権大使を派遣している。", "title": "国際関係・外交" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2020年、欧州連合(EU)はベラルーシの公務員へのビザ発給に関する優遇措置を発表。しかし、その後の大統領選挙やデモ隊への弾圧をめぐり関係が悪化。2021年9月には優遇措置の停止を発表している。2023年3月、欧州連合(EU)の外相に当たるボレル外交安全保障上級代表は26日、ロシアのプーチン大統領が戦術核兵器をベラルーシに配備すると決めたことを受け、配備すればベラルーシに新たな制裁を科す可能性があると警告した。", "title": "国際関係・外交" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "陸軍及び空軍・防空軍の二軍からなる国軍を有する。ベラルーシ国防省の管轄下にあり、大統領が最高指揮官となる。この他に準軍事組織として、内務省のベラルーシ国内軍とベラルーシ国家国境軍委員会がある。ロシアを中心とした集団安全保障条約に加盟しており、北大西洋条約機構(NATO)には加盟していないが、アフガニスタンへの国際治安支援部隊(ISAF)展開を支援するなど、部分的には協力を行っている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "国軍は1991年の独立に伴い、旧ソ連軍を改編して創設された。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ベラルーシは内陸国で、国土の大部分が低地であり、最高点のジャルジンスカヤ丘陵でも海抜345mである。最低点はネマン川の海抜90mである。国土の20%を占めるなど湿原が豊富で、南部に最大の湿原であるポレーシエ湿地(ロシア語版)がある。約1万1000もの湖があり、それを突き通すように、北部を通るダウガバ川、西部を通るネマン川、東部を通るドニエプル川とその支流であるプリピャチ川、ベレジナ川、ソジ川などの主要河川がある。気候はおおむね温暖で湿度が高いが、東部は冷涼で、大陸性気候の特徴が見られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ベラルーシの主な天然資源は森林で、国土の45.3%もの面積を占めている。その他に泥炭、花崗岩、泥灰岩、チョークが採れる。少量の石油と天然ガスも産出されるが、国内需要を満たす規模ではなく、エネルギー資源の大半をロシアからの輸入に依存している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "国際通貨基金(IMF)の統計によると、2018年のベラルーシの国内総生産(GDP)は596.43億ドルである。一人あたりのGDP(為替レート)は6,283ドルで、バルト三国を除く旧ソ連構成国の中では、ロシア(11,289ドル)、カザフスタン(9,401ドル)についで3番目であり、隣国ウクライナ(3,112ドル)の約2倍である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1991年の独立後、他のCIS諸国と同様に市場経済化を推進していた。しかし、1995年に大統領に就任したルカシェンコは、「社会主義市場経済」を導入して社会主義政策を開始した。これに基づき、統制価格の導入や、政府による民間企業への介入により自国の製造業の保護に努める傍ら、ロシアと関税同盟を結ぶなどの経済統合政策により、経済成長を実現させた。しかし、1998年8月に発生したロシア財政危機に伴い、1998年から1999年の2年連続で悪化し、激しいインフレーションや生産の低下に見舞われた。2000年1月1日にはデノミネーションが実施された。以降はロシア経済の急速な回復に支えられ順調な経済成長を続けているが、2016年7月には再びデノミネーションを実施している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "対露経済統合はロシア側に政治、経済的に大きく左右されること、ベラルーシ側に大幅な貿易赤字をもたらすなど問題があり、近年はロシアに自国の産業が脅かされるとの警戒感から、経済統合政策は事実上停滞している。ただ、当分の間ベラルーシは西欧型の市場経済からは離れ続けると見られているが、2011年に入り、国内の経済状況が極度に悪化しており、ロシアがベラルーシの吸収合併へ向けた動きを加速させている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2009年5月29日、ロシアのアレクセイ・クドリン財務相は、ベラルーシが近い将来支払不能(すなわち破産)に陥るとの見方を示した。これは、ベラルーシが市場改革を行わず、ソ連型社会主義体制のままであることによる。天然資源にも乏しく、国家財政の基盤となるものが脆弱なのにも関わらず、ルカシェンコ個人の趣味であるアイスホッケー場を多数建設させたり、食品や生活用品の価格に税金をかけず、逆に国の補助金で安く抑えたりするなどの放漫財政を行っている。ただ、こうした政策を行っているからこそ、ルカシェンコによる独裁体制が支持されているという側面もあった。ルカシェンコ大統領は体制維持のためロシアと欧州連合(EU)を天秤にかけ、双方から経済支援を引き出すしたたかな外交を展開していた。しかし、この手法も2010年代に入ると、もはや通用しなくなった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "まず、2010年6月21日より、ロシアのガスプロムが天然ガスの代金未払いを理由にベラルーシへのガス供給の削減を開始した。しかし今度はベラルーシがガスプロムに対して「欧州向け天然ガスにおけるパイプラインの通過料が未払いであり、翌日(24日)の朝までに支払われなければ、欧州向け天然ガスの供給を全面的に停止する」と警告をした。これにより、『欧州を含めた、新たな天然ガス供給に関する紛争』が生じ、ルカシェンコ大統領は「ロシアとの間でガス戦争が始まった」と発言したが、6月24日にベラルーシ側が未払い代金を支払い、ガス戦争は早々と終結した。しかし、ベラルーシとロシア間で強いわだかまりが残る結果となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "そして、2010年12月にルカシェンコが四選を果たした直後から、2009年のロシアのクドリン財務相の予言通り、ベラルーシが経済危機に陥った。ロシア産石油・天然ガスの価格引き上げと、先述したバラマキ放漫財政に耐えられず、外貨準備が底をついている。ベラルーシ各地の両替所では外貨を求める人々の長蛇の列ができ、物価高騰を恐れる庶民は商品買い占めに走った。ロシア側はベラルーシの国営企業売却などを求め、これによりベラルーシのインフラを掌握し、また、通貨をロシアルーブルにすべきだという意見も出て、ベラルーシをロシアに事実上吸収合併しようとする動きを強めた。過去に「ロシアに泣きついて頭など下げない」(ロシアの経済支援棚上げについて)などといった強気の発言を繰り返してきた、「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれているルカシェンコ大統領は崖っぷちの状況に陥った。この状態を打破するには、ルカシェンコが採用していたソ連型社会主義経済から、完全な市場経済社会へ向けた痛みを伴う大掛かりな改革が必要であると指摘された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "紆余曲折の末、ルカシェンコ大統領がロシア主導の「ユーラシア連合」への参加を表明し、その見返りにロシアは天然ガスを特別割引価格で提供、また、ガスパイプラインをロシアが買い取る協定が結ばれ、ベラルーシ経済がロシアに掌握された格好となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "だが、国営企業で働く従業員の賃金未払いや工場の操業停止など、深刻な経済状況は依然として続き、更に、ロシアは国営企業の民営化の遅れなどを理由にベラルーシへの資金援助を2013年に打ち切った。崖っぷちのルカシェンコ大統領は中華人民共和国へ急接近し、中国との間で15億ドルの経済投資協定を締結。中国は欧州進出の足掛かりを得て、ベラルーシは財政破綻を回避できた。同時期には蘇州工業園区に倣った中国-ベラルーシ工業園区(英語版)も開設され、これによりベラルーシの軍事パレードでは中国の紅旗がパレードカーになって中国人民解放軍もベラルーシ軍とともに行進し、中国製武器の購入 や弾道ミサイルを共同開発 するなど経済的にも軍事的にも密接な関係が続いている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ベラルーシの鉱業は、原油、天然ガス、ソリゴルスクで採掘される岩塩(カリ塩 KCl)に限定されている。原油だけは自国内の消費量の数割を賄える。農業では、麦類の生産に向く気象条件から世界第4位(150万トン、2002年)のライ麦を筆頭に、大麦、燕麦の生産が盛ん。春小麦の栽培も見られる。工芸作物としては世界第5位(3万2000トン)の亜麻の生産が際立つ。工業は繊維業、化学工業(肥料)が盛ん。羊皮生産量は世界第4位(8万トン)で、カリ塩の採掘に支えられたカリ肥料生産は世界第3位(369万トン)となっている。硝酸の生産量は世界第8位(88万トン)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "第三次産業では、理工系教育を重視していた旧ソ連時代からの伝統で、情報技術(IT)分野の人材が豊富である。『World of Tanks』(WOT)を開発したウォーゲーミング社は1998年にベラルーシで創業した(法人登記を2011年にキプロスへ移した後も本社機能はミンスクにある)。ベラルーシ政府は2005年にIT企業への税制優遇プログラムを導入し、Viberなどを生み出した。ルカシェンコ大統領は2017年にデジタル産業育成令を発布した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ルカシェンコ独裁体制下で司法の独立が欠如していることから、企業が政府から不当な圧力を受け、特に破綻に追い込まれる問題が存在している。一方、ルカシェンコの統治の下ではロシアやウクライナのように、国有企業の民営化の結果として巨大な影響力を持つオリガルヒが出現していないため、財界から政界への干渉や政財界の癒着が少ない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2002年時点では輸入90億ドルに対し、輸出は81億ドルであり、わずかに入超である。主な輸入品は原油、機械類、鉄鉱。輸入相手国は、ロシア、ドイツ、ウクライナである。ロシアとの取引が65%を占める。主な輸出品は、石油製品、自動車、機械類であり、輸出相手国はロシア、ラトビア、イギリスである。輸出ではロシアの占める割合は50%に留まる。日本との貿易では、乳製品を輸出(全体の44%)し、無線通信機器を輸入(全体の35%)している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "北西部フロドン州オストロベツ郊外に、ロシア国営原子力企業ロスアトム系列のアトムストロイエクスポルトが建設したベラルーシ原子力発電所が2020年11月に完成した。ベラルーシ初の原発である。加圧水型軽水炉2基(出力合計240万キロワット)を備える。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ベラルーシの電力需要の30%を賄えるが、原発建設と100億ドルの費用の融資をロシアに頼ったため、エネルギーのロシア依存を減らすことにはならなかった。1号機は2021年、2号機は2022年に商業運転開始を予定しているが、近接するリトアニアは安全性を懸念しており、同国を含むバルト三国は2020年8月末、ベラルーシとの電力取引を原発稼働後は停止することで合意した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "住民はベラルーシ人が83.7%、ロシア人が8.3%、ポーランド人が3.1%、ウクライナ人が1.7%、ユダヤ人が0.1%である(2009年)。かつては首都ミンスクの人口のうち、ユダヤ人やポーランド人が多数を占めていた時期もあるなど、多民族が共存してきた歴史がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "隣国ウクライナではウクライナ人民族主義が非常に強く、国内に民族対立を抱え、結果的に2014年には深刻な内戦に陥った。 2022年に至ってロシアの全面侵攻を誘引、以降国民からのロシアやソビエト連邦への評価が極めて悪化し、当時のモニュメントの解体や地名の変更などが各地で行われている。 一方のベラルーシでは、現在もロシアの同盟国ということもあり、首都のミンスクには巨大なレーニン像が残るなどソビエト時代を肯定的にとらえる国民性もある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ベラルーシでは、ベラルーシ語とロシア語の二つの言語が国家語として憲法に規定されている。ベラルーシで最も広く使われる言語はロシア語であり、家庭内では人口の70%がロシア語を使用しており、ベラルーシ語が家庭内で使用される割合は26%となっている(2019年)。ベラルーシ語で会話できない国民は多いが、どちらが母語かとの問いに対しては、人口の53.2%がベラルーシ語、41.5%がロシア語と答えている。現在、ベラルーシの教育ではベラルーシ語とロシア語いずれも原則必修だが、ベラルーシ語が読めても話せない国民は多い。会話の中でベラルーシ語とロシア語のどちらともとれない曖昧な話し方はしばしば見られ、こうした口語はトラシャンカ(「干草に藁を混ぜた飼料」の意)と呼ばれている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "他にポーランド語、ウクライナ語、東イディッシュ語を話す少数派も存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "宗教は東方正教会(ロシア正教会の総主教代理が代表するベラルーシ正教会)が80%である。その他ローマ・カトリック、プロテスタントなどが信仰されている(1997年推計)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ロシア正教の古儀式派のポモールツィ、ベロクリニツキー派、ベグロポポーフツィなどの信徒も存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ベラルーシの治安は、他のNIS諸国やCIS加盟国と比較すると良好な状態にあると言えるが、安全性が高いと言えるわけではなく全体を通してみると犯罪の発生率自体が高めとなっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "都市部では外国人が巻き込まれる事件が発生しており、スリや強盗、車上荒らしなどの被害に遭わないよう、常日ごろから注意が必要とされる面がある。特に日本人は「他の外国人に比べて裕福である」というイメージが強く持たれており、また街中でも人目につくことから犯罪の対象になりやすい傾向にあるため、外出時には厳戒態勢でいる事を求められる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、2008年に首都ミンスク中心部での独立記念日を祝う野外コンサート会場で爆弾が爆発して50名あまりが負傷したことを始め、2011年4月にはミンスク市中心部にある地下鉄オクチャブリスカヤ駅で爆発が生じ14名が死亡し200人以上が負傷するといった凄惨なテロ事件が起こっている点から、当国に滞在の際は危険と隣り合せであることを常に意識しなければならない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "国民の権利が著しく抑圧された国家の一つである。高齢者、未成年、障害者を除く国民が職に就かず半年以上未納税の場合、平均月収程の罰金が課せられるほか、失業者は社会奉仕が義務付けられている。公の場でのデモ、集会は厳しく規制されており、政治的な意見の表明や政権批判、大統領批判をすれば逮捕・拘束される。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "厳しい規制を逃れるために、ただ拍手をするだけのデモ活動を「拍手によって政治的な意見を表明した」と弾圧し、片手しかない参加者も拍手をしたと逮捕された。過去には聴覚障害者が「政治スローガンを叫んだ」として逮捕される事態が起きている。この片手しかない参加者の拍手による逮捕は、2013年にルカシェンコ大統領とベラルーシ警察に対し、イグノーベル賞平和賞を授賞することになった。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ベラルーシ料理は主に野菜、豚肉をはじめとする肉類に、パンから構成される。料理は通常時間をかけて作られるか、あるいはシチューとして調理される。通常ベラルーシ人は一日二度の食事を取り、朝食は軽めで、夕食はボリュームがある。小麦とライ麦のパンが食べられているが、小麦の栽培に不適な環境のため、ライ麦のパンが多く消費されている。来賓や訪問客を迎えた家の主人はパンと塩を提供するのが、歓迎の意思を示す伝統的なしきたりである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ベラルーシの民俗音楽の伝統はリトアニア大公国の時代にまで遡る。クリジャチョク(ロシア語版)と呼ばれるフォークダンスが存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "近代音楽ならび現代音楽においては、前身のソ連時代に生み出されたものが基盤となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "バトレイカ(英語版)と呼ばれる伝統的な人形劇が存在する。バトレイカはキリスト教に関連するもので、公演は伝統的にクリスマスの期間に行われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ベラルーシの伝統的な衣服はキエフ大公国の時代に起源がある。寒冷な気候のために服は体温を保つように設計され、通常は亜麻や羊毛を素材としていた。ポーランド、リトアニア、ラトビア、ロシアや他のヨーロッパ諸国など、近隣の地域の文化の影響を受けた華麗な模様が衣服にあしらわれている。また、ベラルーシ内の地域ごとに特別なデザインの模様が発達している。ベラルーシの国旗の左側にある赤・白の模様は、伝統的な衣装で広く使われる装飾模様の一つである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ベラルーシ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ベラルーシ国内では氷上スポーツに最も人気が集まっている。ルカシェンコ大統領も自らプレイヤーとして嗜むほどアイスホッケーが非常に盛んで、2002年ソルトレイクシティ五輪では男子チームが、NHLプレイヤーを数多く揃えるスウェーデン代表を破り4位に入るなど、国際舞台でも活躍を見せている。NHLと並ぶ世界最高峰のアイスホッケーリーグであるKHLには、ベラルーシのクラブとしてディナモ・ミンスクが唯一参加しており、2010年バンクーバー五輪にもこのチームから代表へ、主力選手が多数選出されている。2014年にはミンスク・アリーナを主会場として、アイスホッケー世界選手権も開催された。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "サッカーは、ベラルーシでアイスホッケーの次に人気のスポーツとなっており、1992年にプロサッカーリーグのベラルーシ・プレミアリーグが創設された。BATEボリソフがリーグ最多15度の優勝に輝いており、同クラブにかつて所属しアーセナルなどでも活躍したアレクサンドル・フレブは、世界的に有名な選手として知られる。同リーグは2020年3月以降、新型コロナウイルス感染症の拡大により世界中でサッカーのプロリーグが中断する中、唯一通常開催され物議を醸した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ベラルーシサッカー連盟(BFF)によって構成されるサッカーベラルーシ代表は、FIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権には未出場である。UEFAネーションズリーグでは、2022-23シーズンはリーグCに属している。", "title": "スポーツ" } ]
ベラルーシ共和国、通称ベラルーシは、東ヨーロッパの共和制国家。首都はミンスク、人口約945万人。ソ連邦崩壊により1990年に独立宣言を行い、1991年に「白ロシア・ソビエト社会主義共和国」から「ベラルーシ共和国」へ国名を変更した。2000年以来、ベラルーシ・ロシア連合国家の加盟国である。
{{Otheruses|2=その他の用法|3=ベラルーシ (曖昧さ回避)}} {{Redirect|白ロシア}} {{最新の出来事の関連|2022年ロシアのウクライナ侵攻|date=2022年2月}} {{基礎情報 国 | 略名 = ベラルーシ | 日本語国名 = ベラルーシ共和国 | 公式国名 = '''{{lang|be|Рэспу́бліка Белару́сь}}'''{{Small|(ベラルーシ語)}}<br />'''{{lang|ru|Республика Беларусь}}'''{{Small|(ロシア語)}} | 国旗画像 = Flag_of_Belarus.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Belarus (2020).svg|100px|ベラルーシの国章]] | 国章リンク = ([[ベラルーシの国章|国章]]) | 標語 = {{Lang|be| Жыве́ Белару́сь!}}(ベラルーシ万歳!) | 国歌 = [[我等、ベラルーシ人|{{Lang|be|Мы, беларусы}}]]{{be icon}}<br />''我等、ベラルーシ人''<br />{{Center|[[file:My Belarusy vocal.ogg]]}} | 位置画像 = Europe-Belarus.svg | 公用語 = [[ベラルーシ語]]、[[ロシア語]] | 首都 = [[ミンスク]] | 最大都市 = ミンスク | 元首等肩書 = [[ベラルーシの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[アレクサンドル・ルカシェンコ]] | 首相等肩書 = [[ベラルーシの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ロマン・ゴロフチェンコ]] | 面積順位 = 83 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 207,560 | 水面積率 = 極僅か | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 94 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 9,449,000<ref name="population">{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/by.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10}}</ref> | 人口密度値 = 46.6<ref name="population" /> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 1470億600万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=913,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-11-04}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 78 | GDP値MER = 602億100万<ref name="imf202110" /> | GDP MER/人 = 6,397.510 | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 68 | GDP値 = 1,898億<ref name="imf202110" /> | GDP/人 = 20,170.004<ref name="imf202110" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;- 宣言<br />&nbsp;- 承認 | 建国年月日 = [[ソビエト連邦]]より<br />[[1990年]][[7月27日]]<br />[[1991年]][[8月25日]] | 通貨 = [[ベラルーシ・ルーブル]] | 通貨コード = BYN | 時間帯 = +3 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = BY / BLR | ccTLD = [[.by]] | 国際電話番号 = 375 | 注記 = }} '''ベラルーシ共和国'''(ベラルーシきょうわこく、{{lang-be|Рэспу́бліка Белару́сь}} {{Audio|Be-Republic of Belarus.oga|発音|help=no}}、{{lang-ru|Республика Беларусь}})、通称'''ベラルーシ'''は、[[東ヨーロッパ]]の[[共和制国家]]。首都は[[ミンスク]]、人口約945万人。[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連邦崩壊]]により[[1990年]]に独立宣言を行い、[[1991年]]に「[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]」から「ベラルーシ共和国」へ国名を変更した<ref name=gaimushoh>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/belarus/data.html#section1 外務省 | ベラルーシ基礎データ、7 略史]</ref>。2000年以来、[[ベラルーシ・ロシア連合国家]]の加盟国である。 == 概要 == [[世界]]最北の[[内陸国]]で、面積は[[日本]]の約55%、[[国境]]は、東は[[ロシア]]、西は[[ポーランド]]、北西は[[リトアニア]]と[[ラトビア]]、南は[[ウクライナ]]と接する。[[東ヨーロッパ平原]]に位置する国の一つで、国土の最高標高が345m<ref>[[ジャルジンスカヤ丘陵]] / Dzyarzhynskaya Hara「[http://landofancestors.com/travel/statistics/geography/235-coordinates-of-the-extreme-points-of-the-state-frontier.html Land Of Ancestors-Belarus]」The highest point above sea level 345m/1130ft. (Dzerzhinskaya mountain, Dzerzhinsky district of Minsk region)<br>(参考)ベラルーシが位置する[[東ヨーロッパ平原]]の最高標高は約350m(ロシア・[[ヴァルダイ丘陵]])</ref>、首都ミンスクの標高は280m<ref>280.00m/918.64ft [https://elevationmap.net/lekorevka-yuzufovskiy-council-minsk-district-by-1000228039 「Lekorevka, Yuzufovskiy council, Minsk district, Belarus on the Elevation Map」(T opographic Map of Lekorevka, Yuzufovskiy council, Minsk district, Belarus.)]</ref>、国境地帯も含め[[山]]が見られない平坦な国土として知られる。 公用語は[[ベラルーシ語]]と[[ロシア語]]だが、[[18世紀]]後半より[[ロシア帝国]]の支配下となり[[1921年]]からは[[ソビエト連邦構成共和国|ソ連邦構成共和国]]「[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア共和国]]」となるなど長くロシアの影響下にあったため<ref name=gaimushoh/>、現在も、教育、行政など社会全般で広く[[ロシア語]]が浸透しており、ベラルーシ語で会話ができない国民は多く、家庭内の会話がベラルーシ語の国民比率は26%とされる(2019年)<ref name=language>朝日新聞 GLOBE+「[https://globe.asahi.com/article/13742993 ロシア語とベラルーシ語 反ルカシェンコ派の興味深い立ち位置]」</ref>。 地理的に、[[西ヨーロッパ]]と[[ロシア]]間の陸路と、北の[[バルト海]]と南の[[黒海]]間の平坦な地形を生かした河川による水運や陸路など、東西と南北の交通が交差する位置にあるベラルーシは、周辺諸国による侵略や支配などが繰り返されてきた歴史を持つ。主なものとして、13世紀の[[ドイツ騎士団]]や[[モンゴル帝国]]、14世紀以降は[[リトアニア]]や[[ポーランド]]、18世紀には[[ロシア帝国]]、20世紀に入り[[ソビエト連邦]]、[[第二次世界大戦]]時は[[ナチス・ドイツ|ドイツ軍]]の侵攻と占領で当時の推定人口900万人超の2割弱にあたる160万人以上の一般国民が死亡し首都ミンスクの約85%の範囲が破壊されるなど<ref>[https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-53732713 BBC『ベラルーシについて知らないかもしれない5つのこと……世界的な重大事との関係』]<br>(参考)映画『[[炎628]]』ナチス・ドイツによるベラルーシ占領を描いた作品。『[[ハティニ虐殺]]』ベラルーシでのナチス・ドイツによる虐殺事件で、ナチス・ドイツの戦争犯罪の一つ。{{仮リンク|『ドイツ占領下のベラルーシ』|en|German occupation of Byelorussia during World War II|ru|Немецкая оккупация Белоруссии (1941—1944)}}</ref>、周辺国の政治・経済状況に国民や国土が大きく影響を受けて来た。([[#歴史|歴史]]参照) [[国体]]が歴史的に激しく変化して来たベラルーシは、[[1991年]]に独立を達成するまで[[ソビエト連邦]]の構成国家の一つとして機能し、同じく同連邦の構成国家[[ウクライナ]]と共に、[[国際連合]]にソビエト連邦とは別枠で加盟していた。そしてソビエト連邦崩壊により独立を果たしたが、[[経済協力開発機構]](OECD)の分類で現在も[[開発途上国]]であり、所得や教育そして[[平均余命]]などをもとに[[国際連合開発計画]]が発表する[[人間開発指数]]では60位である<ref>[https://hdr.undp.org/data-center/country-insights#/ranks HUMAN DEVELOPMENT INSIGHTS]</ref>。 政治・経済面では[[1994年]]以来、[[アレクサンドル・ルカシェンコ|ルカシェンコ政権]]による独裁政治が続いており、「[[欧州]]最後の[[独裁国家]]」と非難されている。現在、ヨーロッパで代表的な独裁国家そして[[共産主義]]の名残が最も強く見受けられる国であり、[[国際連合人権理事会|国連人権理事会]]から人権状況が破滅的な国と評されている<ref>[https://sp.m.jiji.com/article/show/2974142 ベラルーシの人権状況「破滅的」国連特別報告者] 時事通信ニュース</ref>。 == 国名 == 正式名称は[[ベラルーシ語]]で、'''{{lang|be|Рэспубліка Беларусь}}'''([[ラテン文字化|ラテン文字表記]]は ''Respublika Belarus'')。 公式の[[英語]]表記は、''Republic of Belarus''。通称、''Belarus''。 [[日本語]]の表記は、'''ベラルーシ共和国'''。通称、'''ベラルーシ'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''白露西亜'''。略称は'''[[白露 (曖昧さ回避)|白露]]'''もしくは白。なおベラルーシ政府は後述する理由でBelarusを音写した'''白羅斯'''表記を主張し在中ベラルーシ大使館でもその表記が使用されているが一般的になっていない。 [[17世紀]]に[[ロシア帝国]]の支配下に入ると'''ベロルシア'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Белоруссия}}''' ({{audio|Ru-Белоруссия.ogg|音声|help=no}} {{Small|ビラルーシヤ}})と名付けられ、日本語でもこれを訳した'''白ロシア'''の名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「[[ロシア]]」のことではなく「[[ルーシ#地名|ルーシ]]」の意味)。ソ連崩壊直後の[[1991年]][[9月15日]]に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。ロシア語でも'''{{lang|ru|Беларусь}}'''({{audio|Ru-Беларусь.ogg|音声|help=no}} {{Small|ビラルーシ}})の名称が使用されるようになっている。 === 国名の由来 === 「ベラルーシ」の国名の由来は明らかではないが、[[ルーシ]]の人々は[[13世紀]]から[[16世紀]]にかけて[[モンゴル帝国|モンゴル]]の支配を受け(「[[モンゴルのルーシ侵攻]]」「[[タタールのくびき]]」参照)、ベラルーシの国名の由来である{{仮リンク|白ルーシ (歴史的地域)|en|White Ruthenia|label=白ルーシ}}の名前の由来をモンゴルに関連付ける説がいくつか挙げられている <ref name="shiru-ori-name">{{Cite book |和書 |author=服部倫卓、越野剛編著 |year=2017 |title=ベラルーシを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ |publisher=明石書店 |pages=58-59|isbn=978-4-7503-4549-9|ref=harv}}</ref>。その際、モンゴル人が[[中国]]から学んだ文化である「方角を色で呼ぶ方法([[五行思想]])」をルーシに持ち込んだため、「[[赤ルーシ]]」(南部ルーシすなわち現在の[[ウクライナ]]西部)、「白ルーシ」(西部ルーシすなわち現在のベラルーシ)、「[[黒ルーシ]]」(北部ルーシすなわち現在の[[モスクワ]]周辺)という名称が生まれ、そのうちの白ルーシ(ベラルーシ)が国名として残ったと言われている<ref name="shiru-ori-name"/><ref>伊東孝之、井内敏夫、中井和夫 編『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』([[山川出版社]]、1998年)p110</ref>。モンゴル系の国家で用いられた[[テュルク語族|テュルク系の言語]]の影響を受けて生まれた、「自由な、支配から解放された」白ルーシと「隷属した」黒ルーシの呼称を起源とする説も存在する<ref name="shiru-ori-name"/>。 == 歴史 == {{ベラルーシの歴史}} {{main|{{仮リンク|ベラルーシの歴史|en|History of Belarus|ru|История Белоруссии}}|{{仮リンク|ベラルーシの郷土史|ru|Краеведение Белоруссии}}}} === ルーシの公国とモンゴル侵攻 === {{main|モンゴルのルーシ侵攻}} 6-8世紀に[[スラヴ民族]]が移住開始したと一般に言われていたが、近年では[[古代]]から既にスラヴ民族はこの地に定住し続けていたという説が有力である<ref>* [[J. P. Mallory]], "Zarubintsy Culture", ''[[Encyclopedia of Indo-European Culture]]'', Fitzroy Dearborn, 1997.</ref>。 9世紀の[[キエフ・ルーシ]]の一部だった[[ポロツク公国]]がベラルーシの始まりとされる。[[バルト海]]と[[黒海]]を結ぶ通商路として繁栄した。 10-11世紀にポロツク公国は版図を拡大し、 キエフ・ルーシや[[ノヴゴロド公国]]と争った。南部には10世紀末に[[トゥーロフ公国]]が成立。一時、[[モンゴルのルーシ侵攻|モンゴルに征服される]]。 [[12世紀]]から[[13世紀]]前半には10前後の[[公国]]が存在し、ベラルーシ人の民族意識が高まり、団結して[[ドイツ騎士団]]や[[モンゴル帝国]]と戦った。[[13世紀]]までにベラルーシの地域([[ルーシ]]と呼ばれる地域の北半)の公国は全て[[リトアニア大公国]]に併合される。リトアニア大公国における[[貴族]]の大多数は実は[[リトアニア人]]([[リトアニア語]]を母語とする人々)ではなく[[ベラルーシ人]](当時は[[ルーシ人]]、のち{{仮リンク|リトヴィン人|label=リトヴィン人|be|Літвіны}}と呼ばれた)で、リトアニア大公国の[[公用語|公用言語]]は[[リトアニア語]]ではなく[[ベラルーシ語]](当時は通常は[[ルーシ語]]と呼ばれ、さらに、リトアニア大公国の官庁で使用された公式言語であることから[[官庁スラヴ語]]とも呼ばれた)が使われる。 === ポーランド・リトアニア共和国 === {{main|ポーランド・リトアニア共和国}} [[image:Lietuva ir Lenkija.Lithuania and Poland 1387.png|thumb|200px|right|1387年のポーランドおよびリトアニア]] [[1385年]]、[[クレヴォの合同]]により[[ポーランド・リトアニア合同]]が成立すると、ベラルーシを含むリトアニア大公国全域の貴族の間で[[文化 (代表的なトピック)|文化]]や母語の自発的な「[[:en:Polonization|ポーランド化]]」が始まる。クレヴォの合同後最初のリトアニア大公である[[ヴィータウタス]]が[[1430年]]に没すると、[[リトアニア]]大公国貴族による[[ポーランド]]の文化と言語の受容が加速した。[[1569年]]に[[ルブリン合同|ルブリンの合同]]により[[同君連合|物的同君連合]]としての単一国家である「[[ポーランド・リトアニア共和国]]」が成立するとこの地域の文化のポーランド化がさらに進み、リトアニア人とベラルーシ人を含むリトアニア大公国のほぼ全ての貴族がポーランド化した。この「ポーランドへの同化」現象は[[1795年]]までの三度にわたる[[ポーランド分割]]によりベラルーシ地域が[[ロシア帝国]]に併合されるまで続いた。この間、貴族層の[[家系]]の大半とその他ルーシ人の多くはこの時代までに[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に[[改宗]]を済ませ、母語も[[ポーランド語]]を使用するようになっていたが、相変わらず[[ルーシ語]]を母語とし[[東方正教会]]を信仰していた者も農民層を中心に多数いた。 === ロシア帝国支配下 === {{main|ロシア帝国|ロシア帝国の歴史}} [[ファイル:Battles of January Uprising in Lithuania, Belarus and Ukraine.JPG|200px|thumb|1月蜂起中の[[リトアニア]]、[[ラトビア]]、'''ベラルーシ'''および[[ウクライナ]]における諸戦闘]] その後、ロシア帝国に支配されていた時代は、地方自治レベルでは旧ポーランド・リトアニア共和国の貴族(ほとんどがローマ・カトリック教徒)たちに一定の権限が許されていた。その間貴族たちはポーランド・リトアニア共和国の独立を目指す蜂起を2度起こした。[[1830年]]11月に行われた大蜂起([[十一月蜂起]])が失敗に終わると、貴族たちを中心にポーランド系の多くの人々がロシア帝国を脱出し、[[西ヨーロッパ]]や[[アメリカ大陸]]の各国へ亡命した(これは「[[大亡命]]」と呼ばれる)。それでも民主ポーランドを復活させようとする人々は[[1863年]]に2度目の大蜂起([[一月蜂起]])を起こす。これがロシア帝国によって再び鎮圧されると、ポーランド貴族や商工民や[[インテリ]]は[[キリスト教徒]]であるか[[ユダヤ教徒]]であるかを問わず徹底的な迫害に遭った。その結果、この地域の[[中産階級]]以上の人々(ほぼ全てがポーランド人 - ポーランド化した家系の人々 - であった)は亡命するか、あるいは財産を没収されてほとんど[[無産階級|無産者]]となり、中産階級そのものが滅亡した。その結果、ベラルーシに残った人々の大半は農民となり、ロシア帝国による直接支配が進んだ。ベラルーシの農民の大半はポーランド語を話すローマ・カトリック教会信者か、ルーシ語を話す東方正教会信者かのどちらかであった。前者(すなわちルーシ人からポーランド人となった者)はポーランドに近い西部に多く、後者(ルーシ人でい続けた者)はロシアに近い東部に多かった。 {{未検証|date=2015年11月|section=1}} {{see also|北西地域 (ロシア帝国)}} 一月蜂起以後はロシア帝国によるポーランド人(キリスト教徒とユダヤ教徒の間)分断政策が開始され、ロシア帝国から俗に「リトアニアのユダヤ人(リトヴァク)」と呼ばれるロシア系(東欧系)ユダヤ人たちが大量に送り込まれた。リトヴァクたちは14世紀の昔からずっとポーランドにいた西欧系ユダヤ人(ユダヤ教徒のポーランド人)とは文化も習慣も言語もかなり異なる人々で、ポーランドのキリスト教徒とユダヤ教徒の両方から嫌われる存在だったが、あまりに大量に移住してきたのでこの地域の[[人口動態]]を大きく変えてしまう事態になった。(この段落部分は、通常の理解とは異なる。通説的には次の通り。ベラルーシのユダヤ人は、ポーランドが呼び寄せた西欧ユダヤ人が、リトアニアとの合同により(リトアニア領内だった)ベラルーシに拡散したものが中心である([[:en:Lithuanian Jews|Lithuanian Jews]])。そのころロシアはユダヤ人の移住を認めていなかったので、領内にはほとんどいなかった。その後、ロシアが[[ポーランド分割]]によりベラルーシを含む旧ポーランド・リトアニアの一部を領有した結果、ロシアは国内にユダヤ人を抱え込むことになったが、その後も分割領有前のロシア領内にはユダヤ人の立ち入りを認めなかった。)このルーシ農民階層、リトヴァク、そして後にロシアから大量に移住してくる[[ロシア人]]の3者が、後のソヴィエト連邦(ソ連)ベラルーシ共和国の主要民族となり、特に最初の2者はソ連の[[無神論|無宗教]]政策によって完全に融合してしまうのである。 === ソビエト連邦 === {{main|ソビエト連邦|独ソ戦}} [[File:Caricature_for_Riga_Peace_1921.png|300px|thumb|リガ平和条約に基づいた、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]と[[ロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国|ソヴィエト・ロシア]]によるベラルーシ分割を批判するプロパガンダポスター。]] [[1917年]]に[[ロシア革命]]が起こり、そして[[第一次世界大戦]]の間占領していた[[ドイツ軍]]の占領が終わった後、[[1918年]]には史上初の独立国となる[[ベラルーシ人民共和国]]が樹立される。しかしこの[[政権]]は短命に終わり、[[1919年]]には[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]が成立し、[[1922年]]には[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]に加盟する。このころに起こった[[ポーランド・ソビエト戦争]]の結果成立した[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]により西半分がポーランドに割譲された。 [[1939年]]9月の[[第二次世界大戦]]の勃発により、[[赤軍|ソ連軍]]は[[ナチス・ドイツ]]に続いて[[ソビエト連邦によるポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]。ポーランド東半分の占領と共に、リガ条約により割譲されていた領土を白ロシアに編入した。[[1941年]]からの[[独ソ戦]](大祖国戦争)では激戦地となり、[[ブレスト要塞]]や[[ミンスクの戦い]]を経て[[ドイツ国防軍]]や[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に占領された後、[[1944年]]の[[バグラチオン作戦]]により奪回された。[[ハティニ虐殺]]など、ドイツは苛酷な統治を行った。対独反攻作戦において、ソ連軍は[[白ロシア戦線]]('''白ロシア方面軍''')と呼ばれる方面軍を組織した。 [[1945年]]に第二次世界大戦が終わると、[[ポツダム会談]]での取り決めによってソ連とポーランドの国境が西へ移動され、ベラルーシ全域がソ連領ベラルーシ共和国となり、この地域に住むポーランド系住民は西方へ追放された。この追放をソ連や現在のロシア連邦では「移住」と呼ぶ。これにより、ベラルーシ共和国は家系がポーランド化せずにルーシ人(ベラルーシ人)だった者か、あるいは19世紀にロシアから大量に移住してきた東欧ユダヤ系の家系の者、あるいはその混血ばかりの国家となったが、さらにロシア共和国などから多数のロシア人が移住してきた。 [[1986年]][[4月26日]]、ベラルーシ共和国の南のウクライナ最北部にある[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]が発生し、折からの南風に乗って[[放射性物質]]が国境を越え、南東部の[[ホミェリ]](ゴメリ)州を中心とする地域に大きな被害が及び、同州に限定すると、1991年以降は小児甲状腺ガンの発生頻度が世界的平均の100倍以上にも達している。一方、非常に軽度の汚染州であるビテプスク州では、1993年以降0件のままであることから、原発事故による汚染と[[甲状腺がん]]の相関性が認められる<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Sgny-J.html|title=ベラルーシにおけるチェルノブイリ原発事故後の 小児甲状腺ガンの現状|publisher=国立甲状腺ガンセンター(ベラルーシ)|accessdate=2022-03-09}}</ref>。詳細は「[[チェルノブイリ原子力発電所]]」を参照。 === ソビエト連邦崩壊に伴う独立 === [[1990年]][[7月27日]]に独立宣言(主権宣言)を行い、[[1991年]][[8月25日]]に独立が承認された。同年の[[12月8日]]にはベラルーシ最西部の[[ビャウォヴィエジャの森|ベロヴェーシの森]]で、ロシアの[[ボリス・エリツィン]]、ウクライナの[[レオニード・クラフチュク]]、ベラルーシの[[スタニスラフ・シュシケビッチ]]の三者の間で[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦の解体]]を宣言、[[独立国家共同体]](CIS)創設に関する協定が締結された。[[9月15日]]には国名が白ロシアから正式にベラルーシ共和国となった。 [[ファイル:Flag_of_Belarus_(1918,_1991-1995).svg|thumb|right|1991-1995年の国旗<br/>(ルカシェンコ政権によりソ連時代の旗を基本にしたデザインに変更)<br/>([[ベラルーシの国旗]]も参照)]] === ルカシェンコ政権 === [[1994年]]に実施された大統領選挙では、ロシア連邦との統合を目指すなどの選挙[[マニフェスト|公約]]を打ち出した[[アレクサンドル・ルカシェンコ]]が当選した。ルカシェンコ大統領は[[1999年]]12月8日、ロシア連邦の[[ボリス・エリツィン]]大統領(当時)と、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野においての統合を目指す[[ロシア・ベラルーシ連盟国創設条約]]に調印した。しかし、その後、[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]がロシア連邦の新大統領として就任し、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになると、自らは初代「最高国家評議会議長(国家元首)」に就いて、ロシアには連合国家の閣僚会議議長(首相に相当)のポストを与えることでロシアの事実上の最高指導者になる野望を持っていた{{要出典|date=2021年8月}}ルカシェンコ大統領は反発するようになり、両国の統合は停滞した。その後も、ロシアが[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ大統領]]になっても、ロシアとベラルーシの関係悪化は続いた。 メドヴェージェフから引き継いで再び大統領となったプーチンは、2018年においてもベラルーシに対して、エネルギー輸出などで圧力をかけながら国家統合を迫っている。ルカシェンコは協議には応じている一方で、「ロシアが西にある唯一の同盟国を失うのなら、彼らの責任だ」「両国の連合は平等な立場でのみ発展できる」<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201901/CK2019011302000126.html 「統合迫るロシア ベラルーシ反発/プーチン氏 資源輸出で揺さぶり/両首脳、作業部会設置は合意」]『[[東京新聞]]』朝刊2019年1月13日(国際面)2019年1月28日閲覧。</ref>{{リンク切れ|date=2021年8月}}と牽制。2019年11月17日にも「[[国家主権]]や[[独立]]を脅かすような書類には署名しない」と発言した<ref>「ベラルーシ下院選、大統領系が全議席 ルカシェンコ氏、6選出馬へ」『[[読売新聞]]』朝刊2019年11月20日(国際面)。</ref>。 2010年12月の[[2010年ベラルーシ大統領選挙|大統領選挙]]では4選を果たしたものの、選挙後に野党候補者が政権により拘束される<ref>2011年2月3日の『[[朝日新聞]]』朝刊9面</ref> など、野党勢力への弾圧が続いたことで、[[アメリカ合衆国]]や[[欧州連合]](EU)を中心とした[[西側諸国]]からの圧力を受け、国際的にも孤立を深めた。財政問題や経済不況が続く中、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]などでの呼びかけで、政権に抗議する一部の市民たちは無言で拍手をしながら街を練り歩くなど、ルカシェンコ政権への抗議運動が発生し始めているが、反政府運動は徹底的に厳しく取りしまられている<ref>{{Cite news|url=http://www.rferl.org/content/belarus_marks_independence_amid_crackdown_on_dissent/24254152.html|title=Belarus Police Stifle Protests On Independence Day |publisher=Radio Free Europe Radio Liberty|date=2011年7月3日|accessdate=2011年7月9日}}</ref>。 しかしながら、経済不況ながらもソ連時代から続く富の分配政策や物価の低価格設定などにより、国民の生活は一応の安定を保っていることと、実質的にはルカシェンコ派以外が政権を担う力は皆無であるため、アメリカ合衆国やEUが期待するのとは裏腹に反政府運動も一向に盛り上がらないのが現状である。また、2014年にはロシアと[[カザフスタン]]の提唱した[[ユーラシア連合]]構想に加わって[[ユーラシア経済連合]]創設条約に調印<ref>{{Cite news|url=http://www.jetro.go.jp/biznews/538be118a7f80?ref=rss|title=ロシアなど3ヵ国がユーラシア経済連合条約に署名−2015年1月1日に発効、域内の経済統合が加速− (ロシア、ベラルーシ、カザフスタン) |publisher=[[日本貿易振興機構|JETRO]]|date=2014年6月2日|accessdate=2014年8月1日}}</ref>。ルカシェンコ大統領はロシアとある面では敵対しつつも連携し、[[中華人民共和国|中国]]や、[[イラン]]、[[ベネズエラ]]などの[[ラテンアメリカ|中南米]]諸国などといった非[[欧米]]諸国を中心とした国と巧みな外交手腕で経済援助を獲得することで、自身の[[独裁政治|独裁体制]]を維持している。 {{See also|2020年-2021年ベラルーシ反政府デモ}} 2020年、8月の大統領選挙の不正疑惑から大規模な[[2020年-2021年ベラルーシ反政府デモ|反政府デモ]]が起こり、2021年現在まで続いている。2021年[[5月23日]]、[[ギリシャ]]から[[リトアニア]]へ向っていた[[ライアンエア]]の旅客機は、ベラルーシ領空内に入った直後に爆破予告があったとしてミンスクに[[強制着陸]]させられた。着陸後、ベラルーシ当局は旅客機の乗客の中にいた[[ラマン・プラタセヴィチ]]を拘束。プラタセヴィチは前年の反政府運動にメディア関係者と参加後、海外に亡命していた人物であった([[ライアンエアー4978便]]の項を参照のこと)。ライアンエアの本社がある[[アイルランド]]政府は、一連の拘束劇を「[[空賊|空の海賊]]行為」であるとしてベラルーシを批難<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3348235?cx_part=search |title=ベラルーシの旅客機緊急着陸は「空の海賊行為」 アイルランド政府が非難 |publisher=AFP |date=2021-05-24 |accessdate=2021-06-21}}</ref>。6月21日には、欧州連合とアメリカ、イギリス、カナダがベラルーシに対する制裁を一斉に発表して[[外交問題]]に発展した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3352796?cx_part=search |title=欧米諸国、ベラルーシに一斉制裁 旅客機強制着陸で |publisher=AFP |date=2021-06-21 |accessdate=2021-06-21}}</ref>。 ルカシェンコ政権を批判して弾圧された者の一部はポーランドを始め各国に亡命している<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ベラルーシ五輪選手 “スピード亡命”の舞台裏|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210809/k10013185171000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-08-10|last=日本放送協会}}</ref>。また亡命者によるネットワークが各国に存在しており、亡命者のサポートを組織的に行っている<ref name=":0" />。 [[2022年]]2月、[[ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年)|ロシア・ウクライナ危機]]の最中、[[フロドナ]]付近で[[ロシア軍]]とベラルーシ軍が共同軍事演習を実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3389882 |title=西側の制裁「屁とも思わず」 ロシアの駐スウェーデン大使(写真の脚注参照) |publisher=AFP |date=2022-02-14 |accessdate=2022-02-19}}</ref>。 その後もロシア軍はベラルーシに駐留し、同年2月24日朝、ベラルーシと[[ウクライナ]]の国境を越えて侵攻を始めた([[2022年ロシアのウクライナ侵攻]])<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/world/35183970.html |title=ベラルーシから軍隊や軍用車列がウクライナに入国 |publisher=CNN |date=2022-02-24 |accessdate=2022-02-24}}</ref>。 同日、ルカシェンコはベラルーシ軍が侵攻に関与していることはないとする声明を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20220224/k00/00m/030/198000c |title=ベラルーシ大統領、ウクライナ侵攻への関与否定 |publisher=毎日新聞 |date=2022-02-24 |accessdate=2022-02-23}}</ref>。 {{main|{{仮リンク|2022年ベラルーシの憲法改正の是非を問う国民投票|en|2022 Belarusian constitutional referendum}}}} 2月27日に憲法改正の是非を問う国民投票が行われ承認された。改憲案ではベラルーシを「中立国家」及び「非核地帯」とする条文が削除され、これをロシアよる核兵器配備の布石ではないかとの疑念が出ている。そのほかに現在の大統領通算任期を「リセット」、2035年までの続投が可能となり、在任中の「免責特権」も付与された。権力の更なる強化は欧米による制裁に対する政権延命を意識したとの見方もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20220228-OYT1T50009/ |title=ベラルーシ「中立国家」条文削除の承認確実…国民投票、露の核兵器配備可能に |publisher=読売新聞 |date=2022-02-28 |accessdate=2022-03-11}}</ref>。しかし、ベラルーシはウクライナへの侵攻に関与しているとして、西側諸国はベラルーシに経済制裁を開始した<ref>{{Cite web|和書|title=日本政府 ロシアとベラルーシへ追加制裁決定 資産凍結対象追加 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220607/k10013661151000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-01-21 |language=ja}}</ref>。 {{Main|ベラルーシ鉄道戦争}} しかし、ベラルーシ国内では、ルカシェンコ政権とロシアに反発する[[ベラルーシ反体制派]]が、ロシア軍によるウクライナ侵攻を妨害するために[[鉄道]]での[[輜重|軍事物資]]の輸送として使用されている[[ベラルーシの鉄道]]への破壊行為が行われた<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア軍を撤退に追い込んだ、ベラルーシ鉄道の「秘密組織」とは? {{!}} 補給網を遮断した地下ネットワークの正体 |url=https://courrier.jp/news/archives/286235/ |website=クーリエ・ジャポン |date=2022-04-26 |access-date=2023-03-08 |language=ja}}</ref>。 12月には[[ウクライナ軍]]のミサイルがベラルーシ国内に着弾した<ref>{{Cite web|和書|title=ベラルーシへのミサイル落下認める ウクライナ |url=https://www.sankei.com/article/20221230-CSBK6SSXD5JMPAIMM44T3BZULU/ |website=産経ニュース |access-date=2023-01-21 |language=ja}}</ref>。 2023年6月中旬、ルカシェンコは「我々はロシアからミサイルと爆弾を受け取った。爆弾は広島と長崎に投下されたものより3倍の威力がある」と表明。同月末には「配備予定の核兵器の大部分はベラルーシ領に移送された」と明かした。配備された戦術核兵器の管理権と使用権はロシアに残るとされる<ref>{{Cite web|和書|title=ベラルーシ、ロシア追随どこまで? ルカシェンコ大統領の皮算用 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD2985Z0Z20C23A6000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-06-30 |access-date=2023-06-30 |language=ja}}</ref>。 == 政治 == [[File:CSTO Collective Security Council meeting Kremlin, Moscow 2012-12-19 01.jpeg|thumb|200px|ロシアの[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]大統領と会談する[[アレクサンドル・ルカシェンコ|ルカシェンコ]]大統領(2012年)]] {{main|{{仮リンク|ベラルーシの政治|en|Politics of Belarus}}}} ベラルーシは表面上は[[三権分立]]の[[共和制]]の国であるが、[[1996年]]に[[ベラルーシ共和国憲法]]が改正され、[[行政]]の中心である[[大統領]](任期5年)に非常に強い権限が与えられている。[[2004年]]に強行された国民投票により、憲法の大統領職の3選禁止規定が一方的に削除された。 '''[[国民議会 (ベラルーシ)|ベラルーシの議会]]'''は[[二院制]]で、[[上院]]に相当する'''共和国院'''({{lang|be|Совет Республики}}, Sovet Respublik 定員64名)と、[[下院]]に相当する'''代表者院'''({{lang|be|Палата представителей}}, Palata Predstavitelei 定員110名)からなる。議員は、共和国院は国内の6つの州と[[ミンスク]]市の議会から8名ずつ選出、残り8名を大統領が指名する。代表者院は[[小選挙区制]]により選出され、任期は4年である。 [[1994年]]以降、ルカシェンコが権力を掌握している[[独裁政治|独裁国家]]である。[[アメリカ合衆国]]などの[[自由主義]]諸国との関係はきわめて悪い(アメリカがベラルーシに[[経済制裁]]を科したため、[[2008年]]5月に[[国交]]を事実上断絶した。[[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が定義した「[[悪の枢軸]]」の中の一国である(当初は[[イラク]]、[[イラン]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]のみだったが、その後拡大している)。 また、ベラルーシは2022年現在、ヨーロッパで唯一[[死刑]]制度が存在する[[国家]]でもある。 == 国際関係・外交 == {{main|{{仮リンク|ベラルーシの国際関係|en|Foreign relations of Belarus}}|{{仮リンク|ベラルーシの外交政策|ru|Внешняя политика Белоруссии}}}} {{節スタブ}} === ロシア連邦との関係 === {{seealso|ベラルーシ・ロシア連合国家}} 1999年、ロシア連邦(当時は[[ボリス・エリツィン]]政権)と[[ベラルーシ・ロシア連合国家|連合国家]]創設条約を締結した<ref name="読売20211107">露・ベラルーシ統合強化「共通軍事ドクトリン」署名『[[読売新聞]]』長官2021年11月7日(国際面)</ref>。2023年現在、ベラルーシの貿易取引のおよそ6割をロシアが占め、原油なども安値で供給を受けており、ロシアへの依存度が極めて高い。国力が強大なロシアへの従属を警戒するルカシェンコ大統領は統合を進めることに慎重であり、貿易や国境管理でロシアと度々対立してきた。しかし民主化への弾圧などを批判する米欧に対抗して、2021年には共通軍事ドクトリン改定や[[経済統合]]深化についてロシア連邦のプーチン大統領と合意<ref name="読売20211107"/>。特に2020年の大統領選でルカシェンコが6選を果たした際、国内で選挙の不正を訴える大規模な抗議デモが発生し、政権は厳しい弾圧で反体制勢力を抑え込んで以降、国際的な孤立は一段と深まり、ロシア以外に頼れる国がなくなったとされる。以来、ロシアへの従属姿勢を強め、ウクライナ侵攻を巡ってもロシアと合同軍事演習を実施したり、自国領からのロシア軍の攻撃を容認したりしている<ref>{{Cite web|和書|title=ベラルーシ、ロシア追随どこまで? ルカシェンコ大統領の皮算用 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD2985Z0Z20C23A6000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-06-30 |access-date=2023-06-30 |language=ja}}</ref>。 === 日本との関係 === {{main|日本とベラルーシの関係}} 日本とベラルーシは1992年1月26日付で二国間関係を樹立した。日本は1993年1月にミンスクの大使館を開設、ベラルーシは1995年6月に東京の大使館を開設している。 [[在日ベラルーシ人]]はそれほど多くはないが、彼らは主として東京に住んでいる。他国と同様に亡命者のサポートを行っている<ref name=":0" />。 ====駐日ベラルーシ大使館==== {{main|駐日ベラルーシ大使館}} * 住所: [[東京都]][[品川区]][[東五反田]]五丁目6-32 * アクセス: [[東日本旅客鉄道|JR]][[山手線]][[五反田駅]]西口もしくは[[都営浅草線]]出口A7 <gallery> ベラルーシ大使館全景.jpg|ベラルーシ大使館全景 ベラルーシ大使館正面.jpg|ベラルーシ大使館正面 ベラルーシ大使館表札.jpg|ベラルーシ大使館表札 ベラルーシ大使館側面.jpg|ベラルーシ大使館側面 ベラルーシ大使館裏門.jpg|ベラルーシ大使館裏門 </gallery> ==== 駐ベラルーシ日本大使館 ==== {{節スタブ}} 首都ミンスクにある。かつては、駐ロシア[[特命全権大使]]がベラルーシも兼任し、ミンスクには[[臨時代理大使]]が常駐していたが、2019年9月より常駐の特命全権大使を派遣している。 ===EUとの関係=== 2020年、欧州連合(EU)はベラルーシの公務員への[[査証|ビザ]]発給に関する優遇措置を発表。しかし、その後の大統領選挙やデモ隊への弾圧をめぐり関係が悪化。2021年9月には優遇措置の停止を発表している<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210929212935/https://nordot.app/815968633884344320?c=39546741839462401 |title=公務員のビザ優遇停止へ |publisher=[[47NEWS]] |date=2021-09-30 |accessdate=2021-09-30}}</ref>。2023年3月、欧州連合(EU)の外相に当たるボレル外交安全保障上級代表は26日、ロシアのプーチン大統領が戦術核兵器をベラルーシに配備すると決めたことを受け、配備すればベラルーシに新たな制裁を科す可能性があると警告した<ref>{{Cite web|和書|title=EU、対ベラルーシ制裁を警告 ロシアの核配備で |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB2707A0X20C23A3000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-03-27 |access-date=2023-06-30 |language=ja}}</ref>。 == 軍事 == [[File:RIAN archive 1047080 Work of "Kamenyuki" frontier post on Belarus border with Poland.jpg|thumb|国境をパトロールする兵士]] {{main|ベラルーシ共和国軍}} 陸軍及び空軍・[[防空軍]]の二軍からなる国軍を有する。[[ベラルーシ国防省]]の管轄下にあり、大統領が最高指揮官となる。この他に準軍事組織として、内務省の[[ベラルーシ国内軍]]と[[ベラルーシ国家国境軍委員会]]がある。ロシアを中心とした[[集団安全保障条約]]に加盟しており、[[北大西洋条約機構]](NATO)には加盟していないが、[[アフガニスタン]]への[[国際治安支援部隊]](ISAF)展開を支援するなど、部分的には協力を行っている。 国軍は1991年の独立に伴い、旧ソ連軍を改編して創設された。 == 地理 == [[ファイル:Belarus-map-ja.jpeg|right|250px|ベラルーシの地図]] {{main|ベラルーシの地理}} ベラルーシは内陸国で、国土の大部分が[[低地]]であり、最高点の[[ジャルジンスカヤ丘陵]]でも[[海抜]]345mである。最低点は[[ネマン川]]の海抜90mである。国土の20%を占めるなど[[湿原]]が豊富で、南部に最大の湿原である{{仮リンク|ピンスク湿地|label=ポレーシエ湿地|ru|Пинские болота}}がある。約1万1000もの湖があり、それを突き通すように、北部を通る[[ダウガバ川]]、西部を通る[[ネマン川]]、東部を通る[[ドニエプル川]]とその支流である[[プリピャチ川]]、[[ベレジナ川]]、[[ソジ川]]などの主要河川がある。気候はおおむね温暖で湿度が高いが、東部は冷涼で、[[大陸性気候]]の特徴が見られる。 ベラルーシの主な[[天然資源]]は森林で、国土の45.3%もの面積を占めている。その他に[[泥炭]]、[[花崗岩]]、[[泥灰岩]]、[[チョーク (岩石)|チョーク]]が採れる。少量の[[石油]]と[[天然ガス]]も産出されるが、国内需要を満たす規模ではなく、エネルギー資源の大半をロシアからの輸入に依存している。 == 地方行政区分 == [[File:Belarus provinces english.png|thumb|250px|[[ベラルーシの地方行政区画]]]] {{main|ベラルーシの地方行政区画}} === 主要都市 === {{see|ベラルーシの都市の一覧}} *[[ミンスク]] *[[ホメリ]](ホミェリ、ゴメリ) *[[マヒリョウ]](モギリョフ) *[[ヴィツェプスク]](ヴィテプスク) *[[フロドナ]](グロドノ) *[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]](ブレスト・リトフスク) *[[バブルイスク]] *[[バラーナヴィチ]] *[[ボリソフ]] *[[ピンスク]] *[[マズィル]] == 経済 == [[File:View of Minsk 2002.jpg|thumb|left|首都[[ミンスク]]]] [[File:BelAZ haul truck.jpg|thumb|left|[[ベラーズ|BelAZ]]製[[ホウルトラック]]]] {{main|{{仮リンク|ベラルーシの経済|en|Economy of Belarus|ru|Экономика Белоруссии}}}} ベラルーシは中程度に発展した工業農業国家である<ref>Белоруссия // Энциклопедический географический словарь / отв. редакторы Е. В. Варавина и др. — М.: Рипол-классик, 2011. — С. 81. — (Словари нового века). — 5000 экз. — {{ISBN|978-5-386-03063-6}}.</ref>。[[国際通貨基金]](IMF)の統計によると、[[2018年]]のベラルーシの[[国内総生産]](GDP)は596.43億ドルである。一人あたりの[[国の国内総生産順リスト (一人当り為替レート)|GDP(為替レート)]]は6,283ドルで、[[バルト三国]]を除く旧ソ連構成国の中では、ロシア(11,289ドル)、[[カザフスタン]](9,401ドル)についで3番目であり、隣国ウクライナ(3,112ドル)の約2倍である<ref name="imf201910" />。 {{see also|{{仮リンク|ベラルーシの産業|ru|Промышленность Белоруссии}}}} ベラルーシでは[[1991年]]の独立後、他のCIS諸国と同様に市場経済化を推進していた。しかし、[[1995年]]に大統領に就任したルカシェンコは、「[[社会主義市場経済]]」を導入して社会主義政策を開始した。これに基づき、統制価格の導入や、政府による民間企業への介入により自国の[[製造業]]の保護に努める傍ら、ロシアと[[関税同盟]]を結ぶなどの経済統合政策により、経済成長を実現させた。しかし、[[1998年]]8月に発生した[[ロシア財政危機]]に伴い、[[1998年]]から[[1999年]]の2年連続で悪化し、激しい[[インフレーション]]や生産の低下に見舞われた。[[2000年]]1月1日には[[デノミネーション]]が実施された。以降はロシア経済の急速な回復に支えられ順調な経済成長を続けているが、2016年7月には再びデノミネーションを実施している。 対露経済統合はロシア側に政治、経済的に大きく左右されること、ベラルーシ側に大幅な貿易赤字をもたらすなど問題があり、近年はロシアに自国の産業が脅かされるとの警戒感から、経済統合政策は事実上停滞している。ただ、当分の間ベラルーシは西欧型の市場経済からは離れ続けると見られているが、[[2011年]]に入り、国内の経済状況が極度に悪化しており、ロシアがベラルーシの吸収合併へ向けた動きを加速させている。 [[2009年]][[5月29日]]、ロシアの[[アレクセイ・クドリン]]財務相は、ベラルーシが近い将来支払不能(すなわち[[破産]])に陥るとの見方を示した。これは、ベラルーシが市場改革を行わず、ソ連型社会主義体制のままであることによる。天然資源にも乏しく、国家財政の基盤となるものが脆弱なのにも関わらず、ルカシェンコ個人の趣味である[[アイスホッケー]]場を多数建設させたり、食品や生活用品の価格に税金をかけず、逆に国の補助金で安く抑えたりするなどの放漫財政を行っている。ただ、こうした政策を行っているからこそ、ルカシェンコによる独裁体制が支持されているという側面もあった。ルカシェンコ大統領は体制維持のためロシアと[[欧州連合]](EU)を天秤にかけ、双方から経済支援を引き出すしたたかな外交を展開していた。しかし、この手法も[[2010年代]]に入ると、もはや通用しなくなった。 まず、2010年6月21日より、ロシアの[[ガスプロム]]が[[天然ガス]]の代金未払いを理由にベラルーシへのガス供給の削減を開始した。しかし今度はベラルーシがガスプロムに対して「欧州向け天然ガスにおける[[天然ガスパイプライン|パイプライン]]の通過料が未払いであり、翌日(24日)の朝までに支払われなければ、欧州向け天然ガスの供給を全面的に停止する」と警告をした。これにより、『欧州を含めた、新たな天然ガス供給に関する紛争』が生じ、ルカシェンコ大統領は「ロシアとの間でガス戦争が始まった」と発言したが、6月24日にベラルーシ側が未払い代金を支払い、ガス戦争は早々と終結した。しかし、ベラルーシとロシア間で強いわだかまりが残る結果となった。 そして、2010年12月にルカシェンコが四選を果たした直後から、2009年のロシアのクドリン財務相の予言通り、ベラルーシが経済危機に陥った。ロシア産石油・天然ガスの価格引き上げと、先述したバラマキ放漫財政に耐えられず、[[外貨準備]]が底をついている。ベラルーシ各地の両替所では[[外貨]]を求める人々の長蛇の列ができ、物価高騰を恐れる庶民は商品買い占めに走った。ロシア側はベラルーシの国営企業売却などを求め、これによりベラルーシのインフラを掌握し、また、通貨を[[ロシアルーブル]]にすべきだという意見も出て、ベラルーシをロシアに事実上吸収合併しようとする動きを強めた。過去に「ロシアに泣きついて頭など下げない」(ロシアの経済支援棚上げについて)などといった強気の発言を繰り返してきた、「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれているルカシェンコ大統領は崖っぷちの状況に陥った。この状態を打破するには、ルカシェンコが採用していたソ連型社会主義経済から、完全な市場経済社会へ向けた痛みを伴う大掛かりな改革が必要であると指摘された<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110531/erp11053100570002-n1.htm|title=「欧州最後の独裁者」ルカシェンコ大統領窮地 ベラルーシ経済危機 露、統合路線を加速|publisher=『[[産経新聞]]』|date=2011-5-31|accessdate=2011-5-31}}</ref>。 紆余曲折の末、ルカシェンコ大統領がロシア主導の「[[ユーラシア連合]]」への参加を表明し、その見返りにロシアは天然ガスを特別割引価格で提供、また、ガスパイプラインをロシアが買い取る協定が結ばれ、ベラルーシ経済がロシアに掌握された格好となった。 だが、国営企業で働く従業員の賃金未払いや工場の操業停止など、深刻な経済状況は依然として続き、更に、ロシアは[[国営企業]]の[[民営化]]の遅れなどを理由にベラルーシへの資金援助を2013年に打ち切った。崖っぷちのルカシェンコ大統領は[[中華人民共和国]]へ急接近し、中国との間で15億ドルの経済投資協定を締結。中国は欧州進出の足掛かりを得て、ベラルーシは財政破綻を回避できた<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130730/erp13073023220007-n1.htm|title=中国に急接近の独裁国家ベラルーシ 「スラブの兄弟」露はいらだち|publisher=『産経新聞』|date=2013年7月3日|accessdate=2013年8月3日}}</ref>。同時期には[[蘇州工業園区]]に倣った{{仮リンク|中国-ベラルーシ工業園区|en|China-Belarus Industrial Park}}も開設され、これによりベラルーシの軍事パレードでは中国の[[紅旗 (自動車)|紅旗]]がパレードカーになって[[中国人民解放軍]]もベラルーシ軍とともに行進し<ref>{{cite web|url=http://eng.belta.by/fotoreportage/view/independence-day-parade-in-minsk-113091-2018/|title=Independence Day parade in Minsk|website=BelTA|date=2018-07-03|accessdate=2018-07-04}}</ref><ref>{{cite web|url=http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2015-05/07/content_35510707.htm|title=中国のパレードカー、ベラルーシの閲兵式に登場|website=[[人民網]]|date=2015-07-05|accessdate=2016-08-21}}</ref>、中国製武器の購入<ref>{{cite web|url=http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2016-07/01/content_38790802.htm|title=ベラルーシ、中国製ロケット砲を公開|website=udf.by|date=2016-07-01|accessdate=2018-05-07}}</ref><ref>{{cite web|url=https://21stcenturyasianarmsrace.com/2017/07/09/the-belarusian-army-is-using-a-lot-of-chinese-hardware/|title=The Belarusian Army Is Using A Lot Of Chinese Hardware|website=udf.by|date=2017-07-09|accessdate=2018-05-07}}</ref> や[[弾道ミサイル]]を共同開発<ref>{{cite web|url=https://sputniknews.com/europe/201506161023442003/|title=Belarus Tests Secretive Rocket Launcher System in China|website=[[スプートニク (通信社)|スプートニク]]|date=2015-06-16|accessdate=2017-06-22}}</ref><ref>{{cite web|url=https://udf.by/english/main-story/157376-belarusian-defence-industries-doubling-exports-and-launching-ballistic-missile-production.html|title=Belarusian defence industries: doubling exports and launching ballistic missile production|website=udf.by|date=2018-04-30|accessdate=2018-05-07}}</ref> するなど経済的にも軍事的にも密接な関係が続いている。 [[File:Tree map export 2009 Belarus.jpeg|thumb|色と面積で示したベラルーシの輸出品目(2009年)]] ベラルーシの鉱業は、原油、天然ガス、ソリゴルスクで採掘される[[岩塩]](カリ塩 KCl)に限定されている。原油だけは自国内の消費量の数割を賄える。工芸作物としては世界第5位(3万2000トン)の[[亜麻]]の生産が際立つ。工業は繊維業、化学工業(肥料)が盛ん。[[羊]][[皮革|皮]]生産量は世界第4位(8万トン)で、カリ塩の採掘に支えられたカリ[[肥料]]生産は世界第3位(369万トン)となっている。[[硝酸]]の生産量は世界第8位(88万トン)。 [[第三次産業]]では、理工系教育を重視していた旧ソ連時代からの伝統で、[[情報技術]](IT)分野の人材が豊富である。『[[World of Tanks]]』(WOT)を開発した[[ウォーゲーミング]]社は1998年にベラルーシで創業した(法人[[登記]]を2011年に[[キプロス]]へ移した後も本社機能はミンスクにある)。ベラルーシ政府は2005年にIT企業への税制優遇プログラムを導入し、[[Viber]]などを生み出した。ルカシェンコ大統領は2017年にデジタル産業育成令を発布した<ref name="mainichi20191120">[https://mainichi.jp/articles/20191120/ddm/007/030/061000c 「欧州最後の独裁国家ベラルーシ/下院選 110議席全勝」「IT開花 経済変革」]『[[毎日新聞]]』朝刊2019年11月20日(国際面)同日閲覧。</ref>。 ルカシェンコ独裁体制下で[[司法の独立]]が欠如していることから、企業が政府から不当な圧力を受け、特に破綻に追い込まれる問題が存在している<ref name="mainichi20191120"/>。一方、ルカシェンコの統治の下ではロシアやウクライナのように、国有企業の民営化の結果として巨大な影響力を持つ[[オリガルヒ]]が出現していないため、[[財界]]から[[政界]]への干渉や政財界の癒着が少ない<ref>{{Cite web|title=Are There Any Oligarchs in Belarus?|url=https://odb-office.eu/policy-briefs/are-there-any-oligarchs-belarus|website=Office for a Democratic Belarus|date=2012-05-02|accessdate=2021-04-28|language=en}}</ref>。 === 農業 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの農業|ru|Сельское хозяйство Белоруссии}}}} 農業は地域経済において歴史的に重要な分野であり、国のGDPの7%以上を提供し、人口の9%以上へ雇用を提供している。 [[麦]]類の生産に向く気象条件から世界第4位(150万トン、2002年)の[[ライムギ|ライ麦]]を筆頭に、[[大麦]]、[[エンバク|燕麦]]の生産が盛ん。春[[小麦]]の栽培も見られる。 === 貿易 === 2002年時点では輸入90億ドルに対し、輸出は81億ドルであり、わずかに入超である。主な輸入品は原油、機械類、鉄鉱。輸入相手国は、ロシア、ドイツ、ウクライナである。ロシアとの取引が65%を占める。主な輸出品は、石油製品、自動車、機械類であり、輸出相手国はロシア、[[ラトビア]]、[[イギリス]]である。輸出ではロシアの占める割合は50%に留まる。[[日本]]との貿易では、[[乳製品]]を輸出(全体の44%)し、無線通信機器を輸入(全体の35%)している。 === エネルギー === {{main|{{仮リンク|ベラルーシのエネルギー|en|Energy in Belarus|ru|Энергетика Белоруссии}}}} ベラルーシは世界で[[エネルギー]]不足が最も慢性化している国の一つとされている<ref>{{Citation|url= https://www.iea.org/reports/belarus-energy-profile|title = Belarus energy profile|publisher= [[International Energy Agency]]|access-date=2023-12-28}}</ref>。電気の大部分は[[火力発電所]]で生成されている。 ==== ベラルーシ原子力発電所 ==== 北西部[[フロドン州]]オストロベツ郊外に、ロシア国営原子力企業[[ロスアトム]]系列のアトムストロイエクスポルトが建設したベラルーシ[[原子力発電所]]が2020年11月に完成した。ベラルーシ初の原発である。[[加圧水型軽水炉]]2基(出力合計240万キロワット)を備える。 ベラルーシの電力需要の30%を賄えるが、原発建設と100億ドルの費用の融資をロシアに頼ったため、エネルギーのロシア依存を減らすことにはならなかった。1号機は2021年、2号機は2022年に商業運転開始を予定しているが、近接するリトアニアは安全性を懸念しており、同国を含む[[バルト三国]]は2020年8月末、ベラルーシとの電力取引を原発稼働後は停止することで合意した<ref>ベラルーシ初の原発稼働へ 2021年、住民らによぎる「悪夢」隣国リトアニアも猛反発『[[日経産業新聞]]』2020年11月25日グローバル面</ref>。 === 観光 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの観光|ru|Туризм в Белоруссии}}}} 観光市場はベラルーシ経済において動的な分野となっている。過去3年間の観光サービス市場の平均年間売上高は2,000 万米ドルを超え、毎年8%増加している。 {{節スタブ}} == 交通 == {{main|{{仮リンク|ベラルーシの交通|en|Transport in Belarus}}}} {{節スタブ}} === 道路 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの道路|en|Roads in Belarus}}}} {{節スタブ}} === 鉄道 === {{main|ベラルーシの鉄道}} {{節スタブ}} === 空港 === {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ベラルーシの空港一覧|en|List of airports in Belarus}}}} === 水路 === *[[ドニエプル・ブク運河]] == 科学技術 == {{main|{{仮リンク|ベラルーシの科学技術|ru|Наука в Белоруссии}}}} {{仮リンク|ベラルーシ国立科学アカデミー|en|National Academy of Sciences of Belarus}}は同国における国立アカデミーであると同時に、科学などの学術研究に特化した機関の中で最高峰の立ち位置ともなっている。 {{節スタブ}} == 国民 == {{main|{{仮リンク|ベラルーシの人口統計|en|Demographics of Belarus}}}} {{bar box |title=民族構成(ベラルーシ)2009年 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[ベラルーシ人]]|blue|83.7}} {{bar percent|[[ロシア人]]|lightblue|8.3}} {{bar percent|[[ポーランド人]]|lightblue|3.1}} {{bar percent|[[ウクライナ人]]|lightblue|1.7}} {{bar percent|その他|red|3.4}} }} === 民族 === 住民は[[ベラルーシ人]]が83.7%、[[ロシア人]]が8.3%、[[ポーランド人]]が3.1%、[[ウクライナ人]]が1.7%、[[ユダヤ人]]が0.1%である(2009年)。かつては首都ミンスクの人口のうち、ユダヤ人やポーランド人が多数を占めていた時期もあるなど、多民族が共存してきた歴史がある。 隣国ウクライナではウクライナ人民族主義が非常に強く、国内に民族対立を抱え、結果的に[[2014年ウクライナ内戦|2014年には深刻な内戦]]に陥った。 2022年に至って[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアの全面侵攻]]を誘引、以降国民からのロシアやソビエト連邦への評価が極めて悪化し、当時のモニュメントの解体や地名の変更などが各地で行われている。<ref>{{Cite web|和書|title=キーウ「脱ロシア化」動き続々…「友好」象徴の銅像解体・地名も変更 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20220428-OYT1T50111/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-04-28 |access-date=2022-12-20 |language=ja}}</ref> 一方のベラルーシでは、現在もロシアの同盟国ということもあり、首都のミンスクには巨大な[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]像が残るなどソビエト時代を肯定的にとらえる国民性もある。 === 言語 === ベラルーシでは、[[ベラルーシ語]]と[[ロシア語]]の二つの言語が[[国家語]]として[[憲法]]に規定されている<ref name="shiru-lan">{{Cite book |和書 |author=服部倫卓、越野剛編著 |year=2017 |title=ベラルーシを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ |publisher=[[明石書店]] |pages=122-127|isbn=978-4-7503-4549-9|ref=harv}}</ref>。ベラルーシで最も広く使われる言語はロシア語であり、家庭内では人口の70%がロシア語を使用しており、ベラルーシ語が家庭内で使用される割合は26%となっている(2019年)<ref name=language/>。ベラルーシ語で会話できない国民は多いが、どちらが[[母語]]かとの問いに対しては、人口の53.2%がベラルーシ語、41.5%がロシア語と答えている<ref name="2009-census-languages">{{cite web|url=http://belstat.gov.by/en/perepis-naseleniya/perepis-naseleniya-2009-goda/main-demographic-and-social-characteristics-of-population-of-the-republic-of-belarus/population-classified-by-knowledge-of-the-belarusian-and-russian-languages-by-region-and-minsk-city|title=Population classified by knowledge of the Belarusian and Russian languages by region and Minsk City|website=Belstat.gov.by|accessdate=3 August 2017}}</ref>。現在、ベラルーシの教育ではベラルーシ語とロシア語いずれも原則必修だが、ベラルーシ語が読めても話せない国民は多い<ref name=language/><ref name="shiru-lan"/>。会話の中でベラルーシ語とロシア語のどちらともとれない曖昧な話し方はしばしば見られ、こうした口語は[[トラシャンカ]](「干草に[[藁]]を混ぜた[[飼料]]」の意)と呼ばれている<ref name="shiru-lan"/>。 他に[[ポーランド語]]、[[ウクライナ語]]、[[東イディッシュ語]]を話す少数派も存在する<ref>Gordon, Raymond G., Jr. (ed.), 2005. Ethnologue: Languages of the World, Fifteenth edition. Dallas, TX: SIL International. Online version: [http://www.ethnologue.com/ Ethnologue.com].</ref>。 === 婚姻 === {{節スタブ}} === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの宗教|en|Religion in Belarus|ru|Религия в Белоруссии}}}} 宗教は[[正教会|東方正教会]]([[ロシア正教会]]の[[エクザルフ|総主教代理]]が代表するベラルーシ正教会)が80%である。その他[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]、[[プロテスタント]]などが信仰されている(1997年推計)。 [[ロシア正教]]の[[古儀式派]]の[[ポモールツィ]]、[[ベロクリニツキー派]]、[[ベグロポポーフツィ]]などの信徒も存在する。 {{See also|{{仮リンク|ベラルーシにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Belarus}}}} === 教育 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの教育|en|Education in Belarus|ru|Образование в Белоруссии}}}} {{節スタブ}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの保健|en|Health in Belarus}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|ベラルーシの医療|en|Healthcare in Belarus|ru|Здравоохранение в Белоруссии}}}} {{節スタブ}} == 治安 == {{節スタブ}} ベラルーシの治安は、他の[[NIS諸国]]や[[独立国家共同体|CIS]]加盟国と比較すると良好な状態にあると言えるが、安全性が高いと言えるわけではなく全体を通してみると犯罪の発生率自体が高めとなっている。 都市部では[[外国人]]が巻き込まれる事件が発生しており、[[スリ]]や[[強盗]]、[[車上荒らし]]などの被害に遭わないよう、常日ごろから注意が必要とされる面がある。特に日本人は「他の外国人に比べて裕福である」というイメージが強く持たれており、また街中でも人目につくことから犯罪の対象になりやすい傾向にあるため、外出時には厳戒態勢でいる事を求められる。 また、2008年に首都ミンスク中心部での独立記念日を祝う野外コンサート会場で爆弾が爆発して50名あまりが負傷したことを始め、2011年4月にはミンスク市中心部にある地下鉄オクチャブリスカヤ駅で爆発が生じ14名が死亡し200人以上が負傷するといった凄惨な[[テロ]]事件が起こっている点から、当国に滞在の際は危険と隣り合せであることを常に意識しなければならない。 {{see also|{{仮リンク|ベラルーシの組織犯罪|ru|Организованная преступность в Белоруссии}}}} === 法執行機関 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの法執行機関|en|Law enforcement in Belarus}}}} {{節スタブ}} {{also|{{仮リンク|ベラルーシにおける死刑|en|Capital punishment in Belarus}}}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシにおける人権|en|Human rights in Belarus}}}} 国民の権利が著しく抑圧された国家の一つである。高齢者、未成年、障害者を除く国民が職に就かず半年以上未納税の場合、平均月収程の罰金が課せられるほか、失業者は社会奉仕が義務付けられている<ref>[https://www.bengo4.com/other/1146/1304/n_3085/ 半年無職だと「罰金3万円」を科せられる「ニート罰金法」 もし日本で制定されたら?] 弁護士ドットコムニュース(2015年05月12日)2020年11月28日閲覧 [http://jp.reuters.com/article/parasites-idJPKBN16L0H4 ベラルーシで「社会的寄生虫税」撤回求め抗議、大統領辞任要求も] [[ロイター]](2017年3月14日)2020年11月28日閲覧 [https://www.sankei.com/article/20150526-SX2BNHAO5JLC3CYH2ZM6K62M6I/ 【世界ミニナビ】「社会寄生虫駆除法」成立 働かない者は罰金、拘束も] [[産経新聞|産経WEST]](2015年5月26日)2020年11月28日閲覧</ref>。公の場でのデモ、集会は厳しく規制されており、政治的な意見の表明や政権批判、大統領批判をすれば逮捕・拘束される<ref>[http://jp.reuters.com/article/tk0739752-belarus-protest-toys-idJPTYE81M02K20120223 ベラルーシ大統領に「おもちゃ」で抗議、男性に有罪判決] ロイター(2012年2月23日)2020年11月28日閲覧</ref>。 厳しい規制を逃れるために、ただ拍手をするだけのデモ活動を「拍手によって政治的な意見を表明した」と弾圧し<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2810243 ベラルーシの「拍手デモ」を警官隊が鎮圧、「蜂起を夢想するな」と大統領] [[フランス通信社|AFP]](2011年7月4日)2020年11月28日閲覧</ref>、片手しかない参加者も拍手をしたと逮捕された。過去には聴覚障害者が「政治スローガンを叫んだ」として逮捕される事態が起きている。この片手しかない参加者の拍手による逮捕は、2013年にルカシェンコ大統領とベラルーシ警察に対し、[[イグノーベル賞]]平和賞を授賞することになった<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2013/09/13/ig-nobel-prize_n_3919177.html イグノーベル賞、日本人が7年連続受賞「タマネギを切ると涙が出る理由」「オペラでマウスが延命」][[ハフィントン・ポスト]](2013年9月13日)2020年11月28日閲覧</ref>。 == マスコミ == {{main|{{仮リンク|ベラルーシのメディア|en|Mass media in Belarus|ru|Средства массовой информации Белоруссии}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ベラルーシにおける検閲|en|Censorship in Belarus}}}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|ベラルーシの文化|en|Culture of Belarus|ru|Культура Белоруссии}}}} === 食文化 === {{main|ベラルーシ料理}} [[File:Potato pancakes.jpg|thumb|right|国民的な料理の[[ドラニキ]]]] ベラルーシ料理は主に[[野菜]]、[[豚肉]]をはじめとする[[食肉|肉]]類に、[[パン]]から構成される。料理は通常時間をかけて作られるか、あるいは[[シチュー]]として調理される。通常ベラルーシ人は一日二度の食事を取り、朝食は軽めで、夕食はボリュームがある。[[コムギ|小麦]]と[[ライムギ|ライ麦]]のパンが食べられているが、小麦の栽培に不適な環境のため、ライ麦のパンが多く消費されている。来賓や訪問客を迎えた家の主人は[[パンと塩]]を提供するのが、歓迎の意思を示す伝統的なしきたりである<ref>Canadian Citizenship and Immigration&nbsp;– [http://www.cp-pc.ca/english/belarus/eating.html Cultures Profile Project&nbsp;– Eating the Belarusian Way] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20070320041709/http://www.cp-pc.ca/english/belarus/eating.html |date=20 March 2007 }} (1998); retrieved 21 March 2007.</ref>。 === 文学 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシ文学|en|Belarusian literature}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ベラルーシの作家一覧|en|List of Belarusian writers}}}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの音楽|en|Music of Belarus}}}} {{節スタブ}} ベラルーシの民俗音楽の伝統はリトアニア大公国の時代にまで遡る。{{仮リンク|クリジャチョク|ru|Крыжачок}}と呼ばれる[[フォークダンス]]が存在する。 近代音楽ならび現代音楽においては、前身のソ連時代に生み出されたものが基盤となっている。 {{See also|{{仮リンク|ソビエト連邦の音楽|ru|Музыка СССР|en|Music of the Soviet Union}}|{{仮リンク|ベラルーシの伝統舞踊|en|Belarusian traditional dance}}}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの映画|en|Cinema of Belarus}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ベラルーシ映画の一覧|en|List of Belarusian films}}}} === 美術 === [[File:Худ музей РБ.jpg|thumb|right|[[ベラルーシ国立美術館]]]] {{Main|{{仮リンク|ベラルーシの芸術|ru|Изобразительное искусство Белоруссии}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ベラルーシの美術館の一覧|en|List of museums in Belarus}}}} ==== 人形劇 ==== {{仮リンク|バトレイカ|en|Batlejka}}と呼ばれる伝統的な[[人形劇]]が存在する。バトレイカはキリスト教に関連するもので、公演は伝統的にクリスマスの期間に行われている。 === 服飾・衣装 === [[File:Beloruska zhenska nosija.jpg|thumb|right|伝統的な農民服を着たベラルーシ人女性。2007年撮影]] {{Main|{{仮リンク|ベラルーシの民族衣装|ru|Белорусский национальный костюм}}}} ベラルーシの伝統的な衣服は[[キエフ大公国]]の時代に起源がある。寒冷な気候のために服は体温を保つように設計され、通常は[[アマ (植物)|亜麻]]や[[ウール|羊毛]]を素材としていた。ポーランド、リトアニア、ラトビア、ロシアや他のヨーロッパ諸国など、近隣の地域の文化の影響を受けた華麗な模様が衣服にあしらわれている。また、ベラルーシ内の地域ごとに特別なデザインの模様が発達している<ref>{{cite web|url=http://www.belarusguide.com/culture1/clothing/index.html|title=Belarusian traditional clothing|publisher=Belarusguide.com|accessdate=29 April 2013}}</ref>。[[ベラルーシの国旗]]の左側にある赤・白の模様は、伝統的な衣装で広く使われる装飾模様の一つである<ref>{{cite web|url=http://fotw.fivestarflags.com/by.html#orn|title=Belarus – Ornament, Flags of the World|publisher=Fotw.fivestarflags.com|accessdate=29 April 2013}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|カリンコビチ・シストロイ|ru|Калинковичский строй}}}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|ベラルーシの建築|en|Architecture of Belarus}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|ベラルーシの世界遺産}} ベラルーシ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。 === 祝祭日 === {|class="wikitable" ! 日付 !! 日本語表記 !! 現地語表記 !! 備考 |- ||[[1月1日]]||[[元日]]|||| |- ||[[1月7日]]||正教会の[[クリスマス]]||||[[ユリウス暦]]の12月25日。 |- ||[[3月8日]]||[[国際女性デー]]|||| |- ||移動祝日||カトリックの[[復活祭]]||||日付は[[復活祭]]参照。 |- ||[[5月1日]]||[[メーデー]]|||| |- ||移動祝日||正教会の[[復活大祭]]||||日付は[[復活祭]]参照。 |- ||[[5月9日]]||勝利の日|||| |- ||[[7月3日]]||[[独立記念日 (ベラルーシ)|独立記念日]]|||| |- ||[[11月7日]]||[[十月革命]]の日|||| |- ||[[12月25日]]||[[カトリック教会|カトリック]]の[[クリスマス]]|||| |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ベラルーシのスポーツ|en|Sport in Belarus|ru|Спорт в Белоруссии}}}} {{See also|オリンピックのベラルーシ選手団}} === アイスホッケー === ベラルーシ国内では氷上スポーツに最も人気が集まっている。[[アレクサンドル・ルカシェンコ|ルカシェンコ大統領]]も自らプレイヤーとして嗜むほど[[アイスホッケー]]が非常に盛んで、[[2002年ソルトレークシティオリンピックのアイスホッケー競技|2002年ソルトレイクシティ五輪]]では男子チームが、[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]プレイヤーを数多く揃える[[アイスホッケースウェーデン代表|スウェーデン代表]]を破り4位に入るなど、国際舞台でも活躍を見せている。NHLと並ぶ世界最高峰のアイスホッケーリーグである[[KHL]]には、ベラルーシのクラブとして[[HCディナモ・ミンスク|ディナモ・ミンスク]]が唯一参加しており、[[2010年バンクーバーオリンピックのアイスホッケー競技|2010年バンクーバー五輪]]にもこのチームから代表へ、主力選手が多数選出されている。[[2014年]]には[[ミンスク・アリーナ]]を主会場として、[[アイスホッケー世界選手権]]も開催された。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ベラルーシのサッカー|en|Football in Belarus}}}} [[サッカー]]は、ベラルーシでアイスホッケーの次に人気の[[スポーツ]]となっており、[[1992年]]にプロサッカーリーグの[[ベラルーシ・プレミアリーグ]]が創設された。'''[[FC BATEボリソフ|BATEボリソフ]]'''がリーグ最多15度の[[優勝]]に輝いており、同クラブにかつて所属し[[アーセナルFC|アーセナル]]などでも活躍した'''[[アレクサンドル・フレブ]]'''は、世界的に有名な選手として知られる。同リーグは[[2020年]]3月以降、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の拡大により世界中でサッカーのプロリーグが中断する中、唯一通常開催され物議を醸した。 [[ベラルーシサッカー連盟]](BFF)によって構成される[[サッカーベラルーシ代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]および[[UEFA欧州選手権]]には未出場である。[[UEFAネーションズリーグ]]では、[[UEFAネーションズリーグ2022-23|2022-23シーズン]]はリーグCに属している。 == 著名な出身者 == {{Main|ベラルーシ人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === --> {{Reflist|2|refs= <ref name="imf201910">{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2019/02/weodata/weorept.aspx?pr.x=55&pr.y=9&sy=2017&ey=2023&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=913&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=|title=World Economic Outlook Database, October 2019|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2019-10|accessdate=2020-08-10}}</ref> }} == 関連項目 == *[[ベラルーシ関係記事の一覧]] *[[ベラルーシ人]] *[[ポロツク公国]] *[[ポーランド・リトアニア共和国]] *[[ハティニ虐殺]] *[[ベラルーシ人民共和国]] *[[ベラルーシ国立ストライク委員会]] *[[ベラルーシ反体制派]] *[[ロシアのウクライナ侵攻 (2022年)|ロシアのウクライナ侵攻(2022年)]] *[[ベラルーシ=リトアニア国境]] *[[小室等]] - 「雨のベラルーシ」の持ち歌がある。 *[[本橋成一]] - ベラルーシを舞台とした映画「[[ナージャの村]]」及び「[[アレクセイと泉]]」を監督。 <!-- *[[_の科学技術]] *[[_の通信]] --> == 外部リンク == {{Commons&cat|Belarus|Belarus}} ; 政府 * [https://www.e-belarus.org/index.html ベラルーシ共和国政府] {{en icon}} * [https://president.gov.by/en ベラルーシ大統領府] {{en icon}}{{be icon}}{{ru icon}} * [https://japan.mfa.gov.by/ja/ 在日ベラルーシ大使館] {{ja icon}}{{en icon}}{{be icon}}{{ru icon}} ** [https://www.belarus.jp/ ベラルーシ共和国情報サイト ベラルーシの風] {{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/belarus/ 日本外務省 - ベラルーシ] {{ja icon}} * [https://www.by.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ベラルーシ日本国大使館]{{ja icon}}{{ru icon}} ; 観光 * [https://www.belarustourism.by/en/ ベラルーシ政府観光局] {{en icon}}{{be icon}}{{ru icon}} ; SNS * {{Twitter|BelarusMFA|ベラルーシ共和国外務省}}{{En icon}} * {{Twitter|BelarusMID|ベラルーシ共和国外務省}}{{Be icon}} * {{Twitter|BelembassyJPN|Belarus Embassy Tokyo(駐日ベラルーシ大使館)}} ; その他 * {{Kotobank}} {{ヨーロッパ}} {{独立国家共同体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:へらるうし}} [[Category:ベラルーシ|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:独立国家共同体]] [[Category:ロシア語圏]]
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タンザニア
タンザニア連合共和国(タンザニアれんごうきょうわこく)、通称タンザニアは、東アフリカにある共和制国家。イギリス連邦加盟国。ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウイ、モザンビークと国境を接し、タンガニーカ湖対岸にはコンゴ民主共和国があり、またインド洋に面する。 1996年に立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマに移転されたが、その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラームにある。 タンザニアは東アフリカ大陸部のタンガニーカとインド洋島嶼部のザンジバルから構成され、ザンジバルは中央政府から強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。 また、アフリカでも有数の大自然に恵まれ、文化的にもスワヒリ語を国語とし、アフリカ在来の言語が大きな役割を果たしている数少ない国家である。 正式名称は、スワヒリ語で Jamhuri ya Muungano wa Tanzania(ジャムフリ・ヤ・ムウンガーノ・ワ・タンザニア)。英語で United Republic of Tanzania(ユナイテッド・リパブリック・オブ・タンザニア)。通称、Tanzania(タンザニア)。 日本語の表記は、タンザニア連合共和国。通称、タンザニア。漢字表記は、坦桑尼亜。 国名はタンザニアを構成するために併合したタンガニーカ(Tanganyika)とザンジバル(Zanzibar)の名前に、かつてアフリカ南部で栄えたアザニア文化(英語版)(Azania)の名前を複合して1964年に命名された。 250万 - 200万年前にホモ・ハビリスが現在のタンザニアに相当する地域(北部のオルドヴァイ峡谷)に存在していたことが、ルイス・リーキー博士によって確認されている。 紀元前10世紀ごろ、現在のカメルーンに相当する地域からバントゥー系民族がタンザニアの森林部に移住した(en:Bantu expansion)。 7世紀にアラビア半島でイスラーム教が成立したあと、アラブ人やペルシア人が東アフリカのインド洋沿岸部に渡来し、スワヒリ文明を築きあげた。10世紀ごろから16世紀初頭にかけて、タンザニアにはキルワ島やマフィア島、バガモヨなどのスワヒリ都市が栄えた。 1498年にポルトガル王国の航海者ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓し、インド洋におけるポルトガルの覇権が始まった。ポルトガルは1505年にキルワ王国を滅ぼしたあと、東アフリカの各地を制圧した。 アラブ勢力の拡大にともない、ポルトガル勢力はオマーンによって1698年に現在のタンザニア領から駆逐され、南方のモザンビーク島にまで撤退した。その後、19世紀に入るとオマーン帝国(アラビア語: الإمبراطورية العمانية)のサイイド・サイード王が在地のマズルイ家から島嶼部と沿岸地方を自らの勢力圏に置き、1830年代にザンジバルに王宮ストーンタウンを建設し、帝国の本拠地を移した。1856年にサイイド・サイード王が死亡したあと、本国のオマーン・スルタン国とは別にサイイド・マージドがザンジバルのスルターンに即位するとザンジバル・スルタン国(Sultanate of Zanzibar、1856年 - 1964年)が成立し、引き続きクローヴなどの香辛料の交易や奴隷貿易で栄え、この時代にザンジバルは東アフリカ最大の奴隷市場となった。19世紀後半には、ザンジバル出身のスワヒリ商人ティップー・ティプが現在のコンゴ民主共和国東部に相当するタンガニーカ湖にまで勢力を伸ばし、内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となった。彼はデイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーの探険も助けた。 1880年代にアフリカ分割が始まると、カール・ペータースの活動によって1885年に大陸部にドイツ東アフリカ会社の植民地が認可された(ドイツ領東アフリカ)。19世紀後半からインド洋に進出していたイギリスは、1890年7月1日にドイツとヘルゴランド=ザンジバル条約を締結し、ザンジバル領のうち、沿岸地方はドイツが獲得し、島嶼部のザンジバルをイギリスの保護国とした。1890年に保護国となったザンジバル・スルタン国は、政変にともなう1896年のイギリスとの戦争でイギリスに一方的に敗北し、保護国化当初のザンジバルへの内政不干渉の原則は反故にされ、以後ザンジバルではイギリスによる行政が進んだ。 一方、大陸部のタンガニーカでは、ペータースの植民地会社は沿岸地方で発生したアブシリの反乱の鎮圧に手こずり、会社による統治は不可能と判断され、本国ドイツから総督の派遣を受ける統治形態へと変わった。19世紀末、領域内部には部族国家が複数存在しており、中でもルヴマ州のソンゲア・ルワフ・ムバノ率いるンゴニ族とイリンガ州のムクワワ率いるヘヘ族(英語版)が二大勢力であったが、相争っていたため、数年がかりで各個制圧されていった。しかしながら、指導者ムクワワが率いるヘヘ族(英語版)とのゲリラ戦(1891年 - 1898年)は長期化した。1905年の霊媒師キンジキティレ・ングワレ(英語版)(Kinjikitile Ngwale)が主導するマジ・マジ反乱はンゴニ族も呼応して最大の反乱となったが、ヘヘ族がドイツ側について部族の垣根を越えることはできず、徹底的に鎮圧された。この反乱を受けて、ドイツは統治政策の見直しを行うこととなった。沿岸部からタンガニーカ湖までを結ぶ鉄道(ドイツ語: Tanganjikabahn現在のタンザニア中央鉄道(英語版))は、1905年にダルエスサラームを起点に着工し、1914年には終点キゴマに到達して完成した。 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、東アフリカ戦線ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍率いる現地人兵士(アスカリ)を中心としたゲリラ部隊がイギリス軍などを相手に本国の降伏時まで交戦を行った。 第一次世界大戦がドイツの敗北で終結したことによりドイツ領東アフリカは解体され、大半はイギリスの委任統治領タンガニーカとなり、東北部のルアンダ=ウルンディはベルギーの委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域(ウガンダ、ケニア、タンガニーカ、ザンジバル)を支配することとなり、これらには関税同盟が敷かれ、ドイツ領東アフリカルピー(英語版)に代えて共通通貨東アフリカ・シリング(英語版)が導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設され、そのひとつはヴィクトリア湖のムワンザにまで延長された。 1939年に第二次世界大戦が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは8万7,000人が出征した。東アフリカ部隊は東アフリカ戦線でイタリア軍と、ビルマ戦線で日本軍との戦いを繰り広げ、インパール作戦で日本軍が対峙したイギリス軍には多くのアフリカ人のアスカリが存在した。 第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の潮流の中でタンガニーカ=アフリカ人民族同盟(英語版)(TANU)が次第に支持を集め、1961年12月9日に大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立した。1963年にはザンジバル王国も主権を獲得して独立した。しかし、翌1964年1月にザンジバルで革命が勃発すると国王は亡命し、アラブ人排斥の流血の事態の中でザンジバル人民共和国が成立した。その後、ザンジバルでの政変を経て、ニエレレの汎アフリカ主義の精神の下で両国は連合し、1964年4月26日にタンガニーカ・ザンジバル連合共和国が成立した。同年10月29日、この国家連合は両国の名称とかつてこの地域で栄えたアザニア文化(英語版)の名称を複合し、タンザニア連合共和国と改称した。 独立後、連合共和国の初代大統領となったジュリウス・ニエレレは、内政面ではスワヒリ語を国語とし、1967年のアルーシャ宣言(英語版)発令以後は社会主義の建設を目指し、ウジャマー(英語版)と呼ばれるコンセプトに基づいたアフリカ社会主義を採用した(ウジャマー社会主義)。対外的には東アフリカ諸国を東アフリカ連邦(英語版)に統合する構想を掲げ、アルーシャを本部とする東アフリカ共同体(第一次)を作り、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政権やローデシアの対白人少数派支配に対抗する「最前線」としてザンビアやボツワナとフロントライン諸国(英語版)(FLS)を結成して、ニエレレは初代議長を務めた。また、ローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を図るタンザン鉄道の建設などを通じて中華人民共和国との関係を深め、ポルトガルとも敵対し、1964年にモザンビーク独立戦争が始まると、エドゥアルド・モンドラーネ議長の指導するモザンビーク解放戦線(FRELIMO)を支援し、解放区を提供した。この時期にタンザニアはFRELIMOのみならず、ナミビアの南西アフリカ人民機構(SWAPO)やジンバブエのジンバブエ=アフリカ人民族同盟(英語版)(ZANU)を支援している。 1971年にミルトン・オボテがイディ・アミンのクーデターによって追放されて以来、オボテをかくまったタンザニアは隣国ウガンダとは対立が続いた。 1977年にそれまで別組織だったTANUとアフロ・シラジ党(英語版)(ASP)が統合し、タンザニア革命党が成立し、国内でも一党制に移行した。 1978年にそれまで対立していたウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻するとこれを撃退し、タンザニア軍はウガンダの首都カンパラを攻略してアミン失脚の一因となった(ウガンダ・タンザニア戦争)。こうした政策によってタンザニアはアフリカ内外で第三世界を指導する国家の一角としての信望を集めたが、その一方で1970年代に入ると親西側的なケニアのジョモ・ケニヤッタとの対立で自らの理想を体現した東アフリカ共同体は消滅し、旱魃による農業の衰退や、ウジャマー村の建設の失敗が各地で報告され、経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになった。 1980年代に入ると第二次石油危機の影響もあって経済の衰退は深刻化し、日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる中、1985年11月にニエレレは引退を発表した。 後任には与党タンザニア革命党からザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニが就任し、ムウィニの下でIMFの勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められ、また複数政党制が認められて民主化が行われた。1995年に就任したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ大統領の時代には、1994年に民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げた。 1998年8月7日にはアルカイーダによって首都ダルエスサラームの駐タンザニアアメリカ合衆国大使館が攻撃される、アメリカ大使館爆破事件が発生した。 2005年にはジャカヤ・キクウェテが大統領に就任し、2015年にはジョン・マグフリが大統領に就任した。 タンザニアは共和制、大統領制を国家体制とする立憲国家である。現行憲法であるタンザニア憲法(英語版)は1977年4月25日に制定(1984年10月に大幅改正)されたもの。 タンザニア政治の特徴として、他のアフリカ諸国に多く見られる、特定部族による政権の独占や民族による投票行動が見られないことがあげられる。これは、国内に特別大きな民族グループが存在しないこと、スワヒリ語による初等教育と、教育プログラムに盛り込まれた汎タンザニア史などを通じてタンザニア人としてのアイデンティティ創出に成功したこと、初代大統領ニエレレがウジャマー社会主義建設の過程で旧来の地方組織を解体したこと、複数政党制導入時に民族を基盤とした政党結成が禁じられたことなどが理由となっている。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。首相および閣僚は大統領により任命されるが、閣僚は国民議会議員でなければならない。2015年10月に与党信任で選出されたジョン・マグフリ第5代大統領が2021年3月17日に死去し、後任の第6代大統領として副大統領であったサミア・スルフ・ハッサンが同国初の女性の大統領として就任した。死去したマグフリの残余任期を引き継ぐ。 立法府は一院制で、正式名称は国民議会。定数は393議席で、うち264議席は国民の直接選挙枠(うち50議席は、ザンジバル5州内の選挙区より選出)、113議席は大統領が任命する女性議員枠、5議席はザンジバル革命議会議員の枠である。議員の任期は5年である。 1992年以来、タンザニアでは複数政党制が認められているが、タンザニア革命党(CCM)による政権が独立以来続いている。その他の政党の勢力は脆弱だが、市民統一戦線(CUF)と民主進歩党(CHADEMA)が比較的有力である。 連合共和国政府とは別に、ザンジバルには独自の自治政府であるザンジバル革命政府および議会が存在し、ザンジバルの内政を担っている。統治権が及ぶのはザンジバル島の3州、およびペンバ島の2州である。ザンジバル大統領はザンジバル住民の直接選挙で選出され、任期は5年である。ザンジバル議会は一院制で定数81議席。議員の任期は5年で、81議席中50議席はザンジバル住民の直接選挙により選出される。2021年現在のザンジバル大統領はタンザニア革命党 (CCM) のフセイン・ムウィニ(英語版)(第8代)。強力な自治政府であり、大陸からザンジバル島に渡る場合でも、入国管理手続きが存在する。タンガニーカの独自政府は存在しない。 一方で、ザンジバルにおいては首都のあるウングジャ島とペンバ島の間に対立がある。ペンバ島はザンジバル革命の時に旧政権側を支持したため、革命政権によって冷遇を受けた。この対立は民主化後でも続いており、ウングジャ島でタンザニア革命党が強い一方、ペンバ島はタンザニア最大野党・市民統一戦線の地盤となっている。ザンジバル経済はペンバ島でおもに栽培されるクローブの輸出を柱としているため、経済面での貢献に比してペンバ島が政治面で冷遇を受けていることがさらにこの対立を増幅している。 独立以来、ニエレレ大統領の下で第三世界外交が実践され、特にソビエト連邦よりも中華人民共和国との友好関係が築かれた。ザンビアからタンザニアに至るタンザン鉄道やタンザニア海軍基地なども中国の援助によって建設され、中国の支援でできたアマーン・スタジアム(英語版)でタンザニア革命党も設立された。もともと英領東アフリカ植民地として同一の政府機構の下にあったウガンダやケニアとは独立時から東アフリカ共同役務機構を設立しており、アルーシャに事務局を置く東アフリカ共同体(第一次)の盟主でもあったが、1977年にケニアと決裂して東アフリカ共同体は解体、1978年にはウガンダ・タンザニア戦争も起きた。その後、2001年に東アフリカ共同体はアルーシャで再結成され、再び協力体制が構築された。また、南部アフリカ開発調整会議(英語版)(SADCC)の設立経緯から、他の東アフリカ諸国は加盟していない南部アフリカ開発共同体(SADC)の一員でもある。 1960年代、日本から6人の技術専門家が送り込まれ、政治顧問や官僚として活動した。このことが縁となり、1969年にはタンザニアの大臣の発案で、キリマンジャロ州の1万4000平方キロの土地を日本に貸し、パイロット地区を形成しようとする案が持ち込まれた。 1976年、日本大使館の書記官が象牙の密輸を図っていたとして事実上の更迭を受けた。タンザニアでは当時から象牙の輸出は許可制となっており、規制を回避するために外交特権を利用して日本に送っていた疑い。象牙集めを手伝ったタンザニア従業員は警察の取り調べを受けた後に解雇されており、現地民や日系企業からは批難の声が上がった。 タンザニア人民防衛軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約2万7,000人である。兵制は志願制を採用している。2005年にはGDPの0.2%が軍事に支出された。 タンザニアの面積94万5,087km2は世界31位の広さでエジプトに続き、ナイジェリアとほぼ等しい。北東部にアフリカ最高峰のキリマンジャロ山(5,895メートル)があり、北部にアフリカ最大の面積を誇るビクトリア湖、西部にアフリカでもっとも深いタンガニーカ湖がある。この南のニアサ湖を含めアフリカ三大湖が存在する。これらはアフリカ大地溝帯が形成したものである。中部には高原が広がる。東部海岸は蒸し暑い気候で、ザンジバル島(ウングジャ島)がすぐ沖合にある。 気候は国土の大半がサバナ気候に属し、中央部がステップ気候、南部と北部の高原部が温暖冬季少雨気候である。降水量は海岸部やビクトリア湖岸、キリマンジャロ周辺では1,000ミリを超えるが、内陸部では500ミリ程度のところが多い。植生は、海岸部に熱帯半落葉降雨林が、内陸部にミオンボ(またはミヨンボ)と呼ばれる熱帯広葉雨緑乾燥林が広がっている。 生態学上貴重な野生公園が数多く存在する。北の有名なンゴロンゴロ保全地域とセレンゲティ国立公園、そして南にセルース猟獣保護区とルアハ国立公園とミクミ国立公園がある。西のゴンベ国立公園はジェーン・グドール博士がチンパンジーを研究したところである。タンザニア政府観光省が南西部ルクワ地域にあるカランボ滝を観光拠点にしようと努めている。この滝はタンガニーカ湖南端にあり、アフリカ第2の規模である。 タンザニア連合共和国は、タンガニーカの26州、ザンジバルの5州(ウングジャ島3州、ペンバ島2州)からなる。 1980年代中盤まで、タンザニアはジュリウス・ニエレレ大統領の下ウジャマー社会主義を標榜し、ウジャマー村と呼ばれる集団農場を中心とした社会主義経済を目指していた。しかし旧来の社会制度をまったく無視したこの方式は失敗に終わり、生活必需品の供給すら滞る状態となった。1985年にニエレレの後を継いだアリ・ハッサン・ムウィニ大統領は、IMFの勧告を受け入れ、貿易制限の緩和などを行い自由経済へと舵を切った。以後タンザニア経済は緩やかに回復へと向かい、1995年に就任したベンジャミン・ムカパ大統領の行った国営企業の民営化など政府セクターの民間への移動と、南アフリカ共和国などからの投資の拡大により、1995年から2005年までの経済成長率は平均5%を記録した。 タンザニア経済は農業に立脚しており、GDPの半分以上、輸出の80%、雇用の85%は農業によってもたらされている。キリマンジャロは上質のコーヒーとして世界中で愛好される主要輸出品である。ほかに茶が栽培される。ビクトリア湖周辺では、漁業と綿花栽培を中心とした農業が盛んに行われている。ビクトリア湖で捕獲されるナイルパーチ(スズキに食感が似た淡水魚)は加工され、世界各地に輸出されている。他に、カシューナッツなども主要輸出品となっている。一方、ザンジバル経済の根幹を成しているのがクローブの栽培である。19世紀半ばにオマーンのサイイド・サイードによって始められたクローブ栽培は、2015年現在ではザンジバルの主要な輸出品となっている。ザンジバルのクローブの90%はペンバ島で栽培されている。 鉱業では、宝石のタンザナイトを産出することで有名である。金はアフリカでは南ア、ガーナに次ぐ産出がある。また、ブルンジと同様、超塩基性岩にともなうNi-PGE鉱床が存在し、ニッケル・コバルト・銅が採掘されている。また、南部海域のガス田から天然ガスが生産されダルエスサラームと地方での発電に使われている。しかしタンザニアの電力の多くは水力発電によってまかなわれているため、旱魃の影響を受けやすく、水不足が電力不足に直結する。 タンザニアの観光業は成長を続けている。タンザニアにおける観光業はGDPの17.5%を占め、外貨収入の25%を占めており、金の輸出に次いで第2位の外貨獲得産業となっている。2004年にタンザニアに入国した観光客数は58万3,000人であり、1995年の2倍に達した。さらに2016年には観光客数は128万4,279人となっており、増加の一途を辿っている。観光客の目的はンゴロンゴロ保全地域やセレンゲティ国立公園などでのサファリ、キリマンジャロへの登山、ザンジバル島のストーン・タウンなど歴史遺産やザンジバルでのビーチリゾートなど多岐に渡っている。 交通網はあまり発達しておらず、輸送インフラも貧弱である。国内道路のうち、旧首都ダルエスサラームからキリマンジャロ山麓のアルーシャまでは舗装道路が通じているものの、他は未舗装の悪路である部分も多い。 鉄道は、タンザニア中央鉄道とタンザン鉄道の2社があり、前者はダルエスサラームから北へ向かいタンガやアルーシャを結ぶ路線と、西へ向かい首都ドドマ、タボラを通ってタンガニーカ湖畔のキゴマへ向かう路線、タボラから北へ向かいビクトリア湖畔のムワンザへと向かう3路線を運行している。後者は1976年に建設され、ダルエスサラームから南西へ向かい、マラウイ国境近くのムベヤを通ってザンビア領のカピリムポシまでを結んでいる。 水運は、タンガニーカとザンジバル間で活発であるほか、ビクトリア湖やタンガニーカ湖に国際フェリーが就航しており、ケニアやウガンダ、コンゴ民主共和国とを結んでいる。沿岸ではいまだにダウ船での輸送も行われている。 空運はかつて国営のタンザニア航空(英語版)の独占であったが、自由化により中小の航空会社が多く設立されるようになった。 バントゥー系黒人が国民の95%を占め、タンガニーカでは99%がアフリカ系黒人であり、1%ほどのヨーロッパ系、アラブ系、インド系の市民が存在する。ザンジバルではアラブ人、アフリカ系黒人の他に、両者の混血が存在する。また、アフリカ系黒人はザンジバル原住民と大陸からの移住民に別れ、ザンジバル原住民はイランのシーラーズからの移民の子孫であるとしてシラジと名乗り、混血民も含めてひとつの民族としてのアイデンティティを持つ。おもな民族はスクマ人(英語版)、ハヤ人(英語版)、ニャキュサ人(英語版)、ニャムウェジ人、チャガ人、マコンデ族などである。それ以外にはトングェ族、ハッザ族などが存在する。また、北部からケニア南部にかけて、先住民であり遊牧民のマサイ族も存在する。 言語は、スワヒリ語が国語であり、スワヒリ語と英語が公用語である。 スワヒリ語は国語の扱いを受けており、1960年のタンガニーカ独立時にはすでに公用語に指定されていた。これは旧宗主国の言語をそのまま公用語に指定した他のアフリカ諸国とは大きく異なる点である。1961年のザンジバルとの連合後、スワヒリ語母語話者がほとんどを占めるザンジバルを加えたことでこの政策はより推進されることとなった。1967年のウジャマー社会主義政策の採用以来、スワヒリ語の近代言語化や教育による普及が進められた。タンザニア憲法はスワヒリ語で書かれており、大衆文化の中でもテレビやラジオ、ポピュラー音楽などで用いられ、タンザニアにおいてスワヒリ語は国民統合のための言語としての地位を与えられている。その結果、タンザニアでは国民のほぼ100%がスワヒリ語を解するとされ、国家内で同一の言語が通じることはタンザニアの政情安定に大きく貢献しているとされる。一方で、スワヒリ語での教育は初等教育に限られ、中等教育以降へのスワヒリ語導入は進んでいない。2015年にはタンザニア政府は中等教育以降においても教授言語を英語からスワヒリ語へ転換する政策を表明し、実現されればサブサハラアフリカでは初の試みとなる。 宗教は、タンガニーカではキリスト教が30%、イスラム教が35%、伝統的宗教が35%である。ザンジバルではほぼ100%がイスラム教である。 学制は初等教育が7年、前期中等教育が4年、後期中等教育が2年、高等教育が3年の7-4-2-3制。義務教育は初等教育のみである。初等教育は2001年より無償化し、これにより就学率が大幅に向上した。現在、初等教育の就学率は97.3%である。前期中等教育は20.7%、後期中等教育は0.9%。教育言語は、初等教育は公用語であるスワヒリ語であるが、中等教育以降は英語が教育言語である。 2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は69.4%(男性:77.5%、女性:62.2%)である。1999年にはGDPの2.2%が教育に支出された。 おもな高等教育機関としては、ダルエスサラーム大学やソコイネ農業大学の名がげられる。 かつては衛生状態が劣悪で、1978年1月には首都ダニエスサラームを中心にコレラ患者が多発、180人以上の死者が出た。政府はトイレの環境改善を奨励した結果、2020年現在、都市部では改善されたトイレを利用できる人口比率は30%を超える状態となっている。 タンザニアにおける2007年のHIV感染者は推計で約140万人であり、感染率は6.2%である。タンザニア人の平均寿命は52.01歳(男性:50.56歳、女性:53.51歳)である。 タンザニアの治安はかなり危険な状況となっている。同国では全土において一般犯罪が日常的に発生しているとの情報がある。特に都市部においては、強盗(主に路上強盗や車両強盗)、住居侵入、空き巣、詐欺、ひったくりが多く発生しており、銃器が使用される凶悪犯罪も発生している。 2020年10月には隣国モザンビーク北部のカーボデルガード州における治安悪化が波及する形で、タンザニアで初めてイスラム国に関係するとみられる武装グループによるムトワラ州村民襲撃事件が発生。その後もモザンビークとの国境地域では武装グループによる襲撃事件も多発しており、更に翌年2021年8月にはダルエスサラーム市で銃発砲事件が発生している。 また、隣国からの密入国者も多く、これらの中には武器を所持しているケースもあるなど、難民流入に伴い治安の悪化が懸念されている。加えて、近隣国のウガンダではISとの関係が疑われるテロ事件が続発しているのが現状である。その為、滞在する際にはこうした状況のタンザニアへの波及リスクを念頭に充分留意する必要が求められる。 タンザニアにはメディア評議会が存在しており、評議会は1995年に開設された。2003年に成立した「タンザニア通信規制法」により、放送ライセンスを監督する「タンザニア通信規制当局」が創設されている。 ウガリと呼ばれるトウモロコシの粉を練ったもの、または米が主食で、これにトマトベースのスープなどのおかずをつけて食べるのが一般的である。プランテン・バナナやキャッサバ、チャパティなどを食べる地域もある。 タンザニアにおける文学は、20世紀後半まで主に口承文学を主体としていた。タンザニア国内で記録されている口承文学の大部分はスワヒリ語であるが、同国の言語にはそれぞれ独自の口承の伝統が根付いている為、必ずしも画一されたものとはなっていない。 ポピュラー音楽においては、1980年代からダルエスサラームで発達したレゲエやヒップ・ホップの影響を受けたボンゴフレーバー、20世紀前半にザンジバルで発達したタアラブやその現代版のモダン・タアラブなどが存在する。1980年代にはジャマイカ発祥のレゲエの汎アフリカ主義のメッセージが一定の力を持ち、タンザニア人ラスタファリアンが存在した。なお、伝統音楽においては親指ピアノ、ンゴマなどが存在する。 南部に居住するマコンデ人のシェタニ(精霊)をモチーフとした黒檀の彫刻はタンザニアの美術において特筆される。 現代タンザニアを代表する画家、ジョージ・リランガ(英語版)もシェタニをモチーフに絵画や彫刻を製作した。その他にもタンザニアで発展を遂げたポップアートとして、エドワード・サイディ・ティンガティンガ(英語版)が1960年代に大成したティンガティンガ派絵画の存在が挙げられる。 タンザニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が4件存在する。 タンザニア国内でも他のアフリカ諸国同様、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1965年にサッカーリーグのタンザニアン・プレミアリーグが創設された。タンザニアサッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカータンザニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。アフリカネイションズカップには2度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "タンザニア連合共和国(タンザニアれんごうきょうわこく)、通称タンザニアは、東アフリカにある共和制国家。イギリス連邦加盟国。ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウイ、モザンビークと国境を接し、タンガニーカ湖対岸にはコンゴ民主共和国があり、またインド洋に面する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1996年に立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマに移転されたが、その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラームにある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "タンザニアは東アフリカ大陸部のタンガニーカとインド洋島嶼部のザンジバルから構成され、ザンジバルは中央政府から強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、アフリカでも有数の大自然に恵まれ、文化的にもスワヒリ語を国語とし、アフリカ在来の言語が大きな役割を果たしている数少ない国家である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "正式名称は、スワヒリ語で Jamhuri ya Muungano wa Tanzania(ジャムフリ・ヤ・ムウンガーノ・ワ・タンザニア)。英語で United Republic of Tanzania(ユナイテッド・リパブリック・オブ・タンザニア)。通称、Tanzania(タンザニア)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、タンザニア連合共和国。通称、タンザニア。漢字表記は、坦桑尼亜。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国名はタンザニアを構成するために併合したタンガニーカ(Tanganyika)とザンジバル(Zanzibar)の名前に、かつてアフリカ南部で栄えたアザニア文化(英語版)(Azania)の名前を複合して1964年に命名された。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "250万 - 200万年前にホモ・ハビリスが現在のタンザニアに相当する地域(北部のオルドヴァイ峡谷)に存在していたことが、ルイス・リーキー博士によって確認されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "紀元前10世紀ごろ、現在のカメルーンに相当する地域からバントゥー系民族がタンザニアの森林部に移住した(en:Bantu expansion)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "7世紀にアラビア半島でイスラーム教が成立したあと、アラブ人やペルシア人が東アフリカのインド洋沿岸部に渡来し、スワヒリ文明を築きあげた。10世紀ごろから16世紀初頭にかけて、タンザニアにはキルワ島やマフィア島、バガモヨなどのスワヒリ都市が栄えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1498年にポルトガル王国の航海者ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓し、インド洋におけるポルトガルの覇権が始まった。ポルトガルは1505年にキルワ王国を滅ぼしたあと、東アフリカの各地を制圧した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アラブ勢力の拡大にともない、ポルトガル勢力はオマーンによって1698年に現在のタンザニア領から駆逐され、南方のモザンビーク島にまで撤退した。その後、19世紀に入るとオマーン帝国(アラビア語: الإمبراطورية العمانية)のサイイド・サイード王が在地のマズルイ家から島嶼部と沿岸地方を自らの勢力圏に置き、1830年代にザンジバルに王宮ストーンタウンを建設し、帝国の本拠地を移した。1856年にサイイド・サイード王が死亡したあと、本国のオマーン・スルタン国とは別にサイイド・マージドがザンジバルのスルターンに即位するとザンジバル・スルタン国(Sultanate of Zanzibar、1856年 - 1964年)が成立し、引き続きクローヴなどの香辛料の交易や奴隷貿易で栄え、この時代にザンジバルは東アフリカ最大の奴隷市場となった。19世紀後半には、ザンジバル出身のスワヒリ商人ティップー・ティプが現在のコンゴ民主共和国東部に相当するタンガニーカ湖にまで勢力を伸ばし、内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となった。彼はデイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーの探険も助けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1880年代にアフリカ分割が始まると、カール・ペータースの活動によって1885年に大陸部にドイツ東アフリカ会社の植民地が認可された(ドイツ領東アフリカ)。19世紀後半からインド洋に進出していたイギリスは、1890年7月1日にドイツとヘルゴランド=ザンジバル条約を締結し、ザンジバル領のうち、沿岸地方はドイツが獲得し、島嶼部のザンジバルをイギリスの保護国とした。1890年に保護国となったザンジバル・スルタン国は、政変にともなう1896年のイギリスとの戦争でイギリスに一方的に敗北し、保護国化当初のザンジバルへの内政不干渉の原則は反故にされ、以後ザンジバルではイギリスによる行政が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方、大陸部のタンガニーカでは、ペータースの植民地会社は沿岸地方で発生したアブシリの反乱の鎮圧に手こずり、会社による統治は不可能と判断され、本国ドイツから総督の派遣を受ける統治形態へと変わった。19世紀末、領域内部には部族国家が複数存在しており、中でもルヴマ州のソンゲア・ルワフ・ムバノ率いるンゴニ族とイリンガ州のムクワワ率いるヘヘ族(英語版)が二大勢力であったが、相争っていたため、数年がかりで各個制圧されていった。しかしながら、指導者ムクワワが率いるヘヘ族(英語版)とのゲリラ戦(1891年 - 1898年)は長期化した。1905年の霊媒師キンジキティレ・ングワレ(英語版)(Kinjikitile Ngwale)が主導するマジ・マジ反乱はンゴニ族も呼応して最大の反乱となったが、ヘヘ族がドイツ側について部族の垣根を越えることはできず、徹底的に鎮圧された。この反乱を受けて、ドイツは統治政策の見直しを行うこととなった。沿岸部からタンガニーカ湖までを結ぶ鉄道(ドイツ語: Tanganjikabahn現在のタンザニア中央鉄道(英語版))は、1905年にダルエスサラームを起点に着工し、1914年には終点キゴマに到達して完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1914年に第一次世界大戦が勃発すると、東アフリカ戦線ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍率いる現地人兵士(アスカリ)を中心としたゲリラ部隊がイギリス軍などを相手に本国の降伏時まで交戦を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦がドイツの敗北で終結したことによりドイツ領東アフリカは解体され、大半はイギリスの委任統治領タンガニーカとなり、東北部のルアンダ=ウルンディはベルギーの委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域(ウガンダ、ケニア、タンガニーカ、ザンジバル)を支配することとなり、これらには関税同盟が敷かれ、ドイツ領東アフリカルピー(英語版)に代えて共通通貨東アフリカ・シリング(英語版)が導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設され、そのひとつはヴィクトリア湖のムワンザにまで延長された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1939年に第二次世界大戦が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは8万7,000人が出征した。東アフリカ部隊は東アフリカ戦線でイタリア軍と、ビルマ戦線で日本軍との戦いを繰り広げ、インパール作戦で日本軍が対峙したイギリス軍には多くのアフリカ人のアスカリが存在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の潮流の中でタンガニーカ=アフリカ人民族同盟(英語版)(TANU)が次第に支持を集め、1961年12月9日に大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立した。1963年にはザンジバル王国も主権を獲得して独立した。しかし、翌1964年1月にザンジバルで革命が勃発すると国王は亡命し、アラブ人排斥の流血の事態の中でザンジバル人民共和国が成立した。その後、ザンジバルでの政変を経て、ニエレレの汎アフリカ主義の精神の下で両国は連合し、1964年4月26日にタンガニーカ・ザンジバル連合共和国が成立した。同年10月29日、この国家連合は両国の名称とかつてこの地域で栄えたアザニア文化(英語版)の名称を複合し、タンザニア連合共和国と改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "独立後、連合共和国の初代大統領となったジュリウス・ニエレレは、内政面ではスワヒリ語を国語とし、1967年のアルーシャ宣言(英語版)発令以後は社会主義の建設を目指し、ウジャマー(英語版)と呼ばれるコンセプトに基づいたアフリカ社会主義を採用した(ウジャマー社会主義)。対外的には東アフリカ諸国を東アフリカ連邦(英語版)に統合する構想を掲げ、アルーシャを本部とする東アフリカ共同体(第一次)を作り、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政権やローデシアの対白人少数派支配に対抗する「最前線」としてザンビアやボツワナとフロントライン諸国(英語版)(FLS)を結成して、ニエレレは初代議長を務めた。また、ローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を図るタンザン鉄道の建設などを通じて中華人民共和国との関係を深め、ポルトガルとも敵対し、1964年にモザンビーク独立戦争が始まると、エドゥアルド・モンドラーネ議長の指導するモザンビーク解放戦線(FRELIMO)を支援し、解放区を提供した。この時期にタンザニアはFRELIMOのみならず、ナミビアの南西アフリカ人民機構(SWAPO)やジンバブエのジンバブエ=アフリカ人民族同盟(英語版)(ZANU)を支援している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1971年にミルトン・オボテがイディ・アミンのクーデターによって追放されて以来、オボテをかくまったタンザニアは隣国ウガンダとは対立が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1977年にそれまで別組織だったTANUとアフロ・シラジ党(英語版)(ASP)が統合し、タンザニア革命党が成立し、国内でも一党制に移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1978年にそれまで対立していたウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻するとこれを撃退し、タンザニア軍はウガンダの首都カンパラを攻略してアミン失脚の一因となった(ウガンダ・タンザニア戦争)。こうした政策によってタンザニアはアフリカ内外で第三世界を指導する国家の一角としての信望を集めたが、その一方で1970年代に入ると親西側的なケニアのジョモ・ケニヤッタとの対立で自らの理想を体現した東アフリカ共同体は消滅し、旱魃による農業の衰退や、ウジャマー村の建設の失敗が各地で報告され、経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1980年代に入ると第二次石油危機の影響もあって経済の衰退は深刻化し、日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる中、1985年11月にニエレレは引退を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "後任には与党タンザニア革命党からザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニが就任し、ムウィニの下でIMFの勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められ、また複数政党制が認められて民主化が行われた。1995年に就任したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ大統領の時代には、1994年に民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1998年8月7日にはアルカイーダによって首都ダルエスサラームの駐タンザニアアメリカ合衆国大使館が攻撃される、アメリカ大使館爆破事件が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2005年にはジャカヤ・キクウェテが大統領に就任し、2015年にはジョン・マグフリが大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "タンザニアは共和制、大統領制を国家体制とする立憲国家である。現行憲法であるタンザニア憲法(英語版)は1977年4月25日に制定(1984年10月に大幅改正)されたもの。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "タンザニア政治の特徴として、他のアフリカ諸国に多く見られる、特定部族による政権の独占や民族による投票行動が見られないことがあげられる。これは、国内に特別大きな民族グループが存在しないこと、スワヒリ語による初等教育と、教育プログラムに盛り込まれた汎タンザニア史などを通じてタンザニア人としてのアイデンティティ創出に成功したこと、初代大統領ニエレレがウジャマー社会主義建設の過程で旧来の地方組織を解体したこと、複数政党制導入時に民族を基盤とした政党結成が禁じられたことなどが理由となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。首相および閣僚は大統領により任命されるが、閣僚は国民議会議員でなければならない。2015年10月に与党信任で選出されたジョン・マグフリ第5代大統領が2021年3月17日に死去し、後任の第6代大統領として副大統領であったサミア・スルフ・ハッサンが同国初の女性の大統領として就任した。死去したマグフリの残余任期を引き継ぐ。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "立法府は一院制で、正式名称は国民議会。定数は393議席で、うち264議席は国民の直接選挙枠(うち50議席は、ザンジバル5州内の選挙区より選出)、113議席は大統領が任命する女性議員枠、5議席はザンジバル革命議会議員の枠である。議員の任期は5年である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1992年以来、タンザニアでは複数政党制が認められているが、タンザニア革命党(CCM)による政権が独立以来続いている。その他の政党の勢力は脆弱だが、市民統一戦線(CUF)と民主進歩党(CHADEMA)が比較的有力である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "連合共和国政府とは別に、ザンジバルには独自の自治政府であるザンジバル革命政府および議会が存在し、ザンジバルの内政を担っている。統治権が及ぶのはザンジバル島の3州、およびペンバ島の2州である。ザンジバル大統領はザンジバル住民の直接選挙で選出され、任期は5年である。ザンジバル議会は一院制で定数81議席。議員の任期は5年で、81議席中50議席はザンジバル住民の直接選挙により選出される。2021年現在のザンジバル大統領はタンザニア革命党 (CCM) のフセイン・ムウィニ(英語版)(第8代)。強力な自治政府であり、大陸からザンジバル島に渡る場合でも、入国管理手続きが存在する。タンガニーカの独自政府は存在しない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一方で、ザンジバルにおいては首都のあるウングジャ島とペンバ島の間に対立がある。ペンバ島はザンジバル革命の時に旧政権側を支持したため、革命政権によって冷遇を受けた。この対立は民主化後でも続いており、ウングジャ島でタンザニア革命党が強い一方、ペンバ島はタンザニア最大野党・市民統一戦線の地盤となっている。ザンジバル経済はペンバ島でおもに栽培されるクローブの輸出を柱としているため、経済面での貢献に比してペンバ島が政治面で冷遇を受けていることがさらにこの対立を増幅している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "独立以来、ニエレレ大統領の下で第三世界外交が実践され、特にソビエト連邦よりも中華人民共和国との友好関係が築かれた。ザンビアからタンザニアに至るタンザン鉄道やタンザニア海軍基地なども中国の援助によって建設され、中国の支援でできたアマーン・スタジアム(英語版)でタンザニア革命党も設立された。もともと英領東アフリカ植民地として同一の政府機構の下にあったウガンダやケニアとは独立時から東アフリカ共同役務機構を設立しており、アルーシャに事務局を置く東アフリカ共同体(第一次)の盟主でもあったが、1977年にケニアと決裂して東アフリカ共同体は解体、1978年にはウガンダ・タンザニア戦争も起きた。その後、2001年に東アフリカ共同体はアルーシャで再結成され、再び協力体制が構築された。また、南部アフリカ開発調整会議(英語版)(SADCC)の設立経緯から、他の東アフリカ諸国は加盟していない南部アフリカ開発共同体(SADC)の一員でもある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1960年代、日本から6人の技術専門家が送り込まれ、政治顧問や官僚として活動した。このことが縁となり、1969年にはタンザニアの大臣の発案で、キリマンジャロ州の1万4000平方キロの土地を日本に貸し、パイロット地区を形成しようとする案が持ち込まれた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1976年、日本大使館の書記官が象牙の密輸を図っていたとして事実上の更迭を受けた。タンザニアでは当時から象牙の輸出は許可制となっており、規制を回避するために外交特権を利用して日本に送っていた疑い。象牙集めを手伝ったタンザニア従業員は警察の取り調べを受けた後に解雇されており、現地民や日系企業からは批難の声が上がった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "タンザニア人民防衛軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約2万7,000人である。兵制は志願制を採用している。2005年にはGDPの0.2%が軍事に支出された。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "タンザニアの面積94万5,087km2は世界31位の広さでエジプトに続き、ナイジェリアとほぼ等しい。北東部にアフリカ最高峰のキリマンジャロ山(5,895メートル)があり、北部にアフリカ最大の面積を誇るビクトリア湖、西部にアフリカでもっとも深いタンガニーカ湖がある。この南のニアサ湖を含めアフリカ三大湖が存在する。これらはアフリカ大地溝帯が形成したものである。中部には高原が広がる。東部海岸は蒸し暑い気候で、ザンジバル島(ウングジャ島)がすぐ沖合にある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "気候は国土の大半がサバナ気候に属し、中央部がステップ気候、南部と北部の高原部が温暖冬季少雨気候である。降水量は海岸部やビクトリア湖岸、キリマンジャロ周辺では1,000ミリを超えるが、内陸部では500ミリ程度のところが多い。植生は、海岸部に熱帯半落葉降雨林が、内陸部にミオンボ(またはミヨンボ)と呼ばれる熱帯広葉雨緑乾燥林が広がっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "生態学上貴重な野生公園が数多く存在する。北の有名なンゴロンゴロ保全地域とセレンゲティ国立公園、そして南にセルース猟獣保護区とルアハ国立公園とミクミ国立公園がある。西のゴンベ国立公園はジェーン・グドール博士がチンパンジーを研究したところである。タンザニア政府観光省が南西部ルクワ地域にあるカランボ滝を観光拠点にしようと努めている。この滝はタンガニーカ湖南端にあり、アフリカ第2の規模である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "タンザニア連合共和国は、タンガニーカの26州、ザンジバルの5州(ウングジャ島3州、ペンバ島2州)からなる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1980年代中盤まで、タンザニアはジュリウス・ニエレレ大統領の下ウジャマー社会主義を標榜し、ウジャマー村と呼ばれる集団農場を中心とした社会主義経済を目指していた。しかし旧来の社会制度をまったく無視したこの方式は失敗に終わり、生活必需品の供給すら滞る状態となった。1985年にニエレレの後を継いだアリ・ハッサン・ムウィニ大統領は、IMFの勧告を受け入れ、貿易制限の緩和などを行い自由経済へと舵を切った。以後タンザニア経済は緩やかに回復へと向かい、1995年に就任したベンジャミン・ムカパ大統領の行った国営企業の民営化など政府セクターの民間への移動と、南アフリカ共和国などからの投資の拡大により、1995年から2005年までの経済成長率は平均5%を記録した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "タンザニア経済は農業に立脚しており、GDPの半分以上、輸出の80%、雇用の85%は農業によってもたらされている。キリマンジャロは上質のコーヒーとして世界中で愛好される主要輸出品である。ほかに茶が栽培される。ビクトリア湖周辺では、漁業と綿花栽培を中心とした農業が盛んに行われている。ビクトリア湖で捕獲されるナイルパーチ(スズキに食感が似た淡水魚)は加工され、世界各地に輸出されている。他に、カシューナッツなども主要輸出品となっている。一方、ザンジバル経済の根幹を成しているのがクローブの栽培である。19世紀半ばにオマーンのサイイド・サイードによって始められたクローブ栽培は、2015年現在ではザンジバルの主要な輸出品となっている。ザンジバルのクローブの90%はペンバ島で栽培されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "鉱業では、宝石のタンザナイトを産出することで有名である。金はアフリカでは南ア、ガーナに次ぐ産出がある。また、ブルンジと同様、超塩基性岩にともなうNi-PGE鉱床が存在し、ニッケル・コバルト・銅が採掘されている。また、南部海域のガス田から天然ガスが生産されダルエスサラームと地方での発電に使われている。しかしタンザニアの電力の多くは水力発電によってまかなわれているため、旱魃の影響を受けやすく、水不足が電力不足に直結する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "タンザニアの観光業は成長を続けている。タンザニアにおける観光業はGDPの17.5%を占め、外貨収入の25%を占めており、金の輸出に次いで第2位の外貨獲得産業となっている。2004年にタンザニアに入国した観光客数は58万3,000人であり、1995年の2倍に達した。さらに2016年には観光客数は128万4,279人となっており、増加の一途を辿っている。観光客の目的はンゴロンゴロ保全地域やセレンゲティ国立公園などでのサファリ、キリマンジャロへの登山、ザンジバル島のストーン・タウンなど歴史遺産やザンジバルでのビーチリゾートなど多岐に渡っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "交通網はあまり発達しておらず、輸送インフラも貧弱である。国内道路のうち、旧首都ダルエスサラームからキリマンジャロ山麓のアルーシャまでは舗装道路が通じているものの、他は未舗装の悪路である部分も多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "鉄道は、タンザニア中央鉄道とタンザン鉄道の2社があり、前者はダルエスサラームから北へ向かいタンガやアルーシャを結ぶ路線と、西へ向かい首都ドドマ、タボラを通ってタンガニーカ湖畔のキゴマへ向かう路線、タボラから北へ向かいビクトリア湖畔のムワンザへと向かう3路線を運行している。後者は1976年に建設され、ダルエスサラームから南西へ向かい、マラウイ国境近くのムベヤを通ってザンビア領のカピリムポシまでを結んでいる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "水運は、タンガニーカとザンジバル間で活発であるほか、ビクトリア湖やタンガニーカ湖に国際フェリーが就航しており、ケニアやウガンダ、コンゴ民主共和国とを結んでいる。沿岸ではいまだにダウ船での輸送も行われている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "空運はかつて国営のタンザニア航空(英語版)の独占であったが、自由化により中小の航空会社が多く設立されるようになった。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "バントゥー系黒人が国民の95%を占め、タンガニーカでは99%がアフリカ系黒人であり、1%ほどのヨーロッパ系、アラブ系、インド系の市民が存在する。ザンジバルではアラブ人、アフリカ系黒人の他に、両者の混血が存在する。また、アフリカ系黒人はザンジバル原住民と大陸からの移住民に別れ、ザンジバル原住民はイランのシーラーズからの移民の子孫であるとしてシラジと名乗り、混血民も含めてひとつの民族としてのアイデンティティを持つ。おもな民族はスクマ人(英語版)、ハヤ人(英語版)、ニャキュサ人(英語版)、ニャムウェジ人、チャガ人、マコンデ族などである。それ以外にはトングェ族、ハッザ族などが存在する。また、北部からケニア南部にかけて、先住民であり遊牧民のマサイ族も存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "言語は、スワヒリ語が国語であり、スワヒリ語と英語が公用語である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "スワヒリ語は国語の扱いを受けており、1960年のタンガニーカ独立時にはすでに公用語に指定されていた。これは旧宗主国の言語をそのまま公用語に指定した他のアフリカ諸国とは大きく異なる点である。1961年のザンジバルとの連合後、スワヒリ語母語話者がほとんどを占めるザンジバルを加えたことでこの政策はより推進されることとなった。1967年のウジャマー社会主義政策の採用以来、スワヒリ語の近代言語化や教育による普及が進められた。タンザニア憲法はスワヒリ語で書かれており、大衆文化の中でもテレビやラジオ、ポピュラー音楽などで用いられ、タンザニアにおいてスワヒリ語は国民統合のための言語としての地位を与えられている。その結果、タンザニアでは国民のほぼ100%がスワヒリ語を解するとされ、国家内で同一の言語が通じることはタンザニアの政情安定に大きく貢献しているとされる。一方で、スワヒリ語での教育は初等教育に限られ、中等教育以降へのスワヒリ語導入は進んでいない。2015年にはタンザニア政府は中等教育以降においても教授言語を英語からスワヒリ語へ転換する政策を表明し、実現されればサブサハラアフリカでは初の試みとなる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "宗教は、タンガニーカではキリスト教が30%、イスラム教が35%、伝統的宗教が35%である。ザンジバルではほぼ100%がイスラム教である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "学制は初等教育が7年、前期中等教育が4年、後期中等教育が2年、高等教育が3年の7-4-2-3制。義務教育は初等教育のみである。初等教育は2001年より無償化し、これにより就学率が大幅に向上した。現在、初等教育の就学率は97.3%である。前期中等教育は20.7%、後期中等教育は0.9%。教育言語は、初等教育は公用語であるスワヒリ語であるが、中等教育以降は英語が教育言語である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は69.4%(男性:77.5%、女性:62.2%)である。1999年にはGDPの2.2%が教育に支出された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "おもな高等教育機関としては、ダルエスサラーム大学やソコイネ農業大学の名がげられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "かつては衛生状態が劣悪で、1978年1月には首都ダニエスサラームを中心にコレラ患者が多発、180人以上の死者が出た。政府はトイレの環境改善を奨励した結果、2020年現在、都市部では改善されたトイレを利用できる人口比率は30%を超える状態となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "タンザニアにおける2007年のHIV感染者は推計で約140万人であり、感染率は6.2%である。タンザニア人の平均寿命は52.01歳(男性:50.56歳、女性:53.51歳)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "タンザニアの治安はかなり危険な状況となっている。同国では全土において一般犯罪が日常的に発生しているとの情報がある。特に都市部においては、強盗(主に路上強盗や車両強盗)、住居侵入、空き巣、詐欺、ひったくりが多く発生しており、銃器が使用される凶悪犯罪も発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2020年10月には隣国モザンビーク北部のカーボデルガード州における治安悪化が波及する形で、タンザニアで初めてイスラム国に関係するとみられる武装グループによるムトワラ州村民襲撃事件が発生。その後もモザンビークとの国境地域では武装グループによる襲撃事件も多発しており、更に翌年2021年8月にはダルエスサラーム市で銃発砲事件が発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また、隣国からの密入国者も多く、これらの中には武器を所持しているケースもあるなど、難民流入に伴い治安の悪化が懸念されている。加えて、近隣国のウガンダではISとの関係が疑われるテロ事件が続発しているのが現状である。その為、滞在する際にはこうした状況のタンザニアへの波及リスクを念頭に充分留意する必要が求められる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "タンザニアにはメディア評議会が存在しており、評議会は1995年に開設された。2003年に成立した「タンザニア通信規制法」により、放送ライセンスを監督する「タンザニア通信規制当局」が創設されている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ウガリと呼ばれるトウモロコシの粉を練ったもの、または米が主食で、これにトマトベースのスープなどのおかずをつけて食べるのが一般的である。プランテン・バナナやキャッサバ、チャパティなどを食べる地域もある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "タンザニアにおける文学は、20世紀後半まで主に口承文学を主体としていた。タンザニア国内で記録されている口承文学の大部分はスワヒリ語であるが、同国の言語にはそれぞれ独自の口承の伝統が根付いている為、必ずしも画一されたものとはなっていない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ポピュラー音楽においては、1980年代からダルエスサラームで発達したレゲエやヒップ・ホップの影響を受けたボンゴフレーバー、20世紀前半にザンジバルで発達したタアラブやその現代版のモダン・タアラブなどが存在する。1980年代にはジャマイカ発祥のレゲエの汎アフリカ主義のメッセージが一定の力を持ち、タンザニア人ラスタファリアンが存在した。なお、伝統音楽においては親指ピアノ、ンゴマなどが存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "南部に居住するマコンデ人のシェタニ(精霊)をモチーフとした黒檀の彫刻はタンザニアの美術において特筆される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "現代タンザニアを代表する画家、ジョージ・リランガ(英語版)もシェタニをモチーフに絵画や彫刻を製作した。その他にもタンザニアで発展を遂げたポップアートとして、エドワード・サイディ・ティンガティンガ(英語版)が1960年代に大成したティンガティンガ派絵画の存在が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "タンザニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が4件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "タンザニア国内でも他のアフリカ諸国同様、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1965年にサッカーリーグのタンザニアン・プレミアリーグが創設された。タンザニアサッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカータンザニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。アフリカネイションズカップには2度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。", "title": "スポーツ" } ]
タンザニア連合共和国(タンザニアれんごうきょうわこく)、通称タンザニアは、東アフリカにある共和制国家。イギリス連邦加盟国。ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウイ、モザンビークと国境を接し、タンガニーカ湖対岸にはコンゴ民主共和国があり、またインド洋に面する。 1996年に立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマに移転されたが、その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラームにある。
{{基礎情報 国 | 略名 = タンザニア | 日本語国名 = タンザニア連合共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|sw|Jamhuri ya Muungano wa Tanzania}}''' <small>(スワヒリ語)</small><br />'''{{Lang|en|United Republic of Tanzania }}''' <small>(英語)</small> | 国旗画像 = Flag of Tanzania.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of tanzania.svg|100px|タンザニアの国章]] | 国章リンク = ([[タンザニアの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|sw|Uhuru na Umoja}}''<br />([[スワヒリ語]]: "自由と統一") | 位置画像 = Tanzania (orthographic projection).svg | 公用語 = [[スワヒリ語]](国語、公用語)、[[英語]](公用語)<ref name="名前なし-1">[https://www.tanzania.go.tz/home/pages/223 Tanzania Goverment Portal :languages] タンザニア連合共和国政府 2019年1月1日閲覧 </ref> <ref name="名前なし-2">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tanzania/data.html 各国・地域情勢 国名:タンザニア連合共和国(United Republic of Tanzania)] 外務省 2019年1月1日閲覧</ref> | 首都 = [[ドドマ]] | 最大都市 = [[ダルエスサラーム]] | 元首等肩書 = [[タンザニアの大統領一覧|大統領]] | 元首等氏名 = [[サミア・スルフ・ハッサン]] | 首相等肩書 = {{仮リンク|タンザニアの副大統領|en|Vice President of Tanzania|label=副大統領}} | 首相等氏名 = {{仮リンク|フィリップ・ムパンゴ|en|Philip Mpango}} | 他元首等肩書1 = [[タンザニアの首相|首相]] | 他元首等氏名1 = {{仮リンク|カシム・マジャリワ|en|Kassim Majaliwa}} | 面積順位 = 30 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 945,087 | 水面積率 = 6.2% | 人口統計年 = 2022 | 人口順位 = 23 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 63,852,892<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/tanzania/ |title=Tanzania |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |accessdate=2022年8月8日}}</ref> | 人口密度値 = 67.6 | 人口追記 = (ザンジバルを含む) | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 148兆5221億1100万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月17日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=738,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 71 | GDP値MER = 644億300万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 1110.37(推計)2<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 74 | GDP値 = 1696億8900万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 2925.615(推計)<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;タンガニーカ<br />&nbsp;-&nbsp;ザンジバル<br />&nbsp;-&nbsp;合併 | 建国年月日 = [[イギリス]]より<br />[[1961年]][[12月9日]]<br />[[1963年]][[12月19日]]<br />[[1964年]][[4月26日]] | 通貨 = [[タンザニア・シリング]] | 通貨コード = TZS | 時間帯 = (+3) | 夏時間 = なし | 国歌名 = | ISO 3166-1 = TZ / TZA | ccTLD = [[.tz]] | 国際電話番号 = 255 <sup>3</sup> | 注記 = <references /> <br /> 註1: データは本土のみ<br />註2: 立法府の議事堂は[[ドドマ]]、その他の政府官庁は[[ダルエスサラーム]]<br />註3: ケニアとウガンダから掛ける場合は 007 |国歌=[[神よ、アフリカに祝福を|{{lang|sw|Mungu ibariki Afrika}}]]{{sw icon}}<br>''神よ、アフリカに祝福を''<br>[[ファイル:Tanzanian national anthem, performed by the United States Navy Band.oga]] }} '''タンザニア連合共和国'''(タンザニアれんごうきょうわこく)、通称'''タンザニア'''は、[[東アフリカ]]にある[[共和制]][[国家]]。[[イギリス連邦]]加盟国。[[ケニア]]、[[ウガンダ]]、[[ルワンダ]]、[[ブルンジ]]、[[ザンビア]]、[[マラウイ]]、[[モザンビーク]]と国境を接し、[[タンガニーカ湖]]対岸には[[コンゴ民主共和国]]があり、また[[インド洋]]に面する。 [[1996年]]に立法府の議事堂が法律上の新首都[[ドドマ]]に移転されたが、その他の政府官庁は旧首都[[ダルエスサラーム]]にある。 == 概要 == タンザニアは東アフリカ大陸部の[[タンガニーカ]]とインド洋島嶼部の[[ザンジバル]]から構成され、ザンジバルは中央政府から強い自治権を確保した[[ザンジバル革命政府]]によって統治されている。 また、[[アフリカ]]でも有数の大自然に恵まれ、文化的にも[[スワヒリ語]]を国語とし、アフリカ在来の言語が大きな役割を果たしている数少ない国家である。 == 国名 == 正式名称は、[[スワヒリ語]]で '''Jamhuri ya Muungano wa Tanzania'''(ジャムフリ・ヤ・ムウンガーノ・ワ・タンザニア)。英語で ''United Republic of Tanzania''(ユナイテッド・リパブリック・オブ・タンザニア)。通称、''Tanzania''(タンザニア)。 日本語の表記は、'''タンザニア連合共和国'''。通称、'''タンザニア'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は、'''坦桑尼亜'''。 国名はタンザニアを構成するために併合した[[タンガニーカ]](Tanganyika)と[[ザンジバル]](Zanzibar)の名前に、かつて[[アフリカ南部]]で栄えた{{仮リンク|アザニア|en|Azania|label=アザニア文化}}(Azania)の名前を複合して1964年に命名された。 == 歴史 == {{main|タンガニーカ|{{仮リンク|タンザニアの歴史|en|History of Tanzania}}|ザンジバルの歴史}} [[ファイル:GreatMosque.jpg|thumb|220px|right|[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群|キルワ・キシワニの大モスクの遺跡]]]] [[ファイル:Empire of Oman.svg|220px|right|thumb|19世紀半ば[[オマーン帝国]]の版図。19世紀のインド洋の覇権をイギリスと争ったオマーン帝国は、[[1830年代]]より東アフリカの[[ザンジバル]]に本拠地を置いていた。]] === 有史以前 === {{main|{{仮リンク|東アフリカの政治史|en|Political history of East Africa}}}} 250万 - 200万年前に[[ホモ・ハビリス]]が現在のタンザニアに相当する地域(北部の[[オルドヴァイ峡谷]])に存在していたことが、[[ルイス・リーキー]]博士によって確認されている。 === バンツー系の民族移動 === 紀元前10世紀ごろ、現在の[[カメルーン]]に相当する地域から[[バントゥー系民族]]がタンザニアの森林部に移住した([[:en:Bantu expansion]])。 === イスラームの到来 === 7世紀に[[アラビア半島]]で[[イスラーム教]]が成立したあと、[[アラブ人]]や[[ペルシア人]]が東アフリカの[[インド洋]]沿岸部に渡来し、[[スワヒリ文明]]を築きあげた。10世紀ごろから16世紀初頭にかけて、タンザニアには[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群|キルワ島]]や[[マフィア島]]、[[バガモヨ]]などのスワヒリ都市が栄えた。 === ポルトガル領時代 === [[1498年]]に[[ポルトガル王国]]の航海者[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]がインド航路を開拓し、[[インド洋]]における[[ポルトガル]]の覇権が始まった。[[ポルトガル]]は1505年に[[キルワ・スルタン国|キルワ王国]]を滅ぼしたあと、東アフリカの各地を制圧した。 === オマーン帝国時代 === アラブ勢力の拡大にともない、ポルトガル勢力は[[オマーン]]によって[[1698年]]に現在のタンザニア領から駆逐され、南方の[[モザンビーク島]]にまで撤退した。その後、19世紀に入ると[[オマーン帝国]]({{lang-ar| الإمبراطورية العمانية}})の[[サイイド・サイード]]王が在地の[[マズルイ家]]から島嶼部と沿岸地方を自らの勢力圏に置き、1830年代にザンジバルに王宮[[ザンジバル島のストーン・タウン|ストーンタウン]]を建設し、帝国の本拠地を移した。[[1856年]]にサイイド・サイード王が死亡したあと、本国の[[オマーン・スルタン国]]とは別に[[サイイド・マージド]]がザンジバルの[[スルターン]]に即位すると[[ザンジバル・スルタン国]]([[:en:Sultanate of Zanzibar|Sultanate of Zanzibar]]、[[1856年]] - [[1964年]])が成立し、引き続き[[クローヴ]]などの[[香辛料]]の交易や[[奴隷貿易]]で栄え、この時代にザンジバルは東アフリカ最大の[[奴隷市場]]となった。19世紀後半には、ザンジバル出身のスワヒリ商人[[ティップー・ティプ]]が現在の[[コンゴ|コンゴ民主共和国]]東部に相当する[[タンガニーカ湖]]にまで勢力を伸ばし、内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となった。彼は[[デイヴィッド・リヴィングストン]]や[[ヘンリー・モートン・スタンリー]]の探険も助けた。 === イギリス・ドイツ植民地時代 === {{See also|ドイツ領東アフリカ}} [[ファイル:Meyers b14 s0300a.jpg|thumb|left|180px|[[ドイツ領東アフリカ]]]] [[1880年代]]に[[アフリカ分割]]が始まると、[[カール・ペータース]]の活動によって1885年に大陸部に[[ドイツ東アフリカ会社]]の植民地が認可された([[ドイツ領東アフリカ]])。19世紀後半からインド洋に進出していたイギリスは、[[1890年]][[7月1日]]にドイツと[[ヘルゴランド=ザンジバル条約]]を締結し、ザンジバル領のうち、沿岸地方はドイツが獲得し、島嶼部のザンジバルをイギリスの[[保護国]]とした。1890年に保護国となったザンジバル・スルタン国は、政変にともなう[[1896年]]の[[イギリス・ザンジバル戦争|イギリスとの戦争]]でイギリスに一方的に敗北し、保護国化当初のザンジバルへの内政不干渉の原則は反故にされ、以後ザンジバルではイギリスによる行政が進んだ。 一方、大陸部のタンガニーカでは、ペータースの植民地会社は沿岸地方で発生した[[アブシリの反乱]]の鎮圧に手こずり、会社による統治は不可能と判断され、本国[[ドイツ]]から総督の派遣を受ける統治形態へと変わった。19世紀末、領域内部には部族国家が複数存在しており、中でも[[ルヴマ州]]の[[ソンゲア・ルワフ・ムバノ]]率いる[[ンゴニ族]]と[[イリンガ州]]の[[ムクワワ]]率いる{{仮リンク|ヘヘ人|en|Hehe people|label=ヘヘ族}}が二大勢力であったが、相争っていたため、数年がかりで各個制圧されていった。しかしながら、指導者[[ムクワワ]]が率いる{{仮リンク|ヘヘ人|en|Hehe people|label=ヘヘ族}}との[[ゲリラ]]戦([[1891年]] - [[1898年]])は長期化した。1905年の霊媒師{{仮リンク|キンジキティレ・ングワレ|en|Kinjikitile Ngwale}}(Kinjikitile Ngwale)が主導する[[マジ・マジ反乱]]は[[ンゴニ族]]も呼応して最大の反乱となったが、ヘヘ族がドイツ側について部族の垣根を越えることはできず、徹底的に鎮圧された。この反乱を受けて、ドイツは統治政策の見直しを行うこととなった。沿岸部から[[タンガニーカ湖]]までを結ぶ鉄道({{lang-de|Tanganjikabahn}}現在の{{仮リンク|中央線 (タンザニア)|en|Central Line (Tanzania)|label=タンザニア中央鉄道}})は、1905年に[[ダルエスサラーム]]を起点に着工し、1914年には終点[[キゴマ]]に到達して完成した。 1914年に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、[[アフリカ戦線 (第一次世界大戦)#東アフリカ戦線|東アフリカ戦線]]では[[パウル・フォン・レットウ=フォルベック]]将軍率いる現地人兵士([[アスカリ (兵士)|アスカリ]])を中心とした[[ゲリラ]]部隊が[[イギリス軍]]などを相手に本国の降伏時まで交戦を行った。 {{Clearleft}} === イギリス・ベルギー植民地時代 === [[第一次世界大戦]]がドイツの敗北で終結したことにより[[ドイツ領東アフリカ]]は解体され、大半は[[イギリス]]の[[委任統治]]領[[タンガニーカ]]となり、東北部の[[ルアンダ=ウルンディ]]は[[ベルギー]]の委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域([[ウガンダ]]、[[ケニア]]、[[タンガニーカ]]、[[ザンジバル]])を支配することとなり、これらには関税同盟が敷かれ、{{仮リンク|ドイツ領東アフリカルピー|en|German East African rupie}}に代えて共通通貨{{仮リンク|東アフリカ・シリング|en|East African shilling}}が導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設され、そのひとつは[[ヴィクトリア湖]]の[[ムワンザ]]にまで延長された。 1939年に[[第二次世界大戦]]が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは8万7,000人が出征した<ref>吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.153</ref>。東アフリカ部隊は[[東アフリカ戦線 (第二次世界大戦)|東アフリカ戦線]]で[[イタリア軍]]と、[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]で[[日本軍]]との戦いを繰り広げ、[[インパール作戦]]で日本軍が対峙した[[イギリス軍]]には多くのアフリカ人の[[アスカリ (兵士)|アスカリ]]が存在した。 === 独立と連合 === [[ファイル:Julius Nyerere cropped.jpg|thumb|220px|right|タンザニア連合共和国初代大統領[[ジュリウス・ニエレレ]]。「ムワリム」([[スワヒリ語]]で「先生」の意)と呼ばれ、タンザニア人の尊敬を集めている。]] 第二次世界大戦後、世界的な[[脱植民地化]]の潮流の中で{{仮リンク|タンガニーカ=アフリカ人民族同盟|en|Tanganyika African National Union}}(TANU)が次第に支持を集め、[[1961年]][[12月9日]]に大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立した。[[1963年]]には[[ザンジバル王国]]も主権を獲得して独立した。しかし、翌[[1964年]]1月に[[ザンジバル革命|ザンジバルで革命が勃発]]すると国王は亡命し、アラブ人排斥の流血の事態の中で[[ザンジバル人民共和国]]が成立した。その後、ザンジバルでの政変を経て、ニエレレの[[汎アフリカ主義]]の精神の下で両国は連合し、1964年4月26日に'''タンガニーカ・ザンジバル連合共和国'''が成立した<ref>{{Cite news|url=https://news.nissyoku.co.jp/today/603137|title=12月9日。今日はタンザニアの独立記念日|newspaper=日本食糧新聞電子版|accessdate=2020-12-09}}</ref>。同年10月29日、この国家連合は両国の名称とかつてこの地域で栄えた'''{{仮リンク|アザニア|en|Azania|label=アザニア文化}}'''の名称を複合し、'''タンザニア連合共和国'''と改称した。 独立後、連合共和国の初代大統領となった[[ジュリウス・ニエレレ]]は、内政面では[[スワヒリ語]]を国語とし、1967年の{{仮リンク|アルーシャ宣言|en|Arusha Declaration}}発令以後は[[社会主義]]の建設を目指し、{{仮リンク|ウジャマー|en|Ujamaa}}と呼ばれるコンセプトに基づいた[[アフリカ社会主義]]を採用した([[ウジャマー社会主義]])。対外的には東アフリカ諸国を{{仮リンク|東アフリカ連邦|en|East African Federation}}に統合する構想を掲げ<ref>Arnold, Guy (1974). Kenyatta and the Politics of Kenya. London: Dent. ISBN 0-460-07878-X. p. 173</ref><ref>Assensoh, A. B. (1998). African Political Leadership: Jomo Kenyatta, Kwame Nkrumah, and Julius K. Nyerere. Malabar, Florida: Krieger Publishing Company. ISBN 9780894649110. p. 55</ref><ref>Kyle, Keith (1997). "The Politics of the Independence of Kenya". Contemporary British History. 11 (4): 42–65. doi:10.1080/13619469708581458. p. 58.</ref>、アルーシャを本部とする[[東アフリカ共同体]](第一次)を作り<ref>{{Cite press release |title=TIlE TREATY FOR EAST AFRICANCO·OPERATION ACT 1967 |publisher=Kenya Law|url=http://kenyalaw.org/lex/rest//db/kenyalex/Kenya/Legislation/English/Amendment%20Acts/No.%2031%20of%201967.pdf|format=PDF |accessdate= 2018-06-30 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20180630052825/http://kenyalaw.org/lex/rest//db/kenyalex/Kenya/Legislation/English/Amendment%20Acts/No.%2031%20of%201967.pdf |archive-date=2016-06-30}}</ref>、[[南アフリカ共和国]]の[[アパルトヘイト]]政権や[[ローデシア]]の対白人少数派支配に対抗する「最前線」として[[ザンビア]]や[[ボツワナ]]と{{仮リンク|フロントライン諸国|en|Frontline States}}(FLS)を結成して、ニエレレは初代議長を務めた<ref>Arnold, Guy (6 April 2010). The A to Z of the Non-Aligned Movement and Third World. Scarecrow Press. pp. 126–127. ISBN 9781461672319. </ref>。また、ローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を図る[[タンザン鉄道]]の建設などを通じて[[中華人民共和国]]との関係を深め、[[ポルトガル]]とも敵対し、1964年に[[モザンビーク独立戦争]]が始まると、[[エドゥアルド・モンドラーネ]]議長の指導する[[モザンビーク解放戦線]](FRELIMO)を支援し、解放区を提供した。この時期にタンザニアはFRELIMOのみならず、[[ナミビア]]の[[南西アフリカ人民機構]](SWAPO)やジンバブエの{{仮リンク|ジンバブエ=アフリカ人民族同盟|en|Zimbabwe African National Union}}(ZANU)を支援している。 1971年に[[ミルトン・オボテ]]が[[イディ・アミン]]のクーデターによって追放されて以来、オボテをかくまったタンザニアは隣国[[ウガンダ]]とは対立が続いた。 === タンザニア革命党 === 1977年にそれまで別組織だったTANUと{{仮リンク|アフロ・シラジ党|en|Afro-Shirazi Party}}(ASP)が統合し、[[タンザニア革命党]]が成立し、国内でも[[一党制]]に移行した。 1978年にそれまで対立していたウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻するとこれを撃退し、[[タンザニア軍]]はウガンダの首都[[カンパラ]]を攻略してアミン失脚の一因となった([[ウガンダ・タンザニア戦争]])。こうした政策によってタンザニアはアフリカ内外で[[第三世界]]を指導する国家の一角としての信望を集めたが、その一方で1970年代に入ると親[[西側諸国|西側]]的なケニアの[[ジョモ・ケニヤッタ]]との対立で自らの理想を体現した東アフリカ共同体は消滅し、[[旱魃]]による農業の衰退や、[[ウジャマー村]]の建設の失敗が各地で報告され、経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになった。 [[1980年代]]に入ると[[第二次石油危機]]の影響もあって経済の衰退は深刻化し、日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる中、1985年11月にニエレレは引退を発表した。 === 経済の自由化 === 後任には与党タンザニア革命党から[[ザンジバル]]出身の[[アリ・ハッサン・ムウィニ]]が就任し、ムウィニの下で[[国際通貨基金|IMF]]の勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められ、また[[複数政党制]]が認められて民主化が行われた。[[1995年]]に就任した[[ベンジャミン・ウィリアム・ムカパ]]大統領の時代には、1994年に民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げた。 [[1998年]][[8月7日]]には[[アルカイーダ]]によって首都[[ダルエスサラーム]]の[[駐タンザニアアメリカ合衆国大使館]]が攻撃される、[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]が発生した。 [[2005年]]には[[ジャカヤ・キクウェテ]]が大統領に就任し、[[2015年]]には[[ジョン・マグフリ]]が大統領に就任した。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|タンザニアの政治|en|Politics of Tanzania}}}} [[ファイル:Rais wa Tanzania na Manaibu Makatibu.jpg|thumb|第4代大統領[[ジャカヤ・キクウェテ]]と閣僚]] [[ファイル:John Magufuli 2015.png|thumb|right|100px|第5代大統領[[ジョン・マグフリ]]]] タンザニアは[[共和制]]、[[大統領制]]を[[国家体制]]とする立憲[[国家]]である。現行憲法である{{仮リンク|タンザニア憲法|en|Constitution of Tanzania}}は[[1977年]][[4月25日]]に制定([[1984年]][[10月]]に大幅改正)されたもの。 タンザニア政治の特徴として、他のアフリカ諸国に多く見られる、特定[[部族]]による政権の独占や民族による投票行動が見られないことがあげられる。これは、国内に特別大きな民族グループが存在しないこと、スワヒリ語による初等教育と、教育プログラムに盛り込まれた汎タンザニア史などを通じてタンザニア人としてのアイデンティティ創出に成功したこと、初代大統領ニエレレがウジャマー社会主義建設の過程で旧来の地方組織を解体したこと、複数政党制導入時に民族を基盤とした政党結成が禁じられたことなどが理由となっている<ref name="名前なし-3">『民主主義がアフリカ経済を殺す: 最底辺の10億人の国で起きている真実』p92-93、甘糟智子訳、日経BP社、2010年1月18日</ref>。 === 元首 === {{See also|タンザニアの大統領一覧|[[タンザニアの首相]]}} [[元首|国家元首]]である[[大統領]]は、[[国民]]の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。[[首相]]および[[閣僚]]は大統領により任命されるが、閣僚は国民議会議員でなければならない。2015年10月に与党信任で選出された[[ジョン・マグフリ]]第5代大統領が2021年3月17日に死去<ref>{{Cite news2|url=https://www.asahi.com/articles/ASP3L261ZP3LUHBI005.html|title=コロナに感染?タンザニア大統領が死去 対策に懐疑的|newspaper=朝日新聞デジタル|agency=[[朝日新聞社]]|date=2021-03-18|accessdate=2021-03-18}}</ref>し、後任の第6代大統領として副大統領であった[[サミア・スルフ・ハッサン]]が同国初の女性の大統領として就任した。死去したマグフリの残余任期を引き継ぐ<ref>[https://web.archive.org/web/20210524120039/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031901254 タンザニア、大統領にスルフ氏 前任者急死、初の女性] - 時事ドットコム 2021年3月19日</ref>。 === 立法 === {{See also|タンザニアの政党}} [[立法府]]は[[一院制]]で、正式名称は'''[[国民議会 (タンザニア)|国民議会]]'''。定数は393議席で、うち264議席は国民の直接選挙枠(うち50議席は、ザンジバル5州内の選挙区より選出)、113議席は大統領が任命する女性議員枠、5議席は[[ザンジバル]]革命議会議員の枠である。議員の任期は5年である。 [[1992年]]以来、タンザニアでは[[複数政党制]]が認められているが、[[タンザニア革命党]](CCM)による政権が独立以来続いている。その他の政党の勢力は脆弱だが、[[市民統一戦線]](CUF)と[[民主進歩党_(タンザニア)|民主進歩党]](CHADEMA)が比較的有力である。 === ザンジバル === 連合共和国政府とは別に、[[ザンジバル]]には独自の自治政府である'''[[ザンジバル革命政府]]'''および議会が存在し、ザンジバルの内政を担っている。統治権が及ぶのはザンジバル島の3州、および[[ペンバ島]]の2州である。ザンジバル大統領はザンジバル住民の直接選挙で選出され、任期は5年である。ザンジバル議会は一院制で定数81議席。議員の任期は5年で、81議席中50議席はザンジバル住民の直接選挙により選出される。2021年現在のザンジバル大統領は[[タンザニア革命党]] (CCM) の{{仮リンク|フセイン・ムウィニ|en|Hussein Mwinyi}}(第8代)。強力な自治政府であり、大陸からザンジバル島に渡る場合でも、[[入国管理]]手続きが存在する。[[タンガニーカ]]の独自政府は存在しない。 一方で、ザンジバルにおいては首都のあるウングジャ島とペンバ島の間に対立がある。ペンバ島はザンジバル革命の時に旧政権側を支持したため、革命政権によって冷遇を受けた。この対立は民主化後でも続いており、ウングジャ島で[[タンザニア革命党]]が強い一方、ペンバ島はタンザニア最大野党・[[市民統一戦線]]の地盤となっている。ザンジバル経済はペンバ島でおもに栽培されるクローブの輸出を柱としているため、経済面での貢献に比してペンバ島が政治面で冷遇を受けていることがさらにこの対立を増幅している。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|タンザニアの国際関係|en|Foreign relations of Tanzania}}}} 独立以来、ニエレレ大統領の下で[[第三世界]]外交が実践され、特に[[ソビエト連邦]]よりも[[中華人民共和国]]との友好関係が築かれた。ザンビアからタンザニアに至る[[タンザン鉄道]]やタンザニア海軍基地なども中国の援助によって建設され、中国の支援でできた{{仮リンク|アマーン・スタジアム|en|Amaan Stadium}}でタンザニア革命党も設立された<ref>Ogunsanwo, Alaba (1974). China's Policy in Africa, 1958-71. Cambridge: Cambridge University Press. p. 251.</ref>。もともと英領東アフリカ植民地として同一の政府機構の下にあったウガンダやケニアとは独立時から東アフリカ共同役務機構を設立しており、アルーシャに事務局を置く[[東アフリカ共同体]](第一次)の盟主でもあったが、[[1977年]]にケニアと決裂して東アフリカ共同体は解体、1978年には[[ウガンダ・タンザニア戦争]]も起きた。その後、[[2001年]]に東アフリカ共同体はアルーシャで再結成され、再び協力体制が構築された。また、{{仮リンク|南部アフリカ開発調整会議|en|Southern African Development Coordination Conference}}(SADCC)の設立経緯から、他の東アフリカ諸国は加盟していない[[南部アフリカ開発共同体]](SADC)の一員でもある。 === 日本との関係 === {{main|日本とタンザニアの関係}} 1960年代、日本から6人の技術専門家が送り込まれ、政治顧問や官僚として活動した。このことが縁となり、1969年にはタンザニアの大臣の発案で、キリマンジャロ州の1万4000平方キロの土地を日本に貸し、パイロット地区を形成しようとする案が持ち込まれた<ref>キリマンジャロ地方の開発 日本にお任せします 『朝日新聞』昭和44年(1969年)10月22日夕刊、3版、11面</ref>。 *在留日本人数 - 195名(2021年10月,外務省海外在留邦人数調査統計)<ref name="名前なし-4">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tanzania/data.html#section6 外務省 タンザニア基礎データ]</ref> *[[在日タンザニア人]]数 - 433人(2021年12月,法務省在留外国人統計)<ref name="名前なし-4"/> [[1976年]]、日本大使館の書記官が[[象牙]]の[[密輸]]を図っていたとして事実上の更迭を受けた。タンザニアでは当時から象牙の輸出は許可制となっており、規制を回避するために[[外交特権]]を利用して日本に送っていた疑い。象牙集めを手伝ったタンザニア従業員は警察の取り調べを受けた後に解雇されており、現地民や日系企業からは批難の声が上がった<ref>外交特権を利用 象牙の密輸図る 日本大使館の書記官 発覚したら帰国『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月17日夕刊、3版、7面</ref>。 *[[在タンザニア日本国大使館]] *[[駐日タンザニア大使館]] == 軍事 == [[ファイル:Zanzibar, 12 Jan. 2004, celebration of 40 years' Revolution.JPG|thumb|[[タンザニア軍|タンザニア人民防衛軍]]]] {{Main|タンザニア軍}} タンザニア人民防衛軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約2万7,000人である。兵制は[[志願制]]を採用している。2005年にはGDPの0.2%が軍事に支出された<ref name=2010cia/>。 == 地理 == [[ファイル:Tz-map.png|thumb|260px|タンザニアの地図]] [[ファイル:NgareSero.jpg|thumb|left|[[アフリカ大地溝帯]]]] {{main|{{仮リンク|タンザニアの地理|en|Geography of Tanzania}}}} タンザニアの面積94万5,087km²は世界31位の広さで[[エジプト]]に続き、[[ナイジェリア]]とほぼ等しい。北東部に'''アフリカ最高峰'''の[[キリマンジャロ山]](5,895メートル)があり、北部に'''アフリカ最大の面積'''を誇る[[ビクトリア湖]]、西部に'''アフリカでもっとも深い'''[[タンガニーカ湖]]がある。この南の[[ニアサ湖]]を含め'''アフリカ三大湖'''が存在する。これらは[[アフリカ大地溝帯]]が形成したものである。中部には高原が広がる。東部海岸は蒸し暑い気候で、ザンジバル島(ウングジャ島)がすぐ沖合にある。 気候は国土の大半が[[サバナ気候]]に属し、中央部が[[ステップ気候]]、南部と北部の高原部が[[温暖冬季少雨気候]]である。降水量は海岸部やビクトリア湖岸、キリマンジャロ周辺では1,000ミリを超えるが、内陸部では500ミリ程度のところが多い。植生は、海岸部に熱帯半落葉降雨林が、内陸部に[[ミオンボ]](またはミヨンボ)と呼ばれる熱帯広葉雨緑乾燥林が広がっている。 生態学上貴重な野生公園が数多く存在する。北の有名な[[ンゴロンゴロ保全地域]]と[[セレンゲティ国立公園]]、そして南に[[セルース猟獣保護区]]と[[ルアハ国立公園]]と[[ミクミ国立公園]]がある。西の[[ゴンベ国立公園]]は[[ジェーン・グドール]]博士が[[チンパンジー]]を研究したところである。タンザニア政府観光省が南西部ルクワ地域にある[[カランボ滝]]を観光拠点にしようと努めている。この滝はタンガニーカ湖南端にあり、アフリカ第2の規模である。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Regions of Tanzania 2016.png|thumb|260px|タンザニアの州]] {{Main|タンザニアの地方行政区分}} タンザニア連合共和国は、タンガニーカの26州、ザンジバルの5州(ウングジャ島3州、ペンバ島2州)からなる。 ; タンガニーカ: : 首相府、地方自治国務相(Minister of State, Regional Administration and Local Government)の下、政令行政区上位から州(Region)、県(District)、郡(Division)、区(Ward)、村(Village/Street)と定められている。その他、県と郡の間に選挙区(Constituency)、村の下に隣組(Sub-Vilage)が存在する。また、行政系統が Regional Administration と Local Government に分かれており、連合共和国政府レベルの行政系統としてRegional Administration(州、県、郡)、地方政府の行政系統としてLocal Government(県、区、村)となっている。 ; ザンジバル: === 主要都市 === {{Main|タンザニアの都市の一覧}} * [[ダルエスサラーム]] * [[ドドマ]] * [[アルーシャ]] * [[ザンジバルシティ]] * [[タンガ (タンザニア)|タンガ]] * [[ムワンザ]] * [[タボラ]] * [[ムベヤ]] == 経済 == {{main|{{仮リンク|タンザニアの経済|en|Economy of Tanzania}}}} [[ファイル:Dar es Salaam at a bird's view.jpg|thumb|300px|最大の都市[[ダルエスサラーム]]]] 1980年代中盤まで、タンザニアはジュリウス・ニエレレ大統領の下ウジャマー社会主義を標榜し、ウジャマー村と呼ばれる集団農場を中心とした社会主義経済を目指していた。しかし旧来の社会制度をまったく無視したこの方式は失敗に終わり、生活必需品の供給すら滞る状態となった。1985年にニエレレの後を継いだアリ・ハッサン・ムウィニ大統領は、IMFの勧告を受け入れ、貿易制限の緩和などを行い[[自由経済]]へと舵を切った。以後タンザニア経済は緩やかに回復へと向かい、1995年に就任したベンジャミン・ムカパ大統領の行った国営企業の民営化など政府セクターの民間への移動と、南アフリカ共和国などからの投資の拡大により、1995年から2005年までの経済成長率は平均5%を記録した。 === 農業 === {{main|{{仮リンク|タンザニアの農業|en|Agriculture in Tanzania}}}} タンザニア経済は農業に立脚しており、[[国内総生産|GDP]]の半分以上、輸出の80%、雇用の85%は農業によってもたらされている。[[キリマンジャロ (コーヒー)|キリマンジャロ]]は上質のコーヒーとして世界中で愛好される主要輸出品である。ほかに[[茶]]が栽培される。ビクトリア湖周辺では、[[漁業]]と[[木綿|綿花]]栽培を中心とした[[農業]]が盛んに行われている。ビクトリア湖で捕獲される[[ナイルパーチ]]([[スズキ (魚)|スズキ]]に食感が似た[[淡水魚]])は加工され、世界各地に輸出されている。他に、[[カシューナッツ]]なども主要輸出品となっている。一方、ザンジバル経済の根幹を成しているのが[[クローブ]]の栽培である。[[19世紀]]半ばに[[オマーン]]の[[サイイド・サイード]]によって始められたクローブ栽培は、2015年現在ではザンジバルの主要な輸出品となっている。ザンジバルのクローブの90%はペンバ島で栽培されている。 === 鉱工業 === {{main|{{仮リンク|タンザニアの鉱業|en|Mining industry of Tanzania}}}} 鉱業では、[[宝石]]の[[タンザナイト]]を産出することで有名である。[[金]]はアフリカでは南ア、ガーナに次ぐ産出がある。また、ブルンジと同様、超塩基性岩にともなうNi-PGE鉱床が存在し、[[ニッケル]]・[[コバルト]]・[[銅]]が採掘されている。また、南部海域のガス田から天然ガスが生産されダルエスサラームと地方での発電に使われている。しかしタンザニアの電力の多くは[[水力発電]]によってまかなわれているため、[[旱魃]]の影響を受けやすく、[[水不足]]が電力不足に直結する。 === 観光 === [[ファイル:Kilimanjaro 2006-08-13.JPG|thumb|220px|アフリカ大陸最高峰の[[キリマンジャロ山]]]] {{main|{{仮リンク|タンザニアの観光地|en|Tourism in Tanzania}}}} タンザニアの観光業は成長を続けている。タンザニアにおける観光業はGDPの17.5%を占め、外貨収入の25%を占めており、金の輸出に次いで第2位の外貨獲得産業となっている。<ref name=":0">[http://www.tanzaniainvest.com/tourism/tourist-arrivals-reach-2016 Tanzania Tourist Arrivals Increase by 12.9% in 2016 to Reach 1,28 M - TanzaniaInvest"]</ref>[[2004年]]にタンザニアに入国した観光客数は58万3,000人であり、1995年の2倍に達した<ref> 「タンザニアを知るための50章」p129 栗田和明・根本利通編著 明石書店 2006年7月10日初版第1刷 </ref>。さらに2016年には観光客数は128万4,279人となっており、増加の一途を辿っている<ref name=":0" />。観光客の目的は[[ンゴロンゴロ保全地域]]や[[セレンゲティ国立公園]]などでの[[サファリ (旅行)|サファリ]]、[[キリマンジャロ]]への登山、[[ザンジバル島のストーン・タウン]]など歴史遺産やザンジバルでのビーチリゾートなど多岐に渡っている。 == 交通 == [[ファイル:Railways in Tanzania.svg|thumb|left|200px|タンザニアの鉄道網]] {{main|{{仮リンク|タンザニアの交通|en|Transport in Tanzania}}}} 交通網はあまり発達しておらず、輸送インフラも貧弱である。国内道路のうち、旧首都ダルエスサラームからキリマンジャロ山麓のアルーシャまでは舗装道路が通じているものの、他は未舗装の悪路である部分も多い。 === 鉄道 === {{main|タンザニアの鉄道}} 鉄道は、タンザニア中央鉄道と[[タンザン鉄道]]の2社があり、前者はダルエスサラームから北へ向かい[[タンガ]]や[[アルーシャ]]を結ぶ路線と、西へ向かい首都[[ドドマ]]、[[タボラ]]を通ってタンガニーカ湖畔の[[キゴマ]]へ向かう路線、タボラから北へ向かいビクトリア湖畔の[[ムワンザ]]へと向かう3路線を運行している。後者は[[1976年]]に建設され、ダルエスサラームから南西へ向かい、マラウイ国境近くの[[ムベヤ]]を通ってザンビア領の[[カピリムポシ]]までを結んでいる。 === 水運 === 水運は、タンガニーカとザンジバル間で活発であるほか、ビクトリア湖やタンガニーカ湖に国際[[フェリー]]が就航しており、ケニアやウガンダ、コンゴ民主共和国とを結んでいる。沿岸ではいまだに[[ダウ船]]での輸送も行われている。 === 航空 === {{main|タンザニアの空港の一覧}} 空運はかつて国営の{{仮リンク|タンザニア航空|en|Air Tanzania}}の独占であったが、自由化により中小の航空会社が多く設立されるようになった。 {{Clearleft}} == 国民 == [[ファイル:Tanzania-demography.png|thumb|250px|タンザニアの人口推移([[1961年]] - [[2003年]])]] {{main|{{仮リンク|タンザニアの人口統計|en|Demographics of Tanzania}}}} === 民族 === [[バントゥー系民族|バントゥー系]]黒人が国民の95%を占め、タンガニーカでは99%がアフリカ系黒人であり、1%ほどのヨーロッパ系、アラブ系、インド系の市民が存在する<ref name=2010cia/>。ザンジバルでは[[アラブ人]]、アフリカ系黒人の他に、両者の[[混血]]が存在する<ref name=2010cia/>。また、アフリカ系黒人はザンジバル原住民と大陸からの移住民に別れ、ザンジバル原住民は[[イラン]]の[[シーラーズ]]からの移民の子孫であるとしてシラジと名乗り、混血民も含めてひとつの民族としてのアイデンティティを持つ。おもな民族は{{仮リンク|スクマ人|en|Sukuma people}}、{{仮リンク|ハヤ人|en|Haya people}}、{{仮リンク|ニャキュサ人|en|Nyakyusa people}}、[[ニャムウェジ人]]、[[チャガ族|チャガ人]]、[[マコンデ族]]などである。それ以外には[[トングェ族]]、[[ハッザ族]]などが存在する。また、北部から[[ケニア]]南部にかけて、先住民であり[[遊牧民]]の[[マサイ族]]も存在する。 === 言語 === {{main|[[タンザニアの言語]]}} 言語は、[[スワヒリ語]]が[[国語]]であり、[[スワヒリ語]]と[[英語]]が[[公用語]]である<ref name="名前なし-1"/><ref name="名前なし-2"/>。 スワヒリ語は[[国語]]の扱いを受けており、[[1960年]]のタンガニーカ独立時にはすでに公用語に指定されていた。これは旧宗主国の言語をそのまま公用語に指定した他のアフリカ諸国とは大きく異なる点である。[[1961年]]のザンジバルとの連合後、スワヒリ語母語話者がほとんどを占めるザンジバルを加えたことでこの政策はより推進されることとなった。[[1967年]]のウジャマー社会主義政策の採用以来、スワヒリ語の近代言語化や教育による普及が進められた。タンザニア憲法はスワヒリ語で書かれており、大衆文化の中でもテレビやラジオ、ポピュラー音楽などで用いられ、タンザニアにおいてスワヒリ語は国民統合のための言語としての地位を与えられている<ref>宮本正興「アフリカの言語 その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編 [[明石書店]]、2002年12月。</ref>。その結果、タンザニアでは国民のほぼ100%がスワヒリ語を解するとされ、国家内で同一の言語が通じることはタンザニアの政情安定に大きく貢献しているとされる<ref name="名前なし-3"/>。一方で、スワヒリ語での教育は初等教育に限られ、中等教育以降へのスワヒリ語導入は進んでいない<ref>「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」pp407-409 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷</ref>。2015年にはタンザニア政府は中等教育以降においても[[教授言語]]を英語からスワヒリ語へ転換する政策を表明し<ref>{{cite web|url=https://jp.globalvoices.org/2015/07/07/35083/|title=タンザニア:英語からスワヒリ語での授業へ転換|work=[[グローバル・ボイス・オンライン]]|language=日本語|accessdate=2015-7-7}}</ref>、実現されれば[[サブサハラアフリカ]]では初の試みとなる。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|タンザニアの宗教|en|Religion in Tanzania|fr|Religion en Tanzanie}}}} 宗教は、タンガニーカでは[[キリスト教]]が30%、[[イスラム教]]が35%、伝統的宗教が35%である<ref name=2010cia/>。ザンジバルではほぼ100%がイスラム教である<ref name=2010cia/>。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|タンザニアの教育|en|Education in Tanzania}}}} [[ファイル:School kids in Tanzania.jpg|thumb|タンザニアの児童]] 学制は[[初等教育]]が7年、[[前期中等教育]]が4年、[[後期中等教育]]が2年、[[高等教育]]が3年の7-4-2-3制。[[義務教育]]は初等教育のみである。初等教育は2001年より無償化し、これにより就学率が大幅に向上した。現在、初等教育の就学率は97.3%である。前期中等教育は20.7%、後期中等教育は0.9%。[[教育言語]]は、初等教育は公用語であるスワヒリ語であるが、中等教育以降は英語が教育言語である。 2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は69.4%(男性:77.5%、女性:62.2%)である<ref name=2010cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/tz.html CIA World Factbook "Tanzania" ]2010年2月16日閲覧。</ref>。1999年にはGDPの2.2%が教育に支出された<ref name=2010cia/>。 おもな高等教育機関としては、[[ダルエスサラーム大学]]や[[ソコイネ農業大学]]の名がげられる。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|タンザニアの保健|en|Health in Tanzania}}}} かつては衛生状態が劣悪で、[[1978年]]1月には首都ダニエスサラームを中心に[[コレラ]]患者が多発、180人以上の死者が出た。政府は[[トイレ]]の環境改善を奨励した<ref>コレラで死者160人 交通閉鎖の強硬策『朝日新聞』1978年(昭和53年)1月18日朝刊、13版、23面</ref>結果、2020年現在、都市部では改善されたトイレを利用できる人口比率は30%を超える状態となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.worldvision.jp/news/works/africa/202008_tanzania.html |title=3分でわかるタンザニア タンザニアってどういう国?|publisher=特定非営利活動法人 ワールドビジョン |date=2020-08-18 |accessdate=2021-05-09}}</ref>。 タンザニアにおける2007年の[[HIV]]感染者は推計で約140万人であり<ref name=2010cia/>、感染率は6.2%である<ref name=2010cia/>。タンザニア人の平均寿命は52.01歳(男性:50.56歳、女性:53.51歳)である<ref name=2010cia/>。 {{See also|タンザニア国家エイズ対策プログラム}} ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|タンザニアの医療|en|Healthcare in Tanzania}}}} == 治安 == タンザニアの治安はかなり危険な状況となっている。同国では全土において一般犯罪が日常的に発生しているとの情報がある。特に都市部においては、[[強盗]](主に路上強盗や車両強盗)、住居侵入、[[空き巣]]、[[詐欺]]、[[ひったくり]]が多く発生しており、[[銃器]]が使用される凶悪犯罪も発生している。 2020年10月には隣国モザンビーク北部のカーボデルガード州における治安悪化が波及する形で、タンザニアで初めて[[ISIL|イスラム国]]に関係するとみられる武装グループによるムトワラ州村民襲撃事件が発生。その後もモザンビークとの国境地域では武装グループによる襲撃事件も多発しており、更に翌年2021年8月にはダルエスサラーム市で銃発砲事件が発生している。 また、隣国からの密入国者も多く、これらの中には武器を所持しているケースもあるなど、難民流入に伴い治安の悪化が懸念されている。加えて、近隣国のウガンダではISとの関係が疑われるテロ事件が続発しているのが現状である。その為、滞在する際にはこうした状況のタンザニアへの波及リスクを念頭に充分留意する必要が求められる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_111.html#ad-image-0|title=タンザニア 危険・スポット・広域情報|accessdate=2022-4-24|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|タンザニアにおける人権|en|Human rights in Tanzania}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|タンザニアのメディア|en|Mass media in Tanzania}}}} タンザニアにはメディア評議会が存在しており、評議会は1995年に開設された。2003年に成立した「タンザニア通信規制法」により、放送ライセンスを監督する「タンザニア通信規制当局」が創設されている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|タンザニアの通信|en|Telecommunications in Tanzania}}|{{仮リンク|タンザニアの新聞の一覧|en|List of newspapers in Tanzania}}}} == 文化 == [[ファイル:Makonde carving 1.jpg|thumb|220px|[[マコンデ人]]の彫刻]] {{main|{{仮リンク|タンザニアの文化|en|Culture of Tanzania|fr|Culture de la Tanzanie}}}} === 食文化 === {{main|{{仮リンク|タンザニア料理|fr|Cuisine tanzanienne}}|{{仮リンク|ザンジバル料理|en|Zanzibari cuisine}}}} [[ウガリ]]と呼ばれる[[トウモロコシ]]の粉を練ったもの、または[[米]]が主食で、これに[[トマト]]ベースのスープなどのおかずをつけて食べるのが一般的である。[[プランテン・バナナ]]や[[キャッサバ]]、[[チャパティ]]などを食べる地域もある。 === 文学 === {{main|{{仮リンク|タンザニア文学|en|Tanzanian literature}}}} タンザニアにおける文学は、20世紀後半まで主に[[口承文学]]を主体としていた。タンザニア国内で記録されている口承文学の大部分はスワヒリ語であるが、同国の言語にはそれぞれ独自の口承の伝統が根付いている為、必ずしも画一されたものとはなっていない。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|タンザニアの作家の一覧|en|List of Tanzanian writers}}}} === 音楽 === {{main|[[タンザニアの音楽]]}} [[ポピュラー音楽]]においては、[[1980年代]]からダルエスサラームで発達した[[レゲエ]]や[[ヒップ・ホップ]]の影響を受けた[[ボンゴフレーバー]]、[[20世紀]]前半にザンジバルで発達した[[タアラブ]]やその現代版のモダン・タアラブなどが存在する。1980年代には[[ジャマイカ]]発祥の[[レゲエ]]の[[汎アフリカ主義]]のメッセージが一定の力を持ち、タンザニア人[[ラスタファリ運動|ラスタファリアン]]が存在した<ref>[[白石顕二]] 『ポップ・アフリカ』 勁草書房〈KEISO BOOKS5〉、東京、1989年11月25日、初版第一刷、62-70頁。</ref>。なお、伝統音楽においては[[親指ピアノ]]、[[ンゴマ]]などが存在する。 === 美術 === 南部に居住する[[マコンデ人]]のシェタニ([[精霊]])をモチーフとした[[黒檀]]の彫刻はタンザニアの美術において特筆される。 {{See also|アフリカ美術|{{仮リンク|マコンデ美術|en|Makonde art}}}} 現代タンザニアを代表する画家、{{仮リンク|ジョージ・リランガ|en|George Lilanga}}もシェタニをモチーフに絵画や彫刻を製作した。その他にもタンザニアで発展を遂げた[[ポップアート]]として、{{仮リンク|エドワード・ティンガティンガ|label=エドワード・サイディ・ティンガティンガ|en|Edward Tingatinga}}が[[1960年代]]に大成した[[ティンガティンガ|ティンガティンガ派絵画]]の存在が挙げられる。 === 映画 === {{main|{{仮リンク|タンザニアの映画|en|Cinema of Tanzania}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|タンザニアの世界遺産}} タンザニア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が4件存在する。 ==== 文化遺産 ==== <gallery> ファイル:GreatMosque.jpg|[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群]](文化遺産) ファイル:Dares 222.jpg|[[ザンジバル島のストーン・タウン]](文化遺産) |[[コンドアの岩絵遺跡群]](文化遺産) </gallery> ==== 国立公園・国立保護区 ==== <gallery> ファイル:Ngorongoro-Crater-animals.jpg|[[ンゴロンゴロ保全地域]](複合遺産) ファイル:Wildbeest 001.jpg|[[セレンゲティ国立公園]](自然遺産) ファイル:ElefantenAmRufiji.jpg|[[セルース猟獣保護区]](自然遺産) ファイル:Kilimanjaro HoromboHut.jpg|[[キリマンジャロ国立公園]](自然遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|タンザニアの祝日|en|Public holidays in Tanzania}}}} {| class="wikitable" |+祝祭日 !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |[[1月1日]] || 元日 || Mwaka Mpya || |- |[[1月12日]] || ザンジバル革命記念日 || Mapinduzi ya Zanzibar || 1964年、[[ザンジバル革命|ザンジバルで革命]] |- |[[4月26日]] || 統合記念日 || Muungano wa Tanganyika na Zanzibar || 1964年、タンガニーカとザンジバルが統合 |- |[[5月1日]] || 労働者の日 || Sikukuu ya Wafanyakazi ||[[メーデー]] |- |[[7月7日]] || 産業の日 || Saba Saba || |- |[[8月8日]] || 農業の日 || Nane Nane (Siku ya Wakulima) || |- |[[10月14日]] || [[ジュリウス・ニエレレ|ニエレレ]]の日 || Kumbukumbu ya Mwalimu Nyerere || タンザニア初代大統領/1999.10.14没 |- |[[12月9日]] || [[独立記念日]] || Uhuru na Jamhuri || 1961年、[[タンガニーカ]]独立 |- |[[12月25日]] || [[クリスマス]] || Kuzaliwa Kristo || |- |[[12月26日]] || [[ボクシング・デー]] || Siku ya Kupeana Zawadi || |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|タンザニアのスポーツ|en|Sport in Tanzania}}}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|タンザニアのサッカー|en|Football in Tanzania}}}} タンザニア国内でも他の[[アフリカ]]諸国同様、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[1965年]]にサッカーリーグの[[タンザニアン・プレミアリーグ]]が創設された。{{仮リンク|タンザニアサッカー連盟|en|Tanzania Football Federation}}によって構成される[[サッカータンザニア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。[[アフリカネイションズカップ]]には2度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。 === オリンピック === {{main|オリンピックのタンザニア選手団}} == 著名な出身者 == {{main|{{仮リンク|タンザニア人の一覧|en|List of Tanzanians}}}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2|refs= <ref name="名前なし-1"> [https://www.tanzania.go.tz/home/pages/223 Tanzania Goverment Portal :languages] タンザニア連合共和国政府 2019年1月1日閲覧 </ref> <ref name="名前なし-2">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tanzania/data.html 各国・地域情勢 国名:タンザニア連合共和国(United Republic of Tanzania)] 外務省 2019年1月1日閲覧</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=岡倉登志編|authorlink=岡倉登志|date=2002年12月|title=ハンドブック現代アフリカ|publisher=[[明石書店]]|isbn=|ref=岡倉(2002)}} ** [[砂野幸稔]]「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]編 [[明石書店]]、2002年12月。 ** [[宮本正興]]「アフリカの言語 その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]編 [[明石書店]]、2002年12月。 * {{Cite book|和書|author1=栗田和明|authorlink1=栗田和明|author2=根本利通|authorlink2=根本利通|date=2006年7月|title=タンザニアを知るための60章|publisher=[[明石書店]]|isbn=|ref=栗田、根本(2002)}} * {{Cite book|和書|author=吉田昌夫|authorlink=吉田昌夫|edition=1990年2月第2版|title=世界現代史14 アフリカ現代史II──東アフリカ|publisher=[[山川出版社]]|isbn=|ref=吉田(1990)}} == 関連項目 == * [[タンザニア関係記事の一覧]] * [[タンザニア国家エイズ対策プログラム]] == 外部リンク == {{sisterlinks | commons = Tanzania | commonscat = Tanzania | d=Q924 }} {{Wikipedia|sw}} {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[ファイル:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}} * {{Commons-inline|Tanzania}} * 政府 ** [https://www.tanzania.go.tz/ タンザニア連合共和国政府] {{en icon}} ** [https://www.jp.tzembassy.go.tz/ タンザニア大使館] {{ja icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tanzania/ 日本外務省 - タンザニア] {{ja icon}} * 観光 ** [https://www.tanzaniatouristboard.com/ タンザニア政府観光局] {{en icon}} ** [[ウィキトラベル]]旅行ガイド - [https://wikitravel.org/ja/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%A2 タンザニア] {{ja icon}} ** {{wikivoyage-inline|en:Tanzania|タンザニア{{en icon}}}} * その他 ** {{Wikiatlas|Tanzania}} {{en icon}} ** {{Osmrelation|195270}} ** {{Googlemap|タンザニア}} ** {{Kotobank}} ** {{Curlie|Regional/Africa/Tanzania}} {{en icon}} {{アフリカ}} {{イギリス連邦}} {{Normdaten}} {{coord|-6.307|34.854|scale:5000000|display=title}} {{デフォルトソート:たんさにあ}} [[Category:タンザニア|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:連邦制国家]] 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東海道
東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。 行政区分の東海道は、畿内から東に伸びる、本州太平洋側の中部を指したもの。これは、現在の三重県から茨城県に至る太平洋沿岸の地方に相当する。当初、武蔵国は東山道に属しており、771年に加わったものである。 東海道は律令時代に設けられた五畿七道駅路の一つで(中路)、畿内から常陸国国府へ至る道である。さらに常陸国(東海道)からは、陸奥国(東山道)への連絡道が設けられ、より北へ向かうこともできる重要な交通路だった。 東海道は、当初は東山道に比べると必ずしも通行は容易ではなかった。これは、多数の大河川の下流(揖斐川・長良川・木曽川・天竜川・大井川・安倍川・富士川・相模川・多摩川・利根川・太日川など)および東京湾・香取海を渡る必要があったためである(馬で渡れない場合は概ね渡船に頼る必要があった)。771年までは相模国からは東京湾を渡って上総国へ向かった。 10世紀以降に、渡河の仕組が整備され、東海道が活発になったと考えられている。 首都が飛鳥に置かれた時期には、大和国の宇陀が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、平城京に遷都されると、平城京から平城山を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って伊賀国に入り、鈴鹿山脈と布引山地の鞍部を加太越えで越えて伊勢国へ、木曽三川を下流域で渡って尾張国津島へ、名古屋市を通り、三河国と続いていったと考えられている。およそ、現在の国道163号線・国道25号線・国道1号に沿ったルートであった。 ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは飛鳥や平城京から鈴鹿峠を経由してそのまま伊勢国の港から伊勢湾を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年(646年)3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の不破関に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の七里の渡しや美濃路の原型として考えることもできる。 平安京に遷都されると、起点が平安京に移ったため、伊賀国から、近江国を通るルートに変更されることになる。平安時代初期には現在の杣街道から伊賀国に入る経路がとられたが、886年(仁和2年)に鈴鹿峠を通る経路に変更され、ほぼ現在の国道1号のルートに準ずるようになった。 現在の浜松市付近から駿河国府(静岡市)に至る経路は、江戸時代の旧東海道よりも、やや海岸寄りを通っていたとみられている。 焼津市と静岡市との境の峠は日本坂と呼ばれ、日本武尊の東征伝説や万葉集の歌にも詠まれた難所だった。平安時代には、やや内陸寄りの宇津ノ谷峠を通る経路へ変更され、蔦の細道として文献に現れる。 駿河国府以東は、現在の東静岡駅前にある静岡県コンベンションアーツセンター(グランシップ)直下付近を通った。 駿河国と相模国の国境の峠越えは、沼津から永倉駅(長泉町)を経て横走駅(御殿場)を経由し足柄峠を越え、坂本駅(関本)に至る足柄路が使われた。ただし富士山の延暦噴火(800年〜802年)の際にこの駿河側の復旧に時間を要したため、新たに三島から箱根カルデラを縦貫し小田原へ至る箱根路(箱根八里)が開かれ一時的に使われた。甲斐国府(山梨県笛吹市)へは横走駅から北上する分岐路(甲斐路)を通った。 相模国では国府津から大磯まで相模湾沿いに東へ進み、相模国中部(寒川町南西付近)で相模川を渡った。 771年以前はそこから鎌倉へ向かい、それ以東は次の上総国へ向かうために、三浦半島へ入り、走水から浦賀水道を渡って房総半島(上総国富津)に入った。そこからは北上し、上総国府(現在の千葉県市原市)へ向かった。安房国府へは富津から南下する分岐路を通った。上総国府から下総国府(千葉県市川市)へも分岐路が伸びていた。 上総国府を経た後は引き続き北上し下総国荒海駅(成田市)で香取海を渡船し常陸国榎浦津駅(稲敷市柴崎)へ入り、常陸国府(茨城県石岡市)へ至った。 武蔵国は当初は歴史的経緯から東山道に属し、上野国新田駅・下野国足利駅から南下する支路である東山道武蔵路が武蔵国府(東京都府中市)まで伸び連絡した。 やがて、武蔵国はその南部の発展により、東海道との交通が活発となった。また東海道諸国から武蔵国東南部を経由し、下総国・常陸国(さらには陸奥国)へ向かう最短距離の交通路の重要度が増した。相模国中部からは現在の中原街道もしくは厚木街道(矢倉沢往還)に近い経路で武蔵国(橘樹郡・都筑郡)へ入り、多摩川を丸子の渡しで渡り、武蔵国荏原郡を経て豊島郡(現在の東京都心湾岸部)を通り、隅田の渡しで下総国葛飾郡へ入った。隅田川・利根川・渡良瀬川のデルタ地帯は各川を渡船し下総国府へ向かった。 これを受けて、771年に武蔵国は東海道へ移管された。東海道の経路は相模国以東はそれまでの海路で上総国へ入ることを止め、相模国中部から北上して武蔵国府に至り、そこから、もしくは上記のように相模国中部から東行し武蔵国へ入り、隅田の渡しで下総国へ入り、下総国府を経て上総国府へ向う経路となった。 805年には、上総国府を経由し北上する路線(香取道)を止め、下総国府から直接北上し、より最短距離で常陸国へ入る経路となった(相馬道)。途中の経路は現在の柏市・我孫子市(布佐)・利根町を通り、そこから当時の常陸川・鬼怒川の香取海への河口付近を渡船し、鬼怒川北岸台地の馴馬・長峰・若柴付近(龍ケ崎市)から常陸国へ入った。 常陸国の先、勿来関の北側の、現在の福島県浜通り地方南部は、所属がやや流動的であり、当初は、常陸国まで太平洋沿岸に伸びてきた東海道の延長として扱われることもあったが、その後、現在の宮城県に置かれた陸奥国府の管轄下に置かれることとなり、東山道に属することとなった。東海道の延長は、常陸国北部で内陸に入り、棚倉構造線沿いの構造谷を北上し、奥州へ入る東山道へ合流する連絡路で接続された。 延喜式(平安中期)で東海道の駅を定めている。 平安時代中期を過ぎると、律令制の弛緩に伴い、国家の公的な交通に代わり、より現実的な必要に伴う交通が行われるようになったと考えられている。更級日記には、1020年秋に、著者菅原孝標女の父の上総国への赴任が終わり、東海道を通って京都に帰る道程が記されているが、熱田から西へは東海道ではなく、濃尾平野北西部の墨俣、東山道の不破関を通ったとあり、当時の事実上の交通状況が窺える。 陸奥国の国司の赴任の経路に東山道ではなく東海道を用い駿河国を通ったことを、駿河国司が中央に訴え出ている。 鎌倉幕府の政庁所在地鎌倉は、古い東海道の沿道上に所在しており、「武家の政庁所在地」鎌倉と、「朝廷・院の所在地」京都を結ぶ最も重要な街道となり、幕府は東海道の経路に駅制を敷き、京都 - 鎌倉間の通常の旅程を約12 - 15日、早馬による緊急の通信は3、4日と定めた。 ただし、古代律令時代に作られた駅路東海道とは違い、早馬による通信制度は道路構造の貧弱さ故に廃れ、人の脚力に依存する方向に変っていったとみられている。 この鎌倉極楽寺坂切通しと京都粟田口を結ぶ街道は、単に「鎌倉街道」「鎌倉往還」と呼ばれたり、海道と呼ばれたりしていた。また箱根路の整備も進められていた。 このころから東海道を旅した私人による日記文学が隆盛した。 私人が宿泊可能な民営の旅宿が登場したことによるものであるが、この当時の旅宿は旅行者が携行する干飯(糒)などの食料を浸す温湯と簡素な寝具を提供するだけにとどまっていたとみられている。 また源実朝の御台所の女房・丹後局が、承元4年(1210年)に旅の途中で盗賊にあったことから、鎌倉幕府により駿河以西の宿々に夜行番衆を置いて旅人の警護をするようになった。 この鎌倉街道は、鎌倉幕府滅亡後も、主要な交通路としての地位を維持し続けた。静岡県磐田市の一の谷墳墓群遺跡の様相に、中世における遠江国の宿場町の繁栄を伺うことができる。また、戦国時代になると、六角氏の観音寺城、織田氏の清洲城、松平氏の岡崎城・浜松城、今川氏の駿府城、後北条氏の小田原城など、名だたる戦国武将の根拠地が築かれていった。また、尾張美濃国境の墨俣は、鎌倉街道の木曽川渡河点として、重要なポイントであり、羽柴秀吉の「墨俣一夜城」の逸話は、これを地理的背景とするものである。 鎌倉時代の東海道は、 古代東海道とは大きく経路が異なるところが2箇所ある。 このほかにも古代の律令制下とは、気候・地勢や利用者・利用目的・整備状況など、さまざまな状況が異なっており、具体的な道程には、かなりの相違が見られる。全般に、古代の東海道より、かなり内陸寄りを通る場合が多いのが特徴である。 現在の交通路で言えば、国道1号よりも、むしろ東海道本線に近い経路が選択されていたと言える。 imagemap_invalid_title 徳川家康が、1590年(天正18年)に江戸に入城する。戦国時代の頃には江戸と平塚を結ぶ経路は、現在の中原街道が使われ、徳川家康も利用した。 徳川家康は、1601年(慶長6年)に「五街道整備」により、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、街道としての「東海道」が誕生する。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。又、箱根と新居に関所を設けた。その後、1603年(慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備する。 東海道は、江戸の日本橋から小田原宿、駿府宿、浜松宿、宮宿(熱田宿)を経て、七里の渡しで伊勢湾を渡り、桑名宿、草津宿を経て京都の三条大橋まで五十三次ある。距離は約490 kmあり、山間部の経路をとる中山道よりも約40 kmほど短いが、東海道には行く手を阻む大きな河川が何本もあり、六郷川(多摩川)、馬入川、富士川、天竜川は船渡しによる渡河が行われたが、大井川をはじめ、安倍川、酒匂川では江戸幕府により渡し船が許されず、川越人足(歩行渡し)による渡河をする必要があった。川の上流で雨が降ると川は増水したので、水位が増すごとに川札代も高くなり、七里の渡しの船賃よりも高かったといわれる。さらに、雨で増水した川は川止めとなることもあり、川の流れが一定水位まで下がるまで、何日でも宿代がかさむこととなった。箱根八里や七里の渡しも交通難所で、七里の渡しでは宮から桑名までの七里(約28 km)を海を船で揺られながら渡るのに、6時間余りを要した。このため、これをバイパスする佐屋街道が尾張初代藩主の徳川義直によって開かれ、宮から桑名まで9里(約36 km)で結ばれた。また幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが行われ、とりわけ新居の関は厳しかった。 尾張の宮(熱田)からは脇街道(脇往還)である美濃路と接続し、美濃の垂井で中山道と連絡した。また、東海道の脇街道である本坂道(姫街道)は、浜名湖を渡る今切の渡しや、新居関を避けて浜名湖を北に迂回するもので、浜松宿から御油宿までの東海道をバイパスした。 箱根峠越えの箱根湯本からの経路は、鷹巣山・浅間山・湯坂山の尾根筋を通る湯坂道とよばれる鎌倉時代から続く中世東海道の道筋に代わり、江戸時代の五街道としての東海道では、現在における旧東海道・箱根旧街道とよばれているような、湯坂道南側の谷筋に経路をとる須雲川道(すくもがわみち)を通っている。のちに保土ケ谷でも、尾根筋から谷筋に経路を変更しており、旅人が水を得るのに有利な谷筋に変わっていったのは、歴代の江戸幕府将軍が、一般民衆の利便を優先したからだと考えられている。 著名な文学作品や浮世絵などの影響で、近世東海道の西の起点は京都三条大橋であるという広く考えられているが、幕府は京ではなく大坂までの街道を一体整備しており、こちらを加えたものが本来の近世東海道であるとする理解もある。この場合、最も西側の部分は、京街道がそれに相当する。この考え方を取る場合、東海道は京都中心部へは入らず、大津宿の西側の追分から、山科盆地を南西方向へ向かい、現在の名神高速道路付近を通って稲荷山の南麓を越え、京都盆地に出る。南へ進み伏見城下町を貫通して宇治川沿いに進み、淀城の手前で宇治川を渡り、淀城下を経て木津川を渡る。そしてそのまま淀川左岸を大坂へ向かい、大坂高麗橋が、江戸日本橋に対する西の起点となる。途中の宿駅は4箇所(伏見・淀・枚方・守口)あり、併せて東海道五十七次となる。 慶長9年2月に大久保長安その他に命じて街道の幅員を5間とし、路傍に榎樹を植え、1里=36町と決め、1里ごとに里堠を設け、各駅の駄賃を定めた。寛永10年に伝馬、継飛脚の制が定められた。各宿駅に人夫100人、馬100匹を常備し(百人百匹の制)、幕臣や大名などの往来に供した。これが寛永以後も行なわれたが、天明3年に品川駅吏からの建議を納れて、100人100匹の定員のなかから公用その他の準備として30人20匹を除き置き、平時は70人80匹を武家その他に供した(人馬七八遣の法)。この人馬は御朱印伝馬のみで、彼らは各宿駅で徴発し得た。この他に一般庶民が傭役し得る駄賃伝馬があり、各宿駅で250人200匹を常備する定めだったが、実際の員数は規定どおりの規模には至らなかった。このほかにも飛脚の制があった。 幕府は各宿駅で田租を免除し、飼馬の地を与え、継飛脚給米および問屋給米を支給し、宿手代に手当を与え、ときに金銭を貸与して、これを保護した。元禄年間には定助郷・加助郷の制を定めて宿駅の人馬を助けたが、負担は小さくなかった。 幕府はまた軍事上の理由から、相模国小田原にかかる酒匂川、駿河国府中(駿府)を挟む興津川と安倍川、駿河遠江国境の大井川の4河川は、橋梁を架けないどころか、渡船さえ禁止して、往来する者には川の中を徒歩で渉らせた。大河川の徒渉は難儀であり、その両岸には徒渉の補助を行う業者が繁栄した。雨で水位が上昇し流速が増すと、危険なため徒渉は禁止された(川止め)。しかしこれらの河川の上流域は全国有数の多雨地域であり、暖候期には川止めが頻発・長期化することもしばしばで、大名から庶民まで旅費がかさむ旅行者を苦しめた。 大井川に橋を架けずに歩行渡しとしたのは江戸城防衛を第一の目的としたためだと言われることがあるが、これとは別な理由もあり、川床に砂礫層が堆積しているために、安全な橋を架けるためには不可欠となる橋脚杭を深く打ち込むことが当時の未熟な土木技術では実現出来なかったことや、一旦歩行渡しに人足を雇用したことから経済的に川越人足という職業が定着して廃止することが困難になっていたためであることが明らかとなっている。 東海道には、軍事的・地理的理由から、顕著なボトルネックとなるポイントや、地理的迂回路となるポイントが残されており、このような交通上脆弱・不便な部分には、これを回避するための脇街道が置かれた。脇街道には相模国の内陸部を通って直線的に結ぶ中原街道、見附宿より浜名湖の今切の渡しと新居関所を迂回し、気賀関所を通り、本坂峠を越し、吉田宿ないし御油宿へ抜ける道である本坂通(姫街道)、宮から桑名までの七里の渡しを避けて、濃尾平野内部を陸路で結ぶ佐屋街道があった。特に、姫街道に関しては、宝永地震とそれに伴う大津波で、今切の渡しが破壊されて交通途絶してしまったことから、18世紀初頭には、東海道本道の交通をまるごと引き受ける場面もあった。 明治政府は、地方制度としての令制国を廃止、五街道に代わる国道を制定した。東海道としての実質的機能と位置は現在の国道15号及び国道1号に受け継がれ、東日本と西日本(関東地方と近畿地方)を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。 江戸時代に整備された東海道の松並木は、明治4年ごろに電線を引くのに不便であるとの理由で伐り払うことになり、横浜・小田原間から始められた。横浜の英字新聞『ジャパン・ガゼット』は、並木の持つ日射風雪を防ぐ機能と美観を損ねる愚かな行為と批判した。太平洋戦争中には飛行機の燃料として松根油を採取するため、あるいは道路の拡張のため伐採されてしまい、現代ではごく一部だけが当時の姿をとどめるに過ぎない。 明治5年には、宮から以西が佐屋街道より海寄りの陸路に変更されるが、前ケ須(弥富市)から桑名までは渡し船(「ふたつやの渡」)を必要とした。明治28年に関西鉄道(現在のJR関西本線)、昭和9年に国道1号の伊勢大橋が開通し、「ふたつやの渡」は役目を終えた。 現代において「東海道」と言うときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。従って、東海道の東端は、律令時代では磯原、江戸時代以後は東京(江戸)ということになる。 なお、「東海道」の名をつけたJRの東海道本線および東海道新幹線は、東京 - 熱田間と草津 - 京都間ではほぼ江戸時代の東海道に沿っているが、熱田(名古屋市)- 草津については中山道(加納 - 草津)と美濃路(宮・熱田 - 垂井)に沿ったルートとなっている。 現在「東海道」というと、しばしばこの両鉄道沿いのルートが江戸時代のそれであると誤解され、紹介されることもあるほどである。本来の街道としての東海道は、名古屋 - 草津については名古屋 - 亀山 - 草津を経由するもので、現在の鉄道路線ならば関西本線と草津線のルートに近いものである。 この名古屋(宮・熱田)から亀山を経て草津に至る、江戸時代の東海道のうち、上記の東西幹線から外れた区間は、明治中期になって民間の関西鉄道がその沿線の振興を目的に鉄道を敷設し、後にそれが国有化されて現在の両線となっている。 東海道本線の該当区間が実際の東海道から離れた理由は、明治初期に東西両京を結ぶ鉄道線を敷設する際、東海道と中山道のいずれに通すかを巡って論争があり、中山道経由に一旦は決定してその一部に該当する路線が開業したものの、後に碓氷峠を越える区間など山岳地域での工事の長期化・費用増、開業後の輸送量制限、さらには沿線人口の差(中山道沿いには名古屋市や浜松市、静岡市に相当する大きな都市がなかった)を考慮したところ、やはり東海道経由の方が優れているという検証がなされ、急遽岐阜(加納)以東のルートが東海道経由に変更されたことに起因している。 計画変更が決まった時には、既に神戸から大阪・京都を経て大津に至る鉄道と、長浜から岐阜・名古屋を経て武豊までの鉄道が開業しており、これと琵琶湖の鉄道連絡船(太湖汽船 大津 - 長浜航路)を用いることによって武豊 - 名古屋 - 京都 - 神戸間の連絡が図られていたため、両京を結ぶ鉄道はこれを最大限に活用して早期に完成させるべきであるとの判断がなされ、これにより現行ルートが定まることになった。 結果、日本初の鉄道路線である新橋 - 横浜間もその東西幹線に組み入れる形となり、1880年代中頃(明治10年代末)より横浜から静岡を経て大府に至る区間と関ヶ原から米原を経て大津に至る区間が建設され、1889年(明治22年)7月に全通、これにより現在の東海道本線の原型が完成した。 また東海道新幹線に関しては、当初は名古屋から京都まで鈴鹿山脈を一直線にトンネルで抜けるルートでの敷設も計画されていたが、トンネルが長大になり建設に時間・費用を要する(1964年東京オリンピック前の開業予定に間に合わなくなる)こと、それに米原が北陸本線(旧:北陸道)との接続点になっていたこともあって、最終的には東海道本線に沿う現行ルートで敷設された。 以上の経緯については、中山道及び鉄道と政治の項目も参照のこと。 なお、行政区画としての東海道に属する旧律令国において、現在の東海道本線が通過せず、かつ東海道本線に直通する列車が存在しないのは、安房国・伊勢国のみである。
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}, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "焼津市と静岡市との境の峠は日本坂と呼ばれ、日本武尊の東征伝説や万葉集の歌にも詠まれた難所だった。平安時代には、やや内陸寄りの宇津ノ谷峠を通る経路へ変更され、蔦の細道として文献に現れる。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "駿河国府以東は、現在の東静岡駅前にある静岡県コンベンションアーツセンター(グランシップ)直下付近を通った。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "駿河国と相模国の国境の峠越えは、沼津から永倉駅(長泉町)を経て横走駅(御殿場)を経由し足柄峠を越え、坂本駅(関本)に至る足柄路が使われた。ただし富士山の延暦噴火(800年〜802年)の際にこの駿河側の復旧に時間を要したため、新たに三島から箱根カルデラを縦貫し小田原へ至る箱根路(箱根八里)が開かれ一時的に使われた。甲斐国府(山梨県笛吹市)へは横走駅から北上する分岐路(甲斐路)を通った。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "相模国では国府津から大磯まで相模湾沿いに東へ進み、相模国中部(寒川町南西付近)で相模川を渡った。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "771年以前はそこから鎌倉へ向かい、それ以東は次の上総国へ向かうために、三浦半島へ入り、走水から浦賀水道を渡って房総半島(上総国富津)に入った。そこからは北上し、上総国府(現在の千葉県市原市)へ向かった。安房国府へは富津から南下する分岐路を通った。上総国府から下総国府(千葉県市川市)へも分岐路が伸びていた。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "上総国府を経た後は引き続き北上し下総国荒海駅(成田市)で香取海を渡船し常陸国榎浦津駅(稲敷市柴崎)へ入り、常陸国府(茨城県石岡市)へ至った。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "武蔵国は当初は歴史的経緯から東山道に属し、上野国新田駅・下野国足利駅から南下する支路である東山道武蔵路が武蔵国府(東京都府中市)まで伸び連絡した。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "やがて、武蔵国はその南部の発展により、東海道との交通が活発となった。また東海道諸国から武蔵国東南部を経由し、下総国・常陸国(さらには陸奥国)へ向かう最短距離の交通路の重要度が増した。相模国中部からは現在の中原街道もしくは厚木街道(矢倉沢往還)に近い経路で武蔵国(橘樹郡・都筑郡)へ入り、多摩川を丸子の渡しで渡り、武蔵国荏原郡を経て豊島郡(現在の東京都心湾岸部)を通り、隅田の渡しで下総国葛飾郡へ入った。隅田川・利根川・渡良瀬川のデルタ地帯は各川を渡船し下総国府へ向かった。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "これを受けて、771年に武蔵国は東海道へ移管された。東海道の経路は相模国以東はそれまでの海路で上総国へ入ることを止め、相模国中部から北上して武蔵国府に至り、そこから、もしくは上記のように相模国中部から東行し武蔵国へ入り、隅田の渡しで下総国へ入り、下総国府を経て上総国府へ向う経路となった。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "805年には、上総国府を経由し北上する路線(香取道)を止め、下総国府から直接北上し、より最短距離で常陸国へ入る経路となった(相馬道)。途中の経路は現在の柏市・我孫子市(布佐)・利根町を通り、そこから当時の常陸川・鬼怒川の香取海への河口付近を渡船し、鬼怒川北岸台地の馴馬・長峰・若柴付近(龍ケ崎市)から常陸国へ入った。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "常陸国の先、勿来関の北側の、現在の福島県浜通り地方南部は、所属がやや流動的であり、当初は、常陸国まで太平洋沿岸に伸びてきた東海道の延長として扱われることもあったが、その後、現在の宮城県に置かれた陸奥国府の管轄下に置かれることとなり、東山道に属することとなった。東海道の延長は、常陸国北部で内陸に入り、棚倉構造線沿いの構造谷を北上し、奥州へ入る東山道へ合流する連絡路で接続された。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "延喜式(平安中期)で東海道の駅を定めている。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "平安時代中期を過ぎると、律令制の弛緩に伴い、国家の公的な交通に代わり、より現実的な必要に伴う交通が行われるようになったと考えられている。更級日記には、1020年秋に、著者菅原孝標女の父の上総国への赴任が終わり、東海道を通って京都に帰る道程が記されているが、熱田から西へは東海道ではなく、濃尾平野北西部の墨俣、東山道の不破関を通ったとあり、当時の事実上の交通状況が窺える。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "陸奥国の国司の赴任の経路に東山道ではなく東海道を用い駿河国を通ったことを、駿河国司が中央に訴え出ている。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "鎌倉幕府の政庁所在地鎌倉は、古い東海道の沿道上に所在しており、「武家の政庁所在地」鎌倉と、「朝廷・院の所在地」京都を結ぶ最も重要な街道となり、幕府は東海道の経路に駅制を敷き、京都 - 鎌倉間の通常の旅程を約12 - 15日、早馬による緊急の通信は3、4日と定めた。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ただし、古代律令時代に作られた駅路東海道とは違い、早馬による通信制度は道路構造の貧弱さ故に廃れ、人の脚力に依存する方向に変っていったとみられている。 この鎌倉極楽寺坂切通しと京都粟田口を結ぶ街道は、単に「鎌倉街道」「鎌倉往還」と呼ばれたり、海道と呼ばれたりしていた。また箱根路の整備も進められていた。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "このころから東海道を旅した私人による日記文学が隆盛した。 私人が宿泊可能な民営の旅宿が登場したことによるものであるが、この当時の旅宿は旅行者が携行する干飯(糒)などの食料を浸す温湯と簡素な寝具を提供するだけにとどまっていたとみられている。 また源実朝の御台所の女房・丹後局が、承元4年(1210年)に旅の途中で盗賊にあったことから、鎌倉幕府により駿河以西の宿々に夜行番衆を置いて旅人の警護をするようになった。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この鎌倉街道は、鎌倉幕府滅亡後も、主要な交通路としての地位を維持し続けた。静岡県磐田市の一の谷墳墓群遺跡の様相に、中世における遠江国の宿場町の繁栄を伺うことができる。また、戦国時代になると、六角氏の観音寺城、織田氏の清洲城、松平氏の岡崎城・浜松城、今川氏の駿府城、後北条氏の小田原城など、名だたる戦国武将の根拠地が築かれていった。また、尾張美濃国境の墨俣は、鎌倉街道の木曽川渡河点として、重要なポイントであり、羽柴秀吉の「墨俣一夜城」の逸話は、これを地理的背景とするものである。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "鎌倉時代の東海道は、 古代東海道とは大きく経路が異なるところが2箇所ある。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このほかにも古代の律令制下とは、気候・地勢や利用者・利用目的・整備状況など、さまざまな状況が異なっており、具体的な道程には、かなりの相違が見られる。全般に、古代の東海道より、かなり内陸寄りを通る場合が多いのが特徴である。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "現在の交通路で言えば、国道1号よりも、むしろ東海道本線に近い経路が選択されていたと言える。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "imagemap_invalid_title", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "徳川家康が、1590年(天正18年)に江戸に入城する。戦国時代の頃には江戸と平塚を結ぶ経路は、現在の中原街道が使われ、徳川家康も利用した。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "徳川家康は、1601年(慶長6年)に「五街道整備」により、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、街道としての「東海道」が誕生する。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。又、箱根と新居に関所を設けた。その後、1603年(慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備する。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東海道は、江戸の日本橋から小田原宿、駿府宿、浜松宿、宮宿(熱田宿)を経て、七里の渡しで伊勢湾を渡り、桑名宿、草津宿を経て京都の三条大橋まで五十三次ある。距離は約490 kmあり、山間部の経路をとる中山道よりも約40 kmほど短いが、東海道には行く手を阻む大きな河川が何本もあり、六郷川(多摩川)、馬入川、富士川、天竜川は船渡しによる渡河が行われたが、大井川をはじめ、安倍川、酒匂川では江戸幕府により渡し船が許されず、川越人足(歩行渡し)による渡河をする必要があった。川の上流で雨が降ると川は増水したので、水位が増すごとに川札代も高くなり、七里の渡しの船賃よりも高かったといわれる。さらに、雨で増水した川は川止めとなることもあり、川の流れが一定水位まで下がるまで、何日でも宿代がかさむこととなった。箱根八里や七里の渡しも交通難所で、七里の渡しでは宮から桑名までの七里(約28 km)を海を船で揺られながら渡るのに、6時間余りを要した。このため、これをバイパスする佐屋街道が尾張初代藩主の徳川義直によって開かれ、宮から桑名まで9里(約36 km)で結ばれた。また幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが行われ、とりわけ新居の関は厳しかった。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "尾張の宮(熱田)からは脇街道(脇往還)である美濃路と接続し、美濃の垂井で中山道と連絡した。また、東海道の脇街道である本坂道(姫街道)は、浜名湖を渡る今切の渡しや、新居関を避けて浜名湖を北に迂回するもので、浜松宿から御油宿までの東海道をバイパスした。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "箱根峠越えの箱根湯本からの経路は、鷹巣山・浅間山・湯坂山の尾根筋を通る湯坂道とよばれる鎌倉時代から続く中世東海道の道筋に代わり、江戸時代の五街道としての東海道では、現在における旧東海道・箱根旧街道とよばれているような、湯坂道南側の谷筋に経路をとる須雲川道(すくもがわみち)を通っている。のちに保土ケ谷でも、尾根筋から谷筋に経路を変更しており、旅人が水を得るのに有利な谷筋に変わっていったのは、歴代の江戸幕府将軍が、一般民衆の利便を優先したからだと考えられている。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "著名な文学作品や浮世絵などの影響で、近世東海道の西の起点は京都三条大橋であるという広く考えられているが、幕府は京ではなく大坂までの街道を一体整備しており、こちらを加えたものが本来の近世東海道であるとする理解もある。この場合、最も西側の部分は、京街道がそれに相当する。この考え方を取る場合、東海道は京都中心部へは入らず、大津宿の西側の追分から、山科盆地を南西方向へ向かい、現在の名神高速道路付近を通って稲荷山の南麓を越え、京都盆地に出る。南へ進み伏見城下町を貫通して宇治川沿いに進み、淀城の手前で宇治川を渡り、淀城下を経て木津川を渡る。そしてそのまま淀川左岸を大坂へ向かい、大坂高麗橋が、江戸日本橋に対する西の起点となる。途中の宿駅は4箇所(伏見・淀・枚方・守口)あり、併せて東海道五十七次となる。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "慶長9年2月に大久保長安その他に命じて街道の幅員を5間とし、路傍に榎樹を植え、1里=36町と決め、1里ごとに里堠を設け、各駅の駄賃を定めた。寛永10年に伝馬、継飛脚の制が定められた。各宿駅に人夫100人、馬100匹を常備し(百人百匹の制)、幕臣や大名などの往来に供した。これが寛永以後も行なわれたが、天明3年に品川駅吏からの建議を納れて、100人100匹の定員のなかから公用その他の準備として30人20匹を除き置き、平時は70人80匹を武家その他に供した(人馬七八遣の法)。この人馬は御朱印伝馬のみで、彼らは各宿駅で徴発し得た。この他に一般庶民が傭役し得る駄賃伝馬があり、各宿駅で250人200匹を常備する定めだったが、実際の員数は規定どおりの規模には至らなかった。このほかにも飛脚の制があった。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "幕府は各宿駅で田租を免除し、飼馬の地を与え、継飛脚給米および問屋給米を支給し、宿手代に手当を与え、ときに金銭を貸与して、これを保護した。元禄年間には定助郷・加助郷の制を定めて宿駅の人馬を助けたが、負担は小さくなかった。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "幕府はまた軍事上の理由から、相模国小田原にかかる酒匂川、駿河国府中(駿府)を挟む興津川と安倍川、駿河遠江国境の大井川の4河川は、橋梁を架けないどころか、渡船さえ禁止して、往来する者には川の中を徒歩で渉らせた。大河川の徒渉は難儀であり、その両岸には徒渉の補助を行う業者が繁栄した。雨で水位が上昇し流速が増すと、危険なため徒渉は禁止された(川止め)。しかしこれらの河川の上流域は全国有数の多雨地域であり、暖候期には川止めが頻発・長期化することもしばしばで、大名から庶民まで旅費がかさむ旅行者を苦しめた。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "大井川に橋を架けずに歩行渡しとしたのは江戸城防衛を第一の目的としたためだと言われることがあるが、これとは別な理由もあり、川床に砂礫層が堆積しているために、安全な橋を架けるためには不可欠となる橋脚杭を深く打ち込むことが当時の未熟な土木技術では実現出来なかったことや、一旦歩行渡しに人足を雇用したことから経済的に川越人足という職業が定着して廃止することが困難になっていたためであることが明らかとなっている。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "東海道には、軍事的・地理的理由から、顕著なボトルネックとなるポイントや、地理的迂回路となるポイントが残されており、このような交通上脆弱・不便な部分には、これを回避するための脇街道が置かれた。脇街道には相模国の内陸部を通って直線的に結ぶ中原街道、見附宿より浜名湖の今切の渡しと新居関所を迂回し、気賀関所を通り、本坂峠を越し、吉田宿ないし御油宿へ抜ける道である本坂通(姫街道)、宮から桑名までの七里の渡しを避けて、濃尾平野内部を陸路で結ぶ佐屋街道があった。特に、姫街道に関しては、宝永地震とそれに伴う大津波で、今切の渡しが破壊されて交通途絶してしまったことから、18世紀初頭には、東海道本道の交通をまるごと引き受ける場面もあった。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "明治政府は、地方制度としての令制国を廃止、五街道に代わる国道を制定した。東海道としての実質的機能と位置は現在の国道15号及び国道1号に受け継がれ、東日本と西日本(関東地方と近畿地方)を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "江戸時代に整備された東海道の松並木は、明治4年ごろに電線を引くのに不便であるとの理由で伐り払うことになり、横浜・小田原間から始められた。横浜の英字新聞『ジャパン・ガゼット』は、並木の持つ日射風雪を防ぐ機能と美観を損ねる愚かな行為と批判した。太平洋戦争中には飛行機の燃料として松根油を採取するため、あるいは道路の拡張のため伐採されてしまい、現代ではごく一部だけが当時の姿をとどめるに過ぎない。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "明治5年には、宮から以西が佐屋街道より海寄りの陸路に変更されるが、前ケ須(弥富市)から桑名までは渡し船(「ふたつやの渡」)を必要とした。明治28年に関西鉄道(現在のJR関西本線)、昭和9年に国道1号の伊勢大橋が開通し、「ふたつやの渡」は役目を終えた。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "現代において「東海道」と言うときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。従って、東海道の東端は、律令時代では磯原、江戸時代以後は東京(江戸)ということになる。", "title": "道(みち)としての東海道" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、「東海道」の名をつけたJRの東海道本線および東海道新幹線は、東京 - 熱田間と草津 - 京都間ではほぼ江戸時代の東海道に沿っているが、熱田(名古屋市)- 草津については中山道(加納 - 草津)と美濃路(宮・熱田 - 垂井)に沿ったルートとなっている。", "title": "鉄道の東海道" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "現在「東海道」というと、しばしばこの両鉄道沿いのルートが江戸時代のそれであると誤解され、紹介されることもあるほどである。本来の街道としての東海道は、名古屋 - 草津については名古屋 - 亀山 - 草津を経由するもので、現在の鉄道路線ならば関西本線と草津線のルートに近いものである。", "title": "鉄道の東海道" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この名古屋(宮・熱田)から亀山を経て草津に至る、江戸時代の東海道のうち、上記の東西幹線から外れた区間は、明治中期になって民間の関西鉄道がその沿線の振興を目的に鉄道を敷設し、後にそれが国有化されて現在の両線となっている。", "title": "鉄道の東海道" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "東海道本線の該当区間が実際の東海道から離れた理由は、明治初期に東西両京を結ぶ鉄道線を敷設する際、東海道と中山道のいずれに通すかを巡って論争があり、中山道経由に一旦は決定してその一部に該当する路線が開業したものの、後に碓氷峠を越える区間など山岳地域での工事の長期化・費用増、開業後の輸送量制限、さらには沿線人口の差(中山道沿いには名古屋市や浜松市、静岡市に相当する大きな都市がなかった)を考慮したところ、やはり東海道経由の方が優れているという検証がなされ、急遽岐阜(加納)以東のルートが東海道経由に変更されたことに起因している。", "title": "鉄道の東海道" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "計画変更が決まった時には、既に神戸から大阪・京都を経て大津に至る鉄道と、長浜から岐阜・名古屋を経て武豊までの鉄道が開業しており、これと琵琶湖の鉄道連絡船(太湖汽船 大津 - 長浜航路)を用いることによって武豊 - 名古屋 - 京都 - 神戸間の連絡が図られていたため、両京を結ぶ鉄道はこれを最大限に活用して早期に完成させるべきであるとの判断がなされ、これにより現行ルートが定まることになった。", "title": "鉄道の東海道" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "結果、日本初の鉄道路線である新橋 - 横浜間もその東西幹線に組み入れる形となり、1880年代中頃(明治10年代末)より横浜から静岡を経て大府に至る区間と関ヶ原から米原を経て大津に至る区間が建設され、1889年(明治22年)7月に全通、これにより現在の東海道本線の原型が完成した。", "title": "鉄道の東海道" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また東海道新幹線に関しては、当初は名古屋から京都まで鈴鹿山脈を一直線にトンネルで抜けるルートでの敷設も計画されていたが、トンネルが長大になり建設に時間・費用を要する(1964年東京オリンピック前の開業予定に間に合わなくなる)こと、それに米原が北陸本線(旧:北陸道)との接続点になっていたこともあって、最終的には東海道本線に沿う現行ルートで敷設された。", "title": "鉄道の東海道" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "以上の経緯については、中山道及び鉄道と政治の項目も参照のこと。", "title": "鉄道の東海道" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なお、行政区画としての東海道に属する旧律令国において、現在の東海道本線が通過せず、かつ東海道本線に直通する列車が存在しないのは、安房国・伊勢国のみである。", "title": "鉄道の東海道" } ]
東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。
{{Otheruses}} '''東海道'''(とうかいどう、うみつみち)は、[[五畿七道]]の一つ。[[本州]][[太平洋]]側の中部の[[行政区分]]、および同所を通る[[幹線道路]]([[古代]]から[[近世]])を指す。 == 行政区画としての東海道 == {{Pathnav|令制国一覧|frame=1}} [[ファイル:Tokaido.svg|thumb|250px|東海道]] 行政区分の東海道は、[[畿内]]から東に伸びる、[[本州]][[太平洋]]側の中部を指したもの。これは、現在の[[三重県]]から[[茨城県]]に至る[[太平洋]]沿岸の地方に相当する{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}}。当初、武蔵国は[[東山道]]に属しており、771年に加わったものである{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}}。 * [[伊賀国]](現在の三重県の西部) * [[伊勢国]](現在の三重県の西部と南部及び志摩半島部を除く全域) * [[志摩国]](現在の三重県の志摩半島部と愛知県の渥美半島の間にある一部の島々) * [[尾張国]](現在の愛知県の西部) * [[三河国]](現在の愛知県の中部と東部) * [[遠江国]](現在の静岡県の西部) * [[駿河国]](現在の静岡県の中部及び東部) * [[伊豆国]](現在の伊豆半島及び伊豆諸島) * [[甲斐国]](現在の山梨県) * [[相模国]](現在の神奈川県の中部・西部) * [[武蔵国]](現在の東京都と埼玉県、神奈川県東部の一部。771年までは[[東山道]]{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}}) * [[安房国]](現在の千葉県の南部) * [[上総国]](現在の千葉県の中部) * [[下総国]](現在の東京都の隅田川東岸、千葉県の北部、埼玉県の中川東岸、茨城県の南西部) * [[常陸国]](現在の茨城県) === 変遷 === {{hidden begin |title = 東海道令制国の変遷 |border = #aaa solid 1px |titlestyle = text-align: center; background:lightgrey; }} ; 名称の変更に限るもので、令制国間の郡・郷の移動に関しては記載していない。 {{familytree/start|style=font-size:85%}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|||:|02||||||||||||:|03|:||04|:|05| 01='''古代国<br/>([[令制国]]前身)'''|02='''[[大宝律令]]制定<br/>([[701年]])'''|03='''[[824年]]-明治'''|04='''[[明治|明治時代]]'''|05='''現在の[[都道府県]]'''}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|~|~|~|~|~|%|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|%|~|~|~|%|~|~|~|~|%|~|~}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|.|,|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[伊賀国造|伊賀国]]|02='''[[伊賀国]]'''<br/>([[680年]]-)|03='''[[伊賀国]]'''|04=[[三重県]](西部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|+|^|*|02|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[伊勢国造|伊勢国]]|02='''[[伊勢国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[伊勢国]]'''|04=三重県(北中部)・[[愛知県]](一部)・[[岐阜県]](一部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:||||`|02|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[島津国造|島津国]]|02=[[志摩国]]<br/>([[8世紀]]初め-)|03='''[[志摩国]]'''|04=三重県(東部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[尾張国造|尾張国]]|02='''[[尾張国]]'''<ref group="注">[[田中卓]]が「尾張国はもと東山道か」(1980年)という論文を著し、東海道は本来は伊勢国から海路で三河国に向かうルートを取っていたとする観点から、尾張国が武蔵国と同様に元は東山道で後に東海道に移管されたとする説を唱えている。</ref><br/>([[7世紀]]-)|03='''[[尾張国]]'''|04=愛知県(西部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|03|*|04|*|-|04|%|05| 01=[[参河国造|参河国<br/>(三川国・三河国)]]|02='''[[三河国|参河国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03=[[三河国]]<br/>([[784年]]-)|04='''[[三河国]]'''|05=愛知県(東部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[穂国造|穂国]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[遠淡海国造|遠淡海国]]|02='''[[遠江国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[遠江国]]'''|04=[[静岡県]](西部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|(||:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[久努国造|久努国]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[素賀国造|素賀国]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|v|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[珠流河国造|珠流河国]]|02='''[[駿河国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[駿河国]]'''|04=静岡県(中部・北東部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|(|!|:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[廬原国造|廬原国]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'|`|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[伊豆国造|伊豆国]]|02='''[[伊豆国]]'''<br/>([[680年]]-)|03='''[[伊豆国]]'''|04=静岡県([[伊豆半島]])、[[東京都]]([[伊豆諸島]])}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[甲斐国造|甲斐国]]|02='''[[甲斐国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[甲斐国]]'''|04=[[山梨県]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[相武国造|相武国]]|02='''[[相模国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[相模国]]'''|04=[[神奈川県]](北東部以外大部分)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[師長国造|師長国]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left||||||:|||||||||||01|-|*|02|*|-|02|%|03| |01=[[武蔵国]]<br/>([[771年]]、[[東山道]]から移管)|02='''[[武蔵国]]'''|03=東京都(大部分)、[[埼玉県]](大部分)、神奈川県(北東部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|||:||||,|02|.|,|03|-|-|*|04|*|-|04|%|05| 01=[[総国|総国(捄国)]]<br />([[阿波国造|阿波国]]など十数カ国)<ref group="注">[[阿波国造|阿波国]]のほか、[[長狭国造|長狭国]]、[[須恵国造|須恵国]]、[[馬来田国造|馬来田国]]、[[菊麻国造|菊麻国]]、[[伊甚国造|伊甚国]]、[[上海上国造|上海上国]]、[[武社国造|武社国]]、[[下海上国造|下海上国]]、[[千葉国造|千葉国]]、[[印波国造|印波国]]。</ref>|02=[[安房国]]<br />([[718年]]-[[742年]])|03=[[安房国]]<br />([[757年]]-)|04='''[[安房国]]'''|05=[[千葉県]](南部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|-|*|02|^|-|-|-|^|^|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[上総国]]<br />(上捄国、[[6世紀]]-)<ref group="注">『帝王編年記』は上総国の成立を[[安閑天皇]]元年([[534年]])とする。</ref>|02='''[[上総国]]'''<br />(令制国、[[7世紀]]-)|03='''[[上総国]]'''|04=千葉県(中部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[下総国]]<br />(下捄国)|02='''[[下総国]]'''<br />(令制国、[[7世紀]]-)|03='''[[下総国]]'''|04=千葉県(北部)、[[茨城県]](南西部)、埼玉県(一部)、東京都(一部)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[茨城国造|茨城国]]など7カ国<ref group="注">[[茨城国造|茨城国]]のほか、[[筑波国造|筑波国]]、[[新治国造|新治国]]、[[久自国造|久自国]]、[[仲国造|仲国]]、[[高国造|高国]](多珂国)、[[道口岐閉国造|道口岐閉国]]。</ref>|02='''[[常陸国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[常陸国]]'''|04=茨城県(南西部以外大部分)}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left||||`|01||||02||||||||:||||:|||||:| 01=[[陸奥国]]([[東山道]])|02=[[石城国]]?<br/>([[718年]]-[[724年]]以前)<ref group="注">[[鐘江宏之]]が「七道制と日本の律令国家運営」『律令制諸国支配の成立と展開』(吉川弘文館、2023年)の中で、陸奥国から一時期分立していた石城国は成立時に常陸国菊多郡を編入していることや太平洋沿岸沿いにある地理的観点から、東海道に属していたとする説を唱えている。</ref>}} {{familytree/end}} {{Reflist|group=注}} {{hidden end}} {{令制国一覧}} == 道(みち)としての東海道 == {{Pathnav|主要カテゴリ|[[:Category:技術|技術]]・[[:Category:社会|社会]]・[[:Category:歴史|歴史]]|交通|[[:Category:テーマ史|テーマ史]]・[[:Category:技術史|技術史]]・[[:Category:交通史|交通史]]|[[:Category:各国の交通史|各国の交通史]]|[[:Category:日本の交通史|日本の交通史]]|街道|frame=1}} [[ファイル:Tokaido.PNG|thumb|250px|東海道の概略]] === 律令時代 === ==== 概説 ==== 東海道は[[律令時代]]に設けられた[[五畿七道]][[駅路]]の一つで<ref group="注釈">東海道各国の[[国府]]を駅路で結び、東海道に巡察に派遣された官人が順に移動した。</ref><ref group="注釈">中世や江戸時代よりも道幅は広く、直線的に建設された。</ref>([[五畿七道#律令時代からの七道|中路]])、[[畿内]]から[[常陸国]]国府へ至る道である{{sfn|浅井建爾|2001|p=87}}。さらに[[常陸国]](東海道)からは、[[陸奥国]]([[東山道]])への連絡道が設けられ、より北へ向かうこともできる重要な交通路だった。 東海道は、当初は東山道に比べると必ずしも通行は容易ではなかった。これは、多数の大河川の下流([[揖斐川]]・[[長良川]]・[[木曽川]]・[[天竜川]]・[[大井川]]・[[安倍川]]・[[富士川]]・[[相模川]]・[[多摩川]]・[[利根川]]・[[江戸川|太日川]]など)および東京湾・[[香取海]]を渡る必要があったためである(馬で渡れない場合は概ね渡船に頼る必要があった)。[[771年]]までは[[相模国]]からは東京湾を渡って[[上総国]]へ向かった<ref group="注釈">したがって、[[771年]]までは東海道は東京湾岸の[[多摩川]]・[[利根川]]・[[太日川]]は渡河しなかった。</ref><ref group="注釈">それ以前は、武蔵国は東海道には属さなかったため同国を経由しなかった。</ref>。 [[10世紀]]以降に、渡河の仕組が整備され、東海道が活発になったと考えられている<ref name="kitamura">北村優季「長岡平城遷都の史的背景」(初出:『国立歴史民俗博物館研究報告』134集(2007年)/所収:北村『平城京成立史論』(吉川弘文館、2013年) ISBN 978-4-642-04610-7</ref>。 <!--当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、[[揖斐川]]・[[長良川]]・[[木曽川]]・[[大井川]]・[[安倍川]]・[[富士川]]・[[多摩川]]・[[利根川]](当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、--> <!--中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。--> ==== 畿内から近国まで ==== [[首都]]が[[飛鳥]]に置かれた時期には、[[大和国]]の[[宇陀]]が、東海道方面への入口だったと考えられているが<ref group="注釈">概ね後の[[初瀬街道]]、現在の[[国道165号|国道165号線]]に沿ったルートであったと想定される。</ref>、その後、[[平城京]]に遷都されると、平城京から[[平城山]]を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って[[伊賀国]]に入り、[[鈴鹿山脈]]と[[布引山地]]の鞍部を[[加太越え]]で越えて[[伊勢国]]へ、[[木曽三川]]を下流域で渡って[[尾張国]][[津島市|津島]]へ、[[名古屋市]]を通り、[[三河国]]と続いていったと考えられている。およそ、現在の[[国道163号|国道163号線]]・[[国道25号|国道25号線]]・[[国道1号]]に沿ったルートであった。 ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは[[飛鳥]]や[[平城京]]から[[鈴鹿峠]]を経由してそのまま伊勢国の港から[[伊勢湾]]を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年(646年)3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の[[不破関]]に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の[[七里の渡し]]や[[美濃路]]の原型として考えることもできる<ref name=kitamura/>。 [[平安京]]に遷都されると、起点が平安京に移ったため、伊賀国から、[[近江国]]を通るルートに変更されることになる。平安時代初期には現在の[[杣街道]]から伊賀国に入る経路がとられたが、[[886年]]([[仁和]]2年)に鈴鹿峠を通る経路に変更され、ほぼ現在の国道1号のルートに準ずるようになった。 ==== 中国・遠国 ==== 現在の[[浜松市]]付近から[[駿河国|駿河国府]]([[静岡市]])に至る経路は、江戸時代の旧東海道よりも、やや海岸寄りを通っていたとみられている。 [[焼津市]]と[[静岡市]]との境の峠は[[日本坂]]と呼ばれ{{sfn|武部健一|2015|p=64}}、[[日本武尊]]の東征伝説や[[万葉集]]の歌にも詠まれた難所だった。平安時代には、やや内陸寄りの[[宇津ノ谷峠]]を通る経路へ変更され{{sfn|武部健一|2015|p=64}}、[[蔦の細道]]として文献に現れる。 駿河国府以東は、現在の東静岡駅前にある[[静岡県コンベンションアーツセンター]](グランシップ)直下付近を通った<ref group="注釈">これが判明したのは、静岡市[[葵区]]長沼・[[駿河区]]東静岡にある[[曲金北遺跡]]が発掘され、[[1994年]](平成6年)4月から[[1995年]](平成7年)5月にかけて[[東静岡駅]]前開発に伴い行われた[[発掘調査]]で、古代東海道と見られる幅約9メートル、両脇の[[側溝]]幅2~3メートルの[[古代日本の道路|大型直線道路]]が発見されたためである。</ref><ref>[[静岡県埋蔵文化財調査研究所]] 1996</ref>。 駿河国と相模国の国境の峠越えは、[[沼津市|沼津]]から永倉駅([[長泉町]])を経て横走駅([[御殿場市|御殿場]])を経由し[[足柄峠]]を越え、坂本駅([[関本]])に至る足柄路が使われた。ただし[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]の[[富士山の噴火史|延暦噴火]](800年〜802年)の際にこの駿河側の復旧に時間を要したため、新たに[[三島市|三島]]から[[箱根山|箱根カルデラ]]を縦貫し[[小田原市|小田原]]へ至る[[箱根路]]が開かれ足柄路の復旧まで使われた。[[甲斐国|甲斐国府]](山梨県[[笛吹市]])へは横走駅から北上する分岐路([[甲斐路]])を通った。 [[相模国]]では[[国府津]]から[[大磯]]まで[[相模湾]]沿いに東へ進み、相模国中部([[寒川町]]南西付近)で[[相模川]]を渡った<ref group="注釈">ただし相模国の東海道および[[相模国|相模国府]](相模国中部)の位置には諸説がある。</ref>。 [[771年]]以前はそこから[[鎌倉市|鎌倉]]へ向かい、それ以東は次の[[上総国]]へ向かうために、[[三浦半島]]へ入り、[[走水]]から[[浦賀水道]]を渡って[[房総半島]]([[上総国]][[富津]])に入った{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}}<ref>「千葉県の歴史 - 通史編」千葉県、2001年</ref><ref group="注釈">[[走水]]も[[富津]]も歴史的に重要な地で、海上交通路で結ばれていた([[浦賀水道]])。</ref>。そこからは北上し、[[上総国|上総国府]](現在の千葉県[[市原市]])へ向かった。[[安房国|安房国府]]へは富津から南下する分岐路を通った。上総国府から[[下総国|下総国府]](千葉県[[市川市]])へも分岐路が伸びていた。 [[上総国|上総国府]]を経た後は引き続き北上し[[下総国]]荒海駅([[成田市]])で[[香取海]]を[[渡し船|渡船]]し[[常陸国]]榎浦津駅([[稲敷市]]柴崎)へ入り、[[常陸国|常陸国府]](茨城県[[石岡市]])へ至った。 [[武蔵国]]は当初は歴史的経緯から[[東山道]]に属し、[[上野国]]新田駅・[[下野国]]足利駅から南下する支路である[[東山道武蔵路]]が[[武蔵国|武蔵国府]](東京都[[府中市 (東京都)|府中市]])まで伸び連絡した<ref group="注釈">ただし東山道に属する武蔵国を[[東山道武蔵路]]を通って公務上管理することは非効率的であった。</ref>。 やがて、武蔵国はその南部の発展により<ref group="注釈">帰化人も多く移り住んだ。</ref>、東海道との交通が活発となった。また東海道諸国から武蔵国東南部を経由し、[[下総国]]・[[常陸国]](さらには[[陸奥国]])へ向かう最短距離の交通路の重要度が増した。相模国中部からは現在の[[中原街道]]もしくは[[厚木街道]]([[矢倉沢往還]])に近い経路で[[武蔵国]]([[橘樹郡]]・[[都筑郡]])へ入り、多摩川を[[丸子の渡し]]で渡り、武蔵国[[荏原郡]]を経て[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]](現在の[[東京]][[都心#東京の都心部|都心]]湾岸部)を通り、[[隅田の渡し]]で下総国[[葛飾郡]]へ入った。[[隅田川]]・[[利根川]]・[[渡良瀬川]]の[[デルタ地帯]]は各川を[[渡し船|渡船]]し下総国府へ向かった。 これを受けて、[[771年]]に武蔵国は東海道へ移管された{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}}。東海道の経路は相模国以東はそれまでの海路で上総国へ入ることを止め、相模国中部から北上して武蔵国府に至り<ref group="注釈">多摩川を[[関戸の渡し]]で渡った。</ref>、そこから、もしくは上記のように相模国中部から東行し武蔵国へ入り、[[隅田の渡し]]で下総国へ入り、下総国府を経て上総国府へ向う経路となった。 [[805年]]には、上総国府を経由し北上する路線(香取道)を止め、下総国府から直接北上し、より最短距離で常陸国へ入る経路となった(相馬道)<ref group="注釈">この経路が現在に至る[[水戸街道]]の原型となった。</ref>。途中の経路は現在の[[柏市]]・[[我孫子市]]([[布佐町|布佐]])・[[利根町]]を通り<ref group="注釈">[[手賀沼]]と当時の[[常陸川]]とに南北を挟まれ東西に細長く伸びるこの台地上を東へ進み東端の布川([[利根町]])に達し(江戸時代以前は[[布佐町|布佐]]([[我孫子市]])と布川([[利根町]])との間は掘割りは無く、台地上を道が通じていた)、そこから北上し当時の[[常陸川]]・[[鬼怒川]]を渡船した。当時は[[鬼怒川]]・[[小貝川]]が[[香取海]]へ注ぐ[[氾濫原]]を通り[[柏市]]と[[土浦市]]とを直線的に結ぶことはできなかった。</ref>、そこから当時の[[常陸川]]・[[鬼怒川]]の[[香取海]]への河口付近を渡船し<ref group="注釈">当時、この付近は[[常陸川]]が現在の[[新利根川]]を流れ、[[鬼怒川]]が[[龍ケ崎市]]と[[利根町]]との間を流れていた。</ref>、鬼怒川北岸台地の馴馬・長峰・若柴付近([[龍ケ崎市]])から常陸国へ入った。 常陸国の先、[[勿来関]]の北側の、現在の[[福島県]][[浜通り]]地方南部は、所属がやや流動的であり、当初は、常陸国まで太平洋沿岸に伸びてきた東海道の延長として扱われることもあったが、その後、現在の[[宮城県]]に置かれた[[多賀城|陸奥国府]]の管轄下に置かれることとなり、東山道に属することとなった。東海道の延長は、常陸国北部で内陸に入り、棚倉[[構造線]]沿いの構造谷を北上し、奥州へ入る東山道へ合流する連絡路で接続された。 [[延喜式]](平安中期)で東海道の駅を定めている。 === 平安中後期 === 平安時代中期を過ぎると、律令制の弛緩に伴い、国家の公的な交通に代わり、より現実的な必要に伴う交通が行われるようになったと考えられている。[[更級日記]]には、[[1020年]]秋に、著者菅原孝標女の父の上総国への赴任が終わり、東海道を通って京都に帰る道程が記されているが、熱田から西へは東海道ではなく、濃尾平野北西部の[[墨俣]]、東山道の[[不破関]]を通ったとあり、当時の事実上の交通状況が窺える。 陸奥国の国司の赴任の経路に東山道ではなく東海道を用い駿河国を通ったことを、駿河国司が中央に訴え出ている。 === 中世 === [[File:Kamakura-Kaido Road, Komaba-cho Toyota 2019.jpg|thumb|250px|鎌倉街道推定路(愛知県[[豊田市]]駒場)]] [[File:Intersection_of_Tokaidou_&_Kamakura-kaidou,_Yobitsugi_Minami_Ward_Nagoya_2021.jpg|thumb|250px|鎌倉街道推定路と近世の東海道との交点(愛知県名古屋市南区)]] ====鎌倉街道==== [[鎌倉幕府]]の[[政庁]]所在地鎌倉は、古い東海道の沿道上に所在しており、「武家の政庁所在地」鎌倉と、「朝廷・[[院]]の所在地」京都を結ぶ最も重要な街道となり、幕府は東海道の経路に駅制を敷き、京都 - 鎌倉間の通常の旅程を約12 - 15日、早馬による緊急の通信は3、4日と定めた{{sfn|武部健一|2015|p=74&ndash;75}}。 ただし、古代律令時代に作られた駅路東海道とは違い、早馬による通信制度は道路構造の貧弱さ故に廃れ、人の脚力に依存する方向に変っていったとみられている{{sfn|武部健一|2015|pp=77&ndash;78}}。 この鎌倉[[極楽寺坂切通し]]と京都[[京の七口|粟田口]]を結ぶ街道は、単に「[[鎌倉街道]]」「鎌倉往還」と呼ばれたり、海道と呼ばれたりしていた。また[[箱根路]]の整備も進められていた。 このころから東海道を旅した私人による日記文学が隆盛した{{efn|『[[海道記]]』『[[東関紀行]]』『[[十六夜日記]]』は、いずれも京都 - 鎌倉間の東海道を旅した鎌倉時代の旅日記文学である。}}。 私人が宿泊可能な民営の旅宿が登場したことによるものであるが、この当時の旅宿は旅行者が携行する[[干飯]](糒)などの食料を浸す温湯と簡素な寝具を提供するだけにとどまっていたとみられている{{sfn|武部健一|2015|pp=75&ndash;76}}。 また[[源実朝]]の[[御台所]]の[[女房]]・[[丹後内侍|丹後局]]が、承元4年([[1210年]])に旅の途中で盗賊にあったことから、鎌倉幕府により駿河以西の宿々に夜行番衆を置いて旅人の警護をするようになった{{sfn|武部健一|2015|pp=76&ndash;77}}。 この鎌倉街道は、鎌倉幕府滅亡後も、主要な交通路としての地位を維持し続けた。静岡県[[磐田市]]の[[一の谷墳墓群遺跡]]の様相に、中世における[[遠江国]]の宿場町の繁栄を伺うことができる。また、戦国時代になると、[[六角氏]]の[[観音寺城]]、[[織田氏]]の[[清洲城]]、[[松平氏]]の[[岡崎城]]・[[浜松城]]、[[今川氏]]の[[駿府城]]、[[後北条氏]]の[[小田原城]]など、名だたる戦国武将の根拠地が築かれていった。また、尾張美濃国境の墨俣は、鎌倉街道の[[木曽川]]渡河点として、重要なポイントであり、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の「墨俣一夜城」の逸話は、これを地理的背景とするものである。 =====経路(古代東海道との差異)===== [[鎌倉時代]]の東海道は、 古代東海道とは大きく経路が異なるところが2箇所ある{{sfn|武部健一|2015|p=78}}。 ;[[関ヶ原]]越え(近畿・中京間を連絡) * 古代は[[鈴鹿峠]]越えだった。伊吹・鈴鹿山系を越える道筋は、古代東海道では南回りの鈴鹿峠越えであったが、中世になって[[関ヶ原]]越えの経路に変更され、『[[海道記]]』と『[[東関紀行]]』『[[十六夜日記]]』のなかからもその違いを読み解くことができる{{sfn|武部健一|2015|p=79}}。 ;[[箱根峠]]越え(東海・関東間を連絡) * 古代は[[足柄峠]]越えだった。足柄越えは勾配が緩やかな反面、距離的には遠回りだった。 鎌倉時代以降は足柄路に代わり箱根路が主要路となった(『十六夜日記』のなかで「足柄は道遠しとて箱根路にかかる」とある){{sfn|武部健一|2015|p=80}}。 このほかにも古代の律令制下とは、気候・地勢や利用者・利用目的・整備状況など、さまざまな状況が異なっており、具体的な道程には、かなりの相違が見られる。全般に、古代の東海道より、かなり内陸寄りを通る場合が多いのが特徴である。 現在の交通路で言えば、国道1号よりも、むしろ[[東海道本線]]に近い経路が選択されていたと言える。 ;三河国 *[[三河国]][[東三河|東部]]では、[[豊橋市]]の[[普門寺 (豊橋市)|普門寺]]から、[[弓張山地]]を越えて同市多米町に至り、[[豊川市]]当古町で[[豊川]]を渡河する。[[西三河|西部]]では、[[岡崎市]][[矢作橋|矢作]]・[[安城市]][[尾崎]]・[[豊田市]][[駒場]]・[[刈谷市]][[東境町 (刈谷市)|東境]]を経由する経路だったと考えられており、律令制下の東海道どころか、江戸時代の東海道や、現在の国道1号よりはるかに内陸の山がちな経路を選択していることが分かる。 <gallery> File:Humonji1.jpg|[[普門寺 (豊橋市)|普門寺]]([[豊橋市]]) File:Imou bog.jpg|[[葦毛湿原]]と[[弓張山地]]([[豊橋市]]) File:Yahagi-Jinja-2.jpg|[[矢作神社 (岡崎市)|矢作神社]]([[岡崎市]]) File:Kamakura Kaido along Kumano Jinja Shrine, Ozaki-cho Anjo 2016.jpg|[[熊野神社]]を通る鎌倉街道跡([[安城市]]) File:Kamakura-Kaido Road, Komaba-cho Toyota 2019.jpg|[[駒場]]([[豊田市]]) File:Sobo-jinja ac (3).jpg|祖母神社境内にある鎌倉街道([[刈谷市]]) </gallery> ;尾張国 *[[尾張国]]では、[[豊明市]][[二村山]]([[沓掛城|沓掛]])、[[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]][[鳴海宿|鳴海]]・[[南区 (名古屋市)|南区]](上の道・中の道・下の道{{sfn|名古屋市:鎌倉街道}})・[[天白区]][[野並]]・[[瑞穂区]][[井戸田町 (名古屋市)|井戸田荘]]([[上野街道 (名古屋市瑞穂区)|上野路]])・[[熱田区]][[宮宿|熱田]]・[[中区 (名古屋市)|中区]][[古渡町]]・[[中村区]][[東宿町|東宿]]を通り、[[あま市]][[甚目寺町#歴史|萱津宿]]、[[稲沢市]][[国府宮]]、[[一宮市]][[黒田城 (尾張国)|黒田]]を通った。 <gallery> File:Futamurayama Kamakura Kaidou1, Toyoake 2012.JPG|[[二村山]]([[豊明市]]) File:Road at Idota-chō 20180310.jpg|[[上野街道 (名古屋市瑞穂区)|上野街道]]([[瑞穂区]]) File:Seigan-ji (Nagoya) sanmon.JPG|[[源頼朝]]出生の寺院である[[誓願寺 (名古屋市熱田区)|誓願寺]]([[熱田区]]) File:Huruwatarijouato.JPG|[[古渡城]]([[中区 (名古屋市)|中区]]) File:Kayazujinja1.jpg|草津の渡しのあった萱津に鎮座する[[萱津神社]]([[あま市]]) File:国府宮 - panoramio.jpg|[[国府宮]]([[稲沢市]]) File:The ruin of Kuroda Castle 20220611 01.jpg|[[黒田城 (尾張国)|黒田城]]([[一宮市]]) </gallery> ;美濃国 *[[美濃国]]へは[[美濃路]]の経路などから[[墨俣宿|墨俣]]へ入り、そのまま[[南宿村|南宿]]・[[北宿村|北宿]]([[羽島市]])、[[東山道]]の経路と合流。 <!--<gallery> </gallery>--> ;近江国 *[[近江国]]へは[[不破関]]を通過、さらに[[北陸道]]と合流して京都へ向かう経路が、鎌倉街道の本道であると理解されていた。 <!--<gallery> </gallery>--> === 江戸時代 === <imagemap> File:東海道.svg|thumb|512px circle 464 66 4 [[日本橋 (東京都中央区の橋)|]] circle 461 74 4 [[品川宿]] circle 457 85 4 [[川崎宿]] circle 451 93 4 [[神奈川宿]] circle 446 96 4 [[保土ヶ谷宿]] circle 440 102 4 [[戸塚宿]] circle 436 108 4 [[藤沢宿]] circle 423 110 4 [[平塚宿]] circle 418 113 4 [[大磯宿]] circle 403 121 4 [[小田原宿]] circle 390 128 4 [[箱根宿]] circle 379 137 4 [[三島宿]] circle 373 140 4 [[沼津宿]] circle 367 137 4 [[原宿]] circle 356 132 4 [[吉原宿]] circle 348 136 4 [[蒲原宿]] circle 343 139 4 [[由比宿]] circle 339 146 4 [[興津宿]] circle 334 151 4 [[江尻宿]] circle 325 156 4 [[府中宿 (東海道)]] circle 321 159 4 [[鞠子宿]] circle 315 163 4 [[岡部宿]] circle 312 168 4 [[藤枝宿]] circle 304 173 4 [[島田宿]] circle 299 175 4 [[金谷宿]] circle 294 177 4 [[日坂宿]] circle 288 181 4 [[掛川宿]] circle 279 184 4 [[袋井宿]] circle 272 186 4 [[見附宿]] circle 259 189 4 [[浜松宿]] circle 247 192 4 [[舞阪宿]] circle 242 190 4 [[新居宿]] circle 236 191 4 [[白須賀宿]] circle 231 187 4 [[二川宿]] circle 225 182 4 [[吉田宿]] circle 218 173 4 [[御油宿]] circle 215 169 4 [[赤坂宿 (東海道)|赤坂宿]] circle 208 164 4 [[藤川宿]] circle 202 158 4 [[岡崎宿]] circle 189 151 4 [[池鯉鮒宿]] circle 180 142 4 [[鳴海宿]] circle 176 138 4 [[宮宿]] circle 155 144 4 [[桑名宿]] circle 147 156 4 [[四日市宿]] circle 140 163 4 [[石薬師宿]] circle 136 167 4 [[庄野宿]] circle 129 170 4 [[亀山宿]] circle 123 170 4 [[関宿]] circle 120 166 4 [[坂下宿]] circle 112 160 4 [[土山宿]] circle 102 156 4 [[水口宿]] circle 89 150 4 [[石部宿]] circle 80 149 4 [[草津宿]] circle 70 150 4 [[大津宿]] circle 61 150 4 [[三条大橋]] desc top-right </imagemap> [[徳川家康]]が、1590年(天正18年)に[[江戸]]に入城する。戦国時代の頃には江戸と平塚を結ぶ経路は、現在の[[中原街道]]が使われ、徳川家康も利用した。 <!-- ==== 近世東海道 ==== --> ==== 五街道としての東海道の誕生 ==== 徳川家康は、[[1601年]](慶長6年)に「[[五街道]]整備」により、五つの街道と「[[宿場|宿]](しゅく)」を制定し、街道としての「東海道」が誕生する。[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]](江戸)から[[三条大橋]]([[京都市|京都]])に至る[[宿駅]]は、53箇所でいわゆる[[東海道五十三次]]である。又、[[箱根町|箱根]]と[[新居町 (静岡県)|新居]]に[[関所]]を設けた。その後、[[1603年]](慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備する。 ==== 経路 ==== 東海道は、江戸の日本橋から[[小田原宿]]、[[駿府宿]]、[[浜松宿]]、[[宮宿]](熱田宿)を経て、[[七里の渡し]]で[[伊勢湾]]を渡り、[[桑名宿]]、[[草津宿]]を経て京都の三条大橋まで[[東海道五十三次|五十三次]]ある。距離は約490 kmあり、山間部の経路をとる[[中山道]]よりも約40 kmほど短いが{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}、東海道には行く手を阻む大きな河川が何本もあり、六郷川([[多摩川]])、[[馬入川]]、[[富士川]]、[[天竜川]]は船渡しによる渡河が行われたが、[[大井川]]をはじめ、[[安倍川]]、[[酒匂川]]では[[江戸幕府]]により渡し船が許されず、[[川越制度|川越人足]](歩行渡し)による渡河をする必要があった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。川の上流で雨が降ると川は増水したので、水位が増すごとに川札代も高くなり、七里の渡しの船賃よりも高かったといわれる。さらに、雨で増水した川は川止めとなることもあり、川の流れが一定水位まで下がるまで、何日でも宿代がかさむこととなった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。[[箱根峠]]や七里の渡しも交通難所で、七里の渡しでは宮から桑名までの七里(約28 km)を海を船で揺られながら渡るのに、6時間余りを要した{{sfn|浅井建爾|2001|pp=98-99}}。このため、これをバイパスする[[佐屋街道]]が尾張初代藩主の[[徳川義直]]によって開かれ、宮から桑名まで9里(約36 km)で結ばれた。また幕府による「[[入鉄砲出女]]」の取り締まりが行われ、とりわけ[[新居関|新居の関]]は厳しかった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。 [[尾張国|尾張]]の[[宮宿|宮]](熱田)からは脇街道(脇往還)である[[美濃路]]と接続し、美濃の[[垂井宿|垂井]]で中山道と連絡した{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。また、東海道の脇街道である[[本坂通|本坂道]]([[姫街道 (東海道)|姫街道]])は、[[浜名湖]]を渡る今切の[[渡し船|渡し]]や、新居関を避けて浜名湖を北に迂回するもので、[[浜松宿]]から[[御油宿]]までの東海道をバイパスした{{sfn|浅井建爾|2001|pp=100-101}}。 箱根峠越えの箱根湯本からの経路は、鷹巣山・浅間山・湯坂山の尾根筋を通る湯坂道とよばれる鎌倉時代から続く中世東海道の道筋に代わり、江戸時代の五街道としての東海道では、現在における旧東海道・箱根旧街道とよばれているような、湯坂道南側の谷筋に経路をとる須雲川道(すくもがわみち)を通っている{{sfn|武部健一|2015|pp=106&ndash;108}}。のちに保土ケ谷でも、尾根筋から谷筋に経路を変更しており、旅人が水を得るのに有利な谷筋に変わっていったのは、歴代の江戸幕府将軍が、一般民衆の利便を優先したからだと考えられている{{sfn|武部健一|2015|pp=106&ndash;108}}。 ==== 宿場の一覧 ==== {{main|東海道五十三次#五十三次の一覧}} ==== 主な峠 ==== * [[箱根峠]]([[箱根宿]] - [[三島宿]]) * [[薩埵峠]]([[由比宿]] - [[興津|興津宿]]) * [[宇津ノ谷峠]]([[鞠子宿]] - [[岡部宿]]) * [[小夜の中山]]([[金谷宿]] - [[日坂宿]]) * [[鈴鹿峠]]([[坂下宿]] - [[土山宿]]) ==== 西の起点(五十三次か五十七次か) ==== 著名な文学作品や[[浮世絵]]などの影響で、近世東海道の西の起点は京都三条大橋であるという広く考えられているが、幕府は京ではなく[[大阪市|大坂]]までの街道を一体整備しており、こちらを加えたものが本来の近世東海道であるとする理解もある。この場合、最も西側の部分は、[[京街道 (大坂街道)|京街道]]がそれに相当する。この考え方を取る場合、東海道は京都中心部へは入らず、大津宿の西側の追分から、[[山科盆地]]を南西方向へ向かい、現在の[[名神高速道路]]付近を通って[[稲荷山]]の南麓を越え、[[京都盆地]]に出る。南へ進み[[伏見区|伏見]]城下町を貫通して[[宇治川]]沿いに進み、[[淀城]]の手前で宇治川を渡り、淀城下を経て[[木津川 (京都府)|木津川]]を渡る。そしてそのまま[[淀川]]左岸を大坂へ向かい、大坂[[高麗橋]]が、江戸日本橋に対する西の起点となる。途中の宿駅は4箇所([[伏見宿 (京街道)|伏見]]・[[淀宿|淀]]・[[枚方宿|枚方]]・[[守口宿|守口]])あり、併せて[[東海道五十七次]]となる{{sfn|浅井建爾|2001|pp=94-95}}。 ==== 江戸幕府の道路政策 ==== [[File:Tokaido1825.jpg|thumb|250px|[[幕末]]における東海道の松並木]] 慶長9年2月に[[大久保長安]]その他に命じて街道の幅員を5間とし、路傍に[[エノキ|榎樹]]を植え、1里=36町と決め、1里ごとに里堠を設け、各駅の駄賃を定めた。寛永10年に[[伝馬]]、[[飛脚|継飛脚]]の制が定められた。各宿駅に人夫100人、[[ウマ|馬]]100匹を常備し(百人百匹の制)、幕臣や大名などの往来に供した。これが寛永以後も行なわれたが、天明3年に品川駅吏からの建議を納れて、100人100匹の定員のなかから公用その他の準備として30人20匹を除き置き、平時は70人80匹を武家その他に供した(人馬七八遣の法)。この人馬は御朱印伝馬のみで、彼らは各宿駅で徴発し得た。この他に一般庶民が傭役し得る駄賃伝馬があり、各宿駅で250人200匹を常備する定めだったが、実際の員数は規定どおりの規模には至らなかった。このほかにも飛脚の制があった。 幕府は各宿駅で田租を免除し、飼馬の地を与え、継飛脚給米および問屋給米を支給し、宿手代に手当を与え、ときに金銭を貸与して、これを保護した。元禄年間には定助郷・加助郷の制を定めて宿駅の人馬を助けたが、負担は小さくなかった。 幕府はまた軍事上の理由から、[[相模国]][[小田原市|小田原]]にかかる[[酒匂川]]、[[駿河国]][[静岡市|府中(駿府)]]を挟む[[興津川]]と[[安倍川]]、駿河[[遠江国|遠江]]国境の[[大井川]]の4河川は、橋梁を架けないどころか、[[渡し船|渡船]]さえ禁止して、往来する者には川の中を徒歩で渉らせた{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。大河川の[[洗い越し|徒渉]]は難儀であり、その両岸には徒渉の補助を行う業者が繁栄した。雨で水位が上昇し流速が増すと、危険なため徒渉は禁止された(川止め){{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。しかしこれらの河川の上流域は全国有数の多雨地域であり、暖候期には川止めが頻発・長期化することもしばしばで、大名から庶民まで旅費がかさむ旅行者を苦しめた{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。 大井川に橋を架けずに歩行渡しとしたのは江戸城防衛を第一の目的としたためだと言われることがあるが、これとは別な理由もあり、[[川床]]に[[砂礫]]層が堆積しているために、安全な橋を架けるためには不可欠となる橋脚杭を深く打ち込むことが当時の未熟な土木技術では実現出来なかったことや、一旦歩行渡しに人足を雇用したことから経済的に川越人足という職業が定着して廃止することが困難になっていたためであることが明らかとなっている{{sfn|武部健一|2015|p=105}}。 ==== 脇街道 ==== 東海道には、軍事的・地理的理由から、顕著なボトルネックとなるポイントや、地理的迂回路となるポイントが残されており、このような交通上脆弱・不便な部分には、これを回避するための[[脇街道]]が置かれた。[[脇街道]]には[[相模国]]の内陸部を通って直線的に結ぶ[[中原街道]]、[[見附宿]]より[[浜名湖]]の今切の渡しと[[新居関所]]を迂回し、[[気賀関所]]を通り、[[本坂峠]]を越し、[[吉田宿]]ないし[[御油宿]]へ抜ける道である[[本坂通]]([[姫街道 (東海道)|姫街道]]){{sfn|浅井建爾|2001|pp=100-101}}、宮から桑名までの[[七里の渡し]]を避けて、[[濃尾平野]]内部を陸路で結ぶ[[佐屋街道]]があった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=98-99}}。特に、姫街道に関しては、[[宝永地震]]とそれに伴う大[[津波]]で、今切の渡しが破壊されて交通途絶してしまったことから、18世紀初頭には、東海道本道の交通をまるごと引き受ける場面もあった。 ; 東海道を扱った作品 * [[歌川広重]]作「[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]」([[浮世絵]]) * [[十返舎一九]]作「[[東海道中膝栗毛]]」 {{東海道}} === 明治時代以後 === [[ファイル:Shizuoka yui.jpg|thumb|250px|静岡県[[静岡市]][[清水区]]付近。 {{国土航空写真}}]] 明治政府は、地方制度としての{{要出典範囲|[[令制国]]を廃止|date=2016年10月}}、五街道に代わる[[国道]]を制定した。東海道としての実質的機能と位置は現在の[[国道15号]]及び[[国道1号]]に受け継がれ、[[東日本]]と[[西日本]]([[関東地方]]と[[近畿地方]])を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。 江戸時代に整備された東海道の松並木は、明治4年ごろに電線を引くのに不便であるとの理由で伐り払うことになり、横浜・小田原間から始められた<ref name=iwanami/>。横浜の英字新聞『ジャパン・ガゼット』は、並木の持つ日射風雪を防ぐ機能と美観を損ねる愚かな行為と批判した<ref name=iwanami>{{Citation|和書|editor=国史研究会|title=廃仏毀釈|series=岩波講座日本歴史|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217767/27|publisher=岩波書店|year=1935|page=51}}</ref>。[[太平洋戦争]]中には飛行機の燃料として[[松根油]]を採取するため、あるいは道路の拡張のため伐採されてしまい、現代ではごく一部だけが当時の姿をとどめるに過ぎない{{sfn|浅井建爾|2001|p=128}}。 明治5年には、宮から以西が佐屋街道より海寄りの陸路に変更されるが、[[前ケ須町|前ケ須]]([[弥富市]])から桑名までは渡し船(「ふたつやの渡」)を必要とした。明治28年に[[関西鉄道]](現在の[[東海旅客鉄道|JR]][[関西線 (名古屋地区)|関西本線]])、昭和9年に国道1号の[[伊勢大橋]]が開通し、「ふたつやの渡」は役目を終えた<ref>{{Cite journal|和書|title=伊勢湾を干拓して生まれた水郷のまち・弥富市|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/KISSO/pdf/kisso-VOL73.pdf|format=PDF|journal=KISSO|volume=73|date=2010-1|publisher=国土交通省中部整備局木曽川下流河川事務所調査課|accessdate=2022-03-13}}</ref>。 現代において「東海道」と言うときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。従って、東海道の東端は、律令時代では[[北茨城市|磯原]]、江戸時代以後は[[東京都区部|東京]](江戸)ということになる。 == 鉄道の東海道 == なお、「東海道」の名をつけたJRの[[東海道本線]]および[[東海道新幹線]]は、[[東京駅|東京]] - [[熱田駅|熱田]]間と[[草津駅 (滋賀県)|草津]] - [[京都駅|京都]]間ではほぼ江戸時代の東海道に沿っているが<ref group="注釈">厳密にいえば[[豊橋駅|豊橋]] - [[熱田駅|熱田]]間のルートは、東海道本線よりもむしろ[[名鉄名古屋本線]]の方が江戸時代の東海道に近いルートになっている。また[[大津駅|大津]] - [[京都駅|京都]]間も建設当初は[[東山 (京都府)|東山]]を越えることができずに[[稲荷駅]]経由で南側の[[大岩街道]]へと迂回することになった。</ref>、熱田([[名古屋市]])- 草津については[[中山道]]([[加納宿|加納]] - [[草津宿|草津]])と[[美濃路]]([[宮宿|宮・熱田]] - [[垂井宿|垂井]])に沿ったルートとなっている。 現在「東海道」というと、しばしばこの両鉄道沿いのルートが江戸時代のそれであると誤解され、紹介されることもあるほどである。本来の街道としての東海道は、[[名古屋駅|名古屋]] - 草津については名古屋 - [[亀山駅 (三重県)|亀山]] - 草津を経由するもので、現在の鉄道路線ならば[[関西本線]]と[[草津線]]のルートに近いものである。 この名古屋([[宮宿|宮・熱田]])から亀山を経て草津に至る、[[江戸時代]]の東海道のうち、上記の東西[[幹線]]から外れた区間は、[[明治]]中期になって民間の[[関西鉄道]]がその沿線の振興を目的に鉄道を敷設し、後にそれが[[鉄道国有法|国有化]]されて現在の両線となっている。 東海道本線の該当区間が実際の東海道から離れた理由は、明治初期に東西両京を結ぶ鉄道線を敷設する際、東海道と中山道のいずれに通すかを巡って論争があり、中山道経由に一旦は決定してその一部に該当する路線が開業したものの、後に[[碓氷峠]]を越える区間など山岳地域での工事の長期化・費用増、開業後の輸送量制限、さらには沿線人口の差(中山道沿いには[[名古屋市]]や[[浜松市]]、[[静岡市]]に相当する大きな都市がなかった)を考慮したところ、やはり東海道経由の方が優れているという検証がなされ、急遽[[岐阜駅|岐阜]]([[加納宿|加納]])以東のルートが東海道経由に変更されたことに起因している。 計画変更が決まった時には、既に[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]から[[大阪駅|大阪]]・[[京都駅|京都]]を経て[[大津駅|大津]]に至る鉄道と、[[長浜駅|長浜]]から[[岐阜駅|岐阜]]・[[名古屋駅|名古屋]]を経て[[武豊駅|武豊]]までの鉄道が開業しており、これと[[琵琶湖]]の[[鉄道連絡船]]([[太湖汽船]] 大津 - 長浜[[航路]])を用いることによって武豊 - 名古屋 - 京都 - 神戸間の[[連絡運輸|連絡]]が図られていたため、両京を結ぶ鉄道はこれを最大限に活用して早期に完成させるべきであるとの判断がなされ、これにより現行ルートが定まることになった。 結果、[[日本の鉄道開業|日本初の鉄道路線]]である[[新橋駅|新橋]] - [[横浜駅|横浜]]間もその東西[[幹線]]に組み入れる形となり、[[1880年代]]中頃(明治10年代末)より横浜から[[静岡駅|静岡]]を経て[[大府駅|大府]]に至る区間と[[関ケ原駅|関ヶ原]]から[[米原駅|米原]]を経て大津に至る区間が建設され、[[1889年]](明治22年)7月に全通、これにより現在の東海道本線の原型が完成した。 また[[東海道新幹線]]に関しては、当初は名古屋から京都まで[[鈴鹿山脈]]を一直線に[[トンネル]]で抜けるルートでの敷設も計画されていたが<ref group="注釈">昭和初期に構想されたものの実現できなかった[[名古屋急行電鉄]]も、鈴鹿山脈をトンネルで越える旧東海道沿いのルートであった。</ref>、トンネルが長大になり建設に時間・費用を要する([[1964年東京オリンピック]]前の開業予定に間に合わなくなる)こと、それに米原が[[北陸本線]](旧:[[北陸道]])との接続点になっていたこともあって、最終的には東海道本線に沿う現行ルートで敷設された。 以上の経緯については、[[中山道]]及び[[鉄道と政治#中山道ルートと岐阜羽島駅|鉄道と政治]]の項目も参照のこと。 なお、行政区画としての東海道に属する旧律令国において、現在の東海道本線が通過せず、かつ東海道本線に直通する列車が存在しないのは、安房国・伊勢国のみである<ref group="注釈">常陸国は常磐線や鹿島線(現行のダイヤでは東海道本線から鹿島線方面へ走行する列車のみ)から、下総国は東北本線・常磐線・総武本線・成田線・内房線・外房線から、上総国は内房線・外房線から、甲斐国は身延線から、伊賀国は草津線から東海道本線に直通する列車が存在する。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * [[静岡県埋蔵文化財調査研究所]][https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/1685 『曲金北遺跡(遺構編)』] 財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所 1996年 * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|authorlink=浅井建爾|edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tōkaidō (road)|東海道(道路)}} * [[日本の古代道路]] * [[東海道五十三次]] * [[東海道五十三次 (浮世絵)]] * [[奥州街道]] - 五街道のひとつ * [[甲州街道]] - 五街道のひとつ * [[日光街道]] - 五街道のひとつ * [[西国街道]] * [[街道てくてく旅]] * [[国道1号]] * [[国道15号]] * [[東海自然歩道]] * [[東名高速道路]] [[東名阪自動車道]] [[名神高速道路]] [[新名神高速道路]] [[名阪国道]] [[西名阪自動車道]] * [[東海旅客鉄道]](JR東海) [[東海道本線]] [[東海道新線]] [[東海道新幹線]] [[関西本線]] * [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[草津線]] * 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自然
自然(しぜん、希: φύσις 羅: natura 英: nature)について解説する。 自然の観方、位置づけのしかた、意味の見出し方などのことを自然観と言う。 例えば「自然は人間文化と対峙するという見方」「自然のなかに文化的模範を見つけるべきとする見方」「自然と人造物が一体となるのが文化的景観とする見方」等々が自然観である。 古代ギリシアでは「φύσις ピュシス(自然)」は世界の根源とされ、絶対的な存在として把握された。 対立概念にノモス(法や社会制度)があり、ノモスはピュシスのような絶対的な存在ではなく、相対的な存在であり、人為的なものであるがゆえ、変更可能であると考えられた。フェリクス・ハイニマン(ドイツ語版)は、古代ギリシア人の思考方法の特徴のひとつにこのような対立的な思考(アンチテーゼ)がある、とし、このピュシス/ノモスの対立を根本的なものとした。またこの対立はパルメニデスのドクサ(臆見)とアレーテイア(真理)の対立の変形としてエレア派が行ったともいわれる。 古代ギリシア語における「φύσις ピュシス」の意味は「生じる」「成長する」といった意味をもっていた。またソフォクレスやエウリピデスの語法では「誕生」「素性」あるいは「天性」という意味がある。エウリピデスの語法には「たとい奴隷の子であれ、ピュシスに関して勇敢で正しいものの方が、むなしい評判(ドクサスマ)だけのものより高貴な生まれのものだ」(『縛られたメラニッペ』断片495,41)などがある。 このような古代ギリシアにおける自然・文化・社会との分割が、のちのローマやヨーロッパの思想史のなかでの議論の基盤のひとつとなった。 紀元前4世紀、アリストテレスは、自著『形而上学』において、神学と形而上学を「第一哲学」と位置づけ、自然哲学を「第二哲学」と呼んだ。というのは、自然哲学が、対象としている形相の説明も行っているからであるという。ここにおける「philosophia physiceフィロソフィア・ピュシス」という表現が、古代ギリシャ語文献の中に「自然哲学」という表現が現れた最初のものであるという。 スコラ哲学の時代においては一般に、「神は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていた。 聖書を読むことで神の意図を知ることができるとされていた。また、ちょうど時計というものをじっくり観察すればその時計を作った時計職人の意図を推し量ることも可能なことがあるように、「神がお書きになったもうひとつの書物である自然」を読むことも神の意図や目論見を知る上で大切だ、と考えられた。 神はそれぞれの書物を異なった言語でお書きになったと、考えられており、神は人間が話す言葉で聖書を書き、数的な言葉で自然を書いた、と考えられた。ガリレオ・ガリレイも次のように述べた。 英語で法則のことを「law」と言うが、これはlay(置く、整える)の過去分詞と謂れている。それは神によって置かれたもの、整えられたこと、という意味である。独語ではさらにわかりやすく、「Gesetz」と言い、「setzenされたもの(英語で言えば、"setされたもの")」と表現する。つまり、神によってセットされたものが法則、と見なされているのである。 リベラルアーツの7科は、3科と4科に区分されているが、3科は具体的には文法・修辞学・弁証法であり、上記の「二つの書物」のうち「人間の言葉で書かれたほうの書物」(=聖書)をよりよく理解するためのものと位置づけられ、4科の算術・幾何・天文・音楽については、現代人が理解するには少しばかり解説が必要だが、当時は天文も音楽も数学的なものであったのであり、つまり、4科は「数の言葉で書かれたほうの書物」(=自然)をよりよく理解するためのもの、という位置づけであった。 ヨーロッパ諸語では、自然は本性(ほんせい)と同じ単語を用い「その存在に固有の性質」をあらわす(例えば、英語・フランス語の「nature」がそれである)。 「自然に還れ」は、ジャン=ジャック・ルソーの思想の一部を端的に表した表現である。人間社会の人為的・作為的な因習から脱出し、より自然な状態へと還ることを称揚している。 日本語では自然という語は平安時代にさかのぼる。平安末期の辞書である『名義抄』に「自然ヲノヅカラ」とあるのがもっとも古いようである。より古くは、中国のいわゆる老荘思想では無為自然という語があるが、老子などには無為はあっても自然はない。いずれにせよ、この語は意図せずに、意識的でなく、と言うような意味である。ただし、老荘思想では無為自然を重視し、それに対立するものとして人為的なものを否定する。そこから現在の意味の「自然」を尊いものと見る観点が生まれたと考えられる。彼らは往々にして山間や森林に隠れ住み、また山や川を愛でた。いわゆる水墨画、山水画などもこの流れにある。 人の手の触れない地形や環境を指す言葉としての自然は、開国後に「nature」等の外国語を訳する際にできた言葉だと思われ、そのような使われ方は明治中期以降のことである。日本語としては天然(てんねん)がほぼ同義であるが、使われ方はやや異なる。現在では単に天然と言えば天然ボケを指すこともある。なお、自然(じねん)と読んだ場合、むしろあり得ないものが勝手に生まれるのを指す。 「じねん」は自然の呉音読みであり、「しぜん」と読んだときとは違った意味を持つようになる。 自然(じねん)とは、万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする無因論のこと。仏教の因果論を否定し、仏教から見た外道の思想のひとつである。 また外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じること(自然法爾)という意味や、「偶然」「たまたま」といった意味も持つ。 浄土真宗本願寺派光明寺僧侶の松本紹圭によれば、昔の日本において自然は「じねん」と読まれており、親鸞は自然を「おのずからしからしむ」と読んで世界を今あるようにあらしめる阿弥陀如来の働きを見いだしたと述べている。また、現代語の「自然」のように、人間を除いた自然界、山や川、動植物を指す言葉はもともと日本語には存在せず、人間と自然界の間に隔たりを見ることなく、ただ自然(じねん)にあるものがあるようにしてあるだけという、仏教から見た外道の精神風土が日本にはあると述べている。 自然はまた、「自然環境」や原生地域を意味することもある。野生動物、岩石、森林、海岸など、人類に影響されていないものや人類の介入にもかかわらず以前と変わらぬ姿を保持するもの一般である。その場合、人工物や人間が介在する事象は自然の一部とは見なされない。 地球は今のところ生命の存在が確認されている唯一の惑星であり、その自然は様々な分野の科学的研究対象となっている。太陽系においては、太陽に近いほうから3番目の惑星である。地球型惑星としては最大であり、全惑星の中では5番目の大きさである。その気候的特徴としては、2つの大きな極地があり、2つの相対的に狭い温帯があり、赤道付近の広い熱帯と亜熱帯がある。降水も地域によってかなり異なり、年間降水量が数メートルの地域もあれば、1ミリメートル未満の地域もある。地球表面の71パーセントは塩水の海洋に覆われている。それ以外は大陸や島であり、人間が居住する土地の多くは北半球にある。 地球は地質学的および生物学的プロセスを通して進化し、そこに本来の条件の痕跡を残してきた。地殻はゆっくりと移動するプレートに分かれており、プレート群の構成は過去に何度か変化している。地球の内部は今も活発に活動しており、融解したマントルという分厚い層があり、その内側に鉄を多く含み磁場を形成している核がある。 大気圏の構成は生命活動によってそれまでの構成とは大きく変えられ、地表の条件を安定させる生態学的バランスが生まれた。気候は緯度その他の要因で地域によって大きく異なるが、長期的な全体の気候は間氷期の期間中ずっと安定しており、全体の平均気温が1、2度しか変化しないことで生態学的バランスと地球の実際の地理に大きな影響を及ぼした。 地質学は地球を構成する固体や液体について研究する科学の一分野である。地質学は、構成、構造、物理特性、力学、地球を構成する物質の歴史、それらが形成・移動・変成されたプロセスなどを研究する。それは主要な学問分野の1つであり、鉱業や石油・石炭などの採掘にとっても自然災害の可能性を知り被害を防ぐという意味でも重要であり、過去の気候や環境を理解する上でも重要である。 ある地域の地質は、マグマが冷えたり、堆積によって岩盤ができ、変成作用でその組成が変化したり地殻変動によって位置や形状が変化することで形成される。 岩石はまず堆積によって形成されるものとマグマが母岩に貫入することで形成されるものがある。堆積岩は地表に堆積物が積もり、それに続成作用が働いて形成される。火成岩には溶岩が地表を覆ってできる火山岩もある。火山灰の堆積でできる凝灰岩は堆積岩に分類される。バソリス、ラコリス、岩脈、岩床などの火成貫入岩は、上にある岩体を押し上げ、貫入することで結晶化したものである。 形成された岩はその後、なんらかの力を受けて変形したり、変成作用によって組成が変化したりする。典型的な変形は水平方向の圧縮する力による褶曲、水平方向の伸張させる力やすれる方向の力による断層などがある。これらの構造は主にプレートの境界に対応しており、収束型境界、発散型境界、トランスフォーム型境界がある。 地球は、太陽や他の惑星と共に約45億4000万年前に原始太陽系星雲から誕生したとされている。月はそれから約2000万年後に形成された。当初は熱で融解していたが、外側から徐々に冷却され、固体の地殻が形成された。ガス放出や火山活動が原始大気を形成した。彗星の氷などから水がもたらされ、水蒸気が凝結することで海洋などの水圏が生まれた。そして約40億年前に高エネルギーの化学反応によって自己複製可能な分子が生まれたと言われている。 大陸は形成と離散を繰り返しており、数億年をかけて超大陸を形成しては、それが分裂するということを繰り返している。約7億5000万年前、既知の最古の超大陸ロディニア大陸が分裂を始めた。個々の大陸は再び集合してパノティア大陸を形成し、約5億4000万年前に再び分裂を開始した。そしてパンゲア大陸が形成され、これが分裂を開始したのが約1億8000万年前のことである。 新原生代に激しい氷河作用によって地球全体が氷に覆われたと見られる重要な証拠が見つかっている。この仮説的状態を「スノーボールアース」と呼ぶ。その直後の5億3000万年前から5億4000万年前にカンブリア爆発と呼ばれる多細胞生命体の劇的な増殖が始まった。 カンブリア爆発以降、大量絶滅が5回あったことがわかっている。直近で大量絶滅があったのは6500万年前で、おそらく巨大隕石の衝突によって鳥類に進化していなかった恐竜や大型爬虫類の絶滅を引き起こしたが、トガリネズミに似た小型のものが多かった哺乳類は生き延びた。この6500万年の間に哺乳類は活動領域を広げていった。 数百万年前、アフリカの小型のサルが二本足で直立する能力を獲得した。そこから人類が進化し、農耕を発展させ文明を生み出し、それまでの生命体には見られなかった速度で自然や他の生物に影響を及ぼすようになっていった。例えば、シデリアンに藻類が繁殖して酸素を大量に生み出し嫌気性生物が大量絶滅したが、それには約3億年を要した。 現代は完新世にあたるが、大量絶滅期にあたるとされており、これまでにない速度で絶滅が起きている。ハーバード大学のエドワード・オズボーン・ウィルソンらは、人類が引き起こした生物圏の破壊により、今後100年間に地球上の半分の種が絶滅すると予想している。進行中の絶滅イベントの範囲は生物学者が研究中であり、議論が続いている。 地球の大気は惑星規模の生態系を維持するのに重要な役割を果たしている。地球を取り巻く薄い気体の層がその場に留まっているのは、惑星の重力場の作用である。乾燥した空気の構成は、窒素が78%、酸素が21%、アルゴンなどの不活性気体や二酸化炭素などが残りの1%となっている。ただし、実際の空気には湿度に相当する水蒸気も含まれている。大気圧は高度上昇に伴って徐々に低くなり、スケールハイトは地表から約8キロメートルの高度となる。地球の大気圏のオゾン層は地表に届く紫外線 (UV) を大幅に減らすという重要な役割を果たしている。DNAは紫外線によって破壊されやすく、オゾン層は地表の生命を守っているとも言える。大気は夜間の温度低下を和らげる役目も果たしており、1日の温度変化もかなり低減されている。 地球上の気象現象はほとんど全て対流圏という大気下層部で起きており、大気循環による熱の再分配が起きている。海流も気候を決定付ける重要な要素であり、熱塩循環によって赤道付近の海洋で得た熱エネルギーを極地の海洋に分配する重要な役目がある。これらの流れは温帯での夏と冬の温度差を和らげるのに役立っている。海洋や大気による熱の再配分がなければ、赤道付近は今よりも暑くなり、極圏は今よりも寒くなる。 気象は人間にとって好ましい場合もあれば、有害な場合もある。特に竜巻、台風、サイクロン、ハリケーンはその進路にあたった地域に多大なエネルギーを撒き散らし、災害を引き起こす。植物は天候の季節変化に合わせて進化してきたため、ほんの数年でも異常気象が続くと植生に大きな影響があり、そういった植物を食料にしている動物にも大きな影響を及ぼす。 惑星の気候は、気象の長期的傾向である。気候変動を生じる各種要因として、海流の変化、地表のアルベドの変化、温室効果ガスの量の変化、太陽の明るさの変化、惑星軌道の変化などが挙げられる。歴史的記録によれば、地球は氷河時代などの劇的な気候変動を経験してきた。 地域毎の気候は様々な要因で決まるが、特に緯度の影響を受ける。同緯度の地帯は似たような気候となり、気候帯を形成する。気候帯は、赤道付近の熱帯から北極や南極に近い地方の寒帯まで様々なものがある。天候は季節によって変化するが、これは地球の自転軸が軌道平面に対して傾斜しているためである。そのため、夏または冬とされる季節には、地球のある部分に太陽光線がより強く当たることになる。どの時期であっても、北半球と南半球は逆の季節を経験している。 気象・天候は自然環境の小さな変化が即座に影響するカオス系であり、天気予報は今のところ数日ぐらいしか正確にできない。現在、地球上で2つの現象が起きている。第一に平均気温が徐々に上昇している。第二に各地域の気候に目立った変化が生じている。 水は水素と酸素の化合した化学物質で、既知の生命形態は全てこれを必要とする。一般に「水」という言葉は液体の状態を指し、固体は氷、気体は水蒸気または蒸気と呼ぶ。水は地球表面の71%を覆っている。地球上の水のほとんどは海洋にあり、1.6%が地下の帯水層、0.001%が大気圏に蒸気や雲や降水の形で存在している。大洋が保持する水は地表水全体の97%で、氷河や氷帽や極地の氷床の形で2.4%が存在している。川、湖、池などにある地表水は全体の0.6%にすぎない。生物が体内に蓄えている水や人間の生産する工業製品に含まれる水は、全体から見れば微量である。 大洋は海水の大部分であり、水圏の主要部分を構成している。地球表面(全表面積は3億6100万平方キロメートル)の約71%が海で覆われており、海洋は習慣的に大洋とそれ以外の海に分けられる。その半分以上が3000メートル以上の深さである。平均塩分濃度は約35ppt(3.5%)で、ほとんど全ての海水の塩分濃度が30pptから38pptの範囲内にある。実際、それぞれ別の名がつけられているが、大洋はすべて繋がっている。自由に海水が行き来する大洋という考え方は海洋学の重要な基本概念である。 主要な大洋の区分は大陸、列島、その他の地形による。一般に大洋は大きい順に太平洋、大西洋、インド洋、南極海、北極海がある。海のより小さい部分は海、入り江、湾など様々な名称で呼ばれる。他に塩湖もある。塩湖は大洋とは繋がっていない塩水の湖である。例えば、アラル海やグレートソルト湖などがある。 湖は、盆地状の地形に液体が溜まっている地形であり、場合によってはゆっくり移動することもある。一般に内陸にあって大洋とは繋がっておらず、池よりも大きく深く、川が注ぎ込んでいることもある。地球以外で湖らしきものの存在が知られている場所は土星の衛星タイタンで、エタンやメタンの湖がある。タイタンの湖に川が注いでいるかは不明だが、タイタンの地表には河床のような地形が多数見られる。地球の自然な湖は、主に山岳地域、地溝帯、氷河付近やかつて氷河に削られた地形などによく見られる。他にも海水の混じった汽水湖、内陸湖や、蛇行する川の周囲の湖などがある。一部地域には氷河時代の無秩序な水系パターンによって形成された多数の湖が存在する。全ての湖は地質年代的スケールで見れば一時的なもので、堆積によって埋まってしまうか、水が最終的に涸れてしまう。 池は、一般に湖よりも小さい止水域を指し、人工のものもある。人間が作った止水域は池と呼ばれることが多く、観賞用の公園の池、魚の養殖のための養魚池、熱エネルギーを蓄えるためのソーラーポンドなどがある。池や湖と川や渓流の違いは流れの速度である。川や渓流では水の流れが容易に観察できるが、池や湖では熱による対流や風による小波しか観測できない。このような特徴から池は淵や潮だまりといった地形と区別される。 河川とは、大洋、湖、海、他の河川などに向かって流れている自然な水の流れであり、通常淡水である。稀に地中に染み込んだり、干上がったりして、何らかの水のたまった場所に到達する前に消えている川もある。小さい河川は、沢、小川、渓流、細流などと呼ばれることもある。英語でも "stream"、"creek"、"brook"、"rivulet"、"rill" といった様々な名称がある。呼称の選択に明確な基準があるわけではない。河川は水循環の一部を構成している。河川を流れる水は一般に、降水が表面流出によって集まったもの、地下水、湧水、(例えば氷河から)自然の氷や積雪がとけてできた水などである。 渓流は、河川の上流の流れの速い部分を指す。アメリカ合衆国では川幅が18メートル未満のところを "stream" と定義している。渓流は涵養が起きやすく、水循環において重要な役割を果たしている。また、魚や野生動物が移動する際の道としても機能している。渓流周辺は特に生物の生息地としても豊かで、河畔域などと呼ばれる。現在進行中の大量絶滅において、渓流は分断された生息地をつなぐ重要な回廊としての役目を担っており、生物多様性を保持するのに役立っている。渓流などを含めた水循環を研究するのが水文学である。 生態系は相互に関連付けられた形で機能する様々な非生物と生物から構成されている。その構造と構成は、相互に関連付けられる様々な環境要因によって決定される。それら要因の変化は生態系に動的な変化をもたらす。特に重要な要因は、土壌、大気、太陽からの輻射、水、そして生物である。 生態系という概念の中心となるのは、生物がその周辺の環境の全ての要素と相互作用するという考え方である。生態学の祖ユージーン・オダムは、「与えられたエリアの全ての生体群(すなわち「コミュニティ」)とエネルギーの流れが明確に定義された栄養構造・生物多様性・系内の物質循環(すなわち、生物と非生物の間の物質の交換)をもたらす物理環境を含む単位を生態系という」としている。生態系内では、様々な種が相互につながり、食物連鎖という形で相互に依存しており、種の間および周囲の環境との間でエネルギーや物質を交換している。 小さい生態系を微小生態系 (microecosystem) と呼ぶ。例えば、1つの石とその下に生息する全ての生命が1つの微小生態系である。微小生態系は1つのエコリージョン全体とその流域に対応する場合もある。 原生地域とは、一般に人間の手がほとんど入っていない地域を指す。The WILD Foundation はもっと具体的に「我々の惑星に残された最も手付かずで平穏な野生の自然地域。道路やパイプラインや他の産業基盤とも無縁で、人間の制御下にない本当の野生の場所」としている。原生地域は、自然保護地域、原生林、国立公園、川の周囲や渓谷、未開発地域などにある。原生地域や自然公園は一部の種の保護、生態学的研究、生息地保全といった面で重要である。一部の作家は原生地域が人間の精神や創造性にとっても重要だと信じており、一部の生態学者は原生地域がこの地球の自立した自然な生態系(生物圏)の重要な一部だと考えている。原生地域はまた歴史的な遺伝形質を保持し、動物園や植物園や研究室では再現が困難な野生の植物相や動物相の生息地にもなる。 生命の定義について万人が合意したものはないが、科学者は一般に生物学的な生命の徴候として、代謝、成長、適応、刺激への反応、生殖を挙げる。生命は単に生物の特徴的状態であるという場合もある。 地球上の生物(植物、動物、菌類、原生生物、古細菌、真正細菌)に共通する特徴として、細胞があり、炭素と水を基本とする複雑な組織があり、代謝活動し、成長する能力があり、刺激に反応し、生殖するということが挙げられる。これらの特徴を持つものは一般に生命と見なされる。しかし、生命の定義で常にこれらの特徴が必須とされるわけではない。組織の組成を除外すれば、人工生命も生命と見なされうる。 生物圏とは地球の外殻部分の一部(地表、水中、空気および大気中)であり、そこで生命が生まれ様々に変化する領域である。広義の地球生理学的観点から言えば、生物圏とは全ての生物とそれらの関係を含む地球規模の生態系であり、岩石圏・水圏・大気圏の各種要素との相互作用も含む。現在、地球上には750億トンのバイオマス(生命)があり、それらが生物圏の様々な環境に生息している。 地球全体のバイオマスの9割は植物であり、動物は植物の存在に強く依存している。動植物の種はこれまでに200万種以上識別されており、現存する種の実際の数は数百万から5000万以上あると見積もられている。今も次々と新種が出現し、同時に絶滅する種もあるため、現存する種の数は常に変化している。現在、種の数は急速に減少している。 今のところ生命は地球上のものしか知られていない。生命の起源に関する問題は未解決でまだよくわかっていないが、今とは全く違う環境の原始地球で約39億年前から35億年前の冥王代または太古代に生まれたとも、地球外から飛来したとも考えられている。いずれにせよ、生命は当初から自己複製の基本的特性と遺伝の特性を備えていたのだろう、生命が生まれると、様々な要因により変異が起き多様な生命形態へと展開し自然選択も加わって変化(進化)が起きたのだろう、と推測している生物学者が多い。 他の種との競争に敗れた種や変化する環境に順応できなかった種は絶滅していった。化石にはそういった古い種の痕跡も数多く残っている。化石やDNAの研究により、現存する全ての種は最初の原始的生命形態まで系統を遡ることができることが判明している。 原始的植物が光合成の能力を獲得したことで、太陽エネルギーを活用しさらに複雑な生命形態を生み出すことができるようになった。その結果生じた酸素は大気中に蓄積し、オゾン層を形成するようになった。小さい細胞を大きな細胞が取り込むことでさらに複雑な細胞ができ、真核生物が生まれた。細胞群のコロニー内で個々の細胞が役割分担するようになり、真の多細胞生物へと進化していった。オゾン層が危険な紫外線を和らげたことで、生命は陸上へと進出できるようになった。 地球上に出現した最初の生命形態は微生物であり、多細胞生物が出現する約十億年前までは全ての生命形態は微生物だった。微生物の多くは単細胞で、人間の肉眼では見えないほど小さい。真正細菌、菌類、古細菌、原生生物がある。 これらの生命形態は、液体の水のある地球上のありとあらゆる場所に存在しており、岩石の内部からも発見されている。微生物の生殖活動は急速である。突然変異率が高く遺伝子の水平伝播があるため、環境への適応能力が高く、宇宙空間を含め様々な新たな環境で生き残ることができる。地球上の生態系の本質は微生物によって形成されている。ただし、一部の微生物は病原性があり、他の生物の健康への脅威となっている。 かつてアリストテレスは全ての生物を、人間が気づくほどの素早さでは動かない植物と動く動物に分類した。リンネ式階級分類体系では、これを植物界と動物界とした。その後、植物界に無関係なグループが含まれていたが、菌類や一部の藻類が新たな界を形成するものとされた。しかし、それらは今も植物に属するものとして語られることもある。細菌相は植物相に組み入れられることもあるが、別々に扱われることもある。 植物を分類する様々な方法の中に、地域毎の植物相がある。研究目的によって様々な植物相の考え方があり、中には過去の時代の植物を扱う化石植物相もある。植物相は気候や地形によって大きく異なる。 地域毎の植物相はさらに「在来植物相」や「農業・園芸植物相」に分けられる。「在来植物相」の一部は大陸から大陸へ移住した人々によって新天地に数世紀前に導入されたもので、その地域の自然の植物相の一部に組み込まれたものを含む。これは、自然と人間の相互作用によって自然と人工の境界が曖昧になる事例の1つである。 もう1つの植物の分類として、歴史的に「雑草」と呼ばれてきたものがある。有益でない植物を指す用語として植物学では使われなくなったが、今も普通に使われている言葉であり、そのことが人類が自然に手を加えて制御したいと考えていることを物語っている。同じように動物も人間との関係によって「家畜」、「野生動物」、「害虫」などと分類されることがある。 分類としての動物には他の生命形態と区別するいくつかの特性があるが、科学的には根や葉がなく脚や翼があるといった分類ではない。動物は真核生物で、通常は多細胞生物であり(ただし、ミクソゾアという例もある)、そのことから真正細菌・古細菌・原生生物の大部分と区別される。一般に消化器官を持つ従属栄養生物であり、そのことから植物や藻類と区別される。また細胞壁を持たないことから、植物、藻類、菌類と区別される。 海綿動物などの例外はあるが、動物は特化した組織で構成される体を持つ。運動を可能にする筋肉と信号を送り処理する神経系を持つ。また、一般に体内に消化器官を持つ。動物の真核細胞は、コラーゲンと伸縮自在な糖タンパク質でできた細胞外の基盤で保持されている。これを石灰化した外骨格や骨のような構造を形成することもある。 自然は人類に様々な豊かさをもたらしている。人類は経済活動とレジャーの両方で自然を利用しており、天然資源を採取することはいつの時代も経済システムの重要な基盤となっている。農業が始まったのは紀元前9千年紀ごろである。狩猟や釣りを生計のために行う人々もいる。食料の調達からエネルギーまで、自然は人類の経済的な富に影響を及ぼしている。また自然があるからアウトドア活動ができるのであり、レクリエーションやレジャーという点で、人々の心の豊かさの源泉でもある。 昔から人類は自生している植物を食料として採集し、植物の薬効成分を医療目的に使っていた、現代でも自生の薬用植物も多く用いられている。食用に関しては、現代人はほとんどの植物を農業によって栽培して手に入れている。ところが、耕作地として広大な土地を開墾したことで、森林や沼沢地が減少し、結果として多くの動植物の生息地が狭まっているという問題が起きている。 ほんの50年ほど前まで、人々は(一般人も学者も含めて)自然を自分たちの都合で好きなだけ利用しても良いのだ、と単純に考える傾向が強かった。また、地球上の自然をとてつもなく巨大で丈夫なものといったように想像し、人類が手を加えても地球上の自然全体に大きな悪影響を与えてしまうことはあるまい、と無邪気にたかを括っていた。そして人類は様々なテクノロジーを用いて、自分たちの都合で(自分たちの欲望のおもむくままに)自然に手を加えてきた。人類はこれまで重機などを用いて広大な面積の熱帯雨林を開墾し人工的な農地などに変え、また数多くの動植物を絶滅させてきた。また地球の自然環境に対する人間が引き起こす脅威としては、汚染、森林破壊、石油流出などもある。人間の影響の全くない自然環境は急速に減少しつつある。 20世紀の後半になるとようやく、地球上の生物量に占める人類の割合は非常に小さいものの、人類が自然に与える影響は不釣合いなほど大きいということが次第に理解されるようになってきた。生態系というのは、かつて人々が想像していたよりもずっとデリケートな存在であり 人間はもっと自然環境に配慮する必要がある、ということが次第に理解されるようになってきたのである(エコロジー。環境問題)。新たなテクノロジーの利用が環境に与える変化の複雑なフィードバックループがあることも徐々に理解されるようになってきている。人類が自然環境に与える変化が、我々の文明が将来存続しうるかどうかということにも密接に関連していることが近年理解されるようになってきている(サスティナビリティ=持続可能性)。環境問題やエコロジーは今では世界各国の政府も重視する問題、無視できない問題となってきており、関連の国際会議で討議されるだけでなく、各国の議会でもしばしば扱われている。 自然の美は歴史的にも芸術や書籍の流行のテーマであり、図書館や書店にはそういった書籍が数多く並んでいる。自然は芸術や写真や詩その他の文学のテーマとしてよく使われ、多くの人々が自然と美を結びつけてきた。なぜこの結びつきが存在するのか、その本質は何かを研究するのが美学である。何が美しいとされるのかについて多くの哲学者が合意する基本的特性を超えて、様々な意見が事実上無限に存在している。中国では自然の風景をありのままに描く山水画が生まれ、アジアの芸術に大きな影響を及ぼした。 ヨーロッパでは、自然の風景を描く風景画が1800年代に流行するようになり、特にロマン主義の作品によく見られる。イギリスのジョン・コンスタブルやターナーは、自然の美を絵画に捉えることを重視した。それまでの絵画は宗教的光景や人物が第一の主題だった。かつて自然界は脅威の場所とされていたが、ウィリアム・ワーズワースの詩は自然界の驚異・不思議を描いた。その後、西洋文化では自然を評価する傾向が高まっていく。美しい芸術に共通する伝統的考え方は「自然の模倣」である。 科学の一部分野にとって自然とは物質とその動きであり、それらが従う自然法則を理解することを目的としている。このため、一般に最も基本的な科学の分野は「物理学」とされており、語義的にも "physics" は「自然の研究」を意味していた。 物質は、「もの」を構成する実体と定義される。観測可能な宇宙は物質でできている。宇宙の可視の部分は、いまのところ総質量のわずか4パーセントを占めているに過ぎないとされている。残りは23パーセントの暗黒物質と73パーセントのダークエネルギーだと言われている。これらの正確な性質はまだ不明であり、物理学者による集中的な調査研究が進んでいる。 観測可能な宇宙の範囲内では、物質とエネルギーの挙動は明確な物理法則に従う。それらの法則を使った現代宇宙論モデルは観測可能な宇宙の構造や成り立ちをうまく説明できている。物理法則の数式には20個の物理定数が使われている。物理定数は観測可能な宇宙の中では一定と見られている。物理定数は注意深く測定されて決定されているが、なぜそういう値になったのかは未だに謎である。 宇宙空間は、天体の大気圏の外側に広がる宇宙の比較的空虚な領域を指す。地球の大気と宇宙空間の間には明確な境界は存在せず、大気は高度上昇と共に徐々に薄くなっている。太陽系内の宇宙空間は惑星間空間とも呼ばれ、太陽圏界面と呼ばれる面で恒星間空間と接している。 宇宙空間は確かに非常に密度が薄いが、完全な空虚ではない。マイクロ波分光法によって数十種類の有機分子が疎らに存在することがわかっている。又、ビッグバンの名残として宇宙マイクロ波背景放射がある。又、イオン化した原子核で構成される宇宙線や各種素粒子が存在する。他にもある種の気体、プラズマ、宇宙塵、小さい流星物質などがある。さらに今では人類の痕跡が宇宙空間にあり、これまでに打ち上げられたロケットや宇宙船などの残骸がスペースデブリとして大気圏外に散らばっており、今後宇宙開発の障害となることが予想されている。スペースデブリの一部は時折大気圏に再突入している。 地球は太陽系内で唯一生命体が存在することが知られているが、火星にはかつて地表に液体の水が大量に存在していたことを示唆する証拠が見つかっている。そのため、かつて火星には短期間かも知れないが生命が存在していた可能性がある。ただし、現在火星上の水の幾どが凍結した状態になっている。火星に今も生命が存在するとしたら、水が液体の形で存在する可能性のある地下が最も可能性が高いとされている。 水星や金星といった他の地球型惑星は、我々が知っている様な生命を維持するには厳し過ぎる環境と見られている。しかし、木星の4番目の大きさの衛星エウロパは、氷の地表の下に液体の水の層があると見られており、生命の存在する可能性が指摘されている。 近年、Stéphane Udryらは赤色矮星グリーゼ581の周囲を回る太陽系外惑星グリーゼ581dを発見した。グリーゼ581dはその恒星周囲のハビタブルゾーンにあると見られており、我々が知っているような生命が存在する可能性が示唆されている。 人間や社会よりも自然に優位を置く考え方を一般に自然主義という。現代では環境なしには人類の存続すら危ぶむまれることが現実の社会問題などにもなっており、いわゆるエコロジーなどの環境思想は各国政府の基本課題ともなっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "自然(しぜん、希: φύσις 羅: natura 英: nature)について解説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "自然の観方、位置づけのしかた、意味の見出し方などのことを自然観と言う。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "例えば「自然は人間文化と対峙するという見方」「自然のなかに文化的模範を見つけるべきとする見方」「自然と人造物が一体となるのが文化的景観とする見方」等々が自然観である。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "古代ギリシアでは「φύσις ピュシス(自然)」は世界の根源とされ、絶対的な存在として把握された。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "対立概念にノモス(法や社会制度)があり、ノモスはピュシスのような絶対的な存在ではなく、相対的な存在であり、人為的なものであるがゆえ、変更可能であると考えられた。フェリクス・ハイニマン(ドイツ語版)は、古代ギリシア人の思考方法の特徴のひとつにこのような対立的な思考(アンチテーゼ)がある、とし、このピュシス/ノモスの対立を根本的なものとした。またこの対立はパルメニデスのドクサ(臆見)とアレーテイア(真理)の対立の変形としてエレア派が行ったともいわれる。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古代ギリシア語における「φύσις ピュシス」の意味は「生じる」「成長する」といった意味をもっていた。またソフォクレスやエウリピデスの語法では「誕生」「素性」あるいは「天性」という意味がある。エウリピデスの語法には「たとい奴隷の子であれ、ピュシスに関して勇敢で正しいものの方が、むなしい評判(ドクサスマ)だけのものより高貴な生まれのものだ」(『縛られたメラニッペ』断片495,41)などがある。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このような古代ギリシアにおける自然・文化・社会との分割が、のちのローマやヨーロッパの思想史のなかでの議論の基盤のひとつとなった。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "紀元前4世紀、アリストテレスは、自著『形而上学』において、神学と形而上学を「第一哲学」と位置づけ、自然哲学を「第二哲学」と呼んだ。というのは、自然哲学が、対象としている形相の説明も行っているからであるという。ここにおける「philosophia physiceフィロソフィア・ピュシス」という表現が、古代ギリシャ語文献の中に「自然哲学」という表現が現れた最初のものであるという。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "スコラ哲学の時代においては一般に、「神は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていた。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "聖書を読むことで神の意図を知ることができるとされていた。また、ちょうど時計というものをじっくり観察すればその時計を作った時計職人の意図を推し量ることも可能なことがあるように、「神がお書きになったもうひとつの書物である自然」を読むことも神の意図や目論見を知る上で大切だ、と考えられた。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "神はそれぞれの書物を異なった言語でお書きになったと、考えられており、神は人間が話す言葉で聖書を書き、数的な言葉で自然を書いた、と考えられた。ガリレオ・ガリレイも次のように述べた。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "英語で法則のことを「law」と言うが、これはlay(置く、整える)の過去分詞と謂れている。それは神によって置かれたもの、整えられたこと、という意味である。独語ではさらにわかりやすく、「Gesetz」と言い、「setzenされたもの(英語で言えば、\"setされたもの\")」と表現する。つまり、神によってセットされたものが法則、と見なされているのである。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "リベラルアーツの7科は、3科と4科に区分されているが、3科は具体的には文法・修辞学・弁証法であり、上記の「二つの書物」のうち「人間の言葉で書かれたほうの書物」(=聖書)をよりよく理解するためのものと位置づけられ、4科の算術・幾何・天文・音楽については、現代人が理解するには少しばかり解説が必要だが、当時は天文も音楽も数学的なものであったのであり、つまり、4科は「数の言葉で書かれたほうの書物」(=自然)をよりよく理解するためのもの、という位置づけであった。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ諸語では、自然は本性(ほんせい)と同じ単語を用い「その存在に固有の性質」をあらわす(例えば、英語・フランス語の「nature」がそれである)。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「自然に還れ」は、ジャン=ジャック・ルソーの思想の一部を端的に表した表現である。人間社会の人為的・作為的な因習から脱出し、より自然な状態へと還ることを称揚している。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本語では自然という語は平安時代にさかのぼる。平安末期の辞書である『名義抄』に「自然ヲノヅカラ」とあるのがもっとも古いようである。より古くは、中国のいわゆる老荘思想では無為自然という語があるが、老子などには無為はあっても自然はない。いずれにせよ、この語は意図せずに、意識的でなく、と言うような意味である。ただし、老荘思想では無為自然を重視し、それに対立するものとして人為的なものを否定する。そこから現在の意味の「自然」を尊いものと見る観点が生まれたと考えられる。彼らは往々にして山間や森林に隠れ住み、また山や川を愛でた。いわゆる水墨画、山水画などもこの流れにある。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "人の手の触れない地形や環境を指す言葉としての自然は、開国後に「nature」等の外国語を訳する際にできた言葉だと思われ、そのような使われ方は明治中期以降のことである。日本語としては天然(てんねん)がほぼ同義であるが、使われ方はやや異なる。現在では単に天然と言えば天然ボケを指すこともある。なお、自然(じねん)と読んだ場合、むしろあり得ないものが勝手に生まれるのを指す。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「じねん」は自然の呉音読みであり、「しぜん」と読んだときとは違った意味を持つようになる。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "自然(じねん)とは、万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする無因論のこと。仏教の因果論を否定し、仏教から見た外道の思想のひとつである。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じること(自然法爾)という意味や、「偶然」「たまたま」といった意味も持つ。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "浄土真宗本願寺派光明寺僧侶の松本紹圭によれば、昔の日本において自然は「じねん」と読まれており、親鸞は自然を「おのずからしからしむ」と読んで世界を今あるようにあらしめる阿弥陀如来の働きを見いだしたと述べている。また、現代語の「自然」のように、人間を除いた自然界、山や川、動植物を指す言葉はもともと日本語には存在せず、人間と自然界の間に隔たりを見ることなく、ただ自然(じねん)にあるものがあるようにしてあるだけという、仏教から見た外道の精神風土が日本にはあると述べている。", "title": "自然の観方の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "自然はまた、「自然環境」や原生地域を意味することもある。野生動物、岩石、森林、海岸など、人類に影響されていないものや人類の介入にもかかわらず以前と変わらぬ姿を保持するもの一般である。その場合、人工物や人間が介在する事象は自然の一部とは見なされない。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "地球は今のところ生命の存在が確認されている唯一の惑星であり、その自然は様々な分野の科学的研究対象となっている。太陽系においては、太陽に近いほうから3番目の惑星である。地球型惑星としては最大であり、全惑星の中では5番目の大きさである。その気候的特徴としては、2つの大きな極地があり、2つの相対的に狭い温帯があり、赤道付近の広い熱帯と亜熱帯がある。降水も地域によってかなり異なり、年間降水量が数メートルの地域もあれば、1ミリメートル未満の地域もある。地球表面の71パーセントは塩水の海洋に覆われている。それ以外は大陸や島であり、人間が居住する土地の多くは北半球にある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "地球は地質学的および生物学的プロセスを通して進化し、そこに本来の条件の痕跡を残してきた。地殻はゆっくりと移動するプレートに分かれており、プレート群の構成は過去に何度か変化している。地球の内部は今も活発に活動しており、融解したマントルという分厚い層があり、その内側に鉄を多く含み磁場を形成している核がある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "大気圏の構成は生命活動によってそれまでの構成とは大きく変えられ、地表の条件を安定させる生態学的バランスが生まれた。気候は緯度その他の要因で地域によって大きく異なるが、長期的な全体の気候は間氷期の期間中ずっと安定しており、全体の平均気温が1、2度しか変化しないことで生態学的バランスと地球の実際の地理に大きな影響を及ぼした。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "地質学は地球を構成する固体や液体について研究する科学の一分野である。地質学は、構成、構造、物理特性、力学、地球を構成する物質の歴史、それらが形成・移動・変成されたプロセスなどを研究する。それは主要な学問分野の1つであり、鉱業や石油・石炭などの採掘にとっても自然災害の可能性を知り被害を防ぐという意味でも重要であり、過去の気候や環境を理解する上でも重要である。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ある地域の地質は、マグマが冷えたり、堆積によって岩盤ができ、変成作用でその組成が変化したり地殻変動によって位置や形状が変化することで形成される。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "岩石はまず堆積によって形成されるものとマグマが母岩に貫入することで形成されるものがある。堆積岩は地表に堆積物が積もり、それに続成作用が働いて形成される。火成岩には溶岩が地表を覆ってできる火山岩もある。火山灰の堆積でできる凝灰岩は堆積岩に分類される。バソリス、ラコリス、岩脈、岩床などの火成貫入岩は、上にある岩体を押し上げ、貫入することで結晶化したものである。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "形成された岩はその後、なんらかの力を受けて変形したり、変成作用によって組成が変化したりする。典型的な変形は水平方向の圧縮する力による褶曲、水平方向の伸張させる力やすれる方向の力による断層などがある。これらの構造は主にプレートの境界に対応しており、収束型境界、発散型境界、トランスフォーム型境界がある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "地球は、太陽や他の惑星と共に約45億4000万年前に原始太陽系星雲から誕生したとされている。月はそれから約2000万年後に形成された。当初は熱で融解していたが、外側から徐々に冷却され、固体の地殻が形成された。ガス放出や火山活動が原始大気を形成した。彗星の氷などから水がもたらされ、水蒸気が凝結することで海洋などの水圏が生まれた。そして約40億年前に高エネルギーの化学反応によって自己複製可能な分子が生まれたと言われている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "大陸は形成と離散を繰り返しており、数億年をかけて超大陸を形成しては、それが分裂するということを繰り返している。約7億5000万年前、既知の最古の超大陸ロディニア大陸が分裂を始めた。個々の大陸は再び集合してパノティア大陸を形成し、約5億4000万年前に再び分裂を開始した。そしてパンゲア大陸が形成され、これが分裂を開始したのが約1億8000万年前のことである。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "新原生代に激しい氷河作用によって地球全体が氷に覆われたと見られる重要な証拠が見つかっている。この仮説的状態を「スノーボールアース」と呼ぶ。その直後の5億3000万年前から5億4000万年前にカンブリア爆発と呼ばれる多細胞生命体の劇的な増殖が始まった。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "カンブリア爆発以降、大量絶滅が5回あったことがわかっている。直近で大量絶滅があったのは6500万年前で、おそらく巨大隕石の衝突によって鳥類に進化していなかった恐竜や大型爬虫類の絶滅を引き起こしたが、トガリネズミに似た小型のものが多かった哺乳類は生き延びた。この6500万年の間に哺乳類は活動領域を広げていった。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "数百万年前、アフリカの小型のサルが二本足で直立する能力を獲得した。そこから人類が進化し、農耕を発展させ文明を生み出し、それまでの生命体には見られなかった速度で自然や他の生物に影響を及ぼすようになっていった。例えば、シデリアンに藻類が繁殖して酸素を大量に生み出し嫌気性生物が大量絶滅したが、それには約3億年を要した。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "現代は完新世にあたるが、大量絶滅期にあたるとされており、これまでにない速度で絶滅が起きている。ハーバード大学のエドワード・オズボーン・ウィルソンらは、人類が引き起こした生物圏の破壊により、今後100年間に地球上の半分の種が絶滅すると予想している。進行中の絶滅イベントの範囲は生物学者が研究中であり、議論が続いている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "地球の大気は惑星規模の生態系を維持するのに重要な役割を果たしている。地球を取り巻く薄い気体の層がその場に留まっているのは、惑星の重力場の作用である。乾燥した空気の構成は、窒素が78%、酸素が21%、アルゴンなどの不活性気体や二酸化炭素などが残りの1%となっている。ただし、実際の空気には湿度に相当する水蒸気も含まれている。大気圧は高度上昇に伴って徐々に低くなり、スケールハイトは地表から約8キロメートルの高度となる。地球の大気圏のオゾン層は地表に届く紫外線 (UV) を大幅に減らすという重要な役割を果たしている。DNAは紫外線によって破壊されやすく、オゾン層は地表の生命を守っているとも言える。大気は夜間の温度低下を和らげる役目も果たしており、1日の温度変化もかなり低減されている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "地球上の気象現象はほとんど全て対流圏という大気下層部で起きており、大気循環による熱の再分配が起きている。海流も気候を決定付ける重要な要素であり、熱塩循環によって赤道付近の海洋で得た熱エネルギーを極地の海洋に分配する重要な役目がある。これらの流れは温帯での夏と冬の温度差を和らげるのに役立っている。海洋や大気による熱の再配分がなければ、赤道付近は今よりも暑くなり、極圏は今よりも寒くなる。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "気象は人間にとって好ましい場合もあれば、有害な場合もある。特に竜巻、台風、サイクロン、ハリケーンはその進路にあたった地域に多大なエネルギーを撒き散らし、災害を引き起こす。植物は天候の季節変化に合わせて進化してきたため、ほんの数年でも異常気象が続くと植生に大きな影響があり、そういった植物を食料にしている動物にも大きな影響を及ぼす。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "惑星の気候は、気象の長期的傾向である。気候変動を生じる各種要因として、海流の変化、地表のアルベドの変化、温室効果ガスの量の変化、太陽の明るさの変化、惑星軌道の変化などが挙げられる。歴史的記録によれば、地球は氷河時代などの劇的な気候変動を経験してきた。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "地域毎の気候は様々な要因で決まるが、特に緯度の影響を受ける。同緯度の地帯は似たような気候となり、気候帯を形成する。気候帯は、赤道付近の熱帯から北極や南極に近い地方の寒帯まで様々なものがある。天候は季節によって変化するが、これは地球の自転軸が軌道平面に対して傾斜しているためである。そのため、夏または冬とされる季節には、地球のある部分に太陽光線がより強く当たることになる。どの時期であっても、北半球と南半球は逆の季節を経験している。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "気象・天候は自然環境の小さな変化が即座に影響するカオス系であり、天気予報は今のところ数日ぐらいしか正確にできない。現在、地球上で2つの現象が起きている。第一に平均気温が徐々に上昇している。第二に各地域の気候に目立った変化が生じている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "水は水素と酸素の化合した化学物質で、既知の生命形態は全てこれを必要とする。一般に「水」という言葉は液体の状態を指し、固体は氷、気体は水蒸気または蒸気と呼ぶ。水は地球表面の71%を覆っている。地球上の水のほとんどは海洋にあり、1.6%が地下の帯水層、0.001%が大気圏に蒸気や雲や降水の形で存在している。大洋が保持する水は地表水全体の97%で、氷河や氷帽や極地の氷床の形で2.4%が存在している。川、湖、池などにある地表水は全体の0.6%にすぎない。生物が体内に蓄えている水や人間の生産する工業製品に含まれる水は、全体から見れば微量である。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "大洋は海水の大部分であり、水圏の主要部分を構成している。地球表面(全表面積は3億6100万平方キロメートル)の約71%が海で覆われており、海洋は習慣的に大洋とそれ以外の海に分けられる。その半分以上が3000メートル以上の深さである。平均塩分濃度は約35ppt(3.5%)で、ほとんど全ての海水の塩分濃度が30pptから38pptの範囲内にある。実際、それぞれ別の名がつけられているが、大洋はすべて繋がっている。自由に海水が行き来する大洋という考え方は海洋学の重要な基本概念である。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "主要な大洋の区分は大陸、列島、その他の地形による。一般に大洋は大きい順に太平洋、大西洋、インド洋、南極海、北極海がある。海のより小さい部分は海、入り江、湾など様々な名称で呼ばれる。他に塩湖もある。塩湖は大洋とは繋がっていない塩水の湖である。例えば、アラル海やグレートソルト湖などがある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "湖は、盆地状の地形に液体が溜まっている地形であり、場合によってはゆっくり移動することもある。一般に内陸にあって大洋とは繋がっておらず、池よりも大きく深く、川が注ぎ込んでいることもある。地球以外で湖らしきものの存在が知られている場所は土星の衛星タイタンで、エタンやメタンの湖がある。タイタンの湖に川が注いでいるかは不明だが、タイタンの地表には河床のような地形が多数見られる。地球の自然な湖は、主に山岳地域、地溝帯、氷河付近やかつて氷河に削られた地形などによく見られる。他にも海水の混じった汽水湖、内陸湖や、蛇行する川の周囲の湖などがある。一部地域には氷河時代の無秩序な水系パターンによって形成された多数の湖が存在する。全ての湖は地質年代的スケールで見れば一時的なもので、堆積によって埋まってしまうか、水が最終的に涸れてしまう。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "池は、一般に湖よりも小さい止水域を指し、人工のものもある。人間が作った止水域は池と呼ばれることが多く、観賞用の公園の池、魚の養殖のための養魚池、熱エネルギーを蓄えるためのソーラーポンドなどがある。池や湖と川や渓流の違いは流れの速度である。川や渓流では水の流れが容易に観察できるが、池や湖では熱による対流や風による小波しか観測できない。このような特徴から池は淵や潮だまりといった地形と区別される。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "河川とは、大洋、湖、海、他の河川などに向かって流れている自然な水の流れであり、通常淡水である。稀に地中に染み込んだり、干上がったりして、何らかの水のたまった場所に到達する前に消えている川もある。小さい河川は、沢、小川、渓流、細流などと呼ばれることもある。英語でも \"stream\"、\"creek\"、\"brook\"、\"rivulet\"、\"rill\" といった様々な名称がある。呼称の選択に明確な基準があるわけではない。河川は水循環の一部を構成している。河川を流れる水は一般に、降水が表面流出によって集まったもの、地下水、湧水、(例えば氷河から)自然の氷や積雪がとけてできた水などである。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "渓流は、河川の上流の流れの速い部分を指す。アメリカ合衆国では川幅が18メートル未満のところを \"stream\" と定義している。渓流は涵養が起きやすく、水循環において重要な役割を果たしている。また、魚や野生動物が移動する際の道としても機能している。渓流周辺は特に生物の生息地としても豊かで、河畔域などと呼ばれる。現在進行中の大量絶滅において、渓流は分断された生息地をつなぐ重要な回廊としての役目を担っており、生物多様性を保持するのに役立っている。渓流などを含めた水循環を研究するのが水文学である。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "生態系は相互に関連付けられた形で機能する様々な非生物と生物から構成されている。その構造と構成は、相互に関連付けられる様々な環境要因によって決定される。それら要因の変化は生態系に動的な変化をもたらす。特に重要な要因は、土壌、大気、太陽からの輻射、水、そして生物である。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "生態系という概念の中心となるのは、生物がその周辺の環境の全ての要素と相互作用するという考え方である。生態学の祖ユージーン・オダムは、「与えられたエリアの全ての生体群(すなわち「コミュニティ」)とエネルギーの流れが明確に定義された栄養構造・生物多様性・系内の物質循環(すなわち、生物と非生物の間の物質の交換)をもたらす物理環境を含む単位を生態系という」としている。生態系内では、様々な種が相互につながり、食物連鎖という形で相互に依存しており、種の間および周囲の環境との間でエネルギーや物質を交換している。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "小さい生態系を微小生態系 (microecosystem) と呼ぶ。例えば、1つの石とその下に生息する全ての生命が1つの微小生態系である。微小生態系は1つのエコリージョン全体とその流域に対応する場合もある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "原生地域とは、一般に人間の手がほとんど入っていない地域を指す。The WILD Foundation はもっと具体的に「我々の惑星に残された最も手付かずで平穏な野生の自然地域。道路やパイプラインや他の産業基盤とも無縁で、人間の制御下にない本当の野生の場所」としている。原生地域は、自然保護地域、原生林、国立公園、川の周囲や渓谷、未開発地域などにある。原生地域や自然公園は一部の種の保護、生態学的研究、生息地保全といった面で重要である。一部の作家は原生地域が人間の精神や創造性にとっても重要だと信じており、一部の生態学者は原生地域がこの地球の自立した自然な生態系(生物圏)の重要な一部だと考えている。原生地域はまた歴史的な遺伝形質を保持し、動物園や植物園や研究室では再現が困難な野生の植物相や動物相の生息地にもなる。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "生命の定義について万人が合意したものはないが、科学者は一般に生物学的な生命の徴候として、代謝、成長、適応、刺激への反応、生殖を挙げる。生命は単に生物の特徴的状態であるという場合もある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "地球上の生物(植物、動物、菌類、原生生物、古細菌、真正細菌)に共通する特徴として、細胞があり、炭素と水を基本とする複雑な組織があり、代謝活動し、成長する能力があり、刺激に反応し、生殖するということが挙げられる。これらの特徴を持つものは一般に生命と見なされる。しかし、生命の定義で常にこれらの特徴が必須とされるわけではない。組織の組成を除外すれば、人工生命も生命と見なされうる。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "生物圏とは地球の外殻部分の一部(地表、水中、空気および大気中)であり、そこで生命が生まれ様々に変化する領域である。広義の地球生理学的観点から言えば、生物圏とは全ての生物とそれらの関係を含む地球規模の生態系であり、岩石圏・水圏・大気圏の各種要素との相互作用も含む。現在、地球上には750億トンのバイオマス(生命)があり、それらが生物圏の様々な環境に生息している。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "地球全体のバイオマスの9割は植物であり、動物は植物の存在に強く依存している。動植物の種はこれまでに200万種以上識別されており、現存する種の実際の数は数百万から5000万以上あると見積もられている。今も次々と新種が出現し、同時に絶滅する種もあるため、現存する種の数は常に変化している。現在、種の数は急速に減少している。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "今のところ生命は地球上のものしか知られていない。生命の起源に関する問題は未解決でまだよくわかっていないが、今とは全く違う環境の原始地球で約39億年前から35億年前の冥王代または太古代に生まれたとも、地球外から飛来したとも考えられている。いずれにせよ、生命は当初から自己複製の基本的特性と遺伝の特性を備えていたのだろう、生命が生まれると、様々な要因により変異が起き多様な生命形態へと展開し自然選択も加わって変化(進化)が起きたのだろう、と推測している生物学者が多い。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "他の種との競争に敗れた種や変化する環境に順応できなかった種は絶滅していった。化石にはそういった古い種の痕跡も数多く残っている。化石やDNAの研究により、現存する全ての種は最初の原始的生命形態まで系統を遡ることができることが判明している。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "原始的植物が光合成の能力を獲得したことで、太陽エネルギーを活用しさらに複雑な生命形態を生み出すことができるようになった。その結果生じた酸素は大気中に蓄積し、オゾン層を形成するようになった。小さい細胞を大きな細胞が取り込むことでさらに複雑な細胞ができ、真核生物が生まれた。細胞群のコロニー内で個々の細胞が役割分担するようになり、真の多細胞生物へと進化していった。オゾン層が危険な紫外線を和らげたことで、生命は陸上へと進出できるようになった。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "地球上に出現した最初の生命形態は微生物であり、多細胞生物が出現する約十億年前までは全ての生命形態は微生物だった。微生物の多くは単細胞で、人間の肉眼では見えないほど小さい。真正細菌、菌類、古細菌、原生生物がある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "これらの生命形態は、液体の水のある地球上のありとあらゆる場所に存在しており、岩石の内部からも発見されている。微生物の生殖活動は急速である。突然変異率が高く遺伝子の水平伝播があるため、環境への適応能力が高く、宇宙空間を含め様々な新たな環境で生き残ることができる。地球上の生態系の本質は微生物によって形成されている。ただし、一部の微生物は病原性があり、他の生物の健康への脅威となっている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "かつてアリストテレスは全ての生物を、人間が気づくほどの素早さでは動かない植物と動く動物に分類した。リンネ式階級分類体系では、これを植物界と動物界とした。その後、植物界に無関係なグループが含まれていたが、菌類や一部の藻類が新たな界を形成するものとされた。しかし、それらは今も植物に属するものとして語られることもある。細菌相は植物相に組み入れられることもあるが、別々に扱われることもある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "植物を分類する様々な方法の中に、地域毎の植物相がある。研究目的によって様々な植物相の考え方があり、中には過去の時代の植物を扱う化石植物相もある。植物相は気候や地形によって大きく異なる。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "地域毎の植物相はさらに「在来植物相」や「農業・園芸植物相」に分けられる。「在来植物相」の一部は大陸から大陸へ移住した人々によって新天地に数世紀前に導入されたもので、その地域の自然の植物相の一部に組み込まれたものを含む。これは、自然と人間の相互作用によって自然と人工の境界が曖昧になる事例の1つである。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "もう1つの植物の分類として、歴史的に「雑草」と呼ばれてきたものがある。有益でない植物を指す用語として植物学では使われなくなったが、今も普通に使われている言葉であり、そのことが人類が自然に手を加えて制御したいと考えていることを物語っている。同じように動物も人間との関係によって「家畜」、「野生動物」、「害虫」などと分類されることがある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "分類としての動物には他の生命形態と区別するいくつかの特性があるが、科学的には根や葉がなく脚や翼があるといった分類ではない。動物は真核生物で、通常は多細胞生物であり(ただし、ミクソゾアという例もある)、そのことから真正細菌・古細菌・原生生物の大部分と区別される。一般に消化器官を持つ従属栄養生物であり、そのことから植物や藻類と区別される。また細胞壁を持たないことから、植物、藻類、菌類と区別される。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "海綿動物などの例外はあるが、動物は特化した組織で構成される体を持つ。運動を可能にする筋肉と信号を送り処理する神経系を持つ。また、一般に体内に消化器官を持つ。動物の真核細胞は、コラーゲンと伸縮自在な糖タンパク質でできた細胞外の基盤で保持されている。これを石灰化した外骨格や骨のような構造を形成することもある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "自然は人類に様々な豊かさをもたらしている。人類は経済活動とレジャーの両方で自然を利用しており、天然資源を採取することはいつの時代も経済システムの重要な基盤となっている。農業が始まったのは紀元前9千年紀ごろである。狩猟や釣りを生計のために行う人々もいる。食料の調達からエネルギーまで、自然は人類の経済的な富に影響を及ぼしている。また自然があるからアウトドア活動ができるのであり、レクリエーションやレジャーという点で、人々の心の豊かさの源泉でもある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "昔から人類は自生している植物を食料として採集し、植物の薬効成分を医療目的に使っていた、現代でも自生の薬用植物も多く用いられている。食用に関しては、現代人はほとんどの植物を農業によって栽培して手に入れている。ところが、耕作地として広大な土地を開墾したことで、森林や沼沢地が減少し、結果として多くの動植物の生息地が狭まっているという問題が起きている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ほんの50年ほど前まで、人々は(一般人も学者も含めて)自然を自分たちの都合で好きなだけ利用しても良いのだ、と単純に考える傾向が強かった。また、地球上の自然をとてつもなく巨大で丈夫なものといったように想像し、人類が手を加えても地球上の自然全体に大きな悪影響を与えてしまうことはあるまい、と無邪気にたかを括っていた。そして人類は様々なテクノロジーを用いて、自分たちの都合で(自分たちの欲望のおもむくままに)自然に手を加えてきた。人類はこれまで重機などを用いて広大な面積の熱帯雨林を開墾し人工的な農地などに変え、また数多くの動植物を絶滅させてきた。また地球の自然環境に対する人間が引き起こす脅威としては、汚染、森林破壊、石油流出などもある。人間の影響の全くない自然環境は急速に減少しつつある。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "20世紀の後半になるとようやく、地球上の生物量に占める人類の割合は非常に小さいものの、人類が自然に与える影響は不釣合いなほど大きいということが次第に理解されるようになってきた。生態系というのは、かつて人々が想像していたよりもずっとデリケートな存在であり 人間はもっと自然環境に配慮する必要がある、ということが次第に理解されるようになってきたのである(エコロジー。環境問題)。新たなテクノロジーの利用が環境に与える変化の複雑なフィードバックループがあることも徐々に理解されるようになってきている。人類が自然環境に与える変化が、我々の文明が将来存続しうるかどうかということにも密接に関連していることが近年理解されるようになってきている(サスティナビリティ=持続可能性)。環境問題やエコロジーは今では世界各国の政府も重視する問題、無視できない問題となってきており、関連の国際会議で討議されるだけでなく、各国の議会でもしばしば扱われている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "自然の美は歴史的にも芸術や書籍の流行のテーマであり、図書館や書店にはそういった書籍が数多く並んでいる。自然は芸術や写真や詩その他の文学のテーマとしてよく使われ、多くの人々が自然と美を結びつけてきた。なぜこの結びつきが存在するのか、その本質は何かを研究するのが美学である。何が美しいとされるのかについて多くの哲学者が合意する基本的特性を超えて、様々な意見が事実上無限に存在している。中国では自然の風景をありのままに描く山水画が生まれ、アジアの芸術に大きな影響を及ぼした。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは、自然の風景を描く風景画が1800年代に流行するようになり、特にロマン主義の作品によく見られる。イギリスのジョン・コンスタブルやターナーは、自然の美を絵画に捉えることを重視した。それまでの絵画は宗教的光景や人物が第一の主題だった。かつて自然界は脅威の場所とされていたが、ウィリアム・ワーズワースの詩は自然界の驚異・不思議を描いた。その後、西洋文化では自然を評価する傾向が高まっていく。美しい芸術に共通する伝統的考え方は「自然の模倣」である。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "科学の一部分野にとって自然とは物質とその動きであり、それらが従う自然法則を理解することを目的としている。このため、一般に最も基本的な科学の分野は「物理学」とされており、語義的にも \"physics\" は「自然の研究」を意味していた。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "物質は、「もの」を構成する実体と定義される。観測可能な宇宙は物質でできている。宇宙の可視の部分は、いまのところ総質量のわずか4パーセントを占めているに過ぎないとされている。残りは23パーセントの暗黒物質と73パーセントのダークエネルギーだと言われている。これらの正確な性質はまだ不明であり、物理学者による集中的な調査研究が進んでいる。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "観測可能な宇宙の範囲内では、物質とエネルギーの挙動は明確な物理法則に従う。それらの法則を使った現代宇宙論モデルは観測可能な宇宙の構造や成り立ちをうまく説明できている。物理法則の数式には20個の物理定数が使われている。物理定数は観測可能な宇宙の中では一定と見られている。物理定数は注意深く測定されて決定されているが、なぜそういう値になったのかは未だに謎である。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "宇宙空間は、天体の大気圏の外側に広がる宇宙の比較的空虚な領域を指す。地球の大気と宇宙空間の間には明確な境界は存在せず、大気は高度上昇と共に徐々に薄くなっている。太陽系内の宇宙空間は惑星間空間とも呼ばれ、太陽圏界面と呼ばれる面で恒星間空間と接している。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "宇宙空間は確かに非常に密度が薄いが、完全な空虚ではない。マイクロ波分光法によって数十種類の有機分子が疎らに存在することがわかっている。又、ビッグバンの名残として宇宙マイクロ波背景放射がある。又、イオン化した原子核で構成される宇宙線や各種素粒子が存在する。他にもある種の気体、プラズマ、宇宙塵、小さい流星物質などがある。さらに今では人類の痕跡が宇宙空間にあり、これまでに打ち上げられたロケットや宇宙船などの残骸がスペースデブリとして大気圏外に散らばっており、今後宇宙開発の障害となることが予想されている。スペースデブリの一部は時折大気圏に再突入している。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "地球は太陽系内で唯一生命体が存在することが知られているが、火星にはかつて地表に液体の水が大量に存在していたことを示唆する証拠が見つかっている。そのため、かつて火星には短期間かも知れないが生命が存在していた可能性がある。ただし、現在火星上の水の幾どが凍結した状態になっている。火星に今も生命が存在するとしたら、水が液体の形で存在する可能性のある地下が最も可能性が高いとされている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "水星や金星といった他の地球型惑星は、我々が知っている様な生命を維持するには厳し過ぎる環境と見られている。しかし、木星の4番目の大きさの衛星エウロパは、氷の地表の下に液体の水の層があると見られており、生命の存在する可能性が指摘されている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "近年、Stéphane Udryらは赤色矮星グリーゼ581の周囲を回る太陽系外惑星グリーゼ581dを発見した。グリーゼ581dはその恒星周囲のハビタブルゾーンにあると見られており、我々が知っているような生命が存在する可能性が示唆されている。", "title": "自然界" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "人間や社会よりも自然に優位を置く考え方を一般に自然主義という。現代では環境なしには人類の存続すら危ぶむまれることが現実の社会問題などにもなっており、いわゆるエコロジーなどの環境思想は各国政府の基本課題ともなっている。", "title": "自然主義" } ]
自然について解説する。
{{See Wiktionary}}{{Redirect|天然|[[人間]]の[[性格]]|天然ボケ}}{{Redirect|大自然|[[吉本興業東京本部]]所属の[[お笑いコンビ]]|大自然 (お笑いコンビ)}} '''自然'''(しぜん、{{lang-el-short|φύσις}} {{lang-la-short|natura}} {{lang-en-short|nature}})について解説する。 == 自然の観方の歴史 == 自然の観方、位置づけのしかた、意味の見出し方などのことを[[自然観]]と言う。 例えば「自然は人間文化と対峙するという見方」「自然のなかに文化的模範を見つけるべきとする見方」「自然と人造物が一体となるのが文化的景観とする見方」等々が自然観である{{要出典|date= 2020年12月25日 (金) 18:27 (UTC)}}。<!-- 景観は個人に属する世界観の一部であるが、歴史上の時代や地域などによって共通的であり、そのうえで多様である。 --> {{See also|自然観}} === 古代ギリシア:ピュシスとノモス === [[古代ギリシア]]では「φύσις ピュシス(自然)」は世界の根源とされ、絶対的な[[存在]]として把握された。 対立概念に[[ノモス]](法や社会制度)があり、ノモスはピュシスのような絶対的な存在ではなく、相対的な存在であり、人為的なものであるがゆえ、変更可能であると考えられた。{{仮リンク|フェリクス・ハイニマン|de|Felix Heinimann}}は、古代ギリシア人の[[思考]]方法の特徴のひとつにこのような対立的な思考([[アンチテーゼ]])がある、とし、このピュシス/ノモスの対立を根本的なものとした<ref>Felix Heinimann, ''Nomos und Physis''. ISBN 978-3534034154.<br /> F・ハイニマン『ノモスとピュシス』広川洋一・玉井治・矢内光一訳、みすず書房,1983年</ref>。またこの対立は[[パルメニデス]]の[[ドクサ]](臆見)と[[アレーテイア]](真理)の対立の変形として[[エレア派]]が行ったともいわれる<ref>{{仮リンク|カール・ラインハルト|de|Carl Reinhardt|en|Carl Reinhardt}}の説。ハイニマン前掲書,p2、p.52</ref>。 [[古代ギリシア語]]における「φύσις ピュシス」の意味は「生じる」「成長する」といった意味をもっていた<ref>ハイニマン前掲書,p105</ref>。また[[ソフォクレス]]や[[エウリピデス]]の語法では「誕生」「素性」あるいは「天性」という意味がある<ref>同書p113,p127</ref>。エウリピデスの語法には「たとい奴隷の子であれ、ピュシスに関して勇敢で正しいものの方が、むなしい評判(ドクサスマ)だけのものより高貴な生まれのものだ」(『[[縛られたメラニッペ]]』断片495,41)などがある<ref>同書p128</ref>。 このような古代ギリシアにおける自然・[[文化]]・[[社会]]との分割が、のちの[[古代ローマ|ローマ]]やヨーロッパの思想史のなかでの議論の基盤のひとつとなった。 紀元前4世紀、[[アリストテレス]]は、自著『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』において、[[神学]]と[[形而上学]]を「第一哲学」と位置づけ、'''[[自然哲学]]'''を「第二哲学」と呼んだ。というのは、自然哲学が、対象としている[[形相]]の説明も行っているからであるという<ref name="名前なし-1">岩波『哲学・思想 辞典』</ref>。ここにおける「philosophia physiceフィロソフィア・ピュシス」という表現が、古代ギリシャ語文献の中に「自然哲学」という表現が現れた最初のものであるという<ref name="名前なし-1"/>。 {{Seealso|自然哲学}} === 中世ヨーロッパ === [[スコラ哲学]]の時代においては一般に、「[[神]]は'''二つの書物'''をお書きになった」、「'''神は、[[聖書]]という書物と、自然という書物をお書きになった'''」と考えられていた<ref name="名前なし-2">村上陽一郎『奇跡を考える』岩波書店、p.133-138</ref>。 聖書を読むことで[[神]]の意図を知ることができるとされていた。また、ちょうど時計というものをじっくり観察すればその時計を作った時計職人の意図を推し量ることも可能なことがあるように、「神がお書きになったもうひとつの書物である自然」を読むことも神の意図や目論見を知る上で大切だ、と考えられた<ref name="名前なし-2"/>。 神はそれぞれの書物を異なった言語でお書きになったと、考えられており、神は人間が話す言葉で聖書を書き、数的な言葉で自然を書いた、と考えられた<ref name="名前なし-2"/>。[[ガリレオ・ガリレイ]]も次のように述べた。 : 「神は数学の言葉で自然という書物を書いた」(『{{仮リンク|イル・サジアトーレ|it|Il Saggiatore (trattato)|en|The Assayer}}』<ref group="注">ガリレオの著作 ''Il Saggiatore'' のタイトルの日本語での訳語は全然定まっておらず、『自然計量者』『黄金計量者』『贋金鑑識官』等々である。なおIl Saggiatoreとは、そもそもは比重などの値を調べることで本物の黄金と偽物の黄金を見分ける仕事をする人のことである。</ref>、[[1623年]]) <ref name="名前なし-2"/> 英語で[[法則]]のことを「law」と言うが、これはlay(置く、整える)の過去分詞と謂れている<ref name="名前なし-2"/>。それは神によって置かれたもの、整えられたこと、という意味である。独語ではさらにわかりやすく、「Gesetz」と言い、「setzenされたもの([[英語]]で言えば、"setされたもの")」と表現する。つまり、神によってセットされたものが法則、と見なされているのである<ref name="名前なし-2"/>。 [[リベラルアーツ]]の7科は、3科と4科に区分されているが、3科は具体的には文法・修辞学・弁証法であり、上記の「二つの書物」のうち「人間の言葉で書かれたほうの書物」(=[[聖書]])をよりよく理解するためのものと位置づけられ、4科の算術・幾何・天文・音楽については、現代人が理解するには少しばかり解説が必要だが、当時は天文も音楽も数学的なものであったのであり、つまり、4科は「数の言葉で書かれたほうの書物」(='''自然''')をよりよく理解するためのもの、という位置づけであった<ref>村上陽一郎『奇跡を考える』岩波書店、p.133-150</ref>。 === 近代ヨーロッパ === [[ファイル:Jean-Jacques Rousseau (painted portrait).jpg|120px|thumb|ジャン=ジャック・ルソー]] ヨーロッパ諸語では、'''自然'''は[[本性]](ほんせい)と同じ単語を用い「その存在に固有の性質」をあらわす(例えば、英語・[[フランス語]]の「nature」がそれである)。<ref group="注">外国語文献の翻訳を読む際には「本性」の含みがないか常に留意すべきである{{要出典|date=2018年11月}}。例えば「自然と[[人為]]」などという対比にぶつかった時、そこでの人為には単に「自然物に対して手が加えられた」という意味だけでなく「人為によって本性が捻じ曲げられた」というニュアンスが含まれているかもしれない{{要出典|date=2018年11月}}。</ref><ref group="注">日本語で言う自然科学は、scienceとだけ呼ばれることがあり、わざわざ自然という分類を強調しない{{要出典|date=2018年11月}}。物理か、生物か、社会かなど確率・分布などの科学的な分類による。いずれにしても、言葉の包含関係を確認することが大事である。自然という言葉が何を含み、何を含まないかを確認するとよい。</ref> 「'''自然に還れ'''」は、[[ジャン=ジャック・ルソー]]の思想の一部を端的に表した表現である。人間社会の人為的・[[作為]]的な因習から脱出し、より自然な状態へと還ることを称揚している。 === 東アジア === [[File:Brooklyn_Museum_-_Snowscape_-_Tang_Yin.jpg|left|thumb|120px|山水画に描かれた自然]] <!-- [[ファイル:竜化の滝.JPEG|thumb|left|140px|[[竜化の滝]](記事冒頭の用法2の意味での自然)]] --> {{See|五行}} [[日本語]]では自然という語は平安時代にさかのぼる。平安末期の辞書である『[[名義抄]]』に「自然ヲノヅカラ」とあるのがもっとも古いようである。より古くは、中国のいわゆる[[老荘思想]]では[[無為自然]]という語があるが、[[老子]]などには無為はあっても自然はない。いずれにせよ、この語は意図せずに、意識的でなく、と言うような意味である。ただし、老荘思想では無為自然を重視し、それに対立するものとして人為的なものを否定する。そこから現在の意味の「自然」を尊いものと見る観点が生まれたと考えられる。彼らは往々にして山間や森林に隠れ住み、また山や川を愛でた。いわゆる[[水墨画]]、[[山水画]]などもこの流れにある。 人の手の触れない地形や環境を指す言葉としての自然は、開国後に「nature」等の外国語を訳する際にできた言葉だと思われ、そのような使われ方は明治中期以降のことである<ref>[[沼田真]]『自然保護という思想』岩波書店〈岩波新書〉、1994年、ISBN 978-4004303275</ref>。日本語としては天然(てんねん)がほぼ同義であるが、使われ方はやや異なる。現在では単に天然と言えば[[天然ボケ]]を指すこともある。なお、自然(じねん)と読んだ場合、むしろあり得ないものが勝手に生まれるのを指す。 === 自然(じねん) === 「じねん」は自然の[[呉音|呉音読み]]であり、「しぜん」と読んだときとは違った意味を持つようになる。 '''自然'''(じねん)とは、万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする[[無因論]]のこと。[[仏教]]の[[因果|因果論]]を否定し、仏教から見た[[外道]]の思想のひとつである<ref>[https://www.weblio.jp/content/%E3%81%98%20%E3%81%AD%E3%82%93 三省堂 大辞林 第三版] - Weblio辞書</ref>。 また外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じること(自然法爾)という意味や、「偶然」「たまたま」といった意味も持つ。 [[浄土真宗本願寺派]]光明寺[[僧|僧侶]]の松本紹圭によれば、昔の日本において自然は「じねん」と読まれており、[[親鸞]]は自然を「おのずからしからしむ」と読んで世界を今あるようにあらしめる[[阿弥陀如来]]の働きを見いだしたと述べている<ref name="shokei">{{Cite web|和書|author=松本紹圭|url=http://www.huffingtonpost.jp/shokei-matsumoto/7_1_b_4113270.html|title=すべての仕事は道に通ずる(仏教と経営 第7回)|accessdate=2015-12-2|work=[[ハフィントン・ポスト|ハフィントンポスト日本版]]|publisher=ザ・ハフィントン・ポスト・ジャパン|date=2013年10月17日}}</ref>。また、現代語の「自然」のように、人間を除いた自然界、山や川、動植物を指す言葉はもともと日本語には存在せず、人間と自然界の間に隔たりを見ることなく、ただ自然(じねん)にあるものがあるようにしてあるだけという、仏教から見た[[外道]]の精神風土が日本にはあると述べている<ref name="shokei"/>。 == 自然界 == [[ファイル:Galunggung.jpg|thumb|right|310px|噴火中の[[ガルングン山|ガルングン]][[火山]]への[[落雷]](1982年)]] [[ファイル:Hopetoun falls.jpg|thumb|310px|[[オーストラリア]]の [[:en:Hopetoun Falls|Hopetoun Falls]]]] [[ファイル:Levi, Kittila - Finland - panoramio - aristidov (7).jpg|thumb|310px|[[フィンランド]]、[[ラッピ県|ラップ]]ランドの冬の風景]] {{See also|自然環境}} 自然はまた、「自然環境」や[[原生地域]]を意味することもある。野生動物、岩石、森林、海岸など、人類に影響されていないものや人類の介入にもかかわらず以前と変わらぬ姿を保持するもの一般である。その場合、人工物や人間が介在する事象は自然の一部とは見なされない。 === 地球 === [[ファイル:The Earth seen from Apollo 17.jpg|thumb|250px|upright|right|1972年、[[アポロ17号]]の[[宇宙飛行士]]が撮影した[[地球]]]] {{Main|地球|地球科学|プレートテクトニクス|地質学}} [[地球]]は今のところ生命の存在が確認されている唯一の[[惑星]]であり、その自然は様々な分野の科学的研究対象となっている。[[太陽系]]においては、太陽に近いほうから3番目の惑星である。[[地球型惑星]]としては最大であり、全惑星の中では5番目の大きさである。その気候的特徴としては、2つの大きな極地があり、2つの相対的に狭い[[温帯]]があり、[[赤道]]付近の広い[[熱帯]]と[[亜熱帯]]がある<ref>{{cite web | url= http://www.blueplanetbiomes.org/climate.htm | title=World Climates | work=Blue Planet Biomes | accessdate=2006-09-21}}</ref>。[[降水]]も地域によってかなり異なり、年間降水量が数[[メートル]]の地域もあれば、1[[ミリメートル]]未満の地域もある。地球表面の71パーセントは塩水の海洋に覆われている。それ以外は大陸や島であり、人間が居住する土地の多くは[[北半球]]にある。 地球は地質学的および生物学的プロセスを通して進化し、そこに本来の条件の痕跡を残してきた。[[地殻]]はゆっくりと移動する[[プレートテクトニクス|プレート]]に分かれており、[[プレート]]群の構成は過去に何度か変化している。地球の内部は今も活発に活動しており、融解した[[マントル]]という分厚い層があり、その内側に鉄を多く含み[[磁場]]を形成している[[核 (天体)|核]]がある。 [[大気圏]]の構成は生命活動によってそれまでの構成とは大きく変えられ<ref>{{cite web | date = 2005-09-11 | url = http://www.sciencedaily.com/releases/2005/09/050911103921.htm | title = Calculations favor reducing atmosphere for early Earth | publisher = Science Daily | accessdate = 2007-01-06 }}</ref>、地表の条件を安定させる生態学的バランスが生まれた。気候は[[緯度]]その他の要因で地域によって大きく異なるが、長期的な全体の気候は[[間氷期]]の期間中ずっと安定しており<ref>{{cite web | url = http://www.epa.gov/climatechange/science/pastcc.html | title = Past Climate Change | publisher = U.S. Environmental Protection Agency | accessdate = 2007-01-07 }}</ref>、全体の平均気温が1、2度しか変化しないことで生態学的バランスと地球の実際の地理に大きな影響を及ぼした<ref>{{cite web | author=Hugh Anderson, Bernard Walter | date = March 28, 1997 | url = https://web.archive.org/web/20080123130745/http://vathena.arc.nasa.gov/curric/land/global/climchng.html | title = History of Climate Change | publisher = NASA | accessdate = 2007-01-07 }}</ref><ref>{{cite web | last = Weart | first = Spencer | month = June | year = 2006 | url = http://www.aip.org/history/climate/ | title = The Discovery of Global Warming | publisher = American Institute of Physics | accessdate = 2007-01-07 }}</ref>。 ==== 地質学 ==== [[ファイル:Tectonic plate boundaries.png|thumb|right|300px|3種類の地質学的[[プレートテクトニクス]]境界]] {{Main|地質学}} 地質学は[[地球]]を構成する固体や液体について研究する[[科学]]の一分野である。地質学は、構成、[[構造地質学|構造]]、物理特性、力学、地球を構成する物質の[[地球史年表|歴史]]、それらが形成・移動・変成されたプロセスなどを研究する。それは主要な[[学問の一覧|学問分野]]の1つであり、[[鉱業]]や石油・石炭などの採掘にとっても自然災害の可能性を知り被害を防ぐという意味でも重要であり、過去の[[古気候学|気候]]や環境を理解する上でも重要である。 ある地域の地質は、[[マグマ]]が冷えたり、[[堆積]]によって岩盤ができ、[[変成作用]]でその組成が変化したり[[地殻変動]]によって位置や形状が変化することで形成される。 [[岩石]]はまず[[堆積]]によって形成されるものと[[マグマ]]が[[母岩]]に貫入することで形成されるものがある。[[堆積岩]]は地表に[[堆積物]]が積もり、それに[[続成作用]]が働いて形成される。[[火成岩]]には[[溶岩]]が地表を覆ってできる[[火山岩]]もある。[[火山灰]]の堆積でできる[[凝灰岩]]は堆積岩に分類される。[[バソリス]]、[[ラコリス]]、[[岩脈]]、[[岩床]]などの[[火成貫入岩]]は、上にある岩体を押し上げ、貫入することで結晶化したものである。 形成された岩はその後、なんらかの力を受けて変形したり、[[変成作用]]によって組成が変化したりする。典型的な変形は水平方向の圧縮する力による[[褶曲]]、水平方向の伸張させる力やすれる方向の力による[[断層]]などがある。これらの構造は主に[[プレート]]の境界に対応しており、[[収束型境界]]、[[発散型境界]]、[[トランスフォーム断層|トランスフォーム型境界]]がある。 ==== 歴史的観点 ==== [[ファイル:Pangea animation 03.gif|thumb|left|325px|仮説上の[[パンゲア大陸]]が分離していく様子を示したアニメーション]] [[ファイル:Hyperia.jpg|thumb|left|200px|[[プランクトン]]は海や湖に棲息し、少なくとも20億年前から[[地球]]上に存在していた<ref>{{cite book|last=Margulis|first=Lynn|coauthors=Dorian Sagan |year=1995|title=What is Life?|publisher=Simon & Schuster|location=New York|isbn=0684813262}}</ref>。]] {{Main|地球史年表|進化}} 地球は、[[太陽]]や他の[[惑星]]と共に約45億4000万年前に[[太陽系の形成と進化|原始太陽系星雲]]から誕生したとされている<ref>{{cite book |first=G. Brent |last=Dalrymple |year=1991 |title=The Age of the Earth |publisher=Stanford University Press |location=Stanford |isbn=0-8047-1569-6}}</ref>。[[月]]はそれから約2000万年後に形成された。当初は熱で融解していたが、外側から徐々に冷却され、固体の地殻が形成された。ガス放出や[[火山]]活動が原始大気を形成した。[[彗星]]の[[氷]]などから[[水]]がもたらされ、[[水蒸気]]が凝結することで海洋などの[[水圏]]が生まれた<ref>{{cite journal | first=A. | last=Morbidelli | coauthors=''et al.'' | year=2000 | url= https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2000M&PS...35.1309M/abstract | title=Source Regions and Time Scales for the Delivery of Water to Earth | journal=Meteoritics & Planetary Science | volume=35 | issue=6 | pages=1309–1320 | doi=10.1111/j.1945-5100.2000.tb01518.x}}</ref>。そして約40億年前に高エネルギーの化学反応によって自己複製可能な分子が生まれたと言われている<ref>{{cite news | title=Earth's Oldest Mineral Grains Suggest an Early Start for Life | publisher=NASA Astrobilogy Institute | date=2001-12-24 | url= http://nai.arc.nasa.gov/news_stories/news_detail.cfm?ID=76 | accessdate=2006-05-24}}</ref>。 大陸は形成と離散を繰り返しており、数億年をかけて[[超大陸]]を形成しては、それが分裂するということを繰り返している。約7億5000万年前、既知の最古の超大陸[[ロディニア大陸]]が分裂を始めた。個々の大陸は再び集合して[[パノティア大陸]]を形成し、約5億4000万年前に再び分裂を開始した。そして[[パンゲア大陸]]が形成され、これが分裂を開始したのが約1億8000万年前のことである<ref>{{cite journal |first=J.B. |last=Murphy |coauthors=R.D. Nance |year=2004 |url= http://www.americanscientist.org/issues/page2/how-do-supercontinents-assemble |title=How do supercontinents assemble? |journal=American Scientist |volume=92 |issue=4 |doi=10.1511/2004.4.324 | pages = 324}}</ref>。 [[新原生代]]に激しい[[氷河]]作用によって地球全体が氷に覆われたと見られる重要な証拠が見つかっている。この仮説的状態を「[[スノーボールアース]]」と呼ぶ。その直後の5億3000万年前から5億4000万年前に[[カンブリア爆発]]と呼ばれる多細胞生命体の劇的な増殖が始まった<ref>{{cite book |first=J.L. |last=Kirschvink |year=1992 |chapter=Late Proterozoic Low-Latitude Global Glaciation: The Snowball Earth |chapterurl= http://www.gps.caltech.edu/~jkirschvink/pdfs/firstsnowball.pdf |title=The Proterozoic Biosphere |editor=J.W. Schopf, C. Klein eds. |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge |pages=51–52 |isbn=0-521-36615-1}}</ref>。 [[カンブリア爆発]]以降、[[大量絶滅]]が5回あったことがわかっている<ref>{{cite journal |last=Raup |first=David M. |coauthors=J. John Sepkoski Jr. |year=1982 |month=March |title=Mass extinctions in the marine fossil record |journal=Science |volume=215 |issue=4539 | pages = 1501 |doi=10.1126/science.215.4539.1501 |pmid=17788674}}</ref>。直近で大量絶滅があったのは6500万年前で、おそらく巨大[[隕石]]の衝突によって[[鳥類]]に進化していなかった[[恐竜]]や大型爬虫類の絶滅を引き起こしたが、[[トガリネズミ]]に似た小型のものが多かった[[哺乳類]]は生き延びた。この6500万年の間に哺乳類は活動領域を広げていった<ref>{{cite book |last=Margulis |first=Lynn |coauthors=Dorian Sagan |year=1995 |title=What is Life? |publisher=Simon & Schuster |location=New York |isbn=0-684-81326-2 |pages=145}}</ref>。 数百万年前、アフリカの小型の[[ヒト上科|サル]]が二本足で直立する能力を獲得した<ref>{{cite book |last=Margulis |first=Lynn |coauthors=Dorian Sagan |year=1995 |title=What is Life? |publisher=Simon & Schuster |location=New York |isbn=0-684-81326-2}}</ref>。そこから人類が進化し、[[農耕]]を発展させ[[文明]]を生み出し、それまでの生命体には見られなかった速度で自然や他の生物に影響を及ぼすようになっていった。例えば、[[シデリアン]]に[[藻類]]が繁殖して[[酸素]]を大量に生み出し[[嫌気性生物]]が大量絶滅したが、それには約3億年を要した。 [[現代 (時代区分)|現代]]は[[完新世]]にあたるが、[[大量絶滅]]期にあたるとされており、これまでにない速度で絶滅が起きている<ref>{{cite journal | author = Diamond J | title = The present, past and future of human-caused extinctions | journal = Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci | volume = 325 | issue = 1228 | pages = 469–76; discussion 476–7 | year = 1989 | pmid = 2574887 | doi = 10.1098/rstb.1989.0100 | last2 = Ashmole | first2 = N. P. | last3 = Purves | first3 = P. E.}}</ref><ref>{{cite journal | author = Novacek M, Cleland E | title = The current biodiversity extinction event: scenarios for mitigation and recovery | journal = Proc Natl Acad Sci USA | volume = 98 | issue = 10 | pages = 1029 | year = 2001 | pmid = 11344295 | doi = 10.1073/pnas.091093698 | pmc = 33235}}</ref>。[[ハーバード大学]]の[[エドワード・オズボーン・ウィルソン]]らは、人類が引き起こした[[生物圏]]の破壊により、今後100年間に地球上の半分の種が絶滅すると予想している<ref>"The mid-Holocene extinction of silver fir ''(Abies alba)'' in the ..." [http://www.springerlink.com/index/D85T53513002564V.pdf pdf]</ref>。進行中の絶滅イベントの範囲は生物学者が研究中であり、議論が続いている<ref>See, e.g. [http://park.org/Canada/Museum/extinction/holmass.html The Holocene Mass Extinction?], [http://park.org/Canada/Museum/extinction/extincmenu.html Mass Extinctions Of The Phanerozoic Menu], [http://park.org/Canada/Museum/extinction/patterns.html Patterns of Extinction]</ref>。 === 大気・気候・気象 === [[ファイル:Top of Atmosphere.jpg|thumb|300px|[[レイリー散乱]]によって[[大気圏]]の気体は青い光を特によく散乱させるため、地球を宇宙空間から見ると青い[[暈]]が見える。]] {{Main|地球の大気|気候|気象}} [[地球の大気]]は惑星規模の生態系を維持するのに重要な役割を果たしている。地球を取り巻く薄い気体の層がその場に留まっているのは、惑星の重力場の作用である。乾燥した空気の構成は、[[窒素]]が78%、[[酸素]]が21%、[[アルゴン]]などの[[不活性気体]]や[[二酸化炭素]]などが残りの1%となっている。ただし、実際の空気には[[湿度]]に相当する[[水蒸気]]も含まれている。大気圧は高度上昇に伴って徐々に低くなり、[[スケールハイト]]は地表から約8[[キロメートル]]の高度となる<ref>{{cite web| url = http://www.grc.nasa.gov/WWW/K-12/Numbers/Math/Mathematical_Thinking/ideal_gases_under_constant.htm | title = Ideal Gases under Constant Volume, Constant Pressure, Constant Temperature, & Adiabatic Conditions | publisher = NASA | accessdate = 2007-01-07}}</ref><ref>{{cite journal | last = Pelletier | first = Jon D. | title=Natural variability of atmospheric temperatures and geomagnetic intensity over a wide range of time scales | journal=Proceedings of the National Academy of Sciences | year=2002 | volume=99 | pages=2546–2553 | doi= 10.1073/pnas.022582599 | pmid=11875208 | pmc = 128574 }}</ref>。地球の大気圏の[[オゾン層]]は地表に届く[[紫外線]] (UV) を大幅に減らすという重要な役割を果たしている。[[デオキシリボ核酸|DNA]]は紫外線によって破壊されやすく、オゾン層は地表の生命を守っているとも言える。大気は夜間の温度低下を和らげる役目も果たしており、1日の温度変化もかなり低減されている。 地球上の[[気象]]現象はほとんど全て[[対流圏]]という大気下層部で起きており、[[大気循環]]による熱の再分配が起きている。[[海流]]も[[気候]]を決定付ける重要な要素であり、[[熱塩循環]]によって赤道付近の海洋で得た熱エネルギーを極地の海洋に分配する重要な役目がある。これらの流れは温帯での夏と冬の[[温度]]差を和らげるのに役立っている。海洋や大気による熱の再配分がなければ、赤道付近は今よりも暑くなり、[[極圏]]は今よりも寒くなる。 [[気象]]は[[人間]]にとって好ましい場合もあれば、有害な場合もある。特に[[竜巻]]、[[台風]]、[[サイクロン]]、[[ハリケーン]]はその進路にあたった地域に多大なエネルギーを撒き散らし、災害を引き起こす。植物は[[天候]]の季節変化に合わせて進化してきたため、ほんの数年でも異常気象が続くと植生に大きな影響があり、そういった植物を食料にしている動物にも大きな影響を及ぼす。 [[ファイル:Dszpics1.jpg|thumb|right|280px|[[オクラホマ州]]中部の竜巻]] 惑星の気候は、気象の長期的傾向である。[[気候変動]]を生じる各種要因として、海流の変化、地表の[[アルベド]]の変化、[[温室効果ガス]]の量の変化、太陽の明るさの変化、惑星軌道の変化などが挙げられる。歴史的記録によれば、地球は[[氷河時代]]などの劇的な気候変動を経験してきた。 地域毎の気候は様々な要因で決まるが、特に[[緯度]]の影響を受ける。同緯度の地帯は似たような気候となり、[[気候帯]]を形成する。気候帯は、赤道付近の[[熱帯]]から北極や南極に近い地方の[[寒帯]]まで様々なものがある。天候は[[季節]]によって変化するが、これは[[地球]]の[[自転]]軸が[[軌道平面]]に対して[[赤道傾斜角|傾斜]]しているためである。そのため、夏または冬とされる季節には、地球のある部分に[[太陽]]光線がより強く当たることになる。どの時期であっても、[[北半球]]と[[南半球]]は逆の季節を経験している。 気象・天候は[[自然環境]]の小さな変化が即座に影響する[[カオス理論|カオス系]]であり、[[天気予報]]は今のところ数日ぐらいしか正確にできない{{要出典|date=2010年4月}}。現在、地球上で2つの現象が起きている。第一に平均気温が徐々に上昇している。第二に各地域の気候に目立った変化が生じている<ref>{{cite news | title=Tropical Ocean Warming Drives Recent Northern Hemisphere Climate Change | publisher=Science Daily|date=April 6, 2001 | url= http://www.sciencedaily.com/releases/2001/04/010406073554.htm | accessdate=2006-05-24 }}</ref>。 === 水圏 === [[ファイル:44 - Iguazu - Décembre 2007.jpg|thumb|right|350px|[[ブラジル]]と[[アルゼンチン]]の国境にある[[イグアスの滝]]]] {{Main|水圏}} [[水]]は[[水素]]と[[酸素]]の化合した[[化学物質]]で、既知の[[生命]]形態は全てこれを必要とする<ref>[http://www.un.org/waterforlifedecade/background.html Water for Life, 2005-2015] United Nations</ref>。一般に「水」という言葉は[[液体]]の[[物質の状態|状態]]を指し、[[固体]]は[[氷]]、[[気体]]は[[水蒸気]]または[[蒸気]]と呼ぶ。水は[[地球]]表面の71%を覆っている<ref>{{cite web|url= https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/xx.html#Geo|title=CIA- The world fact book|publisher=[[中央情報局|Central Intelligence Agency]] |accessdate=2008-12-20}}</ref>。地球上の水のほとんどは[[海洋]]にあり、1.6%が地下の[[帯水層]]、0.001%が[[大気圏]]に[[蒸気]]や[[雲]]や[[降水]]の形で存在している<ref>[http://www.unep.org/dewa/assessments/ecosystems/water/vitalwater/ Vital Water] [[国際連合環境計画|UNEP]].</ref>。[[大洋]]が保持する水は地表水全体の97%で、[[氷河]]や[[氷帽]]や極地の[[氷床]]の形で2.4%が存在している。[[川]]、[[湖]]、[[池]]などにある地表水は全体の0.6%にすぎない。生物が体内に蓄えている水や人間の生産する工業製品に含まれる水は、全体から見れば微量である。 ==== 大洋 ==== [[ファイル:Ocean from Leblon.jpg|thumb|left|[[リオデジャネイロ]]のレブロンから見た[[大西洋]]]] {{Main|大洋}} [[大洋]]は[[海水]]の大部分であり、[[水圏]]の主要部分を構成している。地球[[表面]](全表面積は3億6100万平方キロメートル)の約71%が[[海]]で覆われており、海洋は習慣的に大洋とそれ以外の海に分けられる。その半分以上が3000メートル以上の深さである。平均[[塩分濃度]]は約35[[ppt]](3.5%)で、ほとんど全ての海水の塩分濃度が30pptから38pptの範囲内にある。実際、それぞれ別の名がつけられているが、大洋はすべて繋がっている<ref name="UNAoO">"[http://www.oceansatlas.com/unatlas/about/physicalandchemicalproperties/background/seemore1.html Distribution of land and water on the planet]". ''[http://www.oceansatlas.com/ UN Atlas of the Oceans]</ref>。自由に海水が行き来する大洋という考え方は[[海洋学]]の重要な基本概念である<ref>Spilhaus, Athelstan F. 1942 (Jul.). "Maps of the whole world ocean." ''[[Geographical Review]]'' ([[:en:American Geographical Society<!-- [[:ja:アメリカ地理学協会]] とリンク -->|American Geographical Society]]). Vol. 32 (3): pp. 431-5.</ref>。 主要な大洋の区分は[[大陸]]、[[列島]]、その他の地形による。一般に大洋は大きい順に[[太平洋]]、[[大西洋]]、[[インド洋]]、[[南極海]]、[[北極海]]がある。海のより小さい部分は[[海]]、[[入り江]]、[[湾]]など様々な名称で呼ばれる。他に[[塩湖]]もある。塩湖は大洋とは繋がっていない塩水の湖である。例えば、[[アラル海]]や[[グレートソルト湖]]などがある。 ==== 湖 ==== [[ファイル:Lake mapourika NZ.jpeg|thumb|[[マポウリカ湖]](ニュージーランド)]] {{Main|湖}} [[湖]]は、[[盆地]]状の地形に[[液体]]が溜まっている[[地形]]であり、場合によってはゆっくり移動することもある。一般に内陸にあって[[大洋]]とは繋がっておらず、[[池]]よりも大きく深く、川が注ぎ込んでいることもある<ref>{{cite web|url= http://www.britannica.com/EBchecked/topic/328083/lake|author=Brittanica online|accessdate=2008-06-25|title=Lake (physical feature)|quote=[a Lake is] any relatively large body of slowly moving or standing water that occupies an inland basin of appreciable size. Definitions that precisely distinguish lakes, ponds, swamps, and even rivers and other bodies of nonoceanic water are not well established. It may be said, however, that rivers and streams are relatively fast moving; marshes and swamps contain relatively large quantities of grasses, trees, or shrubs; and ponds are relatively small in comparison to lakes. Geologically defined, lakes are temporary bodies of water.}}</ref><ref>{{cite web|title=Dictionary.com definition|accessdate=2008-06-25|url= http://dictionary.reference.com/browse/lake |quote=a body of fresh or salt water of considerable size, surrounded by land.}}</ref>。地球以外で湖らしきものの存在が知られている場所は土星の衛星[[タイタン (衛星)|タイタン]]で、[[エタン]]や[[メタン]]の湖がある。タイタンの湖に川が注いでいるかは不明だが、タイタンの地表には河床のような地形が多数見られる。地球の自然な湖は、主に山岳地域、[[地溝帯]]、[[氷河]]付近やかつて氷河に削られた地形などによく見られる。他にも海水の混じった汽水湖、[[内陸湖]]や、蛇行する川の周囲の湖などがある。一部地域には[[氷河時代]]の無秩序な水系パターンによって形成された多数の湖が存在する。全ての湖は地質年代的スケールで見れば一時的なもので、堆積によって埋まってしまうか、水が最終的に涸れてしまう。 ==== 池沼 ==== [[ファイル:Mill Pond Sunset.jpg|thumb|right|[[マサチューセッツ州]]ウェストボローの池]] {{Main|池}} [[池]]は、一般に[[湖]]よりも小さい[[止水域]]を指し、人工のものもある。人間が作った止水域は池と呼ばれることが多く、観賞用の[[公園]]の池、魚の養殖のための[[養魚池]]、熱エネルギーを蓄えるための[[ソーラーポンド]]などがある。池や湖と川や渓流の違いは流れの速度である。川や渓流では水の流れが容易に観察できるが、池や湖では熱による対流や風による小波しか観測できない。このような特徴から池は[[淵]]や[[タイドプール|潮だまり]]といった地形と区別される。 ==== 河川 ==== [[ファイル:View from Cairo Tower 31march2007.jpg|thumb|250px|left|[[エジプト]]の首都[[カイロ]]を流れる[[ナイル川]]]] {{Main|川}} [[川|河川]]とは、[[大洋]]、[[湖]]、[[海]]、他の河川などに向かって流れている自然な水の流れであり<ref>[http://www.merriam-webster.com/dictionary/river River {definition}] from Merriam-Webster. Accessed February 2010.</ref>、通常[[淡水]]である。稀に地中に染み込んだり、干上がったりして、何らかの水のたまった場所に到達する前に消えている川もある。小さい河川は、[[沢]]、小川、[[渓流]]、細流などと呼ばれることもある。英語でも "stream"、"creek"、"brook"、"rivulet"、"rill" といった様々な名称がある。呼称の選択に明確な基準があるわけではない。河川は[[水循環]]の一部を構成している。河川を流れる水は一般に、[[降水]]が[[表面流出]]によって集まったもの、[[地下水]]、[[湧水]]、(例えば[[氷河]]から)自然の氷や積雪がとけてできた水などである。 ==== 渓流 ==== [[ファイル:Oirase keiryuu.JPG|thumb|right|[[奥入瀬渓流]]]] {{Main|渓流}} [[渓流]]は、河川の上流の流れの速い部分を指す。[[アメリカ合衆国]]では川幅が18メートル未満のところを "stream" と定義している。渓流は[[涵養]]が起きやすく、[[水循環]]において重要な役割を果たしている。また、[[魚類|魚]]や[[野生動物]]が移動する際の道としても機能している。渓流周辺は特に生物の[[生息地]]としても豊かで、[[河畔域]]などと呼ばれる。現在進行中の[[大量絶滅]]において、渓流は分断された生息地をつなぐ重要な回廊としての役目を担っており、[[生物多様性]]を保持するのに役立っている。渓流などを含めた[[水循環]]を研究するのが[[水文学]]である。 === 生態系 === [[ファイル:View of loch lomond.JPG|thumb|left|スコットランドの[[ローモンド湖]]は比較的隔絶された生態系を形成している。この湖に棲息する魚類のコミュニティは長期に渡って変化していない<ref>{{cite journal | last=Adams | first=C.E. | title=The fish community of Loch Lomond, Scotland : its history and rapidly changing status | journal=Hydrobiologia | year=1994 | volume=290 | issue=1-3 | pages=91–102 | url= http://cat.inist.fr/?aModele=afficheN&cpsidt=3302548 | doi=10.1007/BF00008956 }}</ref>。]] {{Main|生態学|生態系}} 生態系は相互に関連付けられた形で機能する様々な非生物と生物から構成されている<ref>{{cite web |last=Pidwirny |first=Michael |year=2006 |work=Fundamentals of Physical Geography (2nd Edition) |title=Introduction to the Biosphere: Introduction to the Ecosystem Concept |url= http://www.physicalgeography.net/fundamentals/9j.html |accessdate=September 28, 2006}}</ref>。その構造と構成は、相互に関連付けられる様々な環境要因によって決定される。それら要因の変化は生態系に動的な変化をもたらす。特に重要な要因は、[[土壌]]、大気、[[太陽]]からの輻射、水、そして生物である。 生態系という概念の中心となるのは、[[生物]]がその周辺の環境の全ての要素と相互作用するという考え方である。生態学の祖[[ユージーン・オダム]]は、「与えられたエリアの全ての生体群(すなわち「コミュニティ」)とエネルギーの流れが明確に定義された栄養構造・生物多様性・系内の物質循環(すなわち、生物と非生物の間の物質の交換)をもたらす物理環境を含む単位を生態系という」としている<ref name="Odum1971">Odum, EP (1971) Fundamentals of ecology, third edition, Saunders New York</ref>。生態系内では、様々な種が相互につながり、[[食物連鎖]]という形で相互に依存しており、種の間および周囲の環境との間で[[エネルギー]]や[[物質]]を交換している<ref>{{cite web |last=Pidwirny |first=Michael |year=2006 |work=Fundamentals of Physical Geography (2nd Edition) |title=Introduction to the Biosphere: Organization of Life |url= http://www.physicalgeography.net/fundamentals/9d.html |accessdate=September 28, 2006}}</ref>。 小さい生態系を[[微小生態系]] (microecosystem) と呼ぶ。例えば、1つの石とその下に生息する全ての生命が1つの微小生態系である。微小生態系は1つの[[エコリージョン]]全体とその[[流域]]に対応する場合もある<ref>{{cite journal |last=Bailey |first=Robert G. |year=2004 |month=April |title=Identifying Ecoregion Boundaries |journal=Environmental Management |volume=34 |pmid=15883869 |issue=Supplement 1 |url= http://www.fs.fed.us/institute/news_info/Identifying_ecoregion_boundaries.pdf |format=PDF|doi=10.1007/s00267-003-0163-6 |pages=S14 }}</ref>。 ==== 原生地域 ==== [[ファイル:Biogradska suma.jpg|thumb|right|250px|ヨーロッパブナの[[原生林]]([[モンテネグロ]])]] {{Main|原生地域}} [[原生地域]]とは、一般に[[人間]]の手がほとんど入っていない地域を指す。[http://www.wild.org/main/about/what-is-a-wilderness-area/ The WILD Foundation] はもっと具体的に「我々の惑星に残された最も手付かずで平穏な野生の自然地域。道路やパイプラインや他の産業基盤とも無縁で、人間の制御下にない本当の野生の場所」としている。原生地域は、自然保護地域、[[原生林]]、[[国立公園]]、川の周囲や渓谷、未開発地域などにある。原生地域や[[自然公園]]は一部の[[種 (分類学)|種]]の保護、生態学的研究、生息地保全といった面で重要である。一部の作家は原生地域が人間の精神や創造性にとっても重要だと信じており<ref name="Man p155-157">No Man's Garden by Daniel B. Botkin p155-157</ref>、一部の[[生態学]]者は原生地域がこの地球の自立した自然な[[生態系]]([[生物圏]])の重要な一部だと考えている。原生地域はまた歴史的な[[遺伝学|遺伝]]形質を保持し、[[動物園]]や[[植物園]]や[[研究室]]では再現が困難な野生の[[植物相]]や[[動物相]]の[[生息地]]にもなる。 === 生命 === [[ファイル:Female mallard nest - natures pics edit2.jpg|thumb|right|メスのマガモと子ガモ - [[生殖]]は生命存続の基本である。]] [[ファイル:Prunus sp in Takaoka Kojo Park 12.jpg|thumb|right|[[ソメイヨシノ]]は[[園芸品種]]であり、[[生殖]]によっては増えない非自然の一面を持つ。]] {{Main|生命|生物学|生物圏}} 生命の定義について万人が合意したものはないが、科学者は一般に生物学的な生命の徴候として、[[代謝]]、成長、[[適応 (生物学)|適応]]、刺激への反応、[[生殖]]を挙げる<ref>{{cite web | year = 2006 | url = http://www.calacademy.org/exhibits/xtremelife/what_is_life.php | title = Definition of Life | publisher = California Academy of Sciences | accessdate = 2007-01-07 }}</ref>。生命は単に[[生物]]の特徴的状態であるという場合もある。 地球上の生物([[植物]]、[[動物]]、[[菌類]]、[[原生生物]]、[[古細菌]]、[[真正細菌]])に共通する特徴として、[[細胞]]があり、炭素と水を基本とする複雑な組織があり、代謝活動し、成長する能力があり、刺激に反応し、生殖するということが挙げられる。これらの特徴を持つものは一般に生命と見なされる。しかし、生命の定義で常にこれらの特徴が必須とされるわけではない。組織の組成を除外すれば、[[人工生命]]も生命と見なされうる。 [[生物圏]]とは地球の外殻部分の一部(地表、水中、空気および大気中)であり、そこで生命が生まれ様々に変化する領域である。広義の[[地球生理学]]的観点から言えば、生物圏とは全ての生物とそれらの関係を含む地球規模の生態系であり、[[リソスフェア|岩石圏]]・[[水圏]]・[[大気圏]]の各種要素との相互作用も含む。現在、地球上には750億トンの[[バイオマス]](生命)があり、それらが生物圏の様々な環境に生息している<ref>{{cite book |last=Leckie |first=Stephen |year=1999 |chapter=How Meat-centred Eating Patterns Affect Food Security and the Environment |chapterurl= http://www.idrc.ca/en/ev-30610-201-1-DO_TOPIC.html |title=For hunger-proof cities : sustainable urban food systems |publisher=International Development Research Centre |location=Ottawa |isbn=0-88936-882-1}}</ref>。 地球全体のバイオマスの9割は植物であり、動物は植物の存在に強く依存している<ref>{{cite web |first=Peter V. |last=Sengbusch |title=The Flow of Energy in Ecosystems - Productivity, Food Chain, and Trophic Level |work=Botany online |publisher=University of Hamburg Department of Biology |url= http://www.biologie.uni-hamburg.de/b-online/e54/54c.htm |accessdate=September 23, 2006}}</ref>。動植物の種はこれまでに200万種以上識別されており<ref>{{cite web |last=Pidwirny |first=Michael |year=2006 |work=Fundamentals of Physical Geography (2nd Edition) |title=Introduction to the Biosphere: Species Diversity and Biodiversity |url= http://www.physicalgeography.net/fundamentals/9h.html |accessdate=September 23, 2006}}</ref>、現存する種の実際の数は数百万から5000万以上あると見積もられている<ref>{{cite web |url= http://faculty.plattsburgh.edu/thomas.wolosz/howmanysp.htm |title=How Many Species are There? |work=Extinction Web Page Class Notes |accessdate=September 23, 2006}}</ref><ref>"Animal." World Book Encyclopedia. 16 vols. Chicago: World Book, 2003. This source gives an estimate of from 2 to 50&nbsp;million.</ref><ref>{{cite web |url= http://www.sciencedaily.com/releases/2003/05/030526103731.htm |title=Just How Many Species Are There, Anyway? |publisher=Science Daily |year=2003 |month=May |accessdate=September 26, 2006 }}</ref>。今も次々と新種が出現し、同時に絶滅する種もあるため、現存する種の数は常に変化している<ref>{{cite web |last=Withers |first=Mark A. |coauthors=et al. |title=Changing Patterns in the Number of Species in North American Floras |work=Land Use History of North America |url= http://biology.usgs.gov/luhna/chap4.html |year=1998 |accessdate=September 26, 2006 }} このウェブサイトは次の書籍に基づいている<br />{{cite book |editor=Sisk, T.D., ed. |year=1998 |title=Perspectives on the land use history of North America: a context for understanding our changing environment |publisher=U.S. Geological Survey, Biological Resources Division |id=USGS/BRD/BSR-1998-0003 |edition=Revised September 1999 }}</ref><ref>{{cite web |title=Tropical Scientists Find Fewer Species Than Expected |url= http://www.sciencedaily.com/releases/2002/04/020425072847.htm |year=2002 |month=April |publisher=Science Daily |accessdate=September 27, 2006 }}</ref>。現在、種の数は急速に減少している<ref>{{cite journal |last=Bunker |first=Daniel E. |coauthors=et al. |title=Species Loss and Aboveground Carbon Storage in a Tropical Forest |url= http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/310/5750/1029 |journal=Science |year=2005 |month=November |volume=310 |issue=5750 |pages=1029–31 |doi=10.1126/science.1117682 |pmid=16239439 }}</ref><ref>{{cite journal |last=Wilcox |first=Bruce A. |title=Amphibian Decline: More Support for Biocomplexity as a Research Paradigm |journal=EcoHealth |year=2006 |month=March |volume=3 |issue=1 |url= http://www.springerlink.com/content/810227460032m460/ |doi=10.1007/s10393-005-0013-5 | pages = 1}}</ref><ref>{{cite book |editor=Clarke, Robin, Robert Lamb, Dilys Roe Ward eds. |year=2002 |title= Global environment outlook 3 : past, present and future perspectives |chapter=Decline and loss of species |chapterurl= http://www.grida.no/geo/geo3/english/221.htm |publisher=Nairobi, Kenya : UNEP |location=London; Sterling, VA |isbn=92-807-2087-2}}</ref>。 ==== 進化 ==== [[ファイル:Amazon Manaus forest.jpg|thumb|left|350px|[[ブラジル]]の[[アマゾン熱帯雨林]]。[[地球]]上で最も[[生物多様性]]が豊かな地域である<ref>[http://earthobservatory.nasa.gov/Newsroom/view.php?id=28907 Why the Amazon Rainforest is So Rich in Species] NASA</ref>。<ref>[http://www.sciencedaily.com/releases/2005/12/051205163236.htm Why The Amazon Rainforest Is So Rich In Species] Science Daily</ref>]] {{Main|進化}} 今のところ生命は地球上のものしか知られていない。[[生命の起源]]に関する問題は未解決でまだよくわかっていないが、今とは全く違う環境の原始地球で約39億年前から35億年前の[[冥王代]]または[[太古代]]に生まれたとも<ref name="Line">{{cite journal | author = Line M | title = The enigma of the origin of life and its timing | url= http://mic.sgmjournals.org/cgi/content/full/148/1/21?view=long&pmid=11782495 | journal = Microbiology | volume = 148 | issue = Pt 1 | pages = 21–7 | date=1 January 2002| pmid = 11782495 }}</ref>、地球外から飛来したとも考えられている。いずれにせよ、生命は当初から自己複製の基本的特性と遺伝の特性を備えていたのだろう、生命が生まれると、様々な要因により変異が起き多様な生命形態へと展開し[[自然選択説|自然選択]]も加わって変化([[進化]])が起きたのだろう、と推測している生物学者が多い<ref group="注" name="注">[[生命の起源]]を巡る諸説に関しては、どれも完全な証拠もなく、そのとおりに実験室で再現できたこともない。各説とも憶測の組み合わせであって、未解決。</ref>。 他の種との競争に敗れた種や変化する環境に順応できなかった種は絶滅していった。[[化石]]にはそういった古い種の痕跡も数多く残っている。化石や[[デオキシリボ核酸|DNA]]の研究により、現存する全ての種は最初の原始的生命形態まで系統を遡ることができることが判明している<ref name="Line"/>。 原始的植物が[[光合成]]の能力を獲得したことで、太陽エネルギーを活用しさらに複雑な生命形態を生み出すことができるようになった{{要出典|date=2010年4月}}。その結果生じた[[酸素]]は大気中に蓄積し、[[オゾン層]]を形成するようになった。小さい細胞を大きな細胞が取り込むことで[[細胞内共生説|さらに複雑な細胞ができ]]、[[真核生物]]が生まれた<ref>{{cite journal |first=L. V. |last=Berkner |coauthors=L. C. Marshall |year=1965 |month=May |title=On the Origin and Rise of Oxygen Concentration in the Earth's Atmosphere |journal=Journal of the Atmospheric Sciences |volume=22 |issue=3 |pages=225–261 |url= http://ams.allenpress.com/perlserv/?request=get-abstract&doi=10.1175%2F1520-0469(1965)022%3C0225:OTOARO%3E2.0.CO%3B2 |doi=10.1175/1520-0469(1965)022<0225:OTOARO>2.0.CO;2 }}</ref>。細胞群のコロニー内で個々の細胞が役割分担するようになり、真の多細胞生物へと進化していった。オゾン層が危険な[[紫外線]]を和らげたことで、生命は陸上へと進出できるようになった。 ==== 微生物 ==== [[ファイル:Yellow mite (Tydeidae) Lorryia formosa 2 edit.jpg|thumb|right|140px|[[ダニ]]の顕微鏡写真]] {{Main|微生物}} 地球上に出現した最初の生命形態は微生物であり、多細胞生物が出現する約十億年前までは全ての生命形態は微生物だった<ref>{{cite journal |author = Schopf J | title = Disparate rates, differing fates: tempo and mode of evolution changed from the Precambrian to the Phanerozoic. | url= http://www.pubmedcentral.nih.gov/picrender.fcgi?artid=44277&blobtype=pdf | journal = Proc Natl Acad Sci USA | volume = 91 | issue = 15 | format=PDF | pages = S14 | year = 1994 | pmid = 8041691 | doi = 10.1073/pnas.91.15.6735 |pmc = 44277}}</ref>。微生物の多くは単細胞で、人間の肉眼では見えないほど小さい。[[真正細菌]]、[[菌類]]、[[古細菌]]、[[原生生物]]がある。 これらの生命形態は、液体の水のある地球上のありとあらゆる場所に存在しており、岩石の内部からも発見されている<ref>{{cite journal | author = Szewzyk U, Szewzyk R, Stenström T | title = Thermophilic, anaerobic bacteria isolated from a deep borehole in granite in Sweden. | doi= 10.1073/pnas.91.5.1810 | journal = Proc Natl Acad Sci USA | volume = 91 | issue = 5 | pages = 1810–3 | year = 1994 | pmid = 11607462 | pmc = 43253}}</ref>。微生物の生殖活動は急速である。突然変異率が高く[[遺伝子の水平伝播]]があるため<ref>{{cite journal | author = Wolska K | title = Horizontal DNA transfer between bacteria in the environment. | journal = Acta Microbiol Pol | volume = 52 | issue = 3 | pages = 233–43 | year = 2003 | pmid = 14743976}}</ref>、環境への適応能力が高く、[[宇宙空間]]を含め様々な新たな環境で生き残ることができる<ref>{{cite journal | author = Horneck G | title = Survival of microorganisms in space: a review. | journal = Adv Space Res | volume = 1 | issue = 14 | pages = 39–48 | year = 1981 | pmid = 11541716 | doi = 10.1016/0273-1177(81)90241-6}}</ref>。地球上の生態系の本質は微生物によって形成されている。ただし、一部の微生物は[[病原体|病原性]]があり、他の生物の健康への脅威となっている。 ==== 動植物 ==== [[ファイル:Plants.jpg|thumb|[[植物相]]]] [[ファイル:Animal diversity October 2007.jpg|thumb|地球上には多様な動物の[[種 (分類学)|種]]が存在する。]] {{Main|植物|動物}} {{See also|植物学|動物相|生物学}} かつて[[アリストテレス]]は全ての生物を、人間が気づくほどの素早さでは動かない植物と動く動物に分類した。[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]式階級分類体系では、これを[[植物]][[界 (分類学)|界]]と[[動物]]界とした。その後、植物界に無関係なグループが含まれていたが、[[菌類]]や一部の[[藻類]]が新たな界を形成するものとされた。しかし、それらは今も植物に属するものとして語られることもある。細菌相は[[植物相]]に組み入れられることもあるが<ref>{{cite web |title=flora |url= http://webster.com/cgi-bin/dictionary?va=flora |work=Merriam-Webster Online Dictionary |publisher=Merriam-Webster |accessdate=September 27, 2006 }}</ref><ref>{{cite book |year=1998 |title=Status and Trends of the Nation's Biological Resources |chapter=Glossary |publisher=Department of the Interior, Geological Survey |location=Reston, VA |id=SuDocs No. I 19.202:ST 1/V.1-2}}</ref>、別々に扱われることもある。 [[植物]]を分類する様々な方法の中に、地域毎の[[植物相]]がある。研究目的によって様々な植物相の考え方があり、中には過去の時代の植物を扱う化石植物相もある。植物相は気候や[[地形]]によって大きく異なる。 地域毎の植物相はさらに「在来植物相」や「農業・園芸植物相」に分けられる。「在来植物相」の一部は大陸から大陸へ移住した人々によって新天地に数世紀前に導入されたもので、その地域の自然の植物相の一部に組み込まれたものを含む。これは、自然と人間の相互作用によって自然と人工の境界が曖昧になる事例の1つである。 もう1つの植物の分類として、歴史的に「雑草」と呼ばれてきたものがある。有益でない植物を指す用語として[[植物学]]では使われなくなったが、今も普通に使われている言葉であり、そのことが人類が自然に手を加えて制御したいと考えていることを物語っている。同じように動物も人間との関係によって「家畜」、「野生動物」、「害虫」などと分類されることがある。 分類としての[[動物]]には他の生命形態と区別するいくつかの特性があるが、科学的には根や葉がなく脚や翼があるといった分類ではない{{要出典|date=2010年4月}}。動物は[[真核生物]]で、通常は[[多細胞生物]]であり(ただし、[[ミクソゾア]]という例もある)、そのことから[[真正細菌]]・[[古細菌]]・[[原生生物]]の大部分と区別される。一般に消化器官を持つ[[従属栄養生物]]であり、そのことから[[植物]]や[[藻類]]と区別される。また[[細胞壁]]を持たないことから、植物、藻類、[[菌類]]と区別される。 [[海綿動物]]などの例外はあるが、動物は特化した[[組織 (生物学)|組織]]で構成される体を持つ。運動を可能にする[[筋肉]]と信号を送り処理する[[神経系]]を持つ。また、一般に体内に[[消化]]器官を持つ。動物の真核細胞は、[[コラーゲン]]と伸縮自在な[[糖タンパク質]]でできた細胞外の基盤で保持されている。これを石灰化した[[外骨格]]や[[骨]]のような構造を形成することもある。 === 人間と自然。豊かさとエコロジー === [[ファイル:Na Pali Coast - Kauai.jpg|thumb|left|[[ハワイ州]]の[[ナパリ海岸]]は隔絶された断崖だが、[[モクマオウ科|モクマオウ]]のような[[外来種]]が侵入し、景観が大きく変化している。]] [[ファイル:Dendrarium Sochi Mauritanian arbour.jpg|thumb|right|[[ソチ]]の森林公園。「自然」と「人工」を融合させた例]] 自然は人類に様々な豊かさをもたらしている。人類は経済活動とレジャーの両方で自然を利用しており、[[天然資源]]を採取することはいつの時代も経済システムの重要な基盤となっている。[[農業]]が始まったのは[[紀元前9千年紀]]ごろである。[[狩猟]]や[[釣り]]を生計のために行う人々もいる。[[食料]]の調達から[[エネルギー]]まで、自然は人類の経済的な富に影響を及ぼしている。また自然があるから[[アウトドア]]活動ができるのであり、[[レクリエーション]]や[[レジャー]]という点で、人々の心の豊かさの源泉でもある。 昔から人類は自生している植物を食料として採集し、[[薬用植物|植物の薬効成分を医療目的に使っていた]]<ref>{{cite web | url = http://www.nps.gov/plants/medicinal/plants.htm | title = Plant Conservation Alliance - Medicinal Plant Working Groups Green Medicine | publisher = US National Park Services |accessdate=September 23, 2006}}</ref>、現代でも自生の薬用植物も多く用いられている。食用に関しては、現代人はほとんどの植物を農業によって栽培して手に入れている。ところが、[[耕作地]]として広大な土地を[[開墾]]したことで、森林や沼沢地が減少し、結果として多くの動植物の生息地が狭まっているという問題が起きている<ref>{{cite web | last = Oosthoek | first = Jan | year = 1999 | url = http://www.eh-resources.org/philosophy.html | title = Environmental History: Between Science & Philosophy | publisher = Environmental History Resources | accessdate = 2006-12-01 }}</ref>。 ほんの50年ほど前まで、人々は(一般人も学者も含めて)自然を自分たちの都合で好きなだけ利用しても良いのだ、と単純に考える傾向が強かった。また、地球上の自然をとてつもなく巨大で丈夫なものといったように想像し、人類が手を加えても地球上の自然全体に大きな悪影響を与えてしまうことはあるまい、と無邪気にたかを括っていた。<!--人類の[[テクノロジー]]の進歩によって天然資源の利用が増え-->そして人類は様々な[[テクノロジー]]を用いて、自分たちの都合で(自分たちの欲望のおもむくままに)自然に手を加えてきた。<!--人間の影響があまりにも大きいため、極端な例を除いて人間が自然とみなすものと「人工環境」とみなすものの境界は曖昧である{{要出典}}。その極端な部分についても、-->人類はこれまで[[建設機械|重機]]などを用いて広大な面積の[[熱帯雨林]]を開墾し人工的な農地などに変え、また数多くの動植物を[[絶滅]]させてきた。また地球の自然環境に対する人間が引き起こす脅威としては、[[公害|汚染]]、[[森林破壊]]、石油流出などもある。人間の影響の全くない自然環境は急速に減少しつつある。 [[20世紀]]の後半になるとようやく、地球上の生物量に占める人類の割合は非常に小さいものの、人類が自然に与える影響は不釣合いなほど大きいということが次第に理解されるようになってきた。生態系というのは、かつて人々が想像していたよりもずっとデリケートな存在であり 人間はもっと自然環境に配慮する必要がある、ということが次第に理解されるようになってきたのである([[エコロジー]]。[[環境問題]])。新たなテクノロジーの利用が環境に与える変化の複雑なフィードバックループがあることも徐々に理解されるようになってきている<ref>{{cite news | title=Feedback Loops In Global Climate Change Point To A Very Hot 21st Century | publisher=Science Daily | date=May 22, 2006 | url= http://www.lbl.gov/Science-Articles/Archive/ESD-feedback-loops.html | accessdate=2007-01-07 }}</ref>。人類が自然環境に与える変化が、我々の[[文明]]が将来存続しうるかどうかということにも密接に関連していることが近年理解されるようになってきている(サスティナビリティ=[[持続可能性]])。環境問題やエコロジーは今では世界各国の政府も重視する問題、無視できない問題となってきており、関連の国際会議で討議されるだけでなく、各国の議会でもしばしば扱われている。 ==== 美と自然 ==== <!-- [[ファイル:504px-Pinguiculagrandiflora1web.jpg|thumb|left|''[[:en:Pinguicula grandiflora|Pinguicula grandiflora]]''、一般に[[ムシトリスミレ]]の名で知られている。]] --> [[ファイル:Field Hamois Belgium Luc Viatour.jpg|thumb|right|[[ベルギー]]の夏の草原。青い花は[[ヤグルマギク]]、赤い花は[[ヒナゲシ]]]] 自然の[[美]]は歴史的にも芸術や書籍の流行のテーマであり、図書館や書店にはそういった書籍が数多く並んでいる。自然は[[芸術]]や[[写真]]や[[詩]]その他の文学のテーマとしてよく使われ、多くの人々が自然と美を結びつけてきた。なぜこの結びつきが存在するのか、その本質は何かを研究するのが[[美学]]である。何が美しいとされるのかについて多くの哲学者が合意する基本的特性を超えて、様々な意見が事実上無限に存在している<ref>[[ラルフ・ワルド・エマーソン]]がこの主題について分析したもの: {{cite book |last=Emerson |first=Ralph Waldo |year=1849 |title=Nature; Addresses and Lectures |chapter=Beauty |chapterurl= http://www.emersoncentral.com/beauty.htm}}</ref>。[[中国]]では自然の風景をありのままに描く[[山水画]]が生まれ、アジアの芸術に大きな影響を及ぼした。 ヨーロッパでは、自然の風景を描く[[風景画]]が1800年代に流行するようになり、特に[[ロマン主義]]の作品によく見られる。イギリスの[[ジョン・コンスタブル]]や[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]は、自然の美を絵画に捉えることを重視した。それまでの絵画は宗教的光景や人物が第一の主題だった。かつて自然界は脅威の場所とされていたが、[[ウィリアム・ワーズワース]]の詩は自然界の驚異・不思議を描いた。その後、西洋文化では自然を評価する傾向が高まっていく<ref name="History">[http://www.spacesfornature.org/greatspaces/conservation.html History of Conservation] BC Spaces for Nature. Accessed: May 20, 2006.</ref>。美しい芸術に共通する伝統的考え方は「自然の模倣」である。 === 物質とエネルギー === [[ファイル:Hydrogen Density Plots.png|thumb|left|200px|[[水素原子]]の[[電子軌道]]を確率密度を色づけした断面図で表したもの]] {{Main|物質|エネルギー}} {{See also|化学|物理学}} [[科学]]の一部分野にとって自然とは物質とその動きであり、それらが従う自然法則を理解することを[[目的]]としている。このため、一般に最も基本的な[[科学]]の分野は「[[物理学]]」とされており、語義的にも "physics" は「自然の研究」を[[意味]]していた。 [[物質]]は、「もの」を構成する実体と定義される。[[観測可能な宇宙]]は物質でできている。宇宙の可視の部分は、いまのところ総質量のわずか4パーセントを占めているに過ぎないとされている。残りは23パーセントの[[暗黒物質]]と73パーセントの[[ダークエネルギー]]だと言われている<ref>{{cite web |url= http://map.gsfc.nasa.gov/m_mm/mr_limits.html |title=Some Theories Win, Some Lose |work=[[WMAP]] Mission: First Year Results |publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] |accessdate=29 2006 }}</ref>。これらの正確な性質はまだ不明であり、物理学者による集中的な調査研究が進んでいる。 観測可能な[[宇宙]]の範囲内では、物質と[[エネルギー]]の挙動は明確な[[物理法則]]に従う。それらの法則を使った[[現代宇宙論]]モデルは観測可能な宇宙の構造や成り立ちをうまく説明できている。物理法則の数式には20個の[[物理定数]]が使われている<ref>{{cite web | last = Taylor | first = Barry N. | year = 1971 | url = http://www.physics.nist.gov/cuu/Constants/introduction.html | title = Introduction to the constants for nonexperts | publisher = National Institute of Standards and Technology | accessdate = 2007-01-07}}</ref>。物理定数は観測可能な宇宙の中では一定と見られている<ref>{{cite journal | author=D. A. Varshalovich, A. Y. Potekhin, A. V. Ivanchik | title=Testing cosmological variability of fundamental constants | journal=AIP Conference Proceedings | year=2000 | volume=506 | pages=503 | url= http://arxiv.org/abs/physics/0004062 | doi=10.1063/1.1302777 }}</ref>。物理定数は注意深く測定されて決定されているが、なぜそういう値になったのかは未だに謎である。 === 地球以外 === [[ファイル:Planets2008 hant.jpg|385px|thumb|[[太陽系]]の[[惑星]]と[[準惑星]](大きさは縮尺が合っているが、距離は不正確)]] [[ファイル:Hubble ultra deep field high rez edit1.jpg|thumb|185px|[[ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールド]]による[[宇宙]]最深部の画像]] [[ファイル:NGC 4414 (NASA-med).jpg|thumb|200px|[[かみのけ座]]に在る[[渦巻銀河]]'''[[NGC 4414]]'''は約6000万光年の距離に在り、直径は約56,000[[光年]]である。]] {{Main|宇宙空間|宇宙|地球外生命}} [[宇宙空間]]は、天体の[[大気圏]]の外側に広がる[[宇宙]]の比較的空虚な領域を指す。[[地球の大気]]と宇宙空間の間には明確な境界は存在せず、大気は高度上昇と共に徐々に薄くなっている。[[太陽系]]内の宇宙空間は惑星間空間とも呼ばれ、[[太陽圏界面]]と呼ばれる面で恒星間空間と接している。 宇宙空間は確かに非常に密度が薄いが、完全な空虚ではない。[[マイクロ波分光法]]によって数十種類の[[有機化学|有機]][[分子]]が疎らに存在することがわかっている。[[又]]、[[ビッグバン]]の名残として[[宇宙マイクロ波背景放射]]がある。又、[[イオン]]化した[[原子核]]で構成される[[宇宙線]]や各種[[素粒子]]が存在する。他にもある種の気体、[[プラズマ]]、[[宇宙塵]]、小さい[[流星物質]]などがある。さらに今では人類の痕跡が宇宙空間にあり、これまでに打ち上げられたロケットや宇宙船などの残骸が[[スペースデブリ]]として大気圏外に散らばっており、今後宇宙開発の障害となることが予想されている。スペースデブリの一部は時折大気圏に再突入している。 地球は太陽系内で唯一生命体が存在することが知られているが、[[火星]]にはかつて地表に液体の水が大量に存在していたことを示唆する証拠が見つかっている<ref>{{cite journal | last = Bibring | first = J | coauthors = Langevin Y, Mustard J, Poulet F, Arvidson R, Gendrin A, Gondet B, Mangold N, Pinet P, Forget F, Berthé M, Bibring J, Gendrin A, Gomez C, Gondet B, Jouglet D, Poulet F, Soufflot A, Vincendon M, Combes M, Drossart P, Encrenaz T, Fouchet T, Merchiorri R, Belluci G, Altieri F, Formisano V, Capaccioni F, Cerroni P, Coradini A, Fonti S, Korablev O, Kottsov V, Ignatiev N, Moroz V, Titov D, Zasova L, Loiseau D, Mangold N, Pinet P, Douté S, Schmitt B, Sotin C, Hauber E, Hoffmann H, Jaumann R, Keller U, Arvidson R, Mustard J, Duxbury T, Forget F, Neukum G | title = Global mineralogical and aqueous mars history derived from OMEGA/Mars Express data | journal = Science | volume = 312 | issue = 5772 | pages = 400–4 | year = 2006 | pmid = 16627738 | doi = 10.1126/science.1122659}}</ref>。そのため、かつて火星には短期間かも知れないが生命が存在していた可能性がある。ただし、現在火星上の水の幾どが凍結した状態になっている。火星に今も生命が存在するとしたら、水が液体の形で存在する可能性のある地下が最も可能性が高いとされている<ref>{{cite web | first = Tariq | last = Malik | date = 2005-03-08 | url = http://www.msnbc.msn.com/id/7129347/ | title = Hunt for Mars life should go underground | publisher = The Brown University News Bureau |accessdate=September 4, 2006}}</ref>。 [[水星]]や[[金星]]といった他の地球型惑星は、我々が知っている様な生命を維持するには厳し過ぎる環境と見られている。しかし、[[木星]]の4番目の大きさの衛星[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]は、氷の地表の下に液体の水の層があると見られており、生命の存在する可能性が指摘されている<ref>{{cite web | author = Scott Turner | date = 1998-03-02 | url = http://www2.jpl.nasa.gov/galileo/news8.html | title = Detailed Images From Europa Point To Slush Below Surface | publisher = The Brown University News Bureau |accessdate=September 28, 2006}}</ref>。 近年、[[:en:Stéphane Udry|Stéphane Udry]]らは[[赤色矮星]][[グリーゼ581]]の周囲を回る[[太陽系外惑星]][[グリーゼ581d]]を発見した。グリーゼ581dはその[[恒星]]周囲の[[ハビタブルゾーン]]にあると見られており、我々が知っているような[[生命]]が存在する可能性が示唆されている。 == 自然主義 == {{要出典範囲|人間や社会よりも自然に優位を置く考え方を一般に[[自然主義]]という。|date= 2020年12月25日 (金) 18:27 (UTC)}}現代では[[環境]]なしには人類の存続すら危ぶむまれることが現実の[[社会問題]]などにもなっており、いわゆる[[エコロジー]]などの環境思想は各国政府の基本課題ともなっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[本性]](類義語) * [[人為]](対義語) * [[不自然]](対義語) * [[博物学]] * [[自然科学]] * [[母なる自然]] == 外部リンク == {{sisterlinks|commons=Category:Nature|wikiquote=自然}} * [https://www.sizenken.biodic.go.jp/ 環境省 インターネット自然研究所] {{ja icon}} * [https://ec.europa.eu/environment/nature/index_en.htm European Commission - Nature and Biodiversity homepage]. * [https://www.nature.org/en-us/ The Nature Conservancy] * [http://www.science.gov/browse/w_123.htm Science.gov - Environment & Environmental Quality]. * [https://naturewatch.fandom.com/wiki/NatureWatch_Wiki NatureWatch - Wiki for documenting biodiversity (german)] * {{Kotobank}} {{自然}}{{科学哲学}}{{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しせん}} [[Category:自然|*]] [[Category:和製漢語]]
2003-05-21T01:26:34Z
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ゲームボーイアドバンスSP
ゲームボーイアドバンスSP(ゲームボーイアドバンスエスピー、GAME BOY ADVANCE SP)は、任天堂が2003年2月14日に発売した携帯型ゲーム機。ゲームボーイアドバンスの上位機種として位置付けられている。略称は「GBASP」。 任天堂公式の携帯型ゲーム機として、ゲームボーイ・ゲームボーイカラーカートリッジに対応した最後の機種である。 基本的な性能はゲームボーイアドバンス と変わっていないが、フロントライト液晶になったり、乾電池からリチウムイオンバッテリーになったり、折り畳み化で携帯性向上と便利だが、イヤホンジャックがついておらず、充電コードを挿す所に変換ケーブルを介して繋がなければならなかったり、ゲームボーイカートリッジを使うと下にはみ出すため少し煩わしいのが欠点である。 未だに根強い人気があり、中古価格はゲームボーイアドバンスと共に年々高騰している。 ゲームボーイアドバンス、ゲームボーイミクロと同様に、すでに生産終了となっており、2012年には本体の公式修理サポートも終了している。 従来機であるゲームボーイアドバンスから変更・継承された点は以下の通り。 公式サイトも参照。 2003年2月14日発売時のオリジナルカラーは3種類。2003年8月21日。任天堂はゲームボーイアドバンスSPの"パールブルー"と"パールピンク"の2色をオリジナルカラーに追加することを発表した。型番はAGS-001。価格は発売当時は12,500円(税別)で2004年9月16日に価格改定され9,800円となった。 日本でゲームボーイミクロが発売(2005年9月13日)された頃、米国では画面がバックライト液晶に改良されたものが出荷されている(定価は据え置き)。型番はAGS-101。 明るさはニンテンドーDS以上で、ゲームボーイミクロと同等となったうえ、前述の色味の変化も解消されたため、旧型に比べ非常に見やすいとされている。しかし、ディスプレイのリフレッシュレートが低く、ややちらつきが気になることと液晶の発色が濃い目で派手目のセッティングになっていると言われている。バックライトの明るさは2段階で、暗めの設定にした場合約13時間使用可能。 2009年6月時点で生産は終了した。 カラーはグラファイトとパールブルーの2つのカラーで販売されており、それらには箱に「Now with a BRIGHTER backlit screen!」と書かれているために容易に判別が可能となっている。 本機で使用できる周辺機器は以下の通り。本機用に発売された周辺機器の型番はAGS。 ナレーターが「画面が明るくなり暗いところでもプレイOK」「充電式になり電池いらず」「全てのゲームボーイアドバンスが遊べる」とアピールするものだった。 本機のデザインは大人も対象にした澄ました点や、ポータブル機としての機能のシンプルさが評価され、2003年度のグッドデザイン賞を受賞している。 また、このゲーム機はピクミン4に「進歩の原石」というお宝として登場する。
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ゲームボーイアドバンスSPは、任天堂が2003年2月14日に発売した携帯型ゲーム機。ゲームボーイアドバンスの上位機種として位置付けられている。略称は「GBASP」。 任天堂公式の携帯型ゲーム機として、ゲームボーイ・ゲームボーイカラーカートリッジに対応した最後の機種である。 基本的な性能はゲームボーイアドバンス と変わっていないが、フロントライト液晶になったり、乾電池からリチウムイオンバッテリーになったり、折り畳み化で携帯性向上と便利だが、イヤホンジャックがついておらず、充電コードを挿す所に変換ケーブルを介して繋がなければならなかったり、ゲームボーイカートリッジを使うと下にはみ出すため少し煩わしいのが欠点である。 未だに根強い人気があり、中古価格はゲームボーイアドバンスと共に年々高騰している。 ゲームボーイアドバンス、ゲームボーイミクロと同様に、すでに生産終了となっており、2012年には本体の公式修理サポートも終了している。
{{Pathnav|ゲームボーイアドバンス|frame=1}} {{Infobox_コンシューマーゲーム機 |名称 = ゲームボーイアドバンスSP |ロゴ = [[File:Gameboy advance SP logo.svg|250px]] |画像 = [[File:Game-Boy-Advance-SP-Mk1-Blue.png|250px]] |画像コメント = ゲームボーイアドバンスSP アズライトブルー |メーカー = [[任天堂]] |種別 = [[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機|第5世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[2003年]][[2月14日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[2003年]][[3月23日]]<br />{{Flagicon|EU}} [[2003年]][[3月28日]]<br />{{Flagicon|CHN}} [[2004年]][[11月18日]] |CPU = 32bit RISC-CPU (16,78MHz) + 8bit CISC-CPU |GPU = |メディア = [[ロムカセット]] |ストレージ = [[バッテリーバックアップ]] |コントローラ = 内蔵 |外部接続 = 拡張コネクタ<br />[[ゲームボーイアドバンス専用ワイヤレスアダプタ|ワイヤレスアダプタ]] |オンラインサービス = |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 651万台<ref name="sales">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/historical_data/pdf/consolidated_sales1406.pdf|title=任天堂株式会社 連結販売実績数量の推移|publisher=任天堂|date=2014-06|accessdate=2021-08-11}}</ref><br />{{Flagicon|USA}} 2,400万台{{R|sales}}<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 4,357万台{{R|sales}} |最高売上ソフト = |互換ハード = [[ゲームボーイアドバンス]]<br />[[ゲームボーイプレーヤー]]<br />[http://prodb.matsushita.co.jp/product/info.do?pg=04&hb=SH-GB10 「Q」専用ゲームボーイプレーヤー]<br />[[ゲームボーイミクロ]]<br />(ゲームボーイミクロは、[[ゲームボーイ]]・[[ゲームボーイカラー]]ソフトの互換性を除く) |前世代ハード = ゲームボーイ |次世代ハード = [[ニンテンドーDS]] |後方互換 = ゲームボーイ<br />ゲームボーイカラー }} '''ゲームボーイアドバンスSP'''(ゲームボーイアドバンスエスピー、''GAME BOY ADVANCE SP'')は、[[任天堂]]が[[2003年]][[2月14日]]に発売した[[携帯型ゲーム]]機。[[ゲームボーイアドバンス]]の上位機種として位置付けられている<ref name="PressRelease">{{Cite press release|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2003/030107.html|title=折り畳み式でフロントライトとリチウムイオンバッテリー採用 ゲームボーイアドバンスSP 2月14日発売|publisher=任天堂|date=2003-01-17|accessdate=2021-07-26}}</ref>。略称は「'''GBASP'''」。 任天堂公式の携帯型ゲーム機として、[[ゲームボーイ]]・[[ゲームボーイカラー]]カートリッジに対応した最後の機種である。 基本的な性能はゲームボーイアドバンス と変わっていないが、フロントライト液晶になったり、乾電池からリチウムイオンバッテリーになったり、折り畳み化で携帯性向上と便利だが、イヤホンジャックがついておらず、充電コードを挿す所に変換ケーブルを介して繋がなければならなかったり、ゲームボーイカートリッジを使うと下にはみ出すため少し煩わしいのが欠点である。 未だに根強い人気があり、中古価格はゲームボーイアドバンスと共に年々高騰している。 ゲームボーイアドバンス、[[ゲームボーイミクロ]]と同様に、すでに生産終了となっており、2012年には本体の公式修理サポートも終了している。 == ハードウェア == [[File:Game Boy Advance SP-0611.jpg|thumb|220px|閉じた状態]] 従来機であるゲームボーイアドバンスから変更・継承された点は以下の通り{{R|PressRelease}}。 ; フロントライト : 液晶が[[照明|フロントライト]]付き反射型TFTカラー[[液晶ディスプレイ|液晶]]となり、周囲が暗い所でも画面が見やすくなった。 ; バックライト(北米発売版) : 液晶が透過型TFTカラー液晶となり、周囲が暗い所でも画面が見やすくなった。 ; 折りたたみ式 : 本体を折りたたみ型として携帯性と液晶保護性能を高めた{{Efn|このデザインは過去に[[ゲーム&ウオッチ]]のマルチスクリーンでも同様のものが採用されており、のちに発売された[[ニンテンドーDS]]を始めとする[[携帯ゲーム機]]に受け継がれている。}}。 ; 充電池内蔵 : ゲームボーイシリーズとして乾電池ではなく、初めて充電式の[[リチウムイオン二次電池]]が採用された{{Efn|サードパーティから乾電池駆動が可能になる製品も発売はされている。}}。 : 取扱説明書に交換方法が記載されており、リチウムイオン電池は任天堂公式サイトおよび任天堂から直接、交換部品として購入することができる。 : 約3時間の充電で、通常は10時間<ref name="natsukashiGB"/>、フロントライトを切ると18時間の稼動が可能である。フロントライトは初期型ゲームボーイアドバンスでは消費電力の問題を解決できず見送られたが、この頃より爆発的な普及を見せ始めた[[携帯電話]]の影響で二次電池の性能が飛躍的に向上、カラー画面でフロントライト使用時の消費電力に耐えうるものが登場したため搭載が実現した。このため、シリーズ機の中で重量はもっとも重い。 ;電源・充電ランプ :電源ランプに加えて新たに充電ランプが追加され、位置も電源スイッチの上側に変更された。 ; 互換性 : ゲームボーイ/ゲームボーイカラー/ゲームボーイアドバンスのゲームがプレイ可能である。 : ただし、[[ロムカセット|カートリッジ]]スロットが下方向から挿す形に変更されているため、『コロコロカービィ』等のゲームボーイカラーの傾きセンサー内蔵カートリッジを使用したゲームについては正常なプレイが期待できない。 : 一方、ゲームボーイアドバンス用ソフトで傾きセンサーを使用している『[[コロコロパズル ハッピィパネッチュ!]]』では、オプション画面で[https://www.nintendo.co.jp/n08/hardware/gbasp/panechu.html 特定のコマンド]を入れる事により対応可。なおこれが販売された後に発売された『[[ヨッシーの万有引力]]』はゲーム起動時に本体がどちらであるかを指定、『[[まわるメイドインワリオ]]』は本体の回転を検知するタイプのセンサーのため完全対応である。 : また、[[カードe|カードeリーダー+]]の使用時は、通信ケーブルはリーダーの通信ポートではなく本体の通信ポートにケーブルを接続する必要がある。 ; ヘッドホン端子の削除 : 拡張コネクタは2つに増えており、新設のコネクタに別売りの変換プラグを使用することでヘッドホンを使用することが可能。なお、この端子は付属のACアダプタと兼用である。ゲームボーイアドバンスからある端子も引き続き存在する。ちなみに、[[ニンテンドーゲームキューブ|ゲームキューブ]]との通信や無線通信使用時にはGBAケーブルおよび[[ゲームボーイアドバンス専用ワイヤレスアダプタ|ワイヤレスアダプタ]]によりコネクタが隠されてしまうため、ヘッドホンやACアダプタは使用できない。 === 仕様 === 公式サイト<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n08/hardware/spec/index.html|title=スペック|publisher=任天堂|accessdate=2021-07-26}}</ref>も参照。 * [[CPU]]:32ビットCPU ([[:en:ARM7TDMI|ARM7TDMI]]16.78MHz) と8ビットCPU(カスタム[[Z80]]、4.2/8.4MHz)のデュアル構成<ref name="natsukashiGB">M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、6ページから7ページ</ref>。動作モードによる排他使用。 * RAM:32kバイト(CPU内部メモリ) <ref name="natsukashiGB"/> * WRAM:256kバイト(CPU外部メモリ) * VRAM:96kバイト(CPU内部メモリ) * 表示画素数:240×160ドット ** ゲームボーイカラー以前のソフト(160ドット×144ライン)では周囲に空白が出来るが、LRボタンを押すことで横長に拡大表示することも可能。 * 表示色数:32768色 * 2.9インチ反射型[[薄膜トランジスタ|TFT]]カラー液晶を搭載。 * サウンド:アナログ(パルス波2ch+波形メモリ1ch+ノイズ1chの音源、従来機と同様)+デジタル([[PCM]]( [[パルス幅変調|PWM]]・ソフトウェアPCM多チャンネル合成 ) )2ch * サウンド出力:スピーカー(モノラル)、ヘッドホン端子(ステレオ) * 寸法:84.6mm×82mm×24.3mm(折りたたみ時) * 電源:内蔵[[リチウムイオン二次電池|リチウムイオンバッテリー]]、付属ACアダプタ、パワーマネジメント機能搭載 == 本体 == 2003年2月14日発売時のオリジナルカラーは3種類<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n08/hardware/gbasp/|title=ゲームボーイアドバンスSP|publisher=任天堂|accessdate=2021-07-26}}</ref>。2003年8月21日。任天堂はゲームボーイアドバンスSPの"パールブルー"と"パールピンク"の2色をオリジナルカラーに追加することを発表した。<ref>{{Cite book|和書 |title=ファミ通 No.769 |date=2003年9月12日 |year=2003 |publisher=エンターブレイン |page=20}}</ref>型番はAGS-001。価格は発売当時は12,500円(税別)で2004年9月16日に価格改定され9,800円となった。 === カラーバリエーション === ; オリジナルカラー : プラチナシルバー(2003年2月14日 - ) : アズライトブルー(2003年2月14日 - ) : オニキスブラック(2003年2月14日 - ) : パールブルー(2003年9月5日 - ) : パールピンク(2003年9月5日 - ) : [[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]カラー(2004年2月14日 - 2004年夏頃) ; [[トイザラス|トイザらス]]オリジナルカラー : スターライトゴールド(2003年10月9日 - ) : パールグリーン(2004年11月18日 - ) ; [[ポケモンセンター]]オリジナルモデル : アチャモオレンジ(2003年4月25日 - ) : リザードンエディション(2004年2月27日 - ) : フシギバナエディション(2004年2月27日 - ) : レックウザエディション(2004年9月16日 - ) : ピカチュウエディション(2005年3月5日 - ) ; ポケモンセンター[[ニューヨーク|NY]]オリジナルモデル : カイオーガエディション(2003年12月11日 - ) : グラードンエディション(2003年12月11日 - ) <gallery> File:GBA SP.jpg|プラチナシルバー File:Game-Boy-Advance-SP-Mk2.png|パールブルー File:Game Boy Advance SP.jpg|パールピンク </gallery> === 限定品 === ; ゲームソフト同梱限定モデル : パールホワイトエディション([[ファイナルファンタジータクティクスアドバンス]])(2003年2月14日 - ) : ジャンゴレッド&ブラック([[ボクらの太陽]])(2003年7月17日 - ) : マナブルーエディション([[新約 聖剣伝説]])(2003年8月29日 - ) : [[シャア・アズナブル|シャア]]専用カラー([[SDガンダム GGENERATION|SDガンダムGジェネレーションアドバンス]])(2003年11月27日 - ) : ロックマンブルー([[ロックマンエグゼ4]])(2003年12月12日-) : ナルトオレンジ([[NARUTO -ナルト- ナルトRPG〜受けつがれし火の意志〜]])(2004年7月22日 - ) : キングダムディープシルバーエディション([[キングダム ハーツ チェイン オブ メモリーズ]])(2004年11月11日 - ) ; キャンペーン限定モデル : ファミコン生誕20周年モデル([[TSUTAYA]]・任天堂2003年夏のキャンペーン) : [[ドンキーコング]]・バナナカラー(ドンキーサマーキャンペーン) === 海外版 === 日本で[[ゲームボーイミクロ]]が発売(2005年9月13日)された頃、米国では画面がバックライト液晶に改良されたものが出荷されている(定価は据え置き)。型番はAGS-101。 明るさは[[ニンテンドーDS]]以上で、[[ゲームボーイミクロ]]と同等となったうえ、前述の色味の変化も解消されたため、旧型に比べ非常に見やすいとされている<ref name="natsukashiGB"/>。しかし、ディスプレイの[[リフレッシュレート]]が低く、ややちらつきが気になることと液晶の発色が濃い目で派手目のセッティングになっていると言われている。バックライトの明るさは2段階で、暗めの設定にした場合約13時間使用可能。 2009年6月時点で生産は終了した。 カラーはグラファイトとパールブルーの2つのカラーで販売されており、それらには箱に「Now with a BRIGHTER backlit screen!」と書かれているために容易に判別が可能となっている。 ; 日本国外限定モデル : フレイムレッド : コバルトブルー : ゲームボーイ14周年プラチナ/オニキス(アメリカ、カナダ) : オールブラックススペシャルエディション(ニュージーランド、オーストラリア) : リップカールスペシャルエディション(オーストラリア) : クラシック[[Nintendo Entertainment System|NES]]エディション(アメリカ) : トライバルエディション(ヨーロッパ) : 中国龍([[スーパーマリオアドバンス]]及び、[[ワリオランドアドバンス]])(中国) : パール(カナダ) : マリオエディション([[マリオvs.ドンキーコング]])(ヨーロッパ) : ゼルダエディション([[ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし]])(ヨーロッパ) : ライム/オレンジ(アメリカ) : サーフブルー(アメリカ、カナダ) : Who are you? エディション(アメリカ) : ガールズエディション(スペイン) : TARGET,ZELLERS限定ライム([[スーパードンキーコング]])(アメリカ、カナダ) : 任天堂明星07 マリオバージョン・ドンキーコングバージョン(中国) <gallery> File:Nintendo Game Boy Advance SP.jpg|フレイムレッド File:Game-Boy-Advance-SP-Mk2.png|パールブルー(AGS-101 バックライトモデル) File:Gba nes.jpg|クラシックNESエディション File:Game Boy Advance SP Tribal Edition - 2.JPG|トライバルエディション File:Nintendo World Store grand opening, NYC 5 -14 -05.jpg|ゼルダエディション </gallery> == 周辺機器 == <gallery> File:Nintendo-Game-Boy-Advance-SP-Battery.jpg|バッテリーパック(AGS-003) File:Nintendo-Game-Boy-Advance-Headphone-Adapter.jpg|ヘッドホン変換プラグ(AGS-004) </gallery> 本機で使用できる周辺機器は以下の通り<ref name=Peripheral>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n08/hardware/syuhen/index.html |title=ゲームボーイアドバンス 周辺機器 |publisher=任天堂 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。本機用に発売された周辺機器の型番はAGS。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! style="width:5.5em | 型番 !! 名称 !! style="width:4.5em | 価格 !! 備考 |- | AGS-002 || ACアダプタ || 1,500円 || 本体同梱。 |- | AGS-003 || バッテリーパック || 2,100円 || 本体内蔵。 SP専用 |- | AGS-004 || ヘッドホン変換プラグ{{R|Peripheral}} || 500円 || SP・DS兼用 |- | AGS-005 || ステレオヘッドホン || ||DS用ソフト「 [[エレクトロプランクトン]]」に同梱。使用にはヘッドホン変換プラグ(AGS-004)が必要。 |- | AGS-006 || [[プレイやん]]<br />[[プレイやん|PLAY-YAN micro]] || 5,000円 || SP・[[ゲームボーイミクロ|ミクロ]]・DS兼用 |- | AGB-005 | 通信ケーブル{{R|Peripheral}} | 1,400円 | GBAソフト専用 |- | AGB-015 | [[ゲームボーイアドバンス専用ワイヤレスアダプタ]]{{R|Peripheral}} | 2,000円 | [[無線通信]]により通信ケーブル無しでの通信プレイが可能。<br>対応ソフトで通信ケーブルの代用としても使用できる。 |- | OXY-009 || ゲームボーイミクロ専用 変換コネクタ{{R|Peripheral}}||762円||ゲームボーイミクロ本体と本機を接続する場合に、別売のゲームボーイミクロ専用通信ケーブル(OXY-008)とセットで使用。 |- | CGB-003 || [[通信ケーブル (ゲームボーイ)|通信ケーブル]]<ref name=Peripheral_Old>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/hardware/option/acce.html |title=ゲームボーイ アクセサリー |publisher=任天堂 |accessdate=2022-10-01}}</ref> || 1,500円 || ゲームボーイ・ゲームボーイ&カラー共通・ゲームボーイカラー専用カートリッジ使用時のみ使用可{{R|Peripheral}}。 |- | DMG-02 || ステレオヘッドホン{{R|Peripheral_Old}}||1,000円||イヤホン端子に接続して使用。使用にはヘッドホン変換プラグ(AGS-004)が必要{{R|Peripheral}}。 |- | DMG-04A || 通信ケーブル{{R|Peripheral_Old}}||1,500円||2台の本体(それぞれソフトも必要)を接続して通信プレイが可能。使用には変換アダプタ(MGB-004)が必要{{R|Peripheral}}。 |- | DMG-08 || クリーニングキット{{R|Peripheral_Old}}||800円|| |- | MGB-004 || 変換コネクタ{{R|Peripheral_Old}} || 800円 || ゲームボーイ・ゲームボーイ&カラー共通・ゲームボーイカラー専用カートリッジ使用時のみ使用可{{R|Peripheral}}。 |- | MGB-006 || [[ポケットカメラ]] || 5,800円 || モノクロの簡易型デジタルカメラ。ゲームボーイポケット用の周辺機器だが、本機でも使用可能{{R|Peripheral}}。 |- | DOL-011 || [[GBAケーブル]] || || [[ニンテンドーゲームキューブ]]との接続に使用。 |- | RVL-020 || [[SDメモリーカード]] 512MB || || 市販されているSDメモリーカードと機能は同じである。プレイやんで使用できる。本来はWiiの周辺機器。 |} == CM == ナレーターが「画面が明るくなり暗いところでもプレイOK」「充電式になり電池いらず」「全てのゲームボーイアドバンスが遊べる」とアピールするものだった。 == 反響 == 本機のデザインは大人も対象にした澄ました点や、ポータブル機としての機能のシンプルさが評価され、2003年度の[[グッドデザイン賞]]を受賞している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.g-mark.org/award/describe/28520 |title=携帯型ゲーム機 [ゲームボーイアドバンスSP AGS-001]|publisher=[[日本デザイン振興会]] |year=2003 |accessdate=2021-07-26}} </ref>。 === その他 === また、このゲーム機はピクミン4に「進歩の原石」というお宝として登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == {{Commons|ゲームボーイと後継機種|ゲームボーイと後継機種}} * [[ニンテンドーDS]] * [[ゲームボーイアドバンスのゲームタイトル一覧]] * [[アドバンスムービー]] * [[iCARD]] * [[ファミコンミニ]] == 外部リンク == * [https://www.nintendo.co.jp/n08/ ゲームボーイアドバンス公式サイト] * [https://www.nintendo.co.jp/n08/hardware/gbasp/index.html ゲームボーイアドバンスSP] * [https://www.1101.com/nintendo/gba_sp/index.html オトナも遊べるゲームボーイ。] - 樹の上の秘密基地(ほぼ日刊イトイ新聞) {{家庭用ゲーム機/任天堂}} {{任天堂}} {{DEFAULTSORT:けえむほおいあとはんすえすひい}} [[Category:ゲームボーイアドバンス|えすひい]] [[Category:2003年のコンピュータゲーム|*けえむほおいあとはんすえすひい]] [[Category:グッドデザイン賞]] [[de:Game Boy Advance#Game Boy Advance SP]] [[hu:Nintendo#Game Boy sorozat]] [[simple:Game Boy Advance#Game Boy Advance SP]]
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熱心党のシモン
熱心党のシモン(ねっしんとうのシモン、ギリシア語: Σιμων ὁ Ζηλωτης〈Simon ho Zelōtēs〉)は、十二使徒の一人。シモン・ペトロや、イエスの兄弟のシモンとは別人である(ただし、後者に関してはカトリック教会では同一人物とされている)。新約聖書中では、共観福音書と『使徒行伝』に、各々一度名が見えるだけで、それ以外に言及されることは無く、人物の詳細については不明な点が多い。 ギリシア語原文の彼についての該当箇所は難解である。熱心党のシモンに言及した最古の史料は『マルコによる福音書』であり、その他、彼に関する新約文書の言及箇所は、この福音書を写したものである。マルコ福音書の該当箇所は、「熱心者 (καναναιος)のシモン」と記されている。これを写した『マタイによる福音書』も全体の文体を変えてはいるが、「熱心者」という呼称をそのまま用いている。この語は「熱心党員(ζηλωτης)」を指す一般的なものではなく、実際に何を指しているのかは不明である。ローマに反抗していた「熱心党」を指すとも考えられるが、律法(トーラー)に熱心な者を意味しているとも考えられる。 一方、『ルカによる福音書』は、マタイと同じく、マルコを写しながらも、この語を「熱心党員」と置き換えている。しかし、ルカ文書(『ルカ福音書』と『使徒行伝』)は、このシモンに関しては、全て『マルコ福音書』の記述を写しているため、ルカに従ってただちにシモンを熱心党員と考えることはできない。 ちなみに、日本聖書協会の訳(口語訳、新共同訳等)は、これらをすべて「熱心党」で統一している。外典の中には、明らかに後世の創作であるが、幾つか熱心党のシモンについて記述しているものがある。 後世、いくつかの伝承がつくられた。熱心党のシモンの後半生については、エジプトに伝道したというもの、ブリテン島に伝道し、教会(おそらくはグラストンベリー寺院)を建て、そこで殉教したというもの、名前からの連想と思われるローマ帝国に対するユダヤ人の反乱に巻き込まれて殉教したとするものがある。 もっとも流布している伝承では、エジプトに伝道したのち十二使徒のひとりであるユダ・タダイとともにペルシアに行き、そこで殉教したとする。ヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』には、この型の伝承が収録されている。
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熱心党のシモンは、十二使徒の一人。シモン・ペトロや、イエスの兄弟のシモンとは別人である(ただし、後者に関してはカトリック教会では同一人物とされている)。新約聖書中では、共観福音書と『使徒行伝』に、各々一度名が見えるだけで、それ以外に言及されることは無く、人物の詳細については不明な点が多い。
{{Infobox 聖人 |名前=聖シモン |画像=Icon 03066 Sv. apostol Simon.jpg |画像サイズ=120px |画像コメント= |称号=使徒 |他言語表記= |生誕地= |生誕年(日)= |死去地= |死去年(日)= |崇敬する教派= カトリック教会、非カルケドン派、正教会、聖公会、ルーテル教会 |記念日= 10月28日(カトリック) |列福日= |列福場所= |列福決定者= |列聖日= |列聖場所= |列聖決定者= |主要聖地= |象徴= |守護対象= |論争= |崇敬対象除外日= |崇敬対象除外者= }} '''熱心党のシモン'''(ねっしんとうのシモン、{{lang-el|Σιμων ὁ Ζηλωτης}}〈Simon ho Zelōtēs〉)は、[[十二使徒]]の一人。[[ペトロ|シモン・ペトロ]]や、[[イエスの兄弟]]のシモンとは別人である(ただし、後者に関しては[[カトリック教会]]では同一人物とされている)。[[新約聖書]]中では、[[共観福音書]]と『[[使徒行伝]]』に、各々一度名が見えるだけで、それ以外に言及されることは無く、人物の詳細については不明な点が多い。 == 「熱心党」について == ギリシア語原文の彼についての該当箇所は難解である。熱心党のシモンに言及した最古の史料は『[[マルコによる福音書]]』<ref>3章18節</ref>であり、その他、彼に関する新約文書の言及箇所は、この福音書を写したものである。マルコ福音書の該当箇所は、「熱心者 ({{lang|el|καναναιος}})のシモン」と記されている。これを写した『[[マタイによる福音書]]』<ref>10章4節</ref>も全体の文体を変えてはいるが、「熱心者」という呼称をそのまま用いている。この語は「熱心党員({{lang|el|ζηλωτης}})」を指す一般的なものではなく、実際に何を指しているのかは不明である。ローマに反抗していた「熱心党」を指すとも考えられるが、[[律法]](トーラー)に熱心な者を意味しているとも考えられる。 一方、『[[ルカによる福音書]]』<ref>6章15節</ref>は、マタイと同じく、マルコを写しながらも、この語を「熱心党員」と置き換えている<ref>同じ作者による『使徒行伝』1章13節も参照</ref>。しかし、ルカ文書(『ルカ福音書』と『使徒行伝』)は、このシモンに関しては、全て『マルコ福音書』の記述を写しているため、ルカに従ってただちにシモンを熱心党員と考えることはできない。 ちなみに、[[日本聖書協会]]の訳([[聖書 口語訳|口語訳]]、[[新共同訳聖書|新共同訳]]等)は、これらをすべて「熱心党」で統一している。[[外典]]の中には、明らかに後世の創作であるが、幾つか熱心党のシモンについて記述しているものがある。 == 伝承 == 後世、いくつかの伝承がつくられた。熱心党のシモンの後半生については、[[エジプト]]に伝道したというもの、[[ブリテン島]]に伝道し、教会(おそらくは[[グラストンベリー寺院]])を建て、そこで殉教したというもの、名前からの連想と思われるローマ帝国に対するユダヤ人の反乱に巻き込まれて殉教したとするものがある。 もっとも流布している伝承では、エジプトに伝道したのち十二使徒のひとりであるユダ・タダイとともに[[ペルシア]]に行き、そこで殉教したとする。[[ヤコブス・デ・ヴォラギネ]]の『[[レゲンダ・アウレア|黄金伝説]]』には、この型の伝承が収録されている。 == 脚注 == {{reflist|2}} == 関連項目 == *[[熱心党]] {{使徒}} {{新約聖書の人物}} {{commonscat|Simon the Apostle}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しもん}} [[Category:使徒]] [[Category:生没年不詳]]
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2023-03-12T21:09:01Z
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使徒言行録
『使徒言行録』(しとげんこうろく、ギリシア語: Πράξεις τῶν Ἀποστόλων、ラテン語: Acta Apostolorum、英語: Acts of the Apostles)は、新約聖書中の一書。 新約聖書の中で、伝統的に四つの福音書の後に置かれる。『使徒言行録』は新共同訳聖書などで用いられる呼称で、他にも多くの日本語名がある。 戦前の日本語訳聖書では、プロテスタントによる文語訳聖書(明治元訳・大正改訳)が『使徒行伝』(しとぎょうでん)の呼称を用い、日本正教会訳聖書では『聖使徒行実』(せいしとぎょうじつ)、カトリック教会のラゲ訳聖書では『使徒行録』(しとぎょうろく)と呼ばれた。 戦後では、まず正教会が戦前と同じ日本正教会訳聖書、『聖使徒行実』の呼称を現在まで用い続けている。一方プロテスタントでは新しく作られた口語訳聖書では引き続き『使徒行伝』の呼称が用いられたものの、口語訳聖書の翻訳方針に反発した福音派の人々による新改訳聖書では『使徒の働き』と訳された。その後カトリックとプロテスタントの双方により訳された共同訳聖書では『使徒の宣教』、新共同訳聖書では『使徒言行録』と呼称された。カトリック教会で用いられる聖書では、バルバロ訳聖書やフランシスコ会訳聖書分冊版ではラゲ訳と同様に『使徒行録』と呼ばれていたが、分冊版より後に出たフランシスコ会訳合冊版では新共同訳に合わせて『使徒言行録』の呼称が用いられている。 その他のキリスト教の教会で用いられる聖書では、現代訳聖書で『初代教会の働き』と呼ばれる。また教会の礼拝で用いられる訳ではないが、岩波文庫訳聖書(塚本虎二訳)では『使徒のはたらき』としている。エホバの証人の新世界訳聖書では、『使徒の活動』(旧版では「使徒たちの活動」)としている。一部の教派では、『使徒書』という語でこの文書を言い表すが、使徒書という語は『書簡(使徒書簡)』を指して、あるいは新約聖書のうち福音書を除く書物の総称として用いられる場合もあるので注意が必要である(「使徒書」を参照)。 『使徒言行録』の内容は、一口で言えばキリスト教の最初期の様子である。特に2人の使徒ペトロとパウロの活躍が中心に描かれている。さらにエルサレム教会と初期のユダヤ人のみのキリスト教コミュニティーがコルネリウスの洗礼をへて異邦人(非ユダヤ人)の間へと広がっていた様子が記録されている。 本文によれば、『使徒言行録』は『ルカによる福音書』の続編として(聖書自身の証言と伝承によればルカの手で)書かれたものであるという。この二書を併せて「ルカ文書」と呼ぶ場合がある。どちらも「テオフィロ」(ギリシア語: Θεόφιλος Theophilos:「神を愛する者」あるいは「神に愛されし者」という意味)なる人物に献呈されている。もともとは1冊の書物だったという説もあるが、現代の研究者たちがさかのぼれる最古の資料の時点では、すでに『ルカによる福音書』と『使徒言行録』は別々の本になっていた。『使徒言行録』はこの時代に書かれた作品としては他に類をみない非常にユニークなものであり、初期キリスト教の研究は本書なしには成り立たない。また、パウロの書簡集も『使徒言行録』の存在によって価値あるものになっており、『使徒言行録』なしにパウロの手紙を読んでも理解できない部分が多いことを忘れてはならない。 また、初期キリスト教の発展を記す貴重な文献ではあるが、その限界も明らかである。本書はエルサレムに誕生した原始キリスト教会の地中海を反時計回りに主にパウロによって広げられる過程を描いているが、パウロ書簡に注意するとキリスト教の発展は多くの人々により、多方面から行われたことが明確である。一例をあげるならば、本書の関心はローマ帝国全土に展開する様子を描くことにあるが、ローマ書を読めばパウロ以前に帝国の首都であるローマに教会が誕生しており、パウロの関心はローマに住むキリスト教徒に自らの信じる「福音」を伝えることにある。実際にエジプトのアレクサンドリアにはかなり早い段階で有力な教会が建設されており、エルサレムからアフリカへの布教活動が相当に活発であったことは確実であるし、エチオピア方面への南下する展開も確実である。また、使徒マタイにインド伝道の伝承があることから、東方への展開も考えるべきであるが、これらを記録した文献は現存しない。今後の新資料の大発見の可能性もゼロではないが、現存資料からキリスト教の多方面にわたる発展を描く試みは初期キリスト教研究の大きな課題である。 『使徒言行録』の構成とルカ書の構成には共通点が見られ、『ルカによる福音書』はローマ帝国(の人口調査)に関する記述から始まる。物語はイエスが故郷ガリラヤを出て、サマリアからユダヤへゆき、エルサレムで十字架にかけられるところへと展開していくが、そこで復活し、昇天して栄光を受けると結ばれる。 『使徒言行録』はこれと呼応するかのように、エルサレムから使徒の活動が始まり、ユダヤからサマリアへと広がり、やがてアジア地方をへてローマ帝国の中枢にいたるという構成になっている。このような文章の組み立てをキアスムス構造(X字構造、交差法)という。キアスムスでは構成の中心に位置する部分が重要なのでこの場合は、中心にある「エルサレム」および「イエスの復活と昇天」が著者にとってもっとも重要なものであることを示している。 このような『使徒言行録』の地理的展開は、冒頭におけるイエスのことばであらかじめ示されている。つまり「あなたがたはエルサレムだけでなく、全ユダヤとサマリア、さらに全世界にいたるまで私の証人となる」という記述である。これがエルサレム(1章 - 5章)、ユダヤとサマリア(6章 - 9章)、全世界(10章 - 28章)という『使徒言行録』における物語の舞台の展開に対応している。 また『使徒言行録』はペトロとパウロという2人の使徒の活躍が中心であるが、ペトロの活躍(1章 - 12章)の部分とパウロの活躍(13章 - 28章)の部分で全体を2つに分けることができる。 『使徒言行録』は2世紀初めにはすでに存在していたことが他の資料から確認できる。すくなくともマルキオンの活躍した時代(120年 - 140年)に存在していたことは間違いがない。またポリュカルポスやアンティオキアのイグナティオスの書簡からも『使徒言行録』の存在が伺われることなどから、『使徒言行録』は96年にはローマで、115年までにはアンティオキアとスミルナで広く読まれていたことが明らかである。 成立時期が70年より前ということは考えにくい。ルカ福音書の序文は、イエスを直接知る世代が既に減っている事実をほのめかしているからである。研究者たちの間でもっとも可能性が高いといわれているのが80年ごろである。75年から80年の間に成立したという説の支持者もいるが、70年から75年という説はほとんど支持されない。『使徒言行録』にはフラウィウス・ヨセフスの著作との共通点があることから、著者はヨセフスを参照していると指摘する者もいるが、それが正しいとすると100年以降の成立になる。『使徒言行録』が他の記録で言及される最古の例は177年を待たなければいけない。 『使徒言行録』がどこで書かれたのかというのは、いまだに答えが出ていない問題である。伝承ではローマあるいはアンティオキアで書かれたとされていたが、本文からはローマ帝国のアジア属州のいずれか、おそらくエフェソス近辺という可能性がうかがえる。
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『使徒言行録』は、新約聖書中の一書。 新約聖書の中で、伝統的に四つの福音書の後に置かれる。『使徒言行録』は新共同訳聖書などで用いられる呼称で、他にも多くの日本語名がある。
{{Otheruses|教派や訳本によっては『使徒書』・『使徒行伝』等とも称される“Acts of the Apostles”|新約聖書中の、[[使徒]]の記した[[書簡 (新約聖書)|書簡]]などを指すカテゴリ|使徒書}} {{出典の明記| date = 2013年2月}} {{新約聖書}} [[File:ApostleFedorZubov.jpg|thumb|right|''Ministry of the Apostles'': Russian icon by [[Fyodor Zubov]], 1660]] 『'''使徒言行録'''』(しとげんこうろく、{{lang-el|Πράξεις τῶν Ἀποστόλων}}、{{lang-la|Acta Apostolorum}}、{{lang-en|Acts of the Apostles}})は、[[新約聖書]]中の一書。 新約聖書の中で、伝統的に四つの[[福音書]]の後に置かれる。『使徒言行録』は[[新共同訳聖書]]などで用いられる呼称で、他にも多くの日本語名がある。 == 日本語名称 == 戦前の日本語訳聖書では、[[プロテスタント]]による[[文語訳聖書]]([[明治元訳]]・[[大正改訳]])が『'''使徒行伝'''』(しとぎょうでん)の呼称を用い、[[日本正教会訳聖書]]では『'''聖使徒行実'''』(せいしとぎょうじつ)、[[カトリック教会]]の[[ラゲ訳聖書]]では『'''使徒行録'''』(しとぎょうろく)と呼ばれた。 戦後では、まず[[正教会]]が戦前と同じ日本正教会訳聖書、『'''聖使徒行実'''』の呼称を現在まで用い続けている。一方プロテスタントでは新しく作られた[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]では引き続き『'''使徒行伝'''』の呼称が用いられたものの、口語訳聖書の翻訳方針に反発した福音派の人々による[[新改訳聖書]]では『'''使徒の働き'''』と訳された。その後カトリックとプロテスタントの双方により訳された[[共同訳聖書]]では『'''使徒の宣教'''』、[[新共同訳聖書]]では『'''使徒言行録'''』と呼称された。カトリック教会で用いられる聖書では、[[バルバロ訳]]聖書や[[フランシスコ会訳聖書]]分冊版ではラゲ訳と同様に『'''使徒行録'''』と呼ばれていたが、分冊版より後に出たフランシスコ会訳合冊版では新共同訳に合わせて『'''使徒言行録'''』の呼称が用いられている。 その他のキリスト教の教会で用いられる聖書では、[[現代訳聖書]]で『'''初代教会の働き'''』と呼ばれる。また教会の礼拝で用いられる訳ではないが、[[岩波訳聖書|岩波文庫訳聖書]]([[塚本虎二]]訳)では『'''使徒のはたらき'''』としている。[[エホバの証人]]の[[新世界訳聖書]]では、『'''使徒の活動'''』(旧版では「使徒たちの活動」)としている。一部の教派では、『'''使徒書'''』という語でこの文書を言い表す<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.calvarychapel-japanesefellowship.com/index.php?www.calvary_chapel_japanese-fellowship%2F%E4%BD%BF%E5%BE%92%E6%9B%B8|title=新約聖書 使徒書の学び|publisher=Calvary Chapel-Japanese Fellowship|accessdate=2021-08-20}}</ref>が、使徒書という語は『[[書簡 (新約聖書)|書簡(使徒書簡)]]』を指して、あるいは[[新約聖書]]のうち[[福音書]]を除く書物の総称として用いられる場合もあるので注意が必要である(「[[使徒書]]」を参照)。 == 内容 == 『使徒言行録』の内容は、一口で言えば[[キリスト教]]の最初期の様子である。特に2人の[[使徒]][[ペトロ]]と[[パウロ]]の活躍が中心に描かれている。さらに[[エルサレム]]教会と初期の[[ユダヤ人]]のみのキリスト教コミュニティーが[[コルネリウス (聖書)|コルネリウス]]の[[洗礼]]をへて異邦人(非ユダヤ人)の間へと広がっていた様子が記録されている。 本文によれば、『使徒言行録』は『[[ルカによる福音書]]』の続編として(聖書自身の証言と伝承によれば[[ルカ]]の手で)書かれたものであるという。この二書を併せて「ルカ文書」と呼ぶ場合がある<ref name="新約聖書1">山田(1998)、18頁</ref>。どちらも「テオフィロ」({{lang-el|Θεόφιλος}} ''Theophilos'':「神を愛する者」あるいは「神に愛されし者」という意味)なる人物に献呈されている。もともとは1冊の書物だったという説もあるが、現代の研究者たちがさかのぼれる最古の資料の時点では、すでに『[[ルカによる福音書]]』と『使徒言行録』は別々の本になっていた。『使徒言行録』はこの時代に書かれた作品としては他に類をみない非常にユニークなものであり、初期キリスト教の研究は本書なしには成り立たない。また、パウロの書簡集も『使徒言行録』の存在によって価値あるものになっており、『使徒言行録』なしにパウロの手紙を読んでも理解できない部分が多いことを忘れてはならない。 また、初期キリスト教の発展を記す貴重な文献ではあるが、その限界も明らかである。本書は[[エルサレム]]に誕生した原始キリスト教会の地中海を反時計回りに主にパウロによって広げられる過程を描いているが、パウロ書簡に注意するとキリスト教の発展は多くの人々により、多方面から行われたことが明確である。一例をあげるならば、本書の関心は[[ローマ帝国]]全土に展開する様子を描くことにあるが、ローマ書を読めばパウロ以前に帝国の首都であるローマに教会が誕生しており、パウロの関心は[[ローマ]]に住むキリスト教徒に自らの信じる「福音」を伝えることにある。実際にエジプトの[[アレクサンドリア]]にはかなり早い段階で有力な教会が建設されており、エルサレムからアフリカへの布教活動が相当に活発であったことは確実であるし、[[エチオピア]]方面への南下する展開も確実である。また、使徒マタイにインド伝道の伝承があることから、東方への展開も考えるべきであるが、これらを記録した文献は現存しない。今後の新資料の大発見の可能性もゼロではないが、現存資料からキリスト教の多方面にわたる発展を描く試みは初期キリスト教研究の大きな課題である。 == 構成 == 『使徒言行録』の構成とルカ書の構成には共通点が見られ、『[[ルカによる福音書]]』は[[ローマ帝国]](の人口調査)に関する記述から始まる。物語はイエスが故郷[[ガリラヤ]]を出て、[[サマリア]]からユダヤへゆき、[[エルサレム]]で十字架にかけられるところへと展開していくが、そこで復活し、昇天して栄光を受けると結ばれる。 『使徒言行録』はこれと呼応するかのように、エルサレムから使徒の活動が始まり、ユダヤからサマリアへと広がり、やがてアジア地方をへて[[ローマ帝国]]の中枢にいたるという構成になっている。このような文章の組み立てをキアスムス構造(X字構造、交差法)という。キアスムスでは構成の中心に位置する部分が重要なのでこの場合は、中心にある「エルサレム」および「イエスの復活と昇天」が著者にとってもっとも重要なものであることを示している。 このような『使徒言行録』の地理的展開は、冒頭におけるイエスのことばであらかじめ示されている。つまり「あなたがたはエルサレムだけでなく、全ユダヤとサマリア、さらに全世界にいたるまで私の証人となる」という記述である。これがエルサレム(1章 - 5章)、ユダヤとサマリア(6章 - 9章)、全世界(10章 - 28章)という『使徒言行録』における物語の舞台の展開に対応している。 また『使徒言行録』は[[ペトロ]]と[[パウロ]]という2人の使徒の活躍が中心であるが、ペトロの活躍(1章 - 12章)の部分とパウロの活躍(13章 - 28章)の部分で全体を2つに分けることができる。 == 成立 == 『使徒言行録』は[[2世紀]]初めにはすでに存在していたことが他の資料から確認できる。すくなくとも[[マルキオン]]の活躍した時代([[120年]] - [[140年]])に存在していたことは間違いがない。また[[ポリュカルポス]]や[[アンティオキア]]の[[アンティオキアのイグナティオス|イグナティオス]]の書簡からも『使徒言行録』の存在が伺われることなどから、『使徒言行録』は96年にはローマで、115年までには[[アンティオキア]]と[[スミルナ]]で広く読まれていたことが明らかである。 成立時期が70年より前ということは考えにくい。ルカ福音書の序文は、イエスを直接知る世代が既に減っている事実をほのめかしているからである。研究者たちの間でもっとも可能性が高いといわれているのが80年ごろである。75年から80年の間に成立したという説の支持者もいるが、70年から75年という説はほとんど支持されない。『使徒言行録』には[[フラウィウス・ヨセフス]]の著作との共通点があることから、著者はヨセフスを参照していると指摘する者もいるが、それが正しいとすると100年以降の成立になる。『使徒言行録』が他の記録で言及される最古の例は[[177年]]を待たなければいけない。 『使徒言行録』がどこで書かれたのかというのは、いまだに答えが出ていない問題である。伝承では[[ローマ]]あるいは[[アンティオキア]]で書かれたとされていたが、本文からは[[ローマ帝国]]の[[アジア属州]]のいずれか、おそらく[[エフェソス]]近辺という可能性がうかがえる。 == 項目 == [[File:Codex laudianus (The S.S. Teacher's Edition-The Holy Bible - Plate XXIX).jpg|right|250px|thumb|'''使徒言行録 15章22節から24節の内容''' コーデクス・ラウディアーヌス写本(7世紀) [[ラテン語]](左列)と[[ギリシア語]](右列)で記述されている]] *'''キリスト教宣教の準備(1:1-2:13)''' **イエスの昇天と[[マティア]]の選出(1章) **[[ペンテコステ|聖霊降臨]](2:1-2:13) *'''エルサレムにおける宣教(2:14-8:3)''' **[[ペトロ]]の説教(2:14-2:47) **ペトロと[[ヨハネ (使徒)|ヨハネ]]の活躍(3章-4章) **アナニアとサフィラ(5:1-11) **使徒たちの活動と迫害(5:12-5:42) **[[ステファノ]]ら七人の選出(6:1-7) **ステファノの殉教(6:8-8:3) *'''ユダヤとサマリアにおける宣教(8:4-9:43)''' **[[サマリア]]宣教(8:4-8:25) **[[フィリポ (福音宣教者)|フィリポ]]とエチオピアの宦官(8:26-8:40) **[[パウロ#回心|サウロの回心]](9:1-9:31) **ペトロの宣教(9:32-9:43) *'''異邦人宣教の開始(10:1-15:35)''' **異邦人への宣教(10:1-11:18) **[[アンティオキア]]の教会(11:19-11:27) **[[ヤコブ (イエスの兄弟)|ヤコブ]]の殉教とペトロの投獄(12:1-12:19) **ヘロデ・アンティパス1世の死(12:20-12:24) **パウロの第一回宣教旅行(13:1-14:21) **エルサレムの[[使徒会議]](15:1-35) *'''[[パウロ]]の世界宣教(15:36-28:31)''' **パウロの第二回宣教旅行(15:36-18:23) **パウロの第三回宣教旅行(18:24-21:14) **パウロの逮捕と[[ローマ]]への連行(21:15-28:11) **ローマでのパウロ(28:12-28:31) == 脚注 == {{Reflist}} == 参考資料 == * 山田耕太 、「ルカによる福音書・使徒言行録(ルカ文書)」、『アエラムック』、朝日新聞社、1998年、18-23頁。 == 関連項目 == {{wikisource|使徒行伝(口語訳)}} {{wikisource|使徒行傳(文語訳)}} *[[使徒]] *[[使徒書]] {{使徒}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しとけんこうろく}} [[Category:新約聖書]] [[Category:使徒]] [[Category:1世紀の書籍]] [[Category:ルカ]]
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モーセ
モーセあるいはモーゼ、ラテン語、英語読みのモーゼスとも(ヘブライ語: מֹשֶׁה モーシェ、ギリシア語: Μωυσής、ラテン語: Moyses、Moses、アラビア語: موسىٰ)は、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる、紀元前16世紀または紀元前13世紀ころに活躍したと推測されている、古代イスラエルの民族指導者であり、יהוה(ヤハウェ)を神とする。正教会ではモイセイと呼ばれ聖人とされる。 モーセはユダヤ教・キリスト教・イスラム教およびバハーイー教など多くの宗教において、最重要な預言者の一人とされる。伝統的には旧約聖書のモーセ五書(トーラー)の著者であるとされてきた。 『出エジプト記』によれば、モーセはエジプトにいるヘブライ人家族の子として生まれたが、ファラオがヘブライ人の新生児を殺害することを命じたので、それから逃れるためにナイル川に流され、ファラオの娘に拾われて大切に育てられたという。長じてエジプト人を殺害し、砂漠に隠れていたが、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けた、とされ、エジプトから民を率いて脱出したモーセは民とともに40年にわたって荒野をさまよい「約束の地」にたどり着いたが、(モーセは神の指示を忠実に守らなかった過去があり、約束の土地を目前にして、ヘブライの民はそこに入ることができてもモーセはそこに入ることが神から許されず)約束の地の手前で世を去ったという。 『旧約聖書』の『出エジプト記』によれば、モーセはイスラエル人(ここではヘブライ人と同じ意味)のレビ族の父アムラムと、アムラムにとって叔母にあたる母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、ヘブライ人が増えすぎることを懸念したファラオはヘブライ人の男児を殺すよう命令した。出生後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、パピルスのかごに乗せてナイル川に流された。たまたま水浴びしていたファラオの王女が彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ヘブライ語で「引き上げる」の意味)にちなんで「モーセ」と名づけた。モーセの姉の機転で、実の母親が乳母として王女に雇われることになった。 成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、ヘブライ人を助けようとしたが、はからずもエジプト人を殺害してしまう。これが発覚し、ファラオに命を狙われたモーセは逃れてミディアンの地(アラビア半島)に住んだ。ミディアンではツィポラという羊飼いの女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日「燃える柴」のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。神は、みずからを「わたしはある者」と名乗り、イスラエルの民は代々יהוה(ヤハウェ)という名前で呼ぶようにと言った。 モーセはイスラエル人から『יהוה(ヤハウェ)はあなたに現れなかった』と言われた場合(つまり、預言者であることに疑義をとなえられた場合)に備え、3つのしるしを与えられた、とされる。「杖が蛇になる」「手が癩病(レプラ)で雪のように白くなる」「ナイル川の水が血に変わる」である。 エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会いヘブライ人退去の許しを求め、前述のしるしの1つ「杖が蛇になる」を使って自分の杖を蛇にして見せたが、ファラオの配下の魔術師たちもその程度はできたのでファラオは驚かず、アロンの杖の蛇が他の蛇を食ってしまったことで一応勝ったものの、ファラオは拒絶し、許可を出さなかった。 そのためモーセは次のしるし「ナイル川の水が血に変わる」を使い、これを始めに十の災いがエジプトにくだり、最後にはファラオの息子を含めてすべてのエジプトの初子が無差別に殺害された。ファラオはここにいたってヘブライ人たちがエジプトから出ることを認めた。エジプト出発の夜、人々は神の指示通り、子羊の肉と酵母を入れないパン(「タネなしパン」(マッツァー))を食べた。神はこの出来事を記念として行うよう命じた(これが今もユダヤ教徒が祝う「過越祭」の起源であり、聖書ではイエスの十字架上の死の予兆とされる)。ヘブライ人がエジプトを出ると、ファラオは心変わりして戦車と騎兵からなる軍勢を差し向けた。葦の海に追い詰められ、絶体絶命の状況に陥った。これに対し、奴隷的な状態のままであってもエジプトにいた方がよかったと不平をもらす者もいたが、モーセが手にもっていた杖を振り上げると、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができた、とされ、しかし後を追って葦の海を渡ろうとしたファラオの軍勢は海に沈んだ、とされる。 その後、モーセは民と共に苦しい荒れ野の旅を続ける。人々は水や食べ物のことでしばしばモーセに不平をいい、モーセはそのたびに水や食べ物を与えて神の力を示した。このとき、神から与えられたとされる、荒野で夜毎に現れる、まるで蜜入りのウェファースのような味の白い(謎の)食料を食べて民たちはしのぎ、人々はその(謎の)食料を「マナ」と呼んだ、とされる。やがて人々がシナイ山に近づくと、יהוה(ヤハウェ)が山上に現れ、モーセは山に登って十戒を受けた、とされる。さらに神はヘブライ人と契約を交わした、とも。『出エジプト記』のモーセに関する記述はこれで終わり、後半部(20章~40章)は守るべき掟と儀式に関する詳細な規定の記述に費やされている。 続く『レビ記』『民数記』『申命記』ではさらに詳細な律法の内容が語られ、その合間にモーセの生涯とヘブライ人たちの歩みとについて記している。申命記27章等によれば、モーゼは12支族に命じてイスラエルの民に既存の偶像を廃棄させ、ユダヤ教を広めて十分の一税を課した。 また、モーセは石版を入れた『契約の箱』を先頭にシナイ山を出発し、約束の国を目指してカナンを進んだ。その途上では不平を言う民がいたり、モーセとアロンへの反逆が行われたりしたため、その行為を行った民を罰する為に神が炎の蛇を送り、多くの死者が出たりもした。民はモーセに謝罪、懇願し、それをみた神がモーセに青銅の蛇を示して民を救った出来事などがあった。人々はカナンの人々と戦いを繰り返し、アモリ人らを撃ち、全軍を滅ぼした。さらにミディアン人たちを撃つなど戦いを続けた。 モーセ五書の最終巻にあたる『申命記』ではモーセの最期が描かれている。メリバの泉で岩を打って水を出し、その後にもう一度水不足が訪れたときに岩に命じるようにとの命令であったのにもう一度岩を打ったため、約束の国に入ることを許されず、ヨルダン川の手前でピスガの頂ネボに登り、約束された国を目にしながらこの世を去った。120歳であった。モーセはモアブの谷に葬られたが、その場所は誰も知らないとされている。 モーセの死後、その従者であったヌンの子ヨシュア《יהוה(ヤハウェ)は救いの意味》が後継者となり、יהוה(ヤハウェ)の民を導いた。 『クルアーン』(コーラン)ではアラビア語でムーサー (موسى Mūsā) と呼ばれる。イスラム教の聖典『クルアーン』では、モーセすなわちムーサーは過去の預言者のひとりにして、ユダヤ教徒の共同体に神(アッラーフ)から使わされた使徒として登場する。ムーサーは『クルアーン』においてムハンマドを除く諸預言者の中では最も偉大な預言者であるとみなされており、ムスリム(イスラム教徒)はムーサーを「神と語る者(カリームッラーフ)」と尊称する。 ムーサーの名は『クルアーン』中において非常に多くの個所で言及され、特に、第28章である「物語(アル・カサス)」は全編がムーサーの物語になっている。『クルアーン』によれば、ムーサーはエジプトで生まれ育ち、のちに「聖なる谷」で神の声を聞いて預言者となった。また、兄ハールーン(アロン)もムーサーを補佐するための預言者とされる。ムーサーとハールーンはエジプトのファラオに唯一なる神を信仰するよう求め、神の偉大さを伝えるために杖を蛇に変えるなどの奇蹟を示すが、ファラオに拒絶されたためにイスラエルの民を連れてエジプトを離れた。出エジプト物語は『聖書』と基本的に同じであり、シナイ山(アラビア語ではムーサー山と呼ばれる)で、ユダヤ教徒に対して与えられた啓典であるトーラー(律法)を神から授かったという。 クルアーンのムーサーの物語では、ユダヤ教徒たちがムーサーの言うことを聞かず、時に偶像をあがめたことについて非常に詳細に言及されており、このようなクルアーンの、正しい神に選ばれた使徒ムーサーに従わないユダヤ教徒に対する批判的な言及が、歴史的なムスリムによるユダヤ教徒に対する差別心、敵意の原因のひとつとなったと指摘されることも多い。 ムーサーはイスラム教においてノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)イエス(イーサー)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされる。また、ムーサーという名はムスリムに好まれる男性名のひとつとなっている。 クルアーンには上記のような、基本的には聖書と同一の記載だけでなく、ユダヤ・キリスト教には全く類似の話のない、クルアーンのみに書かれたムーサーの記述も存在する。クルアーンのみに記載のあるものとして、第18章である洞窟(アル・カハフ)には、ムーサーが従者を連れ賢者アル・ハディル(アル・ヒドゥル)に会いに行き、彼の行動を通して神の摂理を知る物語がある。 『創世記』からはじまって、『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』までの『ヘブライ聖書』(キリスト教では『旧約聖書』)の最初の五書は、総称して「モーセ五書」と呼ばれてきた。新約聖書にイエス・キリストがモーセを聖書記者として言及している聖句があり、聖書信仰に立つ福音派の教会ではモーセをモーセ五書の記者として認めている。 これらは聖書自身の記述と古代からの伝承によってモーセの手によるものとされてきたが、ユリウス・ヴェルハウゼンらの文書仮説を支持するものはそれに反対する。福音派にはこれらの主張を「信仰の敵」と呼ぶものもいる。「モーセ五書」の別称は「トーラー」であり、日本語訳では「律法」とされることが多い。トーラーの原義は「指針」ないし「方針」である。 モーセの性格として不寛容と無慈悲の側面も指摘される。例えば『民数記』31章にはよればイスラエル人がミデヤン人を滅ぼし男を虐殺したとき、兵士たちがミデヤンの民に慈悲を示し、子どもと寡婦を生かして連れてきたことにモーセは怒り、男児と男を知った女を殺すことを命じ、処女の娘たちを兵士に報酬として分け与えている。2014年ISIL(イスラム国)が奴隷制度を復活し、占領地の女性を兵士たちに報酬として与えたとき、旧約聖書の記述が正当性の根拠として用いられている。 フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第II巻第X章では、出エジプト記の第2章10節と11節の間付近に入るエピソードとして「モーセはエジプト軍の指揮官としてエチオピア攻略で活躍し、彼の強さを認めたエチオピアの王女タルビスは和平交渉をして彼の妻となった。」というものが書かれている。 モーセの実在と出エジプトの物語の信憑性は、考古学的知見、歴史的知見、紅海の海底調査の結果、カナン文化における関連する起源神話などから考古学者およびエジプト学者、聖書批評学者の間では疑問視する人々が多い。その他の歴史学者は、モーセに帰せられる伝記の詳細さとエジプトの背景は、青銅器時代の終わりに向かうカナンにおけるヘブライ部族の統合に関わった歴史的、政治的、宗教的指導者が実在したことを暗示していると擁護している。 エジプト側に残るモーセに関する物語と関連するものとして、エジプトの神官マネトによる記録のヨセフスの引用がある。それによれば、アメンホテプ3世が地を清めるためにと皮膚病患者を隔離した際、オサルシフォス(Osarseph)というヘリオポリスの祭司が皮膚病患者の一団の監督者となった。皮膚病患者たちはかつてのヒクソスが首都を置いたアヴァリス(英語版)に収容され、オサルシフォスはエジプトで禁じられているあらゆることを指示し、エジプトで許されているあらゆることを禁じた。さらにヒクソスを国に引き入れてエジプトを再征服し、13年間彼らと統治した。最終的にエジプトの地を追い出されるが、オサルシフォスはモーセの名を名乗る。 この物語は出エジプト記とは異なっているが、いくつかの共通点があり、例えば、エジプトに災いをもたらすモーセという名の宗教指導者が存在したこと、エジプト北方に勢力を持った西アジア系移民が存在したこと、その異分子はヘリオポリス(オン)の宗教指導者と近しい関係を築いていたこと、皮膚病を利用したこと、エジプト人と異なる法を敷いたこと、そしてエジプトの地から出たこと、などが挙げられる。 なお、この話自体はヨセフスの時代の頃それなりに広まっていたものであるが、ヨセフス自身を含む大半のユダヤ人からはこれと結びつけることはモーセを侮辱するものだと考えられており、前述のヨセフスの引用(『アピオーンへの反論』第2章229節)では引用しつつも書き手のマネト(原文は「マネトーン」)たちにレプラ患者と自分たちの先祖を一緒にするなと反論しており、別の著書の『ユダヤ古代誌』(第III巻11章3-4節)ではレビ記13章の記述から引用(一部改竄)しつつも「レプラ患者にこんなに厳しく扱うモーセが患者自身であるはずがなかろう」という趣旨の反論をその後にわざわざ書いている。 キリスト教美術においてはモーセは通常老人の姿に描かれることが多い。 中世ヨーロッパ美術においては、ミケランジェロの彫刻やレンブラントの絵画にみられるごとく、モーセはしばしば角のある姿で描かれるが、この理由には二つの説がある。一つは、ヴルガタ訳の描写をもとにしたためだというものである(『出エジプト記』 34:29-30, 35)。元来、ヘブライ語には母音を表す文字が存在せず、ヘブライ語で「角」を意味する語は「輝く」という意味にも解釈可能であり、現在の『聖書』翻訳では一般に後者の意味で訳出されている。もう一つの説は、ヴルガータとは関係なく、モーセの顔が光り輝くのを角のような形で表現したというものである。フランスの美術史家エミール・マールは後者の説をとり、最初典礼劇でそのような表現がなされたものが絵画や彫刻にも影響を与えたと考えている。一方、日本の尾形希和子は前者の説をとりつつも、12世紀から13世紀のイングランドの教会法学者ティルベリのゲルウァシウス(英語版)の著書中に「モーセの角の生えた顔とは、すなわち彼の顔から輝く光が出ていたから」とあるのを紹介している。他の中世人の著作を見ると、クレルヴォーのベルナール『雅歌講解』にも件の場面でモーセの顔が光り輝いたということを前提としている記述がある。 聖書学者の関根清三は著書において、そもそも出エジプト記の該当箇所は「角のある」と解釈するのが正しいのだと主張している。 「光り輝いている」と訳したヘブライ語はカーランという動詞で、用例が「角のある」という意味であることは確かである。カーランはケレンという名詞の派生語と思われるが、名詞の用例はたくさんあって、その意味が「角」であることははっきりしており、牛との関連で使われている詩篇の動詞形の意味も「角のある」といったあたりに自ずと定まるからである。 そこで出エジプト記の方のカーランも、旧約のラテン語訳・ヴルガータではこれと呼応してcornutus(角のある)と訳しているのである。それに対し、ギリシア語訳・セプトゥアギンタ(七十人訳)はdedoxastai(光り輝いた、栄光化された)と意訳した。 近代の翻訳も日本語訳を含め、「顔の肌」から角が生えるというのはそれこそ面妖であるので、みなセプトゥアギンタの方にしたがっているのである。 なお、牛や山羊や羊や鹿などの角は「豊穣=富と子孫繁栄の象徴」であり、(ギョベクリ・テペの遺跡などから推測されるに、おそらく紀元前1万年の)太古より、ユーラシア大陸の各地に、豊穣神たる「角を生やした(主に牛の)神、有角神」への信仰があり、儀式の際に角の被り物をするなど、カーランを「角のある」と解釈することは、むしろ正統な発想である。異形なる角は、善(神)であれ悪(悪魔)であれ、人を超えた神聖な存在、権威ある者、であることを示す表現方法なのである。 問題の個所のヘブライ語原文は“קָרַ֛ן ע֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav)のたった三語であり、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)、“עֹ֥ור”(owr:オール:皮)、“פָּנָ֖יו”(panav:パナヴ:彼の顔)である。直訳は「彼の顔、皮、角が出た」である。 七十人訳ギリシア語聖書では“δεδόξασται ἡ ὄψις τοῦ χρώματος τοῦ προσώπου ”「自分の顔が栄光に輝いていた」と訳している。(直訳は「彼の顔の色の状態が栄誉となった」である) 七十人訳ギリシア語聖書では上記の通りヘブライ語原文にはあるはずの“ע֥וֹר ”(owr:オール:皮)が見られず、「色の様子」となり、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)は「栄誉となった」、「誉(ほまれ)となった」と訳されている。(実はヘブライ語の「角が出る」を、ギリシャ語でも「輝く」とは訳していないのが分かる) ヘブライ語聖書(マソラ本文)と七十人訳ギリシア語聖書に共通に記載がある1単語“פָּנָ֖יו”(panav:パナヴ:彼の顔)“προσώπου αὐτοῦ”を除けば、残るはヘブライ語は2単語、“קָרַ֛ן ע֥וֹר”(karan owr:カラン オール:「皮、角が出た」)となり、これが“δεδόξασται ἡ ὄψις τοῦ χρώματος ”「栄光に輝いていた」と訳されていると整理できる。このギリシャ語訳の“δεδόξασται”(dedoxastai:デドクサスタイ)は、本来ヘブライ語の“כָּבֵד”(kabed:重くなる。重んじる。尊ぶ。栄誉となる)の訳語として使われる単語であり、「栄誉となる」までは良いが「物理的に光る」という意味では本来ギリシャ語としても使われない単語である。そもそも日本語の「栄光」も物理的に「輝く」という意味は本来ない。 ところでヘブライ語原文から「彼の顔が輝いていた」や「彼の顔が栄光に輝いていた」と読むのは簡単であり“קָרַ֛ן ע֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav:カラン オール パナヴ)「彼の顔、皮、角が出た」と普通に「音読」すると、文脈から同じ発音の“קָרַ֛ן א֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav:カラン オール パナヴ)「彼の顔、光、角が出た」や「彼の顔、輝き、抜きん出ていた(突出している)」と聞こえる。つまり自然に「皮」という単語が「光」や「輝き」に聞こえるためである(וֹ : holam on vavの発音はオ)。 これは“עוֹר”(owr:オール:皮)と“אוֹר”(owr:オール:光)の両者とも3人称男性単数名詞で、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)もパアル態完了形3人称男性単数形であり、動詞との性数が一致しているためである。文字を見なければどちらかは分からない。原文にある“עוֹר”(owr:オール:皮)はヘブライ語聖書の中では99回使用され、動物の「皮」という意味で使われる一般的な単語であるが、同音として聞こえる“אוֹר”(owr:オール:光)の方も創世記1:3の“יְהִ֣י א֑וֹר”(yehi owr:イェヒー オール:「光あれ」)でも使われる更に一般的な単語(165回)である。 つまりヘブライ語で「彼の顔、皮、角が出た」と「彼の顔、光、角が出た」、「彼の顔、輝き、抜きん出ている(突出している)」という「音」は、どれも(karan owr panav:カラン オール パナヴ)で同じである。著者が修辞学的な技法として意図的に両方の意味を持たせた「掛詞(かけことば)」であった可能性も否定できないが、但し原文は「彼の顔、皮、角が出た」である。一方でシナゴーグなどの朗読で聴衆が音として聞こえてしまう方の主たる意味は、使用頻度からは統計学上「皮/肌:owr(99回)」ではなく「光/輝き:owr(165回)」となってしまい「光、角が出た」や「光、突出してた」であるため、かなり分かりやすい「掛詞(かけことば)」であった可能性は否めない。但し“קָרַ֛ן”(karan)自体は「角が出る」の意味のままであることが分かる。 この七十人訳ギリシア語聖書のこの個所、“ע֥וֹר ”(owr:オール:皮膚)付の“קָרַן”(karan:カラン:角が出る)の翻訳例を根拠として現代の訳語「輝く」が成立しているが、当の七十人訳ギリシア語聖書でも「物理的に輝く」と訳しているかといえば上記の通り実はそうでもない(直訳は「彼の顔の色の状態が栄誉となった」である)。このような用例は、七十人訳ギリシア語聖書のこの個所からくる例外的で伝統的な訳として辞書に掲載されているものの、ヘブライ語聖書全体で94個所使用されている“קרן”(karan:カラン:角が出る)が「輝く」と訳される場合があるのは、ユダヤ教側としては“עוֹר”(owr:オール:皮)を伴うこの個所だけとされている。つまり“אוֹר”(owr:オール:光)と同音の“עוֹר”(owr:オール:皮)を伴った熟語の場合のみに限定される。 つまりこのことから“קָרַ֛ן ע֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav)「彼の顔、皮(owr)、角が出る」を「彼の顔の肌(皮:owr)が栄光に輝いていた(karan owr)」や、「彼の顔の肌(皮:owr) が輝いた(karan owr)」としてしまい、「肌(皮):owr」と「輝き:owr」の両方を用いてこの個所を再帰的に訳してしまうと、「owr」が冗長に訳されてしまう可能性があり、この訳は本来は適切な翻訳ではない可能性がある。証拠に上記は七十人訳ギリシア語聖書の用例を根拠に翻訳したはずが、七十人訳ギリシア語聖書の訳と異なる結果となっている。七十人訳ギリシア語聖書の用例を根拠にして“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)を「輝く」や「栄光に輝く」と訳すのであれば、正確にはこの個所は「皮:owr」を消し、単に「彼の顔が栄光に輝いていた」とするか、「皮:owr」の訳を入れるのであれば「輝く」ではなくて「角が出た」(ウルガータ訳“cornuta esset”3単接未完過)とするかであり、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)の訳語の成立過程からして、ヘブライ語からの翻訳は正確には本来はそのどちらかになる。 ではどちらに訳したら正しいのかということになるが、もし著者がこの個所を「掛詞(かけことば)」を意図していたとする場合は、使用された言語以外の言語で「掛詞(かけことば」を正確に訳すのは困難であり、翻訳者はどちらかの意味を選択して訳しても、誤訳の指摘を免れない可能性があるということになる。この場合、どちらが正しいか、間違っているかの議論はあまり意味がない。この部分の原文ヘブライ語の面白さを、説明的に訳したところで、今度はそれは翻訳の域を出てしまうということになる。 ところで七十人訳ギリシア語聖書の翻訳者が、「皮、角が出た」ではなく「栄光に輝いた」と翻訳した事の理由は明確である。皮に角が出る皮膚病は良く知られており(老人性角化症、日光性角化症、脂漏性角化症、角化型疥癬など)、肌の角質が増殖する症状である。七十人訳ギリシア語聖書は本来プトレマイオス2世の命により、エジプトの反ユダヤ的な歴史家マネトンへの反論の機会が与えられて翻訳されたものであり、モーセが皮膚病になったと言う個所を全て、あくまでもヘレニズム社会に向けて誤解が無い表記に変える目的があるため、出エジプト記4:6の翻訳例に準拠して翻訳しているだけである。出エジプト記4:6では顔ではなくモーセの「手」が「重い皮膚病になって雪の様に白くなっていた」が原文だが、七十人訳ギリシア語聖書ではモーセの「手」が「雪のようになった」となり、同様な手法で皮膚に関する訳が消され「輝く物」として訳されている。 角化症の中でも日光性角化症は紫外線の影響の蓄積により高齢者の顔に出やすく、「彼の顔、皮、角が出た」の直後には「モーセが主と語るために主の前に行くとき、彼はその覆いを外に出てくるまで外していた」との追記があり、この皮膚の状態になった原因が、山頂において、日光(owr)や神に対して顔を露出していた事が原因であり、他が原因でこの皮膚の状態になったのではなく「栄誉」の証拠である可能性についての説明が添えられているのは興味深い。 このことからユダヤ教側でも歴史的にヘブライ文化圏以外の人に対して、ヘブライ語以外の言語に聖書を翻訳する際は、モーセに対する誤解が無いように慎重に「輝く」という訳を当てる習慣(ダブルスタンダード)になっている。。整理するとヘブライ語原文では普通に「彼の顔、皮、角が出た」でなんら問題が無く、マソラ本文にもケレーやケティーブの記載は見られないが、他言語に訳す際は「自分の顔が栄光に輝いていた」や単に「自分の顔が輝いていた」と読み替えを行うのが翻訳上のマナーとなっている。 当然ながらユダヤ教内に向けては、ミドラッシュ(Midrash Tanchuma)にこの個所の註釈として「角」と関連付けた記載が残されている。『また彼はその四隅の上に「角」を作った。それは四本の「角」を通して主を讃美した国に許しを得るため。(出エジプト記:38:2)。その「角」はシナイから来た。そして彼は「角」を高く上げた。彼の民のため(詩編148:14)。トーラーの「角」。「角」は在る、彼の傍に。また隠されている彼の力が(ハバクク3:4)。「祭司の角」についてはこう言われる。またあなたは私の「角」を高く上げた(詩編92:11)。また「王の角」についてはこう言われる。モーセは自分の顔の皮が「角」を出しているのを知らなかった。(出エジプト記34:29)。』 モーセと出エジプトをテーマにした音楽は、ヨーロッパにおいて数多く作られた。代表的なものとしては、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの作曲したオラトリオである『エジプトのイスラエル人』や、ジョアキーノ・ロッシーニのオペラである『モイーズとファラオン』(『モーゼとファラオ』、1827年)、アルノルト・シェーンベルクのオペラである『モーゼとアロン』(1930年)などが挙げられる。 モーセと出エジプトをテーマにした映画も多い。代表的な作品に以下のものがある。 海が割れるエピソードは旧約聖書の中では日本でも比較的有名なエピソードである。このエピソードから転じて、人だかりなどで混雑している場所においてある人物が現れるとその人のために道を一斉に開けて空間ができる様子などを、海が割れている場面に見立てて比喩的にモーセを使うことがある。また、同じ理由で水に強い磁場をかけると分かれることを「モーゼ効果」という。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "モーセあるいはモーゼ、ラテン語、英語読みのモーゼスとも(ヘブライ語: מֹשֶׁה モーシェ、ギリシア語: Μωυσής、ラテン語: Moyses、Moses、アラビア語: موسىٰ)は、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる、紀元前16世紀または紀元前13世紀ころに活躍したと推測されている、古代イスラエルの民族指導者であり、יהוה(ヤハウェ)を神とする。正教会ではモイセイと呼ばれ聖人とされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "モーセはユダヤ教・キリスト教・イスラム教およびバハーイー教など多くの宗教において、最重要な預言者の一人とされる。伝統的には旧約聖書のモーセ五書(トーラー)の著者であるとされてきた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『出エジプト記』によれば、モーセはエジプトにいるヘブライ人家族の子として生まれたが、ファラオがヘブライ人の新生児を殺害することを命じたので、それから逃れるためにナイル川に流され、ファラオの娘に拾われて大切に育てられたという。長じてエジプト人を殺害し、砂漠に隠れていたが、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けた、とされ、エジプトから民を率いて脱出したモーセは民とともに40年にわたって荒野をさまよい「約束の地」にたどり着いたが、(モーセは神の指示を忠実に守らなかった過去があり、約束の土地を目前にして、ヘブライの民はそこに入ることができてもモーセはそこに入ることが神から許されず)約束の地の手前で世を去ったという。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『旧約聖書』の『出エジプト記』によれば、モーセはイスラエル人(ここではヘブライ人と同じ意味)のレビ族の父アムラムと、アムラムにとって叔母にあたる母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、ヘブライ人が増えすぎることを懸念したファラオはヘブライ人の男児を殺すよう命令した。出生後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、パピルスのかごに乗せてナイル川に流された。たまたま水浴びしていたファラオの王女が彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ヘブライ語で「引き上げる」の意味)にちなんで「モーセ」と名づけた。モーセの姉の機転で、実の母親が乳母として王女に雇われることになった。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、ヘブライ人を助けようとしたが、はからずもエジプト人を殺害してしまう。これが発覚し、ファラオに命を狙われたモーセは逃れてミディアンの地(アラビア半島)に住んだ。ミディアンではツィポラという羊飼いの女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日「燃える柴」のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。神は、みずからを「わたしはある者」と名乗り、イスラエルの民は代々יהוה(ヤハウェ)という名前で呼ぶようにと言った。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "モーセはイスラエル人から『יהוה(ヤハウェ)はあなたに現れなかった』と言われた場合(つまり、預言者であることに疑義をとなえられた場合)に備え、3つのしるしを与えられた、とされる。「杖が蛇になる」「手が癩病(レプラ)で雪のように白くなる」「ナイル川の水が血に変わる」である。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会いヘブライ人退去の許しを求め、前述のしるしの1つ「杖が蛇になる」を使って自分の杖を蛇にして見せたが、ファラオの配下の魔術師たちもその程度はできたのでファラオは驚かず、アロンの杖の蛇が他の蛇を食ってしまったことで一応勝ったものの、ファラオは拒絶し、許可を出さなかった。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そのためモーセは次のしるし「ナイル川の水が血に変わる」を使い、これを始めに十の災いがエジプトにくだり、最後にはファラオの息子を含めてすべてのエジプトの初子が無差別に殺害された。ファラオはここにいたってヘブライ人たちがエジプトから出ることを認めた。エジプト出発の夜、人々は神の指示通り、子羊の肉と酵母を入れないパン(「タネなしパン」(マッツァー))を食べた。神はこの出来事を記念として行うよう命じた(これが今もユダヤ教徒が祝う「過越祭」の起源であり、聖書ではイエスの十字架上の死の予兆とされる)。ヘブライ人がエジプトを出ると、ファラオは心変わりして戦車と騎兵からなる軍勢を差し向けた。葦の海に追い詰められ、絶体絶命の状況に陥った。これに対し、奴隷的な状態のままであってもエジプトにいた方がよかったと不平をもらす者もいたが、モーセが手にもっていた杖を振り上げると、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができた、とされ、しかし後を追って葦の海を渡ろうとしたファラオの軍勢は海に沈んだ、とされる。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "その後、モーセは民と共に苦しい荒れ野の旅を続ける。人々は水や食べ物のことでしばしばモーセに不平をいい、モーセはそのたびに水や食べ物を与えて神の力を示した。このとき、神から与えられたとされる、荒野で夜毎に現れる、まるで蜜入りのウェファースのような味の白い(謎の)食料を食べて民たちはしのぎ、人々はその(謎の)食料を「マナ」と呼んだ、とされる。やがて人々がシナイ山に近づくと、יהוה(ヤハウェ)が山上に現れ、モーセは山に登って十戒を受けた、とされる。さらに神はヘブライ人と契約を交わした、とも。『出エジプト記』のモーセに関する記述はこれで終わり、後半部(20章~40章)は守るべき掟と儀式に関する詳細な規定の記述に費やされている。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "続く『レビ記』『民数記』『申命記』ではさらに詳細な律法の内容が語られ、その合間にモーセの生涯とヘブライ人たちの歩みとについて記している。申命記27章等によれば、モーゼは12支族に命じてイスラエルの民に既存の偶像を廃棄させ、ユダヤ教を広めて十分の一税を課した。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、モーセは石版を入れた『契約の箱』を先頭にシナイ山を出発し、約束の国を目指してカナンを進んだ。その途上では不平を言う民がいたり、モーセとアロンへの反逆が行われたりしたため、その行為を行った民を罰する為に神が炎の蛇を送り、多くの死者が出たりもした。民はモーセに謝罪、懇願し、それをみた神がモーセに青銅の蛇を示して民を救った出来事などがあった。人々はカナンの人々と戦いを繰り返し、アモリ人らを撃ち、全軍を滅ぼした。さらにミディアン人たちを撃つなど戦いを続けた。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "モーセ五書の最終巻にあたる『申命記』ではモーセの最期が描かれている。メリバの泉で岩を打って水を出し、その後にもう一度水不足が訪れたときに岩に命じるようにとの命令であったのにもう一度岩を打ったため、約束の国に入ることを許されず、ヨルダン川の手前でピスガの頂ネボに登り、約束された国を目にしながらこの世を去った。120歳であった。モーセはモアブの谷に葬られたが、その場所は誰も知らないとされている。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "モーセの死後、その従者であったヌンの子ヨシュア《יהוה(ヤハウェ)は救いの意味》が後継者となり、יהוה(ヤハウェ)の民を導いた。", "title": "旧約聖書における記述" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『クルアーン』(コーラン)ではアラビア語でムーサー (موسى Mūsā) と呼ばれる。イスラム教の聖典『クルアーン』では、モーセすなわちムーサーは過去の預言者のひとりにして、ユダヤ教徒の共同体に神(アッラーフ)から使わされた使徒として登場する。ムーサーは『クルアーン』においてムハンマドを除く諸預言者の中では最も偉大な預言者であるとみなされており、ムスリム(イスラム教徒)はムーサーを「神と語る者(カリームッラーフ)」と尊称する。", "title": "イスラム教における扱い" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ムーサーの名は『クルアーン』中において非常に多くの個所で言及され、特に、第28章である「物語(アル・カサス)」は全編がムーサーの物語になっている。『クルアーン』によれば、ムーサーはエジプトで生まれ育ち、のちに「聖なる谷」で神の声を聞いて預言者となった。また、兄ハールーン(アロン)もムーサーを補佐するための預言者とされる。ムーサーとハールーンはエジプトのファラオに唯一なる神を信仰するよう求め、神の偉大さを伝えるために杖を蛇に変えるなどの奇蹟を示すが、ファラオに拒絶されたためにイスラエルの民を連れてエジプトを離れた。出エジプト物語は『聖書』と基本的に同じであり、シナイ山(アラビア語ではムーサー山と呼ばれる)で、ユダヤ教徒に対して与えられた啓典であるトーラー(律法)を神から授かったという。", "title": "イスラム教における扱い" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "クルアーンのムーサーの物語では、ユダヤ教徒たちがムーサーの言うことを聞かず、時に偶像をあがめたことについて非常に詳細に言及されており、このようなクルアーンの、正しい神に選ばれた使徒ムーサーに従わないユダヤ教徒に対する批判的な言及が、歴史的なムスリムによるユダヤ教徒に対する差別心、敵意の原因のひとつとなったと指摘されることも多い。", "title": "イスラム教における扱い" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ムーサーはイスラム教においてノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)イエス(イーサー)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされる。また、ムーサーという名はムスリムに好まれる男性名のひとつとなっている。", "title": "イスラム教における扱い" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "クルアーンには上記のような、基本的には聖書と同一の記載だけでなく、ユダヤ・キリスト教には全く類似の話のない、クルアーンのみに書かれたムーサーの記述も存在する。クルアーンのみに記載のあるものとして、第18章である洞窟(アル・カハフ)には、ムーサーが従者を連れ賢者アル・ハディル(アル・ヒドゥル)に会いに行き、彼の行動を通して神の摂理を知る物語がある。", "title": "イスラム教における扱い" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『創世記』からはじまって、『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』までの『ヘブライ聖書』(キリスト教では『旧約聖書』)の最初の五書は、総称して「モーセ五書」と呼ばれてきた。新約聖書にイエス・キリストがモーセを聖書記者として言及している聖句があり、聖書信仰に立つ福音派の教会ではモーセをモーセ五書の記者として認めている。", "title": "トーラーの記者として" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "これらは聖書自身の記述と古代からの伝承によってモーセの手によるものとされてきたが、ユリウス・ヴェルハウゼンらの文書仮説を支持するものはそれに反対する。福音派にはこれらの主張を「信仰の敵」と呼ぶものもいる。「モーセ五書」の別称は「トーラー」であり、日本語訳では「律法」とされることが多い。トーラーの原義は「指針」ないし「方針」である。", "title": "トーラーの記者として" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "モーセの性格として不寛容と無慈悲の側面も指摘される。例えば『民数記』31章にはよればイスラエル人がミデヤン人を滅ぼし男を虐殺したとき、兵士たちがミデヤンの民に慈悲を示し、子どもと寡婦を生かして連れてきたことにモーセは怒り、男児と男を知った女を殺すことを命じ、処女の娘たちを兵士に報酬として分け与えている。2014年ISIL(イスラム国)が奴隷制度を復活し、占領地の女性を兵士たちに報酬として与えたとき、旧約聖書の記述が正当性の根拠として用いられている。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第II巻第X章では、出エジプト記の第2章10節と11節の間付近に入るエピソードとして「モーセはエジプト軍の指揮官としてエチオピア攻略で活躍し、彼の強さを認めたエチオピアの王女タルビスは和平交渉をして彼の妻となった。」というものが書かれている。", "title": "聖典関連以外" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "モーセの実在と出エジプトの物語の信憑性は、考古学的知見、歴史的知見、紅海の海底調査の結果、カナン文化における関連する起源神話などから考古学者およびエジプト学者、聖書批評学者の間では疑問視する人々が多い。その他の歴史学者は、モーセに帰せられる伝記の詳細さとエジプトの背景は、青銅器時代の終わりに向かうカナンにおけるヘブライ部族の統合に関わった歴史的、政治的、宗教的指導者が実在したことを暗示していると擁護している。", "title": "聖典関連以外" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "エジプト側に残るモーセに関する物語と関連するものとして、エジプトの神官マネトによる記録のヨセフスの引用がある。それによれば、アメンホテプ3世が地を清めるためにと皮膚病患者を隔離した際、オサルシフォス(Osarseph)というヘリオポリスの祭司が皮膚病患者の一団の監督者となった。皮膚病患者たちはかつてのヒクソスが首都を置いたアヴァリス(英語版)に収容され、オサルシフォスはエジプトで禁じられているあらゆることを指示し、エジプトで許されているあらゆることを禁じた。さらにヒクソスを国に引き入れてエジプトを再征服し、13年間彼らと統治した。最終的にエジプトの地を追い出されるが、オサルシフォスはモーセの名を名乗る。", "title": "聖典関連以外" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "この物語は出エジプト記とは異なっているが、いくつかの共通点があり、例えば、エジプトに災いをもたらすモーセという名の宗教指導者が存在したこと、エジプト北方に勢力を持った西アジア系移民が存在したこと、その異分子はヘリオポリス(オン)の宗教指導者と近しい関係を築いていたこと、皮膚病を利用したこと、エジプト人と異なる法を敷いたこと、そしてエジプトの地から出たこと、などが挙げられる。", "title": "聖典関連以外" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、この話自体はヨセフスの時代の頃それなりに広まっていたものであるが、ヨセフス自身を含む大半のユダヤ人からはこれと結びつけることはモーセを侮辱するものだと考えられており、前述のヨセフスの引用(『アピオーンへの反論』第2章229節)では引用しつつも書き手のマネト(原文は「マネトーン」)たちにレプラ患者と自分たちの先祖を一緒にするなと反論しており、別の著書の『ユダヤ古代誌』(第III巻11章3-4節)ではレビ記13章の記述から引用(一部改竄)しつつも「レプラ患者にこんなに厳しく扱うモーセが患者自身であるはずがなかろう」という趣旨の反論をその後にわざわざ書いている。", "title": "聖典関連以外" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "キリスト教美術においてはモーセは通常老人の姿に描かれることが多い。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "中世ヨーロッパ美術においては、ミケランジェロの彫刻やレンブラントの絵画にみられるごとく、モーセはしばしば角のある姿で描かれるが、この理由には二つの説がある。一つは、ヴルガタ訳の描写をもとにしたためだというものである(『出エジプト記』 34:29-30, 35)。元来、ヘブライ語には母音を表す文字が存在せず、ヘブライ語で「角」を意味する語は「輝く」という意味にも解釈可能であり、現在の『聖書』翻訳では一般に後者の意味で訳出されている。もう一つの説は、ヴルガータとは関係なく、モーセの顔が光り輝くのを角のような形で表現したというものである。フランスの美術史家エミール・マールは後者の説をとり、最初典礼劇でそのような表現がなされたものが絵画や彫刻にも影響を与えたと考えている。一方、日本の尾形希和子は前者の説をとりつつも、12世紀から13世紀のイングランドの教会法学者ティルベリのゲルウァシウス(英語版)の著書中に「モーセの角の生えた顔とは、すなわち彼の顔から輝く光が出ていたから」とあるのを紹介している。他の中世人の著作を見ると、クレルヴォーのベルナール『雅歌講解』にも件の場面でモーセの顔が光り輝いたということを前提としている記述がある。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "聖書学者の関根清三は著書において、そもそも出エジプト記の該当箇所は「角のある」と解釈するのが正しいのだと主張している。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "「光り輝いている」と訳したヘブライ語はカーランという動詞で、用例が「角のある」という意味であることは確かである。カーランはケレンという名詞の派生語と思われるが、名詞の用例はたくさんあって、その意味が「角」であることははっきりしており、牛との関連で使われている詩篇の動詞形の意味も「角のある」といったあたりに自ずと定まるからである。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "そこで出エジプト記の方のカーランも、旧約のラテン語訳・ヴルガータではこれと呼応してcornutus(角のある)と訳しているのである。それに対し、ギリシア語訳・セプトゥアギンタ(七十人訳)はdedoxastai(光り輝いた、栄光化された)と意訳した。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "近代の翻訳も日本語訳を含め、「顔の肌」から角が生えるというのはそれこそ面妖であるので、みなセプトゥアギンタの方にしたがっているのである。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、牛や山羊や羊や鹿などの角は「豊穣=富と子孫繁栄の象徴」であり、(ギョベクリ・テペの遺跡などから推測されるに、おそらく紀元前1万年の)太古より、ユーラシア大陸の各地に、豊穣神たる「角を生やした(主に牛の)神、有角神」への信仰があり、儀式の際に角の被り物をするなど、カーランを「角のある」と解釈することは、むしろ正統な発想である。異形なる角は、善(神)であれ悪(悪魔)であれ、人を超えた神聖な存在、権威ある者、であることを示す表現方法なのである。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "問題の個所のヘブライ語原文は“קָרַ֛ן ע֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav)のたった三語であり、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)、“עֹ֥ור”(owr:オール:皮)、“פָּנָ֖יו”(panav:パナヴ:彼の顔)である。直訳は「彼の顔、皮、角が出た」である。 七十人訳ギリシア語聖書では“δεδόξασται ἡ ὄψις τοῦ χρώματος τοῦ προσώπου ”「自分の顔が栄光に輝いていた」と訳している。(直訳は「彼の顔の色の状態が栄誉となった」である) 七十人訳ギリシア語聖書では上記の通りヘブライ語原文にはあるはずの“ע֥וֹר ”(owr:オール:皮)が見られず、「色の様子」となり、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)は「栄誉となった」、「誉(ほまれ)となった」と訳されている。(実はヘブライ語の「角が出る」を、ギリシャ語でも「輝く」とは訳していないのが分かる)", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ヘブライ語聖書(マソラ本文)と七十人訳ギリシア語聖書に共通に記載がある1単語“פָּנָ֖יו”(panav:パナヴ:彼の顔)“προσώπου αὐτοῦ”を除けば、残るはヘブライ語は2単語、“קָרַ֛ן ע֥וֹר”(karan owr:カラン オール:「皮、角が出た」)となり、これが“δεδόξασται ἡ ὄψις τοῦ χρώματος ”「栄光に輝いていた」と訳されていると整理できる。このギリシャ語訳の“δεδόξασται”(dedoxastai:デドクサスタイ)は、本来ヘブライ語の“כָּבֵד”(kabed:重くなる。重んじる。尊ぶ。栄誉となる)の訳語として使われる単語であり、「栄誉となる」までは良いが「物理的に光る」という意味では本来ギリシャ語としても使われない単語である。そもそも日本語の「栄光」も物理的に「輝く」という意味は本来ない。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ところでヘブライ語原文から「彼の顔が輝いていた」や「彼の顔が栄光に輝いていた」と読むのは簡単であり“קָרַ֛ן ע֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav:カラン オール パナヴ)「彼の顔、皮、角が出た」と普通に「音読」すると、文脈から同じ発音の“קָרַ֛ן א֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav:カラン オール パナヴ)「彼の顔、光、角が出た」や「彼の顔、輝き、抜きん出ていた(突出している)」と聞こえる。つまり自然に「皮」という単語が「光」や「輝き」に聞こえるためである(וֹ : holam on vavの発音はオ)。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これは“עוֹר”(owr:オール:皮)と“אוֹר”(owr:オール:光)の両者とも3人称男性単数名詞で、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)もパアル態完了形3人称男性単数形であり、動詞との性数が一致しているためである。文字を見なければどちらかは分からない。原文にある“עוֹר”(owr:オール:皮)はヘブライ語聖書の中では99回使用され、動物の「皮」という意味で使われる一般的な単語であるが、同音として聞こえる“אוֹר”(owr:オール:光)の方も創世記1:3の“יְהִ֣י א֑וֹר”(yehi owr:イェヒー オール:「光あれ」)でも使われる更に一般的な単語(165回)である。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "つまりヘブライ語で「彼の顔、皮、角が出た」と「彼の顔、光、角が出た」、「彼の顔、輝き、抜きん出ている(突出している)」という「音」は、どれも(karan owr panav:カラン オール パナヴ)で同じである。著者が修辞学的な技法として意図的に両方の意味を持たせた「掛詞(かけことば)」であった可能性も否定できないが、但し原文は「彼の顔、皮、角が出た」である。一方でシナゴーグなどの朗読で聴衆が音として聞こえてしまう方の主たる意味は、使用頻度からは統計学上「皮/肌:owr(99回)」ではなく「光/輝き:owr(165回)」となってしまい「光、角が出た」や「光、突出してた」であるため、かなり分かりやすい「掛詞(かけことば)」であった可能性は否めない。但し“קָרַ֛ן”(karan)自体は「角が出る」の意味のままであることが分かる。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この七十人訳ギリシア語聖書のこの個所、“ע֥וֹר ”(owr:オール:皮膚)付の“קָרַן”(karan:カラン:角が出る)の翻訳例を根拠として現代の訳語「輝く」が成立しているが、当の七十人訳ギリシア語聖書でも「物理的に輝く」と訳しているかといえば上記の通り実はそうでもない(直訳は「彼の顔の色の状態が栄誉となった」である)。このような用例は、七十人訳ギリシア語聖書のこの個所からくる例外的で伝統的な訳として辞書に掲載されているものの、ヘブライ語聖書全体で94個所使用されている“קרן”(karan:カラン:角が出る)が「輝く」と訳される場合があるのは、ユダヤ教側としては“עוֹר”(owr:オール:皮)を伴うこの個所だけとされている。つまり“אוֹר”(owr:オール:光)と同音の“עוֹר”(owr:オール:皮)を伴った熟語の場合のみに限定される。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "つまりこのことから“קָרַ֛ן ע֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav)「彼の顔、皮(owr)、角が出る」を「彼の顔の肌(皮:owr)が栄光に輝いていた(karan owr)」や、「彼の顔の肌(皮:owr) が輝いた(karan owr)」としてしまい、「肌(皮):owr」と「輝き:owr」の両方を用いてこの個所を再帰的に訳してしまうと、「owr」が冗長に訳されてしまう可能性があり、この訳は本来は適切な翻訳ではない可能性がある。証拠に上記は七十人訳ギリシア語聖書の用例を根拠に翻訳したはずが、七十人訳ギリシア語聖書の訳と異なる結果となっている。七十人訳ギリシア語聖書の用例を根拠にして“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)を「輝く」や「栄光に輝く」と訳すのであれば、正確にはこの個所は「皮:owr」を消し、単に「彼の顔が栄光に輝いていた」とするか、「皮:owr」の訳を入れるのであれば「輝く」ではなくて「角が出た」(ウルガータ訳“cornuta esset”3単接未完過)とするかであり、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)の訳語の成立過程からして、ヘブライ語からの翻訳は正確には本来はそのどちらかになる。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ではどちらに訳したら正しいのかということになるが、もし著者がこの個所を「掛詞(かけことば)」を意図していたとする場合は、使用された言語以外の言語で「掛詞(かけことば」を正確に訳すのは困難であり、翻訳者はどちらかの意味を選択して訳しても、誤訳の指摘を免れない可能性があるということになる。この場合、どちらが正しいか、間違っているかの議論はあまり意味がない。この部分の原文ヘブライ語の面白さを、説明的に訳したところで、今度はそれは翻訳の域を出てしまうということになる。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ところで七十人訳ギリシア語聖書の翻訳者が、「皮、角が出た」ではなく「栄光に輝いた」と翻訳した事の理由は明確である。皮に角が出る皮膚病は良く知られており(老人性角化症、日光性角化症、脂漏性角化症、角化型疥癬など)、肌の角質が増殖する症状である。七十人訳ギリシア語聖書は本来プトレマイオス2世の命により、エジプトの反ユダヤ的な歴史家マネトンへの反論の機会が与えられて翻訳されたものであり、モーセが皮膚病になったと言う個所を全て、あくまでもヘレニズム社会に向けて誤解が無い表記に変える目的があるため、出エジプト記4:6の翻訳例に準拠して翻訳しているだけである。出エジプト記4:6では顔ではなくモーセの「手」が「重い皮膚病になって雪の様に白くなっていた」が原文だが、七十人訳ギリシア語聖書ではモーセの「手」が「雪のようになった」となり、同様な手法で皮膚に関する訳が消され「輝く物」として訳されている。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "角化症の中でも日光性角化症は紫外線の影響の蓄積により高齢者の顔に出やすく、「彼の顔、皮、角が出た」の直後には「モーセが主と語るために主の前に行くとき、彼はその覆いを外に出てくるまで外していた」との追記があり、この皮膚の状態になった原因が、山頂において、日光(owr)や神に対して顔を露出していた事が原因であり、他が原因でこの皮膚の状態になったのではなく「栄誉」の証拠である可能性についての説明が添えられているのは興味深い。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "このことからユダヤ教側でも歴史的にヘブライ文化圏以外の人に対して、ヘブライ語以外の言語に聖書を翻訳する際は、モーセに対する誤解が無いように慎重に「輝く」という訳を当てる習慣(ダブルスタンダード)になっている。。整理するとヘブライ語原文では普通に「彼の顔、皮、角が出た」でなんら問題が無く、マソラ本文にもケレーやケティーブの記載は見られないが、他言語に訳す際は「自分の顔が栄光に輝いていた」や単に「自分の顔が輝いていた」と読み替えを行うのが翻訳上のマナーとなっている。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "当然ながらユダヤ教内に向けては、ミドラッシュ(Midrash Tanchuma)にこの個所の註釈として「角」と関連付けた記載が残されている。『また彼はその四隅の上に「角」を作った。それは四本の「角」を通して主を讃美した国に許しを得るため。(出エジプト記:38:2)。その「角」はシナイから来た。そして彼は「角」を高く上げた。彼の民のため(詩編148:14)。トーラーの「角」。「角」は在る、彼の傍に。また隠されている彼の力が(ハバクク3:4)。「祭司の角」についてはこう言われる。またあなたは私の「角」を高く上げた(詩編92:11)。また「王の角」についてはこう言われる。モーセは自分の顔の皮が「角」を出しているのを知らなかった。(出エジプト記34:29)。』", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "モーセと出エジプトをテーマにした音楽は、ヨーロッパにおいて数多く作られた。代表的なものとしては、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの作曲したオラトリオである『エジプトのイスラエル人』や、ジョアキーノ・ロッシーニのオペラである『モイーズとファラオン』(『モーゼとファラオ』、1827年)、アルノルト・シェーンベルクのオペラである『モーゼとアロン』(1930年)などが挙げられる。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "モーセと出エジプトをテーマにした映画も多い。代表的な作品に以下のものがある。", "title": "芸術作品" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "海が割れるエピソードは旧約聖書の中では日本でも比較的有名なエピソードである。このエピソードから転じて、人だかりなどで混雑している場所においてある人物が現れるとその人のために道を一斉に開けて空間ができる様子などを、海が割れている場面に見立てて比喩的にモーセを使うことがある。また、同じ理由で水に強い磁場をかけると分かれることを「モーゼ効果」という。", "title": "比喩・俗用" } ]
モーセあるいはモーゼ、ラテン語、英語読みのモーゼスともは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる、紀元前16世紀または紀元前13世紀ころに活躍したと推測されている、古代イスラエルの民族指導者であり、יהוה(ヤハウェ)を神とする。正教会ではモイセイと呼ばれ聖人とされる。 モーセはユダヤ教・キリスト教・イスラム教およびバハーイー教など多くの宗教において、最重要な預言者の一人とされる。伝統的には旧約聖書のモーセ五書(トーラー)の著者であるとされてきた。 『出エジプト記』によれば、モーセはエジプトにいるヘブライ人家族の子として生まれたが、ファラオがヘブライ人の新生児を殺害することを命じたので、それから逃れるためにナイル川に流され、ファラオの娘に拾われて大切に育てられたという。長じてエジプト人を殺害し、砂漠に隠れていたが、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けた、とされ、エジプトから民を率いて脱出したモーセは民とともに40年にわたって荒野をさまよい「約束の地」にたどり着いたが、(モーセは神の指示を忠実に守らなかった過去があり、約束の土地を目前にして、ヘブライの民はそこに入ることができてもモーセはそこに入ることが神から許されず)約束の地の手前で世を去ったという。
{{Infobox 人物 | 氏名 = モーセ | 画像 = Moses (Michaelangelo - San Pietro in Vincoli - Rome).jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = モーセ像([[ミケランジェロ]]作) | 生年月日 = 紀元前16世紀または紀元前13世紀 | 生誕地 = | 没年月日 = | 死没地 = | 死因 = | 宗教 = | 民族 = [[ヘブライ人]] | 親 = 父:アムラム、母:[[ヨケベド|ヨシャベル]]、養母:ベシア | 家族 = 兄:[[アロン]]、姉:[[ミリアム]] | 配偶者 = [[チッポラ|セフォラ]] }} '''モーセ'''あるいは'''モーゼ'''、[[ラテン語]]、[[英語]]読みの'''モーゼス'''とも({{lang-he|מֹשֶׁה}} モーシェ、{{lang-el|Μωυσής}}、{{lang-la|Moyses}}、{{lang|la|Moses}}、{{lang-ar|موسىٰ}})は、[[旧約聖書]]の『[[出エジプト記]]』などに現れる、[[紀元前16世紀]]または[[紀元前13世紀]]ころに活躍したと推測されている、[[古代イスラエル]]の民族指導者であり、יהוה([[ヤハウェ]])を神とする。[[正教会]]では'''モイセイ'''と呼ばれ[[聖人]]とされる。 モーセは[[ユダヤ教]]・[[キリスト教]]・[[イスラム教]]および[[バハイ教|バハーイー教]]など多くの宗教において、最重要な[[預言者]]の一人とされる。伝統的には旧約聖書の[[モーセ五書]](トーラー)の著者であるとされてきた。 『出エジプト記』によれば、モーセは[[エジプト]]にいる[[ヘブライ人]]家族の子として生まれたが、[[ファラオ]]がヘブライ人の新生児を殺害することを命じたので、それから逃れるために[[ナイル川]]に流され、ファラオの娘に拾われて大切に育てられたという。長じてエジプト人を殺害し、砂漠に隠れていたが、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けた、とされ、エジプトから民を率いて脱出したモーセは民とともに40年にわたって荒野をさまよい「約束の地」にたどり着いたが、(モーセは神の指示を忠実に守らなかった過去があり、約束の土地を目前にして、ヘブライの民はそこに入ることができてもモーセはそこに入ることが神から許されず)約束の地の手前で世を去ったという<ref>[[s:民数記(口語訳)#20:12|民数記(口語訳)#20:12]]</ref><ref>[[s:申命記(口語訳)#34:5|申命記(口語訳)#34:5]]</ref>。 == 旧約聖書における記述 == [[File:Dura Europos fresco Moses from river.jpg|thumb|250px|[[ドゥラ・エウロポス]]の[[シナゴーグ]]から出土した3世紀頃の壁画。モーセがナイル川から拾われる場面を描いている。]] 『旧約聖書』の『出エジプト記』によれば、モーセは[[イスラエル人]](ここではヘブライ人と同じ意味)の[[レビ族]]の父アムラムと、アムラムにとって[[叔母]]にあたる母[[ヨケベド]]との間に生まれ、兄[[アロン]]と姉[[ミリアム]]がいた<ref group="注釈">『出エジプト記』6:19-20。なお、ここではアロンとモーセが双方アムラムとヨケベドの子とされているが、ミリアムについては触れていない。ミリアムの名前が初めて出てくるのは15:20で「アロンの姉妹」名義で登場、通常は2章に出てくる「モーセの姉」と同一人物とされる。<br>また2章でモーセが母の結婚後最初に生まれたような書かれ方をしているのに一貫した話の流れで姉が直後に出てくる(6章は2章と別系統の出典の可能性があるが、ここは並行記事や後世の挿入の可能性が低い。)ことから、「姉」は「異母姉」ではないか?モーセがそばにいる状況でミリアムが「アロンの姉妹」と呼ばれることからミリアムはモーセよりアロンの方が結び付きが強いのではないか?という説もある。<br>([[#関根正雄1969|(関根正雄1969) p.122註三「モーセの誕生(二ノ一-十)」]])</ref>。モーセが生まれた当時、ヘブライ人が増えすぎることを懸念したファラオはヘブライ人の男児を殺すよう命令した<ref>『出エジプト記』1:22</ref>。出生後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、[[パピルス]]の[[かご]]に乗せてナイル川に流された。たまたま水浴びしていたファラオの王女が彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ヘブライ語で「引き上げる」の意味)にちなんで「モーセ」と名づけた<ref group="注釈">この「モーセ(モーシェ)の名前の由来はマーシャーから」は『出エジプト記』2:10の本文中に明記されているが、ヘブライ語の読みであるのでエジプト人が付けるのは不自然なためか、ヨセフスやフィロンなどは本文内の説明ではなく「エジプトの言葉で『'''水'''』をモーウ、『水から助けられた人』をエセース(後述の関根正雄の『出エジプト記』では「モ=水」「ユシェ=救われた」)といい、モーセ(原文はギリシャ読みの「モーセース」)は『'''水'''の中から引き揚げられた人』という意味だ。」という「水」が由来の説明を上げている<br>([[#秦2010|(秦2010) p.48-49]])<br>ただしこれもギリシャ読み前提なので現在は取られない解釈であり、むしろエジプトの言葉にこだわるなら「~の息子」に当たる言葉が語源の方が自然で、著名人の使用例に「アハモーセ」や「トゥトモーセ」といったファラオがおり、意味としては後者の場合「トゥト(神の名)の息子」という意味になる。<br>([[#関根正雄1969|(関根正雄1969) p.122註三「モーセの誕生(二ノ一-十)」]])<br>(注:「トゥトモーセ」は通常日本語では「[[トトメス]]」と訳される。{{Cite web|和書|url=https://ejje.weblio.jp/content/Thutmes|title=Weblio 辞書 > 英和辞典・和英辞典 > 英和対訳 > Thutmesの意味・解説 |accessdate=2019-02-02 }})</ref>。モーセの姉の機転で、実の母親が乳母として王女に雇われることになった<ref>『出エジプト記』2:1-10</ref>。 成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、ヘブライ人を助けようとしたが、はからずもエジプト人を[[殺人|殺害]]してしまう。これが発覚し、ファラオに命を狙われたモーセは逃れてミディアンの地([[アラビア半島]])に住んだ。ミディアンでは[[チッポラ|ツィポラ]]という羊飼いの女性と結婚<ref group="注釈">モーセの妻は資料ごとに出自が違っており『出エジプト記』では前述のようにミディアン人のツィポラだが、『民数記』12:1ではアロンとミリアムが「モーセがクシュの女を娶っている」ことを言う場面があり、『士師記』1:16ではイスラエルの民と行動を共にしていた集団に「モーセの舅であるケニ人の子孫」なる記述がある。<br>ヨセフスは「クシュ人」はツィポラと別のモーセがエジプトにいた時の妻だと解釈([[#聖典関連以外|後述]])し、士師記に当たる部位の「ケニ人」の下りはミディアン人として書き直している。</ref>し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日「燃える柴」のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在の[[パレスチナ]]周辺)へと導く使命を受ける。神は、みずからを「わたしはある者」と名乗り<ref>『出エジプト記』2:11~3:21</ref>、イスラエルの民は代々יהוה(ヤハウェ)という名前で呼ぶようにと言った。 モーセはイスラエル人から『יהוה(ヤハウェ)はあなたに現れなかった』と言われた場合(つまり、預言者であることに疑義をとなえられた場合)に備え、3つのしるしを与えられた、とされる。「杖が蛇になる」「手が癩病(レプラ)で雪のように白くなる<ref group="注釈">このしるしのみモーセがファラオに対し使用する場面がない。なお、ギリシャ語訳聖書では「レプラ」の記述がなく「雪のように白く」、これを元にしたヨセフスはさらに「石灰岩のように白く」としている。([[#秦2010|(秦2010) p.97]])</ref>」「ナイル川の水が血に変わる」である<ref>『出エジプト記』4:1-9</ref><ref>『出エジプト記』7:8-25</ref>。 [[File:Rembrandt - Moses with the Ten Commandments - Google Art Project.jpg|263x263px|thumb|『[[十戒の石板を破壊するモーセ]]』([[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]の絵画)。]] エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会いヘブライ人退去の許しを求め、前述のしるしの1つ「杖が蛇になる<ref group="注釈">原語では杖が変わったものは第4章3節では「蛇」だが、この第7章では第4章の物とは別の単語で、直訳すると「大きな爬虫類」という意味になる。このため「(大きな)蛇」でも一応成り立つが「鰐」とも訳せる。<br>([[#関根正雄1969|(関根正雄1969) p.133註10「アロンの杖(七ノ八-十三)」]])</ref>」を使って自分の杖を蛇にして見せたが、ファラオの配下の魔術師たちもその程度はできたのでファラオは驚かず、アロンの杖の蛇が他の蛇を食ってしまったことで一応勝ったものの、ファラオは拒絶し、許可を出さなかった。 そのためモーセは次のしるし「ナイル川の水が血に変わる」を使い、これを始めに[[十の災い]]がエジプトにくだり、最後にはファラオの息子を含めてすべてのエジプトの初子が無差別に殺害された<ref>『出エジプト記』12:29</ref>。ファラオはここにいたってヘブライ人たちがエジプトから出ることを認めた。エジプト出発の夜、人々は神の指示通り、子羊の肉と[[酵母]]を入れないパン(「[[種無しパン|タネなしパン]]」([[マッツァー]]))を食べた。[[神]]はこの出来事を記念として行うよう命じた<ref>『出エジプト記』12章</ref>(これが今もユダヤ教徒が祝う「[[過越]]祭」の起源であり、聖書では[[キリストの磔刑|イエスの十字架上の死]]の予兆とされる)。ヘブライ人がエジプトを出ると、ファラオは心変わりして[[チャリオット|戦車]]と騎兵からなる軍勢を差し向けた。葦の海に追い詰められ、絶体絶命の状況に陥った。これに対し、奴隷的な状態のままであってもエジプトにいた方がよかったと不平をもらす者もいたが、モーセが手にもっていた杖を振り上げると、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができた、とされ、しかし後を追って葦の海を渡ろうとしたファラオの軍勢は海に沈んだ、とされる<ref>『出エジプト記』14章</ref>。 その後、モーセは民と共に苦しい荒れ野の旅を続ける。人々は水や食べ物のことでしばしばモーセに不平をいい、モーセはそのたびに水や食べ物を与えて神の力を示した。このとき、神から与えられたとされる、荒野で夜毎に現れる、まるで蜜入りのウェファースのような味の白い(謎の)食料を食べて民たちはしのぎ、人々はその(謎の)食料を「[[マナ (食物)|マナ]]」と呼んだ<ref>『出エジプト記』16章~17章</ref>、とされる。やがて人々が[[シナイ山]]に近づくと、יהוה(ヤハウェ)が山上に現れ、モーセは山に登って[[モーセの十戒|十戒]]を受けた<ref>『出エジプト記』20章</ref>、とされる。さらに[[神]]はヘブライ人と契約を交わした、とも<ref>『出エジプト記』24章</ref>。『出エジプト記』のモーセに関する記述はこれで終わり、後半部(20章~40章)は守るべき掟と儀式に関する詳細な規定の記述に費やされている。 続く『[[レビ記]]』『[[民数記]]』『[[申命記]]』ではさらに詳細な律法の内容が語られ、その合間にモーセの生涯とヘブライ人たちの歩みとについて記している。申命記27章等によれば、[[モーゼ]]は[[イスラエル_(民族)#古代イスラエル12支族|12支族]]に命じてイスラエルの民に既存の[[偶像崇拝|偶像]]を廃棄させ、[[ユダヤ教]]を広めて[[十分の一税]]を課した。 また、モーセは石版を入れた『[[契約の箱]]』を先頭にシナイ山を出発し<ref>『民数記』10:33</ref>、約束の国を目指してカナンを進んだ。その途上では不平を言う民がいたり、モーセとアロンへの反逆が行われたり<ref>モーセ以外全員処刑宣言([[s:民数記#14:11|民数記#14:11,12]])</ref><ref>40年間荒野をさまよう事に([[s:民数記#14:34|民数記#14:34,35]])</ref><ref>『民数記』16章</ref>したため、その行為を行った民を罰する為に神が炎の蛇を送り、多くの死者が出たりもした。民はモーセに謝罪、懇願し、それをみた神がモーセに[[青銅の蛇]]を示して民を救った出来事などがあった<ref>『民数記』21:4-9</ref>。人々はカナンの人々と戦いを繰り返し、アモリ人らを撃ち、全軍を滅ぼした<ref>『民数記』21:21-35</ref>。さらにミディアン人たちを撃つなど戦いを続けた<ref>『民数記』31:1-24</ref>。 モーセ五書の最終巻にあたる『申命記』ではモーセの最期が描かれている。メリバの泉で岩を打って水を出し<ref>『出エジプト記』17:1-7</ref>、その後にもう一度水不足が訪れたときに岩に命じるようにとの命令であったのにもう一度岩を打ったため<ref>『民数記』20:2-13</ref>、約束の国に入ることを許されず<ref>『申命記』32:51</ref>、ヨルダン川の手前でピスガの頂[[ネボ山 (ヨルダン)|ネボ]]に登り、約束された国を目にしながらこの世を去った。120歳であった<ref>『申命記』34章</ref>。モーセはモアブの谷に葬られたが、その場所は誰も知らないとされている<ref>『申命記』34:6</ref>。 モーセの死後、その従者であったヌンの子[[ヨシュア]]《יהוה(ヤハウェ)は救いの意味》が後継者となり、יהוה(ヤハウェ)の民を導いた<ref group="注釈">『申命記』34:9、以下文語訳聖書より引用「ヌンの子ヨシユアは心に智慧の充る者なりモーセその手をこれが上に按たるによりて然るなりイスラエルの子孫は之に聽したがひ主のモーセに命じたまひし如くおこなへり」(申命記34:9)、「主の僕モーセの死し後 主、モーセの從者ヌンの子ヨシユアに語りて言たまはく わが僕モーセは已に死り然ば汝いま此すべての民とともに起てこのヨルダンを濟り我がイスラエルの子孫に與ふる地にゆけ」(ヨシュア記1:1-2)</ref>。 == イスラム教における扱い == {{See also|en:Islamic view of Moses}} {{See also|聖書の説話とクルアーンの関係#モーセ( موسى ムーサー)}} [[File:Musa with a cane in his hand.jpg|180px|thumb|手に杖をもつムーサー(モーセ)([[15世紀]][[ペルシア]]の[[細密画]])。]] 『[[クルアーン]]』(コーラン)では[[アラビア語]]でムーサー (موسى Mūsā) と呼ばれる。イスラム教の聖典『クルアーン』では、モーセすなわちムーサーは過去の預言者のひとりにして、[[ユダヤ教徒]]の[[共同体]]に[[神]]([[アッラーフ]])から使わされた[[使徒]]として登場する。ムーサーは『クルアーン』においてムハンマドを除く諸預言者の中では{{要出典範囲|最も偉大|date=2012年8月}}な預言者であるとみなされており、[[ムスリム]](イスラム教徒)はムーサーを「神と語る者(カリームッラーフ)」と尊称する<ref name="名前なし-20230316105622">「モーセの生涯」(「知の再発見」双書108)p89 トーマス・レーメル著 矢島文夫監修 遠藤ゆかり訳 創元社 2003年7月10日第1版第1刷発行</ref>。 ムーサーの名は『クルアーン』中において非常に多くの個所で言及され、特に、第28[[スーラ (クルアーン)|章]]である「[[物語 (クルアーン)|物語(アル・カサス)]]」は全編がムーサーの物語になっている。『クルアーン』によれば、ムーサーはエジプトで生まれ育ち、のちに「聖なる谷」で神の声を聞いて預言者となった。また、兄ハールーン(アロン)もムーサーを補佐するための預言者とされる。ムーサーとハールーンはエジプトのファラオに唯一なる神を信仰するよう求め、神の偉大さを伝えるために杖を蛇に変えるなどの[[奇蹟]]を示すが、ファラオに拒絶されたためにイスラエルの民を連れてエジプトを離れた。出エジプト物語は『聖書』と基本的に同じであり、シナイ山(アラビア語ではムーサー山と呼ばれる)で、ユダヤ教徒に対して与えられた啓典であるトーラー(律法)を神から授かったという。 クルアーンのムーサーの物語では、ユダヤ教徒たちがムーサーの言うことを聞かず、時に[[偶像]]をあがめたことについて非常に詳細に言及されており、このようなクルアーンの、正しい神に選ばれた使徒ムーサーに従わないユダヤ教徒に対する批判的な言及が、歴史的なムスリムによるユダヤ教徒に対する差別心、敵意の原因のひとつとなったと指摘されることも多い。 ムーサーはイスラム教において[[ノア (聖書)|ノア]](ヌーフ)、[[アブラハム]](イブラーヒーム)[[イエス・キリスト|イエス]](イーサー)、[[ムハンマド]]と共に'''五大預言者'''のうちの一人とされる<ref>「人名から読み解くイスラーム文化」p91 梅田修 大修館書店 2016年8月10日初版第1刷</ref>。また、ムーサーという名はムスリムに好まれる男性名のひとつとなっている<ref>「人名から読み解くイスラーム文化」p82,91 梅田修 大修館書店 2016年8月10日初版第1刷</ref>。 クルアーンには上記のような、基本的には聖書と同一の記載だけでなく、ユダヤ・キリスト教には全く類似の話のない、クルアーンのみに書かれたムーサーの記述も存在する<ref>「モーセの生涯」(「知の再発見」双書108)p120 トーマス・レーメル著 矢島文夫監修 遠藤ゆかり訳 創元社 2003年7月10日第1版第1刷発行</ref>。クルアーンのみに記載のあるものとして、第18章である[[洞窟 (クルアーン)|洞窟(アル・カハフ)]]には、ムーサーが従者を連れ賢者アル・ハディル(アル・ヒドゥル)に会いに行き、彼の行動を通して神の摂理を知る物語がある<ref name="名前なし-20230316105622"/><ref>「人名から読み解くイスラーム文化」p91-92 梅田修 大修館書店 2016年8月10日初版第1刷</ref>。 == トーラーの記者として == 『創世記』からはじまって、『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』までの『[[ヘブライ語聖書|ヘブライ聖書]]』(キリスト教では『旧約聖書』)の最初の五書は、総称して「モーセ五書」と呼ばれてきた。[[新約聖書]]にイエス・キリストがモーセを聖書記者として言及している聖句があり、[[聖書信仰]]に立つ[[福音派]]の教会ではモーセをモーセ五書の記者として認めている<ref>『[[新聖書辞典]]』</ref><ref>[[尾山令仁]]『聖書の概説』羊群社</ref>。 これらは聖書自身の記述と古代からの伝承によってモーセの手によるものとされてきたが、[[ユリウス・ヴェルハウゼン]]らの[[文書仮説]]を支持するものはそれに反対する。福音派にはこれらの主張を「信仰の敵」と呼ぶものもいる<ref>ケアンズ『基督教全史』[[聖書図書刊行会]]</ref>。「モーセ五書」の別称は「トーラー」であり、日本語訳では「律法」とされることが多い。トーラーの原義は「指針」ないし「方針」である<ref>[http://www.salvastyle.com/data/theme_01_01.html 旧約聖書-モーセ五書(律法)]-サルヴァスタイル美術館</ref>。 == 人物像 == モーセの性格として[[不寛容]]と無慈悲の側面も指摘される。例えば『[[民数記]]』31章にはよれば[[イスラエル人]]が[[ミデヤン人]]を滅ぼし男を虐殺したとき、兵士たちがミデヤンの民に慈悲を示し、子どもと[[寡婦]]を生かして連れてきたことにモーセは怒り、男児と男を知った女を殺すことを命じ、[[処女]]の娘たちを兵士に報酬として分け与えている<ref> [https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/ot/num/31?lang=jpn 「民数記31」『末日教徒イエス・キリスト協会』]</ref><ref name="Shectman">{{Cite book|last=Shectman|first=Sarah|date=2009|title=Women in the Pentateuch: A Feminist and Source-critical Analysis|url=https://books.google.com/books?id=elUeQSPk19MC&pg=PA165|location=Sheffield|publisher=Sheffield Phoenix Press|page=165|isbn=9781906055721|accessdate=2021-5-14}}</ref>{{refn|[[Tetragrammaton|Yahweh's name]], written as 'YHWH' in the Hebrew Bible, has traditionally been rendered in English as ''the {{Lord}}'' (''Adonai'') or ''God'' by Jews and Christians. See [[Names of God in Judaism]] and [[Names of God in Christianity]].|group="注釈"}}。2014年[[ISIL]](イスラム国)が奴隷制度を復活し、占領地の女性を兵士たちに報酬として与えたとき、旧約聖書の記述が正当性の根拠として用いられている<ref>高山正之「変見自在」『[[週刊新潮]]』2019/2/7号</ref>。 == 聖典関連以外 == [[フラウィウス・ヨセフス]]の『[[ユダヤ古代誌]]』第II巻第X章では、出エジプト記の第2章10節と11節<ref group="注釈">ただし、『ユダヤ古代誌』ではこの出エジプト記2章11-15節に該当するエピソードがなく、エチオピア遠征のあと妬まれたので逃げたことにされている。</ref>の間付近に入るエピソードとして「モーセはエジプト軍の指揮官としてエチオピア攻略で活躍し、彼の強さを認めたエチオピアの王女タルビスは和平交渉をして彼の妻となった。」というものが書かれている。 モーセの実在と[[出エジプト記|出エジプト]]の物語の信憑性は、考古学的知見、歴史的知見、紅海の海底調査の結果<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=SxShty5P6DY |title=#1 ドキュメンタリー「シナイの砂漠と出エジプトの道筋」日本語字幕 |publisher=サンライズミニストリー |date=2012-07-04 |accessdate=2017-09-27}}7:30以降</ref>、[[カナン]]文化における関連する[[創設神話|起源神話]]などから[[考古学|考古学者]]および[[エジプト学|エジプト学者]]、[[聖書批評学]]者の間では疑問視する人々が多い<ref>{{Cite web|url=http://press.princeton.edu/titles/5036.html |title=Princeton University Press Press Reviews, retrieved 6th June 2009 |publisher=Press.princeton.edu |date=2011-11-06 |accessdate=2012-04-03}}</ref><ref>''The Quest for the Historical Israel: Debating Archeology and the History of Early Israel'', 2007, Society of Biblical Literature, Atlanta, ISBN 978-1-58983-277-0.</ref><ref>John Van Seters, "The life of Moses", ISBN 90-390-0112-X</ref>。その他の歴史学者は、モーセに帰せられる伝記の詳細さとエジプトの背景は、[[青銅器時代]]の終わりに向かう[[カナン]]における[[イスラエル (民族)|ヘブライ]]部族の統合に関わった歴史的、政治的、宗教的指導者が実在したことを暗示していると擁護している。 エジプト側に残るモーセに関する物語と関連するものとして、エジプトの神官[[マネト]]による記録の[[ヨセフス]]の引用がある。それによれば、[[アメンホテプ3世]]が地を清めるためにと皮膚病患者を隔離した際、'''オサルシフォス'''(Osarseph)<ref>[[#秦2010|(秦2010) p.48]]</ref>という[[ヘリオポリス]]の祭司が皮膚病患者の一団の監督者となった。皮膚病患者たちはかつての[[ヒクソス]]が首都を置いた{{仮リンク|アヴァリス|en|Avaris}}に収容され、オサルシフォスはエジプトで禁じられているあらゆることを指示し、エジプトで許されているあらゆることを禁じた。さらにヒクソスを国に引き入れてエジプトを再征服し、13年間彼らと統治した。最終的にエジプトの地を追い出されるが、オサルシフォスはモーセの名を名乗る<ref>Jan Assmann, Moses the Egyptian: The Memory of Egypt in Western Monotheism, Harvard University Press, 2009 pp.31-34.</ref>。 この物語は[[出エジプト記]]とは異なっているが、いくつかの共通点があり、例えば、エジプトに災いをもたらすモーセという名の宗教指導者が存在したこと、エジプト北方に勢力を持った西アジア系移民が存在したこと<ref>創世記46章33-34節</ref>、その異分子は[[ヘリオポリス]](オン)の宗教指導者と近しい関係を築いていたこと<ref>創世記41章45節</ref>、皮膚病を利用したこと<ref>出エジプト記4章6-8節</ref>、エジプト人と異なる法を敷いたこと、そしてエジプトの地から出たこと、などが挙げられる。 なお、この話自体はヨセフスの時代の頃それなりに広まっていたものであるが、ヨセフス自身を含む大半のユダヤ人からはこれと結びつけることはモーセを侮辱するものだと考えられて<ref group="注釈">ヨセフスの著書の『[[ユダヤ戦記]]』では、ユダヤ戦争勃発の直前にカエサリアで起きたギリシャ系とユダヤ系の住民同士の大規模な喧嘩の発端が「ギリシャ系住民が間接的にこの件でシナゴーグの近くでモーセを侮辱することをしたので血の気の多いユダヤ系住民がキレて乱闘が起きた」という趣旨の説明がある。</ref>おり、前述のヨセフスの引用(『アピオーンへの反論』第2章229節)では引用しつつも書き手のマネト(原文は「マネトーン」)たちにレプラ患者と自分たちの先祖を一緒にするなと反論しており、別の著書の『ユダヤ古代誌』(第III巻11章3-4節)ではレビ記13章の記述から引用(一部改竄<ref group="注釈">引用元の『レビ記』13章では「レプラ(ヘブライ語では「[[ツァーラアト]]」)患者は宿営の外に隔離される(第13章46節)」だが、『ユダヤ古代誌』でも「町から追放されて他人との交渉は許されず一個の死体のように扱われる」とより厳しい記述になっている。([[#秦2010|(秦2010) p.228-233]])</ref>)しつつも「レプラ患者にこんなに厳しく扱うモーセが患者自身であるはずがなかろう」という趣旨の反論をその後にわざわざ書いている。 == 芸術作品 == === 絵画・彫刻 === キリスト教美術においてはモーセは通常老人の姿に描かれることが多い。 中世ヨーロッパ美術においては、[[ミケランジェロ]]の彫刻や[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]の絵画にみられるごとく、モーセはしばしば角のある姿で描かれるが、この理由には二つの説がある。一つは、[[ヴルガータ|ヴルガタ訳]]の描写をもとにしたためだというものである(『出エジプト記』 34:29-30, 35)。元来、[[ヘブライ語]]には[[母音]]を表す文字が存在せず、ヘブライ語で「角」を意味する語は「輝く」という意味にも解釈可能であり、現在の『聖書』翻訳では一般に後者の意味で訳出されている。もう一つの説は、ヴルガータとは関係なく、モーセの顔が光り輝くのを角のような形で表現したというものである。フランスの[[美術史家]][[エミール・マール]]は後者の説をとり、最初[[典礼劇]]でそのような表現がなされたものが絵画や彫刻にも影響を与えたと考えている<ref>エミール・マール『ロマネスクの図像学 上』田中仁彦・池田健二・磯見辰典・成瀬駒男・細田直孝共訳、[[国書刊行会]]、1996年11月20日初版、ISBN 4-336-03891-0、p220-221</ref>。一方、日本の[[尾形希和子]]は前者の説をとりつつも、12世紀から13世紀の[[イングランド王国|イングランド]]の[[教会法]]学者{{仮リンク|ティルベリのゲルウァシウス|en|Gervase of Tilbury}}の著書中に「モーセの角の生えた顔とは、すなわち彼の顔から輝く光が出ていたから<ref>尾形希和子『教会の怪物たち ロマネスクの図像学』[[講談社選書メチエ]]、2013年12月10日、ISBN 978-4-06-258568-2、p118~119</ref><ref group="注釈">ティルベリのゲルウァシウス『西洋中世奇譚集成 皇帝の閑暇』([[池上俊一]]訳、[[講談社学術文庫]]、2008年7月10日初版、ISBN 978-4-06-159884-3)では「つまり、讃嘆すべき光がその顔から(角状に)発して、かれを見つめる者の目を眩ませる」(p241)</ref>」とあるのを紹介している。他の中世人の著作を見ると、[[クレルヴォーのベルナール]]『雅歌講解』にも件の場面でモーセの顔が光り輝いたということを前提としている記述がある<ref>『キリスト教神秘主義著作集2 ベルナール』[[金子晴勇]]訳、[[教文館]]、2005年12月16日、p62</ref>。 ==== 異説 ==== 聖書学者の[[関根清三]]は著書<ref>関根清三『旧約聖書の思想――24の断章』(講談社学術文庫、1998年9月18日)</ref>において、そもそも出エジプト記の該当箇所は「角のある」と解釈するのが正しいのだと主張している。 {{Quotation| 「光り輝いている」と訳したヘブライ語はカーランという動詞で、用例が「角のある」という意味であることは確かである。カーランはケレンという名詞の派生語と思われるが、名詞の用例はたくさんあって、その意味が「角」であることははっきりしており、牛との関連で使われている詩篇の動詞形の意味も「角のある」といったあたりに自ずと定まるからである。 そこで出エジプト記の方のカーランも、旧約のラテン語訳・ヴルガータではこれと呼応してcornutus(角のある)と訳しているのである。それに対し、ギリシア語訳・セプトゥアギンタ(七十人訳)はdedoxastai(光り輝いた、栄光化された)と意訳した。 近代の翻訳も日本語訳を含め、「顔の肌」から角が生えるというのはそれこそ面妖であるので、みなセプトゥアギンタの方にしたがっているのである。 }} なお、[[コルヌコピア|牛や山羊や羊や鹿などの角]]は「豊穣=富と子孫繁栄の象徴」であり、([[ギョベクリ・テペ]]の遺跡などから推測されるに、おそらく紀元前1万年の)太古より、[[ユーラシア大陸]]の各地に、豊穣神たる「角を生やした(主に牛の)神、[[有角神]]」への信仰があり、儀式の際に角の被り物をするなど、カーランを「角のある」と解釈することは、むしろ正統な発想である。異形なる角は、善(神)であれ悪(悪魔)であれ、人を超えた神聖な存在、権威ある者、であることを示す表現方法なのである。 ==== 異説 追記 ====  問題の個所<ref name="名前なし-20230316105622-2">出エジプト記34:29</ref>のヘブライ語原文は“קָרַ֛ן ע֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav)のたった三語であり、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)、“עֹ֥ור”(owr:オール:皮)、“פָּנָ֖יו”(panav:パナヴ:彼の顔)である。直訳は「彼の顔、皮、角が出た」である。  七十人訳ギリシア語聖書では“δεδόξασται ἡ ὄψις τοῦ χρώματος τοῦ προσώπου ”「自分の顔が栄光に輝いていた」<ref name="名前なし-20230316105622-3">(秦剛平”七十人訳ギリシア語聖書”P349)</ref>と訳している。(直訳は「彼の顔の色の状態が栄誉となった」である)  七十人訳ギリシア語聖書では上記の通りヘブライ語原文にはあるはずの“ע֥וֹר ”(owr:オール:皮)が見られず、「色の様子」となり、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)は「栄誉となった」、「誉(ほまれ)となった」と訳されている。(実はヘブライ語の「角が出る」を、ギリシャ語でも「輝く」とは訳していないのが分かる)  ヘブライ語聖書(マソラ本文)と七十人訳ギリシア語聖書に共通に記載がある1単語“פָּנָ֖יו”(panav:パナヴ:彼の顔)“προσώπου αὐτοῦ”を除けば、残るはヘブライ語は2単語、“קָרַ֛ן ע֥וֹר”(karan owr:カラン オール:「皮、角が出た」)となり、これが“δεδόξασται ἡ ὄψις τοῦ χρώματος ”「栄光に輝いていた」<ref name="名前なし-20230316105622-3"/>と訳されていると整理できる。このギリシャ語訳の“δεδόξασται”(dedoxastai:デドクサスタイ)は、本来ヘブライ語の“כָּבֵד”(kabed:重くなる。重んじる。尊ぶ。栄誉となる)<ref>谷川政美”聖書ヘブライ語日本語辞典”ミルトス P410</ref>の訳語として使われる単語<ref>Hatch&Redpath"concordance to the Septuagint"δοξὰζειν P343</ref>であり、「栄誉となる」までは良いが「物理的に光る」という意味では本来ギリシャ語としても使われない単語である。そもそも日本語の「栄光」も物理的に「輝く」という意味は本来ない。  ところでヘブライ語原文から「彼の顔が輝いていた」や「彼の顔が栄光に輝いていた」と読むのは簡単であり“קָרַ֛ן ע֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav:カラン オール パナヴ)「彼の顔、皮、角が出た」と普通に「音読」すると、文脈から同じ発音の“קָרַ֛ן א֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav:カラン オール パナヴ)「彼の顔、光、角が出た」や「彼の顔、輝き、抜きん出ていた(突出している)」と聞こえる。つまり自然に「皮」という単語が「光」や「輝き」に聞こえるためである(וֹ : holam on vavの発音はオ)。  これは“עוֹר”(owr:オール:皮)と“אוֹר”(owr:オール:光)の両者とも3人称男性単数名詞で、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)もパアル態完了形3人称男性単数形であり、動詞との性数が一致しているためである<ref>"ヘブライ語聖書対訳シリーズ4 出エジプト記2"ミルトス P148</ref><ref>Owens "Analytical key to the old testament" P396</ref>。文字を見なければどちらかは分からない。原文にある“עוֹר”(owr:オール:皮)はヘブライ語聖書の中では99回使用され、動物の「皮」という意味で使われる一般的な単語であるが<ref>“כָּתְנ֥וֹת ע֖וֹר”kotnot owr:コトゥノット オール:皮の衣 Ref.“創世記3:21”)</ref><ref>"ヘブライ語聖書対訳シリーズ1 創世記1"ミルトス P36</ref>、同音として聞こえる“אוֹר”(owr:オール:光)の方も創世記1:3の“יְהִ֣י א֑וֹר”(yehi owr:イェヒー オール:「光あれ」)でも使われる更に一般的な単語(165回)である。  つまりヘブライ語で「彼の顔、皮、角が出た」と「彼の顔、光、角が出た」、「彼の顔、輝き、抜きん出ている(突出している)」という「音」は、どれも(karan owr panav:カラン オール パナヴ)で同じである。著者が修辞学的な技法として意図的に両方の意味を持たせた「掛詞(かけことば)」であった可能性も否定できないが、但し原文は「彼の顔、皮、角が出た」である。一方でシナゴーグなどの朗読で聴衆が音として聞こえてしまう方の主たる意味は、使用頻度からは統計学上「皮/肌:owr(99回)」ではなく「光/輝き:owr(165回)」となってしまい「光、角が出た」や「光、突出してた」であるため、かなり分かりやすい「掛詞(かけことば)」であった可能性は否めない。但し“קָרַ֛ן”(karan)自体は「角が出る」の意味のままであることが分かる。  この七十人訳ギリシア語聖書のこの個所、“ע֥וֹר ”(owr:オール:皮膚)付の“קָרַן”(karan:カラン:角が出る)の翻訳例を根拠として現代の訳語「輝く」が成立しているが、当の七十人訳ギリシア語聖書でも「物理的に輝く」と訳しているかといえば上記の通り実はそうでもない(直訳は「彼の顔の色の状態が栄誉となった」である)。このような用例は、七十人訳ギリシア語聖書のこの個所からくる例外的で伝統的な訳として辞書に掲載されているものの<ref>(谷川政美”聖書ヘブライ語日本語辞典”ミルトス P970)</ref>、ヘブライ語聖書全体で94個所使用されている“קרן”(karan:カラン:角が出る)が「輝く」と訳される場合があるのは、ユダヤ教側としては“עוֹר”(owr:オール:皮)を伴うこの個所だけとされている。<ref>(P1036 "אברהם אבן־שושן "קונקורדנציה חדשה )</ref>つまり“אוֹר”(owr:オール:光)と同音の“עוֹר”(owr:オール:皮)を伴った熟語の場合のみに限定される。  つまりこのことから“קָרַ֛ן ע֥וֹר פָּנָ֖יו”(karan owr panav)「彼の顔、皮(owr)、角が出る」を「彼の顔の肌(皮:owr)が栄光に輝いていた(karan owr)」や、「彼の顔の肌(皮:owr) が輝いた(karan owr)」としてしまい、「肌(皮):owr」と「輝き:owr」の両方を用いてこの個所を再帰的に訳してしまうと、「owr」が冗長に訳されてしまう可能性があり、この訳は本来は適切な翻訳ではない可能性がある。証拠に上記は七十人訳ギリシア語聖書の用例を根拠に翻訳したはずが、七十人訳ギリシア語聖書の訳と異なる結果となっている。七十人訳ギリシア語聖書の用例を根拠にして“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)を「輝く」や「栄光に輝く」と訳すのであれば、正確にはこの個所は「皮:owr」を消し、単に「彼の顔が栄光に輝いていた」<ref name="名前なし-20230316105622-3"/>とするか、「皮:owr」の訳を入れるのであれば「輝く」ではなくて「角が出た」(ウルガータ訳“cornuta esset”3単接未完過)とするかであり、“קָרַ֛ן”(karan:カラン:角が出た)の訳語の成立過程からして、ヘブライ語からの翻訳は正確には本来はそのどちらかになる。  ではどちらに訳したら正しいのかということになるが、もし著者がこの個所を「掛詞(かけことば)」を意図していたとする場合は、使用された言語以外の言語で「掛詞(かけことば」を正確に訳すのは困難であり、翻訳者はどちらかの意味を選択して訳しても、誤訳の指摘を免れない可能性があるということになる。この場合、どちらが正しいか、間違っているかの議論はあまり意味がない。この部分の原文ヘブライ語の面白さを、説明的に訳したところで、今度はそれは翻訳の域を出てしまうということになる。  ところで七十人訳ギリシア語聖書の翻訳者が、「皮、角が出た」ではなく「栄光に輝いた」と翻訳した事の理由は明確である。皮に角が出る皮膚病は良く知られており(老人性角化症、日光性角化症、脂漏性角化症、角化型疥癬など)、肌の角質が増殖する症状である。七十人訳ギリシア語聖書は本来プトレマイオス2世の命により、エジプトの反ユダヤ的な歴史家マネトンへの反論の機会が与えられて翻訳されたものであり、モーセが皮膚病になったと言う個所を全て、あくまでもヘレニズム社会に向けて誤解が無い表記に変える目的があるため、出エジプト記4:6の翻訳例に準拠して翻訳しているだけである。出エジプト記4:6では顔ではなくモーセの「手」が「重い皮膚病になって雪の様に白くなっていた」<ref>フランシスコ会聖書研究所「聖書」出エジプト記4:6,P122</ref>が原文だが、七十人訳ギリシア語聖書ではモーセの「手」が「雪のようになった」<ref>(秦剛平”七十人訳ギリシア語聖書”P884(5)</ref>となり、同様な手法で皮膚に関する訳が消され「輝く物」として訳されている。<ref>ヨセフス”アピオーンへの反論”1:299、1:304</ref><ref>ヨセフス”古代誌”2:273)</ref>  角化症の中でも日光性角化症は紫外線の影響の蓄積により高齢者の顔に出やすく、「彼の顔、皮、角が出た」<ref name="名前なし-20230316105622-2"/>の直後には「モーセが主と語るために主の前に行くとき、彼はその覆いを外に出てくるまで外していた」<ref>“新改訳2017”出エジプト記34:34</ref>との追記があり、この皮膚の状態になった原因が、山頂において、日光(owr)や神に対して顔を露出していた事が原因であり、他が原因でこの皮膚の状態になったのではなく「栄誉」の証拠である可能性についての説明が添えられているのは興味深い。  このことからユダヤ教側でも歴史的にヘブライ文化圏以外の人に対して、ヘブライ語以外の言語に聖書を翻訳する際は、モーセに対する誤解が無いように慎重に「輝く」という訳を当てる習慣(ダブルスタンダード)になっている。<ref>(“the skin of his face was radiant" ref.“Jewish Edition Global Impact Bible”P118,The Jewish Publication Society )</ref>。整理するとヘブライ語原文では普通に「彼の顔、皮、角が出た」でなんら問題が無く、マソラ本文にもケレーやケティーブの記載は見られないが、他言語に訳す際は「自分の顔が栄光に輝いていた」や単に「自分の顔が輝いていた」と読み替えを行うのが翻訳上のマナーとなっている。  当然ながらユダヤ教内に向けては、ミドラッシュ(Midrash Tanchuma)にこの個所の註釈として「角」と関連付けた記載が残されている。『また彼はその四隅の上に「角」を作った。それは四本の「角」を通して主を讃美した国に許しを得るため。(出エジプト記:38:2)。その「角」はシナイから来た。そして彼は「角」を高く上げた。彼の民のため(詩編148:14)。トーラーの「角」。「角」は在る、彼の傍に。また隠されている彼の力が(ハバクク3:4)。「祭司の角」についてはこう言われる。またあなたは私の「角」を高く上げた(詩編92:11)。また「王の角」についてはこう言われる。モーセは自分の顔の皮が「角」を出しているのを知らなかった。(出エジプト記34:29)。』<ref>(Midrash Tanchuma)</ref> === 音楽 === モーセと出エジプトをテーマにした音楽は、ヨーロッパにおいて数多く作られた。代表的なものとしては、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]の作曲した[[オラトリオ]]である『[[エジプトのイスラエル人]]』や、[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]の[[オペラ]]である『[[モイーズとファラオン]]』(『モーゼとファラオ』、1827年)、[[アルノルト・シェーンベルク]]のオペラである『[[モーゼとアロン]]』(1930年)などが挙げられる<ref>「モーセの生涯」(「知の再発見」双書108)p90-91 トーマス・レーメル著 矢島文夫監修 遠藤ゆかり訳 創元社 2003年7月10日第1版第1刷発行</ref>。 === 映画 === モーセと出エジプトをテーマにした映画も多い。代表的な作品に以下のものがある。 *[[セシル・B・デミル]]監督による『[[十誡 (映画)|十誡]]』([[1923年]]。モーセ役は[[セオドア・ロバーツ]]。) *セシル・B・デミル監督による『[[十戒 (映画)|十戒]]』([[1956年]]。1923年作品のセルフリメイク、[[アカデミー賞]]特殊効果賞受賞作。モーセ役は[[チャールトン・ヘストン]]。) *[[ブレンダ・チャップマン]]監督による『[[プリンス・オブ・エジプト]]』([[1998年]]。[[アニメーション]]作品。モーセ役の声は[[ヴァル・キルマー]]。) *[[リドリー・スコット]]監督による『[[エクソダス:神と王]]』([[2014年]]。モーセ役は[[クリスチャン・ベール]]。) == 比喩・俗用 == 海が割れるエピソードは旧約聖書の中では日本でも比較的有名なエピソードである。このエピソードから転じて、人だかりなどで混雑している場所においてある人物が現れるとその人のために道を一斉に開けて空間ができる様子などを、海が割れている場面に見立てて比喩的にモーセを使うことがある。また、同じ理由で水に強い磁場をかけると分かれることを「[[反磁性#モーゼ効果|モーゼ効果]]」という。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=関根正雄|year=1969|title=旧約聖書 出エジプト記|publisher=岩波書店|isbn=4-00-338012-6|ref=関根正雄1969}} * {{Cite book|和書|author=フラウィウス・ヨセフス|authorlink=フラウィウス・ヨセフス|translator=秦剛平|title=ユダヤ古代誌1(旧約時代篇[I][II][III][IV]巻)|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-48008-531-3|year=1999|ref=ヨセフス1999}} * {{Cite book|和書|author=ジークムント・フロイト|authorlink=ジークムント・フロイト|translator=[[渡辺哲夫]]|date=2003-09|title=モーセと一神教|publisher=ちくま学芸文庫|isbn=978-4480087935}} * {{Cite book|和書|author=浅野典夫|date=2009-08|title=ものがたり宗教史|publisher=[[筑摩書房]]|series=ちくまプリマー新書|isbn=978-4-480-68820-0}} * {{Cite book|和書|author=秦剛平|authorlink=秦剛平|year=2010|title=書き換えられた聖書 新しいモーセ像を求めて|publisher=京都大学学術出版会|isbn=978-4-87698-850-1|ref=秦2010}} == 関連項目 == {{Commonscat|Moses (Biblical figure)}} * [[聖書の登場人物の一覧]] * [[ユダヤ教]] * [[過越]] * [[ナビー・ムーサー]] - アラビア語で預言者モーセという意味の地名であり、同名のムスリムによる祭祀と巡礼の名前。[[聖金曜日]]の前の金曜日から1週間にわたって執り行われる。 * [[ナビー・アカシャ・モスク]] - モーセとイエスとムハンマドがここに葬られたという伝承がある。現[[西エルサレム]]。 *[[ラムセス2世]] - 創作では義兄弟だったと言われており、対峙したファラオ当人であったとも言われている。 * モーセを由来とする人名 ** [[モーゼス]] - 英語圏、ラテン語圏 ** [[モーシェ]] - ヘブライ語系、ユダヤ系 ** [[ムサ (曖昧さ回避)]] (ムーサー、ムーサ) - アラブ圏、イスラム圏 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{モーセ五書}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もおせ}} [[Category:モーセ|*]] [[Category:旧約聖書の人物]] [[Category:イスラム教の預言者]] [[Category:神話・伝説の人物]] [[Category:吃音の人物]] [[Category:出エジプト記]] [[Category:アロン]]
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1600年
1600年(1600 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である。
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1600年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である。
{{年代ナビ|1600}} {{year-definition|1600}}400年に一度の[[世紀末]]閏年([[16世紀]]最後の年)である<ref group="注釈">100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、[[閏年]]のままとなる(<!--[[1582年]]に制定された-->[[グレゴリオ暦]]の規定による)。</ref>。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2260年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]28年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]33年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3933年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[慎徳]]元年正月 - 、[[弘定]]元年11月 - *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]8年 * [[仏滅紀元]] : 2142年 - 2143年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1008年 - 1009年 * [[ユダヤ暦]] : 5360年 - 5361年 * [[ユリウス暦]] : 1599年12月22日 - 1600年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1600}} == できごと == * [[2月17日]] - [[ジョルダーノ・ブルーノ]]が[[異端]]の罪で火刑に処せられる。 * [[2月19日]] - [[ペルー]]の[[ワイナプチナ]]火山が大噴火。 * [[12月31日]] - [[イギリス東インド会社]]創設。 ( - [[1858年]]) * [[ウィリアム・ギルバート (物理学者)|ウィリアム・ギルバート]]が著書「De Magnete」を発行、[[地磁気]]の考えを明らかにする。 * [[明]]で[[楊応龍の乱]]。 * フェリペ3世がバリャドリッドに首都を置く。 * 明軍が朝鮮半島から撤退。 === 日本 === * [[4月29日]]([[慶長]]5年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]) - [[オランダ]]の[[帆船]][[リーフデ号]]、[[豊後国]](現在の[[大分県]])に漂着。 * [[10月19日]](慶長5年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]) - [[黒田孝高|黒田如水]]軍と[[大友義統]]軍が戦い、黒田軍が勝利する([[石垣原の戦い]])。 * [[10月21日]](慶長5年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[徳川家康]]率いる東軍と[[石田三成]]率いる西軍が戦い、徳川家康が勝利する{{Sfn|ファータド|2013|p=328|ps=「徳川家康、関ヶ原の戦いで勝利 東西真っ二つに分かれた関ヶ原の戦いにおいて、家康が勝利し、天下の実権を握る」}}([[関ヶ原の戦い]])。 * [[11月6日]](慶長5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]) - 石田三成・[[小西行長]]・[[安国寺恵瓊]]らが徳川家康の命令で[[六条河原]]において[[処刑]]される。 == 誕生 == {{see also|Category:1600年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月17日]] - [[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ|カルデロン・デ・ラ・バルカ]]、[[スペイン]]の[[劇作家]]・[[詩人]](+ [[1681年]]) * [[1月28日]] - [[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]]、第238代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1669年]]) * [[11月17日]]([[万暦]]28年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[朱舜水]]、明末の[[儒学者]](+ [[1682年]]) * [[11月19日]] - [[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]、[[イングランド]]・[[スコットランド]]・[[アイルランド]]王(+ [[1649年]]) * [[12月27日]]([[慶長]]5年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[太田資宗]]、[[譜代大名]](+ [[1680年]]) == 死去 == {{see also|Category:1600年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月17日]] - [[ジョルダーノ・ブルーノ]]、[[イタリア]]の[[哲学|哲学者]]・[[天文学者]](* [[1548年]]) * [[3月22日]]([[慶長]]5年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[北条氏規]]、武将(* [[1545年]]) * [[8月25日]](慶長5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[細川ガラシャ]]、[[細川忠興]]室(* [[1563年]]) * [[9月1日]] - [[タデアーシュ・ハーイェク]]、天文学者・[[医師]](* [[1525年]]) * [[9月8日]](慶長5年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[鳥居元忠]]、武将(* [[1539年]]) * [[9月25日]] - [[アントワーヌ・デュ・ヴェルディエ]]、[[書誌学|書誌学者]](* [[1544年]]) * [[10月21日]](慶長5年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[大谷吉継]]、武将(* [[1559年]]/[[1565年]]?) * 10月21日(慶長5年9月15日) - [[島津豊久]]、武将(* [[1570年]]) * 10月21日(慶長5年9月15日) - [[長寿院盛淳]]、武将(* 1548年?) * 10月21日(慶長5年9月15日) - [[肝付兼護]]、武将(*[[1563年]]) * [[11月3日]] - [[リチャード・フッカー]]、[[神学者]](* [[1554年]]) * [[11月6日]](慶長5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]) - [[安国寺恵瓊]]、僧侶(* [[1539年]]) * 11月6日(慶長5年10月1日) - [[石田三成]]、武将(* [[1560年]]) * 11月6日(慶長5年10月1日) - [[小西行長]]、武将(* [[1555年]]?) * [[11月8日]](慶長5年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]])- [[長束正家]]、[[豊臣政権]]の[[五奉行]](* [[1562年]]?) * [[11月16日]](慶長5年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[伊東祐兵]]、武将(* [[1559年]]) * [[11月17日]](慶長5年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[九鬼嘉隆]]、武将(* [[1542年]]) * 月日不明 - [[ホセ・デ・アコスタ]]、スペインの[[イエズス会]]・[[宣教師]](* [[1540年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ピーター・ファータド(編集) |year=2013 |title=世界の歴史を変えた日 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-4198-8 |ref={{Sfnref|ファータド|2013}}}}<!-- 2013年10月15日初版1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|1600}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1600ねん}} [[Category:1600年|*]]
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1682年
1682年(1682 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1682年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1682}} {{year-definition|1682}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天和 (日本)|天和]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2342年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]21年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]36年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4015年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2224年 - 2225年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1092年 - 1094年 * [[ユダヤ暦]] : 5442年 - 5443年 * [[ユリウス暦]] : 1681年12月22日 - 1682年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1682}} == できごと == * [[5月6日]] - [[フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]、宮殿を[[ヴェルサイユ宮殿]]へ移す{{要出典|date=2021-03}}。 * [[6月25日]] - [[ロマノフ朝]][[イヴァン5世]]即位。 * [[9月]] - (後の)[[ハレー彗星]]接近。[[エドモンド・ハレー]]自身により観測される。 * [[10月27日]] - [[ウィリアム・ペン]]により[[フィラデルフィア]]建設。 * [[フランス]]、[[フランス領ルイジアナ|ルイジアナ]]に植民。 * [[ムガル帝国]]、[[デカン高原|デカン地方]]を直轄領とする。 === 日本 === * [[1月19日]](天和元年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[堀田正俊]]が[[大老]]に就任。 * [[木下順庵]]、[[江戸幕府]]儒官となる。 * [[井原西鶴]]の『[[好色一代男]]』発刊。 == 誕生 == {{see also|Category:1682年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月4日]] - [[ヨハン・フリードリヒ・ベットガー]]([[:en:Johann Friedrich Böttger|Johann Friedrich Böttger]])、[[ドイツ帝国]]の[[錬金術師]](+ [[1719年]]) * [[2月13日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ]]、[[イタリア]]の[[画家]](+ [[1754年]]) * [[2月25日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・モルガーニ]]([[:en:Giovanni Battista Morgagni|Giovanni Battista Morgagni]])、[[解剖学者]](+ [[1771年]]) * [[3月10日]] - [[ヴィルヘルム8世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム8世]]、[[ヘッセン=カッセル方伯]](+ [[1760年]]) * [[4月11日]] - [[ジャン=ジョゼフ・ムーレ]]、[[作曲家]](+ [[1738年]]) * [[4月15日]] - [[ヤン・ファン・ハイスム]]([[:en:Jan van Huysum|Jan van Huysum]])、画家(+ [[1749年]]) * [[4月16日]] - [[ジョン・ハドリー]]、[[数学者]]、[[天文学者]](+ [[1744年]]) * [[5月18日]] - [[シャーフー|シャーフー・ボーンスレー]]、第5代[[マラーター王]](+[[1749年]]) * [[6月17日]] - [[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]、[[スウェーデン]][[国王]](+ [[1718年]]) * [[7月10日]] - [[ロジャー・コーツ]]、数学者(+ [[1716年]]) * 7月10日 - [[バルトロメウス・ツィーゲンバルク]]([[:en:Bartholomaeus Ziegenbalg|Bartholomaeus Ziegenbalg]])、[[宣教師]](+ [[1719年]]) * [[8月15日]] - [[アンニバーレ・アルバーニ]]([[:en:Annibale Albani|Annibale Albani]])、[[枢機卿]](+ [[1751年]]) * [[8月27日]]([[天和 (日本)|天和]]2年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[徳川宗直]]、紀伊徳川家第6代藩主(+ [[1757年]]) * [[10月16日]] - [[ルイ (ブルゴーニュ公)|ブルゴーニュ公ルイ]]、フランス[[王太子]]、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の父(+ [[1712年]]) * [[10月29日]] - [[ピエール・フランソワ・シャヴィエル・ド・シャルルヴォワ]]([[:en:Pierre François Xavier de Charlevoix|Pierre François Xavier de Charlevoix]])、[[修道士]]、[[歴史家]](+ [[1761年]]) * [[12月2日]] - [[ドメニコ・シルヴィオ・パッショネイ]]([[:en:Domenico Silvio Passionei|Domenico Silvio Passionei]])、枢機卿(+ [[1761年]]) * 月日不明 - [[バーソロミュー・ロバーツ]]、[[海賊]](+ [[1722年]]) * 月日不明 - [[ジャン=フランソワ・ダンドリュー]]、[[作曲家]]、[[鍵盤楽器]]奏者(+ [[1738年]]) * 月日不明 - [[ニコラス・サンダーソン]]([[:en:Nicholas Saunderson|Nicholas Saunderson]])、[[科学者]]、数学者(+ [[1739年]]) * 月日不明 - [[ヤコポ・アミゴーニ]]、画家(+ [[1752年]]) * 月日不明 - [[ジェイムズ・ギブズ]]([[:en:James Gibbs|James Gibbs]])、[[建築家]](+ [[1754年]]) * 月日不明 - [[宮川長春]]、[[浮世絵師]](+ [[1752年]]) == 死去 == {{see also|Category:1682年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[ヤーコプ・ケトラー]]、[[クールラント公]](* [[1610年]]) * [[2月15日]] - [[クロード・ド・ラ・コロンビエール]]、[[イエズス会]]士、[[聖人]](* [[1641年]]) * [[2月18日]] - [[バルダッサーレ・ロンゲーナ]]、建築家(* [[1598年]]) * [[2月25日]] - [[アレッサンドロ・ストラデッラ]]、作曲家(* [[1644年]]) * [[3月14日]] - [[ヤーコプ・ファン・ロイスダール]]、画家(* [[1628年]]頃) * [[4月3日]] - [[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]]、画家(* [[1618年]]) * [[4月4日]] - [[ミハウ・カジミェシュ・パク]]([[:en:Michał Kazimierz Pac|Michał Kazimierz Pac]])、[[リトアニア大公国]]貴族(* [[1624年]]) * [[4月24日]] - [[アヴァクーム]]、[[ロシア]]の[[司祭]](* [[1620年]]か[[1621年]]) * [[4月27日]](天和2年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]) - [[鉄眼道光]]、[[禅僧]](* [[1630年]]) * [[5月5日]](天和2年[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]) - [[西山宗因]]、[[俳人]]、[[連歌師]](* [[1605年]]) * [[5月7日]] - [[フョードル3世]]、[[ツァーリ|ロシア皇帝]](* [[1641年]]) * [[5月24日]](天和2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[朱舜水]]、[[中国]]の[[儒学者]](* [[1600年]]) * [[6月27日]](天和2年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[池田光政]]、[[岡山藩]]藩主(* [[1609年]]) * [[7月12日]] - [[ジャン・ピカール]]、司祭、天文学者(* [[1620年]]) * [[7月19日]] - [[ヨハンネス1世 (エチオピア皇帝)|ヨハンネス1世]]([[:en:Yohannes I of Ethiopia|Yohannes I of Ethiopia]])、[[エチオピア]][[皇帝]](* [[1640年]]頃) * [[9月8日]] - [[フアン・カラムエル・イ・ロブコヴィッツ]]([[:en:Juan Caramuel y Lobkowitz|Juan Caramuel y Lobkowitz]])、[[聖職者]]、作家(* [[1606年]]) * [[10月]] - [[ヨハン・ベッヒャー]]、錬金術師(* [[1635年]]) * [[10月16日]] (天和2年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]) - [[山崎闇斎]]、[[儒者]]、思想家(* [[1619年]]) * [[10月19日]] - [[トーマス・ブラウン (作家)|トーマス・ブラウン]]、作家(* [[1605年]]) * [[11月23日]] - [[クロード・ロラン]]、画家(* [[1600年]]) * [[11月29日]] - [[ルパート (カンバーランド公)|カンバーランド公ルパート]]、[[貴族]]、[[軍人]]、[[ハドソン湾会社]]初代総督(* [[1619年]]) * [[12月7日]](天和2年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[井上真改]]、[[刀工]](* [[1630年]]) * 月日不明 - [[アンカス]]([[:en:Uncas|Uncas]])、[[モヒガン|モヒガン族]]を結成した[[ネイティブアメリカン]](* [[1588年]]頃) * 月日不明 - [[エヴリヤ・チェレビー]]([[:en:Evliya Çelebi|Evliya Çelebi]])、[[オスマン帝国]]の[[旅行家]](* [[1611年]]) * 月日不明 - [[顧炎武]]、中国の儒学者(* [[1613年]]) * 月日不明 - [[ダライ・ラマ5世]]、第5代[[ダライ・ラマ]](* [[1617年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1682}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1682ねん}} [[Category:1682年|*]]
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セキュリティホール
セキュリティホール(英: security hole)とは、情報セキュリティを脅かすようなコンピュータの欠陥をいう。脆弱性ともいう。 セキュリティホールが発生する原因は、プログラムや設定の間違い、設計上の考慮不足、保守のために故意に作られた機能に関する機密の漏洩などである。ソフトウェアの欠陥に限らず、ハードウェアの欠陥や、災害に対する弱さ、悪意のある者がパスワードを管理者から聞き出してしまうような攻撃(ソーシャルエンジニアリング)といった様々な欠陥も、セキュリティホールに含めることがある。 セキュリティホールが残されていることにより、本来できないはずの操作(ある操作について権限のないユーザが権限を超えた操作を実行するなど)ができてしまったり、非公開のはずの情報が誰にでも取得できてしまうような、情報セキュリティ上の欠陥となる。 セキュリティホールは古くから存在したが、コンピュータネットワークの発展により、多くのコンピュータがネットワークを介した攻撃の脅威に晒されており、以前よりも脅威度が高まっている。 反対語はレジリエンス(resilience)であり、日本語訳として強靭化が用いられることもある。 ISO 27005は脆弱性を次のように定義している: IETF [RFC 4949]で定義された脆弱性: アメリカ合衆国の国家安全保障システム委員会が、2010年4月26日付のCNSS命令No. 4009に国家情報保証用語集で定義した脆弱性: 多くのNISTの出版物は、さまざまな出版物でITコンテキストの脆弱性を定義している。FISMApediaの「Term:Vulnerability」にリストが示されている。そのリストに含まれる「NIST SP 800-30」はより広い定義を与える: ENISAは、脆弱性を次のように定義している: Open Groupは、脆弱性を次のように定義している: 情報リスクの要因分析(FAIR)は、 脆弱性を次のように定義している: FAIRによると、脆弱性はコントロールの強さ、つまり力の標準的な測定値と比較したコントロールの強さ、および脅威の能力、つまり脅威エージェントがアセットに対して適用できる可能性のある力のレベルに関連している。 ISACAはRisk Itフレームワークの脆弱性を次のように定義している: 「データとコンピュータのセキュリティ:標準の概念と用語の辞書」は、脆弱性を次のように定義している: Matt BishopとDave Baileyは、コンピュータの脆弱性を次のように定義している: National Information Assurance Training and Education Centerは次のように脆弱性を定義している: 2001年秋、IIS の欠陥をついたワーム "CodeRed"、"Nimda"に多くのコンピュータが感染した。 2003年1月には Microsoft SQL Server の欠陥を利用した "Slammer" 、8月には Windows 2000/XP の欠陥を利用した "MSBlaster" というワームが猛威を振るった。 その後も、Microsoft Windows や IIS など、主としてマイクロソフト製ソフトウェアのセキュリティホールを利用して感染する、ワームやウイルスが出現した。 リソース(物理的または論理的)には、脅威アクションで脅威エージェントが悪用できる1つ以上の脆弱性が存在する可能性がある。その結果、組織および/または関与する他の関係者(顧客、サプライヤー)に属するリソース(脆弱なリソースとは限らない)の機密性、整合性、または可用性が損なわれる可能性がある。いわゆるCIAトライアドは、情報セキュリティの基盤である。 攻撃は、システムリソースを変更したり、操作に影響を与えたりして整合性や可用性を損なうときにアクティブになる可能性がある。「 パッシブアタック 」は、システムから情報を学習または利用しようとするが、システムリソースには影響せず、機密性が損なわれる。 OWASP(図を参照)は、同じ現象をわずかに異なる用語で示している。攻撃ベクトルを介した脅威エージェントは、システムの弱点(脆弱性)と関連するセキュリティコントロールを悪用し、ビジネスへの影響。 全体像は、リスクシナリオのリスク要因を表す。 情報セキュリティ管理に関連する一連のポリシーである情報セキュリティ管理システム(information security management system, ISMS)は、 リスク管理の原則に従って、所定のポリシーに適用される規則や規制に従ってセキュリティ戦略が確立されていることを確認するための対策を管理するために開発された国。これらの対策はセキュリティコントロールとも呼ばれるが、情報の送信に適用される場合はセキュリティサービスと呼ばれる。 脆弱性は、関連する資産クラスに従って分類される: 調査によると、ほとんどの情報システムで最も脆弱なポイントは、人間のユーザー、オペレーター、デザイナー、またはその他の人間である。したがって、人間は、資産、脅威、情報リソースとしてのさまざまな役割を考慮する必要がある。近年ではソーシャルエンジニアリングと呼ばれるセキュリティに関する懸念が高まっている。 セキュリティ違反の影響は非常に大きくなる可能性がある。ITマネージャーまたは上級管理職は、ITシステムとアプリケーションに脆弱性があり、 ITリスクを管理するためのアクションを実行しないことを(簡単に)知ることができるという事実は、ほとんどの法律では不正行為と見なされている。プライバシー法により、管理者はそのセキュリティリスクの影響または可能性を低減するように行動する必要がある。 情報技術セキュリティ監査は、他の独立した人々がIT環境が適切に管理されていることを証明し、責任を軽減するための方法であり、少なくとも誠意を示している。侵入テストは、組織が採用する弱点と対策の検証形式である。ホワイトハッカーは、組織の情報技術資産を攻撃して、ITセキュリティの侵害がいかに容易か、または困難かを調べる。 ITリスクを専門的に管理する適切な方法は、 ISO / IEC 27002やRisk ITなどの情報セキュリティ管理システムを採用し、上層部が定めたセキュリティ戦略に従ってそれらに準拠することである。 情報セキュリティの重要な概念の一つが原則である深層防護すなわちできる多層防衛システムをセットアップするには: 侵入検知システムは、攻撃の検知に使用されるシステムのクラスの一例である。 物理的セキュリティは、情報資産を物理的に保護するための一連の対策である。誰かが情報資産に物理的にアクセスできる場合、正当なユーザーがリソースを利用できないようにするのは非常に簡単である。 優れたセキュリティレベルを満たすために、コンピュータ、オペレーティングシステム、およびアプリケーションが満たす必要のある基準のセットがいくつか開発されている。ITSECと共通基準は2つの例である。 脆弱性の調整された開示(「責任ある開示」とも呼ばれるが、偏った言葉であるとも考える者もいる)は大きな議論の的となっている。例えば、2010年8月にTech Heraldは「 Google、Microsoft、TippingPoint (英語版) 、およびRapid7は最近、今後の開示にどう対処するかを説明するガイドラインと声明を発表した。」と報告した。 責任ある開示では、最初に影響を受けるベンダーに内密に警告し、その後2週間後にCERTに警告する。これにより、セキュリティアドバイザリを公開する前に、45日間の猶予期間がベンダーに与えられる。 他の方法として、脆弱性の全ての詳細を公開するという、フルディスクロージャが行われることもある。これは、ソフトウェアまたは手順の作成者に修正を早急に見つけるよう圧力をかけるために行われることもある。 尊敬されている著者は、脆弱性とそれらを悪用する方法についての本を出版している:「ハッキング:悪用の芸術 第2版」は良い例である。 サイバー戦争またはサイバー犯罪業界のニーズに応えるセキュリティ研究者は、このアプローチは彼らの努力に十分な収入を提供しないと述べている。代わりに、ゼロデイ攻撃を可能にするエクスプロイトを非公開で提供する。 新しい脆弱性を見つけて修正するための終わりのない努力は、コンピュータセキュリティと呼ばれる。 2014年1月に、Microsoftが修正プログラムをリリースする前にGoogleがMicrosoftの脆弱性を明らかにしたとき、Microsoftの代表者は、ソフトウェア会社間での開示を明らかにするための調整された慣行を求めた。 Mitre Corporation (英語版) は、Common Vulnerabilities and Exposures (英語版) と呼ばれるシステムで公開されている脆弱性のリストを保持している。Common Vulnerability Scoring System(CVSS) (英語版) を使用して脆弱性が分類(スコアリング )されている。 OWASP (英語版) は潜在的な脆弱性のリストを収集して、システム設計者とプログラマーを教育することを目的としている。これにより、脆弱性が意図せずにソフトウェアに書き込まれる可能性を減らす。 脆弱性が公開される時期は、セキュリティコミュニティと業界で異なって定義されている。最も一般的には「特定の当事者によるセキュリティ情報の一種の公開」と呼ばれている。通常、脆弱性情報はメーリングリストで議論されるか、セキュリティWebサイトで公開され、その後セキュリティアドバイザリが発行される。 開示の時期は、セキュリティの脆弱性がチャネルに記載された最初の日付であり、脆弱性に関する開示された情報が次の要件を満たす必要がある。 コンピュータシステムの脆弱性の発見(および場合によっては削除)に役立つソフトウェアツールは多数存在する。これらのツールは、存在する可能性のある脆弱性の概要を監査人に提供できるが、人間の判断を置き換えることはできません。スキャナーのみに依存すると、誤検知が発生し、システムに存在する問題の範囲が限定されて表示される。 脆弱性は、Windows、macOS、さまざまな形式のUnixおよびLinux、OpenVMSなどを含むすべての主要なオペレーティングシステムで発見されている。システムに対して脆弱性が使用される可能性を減らす唯一の方法は、絶え間ない警戒を行うことである。絶え間ない警戒とは、慎重なシステムメンテナンス(例:ソフトウェアパッチの適用)、運用のベストプラクティス(例:ファイアウォールとアクセス制御の使用)、開発中および運用中を通じての監査、などを含む。 脆弱性は以下に関連している: 純粋な技術的アプローチでは物理的資産さえ保護できないことは明らかである。適切な注意を払って従うことを動機付けた、保守要員が施設や手順を十分に理解している人々に入るようにするための管理手順が必要である。詳細はソーシャルエンジニアリングを参照されたい。 脆弱性の悪用の4つの例: 脆弱性につながる一般的な種類のソフトウェアの欠陥は次のとおりである。 いくつかのコーディングガイドラインのセットが開発され、コードがガイドラインに従っていることを確認するために、多数の静的コードアナライザーが使用されている。
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セキュリティホールとは、情報セキュリティを脅かすようなコンピュータの欠陥をいう。脆弱性ともいう。
'''セキュリティホール'''([[英語|英]]: security hole)とは、[[情報セキュリティ]]を脅かすような[[コンピュータ]]の[[欠陥]]をいう<ref>{{Cite web|和書|title=基礎知識 セキュリティホールとは?|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/security_previous/kiso/k01_hole.htm|website=www.soumu.go.jp|accessdate=2020-09-19}}</ref>。'''[[脆弱性]]'''ともいう<ref>{{Cite web|和書|title=脆弱性(ぜいじゃくせい)とは?|どんな危険があるの?|基礎知識|国民のための情報セキュリティサイト|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/security/basic/risk/11.html|website=www.soumu.go.jp|accessdate=2020-09-19}}</ref>。 == 概要 == セキュリティホールが発生する原因は、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]や設定の間違い、設計上の考慮不足、[[メンテナンス|保守]]のために[[故意]]に作られた機能に関する機密の漏洩などである。[[ソフトウェア]]の欠陥に限らず、[[ハードウェア]]の欠陥や、災害に対する弱さ、悪意のある者がパスワードを管理者から聞き出してしまうような攻撃([[ソーシャルエンジニアリング]])といった様々な欠陥も、セキュリティホールに含めることがある。 セキュリティホールが残されていることにより、本来できないはずの操作(ある操作について[[権限]]のない[[ユーザー_(コンピュータ)|ユーザ]]が権限を超えた操作を実行するなど)ができてしまったり、非公開のはずの情報が誰にでも取得できてしまうような、情報セキュリティ上の欠陥となる。 セキュリティホールは古くから存在したが、[[コンピュータネットワーク]]の発展により、多くのコンピュータがネットワークを介した攻撃の脅威に晒されており、以前よりも脅威度が高まっている。 反対語は[[レジリエンス]](''resilience'')であり、日本語訳として'''強靭化'''が用いられることもある。 == 定義 == [[国際標準化機構|ISO]] 27005は脆弱性を次のように定義している:<ref name="ISO27005">ISO/IEC, "Information technology -- Security techniques-Information security risk management" ISO/IEC FIDIS 27005:2008</ref> : ''1つ以上の脅威によって悪用される可能性のあるアセットまたはアセットのグループの弱点。アセットとは、組織の使命をサポートする情報リソースを含む、組織、その事業運営、および継続性に価値のあるものを指す'' <ref>British Standard Institute, Information technology -- Security techniques -- Management of information and communications technology security -- Part 1: Concepts and models for information and communications technology security management BS ISO/IEC 13335-1-2004</ref> [[Internet Engineering Task Force|IETF]] [{{IETF RFC|4949}}]で定義された脆弱性:<ref name="rfc4949">Internet Engineering Task Force {{IETF RFC|4949}} Internet Security Glossary, Version 2</ref> : ''システムのセキュリティポリシーに違反するために悪用される可能性がある、システムの設計、実装、または運用と管理の欠陥または弱点'' [[アメリカ合衆国]]の国家安全保障システム委員会が、2010年4月26日付のCNSS命令No. 4009に国家情報保証用語集で定義した脆弱性:<ref name="CNSSI4009">{{Cite web|url=http://www.cnss.gov/Assets/pdf/cnssi_4009.pdf|title=CNSS Instruction No. 4009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130628221207/https://www.cnss.gov/Assets/pdf/cnssi_4009.pdf|archivedate=2013-06-28|date=26 April 2010|access-date=2020-12-21}}</ref> : ''脆弱性-脅威の発生源によって悪用される可能性のある情報システム、システムセキュリティ手順、内部統制、または実装の脆弱性。'' 多くの[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]の出版物は、さまざまな出版物でITコンテキストの脆弱性を定義している。FISMApedia<ref>{{Cite web|url=http://fismapedia.org/index.php|title=FISMApedia|website=fismapedia.org|access-date=2020-12-21}}</ref>の「Term:Vulnerability」<ref>{{Cite web|url=http://fismapedia.org/index.php?title=Term:Vulnerability|title=Term:Vulnerability|website=fismapedia.org|access-date=2020-12-21}}</ref>にリストが示されている。そのリストに含まれる「NIST SP 800-30」<ref name="SP80030">[http://csrc.nist.gov/publications/nistpubs/800-30/sp800-30.pdf NIST SP 800-30 Risk Management Guide for Information Technology Systems]</ref>はより広い定義を与える: : ''システムのセキュリティ手順、設計、実装、または内部統制の欠陥または弱点であり、行使されて(偶発的に引き起こされた、または意図的に悪用された)、セキュリティ違反またはシステムのセキュリティポリシーの違反につながる可能性がある。'' [[欧州ネットワーク・情報セキュリティ機関|ENISA]]は、<ref>{{Cite web|url=http://www.enisa.europa.eu/act/rm/cr/risk-management-inventory/glossary#G52|title=Glossary|website=europa.eu|access-date=2020-12-21}}</ref>脆弱性を次のように定義している: : ''関与するコンピュータシステム、ネットワーク、アプリケーション、またはプロトコルのセキュリティを危険にさらす、予期しない望ましくないイベント[G.11]につながる可能性のある弱点、設計、または実装のエラーの存在。(ITSEC)'' [[The Open Group|Open Group]]は、脆弱性を次のように定義している:<ref>Technical Standard Risk Taxonomy {{ISBN2|1-931624-77-1}} Document Number: C081 Published by The Open Group, January 2009.</ref> : ''脅威の能力が脅威に抵抗する能力を超える確率。'' 情報リスクの要因分析(FAIR)は、 脆弱性を次のように定義している:<ref name="FAIR">[http://www.riskmanagementinsight.com/media/docs/FAIR_introduction.pdf "An Introduction to Factor Analysis of Information Risk (FAIR)", Risk Management Insight LLC, November 2006] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141118061526/http://www.riskmanagementinsight.com/media/docs/FAIR_introduction.pdf|date=2014-11-18|access-date=2020-12-21}}</ref> : ''資産が脅威エージェントのアクションに抵抗できない確率'' FAIRによると、脆弱性はコントロールの強さ、つまり力の標準的な測定値と比較したコントロールの強さ、および脅威の能力、つまり脅威エージェントがアセットに対して適用できる可能性のある力のレベルに関連している。 [[ISACA]]はRisk Itフレームワークの脆弱性を次のように定義している: : ''設計、実装、運用、または内部統制の弱点'' 「データとコンピュータのセキュリティ:標準の概念と用語の辞書」<ref>Dennis Longley and Michael Shain. Data & Computer Security: Dictionary of standards concepts and terms. Stockton Press, {{ISBN2|0-935859-17-9}}</ref>は、脆弱性を次のように定義している: : ''1)コンピュータセキュリティにおいて、情報への不正アクセスを取得したり、重要な処理を妨害したりする脅威によって悪用される可能性のある、自動システムセキュリティ手順、管理制御、インターネット制御などの弱点。 2)コンピューターのセキュリティーにおいて、ADPシステムまたはアクティビティーに危害を加えるために悪用される可能性がある、物理的なレイアウト、組織、手順、人員、管理、ハードウェアまたはソフトウェアの弱点。 3)コンピューターのセキュリティーにおいて、システムに存在する弱点または欠陥。攻撃または有害なイベント、または脅威エージェントがその攻撃を開始する機会。'' Matt BishopとDave Bailey<ref>Matt Bishop and Dave Bailey. A Critical Analysis of Vulnerability Taxonomies. Technical Report CSE-96-11, Department of Computer Science at the University of California at Davis, September 1996</ref>は、コンピュータの脆弱性を次のように定義している: : ''コンピュータシステムは、コンピュータシステムを構成するエンティティの現在の構成を記述する状態で構成される。システムは、システムの状態を変更する状態遷移を適用して計算する。一連の状態遷移を使用して特定の初期状態から到達可能なすべての状態は、セキュリティポリシーで定義されているように、許可または無許可のクラスに分類される。このホワイトペーパーでは、これらのクラスと遷移の定義は公理的と見なされる。脆弱な状態とは、許可された状態遷移を使用して許可されていない状態に到達できる許可された状態である。侵害された状態とは、そのように到達した状態である。攻撃とは、危険にさらされた状態で終了する一連の許可された状態遷移である。定義により、攻撃は脆弱な状態で始まる。脆弱性とは、脆弱な状態を特徴付けるものであり、すべての脆弱な状態と区別される。一般的な場合、この脆弱性は多くの脆弱な状態を特徴付ける可能性がある。具体的には、1つだけを特徴付ける場合がある。'' National Information Assurance Training and Education Centerは次のように脆弱性を定義している:<ref>Schou, Corey (1996). Handbook of INFOSEC Terms, Version 2.0. CD-ROM (Idaho State University & Information Systems Security Organization)</ref> <ref>[http://niatec.info/Glossary.aspx?term=6018&alpha=V NIATEC Glossary]</ref> : ''自動化されたシステムセキュリティ手順、管理コントロール、内部コントロールなどの弱点。情報への不正アクセスを取得したり、重要な処理を妨害したりする脅威によって悪用される可能性がある。 2.システムのセキュリティ手順、ハードウェアの設計、内部統制などの弱点。これらの情報を悪用して、機密情報や機密情報への不正アクセスを可能にする可能性がある。 3.ADPシステムまたはアクティビティに危害を加えるために悪用される可能性がある、物理的なレイアウト、組織、手順、人員、管理、ハードウェア、またはソフトウェアの弱点。脆弱性の存在自体が害を及ぼすことはありません。脆弱性は、ADPシステムまたはアクティビティが攻撃によって被害を受ける可能性がある状態または状態のセットにすぎない。 4.主に内部環境のエンティティ(アセット)に関する主張。アセット(またはアセットのクラス)は脆弱であると言う(何らかの方法で、エージェントまたはエージェントのコレクションが関与している可能性がある)。 V(i,e)と書き表す。ここで、eは空の集合であるかもしれない。 5.さまざまな脅威に対する感受性。 6.特定の外部エンティティの一連のプロパティと組み合わせて、リスクを意味する特定の内部エンティティの一連のプロパティ。 7.不自然な(人工の)敵対的な環境で特定のレベルの影響を受けた結果として、システムに明確な劣化(指定されたミッションを実行できない)を引き起こすシステムの特性。'' == 脆弱性に関連した騒ぎ == [[2001年]]秋、[[Internet Information Services|IIS]] の欠陥をついた[[ワーム (コンピュータ)|ワーム]] "[[CodeRed]]"、"[[Nimda]]"に多くのコンピュータが感染した。 [[2003年]]1月には [[Microsoft SQL Server]] の欠陥を利用した "[[SQL Slammer|Slammer]]" 、8月には [[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]/[[Microsoft Windows XP|XP]] の欠陥を利用した "[[MSBlaster]]" というワームが猛威を振るった。 その後も、[[Microsoft Windows]] や IIS など、主として[[マイクロソフト]]製[[ソフトウェア]]のセキュリティホールを利用して感染する、ワームや[[コンピュータウイルス|ウイルス]]が出現した。 == 脆弱性とリスク要因モデル == リソース(物理的または論理的)には、脅威アクションで脅威エージェントが悪用できる1つ以上の脆弱性が存在する可能性がある。その結果、組織および/または関与する他の関係者(顧客、サプライヤー)に属するリソース(脆弱なリソースとは限らない)の[[守秘義務|機密性]]、[[インテグリティ|整合性]]、または[[可用性]]が損なわれる可能性がある。いわゆる[[情報セキュリティ|CIAトライアド]]は、情報セキュリティの基盤である。 攻撃は、システムリソースを変更したり、操作に影響を与えたりして整合性や可用性を損なうときに''アクティブ''になる可能性がある。「 ''パッシブアタック'' 」は、システムから情報を学習または利用しようとするが、システムリソースには影響せず、機密性が損なわれる。<ref name="rfc4949">Internet Engineering Task Force {{IETF RFC|4949}} Internet Security Glossary, Version 2</ref> [[ファイル:2010-T10-ArchitectureDiagram.png|サムネイル|OWASP:脅威エージェントとビジネスへの影響の関係]] OWASP(図を参照)は、同じ現象をわずかに異なる用語で示している。攻撃ベクトルを介した脅威エージェントは、システムの弱点(脆弱性)と関連するセキュリティコントロールを悪用し、ビジネスへの影響。 全体像は、リスクシナリオのリスク要因を表す。<ref>[http://www.isaca.org/Knowledge-Center/Research/Documents/RiskIT-FW-18Nov09-Research.pdf ISACA THE RISK IT FRAMEWORK (registration required)] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100705110913/http://www.isaca.org/Knowledge-Center/Research/Documents/RiskIT-FW-18Nov09-Research.pdf|date=July 5, 2010}}</ref> == 情報セキュリティ管理システム == 情報セキュリティ管理に関連する一連のポリシーである[[情報セキュリティマネジメントシステム|情報セキュリティ管理システム]](information security management system, ISMS)は、 [[リスクマネジメント|リスク管理]]の原則に従って、所定のポリシーに適用される規則や規制に従ってセキュリティ戦略が確立されていることを確認するための対策を管理するために開発された国。これらの対策はセキュリティコントロールとも呼ばれるが、情報の送信に適用される場合はセキュリティサービスと呼ばれる。<ref name="Vacca">{{Cite book|last=Wright|first=Joe|first2=Jim|last2=Harmening|editor-last=Vacca|editor-first=John|title=Computer and Information Security Handbook|series=Morgan Kaufmann Publications|year=2009|publisher=Elsevier Inc|isbn=978-0-12-374354-1|page=257|chapter=15}} </ref> == 分類 == 脆弱性は、関連する資産クラスに従って分類される:<ref name="ISO27005">ISO/IEC, "Information technology -- Security techniques-Information security risk management" ISO/IEC FIDIS 27005:2008</ref> * ハードウェア ** 湿度に対する感受性 ** ほこりに対する感受性 ** 汚れに対する感受性 ** 保護されていないストレージに対する脆弱性 * ソフトウェア ** テストが不十分 ** 監査証跡の欠如 ** 設計上の欠陥 * 通信網 ** 保護されていない通信回線 ** 安全でないネットワークアーキテクチャ * 人事 ** 不十分な採用プロセス ** 不十分なセキュリティ意識 * 物理的な設置場所 ** 洪水地域 ** 信頼できない電源 * 組織 ** 定期的な監査の欠如 ** 継続計画の欠如 ** セキュリティの欠如 == 原因 == * 複雑さ:大規模で複雑なシステムは、欠陥や意図しない[[ファイルパーミッション|アクセスポイント]]の可能性を高める。 * 熟知度:よく知られている一般的なコード、ソフトウェア、オペレーティングシステム、ハードウェアを使用すると、攻撃者がその欠陥を悪用するための知識やツールを見つけたり、見つけたりできる可能性が高くなる。<ref>{{Cite journal|title=Technical Report CSD-TR-97-026|first=Ivan|author=Krsul|publisher=The COAST Laboratory Department of Computer Sciences, Purdue University|date=April 15, 1997}}</ref> * 接続性:より多くの物理的な接続、特権、ポート、プロトコル、サービス、およびそれらのそれぞれにアクセスできる時間が脆弱性を増加させる。<ref name="FAIR"></ref> * パスワード管理の欠陥:コンピューターユーザーがブルートフォースによって発見される可能性のある脆弱なパスワードを使用している。<ref>{{Cite news|url=https://www.theregister.co.uk/2017/01/16/123456_is_still_the_worlds_most_popular_password/|title=Just give up: 123456 is still the world's most popular password|last=Pauli|first=Darren|date=16 January 2017|newspaper=The Register|accessdate=2017-01-17}}</ref> コンピューターユーザーは、プログラムがアクセスできるコンピューターにパスワードを保存する。ユーザーは多くのプログラムとWebサイト間でパスワードを再利用する。 <ref name="Vacca23">{{Cite book|last=Kakareka|first=Almantas|editor-last=Vacca|editor-first=John|title=Computer and Information Security Handbook|series=Morgan Kaufmann Publications|year=2009|publisher=Elsevier Inc|isbn=978-0-12-374354-1|page=393|chapter=23}} </ref> * [[オペレーティングシステム]]の基本的な設計上の欠陥:オペレーティングシステムの設計者は、ユーザー/プログラム管理に次善のポリシーを適用することを選択する。 たとえば、 デフォルトの許可などのポリシーを持つオペレーティングシステムは、すべてのプログラムとすべてのユーザーにコンピュータ全体へのフルアクセスを許可する。<ref name="Vacca23">{{Cite book|last=Kakareka|first=Almantas|editor-last=Vacca|editor-first=John|title=Computer and Information Security Handbook|series=Morgan Kaufmann Publications|year=2009|publisher=Elsevier Inc|isbn=978-0-12-374354-1|page=393|chapter=23}} </ref> このオペレーティングシステムの欠陥により、ウイルスやマルウェアが管理者に代わってコマンドを実行できるようになる。<ref>{{Cite web|url=http://www.ranum.com/security/computer_security/editorials/dumb/|title=The Six Dumbest Ideas in Computer Security|website=ranum.com|access-date=2020-12-21}}</ref> * インターネットWebサイトの閲覧:一部のインターネットWebサイトには、コンピュータシステムに自動的にインストールされる有害な[[スパイウェア]]または[[アドウェア]]が含まれている場合がある。これらのWebサイトにアクセスすると、コンピューターシステムが感染し、個人情報が収集されて第三者の個人に渡される。<ref>{{Cite web|url=http://projects.webappsec.org/w/page/13246989/Web-Application-Security-Statistics#APPENDIX2ADDITIONALVULNERABILITYCLASSIFICATION|title=The Web Application Security Consortium / Web Application Security Statistics|website=webappsec.org|access-date=2020-12-21}}</ref> * ソフトウェアの[[バグ]]:プログラマは、ソフトウェアプログラムに悪用可能なバグを残す。ソフトウェアのバグにより、攻撃者がアプリケーションを悪用する可能性がある。 * 未チェックのユーザー入力:プログラムは、すべてのユーザー入力が安全であると想定する。ユーザー入力をチェックしないプログラムは、コマンドまたはSQLステートメント( [[バッファオーバーラン]]、[[SQLインジェクション]]、またはその他の検証されていない入力と呼ばれる)の意図しない直接実行を許可する可能性がある。 * 過去の過ちから学ばない: <ref>Ross Anderson. Why Cryptosystems Fail. Technical report, University Computer Laboratory, Cam- bridge, January 1994.</ref> <ref>Neil Schlager. When Technology Fails: Significant Technological Disasters, Accidents, and Failures of the Twentieth Century. Gale Research Inc., 1994.</ref>たとえば、[[IPv4]]プロトコルソフトウェアで発見されたほとんどの脆弱性は、新しい[[IPv6]]実装で発見された。<ref>[[Hacking: The Art of Exploitation Second Edition]]</ref> 調査によると、ほとんどの情報システムで最も脆弱なポイントは、人間のユーザー、オペレーター、デザイナー、またはその他の人間である。<ref> {{Cite book|last=Kiountouzis|first=E. A.|last2=Kokolakis|first2=S. A.|title=Information systems security: facing the information society of the 21st century|publisher=[[Chapman & Hall]], Ltd|location=London|isbn=0-412-78120-4}}</ref>したがって、人間は、資産、脅威、情報リソースとしてのさまざまな役割を考慮する必要がある。近年では[[ソーシャルエンジニアリング]]と呼ばれるセキュリティに関する懸念が高まっている。 == 脆弱性の影響 == セキュリティ違反の影響は非常に大きくなる可能性がある。ITマネージャーまたは上級管理職は、ITシステムとアプリケーションに脆弱性があり、 ITリスクを管理するためのアクションを実行しないことを(簡単に)知ることができるという事実は、ほとんどの法律では不正行為と見なされている。プライバシー法により、管理者はそのセキュリティリスクの影響または可能性を低減するように行動する必要がある。 情報技術セキュリティ監査は、他の独立した人々がIT環境が適切に管理されていることを証明し、責任を軽減するための方法であり、少なくとも誠意を示している。[[ペネトレーションテスト|侵入テスト]]は、組織が採用する弱点と対策の検証形式である。ホワイトハッカーは、組織の情報技術資産を攻撃して、ITセキュリティの侵害がいかに容易か、または困難かを調べる。 <ref name="Vacca22">{{Cite book|last=Bavisi|first=Sanjay|editor-last=Vacca|editor-first=John|title=Computer and Information Security Handbook|series=Morgan Kaufmann Publications|year=2009|publisher=Elsevier Inc|isbn=978-0-12-374354-1|page=375|chapter=22}} </ref> ITリスクを専門的に管理する適切な方法は、 [[ISO/IEC 27002|ISO / IEC 27002]]やRisk ITなどの情報セキュリティ管理システムを採用し、上層部が定めたセキュリティ戦略に従ってそれらに準拠することである。<ref name="Vacca">{{Cite book|last=Wright|first=Joe|first2=Jim|last2=Harmening|editor-last=Vacca|editor-first=John|title=Computer and Information Security Handbook|series=Morgan Kaufmann Publications|year=2009|publisher=Elsevier Inc|isbn=978-0-12-374354-1|page=257|chapter=15}} </ref> 情報セキュリティの重要な概念の一つが原則である[[縦深防御|深層防護]]すなわちできる多層防衛システムをセットアップするには: * 悪用を防ぐ * 攻撃を検出して阻止する * 脅威エージェントを見つけて起訴する [[侵入検知システム]]は、攻撃の検知に使用されるシステムのクラスの一例である。 物理的セキュリティは、情報資産を物理的に保護するための一連の対策である。誰かが情報資産に物理的にアクセスできる場合、正当なユーザーがリソースを利用できないようにするのは非常に簡単である。 優れたセキュリティレベルを満たすために、コンピュータ、オペレーティングシステム、およびアプリケーションが満たす必要のある基準のセットがいくつか開発されている。ITSECと[[コモンクライテリア|共通基準]]は2つの例である。 == 脆弱性の開示 == 脆弱性の'''調整された開示'''(「責任ある開示」とも呼ばれるが、偏った言葉であるとも考える者もいる)は大きな議論の的となっている。例えば、2010年8月にTech Heraldは「 [[Google]]、[[マイクロソフト|Microsoft]]、TippingPoint{{enlink|TippingPoint|英語版}}、および[[Metasploit|Rapid7]]は最近、今後の開示にどう対処するかを説明するガイドラインと声明を発表した。」と報告した。<ref>{{Cite web|url=http://www.thetechherald.com/article.php/201033/6025/The-new-era-of-vulnerability-disclosure-a-brief-chat-with-HD-Moore|title=The new era of vulnerability disclosure - a brief chat with HD Moore|website=The Tech Herald|accessdate=2010-08-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100826235806/http://www.thetechherald.com/article.php/201033/6025/The-new-era-of-vulnerability-disclosure-a-brief-chat-with-HD-Moore|archivedate=2010-08-26}}</ref> 責任ある開示では、最初に影響を受けるベンダーに内密に警告し、その後2週間後に[[CERT Coordination Center|CERT]]に警告する。これにより、セキュリティアドバイザリを公開する前に、45日間の猶予期間がベンダーに与えられる。 他の方法として、脆弱性の全ての詳細を公開するという、[[フルディスクロージャ]]が行われることもある。これは、ソフトウェアまたは手順の作成者に修正を早急に見つけるよう圧力をかけるために行われることもある。 尊敬されている著者は、脆弱性とそれらを悪用する方法についての本を出版している:「ハッキング:悪用の芸術 第2版」は良い例である。 [[サイバー戦争]]または[[サイバー犯罪]]業界のニーズに応えるセキュリティ研究者は、このアプローチは彼らの努力に十分な収入を提供しないと述べている。<ref>{{Cite web|url=http://blog.rapid7.com/?p=5325|title=Browse - Content - SecurityStreet|website=rapid7.com|access-date=2020-12-21}}</ref>代わりに、[[ゼロデイ攻撃]]を可能にするエクスプロイトを非公開で提供する。 新しい脆弱性を見つけて修正するための終わりのない努力は、[[コンピュータセキュリティ]]と呼ばれる。 2014年1月に、Microsoftが修正プログラムをリリースする前にGoogleがMicrosoftの脆弱性を明らかにしたとき、Microsoftの代表者は、ソフトウェア会社間での開示を明らかにするための調整された慣行を求めた。<ref>{{Cite web|url=http://blogs.technet.com/b/msrc/archive/2015/01/11/a-call-for-better-coordinated-vulnerability-disclosure.aspx|title=A Call for Better Coordinated Vulnerability Disclosure - MSRC - Site Home - TechNet Blogs|first=Chris|author=Betz|website=blogs.technet.com|date=11 Jan 2015|accessdate=12 January 2015}}</ref> === 脆弱性インベントリ === Mitre Corporation{{enlink|Mitre_Corporation|英語版}}は、Common Vulnerabilities and Exposures{{enlink|Common_Vulnerabilities_and_Exposures|英語版}}と呼ばれるシステムで公開されている脆弱性のリストを保持している。Common Vulnerability Scoring System(CVSS){{enlink|Common_Vulnerability_Scoring_System|英語版}}を使用して脆弱性が分類(スコアリング )されている。 OWASP{{enlink|OWASP|英語版}}は潜在的な脆弱性のリストを収集して、システム設計者と[[プログラマ|プログラマー]]を教育することを目的としている。これにより、脆弱性が意図せずにソフトウェアに書き込まれる可能性を減らす。<ref>{{Cite web|url=http://www.owasp.org/index.php/Category:Vulnerability|title=Category:Vulnerability|website=owasp.org|access-date=2020-12-21}}</ref> == 脆弱性公開日 == 脆弱性が公開される時期は、セキュリティコミュニティと業界で異なって定義されている。最も一般的には「特定の当事者によるセキュリティ情報の一種の公開」と呼ばれている。通常、脆弱性情報はメーリングリストで議論されるか、セキュリティWebサイトで公開され、その後セキュリティアドバイザリが発行される。 '''開示の時期'''は、セキュリティの脆弱性がチャネルに記載された最初の日付であり、脆弱性に関する開示された情報が次の要件を満たす必要がある。 * 情報は自由に公開されている * 脆弱性情報は、信頼できる独立したチャネル/ソースによって公開されている * 脆弱性は専門家による分析を受けており、リスク評価情報は開示時に含まれる ; 脆弱性の特定と削除 コンピュータシステムの脆弱性の発見(および場合によっては削除)に役立つソフトウェアツールは多数存在する。これらのツールは、存在する可能性のある脆弱性の概要を監査人に提供できるが、人間の判断を置き換えることはできません。スキャナーのみに依存すると、誤検知が発生し、システムに存在する問題の範囲が限定されて表示される。 脆弱性は、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS]]、さまざまな形式の[[UNIX|Unix]]および[[Linux]]、[[OpenVMS]]などを含むすべての主要なオペレーティングシステムで発見されている。<ref name="David Harley">{{Cite web|url=https://www.welivesecurity.com/2015/03/10/operating-system-vulnerabilities-exploits-insecurity/|title=Operating System Vulnerabilities, Exploits and Insecurity|date=10 March 2015|accessdate=15 January 2019|author=David Harley}}</ref>システムに対して脆弱性が使用される可能性を減らす唯一の方法は、絶え間ない警戒を行うことである。絶え間ない警戒とは、慎重なシステムメンテナンス(例:ソフトウェアパッチの適用)、運用のベストプラクティス(例:[[ファイアウォール]]と[[アクセス制御]]の使用)、開発中および運用中を通じての監査、などを含む。 == 脆弱性の例 == 脆弱性は以下に関連している: * システムの物理的環境 * 人事 * 管理 * 組織内の管理手順とセキュリティ対策 * 事業運営およびサービス提供 * ハードウェア * ソフトウェア * 通信機器および設備 * 周辺機器<ref>Most laptops vulnerable to attack via peripheral devices. http://www.sciencedaily.com/releases/2019/02/190225192119.htm Source: University of Cambridge]</ref><ref>Exploiting Network Printers. [https://oaklandsok.github.io/papers/muller2017.pdf Institute for IT-Security, Ruhr University Bochum]</ref> * そしてそれらの組み合わせ。 純粋な技術的アプローチでは物理的資産さえ保護できないことは明らかである。適切な注意を払って従うことを動機付けた、保守要員が施設や手順を十分に理解している人々に入るようにするための管理手順が必要である。詳細は[[ソーシャルエンジニアリング]]を参照されたい。 脆弱性の悪用の4つの例: * 攻撃者が、オーバーフローの弱点を見つけて使用し、マルウェアをインストールして機密データを[[エクスポート_(コンピュータ)|エクスポート]]する。 * 攻撃者が、マルウェアが添付された[[電子メール]]メッセージを開くようにユーザーを誘導する。 * インサイダーが、強化された暗号化プログラムをサムドライブにコピーし、自宅でそれを[[クラッキング_(コンピュータ)|クラック]]する。 * 洪水が、1階に設置されたコンピュータシステムを損傷する。 === ソフトウェアの脆弱性 === 脆弱性につながる一般的な種類のソフトウェアの欠陥は次のとおりである。 * [[メモリ安全性]]違反 ** [[バッファオーバーラン]]とオーバーリード ** ぶら下がりポインタ * 入力検証エラー: **[[インジェクション攻撃|コードインジェクション]] ** Webアプリケーションでの[[クロスサイトスクリプティング]] ** [[ディレクトリトラバーサル]] ** メールインジェクション ** [[書式文字列攻撃]] ** [[HTTPヘッダ・インジェクション]] ** HTTP応答分割 ** [[SQLインジェクション]] * [[Confused deputy problem|権限混同]]バグ: ** [[クリックジャッキング]] ** Webアプリケーションでの[[クロスサイトリクエストフォージェリ]] ** FTPバウンス攻撃 * 特権エスカレーション * [[競合状態]]: ** [[シンボリックリンク]]競合 ** [[Time of check to time of use]]バグ * [[サイドチャネル攻撃]] ** [[タイミング攻撃]] * [[ユーザインタフェース]]の障害 ** [[被害者非難|被害者を非難]]し、ユーザーに回答するのに十分な情報を提供せずにユーザーにセキュリティの決定を促す<ref>[http://blog.mozilla.com/rob-sayre/2007/09/28/blaming-the-victim/] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071021201149/http://blog.mozilla.com/rob-sayre/2007/09/28/blaming-the-victim/|date=October 21, 2007}}</ref> ** 競合状態<ref>{{Cite web|url=http://www.squarefree.com/2004/07/01/race-conditions-in-security-dialogs/|title=Jesse Ruderman » Race conditions in security dialogs|website=squarefree.com|access-date=2020-12-21}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://lcamtuf.blogspot.com/2010/08/on-designing-uis-for-non-robots.html|title=lcamtuf's blog|website=lcamtuf.blogspot.com|access-date=2020-12-21}}</ref> ** 警告疲労<ref>{{Cite web|url=http://www.freedom-to-tinker.com/?p=459|title=Warning Fatigue|website=freedom-to-tinker.com|access-date=2020-12-21}}</ref>またはユーザーによる調整 いくつかのコーディングガイドラインのセットが開発され、コードがガイドラインに従っていることを確認するために、多数の静的コードアナライザーが使用されている。 == 関連項目 == * [[脆弱性]] * [[コンピュータセキュリティ]] * [[情報セキュリティ]] * [[ゼロデイ攻撃]] - セキュリティホールが周知・対処される前の攻撃 * [[エクスプロイト]] - セキュリティホールを利用する攻撃あるいはその攻撃手法<ref>{{Cite web|和書|title=ネットワークセキュリティ関連用語集(アルファベット順):IPA 独立行政法人 情報処理推進機構|url=https://www.ipa.go.jp/security/ciadr/crword.html#E|website=www.ipa.go.jp|accessdate=2020-09-19}}</ref> * [[コンピュータウイルス]] * [[脆弱性情報データベース]] * [[脆弱性検査ツール]] * [[CSIRT]] * [[セット打法]] - [[パチンコ]]・[[パチスロ]]を動作させているソフトウェアのセキュリティホールを突く操作 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * {{Commonscatinline}} * オープンディレクトリのセキュリティアドバイザリリンク<nowiki/>http://dmoz-odp.org/Computers/Security/Advisories_and_Patches/ ** [http://www.st.ryukoku.ac.jp/~kjm/security/memo/index.html セキュリティホールmemo] {{ハッキング}} {{エクスプロイト}} {{デフォルトソート:せきゆりていほおる}} [[Category:ソフトウェアテスティング]] [[Category:ハッキング (コンピュータ・セキュリティ)]] [[Category:エクスプロイト]]
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八鹿町
八鹿町(ようかちょう)は、かつて兵庫県の中北部に存在した、養父郡の町。本項では町制前の名称である八鹿村(ようかむら)についても述べる。 2004年4月1日、養父郡4町の合併により養父市となったことで消滅した。 養父市の中心地であり、養父市役所が置かれている。 北流する円山川の中流域を占める。 合併後、旧「養父郡八鹿町」の大字は「八鹿町」が付加された名前に変更されている。
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八鹿町(ようかちょう)は、かつて兵庫県の中北部に存在した、養父郡の町。本項では町制前の名称である八鹿村(ようかむら)についても述べる。 2004年4月1日、養父郡4町の合併により養父市となったことで消滅した。 養父市の中心地であり、養父市役所が置かれている。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 2004年4月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''八鹿町'''・[[養父町 (兵庫県養父郡2004年)|養父町]]・[[大屋町]]・[[関宮町]] → [[養父市]] | 現在の自治体 = 養父市 | よみがな = ようかちょう | 自治体名 = 八鹿町 | 画像 = ファイル:Tajimamyoken01.JPG | 画像の説明 = [[但馬妙見山]] | 旗 = [[ファイル:Flag_of_Yoka_Hyogo.png|100px|border|八鹿町旗]] | 旗の説明 = 八鹿[[市町村旗|町旗]] | 紋章 = [[ファイル:Yoka_Hyogo_chapter.JPG|70px|八鹿町章]] | 紋章の説明 = 八鹿[[市町村章|町章]]<br>{{Smaller|[[1959年]][[10月27日]]制定}} | 区分 = 町 | 都道府県 = 兵庫県 | 郡 = [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]] | コード = 28601-0 | 面積 = 77.06 | 境界未定 = なし | 人口 = 11675 | 人口の出典 = [[推計人口]] | 人口の時点 = 2004年3月1日 | 隣接自治体 = [[日高町 (兵庫県)|日高町]]、[[出石町]]、[[村岡町]]、養父町、大屋町、関宮町 | 木 = [[スギ]] | 花 = [[ツツジ]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 667-0021 | 所在地 = 養父郡八鹿町八鹿1675<br />(現在は養父市役所) |座標 = {{Coord|format=dms|type:city(11675)_region:JP-28|display=inline,title}} | 位置画像 = [[ファイル:Hyogo_Yabu-city_Yoka-town.png|right]] | 特記事項 = }} '''八鹿町'''(ようかちょう)は、かつて[[兵庫県]]の中北部に存在した、[[養父郡 (兵庫県)|養父郡]]の[[町]]。 [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]、養父郡4町の合併により[[養父市]]となったことで消滅した。 == 地理 == 北流する[[円山川]]の中流域を占める。 * 山: 妙見山(1,139m) == 歴史 == * [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[養父郡 (兵庫県)|養父郡]]石原村・小佐村・上網場村・九鹿村・下網場村・日畑村・舞狂村・八鹿村の区域をもって'''八鹿村'''が発足。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[1月1日]] - 八鹿村が町制施行して'''八鹿町'''となる。 * [[1955年]]([[昭和]]30年)[[2月1日]] - 養父郡[[伊佐村]]・[[宿南村]]・[[高柳村 (兵庫県)|高柳村]]と[[日本の市町村の廃置分合#合体|新設合併]]し、改めて'''八鹿町'''が発足。 * [[2004年]]([[平成]]16年)4月1日 - 養父郡[[養父町 (兵庫県養父郡2004年)|養父町]]・[[大屋町]]・[[関宮町]]と新設合併して[[養父市]]が発足。同日八鹿町廃止。 == 合併後の旧町域地名 == 合併後、旧「養父郡八鹿町」の大字は「八鹿町」が付加された名前に変更されている。 * 例:養父郡八鹿町八鹿 → 養父市八鹿町八鹿 == 交通 == === 鉄道 === * [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) ** [[山陰本線]]:[[八鹿駅]] === 道路 === * 国道 ** [[国道9号]] ** [[国道312号]] * 県道 ** [[京都府道・兵庫県道2号宮津養父線|兵庫県道2号宮津八鹿線]] ** [[兵庫県道169号八鹿停車場線]] ** [[兵庫県道267号日影養父線]] ** [[兵庫県道271号朝倉養父停車場線]] ** [[兵庫県道272号宮垣八木線]] == 関連項目 == * [[兵庫県の廃止市町村一覧]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ようかちよう}} [[Category:養父郡 (兵庫県)]] [[Category:養父市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年設置の日本の市町村]] [[Category:2004年廃止の日本の市町村]]
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豊岡市
豊岡市(とよおかし)は、兵庫県の北部(但馬地域)に位置する市。但馬県民局管轄地域。豊岡都市圏を形成する県北部・但馬地域の中心都市で、兵庫県で最も面積が大きい市である。 日本で最後の野生コウノトリの生息地として知られ、保護・繁殖・共生の事業が行われている。 兵庫県の北部にある但馬地域の中心都市である。 市の中央部を円山川が流れ、市内中央部には但馬最大の盆地である豊岡盆地が広がる。海岸は山陰海岸国立公園に属しており、また全域が山陰海岸ジオパークに含まれる。 現在部分開通している山陰近畿自動車道が完成すると鳥取県鳥取市や京都府宮津市を経由して京都市とも結ばれることとなる。 日本海側気候に属するが、複雑な地形の影響によって夏は暑く、冬は寒い。寒暖の年較差がとても激しく、夏の最高気温と冬の最低気温との差が45度近くになる年もある。 冬は本州西南部としては珍しい豪雪地帯である。豊岡市は内陸に位置することから年間平均降雪量は204cmであり、新潟市(139cm)、金沢市(157cm)や福井市(186cm)といった北信越の都市を上回る西日本屈指の豪雪都市でもある。過去最深積雪として1936年2月3日に186cmを記録した。2012年2月18日には積雪100cmに達し、1984年2月8日の131cm以来28年ぶりに1m台に達した。 夏は中国山地を越える南寄りの風がフェーン現象の影響を受けて連日のように猛暑が続くことが多く、最高気温が37°C以上になることも珍しくない。過去最高気温は2023年8月5日に観測した39.4°Cである。 豊岡盆地を流れる円山川が発生させる盆地霧も特徴的な気象である。盆地霧は年間で約120回ほど発生する。 2010年(平成22年)国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、4.04%減の85,607人であり、増減率は県下41市町中25位、49行政区域中33位。 特記なき場合『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み』などによる。 豊岡市では、行政の透明性を確保するため、行政からの提案に対して豊岡市市民の意見を聞きそれを反映し行政での立場を公示するために、パブリックコメント制度を2008年度から実施している。 豊岡盆地のコウノトリは、古くから保護されてきた。 豊岡市では2002年(平成14年)に企画部内にコウノトリ共生推進課を設置。2006年(平成18年)にコウノトリ共生推進課は部に昇格してコウノトリ共生部となった。コウノトリと共生を図り、無農薬・減農薬でつくられた農産物を対外的にアピールするため、農林水産部等の業務を統合してコウノトリ共生部に改編した。 その後、豊岡市は市の組織改編により2023年(令和5年)3月末でコウノトリ共生部を廃止し、4月から新部署に引き継ぐことになった。 コウノトリは豊岡市鳥となっている。 このほかコウノトリは同地域のシンボルになっている。 なお、市町村合併時、新市名称の一般応募が行われ、「こうのとり市」が381件で全体の3位、「コウノトリ市」が198件で6位となるなど、コウノトリにちなむ名称が多数応募され、「こうのとり市」が新市名候補の一つになっていた。ただし、旧豊岡市内を中心にコウノトリに害鳥や絶滅の悪いイメージがある、ひらがな名称などの理由で反対意見が強く、3次選定までに候補から外れている。 通学区域の指定は「豊岡市立学校の通学区域等に関する規則」による。 豊岡高と出石高は普通科一般入試において進学連携校方式の対象となる。 市の代表駅として中心的な役割を担っているのは、豊岡駅(西日本旅客鉄道山陰本線・京都丹後鉄道宮豊線)である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "豊岡市(とよおかし)は、兵庫県の北部(但馬地域)に位置する市。但馬県民局管轄地域。豊岡都市圏を形成する県北部・但馬地域の中心都市で、兵庫県で最も面積が大きい市である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本で最後の野生コウノトリの生息地として知られ、保護・繁殖・共生の事業が行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "兵庫県の北部にある但馬地域の中心都市である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "市の中央部を円山川が流れ、市内中央部には但馬最大の盆地である豊岡盆地が広がる。海岸は山陰海岸国立公園に属しており、また全域が山陰海岸ジオパークに含まれる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在部分開通している山陰近畿自動車道が完成すると鳥取県鳥取市や京都府宮津市を経由して京都市とも結ばれることとなる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本海側気候に属するが、複雑な地形の影響によって夏は暑く、冬は寒い。寒暖の年較差がとても激しく、夏の最高気温と冬の最低気温との差が45度近くになる年もある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "冬は本州西南部としては珍しい豪雪地帯である。豊岡市は内陸に位置することから年間平均降雪量は204cmであり、新潟市(139cm)、金沢市(157cm)や福井市(186cm)といった北信越の都市を上回る西日本屈指の豪雪都市でもある。過去最深積雪として1936年2月3日に186cmを記録した。2012年2月18日には積雪100cmに達し、1984年2月8日の131cm以来28年ぶりに1m台に達した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "夏は中国山地を越える南寄りの風がフェーン現象の影響を受けて連日のように猛暑が続くことが多く、最高気温が37°C以上になることも珍しくない。過去最高気温は2023年8月5日に観測した39.4°Cである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "豊岡盆地を流れる円山川が発生させる盆地霧も特徴的な気象である。盆地霧は年間で約120回ほど発生する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、4.04%減の85,607人であり、増減率は県下41市町中25位、49行政区域中33位。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "特記なき場合『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み』などによる。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "豊岡市では、行政の透明性を確保するため、行政からの提案に対して豊岡市市民の意見を聞きそれを反映し行政での立場を公示するために、パブリックコメント制度を2008年度から実施している。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "豊岡盆地のコウノトリは、古くから保護されてきた。", "title": "コウノトリと豊岡市" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "豊岡市では2002年(平成14年)に企画部内にコウノトリ共生推進課を設置。2006年(平成18年)にコウノトリ共生推進課は部に昇格してコウノトリ共生部となった。コウノトリと共生を図り、無農薬・減農薬でつくられた農産物を対外的にアピールするため、農林水産部等の業務を統合してコウノトリ共生部に改編した。", "title": "コウノトリと豊岡市" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後、豊岡市は市の組織改編により2023年(令和5年)3月末でコウノトリ共生部を廃止し、4月から新部署に引き継ぐことになった。", "title": "コウノトリと豊岡市" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "コウノトリは豊岡市鳥となっている。", "title": "コウノトリと豊岡市" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このほかコウノトリは同地域のシンボルになっている。", "title": "コウノトリと豊岡市" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、市町村合併時、新市名称の一般応募が行われ、「こうのとり市」が381件で全体の3位、「コウノトリ市」が198件で6位となるなど、コウノトリにちなむ名称が多数応募され、「こうのとり市」が新市名候補の一つになっていた。ただし、旧豊岡市内を中心にコウノトリに害鳥や絶滅の悪いイメージがある、ひらがな名称などの理由で反対意見が強く、3次選定までに候補から外れている。", "title": "コウノトリと豊岡市" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "通学区域の指定は「豊岡市立学校の通学区域等に関する規則」による。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "豊岡高と出石高は普通科一般入試において進学連携校方式の対象となる。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "市の代表駅として中心的な役割を担っているのは、豊岡駅(西日本旅客鉄道山陰本線・京都丹後鉄道宮豊線)である。", "title": "交通" } ]
豊岡市(とよおかし)は、兵庫県の北部(但馬地域)に位置する市。但馬県民局管轄地域。豊岡都市圏を形成する県北部・但馬地域の中心都市で、兵庫県で最も面積が大きい市である。 日本で最後の野生コウノトリの生息地として知られ、保護・繁殖・共生の事業が行われている。
{{日本の市 | 画像 = Toyooka Montage.jpg | 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td colspan="2">[[兵庫県立コウノトリの郷公園]]</tr> <tr><td>夜の[[城崎温泉]]街<td>[[出石]]の[[辰鼓楼]]</tr> <tr><td>[[竹野浜]]<td>[[植村直己冒険館]]</tr> <tr><td>[[たんとうチューリップまつり]]<td>[[柳まつり]]</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Toyooka, Hyogo.svg|100px|border|豊岡市旗]] | 市旗の説明 = 豊岡[[市町村旗|市旗]]<br />[[2006年]][[9月1日]]制定 | 市章 = [[ファイル:Emblem of Toyooka, Hyogo.svg|75px|豊岡市章]] | 市章の説明 = 豊岡[[市町村章|市章]]<br />[[2005年]][[7月10日]]制定 | 自治体名 = 豊岡市 | 都道府県 = 兵庫県 | コード = 28209-0 | 隣接自治体=[[養父市]]、[[朝来市]]、[[美方郡]][[香美町]]<br />[[京都府]]:[[京丹後市]]、[[福知山市]]、[[与謝郡]][[与謝野町]] | 木 = [[柳|やなぎ]] | 花 = [[チューリップ]] | シンボル名 = 市の鳥<br />市の両生類<br />市の石<br />市の魚介 | 鳥など = [[コウノトリ]]<br />[[オオサンショウウオ]]<br />[[玄武岩]]<br />[[カニ]]<ref>{{Wayback |url=http://www.city.toyooka.lg.jp/www/contents/1198759364879/index.html |title=広報とよおか第66号(平成20年1月10日号) |date=20090317092253 }}豊岡市</ref> | 郵便番号 = 668-8666 | 所在地 = 豊岡市中央町2番4号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-28|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=35.54|frame-longitude=134.82|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:Toyooka city office and Toyooka city council.jpg|220px|豊岡市役所本庁舎・豊岡市議会議場]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|28|209|image=Toyooka in Hyogo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}} | 特記事項 = }} '''豊岡市'''(とよおかし)は、[[兵庫県]]の北部(但馬地域)に位置する[[市]]。[[但馬県民局]]管轄地域。[[豊岡都市圏]]を形成する県北部・但馬地域の中心都市で、兵庫県で最も面積が大きい市である。 日本で最後の野生[[コウノトリ]]の生息地として知られ、保護・繁殖・共生の事業が行われている。 == 地理 == [[ファイル:Toyooka city center area Aerial photograph.1976.jpg|thumb|295px|豊岡市中心部周辺の空中写真。市街地の東方を[[円山川]]が北へ流れる。1976年撮影の3枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] [[ファイル:Takenohama Hyogo001.jpg|thumb|[[竹野浜]] - [[山陰海岸国立公園]]]] 兵庫県の北部にある[[但馬地方|但馬地域]]の中心都市である。 市の中央部を[[円山川]]が流れ、市内中央部には但馬最大の[[盆地]]である[[豊岡盆地]]が広がる。海岸は[[山陰海岸国立公園]]に属しており、また全域が[[山陰海岸ジオパーク]]に含まれる。 現在部分開通している[[山陰近畿自動車道]]が完成すると[[鳥取県]][[鳥取市]]や[[京都府]][[宮津市]]を経由して[[京都市]]とも結ばれることとなる。 === 気候 === [[日本海側気候]]に属するが、複雑な地形の影響によって夏は暑く、冬は寒い<ref name="tanshin-kiko">{{Cite web|和書|url=https://tanshin-kikin.jp/tajima/934|title=但馬の気象|work=但馬の百科事典|publisher=たんしん地域振興基金|accessdate=2020-8-26}}</ref>。寒暖の[[年較差]]がとても激しく、夏の最高気温と冬の最低気温との差が45度近くになる年もある。 冬は本州西南部としては珍しい[[豪雪地帯]]である<ref name="tanshin-kiko"/>。豊岡市は内陸に位置することから年間平均降雪量は204cmであり、[[新潟市]](139cm)、[[金沢市]](157cm)や[[福井市]](186cm)といった北信越の都市を上回る西日本屈指の豪雪都市でもある。過去最深積雪として[[1936年]]2月3日に186cmを記録した。[[2012年]]2月18日には積雪100cmに達し、[[1984年]]2月8日の131cm以来28年ぶりに1m台に達した。 夏は[[中国山地]]を越える南寄りの風が[[フェーン現象]]の影響を受けて連日のように猛暑が続くことが多く、最高気温が37℃以上になることも珍しくない<ref>{{cite newspaper|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/machiaru/201507/0008175033.shtml|title=「夏の暑さ兵庫一」はどこだ? 豊岡抑えて1位は…|newspaper=神戸新聞|date=2015-7-3|accessdate=2020-8-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma-net.go.jp/kobe-c/knowledge/kiko/kiko.html|title=兵庫県の地勢・気候|publisher=神戸地方気象台|accessdate=2020-8-26}}</ref>。過去最高気温は2023年8月5日に観測した39.4℃である<ref name="jma-toyooka-data">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=63&block_no=47747&year=&month=&day=&view=a2|title=観測史上1~10位の値(年間を通じての値) 豊岡(兵庫県)|publisher=気象庁|accessdate=2020-8-26}}</ref>。 豊岡盆地を流れる円山川が発生させる盆地霧も特徴的な気象である<ref name="tanshin-kiko"/>。盆地霧は年間で約120回ほど発生する<ref name="tanshin-kiko"/>。 {{Toyooka, Hyogo weatherbox}} === 人口 === [[2010年]](平成22年)[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]より前回調査からの人口増減をみると、4.04%減の85,607人であり、増減率は県下41市町中25位、49行政区域中33位。 {{人口統計|code=28209|name=豊岡市|image=Population distribution of Toyooka, Hyogo, Japan.svg}} === 市内の地域 === * [[2005年]](平成17年)4月1日の合併前の1市5町の地域に分けられる。城崎町、竹野町、日高町、出石町、但東町の地域にはそれぞれ振興局([[2015年]](平成27年)4月1日に総合支所から組織変更)が置かれ、旧豊岡市の地域は本庁が管轄している。 * 住所はそれぞれ,豊岡市城崎町○○,豊岡市竹野町○○,豊岡市日高町○○,豊岡市出石町○○,豊岡市但東町○○というように,合併前の旧町名が字名として残っている。 ==== 合併前の各町位置図 ==== <gallery> Hyogo Kinosaki-town.png|[[城崎町]] Hyogo Takeno-town.png|[[竹野町]] Hyogo Hidaka-town.png|[[日高町 (兵庫県)|日高町]] Hyogo Izushi-town.png|[[出石町]] Hyogo Tanto-town.png|[[但東町]] Hyogo Toyooka-city2004.png|豊岡市(合併前) </gallery> === 隣接する自治体 === * [[兵庫県]] - [[養父市]]、[[朝来市]]、[[美方郡]][[香美町]] * [[京都府]] - [[京丹後市]]、[[福知山市]]、[[与謝郡]][[与謝野町]] == 歴史 == * [[741年]](天平13年) - [[聖武天皇]]により国分寺の建立の詔が出される。但馬国分寺、国分尼寺は気多郡(豊岡市日高町)に建立される。 * [[804年]](延暦23年) - 但馬国府が気多郡高田郷(豊岡市日高町)に遷される。 * [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] - '''[[山名時氏]]'''が但馬国を掌握し、城之崎(豊岡市)及び出石(豊岡市出石町)に拠点を置く。 * [[室町時代]] - '''[[山名宗全|山名持豊]]'''(宗全)により但馬(城崎郡)を中心にして中国地方で栄え、'''[[山名氏]]'''が最盛期をむかえる。 * [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - 守護代[[垣屋氏]]の勢力が強まり山名氏が衰える。 * [[安土桃山時代]] - 織田家の武将・豊臣秀吉による但馬侵攻後、[[宮部継潤]]が城崎荘を豊岡と改名め、豊岡城を築き、有子山城の'''[[山名祐豊]]'''と共に但馬を治める。 * [[江戸時代]] - 小出吉英が有子山城を出石城と改名する。 * 江戸時代 - [[豊岡藩]]([[杉原氏]]→[[京極氏]])、[[出石藩]]([[小出氏]]→[[松平氏]]→[[仙石氏]])が置かれる。 * [[1871年]](明治4年)[[11月2日 (旧暦)|11月2日]] - [[但馬国|但馬]]・[[丹後国|丹後]]・[[丹波国|丹波]]3郡(氷上郡・多紀郡・天田郡)が[[豊岡県]]に統合され、県庁が城崎郡豊岡町に置かれる。 * [[1876年]](明治9年)[[8月21日 (旧暦)|8月21日]] - [[豊岡県]]が廃止され、[[兵庫県]]に編入。 * [[1925年]](大正14年)[[5月23日]] - [[北但馬地震]](北但大震災)により、[[城崎郡]][[豊岡町 (兵庫県)|豊岡町]]、城崎郡[[城崎町]]、城崎郡[[港村 (兵庫県)|港村]]などが被害を受ける。特に豊岡町は目抜き通りの約1500戸が全焼した<ref>「豊岡・城崎は焦土と化す、救援隊続々と到着」『大阪毎日新聞』1925年5月24日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp..239-240 毎日コミュニケーションズ 1994年)</ref>。死者425、住家全壊942、全焼1,696、半壊1,263、破損44,151<ref>[http://www.kobe-jma.go.jp/Shiryou/Higaijishin/Higaijishin.htm 兵庫県の主な被害地震(神戸海洋気象台)]</ref>。 * [[1950年]](昭和25年)[[4月1日]] - 城下町の中心部であった城崎郡豊岡町と周辺の村が合併し、豊岡市となる。 * [[1950年]](昭和25年)8月10日 - 初代の市章を制定する<ref>[http://www3.city.toyooka.lg.jp/gappeikyo/images/kyougi_7syousai.pdf 北但合併協議会 新市の市章の取扱い]</ref>。 * [[1959年]](昭和34年)[[9月26日]] - 台風15号([[伊勢湾台風]])により大水害となる。死者7名、浸水16,833戸<ref>[http://www.mlit.go.jp/river/jiten/nihon_kawa/86062/86062-1_p4.html 円山川の主な災害(国土交通省河川局)]</ref>。 * [[1966年]](昭和41年) - 豊岡盆地に生息していた国内最後の野生[[コウノトリ]]が死亡する。 * [[1986年]](昭和61年) - 人工飼育が続けられていた豊岡盆地の最後のコウノトリが死亡する。 * [[1989年]](平成元年)[[5月16日]] - [[ロシア]]から譲り受けたコウノトリの繁殖に初めて成功する。 * [[1995年]](平成7年)[[1月17日]] - [[阪神・淡路大震災]]発生。豊岡で震度5を記録。 * [[2002年]](平成14年)[[8月5日]] - 野生コウノトリ(雄、通称ハチゴロウ)が飛来し、住み着く(~[[2007年]](平成19年)[[2月27日]]死亡が確認される)。 * [[2004年]](平成16年)[[10月20日]] - [[平成16年台風第23号|台風23号]]により[[円山川]]、[[出石川]]の堤防決壊などにより、大水害となる。死者7名、全壊333、半壊3733、床上床下浸水3843<ref>[http://web.pref.hyogo.jp/pa18/pa18_000000001.html 台風第23号災害の検証について(兵庫県)]</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[7月10日]] - 2代目の市章を制定する<ref>図典 日本の市町村章 p161</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[9月24日]] - 人工飼育のコウノトリが自然放鳥される([[2006年]](平成18年)[[9月23日]]、24日追加放鳥)。 * [[2006年]](平成18年)[[7月31日]] - 野生コウノトリ(雌、通称エヒメ)が飛来し、住み着く。 * [[2006年]](平成18年)9月1日 - 2代目の市旗を制定する<ref>[http://www3.city.toyooka.lg.jp/reiki/reiki_honbun/ar26906201.html 豊岡市の市旗]</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[7月31日]] - 野生のコウノトリが日本で46年ぶりに巣立ちをする。 === 行政区域の変遷 === {{日本の市 (廃止) | 廃止日 = 2005年4月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''豊岡市'''、[[城崎町]]、[[竹野町]]、[[日高町 (兵庫県)|日高町]]、[[出石町]]、[[但東町]]→豊岡市 | 現在の自治体 = 豊岡市 | 市旗 = [[ファイル:Flag of Toyooka, Hyogo (1950–2006).svg|100px|border|旧豊岡市旗]] | 市旗の説明 =旧・豊岡[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[File:Emblem of Toyooka, Hyogo (1950–2006).svg|80px|旧豊岡市章]] | 市章の説明 = 旧・豊岡[[市町村章|市章]] | よみがな = とよおかし | 自治体名 = 豊岡市 | 都道府県 = 兵庫県 | コード = 28209-0 | 面積 = 162.35 | 境界未定 = あり | 人口 = 46359 | 人口の出典 = [[推計人口]] | 人口の時点 = 2005年3月1日 | 隣接自治体 = '''兵庫県'''<br />[[城崎郡]][[城崎町]]、[[竹野町]]、[[日高町 (兵庫県)|日高町]]、<br />[[出石郡]][[出石町]]<br />'''[[京都府]]'''<br />[[京丹後市]] | 花 = | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = | 所在地 = 豊岡市 | 外部リンク = | 位置画像 = [[ファイル:Hyogo Toyooka-city2004.png]] | 特記事項 = }} * 現在の市域は明治以前の城崎郡、気多郡、出石郡の全域、養父郡、美含郡の各一部にあたる。 * 明治22年([[1889年]])[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、以下の郡に町村が発足。 ** [[城崎郡]](全域) - '''[[豊岡町 (兵庫県)|豊岡町]]'''、'''[[八条村 (兵庫県)|八条村]]'''、'''[[新田村 (兵庫県)|新田村]]'''、'''[[三江村]]'''、'''[[田鶴野村]]'''、'''[[五荘村]]'''、'''[[奈佐村]]'''、'''[[内川村 (兵庫県)|内川村]]'''、'''湯島村'''、'''[[港村 (兵庫県)|港村]]''' ** [[美含郡]](一部) - '''[[奥竹野村]]'''、'''[[中竹野村]]'''、'''[[竹野村 (兵庫県)|竹野村]]''' ** [[気多郡 (兵庫県)|気多郡]](全域) - '''[[中筋村 (兵庫県)|中筋村]]'''、'''[[国府村 (兵庫県)|国府村]]'''、'''[[八代村 (兵庫県)|八代村]]'''、'''日高村'''、'''[[三方村 (兵庫県城崎郡)|三方村]]'''、'''[[西気村]]'''、'''[[三椒村]]''' ** [[出石郡]](全域) - '''[[出石町]]'''、'''[[室埴村]]'''、'''[[小坂村 (兵庫県)|小坂村]]'''、'''[[神美村]]'''、'''[[合橋村]]'''、'''[[高橋村 (兵庫県)|高橋村]]'''、'''[[資母村]]''' ** [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]](ごく一部) - '''[[宿南村]]'''(一部) * 明治27年([[1894年]])[[12月15日]] - 気多郡西気村の一部(名色村・十戸村・頃垣村〈比垣村〉・石井村・山宮村・栃本村・太多村)が分立して気多郡'''[[清滝村 (兵庫県)|清滝村]]'''が発足。 * 明治28年([[1895年]])[[3月15日]] - 城崎郡湯島村が町制施行・改称して'''[[城崎町]]'''となる。 * 明治29年([[1896年]])4月1日 - 城崎郡・美含郡・気多郡の区域をもって、改めて'''城崎郡'''が発足。美含郡・気多郡所属の各村が城崎郡所属となる。 * 大正14年([[1925年]])[[11月1日]] - 城崎郡日高村が町制施行して城崎郡'''[[日高町 (兵庫県)|日高町]]'''となる。 * [[昭和]]8年([[1933年]])4月1日 - 城崎郡八条村および新田村の一部(立野)が豊岡町に編入。 * 昭和18年([[1943年]]) ** 4月1日 - 城崎郡田鶴野村が豊岡町に編入。 ** [[8月1日]] - 城崎郡三江村が豊岡町に編入。 * 昭和25年([[1950年]])4月1日 - 城崎郡豊岡町・五荘村・新田村・中筋村が合併して旧'''豊岡市'''が発足。 * 昭和30年([[1955年]]) ** [[2月1日]] *** 城崎郡日高町が養父郡[[宿南村]]の一部(赤崎・朝倉)を編入<ref group="注釈">残部は同日八鹿町・高柳村・伊佐村と合併し、養父郡[[八鹿町]]となる。現[[養父市]]</ref>。 *** 城崎郡城崎町・内川村が合併し、改めて'''城崎町'''が発足。 ** [[3月3日]] - 城崎郡三椒村・竹野村・中竹野村・奥竹野村が合併し、改めて城崎郡'''竹野村'''が発足。 ** [[3月25日]] - 城崎郡国府村・八代村・日高町・三方村・西気村・清滝村が合併し、改めて城崎郡'''日高町'''が発足。 ** 4月1日 - 城崎郡奈佐村・港村が豊岡市に編入。 * 昭和31年([[1956年]])[[9月30日]] - 出石郡合橋村・資母村・高橋村が合併して'''[[但東町]]'''が発足。 * 昭和32年([[1957年]]) ** 4月1日 - 城崎郡竹野村が町制施行して城崎郡'''[[竹野町]]'''となる。 ** [[9月1日]] *** 出石郡神美村の一部(奥野・市場・三宅・森尾・立石・香住・下鉢山・上鉢山・長谷・倉見)が豊岡市に編入。 *** 出石郡出石町・室埴村・小坂村・神美村の残部(宮内・坪井・袴狭・口小野・奥小野・安良・田多地)が合併し、改めて'''出石町'''が発足。 * 昭和33年([[1958年]])[[1月1日]] - 日高町の一部(上佐野)が豊岡市に編入。 * 昭和51年([[1976年]])9月1日 - 以下の境界変更を実施<ref>{{XLSlink|[https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk11/documents/000010786.xls 兵庫県統計書 平成10年(1998年)第22章 付録]}}</ref>。 ** 豊岡市の一部(引野字上河原の一部)が城崎郡日高町に編入。 ** 城崎郡日高町の一部(西芝字大向野の一部)が豊岡市に編入。 * [[平成]]17年([[2005年]])4月1日 - 豊岡市・城崎郡城崎町・竹野町・日高町・出石郡出石町・但東町が合併し、改めて'''豊岡市'''が発足。 {{hidden begin |title = 豊岡市の変遷 |titlestyle = background:lightgrey; }} {| class="wikitable" style="font-size:x-small" ! style="width:1em;" | 旧<br />郡 ! 明治以前 ! colspan="2" | 明治初年 - 明治22年 ! style="white-space:nowrap;" | 明治22年<br />4月1日<br />町村制施行 ! style="white-space:nowrap;" | 明治22年 - 明治29年 ! style="white-space:nowrap;" | 明治29年<br />4月1日 ! style="white-space:nowrap;" | 明治29年 - 昭和20年 ! colspan="2" | 昭和21年 - 昭和30年 ! style="white-space:nowrap;" | 昭和31年 - 昭和64年 ! 平成元年 - 現在 ! 現在 |- | rowspan="32" | [[美含郡|美<br />含<br />郡]] | style="background-color:#9cf;" | 竹野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | [[竹野村 (兵庫県)|竹野村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 所属変更<br />城崎郡<br />竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="35" | 昭和30年3月3日<br />竹野村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="35" | 昭和32年4月1日<br />町制 [[竹野町]] | style="white-space:nowrap; background-color:#f88;" rowspan="282" | 平成17年4月1日<br />豊岡市 | style="white-space:nowrap; background-color:#f88;" rowspan="282" | '''豊岡市''' |- | style="background-color:#9cf;" | 切浜村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 切浜村 |- | style="background-color:#9cf;" | 浜須井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 浜須井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 奥須井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 奥須井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 宇日村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 宇日村 |- | style="background-color:#9cf;" | 田久日村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 田久日村 |- | style="background-color:#9cf;" | 林村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 林村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | [[中竹野村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 中竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 所属変更<br />城崎郡<br />中竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 中竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 中竹野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 下塚村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 下塚村 |- | style="background-color:#9cf;" | 金原村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 金原村 |- | style="background-color:#9cf;" | 轟村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 轟村 |- | style="background-color:#9cf;" | 小丸村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小丸村 |- | style="background-color:#9cf;" | 鬼神谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 鬼神谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 須谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 須谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 芦谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 芦谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 阿金谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 阿金谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 和田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 和田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 羽入村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 羽入村 |- | style="background-color:#9cf;" | 松本村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 松本村 |- | style="background-color:#9cf;" | 草飼村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 草飼村 |- | style="background-color:#9cf;" | 大谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 明治初年<br />改称 東大谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 河南谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 河南谷村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="12" | [[奥竹野村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="12" | 奥竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="12" | 所属変更<br />城崎郡<br />奥竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="12" | 奥竹野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="12" | 奥竹野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 桑野本村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 桑野本村 |- | style="background-color:#9cf;" | 大森村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大森村 |- | style="background-color:#9cf;" | 須野谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 須野谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 門谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 門谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 河内村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 河内村 |- | style="background-color:#9cf;" | 御又村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 御又村 |- | style="background-color:#9cf;" | 小城村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小城村 |- | style="background-color:#9cf;" | 二連原村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 二連原村 |- | style="background-color:#9cf;" | 坊岡村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 坊岡村 |- | style="background-color:#9cf;" | 森本村 | style="background-color:#9cf;" | 森本村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 明治19年<br />森本村 |- | style="background-color:#9cf;" | 神原村 | style="background-color:#9cf;" | 神原村 |- | rowspan="19" | [[気多郡 (兵庫県)|気<br />多<br />郡]] | style="background-color:#9cf;" | 椒村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 椒村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[三椒村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 三椒村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 所属変更<br />城崎郡<br />三椒村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 三椒村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 三椒村 |- | style="background-color:#9cf;" | 三原村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 三原村 |- | style="background-color:#9cf;" | 段村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 段村 |- | style="background-color:#9cf;" | 久田谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 久田谷村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="16" | 日高村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="16" | 日高村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="16" | 所属変更<br />城崎郡<br />日高村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="16" | 大正14年11月1日<br />町制 日高町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="16" | 日高町 | style="background-color:#6ff; white-space:nowrap;" rowspan="71" | 昭和30年3月25日<br />[[日高町 (兵庫県)|日高町]] | style="background-color:#6ff;" rowspan="70" | 日高町 |- | style="background-color:#9cf;" | 道場村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 道場村 |- | style="background-color:#9cf;" | 夏栗村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 夏栗村 |- | style="background-color:#9cf;" | 久斗村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 久斗村 |- | style="background-color:#9cf;" | 宵田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 宵田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 江原村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 江原村 |- | style="background-color:#9cf;" | 日置村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 日置村 |- | style="background-color:#9cf;" | 祢布村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 祢布村 |- | style="background-color:#9cf;" | 水上村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 水上村 |- | style="background-color:#9cf;" | 山本村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 山本村 |- | style="background-color:#9cf;" | 多田屋村 | style="background-color:#9cf;" | 多田屋村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 明治9年<br />鶴岡村 |- | style="background-color:#9cf;" | 伊福村 | style="background-color:#9cf;" | 伊福村 |- | style="background-color:#9cf;" | 国分寺村 | style="background-color:#9cf;" | 国分寺村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 明治9年<br />国保村 |- | style="background-color:#9cf;" | 石立村 | style="background-color:#9cf;" | 石立村 |- | style="background-color:#9cf;" | 岩中村 | style="background-color:#9cf;" | 岩中村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 明治9年<br />岩中村 |- | style="background-color:#9cf;" | 地下村 | style="background-color:#9cf;" | 地下村 |- | rowspan="2" | [[養父郡 (兵庫県)|養<br />父<br />郡]] | style="background-color:#9cf;" | 浅倉村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 浅倉村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[宿南村]]<br />の一部 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 宿南村の一部 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 宿南村<br />の一部 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 宿南村の一部 | style="background-color:#6ff; white-space:nowrap;" rowspan="2" | 昭和30年2月1日<br />日高町に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 赤崎村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 赤崎村 |- | rowspan="60" | 気<br />多<br />郡 | style="background-color:#9cf;" | 稲葉村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 稲葉村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | [[西気村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 西気村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 所属変更<br />城崎郡<br />西気村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 西気村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 西気村 |- | style="background-color:#9cf;" | 水口村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 水口村 |- | style="background-color:#9cf;" | 万劫村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 万劫村 |- | style="background-color:#9cf;" | 東河内村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 東河内村 |- | style="background-color:#9cf;" | 山田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 山田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 栗栖野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 栗栖野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 万場村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 万場村 |- | style="background-color:#9cf;" | 名色村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 名色村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 明治27年12月15日<br />分立 [[清滝村 (兵庫県)|清滝村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 所属変更<br />城崎郡<br />清滝村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 清滝村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 清滝村 |- | style="background-color:#9cf;" | 十戸村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 十戸村 |- | style="background-color:#9cf;" | 頃垣村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 頃垣村 |- | style="background-color:#9cf;" | 石井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 石井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 山宮村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 山宮村 |- | style="background-color:#9cf;" | 栃本村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 栃本村 |- | style="background-color:#9cf;" | 太多村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 太多村 |- | style="background-color:#9cf;" | 羽尻村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 羽尻村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="18" | [[三方村 (兵庫県城崎郡)|三方村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="18" | 三方村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="18" | 所属変更<br />城崎郡<br />三方村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="18" | 三方村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="18" | 三方村 |- | style="background-color:#9cf;" | 殿村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 殿村 |- | style="background-color:#9cf;" | 田之口村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 田之口村 |- | style="background-color:#9cf;" | 広井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 広井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 猪子垣村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 猪子垣村 |- | style="background-color:#9cf;" | 芝村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 芝村 |- | style="background-color:#9cf;" | 庄境村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 庄境村 |- | style="background-color:#9cf;" | 野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 三所村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 三所村 |- | style="background-color:#9cf;" | 荒川村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 荒川村 |- | style="background-color:#9cf;" | 伊府村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 伊府村 |- | style="background-color:#9cf;" | 篠垣村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 篠垣村 |- | style="background-color:#9cf;" | 佐田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 佐田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 知見村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 知見村 |- | style="background-color:#9cf;" | 森山村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 森山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 栗山村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 栗山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 観音寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 観音寺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 海老原村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 海老原村 |- | style="background-color:#9cf;" | 奥八代村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 明治初年<br />改称 八代村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | [[八代村 (兵庫県)|八代村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 八代村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 所属変更<br />城崎郡<br />八代村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 八代村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 八代村 |- | style="background-color:#9cf;" | 八代中村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 明治初年<br />改称 中村 |- | style="background-color:#9cf;" | 藤井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 藤井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 奈佐路村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 奈佐路村 |- | style="background-color:#9cf;" | 谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 猪爪村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 猪爪村 |- | style="background-color:#9cf;" | 河江村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 河江村 |- | style="background-color:#9cf;" | 大岡寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大岡寺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 松岡村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 松岡村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="13" | [[国府村 (兵庫県)|国府村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="13" | 国府村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="13" | 所属変更<br />城崎郡<br />国府村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="13" | 国府村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="13" | 国府村 |- | style="background-color:#9cf;" | 土居村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 土居村 |- | style="background-color:#9cf;" | 上郷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上郷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 府市場村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 府市場村 |- | style="background-color:#9cf;" | 堀村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 堀村 |- | style="background-color:#9cf;" | 野々庄村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 野々庄村 |- | style="background-color:#9cf;" | 池上村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 池上村 |- | style="background-color:#9cf;" | 上石村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上石村 |- | style="background-color:#9cf;" | 竹貫村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 竹貫村 |- | style="background-color:#9cf;" | 新村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 明治初年<br />改称 府中新村 |- | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 芝村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 明治初年<br />東芝村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 明治初年<br />西芝村 |- | style="background-color:#9cf;" | 上佐野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上佐野村 | style="background-color:#f88;" | 昭和33年1月1日<br />豊岡市に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 中郷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 中郷村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | [[中筋村 (兵庫県)|中筋村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 中筋村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 所属変更<br />城崎郡<br />中筋村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 中筋村 | style="background-color:#f88;" colspan="2" rowspan="58" | 昭和25年4月1日<br />豊岡市 | style="background-color:#f88;" rowspan="76" | 豊岡市 |- | style="background-color:#9cf;" | 引野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 引野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 土淵村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 土淵村 |- | style="background-color:#9cf;" | 加陽村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 加陽村 |- | style="background-color:#9cf;" | 清冷寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 清冷寺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 伏村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 伏村 |- | style="background-color:#9cf;" | 八社宮村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 八社宮村 |- | rowspan="69" | [[城崎郡|城<br />崎<br />郡]] | style="background-color:#9cf;" | 正法寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 正法寺村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | [[五荘村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 五荘村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 五荘村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 五荘村 |- | style="background-color:#9cf;" | 戸牧村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 戸牧村 |- | style="background-color:#9cf;" | 高屋村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 高屋村 |- | style="background-color:#9cf;" | 福田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 福田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 栃江村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 栃江村 |- | style="background-color:#9cf;" | 森津村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 森津村 |- | style="background-color:#9cf;" | 滝村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 滝村 |- | style="background-color:#9cf;" | 新堂村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 新堂村 |- | style="background-color:#9cf;" | 岩熊村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 岩熊村 |- | style="background-color:#9cf;" | 江野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 江野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 伊賀谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 伊賀谷村 |- | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 下陰村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 下陰村 | style="background-color:#9cf;" | 下陰村 |- | style="background-color:#9cf;" | 明治5年<br />分立 中陰村 |- | style="background-color:#9cf;" | 上陰村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上陰村 |- | style="background-color:#9cf;" | 塩津村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 塩津村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | [[新田村 (兵庫県)|新田村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 新田村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 新田村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="9" | 新田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 江本村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 江本村 |- | style="background-color:#9cf;" | 今森村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 今森村 |- | style="background-color:#9cf;" | 駄坂村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 駄坂村 |- | style="background-color:#9cf;" | 木内村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 木内村 |- | style="background-color:#9cf;" | 大篠岡村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大篠岡村 |- | style="background-color:#9cf;" | 中谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 中谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 河谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 河谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 百合地村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 百合地村 |- | style="background-color:#9cf;" | 立野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 立野村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="8" | 昭和8年4月1日<br />豊岡町に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 佐野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 佐野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | [[八条村 (兵庫県)|八条村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 八条村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 八条村 |- | style="background-color:#9cf;" | 妙楽寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 妙楽寺村 |- | style="background-color:#9cf; white-space:nowrap;" | 九日市上町村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 九日市上町村 |- | style="background-color:#9cf;" | 九日市中町村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 九日市中町村 |- | style="background-color:#9cf;" | 九日市下町村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 九日市下町村 |- | style="background-color:#9cf;" | 小尾崎村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小尾崎村 |- | style="background-color:#9cf;" | 大磯村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大磯村 |- | style="background-color:#6ff;" | 豊岡町 | style="background-color:#6ff;" colspan="2" | 豊岡町<ref group="注釈">豊岡京口町、豊岡新町、豊岡小尾崎町、豊岡豊田町、豊岡南本町、豊岡本町、豊岡宵田町、豊岡中町、豊岡滋茂町、豊岡竹屋町、豊岡新屋敷町、豊岡小田井町、豊岡久保町、豊岡寺町、豊岡永井町、永井分の総称。</ref> | style="background-color:#6ff;" | [[豊岡町 (兵庫県)|豊岡町]] | style="background-color:#6ff;" | 豊岡町 | style="background-color:#6ff;" | 豊岡町 | style="background-color:#6ff;" | 豊岡町 |- | style="background-color:#9cf;" | 船町村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 船町村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="9" | [[田鶴野村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="9" | 田鶴野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="9" | 田鶴野村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="9" | 昭和18年4月1日<br />豊岡町に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 山本村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 山本村 |- | style="background-color:#9cf;" | 金剛寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 金剛寺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 森村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 森村 |- | style="background-color:#9cf;" | 宮島村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 宮島村 |- | style="background-color:#9cf;" | 野上村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 野上村 |- | style="background-color:#9cf;" | 下鶴井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 下鶴井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 赤石村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 赤石村 |- | style="background-color:#9cf;" | 一日市村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 一日市村 |- | style="background-color:#9cf;" | 法花寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 法花寺村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | [[三江村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 三江村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 三江村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="10" | 昭和18年8月1日<br />豊岡町に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 祥雲寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 祥雲寺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 南谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 南谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 馬路村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 馬路村 |- | style="background-color:#9cf;" | 鎌田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 鎌田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 下宮村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 下宮村 |- | style="background-color:#9cf;" | 庄境村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 庄境村 |- | style="background-color:#9cf;" | 梶原村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 梶原村 |- | style="background-color:#9cf;" | 火撫村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 火撫村 |- | style="background-color:#9cf;" | 六地蔵村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 六地蔵村 |- | style="background-color:#9cf;" | 宮井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 宮井村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | [[奈佐村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 奈佐村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 奈佐村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 奈佐村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 奈佐村 | style="background-color:#f88;" rowspan="18" | 昭和30年4月1日<br />豊岡市に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 岩井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 岩井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 庄村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 庄村 |- | style="background-color:#9cf;" | 吉井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 吉井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 野垣村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 野垣村 |- | style="background-color:#9cf;" | 福成寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 福成寺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 大谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 内町村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 内町村 |- | style="background-color:#9cf;" | 辻村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 辻村 |- | style="background-color:#9cf;" | 目坂村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 目坂村 |- | style="background-color:#9cf;" | 船谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 船谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 小島村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小島村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | [[港村 (兵庫県)|港村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 港村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 港村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 港村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 港村 |- | style="background-color:#9cf;" | 瀬戸村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 瀬戸村 |- | style="background-color:#9cf;" | 津居山村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 津居山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 気比村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 気比村 |- | style="background-color:#9cf;" | 田結村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 田結村 |- | style="background-color:#9cf;" | 畑上村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 畑上村 |- | style="background-color:#9cf;" | 三原村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 三原村 |- | rowspan="90" | [[出石郡|出<br />石<br />郡]] | style="background-color:#9cf;" | 奥野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 奥野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="17" | [[神美村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="17" | 神美村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="17" | 神美村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="17" | 神美村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="17" | 神美村 | style="background-color:#f88;" rowspan="10" | 昭和32年9月1日<br />豊岡市に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 穴見市場村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 穴見市場村 |- | style="background-color:#9cf;" | 三宅村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 三宅村 |- | style="background-color:#9cf;" | 森尾村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 森尾村 |- | style="background-color:#9cf;" | 立石村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 立石村 |- | style="background-color:#9cf;" | 香住村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 香住村 |- | style="background-color:#9cf;" | 下鉢山村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 下鉢山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 上鉢山村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上鉢山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 長谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 長谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 倉見村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 倉見村 |- | style="background-color:#9cf;" | 宮内村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 宮内村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="37" | 昭和32年9月1日<br />[[出石町]] |- | style="background-color:#9cf;" | 坪井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 坪井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 袴狭村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 袴狭村 |- | style="background-color:#9cf;" | 口小野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 口小野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 奥小野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 奥小野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 安良村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 安良村 |- | style="background-color:#9cf;" | 田多地村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 田多地村 |- | style="background-color:#6ff;" | 出石 | style="background-color:#6ff;" colspan="2" | 出石<ref group="注釈">出石谷山町、出石伊木町、出石材木町、出石内町、出石八木町、出石魚屋町、出石入佐町、出石東条町、出石本町、出石宵田町、出石鉄砲町、出石田結庄町、出石川原町、出石柳町、出石小人町、出石松ヶ枝町、出石馬場町、谷山分、寺町分の総称。</ref> | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 出石町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 出石町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 出石町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 出石町 | style="background-color:#6ff;" colspan="2" rowspan="3" | 出石町 |- | style="background-color:#6ff;" | 出石町分 | style="background-color:#6ff;" colspan="2" | 出石町分 |- | style="background-color:#6ff;" rowspan="2" | 弘原町分 | style="background-color:#6ff;" rowspan="2" | 弘原町分 | style="background-color:#6ff;" | 一部 |- | style="background-color:#6ff;" | 一部 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | [[室埴村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 室埴村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 室埴村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="14" | 室埴村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="14" | 室埴村 |- | style="background-color:#9cf;" | 寺坂村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 寺坂村 |- | style="background-color:#9cf;" | 桐野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 桐野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 日野辺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 日野辺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 上野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 奥山村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 奥山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 鍛冶屋村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 鍛冶屋村 |- | style="background-color:#9cf;" | 細見村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 細見村 |- | style="background-color:#9cf;" | 荒木村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 荒木村 |- | style="background-color:#9cf;" | 福見村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 福見村 |- | style="background-color:#9cf;" | 暮坂村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 暮坂村 |- | style="background-color:#9cf;" | 弘原上村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 明治初年<br />改称 上村 |- | style="background-color:#9cf;" | 弘原中村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 明治初年<br />改称 中村 |- | style="background-color:#9cf;" | 弘原下村 | style="background-color:#9cf;" | 明治初年<br />改称 下村 | style="background-color:#9cf;" | 明治5年<br />改称 福住村 |- | style="background-color:#9cf;" | 島村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 島村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="13" | [[小坂村 (兵庫県)|小坂村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="13" | 小坂村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="13" | 小坂村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="13" | 小坂村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="13" | 小坂村 |- | style="background-color:#9cf;" | 福居村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 福居村 |- | style="background-color:#9cf;" | 伊豆村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 伊豆村 |- | style="background-color:#9cf;" | 片間村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 片間村 |- | style="background-color:#9cf;" | 三木村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 三木村 |- | style="background-color:#9cf;" | 大谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 丸谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 丸谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 中谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 中谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 森井村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 森井村 |- | style="background-color:#9cf;" | 尾崎村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 尾崎村 |- | style="background-color:#9cf;" | 鳥居村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 鳥居村 |- | style="background-color:#9cf;" | 長砂村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 長砂村 |- | style="background-color:#9cf;" | 水上村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 水上村 |- | style="background-color:#9cf;" | 唐川村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 唐川村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="16" | [[合橋村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="16" | 合橋村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="16" | 合橋村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="16" | 合橋村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="16" | 合橋村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="43" | 昭和31年9月30日<br />[[但東町]] |- | style="background-color:#9cf;" | 三原村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 三原村 |- | style="background-color:#9cf;" | 出合村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 出合村 |- | style="background-color:#9cf;" | 南尾村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 南尾村 |- | style="background-color:#9cf;" | 小谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 相田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 相田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 佐々木村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 佐々木村 |- | style="background-color:#9cf;" | 天谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 天谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 西谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 西谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 河本村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 河本村 |- | style="background-color:#9cf;" | 日殿村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 日殿村 |- | style="background-color:#9cf;" | 出合市場村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 出合市場村 |- | style="background-color:#9cf;" | 畑村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 畑村 |- | style="background-color:#9cf;" | 水石村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 水石村 |- | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 矢根村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 矢根村 | style="background-color:#9cf;" | 明治5年<br />口矢根村 |- | style="background-color:#9cf;" | 明治5年<br />奥矢根村 |- | style="background-color:#9cf;" | 奥藤森村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 奥藤森村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="17" | [[資母村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="17" | 資母村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="17" | 資母村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="17" | 資母村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="17" | 資母村 |- | style="background-color:#9cf;" | 中藤森村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 中藤森村 |- | style="background-color:#9cf;" | 口藤森村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 口藤森村 |- | style="background-color:#9cf;" | 虫生村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 虫生村 |- | style="background-color:#9cf;" | 坂野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 坂野村 |- | style="background-color:#9cf;" | 高竜寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 高竜寺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 西野々村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 西野々村 |- | style="background-color:#9cf;" | 木村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 木村 |- | style="background-color:#9cf;" | 東里村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 東里村 |- | style="background-color:#9cf;" | 日向村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 日向村 |- | style="background-color:#9cf;" | 中山村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 中山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 畑山村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 畑山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 坂津村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 坂津村 |- | style="background-color:#9cf;" | 奥赤花村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 奥赤花村 |- | style="background-color:#9cf;" | 中赤花村 | style="background-color:#9cf;" | 中赤花村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 明治14年<br />赤花村 |- | style="background-color:#9cf;" | 口赤花村 | style="background-color:#9cf;" | 口赤花村 |- | style="background-color:#9cf;" | 太田市場村 | style="background-color:#9cf; white-space:nowrap;" | 太田市場村 | style="background-color:#9cf; white-space:nowrap;" | 明治7年<br />改称 太田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 薬王寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 薬王寺村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | [[高橋村 (兵庫県)|高橋村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 高橋村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 高橋村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 高橋村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="10" | 高橋村 |- | style="background-color:#9cf;" | 大河内村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大河内村 |- | style="background-color:#9cf;" | 久畑村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 久畑村 |- | style="background-color:#9cf;" | 後村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 後村 |- | style="background-color:#9cf;" | 小坂村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小坂村 |- | style="background-color:#9cf;" | 佐田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 佐田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 栗尾村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 栗尾村 |- | style="background-color:#9cf;" | 平田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 平田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 正法寺村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 正法寺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 中村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 明治初年<br />改称 東中村 |- | rowspan="90" | 城<br />崎<br />郡 | style="background-color:#9cf;" | 湯島村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 湯島村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 湯島村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 明治28年3月15日<br />町制改称 城崎町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 城崎町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 城崎町 | style="background-color:#6ff;" colspan="2" rowspan="10" | 昭和30年2月1日<br />[[城崎町]] | style="background-color:#6ff;" rowspan="10" | 城崎町 |- | style="background-color:#9cf;" | 今津村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 今津村 |- | style="background-color:#9cf;" | 桃島村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 桃島村 |- | style="background-color:#9cf;" | 来日村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 来日村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | [[内川村 (兵庫県)|内川村]] | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 内川村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 内川村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 内川村 |- | style="background-color:#9cf;" | 結村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 結村 |- | style="background-color:#9cf;" | 戸島村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 戸島村 |- | style="background-color:#9cf;" | 楽々浦村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 楽々浦村 |- | style="background-color:#9cf;" | 飯谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 飯谷村 |- | style="background-color:#9cf;" | 上山村 | style="background-color:#9cf;" | 上山村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 明治16年<br />上山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 簸磯村 | style="background-color:#9cf;" | 簸磯村 |} {{hidden end}} == 行政 == * 市長:[[関貫久仁郎]](元豊岡市議会議長)現在1期目【任期満了:令和7年4月30日】) * 副市長:前野文孝(2017年(平成29年)9月15日就任) === 歴代市長 === 特記なき場合『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み』などによる{{sfn|歴代知事編纂会|1983|loc=1000-1002頁|ref=shicho-2}}。 ;旧豊岡市 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任!!退任!!備考 |- |1||[[佐川辰夫]]||1950年(昭和25年)5月10日||1966年(昭和41年)5月9日|| |- |2||[[橋本省三]]||1966年(昭和41年)5月10日||1981年(昭和56年)6月12日|| |- |3||[[平尾源太夫]]||1981年(昭和56年)7月26日||1989年(平成元年)7月25日|| |- |4||[[今井晶三]]||1989年(平成元年)7月26日||2001年(平成13年)7月25日|| |- |5||[[中貝宗治]]||2001年(平成13年)7月26日||2005年(平成17年)3月31日|| |} ;豊岡市 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任!!退任!!備考 |- |1||中貝宗治||2005年(平成17年)5月1日||2021年(令和3年)4月30日|| |- |2||[[関貫久仁郎]]||2021年(令和3年)5月1日||現職|| |} === パブリックコメント制度 === 豊岡市では、行政の透明性を確保するため、行政からの提案に対して豊岡市市民の意見を聞きそれを反映し行政での立場を公示するために、パブリックコメント制度を2008年度から実施している。 == 議会 == === 市議会 === * 任期:2021年11月1日 - 2025年10月31日 * 定数:24 * 議長:福田嗣久(令和とよおかクラブ) * 副議長:西田真(ひかり) === 衆議院 === * 選挙区:[[兵庫県第5区|兵庫5区]](豊岡市、[[川西市]](旧[[東谷村 (兵庫県)|東谷村]]域)、[[三田市]]、[[篠山市]]、[[養父市]]、[[丹波市]]、[[朝来市]]、[[川辺郡]]、[[美方郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:368,205人 * 投票率:61.59% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[谷公一]] || align="center" | 69 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 94,656票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || [[遠藤良太]] || align="center" | 36 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 新 || 65,714票 || align="center" | ○ |- | || 梶原康弘 || align="center" | 65 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 元 || 62,414票 || align="center" | ○ |} == 公共施設 == === 公立医療機関 === * [[公立豊岡病院組合]] ** [[公立豊岡病院]] *** [[公立豊岡病院組合#日高医療センター|日高医療センター]] *** [[公立豊岡病院組合#出石医療センター|出石医療センター]] * 豊岡市立休日診療所 === 消防 === * [[豊岡市消防本部]] ** 豊岡消防署 *** 日高分署 *** 出石分署 *** 但東駐在所 *** 城崎分署 *** 竹野分署 === 警察 === * [[豊岡警察署]] - 市内全域を管轄 *: 現在の市域には2005年の合併時点では豊岡、出石、城崎の3署があったが、2006年に豊岡・出石の2署を改編統合して豊岡南署とし、同時に城崎署は[[豊岡北警察署|豊岡北署]]とした。2021年3月21日に豊岡南・豊岡北の両署を統合して現在の「豊岡警察署」となった。 == 産業 == * [[かばん]](バッグ)の生産地である。 === 金融 === ;銀行・信用金庫・信用組合 * [[但馬銀行]]本店:兵庫県唯一の[[地方銀行]]、[[指定金融機関]] * [[三井住友銀行]]豊岡支店 * [[みなと銀行]]豊岡支店 * [[山陰合同銀行]]豊岡支店 * [[但馬信用金庫]]本店 * [[兵庫県信用組合]]豊岡支店 ;政府系金融機関 * [[日本政策金融公庫]]豊岡支店 ;証券会社 * [[岡安証券]]豊岡営業所 * [[リテラ・クレア証券]]豊岡支店 * [[大山日ノ丸証券]]豊岡支店 == コウノトリと豊岡市 == === 保護活動 === 豊岡盆地の[[コウノトリ]]は、古くから保護されてきた。 * [[江戸時代]]、[[出石藩]]主の[[仙石氏]]はコウノトリを瑞鳥として禁猟とした。 * [[1904年]](明治37年)、兵庫県知事[[服部一三]]が鶴山周辺を猟銃禁止に指定した。 * [[1907年]](明治40年)、鶴山の民間払い下げに対して、出石郡室埴村(現在の出石地域)がコウノトリ保護の観点から反対し、払い下げは見送られることになった。 * [[1921年]](大正10年)、コウノトリの繁殖地として出石の「鶴山」が[[天然記念物]]に指定される。なお、[[1953年]](昭和28年)には生息地としての指定から種の指定に変更され、[[1956年]](昭和31年)からは特別天然記念物となっている。 * 1950年~60年代、豊岡市でそっとする運動、但馬地域でドジョウ一匹運動、兵庫県で愛のきょ金運動が展開された。 豊岡市では[[2002年]](平成14年)に企画部内にコウノトリ共生推進課を設置<ref>{{Cite web|和書|title=コウノトリの歴史 平成から現在|url=https://www.city.toyooka.lg.jp/konotori/yaseifukki/1004040.html |website=豊岡市 |access-date=2022-12-01}}</ref>。[[2006年]](平成18年)にコウノトリ共生推進課は部に昇格してコウノトリ共生部となった<ref name="kobe-np202212" />。コウノトリと共生を図り、無農薬・減農薬でつくられた農産物を対外的にアピールするため、農林水産部等の業務を統合してコウノトリ共生部に改編した<ref>[[日本海新聞]][[2006年]](平成18年)[[3月23日]]付け記事</ref>。 その後、豊岡市は市の組織改編により[[2023年]](令和5年)3月末でコウノトリ共生部を廃止し、4月から新部署に引き継ぐことになった<ref name="kobe-np202212">{{Cite web|和書|title=豊岡市「コウノトリ共生部」廃止へ 前市長も注力した市のシンボル、部の名称から消え新部署に|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202212/0015856123.shtml |website=神戸新聞 |access-date=2022-12-01}}</ref>。 === シンボル === コウノトリは豊岡市鳥となっている。 * コウノトリの郷公園の中には市立の文化館などが有る。 * 市民会館大ホールの側面に大きなコウノトリが掲げられている。 * 豊岡市市街地環状バスの愛称[[コバス]]はコウノトリにちなんでおり、あわせて小さくて小回りがきくイメージ含ませている<ref>平成15年第6回豊岡市議会定例会市長総括説明</ref>。 * 新公立豊岡病院の診察券にコウノトリが描かれている。 * マスコットキャラクタはコウノトリの「[[コーちゃん]]」、オオサンショウウオの「[[オーちゃん]]」、玄武岩の「[[玄さん]]」 このほかコウノトリは同地域のシンボルになっている。 * 大阪方面と当地を結ぶ特急の愛称が[[こうのとり (列車)|こうのとり]]である。 * [[但馬飛行場]]の愛称がコウノトリ但馬空港でありマスコットの[[たじ丸]]は、コウノトリと飛行機をかたどったものである。 * 兵庫県の県鳥はコウノトリであり、[[兵庫県警察]]の[[マスコットキャラクター一覧|マスコットキャラクター]][http://www.police.pref.hyogo.jp/kohei/index.htm こうへいくん]はコウノトリをモチーフにしている。 なお、市町村合併時、新市名称の一般応募が行われ、「こうのとり市」が381件で全体の3位、「コウノトリ市」が198件で6位となるなど、コウノトリにちなむ名称が多数応募され、「こうのとり市」が新市名候補の一つになっていた。ただし、旧豊岡市内を中心にコウノトリに害鳥や絶滅の悪いイメージがある、[[ひらがな・カタカナ地名|ひらがな名称]]などの理由で反対意見が強く、3次選定までに候補から外れている<ref>北但合併協議会 第10回~第11回市名検討小委員会会議録</ref><ref>北但合併協議会だより ふるさと第14号</ref>。 == 姉妹都市・提携都市 == === 海外 === ; 姉妹都市 * {{KOR}} [[慶州市]] * {{ESP}} [[アリカンテ]] * {{MGL}} [[ウブルハンガイ県|ボグド郡]] * {{NZL}} ルアペフ地区 === 日本国内 === ;姉妹都市 * {{Flagicon|長野県}}[[上田市]]([[長野県]]) ;その他 * [[但馬国|但馬]]の[[小京都]]「[[出石町|出石]]」として全国京都会議に加盟している。 == 教育 == === 小学校・中学校 === 通学区域の指定は「豊岡市立学校の通学区域等に関する規則」<ref>[https://www3.city.toyooka.lg.jp/reiki/reiki_honbun/r269RG00000394.html 豊岡市立学校の通学区域等に関する規則]</ref>による。 {| class="wikitable" ! 市立小学校 !! 市立中学校 !! 市立小学校 !! 市立中学校 |- | [[豊岡市立三江小学校]] || rowspan="5" | [[豊岡市立豊岡南中学校]] || [[豊岡市立日高小学校]] || rowspan="4" | [[豊岡市立日高東中学校]] |- | [[豊岡市立八条小学校]] || [[豊岡市立府中小学校]] |- | [[豊岡市立新田小学校]] || [[豊岡市立八代小学校]] |- | [[豊岡市立中筋小学校]] || [[豊岡市立静修小学校]] |- | [[豊岡市立神美小学校]] || [[豊岡市立弘道小学校]] || rowspan="5" | [[豊岡市立出石中学校]] |- | [[豊岡市立豊岡小学校]] || <ref group="注釈">居住地域によって豊岡南中と豊岡北中に分かれる。</ref> || [[豊岡市立福住小学校]] |- | [[豊岡市立田鶴野小学校]] || rowspan="2" | [[豊岡市立豊岡北中学校]] || [[豊岡市立寺坂小学校]] |- | [[豊岡市立五荘小学校]] || [[豊岡市立小坂小学校]] |- | [[豊岡市立港小学校]] || [[豊岡市立港中学校]] || [[豊岡市立小野小学校]] |- | [[豊岡市立城崎小学校]] || [[豊岡市立城崎中学校]] || [[豊岡市立合橋小学校]] || rowspan="3" | [[豊岡市立但東中学校]] |- | [[豊岡市立竹野小学校]] || [[豊岡市立竹野中学校]] || [[豊岡市立高橋小学校]] |- | [[豊岡市立清滝小学校]] || rowspan="2" | [[豊岡市立日高西中学校]] || [[豊岡市立資母小学校]] |- | [[豊岡市立三方小学校]] || rowspan="2" | |} ;私立 * [[近畿大学附属豊岡高等学校・中学校|近畿大学附属豊岡中学校]] === 高等学校 === 豊岡高と出石高は普通科一般入試において[[進学連携校方式]]の対象となる。 {{Columns-list|3| * [[兵庫県立豊岡高等学校]] * [[兵庫県立豊岡総合高等学校]] * [[兵庫県立日高高等学校]] * [[兵庫県立出石高等学校]] * [[近畿大学附属豊岡高等学校・中学校|近畿大学附属豊岡高等学校]] * [[クラーク記念国際高等学校|クラーク記念国際高等学校(豊岡キャンパス)]] }} === 特別支援学校 === * [[兵庫県立豊岡聴覚特別支援学校]] * [[兵庫県立出石特別支援学校]] === 短期大学 === * [[豊岡短期大学]] === 専修学校 === * [[大岡学園高等専修学校]]([[学校法人大岡学園]]) * [[ビジネス専門学校 キャリアカレッジ但馬]](学校法人大岡学園、休校中) === 大学 === * [[兵庫県立大学]]豊岡ジオ・コウノトリキャンパス ** 大学院地域資源マネジメント研究科 === 専門職大学 === * [[芸術文化観光専門職大学]] === 学校教育以外の施設 === * [[兵庫県立但馬技術大学校]]([[職業能力開発促進法]]に基づく[[公共職業能力開発施設]]) * [[兵庫県立豊岡高等技術専門学院]](但馬技術大学校に併設) * [[トヨオカカバンアルチザンアベニュー]](豊岡まちづくり株式会社が運営する[[豊岡鞄]]の拠点施設。1階・2階がショップ、3階が鞄職人を養成する専門校となっている) * [[豊岡市立図書館]]を本館に城崎分館・竹野分館・日高分館・出石分館・但東分館が存在する。 * [[本と暮らしのあるところだいかい文庫]](2020年12月5日にオープンした[[私立図書館|私設図書館]])<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/202012/0013917336.shtml 大型本棚、区画ごとにオーナー 豊岡に私設図書館]神戸新聞NEXT.2021年2月28日閲覧。</ref> === かつて存在した学校=== : [[兵庫県小学校の廃校一覧#豊岡市]]・[[兵庫県中学校の廃校一覧#豊岡市]]・[[兵庫県高等学校の廃校一覧#豊岡市]]を参照。 == 交通 == [[ファイル:JR West Toyooka railway in Hyogo Prefecture.jpg|thumb|200px|JR西日本豊岡駅・福知山電車区豊岡支所]] [[ファイル:Kinosaki ropeway01n2610.jpg|thumb|200px|城崎ロープウェイ]] === 鉄道 === 市の代表駅として中心的な役割を担っているのは、'''[[豊岡駅 (兵庫県)|豊岡駅]]'''([[西日本旅客鉄道]][[山陰本線]]・[[京都丹後鉄道宮豊線]])である。 * 西日本旅客鉄道 {{JR西路線記号|K|E}} {{JR西路線記号|S|A}} [[山陰本線]]:[[江原駅]] - [[国府駅 (兵庫県)|国府駅]] - '''豊岡駅''' - [[玄武洞駅]] - [[城崎温泉駅]] - [[竹野駅]] * 京都丹後鉄道宮豊線:'''豊岡駅''' - [[コウノトリの郷駅]] * [[城崎ロープウェイ]]:城崎温泉駅 - [[温泉寺駅]] - [[大師山上駅]] === バス === * [[全但バス]] * [[イナカー|豊岡市営バス(イナカー)]] * [[コバス|市街地循環バス「コバス」]] * チクタク - 2011年よりイナカー廃止地域で運行されている[[乗合タクシー]]。会員登録した地域住民以外は利用不可。 === 道路 === * {{Ja Exp Route Sign|E72}} 国道483号([[北近畿豊岡自動車道]]) * [[国道312号]] * [[国道426号]] * [[国道178号]] * [[国道482号]] * [[兵庫県道3号豊岡瀬戸線]] * [[兵庫県道9号豊岡竹野線]] === 空港 === * [[但馬飛行場]]:通称は但馬空港、愛称はコウノトリ但馬空港 ** [[日本航空]](JAL)<ref>[[日本エアコミューター]]の機材・乗務員による運航</ref>:[[大阪国際空港|大阪/伊丹]](1日2往復) * 航空灯台:但馬VORDME * 航空管制:大阪FSC,但馬フライトサービス == マスメディア == === CATV局 === * [[eo光テレビ]]([[ケーブルテレビ]]) === 新聞社 === * [[神戸新聞社]]但馬総局、出石通信部 * [[読売新聞大阪本社]]豊岡支局 * [[朝日新聞社]]豊岡支局 * [[毎日新聞社]]豊岡支局 * [[産業経済新聞社]]豊岡支局 * [[新日本海新聞社]]豊岡通信部 === ラジオ === * [[エフエムたじま]](FM JUNGLE) 周波数76.4MHz [[コミュニティ放送]] * [[兵庫エフエム放送|Kiss FM KOBE]]城崎中継局 周波数87.9MHz * [[ラジオ関西]]豊岡放送局 周波数1395kHz === テレビ === * [[NHK神戸放送局]]豊岡支局 * [[サンテレビジョン]]但馬総局 == 名所・旧跡・観光スポット == === 城崎・港エリア === * [[城崎温泉]] ** [[温泉寺 (豊岡市)|温泉寺]]・[[城崎美術館]] ** [[城崎文芸館]] ** [[城崎麦わら細工伝承館]] * [[玄武洞]]・[[玄武洞ミュージアム]] * [[兵庫県立円山川公苑]]・円山川公苑美術館 * [[気比の浜]]海水浴場・キャンプ場 * [[日和山海岸]] ** [[日和山温泉]] ** [[城崎マリンワールド]] <gallery> Kinosaki onsen02 1920.jpg|[[城崎温泉]] Seiryudo in Genbudo Park Toyooka Hyogo.JPG|[[玄武洞]] Kinosaki-marineworld6733.JPG|[[城崎マリンワールド]] </gallery> === 竹野エリア === * [[竹野温泉]] * [[竹野海岸]] ** [[竹野浜]] - [[日本の渚百選]] ** [[はさかり岩]] ** [[宇日流紋岩の流理]] ** [[淀の洞門]] ** [[ジャジャ山公園]] ** [[猫崎半島]]・[[賀嶋公園]] ** [[北前館]] - [[北前船]]の資料館 ** [[御用地館]] * 住吉屋歴史資料館 * 仲田光成記念館 * 東大谷野外活動施設(たけのこ村) * [[桑野本の大イチョウ]] * [[ヨゴレババ古墳群]] <gallery> TakenoBeach Hyogo prefecture.jpg|[[竹野浜]] Hasakari-Iwa Rock.JPG|[[はさかり岩]] Yodonodoumon-b.jpg|[[淀の洞門]] </gallery> === 出石エリア === * [[出石|出石伝統的建造物群保存地区]] ** [[辰鼓楼]] - 日本で2番目に古い時計塔 ** [[有子山城|有子山城跡]] ** [[出石城|出石城跡]] *** [[有子山稲荷神社]]・[[感応殿]] ** [[諸杉神社]] - 式内社 ** [[出石家老屋敷]] - [[仙石久寿|仙石左京]]の屋敷跡 ** [[豊岡市立出石史料館|出石史料館]] ** [[宗鏡寺]] ** [[明治館 (豊岡市)|明治館]] - [[明治時代]]初期築の旧出石郡役所 ** [[伊藤清永美術館]] ** [[出石温泉館]][[乙女の湯]] ** [[入佐山公園]] ** [[石部神社 (豊岡市)|石部神社]] - 但馬国皇太神宮 ** [[永楽館]][http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200504ishizue/18.html] * 武家長屋資料館 * [[出石神社]] - 但馬国[[一ノ宮]]、[[国幣中社]]、式内社(名神大) * [[出石古代学習館]] * [[此隅山城]]跡 * [[総持寺 (豊岡市)|総持寺]] * 出石温泉館「乙女の湯」 * [[ひぼこホール]](2019年度解体) * [[静思堂]] - 政治家[[斎藤隆夫]]の記念館 <gallery> Izushi castle06nt3200.jpg|[[出石城]] Izushi Toyooka03nt3200.jpg|[[出石|出石伝建地区]] Izushi Jinja 05.JPG|[[出石神社]] </gallery> === 神鍋高原・江原エリア === * [[神鍋高原]]・[[神鍋山]]・[[神鍋渓谷]] * [[神鍋溶岩流]] - 世界第2位の長さの溶岩渓谷 ** 俵滝、[[八反滝 (豊岡市)|八反滝]]、まぼ渓谷、瓢箪淵、釜淵、二段滝、溶岩瘤(県指定天然記念物)、畳滝、十戸滝 * [[神鍋温泉]] * [[植村直己冒険館]]・[[植村直己記念スポーツ公園]] * [[兵庫県立但馬ドーム]] * [[阿瀬渓谷]] * [[但馬国府・国分寺館]] <gallery> Kannabeyama03bs3200.jpg|[[神鍋山]] 130914 Hattandaki Waterfall Toyooka Hyogo pref Japan02s5.jpg|[[八反滝 (豊岡市)|八反滝]] TajimaKokufu and Kokubunji-Kan.jpg|[[但馬国府・国分寺館]] </gallery> === 豊岡城跡・豊岡駅周辺エリア === * [[豊岡城]]跡([[神武山公園]]) * [[豊岡陣屋]]跡(現[[豊岡市立図書館]])・旧[[豊岡県|豊岡県庁]]正門・井戸跡 * 豊岡高校[[達徳会館]] - [[1888年]](明治21年)建築の[[西洋館]] * 豊岡消防会館 - 木造西洋館 * 旧[[山陰合同銀行]](合銀 ごうぎん)豊岡支店 - [[1935年]](昭和10年)築、[[渡辺節]]設計、国の[[登録有形文化財]](現豊岡市役所南庁舎別館) * [[兵庫県立コウノトリの郷公園]] * [[豊岡市立こうのとり文化館]] * 畑上の大[[トチノキ]](樹齢500年、国の[[天然記念物]]) * [[豊岡市民会館]] * [[山王公園 (豊岡市)|山王公園]] <gallery> Toyooka City Library03st3200.jpg|[[豊岡陣屋]]跡 </gallery> === 但東エリア === * [[シルク温泉]] * [http://www.tanshin.co.jp/zaidan/1hito/29tooi/index.html 東井義雄]記念館 * [[日本・モンゴル民族博物館]] * 亀ヶ城跡 * [[安国寺 (豊岡市)|安国寺]] * [[大生部兵主神社]] * [[日出神社]] * [[たんたん温泉]] * [[大兵庫開拓団殉難の碑]] * [[但熊]](卵かけご飯専門店) <gallery> Japan Mongolia Fork Museum.jpg|[[日本・モンゴル民族博物館]] </gallery> === その他エリア === * [[旧大岡寺庭園]] - 国の[[名勝]] * [[久久比神社]] - [[コウノトリ]]ゆかりの神社。[[室町時代]]建立の本殿は国の[[重要文化財]] * [[酒垂神社 (豊岡市)|酒垂神社]] - [[室町時代]]再建の本殿は国の[[重要文化財]] * [[中嶋神社]] - [[菓子]]の神「[[田道間守|田道間守命]]」を祀る珍しい神社。[[室町時代]]再建の本殿は二間社[[流造]]で国の[[重要文化財]] * [[東楽寺]] - [[鎌倉時代]]創建、[[四天王]]像は国の[[重要文化財]] * [[金刀比羅神社]] - 境内には、近畿最大級の大木で、兵庫県指定郷土記念物、豊岡市指定天然記念物の名木「[[こぶし]]」が自生。 * [[神美台スポーツ公園]] <gallery> Kukuhi-Jinjya Honden Shintoism002.JPG|[[久久比神社]] Nakashima-Jinjya Torii001.jpg|[[中嶋神社]] </gallery> == 文化・名産品 == === 祭事・催事 === * 神鍋冬まつり(2月上旬) * [[松岡の御柱祭]](4月14日) * [[たんとうチューリップまつり]](4月中旬~下旬) * [[中嶋神社]]例祭(菓子祭)(4月第3日曜日) * [[城崎温泉]]祭([[4月23日]]~[[4月24日|24日]]) * 北前祭([[5月3日]]) * 城崎YOSAKOI祭り(6月上旬) * 城崎ゆかた祭り * 豊岡気比・港まつり(7月中旬) * [[城崎温泉]]夏物語(7月中旬~8月下旬) * 日高夏まつり([[7月23日]]~[[7月24日|24日]]) * たけの海上花火大会([[7月30日]]) * 豊岡[[柳まつり]]([[8月1日]]~[[8月2日|2日]]) * 神鍋火山まつり(8月上旬) * 城崎ふるさと祭り(ゆかたの日)(8月上旬) * たんとうひまわりまつり(8月上旬) * [[城崎温泉]][[灯籠流し]](8月下旬) * [[城崎だんじり祭り]]([[10月14日]]~[[10月15日|15日]]) * [[大石りくまつり]](10月下旬) * [[出石磁器トリエンナーレ]] * [[出石初午大祭]] === 名産品 === {{col-start}} {{col-2}} * [[豊岡鞄]] * [[豊岡杞柳細工]] * [[出石そば]] * [[出石焼]] * [[但馬ちりめん]]([[出石ちりめん]]) * [[麦わら細工]]([[城崎温泉]]) {{col-2}} * [[木製ハンガー]] * [[松葉ガニ]]([[ズワイガニ]]) * [[但馬牛]] * [[城崎地ビール]] * [[だんじり太鼓]]([[城崎温泉]]) {{col-end}} ==== アンテナショップ ==== [[ファイル:Anntena shop.JPG|thumb|150px|コウノトリの恵み 豊岡]] * [[2011年]](平成23年)7月8日に、東京都千代田区有楽町の交通会館1階に[http://toyooka-antenna.jp/ アンテナショップ「コウノトリの恵み 豊岡」]がオープン。「コウノトリ育むお米」や但馬牛関連商品など、豊岡の名産品を販売している。 === スポーツチーム === * [[NOMOベースボールクラブ]] - 豊岡市を本拠地とする[[社会人野球]]の[[クラブチーム (社会人野球)|クラブチーム]]。創設者は[[野茂英雄]]。 == 著名な出身者 == * [[山名宗全]]([[室町時代]]の[[武将]]) * [[香林院]]([[大石良雄]](内蔵助)の妻、りく) * [[沢庵宗彭]]([[禅僧]]・旧出石町) * [[太田垣士郎]](実業家・旧城崎町) * [[沖村孝]]([[神戸大学]]名誉教授、元[[日本地形学連合]]会長) * [[堀田瑞松]]([[彫刻家]]) * [[川崎尚之助]]([[蘭学者]]・旧出石町) * [[桜井勉]]([[校補但馬考]]著者・[[気象測候所]]創始者・旧出石町) * [[巌本善治]]([[明治女学校]]創立者・旧出石町) * [[沖野忠雄]]([[治水]][[港湾]]の始祖・[[土木学会]]会長・[[内務省 (日本)|内務省]]技師) * [[斎藤隆夫]]([[政治家]]・旧出石町) * [[齋藤富雄]]([[兵庫県]][[副知事 (日本)|副知事]]) * [[久保田譲]]([[広島大学]]初代校長、第18代[[文部大臣]]) * [[吉村寅太郎 (教育者)|吉村寅太郎]]([[東北大学]]初代校長) * [[京極杞陽]]([[俳人]]・京極[[豊岡藩]]13代目当主) * [[京極高晴]]([[靖国神社]]第十代宮司・京極[[豊岡藩]]15代目当主) * [[東井義雄]]([[教育者]]、日本の[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]・旧但東町) * [[近藤朔風]]([[訳詞家]]・旧出石町) * [[北條秀一]]([[竹僑]]の人・旧竹野町) * [[加藤弘之]]([[東京大学]]初代綜理・旧出石町) * [[河本重次郎]]([[医学博士]]日本近代[[眼科学|眼科]]の父) * [[中江種造]]([[鉱山]]王・[[山林]]王) * [[濱尾新]]([[東京大学]]総長・[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]初代校長・枢密院議長・[[文部大臣]]) * [[木下保]]([[声楽家]]) * [[古島一雄]]([[政治家]]) * [[赤木正雄]]([[農学博士]]・[[政治家]]) * [[島田洋之介・今喜多代|島田洋之介]]([[漫才師]]・旧出石町) * [[伊藤清永]]([[洋画家]]・旧出石町名誉町民) * [[藤井重夫]]([[作家]])  「[[佳人]]」で[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補。「[[虹]]」で[[直木賞]]受賞 * [[植村直己]]([[冒険家]]・旧日高町) * [[伊藤一葉]]([[手品師]]・旧竹野町) * [[瀬尾一三]]([[音楽プロデューサー]]・旧出石町) * [[甲斐中辰夫]]([[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[判事]]・元[[東京高等検察庁]][[検事長]]) * [[紀氏隆秀]](元プロ[[サッカー]]選手・[[ヴィッセル神戸]]) * [[大友工]](元[[プロ野球]]選手・[[読売ジャイアンツ]]・旧出石町) * [[能見篤史]]([[プロ野球]]選手・[[オリックス・バファローズ]]・旧出石町) * [[井上香織]]([[2012年ロンドンオリンピックのバレーボール競技|ロンドン五輪バレーボール]]女子日本代表) * [[水岡俊一]]([[参議院]]議員・旧竹野町生まれ、豊岡市育ち) * [[今井雅之]]([[俳優]]・旧日高町) * [[愛原司]]([[漫画家]]) * [[ユリオカ超特Q]]([[漫談家]]・旧日高町) * [[ミラクルひかる]]([[ものまねタレント]]) * [[平井まさあき]](お笑い芸人・[[男性ブランコ]]) * [[橋本小雪]](お笑い芸人・[[日本エレキテル連合]]) * [[橋本広美]]([[フリーアナウンサー]]) * [[岸本重陳]]([[経済学者]]・[[横浜国立大学]]経済学部長) * [[与田仁志]]([[医学博士]]・[[東邦大学]]医学部医学科教授・旧竹野町) * [[南博方]]([[行政法学者]]・[[一橋大学]]名誉教授・元[[成城大学]]学長) * [[笹井芳樹]]([[発生学]]者、[[医学者]]・[[京都大学医生物学研究所|京都大学再生医科学研究所]][[教授]]、[[理化学研究所]]発生・再生科学総合研究センター副センター長) * [[由利佳一郎]]([[バッグデザイナー]]) * [[山口めろん]]([[タレント]]・元[[怪傑!トロピカル丸]]メンバー) * [[山田哲人]]([[プロ野球]]選手・[[東京ヤクルトスワローズ]]) * [[小田垣邦道]]([[実業家]]・[[本田技術研究所]]取締役副社長) * [[小西杏奈 (競泳選手)|小西杏奈]]([[競泳]]選手) * [[垣谷美雨]]([[小説家]]・旧出石町)<ref>[http://lib.city.toyooka.lg.jp/tanto/booklist/2015/11/post-9.html 但東と関係がある作品たち(但東分館)] - 豊岡市立図書館。2021年9月30日閲覧。</ref> == ゆかりのある人物 == * [[ひうらさとる]]([[漫画家]])- 2011年から豊岡市に在住 * [[峯村純一]]([[俳優]])- 2018年から豊岡市に在住 * [[河合美智子]]([[俳優#性別での分類|女優]]、[[歌手]])- 2018年から豊岡市に在住 * [[平田オリザ]]([[劇作家]]、[[演出家]]、劇団「[[青年団 (劇団)|青年団]]」主宰)- 2019年から豊岡市に在住 == その他 == * [[水の郷百選]]:コウノトリのまち かばんのまち 川とともに生きてきたまち * [[小京都]]:但馬の小京都 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author = 歴代知事編纂会 編集|authorlink = |translator = |title = 日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み|publisher = 歴代知事編纂会|series = |volume = 第2|edition = |date = 1983|pages = |url = |doi = |id = |isbn = |ncid = |ref = shicho-2}} == 外部リンク == 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NewOS
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漢方医学
日本における代表的な漢方医学の学会と目されている「日本東洋医学会」のHPには「漢方医学の定義」が記述されていない。東京医科大学のHPでは「日本の伝統医学です」とした後「漢方医学の源流は中国から6世紀に伝来しましたが、室町時代頃から日本独自の進化をするようになりました。時代が下って、江戸時代に日本に入ってきた西洋医学(蘭方)に対して、もともと日本で行われていた医学を漢方と呼ぶようになりました」との記載があるが、これは後述するように史実として誤りを含む。日本漢方生薬製剤協会のHPには「日本の医学は、奈良時代以来中国伝統医学が主流でした。しかし、江戸時代中期以降に西洋医学が伝えられると、これを「蘭方」と呼び、 従来からの日本化された中国医学を「漢方」と呼んでそれぞれを区別するようになりました」という記載がある。これが、現在のところ概ねほぼ全ての関係者が一致出来る「漢方医学とは何か」の記述と言えるだろう。 16世紀以降、西洋医学が日本に導入されて南蛮医学、紅毛医学と呼ばれたが、江戸中期には西洋医学をオランダ人がほぼ独占するようになり、「蘭方」または「洋方」と称されたことに対して、中国伝統医学に由来し日本で実践されていた医学を「漢方」と呼ぶようになった。 19世紀中盤の幕末から国学と漢学を尊皇的に「皇漢学」と言う。 19世紀後半の明治14年ころから「和漢学」と称されたが、それに伴い日本の漢方も「皇漢医学」、「和漢医学」と呼ばれた。日清戦争以降、西洋と対になる東洋という用語が定着した。 本来漢方医学では生薬製剤による薬物治療の他、鍼灸、按摩、温泉など種々の治療法が用いられた。現代日本の医師法に於いて医師が鍼灸按摩をすることは可能だが、鍼灸あん摩マッサージに関する法律が別に存在することから、これらの治療法は主にあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師が行うことが多い。 20世紀後半、日本はようやく漢方薬についての規制がまとまった。1950年(昭和25年)に日本東洋医学会が設立されて、「東洋医学」という呼び方で「日本の漢方医学、中国の中医薬学、朝鮮の韓医学」を一括するのが一般的だった。漢方薬の一部は1976年(昭和51年)から正式な保険薬として収載されており、現在では漢方薬を使った治療が広く行われている。なお現在の日本では同一の漢方処方が医療用医薬品としても一般医薬品としても使用販売されており、一般医薬品としての漢方薬は第2類医薬品に分類されている。 5・6世紀に中国から日本に中国医学が伝来したといわれる。現存する日本最古の医学書は984年に丹波康頼が朝廷に献上した医心方だが、この本は唐代の医学書を膨大に引用している。その後も我が国の医学は、明に留学した僧医などによって、金・元の医学が紹介されるなど基本的に中国医学の導入を元に展開した(後世派)。後世派の巨頭は曲直瀬道三(1507-1595)である。彼は田代三喜に医学を学び、また明に留学した僧侶策彦周良から最新の明医学を学んだ。彼は京都に啓廸院と言う医学校を開き、そこで学んだ医師達は全国に散らばった。啓廸院で用いられた処方集「啓廸院配剤百方」は現在京都大学に保管されている。彼が書いた多数の書物の中でも「察証弁治啓廸集」はもっとも有名である。「察証弁治」というのは要するに現代中医学で言う弁証論治とほぼ意味は等しい。道三の養子曲直瀬玄朔の時代になると活字印刷の技術が普及し、より多くの医学書を入手出来る時代になった。それらの情報を得てさらに腕を上げた曲直瀬玄朔は天皇、関白から庶民に至るまで多くの人々を治療し、数百例の症例集「医学天正記」を残している。これは当時の治療の実際を知る上で重要な資料である。曲直瀬流医学は長く日本の医学の主流となったが、岡本一抱が中国医書を仮名交じり文で解説するなど、日本での応用を容易にする作業も行われた。余談ではあるがこの人物は近松門左衛門の弟である。 時代が下って1607年には林羅山が本草綱目を徳川家康に献上、また将軍徳川吉宗は「増広太平恵民和剤局方」や「訂正東医宝鑑」など中国、朝鮮の医学書を官刻、1819年に多紀元胤(1789~1827)が「難経疏証」を著すなど、中国伝統医学の紹介、普及は江戸後期まで続けられてきた。実際、真柳らの研究によると、19世紀に到るまで中国医書は営々と輸入されている。したがって江戸時代に日本の医学が中国医学とまったく別のものになった、と言うことでは無い。すなわち「定義」で紹介した東京医科大学の記載にある「室町時代頃から日本独自の進化をするようになりました」というのは正しくない。室町時代はもちろん江戸末期に至るまで、日本は中国から医学情報を積極的に輸入していた。 一方、陰陽五行説の影響の大きい後世派に対し、江戸時代にはこれを批判して実証主義的な古方派が台頭し、のちに2派を統合した折衷派が生まれた。 古方派が主張した「古(いにしえ)」という概念は、かなり複雑な思想背景を含んでいる。なお以下の古方派に関する記述は、引用したリンクとは別に向静静著、「医学と儒学」人文書院を大幅に参考している。 古方派は後藤艮山に始まると言われる。後藤艮山は「日用」を重視し、「古道」を唱えた。艮山自筆の書は現存しないが、彼の教えを弟子が記録した師説筆記、「艮山先生遺教解」などによると、彼は論語を引いて医を知れと説いている。彼は古方を伏羲や神農の伝説に求めようとした。伏羲は八卦を説き、神農は薬草を民に与えたとして医薬に関連付けられてはいたが、艮山が重視したのは伏羲が料理を発明し、神農が農作を始め、五穀や野菜を人々に教えたとされたことだった。現代に於いては伏羲も神農も伝説上の神に過ぎないが、後藤艮山の真意は薬物治療よりもまず日常の食事を重んずるという事であったと考えられる。もちろん彼も薬物治療を行った。後藤艮山が使用した薬物は「艮山先生手定薬能」という書に記録されているが、そこには僅か36種が記述されているのみである。病因論としては一気留滞説を説いたが、彼の意味する気とは天地の間、人体の内にも外にもあまねく存在するものと理解されていた。すなわち艮山は古方派の祖と言われるが、彼にあっては明代までに確立していた陰陽五行などの思弁性の高い医学に異を唱え、日用に用いやすい養生・医療を提唱したのであって、彼が必ずしも傷寒論を重視したわけでは無い。彼が論語に基づいて医を説き、伝説上の存在である伏羲や神農を重んじたのは彼の時代的限界と言えるが、その精神の根本は「日用」にあったと言える。 後藤艮山を引き継いだのは香川修庵であった。香川修庵は医学を後藤艮山に習ったが、その前に伊藤仁斎に儒学を習っており、後藤艮山より儒学的色彩が濃い。彼が著した「一本堂行余医言」は高い実用性を誇るが、彼はただ実用的な医学を説いただけでは無い。伊藤仁斎に儒学を学んだ後後藤艮山に医学を学んだ経緯からも分かる通り、彼は「儒医」たることを主張した。その思想に基づいて、例えば彼は黄帝内経は孔子、孟子の教えを受けていないので邪説であると主張した。そして彼は論語や孟子の記述から病気、薬、食事、日常生活などに関わる部分を拾い上げ、これらに基づいて医療をすべしと説いたのだが、さすがに論語や孟子で実際の診療をするのは不可能であった。そこで彼が実際の治療の手本として取り上げたのが傷寒論だったのである。ただし彼が入手出来たのは、成無己の「注解傷寒論」であったとされる。本書は宋改を経た傷寒論をさらに彼が省略改変したものである。そこで香川修庵は成無己の注解傷寒論から注解と薬物の修治を全て削除し、小刻傷寒論と称して刊行、これは日本に於いてもっともよく読まれた傷寒論になった。香川修庵にはこの他にも桂枝や大黄、黄連などの再評価、行きすぎた朝鮮人参の乱用を戒めるなどの功績があるが、一方で傷寒論を考証学に基づかず「自分が使えそうな所だけ抜き出す」という日本漢方の悪弊は彼に始まったとも言える。香川修庵が傷寒論に注目したのは事実だが、彼の主張する「古」も必ずしも傷寒論をさしたのでは無く、彼の主張の根本は医は儒に基づくべきであって、従って孔孟の教えを重んじると主張はしたが、論語や孟子で実際の診療が出来るわけではなかったため、手段として用いたのが傷寒論だったのだ。 古方派に於いて香川修庵の後に出た巨頭は山脇東洋である。彼は江戸時代初めて解剖(腑分け)をしたことで有名である。山脇東洋は法眼の号を授けられ、また中御門天皇の侍医を務めるなど、後藤艮山や香川修庵とは異なる系譜の医師であった。家は曲直瀬玄朔の系統の医家であり、当初は金、元、明代医学を学んだ。しかし後になって陰陽五行などを重んじる医学に疑問を抱き、香川修庵同様「復古」を唱えた。しかし山脇東洋の復古は香川修庵のそれとは異質であった。香川修庵は復古を唱えたものの論語や孟子では実臨床が出来ないので傷寒論を参考にし、かつ「自我作古」と言った。自分で古を創るのだというのである。しかし山脇東洋はそうではなかった。彼は「述而不作」、古人の説を宣べるだけで自分の考えは作らない、と言ったのである。「唯古是好」、古のみが良いと言った。これは学問が進歩するという事を完全に否定したに等しい。彼もまた儒学者の影響を受けた。山県周南という人物を介して荻生徂徠の説を学んだ。荻生徂徠は古文辞学を唱え、後世の注によらず古語の意義を帰納的に研究し、直接古代文献を解釈すると主張したのだが、当然江戸時代の日本に生きた荻生徂徠にとってこの目的を実現するのはあまりに資料不足であった。現代の考古学が手にしているような、古代墳墓からの漢代以前の文献資料の発見などが無かったからだ。 その荻生徂徠の説に影響を受けた山脇東洋は、当然現代的観点から見れば隘路に踏み込んでしまった。彼は周礼に注目したのである。周礼は周王朝の政治体制、官位、文物習俗を記載したとされるが、現代考古学によって発見された金文資料の記述とは矛盾するところが多く、実際には何時誰が編んだ書か不明である。また現代に於いては、周礼が実際の周の政治制度や官位を正確に記述しているとは考えられていない。しかしこれは儒教では聖典視された。山脇東洋が意味した「古(いにしえ)」は、実に周礼の記載であったのだ。 ではその様な山脇東洋が何故人体解剖を行ったのか。それは周礼に「九臓」と記されていたからだ。人体には心、肝、脾、肺、腎、胃、膀胱、大腸、小腸の9臓があるとされていた。これは黄帝内経の記述する五臓六腑とは明らかに数が違う。そこで彼は、実際に人体を解剖し、存在するのは五臓六腑か九臓か確認しようとした。実際の腑分けの経緯は省略するが、彼の腑分けの図面は彼の書「蔵志」に「九臓前面図」として載せられている。この解剖図は明らかに誤りであり、心臓は気道ないし食道に直結するように描かれており、また当時の粗雑な解剖でも存在は確認出来たはずの脾臓は描かれていない。要するに彼は実際の人体がどういう構造をしているかを知ろうとしたのでは無く、周礼に九臓とあるのを確認しようとしただけだった。目の前にある臓器を客観的に記載したのでは無く、九臓という自分が信じる概念に無理矢理みたものを当てはめただけであった。この点が後の杉田玄白らによる腑分けとは意味や目的がまったく異なっている。 山脇東洋の意味した「古」は周礼であったが、当然周礼に基づいて臨床が可能なわけでは無い。そこで彼は「周之職、漢之術、晋唐之方」に基づいて医療を行うと主張した。その「漢之術」というのが傷寒論であった。また「晋唐之方」として彼が復刻に努力したのが外台秘要方であった。外台秘要方は732年(玄宗時代)、王燾の作とされるが、山脇東洋在世時は既に宋改を受けたものしか残されていなかった。北宋時代の刊本が現存するが、東洋は明代の刊本に基づいて1746年に復刻した。外台秘要方は引用文に必ず出典が明記されているので、東洋はまさにこれぞ「述而不作」のお手本と考えたのだろう。しかし彼はそれが宋改を経た明本であることは承知していたはずだ。宋、明など後世の医学を否定しようとした彼であったが、結局は宋や明の研究の上に立って仕事をせざるを得なかった。 このように、「古方派」と呼ばれている中心的な人々がイメージした「古(いにしえ)」は基本的には傷寒論では無い。後藤艮山にとってはそれは伏羲や神農であったし、香川修庵にとっては論語や孟子であり、山脇東洋にとっての古は周礼であった。すなわち、彼らの「古(いにしえ)」は皆中国の概念だったのだ。彼らは朱子学を否定する当時の儒学の影響を受けつつそれぞれの「古(いにしえ)」を夢見たが、それは全て中国の古代神、儒教の古い形、あるいは現代に於いてはその内容が事実とは看做されない架空の古代史書であった。その様なものは理念としてはありえても、現実の臨床の役には立たない。それで重宝されたのが傷寒論(の記述の都合が良い一部)だった。現代では古方と言えば傷寒論と思われがちだが、少なくとも山脇東洋までの古方派にとって古(いにしえ)=傷寒論では無かったのだ。 江戸末期まで中国からの医学知見の輸入に努めた後世派はもちろん、「日本独自」とされる古方派も、結局は中国の概念のなかの古(いにしえ)を夢見たのである。はたしてこれが「日本独自の発展」と言えるかどうかは甚だ疑問である。 このような流れは次に述べる吉益東洞によって一気に異なった様相を帯びることになる。確かに吉益東洞も盛んに中国古典を引用した。彼の「古書医言」には多数の中国古典の引用が覧られる。しかし現代では、多くの点において吉益東洞がそのような古典を勝手に書き換えたり、恣意的引用を行っている部分が多いことが分かっている。上に宣べた三人とは異なり、吉益東洞にとって中国古典は自説を権威付ける「道具」に過ぎなかった。彼は一見中国古典に依拠しているように見せかけつつ、その実それらの古典に何ら敬意など払っていなかったのだ。確かに彼も周礼のなかの疾医、瘍医などのキーワードをちりばめたが、その周礼に見える「以五薬療之、以五味節之」などは「攙入」、つまり誤って紛れ込んだのだと否定する。現代の考古学、古文書学のように文献考証をして否定したわけでは無い。自分に気に入らないところは全部「攙入」と決めつけた。これは彼が「万病一毒説」の根拠として引用した「呂氏春秋」に於いても同じで、かれは呂氏春秋の原文を自分の都合が良いようにあちこち改ざんしている。さらには彼は「扁鵲や張仲景も万病一毒説を唱えていた」とまで言いだし、さすがに弟子に「然るに史記傷寒論に見へざるは如何」と問い詰められた。すると彼は悪びれもせず「それは王叔和が自説を加えたからだ」と答えたという。吉益東洞は傷寒論を異様に重んじたと言われるが、その実古典に対する態度はこのようであり、古代文献を学問的に検証するという姿勢は微塵もなかった。また日本独特の診察法である腹診についても、彼は史記の「扁鵲倉公列伝」に「病応見於大表」とあるのが腹診のことだと主張したが、史記には扁鵲が腹診をしたという記述は存在しない。むしろ司馬遷は扁鵲を脈診の名手として高く評価しているが、東洞はそれをあっさり無視した。また吉益東洞は傷寒論に基づくことを強調はしたが、彼自身が傷寒論に基づいて書いたと宣伝した「類聚方」は傷寒論を勝手な彼独自の解釈で利用したに過ぎず、傷寒論そのものを祖述したものではない。 吉益東洞のこのような中国古典医書への態度は、後藤艮山、香川修庵、山脇東洋らとはまったく異なっている。これら三人は誤解を含みながらもともかく中国古代の思想を重視したのに対し、東洞は極めて恣意的に利用しただけである。これははたして「古方」なのだろうか?現実を見れば、吉益東洞は古(いにしえ)などまったく尊重していなかったと言わざるを得ない。中国古典をちりばめつつ、都合が悪いところは全て改ざんし、自分が正しいと思う医学を作り上げた。それは歴史の改ざんと言えばそうであろうし、一方で「古に従う」と言いつつ彼の生きた時代に沿った新しい医学を打ち立てたという解釈も出来るだろう。伏羲や神農、論語、孟子、周礼や呂氏春秋などは、彼にとっては権威付けに利用する材料だったに過ぎず、彼が本当に重きを置いたのはその時代に即した新しい臨床医学であったのだ。吉益東洞は確かに傷寒論を賞賛したが、傷寒論を考証学的に扱ったのでは無い。彼の処方集「類聚方」には「求方於長沙」とあり、張仲景に基づいたことになっているが、そこには明らかに東洞本人の解釈、選別が入っている。だがともあれこの本は当時大ブームとなった。1万冊が刷られ、江戸に5千部、京、大坂に五千部が配布されたが、このうち京・大坂の五千部は一ヶ月で売り切れたという。2023年現在の日本に置いてすら、医学書が1万部、あるいは5千部を完売する例はめったないないことを考えると、まさに熱狂的大ブームだったことが分かる。 一方で彼は実臨床に於いては必ずしも傷寒論処方や自らが編んだ類聚方に拘らず、様々な処方を用いた。例えば「医事或問」には弟子とのこんな問答が記されている。 弟子曰く「古方とは仲景方のことでしょう。先生は控涎丹、七宝丸などを用いるが、古方とは言いがたいのでは無いですか?」 これに対する東洞の答えは、彼の医学に対する根本的な姿勢をよく表している。 「古方というのは世間がそう唱えているのだ。処方選択は病を治療出来るかどうかであって、昔も今も無い。しかし後世の処方には有効なものが少なく、昔のものには多いので、昔の処方を多く用いる。それで世間が古方というのだ。処方に古今の差別は無い」。 要するに、吉益東洞は徹底した臨床家であった。彼は後藤艮山らのように中国の古(いにしえ)に何かの価値を求めたわけでは無かった。彼の基準は「実臨床に有効かどうか」だけであって、そのためには傷寒論に無い、彼独自の処方も多く開発した。「親試実験」という言葉は彼が初めて提唱したものではないが、本当の意味で親試実験に徹したのが吉益東洞だった。東洞医学のこの本質を鑑みると、彼を「古方派」と称するにはためらいがある。彼は実臨床に於いて古方を選択することもあれば、後世の処方を選択することもあれば、自分で創った処方を使うこともあった。「有効なものを使う」というのが彼の一貫した姿勢であり、ただ「古に従う」事を提唱したわけでは無いのだ。 ともあれ、東洞流医学は一気に全国に広まった。それにともなって、彼を熱狂的に支持する人もいれば、あまりに自説に偏りすぎていて医学としては均衡を欠くと批判した人もいた。村井琴山のように古今の中国における傷寒論研究を全て否定し、「我東洞翁に至って初めて仲景の室に入る」とまで極論絶賛した人もいたが、一方で畑黄山のように黄帝内経の重要性も認め、多くの古今歴代の医学書を読むべきだと主張した人もいた。彼は医学院を開き医学を教授したが、その医学院に於いて学習すべきとされた医学書は黄帝内経、傷寒論は言うに及ばず、唐、宋、金元医学、明清医学、朝鮮医学にまで渡っている。さらに杉田玄白は「東洞は一種の豪傑だが、傷寒論のみに拘るばかりか、それも錯簡の書であって取るところは多くないと言い、己が心に徹せし方論ばかりを取り・・・」と東洞の古典に対する恣意的な態度を的確に批判した。詰まるところ吉益東洞は古方の雄とされながら、その本質はむしろ親試実験にあり、実際に有効かどうかが彼の判断基準だったのであって、必ずしも古を重んじた人ではなかったと言えよう。 以上見てきたように、古方派は確かに江戸期に於いて独自の動きを見せた。しかし一方江戸期を通じて、明清医学も絶えず流入していた。中国医師の来日は、主に明清交代の時、動乱を避けて日本に渡ってきた人々と、徳川吉宗が積極的に招聘した人々が多い。その数はかなり膨大なのでここにいちいち挙げることが出来ない。ともあれ幕府は彼らを通じて常に中国医学の動向に意を払い、多くの中国医書がもたらされた。そのうちの一人を例としてあげれば、胡兆新は蘇州で高名な医師であったが幕府の求めに応じて1803年から1805年まで日本に滞在し、多紀元簡などと通訳を通じて質疑を行った。このときの幕府医官の質問は清朝の医学教育、試験科目、診療法、麻疹流行の頻度、煎じ薬の加水量などに及び、中国医学の現状に幕府が強い関心を寄せていたことが分かる。もっともこのとき多紀元簡は胡兆新に何故中国では腹診をしないのかと問い、胡兆新が中国では昔から腹診はやらないと答えたのに対し、それは古今の医書の記載と違うとやり込めている。中国に学ぼうとしながらも、中国医師の言を丸呑みにしないくらい、多紀元簡のような人は古今の中国医学書について造指が深かったことも伺える。 以上で江戸期日本の医学状況についての記載を終える。この他北山友松子のように中国からの亡命者と長崎の遊女の間に生まれた混血児でありながら傷寒論を重視した人など、まだ論ずべき人物は多いが、これまで概説しただけでも、江戸期に於いて日本の医学が中国とは独自の発展を遂げたと一言で括ることは出来ないことが分かるだろう。多紀元胤のような考証学者はもちろん、古方を目指した人々もなんらかの形で中国思想や明代医学からの影響を受けた。ただ一人吉益東洞のみが事実上中国思想を軽んじ、ひたすら臨床的効果に拘ったことがあまりにも鮮烈な印象を与えるため、まるで江戸期に日本の医学がすっかり中国とは独自の発展を遂げたような印象を与えるのかもしれないが、実際には日中間には頻繁な医学交流が継続していたのである。 漢方医学は、気・血・水・虚実などの理論や、葛根湯などの方剤(複数の生薬の組み合わせ)を中国医学と共有し、テキストとして中国の古典医学書が用いられる。しかし両者には多くの違いがあり、特徴としては具体的・実用主義的な点が挙げられる。 現在の日本の漢方医学の主流は「古方派」である。この古方派は中国医学の根本的な理論である「陰陽五行論」を承認せず、むしろそれを意図的に排除している。古方派の主な4人については上の「歴史」で詳しく宣べた。中医学も日本漢方も診断に類する用語として「証」を論じるが、日本漢方の後世派や折衷派では証は中国伝統医学と概ね同じ意味で用いられる。しかし古方派では『傷寒論』の条文にある症状と処方が一対一に対応すると主張する。使われる生薬の種類は中国より少なく、一日分の薬用量は中国に比べて約3分の1である。また、脈診、舌診を重視し腹診がすたれた中医学とは対照的に、日本の漢方医学は脈診、舌診、腹診を行う。 これに対して、韓医学(朝鮮半島)で使われる生薬量は中程度である。 漢方医学の処方は、『傷寒雑病論』(現在では『傷寒論』及び『金匱要略』と呼ばれる2つのテキストとして残る)を基本とした古い時代のものに、日本独自のマイナーチェンジを加えたものであると一般には言われるが、実際は上に宣べた古方4大家もそれぞれ独自の処方を用いている。また現代の日本漢方では李東垣の補中益気湯や和剤局方の処方の数々、明代の万病回春の処方、宣明論にある防風通聖散など様々な処方が取り入れられている。一方「温病」(うんびょう)など、清代に中国で確立した理論はほとんど現代の漢方医学には受け継がれていない。 明治政府により日本の医療に西洋近代医学が採用され、漢方医学は著しく衰退した。日本の医学教育では、漢方医学を始めとする伝統医学の教育は100年以上ほとんど行われなかったが、2001年に、医学部の教育内容ガイドラインの到達目標に「和漢薬を概説できる」が加えられたことで、全国の大学で漢方医学の講義が徐々に行われるようになってきている。しかし日本には、中国や韓国のような伝統医の国家資格は存在せず、1883年(明治16年)以降、医師国家試験の課目にも漢方医学は含まれなかった。そのため漢方医学の体系的な知識を持つ医師は少なく、漢方薬が西洋医学的発想で使われるなどの問題も散見される。 現代日本における伝統医学の現状についてまず最初に指摘しなければならないのは、現代日本に於いては複数の「伝統医学」系統の医学が実践されているという事である。日本では明治政府が医制を定めた時伝統医学を事実上捨て去ったため、伝統医学には空白期が生まれた。その中で色々な人が過去の文献を渉猟し、それぞれの学びに応じて独自の伝統医学を提唱した。特に明治43年(1910)「医界之鉄椎」を著した和田啓十郎など古方派に学んだ人が最初に伝統医学復権の狼煙を上げたため、かつては日本漢方と言えば古方と看做される向きもあった。しかし現在では、古方派のみならず、考証学派を引き継ぐ流れ、経方医学など傷寒論、金匱要略に基づくとはいいながらまったく新しい理論を構築する流れ、また伝統医学を現代の臨床医学的手法、特にEvidence Based Medicine(EBM)の手法に載せて検証・理解しようとする流れなどが存在する。さらに中国伝統医学を中華人民共和国政府が系統化した中医学も日本に紹介され、実践されている。すなわち現代日本に於いて実践されている諸々の伝統医学と漢方医学は同じ概念ではくくれない。 21世紀に入り中医学におけるエビデンス構築がめざましく発展し(2023年8月14日現在PubMedでTraditional Chinese Medicineと検索すると134232本の英論文が検索される)、これに対して日本漢方はkampoと言うキーワードで同日に検索すると2277本と、エビデンス構築に於いて中医学に大きく遅れを取っている。のみならず同日にtraditional Korean Medicineとして検索すると3246本の英論文が検索され、日本漢方はエビデンス構築に於いて韓医学の後塵をも拝している。こうした状況に最初に警鐘を鳴らしたのは岩﨑鋼(1964~)であった。彼は自身でも抑肝散の認知症BPSD改善効果、半夏厚朴湯の誤嚥性肺炎予防効果、加味帰脾湯のBPSD改善効果など漢方のランダム化比較臨床試験を行い、また高齢者医療領域における漢方医学のでエビデンスのついてシステマティック・レビューを行い、さらには統計的な検証を経た気滞スコアの提出など、48本の英論文を発表して日本漢方のエビデンス構築に努めたが、彼の主張は日本東洋医学会のような国内主流派からは不興を買った。しかし彼の鳴らした警鐘は次第に漢方界に広まり、彼が2016年に著した「高齢者のための漢方診療」に於いて当時PubMedでkampoのキーワードによって検索される英論文が1182件であったと報告しているのに比べると、現時点(2023年8月)で2277本に増えたことは、彼の主張を首肯した人々が一定数いたことを物語っている。今後は既存の処方の効果の検証に留まらず、漢方医学理論の明確化、統計的な検証を経た弁証法の確立、さらには新型コロナなど次々出現する新しい疾患に対する新しい治療法、新しい処方の創出など、日本漢方が取り組むべき課題は極めて多い。 気血水説は古医方を唱えた吉益東洞が否定したものを長男の吉益南涯が再構築した理論であると言われるが、吉益南涯の提唱した気血水理論は現在の漢方医学のそれとはかなり異なり、難渋あるいは未完成である。それは後世には引き継がれなかった。現代の日本漢方が採用している気血水が何処に端を発するのか、現段階では不明である。 気血水理論では、 の3つの流れをバランスよく滞りない状態にするのが治療目標になる。これは現代中医学の気血津液弁証とそれほど大きく変わらない。 陰陽五行論は中国医学の理論化に用いられた。ただし、現在の漢方は、陰陽五行論を観念的として除した古方派が主流であり、診断・処方にはあまり用いられない。しかし一方日本漢方の主要な流派として知られる「和漢診療学」の提唱者寺澤捷年が中心になって編纂した和漢診療学の基本的な解説書「症例から学ぶ和漢診療学 第3版」には「和漢診療学における生体の理解」として五臓の概念はもとより、五臓の相関関係と気血水の消長、五臓の代謝作用と気血水の相関が一つ一つ項目を立てて解説されており、五行論を全面的に取り入れてはいないとは言え、その主要な医学的部分である五臓概念は現在の日本漢方でもかなり認識されている。 日本漢方では実は体力の充実している状態、虚は体力の衰えている状態とする。中医学で実とは邪が実していると考えるのとは異なる。 なお現代の日本漢方ではこの他に「気虚」、「血虛」などの概念も用いられる。しかし中医学の「陰虚」すなわち津液(水)が虚しているという概念は無い。しかし実臨床に於いては脱水や乾燥性湿疹など水が虚した状態は実際にしばしば存在するので、これを今後どう定義するかは今後の日本漢方の問題であろう。 症状を含めたその患者の状態を証(しょう)と呼び、証によって治療法を選択する。証を得るためには、四診を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要である。 西洋医学では、患者の徴候から疾患を特定することを「診断」と呼び、これに基づいて疾患に応じた治療を行う。しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となる。特に古方流派では葛根湯が最適な症例は葛根湯証であるという。しかし上述のように日本漢方にも現代では気血水、虚実、さらに五臓の概念まで取り入れられており、証がそのまま使用する処方に直結というのは必ずしも一般的では無くなってきている。 治療法を決定するためには四診(望、聞、問、切)を行う。四診は証を明らかにし漢方薬処方を決定する目的で行われる。 吉益東洞のような万病一毒説に従えば、体からの毒素を排出(いわば「瀉」)することが医者が行う治療であるという事になる。それには などの施術があげられる。 しかし一方、後世派や考証学派では人参や黄耆などを用いた補法も重要視される。また現代の医療用漢方エキス製剤には小柴胡湯のような和解剤、黄連解毒湯のような清熱剤、加味逍遙散や抑肝散のような柔肝剤、滋陰降火湯のような補陰清熱剤も含まれており、実際の治療法は上記に宣べたような伝統的日本漢方理論に留まらず、多種多様な治療法が用いられている。 以上が漢方医学を中心とする日本の伝統医学に関する説明であるが、関連事項として中国伝統医学を源とする東アジアの伝統医学について概説する。中国伝統医学系統のアジア伝統学は、中国(中医学)、日本(漢方)以外にも、朝鮮半島(古くは東医、現在の韓国では韓医学、北朝鮮では高麗医学と呼ばれる)、ベトナム(越南伝統医学)などアジアの広い範囲で行われている。東南アジアの伝統医学も、その多くがアーユルヴェーダと共に中国医学の影響を受けている。 中国医学系の伝統医学は、代替医療・統合医療の分野で世界的に活用され、グローバル化が進んでおり、標準化が課題となっている。カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアなどでも中国医学系の伝統医学(Traditional Chinese medicine (TCM))は注目され、広く実施されている。オーストラリアは西洋文化圏で最も中医学が発展しており、2012年には全国で中医の登録制度が実施された。アメリカでは50州の内44州で鍼灸が合法化され、カナダやイギリスでも中医診療所は増加傾向にある。アメリカ政府は独自の方針を採っている。アメリカではNIHの中にNational Center for Complementary Integrative Health(NCCIH)を置いているが、名称からも分かる通り特に伝統医学を特別視していない。この研究所のHPにある記載を引用すれば、Complementary medicine あるいはalternative medicineと言うのは"health care approaches that are not typically part of conventional medical care or that may have origins outside of usual Western practice"であり、通常の西洋医学と併用される場合はComplementary medicine, 通常の西洋医学の代わりとして用いられる場合はalternative medicineだと述べており、そもそも伝統医学、traditional medicineと言う用語自体使われていない。彼らの言うComplementary medicineやalternative medicineは確かに中医学的内容を含む場合もあるが、この研究所のスタンスとしては「通常の西洋医学的治療以外の治療」を対象としているのであって、特にtraditional medicineを特別視しているわけでは無いのだ。 日中韓の伝統医学は、共有する部分も大きいが理論・用語・処方に様々な違いがあり、政治的な影響もあり足並みはそろっていない。日本は政府・医学会共に、中医学が主導する国際化・標準化の流れに関心が薄く、中国、韓国、香港、台湾などと異なり伝統医学を扱う政府のセクションは存在しない。国際的にも漢方への理解は低く、外交面で大きく立ち遅れているのが現状である。一方2019年にこれら東アジアの伝統医学(中医学、韓医学、漢方医学など)の診断(弁証)概念が初めて盛り込まれた疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)を世界保健機関(WHO)が承認し、2023年現在既にICD11として実際に普及しているなど、アメリカにおける特殊な認識は別として世界的にこれら東アジア伝統医学の認知度が高まっているのは事実である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本における代表的な漢方医学の学会と目されている「日本東洋医学会」のHPには「漢方医学の定義」が記述されていない。東京医科大学のHPでは「日本の伝統医学です」とした後「漢方医学の源流は中国から6世紀に伝来しましたが、室町時代頃から日本独自の進化をするようになりました。時代が下って、江戸時代に日本に入ってきた西洋医学(蘭方)に対して、もともと日本で行われていた医学を漢方と呼ぶようになりました」との記載があるが、これは後述するように史実として誤りを含む。日本漢方生薬製剤協会のHPには「日本の医学は、奈良時代以来中国伝統医学が主流でした。しかし、江戸時代中期以降に西洋医学が伝えられると、これを「蘭方」と呼び、 従来からの日本化された中国医学を「漢方」と呼んでそれぞれを区別するようになりました」という記載がある。これが、現在のところ概ねほぼ全ての関係者が一致出来る「漢方医学とは何か」の記述と言えるだろう。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "16世紀以降、西洋医学が日本に導入されて南蛮医学、紅毛医学と呼ばれたが、江戸中期には西洋医学をオランダ人がほぼ独占するようになり、「蘭方」または「洋方」と称されたことに対して、中国伝統医学に由来し日本で実践されていた医学を「漢方」と呼ぶようになった。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "19世紀中盤の幕末から国学と漢学を尊皇的に「皇漢学」と言う。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "19世紀後半の明治14年ころから「和漢学」と称されたが、それに伴い日本の漢方も「皇漢医学」、「和漢医学」と呼ばれた。日清戦争以降、西洋と対になる東洋という用語が定着した。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本来漢方医学では生薬製剤による薬物治療の他、鍼灸、按摩、温泉など種々の治療法が用いられた。現代日本の医師法に於いて医師が鍼灸按摩をすることは可能だが、鍼灸あん摩マッサージに関する法律が別に存在することから、これらの治療法は主にあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師が行うことが多い。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "20世紀後半、日本はようやく漢方薬についての規制がまとまった。1950年(昭和25年)に日本東洋医学会が設立されて、「東洋医学」という呼び方で「日本の漢方医学、中国の中医薬学、朝鮮の韓医学」を一括するのが一般的だった。漢方薬の一部は1976年(昭和51年)から正式な保険薬として収載されており、現在では漢方薬を使った治療が広く行われている。なお現在の日本では同一の漢方処方が医療用医薬品としても一般医薬品としても使用販売されており、一般医薬品としての漢方薬は第2類医薬品に分類されている。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "5・6世紀に中国から日本に中国医学が伝来したといわれる。現存する日本最古の医学書は984年に丹波康頼が朝廷に献上した医心方だが、この本は唐代の医学書を膨大に引用している。その後も我が国の医学は、明に留学した僧医などによって、金・元の医学が紹介されるなど基本的に中国医学の導入を元に展開した(後世派)。後世派の巨頭は曲直瀬道三(1507-1595)である。彼は田代三喜に医学を学び、また明に留学した僧侶策彦周良から最新の明医学を学んだ。彼は京都に啓廸院と言う医学校を開き、そこで学んだ医師達は全国に散らばった。啓廸院で用いられた処方集「啓廸院配剤百方」は現在京都大学に保管されている。彼が書いた多数の書物の中でも「察証弁治啓廸集」はもっとも有名である。「察証弁治」というのは要するに現代中医学で言う弁証論治とほぼ意味は等しい。道三の養子曲直瀬玄朔の時代になると活字印刷の技術が普及し、より多くの医学書を入手出来る時代になった。それらの情報を得てさらに腕を上げた曲直瀬玄朔は天皇、関白から庶民に至るまで多くの人々を治療し、数百例の症例集「医学天正記」を残している。これは当時の治療の実際を知る上で重要な資料である。曲直瀬流医学は長く日本の医学の主流となったが、岡本一抱が中国医書を仮名交じり文で解説するなど、日本での応用を容易にする作業も行われた。余談ではあるがこの人物は近松門左衛門の弟である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "時代が下って1607年には林羅山が本草綱目を徳川家康に献上、また将軍徳川吉宗は「増広太平恵民和剤局方」や「訂正東医宝鑑」など中国、朝鮮の医学書を官刻、1819年に多紀元胤(1789~1827)が「難経疏証」を著すなど、中国伝統医学の紹介、普及は江戸後期まで続けられてきた。実際、真柳らの研究によると、19世紀に到るまで中国医書は営々と輸入されている。したがって江戸時代に日本の医学が中国医学とまったく別のものになった、と言うことでは無い。すなわち「定義」で紹介した東京医科大学の記載にある「室町時代頃から日本独自の進化をするようになりました」というのは正しくない。室町時代はもちろん江戸末期に至るまで、日本は中国から医学情報を積極的に輸入していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一方、陰陽五行説の影響の大きい後世派に対し、江戸時代にはこれを批判して実証主義的な古方派が台頭し、のちに2派を統合した折衷派が生まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古方派が主張した「古(いにしえ)」という概念は、かなり複雑な思想背景を含んでいる。なお以下の古方派に関する記述は、引用したリンクとは別に向静静著、「医学と儒学」人文書院を大幅に参考している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "古方派は後藤艮山に始まると言われる。後藤艮山は「日用」を重視し、「古道」を唱えた。艮山自筆の書は現存しないが、彼の教えを弟子が記録した師説筆記、「艮山先生遺教解」などによると、彼は論語を引いて医を知れと説いている。彼は古方を伏羲や神農の伝説に求めようとした。伏羲は八卦を説き、神農は薬草を民に与えたとして医薬に関連付けられてはいたが、艮山が重視したのは伏羲が料理を発明し、神農が農作を始め、五穀や野菜を人々に教えたとされたことだった。現代に於いては伏羲も神農も伝説上の神に過ぎないが、後藤艮山の真意は薬物治療よりもまず日常の食事を重んずるという事であったと考えられる。もちろん彼も薬物治療を行った。後藤艮山が使用した薬物は「艮山先生手定薬能」という書に記録されているが、そこには僅か36種が記述されているのみである。病因論としては一気留滞説を説いたが、彼の意味する気とは天地の間、人体の内にも外にもあまねく存在するものと理解されていた。すなわち艮山は古方派の祖と言われるが、彼にあっては明代までに確立していた陰陽五行などの思弁性の高い医学に異を唱え、日用に用いやすい養生・医療を提唱したのであって、彼が必ずしも傷寒論を重視したわけでは無い。彼が論語に基づいて医を説き、伝説上の存在である伏羲や神農を重んじたのは彼の時代的限界と言えるが、その精神の根本は「日用」にあったと言える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "後藤艮山を引き継いだのは香川修庵であった。香川修庵は医学を後藤艮山に習ったが、その前に伊藤仁斎に儒学を習っており、後藤艮山より儒学的色彩が濃い。彼が著した「一本堂行余医言」は高い実用性を誇るが、彼はただ実用的な医学を説いただけでは無い。伊藤仁斎に儒学を学んだ後後藤艮山に医学を学んだ経緯からも分かる通り、彼は「儒医」たることを主張した。その思想に基づいて、例えば彼は黄帝内経は孔子、孟子の教えを受けていないので邪説であると主張した。そして彼は論語や孟子の記述から病気、薬、食事、日常生活などに関わる部分を拾い上げ、これらに基づいて医療をすべしと説いたのだが、さすがに論語や孟子で実際の診療をするのは不可能であった。そこで彼が実際の治療の手本として取り上げたのが傷寒論だったのである。ただし彼が入手出来たのは、成無己の「注解傷寒論」であったとされる。本書は宋改を経た傷寒論をさらに彼が省略改変したものである。そこで香川修庵は成無己の注解傷寒論から注解と薬物の修治を全て削除し、小刻傷寒論と称して刊行、これは日本に於いてもっともよく読まれた傷寒論になった。香川修庵にはこの他にも桂枝や大黄、黄連などの再評価、行きすぎた朝鮮人参の乱用を戒めるなどの功績があるが、一方で傷寒論を考証学に基づかず「自分が使えそうな所だけ抜き出す」という日本漢方の悪弊は彼に始まったとも言える。香川修庵が傷寒論に注目したのは事実だが、彼の主張する「古」も必ずしも傷寒論をさしたのでは無く、彼の主張の根本は医は儒に基づくべきであって、従って孔孟の教えを重んじると主張はしたが、論語や孟子で実際の診療が出来るわけではなかったため、手段として用いたのが傷寒論だったのだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "古方派に於いて香川修庵の後に出た巨頭は山脇東洋である。彼は江戸時代初めて解剖(腑分け)をしたことで有名である。山脇東洋は法眼の号を授けられ、また中御門天皇の侍医を務めるなど、後藤艮山や香川修庵とは異なる系譜の医師であった。家は曲直瀬玄朔の系統の医家であり、当初は金、元、明代医学を学んだ。しかし後になって陰陽五行などを重んじる医学に疑問を抱き、香川修庵同様「復古」を唱えた。しかし山脇東洋の復古は香川修庵のそれとは異質であった。香川修庵は復古を唱えたものの論語や孟子では実臨床が出来ないので傷寒論を参考にし、かつ「自我作古」と言った。自分で古を創るのだというのである。しかし山脇東洋はそうではなかった。彼は「述而不作」、古人の説を宣べるだけで自分の考えは作らない、と言ったのである。「唯古是好」、古のみが良いと言った。これは学問が進歩するという事を完全に否定したに等しい。彼もまた儒学者の影響を受けた。山県周南という人物を介して荻生徂徠の説を学んだ。荻生徂徠は古文辞学を唱え、後世の注によらず古語の意義を帰納的に研究し、直接古代文献を解釈すると主張したのだが、当然江戸時代の日本に生きた荻生徂徠にとってこの目的を実現するのはあまりに資料不足であった。現代の考古学が手にしているような、古代墳墓からの漢代以前の文献資料の発見などが無かったからだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その荻生徂徠の説に影響を受けた山脇東洋は、当然現代的観点から見れば隘路に踏み込んでしまった。彼は周礼に注目したのである。周礼は周王朝の政治体制、官位、文物習俗を記載したとされるが、現代考古学によって発見された金文資料の記述とは矛盾するところが多く、実際には何時誰が編んだ書か不明である。また現代に於いては、周礼が実際の周の政治制度や官位を正確に記述しているとは考えられていない。しかしこれは儒教では聖典視された。山脇東洋が意味した「古(いにしえ)」は、実に周礼の記載であったのだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ではその様な山脇東洋が何故人体解剖を行ったのか。それは周礼に「九臓」と記されていたからだ。人体には心、肝、脾、肺、腎、胃、膀胱、大腸、小腸の9臓があるとされていた。これは黄帝内経の記述する五臓六腑とは明らかに数が違う。そこで彼は、実際に人体を解剖し、存在するのは五臓六腑か九臓か確認しようとした。実際の腑分けの経緯は省略するが、彼の腑分けの図面は彼の書「蔵志」に「九臓前面図」として載せられている。この解剖図は明らかに誤りであり、心臓は気道ないし食道に直結するように描かれており、また当時の粗雑な解剖でも存在は確認出来たはずの脾臓は描かれていない。要するに彼は実際の人体がどういう構造をしているかを知ろうとしたのでは無く、周礼に九臓とあるのを確認しようとしただけだった。目の前にある臓器を客観的に記載したのでは無く、九臓という自分が信じる概念に無理矢理みたものを当てはめただけであった。この点が後の杉田玄白らによる腑分けとは意味や目的がまったく異なっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "山脇東洋の意味した「古」は周礼であったが、当然周礼に基づいて臨床が可能なわけでは無い。そこで彼は「周之職、漢之術、晋唐之方」に基づいて医療を行うと主張した。その「漢之術」というのが傷寒論であった。また「晋唐之方」として彼が復刻に努力したのが外台秘要方であった。外台秘要方は732年(玄宗時代)、王燾の作とされるが、山脇東洋在世時は既に宋改を受けたものしか残されていなかった。北宋時代の刊本が現存するが、東洋は明代の刊本に基づいて1746年に復刻した。外台秘要方は引用文に必ず出典が明記されているので、東洋はまさにこれぞ「述而不作」のお手本と考えたのだろう。しかし彼はそれが宋改を経た明本であることは承知していたはずだ。宋、明など後世の医学を否定しようとした彼であったが、結局は宋や明の研究の上に立って仕事をせざるを得なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このように、「古方派」と呼ばれている中心的な人々がイメージした「古(いにしえ)」は基本的には傷寒論では無い。後藤艮山にとってはそれは伏羲や神農であったし、香川修庵にとっては論語や孟子であり、山脇東洋にとっての古は周礼であった。すなわち、彼らの「古(いにしえ)」は皆中国の概念だったのだ。彼らは朱子学を否定する当時の儒学の影響を受けつつそれぞれの「古(いにしえ)」を夢見たが、それは全て中国の古代神、儒教の古い形、あるいは現代に於いてはその内容が事実とは看做されない架空の古代史書であった。その様なものは理念としてはありえても、現実の臨床の役には立たない。それで重宝されたのが傷寒論(の記述の都合が良い一部)だった。現代では古方と言えば傷寒論と思われがちだが、少なくとも山脇東洋までの古方派にとって古(いにしえ)=傷寒論では無かったのだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "江戸末期まで中国からの医学知見の輸入に努めた後世派はもちろん、「日本独自」とされる古方派も、結局は中国の概念のなかの古(いにしえ)を夢見たのである。はたしてこれが「日本独自の発展」と言えるかどうかは甚だ疑問である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このような流れは次に述べる吉益東洞によって一気に異なった様相を帯びることになる。確かに吉益東洞も盛んに中国古典を引用した。彼の「古書医言」には多数の中国古典の引用が覧られる。しかし現代では、多くの点において吉益東洞がそのような古典を勝手に書き換えたり、恣意的引用を行っている部分が多いことが分かっている。上に宣べた三人とは異なり、吉益東洞にとって中国古典は自説を権威付ける「道具」に過ぎなかった。彼は一見中国古典に依拠しているように見せかけつつ、その実それらの古典に何ら敬意など払っていなかったのだ。確かに彼も周礼のなかの疾医、瘍医などのキーワードをちりばめたが、その周礼に見える「以五薬療之、以五味節之」などは「攙入」、つまり誤って紛れ込んだのだと否定する。現代の考古学、古文書学のように文献考証をして否定したわけでは無い。自分に気に入らないところは全部「攙入」と決めつけた。これは彼が「万病一毒説」の根拠として引用した「呂氏春秋」に於いても同じで、かれは呂氏春秋の原文を自分の都合が良いようにあちこち改ざんしている。さらには彼は「扁鵲や張仲景も万病一毒説を唱えていた」とまで言いだし、さすがに弟子に「然るに史記傷寒論に見へざるは如何」と問い詰められた。すると彼は悪びれもせず「それは王叔和が自説を加えたからだ」と答えたという。吉益東洞は傷寒論を異様に重んじたと言われるが、その実古典に対する態度はこのようであり、古代文献を学問的に検証するという姿勢は微塵もなかった。また日本独特の診察法である腹診についても、彼は史記の「扁鵲倉公列伝」に「病応見於大表」とあるのが腹診のことだと主張したが、史記には扁鵲が腹診をしたという記述は存在しない。むしろ司馬遷は扁鵲を脈診の名手として高く評価しているが、東洞はそれをあっさり無視した。また吉益東洞は傷寒論に基づくことを強調はしたが、彼自身が傷寒論に基づいて書いたと宣伝した「類聚方」は傷寒論を勝手な彼独自の解釈で利用したに過ぎず、傷寒論そのものを祖述したものではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "吉益東洞のこのような中国古典医書への態度は、後藤艮山、香川修庵、山脇東洋らとはまったく異なっている。これら三人は誤解を含みながらもともかく中国古代の思想を重視したのに対し、東洞は極めて恣意的に利用しただけである。これははたして「古方」なのだろうか?現実を見れば、吉益東洞は古(いにしえ)などまったく尊重していなかったと言わざるを得ない。中国古典をちりばめつつ、都合が悪いところは全て改ざんし、自分が正しいと思う医学を作り上げた。それは歴史の改ざんと言えばそうであろうし、一方で「古に従う」と言いつつ彼の生きた時代に沿った新しい医学を打ち立てたという解釈も出来るだろう。伏羲や神農、論語、孟子、周礼や呂氏春秋などは、彼にとっては権威付けに利用する材料だったに過ぎず、彼が本当に重きを置いたのはその時代に即した新しい臨床医学であったのだ。吉益東洞は確かに傷寒論を賞賛したが、傷寒論を考証学的に扱ったのでは無い。彼の処方集「類聚方」には「求方於長沙」とあり、張仲景に基づいたことになっているが、そこには明らかに東洞本人の解釈、選別が入っている。だがともあれこの本は当時大ブームとなった。1万冊が刷られ、江戸に5千部、京、大坂に五千部が配布されたが、このうち京・大坂の五千部は一ヶ月で売り切れたという。2023年現在の日本に置いてすら、医学書が1万部、あるいは5千部を完売する例はめったないないことを考えると、まさに熱狂的大ブームだったことが分かる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方で彼は実臨床に於いては必ずしも傷寒論処方や自らが編んだ類聚方に拘らず、様々な処方を用いた。例えば「医事或問」には弟子とのこんな問答が記されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "弟子曰く「古方とは仲景方のことでしょう。先生は控涎丹、七宝丸などを用いるが、古方とは言いがたいのでは無いですか?」", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これに対する東洞の答えは、彼の医学に対する根本的な姿勢をよく表している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「古方というのは世間がそう唱えているのだ。処方選択は病を治療出来るかどうかであって、昔も今も無い。しかし後世の処方には有効なものが少なく、昔のものには多いので、昔の処方を多く用いる。それで世間が古方というのだ。処方に古今の差別は無い」。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "要するに、吉益東洞は徹底した臨床家であった。彼は後藤艮山らのように中国の古(いにしえ)に何かの価値を求めたわけでは無かった。彼の基準は「実臨床に有効かどうか」だけであって、そのためには傷寒論に無い、彼独自の処方も多く開発した。「親試実験」という言葉は彼が初めて提唱したものではないが、本当の意味で親試実験に徹したのが吉益東洞だった。東洞医学のこの本質を鑑みると、彼を「古方派」と称するにはためらいがある。彼は実臨床に於いて古方を選択することもあれば、後世の処方を選択することもあれば、自分で創った処方を使うこともあった。「有効なものを使う」というのが彼の一貫した姿勢であり、ただ「古に従う」事を提唱したわけでは無いのだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ともあれ、東洞流医学は一気に全国に広まった。それにともなって、彼を熱狂的に支持する人もいれば、あまりに自説に偏りすぎていて医学としては均衡を欠くと批判した人もいた。村井琴山のように古今の中国における傷寒論研究を全て否定し、「我東洞翁に至って初めて仲景の室に入る」とまで極論絶賛した人もいたが、一方で畑黄山のように黄帝内経の重要性も認め、多くの古今歴代の医学書を読むべきだと主張した人もいた。彼は医学院を開き医学を教授したが、その医学院に於いて学習すべきとされた医学書は黄帝内経、傷寒論は言うに及ばず、唐、宋、金元医学、明清医学、朝鮮医学にまで渡っている。さらに杉田玄白は「東洞は一種の豪傑だが、傷寒論のみに拘るばかりか、それも錯簡の書であって取るところは多くないと言い、己が心に徹せし方論ばかりを取り・・・」と東洞の古典に対する恣意的な態度を的確に批判した。詰まるところ吉益東洞は古方の雄とされながら、その本質はむしろ親試実験にあり、実際に有効かどうかが彼の判断基準だったのであって、必ずしも古を重んじた人ではなかったと言えよう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以上見てきたように、古方派は確かに江戸期に於いて独自の動きを見せた。しかし一方江戸期を通じて、明清医学も絶えず流入していた。中国医師の来日は、主に明清交代の時、動乱を避けて日本に渡ってきた人々と、徳川吉宗が積極的に招聘した人々が多い。その数はかなり膨大なのでここにいちいち挙げることが出来ない。ともあれ幕府は彼らを通じて常に中国医学の動向に意を払い、多くの中国医書がもたらされた。そのうちの一人を例としてあげれば、胡兆新は蘇州で高名な医師であったが幕府の求めに応じて1803年から1805年まで日本に滞在し、多紀元簡などと通訳を通じて質疑を行った。このときの幕府医官の質問は清朝の医学教育、試験科目、診療法、麻疹流行の頻度、煎じ薬の加水量などに及び、中国医学の現状に幕府が強い関心を寄せていたことが分かる。もっともこのとき多紀元簡は胡兆新に何故中国では腹診をしないのかと問い、胡兆新が中国では昔から腹診はやらないと答えたのに対し、それは古今の医書の記載と違うとやり込めている。中国に学ぼうとしながらも、中国医師の言を丸呑みにしないくらい、多紀元簡のような人は古今の中国医学書について造指が深かったことも伺える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "以上で江戸期日本の医学状況についての記載を終える。この他北山友松子のように中国からの亡命者と長崎の遊女の間に生まれた混血児でありながら傷寒論を重視した人など、まだ論ずべき人物は多いが、これまで概説しただけでも、江戸期に於いて日本の医学が中国とは独自の発展を遂げたと一言で括ることは出来ないことが分かるだろう。多紀元胤のような考証学者はもちろん、古方を目指した人々もなんらかの形で中国思想や明代医学からの影響を受けた。ただ一人吉益東洞のみが事実上中国思想を軽んじ、ひたすら臨床的効果に拘ったことがあまりにも鮮烈な印象を与えるため、まるで江戸期に日本の医学がすっかり中国とは独自の発展を遂げたような印象を与えるのかもしれないが、実際には日中間には頻繁な医学交流が継続していたのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "漢方医学は、気・血・水・虚実などの理論や、葛根湯などの方剤(複数の生薬の組み合わせ)を中国医学と共有し、テキストとして中国の古典医学書が用いられる。しかし両者には多くの違いがあり、特徴としては具体的・実用主義的な点が挙げられる。", "title": "中国医学・韓医学との違い" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "現在の日本の漢方医学の主流は「古方派」である。この古方派は中国医学の根本的な理論である「陰陽五行論」を承認せず、むしろそれを意図的に排除している。古方派の主な4人については上の「歴史」で詳しく宣べた。中医学も日本漢方も診断に類する用語として「証」を論じるが、日本漢方の後世派や折衷派では証は中国伝統医学と概ね同じ意味で用いられる。しかし古方派では『傷寒論』の条文にある症状と処方が一対一に対応すると主張する。使われる生薬の種類は中国より少なく、一日分の薬用量は中国に比べて約3分の1である。また、脈診、舌診を重視し腹診がすたれた中医学とは対照的に、日本の漢方医学は脈診、舌診、腹診を行う。", "title": "中国医学・韓医学との違い" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "これに対して、韓医学(朝鮮半島)で使われる生薬量は中程度である。", "title": "中国医学・韓医学との違い" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "漢方医学の処方は、『傷寒雑病論』(現在では『傷寒論』及び『金匱要略』と呼ばれる2つのテキストとして残る)を基本とした古い時代のものに、日本独自のマイナーチェンジを加えたものであると一般には言われるが、実際は上に宣べた古方4大家もそれぞれ独自の処方を用いている。また現代の日本漢方では李東垣の補中益気湯や和剤局方の処方の数々、明代の万病回春の処方、宣明論にある防風通聖散など様々な処方が取り入れられている。一方「温病」(うんびょう)など、清代に中国で確立した理論はほとんど現代の漢方医学には受け継がれていない。", "title": "中国医学・韓医学との違い" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "明治政府により日本の医療に西洋近代医学が採用され、漢方医学は著しく衰退した。日本の医学教育では、漢方医学を始めとする伝統医学の教育は100年以上ほとんど行われなかったが、2001年に、医学部の教育内容ガイドラインの到達目標に「和漢薬を概説できる」が加えられたことで、全国の大学で漢方医学の講義が徐々に行われるようになってきている。しかし日本には、中国や韓国のような伝統医の国家資格は存在せず、1883年(明治16年)以降、医師国家試験の課目にも漢方医学は含まれなかった。そのため漢方医学の体系的な知識を持つ医師は少なく、漢方薬が西洋医学的発想で使われるなどの問題も散見される。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "現代日本における伝統医学の現状についてまず最初に指摘しなければならないのは、現代日本に於いては複数の「伝統医学」系統の医学が実践されているという事である。日本では明治政府が医制を定めた時伝統医学を事実上捨て去ったため、伝統医学には空白期が生まれた。その中で色々な人が過去の文献を渉猟し、それぞれの学びに応じて独自の伝統医学を提唱した。特に明治43年(1910)「医界之鉄椎」を著した和田啓十郎など古方派に学んだ人が最初に伝統医学復権の狼煙を上げたため、かつては日本漢方と言えば古方と看做される向きもあった。しかし現在では、古方派のみならず、考証学派を引き継ぐ流れ、経方医学など傷寒論、金匱要略に基づくとはいいながらまったく新しい理論を構築する流れ、また伝統医学を現代の臨床医学的手法、特にEvidence Based Medicine(EBM)の手法に載せて検証・理解しようとする流れなどが存在する。さらに中国伝統医学を中華人民共和国政府が系統化した中医学も日本に紹介され、実践されている。すなわち現代日本に於いて実践されている諸々の伝統医学と漢方医学は同じ概念ではくくれない。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "21世紀に入り中医学におけるエビデンス構築がめざましく発展し(2023年8月14日現在PubMedでTraditional Chinese Medicineと検索すると134232本の英論文が検索される)、これに対して日本漢方はkampoと言うキーワードで同日に検索すると2277本と、エビデンス構築に於いて中医学に大きく遅れを取っている。のみならず同日にtraditional Korean Medicineとして検索すると3246本の英論文が検索され、日本漢方はエビデンス構築に於いて韓医学の後塵をも拝している。こうした状況に最初に警鐘を鳴らしたのは岩﨑鋼(1964~)であった。彼は自身でも抑肝散の認知症BPSD改善効果、半夏厚朴湯の誤嚥性肺炎予防効果、加味帰脾湯のBPSD改善効果など漢方のランダム化比較臨床試験を行い、また高齢者医療領域における漢方医学のでエビデンスのついてシステマティック・レビューを行い、さらには統計的な検証を経た気滞スコアの提出など、48本の英論文を発表して日本漢方のエビデンス構築に努めたが、彼の主張は日本東洋医学会のような国内主流派からは不興を買った。しかし彼の鳴らした警鐘は次第に漢方界に広まり、彼が2016年に著した「高齢者のための漢方診療」に於いて当時PubMedでkampoのキーワードによって検索される英論文が1182件であったと報告しているのに比べると、現時点(2023年8月)で2277本に増えたことは、彼の主張を首肯した人々が一定数いたことを物語っている。今後は既存の処方の効果の検証に留まらず、漢方医学理論の明確化、統計的な検証を経た弁証法の確立、さらには新型コロナなど次々出現する新しい疾患に対する新しい治療法、新しい処方の創出など、日本漢方が取り組むべき課題は極めて多い。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "気血水説は古医方を唱えた吉益東洞が否定したものを長男の吉益南涯が再構築した理論であると言われるが、吉益南涯の提唱した気血水理論は現在の漢方医学のそれとはかなり異なり、難渋あるいは未完成である。それは後世には引き継がれなかった。現代の日本漢方が採用している気血水が何処に端を発するのか、現段階では不明である。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "気血水理論では、", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "の3つの流れをバランスよく滞りない状態にするのが治療目標になる。これは現代中医学の気血津液弁証とそれほど大きく変わらない。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "陰陽五行論は中国医学の理論化に用いられた。ただし、現在の漢方は、陰陽五行論を観念的として除した古方派が主流であり、診断・処方にはあまり用いられない。しかし一方日本漢方の主要な流派として知られる「和漢診療学」の提唱者寺澤捷年が中心になって編纂した和漢診療学の基本的な解説書「症例から学ぶ和漢診療学 第3版」には「和漢診療学における生体の理解」として五臓の概念はもとより、五臓の相関関係と気血水の消長、五臓の代謝作用と気血水の相関が一つ一つ項目を立てて解説されており、五行論を全面的に取り入れてはいないとは言え、その主要な医学的部分である五臓概念は現在の日本漢方でもかなり認識されている。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本漢方では実は体力の充実している状態、虚は体力の衰えている状態とする。中医学で実とは邪が実していると考えるのとは異なる。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお現代の日本漢方ではこの他に「気虚」、「血虛」などの概念も用いられる。しかし中医学の「陰虚」すなわち津液(水)が虚しているという概念は無い。しかし実臨床に於いては脱水や乾燥性湿疹など水が虚した状態は実際にしばしば存在するので、これを今後どう定義するかは今後の日本漢方の問題であろう。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "症状を含めたその患者の状態を証(しょう)と呼び、証によって治療法を選択する。証を得るためには、四診を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要である。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "西洋医学では、患者の徴候から疾患を特定することを「診断」と呼び、これに基づいて疾患に応じた治療を行う。しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となる。特に古方流派では葛根湯が最適な症例は葛根湯証であるという。しかし上述のように日本漢方にも現代では気血水、虚実、さらに五臓の概念まで取り入れられており、証がそのまま使用する処方に直結というのは必ずしも一般的では無くなってきている。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "治療法を決定するためには四診(望、聞、問、切)を行う。四診は証を明らかにし漢方薬処方を決定する目的で行われる。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "吉益東洞のような万病一毒説に従えば、体からの毒素を排出(いわば「瀉」)することが医者が行う治療であるという事になる。それには", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "などの施術があげられる。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "しかし一方、後世派や考証学派では人参や黄耆などを用いた補法も重要視される。また現代の医療用漢方エキス製剤には小柴胡湯のような和解剤、黄連解毒湯のような清熱剤、加味逍遙散や抑肝散のような柔肝剤、滋陰降火湯のような補陰清熱剤も含まれており、実際の治療法は上記に宣べたような伝統的日本漢方理論に留まらず、多種多様な治療法が用いられている。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "以上が漢方医学を中心とする日本の伝統医学に関する説明であるが、関連事項として中国伝統医学を源とする東アジアの伝統医学について概説する。中国伝統医学系統のアジア伝統学は、中国(中医学)、日本(漢方)以外にも、朝鮮半島(古くは東医、現在の韓国では韓医学、北朝鮮では高麗医学と呼ばれる)、ベトナム(越南伝統医学)などアジアの広い範囲で行われている。東南アジアの伝統医学も、その多くがアーユルヴェーダと共に中国医学の影響を受けている。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "中国医学系の伝統医学は、代替医療・統合医療の分野で世界的に活用され、グローバル化が進んでおり、標準化が課題となっている。カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアなどでも中国医学系の伝統医学(Traditional Chinese medicine (TCM))は注目され、広く実施されている。オーストラリアは西洋文化圏で最も中医学が発展しており、2012年には全国で中医の登録制度が実施された。アメリカでは50州の内44州で鍼灸が合法化され、カナダやイギリスでも中医診療所は増加傾向にある。アメリカ政府は独自の方針を採っている。アメリカではNIHの中にNational Center for Complementary Integrative Health(NCCIH)を置いているが、名称からも分かる通り特に伝統医学を特別視していない。この研究所のHPにある記載を引用すれば、Complementary medicine あるいはalternative medicineと言うのは\"health care approaches that are not typically part of conventional medical care or that may have origins outside of usual Western practice\"であり、通常の西洋医学と併用される場合はComplementary medicine, 通常の西洋医学の代わりとして用いられる場合はalternative medicineだと述べており、そもそも伝統医学、traditional medicineと言う用語自体使われていない。彼らの言うComplementary medicineやalternative medicineは確かに中医学的内容を含む場合もあるが、この研究所のスタンスとしては「通常の西洋医学的治療以外の治療」を対象としているのであって、特にtraditional medicineを特別視しているわけでは無いのだ。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日中韓の伝統医学は、共有する部分も大きいが理論・用語・処方に様々な違いがあり、政治的な影響もあり足並みはそろっていない。日本は政府・医学会共に、中医学が主導する国際化・標準化の流れに関心が薄く、中国、韓国、香港、台湾などと異なり伝統医学を扱う政府のセクションは存在しない。国際的にも漢方への理解は低く、外交面で大きく立ち遅れているのが現状である。一方2019年にこれら東アジアの伝統医学(中医学、韓医学、漢方医学など)の診断(弁証)概念が初めて盛り込まれた疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)を世界保健機関(WHO)が承認し、2023年現在既にICD11として実際に普及しているなど、アメリカにおける特殊な認識は別として世界的にこれら東アジア伝統医学の認知度が高まっているのは事実である。", "title": "近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状" } ]
null
{{東洋医学}} {{出典の明記|date=2014年8月}} {{独自研究|date=2023年10月}} == 定義 == 日本における代表的な漢方医学の学会と目されている「[http://www.jsom.or.jp/index.html 日本東洋医学会」のHP]には「漢方医学の定義」が記述されていない。[https://hospinfo.tokyo-med.ac.jp/shinryo/kampo/intro.html 東京医科大学のHP]では「日本の伝統医学です」とした後「漢方医学の源流は中国から6世紀に伝来しましたが、室町時代頃から日本独自の進化をするようになりました。時代が下って、江戸時代に日本に入ってきた西洋医学(蘭方)に対して、もともと日本で行われていた医学を漢方と呼ぶようになりました」との記載があるが、これは後述するように史実として誤りを含む。[https://www.nikkankyo.org/kampo/kampo1.htm 日本漢方生薬製剤協会のHP]には「日本の医学は、奈良時代以来中国伝統医学が主流でした。しかし、江戸時代中期以降に西洋医学が伝えられると、これを「蘭方」と呼び、 従来からの日本化された中国医学を「漢方」と呼んでそれぞれを区別するようになりました」という記載がある。これが、現在のところ概ねほぼ全ての関係者が一致出来る「漢方医学とは何か」の記述と言えるだろう。 == 呼称 == 16世紀以降、西洋医学が日本に導入されて南蛮医学、紅毛医学と呼ばれたが、江戸中期には西洋医学をオランダ人がほぼ独占するようになり、「[[蘭方]]」または「洋方」と称されたことに対して、中国伝統医学に由来し日本で実践されていた医学を「'''漢方'''」と呼ぶようになった<ref name="大塚岩波">{{Cite book|和書 |author=大塚恭男 |title=東洋医学 |publisher=岩波書店 |year=1996 |page={{要ページ番号|date=2020-02-08}}}}</ref>{{Sfn|乾|2021|p=190}}。 19世紀中盤の幕末から[[国学]]と[[漢学]]を尊皇的に「'''皇漢学'''」と言う。 19世紀後半の明治14年ころから「和漢学」と称されたが、それに伴い日本の漢方も「'''皇漢医学'''」、「'''和漢医学'''」と呼ばれた。日清戦争以降、西洋と対になる東洋という用語が定着した。 本来漢方医学では生薬製剤による薬物治療の他、鍼灸、按摩、温泉など種々の治療法が用いられた。現代日本の医師法に於いて医師が鍼灸按摩をすることは可能だが、[https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=80138000&dataType=0&pageNo=1 鍼灸あん摩マッサージに関する法律]が別に存在することから、これらの治療法は主にあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師が行うことが多い。 20世紀後半、日本はようやく漢方薬についての規制がまとまった。1950年(昭和25年)に[[日本東洋医学会]]が設立されて、「'''東洋医学'''」という呼び方で「日本の漢方医学、中国の[[中医薬学]]、朝鮮の[[韓医学]]」を一括するのが一般的だった。漢方薬の一部は1976年(昭和51年)から正式な保険薬として収載されており、現在では漢方薬を使った治療が広く行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio-kampo.jp/ja_1/page06.html |title=漢方Q&A 慶應義塾大学医学部漢方医学センター |accessdate=2014-08-09}}</ref>。なお現在の日本では同一の漢方処方が医療用医薬品としても一般医薬品としても使用販売されており、[https://www.nihs.go.jp/kanren/iyaku/20151127-dpp.pdf 一般医薬品としての漢方薬は第2類医薬品に分類されている]。 == 歴史 == 5・6世紀に中国から日本に[[中国医学]]が伝来したといわれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://history.10heizo.com/index.php?%B4%C1%CA%FD%C5%C1%CD%E8 |title=漢方伝来 |publisher=十字屋平蔵薬局 |accessdate=2015-06-25 |deadlinkdate=2021年12月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150629080944/http://history.10heizo.com/index.php?%B4%C1%CA%FD%C5%C1%CD%E8 |archivedate=2015-06-29}}</ref>。現存する日本最古の医学書は984年に丹波康頼が朝廷に献上した[[医心方]]だが、この本は唐代の医学書を膨大に引用している。その後も我が国の医学は、[[明]]に留学した僧医などによって、[[金 (王朝)|金]]・[[元 (王朝)|元]]の医学が紹介されるなど基本的に中国医学の導入を元に展開した([[後世派]])<ref name="今西栗山">{{Cite book|和書 |author1=今西二郎 |author2=栗山洋子 |chapter=漢方 |editor=今西二郎 |title=医療従事者のための補完・代替医療 |edition=改訂2版 |publisher=金芳堂 |year=2009}}</ref>。後世派の巨頭は[http://www.akibah.or.jp/publics/index/45/ 曲直瀬道三](1507-1595)である。彼は田代三喜に医学を学び、また明に留学した僧侶策彦周良から最新の明医学を学んだ。彼は京都に啓廸院と言う医学校を開き、そこで学んだ医師達は全国に散らばった。啓廸院で用いられた処方集「[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000324 啓廸院配剤百方]」は現在京都大学に保管されている。彼が書いた多数の書物の中でも「察証弁治啓廸集」はもっとも有名である。「察証弁治」というのは要するに現代中医学で言う弁証論治とほぼ意味は等しい。道三の養子[http://aeam.umin.ac.jp/siryouko/ikadata/manasegensaku.html 曲直瀬玄朔]の時代になると活字印刷の技術が普及し、より多くの医学書を入手出来る時代になった。それらの情報を得てさらに腕を上げた曲直瀬玄朔は天皇、関白から庶民に至るまで多くの人々を治療し、数百例の症例集「[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000173#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-5165%2C-209%2C15944%2C4160 医学天正記]」を残している。これは当時の治療の実際を知る上で重要な資料である。曲直瀬流医学は長く日本の医学の主流となったが、[https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=080-1900614-0 岡本一抱]が中国医書を仮名交じり文で解説するなど、日本での応用を容易にする作業も行われた。余談ではあるがこの人物は近松門左衛門の弟である。 時代が下って1607年には林羅山が本草綱目を徳川家康に献上<ref>{{Cite journal|date=2009|url=https://doi.org/10.11619/africa1964.2009.69|journal=Journal of African Studies|volume=2009|issue=74|pages=69–72|doi=10.11619/africa1964.2009.69|issn=0065-4140}}</ref>、また将軍徳川吉宗は「増広太平恵民和剤局方」や「訂正東医宝鑑」など中国、朝鮮の医学書を官刻、1819年に多紀元胤(1789~1827)が「[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00004587#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-3454%2C-209%2C12522%2C4159 難経疏証]」を著すなど、中国伝統医学の紹介、普及は江戸後期まで続けられてきた。実際、[https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/uchida.htm 真柳らの研究]によると、19世紀に到るまで中国医書は営々と輸入されている。したがって江戸時代に日本の医学が中国医学とまったく別のものになった、と言うことでは無い。すなわち「定義」で紹介した東京医科大学の記載にある「室町時代頃から日本独自の進化をするようになりました」というのは正しくない。室町時代はもちろん江戸末期に至るまで、日本は中国から医学情報を積極的に輸入していた。 一方、[[陰陽五行思想|陰陽五行説]]の影響の大きい後世派に対し、江戸時代にはこれを批判して実証主義的な[[古方派]]が台頭し、のちに2派を統合した[[折衷派]]が生まれた<ref name="長濱">{{Cite book|和書|author=長濱善夫 |title=東洋医学概説 |year=1961 |publisher=創元社 |page={{要ページ番号|date=2020-02-08}} |NCID=BN04161426 |ISBN=4422413015 |url=https://library.affrc.go.jp/api/QQ00118671}}</ref>。 古方派が主張した「古(いにしえ)」という概念は、かなり複雑な思想背景を含んでいる。なお以下の古方派に関する記述は、引用したリンクとは別に向静静著、「医学と儒学」人文書院<ref>{{Cite book|和書 |title=医学と儒学 |date=2023年5月30日 |year=2023年 |publisher=人文書院}}</ref>を大幅に参考している。 古方派は[[後藤艮山]]に始まると言われる。後藤艮山は「日用」を重視し、「古道」を唱えた。艮山自筆の書は現存しないが、彼の教えを弟子が記録した[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000243#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-3454%2C-208%2C12522%2C4159 師説筆記]、「[https://cir.nii.ac.jp/crid/1130282272563790336 艮山先生遺教解]」などによると、彼は論語を引いて医を知れと説いている。彼は古方を[[伏羲]]や[[神農]]の伝説に求めようとした。伏羲は八卦を説き、神農は薬草を民に与えたとして医薬に関連付けられてはいたが、艮山が重視したのは伏羲が料理を発明し、神農が農作を始め、五穀や野菜を人々に教えたとされたことだった。現代に於いては伏羲も神農も伝説上の神に過ぎないが、後藤艮山の真意は薬物治療よりもまず日常の食事を重んずるという事であったと考えられる。もちろん彼も薬物治療を行った。後藤艮山が使用した薬物は「[https://books.google.co.jp/books/about/艮山先生手定薬能.html?id=fmp1zgEACAAJ&redir_esc=y 艮山先生手定薬能]」という書に記録されているが、そこには僅か36種が記述されているのみである。病因論としては一気留滞説を説いたが、彼の意味する気とは天地の間、人体の内にも外にもあまねく存在するものと理解されていた。すなわち艮山は古方派の祖と言われるが、彼にあっては明代までに確立していた陰陽五行などの思弁性の高い医学に異を唱え、日用に用いやすい養生・医療を提唱したのであって、彼が必ずしも傷寒論を重視したわけでは無い。彼が論語に基づいて医を説き、伝説上の存在である伏羲や神農を重んじたのは彼の時代的限界と言えるが、その精神の根本は「日用」にあったと言える。 後藤艮山を引き継いだのは[[香川修徳|香川修庵]]であった。香川修庵は医学を後藤艮山に習ったが、その前に伊藤仁斎に儒学を習っており、後藤艮山より儒学的色彩が濃い。彼が著した「[https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00511/index.html 一本堂行余医言]」は高い実用性を誇るが、彼はただ実用的な医学を説いただけでは無い。伊藤仁斎に儒学を学んだ後後藤艮山に医学を学んだ経緯からも分かる通り、彼は「儒医」たることを主張した。その思想に基づいて、例えば彼は黄帝内経は孔子、孟子の教えを受けていないので邪説であると主張した。そして彼は論語や孟子の記述から病気、薬、食事、日常生活などに関わる部分を拾い上げ、これらに基づいて医療をすべしと説いたのだが、さすがに論語や孟子で実際の診療をするのは不可能であった。そこで彼が実際の治療の手本として取り上げたのが傷寒論だったのである。ただし彼が入手出来たのは、成無己の「注解傷寒論」であったとされる。本書は宋改を経た傷寒論をさらに彼が省略改変したものである。そこで香川修庵は成無己の注解傷寒論から注解と薬物の修治を全て削除し、[https://cir.nii.ac.jp/crid/1130856185162926748 小刻傷寒論]と称して刊行、これは日本に於いてもっともよく読まれた傷寒論になった。香川修庵にはこの他にも桂枝や大黄、黄連などの再評価、行きすぎた朝鮮人参の乱用を戒めるなどの功績があるが、一方で傷寒論を考証学に基づかず「自分が使えそうな所だけ抜き出す」という日本漢方の悪弊は彼に始まったとも言える。香川修庵が傷寒論に注目したのは事実だが、彼の主張する「古」も必ずしも傷寒論をさしたのでは無く、彼の主張の根本は医は儒に基づくべきであって、従って孔孟の教えを重んじると主張はしたが、論語や孟子で実際の診療が出来るわけではなかったため、手段として用いたのが傷寒論だったのだ。 古方派に於いて香川修庵の後に出た巨頭は[[山脇東洋]]である。彼は江戸時代初めて解剖(腑分け)をしたことで有名である。山脇東洋は法眼の号を授けられ、また中御門天皇の侍医を務めるなど、後藤艮山や香川修庵とは異なる系譜の医師であった。家は曲直瀬玄朔の系統の医家であり、当初は金、元、明代医学を学んだ。しかし後になって陰陽五行などを重んじる医学に疑問を抱き、香川修庵同様「復古」を唱えた。しかし山脇東洋の復古は香川修庵のそれとは異質であった。香川修庵は復古を唱えたものの論語や孟子では実臨床が出来ないので傷寒論を参考にし、かつ「自我作古」と言った。自分で古を創るのだというのである。しかし山脇東洋はそうではなかった。彼は「述而不作」、古人の説を宣べるだけで自分の考えは作らない、と言ったのである。「唯古是好」、古のみが良いと言った。これは学問が進歩するという事を完全に否定したに等しい。彼もまた儒学者の影響を受けた。山県周南という人物を介して[[荻生徂徠]]の説を学んだ。荻生徂徠は古文辞学を唱え、後世の注によらず古語の意義を帰納的に研究し、直接古代文献を解釈すると主張したのだが、当然江戸時代の日本に生きた荻生徂徠にとってこの目的を実現するのはあまりに資料不足であった。現代の考古学が手にしているような、古代墳墓からの漢代以前の文献資料の発見などが無かったからだ。 その荻生徂徠の説に影響を受けた山脇東洋は、当然現代的観点から見れば隘路に踏み込んでしまった。彼は[[周礼]]に注目したのである。周礼は周王朝の政治体制、官位、文物習俗を記載したとされるが、現代考古学によって発見された金文資料の記述とは矛盾するところが多く、実際には何時誰が編んだ書か不明である。また現代に於いては、周礼が実際の周の政治制度や官位を正確に記述しているとは考えられていない。しかしこれは儒教では聖典視された。山脇東洋が意味した「古(いにしえ)」は、実に周礼の記載であったのだ。 ではその様な山脇東洋が何故人体解剖を行ったのか。それは周礼に「九臓」と記されていたからだ。人体には心、肝、脾、肺、腎、胃、膀胱、大腸、小腸の9臓があるとされていた。これは黄帝内経の記述する五臓六腑とは明らかに数が違う。そこで彼は、実際に人体を解剖し、存在するのは五臓六腑か九臓か確認しようとした。実際の腑分けの経緯は省略するが、彼の腑分けの図面は彼の書「[[蔵志]]」に「九臓前面図」として載せられている。この解剖図は明らかに誤りであり、心臓は気道ないし食道に直結するように描かれており、また当時の粗雑な解剖でも存在は確認出来たはずの脾臓は描かれていない。要するに彼は実際の人体がどういう構造をしているかを知ろうとしたのでは無く、周礼に九臓とあるのを確認しようとしただけだった。目の前にある臓器を客観的に記載したのでは無く、九臓という自分が信じる概念に無理矢理みたものを当てはめただけであった。この点が後の杉田玄白らによる腑分けとは意味や目的がまったく異なっている。 山脇東洋の意味した「古」は周礼であったが、当然周礼に基づいて臨床が可能なわけでは無い。そこで彼は「周之職、漢之術、晋唐之方」に基づいて医療を行うと主張した。その「漢之術」というのが傷寒論であった。また「晋唐之方」として彼が復刻に努力したのが外台秘要方であった。外台秘要方は732年(玄宗時代)、王燾の作とされるが、山脇東洋在世時は既に宋改を受けたものしか残されていなかった。北宋時代の刊本が現存するが、東洋は明代の刊本に基づいて1746年に復刻した。外台秘要方は引用文に必ず出典が明記されているので、東洋はまさにこれぞ「述而不作」のお手本と考えたのだろう。しかし彼はそれが宋改を経た明本であることは承知していたはずだ。宋、明など後世の医学を否定しようとした彼であったが、結局は宋や明の研究の上に立って仕事をせざるを得なかった。 このように、「古方派」と呼ばれている中心的な人々がイメージした「古(いにしえ)」は基本的には傷寒論では無い。後藤艮山にとってはそれは伏羲や神農であったし、香川修庵にとっては論語や孟子であり、山脇東洋にとっての古は周礼であった。すなわち、彼らの「古(いにしえ)」は皆中国の概念だったのだ。彼らは朱子学を否定する当時の儒学の影響を受けつつそれぞれの「古(いにしえ)」を夢見たが、それは全て中国の古代神、儒教の古い形、あるいは現代に於いてはその内容が事実とは看做されない架空の古代史書であった。その様なものは理念としてはありえても、現実の臨床の役には立たない。それで重宝されたのが傷寒論(の記述の都合が良い一部)だった。現代では古方と言えば傷寒論と思われがちだが、少なくとも山脇東洋までの古方派にとって古(いにしえ)=傷寒論では無かったのだ。 江戸末期まで中国からの医学知見の輸入に努めた後世派はもちろん、「日本独自」とされる古方派も、結局は中国の概念のなかの古(いにしえ)を夢見たのである。はたしてこれが「日本独自の発展」と言えるかどうかは甚だ疑問である。 このような流れは次に述べる[[吉益東洞]]によって一気に異なった様相を帯びることになる。確かに吉益東洞も盛んに中国古典を引用した。彼の「古書医言」には多数の中国古典の引用が覧られる。しかし現代では、多くの点において吉益東洞がそのような古典を勝手に書き換えたり、恣意的引用を行っている部分が多いことが分かっている。上に宣べた三人とは異なり、吉益東洞にとって中国古典は自説を権威付ける「道具」に過ぎなかった。彼は一見中国古典に依拠しているように見せかけつつ、その実それらの古典に何ら敬意など払っていなかったのだ。確かに彼も周礼のなかの疾医、瘍医などのキーワードをちりばめたが、その周礼に見える「以五薬療之、以五味節之」などは「攙入」、つまり誤って紛れ込んだのだと否定する。現代の考古学、古文書学のように文献考証をして否定したわけでは無い。自分に気に入らないところは全部「攙入」と決めつけた。これは彼が「万病一毒説」の根拠として引用した「呂氏春秋」に於いても同じで、かれは呂氏春秋の原文を自分の都合が良いようにあちこち改ざんしている。さらには彼は「扁鵲や張仲景も万病一毒説を唱えていた」とまで言いだし、さすがに弟子に「然るに史記傷寒論に見へざるは如何」と問い詰められた。すると彼は悪びれもせず「それは王叔和が自説を加えたからだ」と答えたという。吉益東洞は傷寒論を異様に重んじたと言われるが、その実古典に対する態度はこのようであり、古代文献を学問的に検証するという姿勢は微塵もなかった。また日本独特の診察法である腹診についても、彼は史記の「扁鵲倉公列伝」に「病応見於大表」とあるのが腹診のことだと主張したが、史記には扁鵲が腹診をしたという記述は存在しない。むしろ司馬遷は扁鵲を脈診の名手として高く評価しているが、東洞はそれをあっさり無視した。また吉益東洞は傷寒論に基づくことを強調はしたが、彼自身が傷寒論に基づいて書いたと宣伝した「類聚方」は傷寒論を勝手な彼独自の解釈で利用したに過ぎず、傷寒論そのものを祖述したものではない。 吉益東洞のこのような中国古典医書への態度は、後藤艮山、香川修庵、山脇東洋らとはまったく異なっている。これら三人は誤解を含みながらもともかく中国古代の思想を重視したのに対し、東洞は極めて恣意的に利用しただけである。これははたして「古方」なのだろうか?現実を見れば、吉益東洞は古(いにしえ)などまったく尊重していなかったと言わざるを得ない。中国古典をちりばめつつ、都合が悪いところは全て改ざんし、自分が正しいと思う医学を作り上げた。それは歴史の改ざんと言えばそうであろうし、一方で「古に従う」と言いつつ彼の生きた時代に沿った新しい医学を打ち立てたという解釈も出来るだろう。伏羲や神農、論語、孟子、周礼や呂氏春秋などは、彼にとっては権威付けに利用する材料だったに過ぎず、彼が本当に重きを置いたのはその時代に即した新しい臨床医学であったのだ。吉益東洞は確かに傷寒論を賞賛したが、傷寒論を考証学的に扱ったのでは無い。彼の処方集「類聚方」には「求方於長沙」とあり、張仲景に基づいたことになっているが、そこには明らかに東洞本人の解釈、選別が入っている。だがともあれこの本は当時大ブームとなった。1万冊が刷られ、江戸に5千部、京、大坂に五千部が配布されたが、このうち京・大坂の五千部は一ヶ月で売り切れたという。2023年現在の日本に置いてすら、医学書が1万部、あるいは5千部を完売する例はめったないないことを考えると、まさに熱狂的大ブームだったことが分かる。 一方で彼は実臨床に於いては必ずしも傷寒論処方や自らが編んだ類聚方に拘らず、様々な処方を用いた。例えば「医事或問」には弟子とのこんな問答が記されている。 弟子曰く「古方とは仲景方のことでしょう。先生は控涎丹、七宝丸などを用いるが、古方とは言いがたいのでは無いですか?」 これに対する東洞の答えは、彼の医学に対する根本的な姿勢をよく表している。 「古方というのは世間がそう唱えているのだ。処方選択は病を治療出来るかどうかであって、昔も今も無い。しかし後世の処方には有効なものが少なく、昔のものには多いので、昔の処方を多く用いる。それで世間が古方というのだ。処方に古今の差別は無い」。 要するに、吉益東洞は徹底した臨床家であった。彼は後藤艮山らのように中国の古(いにしえ)に何かの価値を求めたわけでは無かった。彼の基準は「実臨床に有効かどうか」だけであって、そのためには傷寒論に無い、彼独自の処方も多く開発した。「親試実験」という言葉は彼が初めて提唱したものではないが、本当の意味で親試実験に徹したのが吉益東洞だった。東洞医学のこの本質を鑑みると、彼を「古方派」と称するにはためらいがある。彼は実臨床に於いて古方を選択することもあれば、後世の処方を選択することもあれば、自分で創った処方を使うこともあった。「有効なものを使う」というのが彼の一貫した姿勢であり、ただ「古に従う」事を提唱したわけでは無いのだ。 ともあれ、東洞流医学は一気に全国に広まった。それにともなって、彼を熱狂的に支持する人もいれば、あまりに自説に偏りすぎていて医学としては均衡を欠くと批判した人もいた。村井琴山のように古今の中国における傷寒論研究を全て否定し、「我東洞翁に至って初めて仲景の室に入る」とまで極論絶賛した人もいたが、一方で畑黄山のように黄帝内経の重要性も認め、多くの古今歴代の医学書を読むべきだと主張した人もいた。彼は医学院を開き医学を教授したが、その医学院に於いて学習すべきとされた医学書は黄帝内経、傷寒論は言うに及ばず、唐、宋、金元医学、明清医学、朝鮮医学にまで渡っている。さらに杉田玄白は「東洞は一種の豪傑だが、傷寒論のみに拘るばかりか、それも錯簡の書であって取るところは多くないと言い、己が心に徹せし方論ばかりを取り・・・」と東洞の古典に対する恣意的な態度を的確に批判した。詰まるところ吉益東洞は古方の雄とされながら、その本質はむしろ親試実験にあり、実際に有効かどうかが彼の判断基準だったのであって、必ずしも古を重んじた人ではなかったと言えよう。 === 江戸期における明清医学の導入 === 以上見てきたように、古方派は確かに江戸期に於いて独自の動きを見せた。しかし一方江戸期を通じて、明清医学も絶えず流入していた。中国医師の来日は、主に明清交代の時、動乱を避けて日本に渡ってきた人々と、徳川吉宗が積極的に招聘した人々が多い。その数はかなり膨大なのでここにいちいち挙げることが出来ない。ともあれ幕府は彼らを通じて常に中国医学の動向に意を払い、多くの中国医書がもたらされた。そのうちの一人を例としてあげれば、胡兆新は蘇州で高名な医師であったが幕府の求めに応じて1803年から1805年まで日本に滞在し、[[多紀元簡]]などと通訳を通じて[https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper02/ishikaku.htm 質疑を行った]。このときの幕府医官の質問は清朝の医学教育、試験科目、診療法、麻疹流行の頻度、煎じ薬の加水量などに及び、中国医学の現状に幕府が強い関心を寄せていたことが分かる。もっともこのとき[[多紀元簡]]は胡兆新に何故中国では腹診をしないのかと問い、胡兆新が中国では昔から腹診はやらないと答えたのに対し、それは古今の医書の記載と違うとやり込めている。中国に学ぼうとしながらも、中国医師の言を丸呑みにしないくらい、多紀元簡のような人は古今の中国医学書について造指が深かったことも伺える。 以上で江戸期日本の医学状況についての記載を終える。この他北山友松子のように中国からの亡命者と長崎の遊女の間に生まれた混血児でありながら傷寒論を重視した人など、まだ論ずべき人物は多いが、これまで概説しただけでも、江戸期に於いて日本の医学が中国とは独自の発展を遂げたと一言で括ることは出来ないことが分かるだろう。多紀元胤のような考証学者はもちろん、古方を目指した人々もなんらかの形で中国思想や明代医学からの影響を受けた。ただ一人吉益東洞のみが事実上中国思想を軽んじ、ひたすら臨床的効果に拘ったことがあまりにも鮮烈な印象を与えるため、まるで江戸期に日本の医学がすっかり中国とは独自の発展を遂げたような印象を与えるのかもしれないが、実際には日中間には頻繁な医学交流が継続していたのである。 == 中国医学・韓医学との違い == 漢方医学は、[[気]]・[[血]]・[[水]]・虚実などの理論や、[[葛根湯]]などの方剤(複数の生薬の組み合わせ)を中国医学と共有し、テキストとして中国の古典医学書が用いられる。しかし両者には多くの違いがあり、特徴としては具体的・実用主義的な点が挙げられる。 現在の日本の漢方医学の主流は「[[古方派]]」である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pharm.or.jp/dictionary/wiki.cgi?古方派 |title=古方派 薬学用語解説 |publisher=公益社団法人日本薬学会 |accessdate=2014-08-04}}</ref>。この古方派は中国医学の根本的な理論である「[[陰陽五行説|陰陽五行論]]」を承認せず、むしろそれを意図的に排除している。古方派の主な4人については上の「歴史」で詳しく宣べた。中医学も日本漢方も診断に類する用語として「証」を論じるが、日本漢方の後世派や折衷派では証は中国伝統医学と概ね同じ意味で用いられる。しかし古方派では『[[傷寒論]]』の条文にある症状と処方が一対一に対応すると主張する。使われる生薬の種類は中国より少なく、一日分の薬用量は中国に比べて約3分の1である<ref name="松本3">{{Cite web|和書|url=http://www.yukon.co.jp/kiso/kiso-003.html |title=松本克彦編著『今日の医療用漢方製剤-理論と解説 |publisher=メディカルユーコン |year=1997 |accessdate=2014-08-13 |deadlinkdate=2021年12月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130209202848/http://www.yukon.co.jp/kiso/kiso-003.html |archivedate=2013-02-09}}</ref><ref name="大塚岩波" />。また、[[脈診]]、舌診を重視し[[腹診]]がすたれた中医学とは対照的に、日本の漢方医学は脈診、舌診、腹診を行う<ref name="大塚岩波" />。 これに対して、[[韓医学]](朝鮮半島)で使われる生薬量は中程度である。 漢方医学の処方は、『{{ruby|[[傷寒論|傷寒雑病論]]|しょうかんざつびょうろん}}』(現在では『[[傷寒論]]』及び『[[金匱要略]]』と呼ばれる2つのテキストとして残る)を基本とした古い時代のものに、日本独自のマイナーチェンジを加えたものであると一般には言われるが、実際は上に宣べた古方4大家もそれぞれ独自の処方を用いている。また現代の日本漢方では李東垣の補中益気湯や和剤局方の処方の数々、明代の万病回春の処方、宣明論にある防風通聖散など様々な処方が取り入れられている。一方「温病」(うんびょう)など、清代に中国で確立した理論はほとんど現代の漢方医学には受け継がれていない<ref name="小髙">{{Cite book|和書 |author=小髙修司 |title=中国三千年の知恵 中国医学のひみつ なぜ効き、治るのか |series=講談社ブルーバックス |publisher=講談社 |year=1991 |page={{要ページ番号|date=2020-02-08}}}}</ref>。 == 近代から現代(21世紀)の日本における伝統医学の現状 == 明治政府により日本の医療に西洋近代医学が採用され、漢方医学は著しく衰退した。日本の医学教育では、漢方医学を始めとする伝統医学の教育は100年以上ほとんど行われなかったが、2001年に、医学部の教育内容ガイドラインの到達目標に「和漢薬を概説できる」が加えられたことで、全国の大学で漢方医学の講義が徐々に行われるようになってきている<ref>{{Cite journal|和書|author1=今津嘉宏|year=2012|title=80大学医学部における漢方教育の現状|journal=日本東洋医学雑誌|volume=63|issue=2|pages=121-130|publisher=日本東洋医学会|doi=10.3937/kampomed.63.121|author2=金成俊|author3=小田口浩}}</ref>。しかし日本には、中国や韓国のような伝統医の国家資格は存在せず、1883年(明治16年)以降、[[医師国家試験]]の課目にも漢方医学は含まれなかった。そのため漢方医学の体系的な知識を持つ医師は少なく、漢方薬が西洋医学的発想で使われるなどの問題も散見される<ref name="大塚岩波" />。 現代日本における伝統医学の現状についてまず最初に指摘しなければならないのは、現代日本に於いては複数の「伝統医学」系統の医学が実践されているという事である。日本では明治政府が医制を定めた時伝統医学を事実上捨て去ったため、伝統医学には空白期が生まれた。その中で色々な人が過去の文献を渉猟し、それぞれの学びに応じて独自の伝統医学を提唱した。特に明治43年(1910)「[https://www.amazon.co.jp/dp/4861291216?ref_=cm_sw_r_cp_ud_dp_ZT254JEKKRXAMP32JYPM 医界之鉄椎]」を著した和田啓十郎など古方派に学んだ人が最初に伝統医学復権の狼煙を上げたため、かつては日本漢方と言えば古方と看做される向きもあった。しかし現在では、古方派のみならず、考証学派を引き継ぐ流れ、[https://amzn.asia/d/hlTWjg3 経方医学]など傷寒論、金匱要略に基づくとはいいながらまったく新しい理論を構築する流れ、また伝統医学を現代の臨床医学的手法、特に[[根拠に基づく医療|Evidence Based Medicine]](EBM)の手法に載せて検証・理解しようとする流れなどが存在する。さらに中国伝統医学を中華人民共和国政府が系統化した[[中国医学|中医学]]も日本に紹介され、実践されている。すなわち現代日本に於いて実践されている諸々の伝統医学と漢方医学は同じ概念ではくくれない。 21世紀に入り中医学におけるエビデンス構築がめざましく発展し(2023年8月14日現在[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov PubMed]でTraditional Chinese Medicineと検索すると134232本の英論文が検索される)、これに対して日本漢方はkampoと言うキーワードで同日に検索すると2277本と、エビデンス構築に於いて中医学に大きく遅れを取っている。のみならず同日にtraditional Korean Medicineとして検索すると3246本の英論文が検索され、日本漢方はエビデンス構築に於いて韓医学の後塵をも拝している。こうした状況に最初に警鐘を鳴らしたのは岩﨑鋼(1964~)であった。彼は自身でも[https://www.psychiatrist.com/jcp/bipolar/complementary/randomized-observer-blind-controlled-trial-traditional/ 抑肝散の認知症BPSD改善効果]、[https://agsjournals.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1532-5415.2007.01448.x 半夏厚朴湯の誤嚥性肺炎予防効果]、[https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/psyg.12962 加味帰脾湯のBPSD改善効果]など漢方のランダム化比較臨床試験を行い、また[https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/ggi.12803 高齢者医療領域における漢方医学のでエビデンスのついてシステマティック・レビューを行い]、さらには[https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0965229911001658?via%3Dihub 統計的な検証を経た気滞スコアの提出]など、48本の英論文を発表して日本漢方のエビデンス構築に努めたが、彼の主張は日本東洋医学会のような国内主流派からは不興を買った。しかし彼の鳴らした警鐘は次第に漢方界に広まり、彼が2016年に著した「[https://amzn.asia/d/6s1gAmP 高齢者のための漢方診療]」に於いて当時PubMedでkampoのキーワードによって検索される英論文が1182件であったと報告しているのに比べると、現時点(2023年8月)で2277本に増えたことは、彼の主張を首肯した人々が一定数いたことを物語っている。今後は既存の処方の効果の検証に留まらず、漢方医学理論の明確化、統計的な検証を経た弁証法の確立、さらには新型コロナなど次々出現する新しい疾患に対する新しい治療法、新しい処方の創出など、日本漢方が取り組むべき課題は極めて多い。 === 理論 === ==== 気血水理論 ==== 気血水説は[[古医方]]を唱えた[[吉益東洞]]が否定したものを長男の[[吉益南涯]]が再構築した理論であると言われるが、吉益南涯の提唱した気血水理論は現在の漢方医学のそれとはかなり異なり、難渋あるいは未完成である。それは後世には引き継がれなかった。現代の日本漢方が採用している気血水が何処に端を発するのか、現段階では不明である。 気血水理論では、 ;[[気]](き) :人間の体の中を巡っている仮想的な「生命エネルギー」のようなもの{{Sfn|日本医師会|1992|p=7}}。 ;[[血]](けつ) :体内を巡り組織に栄養を与える。[[血液]]がそれに近い{{Sfn|日本医師会|1992|p=7}}。 ;[[水]](すい) :血液以外の体液がそれに相当する{{Sfn|日本医師会|1992|p=7}}。 の3つの流れをバランスよく滞りない状態にするのが治療目標になる。これは[https://amzn.asia/d/1jkaUMC 現代中医学]の気血津液弁証とそれほど大きく変わらない。 ==== 陰陽五行理論 ==== {{See also|陰陽|五行}} 陰陽五行論は中国医学の理論化に用いられた。ただし、現在の漢方は、陰陽五行論を観念的として除した[[古方派]]<ref name="大塚">{{Cite web|和書|url=http://aeam.umin.ac.jp/siryouko/outukayasuo.html |title=日本における中国伝統医学の流れ<明治以前> |author=大塚恭男 |publisher=東亜医学協会 |accessdate=2014-08-04}}</ref>が主流であり、診断・処方にはあまり用いられない<ref name="小髙" />。しかし一方日本漢方の主要な流派として知られる「[[和漢診療学]]」の提唱者[[寺澤捷年]]が中心になって編纂した和漢診療学の基本的な解説書「症例から学ぶ和漢診療学 第3版<ref>{{Cite book|和書 |title=症例から学ぶ和漢診療学第3版 |date=2011年12月9日 |year=2011年 |publisher=医学書院}}</ref>」には「和漢診療学における生体の理解」として五臓の概念はもとより、五臓の相関関係と気血水の消長、五臓の代謝作用と気血水の相関が一つ一つ項目を立てて解説されており、五行論を全面的に取り入れてはいないとは言え、その主要な医学的部分である五臓概念は現在の日本漢方でもかなり認識されている。 ==== 表裏と虚実 ==== 日本漢方では実は体力の充実している状態、虚は体力の衰えている状態とする。中医学で実とは邪が実していると考えるのとは異なる。 ;表実証 :悪寒、頭痛、発熱があっても発汗しない ;表虚証 :悪寒、頭痛、肩こりがあり、脈が浮弱で、発汗しやすい ;裏実証 :腹部が充満し、便秘・口渇があり、脈が沈で力がある ;裏虚証 :腹部が力なく、食なく、下痢・嘔吐しやすく、脈が沈で弱い ;気滞証(きたいしょう) :「気」の鬱滞が病気を起こすという発想は古くからみられ、[[後藤艮山]]によって大いに唱えられた。血も水も気によって動かされるので、気の鬱滞は血、水の鬱滞をもたらす。 ;[[瘀血]]証(おけつしょう){{Sfn|日本医師会|1992|pp=7-8}} :俗に「ふる血」と呼ばれる状態で「血」と呼ばれるものが停滞した状態である。 ;痰飲証(たんいんしょう) :痰は水、すなわち喀痰を含んだ体液全般を指す。狭義には胃内の停水をいう。 なお現代の日本漢方ではこの他に「気虚」、「血虛」などの概念も用いられる。しかし中医学の「陰虚」すなわち津液(水)が虚しているという概念は無い。しかし実臨床に於いては脱水や乾燥性湿疹など水が虚した状態は実際にしばしば存在するので、これを今後どう定義するかは今後の日本漢方の問題であろう。 === 診断法 === 症状を含めたその患者の状態を'''[[証 (東洋医学)|証]]'''(しょう)と呼び、証によって治療法を選択する{{Sfn|乾|2021|pp=241-242}}。証を得るためには、[[#四診|四診]]を行うだけではなく、患者を医師の[[五感]]でよく観察することがまず必要である。 西洋医学では、患者の徴候から[[疾患]]を特定することを「診断」と呼び、これに基づいて疾患に応じた治療を行う{{Sfn|乾|2021|p=241}}。しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となる{{Sfn|乾|2021|p=241}}。特に古方流派では[[葛根湯]]が最適な症例は'''葛根湯証'''であるという。しかし上述のように日本漢方にも現代では気血水、虚実、さらに五臓の概念まで取り入れられており、証がそのまま使用する処方に直結というのは必ずしも一般的では無くなってきている。 ==== 四診 ==== 治療法を決定するためには'''四診'''(望、聞、問、切)を行う{{Sfn|乾|2021|p=244}}。四診は[[証]]を明らかにし[[漢方薬]]処方を決定する目的で行われる<ref name="pharm">{{Cite web|和書|url=https://www.pharm.or.jp/dictionary/wiki.cgi?%E5%9B%9B%E8%A8%BA|title=薬学用語解説 公益社団法人日本薬学会|accessdate=2020-11-30}}</ref>。 ;望診(ぼうしん) :医師の肉眼による観察{{Sfn|乾|2021|p=245}}。[[体型|体格]]、[[顔色]]、[[皮膚]]の艶、[[舌]]の状態等。特に舌の観察をもとにした診断を'''[[舌診]]'''(ぜっしん)と呼び重要視される<ref name="pharm"/>。 ;聞診(ぶんしん) :医師の[[聴覚]]、[[嗅覚]]による観察{{Sfn|乾|2021|p=245}}。患者の声、[[咳]]の音、[[口臭]]、[[体臭]]、[[排泄物]]の臭いなどから診断する<ref name="pharm"/>。 ;問診(もんしん) :漢方独自の概念はあるものの、基本的には西洋医学と同様に[[家族歴]]、[[既往歴]]、[[病歴|現病歴]]、[[愁訴]]を問う<ref name="pharm"/>。西洋医学よりも詳しく、一見無関係な質問も行い、全身状態の把握に努める。 ;切診(せっしん) :医師の手を直接患者に触れて診察する方法{{Sfn|乾|2021|p=245}}。[[脈]]の状態から診断する'''[[脈診]]'''(みゃくしん)と腹の状態から診断する'''[[腹診]]'''(ふくしん)が特に重要である{{Sfn|乾|2021|p=245}}。脈診では、[[脈拍]]・[[不整脈]]のみならず、脈の速さ・強さ・深さ・緊張度などから病態を把握し、腹診では胸脇苦満、心下痞硬、胃内停水など腹部の特別な所見の有無を診る。腹診は、日本で独自に発達した診察法である<ref name="pharm"/>{{Sfn|乾|2021|p=245}}。 === 治療法 === ==== 排毒 ==== 吉益東洞のような万病一毒説に従えば、体からの毒素を排出(いわば「瀉」)することが医者が行う治療であるという事になる。それには *'''吐方'''(とほう) - 吐かせる *'''汗方'''(かんぽう) - 汗をかかせる *'''下方'''(げほう) - 下痢をさせる などの施術があげられる。 しかし一方、後世派や考証学派では人参や黄耆などを用いた補法も重要視される。また現代の医療用漢方エキス製剤には小柴胡湯のような和解剤、黄連解毒湯のような清熱剤、加味逍遙散や抑肝散のような柔肝剤、滋陰降火湯のような補陰清熱剤も含まれており、実際の治療法は上記に宣べたような伝統的日本漢方理論に留まらず、多種多様な治療法が用いられている。 ==== 具体的な治療・養生法 ==== *[[漢方薬]]・[[薬膳]] *[[鍼]]・[[灸]] *導引([[整体]]、[[あん摩]]など) <ref>{{Cite web|和書|title=Cute.Guides: 触れてみよう!漢方医学と漢方薬: 治療法 |url=https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/c.php?g=775102&p=5560218 |website=guides.lib.kyushu-u.ac.jp |access-date=2022-10-07 |language=ja |first=松原 |last=由造}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=漢方医学とは? |url=https://www.qlife-kampo.jp/study/about-kampo/story10402.html |website=QLife漢方 |access-date=2022-10-08 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=漢方について|漢方・漢方薬の薬日本堂 |url=https://www.nihondo.co.jp/philosophy/kampo/ |access-date=2022-10-08 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=近世日本の養生論における導引術 -その技法の整理-|year=2016|publisher=和歌山大学|url=http://yousei.org/Yousei10-1-1.pdf}}</ref> === 補足・世界における東アジア伝統医学 === 以上が漢方医学を中心とする日本の伝統医学に関する説明であるが、関連事項として中国伝統医学を源とする東アジアの伝統医学について概説する。中国伝統医学系統のアジア伝統学は、中国([[中医学]])、日本(漢方)以外にも、朝鮮半島(古くは東医、現在の[[大韓民国|韓国]]では[[韓医学]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では高麗医学と呼ばれる<ref>[http://www.kplibrary.com/nkterm/read.aspx?num=119 고려의학 북한용어사전] 코리아콘텐츠랩 & 중앙일보 통일문화연구소 {{Accessdate|2014-08-09}} {{リンク切れ|date=2022-02-08}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://jp.korea-np.co.jp/article.php?action=detail&pid=2117 |title=高麗医学科学院で経絡討論会 |newspaper=朝鮮新報 |accessdate=2014-08-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150602014748/http://jp.korea-np.co.jp/article.php?action=detail&pid=2117 |archivedate=2015-06-02}}</ref>)、[[ベトナム]]([https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper02/62ICES2017.pdf 越南伝統医学])などアジアの広い範囲で行われている<ref>{{Cite journal|和書|url=http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/paper01/MedJpKrVn.html |author=真柳誠 |title=日韓越の医学と中国医書 |journal=日本医史学雑誌 |volume=56 |issue=2 |accessdate=2014-08-09 |deadlinkdate=2022-02-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140810114658/http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/paper01/MedJpKrVn.html |archivedate=2014-08-10}}</ref>。東南アジアの伝統医学も、その多くが[[アーユルヴェーダ]]と共に中国医学の影響を受けている。 中国医学系の伝統医学は、代替医療・統合医療の分野で世界的に活用され、グローバル化が進んでおり、標準化が課題となっている。カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアなどでも中国医学系の伝統医学(Traditional Chinese medicine (TCM))は注目され、広く実施されている。オーストラリアは西洋文化圏で最も中医学が発展しており、2012年には全国で中医の登録制度が実施された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chuui.co.jp/cnews/002190.php |title=オーストラリア中医見聞録 |publisher=東洋学術出版社 |accessdate=2014-08-09}}</ref>。アメリカでは50州の内44州で鍼灸が合法化され、カナダやイギリスでも中医診療所は増加傾向にある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chuui.co.jp/cnews/000457.php |title=世界で広まりつつある中医学の輪 |publisher=東洋学術出版社 |accessdate=2014-08-09}}</ref>。アメリカ政府は独自の方針を採っている。アメリカではNIHの中にNational Center for Complementary Integrative Health([https://www.nccih.nih.gov NCCIH])を置いているが、名称からも分かる通り特に伝統医学を特別視していない。[https://www.nccih.nih.gov/health/complementary-alternative-or-integrative-health-whats-in-a-name この研究所のHPにある記載]を引用すれば、Complementary medicine あるいはalternative medicineと言うのは"health care approaches that are not typically part of conventional medical care or that may have origins outside of usual Western practice"であり、通常の西洋医学と併用される場合はComplementary medicine, 通常の西洋医学の代わりとして用いられる場合はalternative medicineだと述べており、そもそも伝統医学、traditional medicineと言う用語自体使われていない。彼らの言うComplementary medicineやalternative medicineは確かに中医学的内容を含む場合もあるが、この研究所のスタンスとしては「通常の西洋医学的治療以外の治療」を対象としているのであって、特にtraditional medicineを特別視しているわけでは無いのだ。 日中韓の伝統医学は、共有する部分も大きいが理論・用語・処方に様々な違いがあり、政治的な影響もあり足並みはそろっていない。日本は政府・医学会共に、中医学が主導する国際化・標準化の流れに関心が薄く、中国、韓国、香港、台湾などと異なり伝統医学を扱う政府のセクションは存在しない。国際的にも漢方への理解は低く、外交面で大きく立ち遅れているのが現状である<ref name="渡辺">{{Cite journal|和書|author=渡辺賢治|year=2005|title=漢方国際化の問題点|url=https://search.jamas.or.jp/link/ui/2005106419|journal=日東医誌|volume=56|pages=90-95|publisher=日本東洋医学会|naid=110004013000}} {{要購読}}</ref>。一方2019年にこれら東アジアの伝統医学(中医学、韓医学、漢方医学など)の診断(弁証)概念が初めて盛り込まれた[[疾病及び関連保健問題の国際統計分類]](ICD)を[[世界保健機関]](WHO)が承認し、2023年現在既に[https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000211217.html ICD11]として実際に普及しているなど、アメリカにおける特殊な認識は別として世界的にこれら東アジア伝統医学の認知度が高まっているのは事実である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=日本医師会|authorlink=日本医師会 |title=漢方治療のABC |year=1992 |publisher=[[医学書院]] |isbn=4260175076 |series=生涯教育シリーズ, 28 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|title=セルフメディケーション/一般用医薬品・漢方薬・保健機能食品 |series=臨床薬学テキストシリーズ |last=乾 |first=賢一 |editors=望月眞弓, 渡辺謹三, 渡辺賢治 |chapter=漢方薬 |year=2021 |publisher=[[中山書店]] |isbn=9784521744568 |ref=harv}} == 関連項目 == {{columns-list|10em| *[[漢方薬]] **[[一般用漢方製剤承認基準]] *[[漢方医]] *[[中国医学]] *[[和方医学]] *[[韓医学]] *[[蘭方医学]] *[[鍼灸]] *[[鍼]] *[[灸]] *[[按摩]] *[[整体]] *[[陰陽]] *[[気]] *[[気功]] *[[水毒]] *[[代替医療]] *[[扁鵲]] *[[陶弘景]] *[[古方派]] *[[丹波康頼]] *[[永田徳本]] *[[曲直瀬道三]] *[[吉益東洞]] *[[アーユルヴェーダ]] *[[チベット医学]] }} == 外部リンク == * [http://aeam.umin.ac.jp/siryouko/yamadakouin.html 「日本漢方」のお話 著者:山ノ内慎一、監修者:山田光胤] 東亜医学協会 * [http://www.jsom.or.jp/universally/index.html 漢方専門医認定機関 日本東洋医学会] 一般の方向けのページ * [https://www.jkea.org/ 一般社団法人日本漢方普及協会] 一般の方向けのページ * [https://web.archive.org/web/20220330013309/https://naoru.com/ ドクトルアウンの気になる健康情報] 一般の方向けのページ * 小曽戸洋、「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10557623 漢方の歴史]」『日本医史学会神奈川地方会だより』 2001年 10号 p.12-15 ,日本医史学会神奈川地方会 * 大塚恭男、「[https://doi.org/10.3937/kampomed.47.5 東洋医学の歴史と現代]」 『日本東洋医学雑誌』 1996-1997年 47巻 1号 p.5-11, {{doi|10.3937/kampomed.47.5}}, 日本東洋医学会 * 浅岡俊之、「[https://doi.org/10.3937/kampomed.58.407 漢方医学の歴史 : 臨床家が漢方医学の歴史をふまえることとは]」 『日本東洋医学雑誌』 2007年 58巻 3号 p.407-412, {{doi|10.3937/kampomed.58.407}}, 日本東洋医学会 * 山田光胤、「[https://doi.org/10.3937/kampomed.50.201 東アジア伝統医学に於ける日本漢方]」 『日本東洋医学雑誌』 1999-2000年 50巻 2号 p.201-213, {{doi|10.3937/kampomed.50.201}}, 日本東洋医学会 {{Normdaten}} {{Medical-stub}} {{DEFAULTSORT:かんほういかく}} [[Category:薬学]] [[Category:漢方薬]] [[Category:伝統医学]] [[Category:東洋医学]] [[Category:日本の医療]] [[Category:健康]] [[Category:代替医療]]
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方言
方言 (ほうげん、英: accent, dialect)は、ある言語が地域によって別々な発達をし、音韻・文法・語彙などの上で相違のあるいくつかの言語圏に分かれた、と見なされたときの、それぞれの地域の言語体系のこと。ある地域での(他の地域とは異なった面をもつ)言語体系のこと。地域方言とも言い、普通、「方言」は地域方言を指す。一方、同一地域内にあっても、社会階層や民族の違いなどによって言語体系が異なる場合は社会方言と言う。 言語は変化しやすいものなので、地域ごと、話者の集団ごとに必然的に多様化していく傾向があり、発音や語彙、文法に相違が生じる。したがって、差異の程度が別の言語までには広がっておらず同じ言語の変種と認められるものの、部分的に他の地域の言葉と異なった特徴を持つようになったものを方言と呼ぶ。 なお、方言同士が時を経てそれぞれ異なる方向に変化し、やがては意思の疎通ができなくなる。しかし、このような過程のある段階で各々の方言は別言語だとみなされるようになる。同じ語族に属する言語とは、理論上、そもそも同じ言語(祖語)の方言がさらに変化して別言語に枝分かれしたものである。 ある方言の語彙のうちで、その方言に特有の単語は俚言(りげん)と呼ぶ。俗に「方言」ということばは俚言に限定した意味で使われることもあるが、言語学でいう「方言」は他方言と共通する語彙も含んだ概念である。 言語学的には、言語と方言は、相互理解可能性によって区別される。話者Aと話者Bがそれぞれの場合で、単一の母語を持ち、この母語だけで話すとしたとき、Aがその母語を使ってBに話し、BがAの話した内容を理解できないとき、二人の話す母語はそれぞれに独立した言語である。理解できる場合はAとBは同じ言語の方言となる。 ただし実際には、「同語族・同語派・同語群の別の言語」と「同一言語の中の方言」の違いは曖昧である。中には、隣接する地域同士ではそれぞれ意思疎通が可能でも、数地域隔たると全く意思疎通ができなくなる場合もある。国境の有無や、友好国同士か敵対国同士かというような政治的・歴史的な条件、正書法の有無・差異などを根拠に両者の区別が議論されることもある。そのため、「世界にいくつの言語が存在するか」という質問への明確な答も存在しない。 ユネスコでは「言語」と「方言」を区別せず、全て「言語」として統一している。 「言語」と「方言」の境界が曖昧な事例は、世界中で見られる。 近代に至ってフランス型の標準語政策は国民形成、国民統合と国民国家建設に欠かせない要件として世界中の国々に受け入れられていく(後述する日本の標準語化政策も例外ではない)。 絶対王政期のフランスでは、国家によってオイル語系の北フランスの方言を基にした標準語が定められ、それまで南部オクシタニアで話されるオック語系のプロヴァンス語などや、ロマンス語(イタリック語派)には属さない島嶼ケルト語系統のブルターニュ語、ドイツ語の方言に属すアレマン語系統のアルザス語など、標準フランス語とは系統の異なる地方言語を標準フランス語に対する方言と定義付けて、方言より標準語を優越させる政策が始められた。 例えば、学校教育において、方言を話した生徒に方言札を付けさせて見せしめにするということが行なわれた。この制度は日本にも取り入れられた。現在でも、フランスでは標準フランス語を優越させる政策が続いている。 2020年11月、話す時の訛りに基づく差別は「人種差別の一種」だとして、これを禁止する法案が可決した。人種差別、性差別、障害者差別に加えて、訛りに基づく差別も犯罪となり、最高刑では禁錮3年および罰金4万5000ユーロが科される。フランス語圏話者はフランス本土の北部と南部の違いがある他、離島などの海外領土やアフリカ大陸からの出身者も多くいることで、異なる発音をした場合に差別を受けることが大きな問題になっている。 長い間、統一政府が作られずに分裂状態であり、さらに多くの都市が外国に支配されていたイタリアでは、様々な方言が存在する。 方言が様々で争いさえ起きたイタリアでは、ラジオ・テレビ放送が始まった当初多くの人々が驚いたと言われている。それは、「放送局RAIが、標準語を定義した」というイタリアで初めての試みであったからである。「テレビ放送が始まってから、初めて標準語を知った」農村地方の老人も多かったと言われている。 日本においては、既に820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見え、これが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。当時、既に方言という概念が存在していたことを物語っている。 沖縄県や鹿児島県奄美群島の言語は、地理的、歴史的要因から本土の日本語とは差異が著しく、「琉球方言」として日本語の一方言とする考えと、「琉球語」として日本語(「標準語」を含む本土諸方言の総称としての)と同系統(日琉語族)の別言語とする考え、さらには「琉球諸語」とみなし奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語を個別言語とする考えがある。 明治時代以降、一個の政府のもとに統一された日本では、中央集権国家を目指したため、学校教育や軍の中で標準語の普及を押し進めた。1888年に設立された国語伝習所の趣旨には次のように論じられている。「国語は、国体を鞏固にするものなり、何となれば、国語は、邦語と共に存亡し、邦語と共に盛蓑するものなればなり」特に軍では、異なる地方の者同士では、方言の差異のために命令の取り違えすら発生しかねない有様であり、死活問題でもあった。このことから、方言および日本で話されていた他の言語を廃する政策がとられた。方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられることになった。ただし、方言追放を徹底できたとは言い難く、軍・政府の重鎮でありながら終生南部弁が抜けなかった米内光政のような例もある。 現在ではテレビ・ラジオにおける標準語使用の影響などにより標準語が日本全国に浸透し、各地の方言は衰退や変容を余儀なくされた。各地のアクセントは多くの地域で保持されているが、語彙は世代を下るに従って失われやすいとされる。 そのため、文化庁などが消滅の危機にある言語・方言の保存・継承のための様々な取組を行っている。 生物の名は、各地で古くから使われた地方ごとの名があることが多く、方言名と呼ばれることがある。日本の場合、生物学では学名とともにそれに対応する標準和名をつけることが多く、これと方言名との間で標準語と方言のような対立を生む場合がある。 方言名が生まれるためにはその生物がその地域の人間に特定的に認識され、親しまれる必要がある。そのため、たとえばごく小さな昆虫には害虫でない限りそれがないことが多い。他方、よく親しまれていても、それが他地域との間で流通する場合には、統一されることが多い。アユはその例である。従って、親しまれていて、なおかつ流通しないものに方言名が多く、メダカはその例で日本中で5000もの別名がある。カブトムシやクワガタムシもよく親しまれ、ごく最近までは流通しなかったものであり、多くの地方名があったようだが、昆虫採集少年たちが標準和名を広めたため、消失した。 なお、方言名がそのまま和名として採用される例もある。アカマタやガラスヒバァなどはこの例である。
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方言 は、ある言語が地域によって別々な発達をし、音韻・文法・語彙などの上で相違のあるいくつかの言語圏に分かれた、と見なされたときの、それぞれの地域の言語体系のこと。ある地域での(他の地域とは異なった面をもつ)言語体系のこと。地域方言とも言い、普通、「方言」は地域方言を指す。一方、同一地域内にあっても、社会階層や民族の違いなどによって言語体系が異なる場合は社会方言と言う。
{{Otheruseslist|自然言語における方言全般|[[プログラミング言語]]における方言|方言 (プログラミング言語)|漢代の辞典|方言 (辞典)|[[日本語]]における方言|日本語の方言}} {{pathnav|frame=1|[[大語族]](仮説)|語族|語派|語群|[[個別言語|語]]|方言|hide=1}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2014年1月7日 (火) 01:32 (UTC) }} {{社会言語学}} '''方言''' (ほうげん、{{lang-en-short|accent, dialect}}{{refnest|group="注釈"|"accent"は「訛り・方言」についての一般的な単語で、"dialect"はやや学術的な感じを持つ。社会言語学において主流な解釈は、"accent"は日本語の「訛り」に対比される。訛りとは、方言の一要素であり「ある言語内における'''発音'''の個人や[[社会集団]]差」である。それに対して"dialect"は日本語の「方言」に対比される。方言とは、言語体系の多様性を表し「ある言語内における'''発音や文法、語彙といった言語体系全体'''の個人や社会集団差」とされる。<ref>{{cite web |author=Thomas Moore devin |date=2018-07-25 |url=https://www.babbel.com/en/magazine/accents-and-dialects/ |title=What’s The Difference Between A Language, A Dialect And An Accent? |website=babbel.com |accessdate=2021-01-15|language=en}}</ref><ref>[https://gimon-sukkiri.jp/dialect-accent/ スッキリ解決!「方言」と「訛り」の違い - gimon-sukkiri.jp 2021年1月15日閲覧。]</ref>}})は、ある言語が地域によって別々な発達をし、[[音韻]]・[[文法]]・[[語彙]]などの上で相違のあるいくつかの言語圏に分かれた、と見なされたときの、それぞれの地域の言語体系のこと<ref>大辞泉 【方言】</ref>。ある地域での(他の地域とは異なった面をもつ)言語体系のこと。'''地域方言'''とも言い、普通、「方言」は地域方言を指す。一方、同一地域内にあっても、社会階層や[[民族]]の違いなどによって言語体系が異なる場合は[[社会方言]]と言う<ref group="注釈">[[英語圏]]の言語学者が「dialect」と言う場合、一般的に認識されている「方言」だけでなく、職業・趣味などが一致する者同士の間でのみ通じる表現方法([[専門用語]]・[[業界用語]]・[[隠語|ジャーゴン]])を含むことがある。</ref>。 == 概説 == 言語は変化しやすいものなので、地域ごと、話者の集団ごとに必然的に多様化していく傾向があり、発音や語彙、文法に相違が生じる。したがって、差異の程度が別の言語までには広がっておらず同じ言語の変種と認められるものの、部分的に他の地域の言葉と異なった特徴を持つようになったものを方言と呼ぶ。 なお、方言同士が時を経てそれぞれ異なる方向に変化し、やがては意思の疎通ができなくなる。しかし、このような過程のある段階で各々の方言は別言語だとみなされるようになる。同じ[[語族]]に属する言語とは、理論上、そもそも同じ言語([[祖語]])の方言がさらに変化して別言語に枝分かれしたものである。 ある方言の語彙のうちで、その方言に特有の単語は'''{{Anchors|俚言}}俚言'''(りげん)と呼ぶ<ref name="kokugoken_Hougen">{{Cite web|和書|url=https://www.ninjal.ac.jp/publication/catalogue/shin_kotoba_series/11_19/pages/kotoba16q01/|title=問1 「方言」というのはどのようなことばのことですか。|accessdate=2020-07-23|last=三井|first=はるみ|website=[[国立国語研究所]]|work=新「ことば」シリーズ16「ことばの地域差―方言は今―」|language=ja}}</ref>。俗に「方言」ということばは俚言に限定した意味で使われることもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.weblio.jp/content/%E6%96%B9%E8%A8%80|title=「方言」(出典:三省堂 大辞林 第三版)|accessdate=2020-07-23|website=weblio辞書}}の意味(2)</ref>が、言語学でいう「方言」は他方言と共通する語彙も含んだ概念である。 ==「言語」との違い== [[言語学]]的には、[[個別言語|言語]]と方言は、[[相互理解可能性]]によって区別される。話者Aと話者Bがそれぞれの場合で、単一の[[母語]]を持ち、この母語だけで話すとしたとき、Aがその母語を使ってBに話し、BがAの話した内容を理解できないとき、二人の話す母語はそれぞれに独立した言語である。理解できる場合はAとBは同じ言語の方言となる。 ただし実際には、「同[[語族]]・同[[語派]]・同[[語群]]の別の言語」と「同一言語の中の方言」の違いは曖昧である。中には、隣接する地域同士ではそれぞれ意思疎通が可能でも、数地域隔たると全く意思疎通ができなくなる場合もある。国境の有無や、友好国同士か敵対国同士かというような政治的・歴史的な条件、[[正書法]]の有無・差異などを根拠に両者の区別が議論されることもある。そのため、「世界にいくつの言語が存在するか」という質問への明確な答も存在しない。 <!--「言語」と「方言」に境界線を引くための指標としてしばしば引用される[[警句]]に「言語とは、[[陸軍]]と[[海軍]]を持つ方言のことである」というものがある。これは、自分たちが話す言葉がはたして「方言」であるか、それとも独立した「言語」であるかについての認識には、その言葉を使う共同体が独立国家を持つか否かといった政治的・軍事的要因に左右される面があることを示す。この警句はユダヤ人言語学者の[[マックス・ヴァインライヒ]]の発言としてよく引用されるが、実際の発言者が誰なのかは不明である。 西洋の一般的な感覚ではしばしば「お互いに意思の疎通が可能」であることが方言か別言語かの基準とされるが、東洋では、会話での疎通が不可能な場合は方言という認識が歴史的に存在した。この場合、「方言」とは地方言語の略語に相当する。また西洋では、支配階層はフランス語やラテン語などの口文語を使用し、被支配階層はそれぞれの地域の土着言語を話すという政治的な構造が中世から存在した。近代になってから標準語あるいは国語が制定され、中・上流階級は「標準語」を教育機関から習得する一方で、学校に行かなかった下層階級が「方言」を話すという文化的な背景があったので、方言は「標準語」の亜流の下位言語であるという意味でdialectと表現されるようになった。また民族主義の起こりから、政治的独立を一地域が主張する場合は地域の方言が亜流の非標準語ではなく独立した言語であるという主張が重要な政治的意味を持つようになる。逆に言えばイタリア語やスペイン語やルーマニア語は国家的な独立を勝ち取ったラテン語の方言とみなすこともできる。 (冗長で出典も示されていないためコメントアウト) --> [[ユネスコ]]では「言語」と「方言」を区別せず、全て「言語」として統一している。 == 各国での方言の実例 == 「言語」と「方言」の境界が曖昧な事例は、世界中で見られる。<!-- * 言いかえれば「半方言半独立語」である、これらの関係の代表的なものとしては、[[スペイン語]](カスティーリャ語)→[[カタルーニャ語]]、[[ロシア語]]→[[ウクライナ語]]と[[ベラルーシ語]]、[[ブルガリア語]]→[[マケドニア語]]等がある。 (何を言いたいのか不明なのでとりあえずコメントアウト) --> * 旧[[ユーゴスラビア]]の[[セルビア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]地方などでは、[[セルビア語]]、[[クロアチア語]]、[[ボスニア語]]といった言語が話されてきたが、これらの言語は表記体系・正書法・規範的な語彙に違いがあってもお互いに非常に近く、第二次大戦後の旧ユーゴスラビアにおいては[[セルボクロアチア語]]という1つの言語だとされた。しかし[[ユーゴスラビア紛争]]を経て国家が分裂した現在、それぞれの国家・民族でセルボクロアチア語は[[セルビア語]]・[[クロアチア語]]・[[ボスニア語]]という相異なった3つの言語であると再び主張されるようになり、[[モンテネグロ]]独立後は更に[[モンテネグロ語]]の存在も主張されるようになった。一方でセルボクロアチア語には発音・語彙的に多くの方言が存在するが([[シュト方言]]を参照)、セルビア語・クロアチア語・ボスニア語の分布は発音・語彙的な方言とは一致せずむしろそれらに対して横断的になっており、発話上のセルビア語・クロアチア語・ボスニア語の違いを決定付けるのは最終的には発話者の民族意識となる。なお、Wikipediaには[http://sr.wikipedia.org/ セルビア語版Wikipedia]、[http://hr.wikipedia.org/ クロアチア語版Wikipedia]、[http://bs.wikipedia.org/ ボスニア語版Wikipedia]が存在し、それらとは別に更に[http://sh.wikipedia.org/ セルボクロアチア語版Wikipedia]も存在する。 * [[インドネシア]]の公用語である[[インドネシア語]]は[[マレーシア]]の公用語である[[マレー語]]の方言を基盤に整備されたものである。そのためインドネシア語とマレー語の共通性は元々非常に高く、更に現在では両言語は正書法も同一のものとなっている。しかし、一般的には両言語は別言語として扱われている。 * [[インド]]の公用語である[[ヒンディー語]]と[[パキスタン]]の公用語である[[ウルドゥー語]]は両国が同一の[[ムガル帝国]]のころは同じ言語([[ヒンドゥースターニー語]])であったが、インドとパキスタンの分裂により別の言語とされ、その後はイスラム共和国であるパキスタンが[[ペルシア語]]や[[アラビア語]]の単語や文字を取り入れ、インドがヒンディー語からイスラムの影響を排し[[サンスクリット|サンスクリット語]]を代わりに取り入れるインド化をおこなうなどの差別化を行った。ただし、現在でも両言語の話者の意思疎通は可能である。 * [[中国語]]の下位区分である[[呉語]]・[[閩語]]・[[粤語]]などは中国語では「方言」と呼ばれるが、それぞれが独立した言語(または語群)と呼べるほどの違いを持ち、日本語でいうところの「方言」や英語でいうところの「[[:en:dialect|dialect]]」とは異なる。[[ヴィクター・メア]]は「dialect」のかわりに「方言」を直訳した「[[wikt:en:topolect|topolect]]」という語を使うことを提案している<ref>{{cite journal|author={{en|Mair, Victor H}}|authorlink=ヴィクター・メア|title={{en|What is a Chinese ‘Dialect/Topolect’? Reflection on Some Key Sino-English Linguistic Terms}}|journal={{en|Sino-Platonic Papers}}|year=1991|volume=29|pages=1-31|url=http://sino-platonic.org/complete/spp029_chinese_dialect.pdf|format=pdf}}</ref>。 * [[ドイツ語]]は北部方言([[低地ドイツ語]])と標準語を擁する南部方言([[高地ドイツ語]])とで互いに通じないほど違うが、どちらもドイツ語を構成する方言とされている。一方でドイツ語北部方言は[[オランダ語]]ときわめて近い関係にあるが、オランダ語はドイツ語の方言とみなされない。そのため、ドイツ語北部方言とオランダ語は会話が容易でありながら別言語とされ、ドイツ語北部方言とドイツ語南部方言は会話が困難でありながら同言語とされる奇妙な現象が起こる。 * [[英語]]は[[イギリス]]で用いられるものと[[アメリカ合衆国]]のものとで細部が異なり、前者はBritish English([[イギリス英語]])、後者はAmerican English([[アメリカ英語]])と呼称される。このほか例えばイギリス北部訛とアメリカ南部訛の英語は同じ文章を読むにおいても発音の仕方が著しくことなるので強い訛り型の場合は意思の疎通が困難である。またInglish([[インド英語]])やSinglish([[シングリッシュ|シンガポール英語]])など、かつてイギリスの[[植民地]]だった地域には独自の方言がある。 * [[ベッサラビア]](現モルドバ)でかつて使われた言葉も[[ルーマニア語]]とされ、[[大ルーマニア]]支配下ではルーマニア標準語の広まりによりほとんど差異がなくなっていた。しかし[[ソビエト連邦]]の占領政策により[[モルドバ語]]の存在が主張され、[[キリル文字化]]と並行して別言語とされた。ソ連崩壊後の[[モルドバ|モルドバ共和国]]では再びルーマニア語との同一性が主張されるようになり、2013年最高裁判所の判決にて「モルドバの公用語はルーマニア語である」と規定された。 * アラビア語は東はオマーンから西はモーリタニアまで26の国家で公用語とされている。 [[アラビア語湾岸方言|湾岸方言]]、[[アラビア語ヒジャーズ方言|ヒジャーズ方言]]、[[アラビア語イラク方言|イラク方言]]、[[アラビア語シリア方言|シリア方言]]、[[アラビア語レバノン方言|レバノン方言]]、[[アラビア語パレスチナ方言|パレスチナ方言]]、[[アラビア語エジプト方言|エジプト方言]]、[[アラビア語スーダン方言|スーダン方言]]、[[アラビア語マグリブ方言|マグリブ方言]]、[[アラビア語ハッサニヤ方言|ハッサニヤ方言]]などに大別され、それぞれの地域のなかでも違いがある。地域によっては、宗派ごとに話されるアラビア語に差異があるなどする。また、生活形態によっても、地域を越えてそれぞれ共通の特徴がある。遊牧民方言、農村方言、都市方言の3つに分けられる。 現代アラブ世界での現代標準アラビア語と方言の関係は、[[中世]]の[[カトリック教会]]地域における[[ラテン語]]と[[ロマンス諸語]]の関係に似ている。後者が前者から派生し、多くの変種に分かれていること。前者が日常語としては死語であるが、公的な話し言葉、書き言葉として通用し、後者は基本的に書かれることはまれであることが、その理由である。このことから、[[言語学]]においてアラビア語は二言語使い分けの典型的な例とされる。 == 近代(国民)国家と標準語政策 == [[近代]]に至ってフランス型の標準語政策は[[国民]]形成、国民統合と[[国民国家]]建設に欠かせない要件として世界中の国々に受け入れられていく(後述する[[日本]]の標準語化政策も例外ではない)。 === フランスの方言政策 === [[絶対王政]]期の[[フランス]]では、[[国家]]によって[[オイル語]]系の北フランスの方言を基にした標準語が定められ、それまで南部[[オクシタニア]]で話されるオック語系の[[プロヴァンス語]]などや、[[ロマンス語]]([[イタリック語派]])には属さない[[島嶼ケルト語]]系統の[[ブルターニュ語]]、[[ドイツ語]]の方言に属す[[アレマン語]]系統の[[アルザス語]]など、標準フランス語とは系統の異なる[[地方言語]]を標準[[フランス語]]に対する方言と定義付けて、方言より標準語を優越させる政策が始められた。 例えば、学校教育において、方言を話した生徒に[[方言札]]を付けさせて見せしめにするということが行なわれた。この制度は日本にも取り入れられた。現在でも、フランスでは標準フランス語を優越させる政策が続いている。 2020年11月、話す時の[[訛り]]に基づく差別は「[[人種差別]]の一種」だとして、これを禁止する法案が可決した。人種差別、[[性差別]]、[[障害者差別]]に加えて、訛りに基づく差別も犯罪となり、最高刑では禁錮3年および罰金4万5000ユーロが科される。[[フランス語圏]]話者はフランス本土の北部と南部の違いがある他、離島などの[[フランスの海外県・海外領土|海外領土]]や[[アフリカ大陸]]からの出身者も多くいることで、異なる発音をした場合に差別を受けることが大きな問題になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3318217|title=フランス、なまりに基づく差別を禁止|work=[[フランス通信社]]|date=2020-11-27|accessdate=2021-02-06}}</ref>。 === イタリアの方言政策 === 長い間、統一政府が作られずに分裂状態であり、さらに多くの都市が外国に支配されていたイタリアでは、様々な方言が存在する。 方言が様々で争いさえ起きた[[イタリア]]では、ラジオ・テレビ放送が始まった当初多くの人々が驚いたと言われている。それは、「放送局[[イタリア放送協会|RAI]]が、標準語を定義した」というイタリアで初めての試みであったからである。「テレビ放送が始まってから、初めて標準語を知った」農村地方の老人も多かったと言われている。 == 日本 == {{Main|日本語の方言|国語国字問題}} [[日本]]においては、既に[[820年]]頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見え、これが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。当時、既に方言という概念が存在していたことを物語っている。 [[沖縄県]]や[[鹿児島県]][[奄美群島]]の言語は、地理的、歴史的要因から本土の日本語とは差異が著しく、「[[琉球方言]]」として日本語の一方言とする考えと、「[[琉球語]]」として日本語(「標準語」を含む本土諸方言の総称としての)と同系統([[日琉語族]])の[[琉球諸語#言語か方言か|別言語とする考え]]、さらには「[[琉球諸語]]」とみなし[[奄美方言|奄美語]]、[[沖永良部与論沖縄北部諸方言|国頭語]]、[[沖縄語]]、[[宮古語]]、[[八重山語]]、[[与那国語]]を個別言語とする考えがある。 === 日本の方言政策 === [[明治]]時代以降、一個の政府のもとに統一された日本では、中央集権国家を目指したため、[[学校教育]]や[[軍]]の中で標準語の普及を押し進めた。1888年に設立された国語伝習所の趣旨には次のように論じられている。「国語は、国体を鞏固にするものなり、何となれば、国語は、邦語と共に存亡し、邦語と共に盛蓑するものなればなり」<ref>江仁傑 「日本の言語政策と言語使用」 樋口謙一郎編著 『北東アジアのことばと人々』 (ASシリーズ 第 9巻) 大学教育出版 2013年(ISBN 978-4-86429-214-6 C3080)</ref>特に軍では、異なる地方の者同士では、方言の差異のために命令の取り違えすら発生しかねない有様であり、死活問題でもあった。このことから、方言および日本で話されていた他の言語を廃する政策がとられた。方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられることになった。ただし、方言追放を徹底できたとは言い難く、軍・政府の重鎮でありながら終生南部弁が抜けなかった[[米内光政]]のような例もある。 現在ではテレビ・ラジオにおける標準語使用の影響などにより標準語が日本全国に浸透し、各地の方言は衰退や変容を余儀なくされた。各地の[[アクセント]]は多くの地域で保持されているが、語彙は世代を下るに従って失われやすいとされる。 そのため、文化庁などが消滅の危機にある言語・方言の保存・継承のための様々な取組を行っている。<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/kikigengo/index.html | title = 消滅の危機にある言語・方言 | publisher = 文化庁 | accessdate = 2021-04-03 }}</ref> == 生物の名 == [[生物]]の名は、各地で古くから使われた地方ごとの名があることが多く、方言名と呼ばれることがある。日本の場合、[[生物学]]では[[学名]]とともにそれに対応する標準[[和名]]をつけることが多く、これと方言名との間で標準語と方言のような対立を生む場合がある。 方言名が生まれるためにはその生物がその地域の人間に特定的に認識され、親しまれる必要がある。そのため、たとえばごく小さな昆虫には[[害虫]]でない限りそれがないことが多い。他方、よく親しまれていても、それが他地域との間で流通する場合には、統一されることが多い。[[アユ]]はその例である。従って、親しまれていて、なおかつ流通しないものに方言名が多く、[[メダカ]]はその例で日本中で5000もの別名がある。[[カブトムシ]]や[[クワガタムシ]]もよく親しまれ、ごく最近までは流通しなかったものであり、多くの地方名があったようだが、[[昆虫採集]]少年たちが標準和名を広めたため、消失した。 なお、<!--ごく限られた地域にしかいない生物の場合、-->方言名がそのまま和名として採用される例もある。[[アカマタ]]や[[ガラスヒバァ]]などはこの例である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == *[[国語]] *[[共通語]] *[[標準語]] *[[方言学]] *[[日本語の方言]] *[[新方言]] *[[方言周圏論]] *[[方言文学]] *[[方言連続体]] *[[言語変種]] *[[俚言]] *[[符牒]] == 外部リンク == {{Wikidata property}} *[http://nlp.nagaokaut.ac.jp/hougen/ ふるさとの方言 ~方言ページの道しるべ~] *[http://hougen.jp/ HOUGEN.jp] *[http://www.chikyukotobamura.org/home.html NPO法人「地球ことば村・世界言語博物館」] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほうけん}} [[Category:方言|*]] [[Category:社会言語学]] [[Category:言葉の文化]] [[Category:日本語研究]] [[Category:ローカリズム]]
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経絡
経絡(けいらく、Meridian)とは、古代中国の医学において、人体の中の気血栄衛(気や血や水などといった生きるために必要なもの、現代で言う代謝物質)の通り道として考え出されたものである。経は経脈を、絡は絡脈を表し、経脈は縦の脈、絡脈は横の脈の意。 経脈は十二の正経と呼ばれるものと、八の奇経と呼ばれるものがある。正経は陰陽で分類され、陰は太陰、少陰、厥陰の三陰に、陽は太陽、陽明、少陽の三陽に分けられ、手、足それぞれに三陽三陰の属する経脈が割り振られて計十二脈になる。そして、陰経は臓に属して、陽経は腑に属する。奇経の中では任脈と督脈だけが独自の経穴を持っている。 経脈には経別と呼ばれるものもある。 絡脈は十五絡脈とその他の絡脈、その中でさらに分かれて小さくなった孫絡がある。その他、五臓六腑を纏わない経筋と呼ばれるものもある。 上記全てを併せて、経絡と呼ぶ。 経絡という言葉の語源: 【出典】:《素問•三部九候論》:“血病身有痛者治経絡。”《漢書•藝文志》:“医経者,原人血脈経髓陰陽表裏,以起百病之本,死生之分。” 【示例】:《史记•扁鵲倉公列伝》“中経維絡,別下於三焦、膀胱” 唐 張守節 正義:“言経絡於三焦及膀胱也。” 明 宋濂 《医家十四經発揮序》:“学医道者,不可不明乎経絡。”
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経絡(けいらく、Meridian)とは、古代中国の医学において、人体の中の気血栄衛(気や血や水などといった生きるために必要なもの、現代で言う代謝物質)の通り道として考え出されたものである。経は経脈を、絡は絡脈を表し、経脈は縦の脈、絡脈は横の脈の意。 経脈は十二の正経と呼ばれるものと、八の奇経と呼ばれるものがある。正経は陰陽で分類され、陰は太陰、少陰、厥陰の三陰に、陽は太陽、陽明、少陽の三陽に分けられ、手、足それぞれに三陽三陰の属する経脈が割り振られて計十二脈になる。そして、陰経は臓に属して、陽経は腑に属する。奇経の中では任脈と督脈だけが独自の経穴を持っている。 経脈には経別と呼ばれるものもある。 絡脈は十五絡脈とその他の絡脈、その中でさらに分かれて小さくなった孫絡がある。その他、五臓六腑を纏わない経筋と呼ばれるものもある。 上記全てを併せて、経絡と呼ぶ。 経絡という言葉の語源:
{{出典の明記|date=2022年12月9日 (金) 09:55 (UTC)}} {{東洋医学}} [[ファイル:Chinese meridians.JPG|thumb|right|300px|経絡図の一例]] [[ファイル:ChineseMedecine.JPG|thumb|right|160px|経絡図の一例]] '''経絡'''(けいらく、Meridian)とは、古代中国の[[医学]]において、人体の中の[[気血栄衛]]([[気]]や[[血]]や[[津液|水]]などといった生きるために必要なもの、現代で言う代謝物質)の通り道として考え出されたものである。経は[[経脈]]を、絡は[[絡脈]]を表し、経脈は縦の脈、絡脈は横の脈の意。 経脈は十二の[[正経]]と呼ばれるものと、八の[[奇経]]と呼ばれるものがある。正経は[[陰陽]]で分類され、陰は太陰、少陰、厥陰の三陰に、陽は太陽、陽明、少陽の三陽に分けられ、手、足それぞれに三陽三陰の属する経脈が割り振られて計十二脈になる。そして、陰経は臓に属して、陽経は腑に属する。[[奇経]]の中では[[任脈]]と[[督脈]]だけが独自の[[経穴]]を持っている。 経脈には[[経別]]と呼ばれるものもある。 [[絡脈]]は十五[[絡脈]]とその他の[[絡脈]]、その中でさらに分かれて小さくなった孫絡がある。その他、[[五臓六腑]]を纏わない[[経筋]]と呼ばれるものもある。 上記全てを併せて、経絡と呼ぶ。 経絡という言葉の語源: {{Quote| 【出典】:《素問•三部九候論》:“血病身有痛者治'''経絡'''。”《漢書•藝文志》:“医経者,原人血脈経髓陰陽表裏,以起百病之本,死生之分。” <br/> 【示例】:《史记•扁鵲倉公列伝》“中経維絡,別下於三焦、膀胱” 唐 張守節 正義:“言''経絡於三焦及膀胱也。” 明 宋濂 《医家十四經発揮序》:“学医道者,不可不明乎'''経絡'''。” }} == 経絡一覧 == * [[正経]] * [[奇経]] * [[要穴]] * [[耳穴]] * [[反射区]] * [[経脈]] * [[絡脈]] * [[経別]] * [[経筋]] * [[奇穴]] * [[阿是穴]] * [[新穴]] == ギャラリー == <gallery> ファイル:Hua t04.jpg ファイル:Hua t08.jpg ファイル:Hua t10.jpg ファイル:Hua t14.jpg ファイル:Acupuncture chart 300px.jpg </gallery> <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} --> == 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} --> {{節スタブ}} == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|Meridian}} --> * [[解剖学]] * [[急所]] * [[思考場療法]] * [[経絡治療]] * [[経絡指圧]] * [[経絡破孔]] * [[金鳳漢]](経絡や経穴にあたる器官が存在するというボンハン学説を発表したものの、その器官の存在は確認出来なかった) {{ウィキポータルリンク|中国|[[画像:China.svg|40px|Portal:中国]]}} {{ウィキポータルリンク|医学と医療|[[画像:Star_of_life2.svg|34px|Portal:医学と医療]]}} == 外部リンク == <!-- {{Cite web}} --> * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/bio_balance_harmony/ |title=BBH経穴図鑑 |date=20161207220106}} * [http://www.cintcm.com/opencms/opencms/index.html 中医药在线] {{経絡}} {{Normdaten}} {{Medical-stub}} {{デフォルトソート:けいらく}} [[Category:経絡|*]] [[Category:生気論]]
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科学哲学
科学哲学(かがくてつがく、英語: philosophy of science)とは、科学を対象とする哲学的な考察のことである。 科学哲学とは科学を対象とする哲学的な考察である。 科学という語・概念が登場したのは18世紀のことなので、そういった意味に限定すると、科学哲学というのは18世紀以降のものになる。だが、「科学哲学は哲学の歴史とともに古い」とも言われる。「科学」という用語を自然の理論的認識という意味に拡大して解釈すれば、方法的反省の起源というのは哲学の歴史とともに古いからである。 科学哲学の目的の一つは、科学というものの持つ限界を人々に自覚させ、科学に関して人々が持っている誤解を解くことである。例えば「科学は、いかなる事象をも取り扱える一つの確固とした学問体系である」などと見なすことは誤解である。また例えば 「科学が与える世界像こそ客観的世界の真の姿である」などと考えるのも誤解である。黒崎宏は次のように指摘した。 一方、科学者側からは「科学哲学は鳥類学が鳥にとって役に立つ程度しか科学者にとって役に立たない」と言われることがしばしばある。科学は倫理的概念に役立たないという反科学的な主張がなされることがある。 近代以前は、現在の自然科学にあたる分野は自然学ないし自然哲学と呼ばれていた。近代初期においては、ガリレオ・ガリレイ、ルネ・デカルト、ブレーズ・パスカル、ゴットフリート・ライプニッツなどに見られるように哲学者と自然科学者の境界は非常に曖昧で、実質的な科学研究を行う傍ら、その哲学的基礎についても考察するというパターンも多かった。18世紀においても、哲学者のイマヌエル・カントはニュートン的な空間や時間が人間の認識の枠組みであるというような時間、空間論で知られるほか、引力と斥力という二つの力を基礎とする自然哲学を展開するなど、科学の哲学的基礎についての考察を行っていた。 しかし、その後次第に分業が明確化していき、19世紀には「自然哲学者」ではなく「科学者」と呼ばれるようになった。科学を専門に扱う分野が科学哲学という呼び名で呼ばれるようになるのも19世紀になってからである。 英米における科学哲学の祖としては、19世紀前半のジョン・ハーシェル、ウィリアム・ヒューウェル、ジョン・スチュアート・ミルらの名前があげられる。他方、ドイツでは、反科学主義的なドイツ観念論が流行したために、自然科学と哲学系の自然哲学の間には距離が生じていた。ただし19世紀にはまだエルンスト・マッハやアンリ・ポアンカレなど、科学者による科学哲学も盛んに行われていた。 20世紀になると、科学の方法論に対する見直しが行われ、それが操作主義や論理実証主義の運動として、科学者と哲学者の共同のもと展開された。これには、物理学の革命が20世紀初頭に進行したこと、記号論理学が発達して数学の基礎づけについての研究が進展したことなどが影響しているといわれている。 20世紀後半には、実証主義的な科学論の行き過ぎた科学主義に対する批判が噴出した。その代表がトーマス・クーンやポール・ファイヤアーベントによって展開された、いわゆる新科学哲学である。これは、科学が社会の影響を超越した客観性、合理性を持つことを否定し、科学の相対性を強調するものであった。この流れはその後科学社会学に影響し、科学社会学における社会構成主義の隆盛を産むことになる他、いわゆるニュー・サイエンスなど、既成の科学と代わる別の科学を作り出そうという運動にもつながることになった。 こうした科学批判の流れが一段落したところで、現在の科学哲学は、それぞれの個別科学の基礎について研究する地道な研究が主流となってきている。 科学哲学とは、その対象領域に応じて数学の哲学、物理学の哲学、社会科学の哲学などに下位区分される。 科学哲学は、伝統的に自然科学、なかでも物理学が研究対象となってきたが、近年では生物学の研究が盛んになり、また心理学や社会科学も研究対象とされるようになってきている。 科学哲学はまた、視点に応じて科学方法論、科学認識論などにも下位区分される。 科学哲学の分野では、近年においては、カール・ポパーやトーマス・クーンらの影響が大きい。また、それ以前ではルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの名を挙げることもできる。それ以前の大きな転換点としては、アイザック・ニュートンにより、現象の原因についての思弁的追求ではなく、現象を数式で記述することに力点が置かれたことも大きい。
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科学哲学とは、科学を対象とする哲学的な考察のことである。
{{Otheruseslist|科学を対象とする哲学の全体|狭義の科学哲学(ウィーン学団が唱えた科学的哲学、論理分析や言語分析を用いた科学哲学)|ウィーン学団|日本科学哲学会編集の学会誌|科学哲学 (学術雑誌)}} {{哲学のサイドバー}} '''科学哲学'''(かがくてつがく、{{lang-en|philosophy of science}})とは、[[科学]]を対象とする[[哲学]]的な考察のことである<ref name="yahoo_pedia">{{Cite book |和書 |author=黒崎宏 |author-link=黒崎宏 |title=Yahoo!百科事典 |url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%93%B2%E5%AD%A6/ |chapter=科学哲学 |deadlinkdate=2022-10-01}}{{リンク切れ|date=2022年9月}}</ref><ref name="iwa_philo">{{Cite book |和書 |author=野家啓一 |author-link=野家啓一 |title=岩波 哲学・思想事典 |publisher=岩波書店 |chapter=科学哲学}}</ref><ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/528804/philosophy-of-science britannica.com]「{{lang|en|the study, from a philosophical perspective, of the elements of scientific inquiry.}}」</ref><ref name="heibon_w_p">{{Cite book |和書 |author=坂本百大 |author-link=坂本百大 |title=世界大百科事典 |publisher=平凡社 |chapter=科学哲学}}</ref>。 == 概説 == 科学哲学とは科学を対象とする哲学的な考察である。 科学という語・概念が登場したのは18世紀のことなので、そういった意味に限定すると、科学哲学というのは18世紀以降のものになる。だが、「科学哲学は哲学の歴史とともに古い」とも言われる<ref name="heibon_w_p" /><ref name="iwa_philo" />。「科学」という用語を[[自然哲学|自然の理論的認識]]という意味に拡大して解釈すれば、[[方法論|方法]]的反省の起源というのは哲学の歴史とともに古いからである<ref name="iwa_philo" />。 科学哲学の目的の一つは、科学というものの持つ限界を人々に自覚させ、科学に関して人々が持っている[[誤解]]を解くことである<ref name="yahoo_pedia" />。例えば[[科学主義|「科学は、いかなる事象をも取り扱える一つの確固とした学問体系である」などと見なすこと]]は誤解である<ref name="yahoo_pedia" />。また例えば 「科学が与える世界像こそ客観的世界の真の姿である」などと考えるのも誤解である<ref name="yahoo_pedia" />。黒崎宏は次のように指摘した。 {{Quotation| 科学は、科学的方法といわれる一定の方法に基づいた探究の結果であって、それによって切り捨てられた部分も多いことを、肝に銘じておくべきである。これらのことを教えてくれる科学哲学は、それゆえ、科学者に対してのみならず、今日のわれわれ一般にとっても、きわめて大きな意味がある。 |date=2011-8}} 一方、科学者側からは「科学哲学は鳥類学が鳥にとって役に立つ程度しか科学者にとって役に立たない」と言われることがしばしばある。科学は倫理的概念に役立たないという反科学的な主張がなされることがある<ref>{{Cite news|title=Is the March for Science Bad for Scientists?|url=https://newrepublic.com/article/140944/march-science-bad-scientists|work=The New Republic|date=2017-03-01|access-date=2022-07-16|issn=0028-6583|first=Emily|last=Atkin}}</ref>。 == 歴史 == 近代以前は、現在の自然科学にあたる分野は[[自然学]]ないし[[自然哲学]]と呼ばれていた。近代初期においては、[[ガリレオ・ガリレイ]]、[[ルネ・デカルト]]、[[ブレーズ・パスカル]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ]]などに見られるように[[哲学者]]と自然科学者の境界は非常に曖昧で、実質的な科学研究を行う傍ら、その哲学的基礎についても考察するというパターンも多かった。18世紀においても、哲学者の[[イマヌエル・カント]]は[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]的な空間や時間が人間の認識の枠組みであるというような時間、空間論で知られるほか、[[引力]]と[[斥力]]という二つの力を基礎とする自然哲学を展開するなど、科学の哲学的基礎についての考察を行っていた。 しかし、その後次第に分業が明確化していき、19世紀には「自然哲学者」ではなく「科学者」と呼ばれるようになった。科学を専門に扱う分野が科学哲学という呼び名で呼ばれるようになるのも19世紀になってからである<ref>中山、2008、pp1</ref>。 英米における科学哲学の祖としては、19世紀前半の[[ジョン・ハーシェル]]、[[ウィリアム・ヒューウェル]]、[[ジョン・スチュアート・ミル]]らの名前があげられる。他方、ドイツでは、反科学主義的な[[ドイツ観念論]]が流行したために、自然科学と哲学系の自然哲学の間には距離が生じていた<ref group="※">それでも、ドイツ観念論と[[電磁気学]]の間に関わりがあったことなどが知られている。</ref>。ただし19世紀にはまだ[[エルンスト・マッハ]]や[[アンリ・ポアンカレ]]など、科学者による科学哲学も盛んに行われていた<ref group="※">ハーシェルもまた高名な天文学者であった。</ref>。 20世紀になると、科学の方法論に対する見直しが行われ、それが[[操作主義]]や[[論理実証主義]]の運動として、科学者と哲学者の共同のもと展開された。これには、物理学の革命が20世紀初頭に進行したこと、[[記号論理学]]が発達して数学の基礎づけについての研究が進展したことなどが影響しているといわれている。 20世紀後半には、[[実証主義]]的な[[科学論]]の行き過ぎた[[科学主義]]に対する批判が噴出した。その代表が[[トーマス・クーン]]や[[ポール・ファイヤアーベント]]によって展開された、いわゆる[[新科学哲学]]である。これは、科学が社会の影響を超越した客観性、合理性を持つことを否定し、科学の相対性を強調するものであった。この流れはその後科学社会学に影響し、[[科学社会学]]における[[社会的構築主義|社会構成主義]]の隆盛を産むことになる他、いわゆるニュー・サイエンスなど、既成の科学と代わる別の科学を作り出そうという運動にもつながることになった。 こうした科学批判の流れが一段落したところで、現在の科学哲学は、それぞれの個別科学の基礎について研究する地道な研究が主流となってきている。 == 下位区分 == === 研究対象による下位区分 === 科学哲学とは、その対象領域に応じて[[数学の哲学]]、[[物理学の哲学]]、[[社会科学の哲学]]などに下位区分される<ref name="iwa_philo" />。<!--対象に応じて物理学の哲学、生物学の哲学、社会科学の哲学、数学の哲学などに下位区分される。--> 科学哲学は、伝統的に[[自然科学]]、なかでも[[物理学]]が研究対象となってきたが、近年では[[生物学]]の研究が盛んになり、また[[心理学]]や[[社会科学]]も研究対象とされるようになってきている。 {{columns-list|column-width=20em| * [[自然科学]]の哲学 ** [[数学の哲学]]<!-- 科学の分野だろうか? --> ** [[物理学の哲学]] *** [[時空の哲学]] *** [[量子力学の哲学]] *** [[統計力学の哲学]] ** [[化学の哲学]] ** [[生物学の哲学]] *** [[進化論の哲学]] * [[応用科学の哲学]] * [[医学の哲学]] ** [[疫学の哲学]] ** [[看護学の哲学]] ** [[薬学の哲学]] * [[人文科学]]の哲学 ** [[心理学の哲学]] ** [[認知科学の哲学]] ** [[言語学の哲学]] * [[社会科学の哲学]] }} === 視点による下位区分 === 科学哲学はまた、[[視点]]に応じて[[科学方法論]]、[[科学認識論]]などにも下位区分される<ref name="iwa_philo" />。 == 立場 == {{columns-list|column-width=20em| * [[還元主義]]と[[ホーリズム]] * [[経験論]] * [[構造主義]] * [[実証主義]]と[[構成主義]] * [[直観主義 (数学の哲学)|直観主義]] * [[創発主義]] * [[大陸合理主義]] * [[複雑系]]の科学 * [[物理主義]] * [[論理実証主義]] }} == トピック == * 科学の方法論的基礎に関する研究&thinsp;:&emsp13;[[検証理論]]、[[帰納]]的推論、科学的合理性、[[相対主義]]、[[統計学]]の哲学、社会科学における[[解釈主義]]など * 科学の存在論的基礎に関する研究&thinsp;:&emsp13;[[科学的実在論]]、[[還元主義]]、[[量子力学]]の存在論的含意、[[時空]]の哲学など * 科学において使われる概念の分析&thinsp;:&emsp13;[[法則]]とは何か、[[科学的説明]]とは何か、科学[[理論]]とは何か、「進化」概念の分析など * 科学の動態に関する研究&thinsp;:&emsp13;科学の進歩、[[パラダイム]]転換など * 科学と社会のかかわりに関する研究&thinsp;:&emsp13;[[社会構成主義]]、科学者の社会的責任など * 科学と科学でないもの:科学哲学による科学の探究は、同時に科学と科学でないもの(非科学)の[[線引き問題 (科学哲学)|線引き]]をする試みでもある。 * [[因果律|因果関係]]<ref>{{lang-en-short|causation}}</ref>:因果の成立条件から、因果関係そのものの有効性についての考察。 * 証拠と理論:科学的証拠とは何か、証拠は理論を検証するか、それとも反証するだけなのか、検証は量的なものか質的なものか。 * [[実験]]の本質<ref>{{lang-en-short|nature of experimentation}}</ref> * 信仰と合理性のかかわり * [[自由意志]]と[[決定論]]<ref>{{lang-en-short|free will and determinism}}</ref>:科学の基礎をなす決定論に従えば、人間には自由意志はないが、そのような考えは日常的感覚に反するのではないか。 * [[帰納]]と[[確率]]<ref>{{lang-en-short|induction and probability}}</ref>:どこまでサンプルを測定し、確率が高まれば帰納が法則として成り立つか。 * 自然科学法則の本質<ref>{{lang-en-short|nature of (scientific, natural) laws}}</ref>:法則とは偶然的規則性とどう違うのか、法則は個物の関係について成り立つのか、それとも性質の間に成り立つのか、われわれは法則についてどうやって知りうるのか。 * [[数理哲学]]<ref>{{lang-en-short|philosophy of mathematics}}</ref>:数学はなぜ科学の基礎を構成できるのか、数学と現実の関係など。→[[数学基礎論]] * 規準の問題&thinsp;:&emsp13;[[妥当性]]や合理性をはかるための規準自体の妥当性や合理性はどうやって知られるのか。 * 科学的説明&thinsp;:&emsp13;科学的説明とは何か。 * 理論実体の実在性<ref>{{lang-en-short|the reality of theoretical entities}}</ref>:理論上で想定された[[概念]]と[[実在]]の関係。理論実体のうち、[[逆行波]]など、全てが実在するわけではないが、なぜそういう現象が生じるのか。また[[理論]]が架空としたら、なぜ多くの理論実体があたかも実在のような性質をもつのか。→数学・[[論理学]]の実在性 * 非観測物の実在性<ref>{{lang-en-short|the reality of unobservables}}</ref>:直接観測できない事象のうち、どの事象を存在と定義するか([[観測問題]])。 * 技術と科学<ref>{{lang-en-short|technology and science}}</ref>:科学と[[工学]]の関係。科学はどう工学の基礎を提供し、工学はどう科学の発展に影響を及ぼすか。 * [[社会科学]]の妥当性<ref>{{lang-en-short|validity of the social sciences}}</ref>:社会科学は自然科学のように厳密化・客観化されうるか。されえないとしたら、現にある現象を、どのように研究すればよいのか。 * 科学的な理論を構築する上での基本要素 :: [[理論]]、[[推論]]、[[仮説]]、[[モデル (自然科学)|モデル]]、[[命題]]、[[法則]]、[[原理]]、[[第一原理]]、[[公理]]、[[定理]]、[[証明]]、[[反証テスト|反証]] * 理論構築上の問題、[[ジレンマ]] * [[反証可能性]] * [[パラダイム]] * [[ハードコア (科学的リサーチプログラム)]] * [[デュエム-クワイン・テーゼ]] * [[検証と反証の非対称性]] <!--{{要出典|date=2011-8}}* [[悪魔の証明]]--> * [[アドホックな仮説]]と[[オッカムの剃刀]] * [[ミュンヒハウゼンのトリレンマ]] * [[帰納#確証性の原理|確証性の原理]] * [[ヘンペルのカラス]] * [[クラスター分解性]] * [[局所性]] * [[非局所性]] * [[因果律]] == 学会 == === 国際 === {{節スタブ}} === 海外 === {{節スタブ}} === 日本 === * [[科学基礎論学会]] * [[科学哲学 (学術雑誌)|日本科学哲学会]] == 関連人物 == 科学哲学の分野では、近年においては、[[カール・ポパー]]や[[トーマス・クーン]]らの影響が大きい。また、それ以前では[[ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン]]の名を挙げることもできる。それ以前の大きな転換点としては、[[アイザック・ニュートン]]により、現象の原因についての思弁的追求ではなく、現象を数式で記述することに力点が置かれたことも大きい。 === 一覧 === {{columns-list|column-width=20em| * [[タレス]] * [[エンペドクレス]] * [[プラトン]] * [[アリストテレス]] * [[ロジャー・ベーコン]] * [[ガリレオ・ガリレイ]] * [[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]] * [[ルネ・デカルト]] * [[ブレーズ・パスカル]] * [[アイザック・ニュートン]] * [[ゴットフリート・ライプニッツ]] * [[デイヴィッド・ヒューム]] * [[イマヌエル・カント]] * [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]] * [[オーギュスト・コント]] * [[ジョン・ハーシェル]] * [[ウィリアム・ヒューウェル]]<!--1794年5月24日 - 1866年3月6日--> * [[ジョン・スチュアート・ミル]]<!--1806年5月20日 - 1873年5月8日--> * [[エルンスト・マッハ]]<!--1838年2月18日 - 1916年 --> * [[アンリ・ポアンカレ]]<!--1854年4月29日 – 1912年7月17日--> * [[アンリ・ベルクソン]]<!-- 1859年10月18日 - 1941年1月 --> * [[ピエール・デュエム]]<!-- 1861年6月10日 - 1916年9月14日 --> * [[パーシー・ブリッジマン]]<!-- 1882年4月21日 - 1961年8月20日 --> * [[モーリッツ・シュリック]]<!-- 1882 – June 22, 1936--> * [[オットー・ノイラート]]<!--1882年12月10日 - 1945年12月22日--> * [[ガストン・バシュラール]]<!--1884年6月27日 - 1962年10月16日 --> * [[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]<!--1889年4月26日 - 1951--> * [[ルドルフ・カルナップ]]<!--1891年5月18日 - 1970年--> * [[マイケル・ポランニー]]<!--1891年3月11日 - 1976年2月22日--> * [[ハンス・ライヘンバッハ]]<!--1891年9月26日 - 1953年4月9日--> * [[カール・ポパー]]<!--[[1902年]][[7月28日]] - [[1994年]][[9月17日]]--> * [[カール・ヘンペル]]<!--1905年1月8日 - 1997年11月9日--> * [[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン]]<!--1908年6月25日 - 2000年12月25日--> * [[アルフレッド・エイヤー]]<!--1910年10月29日-1989年 --> * [[トーマス・クーン]]<!--1922年7月18日 - 1996年6月17日--> * [[アドルフ・グリュンバウム]]<!--1923~--> * [[ラカトシュ・イムレ]]<!--Imre Lakatos, 1922-1974--> * [[スティーヴン・トゥールミン]]<!--1922年3月25日 - 2009年12月4日--> * [[ノーウッド・ハンソン|ノーウッド・R・ハンソン]]<!--1924-1967--> * [[ポール・ファイヤアーベント]]<!--1924年1月13日 – 1994年2月--> * [[ヒラリー・パトナム]]<!--1926年7月31日~--> * [[サンドラ・ハーディング]]<!--1935年 ~--> * [[イアン・ハッキング]]<!--1936年2月18日~--> * [[ラリー・ラウダン]]<!--1941年~ --> }} ==== 日本人 ==== {{columns-list|column-width=20em| * [[田辺元]]<!-- 1885年2月3日 - 1962年4月29日--> * [[近藤洋逸]]<!-- 1911年 - 1979年 --> * [[村上陽一郎]]<!--1936年9月9日 --> * [[内井惣七]]<!-- 1943年2月3日 ~ --> * [[小林道夫 (哲学者)]]<!--1945年10月19日 ~ --> * [[西脇与作]]<!-- 1947年12月3日~ --> * [[野家啓一]]<!-- 1949年2月21日 --> * [[戸田山和久]]<!-- 1958年 - --> * [[伊勢田哲治]]<!-- 1968年~ --> }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="※"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |ref=harv |author=坂本百大 |author-link=坂本百大 |title=世界大百科事典 |publisher=平凡社 |chapter=科学哲学}} * {{Cite book |和書 |ref=harv |author=野家啓一 |author-link=野家啓一 |title=岩波 哲学・思想事典 |publisher=岩波書店 |chapter=科学哲学}} * {{Cite book |和書 |ref=harv |author=黒崎宏 |author-link=黒崎宏 |title=Yahoo!百科事典 |chapter=科学哲学}}{{リンク切れ|date=2022年9月}} == 関連項目 == {{columns-list|column-width=20em| * [[哲学]] - [[科学社会学]] - [[科学]] * [[科学史]] * [[生命倫理学]] * [[自然哲学]] * [[認識論]] * [[分析哲学]] * [[科学における不正行為]] * [[疑似科学]] / [[プロトサイエンス]] * [[知識社会学]] * [[科学理論]] * [[デジタル・ヒューマニティーズ]] / デジタル人文学 * [[計算科学]] - [[計算機科学]] / コンピュータ科学 - [[:Category:研究の計算分野]] ** [[計算論的哲学]] - [[計算論的言語学]] <!--{{要出典|date=2011-8}}* [[文科]]-[[理科]]--> }} == 関連文献(Further reading) == <!-- 形式上、記事の文章の出典として用いているという証拠が無い文献は、関連文献Further readingとして、ここにリスト。--> {{参照方法|section=1|date=2011年8月19日 (金) 03:29 (UTC)}} * {{Cite book|和書|author=カール・ヘンペル|authorlink=カール・ヘンペル|year=1967|title=自然科学の哲学|publisher=培風館|isbn=}} * {{Cite book|和書|author=村上陽一郎|authorlink=村上陽一郎|year=1980|title=科学のダイナミックス|publisher=[[サイエンス社]]|isbn=9784781900827}} * {{Cite book|和書|author=内井惣七|authorlink=内井惣七|year=1995|title=科学哲学入門: 科学の方法・科学の目的|publisher=[[世界思想社]]|isbn=9784790705581}} * {{Cite book|和書|author=伊勢田哲治|authorlink=伊勢田哲治|year=2003|title=疑似科学と科学の哲学|publisher=[[名古屋大学出版会]]|isbn=9784815804534}} * {{Cite book|和書|author=西脇与作|authorlink=西脇与作|year=2004|title=科学の哲学|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|isbn=9784766410655}} * {{Cite book|和書|author=野家啓一|authorlink=野家啓一|year=2004|title=科学の哲学|publisher=[[放送大学教育振興会]]|isbn=9784595237546}} * {{Cite book|和書|author=戸田山和久|authorlink=戸田山和久|year=2005|title=科学哲学の冒険|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=9784140910221}} * {{Cite book|和書|author=中山康雄|authorlink=中山康雄|year=2008|title=科学哲学入門: 知の形而上学|publisher=[[勁草書房]]|isbn=9784326153985}} * {{Cite book|和書|author=アレックス・ローゼンバーグ|authorlink=アレックス・ローゼンバーグ|year=2011|title=科学哲学: なぜ科学が哲学の問題になるのか|publisher=[[春秋社]]|isbn=9784393323229}} == 外部リンク == * [http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/intro.PS/introPS.html 科学哲学入門] - [[内井惣七]] * [https://kotobank.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%93%B2%E5%AD%A6-43339 科学哲学] - [[コトバンク]] * [https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%93%B2%E5%AD%A6/ 科学哲学]{{リンク切れ|date=2022年9月}} - [[Yahoo!百科事典]] * [http://www.weblio.jp/content/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%93%B2%E5%AD%A6 科学哲学] - [[Weblio]] * [http://www.britannica.com/EBchecked/topic/528804/philosophy-of-science 科学哲学]{{En icon}} - [[ブリタニカ百科事典]] * {{Kotobank}} {{科学哲学}} {{分析哲学}} {{科学技術研究}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:かかくてつかく}} [[Category:科学哲学|*]] [[Category:分野別の哲学]]
2003-05-21T06:32:20Z
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分析哲学
分析哲学(ぶんせきてつがく、英: analytic philosophy)は、ゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルによる論理学(記号論理学)研究及び言語哲学研究の成果に起源を持ち、ラッセルの教えを受けたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語哲学研究、及びウィトゲンシュタインの思想に対する誤解を含めて彼から多大な影響を受けた論理実証主義の受容とそれに対する批判、日常言語学派の発展と影響の拡大などの歴史を経て形成された現代哲学の総称である。なお広辞苑によれば、分析哲学の主唱者はジョージ・エドワード・ムーアである。 これは、現代の記号論理学や論理的言語分析、加えて、自然科学の方法及び成果の尊重を通じて形成された。20世紀には英語圏で主流となった哲学である。たとえばアメリカ合衆国の圧倒的多数の大学で、哲学科で教育され研究されるのは「分析哲学」である。これは、イギリスやカナダ、オーストラリアでも同様である。こうした状況の中で、分析哲学全体に共通する主張といったものを見いだすのは困難である。分析哲学には、多様で共通点のない様々な観点が可能であり、蓋然的な共通点しかない可能性もある。ひどくおおざっぱに言えば、分析哲学は、明晰さの追求と徹底的な論述を特徴とする。 20世紀の大陸ヨーロッパ(特にフランスとドイツ)において主流となった大陸哲学に比較されることもあり、単に「英米(現代)哲学」といえば、この記事で扱う分析哲学を指す場合が多い。 「分析哲学」という一つのまとまった、一枚岩の哲学は存在しない。しばしば分析哲学とは言語哲学であるかのように言われるが、分析哲学の哲学者は分析哲学が「もっぱら言語とか論理とかいった主題を扱うものだと決め込んでいる節がある」とはいえ、実際には言語そのものを対象としているのは分析哲学の一部であり、主題においても立場においても非常に多様である。しかし、概ね次のように特徴付けることができるだろう。 一つ目は、厳密には解明されるべき真理は存在せず、哲学の目的はただ思考の論理的明晰化をはかることであるという、実証主義の伝統である。この考えは、アリストテレス以来の伝統的な哲学の基礎付け主義と対照的である。基礎付け主義という伝統的な考え方は、哲学を諸学の中で特権的な位置つまり最も優越する位置におき、哲学が諸科学を含む学さえもすべて含め、あらゆるものの原理を研究するというものだった。反対に、分析哲学者は自分たちの研究が、自然科学とつながるもの、あるいは自然科学に従属するものと考えることさえ普通である。 二つ目は、論理的言語分析の方法を用いて諸命題を明晰化することが、諸命題の論理形式の分析で達成できるほとんど唯一のことであるという考えである。命題の論理形式は、同じ体裁の他すべての命題との類似を示すために用いられる、命題を表現する方法の一つである。これには、しばしば現代記号論理学の形式化された文法と記号が用いられる。ただし、日常言語をどのように論理的に分析するのかについて、分析哲学者の間での見解の一致はない。 三つ目は、世間で言う「哲学的な」言辞と旧態依然とした曖昧で不明瞭な哲学(言うなれば、疑似哲学)を棄却することである。この「大理論」の拒絶は、(全てではないが)分析哲学者が、形而上学的なうぬぼれに対して、日常言語や常識を擁護するという姿となって現れる。特に日本では、晦渋な翻訳の問題の是正に貢献している面もある。 分析哲学の方法としては以下のことが挙げられる。反対に言えば、こうした特徴をそなえていれば、マルクス主義であっても分析的マルクス主義として分析哲学の一分野であり得るだろうし、形而上学も研究方法次第では分析形而上学となり得るだろう。 大陸哲学と分析哲学の議論の方法のパターンには、統計的な有意差は存在しないとの論文(ミズラヒ&ディキンソン 2021)もある。 ボニーノほか(2021)によると、分析哲学者らの間で「有力」とされている見解では、論理学は分析哲学の手法として、広く応用されてますます洗練されてきている(logic is a widely applied and increasingly sophisticated method of analytic philosophy. )。前掲論文は、分析哲学における論理学の特徴を明確化するために、約1万件の分析哲学論文を対象とする定量的分析を行った。その結果、分析哲学論文の中の約4分の3(74.62%)は論理学を一切含んでいなかった。 前掲論文が定量的に分析した対象は、5つの学術誌が1941~2010年にかけて出版した、1万2322件の分析哲学論文のコーパス(言語資料)であり、コーパスは計算言語学的手法で分析された。なお、この分析の結果、 も判明した。この道具的役割の大きさについての分析哲学者らの一般的見解は、データとおおむね合致している。しかしそれ以外のデータは、彼らの一般的見解に挑戦している。このデータによれば「全体として」、分析哲学の中に存在する論理学のほとんどを全面的に理解することは、論理学の導入部分を越えることでさえないと前掲論文は結論している。 分析哲学の歴史は、大まかに言えば、19世紀末から20世紀初頭にかけての論理学の発展を背景にした、「論理的言語分析の哲学」、つまり或る種の典型的な言語哲学として始まった。なお、言語は古代ギリシア哲学から哲学の主題であり続けたが、今日では一般に、「言語哲学」は分析哲学における言語哲学を指す。これは、バートランド・ラッセルのように論理学的な人工言語を重視する流れ(理想言語学派)と、反対に日常言語を重視する流れ(日常言語学派)とに分かれた。この分離は以後ますます大きくなり、これは1960年代以降、分析哲学における言語哲学の衰退に繋がっている。 言語哲学以外にも、分析哲学に関わり、当初からの重要な位置をしめていたものに科学哲学があり、またこれに関連して、従来の認識論が現代の自然科学の自然認識を基礎付けないばかりか多くの点で不整合になったことから発展した知識の哲学、そして知識の哲学の中から生まれ、認知科学の発展に呼応して展開する心の哲学など、分析哲学自体は衰退することなく逆に拡大と発展を遂げた。このなかで、従来なら分析哲学が棄却しようとした問題(たとえば形而上学として排斥された実在論の問題)が、分析哲学及びそれを批判しつつ継承する流れの中で、再び取り上げられるようになっている。またそれぞれの科学についての哲学、具体的に言えば生物学の哲学や心理学の哲学も、近年における分析哲学の一角を形成している。(#多様化も参照) 20世紀初頭にゴットロープ・フレーゲやラッセルによって記号論理学が成立し、論理学が強力な分析のツールとなったことが一つの契機としてあげられる。L・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、記号論理学の使用について一つのパラダイム、範例となり、ウィーン学団の論理実証主義に影響を与えるなど、影響は絶大なものであった。また、G・E・ムーアの「自然主義的誤謬」についての分析など、概念分析を中心とする分析が登場したのも20世紀初頭であった。 この時期を分析哲学に含めるべきか、或いは、その前段階とみなすべきかには論争があるものの、少なくともそのころのこの種の哲学的活動の中心はイギリス(とドイツ語圏)であり、言語哲学における意味の理論や数学の基礎づけに関する影響は確かである。科学哲学における操作主義や論理実証主義などが次第に主な領域となった。 第二次大戦後すぐは日常言語学派が大きな力を持つようになり、ギルバート・ライル、ジョン・L・オースティンらによって哲学的な問題が日常言語の問題へと解体されていった。これに対するウィトゲンシュタインの影響は大きく、この洞察はムーアに帰着する。 しかしその後、第二次大戦中にドイツ語圏から主要な哲学者がアメリカへと移住したことをうけ、第二次大戦後の分析哲学の中心は次第にアメリカへと移って行った。この動きを代表するのが、ルドルフ・カルナップの影響をうけたW・クワインの戦後の一連の著作である。クワインは分析と総合の区別の否定、意味の全体論、根源的翻訳の議論、自然化された認識論の議論など、刺激的なテーゼを提出し、分析哲学の指導的役割を果たした。 第二次大戦後から21世紀にかけて、分析哲学のトピックは多様化が進んでいる。とりわけ、行為論や形而上学(分析形而上学)などのトピックが積極的に取り上げられるようになった。 また、分析哲学の方法論(#方法的特徴)を異分野に応用するという学際的な営みも行われている。その主な例として、分析法学、分析的マルクス主義、分析的政治哲学、分析美学などがある。 その他、分析哲学の観点から、プラトン・アリストテレスを始めとする過去の哲学者・哲学史を再解釈する営みも行われている。 同様に、分析哲学の観点から、仏教哲学・インド哲学・中国哲学・西田哲学といった東洋哲学を再解釈する営みも行われている。具体的には、2010年代、出口康夫やグレアム・プリーストによって、京都大学を拠点に「分析アジア哲学」という名称の国際共同研究プロジェクトが立ち上げられている。ただし、同様の営みはそれ以前から散発的に行われている。
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分析哲学は、ゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルによる論理学(記号論理学)研究及び言語哲学研究の成果に起源を持ち、ラッセルの教えを受けたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語哲学研究、及びウィトゲンシュタインの思想に対する誤解を含めて彼から多大な影響を受けた論理実証主義の受容とそれに対する批判、日常言語学派の発展と影響の拡大などの歴史を経て形成された現代哲学の総称である。なお広辞苑によれば、分析哲学の主唱者はジョージ・エドワード・ムーアである。 これは、現代の記号論理学や論理的言語分析、加えて、自然科学の方法及び成果の尊重を通じて形成された。20世紀には英語圏で主流となった哲学である。たとえばアメリカ合衆国の圧倒的多数の大学で、哲学科で教育され研究されるのは「分析哲学」である。これは、イギリスやカナダ、オーストラリアでも同様である。こうした状況の中で、分析哲学全体に共通する主張といったものを見いだすのは困難である。分析哲学には、多様で共通点のない様々な観点が可能であり、蓋然的な共通点しかない可能性もある。ひどくおおざっぱに言えば、分析哲学は、明晰さの追求と徹底的な論述を特徴とする。 20世紀の大陸ヨーロッパ(特にフランスとドイツ)において主流となった大陸哲学に比較されることもあり、単に「英米(現代)哲学」といえば、この記事で扱う分析哲学を指す場合が多い。
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三つ目は、世間で言う「哲学的な」言辞と旧態依然とした曖昧で不明瞭な哲学(言うなれば、疑似哲学)を棄却することである。この「大理論」の拒絶は、(全てではないが)分析哲学者が、形而上学的なうぬぼれに対して、日常言語や常識を擁護するという姿となって現れる。特に日本では、晦渋な翻訳の問題の是正に貢献している面もある。 === 方法的特徴 === {{出典の明記|date=2023年8月|section=1}} 分析哲学の方法としては以下のことが挙げられる。反対に言えば、こうした特徴をそなえていれば、[[マルクス主義]]であっても[[分析的マルクス主義]]として分析哲学の一分野であり得るだろうし、[[形而上学]]も研究方法次第では[[形而上学#分析的形而上学|分析形而上学]]となり得るだろう。 *言語分析、概念分析を中心的な道具とする *定義や議論の論理構造をはっきりさせ、明瞭な論述を行う([[記号論理学]]を参照する) *言語表現の範囲内で問題を設定する *分析の正しさの基準として、しばしば[[思考実験]]に訴える *経験科学の知見を取り入れて議論を展開することも多い === 分析哲学に対する定量的研究 === [[大陸哲学]]と分析哲学の議論の方法のパターンには、統計的な有意差は存在しないとの論文(ミズラヒ&ディキンソン 2021)もある<ref>{{Cite journal|last=Mizrahi|first=Moti|last2=Dickinson|first2=Mike|date=2021-10|title=The analytic‐continental divide in philosophical practice: An empirical study|url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/meta.12519|journal=Metaphilosophy|volume=52|issue=5|pages=668–680|language=en|doi=10.1111/meta.12519|issn=0026-1068}}</ref>。 ボニーノほか(2021)によると、分析哲学者らの間で「有力」とされている見解では、{{行内引用|[[論理学]]は分析哲学の手法として、広く応用されてますます洗練されてきている(logic is a widely applied and increasingly sophisticated method of analytic philosophy. )}}{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|p=11022 (32)}}。前掲論文は、分析哲学における論理学の特徴を明確化するために、約1万件の分析哲学論文を対象とする[[定量的研究|定量的分析]]を行った{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|p=10996 (6)}}<!--現状の「定量分析」の記事は化学分野の記述しかないため、「定量的研究」へ内部リンク-->。その結果、分析哲学論文の中の約4分の3(74.62%)は論理学を一切含んでいなかった{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|pp=11003-11004 (13-14)}}。 前掲論文が定量的に分析した対象は、5つの[[学術誌]]が1941~2010年にかけて出版した、1万2322件の分析哲学論文の[[コーパス]](言語資料)であり{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|p=10991 (1)}}{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|p=10996 (6)}}、コーパスは[[計算言語学]]的手法で分析された{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|p=10994 (4)}}。なお、この分析の結果、 * 分析哲学の中で論理学の道具的役割は、非道具的役割よりも大きいこと * 分析哲学の中で論理学の[[技術]]的洗練度は、時代に連れて上昇している反面、比較的低いままであること も判明した{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|p=11022 (32)}}。この道具的役割の大きさについての分析哲学者らの一般的見解は、[[データ]]とおおむね合致している{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|p=11022 (32)}}。しかしそれ以外のデータは、彼らの一般的見解に挑戦している{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|p=11022 (32)}}。{{行内引用|このデータによれば「全体として」、分析哲学の中に存在する論理学のほとんどを全面的に理解することは、論理学の導入部分を越えることでさえない}}と前掲論文は結論している{{Sfn|Bonino|Maffezioli|Tripodi|2021|p=11022 (32)}}。 ==歴史== {{出典の明記|date=2023年8月|section=1}} 分析哲学の歴史は、大まかに言えば、[[19世紀]]末から[[20世紀]]初頭にかけての[[論理学]]の発展を背景にした、「論理的言語分析の哲学」<ref>[[山本巍]]・[[今井知正]]・[[宮本久雄]]・藤本隆志・[[門脇俊介]]・野矢茂樹・[[高橋哲哉]]『哲学:原典資料集』東京大学出版会、1993年。ISBN 4130120522 ISBN 978-4130120524</ref>、つまり或る種の典型的な[[言語哲学]]として始まった。なお、[[言語]]は古代ギリシア哲学から哲学の主題であり続けたが、今日では一般に、「言語哲学」は分析哲学における言語哲学を指す。これは、[[バートランド・ラッセル]]のように論理学的な[[人工言語]]を重視する流れ([[理想言語学派]])と、反対に[[日常言語]]を重視する流れ([[日常言語学派]])とに分かれた。この分離は以後ますます大きくなり、これは[[1960年代]]以降、分析哲学における言語哲学の衰退に繋がっている。 言語哲学以外にも、分析哲学に関わり、当初からの重要な位置をしめていたものに[[科学哲学]]があり、またこれに関連して、従来の[[認識論]]が現代の自然科学の自然認識を基礎付けないばかりか多くの点で不整合になったことから発展した[[知識の哲学]]、そして知識の哲学の中から生まれ、[[認知科学]]の発展に呼応して展開する[[心の哲学]]など、分析哲学自体は衰退することなく逆に拡大と発展を遂げた。このなかで、従来なら分析哲学が棄却しようとした問題(たとえば[[形而上学]]として排斥された[[実在論]]の問題)が、分析哲学及びそれを批判しつつ継承する流れの中で、再び取り上げられるようになっている。またそれぞれの科学についての哲学、具体的に言えば[[生物学の哲学]]や[[心理学の哲学]]も、近年における分析哲学の一角を形成している。([[#多様化]]も参照) ===第二次世界大戦以前=== 20世紀初頭に[[ゴットロープ・フレーゲ]]やラッセルによって記号論理学が成立し、論理学が強力な分析のツールとなったことが一つの契機としてあげられる。[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|L・ウィトゲンシュタイン]]の『論理哲学論考』は、記号論理学の使用について一つのパラダイム、範例となり、[[ウィーン学団]]の論理実証主義に影響を与えるなど、影響は絶大なものであった。また、[[ジョージ・エドワード・ムーア|G・E・ムーア]]の「[[自然主義的誤謬]]」についての分析など、概念分析を中心とする分析が登場したのも20世紀初頭であった。 この時期を分析哲学に含めるべきか、或いは、その前段階とみなすべきかには論争があるものの、少なくともそのころのこの種の哲学的活動の中心はイギリス(とドイツ語圏)であり、言語哲学における意味の理論や数学の基礎づけに関する影響は確かである。科学哲学における[[操作主義]]や論理実証主義などが次第に主な領域となった。 ===第二次世界大戦以後=== {{See also|ポスト分析哲学}} 第二次大戦後すぐは[[日常言語学派]]が大きな力を持つようになり、[[ギルバート・ライル]]、[[ジョン・L・オースティン]]らによって哲学的な問題が日常言語の問題へと解体されていった。これに対するウィトゲンシュタインの影響は大きく、この洞察はムーアに帰着する。 しかしその後、第二次大戦中にドイツ語圏から主要な哲学者がアメリカへと移住したことをうけ、第二次大戦後の分析哲学の中心は次第にアメリカへと移って行った。この動きを代表するのが、[[ルドルフ・カルナップ]]の影響をうけた[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン|W・クワイン]]の戦後の一連の著作である。クワインは分析と総合の区別の否定、意味の全体論、根源的翻訳の議論、自然化された認識論の議論など、刺激的なテーゼを提出し、分析哲学の指導的役割を果たした。 === 多様化 === 第二次大戦後から[[21世紀]]にかけて、分析哲学のトピックは多様化が進んでいる<ref name=":2">{{Cite journal|和書|last=笠木|author=|first=雅史|year=|date=2016|title=現代行為論の展開|url=https://doi.org/10.4216/jpssj.49.2_1|journal=科学哲学|volume=49|issue=2|page=|pages=1–3|doi=10.4216/jpssj.49.2_1|issn=0289-3428}}</ref>。とりわけ、[[行為論 (哲学)|行為論]]<ref name=":2" />や形而上学([[分析形而上学]])などのトピックが積極的に取り上げられるようになった。 また、分析哲学の[[方法論]]([[#方法的特徴]])を異分野に応用するという[[学際]]的な営みも行われている。その主な例として、[[分析法学派|分析法学]]、[[分析的マルクス主義]]、分析的[[政治哲学]]<ref>{{Cite journal|author=[[松元雅和]]|year=2012|title=分析的政治哲学の系譜論|url=http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20110828-0035|journal=法學研究 : 法律・政治・社会|volume=84|page=}}</ref>、分析[[美学]]<ref>{{Cite book|和書|title=分析美学基本論文集|year=2015|publisher=勁草書房|author=西村清和編・翻訳|authorlink=西村清和|date=|pages=|isbn=978-4326800568}}</ref>などがある。 その他、分析哲学の観点から、[[プラトン]]・[[アリストテレス]]を始めとする過去の哲学者・[[哲学史]]を再解釈する営みも行われている<ref>{{Cite book|和書|title=プラトンを学ぶ人のために|year=2014|publisher=世界思想社|author=大草輝政|chapter=プラトンと分析哲学|isbn=9784790716358|editor=内山勝利|editor-link=内山勝利}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=アリストテレス的現代形而上学|date=|year=2015|publisher=春秋社|pages=|author=トゥオマス・E.タフコ編著、加地大介ほか訳|isbn=978-4393323496}}</ref>。 同様に、分析哲学の観点から、[[仏教哲学]]・[[インド哲学]]・[[中国哲学]]・[[西田哲学]]といった[[東洋哲学]]を再解釈する営みも行われている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=京都大学大学院文学研究科 応用哲学・倫理学教育研究センター|url=http://www.cape.bun.kyoto-u.ac.jp/project/project08/|accessdate=2021-01-18}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|title=Members – Network for Analytic Asian Philosophy|url=http://www.aap.bun.kyoto-u.ac.jp/people/member/|accessdate=2021-01-18|website=aap.bun.kyoto-u.ac.jp}}</ref>。具体的には、[[2010年代]]、[[出口康夫]]や[[グレアム・プリースト]]によって、[[京都大学]]を拠点に「分析アジア哲学」という名称の国際[[共同研究]]プロジェクトが立ち上げられている<ref name=":0" /><ref name=":1" />。ただし、同様の営みはそれ以前から散発的に行われている{{Efn|例えば、[[末木剛博]]や[[黒崎宏]]はウィトゲンシュタイン研究者の立場から東洋哲学を解釈している<ref>[[末木剛博]]『東洋の合理思想』講談社現代新書 1970(増補新版 法蔵館 2001)</ref><ref>[[黒崎宏]]『ウィトゲンシュタインから[[道元]]へ 私説『[[正法眼蔵]]』』哲学書房 2003</ref>。また、分析哲学の先駆者にあたる[[アイヴァー・リチャーズ|リチャーズ]]<ref>{{Cite journal|last=McElvenny|first=James|date=2014-01|title=Ogden and Richards’ The Meaning of Meaning and early analytic philosophy|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0388000113001095|journal=Language Sciences|volume=41|pages=212–221|language=en|doi=10.1016/j.langsci.2013.10.001}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=香春|year=2019|title=リチャーズによる哲学的メタファー論の復活|url=https://doi.org/10.18999/jouhunu.2.205|journal=名古屋大学人文学研究論集|volume=2|page=1}}</ref>やラッセルは、二人とも訪中経験があり、それぞれの立場から[[諸子百家]]を解釈している<ref>{{Cite book|和書|title=論理的原子論の哲学|year=2007|publisher=筑摩書房|author=バートランド・ラッセル|authorlink=バートランド・ラッセル|translator=高村夏輝|page=168;235|date=}}([[ハーバート・ジャイルズ]]によって英訳された『[[荘子 (書物)|荘子]]』に出てくる、[[名家 (諸子百家)|名家]]の学説「黄馬驪牛三」を、{{仮リンク|クラス (哲学)|en|Class (philosophy)|label=クラス}}の実在についての学説として解釈している)</ref><ref>Richards, I. A. ''Mencius on the Mind: Experiments in Multiple Definition'' (Kegan Paul, Trench, Trubner & Co.: London; Harcourt, Brace: New York, 1932).</ref>。}}。 {{節スタブ|date=2021年2月12日 (金) 09:39 (UTC)}} ==主要人物== {{出典の明記|date=2023年8月|section=1}} ===世界=== <!--生年順に並べます--> *[[ゴットロープ・フレーゲ]] (Friedrich Ludwig Gottlob Frege, 1848 - 1925) *[[バートランド・ラッセル]] (Bertrand Arthur William Russell, 1872 - 1970) *[[モーリッツ・シュリック]] (Moritz Schlick, 1882 - 1936) *[[オットー・ノイラート]] (Otto Neurath, 1882 - 1945) *[[スーザン・ステビング]] (Susan Stebbing, 1885 - 1943) *[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]] (Ludwig Josef Johann Wittgenstein, 1889 - 1951) *[[ハンス・ライヘンバッハ]] (Hans Reichenbach, 1891 - 1953) *[[ルドルフ・カルナップ]] (Rudolf Carnap, 1891 - 1970) *[[ギルバート・ライル]] (Gilbert Ryle, 1900 - 1976) *[[カール・ヘンペル]] (Carl Gustav Hempel, 1905 - 1997) *[[ネルソン・グッドマン]] (Nelson Goodman, 1906 - 1998) *[[ハーバート・ハート|H.L.A.ハート]] (Herbert Lionel Adolphus Hart, 1907 - 1992) *[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン|W.V.O.クワイン]] (Willard van Orman Quine, 1908 - 2000) *[[アルフレッド・エイヤー]] (Alfred Jules Ayer, 1910 - 1989) *[[ジョン・L・オースティン]] (John Langshaw Austin, 1911 - 1960) *[[ウィルフリド・セラーズ]] (Wilfrid Stalker Sellars, 1912 - 1989) *[[ポール・グライス]] (Herbert Paul Grice 1913 - 1988) *[[ドナルド・デイヴィッドソン]] (Donald Davidson, 1917 - 2003) *[[エリザベス・アンスコム]] (Gertrude Elizabeth Margaret Anscombe, 1919 - 2001) *[[ピーター・フレデリック・ストローソン]] (Peter Frederick Strawson, 1919 - 2006) *[[トーマス・クーン]] (Thomas Samuel Kuhn, 1922 - 1996) *[[マイケル・ダメット]] (Michael Dummett, 1925 - 2011) *[[ヒラリー・パトナム]] (Hilary Whitehall Putnam, 1926 - 2016) *[[ノーム・チョムスキー]] (Avram Noam Chomsky, 1928 - ) *[[リチャード・ローティ]] (Richard Rorty, 1931 - 2007) *[[ジョン・サール]] (John Rogers Searle, 1932 - ) *[[イアン・ハッキング]] (Ian Hacking, 1936 - ) *[[トマス・ネーゲル]] (Thomas Nagel, 1937 - ) *[[ロバート・ノージック]] (Robert Nozick, 1938 - 2002) *[[ソール・クリプキ]] (Saul Aaron Kripke, 1940 - ) *[[デイヴィド・ルイス]] (David Kellogg Lewis, 1941 - 2001) *[[ジョン・マクダウェル]] (John McDowell|John McDowell, 1942 - ) *[[ダニエル・デネット]] (Daniel Clement Dennett III, 1942 - ) *[[ピーター・シンガー]] (Peter Albert David Singer, 1946 - ) *[[コリン・マッギン]] (Colin McGinn, 1950 - ) *[[ロバート・ブランダム]] (Robert Boyce Brandom, 1950 - ) *[[デイヴィッド・チャーマーズ]] (David John Chalmers, 1966 - ) ===日本=== *[[植田清次]](1902 - 1963) *[[山元一郎]](1910 - 1972) *[[沢田允茂]](1916 - 2006) *[[武田弘道]](1919 - 1984) *[[永井成男]](1921 - 2006) *[[末木剛博]](1921 - 2007) *[[大森荘蔵]](1921 - 1997) *[[市井三郎]](1922 - 1989) *[[中村秀吉]](1922 - 1986) *[[大出晁]](1926 - 2005) *[[吉田夏彦]](1928 - 2020) *[[黒田亘]] (1928 - 1989) *[[黒崎宏]] (1928 - ) *[[坂本百大]] (1928 - 2020) *[[藤本隆志]] (1934 - ) *[[野本和幸]] (1939 - ) *[[飯田隆 (哲学者)|飯田隆]] (1948 - ) *[[野家啓一]] (1949 - ) *[[丹治信春]] (1949 - ) *[[永井均]](1951 - ) *[[野矢茂樹]] (1954 - ) *[[入不二基義]] (1958 - ) *[[青山拓央]] (1975 - ) == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === <references/> == 参照文献 == * {{Cite journal | last1 = Bonino | first1 = Guido | last2 = Maffezioli | first2 = Paolo | last3 = Tripodi | first3 = Paolo | date = 2021-11-01 | title = Logic in Analytic Philosophy: a Quantitative Analysis | journal = Synthese | volume = 198 | issue = 11 | pages = 10991-11028 (1-38) | publisher = [[シュプリンガー・ネイチャー|Springer Nature]] | doi = 10.1007/s11229-020-02770-5 | ref = harv }} ==関連項目== *[[言語論的転回]] *[[論理実証主義]] *[[日常言語学派]] *[[理想言語学派]] *[[反証主義]] **[[反証可能性]] **[[反証テスト]] *[[心の哲学]] *[[言語哲学]] *[[科学哲学]] *[[数学の哲学]] *[[哲学的論理学]] *[[現代論理学]]/数理論理学 - [[数学基礎論]] **[[:Category:研究の計算分野]] ***[[計算論的言語学]] - [[計算論的哲学]] ==外部リンク== *{{Kotobank|分析哲学|[[日本大百科全書]]}} *{{IEP|analytic|Analytic Philosophy}} {{philos-stub}} {{哲学}} {{分析哲学}} {{科学哲学}} {{心の哲学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふんせきてつかく}} [[Category:分析哲学|*]] [[Category:論理実証主義]] [[Category:哲学の学派]] [[Category:20世紀の哲学]] [[Category:21世紀の哲学]]
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西区
西区(にしく) 日本の行政区。 西区(ソ=グ(서구)) 西区・西區(日本語読み:せいく、拼音: xīqū)
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西区(にしく)
'''西区'''(にしく) == 日本 == 日本の[[行政区]]。 {|class="wikitable" !名称!!発足年月日!!設置の理由 |- |[[西区 (札幌市)]]||[[1972年]](昭和47年)[[4月1日]]||[[政令指定都市]]移行 |- |[[西区 (さいたま市)]]||[[2003年]](平成15年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[西区 (横浜市)]]||[[1944年]](昭和19年)4月1日||[[中区 (横浜市)|中区]]から分離 |- |[[西区 (新潟市)]]||[[2007年]](平成19年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[西区 (浜松市)]]||[[2007年]](平成19年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[西区 (名古屋市)]]||[[1908年]](明治41年)4月1日||区制施行 |- |[[西区 (大阪市)]]||[[1889年]](明治22年)4月1日||[[市制]]施行 |- |[[西区 (堺市)]]||[[2006年]](平成18年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[西区 (神戸市)]]||[[1982年]](昭和57年)[[8月1日]]||[[垂水区]]から分離 |- |[[西区 (広島市)]]||[[1980年]](昭和55年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[西区 (福岡市)]]||[[1972年]](昭和47年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[西区 (熊本市)]]||[[2012年]](平成24年)4月1日||政令指定都市移行 |} == 大韓民国 == '''西区'''(ソ=グ(서구)) *[[西区 (釜山広域市)]] - [[釜山広域市]]にある区。 *[[西区 (大邱広域市)]] - [[大邱広域市]]にある区。 *[[西区 (仁川広域市)]] - [[仁川広域市]]にある区。 *[[西区 (光州広域市)]] - [[光州広域市]]にある区。 *[[西区 (大田広域市)]] - [[大田広域市]]にある区。 == 中華民国 == '''西区・西區'''(日本語読み:せいく、{{Lang-zh|p=xīqū}}) *[[西区 (台中市)]] - [[台中市]]の市轄区の一つ。 *[[西区 (嘉義市)]] - [[嘉義市]]の市轄区の一つ。 == 中華人民共和国 == *[[西区 (攀枝花市)]] - [[四川省]][[攀枝花市]]の市轄区の一つ。 *[[西区 (中山市)]] - [[広東省]][[中山市]]の郷級行政区の一つ。 == ブルガリア == *[[西区 (プロヴディフ)|西区]] - [[プロヴディフ]]の[[ラヨン]]の一つ。 == 満洲国 == *[[西区 (牡丹江市)]] - [[牡丹江省]][[牡丹江市]]にかつて存在した区。 ==関連項目== * [[区 (曖昧さ回避)]] * [[中央区 (曖昧さ回避)]] * [[中区 (曖昧さ回避)]] * [[東区 (曖昧さ回避)]] * [[南区 (曖昧さ回避)]] * [[北区 (曖昧さ回避)]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{地名の曖昧さ回避|にしく}}
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西区 (横浜市)
西区(にしく)は、横浜市を構成する18行政区のうちの一つである。 西区の中核駅である横浜駅及びみなとみらい駅周辺地区は、中区の関内地区とともに横浜市における都心(ツインコア)である「横浜都心」に指定されている。 1944年に中区より分区して誕生した。市内では東側に位置するが、中区から分離した際に中区の西にあることから「西区」と命名された。 臨海部の横浜みなとみらい21地区の埋め立てにより面積は拡大したが、横浜市18区の中で最も小さく、人口も最少であるが、人口密度は南区に次いで2番目に高い。中心部から海側にかけては商業地だが、その他の地域の大半は住宅地である。中央部を流れる帷子川流域近辺は平地で、近辺をJR東海道線や国道1号なども通過しているが、最北部と最南部の内陸側は高台となっている。住宅地である境之谷の一部と西戸部町1丁目の一部が崖であるため、大雨による土砂崩れの危険性が高く、即時避難指示対象区域に指定されている。 区内には日本有数の巨大ターミナル駅である横浜駅が所在しており、駅周辺は市内最大の繁華街を形成している。駅周辺には百貨店や専門店などの大型商業施設が集積し、横浜駅西口一帯は雑多な飲食店街が広がっている。横浜駅みなみ西口方面の南幸には横浜家系ラーメンの元祖である吉村家を始めとしてとんこつラーメン屋が多数存在し、ラーメン激戦区でもある。みなとみらい21地区は高層オフィスビルやホテル、複合商業施設などが建ち並び、関内が位置する中区とともに横浜市の中心的な行政区として機能している。 市内では東に位置するが、中区から分離した際に中区の西にあることから「西区」と命名された。 西区内では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。 巨大繁華街の横浜駅やみなとみらい地区を有することから横浜市の商業中心地となっており、大規模店舗などが多数所在する。 横浜市18区中、小売業売上は1位、卸売業売上は2位と、商業では市内トップであるが、工業は事業所数・従業員数ともに17位と少ない。農業は皆無である。
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西区(にしく)は、横浜市を構成する18行政区のうちの一つである。 西区の中核駅である横浜駅及びみなとみらい駅周辺地区は、中区の関内地区とともに横浜市における都心(ツインコア)である「横浜都心」に指定されている。
{{Pathnav|日本|関東地方|神奈川県|横浜市|frame=1}} {{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}} {{日本の行政区 |画像 = File:Minatomirai21.JPG |画像の説明 = [[横浜みなとみらい21]]{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=300|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall||frame-latitude=35.435|frame-longitude=139.54|text=区庁舎位置}} |自治体名 = 西区 |都道府県 = 神奈川県 |支庁 = |市 = 横浜市 |コード = 14103-8 |隣接自治体・行政区 = ''横浜市''([[神奈川区]]、[[中区 (横浜市)|中区]]、[[南区 (横浜市)|南区]]、[[保土ケ谷区]]) |木 = [[モクセイ|もくせい]] |花 = [[スイセン属|すいせん]] |シンボル名 = 他のシンボル |鳥など= |郵便番号 = 220-0051 |所在地 = 西区中央一丁目5番10号<br /><small>{{ウィキ座標度分秒|35|27|13.1|N|139|37|0.9|E|region:JP-14_type:adm3rd|display=inline,title}}</small><br />[[File:Yokohama City Nishi Ward Office 2019.jpg|西区役所|220px]] |外部リンク = [https://www.city.yokohama.lg.jp/nishi/ 横浜市西区] |位置画像 = [[ファイル:Yokohama-Nishi-ku.PNG|250px|横浜市西区位置図]][[ファイル:Location of Nishi ward Yokohama city Kanagawa prefecture Japan.svg|320x320px|西区 (横浜市)位置図]] |特記事項 = }} '''西区'''(にしく)は、[[横浜市]]を構成する18[[行政区]]のうちの一つである。 西区の中核駅である[[横浜駅]]及び[[みなとみらい駅]]周辺地区は、[[中区 (横浜市)|中区]]の[[関内]]地区とともに横浜市における[[都心]](ツインコア)である「'''横浜都心'''」に指定されている<ref>{{PDFlink|[http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/kikaku/cityplan/master/kaitei/kaitei/pdf/kaiteiplan.pdf 横浜市都市計画マスタープラン(全体構想)]}}平成25年3月発行。編集・発行、横浜市都市整備局企画部企画課。</ref>。 == 概要 == [[1944年]]に[[中区 (横浜市)|中区]]より分区して誕生した<ref>{{Cite web|和書|title=区の変遷(区制開始から現在まで) |url=https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/ku-shokai/division.html |website=www.city.yokohama.lg.jp |access-date=2022-06-02 |language=ja}}</ref>。市内では東側に位置するが、中区から分離した際に中区の西にあることから「西区」と命名された。 臨海部の[[横浜みなとみらい21]]地区の埋め立てにより面積は拡大したが、横浜市18区の中で最も小さく、[[人口]]も最少であるが、人口密度は[[南区 (横浜市)|南区]]に次いで2番目に高い。中心部から海側にかけては商業地だが、その他の地域の大半は住宅地である。中央部を流れる帷子川流域近辺は平地で、近辺を[[東海道線 (JR東日本)|JR東海道線]]や[[国道1号]]なども通過しているが、最北部と最南部の内陸側は高台となっている。[[住宅地]]である[[境之谷]]の一部と[[西戸部町]]1丁目の一部が[[崖]]であるため、大雨による土砂崩れの危険性が高く、即時[[避難指示]]対象区域に指定されている<ref>{{Cite web|和書|title=即時避難指示対象区域一覧|url=https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/bousai-kyukyu-bohan/bousai-saigai/wagaya/fusuigai/taifu/20160615135644.html|website=www.city.yokohama.lg.jp|accessdate=2021-07-02|language=ja}}</ref>。 区内には日本有数の巨大[[ターミナル駅]]である[[横浜駅]]が所在しており、駅周辺は市内最大の[[繁華街]]を形成している。駅周辺には[[百貨店]]や専門店などの大型商業施設が集積し、横浜駅西口一帯は雑多な飲食店街が広がっている。横浜駅みなみ西口方面の[[南幸]]には[[家系ラーメン|横浜家系ラーメン]]の元祖である[[吉村家]]を始めとして[[ラーメン|とんこつラーメン]]屋が多数存在し、ラーメン激戦区でもある。[[横浜みなとみらい21|みなとみらい21]]地区は高層オフィスビルやホテル、[[複合商業施設]]などが建ち並び、[[関内]]が位置する[[中区 (横浜市)|中区]]とともに横浜市の中心的な行政区として機能している。 * 川: [[帷子川]]、[[新田間川]]、[[石崎川 (神奈川県)|石崎川]] === 隣接している行政区 === * [[中区 (横浜市)|中区]]、[[南区 (横浜市)|南区]]、[[保土ケ谷区]]、[[神奈川区]] == 歴史 == === 年表 === * 西区の区域は元来[[東海道]]の[[神奈川宿]]および[[保土ヶ谷宿]](いずれも[[橘樹郡]])、橘樹郡の芝生村、岡野新田及び藤江新田、[[久良岐郡]]の戸部村、平沼新田、尾張屋新田及び太田村から構成されていた。 * [[1873年]](明治6年)5月1日、区番組制により、戸部町・伊勢町・久良岐郡戸部村・平沼新田・尾張屋新田は第1区2番組に、桜木町(4丁目以降)・福島町・高島町・内田町は第1区3番組に、久良岐郡太田村は第1区4番組に、神奈川宿・橘樹郡芝生村は第3区1番組に、保土ヶ谷宿・橘樹郡藤江新田は第3区2番組にそれぞれ編入される。 * [[1874年]](明治7年)6月14日、[[大区小区制]]により、桜木町・高島町・内田町・橘町・緑町・福永町・福島町・長住町は第1大区2小区に、戸部町・花咲町・伊勢町・宮崎町・老松町・平沼町・藤江町・岡野町・尾張屋町・橘樹郡芝生村・久良岐郡戸部村は第1大区3小区にそれぞれ編入される。 * [[1878年]](明治11年)12月1日、[[郡区町村編制法]]により、大区小区を廃して橘樹郡、久良岐郡並びに町村を復活。 * [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] [[市制]][[町村制]]施行に伴い、同区域は橘樹郡[[神奈川町]](神奈川宿と芝生村)、[[保土ケ谷町]](保土ヶ谷宿と岡野新田)、久良岐郡[[戸太町|戸太村]](戸部村、平沼新田、尾張屋新田、太田村と吉田新田)ならびに横浜市となる。(横浜市編入部分は鉄道建設のために海面を埋め立てた高島町・花咲町と旧戸部村と平沼新田の内、既に[[町屋 (商家)|町屋]]が形成されていた戸部町、平沼町からなる。) * [[1895年]](明治28年)[[7月1日]] 久良岐郡戸太村が町制を施行し、[[戸太町]]となる。 * [[1901年]](明治34年)4月1日 橘樹郡保土ケ谷町の一部(岡野新田と岩間字久保山・大谷・林越・大丸)、及び神奈川町と久良岐郡戸太町の全域が横浜市に編入される。 * [[1911年]](明治44年)4月1日 橘樹郡保土ケ谷町の一部(岩間字池上・東台・外荒具・道上・塩田・反町及び字宮下・殿田・関面・久保山下)が横浜市に編入される。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[10月1日]] 区制が施行され、[[神奈川区]](平沼町・西平沼町・高島通・表高島町・浅間町・南浅間町・浅間台・宮ヶ谷・南軽井沢・北軽井沢・岡野町・楠町・南幸町・北幸町)及び中区(久保町・戸部町・西戸部町・伊勢町・宮崎町・老松町・南太田町・花咲町・桜木町・内田町・緑町・長住町・橘町)に編入される。 * [[1943年]](昭和18年)[[12月1日]] 神奈川区の内、戸部警察所管内の地域(上記括弧内の地域)を中区に編入。戦時下の戦時配給制度の手続の軽減を図るのがその理由。西区分区への前段階として実施された。 * [[1944年]](昭和19年)4月1日 [[中区 (横浜市)|中区]]より分区して誕生。 === 区名の由来 === 市内では東に位置するが、[[中区 (横浜市)|中区]]から分離した際に中区の西にあることから「西区」と命名された<ref group="注">先に分区した[[南区 (横浜市)|南区]]も同様の理由で命名されている。</ref><ref>[http://hamarepo.com/story.php?story_id=1160 横浜市内18区の区名の由来Ⅱ【戦前・戦後編】](はまれぽ.com 2012年6月27日)</ref>。 == 人口 == *1940年  43,367 *1945年  66,442 *1947年  85,292 *1950年 100,446 *1955年 105,925 *1960年 104,173 *1965年 104,255 *1970年  97,906 *1975年  89,015 *1980年  80,539 *1985年  78,858 *1990年  76,978 *1995年  75,758 *2000年  78,320 *2005年  84,944 *2010年  94,867 *2015年  98,532 ==町名== 西区内では、一部の区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。 <!-- 町名の順序は、横浜市統計書等公的資料の順序による。 --> {{hidden begin |title = 西区役所管内(40町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町名の読み !style="width:12%"|設置年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施直前の町名 !style="width:18%"|備考 |- |'''[[桜木町]]''' |さくらぎちょう |1889年4月1日 |未実施 | |字1〜3丁目は中区に属する。 |- |[[花咲町 (横浜市)|'''花咲町''']] |はなさきちょう |1889年4月1日 |未実施 | |字1〜3丁目は中区に属する。 |- |'''[[紅葉ケ丘]]''' |もみじがおか |1928年9月1日 |未実施 | | |- |[[宮崎町 (横浜市)|'''宮崎町''']] |みやざきちょう |1889年4月1日 |未実施 | | |- |[[老松町 (横浜市)|'''老松町''']] |おいまつちょう |1889年4月1日 |未実施 | | |- |'''[[東ケ丘 (横浜市)|東ケ丘]]''' |あずまがおか |1935年7月1日 |未実施 | | |- |'''[[赤門町]]''' |あかもんちょう |1935年7月1日 |未実施 | |字1丁目は中区に属する。 |- |[[霞ケ丘 (横浜市西区)|'''霞ケ丘''']] |かすみがおか |1935年7月1日 |未実施 | | |- |'''[[西戸部町]]''' |にしとべちょう |1901年4月1日 |未実施 | | |- |[[伊勢町 (横浜市)|'''伊勢町''']] |いせちょう |1889年4月1日 |未実施 | | |- |'''[[御所山町]]''' |ごしょやまちょう |1928年9月1日 |未実施 | | |- |'''[[戸部本町]]''' |とべほんちょう |1966年5月1日 |1966年5月1日 |戸部町、江梅町、天神町、石崎町、桜木町、御所山町の各一部 | |- |[[中央 (横浜市西区)|'''中央''']] |ちゅうおう |1966年5月1日 |1966年5月1日 |扇田町、伊勢町、石崎町、西前町、杉山町、天神町、江梅町、西戸部町、藤棚町の各一部 | |- |[[戸部町 (横浜市)|'''戸部町''']] |とべちょう |1889年4月1日 |未実施 | | |- |[[高島 (横浜市)|'''高島''']] |たかしま |1966年5月1日 |1966年5月1日 |表高島町、高島通、内田町、桜木町、西平沼町、平沼町の各一部 | |- |[[平沼 (横浜市)|'''平沼''']] |ひらぬま |1966年5月1日 |1966年5月1日 |平沼町、高島通、桜木町、西平沼町、扇田町、浜松町、石崎町の各一部 | |- |'''[[西前町]]''' |にしまえちょう |1928年9月1日 |未実施 | |字1丁目は1966年に廃止。 |- |'''[[藤棚町]]''' |ふじだなちょう |1928年9月1日 |未実施 | | |- |'''[[境之谷]]''' |さかいのたに |1935年7月1日 |未実施 | | |- |'''[[元久保町]]''' |もとくぼちょう |1935年7月1日 |1977年8月1日 |元久保町、境之谷、東久保町、南区庚台、南区清水ケ丘、南区伏見町、保土ケ谷区岩井町の各一部 | |- |[[東久保町 (横浜市)|'''東久保町''']] |ひがしくぼちょう |1935年7月1日 |1977年8月1日 |東久保町、久保町、元久保町、保土ケ谷区西久保町の各一部 | |- |[[久保町 (横浜市)|'''久保町''']] |くぼちょう |1901年4月1日 |1977年8月1日 |久保町、境之谷、東久保町、藤棚町の各一部 | |- |[[浜松町 (横浜市)|'''浜松町''']] |はままつちょう |1928年9月1日 |1966年5月1日 |浜松町、藤棚町、扇田町、杉山町の各一部 | |- |'''[[西平沼町]]''' |にしひらぬまちょう |1901年4月1日 |1966年5月1日 |西平沼町の一部 | |- |[[岡野 (横浜市)|'''岡野''']] |おかの |1965年7月1日 |1965年7月1日 |岡野町、平沼町、西平沼町の各一部 | |- |[[南幸 (横浜市)|'''南幸''']] |みなみさいわい |1965年7月1日 |1965年7月1日 |南幸町、岡野町、北幸町、平沼町の各一部 | |- |'''[[北幸]]''' |きたさいわい |1965年7月1日 |1965年7月1日 |北幸町、南幸町の各一部 | |- |[[楠町 (横浜市)|'''楠町''']] |くすのきちょう |1932年1月1日 |未実施 | | |- |[[浅間町 (横浜市)|'''浅間町''']] |せんげんちょう |1901年4月1日 |未実施 | | |- |'''[[南浅間町]]''' |みなみせんげんちょう |1936年11月1日 |未実施 | | |- |'''[[浅間台 (横浜市)|浅間台]]''' |せんげんだい |1936年11月1日 |未実施 | | |- |'''[[宮ケ谷]]''' |みやがや |1932年1月1日 |未実施 | | |- |'''[[南軽井沢 (横浜市)|南軽井沢]]''' |みなみかるいざわ |1932年1月1日 |未実施 | | |- |[[北軽井沢 (横浜市)|'''北軽井沢''']] |きたかるいざわ |1932年1月1日 |未実施 | | |- |[[みなとみらい|'''みなとみらい一丁目''']] | rowspan="6"|みなとみらい |1989年10月2日 |1989年10月2日 | |- |[[みなとみらい|'''みなとみらい二丁目''']] |1989年10月2日 |1989年10月2日 | |- |[[みなとみらい|'''みなとみらい三丁目''']] |1989年10月2日 |1989年10月2日 | |- |[[みなとみらい|'''みなとみらい四丁目''']] |1989年10月2日 |1989年10月2日 | |- |[[みなとみらい|'''みなとみらい五丁目''']] |1989年10月2日 |1989年10月2日 | |- |[[みなとみらい|'''みなとみらい六丁目''']] | 2005年10月31日 | 2005年10月31日 | |- |} {{hidden end}} == 行政 == * 区長 : 大場 茂美 (2003年4月1日 - 2006年3月31日) : 二木 健夫 (2006年4月1日 - 2008年3月31日) : 浜野 四郎 (2008年4月1日 - 2009年12月31日) : 芳賀 宏江 (2010年1月1日 - 2012年3月31日) : [[大久保智子 (地方公務員)|大久保智子]] (2012年4月1日 - 2016年3月31日) : 吉泉 英紀 (2016年4月1日 - ) === 警察 === * [[戸部警察署|神奈川県戸部警察署]]が置かれ、区内全域を管轄する。 === 消防 === * 横浜市西消防署が担当する。 === その他 === * 税務署:[[東京国税局]]横浜中税務署が管轄する。 * 年金事務所:横浜中年金事務所が管轄する。 == 経済 == 巨大[[繁華街]]の[[横浜駅]]や[[みなとみらい地区]]を有することから横浜市の商業中心地となっており、大規模店舗などが多数所在する。 横浜市18区中、小売業売上は1位、卸売業売上は2位と、商業では市内トップであるが、工業は事業所数・従業員数ともに17位と少ない。農業は皆無である。 === 本社・本店を置く主な企業 === * [[日産自動車]] * [[いすゞ自動車]] * [[京浜急行電鉄]](京急電鉄) * [[日揮]] * [[相模鉄道]](相鉄) * [[横浜銀行]] * [[三菱重工業]] * [[オカムラ]] * [[崎陽軒]] * [[エバラ食品工業]] * [[日立システムズエンジニアリングサービス]] * [[オンラインコンサルタント]] * [[千代田化工建設]] - 2012年7月鶴見区より本社移転<ref>[http://www.chiyoda-corp.com/news/2011/post_64.html オフィス移転のお知らせ。]</ref> * [[オーケー]](スーパーマーケット) == 生活 == === 主な公共施設 === * [[横浜中央郵便局]] * [[横浜市中央図書館]] * [[神奈川県立図書館]] * [[横浜市青少年図書館]] * [[横浜市西公会堂]] * [[神奈川県立青少年センター]] * [[横浜市西スポーツセンター]] === その他 === * 水道:[[横浜市水道局]] * 斎場:[[久保山斎場]]([[極東国際軍事裁判|東京裁判]]処刑者火葬地) === 健康 === * 平均年齢:43.6歳(2010年1月1日) == 教育 == === 大学 === * [[横浜国立大学]]みなとみらいキャンパス(社会人講座が主) * [[神奈川大学]]みなとみらいエクステンション・センター(社会人講座が主) * [[八洲学園大学]](通信制大学) * [[国連大学高等研究所]](修士課程プログラム「環境ガバナンス生物多様性研究科」) === 専門学校 === * [[グレッグ外語専門学校横浜校]] * [[アーツカレッジヨコハマ]] * [[横浜fカレッジ]] === 高等学校 === * [[神奈川県立横浜平沼高等学校]] * [[渋谷高等学院]] 横浜校 * [[八洲学園高等学校]] 横浜校 * [[鹿島学園高等学校]] 横浜キャンパス * [[クラーク記念国際高等学校]] 横浜キャンパス * [[屋久島おおぞら高等学校]] 横浜キャンパス === 中学校 === * [[横浜市立老松中学校]] * 横浜市立岡野中学校 * 横浜市立軽井沢中学校 * 横浜市立西中学校 === 小学校 === * 横浜市立東小学校 * [[横浜市立一本松小学校]] * 横浜市立稲荷台小学校 * 横浜市立浅間台小学校 * 横浜市立戸部小学校 * 横浜市立西前小学校 * 横浜市立平沼小学校 * 横浜市立宮谷小学校 == 交通 == === 鉄道路線 === * [[東日本旅客鉄道]][[東海道線 (JR東日本)]]・[[根岸線]] ** - [[横浜駅]] - * [[東急東横線|東急電鉄東横線]] ** - [[横浜駅]] * [[横浜高速鉄道みなとみらい線]] ** [[横浜駅]] - [[新高島駅]] - [[みなとみらい駅]] - * [[京急本線|京浜急行電鉄本線]] ** - [[横浜駅]] - [[戸部駅]] - * [[相鉄本線|相模鉄道本線]] ** [[横浜駅]] - [[平沼橋駅]] - [[西横浜駅]] - * [[横浜市営地下鉄ブルーライン|横浜市高速鉄道3号線(横浜市営地下鉄ブルーライン)]] ** - [[横浜駅]] - [[高島町駅]] - === 路線バス === * [[横浜市交通局]]([[横浜市営バス]]) ** [[横浜市営バス浅間町営業所|浅間町営業所]] * [[神奈川中央交通]] * [[相鉄バス]] * [[江ノ電バス]] * [[京浜急行バス]] ==== バス・タクシーターミナル ==== * [[横浜シティ・エア・ターミナル]] (YCAT) === 船 === * シーバス([[ポートサービス]])- [[ぷかりさん橋]] === 道路 === ; 高速道路 * [[首都高速神奈川1号横羽線]] [[横浜駅東口出入口]] - [[みなとみらい出入口]] * [[首都高速神奈川2号三ツ沢線]] [[横浜駅西口出入口]] ; 国道 * [[国道1号]] * [[国道16号]] ; 県道 * [[神奈川県道13号横浜生田線]] ; 市道 * [[横浜市主要地方道80号横浜駅根岸線]] * [[横浜市主要地方道81号藤棚伊勢佐木線]] * [[横浜市主要地方道83号青木浅間線]](横浜市道環状1号線) == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == {{Gallery |width=250 |height=180 |ファイル:Kremlin.ru._Yokohama.jpeg|日本丸メモリアルパーク |ファイル:Yokohama Museum of Art 2009.jpg|横浜美術館 |ファイル:Iseyama Koutai Jingu.JPG|伊勢山皇大神宮 |ファイル:Yokohama_sta._2022.jpg|横浜駅周辺 |File:Nogeyama Zoo.JPG|野毛山動物園 }} === 名所・公園 === * [[横浜みなとみらい21]](みなとみらい地区) ** [[横浜ランドマークタワー]](高さ約296mの超高層ビル、展望フロアあり) ** [[臨港パーク]]・[[日本丸メモリアルパーク]]・[[高島水際線公園]] * [[野毛山公園]]・[[野毛山動物園]] * [[掃部山公園]] === 文化施設 === * [[横浜美術館]] * [[三菱みなとみらい技術館]] * [[横浜みなとみらいホール]] * [[横浜みなと博物館]] * [[神奈川県立音楽堂]] * [[横浜能楽堂]] * [[相鉄本多劇場]](''2014年11月30日をもって閉館'') * [[そごう美術館]] === 文化財 === * [[ドックヤードガーデン]]([[重要文化財]]:旧横浜船渠株式会社第二号船渠) === 旧跡・宗教施設 === * [[伊勢山皇大神宮]] * [[成田山横浜別院延命院]] * [[水天宮平沼神社]] * [[杉山神社 (横浜市西区)|杉山神社]] * [[浅間神社 (横浜市西区)|浅間神社]] * [[願成寺 (横浜市)|願成寺]] * [[久保山霊堂]]([[A級戦犯]]荼毘所) === 祭事・催事 === * [[横浜開港祭]](臨港パーク・6月) * [[ヨコハマカーニバル]](横浜駅周辺・8月) === 商業・レジャー施設 === ; 横浜駅周辺 * [[JR横浜タワー]] * [[相鉄ジョイナス]] * [[そごう横浜店]] * [[横浜岡田屋]]、[[横浜岡田屋モアーズ]] * 横浜[[髙島屋]] * [[横浜スカイビル]] * [[横浜ポルタ]] ; みなとみらい地区 * [[ランドマークプラザ]](横浜ランドマークタワーに併設) * [[クイーンズスクエア横浜]]([[みなとみらい東急スクエア]]) * [[MARK IS みなとみらい]]([[Orbi Yokohama]]) * [[横浜ジャックモール]](''2012年9月30日をもって閉館'') * [[マリノスタウン]](''2016年1月をもって閉鎖'') * [[横浜アンパンマンこどもミュージアム]] * [[GENTO YOKOHAMA]]([[横浜BLITZ]]、[[横濱はじめて物語]]、[[109シネマズ]])(''2015年1月をもって閉館'') ; 戸部駅・西横浜駅周辺 * [[シネマノヴェチェント]] == 出身有名人 == * [[黒沢年雄]](俳優) * [[鈴木みのる]](格闘家) * [[田上等]] (政治活動家) * [[三井弘次]](俳優) * [[高樹千佳子]](タレント) * [[都千代]](長寿世界一) <!--本人が公表している場合のみ記載可--> === 住民票を持つ有名な生物・[[名誉区民]] === * [[タマちゃん]](西玉夫) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Nishi-ku, Yokohama}} {{See also|Category:西区 (横浜市)}} * [[西区 (曖昧さ回避)]] == 外部リンク == {{osm box|r|2689468}} * [https://www.city.yokohama.lg.jp/nishi/ 西区公式サイト] * {{ウィキトラベル インライン|横浜市/西区|西区}} {{横浜市西区の町名}} {{神奈川県の自治体}} {{Normdaten}} {{Japan-area-stub}} {{DEFAULTSORT:にしく}} [[Category:横浜市の区]] [[Category:西区 (横浜市)|*]]
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2023-12-22T14:07:23Z
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[ "Template:Cite web", "Template:Japan-area-stub", "Template:Pathnav", "Template:特殊文字", "Template:Hidden end", "Template:ウィキトラベル インライン", "Template:日本の行政区", "Template:Hidden begin", "Template:Gallery", "Template:脚注ヘルプ", "Template:PDFlink", "Template:神奈川県の自治体", "Template:Normdaten", "Template:Reflist", "Template:Commonscat", "Template:See also", "Template:Osm box", "Template:横浜市西区の町名" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8C%BA_(%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82)
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西区 (大阪市)
西区(にしく)は、大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。市の都心中西部に位置している。日本最古の行政区であり、大阪都心6区の一角を成す。 市制施行以前にさかのぼる郡区町村編制法施行により発足し、以来統廃合されていない区の一つで、当区のほかに京都市上京区・下京区も該当するが、大阪府が京都府より2か月早く施行しているため、当区が日本最古の区となっている。また、同法施行により発足した大阪4区(東区・南区・西区・北区)のうち唯一統廃合されていない、大阪市最古の区でもあり、日本の政令指定都市で西区と称する行政区のうち最古の区でもある。 都心回帰の傾向が強まるなか、職住近接に適した有数の良質なマンションや集合住宅が立ち並ぶ高層住宅地として再開発が進んでおり、特に区南東部の新町・北堀江・南堀江では小学校の教室が不足するなど、人口が急増している。同じ大阪市の中央区や北区と同様に人口の自然増も大きく、2021年5月現在では日本の政令指定都市の行政区の中で最も人口密度が高くなっている。これらのことから、老年人口の比率が大阪市24区の中で最も低くなっている。 区域は東を西横堀川(埋立。阪神高速1号環状線北行き)、南を道頓堀川・岩崎運河、西を境川運河(埋立)、北を安治川・土佐堀川に囲まれた矩形をしている。おおむね中央を南流する木津川を境に、東西に大別される。 江戸時代から全域が市街化していた東部は、江戸堀川・京町堀川・海部堀川・阿波堀川・薩摩堀川・立売堀川・長堀川・堀江川・百間堀川といった堀川が巡らされた水運主体の街だったが、これらの堀川は戦後に全て埋め立てられた。 寺島の木津川沿いや、富島・古川・安治川新地など江戸時代から市街化していた地域もあるが、大半を旧・西成郡九条村が占めていた西部は明治以降に市街化された地域が多い。 上町台地から西部に位置し1869年、近世以来の大坂三郷を再編して発足した四大組の一つである西大組の流れを汲む。1875年の大区小区制施行により西大組は第3大区となり、1879年の郡区町村編制法施行により第3大区が西区となった(ただし、のちの西浜町域を除く)。1889年の市制施行により区域と名称はそのまま大阪市の行政区へ移行した。 1897年に西成郡九条村・川南村の木津川以西・川北村の伝法川以南を編入。1925年に港区と此花区を分区。この際、川口・本田地区を除く旧九条村は一旦港区となり、それまで北区だった富島・古川・安治川地区も港区となった。1943年より現在の区域となる。区役所は当初、阿波堀通1丁目に設置されたが、1880年に薩摩堀北之町へ、1893年に江之子島東之町へ、1934年に西長堀北通4丁目(現在地)へ移転された。 木津川および百間堀川より東の下船場・堀江は、近世以来多くの堀川が整備され、雑喉場魚市場、海産物などの問屋街、土佐藩・薩摩藩・徳山藩などの蔵屋敷が立地して栄え、船運が発達した地域であった。また、新町遊廓や堀江新地など遊興の場も作られた。木津川より西の九条は淀川河口の中洲だったが、近世初期に農地として開発され「衢壌(くじょう)島」と名づけられ、後に九条と改められた。安治川と木津川の分流点である九条北端の川口には大坂船手の船番所や組屋敷などが置かれた。 明治時代には大坂船手跡地に川口外国人居留地が設置(1868年 - 1899年)され、大阪における文明開化の象徴の地となった。川口の木津川対岸に位置する江之子島には大阪府庁舎・大阪市庁舎が建設されるなど、大正時代まで大阪府の行政の中心地であった。川口居留地は川底が浅く大型商船が入らないため、外国商人は間もなく神戸に移っていったが、代わって中国商人が入り、日中戦争の激化までは中華街が存在した。一方、江之子島の南、尻無川(埋立部分)と木津川に挟まれた寺島には明治以降新町遊郭から遊廓が移転し松島遊廓となり、堀江新地も引き続き遊興地として繁栄した。松島に近い九条新道(九条商店街)は「西の心斎橋」と呼ばれた事もあった。 しかし、下船場の市場の機能はより大きな市場に集約されてゆく。雑喉場魚市場と靱の海産物問屋街は1931年に開設した大阪市中央卸売市場に移転統合され、問屋街の跡地は大阪大空襲で壊滅のうえ占領軍の飛行場にされ(現在の靱公園)、松島新地や堀江新地は戦後廃止された。また、御堂筋の開通により、梅田と難波を初めて結んだ四つ橋筋は相対的に地位が低下した。材木商、陶器商、機械金属商なども高度成長期以降、都心の渋滞を避けて郊外に移転し、流通の簡素化で問屋業が衰退するなど、かつてほどの活気はなくなった。 しかし、近年の都心回帰により、堂島や中之島などの都心ビジネス街に隣接した住宅エリアとしての利便性が見直され、高層マンションの相次ぐ建設などで人口が急増すると共に、堀江・新町・靱公園周辺などがカフェ・レストラン・服飾店・インテリアショップ・雑貨店などファッショナブルな店舗の新しい集積地となった。また、江戸堀・京町堀・新町に数多く残る、大正~昭和初期築の近代建築や雑居ビルがギャラリーなど文化情報発信の拠点として活用され続けているなど、街への魅力から近年訪れたり店を開く若者が増加している。 2005年に実施された国勢調査において、人口増加率が隣接する中央区に次いで高い14.5%増を記録した。これは政令指定都市の行政区の中では大阪市中央区、横浜市都筑区に次いで3番目に高い数値である。1889年の市制施行時の東南西北4区のうち、東区と南区は合併して中央区になり、北区は北隣の大淀区と合併して新たな北区となったため、市制施行時から単独で存在する区としては西区が最古ということになるが、現在の西区は都心回帰による再開発によって関西の文化・流行の最先端を進む区に変貌しつつあり、進取の気風を重んじる大阪らしさを象徴する地域となっている。 かつて西区を経由する鉄道路線は大阪市営地下鉄(現:大阪市高速電気軌道)のみだったが、2009年3月20日開業の阪神なんば線がこの区で初めての民営路線による駅の開設となった。 その他、西日本旅客鉄道(JR西日本)大阪環状線が大正駅 - 弁天町駅間でごく僅かながら西区(千代崎三丁目・境川一丁目)を通過しており、車内から京セラドーム大阪が俯瞰できる。なお、計画中の仮称なにわ筋線では、区内にJR西日本と南海電気鉄道の共同使用駅となる西本町駅が開業する予定となっている。開業すれば阪神に次いで、2・3社目(JR西日本・南海)となる民営路線による駅が新たに設置されることとなる。 1997年に近鉄バファローズのホームスタジアムとして大阪ドーム(2006年・命名権取得のため「京セラドーム大阪」に改称)が完成すると、球場の最寄の商店街の一つである当区のナインモール九条商店街もバファローズのお膝元として地域に密着したチーム作りを応援する体制を整えるようになった。これをきっかけに「バファロード」なる愛称も付いた。 しかし、2004年シーズン中にオリックス・ブルーウェーブとの合併計画が発覚したことをきっかけに、同商店街では合併の撤回運動を展開したが、合併決定は覆らなかった。だが2005年度以後もチーム名にバファローズが残ること、大阪ドーム(京セラドーム大阪)を本拠(専用球場、2006年のみ神戸スカイマークスタジアム(当時)に変更)とすることから今後も同商店街はバファローズのお膝元の商店街と位置づけて様々な応援キャンペーンを続けている。 なお西区は大阪市営住宅(旧大阪府営住宅含む)は一切存在せず、同様の事例は他に福島区も該当する。 大阪発祥の企業である朝日新聞社・サントリー・大阪ガス・象印マホービン・タイガー魔法瓶・コクヨはこの西区が発祥地であるが、大阪ガスの方は、現在大阪ドームの近接地に「ドームシティーガスビル」という大阪ガス所有のビジネスビルがある。
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西区(にしく)は、大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。市の都心中西部に位置している。日本最古の行政区であり、大阪都心6区の一角を成す。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{出典の明記|date=2023年8月}} {{日本の行政区 |自治体名 = 西区 |画像 = Kyocera Dome Osaka1.jpg |画像の説明 = [[京セラドーム大阪]] |都道府県 = 大阪府 |支庁 = |市 = 大阪市 |コード = 27106-3 |隣接自治体・行政区 = ''大阪市''([[北区 (大阪市)|北区]]、[[此花区]]、[[浪速区]]、[[港区 (大阪市)|港区]]、[[中央区 (大阪市)|中央区]]、[[福島区]]、[[大正区]]) |木 = |花 = [[サクラ]]、[[バラ]]、[[パンジー]]、[[コスモス]] |シンボル名 = 他のシンボル |鳥など = |郵便番号 = 550-8501 |所在地 = 西区新町四丁目5番14号<br />{{small|{{ウィキ座標度分秒|34|40|34.5|N|135|29|9.6|E|region:JP-27_type:adm3rd|display=inline,title}}}}<br />[[File:Osaka Nishi Ward Office.jpg|center|220px]]{{center|西区役所庁舎}} {{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} |外部リンク = [https://www.city.osaka.lg.jp/nishi/ 大阪市西区] |位置画像 = [[File:Nishi-ku in Osaka City.svg|320px|西区 (大阪市)位置図]] |特記事項 = }} '''西区'''(にしく)は、[[大阪市]]を構成する24[[行政区#行政区の一覧|行政区]]のうちの一つ。市の都心中西部に位置している。[[日本]]最古の行政区であり、[[大阪都心6区]]の一角を成す。 == 概要 == [[市制]]施行以前にさかのぼる[[郡区町村編制法]]施行により発足し、以来統廃合されていない区の一つで、当区のほかに[[京都市]][[上京区]]・[[下京区]]も該当するが、[[大阪府]]が[[京都府]]より2か月早く施行しているため、当区が[[日本]]最古の区となっている。また、同法施行により発足した大阪4区([[東区 (大阪市)|東区]]・[[南区 (大阪市)|南区]]・西区・[[北区 (大阪市)|北区]])のうち唯一統廃合されていない、大阪市最古の区でもあり、日本の[[政令指定都市]]で[[西区 (曖昧さ回避)|西区]]と称する[[行政区]]のうち最古の区でもある。 [[都心回帰]]の傾向が強まるなか、職住近接に適した有数の良質な[[マンション]]や[[集合住宅]]が立ち並ぶ高層住宅地として再開発が進んでおり、特に区南東部の[[新町 (大阪市)|新町]]・[[北堀江]]・[[南堀江]]では小学校の教室が不足するなど、人口が急増している。同じ大阪市の中央区や北区と同様に人口の自然増も大きく、2021年5月現在では日本の政令指定都市の行政区の中で最も人口密度が高くなっている{{要出典|date=2023年12月}}。これらのことから、老年人口の比率が大阪市24区の中で最も低くなっている{{要出典|date=2023年12月}}。 == 地理 == 区域は東を[[西横堀川]](埋立。[[阪神高速1号環状線]]北行き)、南を[[道頓堀川]]・[[岩崎運河]]、西を[[境川運河]](埋立)、北を[[旧淀川|安治川]]・[[土佐堀川]]に囲まれた矩形をしている。おおむね中央を南流する[[木津川 (大阪府)|木津川]]を境に、東西に大別される。 === 東部 === 江戸時代から全域が市街化していた東部は、[[江戸堀川]]・[[京町堀川]]・[[海部堀川]]・[[阿波堀川]]・[[薩摩堀川]]・[[立売堀川]]・[[長堀川]]・[[堀江川]]・[[百間堀川]]といった堀川が巡らされた水運主体の街だったが、これらの堀川は戦後に全て埋め立てられた。 ; [[下船場]] : [[船場 (大阪市)|船場]]の西隣りのエリアで、西船場とも呼ばれる。都心のオアシスのひとつとなっている[[靱公園]]が[[靱本町]]にあり、[[南船場]]に隣接する[[新町 (大阪市)|新町]]は、カフェ・[[レストラン]]・服飾店・インテリアショップ・雑貨店などファッショナブルな店舗の新しい集積地となっている。 ; [[堀江 (大阪市)|堀江]] : [[島之内]]の西隣りのエリアで、堀江川跡を境に南北に分かれる。[[南堀江]]の立花通り沿いに服やインテリアの店舗、カフェなどが広がっている。 ; [[江之子島]] : 下船場の西に位置する中洲だったが、百間堀川が埋め立てられたため地続きになっている。[[明治]]・[[大正]]期における地方行政の中心地だった所で、[[大阪府庁]]・[[大阪市役所]]・西区役所の3庁舎が江之子島に立地していた時期もあった。 === 西部 === 寺島の木津川沿いや、富島・[[古川 (大阪市西区)|古川]]・安治川新地など江戸時代から市街化していた地域もあるが、大半を旧・[[西成郡]][[九条村]]が占めていた西部は明治以降に市街化された地域が多い。 ; [[千代崎]] : 江戸時代には寺島、明治以降は松島と呼ばれた、木津川と[[尻無川 (大阪府)|尻無川]]に挟まれた中州だったが、尻無川上流部が埋め立てられたため地続きになっている。明治初期に[[松島遊廓]]が開設され、大変な賑わいを見せていたが、[[大阪大空襲]]により焼失した。 : 江戸時代の[[新田]]開発で寺島の南側に誕生した岩崎新田には、大阪市編入と同年に[[大阪ガス]]が設立され、ちょうど100年後には大阪ガスの工場跡地に[[大阪ドーム]]が開場した。 ; [[川口 (大阪市)|川口]] : 北東端は[[旧川口居留地|川口外国人居留地]]跡、北部は当時の[[大阪港]]だった富島にあたる。安治川沿いの河港であるため大型商船が入港できず、外国商人らは早々に川口を去って[[神戸市|神戸]]に移った。その後、居留地の南側の本田の一部にかけて中国商人が入るようになり、[[日中戦争]]激化まで小規模ながら[[中華街]]が存在した。 ; [[安治川 (大阪市)|安治川]] : 江戸時代の安治川開削に伴って両岸に開発された[[新地]]の南半分にあたり、旧河道沿いの富島・古川と同時期に大坂市街へ編入された。日本初の[[沈埋トンネル]]である[[安治川トンネル]]が対岸の[[西九条 (大阪市)|西九条]]とを結ぶ。 ; [[本田 (大阪市)|本田]]・[[九条 (大阪市)|九条]] : [[九条駅 (大阪府)|九条駅]]を挟んで東側にナインモール九条、西側にキララ九条という2つの[[アーケード (建築物)|アーケード]][[商店街]]が伸び、東側には[[松島新地]]もある。境川運河跡付近には工場が多い。 === 地名 === *[[安治川 (大阪市)|安治川]](あじがわ) *[[阿波座]](あわざ) *[[立売堀]](いたちぼり) *[[靱本町]](うつぼほんまち) *[[江戸堀]](えどぼり) *[[江之子島]](えのこじま) *[[川口 (大阪市)|川口]](かわぐち) *[[北堀江]](きたほりえ) *[[南堀江]](みなみほりえ) *[[京町堀]](きょうまちぼり) *[[九条 (大阪市)|九条]](くじょう) *[[九条南]](くじょうみなみ) *[[境川 (大阪市)|境川]](さかいがわ) *[[新町 (大阪市)|新町]](しんまち) *[[千代崎]](ちよざき) *[[土佐堀]](とさぼり) *[[西本町 (大阪市)|西本町]](にしほんまち) *[[本田 (大阪市)|本田]](ほんでん) == 人口 == {|style="font-size:small" |style="text-align:center"|西区(に相当する地域)の人口の推移 |- |{{人口統計/fluctuation|||||||||||56980|50078|53695|58157|59288|58674|63402|72591|83058|92430}} |- |style="text-align:right"|[[総務省]][[統計局]] [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]より |} == 歴史 == [[画像:花乃井.JPG|250px|thumb|[[大阪市立花乃井中学校]]そばにある此花乃井(石見国津和野藩亀井氏の蔵屋敷内にあった井戸)]] [[上町台地]]から西部に位置し[[1869年]]、近世以来の[[大坂三郷]]を再編して発足した四大組の一つである西大組の流れを汲む。[[1875年]]の[[大区小区制]]施行により西大組は第3大区となり、[[1879年]]の[[郡区町村編制法]]施行により第3大区が西区となった(ただし、のちの[[西浜町 (大阪府)|西浜町]]域を除く)。[[1889年]]の[[市制]]施行により区域と名称はそのまま大阪市の行政区へ移行した。 [[1897年]]に[[西成郡]][[九条村]]・[[川南村 (大阪府)|川南村]]の木津川以西・[[川北村 (大阪府)|川北村]]の伝法川以南を編入。[[1925年]]に[[港区 (大阪市)|港区]]と[[此花区]]を分区。この際、川口・本田地区を除く旧九条村は一旦港区となり、それまで[[北区 (大阪市)|北区]]だった富島・[[古川 (大阪市西区)|古川]]・[[安治川 (大阪市)|安治川]]地区も港区となった。[[1943年]]より現在の区域となる。区役所は当初、阿波堀通1丁目に設置されたが、[[1880年]]に薩摩堀北之町へ、[[1893年]]に江之子島東之町へ、[[1934年]]に西長堀北通4丁目(現在地)へ移転された。 木津川および百間堀川より東の[[下船場]]・[[堀江 (大阪市)|堀江]]は、近世以来多くの堀川が整備され、[[ざこば|雑喉場魚市場]]、海産物などの[[卸売|問屋]]街、[[土佐藩]]・[[薩摩藩]]・[[徳山藩]]などの[[蔵屋敷]]が立地して栄え、船運が発達した地域であった。また、[[新町遊廓]]や[[堀江 (花街)|堀江新地]]など遊興の場も作られた。木津川より西の九条は淀川河口の中洲だったが、近世初期に農地として開発され「衢壌(くじょう)島」と名づけられ、後に九条と改められた。安治川と木津川の分流点である九条北端の[[川口 (大阪市)|川口]]には大坂船手の船番所や組屋敷などが置かれた。 [[明治時代]]には大坂船手跡地に[[旧川口居留地|川口外国人居留地]]が設置([[1868年]] - [[1899年]])され、大阪における[[文明開化]]の象徴の地となった。川口の木津川対岸に位置する江之子島には[[大阪府庁舎]]・[[大阪市庁舎]]が建設されるなど、[[大正時代]]まで大阪府の行政の中心地であった。川口居留地は川底が浅く大型商船が入らないため、外国商人は間もなく[[神戸市|神戸]]に移っていったが、代わって中国商人が入り、[[日中戦争]]の激化までは[[中華街]]が存在した。一方、江之子島の南、[[尻無川]](埋立部分)と木津川に挟まれた寺島には明治以降新町遊郭から[[遊廓]]が移転し[[松島遊廓]]となり、堀江新地も引き続き遊興地として繁栄した。松島に近い九条新道(九条商店街)は「西の[[心斎橋]]」と呼ばれた事もあった。 しかし、下船場の市場の機能はより大きな市場に集約されてゆく。雑喉場魚市場と靱の海産物問屋街は[[1931年]]に開設した[[大阪市中央卸売市場本場|大阪市中央卸売市場]]に移転統合され、問屋街の跡地は[[大阪大空襲]]で壊滅のうえ[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]の飛行場にされ(現在の[[靱公園]])、松島新地や堀江新地は戦後廃止された。また、[[御堂筋]]の開通により、[[梅田]]と[[難波]]を初めて結んだ[[四つ橋筋]]は相対的に地位が低下した。材木商、陶器商、機械金属商なども高度成長期以降、都心の渋滞を避けて郊外に移転し、流通の簡素化で問屋業が衰退するなど、かつてほどの活気はなくなった。 <!--西区衰退の流れについて、さらに加筆を要す--> しかし、近年の[[都心回帰]]により、[[堂島]]や[[中之島 (大阪府)|中之島]]などの都心ビジネス街に隣接した住宅エリアとしての利便性が見直され、高層[[マンション]]の相次ぐ建設などで人口が急増すると共に、堀江・新町・靱公園周辺などがカフェ・[[レストラン]]・服飾店・インテリアショップ・雑貨店などファッショナブルな店舗の新しい集積地となった。また、江戸堀・京町堀・新町に数多く残る、[[大正時代|大正]]~[[昭和時代|昭和]]初期築の[[近代建築]]や雑居ビルが[[ギャラリー (美術)|ギャラリー]]など文化情報発信の拠点として活用され続けているなど、街への魅力から近年訪れたり店を開く若者が増加している。 [[2005年]]に実施された[[国勢調査]]において、人口増加率が隣接する中央区に次いで高い14.5%増を記録した。これは政令指定都市の行政区の中では大阪市中央区、[[横浜市]][[都筑区]]に次いで3番目に高い数値である。[[1889年]]の市制施行時の東南西北4区のうち、東区と南区は合併して中央区になり、北区は北隣の大淀区と合併して新たな北区となったため、市制施行時から単独で存在する区としては西区が最古ということになるが、現在の西区は都心回帰による再開発によって関西の文化・流行の最先端を進む区に変貌しつつあり、進取の気風を重んじる大阪らしさを象徴する地域となっている。 == 交通 == === 鉄道 === かつて西区を経由する鉄道路線は[[大阪市営地下鉄]](現:大阪市高速電気軌道)のみだったが、[[2009年]][[3月20日]]開業の[[阪神なんば線]]がこの区で初めての民営路線による駅の開設となった。 ; [[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) : [[File:Osaka Metro Yotsubashi line symbol.svg|14px]][[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] ::*[[肥後橋駅]] - [[本町駅]] - [[四ツ橋駅]] : [[File:Osaka Metro Chuo line symbol.svg|14px]][[Osaka Metro中央線|中央線]] ::*[[九条駅 (大阪府)|九条駅]] - [[阿波座駅]] : [[File:Osaka Metro Sennichimae line symbol.svg|14px]][[Osaka Metro千日前線|千日前線]] ::*阿波座駅 - [[西長堀駅]] : [[File:Osaka Metro Nagahori Tsurumi-ryokuchi line symbol.svg|14px]][[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|長堀鶴見緑地線]] ::*[[ドーム前千代崎駅]] - 西長堀駅 - [[西大橋駅]] ; [[阪神電気鉄道]] : [[File:Number prefix Hanshin line.svg|21px|HS]] [[阪神なんば線]] ::*九条駅 - ドーム前駅 その他、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[大阪環状線]]が[[大正駅 (大阪府)|大正駅]] - [[弁天町駅]]間でごく僅かながら西区(千代崎三丁目・境川一丁目)を通過しており、車内から京セラドーム大阪が俯瞰できる。なお、計画中の仮称[[なにわ筋線]]では、区内にJR西日本と[[南海電気鉄道]]の共同使用駅となる[[西本町駅]]が開業する予定となっている。開業すれば阪神に次いで、2・3社目(JR西日本・南海)となる民営路線による駅が新たに設置されることとなる。 === バス === *[[大阪シティバス]] - 本社(旧交通局本庁舎)は当区九条南にある。また以前は本庁舎および大阪ドームに隣接して市バス九条営業所があった。また、ドーム前千代崎駅前にバスターミナルがある。ドーム前千代崎と[[イケア|IKEA]]鶴浜を結ぶIKEA⇔梅田・大正Expressを運行している。 === 道路 === [[画像:Watanabebashi p3890.jpg|500px|thumb|四つ橋筋の渡辺橋、堂島川上の阪神高速道路]] *[[阪神高速道路]] **[[阪神高速3号神戸線|3号神戸線]] ***[[西長堀出入口]] - [[中之島西出入口]] **[[阪神高速16号大阪港線|16号大阪港線]] ***[[阿波座出入口]] - 西長堀出入口 - [[九条出口]] - [[本田入口]] *[[土佐堀通]] *[[本町通 (大阪市)|本町通]]([[国道172号]]) *[[中央大通]] *[[長堀通]]([[大阪府道173号大阪八尾線]]) *[[新なにわ筋]]([[大阪府道29号大阪臨海線]]) *[[あみだ池筋]] *[[なにわ筋]]([[大阪府道・兵庫県道41号大阪伊丹線|大阪府道41号大阪伊丹線]]) *[[四つ橋筋]] == 教育 == [[画像:Yotsubashi-suji Shinmachi.jpg|250px|thumb|四つ橋筋 新町付近 向かって左側2つ目の建物は昭和3年建造の[[長瀬産業]]本館ビル]] === 専修学校 === * [[大阪ブライダル専門学校]] * [[ホスピタリティツーリズム専門学校大阪]] * [[大阪コミュニケーションアート専門学校]] * [[大阪スクールオブミュージック専門学校]] * 大阪ダンス・俳優&舞台芸術専門学校 === 高等学校 === * [[大阪市立西高等学校]] ※2022年度より、統廃合により [[北区 (大阪市)|北区]]・[[大阪府立桜和高等学校]]内の校舎に移転。 === 中学校 === * [[大阪市立西中学校]] * [[大阪市立花乃井中学校]] * [[大阪市立堀江中学校]] === 小学校 === {{columns-list|15em| * [[大阪市立西船場小学校]] * [[大阪市立日吉小学校]] * [[大阪市立九条南小学校]] * [[大阪市立九条東小学校]] * [[大阪市立九条北小学校]] * [[大阪市立本田小学校]] * [[大阪市立堀江小学校]] * [[大阪市立明治小学校]] }} === 幼稚園 === {{columns-list|15em| * 大阪市立九条幼稚園 * 大阪市立靱幼稚園 * 大阪市立日吉幼稚園 * 大阪市立西船場幼稚園 * 大阪市立堀江幼稚園 * 福音幼稚園 * 川口聖マリア幼稚園 }} == 名所・旧跡・施設 == {{右| [[画像:Utsubo park.jpg|250px|thumb|none|靱公園]] [[画像:Uccj osaka church01 2048.jpg|250px|thumb|none|日本基督教団 大阪教会]] [[画像:OsakaDome.jpg|250px|thumb|none|大阪ドーム(京セラドーム大阪)]] }} *[[靱公園]] **[[靱テニスセンター]] *[[松島公園 (大阪市)|松島公園]] *[[大阪科学技術館]] **[[レーザー技術総合研究所]] *[[京セラドーム大阪]] *[[大阪市立中央図書館]] *[[大阪府立江之子島文化芸術創造センター]] *[[楠永神社]] *[[金光教玉水教会]](国の登録有形文化財) *[[土佐稲荷神社]] *[[御霊神社 (大阪市)|御霊神社堀江行宮]] *[[サムハラ神社]] *[[茨住吉神社]] *あみだ池([[和光寺]]) *[[オリックス劇場]] *[[旧川口居留地]] **[[川口基督教会|日本聖公会川口基督教会]](国の登録有形文化財) **[[川口アパート]] *[[日本基督教団大阪教会]](国の登録有形文化財) *[[日本キリスト教会大阪西教会]] *[[山内ビル]](国の登録有形文化財) *[[日本生命病院]] *[[大野記念病院]] *[[大阪府津波・高潮ステーション]] === バファローズのお膝元 === [[1997年]]に[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]のホームスタジアムとして大阪ドーム([[2006年]]・[[命名権]]取得のため「京セラドーム大阪」に改称)が完成すると、球場の最寄の商店街の一つである当区のナインモール九条商店街もバファローズのお膝元として地域に密着したチーム作りを応援する体制を整えるようになった。これをきっかけに「バファロード」なる愛称も付いた。 しかし、[[2004年]]シーズン中に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]との合併計画が発覚したことをきっかけに、同商店街では合併の撤回運動を展開したが、合併決定は覆らなかった。だが[[2005年]]度以後もチーム名にバファローズが残ること、大阪ドーム(京セラドーム大阪)を本拠([[専用球場]]、2006年のみ[[神戸総合運動公園野球場|神戸スカイマークスタジアム]](当時)に変更)とすることから今後も同商店街はバファローズのお膝元の商店街と位置づけて様々な応援キャンペーンを続けている。 == 集合住宅 == === 超高層マンション === * [[大阪ひびきの街 ザ・サンクタスタワー]] * ライオンズマンション大阪スカイタワー * 阿波座ライズタワーズフラッグ46 * エルザグレース堀江タワー === 住宅団地 === * [[都市再生機構]][[西長堀アパート]](当時の日本住宅公団による都市型高層住宅の第1号として知られている) * [[大阪市住宅供給公社]]コーシャハイツ九条南 * 大阪市住宅供給公社コーシャハイツ川口 なお西区は[[公営住宅|大阪市営住宅]](旧大阪府営住宅含む)は一切存在せず、同様の事例は他に[[福島区]]も該当する。 == 西区に本社を置く企業・団体 == [[画像:Daido Life Osaka Head Office Building, Osaka (Jan 2020).jpg|150px|thumb|[[大同生命大阪本社ビル]]<br />旧[[大同生命肥後橋ビル]]のテラコッタに、限りなく近づけ旧ビルのイメージを大切に建築された。]] [[画像:Domecity Gas Buildings.jpg|200px|thumb|大阪ガス発祥地・西区にあるドームシティーガスビル([[大阪ドーム]]そば)]] [[画像:ENWA Company, Limited Building.JPG|150px|thumb|久我ビル北館([[ENWA]])]] [[画像:Headquarter of Toyo Tire & Rubber.jpg|150px|thumb|[[TOYO TIRE]]]] * [[あみだ池大黒]] - 1805年(文化2年)創業の大阪名物[[おこし]]メーカー * [[ENWA]] - [[テレビ会議]](ビデオ会議、[[WEB会議]])システムを販売している会社 * [[扇谷]] - 非鉄金属を主力とする産業資材の商社 * [[オージス総研]] - 大阪ガスグループのIT企業 * [[大八洲]] * [[大阪ソーダ]] * [[フルベール化粧品]] * [[大同生命保険]] * [[石原産業]] * [[長瀬産業]] * [[栗本鐵工所]] * [[山善]] - 『[[どてらい男]]』のモデルとして知られる[[山本猛夫 (実業家)|山本猛夫]]が創設した商社 * [[杉本商事]] * [[トラスコ中山]] * [[立花エレテック]] * [[アスワン (企業)|アスワン]] * [[大日本除虫菊]] - 金鳥ブランドで知られる[[殺虫剤]]などの総合日用品メーカー * [[因幡電機産業]] * [[大阪トヨペット]] * [[日本総合研究所 (株式会社)|日本総合研究所]] * [[住友倉庫]] * [[奥本製粉]] -「スキー」ブランドのパスタでその名を知られる製粉会社。[[神戸物産]]の運営する「業務スーパー」でも取り扱われている。 * [[丸一鋼管]] * [[TOYO TIRE]] - [[タイヤ]]のシェアで国内第4位。 * [[NTN]] * [[JSOL]](大阪本社) * [[銭高組]] * [[大阪屋]] * [[サカタインクス]] * [[オー・エム・コーポレーション]] * [[GIZA studio]] * [[近畿労働金庫]] * [[大同信用組合]] * [[日本ピラー工業]] - 東証1部上場。2017年に[[淀川区]]から移転。 * [[日本交通 (大阪府)|日本交通]] * [[水空間]] * [[非破壊検査 (企業)|非破壊検査]] * [[神戸生絲]] * [[ACジャパン]] - ここが発祥の地 * [[モンベル]] - [[1975年]]に[[辰野勇]]が創業した日本では数少なかった[[アウトドア]]総合メーカー * [[シティホーム建物管理]] * [[ビューティーラボラトリー]] * [[フジキン]] - [[バルブ]]や[[継手]]のメーカー。日本の企業で唯一[[チョウザメ]]の研究を行い、[[人工孵化]]にも成功している。 * [[テラモト (企業)|テラモト]] * [[長谷川工業]] * [[大幸薬品]] - 『[[正露丸]]』で有名な製薬会社。2014年3月に[[吹田市]]から本社機能を移転。なお吹田市の本社は登記上の本店として存続。 * [[大阪シティバス]] * [[アトリエかぐや|株式会社アステックトゥーワン]] * [[浪速運送]] * [[ワン・ダイニング]] * [[デイリースポーツ]](大阪本社) * [[ハクキンカイロ (企業)|ハクキンカイロ]] 大阪発祥の企業である[[朝日新聞社]]・[[サントリー]]・[[大阪ガス]]・[[象印マホービン]]・[[タイガー魔法瓶]]・[[コクヨ]]はこの西区が発祥地であるが、大阪ガスの方は、現在[[大阪ドーム]]の近接地に「ドームシティーガスビル」という大阪ガス所有のビジネスビルがある。 <gallery> 四つ橋筋江戸堀1交差点.JPG|四つ橋筋 江戸堀一丁目交差点 Headquarter of Non-Destructive Inspection Co., Ltd..JPG|非破壊検査 Headquarter of Dainihon Jochugiku Company, Limited 1.JPG|[[大日本除虫菊]] </gallery> == 出身有名人 == *[[筒井康隆]](小説家) *[[市川右太衛門]](俳優) *[[嵐璃徳]](俳優) *[[梶井基次郎]](小説家) *[[三好達治]](詩人) *[[島野愛友利]](女子野球選手) *[[田尾安志]](元プロ野球選手) *[[谷井等]]([[シナジーマーケティング]]創業者) *[[戸田義郎]](経営学者、元[[神戸大学]]学長) *[[藤山寛美]](喜劇役者) *[[山内久司]](TVプロデューサー・[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]常任顧問) *[[山本富士子]](女優) *[[U.K. (タレント)|U.K.]](ラジオDJ・タレント。本名:楠雄二朗、別名:くっすん) == 関連項目 == *[[西区|西区 (曖昧さ回避)]] - 全国の西区の一覧 == 外部リンク == {{Commonscat|Nishi-ku, Osaka}} * [https://www.city.osaka.lg.jp/nishi/ 大阪市西区] {{Japan-area-stub}} {{大阪府の自治体}} {{大阪市西区の町名}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にしく}} [[Category:大阪市の区]] [[Category:戦前日本の府県の区]] [[Category:西区 (大阪市)|*]]
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北区
北区(きたく) 日本の特別区、行政区。 北区(プク=ク(북구)) 北区・北區(日本語読み:ほくく、拼音: bĕiqū)
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北区(きたく)
'''北区'''(きたく) == 日本 == 日本の[[特別区]]、[[行政区]]。 {|class="wikitable" !名称!!種類!!発足年月日!!設置の理由 |- |[[北区 (東京都)]]||[[特別区]]||[[1947年]](昭和22年)[[3月15日]]||[[滝野川区]]・[[王子区]]が[[日本の市町村の廃置分合|合併]]<br />(同年[[5月3日]]の特別区移行までは行政区) |- |[[北区 (札幌市)]]||rowspan="11"|[[行政区]]||[[1972年]](昭和47年)[[4月1日]]||[[政令指定都市]]移行 |- |[[北区 (さいたま市)]]||[[2003年]](平成15年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[北区 (新潟市)]]||[[2007年]](平成19年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[北区 (浜松市)]]||[[2007年]](平成19年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[北区 (名古屋市)]]||[[1944年]](昭和19年)[[2月11日]]||[[東区 (名古屋市)|東区]]・[[西区 (名古屋市)|西区]]から分離 |- |[[北区 (京都市)]]||[[1955年]](昭和30年)[[9月1日]]||[[上京区]]から分離 |- |[[北区 (大阪市)]]||[[1989年]](平成元年)[[2月13日]]||旧[[北区 (大阪市)|北区]]・[[大淀区]]が合併 |- |[[北区 (堺市)]]||[[2006年]](平成18年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[北区 (神戸市)]]||[[1973年]](昭和48年)[[8月1日]]||[[兵庫区]]から分離 |- |[[北区 (岡山市)]]||[[2009年]](平成21年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[北区 (熊本市)]]||[[2012年]](平成24年)4月1日||政令指定都市移行 |} == 大韓民国 == '''北区'''(プク=ク({{lang|ko|북구}})) * [[北区 (釜山広域市)]] - [[釜山広域市]]にある区。 * [[北区 (大邱広域市)]] - [[大邱広域市]]にある区。 * [[北区 (光州広域市)]] - [[光州広域市]]にある区。 * [[北区 (蔚山広域市)]] - [[蔚山広域市]]にある区。 * [[北区 (浦項市)]] - [[慶尚北道]][[浦項市]]にある区。 == 中華民国 == '''北区'''・'''北區'''(日本語読み:ほくく、{{Lang-zh|p=bĕiqū}}) * [[北区 (台南市)]] - [[台南市]]の市轄区の一つ。 * [[北区 (台中市)]] - [[台中市]]の市轄区の一つ。 * [[北区 (新竹市)]] - [[新竹市]]の市轄区の一つ。 * [[北区 (三重市)]] - [[三重市]]の市轄区の一つ。 == 中華人民共和国 == === 香港 === * [[北区 (香港)]] === マカオ === * [[北区 (マカオ)]] == ブルガリア == * [[北区 (プロヴディフ)]] - [[プロヴディフ]]の[[ラヨン]]の一つ。 == 満洲国 == * [[北区 (牡丹江市)]] - [[牡丹江省]][[牡丹江市]]の区。 == 関連項目 == * [[区 (曖昧さ回避)]] * [[中央区 (曖昧さ回避)]] * [[中区 (曖昧さ回避)]] * [[西区 (曖昧さ回避)]] * [[東区 (曖昧さ回避)]] * [[南区 (曖昧さ回避)]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{地名の曖昧さ回避|きたく}}
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南区
南区(みなみく) 日本の行政区。 日本にかつてあった行政区。 南区(ナム=グ、ハングル:남구) 南区・南區(日本語読み:なんく、拼音: nánqū)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "南区(みなみく)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の行政区。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本にかつてあった行政区。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "南区(ナム=グ、ハングル:남구)", "title": "大韓民国" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "南区・南區(日本語読み:なんく、拼音: nánqū)", "title": "台湾" } ]
南区(みなみく)
'''南区'''(みなみく) == 日本 == 日本の[[行政区]]。 {|class="wikitable" !名称!!発足年月日!!設置の理由 |- |[[南区 (札幌市)]]||[[1972年]](昭和47年)[[4月1日]]||[[政令指定都市]]移行 |- |[[南区 (さいたま市)]]||[[2003年]](平成15年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[南区 (横浜市)]]||[[1943年]](昭和18年)[[12月1日]]||[[中区 (横浜市)|中区]]から分離 |- |[[南区 (相模原市)]]||[[2010年]](平成22年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[南区 (新潟市)]]||[[2007年]](平成19年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[南区 (浜松市)]]||[[2007年]](平成19年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[南区 (名古屋市)]]||[[1908年]](明治41年)4月1日||区制施行 |- |[[南区 (京都市)]]||[[1955年]](昭和30年)[[9月1日]]||[[下京区]]から分離 |- |[[南区 (堺市)]]||[[2006年]](平成18年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[南区 (岡山市)]]||[[2009年]](平成21年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[南区 (広島市)]]||[[1980年]](昭和55年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[南区 (福岡市)]]||[[1972年]](昭和47年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[南区 (熊本市)]]||[[2012年]](平成24年)4月1日||政令指定都市移行 |} 日本にかつてあった行政区。 {|class="wikitable" !名称!!所属した市!!種類!!設置された期間!!廃止の理由 |- |[[南区 (大阪市)]]||[[大阪市]]||[[行政区]]||[[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[1989年]](平成元年)[[2月13日]]||[[東区 (大阪市)|東区]]との[[日本の市町村の廃置分合|合併]] |} == 大韓民国 == '''南区'''(ナム=グ、[[ハングル]]:{{lang|ko|남구}}) * [[南区 (釜山広域市)]] - [[釜山広域市]]にある区。 * [[南区 (大邱広域市)]] - [[大邱広域市]]にある区。 * [[南区 (光州広域市)]] - [[光州広域市]]にある区。 * [[南区 (蔚山広域市)]] - [[蔚山広域市]]にある区。 * [[南区 (浦項市)]] - [[慶尚北道]][[浦項市]]にある区。 == 中華民国 == '''南区・南區'''(日本語読み:なんく、{{Lang-zh|p=nánqū}}) * [[南区 (台中市)]] - [[台中市]]の市轄区の一つ。 * [[南区 (台南市)]] - [[台南市]]の市轄区の一つ。 * [[南区 (三重市)]] - [[新北市]][[三重区]]の市轄区の一つ。 == 中華人民共和国 == * [[南区 (中山市)]] - [[広東省]][[中山市]]の郷級行政区の一つ。 === 香港 === * [[南区 (香港)]] == ブルガリア == * [[南区 (プロヴディフ)]] - [[プロヴディフ]]の[[ラヨン]]の一つ。 == 満州国 == * [[南区 (牡丹江市)]] - [[牡丹江省]][[牡丹江市]]に存在した区。 == 関連項目 == * [[区 (曖昧さ回避)]] * [[中央区 (曖昧さ回避)]] * [[中区 (曖昧さ回避)]] * [[東区 (曖昧さ回避)]] * [[西区 (曖昧さ回避)]] * [[北区 (曖昧さ回避)]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{地名の曖昧さ回避|みなみく}} [[en:Minami-ku]] [[pt:Distrito do Sul]]
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中区
中区(なかく) 日本の行政区。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中区(なかく)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の行政区。", "title": "日本" } ]
中区(なかく)
'''中区'''(なかく) == 日本 == [[日本]]の[[行政区]]。 ; 行政区一覧 {|class="wikitable sortable" !class="unsortable"|名称!!発足年月日!!設置の理由 |- |[[中区 (横浜市)]]||[[1927年]]([[昭和]]2年)[[10月1日]]||区制施行 |- |[[中区 (浜松市)]]||[[2007年]]([[平成]]19年)[[4月1日]]||[[政令指定都市]]移行 |- |[[中区 (名古屋市)]]||[[1908年]]([[明治]]41年)4月1日||区制施行 |- |[[中区 (堺市)]]|||[[2006年]](平成18年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[中区 (岡山市)]]||[[2009年]](平成21年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[中区 (広島市)]]||[[1980年]](昭和55年)4月1日||政令指定都市移行 |} ; その他 * [[中区 (多可町)]] - [[地域自治区]]。 == 大韓民国 == ; 中区(チュン = グ、ちゅうく) * [[中区 (ソウル特別市)]] - [[ソウル特別市]]の中心にある区。 * [[中区 (釜山広域市)]] - [[釜山広域市]]にある区。 * [[中区 (大邱広域市)]] - [[大邱広域市]]にある区。 * [[中区 (仁川広域市)]] - [[仁川広域市]]にある区。 * [[中区 (大田広域市)]] - [[大田広域市]]にある区。 * [[中区 (蔚山広域市)]] - [[蔚山広域市]]にある区。 == 中華民国 == ; 中区(ジョン - く、なかく) * [[中区 (台中市)]] - [[台中市]]の市轄区の一つ。 * [[中区 (台南市)]] - [[台南市]]の市轄区の一つ。 * [[中区 (三重市)]] - 三重市(→[[三重区]])の市轄区の一つ。 == 満洲国 == * [[中区 (牡丹江市)]] - [[牡丹江省]][[牡丹江市]]に存在した区。 == 関連項目 == * [[区 (曖昧さ回避)]] * [[中央区 (曖昧さ回避)]] * [[西区 (曖昧さ回避)]] * [[東区 (曖昧さ回避)]] * [[南区 (曖昧さ回避)]] * [[北区 (曖昧さ回避)]] * [[中京区]] - [[京都府]][[京都市]]にあるほぼ同義の行政区。 * [[中区駅]] - [[岐阜県]][[羽島市]]、[[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄竹鼻線|竹鼻線]]の廃止区間にあった駅。 * {{prefix}} * {{intitle}} {{地名の曖昧さ回避|なかく}}
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中央区
中央区(ちゅうおうく) 日本の特別区、行政区。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中央区(ちゅうおうく)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の特別区、行政区。", "title": "日本" } ]
中央区(ちゅうおうく)
'''中央区'''(ちゅうおうく) == 日本 == 日本の[[特別区]]、[[行政区]]。 {|class="wikitable sortable" !class="unsortable"|名称!!種類!!発足年月日!!設置の理由 |- |[[中央区 (東京都)]]||特別区||[[1947年]]([[昭和]]22年)[[3月15日]]||[[日本橋区]]と[[京橋区]]が合併<br>(同年5月3日の特別区移行までは行政区) |- |[[中央区 (札幌市)]]||rowspan=10|行政区||[[1972年]](昭和47年)[[4月1日]]||[[政令指定都市]]移行 |- |[[中央区 (さいたま市)]]||[[2003年]]([[平成]]15年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[中央区 (千葉市)]]||[[1992年]](平成4年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[中央区 (相模原市)]]||[[2010年]](平成22年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[中央区 (新潟市)]]||[[2007年]](平成19年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[中央区 (大阪市)]]||[[1989年]](平成元年)[[2月13日]]||[[東区 (大阪市)|東区]]と[[南区 (大阪市)|南区]]が合併 |- |[[中央区 (神戸市)]]||[[1980年]](昭和55年)[[12月1日]]||[[葺合区]]と[[生田区]]が合併 |- |[[中央区 (福岡市)]]||1972年(昭和47年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[中央区 (熊本市)]]||[[2012年]](平成24年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[中央区 (浜松市)]]||[[2024年]]([[令和]]6年)[[1月1日]]||[[中区 (浜松市)|中区]]と[[南区 (浜松市)|南区]]と[[東区 (浜松市)|東区]]と[[西区 (浜松市)|西区]]と[[北区 (浜松市)|北区]]の一部が合併 |} == ブルガリア == * [[中央区 (プロヴディフ)]] - [[プロヴディフ]]の[[ラヨン]]の1つ。 == ロシア == * {{仮リンク|中央区 (サンクトペテルブルク)|en|Tsentralny District, Saint Petersburg|ru|Центральный район (Санкт-Петербург)}} - [[サンクトペテルブルク]]の[[ラヨン]]の1つ。 == 関連項目 == * [[中央 (曖昧さ回避)]] * [[区 (曖昧さ回避)]] * [[中区 (曖昧さ回避)]] * [[東区 (曖昧さ回避)]] * [[西区 (曖昧さ回避)]] * [[南区 (曖昧さ回避)]] * [[北区 (曖昧さ回避)]] * [[中京区]] - [[京都府]][[京都市]]にあるほぼ同義の行政区。 * [[ミッテ区]] - [[ドイツ]]の都市にある、ほぼ同義の行政区。 * {{prefix}} * {{intitle}} {{地名の曖昧さ回避|ちゆうおうく}}
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緑区
緑区(みどりく)
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緑区(みどりく)
'''緑区'''(みどりく) ==区の一覧== {|class="wikitable" !名称!!種類!!発足年月日!!設置の理由 |- |[[緑区 (さいたま市)]]||rowspan="5"|[[行政区]]||[[2003年]][[4月1日]]||[[政令指定都市]]への移行 |- |[[緑区 (千葉市)]]||[[1992年]][[4月1日]]||政令指定都市への移行 |- |[[緑区 (横浜市)]]||[[1969年]][[10月1日]]||[[港北区]]からの分離 |- |[[緑区 (相模原市)]]||[[2010年]][[4月1日]]||政令指定都市への移行 |- |[[緑区 (名古屋市)]]||[[1963年]][[4月1日]]||[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[鳴海町]]の編入 |} ==全国緑区フォーラム== * [[名古屋市]]・[[横浜市]]・[[千葉市]]・[[さいたま市]]・[[相模原市]]の緑区を有する全国5つの政令指定都市は、いずれも大都市の中にあって比較的多くの自然が残るとともに、新しいまちづくりが進み、人口も年々増加しているという共通点を持っている。そのため、同じような環境を持つ5つの行政区が、全国規模で交流と連携を深め、知恵を出し合い、そして、共通するさまざまな課題に取り組み、個性豊かで活気に満ちた地域社会を築く事を目的に、「元気な緑区大集合(全国緑区フォーラム)」を創設している。 ==関連項目== *[[行政区画|区]] {{地名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:みとりく}}
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港区
港区(みなとく、こうく)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "港区(みなとく、こうく)", "title": null } ]
港区(みなとく、こうく)
'''港区'''(みなとく、こうく) == 港区(みなとく)== ;日本の[[特別区]]、[[行政区]] {|class="wikitable sortable" style="font-size:small;" |+ !名称!!所属する市<br /><small>(行政区の場合)</small>!!種類!!発足年月日!!設置の理由 |- |[[港区 (東京都)]]||([[東京都区部]])||[[特別区]]||[[1947年]](昭和22年)[[3月15日]]||[[芝区]]・[[麻布区]]・[[赤坂区]]が[[日本の市町村の廃置分合|合併]]<br />(同年[[5月3日]]の特別区移行までは行政区) |- |[[港区 (名古屋市)]]||[[名古屋市]]||[[行政区]]||[[1937年]](昭和12年)[[10月1日]]||[[熱田区]]・[[中川区]]・[[南区 (名古屋市)|南区]]から分離 |- |[[港区 (大阪市)]]||[[大阪市]]||行政区||[[1925年]](大正14年)[[4月1日]]||旧[[北区 (大阪市)|北区]]・[[西区 (大阪市)|西区]]から分離 |} == 港区(こうく) == * [[港区 (港則法)]] - [[港湾]]内の区域のこと。[[特定港]]については[[港則法]]第5条第1項に基づいて、[[港則法施行規則]]第3条により指定されている(同規則の別表第1に一覧がある)。 * [[港区 (港湾法)]] - [[港湾法]]第39条により、[[港湾管理者]]が[[臨港地区]]内において指定することができる分区のこと。商港区、特種物資港区、工業港区、鉄道連絡港区、漁港区、バンカー港区、保安港区、マリーナ港区、修景厚生港区の9種がある。 *[[香港特別行政区]]の略称の一つ。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:みなとく}} [[Category:日本の地名]] [[Category:同名の地名]]
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旭区
旭区(あさひく)
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旭区(あさひく) 旭区 (横浜市) - 横浜市を構成する18区のうちのひとつ。 旭区 (大阪市) - 大阪市を構成する24区のうちのひとつ。
'''旭区'''(あさひく) * [[旭区 (横浜市)]] - [[横浜市]]を構成する18[[行政区|区]]のうちのひとつ。 * [[旭区 (大阪市)]] - [[大阪市]]を構成する24区のうちのひとつ。 == 関連項目 == * {{intitle}} {{地名の曖昧さ回避}} {{デフォルトソート:あさひく}}
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東区
東区(ひがしく) 日本の行政区。 日本にかつてあった行政区。 東区(トン=グ(동구)) 東区・東區(ひがしく、ドンチュイ、拼音: dōngqū)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東区(ひがしく)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の行政区。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本にかつてあった行政区。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東区(トン=グ(동구))", "title": "大韓民国" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "東区・東區(ひがしく、ドンチュイ、拼音: dōngqū)", "title": "中華民国" } ]
東区(ひがしく)
'''東区'''(ひがしく) == 日本 == 日本の[[行政区]]。 {|class="wikitable" !名称!!発足年月日!!設置の理由 |- |[[東区 (札幌市)]]||[[1972年]](昭和47年)[[4月1日]]||[[政令指定都市]]移行 |- |[[東区 (新潟市)]]||[[2007年]](平成19年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[東区 (名古屋市)]]||[[1908年]](明治41年)4月1日||区制施行 |- |[[東区 (堺市)]]||[[2006年]](平成18年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[東区 (岡山市)]]||[[2009年]](平成21年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[東区 (広島市)]]||[[1980年]](昭和55年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[東区 (福岡市)]]||[[1972年]](昭和47年)4月1日||政令指定都市移行 |- |[[東区 (熊本市)]]||[[2012年]](平成24年)4月1日||政令指定都市移行 |} 日本にかつてあった行政区。 {|class="wikitable" !名称!!所属した市!!種類!!設置された期間!!廃止の理由 |- |[[東区 (大阪市)]]||[[大阪市]]||[[行政区]]||[[1889年]](明治22年)4月1日 - [[1989年]](平成元年)[[2月13日]]||[[南区 (大阪市)|南区]]との[[日本の市町村の廃置分合|合併]] |- |[[東区 (浜松市)]]||[[浜松市]]||[[行政区]]||[[2007年]](平成19年)4月1日 - [[2024年]](令和6年)[[1月1日]]||[[中区 (浜松市)|中区]]、[[西区 (浜松市)|西区]]、[[南区 (浜松市)|南区]]などとの[[日本の市町村の廃置分合|合併]] |} == 大韓民国 == '''東区'''(トン=グ(동구)) * [[東区 (釜山広域市)]] - [[釜山広域市]]にある区。 * [[東区 (大邱広域市)]] - [[大邱広域市]]にある区。 * [[東区 (仁川広域市)]] - [[仁川広域市]]にある区。 * [[東区 (光州広域市)]] - [[光州広域市]]にある区。 * [[東区 (大田広域市)]] - [[大田広域市]]にある区。 * [[東区 (蔚山広域市)]] - [[蔚山広域市]]にある区。 == 中華民国 == '''東区・東區'''(ひがしく、ドンチュイ、{{Lang-zh|p=dōngqū}}) * [[東区 (新竹市)]] - [[新竹市]]の市轄区の一つ。 * [[東区 (台中市)]] - [[台中市]]の市轄区の一つ。 * [[東区 (嘉義市)]] - [[嘉義市]]の市轄区の一つ。 * [[東区 (台南市)]] - [[台南市]]の市轄区の一つ。 * {{仮リンク|東区 (台北市)|zh|臺北東區}} - [[台北市]]街地東部の俗称。 == 中華人民共和国 == * [[東区 (攀枝花市)]] - [[四川省]][[攀枝花市]]の市轄区の一つ。 * [[東区 (中山市)]] - [[広東省]][[中山市]]の郷級行政区の一つ。 * [[東山区 (広州市)|東区 (広州市)]] - 広東省[[広州市]]にかつて存在した市轄区。 === 香港 === * [[東区 (香港)]] == ブルガリア == * [[東区 (プロヴディフ)]] - [[プロヴディフ]]の[[ラヨン]]の一つ。 == 関連項目 == * [[区 (曖昧さ回避)]] * [[中央区 (曖昧さ回避)]] * [[中区 (曖昧さ回避)]] * [[西区 (曖昧さ回避)]] * [[南区 (曖昧さ回避)]] * [[北区 (曖昧さ回避)]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{地名の曖昧さ回避|ひかしく}}
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医療
医療(いりょう、英語: medical treatment, medical care, medicine, health care)とは、人間の健康の維持や回復、増進を目的とした諸活動、すなわち疾病に対する診断と治療を包括的に指す概念である。 ヘルスケアや保健などとも重複する概念だが、そもそもどの範囲を「医療」と見なすかについて、明確な定義はない。 医療は文化性が高いため、国や地域、時代により定義が異なるともされる。 また厚生労働省は政策決定上「医療」と「介護」を分離しており、疾病や加齢の結果として生じた要介護状態に対する生活上の支援を「介護」として分離し、この文脈ではそれに対する概念として疾病自体への介入を「医療」と称している。 医療人類学者のアーサー・クラインマンは、「医療は様々なセクターで行われている」として、公的機関などに認定された通常の医療(制度としての医療)や伝統医などによる専門職セクターだけでなく、宗教や伝統などに基づいた民俗セクター、家庭内などの民間セクターでも様々な医療が行われている、としている。 「医療」には多様な立場の人による多様な行為が属しており、必ずしも専門的職能者のみによって行われるわけではない。 例えば心肺停止状態に対しては無資格者による救急医療(気道確保・人工呼吸・心臓マッサージ、および自動体外式除細動器の使用)の実施が社会的に容認されており、在宅医療では必然的に患者自身や家族が医療の一端を担うこととなる。 「救急医療」や「緩和医療」などと、対象とする疾病の段階によって分類されることもあるが、他方で「身体医療」と「精神医療」のように病因論や身体論の体系に分類の根拠を求めた分類法もある。 伝統医療 / 近代医療 という分類法もある。通常医療 / 補完医療、代替医療という分類法もある。それらを総合したものは「統合医療」という呼称で呼ばれている。 近代医療は、強く制度化されていることもあり、あたかも一枚岩の単一な医療であるかのような認識が持たれることもあるが、実際には多様な理論の複合体であり、個々の医療従事者による実践も多様性に富んでいる。 医療における専門技能を有し医療に携わる人々、あるいはその業務補助を行う者は医療従事者と呼ばれるが、これも明確な定義がない。 医療従事者は、病気や障害を持った人に専門的知識と技術を行使し、健康的な生活が得られるよう助力する職種である。「病気を診ずして、病人を診よ」という某医科大学の理念になぞらえて、病をもった人の生活を支援することが医療者の仕事とされることもある。 「標準的医療の代わりの医療」という意味で「代替医療」、一方で通常医療を補完する医療という意味で「補完医療」という言葉が存在する。伝統に基づく医学から民間療法、宗教的実践まで様々な理論に基づく様々な療法が含まれる。 補完・代替医療は生命の自然治癒力を活性化させることを目的とし、得意としている、とアンドルー・ワイルは説明している。 なお「代替医療」という呼称については、「日本では東洋医学が主流医学であるので、この欧米式の表現は日本の状況には馴染まない」と指摘する人もいる。東アジア諸国では伝統中国医学(東洋医学)を源流と持つ漢方医学や、韓医などの医師が公的に認知された専門職セクターとして受容されており、西洋医療と比較的良好な関係を持っている。 医療のセクター区分・分類と、それぞれの場において行われる医療行為が、実際に治療効果があるかどうかは別の問題である。通常医療でさえ根拠に基づく医療(EBM)は半分以下しか行われておらず、(特に日本などでは、EBMに必要な大規模調査がそもそもあまり実施されておらず)、実は医局や病院の慣習などといった怪しげなものに支えられており、ある分野の治療法群に対してようやくEBMの調査が行われると、多くの場合、長年医師らによって良いと信じられて用いられてきた“治療方法”(=医師が治療だと信じたがっていた何らかの行為)が、統計的に見れば害する割合のほうが大きいとか、そこまでひどくなくても、実はプラシーボ効果以上の効果は無かった、などと判明することがしばしばである。 通常医療(西洋医学)は、自然治癒力を活性化させることを最も苦手としているとアンドルー・ワイルは指摘した。 通常医療において使われている概念はせいぜい「免疫」や「恒常性」であり、ふつう医学事典に「自然治癒力」という項目は存在しないといったことは定方昭夫の文献でも指摘されている。 さらに言えば『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』の記事でフランツ・インゲルフィンガーが「医師がかかわった病気のうち85%は、“自己完結的”(実は医師が関わらなくても、自然に治癒してしまうもの)である」と記しているように、(西洋医学では言語化自体ができないでいるが)実際には人体には明らかに「治癒系」と呼べるものが存在している、と指摘されている。結局、西洋医学は「循環系」や「消化系」や「神経系」などの系については理解してそれを言語化できているにもかかわらず、その同じ西洋医学が、治癒系については全然理解しておらず、概念化・言語化すらできていない、ということなのである。例えば医学事典でも「治癒系」という項目すら立てておらず、西洋医学では医学校(医学部)の履修内容でも「解剖学」「内分泌学」「物理学」「化学」などの科目は存在するのに、現に明らかに生体に備わり存在している、病気からの回復を実現しているしくみ(系・システム)について教える科目が最近までただのひとつも存在していなかったと指摘されている。西洋医学の教育体系では、治癒系がひとつの統合されたシステムとして教えられていない。治癒系のごく一部の機能が(例えば免疫などが)、バラバラの科目の中でバラバラに教えられているにすぎない、というおかしな教育体系になっていると指摘されているのである。 1993年、アメリカ合衆国の人々が補完・代替医療に支払った費用は、西洋医学の病院に支払った費用を上回った。つまり、アメリカ合衆国では、西洋医学の医療(過去となった「通常医療」)よりも、補完・代替医療のほうが好んで利用されている。また、時代を先導してゆく人たちほど、補完・代替医療を高く評価し、積極的に利用している。 人々は伝統医学などの補完・代替医療を利用するようになった。人々は西洋医学を見限り代替医療に移ったといえるのではないか、と医師の帯津良一は述べた。また、近年では補完・代替医療の存在感が増している、とか脚光を浴びている、と言われている。米国では最近では医師たちもおよそ半数が代替医療を支持しているという。 なお厚生労働省は民間療法をはじめとする統合・代替医療が必ずしも標準医療の代替になるものではないとして具体的な代替医療の名称を列挙し情報提供しており、一部代替医療を確立された標準医療の代替として用いることで生命の危険が及ぶ可能性に対する注意喚起、有効性の明確なエビデンスが存在しない代替医療の情報提供を行っている。 「癒しのart(わざ)」であった伝統的な西洋医学には、(20世紀に)テクノロジーが持ち込まれ、「機械医療」へと変容した。 人々の「科学医療」「機械医療」に対する素朴な崇拝・信仰の状態は、1960年代まで続いた。 ところが、以下に示されるように、1960年代以降には医療の効果を否定する資料が整い、医療が健康被害を与えていることが明らかになった。(下記に詳述)。 1971年、アメリカ公衆衛生学会会長で、ハーバード大学教授のカースは、衛生統計を分析し、次のように指摘した。 また、自身が医師であるロバート・メンデルソンは1970年代、同時点での根拠にもとづき、医療が害悪を及ぼしていることの証拠となるデータを次のように挙げた。 。 クエンティン・ヤングは、医者らが医療という名目のもとで組織的に大量の人間破壊(大量殺人)を行っていることを指摘して、それを医療による大量殺戮と呼んだ。 ロバート・メンデルソン(en:Robert_S._Mendelsohn)は「医師のやっていることのかなりの部分が、人を死に至らしめる行為なのである。」と警告した。ただし、ロバート・メンデルソンは救急医療の価値については認めており、「医者はその医療行為の9割は行うのを止めて、救急医療だけに取り組めば、人々の健康状態は間違いなく改善されるはずだ」と評価した。 1977年、アメリカの社会評論家イヴァン・イリイチは「現代の医学は健康改善にまったく役立っていないばかりか、むしろ病人をつくり出すことに手を貸しており、人々をひたすら医療に依存させるだけである」と警告した。 「医原病」との概念を提唱した。 医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンの編集のフランツ・インゲルフィンガーは、予後が悪化するケースが存在すると1970年代に指摘した。 一流医学誌のデータでこれが判明した。 イヴァン・イリイチらによる、医療の実態の指摘と、その改善を提唱する社会医学者と公衆衛生専門家による努力は、1984年の世界保健機関による医療の再設定の提唱に結実した。 医療の再設定とは、健康づくりのためのオタワ憲章にて提唱された、医師の教育と訓練の転換についての提言である。 1974年にカナダ保健省から公開されたラロンド・レポートは、健康に影響を及ぼす要因として、生物学、環境、生活様式そして医療へのアクセスという4つの医療領域を提案し、医療へのアクセスの重要性について、具体的な評価を下した。これらの医療領域と健康への影響は、アメリカ合衆国保健教育福祉省のヘルシー・ピープル (1979年) やイギリス保健社会保障省のブラック・レポート (1980年) おいても追認された。 1984年、世界保健機関は健康づくり国際会議を開催し、健康に影響を及ぼす要因を健康の前提条件として整理すると、5つの活動領域の1つとして医療の再設定を掲げ、保健部門に携わる人々に「疾病の治療」の枠組みを越えた「健康づくり」へ向かうよう呼びかけた。 医療の再設定の流れは、マイケル・マーモットとリチャード・ウィルキンソンらによる健康の社会的決定要因 (1998年) の整理により健康と社会を結びつける現実的かつ政策的な概念として成熟し、各国の政策に取り込まれるようになってきている。 プライマリケア(Primary care)とは、医療制度においてすべての患者が最初に受診する起点となる医療職のことである。担い手には、プライマリケア医(総合診療医や家庭医)、さらに理学療法士や医師助手(Physician assistant)、ナース・プラクティショナー(NP)などの有資格コメディカルが挙げられる。地理的、医療体制、患者意思などにより、状態により、患者は二次、三次医療に紹介される。 二次医療は、複数分野の専門的な診療技術を有する医療従事者が在籍する医療機関にてプライマリケアでは提供困難な重症例の通院および入院医療を提供する。プライマリケアからの紹介によって、または三次医療からの逆紹介によって提供される場合もある。 また緊急の治療が求められる外傷・疾患を受け付ける急性期医療も担っている。そのため二次救命処置、分娩、医用画像処理施設などを持っている。 三次医療は、各専門分野に特化した診療機能を有する医療機関によって提供される医療であり、たいていプライマリケアまたは二次医療からの連携によって受診することとなる。複雑な医療機器や技術、十分な人的資源を伴う集中治療体制などに基づき、一次、二次の医療機関では困難とされるリスクの高い医療が提供される。一般に重症度の高い病状、診断と治療に特に専門性の高い知識の要求される病状が対象となる。また一部の三次医療機関では先進的な医学研究が行われており、その一環として高度先進医療が提供されることもある。 いくつかの医療従事者は医療施設以外にて業務を行っている。それには公衆衛生分野も含まれ、食の安全監査や、疾患予防のためのコンドームや注射針配布なども含まれる。 また住宅やコミュニティにおいて、セルフケア、在宅医療、介護、生活支援、薬物乱用治療などの医療・ソーシャルケアなどにも携わる。 日本の医療制度の根拠法は医療法である。同法にて、医療を専門的に提供する医療機関が定義され、医療の内容とその品質管理につき規定されている。 日本の医療・福祉・教育に関する資格一覧 厚生労働省は厚生労働白書にて「医療関係従事者」という語を用い、国家資格で認定された医療専門職者および准看護師の集計を公表している。一方、同省が新型コロナウイルス感染症に対する予防接種の優先順位決定を目的として令和2年に公表した定義においては「医療従事者等」の語が用いられ、これには事務職なども含め医療機関ないしそれに準ずる場で患者と接する者すべてを含みうるとしている。 医療制度の財源は以下の5つを主にしている。 ほとんどの国々では、以上の5つを全て組み合わせて運用されている。
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医療とは、人間の健康の維持や回復、増進を目的とした諸活動、すなわち疾病に対する診断と治療を包括的に指す概念である。
{{医学の情報源|date=2022年12月}}{{独自研究|date = 2010年8月}} '''医療'''(いりょう、{{lang-en|medical treatment<ref name="kenkyuusha">[https://ejje.weblio.jp/content/%E5%8C%BB%E7%99%82#:~:text=medical%20treatment%20%5Bcare%5D 『研究社 新和英中辞典』「医療」]</ref>, medical care<ref name="kenkyuusha" />, medicine<ref>[https://ejje.weblio.jp/content/%E5%8C%BB%E7%99%82#:~:text=%E5%AF%BE%E8%A8%B3-,medicine 『PDQ®がん用語辞書 英語版』「医療」]</ref>}}, health care<ref>[https://ejje.weblio.jp/content/%E5%8C%BB%E7%99%82#:~:text=Google%2C%20WikiPedia-,health%20care 『ライフサイエンス辞書』「医療」]</ref>)とは、[[人間]]の[[健康]]の維持や回復、増進を目的とした諸活動、すなわち[[疾病]]に対する診断と治療を包括的に指す概念である。 {{関連記事|医学}} == 概説 == === 定義 === [[ヘルスケア]]や[[保健]]などとも重複する概念だが、そもそもどの範囲を「医療」と見なすかについて、明確な定義はない。 医療は文化性が高いため、国や地域、時代により定義が異なる<ref name="第7章 医療の質">[http://www.ajha.or.jp/voice/arikata/2011/07.html 病院のあり方報告書 第7章医療の質](公益社団法人全日本病院協会)</ref>ともされる。 また厚生労働省は政策決定上「医療」と「[[介護]]」を分離しており<ref name="厚生労働省ウェブサイト 「医療と介護の一体的な改革」">[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000060713.html 厚生労働省ウェブサイト ホーム > 政策について > 分野別の政策一覧 > 健康・医療 > 医療保険 > 医療と介護の一体的な改革, 2021年9月22日閲覧]</ref>、疾病や加齢の結果として生じた要介護状態に対する生活上の支援を「介護」として分離し、この文脈ではそれに対する概念として疾病自体への介入を「医療」と称している。 <!-- [[医療社会学]]を専門とする[[黒田浩一郎]]は「{{仮リンク|生物医学|en|Biomedicine}}的な根拠にのっとった近代医療のみを医療と見なす」という立場と、多元的医療システム観に基づき「その社会の一定程度の人に支持された、形式化された〈[[病気|病]]・[[治療]]・[[健康]]〉をめぐる[[社会]]的[[文化]]的行為」とする立場に大きくわかれている<ref>{{cite book|和書|title=医療社会学を学ぶ人のために|chapter=医学|author=佐藤純一|editor=進藤雄三、黒田浩一郎|publisher=世界思想社|year=1999}}</ref>と述べた。 --> [[医療人類学]]者の[[アーサー・クラインマン]]は、「医療は様々な[[セクター]]{{要曖昧さ回避|date=2020年9月}}で行われている」として、公的機関などに認定された通常の医療(制度としての医療)や[[伝統医学|伝統医]]などによる<u>専門職セクター</u>だけでなく、宗教や伝統などに基づいた<u>[[民俗]]セクター</u><ref group="注釈">医療人類学では「folk medicine 民俗医療」 という用語が用いられている。[http://www.kokon.co.jp/book/b147678.html 医療人類学の文献例]が参照可。</ref>、[[家庭]]内などの<u>民間セクター</u>でも様々な医療が行われている、としている<ref>{{cite book|和書|title=臨床人類学―文化のなかの病者と治療者|author=アーサー クラインマン|translator=大橋英寿, 作道信介, 遠山宜哉 , 川村邦光 |year=1992|publisher=弘文堂|origyear=1980}}</ref>。 「医療」には多様な立場の人による多様な行為が属しており、必ずしも専門的職能者のみによって行われるわけではない。 例えば心肺停止状態に対しては無資格者による[[救急医療]](気道確保・[[人工呼吸]]・[[心臓マッサージ]]、および[[自動体外式除細動器]]の使用)の実施が社会的に容認されており、[[在宅医療]]では必然的に患者自身や家族が医療の一端を担うこととなる。 「[[救急医療]]」や「[[緩和医療]]」などと、対象とする疾病の段階によって分類されることもある<ref group="注釈"> [[診断]] / [[治療]] / [[リハビリテーション]] / [[予防]] 、また[[看護]]活動([[看護過程]]) / [[調剤]]及び服薬指導([[OTC薬]]販売における[[登録販売者]]の指導や助言)/ 栄養指導 などなどといった要素に分けるほか([[医療行為]]の項を参照)。</ref>が、他方で「身体医療」と「精神医療」のように[[病因論]]や[[身体論]]の体系に分類の根拠を求めた分類法もある。 [[伝統医療]] / [[近代医療]] という分類法もある<ref>黒田浩一『現代医療の社会学: 日本の現状と課題』、1995年、p.203。 </ref>。通常医療 / [[補完医療]]、[[代替医療]]という分類法もある。それらを総合したものは「[[統合医療]]」という呼称で呼ばれている。<!--(「伝統医療」の中に、多様な理論や多様な実践がある、ということは容易に分かろうが){{要出典範囲|また、通常医療は行政機関によって保証されていることもあり、[[公衆衛生]]や栄養状態を改善することもその医療の一環である。}}{{要出典範囲|そのために[[還元論|還元]]的な手法だけでなく、[[全体論]]的な手法や[[疫学]]的な手法も使い、さらには[[予防]]や[[カウンセリング]]、[[リハビリテーション]]など多様な分野で展開されている。}}--> 近代医療は、強く制度化されていることもあり、あたかも一枚岩の単一な医療であるかのような認識が持たれることもあるが、実際には多様な理論の複合体であり、個々の医療従事者による実践も多様性に富んでいる<ref name="medicalsystem">{{cite book|和書|title=医療社会学を学ぶ人のために|chapter=世界医療システム|author=池田光穂|editor=進藤雄三、黒田浩一郎|publisher=世界思想社|year=1999}}</ref>。 === 医療従事者 === {{Main|医療従事者}} 医療における専門技能を有し医療に携わる人々、あるいはその業務補助を行う者は'''[[医療従事者]]'''と呼ばれるが、これも明確な定義がない。 医療従事者は、病気や障害を持った人に専門的知識と技術を行使し、健康的な生活が得られるよう助力する職種である。「病気を診ずして、病人を診よ」という某医科大学の理念になぞらえて、病をもった人の生活を支援することが医療者の仕事とされることもある<ref name="Iryonyumom-sec2">『医療入門 よりよいコラボレーションのために』第二章</ref>。 <!--医療者としては医師、歯科医師、看護師、理学療法士、作業療法士などを挙げることができる<ref name="Iryonyumom-sec2" />。--> <!-- 医療の活動は'''医療活動'''などと呼ばれ、医療の行為は[[医療行為]]と呼ばれる。それに関する技術などは'''医療技術'''などと呼ばれる。 医療には、さまざまな人による、さまざまな行為が属していると考えられる。例えば[[心臓発作]]は、致死性の急性発作であり、早期の医療が必要であるため、無資格者などによる[[救急医療]](気道確保・[[人工呼吸]]・[[心臓マッサージ]])が必要である。また、[[救急車]]での搬送中には[[救急救命士]]による救急医療が行われる。 仕事として医療に携わる人々は'''医療従事者'''と呼ばれている。(→[[#医療従事者]]) 医療を行うための施設は'''医療施設'''と呼ばれている。例えば診療所、病院、助産所、施術所、薬局などがある。これは、医療現場とよばれることもある。(→[[#医療施設]]) --> === 代替医療、統合医療 === 「標準的医療の代わりの医療」という意味で「[[代替医療]]」、一方で通常医療を補完する医療という意味で「補完医療」という言葉が存在する<ref name="Tenbou">{{Cite journal|和書|author=鈴木信孝|year=2006|title=補完代替医療の展望 |journal=全日本鍼灸学会雑誌 |publisher=全日本鍼灸学会 |volume=56|issue=5| pages=693-702 | url=https://doi.org/10.3777/jjsam.56.693 |doi=10.3777/jjsam.56.693}} </ref>。伝統に基づく医学から[[民間療法]]、宗教的実践まで様々な理論に基づく様々な療法が含まれる。<!--{{要出典範囲|しかしこのような医療についてはそもそも網羅的統計資料に乏しく、日本でもその実施状況は厚生労働白書などの公的資料における集計対象とはなっていない。|date=2021年12月}}--> 補完・代替医療は[[生命]]の[[自然治癒力]]を活性化させることを目的とし、得意としている、と[[アンドルー・ワイル]]は説明している<ref name="Andrew-p139">[[アンドルー・ワイル]]『ワイル博士の健康相談 (1) 自然治癒力』pp.139-141</ref>。 なお「代替医療」という呼称については、「日本では[[東洋医学]]が主流医学であるので、この欧米式の表現は日本の状況には馴染まない<ref>『国際「統合医療」元年―第1回国際統合医療専門家会議公式記録集』日本医療企画、2004年</ref>」と指摘する人もいる。東アジア諸国では[[伝統中国医学]]([[東洋医学]])を源流と持つ[[漢方医学]]や、[[韓医]]などの医師が公的に認知された専門職セクターとして受容されており、西洋医療と比較的良好な関係を持っている<ref>{{cite book|和書|title=日本人の病気観―象徴人類学的考察 |author=大貫 恵美子|publisher=岩波書店|year=1985}}</ref>。<!--また、{{要出典範囲|欧米において(後述するように)利用頻度が逆転した状況が続いており}}、「将来的には、西洋医学に “通常医療”という表現を当てることが、状況にそぐわないものと見なされる可能性がある」と言われることがある{{要出典|date=2010年8月}}。--> <!--以下は、挙げてある文献でぴったりの文章がどうも見つからない。何ページに当該の文章が存在するのか、ページを示してもらいたい。 <ref>{{cite|book|和書|title=実践の医療人類学—中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開|author=池田光穂|publisher=世界思想社|year=2001.3}}</ref> {{要出典範囲|一方で民間セクターにおいて行われているいわゆる家庭内医療、家庭の医学は、通常医療や科学教育、報道の影響によって用語としては生物学的であったとしても、理解の仕方や処方そのものの総体は必ずしも生物医学に基づいているとは限らず、民間伝承や代替医療などとも折衷した理解のされ方であることも珍しくない }}。 --> <!--{{要出典範囲|通常医療のところでも説明したように、治療効果があれば非欧米地域以外で開発された治療方法であっても取り込まれていることから、補完・代替医療と呼ばれる民間セクターは医療全体における通常医療の残余、ないしは通常医療の免状がなくても利用できる範囲の行為の集合である。--> 医療のセクター区分・分類と、それぞれの場において行われる医療行為が、実際に治療効果があるかどうかは別の問題である。通常医療でさえ[[根拠に基づく医療]](EBM)は半分以下しか行われておらず<ref name="名前なし-1">米山公啓『医学は科学ではない』</ref>、(特に日本などでは、EBMに必要な大規模調査がそもそもあまり実施されておらず<ref name="名前なし-1"/>)、実は医局や病院の慣習などといった怪しげなものに支えられており、ある分野の治療法群に対してようやくEBMの調査が行われると、多くの場合、長年医師らによって良いと信じられて用いられてきた“治療方法”(=医師が治療だと信じたがっていた何らかの行為)が、統計的に見れば害する割合のほうが大きいとか、そこまでひどくなくても、実は[[プラシーボ]]効果以上の効果は無かった、などと判明することがしばしばである。 通常医療([[西洋医学]])は、[[自然治癒力]]を活性化させることを最も苦手としている<ref name="Andrew-p139" />と[[アンドルー・ワイル]]は指摘した。 通常医療において使われている概念はせいぜい「[[免疫]]」や「[[恒常性]]」であり、ふつう医学事典に「自然治癒力」という項目は存在しない<ref>{{cite book|和書|title=宗教学と医療|chpatar=「自然治癒力」を考える|author=定方昭夫|editor=黒岩卓夫|publisher=弘文堂|year=1991}}</ref>といったことは定方昭夫の文献でも指摘されている。<!--{{要出典範囲|使う場合でも「[[自然治癒]]」にとどまり、その作用を[[免疫細胞]]の働きや様々な臓器の代謝に根拠を求める。}}--> さらに言えば『[[ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン]]』の記事でフランツ・インゲルフィンガーが「医師がかかわった病気のうち85%は、“自己完結的”(実は医師が関わらなくても、[[自然治癒|自然に治癒]]してしまうもの)である」と記しているように<ref name=Locke>{{cite book|和書|title=内なる治癒力|chapter=原書の序|author=スティーヴン・ロック|publisher=創元社|year=1990}}</ref>、(西洋医学では言語化自体ができないでいるが)実際には人体には明らかに「治癒系」と呼べるものが存在している、と指摘されている<ref name=Locke />。結局、西洋医学は「循環系」や「消化系」や「神経系」などの系については理解してそれを言語化できているにもかかわらず<ref name=Locke />、その同じ西洋医学が、治癒系については全然理解しておらず<ref name=Locke />、概念化・言語化すらできていない、ということなのである<ref name=Locke />。例えば医学事典でも「治癒系」という項目すら立てておらず<ref name=Locke />、西洋医学では医学校(医学部)の履修内容でも「解剖学」「内分泌学」「物理学」「化学」などの科目は存在するのに<ref name=Locke />、現に明らかに生体に備わり存在している、病気からの回復を実現しているしくみ(系・システム)について教える科目が最近までただのひとつも存在していなかった<ref name=Locke />と指摘されている。西洋医学の教育体系では、治癒系がひとつの統合されたシステムとして教えられていない<ref name=Locke />。治癒系のごく一部の機能が(例えば免疫などが)、バラバラの科目の中でバラバラに教えられているにすぎない、というおかしな教育体系になっている<ref name=Locke />と指摘されているのである。 <!-- なお民間セクターや家庭内の医療の場合は、そもそも網羅的統計資料に乏しくその治療実態はあまり明らかになっていない。あくまで網羅的ではなくて、そのごく一部だけを恣意的にピックアップし調べた研究にすぎず代替医療を網羅していない<ref name=TorT>{{cite book|和書|author= [[サイモン・シン]]|coauthors=[[エツァート・エルンスト]]|title= Trick Or Treatment?: Alternative Medicine On Tria(邦題)[[代替医療のトリック]]|translator=青木 薫|ISBN=9784105393052|year=2010}}</ref>が、著者が恣意的に選び調べた治療についてはほとんど効果が無いとの結論を得て<ref name=TorT />、それを一般化までして「代替医療には一部に効果が期待できるものもあるが、大半は[[プラシーボ効果]]以上の効果が期待できない<ref name=TorT />」とまで主張する本が出版され、それをきっかけにして代替医療のみならず医療全般に関する議論を呼んだ。 --> 1993年、アメリカ合衆国の人々が補完・代替医療に支払った費用は、西洋医学の病院に支払った費用を上回った<ref>[[ハーバード大学]]のアイゼンバーグ博士の調査</ref><ref name="Andrew-p139" />。つまり、アメリカ合衆国では、西洋医学の医療(過去となった「通常医療」)よりも、[[代替医療|補完・代替医療]]のほうが好んで利用されている。また、時代を先導してゆく人たち<ref group="注釈">学歴が高い人、収入の多い人、知識人層など。</ref>ほど、補完・代替医療を高く評価し、積極的に利用している<ref name="Andrew-p139" />。 人々は<!--{{要出典範囲|現代西洋医学に愛想をつかし|date=2009年12月}}-->[[伝統医学]]などの'''補完・代替医療'''を利用するようになった。人々は西洋医学を見限り代替医療に移ったといえるのではないか、と医師の帯津良一は述べた<ref name="Obizu">帯津 良一『お医者さんがすすめる代替療法―病院ガイドつき アトピー、糖尿病、ガン…治らないといわれたら読む本』学習研究社 2006 ISBN 4054030769</ref>。また、近年では補完・代替医療の存在感が増している<ref name="Andrew-p139" />、とか脚光を浴びている<ref name="Tenbou" />、と言われている。米国では最近では医師たちもおよそ半数が代替医療を支持しているという<ref name="Obizu" />。 <!-- ただし、このようにして西洋医学の諸問題が指摘され、そのような西洋医学に代わり、あるいは組み合わされて統合医学の形で人々の健康に貢献することへの{{要出典範囲|期待が大きくなっている|date=2010年8月}}代替医療ではあるが、批判も無いわけではない。--><!--{{要出典範囲|いままでも何度も調査が行われている|date=2010年8月}}。{{要出典範囲|2000年代になって欧米において[[根拠に基づく医療]](EBM)の考え方・手法を適用して複数の代替医療に関する評価を試験した結果、「多くの代替医療で、施術者が言っているような効果が[[プラセボ]]以上に得られるという証拠が無い」と主張した|date=2010年8月}}。--><!--なお、全ての代替医療が調査されたわけではなく、また{{要出典範囲|調査された中の一部の代替医療に関しては、プラセボを超える効果があるとしている|date=2010年8月}}。<ref>{{cite book|和書|author= [[サイモン・シン]]|coauthors=[[エツァート・エルンスト]]|title= Trick Or Treatment?: Alternative Medicine On Tria(邦題)[[代替医療のトリック]]|translator=青木 薫|ISBN=9784105393052|year=2010}}</ref>。 --> なお厚生労働省は民間療法をはじめとする統合・代替医療が必ずしも標準医療の代替になるものではないとして具体的な代替医療の名称を列挙し情報提供しており、一部代替医療を確立された標準医療の代替として用いることで生命の危険が及ぶ可能性に対する注意喚起、有効性の明確なエビデンスが存在しない代替医療の情報提供を行っている<ref>厚生労働省『「統合医療」に係る 情報発信等推進事業』 eJIM「統合医療」情報発信サイト [https://www.ejim.ncgg.go.jp/public/index.html] </ref>。 == 医療の効果の統計的把握、医療への反省・批判・提案 == {{Main|医学史|医学と医療の年表}} 「癒しのart(わざ)」であった伝統的な[[西洋医学]]には、(20世紀に)テクノロジーが持ち込まれ、「機械医療」へと変容した<ref>日野原重明『現代医学と宗教』岩波書店</ref>。<!--{{要出典範囲|一般の人々の間にも「科学医療」や「機械医療」への素朴な信仰が広がっていた|date=2010年2月}}。--> 人々の「科学医療」「機械医療」に対する素朴な崇拝・信仰の状態は、1960年代まで続いた<ref name="shintani">新谷富士雄『ヒトはなぜ病気になるのか』PHP研究所、190頁。</ref>。<ref>*手島 恵「連載 ものの見方・考え方と看護実践(2) 新しい世界観とは何か?」1998年 [http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n1998dir/n2283dir/n2283_09.htm]</ref> ところが、以下に示されるように、[[1960年]]代以降には<!--、医療の有効性{{要出典範囲|疑問視されるようになった|date=2010年8月}}-->{{要出典範囲|医療の効果を否定する資料が整い|date=2022年1月}}、医療が健康被害を与えていることが明らかになった。(下記に詳述)。 [[1971年]]、アメリカ公衆衛生学会会長で、[[ハーバード大学]]教授のカースは、衛生統計を分析し、次のように指摘した<ref name="shintani" />。 {{Quotation|"現代医学の感染症予防措置や治療が、人々の平均寿命に寄与した" '''などと思うのは全く根拠が無い'''。'''医学的な措置・治療ではなく、むしろ[[環境]]や[[栄養]]の改善のほうが大きな役割を果たしたのである'''。}} また、自身が医師であるロバート・メンデルソンは1970年代、同時点での根拠にもとづき、{{要出典範囲|医療が害悪を及ぼしていることの証拠となるデータ|date=2022年1月}}<!--これは1970年代の途上国における個別の例であり、現代医療全体が「医療が害悪を及ぼしている」とすると証明した根拠とするには不適切である。-->を次のように挙げた<ref name="名前なし-2">{{Harv|ロバート・メンデルソン|1999}}</ref>。 *1973年に[[イスラエル]]で医師の[[ストライキ]]が決行された時には、診察する患者の数を1日あたり6万5000人だったところを7000人に減らした。そしてストは1ヶ月続いた。[[エルサレム]]埋葬協会によると、医師のストライキの期間中、人々の死亡率が半減したという。イスラエルでこれほど死亡率が減少したのは、1950年代に医者がストライキをした時以来である{{Sfn|ロバート・メンデルソン|1999}}。 *1976年、[[コロンビア]]の首都[[ボゴタ]]で、医師たちが52日間の[[ストライキ]]を行い、救急医療以外はいっさいの治療を行わなかったところ、ストライキの期間中、[[死亡率]]が35%低下した{{Sfn|ロバート・メンデルソン|1999|p=186}}という。コロンビアの国営葬儀協会は「事実は事実である」とコメントした{{Sfn|ロバート・メンデルソン|1999}}。 *同じ1976年、アメリカ合衆国の[[ロサンゼルス]]でも医者らがストライキを行った。この時は、短期的に死亡率が18%低下した。ストライキの期間中、手術の件数は60%減少していた<ref>[[カリフォルニア大学]]ロサンゼルス校の医療行政研究者ミルトン・レーマー([[:en:Milton I. Roemer]])教授の17の主要病院の調査による</ref>。そして、医師のストライキが終わり、彼らが医療活動を始めると、短期的な[[死亡率]]がストライキ以前と同じ水準に悪化した{{Sfn|ロバート・メンデルソン|1999|p=186}}。 <ref>関連データ: 今中孝信「賢い患者になるためのABC」明城文化フォーラム21・講演会、2004年 [http://www.softark.net/articles/m-0409.html]</ref>。 クエンティン・ヤングは、医者らが医療という名目のもとで組織的に大量の人間破壊([[大量殺人]])を行っていることを指摘して、それを'''医療による大量殺戮'''と呼んだ{{Sfn|ロバート・メンデルソン|1999}}。 :なお、{{要出典範囲|ロバート・メンデルソンは、医師自身の手によるデータ・統計類は信頼できない、とも指摘した|date=2022年1月}}<!--原典によればロバートソンの主張は「医師によるデータは疑え(盲目的に信じるな)」というもので、「信頼できない」という表現とはニュアンスが異なる。メンデルソンが「信頼に値しない」と明言している文献があるのであれば、別に記載が必要。--><ref name="名前なし-2"/>。というのは、医師というものは自分にとって都合が悪いデータは偽りの分類をしたり偽りの報告をすることで隠蔽・[[改ざん]]する習性があるからだという<ref name="名前なし-2"/>。 ロバート・メンデルソン([[:en:Robert_S._Mendelsohn]])は「医師のやっていることのかなりの部分が、人を死に至らしめる行為なのである{{Sfn|ロバート・メンデルソン|1999}}。」と警告した<ref name="名前なし-2"/>。ただし、ロバート・メンデルソンは救急医療の価値については認めており、「医者はその[[医療行為]]の9割は行うのを止めて、[[救急医療]]だけに取り組めば、人々の健康状態は間違いなく改善されるはずだ」と評価した{{Sfn|ロバート・メンデルソン|1999}}。 1977年、アメリカの社会評論家[[イヴァン・イリイチ]]は「現代の医学は健康改善にまったく役立っていないばかりか、むしろ病人をつくり出すことに手を貸しており、人々をひたすら医療に依存させるだけである」と警告した<ref name="Ivan">イヴァン・イリイチ『脱病院化社会 医療の限界』</ref>。<!--{{要出典範囲|医療が特定の個人のみならず、人々全体、社会全体の健康に害を及ぼしている}}「病人をつくり出す」(=診断名を付ける)および「医療への依存」という現象が、「健康に害を及ぼしている」という意味には直結せず、従ってより具体的な論証記述とその部分の出典が必要。--> 「'''[[医原病]]'''」との概念を提唱した<ref name="Ivan" /><ref group="注釈">イワン・イリイチは著書で「そういった事態に直接の責任を持つ医療従事者の免許制度を廃止せよ」とも述べた。</ref>。 <!--{{要出典範囲|こうした警告を行なったのは、なにもイヴァン・イリイチだけではなく、他にも医療の害を指摘し改善を提唱する学者や社会評論家はいたのだが、それにもかかわらず現代西洋医療関係者による自発的な問題改善は進まなかった。}}--> <!--1977年--><!--1988年--><!--<ref group="注釈">"1988年"はおそらく誰かのタイプ入力ミス。インゲルフィンガーの調査発表は1977年と推定される出典あり。--> 医学誌[[ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン]]の編集のフランツ・インゲルフィンガーは、予後が悪化するケースが存在すると1970年代に指摘した。 <!--<ref>新谷富士雄『ヒトはなぜ病気になるのか』PHP研究所、190頁。</ref>--><!--<ref>Health: a matter of statistics or feeling. Ingelfinger FJ. N Engl J Med. 1977 Feb 24;296(8):448-9. {{PMID|264598}}</ref>。--><!--←ここまでの記載は、引用の引用の体裁になっている。どの箇所が新谷の、その箇所がIngelfingerの、それぞれ記載に基づくのかを明確に書き分ける必要がある。--> {{Quotation| *医療によって、疾患の[[予後]]に影響がなかった(=効果がなかった)ケース  80% *医療によって、疾患の予後が好転または治癒したケース 11% *医療によって、疾患の予後が悪化したケース 9% <ref group="注釈">新谷の文献に基づく記載。新谷は予後を、病気の「経過」あるいは「その後の状態」のことと述べている(新谷富士雄『ヒトはなぜ病気になるのか』PHP研究所、190頁)</ref> }} {{要出典範囲|一流医学誌のデータでこれが判明した。|date=2021年1月}}<!--←新谷の記事ではなくN Eng J Medの原典を見ると、データをまとめ科学論文としたoriginal articleではなくEditor個人の意見を表明するためのeditorial articleであり、「判明した」と事実を記す出典としては不適切。「判明した」と記載するのであれば査読の済んだoriginal articleの出典が必要。--> <!--ので、このデータは{{要出典範囲|現代医学の医師らにとっても衝撃があった|date=2010年2月}}。こういった様々な{{要検証範囲|真実のデータ|date=2010年8月}}は公表され欧米の人々に伝わり、20世紀前半の西洋医学は様々に批判された。{{要出典}}それにもかかわらず、現代西洋医学の問題改善は進まなかった。--> {{要出典範囲|イヴァン・イリイチらによる、医療の実態の指摘と、その改善を提唱する社会医学者と[[公衆衛生]]専門家による努力は、1984年の[[世界保健機関]]による[[医療の再設定]]の提唱に結実した。|date=2022年1月}}<!--下記出典には「イヴァン・イリイチらの指摘と公衆衛生学者による指摘が医療の再設定の提唱に結実した」とする記載はどこにもなく、出典として不適切。--> <!--<ref name="ottawacharter">[http://www.who.int/healthpromotion/conferences/previous/ottawa/en/index.html 健康づくりのためのオタワ憲章]、[http://www.who.int/hpr/NPH/docs/ottawa_charter_hp.pdf PDF形式](世界保健機関)</ref>。--> === 医療の再設定 === {{See also|健康の社会的決定要因}} [[医療の再設定]]とは、[[健康づくりのためのオタワ憲章]]にて提唱された、[[医師]]の教育と訓練の転換についての提言である<ref name="ottawacharter">[http://www.who.int/healthpromotion/conferences/previous/ottawa/en/index.html 健康づくりのためのオタワ憲章]、[http://www.who.int/hpr/NPH/docs/ottawa_charter_hp.pdf PDF形式](世界保健機関)</ref>。 1974年に[[保健省 (カナダ)|カナダ保健省]]から公開された[[ラロンド・レポート]]は、健康に影響を及ぼす要因として、生物学、環境、生活様式そして医療へのアクセスという4つの医療領域を提案し<ref>[http://www.hc-sc.gc.ca/hcs-sss/alt_formats/hpb-dgps/pdf/pubs/1974-lalonde/lalonde_e.pdf カナダ人の健康についての新たなる展望] {{webarchive|url=https://webcitation.org/5L8XRiRrK?url=http://www.hc-sc.gc.ca/hcs-sss/alt_formats/hpb-dgps/pdf/pubs/1974-lalonde/lalonde_e.pdf |date=2006年12月14日 }}(カナダ保健省)</ref>、医療へのアクセスの重要性について、具体的な評価を下した。これらの医療領域と健康への影響は、[[アメリカ合衆国保健教育福祉省]]の[[ヘルシー・ピープル]] (1979年) や[[イギリス]]保健社会保障省の[[ブラック・レポート]] (1980年) おいても追認された<ref>[http://profiles.nlm.nih.gov/NN/B/B/G/K/_/nnbbgk.pdf ヘルシー・ピープル (1979) 全文](米国国立医学図書館)</ref><ref>[http://www.sochealth.co.uk/history/black.htm ブラック・レポート](Socialist Health Association)</ref>。 1984年、[[世界保健機関]]は[[健康づくり国際会議]]を開催し、健康に影響を及ぼす要因を[[健康の前提条件]]として整理すると、5つの活動領域の1つとして医療の再設定を掲げ、保健部門に携わる人々に「疾病の治療」の枠組みを越えた「[[健康づくり]]」へ向かうよう呼びかけた。 医療の再設定の流れは、[[マイケル・マーモット]]と[[リチャード・ウィルキンソン]]らによる[[健康の社会的決定要因]] (1998年) の整理により'''健康'''と'''社会'''を結びつける{{要出典範囲|現実的かつ政策的な概念|date=2010年8月}}として成熟し、[[健康づくり#政策からの挑戦|各国の政策]]に取り込まれるようになってきている{{要出典|date=2021年9月}}。 == 医療のデリバリ == ===プライマリケア=== [[Image:Jericho Health Centre 20050326.jpg|thumb|英国のコミュニティ・プライマリケアセンター]] {{Main|プライマリケア}} {{Seealso|プライマリ・ヘルス・ケア|救急医療|家庭医療}} '''プライマリケア'''(Primary care)とは、医療制度においてすべての患者が最初に受診する起点となる医療職のことである<ref name="Cookie">Thomas-MacLean R et al. [http://www.uwo.ca/fammed/csfm/tutor-phc/documentation/trainingpapers/TUTOR_Definitio_%20of_primar_%20health_care.pdf ''No Cookie-Cutter Response: Conceptualizing Primary Health Care.''] Retrieved 26 August 2014.</ref><ref>World Health Organization. [https://web.archive.org/web/20110303183810/http://www.wpro.who.int/NR/rdonlyres/45B45060-A38E-496F-B2C1-BD2DC6C04C52/0/44Definitionofterms2009.pdf ''Definition of Terms.''] Retrieved 26 August 2014.</ref>。担い手には、プライマリケア医([[総合診療医]]や家庭医)、さらに[[理学療法士]]や医師助手(Physician assistant)、[[ナース・プラクティショナー]](NP)などの有資格コメディカルが挙げられる。地理的、医療体制、患者意思などにより、<!--患者はプライマリケア受診前に薬剤師、看護師、[[カイロプラクター]]、[[アーユルヴェーダ]]師、伝統医療師などを受診していることもある。-->状態により、患者は二次、三次医療に[[紹介 (医療)|紹介]]される。 ===二次医療=== 二次医療は、複数分野の専門的な診療技術を有する医療従事者が在籍する医療機関にてプライマリケアでは提供困難な重症例の通院および入院医療を提供する。プライマリケアからの紹介によって、または三次医療からの逆紹介によって提供される場合もある。<!--例えば心臓外科、泌尿器科、皮膚科などが挙げられる。--> また緊急の治療が求められる外傷・疾患を受け付ける急性期医療も担っている。そのため[[二次救命処置]]、[[分娩]]、[[医用画像処理]]施設などを持っている。 ===三次医療=== [[File:National Cancer Center Hospital.jpg|thumb|right|150px|[[国立がん研究センター]]は、ナショナルセンター([[国立国際医療研究センター]])のひとつ]] 三次医療は、各専門分野に特化した診療機能を有する医療機関によって提供される医療であり、たいていプライマリケアまたは二次医療からの連携によって受診することとなる。複雑な医療機器や技術、十分な人的資源を伴う集中治療体制などに基づき、一次、二次の医療機関では困難とされるリスクの高い医療が提供される。一般に重症度の高い病状、診断と治療に特に専門性の高い知識の要求される病状が対象となる。また一部の三次医療機関では先進的な医学研究が行われており、その一環として[[高度先進医療]]が提供されることもある<ref>Johns Hopkins Medicine. [http://www.hopkinsmedicine.org/patient_care/pay_bill/insurance_footnotes.html ''Patient Care: Tertiary Care Definition''.] Accessed 27 June 2011.</ref>。<!--たとえばがん研究、脳神経外科、心臓外科、形成外科、熱傷治療、新生児科、緩和医療、複数科の関わる医療などがある<ref name="Emory">Emory University. http://www.em.emory.edu/hospital_eu.html School of Medicine.] Accessed 27 June 2011.</ref>。--> ===在宅・地域医療=== {{Main|公衆衛生|地域医療|在宅医療|訪問看護}} いくつかの医療従事者は医療施設以外にて業務を行っている。それには公衆衛生分野も含まれ、[[食の安全]]監査や、疾患予防のための[[コンドーム]]や[[注射針]]配布なども含まれる。 また住宅やコミュニティにおいて、[[セルフケア]]、[[在宅医療]]、[[介護]]、[[生活支援]]、[[薬物乱用]]治療などの医療・ソーシャルケアなどにも携わる。 === パフォーマンス評価 === {{Seealso|[[:en:Health care ratings]]|医療技術評価}} == 日本 == ;医療制度の根拠法 日本の医療[[制度]]の[[根拠法]]は[[医療法]]である{{要出典|date=2021年12月}}。同法にて、医療を専門的に提供する[[医療機関]]が定義され、医療の内容とその品質管理につき規定されている。 ;日本の医療従事者 [[日本の医療・福祉・教育に関する資格一覧]] 厚生労働省は厚生労働白書にて「医療関係従事者」という語を用い、国家資格で認定された医療専門職者および准看護師の集計を公表している<ref name="厚生労働省 令和3年版厚生労働白書 資料編">[https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/20-2/ 厚生労働省 令和3年版厚生労働白書 資料編, 2021年9月22日閲覧]</ref>。一方、同省が[[新型コロナウイルス感染症]]に対する予防接種の優先順位決定を目的として令和2年に公表した定義<ref name="厚生労働省ウェブサイト 医療従事者等の範囲">[https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000740885.pdf 厚生労働省ウェブサイト 医療従事者等の範囲, 2021年9月22日閲覧]</ref>においては「医療従事者等」の語が用いられ、これには事務職なども含め医療機関ないしそれに準ずる場で患者と接する者すべてを含みうるとしている。 == 関係する項目 == === 医療制度 === {{Main|医療制度}} === 医療経済学 === [[File:Public and private health expenditure by country.svg|thumb|350px|right|OECD各国の財源別保健支出{{Sfn|OECD|2013}}。<br>水色は政府一般歳出、紫は社会保険、赤は自己負担、橙は民間保険、緑はその他 ]] {{Main|医療経済学|ユニバーサルヘルスケア}} [[医療制度]]の財源は以下の5つを主にしている<ref>World Health Organization. [http://whqlibdoc.who.int/searo/2004/SEA_HSD_274_eng.pdf "Regional Overview of Social Health Insurance in South-East Asia.'] Retrieved December 02, 2014.</ref>。 # 中央政府、自治体、市町村の一般[[税収]] # [[社会保険]] # 非営利団体や民間による、[[医療保険]] # 患者の自己負担 # [[寄付]]や[[慈善団体]] ほとんどの国々では、以上の5つを全て組み合わせて運用されている。 {{-}} === 健康情報学 === {{Main|健康情報学}} == 医療の下位分類 == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2010年8月}} * [[救急医療]] - [[災害医療]] - [[へき地医療|過疎地医療]] - [[ターミナルケア|終末期医療]] - [[性差医療]] - [[緩和医療]] - [[再生医療]] - [[高度先進医療]] - [[チーム医療]] - [[家庭医療]] - [[周産期医療]] - [[新生児医療]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 ==<!--当該記事執筆に際し実際に引用し、関連付けがされている文献--> * {{Cite report|publisher=OECD |date=2013-11-21 |title=Health at a Glance 2013 |doi=10.1787/health_glance-2013-en |ref={{SfnRef|OECD|2013}} }} * {{Cite |和書|title=医者が患者をだますとき |author=ロバート・メンデルソン |date=1999 |isbn=4794208545 |ref=harv}} ==関連文献==<!--当該記事執筆に際し引用していないが、理解を深めるうえで参考になる文献--> * 『医療入門 よりよいコラボレーションのために』医学書院 2006年 ISBN 9784260002301 * [[吉原敬典]]『医療経営におけるホスピタリティ価値:経営学の視点で医師と患者の関係を問い直す』(2016年 [[白桃書房]]・単著) ISBN 978-4-561-26674-7 == 関連項目 == {{関連項目過剰|date=2020年3月}} {{ウィキポータルリンク|医学と医療}} {{Columns-list|colwidth=15em| '''学問・教育''' * [[医学教育]] * [[医療社会学]] * [[看護学]] * [[看護教育]] * [[歯学]] * [[生命倫理学]] * [[薬学]] '''法律''' * [[医療法]] * [[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律]] * [[健康保険法]] '''制度''' * [[医療費]] * [[医療保険制度改革 (アメリカ)|医療保険制度改革]] * [[国の医療費]] * [[診療報酬]] '''社会問題など''' * [[安楽死]] * [[医療過誤]] * [[医療事故]] * [[医療訴訟]] * [[医療難民]] * [[医療崩壊]] * [[お産難民]] * [[尊厳死]] * [[偽医療]] * [[副作用]] * [[無駄な医療]] * [[薬害]] '''概念など''' * [[インフォームド・コンセント]] * [[延命治療]] * [[セカンド・オピニオン]] * [[セルフメディケーション]] * [[自己決定権]] * [[トランスヒューマニズム]] '''医療を題材とした作品''' * [[:Category:医療を題材とした作品]] ** [[:Category:医療機関を舞台とした作品]] ** [[:Category:看護師を主人公としたフィクション作品]] '''その他''' * [[ヘルスケア]] * [[医業]] * [[医行為]] * [[医療行為]] * [[医療従事者]] * [[医薬品]] * [[医薬情報担当者]] * [[医療機器]] * [[応急処置]] * [[処方箋]] * [[診療録]] * [[臨床検査]] * [[代替医療]] * [[統合医療]] * [[国際医学団体協議会]] }} == 外部リンク == {{Commonscat|Health care}} {{Wiktionary}} * [https://www.hellowork.go.jp/info/mhlw_job_dictionary_field_07.html 厚生労働省職業安定局>ハローワークインターネットサービス>職業分類・職業解説に関するご案内>職業分野別検>医療・保健・福祉の職業] * {{PDFlink|[https://www.stat.go.jp/data/e-census/2016/pdf/chousa6.pdf 総務省統計局>統計データ > 経済センサス > 平成28年経済センサス‐活動調査 > 平成28年経済センサス‐活動調査の調査票、調査票の記入のしかた及び分類表>単独事業所調査票(医療、福祉)]}} * [http://www.who.int/en/ World Health Organization] ** [http://www.who.int/countries/en/ World Health Organization>Countries] ** [http://www.who.int/gho/en/ World Health Organization>Data] ** [http://www.who.int/publications/en/ World Health Organization>Publications] *** [http://www.who.int/whr/en/ World Health Organization>Programmes>World Health Report] *** [http://www.who.int/gho/publications/world_health_statistics/en/ World Health Organization>Data>World Health Statistics] *** [http://www.who.int/medicines/areas/traditional/en/ World Health Organization>Programmes>Traditional and complementary medicine] * [http://europa.eu/pol/health/index_en.htm EU>Public Health] {{医療}} {{医学}} {{アジアの題材|医療|mode=3}} {{アメリカの題材|医療|mode=3}} {{ヨーロッパの題材|医療|mode=3}} {{アフリカの題材|医療|mode=3}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いりよう}} [[Category:医療|*]] [[Category:健康]] [[Category:健康科学]] [[Category:公衆衛生]] [[Category:グローバル・ヘルス]] [[Category:応用科学]] [[Category:公共サービス]]
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日本の医療・福祉・教育に関する資格一覧
日本の医療・福祉・教育に関する資格一覧(にほんのいりょう・ふくし・きょういくにかんするしかくいちらん)は、日本国内で実施されている、医療・福祉・教育に関する資格試験の名称を一覧としたものである。
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日本の医療・福祉・教育に関する資格一覧(にほんのいりょう・ふくし・きょういくにかんするしかくいちらん)は、日本国内で実施されている、医療・福祉・教育に関する資格試験の名称を一覧としたものである。
{{ウィキプロジェクトリンク|資格|[[file:Sikaku.png|80px]]}} '''日本の医療・福祉・教育に関する資格一覧'''(にほんのいりょう・ふくし・きょういくにかんするしかくいちらん)は、日本国内で実施されている、医療・福祉・教育に関する資格試験の名称を一覧としたものである。 == 国家資格 == *【[[医師法]]】 **[[医師]] *【[[歯科医師法]]】 **[[歯科医師]] *【[[薬剤師法]]】 **[[薬剤師]] *【[[保健師助産師看護師法]]】 **[[日本の看護師|看護師]]、[[看護師#准看護師|准看護師]] **[[保健師]] **[[助産師]] *【[[保健師助産師看護師学校養成所指定規則]]】 **[[看護教員]] *【[[母体保護法]]】 **[[受胎調節実地指導員]] *【[[臨床検査技師等に関する法律]]】 **[[臨床検査技師]] **[[衛生検査技師]] *【[[診療放射線技師法]]】 **[[診療放射線技師]] **[[診療エックス線技師]] *【[[栄養士法]]】 **[[栄養士]] **[[管理栄養士]] *【[[理学療法士及び作業療法士法]]】 **[[理学療法士]] **[[作業療法士]] *【[[視能訓練士法]]】 **[[視能訓練士]] *【[[臨床工学技士法]]】 **[[臨床工学技士]] *【[[言語聴覚士法]]】 **[[言語聴覚士]] *【[[義肢装具士法]]】 **[[義肢装具士]] *【[[救急救命士法]]】 **[[救急救命士]] *【[[あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律]]】 **[[あん摩マッサージ指圧師]] **[[はり師]] **[[きゅう師]] *【[[あん摩マツサージ指圧師、はり師及びきゆう師に係る学校養成施設認定規則]]】 **[[あん摩マッサージ指圧師教員]] **[[はり師教員]] **[[きゅう師教員]] *【[[学校教育法]]】 **[[理療科教員]] *【[[柔道整復師法]]】 **[[柔道整復師]] *【[[柔道整復師学校養成施設指定規則]]】 **[[柔道整復師教員]] *【[[歯科衛生士法]]】 **[[歯科衛生士]] *【[[歯科技工士法]]】 **[[歯科技工士]] *【[[毒物及び劇物取締法]]】 **[[毒物劇物取扱責任者]] **[[毒物劇物監視員]] *【[[船員法]]】 **[[船舶に乗り組む衛生管理者]] *【[[労働安全衛生法]]】 **[[産業医]] **[[衛生管理者]] **[[エックス線作業主任者]] **[[ガンマ線透過写真撮影作業主任者]] **[[エックス線等透過写真撮影者]] *【[[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律]]】 **[[薬事監視員]] **[[責任技術者]] **[[登録販売者]] **[[総括製造販売責任者]] *【[[麻薬及び向精神薬取締法]]】 **[[麻薬取扱者]] **[[向精神薬取扱責任者]] **[[麻薬取締員]] *【[[放射性同位元素等の規制に関する法律]]】 **[[放射線取扱主任者]] *【[[高圧ガス保安法]]】 **[[医療ガス保安管理技術者]] *【[[医療法]]】 **[[医療監視員]] *【[[学校保健安全法]]】 **[[学校医]] **[[学校歯科医]] **[[学校薬剤師]] **[[学校保健技師]] *【[[健康保険法]]】 **[[保険医]] **[[保険薬剤師]] *【[[狂犬病予防法]]】 **[[狂犬病予防員]] *【[[社会福祉士及び介護福祉士法]]】 **[[社会福祉士]] **[[介護福祉士]] *【[[精神保健福祉士法]]】 **[[精神保健福祉士]] *【[[社会福祉法]]】 **[[社会福祉主事]] *【[[知的障害者福祉法]]】 **[[知的障害者福祉司]] *【[[児童福祉法]]】 **[[児童福祉司]] **[[保育士]] *【[[児童福祉施設の設備及び運営に関する基準]]】 **[[児童の遊びを指導する者]] *【[[身体障害者福祉法]]】 **[[身体障害者福祉司]] *【[[廃棄物の処理及び清掃に関する法律]]】 **[[環境衛生指導員]] **[[環境衛生監視員]] *【[[有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律]]】 **[[家庭用品衛生監視員]] *【[[介護保険法]]】 **[[訪問介護員]] *【[[障害者の雇用の促進等に関する法律]]】 **[[障害者職業生活相談員]] *【[[理容師法]]】 **[[理容師]] **[[管理理容師]] *【[[美容師法]]】 **[[美容師]] **[[管理美容師]] *【[[クリーニング業法]]】 **[[クリーニング師]] *【[[調理師法]]】 **[[調理師]] *【[[製菓衛生師法]]】 **[[製菓衛生師]] *【[[食品衛生法]]】 **[[食品衛生管理者]] **[[食品衛生監視員]] *【[[食鳥処理の事業の規制及び食鳥検査に関する法律]]】 **[[食鳥処理衛生管理者]] *【[[船舶職員及び小型船舶操縦者法]]】 **[[船舶料理士]] *【[[浄化槽法]]】 **[[浄化槽管理士]] **[[浄化槽技術管理者]] **[[浄化槽検査員]] **[[浄化槽清掃技術者]] **[[浄化槽設備士]] *【[[医療法]]】 **[[病院清掃受託責任者]] *【[[教育職員免許法]]】 **[[教育職員免許状|教育職員]] *【[[学校図書館法]]】 **[[司書教諭]] *【[[図書館法]]】 **[[司書]] *【[[博物館法]]】 **[[学芸員]] *【[[社会教育法]]】 **[[社会教育主事]] == 公的資格 == * [[応急手当普及員]]([[消防本部]]) * [[応急手当指導員]]([[消防本部]]) * [[救命講習|救命技能認定]]([[消防本部]]) * [[臨床心理士]]([[日本臨床心理士資格認定協会]]) * [[放課後児童支援員]]([[都道府県知事]]) * [[子育て支援員]]([[地方公共団体]]) * [[介護支援専門員]]([[都道府県知事]]) * [[福祉用具専門相談員]]([[都道府県知事]]) * [[難病患者等ホームヘルパー]]([[都道府県知事]]) * [[居宅介護従業者]]([[都道府県知事]]) * [[重度訪問介護従業者]]([[都道府県知事]]) * [[行動援護従業者]]([[都道府県知事]]) * [[移動介護従業者]]([[都道府県知事]]) * [[食品衛生責任者]](食品衛生協会) * [[NR・サプリメントアドバイザー]]([[日本臨床栄養協会]]) * [[手話通訳士]]([[聴力障害者情報文化センター]]) == 民間資格 == * [[日本医師会認定医療秘書]]([[日本医師会]]) * [[診療報酬請求事務能力認定試験]]([[日本医療保険事務協会]]) * [[医療事務技能審査試験]]([[日本医療教育財団]]) * 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[[歯科助手資格認定]]([[日本歯科医師会]]) * [[医学物理士]](医学物理士認定機構) * [[透析技術認定士]]([[医療機器センター]]) * [[呼吸療法認定士]]([[医療機器センター]]) * [[体外循環技術認定士]]([[日本体外循環技術医学会]]) * [[高気圧酸素治療専門技師]]([[日本高気圧環境・潜水医学会]]) * [[ME技術実力検定]]([[日本生体医工学会]]) * [[臨床ME専門認定士]]([[日本生体医工学会]]) * [[消化器内視鏡技師]]([[日本消化器内視鏡学会]]) * [[アフェレシス学会認定技士]]([[日本アフェレシス学会]]) * [[医薬情報担当者]]([[MR認定センター]]) * [[置き薬医薬品販売士]]([[日本置き薬協会]]) * [[健康運動指導士]]([[健康・体力づくり事業財団]]) * [[健康管理士一般指導員]]([[日本成人病予防協会]]) * [[健康管理検定]]([[日本成人病予防協会]]) * [[赤十字救急法救急員]]([[日本赤十字社]]) * [[在宅ケア療法士]]([[在宅ケア鍼灸マッサージ協会]]) * [[心臓リハビリテーション指導士]]([[日本心臓リハビリテーション学会]]) * [[医療福祉連携士]]([[日本医療マネジメント学会]]) * [[認定補聴器技能者]]([[日本補聴器技能者協会]]) * [[医療情報技師]]([[日本医療情報学会]]) * [[登録カイロプラクター]]([[日本カイロプラクティック登録機構]]) * [[臨床発達心理士]]([[臨床発達心理士認定運営機構]]) * [[医療心理士]]([[日本心身医学会]]) * [[音楽療法士]]([[日本音楽療法学会]]) * [[薬学検定]]([[日本セルフケア支援薬剤師センター]]) * [[インフルエンザ検定]]([[日本ハートマスク協会]]) * [[家庭料理技能検定]]([[学校法人香川栄養学園]]) * [[福祉住環境コーディネーター]]([[東京商工会議所]]) * [[認定児童厚生員資格制度]]([[児童健全育成推進財団]]) * [[サービス介助士]]([[日本ケアフィット共育機構]]) * [[医療コンシェルジュ資格]]([[日本医療コンシェルジュ研究所]]) * [[学童心理福祉士]]([[日本福祉財団]]) * [[進路アドバイザー]]([[大学新聞社]]) * [[レクリエーション公認指導者]]([[日本レクリエーション協会]]) == 関連項目 == * [[日本の資格に関する一覧の一覧]] * [[日本の免許一覧#厚生労働省関係|厚生労働省所管の免許]] * [[医療従事者]] * [[コ・メディカル]]/[[コ・デンタル]] * [[医学]]/[[歯学]]/[[薬学]]/[[看護学]] * [[障害・福祉・児童関係記事一覧]] {{DEFAULTSORT:にほんのいりようしかくきよういくにかんするしかくいちらん}} [[Category:医療の一覧|いりようしかくいちらん]] [[Category:医療資格|*]] [[Category:資格の一覧|いりようしかく]]
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神秘学
神秘学(しんぴがく)は、オカルティズムまたはオキュルティスム(仏: occultisme、英: occultism、独: Okkultismus)の日本語訳の一つである。オカルト主義、隠秘学(おんひがく、いんぴがく)、玄秘学とも。Geheimwissenschaft の日本語訳でもある。 オカルティズムは、本来は占星術、錬金術、魔術などの実践を指し、これらを occult sciences (オカルト学)と総称することもある。一般的には、オカルティズムの語は近代の西洋神秘思想、秘教的メイソンリーなどのある種の秘密結社、魔術結社などの教義、世界観、知識体系やその実践などに適用される。事実上、しばしばエソテリシズム(秘教)と同じ意味に用いられる。オカルティズムを諸実践・諸技法に限定し、その背景にある理論的信念体系をエソテリシズムと呼んで区別したり、エソテリシズムの下位概念とする向きもあるが、一般的には両者の意味・用法は錯綜しており、区別は曖昧である。 オカルティズムと呼びうるものは古代より行われており、ルネサンス期になるとオカルト哲学・オカルト諸学という言葉が使われるようになった。フランスのエゾテリスム史家アントワーヌ・フェーブル(英語版)の推定によれば、オキュルティスムという言葉自体は19世紀の魔術思想家アルフォンス・ルイ・コンスタンが最初に用いたものであり、その英語形であるオカルティズムは神智学者のA・P・シネット(英語版)によって1880年代に英語圏に導入されたという。オカルティズムの近代的形態は、産業革命と自然科学の進展の時代にあって、心霊主義や幻想文学とともに、近代西欧の合理主義や実証主義の風潮に対するオルタナティブな思潮として登場したとも評される。とはいえ、基本的にはそれ以前のさまざまなオカルティズムの延長線上に多発した諸潮流であって、一つのまとまりのある思想運動であったわけではない。 19世紀には、現代ではオカルティズムの範疇とされる「催眠術」や「動物磁気」の研究は、個としての意識の限界を超える何かを求める、科学として、医学者や物理学者によって実践されてきた。歴史的にみれば科学とオカルトの境界線というのは明瞭なものではない。 オカルティズムのオカルトとはラテン語の occulo (隠す)の派生語 occultus (隠れたる)に由来する「隠されたもの」を意味する言葉である。これらのように「隠されて」きたとされる、非西洋の諸伝承にもしばしば転用される。 宗教と深いつながりがあり、哲学や芸術とも密接に関わってきた。「学」とついているが、一般に言われる学問とはその真理に至る認識方法が根本的に異なる。この点については高橋巖が神秘学の側から『神秘学講義』(角川選書)の中で詳細に論じている。 合理的な理性によって万物を理解しようとする近代の自然科学とは相反するが、近代の神秘学もまた、近代の産物なるがゆえに自然科学の成果を取り入れることがよくある。
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神秘学(しんぴがく)は、オカルティズムまたはオキュルティスムの日本語訳の一つである。オカルト主義、隠秘学(おんひがく、いんぴがく)、玄秘学とも。Geheimwissenschaft の日本語訳でもある。
'''神秘学'''(しんぴがく)は、'''オカルティズム'''またはオキュルティスム({{Lang-fr-short|occultisme}}、{{Lang-en-short|occultism}}、{{Lang-de-short|Okkultismus}})の日本語訳の一つである。[[オカルト]]主義、'''隠秘学'''(おんひがく、いんぴがく)、玄秘学<ref>[[日夏耿之介]]、[[齋藤磯雄]]の用いた訳語。</ref>とも。{{Lang|de|Geheimwissenschaft}} の日本語訳でもある<ref>英語の {{Lang|en|occult science}} に相当するドイツ語。[[高橋巖 (美学者)|高橋巖]]はルドルフ・シュタイナーの著書 ''Die Geheimwissenschaft im Umriss'' の訳題を『神秘学概論』としている。</ref>。 == 概説 == オカルティズムは、本来は[[占星術]]、[[錬金術]]、[[魔術]]などの実践を指し<ref name="WIO">アントワーヌ・フェーブル「オカルティズムとは何か」(『エリアーデ・オカルト事典』)</ref>、これらを<!--学律 (disciplines) と捉えて--> {{Lang|en|occult sciences}} (オカルト学)と総称することもある。一般的には、オカルティズムの語は近代の西洋[[神秘|神秘思想]]、秘教的[[フリーメイソン|メイソンリー]]などのある種の[[秘密結社]]、魔術結社などの教義、世界観、知識体系やその実践などに適用される。事実上、しばしば[[秘教|エソテリシズム]](秘教)と同じ意味に用いられる<ref name="WIO"/>。オカルティズムを諸実践・諸技法に限定し、その背景にある理論的信念体系をエソテリシズムと呼んで区別したり、エソテリシズムの下位概念とする向きもあるが、一般的には両者の意味・用法は錯綜しており、区別は曖昧である<ref name="WIO"/>。 オカルティズムと呼びうるものは古代より行われており、ルネサンス期になるとオカルト哲学・オカルト諸学という言葉が使われるようになった。フランスのエゾテリスム史家{{仮リンク|アントワーヌ・フェーブル|en|Antoine Faivre}}の推定によれば、オキュルティスムという言葉自体は19世紀の魔術思想家[[エリファス・レヴィ|アルフォンス・ルイ・コンスタン]]が最初に用いたものであり、その英語形であるオカルティズムは[[神智学|神智学者]]の{{仮リンク|アルフレッド・パーシー・シネット|label=A・P・シネット|en|Alfred Percy Sinnett}}によって1880年代に英語圏に導入されたという<ref name="WIO"/>。オカルティズムの近代的形態は、産業革命と自然科学の進展の時代にあって、[[心霊主義]]や幻想文学とともに、近代西欧の合理主義や実証主義の風潮に対するオルタナティブな思潮として登場したとも評される。とはいえ、基本的にはそれ以前のさまざまなオカルティズムの延長線上に多発した諸潮流であって、一つのまとまりのある思想運動であったわけではない<ref>アントワーヌ・フェーヴル 『エゾテリスム思想』 田中義廣訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1995年、106頁。</ref>。 19世紀には、現代ではオカルティズムの範疇とされる「催眠術」や「[[動物磁気説|動物磁気]]」の研究は、個としての意識の限界を超える何かを求める、科学として、医学者や物理学者によって実践されてきた。歴史的にみれば科学とオカルトの境界線というのは明瞭なものではない<ref>大野英士『オカルティズム』、講談社、2018年、222頁</ref>。 オカルティズムのオカルトとはラテン語の {{Lang|la|occulo}} <ref>不定形: occulere</ref>(隠す)の派生語 {{Lang|la|occultus}} (隠れたる)に由来する「隠されたもの」を意味する言葉である。これらのように「隠されて」きたとされる、非西洋の諸伝承にもしばしば転用される。 [[宗教]]と深いつながりがあり、[[哲学]]や[[芸術]]とも密接に関わってきた。「学」とついているが、一般に言われる[[学問]]とはその真理に至る認識方法が根本的に異なる。この点については[[高橋巖 (美学者)|高橋巖]]が神秘学の側から『神秘学講義』(角川選書)の中で詳細に論じている。 合理的な[[理性]]によって万物を理解しようとする近代の[[自然科学]]とは相反するが、近代の神秘学もまた、近代の産物なるがゆえに自然科学の成果を取り入れることがよくある。 == 脚註 == {{Reflist}} == 参考文献 == *『エリアーデ オカルト事典』([[ミルチャ・エリアーデ]]主編、ローレンス・E・サリヴァン編、[[鶴岡賀雄]],[[島田裕巳]],[[奥山倫明]]訳、[[法蔵館]])[[2002年]] == 関連書籍 == *『現代オカルトの根源 - 霊性進化論の光と闇』([[大田俊寛]]、[[筑摩書房]]、ちくま新書)[[2013年]] ISBN 978-4-480-06725-8 *『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論』上([[H.P.ブラヴァツキー]]、竜王文庫) *『世界の終末 現代世界の危機』(ルネ・ゲノン、[[田中義広|田中義廣]]訳、平河出版社)[[1986年]] ISBN 4892031127 *『H・P・ブラヴァツキー夫人 - 近代オカルティズムの母』(ハワード・マーフェット、[[田中恵美子]]訳)ISBN 4897413087 *『20世紀の神秘思想家たち』(アン・バンクロフト、[[吉福伸逸]]訳、平河出版社)ISBN 4892030732 == 関連項目 == * [[アカシックレコード]] * [[精神世界]] * [[数秘学]] * [[神道霊学]] * [[神智学]] {{DEFAULTSORT:しんひかく}} [[Category:神秘学|*]]
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教育関係人物一覧
教育関係人物一覧(きょういくかんけいじんぶついちらん)は、教育思想家・実践家・教育学者・教育評論家・教育官僚など、教育に関係する人物の一覧。 Portal:教育/執筆依頼の「ひと」はこの一覧の赤リンクと同じにしています。この一覧に追加した場合は、テンプレートにも追加をお願いします。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "教育関係人物一覧(きょういくかんけいじんぶついちらん)は、教育思想家・実践家・教育学者・教育評論家・教育官僚など、教育に関係する人物の一覧。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Portal:教育/執筆依頼の「ひと」はこの一覧の赤リンクと同じにしています。この一覧に追加した場合は、テンプレートにも追加をお願いします。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "", "title": "現代の教育関係者(日本)" } ]
教育関係人物一覧(きょういくかんけいじんぶついちらん)は、教育思想家・実践家・教育学者・教育評論家・教育官僚など、教育に関係する人物の一覧。 Portal:教育/執筆依頼の「ひと」はこの一覧の赤リンクと同じにしています。この一覧に追加した場合は、テンプレートにも追加をお願いします。
'''教育関係人物一覧'''(きょういくかんけいじんぶついちらん)は、教育[[思想家]]・実践家・[[教育学]]者・教育[[評論家]]・教育[[官僚]]など、[[教育]]に関係する[[人間|人物]]の一覧。 [[Portal:教育/執筆依頼]]の「ひと」はこの一覧の赤リンクと同じにしています。この一覧に追加した場合は、テンプレートにも追加をお願いします。 ==教育史上の教育関係者(世界)== ===古代ギリシア・ローマ=== *[[アリストテレス]] - [[リュケイオン]]、分析。『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』 *[[エピクロス]] *[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]] - ローマ人の教養。『雄弁家論』 *[[クインティリアヌス|クインテリアヌス]] - 修辞学教科書。家庭教育重視・体罰否定。『雄弁家教育論』 *[[ゼノン]]{{要曖昧さ回避|date=2022年11月}} *[[イソクラテス]] *[[ソクラテス]] - 問答法。「産婆(助産)術」 *[[ピタゴラス]] - [[ピタゴラス教団]] *[[プラトン]] - 哲学者。アカデメイアの創始者『[[ソクラテスの弁明]]』『[[国家 (対話篇)|国家]]』*[[プロタゴラス]] ===中世ヨーロッパ=== *[[トマス・アクィナス]] - 『[[神学大全]]』 *[[アルクィン]] - カロリングルネサンス *[[ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス]] *[[アッシジのフランチェスコ|アシジのフランチェスコ]] - [[フランシスコ会]] ===ルネサンス・宗教改革(主に14~16世紀)=== *[[ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ]]([[:it:Vittorino da Feltre]]) - 体育と遊戯を重んじる楽しい学校「喜びの家」 *[[デジデリウス・エラスムス]] - ロッテルダムの教養人。『[[痴愚神礼讃]]』『幼児教育論』 *[[ジャン・カルヴァン]] - ラテン古典や賛美歌・聖書などの学習をさせる学校を設立。『[[キリスト教綱要]]』 *[[フランシスコ・ザビエル]] *[[ダンテ・アリギエーリ]] - 『[[神曲]]』の著者。 *[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]] *[[フアン・ルイス・ビベス]] - 個性に応じた学習指導。新教育の先駆者。『学問伝授論』 *[[フランソワ・フェヌロン]] - フランスの聖職者。『女子教育論』、『テレマックの冒険』。 *[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]] - 学問研究の新方法として帰納法を提唱。『新機関』『理想郷』 *[[ペトラルカ]] *[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ]] *[[ジョン・ミルトン]] - ピューリタン革命を代表する思想家。教育の自由を主張。 *[[フィリップ・メランヒトン]] *[[トマス・モア]] - イギリスの法律家。すべての子どもに教養が開放される理想郷『[[ユートピア]]』 *[[ミシェル・ド・モンテーニュ]] - 社会実学主義を提唱。体罰に反対。『[[エセー|随想録]]』 *[[フランソワ・ラブレー]] - 主著『ガルガンチュア物語』は帝王教育論の系譜に連なる。 *[[マルティン・ルター]] - 人文主義の教育理念。すべての人に『教理問答書』の学習を必修とした。 *[[イグナチオ・デ・ロヨラ|イグナチウス・ロヨラ]] ===リアリズム・実学主義(主に17世紀)=== *[[コメニウス]] - 『[[世界図絵]]』最初の学習絵本。近代教育の父。事物教授。『大教授学』 *[[アウグスト・ヘルマン・フランケ]]([[:de:August Hermann Francke]]) - コメニウスに影響を受ける。彼の思想はプロイセンの教育に影響を与えた。 *[[リチャード・マルカスター]]([[:en:Richard Mulcaster]]) *[[ヴォフガング・ラトケ]]([[:de:Wolfgang Ratke]]) - コメニウス教育の先駆者。 *[[ジョン・ロック]] - 哲学者、家庭教育の手引書。『教育論(教育に関する一考察)』 ===啓蒙主義(主に18世紀)=== *[[ヴォルテール]] - 啓蒙思想家。 *[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]] - フランスの哲学者。 *[[ニコラ・ド・コンドルセ]] - フランス哲学者。公教育は国民に対する社会の義務だとする。 *[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]] - 「一般地方学事通則」 *[[シャルル・ド・モンテスキュー]] - 『[[法の精神]]』 *[[ルイ=ルネ・ド・カラドゥーク・ド・ラ・シャロッテ]]([[:fr:Louis-René Caradeuc de La Chalotais]]) - 『国民教育論』 *[[ジャン=ジャック・ルソー]] - 『[[エミール (ルソー)|エミール]]』の著者。 *[[ルイ=ミシェル・ルペルティエ・ド・サン=ファルジョー]]([[:fr:Louis-Michel Lepeletier de Saint-Fargeau]]) - 『国民教育計画』 ===新人文主義(主に18世紀)=== *[[ロバート・オウエン]] - 産業革命期の工場経営者。未成年の就労の禁止、性格教育。 *[[イマヌエル・カント]] - 人間学・教育学の講義。『[[純粋理性批判]]』 *[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]] - 教育州の理想。『[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代]]』 *[[フリードリヒ・シュライアマハー|フリードリッヒ・シュライエルマッハー]] - フンボルトに協力。ベルリン大学創設者の一人。 *[[フリードリヒ・フォン・シラー]] *[[トゥイスコン・ツィラー]] - ヘルバルト教育学を発展。5段階教授説。『教育的教授論の基礎』 *[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]] - ペスタロッチの影響を受ける。『ドイツ国民に告ぐ』 *[[フリードリヒ・フレーベル]] - 幼稚園の生みの親。 *[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]] - [[ベルリン大学]]の創設。 *[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ]] - スイスの貧民、孤児の教育者。直感教授。 *[[ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト]] - 近代教育学の父。教授段階論。 *[[ヴィルヘルム・ライン]] - ヘルバルト学派。5段階教授説。『体系的教育学』 *[[グスタフ・アドルフ・リンドナー]]([[:de:Gustav Adolf Lindner]]) ===18~19世紀=== *[[トーマス・アーノルド]] - イギリスのパブリックスクールの教育者。 *[[サミュエル・ウィルダースピン]]([[:en:Samuel Wilderspin]]) - イギリスの教育者。幼児学校の普及に尽力。 *[[フランシス・ウェーランド]]([[:en:Francis Wayland]])- ブラウン大学学長。牧師。 *[[コンスタンチン・ウシンスキー]] - ロシア教育科学の父。『母語』『子どもの教育』 *[[ルイーザ・メイ・オルコット]] - 「若草物語」の著者。自らも教師。 *[[ヨアヒム・ハインリヒ・カンペ]]([[:en:Joachim Heinrich Campe]]) - ドイツの教育者。『総点検』の編集。 *[[ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツ]] - ザルツマンの学校で働く。近代体育の父。 *[[ピエール・ド・クーベルタン]] - 近代オリンピックの提唱者。 *[[ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ]] - デンマークのフォルケホイスコーレの生みの親。 *[[クリステン・コル]] - デンマークの教育者で、フォルケホイスコーレ運動の創始者。 *[[ガブリエル・コンペーレ]]([[:en:Gabriel Compayré]]) - フランスの教育学者。 *[[クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマン]] - ドイツの教育者。『かにの本』 *[[トーマス・ジェファーソン]] - アメリカの政治家。公費による初等教育の普及。 *[[エドワード・オースティン・シェルドン]] - アメリカの教育者。ペスタロッチ教育学・教授法をアメリカの教員養成校に導入した。 *[[ジェームズ・ジョホノット]]([[:en:James Johonnot]]) *[[カール・フォルクマー・シュトイ]]([[:de:Karl Volkmar Stoy]]) - ドイツの教育者。イエナ大学に教員養成所を設立。 *[[デイヴィッド・ストウ]]([[:en:David Stow]]) - イギリスの教育者。グラスゴーに師範学校を設立。 *[[ハーバート・スペンサー]] - イギリス人。功利主義的教育論。『教育論(知育・徳育・体育)』 *[[フリードリッヒ・ディースターヴェーク]] - ギムナジウム教師。ペスタロッチ主義者。国民学校教育の改革。国民議会にも進出。 *[[フリードリヒ・ディッテス]] ([[:en:Friedrich Dittes]]) - ドイツ、オーストリアの教育者。 *[[ヴィルヘルム・ディルタイ]] - ドイツの哲学者。精神科学的教育学の祖。文化教育学の源流。 *[[アドルフ・ドゥエイ]] - フレーベル幼稚園のアメリカへの紹介者。 *[[エルンスト・クリスティアン・トラップ]]([[:de:Ernst Christian Trapp]]) - ハレ大学教育学講座初代教授。 *[[ジョン・ヘンリー・ニューマン]] - イングランドの神学者。枢機卿。 *[[トマス・ヘンリー・ハクスリー]] - 進化論者として知られる。 *[[ヨハン・ベルンハルト・バゼドウ]] - ドイツの教育学者。汎愛学院創立者。学舎の運営にはザルツマンも参加。 *[[サミュエル・バトラー (聖職者)|サミュエル・バトラー]]([[:en:Samuel Butler (schoolmaster)]]) *[[ジョン・ヘイドン・バドレー]]([[:en:John Haden Badley]]) - イギリスの教育者。ビデールス校の創始者。 *[[ヴィルヘルム・ハルニッシュ]]([[:de:Wilhelm Harnisch]]) - ドイツの教育者。「世界科」の提唱。 *[[ジャン・アンリ・ファーブル]] - 元中学校教師、子どものための科学読み物の著者。 *[[アレクサンダー・ベイン (哲学者)|アレクサンダー・ベイン]]([[:en:Alexander Bain]]) *[[ロバート・ベーデン=パウエル]] - [[ボーイスカウト]]の創立者。 *[[ヨハン・ユリウス・ヘッカー]]([[:en:Johann Julius Hecker]]) - ドイツの教育者。経済数学実科学校を設立。 *[[フリードリヒ・エドゥアルト・ベネケ]] ([[:en:Friedrich Eduard Beneke]]) - ドイツの心理学者。 *[[アンドリュー・ベル]] - スコットランドの聖職者、教育者。[[ベル・ランカスター法]]の先駆者。 *[[ジェレミ・ベンサム]] - 『クレストマティア』 *[[ヨハネ・ボスコ]] - イタリアのカトリック司祭。非行少年の予防教育。 *[[ホーレス・マン]] - アメリカ公立学校の父。公立・無償・中立の公立学校。『民衆教育論』 *[[ジョン・スチュアート・ミル]] - 『[[自由論 (ミル)|自由論]]』 *[[ウィリアム・ゴドウィン]] - イギリスの政治哲学者。平等教育論、アナキズム教育論。『探究者』にて『エミール』の権力性を批判。 *[[エルンスト・モイマン]]([[:de:Ernst Meumann (Psychologe)]]) - ドイツの心理学者・教育学者。 *[[フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン]]([[:en:Friedrich Ludwig Jahn]]) - ドイツの教育者。ドイツ体操の父。 *[[ジャン=バティスト・ド・ラ・サール]] - フランスの司教、教育者。貧困児教育。 *[[ジョセフ・ランカスター]] - 教育者。ベル・ランカスター教育法。 *[[エリザ・ルモニエ]] - フランス初の女子職業教育学校を設立(1862年)。 *[[シャルル・ミシェル・ド・レペー]] - フランスの聾唖教育の先駆者。 *[[フリードリヒ・エーベルハルト・フォン・ロホウ]]([[:de:Friedrich Eberhard von Rochow]]) - バゼドウの影響を受ける。『子どもの友』 ===20世紀=== *[[エミール=オーギュスト・シャルティエ|アラン]] - フランスの哲学者・教育者。『教育論』。 *[[レフ・ヴィゴツキー]] - 心理学者。 *[[グスタフ・ヴィネケン]]([[:de:Gustav Wyneken]]) - ドイツの改革教育者・ヴィッカースドルフ校を創立。 *[[ベルトルト・オットー]]([[:de:Berthold Otto]]) - ドイツの教育者。合科教授運動。 *[[フーゴー・ガウディヒ]]([[:de:Hugo Gaudig]]) - ドイツの教育者。労作学校運動。 *[[エルンスト・クリーク]] - ドイツ人。ナチス教育の理論的根拠。『教育哲学』 *[[ナデジダ・クルプスカヤ]] - ロシアの革命家([[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の妻)。ソ連邦の教育学者。 *[[エレン・ケイ]] - 『児童の世紀』の著者。スウェーデンの女性ジャーナリスト。 *[[パウル・ゲヘープ]] - スイスのエコール・ド・フマニテの創立者。 *[[ゲオルグ・ケルシェンシュタイナー]]([[:de:Georg Kerschensteiner]]) - ドイツの教育学者。『公民教育の概念』『労作教育の概念』 *[[ヤヌシュ・コルチャック]] - 医師、ゲットーでのユダヤ人孤児の教育。 *[[エドゥアルト・シュプランガー]] - ドイツ人。理想的な人間を理論的・審美的・経済的・社会的・政治的・宗教的の6つに分類。『文化と教育』 *[[ルドルフ・シュタイナー]] - 宗教家、シュタイナー学校を創設。 *[[ラビンドラナート・タゴール]] - 学校創設者、詩人。 *[[クララ・ツェトキン]] - 女性解放運動。 *[[エミール・デュルケーム|エミール・デュルケム]] - フランス人。宗教に依存しない道徳教育。『教育と社会学』 *[[オヴィド・ドクロリ]] - [[ベルギー人]]。観察・連合・表現の3段階総合教育。『ドクロリ・メソッド』 *[[エドモン・ドモラン]]([[:fr:Edmond Demolins]]) - フランス人。「ロッシュの学校」『新教育』 *[[パウル・ナトルプ]] - ドイツの哲学者で、社会教育の提唱者。『社会的教育学』 *[[パーシー・ナン]]([[:en:Percy Nunn]]) - イギリスの新教育の実践家。「自己表現の教育学」。 *[[A・S・ニイル]] - サマーヒルスクール。 *[[ヘルマン・ノール]] - 精神科学的教育学。教育的関係。 *[[エリザベート・ハインペル]] - 社会福祉教育、コルチャック研究、反戦運動。 *[[フランシス・ウェーランド・パーカー]]([[:en:Francis Wayland Parker]]) - アメリカ人。進歩主義教育の父。『中心統合法の理論』 *[[ハロルド・E・パーマー]] - 英語教育、[[財団法人語学教育研究所]]初代所長。 *[[ジャン・ピアジェ]] - 心理学者。 *[[アルフレッド・フイエ]] *[[レオ・ブスカーリア]] - 教育学者。 *[[ヴィルヘルム・フリットナー]] - 精神科学的教育学。 *[[セレスタン・フレネ|セレスティン・フレネ]] - フランスの教育者。フレネ教育を創始。『フランスの現代学校』 *[[ジェイコブ・ブロノフスキー]] - ポーランド生まれの科学者。ジェネラリスト。教養の意味と歴史についての啓蒙家。 *[[ブルーノ・ベッテルハイム]] - 心理学者。 *[[パウル・ベルゲマン]] ([[:ko:파울 베르게만]]) - ドイツの教育学者。『社会的教育学』。 *[[アルフレート・ボイムラー]] - ナチズムの教育学者。 *[[ジョン・ホルト (教育者)|ジョン・ホルト]] - 学ぶことの意味。 *[[A・S・ホーンビー]] - 英語教育、辞書。 *[[オットー・フリードリッヒ・ボルノウ]] - ディルタイとハイデッガーに影響を受ける。『実存哲学と教育学』 *[[アントン・マカレンコ]] - ロシアの教育者。非行少年のコムーナでの集団主義教育の実践。 *[[マリア・モンテッソーリ]] - 医師、障害児教育から幼児教育へ。 *[[ジョン・ラスキン]] - 芸術教育運動。 *[[バートランド・ラッセル]] - イギリス人。教育の平等を主張。『教育と社会体制』 *[[ジョージ・トランブル・ラッド]] - アメリカ合衆国の心理学者。 *[[ポール・ランジュバン]] - 「ランジュバン・ワロン計画」 *[[ヘルマン・リーツ]] - ドイツの田園教育塾の生みの親。 *[[テオドール・リット]] - 精神科学的教育学。「指導か放任か」。 *[[アルフレッド・リヒトヴァルク]] - ハンブルク芸術教育運動の指導者。 *[[ホーマー・レイン]] - リトル・コモンウェルスの創始者、教育者。 *[[セシル・レディ]] - イギリスの新教育の推進者。 *[[アンリ・ワロン]] - 心理学者。 ===20世紀の教授理論提唱者=== *[[カールトン・ウォッシュバーン]]([[:en:Carleton Washburne]]) - アメリカの新教育の推進者。「[[ウィネトカ・プラン]]」 *[[デイヴィッド・オーズベル]] - 「有意味受容学習」。教育心理学者。 *[[ウィリアム・ヒアド・キルパトリック]] - アメリカの教育学者。デューイの弟子。「プロジェクトメソッド」 *[[フランシス・ケッペル]]([[:en:Francis Keppel]]) - 「チームティーチング」 *[[バラス・スキナー]] - 「プログラム学習」 *[[ジョン・デューイ]] - アメリカの教育学者、哲学者。「問題解決学習」「単元学習」『学校と社会』『民主主義と教育』 *[[ヘレン・パーカースト]] - アメリカの教育者。「[[ドルトン・プラン]]」の提唱。 *[[ハインペル]](H. Heimpel) - [[マルチン・ヴァーゲンシャイン]]([[:de:Martin Wagenschein]])とともに「範例教授法」。 *[[ジェローム・ブルーナー]] - アメリカの心理学者。教育の現代化運動推進者。「発見学習」 *[[ペーター・ペーターゼン]]([[:de:Peter Petersen (Pädagoge)|de:Peter Petersen]]) - ドイツの教育学者。「[[イエナプラン教育|イェナ・プラン]]」『教育の根源』 *[[ベンジャミン・ブルーム]] - 「完全習得学習」 *[[ヘンリー・モリソン]]([[:en:Henry C. Morrison]]) - アメリカの教育学者。「モリソン・プラン」『中等学校における教育実践』 *[[ウィリアム・アルバート・ワート]]([[:en:William Wirt (educator)|en:William Wirt]]) - ゲーリー・システム。 ===障害児教育=== *[[ヴァランタン・アユイ]]([[:en:Valentin Haüy]]) - 西洋最初の盲学校。フランス。 *[[ジャン・イタール]] - [[アヴェロンの野生児]] *[[ウォナー]] - ロンドン医師。知的障害調査。 *[[ヴォルフ・ヴォルフェンスベルガー]]([[:en:Wolf Wolfensberger]]) - アメリカのノーマリゼーション研究者。 *[[ジャン・エティエンヌ・ドミニク・エスキロール]] - 精神科医。セガンの師。 *[[トーマス・ホプキンズ・ギャローデット]] - アメリカ最初のろう学校。 *[[エドワード・マイナー・ギャローデット]] - 手話法のろう学校。 *[[グッゲンビュール]]([[:it:Johann Jacob Guggenbühl]]) - クレンチ病治療。重度知的障害児教育。 *[[J・W・クライン]]([[:de:Johann Wilhelm Klein]]) - 盲学校。ドイツ。 *[[ウィリアム・クリュックシャンク]](William M. Cruickshank) - 脳性まひ児の図-地関係知覚障害の研究。 *[[ジョン・コノリー]] ([[:en:John Conolly]])- 精神科医。知的障害児教育。 *[[アン・サリヴァン]] - [[ヘレン・ケラー]]の[[家庭教師]]([[奇跡の人]])。 *[[ロシャンブロワーズ・キュキュロン・シカール]] - [[シャルル・ミシェル・ド・レペー]]の後継者。フランス。 *[[シュトラウス]](Alfred A. Strauss) - 内因性知能障害・外因性知能障害。 *[[エドゥアール・セガン]] - 「白痴の使徒」「白痴のマグナカルタ」 *[[ベンクト・ニィリエ]](Bengt Nirje) - 障害児問題の理論的指導者。「ノーマライゼーション」 *[[サミュエル・ハイニッケ]]([[:de:Samuel Heinicke]]) - 口話法確立。ドイツ。 *[[サミュエル・グリドリー・ハウ]]([[:en:Samuel Gridley Howe]]) - [[パーキンス盲学校]](アメリカ二番目)。 *[[D・ハリス]] - 学校調査。 *[[ニルス・バンク=ミケルセン]]([[:de:Nis Bank-Mikkelsen]]) - 「ノーマライゼーション」 *[[フリードリヒ・モリッツ・ヒル]]([[:de:Moritz Hill]]) - ドイツ口話教授法。 *[[ルイ・ブライユ]] - [[点字]]の創始者。フランス。 *[[トーマス・ブレイドウッド]]([[:en:Thomas Braidwood]]) - 口話法の聴覚障害児教育。イギリス。 *[[テオドール・ヘラー]]([[:de:Theodor Heller]]) - 治療教育学。 *[[ホワイト姉妹]] - 1846年ロンドンに[[知的障害児]]の施設。 *[[ヘルマー・マイクルバスト]](Helmer R. Myklebust) - 学習障害研究。 *[[マイロン・リーバーマン]](Myron Lieberman) - 専門職性の規定。 *[[シャルル・ミシェル・ド・レペー]] - 西洋世界で最初の障害児教育。フランス。 ==現代の教育関係者(世界)== *[[エドワード・グスタフ・オルセン]](Edward Gustave Olsen) - アメリカの教育学者。コミュニティスクールの実践を理論化。『学校と地域社会』 *[[ポール・ラングラン]] - ユネスコの教育行政家。 *[[イヴァン・イリイチ]] - 元カトリック聖職者、脱学校論。 *[[フランク・ジェサップ]](Frank W. Jessup) - イギリス人。生涯学習推進者。『生涯学習』 *[[エットーレ・ジェルピ]]([[:it:Ettore Gelpi]]) - ラングランの後任。自己決定学習を提唱。『生涯教育-抑圧と解放の弁証法』 *[[ジョルジュ・ギュスドルフ]] (fr:Georges Gusdorf) - 哲学者。教師論など。 *[[エーリヒ・フロム]] - 社会心理学社。to have to be を主張。『生きるということ』 *[[ハーバート・ギンタス]] - 教育を通じた階層化の研究で著名。アメリカのラディカル派経済学者。 *[[ポール・グッドマン]]([[:en:Paul Goodman (writer)|en:Paul Goodman]]) - 作家でありアナーキスト。『ゲシュタルト療法』 *[[ジョナサン・コゾル]] - 元教員。教育、特に社会的底辺のそれをテーマにエッセイ、講演多数。 *[[ベル・フックス]] - ジェンダーと教育。 *[[トニー・ブザン]] - [[マインドマップ]]の提唱者。 *[[パウロ・フレイレ]] - ブラジル、識字教育の実践。 *[[サミュエル・ボールズ]] - 教育を通じた階層化の研究で著名。アメリカのラディカル派経済学者。 *[[ピーター・マクラーレン]]([[:en:Peter McLaren]]) - 批判教育学の代表者。 *[[ガストン・ミヤラレ]]([[:fr:Gaston Mialaret]]) - フランスの教育科学の代表者。 *[[ロン・ミラー (教育家)|ロン・ミラー]](Ron Miller) - ホリスティック教育の提唱者。 *[[ピーター・ミルワード]] - 上智大学教授。イギリスの教育と教養について著作多数。 *[[クラウス・モーレンハウアー]]([[:de:Klaus Mollenhauer]]) - フランクフルト学派に依拠した教育批判。 *[[エヴァレット・ライマー]]([[:en:Everett Reimer]]) - 「学校は死んでいる」の著者。 *[[デイヴィッド・リースマン]] - 社会学者。アメリカの高等教育についての著作多数。 *[[オリヴィエ・ルブール]]([[:fr:Olivier Reboul (philosophe)|fr:Olivier Reboul]]) - 「教育とは何か」の著者。 ==アジアの教育思想家・実践家== ===古代=== *[[孔子]] *[[孟子]] *[[墨子]] *[[荀子]] ===中世=== *[[イブン・トファイル]] - 12世紀のイスラムの哲学者。 *[[ガザーリー]] - 12世紀イスラムの思想家。 *[[世宗 (朝鮮王)]] *[[王陽明]] ===近代=== *[[晏陽初]]([[:zh:晏陽初]]) *[[陶行知]]([[:zh:陶行知]]) *[[蔡元培]] *[[徐特立]] *[[マハトマ・ガンディー]] - 無抵抗の教え *[[ラビンドラナート・タゴール]] - 森の学校 ==教育史上の教育関係者(日本)== ===飛鳥・奈良時代=== *[[石上宅嗣]] *[[吉備真備]] *[[聖徳太子]] - 賢哲政治 *[[山上憶良]] ===平安時代=== *[[最澄]] - 指導僧養成 *[[空海]] - 僧侶養成教育 *[[菅原道真]] - 菅家廊下 ===鎌倉・室町・安土桃山時代=== *[[親鸞]] - 人間存在そのものへの愛 *[[明菴栄西|栄西]] *[[道元]] - 指導僧養成 *[[日蓮]] - 天台教学 *[[北条実時]] *[[上杉憲実]] - [[足利学校]]の中興の祖 *[[観阿弥]] *[[世阿弥]] - 芸道の教育 ===江戸時代=== *[[新井白石]] -「折りたく柴の記」 *[[安藤昌益]] - 直耕自然 『自然真営道』 *[[池田光政]] - [[閑谷学校]] *[[石田梅岩]] - 心学講舎 『都ヒ問答』 *[[伊藤仁斎]] - [[古義堂]] 『童子問』 古学派 *[[井上金峨]] - [[折衷学派]] 粥講 医学塾・躋寿館 。 *[[大槻玄沢]] - 芝蘭堂 *[[緒方洪庵]] - 適塾(適々塾)『病学通論』 *[[大原幽学]] - 教導所改心楼 「性理学」 *[[荻生徂徠]] - 蘐園塾 古学派 *[[貝原益軒]] - 「和俗童子訓」、日本最初の体系的な教育書。歳 *[[海保漁村]] - 考証学派 私塾掃葉軒。[[鳩山和夫]]や[[渋沢栄一]]の師。 *[[香月牛山]] - 「小児必用養育草」、医師が書いた育児書。 *[[菅茶山]] - 頼山陽の師。黄葉夕陽村舎 後の廉塾 *[[木下順庵]] - 新井白石など木門十哲の師。 *[[熊沢蕃山]] - 『集義和書』庶民教育の場「花園会」 *[[児玉南柯]] - 私塾遷喬館  *[[佐藤一斎]] - [[昌平坂学問所]]儒官(総長)。儒学を大成。門下生は三千人と言われ、その多くが[[明治維新]]の原動力となる。『[[言志四録]]』 *[[佐久間象山]] - 象山書院 「東洋道徳西洋芸術」 *[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]] - 鳴滝塾 *[[杉山巣雲]] - 江戸時代の教育者 *[[鈴木玄淳]] - 江戸時代の教育者 *[[藤原惺窩]] - [[朱子学]]程朱学派。林羅山など惺窩門四天王の師。 *[[中井竹山]] - 懐徳堂  *[[中江藤樹]] - [[陽明学]] 藤樹書院 『翁問答』 *[[中村惕斎]] - 日本で最初の絵入り百科辞典 *[[二宮尊徳]] - 村おこしの教育 *[[林羅山]] - 昌平黌(こう)。後の[[昌平坂学問所]] *[[広瀬淡窓]] - 咸宜園(かんぎえん) *[[細井平洲]] - エイ鳴館 *[[吉田松陰]] - 松下村塾『講孟余話』 *[[山鹿素行]] - 古学派 *[[山崎闇斎]] - 闇斎学(朱子学一派)[[垂加神道]] *[[山本北山]] - 孔子学 私塾奚疑塾 北山門十哲など弟子多数 *[[室鳩巣]] - 幕府(徳川家宣、家継、吉宗)の儒学者。 *[[本居宣長]] - 門人教育 『古事記伝』 *[[頼春水]] - [[寛政の三博士]] 私塾青山社。[[頼山陽]]の父 *[[良寛]] - 「愛語」子どもを無上の友 ===明治(明治・大正)=== {{also|お雇い外国人}} *[[秋月新太郎]] - 文部官僚、漢詩人。女子高等師範学校長、貴族院議員を務めた。 *[[秋月悌次郎]] - 文部官僚、教育者。 *[[秋山恒太郎]] - 明治時代の教育者、文部官僚。官立長崎師範学校、官立東京師範学校(筑波大学の前身の1つ)をはじめ、各地の県立師範学校・中学校校長を歴任した。 *[[秋保安治]] - 明治期の工業教育者。 *[[赤司鷹一郎]] - 文部官僚、教育者。錦鶏間祗候。 *[[伊沢修二]] - 『教育学』日本人による最初の教育学書 「小学唱歌集」編集、近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者。 *[[伊藤博文]] - 教育議。初代・第5代・第7代・第10代[[内閣総理大臣]]。 *[[井口阿くり]] - [[女子体育の母]] *[[井上円了]] - [[東洋大学]]、[[京北学園]]の創立者。 *[[井上毅]] - 教育勅語起草 *[[稲葉彦六]] - 文部官僚、教育者 *[[市河三喜]] - 英語学、英語教育 *[[石井十次]] - 慈善事業家。[[児童福祉]]の父。[[岡山孤児院]]の創設者。 *[[石黒英彦]] - 文部官僚、朝鮮総督府・台湾総督府官僚。 *[[上原六四郎]] - 文部官僚、音響学者・美術工芸教育者。 *[[内村鑑三]] - キリスト教教育・教育勅語事件 *[[内村良蔵]] - 明治時代前半期の日本の教育者、文部官僚。東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長を務めた。 *[[梅謙次郎]] - 文部官僚、法学者、教育者。学位は、法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、東京帝国大学法科大学長、内閣法制局長官、文部省総務長官等を歴任。 *[[梅田義信]] - 文部官僚、横浜市長。東京府東多摩郡長、東京市芝区長、栃木・奈良県書記官、文部省参事官、同書記官などを歴任 *[[海老名弾正]] - キリスト教教育 *[[江藤新平]] - 明治時代の文部官僚、政治家、官吏、教育者。 *[[奥山政敬]] - 明治時代の文部官僚、司法官、官立大阪英語学校(京都大学の前身の一つ)および官立大阪師範学校の校長、松山・名古屋・大阪の地方裁判所長、広島控訴院長、貴族院議員を歴任した。 *[[押川方義]] - [[学校法人東北学院|東北学院]]、[[学校法人宮城学院|宮城学院]]の創立者。 *[[岡倉天心]] - 文部官僚、美術教育に尽力 *[[岡倉天心|岡倉覚三]](天心) - [[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]、[[日本美術院]]の創設者。『茶の本』 *[[小笠原道生]] - 文部官僚、体育官兼体育研究所技師、大臣官房体育課長を経て、体育局長となる *[[折田彦市]] - 明治時代に活動した日本の教育者・文部官僚。旧制第三高等学校(三高)の初代校長として知られている。 *[[大隈重信]] - [[早稲田大学]]の創立者。第8代・第17代[[内閣総理大臣]]。日本で初めて[[始球式]]を行う。 *[[大妻コタカ]] - 女子教育 [[大妻女子大学|大妻学院]]の創立者。 *[[大森兵蔵]] - 体育指導者。日本に初めて[[バスケットボール]]と[[バレーボール]]を伝える。日本初の[[近代オリンピック|オリンピック]]選手団の監督も務める。 *[[大村清一]] - 文部官僚、弁護士、衆議院議員、貴族院議員(勅選)、相模女子大学長なども務めた。 *[[大島誠治]] - 文部官僚、文部省参事官、東京仏学校(現・法政大学)校長、文部大臣秘書官、大臣官房文書課長、第四高等学校(現・金沢大学)初代校長、会計検査院検査官などを歴任 *[[大木喬任]] - [[文部大臣|文部卿]]として[[学制]]を制定。[[明治六大教育家]]。 *[[大竹多気]] - [[大竹多気#工業教育|工業教育者]] *[[沖野忠雄]] - 明治期の工業教育者。東京職工学校で工業教育を担当 *[[可児徳]] - 高等師範学校教師。体育指導者。日本に初めて[[ドッジボール]]を伝える。 *[[嘉納治五郎]] - 高等師範学校長。日本体育の父。[[講道館]][[柔道]]、大日本体育協会(後の[[日本スポーツ協会]])の創始者。日本の[[近代オリンピック|オリンピック]]初参加にも尽力。 *[[河津祐之]] - 文部官僚、東京法学校(現法政大学)校長のほか元老院書記官、大阪控訴院検事長、名古屋控訴裁判所検事長、司法大書記官、司法省刑事局長、逓信次官などを歴任。 *[[河内信朝]] - 文部官僚、教育者。 *[[柿沼竹雄]] - 文部・内務官僚。官選県知事。 *[[鎌田栄吉]] - 明治期の官僚、政治家。枢密顧問官、貴族院議員、衆議院議員、文部大臣、慶應義塾長、帝国教育会長。交詢社理事長。 *[[金子銓太郎]] - 文部官僚、教育者。 *[[桂太郎]] - [[拓殖大学]]の創立者。 *[[神津専三郎]] - 明治時代の音楽教育者。 *[[神田孝平]] - 江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者、文部官僚、兵庫県令、文部少輔、元老院議官、貴族院議員を歴任した。 *[[柏田盛文]] - 明治時代の文部官僚、教育者。鹿児島県会(鹿児島県議会の前身)議長、第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)校長、衆議院議員、文部次官、千葉・茨城・新潟の各県知事を歴任した。 *[[メアリー・キダー]] - [[フェリス女学院大学|フェリス女学院]]の創立者。 *[[菊池大麓]] - 教育行政官、日本で初めて西洋数学を教授。 *[[菰田万一郎]] - 文部官僚、教育者。 *[[木下広次]] - 文部官僚、文部省御用掛および一高校長・帝国大学 *[[木村正義]] - 文部書記官兼文部大臣秘書官、文部省学生部長、同省実業学務局長、衆議院議員(4期)などを歴任。 *[[木村正辞]] - 文部官僚、国学者、国文学者。 *[[ウィリアム・スミス・クラーク]] - [[札幌農学校]]の外国人教師。 *[[久保田譲]] - 文部官僚、文部大臣。「教育制度改革論」を発表。 *[[久保田鼎]] - 文部官僚、奈良および京都帝室博物館の館長、東京美術学校校長などを務めた。 *[[九鬼隆一]] - 文部官僚。1880年代前半の文部行政を主導。 *[[窪田治輔]] - 文部官僚・内務官僚。官選県知事。 *[[隈本有尚]] - 文部官僚、教育者、天文学者、数学者、心理学者、占星術師。福岡県立中学修猷館初代館長、長崎高等商業学校初代校長、朝鮮総督府中学校初代校長。 *[[黒田清綱]] - 文部官僚。 *[[近藤真琴]] - [[攻玉塾]](現[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社]])の創立者。主に[[数学]]・[[工学]]・[[航海術]]の分野で活躍。明治六大教育家。 *[[後藤牧太]] - 教育者。理科教育、手工教育を開拓。 *[[小山知一]] - 文部官僚、佐賀県知事、高知県知事、文部省普通学務局長を歴任した。 *[[小松原英太郎]] - 文部大臣。図書館設立に関する文部大臣訓令を発令、通俗教育調査委員会を設置。 *[[小松原隆二]] - 教育者、文部官僚。第七高等学校造士館教授など *[[小森慶助]] - 文部官僚、教育者 *[[小幡甚三郎]] - 文部官僚、幕末・明治初期の教育者 *[[小林小太郎 (文部官僚)|小林小太郎]] - 明治時代前半期の文部官僚。長らく文部省の翻訳事業に携わり、欧米への日本の教育事情の紹介、ならびに日本の教育制度の近代化に貢献した。 *[[小林雄七郎]] - 明治期の官吏、文部官僚、衆議院議員。 *[[肥田昭作]] - 文部官僚、第四大学区第一番中学(京都大学の前身の1つ)学長、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)、東京英語学校校長など *[[斎藤秀三郎]] - 英語教育 *[[斎藤斐章]] - 歴史教育 *[[西園寺公望]] - [[私塾立命館]]の創立者。 *[[沢村真]] - 文部官僚、農学者、農学博士。 *[[塩野直道]] - 文部官僚、算術教育者。4つ珠そろばんの普及者。文部省の図書監修官となり、国際数学者会議で絶賛された画期的な教科書『尋常小学算術』を編集する。 *[[下村寿一]] - 文部官僚、東京女子高等師範学校校長。女子学習院長など。 *[[下田歌子]] - 女子教育 [[実践女子大学|実践女学校]]の創設者。 *[[柴田徳次郎]] - [[国士舘大学|国士舘]]の創立者。 *[[芝田徹心]] - 文部官僚、女子学習院長。宮中顧問官。 *[[渋谷徳三郎]] - 文部官僚、東京市の各区長や、仙台市長などを歴任したが教育行政への造詣が深かったことから、仙台市長時代には「教育市長」とも呼ばれた。 *[[諸葛信澄]] - 明治時代の日本の教育者。官立東京師範学校(筑波大学の前身の一つ)および官立大阪師範学校の校長を務めた。 *[[清水勤二]] - 文部官僚、教育者。名古屋工業大学初代学長を務めた。 *[[清水彦五郎]] - 文部官僚、帝国大学法科大学舎監、帝国大学書記官・法科大学舎監、高等商業学校校長、東京帝国大学書記官・医科大学附属医院事務官督を歴任した。 *[[島田三郎]] - 文部官僚、衆議院議員、ジャーナリスト。 *[[嶋田安次郎]] - 大阪の地域教育に尽力。 *[[幣原坦]] - 教育行政官 *[[マリオン・スコット]] - 一斉教授法、直観教授法を指導。 *[[鈴木治太郎]] - [[アルフレッド・ビネー]]の手法を翻案した[[鈴木ビネー知能検査]]を発表。 *[[鈴木眞年]] - 文部官僚、江戸時代末期から明治時代にかけての系譜研究家・国学者。 *[[瀬戸虎記]] - 文部官僚、教育者。第一高等学校長など。 *[[高橋健三]] - 明治期の文部官僚、ジャーナリスト・政治家。英吉利法律学校(中央大学の前身)創立者の一人。 *[[高橋是清]] - 開成学園の創設者。 *[[高橋是清]] - 文部官僚、財政家、日銀総裁、政治家。第20代内閣総理大臣 *[[高嶺秀夫]] - 明治時代の文部官僚、教育者。開発主義教育 *[[滝沢菊太郎 (師範学校長)]] - 明治時代から大正時代にかけての文部官僚、教育者。府県師範学校長。 *[[谷本富]] - ヘルバルト主義、『系統的新教育学綱要』 *[[田中不二麿]] - 文部官僚、教育行政家。教育令制定に尽力。 *[[塚原政次]] - 明治時代から昭和初期にかけての日本の教育心理学者。文学博士 *[[津田梅子]] - 女子教育 女子英学塾(後の[[津田塾大学]])の創立者。 *[[辻新次]] - 初代[[文部省|文部]][[次官]]、[[日本スポーツ協会|大日本教育会]]・帝国教育会会長、[[東京仏学校]]創設者。 *[[坪井玄道]] - [[高等師範学校]]、[[体操伝習所]]教員。体育学者。『戸外遊戯法』、『普通体操法』を出版。日本に初めて[[サッカー]]、[[ドッジボール]]を紹介。 *[[都筑馨六]] - 文部官僚、外交官、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、法学博士、男爵。 *[[寺田勇吉]] - 明治時代から大正時代にかけての文部官僚、教育者。東京高等商業学校(一橋大学の前身)、日本橋高等女学校(日本橋女学館高等学校の前身)校長、日本体育会体操学校(日本体育大学の前身)女子部長、九段精華高等女学校長を歴任した。 *[[手島精一]] - 明治時代の教育者、文部官僚。 工業教育、東京教育博物館(国立科学博物館の前身)および東京図書館(国立国会図書館の前身の一つ)主幹、共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)など *[[豊留アサ]] - 女子教育 私立新庄女学校([[広島新庄中学校・高等学校|広島県新庄学園]]の前身)校長。 *[[永井浩 (内務官僚)]] - 文部官僚、官選熊本県知事。 *[[永井道明]] - 高等師範学校教授。体育指導者。日本体操の父。『学校体操教授要目』(後の「[[学習指導要領]]体育編」)の制定に尽力。日本に[[体操|スウェーデン体操]]、[[肋木]]、[[ドッジボール]]を導入。 *[[成瀬仁蔵]] - [[日本女子大学]]の創立者。 *[[中川健藏]] - 文部官僚、台湾総督、貴族院議員。 *[[中川元]] - 明治時代の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。 *[[中川小十郎]] - [[京都法政学校]](後の[[立命館大学]])の創立者。 *[[中村正直]] - [[同人社]]を創立。[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]を起草。『 [[西国立志編]]』など多くの翻訳書を発刊した。明治六大教育家。 *[[中島永元]] - 文部官僚、辻新次とともに一貫して明治前期の中央教育行政にたずさわる *[[長屋順耳]] - 文部官僚、東京外国語学校校長。女子学習院長。宮中顧問官など。 *[[長野長広]] - 文部官僚、衆議院議員。文部政務次官、内務政務次官を歴任。 *[[長與專齋]] - 文部官僚、医師、医学者。 *[[新渡戸稲造]] - 『武士道』の著者。 *[[新島襄]] - [[同志社]]の創立者。 [[英語]]・[[キリスト教]]の分野で多くの逸材を教育。明治六大教育家。 *[[西周 (啓蒙家)]] - 啓蒙思想家、西洋哲学者。獨逸学協会学校(現:獨協中学校・高等学校)初代校長、貴族院議員、錦鶏間祗候など。 *[[西川順之]] - 文部官僚、教育者。 *[[西村貞 (文部官僚)|西村貞]] - 明治時代の文部官僚、教育者。官立大阪師範学校長など *[[西村茂樹]] - [[明六社]]創設者のひとり。『日本道徳論』の著者。啓蒙思想家、教育者。文学博士。道徳振興団体「日本弘道会」創設者。 *[[二階堂トクヨ]] - 女子体育の母。[[日本女子体育専門学校 (旧制)|二階堂体操塾]](後の[[日本女子体育大学]])の創立者。日本女子初の五輪メダリスト・[[人見絹枝]]を育てる。 *[[沼田悟郎]] - 文部官僚、教育者。 *[[野口明 (教育者)|野口明]] - 文部官僚、教育者。お茶の水女子大学初代学長などを歴任した。 *[[野村綱]] - 文部官僚、教育者。宮崎県学務課長、県立宮崎学校長、鹿児島県会(鹿児島県議会の前身)初代議長、文部省普通学務局次長、宮崎県尋常中学校(宮崎大宮高等学校の前身)校長を歴任した。 *[[野村素介]] - 文部官僚、政治家、書家。 *[[野村彦四郎]] - 明治時代の文部官僚、官吏、教育者。石川県師範学校(金沢大学の前身の一つ)初代校長、京都府学務課長、体操伝習所(筑波大学体育専門群の前身の一つ)所長、第一高等中学校校長など *[[野田義夫]] - 文部官僚、教育者。 *[[エミール・ハウスクネヒト]] - ヘルバルト派教育学を伝える。 *[[長谷川泰]] - 医学者、政治家、私立医学校の[[済生学舎]]([[日本医科大学]]の前身)を設立。 *[[畠山義成]] - 明治時代初期の文部官僚、教育者。 *[[伴正順]] - 明治時代前半期の文部官僚、裁判官、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)、宮城外国語学校の校長を歴任した。 *[[服部一三]] - 明治時代の文部・内務官僚。東京英語学校、東京大学法・理・文各学部綜理(1880年(明治13年)6月4日)、東京大学予備門(いずれも東京大学教養学部の前身)校長など歴任 *[[濱尾新|浜尾新]] - 文部官僚、文部大臣、[[東京大学|東京帝国大学]]総長。 *[[日田権一]] - 文部官僚、教育者 *[[菱田重禧]] - 文部官僚・裁判官。青森県権令。 *[[平山太郎]] - 明治時代前半期の文部官僚。体操伝習所(筑波大学体育専門群の前身の一つ)主幹、東京図書館(国立国会図書館の前身の一つ)館長など歴任 *[[平賀義美]] - 明治期の化学者・工業教育者。 *[[檜垣直右]] - 教育者、文部・内務官僚。官選県知事、錦鶏間祗候。 *[[藤野恵]] - 文部官僚・内務官僚。官選県知事、文部次官を歴任。 *[[古市公威]] - 明治期の工業教育者。工学博士。帝国大学工科大学初代学長。 *[[福岡孝弟]] - 文部官僚、政治家。五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物である。 *[[福澤諭吉]] - [[慶應義塾大学|慶應義塾]]創始者。『[[学問のすゝめ]]』の著者。 [[法学]]・[[経済学]]を中心に幅広い[[思想家]]として著名。明治六大教育家。 *[[保科百助]] - 鉱物学者、理科教育 *[[丸山環]] - 文部官僚、教育者 *[[松井正夫]] - 文部官僚、化学者、元文部省学校教育局大学教育課長、新潟高等学校の最後の校長、新潟大学理学部初代学部長。 *[[松井直吉]] - 文部官僚、化学者。理学博士。 第三高等中学校(京都大学の前身の一つ)教頭、文部省専門学務局長、東京化学会(日本化学会の前身の一つ)会長、東京帝国大学(東京大学の前身)農科大学長・総長を歴任した。 *[[松浦鎮次郎]] - 文部官僚、教育者、政治家。九州帝国大学総長歴任。 *[[松尾長造]] - 文部官僚、広島女子高等師範学校校長。 *[[正木退蔵]] - 明治時代の文部官僚、教育者、外交官。開成学校講師留学生監督 *[[牧野伸顕]] - 文部官僚、政治家。 *[[宮崎謙太]] - 内務・文部官僚。官選佐賀県知事。 *[[溝淵進馬]] - 明治時代から昭和初期にかけての文部官僚、教育者。 *[[三沢寛一]] - 文部官僚、北海道札幌市長、山形県知事、島根県知事、札幌観光協会長など。 *[[三島中洲]] - [[二松學舍大学|二松學舍]]の創立者、[[漢学者]]。 *[[南弘]] - 文部官僚 *[[箕作麟祥]] - 文部官僚、幕末から明治時代の日本の幕臣・洋学者、法学者、和仏法律学校(現・法政大学)初代校長を歴任 *[[ルーサー・ホワイティング・メーソン]] - 音楽教育を指導。 *[[ダビッド・モルレー]] - 文部行政顧問、教育令草案作成。 *[[元田永孚]] - 教育勅語起草 *[[森有礼]] - [[明六社]]の発起代表人。初代[[文部大臣]]。明治六大教育家。 *[[安井てつ]] - [[東京女子大学]]の創立者。 *[[山崎達之輔]] - 文部官僚、衆議院7期。 *[[山川建]] - 文部官僚、普通学務局庶務課、専門学務局学務課、大臣官房体育課、同文章課、同会計課の各課長を歴任。ほか千葉県警視、同理事官、静岡県地方事務官など *[[柳本直太郎]] - 文部官僚、教育者。第一大学区第一番中学(東京大学の前身の1つ)学長、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長、名古屋市長を歴任した。 *[[湯原元一]] - 教育者、文部官僚。ヘルバルト派教育学を紹介。 *[[湯地幸平]] - 文部官僚・内務官僚、福井県知事、貴族院議員を歴任 *[[吉岡郷甫]] - 文部官僚、日本語学者。第二高等学校教授 文部省図書審査官、同視学官など *[[吉川泰次郎]] - 文部官僚、教育者。日本郵船二代目社長。 *[[吉村寅太郎 (教育者)]] - 文部官僚、教育者。文部省に出仕し、広島外国語学校校長、広島英語学校長など歴任 *[[吉田賢輔]] - 文部官僚、儒者、幕臣、慶應義塾長。明治期の官僚、教育者、啓蒙者。 *[[芳川顕正]] - 文部大臣。[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]発布を推進。 *[[ジョージ・アダムス・リーランド]] - 学校体育を指導。 *[[渡部董之介]] - 文部官僚、教育者。文部省試補、視学官、参事官・書記官、参事官・図書審査官、図書監査官・図書課長心得などを歴任した後、第七高等学校造士館 *[[渡辺嘉重]] - 日本で最初の[[子守学校]]の創立者。 *[[渡辺辰五郎]] - 女子教育、[[服装]]教育の第一人者。[[東京家政大学]]、[[共立女子大学]]の創立に関与。 ===大正(明治・大正)=== *[[芦田惠之助]] - 綴り方教育の実践家 *[[粟屋謙]] - 文部官僚、滝川事件当時の文部次官。 *[[赤井米吉]] - [[明星学園]]の創設者。『愛と理性の教育』 *[[赤間信義]] - 文部官僚、参事官ほか *[[足立正 (教育者)|足立正]] - 教育者。元[[境町 (鳥取県)]]町長。山陰の郷土史を研究。 *[[井上赳]] - 文部官僚、1930年代の国語読本である『小学国語読本』(サクラ読本)の編集の中心となった。 *[[稲毛金七]] - 「創造教育論」 *[[今井恒郎]] - 日本済美学校の創設者。 *[[石川啄木]] - 自称日本一の[[代用教員]]『林中日記』 *[[上原種美]] - 文部官僚、教育者、文部省督学官、同図書官、同事務官、実業学務局農業教育課長などを歴任。 *[[上田庄三郎]] - 教育評論雑誌『観念工場』創刊、教育労働運動 *[[上田萬年]] - 文部官僚、国語学者、言語学者。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長、神宮皇學館館長、貴族院議員。 *[[江木千之]] - 文部官僚、文部大臣。[[小学校令|第二次小学校令]]を起草、[[文政審議会]]を設置。 *[[奥田義人]] - 明治時代から大正時代にかけての官僚・政治家・法学者。 *[[岡田良平]] - 文部官僚、文部大臣、京都帝国大学総長、東北帝国大学総長。[[臨時教育会議]]を設置。 *[[乙竹岩造]] - 『日本庶民教育史』 *[[及川平治]] - 「自動的教育論」分団的動的教育 *[[小原國芳]] - 「全人教育論」 [[玉川学園]]の創立者 *[[小倉金之助]] - 数学者『数学教育史』 *[[加藤精三 (政治家)|加藤精三]] - 文部官僚、旧鶴岡市第6代市長、衆議院議員(5期)、致道博物館顧問。 *[[河原春作]] - 大正時代から昭和時代にかけての文部官僚、教育者。 *[[片上伸]] - 「文芸教育論」 *[[菊池大麓]] - 文部官僚、明治時代から大正時代にかけての数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長など歴任 *[[北沢種一]] -「作業教育」  [[東京女子高等師範学校|東京女高師]]附属小 *[[木下竹次]] - 合科学習法『学習原論』 *[[倉橋惣三]] - 文部官僚、大正時代から昭和時代にかけての教育者。 *[[河野清丸]] - 「自動教育論」 *[[後藤牧太]] - 明治時代から昭和初期にかけて文部官僚、教育者。理科教育の先駆者で、「手工教育の開拓者」と呼ばれる。 *[[小砂丘忠義]] - 生活綴り方運動 *[[小西重直]] - 教育学者・滝川事件 *[[小牧昌業]] - 幕末から大正期の漢学者、文部官僚、内閣書記官長、官選県知事、貴族院議員、文学博士。 *[[佐藤得二]] - 文部官僚、仏教学者、作家。哲学研究者 *[[阪本越郎]] - 文部官僚、お茶の水女子大学教授。 *[[澤柳政太郎]] - 文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす *[[下山懋]] - 綴り方教育の実践家 *[[杉浦重剛]] - 明治・大正時代の文部官僚、国粋主義的教育者・思想家・政治家。 *[[椙山正弌]] - [[椙山女学園]]創設者で初代学長、理事長 *[[鈴木三重吉]] - 児童文化運動の父。児童雑誌「赤い鳥」主宰。 *[[関屋龍吉]] - 大正・昭和戦前期の文部官僚。文部省社会教育局長を務め、「社会教育育ての親」とも評される。「青い目の人形」による日米交流や、少年団・青年団の組織化などに足跡を残す。 *[[千本福隆]] - 明治時代から大正時代にかけての文部官僚、教育者。東京高等師範学校名誉教授。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 *[[田中稲城]] - 明治時代から大正時代にかけての文部官僚、図書館学者。 帝国図書館(国立国会図書館の前身)初代館長、日本文庫協会(日本図書館協会の前身)初代会長。「図書館の父」と称される。 *[[田澤義鋪]] - 政治家、教育者。[[青年団]]教育の父。 *[[武部欽一]] - 文部官僚、文部省参事官、教育者。 *[[千葉命吉]] - 「一切衝動皆満足論」 *[[塚原政次]] - 明治時代から昭和初期にかけての文部官僚、教育心理学者。文学博士 *[[手塚岸衛]] - 「自由教育論」 千葉県師範附属小 *[[中川謙二郎]] - 明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、文部官僚。 共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)校長、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)初代校長、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)校長を歴任した。 *[[中村春二]] - 成蹊学園の創設者。 *[[乗杉嘉壽]] - 明治から昭和期の文部官僚・教育者。日本に社会教育を体系的に紹介した人物 *[[野口援太郎]] - 和製ペスタロッチ、[[池袋児童の村小学校]]の創立者。 *[[野尻精一]] - 明治時代から大正時代にかけての文部官僚、教育者 *[[アニー・ライオン・ハウ]] - 幼稚園教育の先駆者。[[頌栄短期大学|頌栄保姆伝習所]]、[[頌栄幼稚園]]を設立。 *[[羽仁もと子]] - [[自由学園]]の創立者。 *[[濱尾新]] - 明治時代から大正時代にかけての教育行政官、文部省専門学務局長、元老院議官、東京帝国大学(東京大学の前身)総長、文部大臣、高等教育会議議長、東宮大夫など *[[樋口勘次郎]] - 『統合主義新教授法』 *[[樋口長市]] - 「自学教育論」 *[[廣池千九郎]] - モラロジーの提唱者。[[モラロジー研究所|モラロジー道徳教育財団]]の創立者。 *[[福原鐐二郎]] - 明治時代から大正時代にかけての文部官僚。文部次官、東北帝国大学総長、学習院長、帝国美術院(日本芸術院の前身)院長、貴族院議員を歴任した。 *[[保篠龍緒]] - 文部官僚、作家、翻訳家、『アサヒグラフ』編集長。など *[[真野文二]] - 明治時代から昭和初期にかけての文部官僚、機械工学者。文部省実業学務局長、九州帝国大学(九州大学の前身)総長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 *[[正木直彦]] - 明治から昭和初期の文部官僚、美術行政家。東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を務めた。 *[[牧口常三郎]] - [[創価教育学]]の提唱者 *[[槙山栄次]] - 明治時代から昭和初期にかけての文部官僚、教育者 *[[森岡常蔵]] - 明治時代から昭和初期にかけての文部官僚、教育学者 *[[山本鼎]] - 自由画教育運動「芸術自由教育」 *[[湯原元一]] - 明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、文部官僚。東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)および東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)校長、東京高等学校(東京大学教養学部の前身の一つ)初代校長を歴任した。 *[[湯本武比古]] - 明治時代から大正時代にかけての文部官僚、教育者。 ===昭和=== *[[阿部重孝]] - 教育学者。教育改革同志会「教育制度改革案」立案を主導。 *[[安達健二]] - 文部官僚、無形文化課長、教科書課長、中等教育課長、人事課長、1967年文化局長など歴任 *[[青木誠四郎]] - 児童・教育心理学者。東京家政大学教授を経て、同学長 *[[浅枝敏夫]] - 職業教育学者、東京工業大学名誉教授、職業訓練大学校校長を歴任 *[[天野貞祐]] - [[獨協大学]]の創設者。 *[[有光次郎]] - 文部官僚、教育者。 *[[伊藤順康]] - 教育心理学者で他専門は社会教育学、人間形成論。東京理科大学教授 *[[井上正幸 (外交官)|井上正幸]] - 文部官僚、前バングラデシュ特命全権大使。財団法人日本国際教育支援協会の理事長(常勤)。 *[[井上赳]] - 「サクラ読本」編集。 *[[井内慶次郎]] - 文部官僚、元文部事務次官。 *[[磯貝正義]] - 文部官僚、歴史学者。山梨大学名誉教授。山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編さん委員会委員長。 *[[稲富栄次郎]] - 教育学者(西洋教育史)、[[上智大学]]教授。 *[[茨木清次郎]] - 文部官僚、教育者。第四高等学校教授、文部省視学官 *[[犬丸直]] - 文部官僚、学術国際局審議官、管理局長、文化庁長官、国立劇場理事、東京国立近代美術館館長など *[[糸賀一雄]] - 「福祉の思想」 *[[入沢宗寿]] - 教育学者。田島体験学校を指導。 *[[板垣昭一]] - [[国語]]教育、主として[[読み方教育]]の実践家。 *[[牛島義友]] - 教育心理学者、九州大学名誉教授。 *[[上田薫 (教育学者)]] - 文部官僚、教育学者。東京教育大学教授、立教大学教授、都留文科大学学長を務めた。「社会科の初志をつらぬく会」名誉会長。1 *[[梅根悟]] - 教育学者(西洋教育史)、[[日本教育学会]]会長。[[和光学園]]を創立。 *[[梅津八三]] - 教育心理学者、東京大学文学部名誉教授。 *[[遠山敦子]] - 文部官僚、財団法人新国立劇場運営財団顧問。 *[[奥田靖雄]] - [[国語]]教育の理論的指導者、[[教育科学研究会・国語部会]]の指導者。 *[[岡路市郎]] - 教育心理学者・俳人。元・北海道教育大学学長。 *[[恩田彰]] - 教育心理学者、東洋大学名誉教授 *[[大橋秀雄]] - 専門の流体工学、流体機械、環境システム工学の他に工学教育、技術者教育。 *[[大崎仁]] - 文部官僚、筑波大学を作った学術行政の官僚。 *[[大瀬甚太郎]] - 教育学者(西洋教育史)、[[東京文理科大学]]学長。 *[[長田新]] - 教育学者(西洋教育史)、日本教育学会会長。ペスタロッチ研究。 *[[加戸守行]] - 文部官僚、元愛媛県知事(第14 - 16代) *[[加藤仁平]] - 教育史学者、東京文理科大学教授、関東学院大学教授。江戸時代の教育思想が専門 *[[河井芳文]] - 教育心理学者「漢字の画と読字行動との関係に関する研究」で教育学博士。東京学芸大学教授を歴任 *[[海後宗臣]] - 教育学者(日本教育史)、日本教育学会会長。『教育勅語成立史の研究』。 *[[梶田叡一]] - 教育心理学者、兵庫教育大学名誉教授。 *[[勝田守一]] - 教育学者。「学習指導要領社会科編(試案)」作成、「国民の教育権」論を展開。 *[[上岡国夫]] - 教育心理学者。高崎経済大学教授 *[[城戸幡太郎]] - 教育学者・[[心理学者]]、[[国立教育研修所]]、[[北海道学芸大学]]学長。[[教育科学研究会]]を結成。 *[[木村秀政]] - 航空機研究者で航空工学教育。 *[[木田宏]] - 文部官僚、元文部事務次官。教育評論家。 *[[久保田藤麿]] - 文部官僚、参議院議員(1期)。衆議院議員(2期)。 *[[倉橋惣三]] - 幼児教育の父。 *[[草原克豪]] - 文部官僚、拓殖大学名誉教授で専門は新渡戸稲造研究、文教政策。日本高等教育学会所属。拓殖大学北海道短期大学学長・教授、拓殖大学外国語学部教授・副学長を歴任。 *[[釘本久春]] - 文部官僚、国語学者、国文学者。中央大学教授から文部省国語課長。戦時中は石黒修などとともに大東亜共栄圏への日本語普及政策に関わっていた。 *[[近藤信司]] - 文部官僚、公益財団法人「文教協会」代表理事。元独立行政法人国立科学博物館長、元国立教育政策研究所所長、元文化庁長官、元文部科学審議官(文教担当)。 *[[古村えり子]] - 北海道教育大教授、専門は社会教育学 *[[国分一太郎]] - 国語教育、作文教育([[生活綴り方教育]])の理論的指導者。 *[[小西重直]] - 元協と大学総長、技術者育成を目指して興亜工業大学(現千葉工業大学)の創設に関わる *[[小林澄兄]] - [[労作教育]]の紹介者。 *[[肥田野直]] - 教育心理学者、東京大学・大学入試センター名誉教授、学校法人旭出学園理事長。 *[[佐々木義武]] - 文部官僚、科学技術庁長官・通商産業大臣を歴任 *[[佐藤正 (心理学者)]] - 教育心理学者、東京学芸大学教授。 *[[佐藤禎一]] - 文部官僚、元文部事務次官。NPO法人大学経営協会会長。学術国際局長、大臣官房長、文部事務次官を歴任。 *[[斎藤喜博]] - 島小校長『授業入門』 *[[坂田東一]] - 文部官僚、文部科学事務次官のほかウクライナ駐箚特命全権大使も務めた。 *[[阪本一郎]] - 教育心理学者、東京第一師範学校・東京学芸大学・日本女子大学・立正女子大学短大・文教大学女子短大部の教授を歴任。 *[[沢田慶輔]] - 教育心理学者、東京大学名誉教授 *[[下村湖人]] - 教育者、作家。 *[[下中弥三郎]] - 日本最初の教職員組合の創始者。 *[[下程勇吉]] - [[教育人間学]]の提唱者。 *[[篠原助市]] - 教育学者(西洋教育史)。『理論的教育学』。 *[[杉江清]] - 文部官僚、文部省大学学術局長、国立科学博物館長、公立学校共済組合理事長などを歴任した。 *[[清水安三]] - [[桜美林学園]]を創立。 *[[清水勤二]] - 工学教育。名古屋工業専門学校長・名古屋工業大学初代学長 *[[清水潔 (文部官僚)]] - 文部官僚、弁護士。元文部科学事務次官。 *[[清水誠 (教育学者)|清水誠]] - 理科教育学、埼玉大学教授 *[[品川不二郎]] - 教育心理学者、東京学芸大学名誉教授。 *[[皇至道]] - 教育学者(教育行財政学)、[[広島大学]]学長。 *[[清家正]] - 工業教育学者 *[[荘司雅子]] - 教育学者。フレーベル研究。 *[[玉井日出夫]] - 文部官僚、文部科学審議官(文教担当)、文化庁長官を歴任。 *[[高橋是清]] - [[開成学園]]を創立。 *[[高第四郎]] - 文部官僚。文部官僚で教育評論家の木田宏は女婿。 *[[辰見敏夫]] - 教育心理学者、東京学芸大学名誉教授。厚生省の中央児童審議会家庭児童健全育成対策部会長。 *[[辰野千寿]] - 教育心理学者、筑波大学・上越教育大学名誉教授。 *[[田宮輝夫]] - [[生活綴方]]、[[作文]]教育 *[[田中耕太郎]] - 文部官僚、法学者・法哲学者。東京帝国大学大学法学部長、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長など *[[田中芳男]] - 昭和時代の文部官僚 *[[田中壽一]] - [[名城大学]]を創立。 *[[武政太郎]] - 教育心理学者、東京文理科大学教授 *[[続有恒]] - 教育心理学者、名古屋大学教育学部教授、「教育評価」で教育学博士。 *[[土屋定之]] - 科技・文科官僚。第22代ペルー共和国駐箚特命全権大使、第9代文部科学事務次官。元広島県公立大学法人理事長。 *[[遠山啓]] - 数学教育の推進者、「水道方式」を確立。 *[[戸倉ハル]] - 学校ダンスの第一人者 *[[富岡賢治]] - 文部官僚、群馬県高崎市長(3期)。 国立教育研究所所長、日本国際教育協会理事長、群馬県立女子大学学長等を歴任した。 *[[留岡幸助]] - [[北海道家庭学校]]を創立。 *[[中島章夫]] - 文部官僚、政治家。元衆議院議員、元参議院議員。国際教育交流馬場財団理事長。 *[[中野佐三]] - 教育心理学者。東京教育大学名誉教授、和洋女子大学教授。児童心理学、教育心理学。 *[[長尾十三二]] - 教育学者(西洋教育史)。[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]研究。 *[[内藤誉三郎]] - 昭和期の政治家・文部官僚。文部大臣 *[[西平直喜]] - 教育心理学者、創価大学名誉教授。 *[[野村正二郎]] - 文部官僚、科学者、大学教授およびサッカー選手。 *[[野村芳兵衛]] - [[池袋児童の村小学校]]の訓導 *[[橋田邦彦]] - 国民学校制度 *[[原野広太郎]] - 教育心理学者。 *[[長谷川保]] - 福祉 *[[波多野完治]] - 教育心理学者お茶の水女子大学名誉教授。 *[[林大]] - 文部官僚、国語学者。国立国語研究所所長、国語学会代表理事などを務めた。1950年代から1980年代までの日本の国語施策に関与した。 *[[林竹二]] - 教育学者(教育哲学)。ソクラテス的対話による教育。 *[[林芳樹]] - 東京大学教育学部在学時より、教育学と社会学の双方に関連が深い社会教育学を専門としている *[[東江康治]] - 教育心理学者、名桜大学名誉学長。元琉球大学学長。 *[[東上高志]] - [[同和教育]]の研究者。 *[[藤懸静也]] - 文部官僚、日本美術史学者、東京帝国大学教授。 *[[幣原坦]] - 文部官僚、東洋史学者、教育行政官。本職は朝鮮史を専攻する歴史家だが、戦前の統治行政・統治教育を推進した官僚、教育者としても知られている。 *[[松井三雄]] - 教育心理学者。体育研究所、東京文理科大学教授、東京大学名誉教授、日本大学教授、鶴川女子短期大学学長。 *[[松本孝次郎]] - 教育心理学者 *[[松本生太]] - 教育学者。[[鎌倉女子大学]](京浜女子大学)、[[学校法人鎌倉女子大学]]を創立。 *[[真板益夫]] - [[学校法人君津学園]]を創立。学園の理事長、設置各校の学長・校長・園長を務めた。 *[[正木正]] - 教育心理学者、東北大学教授、京都大学教育学部教授。依田新との共著『性格心理学』(1937)で知られた *[[前川喜平]] - 元文部・文科官僚。文部科学省大臣官房総括審議官、文部科学省大臣官房長、文部科学省初等中等教育局長、文部科学審議官(文教担当)、文部科学事務次官などを歴任した。 *[[宮原誠一]] - 教育学者(社会教育学)。[[教育科学研究会]]再建運動。 *[[宮崎典男]] - [[国語]]教育、[[教育科学研究会・国語部会]]の理論家、生活指導 *[[三浦修吾]] - 『学校教師論』の著者。 *[[三好信浩]] - 教育史学者 *[[三木安正]] - 教育心理学者、東京大学名誉教授。 *[[水野敏雄]] - 文部官僚、教育学研究者。島根大学第4代学長。 *[[宗像誠也]] - 教育学者(教育行政学)。「国民の教育権」の理論化に貢献。 *[[村井実]] - 教育学者、[[慶應義塾大学]]教授。『かにの本』。 *[[無着成恭]] - [[生活綴方]]、『[[山びこ学校]]』、言語教育(『続・山びこ学校』) *[[森口泰孝]] - 文部官僚、元文部科学事務次官、東京理科大学副学長。 *[[森重敏 (心理学者)]] - 教育心理学者、東京都立大学名誉教授 *[[森信三]] - 『修身教授論』で知られる。 *[[森楙]] - 社会教育学者、広島大学名誉教授 *[[山下俊郎]] - 教育心理学者、東京都立大学名誉教授。 *[[山下徳治]] - プロレタリア教育運動 *[[矢川徳光]] - 教育学者。ソヴィエト教育学研究。 *[[柳川覚治]] - 文部官僚。文部省体育局長、管理局長、参議院議員(3期)等を歴任した。 *[[剱木亨弘]] - 文部官僚。参議院議員、文部大臣 *[[藪内敬治郎]] - [[学校法人奈良大学|奈良大学]](正強学園)を創立。 *[[依田新]] - 教育心理学者、児童学者 *[[横湯園子]] - 教育心理学者、臨床心理学・教育学者。元中央大学教授 *[[吉田享二]] - 建築研究者、工業教育者。 *[[吉田熊次]] - 教育学者、国民精神文化研究所研究部長。社会的教育学を紹介、国民道徳論を展開。 *[[四方実一]] - 教育心理学者「算数問題解決の教育心理学的研究」で文学博士。京都教育大学名誉教授。 ===障害児教育=== *[[熊谷実称]] - 学制にのっとった盲学校開設。 *[[ヘンリー・フォールズ]] - スコットランド宣教師。盲唖院設立。 *[[津田仙]] - 盲唖院設立に協力。 *[[前島密]] - 慈善事業組織「楽善会」 *[[小松彰]] - 「楽善会」訓盲院を設立。 *[[山尾庸三]] - 「楽善会訓盲院」に協力。 *[[遠山憲美]] - 盲・ろう学校設立意見書。愛媛県士族。 *[[古河太四郎]] - 盲・ろう学校設立意見書。 *[[槇村正直]] - [[京都府知事]]。盲唖院開校。 *[[石井亮一]] - 障害児施設。「孤女学院」 *[[脇田良吉]] - 「白川学園」 *[[岩崎佐一]] - 「桃花塾」 *[[川田貞治郎]] - 「藤倉学園」「日本心育園」 *[[川本宇之介]] - 文部官僚、大正時代から昭和時代にかけての日本の教育者。 東京市および文部省の職員を経て東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)、東京盲学校(筑波大学附属視覚特別支援学校の前身)両校の教諭をつとめた *[[岡野豊四郎]] - 「筑波学園」 *[[島村保徳]] - 「大阪教育治療院」 *[[三田谷啓]] - 医師。「三田谷治療教育院」 *[[久保寺保久]] - 「八幡学園」山下清を育てる。 *[[児玉昌]] - 「小金井学園」 *[[田中正雄 (教育者)|田中正雄]] - 「広島治療教育学園」(「六方学園」) *[[鈴木治太郎]] - 知能検査を標準化。 *[[高木憲次]] - 肢体不自由児の教育の父(肢体不自由者の福祉の父) *[[石川倉次]] - 日本訓盲点字をつくる。 *[[小西信八]] - 障害児教育の先覚者。交流教育。 *[[石井筆子]] - 障害児施設 *[[鈴木彪平]] - 盲導犬の普及活動。視覚障害者の教育。 ==現代の教育関係者(日本)== ===教育行政=== {{also|文部科学大臣}} {{Div col|3}} *[[有馬朗人]] - 元文部大臣・元東大学長。 *[[愛野興一郎]] - 衆議院文教委員長などを歴任。 *[[芦沢一明]] - 結文教委員長などを歴任。 *[[有田一壽]] - 文教委員会委員歴任。 *[[秋山長造]] - 参議院文教委員長を歴任。 *[[秋田大助]] - 科学技術政務次官、衆議院文教委員会、同社会労働委員会、同外務委員会委員を歴任。 *[[伊吹文明]] - 衆議院文教委員長を務めた。 *[[伊藤公介]] - 文教委員長等を歴任。 *[[伊佐進一]] - 元科技・文科官僚。公明党所属の衆議院議員(4期)。財務大臣政務官を歴任した。 *[[石井道子]] - 参議院文教委員長を歴任。 *[[石橋良三]] - 広島県議会文教委員長を歴任。 *[[石井郁子]] - 議員、教育学者、[[日本共産党]]副委員長 *[[稲葉修]] - 衆議院文教委員長を歴任。 *[[内田広之]] - 文部・文科官僚。福島県いわき市長(1期)。文科省教育改革推進室長、福島大学理事兼事務局長、東日本国際大学地域振興戦略研究所長などを歴任した。 *[[岡三郎 (参議院議員)]] - 参議院文教委員長を務めた *[[小野元之]] - 文部官僚、関西大学客員教授。同志社大学客員教授。初代文部科学事務次官、独立行政法人日本学術振興会理事長を歴任。学校法人城西大学理事長代理、パナソニック教育財団理事長、学校経理研究会理事長を兼任。 *[[小尾乕雄]] - [[学校群制度]]を実施 *[[小川元]] - 文教部会長、衆議院文教委員会委員歴任。 *[[小野清子]] - 参議院文教委員長歴任。元体操選手。 *[[相馬助治]] - 参議院文教委員長などを歴任。 *[[大谷藤之助]] - 参議院文教委員長を歴任した。 *[[大坪保雄]] - 衆議院文教委員長を歴任した。 *[[大島慶久]] - 参議院文教委員長を歴任した。 *[[大島友治]] - 参議院文教委員長を歴任。 *[[扇千景]] - 参議院文教委員長などを歴任。 *[[金田稔久]] - 総務文教委員長などを歴任。 *[[河野正夫]] - 参議院文教委員を歴任。 *[[片岡文重]] - 社会労働委員会理事、予算委員会理事、大蔵委員のほか文教委員などを務めた。 *[[片山正英]] - 参議院文教委員長を歴任。 *[[神能精一]] - 元国語教員。全国高等学校国語教育研究連合会事務局長 *[[川村恒明]] - 文部官僚、元文化庁長官。大臣官房審議官(教育助成局担当)、総務審議官、学術国際局長、文化庁長官、国立科学博物館館長、日本育英会理事長、神奈川県立外語短期大学学長など歴任 *[[木曽功]] - 文部官僚、千葉科学大学学長と学校法人加計学園理事。文部省初等中等教育局職業教育課課長など歴任 *[[岸田文武]] - 文教委員会委員歴任 *[[黒岩重治]] - 衆議院文教委員などを歴任。 *[[久保猛夫]] - 党政調会文教委員長などを務める。 *[[久野忠治]] - 衆議院文教委員長を歴任。 *[[工藤巌]] - 衆議院議員時代には文教委員長を務めた *[[輿石東]] - 元小学校教員。衆議院文教委員会に所属を歴任。 *[[佐々木恒司]] - 治安文教委員会委員長を歴任。 *[[佐藤観次郎]] - 衆議院文教委員長 *[[坂田道太]] - 衆議院文教委員長などを歴任した。 *[[坂本三十次]] - 衆議院文教委員長を歴任。 *[[斉藤進]] - 生活文教委員長を歴任。 *[[笹森順造]] - 文教委員会会長、全日本学生剣道連盟会長などに就任。 *[[下村博文]] - 都議会厚生文教委員会委員長などを歴任。 *[[渋谷桂司]] - 市議会運営委員会、総務文教委員会、予算特別委員会など各委員長歴任 *[[渋谷直蔵]] - 衆院文教委員長を歴任。 *[[清水嘉与子]] - 労働政務次官・参議院文教委員長など *[[清沢俊英]] - 参議院文教委員長を歴任。 *[[菅川健二]] - 国会では、参議院予算委員会委員のほか同文教委員会委員などを歴任。 *[[菅波茂]] - 環境、労働各政務次官のほか衆院文教委員長などを歴任した。 *[[銭谷真美]] - 文部官僚、第4代文部科学事務次官。東京国立博物館館長。 *[[世耕政隆]] - 参議院文教委員長を歴任。 *[[床次徳二]] - 文教委員長を歴任。 *[[高橋一郎 (衆議院議員)]] - 衆議院文教委員長を歴任。 *[[高見三郎]] - 衆議院文教委員長を歴任。 *[[高崎裕子]] - 参議院文教委員を歴任。 *[[田沢智治]] - 参議院文教委員長を歴任。 *[[田中正巳]] - 衆議院文教委員長を歴任。 *[[寺脇研]] - 学校法人瓜生山学園京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)教授、学校法人瓜生山学園理事。学校法人コリア国際学園理事。映画評論家。官僚時代にはゆとり教育の広報を担った、ゆとり教育推進者の一人。元文部官僚 *[[寺沢計二]] - 元文部科学官僚で工業教育・産学連携の分野で活動した。 *[[冨岡勉]] - 県議会で文教委員会委員長を務めるを歴任。 *[[豊瀬禎一]] - 社会党文教部会長、同国会対策委員、参議院文教委員会理事などを務めた *[[仲川幸男]] - 参議院文教委員会委員長を歴任。 *[[永井道雄]] - 元文部大臣 *[[西博義]] - 衆議院文教委員長を歴任した。 *[[二田孝治]] - 文教委員長 *[[二木謙吾]] - 文教委員会委員長 *[[野原覚]] - 文部委員会、文教委員会などに所属した。 *[[野口堅三郎]] - 文教委員会委員などを歴任。 *[[野本品吉]] - 参議院文教委員会委員長を歴任。 *[[登坂重次郎]] - 衆院文教委員長等を歴任。 *[[鳩山邦夫]] - 元文部大臣 *[[長谷川保]] - 衆議院文教委員長を歴任。 *[[長谷川保]] - 衆議院文教委員長を歴任。 *[[板東久美子]] - 文部官僚・文科官僚。文部科学審議官、消費者庁長官を歴任。公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの理事も務める。 *[[林田英樹]] - 文部省学術国際局長、東宮大夫を歴任。 *[[降矢敬義]] - 参議院文教委員長などを歴任。 *[[藤尾正行]] - 文教委員長及び日本経営管理協会会長、1976年から衆議院内閣委員長などを歴任。 *[[保坂展人]] - 議員、内申書裁判 *[[堀内俊夫]] - 参議院文教委員長に就任。 *[[堀江正彦]] - 外交官で日本式工学教育を行う日本マレーシア国際工科院(MJIIT)設立に尽力 *[[松浦功]] - 参議院文教委員長などを歴任。 *[[町村信孝]] - 元文部大臣 *[[三ッ林弥太郎]] - 衆議院文教委員長を歴任。 *[[三浦朱門]] - 元教育課程審議会会長 *[[森口泰孝]] - 元文部科学事務次官、科学技術広報財団理事長、日本工学教育協会会長 *[[千葉千代世]] - 文教委員、社会労働委員長を歴任した。 *[[前原誠司]] - 厚生労働、環境対策委員のほか文教委員を歴任。 *[[山原健二郎]] - 国会では主に文教委員会所属。 *[[山崎竜男]] - 参院文教委員長などを歴任。 *[[山中伸一]] - 文部科学官僚。学校法人角川ドワンゴ学園理事長。内閣審議官(教育再生会議担当室副室長)、スポーツ・青少年局長、文部科学事務次官を歴任。 *[[柳澤伯夫]] - 衆議院文教委員長 *[[八田貞義]] - 衆議院文教委員長を歴任した。 *[[八木徹雄]] - 衆議院文教委員長を歴任した。 *[[安嶋弥]] - 文部官僚、歌人、教育学者。文部省大臣官房長、初等中等教育局長、文化庁長官、など。 *[[結城章夫]] - 文部官僚、学校法人富澤学園理事長。文部科学事務次官も務め、事務次官退任後は山形大学の学長に就任 *[[湯山勇]] - 日本教職員政治連盟から。参議院文教委員長などを歴任。 *[[葉梨信行]] - 衆議院文教委員長 *[[吉田信解]] - 全国市長会社会文教委員会委員長を歴任。 *[[和田宗春]] - 都議会では、文教委員会副委員長 *[[和田鶴一]] - 農林委員長や文教委員長などを歴任。 *[[渡瀬憲明]] - 衆議院文教委員会理事を歴任。 *[[渡辺省一]] - 衆議院文教委員長を歴任。 {{Div col end}} ===学者および研究者=== ====教育学の主な研究者==== {{Div col|3}} *[[東洋 (心理学者)]] - 教育心理学者 *[[秋田喜代美]] - 教育学者および心理学者([[発達心理学]])。 *[[秋山和夫 (教育学者)]] *[[浅野誠 (教育学者)]] *[[安東茂樹 (教育学者)]] *[[天野郁夫]] - 社会教育学者。 *[[荒井克弘]] - 社会教育学者。 *[[相庭和彦]] - 新潟大学教授。社会教育学者。 *[[秋田喜代美]] - 教育心理学者、東京大学名誉教授。専門は、発達心理学、教育心理学、保育学、学校教育学 *[[安藤寿康]] - 教育心理学者、慶應義塾大学教授 *[[秋葉英則]] - 教育心理学者、人格形成心理学が専門。大阪健康福祉短期大学元学長・大阪教育大学名誉教授 *[[穐山貞登]] - 教育心理学者、東京工業大学名誉教授 *[[荒木紀幸]] - 教育心理学者・道徳性発達心理学者、神戸親和女子大学・大学院教授、中国東北師範大学客員教授、兵庫教育大学名誉教授。博士(心理学) *[[池田岩太]] - 幼児教育・造形保育。 *[[池田進 (教育学者)]] *[[石井隆之]] - 英語教育学者。近畿大学経済学部総合経済政策学科教授。 *[[板倉聖宣]] - 理科教育、仮説実験授業の提唱者。 *[[市川須美子]] - 教育法学者。[[兼子仁]]の弟子。 *[[伊藤健三]] - 英語教育。 *[[今井康雄]] - 教育学者。ポストモダン論者。 *[[岩永雅也]] - 教育学者。 *[[伊藤美奈子 (心理学者)]] - 教育心理学者、奈良女子大学生活環境学部教授・臨床心理相談センター長。 *[[伊藤隆二]] - 教育心理学者、横浜市立大学名誉教授 *[[内田一成]] - 教育学者および心理学者([[臨床心理学]])。上越教育大学名誉教授。 *[[梅田修 (教育学者)]] *[[内田良]] - 教育社会学者。 *[[上田薫 (教育学者)]] *[[上田賢治]] - 神道学者。 *[[梅本堯夫]] - 教育心理学者、京都大学名誉教授。著書に『音楽心理学』 *[[植木理恵]] - 教育心理学者、文部科学省特別研究員も務めたは *[[上野一彦]] - 教育心理学者、東京学芸大学名誉教授。 *[[内須川洸]] - 教育心理学者、筑波大学名誉教授。吃音教育が専門。 *[[内田一成]] - 教育心理学者・臨床心理学者・教育学者。博士(心身障害学)。上越教育大学名誉教授。専門は、臨床心理学、学校心理学、福祉心理学、心理療法(応用行動分析、行動療法、認知行動療法)。 *[[氏家達夫]] - 教育心理学者、名古屋大学名誉教授。「親になるプロセス」で博士(教育学) *[[上原泉]] - 教育心理学者・心理学者。お茶の水女子大学大学院人間文化創生科学研究科(人間発達科学専攻)准教授。博士(学術)。専門は、認知心理学、発達心理学、教育心理学。 *[[浮谷秀一]] - 教育心理学者、専攻領域は、教育心理学・ビジネス心理学。東京富士大学教授 *[[臼井博]] - 教育心理学者、専門は、発達心理学・教育心理学。北海道教育大学名誉教授、札幌学院大学元教授。 *[[江森英世]] - 数学教育。 *[[遠藤浩 (教育学者)]] *[[遠藤知恵子]] - 教育学博士 地域社会教育実践 *[[遠藤利彦]] - 教育心理学者、東京大学大学院教育学研究科総合教育科学専攻教育心理学コース教授 *[[大田堯]] - 教育学者、都留文科大学学長、日本教育学会会長。本郷地域教育計画を指導。 *[[大塚豊 (教育学者)]] *[[大沼安史]] - [[チャーター・スクール]]の紹介者。 *[[奥田靖雄]] - 日本語教育([[国語 (教科)|国語]]教育)。 *[[小野田正利]] - 教育制度学・教育行政学者。 *[[小川正人 (教育学者)]] *[[小川清彦 (教育学者)]] *[[小川太郎 (教育学者)]] *[[小田豊 (教育学者)]] *[[小野修 (教育心理学者)]] *[[大澤敏]] - 金沢工業大学学長。生分解性プラスチック、環境調和材料、医用材料、高分子化学のほか工学教育を専門。 *[[太田信夫]] - 教育心理学者、専攻は、認知心理学・教育心理学。筑波大学名誉教授。元東京福祉大学学長。元日本認知心理学会理事長 *[[小塩真司]] - 教育心理学者、早稲田大学文学学術院教授。 *[[小野修 (教育心理学者)]] - 教育心理学者。臨床心理士。元徳島文理大学教授 *[[織田揮準]] - 教育心理学者・教育学者。三重大学名誉教授。専門は、教育心理学、教育評価のほかに教育工学。 *[[大野木裕明]] - 教育心理学者、福井大学名誉教授・仁愛大学教授。専攻は教育心理学、パーソナリティ心理学 *[[大久保智生]] - 教育心理学者、香川大学准教授。専門は教育心理学、社会心理学、犯罪心理学。 *[[小野修 (教育心理学者)]] - 元徳島文理大学教授 *[[苅谷剛彦]] - 教育社会学者。学力低下についての研究で有名。 *[[川勝泰介]] - 教育学者。児童文化学。 *[[川勝博]] - 理科教育、物理教育。 *[[貝塚茂樹 (教育学者)]] *[[角田豊 (心理学者)]] *[[風間効]] - 工業教育学者 *[[勝田守一]] - 専門は社会教育学で「東大教育の3M(スリー・エム)」と称された。 *[[唐沢富太郎]] - 『日本教育史』教職教養シリーズ 『中世初期仏教教育思想の研究』など著 *[[角替弘志]] - 社会教育学者。静岡大学名誉教授。 *[[河合伊六]] - 教育心理学者・臨床心理学者。学校心理士。 *[[春日井敏之]] - 教育心理学者、立命館大学教授、専門は臨床教育学、教育相談論。 *[[角田豊 (心理学者)]] - 教育心理学者、京都産業大学・京都教育大学教授 *[[加藤隆勝]] - 教育心理学者、筑波大学名誉教授 *[[柏女霊峰]] - 教育心理学・児童福祉学者、浄土真宗僧侶、淑徳大学教授。臨床心理士 *[[梶田正巳]] - 教育心理学者、名古屋大学名誉教授 *[[金子智栄子]] - 教育心理学者で保育心理学・教育心理学、臨床心理士。保育者養成におけるマイクロティーチングの第一人者 *[[木村浩 (教育学者)]] *[[木村拓也 (教育学者)]] *[[岸信行 (教育学者)]] *[[北尾倫彦]] - 教育心理学者、大阪教育大学名誉教授。 *[[岸俊彦]] - 教育心理学者、明星大学名誉教授。 *[[黒上晴夫]] - 教育学者(教育工学) *[[蔵本憲昭 (教育学者)]] *[[隈部直光]] - 英語教育。 *[[桑原知子]] - 教育心理学者・臨床心理学者。教育学博士。京都大学名誉教授 *[[小出進 (教育学者)]] *[[小林雅之 (教育学者)]] *[[小林陽子 (家庭科学者)]] *[[近藤孝弘]] - 歴史教育。 *[[近藤直子 (教育学者)]] *[[駒込武]] - 教育学者。京都大学大学院教育学研究科准教授。 *[[小林一也]] - 工業教育史学者 *[[子安増生]] - 教育心理学者、京都大学名誉教授。甲南大学文学部特任教授。専門は教育認知心理学。 *[[近藤邦夫]] - 教育心理学者、東京大学名誉教授。 *[[小嶋秀夫]] - 教育心理学者で専攻は発達心理学・家族関係研究。 *[[小泉令三]] - 教育心理学者・教育学者。福岡教育大学教授。教育心理学・学校心理学・生徒指導を専門としている *[[近藤直子 (教育学者)]] - 教育心理学者、日本福祉大学教授。 *[[斎藤正二]] - 教育文化史。 *[[齋藤孝 (教育学者)|斎藤孝]] - 日本語教育 *[[齋藤孝 (教育学者)]] *[[酒井ツギ子]] - 教育学者。元[[国立教育研究所]]客員研究員。 *[[坂元昂]] - 教育学者(教育工学)。 *[[佐藤晴雄]] - 生涯学習論、社会教育学、学社連携論、青少年教育論。 *[[佐藤学 (教育学者)|佐藤学]] - 教育学者。「学びの共同体」論を展開。 *[[佐々木秀一 (1874年生の教育学者)]] *[[佐藤学 (教育学者)]] *[[佐藤泰正 (教育学者)]] *[[佐藤哲也 (教育学者)]] *[[坂本秀夫 (教育評論家)]] *[[左巻健男]] - 理科教育。 *[[沢井実]] - 工業教育史学者 *[[佐藤晴雄]] - 教育学者で専門は教育経営学、教育行政学、社会教育学、青少年教育論、家庭教育 *[[佐藤一子]] - 専門は社会教育学・生涯学習論。読売教育賞審査委員。 *[[佐藤泰正 (教育学者)]] - 教育心理学者、筑波大学名誉教授。障害児教育が専門だが、速読術、野球などに関する一般書も多く著した。 *[[三宮真智子]] - 教育心理学者・教育学者。鳴門教育大学・兵庫教育大学大学院・大阪大学人間科学研究科教授。専門は認知心理学・教育心理学ほか教育工学も *[[志村洋子 (教育学者)]] *[[清水誠 (教育学者)|清水誠]] - 理科教育。 *[[清水一彦 (教育学者)]] *[[清水和夫 (教育者)]] *[[庄司和晃]] - 理科教育、宗教教育。 *[[白石裕 (教育学者)]] *[[佐藤史人]] - 職業教育研究者 *[[新堀通也]] - 『現代教育ハンドブック』現代教育学シリーズ や『社会教育学』現代教育学シリーズ『日本の教育』を編著 *[[神保信一]] - 教育心理学者、明治学院大学名誉教授。 *[[鹿毛雅治]] - 教育心理学者、慶應義塾大学教授。「内発的動機づけに及ぼす教育評価の効果」で教育学博士 *[[鹿内信善]] - 教育心理学者、北海道教育大学札幌校教授。 *[[塩見邦雄]] - 教育心理学者、兵庫教育大学名誉教授。「人格構造の二元性についての実験的研究」で教育学博士。 *[[杉浦宏 (教育学者)]] *[[末冨芳]] - 教育行政学、教育財政学。 *[[末延岑生]] - 英語教育学者 *[[鈴木英一 (教育学者)]] *[[鈴木慶子 (教育学者)]] *[[鈴木清 (教育学者)]] *[[鈴木敏正]] - 北海道大学名誉教授。専門は社会教育学・環境教育論だが農業経済学や、農民教育論なども手掛けていた *[[杉原一昭]] - 教育心理学者 *[[高橋智]] - [[特別ニーズ教育]] *[[高橋史朗]] - 臨床教育学者。[[新しい歴史教科書をつくる会]]の元役員。 *[[高橋勝 (教育学者)]] *[[高橋誠 (教育学者)]] *[[高橋智 (教育学者)]] *[[高橋哲夫 (教育学者)]] *[[高橋陽一 (教育学者)]] *[[滝川洋二]] - 理科教育。 *[[竹内常一]] - 教育学者。生活指導論の研究。 *[[竹内洋]] - 教育社会学者。 *[[田中耕治 (学者)|田中耕治]] - 教育学者 *[[田中孝彦 (教育学者)|田中孝彦]] - 臨床教育学者。[[教育科学研究会]]代表。 *[[田崎悦子 (教育学者)]] *[[田村学 (教育学者)]] *[[田中治彦 (教育学者)]] *[[田中正雄 (教育者)]] *[[田中博之 (教育学者)]] *[[高橋敏 (歴史学者)]] - 群馬大学教育学部教授、国立歴史民俗博物館教授、総合研究大学院大学名誉教授。江戸時代の教育史が専門。 *[[武田邦彦]] - 高知工科大学客員教授で日本工学教育協会特別教育士 *[[田丸謙二]] - 化学工業教育者 *[[谷和明]] - 専門は社会教育学、社会文化論。 東京外国語大学名誉教授。 *[[平良研一]] - 社会教育学者。おきなわ社会教育研究会会長、沖縄教育問題研究会代表で教育における「沖縄問題」に強い関心を抱く。 *[[田中寛一]] - 教育心理学者、東京文理科大学名誉教授。日本の心理測定の先駆者。「田中ビネー知能検査」「田中B式知能検査」をはじめ、多くの心理検査を考案した。 *[[滝沢武久]] - 教育心理学者、電気通信大学名誉教授。 *[[高野清純]] - 教育心理学者・僧侶。筑波大学名誉教授。専門は児童心理学。 *[[玉井収介]] - 教育心理学者、特殊教育学者。帝京大学文学部教授。国立特殊教育総合研究所名誉所員。特殊教育功労者。 *[[髙橋靖恵]] - 教育心理学者、臨床心理士。京都大学大学院教育学研究科臨床心理学講座教授、日本ロールシャッハ学会会長 *[[高嶋健一]] - 教育心理学者・教育学者、歌人。静岡県立大学名誉教授。 *[[高橋雅延]] - 認知心理学、実験心理学を専門とする教育心理学者。博士(教育学)。京都橘大学助教授、聖心女子大学教授を歴任。記憶の研究にも取り組んでいる *[[田中敏隆]] - 発達・教育心理学者。大阪教育大学・神戸女子大学名誉教授。 *[[恒吉僚子]] - 比較教育学者 *[[寺澤孝文]] - 教育心理学者、教育者、博士(心理学)。岡山大学教授、兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科副研究科長などを務める。教育ビッグデータ研究とその社会実装の第一人者。 専攻は心理学(特に教育心理学、実験心理学、認知心理学、教育工学、人工知能など)。 *[[所澤保孝]] - 教育学者(国際理解教育) *[[苫野一徳]] - 教育学者(教育哲学) *[[中田基昭]] - 教育学者(教育哲学) *[[中原淳]] - 教育学者(教育工学) *[[中室牧子]] - 経済教育学者。 *[[奈須正裕]] - 教育学者(学校教育学、[[教育方法学]]、[[教育心理学]]、[[カリキュラム|カリキュラム論]]) *[[浪本勝年]] - 教育学者(教育法学) *[[中雄勇人]] - 体育学・運動学者。群馬大学准教授 *[[中内敏夫]] - 教育学、元教育史学会理事 *[[中村和夫 (心理学者)]] - 教育心理学者、京都橘大学教授。 *[[西川純 (教育学者)|西川純]] - 教育学者(臨床教科教育学)。『学び合い』提唱者。 *[[西川信廣 (教育学者)]] *[[西林克彦]] - 教育心理学者、東北福祉大学総合福祉学部社会福祉学科教授 *[[西野泰広]] - 教育心理学者。国士舘大学名誉教授で専門は、発達心理学・教育心理学・スポーツ心理学・体育学。学生時代はラグビー選手として活躍した *[[根本橘夫]] - 教育心理学者、東京家政学院大学名誉教授。教育心理学および性格心理学が専門 *[[野口芳宏]] - 日本語教育 *[[早川由紀夫]] - 教育学者および火山学者。 *[[羽織愛]] - 子供英語教育。[[若林俊輔]]の弟子。 *[[波多野誼余夫]] - 教育心理学者、専攻は認知心理学・教育心理学。教育学博士。獨協大学教授、慶應義塾大学文学部教授を歴任。 *[[速水敏彦]] - 教育心理学者、教育学博士。中部大学人文学部心理学科特任教授 *[[林邦雄]] - 教育心理学者、障害児教育者。静岡大学教育学部教授、目白大学人文学部教授を歴任 *[[浜谷直人]] - 教育心理学者、首都大学東京教授を歴任。 *[[橋本創一]] - 教育心理学者・教育学者、東京学芸大学教授。専門は教育心理学、臨床心理学、教育臨床学、障害児心理学 *[[樋口直宏]] - 教育学者(教育方法学)。テーマは批判的思考。 *[[平井信義]] - 教育学者 *[[平松隆円]] - 教育学者 *[[平野一郎 (教育学者)]] *[[広田照幸]] - 教育社会学者、日本教育学会会長。 *[[福永英雄]] - [[社会学者]]。著書に『生涯研究、教育、社会』。 *[[藤田健治]] - 哲学的人間学 *[[藤田英典]] - 社会教育学者 *[[久田信行]] - 教育心理学者(障害児心理学)、群馬大学名誉教授 *[[藤岡貞彦]] - 社会教育学、湘南学園学園長 *[[藤岡貞彦]] - 専門は社会教育学、公害教育論、環境教育論。一橋大学名誉教授 *[[福沢周亮]] - 教育心理学者、筑波大学名誉教授 *[[藤田主一]] - 教育心理学者、日本体育大学名誉教授。専攻領域は、教育心理学・臨床心理学 *[[藤江康彦]] - 教育心理学者・教育学者。東京大学大学院教育学研究科教授。 *[[古川勇二]] - [[東京都立大学 (1949-2011)]]工学部長、都市研究所長、東京農工大学技術経営研究科長などを歴任。工学教育、都市科学教育、技術経営教育など *[[堀尾輝久]] - 教育学者。国民の[[教育権]]論を展開。 *[[本田由紀]] - 社会教育学者。若者の労働・就労についての研究。 *[[堀田あけみ]] - 教育心理学者、作家、椙山女学園大学国際コミュニケーション学部教授。 *[[保坂亨]] - 教育心理学者、千葉大学教授。 *[[松本茂]] - コミュニケーション教育学。 *[[松田武雄 (教育学者)]] *[[松本仁志 (教育学者)]] *[[松平信久 (教育学者)]] - 教育心理学者。専門分野は教育心理学、教授学、児童文化論、教師教育論。学校法人立教学院学院長、立教大学名誉教授。 *[[松田文子]] - 教育心理学者、福山大学顧問・人間文化学部心理学科元教授。広島大学名誉教授 *[[松永あけみ]] - 教育心理学者・教育学者、明治学院大学教授。専門は教育心理学、発達心理学。博士(教育学) *[[松本勉]] - 横浜国立大学理工学部「情報工学教育プログラム」代表。 *[[水越敏行]] - 教育学者(教育工学) *[[三浦正 (教育学者)]] *[[宮原誠一]] - 専門は社会教育学で「東大教育の3M(スリー・エム)」と称された。 *[[三樹青生]] - 帝京大学文学部教授。大学では社会教育学を指導。英米文学翻訳家としても *[[南里悦史]] - 九州大学教育学部社会教育学講座同人間環境学研究院教授など *[[南風原朝和]] - 教育心理学者。東京大学名誉教授。広尾学園中学校・高等学校校長。 *[[宮本茂雄]] - 教育心理学者、千葉大学名誉教授、国立科学警察研究所にて少年非行の研究にも従事。 *[[三宅幹子]] - 教育心理学者、福山大学人間文化学部心理学科准教授。 *[[村山英雄]] - 教育学者、教育制度論。 *[[村田昇 (教育学者)]] *[[宗像誠也]] - 専門は社会教育学で「東大教育の3M(スリー・エム)」と称された。 *[[村本邦子]] - 教育心理学者、立命館大学教授。 *[[室橋春光]] - 教育心理学者、教育学博士(北海道大学) *[[森一夫]] - 教育学者。理科教育や教育方法学の研究。 *[[森部英生]] - 教育裁判、教育法、教育紛争、教育学、基礎法学についての講義を開いている *[[茂木俊彦]] - 教育心理学者で障害児教育が専門。桜美林大学大学院心理学研究科特任教授。東京都立大学第11代総長。 *[[森重敏 (心理学者)]] - 教育心理学者  *[[森重敏 (国語学者)]] - 国語学者 *[[森永康子]] - 教育心理学者、広島大学教授 *[[森田美弥子]] - 教育心理学者、臨床心理士。名古屋大学名誉教授。元日本ロールシャッハ学会会長。 *[[山﨑高哉]] - 教育学者。 *[[山本哲士]] - 教育学者、政治学者。イリイチに学び、日本で非学校化の教育理論を本格的に研究・展開。 *[[山岡健 (教育学者)]] *[[山下武 (教育学者)]] *[[山口薫 (教育学者)]] *[[山田哲也 (社会学者)]] *[[山本実 (教育学者)]] *[[安井俊夫 (教育学者)]] *[[山口和孝]] - 教育学者。公教育と宗教の研究。 *[[山田正行]] - 「平和教育の思想と実践 宮原社会教育学の意義と継承」で博士(教育学)。 *[[八鍬友広]] - 東北大学大学院教育学研究科や新潟大学人文社会・教育学系教授を歴任。 *[[山口陽弘]] - 心理学者・教育学者、群馬大学教育学部教育心理学講座准教授。専門は教育心理学。 *[[山岸明子]] - 教育心理学者、元順天堂大学教授。「道徳性の発達に関する実証的・理論的研究」で教育学博士。 *[[譲西賢]] - 教育心理学者、真宗大谷派僧侶(慶円寺住職)、岐阜聖徳学園大学教授。臨床心理士・学校心理士。 *[[弓野憲一]] - 教育心理学者、静岡大学名誉教授。専攻は教育心理学、創造心理学 *[[横須賀薫]] - 教育学者。教員養成や授業の研究。 *[[横瀬和治]] - 英語学者、暁国際学園副校長。 *[[芳沢光雄]] - 数学者、数学教育の研究者。 *[[葉養正明]] - 教育学者。 *[[横尾壮英]] - 教育学者、広島大学名誉教授、国立教育研究所名誉所員。西洋教育史。 *[[吉田敦彦 (教育学者)]] *[[米村健司]] - 教育学者、早稲田大学教授。 *[[横島章]] - 教育心理学者。宇都宮大学名誉教授。 *[[吉崎静夫]] - 教育心理学者、日本女子大学教授。学術博士。 *[[吉田辰雄]] - 教育心理学者。東洋大学名誉教授 *[[若林俊輔]] - 英語教育。 *[[若井彌一]] - 教育学者、上越教育大学名誉教授。 *[[和田修二]] - 教育人間学。 *[[渡部昭男]] - 教育行政学者。 *[[渡辺藤一 (英語教育学者)]] *[[渡邊光雄]] - 教育学者。 *[[渡辺三枝子]] - 教育心理学者、筑波大学名誉教授。専門はカウンセリング心理学、職業心理学 {{Div col end}} ===教育学以外の研究者=== {{Div col|3}} *[[有倉遼吉]] - 教育法学者。 *[[赤林英夫]] - 専門は応用ミクロ経済学、家族の経済学、教育経済学 *[[朝倉景樹]] - 教育社会学者。 *[[麻生誠]] - 教育社会学者。 *[[天野郁夫]] - 教育社会学者。 *[[有本章]] - 教育社会学者。 *[[青木栄一 (教育行政学者)]] *[[荒井一博]] - 経済学者。教育問題を経済学的に分析して言及。 *[[赤堀侃司]] - 教育工学者。 *[[新井郁男]] - 教育工学者。 *[[板倉聖宣]] - 科学史学者で科学教育を研究。 *[[五十嵐義三]] - 教育法学者。 *[[市川須美子]] - 教育法学者。 *[[伊藤公一 (法学者)]] - 教育法学者。 *[[伊藤進 (法学者)]] - 教育法学者。 *[[伊津野朋弘]] - 教育行政学者 *[[稲田正次]] - 教育法学者。 *[[石戸教嗣]] - 教育社会学者。 *[[稲垣恭子]] - 教育社会学者。 *[[今津孝次郎]] - 教育社会学者。 *[[岩内亮一]] - 教育社会学者。 *[[石川巧]] - 国文学者。国語の入試問題について言及。 *[[石原千秋]] - 国文学者。国語の入試問題について言及。 *[[飯島敏文]] - 教育工学者。 *[[飯吉透]] - 教育工学者。 *[[家本修]] - 教育工学者。 *[[生田茂]] - 教育工学者。 *[[石島辰太郎]] - 教育工学者。 *[[市川衛 (映像作家)]] - 教育工学者。映像作家 *[[稲葉竹俊]] - 教育工学者。 *[[井上明 (教育工学者)]] *[[岩崎信]] - 教育工学者。 *[[石川千温]] - 教育工学者 *[[内野正幸]] - 教育法学者。 *[[内田良]] - 教育社会学者。 *[[潮木守一]] - 教育社会学者。 *[[上原貞雄]] - 教育行政学者。 *[[上野健爾]] - 数学者。学力低下問題(特に数学)について言及。 *[[上野千鶴子]] - 社会学者、フェミニスト。女性学やジェンダー論について言及。 *[[植野真臣]] - 統計学者。専門は数理情報学、統計科学のほか教育工学も。 *[[大内裕和]] - 教育社会学者。 *[[尾澤勇]] - 工芸家で美術科教育学者。 *[[大田直子]] - 教育行政学者。 *[[奥田真丈]] - 教育行政学者。元文部官僚。 *[[大野晋]] - 国語学者。国語教育に尽力。 *[[大多喜重明]] - 教育工学者。 *[[大竹公一郎]] - 教育工学者。 *[[大沼直紀]] - 教育工学者。 *[[大橋秀雄]] - 教育工学者。 *[[緒方広明]] - 教育工学者。 *[[岡本敏雄]] - 教育工学者。 *[[尾澤重知]] - 教育工学者。 *[[織田揮準]] - 教育工学者。 *[[小山田了三]] - 教育工学者。 *[[岡部恒治]] - 数学者。学力低下問題(特に数学)について言及。 *[[大須賀美恵子]] - ロボット工学教育学者 *[[兼子仁]] - 教育法学者。 *[[神野真吾]] - 美術教育の研究者 *[[影山昇]] - 東京水産大学教授。水産教育史研究で学位。 *[[鎌田浩毅]] - 地球科学者で専門は火山学、地球変動学のほか、科学教育も。 *[[上久保達夫]] - 教育社会学者。 *[[亀山佳明]] - 教育社会学者。 *[[苅谷剛彦]] - 教育社会学者。 *[[河野銀子]] - 教育社会学者。 *[[神田修]] - 教育行政学者 *[[加納寛子]] - 教育工学者。 *[[川勝邦夫]] - 教育工学者。 *[[川田隆雄]] - 教育工学者。 *[[菊池幸子]] - 教育社会学者。 *[[黒崎勲]] - 教育行政学者。 *[[桑崎剛]] - 教育工学者。 *[[グレゴリー・クラーク]] - 政治学者。国際教養大学副学長、元多摩大学長。外国語教育に尽力。 *[[紅野謙介]] - 国文学者。国語教育、大学入試について言及。 *[[毛見虎雄]] - 建築研究者で工学教育学者。元足利工業大学教授。工学博士。 *[[小松光一]] - 農学者、農業教育者 *[[小内透]] - 教育社会学・社会学。北海道大学教授 *[[古賀正義]] - 教育社会学者。 *[[小杉礼子]] - 教育社会学者。 *[[近藤大生]] - 教育社会学者。 *[[河野重男]] - 教育社会学者・教育行政学者。 *[[河野和清]] - 教育行政学者 *[[後藤忠彦]] - 教育工学者。 *[[小林一也]] - 教育工学者。 *[[蔡東生]] - 教育工学者。 *[[佐原理]] - 映像・デザインにかかわる美術教育研究者 *[[佐藤寛次]] - 農学者、農業教育者。専攻は農業経済学。 *[[佐々木徹郎]] - 教育社会学者。 *[[澤田康幸]] - 経済学者。専門は開発経済学 ・ 教育経済学 *[[坂元昂]] - 教育工学者。 *[[佐藤一郎 (工学者)]] - 教育工学者。 *[[澤武一]] - 教育工学者。 *[[三宮真智子]] - 教育工学者。 *[[佐伯胖]] - 認知心理学者。「学び」に関する姿勢について言及。 *[[清水正男]] - 教育工学者。 *[[清水康敬]] - 教育工学者。 *[[柴野昌山]] - 教育社会学者。 *[[澁谷知美]] - 教育社会学者。 *[[清水義弘]] - 教育社会学者。 *[[陣内靖彦]] - 教育社会学者。 *[[新堀通也]] - 教育社会学者。 *[[四手井綱英]] - 森林生態学者。林業教育。 *[[菅原良]] - 教育工学者。 *[[鈴木克明]] - 教育工学者。 *[[鈴木直義 (情報学者)]] - 教育工学者。情報学者 *[[鈴木美加]] - 教育工学者。 *[[住田正樹]] - 教育社会学者。 *[[鈴木善次]] - 生物学者、科学史家で専門は科学史、科学教育。 *[[須藤貢明]] - 教育工学者。 *[[関啓子]] - 教育社会学者。 *[[曽我聡起]] - 教育工学者。 *[[荘島宏二郎]] - 教育工学者。 *[[多賀太]] - 教育社会学者。 *[[多田信作]] - 日本を代表する美術教育研究者。 *[[高旗正人]] - 教育社会学者。 *[[高柳信一]] - 教育法学者。 *[[竹内洋]] - 教育社会学者。 *[[立田慶裕]] - 教育社会学者。 *[[田中理絵]] - 教育社会学者。 *[[谷敷正光]] - 経済学者。専門は教育経済学。 *[[舘昭]] - 教育行政学者 *[[高林茂樹]] - 教育工学者。 *[[竹内理]] - 教育工学者。 *[[竹蓋幸生]] - 教育工学者。 *[[竹本宜弘]] - 教育工学者。 *[[竹谷靱負]] - 教育工学者。 *[[谷口るり子]] - 教育工学者。 *[[高西淳夫]] - ロボット工学教育学者 *[[千葉卓]] - 教育法学者。 *[[筒井美紀]] - 教育社会学者。 *[[恒吉僚子]] - 教育社会学者。 *[[坪井健]] - 教育社会学者。 *[[土屋基規]] - 教育行政学者 *[[土井隆義]] - 社会学者。いじめ・管理教育について言及。 *[[塚本哲人]] - 東北大学名誉教授。社会学者。専門は、農村社会学、社会教育学で戦後の日本農村社会学を福武直らとともに基礎づけた。 *[[寺沢拓敬]] - 教育社会学者。 *[[戸波江二]] - 教育法学者。 *[[時枝誠記]] - 国語学者。言語教育に基づく国語教育の振興に尽力。 *[[永井憲一]] - 教育法学者。 *[[成嶋隆]] - 教育法学者。 *[[成田悠輔]] - 労働経済学、教育経済学 *[[中室牧子]] - 経済学者、専門は教育経済学。 *[[永井道雄]] - 教育社会学者。 *[[中嶋明勲]] - 教育社会学者。 *[[中村高康]] - 教育社会学者。 *[[中谷彪]] - 教育行政学者。 *[[中留武昭]] - 教育行政学者 *[[内藤朝雄]] - 社会学者。いじめ問題および管理教育問題について言及。 *[[長友恒人]] - 教育工学者。 *[[西原明法]] - 教育工学者。 *[[丹羽次郎]] - 教育工学者。 *[[西尾幹二]] - ドイツ文学研究者。新しい歴史教科書をつくる会。 *[[西村和雄]] - 経済学者。学力低下問題(特に数学)について言及。 *[[沼野一男]] - 教育工学者。 *[[橋本鉱市]] - 教育社会学者。 *[[橋本勝 (社会学者)]] - 教育社会学者。 *[[馬場四郎]] - 教育社会学者。 *[[浜田陽太郎]] - 教育社会学者。 *[[濱中淳子]] - 教育社会学者。 *[[半澤洵]] - 農学者・教育者 *[[原田彰]] - 教育社会学者。 *[[葉養正明]] - 教育行政学者 *[[早田幸政]] - 教育行政学者 *[[原田昭]] - 教育工学者 *[[久冨善之]] - 教育社会学者、日本教育学会理事 *[[平原春好]] - 教育法学者。 *[[平尾元彦]] - 研究者。専門は、経済政策・地域経済・キャリア教育。 *[[平川景子]] - 社会学者で専門は、社会教育学、ジェンダー論。 *[[広田照幸]] - 教育社会学者。 *[[菱村幸彦]] - 教育行政学者、教育評論家。 元文部官僚 *[[樋口直宏]] - 教育工学者。 *[[福永安祥]] - 教育社会学者。 *[[藤田秀雄]] - 教育社会学者。 *[[藤田英典]] - 教育社会学者。 *[[古瀬卓男]] - 教育法学者。 *[[福田真規夫]] - 教育工学者。 *[[藤本かおる]] - 教育工学者。 *[[古田貴久]] - 教育工学者。 *[[星野安三郎]] - 教育法学者。 *[[堀尾輝久]] - 教育法学者。 *[[細谷俊夫]] - 産業技術教育を研究、日本産業教育学会理事長。 *[[本田由紀]] - 教育社会学者。 *[[保崎則雄]] - 教育工学者。 *[[堀田龍也]] - 教育工学者。 *[[舞田敏彦]] - 教育社会学者。 *[[増山均]] - 社会福祉学者。前早稲田大学教授。専門は社会福祉学、社会教育学、児童文化論。児童福祉論研究の第一人者 *[[松原治郎]] - 教育社会学者。 *[[丸山浩司]] - 版画家(木版画)で美術教育研究者。 *[[牧昌見]] - 学校経営学・教育行政学者。 *[[松居辰則]] - 教育工学者。 *[[萬代悟]] - 教育工学者。 *[[ましこ・ひでのり]] - 社会学者。国語・日本史の問題について言及。 *増子勝 (あがさクリスマス)- 古典・古文研究者。日本初の源氏物語訳対、平家物語訳対の研究(日本初の古文読解法)について言及。 *[[真鍋龍太郎]] - アメリカ合衆国の大学における技術教育・工学教育に関する研究家 *[[宮脇理]] - 美術教育研究者。 *[[嶺井正也]] - 教育政策・教育行政学者 *[[宮台真司]] - 社会学者。現代の若者についての研究をもとに教育にも言及。 *[[三尾忠男]] - 教育工学者。 *[[三田純義]] - 教育工学者。 *[[村上雅人]] - 材料化学者のほか工学教育も *[[森楙]] - 教育社会学者。 *[[森山沾一]] - 教育社会学者。 *[[持田栄一]] - 教育行政学者 *[[望月俊男]] - 教育工学者。 *[[守啓祐]] - 教育工学者。 *[[森田裕介]] - 教育工学者。 *[[矢口新]] - 教育工学者。 *[[矢野米雄]] - 教育工学者。 *[[矢吹太朗]] - 教育工学者。 *[[山田圭一 (写真家)]] - 教育工学者。写真家 *[[矢口新]] - 学校教育、産業教育の現場で、学習プログラム、構案教材、訓練シミュレータの開発とその教育実践を指導。 *[[山崎真秀]] - 教育法学者。 *[[山崎博敏]] - 教育社会学者。 *[[山田正行]] - 教育社会学者。 *[[山内乾史]] - 教育社会学者。 *[[山村賢明]] - 教育社会学者。 *[[山本誠 (工学者)]] - 機械工学者。元東京理科大学副学長・教育開発センター長。 *[[結城忠]] - 教育行政学者 *[[吉田あつし]] - 経済学者。専門は医療経済学、教育経済学。 *[[横田淳子]] - 教育工学者。 *[[由水伸]] - 教育工学者。 *[[吉岡たすく]] - 児童文化研究家。幼児教育と童話について言及。 *[[林俊成]] - 教育工学者。 *[[渡辺茂 (システム工学者)]] - 教育工学者。システム工学者 *[[渡部信一]] - 教育工学者。 *[[渡邊洋子]] - 教育社会学者。 *[[渡部光]] - 教育社会学者。 *[[若井彌一]] - 教育行政学者 *[[渡部昭男]] - 特殊教育・教育行政学者 {{Div col end}} ===教育評論家・ジャーナリスト=== {{Div col|3}} *[[阿部進]] - 教育評論家、子ども電話相談 *[[新井恒易]] - 教育評論家 *[[安河内哲也]] - 教育評論家 *[[伊ケ崎暁生]] - 教育評論家 *[[伊沢甲子麿]] - 教育評論家 *[[伊藤竹三]] - 教育評論家 *[[為藤五郎]] - 教育評論家 *[[宇野一]] - 教育評論家 *[[漆原智良]] - 教育評論家 *[[栄陽子]] - 教育評論家 *[[遠藤豊吉]] - 教育評論家 *[[岡田怡川]] - 教育評論家 *[[小野源蔵]] - 教育評論家 *[[おおたとしまさ]] - 教育評論家、教育ジャーナリスト *[[河西善治]] - 教育評論家 *[[皆吉淳延]] - 教育評論家 *[[外山恒一]] - 異端的な反管理教育運動家 *[[丸木政臣]] - 教育評論家 *[[岸井成格]] - 教育ジャーナリスト *[[喜多徹人]] - 教育評論家 *[[吉岡たすく]] - 教育評論家 *[[吉岡忍 (作家)|吉岡忍]] - 教育ジャーナリスト *[[吉岡良明]] - 教育評論家、東京都職員 *[[久保田カヨ子]] - 教育評論家 *[[宮下恭子]] - 教育評論家 *[[宮下正美]] - 教育評論家 *[[宮武正明]] - 教育評論家 *[[玉井義臣]] - 教育評論家 *[[金沢嘉市]] - 教育評論家 *[[熊谷一乗]] - 教育評論家 *[[桑田昭三]] - 教育評論家 *[[原田隆史]] - カリスマ体育教師 態度教育 *[[古川のぼる]] - 教育評論家 *[[戸田唯巳]] - 教育評論家 *[[五十嵐良雄 (教育評論家)|五十嵐良雄]] - 教育評論家 *[[香川茂]] - 教育評論家 *[[高橋幸子 (教育者)|高橋幸子]] - 教育評論家 *[[高橋秀樹 (放送作家)|高橋秀樹]] - 教育評論家 *[[高橋敷]] - 教育評論家 *[[高木幹夫]] - 日能研社長 *[[高柳美知子]] - 教育評論家 *[[今村武俊]] - 教育評論家 *[[佐々木由喜子]] - 教育評論家 *[[佐藤忠志]] - 教育評論家 *[[佐藤忠男]] - 教育評論家 *[[佐藤亮子]] - 教育評論家 *[[斎藤貴男]] - ジャーナリスト *[[斎藤次郎 (教育評論家)]] *[[斎藤兆史]] - 教育評論家 *[[坂東義教]] - 教育評論家 *[[坂本光男]] - 教育評論家 *[[坂本秀夫 (教育評論家)]] *[[坂本泰造]] - 教育評論家 *[[坂本勉 (教育者)]] - 教育評論家 *[[三上満]] - 教育評論家 *[[山田修 (教育者)]] - 教育評論家 *[[山本国和]] - 政治活動家 教育評論家 *[[山本忠篤]] - 教育評論家 *[[志道不二子]] - 教育評論家 *[[篠原いくよ]] - 教育評論家 *[[小宮山博仁]] - 教育評論家 *[[小杉樹彦]]-教育評論家、[[総合型選抜]]の専門家 *[[小林正 (政治家)]] - 教育評論家 *[[小林哲夫 (教育ジャーナリスト)]] *[[松本肇 (教育評論家)]] *[[上田庄三郎]] - 教育評論家 *[[城戸嘉世子]] - 教育評論家 *[[森一夫]] - 教育評論家 *[[森口朗]] - 教育評論家、東京都職員 *[[森比左志]] - 教育評論家 *[[神戸洋子]] - 教育評論家 *[[親野智可等]] - 教育評論家 *[[水谷修]] - 教育評論家 *[[菅龍一]] - 教育評論家 *[[清水郁子]] - 教育評論家 *[[清水克彦 (報道キャスター)]] - 教育ジャーナリスト *[[石川佐智子]] - 教育評論家 *[[千住文子]] - 教育評論家 *[[曽野綾子]] - [[教育改革国民会議]] *[[村松喬]] - 教育評論家 *[[村島義彦]] - 教育評論家 *[[大畑佳司]] - 教育評論家 *[[中井浩一]] - 教育ジャーナリスト。国語専門塾「鶏鳴学園」塾長 *[[中村万三]] - 教育評論家 *[[長田百合子]] - 教育評論家 *[[田代三良]] - 教育評論家 *[[田中くにお]] - 教育評論家 *[[渡辺真由子]] - いじめ・メディア評論家 *[[島崎直也]] - ケミカルエンターテイナー *[[徳留祐太]] - 教育評論家 *[[内藤朝雄]] - 明治大学准教授・社会学者 スクールカースト(学級におけるヒエラルキー)の存在を唱える *[[日下部三之介]] - 教育評論家 *[[能重真作]] - 教育評論家 *[[波多野ミキ]] - 教育評論家 *[[畑島喜久生]] - 教育評論家 *[[尾木直樹]] - 教育評論家 *[[菱村幸彦]] - 教育評論家 *[[品川孝子]] - 教育評論家 *[[品川裕香]] - 教育ジャーナリスト *[[品田義国]] - 教育評論家 *[[武田さち子]] - 教育評論家 *[[羽仁説子]] - 教育評論家 *[[平田圭子]] - 教育評論家 *[[平野彧]] - 教育評論家 *[[並木浩一]] - 教育評論家、大学教授 *[[保坂展人]] - 教育ジャーナリスト *[[堀裕嗣]] - 教育評論家 *[[本谷宇一]] - 教育評論家 *[[無着成恭]] - 教育評論家 *[[木田宏]] - 教育評論家 *[[門野晴子]] - 教育評論家 *[[野々村直通]] - 教育評論家 *[[矢萩邦彦]] - 教育ジャーナリスト *[[矢野永吏子]] - 教育評論家 *[[柳内達雄]] - 教育評論家 *[[鈴木道太]] - 教育評論家 *[[廣中邦充]] - 教育評論家 *[[櫻井久仁子]] - 教育評論家 *[[濤川栄太]] - 教育評論家 *[[濱尾実]] - 教育評論家 *[[リヒテルズ直子]] - 教育評論家 {{Div col end}} ===小・中・高等学校の学校教師=== {{Div col|3}} *[[あがさクリスマス]] - 高校教師([[国語 (教科)|国語]])→「図書館のすぐれちゃん」読書大国を提唱。日本初の源氏物語訳対「3分de源氏物語ⅠⅡⅢⅣ」。 *[[あさのあつこ]] - 小学校の臨時教師をへて小説家に。 *[[有本淳一]] - 高校教師([[理科]])。天文教育、天文ボランティアとして活動。 *[[有沢螢]] - 高校の教諭であり、教育現場を扱った職業詠が多い歌人。 *[[有村光史]] - 現高校教諭及びサッカー指導者。現役時代の主なポジションはディフェンダー。 *[[阿部昭 (歴史学者)]] - 中学校教師。歴史学者。 *[[新井章 (歌人)]] - 中学校教師。歌人。 *[[青木久 (立川市長)]] - 中学校教師。立川市長。 *[[朝比奈敦]] - 出版業から神奈川県立高校や山口県立高校に在任中、地元の同人誌や文学グループに参加。 *[[浅間茂]] - 元高校教諭の生物学者。 *足立洌 - 元高校教諭で[[丹波竜]]発見者 *[[岩間友次]] - 山梨県で高校の教諭の傍らサッカー選手。 *[[岩猿敏生]] - 福岡県立高校で教諭、その後図書館学者。 *[[市原則之]] - 高校教諭を3年半務めた後ハンドボール選手へ。 *[[井沢純]] - 愛知県公立高校の教諭や文部省職員をへて評論家・作家・歌人。国立科学博物館附属自然教育園園長等を歴任。 *[[今村克彦]] - 小学校教師→「関西京都今村組」代表。[[YOSAKOIソーラン祭り|よさこいソーラン]]を教育に応用。 *[[板垣昭一]] - 中学教師→[[教育科学研究会・国語部会]]。 *[[五十嵐正 (教育者)]] - 中学校教師。教育者。 *[[伊藤博 (コーヒー研究家)]] - 中学校教師。コーヒー研究家。 *[[伊藤美奈子 (心理学者)]] - 中学校教師。心理学者。 *[[伊藤隆 (歴史学者)]] - 中学校教師。歴史学者。 *[[井上英治 (俳優)]] - 中学校教師。俳優。 *[[井上尚美 (教育学者)]] - 中学校教師。教育学者。 *[[井上眞一 (バスケットボール)]] - 中学校教師。バスケットボール選手。 *[[石井宏 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[石井宏子 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[石垣忍 (古生物学者)]] - 中学校教師。古生物学者。 *[[石川賢 (1960年生の投手)]] - 中学校教師。野球の投手。 *[[石川準吉 (農林官僚)]] - 中学校教師。農林官僚。 *[[石川恭司]] - 高校教諭のサッカー審判員。元Jリーグ担当審判員。 *[[石川和義]] - 長野県で高校教諭として勤務をしている陸上競技選手。 *[[石浦外喜義]] - 高校教諭で校長・相撲部総監督。ちゃんこ店経営者。 *[[上田信道]] - 大阪府立高校の教諭であった童謡研究者、岡崎女子大学教授。 *[[上田清]] - 県立高校教諭から大和郡山市長へ *[[内田善利]] - 会社勤務をへて高校教諭ののち政治へ。 *[[宇佐美大輔]] - 高校教諭となった元バレーボール選手。 *[[蛭川久康]] - 中学、高校教諭をへて、大学教授。 *[[遠藤寛子 (作家)]] - 中学校教師。作家。 *[[遠藤忠 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[岡田康志 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[大村はま]] - 小学校教師、[[国語教育]]の実践。 *[[大野久 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[小河勝]] - 小学校教師。「小河式算数プリント」で知られる。 *[[尾木直樹]] - 高校教師([[国語 (教科)|国語]])→教育評論家。 *[[岡島俊樹]] - 引退後は地元で小学校教員となった元サッカー選手。校長を経て、富山市教育センター所長を務めた。 *[[乙武洋匡]] - 新宿区の非常勤職員として「子どもの生き方パートナー」や杉並区の任期つき講師として教員勤務も。 *[[小沢俊郎]] - 東京都立高校の教諭をへて大学教授に転じた宮沢賢治の研究者。 *[[太田拓弥]] - 高校教諭、大学教職員を歴任するレスリング選手。 *[[川勝博]] - 愛知県の県立高校の教諭となり、物理を中心に理数教育を実践・研究した。 *[[加藤廣志]] - 元高校教諭、バスケットボール指導者。 *[[川崎寛治]] - 高校教諭、参議院議員秘書などを経て、衆議院議員。 *[[加藤真由]] - 都内の私立高校で国語教師や吹奏楽部の顧問を務めtw自らも吹奏楽団に所属後、OLに転職。 *[[隂山英男]] - 立命館小学校副校長、立命館大学教育開発推進機構教授。安倍内閣の諮問機関「教育再生会議」委員を歴任。元大阪府教育委員会委員長。 *[[河田晃明]] - 小学校教員、羽生市学校教育課長、小学校長、羽生市議会議員を歴任した。埼玉県羽生市長、 *[[鎌倉佐弓]] - 元埼玉県公立小学校教諭の俳人。 *[[神本美恵子]] - 元小学校教諭。文部科学大臣政務官などを歴任。 *[[隂山英男]] - 小学校校長、100マス計算。 *[[加藤光三]] - 岩手県小学校・中学校教師→[[教育科学研究会・国語部会]]、[[教育国語]]編集長。 *[[加藤修一 (陸上選手)]] - 中学校教師。陸上選手。 *[[河上亮一]] - 高校教師([[社会 (教科)|社会]])。[[プロ教師の会]]。 *[[神谷和宏 (教育学者)]] - 中学校教師。教育学者。 *[[喜入克]] - 高校教師([[国語 (教科)|国語]])。[[プロ教師の会]]。 *[[北森郁子]] - 奈良県立高校教諭となった陸上競技選手。 *[[木村時夫]] - 高校教諭をへて、早大社会科学部教授・政治史学者。 *[[黒田和生]] - クラブチーム職員や県サッカー協会での業務などをへて高校の教諭。 *[[黒鳥文絵]] - 女子高校教諭のオリンピック・スイマー。 ^ *[[久保田豊 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[久保亘]] - 鹿児島県の高校教諭を歴任。 *[[後藤道夫 (科学ジャーナリスト)]] - 中学校教師。科学ジャーナリスト。 *[[小宮悦子 (陸上選手)]] - 中学校教師。陸上選手。 *[[小出進 (教育学者)]] - 中学校教師。教育学者。 *[[小林馨 (陸上選手)]] - 中学校教師。陸上選手。 *[[小林元 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[小林宏之 (サッカー選手)]] - 中学校教師。サッカー選手。 *[[小林信一 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[小林正 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[小林武 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[小林洋司 (教育者)]] - 中学校教師。教育者。 *[[小林和男 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[小林美恵子]] - 小学校、養護学校勤務。政治家。日本共産党所属の元参議院議員。 *[[児玉健次]] - 高校教諭から衆議院議員 *[[衣更着信]] - 高校教諭(英語科)の傍ら詩人、翻訳家も。 *[[香西照雄]] - 高校教諭の俳人。 *[[沢藤礼次郎]] - 定時制高校や農業高校の教諭などを務めた。 *佐藤三夫 - 『世界史』の受験参考書著者、高校の教諭を長く務めた。 *[[佐藤城介]] - 高校教諭として指導に奮闘している元サッカー選手。 *[[桜井雅浩]] - 中学・高校教諭 学習塾経営をへて柏崎市議会議員。 *[[斎藤嘉隆]] - 小学校教諭、教員組合執行委員をへて議員。 *[[酒井弘樹]] - 高校教師。元プロ野球選手。 *[[サウザー (プロレスラー)]] - 中学校教師。プロレスラー。 *[[坂井田晃]] - 中学校で美術教師や小学校の担任を務めたのち競艇選手に。 *[[坂本秀夫 (教育評論家)]] - 中学校教師。教育評論家。 *[[佐竹義和 (教育者)]] - 中学校教師。教育者。衆議院議員。 *[[佐藤綾子 (心理学者)]] - 中学校教師。心理学者。 *[[佐藤加奈 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[佐藤幹夫 (数学者)]] - 中学校教師。数学者。 *[[佐藤敬 (教育者)]] - 中学校教師。教育者。 *[[佐藤公彦 (歴史学者)]] - 中学校教師。歴史学者。 *[[佐藤彰 (文学研究者)]] - 中学校教師。文学研究者。 *[[佐藤昭夫 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[佐藤哲郎 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[佐藤文男 (1953年生の投手)]] - 中学校教師。1953年生の投手。 *[[佐伯敏子 (写真家)]] - 中学校教師。写真家。 *[[齋藤隆 (重量挙げ選手)]] - 中学校教師。重量挙げ選手。 *[[庄司和晃]] - 小学校教師。仮説実験授業の立役者。 *[[清水耕介 (バスケットボール)]] - 中学校教師。バスケットボール。 *[[柴田一 (歴史学者)]] - 中学校教師。歴史学者。 *[[柴田博之 (陸上選手)]] - 中学校教師。陸上選手。 *[[志垣澄幸]] - 高校の教諭。歌人。 *[[篠田一士]] - 高校教諭を経て、大学教授。 *[[島原健三]] - 高校教諭や化学工場勤務を経て、成蹊大学工学部教授。 *[[諏訪蘇山 (初代)]] - 中学校教師。 *[[諏訪哲二]] - 高校教師([[英語 (教科)|英語]])、[[プロ教師の会]]。 *[[鈴木喬 (歴史研究家)]] - 中学校教師。歴史研究家。 *[[鈴木克美 (柔道)]] - 中学校教師。柔道家。 *[[鈴木茂 (哲学者)]] - 中学校教師。哲学者。 *[[鈴木良一 (歴史学者)]] - 中学校教師。歴史学者。 *[[関山和夫]] - 愛知県で県立高校の教諭。佛教大学名誉教授、元京都西山短期大学学長。 *[[谷川敏朗]] - 宮城県内において高校の教諭。良寛に関する作品監修を行い、全国良寛会の常任理事を務めていた。 *[[瑞慶覧長方]] - 高校の教諭を経てサボテン研究家となる。 *[[武富勝彦]] - 高校の生物教師を23年間務めた後、農業に転じる。 *[[匠秀夫]] - 高校教諭を経て神奈川県立近代美術館に *[[高嶋昌二]] - 元高校教諭(国語科)の合唱指揮者。大阪府合唱連盟理事長、関西合唱連盟副理事長。 *[[樽谷賢二]] - 小学校教師。 *[[田端健児]] - 長崎の高校教諭となった現役陸上競技選手。 *[[田上高]] - 高校教諭であったグレコローマンの選手。 *[[田口寛 (作曲家)]] - 中学校教師。作曲家。 *[[田村知佳 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[田代哲也 (1969年生)]] - 中学校教師。1969年生。 *[[田中修実]] - 岡山県で公立高校の教諭、岡山県総務部県史編纂室主査などを歴任。 *[[田中圭一 (日本史学者)]] - 中学校教師。日本史学者。 *[[田中敬一 (師範学校長)]] - 中学校教師。師範学校長。 *[[田中宏幸 (吹奏楽)]] - 中学校教師。吹奏楽。 *[[田中順子 (アーティスティックスイミング選手)]] - 中学校教師。アーティスティックスイミング選手。 *[[田中正大 (造園学者)]] - 中学校教師。造園学者。 *[[田中忠雄 (評論家)]] - 中学校教師。評論家。 *[[田嶋勉]] - 小学校校長もつとめる作曲家。 *[[高橋幸子 (教育者)]] - 中学校教師。教育者。 *[[高橋広 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[高橋実 (作家)]] - 中学校教師。作家。 *[[高橋伸夫 (地理学者)]] - 中学校教師。地理学者。 *[[高橋正弘 (サッカー指導者)]] - 中学校教師。サッカー指導者。 *[[竹内和夫 (作家)]] - 中学校教師。作家。 *[[千葉聡]] - 高校教諭の歌人。 *[[塚本学]] - 愛知県立高校の教諭を経て信州大学人文学部教授、国立歴史民俗博物館歴史研究部教授など歴任。 *[[鶴田大樹]] - 高校教諭で女子バレーボール部の指導者を務める。 *[[辻武寿]] - 小学校教員。宗教家、政治家。 *[[寺本光照]] - 元公立小学校教諭で鉄道研究家、鉄道写真家、鉄道作家、鉄道友の会会員、鉄道運輸史研究会会員。 *[[冨川元文]] - 脚本家で小学校教師。 *[[富田一彦 (予備校講師)]] - 中学校教師。予備校講師。 *[[豊田三郎 (画家)]] - 中学校教師。画家。 *[[富張広司]] - 小学校教師を経て、版画家。 *[[長野雅弘]] - 私立高校校長。"[[学校再建]][[校長]]"、[[女子教育]]の専門家。 *[[名取弘文]] - 神奈川県下の小学校教諭。家庭科専科を担当。 *[[中村喜四郎 (1910年生の政治家)]] - 中学校教師。1910年生の政治家。 *[[中村誠 (ラグビー指導者)]] - 中学校教師。ラグビー指導者。 *[[中村日出夫 (教育者)]] - 中学校教師。教育者。 *[[中村明 (生物学者)]] - 中学校教師。生物学者。 *[[中村雄一 (なかよし学園)]] - 中学校教師。なかよし学園。 *[[中元綾子]] - 小学校教諭からフリーアナウンサー、コミュニケーション講師、元読売テレビアナウンサー、 *[[中村由香里 (競輪選手)]] - 小学校教員生活の傍ら、シクロクロスを手始めとする自転車競技大会にも随時出場していたのち競輪選手になることを決意。 *[[中田洋介]] - サッカー指導者、高校教諭。現役時代のポジションはディフェンダー、もしくはミッドフィールダー。 *[[長麻未]] - リポーターを経て小学校の教諭に転身後、アナウンサーへ。 *[[那谷屋正義]] - 横浜市の市立小学校で教員を務めたのち政治の世界に。 *[[永井浩二 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[戸田京介]] - 高校教諭と兼任でラグビーレフリー(審判員)。 *[[西村貞 (文部官僚)]] - 中学校教師。文部官僚。 *[[西野瑠美子]] - 東京都で小学校教諭を13年間務めた後、ルポライター、ジャーナリストに転じ、従軍慰安婦などをテーマに執筆活動をおこなっている *[[二瓶秀子]] - 大学時代陸上競技選手。卒業後は小学校教員となる。 *[[新田均 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[根本敬 (ビルマ研究家)]] - 中学校教師。ビルマ研究家。 *[[野口猛 (作詞家)]] - 中学校教師。作詞家。 *[[紀野恵]] - 高校教諭を務める歌人。 *[[班目秀雄]] - 高校の教諭。元競輪選手。 *[[畑澤聖悟]] - 秋田県の中学校や青森県立高校の教諭の傍らテレビドラマやラジオドラマの脚本・演出も担当するように。 *[[早乙女忠]] - 都立高校教諭を経て、英文学者。中央大学名誉教授。 *[[長谷川潤 (中学校教師)|長谷川潤]] - 中学校教師([[社会 (教科)|社会]])。 *[[灰谷健次郎]] - 小学校教師を務める傍ら児童詩誌の編集に携わる。 *[[原田悠里]] - 2年間、横浜市の公立小学校にて音楽の教師をしていた演歌歌手。 *[[原田隆司]] - 小学校の教員を続けながらラグビーの審判員・レフリーを始める。 *[[浜田健一]] - 小学校教師を経て衆議院議員。 *[[林正儀]] - 神奈川県立高校教諭のオーディオ評論家。 *[[春名美佳]] - スポーツクラブ勤務を経て、小学校教諭を務めていた競泳選手で大学院で教員免許取得。 *[[橋本淳 (サッカー選手)]] - 中学校教師。サッカー選手。 *[[橋本實 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[ピーター・ハウレット]] - 中学校・高校教師([[英語 (教科)|英語]])、翻訳家、[[環境問題]]研究家。 *[[半田真一 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[平井一正 (重量挙げ選手)]] - 中学校教師。重量挙げ選手。 *[[平山優 (歴史学者)]] - 中学校教師。歴史学者。 *[[平原勇次]] - 都立高校教諭(保健体育科)のバスケットボール審判員。 *[[兵頭由教]] - 現役高校教諭の県社会人フットボールクラブ所属のサッカー選手。 *[[樋口州男]] - 都立高校教諭の後、研究者へ。 *[[深谷圭助]] - 小学校教師。「辞書引き学習法」を提唱。 *[[藤原和博]] - [[杉並区立和田中学校|公立中学校]]の[[民間人校長]]([[リクルートホールディングス|リクルート]]出身)→「よのなかnet」主宰。 *[[藤井清 (物理学者)]] - 中学校教師。物理学者。 *[[藤村義朗 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[藤森萬年]] - 教育者。長野県の高校教員。工業教育のあり方、日本の工業のあり方等を主として研究 *[[藤田のぼる]] - 東京都内の私立小学校教諭を経て、日本児童文学者協会に勤務した児童文学研究者・作家。日本児童文学者協会理事長。 *[[古田靖志]] - 小学校校長歴任。温泉コラムニスト。下呂発温泉博物館の名誉館長。 *[[細田貴助]] - 閉校した小学校の元校長の郷土史研究家、茅野市神長官守矢史料館初代館長。 *[[堀真一郎]] - [[学校法人きのくに子どもの村学園|きのくに子どもの村学園]]園長。 *[[本城慎之介]] - 最年少の[[横浜市立東山田中学校|中学校]]民間人校長(元[[楽天グループ|楽天]]取締役副社長)。 *[[松下哲哉]] - 高校教師([[体育]])、[[運動生理学]]の研究(息こらえ)。 *[[松本稔 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[松野陽一郎]] - 中高一貫校教師(数学)。 *[[松嶋盛人]] - 大学農学部卒業後日本ハムを経て小学校教員、中学校校長を歴任し政治の世界に。 *[[松家卓弘]] - 高校の教諭。元プロ野球選手(投手)。 *[[前新健]] - 県職員から県内の小中高校の教諭をへて、専修学校の校長を務める *[[宮本研]] - 大分県の公立高校の教諭から舞台演出や戯曲を執筆。 *[[南野泰義]] - 高校教諭を経て、大学教授となった政治学者。 *[[三上満]] - 中学校教師([[社会 (教科)|社会]])、[[労働組合]]活動家。金八先生のモデル。 *[[三好京三]] - 小学校に助教諭、教諭として赴任。 *[[水谷修]] - 夜間高校教師([[社会 (教科)|社会]])、「夜回り先生」。 *[[宮本延春]] - 高校教師([[数学 (教科)|数学]])、「オール1先生」。 *[[宮坂武男]] - 小学校校長、岡谷市教育委員長を務め、城郭研究家に。県文化財保護協会諏訪支部長、信濃史学会会員。 *[[宮川ひろ]] - 公立小学校教員のかたわら日本児童文学者協会が開講した「新日本童話教室」に参加。 *[[無着成恭]] - 中学校教諭、明星学園教諭、教頭を歴任。禅宗の僧侶で教育者。生活綴方の代表的な文集『山びこ学校』と、『全国こども電話相談室』の回答者などを務めた。 *[[武藤山治 (日本社会党)]] - 中学校教師。日本社会党員。 *[[向山洋一]] - 「教育技術法則化運動(TOSS)」代表。すぐれた教育の技術を共有化するのに成功。 *[[森浩一]] - 府立高校の教諭を務める傍ら、古墳の発掘にも従事。 *[[森島久雄]] - 東京都公立中学校国語科教諭、都立高校教諭を経て、文部省専門調査官や大学教授に。 *[[森田稔]] - 東京都立高校教諭から大学教授となったロシア音楽研究者。 *[[安里琉太]] - 高校の教諭である俳人。 *[[山内徳信]] - 高校教諭をへて参議院議員。 *[[山井湧]] - 都立高校教諭を経て、中国哲学者に。 *[[山口正之 (宗教学者)]] - 中学校教師。宗教学者。 *[[山口博 (日本近代文学研究者)]] - 中学校教師。日本近代文学研究者。 *[[山口和彦 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[山田良定]] - 県立高校教諭や母校滋賀大の教授を務めた。 *[[山田進]] - 道内高校や工業高等専門学校に勤務。 *[[山田満]] - 神奈川県立高校教諭から大学教授等。 *[[山崎猛 (彫刻家)]] - 中学校教師。彫刻家。 *[[山田修 (建築家)]] - 中学校教師。建築家。 *[[山田泉 (教育者)]] - 中学校教師。教育者。 *[[山本悦子 (児童文学作家)]] - 中学校教師。児童文学作家。 *[[山本健一 (トレイルランナー)]] - 中学校教師。トレイルランナー。 *[[山本常夫 (野球)]] - 中学校教師。野球選手。 *[[山本博 (アーチェリー選手)]] - 中学校教師。アーチェリー選手。 *[[山元宗]] - 小学校教諭、図書館指導主事、小学校教頭、校長を歴任し後に政治の世界に。 *[[山神明理]] - 大学卒業後は小学校教諭を務めた気象予報士。 *[[山脇百合子 (英文学者)]] - 中学校教師。英文学者。 *[[柳家つばめ (5代目)]] - 中学校教師。落語家。 *[[義家弘介]] - 高校教師([[社会 (教科)|社会]])、「ヤンキー先生」。現在は[[衆議院議員]]。 *[[米村でんじろう]] - [[サイエンスライター]]。理科教育の実践に貢献。 *琴寄政人 中学校教師、[http://ehescbook.com 「子ども/明日への扉」] *[[吉村寅太郎 (教育者)]] - 中学校教師。教育者。 *[[吉田正 (実業家)]] - 中学校教師。実業家。 *[[吉田武 (歌人)]] - 中学校教師。歌人。 *[[吉田和子 (政治家)]] - 中学校教師。政治家。 *[[吉田知子]] - 新聞記者から浜松市の高校教諭をしていた *[[吉開寛二]] - いったん母校の高校教諭となるも、のち漫画家となる。 *[[横田稔 (海軍軍人)]] - 中学校教師。海軍軍人。 *[[横田純子]] - 中学校教師。合唱指導者。 *[[和合亮一]] - 福島県の高校教諭の傍ら詩作活動を行う。 *[[渡辺茂 (作曲家)]] - 小学校教頭、校長と同時に全小音研(全国小学校音楽研究会)理事同会長及び全日音研(全日本音楽教育研究会)小学部会長と、音楽教育団体の要職を歴任。 *[[渡部武 (中国文化史学者)]] - 中学校教師。中国文化史学者。 *[[渡辺毅 (作家)]] - 中学校教師。作家。 *[[渡辺憲司 (日本文学者)]] - 中学校教師。日本文学者。 *[[渡辺修 (歴史研究家)]] - 中学校教師。歴史研究家。 *[[渡辺信一郎 (文化人類学者)]] - 中学校教師。文化人類学者。 *[[渡辺大輔 (陸上選手)]] - 中学校教師。陸上選手。 *[[渡辺武 (歴史学者)]] - 中学校教師。歴史学者。 {{Div col end}} ===専門学校教師(専修学校・各種学校)=== {{Div col|3}} *[[西村公男]] - [[学校法人愛甲学院]]理事長・校長、簿記会計のすべて・原価計算の解法 *[[戸田一雄]] - [[文化学院]]理事長 *[[濱野賢一朗]] - [[リナックスアカデミー]]学校長、オープンソース教育 *[[藤原喜明]] - [[柔道整復専門学校#東京都|柔道整復専門学校]]理事長 *[[たかの友梨]] - たかの友梨学園[[たかの友梨美容専門学校]]理事長 *[[富田満]] - 東京神学大学、明治学院大学理事長、[[金城女子専門学校]]理事長 *[[西島英利]] - 医師(精神科)、医療法人財団小倉蒲生病院理事長、小倉南看護専門学校理事長 *[[末松偕一郎]] - [[別府市]]の市長歴任。 九州歯科医学専門学校理事長 *[[池田守男]] - [[資生堂]]相談役、資生堂美容技術専門学校理事長、東洋英和女学院理事長・院長 *[[篠原欣子]] - 篠原学園専門学校理事長 *[[メイ牛山]] - [[ハリウッド美容専門学校]]校長。 *[[山中祥弘]] - 学校法人メイ・ウシヤマ学園理事長、ハリウッドビューティ専門学校理事長、全国専門学校協会理事長。 *[[住野公一]] - [[オートバックスセブン]]相談役、学校法人住野学園湘南オートモビル・ビジネス専門学校理事長。 *[[小野寺五典]] - 学校法人増子学園の東北福祉情報専門学校理事長と東北福祉大学特任講師を務めた。 *[[多忠和]] - 日本電子専門学校理事長。 *[[中村久雄]] - 中村栄養短期大学(現・中村学園大学短期大学部)事務局長。中村学園理事長、中村料理学院(現・中村調理製菓専門学校)理事長。 *[[谷山兵三]] - 大阪医療技術学園専門学校理事長、大阪生物工学専門学校(現大阪動植物海洋専門学校)名誉学長 *[[服部幸應]] - [[服部栄養専門学校]]理事長・医学博士 *[[榎並充造]] - 神戸女子薬学専門学校理事長なども歴任した。 *[[小林英健]] - 学校法人近畿医療学園 近畿医療専門学校 理事長 *[[杉山勇司]] - [[東京スクールオブミュージック専門学校]]で講師 *[[ガリベンズ矢野]] - 専門学校で講師 *[[瓜田華菜子]] - 上野法律ビジネス専門学校やいわて公務員専門学校で講師(教務主任)も務める。 *[[松田洋治]] - [[東京アニメーションカレッジ専門学校]]で講師として演技指導。 *[[山中誠也]] - [[日本工学院専門学校]]で講師もしている。 *[[湖川友謙]] - [[東京アニメーター学院]]、[[東映アニメーション研究所]]で教鞭を振るった。 *[[タケカワユキヒデ]] - 仙台の芸術系専門学校で講師 *[[相倉久人]] - [[日本ジャーナリスト専門学校]]で講師を務めていた *[[あかほりさとる]] - [[東放学園映画専門学校]]で講師の仕事などもこなしている。 *[[西野やすし]] - 京都の音楽専門学校で講師を務めていた。 *[[上田悦]] - 漫画の専門学校で講師を務めている。 *[[くしまちみなと]] - デジタルアーツ東京などの専門学校で講師もしている。 *[[山本淳一 (映画監督)]] - 東放学園音響専門学校で講師も務める。 *[[千葉秀]] - 仙台コミュニケーションアート専門学校(現・仙台スクールオブミュージック&ダンス専門学校)で講師を務める。 *[[高塚雄介]] - 東京都立松沢看護専門学校等複数の看護・福祉関係の専門学校で講師・カウンセラー等を務める。 *[[小林静雄]] - 千代田女子専門学校で講師も務めた *[[落合真司]] - 作家活動以外にクリエイティブ系の専門学校で講師をつとめる。 *[[茶本繁正]] - 日本ジャーナリスト専門学校で講師を務めた。 *[[青野りえ]] - ヴォイストレーナーとして音楽専門学校で講師を務める *[[猿渡英矢]] - 支倉学園 創表現専門学校で講師を勤め、後にテクニカルプロデューサーとしてカリキュラム制作にも携わる。 *[[山本重也]] - [[WAOクリエイティブカレッジ]]新宿校(専門学校)で講師を務めたこともある。 *[[中川有加]] - 大学院在学中より東京都立広尾看護専門学校、、看護師となってからも大阪赤十字看護専門学校で講師を兼任 *[[吉岡康典]] - M40-44クラスにおいてアジア記録・日本記録保持者。大学、専門学校で講師も *[[中澤一夫]] - 浜松市助役をつとめたほか、静岡県立浜松建設技能専門学校講師も *[[玉麻尚一]] - [[日本芸術専門学校]]講師。 *[[河内孝博]] - 日本芸術専門学校講師。 *[[細江英公]] - 東京写真専門学校、社団法人日本写真家協会副会長 *[[小高三良]] - 日本芸術専門学校講師。 *[[寺沢功一]] - [[尚美ミュージックカレッジ]]専門学校講師を務める *[[宇津本直紀]] - 専門学校講師。 *[[綿貫正顕]] - 大阪音楽大学・佛教大学四条センター・キャットミュージックカレッジ専門学校講師 *[[村田博美]] - 日本芸術専門学校講師。 *[[紀昌利]] - 日本芸術専門学校講師。 *[[深澤弘]] - 音響芸術専門学校講師を務めた。 *[[ひのあらた]] - 日本芸術専門学校講師。 *[[寺井智之]] - 日本芸術専門学校講師、WAHO學院校長。 *[[出雲亮一]] - 日本芸術専門学校講師。 *[[堀江一眞]] - 日本芸術専門学校講師。 *[[大野文彦]] - 服部栄養専門学校 講師 *[[菊池晋作]] - 服部栄養専門学校 講師 *[[西澤辰男]] - 服部栄養専門学校 講師 *[[三浦一年]] - 尚美ミュージックカレッジ専門学校講師、横浜ミュージックスクール講師。 *[[吉田徹]] - [[大阪アミューズメントメディア専門学校]] 講師。 {{Div col end}} ===特別なニーズを持った子供の教育([[障害者|障害児]]・不登校児・他)=== {{Div col|3}} *[[アルフォンス・デーケン]] - 死の準備教育、[[死生学]]。上智大学教授。 *[[伊東雋祐]] - ろう教育者。 *[[大友淑江]] - 社会福祉法人あすなろ学園 創始者 *[[奥地圭子]] - [[東京シューレ]]代表 *[[喜多徹人]] - [[神戸セミナー]]校長。 *[[沢田美喜]] - [[エリザベス・サンダースホーム]]の創立者 *[[鈴木鎮一]] - 音楽教育の実践家。[[スズキ・メソード]]の開発。 *[[高橋幸子 (教育者)|高橋幸子]] - [[みみずの学校]]元主宰 *[[高橋潔]] - ろう教育者。 *[[辻本繁]] - ろう教育者。 *[[竹内敏晴]] - 演出家、からだとことばのレッスン *[[谷昌恒]] - [[北海道家庭学校]]元校長 *[[戸塚宏]] - [[戸塚ヨットスクール]]創始者 *[[鳥山敏子]] - [[賢治の学校]]主宰。 *[[福井達雨]] - [[止揚学園]]園長 *[[丸山千代]] - ろう教育者。 *[[宮城まり子]] - 歌手、[[ねむの木学園]] *[[牟田武生]] - [[不登校]]・[[引きこもり]]の実践・臨床研究。NPO法人[[教育研究所]]理事長。 *[[西本順次郎]] - 精神科医。モンテッソーリ教育による幼児・障害者教育にも携わった。 *[[藤崎達宏]] - モンテッソーリ教育の教師でNPO法人理事長。 *[[田淵俊彦]] - 映像作家でモンテッソーリ教育に興味が深い。 *[[牧衷]] - 岩波映画製作所の脚本家。多くの科学教育映画の企画と脚本を担当。 *[[折井英治]] - 科学教育家。子供向けの科学読み物や絵本などの著作が多数。 *[[島崎直也]] - こども向け参加体験型コンテンツプランナー/エンターテイナー。こどもヘンテコまほうラボ 所長。2016年4月から佐久市子ども未来館館長。 *[[松本弘義]] - 登校拒否・不登校問題全国協議会の代表者。 *[[久保治雄]] - 『大学教授になった不登校児』(第三文明社、1998年)などの著作がある *[[八巻正治]] - 元牧師、大学教員。尚絅学院大学での担当科目は社会的養護、児童養護、社会福祉、相談援助であった。 前任校の弘前学院大学では障害者福祉論が担当科目であった。 *[[義家弘介]] - 衆議院文部科学委員長。北海道芸術高等学校チーフアカデミックディレクター。NPO法人あきらめない特別顧問。「ヤンキー先生」のニックネームで知られる。 *[[広瀬慶輔]] - 寝屋川市長時、小中学校の児童生徒が登校かオンラインかを各家庭の希望に応じて選べる「選択登校制」を導入 *[[柴橋正直]] - 岐阜市長時、不登校の中学生対象の特例校を開校。 *[[長田百合子]] - 教育評論家で不登校・いじめ・非行に関する著書多数。 *[[石井郁子]] - 教育学者、政治家で不登校・いじめ・非行に関する著書多数。 *[[斎藤環]] - 精神科医でひきこもり対策の第一人者 *[[相良敦子 (教育家)]] - エリザベト音楽大学教授でモンテッソーリ教育家 *[[鼓常良]] - モンテッソーリの教育学の翻訳や著作、幼児教育研究所の設立と付属「月見が丘子どもの家」モンテッソーリ教育実践を始めた。 *[[川村洋子]] - 横浜梶山モンテッソーリスクールの園長。 *[[佐藤可士和]] - [[ふじようちえん]]のディレクターをつとめた。 *[[白井智子]] - Innovation lab 共同代表、ハタチ基金代表理事、文部科学省フリースクール等検討会議委員 *[[荒井裕司]] - フリースクールゆうがく(伸学会株式会社)主宰、ほか「サポートアカデミー」や高校受験のための「伸学会予備校」を設立。 *[[高橋良臣]] - 登校拒否文化医学研究所所長、臨床心理士、獣医師、牧師。 *[[石井希尚]] - 作家、結婚カウンセラー、牧師、フリースクール「寺子屋学園」設立者・校長 *[[松本隆博]] - 厚生労働省わかものハローワーク広報大使、NPO法人「赤ちゃんファミリー応援隊」理事、小中学生を対象とした学校の代わりとなる居場所フリースクール「こころ」の校長なども務める。 *[[早瀨憲太郎]] - ろう者むけ塾を設立して塾長に就任や東京都立大塚ろう学校の講師、非営利団体「スマイルフリースクール」の理事長も務めている。 *[[林久美子]] - インクルーシブ教育を推進する議員連盟事務局長代理、フリースクール等議員連盟事務局長など。 *[[斎藤道雄 (記者)]] - ろう教育について報道し、フリースクールの龍の子学園の学校法人設立発起人会の代表を務める。 *[[渡辺位]] - 児童精神科医で国府台病院を定年退職後は東京シューレを中心に登校拒否・教育問題に関わる執筆・講演などで精力的に活動した。 {{Div col end}} ===その他=== {{Div col|3}} *[[島悟]] - 医学者、精神科医。研究分野は、勤労者のメンタルヘルス *[[玉井義臣]] - 「[[あしなが育英会]]」創始者・会長、「[[あしなが育英会#学生寮 あしなが心塾・虹の心塾|心塾]]」創立者・塾長 *[[深見東州|半田晴久]] - 「[[みすず学苑]]」創設者・学苑長、カンボジア大学総長・教授 *[[村上雄藏]] - 高校教諭のち兵庫県知事認可(後学校法人)の予備校[[神戸セミナー]]を創立 *[[岡田吉弘 (教育家)|岡田吉弘]] - [[スパルタ式]]教育術を標榜する私塾「[[岡田塾]]」主宰 *[[石角完爾]] - 欧米の[[ボーディングスクール]]の調査、留学支援NPOの主宰 *[[安生健]] - 言語系自然科学教育者。 *[[川勝清司]] - 教育者。元学校法人日ノ本学園理事長。研究分野は、科学教育、教育学。 *[[古岡秀人]] - [[Gakken|学研]]創始者。公益財団法人古岡奨学会理事長。 *[[山崎貞一]] - フェライトコアの工業化に貢献し、研究者・技術者の育成と科学技術の発展に多大なる貢献をなすほかに自然科学教育振興会の創立も *[[今崎半太郎]] - 村長として村民の意識改革や水産教育をも *[[松本キミ子]] - [[キミ子方式]]の美術教育が知られる。 *[[久保貞次郎]] - 美術評論家であるが小中学生を対象とした創造主義美術教育運動の指導者。 *[[栗林元二郎]] - 北海道の農業教育者。農業専門学校八紘学園の創設者。 *[[渡邉美樹]] - 学校法人郁文館夢学園理事長兼校長。 *[[福武總一郎]] - 慈善活動家。ベネッセホールディンクス名誉顧問。 *[[福武哲彦]] - 進研ゼミで成功した福武書店(現ベネッセコーポレーション、ベネッセホールディンクス)創業者 *[[鳥居徹也]] - 学校法人三橋学園『夏見台幼稚園・保育園』園主。 *[[今村久美]] - 社会起業家。認定NPO法人カタリバ設立者・同代表理事。 *[[鵜川昇]] - 茗渓会会長、学校法人茗溪学園理事長、学校法人桐蔭学園理事長、桐蔭横浜大学学長、自民党かながわ政治大学校初代校長などを務めた。 *[[吉田知明]] - 個別指導塾スタンダード創業者、株式会社SCホールディングス代表。 *[[水野達朗]] - 家庭教育アドバイザー、不登校復学支援専門のカウンセラーで家庭教育支援センター・ペアレンツキャンプ創設者。 *[[北山雅史]] - 栄光ゼミナールを経営する株式会社栄光創業者・最高顧問。 *[[津田秀樹]] - 試験の研究家。選択式の問題を選択肢のみで解く方法を開発し出版。 *[[大友淑江]] - 社会福祉法人創始者・元理事長。歌人。知的障害を持つ児童の教育に専念。 *[[小林さやか (ビリギャル)]] - 『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(通称:ビリギャル)で題材・主人公とされた女性。 *[[小林正弥 (ビジネス教育者)]] - 教育スクールビジネス専門の経営コンサルタント、教育スクールビジネス研究所代表取締役。 *[[豊田育子]] - 岐阜市にある学校法人豊田学園の学園長。 *[[橘遵]] - BYU Provoの客員教授、右脳教育研究所長。 *[[吉政忠志]] - IT業界の教育。一般社団法人PHP技術者認定機構 代表理事 *[[野島智司]] - 九大大学院を退学した後、身近な自然をテーマにした個人プロジェクト「マイマイ計画」を始動。 *[[下出義雄]] - 財団法人大同工業教育財団を組織。 *[[ヨビノリたくみ]] - 大学の数学や物理の解説動画配信者 {{Div col end}} ;予備校講師など {{Div col|3}} *[[大橋憲三]] - [[駿台予備学校]]化学科非常勤講師 *[[林修]] - 予備校講師、タレント。 東進ハイスクール・東進衛星予備校国語科専任講師。 *[[村瀬哲史]] - 東進ハイスクール・東進衛星予備校地理専任講師。タレントとしても活動している。 *[[林省之介]] - 大学教授、政治家。元衆議院議員(1期)のほか予備校講師も歴任。 *[[室井光広]] - 小説家、文芸評論家のほか予備校講師も歴任。 *[[萩野浩基]] - 早稲田予備校講師(英語)なども歴任。 *[[菊地幸夫]] - 司法試験予備校の辰已法律研究所で長年講師を務めている。 *[[北村春吉]] - 旧制専門学校校長、サッカー選手のほか予備校講師も歴任。 *[[佐藤忠志]] - 教育評論家・元予備校講師。元拓殖大学客員教授。愛称は「金ピカ先生」。 *[[小田実]] - 作家・政治運動家のほか予備校講師も歴任。 *[[飯嶋和一]] - 小説家。中学校教諭のほか予備校講師も歴任。 *[[菅孝行]] - 執筆活動のかたわら予備校講師も。 *[[秋山仁]] - 通称「レゲエ教授」。かつては駿台予備学校で予備校講師もしていた。 *[[鈴木邦男]] - 政治活動家、「一水会」名誉顧問、思想家、文筆家、プロレス評論家だが河合塾講師も。 *[[伊藤和夫]] - 予備校講師。駿台予備学校英語科専任講師を約30年間務めた。 *[[月村了衛]] - 予備校講師、脚本家を経て小説家となる。 *[[金谷俊一郎]] - 歴史コメンテーター、予備校講師。東進ハイスクール・東進衛星予備校日本史講師。一般財団法人日本普及機構代表理事。 *[[浅羽通明]] - 評論家。みえない大学本舗主宰。ほか予備校講師も歴任。 *[[伊藤賀一]] - 永田達三の永田塾にて講師、東進ハイスクール・秀英予備校・秀英BBS(ブロードバンドスクール)などの予備校講師を経て、リクルートの映像授業「スタディサプリ」、辰已法律研究所などで講師を担当 *[[伊藤真 (弁護士)]] - 資格試験予備校伊藤塾の塾長。弁護士(法学館法律事務所)。 *[[渡辺京二]] - 思想史家・歴史家・評論家のほか予備校講師も歴任。 *[[関井光男]] - 文芸評論家。早稲田予備校現代文担当講師などを務めた。 *[[副島隆彦]] - 作家。副島国家戦略研究所(SNSI)を主宰。元代々木ゼミナール講師。 *[[伊藤悟]] - 評論家、マルチアクティヴィスト、ラジオパーソナリティ、著作家。高等学校教師、予備校講師も歴任。 *[[西きょうじ]] - 予備校講師。元代々木ゼミナール英語科講師、元東進ハイスクール・元東進衛星予備校英語科講師。 *[[中島義道]] - 哲学者、作家のほか予備校講師も歴任。 *[[吉川勇一]] - 市民運動家、翻訳家。元英語教師(予備校講師・専門学校講師) *[[野村二郎 (ジャーナリスト)]] - 司法ジャーナリスト。早稲田セミナーマスコミ講座講師もつとめた。 *[[山本義隆]] - 研究者のほかに予備校講師として、駿台予備学校で物理科の講師を30年以上務める。 *[[西田昌史 (予備校講師)]] *[[小阪修平]] - 評論家。全共闘活動家。駿台予備学校論文科講師。 *[[桧山泰浩]] - 元プロ野球選手(投手)で現在は、司法書士と早稲田セミナー専任講師を兼任している。 *[[柴田孝之]] - 三重県菰野町長、弁護士、司法試験予備校講師。 *[[出口汪]] - 予備校講師、実業家。 *[[長岡亮介 (数学者)]] - 数学教育者。元予備校講師で「意欲ある若手数学教育者支援組織 TECUM」主催者。 *[[入不二基義]] - 哲学者。元予備校講師。 *[[細野真宏]] - 経済解説者、映画評論家。受験予備校Hosono's Super School主宰。元々は大学受験における数学の参考書・数学の学習指導で有名。 *[[高橋武智]] - 仏文学者、翻訳家。日本戦没学生記念会(わだつみ会)理事長。元予備校講師。 *[[杉崎智介]] - 映画監督、脚本家、放送作家、作詞家、作曲家、ラジオパーソナリティ、実業家、元政治家、医学部予備校四谷メディカル学院長。 *[[澤井繁男]] - 作家、評論家、エッセイスト、イタリアルネサンス文学・文化研究家。元予備校講師。 *[[加藤陽子]] - 歴史学者。元予備校講師。 *[[岩崎茂雄]] - 弁護士。元予備校講師でLEC東京リーガルマインドで専任講師 *[[牧野剛]] - 評論家、予備校講師 *[[神山睦美]] - 文芸評論家。 全共闘活動の後、個人学習塾を開くが予備校の教壇に立ちながら、在野での思想、評論活動を行う。 *[[秋本吉徳]] - 国文学者。元駿台予備学校古文科講師。元東大進学塾エミール古文科講師。 {{Div col end}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|教育|[[画像:Nuvola apps edu miscellaneous.svg|34px|Portal:教育]]}} *[[Portal:教育]] *[[教育関係記事一覧]] *[[教育学]] *[[教育哲学]] *[[教育史]] *[[教育工学]] *[[教育社会学]] *[[心理学者]] {{デフォルトソート:きよういくかんけいしんふついちらん}} [[Category:教育関係者|*いちらん]] [[Category:教育関連一覧|しんふついちらん]] [[Category:職業別人名一覧]]
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養父町 (兵庫県養父郡2004年)
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{{出典の明記|date=2023年1月}} {{日本の町村 (廃止) | 画像 = ファイル:お走りさん.JPG | 画像の説明 = [[お走りさん]] | 旗 = [[ファイル:Flag of Yabu-Town, Hyōgo.svg|100px|border|養父町旗]] | 旗の説明 = 養父[[市町村旗|町旗]] | 紋章 = [[ファイル:Emblem of Yabu-Town, Hyōgo.svg|70px|養父町章]] | 紋章の説明 = 養父[[市町村章|町章]] | 廃止日 = 2004年4月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = [[八鹿町]]、'''養父町'''、[[大屋町]]、[[関宮町]] → [[養父市]] | 現在の自治体 = [[養父市]] | よみがな = やぶちょう | 自治体名 = 養父町 | 区分 = 町 | 都道府県 = 兵庫県 | 郡 = [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]] | コード = 28602-8 | 面積 = 111.84 | 境界未定 = なし | 人口 = 8546 | 人口の出典 = [[推計人口]] | 人口の時点 = 2004年3月1日 | 隣接自治体 = [[出石郡]][[出石町]]、養父郡[[八鹿町]]、[[大屋町]]、[[朝来郡]][[和田山町]]、[[朝来町]] | 木 = [[サザンカ]] | 花 = [[アジサイ]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 667-0198 | 所在地 = 養父郡養父町広谷250-1 |座標 = <!--{{Coord|format=dms|type:city(8546)_region:JP-28|display=inline,title}}--> | 位置画像 = [[ファイル:Hyogo_Yabu-city_Yabu-town.png|right]] | 特記事項 = }} '''養父町'''(やぶちょう)は、かつて[[兵庫県]]の中北部に存在した[[町]]。[[養父郡 (兵庫県)|養父郡]]に属した。なお、本項では発足時の名称でもある'''明神町'''(みょうじんちょう)についても述べる。 [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]、養父郡4町の合併により[[養父市]]となったことで消滅した。 == 地理 == 北流する[[円山川]]の中流域を占める。 === 隣接していた自治体 === * 養父郡[[八鹿町]]、[[大屋町]] * 出石郡[[出石町]] * 朝来郡[[和田山町]]、[[朝来町]] == 歴史 == * [[1956年]](昭和31年)[[9月30日]] - [[広谷町]]・[[建屋村]]が合併して'''明神町'''が発足。 * [[1957年]](昭和32年)[[3月31日]] - 明神町が[[養父町 (兵庫県養父郡1957年)|養父町]]を編入のうえ改称して'''養父町'''となる。 * [[1959年]](昭和34年)4月1日 - [[朝来郡]][[和田山町]]の一部([[大字]]堀畑の一部)を編入。 * [[2004年]]([[平成]]16年)4月1日 - [[八鹿町]]・[[大屋町]]・[[関宮町]]と合併して'''[[養父市]]'''が発足。同日養父町廃止。 == 合併後の旧町域地名 == 合併後、「養父町」という名称は使われなくなった。 * 例:養父郡養父町広谷 → 養父市広谷 === 養父町の地区・地域 === 養父町には、いくつかの地区がある。以下に地区と住所のおおよその関係を示す。ただし、中には正式な住所としては存在していないものもある。 * 米地地区 - 高中・山中・奥米地・中米地・鉄屋米地(かなやめいじ)・口米地 * 大塚地区 - 大塚のみ(米地地区と混同される場合あり) * 養父市場地区 - 養父市場上(かみ)養父市場中(なか)養父市場下(しも) * 大藪地区 - 大藪のみ * 薮崎地区 - 上薮崎・薮崎 * 堀畑地区 - 堀畑・はさまじ峠(飲食店街) * 広谷地区 - 広谷・上箇(あげ) * 小城地区 - 小城のみ * 上野地区 - 上野・東上野 * 十二所地区 - 十二所 * 浅野地区 - 浅野・伊豆・畑(はた) * 左近山地区 - 左近山(さこやま)・玉見 * 建屋地区 - 建屋・餅耕地(もちごうち)・長野・能座 * 三谷地区 - 三谷・森・船谷 == 交通 == === 鉄道路線 === * [[西日本旅客鉄道|JR西日本]] ** [[山陰本線]]:[[養父駅]] === 道路 === * 国道 ** [[国道9号]]・[[国道312号]](重複区間) * 県道 ** [[兵庫県道6号養父宍粟線|兵庫県道6号八鹿山崎線]] ** [[兵庫県道70号十二所澤線|兵庫県道70号養父朝来線]] ** [[兵庫県道104号物部藪崎線|兵庫県道104号物部養父線]] ** [[兵庫県道136号浅野山東線]] ** [[兵庫県道255号上村養父線]] ** [[兵庫県道271号朝倉養父停車場線]] ** [[兵庫県道279号森大屋線]] == 関連項目 == * [[兵庫県の廃止市町村一覧]] == 外部リンク == * {{WAP|pid=233995|url=www2.nkansai.ne.jp/yabu-cho/index.html|title=養父町|date=2004/01/19}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やふちよう}} [[Category:養父郡 (兵庫県)]] [[Category:養父市域の廃止市町村]] [[Category:1956年設置の日本の市町村]] [[Category:2004年廃止の日本の市町村]]
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大屋町
大屋町(おおやちょう)は、かつて兵庫県の中北部に存在した町である。養父郡に属した。 2004年(平成16年)4月1日に養父郡4町の合併により養父市となったことで、養父市大屋町となった。 円山川の支流、大屋川の中上流域。豪雪地帯。南部には一円電車で知られた明延鉱山があった。 合併後、旧大屋町域については「養父市大屋町」という名称が使われることになった。 ※2006年、上記4小学校が統合し、新たに養父市立大屋小学校が設置された。 町内を走る鉄道路線はない(過去の路線については明神電車を参照)。
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大屋町(おおやちょう)は、かつて兵庫県の中北部に存在した町である。養父郡に属した。 2004年(平成16年)4月1日に養父郡4町の合併により養父市となったことで、養父市大屋町となった。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 2004年4月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = [[八鹿町]]・[[養父町 (兵庫県養父郡2004年)|養父町]]・'''大屋町'''・[[関宮町]] → [[養父市]] | 現在の自治体 = 養父市 | よみがな = おおやちょう | 自治体名 = 大屋町 | 画像 = Tendaki.jpg | 画像の説明 = [[天滝]] | 旗 = [[ファイル:Flag_of_Oya_Hyogo.png|100px|border|大屋町旗]] | 旗の説明 = 大屋[[市町村旗|町旗]] | 紋章 = [[ファイル:Oya_Hyogo_chapter.JPG|70px|大屋町章]] | 紋章の説明 = 大屋[[市町村章|町章]]<br>{{Smaller|[[1955年]][[5月20日]]制定}} | 区分 = 町 | 都道府県 = 兵庫県 | 郡 = [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]] | コード = 28603-6 | 面積 = 138.29 | 境界未定 = なし | 人口 = 4528 | 人口の出典 = [[推計人口]] | 人口の時点 = 2004年3月1日 | 隣接自治体 = [[宍粟郡]][[一宮町 (兵庫県宍粟郡)|一宮町]]、[[波賀町]]、養父郡八鹿町、養父町、関宮町、[[朝来郡]][[朝来町]]<br />鳥取県[[八頭郡]][[若桜町]] | 木 = [[カエデ|モミジ]] | 花 = [[サツキ]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 667-0311 | 所在地 = 養父郡大屋町大屋市場117 |座標 = {{Coord|format=dms|type:city(4528)_region:JP-28|display=inline,title}} | 位置画像 = [[ファイル:Hyogo_Yabu-city_Oya-town.png|right]] | 特記事項 = }} '''大屋町'''(おおやちょう)は、かつて[[兵庫県]]の中北部に存在した[[町]]である。[[養父郡 (兵庫県)|養父郡]]に属した。 [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]に養父郡4町の合併により[[養父市]]の一部となった。 == 地理 == [[円山川]]の支流、大屋川の中上流域。[[豪雪地帯]]。南部には[[明延鉱山]]があった。 * 山: [[氷ノ山]](1510m、兵庫県最高峰)、[[鉢伏山 (香美町)|鉢伏山]] (1221m) == 歴史 == * [[1955年]]([[昭和]]30年)[[3月31日]] - [[大屋村 (兵庫県)|大屋村]]・[[口大屋村]]・[[西谷村 (兵庫県養父郡)|西谷村]]・[[南谷村 (兵庫県)|南谷村]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|新設合併]]して発足。 * [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]] - [[八鹿町]]・[[養父町 (兵庫県養父郡2004年)|養父町]]・[[関宮町]]と新設合併して[[養父市]]が発足。同日大屋町廃止。 == 合併後の旧町域地名 == 合併後、旧大屋町域については「養父市大屋町」という名称が使われることになった。 * 例:養父郡大屋町宮垣 → 養父市大屋町宮垣 == 教育 == * 大屋町立大屋小学 * 大屋町立口大屋小学校 * 大屋町立西谷小学校 * 大屋町立南谷小学校 * [[養父市立大屋中学校|大屋町立大屋中学校]] == 交通 == === 鉄道路線 === 町内を走る鉄道路線はない、 === 道路 === * 県道 ** [[兵庫県道6号養父宍粟線|兵庫県道6号八鹿山崎線]] ** [[兵庫県道48号大屋波賀線]] ** [[兵庫県道272号宮垣八木線]] ** [[兵庫県道279号森大屋線]] == レジャー・観光 == * [[大屋町大杉]](国選定[[重要伝統的建造物群保存地区]]) ** [[二ノ宮神社 (養父市)]] ** [[大福寺 (養父市)]] * [[天滝]] * [[樽見の大ザクラ]] * [[口大屋の大アベマキ]] * [[若杉高原大屋スキー場]] == 主な出身者 == * [[松岡健介]]([[競輪選手]]) * [[松田京子]]([[彫刻家]]) == 関連項目 == * [[明神電車]] * [[兵庫県の廃止市町村一覧]] == 外部リンク == * {{WAP|pid=235458|url=www.town.ooya.hyogo.jp/index.html|title=大屋町|date=2004/06/22}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおやちよう}} [[Category:養父郡 (兵庫県)]] [[Category:養父市域の廃止市町村]] [[Category:1955年設置の日本の市町村]] [[Category:2004年廃止の日本の市町村]]
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8,910
関宮町
関宮町(せきのみやちょう)は、かつて兵庫県の中北部に存在した町である。養父郡に属した。 2004年(平成16年)4月1日、養父郡4町の合併により養父市になったことで消滅した。 円山川の支流、八木川の中上流域。豪雪地帯として知られ、なかでも町西部の鉢伏高原は近畿地方有数のスキー場地帯となっている。 合併後、「関宮町」という名称は使われなくなった。 町内を走る鉄道路線はない。
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関宮町(せきのみやちょう)は、かつて兵庫県の中北部に存在した町である。養父郡に属した。 2004年(平成16年)4月1日、養父郡4町の合併により養父市になったことで消滅した。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 2004年4月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = [[八鹿町]]・[[養父町 (兵庫県養父郡2004年)|養父町]]・[[大屋町]]・'''関宮町''' → [[養父市]] | 現在の自治体 = 養父市 | よみがな = せきのみやちょう | 自治体名 = 関宮町 | 画像 = Hyonosen02s1760.jpg | 画像の説明 = [[氷ノ山国際スキー場]] | 旗 = [[ファイル:Flag_of_Sekinomiya_Hyogo.png|100px|border|関宮町旗]] | 旗の説明 = 関宮[[市町村旗|町旗]] | 紋章 = [[ファイル:Sekinomiya_Hyogo_chapter.JPG|70px|関宮町章]] | 紋章の説明 = 関宮[[市町村章|町章]]<br>{{Smaller|[[1959年]][[10月27日]]制定}} | 区分 = 町 | 都道府県 = 兵庫県 | 郡 = [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]] | コード = 28604-4 | 面積 = 95.59 | 境界未定 = なし | 人口 = 4422 | 人口の出典 = [[推計人口]] | 人口の時点 = 2004年3月1日 | 隣接自治体 = [[美方郡]][[村岡町]]、[[美方町]]、養父郡八鹿町、大屋町<br />鳥取県[[八頭郡]][[若桜町]] | 木 = [[キャラボク]] | 花 = [[ドウダンツツジ]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 667-1105 | 所在地 = 養父郡関宮町関宮633 |座標 = {{Coord|format=dms|type:city(4422)_region:JP-28|display=inline,title}} | 位置画像 = [[ファイル:Hyogo_Yabu-city_Sekinomiya-town.png|right]] | 特記事項 = }} '''関宮町'''(せきのみやちょう)は、かつて[[兵庫県]]の中北部に存在した[[町]]である。[[養父郡 (兵庫県)|養父郡]]に属した。 [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]、養父郡4町の合併により[[養父市]]になったことで消滅した。 == 地理 == [[円山川]]の支流、八木川の中上流域。[[豪雪地帯]]として知られ、なかでも町西部の[[鉢伏高原]]は近畿地方有数のスキー場地帯となっている。 * 山: [[氷ノ山]](1510m,兵庫県最高峰)、[[鉢伏山 (香美町)|鉢伏山]] (1221m)、妙見山 (1139m) == 歴史 == * [[1956年]]([[昭和]]31年)[[8月1日]] - [[美方郡]][[熊次村]]・[[養父郡 (兵庫県)|養父郡]][[関宮村]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|新設合併]]して発足。 * [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]] - 養父郡[[八鹿町]]・[[養父町 (兵庫県養父郡2004年)|養父町]]・[[大屋町]]と新設合併して[[養父市]]が発足。同日関宮町廃止。 == 合併後の旧町域地名 == 合併後、「関宮町」という名称は使われなくなった。 * 例:養父郡関宮町関宮 → 養父市関宮 * 例:養父郡関宮町三宅 → 養父市三宅 == 交通 == === 鉄道路線 === 町内を走る鉄道路線はない。 === 道路 === * [[国道9号]] * [[兵庫県道87号関宮小代線|兵庫県道87号関宮美方線]] * [[兵庫県道269号福岡出合線|兵庫県道269号福岡関宮線]] == レジャー・観光 == * [[ハチ高原スキー場]] * [[氷ノ山国際スキー場]] * [[ハイパーボウル東鉢スキー場]] == 関連項目 == * [[兵庫県の廃止市町村一覧]] == 外部リンク == * {{WAP|pid=239609|url=www.town.sekinomiya.hyogo.jp/index.html|title=関宮町|date=2004/03/12}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せきのみやちよう}} [[Category:養父郡 (兵庫県)]] [[Category:養父市域の廃止市町村]] [[Category:1956年設置の日本の市町村]] [[Category:2004年廃止の日本の市町村]]
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泉区
泉区(いずみく)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "泉区(いずみく)", "title": null } ]
泉区(いずみく) 泉区 (仙台市) - 仙台市の行政区のひとつ 泉区 (横浜市) - 神奈川県 横浜市の行政区のひとつ
'''泉区'''(いずみく) <!-- 成立順に記載 --> *[[泉区 (仙台市)]] - [[仙台市]]の[[行政区]]のひとつ *[[泉区 (横浜市)]] - [[神奈川県]] [[横浜市]]の[[行政区]]のひとつ {{地名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:いすみく}} [[Category:曖昧さ回避]]
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学生寮
学生寮(がくせいりょう、英語: student dormitory)は、学校で学ぶ学生や生徒、児童を受け入れるための寮。学寮(がくりょう)とも呼ばれる。 学生ら全員が寮で生活することを原則とする全寮制の学校もあり、イギリスではボーディングスクール(寄宿学校)と呼ばれる。学生らが起居できる下宿や賃貸集合住宅がある市街地に近くても全寮制にして、外国からの留学生を含む在校生が共同生活することによって交流や切磋琢磨、語学力向上といった効果を期待する学校もある。 アメリカ合衆国の大学では寮が設けられる場合にはキャンパス内に設けられていることが多い。アメリカの大学の寮の形態には、男子寮(men's dorm)、女子寮(women's dorm)、男女共有寮(co-ed dorm)があり、上級者専用の寮や留学者専用の寮など対象が定められている寮もある。大学の寮には娯楽室、自習室、コンピュータルーム、ラウンジ、洗濯室等が設けられている。 学生の交流組織であるフラタニティとソロリティが運営する宿舎も寮として機能している(フラタニティとソロリティ#フラタニティ/ソロリティ宿舎の節参照)。 中学校、高等学校、専修学校、高等専門学校、大学などの学生、生徒、児童の住む寮である。寄宿舎と呼ばれることもあり、特に特別支援学校などで用いられている(こちらを参照)。本来は、学校が自宅から遠かったり、交通が不便だったりして通学が困難な学生、生徒、児童のために作られたものである。 学生向けの物件であるため、家賃は一般的なアパートより安めに設定されている所が多い。部屋以外の設備(風呂やトイレなど)は共同使用の場合が多く、基本的に相部屋である(特に下級生)。 学校や寮、地域によっては外出や門限を厳しく制限されたり、寮での日課(特に食事や入浴、就寝時間)が規則で決められたりしている寮が多い。私生活を束縛される理由から、深夜・早朝のアルバイトが不可能またはそれに近い状態であったりする。近年は減少傾向にあるが、朝夕の食事が提供される所もある。 以下この項では、文部科学省所管外の教育訓練施設(省庁大学校など)が設置するものについても取り扱うこととする。 第二次世界大戦前の旧制高等学校では、旧制高校といえば寮生活を思い浮かべる人が多いと言われるほど寮と関係が深く、寮歌が盛んに歌われていた。 大学寮は様々な学生の交流の場ともなっており、ホールやラウンジなど、ちょっとした集まりが出来る共有スペースがあり、ユースホステルなどと同じく有料で外部学生が宿泊出来ることもある。東京大学駒場寮などを中心に学生運動の拠点ともなり、学生寮自治会の連合組織として「全日本学生寮自治会連合」(全寮連)も結成されていた(2006年3月解散)。 筑波大学の学生宿舎は、海外からの研究者なども多く、家族で住む事のできる部屋もあり、開学当時はそれが話題にもなった。ヨーロッパや北米の大学では、男女が同室に一緒に住む事もできる寮や、同一フロアに男女が混在して生活する寮も珍しくはない。 もともとは、キリスト教の修道院の中の修道士の居住空間から着想を得ているものらしい。dormitory自体は、本来の意味は「共同の寝室」。ドイツ語やスラブ語で仲間、友達をいうder Kameradeも「方形の個室(Kamera)で生活を共にした友達」からくる。 一部の中高一貫校にも寮があり、遠隔地からの生徒受け入れが可能なため、都会から離れている立地の学校でも都会の学校と同じ土俵で競えるなどのメリットがある。 集団生活での責任感も養成する観点から、寮では原則として複数人で一部屋を使用する場合が殆どで、特待生として優遇されない限り、一人一部屋になる事はない(一人一部屋にすれば、寮の建設費や維持費が増大するという理由もある)。 トヨタ自動車やJR東海、中部電力など中部地方の有力企業がイギリスの名門イートン校をモデルにして、全寮制学校「海陽中等教育学校」を作った。 不登校経験者を対象にした学校でも、寮を設置している場合が多い(北星学園余市高等学校など)。 特定の学校に属さず、複数の学校から広く学生を受け入れる寮としては、山手学舎、友愛学舎、信愛学舎、登戸学寮、地塩寮、和敬塾、大東会館などがある。山手、友愛、信愛の各学舎は兄弟寮であり、YMCAが運営に関わっている。他にも、自治体などによる県民寮があり、全国的に閉寮傾向にあるが育英会館学生寮(千葉県)、富山県の青雲寮(富山県)などが現存する。 大学・大学校では、自治医科大学、東京基督教大学、防衛大学校などは全寮制であり、入学と同時に入寮の義務が課せられる。また皇學館大学でも学生全員に原則として2年間、学生寮への入寮を義務付けている。旧制大学時代の千葉工業大学のように、学生だけではなく教員も同じ寮に寄宿し、寝食を共にするというスタイルの全寮制大学も存在した。 高等学校でも全寮制の学校がある。学校法人日生学園が経営する、三重県所在の青山高等学校(旧・日生学園第二高等学校)は、全寮制高等学校として知られる。近年は少子化などによる学校経営上の理由から、聖パウロ学園高等学校(東京都)のように全寮制を廃止する学校もある。 石川県にある国際高等専門学校などの高等専門学校にも学年限定で全寮制を導入している。 キリスト教の神学校では、日本聖書神学校や聖契神学校、JTJ宣教神学校、東京バプテスト神学校など働きながら学ぶことを前提とする神学校を除き、ほとんどが全寮制となっている(全寮制ではないが、日本聖書神学校と聖契神学校には学生寮がある)。牧師の結婚を認めているプロテスタントの神学校では、既婚者で献身(入学)する者もいるため家族寮を設けているところもある。 そのほか、松下政経塾でも全寮制を採用している。 国立および私立の高等専門学校には学生寮がある。前期課程の一部学年に於いて全寮制を導入している。 省庁大学校 予備校 職業訓練施設 その他
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "学生寮(がくせいりょう、英語: student dormitory)は、学校で学ぶ学生や生徒、児童を受け入れるための寮。学寮(がくりょう)とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "学生ら全員が寮で生活することを原則とする全寮制の学校もあり、イギリスではボーディングスクール(寄宿学校)と呼ばれる。学生らが起居できる下宿や賃貸集合住宅がある市街地に近くても全寮制にして、外国からの留学生を含む在校生が共同生活することによって交流や切磋琢磨、語学力向上といった効果を期待する学校もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国の大学では寮が設けられる場合にはキャンパス内に設けられていることが多い。アメリカの大学の寮の形態には、男子寮(men's dorm)、女子寮(women's dorm)、男女共有寮(co-ed dorm)があり、上級者専用の寮や留学者専用の寮など対象が定められている寮もある。大学の寮には娯楽室、自習室、コンピュータルーム、ラウンジ、洗濯室等が設けられている。", "title": "アメリカの学生寮" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "学生の交流組織であるフラタニティとソロリティが運営する宿舎も寮として機能している(フラタニティとソロリティ#フラタニティ/ソロリティ宿舎の節参照)。", "title": "アメリカの学生寮" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中学校、高等学校、専修学校、高等専門学校、大学などの学生、生徒、児童の住む寮である。寄宿舎と呼ばれることもあり、特に特別支援学校などで用いられている(こちらを参照)。本来は、学校が自宅から遠かったり、交通が不便だったりして通学が困難な学生、生徒、児童のために作られたものである。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "学生向けの物件であるため、家賃は一般的なアパートより安めに設定されている所が多い。部屋以外の設備(風呂やトイレなど)は共同使用の場合が多く、基本的に相部屋である(特に下級生)。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "学校や寮、地域によっては外出や門限を厳しく制限されたり、寮での日課(特に食事や入浴、就寝時間)が規則で決められたりしている寮が多い。私生活を束縛される理由から、深夜・早朝のアルバイトが不可能またはそれに近い状態であったりする。近年は減少傾向にあるが、朝夕の食事が提供される所もある。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "以下この項では、文部科学省所管外の教育訓練施設(省庁大学校など)が設置するものについても取り扱うこととする。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前の旧制高等学校では、旧制高校といえば寮生活を思い浮かべる人が多いと言われるほど寮と関係が深く、寮歌が盛んに歌われていた。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大学寮は様々な学生の交流の場ともなっており、ホールやラウンジなど、ちょっとした集まりが出来る共有スペースがあり、ユースホステルなどと同じく有料で外部学生が宿泊出来ることもある。東京大学駒場寮などを中心に学生運動の拠点ともなり、学生寮自治会の連合組織として「全日本学生寮自治会連合」(全寮連)も結成されていた(2006年3月解散)。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "筑波大学の学生宿舎は、海外からの研究者なども多く、家族で住む事のできる部屋もあり、開学当時はそれが話題にもなった。ヨーロッパや北米の大学では、男女が同室に一緒に住む事もできる寮や、同一フロアに男女が混在して生活する寮も珍しくはない。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "もともとは、キリスト教の修道院の中の修道士の居住空間から着想を得ているものらしい。dormitory自体は、本来の意味は「共同の寝室」。ドイツ語やスラブ語で仲間、友達をいうder Kameradeも「方形の個室(Kamera)で生活を共にした友達」からくる。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一部の中高一貫校にも寮があり、遠隔地からの生徒受け入れが可能なため、都会から離れている立地の学校でも都会の学校と同じ土俵で競えるなどのメリットがある。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "集団生活での責任感も養成する観点から、寮では原則として複数人で一部屋を使用する場合が殆どで、特待生として優遇されない限り、一人一部屋になる事はない(一人一部屋にすれば、寮の建設費や維持費が増大するという理由もある)。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "トヨタ自動車やJR東海、中部電力など中部地方の有力企業がイギリスの名門イートン校をモデルにして、全寮制学校「海陽中等教育学校」を作った。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "不登校経験者を対象にした学校でも、寮を設置している場合が多い(北星学園余市高等学校など)。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "特定の学校に属さず、複数の学校から広く学生を受け入れる寮としては、山手学舎、友愛学舎、信愛学舎、登戸学寮、地塩寮、和敬塾、大東会館などがある。山手、友愛、信愛の各学舎は兄弟寮であり、YMCAが運営に関わっている。他にも、自治体などによる県民寮があり、全国的に閉寮傾向にあるが育英会館学生寮(千葉県)、富山県の青雲寮(富山県)などが現存する。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "大学・大学校では、自治医科大学、東京基督教大学、防衛大学校などは全寮制であり、入学と同時に入寮の義務が課せられる。また皇學館大学でも学生全員に原則として2年間、学生寮への入寮を義務付けている。旧制大学時代の千葉工業大学のように、学生だけではなく教員も同じ寮に寄宿し、寝食を共にするというスタイルの全寮制大学も存在した。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "高等学校でも全寮制の学校がある。学校法人日生学園が経営する、三重県所在の青山高等学校(旧・日生学園第二高等学校)は、全寮制高等学校として知られる。近年は少子化などによる学校経営上の理由から、聖パウロ学園高等学校(東京都)のように全寮制を廃止する学校もある。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "石川県にある国際高等専門学校などの高等専門学校にも学年限定で全寮制を導入している。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "キリスト教の神学校では、日本聖書神学校や聖契神学校、JTJ宣教神学校、東京バプテスト神学校など働きながら学ぶことを前提とする神学校を除き、ほとんどが全寮制となっている(全寮制ではないが、日本聖書神学校と聖契神学校には学生寮がある)。牧師の結婚を認めているプロテスタントの神学校では、既婚者で献身(入学)する者もいるため家族寮を設けているところもある。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "そのほか、松下政経塾でも全寮制を採用している。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "国立および私立の高等専門学校には学生寮がある。前期課程の一部学年に於いて全寮制を導入している。", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "省庁大学校", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "予備校", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "職業訓練施設", "title": "日本の学生寮" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その他", "title": "日本の学生寮" } ]
学生寮は、学校で学ぶ学生や生徒、児童を受け入れるための寮。学寮(がくりょう)とも呼ばれる。 学生ら全員が寮で生活することを原則とする全寮制の学校もあり、イギリスではボーディングスクール(寄宿学校)と呼ばれる。学生らが起居できる下宿や賃貸集合住宅がある市街地に近くても全寮制にして、外国からの留学生を含む在校生が共同生活することによって交流や切磋琢磨、語学力向上といった効果を期待する学校もある。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年4月 | 更新 = 2021年4月 }} {{Expand German|date=2022年5月}} '''学生寮'''(がくせいりょう、{{Lang-en|student dormitory}})は、[[学校]]で学ぶ[[在籍者 (学習者)|学生や生徒]]、[[児童]]を受け入れるための[[寮]]。'''学寮'''(がくりょう)とも呼ばれる。 学生ら全員が寮で生活することを原則とする[[全寮制]]の学校もあり、[[イギリス]]では[[ボーディングスクール]](寄宿学校)と呼ばれる。学生らが起居できる[[下宿]]や賃貸[[集合住宅]]がある市街地に近くても全寮制にして、外国からの留学生を含む在校生が共同生活することによって交流や切磋琢磨、語学力向上といった効果を期待する学校もある<ref>「[https://mainichi.jp/articles/20221121/ddm/013/100/044000c 開校ラッシュ続く 全寮制国際感覚や自立心培う]」『[[毎日新聞]]』朝刊2022年11月21日(教育面)2023年1月4日閲覧</ref>。 == アメリカの学生寮 == [[File:Sharp Hall Dorm Room.jpg|right|220px|thumb|典型的なアメリカの学生寮]] === 大学 === [[アメリカ合衆国]]の大学では寮が設けられる場合には[[キャンパス]]内に設けられていることが多い<ref name="nagano">永野真司『アメリカホームスティ&留学の英会話』([[三修社]]、2010年)40頁</ref>。アメリカの大学の寮の形態には、男子寮(men's dorm)、女子寮(women's dorm)、男女共有寮(co-ed dorm)があり、上級者専用の寮や留学者専用の寮など対象が定められている寮もある<ref name="nagano" />。大学の寮には娯楽室、自習室、コンピュータルーム、[[待合室|ラウンジ]]、洗濯室等が設けられている<ref>永野真司『アメリカホームスティ&留学の英会話』(三修社、2010年)40-41頁</ref>。 学生の交流組織である[[フラタニティとソロリティ]]が運営する宿舎も寮として機能している([[フラタニティとソロリティ#フラタニティ/ソロリティ宿舎]]の節参照)。 == 日本の学生寮 == [[中学校]]、[[高等学校]]、[[専修学校]]、[[高等専門学校]]、[[大学]]などの学生、生徒、児童の住む寮である。[[寄宿舎]]と呼ばれることもあり、特に[[特別支援学校]]などで用いられている([[寄宿舎#学校における寄宿舎|こちら]]を参照)。本来は、学校が自宅から遠かったり、[[交通]]が不便だったりして[[通学]]が困難な学生、生徒、児童のために作られたものである。 学生向けの物件であるため、家賃は一般的な[[アパート]]より安めに設定されている所が多い。[[部屋]]以外の設備([[風呂]]や[[便所|トイレ]]など)は共同使用の場合が多く、基本的に相部屋である(特に下級生)。 学校や寮、地域によっては外出や[[門限]]を厳しく制限されたり、寮での[[日課]](特に[[食事]]や[[入浴]]、[[就寝]]時間)が規則で決められたりしている寮が多い。私生活を束縛される理由から、[[深夜]]・[[早朝]]の[[アルバイト]]が不可能またはそれに近い状態であったりする。近年は減少傾向にあるが、朝夕の食事が提供される所もある。 以下この項では、[[文部科学省]]所管外の教育訓練施設([[省庁大学校]]など)が設置するものについても取り扱うこととする。 === 大学 === [[第二次世界大戦]]前の[[旧制高等学校]]では、旧制高校といえば寮生活を思い浮かべる人が多いと言われるほど寮と関係が深く、[[寮歌]]が盛んに歌われていた。 大学寮は様々な学生の交流の場ともなっており、[[ホール]]やラウンジなど、ちょっとした集まりが出来る共有スペースがあり、[[ユースホステル]]などと同じく有料で外部学生が宿泊出来ることもある。[[東京大学駒場寮]]などを中心に[[学生運動]]の拠点ともなり、学生寮自治会の連合組織として「[[全日本学生寮自治会連合]]」(全寮連)も結成されていた([[2006年]]3月解散)。 [[筑波大学]]の学生宿舎は、海外からの研究者なども多く、家族で住む事のできる部屋もあり、開学当時はそれが話題にもなった。[[ヨーロッパ]]や[[北米]]の大学では、男女が同室に一緒に住む事もできる寮や、同一フロアに男女が混在して生活する寮も珍しくはない。 もともとは、[[キリスト教]]の[[修道院]]の中の[[修道士]]の居住空間から着想を得ているもの{{要出典範囲|date=2012年3月|らしい}}。dormitory自体は、本来の意味は「共同の寝室」。[[ドイツ語]]や[[スラブ語]]で仲間、友達をいうder Kameradeも「方形の個室(Kamera)で生活を共にした友達」からくる。 === 中等教育 === 一部の[[中高一貫校]]にも寮があり、遠隔地からの生徒受け入れが可能なため、[[都市|都会]]から離れている立地の学校でも都会の学校と同じ土俵で競えるなどのメリットがある。<!--時事ネタのためコメントアウト また私立名門校として有名な[[開成中学校・高等学校|開成学園]]も男子寮を建設する予定であり、これまで[[日本の首都圏|首都圏]]などの[[私立学校|私立]]中学密集地域でしか盛んでなかった[[中学受験]]が日本全域に広まると予想されている。--> [[集団生活]]での責任感も養成する観点から、寮では原則として複数人で一部屋を使用する場合が殆どで、[[特待生]]として優遇されない限り、一人一部屋になる事はない(一人一部屋にすれば、寮の建設費や維持費が増大するという理由もある)。 [[トヨタ自動車]]や[[東海旅客鉄道|JR東海]]、[[中部電力]]など[[中部地方]]の有力企業が[[イギリス]]の名門[[イートン・カレッジ|イートン校]]をモデルにして、全寮制学校「[[海陽中等教育学校]]」を作った。 [[不登校]]経験者を対象にした学校でも、寮を設置している場合が多い([[北星学園余市高等学校]]など)。 === 篤志家による設置 === 特定の学校に属さず、複数の学校から広く学生を受け入れる寮としては、[[山手学舎]]、[[友愛学舎]]、[[信愛学舎]]、[[登戸学寮]]、[[地塩寮]]、[[和敬塾]]、[[大東会館]]などがある。山手、友愛、信愛の各学舎は兄弟寮であり、[[キリスト教青年会|YMCA]]が運営に関わっている。他にも、自治体などによる[[県人寮|県民寮]]があり、全国的に閉寮傾向にあるが[[育英会館学生寮]]([[千葉県]])、富山県の青雲寮([[富山県]])などが現存する。 === 全寮制 === 大学・[[大学校]]では、[[自治医科大学]]、[[東京基督教大学]]、[[防衛大学校]]などは全寮制であり、入学と同時に入寮の義務が課せられる。また[[皇學館大学]]でも学生全員に原則として2年間、学生寮への入寮を義務付けている。[[旧制大学]]時代の[[千葉工業大学]]のように、学生だけではなく[[教員]]も同じ寮に寄宿し、寝食を共にするというスタイルの全寮制大学も存在した。 [[高等学校]]でも全寮制の学校がある。[[学校法人日生学園]]が経営する、[[三重県]]所在の[[青山高等学校 (三重県)|青山高等学校(旧・日生学園第二高等学校)]]は、全寮制高等学校として知られる。近年は[[少子化]]などによる学校経営上の理由から、[[聖パウロ学園高等学校]]([[東京都]])のように全寮制を廃止する学校もある。 石川県にある[[国際高等専門学校]]などの高等専門学校にも学年限定で全寮制を導入している。 [[キリスト教]]の[[神学校]]では、[[日本聖書神学校]]や[[聖契神学校]]、[[JTJ宣教神学校]]、[[東京バプテスト神学校]]など働きながら学ぶことを前提とする神学校を除き、ほとんどが全寮制となっている(全寮制ではないが、日本聖書神学校と聖契神学校には学生寮がある)。[[牧師]]の結婚を認めている[[プロテスタント]]の神学校では、既婚者で[[献身]](入学)する者もいるため家族寮を設けているところもある。 そのほか、[[松下政経塾]]でも全寮制を採用している。 === 学生寮の一覧 === <!--著名な理由も明記してくださいますよう、お願い申し上げます。--> ==== 大学 ==== <!--大学の所在地順<北→南>--> *[[北海道大学]] - [[恵迪寮]](けいてきりょう)日本四大自治寮 [[北晨寮]](ほくしんりょう)自治寮 [[霜星寮]](そうせいりょう)女子寮 *[[北海道教育大学]]札幌校 - [[紫藻寮]](しそうりょう)男子寮 [[北香寮]](ほっこうりょう)女子寮 *[[北海道教育大学]]旭川校 - [[築ヶ丘寮]](つきがおかりょう)男子寮 [[春光寮]](しゅんこうりょう)女子寮 *[[北海道教育大学]]函館校 - [[桐花寮]](とうかりょう)男子寮 [[翠蔭寮]](すいいんりょう)女子寮 *[[北海道教育大学釧路校]] - [[鶴ヶ岱寮]](つるがだいりょう)男女併設寮 *[[北海道教育大学岩見沢校]] - [[希望寮]](きぼうりょう)男子寮 [[清明寮]](せいめいりょう)女子寮 *[[室蘭工業大学]] - 明徳寮(めいとくりょう)男子寮 明凛館(めいりんかん)女子寮 *[[酪農学園大学]] - ㊚[[北光寮]][[創生寮]]㊛[[清温寮]](高大共同寮) *[[札幌医科大学]] - [[望嶽寮]] *[[弘前大学]] - 北溟寮(ほくめいりょう)男子寮 [[北鷹寮]](ほくおうりょう)男子寮 [[朋寮]](ほうりょう)女子寮 *[[岩手大学]] - ㊚ [[自啓寮]](じけいりょう)[[同袍寮]](どうほうりょう)[[北謳寮]](ほくおうりょう)㊛[[紅梅寮]](こうばいりょう) *[[東北大学]] - [[東北大学の学生寮|明善寮]](めいぜんりょう) 日本四大自治寮・[[有朋寮]](ゆうほうりょう)廃寮・[[日就寮]](にっしゅうりょう)・[[東北大学YMCA渓水寮]]<ref>1928(昭和3)年に当時東北帝国大学法文学部長だった石原謙教授により設立された東北大学とは独立している自治寮。{{Cite web|和書| url = https://keisuiryo.jp/about/ | title = 渓水寮の歴史 | publisher = 東北大学YMCA渓水寮 | accessdate = 2021-9-25}}</ref> *[[東北学院大学]] - 泉寄宿舎、泉女子寄宿舎、旭ヶ岡寄宿舎 *[[東北福祉大学]] - 喜心寮 *[[福島大学]] - キャンパス内に自治寮である 如月寮(きさらぎりょう)男子寮、信夫寮(しのぶりょう)男子寮、葵寮(あおいりょう)女子寮、福島市内に留学生向け宿舎の国際交流会館がある。 *[[筑波大学]] - [[筑波大学の学生宿舎|平砂・追越・一ノ矢・春日宿舎]] 「寮」ではなく「宿舎」である。収容人数は4000人を超える *[[埼玉大学]] - [[蒼玄寮]](そうげんりょう・男子)・悠元寮(ゆうげんりょう・女子) 自治寮 *[[千葉工業大学]] - [[桑蓬寮・椿寮]](㊚そうほうりょう・㊛つばきりょう) **千葉工業大学に存在したかつての寮(玉塾寮(玉川校地時代の寮)、君津寮(君津校地時代の寮)、青嵐寮と北斗寮(田中工業航空機器製作所敷地時代の寮)、総椿寮・桑蓬寮(津田沼校地時代の寮)、大久保寮(大久保学地時代の寮)、[[千種寮]](千種校地時代の寮)<ref>もとは全寮制大学が前身で、時局に伴って何度か大学の所在地が移転しているため、複数の寮(名)が存在するが、その伝統は現在の寮にも受け継がれている。</ref> *[[千葉大学]] - 無名寮・薫風寮・雄翔寮・さつき寮・浩気寮 *[[東京大学]] - [[東京大学駒場寮|駒場寮]] 日本四大自治寮、廃寮。[[東京大学学生キリスト教青年会寮|YMCA寮]]。 **東京大学が提供している[[学生宿舎]] - 豊島国際学生宿舎、追分国際学生宿舎、三鷹国際学生宿舎、目白台インターナショナル・ビレッジ。 ::※追分国際学生宿舎は、同大学宿舎の再編に備えて2021年の秋季入居分(留学生のみ対象)をもって新規の入居募集が停止となる。 *[[横浜国立大学]] - 蒼翠寮 廃寮 *[[東京海洋大学]] - 海王寮・朋鷹寮([[東京商船大学]]・[[東京水産大学]])からの伝統行事である早朝[[カッター]]訓練がある *[[東京農工大学]] - [[欅寮]] 日本最大の学生寮(男子寮) [[File:慶應義塾大学日吉寄宿舎.jpg|220px|right|thumb|慶應義塾大学<BR/>[[日吉寄宿舎]]]] *[[慶應義塾大学]] - [[日吉寮]] *[[日本体育大学]] - [[日体第一学生寮]](東京世田谷深沢)「[[エッサッサ]]」の訓練が毎年伝統的に行なわれている。他に健志台合宿寮(横浜青葉区)女子深沢寮-荏原体育の訓練が毎年伝統的に行われている。 *[[東京農業大学]] - [[常磐寮]]・[[昆明寮]]、飲み会のあとに「青山ほとり[[大根踊り]]」を下級生が踊ることもある *[[東洋大学]] - 小石川寮(男子寮、廃寮) *[[拓殖大学]] - [[扶桑寮]] *[[芝浦工業大学]] - 東大宮学生寮 *[[東京家政大学]] - 板橋学寮、狭山学寮 *[[大妻女子大学]] - 大妻加賀寮 *[[駿河台大学]] - フロンティア・タワーズ(男子・女子寮)、フロンティアS(スポーツ推薦入学者)、飯能学生ハイツ(女子寮) *[[横浜市立大学]] - [[夕照寮]] [[全日本コール選手権]]において男子寮チームとして2連覇を果たす。日本の一気コール文化の一翼を担う。 *[[関東学院大学]] - かんらん寮(神学部女子寮、男子寮、廃寮)、YMCA寮(男子寮、廃寮)、青雲寮(男子寮、廃寮) * [[神奈川大学]]‐横浜キャンパス 男子寮:白楽寮、中丸棟、 女子寮:国際寮エスペラール、中丸棟、日本榎棟 湘南キャンパス 男女併設寮:湘南宮川ビル *[[新潟大学]] - [[六花寮]] *[[富山大学]] - [[新樹寮]](しんじゅりょう) *[[信州大学]] - [[思誠寮]] [[北杜夫]]の「どくとるマンボウ青春記」の舞台。[[こまくさ寮]]、男女混合の学生自治寮。揃いの法被や、追いコン(寮中を酒まみれにする)、寮祭が学生の間で有名。こまくさ寮・あけぼの寮・若里寮・修己寮・中原寮 *[[金沢大学]] - [[金沢大学 北溟寮|北溟寮]] 日本海側最大の収容人数を誇る寮(男子寮) *[[福井大学]] - [[啓成寮]] *[[静岡大学]] - 片山寮・雄萠寮・あかつき寮 *[[名古屋大学]] - 国際嚶鳴館(旧:嚶鳴寮) *[[愛知県立芸術大学]] - 三ヶ峰寮 *[[名古屋商科大学]] - 国際寮 *[[豊田工業大学]] - 久方寮・第二久方寮 *[[岐阜大学]] - 黒野寮 *[[三重大学]] - [[安濃津寮]]、むかしは寮が主催で伝統の仮装行列があった *[[皇學館大学]] - 男子:[[精華寮]]女子:[[貞明寮]] *[[京都大学]] - [[京都大学吉田寮|吉田寮]] 日本四大自治寮。現存する日本最古の学生寮・[[京都大学熊野寮|熊野寮]](くまのりょう)・室町寮(むろまちりょう)・女子寮(じょしりょう)[[地塩寮]](ちえんりょう)YMCA寮。 *[[同志社大学]] - [[同志社大学#かつて存在したキャンパス|自治寮]] *[[京都女子大学]] - 紫金寮、東山寮、 *[[京都光華女子大学]] - 眞心寮 *[[大阪大学]] - 刀根山寮、清明寮、新稲寮(にいなりょう)、大阪大学グローバルビレッジ津雲台寮、大阪大学グローバルビレッジ箕面船場寮 *[[大阪経済大学]] - 男子学生寮扇町センター、女子学生寮瑞光センター *[[梅花女子大学]] - 学生寮メゾンドクレア *[[関西学院大学]] - [[啓明寮]]、[[静修寮]]、[[成全寮]]、[[清風寮]]、[[聖和寮]] *[[武庫川女子大学]] - 淳正寮、啓成寮、貞和寮、甲子園口寮 *[[神戸女学院大学]] - 学生寮、東京寄宿舎 *[[神戸大学]] - 住吉寮、白鴎寮、女子寮 *[[神戸松蔭女子学院大学]] - 六甲寮 *[[神戸女子大学]] - 行幸寮、天神寮 *[[神戸親和大学]] - 新玉結寮、玉結寮 *[[岡山大学]] - [[北津寮]](ほくしんりょう) [[マルクス主義青年同盟]](マル青同)による襲撃・殺人事件。廃寮 *[[鳥取大学]] - [[北斗寮]](ほくとりょう) *[[島根大学]] - [[雄翔寮]](ゆうしょうりょう) *[[山口大学]] - [[吉田寮]]、[[椹野寮]]、[[常盤寮]] *[[宇部フロンティア大学]]、[[宇部フロンティア大学短期大学部]] - ㊚[[知心寮]]、㊛[[洗心寮]] *[[香川大学]] - 留学生会館(屋島寮に併設)、上之町国際寮、㊚屋島寮、光風寮、㊛若草寮 *[[徳島大学]] - ㊚[[晨鐘寮]]、㊛[[藍華寮]] *[[徳島文理大学]] - 学生寮 *[[九州大学]] - [[田島寮]](廃寮)、[[九州大学|松原寮]]、[[九州大学井尻寮|井尻寮]]、[[九州大学|貝塚寮]]。 *[[九州工業大学]] - [[明専寮]]男子寮 老朽化のため2010年に廃寮 *[[福岡大学]] - 自修寮 *[[琉球大学]] - [[千原寮]](せんばるりょう) 男子:北辰棟、海邦棟、南星棟、混住棟、新混住棟 女子:紫陽花棟、混住棟、新混住棟 ==== 高等専門学校 ==== * [[国際高等専門学校]] 国立および私立の[[高等専門学校]]には学生寮がある。前期課程の一部学年に於いて全寮制を導入している。 ==== 中学校・高等学校 ==== *[[白陵中学校・高等学校]] *[[秀明中学校・高等学校]] *[[麗澤中学校・高等学校|麗澤高等学校]] *[[麗澤瑞浪中学校・高等学校|麗澤瑞浪高等学校]] *[[自由学園中等科・高等科| 自由学園高等学校]] *[[ラ・サール中学校・高等学校]] *[[函館ラ・サール中学校・高等学校]] *[[黄柳野高等学校]] *[[静岡県立川根高等学校]] - よすが苑・南麓寮(男性専用)、若者交流センター奥流(男女共用) *[[桜丘中学校・高等学校 (三重県)]] *[[青山高等学校 (三重県)]] *[[自由ヶ丘高等学校 (兵庫県)]] *[[早稲田摂陵中学校・高等学校]] *[[暁星国際中学校・高等学校]] *[[宇部フロンティア大学付属中学校・香川高等学校|宇部フロンティア大学付属香川高等学校]] - 知心寮(男性専用)、洗心寮(女性専用) *[[酪農学園大学附属とわの森三愛高等学校]] - 機農寮(男性専用)、清温寮(女性専用)(いずれも高大共同寮) *[[東京都立秋川高等学校|秋川高等学校]] *[[鹿児島県立楠隼中学校・高等学校|楠隼中学校・高等学校]] *[[片山学園中学校・高等学校]] *[[朝日塾中等教育学校]] ==== 専修学校・各種学校 ==== *[[宝塚音楽学校]] - すみれ寮 *[[竹岸食肉専門学校]] *[[日立工業専修学校]] *[[朝鮮大学校 (日本)|朝鮮大学校]] ==== 文部科学省所管外 ==== [[省庁大学校]] *[[国土交通大学校]] - 小平本校(旧建設省建設大学校)と柏研修センター(旧運輸省運輸研修所)における研修生のための宿泊室を備えた宿泊棟がそれぞれある。 *[[水産大学校]] - [[水産大学校#寮|滄溟寮]] *[[税務大学校]] - 和光校舎の中に、通学困難な研修生のための学寮棟を置いている。 *[[自治大学校|総務省自治大学校]] - [[地方公務員]]のための中央研修機関であり、寄宿舎として麗沢寮、洗心寮の2棟がある(立川市への移転前からの寮名を引き継いでいる)。 *[[防衛大学校]] - 学生舎 *[[防衛医科大学校]] - 学生舎 [[予備校]] *[[両国予備校]](2005年廃校) - 同仁寮(全寮制を謳いつつも通学生も受け入れていた) [[職業訓練施設]] *[[東電学園]] その他 *[[司法研修所]] - ひかり寮([[裁判官]]用)、いずみ寮([[司法修習生]]用) *[[市町村アカデミー]] - 正式名は[[市町村職員中央研修所]]であり、研修生のために設けられた宿泊棟の名前は、亦楽寮(えきらくりょう)である。 *[[陸上自衛隊高等工科学校]] - 全寮制 *[[競馬学校]]([[日本中央競馬会|JRA]]) - 全寮制 *[[警察学校]] - 初任教育は入寮することが義務づけられている。 *[[ボートレーサー養成所|やまと学校(現:ボートレーサー養成所)]]([[競艇|ボートレース]]) - 全寮制 *[[戸塚ヨットスクール]] *[[ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ]]([[幸福の科学]]) == 学生寮を扱った作品 == *小説 **[[高橋和巳]]『憂鬱なる党派』 **[[野沢尚]]『反乱のボヤージュ』集英社 **[[吉屋信子]]『屋根裏の二処女』国書刊行会 **[[恩田陸]]『[[ネバーランド (小説)|ネバーランド]]』集英社 **[[村上春樹]]『[[ノルウェイの森]]』講談社、及びその元となった「[[螢・納屋を焼く・その他の短編]]」 **[[宗方俊彦]]『まだ生きてる本音の教育-全寮制[[東京都立秋川高等学校|都立秋川高校]]』([[1984年]] 三水社) **[[佐川光晴]]『二月』『八月』(短編集『静かな夜』所収。[[2012年]] [[左右社]])。作者は[[1983年]]に北海道大学恵迪寮入寮。 **[[椰月美智子]]『緑のなかで』([[2018年]] [[光文社]])<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.kobunsha.com/special/midorinonakade/ | title = 椰月美智子『緑のなかで』特設サイト | publisher = [[光文社]] | date = 2018-09-20 | accessdate = 2019-1-2}}</ref><ref>{{Cite book | 和書 | url = https://www.kobunsha.com/special/midorinonakade/ | title = 緑のなかで | author = [[椰月美智子]] | publisher = [[光文社]] | date = 2018-09 | isbn = 978-4334912406}}</ref>。 *随筆 **[[北杜夫]]『[[どくとるマンボウ青春記]]』 *映画 **「アニマルハウス」 - アメリカ、[[1979年]] **[[山田洋次]]「ダウンタウン・ヒーローズ」 - 日本、松竹、[[1987年]] **「[[清き國ぞとあこがれぬ]]」 - 日本 [[北海道放送]] [[2013年]]<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-60009 |title = テレビドラマデータベース |publisher = [[テレビドラマデータベース]] |date = 2013-05-06 |accessdate = 2018-05-10 }}</ref> *漫画 **[[那州雪絵]]『[[ここはグリーンウッド]]』 **[[紺野キタ]]『[[ひみつの階段]]』ポプラ社 **遠藤察男・[[あゆみゆい]]『ようこそ!微笑寮へ』 **袴田めら『最後の制服』 **[[天津冴]]『[[まるごと・杏樹学園|まるごと♥杏樹学園]]』 **[[小山田いく]]『[[ぶるうピーター]]』 **[[春田なな]]『[[ラブ・ベリッシュ!]]』 *舞台 **[[平田オリザ]]『海よりも長い夜』1999年初演 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[自治寮]] * [[管理寮]] - [[県人寮]] * [[校内暴力]]、[[いじめ]] * [[越境入学]] * [[スパルタ教育]] - [[矯正施設]] * [[大学寮]] - 寄宿舎ではなく[[古代]]日本の[[律令制]]下での[[教育機関]]である。 * [[光華寮訴訟]] * [[善隣学生会館事件]] {{住宅と居住}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かくせいりよう}} [[Category:学校施設]] [[Category:宿泊施設]] [[Category:教育問題]] [[Category:高等教育]] [[Category:学生寮|*]]
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人工衛星の軌道
人工衛星の軌道(じんこうえいせいのきどう)では、個々の利用目的にあわせた軌道に投入される人工衛星の、軌道の種類や性質や、衛星の位置を知る方法を示す。 地表で水平方向に物体を投げてみる。もし、地球が平面で果てしなく続き、重力が地表に向かって働くのなら、どんなに初速度が大きくても物体はいずれ地上に落ちてしまう。これは図1で、重力加速度により物体の速度ベクトルが最終的には地表に向かうことが理解できるだろう。 しかし、実際には地球は概ね球体であり、重力はその中心に向かう。このため、図2のA点(図は誇張して書いてあるが、地表からの高さは地球の直径にくらべ十分小さいものとする)から水平に投射した物体は、初速度の大きさによりp1 → p2 → p3と段々遠くまで届くようになり、ある速度になるともとの投射点に戻り、あとは繰り返して地球を周回するようになる。すなわち物体は地球の人工衛星になったのであり、この周回軌跡を軌道(orbit)と呼ぶ。このときの軌道の形は円軌道である。また、このとき速度を第一宇宙速度といい、約7.9 km/sである。 初速度をさらに大きくしていくと軌道は楕円になり、ある速度になると物体は放物線を描き、周回して再び同じ点に戻ることはなく、地球の引力を脱出する。この時の速度を第二宇宙速度(脱出速度)といい、約11.2 km/sである。 さらに初速度を大きくして、第二宇宙速度以上の速度になると、軌道は双曲線を描き脱出軌道をとる。 なお、物体の地表からの高度を大きくすると、円軌道に達する速度も地球を脱出する速度も、上記の地表すれすれの速度より小さくて済む。 高度を変えたとき、円軌道を達成するために必要な初速とその高度での円軌道の周期は次の通りである。 話題を人工衛星に限ると、初期の高度が大気圏外(実用上は概ね100 km以上)で、円軌道または楕円軌道を描く場合を取り扱うことになる。 人工衛星の運動は近似的にニュートン力学の範囲で記述可能であり、その結果はケプラーの法則にしたがう(別に人工衛星に限らない)。但し、重力を及ぼしあう複数の物体の運動は、物体数が3以上の場合では解析的に解くことができない(多体問題)。このため物体数を2個、すなわち地球と人工衛星のみとして(二体問題)解き、他の天体、例えば太陽や月の重力による影響を摂動として加えて実用的な解を得るのが普通である。 また、二体問題では物体を質点として扱うが、地球‐人工衛星の系の場合、後者はともかく前者は現実には質点ではない。一応、軌道計算では球対称であれば質点と看做しても構わないが、地球は真球体ではないため、これも考慮する必要がある。通常は回転楕円体として扱う(ベッセル楕円体、GRS80楕円体)。 人工衛星の軌道は一定の平面内に限定される。後述の摂動により多少のずれが生じるが、意図的な軌道変換を行う場合を除き短期的には同一平面上にあると言ってよい。この平面を軌道面という。 これらの性質は軌道要素で表される。 特定の観測地から人工衛星がどこ(普通は方位角と仰角で与える)に見えるかは低軌道衛星などでは特に重要な課題である。人工衛星の位置計算を行うためには、次の手順で考える。 (とりあえず概略のみ)
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人工衛星の軌道(じんこうえいせいのきどう)では、個々の利用目的にあわせた軌道に投入される人工衛星の、軌道の種類や性質や、衛星の位置を知る方法を示す。
{{出典の明記|date=2011年7月}} {{Astrodynamics}} '''人工衛星の軌道'''(じんこうえいせいのきどう)では、個々の利用目的にあわせた軌道に投入される[[人工衛星]]の、軌道の種類や性質や、衛星の位置を知る方法を示す。 == 軌道運動の基本 == {{右| [[画像:sat-projection.png|thumb|400px|none|図1: もし地球が平面であると仮定すると、軌道運動は重力に引っ張られて地上に落ちることを描いた説明図]] [[画像:sat-orbit.png|thumb|400px|none|図2: 物体の初速度をいろいろ変えてみると]] }} 地表で水平方向に物体を投げてみる。もし、[[地球]]が平面で果てしなく続き、[[重力]]が地表に向かって働くのなら、どんなに初速度が大きくても物体はいずれ地上に落ちてしまう。これは図1で、重力加速度により物体の速度ベクトルが最終的には地表に向かうことが理解できるだろう。 しかし、実際には地球は概ね球体であり、重力はその中心に向かう。このため、図2のA点(図は誇張して書いてあるが、地表からの高さは地球の直径にくらべ十分小さいものとする)から水平に投射した物体は、初速度の大きさによりp1 → p2 → p3と段々遠くまで届くようになり、ある速度になるともとの投射点に戻り、あとは繰り返して地球を周回するようになる。すなわち物体は地球の人工衛星になったのであり、この周回軌跡を軌道(orbit)と呼ぶ。このときの軌道の形は[[円 (数学)|円]]軌道である。また、このとき速度を[[宇宙速度#第一宇宙速度|第一宇宙速度]]といい、約7.9 km/sである。 初速度をさらに大きくしていくと軌道は[[楕円]]になり、ある速度になると物体は[[放物線]]を描き、周回して再び同じ点に戻ることはなく、地球の引力を脱出する。この時の速度を[[宇宙速度#第二宇宙速度|第二宇宙速度]](脱出速度)といい、約11.2 km/sである。 さらに初速度を大きくして、第二宇宙速度以上の速度になると、軌道は[[双曲線]]を描き脱出軌道をとる。 なお、物体の地表からの高度を大きくすると、円軌道に達する速度も地球を脱出する速度も、上記の地表すれすれの速度より小さくて済む。 高度を変えたとき、円軌道を達成するために必要な初速とその高度での円軌道の周期は次の通りである。 {| class="wikitable" style="text-align:right" ! 高度 !! 初速<br />(km/s) !! 周期 (分) |- | [[1_E0_m|1m]] || 7.9064 || 84.37 |- | [[1_E3_m|1km]] || 7.9058 || 84.39 |- | [[1_E4_m|10km]] || 7.90 || 84.57 |- | [[1_E5_m|100km]] || 7.85 || 86.36 |- | [[1_E6_m|1,000km]] || 7.35 || 105.0 |- | [[1_E7_m|10,000km]] || 4.93 || 347.6 |- | 35,786km || 3.07 || 1,436<br />(1[[恒星日]]…[[静止衛星]]となる) |} 話題を人工衛星に限ると、初期の高度が大気圏外(実用上は概ね100 km以上)で、円軌道または楕円軌道を描く場合を取り扱うことになる。 [[人工衛星]]の運動は近似的に[[ニュートン力学]]の範囲で記述可能であり、その結果は[[ケプラーの法則]]にしたがう(別に人工衛星に限らない)。但し、[[重力]]を及ぼしあう複数の物体の運動は、物体数が3以上の場合では[[解析的]]に解くことができない([[多体問題]])。このため物体数を2個、すなわち地球と人工衛星のみとして([[二体問題]])解き、他の[[天体]]、例えば[[太陽]]や[[月]]の重力による影響を[[摂動 (天文学)|摂動]]として加えて実用的な解を得るのが普通である。 また、二体問題では物体を[[質点]]として扱うが、地球‐人工衛星の系の場合、後者はともかく前者は現実には質点ではない。一応、軌道計算では球対称であれば質点と看做しても構わないが、地球は真球体ではないため、これも考慮する必要がある。通常は[[回転楕円体]]として扱う([[ベッセル楕円体]]、[[GRS80]]楕円体)。 人工衛星の軌道は一定の平面内に限定される。後述の摂動により多少のずれが生じるが、意図的な[[軌道変換]]を行う場合を除き短期的には同一平面上にあると言ってよい。この平面を[[軌道面]]という。 == 軌道の種類 == これらの性質は[[人工衛星の軌道要素|軌道要素]]で表される。 === 高度による分類 === [[ファイル:Orbits_around_earth_scale_diagram.svg|サムネイル|250x250ピクセル|高度による分類を理解させる為に地球周辺の衛星の軌道を描いた図。水色が低軌道、黄色が[[中軌道]]、黒色の点線が[[静止軌道]]を表している。]] ; [[低軌道]] (LEO)<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20120402111821/http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/types_orbits.html |title=軌道の種類 |author= 宇宙情報センター|date= |work= |publisher= |accessdate=2016-01-13 }}</ref><ref>{{Cite web |url=http://gcmd.nasa.gov/add/ancillaryguide/platforms/orbit.html |title=Ancillary Description Writer's Guide: Orbit |author=NASA |date= |work= |publisher= |accessdate=2016-01-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130511114407/http://gcmd.nasa.gov/add/ancillaryguide/platforms/orbit.html |archivedate=2013年5月11日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> : 高度2,000km以下の地球周回軌道。国際宇宙ステーションなどはこの軌道に存在する。 ; [[中軌道]] (MEO) : 高度2,000kmから[[対地同期軌道|地球同期軌道]](35,786km)までの地球周回軌道。 ; [[高軌道]] (HEO) : [[対地同期軌道|地球同期軌道]](35,786km)より外の地球周回軌道。 <!--出所により様々な定義があり正式な定義が不明なのでご存知の方は編集お願いします。もともと中軌道という言い方は無く、低軌道=静止軌道以下だったと思われる。現実的には高度20,000 kmの「低軌道」は用途が限られるため、あまり利用されていなかった。最近になって全地球規模のサービスを行う軌道として注目されたため中軌道という言い方が一般化したものと思われる。--><!--とりあえず英語版(たぶんNASA資料)と[[人工衛星]]の内容にあわせておきます--> === 軌道傾斜角による分類 === ; [[傾斜軌道]] : 衛星の[[軌道傾斜角]]が惑星の赤道に対して傾いている軌道。 :; [[極軌道]] :: 惑星の極、または極近傍の上空を通過する軌道。よって軌道傾斜角は90°に近くなる。 :; 極[[太陽同期軌道]] :: 極軌道に近く、[[赤道]]を常に同じ現地時間で通過する軌道。[[影]]が常に同じ場所にできるので画像の撮影に便利である。 ; [[順行・逆行|順行軌道]] : 軌道傾斜角が90°以下の[[軌道 (力学)|軌道]]。惑星の自転と同方向に周回する。 ; [[順行・逆行|逆行軌道]] : 軌道傾斜角が90°以上の軌道。惑星の自転方向とは逆向きに周回する。[[太陽同期軌道]]は逆行軌道の内の一つである。 === 離心率による分類 === [[File:Geostational-Transfer-Orbit.png|thumb|right|250px|静止トランスファ軌道と静止軌道を描いた図。]] ; [[円軌道]](Circular orbit) : [[軌道離心率]]が0で、円の形をした[[軌道 (力学)|軌道]]。 ; [[楕円軌道]](Elliptic orbit) : 軌道離心率が0より大きく1より小さい軌道。楕円を描く。軌道離心率が特に大きいものは、[[長楕円軌道]](Highly elliptical orbit,HEO)と呼ばれる。 :; [[静止トランスファ軌道]] (GTO) :: 近地点が低軌道上で、遠地点が静止軌道上にある楕円軌道を代表例とする、静止軌道への遷移を目的とした軌道(という意味では、パラメータではなく目的に着目した分類である。たとえば通常のGTOの他、スーパシンクロナス・トランスファ軌道がある。詳しくは[[静止トランスファ軌道]]の記事を参照)。 :; [[モルニア軌道]](Molniya orbit) :: 軌道傾斜角が63.4°で、周回周期が地球の自転周期の半分である楕円軌道。 :; [[ツンドラ軌道]](Tundra orbit) :: 軌道傾斜角が63.4°で、周回周期が地球の自転周期と同じである楕円軌道。 :; [[準天頂軌道]] (QZO) :: 適切な軌道傾斜角と軌道離心率を持たせることで、特定の1地域の上空に長時間とどまる軌道。日本の準天頂軌道衛星「[[みちびき]]」は、離心率がおよそ0.1で、軌道傾斜角がおよそ45°、周回周期が地球の自転周期と同じである楕円軌道。 : ; [[双曲線軌道]] : 1以上の離心率を持つ[[軌道 (力学)|軌道]]。[[宇宙速度#第二宇宙速度|第二宇宙速度]]以上の速度を持ち、天体の引力を振り切る。 ; [[放物線軌道]] : 離心率が1である[[軌道 (力学)|軌道]]。第二宇宙速度と同じ速度を持ち、地球の引力を振り切る。速度が増加すれば双曲線軌道になる。 :; {{仮リンク|脱出軌道|en|Escape orbit}} (EO) :: 物体が第二宇宙速度で地球から離れていく放物線軌道。 :; {{仮リンク|捕捉軌道|en|Capture orbit}} :: 物体が第二宇宙速度で地球に近づいていく放物線軌道。 === 周期性による分類 === ; [[回帰軌道]] : 人工衛星の1日当たりの周回数がちょうど整数になる軌道。地球が1回転する間に、衛星が何回か地球をまわり、次の日の同じ時刻に、同じ地点の上空に再びその衛星が飛来する。 :; [[同期軌道]] (SO) :: 惑星の自転周期と衛星の公転周期が等しい軌道。地上観測者から見ると衛星は[[アナレンマ]]上を動く。 ::; [[対地同期軌道]] (GEO) ::: 地球を周回する同期軌道。高度約、35,786 km。 :::; [[静止軌道]] (GSO) :::: [[軌道傾斜角]]が0°の[[対地同期軌道]]。地上の観測者からは衛星が空に固定されているように見える<ref> {{citeweb|title=Pearl Harbor In Space|author=James Oberg|url=http://www.jamesoberg.com/pearl.html|publisher=''Omni Magazine''|accessdate=2008-03-06|year=1984|month=July|pages=42–44}} </ref>。[[アーサー・C・クラーク]]に因んで'''クラーク軌道'''とも呼ばれる。 :::; [[墓場軌道]] :::: 地球同期軌道の数百km上の軌道。衛星は任務終了時にここに移動する。 :::; {{仮リンク|分同期軌道|en|Subsynchronous orbit}} :::: 静止軌道・地球同期軌道のすぐ下にあるドリフト軌道。衛星は東にドリフトする。 :; [[準同期軌道]] :: 公転周期が惑星の自転周期の2分の1に等しい軌道。 : ; [[準回帰軌道]] : 1日のうちに地球を何度か周回し、その日のうちには戻らないが、定数日後に元の地表面上空に戻る軌道。 :; [[太陽同期準回帰軌道]] :: 準回帰軌道で、かつ太陽同期軌道である衛星軌道。 : ; [[太陽同期軌道]] (SSO) : 衛星の軌道面に入射する太陽からの光の角度が同じになる軌道。極軌道に近く、[[赤道]]を常に同じ現地時間で通過する軌道。太陽同期軌道(衛星側)から地球を見ると太陽光の入射角が常に同じとなり、同一条件下での地球表面の観測が可能となるので[[地球観測衛星]]などの画像の撮影に適している。 === 特殊な分類 === ;[[月周回軌道]] : 地球の自然衛星である月を周回する軌道。[[月探査機]]を参照。月(平均高度384,403 km、[[楕円軌道|楕円]]-[[傾斜軌道]])の周りを回りながら地球の周りも回る。 === 擬似軌道 === ; [[馬蹄形軌道]] : 地上の観測者から見ると、観測者のいる惑星の周りを周回しているように見えるが、実際には観測物体は惑星と{{仮リンク|共有軌道|en|Co-orbital satellite}}となっている軌道。[[クルースン]]や{{mpl|2002 AA|29}}を参照。 ; [[弾道飛行|エクソ軌道]] : [[軌道 (力学)|軌道]]に到達する予定であったが、速度不足のため落下する軌道。[[弾道飛行]]の類義語。 ; [[ホーマン遷移軌道]] (HTO) : 推進装置を二回使用して円軌道から他の円軌道に移る軌道。[[ヴァルター・ホーマン]]に因んで命名された。 ; [[ハロー軌道]]/[[リサージュ軌道]] : [[ラグランジュ点]]の周りを回る軌道。 == 人工衛星の位置計算 == 特定の観測地から人工衛星がどこ(普通は方位角と仰角で与える)に見えるかは[[低軌道]]衛星などでは特に重要な課題である。人工衛星の位置計算を行うためには、次の手順で考える。 (とりあえず概略のみ) # 軌道面内の位置決定 #:ある時刻の衛星の軌道面内の位置(円周または楕円周上の位置)を決定する。 # 地球中心の座標系における3次元位置を決定 #:軌道面の赤道面からの傾きや、楕円の方向などから求める。 # 観測地の地表上の位置を決定 #:観測地の[[緯度]]・[[経度]]と時刻から3次元位置が定まる # 衛星と観測地の相対関係を求める #両者の3次元的な相対関係を計算すると観測地からの衛星への方向ベクトルが計算できるので、方位・仰角が計算できる == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[人工衛星]] * [[地球]] * [[天体]] {{軌道}} {{Space-stub}} {{デフォルトソート:しんこうえいせいのきとう}} [[Category:人工衛星の軌道|*]]
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8,917
映画の著作物
映画の著作物(えいがのちょさくぶつ)は、主に著作権保護に関する条約や法律における用語であり、著作権の保護対象となる著作物のうち、劇場映画作品その他動的な映像表現を伴う著作物を、他の一般著作物と区別して言い表すために使用される言葉である。映画の著作物は、その創作過程および流通過程に他の著作物にはない特徴をもつことから、その著作権の性質を規定する特別な条項が、条約および各国の法律にみられる。 以下、日本の著作権法(昭和45年法律第48号)の条文を示すときは、条数のみ記載する。 著作権法には、映画それ自体の定義は設けられていないが、頒布権に関する規定など一般の劇場用映画作品を念頭に置いた規定が置かれている。これに加え、テレビ番組全般、アニメ、ビデオグラム、CM用のフィルムなどもこれに該当するものの、映画の著作物には後述の映画類似の著作物も含まれるので、映画それ自体の定義をする意味に乏しい。 もっとも、動画であれば直ちに映画の著作物になるわけではない。一般の著作物と同様に著作物であるためには表現の創作性が要求されるので、監視のために固定されたビデオカメラなどによって撮影された動画は、創作性のある編集が施されているような事情でもない限り、映画の著作物に該当するか否か以前の問題として、そもそも著作物ではない。 映画の著作物として保護されるためには、物への固定が必要である。したがって、テレビの生放送は、放送と同時に録画されていなければ映画の著作物には該当しない。 著作権法上の映画の著作物は、「映画の効果に類似する視覚的又は視覚的効果を生じさせる方法で表現され、かつ、物に固定されている著作物」を含む(2条3項)。したがって、映画を収録したビデオテープやDVDも映画の著作物として保護される。 これに対し、ゲームソフト、特にロールプレイングゲームたるソフトは、プレイヤーの操作により表示画面の内容が異なることもあり、前述の固定の要件との関係でも映画類似の著作物であるか否かが問題となる。この点については下級審では判断が分かれていたが、最高裁判例では、映画の著作物であることが肯定され、この点については決着した ただし、ゲームソフトであれば直ちに映画の著作物になるわけではない。「三國志III事件」の控訴審においては、画面の大半が静止画像であり、連続的な動きを持った影像はほとんど用いられていなかったことから、「映画の効果に類似する視覚的又は視聴覚的効果を生じさせる」ものとは認められず、映画類似の著作物であるとは認められないとした(東京高判平成11年3月18日判例時報1501号79頁)。 映画の著作物も著作物の一種である以上、「著作物を創作する者」が著作者である(2条1項2号)。しかし、多数の者がその製作に関与しているため、権利関係が錯綜するのを防止する趣旨も含め、法は、「制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者」に著作者が限定され(16条本文)、著作者人格権はそのような者にのみ帰属する。具体的には映画監督等が著作者になるが、形式的に監督となっているだけでは著作者とは言えず、創作面において実質的に製作過程を統括することが必要であり、「全体的形成に創作的に寄与」という要件が重要である。 ただし、映画が職務著作(15条1項)である場合は、映画製作者(2条1項10号)である法人などが著作者となり、監督などが著作者になるわけではない(16条但書)。 また、「その映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物」の著作者は、映画の著作物(二次的著作物)の原著作物、または映画の著作物において複製されている著作物の著作者であり、映画の著作物の著作者ではない。 著作権は、創作と同時に著作者に原始的に帰属するのが原則であるが(17条1項)、映画の著作物では、「その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物に参加することを約束しているときは、当該映画製作者」に著作権が帰属する(29条1項)。 これは監督等の著作者が映画の製作に参加しているのだという意思を持って製作に携わる場合であり、大抵の場合にはこれに該当することになろう。映画製作者とは、「映画の著作物の製作に発意と責任を有する者」をいい(2条1項10号)、映画製作のために経済的リスクを負担する者を指す。このように、映画の著作物の著作権は、参加約束がある場合は、著作者ではなく原則として映画製作者(映画会社やプロダクション)に帰属し、財産権たる著作権と人格権たる著作者人格権が、原始的に別個の法人格に帰属する帰結になる。 映画の著作物に限ってこのような規定が設けられている理由としては、 などと説明される。 ただし、契約で著作権を譲渡することは可能なので(61条)、映画製作者と監督等との間で著作権の帰属に関する契約を締結し、監督に著作権が帰属するとすることを妨げるものではない。ただし、この契約により、当初から監督等に著作権が帰属することになるのか、映画製作者に帰属している著作権が監督等に移転することになるのかについては、見解が分かれ、映画製作者が二重に契約を締結したときに問題が顕在化する。 29条1項の規定により著作権が映画製作者に帰属した場合でも、著作者人格権は監督等の著作者に残ることになるが、このとき、映画の公表については同意したものとみなされる(18条2項3号)ため、公表権は働かない。 映画の著作物には、他の著作物と異なり、支分権として頒布権に関する規定が著作権法に設けられている。頒布権とは、有償無償を問わず映画の著作物の複製物を、公衆に譲渡又は貸与、あるいは公衆に提示することを目的として特定人に譲渡又は貸与する権利をいう(26条、2条1項19号)。 これは、映画産業の業界慣行として古くから映画館に映画会社が上映用フィルムの譲渡(配給)を行うという商慣習があり、仮に頒布権を認めなければプリントされたフィルムの転売や映画館同士での融通行為が行われてしまうおそれがあるため、上映用フィルム譲渡後においても映画会社がプリントフィルムの中古転売や賃貸等を規制できるようにすることができるよう認められた規定であった。また、映画の著作物は、他の著作物と比較して製作にかかる費用が巨額であり関わる人員も大勢いることから権利保護の要請も高かったことも別途規定が設けられた要因と考えられる。 条文上は、「著作者」が頒布権を有することになっているが、著作者(多くの場合、映画監督)が映画製作者に対し当該映画の製作に参加することを約束しているときは、著作権は映画製作者に帰属するので(29条1項)、著作者たるべき者のほかに映画製作者たるべき者がいる場合は、著作権の支分権たる頒布権を有するのは著作者ではなく、映画製作者となる。また、映画館などにおける上映それ自体は、上映権(22条)の問題であり、頒布権の問題ではない。 なお、映画以外の著作物には、頒布権の制度はないが、これに代わる支分権として譲渡権が認められている(26条の2)。ただし、後述する頒布権の消尽に関する判例の存在により、公衆に提示することを目的としない複製物については、頒布権と譲渡権の区別は曖昧になっている。 前述のように、頒布権は劇場用映画のフィルムの配給を想定したものである。しかし、映画の著作物には前述の映画類似の著作物も含まれるので、これらの著作物にも形式的には頒布権が認められることになる。そのため、ゲームソフト(コンピュータゲーム)の中古販売をめぐって、頒布権を侵害することになるのかが問題とされた。 中古ゲームソフト販売事件(テレビゲームソフトウェア流通協会)では、「固定の要件との関係で映画の著作物であるのか否か」「映画の著作物であるとして頒布権が消尽したのか」が争点となった。この点について、最高裁判所第一小法廷は、映画の著作物であることを前提に、「配給制度という取引実態のある映画の著作物やその複製物については,これらの著作物等を公衆に提示することを目的として譲渡・貸与する権利が消尽しないと解されていたが」、著作権法26条において、頒布権の消尽の有無は定められておらず、「専ら解釈に委ねられている」として、「公衆に提示することを目的としない家庭用テレビゲーム機に用いられる映画の著作物の複製物の譲渡については、(中略)当該著作物の複製物を公衆に譲渡する権利は、いったん適法に譲渡されたことにより、その目的を達成したものとして消尽し、もはや著作権の効力は、当該複製物を公衆に再譲渡する行為には及ばないものと解すべきである」と判断したことにより、「ゲームソフトの中古販売は合法」と裁判で確定判決が言い渡され、販売が認められることになった。 一般の著作物は、原則として著作者の死後70年を経過するまで著作権が存続する(51条2項参照)のに対し、映画の著作物の場合は、公表後70年(その著作物が創作後70年以内に公表されなかったときは、その創作後の70年)を経過するまで存続する(54条)。 映画においては、「その映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者」が著作者であるとされる(16条本文)が、監督のほか多数の者が創作に関与することが多いため、過不足なく著作者を確定することが困難である。そのため、著作者の死亡時を基準(死亡時起算主義)とするのではなく、著作物の公表時(公表時起算主義)を基準としたのである。 映画の著作物の保護期間について公表時起算主義を採用した結果、他の著作物と比較して実質的に保護期間が短くなる問題が生じた。そこで、平成15年法律第85号による改正(2004年1月1日施行)により、保護期間が50年から70年に延長された。これにより、1953年に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物について、その保護期間が2003年12月31日で終了するのか、それ以降も存続するのかという解釈問題が生じた(これについては、1953年問題を参照)。 旧著作権法(明治32年法律第39号)では、独創性を有する映画の著作物の保護期間について、著作者の死後38年(ただし、団体名義のものについては発行又は興業から33年)を経過することによって著作権が消滅すると定めていた(旧法22条ノ3、52条)。現行著作権法は、旧法と比較して一般的に著作権の保護期間を長くしているものの、個人名義の映画の著作物の場合、保護期間の起算点が死亡時から公表時に変更されたため、著作者が公表後13年以上生存した場合(現行著作権法制定時の保護期間は、公表から70年ではなく50年であったため)、新法によるほうが保護期間が短くなる結果となる。このような事態を避けるため、現行著作権法の施行前に公表された著作物の著作権の存続期間は、旧著作権法による存続期間のほうが長い場合は、旧著作権法による存続期間による旨の規定が置かれている(著作権法附則7条)。 その結果、例えば、個人名義の独創性ある映画の著作物が1953年(ただし著作者の生前である場合)に公表され、著作者が1998年に死亡した場合を例にすると、旧法を適用して1998年の翌年から起算して38年(2036年12月31日)著作権が存続するとしたほうが保護期間が長くなる。その結果、現行著作権法54条による公表後70年という規定は適用されないことになる。 実際に旧著作権法下で発表された、黒澤明(1998年死去)やチャールズ・チャップリン(1977年死去)が1953年以前に発表した監督作品について著作権の存続期間を争った裁判では、黒澤作品については2036年まで、チャップリン作品については2015年までそれぞれ著作権保護期間が継続するという最高裁の判決が出ている(ただし『殺人狂時代』と『ライムライト』については、現行法の方が保護期間が長くなるため、判決でもそちらを採用している)。 映画の著作物については通常俳優・歌手など多数の実演家が出演・関与するが、各々の実演家が保有する録音・録画権(著作隣接権)についてもそのままでは多数の権利処理が必要となってしまい、特に映像の二次利用(ビデオソフト化、DVD化、テレビ放映など)の際に障害となってしまう。このため、一旦映画の著作物として録音・録画されたものを二次利用する場合には、各実演家の持つ録音・録画権は原則として適用されないこととすることで、権利処理を簡略化している(91条2項。ただしサウンドトラックの製作など一部例外がある)。なお映画の著作物に対する放送権(92条2項)、送信可能化権(92条の2・2項)、譲渡権(95条の2・2項)に対しても同様の処理が行われる。 これを日本では俗に「ワンチャンス主義」と呼んでいるが、これは日本独特の用語法である。 なお放送のために録画・録音された映像・音声については通常の「映画の著作物」とは扱いが異なり、事前に契約等で二次利用の同意を得ていない場合ワンチャンス主義は適用されず、放送以外での二次利用には実演家の録画・録音権が及ぶ(93条)。また再放送に関しては実演家には差止権はないが報酬請求権が認められている(94条2項)。 ただしこれに対しては、俳優・歌手など実演家側の業界団体である日本芸能実演家団体協議会(芸団協)などが以前より不満を表明しており、保護期間(現在は実演の翌年から起算して50年。101条2項)の延長、映像の二次利用に対する報酬請求権を認めるなどの法改正を要望している。 アメリカ合衆国連邦著作権法は、102条(a)(6)で「映画およびその他の視聴覚著作物」を著作権の対象と定める。映画の定義に関しては、101条で「一連の映像からなる視聴覚著作物であって、連続して見せることにより動きを伝達するものをいい、音楽を伴うものがあれば、それを含む。」と定義されている。 連邦著作権法101条は集合著作物を「定期刊行物、選集または百科事典等の、それ自体が別個独立の著作物である多数の寄与物が一つの集合物を構成するものをいう。」と定義し、映画はその代表例である。 ただし、職務著作物に関するルールにより、当事者が署名した文書で職務著作物として扱うことを明示的に同意し、プロデューサーが著作者および原始的著作権者となっていることが多い。映画監督などのクリエイターには契約(団体協約等)に基づいて映画に関する一定の権利(クレジットの表記、続編の制作に関する優先権、二次利用に関する報酬など)が認められる。 EUの貸与権及び貸出権並びに知的所有分野における著作権に関連する特定の権利に関する2006年12月12日の欧州議会及び 理事会指令(2006/115/EC)(以下、貸与権指令)第2条第1項(c)は「音を伴うか否かを問わず、映画の著作物もしくは視聴覚的著作物または動画をいう」と定義する。その上で第2条第2項前段は「映画の著作物または視聴覚的著作物の主たる監督は、その著作者または著作者の一人とみなす。」とする。 また貸与権指令第5条は、著作者等が映画の原本もしくは写しを映画製作者に譲渡したときに、その賃借権について公正な報酬を受ける権利を留保しなければならない(第5条第1項)と定め、著作者または実演家はこの権利を放棄できないとする(第5条第2項)。ただし、著作者または実演家はこの権利を集中管理団体(著作者または実演家を代理する徴収団体)に委任することができる。 英国著作権法は映画監督に著作者人格権を認めており、氏名表示権や同一性保持権に関する権利が含まれる。 英国著作権法第9条(2)(ab)は映画の著作者を製作者及び主たる監督としており、第10条(1A)により製作者と主たる監督が同一人である場合を除き共同著作物として扱われる。また、英国著作権法第77条(6)は、映画が公に上映され、若しくは公衆に伝達され、又は映画の複製物が公衆に配布される場合、映画監督が事前に映画の確認を行う権利を認めている。 ただし、映画の著作権者に関して英国著作権法第11条(2)は職務著作制度を定めているため、企業に所属する映画監督などは、個人として映画の著作権者の権利は認められていない。 EU貸与権指令(2006/115/EC)で映画の著作者及び貸与に対する報酬請求権が定められたため、イギリスでも著作権法を改正して第93条のBが定められた。 なお、EUでは2019年3月19日に、イギリスがEUから正式に離脱した日に施行される「知的財産(著作権及び関連する権利)(修正)(EU 離脱)規則 2019」が制定され、大半の著作物はEUもしくは英国によりEU離脱後も著作権及び関連する権利が維持されることになった。
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"実際に旧著作権法下で発表された、黒澤明(1998年死去)やチャールズ・チャップリン(1977年死去)が1953年以前に発表した監督作品について著作権の存続期間を争った裁判では、黒澤作品については2036年まで、チャップリン作品については2015年までそれぞれ著作権保護期間が継続するという最高裁の判決が出ている(ただし『殺人狂時代』と『ライムライト』については、現行法の方が保護期間が長くなるため、判決でもそちらを採用している)。", "title": "日本の映画著作権" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "映画の著作物については通常俳優・歌手など多数の実演家が出演・関与するが、各々の実演家が保有する録音・録画権(著作隣接権)についてもそのままでは多数の権利処理が必要となってしまい、特に映像の二次利用(ビデオソフト化、DVD化、テレビ放映など)の際に障害となってしまう。このため、一旦映画の著作物として録音・録画されたものを二次利用する場合には、各実演家の持つ録音・録画権は原則として適用されないこととすることで、権利処理を簡略化している(91条2項。ただしサウンドトラックの製作など一部例外がある)。なお映画の著作物に対する放送権(92条2項)、送信可能化権(92条の2・2項)、譲渡権(95条の2・2項)に対しても同様の処理が行われる。", "title": "日本の映画著作権" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "これを日本では俗に「ワンチャンス主義」と呼んでいるが、これは日本独特の用語法である。", "title": "日本の映画著作権" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお放送のために録画・録音された映像・音声については通常の「映画の著作物」とは扱いが異なり、事前に契約等で二次利用の同意を得ていない場合ワンチャンス主義は適用されず、放送以外での二次利用には実演家の録画・録音権が及ぶ(93条)。また再放送に関しては実演家には差止権はないが報酬請求権が認められている(94条2項)。", "title": "日本の映画著作権" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ただしこれに対しては、俳優・歌手など実演家側の業界団体である日本芸能実演家団体協議会(芸団協)などが以前より不満を表明しており、保護期間(現在は実演の翌年から起算して50年。101条2項)の延長、映像の二次利用に対する報酬請求権を認めるなどの法改正を要望している。", "title": "日本の映画著作権" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国連邦著作権法は、102条(a)(6)で「映画およびその他の視聴覚著作物」を著作権の対象と定める。映画の定義に関しては、101条で「一連の映像からなる視聴覚著作物であって、連続して見せることにより動きを伝達するものをいい、音楽を伴うものがあれば、それを含む。」と定義されている。", "title": "アメリカの映画著作権" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "連邦著作権法101条は集合著作物を「定期刊行物、選集または百科事典等の、それ自体が別個独立の著作物である多数の寄与物が一つの集合物を構成するものをいう。」と定義し、映画はその代表例である。", "title": "アメリカの映画著作権" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ただし、職務著作物に関するルールにより、当事者が署名した文書で職務著作物として扱うことを明示的に同意し、プロデューサーが著作者および原始的著作権者となっていることが多い。映画監督などのクリエイターには契約(団体協約等)に基づいて映画に関する一定の権利(クレジットの表記、続編の制作に関する優先権、二次利用に関する報酬など)が認められる。", "title": "アメリカの映画著作権" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "EUの貸与権及び貸出権並びに知的所有分野における著作権に関連する特定の権利に関する2006年12月12日の欧州議会及び 理事会指令(2006/115/EC)(以下、貸与権指令)第2条第1項(c)は「音を伴うか否かを問わず、映画の著作物もしくは視聴覚的著作物または動画をいう」と定義する。その上で第2条第2項前段は「映画の著作物または視聴覚的著作物の主たる監督は、その著作者または著作者の一人とみなす。」とする。", "title": "ヨーロッパの映画著作権" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また貸与権指令第5条は、著作者等が映画の原本もしくは写しを映画製作者に譲渡したときに、その賃借権について公正な報酬を受ける権利を留保しなければならない(第5条第1項)と定め、著作者または実演家はこの権利を放棄できないとする(第5条第2項)。ただし、著作者または実演家はこの権利を集中管理団体(著作者または実演家を代理する徴収団体)に委任することができる。", "title": "ヨーロッパの映画著作権" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "英国著作権法は映画監督に著作者人格権を認めており、氏名表示権や同一性保持権に関する権利が含まれる。", "title": "ヨーロッパの映画著作権" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "英国著作権法第9条(2)(ab)は映画の著作者を製作者及び主たる監督としており、第10条(1A)により製作者と主たる監督が同一人である場合を除き共同著作物として扱われる。また、英国著作権法第77条(6)は、映画が公に上映され、若しくは公衆に伝達され、又は映画の複製物が公衆に配布される場合、映画監督が事前に映画の確認を行う権利を認めている。", "title": "ヨーロッパの映画著作権" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ただし、映画の著作権者に関して英国著作権法第11条(2)は職務著作制度を定めているため、企業に所属する映画監督などは、個人として映画の著作権者の権利は認められていない。", "title": "ヨーロッパの映画著作権" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "EU貸与権指令(2006/115/EC)で映画の著作者及び貸与に対する報酬請求権が定められたため、イギリスでも著作権法を改正して第93条のBが定められた。", "title": "ヨーロッパの映画著作権" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、EUでは2019年3月19日に、イギリスがEUから正式に離脱した日に施行される「知的財産(著作権及び関連する権利)(修正)(EU 離脱)規則 2019」が制定され、大半の著作物はEUもしくは英国によりEU離脱後も著作権及び関連する権利が維持されることになった。", "title": "ヨーロッパの映画著作権" } ]
映画の著作物(えいがのちょさくぶつ)は、主に著作権保護に関する条約や法律における用語であり、著作権の保護対象となる著作物のうち、劇場映画作品その他動的な映像表現を伴う著作物を、他の一般著作物と区別して言い表すために使用される言葉である。映画の著作物は、その創作過程および流通過程に他の著作物にはない特徴をもつことから、その著作権の性質を規定する特別な条項が、条約および各国の法律にみられる。
{{Pathnav|知的財産権|著作権|著作物|frame=1}} '''映画の著作物'''(えいがのちょさくぶつ)は、主に[[著作権]]保護に関する[[条約]]や[[法律]]における用語であり、著作権の保護対象となる[[著作物]]のうち、[[劇場]][[映画]]作品その他動的な映像表現を伴う著作物を、他の一般著作物と区別して言い表すために使用される言葉である。映画の著作物は、その創作過程および流通過程に他の著作物にはない特徴をもつことから、その著作権の性質を規定する特別な条項が、条約および各国の法律にみられる。 == 日本の映画著作権 == {{出典の明記|date=2022年12月|section=1}} 以下、日本の[[著作権法]](昭和45年法律第48号)の条文を示すときは、条数のみ記載する。 === 対象 === ==== 一般原則 ==== 著作権法には、[[映画]]それ自体の定義は設けられていないが、[[#頒布権|頒布権]]に関する規定など一般の劇場用[[映画]]作品を念頭に置いた規定が置かれている。これに加え、[[テレビ番組]]全般、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[ビデオグラム]]、[[コマーシャルメッセージ|CM]]用の[[フィルム]]などもこれに該当するものの、映画の[[著作物]]には後述の映画類似の著作物も含まれるので、映画それ自体の定義をする意味に乏しい。 もっとも、[[動画]]であれば直ちに映画の著作物になるわけではない。一般の著作物と同様に著作物であるためには表現の[[創作]]性が要求されるので、[[監視]]のために固定された[[ビデオカメラ]]などによって撮影された動画は、創作性のある編集が施されているような事情でもない限り、映画の著作物に該当するか否か以前の問題として、そもそも著作物ではない。 ==== 物への固定 ==== 映画の著作物として保護されるためには、物への[[固定]]が必要である。したがって、テレビの[[生放送]]は、[[放送]]と同時に[[録画]]されていなければ映画の著作物には該当しない。 ==== 映画類似の著作物 ==== 著作権法上の映画の著作物は、「映画の効果に類似する視覚的又は視覚的効果を生じさせる方法で表現され、かつ、物に固定されている著作物」を含む(2条3項)。したがって、映画を収録した[[ビデオテープ]]や[[DVD]]も映画の著作物として保護される。 これに対し、[[ゲームソフト]]、特に[[ロールプレイングゲーム]]たるソフトは、プレイヤーの操作により表示画面の内容が異なることもあり、前述の固定の要件との関係でも映画類似の著作物であるか否かが問題となる。この点については下級審では判断が分かれていたが、最高裁判例では、映画の著作物であることが肯定され、この点については決着した<ref name="H14-0425">最一判平成14年4月25日民集56巻4号808頁、[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52335 裁判所判例情報]、2014年8月20日閲覧</ref> ただし、ゲームソフトであれば直ちに映画の著作物になるわけではない。「[[三國志III事件]]」の控訴審においては、画面の大半が静止画像であり、連続的な動きを持った影像はほとんど用いられていなかったことから、「映画の効果に類似する視覚的又は視聴覚的効果を生じさせる」ものとは認められず、映画類似の著作物であるとは認められないとした(東京高判平成11年3月18日判例時報1501号79頁)。 <!-- ==== 未編集フィルム、未使用フィルムを巡る問題 ==== --> === 映画の著作物に特有の規定 === ==== 著作者 ==== 映画の著作物も著作物の一種である以上、「著作物を創作する者」が著作者である([[b:著作権法第2条|2条]]1項2号)。しかし、多数の者がその製作に関与しているため、権利関係が錯綜するのを防止する趣旨も含め、法は、「制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者」に著作者が限定され([[b:著作権法第16条|16条]]本文)、[[著作者人格権]]はそのような者にのみ帰属する。具体的には[[映画監督]]等が著作者になるが、形式的に監督となっているだけでは著作者とは言えず、創作面において実質的に製作過程を統括することが必要であり、「全体的形成に創作的に寄与」という要件が重要である。 ただし、映画が[[職務著作]]([[b:著作権法第15条|15条]]1項)である場合は、映画製作者(2条1項10号)である法人などが著作者となり、監督などが著作者になるわけではない([[b:著作権法第16条|16条]]但書)。 また、「その映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物」の著作者は、映画の著作物([[二次的著作物]])の原著作物、または映画の著作物において複製されている著作物の著作者であり、映画の著作物の著作者ではない。 ==== 著作権の帰属 ==== [[著作権]]は、創作と同時に著作者に原始的に帰属するのが原則であるが([[b:著作権法第17条|17条]]1項)、映画の著作物では、「その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物に参加することを約束しているときは、当該映画製作者」に著作権が帰属する([[b:著作権法第29条|29条]]1項)。 これは監督等の著作者が映画の製作に参加しているのだという意思を持って製作に携わる場合であり、大抵の場合にはこれに該当することになろう。映画製作者とは、「映画の著作物の製作に発意と責任を有する者」をいい(2条1項10号)、映画製作のために経済的リスクを負担する者を指す。このように、映画の著作物の著作権は、参加約束がある場合は、著作者ではなく原則として映画製作者(映画会社やプロダクション)に帰属し、[[財産権]]たる[[著作権]]と[[人格権]]たる[[著作者人格権]]が、原始的に別個の法人格に帰属する帰結になる。 映画の著作物に限ってこのような規定が設けられている理由としては、 * 映画の製作には多くの人が関わっており、その全員に著作権の行使を認めると、映画の著作物の円滑な利用が困難になるから * 映画の製作には多大な費用がかかっているため、製作者に著作権を帰属させて権利を行使させ、費用の回収を容易にするべきであるから などと説明される。 ただし、[[契約]]で著作権を譲渡することは可能なので([[b:著作権法第61条|61条]])、映画製作者と監督等との間で著作権の帰属に関する契約を締結し、監督に著作権が帰属するとすることを妨げるものではない。ただし、この契約により、当初から監督等に著作権が帰属することになるのか、映画製作者に帰属している著作権が監督等に移転することになるのかについては、見解が分かれ、映画製作者が二重に契約を締結したときに問題が顕在化する。 29条1項の規定により著作権が映画製作者に帰属した場合でも、著作者人格権は監督等の著作者に残ることになるが、このとき、映画の公表については同意したものとみなされる([[b:著作権法第18条|18条]]2項3号)ため、[[公表権]]は働かない。 <!-- ===== 放送用映画 ===== 28条2項3項 --> ==== 頒布権 ==== 映画の著作物には、他の著作物と異なり、支分権として頒布権に関する規定が著作権法に設けられている。頒布権とは、有償無償を問わず映画の著作物の複製物を、公衆に譲渡又は貸与、あるいは公衆に提示することを目的として特定人に譲渡又は貸与する権利をいう([[b:著作権法第26条|26条]]、2条1項19号)。 これは、[[映画産業]]の業界慣行として古くから[[映画館]]に[[映画会社]]が上映用フィルムの譲渡(配給)を行うという商慣習があり、仮に頒布権を認めなければプリントされたフィルムの転売や映画館同士での融通行為が行われてしまうおそれがあるため、上映用フィルム譲渡後においても映画会社がプリントフィルムの中古転売や賃貸等を規制できるようにすることができるよう認められた規定であった。また、映画の著作物は、他の著作物と比較して製作にかかる費用が巨額であり関わる人員も大勢いることから権利保護の要請も高かったことも別途規定が設けられた要因と考えられる。 条文上は、「著作者」が頒布権を有することになっているが、著作者(多くの場合、映画監督)が映画製作者に対し当該映画の製作に参加することを約束しているときは、著作権は映画製作者に帰属するので([[s:著作権法#a29|29条]]1項)、著作者たるべき者のほかに映画製作者たるべき者がいる場合は、著作権の支分権たる頒布権を有するのは著作者ではなく、映画製作者となる。また、映画館などにおける上映それ自体は、上映権([[b:著作権法第22条|22条]])の問題であり、頒布権の問題ではない。 なお、映画以外の著作物には、頒布権の制度はないが、これに代わる支分権として[[譲渡権]]が認められている([[b:著作権法第26条の2|26条の2]])。ただし、後述する頒布権の消尽に関する判例の存在により、公衆に提示することを目的としない複製物については、頒布権と譲渡権の区別は曖昧になっている。 ===== 頒布権の消尽 ===== 前述のように、頒布権は劇場用映画のフィルムの配給を想定したものである。しかし、映画の著作物には前述の映画類似の著作物も含まれるので、これらの著作物にも形式的には頒布権が認められることになる。そのため、ゲームソフト([[コンピュータゲーム]])の中古販売をめぐって、頒布権を侵害することになるのかが問題とされた。 中古ゲームソフト販売事件([[テレビゲームソフトウェア流通協会]])では、「固定の要件との関係で映画の著作物であるのか否か」「映画の著作物であるとして頒布権が消尽したのか」が争点となった。この点について、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一[[小法廷]]は、映画の著作物であることを前提に、「配給制度という取引実態のある映画の著作物やその複製物については,これらの著作物等を公衆に提示することを目的として譲渡・貸与する権利が消尽しないと解されていたが」、[[b:著作権法第26条|著作権法26条]]において、頒布権の消尽の有無は定められておらず、「専ら解釈に委ねられている」として、「公衆に提示することを目的としない家庭用テレビゲーム機に用いられる映画の著作物の複製物の譲渡については、(中略)当該著作物の複製物を公衆に譲渡する権利は、いったん適法に譲渡されたことにより、その目的を達成したものとして消尽し、もはや著作権の効力は、当該複製物を公衆に再譲渡する行為には及ばないものと解すべきである」と判断したことにより<ref name="H14-0425" />、「ゲームソフトの中古販売は合法」と裁判で[[確定判決]]が言い渡され、販売が認められることになった。 ==== 保護期間 ==== ===== 原則 ===== 一般の著作物は、原則として著作者の死後70年を経過するまで著作権が存続する(51条2項参照)のに対し、映画の著作物の場合は、公表後70年(その著作物が創作後70年以内に公表されなかったときは、その創作後の70年)を経過するまで存続する([[b:著作権法第54条|54条]])。 映画においては、「その映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者」が著作者であるとされる([[b:著作権法第16条|16条]]本文)が、監督のほか多数の者が創作に関与することが多いため、過不足なく著作者を確定することが困難である。そのため、著作者の死亡時を基準(死亡時起算主義)とするのではなく、著作物の公表時(公表時起算主義)を基準としたのである。 ===== 1953年問題 ===== 映画の著作物の保護期間について公表時起算主義を採用した結果、他の著作物と比較して実質的に[[著作権の保護期間|保護期間]]が短くなる問題が生じた。そこで、平成15年法律第85号による改正(2004年1月1日[[施行]])により、保護期間が50年から70年に延長された。これにより、1953年に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物について、その保護期間が2003年12月31日で終了するのか、それ以降も存続するのかという解釈問題が生じた(これについては、[[1953年問題]]を参照)。 ===== 旧法時の映画の著作物 ===== 旧著作権法(明治32年法律第39号)では、独創性を有する映画の著作物の保護期間について、著作者の死後38年(ただし、団体名義のものについては発行又は興業から33年)を経過することによって著作権が消滅すると定めていた(旧法22条ノ3、52条)。現行著作権法は、旧法と比較して一般的に[[著作権の保護期間]]を長くしているものの、個人名義の映画の著作物の場合、保護期間の起算点が死亡時から公表時に変更されたため、著作者が公表後13年以上生存した場合(現行著作権法制定時の保護期間は、公表から70年ではなく50年であったため)、新法によるほうが保護期間が短くなる結果となる。このような事態を避けるため、現行著作権法の施行前に公表された著作物の著作権の存続期間は、旧著作権法による存続期間のほうが長い場合は、旧著作権法による存続期間による旨の規定が置かれている(著作権法附則7条)。 その結果、例えば、個人名義の独創性ある映画の著作物が1953年(ただし著作者の生前である場合)に公表され、著作者が1998年に死亡した場合を例にすると、旧法を適用して1998年の翌年から起算して38年(2036年12月31日)著作権が存続するとしたほうが保護期間が長くなる。その結果、現行[[b:著作権法第54条|著作権法54条]]による公表後70年という規定は適用されないことになる。 実際に旧著作権法下で発表された、[[黒澤明]](1998年死去)や[[チャールズ・チャップリン]](1977年死去)が1953年以前に発表した監督作品について著作権の存続期間を争った裁判では、黒澤作品については2036年まで、チャップリン作品については2015年までそれぞれ著作権保護期間が継続するという最高裁の判決が出ている(ただし『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』と『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』については、現行法の方が保護期間が長くなるため、判決でもそちらを採用している)<ref>[http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20091008dde041040041000c.html 著作権訴訟:チャプリン映画、有効確定--最高裁判決]{{リンク切れ|date=2014年8月}} - 毎日jp・2009年10月8日</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20091009-OYT1T00038.htm 「羅生門」廉価版DVD販売差し止め確定]{{リンク切れ|date=2014年8月}} - 読売新聞・2009年10月8日</ref>。 === 著作隣接権との関係 === 映画の著作物については通常[[俳優]]・[[歌手]]など多数の[[実演家]]が出演・関与するが、各々の実演家が保有する録音・録画権([[著作隣接権]])についてもそのままでは多数の権利処理が必要となってしまい、特に映像の二次利用(ビデオソフト化、DVD化、テレビ放映など)の際に障害となってしまう。このため、一旦映画の著作物として録音・録画されたものを二次利用する場合には、各実演家の持つ録音・録画権は原則として適用されないこととすることで、権利処理を簡略化している([[b:著作権法第91条|91条]]2項。ただし[[サウンドトラック]]の製作など一部例外がある)。なお映画の著作物に対する放送権([[b:著作権法第92条|92条]]2項)、送信可能化権([[b:著作権法第92条の2|92条の2]]・2項)、譲渡権([[b:著作権法第95条の2|95条の2]]・2項)に対しても同様の処理が行われる。 これを日本では俗に「'''ワンチャンス主義'''」と呼んでいるが、これは日本独特の用語法である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lait.jp/serial/serial_tanano364.html |title=ネットワーク流通と著作権制度協議会 コンテンツの流通促進方策に関する分科会報告書(09.3.10案)について意見 |accessdate=2014-08-20 |author= 棚野正士|publisher= IT企業法務研究所|date=2009-03-23}}</ref>。 なお放送のために録画・録音された映像・音声については通常の「映画の著作物」とは扱いが異なり、事前に契約等で二次利用の同意を得ていない場合ワンチャンス主義は適用されず、放送以外での二次利用には実演家の録画・録音権が及ぶ([[b:著作権法第93条|93条]])。また[[再放送]]に関しては実演家には差止権はないが報酬請求権が認められている([[b:著作権法第94条|94条]]2項)。 ただしこれに対しては、俳優・歌手など実演家側の業界団体である[[日本芸能実演家団体協議会]](芸団協)などが以前より不満を表明しており、保護期間(現在は実演の翌年から起算して50年。[[b:著作権法第101条|101条]]2項)の延長、映像の二次利用に対する報酬請求権を認めるなどの法改正を要望している<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2004/09/21/4702.html 権利強化を求める権利者サイドの声~パネルディスカッション] - Internet Watch・2004年9月21日</ref>。 == アメリカの映画著作権 == === 対象 === アメリカ合衆国連邦著作権法は、102条(a)(6)で「映画およびその他の視聴覚著作物」を著作権の対象と定める<ref name="bunka2020">{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/kaizoku/assets/pdf/chosakukenhou_seisakudoukou_chosa.pdf|title=グローバルな著作権侵害への対応の強化事業「著作権法改正状況及び関連政策動向に関する諸外国調査」|author=三菱UFJリサーチ&コンサルティング|publisher=文化庁|date=|accessdate=2022-12-14}}</ref>。映画の定義に関しては、101条で「一連の映像からなる視聴覚著作物であって、連続して見せることにより動きを伝達するものをいい、音楽を伴うものがあれば、それを含む。」と定義されている<ref name="america">{{Cite web|和書|url=https://www.cric.or.jp/db/world/america/america_c1a.html|title=第1章-著作権の対象および範囲|publisher=公益社団法人著作権情報センター|date=|accessdate=2022-12-14}}</ref>。 === 集合著作物 === 連邦著作権法101条は集合著作物を「定期刊行物、選集または百科事典等の、それ自体が別個独立の著作物である多数の寄与物が一つの集合物を構成するものをいう。」と定義し<ref name="america" />、映画はその代表例である<ref name="bunka2020" />。 ただし、職務著作物に関するルールにより、当事者が署名した文書で職務著作物として扱うことを明示的に同意し、プロデューサーが著作者および原始的著作権者となっていることが多い<ref name="bunka2020" />。映画監督などのクリエイターには契約(団体協約等)に基づいて映画に関する一定の権利(クレジットの表記、続編の制作に関する優先権、二次利用に関する報酬など)が認められる<ref name="bunka2020" />。 == ヨーロッパの映画著作権 == === EU === [[欧州連合|EU]]の貸与権及び貸出権並びに知的所有分野における著作権に関連する特定の権利に関する2006年12月12日の[[欧州議会]]及び 理事会指令(2006/115/EC)(以下、貸与権指令)第2条第1項(c)は「音を伴うか否かを問わず、映画の著作物もしくは視聴覚的著作物または動画をいう」と定義する<ref name="bunka2020" /><ref name="EU">{{Cite web|和書|url=https://www.cric.or.jp/db/world/EU/EU_07.html|title=EU編|publisher=公益社団法人著作権情報センター|date=|accessdate=2022-12-14}}</ref>。その上で第2条第2項前段は「映画の著作物または視聴覚的著作物の主たる監督は、その著作者または著作者の一人とみなす。」とする<ref name="bunka2020" /><ref name="EU" />。 また貸与権指令第5条は、著作者等が映画の原本もしくは写しを映画製作者に譲渡したときに、その賃借権について公正な報酬を受ける権利を留保しなければならない(第5条第1項)と定め、著作者または実演家はこの権利を放棄できないとする(第5条第2項)<ref name="bunka2020" /><ref name="EU" />。ただし、著作者または実演家はこの権利を集中管理団体(著作者または実演家を代理する徴収団体)に委任することができる<ref name="bunka2020" /><ref name="EU" />。 === イギリス === 英国著作権法は映画監督に著作者人格権を認めており、氏名表示権や同一性保持権に関する権利が含まれる<ref name="bunka2020" />。 英国著作権法第9条(2)(ab)は映画の著作者を製作者及び主たる監督としており<ref name="bunka2020" /><ref name="england1">{{Cite web|和書|url=https://www.cric.or.jp/db/world/england/england_c1.html|title=第1章 著作権の存続、帰属及び存続期間|publisher=公益社団法人著作権情報センター|date=|accessdate=2022-12-14}}</ref>、第10条(1A)により製作者と主たる監督が同一人である場合を除き共同著作物として扱われる<ref name="bunka2020" /><ref name="england1" />。また、英国著作権法第77条(6)は、映画が公に上映され、若しくは公衆に伝達され、又は映画の複製物が公衆に配布される場合、映画監督が事前に映画の確認を行う権利を認めている<ref name="england4">{{Cite web|和書|url=https://www.cric.or.jp/db/world/england/england_c4.html#14_74|title=第4章 著作者人格権|publisher=公益社団法人著作権情報センター|date=|accessdate=2022-12-14}}</ref>。 ただし、映画の著作権者に関して英国著作権法第11条(2)は職務著作制度を定めているため、企業に所属する映画監督などは、個人として映画の著作権者の権利は認められていない<ref name="bunka2020" />。 EU貸与権指令(2006/115/EC)で映画の著作者及び貸与に対する[[報酬]]請求権が定められたため、[[イギリス]]でも著作権法を改正して第93条のBが定められた<ref name="bunka2020" />。 なお、EUでは2019年3月19日に、[[イギリスの欧州連合離脱|イギリスがEUから正式に離脱]]した日に施行される「知的財産(著作権及び関連する権利)(修正)(EU 離脱)規則 2019」が制定され、大半の著作物はEUもしくは英国によりEU離脱後も著作権及び関連する権利が維持されることになった<ref name="bunka2020" />。 == 関連項目 == * [[1953年問題]] * [[三國志III事件]] * [[ときめきメモリアルメモリーカード事件]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{PDFlink|[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/335/052335_hanrei.pdf 最一判平成14年4月25日『著作権侵害行為差止請求事件』判決全文]|11KB}} - 「映画の著作物」と見なされたゲームソフトの頒布権についての判例 {{著作権 (法学)|state=expanded}} {{世界の著作権法}} {{Movie-stub}} {{Law-stub}} {{DEFAULTSORT:えいかのちよさくふつ}} [[Category:映像作品|*えいかのちよさくふつ]] [[Category:日本の著作権法]] [[Category:日本の判例]]
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抗うつ薬
抗うつ薬(こううつやく、英: Antidepressant)とは、典型的には、抑うつ気分の持続や希死念慮を特徴とするうつ病のような気分障害 (MD)に用いられる精神科の薬である。 不安障害のうち全般性不安障害やパニック障害、社交不安障害 (SAD)、強迫性障害、心的外傷後ストレス障害 (PTSD)にも処方される。慢性疼痛、月経困難症、更年期障害、耳鳴りなどへの適応外使用が行われる場合がある。しかし適用外の処方には議論があり、アメリカ合衆国司法省による制裁が行われた例もある。 モノアミン酸化酵素阻害薬と三環系抗うつ薬の抗うつ作用が偶然に発見されて以降、セロトニンとノルアドレナリンの挙動が着目され、四環系抗うつ薬、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)、セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬(SNRI)、ノルアドレナリン作動性・特異的セロトニン作動性抗うつ薬(NaSSA)が開発されてきた。 抗うつ薬は、効果の発現が服薬開始から2-6週間遅れるが、しばしば1週間後までに効果が見られることもある。抗うつ薬の有効性が議論されており、軽症のうつ病に対しては、必ずしも薬剤の投与は一次選択にはなっていない。統計的には偽薬との差があるが効果は小さく、臨床的に意味がない差だとされる。 1990年代後半から、約30年間の抗うつ薬の大幅な増加は、測定可能な公衆の利益を生み出していない。使用にあたっても1種類の抗うつ薬のみを使用する。もし抗うつ薬に対して反応がない場合でも、複数の抗うつ薬の併用はせず、有害作用が臨床上問題にならない範囲で十分量まで増量を行い、十分量まで増量しても反応が見られない場合は薬剤の変更を、一部の抑うつ症状に改善がみられるがそれ以上の改善がない場合は抗うつ効果増強療法を行う。 ケタミンは、治療抵抗性うつ病に対しても時間単位で効果が現れるという即効性から、世界では用いられるケースがある。ただケタミンは解離性麻酔薬であり、薬物乱用されうる薬剤でもあることから、製薬会社はケタミンの薬理学的作用に注目した『ケタミン様薬物』の研究を進めている。 抗うつ薬の使用は、口渇といった軽い副作用から、肥満や性機能障害など、様々な#副作用が併存する可能性がある。また2型糖尿病の危険性を増加させる。さらに他者に暴力を加える危険性は、抗うつ薬全体で8.4倍に増加させるが、薬剤により2.8倍から10.9倍までのばらつきがある。投与直後から、自殺の傾向を高める賦活症候群の危険性がある。治験における健康な被験者でも自殺念慮や暴力の危険性が2倍であった。日本でも添付文書にて、24歳以下で自殺念慮や自殺企図の危険性を増加させることを注意喚起している。WHOガイドラインでは、12歳未満の子供については禁忌である。 急に服薬を中止した場合、ベンゾジアゼピン離脱症状に酷似した離脱症状(抗うつ薬中断症候群)を生じさせる可能性がある。離脱症状は、少なくとも2-3週間後の再発とは異なり、数時間程度で発生し、多くは軽度で1-2週間でおさまるとされるが、2018年の調査では46%が重症で、数か月までにわたることも珍しくはない。離脱症状の高い出現率を持つ薬剤、パロキセチン(パキシル)で66%やセルトラリン(ゾロフト)で60%がある。副作用に関するデータは過小評価されており、利益よりも害のほうが大きい可能性がある。 製薬会社は、特許対策のために分子構造を修正し似たような医薬品設計を行っていたが、2009年にはグラクソ・スミスクラインが、神経科学分野での採算悪化を理由に、研究を閉鎖した。その後、大手製薬会社の似たような傾向が続いた。 SSRIを、境にしてグループにすることが一般的である。例えば、日本うつ病学会の診療ガイドラインは、SSRI、SNRI、ミルタザピンなどを、「新規抗うつ薬」としてひっくるめている。あるいは研究者はこれら新規抗うつ薬を第二世代と呼ぶことが一般的である。 有効性では新規の抗うつ薬と従来の抗うつ薬とに違いはないと言う見解が混在するし、一定した結論はない。従来の抗うつ薬では、抗コリン作用による鎮静作用が強く、また自殺に用いられた際に死亡率が高い。忍容性においては新規の抗うつ薬であるが、24歳以下で自殺を誘発する賦活症候群や中止時の離脱症候群、また高齢者での死亡率の上昇など副作用の違いがある。どれが第一選択となるかということはない。 最も初期の抗うつ薬であるが、薬剤相互作用や副作用の多さから日本では抗うつ薬としてはほとんど使われず、パーキンソン病治療薬として専ら用いられている。 もっとも古い抗うつ薬で1950年代に登場した。これらの薬のセロトニンやノルアドレナリンの再取り込みの阻害が後に発見され、改良につながっていった。三環系抗うつ薬の第1世代としてはアミトリプチリン (トリプタノール、ラントロン)、イミプラミン (イミドール、トフラニール)、クロミプラミン (アナフラニール)、トリミプラミン(英語版) (スルモンチール)、ノルトリプチリン(ノリトレン)。三環系抗うつ薬の第2世代としてはアモキサピン (アモキサン)、ドスレピン(英語版)(プロチアデン)、ロフェプラミン(英語版)(アンプリット)が知られている。 初期の抗うつ薬であるが使われ続けている薬である。その理由としては、有効性という点では新規抗うつ薬が優っているとは必ずしも言えず、抗コリン作用をはじめとした多くの副作用が存在するが、緊急入院患者のような重症では有効性が高い可能性があるという見解があるためである。特徴としては三級アミンは二級アミンと比べると、鎮静作用、抗コリン作用が強く、起立性低血圧も起こしやすい。鎮静作用と体重増加の作用はヒスタミンH1受容体に対する親和性と相関している。起立性低血圧はアドレナリンα1受容体との親和性に相関している。またTCAは内服中断後、1週間は体内にとどまると考えられている。危険な副作用としてはキニジン様作用といわれる心臓障害がある。 ノルアドレナリンの再取り込みを選択的に阻害し、セロトニンの再取り込みは阻害しない。抗コリン作用はTCAよりも軽減されている傾向があるが、痙攣を起こしやすく、抗痙攣作用の強い抗不安薬(ジアゼパムやニトラゼパム)を併用することが多い。塩酸マプロチリン(ルジオミール)、塩酸ミアンセリン(テトラミド)、マレイン酸セチプチリン(テシプール)が有名である。 フルボキサミン(ルボックス、デプロメール)、パロキセチン(パキシル)、セルトラリン(ジェイゾロフト)、シタロプラム(日本未発売)、エスシタロプラム(レクサプロ)が知られている。急に服薬を中止するとSSRI離脱症候群が発現する恐れがある。強迫性障害、社交不安障害、パニック障害、心的外傷後ストレス障害に適応があるものがある。双極性障害には気分安定薬と併用しない限り禁忌である。効果発現に2週間程度必要である。投与初期(1〜2週間程度)は悪心、嘔吐、不安、焦燥、不眠といった症状が出現することがあるが継続投与で軽快、消失する。持続することもある。セロトニン受容体に対する急性刺激と考えられている。少量ではセロトニン選択性であるが、高用量となるとノルアドレナリンの再取り込みも阻害するようになる。 トリアゾロピリジン系の抗うつ薬。トラゾドン(商品名レスリン、デジレル)は、セロトニンの再取り込みを阻害する他、セロトニン5-HT2受容体の阻害作用が強い薬物である。 NaSSAは、英語: Noradrenergic and Specific Serotonergic Antidepressant の略。これまでのようにシナプスにおける神経伝達物質の再取り込みを阻害して濃度を上げるのではなく、セロトニン、ノルアドレナリンの分泌量そのものを増やす作用がある。α2ヘテロ受容体とα2受容体をふさぎ、セロトニンやノルアドレナリンが出ていないと錯覚させ分泌を促す。また、5-HT受容体にセロトニンが結びつきやすくするために、5-HT以外のセロトニン受容体をふさぐ。SSRI、SNRIと作用用途が違うため単剤処方で効果が薄いうつ病に対してはこれらの抗うつ薬を併用するカリフォルニア・ロケットという投薬が行われる場合がある。 WHOのガイドラインでは、成人のうつ病に対しての選択肢として提案されているが、一方で12歳未満には処方禁止、12歳以上の児童では第一選択肢から除外するとしている。WHO必須医薬品モデル・リストから選択することが望ましい。 英国国立医療技術評価機構(NICE)の2004年のガイドラインは、危険性/利益の比率が悪いという理由で、抗うつ薬を軽症うつ病の初期治療に用いるべきではないとしている;中等度あるいは重度のうつ病では、SSRIのほうが三環系よりも忍容性が高い;重度のうつ病では、抗うつ薬は認知行動療法のような心理療法と組み合わせるべきである。NICEの2009年の改定されたガイドラインは、危険性/利益の比率が悪いために軽症以下のうつ病に抗うつ薬を使用してはいけない(Do not use antidepressants)としている。さらに、セントジョーンズワートは、軽症あるいは中等度で利益がある可能性についても言及している。 アメリカ精神医学会による2000年の大うつ病性障害の患者の治療のための診療ガイドラインは、患者が望むなら、軽症の大うつ病性障害の最初の一次治療に抗うつ薬を投与してもよいとしている;電気痙攣療法が計画されていない、中等度から重度の大うつ病性障害では抗うつ薬を投与すべきである;精神病性うつ病には、抗精神病薬と抗うつ薬の併用、あるいは電気痙攣療法を用いるべきである。有効性は、概して分類間と分類内で同等であると示されており、最初の選択は主に個々の患者、患者の選択、医薬品と費用に関する臨床試験のデータの量と質から予想される副作用に基づく。 日本うつ病学会の2012年の大うつ病障害の治療ガイドラインでは、軽症うつ病の場合、安易な薬物療法は避けるべきであり、中等度から重症のうつ病の場合、1種類の抗うつ薬の使用を基本とし、十分な量の抗うつ薬を十分な期間に渡って投与すべきであるとされる。寛解維持期には十分な継続・維持療法を行い、抗うつ薬の投与の終結を急ぐべきではないとされる。 NICEのガイドラインでは、全般性不安障害(GAD)および強迫性障害(OCD)への第一選択肢は低強度の心理療法であり、それに効果を示さなかった場合は、選択肢の一つとしてSSRIによる薬物療法を挙げている。 線維筋痛症(FMS)の疼痛管理選択肢の一つとしてガイドラインで挙げられている。 抗うつ薬が効果を表すのは、セロトニン、ノルアドレナリン、ドパミンなどの神経伝達物質に作用するからであるとされている。しかし、三環系や四環系抗うつ薬では、抗コリン作用、抗α1作用なども併せ持っており、そのために以下のような副作用が報告されている。また、実際の症例では他の基礎疾患治療薬との併用となる事も多く、薬剤相互作用や副作用の頻度は上昇すると共に見逃され易いと指摘されている。 服用開始直後の吐き気については、これについては制吐剤(ガスモチンなど)や六君子湯などの併用によって緩和することが可能である。性欲減退についてはDNRIとの併用で解消できる場合があることが報告されている。 SSRIの主な副作用には以下が含まれるが、これだけに限定されるわけではない。セロトニン症候群、吐き気、下痢、血圧の上昇、精神運動性激越(英語版)、頭痛、不安、神経過敏、情緒不安定、自殺念慮の増加、自殺企図、不眠症、薬物間の相互作用、新生児の薬害反応、食欲不振(英語版)、口渇、眠気、振戦、性機能障害、性欲減衰、無力、消化不良、目まい、発汗、人格障害、鼻血、頻尿、月経過多、躁/軽躁、悪寒、動悸、味覚倒錯、排尿障害、傾眠、胃腸の不整、筋力低下、長期間の体重増加。 三環系抗うつ薬の一般的な副作用:口渇、かすみ目、傾眠、目まい、振戦、性的な問題、皮膚湿疹、また体重の増減。 三環系抗うつ薬の副作用には、心拍数、傾眠、口渇、便秘、尿閉、かすみ目、目まい、精神錯乱、性機能障害。毒性は、常用量で約10倍である;過剰服用では、致命的な不整脈を引き起こし致死的になることが多い。一方で、三環系抗うつ薬は、今なお特にうつ病の重症の症例での有効性を理由として、安価にまた適用外で用いられている。 1998年の162のランダム化比較試験からのSSRIと三環系抗うつ薬の有害事象の比較レビューでは、口渇、便秘、目まいではSSRIのほうが半分程度の頻度であるが、吐き気、下痢、不安、興奮、不眠症ではSSRIのほうがおよそ2倍の頻度であり、副作用の合計数では、SSRIのほうが多かった。 NaSSAの副作用には、傾眠、食欲増加、体重増加が含まれる。 2009年5月に公表された研究によれば、乳がん生存者が、抗がん剤のタモキシフェンの服用中にいくつかの抗うつ薬を用いた場合に、再発の危険性がある。 双極性うつ病においては抗うつ薬が、SSRIでは頻繁に、軽躁 (Hypomania) と躁の症状の悪化あるいは誘因となる。 妊娠中の抗うつ薬の使用は、自然流産の危険性の増加に関連している。 妊娠は感情の変動の誘因となり、うつ病に対処することを難しくする。発達中の胎児と乳児に対する危険性と反している医薬品の中断と再発の危険性が、比較検討される。一部の抗うつ薬は妊娠中の胎児に対する危険性が低いが、FDAはパキシル使用時の出生異常の危険性について忠告しており、またMAOIは避けるべきである。新生児は、出生時に抗うつ薬の突然の中断により離脱症候群が現れる可能性がある。妊娠中の抗うつ薬の使用は、自然流産、出生異常、発育遅延の危険性の増加、自閉症の危険性が2倍に増加することに結びついている。抗うつ薬は、母乳中にさまざまな量で含まれているが、乳児に対する影響は不明である。 2006年の『米国医師会雑誌』(JAMA)における産業的な公表では、妊娠中に抗うつ医薬品を中断することは再発頻度が高いことを見出した。米国医師会雑誌は後に、金銭的つながりや利害関係の衝突の可能性に言及して訂正を公表し、著者は、つながりは研究活動に関係していないと主張した。産科医で出産期医学者のアダム・ユレート(Adam Urato)は、『ウォール・ストリート・ジャーナル』で、患者と医療専門家は産業の影響から自由な状態で助言される必要があると述べた。 増量でも減量でも、抗うつ薬の服用量を変更した場合、自殺の危険性が2倍になることが認められる。 159,810人のアミトリプチリン、フルオキセチン(日本では未認可)、パロキセチン、ドチエピンの使用者からの研究から、抗うつ薬の開始から1カ月、特に最初の日から9日目の間に自殺行動の危険性が増加したことが見出された。 アメリカ食品医薬品局は、すべてのSSRIに、子供と若年者における自殺率(1,000人あたり2人から4人)を2倍にする、という黒枠警告文を命じた。しかしながら、自殺は医薬品に起因するのか、うつ病自身の要素なのかという議論がある。25歳以下の成人の自殺傾向や自殺行動の危険性の増加は、子供と若年者でのものに近い。 若い患者は、自殺念慮や行動の兆候を、とりわけ治療開始の8週間は、注意深く観察されるべきである。 米国ではFDAの警告(2007年5月)以降に若年者の自殺死者数が増加している。FDA警告の結果、若年者の抗うつ薬治療が少なくなり、結果として自殺者が増えたとすれば問題であると、日本うつ病学会の野村総一郎は述べている。 2009年の英国『モーズレイ処方ガイドライン第10版』では、うつ病の治療が希死念慮および自殺企図を防ぐ最も効果的な方法であり、ほとんどの場合、抗うつ薬による治療が最も効果的な方法だとしている。 2012年のうつ病学会シンポジウムでは、渡邊衡一郎により、米国精神医学界(APA)の治療ガイドラインでは、自殺予防の観点から抗うつ薬は特に急性期には必要と認識されていると意見されている。意見は、男女ともSSRIの処方量が増えると、自殺率は低下する。若年者への投与の減少により、若年者の自殺率が増加している。睡眠障害により自殺率は上昇する。不安障害の併存により自殺率は上昇する。アルコールや物質依存により自殺率は上昇するというものである。 しかし、2015年のアメリカ国立精神衛生研究所 (NIH) やコロラド大学の教授らによる、自殺予防の観点からの薬物療法についての論文によれば、リチウムとクロザピン(抗精神病薬)が自殺を防止するという証拠に比べれば、それ以外の抗うつ薬、あるいは抗精神病薬では、証拠に説得力がないことを報告している。ケタミンでは、投与から40分で自殺念慮を減少させており、自殺企図と死亡に関する調査はまだないが、今後の研究に期待が寄せられている。 2016年4月の研究は、抗うつ薬の長期間の使用中に自殺や自殺企図を防ぐかについて包括的なレビューによってメタアナリシスを実施し、未知の理由による試験からの脱落が多く、結論に至らなかった。また北欧コクランセンターの研究は、システマティック・レビューを行い、欧州の監督庁に提出されたデータからデュロキセチン、フルオキセチン、パロキセチン、セルトラリン、ベンラファキシンについて、成人では差がないものの小児および青年では自殺および攻撃のリスクは倍増していることや、欧州とイギリスの監督庁に提出された治験における健康な被験者の自殺念慮や暴力の危険性を2倍にしていることを見出した。前者の研究ではイーライリリー社のデータでは自殺念慮の情報が欠落しているなどの情報の不完全性があり、解明にはそうしたデータの入手が必要であるとしている。 腹圧性尿失禁に対するデュロキセチンによる治療のアメリカでの試験で予想を上回る自殺率が報告されたため、欧州医薬品庁 (EMA) に提出されたデータのメタアナリシスしたところ、人数の少なさと自殺や暴力に関連する記載の書き方を原因として信頼性のある評価が行えなかった(なお害が利益を上回っていると結論された)。 抗うつ薬が自殺を引き起こすリスクは過小評価されており、システマティックレビューは自殺行動に関するデータがほとんどないことを発見している。 食品医薬品局(FDA)の有害事象報告システム(AERS)のデータのうち、殺人や暴力の基準を満たしたものを同定し、暴力が起きた件数の79%を31つの薬で占めたが、そのうち抗うつ薬は13つである。抗うつ薬全体では8.4倍、フルオキセチン(プロザック(日本では未認可)、SSRI)で10.9倍、パロキセチン(パキシル、SSRI)10.3倍、フルボキサミン(デプロメール、SSRI)8.4倍、ベンラファキシン(SNRI)8.3倍、デスベンラファキシン(英語版)(SNRI)7.9倍、セルトラリン(ジェイゾロフト、SSRI)6.7倍、エスシタロプラム(レクサプロ、SSRI)5.0倍、シタロプラム(SSRI)4.3倍、アミトリプチリン(トリプタノール、三環系)4.2倍、トラゾドン(レスリン、デジレル)3.5倍、ミルタザピン(リフレックス、レメロン、NaSSA)3.4倍、であった。抗うつ薬の服用者の年齢が下がるほど他害行為の傾向が見られた。 #自殺の節も参照。 抗うつ薬の使用は、高齢者の転倒と関連している。 1か月以内に抗うつ薬を摂取していた場合、自動車事故の危険性が70%増加する。 トリミプラミン、ミルタザピン、ネファゾドンを除くすべての主要な抗うつ薬は、レム睡眠を抑制し、これらの薬の臨床効果は、概してレム睡眠における抑制効果に由来するという説がある。 抗うつ薬の3つの主要な種類、モノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)、三環系抗うつ薬(TCA)、選択的セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)は、レム睡眠を大きく抑制する。MAOIはほぼ完全にレム睡眠を抑制する。ミルタザピンはレム睡眠に影響がないか、それを僅かに増加させるかのどちらかである。この作用は、長期間にわたり高用量の抗うつ薬を服用している患者の疲労を増大させる原因となる。 多くの抗うつ薬(TCA、TecA、SSRIのグループからパロキセチン)は、通常は5〜25キログラムの範囲で、まれに50キログラム以上の体重増加に結びついている。約165万人からのメタアナリシスで、SSRIや主に三環系抗うつ薬であるほかの抗うつ薬の使用は、2年で2型糖尿病の危険性を68パーセント増加させる。 抗うつ薬を急に中断した場合、頻繁に、身体と精神の両方に離脱の要素のある抗うつ薬中断症候群を生じさせる。離脱症状は、抗うつ薬を6週間以上服用した後に服薬をやめた数時間から1日程度で表れる可能性があり、少なくとも2〜3週間後であるうつ病の再発とは異なる。症状は軽度なことが多いが、少数は医師による治療が必要である。 離脱症状は、SSRIのほか、三環系抗うつ薬、モノアミン酸化酵素阻害薬(日本では抗うつ薬として未認可)、非定型抗うつ薬(たとえばベンラファキシン、ミルタザピン、トラゾドン、など)で報告されている。 2018年のシステマティックレビューでは14件の研究から離脱症状の出現率は平均56%(27-86%の範囲)であり、患者への告知、ガイドラインの更新が必要とされる。46%が重症となり、症状の期間が数か月までにわたることも珍しくはない。 デンマークにおけるノルディック・コクラン・センターの研究者は、SSRI中断の兆候と症状をベンゾジアゼピン離脱症状におけるものと比較し、両方に離脱反応として依存症症候群を示し、酷似していたと結論した。ほかの場所では、SSRIが依存症を引き起こすという懸念が持ち上がっている。抗うつ薬は、時計遺伝子として知られる転写因子と相互に作用する可能性があり、薬物の依存性(薬物乱用)とおそらく肥満に関与している。6〜9か月を超える長期の治療の場合、このプロセスは抗うつ薬の初期の急性効果を妨害する(臨床効果の減少)。薬物治療の終了時にこのプロセスのみとなって離脱症状を生じさせ、再発の脆弱さが増す。このプロセスは必ずしも可逆的ではない。それどころか多くの抗うつ薬が切り替えあるいは増強されており、反耐性が起きる。 SSRI中断の離脱症状の一部を挙げる:怒り、不安、パニック、抑うつ、離人症、剥離、精神錯乱、集中力の低下、記憶の問題、号泣発作、幻覚、躁、せん妄、平衡感覚の問題、視覚障害、電撃の感覚、無感覚、知覚障害、むずむず脚、うずき、振戦、震え、パーキンソン、攻撃性、緊張。 さらに、増量でも減量でも抗うつ薬の用量の変更が生じた場合、自殺の危険性が2倍になると見られている。 離脱と反発の作用の強度を最小化するには、抗うつ薬は、減量に対する個人の反応に応じて、数週間から数カ月の期間継続すべきである。中断のためのアシュトンによる手順では、毎週か2週ごとに、残りの用量の10%の減量を勧めている。 大部分の事例では、中断症状は最後の1〜4週間まで存続するが、おそらく15%までの少数の利用者は、離脱後1年間にわたり離脱症状が持続する。 離脱症状の、出現率は全体では20%程度だが、パロキセチン(パキシル)で66%、セルトラリン(ゾロフト)で60%と薬剤によって異なり、血中半減期が短いものが出現率が高い傾向がある。 パロキセチンとベンラファキシンは、中断が特に困難なようで、18か月以上持続する長期にわたる離脱症状がパロキセチンで報告されている。いくつかのピア・サポートのグループが、患者が抗うつ薬を徐々に減らすための支援を行っている。 2013年に発行された『精神障害の診断と統計マニュアル』第5版(DSM-5)では、抗うつ薬中断症候群(Antidepressant Discontinuation Syndrome)の診断名が追加された。 なお、薬物治療抵抗性うつ病や再発性うつ病も含めた中等症から重症のうつ病にたいして抗うつ薬の効果の増強療法が選択される場合がある。#増強および併用を参照。 アミトリプチリンなどの一部の古い抗うつ剤は物忘れを引き起こすので、医師と相談する必要がある。 抗うつ薬の効果は、副作用に関連するリスクを正当化するために偽薬をしのぐべきである。うつ病の重症度の評価にハミルトンうつ病評価尺度(HAM-D)が、しばしば用いられる。HAM-Dの17項目のアンケートからの最大スコアは52点である;高いスコアがより重度のうつ病である。何が薬に対する十分な反応に相当するのかについては十分に確立されていないが、寛解あるいはすべてのうつ症状の実際の除去が目標であり、しかしながら寛解率はまれにしか公表されていない。症状軽減の割合は、抗うつ薬による46-54%に対して偽薬では31-38%である。 234の研究から、第二世代の13種の抗うつ薬シタロプラム、デスベンラファキシン(英語版)、エスシタロプラム、フルオキセチン(日本では未認可)、フルボキサミン、ミルタザピン、ネファゾドン(英語版)、パロキセチン、セルトラリン、トラゾドン、ベンラファキシン)にて、年齢、性別、民族、併発疾患を考慮しても、うつ病の急性期、継続期、維持期の治療に対して、ほかのものを上回る臨床的に意味のある優越は発見されなかった。 うつ病の薬物治療の有効性について、アメリカ国立精神衛生研究所によって委託されこれまでに最大規模かつ高額な費用がかかった研究、STAR*D (Sequenced Treatment Alternatives to Relieve Depression) が実施された。その結果の概要は以下である。STAR*Dの各過程は14週間ごとであり、従って14週後における寛解率や脱落率を表す。 この研究で比較されたどの薬の間にも、寛解率、反応率、寛解あるいは反応までの期間に、統計的あるいは意味のある臨床的な違いはない。シタロプラム、リチウム、ミルタザピン、ノルトリプチリン、セルトラリン、トリヨードサイロニン、トラニルシプロミン、ベンラファキシン徐放錠が含まれる。 2008年のランダム化比較試験のレビューは、症状の改善は、SSRIを使用して1週間目の終わりが最高で、いくらかの改善は少なくとも6週間継続したと結論した。 SSRIのフルオキセチン(日本では未認可)、パロキセチン、エスシタロプラムとSNRIデュロキセチンと偽薬では、反応があった場合、偽薬のほうが改善度が緩やかだが、すべてで時間と共に改善していく傾向が見られた。しかし、抗うつ薬に反応しなかった患者の一部、全体に対する約25%の患者は、HAM-Dスコアが高いままで、8週間では偽薬より著しく高かった。これは抗うつ薬に反応しない場合、中止すべきことを示唆していると解釈された。 うつ病は類似した症状を呈する異なる病因の病気の集合なので、抗うつ薬の予後が悪いことを示した。大うつ病性障害の定義は見当違いの可能性がある。 抗うつ薬はうつ病の根本にある原因に効果があるかについて、2002年のレビューは、使用を終了した場合、抗うつ薬がうつ病の再発の危険性を減少させるという根拠がないと結論した。このレビューの執筆者らは、対人関係療法(IPT)と認知行動療法(CBT)を挙げ、抗うつ薬を心理療法と組み合わせることを提言した。 2006年のシステマティックレビューは、増量を推奨する証拠がないことを確認した。パロキセチンの増量は、血中濃度では増加するものの、セロトニン受容体での占有率を増加させていないため、著者はSSRIの増量は推奨できないとしている。フルオキセチン(日本では未認可)、パロキセチン、シタロプラム、エスシタロプラム、セルトラリン、フルボキサミンでのメタアナリシスで、反応率は通常の開始用量の50.8%に対して高用量で開始した場合は54.8%であり、有害事象による中止率は通常量9.8%に対して高用量16.5%であり、有害事象のリスクのほうが高まった。 三環系(イミプラミン、クロミプラミン)、四環系(マプロチリン)、SSRI(フルオキセチン(日本では未認可)、シタロプラム、フルボキサミン、ミルナシプラン、セルトラリン、パロキセチン、ベンラファキシン)、MAOIs(イソカルボキサジド、フェネルジン(英語版)、モクロベミド(英語版))、非定型抗うつ薬(ネファゾドン(英語版)、ミナプリン(英語版)、ロリプラム)を、イミプラミン等価換算で有効性をメタアナリシスした研究があり、高用量は改善率を上昇させないが有害事象の発現率を上げていることが示されている。 高用量の抗うつ薬によるハミルトンうつ病評価尺度の改善度は、9.97点であったのに対し、低用量では9.57点であり、臨床的には無視できるほどの差であった。解析に使用されたのは、フルオキセチン(プロザック(日本では未認可))、パロキセチン(パキシル)、セルトラリン(ゾロフト)、ベンラファキシン(イフェクサー))、ネファゾドン(サーゾーン)、およびシタロプラム(セレクサ)のデータである。 抗うつ薬が投与された30%から50%の間の患者が反応を示さない。着実な反応があった場合でも、うつ病と機能不全の有意な継続は一般的で、そういう事例では再発率は3から6倍高い。さらに、抗うつ薬は治療の過程で効果を失っていく傾向がある。これらの限界と変動を打開するいくらかの方法が実際の診療で試みられている。薬の切り替えと増強と併用である。 STAR*Dでは、治療効果と遺伝子を解析し個人に最適化された投薬を探る目的があったが、そのようなデータは得られていない。欧州におけるNEWMEDS計画からも、セロトニン再取り込み阻害剤あるいはノルアドレナリン再取り込み阻害剤への反応性を予測する遺伝子との関連性は導き出せていない。 アメリカ精神医学会(APA)の2000年の診療ガイドラインで、抗うつ薬による治療によって6から8週目までに反応がない場合、同じ種類の別の抗うつ薬に切り替え、次に異なった種類の抗うつ薬にすることを勧告している。この方法を用いたSTAR*D研究で報告された寛解率は21%であった。 2006年のメタ分析レビューは以前の研究の研究結果に多様性を見出した;SSRI抗うつ薬に反応しなかった患者が、新しい薬に対して12%から86%の間の反応があることを示した。しかしながら、個人はすでに多くの抗うつ薬を試しているので、新しい抗うつ薬試験からの恩恵はなさそうである。 また一方、後のメタ分析は、新しい薬への切り替えと古い薬の継続との間に、違いがないことを見出している;とはいえ、新しい薬に切り替えた場合、治療抵抗性患者の34%が反応し、切り替えなしでも40%の反応があった。従って、新しい薬に対する臨床反応は、違う薬を受け取っているという信念に関連した偽薬効果の可能性がある。 アメリカ精神医学会のガイドラインは、部分的な反応に対して、増強あるいは違う種類の薬を追加することを勧めている。以下が含まれる:リチウム、甲状腺強化、ドーパミン作動薬(英語版)、性ホルモン、NRI、糖質コルチコイド特性の薬剤、また新しい抗てんかん薬STAR*D計画は、この方法で30%の寛解率を報告した。 併用戦略では、通常、作用機序が重ならないように異なる系統の抗うつ薬を追加する。とはいえ、この戦略の有効性及び副作用についてのエビデンスはまだ少ないので、より大規模な臨床試験で有効性等を実証する必要がある。STAR*D計画は、増強戦略で同じような寛解率を報告した。 薬剤を切り替えるのではなく、併用して作用増強を図ることは、単剤での副作用を緩和したり、治療抵抗性又は重度の精神病症状の悪化と治療無反応性を改善する可能性があることを示している。 シタロプラムへの抗精神病薬のリスペリドン(リスパダール)の追加は利点が示せなかった。フルオキセチン(日本では未認可)に追加したオランザピン(ジプレキサ)でも同様である。 1960年代以降、抗うつ薬の服用はうつ病の長期的転帰を悪化させるという報告がある。 1990年、アメリカ国立精神衛生研究所(英語版)は、うつ病に関する全国調査で抗うつ薬(イミプラミン)、偽薬、心理療法(2種類)を比較し、18ヶ月後の健康維持率について、心理療法(認知療法)を受けた患者群が最高(30%)、抗うつ薬を服用した患者群が最低(19%)と報告している。 1998年、世界保健機関(WHO)は、うつ病のスクリーニングの意義に関する研究を世界15都市で実施し、12ヵ月後の転帰について、抗うつ薬を服用した患者群は薬物療法を受けなかった患者群に比べて健康状態が悪いと報告している。 抗うつ薬の治療効果は一般的に薬物治療が終了すると続かず、結果として再発率が高い。31のプラセボ対照の抗うつ薬の試験の最近のメタアナリシスでは、研究期間のほとんどは1年であり、抗うつ薬に反応していた18%の患者が服薬中に再発したのに対し、抗うつ薬を偽薬に切り替えた場合41%であったことを見出した。アメリカ精神医学会のガイドラインは、症状の消失後、4〜5か月の抗うつ薬による継続治療を推奨している。うつ病エピソードの既往歴のある患者に対して、英国精神薬理学会の2000年の抗うつ薬によるうつ病治療のガイドラインは、最低でも6カ月から長くて5年あるいは無期限の抗うつ薬の継続を推奨している。 2年間の追跡では抗うつ薬を継続的に使用した約60%が再発しており、認知療法を受け薬を中止していた場合に、再発率の有意な低下が見られた。 5年の追跡によれば、1年以上薬剤を使用した患者群では再発率は23%で、6か月-12か月間使用した患者群との違いはなかった。さらに、治療上の利益は治療過程の間に漸減した。急性期の治療における薬物療法の使用後の残遺期における心理療法を伴う方法が、いくつかの試験によって提案されている。 抗うつ薬による治療を受けた再発性のうつ病患者40人で、再発した場合を除き抗うつ薬の投与を止めた場合の再発率は、2年後時点で臨床管理群(20人)では80%に対し認知行動療法群(20人)では25%、6年後時点で臨床管理群では90%に対し認知行動療法群では60%であった。 試験では偽薬へと急速に切り替えられており、重度の離脱症状を起こす可能性があることから、試験に欠陥がある可能性があり、維持療法には疑問が呈され、抗うつ薬を用いなくとも再発率は上昇しないことが示唆される。一方で、平均8.5ヶ月間の抗うつ薬による治療を受けた後の、うつ病やパニック障害の再発リスクは、2週間以上かけて徐々中止するよりも、7日以内に急速に中止した場合のほうが低いという研究結果がある。 抗うつ薬は脳内の化学的不均衡を正すという名目で処方されるが、科学的な根拠があるわけではない。 偽薬の反応率が最近の臨床試験では高くなっている(ため偽薬との効果の差が出にくくなった)と主張されているが、メタアナリシスからは実際には反応率は30年間変わっていないことが判明している。 1998年、アービング・カーシュらは、偽薬にも本物の薬の約75%の効果があると発表した。25%の差は、副作用を感じると本物だと分かり、被験者の期待感が高まるからだと説明した。分析には16種類の薬アミトリプチリン、イミプラミン、アモキサピン、マプロチリン、フルオキセチン(日本では未認可)、パロキセチン、ベンラファキシン、トラゾドン、イソカルボキサジド(日本では未認可)、フェネルジン(英語版)(日本では未認可)、トラニルシプロミン(英語版)(日本では未認可)、アミロバルビトン、アジナゾラム(英語版)、リチウム、リオチロニンの臨床試験データが用いられ、これらを4つの群「TCA(三環系・四環系)」「SSRI」「他の抗うつ薬」「他の薬」に分けた。全ての群で偽薬は本物の薬に対してほぼ75%の効果であった。 2002年、アービング・カーシュらは、情報公開法に基づき、製薬会社がアメリカ食品医薬品局(FDA)に提出した臨床試験データを入手し、分析を行った。公開されていなかったデータを含めると、75%ではなく、約82%であった。この発表は激しい議論を巻き起こした。 2004年、コクラン共同計画は、本物の薬のような副作用を持つ偽薬(活性プラセボ)を用いてシステマティック・レビューを行ったが、偽薬と抗うつ薬の間に有効性の違いは見られなかった。アービング・カーシュは、副作用のない通常の偽薬は本物の薬との差が大きくなる可能性を指摘している。 臨床試験データの隠蔽に関する裁判で、グラクソ・スミスクラインは全ての臨床試験データを開示することで合意した。医学雑誌編集者国際委員会は、一流医学誌では事前登録のない臨床試験を掲載しないとの声明を行い、世界保健機関による登録制度の構築や臨床試験の事前登録の議論へとつながった。 2007年、抗うつ薬は米国で最も問題について議論される処方薬となった。一部の医師は、人々が問題の最終的な救いを求めているサインだと考えている。他はこれらの人々が抗うつ薬に依存しすぎていると反論している。 2008年、アービング・カーシュらは、アメリカ食品医薬品局(FDA)にフルオキセチン(日本では未認可)、ベンラファキシン、ネファゾドン(英語版)、パロキセチンの臨床試験データを請求し、分析を行った。英国国立医療技術評価機構(NICE)のガイドラインで臨床的意義があるとされる基準は、効果量(英語版)が0.50以上、または抗うつ薬と偽薬とのハミルトンうつ病評価尺度(HAM-D)得点差が3点以上である。結果は、効果量0.32、得点差1.8点(抗うつ薬9.6点、偽薬7.8点)で、偽薬は抗うつ薬の82%の効果であった。カーシュはハミルトンうつ病評価尺度 (HAM-D) ではなく、医師が知覚した変化の印象に適合している全般印象評価尺度-改善度(CGI-I)にて違いを検出できず、統計的に有意な差があるだけでなく、臨床的に意味があるかどうかを医薬品の承認の際に検討すべきだとした。 世界保健機関とその関連機関は、パロキセチンの未公表試験を含めてメタ分析し、偽薬は抗うつ薬の83%の効果であった。 欧州の規制機関も、認可された抗うつ薬(SSRI、SNRI)の保有データを分析したところ、同様の結果であった。 2009年、アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)のトーマス・インセルは、偽薬効果を疑問視する証拠を挙げた上で、抗うつ薬の効果が全て偽薬効果だとしても、STAR*D計画における14週後の最適な寛解率である28%を受け入れるべきかと問い、数時間で寛解をもたらす「ケタミン」を次世代の抗うつ薬の目標にしている。 2010年、ペンシルベニア大学、バンダービルト大学、コロラド大学、ニューメキシコ大学の別々の心理学者により行われたパキシル、イミプラミンを対象とした研究では、軽症から中等度のうつ病に対して、偽薬との比較でほとんど改善度に差がないことが分かった。この研究は米国医学会誌に掲載された。このことは、重症度が増すにつれて、抗うつ薬の使用がより適切なものとなることを示唆するともいえる。 2011年、英国国立医療技術評価機構(NICE)の臨床ガイドラインは、全般性不安障害(GAD)とパニック障害に対して長期的な有効性の証拠が存在するのは抗うつ薬だけであるとしている。 厚生労働省によれば、強迫性障害の主要な治療はSSRIを主とした薬物、および認知行動療法であり、クロミプラミン、フルボキサミン、パキシルが挙げられている。 2012年、『摂食障害国際ジャーナル』誌(International Journal of Eating Disorders)の報告では、摂食障害にはいかなる薬物治療の利益も示されていないが、48.4%が抗うつ薬を処方されている。 2013年、うつ病に対する非定型抗精神病薬のメタ分析では、効果量は0.32-0.34であり、抗うつ薬と同様であった。これらの抗精神病薬には、セロトニンやドーパミンを遮断する薬剤、セロトニン・ドーパミン拮抗薬(SDA)と呼ばれる抗精神病薬が含まれる。 日本の厚生労働省は、大うつ病性障害に対し、18歳未満に投与しても効果を確認できなかったとして、添付文書を改訂し医師に慎重な投与を求めるよう日本製薬団体連合会に要請した。対象はレクサプロ、ジェイゾロフト、ルボックス、デプロメール、レメロン、リフレックス、トレドミンの7製品である。高齢者では全死亡率が高い。 2017年のシステマティックレビューは、見つかった131のランダム化比較試験すべてでバイアスのリスクが高く、統計的に有意だが、臨床的意義は疑わしく、重篤な有害事象のリスクを有意に増加させており、自殺行動、生活の質、長期的影響に関するデータはほとんどないため、小さな有益な効果を有害な影響が上回るようであると結論した。 第二次世界大戦が終わると、V2ロケットの燃料の1つであるヒドラジンの在庫を、製薬会社は非常に安価に入手し、構造を変化させて新しい化合物を作った。ホフマン・ラ・ロッシュは、ヒドラジン化合物のイソニアジドとイプロニアジドに、結核菌を死滅させる薬の特性を見出した。 1952年には、この薬による治療によって、結核患者が楽しそうに踊りだすといった多幸症の副作用が知られ、その経緯で精神科の患者で試験され、1956年にはイプロニアジドのうつ病への有効性が見出された。イプロニアジドは、モノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)の抗うつ薬である(日本の商品エフピーに、うつ病の適応はない)。 同じ頃、三環系という種類の抗うつ薬も発見された。1856年にイギリスの化学者ウィリアム・パーキンが、コールタールから得られるフェノチアジンに似た化合物が染料として用いることができることを発見した。このフェノチアジンに似た合成染料のイミノベンジル系のサマーブルーから、スイスのガイギー社がイミプラミンを合成した。1955年にローランド・クーンが、イミプラミンをメランコリーで入院中の患者に投与し、1957年にはチューリッヒの国際精神医学会議において、うつ病患者の症状を軽減させたと報告した。翌1958年に、イミプラミンはトフラニールの商品名で販売された。 また同じ頃に、うつ病を説明する仮説が生まれた。1954年に神経伝達物質であるセロトニンが脳内に存在することが報告され、 1960年にジョージ・アシュクロフトにより、うつ病ではセロトニン濃度が低くなっているかもしれないという理論が提唱された。北米ではノルアドレナリンが関与していると考えられており、1965年にアメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)のジョセフ・シルドクラウトがうつ病のカテコールアミン仮説を提唱し、うつ病では脳内のノルアドレナリンが減少し、抗うつ薬はこれを増加させるという内容である。 シルドクラウトの理論の根拠には、高血圧剤のレセルピンがウサギのセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンの濃度を減少させたことや、偽薬と比較してレセルピンが抑うつと不安の症状を改善させたという『ランセット』誌の同じ号のすぐ前のページに掲載された論文がある。しかしながら、『ランセット』誌の同じ号に掲載されたすぐ前のページ、116〜117ページに掲載された論文はレセルピンの服用者が自殺傾向を示すというものであった。1970年代には、セロトニンの減少ではないという結論に達したが、抗うつ薬のマーケティングの際に利用されていった。 ドーパミンの発見などで後にノーベル賞を受賞した神経科学者のアルビド・カールソンが、セロトニンの再取り込みだけを阻害する薬を作ろうとし、スウェーデンのアストラ社で抗ヒスタミン薬のクロルフェニラミンの化学構造を修正しジメリジン(英語版)を合成し、1972年に欧州のいくつかの国で特許が下り、1982年にツェルミドの商品名で認可された。しかしながら同じ年にアメリカ食品医薬品局の認可を得る際に、ギラン・バレー症候群という致命的な副作用が報告され、市場から消えた。これが世界初の選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)であるとされる。後にクロルフェニラミン自体にセロトニン再取り込み阻害様の作用があることが明らかになったが、特許を取ることができず、特許がなければ臨床試験を行いマーケティングを行い販売し収益を確保するといった採算の見込みはない。 ツェルミドに続いて、フランスのフルニエ社のジュラール・ル・フェールが、抗ヒスタミン薬の分子構造を修正したインダルピン(英語版)を開発し、アップステンの商品名で市場に出たが白血球減少の副作用ですぐに市場から消えた。 はじめに市場に生き残ったSSRIは、フルボキサミン(ルボックス)であり、1983年にはスイスにて販売されたのを皮切りに各国で認可されていったが、ドイツでは臨床試験中に自殺と自殺企図が生じて承認されなかった。 プロザック(日本では未認可)の認可は、アメリカとカナダで1988年、イギリスでは1989年であり、この頃までにはベンゾジアゼピン系の薬剤の危険性に関する話題は深刻になっており、不安障害の背後にうつ病があるとして販売された。 頭文字を組み合わせたSSRIという単語は、スミスクライン・ビーチャム(後のグラクソ・スミスクライン社)が、パロキセチンのマーケティングのために作ったが薬の種類を指すまでに一般化した。パロキセチンは、1991年にイギリスでセロキサット、1992年にアメリカでパキシルの商品名で市場に出た。 日本では2000年あたりから、パキシルのマーケティングのために、軽症のうつ病を病気喧伝する「心の風邪」という言葉が用いられた。 2003年から2004年にかけて、欧米でパロキセチンが小児の自殺を誘発するという試験が隠蔽されていたという話題が持ち上がると、双極性障害の売り込みへと変わっていったと、デイヴィッド・ヒーリーは主張する。他にも2003年にイギリスの医薬品・医療製品規制庁 (MHRA) は、グラクソ・スミスクラインに臨床試験開始前の自殺を偽薬群の数としてカウントすべきではないと告げ、これにはFDAは気づかなかったようだが、同様のことはプロザックでもゾロフトでも行われていた。 2010年ころから製薬会社は、既存の薬の構造を少し修正し特許を取得した模倣薬(me too drug)を販売するという手法ではすでに収益の見込みがないとみて、グラクソ・スミスクライン、アストラゼネカ、メルクなどの大手製薬会社が精神科領域の薬の開発から撤退しはじめた。 2010年には、精神科領域の4学会により、医師に対して不適切な多剤大量処方に対する注意喚起がなされている。以降、対策が立てられ2剤以上の抗うつ薬の処方は診療報酬が削減されるなどの改定があった。 1990年代後半からの約30年間の抗うつ薬の大幅な増加は、測定可能な公衆の利益を生み出していない。2013年には、架空の抗うつ薬をテーマにした映画サイド・エフェクトが公開された。 ケタミンの早い抗うつ作用が見いだされ、2015年にはアメリカでは既に医療現場で適応外使用で用いることも増えている。また、イギリスでは、医学研究審議会(MRC)の資金提供を受け、幻覚剤のシロシビンを治療抵抗性うつ病に対して用いる研究が開始され、その結果、8年から30年のうつ病を患う患者12人の約半分は、服用体験から3週間後に寛解に達した(うつ病の基準を満たさなかった)。 2012年には、グラクソ・スミスクライン(GSK)の違法なマーケティングに対して司法省は30億ドルの制裁を課したが、それには同社のパキシルの若年者で有効性を示さなかった研究と自殺の危険性を高めた研究の隠蔽、FDAによる若年者に対する承認がないにもかかわらず販売促進したことが含まれる。 ω-3脂肪酸による抗うつ作用は議論されてきた。2015年のコクラン共同計画によるシステマティック・レビューは、臨床的に有意ではない小さな効果を見出しており、また研究の質が十分ではないと結論した。2016年の別のアナリシスは、有効だということを見出した。 コクラン共同計画によるS-アデノシルメチオニン (SAMe) のレビューでは、結論を導くための質の高い研究がないとした。 L-アセチルカルニチンでのシステマティック・レビューでは、12のランダム化比較試験があり、3研究では抗うつ薬と比較して同等の効果であり副作用が抗うつ薬より少なく、また高齢者で特に有効だということを示唆した。高齢者で行われたランダム化比較試験では、フルオキセチン(プロザック)と同等の効果を示したが、1週間で効果を示し、フルオキセチンでは2週間かかった。この早い作用から異なる作用機序に注目されている。 テトラサイクリン系抗生物質のミノサイクリンは、メタアナリシス・システマティックレビューで大きな抗うつ効果が示された(効果量:-0.78 :95%CI:0.4-1.33、P=0.005 であり、前述の通り現行の抗うつ薬は0.32であり臨床的に有意な効果ではない)。抗生物質の使用は、薬剤耐性菌を生む問題があり感染症においても適正使用が言われており、感染症でもない状況での抗生物質の不適切使用は戒められる。 抗うつ薬は抗菌効果を有するという報告がある。うつ病治療における抗うつ薬の抗菌メカニズムを評価し、抗うつ薬耐性への影響を決定するために、さらなる研究が必要とされている。 抗うつ薬と膜輸送体OCTN1の薬物相互作用が研究されている。OCTN1によるエルゴチオネインの脳への取り込みは海馬歯状回における神経新生を促進し、抗うつ効果を発揮する可能性が示唆された。 モノアミン仮説以外では、ニューロキニン1(英語版)(NK1)周辺の研究がなされている。サブスタンスP受容体アンタゴニストのアプレピタントに抗うつ作用が報告された。 しかしながら、プラセボ対照二重盲検ランダム化臨床試験では有意差を示せていない。 一方、既存抗うつ薬の慢性投与では海馬でのBDNFの発現を増加させることから、ニューロンの萎縮を防止するのではないかとBDNFも注目されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "抗うつ薬(こううつやく、英: Antidepressant)とは、典型的には、抑うつ気分の持続や希死念慮を特徴とするうつ病のような気分障害 (MD)に用いられる精神科の薬である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "不安障害のうち全般性不安障害やパニック障害、社交不安障害 (SAD)、強迫性障害、心的外傷後ストレス障害 (PTSD)にも処方される。慢性疼痛、月経困難症、更年期障害、耳鳴りなどへの適応外使用が行われる場合がある。しかし適用外の処方には議論があり、アメリカ合衆国司法省による制裁が行われた例もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "モノアミン酸化酵素阻害薬と三環系抗うつ薬の抗うつ作用が偶然に発見されて以降、セロトニンとノルアドレナリンの挙動が着目され、四環系抗うつ薬、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)、セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬(SNRI)、ノルアドレナリン作動性・特異的セロトニン作動性抗うつ薬(NaSSA)が開発されてきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "抗うつ薬は、効果の発現が服薬開始から2-6週間遅れるが、しばしば1週間後までに効果が見られることもある。抗うつ薬の有効性が議論されており、軽症のうつ病に対しては、必ずしも薬剤の投与は一次選択にはなっていない。統計的には偽薬との差があるが効果は小さく、臨床的に意味がない差だとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1990年代後半から、約30年間の抗うつ薬の大幅な増加は、測定可能な公衆の利益を生み出していない。使用にあたっても1種類の抗うつ薬のみを使用する。もし抗うつ薬に対して反応がない場合でも、複数の抗うつ薬の併用はせず、有害作用が臨床上問題にならない範囲で十分量まで増量を行い、十分量まで増量しても反応が見られない場合は薬剤の変更を、一部の抑うつ症状に改善がみられるがそれ以上の改善がない場合は抗うつ効果増強療法を行う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ケタミンは、治療抵抗性うつ病に対しても時間単位で効果が現れるという即効性から、世界では用いられるケースがある。ただケタミンは解離性麻酔薬であり、薬物乱用されうる薬剤でもあることから、製薬会社はケタミンの薬理学的作用に注目した『ケタミン様薬物』の研究を進めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "抗うつ薬の使用は、口渇といった軽い副作用から、肥満や性機能障害など、様々な#副作用が併存する可能性がある。また2型糖尿病の危険性を増加させる。さらに他者に暴力を加える危険性は、抗うつ薬全体で8.4倍に増加させるが、薬剤により2.8倍から10.9倍までのばらつきがある。投与直後から、自殺の傾向を高める賦活症候群の危険性がある。治験における健康な被験者でも自殺念慮や暴力の危険性が2倍であった。日本でも添付文書にて、24歳以下で自殺念慮や自殺企図の危険性を増加させることを注意喚起している。WHOガイドラインでは、12歳未満の子供については禁忌である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "急に服薬を中止した場合、ベンゾジアゼピン離脱症状に酷似した離脱症状(抗うつ薬中断症候群)を生じさせる可能性がある。離脱症状は、少なくとも2-3週間後の再発とは異なり、数時間程度で発生し、多くは軽度で1-2週間でおさまるとされるが、2018年の調査では46%が重症で、数か月までにわたることも珍しくはない。離脱症状の高い出現率を持つ薬剤、パロキセチン(パキシル)で66%やセルトラリン(ゾロフト)で60%がある。副作用に関するデータは過小評価されており、利益よりも害のほうが大きい可能性がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "製薬会社は、特許対策のために分子構造を修正し似たような医薬品設計を行っていたが、2009年にはグラクソ・スミスクラインが、神経科学分野での採算悪化を理由に、研究を閉鎖した。その後、大手製薬会社の似たような傾向が続いた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "SSRIを、境にしてグループにすることが一般的である。例えば、日本うつ病学会の診療ガイドラインは、SSRI、SNRI、ミルタザピンなどを、「新規抗うつ薬」としてひっくるめている。あるいは研究者はこれら新規抗うつ薬を第二世代と呼ぶことが一般的である。", "title": "抗うつ薬の種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "有効性では新規の抗うつ薬と従来の抗うつ薬とに違いはないと言う見解が混在するし、一定した結論はない。従来の抗うつ薬では、抗コリン作用による鎮静作用が強く、また自殺に用いられた際に死亡率が高い。忍容性においては新規の抗うつ薬であるが、24歳以下で自殺を誘発する賦活症候群や中止時の離脱症候群、また高齢者での死亡率の上昇など副作用の違いがある。どれが第一選択となるかということはない。", "title": "抗うつ薬の種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "最も初期の抗うつ薬であるが、薬剤相互作用や副作用の多さから日本では抗うつ薬としてはほとんど使われず、パーキンソン病治療薬として専ら用いられている。", "title": "抗うつ薬の種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "もっとも古い抗うつ薬で1950年代に登場した。これらの薬のセロトニンやノルアドレナリンの再取り込みの阻害が後に発見され、改良につながっていった。三環系抗うつ薬の第1世代としてはアミトリプチリン (トリプタノール、ラントロン)、イミプラミン (イミドール、トフラニール)、クロミプラミン (アナフラニール)、トリミプラミン(英語版) (スルモンチール)、ノルトリプチリン(ノリトレン)。三環系抗うつ薬の第2世代としてはアモキサピン (アモキサン)、ドスレピン(英語版)(プロチアデン)、ロフェプラミン(英語版)(アンプリット)が知られている。", "title": "抗うつ薬の種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "初期の抗うつ薬であるが使われ続けている薬である。その理由としては、有効性という点では新規抗うつ薬が優っているとは必ずしも言えず、抗コリン作用をはじめとした多くの副作用が存在するが、緊急入院患者のような重症では有効性が高い可能性があるという見解があるためである。特徴としては三級アミンは二級アミンと比べると、鎮静作用、抗コリン作用が強く、起立性低血圧も起こしやすい。鎮静作用と体重増加の作用はヒスタミンH1受容体に対する親和性と相関している。起立性低血圧はアドレナリンα1受容体との親和性に相関している。またTCAは内服中断後、1週間は体内にとどまると考えられている。危険な副作用としてはキニジン様作用といわれる心臓障害がある。", "title": "抗うつ薬の種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ノルアドレナリンの再取り込みを選択的に阻害し、セロトニンの再取り込みは阻害しない。抗コリン作用はTCAよりも軽減されている傾向があるが、痙攣を起こしやすく、抗痙攣作用の強い抗不安薬(ジアゼパムやニトラゼパム)を併用することが多い。塩酸マプロチリン(ルジオミール)、塩酸ミアンセリン(テトラミド)、マレイン酸セチプチリン(テシプール)が有名である。", "title": "抗うつ薬の種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "フルボキサミン(ルボックス、デプロメール)、パロキセチン(パキシル)、セルトラリン(ジェイゾロフト)、シタロプラム(日本未発売)、エスシタロプラム(レクサプロ)が知られている。急に服薬を中止するとSSRI離脱症候群が発現する恐れがある。強迫性障害、社交不安障害、パニック障害、心的外傷後ストレス障害に適応があるものがある。双極性障害には気分安定薬と併用しない限り禁忌である。効果発現に2週間程度必要である。投与初期(1〜2週間程度)は悪心、嘔吐、不安、焦燥、不眠といった症状が出現することがあるが継続投与で軽快、消失する。持続することもある。セロトニン受容体に対する急性刺激と考えられている。少量ではセロトニン選択性であるが、高用量となるとノルアドレナリンの再取り込みも阻害するようになる。", "title": "抗うつ薬の種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "トリアゾロピリジン系の抗うつ薬。トラゾドン(商品名レスリン、デジレル)は、セロトニンの再取り込みを阻害する他、セロトニン5-HT2受容体の阻害作用が強い薬物である。", "title": "抗うつ薬の種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "NaSSAは、英語: Noradrenergic and Specific Serotonergic Antidepressant の略。これまでのようにシナプスにおける神経伝達物質の再取り込みを阻害して濃度を上げるのではなく、セロトニン、ノルアドレナリンの分泌量そのものを増やす作用がある。α2ヘテロ受容体とα2受容体をふさぎ、セロトニンやノルアドレナリンが出ていないと錯覚させ分泌を促す。また、5-HT受容体にセロトニンが結びつきやすくするために、5-HT以外のセロトニン受容体をふさぐ。SSRI、SNRIと作用用途が違うため単剤処方で効果が薄いうつ病に対してはこれらの抗うつ薬を併用するカリフォルニア・ロケットという投薬が行われる場合がある。", "title": "抗うつ薬の種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "WHOのガイドラインでは、成人のうつ病に対しての選択肢として提案されているが、一方で12歳未満には処方禁止、12歳以上の児童では第一選択肢から除外するとしている。WHO必須医薬品モデル・リストから選択することが望ましい。", "title": "医療用途" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "英国国立医療技術評価機構(NICE)の2004年のガイドラインは、危険性/利益の比率が悪いという理由で、抗うつ薬を軽症うつ病の初期治療に用いるべきではないとしている;中等度あるいは重度のうつ病では、SSRIのほうが三環系よりも忍容性が高い;重度のうつ病では、抗うつ薬は認知行動療法のような心理療法と組み合わせるべきである。NICEの2009年の改定されたガイドラインは、危険性/利益の比率が悪いために軽症以下のうつ病に抗うつ薬を使用してはいけない(Do not use antidepressants)としている。さらに、セントジョーンズワートは、軽症あるいは中等度で利益がある可能性についても言及している。", "title": "医療用途" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アメリカ精神医学会による2000年の大うつ病性障害の患者の治療のための診療ガイドラインは、患者が望むなら、軽症の大うつ病性障害の最初の一次治療に抗うつ薬を投与してもよいとしている;電気痙攣療法が計画されていない、中等度から重度の大うつ病性障害では抗うつ薬を投与すべきである;精神病性うつ病には、抗精神病薬と抗うつ薬の併用、あるいは電気痙攣療法を用いるべきである。有効性は、概して分類間と分類内で同等であると示されており、最初の選択は主に個々の患者、患者の選択、医薬品と費用に関する臨床試験のデータの量と質から予想される副作用に基づく。", "title": "医療用途" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本うつ病学会の2012年の大うつ病障害の治療ガイドラインでは、軽症うつ病の場合、安易な薬物療法は避けるべきであり、中等度から重症のうつ病の場合、1種類の抗うつ薬の使用を基本とし、十分な量の抗うつ薬を十分な期間に渡って投与すべきであるとされる。寛解維持期には十分な継続・維持療法を行い、抗うつ薬の投与の終結を急ぐべきではないとされる。", "title": "医療用途" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "NICEのガイドラインでは、全般性不安障害(GAD)および強迫性障害(OCD)への第一選択肢は低強度の心理療法であり、それに効果を示さなかった場合は、選択肢の一つとしてSSRIによる薬物療法を挙げている。", "title": "医療用途" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "線維筋痛症(FMS)の疼痛管理選択肢の一つとしてガイドラインで挙げられている。", "title": "医療用途" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "抗うつ薬が効果を表すのは、セロトニン、ノルアドレナリン、ドパミンなどの神経伝達物質に作用するからであるとされている。しかし、三環系や四環系抗うつ薬では、抗コリン作用、抗α1作用なども併せ持っており、そのために以下のような副作用が報告されている。また、実際の症例では他の基礎疾患治療薬との併用となる事も多く、薬剤相互作用や副作用の頻度は上昇すると共に見逃され易いと指摘されている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "服用開始直後の吐き気については、これについては制吐剤(ガスモチンなど)や六君子湯などの併用によって緩和することが可能である。性欲減退についてはDNRIとの併用で解消できる場合があることが報告されている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "SSRIの主な副作用には以下が含まれるが、これだけに限定されるわけではない。セロトニン症候群、吐き気、下痢、血圧の上昇、精神運動性激越(英語版)、頭痛、不安、神経過敏、情緒不安定、自殺念慮の増加、自殺企図、不眠症、薬物間の相互作用、新生児の薬害反応、食欲不振(英語版)、口渇、眠気、振戦、性機能障害、性欲減衰、無力、消化不良、目まい、発汗、人格障害、鼻血、頻尿、月経過多、躁/軽躁、悪寒、動悸、味覚倒錯、排尿障害、傾眠、胃腸の不整、筋力低下、長期間の体重増加。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "三環系抗うつ薬の一般的な副作用:口渇、かすみ目、傾眠、目まい、振戦、性的な問題、皮膚湿疹、また体重の増減。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "三環系抗うつ薬の副作用には、心拍数、傾眠、口渇、便秘、尿閉、かすみ目、目まい、精神錯乱、性機能障害。毒性は、常用量で約10倍である;過剰服用では、致命的な不整脈を引き起こし致死的になることが多い。一方で、三環系抗うつ薬は、今なお特にうつ病の重症の症例での有効性を理由として、安価にまた適用外で用いられている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1998年の162のランダム化比較試験からのSSRIと三環系抗うつ薬の有害事象の比較レビューでは、口渇、便秘、目まいではSSRIのほうが半分程度の頻度であるが、吐き気、下痢、不安、興奮、不眠症ではSSRIのほうがおよそ2倍の頻度であり、副作用の合計数では、SSRIのほうが多かった。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "NaSSAの副作用には、傾眠、食欲増加、体重増加が含まれる。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2009年5月に公表された研究によれば、乳がん生存者が、抗がん剤のタモキシフェンの服用中にいくつかの抗うつ薬を用いた場合に、再発の危険性がある。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "双極性うつ病においては抗うつ薬が、SSRIでは頻繁に、軽躁 (Hypomania) と躁の症状の悪化あるいは誘因となる。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "妊娠中の抗うつ薬の使用は、自然流産の危険性の増加に関連している。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "妊娠は感情の変動の誘因となり、うつ病に対処することを難しくする。発達中の胎児と乳児に対する危険性と反している医薬品の中断と再発の危険性が、比較検討される。一部の抗うつ薬は妊娠中の胎児に対する危険性が低いが、FDAはパキシル使用時の出生異常の危険性について忠告しており、またMAOIは避けるべきである。新生児は、出生時に抗うつ薬の突然の中断により離脱症候群が現れる可能性がある。妊娠中の抗うつ薬の使用は、自然流産、出生異常、発育遅延の危険性の増加、自閉症の危険性が2倍に増加することに結びついている。抗うつ薬は、母乳中にさまざまな量で含まれているが、乳児に対する影響は不明である。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2006年の『米国医師会雑誌』(JAMA)における産業的な公表では、妊娠中に抗うつ医薬品を中断することは再発頻度が高いことを見出した。米国医師会雑誌は後に、金銭的つながりや利害関係の衝突の可能性に言及して訂正を公表し、著者は、つながりは研究活動に関係していないと主張した。産科医で出産期医学者のアダム・ユレート(Adam Urato)は、『ウォール・ストリート・ジャーナル』で、患者と医療専門家は産業の影響から自由な状態で助言される必要があると述べた。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "増量でも減量でも、抗うつ薬の服用量を変更した場合、自殺の危険性が2倍になることが認められる。 159,810人のアミトリプチリン、フルオキセチン(日本では未認可)、パロキセチン、ドチエピンの使用者からの研究から、抗うつ薬の開始から1カ月、特に最初の日から9日目の間に自殺行動の危険性が増加したことが見出された。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アメリカ食品医薬品局は、すべてのSSRIに、子供と若年者における自殺率(1,000人あたり2人から4人)を2倍にする、という黒枠警告文を命じた。しかしながら、自殺は医薬品に起因するのか、うつ病自身の要素なのかという議論がある。25歳以下の成人の自殺傾向や自殺行動の危険性の増加は、子供と若年者でのものに近い。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "若い患者は、自殺念慮や行動の兆候を、とりわけ治療開始の8週間は、注意深く観察されるべきである。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "米国ではFDAの警告(2007年5月)以降に若年者の自殺死者数が増加している。FDA警告の結果、若年者の抗うつ薬治療が少なくなり、結果として自殺者が増えたとすれば問題であると、日本うつ病学会の野村総一郎は述べている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2009年の英国『モーズレイ処方ガイドライン第10版』では、うつ病の治療が希死念慮および自殺企図を防ぐ最も効果的な方法であり、ほとんどの場合、抗うつ薬による治療が最も効果的な方法だとしている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2012年のうつ病学会シンポジウムでは、渡邊衡一郎により、米国精神医学界(APA)の治療ガイドラインでは、自殺予防の観点から抗うつ薬は特に急性期には必要と認識されていると意見されている。意見は、男女ともSSRIの処方量が増えると、自殺率は低下する。若年者への投与の減少により、若年者の自殺率が増加している。睡眠障害により自殺率は上昇する。不安障害の併存により自殺率は上昇する。アルコールや物質依存により自殺率は上昇するというものである。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "しかし、2015年のアメリカ国立精神衛生研究所 (NIH) やコロラド大学の教授らによる、自殺予防の観点からの薬物療法についての論文によれば、リチウムとクロザピン(抗精神病薬)が自殺を防止するという証拠に比べれば、それ以外の抗うつ薬、あるいは抗精神病薬では、証拠に説得力がないことを報告している。ケタミンでは、投与から40分で自殺念慮を減少させており、自殺企図と死亡に関する調査はまだないが、今後の研究に期待が寄せられている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2016年4月の研究は、抗うつ薬の長期間の使用中に自殺や自殺企図を防ぐかについて包括的なレビューによってメタアナリシスを実施し、未知の理由による試験からの脱落が多く、結論に至らなかった。また北欧コクランセンターの研究は、システマティック・レビューを行い、欧州の監督庁に提出されたデータからデュロキセチン、フルオキセチン、パロキセチン、セルトラリン、ベンラファキシンについて、成人では差がないものの小児および青年では自殺および攻撃のリスクは倍増していることや、欧州とイギリスの監督庁に提出された治験における健康な被験者の自殺念慮や暴力の危険性を2倍にしていることを見出した。前者の研究ではイーライリリー社のデータでは自殺念慮の情報が欠落しているなどの情報の不完全性があり、解明にはそうしたデータの入手が必要であるとしている。 腹圧性尿失禁に対するデュロキセチンによる治療のアメリカでの試験で予想を上回る自殺率が報告されたため、欧州医薬品庁 (EMA) に提出されたデータのメタアナリシスしたところ、人数の少なさと自殺や暴力に関連する記載の書き方を原因として信頼性のある評価が行えなかった(なお害が利益を上回っていると結論された)。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "抗うつ薬が自殺を引き起こすリスクは過小評価されており、システマティックレビューは自殺行動に関するデータがほとんどないことを発見している。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "食品医薬品局(FDA)の有害事象報告システム(AERS)のデータのうち、殺人や暴力の基準を満たしたものを同定し、暴力が起きた件数の79%を31つの薬で占めたが、そのうち抗うつ薬は13つである。抗うつ薬全体では8.4倍、フルオキセチン(プロザック(日本では未認可)、SSRI)で10.9倍、パロキセチン(パキシル、SSRI)10.3倍、フルボキサミン(デプロメール、SSRI)8.4倍、ベンラファキシン(SNRI)8.3倍、デスベンラファキシン(英語版)(SNRI)7.9倍、セルトラリン(ジェイゾロフト、SSRI)6.7倍、エスシタロプラム(レクサプロ、SSRI)5.0倍、シタロプラム(SSRI)4.3倍、アミトリプチリン(トリプタノール、三環系)4.2倍、トラゾドン(レスリン、デジレル)3.5倍、ミルタザピン(リフレックス、レメロン、NaSSA)3.4倍、であった。抗うつ薬の服用者の年齢が下がるほど他害行為の傾向が見られた。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "#自殺の節も参照。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "抗うつ薬の使用は、高齢者の転倒と関連している。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1か月以内に抗うつ薬を摂取していた場合、自動車事故の危険性が70%増加する。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "トリミプラミン、ミルタザピン、ネファゾドンを除くすべての主要な抗うつ薬は、レム睡眠を抑制し、これらの薬の臨床効果は、概してレム睡眠における抑制効果に由来するという説がある。 抗うつ薬の3つの主要な種類、モノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)、三環系抗うつ薬(TCA)、選択的セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)は、レム睡眠を大きく抑制する。MAOIはほぼ完全にレム睡眠を抑制する。ミルタザピンはレム睡眠に影響がないか、それを僅かに増加させるかのどちらかである。この作用は、長期間にわたり高用量の抗うつ薬を服用している患者の疲労を増大させる原因となる。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "多くの抗うつ薬(TCA、TecA、SSRIのグループからパロキセチン)は、通常は5〜25キログラムの範囲で、まれに50キログラム以上の体重増加に結びついている。約165万人からのメタアナリシスで、SSRIや主に三環系抗うつ薬であるほかの抗うつ薬の使用は、2年で2型糖尿病の危険性を68パーセント増加させる。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "抗うつ薬を急に中断した場合、頻繁に、身体と精神の両方に離脱の要素のある抗うつ薬中断症候群を生じさせる。離脱症状は、抗うつ薬を6週間以上服用した後に服薬をやめた数時間から1日程度で表れる可能性があり、少なくとも2〜3週間後であるうつ病の再発とは異なる。症状は軽度なことが多いが、少数は医師による治療が必要である。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "離脱症状は、SSRIのほか、三環系抗うつ薬、モノアミン酸化酵素阻害薬(日本では抗うつ薬として未認可)、非定型抗うつ薬(たとえばベンラファキシン、ミルタザピン、トラゾドン、など)で報告されている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2018年のシステマティックレビューでは14件の研究から離脱症状の出現率は平均56%(27-86%の範囲)であり、患者への告知、ガイドラインの更新が必要とされる。46%が重症となり、症状の期間が数か月までにわたることも珍しくはない。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "デンマークにおけるノルディック・コクラン・センターの研究者は、SSRI中断の兆候と症状をベンゾジアゼピン離脱症状におけるものと比較し、両方に離脱反応として依存症症候群を示し、酷似していたと結論した。ほかの場所では、SSRIが依存症を引き起こすという懸念が持ち上がっている。抗うつ薬は、時計遺伝子として知られる転写因子と相互に作用する可能性があり、薬物の依存性(薬物乱用)とおそらく肥満に関与している。6〜9か月を超える長期の治療の場合、このプロセスは抗うつ薬の初期の急性効果を妨害する(臨床効果の減少)。薬物治療の終了時にこのプロセスのみとなって離脱症状を生じさせ、再発の脆弱さが増す。このプロセスは必ずしも可逆的ではない。それどころか多くの抗うつ薬が切り替えあるいは増強されており、反耐性が起きる。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "SSRI中断の離脱症状の一部を挙げる:怒り、不安、パニック、抑うつ、離人症、剥離、精神錯乱、集中力の低下、記憶の問題、号泣発作、幻覚、躁、せん妄、平衡感覚の問題、視覚障害、電撃の感覚、無感覚、知覚障害、むずむず脚、うずき、振戦、震え、パーキンソン、攻撃性、緊張。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "さらに、増量でも減量でも抗うつ薬の用量の変更が生じた場合、自殺の危険性が2倍になると見られている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "離脱と反発の作用の強度を最小化するには、抗うつ薬は、減量に対する個人の反応に応じて、数週間から数カ月の期間継続すべきである。中断のためのアシュトンによる手順では、毎週か2週ごとに、残りの用量の10%の減量を勧めている。 大部分の事例では、中断症状は最後の1〜4週間まで存続するが、おそらく15%までの少数の利用者は、離脱後1年間にわたり離脱症状が持続する。 離脱症状の、出現率は全体では20%程度だが、パロキセチン(パキシル)で66%、セルトラリン(ゾロフト)で60%と薬剤によって異なり、血中半減期が短いものが出現率が高い傾向がある。 パロキセチンとベンラファキシンは、中断が特に困難なようで、18か月以上持続する長期にわたる離脱症状がパロキセチンで報告されている。いくつかのピア・サポートのグループが、患者が抗うつ薬を徐々に減らすための支援を行っている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2013年に発行された『精神障害の診断と統計マニュアル』第5版(DSM-5)では、抗うつ薬中断症候群(Antidepressant Discontinuation Syndrome)の診断名が追加された。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "なお、薬物治療抵抗性うつ病や再発性うつ病も含めた中等症から重症のうつ病にたいして抗うつ薬の効果の増強療法が選択される場合がある。#増強および併用を参照。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アミトリプチリンなどの一部の古い抗うつ剤は物忘れを引き起こすので、医師と相談する必要がある。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "抗うつ薬の効果は、副作用に関連するリスクを正当化するために偽薬をしのぐべきである。うつ病の重症度の評価にハミルトンうつ病評価尺度(HAM-D)が、しばしば用いられる。HAM-Dの17項目のアンケートからの最大スコアは52点である;高いスコアがより重度のうつ病である。何が薬に対する十分な反応に相当するのかについては十分に確立されていないが、寛解あるいはすべてのうつ症状の実際の除去が目標であり、しかしながら寛解率はまれにしか公表されていない。症状軽減の割合は、抗うつ薬による46-54%に対して偽薬では31-38%である。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "234の研究から、第二世代の13種の抗うつ薬シタロプラム、デスベンラファキシン(英語版)、エスシタロプラム、フルオキセチン(日本では未認可)、フルボキサミン、ミルタザピン、ネファゾドン(英語版)、パロキセチン、セルトラリン、トラゾドン、ベンラファキシン)にて、年齢、性別、民族、併発疾患を考慮しても、うつ病の急性期、継続期、維持期の治療に対して、ほかのものを上回る臨床的に意味のある優越は発見されなかった。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "うつ病の薬物治療の有効性について、アメリカ国立精神衛生研究所によって委託されこれまでに最大規模かつ高額な費用がかかった研究、STAR*D (Sequenced Treatment Alternatives to Relieve Depression) が実施された。その結果の概要は以下である。STAR*Dの各過程は14週間ごとであり、従って14週後における寛解率や脱落率を表す。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "この研究で比較されたどの薬の間にも、寛解率、反応率、寛解あるいは反応までの期間に、統計的あるいは意味のある臨床的な違いはない。シタロプラム、リチウム、ミルタザピン、ノルトリプチリン、セルトラリン、トリヨードサイロニン、トラニルシプロミン、ベンラファキシン徐放錠が含まれる。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2008年のランダム化比較試験のレビューは、症状の改善は、SSRIを使用して1週間目の終わりが最高で、いくらかの改善は少なくとも6週間継続したと結論した。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "SSRIのフルオキセチン(日本では未認可)、パロキセチン、エスシタロプラムとSNRIデュロキセチンと偽薬では、反応があった場合、偽薬のほうが改善度が緩やかだが、すべてで時間と共に改善していく傾向が見られた。しかし、抗うつ薬に反応しなかった患者の一部、全体に対する約25%の患者は、HAM-Dスコアが高いままで、8週間では偽薬より著しく高かった。これは抗うつ薬に反応しない場合、中止すべきことを示唆していると解釈された。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "うつ病は類似した症状を呈する異なる病因の病気の集合なので、抗うつ薬の予後が悪いことを示した。大うつ病性障害の定義は見当違いの可能性がある。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "抗うつ薬はうつ病の根本にある原因に効果があるかについて、2002年のレビューは、使用を終了した場合、抗うつ薬がうつ病の再発の危険性を減少させるという根拠がないと結論した。このレビューの執筆者らは、対人関係療法(IPT)と認知行動療法(CBT)を挙げ、抗うつ薬を心理療法と組み合わせることを提言した。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2006年のシステマティックレビューは、増量を推奨する証拠がないことを確認した。パロキセチンの増量は、血中濃度では増加するものの、セロトニン受容体での占有率を増加させていないため、著者はSSRIの増量は推奨できないとしている。フルオキセチン(日本では未認可)、パロキセチン、シタロプラム、エスシタロプラム、セルトラリン、フルボキサミンでのメタアナリシスで、反応率は通常の開始用量の50.8%に対して高用量で開始した場合は54.8%であり、有害事象による中止率は通常量9.8%に対して高用量16.5%であり、有害事象のリスクのほうが高まった。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "三環系(イミプラミン、クロミプラミン)、四環系(マプロチリン)、SSRI(フルオキセチン(日本では未認可)、シタロプラム、フルボキサミン、ミルナシプラン、セルトラリン、パロキセチン、ベンラファキシン)、MAOIs(イソカルボキサジド、フェネルジン(英語版)、モクロベミド(英語版))、非定型抗うつ薬(ネファゾドン(英語版)、ミナプリン(英語版)、ロリプラム)を、イミプラミン等価換算で有効性をメタアナリシスした研究があり、高用量は改善率を上昇させないが有害事象の発現率を上げていることが示されている。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "高用量の抗うつ薬によるハミルトンうつ病評価尺度の改善度は、9.97点であったのに対し、低用量では9.57点であり、臨床的には無視できるほどの差であった。解析に使用されたのは、フルオキセチン(プロザック(日本では未認可))、パロキセチン(パキシル)、セルトラリン(ゾロフト)、ベンラファキシン(イフェクサー))、ネファゾドン(サーゾーン)、およびシタロプラム(セレクサ)のデータである。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "抗うつ薬が投与された30%から50%の間の患者が反応を示さない。着実な反応があった場合でも、うつ病と機能不全の有意な継続は一般的で、そういう事例では再発率は3から6倍高い。さらに、抗うつ薬は治療の過程で効果を失っていく傾向がある。これらの限界と変動を打開するいくらかの方法が実際の診療で試みられている。薬の切り替えと増強と併用である。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "STAR*Dでは、治療効果と遺伝子を解析し個人に最適化された投薬を探る目的があったが、そのようなデータは得られていない。欧州におけるNEWMEDS計画からも、セロトニン再取り込み阻害剤あるいはノルアドレナリン再取り込み阻害剤への反応性を予測する遺伝子との関連性は導き出せていない。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "アメリカ精神医学会(APA)の2000年の診療ガイドラインで、抗うつ薬による治療によって6から8週目までに反応がない場合、同じ種類の別の抗うつ薬に切り替え、次に異なった種類の抗うつ薬にすることを勧告している。この方法を用いたSTAR*D研究で報告された寛解率は21%であった。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2006年のメタ分析レビューは以前の研究の研究結果に多様性を見出した;SSRI抗うつ薬に反応しなかった患者が、新しい薬に対して12%から86%の間の反応があることを示した。しかしながら、個人はすでに多くの抗うつ薬を試しているので、新しい抗うつ薬試験からの恩恵はなさそうである。 また一方、後のメタ分析は、新しい薬への切り替えと古い薬の継続との間に、違いがないことを見出している;とはいえ、新しい薬に切り替えた場合、治療抵抗性患者の34%が反応し、切り替えなしでも40%の反応があった。従って、新しい薬に対する臨床反応は、違う薬を受け取っているという信念に関連した偽薬効果の可能性がある。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "アメリカ精神医学会のガイドラインは、部分的な反応に対して、増強あるいは違う種類の薬を追加することを勧めている。以下が含まれる:リチウム、甲状腺強化、ドーパミン作動薬(英語版)、性ホルモン、NRI、糖質コルチコイド特性の薬剤、また新しい抗てんかん薬STAR*D計画は、この方法で30%の寛解率を報告した。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "併用戦略では、通常、作用機序が重ならないように異なる系統の抗うつ薬を追加する。とはいえ、この戦略の有効性及び副作用についてのエビデンスはまだ少ないので、より大規模な臨床試験で有効性等を実証する必要がある。STAR*D計画は、増強戦略で同じような寛解率を報告した。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "薬剤を切り替えるのではなく、併用して作用増強を図ることは、単剤での副作用を緩和したり、治療抵抗性又は重度の精神病症状の悪化と治療無反応性を改善する可能性があることを示している。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "シタロプラムへの抗精神病薬のリスペリドン(リスパダール)の追加は利点が示せなかった。フルオキセチン(日本では未認可)に追加したオランザピン(ジプレキサ)でも同様である。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1960年代以降、抗うつ薬の服用はうつ病の長期的転帰を悪化させるという報告がある。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1990年、アメリカ国立精神衛生研究所(英語版)は、うつ病に関する全国調査で抗うつ薬(イミプラミン)、偽薬、心理療法(2種類)を比較し、18ヶ月後の健康維持率について、心理療法(認知療法)を受けた患者群が最高(30%)、抗うつ薬を服用した患者群が最低(19%)と報告している。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1998年、世界保健機関(WHO)は、うつ病のスクリーニングの意義に関する研究を世界15都市で実施し、12ヵ月後の転帰について、抗うつ薬を服用した患者群は薬物療法を受けなかった患者群に比べて健康状態が悪いと報告している。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "抗うつ薬の治療効果は一般的に薬物治療が終了すると続かず、結果として再発率が高い。31のプラセボ対照の抗うつ薬の試験の最近のメタアナリシスでは、研究期間のほとんどは1年であり、抗うつ薬に反応していた18%の患者が服薬中に再発したのに対し、抗うつ薬を偽薬に切り替えた場合41%であったことを見出した。アメリカ精神医学会のガイドラインは、症状の消失後、4〜5か月の抗うつ薬による継続治療を推奨している。うつ病エピソードの既往歴のある患者に対して、英国精神薬理学会の2000年の抗うつ薬によるうつ病治療のガイドラインは、最低でも6カ月から長くて5年あるいは無期限の抗うつ薬の継続を推奨している。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2年間の追跡では抗うつ薬を継続的に使用した約60%が再発しており、認知療法を受け薬を中止していた場合に、再発率の有意な低下が見られた。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "5年の追跡によれば、1年以上薬剤を使用した患者群では再発率は23%で、6か月-12か月間使用した患者群との違いはなかった。さらに、治療上の利益は治療過程の間に漸減した。急性期の治療における薬物療法の使用後の残遺期における心理療法を伴う方法が、いくつかの試験によって提案されている。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "抗うつ薬による治療を受けた再発性のうつ病患者40人で、再発した場合を除き抗うつ薬の投与を止めた場合の再発率は、2年後時点で臨床管理群(20人)では80%に対し認知行動療法群(20人)では25%、6年後時点で臨床管理群では90%に対し認知行動療法群では60%であった。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "試験では偽薬へと急速に切り替えられており、重度の離脱症状を起こす可能性があることから、試験に欠陥がある可能性があり、維持療法には疑問が呈され、抗うつ薬を用いなくとも再発率は上昇しないことが示唆される。一方で、平均8.5ヶ月間の抗うつ薬による治療を受けた後の、うつ病やパニック障害の再発リスクは、2週間以上かけて徐々中止するよりも、7日以内に急速に中止した場合のほうが低いという研究結果がある。", "title": "治療効果" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "抗うつ薬は脳内の化学的不均衡を正すという名目で処方されるが、科学的な根拠があるわけではない。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "偽薬の反応率が最近の臨床試験では高くなっている(ため偽薬との効果の差が出にくくなった)と主張されているが、メタアナリシスからは実際には反応率は30年間変わっていないことが判明している。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1998年、アービング・カーシュらは、偽薬にも本物の薬の約75%の効果があると発表した。25%の差は、副作用を感じると本物だと分かり、被験者の期待感が高まるからだと説明した。分析には16種類の薬アミトリプチリン、イミプラミン、アモキサピン、マプロチリン、フルオキセチン(日本では未認可)、パロキセチン、ベンラファキシン、トラゾドン、イソカルボキサジド(日本では未認可)、フェネルジン(英語版)(日本では未認可)、トラニルシプロミン(英語版)(日本では未認可)、アミロバルビトン、アジナゾラム(英語版)、リチウム、リオチロニンの臨床試験データが用いられ、これらを4つの群「TCA(三環系・四環系)」「SSRI」「他の抗うつ薬」「他の薬」に分けた。全ての群で偽薬は本物の薬に対してほぼ75%の効果であった。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2002年、アービング・カーシュらは、情報公開法に基づき、製薬会社がアメリカ食品医薬品局(FDA)に提出した臨床試験データを入手し、分析を行った。公開されていなかったデータを含めると、75%ではなく、約82%であった。この発表は激しい議論を巻き起こした。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2004年、コクラン共同計画は、本物の薬のような副作用を持つ偽薬(活性プラセボ)を用いてシステマティック・レビューを行ったが、偽薬と抗うつ薬の間に有効性の違いは見られなかった。アービング・カーシュは、副作用のない通常の偽薬は本物の薬との差が大きくなる可能性を指摘している。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "臨床試験データの隠蔽に関する裁判で、グラクソ・スミスクラインは全ての臨床試験データを開示することで合意した。医学雑誌編集者国際委員会は、一流医学誌では事前登録のない臨床試験を掲載しないとの声明を行い、世界保健機関による登録制度の構築や臨床試験の事前登録の議論へとつながった。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2007年、抗うつ薬は米国で最も問題について議論される処方薬となった。一部の医師は、人々が問題の最終的な救いを求めているサインだと考えている。他はこれらの人々が抗うつ薬に依存しすぎていると反論している。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2008年、アービング・カーシュらは、アメリカ食品医薬品局(FDA)にフルオキセチン(日本では未認可)、ベンラファキシン、ネファゾドン(英語版)、パロキセチンの臨床試験データを請求し、分析を行った。英国国立医療技術評価機構(NICE)のガイドラインで臨床的意義があるとされる基準は、効果量(英語版)が0.50以上、または抗うつ薬と偽薬とのハミルトンうつ病評価尺度(HAM-D)得点差が3点以上である。結果は、効果量0.32、得点差1.8点(抗うつ薬9.6点、偽薬7.8点)で、偽薬は抗うつ薬の82%の効果であった。カーシュはハミルトンうつ病評価尺度 (HAM-D) ではなく、医師が知覚した変化の印象に適合している全般印象評価尺度-改善度(CGI-I)にて違いを検出できず、統計的に有意な差があるだけでなく、臨床的に意味があるかどうかを医薬品の承認の際に検討すべきだとした。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "世界保健機関とその関連機関は、パロキセチンの未公表試験を含めてメタ分析し、偽薬は抗うつ薬の83%の効果であった。 欧州の規制機関も、認可された抗うつ薬(SSRI、SNRI)の保有データを分析したところ、同様の結果であった。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2009年、アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)のトーマス・インセルは、偽薬効果を疑問視する証拠を挙げた上で、抗うつ薬の効果が全て偽薬効果だとしても、STAR*D計画における14週後の最適な寛解率である28%を受け入れるべきかと問い、数時間で寛解をもたらす「ケタミン」を次世代の抗うつ薬の目標にしている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2010年、ペンシルベニア大学、バンダービルト大学、コロラド大学、ニューメキシコ大学の別々の心理学者により行われたパキシル、イミプラミンを対象とした研究では、軽症から中等度のうつ病に対して、偽薬との比較でほとんど改善度に差がないことが分かった。この研究は米国医学会誌に掲載された。このことは、重症度が増すにつれて、抗うつ薬の使用がより適切なものとなることを示唆するともいえる。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2011年、英国国立医療技術評価機構(NICE)の臨床ガイドラインは、全般性不安障害(GAD)とパニック障害に対して長期的な有効性の証拠が存在するのは抗うつ薬だけであるとしている。 厚生労働省によれば、強迫性障害の主要な治療はSSRIを主とした薬物、および認知行動療法であり、クロミプラミン、フルボキサミン、パキシルが挙げられている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2012年、『摂食障害国際ジャーナル』誌(International Journal of Eating Disorders)の報告では、摂食障害にはいかなる薬物治療の利益も示されていないが、48.4%が抗うつ薬を処方されている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2013年、うつ病に対する非定型抗精神病薬のメタ分析では、効果量は0.32-0.34であり、抗うつ薬と同様であった。これらの抗精神病薬には、セロトニンやドーパミンを遮断する薬剤、セロトニン・ドーパミン拮抗薬(SDA)と呼ばれる抗精神病薬が含まれる。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "日本の厚生労働省は、大うつ病性障害に対し、18歳未満に投与しても効果を確認できなかったとして、添付文書を改訂し医師に慎重な投与を求めるよう日本製薬団体連合会に要請した。対象はレクサプロ、ジェイゾロフト、ルボックス、デプロメール、レメロン、リフレックス、トレドミンの7製品である。高齢者では全死亡率が高い。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2017年のシステマティックレビューは、見つかった131のランダム化比較試験すべてでバイアスのリスクが高く、統計的に有意だが、臨床的意義は疑わしく、重篤な有害事象のリスクを有意に増加させており、自殺行動、生活の質、長期的影響に関するデータはほとんどないため、小さな有益な効果を有害な影響が上回るようであると結論した。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が終わると、V2ロケットの燃料の1つであるヒドラジンの在庫を、製薬会社は非常に安価に入手し、構造を変化させて新しい化合物を作った。ホフマン・ラ・ロッシュは、ヒドラジン化合物のイソニアジドとイプロニアジドに、結核菌を死滅させる薬の特性を見出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1952年には、この薬による治療によって、結核患者が楽しそうに踊りだすといった多幸症の副作用が知られ、その経緯で精神科の患者で試験され、1956年にはイプロニアジドのうつ病への有効性が見出された。イプロニアジドは、モノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)の抗うつ薬である(日本の商品エフピーに、うつ病の適応はない)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "同じ頃、三環系という種類の抗うつ薬も発見された。1856年にイギリスの化学者ウィリアム・パーキンが、コールタールから得られるフェノチアジンに似た化合物が染料として用いることができることを発見した。このフェノチアジンに似た合成染料のイミノベンジル系のサマーブルーから、スイスのガイギー社がイミプラミンを合成した。1955年にローランド・クーンが、イミプラミンをメランコリーで入院中の患者に投与し、1957年にはチューリッヒの国際精神医学会議において、うつ病患者の症状を軽減させたと報告した。翌1958年に、イミプラミンはトフラニールの商品名で販売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "また同じ頃に、うつ病を説明する仮説が生まれた。1954年に神経伝達物質であるセロトニンが脳内に存在することが報告され、 1960年にジョージ・アシュクロフトにより、うつ病ではセロトニン濃度が低くなっているかもしれないという理論が提唱された。北米ではノルアドレナリンが関与していると考えられており、1965年にアメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)のジョセフ・シルドクラウトがうつ病のカテコールアミン仮説を提唱し、うつ病では脳内のノルアドレナリンが減少し、抗うつ薬はこれを増加させるという内容である。 シルドクラウトの理論の根拠には、高血圧剤のレセルピンがウサギのセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンの濃度を減少させたことや、偽薬と比較してレセルピンが抑うつと不安の症状を改善させたという『ランセット』誌の同じ号のすぐ前のページに掲載された論文がある。しかしながら、『ランセット』誌の同じ号に掲載されたすぐ前のページ、116〜117ページに掲載された論文はレセルピンの服用者が自殺傾向を示すというものであった。1970年代には、セロトニンの減少ではないという結論に達したが、抗うつ薬のマーケティングの際に利用されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "ドーパミンの発見などで後にノーベル賞を受賞した神経科学者のアルビド・カールソンが、セロトニンの再取り込みだけを阻害する薬を作ろうとし、スウェーデンのアストラ社で抗ヒスタミン薬のクロルフェニラミンの化学構造を修正しジメリジン(英語版)を合成し、1972年に欧州のいくつかの国で特許が下り、1982年にツェルミドの商品名で認可された。しかしながら同じ年にアメリカ食品医薬品局の認可を得る際に、ギラン・バレー症候群という致命的な副作用が報告され、市場から消えた。これが世界初の選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)であるとされる。後にクロルフェニラミン自体にセロトニン再取り込み阻害様の作用があることが明らかになったが、特許を取ることができず、特許がなければ臨床試験を行いマーケティングを行い販売し収益を確保するといった採算の見込みはない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ツェルミドに続いて、フランスのフルニエ社のジュラール・ル・フェールが、抗ヒスタミン薬の分子構造を修正したインダルピン(英語版)を開発し、アップステンの商品名で市場に出たが白血球減少の副作用ですぐに市場から消えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "はじめに市場に生き残ったSSRIは、フルボキサミン(ルボックス)であり、1983年にはスイスにて販売されたのを皮切りに各国で認可されていったが、ドイツでは臨床試験中に自殺と自殺企図が生じて承認されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "プロザック(日本では未認可)の認可は、アメリカとカナダで1988年、イギリスでは1989年であり、この頃までにはベンゾジアゼピン系の薬剤の危険性に関する話題は深刻になっており、不安障害の背後にうつ病があるとして販売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "頭文字を組み合わせたSSRIという単語は、スミスクライン・ビーチャム(後のグラクソ・スミスクライン社)が、パロキセチンのマーケティングのために作ったが薬の種類を指すまでに一般化した。パロキセチンは、1991年にイギリスでセロキサット、1992年にアメリカでパキシルの商品名で市場に出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "日本では2000年あたりから、パキシルのマーケティングのために、軽症のうつ病を病気喧伝する「心の風邪」という言葉が用いられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "2003年から2004年にかけて、欧米でパロキセチンが小児の自殺を誘発するという試験が隠蔽されていたという話題が持ち上がると、双極性障害の売り込みへと変わっていったと、デイヴィッド・ヒーリーは主張する。他にも2003年にイギリスの医薬品・医療製品規制庁 (MHRA) は、グラクソ・スミスクラインに臨床試験開始前の自殺を偽薬群の数としてカウントすべきではないと告げ、これにはFDAは気づかなかったようだが、同様のことはプロザックでもゾロフトでも行われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2010年ころから製薬会社は、既存の薬の構造を少し修正し特許を取得した模倣薬(me too drug)を販売するという手法ではすでに収益の見込みがないとみて、グラクソ・スミスクライン、アストラゼネカ、メルクなどの大手製薬会社が精神科領域の薬の開発から撤退しはじめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "2010年には、精神科領域の4学会により、医師に対して不適切な多剤大量処方に対する注意喚起がなされている。以降、対策が立てられ2剤以上の抗うつ薬の処方は診療報酬が削減されるなどの改定があった。 1990年代後半からの約30年間の抗うつ薬の大幅な増加は、測定可能な公衆の利益を生み出していない。2013年には、架空の抗うつ薬をテーマにした映画サイド・エフェクトが公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ケタミンの早い抗うつ作用が見いだされ、2015年にはアメリカでは既に医療現場で適応外使用で用いることも増えている。また、イギリスでは、医学研究審議会(MRC)の資金提供を受け、幻覚剤のシロシビンを治療抵抗性うつ病に対して用いる研究が開始され、その結果、8年から30年のうつ病を患う患者12人の約半分は、服用体験から3週間後に寛解に達した(うつ病の基準を満たさなかった)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2012年には、グラクソ・スミスクライン(GSK)の違法なマーケティングに対して司法省は30億ドルの制裁を課したが、それには同社のパキシルの若年者で有効性を示さなかった研究と自殺の危険性を高めた研究の隠蔽、FDAによる若年者に対する承認がないにもかかわらず販売促進したことが含まれる。", "title": "訴訟" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "ω-3脂肪酸による抗うつ作用は議論されてきた。2015年のコクラン共同計画によるシステマティック・レビューは、臨床的に有意ではない小さな効果を見出しており、また研究の質が十分ではないと結論した。2016年の別のアナリシスは、有効だということを見出した。", "title": "代替手段や研究" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "コクラン共同計画によるS-アデノシルメチオニン (SAMe) のレビューでは、結論を導くための質の高い研究がないとした。", "title": "代替手段や研究" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "L-アセチルカルニチンでのシステマティック・レビューでは、12のランダム化比較試験があり、3研究では抗うつ薬と比較して同等の効果であり副作用が抗うつ薬より少なく、また高齢者で特に有効だということを示唆した。高齢者で行われたランダム化比較試験では、フルオキセチン(プロザック)と同等の効果を示したが、1週間で効果を示し、フルオキセチンでは2週間かかった。この早い作用から異なる作用機序に注目されている。", "title": "代替手段や研究" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "テトラサイクリン系抗生物質のミノサイクリンは、メタアナリシス・システマティックレビューで大きな抗うつ効果が示された(効果量:-0.78 :95%CI:0.4-1.33、P=0.005 であり、前述の通り現行の抗うつ薬は0.32であり臨床的に有意な効果ではない)。抗生物質の使用は、薬剤耐性菌を生む問題があり感染症においても適正使用が言われており、感染症でもない状況での抗生物質の不適切使用は戒められる。", "title": "代替手段や研究" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "抗うつ薬は抗菌効果を有するという報告がある。うつ病治療における抗うつ薬の抗菌メカニズムを評価し、抗うつ薬耐性への影響を決定するために、さらなる研究が必要とされている。 抗うつ薬と膜輸送体OCTN1の薬物相互作用が研究されている。OCTN1によるエルゴチオネインの脳への取り込みは海馬歯状回における神経新生を促進し、抗うつ効果を発揮する可能性が示唆された。", "title": "代替手段や研究" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "モノアミン仮説以外では、ニューロキニン1(英語版)(NK1)周辺の研究がなされている。サブスタンスP受容体アンタゴニストのアプレピタントに抗うつ作用が報告された。 しかしながら、プラセボ対照二重盲検ランダム化臨床試験では有意差を示せていない。 一方、既存抗うつ薬の慢性投与では海馬でのBDNFの発現を増加させることから、ニューロンの萎縮を防止するのではないかとBDNFも注目されている。", "title": "代替手段や研究" } ]
抗うつ薬とは、典型的には、抑うつ気分の持続や希死念慮を特徴とするうつ病のような気分障害 (MD)に用いられる精神科の薬である。 不安障害のうち全般性不安障害やパニック障害、社交不安障害 (SAD)、強迫性障害、心的外傷後ストレス障害 (PTSD)にも処方される。慢性疼痛、月経困難症、更年期障害、耳鳴りなどへの適応外使用が行われる場合がある。しかし適用外の処方には議論があり、アメリカ合衆国司法省による制裁が行われた例もある。
'''抗うつ薬'''(こううつやく、{{lang-en-short|Antidepressant}})とは、典型的には、[[抑うつ]]気分の持続や[[希死念慮]]を特徴とする[[うつ病]]のような[[気分障害]] (MD)に用いられる[[精神科の薬]]である。 [[不安障害]]のうち[[全般性不安障害]]や[[パニック障害]]<ref name=NICECG113 />、[[社交不安障害]] (SAD)、[[強迫性障害]]<ref name=NICECG31 />、[[心的外傷後ストレス障害]] (PTSD)<ref>[http://www.jstss.org/topics/03/224.php 『PTSDの治療薬処方の手引き』]日本トラウマティック・ストレス学会</ref>にも処方される。[[慢性疼痛]]、[[月経困難症]]、[[更年期障害]]、[[耳鳴り]]などへの[[適応外使用]]が行われる場合がある。しかし適用外の処方には議論があり、[[アメリカ合衆国司法省]]による制裁が行われた例もある。 == 概要 == [[モノアミン酸化酵素阻害薬]]と[[三環系抗うつ薬]]の抗うつ作用が偶然に発見されて以降、セロトニンとノルアドレナリンの挙動が着目され、[[四環系抗うつ薬]]、[[選択的セロトニン再取り込み阻害薬]](SSRI)、[[セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬]](SNRI)、ノルアドレナリン作動性・特異的セロトニン作動性抗うつ薬(NaSSA)が開発されてきた。 抗うつ薬は、効果の発現が服薬開始から2-6週間遅れるが、しばしば1週間後までに効果が見られることもある。抗うつ薬の有効性が議論されており、軽症のうつ病に対しては、必ずしも薬剤の投与は一次選択にはなっていない{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=DEP}}{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2012|pp=20-25}}{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2013|pp=22-27}}。統計的には偽薬との差があるが効果は小さく、臨床的に意味がない差だとされる<ref name="pmid25979317"/>。 [[1990年代]]後半から、約30年間の抗うつ薬の大幅な増加は、測定可能な公衆の利益を生み出していない<ref name="pmid28178949"/>。使用にあたっても1種類の抗うつ薬のみを使用する{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2012|pp=20-26}}{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2013|pp=22-28}}。もし抗うつ薬に対して反応がない場合でも、複数の抗うつ薬の併用はせず、有害作用が臨床上問題にならない範囲で十分量まで増量を行い、十分量まで増量しても反応が見られない場合は薬剤の変更を、一部の抑うつ症状に改善がみられるがそれ以上の改善がない場合は[[増強療法|抗うつ効果増強療法]]を行う{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2012|pp=26-28}}{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2013|pp=28-30}}{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2013|pp=32-36}}。 [[ケタミン]]は、治療抵抗性うつ病に対しても時間単位で効果が現れるという即効性から<ref name="pmid16894061">{{cite journal|last1=Zarate|first1=Carlos A.|last2=Singh|first2=Jaskaran B.|last3=Carlson|first3=Paul J.|last4=Brutsche|first4=Nancy E.|last5=Ameli|first5=Rezvan|last6=Luckenbaugh|first6=David A.|last7=Charney|first7=Dennis S.|last8=Manji|first8=Husseini K.|title=A Randomized Trial of an N-methyl-D-aspartate Antagonist in Treatment-Resistant Major Depression|journal=Archives of General Psychiatry|volume=63|issue=8|pages=856|year=2006|pmid=16894061|doi=10.1001/archpsyc.63.8.856|url=http://archpsyc.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=668195}}</ref>、世界では用いられるケースがある<ref name="ND2015jp" />。ただケタミンは解離性麻酔薬であり、[[薬物乱用]]されうる薬剤でもあることから、製薬会社はケタミンの薬理学的作用に注目した『ケタミン様薬物』の研究を進めている<ref name="pmid19880463" />。 抗うつ薬の使用は、口渇といった軽い[[副作用]]から、[[肥満]]や[[性機能障害]]など、様々な[[#副作用]]が併存する可能性がある。また[[2型糖尿病]]の危険性を増加させる<ref name="pmid21811871" />。さらに他者に暴力を加える危険性は、抗うつ薬全体で8.4倍に増加させるが、薬剤により2.8倍から10.9倍までのばらつきがある<ref name="pmid21179515" />。投与直後から、[[自殺]]の傾向を高める[[賦活症候群]]の危険性がある<ref name="pmid15265848" />。治験における健康な被験者でも自殺念慮や暴力の危険性が2倍であった<ref name="pmid27729596"/>。日本でも添付文書にて、24歳以下で自殺念慮や自殺企図の危険性を増加させることを注意喚起している<ref name="PMDSI261" />。WHO[[ガイドライン]]では、12歳未満の子供については禁忌である{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=DEP}}。 急に服薬を中止した場合、[[ベンゾジアゼピン離脱症状]]に酷似した[[#離脱症状|離脱症状]]([[抗うつ薬中断症候群]])を生じさせる可能性がある{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=DEP}}<ref name="pmid21992148" />。離脱症状は、少なくとも2-3週間後の再発とは異なり、数時間程度で発生し、多くは軽度で1-2週間でおさまるとされるが<ref name="AAFP" />、2018年の調査では46%が重症で、数か月までにわたることも珍しくはない<ref name="pmid30292574"/>。離脱症状の高い出現率を持つ薬剤、[[パロキセチン]](パキシル)で66%や[[セルトラリン]](ゾロフト)で60%がある<ref name="AAFP" />。副作用に関するデータは過小評価されており、利益よりも害のほうが大きい可能性がある<ref name="pmid29270136"/><ref name="pmid28178949"/>。 製薬会社は、特許対策のために[[分子]]構造を修正し似たような[[医薬品設計]]を行っていたが、2009年には[[グラクソ・スミスクライン]]が、神経科学分野での採算悪化を理由に、研究を閉鎖した<ref name="pmid20671165">{{cite journal|last1=Miller|first1=G.|title=Is Pharma Running Out of Brainy Ideas?|journal=Science|volume=329|issue=5991|pages=502–504|year=2010|month=July|pmid=20671165|doi=10.1126/science.329.5991.502 |format=pdf}}</ref>。その後、大手製薬会社の似たような傾向が続いた<ref>{{cite news|title=Research into brain disorders under threat as drug firms pull out|newspaper=The Guardian|date=2011-06-13|url=http://www.guardian.co.uk/science/2011/jun/13/research-brain-disorders-under-threat|accessdate=2013-01-29}}</ref><ref>{{cite news|title=Insight: Antidepressants give drugmakers the blues|author=Kate Kelland|author2=Ben Hirschler|newspaper=Reuters|date=2012-03|url=http://www.reuters.com/article/2012/03/23/us-depression-drugs-idUSBRE82M0MK20120323|accessdate=2013-01-29}}</ref>。 == 抗うつ薬の種類 == {| class="wikitable floatright" style="font-size:85%; margin-left:1em" |+日本で用いる事ができる抗うつ薬の一覧<ref>加藤忠史 『うつ病治療の基礎知識』 筑摩選書、2014年(平成26年)。ISBN 978-4480015914。</ref><ref name="IRYO2001">{{cite journal|title=抗うつ薬開発の歴史と未来|year=2001|volume=55|issue=1|journal=医療|work=総説|doi=10.11261/iryo1946.55.13|page=Table2}}</ref> |- !系統!!style="width:9em;"|一般名||商品名||発売年 |- | rowspan="8"|三環系 ||[[イミプラミン]]||イミドール<br />トフラニール||1959年 |- |[[アミトリプチリン]]||トリプタノール||1961年 |- |{{仮リンク|トリミプラミン|en|Trimipramine}}||スルモンチール||1965年 |- |{{仮リンク|ドスレピン|en|Dosulepin}}||プロチアデン||1965年 |- |[[ノルトリプチリン]]||ノリトレン||1971年 |- |[[クロミプラミン]]||アナフラニール||1973年 |- |[[アモキサピン]]||アモキサン||1980年 |- |{{仮リンク|ロフェプラミン|en|Lofepramine}}||アンプリット||1981年 |- | rowspan="3"|四環系 || [[マプロチリン]]||ルジオミール||1981年 |- |[[ミアンセリン]]||テトラミド||1983年 |- |[[セチプチリン]]||テシプール||1989年 |- | rowspan="4"|SSRI || [[フルボキサミン]]||デプロメール<br />ルボックス||1999年 |- |[[パロキセチン]]||パキシル||2000年 |- |[[セルトラリン]]||ジェイゾロフト||2006年 |- |[[エスシタロプラム]]||レクサプロ||2011年 |- | rowspan="3"|SNRI || [[ミルナシプラン]]||トレドミン||2000年 |- |[[デュロキセチン]]||サインバルタ||2010年 |- |[[ベンラファキシン]]||イフェクサー||2015年 |- | NaSSA || [[ミルタザピン]]||リフレックス<br />レメロン||2009年 |- | rowspan="2"|その他 || [[トラゾドン]]||デジレル<br />レスリン||1991年 |- |[[ボルチオキセチン]]||トリンテリックス||2019年 |} SSRIを、境にしてグループにすることが一般的である。例えば、日本うつ病学会の診療ガイドラインは、SSRI、SNRI、ミルタザピンなどを、「新規抗うつ薬」としてひっくるめている{{sfn|日本うつ病学会|pp=28-30}}。あるいは研究者はこれら新規抗うつ薬を第二世代と呼ぶことが一般的である。 有効性では新規の抗うつ薬と従来の抗うつ薬とに違いはないと言う見解が混在するし、一定した結論はない{{sfn|日本うつ病学会|pp=28-30}}。従来の抗うつ薬では、[[抗コリン作用]]による鎮静作用が強く、また自殺に用いられた際に死亡率が高い{{sfn|日本うつ病学会|pp=28-30}}。忍容性においては新規の抗うつ薬であるが、24歳以下で自殺を誘発する[[賦活症候群]]や中止時の離脱症候群、また高齢者での死亡率の上昇など副作用の違いがある{{sfn|日本うつ病学会|pp=28-30}}。どれが第一選択となるかということはない{{sfn|日本うつ病学会|pp=28-30}}。 === モノアミン酸化酵素阻害薬(MAO阻害薬) === {{Main|モノアミン酸化酵素阻害薬}} 最も初期の抗うつ薬であるが、薬剤相互作用や副作用の多さから日本では抗うつ薬としてはほとんど使われず、パーキンソン病治療薬として専ら用いられている。 === 三環系抗うつ薬(TCA) === {{Main|三環系抗うつ薬}} もっとも古い抗うつ薬で1950年代に登場した。これらの薬のセロトニンやノルアドレナリンの[[再取り込み]]の阻害が後に発見され、改良につながっていった。三環系抗うつ薬の第1世代としては[[アミトリプチリン]] (トリプタノール、ラントロン)、[[イミプラミン]] (イミドール、トフラニール)、[[クロミプラミン]] (アナフラニール)、{{仮リンク|トリミプラミン|en|Trimipramine}} (スルモンチール)、[[ノルトリプチリン]](ノリトレン)。三環系抗うつ薬の第2世代としては[[アモキサピン]] (アモキサン)、{{仮リンク|ドスレピン|en|Dosulepin}}(プロチアデン)、{{仮リンク|ロフェプラミン|en|Lofepramine}}(アンプリット)が知られている。 初期の抗うつ薬であるが使われ続けている薬である。その理由としては、有効性という点では新規抗うつ薬が優っているとは必ずしも言えず、抗コリン作用をはじめとした多くの副作用が存在するが、緊急入院患者のような重症では有効性が高い可能性があるという見解があるためである{{sfn|日本うつ病学会|pp=28-30}}。特徴としては三級アミンは二級アミンと比べると、鎮静作用、抗コリン作用が強く、起立性低血圧も起こしやすい。鎮静作用と体重増加の作用はヒスタミンH1受容体に対する親和性と相関している。起立性低血圧は[[アドレナリン受容体|アドレナリンα1受容体]]との親和性に相関している。またTCAは内服中断後、1週間は体内にとどまると考えられている。危険な副作用としては[[キニジン]]様作用といわれる心臓障害がある。 ;[[イミプラミン]] (イミドール、トフラニール) :最初に作られたTCAである。アミトリプチリン よりも抗コリン作用、鎮静作用が弱いが[[ノルトリプチリン]]よりは強い。起立性低血圧も比較的少ない。 ;[[アミトリプチリン]] (トリプタノール、ラントロン) :抗コリン作用、鎮静作用が最も強いTCAである。若年者で入眠障害がある患者に好まれる傾向がある。就寝前に多く飲ませることが多い。 ;[[クロミプラミン]] (アナフラニール) :セロトニンの再取り込み阻害作用が強い。[[痙攣]]がおこる頻度が他のTCAよりも強いため、抗痙攣作用の強い抗不安薬を併用することが多い。注射薬があるため、うつ病による不穏、焦燥に対して3時間程度で25mgを点滴静注することもある。 ;[[ノルトリプチリン]](ノリトレン) :セロトニンよりもノルアドレナリンの再取り込みを強く抑制する。焦燥感を起こすことが少ない。有効治療量の幅が狭く処方が難しい。 ;[[アモキサピン]] (アモキサン) :第二世代のTCAであり、副作用、特に抗コリン作用が軽減されている。他のTCAよりも効果発現が早いといわれている。 === 四環系抗うつ薬 === {{Main|四環系抗うつ薬}} ノルアドレナリンの再取り込みを選択的に阻害し、セロトニンの再取り込みは阻害しない。抗コリン作用はTCAよりも軽減されている傾向があるが、痙攣を起こしやすく、抗痙攣作用の強い抗不安薬([[ジアゼパム]]や[[ニトラゼパム]])を併用することが多い。[[マプロチリン|塩酸マプロチリン]](ルジオミール)、[[ミアンセリン|塩酸ミアンセリン]](テトラミド)、[[セチプチリン|マレイン酸セチプチリン]](テシプール)が有名である。 ;[[ミアンセリン]](テトラミド) :α2受容体を遮断することでノルアドレナリンの放出を促進する。抗ヒスタミン作用が強い薬物である。心毒性がないため非常に使いやすい抗うつ薬である。呼吸抑制と鎮静という副作用がある。SSRIとの併用による増強効果が報告されている数少ない薬物である。 ;[[セチプチリン]](テシプール) :[[ミアンセリン]]を改良した薬物。中枢性セロトニン作用をもつ。鎮静の副作用はまれ。 === 選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI) === {{Main|選択的セロトニン再取り込み阻害薬}} [[フルボキサミン]](ルボックス、デプロメール)、[[パロキセチン]](パキシル)、[[セルトラリン]](ジェイゾロフト)、[[シタロプラム]](日本未発売)、[[エスシタロプラム]](レクサプロ)が知られている。急に服薬を中止すると[[SSRI離脱症候群]]が発現する恐れがある。[[強迫性障害]]、[[社交不安障害]]、[[パニック障害]]、[[心的外傷後ストレス障害]]に適応があるものがある。双極性障害には[[気分安定薬]]と併用しない限り禁忌である。効果発現に2週間程度必要である。投与初期(1〜2週間程度)は悪心、嘔吐、不安、焦燥、不眠といった症状が出現することがあるが継続投与で軽快、消失する。持続することもある。[[セロトニン受容体]]に対する急性刺激と考えられている。少量では[[セロトニン]]選択性であるが、高用量となると[[ノルアドレナリン]]の再取り込みも阻害するようになる。 === セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬(SNRI) === {{Main|セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬}} === セロトニン遮断再取り込み阻害薬(SARI) === トリアゾロピリジン系の抗うつ薬。[[トラゾドン]](商品名レスリン、デジレル)は、セロトニンの再取り込みを阻害する他、セロトニン5-HT<sub>2</sub>受容体の阻害作用が強い薬物である。 === ノルアドレナリン作動性・特異的セロトニン作動性抗うつ薬(NaSSA) === NaSSAは、{{lang-en|Noradrenergic and Specific Serotonergic Antidepressant}} の略。これまでのようにシナプスにおける神経伝達物質の再取り込みを阻害して濃度を上げるのではなく、セロトニン、ノルアドレナリンの分泌量そのものを増やす作用がある。α2ヘテロ受容体とα2受容体をふさぎ、セロトニンやノルアドレナリンが出ていないと錯覚させ分泌を促す。また、5-HT<sup>1</sup>受容体にセロトニンが結びつきやすくするために、5-HT<sup>1</sup>以外のセロトニン受容体をふさぐ。SSRI、SNRIと作用用途が違うため単剤処方で効果が薄いうつ病に対してはこれらの抗うつ薬を併用する[[カリフォルニア・ロケット]]という投薬が行われる場合がある。 * [[ミルタザピン]]、合併した[[メルク・アンド・カンパニー|MSD]]からレメロン、[[Meiji Seika ファルマ]]からリフレックスとして発売されている。国内の臨床試験で、82.7%に何らかの副作用が認められた。50%で傾眠など。 == 医療用途 == === 大うつ病 === WHOのガイドラインでは、成人のうつ病に対しての選択肢として提案されているが、一方で12歳未満には処方禁止、12歳以上の児童では第一選択肢から除外するとしている{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=DEP}}。[[WHO必須医薬品モデル・リスト]]から選択することが望ましい{{Sfn|世界保健機関|2010|loc=DEP}}。 [[英国国立医療技術評価機構]](NICE)の2004年のガイドラインは、危険性/利益の比率が悪いという理由で、抗うつ薬を軽症うつ病の初期治療に用いるべきではないとしている;中等度あるいは重度のうつ病では、SSRIのほうが三環系よりも忍容性が高い;重度のうつ病では、抗うつ薬は[[認知行動療法]]のような心理療法と組み合わせるべきである<ref>{{cite report|url=http://www.nice.org.uk/guidance/CG23|title=Depression|publisher=[[英国国立医療技術評価機構]]|date=|accessdate=2008-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081115042517/http://www.nice.org.uk/Guidance/CG23|archivedate=2008-11-15|url-status=dead}}</ref>。NICEの2009年の改定されたガイドラインは、危険性/利益の比率が悪いために軽症以下のうつ病に抗うつ薬を使用してはいけない(Do not use antidepressants)としている{{sfn|National Institute for Health and Clinical Excellence|2009|p=1.4.4}}。さらに、[[セントジョーンズワート]]は、軽症あるいは中等度で利益がある可能性についても言及している。 [[アメリカ精神医学会]]による2000年の大うつ病性障害の患者の治療のための診療ガイドラインは<ref>{{cite web |url=http://www.guidelines.gov/summary/summary.aspx?doc_id=2605&nbr=1831 |title=Practice guideline for the treatment of patients with major depressive disorder |publisher=Guidelines.gov |author=[[アメリカ精神医学会]] |date= |accessdate=2008-11-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081028165751/http://www.guidelines.gov/summary/summary.aspx?doc_id=2605&nbr=1831 |archivedate=2008-10-28 |url-status=dead}}</ref>、患者が望むなら、軽症の大うつ病性障害の最初の一次治療に抗うつ薬を投与してもよいとしている;[[電気けいれん療法|電気痙攣療法]]が計画されていない、中等度から重度の大うつ病性障害では抗うつ薬を投与すべきである;精神病性うつ病には、抗精神病薬と抗うつ薬の併用、あるいは電気痙攣療法を用いるべきである。有効性は、概して分類間と分類内で同等であると示されており、最初の選択は主に個々の患者、患者の選択、医薬品と費用に関する臨床試験のデータの量と質から予想される副作用に基づく。 [[日本うつ病学会]]の2012年の大うつ病障害の治療ガイドラインでは、軽症うつ病の場合、安易な薬物療法は避けるべきであり、中等度から重症のうつ病の場合、1種類の抗うつ薬の使用を基本とし、十分な量の抗うつ薬を十分な期間に渡って投与すべきであるとされる。寛解維持期には十分な継続・維持療法を行い、抗うつ薬の投与の終結を急ぐべきではないとされる{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2012}}。 === 不安障害 === NICEのガイドラインでは、[[全般性不安障害]](GAD)および[[強迫性障害]](OCD)への第一選択肢は低強度の心理療法であり、それに効果を示さなかった場合は、選択肢の一つとしてSSRIによる薬物療法を挙げている<ref name="NICECG113">{{Cite report |df=ja |publisher=[[英国国立医療技術評価機構]] |title=CG113 : Generalised anxiety disorder and panic disorder (with or without agoraphobia) in adults: Management in primary, secondary and community care |url=http://www.nice.org.uk/guidance/CG113 |date=January 2011}}</ref><ref name="NICECG31">{{Cite report |df=ja |title=CG31 - Obsessive-compulsive disorder: Core interventions in the treatment of obsessive-compulsive disorder and body dysmorphic disorder |publisher=[[英国国立医療技術評価機構]] |date=November 2005 |url=http://www.nice.org.uk/guidance/cg31 }}</ref>。 === 疼痛 === [[線維筋痛症]](FMS)の疼痛管理選択肢の一つとしてガイドラインで挙げられている。 == 副作用 == 抗うつ薬が効果を表すのは、[[セロトニン]]、[[ノルアドレナリン]]、[[ドパミン]]などの[[神経伝達物質]]に作用するからであるとされている。しかし、[[三環系抗うつ薬|三環系]]や[[四環系抗うつ薬]]では、[[抗コリン作用]]、抗α<sub>1</sub>作用なども併せ持っており、そのために以下のような[[副作用]]が報告されている。また、実際の症例では他の基礎疾患治療薬との併用となる事も多く、[[薬剤相互作用]]や副作用の頻度は上昇すると共に見逃され易い<ref>宮崎雅之、山田清文、「頻用薬物の注意すべき副作用Up to date」 JIM (2014/6/15) 24巻 6号, p.531-533, {{DOI|10.11477/mf.1414103241}}</ref>と指摘されている。 * 抗コリン作用による口渇、便秘、目のかすみ、排尿困難など * [[アドレナリン]]α<sub>1</sub>受容体遮断作用による低血圧、[[めまい]]など * 抗ヒスタミン作用による眠気、体重増加 * 抗ムスカリン作用による視力調節障害 * 手足の痙攣・振戦、全身の痺れなど(重症になると一ヶ月ほど痺れが続く場合もある) * 性格変化・他害行為など 服用開始直後の吐き気については、これについては制吐剤([[ガスモチン]]など)や[[六君子湯]]などの併用によって緩和することが可能である{{要出典|date=2011年10月}}<ref>[https://web.archive.org/web/20130106212318/http://www.nakaoclinic.ne.jp/topics/topics14.html SSRI 2002 Nakao Clinic](2013年1月6日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。性欲減退については[[DNRI]]との併用で解消できる場合があることが報告されている。 === 副作用の概要 === SSRIの主な副作用には以下が含まれるが、これだけに限定されるわけではない。[[セロトニン症候群]]、[[吐き気]]、[[下痢]]、血圧の上昇、{{仮リンク|精神運動性激越|en|Psychomotor agitation}}、[[頭痛]]、[[不安]]、神経過敏、情緒不安定、自殺念慮の増加、自殺企図、不眠症、薬物間の相互作用、新生児の薬害反応、{{仮リンク|食欲不振|en|anorexia (symptom)}}、口渇、眠気、振戦、[[性機能障害]]、[[リビドー|性欲]]減衰、無力、消化不良、[[目まい]]、発汗、人格障害、鼻血、頻尿、月経過多、躁/軽躁<ref name=eli>{{cite journal|last=Landry|first=P.|title=Withdrawal hypomania associated with paroxetine|journal=J. Clinical Pharmacology|year=1997|month=February|volume=17|pages=60–61|pmid=9004064|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/9004064}}</ref>、悪寒、動悸、味覚倒錯、排尿障害<ref>{{cite web|title=Highlights of prescribing information|url=http://pi.lilly.com/us/prozac.pdf|publisher=Eli lilly|accessdate=2013-01-19}}</ref>、傾眠、胃腸の不整、筋力低下、長期間の体重増加。 三環系抗うつ薬の一般的な副作用:[[口腔乾燥症|口渇]]、かすみ目、[[wikt:傾眠|傾眠]]、目まい、振戦、性的な問題、皮膚湿疹、また体重の増減。 三環系抗うつ薬の副作用には、心拍数、傾眠、口渇、便秘、尿閉、かすみ目、目まい、精神錯乱、性機能障害。毒性は、常用量で約10倍である;過剰服用では、致命的な不整脈を引き起こし致死的になることが多い。一方で、三環系抗うつ薬は、今なお特にうつ病の重症の症例での有効性を理由として、安価にまた適用外で用いられている。 1998年の162のランダム化比較試験からのSSRIと三環系抗うつ薬の有害事象の比較レビューでは、口渇、便秘、目まいではSSRIのほうが半分程度の頻度であるが、吐き気、下痢、不安、興奮、不眠症ではSSRIのほうがおよそ2倍の頻度であり、副作用の合計数では、SSRIのほうが多かった<ref>{{cite journal|last1=Hotopf|first1=M.|title=Review: selective serotonin reuptake inhibitors differ from tricyclic antidepressants in adverse events|journal=Evidence-Based Mental Health|volume=1|issue=2|pages=50–50|year=1998|doi=10.1136/ebmh.1.2.50|url=http://ebmh.bmj.com/content/1/2/50.full.pdf|format=pdf}}</ref>。 NaSSAの副作用には、傾眠、食欲増加、体重増加が含まれる<ref name="Stimmel">{{Cite journal|last=Stimmel |first=GL|year=1997|title=Mirtazapine: an antidepressant with noradrenergic and specific serotonergic effects|journal=Pharmacotherapy|volume=17|issue=1|pages=10–21|publisher=American College of Clinical Pharmacy|pmid=9017762|last2=Dopheide|first2=JA|last3=Stahl|first3=SM}}</ref>。 2009年5月に公表された研究によれば、乳がん生存者が、抗がん剤のタモキシフェンの服用中にいくつかの抗うつ薬を用いた場合に、再発の危険性がある<ref>{{Cite news| url=http://www.cbsnews.com/stories/2009/05/30/health/main5050992.shtml?tag=main_home_storiesBySection |work=CBS News |title=Drug Combos Linked To Breast Cancer Risk |date=2009-05-30}}</ref>。 双極性うつ病においては抗うつ薬が、SSRIでは頻繁に、[[軽躁]]{{enlink|Hypomania}}と[[躁病|躁]]の症状の悪化あるいは誘因となる<ref>{{cite journal |doi=10.1016/S0165-0327(97)00082-7 |last1=Benazzi |first1=F |title=Antidepressant-associated hypomania in outpatient depression: a 203-case study in private practice |journal=Journal of Affective Disorders |volume=46 |issue=1 |pages=73–7 |year=1997 |pmid=9387089}}</ref>。 妊娠中の抗うつ薬の使用は、自然流産の危険性の増加に関連している<ref name="autogenerated1031" />。 === 妊娠期 === 妊娠は感情の変動の誘因となり、うつ病に対処することを難しくする。発達中の胎児と乳児に対する危険性と反している医薬品の中断と再発の危険性が、比較検討される。一部の抗うつ薬は妊娠中の胎児に対する危険性が低いが、FDAはパキシル使用時の出生異常の危険性について忠告しており<ref>{{cite web|last=U.S. Food and Drug Administration|title=FDA Advising of Risk of Birth Defects with Paxil|url=http://www.fda.gov/NewsEvents/Newsroom/PressAnnouncements/2005/ucm108527.htm|publisher=FDA|accessdate=2012-11-29}}</ref>、またMAOIは避けるべきである。新生児は、出生時に抗うつ薬の突然の中断により離脱症候群が現れる可能性がある。妊娠中の抗うつ薬の使用は、自然流産<ref name="autogenerated1031">{{Cite journal|pmid= 20513781|year= 2010|last1= Nakhai-Pour|first1= HR|last2= Broy|first2= P|last3= Bérard|first3= A|title= Use of antidepressants during pregnancy and the risk of spontaneous abortion,|volume= 182|issue= 10|pages= 1031–7|doi= 10.1503/cmaj.091208|pmc= 2900326|journal= CMAJ : Canadian Medical Association}}</ref>、出生異常<ref>{{cite journal|last=Louik|first=Carol|coauthors=Lin, A.E.,Werler M.M., Hernández-Díaz S., Mitchell A.A.|title=First-Trimester Use of Selective Serotonin-Reuptake Inhibitors and the Risk of Birth Defects|journal=N Engl J Med|date=2007年6月28日|volume=356|pages=2675–2683|url=http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa067407|accessdate=2012-12-02}}</ref>、発育遅延<ref>{{cite journal|last=Pedersen|first=Lars Henning|coauthors=Henriksen, T.B.,J et al.|title=Fetal Exposure to Antidepressants and Normal Milestone Development at 6 and 19 Months of Age|journal=PEDIATRICS|date=2010-3|volume=125|issue=3|pages=e600-e608|url=http://pediatrics.aappublications.org/content/125/3/e600/suppl/DC1|accessdate=2012-11-29}}</ref>の危険性の増加、自閉症の危険性が2倍に増加する<ref name="pmid21727247">{{cite journal|last1=Croen|first1=Lisa A.|title=Antidepressant Use During Pregnancy and Childhood Autism Spectrum Disorders|journal=Archives of General Psychiatry|volume=68|issue=11|pages=1104|year=2011|month=November|pmid=21727247|doi=10.1001/archgenpsychiatry.2011.73|url=http://archpsyc.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=1107329}}</ref>ことに結びついている。抗うつ薬は、母乳中にさまざまな量で含まれているが、乳児に対する影響は不明である<ref>{{cite journal|last=Lanza di Scalea|first=T|coauthors=Wisner KL|title=Antidepressant medication use during breastfeeding|journal=Clin Obstet Gynecol|year=2009|month=September|volume=52|issue=3|pages=483–9|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19661763|accessdate=2012-11-29}}</ref>。 2006年の『[[ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション|米国医師会雑誌]]』(''JAMA'')における産業的な公表では、妊娠中に抗うつ医薬品を中断することは再発頻度が高いことを見出した<ref>{{Cite journal |last = Cohen, MD |first = Lee S. |title = Relapse of Major Depression During Pregnancy in Women Who Maintain or Discontinue Antidepressant Treatment |journal = Journal of the American Medical Association |volume = 295 |issue = 5 |pages = 499–507 |publisher = American Medical Association |date = 2006-02-01 |url = http://jama.ama-assn.org/cgi/content/abstract/295/5/499 |accessdate = 2007-06-14 |doi = 10.1001/jama.295.5.499 |pmid = 16449615 |last2 = Altshuler |first2 = LL |last3 = Harlow |first3 = BL |last4 = Nonacs |first4 = R |last5 = Newport |first5 = DJ |last6 = Viguera |first6 = AC |last7 = Suri |first7 = R |last8 = Burt |first8 = VK |last9 = Hendrick |first9 = V |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070602204124/http://jama.ama-assn.org/cgi/content/abstract/295/5/499 |archivedate = 2007年6月2日 |deadurl = no |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref>。米国医師会雑誌は後に、金銭的つながりや利害関係の衝突の可能性に言及して訂正を公表し<ref>{{Cite journal |title = Relapse of Major Depression During Pregnancy in Women Who Maintain or Discontinue Antidepressant Treatment—Correction |journal = JAMA |volume = 296 |issue = 2 |page = 170 |date = 2006-07-12 |url = http://jama.ama-assn.org/cgi/content/full/jama;296/2/170 |accessdate = 2007-06-14 |doi = 10.1001/jama.296.2.170 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070929122051/http://jama.ama-assn.org/cgi/content/full/jama%3B296/2/170 |archivedate = 2007年9月29日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref>、著者は、つながりは研究活動に関係していないと主張した。産科医で出産期医学者のアダム・ユレート(Adam Urato)は、『[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]』で、患者と医療専門家は産業の影響から自由な状態で助言される必要があると述べた<ref>David Armstrong, "Drug Interactions: Financial Ties to Industry Cloud Major Depression Study At Issue: Whether It's Safe For Pregnant Women To Stay on Medication - JAMA Asks Authors to Explain". Wall Street Journal. July 11, 2006 ([http://www.post-gazette.com/pg/06192/705022-114.stm copy] published on post-gazette.com)</ref>。 === 自殺 === {{Seealso|賦活症候群}} 増量でも減量でも、抗うつ薬の服用量を変更した場合、自殺の危険性が2倍になることが認められる<ref name="Valuck 2009 1069–1077">{{cite journal|last=Valuck|first=Robert J.|coauthors=Orton, Heather D.; Libby, Anne M.|title=Antidepressant Discontinuation and the Risk of Suicide Attempt: A retrospective, Nested Case-Control Study|journal=J. Clin. Psychiatry|year=2009|month=August|volume=70|issue=8|pages=1069–1077|url=http://europepmc.org/abstract/MED/19758520/reload=0;jsessionid=UhURfsMAHtvbaMwcFxk0.10}}</ref>。 159,810人のアミトリプチリン、[[フルオキセチン]](日本では未認可)、[[パロキセチン]]、ドチエピンの使用者からの研究から、抗うつ薬の開始から1カ月、特に最初の日から9日目の間に自殺行動の危険性が増加したことが見出された<ref name="pmid15265848">{{cite journal|last=Jick|first=Hershel|coauthors=Kaye J.A., Jick S.S.|title=Antidepressants and the risk of suicidal behavious|journal=JAMA|date=2004年7月21日|volume=292|issue=3|pages=338–343|pmid=15265848|doi=10.1001/jama.292.3.338|url=http://jama.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=199120|accessdate=2012-11-29}}</ref>。 アメリカ食品医薬品局は、すべてのSSRIに、子供と若年者における自殺率(1,000人あたり2人から4人)を2倍にする、という黒枠警告文を命じた<ref name="Levine-Antonuccio-Healy">[http://www.alternet.org/story/156232/take_a_pill%2C_kill_your_sex_drive_6_reasons_antidepressants_are_misnamed/?page=entire Take a Pill, Kill Your Sex Drive? 6 Reasons Antidepressants Are Misnamed], [[Bruce E. Levine]], [[AlterNet]], July 11, 2012</ref><ref>{{Cite journal| last = Lenzer |first = Jeanne |title = Antidepressants double suicidality in children, says FDA |journal = BMJ |volume = 332 |page = 626 |year = 2006 |url = http://www.bmj.com/cgi/content/full/332/7542/626-c |doi = 10.1136/bmj.332.7542.626-c |accessdate = 2008-04-14 |issue=7542}}</ref>。しかしながら、自殺は医薬品に起因するのか、うつ病自身の要素なのかという議論がある<ref name=Levine-Antonuccio-Healy/><ref>{{cite web|url=http://www.patient.co.uk/health/Antidepressants-SSRIs.htm |title=SSRI Antidepressants &#124; Health |publisher=Patient.co.uk |date=2010-10-27 |accessdate=2012-11-30}}</ref>。25歳以下の成人の自殺傾向や自殺行動の危険性の増加は、子供と若年者でのものに近い<ref>{{cite journal |author=Stone M, Laughren T, Jones ML, ''et al.'' |title=Risk of suicidality in clinical trials of antidepressants in adults: analysis of proprietary data submitted to US Food and Drug Administration |journal=BMJ |volume=339 |issue= |pages=b2880 |year=2009 |pmid=19671933 |pmc=2725270 |doi=10.1136/bmj.b2880}}</ref>。 若い患者は、自殺念慮や行動の兆候を、とりわけ治療開始の8週間は、注意深く観察されるべきである。 米国ではFDAの警告(2007年5月)以降に若年者の自殺死者数が増加している<ref>{{cite journal |author= Dr Andrea Cipriani, PhD,correspondenceemail, Xinyu Zhou, PhD, Cinzia Del Giovane, PhD, Sarah E Hetrick, DPsych, Bin Qin, MD, Craig Whittington, PhD, Prof David Coghill, MD, Yuqing Zhang, MD, Prof Philip Hazell, PhD, Prof Stefan Leucht, MD, Prof Pim Cuijpers, PhD, Juncai Pu, MD, David Cohen, PhD, Prof Arun V Ravindran, PhD, Yiyun Liu, MD, Prof Kurt D Michael, PhD, Lining Yang, MD, Lanxiang Liu, MD, Prof Peng Xie, MDcorrespondenceemail |title=Comparative efficacy and tolerability of antidepressants for major depressive disorder in children and adolescents: a network meta-analysis |journal=[[:en:The Lancet]] |date=2016-06-08 |url=http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(16)30385-3/fulltext |doi=10.1016/S0140-6736(16)30385-3}}</ref>。FDA警告の結果、若年者の抗うつ薬治療が少なくなり、結果として自殺者が増えたとすれば問題であると、日本うつ病学会の野村総一郎は述べている<ref>野村総一郎「{{PDFlink|[http://www.secretariat.ne.jp/jsmd/img/HP070914.pdf 抗うつ薬で自殺が増加するか? ]}}」(日本うつ病学会、2007年9月14日)</ref>。 2009年の英国『モーズレイ処方ガイドライン第10版{{refnest|group="注釈"|David Taylor(チーフ薬剤師、精神薬理学教授)、Carol Paton(チーフ薬剤師、名誉研究員)、Shitij Kapur(精神医学研究所学部長・教授)らによって著された[[向精神薬]]の処方マニュアルである<ref>{{Citation |和書 |author1=David Taylor |author2=Carol Paton |author3=Shitij Kapur |others=内田裕之・鈴木健文・渡邊衡一郎監訳 |date=2011-01 |title=モーズレイ処方ガイドライン第10版 |publisher=[[アルタ出版]] |pages=1-7 |isbn=978-4901694452}}</ref>。}}』では、うつ病の治療が希死念慮および[[自殺]]企図を防ぐ最も効果的な方法であり、ほとんどの場合、抗うつ薬による治療が最も効果的な方法だとしている<ref name="kishi" />。 2012年のうつ病学会シンポジウムでは、渡邊衡一郎により、米国精神医学界(APA)の治療ガイドラインでは、自殺予防の観点から抗うつ薬は特に急性期には必要と認識されていると意見されている<ref name="kishi">渡邊衡一郎「{{PDFlink|[http://www.secretariat.ne.jp/jsmd/suicide/pdf/medication_suicide_prevention.pdf 自殺予防のために薬物療法によってできることは何か]}}」(日本うつ病学会、シンポジウム開催年2012年)</ref>。意見は、男女とも[[SSRI]]の処方量が増えると、自殺率は低下する。若年者への投与の減少により、若年者の自殺率が増加している。睡眠障害により自殺率は上昇する。不安障害の併存により自殺率は上昇する。アルコールや物質依存により自殺率は上昇するというものである<ref name="kishi" />。 しかし、2015年のアメリカ国立精神衛生研究所 (NIH) やコロラド大学の教授らによる、自殺予防の観点からの薬物療法についての論文によれば、[[リチウム]]と[[クロザピン]](抗精神病薬)が自殺を防止するという証拠に比べれば、それ以外の抗うつ薬、あるいは[[抗精神病薬]]では、証拠に説得力がないことを報告している<ref name="pmid25145739">{{cite journal|last1=Griffiths|first1=Joshua J.|last2=Zarate|first2=Carlos A.|last3=Rasimas|first3=J.J.|coauthors=et al.|title=Existing and Novel Biological Therapeutics in Suicide Prevention|journal=American Journal of Preventive Medicine|volume=47|issue=3|pages=S195–S203|year=2014|pmid=25145739|pmc=4143783|doi=10.1016/j.amepre.2014.06.012|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4143783/}}</ref>。[[ケタミン]]では、投与から40分で自殺念慮を減少させており、自殺企図と死亡に関する調査はまだないが、今後の研究に期待が寄せられている<ref name="pmid25145739" />。 2016年4月の研究は、抗うつ薬の長期間の使用中に自殺や自殺企図を防ぐかについて包括的なレビューによってメタアナリシスを実施し、未知の理由による試験からの脱落が多く、結論に至らなかった<ref name="pmid27043848">{{cite journal|last1=Braun|first1=Cora|last2=Bschor|first2=Tom|last3=Franklin|first3=Jeremy|coauthors=et al.|title=Suicides and Suicide Attempts during Long-Term Treatment with Antidepressants: A Meta-Analysis of 29 Placebo-Controlled Studies Including 6,934 Patients with Major Depressive Disorder|journal=Psychotherapy and Psychosomatics|volume=85|issue=3|pages=171–179|year=2016|pmid=27043848|doi=10.1159/000442293|url=https://www.karger.com/Article/Abstract/442293}}</ref>。また北欧コクランセンターの研究は、[[システマティック・レビュー]]を行い、欧州の監督庁に提出されたデータからデュロキセチン、フルオキセチン、パロキセチン、セルトラリン、ベンラファキシンについて、成人では差がないものの小児および青年では自殺および攻撃のリスクは倍増していることや<ref name="pmid24060917">{{cite journal|last1=Sharma|first1=Tarang|last2=Guski|first2=Louise Schow|last3=Freund|first3=Nanna|coauthors=et al.|title=Suicidality and aggression during antidepressant treatment: systematic review and meta-analyses based on clinical study reports|journal=BMJ|issue=6|pages=i65|year=2016|pmid=24060917|pmc=4096990|doi=10.1136/bmj.i65}}</ref>、欧州とイギリスの監督庁に提出された治験における健康な被験者の自殺念慮や暴力の危険性を2倍にしていることを見出した<ref name="pmid27729596">{{cite journal|last1=Bielefeldt|first1=A. O.|last2=Danborg|first2=P. B.|last3=Gotzsche|first3=P. C.|coauthors=et al.|title=Precursors to suicidality and violence on antidepressants: systematic review of trials in adult healthy volunteers|journal=Journal of the Royal Society of Medicine|volume=109|issue=10|pages=381–392|year=2016|pmid=27729596|pmc=5066537|doi=10.1177/0141076816666805|url=http://journals.sagepub.com/doi/pdf/10.1177/0141076816666805}}</ref>。前者の研究ではイーライリリー社のデータでは自殺念慮の情報が欠落しているなどの情報の不完全性があり、解明にはそうしたデータの入手が必要であるとしている<ref name="pmid24060917" />。 腹圧性尿失禁に対するデュロキセチンによる治療のアメリカでの試験で予想を上回る自殺率が報告されたため、欧州医薬品庁 (EMA) に提出されたデータのメタアナリシスしたところ、人数の少なさと自殺や暴力に関連する記載の書き方を原因として信頼性のある評価が行えなかった(なお害が利益を上回っていると結論された)<ref name="MaundSchow Guski2016">{{cite journal|last1=Maund|first1=E.|last2=Schow Guski|first2=L.|last3=Gotzsche|first3=P. C.|title=Considering benefits and harms of duloxetine for treatment of stress urinary incontinence: a meta-analysis of clinical study reports|journal=Canadian Medical Association Journal|year=2016|doi=10.1503/cmaj.151104|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5289870/}}</ref>。 抗うつ薬が自殺を引き起こすリスクは過小評価されており<ref name="pmid29270136"/>、システマティックレビューは自殺行動に関するデータがほとんどないことを発見している<ref name="pmid28178949"/>。 === 他害行為 === 食品医薬品局(FDA)の有害事象報告システム(AERS)のデータのうち、殺人や暴力の基準を満たしたものを同定し、暴力が起きた件数の79%を31つの薬で占めたが、そのうち抗うつ薬は13つである<ref name="pmid21179515">{{cite journal|last1=Ross|first1=Joseph S.|last2=Moore|first2=Thomas J.|last3=Glenmullen|first3=Joseph|last4=Furberg|first4=Curt D.|title=Prescription Drugs Associated with Reports of Violence Towards Others|journal=PLoS ONE|volume=5|issue=12|pages=e15337|year=2010|pmid=21179515|pmc=3002271|doi=10.1371/journal.pone.0015337|url=http://www.plosone.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0015337}}</ref>。抗うつ薬全体では8.4倍、[[フルオキセチン]](プロザック(日本では未認可)、SSRI)で10.9倍、[[パロキセチン]](パキシル、SSRI)10.3倍、[[フルボキサミン]](デプロメール、SSRI)8.4倍、[[ベンラファキシン]](SNRI)8.3倍、{{仮リンク|デスベンラファキシン|en|desvenlafaxine}}(SNRI)7.9倍、[[セルトラリン]](ジェイゾロフト、SSRI)6.7倍、[[エスシタロプラム]](レクサプロ、SSRI)5.0倍、シタロプラム(SSRI)4.3倍、[[アミトリプチリン]](トリプタノール、三環系)4.2倍、[[トラゾドン]](レスリン、デジレル)3.5倍、[[ミルタザピン]](リフレックス、レメロン、NaSSA)3.4倍、であった。抗うつ薬の服用者の年齢が下がるほど他害行為の傾向が見られた<ref name="PMDSI261">{{Cite report |df=ja |date=September 2009 |title=医薬品・医療機器等安全性情報PMDSI No261|url=http://www.info.pmda.go.jp/iyaku_anzen/file/PMDSI261.pdf|format=pdf |chapter=SSRI/SNRIと他害行為について|pages= 8-12|publisher=医薬品医療機器総合機構 |accessdate=2013-02-23}}</ref>。 [[#自殺]]の節も参照。 === 事故 === 抗うつ薬の使用は、高齢者の転倒と関連している<ref name="pmid22191720">{{cite journal|last1=Hill|first1=Keith D.|last2=Wee|first2=Rohan|title=Psychotropic Drug-Induced Falls in Older People|journal=Drugs & Aging|volume=29|issue=1|pages=15–30|year=2012|month=January|pmid=22191720|doi=10.2165/11598420-000000000-00000}}</ref>。 1か月以内に抗うつ薬を摂取していた場合、自動車事故の危険性が70%増加する<ref name="pmid22971090">{{cite journal|last1=Chang|first1=Chia-Ming|last2=Wu|first2=Erin Chia-Hsuan|last3=Chen|first3=Chuan-Yu|last4=Wu|first4=Kuan-Yi|last5=Liang|first5=Hsin-Yi|last6=Chau|first6=Yeuk-Lun|last7=Wu|first7=Chi-Shin|last8=Lin|first8=Keh-Ming|last9=Tsai|first9=Hui-Ju|title=Psychotropic Drugs and Risk of Motor Vehicle Accidents: a Population-based Case-Control Study|journal=British Journal of Clinical Pharmacology|pages=n/a–n/a|year=2012|month=September|pmid=22971090|doi=10.1111/j.1365-2125.2012.04410.x}}</ref>。 === レム睡眠の抑制 === トリミプラミン、ミルタザピン、ネファゾドンを除くすべての主要な抗うつ薬は、[[レム睡眠]]を抑制し、これらの薬の臨床効果は、概してレム睡眠における抑制効果に由来するという説がある。 抗うつ薬の3つの主要な種類、モノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)、三環系抗うつ薬(TCA)、選択的セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)は、レム睡眠を大きく抑制する<ref>{{Cite journal|first=Robert P. |last=Vertes |year=2000 |title=The case against memory consolidation in REM sleep |journal=Behavioral and Brain Sciences |volume=23 |issue=6 |pages=867–876 |doi=10.1017/S0140525X00004003 |pmid=11515146 |last2=Eastman |first2=KE}}</ref>。MAOIはほぼ完全にレム睡眠を抑制する。ミルタザピンはレム睡眠に影響がないか、それを僅かに増加させるかのどちらかである<ref>{{cite web|url=http://www.pslgroup.com/dg/2030e2.htm |title=ISP: Mirtazapine Regulates Stress Hormones, Improves Sleep In Depressed Patients|accessdate =2013-01-19}}</ref>。この作用は、長期間にわたり高用量の抗うつ薬を服用している患者の疲労を増大させる原因となる。 === 体重増加 === 多くの抗うつ薬(TCA、TecA、SSRIのグループから[[パロキセチン]])は、通常は5〜25キログラムの範囲で、まれに50キログラム以上の体重増加に結びついている。約165万人からのメタアナリシスで、SSRIや主に三環系抗うつ薬であるほかの抗うつ薬の使用は、2年で2型糖尿病の危険性を68パーセント増加させる<ref name="pmid21811871">{{cite journal |author=Pan A, Sun Q, Okereke OI, ''et al.'' |title=Use of antidepressant medication and risk of type 2 diabetes: results from three cohorts of US adults |journal=Diabetologia |volume=55 |issue=1 |pages=63–72 |year=2012 |month=January |pmid=21811871 |pmc=3229672 |doi=10.1007/s00125-011-2268-4 |url=}}</ref>。 === 離脱症状 === {{See also|抗うつ薬中断症候群}} 抗うつ薬を急に中断した場合、頻繁に、身体と精神の両方に[[離脱]]の要素のある[[抗うつ薬中断症候群]]を生じさせる<ref name="AAFP">{{cite journal |vauthors=Warner CH, Bobo W, Warner C, Reid S, Rachal J |title=Antidepressant discontinuation syndrome |journal=Am Fam Physician |volume=74 |issue=3 |pages=449–56 |year=2006 |pmid=16913164 |doi= |url=}}</ref><ref name="pmid12008858">{{cite journal|last=Tamam|first=L.|coauthors=Ozpoyraz N.|title=Selective serotonin reuptake inhibitor discontinuation syndrome: a review.|journal=Adv Ther.|date=2002|volume=19|issue=1|pages=17–26|pmid=12008858 |doi=10.1007/BF02850015}}</ref>。離脱症状は、抗うつ薬を6週間以上服用した後に服薬をやめた数時間から1日程度で表れる可能性があり、少なくとも2〜3週間後であるうつ病の再発とは異なる<ref name=AAFP />。症状は軽度なことが多いが、少数は医師による治療が必要である<ref name=AAFP />。 離脱症状は、SSRIのほか、三環系抗うつ薬<ref>{{cite journal|last=Kramer|first=J.C.|coauthors=Klein D.Fl, Fink M.|title=Withdrawal symptoms following discontinuation of imiparmine therapy|journal=Am J Psychiatry|year=1961|volume=118|pages=548–550}}</ref>、モノアミン酸化酵素阻害薬(日本では抗うつ薬として未認可)<ref>{{cite journal|last=Haddad|first=P.M.|title=Antidepressant discontinuation syndromes. Clinical relevance, prevention and management|journal=Drug Saf|year=2001|volume=24| issue = 3|pages=183–197|url=http://www.ingentaconnect.com/content/adis/dsf/2001/00000024/00000003/art00003}}</ref>、非定型抗うつ薬(たとえば[[ベンラファキシン]]、[[ミルタザピン]]、[[トラゾドン]]、など)で報告されている<ref name=AAFP />。 2018年の[[システマティックレビュー]]では14件の研究から離脱症状の出現率は平均56%(27-86%の範囲)であり、患者への告知、ガイドラインの更新が必要とされる<ref name="pmid30292574">{{cite journal|author=Davies J, Read J|title=A systematic review into the incidence, severity and duration of antidepressant withdrawal effects: Are guidelines evidence-based?|journal=Addict Beha|date=September 2018|pmid=30292574|doi=10.1016/j.addbeh.2018.08.027}}</ref>。46%が重症となり、症状の期間が数か月までにわたることも珍しくはない<ref name="pmid30292574"/>。 デンマークにおけるノルディック・コクラン・センターの研究者は、SSRI中断の兆候と症状を[[ベンゾジアゼピン離脱症状]]におけるものと比較し、両方に離脱反応として[[依存症]]症候群を示し、酷似していたと結論した<ref name="pmid21992148">{{cite journal|last=Nielsen|first=Margrethe|coauthors=Hansen E.H.,Gotzsche P.C.|title=What is the difference between dependence and withdrawal reactions? A comparison of benzodiazepines and selective serortonin re-uptake inhibitors|journal=Addiction|year=2012|month=May|volume=107|issue=5|pages=900–908|pmid=21992148}}</ref>。ほかの場所では、SSRIが依存症を引き起こすという懸念が持ち上がっている<ref>{{cite book|last=Medawar|first=C.|title=Medicines out of Control|year=2004|publisher=Aksant|location=The Netherlands}}</ref>。抗うつ薬は、[[時計遺伝子]]として知られる転写因子と相互に作用する可能性があり<ref>{{Cite journal|author=Uz T, Ahmed R, Akhisaroglu M, Kurtuncu M, Imbesi M, Dirim Arslan A, Manev H |title=Effect of fluoxetine and cocaine on the expression of clock genes in the mouse hippocampus and striatum |journal=Neuroscience |volume=134 |issue=4 |pages=1309–16 |year=2005 |pmid=15994025 |doi=10.1016/j.neuroscience.2005.05.003}}</ref>、薬物の依存性(薬物乱用)とおそらく肥満に関与している<ref>{{Cite journal|author=Yuferov V, Butelman E, Kreek M |title=Biological clock: biological clocks may modulate drug addiction |journal=Eur J Hum Genet |volume=13 |issue=10 |pages=1101–3 |year=2005 |pmid=16094306 |doi=10.1038/sj.ejhg.5201483}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Manev H, Uz T |title=Clock genes as a link between addiction and obesity |journal=Eur J Hum Genet |volume=14 |issue=1 |page=5 |year=2006 |pmid=16288309 |doi=10.1038/sj.ejhg.5201524}}</ref>。6〜9か月を超える長期の治療の場合、このプロセスは抗うつ薬の初期の急性効果を妨害する(臨床効果の減少)。薬物治療の終了時にこのプロセスのみとなって離脱症状を生じさせ、再発の脆弱さが増す。このプロセスは必ずしも可逆的ではない。それどころか多くの抗うつ薬が切り替えあるいは増強されており、反耐性が起きる<ref name = fava2011>{{cite journal|last=Fava|first=Giovanni A.|coauthors=Offidani Emanuela|title=The mechanisms of tolerance in antidepressant action|journal=Progress in Neuropsychopharmacology & Biological Psychiatry|year=2011|month=August|volume=35|issue=7|pages=1593–1602 |doi=10.1016/j.pnpbp.2010.07.026 |accessdate=2012-11-29}}</ref>。 SSRI中断の離脱症状の一部を挙げる:怒り、不安、パニック、抑うつ、離人症、剥離、精神錯乱、集中力の低下、記憶の問題、号泣発作、幻覚、躁、せん妄、平衡感覚の問題、視覚障害、電撃の感覚<ref name="JClinPsy2004-Baboolal" /><ref>{{cite journal |author = Reeves R, Mack J, Beddingfield J |title = Shock-like sensations during venlafaxine withdrawal |journal = Pharmacotherapy |volume = 23 |issue = 5 |pages = 678–81 |year = 2003 |pmid = 12741444 |doi = 10.1592/phco.23.5.678.32198}}</ref>、無感覚、知覚障害、むずむず脚、うずき、振戦、震え、パーキンソン、攻撃性、緊張。 さらに、増量でも減量でも抗うつ薬の用量の変更が生じた場合、自殺の危険性が2倍になると見られている<ref name="Valuck 2009 1069–1077" />。 離脱と反発の作用の強度を最小化するには<ref>{{cite web|url=http://www.biopsychiatry.com/addictionp.htm |title=Antidepressants and Addiction |publisher=Biopsychiatry.com |date= |accessdate=2012-11-30}}</ref>、抗うつ薬は、減量に対する個人の反応に応じて、数週間から数カ月の期間継続すべきである。中断のためのアシュトンによる手順では、毎週か2週ごとに、残りの用量の10%の減量を勧めている<ref>{{cite report|df=ja|last=Ashton|first=Heather|title=ベンゾジアゼピン - それはどのように作用し、離脱するにはどうすればよいか|url=http://www.benzo.org.uk/amisc/japan.pdf|format=pdf|date=August 2002|publisher=Professor C H Ashton|accessdate=2013-01-19}}</ref>。 大部分の事例では、中断症状は最後の1〜4週間まで存続するが、おそらく15%までの少数の利用者は、離脱後1年間にわたり離脱症状が持続する<ref>{{cite journal|last=Fava|first=GA|coauthors=Bernardi M, Tomba E, Rafanelli C.|title=Effects of gradual discontinuation of selective serotonin reuptake inhibitors in panic disorder with agoraphobia|journal=Int. J. Neuropsychopharmacology|year=2007|month=December|volume=10|issue=6|pages=835–838|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/17224089}}</ref>。 離脱症状の、出現率は全体では20%程度だが、パロキセチン(パキシル)で66%、セルトラリン(ゾロフト)で60%と薬剤によって異なり、血中半減期が短いものが出現率が高い傾向がある<ref name="AAFP" />。 パロキセチンとベンラファキシンは<ref name="JClinPsy2004-Baboolal">{{cite journal |author = Baboolal N |title = Venlafaxine withdrawal syndrome: report of seven cases in Trinidad |journal = J Clin Psychopharmacol |volume = 24 |issue = 2 |pages = 229–31 |year = 2004 |pmid = 15206672 |doi = 10.1097/01.jcp.0000117427.05703.f2}}</ref><ref name="DrugSaf2001-Haddad">{{cite journal |author = Haddad P |title = Antidepressant discontinuation syndromes |journal = Drug Saf |volume = 24 |issue = 3 |pages = 183–97 |year = 2001 |pmid = 11347722 |doi = 10.2165/00002018-200124030-00003}}</ref><ref name="AmJPsych1997-fava">{{cite journal |author=Fava M, Mulroy R, Alpert J, Nierenberg A, Rosenbaum J |title=Emergence of adverse events following discontinuation of treatment with extended-release venlafaxine |journal=Am J Psychiatry |volume=154 |issue=12 |pages=1760–2 |year=1997 |pmid=9396960}}</ref><ref name="ANZ JPsych1998-parker">{{cite journal |author=Parker G, Blennerhassett J |title=Withdrawal reactions associated with venlafaxine |journal=Aust N Z J Psychiatry |volume=32 |issue=2 |pages=291–4 |year=1998 |pmid=9588310 |doi=10.3109/00048679809062742}}</ref><ref>{{cite journal |author = van Noorden M, Vergouwen A, Koerselman G |title = [Delirium during withdrawal of venlafaxine] |journal = Ned Tijdschr Geneeskd |volume = 146 |issue = 26 |pages = 1236–7 |year = 2002 |pmid = 12132141}}</ref><ref>{{cite journal |author = Nissen C, Feige B, Nofzinger E, Riemann D, Berger M, Voderholzer U |title = Transient narcolepsy-cataplexy syndrome after discontinuation of the antidepressant venlafaxine |journal = J Sleep Res |volume = 14 |issue = 2 |pages = 207–8 |year = 2005 |pmid = 15910521 |doi = 10.1111/j.1365-2869.2005.00447.x}}</ref><ref name="AmJPsych1997-agelink">{{cite journal |author = Agelink M, Zitzelsberger A, Klieser E |title = Withdrawal syndrome after discontinuation of venlafaxine |journal = Am J Psychiatry |volume = 154 |issue = 10 |pages = 1473–4 |year = 1997 |pmid = 9326838}}</ref>、中断が特に困難なようで、18か月以上持続する長期にわたる離脱症状がパロキセチンで報告されている<ref name="pmid12008858"/>。いくつかのピア・サポートのグループが、患者が抗うつ薬を徐々に減らすための支援を行っている<ref>{{cite web|title=Paxil Progress|url=http://www.paxilprogress.org/forums/|accessdate=2012-11-27}}</ref><ref>{{cite web|title=Surviving Antidepressants|url=http://survivingantidepressants.org/|accessdate=2012-11-27}}</ref>。 2013年に発行された『[[精神障害の診断と統計マニュアル]]』第5版(DSM-5)では、抗うつ薬中断症候群(Antidepressant Discontinuation Syndrome)の診断名が追加された。 === 増補薬 === * [[抗不安薬]] - 一般的に[[ベンゾジアゼピン系]]は不安を和らげ睡眠を促進するために処方されている。しかしながら[[ベンゾジアゼピン依存症|依存]]の危険性が高いため、これらの薬物は短期的または頓服用に用いられることが推奨される。 * [[抗精神病薬]] - 特に高用量では、目のかすみ・筋肉痙攣・落ち着きのなさ・[[遅発性ジスキネジア]]・体重増加などの重篤な副作用を引き起こす可能性がある。 ** [[スルピリド]](商品名:ドグマチール等) - 300mg以下/日の低用量では抗うつ薬、300〜1200mg/日の高用量では[[抗精神病薬]]として作用する。うつ病学会によれば、抗精神病薬の副作用のためスルピリドは推奨されない{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2012|p=24}}。TCA、SSRI、SNRI等と比較して即効性がある。 ** [[アリピプラゾール]](商品名:エビリファイ等) - [[統合失調症]]の薬として開発されたがうつ病・うつ状態にも効果がある(既存治療で十分な効果が認められない場合に限る)<ref>[http://www.info.pmda.go.jp/go/pack/1179045F4022_1_07/ エビリファイ添付文書] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131023060759/http://www.info.pmda.go.jp/go/pack/1179045F4022_1_07/ |date=2013年10月23日 }}</ref>。 * [[リチウム塩]](商品名:リーマス等) - 日本国内においては[[抗躁薬]]として発売され、保険適応も[[躁病]]・躁うつ病([[双極性障害]])であり、[[気分安定薬]]としての効能が臨床的に認められている。抗うつ薬の補強として用いられる。 なお、薬物治療抵抗性うつ病や再発性うつ病も含めた中等症から重症のうつ病にたいして抗うつ薬の効果の[[増強療法]]が選択される場合がある{{sfn|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2013|p=34}}。[[#増強および併用]]を参照。 === 物忘れ === アミトリプチリンなどの一部の古い抗うつ剤は物忘れを引き起こすので、医師と相談する必要がある<ref>{{Cite web |title=Harvard Health |url=https://www.health.harvard.edu/topics/memory |website=www.health.harvard.edu |access-date=2022-10-23 |language=en}}</ref>。 == 治療効果 == 抗うつ薬の効果は、副作用に関連するリスクを正当化するために偽薬をしのぐべきである。うつ病の重症度の評価に[[ハミルトンうつ病評価尺度]](HAM-D)が、しばしば用いられる<ref>{{cite journal|last=Hamilton|first=M|title=A rating scale for depression.|journal=Journal of Neurology, Neurosurgery and Psychiatry|year=1960|volume=23|pages=56–62|doi=10.1136/jnnp.23.1.56|pmid=14399272}}</ref>。HAM-Dの17項目のアンケートからの最大スコアは52点である;高いスコアがより重度のうつ病である。何が薬に対する十分な反応に相当するのかについては十分に確立されていないが、寛解あるいはすべてのうつ症状の実際の除去が目標であり、しかしながら寛解率はまれにしか公表されていない。症状軽減の割合は、抗うつ薬による46-54%に対して偽薬では31-38%である<ref>{{cite journal|last=Khan|first=Arif|coauthors=Faucett, J., Lichtenberg P., Kirsch I., Brown W.A.|title=A Systematic Review of Comparative Efficacy of Treatments and Controls for Depression|journal=PLoS One|date=2012年7月30日|pages=e41778|doi=10.1371/journal.pone.0041778|url=http://www.plosone.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0041778|accessdate=2012-11-28}}</ref>。 234の研究から、第二世代の13種の抗うつ薬[[シタロプラム]]、{{仮リンク|デスベンラファキシン|en|Desvenlafaxine}}、[[エスシタロプラム]]、[[フルオキセチン]](日本では未認可)、[[フルボキサミン]]、[[ミルタザピン]]、{{仮リンク|ネファゾドン|en|Nefazodone}}、[[パロキセチン]]、[[セルトラリン]]、[[トラゾドン]]、[[ベンラファキシン]])にて、年齢、性別、民族、併発疾患を考慮しても、うつ病の急性期、継続期、維持期の治療に対して、ほかのものを上回る臨床的に意味のある優越は発見されなかった<ref>{{cite journal|last=Gartlehner|first=Gerald|coauthors=Hansen R.A., Morgan L.C et al.|title=Comparative Benefits and Harms of Second-Generation Antidepressants for Treating Major Depressive Disorder: An Updated Meta-analysis|journal=Annals of Internal Medicine|year=2011|month=Dec|volume=155|issue=11|pages=772–785|url=http://annals.org/article.aspx?articleid=1033198|accessdate=2012-11-28}}</ref>。 うつ病の薬物治療の有効性について、アメリカ国立精神衛生研究所によって委託されこれまでに最大規模かつ高額な費用がかかった研究、STAR*D (Sequenced Treatment Alternatives to Relieve Depression) が実施された<ref>{{cite web|title=Sequenced Treatment Alternatives to Relieve Depression (STAR*D) Study|url=http://www.nimh.nih.gov/trials/practical/stard/index.shtml|publisher=National Institute of Mental Health|accessdate=2012-11-28}}</ref>。その結果<ref>{{cite journal|last=Fava|first=Maurizio|coauthors=et al|title=A Compariそのson of Mirtazapine and Nortriptyline Following Two Consecutive Failed Medication Treatments for Depressed Outpatients: A STAR*D Report|journal=Am J Psychiatry|year=2006|volume=163: number 7|pages=1161–1172|url=http://ajp.psychiatryonline.org/article.aspx?articleID=96787&RelatedWidgetArticles=true|accessdate=2012-11-28}}</ref><ref name="pmid16554526"/>の概要は以下である。STAR*Dの各過程は14週間ごとであり、従って14週後における寛解率や脱落率を表す。 *治療の最初の過程の後、2,876人の参加者のうち、27.5%がHAM-Dの点数が7点以下となり寛解に達した。21%が脱落した<ref name="pmid16390886">{{Cite journal|author=Trivedi MH, Rush AJ, Wisniewski SR |title=Evaluation of outcomes with citalopram for depression using measurement-based care in STAR*D: implications for clinical practice |journal=The American Journal of Psychiatry |volume=163 |issue=1 |pages=28–40 |year=2006 |pmid=16390886 |doi=10.1176/appi.ajp.163.1.28}}</ref>。 * 次の治療の過程の後、残り1,439人の参加者のうち21-30%が寛解した。310人の参加者だけが研究の継続に協力的であるか継続可能であった<ref name="pmid16554526">{{Cite journal|author=Trivedi MH, Fava M, Wisniewski SR |title=Medication augmentation after the failure of SSRIs for depression |journal=N. Engl. J. Med. |volume=354 |issue=12 |pages=1243–52 |date=2006年3月23日 |pmid=16554526 |doi=10.1056/NEJMoa052964|url=http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa052964}}</ref>。薬の切り替えでは約25%の患者が寛解に達した<ref name="pmid16554525">{{Cite journal|author=Rush AJ, Trivedi MH, Wisniewski SR |title=Bupropion-SR, sertraline, or venlafaxine-XR after failure of SSRIs for depression |journal=N. Engl. J. Med. |volume=354 |issue=12 |pages=1231–42 |year=2006 |pmid=16554525 |doi=10.1056/NEJMoa052963}}</ref>。 * 3番目の治療の過程の後、残り310人の参加者のうち、17.8%が寛解した。 * 4番目の治療の過程の後、残り109人の参加者のうち、10.1%が寛解した。 * 1年後の追跡調査で、1,085人の寛解した参加者のうち、93%が再発するかこの研究を脱落した。 この研究で比較されたどの薬の間にも、寛解率、反応率、寛解あるいは反応までの期間に、統計的あるいは意味のある臨床的な違いはない<ref>{{cite journal|last=Warden|first=Diane|coauthors=Rush AJ, Trivedi MH, Fava M, Wisniewski SR|title=The STAR*D Project results: a comprehensive review of findings.|journal=Curr Psychiatry Rep|year=2007|month=Dec|volume=9|issue=6|pages=449–59|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18221624|accessdate=2012-11-28}}</ref>。シタロプラム、リチウム、ミルタザピン、ノルトリプチリン、セルトラリン、トリヨードサイロニン、トラニルシプロミン、ベンラファキシン徐放錠が含まれる。 2008年の[[ランダム化比較試験]]のレビューは、症状の改善は、SSRIを使用して1週間目の終わりが最高で、いくらかの改善は少なくとも6週間継続したと結論した<ref>{{Cite journal|author=Taylor MJ, Freemantle N, Geddes JR, Bhagwagar Z |title=Early Onset of Selective Serotonin Reuptake Inhibitor Antidepressant Action: Systematic Review and Meta-analysis |journal=Arch Gen Psychiatry |volume=63 |issue=11 |pages=1217–23 |year=2005 |pmid=17088502 |doi=10.1001/archpsyc.63.11.1217|pmc=2211759}}</ref>。 SSRIのフルオキセチン(日本では未認可)、パロキセチン、エスシタロプラムとSNRIデュロキセチンと偽薬では、反応があった場合、偽薬のほうが改善度が緩やかだが、すべてで時間と共に改善していく傾向が見られた。しかし、抗うつ薬に反応しなかった患者の一部、全体に対する約25%の患者は、HAM-Dスコアが高いままで、8週間では偽薬より著しく高かった<ref name="pmid22147842">{{cite journal|last1=Gueorguieva|first1=Ralitza|title=Trajectories of Depression Severity in Clinical Trials of Duloxetine Insights Into Antidepressant and Placebo Responses|journal=Archives of General Psychiatry|volume=68|issue=12|pages=1227–37|year=2011|month=December|pmid=22147842|pmc=3339151|doi=10.1001/archgenpsychiatry.2011.132|url=http://archpsyc.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=1107437}}</ref>。これは抗うつ薬に反応しない場合、中止すべきことを示唆していると解釈された<ref>{{cite news |author=Maia Szalavitz |title=New Research on the Antidepressant-vs.-Placebo Debate |url=http://healthland.time.com/2012/01/18/new-research-on-the-antidepressant-versus-placebo-debate/ |date=Jan, 18, 2012 |newspaper= |accessdate=2013-01-27}}</ref>。 うつ病は類似した症状を呈する異なる病因の病気の集合なので、抗うつ薬の予後が悪いことを示した。大うつ病性障害の定義は見当違いの可能性がある<ref>{{cite journal|last=Holtzheimer|first=Paul|coauthors=Mayberg, Helen S.|title=Stuck in a Rut: Rethinking Depression and its Treatment|journal=Trends Neurosci.|year=2011|month=January|volume=34|issue=1|pages=1–9|doi=10.1016/j.tins.2010.10.004|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3014414/|accessdate=2012-11-29}}</ref>。 抗うつ薬はうつ病の根本にある原因に効果があるかについて、2002年のレビューは、使用を終了した場合、抗うつ薬がうつ病の再発の危険性を減少させるという根拠がないと結論した。このレビューの執筆者らは、対人関係療法(IPT)と認知行動療法(CBT)を挙げ、抗うつ薬を心理療法と組み合わせることを提言した<ref>{{cite web|url=http://www.psychologicalscience.org/journals/pspi/pdf/pspi31101.pdf |title=Hollon SD, Thase ME, Markowitz JC. "Treatment and prevention of depression", '&#39;Psychological Science in the Public Interest'&#39;, 2002;3:1–39. |format=PDF |date= |accessdate=2012-11-30}}</ref>。 === 研究のレビュー === * (2007) 小児うつ病のための抗うつ薬の使用のレビュー<ref>{{cite journal |first1=Jon N. |last1=Jureidini |first2=Christopher J. |last2=Doecke |first3=Peter R. |last3=Mansfield |first4=Michelle M. |last4=Haby |first5=David B. |last5=Menkes |first6=Anne L. |title=Efficacy and safety of antidepressants for children and adolescents |journal=BMJ |volume=328 |issue=7444 |pages=879–83 |last6=Tonkin |year=2004 |pmid=15073072 |pmc=387483 |doi=10.1136/bmj.328.7444.879}}</ref><ref>{{cite journal |first1=Shaheen E. |last1=Lakhan |first2=Gareth E. |title=The impact of prescribed psychotropics on youth |journal=Clinical practice and epidemiology in mental health |volume=3 |page=21 |year=2007 |last2=Hagger-Johnson |pmid=17949504 |pmc=2100041 |doi=10.1186/1745-0179-3-21}}</ref> * (2004) 「活性プラシボ」と比較した抗うつ薬の評価<ref name=pmid14974002>{{cite journal |first1=Joanna |last1=Moncrieff |first2=Simon |last2=Wessely |first3=Rebecca |last4=Moncrieff |first4=Joanna |title=Active placebos versus antidepressants for depression |journal=Cochrane database of systematic reviews (Online) |issue=1 |pages=CD003012 |year=2004 |last3=Hardy |pmid=14974002 |doi=10.1002/14651858.CD003012.pub2 |editor1-last=Moncrieff |editor1-first=Joanna}}</ref> * (2001) 異なる種類の抗うつ薬の相対的な有効性の比較<ref>{{Cite journal|author=Anderson IM |title=Selective serotonin reuptake inhibitors versus tricyclic antidepressants: a meta-analysis of efficacy and tolerability |journal=J Affect Disord |volume=58 |issue=1 |pages=19–36 |year=2000 |month=April |pmid=10760555 |doi=10.1016/S0165-0327(99)00092-0 }}</ref> 異なる設定におけるもの<ref>{{cite journal |first1=Steve |last1=MacGillivray |first2=Simon |last2=Hatcher |first3=Simon |last3=Ogston |first4=Ian |last4=Reid |first5=Frank |last5=Sullivan |first6=Brian |last6=Williams |first7=Iain |last8=Crombie |first8=I |title=Efficacy and tolerability of selective serotonin reuptake inhibitors compared with tricyclic antidepressants in depression treated in primary care: systematic review and meta-analysis |journal=BMJ |volume=326 |issue=7397 |page=1014 |year=2003 |last7=Crombie |pmid=12742924 |pmc=154760 |doi=10.1136/bmj.326.7397.1014}}</ref> うつ病の性質の差異を考慮したもの<ref>{{Cite journal|doi=10.4088/JCP.v62n0209 |author=Parker G, Roy K, Wilhelm K, Mitchell P |title=Assessing the comparative effectiveness of antidepressant therapies: a prospective clinical practice study |journal=J Clin Psychiatry |volume=62 |issue=2 |pages=117–25 |year=2001 |month=February |pmid=11247097 }}</ref> * (1999) 新しいタイプのMAOIの評価<ref>{{cite journal |first1=Francisco |last1=Lotufo-Neto |first2=Madhukar |last2=Trivedi |first3=Michael E. |title=Meta-analysis of the reversible inhibitors of monoamine oxidase type A moclobemide and brofaromine for the treatment of depression |journal=Neuropsychopharmacology |volume=20 |issue=3 |pages=226–47 |last3=Thase |year=1999 |pmid=10063483 |doi=10.1016/S0893-133X(98)00075-X}}</ref> === 増量 === 2006年のシステマティックレビューは、増量を推奨する証拠がないことを確認した<ref name="pmid17012653">{{cite journal|last1=Ruhe|first1=H. G.|last2=Huyser|first2=J.|last3=Swinkels|first3=J. A.|last4=Schene|first4=A. H.|title=Dose escalation for insufficient response to standard-dose selective serotonin reuptake inhibitors in major depressive disorder: Systematic review|journal=The British Journal of Psychiatry|volume=189|issue=4|pages=309–316|year=2006|month=October|pmid=17012653|doi=10.1192/bjp.bp.105.018325}}</ref>。パロキセチンの増量は、血中濃度では増加するものの、セロトニン受容体での占有率を増加させていないため、著者はSSRIの増量は推奨できないとしている<ref name="pmid20862644">{{cite journal||title=Dose-escalation of SSRIS in major depressive disorder. Should not be recommended in current guidelines|journal=Tijdschrift Voor Psychiatrie|volume=52|issue=9|pages=615–25|year=2010|pmid=20862644|url=http://www.tijdschriftvoorpsychiatrie.nl/en/issues/431/articles/8280}}</ref>。[[フルオキセチン]](日本では未認可)、[[パロキセチン]]、[[シタロプラム]]、[[エスシタロプラム]]、[[セルトラリン]]、[[フルボキサミン]]でのメタアナリシスで、反応率は通常の開始用量の50.8%に対して高用量で開始した場合は54.8%であり、有害事象による中止率は通常量9.8%に対して高用量16.5%であり、有害事象のリスクのほうが高まった<ref name="pmid20218793">{{cite journal|last1=Papakostas|first1=George I.|last2=Charles|first2=Dana|last3=Fava|first3=Maurizio|title=Are typical starting doses of the selective serotonin reuptake inhibitors sub-optimal? A meta-analysis of randomized, double-blind, placebo-controlled, dose-finding studies in major depressive disorder|journal=World Journal of Biological Psychiatry|volume=11|issue=2_2|pages=300–307|year=2010|month=March|pmid=20218793|doi=10.3109/15622970701432528}}</ref>。 三環系([[イミプラミン]]、[[クロミプラミン]])、四環系([[マプロチリン]])、SSRI([[フルオキセチン]](日本では未認可)、[[シタロプラム]]、[[フルボキサミン]]、[[ミルナシプラン]]、[[セルトラリン]]、[[パロキセチン]]、[[ベンラファキシン]])、MAOIs([[イソカルボキサジド]]、{{仮リンク|フェネルジン|en|Phenelzine}}、{{仮リンク|モクロベミド|en|Moclobemide}})、非定型抗うつ薬({{仮リンク|ネファゾドン|en|Nefazodone}}、{{仮リンク|ミナプリン|en|minaprine}}、[[ロリプラム]])を、イミプラミン等価換算で有効性をメタアナリシスした研究があり、高用量は改善率を上昇させないが有害事象の発現率を上げていることが示されている<ref name="pmid10533547" />。 {| class="wikitable" style="font-size:90%" |+ 17種類の抗うつ薬のイミプラミン等価換算での有効性の比較(PMID 10533547<nowiki/>より作成)<ref name="pmid10533547">{{cite journal |author=Bollini P, Pampallona S, Tibaldi G, Kupelnick B, Munizza C |title=Effectiveness of antidepressants. Meta-analysis of dose-effect relationships in randomised clinical trials |journal=The British Journal of Psychiatry : the Journal of Mental Science |volume=174 |issue= |pages=297–303 |year=1999 |month=April |pmid=10533547 |doi=10.1192/bjp.174.4.297 |url=http://www.crd.york.ac.uk/crdweb/ShowRecord.asp?LinkFrom=OAI&ID=11999000941}}</ref> ! 投与量 !! 偽薬群 !! 100mgまで !! 200mgまで !! 250mgまで !! 250mg以上 |- | 改善率 || 34.8% || 46.0% || 53.3% || 46.3% || 48.3% |- | 有害事象発現率 || 1倍 || 1倍 || 1.5倍 || 1.63倍 || 2.18倍 |} 高用量の抗うつ薬によるハミルトンうつ病評価尺度の改善度は、9.97点であったのに対し、低用量では9.57点であり、臨床的には無視できるほどの差であった。解析に使用されたのは、フルオキセチン(プロザック(日本では未認可))、パロキセチン(パキシル)、セルトラリン(ゾロフト)、ベンラファキシン(イフェクサー))、ネファゾドン(サーゾーン)、およびシタロプラム(セレクサ)のデータである<ref>{{Cite journal|last=Kirsch|first=I|year=2002|month=July|title=The emperor's new drugs: An analysis of antidepressant medication data submitted to the U.S. Food and Drug Administration|journal=Prevention & Treatment|volume=5|issue=1|publisher=American Psychological Association|doi=10.1037/1522-3736.5.1.523a|last2=Moore|first2=Thomas J.|last3=Scoboria|first3=Alan|last4=Nicholls|first4=Sarah S.|url=http://alphachoices.com/repository/assets/pdf/EmperorsNewDrugs.pdf|format=pdf}}</ref>。 === 効果の限界と方策 === 抗うつ薬が投与された30%から50%の間の患者が反応を示さない<ref>{{Cite journal|author=Baghai TC, Möller HJ, Rupprecht R |title=Recent progress in pharmacological and non-pharmacological treatment options of major depression |journal=Curr. Pharm. Des. |volume=12 |issue=4 |pages=503–15 |year=2006 |pmid=16472142 |doi=10.2174/138161206775474422 }}</ref><ref name="SSRIswitch">{{Cite journal|author=Ruhé HG, Huyser J, Swinkels JA, Schene AH |title=Switching antidepressants after a first selective serotonin reuptake inhibitor in major depressive disorder: a systematic review |journal=J Clin Psychiatry |volume=67 |issue=12 |pages=1836–55 |year=2006 |month=December |pmid=17194261 |doi=10.4088/JCP.v67n1203 }}</ref>。着実な反応があった場合でも、うつ病と機能不全の有意な継続は一般的で、そういう事例では再発率は3から6倍高い<ref>{{Cite journal|author=Tranter R, O'Donovan C, Chandarana P, Kennedy S |title=Prevalence and outcome of partial remissionin depression |journal=J Psychiatry Neurosci |volume=27 |issue=4 |pages=241–7 |year=2002 |month=July |pmid=12174733 |pmc=161658 }}</ref>。さらに、抗うつ薬は治療の過程で効果を失っていく傾向がある<ref>{{Cite journal|doi=10.4088/JCP.v59n0602|author=Byrne SE, Rothschild AJ |title=Loss of antidepressant efficacy during maintenance therapy: possible mechanisms and treatments |journal=J Clin Psychiatry |volume=59 |issue=6 |pages=279–88 |year=1998 |month=June |pmid=9671339 }}</ref>。これらの限界と変動を打開するいくらかの方法が実際の診療で試みられている<ref>{{Cite journal|author=Mischoulon D, Nierenberg AA, Kizilbash L, Rosenbaum JF, Fava M |title=Strategies for managing depression refractory to selective serotonin reuptake inhibitor treatment: a survey of clinicians |journal=Can J Psychiatry |volume=45 |issue=5 |pages=476–81 |year=2000 |month=June |pmid=10900529 }}</ref>。薬の切り替えと増強と併用である。 ==== 遺伝子に基づく治療の最適化 ==== STAR*Dでは、治療効果と遺伝子を解析し個人に最適化された投薬を探る目的があったが、そのようなデータは得られていない<ref name="pmid19880463" />。欧州におけるNEWMEDS計画からも、セロトニン再取り込み阻害剤あるいはノルアドレナリン再取り込み阻害剤への反応性を予測する遺伝子との関連性は導き出せていない<ref name="pmid23091423">{{cite journal |author=Tansey KE, Guipponi M, Perroud N, ''et al.'' |title=Genetic predictors of response to serotonergic and noradrenergic antidepressants in major depressive disorder: a genome-wide analysis of individual-level data and a meta-analysis |journal=PLoS Medicine |volume=9 |issue=10 |pages=e1001326 |year=2012 |month=October |pmid=23091423 |pmc=3472989 |doi=10.1371/journal.pmed.1001326 |url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3472989/}}</ref>。 ==== 「試行錯誤」による切り替え ==== [[アメリカ精神医学会]](APA)の2000年の診療ガイドラインで、抗うつ薬による治療によって6から8週目までに反応がない場合、同じ種類の別の抗うつ薬に切り替え、次に異なった種類の抗うつ薬にすることを勧告している。この方法を用いたSTAR*D研究で報告された寛解率は21%であった。 2006年のメタ分析レビューは以前の研究の研究結果に多様性を見出した;SSRI抗うつ薬に反応しなかった患者が、新しい薬に対して12%から86%の間の反応があることを示した。しかしながら、個人はすでに多くの抗うつ薬を試しているので、新しい抗うつ薬試験からの恩恵はなさそうである<ref name="SSRIswitch" />。 また一方、後のメタ分析は、新しい薬への切り替えと古い薬の継続との間に、違いがないことを見出している;とはいえ、新しい薬に切り替えた場合、治療抵抗性患者の34%が反応し、切り替えなしでも40%の反応があった<ref>{{cite journal |author = Bschor T., Baethge C. |year = 2010 |title = No evidence for switching the antidepressant: systematic review and meta-analysis of RCTs of a common therapeutic strategy |url = |journal = Acta Psychiatrica Scandinavica |volume = 121 |issue = 3| pages = 174–179 |doi = 10.1111/j.1600-0447.2009.01458.x |pmid = 19703121 }}</ref>。従って、新しい薬に対する臨床反応は、違う薬を受け取っているという信念に関連した[[偽薬効果]]の可能性がある。 ==== 増強および併用 ==== {{Seealso|増強療法|多剤大量処方}} アメリカ精神医学会のガイドラインは、部分的な反応に対して、増強あるいは違う種類の薬を追加することを勧めている。以下が含まれる:[[リチウム]]、[[甲状腺]]強化、{{仮リンク|ドーパミン作動薬|en|dopamine agonists}}、[[性ホルモン]]、[[ノルアドレナリン再取り込み阻害剤|NRI]]、[[糖質コルチコイド]]特性の薬剤、また新しい[[抗てんかん薬]]<ref name="augment">{{Cite journal|author=DeBattista C, Lembke A |title=Update on augmentation of antidepressant response in resistant depression |journal=Curr Psychiatry Rep |volume=7 |issue=6 |pages=435–40 |year=2005 |month=December |pmid=16318821 |doi=10.1007/s11920-005-0064-x }}</ref>STAR*D計画は、この方法で30%の寛解率を報告した。 併用戦略では、通常、作用機序が重ならないように異なる系統の抗うつ薬を追加する。とはいえ、この戦略の有効性及び副作用についてのエビデンスはまだ少ないので、より大規模な臨床試験で有効性等を実証する必要がある<ref>{{Cite journal|author=Lam RW, Wan DD, Cohen NL, Kennedy SH |title=Combining antidepressants for treatment-resistant depression: a review |journal=J Clin Psychiatry |volume=63 |issue=8 |pages=685–93 |year=2002 |month=August |pmid=12197448|doi=10.4088/JCP.v63n0805 }}</ref>。STAR*D計画は、増強戦略で同じような寛解率を報告した。 薬剤を切り替えるのではなく、併用して作用増強を図ることは、単剤での副作用を緩和したり、治療抵抗性又は重度の精神病症状の悪化と治療無反応性を改善する可能性があることを示している<ref>{{cite journal|last=Chouinard|first=Guy|coauthors=Chouinard Virginie-Anne|title=Atypical Antipsychotics: CATIE Study, Drug-Induced Movement Disorder and Resulting Iatrogenic Psychiatric-Like Symptoms, Supersensitivity Rebound Psychosis and Withdrawal Discontinuation Syndromes|journal=Psychother Psychosom|year=2008|month=January|volume=77|issue=7|pages=69–77|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18230939|accessdate=2012-11-29}}</ref>。 シタロプラムへの抗精神病薬の[[リスペリドン]](リスパダール)の追加は利点が示せなかった<ref name="pmid16760927">{{cite journal|last1=Rapaport|first1=Mark Hyman|last2=Gharabawi|first2=Georges M|last3=Canuso|first3=Carla M|last4=Mahmoud|first4=Ramy A|last5=Keller|first5=Martin B|last6=Bossie|first6=Cynthia A|last7=Turkoz|first7=Ibrahim|last8=Lasser|first8=Robert A|last9=Loescher|first9=Amy|last10=Bouhours|first10=Philippe|last11=Dunbar|first11=Fiona|last12=Nemeroff|first12=Charles B|title=Effects of Risperidone Augmentation in Patients with Treatment-Resistant Depression: Results of Open-Label Treatment Followed by Double-Blind Continuation|journal=Neuropsychopharmacology|volume=31|issue=11|pages=2505–2513|year=2006|month=November|pmid=16760927|doi=10.1038/sj.npp.1301113|url=http://www.nature.com/npp/journal/v31/n11/full/1301113a.html}}</ref>。[[フルオキセチン]](日本では未認可)に追加した[[オランザピン]](ジプレキサ)でも同様である<ref name="pmed1001403" />。 ====長期間の使用==== 1960年代以降、抗うつ薬の服用はうつ病の長期的転帰を悪化させるという報告がある<ref>{{harvnb|Robert Whitaker|2009|pp=157-159}} (翻訳書は {{harvnb|ロバート・ウィタカー|2010|pp=230-232}})</ref>。 1990年、{{仮リンク|アメリカ国立精神衛生研究所|en|National Institute of Mental Health|}}は、うつ病に関する全国調査で抗うつ薬([[イミプラミン]])、[[偽薬]]、[[心理療法]](2種類)を比較し、18ヶ月後の健康維持率について、心理療法(認知療法)を受けた患者群が最高(30%)、抗うつ薬を服用した患者群が最低(19%)と報告している<ref>{{harvnb|Robert Whitaker|2009|pp=158, 307}} (翻訳書は {{harvnb|ロバート・ウィタカー|2010|pp=232,456}})</ref>。 1998年、[[世界保健機関]](WHO)は、うつ病のスクリーニングの意義に関する研究を世界15都市で実施し、12ヵ月後の転帰について、抗うつ薬を服用した患者群は薬物療法を受けなかった患者群に比べて健康状態が悪いと報告している<ref>{{harvnb|Robert Whitaker|2009|pp=165-166, 308}} (翻訳書は {{harvnb|ロバート・ウィタカー|2010|pp=241-243, 457}})</ref>。 抗うつ薬の治療効果は一般的に薬物治療が終了すると続かず、結果として再発率が高い。31のプラセボ対照の抗うつ薬の試験の最近のメタアナリシスでは、研究期間のほとんどは1年であり、抗うつ薬に反応していた18%の患者が服薬中に再発したのに対し、抗うつ薬を偽薬に切り替えた場合41%であったことを見出した<ref>{{Cite journal|author=Geddes JR, Carney SM, Davies C |title=Relapse prevention with antidepressant drug treatment in depressive disorders: a systematic review |journal=Lancet |volume=361 |issue=9358 |pages=653–61 |year=2003 |month=February |pmid=12606176 |doi=10.1016/S0140-6736(03)12599-8 }}</ref>。アメリカ精神医学会のガイドラインは、症状の消失後、4〜5か月の抗うつ薬による継続治療を推奨している。うつ病エピソードの既往歴のある患者に対して、英国精神薬理学会の2000年の抗うつ薬によるうつ病治療のガイドラインは、最低でも6カ月から長くて5年あるいは無期限の抗うつ薬の継続を推奨している。 2年間の追跡では抗うつ薬を継続的に使用した約60%が再発しており、認知療法を受け薬を中止していた場合に、再発率の有意な低下が見られた<ref name="pmid18087204">{{cite journal|last1=Bockting|first1=Claudi L.H.|last2=ten Doesschate|first2=Mascha C.|last3=Spijker|first3=Jan|coauthors=et al.|title=Continuation and Maintenance Use of Antidepressants in Recurrent Depression|journal=Psychotherapy and Psychosomatics|volume=77|issue=1|pages=17–26|year=2008|pmid=18087204|doi=10.1159/000110056}}</ref>。 5年の追跡によれば、1年以上薬剤を使用した患者群では再発率は23%で、6か月-12か月間使用した患者群との違いはなかった<ref>{{cite journal|last=Gardarsdottir|first=H|coauthors=van Geffen EC, Stolker JJ, Egberts TC, Heerdink ER|title=Does the length of the first antidepressant treatment episode influence risk and time to a second episode?|journal=J Clin Psychopharmacol.|year=2009|month=Feb|volume=29|issue=1|pages=69–72|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19142111|accessdate=2012-11-29}}</ref>。さらに、治療上の利益は治療過程の間に漸減した<ref name="fava2011" />。急性期の治療における薬物療法の使用後の残遺期における心理療法を伴う方法が、いくつかの試験によって提案されている<ref>{{Cite journal|author=Fava GA, Park SK, Sonino N |title=Treatment of recurrent depression |journal=Expert Rev Neurother |volume=6 |issue=11 |pages=1735–40 |year=2006 |month=November |pmid=17144786 |doi=10.1586/14737175.6.11.1735 }}</ref><ref>{{Cite journal|author=Petersen TJ |title=Enhancing the efficacy of antidepressants with psychotherapy |journal=J. Psychopharmacol. (Oxford) |volume=20 |issue=3 Suppl |pages=19–28 |year=2006 |month=May |pmid=16644768 |doi=10.1177/1359786806064314 }}</ref>。 抗うつ薬による治療を受けた再発性のうつ病患者40人で、再発した場合を除き抗うつ薬の投与を止めた場合の再発率は、2年後時点で臨床管理群(20人)では80%に対し認知行動療法群(20人)では25%、6年後時点で臨床管理群では90%に対し認知行動療法群では60%であった<ref name="pmid15465985">{{cite journal|last1=Fava|first1=G. A.|title=Six-Year Outcome of Cognitive Behavior Therapy for Prevention of Recurrent Depression|journal=American Journal of Psychiatry|volume=161|issue=10|pages=1872–1876|year=2004|month=October|pmid=15465985|doi=10.1176/appi.ajp.161.10.1872|url=http://ajp.psychiatryonline.org/article.aspx?articleid=177103}}</ref>。 試験では偽薬へと急速に切り替えられており、重度の離脱症状を起こす可能性があることから、試験に欠陥がある可能性があり、維持療法には疑問が呈され、抗うつ薬を用いなくとも再発率は上昇しないことが示唆される<ref name="pmid29270136"/>。一方で、平均8.5ヶ月間の抗うつ薬による治療を受けた後の、うつ病やパニック障害の再発リスクは、2週間以上かけて徐々中止するよりも、7日以内に急速に中止した場合のほうが低いという研究結果がある<ref name="pmid20478876">{{cite journal|last1=Baldessarini|first1=Ross J.|last2=Tondo|first2=Leonardo|last3=Ghiani|first3=Carmen|coauthors=et al.|title=Illness Risk Following Rapid Versus Gradual Discontinuation of Antidepressants|journal=American Journal of Psychiatry|volume=167|issue=8|pages=934–941|year=2010|pmid=20478876|doi=10.1176/appi.ajp.2010.09060880|url=https://ajp.psychiatryonline.org/doi/full/10.1176/appi.ajp.2010.09060880}}</ref>。 == 議論 == {{main|化学的不均衡#議論}} {{See also|モノアミン神経伝達物質#モノアミン仮説}} 抗うつ薬は脳内の[[化学的不均衡]]を正すという名目で処方されるが、科学的な根拠があるわけではない。 偽薬の反応率が最近の臨床試験では高くなっている(ため偽薬との効果の差が出にくくなった)と主張されているが、メタアナリシスからは実際には反応率は30年間変わっていないことが判明している<ref name="pmid29270136"/>。 1998年、[[アービング・カーシュ]]らは、[[偽薬]]にも本物の薬の約75%の効果があると発表した。25%の差は、副作用を感じると本物だと分かり、被験者の期待感が高まるからだと説明した。分析には16種類の薬[[アミトリプチリン]]、[[イミプラミン]]、[[アモキサピン]]、[[マプロチリン]]、[[フルオキセチン]](日本では未認可)、[[パロキセチン]]、[[ベンラファキシン]]、[[トラゾドン]]、[[イソカルボキサジド]](日本では未認可)、{{仮リンク|フェネルジン|en|Phenelzine}}(日本では未認可)、{{仮リンク|トラニルシプロミン|en|Tranylcypromine}}(日本では未認可)、[[アモバルビタール|アミロバルビトン]]、{{仮リンク|アジナゾラム|en|adinazolam}}、[[リチウム]]、[[リオチロニン]]の臨床試験データが用いられ、これらを4つの群「[[TCA]](三環系・四環系)」「[[SSRI]]」「他の抗うつ薬」「他の薬」に分けた。全ての群で偽薬は本物の薬に対してほぼ75%の効果であった<ref>{{Cite journal|author=Kirsch, I., & Sapirstein, G|title=Listening to Prozac but hearing placebo: A meta-analysis of antidepressant medication. Prevention and Treatment|journal=Prevention and Treatment|volume=1|issue=2|date=1998-06-26|pages=Article 0002a|doi=10.1037/1522-3736.1.1.12a|url=http://journals.apa.org/prevention/volume1/pre0010002a.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980715085305/http://journals.apa.org/prevention/volume1/pre0010002a.html|archivedate=1998年7月15日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。 2002年、アービング・カーシュらは、[[情報公開法]]に基づき、製薬会社が[[アメリカ食品医薬品局]](FDA)に提出した臨床試験データを入手し、分析を行った。公開されていなかったデータを含めると、75%ではなく、約82%であった。この発表は激しい議論を巻き起こした<ref name="Nw20100128">Sharon Begley「[http://www.thedailybeast.com/newsweek/2010/01/28/the-depressing-news-about-antidepressants.html The Depressing News About Antidepressants]」Newsweek国際版2010年1月28日。(邦訳は「[http://mui-therapy.org/newfinding/depressing-news-about-ssri.html がっかりする抗鬱剤]」)</ref>。 2004年、[[コクラン共同計画]]は、本物の薬のような副作用を持つ偽薬(活性プラセボ)を用いて[[システマティック・レビュー]]を行ったが、偽薬と抗うつ薬の間に有効性の違いは見られなかった<ref name="pmid14974002" />。アービング・カーシュは、副作用のない通常の偽薬は本物の薬との差が大きくなる可能性を指摘している{{sfn|アービング・カーシュ|2010|pp=30-37}}。 臨床試験データの隠蔽に関する裁判で、[[グラクソ・スミスクライン]]は全ての臨床試験データを開示することで合意した<ref>{{cite news| author=Gardiner Harris|url=http://www.nytimes.com/2004/08/26/business/26CND-DRUG.html |work=The New York Times |title=Maker of Paxil to Release All Trial Results |date=2004-08-26 |accessdate=2013-01-10}}</ref>。医学雑誌編集者国際委員会は、一流医学誌では事前登録のない臨床試験を掲載しないとの声明を行い、世界保健機関による登録制度の構築や臨床試験の事前登録の議論へとつながった<ref name="pmid20504337">{{cite journal |author=Bian ZX, Wu TX |title=Legislation for trial registration and data transparency |journal=Trials |volume=11 |issue= |pages=64 |year=2010 |pmid=20504337 |pmc=2882906 |doi=10.1186/1745-6215-11-64 |url=http://www.trialsjournal.com/content/11/1/64}}</ref>。 2007年、抗うつ薬は米国で最も問題について議論される処方薬となった。一部の医師は、人々が問題の最終的な救いを求めているサインだと考えている。他はこれらの人々が抗うつ薬に依存しすぎていると反論している<ref>{{Cite news|url=https://edition.cnn.com/2007/HEALTH/07/09/antidepressants/index.html |title=CDC: Antidepressants most prescribed drugs in U.S |date=2007-07-09 |accessdate=2011-05-21 |work=CNN}}</ref>。 2008年、アービング・カーシュらは、[[アメリカ食品医薬品局]](FDA)にフルオキセチン(日本では未認可)、[[ベンラファキシン]]、{{仮リンク|ネファゾドン|en|Nefazodone}}、[[パロキセチン]]の臨床試験データを請求し、分析を行った。[[英国国立医療技術評価機構]](NICE)のガイドラインで臨床的意義があるとされる基準は、{{仮リンク|効果量|en|effect size}}が0.50以上、または抗うつ薬と偽薬とのハミルトンうつ病評価尺度(HAM-D)得点差が3点以上である。結果は、効果量0.32、得点差1.8点(抗うつ薬9.6点、偽薬7.8点)で、偽薬は抗うつ薬の82%の効果であった<ref name="pmid18303940">{{cite journal |author=Kirsch I, Deacon BJ, Huedo-Medina TB, Scoboria A, Moore TJ, Johnson BT |title=Initial severity and antidepressant benefits: a meta-analysis of data submitted to the Food and Drug Administration |journal=PLoS Medicine |volume=5 |issue=2 |pages=e45 |year=2008 |month=February |pmid=18303940 |pmc=2253608 |doi=10.1371/journal.pmed.0050045 |url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2253608/}}</ref><ref>「[https://www.afpbb.com/articles/-/2356414?pid=2684300 軽度・中度のうつ病患者に抗うつ剤は不要、英研究結果]」AFPBB News 2008年2月27日。</ref>。カーシュは[[ハミルトンうつ病評価尺度]] (HAM-D) ではなく、医師が知覚した変化の印象に適合している全般印象評価尺度-改善度(CGI-I)にて違いを検出できず、統計的に有意な差があるだけでなく、臨床的に意味があるかどうかを医薬品の承認の際に検討すべきだとした<ref name="pmid25979317">{{cite journal|last1=Moncrieff|first1=Joanna|last2=Kirsch|first2=Irving|title=Empirically derived criteria cast doubt on the clinical significance of antidepressant-placebo differences|journal=Contemporary Clinical Trials|volume=43|pages=60–62|year=2015|pmid=25979317|doi=10.1016/j.cct.2015.05.005|url=https://doi.org/10.1016/j.cct.2015.05.005}}</ref>。 世界保健機関とその関連機関は、パロキセチンの未公表試験を含めて[[メタ分析]]し、偽薬は抗うつ薬の83%の効果であった<ref>{{cite journal |author=Barbui C, Furukawa TA, Cipriani A |title=Effectiveness of paroxetine in the treatment of acute major depression in adults: a systematic re-examination of published and unpublished data from randomized trials |journal=CMAJ |volume=178 |issue=3 |pages=296–305 |year=2008 |month=January |pmid=18227449 |pmc=2211353 |doi=10.1503/cmaj.070693}}</ref>。 欧州の規制機関も、認可された抗うつ薬([[SSRI]]、[[SNRI]])の保有データを分析したところ、同様の結果であった<ref name="pmid18621509">{{cite journal |author=Melander H, Salmonson T, Abadie E, van Zwieten-Boot B. |title=A regulatory Apologia--a review of placebo-controlled studies in regulatory submissions of new-generation antidepressants |journal=European Neuropsychopharmacology : the Journal of the European College of Neuropsychopharmacology |volume=18 |issue=9 |pages=623–7 |year=2008 |month=September |pmid=18621509 |doi=10.1016/j.euroneuro.2008.06.003 |url=}}</ref>。 2009年、[[アメリカ国立精神衛生研究所]](NIMH)の[[トーマス・インセル]]は、偽薬効果を疑問視する証拠を挙げた上で、抗うつ薬の効果が全て偽薬効果だとしても、STAR*D計画における14週後の最適な寛解率である28%を受け入れるべきかと問い、数時間で寛解をもたらす「[[ケタミン]]」を次世代の抗うつ薬の目標にしている<ref name="pmid19880463">{{cite journal |last1=Insel|first1=T. R.|authorlink1=トーマス・インセル|last2=Wang|first2=P. S. |title=The STAR*D trial: revealing the need for better treatments |journal=Psychiatr Serv |volume=60 |issue=11 |pages=1466–7 |year=2009 |month=November |pmid=19880463 |doi=10.1176/appi.ps.60.11.1466 |url=http://ps.psychiatryonline.org/article.aspx?articleid=100921}}</ref>。 2010年、[[ペンシルベニア大学]]、[[バンダービルト大学]]、[[コロラド大学]]、[[ニューメキシコ大学]]の別々の心理学者により行われた[[パキシル]]、[[イミプラミン]]を対象とした研究では、軽症から中等度のうつ病に対して、偽薬との比較でほとんど改善度に差がないことが分かった。この研究は米国医学会誌に掲載された<ref>{{Cite news|url=http://www.forbes.com/2010/01/05/antidepressant-paxil-placebo-business-healthcare-depression.html|title=Study Undermines Case for Antidepressants|date=2010-01-05|accessdate=2010-07-01|work=Forbes|first=Robert|last=Langreth|archiveurl=https://archive.is/20121208170044/http://www.forbes.com/2010/01/05/antidepressant-paxil-placebo-business-healthcare-depression.html|archivedate=2012年12月8日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref>「[http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2679872/5127812 抗うつ剤、軽中度の症状に効果みられず 米研究]」AFPBB News 2010年1月6日。</ref>。このことは、重症度が増すにつれて、抗うつ薬の使用がより適切なものとなることを示唆するともいえる<ref>生物学的精神医学会世界連合『大うつ病性障害の急性期と継続機の治療』2013。P27</ref>。 2011年、[[英国国立医療技術評価機構]](NICE)の臨床ガイドラインは、[[全般性不安障害]](GAD)と[[パニック障害]]に対して長期的な有効性の証拠が存在するのは抗うつ薬だけであるとしている{{sfn|英国国立医療技術評価機構|2011|pp=1.2.22-1.4.4}}。 [[厚生労働省]]によれば、[[強迫性障害]]の主要な治療は[[SSRI]]を主とした薬物、および[[認知行動療法]]であり、[[クロミプラミン]]、[[フルボキサミン]]、[[パキシル]]が挙げられている<ref>[https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/detail_compel.html 強迫性障害 厚生労働省]</ref>。 2012年、『摂食障害国際ジャーナル』誌(''International Journal of Eating Disorders'')の報告では、[[摂食障害]]にはいかなる薬物治療の利益も示されていないが、48.4%が抗うつ薬を処方されている<ref name="pmid22733643">{{cite journal|last1=Fazeli|first1=Pouneh K.|last2=Calder|first2=Genevieve L.|last3=Miller|first3=Karen K.|last4=Misra|first4=Madhusmita|last5=Lawson|first5=Elizabeth A.|last6=Meenaghan|first6=Erinne|last7=Lee|first7=Hang|last8=Herzog|first8=David|last9=Klibanski|first9=Anne|title=Psychotropic medication use in anorexia nervosa between 1997 and 2009|journal=International Journal of Eating Disorders|volume=45|issue=8|pages=970–976|year=2012|month=December|pmid=22733643|doi=10.1002/eat.22037}}</ref>。 2013年、うつ病に対する[[非定型抗精神病薬]]のメタ分析では、効果量は0.32-0.34であり、抗うつ薬と同様であった<ref name="pmed1001403">{{cite journal|last1=Hay|first1=Phillipa J.|last2=Spielmans|first2=Glen I.|last3=Berman|first3=Margit I.|last4=Linardatos|first4=Eftihia|last5=Rosenlicht|first5=Nicholas Z.|last6=Perry|first6=Angela|last7=Tsai|first7=Alexander C.|title=Adjunctive Atypical Antipsychotic Treatment for Major Depressive Disorder: A Meta-Analysis of Depression, Quality of Life, and Safety Outcomes|journal=PLoS Medicine|volume=10|issue=3|pages=e1001403|year=2013|doi=10.1371/journal.pmed.1001403|url=http://www.plosmedicine.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pmed.1001403}}</ref>。これらの[[抗精神病薬]]には、セロトニンやドーパミンを遮断する薬剤、セロトニン・ドーパミン拮抗薬(SDA)と呼ばれる抗精神病薬が含まれる。 日本の[[厚生労働省]]は、[[大うつ病性障害]]に対し、18歳未満に投与しても効果を確認できなかったとして、添付文書を改訂し医師に慎重な投与を求めるよう[[日本製薬団体連合会]]に要請した。対象は[[レクサプロ]]、[[ジェイゾロフト]]、[[ルボックス]]、[[デプロメール]]、[[レメロン]]、[[リフレックス]]、[[トレドミン]]の7製品である<ref>「[http://jp.wsj.com/article/JJ11997891205565913637118548438832743842789.html 18歳未満「効果確認できず」=抗うつ剤の注意改訂要請—厚労省]」The Wall Street Journal 日本語版(時事通信社配信)2013年3月29日。</ref><ref>「[https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002ygw3.html SSRIなど抗うつ薬6種類の「使用上の注意」改訂を要請]」厚生労働省2013年3月29日。</ref>。高齢者では全死亡率が高い<ref name="pmid29270136">{{cite journal|last1=Hengartner|first1=Michael P.|title=Methodological Flaws, Conflicts of Interest, and Scientific Fallacies: Implications for the Evaluation of Antidepressants’ Efficacy and Harm|journal=Frontiers in Psychiatry|volume=8|pages=275|year=2017|pmid=29270136|pmc=5725408|doi=10.3389/fpsyt.2017.00275|url=https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyt.2017.00275/full}}</ref>。 2017年のシステマティックレビューは、見つかった131のランダム化比較試験すべてでバイアスのリスクが高く、統計的に有意だが、臨床的意義は疑わしく、重篤な有害事象のリスクを有意に増加させており、自殺行動、生活の質、長期的影響に関するデータはほとんどないため、小さな有益な効果を有害な影響が上回るようであると結論した<ref name="pmid28178949">{{cite journal|last1=Jakobsen|first1=Janus Christian|last2=Katakam|first2=Kiran Kumar|last3=Schou|first3=Anne|coauthors=et al.|title=Selective serotonin reuptake inhibitors versus placebo in patients with major depressive disorder. A systematic review with meta-analysis and Trial Sequential Analysis|journal=BMC Psychiatry|volume=17|issue=1|pages=58|year=2017|pmid=28178949|pmc=5299662|doi=10.1186/s12888-016-1173-2|url=https://doi.org/10.1186/s12888-016-1173-2}}</ref>。 == 歴史 == [[File:Bundesarchiv Bild 141-1875A, Peenemünde, V2 auf Abschussbahn.jpg|thumb|150px|right|[[V2ロケット]]]] [[第二次世界大戦]]が終わると、[[V2ロケット]]の燃料の1つである[[ヒドラジン]]の在庫を、製薬会社は非常に安価に入手し、構造を変化させて新しい化合物を作った{{sfn|エリオット・S・ヴァレンスタイン|2008|pp=49-50}}。[[エフ・ホフマン・ラ・ロシュ|ホフマン・ラ・ロッシュ]]は、ヒドラジン化合物の[[イソニアジド]]と[[イプロニアジド]]に、[[結核菌]]を死滅させる薬の特性を見出した{{sfn|エリオット・S・ヴァレンスタイン|2008|pp=49-50}}。 1952年には、この薬による治療によって、[[結核]]患者が楽しそうに踊りだすといった多幸症の副作用が知られ、その経緯で[[精神科]]の患者で試験され、1956年にはイプロニアジドのうつ病への有効性が見出された{{sfn|エリオット・S・ヴァレンスタイン|2008|pp=49-50}}。イプロニアジドは、[[モノアミン酸化酵素阻害薬]](MAOI)の抗うつ薬である(日本の商品エフピーに、うつ病の適応はない)。 同じ頃、三環系という種類の抗うつ薬も発見された。1856年にイギリスの化学者[[ウィリアム・パーキン]]が、[[コールタール]]から得られる[[フェノチアジン]]に似た化合物が染料として用いることができることを発見した{{sfn|エリオット・S・ヴァレンスタイン|2008|pp=27-28}}。このフェノチアジンに似た合成染料の[[イミノベンジル]]系の[[サマーブルー]]から、スイスのガイギー社が[[イミプラミン]]を合成した{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2012|pp=113-115}}。1955年に[[:en:Roland Kuhn|ローランド・クーン]]が、イミプラミンをメランコリーで入院中の患者に投与し{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2012|pp=113-115}}、1957年にはチューリッヒの国際精神医学会議において、うつ病患者の症状を軽減させたと報告した{{sfn|エリオット・S・ヴァレンスタイン|2008|pp=52-54}}。翌1958年に、イミプラミンはトフラニールの商品名で販売された{{sfn|エリオット・S・ヴァレンスタイン|2008|pp=52-53}}。 <gallery> File:Phenothiazin.svg|[[フェノチアジン]]は、殺菌剤や精神科治療薬の基礎となる構造を持つ。 File:Imipramine.svg|[[イミプラミン]]は、3つの環状の化学構造を持ち、これに類似した構造を持つ抗うつ薬は、[[三環系抗うつ薬]]と呼ばれる{{sfn|エリオット・S・ヴァレンスタイン|2008|pp=52-53}}。 File:Clomipramine.svg|三環系抗うつ薬の[[クロミプラミン]]。当初アメリカでは、模倣薬であるとして認可されなかった{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|p=39}}。 File:Amitriptyline.svg|三環系抗うつ薬の[[アミトリプチリン]] </gallery> また同じ頃に、うつ病を説明する仮説が生まれた。1954年に神経伝達物質である[[セロトニン]]が脳内に存在することが報告され、 1960年にジョージ・アシュクロフトにより、うつ病ではセロトニン濃度が低くなっているかもしれないという理論が提唱された{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=23-26}}。北米ではノルアドレナリンが関与していると考えられており、1965年に[[アメリカ国立精神衛生研究所]](NIMH)の[[ジョセフ・シルドクラウト]]がうつ病のカテコールアミン仮説を提唱し、うつ病では脳内のノルアドレナリンが減少し、抗うつ薬はこれを増加させるという内容である<ref>{{Cite journal |last=Schildkraut|first=J.J.|date=1965-05-01|title=The Catecholamine Hypothesis of Affective Disorders: A Review of Supporting Evidence|journal=American Journal Of Psychiatry|volume=122|issue=5|pages=519-22|pmid=5319766}}</ref>。 シルドクラウトの理論の根拠には、高血圧剤の[[レセルピン]]がウサギのセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンの濃度を減少させたことや<ref name="pmid13246642">{{cite journal|last1=Pletscher|first1=A.|last2=Shore|first2=P. A.|last3=Brodie|first3=B. B.|title=Serotonin Release as a Possible Mechanism of Reserpine Action|journal=Science|volume=122|issue=3165|pages=374–375|year=1955|month=August|pmid=13246642|doi=10.1126/science.122.3165.374}}</ref>、偽薬と比較してレセルピンが抑うつと不安の症状を改善させたという『[[ランセット]]』誌の同じ号のすぐ前のページに掲載された論文<ref name="pmid14392947">{{cite journal|last1=Davies|first1=D.L.|last2=Shepherd|first2=Michael|title=Reserpine in the treatment of anxious and depressed patients |journal=The Lancet|volume=266|issue=6881|pages=117–120|year=1955|month=July|pmid=14392947|doi=10.1016/S0140-6736(55)92118-8}}</ref>がある{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=23-26}}。しかしながら、『ランセット』誌の同じ号に掲載されたすぐ前のページ、116〜117ページに掲載された論文はレセルピンの服用者が自殺傾向を示すというものであった<ref name="pmid14392946">{{cite journal|last1=Wallace|first1=D.C.|title=Treatment of Hypertension Hypotensive Drugs and Mental Changes|journal=The Lancet|volume=266|issue=6881|pages=116–117|year=1955|month=July|pmid=14392946|doi=10.1016/S0140-6736(55)92117-6}}</ref>。1970年代には、セロトニンの減少ではないという結論に達したが、抗うつ薬のマーケティングの際に利用されていった{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=23-26}}。 [[ドーパミン]]の発見などで後にノーベル賞を受賞した神経科学者の[[アルビド・カールソン]]が、セロトニンの再取り込みだけを阻害する薬を作ろうとし、スウェーデンのアストラ社で[[抗ヒスタミン薬]]の[[クロルフェニラミン]]の化学構造を修正し{{仮リンク|ジメリジン|en|Zimelidine}}を合成し、1972年に欧州のいくつかの国で特許が下り、1982年にツェルミドの商品名で認可された{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=30-32}}。しかしながら同じ年に[[アメリカ食品医薬品局]]の認可を得る際に、[[ギラン・バレー症候群]]という致命的な副作用が報告され、市場から消えた{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=30-32}}。これが世界初の[[選択的セロトニン再取り込み阻害薬]](SSRI)であるとされる。後に[[クロルフェニラミン]]自体にセロトニン再取り込み阻害様の作用があることが明らかになったが、特許を取ることができず、特許がなければ臨床試験を行いマーケティングを行い販売し収益を確保するといった採算の見込みはない{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=34-35、57-58}}。 ツェルミドに続いて、フランスのフルニエ社のジュラール・ル・フェールが、抗ヒスタミン薬の分子構造を修正した{{仮リンク|インダルピン|en|Indalpine}}を開発し、アップステンの商品名で市場に出たが白血球減少の副作用ですぐに市場から消えた{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=34-35}}。 はじめに市場に生き残ったSSRIは、[[フルボキサミン]](ルボックス)であり、1983年にはスイスにて販売されたのを皮切りに各国で認可されていったが、ドイツでは臨床試験中に自殺と自殺企図が生じて承認されなかった{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=38-40}}。 プロザック(日本では未認可)の認可は、アメリカとカナダで1988年、イギリスでは1989年であり、この頃までには[[ベンゾジアゼピン系]]の薬剤の危険性に関する話題は深刻になっており、不安障害の背後にうつ病があるとして販売された{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=58-60}}。 頭文字を組み合わせたSSRIという単語は、スミスクライン・ビーチャム(後の[[グラクソ・スミスクライン]]社)が、[[パロキセチン]]のマーケティングのために作ったが薬の種類を指すまでに一般化した{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2005|pp=44-46}}。パロキセチンは、1991年にイギリスでセロキサット、1992年にアメリカでパキシルの商品名で市場に出た。 日本では2000年あたりから、パキシルのマーケティングのために、軽症のうつ病を[[病気喧伝]]する「心の風邪」という言葉が用いられた<ref>{{cite news| author=Kathryn Schulz|url=http://www.nytimes.com/2004/08/22/magazine/did-antidepressants-depress-japan.html?pagewanted=4 |work=The New York Times |title=Did Antidepressants Depress Japan?| date=2004-08-22| accessdate=2013-01-10}}</ref>。 2003年から2004年にかけて、欧米でパロキセチンが小児の自殺を誘発するという試験が隠蔽されていたという話題が持ち上がると、[[双極性障害]]の[[病気喧伝|売り込み]]へと変わっていったと、デイヴィッド・ヒーリーは主張する{{sfn|デイヴィッド・ヒーリー|2012|pp=251-253}}。他にも2003年にイギリスの[[医薬品・医療製品規制庁]] (MHRA) は、グラクソ・スミスクラインに臨床試験開始前の自殺を偽薬群の数としてカウントすべきではないと告げ、これにはFDAは気づかなかったようだが、同様のことはプロザックでもゾロフトでも行われていた<ref>{{Cite book|和書|author=デイヴィッド・ヒーリー|authorlink=デイヴィッド・ヒーリー (精神科医)|translator=田島治監訳、中里京子|title=ファルマゲドン|publisher=みすず書房|date=2015|isbn=978-4-622-07907-1|pages=332-333}} ''Pharmageddon'', 2012.</ref>。 <gallery> File:Venlafaxine_structure.svg|[[ベンラファキシン]]は、アメリカで1993年に認可された抗うつ薬である。 File:Desvenlafaxine.svg|{{仮リンク|デスベンラファキシン|en|Desvenlafaxine}}は、アメリカで2007年に認可された抗うつ薬である。 </gallery> 2010年ころから製薬会社は、既存の薬の構造を少し修正し特許を取得した模倣薬([[:en:Pharmaceutical industry#"Me-too" drugs|me too drug]])を販売するという手法ではすでに収益の見込みがないとみて、グラクソ・スミスクライン、アストラゼネカ、メルクなどの大手製薬会社が精神科領域の薬の開発から撤退しはじめた<ref name="pmid20671165" />。 2010年には、精神科領域の4学会により、医師に対して不適切な[[多剤大量処方]]に対する注意喚起がなされている<ref>{{Cite press release|和書|author=日本うつ病学会、日本臨床精神神経薬理学会、日本生物学的精神医学会、日本総合病院精神医学会|title=「いのちの日」 緊急メッセージ 向精神薬の適正使用と過量服用防止のお願い|publisher= |date=2010-12-01|url=http://www.jsbp.org/link/dayoflife20101129.pdf|format=pdf|accessdate=2013-03-12}}</ref>。以降、対策が立てられ2剤以上の抗うつ薬の処方は診療報酬が削減されるなどの改定があった。 1990年代後半からの約30年間の抗うつ薬の大幅な増加は、測定可能な公衆の利益を生み出していない<ref name="pmid28178949"/>。2013年には、架空の抗うつ薬をテーマにした映画[[サイド・エフェクト (映画)|サイド・エフェクト]]が公開された。 [[ケタミン]]の早い抗うつ作用が見いだされ、2015年にはアメリカでは既に医療現場で[[適応外使用]]で用いることも増えている<ref name="ND2015jp">{{Cite journal |和書|author=Sara Reardon、(翻訳)船田晶子|date=2015|title=うつ病治療薬として臨床試験が進むケタミン|url=http://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v12/n4/%E3%81%86%E3%81%A4%E7%97%85%E6%B2%BB%E7%99%82%E8%96%AC%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E8%87%A8%E5%BA%8A%E8%A9%A6%E9%A8%93%E3%81%8C%E9%80%B2%E3%82%80%E3%82%B1%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%B3/61976|format=pdf|journal=Natureダイジェスト|volume=12|issue=4|doi=10.1038/ndigest.2015.150414}}</ref>。また、イギリスでは、医学研究審議会(MRC)の資金提供を受け、幻覚剤の[[シロシビン]]を治療抵抗性うつ病に対して用いる研究が開始され<ref name="pmid25391924">{{cite journal|last1=Nutt|first1=David|authorlink1=デビッド・ナット|title=Help luck along to find psychiatric medicines|journal=Nature|volume=515|issue=7526|pages=165–165|year=2014|pmid=25391924|doi=10.1038/515165a|url=http://www.nature.com/news/help-luck-along-to-find-psychiatric-medicines-1.16311}}</ref>、その結果、8年から30年のうつ病を患う患者12人の約半分は、服用体験から3週間後に寛解に達した(うつ病の基準を満たさなかった)<ref name="pmid27210031">{{cite journal|last1=Nutt|first1=David J|authorlink1=デビッド・ナット|last2=Carhart-Harris|first2=Robin L|last3=Bolstridge|first3=Mark|coauthors=et al.|title=Psilocybin with psychological support for treatment-resistant depression: an open-label feasibility study|journal=The Lancet Psychiatry|volume=3|issue=7|pages=619–627|year=2016|pmid=27210031|doi=10.1016/S2215-0366(16)30065-7|url=http://www.thelancet.com/journals/lanpsy/article/PIIS2215-0366(16)30065-7/fulltext}}</ref>。 == 訴訟 == 2012年には、[[グラクソ・スミスクライン]](GSK)の違法なマーケティングに対して司法省は30億ドルの制裁を課したが、それには同社の[[パキシル]]の若年者で有効性を示さなかった研究と自殺の危険性を高めた研究の隠蔽、FDAによる若年者に対する承認がないにもかかわらず販売促進したことが含まれる<ref>{{cite web|url=http://www.justice.gov/opa/pr/2012/July/12-civ-842.html |title=USDOJ: GlaxoSmithKline to Plead Guilty and Pay $3 Billion to Resolve Fraud Allegations and Failure to Report Safety Data |publisher=Justice.gov |date=2012-07-02 |accessdate=2013-01-27}}</ref>。 ==代替手段や研究== {{See also|#議論}} [[ω-3脂肪酸]]による抗うつ作用は議論されてきた。2015年のコクラン共同計画によるシステマティック・レビューは、臨床的に有意ではない小さな効果を見出しており、また研究の質が十分ではないと結論した<ref name="pmid26537796">{{cite journal|author=Appleton KM, Sallis HM, Perry R, Ness AR, Churchill R|title=Omega-3 fatty acids for depression in adults|journal=Cochrane Database Syst Re|issue=11|pages=CD004692|date=November 2015|pmid=26537796|pmc=5321518|doi=10.1002/14651858.CD004692.pub4|url=https://doi.org/10.1002/14651858.CD004692.pub4}}</ref>。2016年の別のアナリシスは、有効だということを見出した<ref name="pmid26978738">{{cite journal|author=Mocking RJ, Harmsen I, Assies J, Koeter MW, Ruhé HG, Schene AH|title=Meta-analysis and meta-regression of omega-3 polyunsaturated fatty acid supplementation for major depressive disorder|journal=Transl Psychiatry|pages=e756|date=March 2016|pmid=26978738|pmc=4872453|doi=10.1038/tp.2016.29|url=https://doi.org/10.1038/tp.2016.29}}</ref>。 コクラン共同計画による[[S-アデノシルメチオニン]] (SAMe) のレビューでは、結論を導くための質の高い研究がないとした<ref name="pmid27727432">{{cite journal|author=Galizia I, Oldani L, Macritchie K, et al.|title=S-adenosyl methionine (SAMe) for depression in adults|journal=Cochrane Database Syst Re|pages=CD011286|date=October 2016|pmid=27727432|doi=10.1002/14651858.CD011286.pub2}}</ref>。 [[L-アセチルカルニチン]]でのシステマティック・レビューでは、12のランダム化比較試験があり、3研究では抗うつ薬と比較して同等の効果であり副作用が抗うつ薬より少なく、また高齢者で特に有効だということを示唆した<ref name="pmid29076953">{{cite journal|author=Veronese N, Stubbs B, Solmi M, Ajnakina O, Carvalho AF, Maggi S|title=Acetyl-L-Carnitine Supplementation and the Treatment of Depressive Symptoms: A Systematic Review and Meta-Analysis|journal=Psychosom Med|issue=2|pages=154–159|date=2018|pmid=29076953|doi=10.1097/PSY.0000000000000537}}</ref>。高齢者で行われたランダム化比較試験では、フルオキセチン(プロザック)と同等の効果を示したが、1週間で効果を示し、フルオキセチンでは2週間かかった<ref name="pmid23428336">{{cite journal|author=Bersani G, Meco G, Denaro A, et al.|title=L-Acetylcarnitine in dysthymic disorder in elderly patients: a double-blind, multicenter, controlled randomized study vs. fluoxetine|journal=Eur Neuropsychopharmacol|issue=10|pages=1219–25|date=October 2013|pmid=23428336|doi=10.1016/j.euroneuro.2012.11.013}}</ref>。この早い作用から異なる作用機序に注目されている<ref name="pmid29267192">{{cite journal|author=Chiechio S, Canonico PL, Grilli M|title=l-Acetylcarnitine: A Mechanistically Distinctive and Potentially Rapid-Acting Antidepressant Drug|journal=Int J Mol Sci|issue=1|date=December 2017|pmid=29267192|pmc=5795963|doi=10.3390/ijms19010011|url=http://www.mdpi.com/1422-0067/19/1/11/htm}}</ref>。 [[テトラサイクリン系抗生物質]]の[[ミノサイクリン]]は、[[メタアナリシス]]・[[システマティックレビュー]]で大きな抗うつ効果が示された(効果量:-0.78 :95%[[信頼区間|CI]]:0.4-1.33、P=0.005 であり、前述の通り現行の抗うつ薬は0.32であり臨床的に有意な効果ではない)<ref name="pmid29102836">{{cite journal |vauthors=Rosenblat JD, McIntyre RS |title=Efficacy and tolerability of minocycline for depression: A systematic review and meta-analysis of clinical trials |journal=J Affect Disord |volume=227 |issue= |pages=219–225 |date=2017-10-28 |pmid=29102836 |doi=10.1016/j.jad.2017.10.042 |url=http://www.jad-journal.com/article/S0165-0327(17)31998-5/fulltext}}</ref>。抗生物質の使用は、[[薬剤耐性|薬剤耐性菌]]を生む問題があり感染症においても適正使用が言われており、感染症でもない状況での抗生物質の不適切使用は戒められる<ref>{{cite report ja|author=厚生労働省健康局結核感染症課|title=抗微生物薬適正使用の手引き 第一版|publisher=厚生労働省 |date=June 2017|url=https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000166612.pdf|format=pdf|accessdate=2017-12-10}}</ref>。 抗うつ薬は抗菌効果を有するという報告がある<ref name="pmid27744123" />。うつ病治療における抗うつ薬の抗菌メカニズムを評価し、抗うつ薬耐性への影響を決定するために、さらなる研究が必要とされている<ref name="pmid27744123">{{cite journal |vauthors=Macedo D, Filho AJMC, Soares de Sousa CN, et al. |title=Antidepressants, antimicrobials or both? Gut microbiota dysbiosis in depression and possible implications of the antimicrobial effects of antidepressant drugs for antidepressant effectiveness |journal=J Affect Disord |volume=208 |issue= |pages=22–32 |year=2017 |pmid=27744123 |doi=10.1016/j.jad.2016.09.012 |url=http://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0165-0327(16)30881-3}}</ref>。 抗うつ薬と膜輸送体OCTN1の薬物相互作用が研究されている。OCTN1による[[エルゴチオネイン]]の脳への取り込みは[[海馬 (脳)|海馬]]歯状回における神経新生を促進し、抗うつ効果を発揮する可能性が示唆された<ref>{{cite | author=KAKEN |title=膜輸送体OCTN1による神経細胞の機能制御機構とうつ病治療への応用に関する研究 | url=https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-25460092/25460092seika.pdf |date=2015}}</ref>。 モノアミン仮説以外では、{{仮リンク|ニューロキニン1|en|Neurokinin 1}}(NK1)周辺の研究がなされている。[[サブスタンスP]]受容体アンタゴニストの[[アプレピタント]]に抗うつ作用が報告された<ref name="IRYO2001"/>。 しかしながら、プラセボ対照⼆重盲検ランダム化臨床試験では有意差を示せていない<ref>{{cite journal|title=Lack of efficacy of the substance p (neurokinin1 receptor) antagonist aprepitant in the treatment of major depressive disorder|journal=Biological psychiatry|year=2006|volume=59|issue=3|pmid=16248986|doi=10.1016/j.biopsych.2005.07.013}}</ref>。 一方、既存抗うつ薬の慢性投与では海馬での[[BDNF]]の発現を増加させることから、ニューロンの萎縮を防止するのではないかとBDNFも注目されている<ref name="IRYO2001"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == ; 診療ガイドライン :*{{Cite report|df=ja|publisher=[[世界保健機関]] |title=mhGAP Intervention Guide for mental, neurological and substance use disorders in non-specialized health settings |date=2010 |isbn=9789241548069 |url=http://www.who.int/mental_health/publications/mhGAP_intervention_guide/en/ |ref={{SfnRef|世界保健機関|2010}} }} :*{{cite report |df=ja |author=英国国立医療技術評価機構|title=Anxiety - Clinical guidelines CG113 |url=http://guidance.nice.org.uk/CG113 |date=January 2011 |publisher=National Institute for Health and Clinical Excellence |accessdate=2013-03-10|ref={{SfnRef|英国国立医療技術評価機構|2011}} }} :*{{cite report |df=ja |author=英国国立医療技術評価機構|authorlink=英国国立医療技術評価機構|title=Depression in adults - Clinical guidelines CG90 |url=http://guidance.nice.org.uk/CG90 |date=June 2009 |publisher=National Institute for Health and Clinical Excellence |accessdate=2013-02-23|ref={{SfnRef|英国国立医療技術評価機構|2009}} }} :*{{Cite report ja|author1=日本うつ病学会 |author2=気分障害のガイドライン作成委員会|date=2012-07-26 |title=日本うつ病学会治療ガイドライン II.大うつ病性障害2012 Ver.1 |url=http://www.secretariat.ne.jp/jsmd/mood_disorder/img/120726.pdf |publisher=日本うつ病学会、気分障害のガイドライン作成委員会 |format=pdf |edition=2012 Ver.1 |accessdate=2013-01-01|ref={{SfnRef|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2012}} }} :*{{Cite report ja|author1=日本うつ病学会 |author2=気分障害のガイドライン作成委員会|date=2013-09-24 |title=日本うつ病学会治療ガイドライン II.大うつ病性障害2013 Ver.1.1 |url=http://www.secretariat.ne.jp/jsmd/mood_disorder/img/130924.pdf |publisher=日本うつ病学会、気分障害のガイドライン作成委員会 |format=pdf |edition=2012 Ver.1.1 |accessdate=2013-01-01|ref={{SfnRef|日本うつ病学会|気分障害のガイドライン作成委員会|2013}} }} : ; その他 :*{{Cite book|和書|author=アービング・カーシュ|authorlink=アービング・カーシュ|others=石黒千秋訳 |title=抗うつ薬は本当に効くのか |year=2010 |isbn=978-4767809540|ref=harv}}、{{cite book |author=Kirsch, I|title=The Emperor's New Drugs: Exploding the Antidepressant Myth |publisher=The Bodley Head |location=London |year=2009 |isbn=1-84792-083-7|ref=harv}} :*{{Cite book |和書|author=エリオット・S・ヴァレンスタイン|translator=功刀浩監訳、中塚公子|date=2008-02|title=精神疾患は脳の病気か?|publisher=みすず書房|isbn=978-4-622-07361-1|ref=harv}}、Blaming the Brain, 1998 :*{{Cite book |和書|author=デイヴィッド・ヒーリー|translator=田島治監訳、谷垣暁美|date=2005-08|title=抗うつ薬の功罪|publisher=みすず書房|isbn=4-622-07149-5|ref=harv}}、Let Them Eat Prozac, 2003 :*{{Cite book|和書|author=デイヴィッド・ヒーリー|translator=江口重幸監訳、坂本響子|date=2012-11|title=双極性障害の時代―マニーからバイポーラーへ|publisher=みすず書房|isbn=978-4-622-07720-6|pages=|ref=harv}}、MANIA: A Short History of Bipolar Disorder, 2008 :*{{Citation|author=Robert Whitaker|date=January 1, 2009|year=2009|title=[[w:Anatomy of an Epidemic|Anatomy of an Epidemic: Magic Bullets, Psychiatric Drugs, and the Astonishing Rise of Mental Illness in America]]|publisher=[[w:Crown Publishing Group|Crown Publishing Group]]|place=New York|asin=B004RU7U5C}}.(翻訳書は {{Citation|和書|author=ロバート・ウィタカー|others=小野善郎監訳、門脇陽子・森田由美訳|date=2010-9-19|title=心の病の「流行」と精神科治療薬の真実|publisher=福村出版|isbn=978-4571500091}}) == 関連項目 == * {{仮リンク|抗うつ薬の一覧|en|List of Antidepressants}} * [[ドラッグ・ラグ]] == 外部リンク == *{{脳科学辞典|記事名=抗うつ薬}} {{Major drug groups}} {{抗うつ薬}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こううつやく}} [[Category:抗うつ薬|*]] [[Category:気分障害]]
2003-05-21T10:33:44Z
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スクリーン・プロセス
スクリーン・プロセス (screen process) は、映画やテレビにおける特撮技術の一つ。プロジェクター合成ともいう。 映像を投影したスクリーンの前で俳優が演技を行う。投影方式の違いにより、リアプロジェクションとフロントプロジェクトの2種類がある。 演技する俳優の背後に専用のリアタイプ・スクリーンを設置し、スクリーンの裏側から別に撮影した映像を映写機で投影しつつ、スクリーン前の俳優演技を同時に撮影する技法。スクリーンに投射された映像が南極であれば、あたかも俳優が南極で演技しているかのように見える。画面中央が明るくなってしまうホットスポット現象回避のため、スクリーンと映写機の距離は多くとる必要があり、大きなスタジオを必要とする。また、レジストレーションが安定した特殊な映写機とカメラのシャッター同期が不可欠で、初期にはシャフトドライブで機械的に連結したり、セルシンモーターで電気的に同期させた。現在は電子制御で同期させる。 高コントラストで微粒子の結果を望む場合、スクリーン素材はトレーシングペーパーやスリガラスのような見た目が白いものではなく、“ポラコート”(商品名)などのようなニュートラルグレーに着色されたマット質感のものを使う。カメラ側被写体のための照明が干渉し、投射映像のコントラストが低下することを防ぐためである。乗り物のコックピットの場面など、スクリーンとカメラの間に入るものの面積が多い場合に適する。 レイ・ハリーハウゼンのダイナメーション(英語版)(コマ撮りアニメ)などの背景にも使われており、実写とアニメーション素材の合成に使われることも多かった。コマ撮りの際には、オプチカル・プリンターに使われるレジストレーションピンを内蔵した合成用のカメラと同精度のプロジェクターを使用し、投影光量は十分に小さくする。コマ撮りでは投影映像フィルム1コマの映写時間が極端に長くなり、光熱負荷によるフィルムの変性が無視できないからである。変性してカーリングすると、投射映像のフォーカスも変化してしまう。 モノクロ映画時代の過去の技術と思われがちだが、『ブルーサンダー』のコックピットのシーンで風防やヘルメットのバイザーに写り込む効果を狙って使われたほか、特にジェームズ・キャメロンはリアプロジェクションを好んで多用していた。特殊な使われ方として、『アビス』の小型潜行艇のミニチュアに超小型プロジェクターを仕込んで潜行艇の球状の窓に見える乗員を表現している。 現在ではデジタル技術の方が自由度と結果が良いことから、ほとんど使われることはない。ただし、2019年にはディズニープラス配信開始のスターウォーズシリーズスピンオフ作品『マンダロリアン』にて導入された『ステージクラフト』に代表されるバーチャルプロダクション(舞台周辺を覆った高密度LEDスクリーン上にCGで制作した背景映像を投影し、カメラの動きと同期させることで俳優とCG背景を同時に撮影する技術)の普及が進んでいる。原理上はリアプロジェクションと同義であるため、古典的なこの手法が最新技術に置き換えられつつ継承されているともいえる。 演技する俳優の背後に専用のスクリーンを設置し、カメラと映写機の一体となった特殊な装置で、別に撮影した映像をカメラの位置から投射しつつ、手前の俳優の演技と同時に撮影する方法。カメラと映写機の光軸が一致しているので、俳優の身体に遮られてスクリーン上にできた影はカメラには映らない。リアプロジェクションと違い、大きな背景の投影に向いており、ホットスポット(中央が明るく見える光源ムラ)が出にくい。プロジェクターの光軸に対して1度でもずれると反射光量が激減するため、パンやティルトはできないとされている(原則はフィックス)が、光軸からずれることのないノーダルポイントを中心に旋回するヘッドを使えば可能となる。 スクリーンには、映写機から投影された光をそのままの方向に集中して反射する特殊なものが使われる。これは、交通標識などの反射材としても使われる商品「スコッチライト」と原理的に同じだが、マイクロガラスビーズがむき出しの3M社製露出レンズ型再帰性反射スクリーン、ハイゲイン7610が使われる。『2001年宇宙の旅』以前にも使われていたが、この作品で実用化された。 俳優の身体にも背景用の画像が投射されてしまうが、非常に強いスクリーン反射輝度に露出を合わせると、俳優などの露出は極端にアンダーになってしまう(ちょうどシルエットのような状態だが、わずかに投影された映像は見える)。そのスクリーン輝度に負けない照明を与えてやると、結果的に俳優にも投影されている背景映像はかき消されてしまう。俳優などが面積が少ないものがスクリーンの手前にある場合に適するが、前景の一部や全部に炎などの発光体やガラスや金属、白いシャツなどの反射輝度の高いものを使用するとその回りにグロウが生じるので、事実上そのような被写体には向かない。 リアプロジェクションと比べ、合成される映像がスクリーンを透過しないことから鮮明度が高く、合成結果が比較的自然に見えるというメリットがあるが、透明なガラス越しなどは投影する光が現実と違って二度通過するため、その部分が暗く写り、不自然になる傾向にある。 現代では高輝度かつ高精細のLEDウォールスクリーンの登場とコンピュータグラフィックスの進歩とにより、背景画像を映写ではなく発光素子であるLEDマトリックスアレイに直接送って背景画像を描画するインカメラVFXが利用できる。カメラ・被写体・背景画像の三次元関係をリアルタイムで計算し(マッチムーブ)、カメラ位置に合わせた背景画像を高輝度のLEDマトリックスアレイで構成される巨大スクリーンに描画するものである。 インカメラVFXは、カメラワークに対して自然な背景画像の移動および、カメラレンズの焦点位置に制約されない自由なカメラワークを可能にした。特に実写ロケが予算上、制約を受けるテレビドラマにおいて、背景を別撮りしつつもクロマキー合成を要せずカメラ内で合成が完結する点で、時間と天候に左右されない撮影を可能にした。
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スクリーン・プロセス は、映画やテレビにおける特撮技術の一つ。プロジェクター合成ともいう。 映像を投影したスクリーンの前で俳優が演技を行う。投影方式の違いにより、リアプロジェクションとフロントプロジェクトの2種類がある。
{{出典の明記|date=2022年1月3日 (月) 22:24 (UTC)}} [[File:7th voyage of Sinbad - Roc.png|thumb|リア・プロジェクションによってロック鳥のストップモーション・モデルに背景を合成([[シンドバッド七回目の航海]])]] '''スクリーン・プロセス''' (screen process) は、映画やテレビにおける[[特撮]]技術の一つ<ref name="Kotobank">{{Cite Kotobank|word=スクリーンプロセス|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典、デジタル大辞泉、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2023-01-30}}</ref>。[[プロジェクター]]合成ともいう。 映像を投影したスクリーンの前で俳優が演技を行う{{R|Kotobank|BEST54}}。投影方式の違いにより、リアプロジェクションとフロントプロジェクトの2種類がある{{R|全史462}}。 == リアプロジェクション == [[File:Rear projection effect.jpg|thumb|リア・プロジェクション<br>右上のイメージが撮影カメラからの映像]] [[演技]]する[[俳優]]の背後に専用の[[スクリーン|リアタイプ・スクリーン]]を設置し、スクリーンの裏側から別に[[撮影]]した映像を映写機で投影しつつ、スクリーン前の俳優演技を同時に撮影する技法{{R|全史462}}。スクリーンに投射された映像が南極であれば、あたかも俳優が南極で演技しているかのように見える。画面中央が明るくなってしまうホットスポット現象回避のため、スクリーンと映写機の距離は多くとる必要があり、大きなスタジオを必要とする。また、[[レジストレーション (印刷・映像)|レジストレーション]]が安定した特殊な映写機とカメラのシャッター同期が不可欠で、初期にはシャフトドライブで機械的に連結したり、[[シンクロ電機|セルシンモーター]]で電気的に同期させた。現在は電子制御で同期させる。 高コントラストで微粒子の結果を望む場合、スクリーン素材はトレーシングペーパーやスリガラスのような見た目が白いものではなく、“ポラコート”(商品名)などのようなニュートラルグレーに着色されたマット質感のものを使う。カメラ側被写体のための照明が干渉し、投射映像のコントラストが低下することを防ぐためである。乗り物のコックピットの場面など、スクリーンと[[カメラ]]の間に入るものの面積が多い場合に適する。 [[レイ・ハリーハウゼン]]の{{仮リンク|ダイナメーション|en|Dynamation}}([[ストップモーション・アニメーション|コマ撮りアニメ]])などの背景にも使われており、[[実写]]とアニメーション素材の合成に使われることも多かった。コマ撮りの際には、[[オプチカル・プリンター]]に使われるレジストレーションピンを内蔵した合成用のカメラと同精度のプロジェクターを使用し、投影光量は十分に小さくする。コマ撮りでは投影映像フィルム1コマの映写時間が極端に長くなり、光熱負荷によるフィルムの変性が無視できないからである。変性してカーリングすると、投射映像のフォーカスも変化してしまう。 モノクロ映画時代の過去の技術と思われがちだが、『[[ブルーサンダー (映画)|ブルーサンダー]]』のコックピットのシーンで風防やヘルメットのバイザーに写り込む効果を狙って使われたほか、特に[[ジェームズ・キャメロン]]はリアプロジェクションを好んで多用していた{{efn|『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』『[[ターミネーター2]]』など。}}。特殊な使われ方として、『[[アビス]]』の小型潜行艇の[[ミニチュア撮影|ミニチュア]]に超小型プロジェクターを仕込んで潜行艇の球状の窓に見える乗員を表現している。 現在ではデジタル技術の方が自由度と結果が良いことから、ほとんど使われることはない。ただし、[[2019年]]には[[Disney+|ディズニープラス]]配信開始の[[スター・ウォーズシリーズ|スターウォーズ]]シリーズスピンオフ作品『[[マンダロリアン (テレビドラマ)|マンダロリアン]]』にて導入された『ステージクラフト』に代表されるバーチャルプロダクション(舞台周辺を覆った高密度LEDスクリーン上にCGで制作した背景映像を投影し、カメラの動きと同期させることで俳優とCG背景を同時に撮影する技術)の普及が進んでいる。原理上はリアプロジェクションと同義であるため、古典的なこの手法が最新技術に置き換えられつつ継承されているともいえる。 == フロントプロジェクション == [[File:Front projection effect.jpg|thumb|フロント・プロジェクション<br>スクリーンカメラとの中央に[[ハーフミラー]]を設置することで光軸を一致させる。左下のイメージがカメラからの映像]] 演技する俳優の背後に専用のスクリーンを設置し、カメラと映写機の一体となった特殊な装置で、別に撮影した映像をカメラの位置から投射しつつ、手前の俳優の演技と同時に撮影する方法。カメラと映写機の光軸が一致しているので、俳優の身体に遮られてスクリーン上にできた影はカメラには映らない。リアプロジェクションと違い、大きな背景の投影に向いており、ホットスポット(中央が明るく見える光源ムラ)が出にくい。プロジェクターの光軸に対して1度でもずれると反射光量が激減するため、[[パン (撮影技法)|パンやティルト]]はできないとされている(原則はフィックス)が、光軸からずれることのないノーダルポイントを中心に旋回するヘッドを使えば可能となる{{efn|例:『ターミネーター』で爆発するタンクローリーの前にてリンダ・ハミルトンが逃げるカット。フロントプロジェクションなのにカメラはパンしている。}}。 スクリーンには、映写機から投影された光をそのままの方向に集中して反射する特殊なものが使われる{{R|全史462}}。これは、交通標識などの反射材としても使われる商品「スコッチライト」と原理的に同じだが{{R|全史462}}、マイクロガラスビーズがむき出しの3M社製露出レンズ型再帰性反射スクリーン、ハイゲイン7610が使われる。『[[2001年宇宙の旅]]』以前にも使われていたが、この作品で実用化された{{R|全史462}}{{efn|『2001年宇宙の旅』は8×10インチのスチル投影に65ミリフィルム撮影。}}。 俳優の身体にも背景用の画像が投射されてしまうが、非常に強いスクリーン反射輝度に露出を合わせると、俳優などの露出は極端にアンダーになってしまう(ちょうどシルエットのような状態だが、わずかに投影された映像は見える)。そのスクリーン輝度に負けない照明を与えてやると、結果的に俳優にも投影されている背景映像はかき消されてしまう。俳優などが面積が少ないものがスクリーンの手前にある場合に適するが、前景の一部や全部に炎などの発光体やガラスや金属、白いシャツなどの反射輝度の高いものを使用するとその回りにグロウが生じるので、事実上そのような被写体には向かない。 リアプロジェクションと比べ、合成される映像がスクリーンを透過しないことから鮮明度が高く{{R|全史462}}、合成結果が比較的自然に見えるというメリットがあるが、透明なガラス越しなどは投影する光が現実と違って二度通過するため、その部分が暗く写り、不自然になる傾向にある{{efn|特に戦闘機のコックピットやコップの水など、屈折が絡む部分は極端に暗くなり、非常に不自然に写る。}}。 現代では高輝度かつ高精細のLEDウォールスクリーンの登場とコンピュータグラフィックスの進歩とにより、背景画像を映写ではなく発光素子であるLEDマトリックスアレイに直接送って背景画像を描画する[[バーチャルプロダクション|インカメラVFX]]が利用できる。カメラ・被写体・背景画像の三次元関係をリアルタイムで計算し([[マッチムーブ]])、カメラ位置に合わせた背景画像を高輝度のLEDマトリックスアレイで構成される巨大スクリーン{{Refnest|group="注釈" |一例を挙げると、曲面長 9,000 ✕ 縦 4,450 mm のサイズ<ref>{{cite press release |date=2023-06-20 |url=https://hibino-vfxstudio.com/news/876/ |title=【お知らせ】スタジオ設備(LED、メディアサーバー、カメラトラッキングシステム)を更新しました |publisher=[[ヒビノ (音響映像)|ヒビノ株式会社]] |access-date=2023-08-15}}</ref>。}}に描画するものである<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.pronews.com/special/202305311700404970.html |title=バーチャルプロダクションの本幹。インカメラVFXを解説 |date=2023-05-31 |author=小林基己 |website=PRONEWS |access-date=2023-08-15 }}</ref>。 インカメラVFXは、カメラワークに対して自然な背景画像の移動および、カメラレンズの焦点位置に制約されない自由なカメラワークを可能にした。特に実写ロケが予算上、制約を受けるテレビドラマにおいて、背景を別撮りしつつもクロマキー合成を要せずカメラ内で合成が完結する点で、時間と天候に左右されない撮影を可能にした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/techexpo/2023/tenji/13/index.html |title=「どうする家康」インカメラVFX ミニチュア撮影体験 |work= NHK Tech EXPO 2023 |publisher=日本放送協会 放送技術局 制作技術センター |access-date=2023-08-15 }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="全史462">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|p=462|loc=「MAKING OF 東宝特撮映画」}}</ref> <ref name="BEST54">{{Cite book|和書|chapter=怪獣アイテム豆辞典|title=[[東宝]]編 日本特撮映画図鑑 BEST54|others=特別監修 [[川北紘一]]|publisher=[[成美堂出版]]|series=SEIBIDO MOOK|date=1999-02-20|page=150|isbn=4-415-09405-8}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=東宝特撮映画全史|others=監修 [[田中友幸]]|date=1983-12-10|publisher=[[東宝]]出版事業室|isbn=4-924609-00-5|ref={{SfnRef|東宝特撮映画全史|1983}}}} == 関連項目 == * 車窓の合成 ** [[:en:Process trailer]] ** [[バーチャルプロダクション]] *** [[マッチムーブ]] {{DEFAULTSORT:すくりいんふろせす}} [[Category:SFX]]
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アモルファス
アモルファス (amorphous)、あるいは非晶質(ひしょうしつ、英: non-crystalline)とは、結晶のような長距離秩序はないが、短距離秩序はある物質の状態。これは熱力学的には、非平衡な準安定状態である。 amorphous は、morphous(形を持つ)に「非」の意味の接頭辞 a‐ が付いた語(19世紀にスウェーデンのイェンス・ベルセリウスが非結晶の固体に対して命名した)。結晶は、明礬や水晶のようにそれぞれ固有の結晶形態を持っており、morphous である。しかし、急冷や不純物が混じった状態で出来た固体は、時間的空間的に規則的な原子配列が取れず非晶質となり、不定形である。 アモルファス状態は、非金属ではしばしば見られる状態である。しかし、金属にもアモルファス状態が存在することが、アメリカのポール・デュエイ(英語版)カリフォルニア工科大学教授によって1960年に発見されている。 アモルファスとされるものには結晶構造を完全にもたないものと、光学的には結晶構造が見られない場合でもX線回折ではハロー図形(halo pattern)を示す潜晶質とがある(ただし、潜晶質は結晶質と解される場合もある)。天然に産出する鉱物の場合、「非晶質」と言われるもののほとんどが潜晶質である(例:オパール、ネオトス石)。 均質で等方性であることが挙げられる。結晶が存在しないため、結晶粒界や格子欠陥のような「弱い」構造が存在しないことが利点になる。 結晶状態とアモルファス状態では、同じ材料でも物性が大幅に変わることがある。例えば電気伝導性や熱伝導性、禁制帯幅、光透過率や光吸収率、透磁率、物理的強度、耐蝕性、超伝導性などである。
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アモルファス (amorphous)、あるいは非晶質とは、結晶のような長距離秩序はないが、短距離秩序はある物質の状態。これは熱力学的には、非平衡な準安定状態である。 amorphous は、morphous(形を持つ)に「非」の意味の接頭辞 a‐ が付いた語(19世紀にスウェーデンのイェンス・ベルセリウスが非結晶の固体に対して命名した)。結晶は、明礬や水晶のようにそれぞれ固有の結晶形態を持っており、morphous である。しかし、急冷や不純物が混じった状態で出来た固体は、時間的空間的に規則的な原子配列が取れず非晶質となり、不定形である。 アモルファス状態は、非金属ではしばしば見られる状態である。しかし、金属にもアモルファス状態が存在することが、アメリカのポール・デュエイカリフォルニア工科大学教授によって1960年に発見されている。
'''アモルファス''' ({{en|amorphous}})、あるいは'''非晶質'''(ひしょうしつ、英: non-crystalline)とは、[[結晶]]のような[[長距離秩序]]はないが、[[短距離秩序]]はある[[物質]]の[[状態]]。これは[[熱力学]]的には、[[非平衡]]な[[準安定状態]]である。 <!--不定形。球状や針状といったような一定の形態を持たない状態のこと。--><!--いいすぎでは? 固体なら千年万年の時間スケールがたたないかぎり形態は一定-->{{en|amorphous}} は、{{en|morphous}}(形を持つ)に「非」の意味の接頭辞 [[α (欠性辞)|a‐]] が付いた語([[19世紀]]に[[スウェーデン]]の[[イェンス・ベルセリウス]]が非結晶の固体に対して命名した<ref>ベルセリウス著(田中豊助、原田紀子訳)『化学の教科書』内田老鶴圃 47頁 {{ISBN2|4-7536-3108-7}}</ref>)。結晶は、[[ミョウバン|明礬]]や[[水晶]]のようにそれぞれ固有の結晶形態を持っており、{{en|morphous}} である。しかし、急冷や不純物が混じった状態で出来た固体は、時間的空間的に規則的な原子配列が取れず非晶質となり、不定形である。 アモルファス状態は、[[非金属]]ではしばしば見られる状態である。しかし、金属にもアモルファス状態が存在することが、アメリカの{{仮リンク|ポール・デュエイ|en|Pol Duwez}}[[カリフォルニア工科大学]]教授によって[[1960年]]に発見されている。 ==潜晶質== アモルファスとされるものには結晶構造を完全にもたないものと、光学的には結晶構造が見られない場合でも[[X線回折]]ではハロー図形([[halo pattern]])を示す潜晶質<!-- 潜晶質自信無し。どなたか補強をお願いします -- [[利用者:Tawara m|Tawara m]] 2004年10月10日 (日) 08:12 (UTC) -->とがある(ただし、潜晶質は結晶質と解される場合もある)。天然に産出する鉱物の場合、「非晶質」と言われるもののほとんどが潜晶質である(例:[[オパール]]、[[ネオトス石]])。 ==特徴== 均質で等方性であることが挙げられる。結晶が存在しないため、[[結晶粒界]]や[[格子欠陥]]のような「弱い」構造が存在しないことが利点になる。 結晶状態とアモルファス状態では、同じ材料でも物性が大幅に変わることがある。例えば[[電気伝導|電気伝導性]]や[[熱伝導|熱伝導性]]、[[バンドギャップ|禁制帯幅]]、[[透過率|光透過率]]や[[吸光|光吸収率]]、[[透磁率]]、物理的強度、[[耐蝕性]]、[[超伝導|超伝導性]]などである。 ==製法== *[[液体急冷法]] *[[気相凍結法]]([[真空蒸着]]、[[スパッタリング]]) *[[化学気相成長法]] *[[電着法]] *結晶質にイオンや中性子を照射する ==応用例== * [[ガラス]] * [[アモルファス金属]]・化合物 ** Fe-Si-B合金(高強度材料) ** Fe-Cr-P-C化合物(高耐食材料) ** Fe-Si-B化合物(磁性材料)([[変圧器]]) * [[アモルファス半導体]] ** [[アモルファスシリコン]]([[薄膜トランジスタ]]、[[太陽電池]]、[[光センサ]]) * [[無定形炭素|アモルファスカーボン]] * [[マグアンプ]] * [[耐候性鋼]] * [[アモルファス変圧器]] * [[飴]] <!--== 「アモルファス化」 == !無定形状態化すること。[[経済]][[市場]]において、従来の[[商品]]や[[サービス]]では発展が望めなくなってきている状態をさす<ref>用語集「現代社会」編集委員会 編集 『用語集 現代社会+政治・経済 '12-'13年版』 [[清水書院]] 190頁 ISBN 978-4389216351</ref>。--> <!--上記は海外でも日本でもほとんど使用実績のない用法で、一般性はなく個人的に用る比喩表現にとどまると思われる。参照者の誤解を招くのでは?--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> ==関連項目== * [[物性物理学]] * [[結晶]] * [[結晶構造]] * [[鉱物]] * [[スタンフォード・ロバート・オブシンスキー]] {{物質の状態}} {{Condensed matter physics topics}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あもるふあす}} [[Category:アモルファス|*]] [[Category:固体]] [[Category:固体物理学]] [[Category:物質の相]] [[Category:イェンス・ベルセリウス]]
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短距離秩序
短距離秩序(たんきょりちつじょ、Short range order、SRO)短距離の原子間の秩序のことである。具体的には、最近接原子数(最も近い原子の数)、原子間の結合距離、原子間の結合角が秩序立った値を示すことを指す。結晶では、長距離秩序、短距離秩序両方とも存在するが、アモルファス(ガラスなど)では短距離秩序のみがほぼ成り立っている。
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短距離秩序短距離の原子間の秩序のことである。具体的には、最近接原子数(最も近い原子の数)、原子間の結合距離、原子間の結合角が秩序立った値を示すことを指す。結晶では、長距離秩序、短距離秩序両方とも存在するが、アモルファス(ガラスなど)では短距離秩序のみがほぼ成り立っている。
{{出典の明記|date=2019年4月}} '''短距離秩序'''(たんきょりちつじょ、Short range order、SRO)短距離の[[原子]]間の[[秩序]]のことである。具体的には、最近接原子数(最も近い原子の数)、原子間の[[結合距離]]、原子間の[[結合角]]が秩序立った値を示すことを指す。[[結晶]]では、[[長距離秩序]]、短距離秩序両方とも存在するが、[[アモルファス]]([[ガラス]]など)では短距離秩序のみがほぼ成り立っている。 ==関連記事== *[[格子整合|不整合]](Incommensurate) *[[準結晶]] *[[物性物理学]] *[[自己相似]] {{DEFAULTSORT:たんきよりちつしよ}} {{sci-stub}} [[category:結晶学]]
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城崎町
城崎町(きのさきちょう)は、兵庫県北東部にあった町。本項では町制前の名称である湯島村(ゆしまむら)についても述べる。 2005年4月1日、豊岡市、城崎郡竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併して新「豊岡市」となったため消滅した。 円山川の西岸に沿って市街地があり、その中に城崎温泉も位置する。なお、日本海にごく近い印象があるものの、町域は豊岡市と竹野町に抱かれたような立地となっており、海には直接面していない。 城崎温泉は関西の奥座敷として知られ、京阪神方面から城崎温泉駅まで多数の特急列車が直通している(大阪・尼崎方面からは「こうのとり」、京都方面からは「きのさき」、大阪・姫路方面からは「はまかぜ」)。 城崎温泉は、温泉寺の開祖である道智上人という僧が衆生済度の大願を発し、一千日の祈願をしたことにより開かれた温泉と伝える。のちに聖武天皇の勅を得て、道智上人が温泉寺を開創した。以後多くの人に親しまれ、桂小五郎も一時ここに潜んだという。志賀直哉の『城の崎にて』は、彼が1913年事故に遭い、当地で療養した折の経験を元にしている。 『大日本篤農家名鑑』によれば城崎町の篤農家は「西村佐兵衛、片岡平八郎、加藤信太郎」などがいた。 『山陰実業興信録 大正11年』によれば物品販売業を営む人物は「岡田兵三郎、竹内瀧蔵、久保田宗吉、久保田順三、谷垣意知治、熊原幸吉、下山鹿次郎、武内増蔵、佐藤甚太郎、今西清蔵」などがいた。 製造業を営む人物は「細田顕次」、運送業を営む人物は「高橋大治郎」、請負業を営む人物は「藤原孫蔵」、仲立業を営む人物は「沖野秀治」などがいた。 旅館業を営む人物は「西村六左衛門、伊賀政蔵、片岡平八郎、結城小左衛門、結城寛、杉本繁造、井上吉右衛門、守口九左衛門、山本小ベン、齊藤宗三郎、安田貞吉、垣谷はる、輪笠與八郎、石田松太郎、西村佐兵衛、柿谷しな、兒島國治、河原庄三郎、西村彦七」などがいた。
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城崎町(きのさきちょう)は、兵庫県北東部にあった町。本項では町制前の名称である湯島村(ゆしまむら)についても述べる。 2005年4月1日、豊岡市、城崎郡竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併して新「豊岡市」となったため消滅した。
{{日本の町村 (廃止) | 画像 = ファイル:Kinosaki_onsen02_1920.jpg | 画像の説明 = [[城崎温泉]] | 旗 = [[ファイル:Flag_of_Kinosaki_Hyogo.JPG|100px|border|城崎町旗]] | 旗の説明 = 城崎[[市町村旗|町旗]] | 紋章 = [[ファイル:Kinosaki_Hyogo_chapter.JPG|70px|城崎町章]] | 紋章の説明 = 城崎[[市町村章|町章]] | 廃止日 = 2005年4月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = [[豊岡市]]、'''城崎町'''、[[竹野町]]、[[日高町 (兵庫県)|日高町]]、[[出石町]]、[[但東町]]→[[豊岡市]] | 現在の自治体 = [[豊岡市]] | よみがな = きのさきちょう | 自治体名 = 城崎町 | 区分 = 町 | 都道府県 = 兵庫県 | 郡 = [[城崎郡]] | コード = 28541-2 | 面積 = 31.19 | 境界未定 = あり | 人口 = 4134 | 人口の出典 = [[推計人口]] | 人口の時点 = 2005年3月1日 | 隣接自治体 = [[豊岡市]]、[[竹野町]] | 木 = [[ヤナギ|シダレヤナギ]] | 花 = [[アヤメ]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 669-6101 | 所在地 = 城崎郡城崎町湯島448<br />{{Maplink2|zoom=12|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=旧城崎町役場庁舎位置}} | InternetArchive = www.town.kinosaki.hyogo.jp/ |座標 = {{Coord|format=dms|type:city(4134)_region:JP-28|display=inline,title}} | 位置画像 = [[ファイル:Hyogo Kinosaki-town.png|right|兵庫県城崎町 位置図]] | 特記事項 = }} '''城崎町'''(きのさきちょう)は、[[兵庫県]]北東部にあった[[町]]。本項では町制前の名称である'''湯島村'''(ゆしまむら)についても述べる。 2005年4月1日、[[豊岡市]]、城崎郡[[竹野町]]・[[日高町 (兵庫県)|日高町]]、[[出石郡]][[出石町]]・[[但東町]]と対等合併して新「豊岡市」となったため消滅した。 == 地理 == [[円山川]]の西岸に沿って市街地があり、その中に[[城崎温泉]]も位置する。なお、[[日本海]]にごく近い印象があるものの、町域は豊岡市と竹野町に抱かれたような立地となっており、海には直接面していない。 城崎温泉は関西の奥座敷として知られ、京阪神方面から[[城崎温泉駅]]まで多数の特急列車が直通している(大阪・尼崎方面からは「[[こうのとり (列車)|こうのとり]]」、京都方面からは「[[きのさき (列車)|きのさき]]」、大阪・姫路方面からは「[[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]」)。 * 山: [[来日岳]] (567m) === 隣接していた自治体 === * [[豊岡市]] * 城崎郡[[竹野町]] == 歴史 == 城崎温泉は、温泉寺の開祖である道智上人という僧が衆生済度の大願を発し、一千日の祈願をしたことにより開かれた温泉と伝える。のちに聖武天皇の勅を得て、道智上人が温泉寺を開創した。以後多くの人に親しまれ、[[木戸孝允|桂小五郎]]も一時ここに潜んだという。[[志賀直哉]]の『[[城の崎にて]]』は、彼が[[1913年]]事故に遭い、当地で療養した折の経験を元にしている。 === 沿革 === * [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、今津村・湯島村・桃島村の区域をもって'''湯島村'''が発足。 * [[1895年]](明治28年)[[3月15日]] - 湯島村が町制施行・改称して'''城崎町'''となる。 * [[1955年]]([[昭和]]30年)[[2月1日]] - [[内川村 (兵庫県)|内川村]]と合併し、改めて'''城崎町'''が発足。 * [[2005年]]([[平成]]17年)4月1日 - 豊岡市・[[竹野町]]・[[日高町 (兵庫県)|日高町]]・[[出石郡]][[出石町]]・[[但東町]]と合併し、改めて'''[[豊岡市]]'''が発足。同日城崎町廃止。 == 経済 == === 産業 === ; 農業 『大日本篤農家名鑑』によれば城崎町の[[農家|篤農家]]は「西村佐兵衛、片岡平八郎、加藤信太郎」などがいた<ref>[{{NDLDC|782783/68}} 『大日本篤農家名鑑』]131頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月25日閲覧。</ref>。 ; 商工業 『山陰実業興信録 大正11年』によれば物品販売業を営む人物は「岡田兵三郎、竹内瀧蔵、久保田宗吉、久保田順三、谷垣意知治、熊原幸吉、下山鹿次郎、武内増蔵、佐藤甚太郎、今西清蔵」などがいた<ref name="sanin1922">[{{NDLDC|923488/156}} 『山陰実業興信録 大正11年』]302頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月25日閲覧。</ref>。 製造業を営む人物は「細田顕次」、[[運送業]]を営む人物は「高橋大治郎」、[[請負]]業を営む人物は「藤原孫蔵」、仲立業を営む人物は「沖野秀治」などがいた<ref name="sanin1922"/>。 [[旅館]]業を営む人物は「西村六左衛門、伊賀政蔵、片岡平八郎、結城小左衛門、結城寛、杉本繁造、井上吉右衛門、守口九左衛門、山本小ベン、齊藤宗三郎、安田貞吉、垣谷はる、輪笠與八郎、石田松太郎、西村佐兵衛、柿谷しな、兒島國治、河原庄三郎、西村彦七」などがいた<ref name="sanin1922"/>。 == 交通 == === 鉄道 === * [[西日本旅客鉄道|JR西日本]] ** [[山陰本線]]:[[玄武洞駅]] - [[城崎温泉駅]] === 道路 === * 都道府県道 ** [[兵庫県道3号豊岡瀬戸線]] ** [[兵庫県道9号豊岡竹野線]] ** [[兵庫県道548号戸島玄武洞豊岡線]] === バス === * [[全但バス]] == 出身・ゆかりのある人物 == * [[片岡平八郎]](城崎町長、兵庫県会議員、[[三木屋]]、旅館業) * [[西村佐兵衛]](城崎町長、[[西村屋 (城崎温泉)|西村屋]]会長) * [[西村肇 (政治家)|西村肇]](城崎町長、西村屋会長) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。 * 実業興信所編『山陰実業興信録 大正11年』実業興信所山陰本所、1922年。 == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[兵庫県の廃止市町村一覧]] == 外部リンク == * {{WAP|pid=245657|url=www.town.kinosaki.hyogo.jp/index.html|title=城崎町|date=2005/03/24}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きのさきちよう}} [[Category:城崎郡]] [[Category:豊岡市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1955年設置の日本の市町村]] [[Category:2005年廃止の日本の市町村]]
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熱伝導
熱伝導(ねつでんどう、英語: thermal conduction)は、固体または静止している流体の内部において高温側から低温側へ熱が伝わる伝熱現象。 熱力学第二法則により熱は必ず高温側から低温側に向かう。 金属においては、 の2つの機構があるものと考えられており、電気の良導体は熱の良導体でもある(ヴィーデマン=フランツ則)。 通常の物質では伝導電子による寄与の方が大きいので、金属は半導体や絶縁体(フォノンが主要な熱伝導の担い手)よりも熱伝導性が良い。しかし、非常に硬いダイヤモンドではフォノンを介した熱伝導性の寄与の方が非常に大きくなる。 固体金属以外では、熱伝導性はその他の固体、液体、気体の順に悪くなる。 非鉄素材のゴムや樹脂の熱伝導性は悪いが、酸化アルミニウムなどを熱伝導性の良い金属素材を添加することで向上させることもできる。 なお、固体と運動している流体の間の伝熱現象は熱伝達(convective heat transfer)という。 熱の移動と物質移動(拡散)や電気伝導にはアナロジーが成り立つために化学工学では、伝熱や物質移動を扱う分野を移動現象論と呼んで、類似の取り扱いをする。 単位時間に単位面積を流れる熱流(熱流束密度)を J [W/m] とし、温度を T とすると、分子論的熱緩和時間より十分長い時間(定常状態と見なせる時間)領域での現象に対して、熱流束密度 J は温度勾配 grad T に比例する。すなわち で表される。これはフーリエの法則と言われる。この時の比例係数 λ を熱伝導率(thermal conductivity)という。物質が等方的であればλはスカラーであるが、一般に非等方的3次元系では J と grad T の向きは一致せず、熱伝導率はテンソルで表現される。 単位体積当たりのエネルギー(エネルギー密度)を ρE [J/m]とすると、エネルギー保存則と連続の方程式より の関係が成り立つ(t は時間)。エネルギー密度の増加率は単位体積あたりの熱容量CV [J/mK]を使って、 で表現される。以上から、λ を一定かつ等方的とすれば、温度場 T が従う式として を得る。これは熱伝導方程式(Heat equation)と言われ、拡散方程式の形をしている。λ/CV を熱拡散率(温度伝導率)と言う。 以上の式を1次元に簡略化すると以下のようになる。 ただし、 である。 一般に、金属の熱伝導は主に伝導電子が担うので、熱伝導率 λ は極低温を除いた温度域では温度 T に比例して大きくなる。一方、絶縁体の熱伝導は主にフォノンが担い、熱伝導率は極低温において温度 T の3乗に比例して大きくなる。ガラス(非晶質)などの熱伝導率は、極低温では温度 T の2乗に比例する。 気体での熱伝導率は温度の上昇により大きくなるが、液体では逆に温度の上昇により熱伝導率は減少する。 ヘリウムが超流動状態になると熱伝導性が非常に高くなる。 物体に内部発熱 Q [W/m] がある場合は、上式のうちエネルギー保存則を表す式に項が追加され となる。したがって、熱伝導方程式は と変更される。
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熱伝導は、固体または静止している流体の内部において高温側から低温側へ熱が伝わる伝熱現象。 熱力学第二法則により熱は必ず高温側から低温側に向かう。
'''熱伝導'''(ねつでんどう、[[英語]]: thermal conduction)は、固体または静止している流体の内部において高温側から低温側へ熱が伝わる[[伝熱]]現象<ref name ="一色・北山">{{cite|和書|author1=一色尚次|author2=北山直方|title=伝熱工学 新装第2版|publisher=森北出版|year=2018|page=4}}</ref>。 [[熱力学第二法則]]により熱は必ず高温側から低温側に向かう<ref name ="一色・北山" />。 ==概要== [[金属]]においては、 * 結晶格子間を伝わる振動([[フォノン散乱|フォノン・]][[格子振動]])としてのエネルギー伝達 * [[伝導電子]]に基づくエネルギー伝達 の2つの機構があるものと考えられており、電気の良導体は熱の良導体でもある([[ヴィーデマン=フランツ則]])。 通常の物質では伝導電子による寄与の方が大きいので、金属は[[半導体]]や[[絶縁体]](フォノンが主要な熱伝導の担い手)よりも熱伝導性が良い。しかし、非常に硬い[[ダイヤモンド]]ではフォノンを介した熱伝導性の寄与の方が非常に大きくなる。 固体金属以外では、熱伝導性はその他の固体、液体、気体の順に悪くなる<ref>{{cite|和書|title=伝熱工学の基礎|author=望月貞成|author2=村田章|publisher=日新出版|year=2000|isbn=4-8173-0166-X|page=6-7}}</ref>。 非鉄素材の[[ゴム]]や[[樹脂]]の熱伝導性は悪いが、[[酸化アルミニウム]]などを熱伝導性の良い金属素材を添加することで向上させることもできる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.denka.co.jp/product/detail_00040/ |title=球状アルミナ |publisher=デンカ |date= |accessdate=2023-08-19}}</ref>。 なお、固体と運動している流体の間の伝熱現象は'''熱伝達'''(convective heat transfer)という<ref>{{cite|和書|author1=一色尚次|author2=北山直方|title=伝熱工学 新装第2版|publisher=森北出版|year=2018|page=5}}</ref>。 熱の移動と物質移動([[拡散]])や[[電気伝導]]にはアナロジーが成り立つために[[化学工学]]では、伝熱や物質移動を扱う分野を[[移動現象論]]と呼んで、類似の取り扱いをする。 == フーリエの法則 == 単位時間に単位面積を流れる熱流(熱流束密度)を '''''J''''' [W/m<sup>2</sup>] とし、温度を ''T'' とすると、分子論的熱[[緩和時間]]より十分長い時間([[定常状態]]と見なせる時間)領域での現象に対して、熱流束密度 '''''J''''' は[[温度勾配]] grad ''T'' に比例する。すなわち :<math>\boldsymbol{J} = - \lambda \operatorname{grad} T </math> で表される。これは'''フーリエの法則'''と言われる。この時の比例係数 ''&lambda;'' を'''[[熱伝導率]]'''({{en|thermal conductivity}})という。物質が[[等方的]]であれば&lambda;はスカラーであるが、一般に非等方的3次元系では '''''J''''' と grad ''T'' の向きは一致せず、熱伝導率は[[テンソル]]で表現される。 単位体積当たりのエネルギー(エネルギー密度)を ''&rho;''<SUB>E</SUB> [J/m<sup>3</sup>]とすると、[[エネルギー保存則]]と[[連続の方程式]]より :<math>\frac{\partial \rho_{\mathrm E}}{\partial t} = -\operatorname{div} \boldsymbol{J} </math> の関係が成り立つ(''t'' は時間)。エネルギー密度の増加率は単位体積あたりの[[熱容量]]<ref group="注釈">[[比熱容量]]と密度の積</ref>''C<SUB>V</SUB>'' [J/m<sup>3</sup>K]を使って、 :<math>\frac{\partial\rho_E}{\partial t} = C_V \frac{\partial T}{\partial t}</math> で表現される。以上から、''&lambda;'' を一定かつ等方的とすれば、温度場 ''T'' が従う式として :<math>C_V \frac{\partial T}{\partial t} = - \operatorname{div} \boldsymbol{J} = - \operatorname{div} (- \lambda \operatorname{grad} T) = \lambda \nabla^2 T = \lambda \Delta T </math> を得る。これは'''[[熱方程式|熱伝導方程式]]'''([[:en:Heat equation|Heat equation]])と言われ、[[拡散方程式]]の形をしている。&lambda;/''C<SUB>V</SUB>'' を'''[[熱拡散率]]'''('''温度伝導率''')と言う。 以上の式を1次元に簡略化すると以下のようになる。 * フーリエの法則 *:<math>J = - \lambda \frac{\partial T}{\partial x}</math> * エネルギー保存則 *:<math>\frac{\partial\rho_E}{\partial t} = -\frac{\partial J}{\partial x}</math> * エネルギー密度の変化と温度変化の関係 *:<math>\frac{\partial\rho_E}{\partial t} = C_V \frac{\partial T}{\partial t}</math> * 熱伝導方程式 *:<math>C_V \frac{\partial T}{\partial t} = -\frac{\partial }{\partial x}\left(- \lambda \frac{\partial T}{\partial x}\right) = \lambda \frac{\partial ^2 T}{\partial x^2}</math> ただし、 *''&rho;''<sub>E</sub> :熱エネルギー密度 [J/m<sup>3</sup>] * ''J'' :熱流束密度 [W/m<sup>2</sup>] * &lambda; :熱伝導率 [W/(m・K)] * ''C<sub>V</sub>'' :単位体積熱容量 [J/(m<sup>3</sup>・K)] である。 == 熱伝導率 == {{main|熱伝導率}} 一般に、金属の熱伝導は主に伝導電子が担うので、熱伝導率 ''&lambda;'' は極低温を除いた温度域では温度 ''T'' に比例して大きくなる。一方、絶縁体の熱伝導は主にフォノンが担い、熱伝導率は極低温において温度 ''T'' の3乗に比例して大きくなる。[[ガラス]](非晶質)などの熱伝導率は、極低温では温度 ''T'' の2乗に比例する。 [[気体]]での熱伝導率は温度の上昇により大きくなるが、[[液体]]では逆に温度の上昇により熱伝導率は減少する。 [[ヘリウム]]が[[超流動]]状態になると熱伝導性が非常に高くなる。 == 発熱がある場合 == 物体に内部発熱 ''Q'' [W/m<sup>3</sup>] がある場合は、上式のうちエネルギー保存則を表す式に項が追加され :<math>\frac{\partial\rho_E}{\partial t} = -\operatorname{div} \boldsymbol{J} +Q</math> となる。したがって、熱伝導方程式は :<math>C_V \frac{\partial T}{\partial t} = \lambda \Delta T +Q </math> と変更される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == *[[熱核]] *[[熱起電力]]、[[熱電対]] * [[伝熱]] ** [[熱伝達]]、[[ニュートンの冷却の法則]] ** [[熱放射]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ねつてんとう}} [[Category:熱伝導|*]] [[Category:熱]] [[Category:熱力学]] [[Category:伝熱]] [[Category:固体物理学]] [[Category:物理化学の現象]]
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クラスター (物質科学)
クラスター (英語:cluster) は集合体や塊を指す英語であるが、物質科学においては同種の原子あるいは分子が相互作用によって数個から数十個、もしくはそれ以上の数が結合した物体を指す。それぞれの原子や分子同士を結びつける相互作用は、ファンデルワールス力や静電的相互作用、水素結合、金属結合、共有結合などが挙げられている。クラスターのうち、電荷を帯びたものをクラスターイオンと呼ぶ。 代表的なクラスターとして、炭素原子60個が結合してサッカーボール状の構造を持つC60フラーレンがある。C60フラーレンは共有結合クラスターに分類される。これらは、いわゆるバルクとも孤立した原子・分子とも違う状態であり(少数多体系・有限多体系と呼ばれる)、バルク-孤立原子・分子の間の新しい物質相であると考えられている。クラスターは、そのサイズに依存した特異的性質を示し、新規磁性・触媒材料など、応用面でも注目されている。 複数の遷移金属原子が互いに金属結合した構造をしているときに、金属クラスターという。昨今は、ナノ粒子という概念も提唱されている。 有機金属化学では、カルボニル配位子で安定化された金属クラスターは金属カルボニルクラスターという。金属カルボニルクラスターの典型例としては、ドデカカルボニルルテニウムRu3(CO)12, ドデカカルボニルオスミウムOs3(CO)12などが挙げられ、いずれの金属カルボニルクラスターであっても3つの金属原子が正三角形となるような構造をしている。
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クラスター (英語:cluster) は集合体や塊を指す英語であるが、物質科学においては同種の原子あるいは分子が相互作用によって数個から数十個、もしくはそれ以上の数が結合した物体を指す。それぞれの原子や分子同士を結びつける相互作用は、ファンデルワールス力や静電的相互作用、水素結合、金属結合、共有結合などが挙げられている。クラスターのうち、電荷を帯びたものをクラスターイオンと呼ぶ。
{{出典の明記|date=2020年4月}} '''クラスター'''([[英語]]:cluster)は集合体や塊を指す英語であるが、物質科学においては同種の[[原子]]あるいは[[分子]]が相互作用によって数個から数十個、もしくはそれ以上の数が結合した物体を指す。それぞれの原子や分子同士を結びつける相互作用は、[[ファンデルワールス力]]や[[電磁相互作用|静電的相互作用]]、[[水素結合]]、[[金属結合]]、[[共有結合]]などが挙げられている。クラスターのうち、電荷を帯びたものを'''クラスターイオン'''と呼ぶ。 == フラーレン == 代表的なクラスターとして、[[炭素]]原子60個が結合してサッカーボール状の構造を持つC<sub>60</sub>[[フラーレン]]がある<ref>{{Cite book|和書|title=フラーレンの化学|url=https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320044227|language=ja|year=2016|publisher=共立出版|editor=日本化学会|series=化学の要点}}</ref>。C<sub>60</sub>フラーレンは共有結合クラスターに分類される。これらは、いわゆる[[バルク (界面化学)|バルク]]とも孤立した原子・分子とも違う状態であり(少数多体系・有限多体系と呼ばれる)、バルク-孤立原子・分子の間の新しい物質相であると考えられている。クラスターは、そのサイズに依存した特異的性質を示し、新規磁性・触媒材料など、応用面でも注目されている。 == 金属クラスター == 複数の遷移金属原子が互いに金属結合した構造をしているときに、金属クラスターという。昨今は、ナノ粒子という概念も提唱されている<ref>{{Cite book|和書|title=ナノ粒子|year=2013|publisher=共立出版|editor=日本化学会|series=化学の要点}}</ref>。 == 金属カルボニルクラスター == [[有機金属化学]]では、カルボニル配位子で安定化された金属クラスターは[[金属カルボニルクラスター]]という<ref>{{Cite book|和書|title=有機金属化学|url=https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320044111|language=ja|publisher=共立出版|editor=日本化学会|year=2013|series=化学の要点}}</ref>。金属カルボニルクラスターの典型例としては、[[ドデカカルボニル三ルテニウム|ドデカカルボニルルテニウム]]Ru<sub>3</sub>(CO)<sub>12</sub>, [[ドデカカルボニル三オスミウム|ドデカカルボニルオスミウム]]Os<sub>3</sub>(CO)<sub>12</sub>などが挙げられ、いずれの金属カルボニルクラスターであっても3つの金属原子が正三角形となるような構造をしている。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[ナノ粒子]] *[[クラスター (曖昧さ回避)]] *[[クラスター化合物]] *[[金属カルボニルクラスター]] *[[ドデカカルボニル三オスミウム|ドデカカルボニルオスミウム]] *[[ドデカカルボニル三ルテニウム|ドデカカルボニルルテニウム]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くらすた}} [[Category:物性物理学]] [[Category:物質]] [[Category:物質の相]] [[Category:超分子]] {{Physics-stub}} {{Chem-stub}}
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臭素
臭素(しゅうそ、英: bromine)は、原子番号 35、原子量 79.9 の元素である。元素記号は Br。ハロゲン元素の一つ。 単体(Br2、二臭素)は常温、常圧で液体(赤褐色)である。分子量は 159.8。融点 -7.3 °C、沸点 58.8 °C。反応性は塩素より弱い。刺激臭を持ち、猛毒である。海水中にも微量存在する。 アントワーヌ・バラールは後述するシリアツブリガイの当時の名称 murex から、元素の名称として muride を提案した。しかし、フランス学士院は muride ではなく、ギリシャ語の悪臭 (bromos) に基づく bromine に決定した。 アントワーヌ・バラールは、1826年にフランス学士院へ臭素発見に関する論文を提出している。フランス・モンペリエにおいて、海水と塩素の反応によって発見された。なお、ドイツのカール・レーヴィヒは、1825年に鉱泉から新元素を発見していたのだが、論文を提出する前にバラールの論文が発表されてしまった。 20世紀初頭、ドイツでは海水から臭素を得ていた。プールに導き入れた海水を塩素で酸化して、わずかに生じる臭素をアニリンと反応させて得られる2,4,6-トリブロモフェノール(フェノールに臭素原子が3つ置換したもの)の沈殿を分解して臭素単体を得ていた。当時の価格は同質量の金より高価であったという。アメリカ合衆国においては、ダウ・ケミカル創業者のハーバート・ダウが開発した電気分解法を鹹水鉱床に用いることで、臭素生産が始まった。後に海水にもダウの手法が適用された。 精神的な興奮状態、性欲を鎮める作用があるため、19世紀には興奮性の精神病の治療薬、鎮静剤、性欲抑制剤として臭化カリウムなどの臭化物が用いられた。連用により体内に臭素が蓄積して臭素中毒を引き起こすなど毒性があるため、現在ではほとんど用いられない。 後に、イスラエルの死海周辺の井戸から産する臭化マグネシウム水溶液から得られるようになった。臭素の価格は中東和平が達成されると下がり、軍事的緊張が続くと高騰するなど不安定であったが、アメリカ合衆国のユニオン郡 (アーカンソー州)の地下水から得られるようになり、現在ではこちらが最大の産出地である。 非金属元素の中では常温・常圧で液体である唯一の元素で、二原子分子 (Br2) を形成する。色は暗赤色で、常温・常圧で蒸発しやすく、赤色の気体となる。同じハロゲンの塩素と同様、強烈な不快臭を持つ。ハロゲン中での反応性は塩素より小さく、ヨウ素より大きい。水には若干溶け、二硫化炭素と脂肪族アルコールと酢酸にはよく溶ける。多くの元素と容易に結合して強力な漂白作用を持つ。皮膚に臭素が触れると腐食を引き起こすため危険である。 臭素化合物にはオゾン層を破壊したり、生物濃縮するものがあるため、段階的に廃止される予定となっており、次第に工業的に製造されなくなってきている。 臭素は強力な酸化剤で、金属や有機化合物と容易に反応する。 アメリカ合衆国ヴァンダービルト大学のビリー・ハドソン博士らは、ミバエへの給餌実験で臭素を除いた餌を食べ続けたグループは死滅したが、通常通り臭素を含む餌を食べた対照グループは生き残ったことから、臭素が動物にとって28番目の必須元素であることを確認したと2014年に発表した。 工業的には臭化物イオンを含む水溶液を酸性条件下で塩素を吹き込み、酸化された臭素単体を蒸留精製する。臭素は海水中には65 ppm (0.0065%) 含まれ、推定資源量は100兆トン存在し、多くの国で海水を原料として臭素を生産している。一方、死海あるいは臭素の含有量が高い鉱水が知られており、アメリカ合衆国やイスラエルなどの国では、鉱水や死海の水を原料にして、同様に塩素で酸化して生産している。日本では海水に塩素を吹き込んで臭素を遊離させる海水法とにがりに含まれるMgBr2に塩素を吹き込んで臭素を遊離させるにがり法で生産され、生産量は2007年で26,000トン(推定)である。 米国地質調査所の2005年版統計によると、全世界の臭素の生産量は約590,000トンである。その内訳は、1位の米国が222,000トン、2位のイスラエルが206,000トンでありこの2カ国で世界の生産量の8割を占める。国連統計局の2002年度統計によると、輸出量はリサイクルされたものも含めて1位のイスラエルが94,141,000ドル、2位のベルギーが34,412,092ドルであった。 シリアツブリガイ Bolinus brandaris(旧学名:Murex brandaris)が分泌する無色の液体が空気中で酸化されると、紫色(皇帝紫)の成分である6,6'-ジブロモインジゴが得られる。この貝は、現在のレバノン沿岸ティルスに産したため、染料はチリアンパープル (Tyrian purple) とも呼ばれた。19世紀にアニリン染料(モーブなど)が開発されるまでは、もっとも優れた紫色の染料として用いられていた。 工業的には、有鉛ガソリンの添加剤であるジブロモエタン、消火に用いる CBrClF2, CBrF3 などのハロン、土壌燻蒸剤の臭化メチルが主な用途であった。しかしながら、いずれも環境に与える影響が大きいとされ、生産・消費量は減少している。航空機、新幹線車両などの内装材にも用いられ、難燃剤として優れるポリ臭化ジフェニルエーテルは、そのほかの主な用途である。 写真の感光材として、臭素の化合物臭化銀 (silver bromide) が用いられている。このため、印画紙のことを英語では bromide paper と呼ぶ。これが転じて、アイドル等の写真であるブロマイドの語源となった。 高温で様々な無機物・有機物を含む温泉水の消毒剤として塩素剤だけでは不十分な場合があるため、BCDMH(ブロモクロロジメチルヒダントイン)を主成分とする塩素臭素剤が使用される。海外では「Bromine Tablets」という一般名で市販されている。 天然の臭素はほとんど同量の2種の安定同位体Br(存在比0.5069)とBr(存在比0.4931)からなるので、質量分析において臭素を1個ふくむ分子は質量数が2だけ異なり強度の等しい二本組のシグナルとして現れる特徴がある。 臭素のオキソ酸は慣用名を持つ。次にそれらを挙げる。
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臭素(しゅうそ、英: bromine)は、原子番号 35、原子量 79.9 の元素である。元素記号は Br。ハロゲン元素の一つ。 単体(Br2、二臭素)は常温、常圧で液体(赤褐色)である。分子量は 159.8。融点 -7.3 ℃、沸点 58.8 ℃。反応性は塩素より弱い。刺激臭を持ち、猛毒である。海水中にも微量存在する。
{{Elementbox |name=bromine |japanese name=臭素 |pronounce={{IPAc-en|ˈ|b|r|oʊ|m|iː|n}} {{respell|BROH|meen}}<br>or {{IPAc-en|ˈ|b|r|oʊ|m|ɨ|n}} {{respell|BROH|min}} |number=35 |symbol=Br |left=[[セレン]] |right=[[クリプトン]] |above=[[塩素|Cl]] |below=[[ヨウ素|I]] |series=ハロゲン |series comment= |group=17 |period=4 |block=p |series color= |phase color= |appearance=気体/液体: 赤褐色<br />固体: 金属色 |image name=Bromine.jpg |image size= |image name comment= |image name 2= |image size 2= |image name 2 comment= |atomic mass=79.904 |atomic mass 2=1 |atomic mass comment= |electron configuration=&#91;[[アルゴン|Ar]]&#93; 4s<sup>2</sup> 3d<sup>10</sup> 4p<sup>5</sup> |electrons per shell=2, 8, 18, 7 |color= |phase=液体 |phase comment= |density gplstp= |density gpcm3nrt=(液体)3.1028 |density gpcm3nrt 2= |density gpcm3nrt 3= |density gpcm3mp= |melting point K=265.8 |melting point C=-7.2 |melting point F=19 |melting point pressure= |sublimation point K= |sublimation point C= |sublimation point F= |sublimation point pressure= |boiling 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|Van der Waals radius=[[1 E-10 m|185]] |magnetic ordering=[[反磁性]]<ref>[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds], in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref> |electrical resistivity= |electrical resistivity at 0= |electrical resistivity at 20=7.8×10<sup>10</sup> |thermal conductivity=0.122 |thermal conductivity 2= |thermal diffusivity= |thermal expansion= |thermal expansion at 25= |speed of sound=(20 {{℃}}) 206 |speed of sound rod at 20= |speed of sound rod at r.t.= |Tensile strength= |Young's modulus= |Shear modulus= |Bulk modulus= |Poisson ratio= |Mohs hardness= |Vickers hardness= |Brinell hardness= |CAS number=7726-95-6 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[臭素79|79]] | sym=Br | na=50.69 % | n=44}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[臭素81|81]] | sym=Br | na=49.31 % | n=46}} |isotopes comment= }} '''臭素'''(しゅうそ、{{lang-en-short|bromine}})は、[[原子番号]] 35、[[原子量]] 79.9 の[[元素]]である。[[元素記号]]は '''Br'''。[[ハロゲン元素]]の一つ。 単体(Br<sub>2</sub>、二臭素)は常温、常圧で[[液体]]{{efn|常温で液体の元素は臭素と[[水銀]]だけである。[[中国語]]ではそれぞれを[[漢字]]で「{{lang|zh|溴}}」、「{{lang|zh|汞}}」と書くが、[[水部]]の部首を含むことで常温での状態を示している。}}(赤褐色)である。[[分子量]]は 159.8。[[融点]] -7.3 ℃、[[沸点]] 58.8 ℃。反応性は[[塩素]]より弱い。[[刺激臭]]を持ち、猛毒である。[[海水]]中にも微量存在する。 == 名称 == [[アントワーヌ・バラール]]は後述する[[シリアツブリガイ]]の当時の名称 murex から、元素の名称として muride を提案した。しかし、フランス学士院は ''muride'' ではなく、[[ギリシャ語]]の悪臭 (bromos) に基づく bromine に決定した。 == 歴史 == [[アントワーヌ・バラール]]は、[[1826年]]にフランス学士院へ臭素発見に関する論文を提出している。[[フランス]]・[[モンペリエ]]において、[[海水]]と塩素の反応によって発見された。なお、[[ドイツ]]の[[カール・レーヴィヒ]]は、[[1825年]]に鉱泉から新元素を発見していたのだが、論文を提出する前にバラールの論文が発表されてしまった。 [[20世紀]]初頭、[[ドイツ]]では海水から臭素を得ていた。プールに導き入れた海水を塩素で[[酸化]]して、わずかに生じる臭素を[[アニリン]]と反応させて得られる[[2,4,6-トリブロモフェノール]]([[フェノール]]に臭素原子が3つ置換したもの)の沈殿を分解して臭素単体を得ていた。当時の価格は同質量の[[金]]より高価であったという。[[アメリカ合衆国]]においては、[[ダウ・ケミカル]]創業者の[[ハーバート・ダウ]]が開発した電気分解法を[[鹹水]]鉱床に用いることで、臭素生産が始まった。後に海水にもダウの手法が適用された。 精神的な興奮状態、性欲を鎮める作用があるため、[[19世紀]]には興奮性の精神病の治療薬、鎮静剤、性欲抑制剤として[[臭化カリウム]]などの臭化物が用いられた。連用により体内に臭素が蓄積して[[臭素中毒]]を引き起こすなど毒性があるため、現在ではほとんど用いられない。 後に、[[イスラエル]]の[[死海]]周辺の[[井戸]]から産する臭化マグネシウム水溶液から得られるようになった。臭素の価格は中東和平が達成されると下がり、軍事的緊張が続くと高騰するなど不安定であったが、アメリカ合衆国の[[ユニオン郡 (アーカンソー州)]]の地下水から得られるようになり、現在ではこちらが最大の産出地である。 == 性質 == [[非金属元素]]の中では[[標準状態|常温・常圧]]で液体である唯一の元素で、[[二原子分子]] (Br<sub>2</sub>) を形成する。色は暗赤色で、常温・常圧で蒸発しやすく、赤色の気体となる。同じ[[ハロゲン]]の[[塩素]]と同様、強烈な不快臭を持つ。ハロゲン中での反応性は塩素より小さく、[[ヨウ素]]より大きい。[[水]]には若干溶け、[[二硫化炭素]]と[[脂肪族炭化水素|脂肪族]][[アルコール]]と[[酢酸]]にはよく溶ける。多くの元素と容易に結合して強力な漂白作用を持つ。[[皮膚]]に臭素が触れると[[熱傷|腐食]]を引き起こすため危険である。 臭素化合物には[[オゾン層]]を破壊したり、[[生物濃縮]]するものがあるため、段階的に廃止される予定となっており、次第に工業的に製造されなくなってきている。 臭素は強力な[[酸化剤]]で、[[金属]]や[[有機化合物]]と容易に反応する。 [[アメリカ合衆国]][[ヴァンダービルト大学]]の[[ビリー・ハドソン]]博士らは、[[ミバエ]]への給餌実験で臭素を除いた餌を食べ続けたグループは死滅したが、通常通り臭素を含む餌を食べた対照グループは生き残ったことから、臭素が[[動物]]にとって28番目の[[必須元素]]であることを確認したと[[2014年]]に発表した<ref>{{Cite web|date=2014年6月|url=http://news.vanderbilt.edu/2014/06/investigators-confirm-bromine-critical-role-in-tissue-development/|title=VU investigators confirm bromine's critical role in tissue development|publisher=Vanderbilt University|language=英語|accessdate=2014年6月25日}}</ref><ref>「精留塔」『化学工業日報』2014年6月25日p1、東京、化学工業日報社。[http://www.kagakukogyonippo.com/headline/2014/06/25-16310.html]</ref><!-- 実験結果、およびヒトなど他の動物での必須性について、現時点でコンセンサスが得られているのかどうか定かではない。news.vanderbilt.eduで「必須元素」としているうち、B・F・Si・V・Ni・As・Snの必須性も定説ではないはずである。 -->。 == 資源 == 工業的には臭化物イオンを含む水溶液を酸性条件下で[[塩素]]を吹き込み、酸化された臭素単体を蒸留精製する。臭素は海水中には65 [[ppm]] (0.0065%) 含まれ、推定資源量は100兆トン存在し、多くの国で海水を原料として臭素を生産している。一方、[[死海]]あるいは臭素の含有量が高い鉱水が知られており、アメリカ合衆国や[[イスラエル]]などの国では、鉱水や[[死海]]の水を原料にして、同様に塩素で酸化して生産している。日本では海水に塩素を吹き込んで臭素を遊離させる海水法とにがりに含まれるMgBr{{sub|2}}に塩素を吹き込んで臭素を遊離させるにがり法で生産され、生産量は2007年で26,000トン(推定)である<ref>{{Cite book|和書|author=|authorlink=|year=2009|month=2|title=15509の化学商品|publisher=化学工業日報社|isbn=978-4-87326-544-5}}</ref>。 米国地質調査所の2005年版統計<ref>http://minerals.usgs.gov/minerals/ Mineral Commodity Summaries</ref>によると、全世界の臭素の生産量は約590,000トンである。その内訳は、1位の米国が222,000トン、2位のイスラエルが206,000トンでありこの2カ国で世界の生産量の8割を占める。国連統計局の2002年度統計<ref>[http://unstats.un.org/unsd/default.htm Commodity Trade Statistics Database]</ref>によると、輸出量はリサイクルされたものも含めて1位のイスラエルが94,141,000ドル、2位の[[ベルギー]]が34,412,092ドルであった。 {| class="wikitable" ! !! 2002年輸出金額(ドル) !! 2002年生産量(トン) |- | アメリカ合衆国 || 16,820,987 || 225,000 |- | イスラエル || 94,141,000 || 206,000 |- | 中国 || - || 40,000 |- | イギリス || 15,922,613 || 50,000 |- | 日本 || - || 20,000 |- | ベルギー || 34,412,092 || - |- | オランダ || 19,297,583 || - |- | その他 || 13,877,164 || 9,000 |- | 計 || 194,471,439 || 550,000 |- | colspan="3" style="text-align: center" | [[ファイル:臭素工業統計.png|350px|説明図 臭素の生産量と輸出量]] |} == 用途 == [[シリアツブリガイ]] ''[[:w:Bolinus brandaris|Bolinus brandaris]]''(旧学名:''Murex brandaris'')が分泌する無色の液体が空気中で酸化されると、紫色([[貝紫色|皇帝紫]])の成分である6,6'-ジブロモインジゴが得られる。この貝は、現在の[[レバノン]]沿岸[[ティルス]]に産したため、[[染料]]はチリアンパープル (Tyrian purple) とも呼ばれた。19世紀に[[アニリン染料]]([[モーブ]]など)が開発されるまでは、もっとも優れた紫色の染料として用いられていた。 工業的には、有鉛ガソリンの添加剤である[[1,2-ジブロモエタン|ジブロモエタン]]、消火に用いる [[ブロモクロロジフルオロメタン|CBrClF{{sub|2}}]], [[ブロモトリフルオロメタン|CBrF{{sub|3}}]] などの[[ハロゲン化合物|ハロン]]、土壌燻蒸剤の[[臭化メチル]]が主な用途であった。しかしながら、いずれも環境に与える影響が大きいとされ、生産・消費量は減少している。[[航空機]]、[[新幹線]]車両などの内装材にも用いられ、[[難燃剤]]として優れる[[ポリ臭化ジフェニルエーテル]]は、そのほかの主な用途である。 [[写真]]の感光材として、臭素の化合物[[臭化銀]] (silver bromide) が用いられている。このため、[[印画紙]]のことを[[英語]]では bromide paper と呼ぶ。これが転じて、[[アイドル]]等の写真である[[ブロマイド]]の語源となった。 高温で様々な無機物・有機物を含む温泉水の消毒剤として塩素剤だけでは不十分な場合があるため、BCDMH([[ブロモクロロジメチルヒダントイン]])を主成分とする塩素臭素剤が使用される<ref>[http://www.shasej.org/ 社団法人空気調和・衛生工学会]発行「浴場施設のレジオネラ対策指針」</ref>。海外では「Bromine Tablets」という一般名で市販されている。 == 臭素の化合物 == {{main|Category:有機ハロゲン化合物}} * [[臭化カリウム]] (KBr) * [[臭化銀]] (AgBr) - [[写真]]の感光材料 * [[臭化水素]] (HBr) * [[臭化マグネシウム]] (MgBr{{sub|2}}) === 臭素系有機化合物 ===  天然の臭素はほとんど同量の2種の安定同位体<sup>79</sup>Br(存在比0.5069)と<sup>81</sup>Br(存在比0.4931)からなるので、[[質量分析]]において臭素を1個ふくむ分子は質量数が2だけ異なり強度の等しい二本組のシグナルとして現れる特徴がある。 {{main|臭素の同位体|Category:有機ハロゲン化合物}} * [[ブロモホルム]] (CHBr{{sub|3}}) * [[四臭化炭素]] (CBr{{sub|4}}) * [[臭素系ダイオキシン類]] * [[N-ブロモスクシンイミド|''N''-ブロモスクシンイミド]] (NBS) === 臭素のオキソ酸 === 臭素の[[オキソ酸]]は慣用名を持つ。次にそれらを挙げる。 {| class="wikitable" ! オキソ酸の名称 !! 化学式(酸化数) !! オキソ酸塩の名称 !! 備考 |- | [[次亜臭素酸]]<br />(hypobromous acid) || <chem>HBrO</chem> (+I) || 次亜臭素酸塩<br />( - hypobromite) || |- | 亜臭素酸<br />(bromous acid) || <chem>HBrO2</chem> (+III) || 亜臭素酸塩<br />( - bromite) || |- | [[臭素酸]]<br />(bromic acid) || <chem>HBrO3</chem> (+V) || 臭素酸塩<br />( - bromate) || 臭素酸塩は[[危険物#第1類|危険物第1類]]。 |- | [[過臭素酸]]<br />(perbromic acid) || <chem>HBrO4</chem> (+VII) || 過臭素酸塩<br/>( - perbromate) || |} * ''オキソ酸塩名称の '-' には[[カチオン]]種の名称が入る。'' == 同位体 == {{Main|臭素の同位体}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|Bromine}} {{Wiktionary|臭素}} * [[臭素中毒]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{元素周期表}} {{臭素の化合物}} {{二原子分子}} {{ハロゲン間化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆうそ}} [[Category:臭素|*]] [[Category:元素]] [[Category:ハロゲン]] [[Category:第4周期元素]] [[Category:劇物]]
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オスカー
オスカーかオスカル(Oscar、Oskar、Oskari、Oszkár、Óscar、 他)主にヨーロッパ言語圏で使用されている、ドイツ語とアイルランド語と英語の名前。 古ドイツ語においては、神の槍 "god spear" の意味も持つ。
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オスカーかオスカル主にヨーロッパ言語圏で使用されている、ドイツ語とアイルランド語と英語の名前。 古ドイツ語においては、神の槍 "god spear" の意味も持つ。 OSCAR: Orbiting Satellite Carrying Amateur Radio - アマチュア衛星の共通的な愛称(オスカー1号が世界初のアマチュア衛星である)。 オスカー像 - アカデミー賞受賞者に渡される像。 オスカー (小惑星) スズキ目・シクリッド科の魚の一種・アストロノータスの英名。 オスカープロモーション - 日本の芸能事務所。 オスカードリーム - 大阪市にある複合ビル。 オスカーJ.J - 富山市に本社を置く不動産会社。かつて下記のホームセンターを展開していた。子会社にグリーンステージなどを持つ。 オスカー - かつて北陸三県で展開していたホームセンターチェーンの名。1990年4月にカーマホームセンターに吸収合併された。 オスカー型原子力潜水艦 - ソビエト連邦の開発した原子力潜水艦。 大日本帝国陸軍の戦闘機「一式戦闘機」の連合軍側コードネーム。 「O」を正確に伝達するための、国際的な頭文字の規則の通称(フォネティックコード)。 Open System for CommunicAtion in Realtime (OSCAR) - 主にAOL Instant Messengerなどで使われるプロトコルの名前。 Open Standards for Container/Content Allowing Re-use - LISAの定義を担当する分科会。
__NOTOC__ '''オスカー'''か'''[[オスカル]]'''(Oscar、Oskar、Oskari、Oszkár、Óscar、 他)主にヨーロッパ言語圏で使用されている、[[ドイツ語]]と[[アイルランド語]]と英語の名前。 古ドイツ語においては、神の槍 "god spear" の意味も持つ。 * OSCAR: Orbiting Satellite Carrying Amateur Radio - [[アマチュア衛星]]の共通的な愛称([[オスカー1号]]が世界初のアマチュア衛星である)。 * [[オスカー像]] - [[アカデミー賞]]受賞者に渡される像。 * [[オスカー (小惑星)]] * [[スズキ目]]・[[シクリッド|シクリッド科]]の魚の一種・[[アストロノータス]]の英名。 * [[オスカープロモーション]] - 日本の[[芸能事務所]]。 * [[オスカードリーム]] - 大阪市にある複合ビル。 * オスカーJ.J - [[富山市]]に本社を置く[[不動産会社]]。かつて下記の[[ホームセンター]]を展開していた。子会社に[[グリーンステージ]]などを持つ。 ** オスカー - かつて[[北陸地方|北陸]]三県で展開していたホームセンターチェーンの名。1990年4月に[[カーマホームセンター]]に吸収合併された。 * [[オスカー型原子力潜水艦]] - [[ソビエト連邦]]の開発した[[原子力潜水艦]]。 * [[大日本帝国陸軍]]の戦闘機「[[一式戦闘機]]」の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]側コードネーム。 * 「O」を正確に伝達するための、国際的な頭文字の規則の通称([[NATOフォネティックコード|フォネティックコード]])。 * '''O'''pen '''S'''ystem for '''C'''ommunic'''A'''tion in '''R'''ealtime (OSCAR) - 主に[[AOL Instant Messenger]]などで使われる[[プロトコル]]の名前。 * '''O'''pen '''S'''tandards for '''C'''ontainer/'''C'''ontent '''A'''llowing '''R'''e-use - {{仮リンク|LISA|en|Localization_Industry_Standards_Association}}の定義を担当する分科会。 == 作品名 == * {{仮リンク|オスカー (1966年の映画)|en|The Oscar (film)}} - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]制作。[[ラッセル・ルース]]監督、[[スティーヴン・ボイド]]主演。原題は定冠詞TheがついてThe Oscarとなる。 * {{仮リンク|オスカー (1967年の映画)|en|Oscar (1967 film)}} - [[フランス]]制作。[[エドゥアール・モリナノ]]監督、[[ルイ・ド・フュネス]]主演。 * [[オスカー (1991年の映画)]] - アメリカ制作。[[ジョン・ランディス]]監督、[[シルヴェスター・スタローン]]主演。 * [[実験人形ダミー・オスカー]] - 原作:[[小池一夫]]、作画:[[叶精作]]による漫画のタイトルおよびその主人公の名前。 == 人名 == === 実在の人名 === * ヨーロッパの男性名(Oscar、Oskar 他)。[[ゲール語]]で "deer lover" の意味を持つ。[[古英語]]においては、神の槍 "god spear" の意味も持つ。 ** [[オスカー・ギャンブル]] - アメリカの野球選手 ** [[オスカー・ココシュカ]] - オーストリアの画家 ** [[オスカー・サラサー]] - ベネズエラの野球選手 ** [[オスカー・シュトラウス]] - オーストリアの作曲家 ** [[オスカー・シュムスキー]] - アメリカのヴァイオリニスト ** [[オスカー・シンドラー]] - ドイツの実業家 ** [[オスカー・ストラウス]] - アメリカ合衆国の政治家 ** [[オスカー・デ・ラ・ホーヤ]] - アメリカのプロボクサー ** [[オスカー・ドミンゲス]] - スペインの画家 ** [[オスカー・ニーマイヤー]] - ブラジルの建築家 ** [[オスカー・ハマースタイン1世]] - ドイツの実業家 ** [[オスカー・ハマースタイン2世]] - アメリカの作詞家(1世の孫) ** [[オスカー・ピーターソン]] - カナダのジャズピアニスト ** [[オスカー・ピストリウス]] - 南アフリカの陸上選手 ** [[オスカー・ペティフォード]] - アメリカのジャズベーシスト、チェリスト ** [[オスカー・ムーア]] - アメリカのジャズギタリスト ** [[オスカー・モルゲンシュテルン]] - ドイツの経済学者 ** [[オスカー・ラフォンテーヌ]] - ドイツの政治家 ** [[オスカー・ララウリ]] - アルゼンチンのレーシングドライバー ** [[オスカー・ロバートソン]] - アメリカのバスケットボール選手 ** [[オスカー・ワイルド]] - アイルランド出身の英語で作品を書いた文学者 ** [[ジョゼ・オスカー・ベルナルディ]] - 元[[日産自動車サッカー部]]選手・監督(元[[サッカーブラジル代表]][[ディフェンダー (サッカー)|DF]]) === 架空の人名、キャラクター名 === * [[オスカー (アイルランド神話)]]- 伝説の人物、[[オシーン]]の息子、[[フィン・マックール]]の孫。 * オスカー・シュタウフェンベルク - 小説『[[ハーモニー (小説)|ハーモニー]]』のキャラクター。 * [[オスカー (セサミストリート)]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の教育番組『[[セサミストリート]]』に登場する[[マペット]]。ゴミ缶に住み、皮肉や悪態を吐く。 * [[オスカー・フォン・ロイエンタール]] - 小説『[[銀河英雄伝説]]』のキャラクター。 * 炎の守護聖オスカー - 恋愛シミュレーションゲーム『[[アンジェリーク]]』のキャラクター。 * オスカー警部補 - テレビアニメ『[[LUPIN the Third -峰不二子という女-]]』のキャラクター。 * オスカー・ベイラート - ゲーム『[[戦場のヴァルキュリア]]』のキャラクター。 * オスカー・ベールマー - ゲーム『ソフィーのアトリエ』のキャラクター。 * オスカー・ドラゴニア - ゲーム『[[テイルズ オブ ベルセリア]]』のキャラクター。 == 動物 == * [[オスカー (軍艦猫)]](別名:サム([[不沈のサム]]) - [[ビスマルク (戦艦)]]・[[コサック (駆逐艦・2代)]]・[[アーク・ロイヤル (空母・初代)]]に乗り込み、乗艦がことごとく撃沈されつつも奇跡的に生還した猫。 * [[オスカー (セラピー猫)]] - アメリカ・ロードアイランド州のホスピスで患者の死を予知する猫。 * [[オスカー (義足猫)]] - イギリス・チャネル諸島で両後脚を失い、新開発の「バイオニック義肢」を与えられた猫。 == その他 == * [[平成7年台風第12号]](国際名:オスカー) == 関連項目 == * [[オスカル]] {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:おすかあ}} [[Category:英語の男性名]] [[Category:ドイツ語の男性名]] [[Category:スペイン語の男性名]] [[Category:ポルトガル語の男性名]] [[Category:台風の英名]]
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選択公理
選択公理(せんたくこうり、英: axiom of choice、選出公理ともいう)とは公理的集合論における公理のひとつで、どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができるというものである。1904年にエルンスト・ツェルメロによって初めて正確な形で述べられた。 空集合を要素に持たない任意の集合族に対して、各要素(それ自体が集合である)から一つずつその要素を選び、新しい集合を作ることができる。あるいは同じことであるが、空でない集合の空でない任意の族 A {\displaystyle {\mathcal {A}}} に対して写像 f : A → ⋃ A := ⋃ A ∈ A A {\displaystyle f\colon {\mathcal {A}}\to \textstyle {\bigcup }{\mathcal {A}}:=\textstyle {\bigcup _{A\in {\mathcal {A}}}}A} であって任意の x ∈ A {\displaystyle x\in {\mathcal {A}}} に対し f ( x ) ∈ x {\displaystyle f(x)\in x} なるものが存在する、と写像を用いて言い換えることが出来る(ここで存在が要求される写像 f を選択関数(英語版)という)。これは次の命題と同値である。 以下の命題は全て選択公理と同値である。つまり、以下の命題のいずれかを仮定すると選択公理を証明することができるし、逆に選択公理を仮定すると以下の命題が全て証明できる。 選択公理、もしくはそれと同値な命題を適用することで、以下を示すことができる。 集合論の創始者ゲオルク・カントールは、選択公理を自明なものとみなしていた。 実際、有限個の集合からなる集合族であれば、そのそれぞれの集合の中から順に1つずつ元を選び出し、それらを併せて集合とすればよいのであるから、このような操作ができることは自明である。 しかし、ツェルメロによる整列可能定理の証明に反論する過程で、エミーユ・ボレル、ルネ=ルイ・ベール、アンリ・ルベーグ、バートランド・ラッセルなどが選択公理の存在に気付き、新たな公理であることが認識されるようになった。確かに、無限個の集合からなる集合族の場合、上のような操作を想定しても「順に選び出す」操作は有限回で終了することはないのだから、このような操作を行えるかどうかは必ずしも明らかではない。 選択公理は、それ自身もまたその否定もほかの公理からは証明できないものであること、すなわち独立であることが示された(クルト・ゲーデル、ポール・コーエン)が、これは公理的集合論における大きな成果であろう。なお、ZF(ツェルメロ=フレンケルの公理系)に一般連続体仮説を加えると選択公理を証明できる。従って、一般連続体仮説と選択公理は何れもZFとは独立だが、前者の方がより強い主張であると言える。ZFに選択公理を加えた公理系をZFCと呼ぶ。 選択公理を仮定することによって導かれる、一見、奇怪で非直観的な結果の中でも、バナッハ=タルスキーのパラドックスは有名なもので、「有限個の部分に分割し、それらを回転・平行移動操作のみを使ってうまく組み替えることで、元の球と同じ半径の球を2つ作ることができる」と、初歩的な概念のみで表現することができる。ただ、ここでの「有限個の分割」は、通常イメージされる単純な分割(包丁でいくつかのパーツに切り分けるようなもの)ではなく、非常に特殊な分割であるため、「"奇怪な分割"をした結果、奇怪な結果(2つに増える)が生じた」にすぎないという側面もある。 なお、ステファン・バナフ(バナッハ)とタルスキは論文の冒頭で、「証明のなかに、この公理(選択公理)が果たす役割は、注目するに値する」と述べているだけであり、バナッハ=タルスキーのパラドックスによって選択公理が正しくないと明確に主張したわけではない。 選択公理とは矛盾するが、ZFCから選択公理を除いたZFとは矛盾しないような命題は数多く発見されている。たとえばロバート・ソロヴェイ(英語版)は強制法を用いて実数の集合が全てルベーグ可測であるようなZFのモデル(ソロヴェイモデル)を構成した。 1964年にヤン・ミシェルスキ(英語版)が導入した決定性公理もその一つである。これはその後、無矛盾性証明のために頻繁に用いられている。ZFに決定性公理を付け加えた公理系の無矛盾性と、ZFに選択公理と巨大基数の一種であるウッディン基数(英語版)の存在を公理として付け加えた公理系の無矛盾性が同値となるというウッディンの定理は、互いに矛盾する公理を関係づける非常に重要なものである。 選択公理には様々な変種が存在する。 選択公理よりも弱い公理として、可算選択公理(英: countable axiom of choice,denumerable axiom of choice)というものも考えられている。全ての集合は可算集合を含むこと、可算集合の可算和が可算集合であることは、この公理により証明できる。 カントール、ラッセル、ボレル、ルベーグなどは、無意識のうちに可算選択公理を使ってしまっている。 集合族の要素を特定の有限集合に制限した公理も研究されている。即ち、 ACn : n元集合からなる任意の集合族は選択関数を持つ。 という形の公理である。 この種の公理について以下のようなことが知られている(すべてZF公理系を仮定)。 AC2 ⇒ {\displaystyle \Rightarrow } AC4を示すには、4元集合からなる集合族 F {\displaystyle F} に選択関数が存在することを示せば良い。まず { { a , b } : a , b ∈ ⋃ F , a ≠ b } {\displaystyle \{\{a,b\}:a,b\in \bigcup F,a\neq b\}} に AC2 を適用して、選択関数 g {\displaystyle g} を得る。次に g {\displaystyle g} を使って F {\displaystyle F} の各元 A {\displaystyle {\rm {A}}} から元をひとつ取りだすことを考える。集合 B {\displaystyle {\rm {B}}} を { { a , b } : a , b ∈ A , a ≠ b } {\displaystyle \{\{a,b\}:a,b\in {\rm {A}},a\neq b\}} とおくと、 B {\displaystyle {\rm {B}}} は 4 C 2 = {\displaystyle _{4}C_{2}=} 6元集合となる。 A {\displaystyle {\rm {A}}} の元 a {\displaystyle a} に対し、 q ( a ) = | { b ∈ B : g ( b ) = a } | {\displaystyle q(a)=|\{b\in B:g(b)=a\}|} という関数を定め、 q ( a ) {\displaystyle q(a)} の最小値を m {\displaystyle m} とおく。集合 M {\displaystyle {\rm {M}}} を { a ∈ A : q ( a ) = m } {\displaystyle \{a\in {\rm {A}}:q(a)=m\}} とおくと、 A {\displaystyle {\rm {A}}} は4元集合なので M {\displaystyle {\rm {M}}} の濃度は 1 , 2 , 3 , 4 {\displaystyle 1,2,3,4} のいずれかであるが、 | M | = 4 {\displaystyle |{\rm {M|=4}}} と仮定すると、 4 q ( a ) = ∑ a ∈ A q ( a ) = | B | = 6 {\displaystyle 4q(a)=\sum _{a\in {\rm {A}}}q(a)=|{\rm {B|=6}}} となり矛盾する。 | M | = 1 {\displaystyle |{\rm {M|=1}}} である場合は、 M {\displaystyle {\rm {M}}} の元を選択関数 f ( A ) {\displaystyle f({\rm {A}})} の値とすればよい。 | M | = 2 {\displaystyle |M|=2} の場合は、 f ( A ) = g ( M ) {\displaystyle f({\rm {A}})=g({\rm {M}})} とする。最後に | M | = 3 {\displaystyle |M|=3} である場合は、 A ∖ M {\displaystyle {\rm {A}}\setminus {\rm {M}}} の元を f ( A ) {\displaystyle f({\rm {A}})} の値とすればよい。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "選択公理(せんたくこうり、英: axiom of choice、選出公理ともいう)とは公理的集合論における公理のひとつで、どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができるというものである。1904年にエルンスト・ツェルメロによって初めて正確な形で述べられた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "空集合を要素に持たない任意の集合族に対して、各要素(それ自体が集合である)から一つずつその要素を選び、新しい集合を作ることができる。あるいは同じことであるが、空でない集合の空でない任意の族 A {\\displaystyle {\\mathcal {A}}} に対して写像 f : A → ⋃ A := ⋃ A ∈ A A {\\displaystyle f\\colon {\\mathcal {A}}\\to \\textstyle {\\bigcup }{\\mathcal {A}}:=\\textstyle {\\bigcup _{A\\in {\\mathcal {A}}}}A} であって任意の x ∈ A {\\displaystyle x\\in {\\mathcal {A}}} に対し f ( x ) ∈ x {\\displaystyle f(x)\\in x} なるものが存在する、と写像を用いて言い換えることが出来る(ここで存在が要求される写像 f を選択関数(英語版)という)。これは次の命題と同値である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "以下の命題は全て選択公理と同値である。つまり、以下の命題のいずれかを仮定すると選択公理を証明することができるし、逆に選択公理を仮定すると以下の命題が全て証明できる。", "title": "選択公理と等価な命題" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": 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"選択公理を仮定することによって導かれる、一見、奇怪で非直観的な結果の中でも、バナッハ=タルスキーのパラドックスは有名なもので、「有限個の部分に分割し、それらを回転・平行移動操作のみを使ってうまく組み替えることで、元の球と同じ半径の球を2つ作ることができる」と、初歩的な概念のみで表現することができる。ただ、ここでの「有限個の分割」は、通常イメージされる単純な分割(包丁でいくつかのパーツに切り分けるようなもの)ではなく、非常に特殊な分割であるため、「\"奇怪な分割\"をした結果、奇怪な結果(2つに増える)が生じた」にすぎないという側面もある。", "title": "バナッハ=タルスキーのパラドックスと選択公理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、ステファン・バナフ(バナッハ)とタルスキは論文の冒頭で、「証明のなかに、この公理(選択公理)が果たす役割は、注目するに値する」と述べているだけであり、バナッハ=タルスキーのパラドックスによって選択公理が正しくないと明確に主張したわけではない。", "title": "バナッハ=タルスキーのパラドックスと選択公理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "選択公理とは矛盾するが、ZFCから選択公理を除いたZFとは矛盾しないような命題は数多く発見されている。たとえばロバート・ソロヴェイ(英語版)は強制法を用いて実数の集合が全てルベーグ可測であるようなZFのモデル(ソロヴェイモデル)を構成した。", "title": "代わりとなる公理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1964年にヤン・ミシェルスキ(英語版)が導入した決定性公理もその一つである。これはその後、無矛盾性証明のために頻繁に用いられている。ZFに決定性公理を付け加えた公理系の無矛盾性と、ZFに選択公理と巨大基数の一種であるウッディン基数(英語版)の存在を公理として付け加えた公理系の無矛盾性が同値となるというウッディンの定理は、互いに矛盾する公理を関係づける非常に重要なものである。", "title": "代わりとなる公理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", 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に AC2 を適用して、選択関数 g {\\displaystyle g} を得る。次に g {\\displaystyle g} を使って F {\\displaystyle F} の各元 A {\\displaystyle {\\rm {A}}} から元をひとつ取りだすことを考える。集合 B {\\displaystyle {\\rm {B}}} を { { a , b } : a , b ∈ A , a ≠ b } {\\displaystyle \\{\\{a,b\\}:a,b\\in {\\rm {A}},a\\neq b\\}} とおくと、 B {\\displaystyle {\\rm {B}}} は 4 C 2 = {\\displaystyle _{4}C_{2}=} 6元集合となる。 A {\\displaystyle {\\rm {A}}} の元 a {\\displaystyle a} に対し、 q ( a ) = | { b ∈ B : g ( b ) = a } | {\\displaystyle q(a)=|\\{b\\in B:g(b)=a\\}|} という関数を定め、 q ( a ) {\\displaystyle q(a)} の最小値を m {\\displaystyle m} とおく。集合 M {\\displaystyle {\\rm {M}}} を { a ∈ A : q ( a ) = m } {\\displaystyle \\{a\\in {\\rm {A}}:q(a)=m\\}} とおくと、 A {\\displaystyle {\\rm {A}}} は4元集合なので M {\\displaystyle {\\rm {M}}} の濃度は 1 , 2 , 3 , 4 {\\displaystyle 1,2,3,4} のいずれかであるが、 | M | = 4 {\\displaystyle |{\\rm {M|=4}}} と仮定すると、 4 q ( a ) = ∑ a ∈ A q ( a ) = | B | = 6 {\\displaystyle 4q(a)=\\sum _{a\\in {\\rm {A}}}q(a)=|{\\rm {B|=6}}} となり矛盾する。 | M | = 1 {\\displaystyle |{\\rm {M|=1}}} である場合は、 M {\\displaystyle {\\rm {M}}} の元を選択関数 f ( A ) {\\displaystyle f({\\rm {A}})} の値とすればよい。 | M | = 2 {\\displaystyle |M|=2} の場合は、 f ( A ) = g ( M ) {\\displaystyle f({\\rm {A}})=g({\\rm {M}})} とする。最後に | M | = 3 {\\displaystyle |M|=3} である場合は、 A ∖ M {\\displaystyle {\\rm {A}}\\setminus {\\rm {M}}} の元を f ( A ) {\\displaystyle f({\\rm {A}})} の値とすればよい。", "title": "選択公理の変種" } ]
選択公理とは公理的集合論における公理のひとつで、どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができるというものである。1904年にエルンスト・ツェルメロによって初めて正確な形で述べられた。
'''選択公理'''(せんたくこうり、{{Lang-en-short|axiom of choice}}、'''選出公理'''ともいう)とは[[公理的集合論]]における[[公理]]のひとつで、どれも空でないような[[集合]]を[[元 (数学)|元]]とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができるというものである。[[1904年]]に[[エルンスト・ツェルメロ]]によって初めて正確な形で述べられた<ref>[[エルンスト・ツェルメロ|Zermelo, Ernst]] (1904). "Beweis, dass jede Menge wohlgeordnet werden kann". Mathematische Annalen 59: 514-16.</ref>。 == 定義 == [[空集合]]を要素に持たない任意の[[集合族]]に対して、各要素(それ自体が集合である)から一つずつその要素を選び、新しい集合を作ることができる。あるいは同じことであるが、空でない集合の空でない任意の族 <math>\mathcal{A}</math> に対して写像 <math>f \colon \mathcal{A} \to \textstyle{\bigcup} \mathcal{A}:=\textstyle{\bigcup_{A \in \mathcal{A}}}A</math> であって任意の <math>x \in \mathcal{A}</math> に対し <math>f(x) \in x</math> なるものが存在する、と[[写像]]を用いて言い換えることが出来る(ここで存在が要求される写像 {{mvar|f}} を'''{{ill2|選択関数|en|Choice function}}'''という)。これは次の[[命題]]と[[同値]]である。 : {''A''<sub>''λ''</sub>}<sub>''λ''∈''Λ''</sub> をどれも空集合でないような集合の族とすると、それらの[[直積集合|直積]]<!-- :: <math>\prod_{\lambda \in \Lambda} A_\lambda</math> :-->も空集合ではない。記号で書けば、 :<math>\left(\forall \lambda \in \Lambda \right)\left[A_{\lambda} \neq \emptyset \right] \implies \textstyle\prod_{\lambda \in \Lambda} A_\lambda \neq \emptyset.</math> == 選択公理と等価な命題 == 以下の命題は全て選択公理と同値である。つまり、以下の命題のいずれかを仮定すると選択公理を[[証明 (数学)|証明]]することができるし、逆に選択公理を仮定すると以下の命題が全て証明できる。 ; [[整列可能定理]]:任意の集合は整列可能である。 ; [[ツォルンの補題]]:[[順序集合]]において、任意の[[全順序]][[部分集合]]が[[有界]]ならば、[[極大元]]が存在する。(実際の数学では、この形で選択公理が使われることも多い。) ; [[テューキーの補題]]:{{仮リンク|有限性|en|Finite character}}を満たす空でない任意の集合族は[[包含関係]]に関する極大元を持つ。 ; [[比較可能定理]]:任意の集合の[[濃度 (数学)|濃度]]は比較可能である。 ; [[直積定理]]:[[無限]]個の空集合でない集合の直積は空集合ではない。 ;右逆写像の存在:[[全射]]は[[逆写像|右逆写像]]を有する。 ; [[ケーニヒの定理 (集合論)|ケーニッヒ(Julius König)の定理]]:濃度の小さい集合の[[直和]]より、濃度の大きい集合の直積のほうが濃度が大きい。 ;ベクトル空間における基底の存在: 全ての[[ベクトル空間]]は[[基底 (線型代数学)|基底]]を持つ(1984年に[[:en:Andreas Blass]]によって選択公理と同値であることが証明された。ただし、[[正則性公理]]が必要になる)。 ; [[チコノフの定理]]:[[コンパクト空間]]の任意個の積空間はコンパクトになる。 ; [[クルルの定理]]:単位元をもつ環は[[極大イデアル]]を持つ。 == 応用 == 選択公理、もしくはそれと同値な命題を適用することで、以下を示すことができる。 * [[ハーン–バナッハの定理]]<!-- * ベクトル空間の基底の存在--> * [[ハウスドルフのパラドックス]] * [[バナッハ=タルスキーのパラドックス|バナッハ=タルスキーの定理]] * 可算集合の可算個の和は可算である * 任意の無限集合は可算集合を含む * [[ルベーグ測度|ルベーグ非可測集合]]の存在 * 任意の[[フィルター (数学)|フィルター]]は極大フィルターに拡大できる * 全ての体には代数的閉包が存在する。 == 歴史 == 集合論の創始者[[ゲオルク・カントール]]は、選択公理を自明なものとみなしてい<!--、整列可能定理を証明し-->た。 実際、有限個の集合からなる集合族であれば、そのそれぞれの集合の中から順に1つずつ元を選び出し、それらを併せて集合とすればよいのであるから、このような操作ができることは自明である。 しかし、[[エルンスト・ツェルメロ|ツェルメロ]]による整列可能定理の証明に反論する過程で、[[エミーユ・ボレル]]、[[ルネ=ルイ・ベール]]、[[アンリ・ルベーグ]]、[[バートランド・ラッセル]]などが選択公理の存在に気付き、新たな公理であることが認識されるようになった。確かに、無限個の集合からなる集合族の場合、上のような操作を想定しても「順に選び出す」操作は有限回で終了することはないのだから、このような操作を行えるかどうかは必ずしも明らかではない。 選択公理は、それ自身もまたその否定もほかの公理からは証明できないものであること、すなわち独立であることが示された([[クルト・ゲーデル]]、[[ポール・コーエン (数学者)|ポール・コーエン]])が、これは公理的集合論における大きな成果であろう。なお、[[ツェルメロ=フレンケル集合論|ZF(ツェルメロ=フレンケルの公理系)]]に[[一般連続体仮説]]を加えると選択公理を証明できる<ref group="注釈">[[1926年]]に{{仮リンク|アドルフ・リンデンバウム|en|Adolf Lindenbaum}}と[[アルフレト・タルスキ]]が示したが、証明は散逸した。同内容を[[1943年]]に[[ヴァツワフ・シェルピニスキ]]が再発見し[[1947年]]に出版した。</ref>。従って、一般連続体仮説と選択公理は何れもZFとは独立だが、前者の方がより強い主張であると言える。ZFに選択公理を加えた公理系をZFCと呼ぶ。 == バナッハ=タルスキーのパラドックスと選択公理 == 選択公理を仮定することによって導かれる、一見、奇怪で非直観的な結果の中でも、[[バナッハ=タルスキーのパラドックス]]は有名なもので、「有限個の部分に分割し、それらを回転・平行移動操作のみを使ってうまく組み替えることで、元の球と同じ半径の球を2つ作ることができる」と、初歩的な概念のみで表現することができる。ただ、ここでの「有限個の分割」は、通常イメージされる単純な分割(包丁でいくつかのパーツに切り分けるようなもの)ではなく、非常に特殊な分割であるため、「"奇怪な分割"をした結果、奇怪な結果(2つに増える)が生じた」にすぎないという側面もある。 なお、[[ステファン・バナフ|ステファン・バナフ(バナッハ)]]と[[アルフレト・タルスキ|タルスキ]]は論文の冒頭で、「証明のなかに、この公理(選択公理)が果たす役割は、注目するに値する」と述べているだけであり、バナッハ=タルスキーのパラドックスによって選択公理が正しくないと明確に主張したわけではない。 == 代わりとなる公理 == 選択公理とは矛盾するが、ZFCから選択公理を除いたZFとは矛盾しないような命題は数多く発見されている。たとえば{{仮リンク|ロバート・ソロヴェイ|en|Robert M. Solovay}}は[[強制法]]を用いて実数の集合が全て[[ルベーグ測度|ルベーグ可測]]であるようなZFのモデル([[ソロヴェイモデル]])を構成した。 [[1964年]]に{{仮リンク|ヤン・ミシェルスキ|en|Jan Mycielski}}が導入した[[決定性公理]]もその一つである。これはその後、無矛盾性証明のために頻繁に用いられている。ZFに決定性公理を付け加えた公理系の無矛盾性と、ZFに選択公理と[[巨大基数]]の一種である{{仮リンク|ウッディン基数|en|Woodin cardinal}}の存在を公理として付け加えた公理系の無矛盾性が同値となるという[[ヒュー・ウッディン|ウッディン]]の定理は、互いに矛盾する公理を関係づける非常に重要なものである。 == 選択公理の変種 == 選択公理には様々な変種が存在する。 === 可算選択公理 === {{Main|可算選択公理}} 選択公理よりも弱い公理として、可算選択公理({{Lang-en-short|countable axiom of choice,denumerable axiom of choice}})というものも考えられている<ref name="Tanaka1987.p.36">[[#田中1987|田中(1987)]]、36頁。</ref>。全ての集合は可算集合を含むこと、可算集合の可算和が可算集合であることは、この公理により証明できる。 [[ゲオルク・カントール|カントール]]、[[バートランド・ラッセル|ラッセル]]、[[エミーユ・ボレル|ボレル]]、[[アンリ・ルベーグ|ルベーグ]]などは、無意識のうちに可算選択公理を使ってしまっている。 === 従属選択公理 === {{Main|従属選択公理}} === 有限集合の族に対する選択公理 === 集合族の要素を特定の有限集合に制限した公理も研究されている<ref>Jech, Thomas J. (2008-07-24), The Axiom of Choice, Dover Books on Mathematics (Paperback ed.), United States: Dover Publications Inc., ISBN 978-0-486-46624-8</ref>。即ち、     '''AC<sub>n</sub> : n元集合からなる任意の集合族は選択関数を持つ。''' という形の公理である。 この種の公理について以下のようなことが知られている(すべてZF公理系を仮定)。 *AC<sub>2</sub> <math>\Rightarrow</math> AC<sub>4</sub> *<math>n \neq 1,2,4</math> ならば AC<sub>2</sub> <math>\nRightarrow</math> AC<sub>n</sub> *各 <math>n \in N</math> について AC<sub>n</sub> が成り立つ仮定の下でも、「有限集合からなる任意の集合族は選択関数を持つ」(Axiom of choice for finite sets)を証明できない。 *ZFでは AC<sub>2</sub> を証明できない。 AC<sub>2</sub> <math>\Rightarrow</math> AC<sub>4</sub>を示すには、4元集合からなる集合族 <math>F</math> に選択関数が存在することを示せば良い。まず <math> \{\{a,b\}:a,b \in \bigcup F , a\neq b\}</math> に AC<sub>2</sub> を適用して、選択関数 <math>g</math> を得る。次に <math>g</math> を使って <math>F</math> の各元 <math>\rm A</math> から元をひとつ取りだすことを考える。集合 <math>{\rm B}</math> を <math> \{\{a,b\}:a,b \in {\rm A} , a\neq b \}</math> とおくと、<math>{\rm B}</math> は <math>_4C_2=</math>6元集合となる。<math>\rm A</math> の元 <math>a</math> に対し、<math>q(a) = |\{b \in B : g(b) = a \}|</math> という関数を定め、<math>q(a)</math> の最小値を <math>m</math> とおく。集合 <math>{\rm M}</math> を <math>\{a \in {\rm A} : q(a) = m\}</math> とおくと、<math>{\rm A}</math> は4元集合なので <math>{\rm M}</math> の濃度は <math> 1, 2, 3, 4 </math> のいずれかであるが、<math>|\rm M|=4</math>と仮定すると、<math>4q(a)=\sum_{a\in \rm A}q(a)=|\rm B|=6</math>となり矛盾する。<math>|\rm M| = 1</math> である場合は、<math>{\rm M}</math> の元を選択関数 <math>f({\rm A})</math> の値とすればよい。<math>|M| = 2</math> の場合は、<math>f({\rm A}) = g({\rm M})</math> とする。最後に <math>|M| = 3</math> である場合は、<math>{\rm A} \setminus {\rm M}</math> の元を <math>f({\rm A})</math> の値とすればよい。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=田中尚夫|authorlink=田中尚夫|year=1987|month=5|title=選択公理と数学――発生と論争、そして確立への道|publisher=遊星社(出版) 星雲社(発売)|isbn=4-7952-6857-6|ref=田中1987}} **{{Cite book|和書|author=田中尚夫|authorlink=田中尚夫|year=1999|month=9|title=選択公理と数学――発生と論争、そして確立への道|edition=増補版|publisher=遊星社(出版) 星雲社(発売)|isbn=4-7952-6890-8|ref=田中1999}} **{{Cite book|和書|author=田中尚夫|authorlink=田中尚夫|year=2005|month=10|title=選択公理と数学――発生と論争、そして確立への道|edition=増訂版|publisher=遊星社(出版) 星雲社(発売)|isbn=4-434-06805-9|ref=田中2005}} *{{Cite book|和書|editor=日本数学会|editor-link=日本数学会|date=2007-03-15|title=岩波数学辞典|edition=第4版|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4-00-080309-0|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/08/3/0803090.html|ref=日本数学会2007}} *{{Cite book|和書|author1=ケネス・キューネン|authorlink1=ケネス・キューネン|author2=藤田博司|year=2008|month=1|title=集合論―独立性証明への案内|publisher=日本評論社|isbn=978-4535783829|ref=Kunen}} * {{cite book | author = Lynn Arthur Steen, J. Arthur Seebach Jr. | year = 1995 | title = Counterexamples in Topology (Dover Books on Mathematics) | edition = New | publisher = Dover Publications | isbn = 978-0486687353 }} == 関連文献 == *{{Citation|last=Bell|first=John L.|author-link=ジョン・L・ベル|date=2009-11-23|title=The Axiom of Choice|publisher=College Publications|location=United Kingdom|edition=Paperback|series=Studies in Logic Series|isbn=978-1-904987-54-3}} *{{Citation|last=Jech|first=Thomas J.|author-link=トマーシュ・イェフ|date=2008-07-24|title=The Axiom of Choice|publisher=Dover Publications Inc.|location=United States|edition=Paperback|series=Dover Books on Mathematics|isbn=978-0-486-46624-8}} *{{Citation|last=Moore|first=Gregory H.|author-link=グレゴリー・H・ムーア|date=2013-03-21|title=Zermelo's Axiom of Choice: Its Origins, Development, and Influence|publisher=Dover Publications Inc.|location=United States|edition=Paperback|series=Dover Books on Mathematics|isbn=978-0-486-48841-7}} == 関連項目 == *[[決定性公理]] *[[公理的集合論]] *[[整列可能定理]] *[[ツォルンの補題]] *[[ブール論理]] *[[バナッハ=タルスキーのパラドックス]] == 外部リンク == *{{MathWorld|title=Axiom of Choice|urlname=AxiomofChoice}} {{SEP|axiom-choice|The Axiom of Choice}} *[http://alg-d.com/math/ac/ 選択公理] 特に選択公理と同値な命題とその証明について詳しい {{DEFAULTSORT:せんたくこうり}} {{集合論}} {{Normdaten}} [[Category:選択公理|*]] [[Category:集合論の公理]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-05-21T12:55:36Z
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竹野町
竹野町(たけのちょう)は、かつて兵庫県の北部にあった町。旧城崎郡。本項では町制前の名称である竹野村(たけのむら)についても述べる。 2005年4月1日、豊岡市および城崎郡城崎町・日高町、出石郡出石町・但東町と合併し、新たに豊岡市となったため消滅した。 日本海に面する。 現在はいずれも豊岡市立となっている。
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竹野町(たけのちょう)は、かつて兵庫県の北部にあった町。旧城崎郡。本項では町制前の名称である竹野村(たけのむら)についても述べる。 2005年4月1日、豊岡市および城崎郡城崎町・日高町、出石郡出石町・但東町と合併し、新たに豊岡市となったため消滅した。
{{日本の町村 (廃止) | 画像 = ファイル:TakenoBeach_Hyogo_prefecture.jpg | 画像の説明 = [[竹野浜]] | 旗 = [[ファイル:Flag_of_Takeno_Hyogo.JPG|100px|border|竹野町旗]] | 旗の説明 = 竹野[[市町村旗|町旗]] | 紋章 = [[ファイル:Takeno_Hyogo_chapter.JPG|70px|竹野町章]] | 紋章の説明 = 竹野[[市町村章|町章]] | 廃止日 = 2005年4月1日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''竹野町'''、[[豊岡市]]、[[出石町]]、[[但東町]]、[[日高町 (兵庫県)|日高町]]、[[城崎町]]→[[豊岡市]] | 現在の自治体 = [[豊岡市]] | よみがな = たけのちょう | 自治体名 = 竹野町 | 区分 = 町 | 都道府県 = 兵庫県 | 郡 = [[城崎郡]] | コード = 28542-1 | 面積 = 102.79 | 境界未定 = なし | 人口 = 5573 | 人口の出典 = [[推計人口]] | 人口の時点 = 2005年3月1日 | 隣接自治体 = [[豊岡市]]、[[城崎町]]、[[日高町 (兵庫県)|日高町]]、[[村岡町]]、[[香住町]] | 木 = [[マツ|クロマツ]] | 花 = [[ツバキ]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 669-6201 | 所在地 = 城崎郡竹野町竹野1585-1<br />(現在は豊岡市竹野支所となっている。)<br />{{Maplink2|zoom=12|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=160|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=35.655|frame-longitude=134.76|text=旧竹野町役場庁舎位置(現・豊岡市竹野支所)}}<br />[[ファイル:Takeno-branch Toyooka City Hall.jpg|260px|竹野町役場]] | InternetArchive = www.town.takeno.hyogo.jp |座標 = {{Coord|format=dms|type:city(5573)_region:JP-28|display=inline,title}} | 位置画像 = [[ファイル:Hyogo Takeno-town.png|right|兵庫県竹野町 位置図]] | 特記事項 = }} '''竹野町'''(たけのちょう)は、かつて[[兵庫県]]の北部にあった[[町]]。旧[[城崎郡]]。本項では町制前の名称である'''竹野村'''(たけのむら)についても述べる。 [[2005年]][[4月1日]]、豊岡市および城崎郡[[城崎町]]・[[日高町 (兵庫県)|日高町]]、[[出石郡]][[出石町]]・[[但東町]]と合併し、新たに[[豊岡市]]となったため消滅した。 == 地理 == [[日本海]]に面する。 === 隣接市町村 === * [[豊岡市]] * [[城崎郡]]:[[香住町]]、[[城崎町]]、[[日高町 (兵庫県)|日高町]] * [[美方郡]]:[[村岡町]] == 歴史 == * [[平安時代]]の[[929年]] - [[東丹国]]使節が[[丹後国]]竹野浜に来着した。 * [[江戸時代]] - [[北前船]]の寄港地となり栄える。のち、[[蝦夷地]]などに商店を構える者が居たという。 * [[1955年]]([[昭和]]30年)[[3月3日]] - [[城崎郡]][[竹野村 (兵庫県)|竹野村]]・[[三椒村]]・[[中竹野村]]・[[奥竹野村]]が合併し、'''竹野村'''(2代)が発足。 * [[1957年]](昭和32年)4月1日 - 竹野村が町制施行して'''竹野町'''となる。 * [[2005年]]([[平成]]17年)4月1日 - 豊岡市・[[城崎町]]・[[日高町 (兵庫県)|日高町]]・[[出石郡]][[出石町]]・[[但東町]]と合併し、改めて'''[[豊岡市]]'''が発足。同日竹野町廃止。 == 経済 == === 産業 === ; 農業 : 『大日本篤農家名鑑』によれば、竹野村の篤農家は「増田久左衛門、福田八郎左衛門、宇野菊太郎、永田萬造」などである<ref>[{{NDLDC|782783/69}} 『大日本篤農家名鑑』]大日本篤農家名鑑編纂所、1910年、p132(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年5月1日閲覧。</ref>。 ; 漁業 * 田久日漁港 * 宇日漁港 * 切浜漁港 * 須井漁港 * 竹野漁港 ; 鉱業 : [[竹野鉱山]] === 企業 === * 株式会社奥城崎シーサイドホテル * 中川工務店 本店 * 北陽工業 * 増田商店 * 安田商店 * 竹野石油 * 花房商店 * トヨダ竹野店 * 但馬中高年者厚生事業団 * 北前館 * 竹野産業 * 米田電気商会 * ヤマヨしょうゆ木瀬商店、木瀬醤油醸造場 == 地域 == === 教育 === 現在はいずれも豊岡市立となっている。 * 竹野町立竹野小学校 * 竹野町立竹野中学校 * 竹野町立中竹野小学校(現在は閉校) * 竹野町立竹野南小学校(現在は閉校) * 竹野町立森本中学校(現在は閉校) === 竹野町の地区・地域 === * 濱須井 * 奥須井 * 田久日 * 宇日 * 竹野 * 切濱 * 草飼 * 和田 * 松本 * 羽入 * 阿金谷 * 須谷 * 鬼神谷 * 芦谷 * 小丸 * 金原 * 東大谷 * 下塚 * 轟 * 林 * 坊岡 * 門谷 * 河内 * 御又 * 森本 * 須野谷 * 桑野本 * 大森 * 小城 * 二連原 * 川南谷 * 三原 * 椒 * 段 == 交通 == === 鉄道 === * [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) ** [[山陰本線]] - [[竹野駅]] *: [[1985年]]から[[1996年]]までの夏季には、竹野駅・佐津駅間に[[海水浴]]客のための[[臨時駅]]として[[きりはまビーチ駅]]が設置されていた。 === 道路 === * [[国道178号]] * 県道 ** [[兵庫県道1号日高竹野線]] ** [[兵庫県道9号豊岡竹野線]] ** [[兵庫県道・京都府道11号香美久美浜線|兵庫県道11号香美久美浜線]] ** [[兵庫県道135号村岡竹野線]] ** [[兵庫県道712号床瀬神鍋高原線]] == 名所・旧跡・観光 == * [[竹野浜]] ** [[北前館]] * [[猫崎]](賀島半島) * [[竹野温泉]] * [[桑野本の大イチョウ]] * [[ヨゴレババ古墳群]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[兵庫県の廃止市町村一覧]] == 外部リンク == * {{WAP|pid=245715|url=www.town.takeno.hyogo.jp/index.html|title=竹野町|date=2005/03/27}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たけのちよう}} [[Category:城崎郡]] [[Category:豊岡市域の廃止市町村]] [[Category:北前船]] [[Category:1955年設置の日本の市町村]] [[Category:2005年廃止の日本の市町村]]
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青葉区(あおばく) 青葉区 (仙台市) - 仙台市にある行政区。 青葉区 (横浜市) - 横浜市にある行政区。 日本占領時期の香港島の跑馬地の名称。 ペルソナ2に登場する舞台の一つ。ペルソナ2#舞台を参照。
'''青葉区'''(あおばく) * [[青葉区 (仙台市)]] - 仙台市にある行政区。 * [[青葉区 (横浜市)]] - 横浜市にある行政区。 * 日本占領時期の香港島の[[跑馬地]]の名称。 * ペルソナ2に登場する舞台の一つ。[[ペルソナ2#舞台]]を参照。 == 関連項目 == *[[青葉町 (曖昧さ回避)]] {{地名の曖昧さ回避}} {{デフォルトソート:あおはく}} [[Category:日本の地名]]
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原動機付自転車
原動機付自転車(げんどうきつきじてんしゃ)とは、日本の法律上の車両区分の一つで、道路交通法では総排気量50cc以下(電動機の場合は定格出力0.6kW以下)の原動機を備えた二輪車、道路運送車両法では125cc以下(電動機の場合は定格出力1.0kW以下)の原動機を備えた側車のない二輪車(小型自動二輪車)を指す。 なお、法規上の条件を満たせば三輪や四輪のものもこの区分に該当する場合がある。略称は原付(げんつき)。250cc以下の軽二輪と共にミニバイクと呼ばれる場合もある。 オートバイの一種であり、排気量が規定の範囲内(50cc以下や125cc以下)のものを指している。 道路交通法では総排気量が50cc以下または電動機が定格出力が0.6kW以下のものを指す。一方、道路運送車両法では125cc以下のものを原動機付自転車と区分しており、このなかで第一種原付(総排気量50cc以下または定格出力0.6kW)と第二種原付(総排気量50ccをこえ125cc以下または電動機の定格出力が0.6kWをこえ1.0kW以下)に区分されている。2輪の50cc以下であればすべて原動機付自転車扱いとなる。(最高出力が規定より大きいものは原付ではなくなり、自動二輪車に分類される)→#法律上の定義 「原動機付自転車」は基本的に総排気量または最高出力にもとづいた法律上の区分である。車輪の数は二輪タイプだけでなく三輪タイプもあり、ガソリンエンジンで動くものも電動モータで動くものもある。また、外見(デザイン)もさまざまなタイプがある。 もともと自転車の前輪の上に小さな(短い水筒ほどの大きさの)エンジンを付けただけのものだったが、やがてエンジンが座席下に配置されるようになった。 U字フレームで独特のデザインでトランスミッション付きのホンダ・カブもある。「フルオートバイタイプ」「スクータータイプ」と分類されることもあり、「フルオートバイタイプ」ではヤマハ・RZ50、ホンダ・NS-1などがある。1980年代から「スクータータイプ」のなかでも樹脂製(プラスチック製)の外装でボディを覆って金属製のフレームを見えなくしてデザインをスッキリさせたタイプの販売割合が圧倒的に大きくなった。三輪タイプの原動機付自転車にはホンダ・ジャイロやヤマハ・トリシティ等がある。 第一種原動機付自転車を運転するには、原動機付自転車の免許(いわゆる「原付免許」)が必要である。オートバイの免許制度は幾度にもおよぶ改正を繰り返してきたが、2005年の法改正の後は、第二種原動機付自転車(つまり50cc超125cc以下)を運転するためには「小型限定普通二輪免許」を取得することが必要になった。原付免許・小型限定普通二輪免許のいずれでも、二輪タイプでも三輪タイプでも運転でき、またガソリンエンジンも電動モータも運転できる。 →#法規制と免許 原動機付自転車を運転する場合自動車損害賠償責任保険に加入することが法令により義務付けられており、違反すると処罰される強制保険である。→#保険 125cc以下の原動機付自転車は市区町村へ届け出がなされ、軽自動車税が課せられる。→#税区分 2012年時点の統計で、オートバイ全体の年間販売総数(約38万台)のおよそ6割が原動機付自転車である(第一種原動機付自転車が約12万台、そこに第二種原動機付自転車を加えると総計約24万台に上る)。 「原動機付自転車」は略称で一般に「原付(げんつき)」と呼ばれる。また、車両区分、免許の略称としても「原付」である。250cc以下のオートバイは「ミニバイク」と呼ばれることが多く、他にもいくつか略称がある。→#略称に関する雑学 四輪以上は後述。 2023年(令和5年)7月1日以降は、道路交通法上の原動機付自転車の一区分としての「特定小型原動機付自転車」(特定原付)が新たな基準及び規制により法令改正・施行されている。これにより、特定原付に該当しない原動機付自転車は、「一般原動機付自転車」(一般原付)と法令上呼称されることとなった。それぞれの基準、交通規制および適用法令は異なるため、詳細は同項目を参照のこと。 なお本項目では以降、簡便のために、特に記載しない限り、道路交通法上の「原動機付自転車」は「一般原動機付自転車」を指すものとする。 原動機付自転車の起源は、自転車の前輪の上部に、あと付けで、小型のガソリンエンジン(自転車用補助動力)を取り付けた乗り物である。当初は法規上は自転車と同じ軽車両扱いで運転免許が不要であった。 1952年(昭和27年)に14歳以上を対象とする「許可制」となり、1960年(昭和35年)の道路交通法施行に伴い、16歳以上を対象とする「免許制」となった。 このような経緯で成立した法律区分なので、現在でも自転車と同じ足漕ぎ用のペダルを取り付けたモペッドと呼ばれる原動機付自転車が販売されている。 エンジンは2サイクルエンジンが主流であったが、1998年(平成10年)9月から原動機付自転車も自動車排出ガス規制の適用を受け、さらに2007年(平成19年)9月からはこの規制が強化されると、排出ガスの対策に費用がかかる2サイクルエンジンに代わり、4サイクルエンジンに燃料噴射装置や三元触媒を搭載する車種が主流となった。 道路交通法または道路運送車両法により異なる定義で区分されている。 総排気量50cc(定格出力0.60kW)以下の二輪のもの、「内閣総理大臣が指定する」50cc (0.60kW) 以下の三輪のもの、または前2者以外で20cc (0.25kW) 以下のものを原動機付自転車とする。 イ 内閣府令で定める大きさ以下の総排気量又は定格出力を有する原動機を用いる車(ロに該当するものを除く。) なお、令和4年4月の改正で特定小型原動機付自転車の規定が設けられ、令和5年7月1日に施行された。上記イ号が一般原動機付自転車であり、ロ号は特定小型原動機付自転車である。ここでは簡便のためイ号のみ取りあげる。 道路交通法施行規則第1条の2における「内閣総理大臣が指定する三輪以上のもの」は総理府(現在の内閣府)告示により次のように定められていて、これ以外はミニカーという扱いになる。側車(サイドカー)付きは2輪の原動機付自転車と同様に扱われる。 二輪車については125cc (1.00kW) 以下のもの、それ以外の車両については50cc (0.60kW) 以下のものを原動機付自転車とする。このうち50cc (0.60kW) 以下のもの(道路交通法上の原動機付自転車に加えてミニカーも含むことに注意)を第一種原動機付自転車(通称は原付一種)、50ccを超え125cc以下のもの(道路交通法上の小型二輪車)を第二種原動機付自転車(通称は原付二種)という。 道路運送車両法の法令においても、「特定小型原動機付自転車」の保安基準が新たに設けられ、施行された。2023年(令和5年)7月1日改正施行の道路運送車両の保安基準において規定されている。 第一種原動機付自転車の運転に必要な免許と第二種原動機付自転車の運転に必要な免許は区別して扱わなければならない。また速度制限や交差点での右折の方法に関する規則も異なっている。 道路交通法上の原動機付自転車(前述)を公道上で運転するためには原動機付自転車免許(正式な略称「原付免許」)を受け、運転中はその運転免許証を携帯することが必要で、警察官から求められればその運転免許証を提示しなければならない。原付免許は16歳から取得が可能である。試験は学科試験の筆記試験のみで、技能試験は必要ないが、事前または事後に運転免許試験場、警察署、指定自動車教習所などが主催する技能講習を受けなければ、免許証は交付されない。技能講習修了済みでなければ学科試験の申し込みができない地域もある。 なお、大型免許、中型免許、準中型免許、普通免許、大型特殊免許、大型二輪免許、普通二輪免許の第一種免許を受けた人は、「それぞれ同表の下欄に掲げる種類の自動車等を運転することができる」とされており、いずれも末尾に「原動機付自転車」も含まれている。つまり大型免許、中型免許、準中型免許、普通免許、大型特殊免許、大型二輪免許、普通二輪免許のいずれかの第一種免許を受けている人は第一種原動機付自転車(つまり50cc以下の原付)を運転することができる。 道路交通法上の原動機付自転車(つまり第一種原付、50cc以下)について、他の自動車と比べた場合の主な違いは、政令で定める最高速度が30km/hであり、交通整理が行われている交差点で法が定める条件に該当する場合に『二段階右折』が義務づけられる点である。 道路運送車両法等による、登録の必要がないリヤカーを牽引して走行することが認められているが、積載量や車両寸法、最高速度に制限があるほか、条例により、運行に条件がつく場合がある。 ヘルメット着用は、1986年(昭和61年)より義務づけられた。1970年代後半から、ヘルメット着用義務のない手軽な乗り物としてスクーターを中心に急速に普及したが、それに伴い交通事故が増えたことにより、ヘルメット着用が義務づけられることとなった。 排気量が50cc超125cc以下つまり第二種原動機付自転車の運転に関しては、2005年に法制度が変更され「小型限定普通二輪免許」が設けられたので、それを取得すればよい。運転中はその運転免許証を携帯する必要があり、警察官から求められればその運転免許証を提示しなければならない。 普通自動二輪車の免許(普通自動二輪免許)や大型自動二輪車の免許(大型自動二輪免許)を取得している人は、その免許で第二種原動機付自転車を運転することもできる。 なお第二種原動機付自転車は、「原動機付自転車免許」(つまり第一種原動機付自転車用の免許、50cc以下の原付のための免許)では運転できない。また第二種原動機付自転車は、四輪の普通免許、中型免許、大型免許などを受けているだけでも運転できない。つまり四輪の免許だけでは運転できない。第二種原動機付自転車の運転に必要な免許を受けていないのに第二種原動機付自転車を運転してしまうと「無免許運転」として扱われる。 第二種原動機付自転車は、政令で定める最高速度は 60 km/hであり、交差点では二段階右折をしない(してはならない)。 自動車に準じて道路運送車両の保安基準が定められている。タイヤ、ブレーキ、エンジン装置、消音器等は自動二輪車のミニチュア版の性能が求められているほか、保安基準に適合する前照灯、番号灯、後部反射器、警音器、後写鏡を備えなければならない。なお、最高速度が20km/h以上の原動機付自転車については、尾灯、制動灯、方向指示器、速度計を備えなければならないまた、輸入車を含めて排出ガス規制をクリアしなければならない。 エンジンやモーターなど動力を用いる車両は、原則としてその出力(上述の排気量、定格出力など)により自動車または原動機付自転車に分類されるため、セグウェイや軽量の電動自転車(フル電動のもの)など、一見オートバイやスクーターに見えない車両であっても、道路を運転する場合には、前述の法規制のほか、以下の重い規制と違反行為に対する罰則が適用されている。 ただし、後述する例外(一定の形態の車、および産業競争力強化法による区域・期間を限定した特例措置によるもの)に基づき、下記の規制の一部または全部が除外されていた。 また、2023年(令和5年)7月1日以降は、「特定小型原動機付自転車」が新たな基準及び規制により法令改正・施行されている。 エンジンやモーターなど動力を用いる車両で、前述の自動車または原動機付自転車扱いとならないものは、以下に列挙するものであって、以下の基準を完全に満たすものに限られている。 なお、2023年(令和5年)7月1日以降の「特定小型原動機付自転車」の法令改正・施行によりこの特例措置は終了したとみられる。 スクータータイプのものに関して、幹線道路において30km/hの法定速度を守って走ると、他の車両との速度差が大きくかえって危険であるとして、原動機付自転車の法定速度を引き上げる要請や、小型二輪免許を現行よりも簡略化して、原付二種(50ccを超え125cc以下のオートバイ。ただし、側車のない場合)の普及を促進する提案がある。 あるいは原動機付自転車免許を、簡略化した普通自動二輪車免許(小型限定)と統合して、小型の二輪車の売り上げの回復を計る提言もある。さらに別の意見として、原付一種も原付二種も運転としては変わらないので、原動機付自転車免許と普通自動二輪車免許(小型限定)を統合した上で、普通自動車・準中型自動車・中型自動車・大型自動車・大型特殊自動車の付帯免許として、売上の回復を図る提言もある。 原動機付自転車を含むオートバイ市場は、1980年代初頭(昭和50年代半ば頃)をピークに減少し、特に総排気量50cc以下の第1種原動機付自転車(以下、原付1種)に関しては、平成末期の2019年には13万台にまで激減し、ピーク時だった1980年(昭和55年)の出荷台数の198万台(いずれも、1万台未満四捨五入)と比べると、その数は10分の1にまで減少している。この間、川崎重工業(以下、カワサキ)が、KSR-Iの生産終了を機に、同社は原付1種から完全に撤退している。また、ヤマハ発動機(以下、ヤマハ)は、2016年に本田技研工業(以下、ホンダ)と業務提携を発表し、ほとんどの原付1種に該当する製品(ジョグなど)の自社開発・生産から撤退した。 近年の排ガス規制の強化の影響などもあり、総排気量が小さくなるほど、触媒温度の上昇に時間がかかるため、排出ガスの浄化が困難であり、今後厳しさを増す排ガス規制への対応性に合致させるにあたっては、開発・生産にかかるコストの上昇が避けられないことなどから、原動機付自転車(以下、原付)を運転することができる運転免許(大型、大特、中型、準中、普通のいずれかの運転免許を含む)で運転することができる総排気量の範囲を現在の第2種原動機付自転車(以下、原付2種)にあたる総排気量125cc以下に変更する構想が検討されている。 自動車と同様に、自動車損害賠償責任保険に加入する事が法令により義務付けられ、違反すると処罰される(強制保険)。よって、自動車と同じく、自動車損害賠償保障法に基づき人身事故に対する損害賠償につき無過失責任が適用される。自動車任意保険にも合わせて加入する事が望ましい。 なおこれらは「特定小型原動機付自転車」(2023年(令和5年)7月1日以降施行)についても同様である。 自動車任意保険には、原動機付自転車(125cc以下、原付一種および原付二種)用の区分として自動二輪車区分よりも安価な料率が設定されている場合が多い。また、一般の三輪以上の自動車向けの任意保険の契約に付帯してファミリーバイク特約としての契約も一般的であり、その場合は更に保険料の負担が安価となっている。 平成29~30年の統計によると、原付は126cc以上の普通二輪に比べて負傷者数はほぼ同数であるものの、死亡者数は40%程度に留まる。原付の保有台数が普通二輪のおよそ2倍ということも計算に入れると、負傷者の出る確率は普通二輪の1/2、死亡者数は20%となる事が分かる。 125cc以下の原動機付自転車は市区町村へ届け出がなされ、軽自動車税が課せられる。課税額は排気量または定格出力によって区分されて、排気量50cc(出力0.6kW)以下を一種、90cc (0.8kW) 以下を二種乙、125cc (1kW) 以下を二種甲として扱われる。それぞれの区分に応じた課税標識(ナンバープレート)が交付され、別表に示すように地色で区別される。課税標識のデザインは市町村が条例で定めることができ、2007年以降は独自のデザインのナンバープレートを導入する市町村が増えている。 上記条件に沿わないため、以下の同乗者は違反。 略称としては「原付(げんつき)」が一般的で、行政的な文書でも使われている。 10代〜20代前半の若者、特にいわゆる「ヤンチャ」な若者はしばしば「原チャリ」と言う。「チャリ」は自転車を指している。そもそも定義が「原動機付自転車」であるし、元々の形状がエンジン付きの自転車であり、自転車の俗称が「チャリンコ」であることから自然発生的に生まれ根付いた俗称である(そもそも「チャリ」は自転車のベルを鳴らした時の擬音)。大人も「原チャリ」と言う場合があるが、年齢を重ね30代や40代になるに従い、子供じみた表現に感じるようになり次第に言わなくなり、正しい略語の「原付」と呼ぶようになる。(なおもっと乱暴に略して「原チャ」と言う人も一部にいるらしいが、これはあまり一般的ではない。)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "原動機付自転車(げんどうきつきじてんしゃ)とは、日本の法律上の車両区分の一つで、道路交通法では総排気量50cc以下(電動機の場合は定格出力0.6kW以下)の原動機を備えた二輪車、道路運送車両法では125cc以下(電動機の場合は定格出力1.0kW以下)の原動機を備えた側車のない二輪車(小型自動二輪車)を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお、法規上の条件を満たせば三輪や四輪のものもこの区分に該当する場合がある。略称は原付(げんつき)。250cc以下の軽二輪と共にミニバイクと呼ばれる場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "オートバイの一種であり、排気量が規定の範囲内(50cc以下や125cc以下)のものを指している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "道路交通法では総排気量が50cc以下または電動機が定格出力が0.6kW以下のものを指す。一方、道路運送車両法では125cc以下のものを原動機付自転車と区分しており、このなかで第一種原付(総排気量50cc以下または定格出力0.6kW)と第二種原付(総排気量50ccをこえ125cc以下または電動機の定格出力が0.6kWをこえ1.0kW以下)に区分されている。2輪の50cc以下であればすべて原動機付自転車扱いとなる。(最高出力が規定より大きいものは原付ではなくなり、自動二輪車に分類される)→#法律上の定義", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「原動機付自転車」は基本的に総排気量または最高出力にもとづいた法律上の区分である。車輪の数は二輪タイプだけでなく三輪タイプもあり、ガソリンエンジンで動くものも電動モータで動くものもある。また、外見(デザイン)もさまざまなタイプがある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", 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"2012年時点の統計で、オートバイ全体の年間販売総数(約38万台)のおよそ6割が原動機付自転車である(第一種原動機付自転車が約12万台、そこに第二種原動機付自転車を加えると総計約24万台に上る)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「原動機付自転車」は略称で一般に「原付(げんつき)」と呼ばれる。また、車両区分、免許の略称としても「原付」である。250cc以下のオートバイは「ミニバイク」と呼ばれることが多く、他にもいくつか略称がある。→#略称に関する雑学", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "四輪以上は後述。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)7月1日以降は、道路交通法上の原動機付自転車の一区分としての「特定小型原動機付自転車」(特定原付)が新たな基準及び規制により法令改正・施行されている。これにより、特定原付に該当しない原動機付自転車は、「一般原動機付自転車」(一般原付)と法令上呼称されることとなった。それぞれの基準、交通規制および適用法令は異なるため、詳細は同項目を参照のこと。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお本項目では以降、簡便のために、特に記載しない限り、道路交通法上の「原動機付自転車」は「一般原動機付自転車」を指すものとする。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "原動機付自転車の起源は、自転車の前輪の上部に、あと付けで、小型のガソリンエンジン(自転車用補助動力)を取り付けた乗り物である。当初は法規上は自転車と同じ軽車両扱いで運転免許が不要であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1952年(昭和27年)に14歳以上を対象とする「許可制」となり、1960年(昭和35年)の道路交通法施行に伴い、16歳以上を対象とする「免許制」となった。 このような経緯で成立した法律区分なので、現在でも自転車と同じ足漕ぎ用のペダルを取り付けたモペッドと呼ばれる原動機付自転車が販売されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "エンジンは2サイクルエンジンが主流であったが、1998年(平成10年)9月から原動機付自転車も自動車排出ガス規制の適用を受け、さらに2007年(平成19年)9月からはこの規制が強化されると、排出ガスの対策に費用がかかる2サイクルエンジンに代わり、4サイクルエンジンに燃料噴射装置や三元触媒を搭載する車種が主流となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "道路交通法または道路運送車両法により異なる定義で区分されている。", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "総排気量50cc(定格出力0.60kW)以下の二輪のもの、「内閣総理大臣が指定する」50cc (0.60kW) 以下の三輪のもの、または前2者以外で20cc (0.25kW) 以下のものを原動機付自転車とする。", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "イ 内閣府令で定める大きさ以下の総排気量又は定格出力を有する原動機を用いる車(ロに該当するものを除く。)", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、令和4年4月の改正で特定小型原動機付自転車の規定が設けられ、令和5年7月1日に施行された。上記イ号が一般原動機付自転車であり、ロ号は特定小型原動機付自転車である。ここでは簡便のためイ号のみ取りあげる。", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "道路交通法施行規則第1条の2における「内閣総理大臣が指定する三輪以上のもの」は総理府(現在の内閣府)告示により次のように定められていて、これ以外はミニカーという扱いになる。側車(サイドカー)付きは2輪の原動機付自転車と同様に扱われる。", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "二輪車については125cc (1.00kW) 以下のもの、それ以外の車両については50cc (0.60kW) 以下のものを原動機付自転車とする。このうち50cc (0.60kW) 以下のもの(道路交通法上の原動機付自転車に加えてミニカーも含むことに注意)を第一種原動機付自転車(通称は原付一種)、50ccを超え125cc以下のもの(道路交通法上の小型二輪車)を第二種原動機付自転車(通称は原付二種)という。", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "道路運送車両法の法令においても、「特定小型原動機付自転車」の保安基準が新たに設けられ、施行された。2023年(令和5年)7月1日改正施行の道路運送車両の保安基準において規定されている。", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "第一種原動機付自転車の運転に必要な免許と第二種原動機付自転車の運転に必要な免許は区別して扱わなければならない。また速度制限や交差点での右折の方法に関する規則も異なっている。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "道路交通法上の原動機付自転車(前述)を公道上で運転するためには原動機付自転車免許(正式な略称「原付免許」)を受け、運転中はその運転免許証を携帯することが必要で、警察官から求められればその運転免許証を提示しなければならない。原付免許は16歳から取得が可能である。試験は学科試験の筆記試験のみで、技能試験は必要ないが、事前または事後に運転免許試験場、警察署、指定自動車教習所などが主催する技能講習を受けなければ、免許証は交付されない。技能講習修了済みでなければ学科試験の申し込みができない地域もある。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、大型免許、中型免許、準中型免許、普通免許、大型特殊免許、大型二輪免許、普通二輪免許の第一種免許を受けた人は、「それぞれ同表の下欄に掲げる種類の自動車等を運転することができる」とされており、いずれも末尾に「原動機付自転車」も含まれている。つまり大型免許、中型免許、準中型免許、普通免許、大型特殊免許、大型二輪免許、普通二輪免許のいずれかの第一種免許を受けている人は第一種原動機付自転車(つまり50cc以下の原付)を運転することができる。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "道路交通法上の原動機付自転車(つまり第一種原付、50cc以下)について、他の自動車と比べた場合の主な違いは、政令で定める最高速度が30km/hであり、交通整理が行われている交差点で法が定める条件に該当する場合に『二段階右折』が義務づけられる点である。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "道路運送車両法等による、登録の必要がないリヤカーを牽引して走行することが認められているが、積載量や車両寸法、最高速度に制限があるほか、条例により、運行に条件がつく場合がある。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ヘルメット着用は、1986年(昭和61年)より義務づけられた。1970年代後半から、ヘルメット着用義務のない手軽な乗り物としてスクーターを中心に急速に普及したが、それに伴い交通事故が増えたことにより、ヘルメット着用が義務づけられることとなった。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "排気量が50cc超125cc以下つまり第二種原動機付自転車の運転に関しては、2005年に法制度が変更され「小型限定普通二輪免許」が設けられたので、それを取得すればよい。運転中はその運転免許証を携帯する必要があり、警察官から求められればその運転免許証を提示しなければならない。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "普通自動二輪車の免許(普通自動二輪免許)や大型自動二輪車の免許(大型自動二輪免許)を取得している人は、その免許で第二種原動機付自転車を運転することもできる。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "なお第二種原動機付自転車は、「原動機付自転車免許」(つまり第一種原動機付自転車用の免許、50cc以下の原付のための免許)では運転できない。また第二種原動機付自転車は、四輪の普通免許、中型免許、大型免許などを受けているだけでも運転できない。つまり四輪の免許だけでは運転できない。第二種原動機付自転車の運転に必要な免許を受けていないのに第二種原動機付自転車を運転してしまうと「無免許運転」として扱われる。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "第二種原動機付自転車は、政令で定める最高速度は 60 km/hであり、交差点では二段階右折をしない(してはならない)。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "自動車に準じて道路運送車両の保安基準が定められている。タイヤ、ブレーキ、エンジン装置、消音器等は自動二輪車のミニチュア版の性能が求められているほか、保安基準に適合する前照灯、番号灯、後部反射器、警音器、後写鏡を備えなければならない。なお、最高速度が20km/h以上の原動機付自転車については、尾灯、制動灯、方向指示器、速度計を備えなければならないまた、輸入車を含めて排出ガス規制をクリアしなければならない。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "エンジンやモーターなど動力を用いる車両は、原則としてその出力(上述の排気量、定格出力など)により自動車または原動機付自転車に分類されるため、セグウェイや軽量の電動自転車(フル電動のもの)など、一見オートバイやスクーターに見えない車両であっても、道路を運転する場合には、前述の法規制のほか、以下の重い規制と違反行為に対する罰則が適用されている。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ただし、後述する例外(一定の形態の車、および産業競争力強化法による区域・期間を限定した特例措置によるもの)に基づき、下記の規制の一部または全部が除外されていた。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、2023年(令和5年)7月1日以降は、「特定小型原動機付自転車」が新たな基準及び規制により法令改正・施行されている。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "エンジンやモーターなど動力を用いる車両で、前述の自動車または原動機付自転車扱いとならないものは、以下に列挙するものであって、以下の基準を完全に満たすものに限られている。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、2023年(令和5年)7月1日以降の「特定小型原動機付自転車」の法令改正・施行によりこの特例措置は終了したとみられる。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "スクータータイプのものに関して、幹線道路において30km/hの法定速度を守って走ると、他の車両との速度差が大きくかえって危険であるとして、原動機付自転車の法定速度を引き上げる要請や、小型二輪免許を現行よりも簡略化して、原付二種(50ccを超え125cc以下のオートバイ。ただし、側車のない場合)の普及を促進する提案がある。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "あるいは原動機付自転車免許を、簡略化した普通自動二輪車免許(小型限定)と統合して、小型の二輪車の売り上げの回復を計る提言もある。さらに別の意見として、原付一種も原付二種も運転としては変わらないので、原動機付自転車免許と普通自動二輪車免許(小型限定)を統合した上で、普通自動車・準中型自動車・中型自動車・大型自動車・大型特殊自動車の付帯免許として、売上の回復を図る提言もある。", "title": "法規制と免許" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "原動機付自転車を含むオートバイ市場は、1980年代初頭(昭和50年代半ば頃)をピークに減少し、特に総排気量50cc以下の第1種原動機付自転車(以下、原付1種)に関しては、平成末期の2019年には13万台にまで激減し、ピーク時だった1980年(昭和55年)の出荷台数の198万台(いずれも、1万台未満四捨五入)と比べると、その数は10分の1にまで減少している。この間、川崎重工業(以下、カワサキ)が、KSR-Iの生産終了を機に、同社は原付1種から完全に撤退している。また、ヤマハ発動機(以下、ヤマハ)は、2016年に本田技研工業(以下、ホンダ)と業務提携を発表し、ほとんどの原付1種に該当する製品(ジョグなど)の自社開発・生産から撤退した。", "title": "近況と今後" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "近年の排ガス規制の強化の影響などもあり、総排気量が小さくなるほど、触媒温度の上昇に時間がかかるため、排出ガスの浄化が困難であり、今後厳しさを増す排ガス規制への対応性に合致させるにあたっては、開発・生産にかかるコストの上昇が避けられないことなどから、原動機付自転車(以下、原付)を運転することができる運転免許(大型、大特、中型、準中、普通のいずれかの運転免許を含む)で運転することができる総排気量の範囲を現在の第2種原動機付自転車(以下、原付2種)にあたる総排気量125cc以下に変更する構想が検討されている。", "title": "近況と今後" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "自動車と同様に、自動車損害賠償責任保険に加入する事が法令により義務付けられ、違反すると処罰される(強制保険)。よって、自動車と同じく、自動車損害賠償保障法に基づき人身事故に対する損害賠償につき無過失責任が適用される。自動車任意保険にも合わせて加入する事が望ましい。", "title": "保険" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なおこれらは「特定小型原動機付自転車」(2023年(令和5年)7月1日以降施行)についても同様である。", "title": "保険" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "自動車任意保険には、原動機付自転車(125cc以下、原付一種および原付二種)用の区分として自動二輪車区分よりも安価な料率が設定されている場合が多い。また、一般の三輪以上の自動車向けの任意保険の契約に付帯してファミリーバイク特約としての契約も一般的であり、その場合は更に保険料の負担が安価となっている。", "title": "保険" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "平成29~30年の統計によると、原付は126cc以上の普通二輪に比べて負傷者数はほぼ同数であるものの、死亡者数は40%程度に留まる。原付の保有台数が普通二輪のおよそ2倍ということも計算に入れると、負傷者の出る確率は普通二輪の1/2、死亡者数は20%となる事が分かる。", "title": "保険" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "125cc以下の原動機付自転車は市区町村へ届け出がなされ、軽自動車税が課せられる。課税額は排気量または定格出力によって区分されて、排気量50cc(出力0.6kW)以下を一種、90cc (0.8kW) 以下を二種乙、125cc (1kW) 以下を二種甲として扱われる。それぞれの区分に応じた課税標識(ナンバープレート)が交付され、別表に示すように地色で区別される。課税標識のデザインは市町村が条例で定めることができ、2007年以降は独自のデザインのナンバープレートを導入する市町村が増えている。", "title": "税区分" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "上記条件に沿わないため、以下の同乗者は違反。", "title": "二人乗りの条件" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "略称としては「原付(げんつき)」が一般的で、行政的な文書でも使われている。", "title": "略称に関する雑学" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "10代〜20代前半の若者、特にいわゆる「ヤンチャ」な若者はしばしば「原チャリ」と言う。「チャリ」は自転車を指している。そもそも定義が「原動機付自転車」であるし、元々の形状がエンジン付きの自転車であり、自転車の俗称が「チャリンコ」であることから自然発生的に生まれ根付いた俗称である(そもそも「チャリ」は自転車のベルを鳴らした時の擬音)。大人も「原チャリ」と言う場合があるが、年齢を重ね30代や40代になるに従い、子供じみた表現に感じるようになり次第に言わなくなり、正しい略語の「原付」と呼ぶようになる。(なおもっと乱暴に略して「原チャ」と言う人も一部にいるらしいが、これはあまり一般的ではない。)", "title": "略称に関する雑学" } ]
原動機付自転車とは、日本の法律上の車両区分の一つで、道路交通法では総排気量50cc以下(電動機の場合は定格出力0.6kW以下)の原動機を備えた二輪車、道路運送車両法では125cc以下(電動機の場合は定格出力1.0kW以下)の原動機を備えた側車のない二輪車(小型自動二輪車)を指す。 なお、法規上の条件を満たせば三輪や四輪のものもこの区分に該当する場合がある。略称は原付(げんつき)。250cc以下の軽二輪と共にミニバイクと呼ばれる場合もある。
{{Otheruses|日本の法令上の車両区分|原動機を装備し尚且つ人力でも駆動出来る自転車|モペッド}} {{Pathnav|日本の運転免許|frame=1}} {{Law}} {{出典の明記|date=2014年12月}} '''原動機付自転車'''(げんどうきつきじてんしゃ<!--{{Lang-en-short|[[:en:Motorized bicycle|motorized bicycle]]}}-->)とは、[[日本の法律]]上の車両区分の一つで、[[道路交通法]]では総排気量50cc以下(電動機の場合は定格出力0.6kW以下)の原動機を備えた二輪車、[[道路運送車両法]]では125cc以下(電動機の場合は定格出力1.0kW以下)の原動機を備えた側車のない二輪車([[小型自動二輪車]])を指す。 なお、法規上の条件を満たせば三輪や四輪のものもこの区分に該当する場合がある。略称は'''原付'''(げんつき)。250cc以下の軽二輪と共にミニバイクと呼ばれる場合もある。 == 概説 == [[オートバイ]]の一種であり、排気量が規定の範囲内(50cc以下や125cc以下)のものを指している。 [[道路交通法]]では総排気量が50cc以下または電動機が定格出力が0.6kW以下のものを指す<ref group="注">(50cc以下区分のものの場合、カタログの仕様表の数字は多くが「49cc」となっている。50.0ccで製作することが困難であることと、50ccをほんのわずかでも超えると法律違反となるため、念のため49ccにしてある。)</ref>。一方、[[道路運送車両法]]では125cc以下のものを原動機付自転車と区分しており、このなかで第一種原付(総排気量50cc以下または定格出力0.6kW)と第二種原付(総排気量50ccをこえ125cc以下または電動機の定格出力が0.6kWをこえ1.0kW以下)に区分されている。2輪の50cc以下であればすべて原動機付自転車扱いとなる。(最高出力が規定より大きいものは原付ではなくなり、自動二輪車に分類される)→[[#法律上の定義]] 「原動機付自転車」は基本的に総排気量または最高出力にもとづいた法律上の区分である。車輪の数は二輪タイプだけでなく三輪タイプもあり、ガソリンエンジンで動くものも電動モータで動くものもある。また、外見(デザイン)もさまざまなタイプがある。 もともと自転車の前輪の上に小さな(短い水筒ほどの大きさの)エンジンを付けただけのものだったが、やがてエンジンが座席下に配置されるようになった。 U字フレームで独特のデザインで[[トランスミッション]]付きの[[ホンダ・カブ]]もある。「フル[[オートバイ]]タイプ」「スクータータイプ」と分類されることもあり、「フルオートバイタイプ」では[[ヤマハ・RZ]]50、[[ホンダ・NS-1]]などがある。1980年代から「スクータータイプ」のなかでも樹脂製(プラスチック製)の外装でボディを覆って金属製のフレームを見えなくしてデザインをスッキリさせたタイプの販売割合が圧倒的に大きくなった。三輪タイプの原動機付自転車には[[ホンダ・ジャイロ]]や[[ヤマハ・トリシティ]]等がある。 第一種原動機付自転車を運転するには、原動機付自転車の免許(いわゆる「原付免許」)が必要である。オートバイの免許制度は幾度にもおよぶ改正を繰り返してきたが、2005年の法改正の後は、第二種原動機付自転車(つまり50cc超125cc以下)を運転するためには「小型限定普通二輪免許」を取得することが必要になった<ref>[https://bike-lineage.org/etc/bike-trivia/license_history.html 「二輪における運転免許制度改正の歴史」]</ref>。原付免許・小型限定普通二輪免許のいずれでも、二輪タイプでも三輪タイプでも運転でき、またガソリンエンジンも電動モータも運転できる。 →[[#法規制と免許]] 原動機付自転車を運転する場合[[自動車損害賠償責任保険]]に加入することが法令により義務付けられており、違反すると処罰される'''強制保険'''である。→[[#保険]] 125cc以下の原動機付自転車は市区町村へ届け出がなされ、[[軽自動車税]]が課せられる。→[[#税区分]] 2012年時点の統計で、オートバイ全体の年間販売総数(約38万台)のおよそ6割が原動機付自転車である(第一種原動機付自転車が約12万台、そこに第二種原動機付自転車を加えると総計約24万台に上る)<ref>[https://archive.is/20131129032905/http://www.jama.or.jp/industry/two_wheeled/two_wheeled_2.html ウェブアーカイブ - 日本自動車工業会「二輪車販売台数の内訳(2012年時点)」]</ref>。 「原動機付自転車」は略称で一般に「原付(げんつき)」と呼ばれる。また、車両区分、免許の略称としても「原付」である。250cc以下のオートバイは「ミニバイク」と呼ばれることが多く、他にもいくつか略称がある。→[[#略称に関する雑学]] 四輪以上は後述。 === 特定小型原動機付自転車 === {{Main|特定小型原動機付自転車}} 2023年(令和5年)7月1日以降は、道路交通法上の原動機付自転車の一区分としての「'''[[特定小型原動機付自転車]]'''」(特定原付)が新たな基準及び規制により法令改正・施行されている。これにより、特定原付に該当しない原動機付自転車は、「一般原動機付自転車」(一般原付)と法令上呼称されることとなった。それぞれの基準、交通規制および適用法令は異なるため、詳細は同項目を参照のこと。 <u>''なお本項目では以降、簡便のために、特に記載しない限り、道路交通法上の「原動機付自転車」は「一般原動機付自転車」を指すものとする。''</u> {{Gallery |title = 原動機自転車 |width = 160px |File:Honda monkey z50.jpg|[[ホンダ・モンキー]](50cc) |File:Honda TODAY 2007TMS.jpg|[[ホンダ・トゥデイ (スクーター)|ホンダ・トゥデイ]](スクータータイプ、50cc) |File:Osaka_Auto_Messe_2019_(93)_-_Honda_Super_Cub_C125_(2BJ-JA48).jpg|[[ホンダ・スーパーカブ]](125cc) |File:Suzuki Address V125S 3.JPG|[[スズキ・アドレス]] V125 (125cc) |File:Yamaha cygnus x sr.jpg|[[ヤマハ・シグナス]] X (125cc) |File:Gyro-X.jpg|[[ホンダ・ジャイロ|ホンダ・ジャイロX]](三輪タイプ、50cc) |File:ヤマハ_-TRICITY_発表会_(14569130633).jpg|[[ヤマハ・トリシティ]](三輪タイプ、写真は125ccのもの) |File:Yamaha EVINO front-left 2013 Tokyo Motor Show.jpg|[[ヤマハ・ビーノ|ヤマハ・E-VINO]](電動スクーター。高視聴率番組『[[出川哲朗の充電させてもらえませんか?]]』で広く知られるようになった車種。) }} <!--|File:YAMAHA Passol-L.jpg|[[ヤマハ・パッソル|ヤマハ・パッソルL]](電動スクーター)--> == 歴史 == 原動機付自転車の起源は、[[自転車]]の前輪の上部に、あと付けで、小型の[[ガソリンエンジン]](自転車用補助動力)を取り付けた乗り物である。当初は法規上は自転車と同じ[[軽車両]]扱いで[[運転免許]]が不要であった。 [[1952年]]([[昭和]]27年)に14歳以上を対象とする「許可制」となり、[[1960年]](昭和35年)の[[道路交通法]]施行に伴い、16歳以上を対象とする「免許制」となった。 このような経緯で成立した法律区分なので、現在でも自転車と同じ足漕ぎ用のペダルを取り付けた[[モペッド]]と呼ばれる原動機付自転車が販売されている。 [[機関 (機械)|エンジン]]は[[2ストローク機関|2サイクルエンジン]]が主流であったが、[[1998年]]([[平成]]10年)9月から原動機付自転車も[[自動車排出ガス規制]]の適用を受け、さらに[[2007年]](平成19年)9月からはこの規制が強化されると、排出ガスの対策に費用がかかる2サイクルエンジンに代わり、[[4ストローク機関|4サイクルエンジン]]に[[燃料噴射装置]]や[[三元触媒]]を搭載する車種が主流となった。 ;車種の歴史 <gallery> File:Cub-f.JPG|[[ホンダ・カブ]]。自転車に後付するためのエンジンキット。1952年 -1958年に生産。 File:Honda_super_cub,_1st_Gen._1958,_Front_Perspective_View.jpg|[[ホンダ・スーパーカブ]]の初代モデル(1958年) File:1960 Yamaha MF-1 in the Yamaha Communication Plaza.JPG|ヤマハ・MF-1(1960年モデル)。[[ヤマハ・メイト]]の源流。 File:Suzuki RV 90 2.JPG|[[スズキ・バンバン|スズキ・バンバン90]](1971年) File:Honda ROADPAL 1976 HCH.jpg|[[ホンダ・ロードパル]](1976年 - 1983年) ファイル:YAMAHA PASSOL S50 1977.jpg|[[ヤマハ・パッソル]](1977年 - ) ファイル:Yamaha Jog.jpg|[[ヤマハ・ジョグ|ヤマハ・ジョグ CE50E]](1983年) File:Honda Super Dio with cat.jpg|[[ホンダ・ディオ|ホンダ・スーパーディオ]](1991年 - ) </gallery> == 法律上の定義 == [[道路交通法]]または[[道路運送車両法]]により異なる定義で区分されている。 === 道路交通法 === 総排気量50cc(定格出力0.60kW)以下の二輪のもの、「内閣総理大臣が指定する」50cc (0.60kW) 以下の三輪のもの、または前2者以外で20cc (0.25kW) 以下のものを原動機付自転車とする。 {{Quote|原動機付自転車 内閣府令で定める大きさ以下の総排気量又は定格出力を有する原動機を用い、かつ、レール又は架線によらないで運転する車であつて次に掲げるもののうち、[[軽車両]]、[[移動用小型車]]、身体障害者用の車、[[遠隔操作型小型車]]および[[歩行補助車]]等以外のものをいう。<br/> イ 内閣府令で定める大きさ以下の総排気量又は定格出力を有する原動機を用いる車(ロに該当するものを除く。) ロ 車体の大きさ及び構造が自転車道における他の車両の通行を妨げるおそれのないものであり、かつ、その運転に関し高い技能を要しないものである車として内閣府令で定める基準に該当するもの|[[道路交通法]]第2条第1項第10号}} なお、[[令和4年]]4月の改正で[[特定小型原動機付自転車]]の規定が設けられ、[[令和5年]]7月1日に施行された。上記イ号が一般原動機付自転車であり、ロ号は[[特定小型原動機付自転車]]である。ここでは簡便のためイ号のみ取りあげる。 {{Quote|道路交通法第二条第一項第十号の内閣府令で定める大きさは、二輪のもの及び内閣総理大臣が指定する三輪以上のものにあつては、総排気量については〇・〇五〇リツトル、定格出力については〇・六〇キロワツトとし、その他のものにあつては、総排気量については〇・〇二〇リツトル、定格出力については〇・二五キロワツトとする。|道路交通法施行規則第1条の2}} 道路交通法施行規則第1条の2における「内閣総理大臣が指定する三輪以上のもの」は[[総理府]](現在の[[内閣府]])告示により次のように定められていて、これ以外は[[ミニカー (車両)|ミニカー]]という扱いになる。側車([[サイドカー]])付きは2輪の原動機付自転車と同様に扱われる。 {{Quote|車室を備えず、かつ、輪距(二以上の輪距を有する車にあつては、その輪距のうち最大のもの)が〇・五〇メートル以下である三輪'''以上'''の車及び側面が構造上開放されている車室を備え、かつ、輪距が〇・五〇メートル以下である三輪の車|平成2年12月6日[[総理府]]告示第48号}} === 道路運送車両法 === '''二輪車については125cc (1.00kW) 以下のもの'''、それ以外の車両については50cc (0.60kW) 以下のものを原動機付自転車とする。このうち50cc (0.60kW) 以下のもの(道路交通法上の原動機付自転車に加えてミニカーも含むことに注意)を第一種原動機付自転車(通称は原付一種)、50ccを超え125cc以下のもの(道路交通法上の小型二輪車)を第二種原動機付自転車(通称は原付二種)という。 {{Quote|この法律で「原動機付自転車」とは、国土交通省令で定める総排気量又は定格出力を有する原動機により陸上を移動させることを目的として製作した用具で軌条若しくは架線を用いないもの又はこれにより牽引して陸上を移動させることを目的として製作した用具をいう|[[道路運送車両法]]第2条第3項}} {{Quote|道路運送車両法第二条第三項の総排気量又は定格出力は、左のとおりとする。一 内燃機関を原動機とするものであつて、二輪を有するもの(側車付のものを除く。)にあつては、その総排気量は〇・一二五リツトル以下、その他のものにあつては〇・〇五〇リツトル以下。二 内燃機関以外のものを原動機とするものであつて、二輪を有するもの(側車付のものを除く。)にあつては、その定格出力は一・〇〇キロワツト以下、その他のものにあつては〇・六〇キロワツト以下。|道路車両運送法施行規則第1条}} {{Quote|前項に規定する総排気量又は定格出力を有する原動機付自転車のうち、総排気量が〇・〇五〇リツトル以下又は定格出力が〇・六〇キロワツト以下のものを第一種原動機付自転車とし、その他のものを第二種原動機付自転車とする。|道路運送車両法施行規則第1条第2項}}道路運送車両法の法令においても、「特定小型原動機付自転車」の保安基準が新たに設けられ、施行された<ref>{{Cite web|和書|title=自動車:特定小型原動機付自転車について - 国土交通省 |url=https://www.mlit.go.jp/jidosha/jidosha_fr7_000058.html |website=www.mlit.go.jp |access-date=2023-07-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=自動車:道路運送車両の保安基準(2022年12月23日現在) - 国土交通省 |url=https://www.mlit.go.jp/jidosha/jidosha_fr7_000007.html#tokuteigentsuki |website=www.mlit.go.jp |access-date=2023-07-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=国土交通省|報道資料|特定小型原動機付自転車に関する保安基準の整備等を行います! |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha10_hh_000276.html |website=国土交通省 |access-date=2023-07-02 |language=ja}}</ref>。2023年(令和5年)7月1日改正施行の[[道路運送車両の保安基準]]において規定されている。{{Main|特定小型原動機付自転車}} == 法規制と免許 == 第一種原動機付自転車の運転に必要な免許と第二種原動機付自転車の運転に必要な免許は区別して扱わなければならない。また速度制限や交差点での右折の方法に関する規則も異なっている。 === 第一種原動機付自転車の運転に必要な免許 === 道路交通法上の原動機付自転車(前述)を[[公道]]上で運転するためには'''原動機付自転車免許'''(正式な略称「原付免許」)を受け、運転中はその運転免許証を携帯することが必要で、警察官から求められればその運転免許証を提示しなければならない。原付免許は16歳から取得が可能である。試験は学科試験の[[筆記試験]]のみで、[[技能試験]]は必要ないが、事前または事後に[[運転免許試験場]]、警察署、[[指定自動車教習所]]などが主催する技能講習を受けなければ、免許証は交付されない。技能講習修了済みでなければ学科試験の申し込みができない地域もある。 なお、大型免許、中型免許、準中型免許、普通免許、大型特殊免許、大型二輪免許、普通二輪免許の[[第一種免許]]を受けた人は、「それぞれ同表の下欄に掲げる種類の自動車等を運転することができる」とされており、いずれも末尾に「原動機付自転車」も含まれている<ref name="Dourokoutuuhou_85_2">道路交通法第85条第2項</ref>。つまり大型免許、中型免許、準中型免許、普通免許、大型特殊免許、大型二輪免許、普通二輪免許のいずれかの第一種免許を受けている人は第一種原動機付自転車(つまり50cc以下の原付)を運転することができる。 <ref>道路交通法第85条第2項</ref> 道路交通法上の原動機付自転車(つまり第一種原付、50cc以下)について、他の自動車と比べた場合の主な違いは、政令で定める[[最高速度]]が'''30km/h'''であり<ref group="注">道路交通法施行令第11条より。30km/hを超える最高速度が指定されている道路であっても、30km/h以下で走行しなければならない。</ref>、交通整理が行われている交差点で法が定める条件<ref group="注">片側(一方通行の場合は道路全体)が三車線以上で「原動機付自転車の右折方法(小回り)」の標識が無い場合、又は、車線数に関わらず「原動機付自転車の右折方法(二段階)」が設置されている場合。</ref>に該当する場合に『'''[[二段階右折]]'''』が義務づけられる点である<ref>道路交通法第34条第5項</ref>。 道路運送車両法等による、登録の必要がない[[リヤカー]]を牽引して走行することが認められているが、積載量や車両寸法、最高速度に制限があるほか、[[条例]]により、運行に条件がつく場合がある。 [[ヘルメット (オートバイ)|ヘルメット]]着用は、1986年(昭和61年)より義務づけられた。[[1970年代]]後半から、ヘルメット着用義務のない手軽な乗り物として[[スクーター]]を中心に急速に普及したが、それに伴い交通事故が増えたことにより、ヘルメット着用が義務づけられることとなった。 === 第二種原動機付自転車の運転に必要な免許 === 排気量が50cc超125cc以下つまり第二種原動機付自転車の運転に関しては、2005年に法制度が変更され「小型限定普通二輪免許」が設けられたので、それを取得すればよい。運転中はその運転免許証を携帯する必要があり、警察官から求められればその運転免許証を提示しなければならない。 普通自動二輪車の免許(普通自動二輪免許)や大型自動二輪車の免許(大型自動二輪免許)を取得している人は、その免許で第二種原動機付自転車を運転することもできる。 なお第二種原動機付自転車は、「原動機付自転車免許」(つまり第一種原動機付自転車用の免許、50cc以下の原付のための免許)では運転できない。また第二種原動機付自転車は、四輪の普通免許、中型免許、大型免許などを受けているだけでも'''運転できない'''。つまり四輪の免許だけでは運転できない。第二種原動機付自転車の運転に必要な免許を受けていないのに第二種原動機付自転車を運転してしまうと「[[無免許運転]]」として扱われる。 第二種原動機付自転車は、政令で定める[[最高速度]]は '''60 km/h'''であり、交差点では二段階右折をしない(してはならない)<ref>[https://bike-news.jp/post/193123]</ref>。 === 保安基準 === [[日本における自動車|自動車]]に準じて[[道路運送車両の保安基準]]が定められている。タイヤ、ブレーキ、エンジン装置、[[マフラー (原動機)|消音器]]等は[[自動二輪車]]のミニチュア版の性能が求められているほか、保安基準に適合する[[前照灯]]、[[番号灯]]、[[後部反射器]]、[[警笛|警音器]]、[[ドアミラー|後写鏡]]を備えなければならない。なお、[[最高速度]]<ref group="注">保安基準における「最高速度」は、法規制速度のことではなく、車両の性能上の最高速度のことである。</ref>が20km/h以上の原動機付自転車については、[[尾灯]]、[[制動灯]]、[[方向指示器]]、[[速度計]]を備えなければならない<ref>道路運送車両法第四四条、および道路運送車両の保安基準第六十二条の三より。</ref>また、輸入車を含めて排出ガス規制をクリアしなければならない<ref>{{Cite web|和書|date=2012-10-01 |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/09/090829_.html |title=道路運送車両の保安基準の細目を定める告示 |publisher=自動車交通局 技術安全部環境課 |accessdate=2020-01-19 }}</ref>。 === 電動の小型車両等に対する規制 === <!--この見出しは多数の項目からリンクされているので安易に変更しないでください--> {{更新|section=1|date=2023年7月}}<!--移動用小型車や身体障害者用の「車」や遠隔操作型小型車まわりの改正には追い付けてないと言う意味でこのタグ--> エンジンやモーターなど動力を用いる車両は、原則としてその出力(上述の排気量、定格出力など)により[[日本における自動車|自動車]]または原動機付自転車に分類されるため、[[セグウェイ]]や軽量の[[電動自転車]](フル電動のもの)など、一見オートバイやスクーターに見えない車両であっても、[[道路]]を運転する場合には、前述の法規制のほか、以下の重い規制と違反行為に対する罰則が適用されている。 '''ただし、後述する例外'''(一定の形態の車、および産業競争力強化法による区域・期間を限定した特例措置によるもの)'''に基づき、下記の規制の一部または全部が除外されていた。''' また、2023年(令和5年)7月1日以降は、「'''[[特定小型原動機付自転車]]'''」が新たな基準及び規制により法令改正・施行されている。 {{See also|特定小型原動機付自転車}} * 車両のタイプに応じた[[日本の運転免許|運転免許]](原動機付自転車免許、普通自動二輪車免許、普通免許など)を受けていなければ、[[無免許運転]]により3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処される<ref group="注">[[特定小型原動機付自転車]]は、免許不要であり、16歳以上であれば運転可能である。</ref>。 * [[自動車損害賠償責任保険]]等に加入せず運行した場合は、[[自動車損害賠償保障法|無保険運行]]として1年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処される<ref>[http://response.jp/issue/2004/0412/article59422_1.html 『セグウェイ』は整備不良…50万円の罰金命令] - Response.jp</ref>。 * [[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]の登録および表示義務。原付格の場合、公安委員会遵守事項違反として5万円以下の罰金(東京都の場合)。[[検査対象外軽自動車]]格の場合、無届運行として30万円以下の罰金。検査対象格の場合、[[自動車検査登録制度|無車検運行]]として6月以下の懲役又は30万円以下の罰金に処される<ref group="注">小型自動車(登録ナンバー車)格であれば、道路運送車両法違反(未登録運行罪)にも問われる。</ref>。 * [[道路運送車両の保安基準]](前述)に適合しないものを運転した場合には、[[整備不良]]違反として、3月以下の懲役又は5万円以下の罰金に処される。 * 通常の自動車等と同様に、[[歩道]]や[[路側帯]]、[[自転車道]]は一切通行できない<ref group="注">道路外出入りのための横断や、駐停車のために規定の路側帯に入る場合を除く。</ref><ref name=":0" group="注">[[特定小型原動機付自転車]]を除く。詳細は同項目を参照。</ref>。 * ヘルメットの着用義務もある(ただし[[ミニカー (車両)|ミニカー]]や[[トライク]]など、[[普通自動車]]([[道路交通法|交通法]])等の扱いとなる場合、および[[特定小型原動機付自転車]]を除く) * [[運転免許証]]の携帯義務<ref name=":0" group="注" /> * [[自動車損害賠償責任保険|自賠責保険]]証書の携帯義務<ref group="注">それぞれ罰則あり。特定小型原動機付自転車も対象である。なお、電動キックボードや一般原付・[[オートバイ|自動二輪車]]等であって密閉のボックス等を備えない車両については証書の携行に困難が伴うとされたため、2023年(令和5年)6月1日施行の改正法令および[[自動車損害賠償保障法に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律]]に基づき、スマートフォン等による電磁的提示も有効となる予定である。ただし詳細は未詳</ref> * [[放置違反金]]制度を含む[[駐車|駐停車違反]]の取締対象になる。 * 交通事故や道路交通法等の違反行為に対し、運転免許の行政処分の対象となる<ref name=":0" group="注" />。 * 人身事故を起こした場合には、状況に応じて[[自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律|自動車運転死傷行為処罰法]](過失運転致死傷、危険運転致死傷、無免許運転による加重)により'''最長で20年以下の懲役(加重により最長30年以下)に処される'''可能性もある。また、[[自動車損害賠償保障法]]に基づき[[交通事故|人身事故]]に対する[[損害賠償]]につき[[無過失責任]]が適用される。<ref group="注">特定小型原動機付自転車も対象である。</ref> ==== 例外(常時) ==== {{更新|section=1|date=2023年7月}}<!--移動用小型車や身体障害者用の「車」や遠隔操作型小型車まわりの改正には追い付けてないと言う意味でこのタグ--> エンジンやモーターなど動力を用いる車両で、前述の[[日本における自動車|自動車]]または原動機付自転車扱いとならないものは、以下に列挙するものであって、'''以下の基準を完全に満たすもの'''に限られている。 * [[車椅子|電動車いす]]、[[シニアカー]]等:道路交通法施行規則第1条の4の基準 * [[歩行補助車]]、[[シルバーカー]]等:道路交通法施行規則第1条の基準 * [[電動アシスト自転車]]:道路交通法施行規則第1条の3の基準 ==== 例外(産業競争力強化法による区域・期間を限定した特例措置) ==== なお、2023年(令和5年)7月1日以降の「特定小型原動機付自転車」の法令改正・施行によりこの特例措置は終了したとみられる<ref name=":9">{{Cite web|和書|title=産業競争力強化法関係|国家公安委員会Webサイト |url=http://www.npsc.go.jp/policy/list/sankyouhou.html |website=国家公安委員会Webサイト |access-date=2023-07-02 |language=ja}}</ref>。 *2020年(令和2年)10月16日付け認定新事業活動計画<ref name=":1" /> ** 特例措置:''特定原動機付自転車''<u>は</u>''、''[[車両通行帯]]の法令の基準に基づき[[普通自転車専用通行帯]]を通行でき、また、通行しなければならない<ref name=":0" />。 **特例措置以外の規制は従前と同様である<ref name=":0" />'''。''' **対象車両:''特例命令''に基づく産業競争力強化法の認定を受けた認定新事業活動において貸与された車両であって同事業に基づき対象区域内の道路を通行している''特定原動機付自転車 ※本項でも「特定原動機付自転車」とする'' ***対象車両の基準:長さ140cm・幅80cm・高さ140cm各以下、車両重量は40kg以下、原動機は電動機、最高速度20km/h、運転者席は立席<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=新事業特例制度の活用実績(METI/経済産業省)|url=https://www.meti.go.jp/policy/jigyou_saisei/kyousouryoku_kyouka/shinjigyo-kaitakuseidosuishin/result/shinjigyou.html|website=www.meti.go.jp|accessdate=2021-02-17}}</ref><ref name=":8">{{PDFlink|[https://www.npa.go.jp/laws/kaisei/kokuji/200930/kokuji.pdf 国家公安委員会告示第四十三号]}}</ref>。 ** 対象区域:認定新事業活動計画に基づく特定地域(渋谷区・新宿区・世田谷区・千代田区、神奈川県藤沢市・千葉県柏市<ref name=":3">https://www.meti.go.jp/press/2020/10/20201016005/20201016005-1.pdf</ref><ref name=":4">https://www.meti.go.jp/press/2020/10/20201016005/20201016005-3.pdf</ref>、千葉市<ref name=":5">https://www.meti.go.jp/policy/jigyou_saisei/kyousouryoku_kyouka/shinjigyo-kaitakuseidosuishin/press/210115b_press.pdf</ref>、愛媛県今治市から広島県尾道市まで、神戸市、および福岡市<ref name=":6">https://www.meti.go.jp/press/2020/10/20201016005/20201016005-2.pdf</ref>のそれぞれ一部区域) **対象期間:2020年(令和2年)10月から2021年(令和3年)3月まで<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=産業競争力強化法に基づく新事業活動計画を認定しました (METI/経済産業省)|url=https://www.meti.go.jp/press/2020/10/20201016005/20201016005.html|website=www.meti.go.jp|accessdate=2021-02-17}}</ref>、一部は2021年(令和3年)1月から同3月まで<ref name=":5" /> ** 根拠法令<ref name=":0">{{PDFlink|[https://www.npa.go.jp/laws/notification/koutuu/kouki/020930.pdf 「立ち乗り電動スクーター」に係る特例措置について(通達)]}} 警察庁交通局交通企画課長、警察庁交通局交通規制課長</ref> *** [[産業競争力強化法]]第9条、[[新事業特例制度]]<ref name=":2" /> ***国家公安委員会・国土交通省関係産業競争力強化法第十一条の規定に基づく内閣府令・国土交通省令の特例に関する措置を定める命令(令和2年内閣府・国土交通省令第3号)<ref>https://www.npa.go.jp/laws/kaisei/furei/200925/honbun.pdf</ref>''※本項で「特例命令」とする'' *** 国家公安委員会・国土交通省関係産業競争力強化法第十一条の規定に基づく内閣府令・国土交通省令の特例に関する措置を定める命令に規定する原動機付自転車に係る国家公安委員会が定める基準を定める件(令和2年国家公安委員会告示第43号)<ref name=":8" />''※本項で「特例告示」とする'' * 2021年(令和3年)2月8日付け回答に基づく認定新事業活動計画<ref name=":7" /><ref name=":9" /> ** 特例措置:''特定小型電動車''は、次の規制が適用される<ref name=":7">https://www.npsc.go.jp/policy/list/koutsuu/sankyouhou.pdf<nowiki/>、'''p.7'''</ref> ***''特定小型電動車''の運転者は、乗車用[[ヘルメット (オートバイ)|ヘルメット]]の着用義務が免除される ***''特定小型電動車''<u>は</u>''、''[[車両通行帯]]または[[自転車道]]の法令の基準に基づき[[普通自転車専用通行帯]]または自転車道を通行でき、また、通行しなければならない ***''特定小型電動車''<u>は</u>''、''自転車が規制対象外となっている[[一方通行]]の交通規制において、その適用から除外される *** **特例措置以外の規制は従前と同様である。 **対象車両:''特例命令''に基づく産業競争力強化法の認定を受けた認定新事業活動において貸与された車両であって同事業に基づき対象区域内の道路を通行している''特定小型電動車 ※本項でも「特定小型電動車」とする'' ***対象車両の基準(抄):長さ140cm・幅80cm・高さ140cm各以下、原動機は電動機、最高速度'''15km/h'''、運転者席は立席'''<ref name=":7" />'''。 ** 対象区域:2021年(令和3年)4月以降、事業ごとに個別認定される **対象期間:上に同じ。なお、個別に期間を定めて実施され、最長で2023年(令和5年)6月末まで実施された<ref name=":9" />。 **根拠法令:未詳(2020年(令和2年)10月16日付け認定新事業活動計画と同様と思われる) {{see also|キックスケーター#産業競争力強化法に基づく特例電動キックスケーター}} === 法規に対する意見 === {{独自研究|date=2017年11月|section=1}} [[スクーター]]タイプのものに関して、幹線道路において30km/hの[[日本における速度規制#法定最高速度|法定速度]]を守って走ると、他の車両との速度差が大きくかえって危険であるとして、原動機付自転車の法定速度を引き上げる要請や<ref>{{PDFlink|[https://www8.cao.go.jp/kisei/siryo/030801/1-01.pdf 規制改革集中受付期間/全国規模での規制改革要望に対する回答への再検討要請(様式1)]}}(p.4「原動機付自転車の最高速度制限の緩和」管理コードz0100070)</ref>、小型二輪免許を現行よりも簡略化して、原付二種(50ccを超え125cc以下のオートバイ。ただし、[[側車]]のない場合)の普及を促進する提案がある<ref>{{PDFlink|[http://www.jama.or.jp/motorcycle/environment/pdf/environmentdesign2009.pdf 二輪車特別委員会の調査提言書「二輪車の利用環境デザイン」]}}</ref>。 あるいは原動機付自転車免許を、簡略化した普通自動二輪車免許([[小型自動二輪車#運転免許|小型限定]])と統合して、小型の二輪車の売り上げの回復を計る提言もある<ref>八重洲出版 雑誌 モーターサイクリスト 2009年5月-11月号の集中連載記事「50ccはいらない?」第1回~第7回。二輪販売業関係者の提言は第5回と第6回、二輪車特別委員会委員長の免許制度の技能講習案の詳しい説明は第7回</ref>。さらに別の意見として、原付一種も原付二種も運転としては変わらないので、原動機付自転車免許と普通自動二輪車免許(小型限定)を統合した上で、普通自動車・準中型自動車・中型自動車・大型自動車・大型特殊自動車の付帯免許として、売上の回復を図る提言もある<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/sagawakentaro/20161003-00062819 「クルマの免許で125ccバイクまで」の是非を問う]</ref>。 == 近況と今後 == 原動機付自転車を含む[[オートバイ]]市場は、1980年代初頭(昭和50年代半ば頃)をピークに減少し、特に総排気量50㏄以下の第1種原動機付自転車(以下、原付1種)に関しては、平成末期の2019年には13万台にまで激減し、ピーク時だった1980年(昭和55年)の出荷台数の198万台(いずれも、1万台未満四捨五入)と比べると、その数は10分の1にまで減少している<ref>{{Cite news |url=https://trafficnews.jp/post/110008|title=手軽な「原チャリ 」消えてしまうのか50cc原付一種 各社のラインアップは今|newspaper=乗りものニュース|date=2021-08-22|accessdate=2023-11-03}}</ref>。この間、[[川崎重工業]](以下、[[カワサキモータース|カワサキ]])が、[[カワサキ・KSR#KSR-I|KSR-I]]の生産終了を機に、[[川崎重工業|同社]]は原付1種から完全に撤退している。また、[[ヤマハ発動機]](以下、ヤマハ)は、2016年に[[本田技研工業]](以下、ホンダ)と業務提携を発表し、ほとんどの[[ヤマハ発動機の製品一覧#50cc以下(原付一種)|原付1種に該当する製品]]([[ヤマハ・ジョグ|ジョグ]]など)の自社開発・生産から撤退した<ref>{{Cite news |url=https://toyokeizai.net/articles/-/139521|title=若者の味方「原付バイク」はどこへ消えた? ヤマハ・ホンダ提携が示すバイク文化の凋落|newspaper=東洋経済ONLINE|date=2016-10-10|accessdate=2023-11-03}} </ref>。 近年の[[自動車排出ガス規制|排ガス規制]]の強化の影響などもあり、総排気量が小さくなるほど、触媒温度の上昇に時間がかかるため、排出ガスの浄化が困難であり、今後厳しさを増す排ガス規制への対応性に合致させるにあたっては、開発・生産にかかるコストの上昇が避けられないことなどから、原動機付自転車(以下、原付)を運転することができる運転免許([[大型自動車|大型]]、[[大型特殊自動車|大特]]、[[中型自動車|中型]]、[[準中型自動車|準中]]、[[普通自動車|普通]]のいずれかの運転免許を含む)で運転することができる総排気量の範囲を現在の第2種原動機付自転車(以下、原付2種)にあたる総排気量125cc以下に変更する構想が検討されている<ref>{{Cite news |url=https://motor-fan.jp/bikes/article/86730/|title=「原付免許は125ccまで」|警察庁が検討|ようやくと動き出す国内の原付改革|newspaper=モーターファン|date=2023-09-11|accessdate=2023-11-03}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASR966FTGR95UTIL02P.html|title=原付き免許で「小型バイク」可能に、警察庁が検討 排ガス規制に対応|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2023-09-07|accessdate=2023-11-03}} </ref><ref>{{Cite news |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230911/k10014188701000.html|title="原付きバイク"総排気量125cc以下も区別追加検討 警察庁|newspaper=NHK NEWS WEB|date=2023-09-11|accessdate=2023-11-03}} </ref>。 == 保険 == 自動車と同様に、[[自動車損害賠償責任保険]]に加入する事が法令により義務付けられ、違反すると処罰される(強制保険)。よって、自動車と同じく、[[自動車損害賠償保障法]]に基づき[[交通事故|人身事故]]に対する[[損害賠償]]につき[[無過失責任]]が適用される。[[自動車保険|自動車任意保険]]にも合わせて加入する事が望ましい。 なおこれらは「[[特定小型原動機付自転車]]」(2023年(令和5年)7月1日以降施行)についても同様である。 {{See also|特定小型原動機付自転車}} 自動車任意保険には、原動機付自転車(125cc以下、原付一種および原付二種)用の区分として自動二輪車区分よりも安価な料率が設定されている場合が多い。また、一般の三輪以上の自動車向けの任意保険の契約に付帯してファミリーバイク特約としての契約も一般的であり、その場合は更に保険料の負担が安価となっている。 平成29~30年の統計によると、原付は126cc以上の普通二輪に比べて負傷者数はほぼ同数であるものの、死亡者数は40%程度に留まる。原付の保有台数が普通二輪のおよそ2倍ということも計算に入れると、負傷者の出る確率は普通二輪の1/2、死亡者数は20%となる事が分かる<ref>[https://www.zurich.co.jp/motorbike/guide/cc-bike-accident-ratesn/ バイク・原付の事故率と事故の原因]</ref>。 == 税区分 == 125cc以下の原動機付自転車は市区町村へ届け出がなされ、[[軽自動車税]]が課せられる。課税額は排気量または定格出力によって区分されて、排気量50cc(出力0.6kW)以下を一種、90cc (0.8kW) 以下を二種乙、125cc (1kW) 以下を二種甲として扱われる。それぞれの区分に応じた課税標識(ナンバープレート)が交付され、別表に示すように地色で区別される。課税標識のデザインは市町村が条例で定めることができ、2007年以降は[[デザインナンバープレート|独自のデザインのナンバープレート]]を導入する市町村が増えている。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" |+課税標識の色 ! 区分 !! ナンバープレートの色<br />(異なる市区町村もある) |- |第1種原動機付自転車 50cc以下または定格出力600W以下 | style="text-align: center; background-color: #fff;" | 白色 |- |第2種原動機付自転車(乙)90cc以下または定格出力600W超800W以下 | style="text-align: center; background-color: #ff0;" | 黄色 |- |第2種原動機付自転車(甲)125cc以下または定格出力800W超1000W以下 | style="text-align: center; background-color: #f99;" | 桃色 |- |ミニカー | style="text-align: center; background-color: #afdfe4;" | 水色 |} == 二人乗りの条件 == ;車両の条件 *排気量が50cc超であることが条件であるため、50cc以下の「原付」(第一種原動機付自転車、原付1種)は二人乗りは禁止されている。 *50cc超125cc以下の[[小型自動二輪車]](第二種原動機付自転車、原付2種)は、同乗者用のステップがあり、かつ、同乗者がつかむグラブバーまたはベルトがあること。 ;同乗者の条件<ref>[https://www.zurich.co.jp/car/useful/bike/cc-riding-two-bike/ バイクの二人乗りの条件。原付や子供の二人乗りは禁止?高速はいつから乗れる?] チューリッヒ保険</ref> *運転免許の有無、年齢や体重の制限はない。 *同乗者シートに正しく乗り足が同乗者用ステップに届くこと、ヘルメットの着用。 上記条件に沿わないため、以下の同乗者は違反。 *乳幼児を背中におぶる *小さな子どもを運転手の前に立たせる ;運転者の条件(免許) *普通自動二輪車(普通二輪)または、大型自動二輪車(大型二輪)免許取得後1年以上であること。 ;高速道路通行の条件 *総排気量125㏄以下の普通自動二輪車(小型自動二輪車)、原動機付自転車は高速道路を通行できない。 == 略称に関する雑学 == [[略称]]としては「'''原付'''(げんつき)」が一般的で、行政的な文書でも使われている。 10代〜20代前半の若者、特にいわゆる「ヤンチャ」な若者はしばしば「原チャリ」と言う。「チャリ」は自転車を指している。そもそも定義が「原動機付自転車」であるし、元々の形状がエンジン付きの自転車であり、自転車の俗称が「チャリンコ」であることから自然発生的に生まれ根付いた[[俗称]]である(そもそも「チャリ」は自転車のベルを鳴らした時の擬音)。大人も「原チャリ」と言う場合があるが、年齢を重ね30代や40代になるに従い、子供じみた表現に感じるようになり次第に言わなくなり、正しい略語の「原付」と呼ぶようになる。(なおもっと乱暴に略して「原チャ」と言う人も一部にいるらしいが、これはあまり一般的ではない。){{独自研究|section=1|date=2023年1月}} == 原動機付自転車を題材とした作品 == * [[佐野榮太郎#原付萌奈美|原付萌奈美]] * [[宗田豪|げんcha!]] - 宗田豪著(Comic REX、2006年、REXコミックス全1巻) * げんつき 相模大野女子高校原付部 - アキヨシ カズタカ著<ref>{{Cite book|和書|author=アキヨシ カズタカ|title=げんつき 相模大野女子高校原付部|publisher=株式会社KADOKAWA|date=2013-01|isbn=484014785X}}</ref> * とりわけ[[ホンダ・カブ|ホンダ・スーパーカブ]]を扱ったもの ** [[スーパーカブ (小説)]] - [[トネ・コーケン]]著<ref>{{Cite book|和書|author=トネ・コーケン|title=スーパーカブ|publisher=株式会社KADOKAWA|date=2015-05|isbn=4041056632}}</ref> ** [[スーパーカブ (映画)]] ** [[リトル・ホンダ]] - [[ザ・ビーチ・ボーイズ]]の楽曲 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[オートバイ]] *[[日本におけるオートバイ]] ** [[日本の運転免許]] ** [[大型自動二輪車]] ** [[普通自動二輪車]] ** [[小型自動二輪車]] - [[道路運送車両法]]においては、[[サイドカー|側車]]([[サイドカー#50cc超|サイドカー]])[[小型自動二輪車#備考|を備えない限り]]、原動機付自転車として扱われる。 * [[三ない運動]] * [[HY戦争]] * [[モペッド]] * [[特定小型原動機付自転車]] * [[電動アシスト自転車]] * [[デザインナンバープレート]] * [[軽車両]] - [[道路運送車両法]]における原動機付自転車に該当する車両の[[有料道路]]の通行料金区別が「[[軽車両#有料道路における「軽車両等」の車種の扱いについて|軽車両等]]」に該当する関係。 ※なお、下記の車両は、[[道路運送車両法]]においては原動機付自転車に該当するものの、原動機付自転車の運転免許では運転することができない。 * [[小型自動二輪車#車両|第2種原動機付自転車]] - [[道路交通法]]においては[[小型自動二輪車]]([[普通自動二輪車]]の[[小型自動二輪車#運転免許|ひとつ]])として扱われるので、運転には、[[大型自動二輪車|大型]]ないしは[[普通自動二輪車]]([[小型自動二輪車#運転免許|小型限定]]を含む)の運転免許が必要である。 * [[ミニカー (車両)|ミニカー]] - [[道路交通法]]においては普通自動車として扱われるので、運転には、[[普通自動車]]([[大型自動車|大型]]、[[中型自動車|中型]]、[[準中型自動車|準中型]]のいずれかとあわせて受けている場合を含む)の運転免許が必要である。 == 外部リンク == {{Commonscat|Motorized_bicycles|原動機付自転車}} * [https://web.archive.org/web/20070812001452/http://www.nifukyo.or.jp/ 免許取得に関する情報(社団法人 全国二輪車安全普及協会)] {{オートバイの形態}} {{日本の運転免許}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんとうきつきしてんしや}} [[Category:運転免許]] [[Category:オートバイの車両区分]]
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多様体
多様体(たようたい、英: manifold, 独: Mannigfaltigkeit)とは、解析学(微分積分学、複素解析)を展開するために必要な構造を備えた空間のことである(ただし位相多様体は出来ない。ただ、単に多様体と言った場合、可微分多様体か複素多様体のことを指す場合が多い)。それは局所的にユークリッド空間と見なせるような図形や空間(位相空間)として定義される。多様体上には好きなところに局所的に座標を描き込むことができる。 多様体に座標を描くという作業は地球上の地図を作る作業に似ている。地図の上の点は地球上の点に対応し、さらに地面には描かれていない緯線や経線を地図に描き込むことによって、地図に描いてある地域の様子が分かりやすくなる。座標の無い地球上の様子は、人間が作った座標のある地図と対応させることによって非常に把握しやすくなる。 地球は球であり、世界地図を一枚の平面的な地図におさめようとすれば、南極大陸が肥大化したり、地図の端の方では一枚の地図の中に(連続性を表現するために)同じ地点が複数描き込まれたりする。世界地図をいくつかの小さな地図に分割すると、こういった奇妙なことはある程度回避できる。例えば、北極を中心とした地図、南極を中心とした地図、ハワイを中心とした地図、ガーナを中心とした地図...... などのように分割できる。そして隣り合った地図の繋がりをそれぞれの地図に同じ地域を含めることで表現すればよい。こうすることによって異なる地図同士では重複する部分が出てきてしまうものの、一枚の地図の中に同じ地域が 2 箇所以上描かれることをなくすことはできる。 地球と同じように多様体は好きなところに小さな地図(局所座標系)が描ける図形である。逆に、このような小さな地図を繋げていったら全体としてどのような図形ができあがるのか?という問題は位相幾何学の重要な問題の一つでもある。地図だけみれば地球をまねて作っているようなゲーム(例えば、ファミコン版のドラゴンクエストシリーズ)の世界が、実は球面ではなく平坦トーラスだったということもある。 多様体は性質のよい図形であり、多様体でない図形も多く存在する。円や球や多角形、多面体などは全て多様体として扱えるが、ペアノ曲線やフラクタルなどは適当な地図を描くことはできず、多様体にはならない。 多様体の定義で重要な点は、多様体の上にいかにして座標系を貼り付けるか?ということと、どのような座標系を用いたとしても計算に違いが現れないようにすることである。多様体は計算したいときに座標を導入でき、しかもどのような座標系で計算したとしても違いがない、すなわち座標系に依存しないという非常に扱いやすい性質が追求された図形である。 ここでいう計算とは関数やベクトル、それらの微分、積分などのユークリッド空間の上で普通に行われているような座標を用いた計算のことである。 M を位相空間とする。M の開集合 U に対して、m 次元ユークリッド空間の開集合 U ' への 同相写像 を局所座標系 (local coordinate system) あるいは(局所)チャート (chart) という。 a ∈ M に対し、φ(a) を局所座標 (local coordinates) という。局所座標は、ユークリッド空間の点として見たときの特定の座標すなわち m 個の数の組 (φ1(a), ..., φm(a)) であるのに対し、局所座標系は、U 上で定義された m 個の関数 (φ1, ..., φm) の組である。 局所座標を用いることにより U 上の点を m 次元ユークリッド空間の点であるかのように扱うことが可能になる。U 上に局所座標系 φ が定義されていることを (U, φ) という対で表し、これを m 次元座標近傍 (coordinate neighborhood) あるいはチャートという。局所座標系の成分を明示的に (U;φ1, ..., φm) のように書き表すこともある。 M の二つの座標近傍 (U,φ) と (V,ψ) について、 U ∩ V が空でないとする。局所座標系 φ と ψ は U と V をそれぞれ m 次元ユークリッド空間の開集合 U ', V ' に写すとする。すなわち である。このとき は、m 次元ユークリッド空間の開集合から開集合への同相写像になる。この写像を (U, φ) から (V, ψ) への座標変換 (coordinate transformation) という。座標変換を用いれば、同じ開集合 U ∩ V に定義された異なる局所座標 φ と ψ を同じものとして扱うことができる。 座標変換はまず φ で M に戻してから ψ によって座標のある集合 V ' に写す写像である。間に座標が決められていない空間 M を挟む形になっているものの、座標変換全体はユークリッド空間の部分集合 U ' からユークリッド空間の部分集合 V ' への写像になっている。すなわち M を経由しているという事実を無視し、座標変換を合成写像としてではなく全体で 1 つの写像として捉えると、それは普通のユークリッド空間からユークリッド空間への写像である。 m 次元座標近傍の族 S = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} が M 全体を覆っているとする: このとき、S を座標近傍系 (system of coordinate neighborhoods) あるいはアトラス (atlas) という。アトラスというのは地図帳のことで、局所的な地図であるチャートをいくつも集めて作った地図帳という意味である。 M をハウスドルフ空間とする。M の任意の点 a に対して、a を含む m 次元座標近傍 (U, φ) が存在するとき、M を(境界のない)m 次元位相多様体 (topological manifold) という。 これまで、局所座標 φ(a) はユークリッド空間 R に値を取ると考えてきたが、代わりに半空間 H = {(x1, x2, ..., xm) ∈ R | xm ≥ 0} に値を取ると考え局所座標の定義を修正すると境界のある位相多様体が定義される。 N をハウスドルフ空間とし、N の任意の点 a に対して、a を含む m 次元座標近傍 (U, φ) が存在するとする。 半空間 H = {(x1, x2, ..., xm) ∈ R | xm ≥ 0} の部分空間として G = {(x1, x2, ..., xm) ∈ R | xm = 0} を取ればそれは R になる。 N の座標近傍系 S = {(Uλ, φλ) |λ ∈ Λ} に対し、各座標近傍 (Uλ, φλ) において Wλ = { a ∈ Uλ | φλ(a) ∈ G} という集合を考えたとき を N の境界という。∂N が空でないとき N を 境界のある m 次元位相多様体という。境界のある m 次元位相多様体の境界は m − 1 次元位相多様体になる。 m 次元位相多様体 M の座標近傍系 S = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} の任意の 2 つの座標近傍 (U1, φ1), (U2, φ2) に対し、U1 ∩ U2 が空でないならば座標変換 のすべての成分が、C 級関数(n 回連続微分可能関数、すなわち n 回微分可能でありかつ n 階偏導関数がすべて連続となるような関数)となるとき、S を C 級座標近傍系という。 m 次元位相多様体 M が、C 級座標近傍系を持つとき、 Mを C 級 m 次元微分可能多様体(あるいは可微分多様体、differentiable manifold of class C) という。微分可能とか、可微分といった言葉を省略して C 級多様体ということもある。位相多様体のことを、座標変換の微分可能性を仮定しないという意味で C 級多様体と呼ぶこともある。 C 級多様体のことを滑らかな多様体とも呼ぶ。特に n = ω すなわち、全ての座標変換が実解析関数であるときは特に解析多様体 (analytic manifold) という。 ここで、自然数 s, t が s ≤ t を満たすとき、定義より、C 級関数は C 級関数である。 このことから、C 級微分可能多様体は C 級微分可能多様体でもある。 微分可能多様体は、C 級座標近傍系 Sの取り方によってはまったく別の多様体になってしまうので、 位相多様体 M と座標近傍系 S を対にして (M, S) と書くこともある。この意味で S は位相多様体 M に C 級可微分構造 (differentiable structure of class C) を定めると表現されることもある。 m 次元位相多様体 M に対し C 級座標近傍系として S と T の 2つを取るとする。和集合 S ∪ T が再び M のC 級座標近傍系になるとき、 S と T は同値であるという。これは同値関係を定める。これは S に属する座標近傍と T に属する座標近傍の間にも座標変換が存在し S での計算と T での計算に違いが無いという性質を保証するための同値関係である。 さらに、 M 上の S と同値な C 級座標近傍系全ての和集合を取ることによって得られる F = F(S) を S によって生成された M の C 級極大座標近傍系あるいは M の C 級微分構造という。定義により、同じ微分構造を定める座標近傍系同士は同値である。 こうして座標近傍系の取り方に依存しない C 級多様体が定義される。m 次元位相多様体 M 上に互いに微分同相でない複数の微分構造が存在することもある。 多様体の例でもっとも簡単なものは、 m 次元ユークリッド空間 R に座標近傍系として S1 = {(R, id)} をいれたものである。ここで id は恒等写像 すなわち x ∈ R に対して x をそのまま返す写像である。最初から座標が描かれているのだからそれをそのまま使えばよく、この場合は座標近傍が 1 つしかないので座標変換が不要である。恒等写像はもちろん解析的なので (R,S1) は m 次元解析多様体である。このように R を微分可能多様体として捉えたものをアフィン空間という。 話をさらに簡明にするために m = 1 とする。すなわち数直線 R について考える。上に書いたとおり S1 = {(R, id)} として、 (R,S1) は 1 次元解析多様体となる。 整数 i に対して 開区間 Ui = (i − 1, i + 1) を取る。 x ∈ Ui に対し 写像 φi を で定めると φi は Ui の局所座標系になり、 S2 = {(Ui,φi)| i ∈ Z} としたとき、 (R,S2) も 1 次元解析多様体である。例えば Ui ∩ Ui + 1 = (i,i + 1) で座標近傍 (Ui,φi) から座標近傍 (Ui + 1,φi + 1) への座標変換は で与えられる。なお S1 と S2 は同値な座標近傍系である。 S1 = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} を座標近傍系にもつ m 次元 C 級多様体 (M1,S1)と、 M の(空でない)開集合Vに対して S2 = {(Uλ ∩ V, φλ) | λ ∈ Λ} を考える。ただし、 φλ は、 φ の定義域を Uλ から Uλ ∩ V に制限しただけの写像で、本質的には φ となんら変わりのない写像である。 このとき (V, S2) も m 次元 C 級多様体となる。この多様体を (M1,S1) の開部分多様体 (open submanifold) という。 R の開集合である 開区間 (a,b) は R の開部分多様体である。 R の開集合である 開円板 {(x1,x2)|x1+x2 < 1} は R の開部分多様体である。 というように、多様体に含まれる開集合に多様体を制限したものが開部分多様体である。 単位円 を考える。単位円は次の 4 つの開近傍で覆うことができる。 それぞれに局所座標系を次の様に定める。ただし I = ( − 1,1) とする。 そして座標近傍系を と取れば、(S,T) は 1 次元解析多様体になる。 m 次元単位球面 についても同じようにして 2(m+1)個の開近傍で覆うことができ、それぞれの開近傍は m 次元開球と同相であるので、局所座標系を定めることができ m 次元解析多様体になる。 S1 = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} を座標近傍系にもつ a 次元 C 級多様体 (M1,S1) と S2 = {(Vτ, ψτ) | τ ∈ Τ} を座標近傍系に持つ b 次元 C 級多様体 (M2,S2) を考える。 直積集合 M1 × M2 は直積位相によってハウスドルフ空間となる。それぞれの座標近傍 (Uλ, φλ) と (Vτ, ψτ) に対し、開集合 Uλ と Vτ の直積 Uλ × Vτ とその上で定義された写像 φλ × ψτ によって座標近傍同士の直積 (Uλ × Vτ, φλ × ψτ) が定義される。 ここで Uλ × Vτ は、 p ∈ Uλ と q ∈ Vτ を取ったときの (p,q) という組の全体である。写像の直積 φλ × ψτ は Uλ × Vτ の上で定義された という写像である。 このように座標近傍同士の直積によって座標近傍系 S3 = {(Uλ × Vτ, φλ × ψτ) | λ ∈ Λ , τ ∈ Τ} を定めたとき、 (M1 × M2, S3) は、 a + b 次元 C 級多様体になる。この (M1 × M2, S3) を (M1,S1) と (M2,S2) の積多様体 (product manifold) という。同様にして M1 × M2 × ... × Mm というような、 3 つ以上の多様体から作られる積多様体も定義できる。 直線と円周の直積 R × S を考えれば、直線を軸とした無限に伸びる円柱の側面を多様体と見ることもできるし、円周同士の直積 T = S × S を考えればトーラスを多様体とみることもできる。 原点を通る直線は のように書かれるが、これらの直線はmの値と対応し、あらためて一つの点と考えることができる。直線の集合は図形ではないが、このように直線を点に読み替えることで直線のなす集合にも適当な座標系を入れることができ、多様体という図形として扱えるようになる。 m 次元 C 級多様体 M 上で定義された実数値関数 f を考える。 これは、多様体上の点 p ∈ M に対して実数値 f(p) を対応させる関数である。特定の局所座標を考えているわけではないので、この関数の変数は (x1, x2, ..., xm) のように数を並べた座標ではなく単に点を表している。 多様体上には局所座標を貼ることができるためこの座標を用いた微積分などの計算が可能である。 M には座標近傍系 S = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} が与えられていて とすれば つまり q = φλ(p) ∈ U′λ に対し である。この U′λ はユークリッド空間の部分集合なので その点である q は (x1, x2, ..., xm) のように数を並べた座標で表すことができ、この座標を用いて微積分などの計算が可能になる。座標近傍 (Uλ, φλ) においてその座標を用いて具体的に f(x1, x2, ..., xm) のように書かれた関数を (Uλ, φλ) に関する f の局所座標表示という。 ところで、多様体上の計算はなるべく局所座標のとり方に依存しないような計算をしたいという目標があるので U1 ∩ U2 上では、座標近傍 (U1, φ1), (U2, φ2) のそれぞれの計算は座標変換でうつり合う必要がある。 座標近傍 (U1, φ1) での関数の表示 を座標近傍 (U2, φ2) での表示に変換すると 真ん中に挟まれた、 φ1 と φ1 は写像として打ち消しあうように見えるが、微分可能性を検証したいのでここではあえてしない。C 級多様体の座標変換は C 級であるから、この合成関数の微分可能性も高々 C 級であるとしか言えず、座標変換によっては n + 1 回以上の微分は不可能である場合もあるかもしれないので意味がない。したがって、C 級多様体上での関数は C 級までしか意味を持たない。もちろん、ある特定の座標近傍だけで定義された関数に n + 1 回以上微分できる関数を定義することはできるが、それはその座標近傍だけでの性質であり、C 級多様体という図形の性質とは異なるものになる。 したがって が C 級関数であるとは、任意の座標近傍に対し、そこでの局所座標表示が C 級関数であることと定義される。ただし 0 ≤ s ≤ n とする。 M 上の C 級関数の全体を C(M) と表すことがある。 m1 次元 C 級多様体 (M1,S) から m2 次元 C 級多様体 (M2,T) への写像 f を考える。 それぞれの多様体に与えられている座標近傍系が S = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} , T = {(Vτ, ψτ) | τ ∈ Τ} で定められているとする。多様体上の関数と同じように、写像も座標を用いて表現することができる。関数の場合と違うのは写像でうつる先でも座標について考えなければならないことである。 f(Uλ) ⊆ (Vτ) とし f を (Uλ, φλ) から (Vτ, ψτ) への写像として座標を用いて書くとすると とすれば となる。 これが具体的に座標の成分を用いて のように表現されているとき、 この表示を (Uλ, φλ) と (Vτ, ψτ) に関する f の局所座標表示という。 座標変換を考えるために f(U1) ⊆ (V1) , f(U2) ⊆ (V2) とし、 U1 ∩ U2 が空でないとする。 U1 ∩ U2 に対して、座標近傍 (U1, φ1) と (V1, ψ1) での写像 f の表示 を座標変換を用いて座標近傍 (U2, φ2) と (V2, ψ2) に関する表示に変換すると それぞれの括弧は、座標系から座標系への写像になっている。左端の括弧は (M2,T) での座標変換なので C 級、右端の括弧は (M1,S) での座標変換なので C 級である。このことからs と t の小さい方( s = t ならばその値)を u として、この合成写像の微分可能性は高々 C 級であり、 u + 1 回以上の連続微分可能性を仮定することは意味を持たない。 したがって が C 級写像であるとは、任意の座標近傍に対し、そこでの局所座標表示が C 級写像であることと定義される。ただし 0 ≤ r ≤ u = min{s,t} とする。 1 ≤ r ≤ u の時 が全単射で f とその逆写像 f がともに C 級写像であるとき、 f を C 級微分同相写像 (C diffeomorphism) という。f が C 級微分同相写像であれば、f も明らかに C 級微分同相写像である。 M1 と M2 の間に C 級微分同相写像が存在するとき M1 と M2 は互いに C 級微分同相 (C diffeomorphic) であるという。 R の開区間 I = (a, b) から C 級多様体 M への C 級写像 のことを、 C 級曲線 (C-curve) という (0 ≤ r ≤ s)。 { φ(t) ∈ M | t ∈ I} という点の集合を曲線というのではなく、写像 φ を曲線というのである。なお、φ の変数 t を媒介変数という。 とする。φ が 開区間 I = (a,b) で定義された C 級曲線であるとき、 I に含まれる閉区間 [c,d] や 半開区間 [c,d), (c,d] に φ の定義域を制限して得られる写像も C 級曲線という。 多様体の歴史はゲッティンゲンで行われたリーマンの講演に始まる。 多様体論は、ロバチェフスキーの双曲幾何学によって始まった非ユークリッド幾何学やガウスの曲面論を背景として様々な幾何学を統一し、 n 次元の幾何学へと飛躍させた。発見当初はカント哲学に打撃を与えた非ユークリッド幾何学も多様体論の一例でしかなくなってしまった。 リーマンがゲッティンゲン大学の私講師に就任するために行った講演『幾何学の基礎に関する仮説について』の中で「何重にも拡がったもの」と表現した概念が n 次元多様体のもとになり n 次元の幾何学に関する研究が始まった。この講演を聴いていたガウスがその着想に夢中になり、(ガウスは普段はあまり表立って他人を褒めることはなかったが、)リーマンの着想がいかに素晴らしいかを同僚に語り続けたり、帰り道にうわの空で道端の溝に落ちたりしたと言われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "多様体(たようたい、英: manifold, 独: Mannigfaltigkeit)とは、解析学(微分積分学、複素解析)を展開するために必要な構造を備えた空間のことである(ただし位相多様体は出来ない。ただ、単に多様体と言った場合、可微分多様体か複素多様体のことを指す場合が多い)。それは局所的にユークリッド空間と見なせるような図形や空間(位相空間)として定義される。多様体上には好きなところに局所的に座標を描き込むことができる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "多様体に座標を描くという作業は地球上の地図を作る作業に似ている。地図の上の点は地球上の点に対応し、さらに地面には描かれていない緯線や経線を地図に描き込むことによって、地図に描いてある地域の様子が分かりやすくなる。座標の無い地球上の様子は、人間が作った座標のある地図と対応させることによって非常に把握しやすくなる。", "title": "直感的な説明" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "地球は球であり、世界地図を一枚の平面的な地図におさめようとすれば、南極大陸が肥大化したり、地図の端の方では一枚の地図の中に(連続性を表現するために)同じ地点が複数描き込まれたりする。世界地図をいくつかの小さな地図に分割すると、こういった奇妙なことはある程度回避できる。例えば、北極を中心とした地図、南極を中心とした地図、ハワイを中心とした地図、ガーナを中心とした地図...... などのように分割できる。そして隣り合った地図の繋がりをそれぞれの地図に同じ地域を含めることで表現すればよい。こうすることによって異なる地図同士では重複する部分が出てきてしまうものの、一枚の地図の中に同じ地域が 2 箇所以上描かれることをなくすことはできる。", "title": "直感的な説明" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地球と同じように多様体は好きなところに小さな地図(局所座標系)が描ける図形である。逆に、このような小さな地図を繋げていったら全体としてどのような図形ができあがるのか?という問題は位相幾何学の重要な問題の一つでもある。地図だけみれば地球をまねて作っているようなゲーム(例えば、ファミコン版のドラゴンクエストシリーズ)の世界が、実は球面ではなく平坦トーラスだったということもある。", "title": "直感的な説明" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "多様体は性質のよい図形であり、多様体でない図形も多く存在する。円や球や多角形、多面体などは全て多様体として扱えるが、ペアノ曲線やフラクタルなどは適当な地図を描くことはできず、多様体にはならない。", "title": "直感的な説明" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "多様体の定義で重要な点は、多様体の上にいかにして座標系を貼り付けるか?ということと、どのような座標系を用いたとしても計算に違いが現れないようにすることである。多様体は計算したいときに座標を導入でき、しかもどのような座標系で計算したとしても違いがない、すなわち座標系に依存しないという非常に扱いやすい性質が追求された図形である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ここでいう計算とは関数やベクトル、それらの微分、積分などのユークリッド空間の上で普通に行われているような座標を用いた計算のことである。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "M を位相空間とする。M の開集合 U に対して、m 次元ユークリッド空間の開集合 U ' への 同相写像", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "を局所座標系 (local coordinate system) あるいは(局所)チャート (chart) という。 a ∈ M に対し、φ(a) を局所座標 (local coordinates) という。局所座標は、ユークリッド空間の点として見たときの特定の座標すなわち m 個の数の組 (φ1(a), ..., φm(a)) であるのに対し、局所座標系は、U 上で定義された m 個の関数 (φ1, ..., φm) の組である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "局所座標を用いることにより U 上の点を m 次元ユークリッド空間の点であるかのように扱うことが可能になる。U 上に局所座標系 φ が定義されていることを (U, φ) という対で表し、これを m 次元座標近傍 (coordinate neighborhood) あるいはチャートという。局所座標系の成分を明示的に (U;φ1, ..., φm) のように書き表すこともある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "M の二つの座標近傍 (U,φ) と (V,ψ) について、 U ∩ V が空でないとする。局所座標系 φ と ψ は U と V をそれぞれ m 次元ユークリッド空間の開集合 U ', V ' に写すとする。すなわち", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "である。このとき", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "は、m 次元ユークリッド空間の開集合から開集合への同相写像になる。この写像を (U, φ) から (V, ψ) への座標変換 (coordinate transformation) という。座標変換を用いれば、同じ開集合 U ∩ V に定義された異なる局所座標 φ と ψ を同じものとして扱うことができる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "座標変換はまず φ で M に戻してから ψ によって座標のある集合 V ' に写す写像である。間に座標が決められていない空間 M を挟む形になっているものの、座標変換全体はユークリッド空間の部分集合 U ' からユークリッド空間の部分集合 V ' への写像になっている。すなわち M を経由しているという事実を無視し、座標変換を合成写像としてではなく全体で 1 つの写像として捉えると、それは普通のユークリッド空間からユークリッド空間への写像である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "m 次元座標近傍の族 S = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} が M 全体を覆っているとする:", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "このとき、S を座標近傍系 (system of coordinate neighborhoods) あるいはアトラス (atlas) という。アトラスというのは地図帳のことで、局所的な地図であるチャートをいくつも集めて作った地図帳という意味である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "M をハウスドルフ空間とする。M の任意の点 a に対して、a を含む m 次元座標近傍 (U, φ) が存在するとき、M を(境界のない)m 次元位相多様体 (topological manifold) という。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "これまで、局所座標 φ(a) はユークリッド空間 R に値を取ると考えてきたが、代わりに半空間 H = {(x1, x2, ..., xm) ∈ R | xm ≥ 0} に値を取ると考え局所座標の定義を修正すると境界のある位相多様体が定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "N をハウスドルフ空間とし、N の任意の点 a に対して、a を含む m 次元座標近傍 (U, φ) が存在するとする。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "半空間 H = {(x1, x2, ..., xm) ∈ R | xm ≥ 0} の部分空間として G = {(x1, x2, ..., xm) ∈ R | xm = 0} を取ればそれは R になる。 N の座標近傍系 S = {(Uλ, φλ) |λ ∈ Λ} に対し、各座標近傍 (Uλ, φλ)", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "において Wλ = { a ∈ Uλ | φλ(a) ∈ G} という集合を考えたとき", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "を N の境界という。∂N が空でないとき N を 境界のある m 次元位相多様体という。境界のある m 次元位相多様体の境界は m − 1 次元位相多様体になる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "m 次元位相多様体 M の座標近傍系 S = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} の任意の 2 つの座標近傍 (U1, φ1), (U2, φ2) に対し、U1 ∩ U2 が空でないならば座標変換", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "のすべての成分が、C 級関数(n 回連続微分可能関数、すなわち n 回微分可能でありかつ n 階偏導関数がすべて連続となるような関数)となるとき、S を C 級座標近傍系という。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "m 次元位相多様体 M が、C 級座標近傍系を持つとき、 Mを C 級 m 次元微分可能多様体(あるいは可微分多様体、differentiable manifold of class C) という。微分可能とか、可微分といった言葉を省略して C 級多様体ということもある。位相多様体のことを、座標変換の微分可能性を仮定しないという意味で C 級多様体と呼ぶこともある。 C 級多様体のことを滑らかな多様体とも呼ぶ。特に n = ω すなわち、全ての座標変換が実解析関数であるときは特に解析多様体 (analytic manifold) という。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ここで、自然数 s, t が s ≤ t を満たすとき、定義より、C 級関数は C 級関数である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このことから、C 級微分可能多様体は C 級微分可能多様体でもある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "微分可能多様体は、C 級座標近傍系 Sの取り方によってはまったく別の多様体になってしまうので、 位相多様体 M と座標近傍系 S を対にして (M, S) と書くこともある。この意味で S は位相多様体 M に C 級可微分構造 (differentiable structure of class C) を定めると表現されることもある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "m 次元位相多様体 M に対し C 級座標近傍系として S と T の 2つを取るとする。和集合 S ∪ T が再び M のC 級座標近傍系になるとき、 S と T は同値であるという。これは同値関係を定める。これは S に属する座標近傍と T に属する座標近傍の間にも座標変換が存在し S での計算と T での計算に違いが無いという性質を保証するための同値関係である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "さらに、 M 上の S と同値な C 級座標近傍系全ての和集合を取ることによって得られる F = F(S) を S によって生成された M の C 級極大座標近傍系あるいは M の C 級微分構造という。定義により、同じ微分構造を定める座標近傍系同士は同値である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "こうして座標近傍系の取り方に依存しない C 級多様体が定義される。m 次元位相多様体 M 上に互いに微分同相でない複数の微分構造が存在することもある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "多様体の例でもっとも簡単なものは、 m 次元ユークリッド空間 R に座標近傍系として S1 = {(R, id)} をいれたものである。ここで id は恒等写像", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "すなわち x ∈ R に対して x をそのまま返す写像である。最初から座標が描かれているのだからそれをそのまま使えばよく、この場合は座標近傍が 1 つしかないので座標変換が不要である。恒等写像はもちろん解析的なので (R,S1) は m 次元解析多様体である。このように R を微分可能多様体として捉えたものをアフィン空間という。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "話をさらに簡明にするために m = 1 とする。すなわち数直線 R について考える。上に書いたとおり S1 = {(R, id)} として、 (R,S1) は 1 次元解析多様体となる。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "整数 i に対して 開区間 Ui = (i − 1, i + 1) を取る。 x ∈ Ui に対し 写像 φi を", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "で定めると φi は Ui の局所座標系になり、 S2 = {(Ui,φi)| i ∈ Z} としたとき、 (R,S2) も 1 次元解析多様体である。例えば Ui ∩ Ui + 1 = (i,i + 1) で座標近傍 (Ui,φi) から座標近傍 (Ui + 1,φi + 1) への座標変換は", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "で与えられる。なお S1 と S2 は同値な座標近傍系である。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "S1 = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} を座標近傍系にもつ m 次元 C 級多様体 (M1,S1)と、 M の(空でない)開集合Vに対して S2 = {(Uλ ∩ V, φλ) | λ ∈ Λ} を考える。ただし、 φλ は、 φ の定義域を Uλ から Uλ ∩ V に制限しただけの写像で、本質的には φ となんら変わりのない写像である。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "このとき (V, S2) も m 次元 C 級多様体となる。この多様体を (M1,S1) の開部分多様体 (open submanifold) という。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "R の開集合である 開区間 (a,b) は R の開部分多様体である。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "R の開集合である 開円板 {(x1,x2)|x1+x2 < 1} は R の開部分多様体である。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "というように、多様体に含まれる開集合に多様体を制限したものが開部分多様体である。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "単位円", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "を考える。単位円は次の 4 つの開近傍で覆うことができる。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "それぞれに局所座標系を次の様に定める。ただし I = ( − 1,1) とする。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "そして座標近傍系を", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "と取れば、(S,T) は 1 次元解析多様体になる。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "m 次元単位球面", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "についても同じようにして 2(m+1)個の開近傍で覆うことができ、それぞれの開近傍は m 次元開球と同相であるので、局所座標系を定めることができ m 次元解析多様体になる。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "S1 = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} を座標近傍系にもつ a 次元 C 級多様体 (M1,S1) と S2 = {(Vτ, ψτ) | τ ∈ Τ} を座標近傍系に持つ b 次元 C 級多様体 (M2,S2) を考える。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "直積集合 M1 × M2 は直積位相によってハウスドルフ空間となる。それぞれの座標近傍 (Uλ, φλ) と (Vτ, ψτ) に対し、開集合 Uλ と Vτ の直積 Uλ × Vτ とその上で定義された写像 φλ × ψτ によって座標近傍同士の直積 (Uλ × Vτ, φλ × ψτ) が定義される。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ここで Uλ × Vτ は、 p ∈ Uλ と q ∈ Vτ を取ったときの (p,q) という組の全体である。写像の直積 φλ × ψτ は Uλ × Vτ の上で定義された", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "という写像である。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "このように座標近傍同士の直積によって座標近傍系 S3 = {(Uλ × Vτ, φλ × ψτ) | λ ∈ Λ , τ ∈ Τ} を定めたとき、 (M1 × M2, S3) は、 a + b 次元 C 級多様体になる。この (M1 × M2, S3) を (M1,S1) と (M2,S2) の積多様体 (product manifold) という。同様にして M1 × M2 × ... × Mm というような、 3 つ以上の多様体から作られる積多様体も定義できる。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "直線と円周の直積 R × S を考えれば、直線を軸とした無限に伸びる円柱の側面を多様体と見ることもできるし、円周同士の直積 T = S × S を考えればトーラスを多様体とみることもできる。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "原点を通る直線は", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "のように書かれるが、これらの直線はmの値と対応し、あらためて一つの点と考えることができる。直線の集合は図形ではないが、このように直線を点に読み替えることで直線のなす集合にも適当な座標系を入れることができ、多様体という図形として扱えるようになる。", "title": "多様体の例" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "m 次元 C 級多様体 M 上で定義された実数値関数 f を考える。", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "これは、多様体上の点 p ∈ M に対して実数値 f(p) を対応させる関数である。特定の局所座標を考えているわけではないので、この関数の変数は (x1, x2, ..., xm) のように数を並べた座標ではなく単に点を表している。", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "多様体上には局所座標を貼ることができるためこの座標を用いた微積分などの計算が可能である。 M には座標近傍系 S = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} が与えられていて", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "とすれば", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "つまり q = φλ(p) ∈ U′λ に対し", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "である。この U′λ はユークリッド空間の部分集合なので その点である q は (x1, x2, ..., xm) のように数を並べた座標で表すことができ、この座標を用いて微積分などの計算が可能になる。座標近傍 (Uλ, φλ) においてその座標を用いて具体的に f(x1, x2, ..., xm) のように書かれた関数を (Uλ, φλ) に関する f の局所座標表示という。", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ところで、多様体上の計算はなるべく局所座標のとり方に依存しないような計算をしたいという目標があるので U1 ∩ U2 上では、座標近傍 (U1, φ1), (U2, φ2) のそれぞれの計算は座標変換でうつり合う必要がある。 座標近傍 (U1, φ1) での関数の表示", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "を座標近傍 (U2, φ2) での表示に変換すると", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "真ん中に挟まれた、 φ1 と φ1 は写像として打ち消しあうように見えるが、微分可能性を検証したいのでここではあえてしない。C 級多様体の座標変換は C 級であるから、この合成関数の微分可能性も高々 C 級であるとしか言えず、座標変換によっては n + 1 回以上の微分は不可能である場合もあるかもしれないので意味がない。したがって、C 級多様体上での関数は C 級までしか意味を持たない。もちろん、ある特定の座標近傍だけで定義された関数に n + 1 回以上微分できる関数を定義することはできるが、それはその座標近傍だけでの性質であり、C 級多様体という図形の性質とは異なるものになる。", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "したがって", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "が C 級関数であるとは、任意の座標近傍に対し、そこでの局所座標表示が C 級関数であることと定義される。ただし 0 ≤ s ≤ n とする。 M 上の C 級関数の全体を C(M) と表すことがある。", "title": "多様体上の関数" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "m1 次元 C 級多様体 (M1,S) から m2 次元 C 級多様体 (M2,T) への写像 f を考える。", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "それぞれの多様体に与えられている座標近傍系が S = {(Uλ, φλ) | λ ∈ Λ} , T = {(Vτ, ψτ) | τ ∈ Τ} で定められているとする。多様体上の関数と同じように、写像も座標を用いて表現することができる。関数の場合と違うのは写像でうつる先でも座標について考えなければならないことである。", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "f(Uλ) ⊆ (Vτ) とし f を (Uλ, φλ) から (Vτ, ψτ) への写像として座標を用いて書くとすると", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "とすれば", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "となる。 これが具体的に座標の成分を用いて", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "のように表現されているとき、 この表示を (Uλ, φλ) と (Vτ, ψτ) に関する f の局所座標表示という。", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "座標変換を考えるために f(U1) ⊆ (V1) , f(U2) ⊆ (V2) とし、 U1 ∩ U2 が空でないとする。 U1 ∩ U2 に対して、座標近傍 (U1, φ1) と (V1, ψ1) での写像 f の表示", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "を座標変換を用いて座標近傍 (U2, φ2) と (V2, ψ2) に関する表示に変換すると", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "それぞれの括弧は、座標系から座標系への写像になっている。左端の括弧は (M2,T) での座標変換なので C 級、右端の括弧は (M1,S) での座標変換なので C 級である。このことからs と t の小さい方( s = t ならばその値)を u として、この合成写像の微分可能性は高々 C 級であり、 u + 1 回以上の連続微分可能性を仮定することは意味を持たない。", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "したがって", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "が C 級写像であるとは、任意の座標近傍に対し、そこでの局所座標表示が C 級写像であることと定義される。ただし 0 ≤ r ≤ u = min{s,t} とする。", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1 ≤ r ≤ u の時", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "が全単射で f とその逆写像 f がともに C 級写像であるとき、 f を C 級微分同相写像 (C diffeomorphism) という。f が C 級微分同相写像であれば、f も明らかに C 級微分同相写像である。", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "M1 と M2 の間に C 級微分同相写像が存在するとき M1 と M2 は互いに C 級微分同相 (C diffeomorphic) であるという。", "title": "多様体の間の写像" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "R の開区間 I = (a, b) から C 級多様体 M への C 級写像", "title": "多様体上の曲線" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "のことを、 C 級曲線 (C-curve) という (0 ≤ r ≤ s)。", "title": "多様体上の曲線" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "{ φ(t) ∈ M | t ∈ I} という点の集合を曲線というのではなく、写像 φ を曲線というのである。なお、φ の変数 t を媒介変数という。", "title": "多様体上の曲線" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "とする。φ が 開区間 I = (a,b) で定義された C 級曲線であるとき、 I に含まれる閉区間 [c,d] や 半開区間 [c,d), (c,d] に φ の定義域を制限して得られる写像も C 級曲線という。", "title": "多様体上の曲線" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "多様体の歴史はゲッティンゲンで行われたリーマンの講演に始まる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "多様体論は、ロバチェフスキーの双曲幾何学によって始まった非ユークリッド幾何学やガウスの曲面論を背景として様々な幾何学を統一し、 n 次元の幾何学へと飛躍させた。発見当初はカント哲学に打撃を与えた非ユークリッド幾何学も多様体論の一例でしかなくなってしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "リーマンがゲッティンゲン大学の私講師に就任するために行った講演『幾何学の基礎に関する仮説について』の中で「何重にも拡がったもの」と表現した概念が n 次元多様体のもとになり n 次元の幾何学に関する研究が始まった。この講演を聴いていたガウスがその着想に夢中になり、(ガウスは普段はあまり表立って他人を褒めることはなかったが、)リーマンの着想がいかに素晴らしいかを同僚に語り続けたり、帰り道にうわの空で道端の溝に落ちたりしたと言われている。", "title": "歴史" } ]
多様体とは、解析学(微分積分学、複素解析)を展開するために必要な構造を備えた空間のことである(ただし位相多様体は出来ない。ただ、単に多様体と言った場合、可微分多様体か複素多様体のことを指す場合が多い)。それは局所的にユークリッド空間と見なせるような図形や空間(位相空間)として定義される。多様体上には好きなところに局所的に座標を描き込むことができる。
{{参照方法|date=2015年11月}} [[File:Manifold zahyou1.png|thumb|right|好きなところに座標を描ける多様体]] '''多様体'''(たようたい、{{lang-en-short|manifold}}, {{lang-de-short|Mannigfaltigkeit}})とは、解析学([[微分積分学]]、[[複素解析]])を展開するために必要な構造を備えた空間のことである(ただし位相多様体においてはその限りではない。ただ、単に多様体と言った場合、可微分多様体か[[複素多様体]]のことを指す場合が多い)。それは局所的に[[ユークリッド空間]]と見なせるような図形や空間([[位相空間]])として定義される。多様体上には好きなところに局所的に[[座標]]を描き込むことができる。 == 直感的な説明 == [[File:Polar stereographic projections.jpg|thumb|right|地球の地図]] 多様体に座標を描くという作業は地球上の地図を作る作業に似ている。地図の上の点は地球上の点に対応し、さらに地面には描かれていない緯線や経線を地図に描き込むことによって、地図に描いてある地域の様子が分かりやすくなる。座標の無い地球上の様子は、人間が作った座標のある地図と対応させることによって非常に把握しやすくなる。 地球は球であり、世界地図を一枚の平面的な地図におさめようとすれば、南極大陸が肥大化したり、地図の端の方では一枚の地図の中に(連続性を表現するために)同じ地点が複数描き込まれたりする。世界地図をいくつかの小さな地図に分割すると、こういった奇妙なことはある程度回避できる。例えば、北極を中心とした地図、南極を中心とした地図、ハワイを中心とした地図、ガーナを中心とした地図…… などのように分割できる。そして隣り合った地図の繋がりをそれぞれの地図に同じ地域を含めることで表現すればよい。こうすることによって異なる地図同士では重複する部分が出てきてしまうものの、一枚の地図の中に同じ地域が 2 箇所以上描かれることをなくすことはできる。 地球と同じように多様体は好きなところに小さな地図(局所座標系)が描ける図形である。逆に、このような小さな地図を繋げていったら全体としてどのような図形ができあがるのか?という問題は[[位相幾何学]]の重要な問題の一つでもある。地図だけみれば地球をまねて作っているような[[コンピューターRPG|ゲーム]](例えば、ファミコン版の[[ドラゴンクエストシリーズ]]<ref>参照:[https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_15/12/notes/ja/12tsuboi.pdf 坪井俊・東京大学大学院数理科学研究科教授の資料]</ref>)の世界が、実は[[球面]]ではなく平坦[[トーラス]]だったということもある。 多様体は性質のよい図形であり、多様体でない図形も多く存在する。円や球や多角形、多面体などは全て多様体として扱えるが、[[ペアノ曲線]]や[[フラクタル]]などは適当な地図を描くことはできず、多様体にはならない。 == 定義 == 多様体の定義で重要な点は、多様体の上にいかにして座標系を貼り付けるか?ということと、どのような座標系を用いたとしても計算に違いが現れないようにすることである。多様体は計算したいときに座標を導入でき、しかもどのような座標系で計算したとしても違いがない、すなわち座標系に依存しないという非常に扱いやすい性質が追求された図形である。 ここでいう計算とは[[関数 (数学)|関数]]や[[空間ベクトル|ベクトル]]、それらの[[微分]]、[[積分]]などの[[ユークリッド空間]]の上で普通に行われているような座標を用いた計算のことである。 === 局所座標系 === [[File:Manifold zahyou2.png|thumb|同相写像 &phi; とその逆写像 &phi;<sup>−1</sup> で対応付けられた(座標の無い)集合 {{math|''U''}} と(座標のある)集合 {{math|''U'' '}}]] {{math|''M''}} を[[位相空間]]とする。{{math|''M''}} の[[開集合]] {{math|''U''}} に対して、{{math|''m''}} 次元[[ユークリッド空間]]の開集合 {{math|''U'' '}} への [[同相写像]] : <math>\varphi \colon U \to U'</math> を'''局所座標系''' (local coordinate system) あるいは(局所)'''チャート''' (chart) という。 {{math|''a''}} &isin; {{math|''M''}} に対し、&phi;({{math|''a''}}) を'''局所座標''' (local coordinates) という。局所座標は、ユークリッド空間の点として見たときの特定の座標すなわち {{math|''m''}} 個の数の組 (&phi;<sub>1</sub>({{math|''a''}}), ..., &phi;<sub>''m''</sub>({{math|''a''}})) であるのに対し、局所座標系は、{{math|''U''}} 上で定義された {{math|''m''}} 個の関数 (&phi;<sub>1</sub>, ..., &phi;<sub>''m''</sub>) の組である。 局所座標を用いることにより {{math|''U''}} 上の点を {{math|''m''}} 次元ユークリッド空間の点であるかのように扱うことが可能になる。{{math|''U''}} 上に局所座標系 &phi; が定義されていることを ({{math|''U''}}, &phi;) という対で表し、これを {{math|''m''}} 次元'''座標近傍''' (''coordinate neighborhood'') あるいは'''チャート'''という。局所座標系の成分を明示的に ({{math|''U''}};&phi;<sub>1</sub>, ..., &phi;<sub>''m''</sub>) のように書き表すこともある。 [[画像:Manifold zahyou3.png|thumb|300px|right| ''U''&cap;''V''は、 &phi;(''U''&cap;''V'') と &psi;(''U''&cap;''V'') の 2 通りの局所座標で表されているが局所座標同士は座標変換で写り合う]] ''M'' の二つの座標近傍 ({{math|''U''}},&phi;) と ({{math|''V''}},&psi;) について、 {{math|''U''}} &cap; {{math|''V''}} が空でないとする。局所座標系 &phi; と &psi; は {{math|''U''}} と {{math|''V''}} をそれぞれ {{math|''m''}} 次元ユークリッド空間の開集合 {{math|''U'' ', ''V'' '}} に写すとする。すなわち :<math>\varphi \colon U \to U',</math> : <math>\psi \colon V \to V'</math> である。このとき : <math>\psi \circ \varphi ^{-1} \colon \varphi(U\cap V) \to \psi(U\cap V)</math> は、{{math|''m''}} 次元ユークリッド空間の開集合から開集合への同相写像になる。この写像を ({{math|''U''}}, &phi;) から ({{math|''V''}}, &psi;) への'''座標変換''' (coordinate transformation) という。座標変換を用いれば、同じ開集合 {{math|''U''}} &cap; {{math|''V''}} に定義された異なる局所座標 &phi; と &psi; を同じものとして扱うことができる。 座標変換はまず &phi;<sup>&minus;1</sup> で {{math|''M''}} に戻してから &psi; によって座標のある集合 {{math|''V'' '}} に写す写像である。間に座標が決められていない空間 {{math|''M''}} を挟む形になっているものの、座標変換全体はユークリッド空間の部分集合 {{math|''U'' '}} からユークリッド空間の部分集合 {{math|''V'' '}} への写像になっている。すなわち {{math|''M''}} を経由しているという事実を無視し、座標変換を合成写像としてではなく全体で 1 つの写像として捉えると、それは普通のユークリッド空間からユークリッド空間への写像である。 {{math|''m''}} 次元座標近傍の族 {{math|''S''}} = {(''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) | &lambda; &isin; &Lambda;} が {{math|''M''}} 全体を覆っているとする: :<math> M = \bigcup_{\lambda\in\Lambda} U_\lambda.</math> このとき、{{math|''S''}} を'''座標近傍系''' (system of coordinate neighborhoods) あるいは'''アトラス''' (atlas) という。アトラスというのは[[地図帳]]のことで、局所的な地図であるチャートをいくつも集めて作った地図帳という意味である。 === 位相多様体 === ''M'' を[[ハウスドルフ空間]]とする。''M'' の任意の点 ''a'' に対して、''a'' を含む ''m'' 次元座標近傍 (''U'', &phi;) が存在するとき、''M'' を(境界のない)''m'' 次元'''[[位相多様体]]''' (topological manifold) という。 これまで、局所座標 &phi;(''a'') はユークリッド空間 '''R'''<sup>''m''</sup> に値を取ると考えてきたが、代わりに[[半空間]] ''H''<sup>''m''</sup> = {(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>, ..., ''x''<sub>''m''</sub>) &isin; '''R'''<sup>''m''</sup> | ''x''<sub>''m''</sub> &ge; 0} に値を取ると考え局所座標の定義を修正すると境界のある位相多様体が定義される。 ''N'' をハウスドルフ空間とし、''N'' の任意の点 ''a'' に対して、''a'' を含む ''m '' 次元座標近傍 (''U'', &phi;) が存在するとする。 半空間 ''H''<sup>''m''</sup> = {(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>, ..., ''x''<sub>''m''</sub>) &isin; '''R'''<sup>''m''</sup> | ''x''<sub>''m''</sub> &ge; 0} の部分空間として ''G''<sup>''m''−1</sup> = {(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>, ..., ''x''<sub>''m''</sub>) &isin; '''R'''<sup>''m''</sup> | ''x''<sub>''m''</sub> = 0} を取ればそれは '''R'''<sup>''m''−1</sup> になる。 ''N'' の座標近傍系 ''S'' = {(''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) |&lambda; &isin; &Lambda;} に対し、各座標近傍 (''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) : <math>\varphi_{\lambda} : U_{\lambda} \to U'_{\lambda} \sub H^m </math> において ''W''<sub>&lambda;</sub> = { ''a'' &isin; ''U''<sub>&lambda;</sub> | &phi;<sub>&lambda;</sub>(''a'') &isin; ''G''<sup>''m''−1</sup>} という集合を考えたとき : <math> \partial N := \bigcup_{\lambda\in\Lambda} W_\lambda</math> を ''N'' の'''境界'''という。∂''N'' が空でないとき ''N'' を '''境界のある''' ''m'' 次元'''位相多様体'''という。境界のある ''m'' 次元位相多様体の境界は ''m'' − 1 次元位相多様体になる。 === 可微分多様体 === ''m'' 次元位相多様体 ''M'' の座標近傍系 ''S'' = {(''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) | &lambda; &isin; &Lambda;} の任意の 2 つの座標近傍 (''U''<sub>1</sub>, &phi;<sub>1</sub>), (''U''<sub>2</sub>, &phi;<sub>2</sub>) に対し、''U''<sub>1</sub> &cap; ''U''<sub>2</sub> が空でないならば座標変換 : <math>\varphi_1 \circ \varphi_2^{-1} : \varphi_2(U_1\cap U_2) \to \varphi_1(U_1\cap U_2)</math> のすべての成分が、''C''<sup>''n''</sup> 級関数(''n'' 回[[連続微分可能関数]]、すなわち ''n'' 回微分可能でありかつ ''n'' 階偏導関数がすべて連続となるような関数)となるとき、''S'' を ''C''<sup>''n''</sup> '''級座標近傍系'''という。 ''m'' 次元位相多様体 ''M'' が、''C''<sup>''n''</sup> 級座標近傍系を持つとき、 ''M''を ''C''<sup>''n''</sup> 級 ''m'' 次元'''[[微分可能多様体]]'''(あるいは'''可微分多様体'''、differentiable manifold of class ''C''<sup>''n''</sup>) という。微分可能とか、可微分といった言葉を省略して ''C''<sup>''n''</sup> 級多様体ということもある。位相多様体のことを、座標変換の微分可能性を仮定しないという意味で ''C''<sup>0</sup> 級多様体と呼ぶこともある。 ''C''<sup>&infin;</sup> 級多様体のことを'''滑らかな多様体'''とも呼ぶ。特に ''n'' = &omega; すなわち、全ての座標変換が実[[解析関数]]であるときは特に'''解析多様体''' (analytic manifold) という。 ここで、自然数 ''s'', ''t'' が ''s'' &le; ''t'' を満たすとき、定義より、''C''<sup>''t''</sup> 級関数は ''C''<sup>''s''</sup> 級関数である。 : 例えば 5 回連続微分可能な関数は、4 回連続微分可能な関数でもある。 このことから、''C''<sup>''t''</sup> 級微分可能多様体は ''C''<sup>''s''</sup> 級微分可能多様体でもある。 微分可能多様体は、''C''<sup>''n''</sup> 級座標近傍系 ''S''の取り方によってはまったく別の多様体になってしまうので、 位相多様体 ''M'' と座標近傍系 ''S'' を対にして (''M'', ''S'') と書くこともある。この意味で ''S'' は位相多様体 ''M'' に ''C''<sup>''n''</sup> '''級可微分構造''' (differentiable structure of class ''C''<sup>''n''</sup>) を定めると表現されることもある。 : 座標近傍系同士の関係や性質など座標近傍系の基本的な性質に関わることを論じる場合に、(''M'', ''S'') と明示すると分かりやすい。 === 極大座標近傍系 === ''m'' 次元位相多様体 ''M'' に対し ''C''<sup>''n''</sup> 級座標近傍系として ''S'' と ''T'' の 2つを取るとする。和集合 ''S'' &cup; ''T'' が再び ''M'' の''C''<sup>''n''</sup> 級座標近傍系になるとき、 ''S'' と ''T'' は'''同値'''であるという。これは[[同値関係]]を定める。これは ''S'' に属する座標近傍と ''T'' に属する座標近傍の間にも座標変換が存在し ''S'' での計算と ''T'' での計算に違いが無いという性質を保証するための同値関係である。 さらに、 ''M'' 上の ''S'' と同値な ''C''<sup>''n''</sup> 級座標近傍系全ての和集合を取ることによって得られる ''F'' = ''F''(''S'') を ''S'' によって生成された ''M'' の ''C''<sup>''n''</sup> 級'''極大座標近傍系'''あるいは ''M'' の ''C''<sup>''n''</sup> 級'''微分構造'''という。定義により、同じ微分構造を定める座標近傍系同士は同値である。 こうして座標近傍系の取り方に依存しない ''C''<sup>''n''</sup> 級多様体が定義される。''m'' 次元位相多様体 ''M'' 上に互いに微分同相でない複数の微分構造が存在することもある。 == 多様体の例 == === アフィン空間 === 多様体の例でもっとも簡単なものは、 ''m'' 次元ユークリッド空間 '''R'''<sup>''m''</sup> に座標近傍系として ''S''<sub>1</sub> = {('''R'''<sup>''m''</sup>, ''id'')} をいれたものである。ここで ''id'' は[[恒等写像]] : ''id'': '''R'''<sup>''m''</sup> &rarr; '''R'''<sup>''m''</sup> : ''id''(''x'') = ''x'' すなわち ''x'' &isin; '''R'''<sup>''n''</sup> に対して ''x'' をそのまま返す写像である。最初から座標が描かれているのだからそれをそのまま使えばよく、この場合は座標近傍が 1 つしかないので座標変換が不要である。恒等写像はもちろん解析的なので ('''R'''<sup>m</sup>,''S''<sub>1</sub>) は ''m'' 次元解析多様体である。このように '''R'''<sup>''m''</sup> を微分可能多様体として捉えたものを'''[[アフィン空間]]'''という。 話をさらに簡明にするために ''m'' = 1 とする。すなわち数直線 '''R'''<sup>1</sup> について考える。上に書いたとおり ''S''<sub>1</sub> = {('''R'''<sup>''1''</sup>, ''id'')} として、 ('''R'''<sup>1</sup>,''S''<sub>1</sub>) は 1 次元解析多様体となる。 [[整数]] ''i'' に対して [[区間 (数学)|開区間]] ''U''<sub>''i''</sub> = (''i'' − 1, ''i'' + 1) を取る。 ''x'' &isin; ''U''<sub>''i''</sub> に対し 写像 &phi;<sub>''i''</sub> を : &phi;<sub>''i''</sub>(''x'') = ''x'' &minus; ''i'' &isin; (&minus;1 , +1) で定めると &phi;<sub>''i''</sub> は ''U''<sub>''i''</sub> の局所座標系になり、 ''S''<sub>2</sub> = {(''U''<sub>''i''</sub>,&phi;<sub>''i''</sub>)| ''i'' &isin; '''Z'''} としたとき、 ('''R'''<sup>1</sup>,''S''<sub>2</sub>) も 1 次元解析多様体である。例えば ''U''<sub>''i''</sub> &cap; ''U''<sub>''i'' + 1</sub> = (''i'',''i'' + 1) で座標近傍 (''U''<sub>''i''</sub>,&phi;<sub>''i''</sub>) から座標近傍 (''U''<sub>''i'' + 1</sub>,&phi;<sub>''i'' + 1</sub>) への座標変換は : <math>\varphi_{i+1} \circ \varphi_{i}^{-1}(x) = x-1</math> で与えられる。なお ''S''<sub>1</sub> と ''S''<sub>2</sub> は同値な座標近傍系である。 === 開部分多様体 === ''S''<sub>1</sub> = {(''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) | &lambda; &isin; &Lambda;} を座標近傍系にもつ ''m'' 次元 ''C''<sup>''n''</sup> 級多様体 (''M''<sub>1</sub>,''S''<sub>1</sub>)と、 ''M'' の(空でない)開集合Vに対して ''S''<sub>2</sub> = {(''U''<sub>&lambda;</sub> &cap; V, &phi;<sup>''v''</sup><sub>&lambda;</sub>) | &lambda; &isin; &Lambda;} を考える。ただし、 &phi;<sup>''v''</sup><sub>&lambda;</sub> は、 &phi; の定義域を ''U''<sub>&lambda;</sub> から ''U''<sub>&lambda;</sub> &cap; V に制限しただけの写像で、本質的には &phi; となんら変わりのない写像である。 このとき (''V'', S<sub>2</sub>) も ''m'' 次元 ''C''<sup>''n''</sup> 級多様体となる。この多様体を (''M''<sub>1</sub>,''S''<sub>1</sub>) の'''開部分多様体''' (open submanifold) という。 '''R'''<sup>1</sup> の開集合である [[区間 (数学)|開区間]] (''a'',''b'') は '''R'''<sup>1</sup> の開部分多様体である。 '''R'''<sup>2</sup> の開集合である 開円板 {(''x''<sub>1</sub>,''x''<sub>2</sub>)|''x''<sup>2</sup><sub>1</sub>+''x''<sup>2</sup><sub>2</sub> < 1} は '''R'''<sup>2</sup> の開部分多様体である。 というように、多様体に含まれる開集合に多様体を制限したものが開部分多様体である。 === 円周と球面 === [[単位円]] : ''S''<sup>1</sup> = {(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>) &isin; '''R'''<sup>2</sup> | ''x''<sub>1</sub><sup>2</sup> + ''x''<sub>2</sub><sup>2</sup> = 1} を考える。単位円は次の 4 つの[[開近傍]]で覆うことができる。 : ''U''<sub>1</sub><sup>+</sup> = {(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>) &isin; ''S''<sup>1</sup> | ''x''<sub>1</sub> &gt; 0} : ''U''<sub>1</sub><sup>&minus;</sup> = {(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>) &isin; ''S''<sup>1</sup> | ''x''<sub>1</sub> &lt; 0} : ''U''<sub>2</sub><sup>+</sup> = {(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>) &isin; ''S''<sup>1</sup> | ''x''<sub>2</sub> &gt; 0} : ''U''<sub>2</sub><sup>&minus;</sup> = {(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>) &isin; ''S''<sup>1</sup> | ''x''<sub>2</sub> &lt; 0} それぞれに局所座標系を次の様に定める。ただし ''I'' = ( &minus; 1,1) とする。 : &phi;<sub>1</sub><sup>+</sup>: ''U''<sub>1</sub><sup>+</sup> &rarr; ''I'' , &phi;<sub>1</sub><sup>+</sup>(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>) = ''x''<sub>2</sub> : &phi;<sub>1</sub><sup>&minus;</sup>: ''U''<sub>1</sub><sup>&minus;</sup> &rarr; ''I'' , &phi;<sub>1</sub><sup>&minus;</sup>(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>) = ''x''<sub>2</sub> : &phi;<sub>2</sub><sup>+</sup>: ''U''<sub>2</sub><sup>+</sup> &rarr; ''I'' , &phi;<sub>2</sub><sup>+</sup>(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>) = ''x''<sub>1</sub> : &phi;<sub>2</sub><sup>&minus;</sup>: ''U''<sub>2</sub><sup>&minus;</sup> &rarr; ''I'' , &phi;<sub>2</sub><sup>&minus;</sup>(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>) = ''x''<sub>1</sub> そして座標近傍系を : ''T'' = {(''U''<sub>1</sub><sup>+</sup>,&phi;<sub>1</sub><sup>+</sup>), (''U''<sub>1</sub><sup>&minus;</sup>,&phi;<sub>1</sub><sup>&minus;</sup>), (''U''<sub>2</sub><sup>+</sup>,&phi;<sub>2</sub><sup>+</sup>), (''U''<sub>2</sub><sup>&minus;</sup>,&phi;<sub>2</sub><sup>&minus;</sup>)} と取れば、(''S''<sup>1</sup>,''T'') は 1 次元解析多様体になる。 ''m'' 次元[[単位球面]] : ''S''<sup>''m''</sup> = {(''x''<sub>1</sub>, ..., ''x''<sub>''m''</sub>, ''x''<sub>''m''+1</sub>) &isin; '''R'''<sup>''m''+1</sup> | ''x''<sub>1</sub><sup>2</sup> + &hellip; + ''x''<sub>''m''</sub><sup>2</sup> + ''x''<sub>''m''+1</sub><sup>2</sup> = 1} についても同じようにして 2(m+1)個の開近傍で覆うことができ、それぞれの開近傍は ''m'' 次元[[球体|開球]]と同相であるので、局所座標系を定めることができ ''m'' 次元解析多様体になる。 === 積多様体 === ''S''<sub>1</sub> = {(''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) | &lambda; &isin; &Lambda;} を座標近傍系にもつ ''a'' 次元 ''C''<sup>''n''</sup> 級多様体 (''M''<sub>1</sub>,''S''<sub>1</sub>) と ''S''<sub>2</sub> = {(''V''<sub>&tau;</sub>, &psi;<sub>&tau;</sub>) | &tau; &isin; &Tau;} を座標近傍系に持つ ''b'' 次元 ''C''<sup>''n''</sup> 級多様体 (''M''<sub>2</sub>,''S''<sub>2</sub>) を考える。 [[直積集合]] ''M''<sub>1</sub> &times; ''M''<sub>2</sub> は[[直積位相]]によってハウスドルフ空間となる。それぞれの座標近傍 (''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) と (''V''<sub>&tau;</sub>, &psi;<sub>&tau;</sub>) に対し、開集合 ''U''<sub>&lambda;</sub> と ''V''<sub>&tau;</sub> の直積 ''U''<sub>&lambda;</sub> &times; ''V''<sub>&tau;</sub> とその上で定義された写像 &phi;<sub>&lambda;</sub> &times; &psi;<sub>&tau;</sub> によって座標近傍同士の直積 (''U''<sub>&lambda;</sub> &times; ''V''<sub>&tau;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub> &times; &psi;<sub>&tau;</sub>) が定義される。 ここで ''U''<sub>&lambda;</sub> &times; ''V''<sub>&tau;</sub> は、 ''p'' &isin; ''U''<sub>&lambda;</sub> と ''q'' &isin; ''V''<sub>&tau;</sub> を取ったときの (''p'',''q'') という組の全体である。写像の直積 &phi;<sub>&lambda;</sub> &times; &psi;<sub>&tau;</sub> は ''U''<sub>&lambda;</sub> &times; ''V''<sub>&tau;</sub> の上で定義された [[File:torus_cycles.png|thumb|2 次元多様体の例:トーラス]] : (&phi;<sub>&lambda;</sub> &times; &psi;<sub>&tau;</sub>)(''p'',''q'') = (&phi;<sub>&lambda;</sub>(''p''), &psi;<sub>&tau;</sub>(''q'')) という写像である。 : この式の右辺は成分で表せば (&phi;<sub>1</sub>(''p''),&phi;<sub>2</sub>(''p''), &hellip; ,&phi;<sub>''a''</sub>(''p''), &psi;<sub>1</sub>(''p''),&psi;<sub>2</sub>(''p''), &hellip; ,&psi;<sub>''b''</sub>(''p'')) のことであり、単に成分を並べたものと考えてよい。 このように座標近傍同士の直積によって座標近傍系 ''S''<sub>3</sub> = {(''U''<sub>&lambda;</sub> &times; ''V''<sub>&tau;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub> &times; &psi;<sub>&tau;</sub>) | &lambda; &isin; &Lambda; , &tau; &isin; &Tau;} を定めたとき、 (''M''<sub>1</sub> &times; ''M''<sub>2</sub>, ''S''<sub>3</sub>) は、 ''a'' + ''b'' 次元 ''C''<sup>''n''</sup> 級多様体になる。この (''M''<sub>1</sub> &times; ''M''<sub>2</sub>, ''S''<sub>3</sub>) を (''M''<sub>1</sub>,''S''<sub>1</sub>) と (''M''<sub>2</sub>,''S''<sub>2</sub>) の'''積多様体''' (product manifold) という。同様にして ''M''<sub>1</sub> &times; ''M''<sub>2</sub> &times; &hellip; &times; ''M''<sub>m</sub> というような、 3 つ以上の多様体から作られる積多様体も定義できる。 [[直線]]と円周の直積 '''R'''<sup>1</sup> &times; ''S''<sup>1</sup> を考えれば、直線を軸とした無限に伸びる[[円柱 (数学)|円柱]]の側面を多様体と見ることもできるし、円周同士の直積 ''T''<sup>2</sup> = ''S''<sup>1</sup> &times; ''S''<sup>1</sup> を考えれば[[トーラス]]を多様体とみることもできる。 === その他の例 === * [[射影空間]]: ''n'' 次元[[ベクトル空間]]の 1 次元部分空間全体を[[射影空間]]という。 原点を通る直線は :''y''='''m''' ''x'' のように書かれるが、これらの直線は'''m'''の値と対応し、あらためて一つの点と考えることができる。直線の集合は図形ではないが、このように直線を点に読み替えることで直線のなす集合にも適当な座標系を入れることができ、多様体という図形として扱えるようになる。 == 多様体上の関数 == ''m'' 次元 ''C''<sup>''n''</sup> 級多様体 ''M'' 上で定義された[[関数 (数学)|実数値関数]] ''f'' を考える。 : ''f'': ''M'' &rarr; '''R''' これは、多様体上の点 ''p'' &isin; ''M'' に対して実数値 ''f''(''p'') を対応させる関数である。特定の局所座標を考えているわけではないので、この関数の変数は (''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>, ..., ''x''<sub>''m''</sub>) のように[[数]]を並べた座標ではなく単に点を表している。 多様体上には局所座標を貼ることができるためこの座標を用いた微積分などの計算が可能である。 ''M'' には座標近傍系 ''S'' = {(U<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) | &lambda; &isin; &Lambda;} が与えられていて : <math>\varphi_{\lambda} : U_{\lambda} \to U'_{\lambda} </math> とすれば : <math> f \circ \varphi^{-1}_{\lambda} : U'_{\lambda} \to R</math> つまり ''q'' = &phi;<sub>&lambda;</sub>(''p'') &isin; ''U''&prime;<sub>&lambda;</sub> に対し : <math> f \circ \varphi^{-1}_{\lambda}(q)= f(\varphi^{-1}_{\lambda}(q)) = f(p) </math> である。この ''U''&prime;<sub>&lambda;</sub> はユークリッド空間の部分集合なので その点である ''q'' は (''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>, ..., ''x''<sub>''m''</sub>) のように数を並べた座標で表すことができ、この座標を用いて微積分などの計算が可能になる。座標近傍 (U<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) においてその座標を用いて具体的に ''f''(''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>, ..., ''x''<sub>''m''</sub>) のように書かれた関数を (U<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) に関する ''f'' の'''局所座標表示'''という。 ところで、多様体上の計算はなるべく局所座標のとり方に依存しないような計算をしたいという目標があるので ''U''<sub>1</sub> &cap; ''U''<sub>2</sub> 上では、座標近傍 (''U''<sub>1</sub>, &phi;<sub>1</sub>), (''U''<sub>2</sub>, &phi;<sub>2</sub>) のそれぞれの計算は座標変換でうつり合う必要がある。 座標近傍 (''U''<sub>1</sub>, &phi;<sub>1</sub>) での関数の表示 : <math> f \circ \varphi^{-1}_{1} : \varphi_1(U_{1}\cap U_{2}) \to R</math> を座標近傍 (''U''<sub>2</sub>, &phi;<sub>2</sub>) での表示に変換すると : <math>(f \circ \varphi^{-1}_{1}) \circ (\varphi_1 \circ \varphi_2^{-1}) : \varphi_2(U_1\cap U_2) \to R </math> 真ん中に挟まれた、 &phi;<sub>1</sub><sup>−1</sup> と &phi;<sub>1</sub> は写像として打ち消しあうように見えるが、微分可能性を検証したいのでここではあえてしない。''C''<sup>''n''</sup> 級多様体の座標変換は ''C''<sup>''n''</sup> 級であるから、この合成関数の微分可能性も[[高々 (数学)|高々]] ''C''<sup>''n''</sup> 級であるとしか言えず、座標変換によっては ''n'' + 1 回以上の微分は不可能である場合もあるかもしれないので意味がない。したがって、''C''<sup>''n''</sup> 級多様体上での関数は ''C''<sup>''n''</sup> 級までしか意味を持たない。もちろん、ある特定の座標近傍だけで定義された関数に ''n'' + 1 回以上微分できる関数を定義することはできるが、それはその座標近傍だけでの性質であり、''C''<sup>''n''</sup> 級多様体という図形の性質とは異なるものになる。 したがって : ''f'': ''M'' &rarr; '''R''' が ''C''<sup>''s''</sup> 級関数であるとは、任意の座標近傍に対し、そこでの局所座標表示が ''C''<sup>''s''</sup> 級関数であることと定義される。ただし 0 &le; s &le; ''n'' とする。 ''M'' 上の ''C''<sup>''s''</sup> 級関数の全体を ''C''<sup>''s''</sup>(''M'') と表すことがある。 == 多様体の間の写像 == ''m''<sub>1</sub> 次元 ''C''<sup>''s''</sup> 級多様体 (''M''<sub>1</sub>,''S'') から ''m''<sub>2</sub> 次元 ''C''<sup>''t''</sup> 級多様体 (''M''<sub>2</sub>,''T'') への写像 ''f'' を考える。 : ''f'': ''M''<sub>1</sub> &rarr; ''M''<sub>2</sub> それぞれの多様体に与えられている座標近傍系が ''S'' = {(''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) | &lambda; &isin; &Lambda;} , ''T'' = {(''V''<sub>&tau;</sub>, &psi;<sub>&tau;</sub>) | &tau; &isin; &Tau;} で定められているとする。多様体上の関数と同じように、写像も座標を用いて表現することができる。関数の場合と違うのは写像でうつる先でも座標について考えなければならないことである。 : ''M''<sub>2</sub> = '''R''' という「特別な」場合の写像が関数になる。 ''f''(''U''<sub>&lambda;</sub>) &sube; (''V''<sub>&tau;</sub>) とし ''f'' を (''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) から (''V''<sub>&tau;</sub>, &psi;<sub>&tau;</sub>) への写像として座標を用いて書くとすると : <math>\varphi_{\lambda} : U_{\lambda} \to U'_{\lambda} </math> : <math>\psi_{\tau} : V_{\tau} \to V'_{\tau} </math> とすれば : <math> \psi_{\tau} \circ f \circ \varphi^{-1}_{\lambda} : U'_{\lambda} \to V'_{\tau} </math> となる。 これが具体的に座標の成分を用いて : &psi;<sub>1</sub> = ''f''(&phi;<sub>1</sub>, ..., &phi;<sub>''m''</sub>) : &psi;<sub>2</sub> = ''f''(&phi;<sub>1</sub>, ..., &phi;<sub>''m''</sub>) : ... : &psi;<sub>n</sub> = ''f''(&phi;<sub>1</sub>, ..., &phi;<sub>''m''</sub>) のように表現されているとき、 この表示を (''U''<sub>&lambda;</sub>, &phi;<sub>&lambda;</sub>) と (''V''<sub>&tau;</sub>, &psi;<sub>&tau;</sub>) に関する ''f'' の'''局所座標表示'''という。 座標変換を考えるために ''f''(''U''<sub>1</sub>) &sube; (''V''<sub>1</sub>) , ''f''(''U''<sub>2</sub>) &sube; (''V''<sub>2</sub>) とし、 ''U''<sub>1</sub> &cap; ''U''<sub>2</sub> が空でないとする。 ''U''<sub>1</sub> &cap; ''U''<sub>2</sub> に対して、座標近傍 (''U''<sub>1</sub>, &phi;<sub>1</sub>) と (''V''<sub>1</sub>, &psi;<sub>1</sub>) での写像 ''f'' の表示 : <math> \psi_{1} \circ f \circ \varphi^{-1}_{1} : \varphi_1(U_{1}\cap U_{2}) \to \psi_1(V_{1}\cap V_{2}) </math> を座標変換を用いて座標近傍 (''U''<sub>2</sub>, &phi;<sub>2</sub>) と (''V''<sub>2</sub>, &psi;<sub>2</sub>) に関する表示に変換すると : <math>(\psi_2 \circ \psi_1^{-1}) \circ (\psi_1 \circ f \circ \varphi^{-1}_{1}) \circ (\varphi_1 \circ \varphi_2^{-1}) : \varphi_2(U_1\cap U_2) \to \psi_2(V_1\cap V_2) </math> それぞれの括弧は、座標系から座標系への写像になっている。左端の括弧は (''M''<sub>2</sub>,''T'') での座標変換なので ''C''<sup>''t''</sup> 級、右端の括弧は (''M''<sub>1</sub>,''S'') での座標変換なので ''C''<sup>''s''</sup> 級である。このことから''s'' と ''t'' の小さい方( ''s'' = ''t'' ならばその値)を ''u'' として、この合成写像の微分可能性は高々 ''C''<sup>''u''</sup> 級であり、 ''u'' + 1 回以上の連続微分可能性を仮定することは意味を持たない。 したがって : ''f'': ''M''<sub>1</sub> &rarr; ''M''<sub>2</sub> が ''C''<sup>''r''</sup> 級写像であるとは、任意の座標近傍に対し、そこでの局所座標表示が ''C''<sup>''r''</sup> 級写像であることと定義される。ただし 0 &le; ''r'' &le; ''u'' = min{''s'',''t''} とする。 1 &le; ''r'' &le; ''u'' の時 : ''f'': ''M''<sub>1</sub> &rarr; ''M''<sub>2</sub> が[[全単射]]で ''f'' とその逆写像 ''f''<sup>−1</sup> がともに ''C''<sup>''r''</sup> 級写像であるとき、 ''f'' を ''C''<sup>''r''</sup> 級'''[[微分同相写像]]''' (''C''<sup>''r''</sup> diffeomorphism) という。''f'' が ''C''<sup>''r''</sup> 級微分同相写像であれば、''f''<sup>−1</sup> も明らかに ''C''<sup>''r''</sup> 級微分同相写像である。 ''M''<sub>1</sub> と ''M''<sub>2</sub> の間に ''C''<sup>''r''</sup> 級微分同相写像が存在するとき ''M''<sub>1</sub> と ''M''<sub>2</sub> は互いに ''C''<sup>''r''</sup> 級'''微分同相''' (''C''<sup>''r''</sup> diffeomorphic) であるという。 == 多様体上の曲線 == '''R''' の開区間 ''I'' = (''a'', ''b'') から ''C''<sup>''s''</sup> 級多様体 ''M'' への ''C''<sup>''r''</sup> 級写像 : ''&phi;'': ''I'' &rarr; ''M'' のことを、 ''C''<sup>''r''</sup> 級[[曲線]] (''C<sup>r</sup>''-''curve'') という (0 &le; ''r'' &le; ''s'')。 { &phi;(''t'') &isin; ''M'' | t &isin; ''I''} という点の集合を曲線というのではなく、写像 ''&phi;'' を曲線というのである。なお、''&phi;'' の変数 ''t'' を[[媒介変数]]という。 : ''a'' &le; ''c'' &lt; ''d'' &le; ''b'' とする。&phi; が 開区間 ''I'' = (''a'',''b'') で定義された ''C''<sup>''r''</sup> 級曲線であるとき、 ''I'' に含まれる[[区間 (数学)|閉区間]] [''c'',''d''] や [[区間 (数学)|半開区間]] [''c'',''d''), (''c'',''d''] に &phi; の定義域を制限して得られる写像も ''C''<sup>''r''</sup> 級曲線という。 == 歴史 == 多様体の歴史は[[ゲッティンゲン]]で行われた[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]の講演に始まる。 多様体論は、ロバチェフスキーの[[双曲幾何学]]によって始まった[[非ユークリッド幾何学]]や[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]の[[曲面論]]を背景として様々な幾何学を統一し、 ''n'' 次元の幾何学へと飛躍させた。発見当初は[[イマヌエル・カント|カント]]哲学に打撃を与えた非ユークリッド幾何学も多様体論の一例でしかなくなってしまった。 リーマンが[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]の私講師に就任するために行った講演『幾何学の基礎に関する仮説について』の中で「何重にも拡がったもの」と表現した概念が ''n'' 次元多様体のもとになり ''n'' 次元の幾何学に関する研究が始まった。この講演を聴いていた[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]がその着想に夢中になり、(ガウスは普段はあまり表立って他人を褒めることはなかったが、)リーマンの着想がいかに素晴らしいかを同僚に語り続けたり、帰り道にうわの空で道端の溝に落ちたりしたと言われている。 === 年表 === * [[1826年]]『平行線公準の厳密な証明』(ロバチェフスキー) * [[1827年]]『曲面の研究』(ガウス) * [[1829年]]『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』(ロバチェフスキー) * [[1854年]][[6月10日]]『幾何学の基礎に関する仮説について』(リーマン) * [[1872年]][[エルランゲン目録]](クライン) * [[1895年]]『位置解析』([[アンリ・ポアンカレ]]) * [[1916年]][[一般相対性理論]]([[アルベルト・アインシュタイン]]) * [[1936年]]『微分可能多様体』([[ハスラー・ホイットニー]]) == 関連項目 == * [[接ベクトル空間]] * [[層 (数学)]] * [[ベクトル場]] * [[微分形式]] * [[代数多様体]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考文献 == {{Refbegin|2}} * {{cite book | 和書 | author=松島与三 | title=多様体入門 |series=数学選書, 5 | year=1965 | publisher=裳華房 |isbn=9784785313050 | ref=松島(1965) }} * {{cite book | 和書 | author=小笠英志 | title=多様体とは何か |series=ブルー・バックス | year=2021 | publisher=講談社 |isbn= | ref=小笠(2021) }} 一般向け入門書。 専門書を読む前か読み始めの時に読むと良いレベル。もしくは、専門書を読まないが多様体とはどういうものか知りたい人向け * {{cite book | 和書 | author=関沢正躬 | title=微分幾何学入門 | year=2003 | publisher=日本評論社 |isbn=4535783845 | ref=関沢(2003) }} * {{cite book |last=Freedman |first=Michael H.|last2=Quinn |first2=Frank |year=1990 |title=Topology of 4-Manifolds | publisher=Princeton University Press |isbn= 0-691-08577-3 }} * {{cite book |last=Guillemin |first=Victor |last2=Pollack |first2=Alan |year=1974 |title=Differential Topology | publisher=Prentice-Hall |isbn=0-13-212605-2 }} - Inspired by Milnor and commonly used in undergraduate courses. * {{cite book |last=Hempel |first=John |year=1976 |title=3-Manifolds |publisher=Princeton University Press |isbn=0-8218-3695-1 }} * {{cite book |last=Hirsch |first=Morris |year=1997 |title=3Differential Topology |publisher=Springer Verlag |isbn=0-387-90148-5 }} - The most complete account, with historical insights and excellent, but difficult, problems. The standard reference for those wishing to have a deep understanding of the subject. * {{cite book |last=Kirby |first=Robion C. |last2=Siebenmann |first2=Laurence C. |year=1977 |title=Foundational Essays on Topological Manifolds. Smoothings, and Triangulations |publisher=Princeton University Press |isbn=0-691-08190-5 }} - A detailed study of the [[:en:category theory|category]] of topological manifolds. * {{cite book |last=Lee |first=John M. |year=2000 |title=Introduction to Topological Manifolds |publisher=Springer-Verlag |isbn=0-387-98759-2 }} *{{citation |last = Lee |first = John M. |title = Introduction to Smooth Manifolds| publisher = Springer| year= 2002|isbn = 978-0-387-95448-6 }} * {{cite book |last=Lee |first=John M. |year=2003 |title=Introduction to Smooth Manifolds |publisher=Springer-Verlag |isbn=0-387-95495-3}} * {{cite book |last=Massey |first=William S. |year=1977 |title=Algebraic Topology: An Introduction |publisher=Springer-Verlag |isbn=0-387-90271-6}} * {{cite book |authorlink=ジョン・ウィラード・ミルナー|last=Milnor |first=John |year=1997 |title=Topology from the Differentiable Viewpoint |publisher=Princeton University Press |isbn=0-691-04833-9}} * {{cite book |last=Munkres |first=James R. |year=2000) ''|title=Topology''. |publisher=Prentice Hall |isbn=0-13-181629-2 }} *{{cite book |editor= Neuwirth, L. P. |year=1975 |title=Knots, Groups, and 3-Manifolds. Papers Dedicated to the Memory of R. H. Fox |publisher=Princeton University Press. |isbn=978-0-691-08170-0 }} * {{cite book |authorlink=ベルンハルト・リーマン |last=Riemann |first=Bernhard |title=Gesammelte mathematische Werke und wissenschaftlicher Nachlass |publisher=Sändig Reprint |isbn= 3-253-03059-8}} **''[http://www.maths.tcd.ie/pub/HistMath/People/Riemann/Grund/ Grundlagen für eine allgemeine Theorie der Functionen einer veränderlichen complexen Grösse.]'' The 1851 doctoral thesis in which "manifold" (''Mannigfaltigkeit'') first appears. **''[http://www.maths.tcd.ie/pub/HistMath/People/Riemann/Geom/ Ueber die Hypothesen, welche der Geometrie zu Grunde liegen.]'' The 1854 Göttingen inaugural lecture (''Habilitationsschrift''). * {{cite book |authorlink={{仮リンク|マイケル・スピヴァク|en|Michael Spivak}}|last=Spivak |first=Michael |year=1965 |title=Calculus on Manifolds: A Modern Approach to Classical Theorems of Advanced Calculus |publisher=HarperCollins Publishers |isbn=0-8053-9021-9 }} The standard graduate text. {{Refend}} ==外部リンク== * {{JGLOBAL ID|200906059264988595}} * {{kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たようたい}} [[Category:多様体論|*]] [[Category:数学に関する記事]]
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1735年
1735年(1735 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1735年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1735}} {{year-definition|1735}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]20年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2395年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[雍正]]13年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]11年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4068年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[龍徳 (黎朝)|龍徳]]4年、[[永佑]]元年5月 - * [[仏滅紀元]] : 2277年 - 2278年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1147年 - 1148年 * [[ユダヤ暦]] : 5495年 - 5496年 * [[ユリウス暦]] : 1734年12月21日 - 1735年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1735}} == できごと == * [[1月8日]] - [[ロンドン]]、[[コヴェント・ガーデン]]の[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]で、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]の「[[アリオダンテ]]」初演<ref name="Baxter">{{cite journal|last=Baxter|first=Robert|author-link=Robert Baxter (critic)|year=1985|title=''Ariodante''|journal=The Opera Quarterly|volume=3|issue=3|pages=191–192|doi=10.1093/oq/3.3.191}}</ref>。 *[[4月13日]]([[享保]]20年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]])- [[中御門天皇]]が[[桜町天皇]]に譲位。 *[[8月23日]] - [[パリ]]、[[パリ国立オペラ|アカデミー・ロワイヤル音楽院]]で、[[ジャン=フィリップ・ラモー]]の「[[優雅なインドの国々]]」初演。 *[[10月18日]] - [[清]]の[[乾隆帝]]が[[雍正帝]]の跡を継いで即位。 *[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]が、[[地球楕円体]]の形状についての論争に決着をつけるために[[ペルー]](現在の[[エクアドル]])と[[ラップランド]]([[トルネ谷]])に[[測量]]遠征隊を派遣し、[[赤道]]近傍と[[北極]]近傍の[[子午線弧]]長を比較した。この測量事業により、[[地球]]の数学的形状は[[扁球]]として解釈できることが確認された{{要出典|date=2021-03}}。 *[[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)]]([[露土戦争]])勃発。 == 誕生 == {{see also|Category:1735年生}} [[ファイル:ADAMS,John-President (BEP engraved portrait).jpg|サムネイル|ジョン・アダムズ - [[アメリカ合衆国製版印刷局]]作製]]<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]]([[享保]]19年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]])- [[皆川淇園]]、[[儒学者]](+ [[1807年]]) * [[4月1日]](享保20年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]])- [[加藤千蔭]]、[[国学者]]・[[歌人]](+ [[1808年]]) * [[8月21日]] - [[トバイアス・フルノー]]、航海者・海軍将校(+ [[1781年]]) * [[9月28日]] - [[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|オーガスタス・フィッツロイ]]、[[政治家]]、イギリス首相(+ [[1811年]]) * [[10月30日]] - [[ジョン・アダムズ]]、第2代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1826年]]) * [[12月29日]] - [[トーマス・バンクス]]、[[彫刻家]](+ [[1805年]]){{Clear}} == 死去 == {{see also|Category:1735年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[9月18日]](享保20年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - [[藤堂高治]]、[[伊勢国]][[津藩]]の第6代藩主・津藩の支藩である[[久居藩]]の第4代藩主(* [[1710年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1735}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1735ねん}} [[Category:1735年|*]]
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1601年
1601年(1601 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。17世紀最初の年である。
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1601年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。17世紀最初の年である。
{{年代ナビ|1601}} {{year-definition|1601}}[[17世紀]]最初の年である。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]6年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2261年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]29年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]34年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3934年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[弘定]]2年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]9年 * [[仏滅紀元]] : 2143年 - 2144年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1009年 - 1010年 * [[ユダヤ暦]] : 5361年 - 5362年 * [[ユリウス暦]] : 1600年12月22日 - 1601年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1601}} == できごと == * [[2月8日]]:[[イングランド]]女王[[エリザベス1世]]の寵臣[[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|エセックス伯]]が反逆、速やかに鎮圧される{{要出典|date=2021-04}}。 * [[オランダ]]軍、[[マラガ]]から[[ポルトガル]]人を駆逐する。 * [[海禁]]政策をとっていた[[明]]王朝下で、[[イエズス会]]士[[マテオ・リッチ]]が[[北京市|北京]]入城を果たし住居を得る。 * イングランドで[[救貧法|エリザベス救貧法]]が制定される。 * [[徳川家康]]が[[銀座 (歴史)|伏見銀座]]を創設。 * [[1月 (旧暦)|1月]] - 徳川家康が[[東海道]]に伝馬制度を設ける。 * [[2月 (旧暦)|2月]] - 徳川家康が[[譜代大名]]を[[関東地方]]・[[東海地方]]にそれぞれ封じる。 * [[8月8日 (旧暦)|8月8日]] - [[上杉景勝]]が[[伏見城]]において徳川家康に前年の挙兵について謝罪する。景勝の所領が[[陸奥国]][[会津城|会津]]120万石から[[出羽国]][[米沢藩|米沢]]30万石に減移封となる。 == 誕生 == {{see also|Category:1601年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月2日]](慶長5年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[徳川義直]]、[[大名]]、[[尾張徳川家]]の始祖(+ [[1650年]]) * [[1月8日]] - [[バルタサル・グラシアン]]、[[スペイン]]の[[作家]]・イエズス会士(+ [[1658年]]) * [[8月28日]]([[万暦]]29年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[逸然性融]]、[[黄檗宗]]の[[僧]](+ [[1668年]]) * [[9月1日]]([[慶長]]6年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[松平直政]]、[[大名]](+ [[1666年]]) * [[9月22日]] - [[アンヌ・ドートリッシュ]]、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の王妃で、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の母(+ [[1666年]]) * [[9月27日]] - [[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]、フランス王(+ [[1643年]]) == 死去 == {{see also|Category:1601年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月8日]] - [[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|エセックス伯(第2代)]]、イングランドの[[貴族]](* [[1566年]]) * [[2月15日]](慶長6年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[末次元康]]、武将、[[厚狭毛利家]]2代当主(* [[1551年]]) * [[4月24日]](慶長6年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]) - [[毛利秀包]]、武将(* [[1567年]]) * [[10月9日]](慶長6年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]) - [[乃美大方]]、[[毛利元就]]の側室(* 生年不詳) == その他 == * 1601年[[1月1日]]00時00分00秒 - [[Microsoft Windows|Windows]]のファイルの時間表記に使われている[[FILETIME 構造体]]の起点<ref>[https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/api/system.runtime.interopservices.comtypes.filetime?view=net-5.0 FILETIME 構造体] - Microsoft Docs</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1601}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1601ねん}} [[Category:1601年|*]]
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1665年
1665年(1665 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1665年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1665}} {{year-definition|1665}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛文]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2325年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]4年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]19年 *** [[王耀祖]] : [[大慶 (王耀祖)|大慶]]元年4月 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]6年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3998年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景治]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2207年 - 2208年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1075年 - 1076年 * [[ユダヤ暦]] : 5425年 - 5426年 * [[ユリウス暦]] : 1664年12月22日 - 1665年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1665}} == できごと == * [[9月17日]] - [[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]が[[スペイン王]]に即位。 *第二次[[英蘭戦争]](-[[1667年]])。 * [[イングランド]]、[[ペスト]]大流行([[ロンドンの大疫病]])。 * [[ロバート・フック]]、『[[顕微鏡図譜]]』を刊行。{{Sfn|ルーニー|2015}}初めて「[[細胞]]」(Cell)という言葉が使用される。 * [[ジョヴァンニ・カッシーニ]]、[[木星]]の[[大赤斑]]を発見。 *この頃、[[ヨハネス・フェルメール]]の「[[真珠の耳飾りの少女]]」描かれる。 * [[アイザック・ニュートン]]が[[万有引力]]、[[二項定理]]を発見。 === 日本 === * [[8月21日]](寛文5年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[江戸幕府]]が[[諸宗寺院法度]]([[寺院]]・[[僧侶]]統制)・[[諸社禰宜神主法度]]([[神社]]・[[神職]]統制)を発布{{要出典|date=2021-04}}。 * [[12月12日]](寛文5年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[蝦夷地]][[松前藩]]、第5代藩主[[松前矩広]]が襲封。 * [[山鹿素行]]が『聖教要録』を著す。[[朱子学]]を批判した本書の刊行の罪で、翌年、[[保科正之]]により素行は[[赤穂]]へ配流。 == 誕生 == {{see also|Category:1665年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月6日]] - [[アン (イギリス女王)|アン女王]]、[[グレートブリテン王国]][[女王]](+ [[1714年]]) * [[2月12日]] - [[ルドルフ・ヤーコプ・カメラリウス]]、[[植物学者]](+ [[1721年]]) * [[3月5日]](寛文5年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[三宅石庵]]、[[儒学者]](+ [[1730年]]) * [[3月16日]] - [[ジュゼッペ・マリア・クレスピ]]、[[画家]](+ [[1747年]]) * [[3月17日]] - [[エリザベト・ジャケ=ド=ラ=ゲール]]、[[作曲家]]、[[チェンバロ|クラヴサン]]奏者(+ [[1729年]]) * [[5月1日]] - [[ジョン・ウッドワード]]([[w:John Woodward (naturalist)|John Woodward]])、[[博物学者]](+ [[1728年]]) * [[5月12日]] - [[マグヌス・ステンボック]]、[[軍人]](* [[1717年]]) * 5月12日 - [[アルベルトゥス・セバ]]、[[動物学者]](+ [[1736年]]) * [[8月21日]] - [[ジャコーモ・フィリッポ・マラルディ]]、[[天文学者]]、[[数学者]](+ [[1729年]]) * [[10月4日]](寛文5年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]) - [[徳川綱教]]、[[紀州徳川家]]第3代[[藩主]](+ [[1705年]]) * [[ニコラウス・ブルーンス]]、作曲家、[[オルガニスト]](+ [[1697年]]) * [[チャールズ・ギルドン]]([[w:Charles Gildon|Charles Gildon]])、[[作家]](+ [[1724年]]) == 死去 == {{see also|Category:1665年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月10日]](寛文4年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[山内忠義]]、[[土佐藩]]第2代藩主(* [[1592年]]) * [[1月12日]] - [[ピエール・ド・フェルマー]]、数学者、[[弁護士]](* [[1607年]] - [[1608年]]頃) * [[1月31日]] - [[ヨハネス・クラウベルク]]([[w:Johannes Clauberg|Johannes Clauberg]])、[[神学者]](* [[1622年]]) * [[2月16日]] - [[ステファン・ツァルニエツキ]]([[w:Stefan Czarniecki|Stefan Czarniecki]])、軍人(* [[1599年]]) * [[5月31日]] - [[ピーテル・ヤンスゾーン・サーンレダム]]([[w:Pieter Jansz. Saenredam|Pieter Jansz Saenredam]])、画家(* [[1597年]]) * [[8月15日]](寛文5年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[松前高広]]、[[蝦夷地]][[松前藩]]第4代藩主(* [[1643年]]) * [[9月17日]] - [[フェリペ4世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Philip-IV-king-of-Spain-and-Portugal Philip IV king of Spain and Portugal] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[スペイン]][[国王]](* [[1605年]]) * [[9月22日]](寛文5年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]) - [[伊奈忠克]]、[[関東郡代]](* [[1617年]]) * [[11月10日]] - [[ザムエル・フリードリヒ・カプリコルヌス|ザムエル・カプリコルヌス]]、作曲家(* [[1628年]]) * [[11月19日]] - [[ニコラ・プッサン]]、フランスの画家(* [[1594年]]) * [[12月10日]] - [[タルクィニオ・メールラ]]、作曲家、オルガニスト、[[ヴァイオリニスト]](* [[1594年]]/[[1595年]]) == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=アン・ルーニー |translator=立木 勝 |title=物理学は歴史をどう変えてきたか 古代ギリシャの自然哲学から暗黒物質の謎まで |edition= |date=2015-08-18 |publisher=東京書籍 |isbn=978-4-487-80929-5 |ref={{Sfnref|ルーニー|2015}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|1665}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1665ねん}} [[Category:1665年|*]]
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硫黄
硫黄(いおう、英: sulfur)は原子番号16番の元素である。元素記号はS。原子量は32.1。酸素族元素のひとつ。固形時は淡黄色で無味無臭。点火すると青色の炎を出し、二酸化硫黄の特異臭を発する。 硫黄の日本名の読みの「いおう」は、音読みの「リュウオウ」が訛ったもので、古代には「ゆわ」や「ゆわう」、「ゆうわう」という読みが使われたこともある。英名「sulfur」は、ラテン語で「燃える石」を意味する語に由来する(brimstone)。 硫黄から製造される硫酸は化学工業上、もっとも重要な酸である。一般的に酸として用いられるのは希硫酸で、脱水剤や乾燥剤に用いられるのは濃硫酸である。また、種々の硫黄を含んだ化合物が合成されている。 硫黄は古来から漂白剤、儀式用の香料、殺虫剤、接着剤など多様に用いられていた。また黒色火薬の原料であり、ローマ人は硫黄を花火や武器の製造に使用した。 現代では合成繊維、医薬品や農薬、また抜染剤などの重要な原料であり、さまざまな分野で硫化物や各種の化合物が構成されている。農家における干し柿、干しイチジクなどの漂白剤には、硫黄を燃やして得る二酸化硫黄が用いられる(燻蒸して行われる)。また、ワインの酸化防止剤としても二酸化硫黄は使われている。ゴムに数パーセントの硫黄を加えて加熱(加硫)すると(架橋により)弾性が増し、さらに添加量を増やすと硬さを増す加工が可能となり、最終的にはエボナイトとなる。この硫黄添加はゴム製タイヤの性質の決定において重要な要素である。 また、金属の硫化鉱物は半導体の性質を示すものが多く、シリコン鉱石検波器やゲルマニウムダイオードが実用化される以前は、鉱石検波器の主要部品として重用された。 硫黄は高い電位を示す為、二次電池の正極活物質としても利用されている。代表的な例としてナトリウム・硫黄電池が風力発電所などで広く利用されている。近年は全固体電池の固体電解質にも硫化物が利用されている。この硫化物系固体電解質は高いイオン伝導度を示し、今後は全固体電池がリチウムイオン電池の座を取り大きな需要が見込まれている。 硫黄はカテネーションを生じやすく、30以上の同素体を形成する。この数はほかの元素に比べてもかなり多い。通常、天然に見られる同素体は環状のS8硫黄である。 常温、常圧で固体であるS8硫黄は3つの結晶形を持つ。 いずれも、S8硫黄を単位構造とする結晶であるが、95.6 °C以下では斜方硫黄が安定であり、それ以上の温度では単斜硫黄系が安定である。また、250 °Cまで加熱すると50万個以上の硫黄原子がつながった直鎖状硫黄(Sn)となる。これはゴム状硫黄またはプラスチック硫黄とも呼ばれる。ゴム状硫黄は黄色を示す。純度の高い特級試薬を用いて実験を行うと黄色いゴム状硫黄が得られるが、実際は黒褐色のゴム状硫黄が得られることも多い。 熱・電気を伝えにくい。融点(112.8 °C)より少し高温では黄色だが160 °C以上になると暗色になる。 多くの同素体や結晶多形が存在し、融点、密度はそれぞれ異なる。沸点444.674 °C。大昔から自然界において存在が知られている。 S8硫黄は融点直上の温度では黄色をしており、粘性も低いが、温度が上昇するにつれて直鎖状硫黄へと変化が進み、159.4 °C以上では暗赤色(暗色)となり粘性が増大しほとんど流動性を失う。この温度以上ではS8硫黄の環が解裂し、直鎖状のビラジカルが発生し、直鎖状S16、S24などのオリゴマー化が進行し、直鎖状硫黄(Sn)が形成され粘性が急速に増大する。さらに加温すると、直鎖状の分子が切れて再び流動性を取り戻し、沸点の444.674 °Cにいたる。暗赤色の150–195 °Cの硫黄を冷水に投入すると、褐色を帯びたゴム状硫黄が得られる。鉄分など不純物を含む場合は黒褐色、不純物が微量である(純度が99 %を超える)場合は黄色のゴム状硫黄となるという報告もされているが、実際の硫黄の研究においては純度99.9999 %以上の原料などが用いられており、褐色を帯びるのを単に不純物に帰するのは不正確であると言える。そもそもゴム状硫黄(amorphous sulfur)と呼ばれる物質は高温でS8の環状構造が開裂、さまざまな長さの鎖状構造や、濃い色を示すS3などの小さな分子の混合体となったものであり、その生成時の加熱温度や冷却速度などにより異なる組成を示す。このため色や粘度、ヤング率などの物理特性は合成条件に大きく依存する。たとえば急速圧縮法を利用すると黄色透明なゴム状硫黄が得られるが、これは通常の手法で得られる褐色のゴム状硫黄とは熱力学的な特性が大きく異なるアモルファス相である。つまり、不純物により着色するというよりは、「ゴム状硫黄」としてまとめられている不定形化合物にはさまざまなものが存在し、作り方によっては黄色透明な種類のゴム状硫黄も作成可能であったり、不純物の存在によりS8環の開裂や鎖状構造の伸張・再開裂速度が異なり同じ加熱時間でも異なる組成のものが生成されたりするととらえた方がよい。なお、準安定状態であるゴム状硫黄は放置すると斜方硫黄に徐々に変化していく。 他の同素体として、硫黄蒸気の分子量測定から S2、S4、S6、S7などが存在することが判明している。また、ハッブル宇宙望遠鏡での木星の衛星「イオ」のスペクトル観測では、S2、S3、S4の存在が観測されている。2200 °C以上、低圧下では原子状硫黄が主となる。 また、硫黄の同素体は環状硫黄分子として人為的に合成されてきており、シクロ-S6を筆頭に、シクロ-S7、シクロ-S9、シクロ-S10、シクロ-S11、シクロ-S12、シクロ-S18、シクロ-S20などが合成され、X線結晶構造解析でその構造が確認されている。 水には溶けにくいが、二硫化炭素に溶解しやすく、ベンゼンおよびトルエンにも少量溶解する。アルカリ水溶液と加熱すると多硫化物およびチオ硫酸塩を生じて溶解する。金、白金以外の多くの金属と反応して硫化物を形成する。銀や銅とは接触により室温でも反応して黒色の硫化銀や硫化銅を生成する。 シクロ-S6はアルケンの硫化に用いる際の反応性がS8硫黄より高いことが知られている。 硫黄自体には臭いがないが、噴火口や硫黄泉の周囲など、天然の硫黄が存在する場所で多く発生する硫黄化合物の硫化水素には腐卵臭が、二酸化硫黄には刺激臭がある。俗に「硫黄の臭い」、「硫黄のような臭い」などと言うことがあるが、これはこのような硫黄化合物の臭いであって、これを硫黄の臭いと呼ぶことは正しくない。 天然には数多くの硫黄鉱物(硫化鉱物、硫酸塩鉱物)として産出する。単体でも産出する(自然硫黄)。深海では熱水噴出口付近で鉄などの金属と結合した硫化物や温泉(硫黄泉)では硫黄が昇華した硫黄華や、湯の花としてコロイド状硫黄が見られ、白く濁って見える。そして人体では硫黄を含むシステインや必須アミノ酸のメチオニンとして存在する。 火山性ガスには硫化水素、二酸化硫黄が含まれ、それが冷えると硫黄が析出する。これを応用したのが昇華硫黄(火口硫黄ともいう)であり、噴気孔から石で煙道を造り、内部に適宜石を入れて、この石に昇華した硫黄を付着させる採取法であった。ガスから分離し、煙道内に溜まった硫黄は最初のうちは液状であるが、温度の低下にともない次第に粘度を増していき、採取口に近づくころにはほぼ固化した状態で純度の高い硫黄が得られた。硫黄山、那須岳、雌阿寒岳、九重山などの活火山ではこのような方法で硫黄採掘に従事する鉱山が点在していた。19世紀の生産方式はシチリア法(英語版)が圧倒的な主流であったが、深刻な環境汚染などの問題もあった。 これとは別に、鉱床から得られる硫黄も存在しており、こちらは採掘・選鉱したあと、製錬所において焼き釜に鉱石を入れて硫黄分を溶出させていた。釜から抽出された硫黄は液体であり、これを型に流し込み冷却して円柱状の固体にして出荷した。焼き窯方式は亜硫酸ガスなどが発生するため、のちにオートクレーブを用いて高圧水蒸気に硫黄を溶け出させてこれを回収する方法に切り替わっていった。 単体硫黄の産出については、古来からイタリアのシチリア島が有名である。 ドイツ生まれのアメリカ人ハーマン・フラッシュが1891年に開発した、高温高圧の水 (165 °C, 2.5–3 MPa, 液体) を鉱床に吹き込み硫黄を液化させて回収するフラッシュ法で、アメリカのテキサス州やルイジアナ州、メキシコ、チリ、南アフリカの鉱山で大量に採掘される。取り出された液体を冷やすと硫黄が凝固する。 このほかに、火口湖の湖底から硫黄を採取する方法もとられた。この場合は、湖上に浚渫船を浮かべ、湖底に沈殿している硫黄分を多く含む泥を採取していた。 また石油精製の脱硫による副産物として大量の硫黄が供給されている(クラウス法)。石油精製における製法については硫黄回収装置の項に説明されている。 日本には火山が多く、火口付近に露出する硫黄を露天掘りにより容易に採掘することが可能であることから、古くから硫黄の生産が行われ、8世紀の「続日本紀」には信濃国(長野県米子鉱山)から朝廷へ硫黄の献上があったことが記されている。鉄砲の伝来により火薬の材料として、中世以降は日本各地の硫黄鉱山開発が活発になった。江戸には火打道具も一般に普及して、硫黄附木職人もいた。 薩摩藩の島津久光と神職・軍人の島津久籌は、黒船来航ののち、1861年に口永良部島や薩摩硫黄島で硫黄採掘に着手した。その後明治期の産業革命に至り、鉱山開発は本格化する。1881年(明治14年)に硫黄の無税輸出が布告され、海上保険会社を設立した広海二三郎が九州の硫黄事業に出資して天然硫黄王と呼ばれ、また、安田財閥は釧路の硫黄(アトサヌプリを参照)で築かれたと揶揄されるほどであった。 純度の高い国産硫黄は、マッチ(当時の主要輸出品目)の材料に大量に用いられ、各地の鉱山開発に拍車がかかった。1889年には、知床硫黄山が噴火とともにほぼ純度100 %の溶解硫黄を沢伝いに海まで流出させるほど大量に産出したため、当時未踏の地だった同地に鉱業関係者が殺到したという。海軍軍人・郡司成忠による1893年(明治26年)第一次千島拓殖にも硫黄採掘の記録がある。 昭和20年代の朝鮮戦争時には「黄色いダイヤ」と呼ばれるほど硫黄価格が高騰し、鉱工業の花形に成長したが、昭和30年代に入ると資源の枯渇に加え、石油の脱硫装置からの硫黄生産が可能となったことで生産方法は一変する。エネルギー転換に加え大気汚染の規制が強化されたことから、石油精製の過程で発生する硫黄の生産も急増し、硫黄の生産者価格の下落が続いた結果、昭和40年代半ばには国内の硫黄鉱山はすべて閉山に追い込まれた(岩手県の松尾鉱山、群馬県の万座硫黄草津鉱業所は1969年に閉鎖)。現在、国内に流通している硫黄は、全量が脱硫装置起源のものである。 硫黄は数種のオキソ酸を作る。もっとも有名なのものに硫酸(H2SO4)がある。 硫黄化合物は生物でも不可欠な役割を果たしている。ビタミンB1とB7(ビオチン、ビタミンHとも)に含まれる。 植物の根では、硫黄は硫酸イオンの形で吸収され、還元されて最終的に硫化水素となってから、システインやそのほかの有機化合物に取り込まれる。 アミノ酸ではシステインとメチオニンが硫黄を含み、それらがさらにペプチド・蛋白質に取り込まれる。そのほか含硫アミノ酸としてはホモシステインとタウリンがあり、これらはペプチド・蛋白質には取り込まれないが代謝上は重要である。 蛋白質のシステイン残基にあるチオール基は、システインプロテアーゼなどの活性中心として機能する。また1対のシステイン残基の間にジスルフィド結合(S-S結合)が形成され、蛋白質の高次構造(三次構造・四次構造)を形成・維持するうえで重要である。顕著な例として、羽毛や毛髪が力学的・化学的に頑丈なのは、主要蛋白質ケラチンに多数のS-S結合が含まれていることが大きな要因である。これらを燃やしたときの特異なにおい、またゆで卵のにおいも、おもに硫黄化合物による。 硫黄を含む低分子ペプチドとして特に重要なのはグルタチオンで、細胞内でそのチオール基により還元剤として、あるいは解毒代謝に働いている。またアシル基に関係した多くの反応は、たとえば補酵素A、α-リポ酸などの、チオール基を含む補欠分子を必要とする。 一部の光合成・化学合成細菌では、硫化水素が水の代わりに電子供与体として使われる。多くの生物の電子伝達系で、硫黄と鉄からなる鉄-硫黄クラスターが働いている(フェレドキシンなど)。また呼吸鎖のシトクロムc酸化酵素の銅中心CuAにも含まれる。 潮臭さに代表されるように、海の微生物が分解され、それがジメチルスルフィドや硫酸イオンなどになり、大気中を移動することが知られている。気象とも関係を持ち、雲の核となり地上に雨とともに降りて、海や地上の微生物や植物などの生物へと循環していると考えられている。
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"純度の高い国産硫黄は、マッチ(当時の主要輸出品目)の材料に大量に用いられ、各地の鉱山開発に拍車がかかった。1889年には、知床硫黄山が噴火とともにほぼ純度100 %の溶解硫黄を沢伝いに海まで流出させるほど大量に産出したため、当時未踏の地だった同地に鉱業関係者が殺到したという。海軍軍人・郡司成忠による1893年(明治26年)第一次千島拓殖にも硫黄採掘の記録がある。", "title": "所在・製法" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "昭和20年代の朝鮮戦争時には「黄色いダイヤ」と呼ばれるほど硫黄価格が高騰し、鉱工業の花形に成長したが、昭和30年代に入ると資源の枯渇に加え、石油の脱硫装置からの硫黄生産が可能となったことで生産方法は一変する。エネルギー転換に加え大気汚染の規制が強化されたことから、石油精製の過程で発生する硫黄の生産も急増し、硫黄の生産者価格の下落が続いた結果、昭和40年代半ばには国内の硫黄鉱山はすべて閉山に追い込まれた(岩手県の松尾鉱山、群馬県の万座硫黄草津鉱業所は1969年に閉鎖)。現在、国内に流通している硫黄は、全量が脱硫装置起源のものである。", "title": "所在・製法" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "硫黄は数種のオキソ酸を作る。もっとも有名なのものに硫酸(H2SO4)がある。", "title": "硫黄の化合物" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "硫黄化合物は生物でも不可欠な役割を果たしている。ビタミンB1とB7(ビオチン、ビタミンHとも)に含まれる。", "title": "生物における硫黄化合物" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "植物の根では、硫黄は硫酸イオンの形で吸収され、還元されて最終的に硫化水素となってから、システインやそのほかの有機化合物に取り込まれる。", "title": "生物における硫黄化合物" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アミノ酸ではシステインとメチオニンが硫黄を含み、それらがさらにペプチド・蛋白質に取り込まれる。そのほか含硫アミノ酸としてはホモシステインとタウリンがあり、これらはペプチド・蛋白質には取り込まれないが代謝上は重要である。", "title": "生物における硫黄化合物" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "蛋白質のシステイン残基にあるチオール基は、システインプロテアーゼなどの活性中心として機能する。また1対のシステイン残基の間にジスルフィド結合(S-S結合)が形成され、蛋白質の高次構造(三次構造・四次構造)を形成・維持するうえで重要である。顕著な例として、羽毛や毛髪が力学的・化学的に頑丈なのは、主要蛋白質ケラチンに多数のS-S結合が含まれていることが大きな要因である。これらを燃やしたときの特異なにおい、またゆで卵のにおいも、おもに硫黄化合物による。", "title": "生物における硫黄化合物" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "硫黄を含む低分子ペプチドとして特に重要なのはグルタチオンで、細胞内でそのチオール基により還元剤として、あるいは解毒代謝に働いている。またアシル基に関係した多くの反応は、たとえば補酵素A、α-リポ酸などの、チオール基を含む補欠分子を必要とする。", "title": "生物における硫黄化合物" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一部の光合成・化学合成細菌では、硫化水素が水の代わりに電子供与体として使われる。多くの生物の電子伝達系で、硫黄と鉄からなる鉄-硫黄クラスターが働いている(フェレドキシンなど)。また呼吸鎖のシトクロムc酸化酵素の銅中心CuAにも含まれる。", "title": "生物における硫黄化合物" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "潮臭さに代表されるように、海の微生物が分解され、それがジメチルスルフィドや硫酸イオンなどになり、大気中を移動することが知られている。気象とも関係を持ち、雲の核となり地上に雨とともに降りて、海や地上の微生物や植物などの生物へと循環していると考えられている。", "title": "地球上の硫黄循環" } ]
硫黄は原子番号16番の元素である。元素記号はS。原子量は32.1。酸素族元素のひとつ。固形時は淡黄色で無味無臭。点火すると青色の炎を出し、二酸化硫黄の特異臭を発する。
{{Redirect|いおう|たかみ型掃海艇の2番艇|いおう (掃海艇)}} {{出典の明記|date=2016年10月25日 (火) 13:20 (UTC)}} {{Elementbox |name=sulfur |japanese name=硫黄 |pronounce={{IPAc-en|ˈ|s|ʌ|l|f|ər}} {{respell|SUL|fər}} |number=16 |symbol=S |left=[[リン]] |right=[[塩素]] |above=[[酸素|O]] |below=[[セレン|Se]] |series=非金属 |series comment= |group=16 |period=3 |block=p |series color= |phase color= |appearance=黄色 |image name=Sulfur-d05-37a.jpg |image size= |image name comment= |image name 2=Sulfur Spectrum.jpg |image name 2 comment=硫黄のスペクトル線 |atomic mass=32.065 |atomic mass 2=5 |atomic mass comment= |electron configuration=&#91;[[ネオン|Ne]]&#93; 3s<sup>2</sup> 3p<sup>4</sup> |electrons per shell=2, 8, 6 |color= |phase=固体 |phase comment= |density gplstp= |density gpcm3nrt=(α) 2.07 |density gpcm3nrt 2=(β) 1.96 |density gpcm3nrt 3=(γ) 1.92 |density gpcm3mp=1.819 |melting point K=388.36 |melting point C=115.21 |melting point F=239.38 |boiling point K=717.8 |boiling point C=444.6 |boiling point F=832.3 |triple point K= |triple point kPa= |critical point K=1314 |critical point MPa=20.7 |heat fusion=(mono) 1.727 |heat fusion 2= |heat vaporization=(mono) 45 |heat capacity=22.75 |vapor pressure 1=375 |vapor pressure 10=408 |vapor pressure 100=449 |vapor pressure 1 k=508 |vapor pressure 10 k=591 |vapor pressure 100 k=717 |vapor pressure comment= |crystal structure=orthorhombic |japanese crystal structure=[[斜方晶系]] |oxidation states='''6''', 5, '''4''', 3, ''' 2''', 1, &minus;1, &minus;2 |oxidation states comment=強[[酸性酸化物]] |electronegativity=2.58 |number of ionization energies=4 |1st ionization energy=999.6 |2nd ionization energy=2252 |3rd ionization energy=3357 |atomic radius= |atomic radius calculated= |covalent radius=[[1 E-10 m|105±3]] |Van der Waals radius=[[1 E-10 m|180]] |magnetic ordering=[[反磁性]]<ref>{{PDF|[https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds]}}(2004年3月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]), in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref> |electrical resistivity= |electrical resistivity at 0= |electrical resistivity at 20=(無定形)2×10<sup>15</sup> |thermal conductivity=(無定形)0.205 |thermal conductivity 2= |thermal diffusivity= |thermal expansion= |thermal expansion at 25= |speed of sound= |speed of sound rod at 20= |speed of sound rod at r.t.= |Young's modulus= |Shear modulus= |Bulk modulus=7.7 |Poisson ratio= |Mohs hardness=2.0 |Vickers hardness= |Brinell hardness= |CAS number=7704-34-9 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[硫黄32|32]] | sym=S | na=95.02 % | n=16}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[硫黄33|33]] | sym=S | na=0.75 % | n=17}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[硫黄34|34]] | sym=S | na=4.21 % | n=18}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[硫黄35|35]] | sym=S | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|87.32 d]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.167 | pn=[[塩素35|35]] | ps=[[塩素|Cl]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[硫黄36|36]] | sym=S | na=0.02 % | n=20}} |isotopes comment= }} '''硫黄'''(いおう、{{lang-en-short|sulfur}})は[[原子番号]]16番の[[元素]]である。[[元素記号]]は'''S'''。[[原子量]]は32.1。[[酸素族元素]]のひとつ。[[淡黄色|固形時は淡黄色]]で無味無臭。点火すると青色の炎を出し、[[二酸化硫黄]]の特異臭を発する<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=硫黄 |url=http://www.kagakukan.sendai-c.ed.jp/yakuhin/yak/009.htm |website=www.kagakukan.sendai-c.ed.jp |accessdate=2022-02-14}}</ref>。 == 名称 == 硫黄の日本名の読みの「いおう」は、音読みの「リュウオウ」が訛ったもので、古代には「ゆわ」や「ゆわう」、「ゆうわう」という読みが使われたこともある。英名「sulfur」は、[[ラテン語]]で「燃える石」を意味する語に由来する(brimstone)<ref>ロナルド・ルイス・ボネウィッツ著、青木正博訳『ROCK and GEM 岩石と宝石の大図鑑』誠文堂新光社 2007年 120ページ</ref>。 == 用途 == 硫黄から製造される[[硫酸]]は[[化学工業]]上、もっとも重要な[[酸]]である。一般的に酸として用いられるのは希硫酸で、脱水剤や[[乾燥剤]]に用いられるのは濃硫酸である。また、種々の硫黄を含んだ[[化合物]]が合成されている。 硫黄は古来から漂白剤、儀式用の香料、殺虫剤、接着剤など多様に用いられていた。また[[黒色火薬]]の原料であり、ローマ人は硫黄を花火や武器の製造に使用した。 現代では[[合成繊維]]、[[医薬品]]や[[農薬]]、また[[抜染剤]]などの重要な原料であり、さまざまな分野で[[硫化物]]や各種の化合物が構成されている。[[農家]]における[[干し柿]]、干し[[イチジク]]などの[[漂白剤]]には、硫黄を燃やして得る[[二酸化硫黄]]が用いられる(燻蒸して行われる)。また、[[ワイン]]の酸化防止剤としても二酸化硫黄は使われている。[[ゴム]]に数パーセントの硫黄を加えて加熱([[加硫]])すると([[架橋]]により)弾性が増し、さらに添加量を増やすと硬さを増す加工が可能となり、最終的には[[エボナイト]]となる。この硫黄添加はゴム製[[タイヤ]]の性質の決定において重要な要素である。 また、[[金属]]の硫化鉱物は[[半導体]]の性質を示すものが多く、[[シリコン]][[鉱石検波器]]や[[ゲルマニウム]]ダイオードが実用化される以前は、鉱石検波器の主要部品として重用された。 硫黄は高い[[電位]]を示す為、[[二次電池]]の正極活物質としても利用されている。代表的な例として[[ナトリウム・硫黄電池]]が風力発電所などで広く利用されている。近年は[[全固体電池]]の固体[[電解質]]にも[[硫化物]]が利用されている。この[[硫化物]]系固体[[電解質]]は高いイオン伝導度を示し、今後は[[全固体電池]]が[[リチウムイオン二次電池|リチウムイオン電池]]の座を取り大きな需要が見込まれている。 == 同素体 == [[ファイル:Cyclooctasulfur-above-3D-balls.png|thumb|200px|left|S<sub>8</sub>硫黄]] 硫黄は[[カテネーション]]を生じやすく、30以上の同素体を形成する。この数はほかの元素に比べてもかなり多い<ref>{{cite journal | author = Ralf Steudel, Bodo Eckert | title = Solid Sulfur Allotropes Sulfur Allotropes | journal = Topics in Current Chemistry | year = 2003 | volume = 230 | pages = 1–80 | doi = 10.1007/b12110}}</ref>。通常、天然に見られる同素体は環状のS<sub>8</sub>硫黄である<ref>{{cite journal | author = Steudel, R. | title = Homocyclic Sulfur Molecules | journal = Topics Curr. Chem. | year = 1982 | volume = 102 | pages = 149}}</ref>。 常温、常圧で[[固体]]であるS<sub>8</sub>硫黄は3つの結晶形を持つ。 * α硫黄(斜方硫黄) - [[融点]]112.8 &deg;C、比重2.07、淡黄色斜方晶 * β硫黄(単斜硫黄) - 融点119.6 &deg;C、比重1.96、淡黄色単斜晶 * γ硫黄(単斜硫黄) - 融点106.8 &deg;C、比重1.955、淡黄針状晶 いずれも、S<sub>8</sub>硫黄を単位構造とする結晶であるが、95.6 &deg;C以下では斜方硫黄が安定であり、それ以上の温度では単斜硫黄系が安定である。また、250&nbsp;&deg;Cまで加熱すると50万個以上の硫黄原子がつながった[[直鎖]]状硫黄(S<sub>n</sub>)となる。これはゴム状硫黄またはプラスチック硫黄とも呼ばれる。ゴム状硫黄は黄色を示す。純度の高い特級試薬を用いて実験を行うと黄色いゴム状硫黄が得られるが、実際は黒褐色のゴム状硫黄が得られることも多い<ref>久保田 港「硫黄の同素体」(「化学と教育」日本化学会 2016 年 64 巻 12 号 p.611)</ref><ref>辰巳 敬「化学」数研出版 2016年1月10日 p.205</ref>。 == 特徴 == 熱・電気を伝えにくい。融点(112.8 &deg;C)より少し高温では黄色だが160 &deg;C以上になると暗色になる<ref name=":0" />。 多くの[[同素体]]や[[結晶]][[多形]]が存在し、[[融点]]、[[密度]]はそれぞれ異なる。[[沸点]]444.674&nbsp;&deg;C。大昔から自然界において存在が知られている。 [[ファイル:Burning-sulfur.png|thumb|left|200px|硫黄は融解すると血赤色の液体となり、燃やすと青い炎を上げる]] S<sub>8</sub>硫黄は融点直上の温度では黄色をしており、粘性も低いが、温度が上昇するにつれて直鎖状硫黄へと変化が進み、159.4&nbsp;&deg;C以上では暗赤色(暗色)となり粘性が増大しほとんど流動性を失う。この温度以上ではS<sub>8</sub>硫黄の環が解裂し、直鎖状の[[ビラジカル]]が発生し、直鎖状S<sub>16</sub>、S<sub>24</sub>などのオリゴマー化が進行し、直鎖状硫黄(S<sub>n</sub>)が形成され粘性が急速に増大する。さらに加温すると、直鎖状の分子が切れて再び流動性を取り戻し、沸点の444.674&nbsp;&deg;Cにいたる。暗赤色の150&ndash;195&nbsp;&deg;Cの硫黄を冷水に投入すると、褐色を帯びたゴム状硫黄が得られる。鉄分など不純物を含む場合は黒褐色、不純物が微量である(純度が99&nbsp;%を超える)場合は黄色のゴム状硫黄となるという報告もされているが<ref>{{Cite news |title=ゴム状硫黄「黄色」です―17歳が実験、教科書変えた |newspaper=朝日新聞 |date=2009-01-05 |author= |url=http://www.asahi.com/science/update/0105/TKY200901050126.html |accessdate=2009-01-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090506201536/http://www.asahi.com/science/update/0105/TKY200901050126.html |archivedate=2009-05-06}}</ref>、実際の硫黄の研究においては純度99.9999&nbsp;%以上の原料などが用いられており、褐色を帯びるのを単に不純物に帰するのは不正確であると言える。そもそもゴム状硫黄(amorphous sulfur)と呼ばれる物質は高温でS<SUB>8</SUB>の環状構造が開裂、さまざまな長さの鎖状構造や、濃い色を示すS<SUB>3</SUB>などの小さな分子の混合体となったものであり、その生成時の加熱温度や冷却速度などにより異なる組成を示す。このため色や粘度、ヤング率などの物理特性は合成条件に大きく依存する。たとえば急速圧縮法<ref name=RapidCompression>S. M. Hong, L. Y. Chen, X. R. Liu, X. H. Wu and L. Su, ''Rev. Sci. Instrum.'', 76, 053905 (2005).</ref>を利用すると黄色透明なゴム状硫黄が得られるが<ref>P. Yu, W. H. Wang, R. J. Wang, S. X. Lin, X. R. Liu, S. M. Hong and H. Y. Bai, ''App. Phys. Lett.'', 94, 011910 (2009).</ref>、これは通常の手法で得られる褐色のゴム状硫黄とは熱力学的な特性が大きく異なるアモルファス相である。つまり、不純物により着色するというよりは、「ゴム状硫黄」としてまとめられている不定形化合物にはさまざまなものが存在し、作り方によっては黄色透明な種類のゴム状硫黄も作成可能であったり、不純物の存在によりS<SUB>8</SUB>環の開裂や鎖状構造の伸張・再開裂速度が異なり同じ加熱時間でも異なる組成のものが生成されたりするととらえた方がよい{{要出典|date=2016年10月25日 (火) 13:19 (UTC)}}。なお、準安定状態であるゴム状硫黄は放置すると斜方硫黄に徐々に変化していく。 他の同素体として、硫黄蒸気の分子量測定から S<sub>2</sub>、S<sub>4</sub>、S<sub>6</sub>、S<sub>7</sub>などが存在することが判明している。また、[[ハッブル宇宙望遠鏡]]での[[木星]]の[[衛星]]「[[イオ (衛星)|イオ]]」の[[スペクトル]]観測では、S<sub>2</sub>、S<sub>3</sub>、S<sub>4</sub>の存在が観測されている。2200&nbsp;&deg;C以上、低圧下では原子状硫黄が主となる<ref name=Cotton> F.A. コットン, G. ウィルキンソン著, 中原 勝儼訳 『コットン・ウィルキンソン無機化学』 培風館、1987年</ref>。 また、硫黄の同素体は環状硫黄分子として人為的に合成されてきており、シクロ-S<sub>6</sub>を筆頭に、シクロ-S<sub>7</sub>、シクロ-S<sub>9</sub>、シクロ-S<sub>10</sub>、シクロ-S<sub>11</sub>、シクロ-S<sub>12</sub>、シクロ-S<sub>18</sub>、シクロ-S<sub>20</sub>などが合成され、[[X線結晶構造解析]]でその構造が確認されている。 水には溶けにくいが、[[二硫化炭素]]に溶解しやすく、[[ベンゼン]]および[[トルエン]]にも少量溶解する。[[アルカリ]]水溶液と加熱すると[[多硫化物]]および[[チオ硫酸]]塩を生じて溶解する。[[金]]、[[白金]]以外の多くの金属と反応して[[硫化物]]を形成する。[[銀]]や[[銅]]とは接触により室温でも反応して黒色の[[硫化銀]]や[[硫化銅]]を生成する。 シクロ-S<sub>6</sub>は[[アルケン]]の硫化に用いる際の反応性がS<sub>8</sub>硫黄より高いことが知られている。 硫黄自体には臭いがないが、[[火口|噴火口]]や[[硫黄泉]]の周囲など、天然の硫黄が存在する場所で多く発生する硫黄化合物の[[硫化水素]]には腐卵臭が、[[二酸化硫黄]]には刺激臭がある。俗に「硫黄の臭い」、「硫黄のような臭い」などと言うことがあるが、これはこのような硫黄化合物の臭いであって、これを硫黄の臭いと呼ぶことは正しくない<ref>{{Cite news|title=御嶽山リポート「硫黄のような臭いが・・・」 東大教授がツッコミ「硫黄は無臭だ」|newspaper=J-CASTニュース|date=2014-9-30|url=https://www.j-cast.com/2014/09/30217143.html|accessdate=2022-2-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hamajima.co.jp/chem/?%EF%BC%B1%EF%BC%86%EF%BC%A1%E3%81%A7%E5%AD%A6%E3%81%B6/%E7%AC%AC%EF%BC%91%E7%AB%A0%E3%80%80%E7%89%A9%E8%B3%AA%E3%81%AE%E6%A7%8B%E6%88%90#qa03|title=温泉などの「硫黄の臭い」は,本当は何のにおいなのか?|accessdate=2019-01-06|work=Q&Aで学ぶ/第1章 物質の構成 - 化学図表ウェブ|publisher=浜島書店}}</ref>。 == 所在・製法 == [[File:Blethrow Ijen4.JPG|thumb|[[イジェン山|イジェン火山]]での硫黄採取。赤い流れは液体の硫黄]] 天然には数多くの硫黄鉱物([[硫黄#所在・製法|硫化鉱物]]、[[硫酸塩#硫酸塩鉱物|硫酸塩鉱物]])として産出する。[[単体]]でも産出する([[自然硫黄]])。[[深海]]では[[熱水噴出口]]付近で[[鉄]]などの[[金属]]と結合した[[硫化物]]や[[温泉]]([[硫黄泉]])では硫黄が昇華した硫黄華や、[[湯の花]]としてコロイド状硫黄が見られ、白く濁って見える。そして人体では硫黄を含む[[システイン]]や必須[[アミノ酸]]の[[メチオニン]]として存在する。 [[火山性ガス]]には[[硫化水素]]、[[二酸化硫黄]]が含まれ、それが冷えると硫黄が析出する。これを応用したのが昇華硫黄(火口硫黄ともいう)であり、噴気孔から石で煙道を造り、内部に適宜石を入れて、この石に昇華した硫黄を付着させる採取法であった。ガスから分離し、煙道内に溜まった硫黄は最初のうちは液状であるが、温度の低下にともない次第に粘度を増していき、採取口に近づくころにはほぼ固化した状態で純度の高い硫黄が得られた。[[硫黄山]]、[[那須岳]]、[[雌阿寒岳]]、[[九重山]]などの活火山ではこのような方法で硫黄採掘に従事する鉱山が点在していた。19世紀の生産方式は{{仮リンク|シチリア法|en|Sicilian method}}が圧倒的な主流であったが<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=zNicdkuulE4C&pg=PA942|title=Industrial Minerals & Rocks: Commodities, Markets, and Uses|last1=Kogel|first1=Jessica Elzea|last2=Trivedi|first2=Nikhil C.|last3=Barker|first3=James M.|last4=Krukowski|first4=Stanley T.|date=2006|publisher=SME|isbn=978-0-87335-233-8|pages=942|language=en}}{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=zLKgl2g24_MC&pg=PA151|title=March of the Microbes|last=Ingraham|first=John L.|date=2012-05-07|publisher=Harvard University Press|isbn=978-0-674-05403-5|pages=131|language=en}}</ref>、深刻な環境汚染などの問題もあった。 これとは別に、[[鉱床]]から得られる硫黄も存在しており、こちらは採掘・選鉱したあと、製錬所において焼き釜に鉱石を入れて硫黄分を溶出させていた。釜から抽出された硫黄は液体であり、これを型に流し込み冷却して円柱状の固体にして出荷した。焼き窯方式は亜硫酸ガスなどが発生するため、のちに[[オートクレーブ]]を用いて高圧水蒸気に硫黄を溶け出させてこれを回収する方法に切り替わっていった。 : <chem>2 H2S + SO2 -> 3 S + 2 H2O</chem> 単体硫黄の産出については、古来から[[イタリア]]の[[シチリア島]]が有名である{{efn|シチリア産硫黄の輸出先を巡って[[大英帝国]]と[[両シチリア王国]]とのあいだで{{仮リンク|1840年の硫黄紛争|en|Sulphur Crisis of 1840}}が勃発したとおり、19世紀中頃は世界で生産される硫黄の4分の3はシチリア産であった。}}。 ドイツ生まれのアメリカ人ハーマン・フラッシュが1891年に開発した、高温高圧の水 (165&nbsp;&deg;C, 2.5&ndash;3&nbsp;MPa, 液体) を鉱床に吹き込み硫黄を液化させて回収する[[フラッシュ法]]で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[テキサス州]]や[[ルイジアナ州]]、[[メキシコ]]、[[チリ]]、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の鉱山で大量に採掘される{{Efn|[[産業革命]]のなかで[[紡績]]、[[織物]]など[[繊維業]]の{{仮リンク|仕上げ加工 (繊維業)|en|Finishing (texitiles)}}に[[硫酸]]が使用され始めたことで硫黄の需要は高まり{{Sfn|Cunha|2019|p=279}}、1832年から 1836年までの5年間で世界の硫黄の産出量は倍増した{{Sfn|Thomson|1995|p=164}}。 硫黄の主な生産国は、アメリカ、カナダ、ポーランド、フランス、ロシア、メキシコ、日本である。}}。取り出された液体を冷やすと硫黄が凝固する。 このほかに、[[火口湖]]の湖底から硫黄を採取する方法もとられた。この場合は、湖上に[[浚渫]]船を浮かべ、湖底に沈殿している硫黄分を多く含む泥を採取していた。 また[[石油精製]]の[[水素化脱硫装置|脱硫]]による副産物として大量の硫黄が供給されている(クラウス法)。石油精製における製法については[[硫黄回収装置]]の項に説明されている。 === 日本の硫黄史 === [[ファイル:Iwozan.JPG|thumb|[[知床硫黄山]]の[[噴煙]]]] 日本には[[火山]]が多く、[[火口]]付近に露出する硫黄を[[露天掘り]]により容易に採掘することが可能であることから、古くから硫黄の生産が行われ、8世紀の「[[続日本紀]]」には[[信濃国]]([[長野県]][[米子鉱山]])から[[朝廷 (日本)|朝廷]]へ硫黄の献上があったことが記されている。[[鉄砲]]の伝来により火薬の材料として、中世以降は日本各地の硫黄[[鉱山]]開発が活発になった。[[江戸]]には[[火口箱|火打道具]]も一般に普及して、硫黄附木職人もいた{{sfn|石原正明|1808}}。 [[薩摩藩]]の[[島津久光]]と[[神職]]・[[軍人]]の[[島津久籌]]は、[[黒船来航]]ののち、1861年に[[口永良部島]]や[[硫黄島 (鹿児島県) |薩摩硫黄島]]で硫黄採掘に着手した{{efn|島津久籌(又七)は口永良部党移住と同時に事業を始めたため、どう事前準備をしたかについては疑問が持たれている{{sfn|野元新市|2021}}。}}<ref>{{コトバンク|島津久籌}}</ref>。その後明治期の[[産業革命]]に至り、鉱山開発は本格化する。1881年(明治14年)に硫黄の無税輸出が[[太政官#明治8年の官制|布告]]され<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/simple/detail?lawId=0000000091&current=-1 「硫黄無税輸出差許ス件」](明治14年太政官布告第27号)。</ref>、[[海上保険]]会社を設立した[[広海二三郎]]が[[九州]]の[[硫黄山 (九重町)#硫黄採掘事業|硫黄事業]]に出資して天然硫黄王と呼ばれ、また、[[安田財閥]]は[[釧路]]の硫黄([[アトサヌプリ#硫黄鉱山|アトサヌプリ]]を参照)で築かれたと揶揄されるほどであった。 純度の高い国産硫黄は、[[マッチ]](当時の主要輸出品目)の材料に大量に用いられ、各地の鉱山開発に拍車がかかった。1889年には、[[知床硫黄山]]が噴火とともにほぼ純度100&nbsp;%の溶解硫黄を沢伝いに海まで流出させるほど大量に産出したため、当時未踏の地だった同地に鉱業関係者が殺到したという。海軍軍人・[[郡司成忠]]による1893年(明治26年)第一次千島拓殖にも硫黄採掘の記録がある。 昭和20年代の[[朝鮮戦争]]時には「黄色いダイヤ」と呼ばれるほど硫黄価格が高騰し、鉱工業の花形に成長したが、昭和30年代に入ると資源の枯渇に加え、石油の脱硫装置からの硫黄生産が可能となったことで生産方法は一変する。エネルギー転換に加え大気汚染の規制が強化されたことから、石油精製の過程で発生する硫黄の生産も急増し、硫黄の[[生産者価格]]の下落が続いた結果、昭和40年代半ばには国内の硫黄鉱山はすべて閉山に追い込まれた([[岩手県]]の[[松尾鉱山]]、[[群馬県]]の万座硫黄草津鉱業所は[[1969年]]に閉鎖<ref>政治よ追いつけ1 エネルギー革命 進歩の陰に犠牲続出『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月15日夕刊 3版 10面</ref>)。現在、国内に流通している硫黄は、全量が[[水素化脱硫装置|脱硫装置]]起源のものである。 == 硫黄の化合物 == === 硫黄のオキソ酸 === {{Main|硫黄のオキソ酸}} 硫黄は数種のオキソ酸を作る。もっとも有名なのものに[[硫酸]](H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>)がある。 === その他の硫黄化合物 === * [[硫化水素]](H<sub>2</sub>S) * [[硫化水銀]](HgS) * [[二酸化硫黄]](SO<sub>2</sub>) * [[三酸化硫黄]](SO<sub>3</sub>) * [[六フッ化硫黄]](SF<sub>6</sub>) * [[二塩化硫黄]](SCl<sub>2</sub>) * [[二硫化炭素]](CS<sub>2</sub>) * [[有機硫黄化合物]] === 塩 === * [[チオ硫酸ナトリウム]](ハイポ、Na<sub>2</sub>S<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) * [[硫酸バリウム]](BaSO<sub>4</sub>) * [[硫酸塩]] == 生物における硫黄化合物 == 硫黄化合物は生物でも不可欠な役割を果たしている。[[ビタミンB1]]とB7([[ビオチン]]、ビタミンHとも)に含まれる。 [[植物]]の根では、硫黄は[[硫酸]][[イオン]]の形で吸収され、還元されて最終的に硫化水素となってから、[[システイン]]やそのほかの有機化合物に取り込まれる。 [[アミノ酸]]ではシステインと[[メチオニン]]が硫黄を含み、それらがさらに[[ペプチド]]・[[蛋白質]]に取り込まれる。そのほか含硫アミノ酸としては[[ホモシステイン]]と[[タウリン]]があり、これらはペプチド・蛋白質には取り込まれないが[[代謝]]上は重要である。 蛋白質のシステイン残基にあるチオール基は、システイン[[プロテアーゼ]]などの[[活性中心]]として機能する。また1対のシステイン残基の間に[[ジスルフィド結合]](S-S結合)が形成され、蛋白質の高次構造([[三次構造]]・[[四次構造]])を形成・維持するうえで重要である。顕著な例として、[[羽毛]]や[[毛髪]]が力学的・化学的に頑丈なのは、主要蛋白質[[ケラチン]]に多数のS-S結合が含まれていることが大きな要因である。これらを燃やしたときの特異なにおい、また[[ゆで卵]]のにおいも、おもに硫黄化合物による。 硫黄を含む低分子ペプチドとして特に重要なのは[[グルタチオン]]で、細胞内でそのチオール基により[[還元剤]]として、あるいは[[解毒代謝]]に働いている。また[[アシル基]]に関係した多くの反応は、たとえば[[補酵素A]]、[[α-リポ酸]]などの、チオール基を含む補欠分子を必要とする。 一部の[[光合成]]・化学合成[[細菌]]では、[[硫化水素]]が水の代わりに電子供与体として使われる。多くの生物の[[電子伝達系]]で、硫黄と[[鉄]]からなる[[鉄-硫黄クラスター]]が働いている([[フェレドキシン]]など)。また[[呼吸鎖]]の[[シトクロムc酸化酵素]]の銅中心Cu<sub>A</sub>にも含まれる。 == 地球上の硫黄循環 == {{Main|硫黄循環}} 潮臭さに代表されるように、海の微生物が分解され、それが[[ジメチルスルフィド]]や[[硫酸イオン]]などになり、大気中を移動することが知られている。気象とも関係を持ち、雲の核となり地上に雨とともに降りて、海や地上の微生物や植物などの生物へと循環していると考えられている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ;注釈 {{Notelist}} ;出典 {{Reflist|2}} == 参考文献 == * エリック・シャリーン 『図説 世界史を変えた50の鉱物』 上原ゆうこ訳、原書房、2013年、{{ISBN2|978-4-562-04871-7}}。 * {{Cite journal|last=Cunha|first=Daniel|date=2019|title=The Frontier of Hell: Sicily, Sulfur, and the Rise of the British Chemical Industry, 1750–1840|journal=Critical Historical Studies|volume=6|issue=2|pages=279–302|doi=10.1086/705370|s2cid=213698672|issn=2326-4462|ref =harv}} * {{Cite journal|last=Šedivý|first=Miroslav|date=2011|title=Metternich and the Anglo-Neapolitan Sulphur Crisis of 1840|journal=Journal of Modern Italian Studies|volume=16|issue=1|pages=1–18|doi=10.1080/1354571X.2011.530754|s2cid=145623998|issn=1354-571X |ref =harv}} * {{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=GbqKDwAAQBAJ&pg=PA337|title=Crisis Among the Great Powers: The Concert of Europe and the Eastern Question|last=Šedivý|first=Miroslav|date=2016|publisher=Bloomsbury Publishing|isbn=978-1-78673-020-6|language=en|ref =harv}} * {{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=whOMDwAAQBAJ&dq=Arsene+Aycard&pg=PA107|title=The Decline of the Congress System: Metternich, Italy and European Diplomacy|last=Šedivý|first=Miroslav|date=2018|publisher=Bloomsbury Publishing|isbn=978-1-78673-403-7|language=en |ref =harv}} * {{Cite journal|last=Thomson|first=Dennis W.|date=1995|title=Prelude to the Sulphur War of 1840: The Neapolitan Perspective|journal=European History Quarterly|language=en|volume=25|issue=2|pages=163–180|doi=10.1177/026569149502500201|s2cid=145807900|issn=0265-6914 |ref =harv}} * {{Citation|和書| author=[[野元新市]]| year=2021| url =https://web.archive.org/web/20220917095708/https://kuchinoerabu-jima.org/wp_monky/wp-content/uploads/2021/06/s_mine_mata7.pdf| title=島津又七の硫黄鉱山事業についての考察 - 又七の七不思議-硫黄鉱山事業編 - | volume=| volume-title=| publisher=えらぶ年寄り組 | page=|ref =harv}} * {{Citation|和書| author=[[石原正明]]| year=1808| url =https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533750/57| title=江戸職人歌合 | volume=| volume-title=| publisher=永楽屋東四郎 | page=24| ref =harv}} == 関連項目 == * [[自然硫黄]] * [[硫黄の化合物の一覧]] * [[帝国硫黄鉱業]] * {{仮リンク|硫黄危機 (1840年)|en|Sulphur_Crisis_of_1840|preserve=1}} == 外部リンク == {{Sisterlinks | q = no }} * [http://www.chem-asahi.co.jp 旭化学工業株式会社]:硫黄化合物の合成技術により様々な製品が製造されている。 * {{Hfnet|613|硫黄}} * {{Britannica|science|sulfur|sulfur (Chemical element)}} * {{ICSC|1166}} * {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}} {{元素周期表}} {{硫黄の化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いおう}} [[Category:硫黄|*]] [[Category:元素]] [[Category:非金属元素]] [[Category:カルコゲン]] [[Category:第16族元素]] [[Category:第3周期元素]] [[Category:必須ミネラル]] [[Category:環式化合物]] [[Category:第2類危険物]]
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1502年
1502年(1502 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。土曜日から始まる。
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1502年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。土曜日から始まる。
{{年代ナビ|1502}} {{year-definition|1502}}土曜日から始まる。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文亀]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2162年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[弘治 (明)|弘治]]15年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[燕山君]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3836年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景統]]5年 * [[仏滅紀元]] : 2044年 - 2045年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 907年 - 908年 * [[ユダヤ暦]] : 5262年 - 5263年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1502|Type=J|表題=可視}} == できごと == * 2月 - [[カスティーリャ王国]]が[[ナスル朝]]([[グラナダ]])の[[イスラム教]]徒に[[改宗]]を強制。 * [[4月15日]] - [[ニコラス・デ・オバンド]]、[[イスパニョーラ島]]着任( - [[1509年]])。 * [[5月9日]] - [[クリストファー・コロンブス]]、第4回航海(-[[1504年]])に出発。[[中米]]北岸([[ホンジュラス]]・[[トルヒージョ]])付近に上陸。 * 10月 - [[ヴァスコ・ダ・ガマ]]、再びカレクト(現・[[コーリコード]])到着。11月、コーチン(現・[[コーチ (インド)|コーチ]])に[[商館]]開設。 * 12月 - 『[[大明会典]]』完成。 * [[オスマン帝国]][[バヤズィト2世]]が[[ヴェネツィア]]との間に和平条約。 * [[クリミア・ハン国]]が[[ロシア]]とともに[[サライ (都市)|サライ]]を攻略し[[ジョチ・ウルス]]を滅ぼす。 * [[ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]]が[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]設立。 == 誕生 == {{see also|Category:1502年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月7日]] - [[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Gregory-XIII Gregory XIII pope] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第226代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1585年]]) * [[4月2日]] - [[ズザンナ・フォン・バイエルン]]、[[バイロイト侯領|ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯]][[カジミール (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)|カジミール]]の妃(+ [[1543年]]) * [[4月20日]] - [[オットー・ハインリヒ (プファルツ選帝侯)|オットー・ハインリヒ]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](+ [[1559年]]) * [[6月6日]] - [[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/John-III-king-of-Portugal John III king of Portugal] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル王]](+ [[1557年]]) * [[7月26日]] - [[クリスチャン・エゲノルフ]]、ドイツの[[印刷]]業者、[[出版]]業者(+ [[1555年]]) * 12月(文亀2年12月) - [[近衛稙家]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[公家]]、[[関白]]。[[藤原北家]][[摂家]][[近衛家]]第15代当主(+ [[1566年]]) * [[アタワルパ]]、[[インカ帝国]]の最後(13代)の[[サパ・インカ|サパ・インカ(皇帝)]](+ [[1533年]]) * [[梅戸高実]]、戦国時代の武将(+ [[1561年]]) * [[大友義鑑]]、戦国時代の[[豊後国|豊後]]の[[戦国大名]]。豊後[[大友氏]]の第20代当主(+ [[1550年]]) * [[朽網鑑康]]、戦国時代の武将(+ [[1586年]]) * [[武野紹鴎|武野紹鷗]]、戦国時代の豪商、[[茶道|茶人]](+ [[1555年]]) * [[田坂義詮]]、戦国時代の武将(+ [[1547年]]) * [[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)|ジョン・ダドリー]]、[[イングランド王国|イングランド]]の軍人、政治家(+ [[1553年]]) * [[土岐治頼]]、戦国時代の武将(+ [[1557年]]) * [[土岐頼芸]]、戦国時代の[[守護大名]]、[[土岐氏|美濃土岐氏]]第14代及び第16代当主(+ [[1582年]]) * [[ペドロ・ヌネシュ]]、ポルトガルの[[数学者]](+ [[1578年]]) * [[ゴンサロ・ピサロ]]、[[スペイン]]の[[コンキスタドール]](+ [[1548年]]) * [[別所就治]]、戦国時代の戦国大名(+ [[1563年]]) * [[牧野貞成]]、戦国時代の武将(+ [[1562年]]) * [[八板金兵衛]]、戦国時代の刀鍛冶、のち[[鉄砲鍛冶]](+ [[1570年]]) * [[ヤヌシュ3世]]、ポーランドの[[マゾフシェ公国]]の統治者(+ [[1526年]]) * [[ミゲル・ロペス・デ・レガスピ]]、スペインのコンキスタドール、初代[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]](+ [[1572年]]) == 死去 == {{see also|Category:1502年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月11日]](文亀元年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]) - [[南部信時]]、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将、[[南部氏]]の第20代当主(* [[1442年]]) * [[1月25日]](文亀元年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[薬師寺元長]]、室町時代、戦国時代の武将、[[守護代]](* 生年不詳) * [[2月18日]] - [[ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1457-1502)|ヤドヴィガ・ヤギェロンカ]]、[[バイエルン大公|バイエルン=ランツフート公]][[ゲオルク (バイエルン公)|ゲオルク]]の妃(* [[1457年]]) * [[4月2日]] - [[アーサー・テューダー]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]と王妃[[エリザベス・オブ・ヨーク|エリザベス]]の第1王子。[[プリンス・オブ・ウェールズ]](* [[1486年]]) * 6月19日/8月20日(文亀2年5月15日/6月19日) - [[村田珠光]]、室町時代、戦国時代の[[茶道|茶人]](* 1422年/1423年) * [[7月15日]]([[文亀]]2年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]) - [[浦上則宗]]、室町時代、戦国時代の武将(* [[1429年]]) * [[9月1日]](文亀2年[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]) - [[宗祇]]、室町時代、戦国時代の[[連歌師]](* [[1421年]]) * [[9月6日]](文亀2年[[8月8日 (旧暦)|8月5日]]) - [[義忠]]、室町時代、戦国時代の[[天台宗]]の僧(* [[1479年]]) * [[11月13日]] - [[ヴィテルボのアンニウス]]、[[イタリア]]の[[ドミニコ会]]修道士(* [[1432年]]) * [[11月24日]](文亀2年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[宇野政秀]]、室町時代、戦国時代の武将(* [[1421年]]) * [[12月31日]] - [[ヴィテロッツォ・ヴィテッリ]]、イタリアの[[コンドッティエーレ]](* [[1458年]]) * [[アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ]]、イタリアの[[画家]](* [[1446年]]) * [[内藤弘春]]、室町時代、戦国時代の武将、守護代。[[内藤氏]]の当主(* 生年不詳) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1502}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1502ねん}} [[Category:1502年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1502%E5%B9%B4
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ベンジン
ベンジン(benzine)は、原油から分留精製した揮発性の高い可燃性の液体であり、主として炭素数5 - 10のアルカン(飽和炭化水素)からなる混合物である。リグロイン(ligroin)、揮発油(きはつゆ)、ナフサ(naphtha)、ガソリン (gasoline)、石油エーテル(せきゆエーテル、petroleum ether)などとも呼ばれるが、用語の使い分けは添加剤や用途、地域によって著しく異なっている。日本では概ね、分留で得られる半製品をナフサ、燃料用途のナフサをホワイトガソリン、内燃機関用にナフサを接触改質しオクタン価を調整した物をガソリン、軽質ナフサから作られ懐炉や溶剤などに用いられる物をベンジンと呼ぶ慣行がある。 ベンジンは非極性溶媒であり水には不溶だが、エタノールやジエチルエーテルなどと自由に混ざり合う。揮発性が高く、引火しやすい。低沸点留分であるナフサを、濃硫酸で処理し、アルカリで中和後水で洗浄、脱水したのち蒸留によって精製する。 国によって、ベンジンという言葉が指す物は異なる。独: Benzin・蘭: benzine・伊: benzinaには、「ベンジン」の他に「ガソリン」の意味がある。英語などではbenzineに対しgasoline・gasなど、「ガソリン」を意味する別の語がある(仏: benzine-essence、西: bencina-gasolina)。アメリカ合衆国とイギリスでは、用語としてベンジンを用いることはなく、代わりにナフサという用語を用いる。 本節では日本工業規格 (JIS) に規定のあるベンジン類について、規格ごとに解説する。いずれも消防法上はガソリンに該当し、危険物第4類・第1石油類・危険等級IIとして取り扱われる。また労働安全衛生法・有機溶剤中毒予防規則における第3種有機溶剤となっている。 一般に「ベンジン」と呼ばれているのは、JIS K 2201:1991に規定されている工業ガソリン1号である。染み抜きなどの溶剤や機械の洗浄などに使われる。また、ハクキンカイロなどの懐炉の燃料として利用されることもある。 一般に市販されているベンジンには懐炉用としみ抜き用とが有るが、しみ抜き用のものは懐炉には使用できない。(洗剤成分が含まれている事があるため)逆に懐炉用はしみ抜き、シール剥がしにも使用できる。 なお工業ガソリン2号(ゴム揮発油)はゴム工業用、3号(大豆揮発油)は植物油の抽出用に調製されたもので、物理的性状はベンジンと大差ない。4号、5号は本節でいうベンジンより揮発性が低く、性状はむしろ灯油に近い。 化学実験に用いる石油エーテルは、試薬としてJIS K 8594:1996に規定されている。日本薬局方にも定義がある。CAS登録番号8032-32-4。名称に「エーテル」を含んでいるがエーテル結合を持たず、有機化学でいうエーテルとはまったく別のものである。炭素数は5 - 6が主で、ペンタンのほか、イソペンタン、ヘキサンなどの混合物である。 クロマトグラフィーの展開溶媒として利用されるが、日本では精製度が高く安価に入手できるヘキサンを利用する場合が多い。 試薬としてのベンジンは、JIS K 8594に規定されている。炭素数は6 - 7が主で、ヘキサンやイソヘキサンなどの混合物である。CAS登録番号8030-30-6。 リグロインは試薬としてJIS K 8937に規定されている。主に炭素数7 - 8の炭化水素の混合物で、ベンジン類の中では揮発性が低い。
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ベンジン(benzine)は、原油から分留精製した揮発性の高い可燃性の液体であり、主として炭素数5 - 10のアルカン(飽和炭化水素)からなる混合物である。リグロイン(ligroin)、揮発油(きはつゆ)、ナフサ(naphtha)、ガソリン (gasoline)、石油エーテルなどとも呼ばれるが、用語の使い分けは添加剤や用途、地域によって著しく異なっている。日本では概ね、分留で得られる半製品をナフサ、燃料用途のナフサをホワイトガソリン、内燃機関用にナフサを接触改質しオクタン価を調整した物をガソリン、軽質ナフサから作られ懐炉や溶剤などに用いられる物をベンジンと呼ぶ慣行がある。
{{Otheruses|有機溶剤|ポーランドのシロンスク県にある郡|ベンジン郡|}} {{混同|ベンゼン}} [[画像:ハクキン純正ベンジン.jpg|thumb|カイロ用のベンジン]] '''ベンジン'''(benzine)は、[[石油|原油]]から[[分留]]精製した揮発性の高い可燃性の液体であり、主として炭素数5 - 10の[[アルカン]](飽和[[炭化水素]])からなる混合物である。'''リグロイン'''(ligroin)、'''揮発油'''(きはつゆ)、'''ナフサ'''(naphtha)、'''ガソリン''' (gasoline)、'''石油エーテル'''(せきゆエーテル、petroleum ether)などとも呼ばれるが、用語の使い分けは添加剤や用途、地域によって著しく異なっている。日本では概ね、分留で得られる半製品を[[ナフサ]]、燃料用途のナフサを[[ホワイトガソリン]]、[[内燃機関]]用にナフサを接触改質し[[オクタン価]]を調整した物を[[ガソリン]]、軽質ナフサから作られ[[懐炉]]や[[溶媒|溶剤]]などに用いられる物をベンジンと呼ぶ慣行がある。 == 概要 == ベンジンは非極性溶媒であり水には不溶だが、[[エタノール]]や[[ジエチルエーテル]]などと自由に混ざり合う。揮発性が高く、引火しやすい。低[[沸点]]留分である[[ナフサ]]を、[[濃硫酸]]で処理し、アルカリで中和後水で洗浄、脱水したのち蒸留によって精製する。 == 名称 == {{独自研究|section=1|date=2011年12月}} 国によって、ベンジンという言葉が指す物は異なる。{{Lang-de-short|Benzin}}・{{Lang-nl-short|benzine}}・{{Lang-it-short|benzina}}には、「ベンジン」の他に「ガソリン」の意味がある。英語などではbenzineに対しgasoline・gasなど、「ガソリン」を意味する別の語がある({{Lang-fr-short|benzine-essence}}、{{Lang-es-short|bencina-gasolina}})。アメリカ合衆国とイギリスでは、用語としてベンジンを用いることはなく、代わりに[[ナフサ]]という用語を用いる。 == 日本産業規格 == 本節では[[日本工業規格]] (JIS) に規定のあるベンジン類について、規格ごとに解説する。いずれも[[消防法]]上は[[ガソリン]]に該当し、[[危険物]]第4類・第1石油類・危険等級IIとして取り扱われる。また[[労働安全衛生法]]・[[有機溶剤中毒予防規則]]における第3種有機溶剤となっている。 {|class="wikitable" |+JISにおけるベンジン類の規格 |- ! !!工業ガソリン1号!!石油エーテル!!石油ベンジン!!リグロイン |- |JIS||K 2201||K 8593||K 8594||K 8937 |- |留分 ({{℃}})||30-150||30-60||50-80||80-110 |- |密度 (g/mL, 20{{℃}})||0.668-0.764||0.62-0.66||0.64-0.74||0.68-0.75 |- |} === 工業ガソリン1号 === 一般に「ベンジン」と呼ばれているのは、JIS K 2201:1991に規定されている工業ガソリン1号である。染み抜きなどの溶剤や機械の洗浄などに使われる。また、[[ハクキンカイロ]]などの[[懐炉]]の燃料として利用されることもある。 一般に市販されているベンジンには懐炉用としみ抜き用とが有るが、しみ抜き用のものは懐炉には使用できない。(洗剤成分が含まれている事があるため)逆に懐炉用はしみ抜き、シール剥がしにも使用できる。 なお工業ガソリン2号(ゴム揮発油)はゴム工業用、3号(大豆揮発油)は植物油の抽出用に調製されたもので、物理的性状はベンジンと大差ない。4号、5号は本節でいうベンジンより揮発性が低く、性状はむしろ[[灯油]]に近い。 === 石油エーテル === 化学実験に用いる[[石油エーテル]]は、試薬としてJIS K 8594:1996に規定されている。[[日本薬局方]]にも定義がある。[[CAS登録番号]]8032-32-4。名称に「エーテル」を含んでいるがエーテル結合を持たず、有機化学でいう[[エーテル (化学)|エーテル]]とはまったく別のものである。炭素数は5 - 6が主で、[[ペンタン]]のほか、[[イソペンタン]]、[[ヘキサン]]などの混合物である。 [[クロマトグラフィー]]の展開溶媒として利用されるが、日本では精製度が高く安価に入手できる[[ヘキサン]]を利用する場合が多い。 === 石油ベンジン === 試薬としてのベンジンは、JIS K 8594に規定されている。炭素数は6 - 7が主で、[[ヘキサン]]や[[イソヘキサン]]などの混合物である。[[CAS登録番号]]8030-30-6。 === リグロイン === リグロインは試薬としてJIS K 8937に規定されている。主に炭素数7 - 8の炭化水素の混合物で、ベンジン類の中では揮発性が低い。 == 関連項目 == * [[懐炉]] * [[ホワイトガソリン]] {{DEFAULTSORT:へんしん}} [[Category:石油]] [[Category:石油製品]] [[Category:第1石油類]] [[Category:炭化水素溶媒]] [[Category:化成品]] [[Category:キャンプ用品]]
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1722年
1722年(1722 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1722年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1722}} {{year-definition|1722}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]7年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2382年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]61年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[景宗 (朝鮮王)|景宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4055年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[保泰]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2264年 - 2265年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1134年 - 1135年 * [[ユダヤ暦]] : 5482年 - 5483年 * [[ユリウス暦]] : 1721年12月21日 - 1722年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1722}} == できごと == * 3月-5月、イギリスで[[1722年イギリス総選挙|総選挙]]。[[ロバート・ウォルポール|ウォルポール]]内閣の与党[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]大勝。 * [[4月5日]] - [[ヤコブ・ロッゲフェーン]]が[[イースター島]]を発見。発見日がイースターであったことにちなみ名づけられる。 * [[12月20日]](康熙61年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]])- [[清]]で[[康熙帝]]が没し[[雍正帝]]が即位。 === 日本 === * [[8月14日]](享保7年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[江戸幕府]]が、米の上納を条件に大名の[[参勤交代]]による江戸滞在を半年に短縮する[[上米の制]]を導入。 <!-- グレゴリオ暦では翌年の1月10日になるようです。* [[12月21日]] - [[目安箱]]の投書をきっかけとして、[[徳川吉宗]]の命により[[小石川養生所]]を開設。--> * 新田開発を奨励する。 * 幕府により、心中物の上演が禁止される。 == 誕生 == {{see also|Category:1722年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月12日]] - [[ニコラ・リュクネール]]、フランスの元帥(+ [[1794年]]) * [[2月24日]] - [[ジョン・バーゴイン]]、イギリスの将軍(+ [[1792年]]) * [[4月30日]](享保7年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]])- [[高芙蓉]]、篆刻家(+ [[1784年]]) * [[6月30日]] - [[ゲオルク・ベンダ]]、作曲家(+ [[1795年]]) * [[8月9日]] - [[アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1722-1758)|アウグスト・ヴィルヘルム]]、プロイセン王族(+ [[1758年]]) * [[9月5日]] - [[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]、ザクセン選帝侯(+ [[1763年]]) == 死去 == {{see also|Category:1722年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月5日]] - [[ヨハン・クーナウ]]、作曲家(* [[1660年]]) * [[6月27日]] - [[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]、イギリスの軍人(* [[1650年]]) * [[11月24日]] - [[ヨハン・アダム・ラインケン]]、作曲家(* [[1643年]]) * [[12月20日]](康熙61年11月13日)- [[康熙帝]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Kangxi Kangxi emperor of Qing dynasty] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、清の第4代皇帝(* [[1654年]]) * [[12月23日]] - [[ピエール・ヴァリニョン]]、数学者(* [[1654年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1722}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1722ねん}} [[Category:1722年|*]]
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高分子
高分子(こうぶんし)または高分子化合物(こうぶんしかごうぶつ、英: macromolecule、giant molecule)とは、分子量が大きい分子である。国際純正・応用化学連合(IUPAC)の高分子命名法委員会では高分子macromoleculeを「分子量が大きい分子で、分子量が小さい分子から実質的または概念的に得られる単位の多数回の繰り返しで構成した構造」と定義し、ポリマー分子(英: polymer molecule)と同義であるとしている。また、「高分子から成る物質」としてポリマー(重合体、多量体、英: polymer)を定義している。すなわち、高分子は分子であり、ポリマーとは高分子の集合体としての物質を指す。日本の高分子学会もこの定義に従う。 高分子はその由来によって、自然界の産物である天然高分子(英: natural macromolecule)と、人工的に合成された合成高分子(synthetic macromolecule)、天然高分子から化学的に誘導された半合成高分子(semisynthetic macromolecule)に分類される。さらに、高分子を構成する分子によって有機高分子(organic macromolecule)と無機高分子(inorganic macromolecule)にそれぞれ分けられる。天然の有機高分子は生物によって合成されるため、生体高分子とも呼ばれる。これらの分類方法とは別に、特に生体高分子において繰り返し構造の規則性での分類もある。ただ1種の構成単位が単一の連結法で繰返された構造を持つ化合物を規則性高分子(regular macromolecule)という。2種以上の構成単位の繰返しからなる構造をもつ、あるいは構成単位の連結法が単一でない構造をもつ高分子を不規則性高分子(irregular macromolecule)という。 また、共重合体の単位構造配列による分類方法もある。 高分子の分岐の程度で以下のように分ける。 高分子は1種類あるいは数種類の繰り返し単位(repeating unit)から成る。殆どの場合、繰り返し単位は原料の単量体に由来する。高分子の構造は繰り返し単位の化学構造だけでなく、繰り返し単位の結合や重合度によって異なる。これらの要素によって決定される高分子の構造を一次構造という。 一次構造は、その高分子が生成された反応の素過程を記録している。生体高分子の一方の末端には開始剤(の断片)が存在する。もう一方の末端には、反応停止剤といった、重合の停止反応に由来する断片が存在する。両末端の間は成長反応の様子を示唆する。単量体が共役二重結合や三重結合を有していた場合、シス-トランス異性など、不飽和結合に関する幾何異性の情報を高分子の構造から知ることができる。 高分子の部分や官能基は、自己の他の部分や官能基と分子間力(イオン結合、水素結合、双極子相互作用、ファンデルワールス力)によって相互作用している。この相互作用は、高分子鎖の骨格に沿って近いもの(分子式上での隣接および近接部分)の間にも遠いものの間にも生じる。前者の相互作用を近接相互作用英: next-nearest-neighbor interaction、後者を遠隔相互作用という。遠隔相互作用が生ずる理由は、高分子が折れ曲がることにより分子式上で遠く離れていても空間的に近づくためである。加えて、溶液の場合、溶媒や他の溶質とも分子間力や配位結合での相互作用が生じている。 これら相互作用は高分子の立体構造を決定的に支配する。相互作用が存在しない理想鎖の場合、高分子は無数の立体構造を取り得る。なぜなら、相互作用がなければ高分子の各結合は自由に回転できるためである。しかし、現実には相互作用により分子間回転は制限され、高分子が取り得る立体構造は制限されている。高分子の構造が決定されている例としてはタンパク質や核酸の四次構造である。 溶液中の高分子の立体構造は刻々と変化し、見掛け上、高分子は運動している。これは、熱運動する溶媒分子との衝突による。高分子のこの運動をミクロブラウン運動という。 単量体がアルケンであるビニル重合では、頭-尾結合(head to tail)と頭-頭結合(head to head)の2通りの結合様式が、置換基の立体障害や電子的特性に応じて生じる。これを位置規則性という。一方ラクトンや環状エーテルなどのや環状化合物を単量体とする開環重合では、開裂が起こる場所によって頭-尾結合と頭-頭結合の起こる割合も変わる。 プロピレンなどの重合において、重合することによってできた四級炭素は不斉炭素原子であり、重合法によってはこの不斉炭素の絶対配置に規則性が現れる。これを立体規則性(タクティシティー、tacticity)という。すべての不斉炭素が同じ絶対配置を持つような構造をイソタクチック(アイソタクチック)といい、絶対配置が交互に並ぶものをシンジオタクチックという。また、全くランダムになった構造をアタクチックという。立体規則性はNMRを用いることで評価ができる。 チーグラー・ナッタ触媒によって合成されたポリプロピレンはイソタクチックであるが、通常のラジカル重合で合成したポリプロピレンはアタクチック構造である。 ジエン系モノマーの重合では、1,2-構造、シス 1,4-構造、トランス 1,4-構造といった異性体構造が生じる。 共重合体には、ランダム共重合体(―ABBABBBAAABA―)、交互共重合体(―ABABABABABAB―)、周期的共重合体(―AAABBAAABBAAA―)、ブロック共重合体(―AAAAAABBBBBB―)、の4種類の構造がある。 また、ブロック共重合体の一種にグラフト共重合体と呼ばれるものがあり、これは幹となる高分子鎖に、異種の枝高分子鎖が結合した枝分かれ構造をしている。 多数の枝からなる樹木状(多分岐高分子)のデンドリマー、ハイパーブランチポリマー、ロタキサン、高分子カテナン、水素結合、静電気力、配位結合のような弱い結合力で結びつけた自己集積型高分子、などの新構造高分子の合成も近年注目されている。 ミクロブラウン運動により形が常に変化するため、高分子の大きさ(分子量ではない)も変化する。高分子の大きさはある瞬間の特定の立体構造での大きさではなく、可能性のあるすべての立体構造の大きさを平均した値(高分子鎖の広がり、英: average chain dimension)で評価される。高分子鎖の広がりは平均二乗両端間距離や平均二乗回転半径などで計算される。これらに加えて、分子内や溶媒との相互作用の平均力ポテンシャル、さらには排除体積効果も考慮されることがある。 分子が懸濁(英: suspention)した状態を分散相という。このとき分子の大きさが揃っている相を単分散(単分散系、英: mono-disperse system)、不揃いなものを多分散(多分散系、英: poly-disperse system)という。 合成高分子の分子量は多分散を示す。つまり合成高分子は、同一の組成を持つが分子量は異なる分子の混合物であり、その分子量は通常、数平均分子量あるいは重量平均分子量で表される。分子量分布は、応用上分子量そのものと同様に重要であり、物性面では通常分子量分布が狭いことが望ましいが、加工の容易さからは分子量分布が広いことが有利になる場合も多く、分子量のみならずその分布も用途に応じて設計する必要がある。平均分子量の算出方法には分子1個あたりの平均の分子量として算出される数平均分子量や、重量に重みをつけて計算した重量平均分子量等がある。重量平均分子量と数平均分子量の比を分散比と呼び、これが1に近いほど分子量分布が狭いことを示す。 生体高分子、天然高分子には、単一の分子量からなる単分散を示すものも多い。 分子量の測定法には以下のものがある。 分子内にあらかじめ反応点を2つ以上持たせておく方法と、反応中に活性点を連鎖的に発生させる方法がある。
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高分子(こうぶんし)または高分子化合物とは、分子量が大きい分子である。国際純正・応用化学連合(IUPAC)の高分子命名法委員会では高分子macromoleculeを「分子量が大きい分子で、分子量が小さい分子から実質的または概念的に得られる単位の多数回の繰り返しで構成した構造」と定義し、ポリマー分子(英: polymer molecule)と同義であるとしている。また、「高分子から成る物質」としてポリマーを定義している。すなわち、高分子は分子であり、ポリマーとは高分子の集合体としての物質を指す。日本の高分子学会もこの定義に従う。
'''高分子'''(こうぶんし)または'''高分子化合物'''(こうぶんしかごうぶつ、{{lang-en-short|macromolecule、giant molecule}})とは、[[分子量]]が大きい[[分子]]である。[[国際純正・応用化学連合]](IUPAC)の高分子命名法委員会では高分子macromoleculeを「分子量が大きい分子で、分子量が小さい分子から実質的または概念的に得られる単位の多数回の繰り返しで構成した構造」と定義し、ポリマー分子({{lang-en-short|polymer molecule}})と同義であるとしている<ref name=IUPAC,macromolecule />。また、「高分子から成る物質」としてポリマー([[重合体]]、多量体、{{lang-en-short|polymer}})を定義している<ref name=IUPAC,polymer />。すなわち、高分子は分子であり、ポリマーとは高分子の集合体としての物質を指す<ref name=IUPAC,teams />。日本の[[高分子学会]]もこの定義に従う。 == 高分子の種類 == {{出典の明記 | date = 2017年5月 | section = 1 }} 高分子はその由来によって、自然界の産物である'''天然高分子'''({{lang-en-short|natural macromolecule}})と、人工的に合成された'''合成高分子'''({{lang|en|synthetic macromolecule}})、天然高分子から化学的に誘導された'''半合成高分子'''({{lang|en|semisynthetic macromolecule}})に分類される。さらに、高分子を構成する分子によって'''有機高分子'''({{lang|en|organic macromolecule}})と'''無機高分子'''({{lang|en|inorganic macromolecule}})にそれぞれ分けられる。天然の有機高分子は生物によって合成されるため、[[生体高分子]]とも呼ばれる。これらの分類方法とは別に、特に生体高分子において繰り返し構造の規則性での分類もある。ただ1種の構成単位が単一の連結法で繰返された構造を持つ化合物を規則性高分子({{lang|en|regular macromolecule}})という。2種以上の構成単位の繰返しからなる構造をもつ、あるいは構成単位の連結法が単一でない構造をもつ高分子を不規則性高分子({{lang|en|irregular macromolecule}})という。 ;天然高分子 :;有機かつ規則性高分子 ::[[ポリアミン]]、一部の[[脂質]]、[[セルロース]]、[[アミロース]]、[[デンプン]]、[[キチン]]、[[ゴム|天然ゴム]] :;有機かつ不規則性高分子 ::[[ポリペプチド]]、[[タンパク質]]、[[DNA]]、[[RNA]]、一部の[[脂質]]、[[リグニン]]、[[アスファルテン]] :;無機高分子かつ規則性高分子 ::[[二酸化ケイ素]]([[水晶]]、[[石英]])、[[雲母]]、[[長石]]、[[石綿]]、天然由来の炭素同素体([[ダイヤモンド]]、[[黒鉛]])、[[閃亜鉛鉱]]、[[ウルツ鉱]] : ;合成高分子 :;有機かつ規則性高分子 ::[[合成樹脂]](プラスチック)([[ポリ塩化ビニル]]、[[ポリエチレン]]、[[フェノール樹脂]]など)、[[ケイ素樹脂|シリコン樹脂]](シリコンゴム、シリコンオイル)、[[合成繊維]]([[ナイロン]]、[[ビニロン]]、[[ポリエステル]]、[[ポリエチレンテレフタラート]]など)、[[ゴム|合成ゴム]] :;無機かつ規則性高分子 ::[[ポリシロキサン]]、[[ポリホスファゼン]]、[[ポリシラン]]、[[窒化硫黄ポリマー]]、[[ガラス]]、合成[[ルビー]]、合成された炭素同素体([[人工ダイヤモンド]]、人工[[グラファイト]]など) : ;半合成高分子 :;有機かつ規則性高分子 ::[[三酢酸セルロース]]、[[二酢酸セルロース]]、[[硝酸セルロース]]、[[セルロイド]]、再生高分子([[再生繊維レーヨン]]) また、[[共重合]]体の単位構造配列による分類方法もある。 *ランダム共重合体 *交互共重合体 *ブロック共重合体 *グラフト共重合体 高分子の分岐の程度で以下のように分ける<ref name=IUPAC,teams />。 ;線状高分子 ({{lang|en|liner macromolecule}}) :実質的または概念的に、相対分子質量の小さい分子([[単量体]]など)に由来する単位が線状に数多く繰返された構造をもつ高分子 ;星型高分子 ({{lang|en|star macromolecule}}) :1個の分岐点から線状分子鎖(腕)が出ている高分子。星型高分子の腕が構成(化学構造)および重合度に関して同じである場合、その高分子のことを規則性星型高分子 ({{lang|en|regular star macromolecule}})という。異なる場合は混合鎖星型高分子 ({{lang|en|variegated star macromolecule}}) という。ただし、規則性星型高分子の規則性とは骨格構造の規則性であり、規則性高分子の規則性とは若干意味が異なる。 ;櫛型高分子 ({{lang|en|comb macromolecule}}) :線状側鎖が出ている三叉分岐点(定義 1.54 参照)を主鎖(定義 1.34 参照)に数多くもつ高分子。主鎖中の分岐点間の副分子鎖および主鎖の末端の副分子鎖が構成(化学構造)および重合度に関して同じであり、側鎖も構成(化学構造)および重合度に関して同じである場合は、その高分子を規則性櫛型高分子 ({{lang|en|regular comb macromolecule}}) という。 ;ブラシ状高分子 ({{lang|en|brush macromolecule}}) :少なくとも数個の分岐点が3よりも多く枝分かれしている高分子 == 構造 == {{出典の明記 | date = 2017年5月 | section = 1 }} 高分子は1種類あるいは数種類の'''繰り返し単位'''(repeating unit)から成る。殆どの場合、繰り返し単位は原料の単量体に由来する。高分子の構造は繰り返し単位の化学構造だけでなく、繰り返し単位の結合や[[重合|重合度]]によって異なる。これらの要素によって決定される高分子の構造を一次構造という。 一次構造は、その高分子が生成された反応の素過程を記録している。生体高分子の一方の末端には開始剤(の断片)が存在する。もう一方の末端には、反応停止剤といった、重合の停止反応に由来する断片が存在する。両末端の間は成長反応の様子を示唆する。単量体が[[共役二重結合]]や三重結合を有していた場合、[[シス-トランス異性]]など、不飽和結合に関する幾何異性の情報を高分子の構造から知ることができる。 高分子の部分や官能基は、自己の他の部分や官能基と[[分子間力]]([[イオン結合]]、[[水素結合]]、[[双極子相互作用]]、[[ファンデルワールス力]])によって相互作用している。この相互作用は、高分子鎖の骨格に沿って近いもの(分子式上での隣接および近接部分)の間にも遠いものの間にも生じる。前者の相互作用を'''近接相互作用'''{{lang-en-short|next-nearest-neighbor interaction}}、後者を'''遠隔相互作用'''という。遠隔相互作用が生ずる理由は、高分子が折れ曲がることにより分子式上で遠く離れていても空間的に近づくためである。加えて、溶液の場合、溶媒や他の溶質とも分子間力や[[配位結合]]での相互作用が生じている。 これら相互作用は高分子の立体構造を決定的に支配する。相互作用が存在しない理想鎖の場合、高分子は無数の立体構造を取り得る。なぜなら、相互作用がなければ高分子の各結合は自由に回転できるためである。しかし、現実には相互作用により分子間回転は制限され、高分子が取り得る立体構造は制限されている。高分子の構造が決定されている例としてはタンパク質や核酸の[[四次構造]]である。 溶液中の高分子の立体構造は刻々と変化し、見掛け上、高分子は運動している。これは、[[熱運動]]する溶媒分子との衝突による。高分子のこの運動を[[ミクロブラウン運動]]という。 === 位置規則性 === 単量体が[[アルケン]]であるビニル重合では、頭-尾結合(head to tail)と頭-頭結合(head to head)の2通りの結合様式が、置換基の立体障害や電子的特性に応じて生じる。これを位置規則性という。一方[[ラクトン]]や[[環状エーテル]]などのや環状化合物を単量体とする開環重合では、開裂が起こる場所によって頭-尾結合と頭-頭結合の起こる割合も変わる。 === 立体規則性 === [[プロピレン]]などの重合において、重合することによってできた[[四級炭素]]は[[不斉炭素原子]]であり、重合法によってはこの不斉炭素の[[絶対配置]]に規則性が現れる。これを[[立体規則性]](タクティシティー、tacticity)という。すべての不斉炭素が同じ絶対配置を持つような構造をイソタクチック(アイソタクチック)といい、絶対配置が交互に並ぶものをシンジオタクチックという。また、全くランダムになった構造をアタクチックという。立体規則性は[[核磁気共鳴|NMR]]を用いることで評価ができる。 [[チーグラー・ナッタ触媒]]によって合成された[[ポリプロピレン]]はイソタクチックであるが、通常のラジカル重合で合成した[[ポリプロピレン]]はアタクチック構造である。 === 幾何異性体 === [[ジエン]]系モノマーの重合では、1,2-構造、[[シス (化学)|シス]] 1,4-構造、[[トランス (化学)|トランス]] 1,4-構造といった[[異性体]]構造が生じる。 === 共重合体の構造 === 共重合体には、'''ランダム共重合体'''(―ABBABBBAAABA―)、'''交互共重合体'''(―ABABABABABAB―)、'''周期的共重合体'''(―AAABBAAABBAAA―)、'''ブロック共重合体'''(―AAAAAABBBBBB―)、の4種類の構造がある。 また、ブロック共重合体の一種に'''グラフト共重合体'''と呼ばれるものがあり、これは幹となる高分子鎖に、異種の枝高分子鎖が結合した枝分かれ構造をしている。 多数の枝からなる樹木状(多分岐高分子)の[[デンドリマー]]、ハイパーブランチポリマー、[[ロタキサン]]、高分子[[カテナン]]、[[水素結合]]、[[静電気力]]、[[配位結合]]のような弱い結合力で結びつけた'''自己集積型高分子'''、などの新構造高分子の合成も近年注目されている。 == 大きさ == ミクロブラウン運動により形が常に変化するため、高分子の大きさ(分子量ではない)も変化する。高分子の大きさはある瞬間の特定の立体構造での大きさではなく、可能性のあるすべての立体構造の大きさを平均した値('''高分子鎖の広がり'''、{{lang-en-short|average chain dimension}})で評価される。高分子鎖の広がりは平均二乗両端間距離や平均二乗回転半径などで計算される。これらに加えて、分子内や溶媒との相互作用の[[平均力ポテンシャル]]、さらには[[排除体積効果]]も考慮されることがある<ref name=Kurada1983 />。 == 分子量 == {{出典の明記 | date = 2017年5月 | section = 1 }} 分子が[[懸濁]]({{Lang-en-short|suspention}})した状態を分散相という。このとき分子の大きさが揃っている相を[[単分散]](単分散系、{{Lang-en-short|mono-disperse system}})、不揃いなものを[[多分散]](多分散系、{{Lang-en-short|poly-disperse system}})という。 合成高分子の分子量は多分散を示す。つまり合成高分子は、同一の組成を持つが分子量は異なる分子の混合物であり、その分子量は通常、数平均分子量あるいは重量平均分子量で表される。分子量分布は、応用上分子量そのものと同様に重要であり、物性面では通常分子量分布が狭いことが望ましいが、加工の容易さからは分子量分布が広いことが有利になる場合も多く、分子量のみならずその分布も用途に応じて設計する必要がある。平均分子量の算出方法には分子1個あたりの平均の分子量として算出される数平均分子量や、重量に重みをつけて計算した重量平均分子量等がある。重量平均分子量と数平均分子量の比を分散比と呼び、これが1に近いほど分子量分布が狭いことを示す。 生体高分子、天然高分子には、単一の分子量からなる単分散を示すものも多い。 分子量の測定法には以下のものがある。 ; [[クロマトグラフィー#サイズ排除クロマトグラフィー|分子排斥クロマトグラフィー法]](GPC法) : GPC({{Lang-en-short|gel permeation chromatography}})法とはゲル状の粒子を充填したカラムに高分子の希薄な溶液を流し、分子の大きさによって流出するまでの時間が異なることを利用した分子量の測定法。分子の溶液中での大きさは分子量以外の要因([[溶媒]]との相互作用の強さなど)によっても影響されること、また固定相と被測定高分子との各種の相互作用によっても保持時間は影響を受けることにより、絶対的な分子量の測定はできないが、分子量分布が容易に得られる利点がある。 ; [[粘度]]法 : 高分子の溶液の粘度 {{Mvar|η}} が以下のような平均分子量の関数であることを利用した測定法。この方法により求められる平均分子量を粘度平均分子量と言う。 : {{Math|1=''η'' = ''kM''<sup>''α''</sup>}} ({{Mvar|k}} および {{Mvar|α}} は高分子に固有の定数) ; 末端基定量法 : 高分子の末端に何らかの官能基が存在する場合には末端基定量法を用いることが可能なことがある。例えば末端が[[カルボン酸]]の高分子であれば[[水酸化ナトリウム]]などの塩基で中和滴定を行うことにより、存在する高分子の個数が分かる。これと全体の質量およびモノマーの分子量とから高分子一個あたりの質量、すなわち数平均分子量が分かる。また、近年では[[核磁気共鳴|NMR]]スペクトルの積分比から末端基の割合を測定することが可能である。 ; 束一的性質を利用した方法([[蒸気圧]]法・[[浸透圧]]法・[[沸点上昇]]法) : 溶液の蒸気圧・浸透圧・沸点がそのモル濃度および質量モル濃度に依存することを利用した測定法。これらの方法により求められる平均分子量は数平均分子量である。 ; 光散乱法 : 溶液中の分子に光が衝突すると光の散乱が起こり、散乱強度がその分子の質量に比例することを利用した分析法。この方法により求められる平均分子量は重量平均分子量である。 ; 沈降速度法([[超遠心]]法) : 大きな重力場の中ではわずかな比重差でも重い粒子が沈むことを利用した分析法。非常に高速で回転する遠心分離機を用い、セル内部の分子の分布状態を光学的に検出することで分子量を測定する。この方法により求められる平均分子量は重量平均分子量である。 == 合成法 == 分子内にあらかじめ反応点を2つ以上持たせておく方法と、反応中に活性点を連鎖的に発生させる方法がある。 {{main|重合反応}} *[[連鎖重合]] **[[付加重合]] ***[[ラジカル重合]] ***[[カチオン重合]] ***[[アニオン重合]] ***[[配位重合]] **[[開環重合]] ***ラジカル重合 ***カチオン重合 ***アニオン重合 ***配位重合 **[[連鎖縮合重合]] *[[逐次重合]] **[[重縮合]] **[[重付加]] **[[付加縮合]] *[[リビング重合]] == 高分子に関するノーベル賞 == *鎖状高分子化合物の研究([[ヘルマン・シュタウディンガー]] 、1953年) *新しい触媒を用いた重合法の開発と基礎的研究([[カール・ツィーグラー]]、[[ジュリオ・ナッタ]]、1963年) *高分子化学の理論、実験両面にわたる基礎研究([[ポール・フローリー]]、1974年) *固相反応によるペプチド合成法の開発([[ロバート・メリフィールド]]、1984年) *単純な系の秩序現象を研究するために開発された手法が、より複雑な物質、特に液晶や高分子の研究にも一般化され得ることの発見([[ピエール=ジル・ド・ジェンヌ]]、1991年) *DNA化学での手法開発への貢献([[キャリー・マリス]]、[[マイケル・スミス (化学者)|マイケル・スミス]]、1993年) *導電性高分子の発見とその開発([[白川英樹]]、[[アラン・ヒーガー]]、[[アラン・マクダイアミッド]]、2000年) *生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発([[ジョン・フェン]]、[[田中耕一]]、[[クルト・ヴュートリッヒ]]、2002年) == 出典 == {{Reflist|refs= <ref name=IUPAC,macromolecule>{{Cite web |url=https://goldbook.iupac.org/html/M/M03667.html |title=IUPAC Gold Book, macromolecule (polymer molecule) |publisher=IUPAC |accessdate=2017-04-16 }}</ref> <ref name=IUPAC,polymer>{{Cite web |url=https://goldbook.iupac.org/html/P/P04735.html |title=IUPAC Gold Book, polymer |publisher=IUPAC |accessdate=2017-04-16 }}</ref> <ref name=Kurada1983>{{cite journal |和書|author=倉田道夫 |journal=高分子 |title=高分子鎖の広がりと排除体積効果 |volume=32 |issue=1 |pages=26-29 |date=1983 |url=https://doi.org/10.1295/kobunshi.32.26 |doi=10.1295/kobunshi.32.26 }}</ref> <ref name=IUPAC,teams>{{Cite web|和書|url=http://main.spsj.or.jp/c19/iupac/Recommendations/glossary36.html |title=国際純正応用化学連合(IUPAC)高分子命名法委員会による高分子科学の基本的術語の用語集 |publisher=公益社団法人高分子学会 |accessdate=2017-04-17 }}</ref> |30em}} == 関連項目 == * [[重合体]] * [[スマートポリマー]] == 外部リンク == * [http://polymer.nims.go.jp/ 高分子データベース PoLyInfo] * [http://www.spsj.or.jp/c19/nomenclature.html Polymer Nomenclature 高分子命名法] *{{Kotobank}} *{{コトバンク|高分子化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうふんし}} [[Category:高分子|*]] [[Category:分子]] [[Category:レオロジー]] [[Category:ソフトマター]] [[Category:化合物]]
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青葉区 (仙台市)
青葉区(あおばく)は、仙台市を構成する5行政区のうちのひとつ。 合併前の旧仙台市の北部・中央部(約23万人が居住。面積比率14%)と旧宮城郡宮城町(約7万人が居住。面積比率86%)からなる。 昼間人口は41万2812人であり、夜間人口の31万0183人に対して10万2629人の増加、昼夜比1.33倍となる(2015年国勢調査)。 区の南東部は江戸時代から仙台の中心である。 区の西部にある奥羽山脈より東流する広瀬川とその支流の流域に従って、東西に細長い形の区となっている。区内の奥羽山脈は、船形山と蔵王連峰の間であまり高い峰々がなく、西からの雪雲が入り易いため、区の西部の旧宮城町は豪雪地帯に指定されている。しかし、その低さ故、関山峠(国道48号)で山形県村山地方に通じている。 区西部の旧宮城町は、愛子盆地を中心とした地域で、青葉山丘陵によって区東部と地形的には分断されている。青葉山丘陵の北部はベッドタウン、丘陵の東端の青葉山には仙台城や東北大学川内キャンパス・青葉山キャンパスがある。丘陵の東側は広瀬川の河岸段丘になっており、仙台市役所、宮城県庁、仙台駅、東北大学片平キャンパスなど、市の主要施設が集中する仙台市都心部を構成する。区の東端は仙台駅と東北新幹線・東北本線で区切られる。なお、青葉山丘陵によって分断されている区の東西を結ぶ主要交通路は、国道48号(仙台西道路・愛子バイパス)やJR仙山線が担っている。 青葉区は、1987年(昭和62年)に仙台市と合併した旧宮城町(3万2108人)とそれに接する旧仙台市北西部で構成され、1989年(平成元年)4月1日に仙台市が政令指定都市に移行した際に24万5881人を擁して設置された(人口は政令市移行日の住民基本台帳人口)。青葉区役所は、仙台市消防局北消防署(現・青葉消防署)の跡地に建設され、区の全体を管轄しているが、旧宮城町役場の土地・建物を受け継いだ青葉区役所宮城総合支所が旧宮城町を管轄している。 区名は区内にある仙台城の雅称の「青葉城」や「青葉山」に由来する。また、伊達政宗を祀る同区青葉町の青葉神社や仙台・青葉まつりなど、青葉という言葉は「仙台」を表す記号でもある。青葉区は区名公募の1位であり、2位は中央区、3位は広瀬区であった。公募を受けて選定した仙台市区名選定委員会は、方位は地名としてとらず、広瀬は将来の分区の際の有力候補として残すべきだという理由を添えて、青葉区を推した。 青葉区の旧宮城町地域(青葉区西部:青葉山丘陵の西側。愛子盆地を中心とする)は、青葉区の面積の86%を占め、合併直前の1987年(昭和62年)10月末における住民基本台帳人口は2万9093人だった。 1986年(昭和61年)3月、仙台市行政区画審議会は「1行政区当たり、概ね10万人ないし20万人の範囲で設定するのが適当」と答申した。このため、旧宮城町地域は単独区になれず、旧仙台市北西部と共に青葉区を構成することになったが、一方で「旧町内の人口が単独市制人口要件の5万人に達したら分区する」という合併時の取り決めも存在した。もし分区されるのであれば、区の名称は「広瀬区」が有力と言われている。 1996年(平成8年)に旧町内の住民基本台帳人口が5万人を突破した ため、取り決めに従って市は1998年(平成10年)11月に行政区画審議会に諮問し、分区するかどうか話し合われたが、2000年(平成12年)秋の審議会で「区の人口が30万人を超えた時点で再検討すべき」として分区見送りが決定した。審議会からは2001年(平成13年)2月5日に市に答申され、市も同年3月27日に分区を見送った。 2012年(平成24年)8月1日の推計人口で旧宮城町は70,010人となって7万人を突破、同年12月1日の推計人口で青葉区は300,154人となり、30万人を突破した。2014年(平成26年)6月10日の市長記者会見において奥山恵美子仙台市長(当時)は、青葉区の人口増加が東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響によるものなのか長期的な傾向なのかを見極めてから分区議論を進める旨を発言した。この頃、市幹部が宮城総合支所管内の町内会長連絡会に、非公式ながら「旧町内の人口が10万人を超えたら分区を検討する」という新基準が伝えられた。分区の基準はこれで3度目の変更となり、「ムービング・ゴールポスト」の状態になっている。 2015年(平成27年)10月1日の国勢調査によれば、旧宮城町の人口は72,254人(折立地区 の住民基本台帳人口4,774人 を含んでいない値)で、宮城県内の自治体の中で名取市(7.7万人)に次ぐ6番目に相当し、その他の仙台都市圏内の自治体の多賀城市(6.2万人)、塩竈市(5.4万人)、富谷町(当時)(5.2万人)、岩沼市(4.5万人)、利府町(3.6万人)などより多かった。旧宮城町は合併時から倍加して今なお増加傾向を示し、青葉区発足時の人口24.6万人からの純増分の多くを占めている。 青葉区を旧仙台市部分(青葉区)と旧宮城町部分(新設区)とに単純に線引きしてしまうと、南吉成(吉成土地区画整理事業。1985年(昭和60年) - 1991年(平成3年))などの青葉区成立後に住民が増加した、旧宮城町に帰属意識がない地区の反対が考えられたり、折立地区が青葉区の飛び地になってしまったり、新設区の地価が下落したりする等の問題がある。 折立地区は、地形的には愛子盆地の一部であるが、蕃山丘陵によって分けられる生出盆地と愛子盆地を結ぶ交通路にあり、江戸時代には伊達家家臣の茂庭氏の知行域であった。その知行域を受け継いだ旧名取郡生出村 は、折立地区とともに1956年(昭和31年)4月1日に仙台市に編入合併された。結果的に折立地区は、愛子盆地のその他ほとんどを町域としていた旧宮城町地区に、現太白区から突き出た形となった。政令市化の際に折立地区は、旧市町の境界を尊重して太白区に入るよりも、愛子盆地を構成する一地区として旧宮城町と共に青葉区に入ることを選択した。このような経緯のため、旧宮城町地区が分区した際は、太白区と新設区の間に挟まれた青葉区の飛び地になる可能性がある。なお、折立地区は仙台宮城IC・国道48号(仙台西道路・愛子バイパス)、仙台北環状線・仙台村田線など、仙台西部の主要幹線が集まる交通の要衝である。 旧宮城町地区(愛子盆地)の中心は、広瀬地区のJR仙山線・愛子駅から陸前落合駅辺り(広瀬地区、または愛子地区と呼ばれる)となっており、市が1999年(平成11年)7月に策定した「アクセス30分構想」を基にしたオムニバスタウン事業により、それぞれ駅前開発も進んでいる。仙山線と並走して愛子盆地を東西に貫く国道48号・愛子バイパス沿いでも、栗生(1982年(昭和57年) - 1991年(平成3年))、および、栗生西部(1997年(平成9年) - 2008年(平成20年))にて土地区画整理事業が行われ、都市化が進んでいる。大沢地区の方は、平地は農地が主で、丘陵地は住宅地となっている。また、旧仙台市との境界部分(七北田丘陵)を弧状に走る仙台北環状線沿いの南吉成地区にも、ロードサイドショップを中心とした商業や人口の集積がある。折立地区では、折立小学校・中学校が合併後に旧宮城町の郷六地区からの生徒を受け入れており(旧宮城町時代に郷六地区は広瀬小学校・中学校の学区だった)、さらに落合・栗生地区が広瀬中学校と折立中学校との選択学区で地理的に近い折立中学校へ通学している生徒も少なくなく、愛子盆地内の一体化も進んでいる。 このように、折立地区が青葉区の飛び地にならず一体的に新設区に移行できる土壌が醸成されつつあるが、郵便の集配拠点は落合や郷六地区は愛子郵便局管轄で、折立・西花苑地区は新仙台郵便局直轄となっており、昔の名残が残っている(かつて折立・西花苑地区は仙台生出郵便局が集配局であったが、宮城県の地域区分局の変更と太白区の集配局をすべて集約、一本化したことにより、現在の形に変更されている)。また、旧宮城町域は宮城総合支所が管轄しており、市政便りにも毎月注釈が書かれている。 「愛子副都心」構想とは、1987年(昭和62年)の宮城町と仙台市との合併建設計画、および、1990年度(平成2年度)発表の「仙台市総合計画2000」に記載されていた副都心建設計画である。旧宮城町役場(現・宮城総合支所)があるJR愛子駅周辺の再開発と都市機能集積、および、仙台市営モノレール南西線計画を謳っており、旧泉市(現泉区)に対する泉中央副都心整備計画と同様、合併の際のバーターであった。現在、当該地域の整備計画は「西部地区の拠点整備」という言葉に置き換わっており、副都心としての指定は曖昧化されている。 なお、2002年(平成14年)7月22日に愛子駅周辺は住居表示が実施され「愛子中央」になった。また、都市化に不可欠な下水道は、旧宮城町域における整備率が政令市移行時の2.4%から現在92.5%にまで改善されている。 ここでは、青葉区中心部の産業について述べる。多くのビル群には中央企業の仙台・東北支店が入居し、支店経済都市と呼ばれる所以となっている。仙台駅前から西方向へは中央通・一番町のアーケード街が形成されている。1990年代末期以降では交通事情の改善から商圏は広がっており、県内はもとより、山形や福島からの客も訪れる(→仙台経済圏)。 郵便局 簡易郵便局 上杉山通小学校・上杉山中学校、広瀬小学校・広瀬中学校は、文部科学省が推進する「学力向上フロンティア」指定校(フロンティアスクール)である。また、それぞれの小・中学校間で連携をとっている。 主要駅:仙台駅、勾当台公園駅、あおば通駅、北仙台駅、愛子駅
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青葉区(あおばく)は、仙台市を構成する5行政区のうちのひとつ。 合併前の旧仙台市の北部・中央部(約23万人が居住。面積比率14%)と旧宮城郡宮城町(約7万人が居住。面積比率86%)からなる。 昼間人口は41万2812人であり、夜間人口の31万0183人に対して10万2629人の増加、昼夜比1.33倍となる(2015年国勢調査)。 区の南東部は江戸時代から仙台の中心である。
{{日本の行政区 |自治体名 = 青葉区 |画像=Jozenji-dori_2020.jpg |画像の説明=[[定禅寺通]] |都道府県 = 宮城県 |支庁 = |市 = 仙台市 |コード = 04101-7 |隣接自治体・行政区=''仙台市''([[宮城野区]]、[[若林区]]、[[太白区]]、<br />[[泉区 (仙台市)|泉区]])<br />[[黒川郡]][[大和町]]、[[加美郡]][[色麻町]]<br />[[山形県]]:[[東根市]]、[[尾花沢市]] |木 = |花 = |シンボル名 = |鳥など = |郵便番号 = 980-8701 |所在地 = 青葉区上杉一丁目5番1号<br /><small>{{ウィキ座標度分秒|38|16|8.6|N|140|52|13.4|E|region:JP}}</small><br/>[[ファイル:Aoba Ward Office (Sendai).jpg|220px|center]] |外部リンク = [https://www.city.sendai.jp/aobaku/ 仙台市青葉区役所HP] |位置画像 = [[ファイル:Aoba-ku in Sendai City.svg|320x320px|青葉区 (仙台市)位置図]] |特記事項 = |}} '''青葉区'''(あおばく)は、[[仙台市]]を構成する5[[行政区]]のうちのひとつ。 合併前の旧仙台市の北部・中央部(約23万人が居住。[[面積]]比率14[[パーセント|%]])と旧[[宮城郡]][[宮城町]](約7万人が居住。面積比率86%)からなる。 [[昼間人口]]は41万2812人であり、[[夜間人口]]の31万0183人に対して10万2629人の増加、昼夜比1.33倍となる([[2015年]][[国勢調査 (日本)|国勢調査]])<ref name="Census2017DayNight">[https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/toukei/kokusei2015-juugyoutituugakuti.html 平成27年国勢調査従業地・通学地による人口・就業状態等集計](宮城県)</ref>。 区の南東部は[[江戸時代]]から仙台の中心である。 == 地理 == {{main|仙台の地形}} 区の西部にある[[奥羽山脈]]より東流する[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]とその支流の流域に従って、東西に細長い形の区となっている。区内の奥羽山脈は、[[船形山]]と[[蔵王連峰]]の間であまり高い峰々がなく、西からの雪雲が入り易いため、区の西部の旧[[宮城町]]は[[豪雪地帯]]に指定されている。しかし、その低さ故、[[関山峠]]([[国道48号]])で[[山形県]][[村山地方]]に通じている。 区西部の旧宮城町は、[[愛子盆地]]を中心とした地域で、[[青葉山丘陵]]によって区東部と地形的には分断されている。青葉山丘陵の北部は[[ベッドタウン]]、丘陵の東端の[[青葉山 (仙台市)|青葉山]]には[[仙台城]]や東北大学川内キャンパス・青葉山キャンパスがある。丘陵の東側は広瀬川の[[河岸段丘]]になっており、[[仙台市役所]]、[[宮城県庁]]、[[仙台駅]]、[[東北大学]]片平キャンパスなど、市の主要施設が集中する[[仙台市都心部]]を構成する。区の東端は仙台駅と[[東北新幹線]]・[[東北本線]]で区切られる。なお、青葉山丘陵によって分断されている区の東西を結ぶ主要交通路は、国道48号([[仙台西道路]]・[[愛子バイパス]])や[[東日本旅客鉄道|JR]][[仙山線]]が担っている。 === 山岳 === <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 3em;"> *[[船形山]](1500.2) *後白髪山(1422.5) *三峰山(1417.6) *蛇ヶ岳(1400) *[[北泉ヶ岳]](1253.1) </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *[[鎌倉山 (仙台市)|鎌倉山]](520.0) *蛇台蕃山(366) *蕃山(356) *権現森(314.1) *[[青葉山 (仙台市)|青葉山]](144) </div>{{clear|left}} === 河川 === <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 3em;"> *[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]] *[[新川川 (宮城県)|新川川]] *青下川 *[[大倉川 (宮城県)|大倉川]] *[[芋沢川]] *[[斉勝川]](山鳥川) </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *[[竜ノ口沢]] *萱場川 *[[仙台川]] *[[梅田川 (宮城県)|梅田川]] *[[白沢川 (宮城県)|白沢川]] </div>{{clear|left}} === 湖沼 === <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 3em;"> *大倉湖([[大倉ダム]]) *月山池 *サイカチ沼 *三共堤 </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *真美沢堤 *[[五色沼 (仙台市)|五色沼]] *長沼 </div>{{clear|left}} == 沿革 == [[ファイル:Jouzenji-dori Avenue.jpg|thumb|240px|せんだいメディアテークからの風景]] 青葉区は、[[1987年]]([[昭和]]62年)に仙台市と合併した旧[[宮城町]](3万2108人)とそれに接する旧仙台市北西部で構成され、[[1989年]]([[平成]]元年)[[4月1日]]に仙台市が[[政令指定都市]]に移行した際に24万5881人を擁して設置された(人口は政令市移行日の[[住民基本台帳]]人口)<ref name="WardOutline">{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/gaiyou/pdf/honpen.pdf 区ごとの人口推移]}}(仙台市)</ref>。青葉区役所は、[[仙台市消防局]]北消防署(現・青葉消防署)の跡地に建設され、区の全体を管轄しているが、旧宮城町役場の土地・建物を受け継いだ青葉区役所宮城総合支所が旧宮城町を管轄している。 区名は区内にある[[仙台城]]の雅称の「青葉城」や「[[青葉山]]」に由来する。また、[[伊達政宗]]を祀る同区青葉町の[[青葉神社]]や[[仙台・青葉まつり]]など、'''[[青葉]]'''という言葉は「仙台」を表す記号でもある。青葉区は区名公募の1位であり、2位は中央区、3位は広瀬区であった。公募を受けて選定した仙台市区名選定委員会は、方位は地名としてとらず、広瀬は将来の分区の際の有力候補として残すべきだという理由を添えて、青葉区を推した<ref>難波信夫「政令指定都市仙台の区名選定に関する資料」、『市史せんだい』、第15巻、2005年9月</ref>。 === 宮城地区(旧宮城町)分区問題 === [[File:Census Sen-En 1950-2010.jpg|thumb|280px|仙台市以外の[[仙塩]]地区の自治体の[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]人口の変遷。]] 青葉区の旧[[宮城町]]地域(青葉区西部:[[青葉山丘陵]]の西側。[[愛子盆地]]を中心とする)は、青葉区の面積の86%を占め<ref name=kahoku090522>[http://www.kahoku.co.jp/news/2009/05/20090522t11018.htm 「大区役所制」曲がり角 仙台市政令市移行20年]([[河北新報]] 2009年5月22日)</ref>、合併直前の1987年(昭和62年)10月末における[[住民基本台帳]]人口は2万9093人だった<ref>{{XLSlink|[http://www.city.sendai.jp/kikaku/seisaku/toukei/toukeisyo/h20/excel/02/014.xls 合併による人口の変遷]}}(仙台市)</ref>。 [[1986年]](昭和61年)3月、仙台市行政区画審議会は「1行政区当たり、概ね10万人ないし20万人の範囲で設定するのが適当」と答申した<ref>{{PDFlink|[http://www.tenhama-wa.jp/h_j/h_j_data/kiyougi_pdf/k_03_p098_p102.pdf 【仙台市行政区画審議会】◇昭和61年3月答申抜粋]}}(天竜川・浜名湖地域合併協議会)</ref>。このため、旧宮城町地域は単独区になれず、旧仙台市北西部と共に青葉区を構成することになったが、一方で「旧町内の人口が[[単独市制]]人口要件の'''5万人'''に達したら分区する」という合併時の取り決めも存在した<ref name=kahoku090522/>。もし分区されるのであれば、区の名称は「'''広瀬区'''」が有力と言われている<ref name=kahoku090522/>。 [[1996年]](平成8年)に旧町内の住民基本台帳人口が5万人を突破した<ref>{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/d01/__icsFiles/afieldfile/2012/01/06/h23honpen.pdf 仙台市区政概要]}}(仙台市 2011年10月)</ref> ため、取り決めに従って市は[[1998年]](平成10年)11月に行政区画審議会に諮問し<ref name=CityofSendai>[http://www.city.sendai.jp/soumu/kouhou/press/01-03-27/kukaku.html 仙台市の行政区画について(発言要旨)](仙台市)</ref>、分区するかどうか話し合われたが、[[2000年]](平成12年)秋の審議会で「区の人口が'''30万人'''を超えた時点で再検討すべき」として分区見送りが決定した<ref name=kahoku090522/><ref>[http://www.kato-e.jp/h15yos.htm 平成15年度予算に係わる要望「宮城地区の単独区実現について」](加藤和彦 仙台市議)</ref>。審議会からは[[2001年]](平成13年)[[2月5日]]に市に答申され、市も同年[[3月27日]]に分区を見送った<ref name=CityofSendai/>。 [[2012年]](平成24年)[[8月1日]]の[[推計人口]]で旧宮城町は70,010人となって7万人を突破、同年[[12月1日]]の推計人口で青葉区は300,154人となり、30万人を突破した<ref>[http://www.city.sendai.jp/kikaku/seisaku/toukei/jinkou.html 統計情報せんだい](仙台市)</ref><ref>[https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/toukei/suikei-top.html 統計データ/宮城県推計人口(月報)](宮城県)</ref>。[[2014年]](平成26年)[[6月10日]]の市長記者会見において[[奥山恵美子]]仙台市長(当時)は、青葉区の人口増加が[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の影響によるものなのか長期的な傾向なのかを見極めてから分区議論を進める旨を発言した<ref>[https://www.city.sendai.jp/sesakukoho/shise/gaiyo/shichoshitsu/kaiken/2014/06/gaiyo.html 市長記者会見 2014年6月10日 質疑応答の概要](仙台市)</ref>。この頃、市幹部が宮城総合支所管内の町内会長連絡会に、非公式ながら「旧町内の人口が'''10万人'''を超えたら分区を検討する」という新基準が伝えられた<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201710/20171031_11007.html <仙台市合併30年>「広瀬区」構想高いハードル 人口10万届かず](河北新報 2017年10月31日)</ref>。分区の基準はこれで3度目の変更となり、「[[ムービング・ゴールポスト]]」の状態になっている。 {|class="wikitable" style="font-size:90%" |+青葉区から旧宮城町地域を分区する基準の変遷(カッコ内は基準の性質) !colspan="2"|基準が示された時期 !旧宮城町内の人口 !青葉区の人口 |- |1987年頃 |仙台市・宮城町合併時 |{{0}}5万人(公式) |- |- |2000年度 |旧宮城町5万人突破後 |- |30万人(公式) |- |2010年代半ば |青葉区30万人突破後 |10万人(非公式) |- |} [[2015年]](平成27年)[[10月1日]]の[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]によれば、旧宮城町の人口は72,254人<ref>[http://www.city.sendai.jp/chosatoke/shise/toke/kokuchou_h27/kakuteichi.html 仙台市の人口(確定値)](仙台市 2016年11月4日)</ref>(折立地区<ref group="注">ここで言う折立地区は、現在の青葉区茂庭、折立1 - 6丁目、西花苑1 - 2丁目。これは[[仙台市立折立小学校]]の学区の内、旧仙台市内であった八幡7丁目の一部、および、旧宮城町内であった郷六地区を除いた地域。</ref><ref>[http://www.city.sendai.jp/shogakuchose/kurashi/manabu/kyoiku/inkai/kanren/kensaku/index.html 市立小・中学校の学区検索](仙台市)</ref> の住民基本台帳人口4,774人<ref>[http://www.city.sendai.jp/kikaku/seisaku/toukei/jinkou/jinkou-kakusai.html 町名別年齢(各歳)別住民基本台帳人口](仙台市)</ref> を含んでいない値)で、宮城県内の[[地方公共団体|自治体]]の中で[[名取市]](7.7万人)に次ぐ6番目に相当し、その他の[[仙台都市圏]]内の自治体の[[多賀城市]](6.2万人)、[[塩竈市]](5.4万人)、[[富谷市|富谷町(当時)]](5.2万人)、[[岩沼市]](4.5万人)、[[利府町]](3.6万人)などより多かった<ref>[https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/toukei/kokusei2015-jinkoukihon.html 平成27年国勢調査人口等基本集計結果(確定値)](宮城県)</ref>。旧宮城町は合併時から倍加して今なお増加傾向を示し、青葉区発足時の人口24.6万人からの純増分の多くを占めている。 ==== 分区の問題点 ==== {{独自研究|date=2021-05-11|section=1}} 青葉区を旧仙台市部分(青葉区)と旧宮城町部分(新設区)とに単純に線引きしてしまうと、[[吉成|南吉成]](吉成土地区画整理事業。[[1985年]](昭和60年) - [[1991年]](平成3年)<ref name=develop>[http://www.city.sendai.jp/toshi/kukakuseiri/kukakuseiri/index.html 仙台市の土地区画整理事業](仙台市)</ref>)などの青葉区成立後に住民が増加した、旧宮城町に帰属意識がない地区の反対が考えられたり、折立地区が青葉区の飛び地になってしまったり、新設区の[[地価]]が下落したりする等の問題がある。 折立地区は、地形的には愛子盆地の一部であるが、[[蕃山丘陵]]によって分けられる[[生出盆地]]と[[愛子盆地]]を結ぶ交通路にあり、江戸時代には[[伊達氏|伊達家]]家臣の[[茂庭氏]]の知行域であった。その知行域を受け継いだ旧[[名取郡]][[生出村]]<ref>[http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/taihakuku/41/41-13.htm 生出村全図](仙台市中央市民センター)</ref> は、折立地区とともに[[1956年]](昭和31年)[[4月1日]]に仙台市に編入合併された。結果的に折立地区は、愛子盆地のその他ほとんどを町域としていた旧宮城町地区に、現[[太白区]]から突き出た形となった。政令市化の際に折立地区は、旧市町の境界を尊重して太白区に入るよりも、愛子盆地を構成する一地区として旧宮城町と共に青葉区に入ることを選択した。このような経緯のため、旧宮城町地区が分区した際は、太白区と新設区の間に挟まれた青葉区の飛び地になる可能性がある。なお、折立地区は[[仙台宮城インターチェンジ|仙台宮城IC]]・[[国道48号]]([[仙台西道路]]・[[愛子バイパス]])、[[宮城県道37号仙台北環状線|仙台北環状線]]・[[宮城県道31号仙台村田線|仙台村田線]]など、仙台西部の主要幹線が集まる交通の要衝である。 旧宮城町地区(愛子盆地)の中心は、広瀬地区の[[東日本旅客鉄道|JR]][[仙山線]]・[[愛子駅]]から[[陸前落合駅]]辺り(広瀬地区、または愛子地区と呼ばれる)となっており、市が[[1999年]](平成11年)[[7月]]に策定した「アクセス30分構想<ref>[http://www.city.sendai.jp/toshi/koutsukikaku/index.html アクセス30分構想]([[仙台市役所]]公共交通推進課)</ref>」を基にした[[オムニバスタウン]]事業により、それぞれ駅前開発も進んでいる。仙山線と並走して愛子盆地を東西に貫く[[国道48号]]・[[愛子バイパス]]沿いでも、栗生([[1982年]](昭和57年) - [[1991年]](平成3年))、および、栗生西部([[1997年]](平成9年) - [[2008年]](平成20年))にて[[土地区画整理事業]]が行われ<ref name=develop/>、都市化が進んでいる。大沢地区の方は、平地は農地が主で、丘陵地は住宅地となっている。また、旧仙台市との境界部分([[七北田丘陵]])を弧状に走る[[宮城県道37号仙台北環状線|仙台北環状線]]沿いの南吉成地区にも、[[ロードサイドショップ]]を中心とした商業や人口の集積がある。折立地区では、[[仙台市立折立小学校|折立小学校]]・[[仙台市立折立中学校|中学校]]が合併後に旧宮城町の郷六地区からの生徒を受け入れており(旧宮城町時代に郷六地区は[[仙台市立広瀬小学校|広瀬小学校]]・[[仙台市立広瀬中学校|中学校]]の学区だった)、さらに落合・栗生地区が広瀬中学校と折立中学校との選択学区で地理的に近い折立中学校へ通学している生徒も少なくなく<ref>[http://www.city.sendai.jp/kyouiku/gakuji/gakku/index.html 仙台市教育委員会学区検索]</ref>、愛子盆地内の一体化も進んでいる。 このように、折立地区が青葉区の飛び地にならず一体的に新設区に移行できる土壌が醸成されつつあるが、郵便の集配拠点は落合や郷六地区は[[愛子郵便局]]管轄で、折立・西花苑地区は[[新仙台郵便局]]直轄となっており、昔の名残が残っている(かつて折立・西花苑地区は[[仙台生出郵便局]]が集配局であったが、[[宮城県]]の[[地域区分局]]の変更と[[太白区]]の集配局をすべて集約、一本化したことにより、現在の形に変更されている)。また、旧宮城町域は宮城総合支所が管轄しており、市政便りにも毎月注釈が書かれている。 ==== 愛子副都心構想 ==== 「愛子副都心」構想とは、[[1987年]](昭和62年)の宮城町と仙台市との合併建設計画、および、[[1990年]]度(平成2年度)発表の「仙台市総合計画2000」に記載されていた[[副都心]]建設計画である。旧宮城町役場(現・宮城総合支所)がある[[東日本旅客鉄道|JR]][[愛子駅]]周辺の[[都市再開発|再開発]]と都市機能集積、および、[[仙台市営モノレール南西線]]計画を謳っており、旧[[泉市]](現[[泉区 (仙台市)|泉区]])に対する[[泉中央副都心]]整備計画と同様、合併の際の[[バーター]]であった。現在、当該地域の整備計画は「西部地区の拠点整備」という言葉に置き換わっており、副都心としての指定は曖昧化されている。 なお、[[2002年]](平成14年)[[7月22日]]に愛子駅周辺は[[住居表示]]が実施され「[[愛子中央]]」になった<ref>{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/jyukyohyoji/pdf/pdftizu/h14ayasi.pdf 愛子(平14)]}}(仙台市「仙台市の住居表示実施状況」 2.実施地区名一覧《実施年降順》)</ref><ref name="CommitteeHistoric6-3">{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/rekishi_cf/pdf/shiryou6-3.pdf 第6回 資料3 町名変更区域図]}}(仙台市「歴史的町名復活検討委員会」)</ref>。また、[[都市化]]に不可欠な[[下水道]]は、旧宮城町域における整備率が政令市移行時の2.4%から現在92.5%にまで改善されている。 == 人口 == *1990年 259,998 *1995年 270,515 *2000年 277,743 *2005年 281,218 *2010年 291,436 *2015年 310,183 == 産業 == {{main|仙台市都心部}} ここでは、青葉区中心部の産業について述べる。多くのビル群には中央企業の仙台・東北支店が入居し、[[支店経済都市]]と呼ばれる所以となっている。仙台駅前から西方向へは[[中央通り (仙台市)|中央通]]・[[一番町 (仙台市)|一番町]]の[[日本のアーケード商店街|アーケード街]]が形成されている。1990年代末期以降では交通事情の改善から商圏は広がっており、県内はもとより、山形や福島からの客も訪れる。 ;飲食産業 :[[国分町 (仙台市)|国分町]]及び周辺は[[歓楽街]]となっており、飲食店や[[バー (酒場)|バー]]、[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]等が軒を連ねる。景気の良い時代には「[[不夜城]]」と呼ばれていた。国分町のメインの通りを外れると庶民的な飲食店や飲み屋が並ぶ。 == 郵便 == '''[[郵便局]]''' *[[仙台中央郵便局]](集配局・[[ゆうゆう窓口]]設置局) *[[仙台北郵便局]](集配局・ゆうゆう窓口設置局) *[[愛子郵便局]](集配局) *[[大沢郵便局 (宮城県)|大沢郵便局]](集配局) *[[仙台中郵便局]](ゆうちょ銀行仙台[[貯金事務センター]]本館に併設、[[ゆうちょ銀行]]仙台支店内に併設・[[私書箱]]設置局) *[[仙台東二番丁郵便局]] (日本郵政グループ仙台ビルに併設、日本郵政東北施設センター・[[日本郵便]]東北支社・ゆうちょ銀行東北エリア本部/宮城パートナーセンター・[[かんぽ生命保険]]仙台支店とともに入居) *[[仙台錦ケ丘郵便局]](LANDRY PLATZ内に併設) {{Col| *北仙台駅前郵便局 *熊ヶ根郵便局 *仙台旭ケ丘郵便局 *仙台荒巻郵便局 *仙台一番町郵便局 *仙台駅内郵便局 *仙台大町郵便局 *仙台貝ケ森郵便局 *仙台花京院通郵便局| *仙台柏木郵便局 *仙台上杉四郵便局 *仙台上杉六郵便局 *仙台川内郵便局 *仙台川平郵便局 *仙台北山郵便局 *仙台木町通郵便局 *仙台栗生郵便局 *仙台小松島郵便局| *仙台米ケ袋郵便局 *仙台合同庁舎内郵便局 *仙台桜ケ丘郵便局 *仙台子平町郵便局 *仙台立町郵便局 *仙台台原郵便局 *仙台中央三郵便局 *仙台中江郵便局 *仙台中山郵便局| *仙台八幡町郵便局 *仙台東勝山郵便局 *仙台広瀬通郵便局 *仙台本沢郵便局 *仙台宮町郵便局 *仙台吉成郵便局 *東北大学病院内郵便局 *宮城県庁内郵便局}} '''[[簡易郵便局]]''' {{col| * 折立団地簡易郵便局| * 大倉簡易郵便局| * みやぎ台簡易郵便局}} == 地域 == {{Col-begin}} {{Col-break}} *[[青葉山 (仙台市)|青葉山]] *赤坂 *あけぼの町 *旭ケ丘 *愛子中央 *愛子東 *荒巻 *荒巻神明町 *荒巻中央 *荒巻本沢 *[[一番町 (仙台市)|一番町]] *[[五橋]] ※ *[[芋沢]] *梅田町 *[[大倉 (仙台市)|大倉]] *大手町 *[[大町 (仙台市)|大町]] *霊屋下 *小田原 ※ *落合 *折立 *貝ケ森 *[[花京院]] *柏木 *春日町 *[[片平 (仙台市)|片平]] *花壇 {{Col-break}} *[[上愛子]] *[[上杉]] *川内 *[[川内追廻]] *川内亀岡北裏丁 *川内亀岡町 *川内川前丁 *[[川内三十人町]] *川内大工町 *川内中ノ瀬町 *川内明神横丁 *川内元支倉 *川内山屋敷 *川内澱橋通 *川平 *菊田町 *北根 *北根黒松 *北目町 *北山 *木町 *木町通 *国見 *国見ケ丘 *[[熊ケ根]] *栗生 *[[国分町 (仙台市)|国分町]] {{Col-break}} *小松島 *小松島新堤 *米ケ袋 *郷六 *[[作並]] *[[桜ケ丘 (仙台市)|桜ケ丘]] *[[桜ヶ岡公園]] *三条町 *子平町 *[[下愛子]] *昭和町 *西花苑 *星陵町 *台原 *[[台原森林公園]] *高野原 *高松 *滝道 *[[立町 (仙台市)|立町]] *[[中央 (仙台市)|中央]] *土樋 ※ *堤通雨宮町 *堤町 *角五郎 *東照宮 *通町 *中江 {{Col-break}} *中山 *中山台 *中山吉成 *新坂町 *西勝山 *[[錦ケ丘 (仙台市)|錦ケ丘]] *[[錦町 (仙台市)|錦町]] *ニッカ *新川 *[[支倉町]] *八幡 *葉山町 *広瀬町 *福沢町 *藤松 *[[双葉ヶ丘]] *二日町 *[[本町 (仙台市)|本町]] *水の森 *南吉成 *みやぎ台 *宮町 *向田 *茂庭 *山手町 *[[吉成]] *吉成台 {{Col-end}} :※五橋は一・二丁目(三丁目は[[若林区]]) ※小田原は四~八丁目(一~三丁目は[[宮城野区]]) ※土樋は一丁目(「11番を除く」。一丁目11番と土樋○番地は[[若林区]]。二丁目以降はない) ※茂庭は[[太白区]]とまたがって所在 ※ニッカは[[ニッカウヰスキー]]宮城峡蒸留所のある地名。蒸留所建設にあたり命名している。 == 主な医療機関 == * [[東北大学病院]] * [[宮城県立こども病院]] * [[東北労災病院]] * [[東北福祉大学せんだんホスピタル]] * [[仙台厚生病院]] * 東北公済病院 * [[イムス明理会仙台総合病院]] * [[JR仙台病院]] == 教育 == {{main2|学校一覧や仙台市の教育については、[[仙台市の学校]] も}} 上杉山通小学校・上杉山中学校、広瀬小学校・広瀬中学校は、[[文部科学省]]が推進する「[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/actionplan/shidou/frontia/ 学力向上フロンティア]」指定校(フロンティアスクール)である。また、それぞれの小・中学校間で連携をとっている。 === 幼稚園 === {{Col-begin}} {{Col-break}} *[[東二番丁幼稚園]] *愛児幼稚園 *愛隣幼稚園 *旭ヶ丘幼稚園 *あそか幼稚園 *大沢幼稚園 *愛子幼稚園 *あらまき幼稚園 *泉ケ丘幼稚園 *おたまや幼稚園 *音の光幼稚園 {{Col-break}} *お人形社幼稚園 *折立幼稚園 *福聚幼稚園 *国見幼稚園 *聖愛幼稚園 *聖クリストファ幼稚園 *聖ドミニコ学院北仙台幼稚園 *聖ドミニコ学院幼稚園 *仙台めぐみ幼稚園 *[[仙台YMCA幼稚園]] *中山幼稚園 {{Col-break}} *新坂通幼稚園 *仙台バプテスト教会幼稚園 *双葉幼稚園 *緑ヶ丘幼稚園 *緑ヶ丘第二幼稚園 *みどり幼稚園 *[[宮城学院女子大学]]附属幼稚園 *友愛幼稚園 *吉成幼稚園 *わかくさ幼稚園 {{Col-end}} === 小学校 === {{main2|学校一覧は、[[宮城県小学校一覧#青葉区]] を}} === 中学校 === {{main2|高等学校を併設しない中学校一覧は、[[宮城県中学校一覧#青葉区]] を}} * [[尚絅学院中学校・高等学校|尚絅学院中学校]](※中高併設) * [[聖ドミニコ学院中学校・高等学校|聖ドミニコ学院中学校]](※中高併設) * [[宮城学院中学校・高等学校|宮城学院中学校]](※中高併設) === 高等学校 === {{main2|中学校を併設しない高等学校一覧は、[[宮城県高等学校一覧#青葉区]] を}} * [[尚絅学院中学校・高等学校|尚絅学院高等学校]](※中高併設) * [[聖ドミニコ学院中学校・高等学校|聖ドミニコ学院高等学校]](※中高併設) * [[宮城学院中学校・高等学校|宮城学院高等学校]](※中高併設) === 中等教育学校 === * [[仙台市立仙台青陵中等教育学校]] === 大学・短期大学・高等専門学校 === ;国立 *[[東北大学]] *[[宮城教育大学]] *[[仙台高等専門学校]]([[仙台電波工業高等専門学校|広瀬キャンパス]]) ;私立 *[[東北学院大学]](土樋キャンパス) *[[宮城学院女子大学]] *[[東北福祉大学]] *[[東北文化学園大学]] *[[東北医科薬科大学]] ===特別支援学校=== * [[宮城県立視覚支援学校]]…視覚障害 * [[宮城教育大学附属特別支援学校]]…知的障害 * [[宮城県立小松島支援学校]]…知的障害 * [[宮城県立拓桃支援学校]]…肢体不自由と病弱(身体虚弱を含む)の併置校 == 交通 == === 鉄道 === * '''[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)''' ** {{Color|green|■}} [[東北新幹線]]<ref group="注">[[秋田新幹線]]も乗り入れる。</ref><small>( - [[仙台駅]] - )</small> ** {{Color|seagreen|■}} [[東北本線]]<ref group="注">[[常磐線]]、[[仙台空港アクセス線]]、[[石巻線]]、[[陸羽東線]]、[[阿武隈急行]]も乗り入れる。</ref><small>( - 仙台駅 - )</small> ** {{Color|greenyellow|■}} [[仙山線]]<small>(仙台駅 - [[東照宮駅]] - [[北仙台駅]] - [[北山駅 (宮城県)|北山駅]] - [[東北福祉大前駅]] - [[国見駅 (宮城県)|国見駅]] - [[葛岡駅]] - [[陸前落合駅]] - [[愛子駅]] - [[陸前白沢駅]] - [[熊ケ根駅]] - [[作並駅]] - [[奥新川駅]] - )</small> ** {{Color|skyblue|■}} [[仙石線]]<small>([[あおば通駅]] - )</small> * '''[[仙台市地下鉄]]'''([[仙台市交通局]]) ** {{Color|#009900|■}} [[仙台市地下鉄南北線|南北線]]<small>( - [[旭ヶ丘駅 (宮城県)|旭ヶ丘駅]] - [[台原駅]] - 北仙台駅 - [[北四番丁駅]] - [[勾当台公園駅]] - [[広瀬通駅]] - 仙台駅 - [[五橋駅]] - )</small> ** {{Color|#90d7ec|■}} [[仙台市地下鉄東西線|東西線]]<small>( - [[青葉山駅]] - [[川内駅 (宮城県)|川内駅]] - [[国際センター駅 (宮城県)|国際センター駅]] - [[大町西公園駅]] - [[青葉通一番町駅]] - 仙台駅 - )</small> 主要駅:仙台駅、勾当台公園駅、あおば通駅、北仙台駅、愛子駅 === バス === *[[仙台市営バス]]([[仙台市交通局]]) *[[宮城交通]] *[[愛子観光バス]] *[[山交バス (山形県)|山交バス]] : このほか、[[仙台駅のバス乗り場|仙台駅西口]]を発着する[[東日本]]を中心とした都市の高速バス事業者が乗り入れる。 === 乗り合いタクシー === *予約制乗り合いタクシー「八ツ森号」(新川地区) === 道路 === ; 高速道路 * {{Ja Exp Route Sign|E4}} [[東北自動車道]]: - [[仙台宮城インターチェンジ|仙台宮城IC]] - * [[仙台西道路]] ; 一般国道 * [[国道4号]] * [[国道45号]] * [[国道48号]] * [[国道457号]] ; 県道 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[宮城県道22号仙台泉線]] * [[宮城県道31号仙台村田線]] * [[宮城県道37号仙台北環状線]] * [[宮城県道55号定義仙台線]] {{Col-break}} * [[宮城県道132号秋保温泉愛子線]] * [[宮城県道135号落合停車場線]] * [[宮城県道263号泉ヶ丘熊ヶ根線]] * [[宮城県道264号大衡仙台線]] {{Col-end}} ; 区内の道路通称名 * [[青葉通り|青葉通]] * [[定禅寺通り|定禅寺通]] * [[広瀬通り|広瀬通]] * [[南町通り (仙台市)|南町通]] == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == === 城郭 === *[[仙台城跡]](青葉城址) === 寺社 === *[[大崎八幡宮]] *[[定義如来]] *[[瑞鳳殿]] *[[瑞鳳寺]] *[[仙台東照宮]] === 公園・レジャー施設 === *[[勾当台公園]] *[[仙台ハイランド]](2015年営業終了) *[[台原森林公園]] *[[西公園 (仙台市)|西公園]] *[[勝山公園 (仙台市)|勝山公園]] *北根黒松緑地 *[[錦町公園 (仙台市)|錦町公園]] *[[東北大学植物園]] === 博物館・美術館 === *[[三居沢発電所#三居沢電気百年館|三居沢電気百年館]](三居沢発電所) *[[仙台市博物館]] *道路資料館 *[[宮城県美術館]] *[[仙台文学館]] *[[中本誠司現代美術館]] === 温泉 === *[[作並温泉]] *[[定義温泉]] === 祭り === {{main|仙台市の音楽イベント}} *[[どんと祭]] (1月14日) *[[青葉まつり]](5月第3日曜日とその前日) *[[仙台七夕まつり]](8月6 - 8日) *[[定禅寺ストリートジャズフェスティバル in 仙台]](9月第2日曜日とその前日) *[[みちのくYOSAKOIまつり]](10月) *[[SENDAI光のページェント]](12月) === 商業施設 === * [[藤崎 (百貨店)|藤崎]](本館、大町館、一番町館、[[仙台ファーストタワー#商業棟(藤崎ファーストタワー館)|ファーストタワー館]]) * [[仙台三越]](本館、[[141ビル|定禅寺通館]]) * [[エマルシェ#さくら野百貨店仙台店|さくら野百貨店仙台店]](2017年閉店) * [[エスパル]]([[エスパル仙台|S-PAL仙台本館・東館、S-PAL II]]) * [[仙台パルコ]] * [[仙台フォーラス]] * [[クラックス (商業施設)|クラックス]] * [[ザ 仙台タワー#シリウス・一番町|シリウス・一番町]] * 仙台[[ロフト (雑貨店)|ロフト]] * [[TIC]] * [[イオン仙台店]](旧ダイエー仙台店) * [[イオン仙台中山ショッピングセンター]] * [[錦ケ丘ヒルサイドモール]] == 青葉区出身の有名人 == {{main|仙台の著名人一覧}} * [[綾曻竹藏]] - 大相撲力士 * [[五城楼勝洋]] - 大相撲力士 * [[青葉山徳雄]] - 大相撲力士 * [[一力遼]] - 囲碁棋士 * [[小野寺正]] - 元[[KDDI]]社長、元[[電気通信事業者協会]]会長 * [[片山智彦]] - NHKアナウンサー * [[金子誠一]] - 元プロ野球選手 * [[日下光]] - プロバスケットボール選手([[京都ハンナリーズ]]所属) * [[伊藤駿]] - プロバスケットボール選手 * [[前田河広一郎]] - 小説家 * [[華DATE]] - 総合格闘家、プロレスラー * [[直DATE]] - 総合格闘家、プロレスラー * [[NØRI]] - 総合格闘家、プロレスラー * [[華蓮DATE]] - 総合格闘家、プロレスラー * [[吉田伊吹]] - サッカー選手 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|}} === 出典 === {{Reflist|2}} <!-- == 参考文献 == --> <!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) --> == 関連項目 == <!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{Commonscat|Aoba-ku, Sendai}} *[[青葉区 (横浜市)]] == 外部リンク == * [https://www.city.sendai.jp/aobaku/ 仙台市青葉区役所 公式サイト] {{宮城県の自治体}} {{仙台市青葉区の町・字}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あおはく}} [[Category:青葉区 (仙台市)|*]] [[Category:仙台市の区]] [[Category:1989年に成立した行政区画]]
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